野村胡堂
銭形平次捕物控(巻六)
目 次
火遁の術
青い帯
酒屋忠僕
隠し念仏
火遁の術
一
「親分、良い陽気じゃありませんか。植木の世話も結構だが、たまには出かけてみちゃどうです」
ガラッ八の八五郎は、懐ろ手を襟から抜いて、虫歯《むしば》が痛い――て恰好に頬を押えながら、裏木戸を膝で開けてノッソリと入って来ました。
「朝湯の帰りかえ、八」
平次は盆栽の世話を焼きながら、気のない顔を挙げます。
「ヘッ、御鑑定《ごかんてい》どおり。手拭が濡れているんだから、こいつは銭形の親分でなくたって、朝湯と判りますよ」
「馬鹿だなあ、手拭は俺から見えないよ、腰へブラ下げているんだろう、――番太や権助じゃあるめえし、いい若え者が、手拭を腰へブラ下げて歩くのだけは止しなよ、みっともねえ」
「こいつは濡れているから肩に掛けられませんよ、――いつか手に持って歩くと、不動様の縄じゃあるめえ、そんな不粋《ぶすい》な恰好は止すがいい――って親分に小言を言われたでしょう」
「よく覚えていやがる」
「躾《しつけ》の良い児は違ったもので――」
「手拭を良く絞らないからだよ、海鼠《なまこ》のようにして歩くから扱いにくんだ。第一その鬢《びん》がグショ濡れじゃないか、水入りの助六が迷子になったようで、意気過ぎて付合いきれないぜ」
「あ、これですかえ。なるほど朝湯の証拠が揃ってやがる」
ガラッ八は腰から海鼠《なまこ》のような手拭を抜いて、鬢のあたりをゴシゴシとやりました。
「自棄《やけ》に擦《こす》ると、小鬢が禿《は》げ上がって、剣術使いのようになるぜ」
「髪のほつれは、枕のとがよ――と来た」
「馬鹿だなあ」
平次は腰を伸ばして、しばらくはこの楽天的な子分の顔を享楽しておりました。
「ところで親分」
「なんだい」
「不動様で思い出したが、今日は道灌山《どうかんやま》に東海坊が火伏《ひぶ》せの行《ぎょう》をする日ですよ。大変な評判だ、行って見ませんか」
「御免蒙ろうよ。どうせ山師坊主の興行に極っているようなものだ。行ってみるとまたとんだ殺生をすることになるかも知れねエ」
平次は御用聞きのくせに、引込み思案で、弱気で、十手捕縄にモノを言わせることが嫌で嫌でならなかったのです。
「火伏せの行だから、火難《かなん》除けになりますよ」
「家は借家だよ。焼けたって驚くほどの身上《しんしょう》じゃねえ」
「呆れたもんだ――家は借家でも、火の車には悩まされ続けでしょう。こいつも火伏せの禁呪《まじない》でどうかなりゃしませんか」
ガラッ八は自分の洒落《しゃれ》に堪能して頤《あご》の下から出した手で、しきりに顔中を撫でまわしております。
「なるほど、そいつは耳寄りだ。火の車除けの有難いお護符《まもり》が出るとは知らなかったよ。ブラリブラリと行ってみようか、八」
「有難てえ。今日の道灌山はうんと人出があるから、なんか面白いことがあるような気がしてならねえ」
「火除けの行だから、キナ臭かったんだろう」
「違げえねえ」
道灌山へ平次と八五郎が向ったのは、悠々《ゆうゆう》と昼飯を済ましてから、火伏せの行が始まるという申刻《ななつ》時分には、二人は無駄を言いながら若葉の下の谷中道を歩いておりました。
二
東海坊というのは、そのころどこからともなく江戸に現れた修験者《しゅげんしゃ》で、四十五六の魁偉《かいい》な男でしたが、不思議な法力を持つと噂されて、わずかの間に江戸中の人気を浚《さら》い、谷中に建てた堂宇《どうう》は、小さいながら豪勢を極め、信者十万、日々の賽銭祈祷料《さいせんきとうりょう》、浅草の観音様をさえ凌《しの》ぐと言われました。
東海坊の法力で、一番江戸の町人を驚かしたのは、いかなる難病も癒らぬことはないと言われた祈祷でした。越後屋の隠居は三年越し立たぬ腰が立ち、伊勢屋の息子は五年がかりの癆症《ろうしょう》がケロリと治って嫁をもらい、旗本三右衛門の奥方は、江戸中の医者に見放された眼病が平癒《へいゆ》し、小梅の豪農小兵衛は、気が触れてあらぬ事を口走ったのが、拭《ぬぐ》うがごとく正気に返って、谷中の堂に銅の大手洗鉢《おおてあらいばち》を寄進したと言った比《たぐ》いの噂が、風に乗って撒布《さんぷ》されるように、江戸中へ広がって行ったのです。
その日東海坊は火伏せの行を修《しゅう》して、火事早い江戸の町人を救うと触れさせ、人家に遠い道灌山を選んで、火行の壇《だん》を築かせました。九尺四方|白木《しらき》の道場の正面には、不動明王の御像を掛けさせ護摩壇《ごまだん》を据え、灯明供物《とうみょうくもつ》を並べ、中程のところに東海坊、白衣に袈裟《けさ》を掛け、散らし髪に兜巾《ときん》を戴き、揉《も》みに揉んで祈るのです。壇の四方を取巻く群集信徒は、その数何千とも知れません。賽銭の雨を降らせながらドッと声をあわせて東海坊の修法《しゅほう》を讃仰《さんごう》するのでした。
町方から取締りの役人は出ておりますが、ほかの事と違って、信心に関する限り、幕府は放任政策に徹して、大抵のことは見て見ぬ振り。東海坊の軍師格で、その信者の一人なる浪人者|御厩左門次《おうまやさもんじ》が同じく東海坊の門弟で、用人を兼ねている定吉と言う白い道服の中年男とともに、群衆の整理、修法の進行等、一瞬の隙もなく眼を配っております。
時刻が移るにつれて、群衆の心理は夢幻の境に引入れられる様子でした。護摩の烟《けむり》は濛々《もうもう》と壇をこめて、東海坊のすばらしい次低音《バリトーン》だけが、凛々《りんりん》と響き渡るのです。やがて、
「それーッ」
壇上の東海坊が声を掛けると、壇の四方を埋めて人間の背丈ほどに積み上げたおびただしい枯柴《かれしば》に油を注ぎかけて、護摩壇の火をとって移しました。
「ワーッ」
と唸りを生じた群衆の声と共に、壇をめぐる枯柴は燃え上がり、一挙に俄《にわ》か造りの壇を舐《な》めます。
「今こそ、我が法力を知ったか」
壇の中央、焔の真中に立ち上がった東海坊は、高々と数珠を打ち振り打ち振り、虎髪《こはつ》をなびかせて叱咤《しった》するのです。
「南――無」
群衆はこの奇蹟に直面して、ただ感嘆の声をあわせるばかり、中には大地に土下座して、随喜の涙を流す者さえあります。
枯柴は完全に燃えて、焔は壇を一杯に包むと、ここにまた思いも寄らぬことが起こりました。今の今まで、高らかに呪文《じゅもん》を称えて、その法力を誇示《こじ》していた壇上の東海坊は、何に驚いたか、急に壇上を駈け廻り、床を叩き、壇を蹴飛ばし、浅ましくも怒号する態《てい》が、渦巻く焔の間から、チラリチラリと隠見するのです。
「た、助けてくれーッ」
壇上に狂態の限りを尽くす東海坊の口から、とうとう救いを求める声が漏れました。焔は壇上に這い上がって、修験者の白衣に移り、メラメラと袈裟《けさ》を嘗《な》め上がる様子が、折から暮れ行く道灌山の草原の上に灰色の空を背景にして、あまりにもまざまざと見えるのです。
東海坊は焔に包まれて、犬のごとく這い廻り、虫のように飛びました。が、石を積んで樫《かし》の厚い板を並べた床は、東海坊の十本の指が碧血《へきけつ》に染《まみ》れる努力も空しく、ビクともする様子はなく、四方に積んだ枯柴は、丈余の焔を挙げて、翅《つばさ》があっても飛び越せそうもありません。
山に溢るる善男善女は、ただもう『あれよあれよ』と言うばかり、今は尊い修験者に対する讃仰の夢も醒めて、恰《さなが》ら目《ま》のあたりに地獄変相図を見るの心地。渦巻く焔と煙の中に、死の苦闘を続くる東海坊の浅ましい姿を眺めて、動きもならず動揺《どよ》み打つのです。
「親分」
「八」
銭形平次と八五郎は、たったこれだけでお互いの思惑を読み合いました。
「水だ、水だ」
「早く火を消せ」
ガラッ八は青松葉の枝を折って、枯柴の火を叩くと、平次は壇の四方に用意した、幾十の手桶のうちの一つを取ってサッと猛火に水を注ぎかけました。
「それッ」
と群衆の中から加勢に飛び出した若い者が、五人、八人、十人、その人数が次第に多くなると、自然命令者になった平次の号令に従って八方から猛火を消し始めたのです。
この仕事は相当以上に骨が折れました。山の上にあったたった一つの井戸は大した役には立たず、大火を焚《た》くために、役人の指図で用意した手桶の水も、間もなく尽きてしまいましたが、多勢の熱心さに助けられたのと、燃え草が枯柴で、他愛もなく燃えきってしまったので、四方《あたり》が雀色《すずめいろ》になる頃までには、どうやらこうやら火を消してしまって、平次と八五郎は、掛り同心永村長十郎、土地の御用聞三河島の浅吉などと一緒に、焼跡の護摩壇に検視の足を踏込んだのです。
そのとき、群衆はもう大方散って、残るのは東海坊の弟子達と、世話人数名と、火を消すのを手伝った、丈夫な男たちが二三十人だけ。暮色は四方をこめて、燃え残る薪《まき》があちこちに煙をあげております。
三
「あッ、人が――」
真先に壇の上に飛び上がった三河島の浅吉は立縮《たちすく》みました。
「東海坊じゃないか」
永村長十郎が続きます。
「火伏せの修験者が焼け死んだぜ、親分。こいつア――」
「馬鹿ッ」
平次に睨まれて、ガラッ八は危うく口を緘《とざ》しました。放って置いたら――こいつア大笑いだ――とでも言ったことでしょう。
「法力が足りなかったんだ、可哀想に」
年配者の浅吉は、東海坊に同情を持っている様子です。
四方に暮色が迫ったので、提灯を呼びました。そうでもしなければ、半分焼けた壇は、足許が危なくて、うっかり歩けません。枯柴の火は大方消えて、壇を取巻く数十の好奇の眼は、なかなか立去りそうもなく、固唾《かたず》を呑んでことの成行きを見ております。
「法力なんてものは、最初からなかったんだよ、兄哥《あにき》」
平次は壇の上を一と廻りすると、静かに顔を挙げました。
「そいつは銭形の――」
浅吉は講中の一人であったらしく、平次の言葉に不平らしい様子です。
「これを見るがいい。床はガンドウ返しになって、煙が一パイになった時、東海坊はそっとスッポンへ抜ける仕掛けだったのさ」
「えッ」
「そいつが、なんかの弾《はず》みで開かなかったんだ。東海坊が火に追われながら、床板ばかり気にすると思ったが、こいつだよ」
平次が指差した。
提灯を突き付けると、なるほど床板には二尺四方ほどの鋸《のこ》が入っていて、なにかの仕掛けで開くようになっているのが、厳重に締まっていて、叩いても踏《ふ》んでも開きそうになかったのです。
「フーム、天罰《てんばつ》だな」
永村長十郎は唸《うな》りました。長いあいだ愚民を惑《まど》わしていた修験者が、命がけの詭計《きけい》に失策して、猛火の中に死んだのも、江戸御府内の静謐《せいひつ》を念としている長十郎に取っては、全く天罰としか思われなかったのでしょう。
「呆れた野郎だ」
浅吉はたった一ぺんに愛想が尽きた様子で、ぺッ、ペッと唾《つば》を飛ばしております。
一刻の後には野次馬もすっかり散り、永村長十郎も「東海坊の弟子どもや世話人一統は追っての御沙汰を待つように」と不気味な言葉を残して引揚げました。
「親分、帰ろうじゃありませんか。天罰なんか縛れやしませんよ」
ガラッ八は大きな欠伸《あくび》をしながら言います。
「腹が減ったんだろう。――ここじゃろくな水も呑めもしねエ。谷中へ行ってなにか詰めて来るがいい」
平次は焼け残る壇の上から動こうともしません。
「親分は?」
「腹なんか減らないよ、――俺はもう少しここに頑張って、その天罰野郎の面を見て行きてえ」
「それじゃ、親分?」
「大きな声を出すな、その辺にはまだ多勢いるんだ」
「あっしも手伝いますよ、親分。そう聴くと、腹が一杯になるから不思議で――」
「そう言わず行って来るがいい。帰りには鳶頭《とびがしら》の家へ寄って、道具を借りて来るんだ。梃《てこ》と槌《つち》と鋤《すき》だ」
「何をやらかすんで、親分?」
「この下に天罰が居そうなんだよ」
平次は暗がりの中で床板を指しながら、ガラッ八に囁くのでした。
八五郎はいろいろの道具を借りて、すぐ引返して来ました。こうなるともう、腹の減った事などを考えては居られなかったのです。
「親分、なにをやらかしゃいいんで?」
ガラッ八は七つ道具をドタリとおろしました。
「床板《ゆかいた》を剥ぐんだ。樫《かし》の木で、やけに丈夫だから、道具がなくちゃどうにもならない」
「三河島の親分は?」
八五郎は板の隙間に梃《てこ》を打ち込みながら、この容易ならぬ労作を手伝わせる相手を物色します。
「弟子と世話人を見張っているよ。あの中に天罰野郎がいるかも知れない」
平次は独り言のように言いながら、梃の先をグイと押しました。
「あっしがやりますよ、親分。提灯を持っていて下さい」
「頼むとしようか。なにか飛び出したら、構うことはねエ、存分に縛り上げてくれ。お前の手柄にしてやるから」
「ヘッ、脅《おど》かしちゃいけません」
「大丈夫だよ、そこからなんにも飛び出しゃしない」
「自棄《やけ》に頑丈ですぜ、親分」
そんな事を言いながらも金梃《かなてこ》のお蔭、二枚の板はすぐ剥げました。
「なるほど、龕灯返《がんとうがえ》しの仕掛けを、下から石と材木で塞《ふさ》いだんだ――思ったとおりだよ、八」
平次は提灯を突きつけます。
「入ってみましょうか」
「そうしてくれ、その材木を取払ったら身体くらいはもぐるだろう」
「提灯を貸して下さい」
「そら」
八五郎は提灯を片手に、床下の穴の中へ潜り込みました。横穴は思ったより深いらしく、しばらくすると灯りが見えなくなって、それっきり八五郎は帰って来ません。
四
「親分」
遠くのほうから八五郎の声が筒抜《つつぬ》けます。
「なんだ、八」
「穴の中で提灯が消えたから、引返そうかと思ったが、忌々《いまいま》しいから手探りで真っ直ぐに行くと、変なところへ出ましたぜ」
「茶店の床下だろう」
平次はなんの気取りもなく、こんな事を言うのです。
「ヘッ、どうしてそんな事が?」
「近くて、人目に隠れて、穴の中へもぐり込めるという場所は外にないよ」
「さすがは親分だ。あっしは、地獄の三丁目かと思いましたよ。どうかしたら、閻魔《えんま》の屋敷の雪隠《せっちん》の床下かも知れないと思って這い出すと、目の前に燃え残りの護摩壇が見えるじゃありませんか」
ガラッ八の話しは手振りが交じりました。
「怪談噺《かいだんばなし》は後で聴くとして、それで、大方解ったよ。修験者東海坊は、やはり人に殺されたんだ」
「ヘエ?――」
「火伏せの行とかなんとか言って、さんざん賽銭と祈祷料をせしめた上、四方から火を掛けさせ、煙が一パイになった時を見測らって護摩壇の抜け穴から、茶店の床下へ抜けるはずだったんだ。そいつを仕掛けを知っている者に狙《ねら》われて、床下から龕灯返しを塞がれ、多勢の見る前で焼け死んでしまったのさ。天罰といえば天罰だが、この天罰は少しタチが悪い」
平次の説明して行くのを聴くと、東海坊が詭計の裏を掻かれて、猛火の中に死んだ経緯《いきさつ》、一点の疑いもありません。
「その天罰野郎は何奴《なにやつ》でしょう、親分」
「あの中に居るよ。――行ってみようか、八」
平次とガラッ八は、そこから少し離れて、虫聴き台の捨石や床机《しょうぎ》に思い思いに腰を掛けて、三河島の浅吉の監視の下にいる十五六人の人数に近づきました。
「どうだい、銭形の」
浅吉の口吻《くちぶり》には少しばかり挑戦的なものがありました。
「東海坊はやはり殺されたに違げえねえ。抜け穴を下から塞いだ奴がいるんだ」
「ヘエ、そいつは本当かい」
浅吉は改めて提灯をかかげて、世話人や弟子達の顔を見まわしました。夜風のせいか、男女取り交ぜ十幾人の顔は、こころもち緊張して、探《さぐ》るような瞳がお互いの間をせわしく往復します。
「谷中の堂へ引揚げようか、ここじゃ調べもなるめえ」
「よかろう」
平次と浅吉は、土地の下っ引に死骸と焼跡の監視を頼み、掛り合いの十幾人には因果《いんが》を含めてそこからあまり遠くない東海坊の堂まで引揚げさせました。
いかにも急造らしい小さな堂ですが、豪勢な調度や、金色燦然《きんしょくさんぜん》たる護摩壇は、いかにも流行の神らしく、白痴脅《こけおど》かしのうちにも、人を圧する物々しさがあります。
「兄哥はしばらく見て居てくれ。俺がちょっと小手調べをしてみるから」
「いいとも」
平次の謙遜《けんそん》な調子に気をよくして、浅吉は先輩らしく本堂の奥に頑張りました。そこから居流れて、弟子世話人達十五六人、平次と八五郎はそれを挟んで左右に控えます。
「一番弟子とかなんとか言うのは誰だい」
平次は一座を眺め渡しました。
「私でございます。東山坊と申します」
白い物を着ておりますが、髪かたちも俗体の四十男が膝を直します。少し狡《ず》るそうな、ショボショボ眼と、大きな鼻を持った男です。
