野村胡堂
銭形平次捕物控(巻七)
目 次
南蛮秘法箋
結納の行方
十手の道
遺書の罪
南蛮秘法箋
一
小石川水道端に、質屋渡世で二万両の大身代を築き上げた田代屋又佐衛門、年は取っているが、昔は二本差だったそうで恐ろしいきかん気。
「やいやいこんな湯へ入られると思うか。風邪を引くじゃないか、馬鹿馬鹿しい」
風呂場から町内中響き渡るように怒鳴っております。
「ハイ、唯今、すぐ参ります」
女中も庭男もいなかったと見えて、奥から飛出したのは倅《せがれ》の嫁のお冬、外から油障子を開けて、手頃の薪《まき》を二三本投げ込みましたが、頑固な鉄砲風呂で、急にはうまく燃えつかない上、煙突などという器用なものがありませんから、たちまち風呂場一杯に漲《みなぎ》る煙です。
「あッ、これはたまらぬ。エヘンエヘンエヘン、そこを開けてもらおう。エヘンエヘンエヘン、寒いのは我慢するが、年寄りに煙は大禁物だ」
「どうしましょう、ちょっと、お待ち下さい。燃え草を持って参りますから」
若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまま、面喰らって物置の方へ飛んで行ってしまいました。
底冷えのする梅二月、宵と言っても身を切られるような風が又佐衛門の裸身を吹きますが、すっかり煙に咽《む》せ入った又佐衛門は、流しに踞《うずく》まったまま、大汗を掻いて咳《せき》入っております。
その時でした。
どこからともなく飛んで来た一本の吹矢、咳き込むはずみに、少し前屈みになった又佐衛門の二の腕へ深々と突っ立ったのです。
「あッ」
心得のない人ではありませんが、全く闇の礫《つぶて》です。思わず悲鳴をあげると、
「どうしたどうした、大旦那の声のようだが」
店からも奥からも、一ぺんに風呂場に雪崩《なだれ》込みます。
見ると、裸体のまま、流しに突っ起った主人又佐衛門の左の腕に、白々と立ったのは、羽ごと六寸もあろうと思う一本の吹矢、引抜くと油で痛めた竹の根は、鋼鉄のごとく光って、美濃《みの》紙を巻いた羽を染めたのは、斑々《はんはん》たる血潮です。
「俺は構わねえ、外を見ろ、誰が一体こんな事をしやあがった」
豪気な又佐衛門に励まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立っているのは、埃除《ほこりよ》けの手拭を吹流しに冠って、燃え草の木片を抱えた嫁のお冬、美しい顔を硬張《こわば》らせて、宵闇の中にどこともなく見詰めております。
「御新造様、どうなさいました」
「あ、誰かあっちへ逃げて行ったよ。追っ駆けて御覧」
と言いますが、庭にも、木戸にも、往来にも人影らしいものは見当たりません。
「こんな物が落ちています」
丁稚《でっち》の三吉がお冬の足元から拾いあげたのは、四尺あまりの本式の吹矢筒《ふきやづつ》、竹の節を抜いて狂いを止めた上に、磨きをかけたものですが、鉄砲の不自由な時代には、これでも立派な飛び道具で、江戸の初期には武士もたしなんだと言われる位、後には子供の玩具《おもちゃ》や町人の遊び道具になりましたが、この時分はまだまだ、吹矢も相当に幅を利かせた頃です。
余事はさておき――、
引抜いたあとは、つまらない瘡薬《きずぐすり》か何かを塗って、そのままにして置きましたが、その晩から大熱を発して、枕も上がらぬ騒ぎ、暁方かけて又佐衛門の腕は樽のように腫《は》れ上がってしまいました。
麹町から名高い外科を呼んで診てもらうと、
「これは大変だ。しかし破傷風《はしょうふう》にしてもこんなに早く毒が廻るはずはない――吹矢を拝見」
仔細らしく坊主頭を振ります。
昨夜の吹矢を、後で詮索《せんさく》をする積りで、ほんのしばらく風呂場の棚の上へ置いたのを、誰の仕業か知りませんが、瞬くうちになくなってしまったのです。
「誰だ、吹矢を捨てたのは」
と言ったところで、もう後の祭り、故意か過ちか、とにかく、又佐衛門に大怪我をさした当人が、後の祟《たた》りを恐れて隠してしまったことだけは確かです。
「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗ってあったかも知れぬて」
「え、そんな事があるでしょうか」
又佐衛門の倅又次郎、これは次男に生れて家督を相続した手堅い一方の若者、今では田代屋の用心棒と言っていいほどの男です。
「そうでもなければ、こんなに膨《ふく》れるわけがない。この毒が胴に廻っては、お気の毒だが命がむずかしい。今のうちに、腕を切り落す外はあるまいと思うが、いかがでしょうな」
こう言われると、又次郎はすっかり蒼くなりましたが、父の又佐衛門は武士の出というだけあって思いのほか驚きません。
「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」
千貫目の錘《おもり》を掛けられたような腕を差出して、苦痛に歪《ゆが》む頬に、我慢の微笑を浮べます。
二
「ネ、親分、右のとおりだ。田代屋の若旦那が銭形の親分にお願いして、親父の片腕を無くさせた相手を取っちめて下さいって、拝むように言いましたぜ」
「多寡《たか》が子供の玩具の吹矢なら、洗い立てして、かえって気の毒なことになりはしないか」
銭形の平次は、容易に動く様子もありません。
「吹矢は子供の玩具でも、毒を塗るような手数なことをしたのは大人《おとな》でしょう」
「それは解るもんか」
「その上、吹矢筒の吹口には、女の口紅が付いていたって言いますぜ」
「何だと、八」
「それお出でなすった。この一件を打ち明けさえすりゃ、親分が乗り出すに決ってると思ったんだ」
ガラッ八はすっかり悦に入って内懐から出した掌《てのひら》で、ポンと額を叩きます。
「八、そりゃ本当か。無駄を言わずに、正味のところだけ話せ」
「正味も|おまけ《ヽヽヽ》もねえ。吹矢筒の吹口に、こってり口紅が付いているんだ。その上、吹矢が飛んで来た時、外にいたのは嫁のお冬だけ。疑いは真一文字に恋女房へ掛って行くから、又次郎にしては気が気じゃねえ」
「フム」
「銭形の親分にお願いして、何とかお冬の濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》が干してやりてえ、あの女は、そんな大それたことの出来る女じゃねえ――って言いますぜ」
「誰しも手前の恋女房を悪党とは思いたくなかろう。ところでガラッ八、その吹矢は一体誰のだえ」
「それが可笑しいんで――」
「何が?」
「親分も知っていなさるだろうが、田代屋の総領というのはあの水道端の又五郎って、親仁《おやじ》にも弟にも似ぬ、恐ろしい道楽者だ」
「そうか、あの水道端の又五郎は、田代屋の倅か」
「それですよ親分、十年も前に勘当されて、しばらく街道筋《かいどうすじ》をごろついていましたが、一年ばかり前、芸者|上《あが》りのお半という女房と、取って八つになる、留吉という倅を伴れて帰って来て、図々しくも、田代屋のツイ隣に世帯を持ったものだ」
「フフ、話は面白そうだな」
「呆れた野郎で、世間では、田代屋の身上《しんしょう》に未練があって、古巣を見張りかたがた戻って来たに違げえねえって言いますぜ」
「そんな事もあるだろうな」
「吹矢はその小倅の留吉のだから面白いでしょう」
「何だと、八、なぜ早くそう言わねえ」
「ヘッ、ヘッ。話をこう運んで来なくちゃ、親分が動き出さねえ」
「馬鹿野郎、掛引なんかしやがって」
そう言いながらも平次は、短かい羽織を引っ掛けて、ガラッ八を追っ立てるように、水道端に向いました。
先は多寡《たか》が質屋渡世の田代屋ですが、二万両の大身代の上、仔細あって公儀からお声の掛った家柄、まさか着流しで出かけるわけにも行かなかったのです。
三
向うへ行ってみると、待ってましたと言わぬばかり。
「銭形の親分、よくお出で下さいました」
若主人、又次郎は、足袋跣足《たびはだし》のままで、店口から飛出し、庭木戸を開けて、奥へ案内してくれます。
「親分、これは若旦那の又次郎さんで――」
ガラッ八が取なし顔に言うと
「有難う御座いました。滅多に人を縛らないという銭形の親分がお出で下すったんで、どんなに心強いかわかりません。親仁は昔気質で、腕一本は惜しくないが、家の中の取締りがつかないから、縄付を出しても仕方がない、吹矢を飛ばした女を突き出せ――とこう申します。吹矢を飛ばした奴と言わずに女と言うのは、家内の冬に当てつけた言葉で、私共夫婦は途方に暮れてしまいました。出来ることなら親仁の迷いを晴らして、家内を助けてやって下さいまし」
山の手の広い構え、土蔵と店の間を抜けて、母屋《おもや》へ廻る道々、又次郎は泣き出さんばかりの様子で、こう囁《ささや》きます。
やがて奥へ通って、大主人の又佐衛門に引き合わされましたが、これは思いのほか元気で、床の上に起き直って平次とガラッ八を迎えました。
「銭形の親分だそうで、よくお出で下さいました」
「とんだ災難で御座いましたな、どんな様子で?」
「なアに腕の一本位に驚く私じゃないが、やり口がいかにも憎い。刀か槍《やり》で向って来るならともかく、風呂場で煙責めにして置いて、毒を塗った吹矢を射るというのは、女の腐ったのがすることじゃありませんか」
暗に嫁のお冬と言わないばかり、無事な右手に握った煙管で、自棄《やけ》に灰吹を叩きます。なるほど福島浪人というのは嘘でなかったでしょう。七十近い厳乗《がんじょう》な身体に、新しい忿怒《ふんぬ》が火のごとく燃えて、物馴れた平次も少し扱い兼ねた様子です。
「吹矢筒はそのままにしてあるでしょうな」
と平次。
「大事な証拠ですから、私の側から離しゃしません、このとおり」
倅の又次郎が手を出しそうにするのを止めて、自分で膝行《いざ》り寄って、壁際に立てかけてあった吹矢筒を取って、平次に渡します。
平次は受取って、端っこを包んだ手拭をほぐすと、中から現われたのは、なるほどはっきり紅いものの付いた、吹口。
「ね、銭形の親分、口紅でしょう」
「そうでしょうね」
平次は気の乗らない顔をして、一と通り吹矢筒を調べると、
「矢はやはり見えませんか」
解り切ったことを言います。
「それが見えないから不思議で――」
「たしかに毒が塗ってあったでしょうな」
「それは間違いありません。神楽坂の本田奎斎《ほんだけいさい》先生、――外科では江戸一番と言われる方だ。その方が診て言うんだから、これは確かで」
「なるほど、ところでそんな恐ろしい毒を手に入れるのは容易じゃありませんね」
「ところが、親類に生薬屋《きぐすりや》があるんですがね」
「えッ」
「嫁の里が麹町《こうじまち》の桜井屋で」
「…………」
平次は黙って、この頑固な老人の顔を見上げました。麹町六丁目の桜井屋というと、山の手では評判の生薬屋で、お冬の里がそこだとすると、これは全く容易ならぬことになります。
「どうでしょう銭形の親分、これでも疑う私が悪いでしょうか。打ち明けると家の恥だが、隣に住んでいる総領《そうりょう》の又五郎、やくざな野郎には相違ありませんが、近頃は幾らか固くもなったようだし、自分から進んで親の側へ来る位だから、少しは人心もついたのでしょう。私も取る年なり、いずれ勘当を許して、せめて隠居料に取り除けて置いた分だけでも孫の留吉にやりたいと話したのがツイ四五日前の事だ。その舌の乾かぬうちに、私の命を狙った者があるんだから変でしょう――こんな事を言うと、倅の又次郎が厭な顔をするが、私の身にとってみると、そうでも考えるより外には、道がないじゃありませんか、ね、銭形の――」
又佐衛門の心持は、益々明かでした。又次郎は席にもいたたまらず、滑るように敷居の外に出ると、誰やらそこで立聴きをしていたものか、又次郎のたしなめる声の下から、クッと忍び泣く声が洩れます。
「一応|御尤《ごもっと》もですが、私にはまだ腑に落ちないことがあります。ちょっと、お宅の間取りから、風呂場の様子、雇人の顔も見せて下さいませんか」
「サア、そうぞ――。これ、親分を御案内申しな。自由に見て頂くんだぞ」
「ハイ」
次の間から出て来た又次郎、――若い美しい女房に溺《おぼ》れ切って、家業より外には何の楽しみも望みも持っていないらしい若者、父親の厳《いか》めしい眼を避けるように、いそいそと先に立ちます。
四
「これが家内」
又次郎に引き合わされたのは、ひどく打ち萎《しお》れてはおりますが、なんとなくハチ切れそうな感じのするお冬、丈夫で素直で、美しくて、先ず申し分ない嫁女《よめご》振りです。
「それから、これが妹分のお秋」
これはお冬にも優《ま》して美しい容貌《きりょう》ですが、どこか病身らしく、日陰の花のようにたよりない娘です。年の頃は十八九。
これは後で又次郎に聞いた事ですが、妹と言っても実は奉公人で、頼るところもない身の上を気の毒に思って、三年越し目をかけてやっている娘だったのです。いかにも育ちは良いらしく、物腰態度に、何となく上品なところさえあって、見ようによっては、町家に育った嫁のお冬よりも遥《はる》かに美しく見えます。
続いて大番頭の長兵衛、手代の信吉、皆造、丁稚《でっち》小僧までなかなかの人数ですが、平次は面倒臭そうな様子もなく一人一人に世間話やら、商売の事やらを訊ねて、お勝手から風呂場の方へ歩みを移します。
仲働きはお増というきかん気らしい中年者、飯炊《めした》きは信州者の名前だけは色男らしい権三郎。合間合間に風呂も焚《た》かせられ、庭も掃かせられ、ボンヤリ突っ起っていると、使い走りもさせられる調法な男です。
一と通り風呂を見廻った平次は、油障子を開けて外へ出ました。
「ね、親分、ここがその又五郎って、兄貴の家ですぜ」
「……」
何時の間にやら、ガラッ八が蹤《つ》いて来て囁きます。
「風呂場の障子が開けっ放しになっていると、この垣の根からでも流しに立っている人間へ吹矢が届かないことはないでしょう、――吹矢を飛ばした上で、筒《つつ》を向うへ放《ほう》り出すと――ちょうどあの辺」
「……」
「もっとも、ここから五六間あるから、馴れなくちゃ、そんな手際の良いことは出来ねえ。この節は両国あたりの矢場で吹矢を吹かせるから、道楽者には、とんだ吹矢の名人がいますぜ」
「馬鹿ッ、何をつまらねえ事を言うんだ――黙っていろ」
「へエ――」
妙にからんだガラッ八の言葉を押えて、平次は垣の外から声を掛けました。
「今日は、又五郎さんはいなさるかい、今日は――」
「何を言いやがる――、ここからでも吹矢が届かないことはない――なんて、厭がらせを言いやがって一体|何奴《どいつ》だ」
飛出したのは、又次郎の兄、田代屋の総領に生れて、やくざ者に身を落した又五郎です。三十を大分過ぎた、ちょっと良い男。藍微塵《あいみじん》の狭い袷《あわせ》の胸をはだけて、かけ守袋《まもり》と白木綿の腹巻を覗かせた恰好で、縁側からポンと飛降ります。
「あれ、お前さん、銭形の親分だよ。滅多なことを言っておくれでない」
後から袖を押えるように、続いて庭先に出たのは、三十を少し越したかと思う、美しい年増、襟の掛った袢纏《はんてん》を引っかけて、眉《まゆ》の後青々《あとあおあお》と、紅を含んだような唇が、物を言う毎に妙になまめきます。
「何をッ、銭形だか、馬方だか知らねえが、厭な事を言われて黙っていられるけえ。憚《はばか》りながら、親子勘当はされているが、この節はすっかり改心して、親のいる方には足も向けて寝ねえように心掛けている又五郎だ。間違ったことを言いやがると、土手っ腹を蹴破るぞ」
「兄イ、勘弁してくんな、たいした悪気で言ったわけじゃあるめえ。なア八、手前も謝まってしまいな」
平次は二人の間へ食込むように、垣根越しながら、又五郎を宥《なだ》めます。
「銭形のがそう言や、今度だけは勘弁してやらあ。二度とそんな事を言いやがると、生かしちゃ置かねえぞ、態《ざま》アみやがれ」
又五郎は少し間が悪そうに、ガラッ八の頭から捨台詞《すてぜりふ》を浴びせて家の中へ引込んでしまいました。
五
「サア、銭形の親分、もう何もかもお解りだろう。家の者だって、外の者だって、遠慮することはない。縛って引立てておくんなさい」
外から帰って来た平次を見ると、又佐衛門はいきり立って、皆んなの後から蹤いて来た嫁のお冬を睨《ね》め廻します。
「旦那、まだそこまでは解りません――が、吹矢を射たのは、御新造でないことだけは確かですよ」
「えッ、何、どうしてそんな事が判ります」
「吹矢筒の口をもう一度見て下さい。付いているのは口紅に相違ないが、それは唇から付いたんじゃありません。唇から付いたんなら、もう少し薄《うつ》すり付きますが、筒の口は紅が笹色《ささいろ》になっているほど付いているでしょう。それは、紅皿から指で筒の口へ捺《なす》ったものに相違ありません」
「えッ」
「見たところ、ほんの少しでも、口紅をさしているのは、この家の中では御新造だけだ。誰か悪い奴がそれを知っていて吹矢筒の口へ紅を塗って、庭へ捨てて置いたんでしょう。その時直ぐ、そこにいた者の指を見りゃ、一ぺんに判ったんだが惜しいことをしましたよ」
「フム――」
銭形平次の明察は、掌《たなごころ》を指すようで、又佐衛門も承服しないわけにはいきません。
「まだありますよ。吹矢は風呂の棚の上からなくなったと言いましたが、私は見当をつけて探すと、一ぺんに見つかってしまいました、これでしょう」
平次は二つ折りにした懐紙を出して、又佐衛門の前に押し開くと、その中から現われたのは、紛《まぎ》れもない磨いた油竹《あぶらだけ》に美濃紙の羽をつけた吹矢――、もっとも吹矢はすっかり泥に塗《まみ》れて、紙の羽などは見る影もありません。
「あッ、これだこれだ、どこにありました」
「それを言う前に伺って置きますが、御新造は、その晩外へ出なかったでしょうな」
「えッ、風呂場からお父様をここへお運びして、それからズッとつき切りで御座いました」
お冬は救いの綱を手繰《たぐ》るように、おどおどしながら言い切ります。
