野村胡堂
銭形平次捕物控(巻五)
目 次
正月の香り
麝香の匂い
十七の娘
笑い茸
刑場の花嫁
正月の香り
一
八五郎はこう言った具合に、江戸の町々から、あらゆる噂話《ニュース》を掻き集めるのでした。その噂《うわさ》のうちには、極めて稀《まれ》に、面白い局面を展開するものがあり、中にはまた驚天動地的な大|椿事《ちんじ》の端緒《たんちょ》になるのもないではありませんが、十中八九は、――いや九十何パーセントまでは、愚《ぐ》にもつかぬ市井《しせい》の雑事で、不精者の銭形平次が、腰を上げるほどの事件は、滅多にはなかったのです。
この話も、最初はずいぶん馬鹿馬鹿しいものでした。子供の悪戯《いたずら》か、町内の若い衆のからかいか、どうせたいしたことではあるまいと多寡《たか》をくくっていると、それが思いも寄らぬ事件に発展して、正月半ばを過ぎたばかりの、屠蘇《とそ》の酔いも覚めやらぬ平次に、とんだ一と汗をかかせることになったのです。
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、親分」
八五郎が揉手《もみで》をしながら入って来たのは、この季節にしては生暖かい、曇り日のある朝でした。
「なにが馬鹿馬鹿しいんだ、朝っぱらから」
平時も朝飯が済んだばかり、長火鉢のまえに御輿《みこし》を据えて、心静かに煙草にしていたのです。
「佐久間町の丹波屋忠左衛門――親分も御存じでしょう」
「知ってるとも、評判の良い人じゃないか、――もっとも近頃は隠居をして、お詣りや施《ほど》こしにばかり凝《こ》っているということだが」
「結構な身分で、その佐久間町の丹波屋から急の使いで行ってみると、馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、隠居部屋の外――塀越しの松の大枝に、船具に使う太綱《ふとづな》で、人間の着物を着せた、でっかい沢庵《たくあん》石がブラ下がっているとしたら、どんなものです」
「沢庵石の首縊《くびくく》りか、そいつは変わっているな」
平次はたいして驚く色もありません。
「あっしも睡《ねむ》いところを叩き起されて、それを見せられましたが、沢庵石の首吊りを検屍したのは、ケイ闢《びゃく》以来だから、そのまま帰ろうとすると、丹波屋の隠居はひどく口惜《くや》しがって、――わたしは人に怨みを受ける覚えはない、あんまり悪戯が過ぎるから、銭形の親分にぜひ見て頂きたい――と言うんで」
「沢庵石の首縊りの検屍は、俺もいやだよ。気の毒だが、そいつはよいあんべえに断ってくれ」
平次はもっての外の手を振るのです。人気者のつらさですが、一々こんなのに付き合っていては、お終いには、猫のお産にも呼び出されないとも限りません。
「そうですか。でも、丹波屋には世話になっていますよ」
「誰が。お前が借りでもあるのか」
「とんでもねえ、――あっしは、金持ちからは金を借りないことにしていますよ。大きな面《つら》をされるのが癪《しゃく》だから」
「良い心掛けみたいだが、それで毎々伯母さんを倒すんだろう。手内職で細々と溜めた金を借り倒しちゃ、殺生だぜ」
「相済みません」
「あんな野郎だ、俺にあやまったところで仕様があるめえ」
「丹波屋の隠居に世話になっているのは、町内の衆みんなですよ」
「みんな揃って借金をしたのか」
「冗談じゃありません。慈悲善根で出す金や、筋の通った寄付や義理には敵に後ろを見せねえが、几帳面《きちょうめん》で理屈固いから、遊びの金や贅沢使いの金は、どんなに口説《くど》いたって貸してくれる親仁《おやじ》じゃありません。それどころではなく、借りた金を約束の期限までに返さないと、いやもう、ひどいことになるそうですよ」
「なるほどね」
「一方から評判の良い割に、因業爺《いんごうじじ》い扱いをされるのはそのためで、塀外に沢庵石をブラ下げたのだって、何の禁呪《まじな》いかわかったものじゃありません」
「待ってくれよ、八。貸した金をやかましく言うと、沢庵石が半纏《はんてん》を着るのは変じゃないか」
「半纏なんかじゃありませんよ、隠居の羽織で」
「沢庵石だって、格式があるんだね。裃《かみしも》でなくてまだ幸せだったよ」
「だから、ちょいと覗《のぞ》いて下さいよ。あの隠居につむじを曲げられると、今年の祭りの寄付に響く」
「|あらたか《ヽヽヽヽ》なんだね。じゃ、まあ行ってみようか。羽織を着た沢庵石なんてものは、話の種だ」
「有り難いッ、銭形の親分がくるまでは、誰にも触《さわ》らしちゃならねエ――と、隠居は路地一パイに蔓《はびこ》っていますよ」
平次はこうして、羽織を着た沢庵石を見ることになったわけです。
二
佐久間町の丹波屋というのは、大地主の雑穀屋で、今の主人は忠之助と言って三十四五の働き盛り、内儀《おかみ》のお俊《しゅん》と真っ黒になって働いておりますが、世帯の大綱は、隠居の忠左衛門が握ったきり、その日の売上げにまで目を通して、銭箱の鍵も倅《せがれ》に渡さないという、院中の専横ぶりでした。
もっとも隠居の忠左衛門はまだ六十になったばかり、三年前|配偶《つれあい》に死なれて、若い妾のお国を入れるために、世間体を兼ねたうえ、嫁への義理で名ばかりの隠居をしたようなもので、丹波屋の実権を握って容易に離しそうもないのも理由《わけ》のあることだったのです。
隠居の忠左衛門は、商売の道に明るい上に、道話仕込みの理屈が強く、雑俳《ざっぱい》などを弄《もてあそ》んだこともあるので、なかなかの物識りでもあり、そのうえ健康で色好みで、容易ならぬ人物でもありました。なくなった女房の遺《のこ》した、娘のお初はとって十八、これは神田一円に響いた好いきりょうで、さすがの隠居忠左衛門も、娘のこととなると、こればっかりは、まるっきり眼がありません。
倅忠之助は所帯持ちがよくて、働くこと以外に興味がなく、三十年配の嫁のお俊も、なんの積極性もない、ただの石女《うまずめ》でした。従って隠居忠左衛門の寵愛が、遠慮会釈もなく、娘のお初に注ぎかけられることになるのでしょう。
雑穀屋と言うのは表向きの商売、裏へまわるとこの辺一帯の地主で、小豆《あずき》や小麦の一升売りをしなくともよいわけですが、隠居忠左衛門は昔気質《むかしかたぎ》で、なかなかこの商売を止めさせなかったわけです。
さて、平次が行ったのは、やがてもう昼近い頃でした。佐久間町の一角を占める店構えの、その横の路地を入って、五六間いくと裏口があって、頑丈な板塀越しに延びた、この辺では名物の巨大な松の木の、塀の外にヌッと出た高い枝に、これは見事、羽織に包んだ沢庵石の十貫目もありそうなのが、渋引きの太綱で、頭上三四尺のところにブラ下がっているではありませんか。
「銭形の親分、とんだ物をお目にかけます。勘弁して下さい」
「丹波屋の御隠居、これは妙な悪戯ですね」
平時も丁寧に応《こた》えました。さまで遠くないところに住んでいて、この評判の良い隠居は、平次も知り過ぎるほどよく知っております。
もう還暦《かんれき》近いはずですが、筋肉質できりりとした大きい身体、手足も丈夫そうで、顔が少し蒼黒く、大した皺《しわ》もないのに、髷《まげ》には白いものが多く、眼はやや長くそれが冷たい鉄色に光っているのです。
「私も悪戯だろうと思うから、誰にも知らせずに、そっと片づけようと思いましたよ。そいつは一番無事なことだ。が、銭形親分。それも出来ないワケがあった」
「?」
「見て下さい。この綱は船で使う渋を引いた麻縄で、ザラにある品ではない。五十貫百貫の荷を引揚げても切れるようなことはない。雑穀屋の私には差し当たりの用はないようなものだが、どんな大きな荷が入らないとも限らないので、手に入れて物置に置いた品だ」
「……」
「それから、この石を包んだ羽織は私の平常着《ふだんぎ》で、石は沢庵石みたいだが、土台石の残ったのを、庭石のかわりに据《す》えていたもので、ひどく泥がついている。そんなものを何が面白くて松の木などに吊ったものだろう。私はそれが知りたいから、わざわざ八五郎親分を呼びにやり、八五郎親分では手におえそうもないので、銭形の親分を呼んでもらいましたよ。いやはや」
などと、丹波屋の隠居は、言い終わって、照れ臭そうに髷節を押さえるのです。
平次は人を呼んで、塀外のつっかい棒に縛った綱を解かせ、松の枝から石を降しました。そんなことを万事やってくれたのは、宗吉と言う二十四五の男、雑穀屋の手代ですが、力仕事も庭掃《にわは》きもするので、手代番頭というよりは、下男と言った範疇《はんちゅう》に編入されそうな、肩幅の広いしっかりした若者です。
綱を解かせてみると、羽織は泥と|ほこり《ヽヽヽ》でめちゃくちゃになった上、ところどころ摺り切れて、まことに浅ましくなっておりますが、綱はこんな荒っぽい仕業に似気《にげ》なく、急所急所は女結びになっていて、宗吉の手に従ってわけもなく解けます。
「ちょいと中の様子を見せて下さい」
「さアさアどうぞ」
主人に案内されて、平次は裏木戸の中へ入りました。繁盛の丹波屋ですが、空き地の乏《とぼ》しいこの辺のことで、隠居部屋と言っても裏木戸に近く、塀にすれすれで、一階はほとんど使いものにならず、隠居の忠左衛門は、二階の六畳、羽織に包んだ石を吊られた松の、ツイ側《そば》に住んでいるということでした。
その二階は南陽《みなみび》が入っていかにも気持ちが良さそうですが、町屋のことで床の間も長押《なげし》もあるわけではなく、障子の外はすぐ低い手摺《てすり》で、ひどく浅間に出来ているのも、奢《おごり》を嫌った金持ちらしいたしなみでしょう。
三
二階に登ると、昨晩《ゆうべ》からの冬模様の空が晴れて、良い塩梅《あんばい》に陽がさして来ました。平次はともかくもそこに招じ込まれて、隠居の忠左衛門が豊かに手を拍つと、母屋《おもや》から渡り廊下伝いに、バタバタと若い娘が駈けて来ました。
「なアに、お父さん」
と、階上を見上げたのは、忠左衛門の末っ娘《こ》でお初という十八の娘、――末っ娘にお初という名は変だと思っていると、忠左衛門はそれへ冠《かぶ》せるように、「私は男の子ばかり三人も続いて、うんざりしていると、四十二の厄年《やく》にこの娘が生まれました。世間並だと縁起を担《かつ》ぐところですが、ツイ嬉しさのあまり、お初とつけてしまいました。初めての女の子というわけで」
と、しばらく経ってから説明してくれました。そして、
「これこれなんということだ。銭形の親分にご挨拶をしないか。それから、お国にそう言って、すぐお茶を入れさせるのだ。よいか――あのとおり、この娘《こ》の嫁入支度で家中てんてこ舞いをしているというのに、本人はあのとおり嫁入道具の手箱に入れる、お手玉をこしらえているという有様で――」
忠左衛門はそう言って眼を細くするのです。因業で几帳面な人間ほど、肉親愛が強い――と言った例を、平次はしばしば見せつけられますが、これもまた一つのよい例でした。
お初はまったく可愛らしい娘でした。色白で背が高くて、心持顔が小さくて、でも下から仰いだ喉から首のあたりが霞《かす》んで、顎《あご》の円い曲線《カーヴ》、少し仰向いた鼻の可愛らしさなど、まことに、下町娘らしいお転婆者の典型的な魅力です。
父親にそう言われると、梯子段《はしごだん》の下から平次に挨拶して、お初はそろりと身を翻《かえ》しました。ドタバタと重量的なものを感じさせない、爽やかな身軽さは、踊りに堪能なたしなみのせいでしょうか。八五郎がこれを見たら、さぞ嬉しがることだろうと思いましたが、相変わらず|まめ《ヽヽ》で|せっかち《ヽヽヽヽ》な八五郎は、平次に言われるまでもなく、丹波屋のもろもろの噂を掻き集めに、どこかへ飛んで行った様子です。
別に殺しがあったわけでもなく、引っ掻きほどの怪我をした者もないのですから、平次はそのまま引揚げようとしましたが、隠居の忠左衛門なかなかの話好きで、容易に平次を帰してはくれません。
「私のことは、銭形の親分も御存じでしょうが、親の代から徳を積んで、不義理はしないばかりでなく、寄付寄進から施こしごと、人様におくれを取ったことはないはずで、自慢ではないが、新《あたら》し橋《ばし》の修復《しゅうふく》も、ツイこのあいだ私が一手に引受け、人様には迷惑はかけなかったはずでございます」
「……」
「金貸しを商売にして居るわけではありませんが、金に困って是非ともと望まれると、断わり兼ねるのが私の性分で、世間の金貸しからみると、ずいぶん安い利息で用立てております。そのかわり払うものは、キチンと払って頂かなければならず、それを倒されては私の身が立ちません。そんなことで、ずいぶん人様に怨まれもいたしましたが、それは怨む方の無理で、厳《きび》しく取り立てられるのが嫌だったら、さいしょから借りない工夫をする方がよいわけで――」
忠左衛門の長口舌はなかなかに尽きそうもありません。
その間に二度お茶が代わって、二度目は妾《めかけ》とも後添《のちぞ》えともつかぬ、お国という三十女が挨拶に来ました。水商売の経験のあるらしい、白粉の濃い女、どこかくねくねとしたところがありますが、たいして美しくはなく、肉感的でもありません。
「そんなわけで、人に怨みを受けるはずはないと思いますが、――あんな悪戯は、まったく見当もつきません。昨日も正月の十五日だから、朝からドンド焼きの支度で、私の家は家例で、門松《かどまつ》だけは町内一番という大きいのを立てます。それを燃やして、餅《もち》のカビを取って焼いたり、大層なにぎやかな左義長《さぎちょう》でした。寝たのは少し遅く――と言って隠居の私のことだから戌刻半《いつつはん》(九時)そこそこ、いつものお極まりの三合の寝酒を少し過ごして、二本つけさせ、ぐっすり寝込んでしまいました。よく眠るのが私の自慢で、心に屈託がないからでございます。起きてみると、あの騒ぎで、沢庵石の首縊りは、江戸始まって以来で――もっとも、昨夜はお国はおりませんでした。月の朔日《ついたち》と十五日は、本所の母親のところへ、泊りに行くはずで、これも親孝行の一つでございますが、私はまた、お国がいないと、うるさく言う者がないから、寝酒を一本余計につけさせます。この年になると、女房が側にいる方がよいか、寝酒の三合を六合にする方がよいか、ちょいとこれはわかりませんよ」
忠左衛門はよくまくし立てます。世の有徳人《うとくじん》と言われ、義理堅いと言われ、慈悲善根が好きだと言われる人の中には、こういった自己紹介の好きな、ひどい宣伝癖のある人の多いことを、平次はよく知っておりますが、それを付き合ってやるのも、あまり楽な仕事ではありません。
四
「親分、ずいぶん変な家ですね」
丹波屋からの帰り、平次は向柳原の八五郎の家へ立ち寄りました。八五郎の家と言ったところで、伯母さんの家の二階借りで、その伯母さんは、日頃八五郎が世話になっている平次の顔をみると、どうしても昼飯を差し上げるんだそうで、八五郎にその旨を言い含めながら、どこかへ飛んで行ってしまいました。いずれは、この辺のお長屋には珍しい、飛切り上等の岡持ちが入ることでしょう。
「変な家ということは、俺には見当はついたが、お前は何を聴いたんだ」
平次は伯母さんが淹《い》れてくれた、去年もらった新茶の、火が戻ってすっかり菜《な》っ葉《ぱ》臭くなったのを、それでも有難そうに啜《すす》って、八の報告を促します。
「あの隠居の忠左衛門というのは大した人間で、先祖伝来の大金持のようなことを言っていますが、実は一代に仕上げた身上《しんしょう》で、慈悲善根を施こしながら、万という金を溜めたんだから、大したものでしょう」
「怨まれもするわけだな。押しが強くて、人付き合いが理詰めで、義理を欠かさないと来ているから、こちとらには扱いにくいな」
「でも、近所では神様ですよ。付け届けは良いし、人の世話は行き届くし、悪口を言うものなどは一人もありゃしません」
「それが怖いな」
「何が怖いんで?」
「こちとらは、悪口の言われ通し、からかわれ通しだから、誰も怨みやこだわりを腹に溜めておくものはない。さばさばした付き合いばかりだが、お互いの顔を見い見い褒めちぎられる人は怖いよ」
「そんなものでしょうか。――もっともあの丹波屋の裏に三軒長屋があって、そこに住んでいる北山習之進という浪人は、変なことを言っていましたがね」
「どんなことだ」
「丹波屋の隠居は、物事が理詰めで、滅多なことでは人にものを言わないが、あんまり几帳面で付き合いにくい――とね。すると、お隣りの夜鷹蕎麦《よたかそば》の半兵衛は、あわててその口を塞《ふさ》ぎそうにしましたよ」
「フーム」
「倅の忠之助と嫁のお俊は評判の良い方ですが、隠居が威張っていて、大きな声で物も言えません。番頭の徳三郎は通いで、朴念仁《ぼくねんじん》でなんの役にも立たず、現に、もう一人の若い手代の宗吉というのは、下男のように働かされていますが、あれはなんでも親の借金のかわりに、子供のころ一生奉公の約束で引き取られた男ですってね」
「いまごろ、そんなことが出来るのか」
その頃はまだ、人間が物よりも安かった時代で、若い娘が売買されたばかりでなく、男の子も――どうかすると、大の男までが、売買の目的物になることもあったのです。小作米のかわりに労働を提供したり、借金の抵当《かた》に、一生奉公の約束で、子供を提供する例も、決して少なくはなかったわけです。
「親が承知で――と言ったところで、丈夫で悧巧な倅を、一生奉公に出したい親はないでしょうが、ともかく、十三や十五になったばかりの倅を、その気にさせたのは虐《むご》いことで、――でも宗吉はよく勤めたと言いますよ」
「真面目《まじめ》な男らしかったな」
「真面目過ぎたくらいで――十三の年から足かけ十二年、二十四の今年まで無事に勤めたのはたいしたことで、一生奉公などというものは、自棄《やけ》になるのが多いそうですが、宗吉はまったく見上げた心掛けの男でしたよ。――もっともそれは子供のうちのことで、この三四年は、隠居の娘のお初、――よい娘でしょう」
「ウーム」
平次もそれは承認しました。お初の可愛らしさは、平次の眼にも申し分なく印象されたのです。
「あのお人形のようなお初が、だんだん大きくなって、娘らしく色っぽくなるのを眺めて、宗吉はどんなに弾《はず》みきっていたことでしょう。張り合いのある一生奉公だったに違いありません。それが」
「なにか変わったことがあったのか」
「変わり過ぎましたよ。お初がいよいよ本銀町《ほんぎんちょう》の呉服屋、江戸長者番付の前頭の何枚目とかいう、伊勢屋の倅に見染められて、来月早々祝言ということに極まったんで、可哀そうに一生奉公に取っちゃ、こんな張り合いのないことはありませんね」
「二人の間に約束でもあったのか」
「そこまではわかりませんが、どんなに宗吉が歯ぎしりしたって、一生奉公の給金なしの身の上では、あの可愛らしいお嬢さんをどうすることも出来ません。これがあっしなら――」
「……」
「背負《しょ》っ引いて、自分の巣へつれ込むという術《て》もありますがね」
「こんな汚《きたな》い巣へ、ピカピカする娘をつれ込んで来るというのか」
平次は胆《きも》をつぶしました。万年床をあわてておっ|つくね《ヽヽヽ》た、埃《ほこり》だらけの六畳、まったく蛆《うじ》が湧きかねない独り者風景です。
「ヘッ、たった一人で置くから、掃除する張り合いもないんで、これで、引っ張り込む女の娘の当てでもありゃ、たった半日で嘗《な》めるように綺麗にしてお目にかけますよ」
こう言った八五郎の途方もなさです。
五
それから七、八日ばかり、無事な日は過ぎました。半纏《はんてん》を冠った沢庵石も、それっきりで市が栄えるかと思ったころ、八五郎の『大変』が旋風《つむじ》に乗って飛んで来たのです。
「待ってくれ、八。お前の顔を見ると、お静は片づけを始めたぜ。――今日は何があったんだ」
そう言う平次は煙草を輪に吹いて、たいして驚く色もありません。
「落着いて居ちゃいけませんぜ。こんどは丹波屋の隠居が、殺されかけたとしたら、どんなもので」
「殺されかけた? それじゃ、死ななかったのだな」
「いやになるなア。そんなに多寡《たか》をくくっていちゃ。丹波屋の隠居は、俺をこんな目に逢わせた奴に、明日の天道様を、まともに拝ませちゃならねえ。銭形の親分を呼んで来てくれ。嫌だと言ったら、首根っこに縄を掛けても」
「嘘をつきやがれ、――丹波屋の隠居に、それ程の義理はないよ。じゃ、歩きながら聴こう。命が無事なら、急ぐほどのことはあるめえ」
平次は悠々と支度をして、八五郎と一緒に佐久間町に向かいました。
「気の長い話ですね、――親分はそう言ってるけれど、丹波屋の隠居にしては、気が気じゃないわけですよ。ゆうべ夜中過ぎに、隠居の寝ている部屋へ、十貫目以上もある石を抛《ほう》り込んだものがあるんですよ」
「石を抛り込んだ?」
「格子と雨戸を微塵《みじん》に叩き砕いて、石は寝ている隠居の上へ落ちるはずでしたが、運の良いことに」
「狙《ねら》いが外れたのか」
「狙いは見事でしたよ。隠居がそこに寝ていたら、間違いもなく腐った卵のように潰《つぶ》されたことでしょうが、運の良いことに、二階の障子を貼り替えて、半分貼ったまま、肝腎《かんじん》の宗吉が、昼から用事があって外に出かけ、遅くなっても戻って来なかったので、隠居は大の寒がりだから、その晩だけ陰気な階下《した》の部屋に寝ていたので、思わぬ命拾いをしたというわけですよ」
「待ってくれよ。その隠居の妾《めかけ》のお国という女はどうしたんだ。その晩もよい具合に本所の親類か――母親かの家へ泊りに行ったことだろうな」
「その通りで、朔日《ついたち》十五日ではないけれど二十日正月の御馳走があるからと」
「よしよしわかった。ところで、そんな石をどこから誰が抛り込んだのだ」
「庭から二階へ抛るわけはありません。天狗の仕業《しわざ》にしても、そんなことは出来ない相談で」
「すると」
「母屋《おもや》の隣りにある土蔵の屋根から転がせば、ちょうど離れ屋の窓に飛び込む見当です」
「土蔵の屋根へ、――そんな石を持って登られるのか」
「それもやっぱり天狗の仕業ですね」
「丹波屋の隠居が天狗に貸しでもあって、あんまり執《しつ》こく催促《さいそく》したんだろう」
「冗談じゃない」
「ともかく行ってみよう。こいつはお前一人の料簡じゃむずかしかろう」
平次が乗り出したのは、これもその日の昼近い時分でした。
佐久間町の丹波屋の前まで行くと、店の中がなんとなくザワついて、通い番頭の徳三郎は、出たり入ったり落着かない様子でウロウロしております。
「どうしたえ、番頭さん」
八五郎が声を掛けると、「あ、八五郎親分、銭形の親分も御一緒で――大変なことになりました。若主人の忠之助さんと御|内儀《ないぎ》のお俊さんが」
