野村胡堂
銭形平次捕物控(巻二)
目 次
瓢箪供養《ひょうたんくよう》
金の茶釜
活き仏
権八の罪
瓢箪供養《ひょうたんくよう》
一
「あ、八じゃねえか。朝から手前《てめえ》を捜していたぜ」
路地の跫音《あしおと》を聞くと、銭形平次は、家の中からこう声をかけました。
「ヘエ、八五郎には違げえねえが、どうしてあっしと解ったんで?」
仮住居の門口に立ったガラッ八の八五郎は、あわてて弥蔵《やぞう》〔ふところ手〕を抜くと、胡散《うさん》そうに鼻のあたりを、ブルンと撫で廻すのでした。
「橋がかりは長げえやな、バッタリバッタリと呂律《ろれつ》の廻らねえような足取りで歩くのは、江戸中捜したって、八五郎の外にはねえ」
平次は春の陽溜りにとぐろを巻きながら、相変らず気楽なことを言って居るのです。
「ヘッ、呆《あき》れたものだ」
「俺の方でも呆れているよ。その跫音の聞えるのを、小半日待っていたんだ」
「用事てえのは、何ですかい、親分」
「それが少し変っているんだ。手前《てめえ》、昨日|瓢箪《ひょうたん》供養に行ったっけな」
「行って見ましたよ、筆供養や針供養はチョクチョクあるが、瓢箪供養てえのは江戸開府以来だ。あれを見て置かねえと、話の種にならねえ」
「どんなことをやったんだ、一と通り話してくれ、――少し変なことがあるんだが、瓢箪供養の因縁《いんねん》が解らなきゃ、見当がつかねえ」
平次は煙草を伸《のば》して、腹這いになったまま一服つけました。
紫の烟《けむり》が、春の光の中にゆらゆらと流れると、どこかの飼い鶯《うぐいす》の声が、びっくりするほど近々と聞えます。長閑《のどか》な二月の昼下り、――
「因縁も糸瓜《へちま》もありゃしません、――寺島に住んで居る物持の佐兵衛、瓢々斎《ひょうひょうさい》とか何とかいって、雑俳《ざっぱい》の一つも捻《ひね》る親爺で、この男が、長い間の大酒で身体をいけなくし、フッツリ不動様に酒を断ったについては、今まで物好寄《ものずき》で集めた瓢箪が三十六、大きいのも小さいのも、良いのも悪いのもあるが、持って居るとツイ酒を入れて見たくなるし、人様に差上げても、酒を入れるより外に用事のない品だから、思い切って向島土手に埋めて供養塔を建てようという趣向《しゅこう》で――」
「なるほど少し変って居るな」
「三十六の瓢箪を自分の手で穴に埋め、その上に『瓢箪塚』と彫《ほ》った石を押っ立て、坊主が三人にお客が五十人ばかり、印導を渡して有難いお経を読んで貰って、それから平石《ひらいし》へ行って一と騒ぎの上、桜餅を土産に帰って来ただけのことで、何の変哲もありゃしません」
「ところが変哲なことになったんだ、――その瓢々斎が昨夜《ゆうべ》死んだとしたら、どんなもんだ」
「えッ」
ガラッ八もさすがに胆《きも》をつぶしました。
早耳が何より自慢の自分が、少し間抜けにされたのは宜いとしても、昨日あんなに元気で、百までも生きるような事を言っていた瓢々斎が、その晩死のうとは、全く夢にも思わなかったのです。
「命が惜しくて酒を止めた人間が、その晩死ぬなんざ、少し皮肉すぎやしませんか、親分」
「届出は頓死《とんし》だが、――あの辺は石原の利助兄哥の縄張り内だ。昼頃変な小僧が手紙を持って来たんだそうで、お品さんが持って来て見せてくれたよ」
「手紙にはどんな事が書いてありました、親分?」
「恐ろしく下手な字で、――瓢々斎が死んだのは、病気や過《あやま》ちじゃねえ、人に殺されたに違いないから、お上の手で調べてくれ――とこういう文句だ」
「ヘエ」
「一応石原の子分をやることにして、お品さんは帰ったが、――フト思い出したのは、二三日前|手前《てめえ》が話していた瓢箪供養のことだ。どうかしたら八五郎のことだから、物好きに行って見たかも知れないと、手前《てめえ》の来るのを心待ちに待っていたのさ」
「物好きも満更無駄じゃなかったわけで」
「ハッハッ、ハッハッ、その気でせいぜい間抜けなものは見て歩くがいい」
平次はカラカラと笑います。順風耳《じゅんぷうじ》ガラッ八の、倦《う》むことを知らぬ猟奇癖《りょうきへき》が、飛んだところで、飛んだ役に立つことは、ずいぶんこれまでも無い例《ためし》ではなかったのでした。
「おや? お客様ですよ、親分」
ガラッ八は聴き耳を立てました。
「お品さんらしいな、――こいつは面白くなって来たかも知れないよ。瓢箪供養は少し変り過ぎていると思ったが、やはり変なことになった様子だ、お品さんが自分で来るようじゃ真物《ほんもの》だ」
二
平次とガラッ八が、寺島まで飛んで行ったのは、その日も暮れ近いころ、石原の利助の子分達がお係り同心とやって来て、検屍《けんし》もちょうど済んだばかりというところでした。
瓢々斎というのは、元横山町で手広く金物問屋をして居た家の主人で、金にも娑婆《しゃば》っ気にも不足のない男でしたが、たった一人の倅《せがれ》佐太郎が、素姓のよくない女と一緒になり、それがきっかけで勝負事に手を出し、果ては金看板《きんかんばん》のやくざ者になり下ってからは、いさぎよく久離《きゅうり》切って勘当し、自分も商売が嫌になったものか、横山町の店は人に譲って、その身上を、地所と家作と夥《おびただ》しい現金に代え、寺島村の寮《りょう》に引込んで、雑俳三昧《ざっぱいざんまい》の気楽な老後を送って居たのでした。
一緒に住んでいるのは横山町の店の支配をしていた甥《おい》の駒三郎という五十二三の男と、中年者の下女お滝、その亭主で下男をしている元助《げんすけ》の三人だけ、外に瓢々斎の友達で、下手な雑俳を嗜《たしな》む露《つゆ》の家《や》正吉という中老人、これは野幇間《のだいこ》のような男ですが、筆蹟《ひっせき》が良いので瓢々斎に調法がられ、方々の献句《けんく》の代筆などをして、毎日のように入り浸《びた》って居りました。
変死人を病死の体《てい》にした駒三郎と元助夫妻は、さんざんの小言を食ったうえ、責任者の駒三郎は番所に引かれ、家の方は友達|甲斐《がい》に露の家正吉が、元助夫婦を指図して、どうやらこうやら、仏様の恰好をつけて居りました。
「大変だね、宗匠《そうしょう》」
「あ、銭形の親分、――瓢々斎もとうとう死んでしまいましたよ」
正吉は平次の顔を見ると、いそいそ飛んで来て、訊かないことまでも説明してくれます。その言葉によると、今朝庭の池の中に、瓢々斎が上半身|浸《ひた》って居るのを、下女のお滝が見付け、亭主の元助を呼んで一緒に引揚げると、頸《くび》には麻縄《あさなわ》が固く結び付けてあり、縊《くび》り殺して池へ投《ほう》り込んだことはたった一と目で判ったということです。
平次とガラッ八は、死体を見せて貰い、庭も一と廻りしましたが、さて何の変ったところもありません。
「元助《げんすけ》を呼んで貰いたいが」
「ヘエ」
正吉は飛んで行って、人相のあまりよくない、無精髭《ぶしょうひげ》の五十男をつれて来ました。
「お前は元助だネ」
「そうでがすよ」
元助は平次の前へヌッと突ったったまま、およそ無愛想な様子を見せます。
「何時からこの家《うち》へ居るんだ」
「奉公してから二十六年になるがね」
平次もそう聞くと、ちょっと予想外でした。こんな人相の悪い男を二十六年も使っているのは、よくよくの事情があるか、でなければこの男は見かけに寄らぬ善人で、主人に腹の底から信頼されたせいでしょう。
「お神さんは?」
「あれは二十年にもなるかな、五六年前に主人が仲人《なこうど》で、縁遠い同士一緒になっただよ」
そんな事をツケツケと言ってのける元助です。
「主人が夜中庭へ出たのを知らなかったのかい」
「俺の寝て居るのは家の向う端だ。知るわけはねえ」
「駒三郎は?」
「これも知るめえよ、滅多に家に居ることのない人間だから」
「そいつはどう言うわけだ」
「番頭さんは、まだ若いだ、ヘッヘッ」
元助はそう言って口を緘《つぐ》みます。若いと言われる駒三郎さえもう五十の上でしょう。
「主人はちょいちょい夜分に外へ出るのかい」
「それは判らねえ、が、雨戸を開ける音はチョクチョク聞くだ」
「何の用事で外へ出るんだ」
「ヘッ、そいつは知らねえ」
そう言いながら、元助の怪奇《かいき》な顔がニタリと笑うのです。
「知らないでは済まないぜ、――お前の心当りだけでも言ってみるがいい」
平次は大事な鍵《キー》を見付けると、その微妙な感触を追って、ジワジワと追及しました。
「金でなきゃ女の事だんべいよ」
「?」
元助の言葉はそのまま謎でした。が、追及したところで、これ以上解るところへは行きそうもありません。
「勘当された倅があったはずだが、あれはどこに居るんだ」
平次は話題を転じました。
「あれだよ、――あの家に居るだ。旦那が横山町の店に居なさる頃、この寺島の寮の隣の空家と、三百両の金をつけて久離切っただ。金は一年経たないうちに費ってしまったが、家は辺鄙《へんぴ》で買手がないから、今でも自分で住んで居るだ」
「…………」
いかにもありそうな事でした。平次はうなずいて次を促します。
「大旦那が店を仕舞ってこの寮へ引込むと、勘当した倅の面見たくないと言って、境へ頑固《がんこ》な生垣を結わせ、三年越し口もきいたことのない仲だ。こんな反《そり》の合わない父子を、おら見たこともねえ」
元助はそんな事まで言うのです。瓢々斎の寮の立派さに似ず、勘当した倅佐太郎の家というものは、わずか二た間ほどの小さいもので、仕切の金目垣《かなめがき》は、いやが上にもよく茂り、野良犬の通路とも見えるかなりの穴が一つある外には、木戸一つない因業《いんごう》なものでした。
三
番頭の駒三郎は、係り同心|漆平馬《うるしへいま》の手で、厳重に調べられました。が、昨夜は一と晩、内々小梅に囲《かこ》っている、お為という女のところに、宵から朝まで居たことが判って、これは無事に帰されました。