「そうでしょう、――ところでこの吹矢は庭の奥の土蔵の軒に、土の中に踏み込んであったのです」
「えッ」
「それも、女の下駄なんかじゃありません。職人や遊び人の履く麻裏《あさうら》で踏んでありました」
「ホウ」
又佐衛門も又次郎も、声を合せて感嘆しました。その一座の驚きに誘われるように、
「有難う御座います。銭形の親分、私は、もうどうなることかと思いました」
お冬は敷居際に、泣き伏してしまいました。
六
事件はこんな事では済みませんでした。
紛れるともなく経《た》った、ある日のこと、平次の家へ鉄砲玉《てっぽうだま》のように飛込んで来たガラッ八。
「親分、大変ッ」
「何だ、ガラッ八か。相変らず騒々しいね」
「落着いていちゃいけねえ、田代屋の人間が皆殺しにされたんですぜ」
「何だと、八?」
銭形の平次も驚きました。あわて者のガラッ八の言う事でも皆殺しは穏やかではありません。
「それッ」
と神田から水道端まで、一足飛びにスッ飛んで行くと、なるほど田代屋は表の大戸を締めて、中は煮えくり返るような騒ぎです。幸いガラッ八が聞きかじった、皆殺しの噂にはおまけがありましたが、一家全部何を食ってか恐ろしい中毒で、いずれも虫の息の有様、中でも一番先に腹痛《ふくつう》を起した小僧の三吉は、平次が駆けつけた時はもう息根《いきのね》が絶えておりました。
年は取っても、剛気な又佐衛門は、一番気が強く、これも少食のお陰で助かった嫁のお冬と一緒に、家族やら店の者を介抱しておりますが、日頃から丈夫でない養い娘のお秋は、一番ひどくやられたらしく、藍《あい》のような顔をして悶《もだ》え苦しんでおります。
町名主から五人組の者も駆けつけ、医者も三人まで呼びましたが、何分、病人が多いのと、急のことで手が廻りません、そのうち平次は、
「ガラッ八、今朝食った物へ、皆んな封印をしろ、鍋や皿ばかりでなく、水瓶《みずがめ》も手桶も一つ残らずやるんだ、解ったか」
「合点」
平次のやり方は機宜《きぎ》を掴《つか》みました。もう半刻放って置いたら、親切ごかしの野次馬に荒されて、何が何だかわからなくなってしまったでしょう。
吹矢で腕一本失った時と違って、今度は事件を揉《も》み消すわけに行きません。一家中毒を起して小僧が一人死んだ上、あと幾人かは、生死も解らぬ有様ですから、平次が行き着く前に、町役人から届出て朝のうちに検屍《けんし》が下だる騒ぎです。
町医者立会いの上、いろいろ調べてみると、毒は朝の飯にも汁にもあるという始末、突き詰めて行くと、井戸は何ともありませんが、お勝手の水甕《みずがめ》――早支度をするので飯炊きの権三郎が前の晩からくみ込んで置いた水の中には、馬を三十匹も斃《たお》せるほどの恐ろしい毒が仕込んであったのです。
「これは驚いた、これほどの猛毒は、日本はもとより唐天竺《からてんじく》にも聞いたことがない。付子《ぶし》や鴆《ちん》と言ったところで、これに比べると知れたものだ」
と、奎斎先生舌を巻きます。
「すると、その辺の生薬屋で売っているといったザラの毒ではないでしょうな」
と平次。
「左様、これほどの水甕に入れて、色も匂いも味も変らずほんの少しばかり口へ入っただけで命に係わるという毒は私も聴いたこともない。これは多分、――南蛮筋《なんばんすじ》のものでもあろうか――」
「ヘエ――」
「耳掻き一杯ほどの鴆毒でも、何百金を積まなければ手に入るものではない、――イヤ何百金積んでも手に入らないのが普通だ」
奎斎老の述懐は、益々平次を驚かすばかりです。
「夜前《やぜん》にくみ込んだ水甕へ、それほどの毒を入れたのに、戸締りが少しも変っていないところをみると、これは外《そと》の者の仕事ではない。やはり家の中の者だろう。銭形の親分、今度こそは、遠慮せずに引っくくって下さいよ」
又佐衛門は気を取り直して、一本腕の不自由さも、毒の苦しさも忘れてこんな事を言います。当てつけられているのは言う迄もなく嫁のお冬、これはまた不思議に丈夫でほんの少しばかりの血の道を起したといった顔色、舅《しゅうと》にいやな事を言われながらも甲斐甲斐しく病人達を介抱しております。
平次はそれを尻目に、小半刻水甕にかじり付いて、調べておりましたが、
「この柄杓《ひしゃく》は新しいようだが、何時から使ってますか」
お冬を顧みてこう問いかけます。
「昨夜《ゆうべ》、古い方の柄杓がこわれてしまったとか言っておりました。多分一つ買い置きの新しいのがあったのを、権三郎がおろしたので御座いましょう」
「これだッ」
「何ですえ、親分」
とガラッ八。
「仕掛はこの柄杓だ。ちょいと気がつかないが、よく見ると底が二重になって、その間に薬が仕込んであったんだよ」
平次は火箸《ひばし》を持って来て、外側から真新しい柄杓の底をコジ明けると、果たしてもう一つ底があって、その中に、晒木綿《さらしもめん》で作った、四角な袋が忍ばせてあったのです。
「あッ」
驚き騒ぐ人々の中へ、平次は盆の上に載せた柄杓を持って来ました。
「このとおり、種はやはり外から仕込んだものに違いありません。家の者ならこんな手数なことをせずに、いきなり水甕へ毒をブチ込むところでしょうが、曲者は外にいるから、こんな手数なことをして、そっと柄杓を換《か》えて置いたんでしょう――これは一体誰が買って来ましたえ」
「死んだ三吉で御座いました」
お冬はそう言って、ホッと胸を撫でおろしました。自分の上に降りかかった、二度目の恐ろしい疑いが、また平次の明察で朝霧《あさぎり》のように吹き払われてしまったのです。
七
「それにしても又五郎はどうしたんだ」
思い出したように又佐衛門はそう言いました。火事息子という言葉もある位で何か騒ぎのある時駆けつけるのが、勘当された息子の詫《わび》を入れる定石になっている時代のことです。ツイ垣隣《かきどなり》に住んでいて、これほどの騒ぎを知らないというのもどうかしております。
「なるほど、そう言えば変ですね」
と平次。
「だから、|あっし《ヽヽヽ》は言ったんで、どうもあの垣の外が臭いって――」
とガラッ八。
「黙らないか、八、そんな下らない事を言っている暇に、ちょいと覗いて来るがいい」
平次にたしなめられて、尻軽《しりがる》く外へ飛んで出たガラッ八、間もなく狐につままれたような顔をして帰って来ました。
「可怪《おか》しな事があるものだ、もう昼だっていうのに、まだ雨戸も開いてねえ」
「何、まだ雨戸が開かねえ」
「親分、恐ろしい寝坊な家もあったもんですね」
「そいつは可怪しい。来い、ガラッ八」
平次は弾き上げられたように起ち上がりました。改めてそう言われると、又佐衛門もガラッ八も、お冬も背筋をサッと冷たいものが走ったような心持になります。
庭を突っ切って、垣を飛び越えると、平次はいきなり雨戸を引っ叩きました。
「今日は、今日は、隣から来ましたがね、――田代屋の旦那が、御用があるそうですよ」
続け様に鳴らしましたが、中は静まり返って物の気配もありません。赤々と雨戸に落ちる陽ざしはもう昼近いでしょう。どんな寝坊でも、雨戸を閉めて置かれる時刻ではありません。平次はガラッ八に手伝わせて、とうとう雨戸を一枚外してしまいました。
一足中へ踏み込むと、碧血《ち》の海。
「あッ」
又五郎とその女房のお半は、どんなにもがき苦しんだことか、血嘔吐《ちへど》の中に、襤褸《ぼろ》切れのように醜く歪《ゆが》められ、つくねられ、捻《ねじ》りつけられ死んでいたのです。雨戸を開けた間から、春の光りがサッと入って、この陰惨な情景を、何の蔽《おお》うところもなくマザマザと描き出しました。
「子供は? 留ちゃんは?」
蹤《つ》いて来たお冬は、あまりの恐ろしさに顔を反《そむ》けながらも、女の本能に還って、顔見知りの子供の名を呼んでおります。
「ここだ、ここだ」
ガラッ八は、部屋の隅から、菜っ葉のようになっている留吉を抱いて来ました。食べた物が少なかったのか、こればかりはまだ寿命《じゅみょう》を燃やし切らず、身体も動かず声も立てませんが、頼りない眼を開いてまぶしそうに四方《あたり》を見廻します。
「留ちゃん、留ちゃん、大丈夫かい、しっかりしておくれよ」
この人の好い叔母に抱かれて、それでも留吉はわずかに、こっくりこっくりやっております。まだ、驚くほどの気力も、泣くほどの気力も恢復しないのでしょう。
「大丈夫だよ留ちゃん、もう大丈夫だよ、叔母ちゃんがついているから、お泣きでないよ」
お冬はそう言いながら、留吉を抱いて、母屋《おもや》の方へ帰って行きます。
その後姿をツクヅク見送った平次。何を考えたか、自分も母屋へ取って返して、薄暗い中に蠢《うご》めく人々を一応見廻すと町の人達に後の事を頼んで、追い立てられるようにサッと戸外へ飛出します。
「親分、どこへ」
後ろからガラッ八、これは下駄と草履を片跛《かたちんば》に穿いて追っかけます。
「八、お前はしばらくここにいるがいい」
「へエ――」
「俺は少し行って来るところがある」
「あれは一体、どうした事でしょう親分、あっしには少しも解らねえ」
「正直に言うと俺にも解らないよ」
「へエ――」
「八、恐ろしい事だ。いや、もっともっと恐ろしい事が起こりそうで、どうもジッとしちゃいられねえような気がするんだ」
「親分、大丈夫ですかえ」
「……」
「親分」
八
半刻ばかりの後、八丁堀組屋敷で、与力笹野新三郎の前に銭形の平次ともあろう者が、すっかり悄気《しょげ》返って座っておりました。
「旦那様、これは一体どうした事でございましょう。一と通りの家督争いとか、金が仇の騒動なら、大概底が見えるはずですが、この田代屋の一件ばかりは、まるで私には見当もつきません。旦那のお知恵を拝借して何とか目鼻だけでもつけとう御座います」
「フム、大分変った事件らしいが、平次、お前は本気で見当がつかないというのか」
笹野新三郎は妙に開き直ります。
「へエ――そうおっしゃられると、満更考えたことがないでは御座いませんが――、あまり事件が大きくて、私は恐ろしいような気がします」
「それみろ、銭形の平次にこれほどの事が解らぬはずはない。ともかく、思いついただけを言ってみるがよい。お前で解らぬことがあれば、私《わし》の考えたことも話してやろう」
「有難う御座います。旦那様、それでは、平次の胸にあることを、何もかも申上げてしまいましょう」
「……」
「あの、田代屋又佐衛門というのは、たしか、慶安四年の騒ぎに、丸橋忠弥一味の謀叛《むほん》を訴人して、現米三百俵、銀五十枚の御褒美をお上《かみ》から頂いた親爺で御座いましたな」
「そのとおりだ。それほど知っているお前が、何を迷うことがあるのだ」
「へエ――、するとやはり、田代屋一家内のもめごとではなくて、由井正雪、丸橋忠弥の残党が、田代屋に昔の恨みを酬《かえ》すためと考えたもので御座いましょうか」
「先ずそう考えるのが筋道だろうな」
「田代屋が一と先ず片付けば、次は同じく忠弥を訴人した本郷弓町の弓師藤四郎、続いては、返り忠して御褒めに預った奥村八郎右衛門を始め、御老中方お屋敷へも仇をするものと見なければなりません」
「そのとおりだよ平次」
「また浪人共を狩り集めて、謀叛を企てる者がないとも申されません――」
「いや、そこまではどうだろう」
「それにしても不思議なのは、あの毒薬で御座います。医者の申すには、町の生薬屋などに、ザラに売っている品ではない、多分|南蛮筋《なんばんすじ》の秘法の毒薬でもあろうかと――」
「平次、お前はあの事を知らなかったのか」
「とおっしゃいますと」
「田代屋一家の騒ぎは大した事ではないが、私にはその毒薬の出所の方が心配だ」
「……」
「平次これはお上の秘密で、誰にも明かされないことになっているが、心得のために話してやろう。漏《も》らしてはならぬぞ、万々一、人の耳に入ったら最後、江戸中の騒ぎにならずには済むまい」
「へエ――」
笹野新三郎は自分も膝行《いざ》り寄って、平次を小手招ぎしました。
「丸橋忠弥召捕りの時、麻布|二本榎《にほんえのき》の寺前の貸家に、三百三十|樽《たる》の毒薬が隠してあった。これは由井正雪が島原で調合を教わったという南蛮秘法の大毒薬で、一と樽が何万人の命を取るという恐ろしいものであった」
「……」
「玉川に流し込んで、江戸の武家町人を皆殺しにしないまでも江戸中に大騒ぎを起させる目論見のところ、丸橋忠弥の召捕りから一味ことごとく処刑《おしおき》になって、毒薬はお上の手に召上げられ、越中島に持って行って焼き払われた――これだけの事はお前も聞き知っておるであろうな」
「へエ――、存じております」
「ところが、二本榎の貸家で見つかった毒薬というのは、その実二百三十樽だけで、あと百樽の行方がどうしても判らぬ」
「エッ」
「一味の者は誰も知らず、係りの平見|某《なにがし》は口を緘《つぐ》んで殺され、その首領の柴田三郎兵衛は、鈴ガ森で腹を切ってしまった。御老中方を始め、南北の御奉行、下《くだ》って我々までも、ことのほか心配したが、百樽の毒の行方はなんとしても判らず、忘るるともなくそれから何年か経ってしまった」
「……」
「もしその百樽の毒薬が由井、丸橋の残党の手に入り、諸方の井戸や上水に投げ込まれるようなことがあっては、江戸中の難儀はもとより、ひいては天下の騒ぎだ。田代屋一家皆殺しに使った毒は、町の生薬屋で売るような品でないとすれば、あるいはその百樽の毒薬から取り出したものかも知れぬ」
「……」
「平次、これは大変な事だ、一刻も早く曲者の所在《ありか》を突き留めて百樽の毒薬を取り上げなければならぬ。手不足ならば、何十人、何百人でも手伝わせてやる、どうだ」
笹野新三郎の思い入った顔を、平次は眩《まぶ》しそうに見上げながら、それでも声だけは、凛としておりました。
「旦那様、しばらくこの平次にお任せを願います」
「何?」
「せめて今日一日、この平次の必死の働きを御覧下さいまし。その代り、弓師藤四郎、奥村八郎右衛門はじめ、御老中方お屋敷に人数を配り万一の場合に備《そな》えて頂きとう御座います、その手段は――」
平次は新三郎の耳に口を持って行きました。
九
平次はその足ですぐ田代屋へ取って返しました。奥へ通されて、主人の又佐衛門と相対したのはもう夕暮れ。小僧の三吉と、隣に住んでいた又五郎夫婦の死体の始末をして、家の中は上を下への混雑ですが、幸い他の人達は全部元気を取り返して、青い顔をしながらも忙しそうに立ち働いております。
「実はイヤな事をお聞かせしなければなりませんが――いよいよ、毒を盛った人間の目星がつきましたよ」
「へエ、どこの何奴《どいつ》で御座います」
腕の痛みにも、毒薬の苦しさにもめげず、相手が判ったと聞くと又佐衛門は膝を乗り出します。
「それが厄介で、いよいよこの家から、縄付を出さなきゃアなりません」
「やはりあの女で――」
「いや考え違いなすっちゃいけません、御新造は何にも知りはしません」
「へエ――」
「風呂場から吹矢を盗んで、外へ捨てて相棒に土の中へ踏み込ませたり、柄杓《ひしゃく》の底へ仕掛をして、外から毒を持ち込んだように見せたり、恐ろしい手の込んだ細工をして、私の眼を誤魔化《ごまか》そうとしましたが、曲者の片割れは、やはりこの家の中にいるに相違ありません」
「誰です、その野郎は、早く縛って下さい」
「いや、そう手軽には行きません。田代屋一家を皆殺しにしようという曲者ですから、一筋縄では行きません、もう一刻経てばこの家にいる曲者と、外にいる仲間と、一ぺんに縛る手筈が出来ております」
「田代屋一家を怨む者というともしや――?」
「気がつきましたか旦那、あれですよ、丸橋忠弥の一味――」
「エッ、家の中の誰がその謀叛人の片割れです、太い奴だ」
「シッ、静かに、人に聴かれちゃ大変――つかぬ事を訊きますが、あの奉公人とも養い娘ともつかぬお秋――、あの女の身許がよく判っていましょうか」
「いや――そんな事はありゃしません。あの娘に限って」
「あの娘の毒に中《あ》てられた苦しみようが、一番ひどかったが、他の人とはどこか調子が違っていはしませんでしたか」
「そう言えば――」
二人の声は次第に小さくなります。
四方《あたり》を籠めて、次第に濃くなる闇の色、その中に何やら蠢《うご》めくのは、隣室から二人の話を立聴く人の影でしょう。
「太い女だ、三年この方、目をかけてやった恩も忘れて」
と又佐衛門、腹立ち紛れにツイ声が高くなります。
「今騒いじゃ何にもなりません。あの女は雑魚《ざこ》だが、外にいるのが大物です――。それもあと一刻の命でしょう――、今頃は捕方同心の手の者が百人ばかり、もう八丁堀から繰り出した頃――もう袋の中の鼠も同様――」
平次の声は、潜《ひそ》めながら妙に力が籠って、部屋のそとまで、かすかながら聴き取れます。
十
間もなく田代屋を抜け出した一人の女――小風呂敷を胸に抱いて後ろ前を見廻しながら水道端の宵暗《よいやみ》を関口の方へ急ぎます。
大日坂《だいにちざか》の下まで来ると足を停めて、一応|四方《あたり》を見廻しましたが、砂利屋が建て捨てた物置小屋の後ろへ廻ると、節穴だらけな羽目板へ拳《こぶし》を当てて、二つ三つ妙な調子に叩きました。
「誰だ?」
中からは錆《さび》のある男の声。
「兄さん、私」
「お秋か、今頃何しに来た」
「大変よ、手が廻ったらしい」
「シッ」
中からコトリと桟を外すと、羽目板と見えたのは潜《くぐ》りの扉で、闇の中へ大きい口がポカリと開きます。
「どうしたんだ、話してみろ」
伏せていた龕灯《がんどう》を起すと、円い灯の中に、兄妹二人の顔が赤々と浮き出します。蒼白い妹のお秋の顔に比べて、赤黒い兄の顔は、何という不思議な対照でしょう。
藍微塵《あいみじん》の意気な袷《あわせ》を着ておりますが、身体も顔も泥だらけ、左の手に龕灯を提げ、右の手には一梃の斧《おの》を持っているのは一体何をしようというのでしょう。年の頃は三十二三、何となく一脈の物凄まじさのある男前。
「兄さん、あと一刻《いっとき》経たないうちに、ここへ役人が乗込んで来ます。捕方同心一隊百人ばかり、八丁堀を出たという話――」