「どうしたというのだ」
番頭の徳三郎は物も言えないほどあわてているのです。
「三輪の万七親分が来て、お二人を縛って行きました」
「なんだと?」
「御隠居さまを殺そうとしたのは、若主人の忠之助様御夫婦に違いない、――と言うんで、お二人とも早寝をしてしまって、なんにも知らないと言うと、夫婦口を合わせたに違いないと申します」
徳三郎がそんな話をしているところへ、下男兼帯の手代の宗吉も、末の娘のお初も出て来ました。
「銭形の親分さん、お願いでございます。若主人のお力になってあげて下さい。無愛想で、お世辞のない方ですが、若主人も御内儀も、悪いことをなさる方じゃございません。――三輪の万七親分は、どこから聴いたか、御隠居様がいつまでも頑張って、世帯を渡さないから、若主人が待ち兼ねて、夫婦相談のうえ親殺しをやりかけたと申しますが、そんな馬鹿なことがあるわけはありません。お願いでございます」
宗吉は必死の血相で、銭形平次に絡《から》むのです。若くて強そうで、情熱的な宗吉の態度はかなり平次を持て余させた様子です。
それにもまして、平次の心を打ったのは、宗吉の後ろから、そっと手を合わせて拝むような恰好をしているお初の姿でした。細々としているくせに、妙にふくよかなお初の風情には、平次もホロリとさせられましたが、それより八五郎の感激は大したもので、水っ洟《ぱな》を横なぐりに、
「ね、親分、なんとかしてやって下さいよ。若主人の忠之助さんは、無口で無愛想だけれど、心の中は優しい人だ。親殺しなどを企《たく》らむ人じゃありません。それに、こんな商売をしているくせに、妙に|ひ《ヽ》弱い人で、十貫目以上もある石を、土蔵の屋根の上に持ち上げる力なんかあるわけはありません」
八五郎は誰かに頼まれでもしたように、必死と忠之助お俊夫婦のために弁ずるのです。
六
平次はこの人達を掻きわけて、母屋《おもや》から離室《はなれ》へ行きました。離室は土蔵と母屋の陰になって、その土蔵側の二階の西窓は、ひどく打ちこわされて、格子も雨戸も滅茶滅茶になっているのです。
「銭形の親分、この有様だ。見て下さい」
隠居の忠左衛門は、平次の顔を見ると、救われたような気になる様子です。
「大変なことでしたね。石の落ちた時刻は?」
「夜中過ぎだったと思います。幸い宗吉が障子を半分貼らなかったので、階下《した》の部屋に休んでいると、いきなり頭の上へ|どしん《ヽヽヽ》と来ましたよ。さいしょは地震かと思いました。飛び起きると、母屋から宗吉が駆けつけてくれました。大分経ってから、倅の忠之助と嫁のお俊が出て来ましたが、三輪の万七親分も、それを不思議がっておりました」
「若旦那の忠之助さんは、身体が弱いそうで、その十貫以上もある石を、土蔵の屋根へは持って登れませんね――八五郎がそう言っていましたが」
平次はこの老人に、そう言ってみたかったのです。自分のほんとうの倅に、親殺しの疑いをかけるのは、容易ならぬ妄執《もうしゅう》で、十手捕縄の手前を忘れて、その恐ろしい疑いをほぐしてやる気になったのでしょう。
「だがね、銭形の親分。倅はともかく、嫁の気持ちが、何年経っても私にはわかりませんよ。それに、いざとなれば、大きい石を二人で運び上げる術《て》もある」
「御隠居さん、そいつは考え過ぎですぜ。十貫目以上の石を、二人がかりで持ち上げて、梯子を登れるものかどうか、考えて見て下さい」
「そうでしょうか――」
隠居の顔に、濃い疑いの色の浮かんだのを機《しお》に、八五郎を促して、平次は二階に登ってみました。
「こいつは大変だ」
八五郎が頓狂《とんきょう》な声を出したのも無理のないことでした。格子と雨戸を破って、部屋の真中に転げ込んだ石は、いつぞやの羽織を着た石よりさらに大きく、これを土蔵の屋根に持って登るのは、大変なことで、|ひ《ヽ》弱い男とその女房の二人では、もちろん出来そうもないことです。おそらく剛力な男が、綱をかけて背負《せお》った上、一人は上から綱をかけて引上げ、一人は下から棒で押して、三人くらいの力を併せてやったことでしょう。
もう一度外へ出て土蔵の軒下を見ると、この辺とみるあたりに、深々とメリ込んだ梯子の足跡が二つ、間違いもなくそれは、土蔵の軒の下に掛けてある。火事場用の竹梯子で、これならば、ずいぶん役に立ちそうですが、石を運び上げるためには、やはり二人以上の男の力を要します。いちおうの調べが済むと平次は外へ出ました。黙々として蹤《つ》いて来た八五郎は、潮時を見て平次に声をかけます。
「親分、――もう曲者はわかったでしょう。三輪の万七親分の縛った、若主人の忠之助夫婦でないときまれば、私は引っ返して、その下手人を縛って来ますが、いったいどの野郎です」
「あわてるな、八。このからくりは容易じゃねえよ、――お前は本所の――あのお妾《めかけ》のお国の母親に逢ってくれ」
「ヘエ?」
「きのう娘のお国を呼んで泊めたのは、ワケがあるに違げえねえ。朔日《ついたち》と十五日に母親のところへ行って泊まることになっていると言ったが、二十一日に行ったのはどういうわけだ。――それが訊きたいのだよ」
「ヘエ、行ってみましょう」
「帰りには、もういちど丹波屋の近所の噂をあさってくれ。あの隠居はよっぽど近所の衆に憎まれているようだから。――とりわけ丹波屋の持ち屋の、三人の店子《たなこ》達の様子が知りたい」
「ヘエ、そんな事なら、わけもありませんよ」
八五郎は、話を半分聴いて飛び出してしまいました。
七
八五郎が報告を持って来たのは、その晩遅くなってからでした。それによると、「親分、変なことになりましたよ。あの妾のお国の母親、本所|相生町《あいおいちょう》の家へ、昨日昼のうちに行って、――こんどは気になることがあるから、お国さんを夕方までこっちへ呼んで何がなんでも一晩泊めるように言ったのは、下男の宗吉だそうですよ」というのです。それを聴いた平次は、驚くかと思いのほか、「そうか、やっぱりそうだったのか」と思い当った膝《ひざ》を叩くのです。
「それから、丹波屋の三軒長屋も内外《うちそと》から当ってみましたが、三軒ともまことに神妙で、少しも変わることはありません」
「フーム?」
「一軒は経師《きょうじ》屋。下職の九郎七、三十過ぎのちょいとした男ですが、貧乏|業平《なりひら》で、大したことは出来ません。浪人の北山習之進は、これは、武芸よりは相撲《すもう》の方が得手と言った男、二本差しのくせに腰が低くてとんだ愛嬌者ですよ。三軒目は夜鷹|そば《ヽヽ》的屋の半兵衛、小柄で無口な男ですが、重い荷を背負って歩くから身体は丈夫で」
「人相を見ただけで帰ったのか」
「いえ、今晩三人揃って、商売を休んで夜釣《よつり》に行くことまで聴いて来ましたよ」
「この寒空にか」
「釣気狂いは、暑いも寒いもありゃしません。少し時候《しゅん》は遅いが、寒鮒《かんぶな》が良いそうで」
「待ってくれよ、八。そいつは容易ならぬことになるかも知れない。佐久間町まで行ってみよう。お前も家へ帰る道順だ」
「ヘエ、あっしはここへ泊めてもらうつもりで来ましたが」
「贅沢を言うな。ご用に待てしばしはねえ」
二人は凍《い》てつくような夜の町を、佐久間町まで飛んだ事は言うまでもありません。丹波屋まで行き着いてみると、夜更けにもかかわらず、店の中が恐ろしく、ザワついております。
「どうした、何があったんだ」
平次と八五郎が飛込むと、夜中に呼出されたらしい番頭の徳三郎が、「あ、親分方、ちょうど良いところで、今呼びにやるところでした」
そう言えば、町内の者が二三、何やら支度をしております。
「どうしたというのだ」
ともかくも離室《はなれ》へ通されると、隣り町の外科《げか》がやって来て、下男の宗吉の怪我《けが》の手当てをし、隠居の忠左衛門と、妾のお国は、なんにも手につかない様子でウロウロしております。
「親分、今夜のはまるで押し込みでした。幸い宗吉が前から気がついて、私どもを母屋《おもや》へ追いやり、自分が私の身代わりになって、離室に寝ていると、亥刻半《よつはん》(十一時)近くなって、いきなり二三人の者が、雨戸を押し倒して飛込み、あっと言う間もなく、布団の上から突く叩くの乱暴を働いたそうで、幸い宗吉は気がついてかい潜《くぐ》るように逃げたから助かったが、でも大変な傷ですよ」
そう言われた宗吉は身体中に繃帯をして、人々の止めるのも構わず、床の上に起き直るのです。
「とんだお騒がせして相済みません。――みんな私のせいで――」
その様子を見ていた平次は、何を思いついたか、手当てが済んで帰り支度をしている外科と何やら囁き交して、
「幸い傷は急所を外れているようだから、大したことはあるまい。宗吉どんと内々で話したいことがあるから、隠居さんだけ残して、あとの人はしばらく遠慮してくれ」
平次が声を掛けると、離室へ入って来た多勢の者は、八五郎に追い立てられるように、ゾロゾロと母屋に引揚げて、残ったのは隠居の忠左衛門と、下男の宗吉と、そして平次と行灯《あんどん》だけ、八五郎は縁側に頑張って、外から覗く不心得者を見張っております。
「さて、宗吉、みんな話してくれないか――隠居と私のほかには、誰も聴く者はない。この間からの騒ぎのいきさつ、お前はみんな知っているはずだ」
「……」
「お前が言いたくなければ、俺が代わって言ってもよい。――さいしょ羽織を着せた石の綱を解いた時、お前は結び目の急所急所を心得て、わけもなく|ほど《ヽヽ》いた、――あれは自分で縛った綱だからで、あれほど重い物を扱って、結び目がみんな女結びだったのもおかしいじゃないか。それから次に土蔵の屋根から石の落ちた晩、お前は昼のうちに部屋の二階の障子を貼《は》って、わざと半分にして外へ出てしまって、その晩御隠居さんが、二階へ寝られないようにし、本所のお国さんのお母さんのところへ行って、お国さんを本所に呼び寄せて泊めるように細工《さいく》をした」
「……」
「それから今晩も、御隠居さんを母屋《おもや》に寝かして、お前は離室に頑張って夜討を待った。その気でやれば、相手を打ちのめすか、取りひしぐか、怪我くらいはさせられるはずだが、お前は打たれ放題になって、なんの手向かいもしなかったらしい。疑えば変なことがたくさんある。どうだ、この辺でみんな打ちあけてしまったら」
平次の調子はまことに行届いたものですが、いかにも柔らかで親切でした。宗吉はそれを聴いて、うな垂れてしばらく黙っておりましたが、やがて繃帯だらけの顔を挙げると、
「すみません、みんな申上げます。――私はもう、思いおくことのない身体でございます。私の罪亡ぼしに、みんな申上げたうえ、銭形の親分のお縄を頂戴いたします」
宗吉の物語は不思議なものでした。
「……」
「実は申上げると私は、御隠居様をお怨みもうして、危うく命までも――」
そう言って宗吉は、さすがに固唾《かたず》を呑むのでした。
宗吉の話は長い物でしたが、――今から十二年前宗吉の父親と母親が、不運と病気のために、十三になったばかりの一人子の宗吉と親子三人心中を企て、貧乏長屋の雨戸を締めきり、梁《はり》に縄をかけて、首を縊ろうとしたとき、隣りに住んでいた、丹波屋の隠居――その頃はまだ四十代の若さで働き盛りだった忠左衛門に見つけられ、危うい命を助けられたことがありました。
ちょうどそれは正月の十五日の左義長の宵、忠左衛門は大袈裟《おおげさ》なドンド焼きの跡始末を心配して、水を張った手桶を持って、庭へ出たときの出来事だったのです。ドンド焼きの竹や門松の焼けた温灰《ぬくばい》に、水をかけた匂いが、宗吉の鼻について十何年か経っても忘れられなかったということです。
それから丹波屋から借りた金で借金の始末はしましたが、そのために宗吉の一生奉公が始まり、両親が死んだ後まで、長い奉公が、何の手当ても給金もなく続いたのです。
宗吉もさいしょのうちは忠左衛門の恩に感じておりましたが、日が経ち年を重ねるうちに、一生奉公の馬鹿馬鹿しさが身に泌み、年頃になってからは、この奴隷《どれい》の境涯《きょうがい》がつくづく呪《のろ》わしくなりました、そしてそれが身を焦《こが》すほどの憎悪にまで成長していったのです。
その間に忠左衛門の末の娘のお初が輝くばかりに美しく生い立ち、宗吉とのあいだに淡い恋心が育って、宗吉の怨恨《えんこん》も、しばらくは薄れて行きました。その淡い恋がやがて熱烈な思慕となり、お初の口から父親に言い出そうとしている矢先、お初自身にこの上もない良縁がまとまり、本人の意思も無視して、来月は本銀町《ほんぎんちょう》の伊勢屋に嫁入りするまでに話が進んでしまったのです。
折悪しく三軒長屋の住人達は丹波屋の隠居を怨み抜いておりました。浪人北川習之進は丹波屋の妾《めかけ》お国が、務めをしていた頃の馴染客《なじみきゃく》で、|そばや《ヽヽヽ》の半兵衛は借金の抵当に屋台を取上げられた怨み、経師屋の下職の九郎七は家賃をたった三つ溜めて、所帯道具まで路地へ放り出された怨みがあり、その三人が宗吉と相談をして丹波屋にひと泡吹かせることになったのです。
その約束は、悪戯の程度に止まり、もとより丹波屋の隠居の命までも取る意志はなかったにしても、浪人北川習之進は腹からの悪党《あくとう》で、お国を奪られた怨みを忘れがたく、この計画を命取り仕事にまで押しあげたのは詮方《せんかた》もないことでした。
今日はいよいよ忠左衛門を塀側の松の木に吊り上げ、外からは首縊りの自殺と見せかけることになり、宗吉は忠左衛門の寝息をうかがって、その首に縄をかけることを引受けさせられました。首に縄さえ掛けてもらえば、三人は松の枝にかけた綱を外から引上げ、手もなく忠左衛門を離室の二階から引出して、松の枝にブラ下げる手筈になったのです。
が、その日はちょうど正月の十五日でした。門松を焚いたドンド焼きの匂いが、宗吉の鼻へ十何年か前の親子心中を企てた日のこと――父親と母親と三人ならんで梁《はり》にブラ下がったあのときの光景を思い出させます。
生竹《なまだけ》と生松葉の匂いが、宗吉の良心を喚び覚ましたのです。それに引きかえて、忠左衛門の娘のお初は、来月に迫る伊勢屋への嫁入りを嫌って、一緒に逃げてくれと宗吉に迫るのです。
宗吉はお初の心持さえ聴けばそれで充分だったのです。この娘を道づれに、これから当てのない苦難の道を踏み出すことまでは考えていず、ドンド焼きの匂いに呼び覚まされた良心の火は、猛然として宗吉の罪を責め立てます。
そうして、綱は忠左衛門の首ではなく、羽織を着た石に掛けられました。そのうえ、隠居を階下《した》に寝かして、二度目の石も無事に済みました。が、宗吉の良心はそれで済んでも、三人の仲間は承知するはずもありません。さんざん宗吉を責め立てた上、宗吉が隠居の身代りになって、大怪我をすることになってしまったのです。
「これが、みんな私のやったことでございます。御隠居様の大恩も忘れ、とんだことをいたしました。でも、私はもう、お嬢さんの本心を聴いて安心いたしました。この上の望みは、銭形の親分のお縄を頂いて、罪亡ぼしがいたしとうございます」
繃帯だらけの手を後ろに廻して、宗吉は観念の目をつぶるのです。
障子の外には、シクシクと啜り泣く声、言うまでもなく、話の様子を心配したお初が、そこに立って何もかも聴いたのでしょう。
「どうです、御隠居、私はもう帰りますよ。若主人夫婦の縄を解かせなきゃなりません」
「親分、待って下さい、私もなんかこう夢のさめたような気がします。『貸した金を取るのが何が悪い』と思った生涯が浅ましくなりました。――お初、そこに居るようだが、ここへ入ってこい、――今夜のうちに、宗吉と盃事の真似だけでもさせてやろう。幸い銭形の親分のお仲人で、本銀町の方は、夜が明けてから、私が行って破談にして来るよ」
隠居の忠左衛門の声は、初めて晴々としました。もう暁方も近いでしょう。
そしてこの時、忠左衛門に悪戯をし過ぎたお長屋の三人男は、コソコソと夜逃げの支度をしていたのです。
縁側に聴いていた八五郎も、妙に洟《はな》ばかり啜り上げております
「畜生ッ、風邪でも引いたかな」
大きなくしゃみが一つ、でも、良い心持そうでした。
麝香の匂い
一
「旦那よ――たしかに旦那よ」
「……」
盲鬼《めくらおに》になった年増芸妓のお勢《せい》は、板倉屋|伴《とも》三郎の袖を掴んで、こう言うのでした。
「ただ旦那じゃわからないよ姐《ねえ》さん、お名前を判然《はっきり》申し上げな」
幇間《たいこもち》の左孝《さこう》は、はだけた胸に扇の風を容れながら、助け舟を出します。
「旦那と言ったら旦那だよ、この土地でただ旦那といや、板倉屋の旦那に決まっているじゃないか。幇間《たいこもち》は左孝で芸妓はお勢さ、ホ、ホ、ホ――いい匂いの掛け香で、旦那ばかりは三間先からでもわかるよ。お前さんが側へ来てばたばたやっちゃ、腋臭《わきが》の匂いで旦那が紛《まぎ》れるじゃないか、間抜けだねエ――」
「何て憎い口だ」
左孝は振り上げて大見得を切った扇で、自分の額をピシャリと叩きました。このとき大姐御のお勢が、片手に犇《ひし》と伴三郎の袖を掴みながら、大急ぎで目隠しの手拭をかなぐり捨てたのです。伴三郎の思い者で、土地の売れっ妓《こ》お勢に対しては、左孝の老巧さでも、二目も三目もおかなければなりません。
「それ御覧、旦那じゃないか」
お勢は少しクラクラする目をこすりました。二十二三でしょうが、存分にお侠《きゃん》で、この上もなく色っぽくて、素顔に近いほどの薄化粧が、|やけ《ヽヽ》な目隠しに崩れたのも、言うに言われぬ魅力です。
「盲鬼は手で捜《さぐ》って当てるのが本当じゃないか。匂いを嗅いで当てるなんて、犬じゃあるまいし――私はそんな事で鬼になるのは嫌だよ」
伴三郎はツイと身をかわして、意地の悪い微笑を浮かべております。
これは三十そこそこ、金があって、年が若くて、男がよくて、蔵前切っての名物男でした。本人は大通《だいつう》中の大通のような心持でいるのですが、金持ちの独りっ子らしく育っている上に、人の意見の口を塞《ふさ》ぐ程度に才知が回るので、番頭さん達も、親類方も、その僣上《せんじょう》振りを苦々しく思いながら、黙って眺めているといった、不安定な空気の中にいる伴三郎だったのです。
「あら、旦那、そんな事ってありませんワ」
お勢は少し面喰いました。
「でも、俺は匂いを嗅ぎ出されて鬼になるなんか真っ平だよ」
「それじゃ、もう一度|鬼定《おにぎめ》をしようか、その方が早いぞ」
白旗直八《しらはたなおはち》は如才なく仲裁を出しました。昔は板倉屋の札旦那の倅でしたが、道楽が嵩《こう》じて勘当され、今では伴三郎の用心棒にもなれば、太鼓も打つといった御家人崩れの、これも三十男です。
「それがいい、それがいい」
雛妓《おしゃく》や、若い芸妓たち――力に逆《さか》らわないように慣らされてる女たち――は、こう艶めかしい合唱を響かせました。
杯盤《はいばん》を片づけた、柳橋の清川の大広間、二十何基の大燭台に八方から照されて、男女十幾人の一座は、文句も不平も、大きな歓喜の坩堝《るつぼ》の中に鎔《とか》し込んで、ただもう、他愛もなく、無抵抗に、無自覚に歌と酒と遊びとに、この半宵を過ごせばよかったのです。
遊びから遊びへ、果てしもない連続は、伴三郎にも倦怠《けんたい》でした。――何か面白いことはないか、と、褒美を懸《か》けて考え出したのが、この頃の子供達がやる『盲鬼』または『目隠し遊び』という、およそ通や意気とは縁のない遊びだったのです。
この遊びは刺戟的で馬鹿げていて、思いのほか皆を喜ばせました。盲鬼が危ない手つきで追いまわすと、伴三郎と直八とそれに幇間《ほうかん》の左孝、芸妓大小取り交ぜて十人あまり、キャッキャッと金魚鉢をブチまけたように、花束を砕いたように、大広間一杯に飛び廻るのです。
中には、首っ玉へ噛《かじ》り付かれたり、髪を毟《むし》られたり、わざと畳に滑って転げたり、きわどいことまでして見せました。板倉屋伴三郎は、それを苦り切った顔で、実は面白くて面白くてたまらない様子で見ているのでした。
雛妓《おしゃく》たちも芸妓もみんな並べて、
「――いっちく、たっちく太右衛門どんの乙姫《おとひめ》様は、湯屋で押されて泣く声聞けば、ちんちんもがもが、おひゃりこ、おひゃりこ――」
と声を揃えて歌いながら数え、一人ずつ抜かして、最後に残った一人を鬼にするのです。
残った二人は白旗直八と、幇間《ほうかん》の左孝、二人共、鬼になりたくてなりたくて仕様のないという人間――雛妓《おしゃく》を追い廻して頬摺《ほおず》りするのを鬼の役得と心得ている人間でした。捕まえてさんざん厭がらせをした上、わざと名を間違えると、いつまでも鬼でいられるという術《て》もあったのです。
二
雛妓《おしゃく》たちが、若い張りのある声で「いっちく、たっちく太右衛門どん――」を繰り返しました。鬼にされたのは白旗直八。
「そんな間の伸びた――いっちく、たっちく――があるものか。のけ者にされちゃ、白旗様の前《めえ》だがこの左孝が不服だ。もう一度やり直してもらおうか」
幇間《ほうかん》の左孝は大むくれです。『いっちく、たっちく』はたった二人のうちの一人を選ぶ場合はテンポを伸ばすか、縮《ちぢ》めるかの違いで、奇数にも偶数にもなり、雛妓《おしゃく》達が望むままの人を選ぶことが出来たのです。
「間の伸びたのは師匠の鼻のしたさ、いっちくたっちくだって除けて通るよ」
お勢は相変わらず毒舌です。
「言ったな」
「捕まえられて頬っぺたを嘗《な》められる方が災難さ。目隠しが低い鼻の上へずっこけて選み討ちに捕まえるんだもの、やり切れないよ。御覧よ、先刻お前さんに嘗められたお駒ちゃんの頬が、火膨《ひぶく》れになったじゃないか」
お勢がズケズケとやりながら、一番若くて美しい芸妓お駒の頬を指すのでした。
「へっ、自分が嘗められないんで口惜しかろう」
「呆れたよ」
際限もありません。
「もうよかろう。二人が噛み合っていると際限もない、――鬼は二人のほうが面白いから、左孝も鬼になるがいい、その代わり灯《あかり》を消して捕まえるんだ」
伴三郎はこんな事を言い出します。
「それ、旦那があんなに仰しゃるじゃないか。鬼になるのは私のような仏性《ほとけしょう》の者に限るとよ」
左孝と白旗直八は背中合わせに立って目を縛り、同時に広間中の灯をみんな消しました。
めんないちどり、手の鳴る方へ、――
丸くなった男女の輪が、ドッと崩れると、それを追って二人の盲鬼が、手拍子と、哄笑と、悲鳴の中を泳ぎ廻ります。
いつの間にやら伴三郎は席を外し、お勢もお駒も見えなくなりました。左孝の悪ふざけに驚いた女共は、縁側へ、次の間へ、廊下へと灯《あかり》を追って溢れ、それを追って二人の鬼は、薄暗い中をどこまでも、どこまでもと追いすがります。