隣に住んでいる倅の佐太郎も、親父との仲があんまり悪かったので、一応は調べられたのですが、これは講中のことで品川へ行って一と晩留守、家には暮から重病で寝て居る女房のお松と、六つになる孫の春吉のたった二人だけ、淋しく留守をしていたと判って、これも疑いの圏外へそれてしまいます。
残るのは奉公人の元助とお滝の夫婦者だけ、これも二十年間無事に奉公した人間ですから、人相が悪いとか、貯《たくわ》えが多過ぎるとかでは主殺しの疑いをかけるわけに行きません。
すると、下手人は外から入ったことになるわけですが、家の外から庭へ入るのは内木戸が厳重で容易でなかったのと、わざわざ庭へ呼出して、頸《くび》に縄を付けて、池に投《ほう》り込まれるまで、瓢々斎が音も立てなかったということは、どう考えても少しテニオハが合わなくなります。
その晩、いざ神田へ引揚げようという時、
「八、こいつは少し変じゃないか」
平次はいきなりこんな事を言うのです。
「何が、変で? 親分」
「瓢々斎は金があって、曲りなりにも雑俳でもやる風流人《ふうりゅうじん》だ。どう間違っても自害する気遣いはないと思ったのが、――少し怪しくなって来たよ」
「すると、あれが自殺だというんですかい、親分」
これはガラッ八の方が余っ程おどろきます。人間は、自分の頸を絞めて死んでしまってから、池へ上半身を突っ込むなんて器用なことが出来るはずもありません。
「一応人手に掛って死んだように見えるが、外から入って殺した様子はなく、一番怪しい駒三郎は留守だったんだから、疑えば元助夫妻だけだ、――その元助夫婦が主人の死んだのも知らず、自分の罪を隠す何の細工もせず、朝までぐっすり寝ていたのは変じゃないか」
「なるほどね」
「疑いを駒三郎か元助に持って行くように出来ているが、俺はどうも、大変な細工があるんじゃないかと思う」
「…………」
ガラッ八は親分の考えを測《はか》りかねて、長い頤《おとがい》を天に冲《ちゅう》させます。
「麻縄の新しいのは、水へ漬けるとギュッと縮《ちぢ》むだろう、――瓢々斎が自分の頸を絞《し》めて、いきなり池へ逆様に飛込んだとしたらどうなると思う」
「ヘエ――」
「麻縄はギューッと縮んで喉へ食い込むから、水ぶくれになった死骸は、人に絞め殺されて水に投り込まれたようになるだろうと思うが――」
「驚いたね、親分」
「その証拠は、池のあたりは柔《やわら》かい土だが、踏み荒した跡は一つもない」
「…………」
「明日は一つ池を渫《さら》ってみよう」
平次の考えは不思議なコースを辿《たど》って、先から先へと発展している様子です。
「親分の言い草じゃねえが、金があって風流人だった瓢々斎が、何が気に入らなくて死ぬ気なんかになったでしょう」
ガラッ八は新しい問題を出しました。
「そいつは俺にも解らねえが、酒の好きなものが、何かわけがあって酒を止すと、急に死にたくなるんじゃあるまいか――」
「そんな事があった日にゃ、酒も滅多に断たれねえ」
「瓢箪供養までやって、いよいよ酒を止したという晩、フラフラと死ぬ気になったのは、そんな事じゃないかな」
これもしかし平次の想像に過ぎません。
ガラッ八の八五郎は、それを後ろに聞いて、お勝手から、瓢々斎の部屋を捜して居りますが、
「親分、恐れ入った、――さすがは見通しだ」
何やらワメキ散らしながらやって来ます。
「何を騒ぐんだ、八?」
「瓢々斎の居間の押入に、飲みかけの貧乏徳利が一本、猪口《ちょこ》が一つ隠してありますぜ」
「どれどれ」
手に取って嗅いで見ると、猪口にはまだ酒の匂いが残って、一升入りの徳利は半分ほど空になっております。
「こいつを知らなかったのかい」
ガラッ八は貧乏徳利を指して、うろうろしている下女のお滝に訊ねました。
「一向知りませんよ。旦那はお酒の吟味《ぎんみ》がやかましくて、剣菱《けんびし》を樽《たる》で取って飲んで居ましたから、酒屋の徳利なんか家へ入るわけはありません」
醜《みにく》い四十女のお滝は、恐る恐る灯の中へ顔を突出します。
「その樽はどうしたんだ」
と平次。
「昨日瓢箪供養に持出して、残った酒を皆な塚へかけてしまった様子です」
それを聞くとガラッ八は舌舐《したな》めずりをしました。勿体なくてたまらない様子です。
「それで、この世の思い出の晩酌の分をそっと隠して置いたのだろう」
「なるほどね」
「八、手前は、酒の鑑定《めきき》は自慢だったな」
「それ程でもねえが」
「その徳利に残ったのを嘗《な》めてみてくれ。剣菱か地酒か、それが判りゃいい」
「それ位のことなら判りますよ」
ガラッ八は徳利の酒を一と口、上戸《じょうご》らしく、喉をゴクリと鳴らしました。
「どうだ、八」
「これは良い、――地酒なもんですか、剣菱ですよ、こんなのは滅多にこちとらの口へは入らない」
ガラッ八はもっと欲しそうに、ピタピタと舌を鳴らします。
「やはり死ぬ気だったんだね。本当に酒を止す気で瓢箪供養したのなら、たった一升だけ貧乏徳利に剣菱を残しておくはずはない、――夜中に急に飲みたくなれば、お滝を酒屋まで一と走りさせて、まずい酒でも何でも買わせるだろう」
平次の推理は、事件を次第に怪奇な――が犯罪性のないものにして行きます。
「自殺と決ったら長居は無用だ。引揚げましょうか、親分」
「待ってくれ、もう一つ、この手紙は誰が書いたか、元助と宗匠に鑑定《めきき》して貰おう」
平次は――瓢々斎は人に殺されたに違いない――と、石原の利助のところへ投込んだ、無名の手紙を取出して、露の家正吉と元助に見せました。
「見たこともありませんよ、親分」
能筆《のうひつ》で聞えた正吉は、蚯蚓《みみず》ののたくったようなのを見て苦笑します。
「元助は?」
「ヘッ、おらには判りませんや」
元助はニヤリニヤリとしております。自分の無筆《むひつ》を恥じての照れ隠しでしょう。
「上手な筆蹟を、わざと下手《へた》に見せたんじゃあるまいね」
平次は正吉に訊ねました。
「そんな事はありませんよ。下手は上手の真似が出来ないように、上手は下手の真似は出来ないものです。字の呼吸や字配りを知って居ると、左手で書いても、口で書いても、何となくうまさの出るものです」
正吉の言うのはもっともでした。
「死んだ瓢々斎の字は?」
「あんまり上手じゃありませんが、こんな下手じゃありません。それに筆や墨がひどく悪いし、たったこれだけの文句に間違った字や、仮名違いが三四ヵ所あるでしょう。雑俳でもやる人間は、そんな事はしません」
これで、瓢々斎佐兵衛が、自殺した後で変な手紙が御用聞のところへ届くようにしたのではないかという、もっともらしい疑いも成立しないことになりました。
四
翌る日、池渫《いけさら》いに行った平次とガラッ八は、あまりの事に仰天しました。瓢々斎の遺《のこ》した寺島の寮は、店仕舞と煤掃《すすは》きと壊《こわ》し屋を一ぺんに嗾《けしか》けたほどの荒しようです。
門も、玄関も家の中も、――柱を抜き、床を剥《はが》し、天井も壁も、物の蔭という蔭は、手のつけないところはありません。
「これはどうしたことだ」
平次はさすがに気色《けしき》ばみました。
「主人の遺した借金が、少しばかりではございません。その始末をするにいたしましても、主人は何の遺書もなく、有ったはずの金も、どこに隠してあるか、一両と纏《まと》まったものも見付かりません。いたし方がないので、支配人の私が、先代と懇意《こんい》な正吉さんと相談の上、奉公人の元助夫婦立会いの上、家中を捜して見ました」
番頭の駒三郎は、悪びれた色もなく、こんな事を言って居るのです。
「身内、親類の者に相談してはどうだ」
平次は唾《つば》でも吐《は》きかけたい心持でした。余りにも見え透いた弁解《いいわけ》です。
「お気の毒なことに、御主人には身寄りも親類もございません」
「倅の佐太郎は隣に住んでいるではないか」
「あれは見持が悪いから、末始終《すえしじゅう》親の頸に縄をつけ兼ねない奴だと仰しゃって、七年前に久離切って人別《にんべつ》まで抜きました。隣に住んでいても口を利いたこともございません。主人が亡くなったからと言って、あの方《かた》を引入れては、支配人の私が相済みません」
駒三郎の言い分は、一応もっともですが、平次には、その冷たさがなんとしても気に入らなかったのです。
「そう言ったものかな、大店《おおだな》の支配人の物の考えようというものは。――が、これから名主《なぬし》か五人組の立会いの上でなきゃ、勝手な真似は止した方がいいぜ、つまらねえ疑いを受けることになるから」
「ヘエ――」
駒三郎も仕様事《しょうこと》なしに承服しました。
「で、金があったのかい」
「横山町のお店を畳んだ時、五千両は残したはずですが、家の中を見ると、たった一両もございません」
「皮肉だな」
ガラッ八はヒョイと口を出して平次に睨まれました。
「それほど念入りに捜したのに、どうして池の水を乾して見なかったんだ」
「親分さんが昨夜《ゆうべ》、――池は明日|渫《さら》って見ると仰しゃったものですから」
駒三郎にもそれ位の遠慮はあったのでしょう。
「一体、当座の払いというのはいくらあるんだ」
「これだけでございます」
駒三郎の出した書付を見ると、愚《ぐ》にもつかぬ諸払《しょばらい》がざっと十二三両、それも出入りの人足の手間や、酒屋米屋の払いなど勘定してあるのです。
「これが万両分限の瓢々斎の残した借金かい」
「ヘエ――」
「地所や家作もうんとあるということだ。こんな無法なことをしなくたって、諸払いの恰好はつくだろう。庭石一つ、掛物一本売っても十二三両の始末はつくじゃないか」
「ヘエ――」
駒三郎は正に一言もありません。下男の元助は、醜《みにく》い顔をひん曲げて「それ見た事か」と言いたい様子です。
そんな事をしているうちに、ガラッ八は小さい水門を抜いて、池の水を干《ほ》しました。深さ三四尺、たった五六坪ほどの池は見る見る綺麗に水を抜かれて、よく手の届いた底を見せます。
「何にもない」