「親の付けた名があるだろう」
「定吉と申します。ヘエ、生まれは行徳《ぎょうとく》で、親は網元でございました」
「道楽に身を持ち崩して、東海坊の弟子になり、大法螺《おおぼら》の合槌《あいづち》を打ってトウセンボウとか名乗ったんだろう」
「ヘエ――」
日頃にもない平次の舌の辛辣《しんらつ》さ、定吉の東山坊は面目次第もなく頭を下げました。
「その次は?」
「拙者だ」
昂然《こうぜん》として顔をあげたのは、ちょっと良い男の浪人者|御厩左門次《おうまやさもんじ》でした。二十七八、身扮《みなり》もそんなに悪くはなく、腕っ節も相応にありそうです。
「お名前は?」
「御厩左門次、俗名だけしかない。俺は用心棒で修験者ではないからだ。主人のお名前は勘弁してくれ、――身を持ち崩して東海坊のところに転げ込んだが、東海坊の出鱈目《でたらめ》な大法螺に愛想を尽かして近いうちに飛び出すつもりだったよ」
御厩左門次、自棄な苦笑いをして居ります。
「どんな法螺で?」
「火伏せの行だって、本人は火遁《かとん》の術のつもりさ。する事も言うこともみんな法螺だ。――もっとも病気だけは不思議によく癒したが、癒っても後で金を絞られたから、丈夫になっても楽じゃあるまい」
「ところで、外に弟子はないのか」
平次は鉾《ほこ》を転じて、不安におののく十数人を見やりました。
「あとは子供と女ばかりですよ」
定吉の東山坊は、そう言いながら、二人の女はこんな邪悪な修験者にあり勝ちの妾《めかけ》で、一人はお雪といって二十七八、一人はお鳥と言って二十三四、二人とも恐ろしく派手な風をしておりますが、病身らしく蒼ざめて、相当の力を要する護摩壇の下の細工などは出来そうもありません。
信徒の総代――世話人と呼ばれているのは二人、一人は下谷一番と言われた油屋で、大徳屋徳兵衛。もう一人はこの堂を建てた大工の竹次、二人とも五十前後、町人と棟梁《とうりょう》で肌合いは違いますが、物に間違いのありそうもない人間です。
「どうして東海坊の世話方になったんだ」
平次の問いに対して、大徳屋は口を開きました。
「娘が長年の病気を治してもらいました。嫁入り前の十九でございます。その御恩報じに、番頭と一緒に先達様《せんだつさま》のお世話を引受けております」
「娘は?」
「これに参っております。菊と申します」
徳兵衛の後ろに小さくなって居る娘――八方から射す灯明の中に浮いて、それは本当に観音様の化身《けしん》ではないかと思いました。少し華奢《きゃしゃ》で弱々しくみえますが、多い毛の緑も、細面の真珠色も、この世のものとも思えぬ気高さ――『よくもこんな美しいものを生んだことかな』と、もう一度父親の顔を振り返って見るほどの美しさです。その後ろに小さく控えたのは番頭の宇太松、これは二十七八の至って平凡な正直そうな男でした。
続いて棟梁の竹次はなんの巧みもなく
「あっしの疝痛《せんつう》と、女房の腹痛を直してもらいましたよ。それからは御恩返しにいろいろ働いて居るだけの事で、ヘエー」
至って無技巧にそんな事を言うのです。続いて父親を癒してもらったと言う、越後屋の倅、女房の気鬱《きうつ》が治った小梅の百姓小兵衛、等々、なんの不思議もありません。
「東海坊の祈祷で治らない者もあったろう」
平次は妙な事を訊きました。
「業《ごう》の深いのは癒らないとされております。たとえば御徒町の伊勢屋の利八さん、これは喘息《ぜんそく》がどうしても治らず、先達様を怨んでおりました」
一番弟子の定吉は応えました。
「その利八は今日来て居たのかな」
「顔が見えました。それから門前町の文七、倅の文太郎は七日七夜の祈祷で百両もかけたのに助からなかったと、先達様の悪口を言い触らして居ります。今日も来て居たようですが、先達様が火の中で死んだと解ると、底の抜けるような大笑いをして帰りました」
定吉の話で、東海坊の法力なるものの正体と、それをめぐる恩怨の渦が次第に判るような気がします。
「ところで、護摩壇の下の抜け穴だ。あれを知らなかったとは言わせない。誰と誰が知っていたんだ」
「……」
定吉と左門次は顔を見合わせて黙り込んでしまいました。
「それくらいの事は言えるだろう。誰と誰が抜け穴のあることを知っていたんだ」
「……」
頑固な沈黙がつづきます。
「親分さん」
「あ、大徳屋さんか」
「私から申しましょう」
大徳屋は静かに膝を進めます。
五
「え? お前さんが知っているのかい」
平次も少し予想外でした。世間の噂では、娘の病気は治ったが、それから東海坊にだまされて、下谷一番という身上《しんしょう》の半分は痛めたろうと言われる大徳屋徳兵衛は、いわば東海坊にとっては、大事な|だまし《ヽヽヽ》相手で、このお客様に抜け穴の秘密を知らせるはずはないように思ったのです。
「御不審は御尤《ごもっと》もですが、先達様――東海坊は、そんな気の小さい方じゃ御座いませんでした。――俺は知ってのとおりどんな病気でも治す力があるんだから、諸人助けのために、少しは細工もする、みんな手伝ってくれ、――とこう仰しゃって、ここに居るほどの人数は、大抵抜け穴のことを聴かされております。定吉さん、御厩様、それに棟梁も、越後屋さんも――」
徳兵衛は一座を見渡しながら指を折るのです。誰も抗弁するものはなく、合槌《あいづち》を打つものもありません。
「そう打ち開けてくれると大変有難い。――ところで、あの騒ぎの真最中――というよりは壇の四方に火を掛ける頃、これだけの人数は大抵顔を揃えて居たことだろうな」
「……」
十幾人顔を見合わせて、お互いに探り合いました。
「騒ぎの真最中といっても、東海坊が壇に登ってから、枯柴に火を掛けるまでだ」
平次は注《ちゅう》を入れます。
「親分、その前に龕灯返しの仕掛けを塞ぎゃしませんか」
ガラッ八はそっと袖を引きました。
「いや、仕掛けに変わりのないことを見窮《みきわ》めずに、東海坊は火を付けさせるものか。曲者が穴にもぐり込んだのは東海坊が壇に上がってから枯柴に火をかけるまでの間だ」
平次の言うことは自信に満ちて居ります。
「確《しか》としたことは判りませんが、油を掛けたり、火をつけたり銘々受持ちがあって、ちぐはぐにならないようにしますから、私共二人ずつ四方に分かれて居りました。私と御厩様、越後屋さんと大徳屋さん、棟梁と小兵衛さん宇太松さんと五郎次さん――」
定吉は指を折りながら説明するのです。
「祈祷がきかなくて、東海坊の悪口ばかり言って歩いたという門前町の文七と伊勢屋の利八は、抜け穴の事を知らないだろうな」
「さア、そこまでは解りません。何分そんな事は一向気に掛けない東海坊様でしたから、火伏せの行などといって諸人をだますのは、言わば火遁の術で、衆生済度《しゅじょうさいど》の方便だと思い込んでいらっしゃいました」
定吉の説明する、東海坊の人柄はますます怪奇です。狂信者型の人間には、そんなのもあるのか知らと銭形平次も首を傾けました。
「ところで、みんなの手を見せてくれ」
咄嗟《とっさ》に平次が合図をすると、八五郎と浅吉が手を貸して、十数人の掌《てのひら》を三方から調べ始めました。
「あわてて拭いたって、追っ付くかい、馬鹿野郎ッ」
越後屋の番頭の五郎次は、したたかに浅吉に頬桁《ほおげた》を殴られて、キョトンとして両掌を挙げました。
一人一人調べて行くと、嘗《な》めたように綺麗なのは、一番弟子の東山坊こと定吉と御厩左門次と女達。泥と炭でひどく汚れているのは、大徳屋の主人徳兵衛と、棟梁の竹次。あとの五六人は薄汚い程度で、格別、炭も泥も付いては居ず、洗った様子もありません。
「洗ったのか」
平次は定吉の顔を見詰めました。
「ヘエ、ひどく汚れましたので」
「俺も洗ったが、悪いか」
御厩左門次は、なにか突っかかりそうな物言いです。平次はそれに取り合わず、
「八、こんどは着物だ、手伝ってくれ」
「さア、一人ずつ立ってみろ」
おびただしい灯明の前に、一人ずつ立たせました。
定吉も左門次も、徳兵衛も竹次も、火を消すのを手伝って、少しずつは着物が汚れておりますが、狭い抜け穴を潜ったと思われる程のはありません。わけても汚れているのは定吉で、一番綺麗なのは身だしなみの良い徳兵衛です。
六
それから五六日、銭形平次は八五郎以下の子分や下っ引を動員して、定吉、左門次、徳兵衛、竹次、文七、利八、その他関係者を洗いざらい調べ抜きました。
日頃の行状、金まわり、東海坊との関係、一つも漏《も》らしません。抜け穴の仕掛けの下に石と材木を積んだのは、咄嗟の間の細工で、女や子供には出来ない芸とにらみ、調べはもっぱら男に集中しましたが、それでも、東海坊をめぐる女の一群に関心を持たない平次ではありません。
東海坊という修験者は、経文一つ読めないような、無学|鈍根《どんこん》の男ですが、生得不思議な精神力の持主で、――今日の言葉で言えば、自己催眠という類のものでしょう。憑依《ひょうい》状態になって熱祷をこめると、気の弱い信者達の病気は、不思議にケロリと癒るのでした。
この種の邪教的な気根の持ち主らしく、東海坊も女犯《にょぼん》にかけては、大概の醒臭《なまぐさ》坊主に引けを取らず、妾二人を蓄《たくわ》えてるほか、講中の誰彼に手を出して、絶えず問題を作りますが、そんな不始末は不思議なことに狂信者達を驚かさなかったのです。
「親分、三河島の親分は、とうとう挙げて行きましたよ」
ガラッ八の八五郎は、息を切って飛び込みました。事件があってから七日目の朝です。
「誰だ、文七か、利八か」
平次も少し気色《けしき》ばみます。
「一番弟子の定吉ですよ。――近ごろあの野郎にも人気が出たから、師匠の東海坊が死ねば、そっくり跡を継いでうまい汁が吸えると思ったんでしょう」
「そいつは三河島の兄哥《あにき》の見当違いだ。定吉は東海坊の介添えで、壇の正面をちょっとも離れなかった」
「でも、枯柴へ油をかけて火をつけた時は、みんなそれに気を取られて、定吉が居なくなっても、ほんのしばらくなら気はつきませんよ」
「八、お前にしちゃうまい事を言ったぜ。火をつけた時はみんなそっちへ気が外れるから、定吉なんかに目もくれる者はない――とね、なるほどそれに違いない」
平次は妙なところへ感心しました。
「――お前にしちゃ――は気に入らないね、親分」
「贅沢を言うな、それで沢山だ。――定吉に気がつかないくらいだから左門次にも、徳兵衛にも、竹次にも気がつかなかったわけだ。待てよ、東海坊が壇に登って、薪に火をかける前に、曲者が穴へ潜り込んだと思ったのは俺の間違いかな」
「親分、感心して居ちゃいけません。それじゃ、定吉が下手人ですかい」
「いや違う。定吉は変てこな白い着物を着ていた。あの扮《なり》じゃ穴へ潜れない。手を洗ったのは一応臭いようだが、本当に穴に潜った奴なら、手を洗うとかえって疑われるくらいのことに気が付くだろう。曲者は手を洗わない奴だ」
平次の推理は微《び》に入り細を穿《うが》ちます。
「それじゃ、あの浪人者も?」
「あれは怪しい。が、腕が出来そうだ。東海坊が気に入らなきゃ、細工をせずに斬って捨てるだろう」
「なるほどね」
「東海坊の祈祷がきかなくて、一人っ子に死なれたという、門前町の文七が一番怪しい。あの日どこに何をしていたか、――近ごろ東海坊の悪口を言わなくなったか。そんなことをよく聴き込んで来てくれ――」
「そんな事ならわけはねエ」
「あ、ちょっと待った八。それからもう一つ、あの日道灌山へ、大徳屋徳兵衛は夏羽織《なつばおり》を着て来なかったか、それを訊いて来てくれ」
「ヘエ――」
ガラッ八の八五郎は何がなにやらわけも解らず、闇雲《やみくも》びに飛出してしまいました。
「お静、羽織を出してくれ。ちょっと下谷まで行って来る」
何時にもなく羽織を引っかけた平次、それから下谷一円を廻って髪結床《かみゆいどこ》、湯屋、町医者と、根気よく訪ねました。
日が暮れて帰って来ると、八五郎は一と足先に戻って、――待ち人来たらず――を絵で描いたように、入口の格子に凭《もた》れて頤《あご》を長くしております。
「あ、親分。待ってましたぜ」
飛び付くような調子。
「嘘を突きゃがれ。一と足先に帰ったばかりじゃないか」
「どうして、それを」
「路地の口へ干したカキ餅を引っくり返されて、煎餅屋《せんべいや》のお神さんブウブウ言いながら、半分くらい拾い込んだところへ俺が帰ったんだ。あんな粗相をするのは、この路地の中に一人も住んじゃ居ないよ」
「ヘッ」
八五郎まさに一言もありません。
「ところで、何を拾って来た」
「下手人は門前町の文七に違いありませんよ、親分。あの日道灌山へ行っていたことはみんな知っているし、護摩壇の下に抜け穴のあったことも、前から知っていたって本人が言うそうですよ」
「それから」
「今でも滅茶滅茶に東海坊の悪口を言って歩きますよ。あの野郎が焼け死んだのは天罰だ。もう三月も生きていたら、この文七が殺すはずだった――って」
「三月は妙に刻《きざ》んだね」
「無尽の金が取れるから、東海坊を叩き斬った上、倅の骨を持って高野山へ行く気だったそうですよ。自分が下手人だと白状しているようなものじゃありませんか」
ガラッ八は勢い込んで説明をつづけます。
「それッきりか」
「これっきりでも縛れるでしょう、親分」
「よし、よし、文七は無尽の金が取れるまで逃げるような心配はあるまい。まずそれは安心して置いて、――ところで、大徳屋はあの日夏羽織を着ていたのか」
平次は夏羽織の方に気を取られて居る様子です。
「着て居たそうですよ。多勢の人が見て居まさア。小紋の結構な羽織で」
「谷中へ引揚げた時はそれを着て居なかったね」
「ヘエ――」
「それで解った。八、一緒に来ないか、面白いものを見せてやる」
「どこへ行くんで、親分」
「どこでもいい」
平次は疲れた様子もなく、ガラッ八を伴れてまた下谷へ取って返したのです。
七
平次が訪ねて行ったのは、下谷一番と言われた、油屋の大徳屋でした。
「誰も聴いちゃ居ないでしょうな」
平次は煙管を出して一服つけると、静かにこう切り出しました。
「ここは離室《はなれ》で、誰も聴くはずはありません。娘も奉公人も母屋《おもや》で、廊下を人が来るとすぐ知れますよ。――一体どんな御用で、親分?」
物々しい空気に圧倒されて、徳兵衛の唇の色は少し変わりました。が、大店《おおだな》の主人らしい鷹揚さは失わず、どんな事を言い出されても驚くまいとするように、膝に置いた手は、犇《ひし》と単衣《ひとえ》を掴んでおります。
「ほかではない。――東海坊を自滅させたいきさつ、あっしはみんな知っているつもりだ。が、なろう事なら本人の口から言ってもらいたい」
平次の言葉はこの上もなく静かですが、釘を打ち込むように相手の肺腑《はいふ》に響く様子です。
「それは?」
「いや弁解は無用だ。――言いにくければ、あっしが代って言おう。いきなり縛って突き出すのはわけもないが、聴けば娘のお菊さんの婚礼が明日に迫って居るという話。その前の晩に縄付を出しちゃ気の毒だと思うから、わざわざやって来たようなわけさ」
「親分さん」
「大徳屋さん。――あっしは下谷中を駈け廻って、七日の間にこれだけの事を探り出した。違っているなら違っていると言ってもらいたい――大徳屋の一人娘下谷小町と言われたお菊さんは、父親の手一つで育ったが、なんの因果《いんが》か二つの疾《やま》いがあった。一つは癲癇《てんかん》で、一つは――これは言わない方がいい。若い女にはこの上もない恥ずかしい病気だ」
「……」
「あらゆる医者にも診せ加治《かじ》祈祷の限りを尽くしたが、十九の春までどうしても癒らなかった。嫁入りも婿取りも諦めていると、江戸で五番とは下らぬ大町人室町の清水屋総兵衛の倅《せがれ》総太郎がみそめて、人橋架《ひとはしか》けて嫁にくれるか、それがいやなら、持参金一万両で婿にきてもいいという話だ。当人のお菊も親のお前さんも乗り気になった。この縁を逃してなるものかと思ったが、悲しいことにお菊には人に明かされない病気がある」
「……」
徳兵衛は深々と首を垂れて、平次の論告を聴き入るばかりです。
「フト人の噂で聴いた東海坊の祈祷、これを頼むと不思議に験《げん》があって三月経たないうちに二つの悪病がケロリと癒った。お前さんも、お菊も、天にも登る喜びで、さっそく婚礼の話を進めたが、――どっこい、東海坊は自分の法力を諸人に知らせるために、癒した病人のことを、みんな言い触らす癖《くせ》がある――」
「……」
「これにはさすがに驚いた。危うく言い触らされそうになって、幾度止めたかわからない。しまいには、百両、三百両、五百両と、鰻上《うなぎのぼ》りに口止め料を取られ、下谷一番の油屋と言われた大徳屋の身上も、このままで行っては年一杯も保《も》ちそうもない」
「……」