お秋の息ははずみ切っております。
「誰がそんな事を言った」
「銭形の平次」
「どこで」
「田代屋の奥で、旦那と話しているのを聴いて、夢中になって飛び出して来ました」
「馬鹿ッ」
「……」
「平次がそんな間抜な事を、人に聴かれるように言うはずはない、お前があわてて飛び出す後を跟《つ》けて、俺の巣を突きとめる計略《けいりゃく》だったんだ。何という間抜けだ」
「エッ」
思わず振り向くお秋の後ろへ、ニヤリ笑って突っ立っているのは、果して銭形の平次の顔です。
「あッ」
驚くお秋を突き退けて、
「御用だぞ、神妙にせい」
一歩平次が進むと、早くも五六歩飛退いた曲者、龕灯《がんどう》を高々と振り上げて平次を睨み据えました。
「平次、寄るな、この龕灯の先を見ろ。向うにある真っ黒なのは焔硝樽《えんしょうだる》だ。あの中に放り込めば、俺もお前も、この物置も、木葉微塵《こっぱみじん》に吹き飛ばされた上、百樽の毒薬は、神田上水の大樋《おおどい》の中に流れ込むぞ――」
「……」
寸毫《すんごう》の隙もない相手の気組と、その物凄い顔色、わけても思いもよらぬ言葉に、さすがの平次も驚きました。
「寄るな平次、退かないか、丸橋先生、柴田先生が三百三十樽の毒薬のうち、百樽をここに隠して、神田川上水に流し込む計略だったんだ。年月経って、誰も気がつかずにそのままになっているのを知って上水の大樋まで穴を掘り、毒薬の樽を投り込むばかりになっているんだぞ、サア、どうだ」
平次もさすがに驚きましたが、相手の気組を見ると、全くそれ位のことはやり兼ねないのは判り切っております。
「待て待て、そんな無法な事をして、江戸中の人間に難儀をかけるのは本意ではあるまい。天運とあきらめて、神妙にお縄を頂戴せい」
「何を馬鹿な、俺は死んでも仇は討てるぞ、みろッ」
右手に閃く龕灯、そのまま、後ろの焔硝樽へ投げ込もうとするのを平次は得意の投げ銭、掌《て》を宙《ちゅう》に翻《かえ》すと、青銭が一枚飛んで、曲者の拳をハタと打ちます。
「あッ」
龕灯を取り落とすと同時に飛込んだ平次、しばらく闇の中に揉み合いましたが、どうやら組伏せて早縄を打ちます。
物置の外へ出ると、ガラッ八、これはお秋を縛って、ようやく縄を打ったところ。
「親分、お目出とう」
「お、八か、骨を折らせたなア」
捕まえた曲者は、慶安《けいあん》の変に毒薬係を勤めた平見某の弟|同苗《どうみょう》兵三郎とその妹お秋、由井正雪、丸橋忠弥その他一党の遺志を継いで老中松平伊豆守、阿部豊後守をはじめ、一味の者に辛《つら》かりし人達へ怨みを酬《むく》い、太平の夢を貪る江戸の町人達にも、一と泡《あわ》吹かせようという大変なことを目論んだのでした。
調べたら面白いこともあったでしょうが、人心の動揺を惧《おそ》れて、兄妹二人は人知れず処刑されてしまいました。この時代には、よくそんな事が行われたものです。
平次は老中阿部豊後守のお目通りを許され、身に余る言葉を頂きましたが、相変らず影の仕事で、表沙汰の手柄にも功名にもなりません。それもしかし気にするような平次ではありません、時々思い出したように、
「あのお秋って娘は可哀そうだったよ。田代屋の又次郎に惚《ほ》れていて、嫁のお冬が憎くて憎くてたまらないところへ、兄貴の兵三郎につけ込まれたんだ。恋に目の眩んだ女は、どんな大胆なことでもして退《の》けるよ」
こんな事をガラッ八に言って聴かせました。
結納の行方
一
「親分」
「何だ八、また大変の売物でもあるのかい、鼻の孔が膨《ふく》らんでいるようだが」
銭形の平次はいつでもこんな調子でした。寝そべったまま煙草盆を引寄せて、こればかりは分不相応《ぶんふそうおう》に贅沢な水府煙草を一服。紫《むらさき》の煙草がゆらゆらと這って行く縁側のあたりに、八五郎の大きな鼻が膨らんでいるといった、天下泰平な夏の日の昼下りです。
「大変な種切《たねぎれ》なんで、ちかごろは朝湯に昼湯に留湯だ。一日に三度ずつ入ると、少しフヤけるような心持だね、親分」
「呆れた野郎だ。十手なんか内懐《うちふところ》に突っ張らかして、わずかばかりの湯銭を誤魔化《ごまか》しゃしめえな」
「とんでもねえ、そんな不景気な事をするものですか、――不景気と言や、親分、ちかごろ銭形の親分が銭を投げねえという評判だが、親分の懐具合もそんなに不景気なんですかい」
「馬鹿にしちゃいけねえ、金は小判というものをうんと持っているよ。それを投《ほう》るような強い相手が出て来ないだけのことさ」
「へッ、へッ」
「いやな笑いようをするじゃないか」
「その強そうな相手があったら、どうします、親分」
「またペテンにかけて俺を引出そうというのか、その強そうな相手というのは誰だ、――次第によっちゃ乗出さないものでもない」
平次は起き直りました。春からたいした御用もなく、巾着切《きんちゃくぎり》や空巣狙いを追い廻させられて、銭形の親分も少し腐っていた最中だったのです。
「品川の大黒屋常右衛門――親分も知っていなさるでしょう」
「石井常右衛門の親類かい」
「そんな気のきかない浅黄裏《あさぎうら》じゃない、品川では暖簾《のれん》の古い酒屋ですぜ」
「フーン」
「そこの娘――お関というのは、十八になったばかりだが、品川小町と言われるたいしたきりょうだ。手代の千代松と嫁合《めあわ》せ暖簾を分けるはずだったが、ちかごろ大黒屋は恐ろしい左前で、盆までに二三千両|纏《まとま》らなきゃ主人の常右衛門首でも縊《くく》らなきゃならねえ」
「……」
平次は黙ってガラッ八の長広舌に聴き入りました。この天稟《てんぴん》の早耳は、また何か重大なものを嗅ぎつけて来た様子です。
「幸い、池の端|茅《かや》町の江島屋良助の倅《せがれ》良太郎が、フトした折にお関を見染めた」
「あの馬鹿息子がかい」
「息子は馬鹿でも、親爺は下谷一番の金持だ。上野の御用を勤めて、何万両と溜め込み、金の費い途に困って、庭石の代りに小判を敷いたり、子供の玩具《おもちゃ》にしたり」
「嘘を吐《つ》きゃがれ」
「それは嘘だが、とにかく、倅に日本一の嫁をもらうんだからと嫌がる大黒屋へ人橋|架《か》けて口説き落し、その代り結納は千両箱が三つ、こいつは空《から》じゃないぜ、親分」
「大黒屋へやったというのか」
三千両の結納は、江戸の大町人のする事にしても、少し奢《おご》りが過ぎます。
「池の端の江島屋から、馬に積んで番頭と仲人《なこうど》夫婦が付添い品川大黒屋まで持って行って、江島屋の番頭太兵衛や、仲人の佐野屋佐吉夫妻が立ち会いの上、三つの千両箱を開けてみると、こいつが皆な大粒の砂利《じゃり》になっていたというから驚くじゃありませんか」
「何だと? 八」
銭形平次もさすがに驚きました。江戸の街の真昼、三人も付添って行った三千両の小判が、馬の背で砂利に化けるはずはありません。
「だから行ってみて下さいよ、――三千両は目腐れ金だが――」
「大きな事を言やがれ」
一両はざっと四匁、その頃の良質の小判は一枚でも今の相場にして一万円位ぐらいにつくわけで、三千両の値打ち、直訳して三千万円、経済力は五千万円にも相当するでしょう。三貫と纏まった銭を持ったことのないガラッ八が、こんなことを言うのは洒落《しゃれ》にも我慢にもなりません。
「放っておけば大黒屋の亭主は本当に首でも縊《くく》るかも知れませんよ。それに、品川小町のお関を見ただけでも、とんだ眼の法楽だ――」
「止さないか、馬鹿野郎、――品川は縄張り違いだ」
「池の端は親分の支配だ」
「支配――てえ奴があるかい、人聞きの悪い」
「とにかく行ってみましょう。人助けのためだ」
「それじゃ池の端の江島屋の方へ当ってみるとしようか」
「有難てえ、それで頼まれ甲斐があったというものだ」
ようやく腰をあげた平次。ガラッ八はその後ろから、帆っ立て尻になって煽《あお》ります。
二
池の端の江島屋というのは、そのころ上野寛永寺の御用を勤めた老舗《しにせ》の仏具店で、袈裟法衣《けさころも》、仏壇仏像から、大は釣鐘までも扱い、その上、役僧達の金融《きんゆう》から、上野出入りの商人の取次まで引受けて、巨万の身上を作った下谷一番の大町人でした。
「銭形の親分、丁度いいところで――」
主人の良助は、平次の顔を見ると、そのまま奥へ通します。
「不思議なことがあったそうだね」
平次は好奇心以外何にも持ち合せない調子で応えました。
「不思議だか当り前だか知りませんが、とにかく、仲人の佐野屋さん御夫婦と番頭の太兵衛がついて、馬で送った三千両が品川の大黒屋に着いて、奥へ持って行って開くと、砂利になっていたそうで――狐に化《ばか》されたのなら木の葉になります。相手が人間だけに、貫々を勘定して、砂利を詰め替えたのは憎いじゃありませんか」
江島屋の口調では、大黒屋の細工と信じきっている様子です。
「付いて行った人達は駕籠かい、それとも徒歩《かち》かい」
「佐野屋のお内儀さんだけは駕籠で、あとの二人は歩きましたよ。佐野屋さんの二人は馬の前に立って、太兵衛は馬の後から行ったそうですが――」
「途中で休むような事はなかったろうか」
「番頭を呼んで訊いてみましょう」
良助が手を鳴らすと、平次の姿を見て次の間まで来ていた太兵衛は、四十男の心得た顔を出しました。
「ね、三千両を送って行く途中で、馬に水を呑ませるとか、人間が息を継ぐとか――ともかく何処かで休むような事はなかったのかい」
平次は続けました。
「とんでもない親分さん、三千両にまちがいがあっては大変と思い、三里あまりの道をわき眼もふらずに参りました。水も茶も呑むどころの沙汰《さた》じゃございません」
少し頑固らしい太兵衛はもっての外と頭を振ります。
「何か途中に変ったところがありゃしなかったかい、喧嘩とか、――出入事とか、お前さんに突き当って、馬から眼を外《そ》らせた奴とか」
「そんなものは、ございません、――御膝元とはいいながら、三千両の大金を無事に持って行けるんだから、本当に有難いことだと思いました、それが――」
太兵衛は口惜《くや》しそうです。子飼いの番頭らしい一刻《いっこく》さで、何べん大黒屋へ呶鳴り込もうとしたことでしょう。
「馬はどこのだい」
「町内の十一屋に頼みました。駕籠や吊台《つりだい》じゃ面白くないから、古風に飾り馬にしようという話で――」
これ以上は何を訊ねても解りません。平次はガラッ八を促《うなが》し立てて、そこから一丁とも離れない、仲通りの飛脚屋《ひきゃくや》に立寄りました。
「銭形の親分さん、――江島屋の三千両のお話でしょう、手前共もあの騒ぎにゃ、とんだ迷惑をしていますよ」
十一屋の親方は、平次の顔を見るとこぼし始めました。
「馬はどこにいるんだい」
「お目にかけましょう、裏の厩《うまや》ですが」
案内してくれたのは、裏の大きな厩、五六頭の馬の中に交《まじ》って、一きわ美しい、鹿毛《かげ》を親方は指します。
「こいつはいい馬だ、――こんなのはたんとあるまいね」
と平次。
「武家方の乗馬にはありますが、飛脚馬には勿体ないくらいの鹿毛ですよ。千両箱が三つというと精々十五六貫ですが、この暑い盛りに、三里の道を水も呑ませずに行くんだから、これくらいのでなきゃあ安心がなりません。――ドウ、ドウ、二本松生れの五歳の牡《おす》で、ドウ、ドウ」
親方は鹿毛の鼻面を撫でながら、自慢半分に説明してくれます。
「曳《ひ》いて行ったのは?」
「そこにいる野郎で、――やい三次、ここへ来て挨拶をしな。銭形の親分さんが訊きてえことがあるとよ、――あれ、あんな野郎だ。頬冠《ほおかぶ》りをしたまま顎をしゃくるのは、手前の辞儀《じぎ》かい」
「まあ、いいやな、――三次|兄哥《あにい》とか言ったね。昨日の事を少し詳しく話してくれまいか」
平次はそれとなく、この男の様子を観察しました。年恰好もよく解らないほど物さびておりますが、精々三十――どうかしたらもう少し若いかも知れません。葛飾在《かつしかざい》の百姓の子だというが、それにしてもむくつけき姿です。
「江島屋の門口で旦那が指図をして多勢の見る前で馬につけた三つの千両箱を、品川の大黒屋の店先で、これも多勢の手でおろされ、奥へ進んで行っただけですよ」
「三次兄哥はどうした」
「一杯御馳走になって、御祝儀を頂いて、いい心地になって帰りましたよ」
何という無造作な事でしょう。こんな塩梅《あんばい》では、平次の鼻でも、疑わしいものは嗅ぎ出せそうもありません。
取って返して、江島屋の家族や雇人を一と通り調べましたが、倅の良太郎が二十五にもなって、少し呂律《ろれつ》が怪しいほどの足りない人間だということを発見しただけ。
「品川の大黒屋の方に何かあるだろう」
「すぐ行きますか、親分」
「向うへ着くと暗くなるが、一と晩の違いで三千両の始末をされるのも業腹《ごうはら》だ。行ってみようか」
「へエ」
平次と八五郎はそこから品川まで、三里の道を急ぎます。
三
大黒屋の前は真黒に人立ち、ここには思いも寄らぬ大変な事が始まっておりました。
「えッ、黙らないか、武士に向って誘拐《かどわかし》とは何だ。――借金の抵当《かた》に、今晩は拙者が直々《じきじき》につれ帰り、内祝言《ないしゅうげん》を済ませて、宿の妻にするのに何の不思議だ。それが厭なら、用立てた金子百五十両、三年間の利に利が積んで、六百五十両になる、今ここで返してもらおうか」
威猛高《いたけだか》になるのは、三十五六の浪人、高利の金を貸して、品川一円の憎まれ者になっている、沢屋利助の用心棒、大川原五左衛門という御家人崩れです。
「旦那、それは御無理で、沢屋さんから金は借りましたが、旦那に娘をあげるとは申しません。それに重なる災難で、昨日も三千両の金が紛失し、思案に余っているところでございます」
店の板敷に額《ひたい》を押しつけぬばかり、亭主の常右衛門の声は濡れておりました。五十七八のまだ働き盛りですが、苦労にやつれた痛々しさは、痩せた肩にも、そげた頬にも刻みつけられた姿です。
「――何? 娘をやる約束はしなかった? 馬鹿も休み休み言えッ、――返済相|成兼《なりかね》候節は如何なる物を御取上げ候共|異存無之《いぞんこれなく》と其方《そち》の判を捺《お》した証文が入っているぞ。その娘はかねがね拙者所望の品だ。六百五十両の代りにもらって行くのが、誘拐《かどわかし》同様とは何という言草だ」
「……」
「金は沢屋が貸したに相違ないが、その月のうちに証文はこの大川原五左衛門が買い取ってある、――さあ娘を渡してもらおうかい」
五左衛門の釘抜《くぎぬき》のような腕がグイと伸びました。
「あれーッ」
見ると父親常右衛門の袖の下に隠れた娘のお関は、五左衛門の手に従って、ズルズルと引出されました。
十八娘の美しさが、恐怖と激情に薫蒸《くんじょう》して、店中に匂うような艶かしさ。鹿の子絞りの帯も、緋縮緬《ひぢりめん》の襦袢《じゅばん》も乱れて、中年男のセピア色の腕にムズと抱えられます。
「お願いでございます。大川原様、それではお嬢様が可哀想――」
飛び付くように若い手代、五左衛門の腕に犇《ひし》とすがります。二十三四の久松型で、主人の娘の危急に取りのぼせたのでしょう。
「何が可哀想、――娘は嬉し泣きに泣いているではないか」
パッと払った手に弾《はじ》かれて、手代は物の見事に土間に尻餅を搗《つ》きました。
「千代松、――長谷倉《はせくら》先生をお願いして来てくれ、早く、早く」
主人が声を掛けると、手代の千代松が土間から外へ、毬《まり》のように転げながら飛び出します。
「親分、入ってみましょうか」
見兼ねて、ガラッ八は平次の肘《ひじ》を突きました。
「待ちな、もう少し見た方がいい、――まだ宵のうちだ。二本差がどんなに威張《いば》ったって、嫌がる女を、引っ担いで行くわけにも行くまいじゃないか、落着いて見物するがいい」
平次は、野次馬の後ろから背伸びをしてこんな事を言うのです。
「でも、親分」
「気が揉めるのかい、――あの娘は綺麗過ぎるから、いろいろ紛糾《いざこざ》が起るんだよ。あの顔を見たとたんに、俺は三千両の行方《ゆくえ》が解るような気がしたよ」
「江島屋へ嫁にやるのを邪魔する奴があるんでしょう」
「シッ――お立会いの衆が顔を見るじゃないか、なんて野暮な声を出すんだ」
二人はそれっ切り口を噤《つぐ》みましたが、中の争いは、深刻に、執拗に続きます。
「来た来た、長谷倉先生が来たぜ、もう大丈夫だろう」
動揺《どよ》めく野次馬。それを掻きわけて静かに入って来たのは、四十前後の立派な浪人者でした。
「御免よ、――娘を連れて行きたいが、仔細《しさい》はあるまいな」
「ヘエヘエ、どうぞお召し連れ下さいまし」
長谷倉甚六郎の心持ちを測《はか》り兼ねながらも、亭主は相槌《あいづち》を打ちました。後ろからは手代の千代松が何やら目顔で合図をしております。
「お聞きのとおり、その娘は拙者が親元になって、近々嫁入りさすはずになっている。無法な事を召さると容赦《ようしゃ》はいたさんぞ」
「何? 何が無法」
大川原五左衛門はいきり立ちます。
「嫌がる娘を小脇に抱えて、無理に連れ出そうとするのは無法の沙汰ではないか」
長谷倉甚六郎の調子は、静かですけど屹《きつ》としておりました。
「黙れッ、借金の抵当《かた》に取って行くのだ――その方は何者だッ、余計な口を出すと、ためにならんぞッ」
「拙者は長谷倉甚六郎、西国の浪人者だ。十年越しこの町内に住み、謡《うた》いや碁の手ほどきから、棒振り剣術、物の本の素読《そどく》などを少しばかり教えている」
「貧乏浪人の長谷倉とは御手前か、――なら、口を出さぬがいい。これは六百五十両という大金の出入事だ、――返済相成兼候節は如何《いか》なる物を御取上げ候とも異存無之――と首と釣替の判を捺《お》した証文が入っているのだ」
大川原五左衛門は威猛高です。
「その物が、この娘だと言うのか」
「いかにも」
「黙れッ、――物は物、人間は人間だ。昔から人間を抵当に入れるのは御禁制と知らぬか」
「何?」
「如何なる物――とは読んで字のごとく物だ。その辺の樽《たる》でも瓶《かめ》でも古下駄でも持って行くがいい。人間を連れて行くのは誘拐《かどわかし》も同様ではないか、痴呆奴《たわけめ》」