ガラッ八は少し物足りない様子でした。
「なきゃなくていい、――どれ」
平次は駒三郎を追いやって、池を念入りに覗いて見ました。蓬《よもぎ》も菖蒲《しょうぶ》も芽を吹かない池は、岸の草まで、冬枯《ふゆが》れのままで、何の変哲もなく底をさらして居るのです。
「おや?」
平次は岸の泥の中から変なものを抜き出しました。
「子供の玩具《おもちゃ》じゃありませんか、親分」
「笛だよ」
泥を拭くと、赤い段だらの横縞《よこじま》を書いた玩具の竹笛で、まだ少しも傷んでいないところを見ると、昨今池の水際《みずぎわ》の泥に突き差したものでしょう。
「誰のでしょう」
ガラッ八は眉《まゆ》をひそめました。
「こいつは飛んだ獲物かも知れない。黙っているんだよ」
「ヘエ」
平次は八五郎に口止めをして、竹笛をそっと袂に入れました。
「さア解らねえ、何もかも判じ物だ」
ガラッ八は忌々しそうに大舌打をしました。
「俺には段々解って来るような気がするよ」
平次は何か他のことを考えている様子です。
「第一に解らねえのは、死ぬ覚悟をした人間が、何だって瓢箪供養なんて、手数のかかる事をしたんだろう」
「何十年の間大事にして来た、三十六の瓢箪を、自分と一緒にこの世から暇乞《いとまごい》をさせたかったのさ。酒好きの考えそうな事よ」
「ヘエ――そんなものかなア、俺なんか酒は嫌いじゃねえが、まだ瓢箪と心中する気になったことはねえ」
「枡《ます》の角《すみ》からばかり飲むからだよ」
「違げえねえ」
八五郎は掌《てのひら》で額を叩きました。正に一言もない態《てい》です。
「そこで一つ、駒三郎か元助に、これだけの事を訊いて来てくれ、――瓢々斎は瓢箪を供養するのに、無疵《むきず》のまま埋めたか、それとも後で掘り出して使わないように、一々割るか切るかしたか」
「ヘエ――」
「それから、まだある。――瓢箪を土手下まで持って行くのに、人手を借りたか借りないか」
「それだけですか、親分」
「まア、そんな事でいい」
ガラッ八は飛んで行きました。
五
翌くる日の朝。
「大変ッ、親分」
鉄砲玉のように飛んで来たのがガラッ八です。
「わッ、虫の毒だぜ、手前《てめえ》と付き合って居ると、落着いて飯も食っちゃ居られねえ」
平次は文句を言いながらも、大したイヤな顔もせずに、この早耳の天才を迎えました。
「落着いて飯なんか食って居られねえ、大変なんだ、親分」
「いつもの大変とは少し大変が違うようだね、どうしたんだい、一体」
「駒三郎が殺されましたぜ、親分」
「何?」
「場所は向島の土手下、瓢箪塚を掘り荒した前だ」
「本当か、それは、八」
「本当も嘘もねえ、大変な騒ぎだ」
「よしッ」
銭形平次は箸《はし》を投《ほう》り出すと、羽織を引っかけて、十手を懐ろにねじ込みざま、ガラッ八と一緒に飛び出します。
「まア」
よき女房のお静は、呆気《あっけ》に取られてその後姿、朝の春光の中に消え行く二人を見送りました。御用のことというと、まるで火の付いた鼠花火《ねずみはなび》のように飛出す、夫の平次が少し怨《うら》めしかったのでしょう。
一方平次とガラッ八は、向島まで駆けて行く道々、先刻の会話を続けました。
「手前、瓢箪のことを誰に訊いたんだ」
割って埋めたか、無疵《むきず》のまま埋めたかという――あの一件を平次は指すのでしょう。
「駒三郎に訊きましたよ。すると駒三郎は――主人は誰かに掘り出して使われると嫌だからと言って、わざわざ職人を呼んで、三十六の瓢箪を一々横真二つに挽《ひ》き割らせ、それを自分で合せて、紐で縛って埋めましたよ――と言いながら、何か変な顔をして居ましたよ」
「それから」
「瓢箪を運んだ話も、――一つ一つ自分で運ばなくたって宜いわけですが、あのとおりの気性で、何でも自分でしなきゃ気に入らないんで――そんな事を言ったのも駒三郎です」
ガラッ八は昨日《きのう》の報告をもう一度くり返しました。
「しまったよ、八。駒三郎はそれを訊《き》かれたんで、死ぬような事になったんだ」
平次は思いも寄らぬ事を言います。
「それは、どういうわけで? 親分」
「解るじゃないか、三十六の瓢箪に五千両の小判を隠したと気が付いたんだ」
「えッ」
「瓢箪の口からは小判は入らない。瓢箪に隠すなら、横に割るより外に工夫はない。俺はそれを訊きたかったんだ。それで瓢々斎が死ぬ前の日に瓢箪供養をしたわけもよく解る」
「そいつは本当ですか、親分」
ガラッ八は、平次の袖を押えました。五千両の小判というと、大商人の大身代です。それを大小三十六の瓢箪に隠すというのは、何ということでしょう。
「駒三郎は曲者《くせもの》だ、五千両の金をさがしあぐんでいるところへ、その事を聞いてハッと気が付いた。多分夜になるのを待ち兼ねて行ったんだろう。寮から土手《どて》の瓢箪塚は三十間とは離れちゃいない」
「…………」
「塚を掘って瓢箪を取出したところを、出し抜いた仲間の悪者に見付かり、その場を去らず殺されたんだろう」
「なるほどね、まるで見ていたようだ」
そんな事を言っているうちに、足の早い二人、渡船《わたしぶね》を飛び出して、寺島へ着いて居りました。
土手下の瓢箪塚のあたりは、真っ黒な人だかり、利助の子分が二三人、声を涸《か》らしてそれを追っ払っております。
「銭形の親分」
利助の子分達も、かかり合いで来て居る露の家正吉も、ホッとした様子です。
人垣を分けて飛込んだ平次も、自分の予想と寸分《すんぶん》違わぬ現場の様子に、物をも言わずに立ち竦《すく》みました。それは実に恐ろしい暗合です。
瓢箪塚は無慙に掘り荒されて、中から取出した瓢箪は、一つ一つ合せた紐を切って割られ砕かれ、その瓢箪の殻《から》と泥の中に、脳天を胡桃《くるみ》のように叩き割られた駒三郎は、紅に染んで倒れていたのです。
「親分、こいつは誰の仕業でしょう?」
露の家正吉は恐る恐る顔を出しました。
「恐ろしい力のある野郎だ」
平次はそう言って、駒三郎の脳天を叩き割った、泥と血潮だらけな鍬《くわ》を指しました。
「後ろへ忍び寄って、自分の使って居る鍬で打たれるのを、知らずに居たでしょうか」
ガラッ八はさすがに急所に気が付きます。
「夜更けなら知らずにいるはずはない、多分仲間だろう」
「仲間?」
「だが、お気の毒なことに小判は瓢箪の中になかった」
「どうしてそんな事が判るんです、親分」
「割った瓢箪はたった五つだ、あと三十一は紐《ひも》で縛ったままになって居る、持上げるか振って見るかして、皆んな空《から》っぽなんで諦めて行ったんだろう」
「人間一人を無駄に殺したわけで」
「駒三郎も殺されるような事をして居たんだろう、それにしてもイヤな事だな」
平次はひどく不機嫌です。
その時、小梅の方から飛んで来た女が一人。
「駒三郎さんが殺されたんですって、そんな事が本当にあるんでしょうか」
取り乱した風で瓢箪塚へ来ると、駒三郎の死体を一と目、ワッと取りすがりました。
「あれは誰だい」
と平次。
「お為ですよ」
ガラッ八は囁《ささや》きました。
お為はあたり構わぬ大愁嘆《だいしゅうたん》で、
「お前さん、何て事だろうね、いつも命を狙っている者があるって口癖に言ってたけれど、まさか、こんなになろうとはねえ、――きっと敵は討ってやるから、一と言、たった一とこと言っておくれ、やはり、あの佐太郎かい、――自分が勘当されたのをお前のせいにして居たそうだから、――ね、駒さん、ね」
惨憺《さんたん》たる死体を揺ぶり揺ぶりの大口説《おおくぜつ》です。
六
お為の嘆きを聞き捨てて、平次とガラッ八は寮の裏へ大廻りに、佐太郎の家へ行きました。
「あれは、親分?」
眼の早いガラッ八が指したのは、朝陽を明々と受けて、昨夜から干し忘れたらしい半纏《はんてん》が一枚、裏の物干竿に引っかけてあったのです。
近寄って見ると、胸のあたりへなすり付けられた血潮と泥。
「…………」
平次は黙って眼を見張りました。
「ね、親分、これだけで証拠は沢山でしょう、佐太郎の奴をしょっ引いて行きましょうか」
ガラッ八は囁きます。
「証拠はこれ一つでたくさんだ、佐太郎は下手人じゃないよ」
平次の言葉は予想外でした。
「親分」
「不足らしい顔をするなよ、――俺もお為の言うのを聞いて、てっきり下手人は佐太郎と思い込んだが、ここへ来て見ると気が変った」
「ヘエ――」
「どこの世界に、血の付いた半纏を、これを見て下さいと言わぬばかりに、天道様《てんとうさま》の下にさらして置く下手人があるんだ」
「…………」
「それに、あれはゆうべ取込み忘れた洗濯物で、まだ洗って手を通していないよ。あんなに袖なんか突っ張って居るじゃないか、洗濯物《せんたくもの》を胸に当てて、人を殺す奴もないだろう」
「…………」
「まだある、下手人の着物なら、血が飛沫《しぶ》いているはずだ、あれだけひどく殴ったんだもの、――ところがあれは血を拭《ふ》いたんだぜ」
平次の言葉は星を指すようです。
「なるほどな、恐れ入った、さすがは銭形の親分」
「おだてちゃいけない」
二人は踝《くびす》を返そうとしました。
「銭形の親分」
不意に後ろから呼ぶ者があります。振り返って見ると、二十二三の小意気な男が、雨戸の蔭から、丁寧に挨拶しているのです。
「お前は?」
「佐太郎でございます、――いまのお話は他所《よそ》ながら聞いてしまいました。有難うございます。親分さん方が、そんなお心持ちとは知らずに、不貞腐《ふてくさ》れて知ってることも申上げず、親父が死んでも顔を出さずに居りました」
佐太郎は陽の中へ顔を出すと、頬を濡らして泣いていたのです。
「お前は大した悪人でもないようだ。何だって勘当されたり、奉公人にまで遠慮をしなきゃならないんだ」
平次は濡れ縁に腰を掛けました。
「勘当されたのは、これと一緒になったのが切っかけで――」
佐太郎は後をふり返ります。枕屏風《まくらびょうぶ》の蔭には長患《ながわずら》いの女房お松が、形ばかりの夜の物を着て青白い顔をのぞかせて居るのです。