が、しかしその歓楽も尽きる時が来ました。恐ろしい血の終局《カタストローフ》が、熱狂した興奮から、氷のような恐怖へ、十幾人の一座を叩き込んでしまったのです。
「あッ、た、大変ッ」
下女の上ずった声が、次の間から響くと、恐ろしい予感に、騒ぎは水をぶっ掛けたように鎮まりました。
「来て下さい、大変ッ」
続いてもう一度。
「……」
十人ばかりの妓《こ》は、一瞬闇の中に顔を見合せると、物をも言わずに隣の室へ突進しました。
「灯《あか》り」
真先のお勢が叫ぶと、二つ三つ先の部屋に片付けた燭台が誰の手からともなく次の間へ運ばれます。
「あッ、白旗の旦那だ」
驚いたのも無理はありません。御家人崩れで、今こそ幇間《ほうかん》とも用心棒ともつかぬ事をしておりますが、まだまだ腕っ節には自信を持った白旗直八が、盲鬼の目隠しをしたまま、自分の脇差《わきざし》で後ろから頚筋を縫われて死んでいたのです。
三
歓楽《かんらく》の馬鹿騒ぎは、重っ苦しい恐怖の騒ぎに変わりました。階下《した》で呑み直す支度をしていた伴三郎も、左孝の悪巫山戯《わるふざけ》を逃避して廊下で涼んでいたお駒も、重い緊張した顔を持って来ました。
「左孝はどこへ行った?」
「先刻から見えないぞ」
この騒ぎの中へ、剽軽者《ひょうきんもの》でお先っ走りの左孝が顔を出さないはずはありません。
「あいつだよ、平常《ふだん》から白旗の旦那と仲が悪かった」
お勢です。
「馬鹿なことを言っちゃならねえ、人が聞いたらどうする」
清川の主人の喜兵衛が駈けつけたのです。
「ここだよ、ここにいるよ」
下の方から男衆の声が聞こえました。
「何がいるんだ」
「左孝師匠の死骸はここだよ」
「あッ」
二度目の変事に度を失った人々は、雪崩《なだれ》のように二階から駈けおりました。石灯籠《いしどうろう》の灯りのほのかに照らした中庭――。一畳敷きもあろうと思う庭石の上へ、目隠しをしたままの左孝が、叩き付けられた蛙《かえる》のように伸びて、見事に目を廻していたのです。
「番所へお届けだ」
「いや医者が先だ」
深刻になり行く騒ぎの中へ、ガラッ八を従えた銭形平次と、お神楽の清吉を従えた三輪の万七と、何と言うことか、裏と表から、一緒に清川の敷居を跨いだのでした。
「お、銭形の、また逢ったね」
「番所に居合せたんでね、三輪の」
平次はそのまま引返そうとしました。
「ちょうどいい。銭形の兄哥には負け続けだ。仕切りから念を入れて、一緒に手を着けたら満更まけてばかりもいないだろう。一緒に敷居を跨いだのをきっかけに、この殺しを二人で扱ってみようじゃないか」
「……」
三輪の万七は大変なことを言い出しました。
「盲鬼を二人やっつけるなんざ、大して企みのある仕事じゃあるめえ。夜の明ける前に下手人を挙げたのが勝ちということにしちゃどうだ」
「……」
「こんど負けたら、俺は坊主になる」
万七はこうも言うのでした。
「|あっし《ヽヽヽ》も銭形の親分が負けたら坊主になりますぜ、三輪の親分」
ガラッ八はたまり兼ねて口を出します。
「坊主っ振りはいいだろうな、八|兄哥《あにい》。とんだ罪作りだね、フ、フ、フ」
万七の舌は毒を含みますが、貫禄の違いでガラッ八の八五郎もその上応酬が出来ません。唇を噛んで、少し金壷《かなつぼ》な眼を光らせました。
「三輪の兄哥の前だが、企んだ殺しなら、すぐ解るが、相手が目隠しをしたのを見て、急に殺す気になったのだと、こいつは容易にわからないぜ、――とても一と晩じゃ」
平次は首を振りました。偶発的に機会を掴んで決行された殺しは、理屈でも手掛かりでも、手繰りようのないのが普通だったのです。
「とにかくやってみよう。白旗直八は身を持ち崩しているが、元が元だから、女や子供に殺される人間じゃねえ。左孝を二階から突き落としたのと同じ人間なら、すぐ解るはずだ」
万七はそんなことを言って左孝の手当てをしている部屋へ行きましたが、打ちどころが悪かったのか思いのほかの怪我、まだ正気に返ってはおりません。
「八、みんなの身許を洗って来るんだ。白旗直八や左孝は言うまでもねえが、板倉屋伴三郎の女出入り、――世間で評判を立てているお勢との仲や、その他のことも、解るだけ洗って来い。町内の髪結床と湯屋と、番所と、板倉屋の向う三軒両隣を当ったら、殺しの筋だけでも恰好がつくだろう」
「合点、そんな事なら朝飯前だ」
ガラッ八は飛び出します。
その後姿を見送った平次は、静かに二階へ登ると、主人喜兵衛に案内されて、何より先に間取りの具合を見るのでした。
「燭台《しょくだい》はどこに置いてあったんです。板倉屋の旦那はどこにいました」
矢継早な平次の質問を浴びると、
「待って下さい親分さん。私じゃ解りません、お勢を呼んで来ましょう」
喜兵衛は兜《かぶと》を脱ぎます。
「お勢も呼びたいが、――その前に訊きたいことがあります。板倉屋の旦那は、鬼ごっこの途中で階下へ行ったんですね」
「三輪の親分もそればかり気にしていましたよ、――板倉屋の旦那が二階から降りたのは、二階の広間の灯りが消えてしばらく経ってからで、死骸を見つけるほんの少し前でしたよ」
「別に変わった様子は?」
「いつものとおりで、――やれやれ追い廻されるのも楽じゃない。下で落着いて一パイやるから、そっとお勢を呼んでくれ――と仰しゃいましたが、お勢を呼ぶ前にあの騒ぎで――」
「板倉屋の旦那と、白旗直八とは、仲が良くなかったという話もあるが」
平次の問いは次第に突っ込みます。
「勘当された札旦那の次男を、義理に絡《から》んで引取ったのですが、用心棒とも朋輩《ほうばい》ともつかず伴れて歩きました――」
「いずれ面白くない事があったとすれば、鞘当《さやあて》筋だろう」
「ヘエ――、どちらも若くて男がよくて、お金のあるのと、腕の立つのと、我儘なのと、少し悪党がったのですから、女は迷いますよ」
喜兵衛は当らず触らずの事を言いますが、伴三郎と殺された直八の間が、案外世間で見るように無事なものでなかった事は事実のようです。
四
妓共《おんなども》は大小こき交ぜて、吹き溜まりの落椿《おちつばき》のように、広間の隅っこに額を突き合わせ、疑いと悩みと不安とにさいなまれた眼を見張っておりました。
「お勢、――お前の知ってるだけを、みんな話してくれ。隠したり、庇《かば》ったりすると、白旗直八は浮かびきれないよ」
銭形平次は、隣の部屋に一人ずつ呼んで人と人との関係やら、宵からの馬鹿遊びの始末を訊いております。
「親分、これでみんなですよ。あとは何にもありゃしません」
お勢の妖艶な顔も、さすがに蒼く引き緊って、日頃の寛闊《かんかつ》さは微塵《みじん》もありません。
「板倉屋の旦那の物好きで、盲鬼をはじめた、――板倉屋は鬼になるのを嫌がったが、左孝はなんべんでも鬼になった、――不思議なことに白旗直八は鬼が当らなかった――と言うんだね」「え」
「板倉屋は雲南麝香《うんなんじゃこう》の掛け香を持っているから、一二間離れていても解るので、遠慮して誰も捕まえなかったと言うんだろう」
「え」
「それをお前は捕まえた、どうするつもりだったんだ」
「一度くらい鬼にしたかったんですよ」
「板倉屋が嫌がると、また鬼定《おにぎめ》をやったそうだな、それを言い出したのは?」
「白旗さんですよ」
「――いっちく、たっちく――を伸ばしていって、わざと白旗直八に当てさせたのは誰の細工だ」
「私ですよ、親分、私が|こども《ヽヽヽ》達に言いつけたんです」
「本当かお勢、大事のところだ」
「私の言うことでなきゃ、|こども《ヽヽヽ》達は聞きゃしません」
「燭台を取り払わせたのは?」
「それは板倉屋の旦那でした。暗くした上そっと階下《した》へ降りて静かに一杯やろうと仰しゃるんで」
お勢の言葉には何の淀《よど》みもありません。
「お前と白旗直八とは、他人じゃなかったようじゃないか」
平次はどこで聞いたか、こう誘導的な問いを持ちかけました。今では板倉屋伴三郎の寵者《おもいもの》で通っているお勢が、かつて白旗直八に関係があろうとは、誰も知ってはいなかったのでした。
「どうしてそんな事を?」
「……」
平次は黙って笑います。が、その自信のある眼差《まなざし》は、正面からお勢の表情の動きを見据えているのでした。
「でも、五年も前のことなんです――私は一本になったばかり、白旗さんだって部屋住みで、長くは続かなかったんですよ」
お勢は目を伏せました。旧《ふる》い悔恨が、ちくちくと胸に喰い入る姿です。
「板倉屋はそれを知っていたのか」
「え」
「……」
「でも、板倉屋の旦那はそんな事を恨みになんか持っちゃいません。昔の昔の事なんですもの。私共稼業のものにしちゃ一年は十年で」
「……」
平次の目が依然として和《なご》まないのを見るとお勢は淋しそうに首を垂れました。
「それに、近頃は、お駒さんに夢中なんですもの、――私のことなんか」
「そいつは初耳だ、嘘じゃあるまいな、お勢」
「嘘なんか言いやしません。――そのお駒さんが、白旗さんに気があったことも、親分さんはご存じないでしょう――でもこんなにみんな言ってしまっていいでしょうか」
お勢は悲しそうでした。この陽気でお侠《きゃん》な女の一皮下には、妙な悲劇的な情緒《じょうちょ》のあるのを、平次はまざまざと見せつけられたような気がしたのです。
五
「銭形の兄哥《あにい》、左孝は口をきいたよ」
万七は得意な鼻をうごめかして、平次を迎え入れました。
「何て言ったんだ、三輪の」
「廊下へ出ると、いきなり、恐ろしい力で突き飛ばされ、欄干《らんかん》越しに、庭へ落ちたことまでは知っているが、そのあとは、何にも知らねえ――と」
「俺が聞いてみよう」
「それもよかろう」
平次は、万七の皮肉な目を背《せな》に感じながら、左孝の枕元へ中腰になりました。どうやらこうやら、人心地ついた左孝は、まだまとまった事を話せるような容態ではありませんが、それでも、眼だけは物憂そうに動かしております。
「俺が判るだろうな」
「……」
「お前さんが、二階から突き落とされたのと、白旗直八が殺されたのと、どっちが先なんだ」
「私のほうが先で」
左孝の唇は繃帯《ほうたい》の中にわずかに動きます。
「どうして解った」
「私が廊下へ出たとき、白旗の旦那は、まだ、女共を部屋の中で追い廻していました」
「お前を突きおとしたのは、男の手に間違いあるまいな?」
「ヘエ」
「その時、掛け香の匂いがしなかったかい」
「とんでもない」
「灯りを消して盲鬼が始まった時は、二階に男が二人しかいなかったはずだ。板倉屋の旦那と、白旗直八だ。その白旗直八はお前と同様目隠しをしていた」
「ヘエ――」
左孝はそんなことに始めて気がついた様子です。
「板倉屋でないとすると、白旗直八だ。白旗直八は殺されているんだぜ」
「私も殺されかけましたよ、親分さん、――白旗の旦那が私を突き落とした後で、誰かに刺されたとしたら、どんなものでしょう」
「それもないことではあるまい。が、白旗直八を怨むのは誰だ」
「お勢ですよ、――親分、大きな声じゃいえませんが」
「何だと」
「白旗の旦那は、お駒と板倉屋の旦那の仲を取持つと思ってこの左孝を怨んでいましたし、お勢は自分の浮気を棚に上げて白旗の旦那がお駒に気があるのを妬《や》いていましたよ」
「フーム」
筋はよく通りますが、そんな簡単なことで、この事件の謎が解かれるでしょうか。平次は深々と腕を拱《こまぬ》きました。
「銭形の兄哥、考えることはあるまいよ、下手人は板倉屋の伴三郎さ。左孝はそれを庇っているんだ」
三輪の万七は心得ております。
「そんな事はあるまい」
「『いっちく、たっちく』と長々と引き伸ばして、白旗直八に鬼を当てたのは伴三郎の指図だ」
「いや、それはお勢だ――お勢がそう言ったぜ、兄哥《あにき》」
「銭形のにも似合わない。お勢は板倉屋を庇っているんだよ、妓共《おんなども》は伴三郎がお勢に言いつけて細工をさせたのを、みんな聞いて知っているぜ」
「フーム」
平次は完全に万七にやり込められました。
「白旗直八は御家人の冷飯食いだが、腕は相当に出来ている。眼を開いていちゃ、伴三郎風情に殺されるはずはねえ、――それに、居候《いそうろう》の癖に女出入りで伴三郎とは仲が悪かったそうだ」
「……」
万七の言うのは一々もっともですが、平次にはまだ腑《ふ》に落ちない事ばかりです。
「銭形の、引揚げようか。約束の夜明けにはまだ三|刻《とき》もあるが、俺はここに用事がねえよ」
「えッ」
「今ごろは清吉が板倉屋を伴れて、番所へ行ったはずだ。これから行って一責め責めてみよう」
三輪の万七の誇らしさ。
「そいつはいけねえ、兄哥、板倉屋はただの金持ちのだんなだ、人なんか殺せる男じゃねえ。この世を面白おかしく暮らす人間がめったなことで人を殺すものか」
「相変わらず道学《どうがく》の御談義だ。人を殺すに暮し向きの事なんか考えるものか」
「だが、板倉屋と白旗直八は、腹の底では敵《かたき》同士だと言ったね、三輪の」
「そのとおりさ」
「なら、ぷんぷん麝香《じゃこう》を匂わせた板倉屋が、側へ寄って自分の刀を抜くのを待っているはずはねえ。白旗直八は自分の腰のもので刺されたんだぜ」
平次はようやく鋭い鉾鋩《ほこさき》を現しました。
「そいつは何とも言えねえよ、腰の物は鞘ごと抜いて、どこかへ置くこともある」
「鞘は白旗の腰にあるんだ、そんなはずはねえ」
「とにかく、俺の見込みが違ったら坊主になるまでだ。銭形の、夜の明ける迄が楽しみさ」
三輪の万七はもう一つ皮肉な微笑を残してさっさと出て行ってしまいました。
六
「親分さん、――お願いですが」
「なんだ、お勢じゃないか」
平次は思いつめた女の眼を見ました。
「板倉屋の旦那などのご存じのことじゃありません。何とかして助けて上げて下さい」
「何を言うんだ、お勢。おれも板倉屋を疑っているんだよ、ことによると、俺のほうが坊主になるかも知れない」
平次は冷静な笑いに紛《まぎ》らせて、奥へ行きそうにするのでした。
「親分さん、待ってください、実は、実は――」
「私が殺しました――なんて言わないでくれ、下手人がもう一人増えると、手数が多くなるばかりだから」
「でも本当に私が殺したら、どうしてくれます。親分さん」
「白旗直八が目隠しをしたままのを刺したのかい」
「え」
「殺すほどの怨みは何だ」
「あの男が五年前のことをぺらぺら喋《しゃべ》ったばかりに、私は板倉屋の旦那に捨てられそうになりました。これほど口惜《くや》しかったら、殺しても不思議はないでしょう」
「よしよし、お前の言う事を本当にしよう。が、縄を打つ前に見せたいものがある。ちょいと来るがいい」
「……」
平次はお勢をつれて、死体を置いた部屋へ入って行きました。
「頚筋の瘡《きず》は、後ろから刺したんだ。いいか、ぼんのくぼは大変な急所だが、喉や胸と違ってあまり血が出ねえ、――ところで、少しばかりの血が、目隠しの手拭の下へ付いているのはどういうわけだ」
「……」
「解らないか、お勢、曲者は、白旗直八が目隠しを取ったところを刺し、何か誤魔化《ごまか》すために、殺してから、また目隠しをしたんだ、――死骸へ目隠しをして逃げるような、手の混んだ芸当は、お前に出来るかい――」
「……」
「一言もあるめえ。この下手人は、三輪の兄哥が睨んだ板倉屋でもなきゃ、名乗って出たお前でもないのさ。まアまア俺に任せて置きな」
「親分さん」
お勢は泣いておりました。
平次はもういちど広間に取って返すと、妓共を一人一人調べ上げて見ました。が、何も解りません。解った事は、真っ暗な部屋の中で、鬼がどこにいると見当もつかないのに、十幾人ただ滅茶苦茶にキャッキャッと言っていたというだけです。
「お駒は?」
「師匠の世話をしていますよ」
まだ一本になったばかりのお駒が、赤の他人の、初老近い幇間《たいこもち》の世話を焼くのは、余程どうかした心掛けでなければなりません。
「あの妓《こ》は、根が優しいから、それ位のことはするでしょうよ」
主人の喜兵衛はそんな事を言っております。
真夜中過ぎまで何の変化もなく、検屍《けんし》も翌《あく》る朝になったので、一応妓共を帰そうか――とも思いましたが、もしその中に下手人が交っていると、容易ならぬ手落ちになります。
平次は日頃の遣り口にはない事ですが、そ知らぬ顔をして、広間の中に不安におののく一団の美しい群《むれ》を見ておりました。
七
「親分、解った」
「なんだ、八」
「夜っぴて飛んで歩くつもりだったが、いい塩梅に、子刻《ここのつ》(十二時)前にみんな解ったぜ」八五郎の顔、――獲物を咥《くわ》えた猟犬のような顔を見ると、平次はそっと物蔭に呼びました。
「順序を立てて言え、まず、何が解った」
「白旗直八は御家人の冷飯食いの癖に、名代の色師《いろし》だ」
「それは解ってる」
「さんざんの道楽で勘当になり、板倉屋にころげ込んだ。さいしょは伴三郎と似たもの同士で仲よく遊び廻ったが、板倉屋の寵者《おもいもの》のお勢が、五年前白旗に騙《だま》されて道行きまでした事があると解って二人の仲は次第に面白くなくなった」
「それも解ってる」
「ところが、板倉屋は近頃お駒に夢中で、こんどこそは仮親《かりおや》を立て、引き祝いもさせて、家へ入れようというところまで話が進んだ」
「フーム」
「板倉屋の親類の手前、お駒の本当の親は、武家とか浪人とか言うことになっているが、それがどうも細工らしい」
「……」
平次はしだいに緊張しますが、八五郎の話は委細《いさい》構わずつづきます。
「それを嗅ぎ付けたのが白旗直八だ。親元のよくねえのをぶちまけると言っちゃ、お駒をおどし、まだ一本になったばかりで、金っ気がないとわかると、色気の方で行った」
「フーム」
「白旗というのは、悪い野郎ですぜ、殺されるのは当たり前だ」
「それからどうした」
「お駒は逃げて逃げて逃げ廻った。白旗直八はそれを追い廻して、板倉屋へ落籍《ひ》かれる前に射落とそうとした」
「待ってくれ、そのお駒の本当の親というのは何だ、それを聞いたか」
「それがどうしても解らねえ、――柳橋中を聞いて廻ったが誰も知らねえ。母親は芸妓《げいしゃ》だったが、父親は、大家《たいけ》の若旦那だったとも、武家だったとも――」
ここまで来ると、はなはだ頼りがありません。
「八、お前ひと走り番所へ行って、三輪の兄哥を呼んで来な」
「何をやらかすんで」
「ちょいと立会ってもらいたいことがある。板倉屋は清吉兄哥に任せて、ほんの四半刻清川へお顔を貸して下さい――と丁寧に言うんだぜ」
「ヘエ――」
八五郎には何が何やら解りませんが、親分の平次に言い付けられたとおり、とにもかくにも、もういちど深夜の街へ出て行きました。
八
「銭形の兄哥《あにき》、用事てえのは何だい」
三輪の万七は勝ち誇った心持で入って来ました。夜の明けぬうちに、伴三郎に白状させる見込みが立ったのでしょう。
「少し聞き込んだ事があるんだが、一人じゃ心細い、兄哥に立会ってもらいてえが――」
「いいとも、だが――無駄だぜ、銭形の、下手人はどう考えたって板倉屋だ」
「兄哥の見込みをどうのこうのと言うわけじゃねえ、ほんのちょいと、念のために当って置きたい人間があるんだ」
平次はそう言いながら、幇間《たいこもち》の左孝の臥《ね》ている部屋へ入って行きました。焼酎《しょうちゅう》くさい四畳半に、金盥《かなだらい》を一つ、美しいお駒が甲斐甲斐しく手拭を絞っては、左孝の顔を冷やしているのでした。
「あ、親分さん方」
入って来た平次とガラッ八と万七を見ると、お駒の顔色は動揺します。灯《あかり》のせいだったかもしれません。
「お駒、立ってみな、――どこかへ血が付いているはずだ」
「……」
平次の声は峻烈《しゅんれつ》でした。お駒の顔は、紙のように蒼白くなります。
「お前には殺す気はなかった。白旗直八はお前を捕まえると、あの部屋に伴れ込み、刀まで抜いて脅かした。言う事を聞かぬと殺すとか何とか言ったろう。お前は思案に余って、言うことを聞くような顔をし、白旗直八が刀をそこへ置くといきなり取上げて刺したはずだ――証拠はたくさんある」
「親分さん」
「違っているとは言えまい。さア、番所へ来い――三輪の兄哥、聞いてのとおりだ。俺《あっし》はこの女を番所へ伴れて行って伴三郎と突き合せる。兄哥はすまねえが、ほんのしばらくここにいて怪我人を見てやってくれないか」
平次は誰にも物を言わせませんでした。スックと立上がると、
「親分さん待って下さい、それは、違う」
怪我人《けがにん》の左孝が重態の床から乗出すのにさえ目もくれず、お駒を引立てて、風のごとく部屋の外へ出ました。
「銭形の、待ってくれ」
驚く三輪の万七、続いて立とうとするのを、「三輪の親分さん、聞いて下さい――私はどうせ助かりそうもない、何もかもみんな申します。白旗直八を殺したのは、お駒じゃありません」
瀕死《ひんし》の左孝は、万七の袖を犇《ひし》とつかんで、苦しい声を振り絞るのです。
「なんだ、早く言え」と中腰の万七。
「白旗直八を殺したのは、この左孝でございます。――お駒などが、とんでもない」
「何だと、いい加減の事を言うと承知しねえぞ」
「今死ぬ私が、いい加減な事を言うものですか、――何を隠しましょう、これはお駒も知らない事ですが、私はお駒のためには真《しん》の父親――」
「何?」
「お駒は私の娘で御座います」
左孝の言うのは全く思いもよらぬ事ですが、その真実性は万七の腰を据えさせます。
苦しい息の下から話したのはこうでした。
左孝がまだ若くて名のある店の若旦那時代に、芸妓と馴染んで生まれたのがお駒だったのです。その後しばらく他国を放浪し、落ちぶれ果てた姿で帰ってくると、お駒は他所《よそ》にもらわれて美しく育ち、その母親は十年も前に死んでおりました。
左孝は、お駒の夢を破らないために、永い間名乗りもせずに来ました。父親は大店《おおだな》の若旦那と思わせておくのが、幇間《ほうかん》の左孝には、せめてもの慈悲なのです。
そのお駒が玉の輿に乗りかけている矢先、白旗直八はフト左孝の身の上を嗅ぎつけて、お駒を脅迫し、金にも知恵にも余る難題を持ち出したのでした。今晩も、鬼になったのを幸い目隠しを外してお駒を隣の部屋に引摺《ひきず》り込み、刀まで抜いて難題を吹掛けるのをみると、お駒にも知らさずに、父親らしい慈悲の目を離さずにいる左孝は、その後を追って部屋に入り、直八がお駒を抱え込む隙に、そこに置いた抜刀《ぬきみ》を取って後ろから刺し、息の絶えるのを見ると、何とはなしに下手人を誤魔化すつもりで、再び死体に目隠しをさせ、自分も少しくらい怪我をして、諸人の疑いの目を免《まぬか》れるつもりで、一と思いに庭へ飛び降りたのでした。
「運悪く庭石の上へ落ちて、こんな大怪我をしたのも天罰《てんばつ》でございましょう、――三輪の親分さん、白旗直八を殺したのはこの左孝に違いございません。娘を助けてやって下さいまし、お願いでございます」