「もう一つ悪いことに、娘の病気のことを言われたくなかったら、当人を谷中の堂へ奉公に出せ、――と東海坊が言い出した。それに相違あるまい」
「……」
平次の論告はここまで来ると一段落で、しばらく口を緘《つぐ》んで、徳兵衛の出ようを見ました。行灯の燈芯はジ、ジと油を吸って、夏の虫はもう庭で鳴いている様子。勢い込む八五郎の息づかいだけが異常に荒々しく聴こえます。
「そのとおりでございます、親分さん。秘《ひ》し隠したことをよくそれまでお判りになりました。全く恐れ入りました」
徳兵衛は畳の上に手を突いて、力が抜けたようにガックリとお辞儀をするのです。
「で、抜け穴から入って、龕灯返しの仕掛けを塞ぎ、東海坊を自滅させたというのだな」
平次はくり返して自滅という言葉を使いました。
「そのとおりでございます。火が燃え上がって、みんな壇の方に気を取られたとき、案内知った茶店の床下に飛び込み、壇の下の穴の中に捨ててあった、石と材木の切れ端で仕掛けの下を塞ぎ、大急ぎで出て来ると、誰も気の付いた者はない様子です。穴の中でひどく汚れた羽織は脱いで、畳んで娘の風呂敷の中に入れ、心にとがめられながらも、誰知るまいと思っておりました」
「……」
こんどは平次が聴き手になりました。火が燃え上がってから、誰も気の付かなかった『時間』のあったことや、夏羽織を気にしていた親分の慧眼《けいがん》を、今さらガラッ八は思い当たった様子です。
「親分さん、決して逃げも隠れもいたしません。――が、たった三日だけお見遁《みのが》しを願います。娘の祝言が済んでしまったら私は――」
徳兵衛は悲痛な顔を挙げるのです。娘の祝言が済んだ後で自首して出たとして、その娘が無事に嫁入先に納まるでしょうか。
「それはむずかしい」
平次のむずかしいと言うのは、三日縄を伸ばしてくれと言う言葉に対するものではなかったでしょう。
「東海坊が娘の病気を言い触らしたら、この縁談は破れるばかりでなく、娘は生きて居ないでしょう。そうかと言って、自分の子ながらあんなに綺麗に育った娘を獣のような東海坊にくれてやる気にもなりません」
「よく解った」
「親分」
「たった三日だよ」
平次は立上がりました。後ろには畳の上に伏し拝む徳兵衛、ボロボロと泣いている様子です。
「八、行こうか」
「ヘエ」
廊下の嫁入りの調度の中へ二三歩踏み出した時でした。
「あれは、親分」
母屋《おもや》と離室《はなれ》をつなぐ廊下の真中に坐って、何やら蠢《うごめ》く姿が遠い有明の灯《あかり》に見えるのです。
「番頭じゃないか」
「お」
番頭の宇太松――まだ若くて働き者らしいのが、脇差を自分の腹に突立てて、のた打ち廻っているではありませんか。
「親分さん、――私だ。東海坊を殺したのは、この私、――宇太松でございますよ」
手負いは苦しい息を絞りました。
「何? そんな馬鹿な事が――」
平次と八五郎は、宇太松を左右から抱き起こしました。主人の徳兵衛も驚いて飛んで来ます。
「抜け穴を塞いだのは、この私でございます――誰でもない、誰でもない。この、この、宇太松でございますよ」
尽きかける気力を振い起こして、血潮の中にのた打ち廻りながら、宇太松はひたむきにこう言いきるのでした。
「宇太松、お前は、お前はまア。どうしたということだ」
大徳屋の徳兵衛は夢心地に突っ立ったきり、自分の代りになって死んで行く気の、宇太松の動機さえ判らない様子です。
「旦那、――私は死んでも思い置くことはございません。あんな山師を自滅させて、諸人の迷惑を取除けば」
「よく判った。――番頭さん、なにか望みはないか」
平次は宇太松の耳に唇を寄せて、次第に頼み少なくなる気力を呼びさましました。
「なんにもない――ただ、――お嬢様には、なんにも言わない方がいい。――お嬢様には、私が、私が、なんで死ぬ気になったということも、お嬢様に」
言ってはならぬ恋を身に秘めて、宇太松は死んで行くのです。
「宇太松、――有難いぞ。お前のお蔭で――」
徳兵衛の言葉は涙に絶句《ぜっく》しました。
この騒ぎも明日と言う幸福な日を迎える興奮に夢中になっている母屋のお菊には聴こえなかったでしょう。
三人は、息の絶えた宇太松の前に、黙りこくったまましばらく頭を垂《た》れて坐り込みました。長い長い人生のうちにも、滅多にこんな厳粛《げんしゅく》な気持になる時間はないものです。
*
「可哀想なことをしたね」
帰り途、平次はガラッ八にこんな事を言うのです。
「あっしも泣いてしまいましたよ」
とガラッ八。
「番頭が腹まで切らなくたって、――俺は徳兵衛をどうして助けようか、そればかり考えて居たのに、――三日待つというのを、本当に取って、身代りに死ぬ気になったんだね。俺は三百年も待つ気だった」
平次は沁々《しみじみ》と言うのでした。
「でも、あの番頭にしちゃ、生きている気はなかったかも知れませんぜ。お嬢さんが明日祝言だと聞いちゃ」
ガラッ八は妙に思いやりがあります。
「なるほどな、独り者は察しが良い。――あの娘は綺麗過ぎるから、自分の知らない罪を作っていたんだろう」
「それが親を助けることになるとは、変なめぐり合わせじゃありませんか」
平次は黙ってうなずきました。妙につまされる晩です。
青い帯
一
その晩、代地のお秀の家で、月見がてら、お秀の師匠に当る、江戸小唄の名人|十寸見露光《とすみろこう》の追善の催しがありました。
ちょうど八月十五夜で、川開きから三度目の大花火が両国橋を中心に引っ切りなしに打ち揚げられ、月見の気分には騒々しいが、その代わりお祭り気分は申分なく満点でした。
追悼《ついとう》と言ったところで、改まった催しではなく、阿呆陀羅経《あほだらきょう》みたいなお経をあげ、お互いに隠し芸を持ち寄って、飲んで食って、花火が打ち止んだ頃お開きにすればそれでよかったのです。神祇釈経恋無常《じんぎしゃくきょうこいむじょう》を一緒くたにして、洒落《しゃれ》のめしてその日その日を暮らしている江戸時代の遊民達は、遊ぶためには法事も祝言も口実に過ぎなかったのです。
お秀は代地の船宿の娘で、今年二十四の咲き過ぎた年増でしたが、自分の容貌に溺れて、嫁《とつ》ぎ遅れになり、両親の死んだ後は、船宿の株を人に譲って、あり余る金を費《つか》い減らすような、はなはだ健康でない生活を続けているのでした。
折悪しくその日は昼過ぎから大夕立、一しきりブチまけるように降りましたが、暮れ近い頃から綺麗に上がって、よく洗い抜かれた江戸の甍《いらか》の上に、丸々と昇った名月の見事さというものはありません。
話はその大夕立の時から始まります。
お秀と仲良しで、向柳原の油屋の娘お勢という十九になる可愛いのが、少しでも早く行って、お秀さんに手伝って上げようと思ったばかりに、うっかり傘を忘れて飛び出し、柳橋の手前であの大夕立に逢ったのです。
ブチまけるような雨足で、逃げも隠れもする隙《ひま》がありません。夢中で飛び込んだ軒下は運悪く空店《あきだな》で、その先は材木置場、二三軒拾って安全な場所へ辿《たど》り着くまでに、お勢の身体は川から這い上がったように、思いおくところなく濡れておりました。
この夏、母親にねだって拵《こしら》えてもらった、単衣の帯が滅茶滅茶になって、泣きたいような心持ですが、どうすることもできません。一度家へ帰ってともかく乾いたのと着換えて来ようと、小止みになった雨足を縫って歩き出すと、ちょうどそこへ、蛇の目をさして通りかかったのは、同じお秀のところへ行く、お紋と言う二十二三の中年増でした。
「まア、お勢ちゃん、大変ねエ――その姿で町を歩くと、身投げの仕損ないと間違えられるわよ。お秀さんの家は直ぐそこだから、ともかく浴衣《ゆかた》でも借りて帰っちゃどう?」
「そうね」
お勢もツイその気になりました。
天がカラリと上がって、ピカピカしたお天道様が顔を出すと、グショ濡れの姿で江戸の町を――十九の娘が歩けようはずもありません。
お秀の家へ行くと、お秀は痒《かゆ》いところに手の届くような親切さでした。
「まア、ひどい目に逢ったのねエ、お勢ちゃん。気味が悪くなかったら、これを着てお出でよ、気に入ったら、お勢さんに上げてもいいくらいなの」
そんなことを言いながら、お秀が自慢で着ていた、空色|縮緬《ちりめん》の単衣と、青磁色《せいじいろ》の帯とを貸してくれました。
お勢は好意に甘えるような心地で、濡れたものの乾くまで借り着で間に合わせる外はなかったのです。
「少し地味だけれど、よく似合うじゃないの。家へ帰って着換えして来るなんて言わずに、気味が悪くなかったらそのまま着てらっしゃいよ。私はこのとおり、同じ柄の新しいのがあるんだから――」
お秀はそう言って、自分のしめている同じ青磁色の帯を叩いて見せるのでした。空色の単衣に青磁色の帯は、紫陽花《あじさい》のような幽邃《ゆうすい》な調子があって、意気好みのお秀が好きで好きでたまらない取り合せだったのです。
日が暮れきって、花火がポーン、ポーンと競い鳴る頃から、客が寄り始め、やがて月が河向こうの家並みを離れる頃には、十幾人の顔が揃って、大川を一と目の部屋に、酒と歓声が盛りこぼれました。
困ったことにお勢は、大夕立に洗われて冷え込んだものか、その少し前から、ひどい腹痛を起こして、賑やかな席にも顔を出さず、階下の四畳半に、キリキリと差し込むのを抑えて、たった一人|悶《もだ》えておりました。
「困ったワねえ、お医者を呼ぼうかしら」
忙しい中から、お秀はときどき差しのぞきましたが、その度毎にお勢は、
「いえ、なんでもないの、すぐ癒るから、そっとして置いて下さい」
唇《くちびる》を噛みながらも、たって辞退するのです。――「お勢ちゃんはそう言ったけれど、やはりお医者に診てもらった方がよかったかも知れない。でも、その時はお客が後から後からみえるし、手が足りないし、お万は気がきかないし、本当にてんてこ舞いだったから、気になりながらツイ放って置いて、本当に済まなかったと思います」――後でお秀は言うのです。
ひとわたり酒が済んで、持ち寄りの芸尽しが始まりましたが、二度目の夕立が来そうな空合いで、一座はなんとなく落着かない心持でした。円タクも人力車もなかった時代、夜中に降り出されたら、遠方へ帰る人達は、全くみじめな目に逢わなければなりません。
義理一ぺんの客が帰って、親しい人達だけ残ったのは戌刻半《いつつはん》(九時)過ぎ、これからまた盃を改めて、夜と共に騒ごうという時、
「あッ、た、大変」
階下から精いっぱいに張り上げた者があります。
「なんだ、何が大変なんだ」
お秀、お紋を始め、客の菊次郎、猪之松、五助など、一団になって飛降りると、下女のお万という十七の娘が、梯子段の下に腰を抜かして見得も色気もなく納戸《なんど》の前の四畳半を指しているのでした。
二
「なんという騒ぎだろうね、お前は」
お秀は小言をいいながら、お万の指の向いた方、四畳半を覗いて、
「あッ」
と立竦《たちすく》んでしまいました。部屋半分ほどもひたした血潮の中に、丁子《ちょうじ》の溜った行灯がほの暗く灯《とも》って、その明かりのなかにお勢は、細身の匕首《あいくち》で背中を刺されて、俯向《うつむ》いたまま死んでいるではありませんか。
「お勢ちゃん」
飛び込んで抱き起こしたのは、お秀の家の向うに、小さい炭屋の店を持っている猪之松でした。
「可哀想にねエ」
その後ろから覗いたのは、とかくの噂の絶えないお紋の、白粉の濃い顔です。
気丈者の女主人お秀は、自分の家に起こったこの惨劇に顛倒《てんとう》して、ただもうウロウロするばかり、枡田屋《ますだや》の若旦那菊次郎は、真っ蒼になってガタガタふるえるばかりです。
騒ぎは一瞬にして、町内一パイに拡がりました。年配の巴屋五助が、差配を執《と》ってお勢の家へ人を走らせたり、町役人に届けさせたり、一方家中の者の口を封じて、無制限に拡がって行く危険な噂の伝播《でんぱ》を防ぎましたが、こうなっては何ほどの役にも立ちません。
その間に、ちょうど花火の人混みを見まわしていた三輪の万七と、お神楽の清吉が乗込んで来ました。
「油屋の娘が殺されたそうじゃないか、現場へ案内しろ」
少し権柄ずくで、五助を促《うなが》し立てます。その後姿を見送って、
「お万――猪之さんのことを、――言うんじゃないよ」
下女のお万に囁いたお秀の言葉が、フト、万七につづくお神楽の清吉の耳に入ってしまったのです。
「猪之さんと言うのは誰だ」
清吉の腕は逃げ腰になるお万の襟髪に掛りました。
「何? お向こうの炭屋の猪之松だ?――それがどうしたと言うんだ」
功名にあせりきっている清吉は、ツイお万の襟《えり》をこじ上げるのです。
「あッ、苦しいッ、言いますよ、親分――猪之さんは、嫁に欲しがっていたんですよ」
「それからどうした」
清吉は責め手を緩《ゆる》めようともしません。
一方、四畳半に飛び込んだ親分の万七は、物馴れた調子で、たった一と目で大体の様子をみて取ると、あとは組織的に、一局部局部へ、抜かりのない検索眼を注ぐのでした。
「この匕首は誰のだ」
お勢の背、――左肩胛骨《ひだりかいがらぼね》の下に突立った細身の匕首を、万七は指すのです。
誰もいません。多分その問いを予期して、その場を外したのでしょう。
「清吉、その女を締め上げてみろ」
「ヘエ――」
清吉の手は容赦もなくお万の襟を締めて行きます。
「言う、言いますよ――その匕首は、猪之さんのだよ。二三日前夜店の古道具を冷やかし損ねて買って、見せびらかしに来たんだもの――忘れるものか。痛てえや――親分。そんなに喉《のど》を締めたって、あとはなんにも知らねエよ」
お万はペラペラとやってしまいます。
「猪之松というのはお前だな――御慈悲を願ってやる、神妙にせいッ」
万七の十手は、そこにぼんやり突っ立った、炭屋の猪之松の肩をピシリと叩きました。
「じょ、冗談じゃありません。匕首は私の品だが、お勢を殺したのは私じゃありませんよ」
抗《あら》ごう猪之松は、馴れた万七の手にたぐり寄せられました。
「そいつはお白洲で言うがいい、来い」
万七は容赦もなく引っ立てます。
「親分さん、それは違います。猪之さんは人なんか殺すものですか」
主人のお秀は見兼ねて飛び出しました。が、自分の手柄に陶酔した万七や清吉の耳に入るはずもありません。
「匕首が独りで背中へ突っ立ったわけじゃあるめえ、――この通り、障子の外から突いた様子だ」
万七が指さしたのは、死骸の後ろの障子――ちょうど二階から手洗場に通う廊下をちょっと入った辺りで、下から三尺ほどのところに、匕首で突いたらしい血潮に染んだ穴があいているのです。
「清吉、その野郎を番所へつれて行って、ひと責《せ》め責めてみろ」
万七は猪之松を顎で指さしました。
三
その翌る朝。
「親分、腹が立つじゃありませんか」
ガラッ八の八五郎は、この騒ぎを銭形平次のところへ報告して来たのです。
「腹の立つような筋はあるめえ――それとも、油屋のお勢が殺されて口惜《くや》しいというのかい。神田じゅうのいい娘《こ》は一人残らず親類筋のような気でいるんだろう」
平次は相変わらず泰然として、湿った粉煙草をせせりながら朝顔の鉢をいつくしんでおります。
「お勢と親類でもなんでねエが、お神楽の清吉とは敵《かたき》同士で」
「何をつまらねえ」
「けさ柳橋で顔を合わせると――お膝元の殺しを知らずにいるようじゃ、銭形の親分も焼きが廻ったね――て言いやがる」
八五郎は本当に腹が立ってたまらない様子です。
「言わせて置けばいいじゃないか、焼きが廻ったにちげえねえよ。今年の朝顔は、去年のよりどうみてもひとまわり小さい」
「嫌になるぜ、親分。朝顔なんざ、盥《たらい》ほどに咲かせたって、公方様《くぼうさま》から褒美が出るわけでもなんでもねエ。それより両国から代地へかけては銭形の親分の縄張り内ですぜ」
「十手捕縄に縄張りがあるものか、放って置け」
「でもね、親分」
「せっかく三輪の兄哥《あにい》が手柄にしているなら、それでいいじゃないか」
平次はてんで相手にもしなかったのです。
が、事件は思わぬきっかけから、新しい発展をみせて、その日のうちに、銭形平次が出馬することになりました。
「あの、あの」
平次の女房のお静が、濡れた手を拭き拭きお勝手から顔を持って来ました。何時までたっても娘らしさを失わない、優しくも可憐《かれん》な女房振りですが、それだけに、御用のことに口を容れるのを、ひどく平次が嫌うので、なにか人に頼まれた余儀ないことでもあると、こう言ったおどおどした調子になるお静だったのです。
「なんだえ」
「あの、お秀さんがちょっとお願いあるんですって」
「お秀さん?」
「代地のお秀さん――船宿の――」
「来たよ、親分」
ガラッ八は素っ頓狂な声を出しました。
「……」