「|たわけ《ヽヽヽ》と言ったな」
「それが|たわけ《ヽヽヽ》でなくて何だ。まして、拙者親元になって、近々嫁入りさす娘だ。その方ごとき赤鬼にやってたまるものか」
「己れッ」
「や、手向いするか」
カッとなつて斬り込む大川原五左衛門の刃《やいば》、長谷倉甚六郎身を捻《ひね》って片手拝みの手刀。
「あッ」
ポロリと落した五左衛門の刀を取上げると、足をあげてしたたかに腰のあたりを蹴飛ばしました。
「覚えておれッ、証文に物を言わせるぞ」
腰をさすりながら起き上がる大川原五左衛門。
「馬鹿奴ッ、証文の表はたった百五十両だ、三年で四倍半になる高利を、武士たる者が貸していいか悪いか、白洲《しらす》へ出て述べ立ててみるがいい」
「何を」
「それからこの腰の物は後日のために預り置く。商人の店先へ来て、抜身を振り廻した曲者、訴えて出れば御法どおり所構《ところがまえ》だ。それとも穏便に返してもらいたかったら、六百五十両持って来い。鐚《びた》一文欠けても相成らぬぞ、ハッハッハッ、馬鹿な奴だ」
カラカラと笑う浪人長谷倉甚六郎、まことに水際立った男振りです。
「親分、驚いたね」
それを見て舌を巻いたのは、ガラッ八ばかりではありません。
「手の内も見事だが、知恵者だな、フーム」
平次もしばらくは唸《うな》っております。
四
「銭形の親分さんで、――とんだところをお目にかけました」
奥へ平次と八五郎を通して、主人の常右衛門は萎《しお》れ返ります。
「いや、反《かえ》っていろいろの事が解ったような気がするよ。三千両の始末を、もう少し詳しく聞きたいが――一体どんな経緯《いきさつ》なんだ」
「こう言ったわけでございます、親分」
主人の常右衛門は、心の苦悩を絞り出すように、こう語り始めました。
品川一番といわれた大黒屋が、家業の左前になったのはツイ五六年前から。型のとおり米相場で大穴をあけ、地所も家作も手放して、あと五六百両の不足を、高利貸の沢屋利助に借り、利に利が嵩《かさ》んで、それがもう二千両になっているのでした。
その証文の一枚を買い受けたのは、沢屋の用心棒の大川原五左衛門、半歳も前から、執念深くお関を嫁にと迫りますが、相手が悪いので大黒屋も我慢がなりかね、ちょうど江島屋から賢くない倅を承知で嫁に来てくれるなら、三千両の結納金を出そうと言うのを渡りに船と、いやがる娘を説き伏せ、家のため、親のため、身を売ったつもりで嫁入りするのを承知させたのでした。
その結納金が三千両、江島屋からは確かに出したと言い、ここへ着いたのは箱に詰めた砂利で、纏まりかけた縁談も滅茶滅茶、その噂を聞くと大川原五左衛門は、さっそく貸金の抵当《かた》にお関をよこせと乗込んで来る始末だったのです。
「三つの千両箱はどこで誰が受け取ったんだ」
平次は第一問を発しました。
「店で私が受け取り、手代や小僧に奥――と申しましてもこの部屋より外にありません。――ここへ運ばせて、御仲人《おなこうど》の佐野屋さん御夫妻、それに江島屋の番頭の太兵衛さんに一杯差上げ――」
「その間、千両箱は」
「その床の間に置いて、四人の眼で見張っておりました」
「一寸も眼を離さなかったろうな――手水《ちょうず》に立つとか、何とか」
「そんな事はございません。すぐ千両箱を開けて中味を見るのも、ガツガツしているようでたしなみが悪いと思い、四|半刻《はんとき》ばかり経って、汗も乾き、心持も落着いたところで、四人立会いの上開けてみました」
常右衛門はゴクリと固唾《かたず》を呑みます。
「すると、中は砂利が一パイ詰まっていたというのだろう」
「左様でございます」
「店からここへ持って来るとき小判にしては軽いと気が付かなかったのかな」
「何分、皆な夢中になっておりました。それに、千両箱などは、奉公人達も持ち慣れておりません」
傾いた家運を自嘲するように、常右衛門の唇には、淡い淋しい笑いが浮かびました。
「この縁談を壊したいと思う者があるに相違ないが――」
と平次。
「それはもう、親の私から申しては変に聞えますが、町内だけでも、娘を欲しいという方は十人や二十人じゃございません」
お関の人気の凄まじさ。ガラッ八はうろうろ店口の方を見ております。その辺から、後光でも射すんではないかと思ったのでしょう。
「その中でも、一番がっかりするのは」
「手代の千代松でございます。――お関と一緒にして、暖簾を分けてやるはずでしたが、こうなると、因果《いんが》を含めるより外に仕様もございません。分けてやる暖簾がこんなでは」
「それから」
「先刻の大川原五左衛門様も、ずいぶん腹を立てなすったようで、でも、六百五十両の金を返せば、これは文句がなかったでしょう」
「千代松は昨日どこにも出しはしまいな」
「昨日も、一昨日も、萎《しお》れてはおりましたが、どこへも出掛けません。――それに、あれは遠縁の子飼いで、そんな悪いことをする人間ではないと思います――が」
常右衛門の言葉が、満更見当違いでないことは、平次にもよく解ります。あの久松型の正直で弱そうな千代松が、三千両をどうしようという人間とは覚えません。
「先刻五左衛門を取って押えた、長谷倉甚六郎という浪人者は、ありゃどんな方だい」
「立派な方でございます。町内の若い衆にいろいろのものを手ほどきして、十年もこの隣に住んでいらっしゃいますが、あんな知恵者で、あんな立派な方はございません。――娘のお関などは、どんなに可愛がって頂いたことか」
「すると、三千両はどこで誰が入れ替えたのだろう」
平次もここまで来ると、ハタと当惑《とうわく》してしまいました。
「江島屋さんが、そんな事をなさるはずもございませんが、――それでも、ここでなく、途中でないとすると――」
常右衛門は江島屋の主人や番頭を疑っているのでしょう。
「とにかく、本当に江島屋から出したものなら、どこかに隠されているに違いない。何とか探し出す工夫もあるだろうから、あんまり気を落さない方がいい」
平次はそう言って常右衛門を慰めずにはいられませんでした。この主人は、本当に首でも縊《くく》りそうだったのです。
「縁談は破れたも同様ですから、江島屋さんからは、明日にも三千両の結納を返せと言って来るに決っております。その時は」
濃い死の翳《かげ》が、この中老人の額を曇らせます。
「そんなに突き詰めちゃいけねえ、もう少し心持を大きく持つがいい」
平次もそう言うのが精々です。
それから千代松に逢いましたが、
「私は何にも存じません、――が、親分さん、旦那はあのとおり、放っておけば、気が変になるか、死ぬか、どっちにしても無事で済みそうもありません。お願いですから、助けてやって下さい」
そういう一生懸命さが、平次を打つだけ、何の取止めたこともありません。
「お前はまさか、三千両の行方は知っちゃいないだろうな」
「え?」
平次の言葉は冷酷《れいこく》でした。
「この縁談を壊すだけならいいが、三千両の行方が解らないとなると、幾人もの命に拘《かか》わるぜ」
「親分さん、それじゃ、――私が、この私が隠したと言いなさるんですか」
千代松の唇はサッと白くなります。
「そうは言わないが――」
平次は煮え切らない返事をして背を見せました。
次に逢ったのはお関、これは恐怖と心配にさいなまれて、ただ、ひた泣くばかり、何を訊いても埒《らち》があきません。
「私は何も知りません、――でも、父《とう》さんは気の毒です。どうか、助けてください、親分さん」
そう言うだけ。
「千代松が怪しいとは思わないか、お関さん、この男はこの縁談を一番打ち壊したがっている様子だが――」
「そんな事はございません、――千代松は気の弱い正直者です。そんな大それた事をする千代松じゃございません」
千代松のこととなると、お関は必死の涙の顔をふり上げます。
平次とガラッ八は、これっ切りで大黒屋を切り上げました。これ以上|粘《ねば》ったところで、何の目星も付きそうにはなかったのです。
引揚げ際に、砂利を詰めた三つの千両箱を見せてもらいたいと言うと、千代松は裏の物置に案内してくれました。
「旦那は見たくもないと言って、ここに放《ほう》り込みました。――このとおり」
鍵《かぎ》も何にもない物置の中に、砂利を詰めた千両箱が三つ、ガラクタと一緒に投げ込まれてあったのです。
物置の外へ出ると、ポツポツ雨が降り出して来ました。隣の長谷倉甚六郎の浪宅からは、何やら素読《そどく》を教える声。
「八、大急ぎで帰ろうぜ」
平次は何となく淋しい心持ちで往来に飛び出しました。金に支配されて、泣く者、怒る者、命まで投げ出そうとする者、その種々相が、江戸っ子で貧乏で、三両も三千両も同じように考えている平次には腹立たしかったのです。
五
翌《あく》る日の朝、――
卯刻《むつ》半〔七時〕前に八五郎は叩き起されました。
「八、今日も歩くんだぜ」
「へエ――どこまで行くんで」
「まあ、黙って来るがいい」
平次は池の端の江島屋へ行って、番頭の太兵衛を誘《さそ》い出したのです。
「番頭さん、品川の大黒屋には、怪しいのは一人もいねえ、――仲人の佐野屋夫婦は、馬の先に立って歩いているし、千両箱には手も掛けないから、これは疑いようはねえ」
「すると」
太兵衛は擽《くす》ぐられるような不安に顔を上げました。
「一番損なのはお前だよ、番頭さん」
「へエ――」
「金は途中で抜かれたに違いないが、馬の後ろから歩いて来たお前が知らなきゃどうかしている。馬を曳いて行った三次とお前が馴れ合えば、小判を砂利に変えられない事もない」
「冗談でしょう、親分さん、私は――江島屋の子飼で、白鼠《しろねずみ》といわれた私が、そんな馬鹿なことをするものですか」
太兵衛はいきり立ちます。中年者らしい頑固さが、相手も身分も、事情も忘れさせるのでしょう。
「それじゃ、池の端から品川へ行った道筋を一昨日のとおり歩いてみてくれ。――どんな細かいことでも思い出して、話すんだ」
「行きましょう。こうなりゃ、唐天竺《からてんじく》までも参りましょう」
「そんなに遠くまで行くには及ばない」
平次はこんな調子で、とうとう尻の重い太兵衛をおびき出したのです。
池の端仲町の江島屋の門口に立った三人は、
「さあ行こう、俺は佐野屋の代りに一番先だ、八は馬だ、一番後は一昨日のとおり番頭さん――」
一歩踏み出しました。加藤織之助様屋敷の角を御数寄屋《おすきや》町へ――。
「どんな事でも言わなきゃなりませんか」
「どんな事でも、石っころに躓《つまず》いたことでも、犬に吠えられた事でも」
平次はうなずいて見せます。
「この横町から出て来て、私に道を訊いた人がありましたよ」
いくらも歩かないうちに、――御数寄屋町と同朋町の間の、狭い横町を太兵衛は指します。
「どんな人間だ」
「浪人風の男で、――顔は忘れましたが、額《ひたい》に古傷のあったことだけ覚えています。元黒門町の上総《かずさ》屋へ用事があるが、どこをどう行けばいいか――と丁寧に訊くから、小戻りして教えてあげましたよ。上総屋はここから見えませんが、少し戻ると、それ、よく見えるでしょう」
太兵衛は小戻りして元黒門町の方を指します。
「その間に馬は?」
「佐野屋さんの後ろから、門奈《かどな》伝十郎様の御屋敷前を、天神下へ曲りました」
「一寸の間見えなくなったわけだね」
「ほんの一寸、煙草一服|喫《す》う間もありません。私は大急ぎで追っ駆けたんですから」
「江島屋のすぐ前でやったのは恐ろしい知恵だ」
平次は何を考えたか、その辺の路地を二つ三つ覗《のぞ》いてもう先へ進もうとしません。
「ここで千両箱の中の小判を砂利に詰め替えたというんですかい、親分」
太兵衛はムッとした様子です。
「……」
「そんな暇はありゃしません。私は馬から十間とも遅れなかったんだ」
「……」
平次はしかしそれには応えようともしません。
「親分」
ガラッ八は平次の顔に動く表情から、事の重大さを読みました。
「十一屋へ行ってみよう、多分駄目だろうが」
と平次。
三人は飛脚屋の十一屋へ取って返しました。
「親方、三次は? 昨夜から帰らないだろう」
飛込んだ平次。
「酔っ払って帰りましたが、今朝はまだ起きて来ませんよ。ゆうべ勝負事で更《ふ》かしたようで」
「大急ぎで逢いたい。その寝ているところへ案内してくれ」
「へエ――」
十一屋の親分は不承不承に立上がりました。三人を案内して、厩《うまや》の後ろへ廻ると、そこは中二階になって、三次の万年床が筵《むしろ》の陰に敷いてあります。
「三次、もう辰刻《いつつ》〔八時〕だぜ、起きろ、――銭形の親分が、手前に逢いてえとよ」
ヒョイと筵をかかげた親方。
「あッ」
一ペンにのけぞりました。
「何だ何だ」
覗けば、馬方の三次、飼糧切《かいばき》りの中に首を突っ込んだまま、紅に染んで死んでいたのです。
「親分、こりゃ大変なことになりましたね」
「こんな事だろうと思ったよ」
忙しく死骸を起しましたが、頸《くび》を半分切落されて、冷たくなった三次から、何にも手繰《たぐ》りようはありません。
「こんな腕節の強い野郎の首を、飼糧切りに押し込むなんて、人間業じゃありませんぜ」
舌を巻くのは親方です。
「酔っていたんだろう。着物は泥だらけだ――」
「そう言えば、馬鹿に当ったとか言って、フラフラしながら帰って来たようだが――」
解ったのはそれだけ、そこいら中を捜してみると、小判が一枚小粒が二つ三つ落散っていましたが、それが多分三次の命を奪った餌の残りでしょう。
「行こう、八、今度は品川だ」
平次は切り上げて、白日の中へ飛出しました。
六
品川の大黒屋へ行って、ゆうべ家を開けた者はないか――と訊いてみると、主人常右衛門始め、手代の千代松も、その他の奉公人も、宵から湿《しめ》っぽく引き籠って、一人も出た者はないとわかりました。
「お関さんにちょいと逢いたいが」
平次は最後の切札を出すより外に工夫はありません。
「親分さん、御用は?」
美しいが、おどおどするお関、その顔をジッと見ました。
「お関、――人間が一人殺されたよ。――この縁談を打ち壊してくれ――、と、誰に頼んだ」
「……」
「言ってくれ、――三千両の大金は、人一人を気違いにする。――早く言ってくれなきゃ、この上とも騒ぎが大きくなるぜ」
平次は、事件の火元をお関と見たのです。これほどの美しい娘が、涙ながらに頼んだとしたら、どんな恐ろしい事が起るか、よく解るような気がしたのです。
「私は何にも存じません、親分さん」
お関の眼の清らかさ。
「それは本当か」
平次の当惑さは一と通りではありません。
「親分、千代松を当ってみましょう」
ガラッ八は口を出しました。
「いや、千代松にこれ程のことは出来ない」
平次は頸を捻《ひね》っております。
「それじゃ、これだけ聞かしてくれ、――一昨日《おととい》のあの時刻に、三千両の結納が馬で来るのを知っていたのは誰と誰だ」
「それなら申上げられます、父さんと千代松と」
「それから」
「あとは奉公人達も知りません」
「若しや、お隣の浪人には話さなかったか」
「長谷倉《はせくら》様には、ご心配して頂いて、ツイ愚痴《ぐち》を申しました」
「有難う、それくらいでよかろう」
平次はお関に別れて外へ出ると、そっと店の小僧を物陰に呼び出しました。
「小僧さん、昨夜お隣の御浪人のところに素読の稽古があったかい」
「夜は休んだようですよ、頭痛がするとか言って」
「そうだろう、頭痛のするような晩だったよ」
平次はガラッ八を眼でさし招くと、
「八、いいか、今度は命がけだよ」
そっと囁きます。
「何をやらかすんで」
「俺と一緒に来るがいい」
真っ直ぐに入ったのは、いうまでもなくお隣の浪人者、長谷倉甚六郎の門口です。
「御免」
「ドーレ」
破れた障子を開けて、狭い土間へ顔を出したのは、主人長谷倉甚六郎自身でした。もっとも天にも地にもたった一人暮し、取次も、主人も兼帯《けんたい》の貧乏浪人でもあったのです。
「長谷倉さん、少し殺生が過ぎましたネ」
平次はズバリと言って退けました。
「な、何を申す」
「三千両はお関さんが可哀想だから隠したのでしょう。それはわかりますよ。江島屋の馬鹿息子へ、あの娘をやるくらいなら、|あっし《ヽヽヽ》だって馬子《まご》を脅《おど》かして、同じ鹿毛《かげ》馬を仕立てさせ砂利を詰めた千両箱を背負わせて、天神下の角でアッいう間に入れ換えるくらいの芸当はやりますよ」
平次は遠慮もなくまくし立てます。
「無礼者ッ、何を言うのだ」
「脅かしっこなしに願いましょう。――額に古傷を描いて、番頭の太兵衛に道を訊き、ちょいと馬から遅らせたのは旦那の前《めえ》だが、大した働きだ」
「黙れッ、無礼者ッ」
「だが、三次を殺したのはやり過ぎですよ。旦那、人の命さえ取らなきア、この平次は眼をつぶってあげたのに」
「己《おの》れッ」
何時の間に抜いたか、長谷倉甚六郎の手に閃《ひら》めく一刀、平次の肩先へ電光の如く浴びせるのを、引っ外して懐へ入った右手、それが颯《さっ》と挙がると、得意の投げ銭、七八枚の四文銭が、続けざまに飛んで、――二つ三つは除《よ》けましたが、幾つ目かは甚六郎の額を打ち、顎《あご》をうち、肘《ひじ》を打ちます。
「御用ッ」
「神妙にせいッ」
平次の袖の下を掻いくぐって飛込む八五郎、その鼻の先へ白刃がスーッと靡《なび》くと、上り框《がまち》の破れ障子はピシリと閉じられました。
「八、抜かるな」
「合点」
飛込む二人。が、一歩遅れました。長谷倉甚六郎は、入口の二畳に大胡座《おおあぐら》をかくと、肌おしひろげて一刀をわれとわが腹に突っ立てていたのでした。
七
「気の毒なことに、お関を助けるつもりでやった細工だ。最初はたいした悪気《わるぎ》がなかったろう」
「……」
平次は長谷倉甚六郎の死体を片手拝みに、湿《しめ》っぽくこう言うのでした。
「そのうちに、あんまり器用に三千両を隠したので、これほどの人も出た。――お関の嫁入りを邪魔するつもりで隠した三千両だが、あんまり自分の知恵が逞《たく》ましかったので、ツイ三千両を隠しおおせる気になった。馬子の三次を眠らせさえすれば、誰知る者もあるまいと思ったのが間違い――」