「それはどうも腑《ふ》に落ちないよ、――お神さんは商売人あがりというわけでもなかったそうだが」
「あんなに親父が腹を立てるとは、私も知りません。ツイ一緒になってしまうと、火のついたような怒りようで、この家と三百両の金を貰って七年前に久離切られました。それからは呑む、打つで」
「父親が、お前を傍へ置きたくない事でもあったんじゃないのかな」
「そんな事があったかも知れません」
「何か変ったことに気が付かなかったのか」
「そう言えば駒三郎は甥《おい》でも従弟《いとこ》でも何でもないのに、世間へは親爺の甥と触れ込んで、店のことを一切取り仕切って居りました。――それから、元助も、奉公人のくせに、恐ろしく贅沢《ぜいたく》で、親父をせびる事ばかり考えて居たようでございます」
佐太郎の話には、何か深い仔細《しさい》がありそうですが、平次の勘《かん》でもこればかりは解りません。
「お前はどこで育ったんだ」
「遠州ですよ、――里にやられて十二三まで育った頃、江戸から迎いが来て引き取られたのが、今の親父の横山町の店です」
「駒三郎か元助を、子供の時見た覚えはないのかな」
「少しも覚えがありません、江戸へ来て始めて見た顔です。もっとも、露の家正吉という男には見覚えがあります。あれは左の耳に瘤《こぶ》があったはずですが、いつの間にやらそれはなくなっていました。二十七八年も前に、浜松で見た顔です」
「そいつは何かの役に立つだろう」
しかし、佐太郎からさぐれる話はそれっ切りでした。立上がって帰ろうとすると、チョコチョコと飛んで出たのは、六つばかりの男の子、小柄で色白で、男人形のように可愛らしいのが、大した人見知りもせずに、平次とガラッ八の前に立ってニコニコして居ります。
「これは、お前さんとこの総領かい」
「春吉と言いますよ、まだ六つになったばかりで」
「こんな可愛い孫があるのに、瓢々斎の祖父《おじい》さんも、ろくに顔も見ずに死んだんだろう、気の毒な」
思わずそんな事を言う平次、佐太郎はさすがに顔を背《そむ》けました。屏風の蔭では鼻を啜《すす》る音が――
「おや?」
ガラッ八はつと足下を見ました。気のきいた懐中煙草《ふところたばこ》入れが一つそこへ落ちて居たのです。
「こいつはお前《めえ》のかい」
平次はそれを拾って、佐太郎に見せました。
「飛んでもない、そんな洒落《しゃれ》たものを持てる身分じゃございません」
「こいつは飛んだ良い物が手に入ったよ」
平次はそれを懐中に入れて、立去りました。
七
その足で平次は、遠州浜松の城主七万石松平|豊後守《ぶんごのかみ》の上屋敷に飛んで行き、御留守居の役人から何やら聞き出しました。
「今日の仕事は少し大きいが、合点か、八」
門を出ると、いつになくいきり立って居ります。
「どんな事をやらかしゃいいんで?」
「まア来て見るがいい」
二人はもう一度向島へ、――もう日は暮れかけて居ります。
瓢々斎の遺した寮へ行くと、平次はいきなり下男の元助をつかまえたのです。
「御用ッ」
「あッ、何をするんだ、縛られる覚えはねえ」
「黙れッ、今から二十八年前、浜松の城下で、御用金三千両を盗んだ大泥棒の片割れ、手前は般若《はんにゃ》の元吉だろう」
「あッ」
「八、そいつを縛ってしまえッ」
「応《おう》ッ」
乱闘は一瞬にしておわりました。元助の元吉は八五郎に組伏せられて、キリキリ縛り上げられます。
「もう一人居るんだ。そいつは番屋へ預けて、一緒に来い」
平次とガラッ八は、引返して中《なか》の郷《ごう》へ飛びました。
露の家正吉の家へ裏表から入ると、
「あ、これは銭形の親分、ちょうどお茶が入ったところだ、まず一服」
などと言うのを、
「御用だぞ、遠州の正太、神妙にせい」
平次の十手はピシリとその肩を打ったのです。
「あッ、俺はそんなものじゃない、この露の家正吉は、縛られるような悪事を働いたことはない」
「黙らねえか。二十八年前、三千両の御用金を盗んだ四人組の一人、その左の耳の瘤《こぶ》を取った疵痕《きずあと》が何より証拠、浜松様の御屋敷に聞き合せての上だ、間違いはない」
「嘘だ嘘だ」
「その上五千両の金を捜して、駒三郎まで殺したはずだ、神妙にせい」
「違う違う、あれは元助の仕業だ」
「いや元助じゃない、佐太郎に罪を着せるつもりで細工をしたのは、手前の悪知恵だ」
「その証拠は――」
「この懐中煙草入れが物を言うぞ、印伝《いんでん》の叺《かます》に銀煙管、こいつは下男の持つ品じゃねえ」
「えッ、こうなれば頭巾を脱いでやろう。いかにも俺は遠州の正太、安岡つ引に縛られるような三ン下じゃねえ」
「何をッ」
ここでも乱闘は瞬時に片付きます。二十八年前の巨盗は、口ほどにもなく、平次やガラッ八の敵ではなかったのです。
二人を縛って番屋に並べ、証拠を揃えてピシピシ平次は締め上げました。
こうなると、もう嘘《うそ》も隠しもありません。
今から二十八年前の旧悪、瓢々斎佐兵衛と駒三郎と正吉と元助の四人が、浜松の御用金三千両を盗んで高飛びし、四人で均等《きんとう》に分配して、それぞれ正業に就くはずでしたが、本当に正業に就いたのは、後の瓢々斎こと佐兵衛たった一人で、あと三人は半歳経たないうちに費《つか》い果し、二三年後には横山町で大町人になって居た佐兵衛のところへ転げ込んで、散々嫌がらせの限りを尽しながら食い下がっていたのでした。
商才のある駒三郎は甥と名乗って番頭になり、人相のよくない元助は下男に、文筆のある正吉は我儘者で友達ということになりましたが、二十六年間三人の搾《しぼ》った額は容易なものではありません。
佐兵衛は商売上では申し分なく成功しましたが、この旧悪が何時|露顕《ろけん》するかも知れないのを恐れて、倅佐太郎に難癖つけて勘当し、寺島の寮の隣に住わせましたが、三人の悪人に見張られて表向きの交通もなり難く、散々|搾《しぼ》られ脅《おど》かされた挙句、とうとう自殺をして、この旧悪の責苦から逃れる工夫をしたのでした。
自殺を他殺と見せたのは、駒三郎や正吉や元助に対する嫌がらせで、瓢箪供養は五千両の金の隠し場所をカムフラージュする洒落でしょうが、それにしても、真物の五千両は、一体どこに隠してあるのでしょう。
二人の悪人を、下っ引に護らせて奉行所に送らせた後、平次はガラッ八と二人、小判捜しで荒され抜いた寮の縁側に腰を掛け、湿《しめ》っぽいような春の月に照らされて、何時までも何時までも考えて居りました。
「八、考えてみろ、五千両という大金だ、この寮のどこかに隠してあるに違いない。それを捜さなきゃ、この仕事は仕上がったとは言えねえよ」
「五千両は大きいね、親分、五千両大福餅を買ったらどんな事になるだろう」
八五郎は相変らずこんな事を言うのです。
「馬鹿野郎、大福餅を五千両食う奴があるものか」
「一朱の家賃を先払いにしたら、何年気楽に住めるだろう」
「呆《あき》れた野郎だ、手前の言うことは、一々子供染みているよ、――子供と言や、いつかこの池で見付けた玩具の笛だが、こいつがどうも一と役買って居るような気がしてならねえ」
「そいつをピーと吹くと、親分も子供付き合いが出来るというものさ」
「その気で一つ吹いて見るか」
平次はそう言いながら、竹笛を口に当てて、二つ、三つ、ピー、ピーと吹いて見ました。
「こいつは夜っぴて吹いたって、浮かれる気遣いはない、が、飛んだ愛嬌があっていいね」
二人は声を合せて笑いました。どこからともなく、朧《おぼろ》を染めるような梅の匂い――。
「おや?」
八五郎は早くも気が付いて池の後ろを指しました。頑丈《がんじょう》な金目垣、その一ヵ所に野良犬の潜《くぐ》る通路が一つあることは、平次も早く目をつけておりましたが、その穴をガサガサ潜って、小さいものがヒョイとこっちの庭へ飛込んで来たのです。
「おや、春吉じゃないか」
佐太郎の一粒種、死んだ瓢々斎の孫に当る、あの可愛らしい男の児が、何の惧《おそ》れ気もなく、縁側に並んでかけて居る二人の前へ歩いて来るではありませんか。
「小判をおくれよ」
おどろき呆れる平次の前へ、春吉は小さい手を出しました。振り仰いだ顔の可愛らしさ。
平次はしばらく呆気に取られて居ましたが、やがて、何やら呑込んだ様子で、懐中から小粒を二つ三つ取出して、春吉の掌《て》の上に載せてやりました。悲しいことに、銭形平次の懐中には小判などが入っているのは、一年に幾度もないことだったのです。
「また来るよ」
春吉はギラギラする小粒を、しばらくは怪訝《けげん》そうに眺めて居りましたが、それでも小判の仲間と思ったか、スタスタと金目垣に引返すと、元の穴をくぐって、自分の家の方へ行きます。
「八、あれをどこへ持って行くか、見張っているんだよ」
「心得た」
囁《ささや》く二人。子供はそんな事に構わず、気軽に歩いて、お勝手の前の井戸の側へ行くと、用心のためにしてある、厳重な蓋《ふた》の隙間から、ポトリと中へ投《ほう》り込んだのです。
「しめたッ、これで五千両の行方が判った」
平次とガラッ八は、表から飛出すと、大廻りに廻って佐太郎の家へ飛込みました。
平次はその晩下谷の松平豊後守上屋敷へもう一度行って留守居の役人に逢い、二十八年前に盗まれた、御用金の三千両を佐兵衛の倅の名で返しました。その上、正太(正吉)元吉(元助)二人の悪人を召捕ったことを報告して、死んだ佐兵衛の遺族《いぞく》には、係り合いなしという事にして貰いました。
「こんな清々《せいせい》したことはないな、八」
もう夜半過ぎの街を、神田の自分の家へ、二人は軽い心持で急ぎました。
「井戸の中から小判が出たときは驚いたぜ」
とガラッ八。
「それより俺は、竹笛を吹いて子供の出て来た時の方が驚いたよ、瓢々斎はあの笛を吹いて、人知れず孫に逢い、悪人に狙われている五千両の金を隠させて、死ぬ支度《したく》をしたんだね」
平次は何となくホロリとした心持です。