平次は黙り込んでしまいました。お静が水茶屋に奉公している頃の顔馴染《かおなじみ》には相違ありませんが、こう言った肌合いの女――金が有り余って、意気とか通とかを持薬《じやく》にしている、遊芸のほかに生活興味のない人間と付き合うのを、平次は決して喜んではいなかったのです。
「でも、ちょっとでも逢って上げて下さい」
お静はガラッ八が見ていなかったら、手でも合わせたことでしょう。
「よし、一応話だけは聴いてやろう。ここへ通すがいい」
平次は渋々ながらお秀に逢ってみる気になりました。
代地のお秀は、お静と同じ年の二十四、物の影のように静かで、そのくせ傍に寄るほどの男に、情熱の体温を感じさせずには措かない不思議な肌合いの女です。
「親分さん、本当に困ってしまいました。三輪の親分はすっかり勘違いして私の言うことなどには耳も入れてくれません」
お秀はそう言って、美しい掌《て》を膝の上に重ねるのです。
「何を勘違いしているんだ。まア、お前さんの知っているだけのことを話してみるがいい」
事件に直面すると、平次もツイ膝を乗り出さずにはいられません。
「炭屋の猪之松さんは、三年前に故郷から出て来て、村でできる炭をさばく心算《つもり》で店を開いたんです。江戸のことが分らなくて、お得意様と話もできないからと、私のところへ出入りしてお芝居へもお花見にも付き合い、近ごろは小唄の一つも唸《うな》るようになりました。人なんか殺すような、そんな大それた人じゃございません」
お秀は一生懸命に猪之松の無実を説くのです。
「殺されたお勢を嫁に欲しがったそうじゃないか」
「そんなことがあるものですか。お勢ちゃんの方で、なんとかおもったかも知れませんが――」
お秀は少し頑《かたく》なに頭を振るのです。
「じゃ、他にお勢を怨む者でもあると言うのか」
「親分、お勢ちゃんは、間違って殺されたんじゃないでしょうか」
「間違って殺された?」
「え、お勢ちゃんは、そりゃいい娘《こ》なんです。男からも女からも可愛がられていたし――人に怨まれる筋なんかなかったんです」
「……」
「あの大夕立で濡れて、私の着物を着て、私の帯をしめたお勢ちゃんが、お腹を痛くして、薄暗い四畳半で休んでいるのを、障子の隙間から覗いた人があったら、てっきり、この私と間違ったのも無理はありません」
お秀は不思議なことを言うのです。
「すると、お勢はお前と間違えられて、殺されたと言うのか」
「え、そうとでも思わなきゃ――お勢ちゃんが殺されるはずはありません」
「お前は始終二階にいて、みんなと顔を合せていたはずじゃないか。薄暗い四畳半にいるのを、お前と間違えるのは変じゃないかな」
「でも、私は始終|階下《した》へ降りて、お勝手の指図をしました。板前もお万もいるけれど、私が顔を出さなきゃ、料理が途切れたり、酒が冷えたりします」
「……」
「空色の単衣《ひとえ》と青い帯を見ると、誰でも私と間違えます。薄暗い四畳半にいるのを私と思い込んで、障子の外からひと思いに突いたとしたら――」
お秀はそう言って襟をかき合せるのでした。さすがにそこまで想像すると、ゾッと肌寒いものを感ずる様子です。
「匕首はどこにあったんだ」
「猪之さんが忘れていったのが、廊下の棚の上に置いてありました」
「誰でもわかる場所か」
「低い棚ですもの、一と目で分ります」
「変な場所へ刃物を置いたものじゃないか」
「でも匕首なんか、箪笥《たんす》へ入れたら、なお気味が悪いじゃありませんか」
「そう言ったものかな」
女の心の動きは、銭形平次にも読みきれないものがあります。
「ともかく、一度親分の目で見て下さいませんか。猪之さんが人殺しで送られちゃ、あんまり気の毒です」
「行ってみるのはわけもないが、その前に見当だけでも付けておきたい。いったいお秀さんを殺すほど怨んでいるのは誰だい」
「……」
お秀は黙ってしまいました。江戸娘の粋《すい》と言ったお秀は年こそ少し取り過ぎましたが、ずいぶん思いも寄らぬ罪を作っていそうな美しさでした。
四
平次の旨を承《う》けて、現場へ飛んで行ったガラッ八は、昼少し前にはもう、鬼の首でも取ったような勢いで帰ってきました。
「分りましたよ、親分」
「何が分ったんだ」
「何もかも、みんな分ってしまいましたよ」
「そいつは豪儀《ごうぎ》だ。順序を立てて話してみるがいい」
「ゆうべお勢は戌刻《いつつ》(八時)過ぎまで無事だったそうですよ」
「誰が見たんだ」
「お秀は客の帰るちょっと前、少しばかりの隙を見付けて、お万に葛根湯《かっこんとう》を煎《せん》じさせて、四畳半へ持って来させて飲ませたそうです。客の帰ったのは二度目の夕立が来かかった戌刻半《いつつはん》(九時)で、後に残ったのは、家の近い猪之松と五助と菊次郎とお紋だけ、この顔ぶれは平常《ふだん》から別懇にしているから、腰を据えて飲み直すときめて、小用に立ったり、着物を直したり、盃を改めたり、しばらくザワザワしてから、賑やかに飲み直したそうです――主人役のお秀は、そのあいだお勝手で板前に二度目の料理のことを打ち合せたり、お万に指図して、二階から帰った人の膳を下げたり、それから後は二階へ坐り込んで四|半刻《はんとき》(三十分)ばかりの間、四畳半を覗かなかったというんです」
「フム」
「すると、お勢を殺したのは、戌刻《いつつ》過ぎまでの間に下へ降りた者の仕業《しわざ》じゃありませんか」
「よく分った話だ。誰が下へ降りたんだ」
「みんな一度ずつは小用に立ちましたよ。五助も、菊次郎も、猪之松も、お紋も」
「それじゃなんにも分らない」
「でも、お紋はお勢が濡れたことも、お秀の着物や帯を借りたことも知っているからお秀と間違えて殺すようなことはないでしょう」
「お勢と知って殺せば別だろう」
「お勢とお紋は無二の仲ですよ――お勢は一時菊次郎に絡《から》み付かれて、閉口してお紋に助け舟を出してもらったくらいだから」
「まアいい、それからどうした」
「お秀の言い種《ぐさ》じゃないが、猪之松も人を殺すような人間じゃありません。それに、わざわざ自分が忘れて行った匕首で、そんなことをする馬鹿もないでしょう。その上、猪之松が上州から来たのはお秀の世話ですよ。炭焼きの倅の猪之松を上州から呼んで資本《もとで》を出して炭屋の店を持たせたり、顔の広いお秀が、いろいろ口をきいて御得意をふやしてやったり、ずいぶん恩になっていますよ。その恩人のお秀を猪之松が殺すはずはないじゃありませんか」
「情事《いろごと》は別だよ、八」
「それも考えましたがね。お秀は猪之松を好きで好きでたまらない様子ですぜ――ぼんやりしているのは猪之松の方で」
「フーム」
「すると、お秀を殺す気になるのは、いい歳をしている癖に、お秀を何とかしようと思っている巴屋の五助と、お秀にひどく弾《はじ》かれた菊次郎と、この二人のうちということになりはしませんか」
「そんなものかな」
「こいつはお紋の話ですが、ことに菊次郎は小用を足しに階下へ降りて、ひどくあわてた顔をして二階へ帰ったそうですよ」
「五助は?」
「五助もその前に降りたが、これは平気な顔をしていたそうです」
「お秀は?」
「お秀はお勝手の用事を済ませてすぐ二階へ来たが、三味線なんか弾いて、少し浮かれていたそうです」
「ところで、昨夜の花火は早仕舞いだったな」
「え、戌刻《いつつ》前に、空模様が悪くなったんで、つづけ様に揚げきったようですよ」
「それでよかろう」
これだけのことを訊き了ると、平次はまた粉煙草をせせりながら、深い考えに沈みました。
「菊次郎と五助を挙げてみましょうか、親分」
ガラッ八は少しじれったくなりました。
「いや、そんな手軽なものじゃあるまい。も少し待つがいい」
五
その日の夕景近くなってから、銭形平次はとうとう御輿《みこし》を上げました。
代地のお秀の家へ行くと、
「お、銭形の親分」
お神楽の清吉は入口に関《せき》を据えて、富樫左衛門尉みたいな顔をしております。
「お神楽の兄哥《あにい》、ちょっと見せてもらうよ」
平次は蟠《わだかま》りのない態度でヌッと入りました。それに続くガラッ八、これは少しばかり肩肘《かたひじ》が張ります。
間取りの具合などは、大方八五郎に訊いておりますが、平次の馴れた眼で見ると、いろいろ考え直すこともあります。お勝手は入口の左手へグッと遠く建って、右手には二階への梯子段《はしごだん》があり、その梯子段の下を廻ると、便所に通じますが、二階から便所への往来にお勢の殺されていた四畳半を覗くためには、少しばかり横の廊下へ入らなければなりません。
問題の四畳半は昼でも薄暗く、中の死体は油屋で引き取りましたが、何もかもそのまま、障子に着いた血も、匕首で刺した穴までが、肌寒くなるような不気味さです。
平次は中へ入って一と目見渡しました。長押《なげし》の裏、押入、煙草盆――と丁寧に見て来たうえ、吐月峰《はいふき》を覗いて何やら腑《ふ》に落ちない顔をしております。
「親分、どうしました」
とガラッ八。
「お勢は葛根湯《かっこんとう》を飲まなかったらしいよ、吐月峰の中は薬で一杯だ」
「ヘエ――?」
「お万を呼んでくれ」
言うまでもなく、ガラッ八は飛んで行って、お勝手から山出しらしい下女をつれて来ました。
「なんだね、親分」
「ゆうべ、お勢が葛根湯を飲むところを見たのか」
平次の問いは不思議でした。
「見ませんよ。この四畳半の入口でお嬢さん(お秀)に渡しただ」
「その時お勢は確かに生きていたんだね」
「お嬢さんと話していなすったよ。生きていたに違いなかんベエ」
「苦しそうだったかい」
「お勢さんの声は低かったよ」
「この障子の血や穴は?」
「その時はなかったよ。それから二階へ何べんも行ったが、二階で三味線の音がして、二度目の酒盛りが始まるまではこんなものはなかったよ。一番お仕舞いの銚子《ちょうし》を持って行くときこの血に気がついたんだ。驚いて四畳半を覗くと――」
お万はその時の凄まじい光景を思い出したらしく、ゴクリと固唾《かたず》を呑みます。
「もういい――ところで八、この穴は少し高すぎるとは思わないか」
「ヘエ――?」
八五郎は平次の言うことがよく分らなかった様子です。
「障子越しに突いたのなら――その時お勢は気分が悪くて座るか、横になるかしているはずだから、もう少し低くなきゃならない。これではお勢が中腰になっていたことになる」
「なるほどね」
「それに、血の撥《は》ねようも少ないじゃないか。障子越しに人間を突いたら、こんなことじゃあるまい――これじゃまるで後で血をなすったようなものだ」
「ヘエ――?」
「八、気の毒だが油屋へ行って、お勢の傷を見て来てくれ。刃が上を向いてるか下を向いてるか」
「それだけですか、親分」
「それから、お勢が近ごろ懇意にしている男がなかったか――浮気っぽい話でなくても、嫁入りの話がなかったか。それを訊きゃいい」
「ヘエ――」
ガラッ八は相変わらず鉄砲玉のように飛び出します。
「親分、猪之さんは助かるでしょうね」
ソッと後ろから囁くのはお秀でした。
「安請合いはできないよ。恐ろしくこんがらかっているから――ところで、ゆうべお勢が葛根湯を飲むところを見なかったのかい」
平次はまだ葛根湯に取憑《とりつ》かれております。
「後で飲むからと言うんです。湯呑に入れたまま、そこへ置いて、私は二階へ行きましたよ。あの娘は薬が大嫌いだったんです」
お秀はさり気もありません。
六
間もなく足の早いガラッ八は帰って来ました。
「親分、変なことがありますよ」
「何が変なんだ」
「刃が下向きになっていますがね」
「やはりそうか、障子越しに逆手《さかて》で突くはずはない。下向きとすると少しむつかしいぞ」
「それから匕首で刺した痕《あと》が二つあるんです」
「何?」
八五郎の報告はあまりに予想外です。
「背中に並べて二つ、一つは深く、一つは浅く――」
「血の出ている方はどっちだ」
「深いほうが、うんと血が出たようで、肉もハゼていますよ」
「そいつは大変だ」
「どうしたんです、親分」
「新規蒔直《しんきまきなお》しだ。何もかも新しく組立てなきゃ」
廊下に出ると、梯子段に腰をおろして、平次はがっちり考え込んだのです。
それから間もなく、平次とガラッ八は、ゆうべの関係者を一人一人当って歩きました。
巴屋の五助は町内の家作持ちで、四十を越した年配ですが、お秀を後添いに望んでいたという外には、なんの企《たくら》みもなく、昨夜のことも表面に現れたこと以外は何も知りません。
「お秀を怨む者はなかったのかな」
「枡田屋の菊次郎さんが、怨めば怨んでいるでしょう。平常《ふだん》お秀さんと張り合っているお紋だって、あんまりいい心持はしないかもしれませんよ」
こんな話では一向|埒《らち》があきません。
枡田屋の菊次郎はそれに比べると色々のことを知っていました。
「私が一時お秀さんを怨んだことも本当ですが、近ごろあの人は猪之松さんに夢中だから、諦めてしまいましたよ。それに私は、この秋はいよいよお紋と一緒になる約束ですから――」
そう言えばなんの別状もありません。
「昨夜、小用を足して二階へ帰ったとき、ひどくソワソワしていたそうだが、何か変わったことがあったのか」
平次は取って置きの急所を押えました。
「あれを見てしまったんですよ、親分。――うっかり四畳半の障子を開けると、お勢が血だらけになって死んでいるじゃありませんか」
「なぜその時人に言わなかったんだ」
「うっかり喋《しゃべ》って、どんなことになるか分りません、私は恐ろしかったんです」
「そのとき障子に血は着いていなかったのか」
「気がつきません。多分着いてなかったでしょう。いくら面喰っても障子に血が着いていれば見落とすはずはありません」
「お勢へさわってみなかったのか」
「そんな大胆なことができるものですか」
「血が流れていたかい。固《かた》まりかけていたかい」
「チラと見たところでは、血はもう固まりかけたようでした」
「よしよし、早くそれを言ってくれさえすればよかったんだ。そうでないと、お前が縛られる番だったぜ」
「親分」
菊次郎はさすがに蒼くなります。
最後に逢ったお紋は、
「四畳半にいたのが、お勢と知っているのは、お前とお秀とお万だけか」
「いえ、猪之松さんだって知っていますよ」
「それは初耳だが、どうして分った」
平次は少し予想外の様子です。
「好き同士は、匂いでも分りますよ。お勢ちゃんが来ていないので、猪之さんは、それとはなしに家中に眼を配っていたんでしょう。まだ宵の口でした。酉刻半《むつはん》(七時)頃かな、私は何の気なしに四畳半の前を通ると、猪之さんが中へ入って、お勢ちゃんを介抱していましたよ」
「そいつを見たのはお前だけか」
「お秀さんも見たでしょう。私の後から二階へ上がって来て、面白くない顔をしていた様子だから」
「猪之松はお勢と一緒になる気だったのか」
「お勢ちゃんは可愛い娘でしたよ」
お紋は少しばかり妬《や》ける様子です。
「親分」
不意にガラッ八は頓狂な声を出しました。
「なんだ八?」
「するとお勢を殺したのは騒ぎの前に障子へ血をつけることのできる奴――下女のお万の外にないじゃありませんか」
「そんなはずはあるまい、もう少し考えてみることだ。――五助や菊次郎は幾度も階下《した》へ降りている」
平次もこれ以上は手のつけようもありません。
七
その晩のうちに、炭屋の猪之松は帰されて、枡田屋の菊次郎が縛られました。銭形平次の探索振りを見張っているお神楽の清吉は、親分の万七に報告して、望み少なになった猪之松を帰し、その代わり騒ぎの始まる前にお勢の死骸を見ている菊次郎を挙げたのでしょう。
その晩遅く、炭屋の狭い店先で、平次は猪之松にいろいろのことを訊《き》いておりました。
「あの四畳半で、お勢を介抱していたというじゃないか」
「ヘエ、でも、その時分はもう、お勢もすっかり元気で、お秀さんに見られると悪いから、二階へ行ってくれと言っていました」
猪之松は極り悪そうにこんなことを言うのです。山の中から掘り出したような男ですが、健康で若々しくて、正直そうで、本当に野に吹く風か、山に生《は》えた杉を思わせる人柄です。
「お秀に見られちゃ悪いのか」
「ヘエ、お秀さんには恩になっていますから」
猪之松の正直な目が、悲しそうにまたたくのを平次はみのがしませんでした。
「それは戌刻《いつつ》(八時)前のことか」
「酉刻《むつ》(六時)少し過ぎだったでしょう。大きな花火がひっきりなしに鳴って、戸や障子がピリピリしていました」
「ところで、戌刻《いつつ》過ぎに大勢のお客が帰って、改めて飲み始めてからお秀は階下《した》へ降りなかったのか」
「降りなかったようです」
「何をやっていたんだ」
「みんなで騒いでいました。――あ、三味線を持って来ると言って隣の部屋へ行ったようでしたよ」
「それっきりか」
「ヘエ――」