「もう一人、代りの馬を曳いて天神下で待っていた相棒があったはずじゃありませんか」
「それは多分、かなりの金をもらって、その晩のうちに遠方へ逃げてしまったろう。三次は江戸の酒と女と賽《さい》ころに引かされて踏み止まったばかりに飼糧切《かいばきり》の中へ首を突っ込まれた」
平次の明察に曇りはありません。
が、三千両の金の隠し場所は、死んだ長谷倉甚六郎の口からでも聞かなければ、容易に解りそうもなかったのです。
甚六郎の浪宅は、ほんの二た間、嘗《な》めるように捜しましたが、三千両は愚《おろ》か、三両の貯《たくわ》えもありません。
「こいつは驚いた。三千両はどこへ消えたんだ」
ガラッ八は根気よく見て廻りますが、日が暮れるまで見付かりません。
そのうちに検屍も済み、隣の大黒屋の主人や、日頃娘のように可愛がってもらったお関も来ました。死体の始末をして、鉦《かね》と燭台を出す積りで小さい仏壇を開けると、中には金色|燦爛《さんらん》たる豪華な仏壇が一パイ。
「おや、これは、私の家の物置に預ってある品だが――」
常右衛門の顔は不思議でした。
「それはどういうわけで?」
「長谷倉さんは昔は大した御身分で、お国許では大きな仏壇を持っておられたが、浪々の身ではそんな仏壇を裏長屋に置くわけにも行かないと仰しゃって、大きな茶箱に仏具を一パイ詰め、お位牌、燭台一つ、香炉《こうろ》一つ残したあとは、皆な私の家の物置に預けて置きましたよ」
「成程、その物置にあるはずの仏具がこの家の仏壇へ一パイ詰っているのが不思議だというわけだね」
「へエ――」
話はそれっ切りでしたが、通夜僧《つやそう》が来て読経が済むと、
「御主人、一寸」
平次は常右衛門を呼び出しました。
「へエ、――何か御用で」
けげんな顔をする常右衛門とガラッ八に提灯《ちょうちん》の用意をさせて、つれ込んだのは、大黒屋の物置、砂利を詰めた千両箱が三つ、浅ましく投り出された中に三人は立ちました。
「自分の家でないとすると、大黒屋に隠すのが一番確かだ。長谷倉という浪人は知恵者だね」
「へエ――?」
平次の言葉は謎のようです。
「長谷倉甚六郎から預《あず》かったという、仏具の箱は?」
「あれですよ、親分」
主人の指した茶箱、簡単に掛った縄を払って開けると、中には千両箱が三つ、蓋《ふた》を開くと、三千枚の小判が、燦《さん》として灯の下に光ります。
「あッ」
常右衛門とガラッ八は、思わず声を呑みました。
「御主人、この金は江島屋へ返すがいい。三千両で売っちゃお関さんが可哀想だ、――千代松は婿にして不足はない男だ。――借金は働けば返せるだろう。無法な利息は、お上《かみ》へ届け出て、何とかしてもらえるだろう」
平次は小判の光と、驚き呆れる常右衛門の顔を見比《みくら》べながら、沁々《しみじみ》とこう言うのでした。
十手の道
一
「親分、このお二人に訊いて下さい」
いけそんざいなガラッ八の八五郎が、精いっぱい丁寧に案内して来たのは、武家風の女が二人。
「私は加世《かよ》と申します。肥前島原の|高力左近《こうりきさこん》太夫《だゆう》様御家中、志賀|玄蕃《げんば》、|同苗《どうみょう》|内匠《たくみ》の母でございます。これは次男内匠の嫁、関と申します」
六十近い品の良い老女が、身分柄も忘れて岡っ引風情の平次にていねいな挨拶です。
後ろに慎《つつ》ましく控えたのは、二十二三の内儀、白粉も紅も抜きにして少し世帯崩《しょたいくず》れのした、――若くて派手ではありませんが、さすがの平次もしばら見惚れたほどの美しい女でした。
「承わりましょうか。私は町方の岡っ引きで御武家の内緒事《ないしょごと》に立ち入ることは出来ませんが、八五郎から聴くと、たいそう御気の毒な御身分だそうで――」
平次は静かに老女に話を導きました。
肥前島原の城主高力左近太夫高長は、かつて三河三奉行の一人、仏高力《ほとけこうりき》と呼ばれた河内守清長の曾孫で、島原の乱後、ねきんでて鎮撫《ちんぶ》の大任を命ぜられ、三万七千石の大祿を食《は》みましたが、『その性狂暴、奢侈《しゃし》に長じ、非分の課役をかけて農民を苦しめ、家士を虐待《ぎゃくたい》し、天草の特産なる鯨油《げいゆ》を安値に買上げて暴利を貪《むさ》ぼり』と物の本に書き伝えてあるとおり、典型的な暴君で、百姓|怨嗟《えんさ》の的となって居るのでした。
「倅玄蕃はそれを諌《いさ》め、主君の御憤《おんいきどお》りに触れてお手討になりました。それも致し方はございませんが、こんどは次男内匠の嫁、これなる関に無体《むたい》のことを申し、世にあるまじき御仕打が重なります。あまりの事に我慢なり兼ね、倅に勧めて主家を退転、明神裏に浪宅を構え、世の成行く様を見て居りましたところ――」
老女はここまで話すと、襲われたように、ゴクリと固唾《かたず》を呑みます。
「御次男内匠様が二三日前から行方知れずになった――とこう仰しゃるのでしょう」
平次はもどかしそうに、八五郎から聴かされた筋を先潜りしました。
「左様でございます。元の御朋輩衆《ごほうばいしゅう》川上源左衛門、治太夫御兄弟に誘われ、沖釣りに行くと申して出たっきり戻りません」
「川上とやらいう方に、お訊ねになったことでしょうな」
「翌る日すぐ、西久保屋敷まで参り、川上様にお目にかかり、根ほり葉ほり伺いましたところ、倅は腹痛がするから帰ると言って、船へも乗らずに、芝浜の船宿で別れたっきり、その後のことは何にも知らないという口上でございます」
「……」
「釣《つり》に誘っておいて、どこへ連れ出したことやら――、川上様御兄弟は、殿の御覚えもめでたく、日頃は倅と口をきいた事もないような方でございます。それが、浪々の身になった倅を誘って、釣に行くというのからして腑に落ちません、――大方《おおかた》?」
「――大方?」
「お屋敷につれ込まれて、御成敗――を」
「あれ、母上様」
言ってはならぬ事を言った加世は、娘のお関に袖を引かれて、そっと襟をかき合せます。
「日頃お憎しみの重なる倅、どんな事になるやら、心配でなりません。――その上、殿様には、二三日中に江戸御発足、御帰国と承わりました。せめてその前に倅の安否だけでも知りたいと思い、嫁と二人、三日二た晩、夜の目も寝ずに心配いたしましたが、年寄りや女では、何の思案も手段《てだて》もございません」
「……」
「倅内匠は、今となっては志賀家の一粒種、その命を助けたいばかりに、主家を退転いたしました。それもみな無駄になりました」
老女は涙こそ流しておりましたが、母性の権化の様な、強大な意思の持主でした。主家を退転して三万七千石の大名に楯突《たてつ》いてまでも、志賀家の血筋を護り通そうとするのでしょう。
「お屋敷へ申し出でましたところ、剛直《まっすぐ》な方は斬られ黜《しりぞ》けられ、残るは弁佞《べんねい》の者ばかり。私風情の訴訟を、真面目に取次いでくれる方もございません。幸い浪宅の家主が、八五郎殿のお知合いと申すことで、不躾《ぶしつけ》ながらその縁にお願いに参りました。倅が何処にどうして居りますことやら、せめてその様子だけでも知りとうございます」
気丈らしい老母加世も、打ち明けて話した気の緩《ゆる》みに、畳の上に双手《もろて》を突いたまま、ポロポロと涙をこぼすのです。
「……」
平次は黙って腕を拱《こまぬ》きました。岡っ引が飛び出すにしては、少々相手が悪かったのです。
「君|御馬前《ごばぜん》に討死するとか、武士の意気地で死ぬことなら、私は嘆きも怨みもいたしません。兄|玄蕃《げんば》を殿様御手に掛けられた上、弟内匠まで――配偶《つれあい》のことで斬られるようなことになっては、志賀家代々の御先祖にも相済みません」
こう言う老女の背後《うしろ》に、お関は消えも入りたい風情でした。三万七千石を賭けた美しさが、どんなにやつしても隠し切れないのを、平次は世にも不思議な因縁事のようにみて居たのです。
「私共の掛け合う事じゃございませんが、お話を承わった上は、お気の毒で見ぬ振りもなりません。どんな事になるかは解りませんが、とにかく一応当ってみましょう。内匠様とやらがまだ御無事でいらっしゃれば、――事と次第によっちゃ、何とかならないこともないでしょう」
平次はツイこんな取返しの付かぬ事を言ってしまったのでした。唯の二本差でさえ手の付けようのない岡っ引き風情が、大名を相手に、いったい何をしようと言うのでしょう。
「それでは平次殿、お願い申します」
いそいそと立上がる女二人。
「何かの心得に伺っておきますが、内匠様、御年輩、御様子は?」
「取って二十七、細面《ほそおもて》の、髯《ひげ》の跡の青い、――そうそう、主君左近太夫様によく似て居ると申されます」
高力藩第一の美男――とは、さすがに母の口から言いません。が、何かしら平次は、そんなものを感じました。
二
「八、大変なものを引っ張って来やがったな」
女二人を路地の外に見送って、平次は苦い顔をしました。
「そう言わずに、何とかしてやって下さいよ、親分。志賀内匠というお武家は、まだ年は若いが、それはよく出来た方だ、それにあのお内儀が――」
「綺麗だから一と肌脱いでくれは厭だよ。俺はそんなさもしい料簡方は大嫌いだ」
「そんな気障《きざ》なことは言いやしません。綺麗なのは皮一重だが、あの内儀は心の底からの貞女だ」
「大層|悟《さと》りやがったな、八」
「へッへッ、先ずざっとこんなもんで」
「巫山戯《ふざけ》るなよ、馬鹿野郎。菊石《あばた》で眇目《すがめ》だった日にゃ、貞女だって石塔だって、担ぐ気になる手前《てめえ》じゃあるめえ」
「先ずそんなところで」
「呆れた野郎だ」
そんな事を言いながらも、平次は手早く支度をして、あまり近くもない西久保へ出向きました。
高力左近太夫は、若くて無法で、界隈でもさんざんの評判でした。春参府の折も、松平大膳太夫の領内|防州小郡《ぼうしゅうおごおり》の湊《みなと》から上陸し萩城を一覧する所存で、一の坂を越え、蟹坂《かにざか》までノコノコやって行ったところを毛利の家中に発見され、生捕って江戸表へ訴え出、何彼の下知を待とうと犇《ひし》めかれて、あわてて元の小郡から海へ逃げ出した例があります。
その道、どんな料簡か、芸州《うんしゅう》広島城も見る積りでしたが、浅野の家中に騒がれてこれも果さず、散々の体で江戸表へたどり着いたという、馬鹿馬鹿しい経験を持っている左近太夫だったのです。
つづいて今度の帰国、瀬戸内海は船で通すにしても、芸州と防州の沖を、無事には通れまい――と言った蜚語《ひご》流説が、早耳のガラッ八を通して、平次の耳へも聴こえて来ました。
「これは面白くなりそうだ。――相手は悪いが、一番川上何とかいう武家に逢ってみようか」
いろいろの噂をかき集めて、高力左近太夫その人の概念《がいねん》と島原藩の空気を呑込むと、平次は恐れる色もなく、西久保上屋敷御長屋に、用人川上源左衛門を訪ねました。
「御免下さい」
「ドーレ」
「旦那様お出ででございましょうか。|あっし《ヽヽヽ》は神田の平次と申して、町方の御用を承わっている者でございます。ちょいとお教えを願いたいことがございますが、へエ」
平次はそう言いながら、日頃にもない強《したた》かな顔を挙げるのでした。
「何? 神田の平次だ? 町方の岡っ引きなどにお目にかかる旦那ではない、帰れ帰れ」
取次の小者は、肩肘張って入口を塞ぎながら、精いっぱいの威嚇《いかく》的な声を出します。
「御もっともで、強《た》ってとは申しませんが、それじゃあ、これだけの事を申し上げて下さい。此方《こちら》の旦那様と一緒に沖釣りに行ったはずの、志賀内匠様の死骸が、百本|杭《ぐい》から揚がったと――」
「何?」
「品川沖から、死骸が大川を遡上《さかのぼ》るのは、どうも面白くないことだと申上げて下さい、ハイ、左様なら」
「あ、これこれ待て」
後ろから呼止めたのは、中年の立派な武士――多分これが主人の川上源左衛門でしょう。
「へエ、へエ」
「今聞いていると、志賀内匠氏の死骸が、百本杭から揚ったとか言うようだが、それは何かの間違いではないか」
「間違いじゃございません。母親のお加世様とお配偶《つれあい》の関様が御覧になって、たしかに内匠様に相違ないと仰しゃるのですから」
「そんな馬鹿なッ」
川上源左衛門は噛んで吐き出すようでした。
「その上死骸には刀傷がございます。人に害《あや》められたとなると、捨て置くわけには参りません」
「……」
「下手人を捜し出して、縛るのが手前どもの仕事でございます」
「すると拙者が怪しいとでも言うのか」
川上源左衛門は少し開き直りました。
「とんでもない」
「なら、とっとと帰れ、――拙者は何も知らぬ。町方の岡っ引風情が、武士に向って、詮索《せんさく》がましい事を申すのは無礼であろう」
ピシリと真っ向から、一本きめつけて置いて、川上源左衛門は戸口の障子を閉め切ろうとするのです。
「ちょいとお待ちを願います。――|あっし《ヽヽヽ》は詮索がましい事を申すために参ったのではございませんが、志賀内匠様は御浪人とは申せ、ついこの春までは当家の御家中で、旦那と一緒に沖釣りに出かけたっきり、行方不明となった方でございます。町方では探索の手が届かなければ、その旨御奉行から、大目付へ申し達し、竜の口評定所へ、改めて御家老なり御用人なりを、出頭して頂く術《すべ》もごさいます」
「これこれ何を申すのだ、馬鹿馬鹿しい。当家を退転した者の詮索に、目付衆を竜の口評定所までお引合いに出す奴があるものか」
川上源左衛門も少しあわてました。何か痛い尻がありそうでもあります。
「いたし方ございません、では御免」
「困った奴だ、――俺が知っていることは何でも教えてやろう、少し落着いて話すがよい。第一、志賀内匠|氏《うじ》は死んでいないのだ」
「それは本当でございますか、川上様」
「いや、死ぬようなことはあるまい、と言うのだよ。芝浜《しばはま》の高砂屋で別れて、帰ったことは確かだが――」
川上源左衛門は、少しあわて気味に訂正しましたが、うっかり滑《すべ》った口は、取り返しが付きません。
「死んだはずはないと仰しゃれば、ただ今どこにいらっしゃるのでございます」
「それは知らぬ」
「では、死んだか、生きているか、御存じないはずで」
「揚足《あげあし》を取るな、困った奴だ」
「揚足を取るわけじゃございませんが、百本杭から揚った死骸の始末をつけないわけには参りません」
「それは志賀内匠氏でないと言ったら、それでいいではないか」
「その内匠様は、どこにいらっしゃるので?」
「くどいッ」
川上源左衛門は本当に腹を立てた様子で、平次とガラッ八を睨め廻しながら、後ろ手を伸して、上り框《がまち》に置いた長いのを引寄せます。
「親分」
八五郎は後ろからそっと平次の袖を引きました。この上からかって居ると、どんな事になるかもわかりません。
三
「あれが弟の治太夫《じだゆう》かい」
「大丈夫、間違えるような人相じゃありません」
平次とガラッ八は、高力家の内外《うちそと》の様子を探りながら川上源左衛門の弟治太夫の帰りを待って居たのでした。
「また、百本杭の死骸を持出すんでしょう」
「シッ、一世一代の大嘘《おおうそ》だ。手前《てめえ》は神妙な顔して引込んで居ろ」
「へエ」
そのうちに近づいて来たのは、三十五、六の獰猛《どうもう》な武家、私欲と争気《そうき》をねり固めたような男ですが、その代りお国侍らしい単純さも、どこかに匂います。
「川上様、結構なお天気でございます」
「お前は何だ?」
こう言った治太夫の人柄でした。平次の前に立止って、ジロジロと舐《な》めるように睨《ね》め廻します。
「この間は品川へ釣りにいらっしゃいましたな。三日前、今日のような良い天気でした。兄上様と、志賀内匠様と」
「何を言う」
「品川でお見かけ申しましたよ。寿屋《ことぶきや》で志賀内匠様は、お腹が痛いと仰しゃって――」
「あ、あの事か、なるほど行った。――確かに行ったよ、品川で舟を出そうという時、志賀氏は急に腹が痛いと言い出してな」
「その志賀様の死骸が、百本杭から揚ったことを御存じでしょうな」
「何と言う?」
「肩先を斬られて、無慙《むざん》な御最期でございました」
「とんでもない、そんなわけはないぞ」
「でも、親御様やお配偶《つれあい》が御覧になって――」
平次はまた同じことをくり返すのでした。
「馬鹿なこと、志賀内匠はピンピンして居るぞ、そいつは人違いだ」
「でも旦那」
「うるさい奴だ」
治太夫は袖を払って門の中に入ってしまいました。
「親分」
「八」
平次とガラッ八は、その後ろ姿を見送って、何やらうなずき合います。
「本当に生きているでしょうね」
「大丈夫だ、が――、何のために誘い出したか、それが知りたい」
「手討にするためじゃありませんか」
「いや、それほど憎い内匠を、三日も放っておくわけはない」
「……」
それ以上は想像も及びません。
平次とガラッ八は根気よく人の噂を集めつづけました。屋敷のうちに、何となく不思議な緊張があるのは、四五日のうちに、主君左近太夫が、所領の島原へ帰るためばかりとは受取れなかったのです。
平次は其処からすぐ八丁堀へ飛んで行って、笹野新三郎の口から町奉行を動かし、大目付に捜りの手を入れました。
「判ったよ、八」
平次がそう言ったのは、それから二日目。
「何が判ったんで? 親分」
「高力家の物々しい様子が変だと思ったら、こんどのお国入りが大変なんだ」
「へエ――」
「この春参府の時、一と手柄を立てて、公儀の不評判を取繕《とりつくろ》うつもりで、左近太夫様は萩と広島に上陸して、毛利《もうり》と浅野の居城の縄張りから防備の様子を見、毛利と浅野の家中に騒がれたことはお前も知ってるとおりだ」
「へエ――」
「そんな事は手柄にも功名にもならないが、毛利と浅野にはうんと憎まれた。こんどの御帰国も、防州芸州は無事では通られない」
「なる程ね」