次第に弱る気力を励まして、左孝は両手を犇と合わせました。死の色の濃くなり行く頬には、必死の涙の跡さえ、糸のように引いているのです。
「よしよし、助けてやる、心配するな」
「それから、娘にはこの左孝が父親だったとは教えないでください、――赤の他人に危ないところを助けられたと思って、大怪我をした私を介抱するような優しい娘でございます」
それを聞いた三輪の万七も、鬼の眼の涙ほど睫毛《まつげ》を濡らしておりました。
*
お駒は番所へなど連れて行かれたのではありません。その晩のうちに許された伴三郎と、平次と万七が仲に入って仮祝言《かりしゅうげん》の話まで進められておりました。
何もかも見尽くして、淋しくあきらめたお勢は、
「八五郎親分のところへ押しかけ嫁に行きますよ。可愛がって下さいな」
そんな事を言いながら、ポロポロと泣いているのでした。
「親分、何だってあの時お駒を伴れ出したんで。下手人があの左孝とは、親分には前から判っていたんでしょう」
ガラッ八がこう切り出したのは、その翌る日でした。
「あんな細工でもしなきゃ、三輪の兄哥が本当に髷を切るよ」
「……」
ガラッ八は黙って、この世にも優れたこころ構えの親分を見上げました。おかげでこの手柄も、銭形の平次はフイにしてしまったのです。
十七の娘
一
荒物屋のお今――今年十七になる滅法可愛らしいのが、祭り衣裳の晴れやかな姿で、湯島一丁目の路地の奥に殺されて居りました。
「まア、可哀想に」
「あんな人好きのする娘《こ》をねエ」
どッと溢《あふ》れる路地の野次馬をガラッ八の八五郎、どんなに骨を折って追い散らしたことでしょう。
「えッ、よるな、見世物じゃねえ」
遠い街の灯や、九月十四日の宵月に照らされて、眼に沁みるような娘の死体を、後ろに庇《かば》ったなりで八五郎は怒鳴《どな》り立てるのでした。そこここから覗く冒涜的《ぼうとくてき》な野次馬の眼が、どうにも我慢がなりません。
「どうしたえ、八、お今がやられたそうじゃないか」
幸い親分の銭形平次が飛んで来ました。江戸開府以来と言われた、捕物名人が来さえすれば、八五郎の憂鬱は一ぺんに吹き飛ばされます。
「親分、あれだ」
「何て虐《むご》たらしい事をしやがったんだろう可哀想に」
側に寄ってみると、路地をひたした血潮の上に、左頸筋《ひだりくびすじ》を深々と切られたお今は突っ伏しておりますが、触ってみるとわずかに体温が残るだけ。
八五郎と死骸を挟んで、番太の親爺と、お義理だけの町役人が顔を並べましたが、すっかり顫え上がってものの役にも立たず。
「肝心《かんじん》のお袋は目を廻して、そこの家へ担ぎ込まれましたよ」
親一人子一人の評判娘が、この虐たらしい最期を遂げては、母親が目を廻すのも無理のないことでしょう。
「可哀そうに――検死《けんし》が済んだら、早く引取らせるがよい。もうすぐ八丁堀の旦那方が見えるはずだから」
平次はそう言って、路地の外から覗く、物好きな目の前へ、蓋《ふた》になるように立っております。
「三輪の親分が、下手人を挙げて行きましたぜ、親分」
と、ガラッ八の声は少し尖《とが》りました。
「そいつは早手廻しだな、誰だいその縛られたのは?」
「町内の油虫――釣鐘の勘六が、血だらけの匕首《あいくち》を持って、ぼんやり立っているところを、多勢の人に見られてしまったんで」
「なるほど」
「あわてて逃出したところを、三輪の万七親分が通りかかって、いきなり縛ってしまいましたよ」
「それっ切りかえ」
「|あっし《ヽヽヽ》も見たわけじゃありませんが、縛られると、それまで呆然《ぼんやり》していた勘六が、急に気狂いのように騒ぎ出したそうですよ」
「はてな?」
平次は考え込みました。勘六は五十男で、評判のよくない人間には相違ありませんが、十七娘をどうしようという歳ではなく、それに、お今は母一人娘一人で、人に怨《うら》まれる筋合いなどは、どう考えてもなかったのです。
「変でしょう、親分、――勘六ほどの悪党が、人を殺した現場に、ノッソリ血だらけな匕首を持って立っているはずはないじゃありませんか」
ガラッ八にもこれ位の眼があったのでした。
「三輪の兄哥にも何か思惑《おもわく》があるんだろう。ところで、お今には浮いた噂《うわさ》はなかったのか」
「大根畑の植木屋の専次《せんじ》というのが心安くしていたそうですよ」
「そっとつれて来る工夫はないか」
「そこに居ますよ、お今のお袋と一緒に」
ガラッ八は死骸を跨《また》ぐように、突き当たりの長屋へ入って行きました。そこはお今母子の知り合いの家で、神田明神様の宵宮の賑わいを抜けて、知り合いの家へやって来たお今が、後を跟《つ》けて来た曲者に、この路地の奥でやられたのでしょう。
「|あっし《ヽヽヽ》が専次でございますが――親分さん」
八五郎につれられて来たのは、二十二三の小意気な男でした。長ものを着ているせいか、植木屋という八五郎の触れ込みがなかったら、平次も大店《おおだな》の番頭か何かと間違えたことでしょう。
「専次――というのかい、このお今とはどうして知合いになったんだ」
平次はお今の死骸を月明かりの中に指しました。それを眺める専次の表情を、一つも見落とすまいとするように。
「この暮れには祝言をすることになっていましたよ、親分さん」
専次の顔には悲痛な色が動きました。一生懸命、反《そむ》ける眼が、ツイお今の虐たらしい死骸に牽付《ひきつ》けられる様子です。
「お袋も承知か」
「それはもう――何だったら、本人に訊いて下さい、そこに居りますから」
二
「当人は?」
平次は重ねて訊ねました。
「当人もそのつもりでした、――この春から」
専次の返事のぎこちなさ、――それは、喉《のど》まで込み上げて来る、大きな悲しみのせいでもあるのでしょう。
「ところで、今晩、一|刻《とき》ばかり前から、どこに居たんだ」
「明神様の境内から、金沢町あたりを歩いて居りました。何しろこんなに賑やかですから」
「お今と一緒に歩いているのを、見たものがあるぜ」
「そんな、そんな事が――親分」
専次はすっかりヘドモドして居ります。いや、それより驚いたのは、ガラッ八の八五郎でした。銭形平次は、八五郎のやった迎いで、ツイ今しがた自分の家から来たばかりで、そんな噂などを耳に入れる隙があろうとは思われません。
「この一刻ばかり、どこに何をして居たか、それがはっきりしなきゃ帰せねえが」
「親分、そりゃ無理ですよ、こんな人出ですもの、何百人に逢ったか判らないが、そのうちから、|あっし《ヽヽヽ》の見知りの人を捜すなんて出来ない相談ですよ」
専次は泣き出しそうでした。全く神田明神をめぐって人間の洪水《こうずい》のようなもので、その中を一刻泳ぎ廻ったところで、誰も見知り人などがあるはずもありません。
「気の毒だが、その胸の血飛沫《ちしぶき》がモノを言うから、一刻ばかりここへ寄り付かないという、確かな証人がなきゃ――」
「これは親分」
専次は自分の胸のあたりを眺めました。なるほど目立つほどではありませんが、点々として左脇腹へかけて、飛沫《しぶ》いた血の跡は隠しようも無かったのです。
「死骸を抱き起こした時の血だって言うんだろう」
「そのとおりですよ、親分さん」
「死骸から付いた血なら、そんなに飛沫くはずはねえ」
「でも、お今はその時、まだ息があったんで」
「息のあるのを介抱もせずに、俯向《うつむけ》に放り出したというのかい」
平次の問いは容赦もありません。月にさらされた惨憺たる有様を遠くながめて、路地の外の野次馬も声を呑みました。
「人を呼んで来るつもりで、大急ぎで飛び出しましたよ」
専次は出来るだけ軽やかに応答するつもりでしょう。頬のあたりに引き釣ったような笑いさえ浮かべますが、喉はすっかり涸《か》れて、こういう言葉も容易には出て来ません。
「その後に勘六が来て、匕首を拾い上げて捕まったというのだな」
平次は誰へともなくそう言います。
「へエ、そ、そのとおりで」
「それほど判っているなら、勘六が縛られる時、なんだって一言弁解をしてやらなかったんだ」
「へエ――」
「それじゃ勘六にすむめえ」
「でも、親分さん、勘六は|あっし《ヽヽヽ》が見付ける前に、お今を殺して、又やって来たかもしれません」
「自分の殺した娘の死骸を見に来た奴が匕首を拾い上げたというのか」
「……」
「そんな馬鹿なことがあるわけはねえ」
「……」
専次はガタガタ胴震《どうぶる》いのするのをどう隠しようもありません。
「八、しょっ引いて行こうか」
平次は静かに八五郎を顧みました。
「親分」
ガラッ八はもういちど平次の顔色を見ましたが、決然たる様子を見ると、ツイ袂の中の捕縄《とりなわ》に手が掛ります。
「御免下さい、親分さん、――少しばかり申上げたいことがございますが」
「誰だい」
「文吉でございます、へエ」
駄菓子屋の文吉――貧乏人には相違ありませんが、町内では便利のよい五十男でした。
「何だい」
「あの、専次さんは、つい先刻まで、町内の御神酒所《おみきしょ》の外にある縁台に、腰を掛けて居たようですが――ね、専次さん」
「へ、へエ――」
「町内の衆と顔馴染《かおなじみ》がないので、誰も気が付かなかったのかも知れませんが、|あっし《ヽヽヽ》はよく知っております。声を掛けようと思いましたが、遠慮して暗い方に腰を掛けて休んでいるのを、わざわざ明るみへ出して、若い者に極りを悪がらせるでもあるまいと、ツイ黙ってしまいました、へエ」
文吉の話は恐ろしく筋が通ります。
「それは本当かい、専次」
平次もツイ、そう訊かなければなりませんでした。
「へエ――、ぶらぶらお祭りの人出を見て歩いているうちに、足が草臥《くたび》れてやりきれませんが、大根畑の|あっし《ヽヽヽ》は、入って休むような家もございません、で」
専次はゴクリと固唾《かたず》を呑みます。救われた喜びに、少しボーッとした様子です。
「専次さんが立上がった時、|あっし《ヽヽヽ》も用事を思い出して、後から一緒に立ちました。ここの路地まで来ると、専次さんは路地の中へ入った様子でしたが、まもなく真っ蒼になって飛んで出て、その後すぐ勘六さんが入った様子です。お今さんを殺す隙なんかありゃしません」
「……」
銭形平次もすっかり考え込んでしまいました。どんな証拠があるにしても、こんな確かな生き証人が出てきては、どうすることも出来ません。
三
「た、大変ッ、親分」
翌る九月十五日の晩、ガラッ八は疾風《しっぷう》のごとく飛び込んで来たのです。
「何が大変なんだ、少し落ち着いて物を言え、お神楽堂《かぐらどう》から飛び出した潮吹《ひょっとこ》みたいな風じゃないか」
平次は静かに煙草盆を引き寄せました。
「落ち着いちゃいられませんよ、又やられたんだ」
「何だと?」
「三河屋のお三輪が、踊屋台《おどりやたい》の中で――」
「行ってみよう」
平次は立上がると、寸刻の猶予《ゆうよ》もなく、湯島一丁目まで飛んで行きました。
踊屋台は、界隈第一番という分限者、大藩のお金御用達を勤める三河屋の横手、久しいあいだ空き地になって居るところへ引込んだまま、夜も亥刻《よつ》近くなると提灯を二つ三つ点け放して、あまり人も寄り付かなかったのです。
その踊屋台の中、揚幕の蔭に、三河屋の一粒種で、町内の自慢の一つになっているお三輪が、揃いの祭手拭で、痛々しくも縊《くび》り殺されていたのです。
この娘も、前の晩殺された荒物屋のお今と同じ十七、身上《しんしょう》に隔たりはありますが、負けず劣らず美しい娘でした。
三河屋の両親の嘆きは見ている方も気が狂わしくなるくらい。
「お三輪、お三輪」
「何だって、死んでくれた」
「誰がこんな目に逢わせたんだ」
「言っておくれよ、お三輪」
半狂乱の両親は、検屍《けんし》も調べも待たず、四本の手に抱き上げて、よろぼいよろぼい庭を隔てた自分の家へ担ぎ込んで行ったのです。
五十過ぎて、たった一と粒種――それも竜宮の乙姫様《おとひめさま》のように美しい娘に死なれた、三河屋嘉兵衛夫婦の嘆きは、見る目も哀れでした。
「お今も、お三輪も十七か、変なことだな、八」
平次はそんな事を言いながら、右往左往する野次馬を尻目に空地と三河屋と、踊屋台の位置と、光線の関係などを見きわめております。
「いやな流行《はや》りものにならなきゃいいが――」
ガラッ八は何心なくそんな事を言って、気がさしたものか四方を眺めました。幸い誰も聴いている者はありません。
「表は人通りが多いから、踊屋台へ忍び込むには、後ろの木戸からだろう。道は二つしかないな、一方は三河屋の裏へ出るのか」
「離室《はなれ》の前から、母屋《おもや》へ出られますよ」
「離室には誰がいるんだ」
「七平と言って、――足の悪い男で、何でも、三河屋の遠縁の者だとか言いましたが」
地獄耳のガラッ八は、この辺の消息なら何でも知って居ります。
「もう一つの道は?」
と平次。
「若い者の休み場の裏へ出ますよ、駄菓子屋の文吉の家を若い衆の足溜《あしだま》りにしたんで」
「行ってみようか、――お前は三河屋へ行って、お三輪が何だってあんなところへ行ったか聴いてくれ」
平次は生垣《いけがき》と板塀のあいだを通って、念入りに調べながら、駄菓子屋の裏へヌッと出ました。そこには町内の顔役やら、若い者が十五六人、亭主の文吉を囲んで、その晩の恐怖をヒソヒソ語り合って居ります。
休み場と言っても、ほんの形ばかり、店には屏風《びょうぶ》を張り廻して、町内の世話人の足溜りにあてて、屏風の裏の一と間は文吉の寝間で、そのすぐ隣には小さいお勝手があると言った、まことに手軽な構えです。
「親分さん、ご苦労様で――」
文吉は早くも平次の姿を見て挨拶しました。
「誰もここから空地の踊屋台のほうへ行ったものはないだろうね」
「あるわけはございません。この人数で見張って居たんですから」
町内の鳶頭《とびがしら》は太鼓判でも何でも捺《お》しそうな勢いでした。
「親分」
ガラッ八は後ろから追っかけて来ました。
「何だ、八」
「三河屋へ行って聴いて来ましたが、お三輪は宵のうちに、あの踊屋台に舞扇《まいおうぎ》を忘れたんだそうで、それを取りに行ったそうですよ」
「扇なら下女か何かに取らせりゃいいじゃないか」
「それが自分で行ったというから不思議じゃありませんか。しばらく待っても帰らないから、心配になって、下女をやってみたんだそうで」
平次は腑《ふ》に落ちない顔をして黙っております。十七になる大家の娘が、扇を忘れたくらいのことで、亥刻《よつ》過ぎの空地などへ一人で行くはずはないと思っている様子です。
「何もかも、亥刻《よつ》過ぎに起こったことだ、ほんの四半刻の間だね」
お今を殺したのも、お三輪を殺したのも、刃物と手拭の違いはありますが、ほんのしばらくの間に行われたことで、人間の注意と注意の間の、わずかばかりの盲点を利用したやり口です。
「ここからは誰も空地の方へ行かなかったのだな」
平次はまだその事を気にして居ります。
「誰も行ったものはありません。宵からここに居たのは顔ぶれは決まって居りました。それに、|あっし《ヽヽヽ》の寝て居る枕元を通らなきゃ、裏口から出られやしません」
「寝ていた?」
「へえ、面目次第もございませんが、少し呑み過ぎて苦しいので、屏風《びょうぶ》の蔭へ横になって、半刻ばかり休ませてもらいました」
「……」
「将棋《しょうぎ》を指したり、無駄話をしたり、女達が私に水を持って来てくれたり、どうせこんな浅間な家ですから、寝付かれはしませんが、それでも、横になっただけで、酔いもさめましたよ」
文吉はそう言ってよく禿げ上がった前額をツルリ撫で上げたのです。五十五六の世馴れた愛嬌者で、少し卑屈《ひくつ》らしいところはありますが、その代わり町内の旦那衆に可愛がられて、小僧を相手に一文商《いちもんあきな》いをしながら気楽に暮らしております。
「寝込んでしまって、枕元を誰か通ったのを知らないような事はあるまいな」
「それはもう大丈夫で、へエ」
文吉は牡丹餅判《ぼたもちばん》が欲しそうな顔でした。
四
三河屋へ行ってみると、家の中は悲嘆の渦でした。老主人夫婦の他には、雇人《やといにん》ばかりですが、その雇人達が、ただ一と粒種の三河屋の希望を喪《うしな》った悲しみに浸り切って、しばらく平次と八五郎に取り合う者もない有様です。
主人の嘉兵衛が、涙を納めて、平次を迎えるまでには、たっぷり四半刻もかかりました。祭のどよみも静まり返ってさしもの賑わいも、今日の一段落を告げましたが、三河屋の家の中ばかりは、まだ歔欹《すすりなき》の声が、どこからともなく響いて、人の心を滅入らせます。
「何か、心当たりはないでしょうか、旦那」
苗字帯刀《みょうじたいとう》まで許されている嘉兵衛に対しては、岡っ引きの平次も遠慮はありました。
「いや何も、――扇を取りに踊屋台へ行ったというのも後で下女から聴いたことで」
一代身上を築いた嘉兵衛は意思の権化のような剛毅《ごうき》な男ですが、今晩はすっかり愚《ぐ》に返って、ともすれば湧く涙を拭うばかりです。
「手拭はお嬢さんの持物でしたね」
「そのとおりだよ、親分」
「申上げ憎いことですが、近頃お嬢さんが親しくしている男はなかったでしょうか」
「……」
嘉兵衛の首は、胸にめり込みます。
「そんな事でもあったら、そっと言って下さい、――お嬢さんの敵《かたき》を取らなきゃなりません」
平次は注意深くこう切り出しました。
「言いましょう、親分、恥も外聞《がいぶん》も、娘が生きているうちの事だ、――実は、あの大根畑の植木屋の倅で、専次と言うのが――」
「……」
「ときどき娘を誘い出しに来たようだが、男っ振りは好いにしても、あんまり評判のよくない男だから婆さんにそう言って、固く逢うのを止めてあったんだが――」
嘉兵衛はいかにも言い憎そうです。
「よく言って下さいました。それが判ればまた何とか考え様もあるでしょう。ところで、奉公人や近所の衆、御親類の人達等で、旦那かお嬢さんを怨《うら》んでいる者はありゃしませんか」
「それはない」
嘉兵衛の言う事はピタリとして居ります。
「でも――」
「奉公人は他所より給料を高くしてあるし、仕着せや手当ても不自由はないはずだ。それに少しは慈悲善根の心がけ、寄付も、ほどこしも、人様より少ないはずはない」
「……」
「町内で私から無利息《むりそく》の金を借りている者は――こう――と、十人や十五人はあるだろう」
嘉兵衛の言うのは一々本当です。三河在から、万歳の太夫で江戸へ来たと言うのは、世間の悪口にしても、ともかくも、ここへ根をおろしてざっと三十年、今では万両分限《まんりょうぶけん》の一人として、江戸の長者番付の前頭何番目かに据えられる嘉兵衛ですが、慈悲善根の心がけが篤《あつ》く、町内で評判の良いことは、平次も悉《よ》く知っております。
「とりわけ恩を着せているのは?」
と平次。
「私の口から言っては変だが――番頭にでも訊いて下さい」
平次もそれ以上は押して訊きません。
番頭手代、小僧下女の果てまで一応は逢ってみましたが、何の取り立てたこともありません。踊屋台へ行って、お三輪の死骸を見付けたという下女のお崎は、三十前後の達者な年増で、踊屋台の揚幕の蔭に、倒れていたお三輪の美しさ、いたましさ、そして凄さを、委曲詳細《いきょくしょうさい》に喋舌《しゃべ》りまくりますが、それにも、何の得るところもなかったのです。
「離室《はなれ》へ行ってみましょうよ、親分」
「俺もそれを考えていたんだ」
三河屋の母屋から、踊屋台へ行くには、どうしてもここを通らなければならないのが、離室の住人にひどく重要な役割を持たせます。
「七平、――まだ起きているのかい」
ガラッ八は見知り越しらしく、親しい声をかけると、
「誰だい」
しばらくゴトゴトさせて、雨戸をガラリと開けたのは、四十五六の蜘蛛《くも》のような男です。
五
「俺だよ」
代って顔を出した平次。
「お、銭形の親分さん」
よく禿《は》げておりますが、念入りに見ると、まだどこか若さの残った男。可哀想に足が不自由で、自分ひとりの力では、ちょっとも外へ出られません。
「遅くなって済まなかったな――ちょいと訊いて置きたいことがあってね」
「どうぞ、親分さん、こんな時ですから、お役に立てば何でもやりますよ」
七平は縁側の端っこへ出て、月の射し入る中に小さく踞《ちぢこま》りました。怪奇な男ですが、それだけに物事に熱心そうで、平次の方がかえって引入れられます。
「殺された娘の敵が討ってやりたいが、お前、なんか知って居ることはなかったかい」
「可哀想に、――よい娘でしたが――時折はさびしかろうって、菓子を持って来てくれたり、草艸紙《くさぞうし》を持って来て貸してくれたり」
七平はツイ目をしばたたきます。小さい小さい離室で、恐ろしく簡素ですが、古物ながら一と通りの道具が揃って、何不自由なく暮らしている様子です。
「誰か、お三輪を怨んでいる者はなかったかい」
「怨んでいる者――とんでもない、死ぬほど惚れている者は多勢ありますが」
「例えば?」
「町内の独り者はみんなですよ、へエ」
「その中で、親しくしているのはあったはずだが」
「大根畑の専次とか言いましたね、あの生《なま》っ白《ちろ》いのが、裏から来て、私の見る前で呼び出しの合図なんかしていましたよ、どうせ私は片輪者《かたわもの》だから、情事《いろごと》とは縁のない世界に住んでいると思ったのでしょう。私などは道傍の地蔵様ほどにも思っちゃ居ませんでした」
七平のはげしい調子には、片輪者らしいひがみがあるのを、平次は聞きのがしません。
「今晩は?」
「あっしは早寝で、戌刻半《いつつはん》には床の中へ潜り込んだくらいですから、うとうとして居て、よくは知りませんが、お祭りの笛だか、口笛だか、聞いたような気がしますよ」
「……」
「目がさめたから、ついでに手水《ちょうず》に起きて、雨戸をあけると、若い男の後姿が、離室の前を駈けて行ったようでしたが――」
「若い男――?」
「へエ、若い男でなきゃ、あんなに速く、跫音《あしおと》も立てずに飛べるわけはありません」
「それは、確かに合図の後だね」
「へエ――」
「合図をして娘を呼び出すのは、大根畑の専次一人だけだろうな」
「いくら大家の我儘娘《わがままむすめ》でも、まだ十七そこそこですもの、二人も三人も男があるわけはありません」
七平の舌には、なんとなく毒を含みますが、片輪なるが故に、人にも世にも捨てられているせいでしょう。
「お前、その口笛をよく聞いて知って居るだろうな」
「……」
「他の人の口笛と専次の口笛と間違えるようなことはあるまいな」
「間違いっこはありません。こんな工合でしたよ」
七平は大きな唇を歪《ゆが》めて、奇妙な節の口笛を吹いて聴かせました。