それっきり手掛かりの糸は切れてしまいました。気を揉《も》んだのは八五郎です。
「親分、どんなことになるでしょう」
「俺にも分らない。とにかくお秀の家へもう一度行ってみるんだ」
平次と八五郎がすぐ向うの家へ行った時は、もうすっかり夜更けになって、お秀の家も締めております。
叩き起こすまでもなく、声を掛けただけでお秀は開けてくれました。傾きかけた月明かりを浴びて、青じろくて上品なお秀の顔は、本当に紫陽花《あじさい》のような哀れ深い姿です。
「ちょっと二階を見せてもらいたいが――」
平次はさり気なく梯子《はしご》を踏んでおります。
「どうぞ」
手燭《てしょく》を持って、お秀は案内しました。六畳と八畳の二間つづき、その手前に長四畳があって、奥にはまだ、一と間くらいありそうな造りです。
「梯子はこれ一つしかないのかな」
平次はよく拭き込んだ廊下から、広い梯子段を見おろしました。
「不用心だからもう一つあると言いといいますが――」
お秀は静かな調子です。
「隣の部屋は?――昨夕三味線を取りに行ったというのはここだね」
「え」
唐紙を開けると、そこは三畳の化粧の間で、行止りの壁が一切の手掛かりを封じております。
「大層いい月だな――ここから花火を眺めながら一杯やりたいな、八」
平次はそんなことを言いながら、雨戸を開けて外を見ました。そこは大川へ突き出すように花火見物の桟敷《さじき》ができていて、危ない梯子で、狭い庭へ降りられるようになっております。
「親分、その梯子は腐っていますよ」
お秀は後ろから声を掛けました。
「なアに、女一人降りられる梯子なら、俺に降りられないことはあるまい」
平次は謎のようなことを言って、危ない梯子を降りると、便所の傍の戸を押しあけて、ソロリと階下《した》へ入った様子です。
同時に、お秀はバタバタと平次の後を追いました。物見台から同じ梯子を降りると、平次の入った戸へ入らずに、小さい庭を横切って黒板塀の潜戸《くぐりど》を押すと、パッと外へ――
「八、気をつけろッ」
続いて八五郎が飛び出した時は、何もかも終わっておりました。潜戸を抜けたお秀の身体は、夜空に弧《こ》を描《えが》いて、大川へ水音高く飛び込んでしまったのです。
「親分」
「えッ、しょうのない徳利《とっくり》野郎だ。少しは泳ぎでも稽古しておけ」
平次が飛び込んだときは、夜の上げ潮はお秀の身体を呑んで捜しようもありません。
*
事件の一埒《いちらつ》が付いてから、ガラッ八にせがまれて、平次はこう説明してやりました。
「意気とか通とかの世界に溺《おぼ》れきったお秀が、山から掘り出したような猪之松を見て、すっかり夢中になったのさ。店を持たせたり、得意をふやしてやったり、いずれは自分と一緒になる心算《つもり》でいると、猪之松はいつの間にやらお勢と親しくなっていたんだ。あの晩猪之松がお勢を介抱しているのを見て、お秀はフラフラとお勢を殺す気になったんだろう。多分それは花火のポンポン揚がっている酉刻半《むつはん》頃だったろう、少しくらいの音は二階までは聞こえない。
お秀は賢すぎる女だから、一たんカッとなって殺したのを、なんとか誤魔化そうとした。葛根湯を飲ませると言って、薬を吐月峰《はいふき》に捨て、その後で殺されたように見せるために、いろいろの細工をした。二階へ坐り込んだ後で、三味線を持って来ると言って、物見台から庭を通って階下《した》の四畳半に入り、死骸から匕首を抜いて障子に細工した上、また死体に匕首を刺すような恐ろしい細工までした。が、下手人の疑いが猪之松へいったんで、びっくりして俺のところへ飛んで来たのさ」
「太てえ女ですね」
「太てえか細いか知らないが、金と暇があり余って、遊芸と浄瑠璃《じょうるり》で教え込まれた女は、どこかに変なところのあるものさ。貧乏と四つに組んで、真剣に子供を育てたり、親に甘いものでも食わせたりすることを考える人間は、そんな馬鹿な気になるものじゃない」
「猪之松は江戸に愛想を尽かして、故郷の上州へ帰るそうじゃありませんか」
「それがいい。――山奥から江戸へ飛び出して、通や意気の世界を泳ごうとしたのが間違いさ。あの男は根がいい人間なんだ。江戸を諦めて上州の山奥へ帰ると、天道様ものんびり照らして下さるよ」
「あっしも上州へでも行きましょうか」
「それもよかろうよ。江戸は人間が多過ぎるから、みんな気が立って、虫持ちになるんだ」
そんなことを言う平次だったのです。
酒屋忠僕
一
「親分、平右衛門町の忠義酒屋というのを御存じですかえ」
「名前は聞いているが、店は知らないよ」
ガラッ八の八五郎はなんかまた事件を嗅ぎだして来た様子です。大きな小鼻をふくらませて、懐から出した掌《て》で、長んがい顎を撫で廻しながら、こんな調子で始めるのでした。
薄寒い日射しが障子に這い上がって、街にはもう暮れ近い賑やかさが脈打っていようというある日の出来事です。
「孝行や忠義は|こちとら《ヽヽヽヽ》に縁はないが――」
「なんという罰《ばち》の当った口を利くんだ、馬鹿野郎。かっぱらいや巾着切を追っ駈けるばかりが能じゃあるめえ、たまには御褒美の出る口でも聴込《ききこ》んで来い」
「ヘエ、せいぜい心掛けますがね、――差当り平右衛門町の忠義酒屋加島屋の話で――」
銭形平次の馬鹿野郎を喰いつけている八五郎は、臆《おく》した色もなく話を続けるのでした。もっとも小言をいいながらも平次は、粉煙草の烟を輪に吹きながら、天下太平の表情で、八五郎の話を享楽しているのです。
「加島屋が暮れの大売出しでも始めるというのか」
「そんな世間並な話じゃありません。が、親分はあの忠義酒屋の因縁《いんねん》を御存じですか」
「いや、知らないよ。お前には小言を言ったものの、俺なんかも忠義や孝行とは縁のない人間かも知れないな」
「もっともお静姐さんは、町内で評判の亭主孝行――」
「馬鹿野郎、亭主の前で女房を褒める奴があるか」
「ヘエッ」
八五郎は月代《さかやき》を撫で上げて、ペロリと舌を出しました。平次の恋女房のお静はなんにも知らずに、お勝手を明るくさせながら、嗜《たしな》みよくお化粧をしております。
「無駄は抜きにして、忠義酒屋の加島屋がいったいどうしたというんだ」
平次は際限なくタガのゆるむ話をもとの話題に引き戻しました。
「ヘッ、相済みません。――その加島屋の娘――二人ありますがね。姉はお咲と言って二十歳、妹はお駒といって十八、姉のお咲は咲き立ての牡丹《ぼたん》のような、良い女ですが、妹のお駒はみっともない娘で――同じ枝に咲いた花が、あんなに違っていたら見世物でしょうが、人間の姉妹だから大した不思議とも思わない――」
「今日はどうかしているぜ八、お前の言うことは一々|疳《かん》にさわるが」
「相済みません。――悪気じゃないんで、勘弁して下さい。――ところでその娘が昨日わざわざ|あっし《ヽヽヽ》のところへ来たとしたらどんなもので、ヘッ、ヘッ」
「嫌な奴だね、姉の方か、妹の方か」
「姉の方だと申分ないんだが、妹の方でしたよ」
「不足らしい事を言うな、新造《しんぞ》がせっかく訪ねて行ったんだ」
「そう思って、精いっぱいお愛想をしましたよ」
「用事は?――まさか八五郎を口説《くど》きに行ったわけじゃあるめえ」
「お察しのとおりで――近ごろ加島屋に妙なことがあるから、来てみてくれ――とこういうぼんやりした話でしたよ」
「どんな事があるんだ」
「姉さんの、――あの綺麗なお咲が、誰かに狙《ねら》われているようで、気味が悪くて叶わないというんで」
「それっきりか」
「ヘエー、それっきりだから話になりません、唯もう何となく怖くて怖くてたまらないんだそうで」
八五郎の話はつかまえどころもありません。
「そのお咲というのは病身じゃないのか」
「|きりょう《ヽヽヽヽ》も良いが、身体も丈夫ですよ、少し位のことを気に病む質《たち》じゃありませんが、この夏頃から変なことが続くんだそうです。物干し場へ上がると、手摺が外れていて、屋根へ転げ落ちそうになったり、夜なんか外へ出ると、誰かきっと後ろから跟《つ》いて来たり――」
「……」
「それだけなら大して気にもしなかったでしょうが、ツイ二三日前、雪が降りましたね」
「フーム」
八五郎の話は妙に飛躍します。
「夜のうちに五六寸降って、朝はカラリと晴れたでしょう。あの雪景色を見ると、加島屋の主人は下手《へた》な歌なんか作ってみたくなったんですね、町内の胡麻摺《ごます》りや野幇間《のだいこ》を集めて急に雪見船を出すことになりました」
「フーム」
話がだいぶ面白くなりそうで、平次もツイ乗り出しました。
「船の支度が出来て、両国橋の下に舫《もや》ったのは戌刻《いつつ》(八時)少し過ぎ、結構な短冊に下手っ糞な歌などを書いていると、お料理やお燗の世話をしているお咲の頭の上へ、薪割《まきわり》が一挺、凄い勢いで落ちて来たというじゃありませんか」
「怪我は?」
「さいわい薪割は少しはずれて、お咲の肩をかすって水の中へ落ちました。それっと船の中の者が立ち上がりましたが、両国の橋げたの欄間《らんま》に舫《もや》った船から、橋の上が見える道理はありません」
「薪割はどこのだ」
「水の中へ落込んで、この寒空じゃ捜しようはありません。もっとも加島屋の物置にあったはずの古い薪割が一挺なくなっていたそうで」
「その時刻に店を出た者はないのか」
「多勢の奉公人で、誰が外へ出たか、はっきりは判りません。唯、これだけは言えますよ、番頭の清兵衛は帳場を動かなかったし、手代の喜三郎――この男は忠義酒屋の綽名《あだな》の主で、江戸中でも評判になった心掛けの良い男ですが、その騒ぎの最中にちょうど船へ弁当を運んで来たそうですから、この二人にだけは疑いが掛らなかったわけです――喜三郎は船へ来るとひどく腹を立てて裸になって大川へ飛び込んで薪割を捜すと言い出してみんなに留められたそうで」
「曲者は加島屋の家の者に違いあるまい。が、こいつはむずかしいな」
平次も腕を組みました。これだけの事件では、銭形平次が乗り出すわけにも行きません。
二
「ところで、その忠義酒屋の因縁をお前は知っているだろうな」
平次は妙なことを訊きました。
「知ってますよ。神田から浅草へかけて知らないものはありゃしません」
「ところが、口惜《くや》しいが俺は知らない。神田っ子の名折れになるといけないから、筋だけでも通してくれ」
「お安い御用で、三味線抜きでやりましょうか、ヘッ」
「馬鹿だなア、気取ったって木戸銭は出ないよ」
「平右衛門町の酒屋、加島屋の子飼いの手代で喜三郎。こいつが大の忠義者で、内儀《おかみ》さんが患《わずら》ったときは観音様へ暁方のお百度詣りをしたとか、寒中に水垢離《みずごり》を取ったという話もありましたが、それほどの信心でも定命《じょうみょう》に勝てなかったものか、内儀《おかみ》さんは二年前に亡くなりました」
「それっきりか」
「まだありますよ。この春は、主人の金兵衛が傷寒《しょうかん》を患《わずら》って危ないと言われましたが、喜三郎はその枕元に付きっきりで、六十日のあいだ帯も解かなかったそうですよ」
「フーム、大した辛棒だな」
「主人はその看病のお蔭で病気が癒って、お礼心に百両という金をやったが、喜三郎は涙を流して受取らなかったということで――それでは主人の命を百両という金に代えたようで気が済まないから――というんだそうです」
「なるほど」
「あんまり心掛けが良いので、平右衛門町小町と言われた、娘のお咲の婿《むこ》にして、加島屋の跡取りにしようとしたが、これも辞退をして受けなかったそうで、――それというのは、喜三郎は江戸で一番の心掛けの良い男だが、|あばた《ヽヽヽ》で、見る蔭もない醜男《ぶおとこ》です。こんなみっともない者と一緒になったら、お嬢さんはきっと長いあいだに嫌になるだろうというんだそうで――罰の当った野郎じゃありませんか、鏡と相談して縁談を断わるなんて、男のすることじゃありませんね」
「お前とは少しばかり心掛けが違うようだ、――それにしても少し遠慮が過ぎるね」
「あんまり心掛けの良いのも気障《きざ》ですね。ともかく、喜三郎の人気は大変なもんですよ、近所ばかりでなく、神田、下谷、浅草へかけて、忠義酒屋と言えば知らないものはありゃしません」
八五郎がこんな話を持って来てから四五日経ちました。暮れの気分の忙しさに紛《まぎ》れて、ツイ『忠義酒屋』の話を忘れるともなく忘れていると、
「親分、とうとうやられましたよ」
八五郎はいつもの平次の不精をとがめるような調子で飛び込んで来ました。
「何がやられたんだ」
「お咲ですよ」
「えッ」
「平右衛門町の小町娘をローズ物にしゃがって癪《しゃく》にさわるじゃありませんか」
八五郎の報告はいつになく穏かでした。――大変ッ――の旋風《せんぷう》を吹かせて飛び込む元気もなかったのでしょう。
「行ってみよう、八」
「あんな娘を殺すような野郎は、一日も放っちゃ置けません。――昨日もあっしが様子を見に行くと、――八五郎親分御苦労様、本当に恩に着ますよ、お茶が入りましたから、どうぞ――って、小菊に包んで落雁《らくがん》を五つ――」
「泣くなよ八、大の男が天道様に照らされて泣くのはみっともよくないぜ」
「でも、口惜しいじゃありませんか、親分」
そんな事を言いながら、二人は平右衛門町に急ぎました。まさか八五郎は泣きもしなかったでしょうが、ひどくがっかりして居たことは事実です。
三
加島の騒ぎは、全く上を下へという形容詞のとおりでした。
ガラッ八の注進が早かったので、平次が行った時はまだ土地の御用聞も来ず、お咲の殺された現場も手付かずで、平次流の観察や調べごとにはこの上もなく誂《あつら》え向きです。
主人にも、店の者にも挨拶を交す隙《ひま》もなく、八五郎に案内さして平次はいきなり現場に飛び込みました。
店からは遠く、母屋《おもや》の一部には相違ありませんが、南向きの一番端っこの六畳がお咲の部屋で、その手前が妹のお駒の部屋、それから婢《おんな》どもの部屋、この三つの部屋が境の戸で仕切られて、それから手前へ廊下続きに番頭や手代や若い男達の部屋が店近く列《なら》んでおります。
「これは」
障子を開けてたった一と眼、物馴れた平次もさすがに唸《うな》りました。それほどお咲の死は凄惨で、それほど痛々しかったのです。
床《とこ》から抜け出し加減に、小町娘の怨みに燃える眼は、天井の一角を見詰めております。顔は少し脹れて、美しさはひどく損ねましたが、喉笛を圧された死骸は、ひどい苦悶の跡を留めるにしても、生まれ付きの美しさに救われて、そんなに醜いものではありません。
多分下手人はお咲の布団の上に馬乗りになって、両手の恐ろしい力で、この造化の大傑作とも言うべき美しい娘を扼殺《やくさつ》したのでしょう。白い円い首筋に、印された恐ろしい指の跡が、曲者の図太さと、その兇暴さをまざまざと語っているのでした。
有明の行灯の下で、美しい眼一パイに溢れた苦悶と、怨みの視線を浴びながら、この娘を殺す人間の冷たさ虐《むご》たらしさを、平次は腹の底から憎くならずにはおられません。
「これほどの事に、誰も気が付かなかったのだな」
「今朝、下女のお秋が雨戸を開けに来て気が付いたそうです」
側から応えたのは八五郎でした。
「銭形の親分さん、あんまりひどい殺しようで、私は腹わたが煮えくり返るようです。なんとか早く下手人を縛って下さい。――申しおくれましたが、私は主人の金兵衛でございます」
月代の光沢《つや》の良い五十二三の中老人は、平次の前に頭を下げました。
「お気の毒だね。こんな娘を――」
平次はそう言いながら、片手拝みに死骸から離れました。寝巻きや布団の贅《ぜい》は、町人には少し奢《おご》りの沙汰と思われるほどで、主人金兵衛の溺愛《できあい》ぶりが思いやられます。
「ところで――」
平次は四方を見廻しながら続けました。幸いそこにはしばらく人が絶えて、奉公人達は遥かにこの座を避けた様子です。
「――こんなことを訊いても無駄かもしれないが、家の中で殺された娘を怨むものはなかったかな」
「怨む者なんかあるわけはありません。娘は誰へも一様に親切にしておりました」
その誰へも一様に親切にしたことが、案外若くて美しい娘に取っては命とりの原因だったかも知れません。
「少し立ち入った事を訊くようだが、ことに親しくしていた者は――」
「それもなかったと思います。もっとも聟《むこ》になりたいものは多勢ございました」
「例えば」
「外では日本橋の佐渡屋の若旦那、浪人の染井五郎様、伊豆屋の弟御」
「店の者では?」
「手代の国松、安五郎などで――二人とも人を頼んで養子になりたいという申入れがありましたが、私も娘も不承知で断わりました」
「喜三郎というのがいるそうだが――」