「ところで高力左近太夫様は今年二十七、細面で髯《ひげ》の跡《あと》青々とした、ちょっと良い男だ」
「へエ――」
「志賀内匠というお武家は、殿様によく似て居ると――外ならぬ母親が言ったのを手前《てめえ》覚えているだろうな」
「へエ――」
「謎は解けたろう。志賀内匠はなぜ行方不知《ゆくえしれず》になったか」
「へエ――」
「まだ判らないのかい」
「へエ――」
「呆れた野郎だ。それで十手捕縄をお預りしちゃ済むめえ」
「へエ」
「高力左近太夫様が、高力左近太夫様で道中をしては、毛利と浅野の家来につけ狙われて危ないが、参勤交代《さんきんこうたい》の大名が、逃げも隠れもするわけに行かねえ」
「成程ね」
「そこで、殿様に似ている志賀内匠をおびき出し、脅《おど》かしたか、宥《なだ》めたか、とにかく殿様の身代りになって本街道を島原へ練らせ、真物の左近太夫様は、お忍びで、蔵宿の船か何かで、そっと帰ろうという術《て》だ」
「読めたッ、――それに違《ちげ》えねえ、親分」
「今ごろ読めたって自慢にはならねえ」
「太てえ殿様野郎だ。これから踏込んで、三万七千石の家中を引っくり返し、人身御供《ひとみごくう》にあがる志賀内匠というお武家を救い出して来ましょう。親分」
ガラッ八は本当に、三万七千石の大名を向うに廻して、一と汗掻く気で居るのでしょう。拳固に息を吹きかけたり、腕をさすったり、懐の十手を取り出したり、一生懸命の姿でした。
「大層な勢いだが、向うへ乗込んでどうする積りだ」
「殿様――と言いてえが、用人か家老の首根っこを抑えて、志賀内匠様を救い出す」
「証拠があるかい」
「……?」
「志賀内匠という方が、釣り等に行かなかったという証拠があるかい――その上西久保の屋敷に隠されているという――」
「親分」
ガラッ八は助け舟の欲しそうな顔でした。
「川上源左衛門と治太夫の口が違う、それが何よりの証拠だ。源左衛門は芝浜の高砂《たかさご》で別れたと言ったが、治太夫はこっちの罠《わな》に乗って、品川の寿屋《ことぶきや》で別れたと言った」
「成アる」
「まだあるが、言うと手前が飛び出しそうにするから、預っておこう、――志賀内匠という方の命には別条あるまい、もう少し様子を見るがいい」
「へエ――」
相手は大名、平次もこれ以上は手の下しようがありません。しばらく見ぬふりをしているうちに、志賀内匠は、高力左近太夫の身代りになって、九州島原まで、危険な旅に上ることでしょう。
四
その日の夕刻、志賀|内匠《たくみ》の妻のお関は、今度はたった一人で平次の家へ訪ねて来ました。
「このようなものが参りました。御覧下さいまし」
差し出したのは、半切《はんせつ》をキリキリと畳んだ手紙、文面は、
拙者は無事でさるところに隠れている、母上様は何彼《なにかれ》とお気を揉《も》まれることであろうが、そもじの力で、よく理解の行くように、お慰め申し上げてくれ。また逢う折はあるかないか解らぬが、万一用事のある節は、西久保上御屋敷門番左五兵衛に頼むがよい。但し、母上には申し上げぬ方がよかろうと思う。私が死んだと思い誤って、気を揉む様子だから、無理の都合をして、この手紙を届ける、云々
こんな事が、達者な手で細々と書いてあったのです。
「これは間違いもなく、内匠様御筆跡でしょうな」
「確かに、主人の書いたものでございます」
お関はうなずきます。
「主家を退転なすったのは、御主人様のお心持で?」
「いえ、母上様の思召しでございました。兄上玄蕃様御手討になった上は、退《しりぞ》いて志賀家の跡を絶やさないのが祖先への孝行と申しまして」
「なるほど、内匠様はそのおつもりでなかったと仰しゃる」
「ハイ」
母性の本能と、臣節との矛盾《むじゅん》に、母の加世と、夫の内匠がどんなに争ったことでしょう。そう言いながらも、お関は美しい顔を曇らせました。
ガラッ八はその間にも、横の方から首を伸べ加減に、お関の美しさを満喫して居ります。巨大な真珠に美人像を刻《きざ》んで、その中に霊の焔を点じたら、あるいはこんな見事なものが出来るかも知れません。愛も情熱も、叡智《えいち》の羽二重に押し包んで、冷たく静かに取りなしたら、これに似た美しい人形が出来るでしょうか。
それも併し、この上もなく質朴で地味な単衣《ひとえ》に包んで、化粧さえも忘れた、お関の底光りのする美しさには比ぶべくもありません。
高力左近太夫が、三万七千石と釣替にしかねまじきお関の美しさ、ガラッ八が物も言わずに眺め入ったのも無理のないことでした。
「何もかも、内匠様御承知の上で運んだことでしょう。しばらく様子を見るといたしましょうか」
「ハイ」
お関は悲しそうでした。が、夫内匠の意志でしたことと判っては、どうすることも出来ません。しばらく経って、淋しく帰って行くお関の姿を、平次の女房のお静までが見送ったのです。
「お気の毒な、――何とかしてあげられないものでしょうか」
お静は睫毛《まつげ》を濡らして居りました。
「武家方のすることは、こちとらにゃ解らねえ、まアまア放って置くことだ」
「でも、親分」
八五郎は膝を乗出します。
「手前《てめえ》の顔は、お内儀へ食い付きそうだったぜ、――高力左近様より、手近にもっと怖い狂犬《やまいぬ》がいると言ってやりたかったが、止したよ」
「親分」
「まア、腹を立てるな、女の顔を、穴のあくほど見る奴の方が悪いんだから」
平次は何もかも忘れてしまったように、ブラリと町内の銭湯へ行って来て、珍らしくお静に一本つけさせました。さすがに十手も捕縄《とりなわ》も及ばない世界に踏込んで、抜き差しならぬムシャクシャした心を持ち扱ったのでしょう。
その晩。
「平次殿、嫁は見えませんでしたか」
あわてた姿で飛び込んで来たのは、志賀内匠の母親加世でした。
「夕刻ちょいと見えましたが、――どうかしましたか」
「夕方いちど出て帰って、それから、夕食後にまた出かけましたが――」
「はて?」
「何か使走りの男が、手紙のようなものを持って来たようですが、それを見ると急にソワソワして、私の言葉も上《うわ》の空《そら》に飛び出してしまいました。
「それは何刻ごろのことで?」
「酉刻半《むつはん》〔七時〕少し廻った時分と思いますが」
「……」
平次は眉を顰《ひそ》めました。酉刻半に来た手紙というと、夕刻平次に見せたのとは違うはずです。
「どうしたことでございましょう、万一嫁の身の上にまで」
加世は自分の胸を抱くのです。武家の年寄りらしくない、飾りっ気のない愛憎《あいぞう》を、平次はこの老女から感ずるのでした。
「ともかく、こうしちゃ居られない、行ってみましょう」
「どこへ? 親分」
「当てはないが――多分西久保の辺だろうよ」
老女をお静に預けたまま、平次とガラッ八は、初夏の江戸の街を、一気に西久保へ飛びました。
五
翌る日の朝、何の収穫もなく八丁堀まで引き揚げた平次は〔目黒川に若い女の死骸が浮いた、――若くて滅法《めっぽう》綺麗な女だが、首を半分斬られて、茣蓙《ござ》で包まれている――〕と聴くと、もういちど八五郎を促《うなが》して、目黒まで駆け付けたのです。
「これは大変な弥次馬だ」
目黒川の土手を真黒に埋めた人垣を見ると、平次の義憤は燃え上がります。若くて綺麗な女の死骸と聞くと、猫も杓子《しゃくし》も飛び出したのでしょう。
「退《ど》いた退いた、見世物じゃねえ、そんなものを見ると祟《たた》られるぞ、畜生ッ」
八五郎が大声でわめきながら、追い散らす人垣の中を、一と目、
「あッ」
平次は仰天しました。
燦《さん》として降りそそぐ五月の陽の下、土手の若草の上におっ転《ころ》がされたのは、真っ白な美女の肉体、振り乱した髪をかき上げてやるまでもなく、死もまた奪うことのできない抜群の美しさは、ゆうべ神田の家を飛び出したはずの、志賀内匠の妻お関の浅ましい姿でなくて誰でしょう。
「親分」
「やはり、思ったとおりだ」
平次は死骸の裾口《すそぐち》や胸を直してやりながら、片手拝みの手をそのまま指して、八五郎のおどろく顔を迎えます。
「あ、お内儀。何てことしやがるんだろう」
ガラッ八も眼をしばたたきました。美しい人の死は、あまりにも残酷で、二目とは見られません。
「銭形の親分、この仏様を知って居なさるのかい」
横合いから顔を出したのは、土地の御用聞、目黒の与吉という中年者でした。
「知って居るどころじゃねえ、昨夜から行方を探していたのさ。神田明神様裏の、志賀|内匠《たくみ》という浪人のお内儀だ」
「へエ――ひどい事になったものだね、いずれは情事《いろごと》の怨みだろう、――だから美《い》い女には生れたくないな」
与吉はそう言って、死骸の首のあたりを指すのです。
美女の頸筋《くびすじ》は後ろから、二太刀三太刀斬られておりますが、刃物がなまくらなのか、腕が鈍《にぶ》いのか、とうとう切り落しかねたままで、その上不思議なことに両掌《りょうて》をしかと、胸の上に組み合わせて居るではありませんか。
「念の入った下手人だね、殺した上に合掌までさせて」
与吉はその死骸の合せた掌《てのひら》を指します。
「死んでから組ませては、こう爪《つめ》が喰い入るほど固くはなるまい。――生きてるうちに、覚悟の掌を合せて首を切られたのだろう」
平次は死骸の指に触って、首を垂れました。
「覚悟の上というと?」
与吉の不審にも構わず、平次はなおも、帯の間、袂《たもと》の中、前も、後ろも念入りに見ましたが、紙片一つ持っては居ません。
「親分、大変なものに包んであるんだね」
ガラッ八は、死骸をつつんだ茣蓙《ござ》に気がつきました。
「備後表《びんごおもて》だ」
荒莚《あらむしろ》でもあることか、死骸を包んだのは真新しい備後表、縛った縄は、荷造用のたくましい麻縄です。
「解るか、八」
「へエ――」
「覚悟の上の御手討だ。家来の腕利《うでき》きにやらせたのでない証拠は、この切口の乱暴な様子で解るだろう。据物斬《すえものぎり》の腕がなきゃ人間の首は切れねえ」
「……」
「奥座敷か奥庭で斬ったから、荒筵でも菰《こも》でもない、大納戸《おおなんど》にでも入っている畳表に包み、荷造の麻縄で縛って、不浄門《ふじょうもん》から持ち出させたのさ」
「……」
「殿様の無体の折檻《せっかん》、女はいう事を聴かずに死んだ――可哀想に」
平次はもういちど美女の死骸に首を垂れるのです。
「でも、西久保からここまでじゃ大変ですぜ、親分」
「此処にお下屋敷があるだろう、訊いてみな」
「なーる」
ガラッ八は横手を打つとすぐ飛び出しました。目黒の与吉は、何が何やら解らない様子で、ぼんやり二人の話を聴いておりましたが、気がつくと沽券《こけん》に拘《かか》わると思ったものか、
「寄るな寄るな、見せ物じゃねえ」
急に弥次馬の方へ向いて精いっぱいの塩辛声《しおからごえ》を張り上げます。
六
門番の左五兵衛を呼び出すのに一ト骨を折った上、その口を開かせるのに、老母加世は、貯《たくわ》えの半分を投げ出さなければなりませんでした。
「一と目、たった一と目、倅に逢わせて下さい。この望みが叶《かな》った上は、その場でこの私の命を取っても怨みません」
加世の嘆きは深刻でした。
「それじゃこうしましょう。志賀様には御先代から並々ならぬお世話になった私です。その恩返しのつもりで、お長屋の格子へ、今夜|子刻《ここのつ》〔十二時〕を合図に、内匠様にお顔だけでも出すように申しましょう」
「有難う、御恩にきます」
加世はそれを聞くと、手を合せて、門番を拝むのでした。
「お長屋の窓は、門から数えて右へ四つ目、九つの増上寺の鐘が合図でございますよ」
格子を隔《へだ》てて、――母子の最後の別れになるかも知れませんが、それでも、母親に取っては、せめてもの慰めでした。
約束の子刻《ここのつ》――。
加世は平次と八五郎につれられて、西久保高力家上屋敷の門の外に忍び寄りました。
明日は殿様江戸表出立という騒ぎ、邸内は宵までごった返して、亥刻《よつ》半〔十一時〕頃からは、その反動でピタリと鎮《しず》まります。夜廻りの通ったのは正九つ、その跫音《あしおと》が遠のくのを合図のように、お長屋の四番目の窓の障子が、内から静かに開きました。
「お、内匠」
「母上」
二人は飛び付きました。が、黒塗《くろぬり》の巖乗な格子を隔てた上、格子の外には四尺あまりの溝があって、それより先へは進むこともなりません。
「殿様の身代りになって、危ない旅に出られるというのは、それは、嘘だろうね、内匠」
「いえ、母上」
「そのような事は、この母が許しません。高力家を退転したお前に、何の義理がありましょう、それはなりませんよ」
加世は溝も越え、格子も突き破って、なろう事なら、倅をここから引き出したい様子ですが、内匠はその気組を避けるように、心もち格子から離れました。
「母上、お家を退転したのは、私の本心ではございません。何と申しても、高力家は、三代相恩の御主」
「いえいえ三代相恩でも、兄玄蕃が手討になり、嫁の関まで殺されました」
「えッ」
「この上の義理立ては祖先への不孝になります。さア、帰りましょう。此処から出られないというなら、私が表門から乗込んで、御家老、御用人に申し上げ、お前をつれて帰ります」
「それはなりません、母上」
志賀内匠は、薄暗い格子の内に、灯に背《そむ》いたまま、頑として頭を振るのです。
「志賀様、――御免下さい。|あっし《ヽヽヽ》は神田の平次という者ですが、少しはお母様の身にもなってあげて下さい」
平次はたまりかねて飛び出しました。
「何を言う、お前は私の知らぬ人だ」
「この方は、今の私には杖柱《つえはしら》のような方です。お前がここに居ることを突き止めて下すったのも、嫁のお関が手討になったと見極めて下すったのも、みんなこの平次殿――」
「お手討?」
志賀内匠の声はさすがに顫《ふる》えました。
「申しましょう、志賀様、こういうわけでございます」
平次は乗り出しました。二度目の偽手紙でお関をおびき出し、目黒の下屋敷につれ込んだ高力左近は、恩人にして臣下、今はしかも自分の身代りになろうという志賀内匠の妻お関に、無体の恋慕を仕掛け、貞烈なお関の峻拒《しゅんきょ》に逢って、首を三太刀まで切った上、茣蓙《ござ》につつんで目黒川に流した始末を、平次は手に取るごとく語り聞かせたのです。
「元の主君といっても、あまりといえば無法な仕打ち、この上の義理立ては天に反《そむ》きます。まして、公儀の目をかすめ、御法を破って、参勤交代に身代りを使うとあっては、誰が何と言っても、この私が黙って見ちゃ居られません。さア、すぐ帰りましょう。お母様のお供をして、奥州松前の果てに暮したら、高力家の手も届くことじゃございません。――それとも、其処へ閉じ籠められて、出られないとでも仰しゃるなら」
「いや、出られる、私は縛られも、閉じ籠められもどうもしていない、が」
「それでは、内匠様」
平次は四尺の溝を飛び越し、格子に双手《もろて》を掛けて説き進むのです。
灯《あか》りに反《そむ》いた内匠の顔は、心持少し蒼くは見えますが、決然たる辞色《じしょく》は、それにも拘らず、寸豪《すんごう》の揺ぎもありません。
「平次とやら、お前の言うことはよく判った。母上や妻のために、それほどまでに骨を折ってくれて、辱《かたじ》けない。礼を言うぞ」
「……」
志賀内匠は首を垂れました。沁々《しみじみ》とした調子に引き入れられるともなく、平次も思わず固唾《かたず》を呑んで鋭鋒《えいほう》をゆるめます。
「だが、な、平次とやら、よく聴いてくれ、妻には妻の道がある。主君と雖《いえ》ども、無体のことを聴いては、人の妻の道が立つまい。関が死んだのは、妻の道を全《まっと》うするためだ。不憫《ふびん》ではあるが、生きて恥辱《ちじょく》を蒙《こうむ》るより、この私に取っても、どれほど嬉しいことか判らない、――辱《かたじ》けないぞ」
内匠は格子に縋《すが》るように、宙に向って頭を垂れるのでした。目黒川に無慙な死骸を浮かべた貞烈な美女のために、夫の最上の感謝を捧げるのでしょう。
「だが、平次」
内匠はしばらく黙祷《もくとう》の後に続けました。
「志賀家の血統を護ろうとする、有難い母上の思召し、――これは世の母の最上の途《みち》とでも申そうか」
「……」
加世は道に崩折れて、涙に溺《おぼ》れるように泣き濡れておりました。波打つ老女の背中を、八五郎の朴訥《ぼくとつ》な平手が怖々擦《おずおずさす》って居るのもあわれです。
「家来には家来の道がある。君君たらずとも、臣臣たるの道を尽くすのが武士の意気地だ。まして三代相恩の高力左近大夫様、今必死の大難に遭われるのを、臣たる者が、素知らぬ顔で居られようか」
「……」
「安穏に生き永らえるより、忠節に死ぬのが武士の本望だ。――逃げる道も、帰る道もあるが、進んで殿様御身代りとなり、毛利、浅野の家中が刃を磨ぎ澄ましている中に飛び込むのは、この内匠の望みだ」
「……」
「痩せ我慢と言ってもよい、身勝手と言われても構わぬ、――母上様にはお気の毒だが、この私が、武士らしく死ぬのを、せめてもの御自慢に遊ばして下さい。この心掛けは皆、亡き父上始め、兄上、母上様に教えて頂きました」
「……」
「関一人を節《せつ》に死なせて、私がノメノメと逃げてなるでしょうか、母上様」
誰も応《こた》えるものはありません。平次も、八五郎も泣いておりました。遅い月が屋根を離れて、五月の街を朧《おぼろ》に照して居ります。
「よく解りました。妻には妻の道、母には母の道、臣下には臣下の道、なるほど仰しゃるとおりで、主君を見離せと申した、この平次は馬鹿でございました」
「解ってくれたか、平次」
「この上は止め立てをいたしません。行っていらっしゃい。立派に身代りのお役目を果して下さい。憚《はばか》りながらお母様はこの平次がお世話いたしましょう」
「辱《かたじ》けない、――そればかりが気がかりであった」
内匠の眼は輝きました。思わず挙げた母の顔、朧月《おぼろづき》の中に、倅のそれとピタリと合ったのです。
「母上、随分お達者で」
「倅」
二人は手を取り合うことも叶わず、涙に霞《かす》む眼を拭うのが精いっぱいでした。