「そんな事でよかろう。ところで、もう一つ訊きたいが、三河屋の主人を怨んで居る者はないだろうか」
と平次。
「とんでもない、あんな仏様のような旦那を怨む者があったら、第一、十何年越し世話になっている、この七平が承知しません」
「お前はどんな引掛かりでここに居るんだ」
「遠縁の奉公人でしたよ。十二三年前、箱根へ旦那のお供をして行って、崖《がけ》から落ちて大怪我をして、それからズーッとここに置いて養ってもらっております」
「不自由はないだろうな」
「不自由なんてものは、どこの国の言葉だか知らないくらいで、ヘッヘッ」
七平は泣き出しそうな顔をして笑うのです。活動的な男が、活動を奪われて、何不自由なく暮らしていて、倦怠感《けんたいかん》を持て余していると言った様子でした。
「三河屋さんの世話になっているのは町内に何軒くらいあるだろう」
「十五六軒はありますよ、寿屋《ことぶきや》、人参湯《にんじんゆ》、金物屋、尾崎屋――」
「その中でも一番厄介になるのは?」
「駄菓子屋の文吉なんで、三度も身代限りを助けられていますよ、もっとも同じ三河の出だそうですが」
これ以上はもう訊くこともありません。平次とガラッ八は外へ出て暁近《あけちか》い月の光の中に顔を見合わせました。
六
「八、あれでもお三輪殺しの下手人は専次じゃないと言うのか」
「だって親分、夕べから一日一と晩、あっしは専次から目を離しゃしませんよ」
八五郎は厳重に抗議を申込みました。
「変だなア、七平の話を聴くと、下手人は間違いもなく専次だが」
「そんなはずはありませんが、あの時刻には専次は、お今の家で神妙に通夜《つや》をして居ましたよ」
「……」
平次には事件の真相は次第に判らなくなるばかりです。昨夜は文吉の動かぬ証言はあったにしても、お今殺しはどう見ても専次の外にないので、平次はガラッ八に命じて、一日一と晩専次を見張らせ、怪しい素振りがあったら、縛ってしまうようにと言い付けてあったのでした。
「これからどうしたものでしょう、親分」
「まず、寝ることだな、それからゆっくり考えるさ、新規蒔直《しんきまきなお》しだ」
「それじゃ、親分」
「明日の夕方までに、専次と勘六と、文吉と七平の身許をよく洗ってくれ、無駄だろうと思うが――それから、こいつは一番大事だ、三河屋の主人は三河万歳だったというが、それも本当か嘘か――」
「そんな事ならわけはありません」
「もう一つ、匕首は誰の品か、判らなきゃ、どこから出たか捜してくれ、これは下っ引を二三人歩かせたら、判るだろう」
「親分は?」
「俺は寝ていて考えるよ」
「へエ――」
勝手なことを言う平次と、ガラッ八はつままれたような心持で別れました。
それからまる一日。
翌る日の酉刻半《むつはん》(七時)頃、報告にやって来たガラッ八が、まだ座り込む前、
「親分、大変、三人目がやられましたよ」
下っ引の皆吉というのが、戸口から怒鳴《どな》りました。
「何? 三人目? 誰だそれは?」
平次もガラッ八も立上がります。
「下駄屋のお袖さん」
「そいつは大変、あれも十七だ」
三人は真っ黒になって飛んで行きました。金沢町の下駄屋のお袖、町は違いますが、お今、お三輪と並んで、界隈の評判娘です。
下駄屋は両親と兄妹六人暮らし、お袖はその一番上で、お今、お三輪とは違った意味の評判娘でした。綺麗さは二人に劣《おと》らなかったでしょうが、これは働き者で親孝行で、お今、お三輪のように、浮いた噂などは微塵《みじん》もなかったのです。
家内の驚きと悲嘆の中に駈け付けた三人は、お袖の死骸を見て、お今にも、お三輪にもない、不思議な衝動を感じました。あまり豊かでないせいもあったでしょうが、お祭騒ぎの中にも木綿物で、赤いものはよれよれの紐《ひも》ひと筋だけ、その紐で絞められた白粉っ気もない顔は、涙を誘う初々《ういうい》しさと、邪念のない美しさを、末期の苦悩も奪う由はなかったのです。
「これはひどい」
平時もさすがに顔を反けました。
「親分さん、敵を討って下さい。こんな孝行者を殺すなんて、あんまり、あんまりでございます」
下駄屋の亭主は、悲嘆に顔を挙げ兼ねるのでした。
世間が物騒といっても、まだ宵のうち、外へ出てなにかと用事をしていたお袖が、何やら変な声を出したように思って、父親が飛んで出ると、下駄の材料を入れた物置の前、まだ宵明《よいあか》りの中に死んでいたのだそうです。
家へ担ぎ込んで一生懸命手当てをしましたが、素人の悲しさは、ヘマの上にヘマばかりを重ねて、まだ脈も息もあった娘を、とうとう助け兼ねた口惜しさを、
「本当に何と言うことでしょう、親分さん、こんな娘を殺すなんて、鬼とも、畜生とも、――」
女房は半狂乱にかき口説《くど》くのでした。
その空気の中に、冷静な調べを進めるのは、平次にしても容易の業《わざ》ではありません。大骨折りで訊き出したのは、娘に浮いた噂のないという世間の評判の裏書と、下手人の姿は見えなかったということと、下駄屋の主人夫婦が、人から怨まれる筋のないことと、それから、娘を殺した赤い紐の結び目が、恐ろしく頑固な盲目結《めくらむす》びであったことなどでした。
「結び目がどうしても解けないので、思いの外手おくれになり、助けられる娘を殺してしまいました。あの通り力任せに引き千切った時には、もう――」
下駄屋の親爺は、赤い紐を見て泣くのです。なるほど引き千切ったのは頸《くび》の横の方らしく、後ろにあったという結び目は盲目結びで、石のように固くなって居ります。
「こんなに物を結《ゆ》わえるのは誰だろう、八」
「……」
平次はそれを八五郎に見せましたが、ガラッ八には想像も付きません。
七
十七の娘達と、十七の娘を持った親達は顫《ふる》え上がりました。お今、お三輪、お袖と、負けず劣らず美しいのが、三晩つづけて殺されたのですから、この次の番は、どこの十七娘へ行くか判らなかったのです。
好奇《ものずき》なのは、美しい順に、十七娘を数えました。
「この次は油屋のお咲かな、紙屋のお早かな――それとも」
そんな噂が、口から耳へ、耳から口へと、伝わります。
「八、大変なことになったな、――今晩は町内の十七娘に、寝ずの番をつけるんだ。それから、油屋のお咲と、紙屋のお早に気をつけろ」
「へエ――」
ガラッ八の八五郎は、平次の息のかかった下っ引全部を動員して、湯島一丁目から金沢町、御台所町《おだいどころちょう》、妻恋町一帯に網を張らせ、少しでも怪しい者があったら引っ縛《くく》るようにと指図をして置いたのです。
「親分、一人捕まりましたよ、でも、こいつは見当違いで、逃がしてやろうと思いましたが――」
八五郎がそんなことを言って来たのは、まだ酉刻半《むつはん》前でした。
「逃がしちゃならねえ、誰をどこで捕まえたんだ」
「紙屋の裏をウロウロして居る奴があるから、二人で挟《はさ》み撃《う》ちにすると、こいつはとんだ強い奴で、思いのほか骨を折らせました。繩を掛けて明るいところへつれて来ると、馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、馬鹿の音次郎でしたよ」
「何? 馬鹿の音次郎?――その野郎だッ、お袖の首に紐を巻いて、盲目結びにしたのは」
平次は飛び上がるほどの大喜びで、番所へ駈け付けました。そこには馬鹿の音次郎が、ポカンとした顔をして、自分の縄目を眺めております。
二十五六の立派な恰幅《かっぷく》ですが、生まれながらの白痴《はくち》で、する事も、言う事も、みんな定石が外れます。そのくせ馬鹿力があるので、いろいろの仕事を手伝って、町内の残り物をもらって暮らしている男でした。
「野郎ッ、なんだってお袖を絞《し》めたッ」
平次はいきなり浴びせかけました。
「だって親分、十七の娘を十七人殺すと、福があるって言うぜ」
恐ろしい言葉が、馬鹿の口から、スラスラと出るのです。
「それじゃ、お今やお三輪を殺したのも手前《てめえ》だろう」
「違うよ、親分、あれは、おらじゃねえ、先を潜《くぐ》って二人も殺されちゃ、町内の十七娘が種切れになるから、大急ぎでお袖を締めたんだ」
馬鹿の言うことにはすこしの嘘があろうとも思われません。それにお袖を締めた紐の結び目が、この男の仕業を証明しておりますが、お今と、お三輪の場合は全く違います。
「そんな事を誰から聞いたんだ」
「それは言わねえよ」
「何?」
「言うと叱られるから」
「言わなきゃ打つよ」
「……」
「牢へブチ込んで何時までも物を食わせないが、それでもいいか、野郎ッ」
「言うよ、言うよ、打たれるのは平気だが、物を食わせないのはひどいや」
「さア、言え、誰がそんな事を教えた」
「七平だよ、三河屋の離室《はなれ》にいる七平だよ」
「……」
平次とガラッ八は顔を見合わせました。いよいよ探索は筋に乗って来たのです。
すぐさま三河屋の離室の、七平を叩き起こし、馬鹿の音次郎に悪知恵《わるぢえ》を吹き込んだことを責めました。が、七平の言葉には、何の悪意があったとも思われません。
「馬鹿ほど恐ろしいものはございません。――音のやろうがその辺をブラブラしているから、縁側から声をかけて、食い残りの牡丹餅《ぼたもち》をやった序《ついで》に、――十七になる娘が二人殺されたそうだが、気の毒なことだ――まさか十七の娘を十七人殺せば福があるというわけでもあるまいに――とこう申しました。それをどう間違って聞いたことか、恐ろしいことでございます。お袖さんとやら、足の不自由な私は見たこともありませんが、とんだことをしでかしたもので、私も何かの掛り合いですから、四つん這いになっても、下駄屋さんへ参り、お線香の一本も上げましょう」
七平はそう言って、本当に四つん這いになって飛び出そうとするのを、平次とガラッ八は、どんなに骨折って止めたことでしょう。
八
「八、いよいよ十手捕繩のご返上だな」
「そんな気の弱いことを、親分」
「お袖殺し一人は押えたが、馬鹿の音次郎じゃ手柄にならねえ」
「でも、三輪の万七親分は大喜びで縛っていきましたよ」
「勘六を縛った見当違いを取返したかったろう、放って置くがいい、――俺は馬鹿などを縛りたくはない」
平次は宵のうちに引揚げて来て、お静に一本つけさせ、面白くもなさそうに盃を舐《な》めました。
「ところで、親分に頼まれたことがありましたネ」
「何だい」
「文吉、七平、専次、それから三河屋の身許と、匕首の出所」
「すっかり忘れて居たよ、そいつを聴かしてくれ」
平次は急に元気づきました。お袖殺しの一件で、まだガラッ八の報告を聴かずに居たことに気がついたのです。
「三河屋の旦那はやはり三河者ですよ、万歳《まんざい》ではない、日傭取《ひようとり》だったそうで、――文吉と一緒に江戸へ出て来て、昔は兄弟分だったそうですが、いつの間にやら一方は出世して、長者番付にも載るようになり、一方は落ちぶれて、駄菓子屋になったのだそうで」
「そいつは面白いな、二人が兄弟分とは初耳だよ」
「三河屋の旦那はそれでもよく文吉の世話をしたそうですよ、いくら注《つ》ぎ込んでも、貧乏性は仕方のないもので、あのとおり、その日暮しの境涯《きょうがい》から足が洗えません」
「七平は?」
「あれは三河屋の遠縁の甥《おい》で、番頭をしているうち箱根で大怪我をして、十何年|離室《はなれ》に置いて養っているんだそうで、――今でも三河屋の旦那は三日に一度、七日にいちど様子を見に行くそうです、――不自由なことはないか、七平――って、奉公人達は感心して居ますよ。その割にゃ、七平は一向恩を恩とも思わないそうですが」
「そんな事だろうな、あの面魂《つらだましい》じゃ」
「それから匕首ですがね、あれは柳原の露天で、職人に売った品だそうですよ」
「いつだ」
「十日ばかり前」
「どんな職人だ」
「頬冠りをして居て人相はわからなかったが、道傍《みちばた》の柳の小枝を上手に切って、切れ味を試して行ったんだそうで――」
「しめたッ、八、来いッ」
平次はまた大きなヒントを掴んだ様子です。つづく八五郎、どこへ行くのかと思うと、真一文字に妻恋坂を登って湯島の方へ――
大根畑の植木屋から、専次を縛ってくるのは、平次にとっては一挙手一投足の労《ろう》でした。わざと神田を避けて、大廻りに、八丁堀へ引いて行き、とうとう恐れ入らせてしまったのは翌る日の朝。
「親分さん、恐れ入りました。お今を殺したのは、この|あっし《ヽヽヽ》に違いありません。|あっし《ヽヽヽ》が三河屋のお三輪さんと心易くなったのを妬《や》いて、九月いっぱいにぜひ祝言するようにと、なんとしても聴かなかったのです。放っておくなら、三河屋へ怒鳴り込んで、嘉兵衛旦那にみんな言いつけるといった剣幕です。脅《おど》かす積もりで突出した匕首が、お今の逆上《のぼせ》た頸筋を縫って、あの始末でございました」
こうべらべらと白状してしまいました。が、
「お三輪を殺したのは誰だ」
と突っ込むと、
「それは一向知りません。あっしでない事は確かで――」
三河屋の婿になる気でいた専次が、お三輪を殺すはずのないことはあまりにも明らかです。
「よしよし、それで大抵判った。ところでもう一つ訊くが、あの晩、御神酒所なんかには行かなかったはずだな」
「へエ――」
「縁台へ腰を掛けた覚えもあるまい」
「……」
「文吉がお前を庇ったんだ、――文吉には何か恩でも被《き》せたことがあるのか」
「いえ、ろくに顔も知りません」
「よしよし」
平次は一人で呑み込むと、専次を奉行所|仮牢《かりろう》に送って、もういちど神田へ引返しました。
九
その足ですぐ、平次は一丁目の駄菓子屋に踏み込んで文吉を縛り、さらに三河屋の離室《はなれ》へ行って七平を挙げてしまいました。
「親分、これはどうしたことでございます」
おどろき呆れる文吉へ、
「野郎、黙って歩けッ、お前のような太い奴はないぞ、そんなひどい事をして知れずに済むものか、神様も仏様も見放したんだ、覚悟するがいい」
平次の言葉は、いつもに似気なく辛辣《しんらつ》です。
「親分」
「言訳があるなら、お白洲《しらす》でするがよい。――専次がお今を殺したのを覚《さと》って、手前《てめえ》はお三輪殺しを思い付いたんだろう、――お三輪を殺すのには専次を助けておいて、二つとも専次の仕業と思わせたほうが都合がよい、――専次が御神酒所に居たなんて大嘘をついて俺を騙《だま》したろう」
「……」
「翌る朝、酔った振りをして屏風の蔭に入り、そっと抜け出して、同じような禿頭《はげあたま》の七平を、三河屋の離室から背負ってきて身代りにおき、口笛を吹いてお三輪を誘い出し、踊屋台におびき寄せて絞め殺した上、手前は身代わりの七平を離室に戻して、自分が床の中にもぐり込んだろう。屏風《びょうぶ》の外には十五六人いたが、手前が寝ているから遠慮して声もかけなかったはずだ。お勝手に働いている近所の女達にはあとで水を持って来るように言ったが、水を持って行った女も、七平と手前は禿頭がよく似ているので、狸寝入《たぬきねいり》を替え玉と気が付かなかったんだ」
「……」
「どうだ、恐れ入ったろう」
平次の声は冴《さ》えますが、七平も文吉も首うな垂れて一句もありません。
「翌日になって、お三輪殺しの罪を被《き》せる積もりでいた専次が、一日一と晩八五郎に見張られていたと知って、手前達は胆《きも》をつぶしたろう。それから悪知恵を絞って、馬鹿の音次郎をけしかけ、罪もとがもない下駄屋の孝行娘まで殺させた。――俺も長い間十手捕繩をお預かりしているが、手前のような悪党は、見たこともないぞ」
平次がこんなに怒ったのを、ガラッ八も滅多に見たことはありません。
「親分、でも、二人の身になると口惜《くや》しいことばかりでした」
と、わなわな顫えながら、文吉は顔を上げます。
「何が口惜しい、何度も何度も三河屋さんの世話になっているじゃないか、たった一人の娘を殺すほどの怨みがどこにある」
「三十年前三河から一緒に出た兄弟分の私に、三度で十二三両は恵《めぐ》みましたが、――それが江戸の長者番付に載る万両分限のすることでしょうか、――私はたったそれだけで二十年間三河屋の仏心の生き証拠にされて居たのですぜ」
「もらうものは、いくらもらっても足りないのだ」
と平次。
「くれるほうは、一文二文でも恩にきせますよ、親分、|あっし《ヽヽヽ》は遠縁で、三河屋のために片輪《かたわ》になったのを、三河屋がお為ごかしに女房にまで別れさせ、さんざん恩に着せられて、離室へ犬のように飼われている男だ。三日に一度、七日に一度ずつ、自分の慈悲善根を見にくる三河屋を神様のように拝んで居なきゃならなかったんだ、畜生奴ッ」
七平は太々しく唾《つば》を吐き散らします。
「それで十七になる娘を殺したというのか、手前達は?」
「三河屋夫婦を殺したんじゃ虫が癒《い》えねえ」
「何と言う奴らだ」
平次は暗然として涙を呑みました。
*
二人を送った帰り――。
「八、厭な捕物《とりもの》だったな」
「三人を四人で殺したわけだね、親分」
とガラッ八はあさっての事を考えている様子です。
「人間の心は恐ろしい。俺は坊主にでもなりたくなったよ」
「でも、良い人間もあるぜ、親分」
「ガラッ八のように、な」
平次は淋しく笑いました。
笑い茸
一
伽羅大尽《きゃらだいじん》磯屋貫兵衛《いそやかんべえ》の涼み船は、隅田川を漕ぎ上って、白鬚《しらひげ》の少し上、川幅の広いところを選《よ》って、中流に碇《いかり》をおろしました。わざと気取った小型の屋形船の中は、念入りに酒が廻って、この時もうハチ切れそうな騒ぎです。
「さア、みんな見てくれ、こいつは七平の一世一代だ――おりん姐さん、|鳴り物《なりもの》を頼むぜ」
笑い上戸《じょうご》の七平は、尻《しり》を端折ると、手拭をすっとこ冠りに四十男の恥も外聞もなく踊り狂うのでした。
取り巻きの清五郎は、芸者のお袖を相手に、ヒッきりなしに拳《けん》を打っておりました。貫兵衛の義弟で一番若い菊次郎はそれを面白いような苦々しいような、形容のしようのない顔をして眺めております。
伽羅大尽の貫兵衛は、薄菊石《うすあばた》の醜《みにく》い顔を歪《ゆが》めて、はらの底から一座の空気を享楽している様子でした。三十五という脂《あぶら》の乗り切った男盛りを、親譲りの金があり過ぎて、呉服太物《ごふくふともの》問屋の商売にも身が入らず、取巻き末社を引きつれて、江戸中の盛り場を、この十年間飽きもせずに押し廻っている典型的なお大尽です。
「卯八《うはち》、あの酒を持って来い」
大尽の貫兵衛が手を挙げると、
「へエ――」
爺やの卯八――その夜のお燗番《かんばん》――は、その頃は飛切り珍しかったギヤーマンの徳利《とっくり》を捧げて艫《とも》から現れました。
「さて皆の衆、聴いてくれ」
貫兵衛は徳利を爺やから受取って、物々しく見栄《みえ》を切ります。
「やんややんや、お大尽のお言葉だ。みんな静かにせい」
清五郎は真っ赤な顔を挙げて、七平の踊りとおりんの三味線を止めさせました。
「この中には、和蘭《オランダ》渡りの赤酒《せきしゅ》がある。ほんの少しばかりだが、みんなにわけて進ぜたい。さア、年頭《としがしら》の七平から」
貫兵衛はそう言いながら、同じギヤーマンの腰高盃《こしだかさかずき》をとって、取巻きの七兵に差すのでした。
「有難いッ、伽羅大尽の果報にあやかって、それでは頂戴仕るとしましょうか、――おっと散ります、散ります」
野太鼓《のだいこ》を家業のようにしている巴屋《ともえや》七平は、血のような赤酒を注《つ》がせて、少し光沢《つや》のよくなった額《ひたい》を、ピタピタと叩くのです。
「次は清五郎」
これは主人と同年輩の三十五六ですが、雑俳《ざっぱい》も、小唄も、嘘八百も、仕方噺《しかたばなし》も、音曲もいける天才的な道楽指南番で、七平に劣らず伽羅大尽に食い下がっております。
「へエ――和蘭渡りの葡萄《ぶどう》の酒。話には聞いたが、呑むのは初めて――それでは頂戴いたします、へエ――」
美しいお蔦《つた》にお酌をさせて、ビードロの盃になみなみと注いだ赤酒。唇《くちびる》まで持って行って、フト下へ置きました。
「どうした、清五郎」
少し不機嫌な声で、貫兵衛はとがめます。
「いえ、少し気になることが御座います」
「なんだ」
「あれを――気が付きませんか、橋場《はしば》のあたりでしょう。闇の中に尾を引いて、人魂《ひとだま》が飛びましたよ」
「あれッ」
女三人は思わず悲鳴をあげました。
「おどかしてはいけない、たぶん四つ手駕籠の提灯《ちょうちん》かなんかだろう」
と貫兵衛。
「そんな事かもわかりません、――ああ結構なお酒でございました、――もう一杯頂戴いたしましょうか」
清五郎は綺麗に飲み干した盃を、お蔦《つた》の前に突き付けるのです。
「それはいけない、酒にも人数にも限りがある。その次は菊次郎だ」
「そう仰しゃらずにもう一杯、――頬っぺたが落ちそうですよ」
「いや、重ねてはいけない、それ」
貫兵衛が目配《めくば》せすると、お蔦は清五郎の手から盃をさらって、菊次郎のところへ持って行きました。貫兵衛の義理の弟で三十前後、これは苦味走ったなかなか良い男です。
菊次郎もどうやら一杯呑みました。義兄が秘蔵の赤酒は、こんな時でもなければ口に入りそうもありません。
続いて芸者のおりんとお袖、お蔦は呑む真似だけ。大方|空《から》っぽになった徳利は、杯を添えて艫のお燗番のところに返されました。
二
「あ、お前は」
お燗番の卯八は飛び付きました。が、その徳利を奪い取る前に、船頭の三吉は徳利の口を自分の口に当てて、少しばかり残って居た赤酒を、雫《しずく》も残さず呑み干《ほ》してしまったのです。
「いいってことよ、今日は大役があるんだ。酒でも呑まなきゃ、仕事が出来るものか」
「でも、その酒を呑んじゃいけないことがあったんだ。しようがねえなア」
「ケチケチいいなさんなよ、酒の一本や二本、なんでえ」
船頭の三吉は、お燗番の卯八の文句に取り合う様子もありません。
それからの騒ぎがどんなに悪魔的なものであったか、たった一人|素面《しらふ》だった、若い芸者のお蔦だけがよく知って居ります。
一番先に狂態を演じたのは、江崎屋《えざきや》の清五郎でした。
「ウ、ハッハッハッ、ハッ、ハッ、ハッ、こりゃ可笑《おか》しい、ハッハッハッ、ハッ」
腹を抱えて笑い出すと、その洞ろな笑いが、水を渡り闇を縫って、ケラケラケラと川面いっぱいに拡がって行きました。
それをきっかけのように、しばらくのあいだ坐ったまま、顔の筋肉をムズムズ動かしていた巴屋の七平は、物に憑《つ》かれたように起き上がって、筋も節もなく踊《おど》り始めたのです。
続いて菊次郎――日ごろ賢そうに取り澄ましているのが、膳を二三枚|蹴飛《けと》ばすと、湧き上がるような怪奇な手振りで、ヒョロリ、ヒョロリと人の間を泳ぎ廻るのです。