「あれは感心な男で、私から娘の聟にと望みましたが、――お嬢さんの気に染むはずはないから――とはっきり断わりました」
主人金兵衛の、喜三郎に対する信用は宏大でした。
「戸締りは?」
平次は縁側に立って、冬枯《ふゆが》れの小さい庭を眺めやりました。
「私は用心深いほうで、戸締りは一々自分で見廻りますが、決して手落ちや間違いはなかったはずでございます。今朝下女のお秋が開けた時も、少しも変わったところはなかったそうで」
「あの庭じゃ外からは足跡をつけずに入られませんよ」
ガラッ八の八五郎は、霜解《しもど》けのひどい庭を指しました。それに昨夜は暖かで凍らなかったので、下手人が外から来たとすれば、足跡を残さずには近づけなかったでしょう。
平次は部屋を出て、縁側を逆に店の方へ戻ってみました。お咲を殺したのは、明らかに男の強い掌《て》の力ですが、この屋根の下に寝ているのは主人の外に国松、安五郎、喜三郎の若い男達と、五十男の番頭の清兵衛だけで、主人と清兵衛を除けば、国松、安五郎、喜三郎の三人に限定されることになります。
四
縁側の尽きるところで、平次はハタと当惑しました。
「この戸は?」
「女どもの部屋と若い男達の部屋とを分けるために、夜分はその戸を締めておきます」
「締めるのは誰の役目で」
「締めるのも、開けるのも、お秋の役目でございます」
「するとこの戸からこっちには、二人のお嬢さんと――」
「下女が二人、お秋とお竹が寝《やす》んでおります。飯炊きのお定はお勝手の隣に寝ておりますから」
「そのお秋とお竹を呼んでもらおうか、一人ずつ」
平次の声に応ずるように、店の方から来たのは十五六の小柄な娘でした。
「あれがお秋で」
平次は黙ってうなずきながら、
「昨夜この戸が開いていたはずだな、お秋」
いかにもそれは唐突《とうとつ》でしたが、一言の弁解も許さぬ態度です。
「でも、お竹さんが、自分で締めるからと、たって言いましたから」
主人の顔を盗み視ながら、お秋の声は蚊の鳴くように小さくなります。
「そんな事はときどきあるのか」
「いえ、五日に一度、十日に一度ぐらい」
「誰を誘い入れるんだ」
「私は――」
ハッと赤くなって、モジモジしているお秋を、この上追及しても駄目とみたか、
「お竹を呼んでくれ、今のことは黙っているんだよ」
「ハイ」
お秋は虎口《ここう》をのがれでもしたように、店の方へ引返します。
「あの、私に御用だそうで――」
入れ換わって来たのは二十二三の大年増ですが、商人の家の奉公人にしてはひどく厚化粧で、物言う毎に少し歪《ゆが》めて白い歯をチロリと見せる唇は、やや下品ではあるが媚《こび》をさえ含んで、なかなか美人でした。
「ときどき夜中にお前のところへ忍んで来るのは誰だ」
「え?」
「白ばっくれるな、種はみんな挙がっているぞ」
「でも、お嬢さんの部屋へは参りません」
「そりゃ当たり前だ、お前と逢引した男だけは、間違いもなくお嬢さん殺しの下手人ではなかったはずだ」
「……」
「安五郎か、国松か、それとも喜三郎か」
「まさか」
お竹はひどく喜三郎を軽蔑《けいべつ》している様子です。
「喜三郎はそんな男じゃない、――やはり国松か安五郎だろう」
「……」
「お前が言わなきゃ、二人とも縛って、つれて行くほかはない、後で怨まれても知らないよ」
「申上げますよ、親分」
「誰だ」
「安五郎さんで――まア極りが悪い」
お竹は袖で自分の顔を隠して、バタバタと店の方へ帰りました。
「ところで八、その縁側がよく鳴るようだな」
平次は縁側ばかり歩いている八五郎に声を掛けました。
「まるで、鶯張《うぐいすば》りだ、この縁側をそっと歩くには忍術《にんじゅつ》の心得が入るね」
ガラッ八はよく鳴る縁側を歩きながら、そんなことを言っております。
「陽が入るので、板が詰まってしまいましたよ」
金兵衛は苦笑いをしております。
「こうなると、殺された死骸があって、下手人がないということになりそうですね」
それはまったく八五郎の言うとおりでした。
つづいて平次は母屋《おもや》に寝んでいる三人の若い男にも逢ってみることにしました。合図一つすると、ガラッ八がつれて来たのは加島屋を有名にした忠義者の喜三郎です。
「お前は喜三郎というんだね」
「ヘエ」
黒|あばた《ヽヽヽ》で思いきって醜い男ですが、その代わり物柔かで腰が低くて、丈夫そうで、典型的な頼もしい奉公人です。
「昨夜なにか気の付いたことはなかったか」
「なんにも存じません。私はよく寝る方でヘエ」
「お前の評判は大層なものだが、お咲の聟になるのまで断わったのは、遠慮が過ぎはしないか」
「ごもっともでもございますが、私はこのとおりで、若くて綺麗な女とは縁がございません。親の威光《いこう》で一緒にされても、後でイヤなことが起こるのは眼にみえております」
「そんなものかな、そこまでは|こちとら《ヽヽヽヽ》は考えられないが――ところで、なにが望みでお前は働いているんだ」
「望みと申しましても――御主人への御恩返しの外には考えてもみません。それにゆくゆくは暖簾《のれん》を分けて下さると仰しゃいますので、小さい店でも持った時のために少しずつは貯《たくわ》えもふやし、商売の駈引きも見習って置きたいと存じます」
「お前は幾つなんだ」
「二十五でございます」
「厄《やく》だな、ところで、ゆくゆく店でも持つとして、いくらくらい溜ったんだ」
「ヘエ――」
「何百両とか言うんだろう」
「とんでもない親分、せいぜい三十両くらいのものでございます」
「幾歳から奉公しているんだ」
「十三の春からでございます」
「十三年の間に三十両か」
「ヘエ――」
平次はこの驚くべき奉公人を黙って見詰《みつ》めるほかありませんでした。
五
次に逢ったのは安五郎でした。
「お前はゆうべお竹に逢っていたそうだな」
「ヘエ」
安五郎はこの一言ですっかり萎気《しょげ》てしまいました。三十前後の背の高い男で、喜三郎に比べると男振りは見事ですが、その代わり気の廻りも鈍《にぶ》く、遊び心だけは相当に猛烈らしくみえます。
「お竹とは前から馴染《なじ》んでいるのか」
「ヘエ――この春からでございます」
「境の戸はお竹が開けてくれるんだろう」
「ヘエ――」
「お前の外に誰か女の部屋の方へ入ったものはなかったのか」
「一向気が付きませんが」
この上何を訊いても、この男から引出せそうもありません。
最後に逢ったのは国松という手代でした。色の浅黒い、キリリとした男で、二十七というにしては少し老けておりますが、何となく油断のない面構えで、逢って話していると、妙に強《したた》かな感じを与えます。
「お前はここへ奉公して幾年になるんだ」
「今年で十五年になります」
「何が望みだ」
「……」
この平次の問いには、国松もさすがに驚いた様子です。
「その男は、私の死んだ女房の遠縁で、格別眼をかけておりますが」
見兼ねた様子でそっと囁いたのは主人の金兵衛でした。
「養子にでもするつもりで?」
「いや、とんだ口強馬《こわうま》で、私の手には合いませんよ」
主人と平次は囁き交わします。
それを小耳に挟んだのでしょう、国松の眼はキラリと光りました。
「お咲を殺した下手人の心当たりはないのか」
平次は改めて国松に訊きました。
「私にわかるわけはありませんよ」
お前は十手捕縄を預かっていてもわからないじゃないか――と言った調子です。
平次はこれ以上追及する気もないらしく、案外手軽に帰してしまいました。
「あの野郎が一番変じゃありませんか、親分」
八五郎はその頑《かたく》なな感じのする後姿を見ながら、唾《つば》でも吐きたいような調子です。
「御主人、奉公人たちの持物を調べたいが、構わないでしょうな」
「ヘエへエどうぞ御自由に」
平次はそれから一刻《いっとき》ばかり、国松、喜三郎、安五郎を始め、お秋、お竹などの荷物を念入りに調べました。
一番金を持っていたのはお竹で、これは三十両余り、一番少ないのは喜三郎、三十両の貯蓄《たくわえ》は主人に預けてあるそうで、自分の手にはほんの二分か一両だけ。国松は十両余り。安五郎は五両そこそこで、その代り変てこな字でなすくった恋文が一と束、代々の女中に渡りをつけて居たことがわかって、すっかり主人を怒らせてしまいました。
「親分、喜三郎の部屋の押入に、ひどく汚れた着物が入っておりましたよ」
「どれどれ、こいつは寝巻じゃないか、寝巻に乾いた土と煤埃《すすほこり》をうんと付けているのは変だね」
平次は万筋《まんすじ》の地味な寝巻を念入りに調べて居ましたが、それっ切りもとの押入に返させました。
「人間一人確かに殺されているんだから、どこか忍び込む道があるんだろう。――ところで一度俺は両国へ行ってみようと思うが」
「ヘエ」
「お駒を誘い出してくれ。一緒につれて行って訊きたいことがある」
ガラッ八は飛んで行きましたが、まもなく妹娘のお駒をつれて来ました。姉のお咲とは似もつかぬ不|きりょう《ヽヽヽヽ》ですが、色が黒くて愛嬌《あいきょう》もあって、健康そうで利発者で、なんとなく好感の持てる娘です。
「ゆうべ気の付いたことはないか、――例えば縁側を誰か通った――と言った」
「いえ、私はたいへんに寝坊で」
お駒はそう言って赤い顔をするのです。昼のうちよく働くせいでしょう。
「ところで、喜三郎はお前の姉さんのことをなんとも思ってはいなかったのか」
「思って居ましたよ、可哀想にあの人はあんな様子ですから、それを口に出しては言えなかったんです」
「姉さんの方は」
「ひどく嫌っていました。喜三郎の噂をすると顔色を変えたほどで」
「国松の方は」
「一時姉さんの聟にという話もあったようですが、姉さんが嫌いでそれっきり話は立ち消えになったようです」
「国松は姉さんを怨《うら》んでいるだろう」
「さア――」
十八娘のお駒にとっては、これ位のことを言うのが精いっぱいの様子です。
三人はいつの間にやら両国に来ておりました。
平次は船を一艘出させて、八五郎とお駒を乗せていつぞやの雪見船の居た場所に繋《つな》がせ、自分は橋の上からしばらく様子を見ておりましたが、予《かね》て用意した石を二人のいる船の側へ投げると、大急ぎで橋の袂を廻って、船へやって来ました。
「どうだ、八」
「待っているとずいぶん手間取りますね、煙草二三服というところですよ」
「ところで、あの日、薪割《まきわり》を放ってから、喜三郎が雪見船へ来るまでの間はどれくらいかかっているんだ」
平次は改めてお駒に訊きました。
「すぐでしたよ、こんなにはかかりません。薪割が姉さんの肩をかすって水へ落ちたので、総立ちになって大騒ぎをしたのと、喜三郎どんが重箱を背負《しょ》って船へ飛び込んだのと一緒でした。喜三郎どんは、まだブクブク泡の立っている水を眺めて、裸《はだか》になって飛び込んで、それを拾って来ると言い出したんです」
お駒の観察は行届いて居りました。が、橋の上から船へは、平次が試みたより早く来る方法はありません。
「喜三郎じゃないな」
「……」
「だが、もう一つ術《て》がある。来い八」
「ヘエー」
三人はまた大急ぎに平右衛門町に引き返しました。
六
「八、お前は家中の者を見張っていてくれ。逃げ出す奴があったら縛っても構わないよ」
「ヘエー、親分は?」
「少し恰好は悪いが天井へ潜り込むよ――提灯を借りて来てくれ」
「まだ昼前ですよ」
平次は提灯に灯を入れると、いきなりお咲の部屋の押入に潜り込みました。
「布団がなくなると、出入りが自由だ。時々やったとみえて、ろくに埃《ほこり》も落ちないよ」
平次は押入の上の板を動かして居りましたが、動くのを一枚見付けると、簡単に天井裏に潜り込んでしまいました。
そこへ入ってみると、案外どこからともなく明かりが射すので、眼が馴れると提灯にも及びません。
音のしないように梁《はり》を伝わって行くと、煤埃《すすほこり》の中に道は自然に付いて、二間先へ平次を導いてくれます。
それはこの上もなく不思議な探検でした。が、下の縁側から曲者が入った形跡がないとすれば縁の下と天井裏の外に通路はありません。
縁の下はこの場合問題でなく、天井裏と気が付くと、平次はすぐその探検に取りかかったまでのことです。
梁の上から見定めて、部屋部屋の押入の上のあたりをみると、重しの石の動いているのや、埃のないのがよくわかります。
ここぞと思うところの裏板を上げて、そっと押入に降りてみると、
「野郎ッ、逃げる気かッ」
廊下では八五郎が、ドタリバタリと組討ちの真最中です。
「八、その野郎だ、逃がすな」
つづいて押入から飛び出した平次、八五郎の組み敷いたのをみると、それがなんと、忠義酒屋の看板で奉公人の亀鑑《きかん》のように思われていた、喜三郎の絶望と屈辱《くつじょく》に歪む恐ろしい顔ではありませんか。
「私じゃない、人、人違いだ。私じゃありません」
物狂わしく最後の抵抗をつづける喜三郎を、ともかく二人がかりで押えて、一と間につれ込みました。
「喜三郎、みっともないぞ、観念してみんな話せ。お咲を殺したのは誰だ、お前は、知っているはずだ、――言わなきゃお前が下手人だ」
「……」
「いや、俺はお前が下手人だと言って居るわけではない、――知ってることをみんな話してみろ」
平次の調子には、妙に涙を含んだようなしんみりしたところがあります。
「親分」
「どうだ、喜三郎、少しは気が静まったか」
「親分、私は口惜《くや》しい」
荒れ狂っていた喜三郎が、急に静かになると、サメザメと泣き始めました。
「何が口惜しいんだ、言ってみろ」
「親分、私は忠義者なんかじゃありません」
「それも解っている、お前は主人と相談ずくで、忠義の芝居をしていたのだろう。加島屋の店の評判をよくするために」
「親分――」
恐ろしい明察の前に、喜三郎は首を垂れました。
「百度詣りも寒垢離《かんごり》も、みんな芝居に違いあるまい、――お前は私の顔をまともに見ることも出来なかった――」
「親分さん、私は気が弱かったのです、主人にそう言われると、気に染まないことでも否《いや》とは申せませんでした。帯を解かずに六十日、主人の介抱をしたというのも大嘘で、私と旦那は毎晩|玉子酒《たまござけ》を拵《こしら》えて楽しんでおりました」
「……」
「こうなればもう、みんな申上げてしまいます。百両の礼金を辞退したというのも嘘、最初からそんな金なんか見たこともありません。お嬢さんの聟を辞退したというのも嘘、――何もかも嘘で固めたことで、旦那もお嬢さんもそんなことを承知するはずもありません」
それは恐ろしい告白でした。お咲殺しの疑いから免れようともがいた喜三郎は、自分の潔白を示すのに急で、胸の中に蟠《わだかま》っていた長いあいだの鬱屈《うっくつ》を、一ぺんに吐き出してしまったのです。
「忠義酒屋の評判が高くなって、店は繁昌するし、私はとんだ人気者になり、往来を歩いてさえ人様に指を差されるようになりましたが、私の身になると、こんなイヤなことはありませんでした。『忠義酒屋の喜三郎』――なんという嫌な名でしょう、私はそう言われるたびに嘔気《はきけ》がするほど胸が悪くなりました。その上お嬢さんは、チンチンやお預けをするように、私をからかっちゃ独りで面白がっております」
「……」
「口惜《くや》しいと思っても、私はどうすることも出来ません。そのうちフト天井裏伝いに、お嬢様の部屋の押入へ行けることに気が付き、毎晩あの押入まで忍んで行っては、せめてお嬢様の寝顔を見るのを楽しみにしておりました。恥ずかしいことですが、忠義者にされて猿芝居《さるしばい》の猿のように暮らしている私にとっては、それが人知れぬ気儘《きまま》な楽しみでございました」
哀れな忠義者は、過酷《かこく》な運命と強い意思とに引摺《ひきず》られながら、こんな異常な楽しみに、わずかに自分の生活を見出して居たのでしょう。
「ところで昨夜はどんな事があった」
平次はようやく問題の重点に入りました。
「私がお嬢様の部屋の押入にいるとき、誰か廊下を歩く音がしました。安五郎どんが、お竹と外の廊下へ出た後です。私は旦那が見廻りに来たのかと思って、びっくりして押入から天井に這い上がりましたが、しばらく経ってもひっそりしているのでもう一度押入へ戻ってみると――」
「しばらくというと、どれほど経ってからだ」
「四|半刻《はんとき》(三十分)くらいだったと思います――すると」
喜三郎はゴクリと固唾《かたず》を呑みながら続けました。
「――部屋の中にはお嬢さん一人で、誰も見えませんでした。少し床から抜け出して、変な恰好だなとは思いましたが、あの時まさかお嬢さんが死んで居ようとは思いません――それっ切り私は自分の部屋へ帰ってしまいました」
喜三郎がここまで話して来ると、
「八、解ったよ」
「誰です下手人は」
「もう一つ聞きたい、近頃この家へ養子が来ることになっているはずだろう」
平次は妙なことを訊ねます。