「志賀様、――妻の道、母の道、臣の道の外に、十手の道のあることも覚えて置いて下さい」
平次は変なことを言い出したのです。
「……」
「私はお上の御用を承《うけたま》わるものです。お母様は引き受けましたが、高力左近大夫様は引き受けません」
「何?」
謎のような言葉を残して、平次はたった一人、朧《おぼろ》の中に姿を消してしまいました。
不思議なことに、高力左近大夫に化けた、志賀内匠は、陸路何の障《さわ》りもなく、広島の城下も、萩の城下も、大手を振って通り抜け、夏の中旬《なかば》ごろには、本国の島原に着いて居りました。が、その代り、真物《ほんもの》の高力左近大夫高長は、翌年二月、江戸上屋敷に潜《ひそ》んでいるところを大目付に発見され、かねがね所領の仕置宜しからずとあって、三万七千石を没収、身柄は仙台藩に預けられ、その子二人は僅かに形ばかりの跡目を継ぐことになったのです。
志賀内匠は表面お手討という事で、実は主君の身代りになったのですが、主家没落とともに江戸に馳《は》せ帰り、平次に預けた母親を引き取って孝養を尽した事は言うまでもありません。
しばらく経ってから、――
「志賀内匠という人が、殿様の身代りになって、行列を組んで中国筋を通った癖に、無事に島原へ着いたわけは、どうも俺には解らねえ」
八五郎がキナ臭い顔をすると、平次はニヤニヤしながら、こう言うのです。
「岡っ引には十手の道があると言ったじゃないか、俺はあの晩、毛利と浅野のお屋敷に駆け込み、予《かね》て顔見知りの御用人を呼び出して、高力左近様の国入りは、真っ赤な偽物《にせもの》の蔭武者だから、下手に手を出して、恥を掻かないようにと教えてやったんだ」
「へエ――」
八五郎も開いた口が塞《ふさ》がりません。
「高力家の没落は?」
「そいつは知らねえ、大名の内輪のことまで、町方の御用聞が懸合《かかりあ》って居られるものか」
平次のこう言うのは本当でしょう。この事件がなくとも、高力家の没落は、止めようのない勢いだったのです。
「それにしても、あのお関さんというお内儀は綺麗だったね」
「あんまり綺麗すぎて魔がさしたんだよ、女房は汚い方が無事でいいな、八」
平次はそう言いながら、チラリとお勝手で働いているお静を振り返りました。これも汚いどころか、少し綺麗過ぎる方の口です。
遺書の罪
一
「親分、ちょいと逢ってお願いしたいという人があるんだが――」
ガラッ八の八五郎は膝ッ小僧をそろえて神妙に申し上げるのです。
「大層改まりやがったな。金の工面と情事《いろごと》の橋渡しは御免だが、外のことなら大概のことは引き受けるぜ」
平次は安直に居住いを直しました。粉煙草もお小遣いも、お上の御用までが種切れになって、二三日張合いもなく生き伸びている心持の平次だったのです。
「へッ、へッ、へッ、そんなに気障《きざ》なんじゃありません。御用向きのことですよ」
「そんなら何時までも門口に立たせちゃ悪い。どんな人か知らないがこっちへ通すがいい」
「へエ――」
ガラッ八が心得て路地へ首を出すと、共同井戸のところに待機している、手頃の年増を一人呼んで来ました。
「親分が逢って下さるとよ。遠慮することはねえ、ズーッと入りな、ズーッと」
ガラッ八は両手で畳を掃《は》くように、件《くだん》の女を招じ入れました。渋い身扮《みなり》と慎み深い様子をしておりますが、抜群の|きりょう《ヽヽヽヽ》で前に坐られると、平次ほどの者も何かしら、|ぞっ《ヽヽ》とするものがあります。
年の頃は二十七八、どうかしたらもう少し老けているかも知れません。眉の長い、眼の深い、少し浅黒い素顔《すがお》も、よく通った鼻筋もこればかりは紅を含んだような赤い唇も、あまり街では見かけたことのない種類の美しさです。
「銭形の親分さん、始めてお目にかかります。――私はあの、市ガ谷|御納戸町《おなんどまち》の宗方《むねかた》善五郎様の厄介になって居る茂与《もよ》と申すものでございます」
少し武家風の匂う折目の正しい挨拶を、平次は持て余し気味に月代《さかやき》を撫でました。
「で、どんな用事で来なすった」
煙草盆を引き寄せて叺《かます》の粉煙草を捻《ひね》りましたが、火皿に足りそうもないので、苦笑いに紛《まぎ》らせてポンと煙草入れを投《ほう》ります。
「外でもございません。私が厄介になって居ります、宗方家の主人善五郎様は、ゆうべ人手に掛って相果てました」
「殺されたと言いなさるのかい」
「ハイ、殺されたとなりますと、何かと後が面倒なので、御親類方が集まって、自害の体《てい》に拵《こしら》え、たくさんのお金まで費《つか》って、証人の口を塞《ふさ》ぎました。明日お葬《とむら》いを済ませば、死人に口なし、それっきりになってしまって、殺した人は蔭で笑って居ることでございましょう」
「お前さんはそれが気に入らないというのかえ」
「宗方善五郎様は五十を越した御浪人ですが、元は立派な御武家でございます。御武家が死にようもあろうに首を吊《つ》って死んでは、お腰の物の手前|末代《まつだい》までの恥でございます」
平次はもっともらしく手などを拱《こまね》きました。首を縊《くく》るのが誉れであるはずはありませんが、それを末代までの恥にする、この人達の気持にも解らないところがあったのです。
「自分で首を吊るのが恥は解っているが、人に絞《くび》り殺されるのもあまり御武家の誉れではあるまいぜ」
「でも、御主人様はこの春から軽い中風で、お身体が不自由でした」
「中風で不自由な年寄りを絞め殺すような悪い野郎もあるのかな」
「あんまりな仕打ちに、我慢がなりかね、なにかの証拠にもと、これを持って参りました」
お茂与という美しい年増は、帯の間から紙入れを出して、その中から小さく畳んだ半紙を抜き、皺《しわ》を伸《のば》して平次の方へ滑らせたのです。
「なんだ、これは書置きじゃないか」
「ハイ」
一、書置のこと。拙者こと万一非業に相果候|様《よう》のこと有之《これあり》節は、屹度|有峰《ありみね》杉之助を御詮儀相成り度く為後日右書き遺し申候也。
月 日 宗方善五郎判
御役人様御中
平次は手に取って眺めて、その打ち顫《ふる》う手跡《しゅせき》の間から、不思議な脅迫観念におののく宗方善五郎の恐怖を覗くような気がして、言いようのない不気味なものを感ずるのでした。
「これはどうしたのだ」
「宗方善五郎様が、生前そっと書き遺《のこ》して、私に預けて置いたのでございます」
「いつ頃のことだ」
「二た月ばかり前で――」
「こんなものを預るお前さんは?」
「宗方家遠縁の者で、三年越し御厄介になっておりますが、どんな御縁か御主人様はことのほか信用して下さいました」
お茂与はこう言って眉を落すのです。顔がくもると一入《ひとしお》美しさが引き立って、不思議な魅力が四方に薫《くん》じます。
「八、行ってみようか」
「有難い」
八五郎はもう掘っ立て尻になって平次の出動を待っていたのです。
二
浪人宗方善五郎は、武家の出には相違ありませんが、すっかり町人になりきって、高利な金などを貸して裕福に暮しておりました。
お茂与は『私が余計なことをしたと思われると、皆に辛く当られますから』ともっともなことを言って裏口へ廻り、平次と八五郎は十手の見識《けんしき》を真っ向に、
「御免よ」
表向きから入りました。
「あ、銭形の親分」
店にいた近所の衆や、親類の老人達らしいのが、銭形平次の顔を見るとサッ蒼くなりました。お通夜を済ませて、明日はお葬《とむら》いをするばかりのところへ、とんだ者が飛び込んだと思ったのでしょう。
「気の毒だが、ちょいと仏様に逢わしてくれ」
八五郎がズイと出ました。
「へエー」
「気の毒だが、少し不審がある。構《かま》わないだろうな」
「検屍は済みましたが、親分さん」
近所の隠居らしいのが、恐る恐る抗議するのを背に聴いて、平次は真っすぐに通りました。
家の中は思いのほか豪勢で、宗方善五郎の裕福さと、高利の金の罪の深刻さを思わせます。
「誰か案内してもらおうか」
ガラッ八は妙に権柄《けんぺい》ずくです。それに応《こた》えて出て来たのは、先刻平次の家へ来たお茂与、――よくもこう素知らぬ顔が出来たものだと思うほど、美しく取りすましております。
宗方善五郎の死体はまだ奥へ寝かしたまま。首へ巻いてあった細引は取り外してありますが、
「何もかももとのとおり」
とお茂与は言うのです。
死んだ善五郎は五十少し過ぎというにしては老《ふ》けて見えますが、これは軽い中風のせいだったかも知れません。
「主人の死んでいるのを、誰が一番先に見付けたんだ」
平次の問いは定石どおりに進みます。
「私でございました。主人の居間へ来て雨戸を開けますと――」
「雨戸は開いていなかったのだね」
「え、いえ、鍵も桟もおりて居ませんから開けようと思えば外からでも開けられます」
「で?」
「雨戸を開けると、主人は細引で絞め殺されて、冷たくなって床から抜け出しておりました。びっくりして大声を出すと、若旦那の甲子太郎《きねたろう》様や、奉公人たちが多勢飛んで来ましたが、――殺されたとなると、お上向《かみむ》きも面倒になるし、商売柄人様に怨《うら》まれているからだと、世間様に思われるのも口惜しいから、鴨居《かもい》に扱帯《しごき》を掛けて自分で縊《くび》れ死んだということにして検屍まで受けたのでございます」
お茂与は静かな調子ながら一糸乱れずに説明して行くのです。
「主人は中風だと言ったね」
と平次。
「え、たいした不自由はございませんでしたが、それでも中気でブラブラしているご主人が、鴨居へ扱帯などをかけて、自害するような、そんなことが御自分で出来るはずもございません」
踏台《ふみだい》をして覗いて見ると、高い鴨居には、如何《いか》様扱帯を通したらしく埃《ほこり》を拭き取った跡もありますが、中気の老人が、危なっかしい踏台をして、ここへ扱帯を通すということは、ちょっと受け取り難いことです。
「その細工に使った扱帯はどれだ」
「これでございます」
お茂与が取り出して見せた扱帯は艶めかしくも赤い縮緬《ちりめん》で、その端っこの方には、細い紐かなにか堅く結んだような痕《あと》があります。
「誰のだえ」
「亡くなったお嬢さんので――」
「フーム」
平次も妙な心持になります。縊死《いし》の細工をするのに、死んだ娘の赤い扱帯を持出す番頭や親類もよっぽどどうかしております。
「で、主人を殺した細引は?」
「これでございます」
お茂与は押入れを開けて、そっと隠して置いたらしい細引を取り出しました。ほんの五六尺の麻縄ですが強靭《きょうじん》で逞《たくま》しくて、これは全く物凄いものです。
「それにしちゃ細引の跡が薄いようだ」
平次は死体の首筋を覗いて、そっと八五郎に囁きました。
「おや、こいつはなんでしょう」
八五郎は萌黄《もえぎ》の組紐を一本見付けたのです。長さは四尺くらいもあるでしょうか、細くて弱そうな紐ですが、先に結び目をつけて、ひどく埃《ほこり》で汚れているのが気になります。
「蚊帳《かや》の釣手でございましょう」
「まだこの辺には蚊が居るのかい」
「御主人様は大層蚊がお嫌いでございました」
お茂与は静かにその疑いを解きました。
三
倅の甲子太郎《きねたろう》はまだ二十そこそこの若い男で、武家の匂いもない町人風ですが、一人の親を喪《うしな》って逆上したものか、眼は血走り、唇もわななき言うことは悉《ことごと》くしどろもどろでした。
「気の毒だが、少し訊きたいことがある」
「……」
甲子太郎は黙りこくって固唾《かたず》を呑みます。
「お前さんも親旦那が自分で首を縊ったものと思って居なさるのかえ」
平次の問いにはいろいろの意味がありました。
「皆んなで、そう決めてしまいましたよ、親分」
甲子太郎の調子はひどく棄鉢《すてばち》ですが、父親が自殺したとは信じていない様子です。
「すると?」
「親父の首へ細引を掛けた奴を私は堪忍しちゃおきません」
「それはどう言う意味だね」
「……」
甲子太郎は黙りこくってしまいました。
「有峰《ありみね》杉之助という人を知っているだろうな」
平次は話題を変えました。
「町内にいる御浪人ですから、よく知っています」
「その有峰という浪人者が、親旦那を怨んで居るようなことはなかったろうか」
「あったかも知れません、――親父はひどく有峰さんを煙たがっていました」
「有峰という浪人者に殺されるかも知れないといったような――」
「とんでもない、有峰さんは立派な方ですよ」
甲子太郎は平次の言葉を遮《さえぎ》って、もっての外の首を振るのです。有峰杉之助が評判の良い浪人とは聴きましたが、甲子太郎までこう言おうとは思いも寄らなかったのです。
「それじゃ他のことを訊くが――あのお茂与という女は、この家のなんだえ。掛人《かかりうど》〔居候〕のようでもあり、召使いのようでもあり、親類のようでもあるが――」
「――親類なんかじゃありません」
甲子太郎は頑固に首を振りました。ひどくお茂与に反感を抱いている様子です。
「ほかに身寄りの者は?」
「何もありませんよ。父一人子一人で、あとは奉公人ばかり。親類といったところで三代も四代も前の親類で、少し暮し向きが悪くなれば寄りつかなくなる人達です。親父の首の細引を扱帯に変えても、世の中が無事な方がいいんでしょう」
甲子太郎の憤激は、当てもなく爆発し続けるのです。
この上甲子太郎の頤《あご》を取ったところで、たいした収穫がありそうもないとみると、平次は番頭の吉兵衛を呼んで、家中を案内させました。
吉兵衛は五十男で、世の中を世辞笑いと妥協で暮して来た男、こんな人間が案外|強《したた》かな魂の持主かもわかりません。
手代は二人、庄八と金次といって、どっちも三十前後、貸金の取立てには負けず劣らずの腕前を持っていそうな、逞ましい感じの人間ですが、相当以上の給金をもらっているほかに、主人の善五郎と関係がありそうもなく、主人が死ねば、明日から収入の途を失って、ひどく損をしなければならない二人です。
庄八は色白のちょいと良い男、金次は四角の頤《あご》と大きな眼を持った男、この人相の怖い金次が案外好人物で、色白の庄八の方が太い魂の持主らしいことは、二言三言交わすうちに平次は見抜きました。
平次の問いに対する応答は番頭の吉兵衛と同じようなもの、ただ、お茂与の身分を聴いたとき、庄八は、
「主人はまだ若かったんですから、一人くらい身の廻りの世話をする者があっても不思議はないでしょう。お茂与さんはあんなに綺麗ですからね、ヘッヘッ」
卑《いや》しい笑いが何もかも説明したような気がします。甲子太郎がお茂与にひどく反感を持っているのも、お茂与が掛人《かかりうど》でも召使でもあるように見えるのも、これですっかり解るのです。
もう一人下女のお元《もと》という三十女がいました。強健な相模《さがみ》者で、恐ろしく元気そうですが、平次が名代の岡っ引きと聴いて、歯の根も合わないほどガタガタ顫《ふる》えております。こんな女に素直に物を言わせるのは、平次も楽な仕事ではありません。
もっとも、問いも答えもなんの変哲もなく主人の善五郎が飼犬に手を噛まれるとも知らずに、お茂与にばかり目をかけて、自分をあまりよくしてくれなかったことなどをクドクド言うだけの事ですが、最後に、
「ゆうべ旦那は蚊帳を釣ったかい」
平次の唐突な問いに対して、
「二三日釣らずにいましたが、この辺は山の手でも薮蚊《やぶか》の多いところで、やはり秋の蚊が出て来るから、今夜は釣ってみようと仰って――」
「で?」
「釣手は一パイになっているが、中たるみがしていけないから中釣をしたい。もっとも長押《なげし》へ釘を打てばなんでもないが、それでは家がたまらないから、欄間《らんま》から鴨居《かもい》へ紐を一本通してくれと仰しゃって、私は萌黄の細い紐を見付けて通してあげました。――もっとも蚊帳は後でお茂与に釣らせるからよいと仰しゃって、私はそのままさがりましたが」
お元の話は妙な方へ発展して行きます。
「その紐はこれかい」
平次は八五郎の拾った萌黄の紐を見せました。
「え、それですよ」
お元は大きく合点《がてん》合点をしました。
もういちど吉兵衛に逢って、宗方《むなかた》家の身上を調べると、貸金はざっと三千両。地所家作が方々にあった上、店の有金は千五六百両。これはほんの概算ですが、まず浪人あがりの金貸しとしては、お納戸町の悪五郎と言われただけの事はあります。
四
「親分、やはり殺しでしょうね」
家の外を一と廻り、急所急所で足を留める平次へ、追いすがるようにガラッ八は言うのでした。
「解らないよ」
平次は何かほかの事を考えている様子です。
「へエ――すると下手人は?」
「まるっきり解らないよ、お前はどう思う」
平次は八五郎に水を向けます。
「あっしはやはり有峰《ありみね》なんとかの助が殺したんだと思いますよ。このとおり主人の寝間の外に男足駄の歯の跡があるじゃありませんか」
八五郎は縁の下の柔かい土に印《しる》された夥《おびただ》しい跡を指さしました。
「念入りに証拠を残して行ったじゃないか、その上煙草入れか印籠《いんろう》を落して行くと申し分はないんだが」
「おや? こいつはなんでしょう」
ガラッ八は沓脱《くつぬぎ》の間へ手を入れて、怪し気な紙入れを一つ取り出しました。もとは立派な縫いつぶしだったでしょうが、色も褪《あ》せ糸もほつれて、見る影もなくなっている上、中は引っくり返して叩いてもなんにも出ないという恐ろしい空っぽです。
「こいつは誰のだ、聴いて来てくれ」
「よしッ」
八五郎は飛んで行きましたが、間もなくそれは町内の貧乏な浪人者有峰杉之助の品と聴き込んで帰って来ました。
「その有峰とかいう浪人者に逢ってみようか」
平次はようやくそんな気になった様子です。
「そう来なくちゃ面白くねエ」
喜んだ八五郎、平次の後に跟《つ》いて手を揉《も》んだり額《ひたい》を叩いたりしております。
「たいそうお茂与の肩を持つようだが、お前は昔からあの女を知っているのか」
「へッ、へッ、ほんの少しばかり」