「でも、あれで佐太郎も助かったわけだね、親分。女房の養生も出来るのだろうし、二千両ありゃ――」
「そんな事は言わない方がいい。皆な忘れて仕舞うことさ」
「ところで、たった一つ判らねえ事があるんだが、――お品さんが持って来た手紙は、ありゃ誰が書いたんでしょう」
「判ってるじゃないか、佐太郎さ。隣の家で親父が死んだと聞いて、何か、あんな手紙を書きたくなったのさ、おや、もう家だよ」
「姐御が待って居るぜ」
そのとき女房のお静は、寝もやらず、二人の跫音《あしおと》の近づくのを待っているのでした。
金の茶釜
一
「親分、金《きん》の茶釜《ちゃがま》を拝んだことがありますかい」
ガラッ八の八五郎は、変なことを持込んで来ました。
「知らないよ、金の茶釜や錦《にしき》の小袖はフンダンにあるから、拝むものとは思わなかったよ」
平次は無関心な態度で、よく済《す》んだ秋空を眺めておりました。見立て三十六|歌仙《かせん》の在五中将《ざいごちゅうじょう》〔在原業平〕が借金の言い訳を考えていると言った姿態《ポーズ》です。
「ヘエ――、あの品川の流行《はやり》ものを、親分は知らないんで」
「金の茶釜がどうしたんだ?」
「品川の漁師《りょうし》町の藤六が、――親孝行で御褒美まで頂いた評判の男ですがネ、その藤六が、品川沖で網を打つと、金の茶釜が引っ掛ったんだそうで。さっそく金主が付いて、八つ山下へ親孝行の見世物が出る騒ぎでさ」
「そいつは変っているな、いつの事だい」
「釜を見付けたのは十日ばかり前、小屋をかけたのは昨日《きのう》で」
「恐ろしく気が早いじゃないか」
「そんなのを見ておかなきゃ話の種にならないから、きのう昼過ぎから品川まで行って来ましたよ」
「達者な野郎だ」
「その代り、親孝行の金の茶釜の走りを見て来ましたぜ」
「南瓜《かぼちゃ》じゃあるまいし、金の茶釜に走りてえやつがあるかい」
が、こんな無駄を言っても、平次に取っては、ガラッ八の骨惜しみをしないのが有難かったのです。
「変なものでずぜ、親分、――ちょいと行って見ちゃどうです」
「御免|蒙《こうむ》ろうよ。そいつは唐土《もろこし》の二十四孝の真似事さ、香具師《やし》の細工物に決っているじゃないか、郭巨《かくきょ》の釜掘りてのはお前も聞いたことがあるだろう。そのうちに、『両頭《りょうとう》の蛇』が出て来るよ」
「ヘエッ、そんなもんですかねえ。擬《まが》い物と解っているなら、踏込んで挙げちまおうじゃありませんか、諸人を惑《まど》わして、銭を取るのは太《ふて》え野郎だ――」
「擬い物でも何でも、親孝行の見世物へ踏込んじゃ悪い。抛《ほ》っておくがいい」
「そうですかねえ」
「親孝行は真似でもしろって言うじゃないか。八なんかも、金の茶釜を見ての戻り、叔母さんへ煎餅《せんべい》の一と袋も買って来る気になったろう」
「まアそう言ったようなもので」
「だから抛《ほ》っておくがいい」
平次は相手にもしません。
しかしこの話があって三日目、ガラッ八はまた新しい情報を持込んで来たのでした。
「親分、おかしな事になりましたよ」
「何がおかしいんだ、そんなところに突っ立って居ちゃ邪魔だよ」
平次は縁側の柱に凭《もた》れたまま、天文を案ずる形になっていたのです。
「呆《あき》れるぜ、親分。銭形の平次親分ともあろうものが、雲を眺めて、この結構な秋の日を暮らすなんて――」
「抛っておいてくれ、岡っ引が雲を眺めていられるのは御時世のお蔭さ。ところで、どこに一体おかしな事があったんだ」
「品川ですよ、親分」
「金の茶釜の見世物だろう」
「そのとおりで」
「金の茶釜の正体が張子《はりこ》に金箔《きんぱく》を置いたのとでも判ったのかい」
「そんなつまらねえ話じゃありません」
「金の茶釜を盗むあわて者があったんだろう、家へ持って帰って拭《ふ》き込むと、銅《あか》になる奴さ。銅壺《どうこ》の代りにもなるめえ」
「親分、そんな馬鹿なことじゃありませんよ。見世物小屋に入って、金の茶釜を盗んだ上、番人夫婦を斬った奴があるんで――」
「なるほど、そいつは厄介だ」
銭形平次は少しばかり本気になります。
「ちょいと行って見て下さい、親分」
「俺は御免を蒙るよ」
「でも、茶釜は金無垢《きんむく》で、千両箱でも出さなきゃア買えない程の代物《しろもの》ですぜ。江戸中の道具屋がわざわざ見に行って胆《きも》をつぶしたんだから嘘じゃねえ」
「道具屋の胆の潰れたのなんか、疳《かん》の薬にもならねえよ」
平次は容易に神輿《みこし》をあげそうもありません。
「親分、そう言わずに、拝むから行って下さい」
「拝まれたくはないよ」
「それじゃ、川崎の大師様へお詣りに行きましょう、お供しますぜ」
「いやな野郎だな、誰に頼まれて来たんだ」
「ヘエ――」
「品川は少し遠過ぎるが、事と次第によっちゃ行って見ないものでもない、いったい誰に頼まれて来やがったんだ」
「ヘエ――」
「ヘエ――じゃないよ、その見世物の金主は誰だい」
「品川の増屋佐五兵衛ですよ」
「名題の熊鷹《くまだか》だ、――まさか佐五兵衛に頼まれたんじゃあるまいな」
品川の高利貸増屋の佐五兵衛から金でも貰って、親分の出馬を引受けて来たのではあるまいか――平次はフトそんな事が気になったのです。
「飛んでもない、親分。あっしは金貨と田螺合《たにしあえ》は大嫌いなんで」
「変な取合せだな、――それじゃ誰に頼まれたんだ」
「言いますよ、親分、こうなりゃ皆んな言ってしまいますよ、――金の茶釜は品川の海で、孝行者の藤六の網にかかった――」
「それは何べんも聞いたよ」
「その藤六が、毎日見世物小屋へ来て、看板《かんばん》になっているんだが――何にも物を言わねえ。もっとも漁師《りょうし》の藤六に器用な口上は言えっこはないが、――金の茶釜を飾った舞台へ出て、裃《かみしも》を着て、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、籠の中の軍鶏《しゃも》見たいに歩いてばかりいる」
「嫌なことだな、親孝行なんか売り物にして」
平次は苦い顔をしました。
「本人が好きでやって居るわけじゃねえ、それにも訳があるそうですよ」
「それがどうした」
「金の茶釜が盗まれ、佐五兵衛に小言を言われて弱っているのを見兼ねて、妹のお春が|あっし《ヽヽヽ》へ頼むんです。何とか銭形の親分さんにお願いして金の茶釜を見付けて下さい。兄が佐五兵衛に責《せ》めさいなまれるのを見ちゃ居られません――と涙を流して」
「よし解った、八五郎の口添《くちぞえ》で、若い娘の頼みとあっちゃ、こいつは行かなきゃなるまい」
平次は気持よく立上がりました。
「親分、有難い」
フェミニストの八五郎は妙にソワソワしております。
二
ガラッ八に案内されて、見世物小屋に行った銭形平次は、騒ぎのあまり大袈裟《おおげさ》なのに驚かされました。
小屋は八つ山の崖の上、花時を除《の》けると、ひどく閑静な場所ですが、それでも街道から見通しで、高輪からも品川からも足場の良いところ、――そこに方五間ほどの筵張《むしろば》り、青竹を廻した木戸を入ると、中はすっかり土間で、正面の小さい舞台に畳を三枚ほど敷き、一双《いっそう》の金屏風《きんびょうぶ》をめぐらして、真中ほどのところに、三尺ばかりの台を据えまして、この上に金の茶釜が飾ってあったのでしょう。
台の上に掛けたのは、すさまじくも物々しい蜀紅《しょくこう》の錦《にしき》――もっとも、これは大贋物《おおまがいもの》です。舞台の裏には厳重な二重箱が、蓋を開けたままになっておりますが、金の茶釜は夜分だけこの中に納められるのです。
「泥棒はこの箱をコジ開けて取って行きました」
そう言いながら、卑屈《ひくつ》そうな顔を出したのは、金主佐五兵衛の手代、この小屋を一切仕切っている米吉《よねきち》という五十男です。
「番頭さん、銭形の親分だよ」
ガラッ八は後ろから黙々として来る平次を眼で迎えました。
「これは、お見それ申しました、御苦労様でございます。私は増屋の奉公人で、米吉と申します、ヘエ――」
これだけ言ううちには米吉は六ぺんもお辞儀《じぎ》をしました。こんなのは、さぞ金を借りた者には、冷酷無慙《れいこくむざん》なことをするだろう、――と言ったような事を平次は考えていました。
小屋の裏の方、金の茶釜の箱を見張るような部屋には、番人助七、お大《だい》の夫婦者が、枕を並べてウンウン唸《うな》っております。
「夜はこの小屋に茶釜を置いてあったんだね」
平次はそれが不思議でたまらなかったのです。千両もするという金の茶釜を、こんな筵張りの小屋の中に置いていいものでしょうか。
「ヘエ――、番人夫婦が引受けて、万に一つも間違いがないことになって居りました」
と米吉。
「ところが現に間違いがあったじゃないか」
「実は、毎晩木戸を閉めると、金の茶釜は裏から増屋まで運んで行き、朝になるとまた増屋から持って来ることになってなって居りますが、それは世間体だけで、――実はこの小屋に泊め置くことになって居ります」
「それは誰の役目だ」
「茶釜を運ぶのは、私の役目ということになって居りますが――」
平次も少し呆れました。金の茶釜の真物を筵張りの小屋に番人夫婦と泊めおいて、得体の知れない包みをもっともらしく増屋へ運ぶというのは、あまりに人を舐《な》めた話です。
「その|からくり《ヽヽヽヽ》を知っているのは、誰と誰だい」
「主人と私と、増屋の若旦那の佐太郎様と、木戸番の半助と、番人の助七夫婦と、孝行藤六くらいのものでございます」
「釜は真物の金だろうな」
平次はもう一つ駄目を押しました。
「それはもう親分さん。品川の沖で、藤六の網に入った時は、潮錆《しおさび》で少し汚れておりましたが、近頃はよく拭き込んで、目のさめるよな山吹色でございました。そんなに大きくはございませんが、蘆屋形《あしやがた》と申すそうで、立派な品でございます」