年増芸者のおりんは、何やらわめき散らして、狭い船の中――杯盤の間を滅茶苦茶に転げ廻りました。日ごろ気取ってばかりいる中年増のお袖も、訳のわからぬ事を歌い続けながら、あられもない双肌《もろはだ》脱ぎになって、尻尾に火の付いた獣《けもの》のように、船の中を飛び廻ります。
その中でも一番猛烈を極めたのは、船頭の三吉でした。口から泡を吹いて、酔眼をビードロのように据《す》えたまま、野猪《のじし》のように、艫から舳《みよし》へ、舳から艫へと、乱れ騒ぐ人間を掻きわけて飛び廻ります。
静まり返った隅田川の夜気を乱して、船の中には、一瞬気違い染みた旋風《せんぷう》が捲き起こったのです。洞《うつ》ろな笑いと、訳のわからぬ絶叫と、滅茶苦茶にもつれ合う中を、七人の男女が狂態の限りを尽くすのでした。
一番若くて、一番綺麗なお蔦は、颱風の目のように移動する動乱の渦《うず》を避けて、お燗番の卯八の懐に飛び込んだり、伽羅大尽の貫兵衛の背後に隠れたりしました。船はちょうど隅田川の真中に停まったまま、ちょっとも動く様子はありません。この動乱を避ける道は、夜の水より外にはないのですが、水心のないお蔦はさすがにそこへ飛込むほどの勇気も無かったのでしょう。
「旦那、どうしたんでしょう、私は、私は怖《こわ》い」
日ごろは醜い蝦蟇《がま》かなんかのように思っていた貫兵衛も、今の場合では、たった一人の救いの神でした。ほとんど素面《しらふ》で、艫からこの狂態をジッと見つめている貫兵衛の冷たい顔には、不気味なうちにも、妙に自信らしいものがあったのです。
「怖がることはないよ、あいつらは騒ぐことが好きなんだ、――あんなにゲラゲラ笑いながら滅茶苦茶に踊り狂いながら地獄の底まで道中するんだ」
貫兵衛のみにくい顔は、悪魔的な冷笑に歪んで、七人の狂態を指した手は、激情に顫えます。
「助けてエー、旦那様」
お蔦は思わずすがり付いた袂《たもと》を離しました。冷静を装う貫兵衛の顔には、踊り狂う七人の顔よりも物凄いものがあったのです。
その騒ぎの中から、船頭の三吉はヒョロヒョロと艫に戻りました。
「退《ど》いてくれ、――俺は、大変なことを忘れていた」
片手業にお燗番の卯八をかき退けると、予《かね》て用意したらしい、木槌《きづち》を取って、船底の栓《せん》を横なぐりに叩くのです。
「あッ」
お燗番の卯八は後ろから、その身体を羽掻締《はがいじ》めにしました。ここで船底の線などを抜かれたら、船の中の住人は、ひとたまりもなく溺《おぼ》れ死ぬことでしょう。
「止してくれ、――邪魔しやがると、手前《てめえ》のガン首から先に抜くぞ」
いきり立つ三吉。
「頼むからそいつは止してくれ」
「何を言いやがる」
振りもぎった三吉、もう一度槌は勢いよく振りあげられます。
その争いは一瞬にして片付きました。船頭の三吉がかねて仕掛けをしてあったらしく、船底の栓が他愛《たわい》もなく抜けるのと、卯八の必死の力が、荒れ狂う三吉を舷《ふなばた》から川の中へ押し転がすのと、ほとんど一緒だったのです。
ドッと奔騰《ほんとう》する水。
「あッ」
卯八は今抜き捨てた栓を捜しましたが、咄嗟《とっさ》の間に三吉が川の中へ放り込んだものか、それは見当たりません。自分の身体を持って行って、穴から奔注《ほんちゅう》する水を防ぎましたが、そんな事では、なんの役にも立たないことが、すぐ解ってしまいました。
船の中の狂乱は、一瞬ごとにその旋回度《せんかいど》を増して、山水《やまみず》に空廻りする水車のような勢い。
「あッ、そうだ」
卯八は料理のため用意した出刃包丁を取り出すと、碇綱《いかりづな》をプツリと切りました。あとは、艪《ろ》によって、なれないながら一と押し、二た押し。
水浸《みずびた》しになった涼み船は、それでも白鬚のほうへ、少しずつ少しずつは動いて行きます。
時々ドッと上がる笑い声、それも次第に納まって、乱舞も大方|凪《な》いだころ、船は向島の土手の下、三間ほどのところへズブズブと沈んでしまいました。
三
魂《たましい》の抜けたように、呆然《ぼうぜん》としている貫兵衛を促し、か弱いながら、一番気の確かなお蔦を手伝わせて、卯八一人の大働きで、水船から引上げた人間は五人、船頭の三吉と野幇間《のだいこ》の巴屋七平は、それっきり行方不知《ゆくえしれず》になってしまいました。
近所の船頭をかり集め、松明《たいまつ》を振り照らして川筋を捜しましたが、その晩はとうとう解らず、翌る日の朝になって、船頭三吉と野幇間七平の死骸は、百本杭から浅ましい姿で引上げられました。
ところで、不思議なことに、呑む、打つ、買うの三道楽に身を持ち崩して、借金だらけな船頭三吉の死骸からは、腹巻の奥深く秘めた百両の小判が現れ、野幇間七平の死骸には、背後《はいご》から突き刺した凄まじい傷が見付かったのです。
「こんなわけだ、親分、行ってみて下さい。前代未聞の騒ぎじゃありませんか」
ガラッ八の八五郎は、得意の早耳で、これだけの事を聞込んで来たのでした。
「そいつは御免蒙《ごめんこうむ》ろう、向島じゃ縄張り違げえだ」
銭形平次は相変わらず引込み思案です。
「縄張りのことを言や、三輪の万七親分だって縄張り違いでしょう」
「それがどうした」
「いきなり川を渡って、現場をさんざん荒らし抜いた上、柳橋に渡って、お蔦を挙げて行きましたぜ」
「それが見込み違げえだというのか」
と平次。
「お蔦は芸者家業こそしているが、親孝行で心掛けの良い娘だ。人を殺すか、殺さねえか、親分」
「大層腹を立ててるようだが、誰かに頼まれて来たんじゃあるまいな、八」
「ヘエ――」
「誰だか知らないが、門口《かどぐち》で赤いものがチラチラするようだ、ここへ通すがいい、――お静」
「はい」
女房のお静は心得て門口へ行った様子ですが、何やら押問答《おしもんどう》の末、モジモジする娘を一人、手を取らぬばかりに伴《つ》れて来ました。
「お前さんは?」
平次も少し面喰《めんくら》いました。まだほんの十七八、身扮《みなり》は貧し気な木綿物ですが、この界隈《かいわい》でも、あまり見かけたことのないいい娘《こ》です。
「ヘッヘッ、――お蔦の妹ですよ、親分」
ガラッ八は不意気に五本指で小鬢《こびん》などを掻《か》いて居ります。
「早くそう言やいいのに、――なんと言いなさるんだ」
「お絹さんてんだ、親分、――あっしの叔母さんの知合いで」
ガラッ八はまだモジモジして居ります。
「お絹さんと言うのかい、――一体どうしたというんだ。みんな話してみるがいい。俺の力で及ぶことなら、何とかして上げよう」
銭形平次が、こう言うのは、全くよくよくのことでした。それだけ、このお絹という小娘は、好感の持てる娘だったのです。
あぶらッけのない髪、白粉《おしろい》も紅も知らぬ皮膚《ひふ》、山のはいった赤い帯、木綿物の地味な単衣《ひとえ》、何一つ取柄の無いようすですが、その|つくろわぬ《ヽヽヽヽヽ》身扮《みなり》につつんだ、健康そうな肉体と、内気な純情とは、どんな人にでも、訴えずには措かなかったでしょう。
「姉を助けてください、親分さん」
「一体、どうしたのだ」
「姉は――幇間《たいこもち》の七平を怨んでいました。あの人がお袖さんに頼まれて、余計なことを言い触らしたばかりに、菊次郎さんと切れてしまったんです」
「それで?」
「それで、七平を殺したのは、姉さんに違いない――って、三輪の親分が言います」
「フーム」
「それから、昨夜《ゆうべ》船の中で、みんな気違いみたいになったのに、姉だけ一人、平気でいたのが怪しいんですって」
「それだけの事なら、お前の姉さんを下手人にするわけにはゆくまい。外《ほか》になんか手掛かりがあるだろう」
三輪の万七の老獪《ろうかい》さが、それだけの証拠でお蔦を縛らせるはずもありません。
「姉ちゃんは怪我《けが》をしていたんです」
「……」
「手首を切って、ひどく血が出ていたんですって」
「そんな事もあるだろう、――よしよし、俺が行って覗いてやろう。親孝行で評判の良いお蔦が、人など殺せる道理はない、――八、一緒に行ってみるか」
「ヘエ――」
親分を引っ張り出したのは、自分の手柄だけではなかったにしても、フェミニストの八五郎は、すっかり有頂天《うちょうてん》になって、親分の草履など揃えております。
四
「おや、銭形の」
向島で沈んだ船を見て、百本杭へ死骸を見に行った平次は、現場でハタと三輪の万七に逢ってしまいました。
「万七兄哥、もう下手人の目星が付いたようだな」
「今度は間違いがねえつもりだ。女の怨みは恐ろしいな、銭形の、――磯屋《いそや》の貫兵衛は江戸一番の醜男《ぶおとこ》だが、あの弟分の菊次郎は、また苦味走ったとんだ良い男さ。お蔦はあの男に捨てられたのを七平のせいだと思いこんでいるんだ」
自分の手柄に脂下《やにさが》る万七に案内されて、ともかくも、引取り手もなく、筵《むしろ》を掛けたままにしてある二人の死骸を見ました。
「匕首や剃刀《かみそり》じゃねえ」
「出刃包丁だよ、水船の中から拾って番所に預けてある」
万七は先に立ちました。
番所へ行ってみると、船頭三吉の腹巻から百両の小判と血脂《ちあぶら》の浮いた出刃包丁と、それから、厳重に縄を打ったままのお蔦が留め置かれております。
水船から這い上がって、半身ぐしょ濡れのまま縛られたのでしょう、腰から下は生湿《なましめ》りのまま、折り目も縫目《ぬいめ》も崩れて、筵の上にしょんぼり坐ったお蔦は、妙に平次の感傷をそそります。
妹のお絹によく似た細面《ほそおもて》、化粧崩れを直す由もありませんが、生まれながらの美しさは、どんな汚な作りをしても蔽う由もなかったのでしょう。うな垂れた緑の眉から、柔らかい頬のあたりが霞《かす》んで、言いようもない痛々しい姿です。
「お前は左利《ひだりき》きかい」
平次の最初の問いは唐突《とうとつ》でした。
「いえ」
わずかに顔を挙げるお蔦。
「傷は右手首のようだが、――どうしてそんな怪我をしたんだ」
「自分の持った出刃包丁で切ったのさ、解り切ったことじゃないか」
万七は苦々しく遮《さえぎ》ります。
「右手に持った出刃包丁で、右手首を切るはずはない」
平次のそう言う言葉に力を得たものか、
「お燗番の卯八さんが、碇綱を切って投げた包丁が当ったんです」
お蔦は顔を挙げてはっきり言うのでした。
「本人はあんな事を言うがね」
と万七。
「だが、三輪の兄哥。若い女の手で、七平を殺した上、船頭の三吉まで水の中へは放り込めないよ」
「なんの中毒か知らないが、船の中ではみんな半狂乱だったそうだよ。目の昏《くら》んだ人間なら、女一人の手でも、二人や三人始末出来ないことはあるまい」
万七は頑としてお蔦に疑いを釘付けにするのでした。
「お蔦――おまえはいま大変な事になっているよ、――みんな申上げてしまっちゃどうだ、隠し立てをして、万一の事があると、母親や妹が、とんだ嘆きをみることになるぜ」
「親分さん、私は、私はなんにも知りません」
平次の言葉の意味が解ると、お蔦はたださめざめと泣くのです。
「船の中で正気だったのは、磯屋とお燗番の外には、お前一人だったと言うじゃないか。お前はなにか知ってるに違いあるまい」
「……」
「お前の妹のお絹が、先刻俺の家へ来たよ。母親の嘆《なげ》きを見て居られないから、なんとか、姉を助けてくれ――と言って」
「親分さん」
お蔦は縛《しば》られたまま、ガバと泣き伏しました。
「言うがいい、お前はなにか知っているに違いない」
「……」
お蔦は黙って首を振りました。
「ね、銭形の、このとおりだ」
万七は我が意を得たる顔です。
五
「親分さん方、――磯屋の爺《じい》やが、申上げたいことがあるそうですよ」
下っ引が一人、うさんそうに鼻を持って来ました。
「卯八か、呼び出すつもりだった。ちょうどいい、ここへつれて来い」
「ヘエ――」
間もなく、下っ引きに案内されて、恐る恐る膝小僧《ひざこぞう》を揃えたのは、昨夜《ゆうべ》のお燗番――磯屋の庭掃き卯八でした。五十六七――ちょっと見は六十以上にも見えますが、長いあいだ戸外生活と労働で鍛えて、鉄のように頑丈なところがあります。
「なんだ、卯八」
万七は事件が厄介らしくなる予感で、少しばかり苦い顔を見せました。
「お蔦さんが縛られたと聞いて、びっくりして飛んで参りました。お蔦さんは、始終私か旦那の側に居りました。人を殺すなんて、とんでもない」
「それじゃ、誰が七平や三吉を殺したんだ」
万七は乗り出します。
「私ですよ、親分さん、――この卯八ですよ」
「何?」
「三吉を川へ抛《ほう》り込んだのは、この私に違いございません」
「なんだと?」
「船に仕掛けを拵《こしら》えて、中流で沈めにかかったのは、あの三吉でございますよ。私は船底の栓を抜かせまいと思って一生懸命組打ちをしました。が、なんと言っても年のせいで、三吉を川へ抛り込んだ時は、もう栓が抜かれて、水が滝のように入っていました。仕方がないから、碇綱を切って、滅茶苦茶に岸へ漕ぎ寄せました」
卯八の言葉は予想外でした。が、これだけ筋が立っていると、もはや疑う余地もありません。
「三吉はなんだってそんな事をしたんだ」
平次もこの恐ろしい企《くわだ》ての意味は読みかねました。
「船の中の人間を皆殺しにするつもりだったかもわかりません。碇綱で川の真中に止めた船が沈めば、あんなに酔って居ちゃ、助かるのが不思議です」
「みんな気違い染みた騒ぎをしていた――とお蔦も言うが、なんか変なものでも呑ませたんじゃないか」
「……」
「土手《どて》に這い上がると、ケロリとしていたが、船の中に居る時のことは、なんにも知らないと言うぞ」
万七は畳みかけました。
「……」
卯八は頑固に口をつぐみます。
「それじゃ、七平を殺したのは誰だ」
と平次。
「それはわかりません」
「お前じゃないと言うのか」
「七平は舳《へさき》に居りました。私やお蔦さんは艫《とも》におりました」
「出刃はお前が抛って、お蔦の手に当ったそうじゃないか。その出刃で七平が殺されて居るんだぜ」
平次はそのときの情景を想像している様子です。
「……」
「七平の側には誰と誰が居たんだ」
「おりんさんと、清五郎さんと、菊次郎さんと――」
「主人の貫兵衛は?」
「旦那様と、お袖さんは、私と七平さんの間に居りましたよ」
「フーム」
今度は平次が黙り込んでしまいました。
六
「八、昨夜《ゆうべ》船に乗っていた人間を、片っ端から調べ上げてくれ」
「ヘエ――」
「男も、女も、どんなつまらない事でも聞き洩《も》らしちゃならねえ。七平と懇意《こんい》なのや、七平に怨みや恩のあるのは、とりわけ大事だよ」
「そんな事ならわけはねえ」
「急ぐんだよ、八」
「ヘエ」
「それから磯屋の貫兵衛も、身上《しんしょう》から女出入りまで、根こそぎ調べて来い、こいつは一番大事だ」
「心得た」
「一人で手に負《お》えなかったら、下っ引を二三人狩り出せ。明日の朝までだよ、八」
平次の言葉を半分聞いて、八五郎は飛び出しました。
それから半日。
「親分」
八五郎はもう帰って来たのです。
「どうした、八」
「いろいろの事が判りましたよ」
「話してみな」
「お蔦が七平の細工で、菊次郎と割《さ》かれたことは――」
「それはもう判っている」
「菊次郎は飛んだ野郎で、金と女を取り込むことにかけては大変な名人ですよ」
「……」
「お蔦と手を切って、近頃はお袖に夢中になっていますよ」
「フーム」
「兄貴の磯屋の身代を、どれだけくすねたか解りゃしません。近頃磯屋の身上が歪んで、伽羅大尽の貫平衛は首も廻らないのに、菊次郎だけは、大ホクホクだ」
「磯屋がそんなに悪いのか」
「この盆《ぼん》は越せまいという話ですよ。何しろ十年越しの駄々羅《だだら》遊びだ。どんなに身上があったってたまったものじゃない。それに、義弟の菊次郎をはじめ、巴屋七平、江崎屋清五郎などは、滅茶苦茶に煽《おだ》てて費わせて、そのかすりを取ることばかり考えているんだ」
「清五郎と七平の暮らし向きはどうだ」
「野幇間《のだいこ》を家業のようにして居るくせに近頃は大変な景気だ。ことに清五郎なんか、地所を買ったり、家を建てたり、おりんの身請けをするという話もありますよ」
「よしよし、それで大分判ったようだ。ところで、八。横山町の町役人に会って、明日の辰刻《いつつ》前、磯屋の主人貫兵衛が、お手当てになるはずだ、万事抜かりのないように仕度をしておけ――とこう言っておいてくれ」
「それは、本当ですか、親分」
「本当とも、笹野の旦那には、あとでそう言って置く、――こいつは大変な捕物だ。抜《ぬ》かっちゃならねえ」
「あんまり早く町役人に言っておくと、磯屋の耳に入りますよ」
「それでいいんだよ」
「ヘエ――」
「おっと待った、八」
「……」
「今晩、少し仕事がある。横山町の自身番へ潜《もぐ》り込んで、俺の行くのを待ってくれ」
「ヘエ――」
八五郎は何が何やら解らずに飛んで行きます。
それから二刻《ふたとき》ばかり、江戸の街々もすっかり寝鎮《ねしず》まった頃、平次は横山町の自身番を覗きました。
「八」
「あッ、親分」
「静かについて来い」
二人はそれっきり黙りこくって、城郭《じょうかく》のような磯屋の裏口へ忍び寄りました。
「何をやらかすんで、親分」
「ちょいと、泥棒の真似をするんだ」
「ヘエ――」
「どんな事が始まっても、驚くなよ、八」
「……」
平次の調子の物々しさに、八五郎もつい胴《どう》ぶるいが出るのでした。
「この塀《へい》へ飛び付けるだろう」
「大丈夫ですか、親分は」
「大丈夫だとも」
二人は裏口の側の天水桶《てんすいおけ》を踏台《ふみだい》にして、あまり苦労もせずに塀を乗り越えました。
「どうするんで、親分」
「シッ」
「驚いたなア」
「驚くのはこれからだよ」
磯屋の裏をグルリと一とめぐり、平次は家の中へ忍び込めそうな場所を探す様子でしたが、伽羅大尽と言われた構えだけに、さすがに忍び込む場所もありません。
「親分、あれは?」
「シッ」
平次は八五郎を突き飛ばすように、あわてて物蔭《ものかげ》に身を潜《ひそ》めました。裏口が静かに開いて、真っ黒なものが、そろりと外へ出たのです。
「……」
二人は呼吸《いき》を殺して見詰めました。
真っ黒な人間は、しばらく外の様子を見ている様子でしたが、誰も見とがめる者がないと判ると、引っ返して家の中から手燭《てしょく》を持って来ました。
磯屋の主人、伽羅大尽の貫兵衛です。
貫兵衛は平次と八五郎には気が付かなかったものか、その前を通り抜けて、物置の方へ足音を忍ばせます。
「来い」
平次は八五郎を小手招《こてまね》ぎながら、静かにその後をつけました。
やがて物置から、プーンとキナ臭い匂い、パチパチと物のはぜる音。
「八、大変だ。あの火を消せ」
「応《お》ッ」
二人が一団になって飛び込むと、磯屋貫兵衛は、手燭の火を、物置の中のガラクタに移している最中だったのです。
「野郎ッ」
遮二無二《しゃにむに》飛び込むガラッ八。
「あッ」
燃え草の火の中に、貫兵衛と組んだまま転がり込みました。咄嗟《とっさ》の間に平次は、物置の側にある井戸に飛び付くと、幸いそこにあった用心水を一杯、燃え上がったばかりの焔《ほのお》の上へ遠慮会釈もなく、ドッと浴びせたのです。
「わッ、ブルブル」
火は消えました。が、ガラッ八と貫兵衛は、取っ組んだままズブ濡れになって、物置の口へ転がり出ます。
「なんという馬鹿なことをするんだ、御府内《ごふない》の火付けは、火焙《ひあぶ》りだぞ」
平次はそれを闇の中に迎えて叱咤《しった》します。
「相済みません」
あいての素性《すじょう》も判りませんが、貫兵衛は威圧《いあつ》されて、思わず大地に崩れました。
「幸い誰も気が付かない様子だ、――酒へ毒を入れたり、物置へ火をつけたり、一体これはどうした事だ」
「……」
「俺は神田の平次だ、話してみちゃどうだ」
平次の声は威圧から哀憐《あいれん》に変わっておりました。
「銭形の親分――良い方に見付かりました。みんな申上げます。この私が、今晩死ななければならないわけ――」
七
物置の前から奥の一と間に案内されて、平次とガラッ八は、磯屋貫兵衛の不思議な懺悔話《ざんげばなし》に耳を傾けました。
「聴いて下さい、親分。この世の中に、私ほど幸《しあわ》せに生まれて、私ほど不幸せになった者があるでしょうか」
磯屋貫兵衛の話はこうでした。貫兵衛が父の跡を継いだのは十年前、ちょうど二十五の歳、金持ちのお坊ちゃんに育って、阿諛《あゆ》と諂佞《てんねい》に取巻かれ、人を見下《みくだ》してばかり来た貫兵衛は、自分の世帯になって、世の中に正面からぶつかった時、初めて、自分の才能、容貌《ようぼう》、魅力《みりょく》、――等にたいする、恐ろしい幻滅を感じさせられたのです。
それまで、自分ほど賢いものは、江戸中にもあるまいと思ったのが、我儘な坊ちゃんの言い募《つの》る言葉に屈従《くつじゅう》する人達の姿であり、自分ほど立派な男はあるまいと信じさせたのは、おべっかを忠義と心得た、卑怯《ひきょう》な人達のお世辞を、鏡《かがみ》と没交渉《ぼつこうしょう》に信じていたに過ぎないことを、つくづくと思い当たらせられる時が来たのでした。
貫兵衛は、恐ろしい失望と自棄《やけ》に、気違い染みた心持になりましたが、まもなく、何万両という大身代が自分の自由になったことと、その何万両を散じさえすれば、お坊ちゃん時代の夢を、苦もなく再現することの出来ることに、気が付いたのです。
あらゆるお世辞、――歯の浮くような阿諛を、法外な金で買って、貫兵衛は溜飲《りゅういん》を下げました。色街の女たちも、百人が九十人まで、小判をばら撒《ま》きさえすれば、助六のように自分を大事にしてくれます。
行くところ、煙管《きせる》の雨は降りました。家へ帰ると、女達の手紙を、使い屋が何十本となく持って来てくれました。やがて、金の力の宏大なのに陶酔して、貫兵衛はもう一度、それが自分に備《そな》わった才能、徳望のように思い込んでしまったのです。
それから十年の間、貫兵衛はあらゆる狂態をし尽くしました。女房を迎える暇もないような、忙《せわ》しい遊蕩《ゆうとう》――そんな出鱈目な遊びの揚げ句は、世間並みな最後の幕へ押し流されて来たのです。
手っ取り早く言えば、磯屋にはもう一両の金も無くなって居たのです。家も、屋敷も、小品も、二重にも三重にも抵当に入って、この盆には、素裸《すっぱだか》で抛り出されるか、首でも縊《くく》るより外に、貫兵衛の行く場所は無かったのでした。
「そうなると、女共はみんな私から離れてしまいました。お蔦も、おりんも、お紋も、お袖も、――それから私を十年越し喰い物にしていた遊び仲間も、陰へまわって私の悪口を言うようになりました。何千両となく取り込んだ義弟《おとうと》の菊次郎も、巴屋の七平も、江崎屋の清五郎も、私の顔を見て、近頃はもう昔のようにお世辞笑いをしなくなったばかりでなく、わざと私に聞こえるように、わたしの悪口さえ言うようになったのです」