「へッ、へッじゃないよ。知っているなら正直に白状しておくがいい。あとで尻が割れるとうるさいぞ」
平次はきめ付けました。
「尻なんざ割れっこありませんよ。あっしは何にも掛り合いがありませんから」
「掛り合いは大袈裟《おおげさ》だな、いったいどこから這い出した女なんだ。どうせ唯《ただ》の鼠じゃあるめえ」
「御守殿《ごしゅでん》お茂与を親分知りませんか」
「御守殿《ごしゅでん》お茂与? あれが御守殿のお茂与の化けたのか、へエー」
平次が感嘆したのも無理はありません。御守殿お茂与というのは一時深川の岡場所で鳴らした強《したた》か者で、大名の留守居や、浅黄裏《あさぎうら》の工面の良いのを悩ませ一枚|摺《ずり》にまで謡《うた》われた名代の女だったのです。
「もっとも今じゃすっかり堅気になって、宗方善五郎の奉公人様に働いているが、旦那が殺されたと知って指を銜《くわ》えて引込んじゃ居られない。御守殿お茂与の一生の仕事じまい、恩になった宗方の旦那のために、せめて敵《かたき》を討ってあげたい――と涙を流して頼みましたよ」
「それでお前が乗り出したのか」
「へエ――」
「へエ――じゃないよ。早くそう言ってくれさえすれば、考えようもあったのに」
「だって宗方善五郎は殺されたには間違いないでしょう」
「まあいいや、乗りかかった舟だ。しばらくお茂与の思うままに踊ってやろう。おや、もう有峰杉之助という人の浪宅じゃないか」
平次は八五郎を顧《かえり》みて戦闘準備を促しました。仕事は第二段に入ったのでしょう。
五
「有峰杉之助は拙者だが、御用の筋は?」
三十五六のまだ壮年の武士でした。月代《さかやき》も髯《ひげ》も少し延びていましたが、それが無精らしくはなく、細面《ほそおもて》のなんとなく聡明らしい感じのする浪人者です。
「あっしは町方の御用を承る平次と申すものですが、旦那はなんですか、あの宗方善五郎様とは御懇意で――」
平次はさり気なく捜《さぐ》りを入れます。
「ゆうべ死んだそうだな、――お気の毒な、――昔は同藩であったが、少しも別懇《べっこん》ではない」
「往来もなさいませんので」
「しないよ。向うは有徳人《うとくじん》私は貧乏人、付き合う方が不思議なくらいだ」
有峰杉之助はおもしろそうに笑うのです。秋の単衣《ひとえ》がひどく潮垂《しおた》れて、調度のないガランとした住居は、蟋蟀《こおろぎ》の跳梁《ちょうりょう》にまかせた姿です。
「旦那は――ズケズケ申しますが、あの宗方様を怨んでいるようなことはございませんか」
「怨んでいるよ」
「へエ――」
平次は少し度胆を抜かれました。杉之助の言葉が予期以上に唐突で正直だったのです。
「怨んでいる仔細は気の毒だが話せない」
杉之助は口を緘《つぐ》みました。貧しい住居ですが、机も本箱も鎧櫃《よろいびつ》もあり、本箱にはむずかしい四角な文字の本が一パイ詰まっている様子が、ひどく平次を頼母《たのも》しがらせます。同じ家中から、浪人したにしても、高利を貸して大身代を拵《こさ》えた宗方善五郎とはなんという違いでしょう。
「それじゃこれを御覧下さいまし」
平次は懐中から半紙一枚の遺書を出して、有峰杉之助の前に皺を伸ばします。中気になってから書いた、宗方善五郎の乱るる筆跡のうちに、生命に対する根強い執着と、有峰杉之助に対する恐怖がありありと読み取れるのです。
「なるほど、こういった遺書を書く気になったかも知れぬ。宗方善五郎は気の毒な男じゃ」
「この遺書一つで、お気の毒だが旦那は縛られるかも知れません。それより仔細はこうこうと手軽に仰っしゃっちゃ下さいませんか」
「左様」
有峰杉之助はなかなか口を開く様子もありません。
「これを御存じですか、旦那」
平次は縫いつぶしの古い紙入れを取り出しました。
「知っているか段か、拙者の品だ、――どこで――」
「宗方善五郎の殺された部屋の前にありましたよ」
「ほう、無一物の紙入れが、一人で歩くとは知らなかった、――がそんなことがあるようでは黙っているわけにも行くまい。いかにも宗方善五郎と拙者との関係、詳《くわ》しく話そう」
有峰杉之助は、ようやく打ち明ける気になった様子です。
その話はかなり混み入ったものですが、簡単に言うと、宗方、有峰両人とも、さる中国の大藩に仕え、小祿ながら安らかに暮らしておりましたが、御蔵番になった宗方善五郎は金銭上のことに不正があり、若い同役の有峰松次郎――杉之助の弟に難詰《なんきつ》されて返答に窮し、松次郎を斬って本国を立退いたのは、もはや十年も昔のことです。
弟を失った杉之助は武家としての生活に疑惧《ぎぐ》を生じ、そのまま祿を捨てて浪人し、宗方善五郎の隠れ住む江戸に来て、同じ町内の手習い師匠などをして、なんとなしに五六年を過しました。
「申すまでもなく、弟御さんの仇を討つ心算《つもり》で同じ町内に住んだのでしょうね、旦那」
平次はたまりかねて口を容《い》れました。
「いや、それは町人の一応の考えだ」
「と申すと」
「弟の敵《かたき》や子の敵を討つのは、武士の作法にないことだ」
「へエ――」
平次もそれは気の付かない事ではなかったのですが、卑属《ひぞく》親の敵――例えば子の敵、弟の敵などを討つのは、武士としては悉《ことごと》く恥じたもので、どの藩もそんなものには決して助力も、便宜も与えないばかりではなく、それは私怨として取扱われ、目的は遂げても刑罰は免れることが出来なかったのです。
「宗方善五郎は藩金を私し、拙者の弟を殺した憎むべき奸賊《かんぞく》ではあるが、拙者にはそれを討つべき名分はない。そこで、せめては同じ町内に住んで、悪人の行く末を見窮《みきわ》め、倅が成人の上、故主に帰参のお願いするはずで、今日まで相持ったのじゃ。倅は当年七歳、あとせめて十年」
杉之助の述懐は筋立って少しの疑いも挟みようはありません。
「御尤もで」
平次はそれを全面的に肯定して聴くほかはなかったのです。
閑居に慣れ、貧乏に慣れ、読書三昧に打ち込んで、有峰杉之助はもう帰参の望みなどはなかったのかも知れませんが、七つになる倅のために、唯一の出世の機会を待っているのでしょう。
「お、杉丸、帰ったか」
折から母親と一緒に帰って来た倅杉丸を迎えて、杉之助の顔はさすがに淋しそうでした。
「ただ今戻りました」
小買物にでも行ったらしい内儀のお延《のぶ》は、杉之助の前に三つ指を突いて、それから平次と八五郎にていねいに挨拶しました。
「へエー、今日は」
武家の内儀に思いのほか丁寧にあしらわれて、八五郎は少し面喰った様子です。
「宗方善五郎は昨夕死んだそうだ、――自害をしたといったな、平次殿」
杉之助は平次を顧《かえり》みます。
「人手に掛って死んだとも申します」
「まア」
美しい内儀のお延は、何もかも事情を呑込んだらしく、まだいたいけな倅の杉丸を顧みて、聡明らしい眼をしばたたきます。お茂与《もよ》の取り澄ましたのと違って、滋味の豊かな若々しくも美しい母親です。
「旦那は、御守殿《ごしゅでん》お茂与という女を御存じでしょうね」
「知っている、――あれも同国の者だ。今は宗方善五郎の許にいると聴いたが――」
そう言う杉之助の言葉のつづくうち、平次は内儀のお延の顔に動く表情を読んでおりました。
「そのお茂与が、宗方善五郎を殺したのは、有峰の旦那だと言うのですが」
「馬鹿なッ」
一瞬杉之助の顔に激しい表情が動きました。が、寒潭《かんたん》を渡る雁《がん》のように、その影が去ると、元の平静に返ります。
「まア、なんという人でしょう。さんざん迷惑をかけた上に――」
内儀のお延はフト舌を滑《すべ》らせて、あわてて口を緘《つぐ》みました。聡明さがツイ、女の本能の憤《いきどお》りに破れたという様子です。
「親分いよいよ解らなくなりましたよ。あの有峰という浪人は人など殺しそうにもありませんね」
帰る途々ガラッ八はこんな事を言うのです。
「俺もそう思うよ」
平次はケロリとして、もう考えている様子もありません。
「じゃ誰が殺したんでしょう」
「誰でもいいじゃないか」
「へエ――」
「俺はもう帰って一杯やって寝るよ。浪人者の高利貸が首を縊《くく》ったところで、晩酌を休むわけには行かない」
市ガ谷から九段へ出て、江戸の夕暮を眺めながら、恋女房のお静が待っている家へ帰るのです。平次はもう宗方善五郎殺害事件などは考えてもいない様子です。
「でも――」
「御守殿お茂与に頼まれたことが気になるのかい。じゃ、お前だけ引き返して、こう言うがいい――平次は盲目《めくら》じゃない。余計な細工をして、とんだ罪を作るのは止した方がよかろうとな」
「親分」
「何をもぞもぞして居るんだ、――平次を担《かつ》ごうなんて太《ふて》え女に掛り合って居ると、お前もひどい目に逢わされるぞ」
「へエ――」
まだ腑に落ちない様子のガラッ八を残して、平次はさっさと自分の家へ引揚げてしまいました。
その翌る日。
「た、大変ッ。親分」
朝のうちからガラッ八の大変が鳴り込んで来たのです。
「あ、脅かすなよ、八。朝の味噌汁が胸に閊《つか》えるじゃないか、――どこの猫の子がいったい五つ子を産んだんだ」
「そんな話じゃありませんよ親分。市ガ谷御納戸町の――」
「まだそんなところを|せせ《ヽヽ》っているのかい。三年あさってもあの殺しは下手人が出て来ないよ。馬鹿だなア」
「親分、そんな話じゃねえ。お茂与が殺されたんですよ――昨夜《ゆうべ》」
「なんだと?」
「それ、親分だって驚くでしょう。御守殿お茂与があの家の大納戸の中で、細引で絞められて冷たくなって居るんだ、――死顔を見るとあの女には悪相がありますぜ」
ガラッ八の報告はさすがに平次を驚かせました。事件は全く思いも寄らぬ方に発展したのです。
お納戸町の宗方家は上を下への騒ぎです。番頭に案内させて奥へ行ってみると、美女のお茂与は主人の善五郎を殺したという、凄まじい細引で喉を締《し》められ、銭箱の山の前にこと切れていたのです。
「このとおりでございます、親分さん」
場所は亡き善五郎が溜め込んだ夥《おびただ》しい銭箱の前、お茂与は細引で喉を絞められて、黄金の中に死んでいたのです。
「親分」
八五郎はさすがにこの旧知の女の死骸を見ると緊張しました。
「今度は外から曲者が入ったのじゃない。なんの細工もないからお前でも判るだろう。お茂与の追善に一つ真物《ほんもの》の下手人を挙げてみちゃどうだ」
平次はからかいますが、八五郎たった一人であんよするとなると何処から手をつけていいか、まるっきり見当も付きません。
「判ったか八、戸締りに異常はなく、外には柔かい土を踏み荒した跡もないから、この下手人は家の中の者だ」
「へエ、あっしでもそれくらいのことは判りますが」
「お茂与が銭箱を開けて見ているところを、後ろから忍び寄って絞めたんだ。下手人が近づくのをお茂与ほどの女が知らずにいるはずもないから、こいつはお茂与に近い人間で、お茂与はたいして驚きもしなかったと見る方がいい」
平次はお茂与の死骸を前に、次第に謎をほぐして行きます。
「すると親分?」
「お茂与が我が物顔に小判を眺めているところを、後ろへ廻って首へ細引をかけた、――前の晩主人の善五郎の首に巻いた細引だ。お茂与はその人間には驚かないが、細引には驚いたろう。ハッと思うところを、グイグイと絞めた。若くて張りきっていて、お茂与憎さで一パイになって居るから情けも容赦《ようしゃ》もない。お茂与は見事に自分の掘った穴に落ち込んで死んでしまったのさ」
「自分の掘った穴ですって、親分」
「そうさ、自分の拵《こさ》えた筋書どおりの死にようをしたのだ」
平次の言う情景《シーン》は凄まじいが、しかし争う余地のないものでした。お茂与のような賢こい女が、全く予期もしない相手のために、ゆうべ善五郎の首に巻いた細引で、驚愕と恐怖のうちに苦もなく殺されてしまったのでしょう。お茂与の死顔にこびり付く表情が、雄弁にそれを語って居るのでした。
「親分、誰です、下手人は?」
「……」
「親分」
「お化けだよ」
「へエ――」
「善五郎の幽霊だな」
「そんな馬鹿な」
「いや本当だ。さあ帰ろうか八。お茂与は悪い女だ――お前は美しい女を皆んな善人だと思っている様だが、こんな悪い女は滅多にないよ。世話になった善五郎の首へ縄を掛けたのは、あのお茂与さ、――もっとも善五郎を殺したのはお茂与じゃない。が、昨夜の下手人は、善五郎を殺したのをお茂与と思い込んでやったんだ」
「さア判らねえ」
平次の言葉の意味は、八五郎にもよく判りません。
番頭も手代も倅の甲子太郎《きねたろう》もおりました。朝の光の中に曝《さら》されたお茂与の浅ましい死骸を前に、平次は静かにつづけるのです。
「最初から順序を立てて話してやろう、いいか八」
「へエ――」
「主人の善五郎は武家の出だ。金は出来たが中気にあたった。昔自分が殺した有峰松次郎の兄の杉之助は同じ町内に住んでいる。いつ敵名乗《かたきなのり》をして来るか判らない。その上弟の敵を討った杉之助は世間への申し訳、故郷へ帰る名聞を立てるために、宗方善五郎の旧悪の数々を言い立てるに違いない。それが善五郎には何より辛《つら》かった。その有峰杉之助の刃を、不自由な身体でどうして防ぎきれよう――善五郎はそう考えた。その考えを側から焚《た》き付けたのは、近頃善五郎に愛想《あいそ》を尽かしながら、何千両という金に引かれて飛び出しもならずにいたお茂与だ」
「……」
「お茂与の弁舌《べんぜつ》に焚き付けられて、善五郎の恐怖は募《つの》るばかり、とうとうお茂与の言うままに『非業に死んだら有峰杉之助を調べてくれ』という書置きを書いて渡した」
「……」
「これは決して俺の拵えた筋書じゃない。一々証拠のあることだ。――宗方善五郎は、恐怖と心配でとうとう死ぬ気になった。倅へ遺書くらいは書いたかも知れないが、それは気の廻るお茂与が隠したことだろう。中気で手が顫えるから、武家の出でも刃物の自害は覚束《おぼつか》ない。そこで下女のお元に頼んで蚊帳《かや》の中釣りだと言って、細い紐を鴨居に通してもらい、その紐の端に赤い縮緬《ちりめん》の扱帯《しごき》――死んだ娘の形見を出して結び、紐を引いて扱帯を欄間《らんま》にかけた」
「へエ――」
「その扱帯で縊《くび》れ死んだのを、翌る朝お茂与が見付け、自害では面白くないことがあったので、引きおろして扱帯を解き、――そのとき扱帯の端に縛ってある細紐まで解いて、押入れへ投げ込み、別の細引を出して死骸の首にまき付け、人に絞め殺されたように見せかけて、縁の外に男下駄の跡まで付けた」
「成程ね」
ガラッ八は平次の説明にすっかり圧倒されましたが、それよりも驚いたのは、番頭手代、倅の甲子太郎などでした。
「そのとき皆んなが駆け付けて、主人が人手に掛って死んだと知れては厄介《やっかい》だから、あとの面倒がないように、首の細引を解き、手近の押入にあった赤い扱帯を出して首に巻き、もういちど自殺に拵えた。世間も検屍もそれで済んだが、お茂与が俺のところへ来て、俺と八五郎が乗出すことになったから、話が少し厄介になった」
「……」
「俺が来てみると、――死体を見付けたとき、首に細引を巻いていたとお茂与は言うが、死骸の首の縄の跡などというものは容易に消えるものじゃない。善五郎を殺したのは、間違いもなく扱帯だ。鴨居にはそれを掛けた跡があり、縮緬の扱帯の端には、萌黄の紐を結んだ跡まで残っている。下女のお元の話を聴いて、俺は、何もかも読んでしまったよ」
「お茂与が有峰杉之助に罪を着せようとしたのは、どういうわけでしょう」
ガラッ八の疑いは尤《もっと》もでした。
「お茂与は有峰杉之助を憎む筋があったんだ。きのうの話の中に、そんな口吻《くちぶり》のあったのをお前も聴いたはずだ。それにお茂与の話をした時の、有峰杉之助のお内儀の顔は容易じゃなかった。あんな慎しみ深い武家のお内儀が、あれほど顔色を変えるのは容易のことじゃない」
「へエ、――成程ね」
「お茂与は有峰杉之助を下手人にして、存分に思い知らせてやりたかったんだ」
「ところでお茂与を殺した下手人は? 親分」
ガラッ八はようやく結論を引き出すことが出来たのです。
「この中にいるはずだ、――きのうの朝、お茂与が主人善五郎の首から扱帯を解いて、細引を巻き付けているところを、チラと見た者があるに違いない。それは多分下女のお元だろう」
下女のお元はあわてて唐紙の蔭に顔を引込めました。
「お元はそれを黙っているはずはない。日頃お茂与を憎みつづけて来たから――キット誰かに言った。俺にはその相手もよく判っている。その相手は、お茂与が主人の首に細引を巻いていたと聴いて、カッとしたのも無理はない。夜になってお茂与の様子を見ていると、ここへ入って銭箱の蓋《ふた》をあけ我物顔に小判を眺めて喜んでいたから、もう我慢が出来なかった。いきなり飛び込んで、――ちょうど押入に投げ込んであった因縁《いんねん》付の細引で殺してしまった」
平次の論告は終わりました。
「親分、――そのとおりです。少しの違いもありません。私を縛って下さい。あの女に親を殺されたと思い込んで私はお茂与を殺しました」
平次の前に寄るように、自分から両手を後ろに廻したのは、倅の甲子太郎でした。
「お前さんは何をあわてているんだ。親旦那は首を縊《くく》って死んだ。召使のお茂与はそれを悲しいと言って、翌る日首を縊って死んだ。あっしはそれを見届けに来ただけじゃないか、なア八」
平次は静かに立ちあがり様、呆気《あっけ》に取られている八五郎を顧《かえり》みました。
「そのとおりだ。それに違げえねえ。親分、偉いッ」
八五郎は宙に泳ぐように、それに続きます。
「有難い、親分」
力も勢いも抜け果てたように、甲子太郎はペタリと坐って、二人の後ろ姿を伏し拝みます。
「それじゃ帰ろうか、八」
「親分、見て居て下さい。こんな商売を止して、私は裸になって出直しますよ」
甲子太郎の声はその後ろに追いすがります。
平次はそれには応《こた》えませんでした。まだ昼には間のある明るい秋の往来へ飛び出すと、何もかも忘れてしまったように黙りこくって家路を急ぎます。
(完)