「目方は?」
「八百――いえ、一貫八百目でございました」
そんな事を訊きながら、平次は番人の部屋へ入って行きました。
「どうだい、傷は、――飛んだ災難だったね」
敷居際に踞《しゃが》んだ平次を、助七夫婦は床の中からマジマジと見上げます。
「有難うございます、親分さん」
「どこをやられたんだ」
「私は肩先でございます。女房は足を捻《くじ》いただけで、これは斬られたのじゃございません」
五十男の無精髭《ぶしょうひげ》だらけな助七は、臆病《おくびょう》らしくこう言うのです。
「どんな様子だったんだ、詳《くわ》しく話してくれないか」
「ヘエ――、一昨日は大層よく入って、木戸のあがりを入れた銭箱を二度まで増屋へ運んだ位でございます。それですっかり気が緩《ゆる》んで、祝心に一合つけて寝たのが間違いのもとでございました。暁方《あけがた》近くになってから――丑刻半《やつはん》頃でございましょうか、舞台の方に変な物音がするのを女房が聞き付け、そっと私を起しましたので、夢中になって飛起きて行って見ると、覆面をした浪人者が、金の茶釜を箱の中から取出して、逃出そうとして居るじゃございませんか。驚いて大声を出しましたが、この辺は家もなく、暁方と言っても人通りもない時分で、誰も来てはくれません。それでも金の茶釜を盗られては大変と、女房と二人で一生懸命しがみ付きますと、浪人者が抜き討に私の肩先へ斬り付け、女房を投げ飛ばして外へ飛出してしまいました」
「…………」
平次はうなずきました。助七は半身を床から抜出して、なかなか雄弁に説明してくれます。
「後を追っかけようとしましたが、何分の深傷《ふかで》で、どうすることも出来ません。女房は足を捻《くじ》いて、これも身動きも出来ない始末。ようやく朝になって御近所の方が来てくれましたので、増屋へ知らせて、御主人と番頭さんに来て頂いたようなわけでございます。あの茶釜がなくなっては、私は首でも吊《つ》らなきゃなりません。親分さん、お願いでございます。泥棒を見付けて、茶釜を取返して下さい」
助七はそう言って、床《とこ》の中から平次を拝むのでした。
「金を盗られたのと違って、道具は思いのほか早く出て来るものだよ。あんまり心配しない方がいい」
「有難うございます」
女房のお大はその問答を聞いて、半身を起したまま手を合せて居りました。
「ところでもう一つ訊くが、その時小屋の中には灯《あかり》があったのかい」
と平次。
「いえ、灯なんかありません。番頭さんが油が惜《お》しいと言いますんで、ヘエ」
番人の助七はブルブルと頭を振ります。少しは米吉への面当《つらあて》でしょう。
三
「親分、土地の御用聞の菊松《きくまつ》が、今朝一人|挙《あ》げて行ったそうですよ」
ガラッ八はどこからかそんな事を聞き出して来ました。
「それはいい塩梅《あんばい》だ、――誰だい、それは?」
「権八《ごんぱち》の浪《なみ》太郎という、浪人崩れのならず者で、ちょっといい男で」
「それがどうしたんだ」
「どこの小屋へも、長いので脅《おど》かして、只《ただ》で入る野郎です。それが孝行藤六の妹のお春に心をかけ、執念深く言い寄って弾《はじ》かれたので、藤六にケチを付けるためやった悪戯かもしれないと言うことですよ」
「そんな事もあるだろうな。――が、一貫八百目の茶釜を裸のまま抱え、番人を斬って、女房を投飛ばす芸当はむずかしいぜ」
平次は他の事を考えている様子です。
そこから品川の増屋までは五六町、平次は米吉に案内されて暖簾《のれん》をくぐりました。
「これは銭形の親分さん、飛んだ迷惑でございます」
煙草盆を下げて出たのは、四十七八のよく肥った愛嬌《あいきょう》のいい主人でした。
「金の茶釜がなくなったそうで」
「ヘエ、それで実は困って居ります。あのとおり小屋まで掛けて、資本《もと》を入れた仕事ですから、いま茶釜がなくなった――では、まるまる損《そん》でございます。何とか親分さんのお力で、悪者を取押えて頂きたいものでございます」
佐五兵衛は如才ない調子ですが、結局自分の利益以外のことには、興味も注意も持たない言い分でした。
「金の茶釜の値打ちはどれ位のものかな」
平次はそんな事を訊くのです。
「左様、道具屋仲間は千両と申しております」
「それを海から見付けたとすると、網を打った藤六の物だろうな」
「いえ、あの、私が譲《ゆず》り受けました。ハイ、この増屋佐五兵衛のものでございます」
「…………」
平次はそれ以上追及しませんでした。質素なくせに、どこかひどく金目のかかった暮しをしている佐五兵衛の家の中を、珍しそうに眺めまわしている様子などは、ガラッ八の眼から見ると、日頃の平次のたしなみにはないことです。
「毎晩あの小屋の中に茶釜を泊めておくことは、他に知ってる者はあるまいな」
「私と米吉と倅《せがれ》佐太郎の外にはございません」
「その佐太郎さんというのを呼んで貰おうか」
「ヘエ」
つれて来たのを見ると、まだ十二三の少し発育の悪い少年。これでは金の茶釜より、軽焼《かるやき》の煎餅《せんべい》の方に興味がありそうです。
「八、久し振りで潮風に吹かれて見ようか」
「ヘエ」
平次は増屋を出ると、心覚えの漁師町の方へ辿《たど》りました。
「面白くない家だね、親分」
「金が溜り過ぎて、家の中が冷たくなって居るんだよ」
「ヘッ、こちとらも少し冷たくなって見てえ」
「馬鹿だな」
漁師町の孝行藤六の家はすぐ解りました。
形ばかりの九尺二間で、雨戸の代りに筵《むしろ》を下げてある有様で、その前に立っただけで、平次は胸を打たれたような心持です。
「御免よ」
「ハイ」
筵をかかげて顔を出したのは、――平次は思わず息を呑みました。十八九の素晴らしい娘、身扮《みなり》の汚なさも、髪の乱れも、江戸の真中では想像も出来ないひどさですが、陽に焦けた浅黒い顔の品のよさと、娘らしい健康な愛くるしさは、これも江戸の中などでは、金《かね》の草鞋《わらじ》で探しても見付かるような代物《しろもの》ではありません。
「銭形の親分をつれて来たぜ、お春」
八五郎は後ろを振り返って、自分の偶像《ぐうぞう》を拝ませるような勿体らしい顔をしました。
「まア」
お春は真っ赤になりました。どんな珍客があったところで、羽織一枚、前掛一つ換えることの出来ない暮しだったのです。
「兄貴は?」
ガラッ八は訊ねました。
「まだ戻りません」
「少し訊きたいことがあるんだが」
平次はこの娘だけに訊きたいことがあったのでしょう。
「母が寝て居りますから」
お春は眼顔で半分嘆願しながら、自分の家の門口を離れて、砂浜の方へ二人を誘《さそ》います。チラリと筵の間から見た中の様子の貧しさ、平次はさすがに強《し》いてとも言い兼ねました。中には六十を越して、中風で身動きもならぬ母親のお辰《たつ》が、眠るとも覚むるともなく寝て居るのでしょう。
「お春さんと言ったね、――あの金の茶釜は、本当に品川沖で兄さんの網に掛ったのかい」
「…………」
「これが一番大事なことなんだ、正直に言ってくれないか」
「兄からは何にも聞きません。――でも、兄はあんな小屋へ、毎日行って、顔をさらすのが辛《つら》い様子でした」
「茶釜がなくなってから、兄さんはどうして居る?」
「黙って考えてばかりおります、――いつもおっ母《か》さんの相手をして、賑やかな人なんですが」
「それでお前は、心配になって、この八五郎に頼んだんだね」
「え」
非常に深い仔細《しさい》がありそうですが、十八の娘には、それ以上の事はなんにも解らなかったのです。
「あれ、兄さんが帰って来ました」
娘は手を挙げて、波打際《なみうちぎわ》の向こうの方を指しました。
沖の方から小舟を漕いで来た若い漁師が二人、砂の上に舟を引揚げると、その一人は、妹の姿を見付けて、こっちへ歩いて来るのです。
「精が出るね、藤六」
八五郎は声を掛けながら、手でも握るように側へ寄りました。
「ヘエ、小屋《こや》が休むと、遊んでも居られません」
親孝行の看板にならない日は、たった一日の暇《ひま》でも、漁《りょう》に出なければならないほど切詰めた暮しをしているのでしょう。
「銭形の親分が、お前に訊きたいことがあるんだとよ」
「ヘエ」
藤六は困り抜いた様子で立竦《たちすく》みました。小屋へ引出されたせいか、髯はよく当って居りますが、三十前後の逞《たく》ましい顔は、赤銅色《しゃくどういろ》に焦《や》けて、正直そうなうちにも、純情家らしい眼が人をひきつけます。
「金の茶釜は本当にお前の網に掛ったのかい」
「…………」
「本当の事を言ってくれ、藤六」
平次の調子はひどく打ち解けて居りました。
「親分さん、そいつは訊かないで下さい。私は困ることがありますから」
藤六は泣き出しそうな顔になります。
「それじゃ、これ一つだけ聞かしてくれ。お前は見世物小屋へ好きで出て居たのかい、それとも、親孝行したさのお前が日当《にっとう》が欲《ほ》しさに出て居たのかい」
「…………」
藤六は唇を噛みました。深い深い苦悩が、その頬をヒクヒクと痙攣《けいれん》させます。
「それは誰にも迷惑をかける話じゃない、お前の心持だけの事だ、――聞かしてくれ」
平次の調子には、何か沁《し》み込むような思いやりがあります。
「どっちでもありませんよ、親分さん」
「と言うと」
「私は、たった一人の母親さえ満足に養えない、意気地のない男です。世間で評判するような孝行者なんかじゃありません」
「でも、お上から御褒美を頂いたことがあるそうじゃないか」
一昨年《おととし》の夏、親孝行の廉《かど》で町奉行所から青緡《あおざし》何貫文かの褒美を貰ったことは、かなり有名な話です。
「もったいない事だが、あれはお上の鑑定《めがね》違いですよ、――親孝行なんて飛んでもない事だ。たった一人の母親をせめて戸も障子もある家へ入れて、甘い物でも食わせて、暖かい物でも着せて上げたら親孝行にもなるだろうが」