「ヘエ、日本橋の佐渡屋の若旦那が、三千両の持参金で乗り込むはずでございます」
「その前は養子の口がなかったのか」
「私が辞退したことになっているので、遠縁の国松どんが、養子になるだろうと言われておりました、本人もその気だったようです」
下手人の輪郭《りんかく》が次第にはっきりして来ました。
「もう一つ――雪見船を出した日、お前の後か先かに店を出た者はなかったのか」
「国松どんが私の後から店を出たようです」
喜三郎の話が終わると一緒に、
「親分」
ガラッ八はもう立上がっておりました。
*
お咲殺しの下手人は、手代の国松でした。これは八五郎の手で召し捕られて、まもなく処刑されましたが、『忠義酒屋』の加島屋は、忠義が人気取りの芝居とわかって、江戸っ子の反感を買い、悪評のうちにみるみる没落して行きました。
数年の後、忠義者の猿芝居を打った喜三郎は、醜いが人柄の良いお駒と夫婦になって、わずかに加島屋の店を保って行ったということです。
その当座、平次は八五郎の問うがままに、こんな調子に説明してくれました。
「喜三郎は気が弱かったが、悪人じゃない。悪いのは主人の金兵衛と、国松だよ。雪見船に薪割を放《ほう》ったのは、喜三郎のせいにしようと思ったらしいが、少し早過ぎたので、かえって喜三郎の無実の証拠になったのさ」
「ヘエーなるほどね」
「喜三郎が押入から天井裏へ出て、お咲の部屋へ行くのを、国松は感づいたのさ。安五郎とお竹が逢引《あいびき》しているわずかの隙にお咲の部屋に忍び込んで、あんな虐《むご》たらしいことをし、それから喜三郎の寝巻を土埃と煤で汚しておいたんだろう。ところが天井裏は思いのほか綺麗で、あんなに着物が汚れるはずはなかったんだ」
「……」
「国松は利巧者で、つまらない細工の好きな方だったが、それでも悪い奴は器用な細工をすればするほど尻尾を出すことになるんだね。――だが忠義の猿芝居は嫌だったな。商人の人気取りも、あすこまで行けばアクが強過ぎて笑えない」
平次はつくづくそう言うのでした。
隠し念仏
一
「親分、親分が一番憎いのはなんとか言いましたネ」
ガラッ八の八五郎、入って来るといきなりお先煙草の煙管《きせる》を引寄せて、こんな途徹《とてつ》もないことを言うのです。
初秋の陽足《ひあし》は畳の目を這い上がって、朝ながら汗ばむような端居《はしい》に、平次は番茶の香気をいつくしみながら、突拍子もない八五郎の挨拶を受けたのでした。
「おれが憎いと思うのは――年中お先煙草を狙う奴と、鼻糞《はなくそ》を掘って八方へ飛ばす奴と、埃《ほこり》だらけな足で人の家へ入る奴と――それから」
「もうたくさん。わかりましたよ、親分」
「遠慮するなよ、もう少し並べさしてくれ、こんな折でもなきゃ俺とお前の仲でも思いきったことは言えねえ」
「おどろいたね」
「毎々おどろくのは俺の方だよ。庭へ唾《つば》を吐くのも憎いし、髷《まげ》の刷毛《はけ》先を、無暗に左へ曲げるんだって、可愛らしい好みじゃないぜ」
平次は八五郎の面喰った顔を眺めながら、ニヤリニヤリと読み上げるのです。
「そんな事で勘弁しておくんなさい。あっしの棚おろしはいずれ暇で暇で仕様のない時のこととして――」
「今日は暇で暇で仕様がないんだよ。でも、俺が数えるのを、一々自分のことと気が付くところを見ると、八五郎も満更じゃねエ」
「冗談じゃありませんよ、――まるで小言を食いに来たようなものだ。ね、親分。親分の大嫌いな子|さらい《ヽヽヽ》がありましたよ。親の嘆《なげ》きを考えると、子さらいほどの罪の深えものはないと、親分は言ったでしょう」
「その子さらいがどこにあったんだ」
平次もようやく真剣になりました。トボケたことを言いながらも、八五郎の鼻の良さがなかったら、不精者の平次はあぶれてばかり居ることでしょう。
「それも可愛らしいのが二人、一ぺんに見えなくなったんで。神隠しにしちゃ欲張り過ぎるから――」
「お前のいうことは一々変だよ、――どこの子が居なくなったんだ。それを先に言わなきゃ」
「なるほどね、そいつが一番大事だったんだ。親分も御存じでしょう。湯島の生薬屋《きぐすりや》で上総屋《かずさや》宗左衛門の孫、お千代という八つの娘と、新吉という六つの男の子が二人。母屋《おもや》から蔵へ通う廊下で、煙のように消えてなくなったんだが」
「それは何時のことだ」
「昨日のことですよ、ちょいと行ってみて下さい。金や物を盗られたのと違って、親たちの嘆きはたいへんだ。見ちゃ居られませんよ」
平次はとうとう口説き落とされました。
「よし、それほど言うなら行ってやろう。二人一緒に行方不知《ゆくえしれず》になるのは、よっぽど深いわけのあることだろう」
銭形平次は手早く支度をして、八五郎と一緒に昼近い街へ出ました。
紅葉《もみじ》にはまだ早く、江戸の空は澄みきって、本郷台の秋は言いようもなく快適です。
上総屋宗左衛門というのは、山の手きっての大きい生薬屋で、世間なみの草根木皮のほかに、蘭方の家伝薬《かでんやく》なども売り、幾代に亘《わた》って栄えております。
店暖簾《みせのれん》を潜った八五郎と、それに続く平次の顔を見ると、店にいた番頭の弥七は、あわてて奥へ飛び込みました。主人の宗左衛門に注進をしたのです。この男は四十がらみの脂《あぶら》の乗った恰幅《かっぷく》で、少しは自分でも溜めて居そうな如才のない人柄です。
「これはこれは、銭形の親分。とんだ無理なお願いで」
いそいそと出迎えた宗左衛門は、六十前後の大店《おおだな》の主人らしい、愛嬌の良い老人でした。後でわかったことですが、八五郎に無理を言って、銭形平次を誘い出させたのは、この老主人の粘《ねば》り強い根性と、物柔かな駈け引きだったのです。
「子供さん達が見えなくなった後前《あとさき》のことを、詳しく聴きたいが――」
薬臭い店を抜けて、奥と言っても店つづきの薄暗い六畳に案内された平次は、そこに居並ぶ四人の顔を見比べながらこう訊ねました。
四人というのは、主人の宗左衛門の後添《のちぞ》いでお源という四十七八の内儀――まだ女の美しさが身振りにも声音《こわね》にも残る中婆さん、大柄でガラガラして、商売人あがりらしい匂いがどこかに残るのを筆頭に、若旦那と呼ばれている倅の宗太郎――三十二三の良い男ですが、青白く弱気らしくて、大きい声では物も言えないのと、最後にその嫁で、お信という二十八九の年増、――眉《まゆ》の跡の青々とした、細面で上品で、年の割にどこかに滴《したた》るような可愛らしさの残る女と――これが上総屋《かずさや》の家族の全部で、平次と八五郎を取り巻いて、心配そうな顔を寄せた四人でした。
「昨日の夕方近く――申刻半《ななつはん》(五時)過ぎだったと思います、私は土蔵《くら》の中で客と話をしておりましたが」
「蔵の中で――?」
主人の話に、平次はフト聞き耳を立てました。土蔵《くら》の中の客と言うのは、いかにも変に聴こえます。
「ヘエ、少しわけがございまして、五六人の客を土蔵の中に案内しておりました。二人の孫は私の後ろから来るはずになって居りましたが、何時まで待っても参りません。手を拍って呼びますと、店にいたはずの倅の宗太郎が、どうかしたんですか――と|けげん《ヽヽヽ》な顔をして参りました」
「……」
主人の話はひどく変わっておりますが、その腰を折らないように、平次は黙って先を促しました。
「女どもは――家内も嫁も奉公人達も、みんなお勝手で、お客様へ出す料理の支度をしておりました。二人の孫がどこへ行ったか、一人も知って居るものはありません。それから大騒動になって、家中は申すまでもなく、庭から往来まで捜させましたが、影も形もないので――」
主人宗左衛門の話はそれで終わりました。湯島門前町の真中、夕景近いと言っても、まだ充分に明るいうちに二人の子供が煙のごとく消えてなくなったというのは、全く想像もつかないことです。
二
「蔵の方で父親の声がして、せっかちに手を叩くのが聴こえましたので、何心なく覗いてみましたが――廊下には誰もおりませんでした」
若旦那の宗太郎は父親の言葉に注《ちゅう》を入れました。
「子供達の身なりは?」
「二人とも去年の七五三のお祝いのとおり、――お千代は振袖で、新吉は袴《はかま》を穿《は》かせておりました」
そう応《こた》えたのは、母親のお源です。若旦那の宗太郎とは継《まま》しい仲ですが、精力的で押しが強そうで、上総屋の奥で勢力を揮《ふる》っていることには疑いもありません。
「それは大層なことだな」
「お客の前へ出しますので」
「その客というのは?」
平次は間髪を容れずに問います。
「……」
内儀のお源は応え兼ねた様子で、夫の宗左衛門と顔を見合わせましたが、
「千駄木の山崎屋政五郎様、鍛冶町《かじちょう》の鍵屋勇之助様、そう言った方々四五人でございました」
主人は思い定めた様子で言うのです。
「子供が見えなくなった後で、金を出せとかなんとか、難題を言って来たものはないのかな、――手紙などを投り込むのは、よくあることだが」
平次は一応これを、金が目的の誘拐《かどわかし》と見たのも無理のないことでした。上総屋はそれほど、この界隈では裕福の聞えが高かったのです。
「そんな事でもあれば手掛かりになるのですが――」
主人宗左衛門は、金で済むことならといった様子でした。
「日頃|怨《うら》みでも持って居るものは――?」
これは愚《おろ》かしき問いでした。家の者に気が付くほど怨んでいる者があれば、子供を二人さらってわからずに居るはずもありません。
嫁のお信は、後で武家の出とわかりました。この騒ぎの中にも、さすがに度を喪《うしな》うほどではなく、慎み深くうな垂れて、人の意見に忍従している姿です。
だが、泣きも悲しみも、どうもしないのに、激しい感情の往来に、身も細るように見えたのは、恐ろしい不安と恐怖に、さいなみ続けられて居るためでしょう。
「母親のお前さんが、一番後で二人の子供の姿を見たのは?」
平次のこう言った問いに対して、
「二人を廊下まで送って行って、私はお勝手へ戻りました。もう蔵の入口にはそこに見えて居りますし、お勝手の方はお膳の支度で忙しかったものですから」
慎み深く言って、首を垂れます。
「子供達が一番よく馴れていたのは?」
「八つと六つですから、人見知りもいたしましたが、よく知っている方なら、どなたのところへも参りました」
激しい苦悩を、自分の胸一つに畳んだ、いじらしくも健気《けなげ》な姿――嫁のお信には、そう言った冒《おか》し難い美しさがあったのです。
銭形平次は立上がって、お勝手から奉公人たちの部屋を見せてもらい、二人の子供が姿を消したという、土蔵へつづく廊下へ足を踏み入れました。
家中いたるところに数々の草根木皮が吊《つ》るしてあるので、外から入った者には、家の中全部が大きな薬袋のような感じですが、わけてもこの廊下は、袋に入らないの、根を束《たば》ねたの、茎《くき》を縛ったの、天井一パイに草根木皮を掛けつらねて、一間に三間の板敷きが、さながら薬のトンネルと言った趣《おもむき》です。
南側は腰高窓、天気さえよければ、薬の乾燥のためにここはたいがい開けておく様子ですが、ここから飛び出すにしては、少し窓が高過ぎて、八つの女の子と六つの男の子では無理です。もしまた大人《おとな》が外から手伝ったとしたならば、居間や店から見通しになる惧《おそ》れがあり、二人の子供をさらった所で、人目に触れずには逃げ出す工夫はありません。北側には三尺の切戸が一つ。
「これは閉っていたのだな」
平次は輪鍵をはずして開けてみました。
「昨日子供たちが見えなくなったとき、確かにそこは内から閉っておりました。私が大急ぎで開けて、裏口の方を見た事を覚えております」
主人宗左衛門は、確《しか》と請合《うけあ》うのでした。平次はそれを後ろに聴いて、外を覗いてみると、十坪ばかりの空地の外にはお勝手から裏へ抜ける通路があり、形ばかりの四つ目垣を繞《めぐ》らして、三尺の木戸、その外は五六軒の長屋が、折重なったように並んでおります。
「子供たちはあの辺へ遊びに行くことがあるのかな」
「滅多に参りませんが」
答えたのは嫁のお信でした。
蔵の中へ入ってみると、ここも薬臭く、馴れないものはクラクラとするような心持です。窓を開けさせると、昼近い光線がカッと入って、隅々まで照らします。が、不思議なことに諸道具や百味箪笥《ひゃくみだんす》、そんなものの奥に六畳ほどの畳敷があって、壁際にはささやかな仏壇《ぶつだん》が飾ってあるのです。
覗いてみると、至って簡素な仏壇で、阿弥陀《あみだ》如来の小幅を掲げ、仏具も貧しく、至って粗末なものを並べてあるだけです。
「上総屋さん、お宗旨《しゅうし》は?」
平次は主人の宗左衛門を顧みました。
「門徒《もんと》でございます」
主人の答えは静かで落付いております。
「それにしては、土蔵の中の仏壇はおかしいが」
「店に近いと、気が散りますので」
そう言えばそれっきりのことです。平次はある程度の見透しが付いたらしく、ここまで突っ込むと、急に帰り支度を始めるのです。
「孫達はどうなりましょう。銭形の親分」
宗左衛門はその袖を捉《とら》えたいほど思い悩んで居ることでしょう。
「外を少し調べてみなきゃなるまい、――が、多分間違いはあるまいと思うが」
平次は気休めらしいことを言うのです。
「そうでしょうか、親分」
老夫婦と若夫婦の、心配そうな顔を後に残して、平次は湯島の往来へ出てしまいました。
「親分、本当に子供たちは大丈夫でしょうか」
ガラッ八の八五郎はそのあとを追い縋《すが》ります。
「正直のところは、まだわからないよ。でも、あの家にはもう調べることはない――お前は御苦労だがひと働きしてくれないか」
「どんなことをやりゃいいんで、親分」
八五郎はスタートに並んだ選手みたいな顔をしてみせます。
「きのう上総屋に何があったか、――どんな用事で人寄せをしたか、それが聴きたいよ。奉公人か近所の人に当ってみたら、見当ぐらいはつくだろう」
「そんなことなら、わけはありませんよ」
「あんまり甘くみるな、なかなか底が深いぞ」
「ヘエ?」
「それから昨日の客――千駄木の山崎屋政五郎と、鍛冶町の鍵屋勇之助を調べるのだ。身許から昨日の用事」
「それっきりですか」
「いや、まだある。上総屋の内儀《おかみ》はなかなかの切れ者らしいが、息子夫婦との折合いがどんな様子か、孫を可愛がって居るか、それも訊きたい」
「ヘエ」
「もう一つ、嫁のお信は武家の出ということだ。親はなんと言って、どこの藩中か、それとも浪人か」
「……」
「お前一人じゃ無理だろう。下っ引三四人狩り出して大急ぎで調べてくれ」
「親分は?」
「家へ帰って昼寝でもするよ――変な顔をするな、寝なきゃ良い智恵が出ない性分だ」
平次は言い捨てて明神下へ帰って行くのでした。
三
その翌る日の朝、八五郎は弾《はず》みが付いたように飛び込んで来ました。
「親分、変なことになりましたぜ」
「何が変なんだ、――上総屋の子供達でも出て来たのか」
「そんなことなら驚きゃしませんがね、上総屋の裏の長屋に住んでいる、本郷じゅうの余《あま》され者で、半三《はんぞう》という安やくざが、三組町の藪《やぶ》の中で、背後《うしろ》から刺されて死んでいますぜ」
「なるほどそいつは上総屋の一件と掛かり合いがありそうだ。行ってみよう」
平次は行き詰まった事件に点じた、新しい光を発見したらしく、八五郎を促すように道を急ぐのです。
「ところで、きのう親分が言いつけなすったことは、たいがい調べて置きましたよ」
「歩きながら話せ。現場へ辿《たど》り着くまでには、お前の調べた種も底を見せるだろう」
「そんな手軽なものじゃありませんよ。まず第一、千駄木の山崎屋政五郎というのは、表向きは古着屋の唯の親爺だが」
「隠し念仏の先達《せんだつ》だろう――善智識《ぜんちしき》とか言うそうだ。鍛冶町の鍵屋勇之助はその下の用人さ」
「どうして親分はそれを?」
八五郎は平次に先を潜《くぐ》られて、すっかり仰天しております。
「昼寝しながらでもそれぐらいのことはわかるよ。蔵の中に仏壇があって、門徒宗というにしてはあの仏壇が粗末過ぎるじゃないか」
「ヘエ?」
「あの日上総屋の土蔵の中で、隠し念仏を開帳していたのだな。隠し念仏はお庫念仏《くらねんぶつ》というぐらいだ。上総屋は小さい孫二人をその日|新発意《しんぼち》(自己催眠《じこさいみん》になる一種の得道)にするつもりで、晴着を着せて土蔵の中へ呼んだのだ。母親も付いて行かなかったのはそのためじゃないか」
「ヘエ、驚いたね。あっしはそれを知るのに、半日ひと晩足を棒にしましたぜ、――親分はどうしてそれを知ったんです」
「種をあかせば、あれから直ぐ寺社のお係へ行って、結構な智恵を拝借したのさ。近ごろ隠し念仏が流行《はや》って、公儀でも持て余しの様子だ」