貫兵衛の話の馬鹿馬鹿しさ、ガラッ八の八五郎さえ、我慢がなり兼ねて時々膝を叩きますが、銭形平次は世にも神妙に構えて、
「それから」
静かに促します。
「私は一期《いちご》の思い出にみんなを馬鹿にしてやろうと思いました。昔金に飽《あ》かして手に入れた、笑《わら》い茸《たけ》の粉を和蘭渡《おらんだわた》りの赤酒に入れて、みんなに一杯ずつ呑ませ、あらん限りの馬鹿な顔をさせてみるつもりだったのです」
話は次第にその晩の筋になって来ます。
「涼み船を出して、守備よく笑い茸の酒を飲ませ、みんなの、あらゆる馬鹿な姿を眺めました。それがせめてもの――翌る日は死んでいく私の腹癒《はらい》せだったのです。その晩帰ると、奉公人にみんな暇を出し、この家に火をつけて、私は首でも縊《くく》るつもりでした。――それが、船を沈められたり、七平が殺されたり、あんな思いもよらぬ騒ぎになってしまったのです。私の死ぬのは、そのお蔭で一晩遅れました――もっとも」
「……」
「もっとも、卯八だけは私の心持をようく知って居りました。あればかりは、私におべっかも使わず、お世辞らしい事も言いませんが、こんな落目になっても、一生懸命、私を庇《かば》ってくれました。――笑い茸の企《たくら》みなども、最初はたって止めましたが、命に別状のないことだからと説きふせられて、私に一世一代の溜飲を下げさせたのです」
「船を沈めさせたのは誰の指図だ」
平次はそれを知りたかったのです。
「それは知りません。――私は自分の命さえ捨てるつもりでした。今さら嘘《うそ》も偽《いつわ》りもありません。船頭の三吉に、船を沈めることを言い付けたのだけは、この私じゃない」
「すると?」
「第一、私にはもう、百両という小判がありませんよ」
貫平衛はそう言って淋しく笑うのです。三吉の死体の腹巻にあった金のことでしょう。
八
「親分、驚いたね」
ガラッ八は、黙々として横山町から帰る平次に声を掛けました。磯屋貫兵衛を町役人に預けて、さてこれからどうしようもなく、家路を辿《たど》っていたのです。
「俺も驚いたよ。七平を殺したのは、お蔦や貫兵衛でないことは確かだ」
「三吉に言い付けて、船をしずめさせた奴じゃありませんか」
「えらいッ、八、そこへなんだって気が付かなかったんだ。あの晩、赤酒を呑む振りをして呑まなかった奴と、泳《およ》ぎのうまい奴を調べて来い、――こんどは間違いないぞ」
「そんな事ならわけはありませんや」
「どこへ行って聞くつもりだ」
「船宿を軒なみ叩き起こして――」
「それもいいが、卯八とお蔦に聞くのが早いぜ」
「心得た」
ガラッ八は闇の中に飛びます。翌る朝ガラッ八が、その報告を持って来たのは、まだ薄暗いうちでした。
「親分、驚いたのなんの」
「どうした、八」
「あの中で泳げないのは、貫兵衛と爺やの卯八だけですよ」
「何?」
「死んだ七平なんぞと来た日にゃ、河童《かっぱ》みたいなもので」
「菊次郎と清五郎は?」
「二人ともよく泳ぐそうですよ、――もっとも女どもはみんな徳利《とっくり》だ、少しでも泳げそうなのは、橋場《はしば》で育ったお袖くらいのもので」
「すると――面白いことになるぜ。七平は船が沈んでも死にそうもないから刺《さ》されたというわけだろう」
「そこですよ、親分」
ガラッ八は大きな声を出します。
「ところで、赤酒を呑まないのは、誰と誰だ」
「そいつが大笑いで、親分」
ガラッ八はクスリクスリと笑います。
「なにが可笑《おか》しい」
「あの伽羅大尽の貧乏大尽がどこまでお目出度いか解らない」
「どうしたんだ」
「赤酒の中に、なんか仕掛けがあると知って、たった一人も呑んだ奴がないと聞いたらどうします」
「本当か、それは、八?」
この情報には、さすがの平次も驚きました。
「どうかしたら、殺された七平くらいは呑んだかもしれないが、菊次郎も清五郎も、おりんも、お袖も呑んじゃ居ません。みんな川に捨てたり、手拭にしめしたりしたそうで――これは最初から素面《しらふ》だったお蔦と卯八が見届けていますが。もっとも三吉は確かに呑んだそうで」
「なるほどな」
「笑い茸なんて、そんなものを呑ませて、万一間違いがあってはと、人の良い卯八がそっと菊次郎に耳打ちをしたんです」
「そいつは大笑いだ、呑まない毒酒を呑んだ振りをして、七人揃って気違い踊りと馬鹿笑いをするとはふざけたものだな、伽羅大尽の馬鹿納めには、なるほどそいつは良い狂言だ」
「ところで下手人は誰でしょう、親分」
「解って居るじゃないか」
「ヘエ?」
「みんなだよ」
平次は八五郎と一緒に、まず磯屋の近所に住んでいる菊次郎を襲いました。猛烈に暴れるのを縛って、つづいて江崎屋の清五郎を、それから――年増芸者のおりんとお袖とを、四人|数珠《じゅず》繋ぎにして、その朝のうちに送ってしまったのです。
*
「さア判らねえ、下手人は四人ですかい、親分」
「その通りだよ。菊次郎が頭領《かしら》になって、この十年の間に、磯屋の身代を滅茶苦茶にし、その半分くらいは自分たちが取り込んでいたんだ」
「そいつは世間でも知っていますよ」
「いよいよ磯屋が身代限りということになると、お白洲《しらす》へ出るから、自分たちの悪事がみんな知られる、――涼み船で笑い茸を呑ませるという話を卯八から聴いて、菊次郎と清五郎は、その裏を掻く相談をしたんだ。船頭の三吉に百両の大金をやって、河の真中で船を沈めさせ、貫兵衛とお蔦と卯八を、溺《おぼ》れさせ、自分達だけ助かるつもりだったのが、その場になって七平が不承知を言い出して、仲間割れが出来てちょっと困ったところへ、船頭の三吉は本当に毒酒を呑んで、卯八のような年寄りに川へ抛り込まれた」
「ヘエ――」
「卯八の抛った出刃包丁を拾ったのは、一番近いところにいたお袖だ。お袖の手から菊次郎が受取り、これを清五郎に渡した。清五郎がそいつで舳《へさき》に後向きになっている七平を突き、川の中へ落としたんだろう。ただ川の中へ突き落としたくらいじゃ、泳ぎのうまい七平は死なない――七平に寝返りを打たれちゃ菊次郎も清五郎も首が危ない」
「なアる――」
「そんな事をしているうちに船は岸についた。人立ちがして来たから、その上の細工は出来なかったのだろう」
そう説明されてみると疑う余地もありません。四人――七平を加えて五人でやった細工なら、なるほど手際よく運びもするでしょうが、最後の際《きわ》に、七平の裏切りと卯八の忠義で、悪者どもの企《たくら》みが喰い違ってしまったのです。
「悪い奴らじゃありませんか。親分」
「人間の屑《くず》だよ、――俺の立てた筋《すじ》はまず間違いはあるまいと思う。このお調べは面白いぜ、八」
「ヘエ――」
「気の毒なのは磯屋の貫兵衛だ、――が、自業《じごう》自得《じとく》というものさ、――それよりも可哀想なのはお蔦だ」
平次はつくづくそう言うのでした。
刑場の花嫁
一
「八、今のはなんだい」
「ヘエ――」
銭形の平次は、後ろから跟《つ》いて来る、八五郎のガラッ八をふり返りました。正月六日の昼少し前、永代橋の上はひっきりなしに、遅れた礼者と、お詣りと、俗用の人が通ります。
「人様が見て笑っているぜ、でっかい溜息《ためいき》なんかしやがって」
「ヘエ――相済みません」
八五郎はヒョイと頭を下げました。
「お辞儀しなくたっていいやな、――腹が減ったら、減ったというがいい。八幡様の前でよっぽど昼飯にしようかと思ったが、朝飯が遅かったから、ツイ油断をしたんだ。家までは保《も》ちそうもないのかえ」
「ヘエ――」
「ヘエーじゃないよ。先刻《さっき》は橋の袂《たもと》で飼葉《かいば》を食っている馬を見て溜息を吐《つ》いていたろう。あれは人間の食うものじゃないよ。諦めた方がいいぜ」
「ヘッ」
八五郎は長んがい顎《あご》を襟《えり》に埋めました。まさに図星といった恰好です。
「どうにもこうにも保《も》ちそうもなかったら、その辺で詰め込んで帰るとしようよ。魚の尻尾《しっぽ》を齧《かじ》っている犬なんか見て、浅ましい心を起こしちゃならねエ」
平次はそんなことを言いながら、その辺のちょいとした家で、一杯やらかそうと考えているのでした。
「犬は大丈夫だが、橋詰の鰻屋《うなぎや》の匂いを嗅いだら、フラフラっとなるかも知れませんよ」
「呆れた野郎だ」
二人は橋を渡って、御船手《おふなて》屋敷の方へ少し歩いた時、
「あッ、危ねエ、気を付けやがれ間抜け奴《め》ッ」
飛んで来て、ドカンと突き当たりそうにして、平次にかわされて、クルリと一と廻りした男、八五郎の前に踏み止って遠慮のないのを張り上げたのです。
「何をッ、そっちから突っかかって来たじゃないか」
「八、放っておけ、空《す》きっ腹に喧嘩は毒だ」
平次は二人の間に割って入りました。
「あッ、銭形の親分」
「なんだ。新堀《しんぼり》の鳶頭《かしら》じゃないか」
革袢纏《かわばんてん》を着た、中年輩の男、年始廻りにしては、少しあわてた恰好で、照れ隠しに冷や汗を拭いております。
「相済みません。少しあわてたもんで、ツイ向こうみずにポンポンとやる癖《くせ》が出ちゃって、へッ、へッ」
「恐ろしい勢いだったぜ。火事はどこだい。煙も見えないようだが」
「|からか《ヽヽヽ》っちゃいけません、ね親分。ここでお目にかかったのは、ちょうどいい塩梅《あんばい》だ。ちょいと覗いてやって下さい。大変な騒ぎが始まったんで」
「何が始まったんだ。喧嘩じゃあるまいね。夫婦喧嘩の仲裁なんざ、御免蒙るよ」
「殺しですよ、親分」
「ヘェ、松の内から、気の短い奴があるじゃないか」
「殺されたのは、新堀の廻船問屋、三文字屋の大旦那久兵衛さんだ。たくらみ抜いた殺しで、恐ろしく気の長い奴の仕業《しわざ》ですぜ、親分」
「なるほど、そいつは鳶頭《かしら》の畠じゃねえ」
「だからちょいと覗いて下さい。そう言っちゃ済まねえが、富島町の島吉《しまきち》親分じゃ、こね返しているばかりで、いつまで経っても埒《らち》が明かねえ。あんまり歯痒《はがゆ》いから、|あっし《ヽヽヽ》は深川の尾張屋の親分を呼んで来て、陽のあるうちに下手人を縛ってもらおうと思って飛んで来たんだが、橋の上で銭形の平次親分と鉢合わせをするなんざ、八幡様の御引き合せみてえなもので――」
「八幡様が迷惑なさるから、そんな馬鹿なことは言わないことにしてくれ。外ならぬ島吉|兄哥《あにい》が困っているなら、ちょいと手伝ってやってもいい。案内してくれるかい、鳶頭」
平次は思いのほか気軽に引受けました。滅多に人の縄張りに足を踏込んで、仲間の岡っ引に恥をかかせるようなことをしない平次ですが、富島町の島吉は先代から懇意《こんい》で、わけても先代の島吉に、平次は親身も及ばぬ世話になっております。その倅の島吉――まだ十手捕り縄をお上から許されたばかりの若い御用聞きが、いきなり厄介な事件に直面して面喰《めんくら》っていると聴いては、ジッとしてもいられません。まして、川を越して深川の尾張屋が乗出すようなことになると島吉の顔は丸つぶれでしょう。平次が気軽に乗出したのも無理のないことだったのです。
豊海橋《ほうかいばし》を渡って南新堀へ入ると、鳶頭は三文字屋の方へは行かずに、四日市町から天神様へ行きます。
「道が違いやしないかえ、鳶頭」
八五郎は先刻の啖呵《たんか》の仕返しに、一本抗議を申込みました。
「三文字屋のお店は南新堀だが、大旦那は癇性《かんしょう》で大勢人のいるところでは寝られないと言って、毎晩|亥刻《よつ》(十時)になると、霊岸島《れいがんじ》の隠居家へ引揚げて休みなさるんで」
「その隠居家に凄いのを囲ってあるという寸法かい」
と八五郎。
「とんでもない、三文字家の大旦那と来た日にゃ、江戸一番の堅造だ。もっとも取って六十三とか言ったが、――隠居家は下女のお作《さく》一人、雌猫も置かねえ」
「その下女が――」
「三十過ぎの出戻りで、稼いで溜めて、在所へ帰るより外に望みのねえ女だ」
そんな話をするうちに、三人は隠居所の前、なんとなく穏やかならぬ人立の中に立っておりました。
二
三文字屋の隠居所というのは、霊岸島町の裏におき忘れたように建てた、たった三間の家で、知らない者では、これが廻船問屋で万両分限《まんりょうぶげん》の隠居所とは、気のつきようもないほど粗末なものでした。
「ああ、銭形の親分さん」
三間に溢《あふ》れる男女は、一斉に平次の方をふり返りました。深川の御用聞尾張屋の専吉をつれて来ると言って飛び出した鳶頭《かしら》が、名高い銭形の平次をつれて来たのを見て、一同ホッとした様子です。
「島吉兄哥は?」
平次はその中から、若い島吉を物色しました。
「奥にいますよ」
案内役に立ったのは、三文字屋の縁つづきで、手代をしている幾松でした。
二十四五の小生意気な男で柄《がら》の小さい、ニコニコしたのが人に好感を持たせます。
平次は黙って次の間に入って行きました。
「おや、銭形の親分」
島吉は顔を挙げました。主人久兵衛の無残な死骸を前にして、番頭の市助と何やら話し込んでいたのです。
「永代で鳶頭に逢って聴いたが――、たいへんだね。目星は?」
「判らない。――怪しい奴が多過ぎる」
島吉は首を振りました。
ともかく久兵衛の死骸を見せてもらうと、薄い寝巻きを着たまま、背後《うしろ》から左肩胛骨《ひだりかいがらぼね》の下を、脇差かなにかで一と突きにやられたもので、多分声も立てずに死んだことでしょう。
「死骸は縁側にあったが、部屋の中には床が敷いてあった。――隠居家で、ここには一両と纏《まと》まった金を置かないから、泥棒でないことも確かだ」
島吉は半日の探索で調べ上げたことを話しました。
「刃物は?」
「脇差だろうと思うけれど、曲者が持って帰ったとみえてここにはない」
「紛失物は一つもなかったんだね」
と平次。
「何にもなくなったものは御座いませんよ」
番頭の市助が引取りました。五十前後の乾物《ひもの》のような中老人で、算盤《そろばん》は明るそうですが、主人を殺すような人間とは見えません。
「主人を怨んでるものは?」
平次は至って常識的なことから踏み出しました。
「結構な御主人で、人様から怨まれるような筋ではございません」
「町内の岩田屋の福次が、地堺《じざかい》のことで三文字屋を怨んでいたそうだ」
島吉はただし書きを入れました。
「主人が死んでトクになる人は?」
「……」
番頭は口を緘《つぐ》んでモグモグさせます。
「養子の小三郎だろう。近頃大旦那と折合いがよくなかったそうだから」
これも島吉が引取りました。
「呼んでもらおうか番頭さん、ここで話を聴きたいが――」
殺された久兵衛の前で、養子の小三郎はどんなことを言うか平次は試したかったのです。
「私が小三郎ですが、親分さん」
唐紙の蔭から、そっと顔を出したのは、幾松と同年輩か、どうかしたら一つ二つ若かろうと思う男でした。色の浅黒い恰幅の立派な青年で、一本調子で突っかかったような物の言い方をするところなどは、決して人に好感を持たせる質《たち》の人間ではありません。
「お前さんは、なにか大旦那としっくり行かないことがあったそうだね」
「そんなことはありません」
「ゆうべはひと晩、店の方にいたんだね」
「いえ」
「どこへ行ったんだ」
「……」
小三郎は唇を噛みました。正直者らしいようですが、典型的な多血質で、カーッとなったら、ずいぶん人も殺し兼ねないでしょう。
「ゆうべ店にいなかったのは小三郎だけか」
平次は番頭の方をふり返りました。
「ヘエ――」
市助はただおろおろするばかりで、|ろく《ヽヽ》な返事もできません。
「親分、幾松も店にいなかったそうですよ」
ガラッ八はその間にも、いろいろな人の噂をかき集めて平次に報告したのです。
「ここへ呼んでくれ」
「ヘエ――」
「それから、外に三文字屋の者が来ているならみんなここへ呼ぶんだ。――主人の死骸の前では、器用に嘘も吐《つ》けまい。今のうちに調べるだけ調べて置こう」
ガラッ八は平次の言葉を半分聴いて飛び出すと、ものの煙草二三服ほどのうちに、幾松の外に若い娘を一人つれて来ました。
「お前さんは?」
「お嬢さんのお美乃《みの》さんですよ」
番頭の市助が代って答えました。
「そうか、――お気の毒なことだね。一人残されちゃさぞ困るだろう」
「……」
お美乃は黙って涙を拭きました。そんなに綺麗という程ではありませんが、素直に清らかに育っているらしく、見よげな娘です。
「ところで、お前に訊いたら一番よく解るだろう。父親が平常《ふだん》誰かのことをひどく言ってはいなかったか」
「いえ」
お美乃は言下に応えましたが、その後ろでひとわたり一座の者の顔を、そっと見渡しました。
「跡取りは決まっているだろうね、番頭さん」
「ヘエー、この正月の末には、祝言をするはずで、その仕度《したく》も大方できております」
「小三郎とお美乃とだね」
「ヘエ――」
「それは気の毒だね」
若い二人を見比べて、平次もツイ滅入《めい》った心持になります。
昼を少し廻った陽が縁側から入って、六畳の部屋がカッと明るいのも、妙に物淋しさを誘います。
「縁側の雨戸は開いていたんだね、番頭さん」
「ヘエー、内から桟《さん》をおろしてあるはずですが、不思議に雨戸が一枚開いていたそうです。戸を閉め忘れるなどということのない御主人ですが」
「曲者は主人に戸を開けさせて入ったというわけだな」
三
「ところでもう一度訊くが、小三郎は昨夜どこへ行ったんだ」
「……」
改めて平次は訊ねましたが、小三郎は俯向いたきり応えようともしません。
「宵から朝までいなかったのか」
「いえ――夜中過ぎには帰ったようでございます」
番頭の市助は取りなし顔に言いました。
「どうしても昨夜行った先を言いたくないのか」
「……」
ようやく挙げた小三郎の顔には、悲しい苦悩が漲《みなぎ》ります。
「主殺しの疑いを受けることになるが、構わないだろうな」
「親分さん」
と小三郎。
「言ってしまっちゃどうだ」
「言っても本当にしないでしょうし、できることなら言いたくありません」
小三郎はそう言って、ガックリ首を垂れるのでした。
「それじゃ幾松に聞くが、お前も家を開けたそうじゃないか」
平次の眼は小三郎から幾松に転じました。少し逞《たくま》しい無愛想な小三郎に比べて、弱々しくて愛嬌のある幾松は、岡っ引にとって扱いいい相手らしくみえます。
「ヘエ――」
苦い微笑が唇に浮かんだと思うと、サッと拭き取ったように消えました。
「どこかの稽古所へでも潜り込んでいたんだろう。言い憎いことがあっても、隠さない方が身のためだぜ」
「親分さん、私は大旦那なんかを殺しゃしませんが――」
「それはそうだろうよ」
「どうしても昨夜の行先を言わなきゃなりませんか」
「言う方が無事だろうよ」
平次はひどく冷静です。
「弱ったなア」
幾松は小三郎ほど絶望的ではありませんが、困惑しきっていることは違いありません。
「磔刑柱《はりつけばしら》を仲よく二人で背負う心算か」
「……」
「隠したって隠しおおせるものじゃない。言う潮時《しおどき》に言ってしまわないと、後で後悔するよ」
「……」
幾松も黙りこくってしまいました。こうなっては、手の付けようがありません。
平次はいい加減に諦めて、一とわたりお勝手の方を覗いてみました。土竃《へっつい》の蔭に恐れ入っているのは、三十を少し越したらしい女、ひどい痘痕《あばた》で、目も片方はどうかしている様子です。
「お前はお作というのだね」
「ヘエー」
「国はどこだ」
「上総《かずさ》でございます」
「ゆうべはなにか変わったことがなかったか」
「ありましたよ、――何時もお店から来なさると、そのまま黙ってお床に入る大旦那様が昨夜はわざわざ私を呼び止めて、『お作、人の心というものは解らないものだな。俺はこの年になって、飼い犬に手を噛まれるとは思わなかったよ』と仰しゃって、淋しそうに笑っておいでになりました」
「飼犬に手?」
平次は考え込みました。飼犬という言葉の意味は、誰を指すのか判りませんが、少なくとも三文字屋を怨んでいるという、岩田屋福次でないことだけは明らかです。
下女のお作は、醜《みにく》い顔と、正直な心とを持っているように平次は鑑定しました。この鑑定に間違いがなければ、下手人は小三郎か幾松か、市助か――いやいやまだ外に三文字屋の店にいる人間があるかもしれません。
平次は八五郎に小三郎と幾松の見張りを言いつけ、島吉と一緒に三文字屋に行ってみました。
ここにはお磯という親類の娘の外に小僧二人と下女が二人いるだけ。お磯の外の者は、何を訊いても大して役に立ちそうもありません。
「主人と一番仲の悪いのは誰だえ」
「小三郎さんですよ」
お磯の答えは簡単で予想外でした。
「それはどういうわけだ」
「小三郎さんは、どこかの船頭の子だそうで、十三の時親知らずの約束でもらい、それから十年のあいだ丹精して育てた上、お美乃さんと一緒にして、この大身代の跡取りにすることになっているのに、あのとおりのわからない人で、大旦那を怒らせてばかりいるんです」
「フーム」
「幾松は?」
「幾松さんは三文字屋の遠い甥《おい》ですから、本当は他人の小三郎さんより、縁が近いわけなんです。その幾松さんを跡取りにせずに、小三郎さんを養子に決めたのは、どんなわけがあるか、私には解りません。多分お美乃さんが幾松さんを嫌ったんでしょう」
「幾松のほうが好い男じゃないか」
「え、好すぎるんで、浮気が大変です」
「なるほどそんなこともあるだろうな」
「近ごろ主人と小三郎と言い争いでもしたことがなかったのか」
「昨日もやっていたようです。一昨日《おととい》も――」
「幾松は?」
「あの人は人に盾《たて》なんか突きません」
「お前は?」
「……」
お磯は黙ってしまいました。二十五六にもなるでしょうか、痘痕《あばた》でも耽目《めっかち》でもなく、どこか美しくさえある女ですが、なんとなく冴えない顔で、目鼻立ちの端正なのが、かえってこの女の魅力を傷つけていると言った感じのお磯です。
「お前は昨夜どこにも出なかったのか」
「え」
お磯は言下に応えましたが、この女の底意地の悪い物言いや、顔の冷たい感じなどがひどく平次を焦立たせた様子です。
「小三郎と幾松と、番頭と、――奉公人の部屋を見せてもらおうか」
お磯は黙って立ちました。それに随《したが》って、平次と島吉。
「ここに小三郎さんと幾松さんが休みますよ」
暗い四畳半の入口にお磯は立ちました。中へ入ると、窓は厳重な格子で、店かお勝手へ出なければ、夜中に外へなどは出られません。
「荷物は」
「その押入れにあるでしょう。上は小三郎さんで、下は幾松さんが使っているようです」