「…………」
藤六は遥《はる》かの方、筵で閉いだ鳥の巣のように憐れな自分の家を眺めて、ポロポロと砂浜に大きな涙をこぼすのです。
「それが、――金ずくで動きの取れないようにされたとは言いながら、親孝行の見世物にまでされて、――私はなぶり殺しにされるような念《おも》いでしたよ、親分。――生れて始めての裃《かみしも》なんか着せられて、猿芝居のお猿のように、百人千人の見物の前に、親孝行はこうで御座いと、この顔をさらすつらさを考えて下さい」
「…………」
「あんなイヤな思いをする位なら、針の筵ヘ坐った方が余っ程楽だろうと思いましたよ、――私は親に三度の物もろくに上げることの出来ないような、日本一の不孝者だ、――親不孝の晒《さら》し物になるんだと、自分で自分の心に言い聞かせて、日の暮れるのを待っていました」
訥々《とつとつ》とした言葉に涙が交って、自分の腸《はらわた》を叩きつけるように言う藤六の前に、お春も、八五郎も、平次も泣いておりました。
「それ程嫌なら、何だって断らなかったんだ」
平次はようやく本題を切り出しました。
「断ると、この妹を、あの増屋の旦那に取上げられます」
「そんな馬鹿な事はあるまい、お上というものもある、世間というものもある」
「三十両の金は、細い漁師の暮しでは返す見込みも立ちませんよ、親分」
「すると」
「三年前父親が亡くなった時、思案に余って増屋から借りた五両の金へ、利息に利息が積って、三十両になりました」
「…………」
「妹のお春を奉公によこすか、金の茶釜と一緒に見世物に顔を貸すか、二つに一つの強談《こわだん》です」
藤六の顔は夕陽にカッと燃えました。
「そんなら兄さん、私が奉公に行って――」
始めて事情を知ったお春は、たまり兼ねて口を出しました。夕陽の砂浜に立って、その襤褸《つづれ》からも後光が射しそうで、増屋の佐五兵衛が爪を磨ぐのも無理のない美しさです。
「飛んでもない、お前をやってなるものか。増屋の旦那は、名題の|ひひ《ヽヽ》親爺だ、――俺が見世物になる位の事は、何の、――親不孝の業《ごう》さらしだと思えばあきらめがつく」
「だって、兄さん」
兄妹二人の美しい争いを、平次と八五郎は、黙って見ているより外に工夫もありません。
「八、帰ろうよ」
平次はいきなり言い出しました。
「金の茶釜は、親分?」
二人の兄妹を見送りながら、八五郎は不審の眉を顰《ひそ》めます。
「鼠でも引いたんだろうよ、あんなものは二度と出て来ねえ方がいい」
「?」
ガラッ八は黙って平次の意志に引摺られるより外にはありません。
貧しい家と、美しい夕陽と、並んで帰って行く兄妹の後姿を見ながら、変な心持で平次とガラッ八は街の方へ引揚げます。
四
それからしばらくのあいだ、金の茶釜の話は、おくびにも出ませんでした。
「親分、変な事になりましたぜ」
ガラッ八がやって来たのは三日目です。
「何が変だ」
「金の茶釜の事ですよ」
「その話ならもう止してくれ、俺はもう聞きたくない」
平次はもっての外の手を振ります。
「増屋の佐五兵衛が、金の茶釜が出て来ないのに、業《ごう》を煮やして、捜して持って来たものには、五十両やると言い出しましたよ」
「本当か、そいつは?」
平次は急に勢い立ちます。
「権八の浪太郎は帰されましたよ。あの晩は品川の茶屋で酔払って、翌る日の朝まで寝て居たんですって」
「そんな事だろうよ、ところで、八」
「ヘエ――」
「もういちど品川へ行って見る気はないか」
平次は変な事を言い出します。
「今度は本気になって金の茶釜を捜して見よう。俺は五十両の金が欲しくなったよ」
「ヘエ――」
何が何やら解らぬままに、八五郎は平次について行きました。
品川へ着いたのはもう午過《ひるす》ぎ、平次はいきなり町内の外科へ飛込み、無理に頼み込んで、見世物小屋まで医者と一緒に行きました。
「この二人の傷を念入りに診《み》て貰いましょう」
番人の部屋へ踏込むと、まだウンウン言って寝ている助七お大夫婦を指します。
外科医者は少し呆気《あっけ》に取られましたが、平次の勢いに押されて、嫌がる助七お大の容体を診ました。
「こいつはほんの引っ掻きだ。小刀でスーとやったんだろう、薬を塗ったり、晒木綿《さらしもめん》で巻いたりしているが、もうすっかり癒《なお》っている」
助七の肩先の傷を見て、外科医者はニヤニヤして居ります。
「こっちは、先生?」
「お神さんの方は何ともないよ、足の筋なんか、駕籠屋より丈夫だ」
「それで結構、飛んだ手数でした」
平次は外科医者を送り帰してから、八五郎に眼配せして、いきなり助七夫妻の襟髪を取って床から引出しました。
「太《ふて》え野郎だッ。金の茶釜がなくなった申訳に、自分で引っ掻《かき》なんか拵《こしら》えやがって、――浪人者に斬られたもないものだ。本当の事を申上げないと、二三百引っ叩《ぱた》いて、伝馬町へ送るぞ」
平次の剣幕はいつにない猛烈を極めます。
「申します、親分さん。申します」
「さア、言え。本当の事を言わないと」
ガラッ八も十手を閃《ひら》めかして二人の鼻先に詰め寄ります。
「本当の事は、何にも知らなかったのでございます。翌る朝、金の茶釜がないことに気が付いて女房と口を合せて、あんな細工をしました。寝て居て知らなかったでは済みません、浪人者に斬られた事にして、チョイと肩先を引掻き、ウンウン言って寝て居たのでございます」
「何という野郎だ、――サア八、これで風向きが変ったろう。金の茶釜は、この小屋になきゃ増屋だ、床下《ゆかした》も天井も、皆な捜《さが》せ」
「ヘエ――」
平次と八五郎は、それから半刻ばかり、舞台の下の土まで掘って捜しましたが、そこには金の茶釜などを隠した様子もありません。
「来い。ここじゃない、八」
「ヘエ――」
二人は真直ぐに増屋へ――。
「お、銭形の親分さん」
あまりの勢いに呑まれて、何が何やらわからぬ主人の佐五兵衛、その後から、猾《ずる》そうな番頭の米吉も顔を出します。
「金の茶釜に五十両の褒美をかけたってえのは本当ですかい」
平次はいきなり問題の核心《かくしん》に飛込みました。
「え、本当ですとも。千両以上の値打のある金の茶釜ですもの、捜して下さる方がありゃ、五十両でも、百両でも出しますよ」
「百両でも?」
「私も増屋佐五兵衛だ、いかにも百両出しましょう。無疵《むきず》のままで、あの茶釜が手に入ったら」
「茶釜の目印は? 捜し出した時、これじゃないと言われては困る」
平次はひどく用心深くなります。
「蘆屋型《あしやがた》の茶釜、底にタガネで、増屋と打ち込んであります」
「よし、それから」
平次は腕を組みました。
「親分」
心配そうにのぞくガラッ八。
「黙っていろ、――見世物小屋になきゃ、この家にあるに決まって居るんだ。外から楽に投り込めて、ちょっと人目につかないところと言うと――どこだ」
「さア」
「土蔵の中じゃないし、――店先じゃ誰の眼にもつく、裏の物置だろう、来い」
「ヘエ」
平次と八五郎について、佐五兵衛も米吉も裏へ出ました。
物置は二間に二間半、中はガラクタと炭俵だけで、何の変哲もなく、嘗《な》めるように見ましたが、金の茶釜などはどこにもありません。
「親分」
八五郎はソロソロ心配になりました。
「心配するな、日本国中、どこへも行きようのない茶釜だ」
平次はお勝手から、土蔵の軒下から、およそ人の目の届かないところをことごとく見ました。が、金の茶釜はまだ出て来ません。
「親分、どうしたことでしょう」
佐五兵衛はそろそろ皮肉な調子になりました。
「旦那、――銭形の親分さんだ、見込んだ仕事に外《はず》れのあるわけはありません。百両の金を用意しましょうか」
米吉までがこんな事を言うのです。
「そうしてくれ」
と鷹揚《おうよう》にうなずく佐五兵衛。
「八、解った」
平次はいきなり歓声をあげます。
「どこ、親分」
「あの井戸の中だ、覗いて見るがいい」
「…………」
土蔵の側、潮が差して使えない古井戸に、腐《くさ》りかけた蓋《ふた》をしたのを平次は見付けたのです。
飛出した八五郎、蓋を払って覗くと、
「あった、親分」
海近い井戸で深さはほんの五六尺、土蔵の軒下から外した梯子《はしご》をおろすと、わけもなく中の物は取れます。
井戸の外でそれを受取った銭形の平次、しばらく諏訪法性《すわほっしょう》の兜《かぶと》のように、ぬれた金の茶釜を眺めておりましたが、やがて両手で捧げて貫々《かんかん》を引くと、
「御主人、――こいつが金の茶釜という代物に間違いないでしょうな」
「…………」
「底には、タガネで打った増屋の刻印《こくいん》もある、――お気の毒だが、約束の百両は貰って行きますよ」
「ヘエ――」
「千両の金の茶釜が、潮の差す井戸にたった五日|漬《つか》って、青い緑青《ろくしょう》を吹いているのは大笑いだ、こんなもので人寄せをやると、今度はお上じゃ抛《ほ》って置かないぜ。――軽くて所払い、重くて遠島、獄門」
「…………」
平次の言葉に、佐五兵衛も米吉も蒼くなります。
金の茶釜はそのまま、井戸の蓋へおき、平次は佐五兵衛の手から、百両の小判を受取りました。こんな事を大嫌いな平次が、一体それをどうするつもりでしょう。
五
「親分、その百両をどうするつもりで」
ガラッ八が一番先に心配しました。
「猫ババはきめないよ、心配するな」
平次の足は漁師町の方に向います。
やがて藤六の家の前へ立った二人。
「御免よ、藤六はいるかい」
「あ、親分さん」
お春は飛んで出ました。つづいて藤六。
「金の茶釜は見付かったよ」
「ヘエ――」
「その褒美《ほうび》の百両、――こいつは俺が取る筋の金じゃねえ。金の茶釜を品川沖で網に掛けた、お前の取る金だ」
「そ、それは嘘ですよ、親分。みんな増屋の細工で――」
「黙っていろ、増屋はあの金の茶釜を手に入れれば文句はないはずだ。この百両はお前が取って構わない金だ、文句を言う奴があったら、この平次が相手になる」