平次は手軽に片付けてしまいます。
隠し念仏、またはお庫念仏、一に犬切支丹《いぬきりしたん》と言ったところで、今の世にその実体を知っている人は幾人もないでしょう。ところが江戸時代には、この秘密宗教が日本国中に蔓《はび》こり、元禄年間の大弾圧には、江戸だけでその信徒の数四万と注せられ、陸中の水沢では、山崎杢左衛門外数名の者が殉教したということが『大百科事典』にも載せてあります。
今のことは知りませんが、筆者は幸い『隠し念仏』の最も盛んであった陸中に生まれ、少年時代を北上川のほとりの農村に送ったので、隠し念仏の正体をかなりよく知っております。この隠し念仏は伽藍《がらん》仏教になった浄土真宗に対立し、同じく親鸞《しんらん》を祖師とする宗旨でありながら、非僧非俗を建前として、職業化した僧侶を否定し、土蔵または密室の中に信徒を集め、もっぱら五六歳から十歳に充たぬ幼童に一種の法を施して、その魂を『救われた』とするのです。その法は一宗の秘事で、なかなかむずかしいものですが、薄暗い部屋の中に、法を受ける少年少女を中に、三四人の先達が物々しい念仏を称えつづけ、やがて少女自身に「タスケタマエ」と長く引いて低い声で、果てしもなく連呼させるのでした。
四方《あたり》の空気の物々しさと、単調な祈りの声に誘われて、法を受くる少年少女は、いつのまにやら自己催眠に陥り、一種夢のごとき法悦を感ずるのです。善智識と言わるる先達は、そのとき蝋燭《ろうそく》の灯《あかり》を取って少年少女の顔を照らし、まさに忘我の恍惚境《こうこつきょう》に入ったとみれば、それで『救われた』とし、修法を終って、盛んな精進料理の法宴になるのでした。
隠し念仏の方では、一生に一度この法を受けなければ、人は極楽に往生することは出来ないものとし、無知な小商人や貧農達はその子弟のために、競ってこの法宴を開くのです。
江戸時代を通してたびたびの弾圧の下に、不思議な根強さでつづき、明治年間までも地下に栄えてきたのは、この法門は極めて自由で、別にどのような信仰を持ち、どの宗門に帰依《きえ》しても一向に干渉しなかったためで、善智識と呼ばれる大先達自身でも、平常はただの門徒宗で、寺方のよき壇徒であったのはまことに面白い呑気さでした。踊る宗教唄う宗教――、人間の官能を興奮させたり、異常な祈りを神聖視して、人を催眠術的に陶酔させる宗教など、昔も今も、あの手この手に変わりはありません。
(一に隠し念仏は釈迦《しゃか》にそむいた提婆達多《だいばだった》を祖とすると言う説もあります。記してもって参考にしておきます)
四
「これだ、親分」
おびただしい野次馬を追い散らして、八五郎は三組町のとある町裏の藪の中に平次を誘うのでした。
江戸の真中に田圃のあった時代、この辺一帯を大根畠と言った頃の三組町には、ずいぶん藪も草原もあり、夜分は血腥《ちなまぐ》さい事があっても不思議のない場所でした。
「死骸は前からここにあったのか」
平次は半三の死骸の前に腰をおろしました。
「あっしもそれに気がつきましたよ、死骸を引き摺った跡があるでしょう」
八五郎は藪の外、道ともなく踏み堅めた土の上に、箒《ほうき》で掃いたようにものを引き摺った跡の残るのを指さしました。
「血はこぼれて居ないか」
「それも念入りに捜したが、見えませんね」
八五郎はそう言いながら、もういちど蚤取眼《のみとりまなこ》でその辺をウロウロして居ります。
「死骸を見付けたのは誰だえ」
「犬ですよ」
「犬?」
「犬があんまり騒ぐので、近所の衆が二三人来てみるとこの有様だ。幸い土地の下っ引に言い含めて、上総屋を見張らせて置いたので、留吉と卯太郎と二人で駈け付け、死骸を見張って直ぐ|あっし《ヽヽヽ》に知らせてくれました」
「すると死骸には誰も手をつけなかったわけだな」
「いい塩梅に親分が封切りだ」
「それは有難い」
陽が高くなるまで、誰も半三の死骸に手をつけなかったのは、平次に取っては何よりの好都合でした。本郷台の毒虫と言われた、安やくざの半三は、見たところ三十前後、道楽者によくある型の、小意気で青白くて、ちょいと良い男でもありました。
身扮《みなり》もなかなか洒落たもので、無駄飯を食う人間の浅ましい贅沢さが、死の極印《ごくいん》を捺《お》されてまでも、人の眉を顰《ひそ》めさせます。
傷は肩胛骨《かいがらぼね》の下から一と突き、血はあまり出た様子もありませんが、傷の深さは心の臓を破って、前へ突き貫けそう。
懐中《ふところ》を捜ると、奥深く入れてあったのは、なんと女持ちの赤い呉絽《ごろ》の紙入で、中から出てきたのは、小判が五枚。その頃の経済事情から言えばこれは容易ならぬ大金です。
「この赤い紙入は半三の持物じゃあるめえ。持って行って町内を一と廻りして来るがいい。持主がわかったら帰って来い」
「ヘエ」
八五郎は飛んで行きましたが、ものの煙草五六服も経つと、鬼の首を取ったような勢いで飛んで来ました。
「わかったか、八」
「わかりましたよ、親分、――いったいその財布の持主は誰だと思います」
「上総屋の嫁のお信だろう」
「えッ、どうして、それを」
「お前にわかるぐらいのことを、俺にわからないと思っているのか――ここは三組町だが、湯島門前町の上総屋の裏口とは背中《せなか》合せじゃないか。こんなに早く帰るお前が飛び込んだのは上総屋に決まって居るのさ。驚いたか、八」
死骸の番を下っ引に任せて、平次と八五郎は裏木戸から上総屋へ入って行きました。
その辺にウロウロしている下女のお粂に、嫁のお信を呼び出させた平次は、それを誘って木戸のところまでやってきました。
「あれだよ、お信さん」
平次はやや遠く三組町の路地裏の藪を指さすのです。
「……」
お信は憑《つ》かれたもののように平次の顔を見上げました。大きい目は不安と疑懼《ぎく》に戦《おのの》いて、可愛らしい唇は痛々しくも痙攣します。
「それから、この赤い呉絽《ごろ》の紙入だ、滅多にある品じゃない。この紙入が半三の死骸の懐中にあったのだ。中には小判で五両」
平次は赤い紙入を掌の上にのせて、お信の前へ、――それでも四方を探るように、そっと見せるのです。
「みんな申しましょう、親分さん」
思い定めた様子で、お信は顔を挙げました。
「?」
「その紙入は、お金を五両入れたまま、私が半三へやったものに相違ございません」
「それはどういうわけだ」
「半三は、二人の子供を隠した場所を知っております。それを教えるから、十両持って来いと申しました。でも私の手では、その五両が精いっぱいでした」
「木戸の外に待っている半三にそれをやると、五両では少ないから――その代わり」
振り仰いだお信の目は泣いておりました。やくざものの半三は多分、あとの五両の代りにお信の珠玉《しゅぎょく》のような肉体を要求した事でしょう。
「それから?」
「それっきりでございます。私は半三の手を振りほどいて、一生懸命で逃げました」
「その半三が殺されているのだよ、御新造」
平次の声は冷たく押えます。
「でも、私はなんにも存じません。私は、私は」
お信の悲嘆は痛々しいものでした。涙のない慟哭《どうこく》、――大きな嗚咽《おえつ》を残して、身もだえながらも母屋《おもや》の方へ逃げていくお信――若くて綺麗な後姿を見送りながら、銭形平次は手の下しようもなく呆然としていたのです。
「親分、あの女が下手人じゃありませんか」
八五郎は歯痒《はがゆ》そうでした。
「いや違う」
「でも親分」
「女の力で、あんな凄い事は出来ないよ。誰かが、あの女が手籠《てごめ》になるところを助けたんだ」
「で、二人の子供はどこへ行ったんでしょう」
「八、お前言い事に気が付いてくれた、来い、こんどは間違いはあるまい」
「どこです、親分」
「半三の家だよ」
「半三の家なら、ツイそこじゃありませんか」
上総屋の裏、押しつぶされたような五六軒の長屋の、一番奥の一番不景気なのが、殺された半三の長屋だったのです。しかしそこは全くの空っぽで、お千代新吉の二人の子供の影も見えません。
五
平次は、上総屋のお嫁お信の里、元町の大里金右衛門の浪宅を訪ねました。
「銭形の平次親分――よく知って居るよ。上総屋の騒ぎも困ったものだが、私はなんにも知らんよ」
主人の金右衛門は五十七八の老人で、ひどく西国訛《さいこくなまり》ですが、いかにも穏かな仁体《にんてい》でした。
「二人の孫さん達はどこへ隠されたことでしょう。御存じありませんか」
「困ったことに、私はなんにも知らない」
大里金右衛門はひどく困惑しております。
「お気の毒ですが、お嬢さんのお信さんの紙入が、殺された半三の懐中にあったので、いちおう下手人の疑いがかかっておりますが」
「とんでもない、娘は人などを殺せる女ではない」
父親らしい自信と頑固さで、金右衛門は首を振るのです。
「大里さんはどこの御藩中で、いつ浪人されました」
「それは言いたくないことだが、――思い切って言おうよ。私は西国の藩中で、切支丹の疑いで永《なが》の御暇《おいとま》になり、十七年前に、娘のお信をつれて江戸へ参ったのじゃ、――私は生涯を不運に送ったが、娘のお信だけは立派な女に育てたつもりじゃ」
大里金右衛門は妙に娘のお信に信頼をかけているのでした。
「近ごろ上総屋のお嬢さんからお頼りがありましたか」
「いや、なんにもないよ、――今から九年前、たってと言われて、気が進まないながら上総屋へ嫁に行った娘だが、一度|嫁《とつ》ぐと、娘は申し分のない町人の嫁になった様子だ、父親の私にしてみれば、少しは淋しいが、それがあの娘《こ》の仕合せというものだろう」
大里金右衛門は、淋しそうでした。が、父親らしい諦めに、幾らかの誇りをさえ感じている様子です。
「八、こいつは思いの外むずかしいなア」
外へ出た平次は、思わず嘆声を漏らしました。
「何がむずかしいんです、親分」
「お前にはわかるまいよ、――もういちど半三の家へ行ってみよう」
平次は上総屋の裏の長屋、その中でも一番奥の半三の長屋を、もういちど覗いてみました。
八五郎と二人、念入りに調べた揚げ句、平次は押入の中から豆ねじと肉桂《につけ》の屑を少しばかり見付け出して、思わず歓声を挙げたのも無理のないことです。
「八、間違いはないよ。二人の子供は、ここに隠してあったんだ、――が、半三が殺されると、もういちど姿を隠してしまった、――誰がいったい、音も立てさせずに、二人の子供をほかの場所へ移せると思う」
「……」
「近所は近いし、お長屋の衆は、鵜《う》の目|鷹《たか》の目だ。滅多なことで、お隣の昼のお菜《かず》も見のがしはしない。うるさい盛りの八つの女の子と、六つの男の子を、そっとほかへ移せるのは誰だと思う」
「母親か、父親じゃありませんか。親分」
「いや、お前はあの嫁のお信の顔を見ているはずだ。自分の子供を自分で隠した母親が、あんな顔が出来るはずはない――若主人の宗太郎も同じことだ」
「主人の後添いのお源と、嫁のお信は、仲が好いようには見えてますが、それは嫁のお信が利巧なせいで、腹の中ではあんまり仲の好い嫁姑《おやこ》じゃありませんね」
八五郎は穿《うが》ったことを言うのです。
「いちおうはもっともだが、――あのお源へは、孫達はなついて居ないだろう」
「子供は正直だ、自分を可愛がらない者の言うことなんか聴きゃしません」
「ほかに二人の子供を目に余るほど可愛がった者はないのか」
「半三は、上総屋の人たちに嫌がられながらも、二人の子供を可愛がっていたそうですよ」
「ほかには?」
「下女のお粂、番頭の弥七――こいつはちょっと好い男で、若旦那の嫁のお信に気があるかも知れませんが」
「待て、八。お前はどこでそんな事を聴いた」
「下女のお粂は本郷一番の金棒曳《かなぼうひき》ですよ。親分じゃ、憚《はばか》りながらあの女の口を開けられねえが、あっしなら、どんな事でも話します」
八五郎の馬鹿馬鹿しさは、下女のお粂の口を、なんの手数もなく開けさせるのでしょう。
「そこへ気が付かなかったのは、我ながら大手ぬかりだ。八、お粂を呼び出して、その弥七の隠れ家を訊き出してくれ。年は若いが、あの男はそれぐらいの用意はあるはずだ」
「親分、待って下さい」
八五郎はまもなく番頭弥七の隠れ家――新花町の裏のささやかな格子づくりを訊き出して来ました。そこへ飛んで行くと、上総屋の二人の孫、お千代と新吉が、羽をむしられた二羽の子雀のように、怖い下女に見張られながら逃げもならずに小さくなって居るのを見付け出したのです。
六
番頭の弥七は八五郎の手で縛られましたが、子供二人を半三の家から救い出し、時期を待って、自分の隠れ家に留め置いたというだけのことで、打ち首にもならずに追放で済まされました。やくざの半三を殺した下手人はこうして永久に挙がらず、平次はこの事件でもせっかくの手柄をフイにしてしまいました。
一件落着の後、八五郎のせがむままに、平次はこう説明してくれるのです。
「こいつはうるさい話だから、誰にも言うな、――あの『隠し念仏』の日、二人の子供を逃がしてやったのは、他ならぬ二人の子の母親――上総屋の嫁のお信だったのさ」
「ヘエ、それは本当ですか、親分」
この絵解きの奇抜さには、さすがの八五郎も驚きました。
「間違いはないよ、あの薬臭い廊下の北側の扉《と》は、内から締まっていたというじゃないか。家の者が二人の子供を逃がしたんでなきゃ、テニヲハが合わないよ――お信は二人の子供をあの廊下まで送って来ているんだ」
「嫁のお信はなんだってそんな事をしたんです」
八五郎には腑《ふ》に落ちない事ばかりです。
「あの嫁の父親の大里金右衛門は、切支丹の疑いで追放になったと言ったろう」
「ヘエ」
「娘のお信も切支丹の信者だったとしたらどうだ、――自分の大事な娘と倅が、物心もつかないのに、隠し念仏の亡者になろうとして居るんだぜ――お蔵念仏の新発意《しんぼち》になったらさいご、切支丹の方からは破門で、真っ逆様に地獄に堕《お》ちると思い込んだことだろう。思案に余ってお信は、廊下から二人を外へ出し、元町の祖父《じい》様――大里金右衛門の所へ行くようにと言い付けたに違いあるまい」
「……」
八五郎は唸《うな》っております。平次の絵解きはそれほど微妙なものでした。
「ところが、それを嗅ぎつけたのは、裏の長屋に住んでいる安やくざの半三だ。日ごろ顔|馴染《なじみ》の二人の子供を、だまして自分の家へ連れ込み、脅《おど》かしたりすかしたり、押入の中へ閉じ込めて置いて、一方では母親のお信を強請《ゆす》った。子供を返してもらいたかったら、小判で十両の金を持って来いと吹っかけたが、お信は五両しか持っていなかった。それを見ると、赤い紙入ごと五両の小判を受け取った上、お信の身体まで自分のものにしようという、太てえ料簡を起こした。いきなりお信を引寄せて、抱きしめたところへ、もう一人の男が、様子が変だと思って、お信の後をつけて来た事だろう」
「誰です、それは?」
「誰でもいいよ、――半三はいきなりお信を手|ごめ《ヽヽ》にしようとしたが、お信は自業自得でうっかり声も立てられない。もう一人の男は見るに見兼ねて、用意のために持って来た脇差《わきざし》で、半三の後ろから、ひと思いに突いた」
「誰です、それは?」
八五郎はもう一度くり返しました。
「誰でもいいよ。おどろいてお信は家の中へ逃げ込み、もう一人の男は、半三の死骸を引き摺って、三組町の藪の中まで運んで行った。上総屋の裏木戸のところに置いてはさすがに変だと思ったろう」
「……」
「番頭の弥七は物蔭から、その一伍一什《いちぶしじゅう》を見ていた事だろう。若い二人が気の廻らないのを幸い、半三の長屋に飛び込んで、二人の子供を誘い出し、騙したり脅かしたり、自分の家へつれ込んで、これを人質にする事を考えた。いずれは金にするか、でなければ、美しいお信に因縁《いんねん》をつけるつもりだったに違いない」
「悪い野郎ですね。そんな事なら、打ち首か遠島にしてもよかったわけで」
「お仕置きは軽る過ぎるぐらいがいいよ」
「大里金右衛門と、娘のお信は、切支丹とわかったのですね。放って置いて構いませんか親分」
「知るものか、――俺は宗門改めの役人じゃないよ。お前も余計な口をきいて、磔刑柱《はりつけばしら》を二三本おっ立てるような殺生なことをしちゃならねえ」
「そんなものですかねエ」
「おとがめがあったら、少しも気が付きませんでした、――とでも言って置け」
「呆れたね。ところで半三を突き殺したのは誰です、親分」
「俺は知らねえよ、お信に訊いてみろ」
「?」
「命がけでお信を可愛がっている人間には違いあるめえよ。お信は手籠《てごめ》にされかけて、声も出せずにいたんだ」
「そうですかねエ」
八五郎にはこの謎は永久に解けそうもありません。
(完)