平次と島吉はまず幾松の行李《こうり》を引出しました。蓋《ふた》を払ってみると、中はお店者《たなもの》の着替えが一と通り詰まっているだけ。
「おや、変なものを持っているぜ」
島吉がそこから探し出したのは、蝋塗鞘《ろうぬりざや》の手頃な脇差が一本。
「どれどれ」
平次はそれを受取って、鞘を払い、窓際へ行って外の明かりに透《すか》かしてみました。
「銭形の、――こいつは人間を斬った脂《あぶら》だぜ」
島吉はささやきます。脇差の刃は油を引いたように薄く曇っているのでした。
「生々しい脂だ。一応洗って拭き込んだ様子だが――」
兇器がこんなにも容易《たやす》く見付かったのが、平次には予想外だった様子です。
「この脇差は誰のだ」
島吉は脇差を鞘に納めると、部屋の外に持って出ました。
「小三郎さんのですよ」
「何?」
「小三郎さんの自慢の脇差ですよ。なんとか言う船頭が、遠州灘《えんしゅうなだ》で海坊主を斬った脇差ですって、多分小三郎さんの父さんのでしょう」
お磯の言葉は相変わらず毒を含みます。
「それが幾松の行李に入っていたのはどういうわけだ」
「まア」
「おいおい小僧さん、この脇差は誰のか知ってるかい」
「若旦那のですよ」
二人の小僧は声を揃えました。
「こいつは変だぞ。島吉|兄哥《あにい》――今度は上の行李を見よう」
平次と島吉は、押入れの上の段の行李を出して念入りに調べましたが、そこにはなんにも変わったものがありません。
四
「親分、とうとう口を割りましたよ」
わめき込んで来たのは八五郎でした。
「なんだ、下手人が白状でもしたというのか」
と平次。
「そんな大したことじゃねえが、――幾松はとうとう昨夜行った先を言いましたぜ」
「なんだ、そんなことであわてて飛んで来たのか、見張っていろと言ったのに」
「大丈夫、下っ引に見張りを頼んで来たから、変な素振りを見せると、すぐ縛ってしまいます」
「で、幾松は昨夜どこへ行ったんだ」
「それが大変なんで、――お美乃さんなんかの前じゃ言えなかったわけでさ」
「どこだ」
「一番|たち《ヽヽ》の悪い場所、――一番極まりの悪いところで、ヘッ」
「江戸中にそんな恥っかきな場所があるのかい」
「今にも磔刑《はりつけ》を背負わせるように脅《おど》かして、ようやく白状させましたよ――本所の安宅《あたか》長屋で丸太(船比丘尼《ふなびくに》)を相手にしていちゃ、幾松口がきけないのも無理はありません。――昼三《ちゅうさん》の太夫なんて贅《ぜい》は望まないが、せめて金猫銀猫とか、櫓下《やぐらした》へ行くでもとか――」
ガラッ八は無暗に唾《つば》を吐き散らします。
「まアいいやな、怒るな。――ところで相手の名ぐらいは聞いて来たんだろう」
「|おえの《ヽヽヽ》という女だそうで、名前からして意気じゃありませんよ」
「黒い頭巾に腰衣《こしごろも》は、とんだ意気なやつさ。序《ついで》にその|おえの《ヽヽヽ》を生け捕って、昨夜幾松が何|刻《とき》から何刻までいたか聴いてくれ。どうせ昼は高瀬舟に乗っているわけじゃあるめえ。塒《ねぐら》にいるのをそっと捉《つかめ》えてやんわりと訊くんだ。脅かしちゃいけねえよ」
「心得ていますよ」
ガラッ八はもういちど飛んで行きました。
「これで大方目鼻が付いたろう。俺はさいしょ幾松が臭いと思ったが、高瀬舟や安宅《あたか》長屋に潜《もぐ》っていちゃ人殺しはできない。万一そんなことが知れちゃ、お店者《たなもの》は一代の恥っかきだ。――八五郎が帰って来て幾松が一晩安宅を動かなかったと解れば、小三郎を縛ってまず間違いはあるまい。それに、自分の脇差を使って、よく洗って幾松の荷物へ入れて置いたのは憎いやり方だ。いいかえ、島吉兄哥、俺はこれで帰るから」
「有難《ありがて》え、銭形の。お蔭で一日のうちに埒が明いてしまった。いずれそのうちに礼に行くぜ」
「なんの、こんな事くらい」
平次はそれっきりこの事件との関係を断ったのです。恩人の子の島吉に手柄を立てさせて、蔭で知らぬ顔をして見ているのが、平次に取っては、たまらない楽しみだったのでしょう。
外へ出るともう夕刻、平次は昼飯を食い損ねたことに気が付きました。急に腹の減ったことに気が付くと、八五郎の強健な胃の腑が、今頃どんなことになっているかと思うと、独り笑いが空きっ腹からコミ上げて来ます。
五
それから二た月経ってしまいました。三文字屋殺しは養子の小三郎と決まって、下手人を挙げた手柄はことごとく若い島吉に帰し、平次は組屋敷あたりの噂で、小三郎のお白洲の神妙さや、口書も無事に済んで、処刑《おしおき》を待っているという話を聴いているだけのことでした。
「親分、大変なことがありましたよ」
ガラッ八の八五郎がいつもの調子とは違って、ひどく沈んだ顔を持って来ました。
それは三月三日――江戸は桃も桜も咲き揃って、すっかり春になりきった晩のことです。
「何が大変なんだ。ドブ板を蹴返さないと、大変らしい心持にならないぜ」
「ね、親分。あの三文字屋の娘――お美乃とか言うのが、南の御奉行所へ駈け込み訴えをやりましたぜ」
「何?」
平次もなにか駭然《がくぜん》とした心持です。
「気の毒なことに、門前で喰い止められて、泣く泣く帰ったそうですが、いずれ明後日《あさって》は処刑《おしおき》になる小三郎の、助命願いなんでしょうが――」
「親殺しのお主殺しだ。あの小三郎だけは助けようはないよ。駈け込み訴えもモノによりけりだ」
平次はそう言いきって、心の底から淋しさを感じておりました。島吉に縛られたにしても、小三郎を磔刑柱《はりつけばしら》に上げるまでに運んだのは、なんと言っても平次のせいだったに違いありません。
「でも、思い詰めて死ぬようなことはないでしょうね。可愛らしい娘だったが」
八五郎までが妙に萎《しお》れているのは、お美乃の可愛らしさのせいだったかもわかりません。
「お前さん」
「なんだい」
「お前さん、ちょいと」
女房のお静が、敷居際から妙に声を震わせております。
「なんだい、そんなとこに突っ立って――借金取りでも来たのかい」
「お嬢さんが、お勝手で、泣いていらっしゃるんですよ」
そう言うお静も、すっかり泣き濡れて、極り悪そうに、顔を反《そむ》けながら話すのです。
「お嬢さんが――?」
平次が御勝手を覗くと、薄暗い行灯《あんどん》の下。上がり框《がまち》に近く崩折れたまま泣いているのは、花束を叩き付けたような、痛々しい姿の若い娘。
「お美乃さんじゃないか」
平次は不思議な空気の圧迫を感じながら板の間に踞《しゃが》みました。南の奉行所を追われたお美乃は、最後の頼みの銭形平次を訪ねて、お勝手口から肩身狭く入ったのでしょう。
「親分さん、――小三郎さんを助けてやって下さい。お願い――」
半分は嗚咽《おえつ》に呑まれながら、お美乃は辛《から》くも心持だけを言って、子供のように泣くのです。
「そいつは無理だ。今しがた俺が言ったことを、ここで聴いていたんだろうが、親殺しや主殺しは、御奉行様でも助けようはない。そればかりは諦めた方がいいぜ」
「違います。親分さん。小三郎さんは、決して、父さんを殺しはしません。――下手人は外にあるんです」
「お美乃さんがそう思うのは無理もないが、小三郎が縛られるには、縛られるだけのわけがあったんだ。――証拠は山ほどある上に、あの日島吉兄哥が隠居所へ引返して行くと小三郎は一と足違いで逃げ出したというじゃないか。幸い翌る日捕まったからいいようなものの、そうでもなきゃ、島吉兄哥はとんだ縮尻《しくじり》をするところさ」
平次は諄々《じゅんじゅん》として説き聞かせました。が、お美乃は涙にひたりながらも、頑固に頭を振って、平次の言葉を享《う》け容れようともしません。
「親分さん、どんな証拠があっても、小三郎さんは、本当の親を殺すはずはありません」
「何? 真実の親?」
「え、小三郎さんは、父さんの――三文字屋久兵衛の血をわけた本当の子だったんです。私こそかえって義理のある娘だったんです」
お美乃の言葉は、平次にとっても驚きです。
六
「それはどういうわけだ、詳しく話してくれ」
平次はとうとうお勝手の板の間に坐り込んでしまいました。
その後ろに八五郎、その横にはお静が、ただわけもなく固唾《かたず》を呑みます。
「小三郎さんは父さんの本当の子ですが、母親は深川の芸者で、親類の手前や、配偶《つれあい》の思惑があったので、誰にも知らさずに、船頭の浪五郎という人に、お金をつけてやりました。そこで十三まで育てられた小三郎さんは、三文字屋に男の子がなかったので、今から十年前に引き取られましたが、船頭の子で育って居るから、町人に向くか向かないか、子柄《こがら》の見定めが付かないから、しばらく奉公人並に使ってみると言って、去年の秋まで奉公人と少しも変わらない扱いでした。ですからお店でも、世間でも、小三郎さんを父さん(久兵衛)の本当の子とは知りません」
「本人は?」
平次は一番大事な問いを忘れませんでした。
「小三郎さんは何もかも知っていますが、あのとおり正直|一徹《いってつ》の人ですから、誰にも言いません」
「すると小三郎さんとお美乃さんは兄妹になるわけじゃないか」
「いえ、小三郎さんは三文字屋の血を引いた人ですが、私は三文字屋の二度目の嫁の連れ子で父さんの本当の娘ではございません」
「なるほど、それで久兵衛さんが、小三郎さんを養子にして、お前と添わせて三文字屋の跡を継がせる気になったのも判る。だが、それだけじゃ、小三郎が無実の証拠にはならない。あの晩――正月五日の晩、小三郎はどこにいたんだ。それが判って、生き証人でもなきゃ、今となっては小三郎が無実と知っても助ける工夫はない」
「小三郎さんは、あの晩、養い親の浪五郎に逢っていたんです」
「何?」
「浪五郎は若い時から船頭で、幾度も難破したのを、水天宮様を信心して助かったと言って、月の五日の正午《しょううま》の刻《こく》には、どこにいても必ず江戸へ帰って来て赤羽橋の有馬様の水天宮様にお詣りをします。小三郎さんはそれを知っていて、月に一度、船の都合では二た月に一度、五日の晩永代の近くに舫《もや》っている浪五郎の船へ行って、一と晩泊まって来るのを楽しみにしているんです」
「なぜ、お白洲でそれを言わなかったんだ。それを言いさえすれば、助かる見込みがあったのに」
平次はお美乃の話しから、不思議な事件の展開を見たのでした。
「それができなかったのです。――浪五郎は仲間の者の悪企《わるだく》みから、五年前に海賊の一味と間違えられて縛られ、もう少しで首を切られるところを縄抜けをして助かった人です。今ではなんとか名前を変え、顔容《かおかたち》まで変えているんでしょう。浪五郎は正直者で、海賊なんかする人じゃありませんが、お上に睨まれていては手も足も出ません
「……」
「ですから、月に一度そっと江戸へ来て、水天宮様へお詣りして、小三郎さんに逢って行くのを、何よりの楽しみにしているんです。小三郎さんはあのとおりの人ですから、自分が磔刑《はりつけ》になるまでも、養い親の浪五郎の首に縄のつくようなことは口へ出せなかったのです」
「フーム」
あまりの怪奇な話しに、平次もただ唸《うな》るばかり。
「悪者はそれを知って、五日の晩を選《よ》って父さんを殺し、小三郎さんに罪をなすったに違いありません。可哀想に小三郎さんは、養い親に義理を立てて、親殺し、主殺しで死んで行くんです。どうぞ助けてやって下さい。浪五郎に迷惑のかからないように。銭形の親分さんなら、きっとそれができます。お願いでございます」
お美乃はたしなみも恥ずかしさも忘れて、精いっぱいに口説くのでした。
「ね、お前さん」
お静まで泣き声を挟みました。
「お前は黙っていろ。――ところでお美乃さん、もう聴いているだろうが、処刑《おしおき》は明後日の正午《うま》の刻《こく》だ。正直のところ、それまでに、小三郎を助ける見込みが立つかどうか、俺にも判らない。が、お前さんが、本当に小三郎が無実と思うなら――」
「それはもう親分さん」
「若い娘がそれだけ信用するなら、大抵間違いはあるまい。儲《もう》けずくでないから、お前さんの心は鏡のようなものだ」
「……」
「ところで、お美乃さん」
「ハ、ハイ」
「お前さんは、小三郎をどんなことをしても救いたいと言うのだね」
平次の声には、激しい意途が潜んでおりました。
「え、どんなことをしても、どんなことがあっても」
「命を捨てても」
「命を捨てても」
「万人の前に恥をさらしても」
「え、万人の前に恥をさらしても」
お美乃は平次の言葉を復誦《ふくしょう》して、静かに顔を上げました。涙に濡れて、少し腫っぽくはなっておりますが、若々しい眼鼻立ちに、火のような純情が燃えて、日頃のお美乃には、見ることのできなかった美しさが人をうちます。
「明後日、処刑《おしおき》の日はちょうど五日だ。浪五郎が赤羽橋の水天宮様へ、お詣りに来る日だろうな」
「雨が降っても、槍が降っても、正午の刻にはきっと来るはずです」
「鈴ガ森の処刑《おしおき》も正午の刻、赤羽のお詣りも正午の刻」
平次は深々と腕を拱《こまぬ》きました。
七
その晩平次と八五郎は安宅《あたか》に飛んで、船比丘尼《ふなびくに》の|おえの《ヽヽヽ》を捜しました。
が、なんという不運でしょう。|おえの《ヽヽヽ》は十日ばかり前に大酒を呑んで頓死し、葬《とむら》いも何も済んでしまったと聴いては手の下しようもありません。
その死んだ日か、前にきた客のことを訊きましたが、下等な船比丘尼の客などは誰も気に留めず、そこにも探索の手蔓《てづる》は絶えてしまいました。
「この上は五日の昼頃、浪五郎という船頭を捕まえる外に術《て》はない」
平次はそんな頼み少ないことを言うのです。
その翌々日、とうとう三月五日という日が来てしまいました。
親殺しの主殺し、五逆五悪の大罪人小三郎は、裸馬に乗せられて、幾十人の獄卒《ごくそつ》に護られ、罪状を書いた高札を掲げて、江戸中目貫の場所を引きまわしの上、鈴ガ森の処刑場に着いたのは、巳刻半《よつはん》(十一時)少し過ぎでした。
その日は自棄《やけ》に良いお天気で、春の青空が深々と光って、竹矢来の中にも、数千の群衆の頭の上にも、桜の花片が、チラホラと散って来ました。
囚人《めしゅうど》小三郎を乗せた馬が、竹矢来の中へ入ろうと言う時でした。一挺の町駕籠が、役人の油断を見すまして、ツ、ツ、ツと、裸馬の前――ピタリと竹矢来の入口を塞《ふさ》いだのです。
「退《の》け、退け、退けッ」
バラバラと駈けて来る役人小者。
「お願い、お願いのものでございます」
「なんだなんだ」
「小三郎の許婚、美乃と申すものでございます。親の遺言を果たすため、処刑《おしおき》前に、祝言をさせて下さいませ。お願いでございます」
駕籠の中から転げるように出たのは、白無垢《しろむく》、綿帽子の花嫁姿。おどろき呆れる役人の前に綿帽子をかなぐり捨てると激しい興奮に血の気を失いましたが、四方《あたり》の凄まじい情景に引立てられて神々しくも美しく見えるお美乃です。
「ワーッ」
竹矢来を囲む数千の群集は、ドッと動揺《どよ》みを打ちました。
「ならぬならぬ、ここをなんと心得る」
役人二三人、押っ取り刀で美乃を取巻くと、役目大事と威猛高になりました。
「盃事《さかずきごと》の済んだ上で、私の命をお召下すっても、少しも怨みには存じません」
「馬鹿なことを申せ」
「これは助命の願いではございません。どんな罪科《つみとが》がありましょうとも、小三郎は私の許婚、二世を契《ちぎ》った方に違いはございません」
一生懸命さが言わせる処女の雄弁に言い捲《まく》られて、役人小者も顔を見合わせるばかり、しばらくは、日頃用い慣《な》れた権力を用いることさえ忘れました。
「ならぬならぬ」
「お願いでございます。処刑《おしおき》になる罪人には、今はの際《きわ》に、たった一つだけは望みを叶えさせると承りました」
「えッ邪魔だッ、退かぬと力ずくで退かせるぞッ」
二三本の六尺棒が前後からお美乃の白無垢を押えました。
「たってならぬと仰しゃれば、ここで自害をいたします。せめて夫の先に死んで、死出三途《しでさんず》の案内をいたしましょう」
お美乃は帯の間から用意の懐剣を取り出すと、キラリと抜いて、我とわが胸に切尖を当てるのでした。一本の指でも加えたら、そのままズブリと突き刺して、白無垢を紅に染めるでしょう。竹矢来を取巻く見物は、高潮する劇的なシーンに酔って、時々ドッ、ドッと鬨《とき》の声を上げます。
そのうちに時刻は経ちました。裸馬に乗せられて、雁字《がんじ》がらめに縛られた小三郎は、この凄まじいお美乃の純情をすぐ眼の下に眺めながら、一言の口をきくことも許されず、ほうり落ちる涙を拭う術《すべ》もなく、唇を噛み、身体を顫わせ、ただ男泣きに泣くばかりでした。
八
一方銭形平次と八五郎、赤羽根橋有馬屋敷の角、お濠端の葭簾《よしず》張りの中に、辰刻《いつつ》(八時)過ぎから眼を光らせました。筑後国久留米二十一万石の大守|有馬玄蕃頭《ありまげんぱのかみ》上屋敷、三田通りの一角に水天宮を勧進し、正式に諸人の参詣を許したのはずっと後の寛政年間で、日本橋に移ったのは明治になってからですが、寛政以前にも、屋敷内の水天宮に、特志の者の参詣を許したことはあったのです。
浪五郎がお詣りした頃は、月の五日でも参詣の者はほんの数えるくらい、その中に船頭風の男が交じっていさえすれば、平次と八五郎の眼を免《まぬか》れるはずはありません。
それから二た刻《とき》近い間、平次と八五郎がどれほど気を揉んだことでしょう。
「八、あれだッ」
平次が濠端をやって来る、白髪頭《しらがあたま》の頑固そうな老人を見付けたのは、ちょうど三縁山の昼の鐘が鳴り納めた時でした。
「お前さんは、船頭の浪五郎と言うんだね」
「えッ」
八五郎に胸倉を掴まぬばかりにされて、老船頭はのけ反るばかりに驚きました。が、気を取直すと、
「いかにも、船頭の浪五郎はこの俺だ。さア、お縄を頂戴しよう。――身に覚えのないことだが、もう命が惜しいほどの年じゃない」
後ろに手を廻して観念の眼さえつぶるのです。
「違う違うお前を縛るんじゃない。三文字屋の小三郎が、親殺しの罪で、今日、今、磔刑《はりつけ》になりかけているんだ」
「えッ」
「一月五日の晩、お前と一緒に船の中で一晩過ごしたという証《あかし》が立ちさえすれば助かる。サア、こうしているうちにも処刑《おしおき》が済むかも知れない。早く、早く、早く」
「そいつは知らなかった。俺は海の上にばかりいる人間だ。サア、どこへでもつれて行ってくれ。一月五日には永代の下で、一晩この俺と小三郎は話していた」
用意した三挺の駕籠、三人はまず数寄屋《すきや》橋内南町奉行所に飛ぶと、そこに待っていた与力笹野新三郎は、手を廻して老中の奥印を捺《お》した赦免状を用意していました。
「それッ」
新たに人足を代えて、三挺の駕籠は鈴ガ森へ――
平次と八五郎が、赦免状と生き証人をつれて鈴ガ森に乗り込んだ時は、午刻《ここのつ》(十一時)をはるかに過ぎてもう未刻《やつ》(二時)近くなっておりました。
お美乃の努力にも限度があります。六尺棒で押し隔てられて、竹矢来の外につまみ出されると、改めて囚人《めしゅうど》小三郎を馬からおろし、役人がもういちど罪状を読み聴かせた上、目隠しをして磔刑柱《はりつけばしら》に掛けるのです。
「お願い、お願い」
竹矢来の外から必死と叫ぶお美乃の声も涸《か》れ果てました。
「お美乃さん、私は嬉しい」
磔刑柱の上から、目隠しをされたまま、小三郎はわずかに声を張り上げます。
「小三郎さん」
「この小三郎が下手人でないことは、お美乃さんだけはよく知っている。――あの人に逢ったら、そう言って下さい」
「小三郎さん、お願いだから、言って下さい。みんな言って下さい」
しかしそれは無駄な努力でした。時刻が迫ると、役人は役目の落ち度になります。
「それッ」
合図をすると、二本の錆槍《さびやり》が、小三郎の胸のあたりでピタリと交わされました。一瞬の間、万事終わるでしょう。
「小三郎さん」
ドッと動揺《どよ》み打つ群集の声に呑まれて、お美乃のか弱い声ももう聞こえません、あなやと思う時でした。
「待った。――その処刑《おしおき》待った」
「御赦免だぞッ」
平次と八五郎と浪五郎は、大波のように揺れる群集の中へ、真一文字に飛び込んで来たのでした。
*
幾松はその日のうちに主殺しの下手人として、島吉に縛られました。安宅の|おえの《ヽヽヽ》の家から三十両の金が、幾松の財布に入ったまま現れたのと、おえのに毒酒を持って行ったのが、見知り人があって幾松と知れ、主人久兵衛殺しまで幾松の仕業《しわざ》とわかったのです。
「五日の晩、わざと遠方の安宅長屋へ行って、人に知れると恥になるような証拠を拵《こしら》えたのは、幾松の並々ならぬ悪知恵だ。その場にいない証拠に、船比丘尼などを出すのは人情の裏を行った逆手《ぎゃくて》さ」
平次はガラッ八にせがまれて、絵解きをしてやりました。事件が落着して四五日のことです。
「なるほどね」
「小三郎の脇差で久兵衛を殺し、一と通り洗って自分の行李《こうり》へ入れて置いたのも行届いた悪企《わるだく》みだ。あれを見た時は俺も下手人はてっきり小三郎に違いないと思ったよ」
「なんだって幾松は主人を殺す気になったんでしょう」
「幾松にしてみれば、赤の他人の小三郎が三文字屋を継ぐことになったのが癪《しゃく》にさわったのさ。小三郎を久兵衛の本当の子と知らないから、三文字屋の血を引く自分の方が跡《あと》を継《つ》ぐのが本当だと思ったんだろう。久兵衛を殺して小三郎が下手人で処刑《おしおき》になれば、三文字屋の身上とお美乃は幾松の自由になるじゃないか」
そう言われると、幾松が下手人らしくなります。
「もう一つ解らないことがあるんだが――」
「なんだい」
「お磯はなんだって小三郎をひどく言ったんでしょう」
「お美乃に取られたような気がして口惜しかったのさ」
「小三郎はとんだ果報者だね」
「あんな肌合いの男がかえって娘に好かれるんだろう。愛嬌があって如才がなくて、触りの滑らかな幾松は、腹が黒いから娘達に打ち込まれないのさ」
「ヘエ――」
「大層感心するじゃないか、――お前なんかも一本調子だから娘達には人気のある方さ。用心するがいいぜ」
「冗談でしょう。ところで、お美乃を花嫁姿で鈴ガ森へやったのは親分の指図でしょう」
「とんでもない。岡っ引がそんなことをしていいか悪いか考えてみろ」
平次の言葉には含蓄《がんちく》があります。
「でも、島吉兄哥は親分のお蔭で大手柄でしたよ。喜んでいましたぜ」
「とんでもない、もう少しで取返しのつかない大|縮尻《しくじり》をやらかすところよ。――岡っ引は本当に怖い。自分の胸や知恵にたより過ぎると、大変なことになる」
平次はそんな気になっているのでした。
(完)