「…………」
「そのうち三十両は増屋へ返せ、――相手が悪いから、証文を取上げるのを忘れるんじゃないぜ」
「親分」
「いいってことよ。あとの七十両で、せめて雨戸のある家へ引越してよ、親孝行でもするがいい。もう見世物なんかへ出るんじゃないぞ、ハッハッハッ、泣いてやがる、大の男が見っともないぜ」
「…………」
そう言う平次の眼《まなこ》も濡れていました。
「それから、お春は増屋なんぞへ行くんじゃないぞ。その金のうちから袷《あわせ》の一枚も買って嫁に行く仕度でもするがいい」
「親分、こんなに頂いちゃ済みません」
「いや、親孝行の見世物に出た褒美だ。心配するな」
「親分」
藤六とお春は、砂の上にヘタヘタと崩折《くずお》れて泣いておりました。
「お春はときどき神田の俺の家へ遊びに来るがいい、女房が話相手くらいにはなるだろう」
「…………」
「こんど来る迄、畳と戸のある家へ引越してくれ。一度お前のおっ母アにも見舞が言いたい」
「…………」
「八、帰ろうか」
伏し拝む兄妹を後に、妙に鼻をつまられているガラッ八を促して、平次は神田へ向います。
その日も秋の美しい夕暮でした。
「親分、絵解きをしておくんなさい。――釜はいったい誰が増屋の井戸へ隠したんで」
ガラッ八は追いすがりました。
「藤六だよ」
「ヘエ――」
ガラッ八は少し予想外な様子です。
「増屋が藤六を金で縛って、親孝行の見世物なんて、あんなタチの悪い芝居を打った、――釜は金被《きんき》せの大贋物《おおにせもの》さ、それを藤六の親孝行の徳で網へかかった事にし、お上のお目こぼしをいいことに金儲《かねもう》けを企《たくら》んだのさ」
「そこ迄は|あっし《ヽヽヽ》にも解るが」
「親孝行の見世物にされて、藤六はどんなにつらかった事か、あの男の口から聞いたろう。あれは本当の孝行者だけに、見世物にされるのがたまらなかったのだよ。そうかと言って三十両の工面はつかず、妹も人身御供《ひとみごくう》に上げられず腹の中で泣いていたが、とうとう我慢が出来なくなって、あの茶釜を隠したのだ。茶釜は偽物だという事をよく知っていたが、自分のところへ持って来るわけに行かない、見世物小屋に隠さなきゃ、増屋にあると言ったのはそのためだ。正直者の藤六は、増屋のものは増屋へ返せば済むと思ったのだろう」
「成アーる」
「解ったか、八」
「解った、何もかも解りましたよ」
「人の孝行まで金儲けの道具にした、あの増屋の野郎は憎い。が、藤六はいい男だな」
「あの娘はいいね、親分」
「何を」
そう言いながらも平次は独り者のガラッ八に、あんな嫁があったら――と考えている様子でした。
活き仏
一
「親分、面白くてたまらないという話を聞かせましょうか」
ガラッ八の八五郎は、膝っ小僧を気にしながら、真四角に坐りました。こんな調子で始めるときは、お小遣《こづかい》をせびるか、平次の知恵の小出しを引出そうとする下心があるに決っております。
「金儲けの話はいけないが、その外の事なら、大概我慢をして聴いてやるよ、惚気《のろけ》なんざ一番宜いね――誰がいったいお前の女房になりたいって言い出したんだ」
銭形平次――江戸開府以来の捕物の名人と言われた銭形平次は、いつもこんな調子でガラッ八の話を受けるのでした。
「そんな気障《きざ》な話じゃありませんよ。ね、親分」
「少し果し眼になりやがったな」
「音羽の女殺しの話は聴いたでしょう」
「聴いたよ。お小夜とか言う、良い年増が殺されたんだってね、――商売人あがりで、殺されても不足のねえほど罪を作っているというじゃないか」
二三日前の話でしょう、平次はもうそれを聴いて居たのです。
「商売人上りには違えねえが、雑司《ぞうし》ガ谷《や》名物の鉄心道人の弟子で袈裟《けさ》を掛けて歩く凄《すご》い年増だ。殺されたとたんに紫の雲がおりて来て、通し駕籠で極楽へ行こうという代物《しろもの》だからおどろくでしょう」
「なるほど、話は面白そうだな。もう少し筋を通して見な」
平次もかなり好奇心を動かした様子です。
「鉄心道人のことは、親分も聴いているでしょう」
「大層あらたかな道者だって言うじゃないか。やっぱり法螺《ほら》の貝を吹いたり、護摩《ごま》を焚《た》いたりするのかい」
「そんな事はしねえが、説教はする。八宗兼学の大した修業者だが、この世の欲を絶って、小さい庵室《あんしつ》に籠もり、若い弟子の鉄童と一緒に、朝夕お経《きょう》ばかり読んでいる」
「で?」
「それで暮しになるから不思議じゃありませんか。ね、親分」
「…………」
平次は黙ってその先を促《うなが》しました。合槌《あいづち》を打つとどこまで脱線するかわかりません。
「もっとも信心の衆は、加持祈祷《かじきとう》をして貰ったと言っちゃ金を持って行く。が、鉄心道人はどうしても受取らねえ。罰《ばち》の当った話で――」
「そう言う手前の方が余っぽど罰当りだ」
「米や味噌や、季節の青物は取るそうだからまず命には別条ない――」
「それからどうした」
八五郎の話のテムポの遅さにじれて、平次はやけに吐月峰《はいふき》を叩きました。
「だから、音羽から雑司ガ谷目白へかけての信心は大変なものですよ。あの辺へ行ってうっかり鉄心道人の悪口でも言おうものなら、請合《うけあ》い袋叩きにされる」
「で――」
「お小夜の殺された話は、鉄心道人の事から話さなくちゃ筋が通りませんよ。何しろ、明日という日は鉄心道人の庵室へ乗り込んで、朝夕の世話をすることになって居た女ですからねエ」
「梵妻《だいこく》になるつもりだったのかい」
「飛んでもない。鉄心道人の教えでは、女犯《にょぼん》は何よりの禁物で、雌猫《めすねこ》も側へは寄せない」
「お小夜は雄猫と間違えられた」
「冗談じゃない、――多勢の弟子の中から選ばれて、道人の側近く仕えながら、朝夕教えを聴くことになったんだから大したものでしょう」
「それから」
「明日はいよいよ音羽から雑司ガ谷じゅうの信者総出で、お小夜を庵室に送り込もうという矢先き、肝腎《かんじん》のお小夜が脇差でなぶり殺しにされたんだから騒ぎでしょう」
「なぶり殺し?」
「十二三ヵ所も傷があったそうだから、なぶり殺しに違いないじゃありませんか。よほど深い怨みがあったんでしょう」
「急所を知らないんで、無闇|矢鱈《やたら》にきったかも知れないな」
「でも、下手人は武家らしいという話ですぜ」
「武家?」
「お小夜が勤めをしている頃の深間《ふかま》〔深い仲〕で、浅川団七郎という弱い敵役みたいな名前の浪人者があったんですって」
「フム」
「その浪人者が、チョイチョイお小夜のところへ来たんだそうで、――米屋の越後屋《えちごや》兼松が、お小夜の家で三度も逢っていますよ」
「それで」
「お小夜が殺されてから姿を見せないところを見ると、その野郎が一番怪しくなります」
「お小夜は綺麗な女だったのかい」
平次は話題を転じました。
「綺麗というよりは凄い女でしたよ。|あっし《ヽヽヽ》の逢ったのはもう三年も前だが――」
ガラッ八は話しつづけました。
お小夜は三年前まで三浦屋でお職《しょく》を張っていたのを、上野の役僧某に請出《うけだ》されて入谷に囲われ、半年経たないうちに飛び出して、根岸の大親分の持物になりましたが、そこも巧《たく》みに後足で砂を蹴って、千石取の旗本某の妾《めかけ》になり、三転四転して、有名な立女形《たておやま》中村某の家の押掛け女房になったりしていました。
そんな事も、長く続いてせいぜい半年くらい、鮮《あざや》かに転身して、音羽に世帯を持ったのはこの春あたり。しばらくは、下女一人猫の子一匹の神妙な暮しをつづけて居るうち、何時からともなく鉄心道人のところに通い始め、紅も白粉も洗い落して、半歳余りの精進をつづけた後、鉄心道人にその堅固な信心を見込まれ、薪水《まきみず》の世話をするために、別棟《べつむね》ながら、道人の起居する庵室に入ることになったのです。
「ね、親分。勿体ないじゃありませんか」
八五郎はこう言って、額を叩くのでした。
「勿体ないって奴があるかい」
「とにかく、三浦屋のお職まで張った女が、袈裟を掛けて数珠《じゅず》を爪繰《つまぐ》りながら歩くんだから、象《ぞう》の上に乗っけると、そのまま普賢菩薩《ふげんぼさつ》だ」
「宜い加減にしないかよ、馬鹿馬鹿しい」
「色白で愛嬌があって、こう下《しも》っ脹《ぷく》れで眼の切れが長くて、唇が真っ紅で――好い女でしたよ、親分。その熟れきった良い年増が、庵室に入っていよいよ尼さんの玉子になろうという前の晩、滅茶滅茶に斬られて死んだんですぜ。こいつは近頃の面白い話じゃありませんか、御用聞|冥利《みょうり》、ちょいと覗いて見ませんか、親分」
ガラッ八の八五郎は生得の順風耳《じゅんぷうじ》を働かせて、江戸中からこんな怪奇なニュースを嗅ぎ出して来ては、親分の平次の出馬をせがむのでした。
二
『玉の輿の呪』事件以来、平次の腕に心から推服している三つ股の源吉は、このお小夜殺しをすっかり持て余してしまって、五日目には平次のところへ助け舟を求めに来たのでした。
「銭形の親分、俺にはどうも見当が付かねえ。十手捕縄を預って、そんな事を言っちゃ、お上に対しても済まねえわけだが、縄張りのうちに殺しがあるというのに、五日も経って下手人の匂いのあるのさえ挙げ兼ねたとあっちゃ、俺の顔が立たねえ。済まねえが知恵をかしてくれないか」
他の御用聞と異って、銭形平次なら、無暗な功名争いをするはずもなく、三つ股の源吉の顔の潰れないように、一件を始末してくれるだろうと思ったのです。
「宜いとも、俺で役に立つ事なら」
銭形平次はなんの蟠《わだかま》りもなく御輿《みこし》をあげました。
源吉に案内させて、八五郎と一緒に音羽へ行って見ると、何もかも済んだ後で、銭形平次でも手の付けようはありません。
お小夜の家はもとのままですが、たった一人の下女のお米は調べが済むまで里へ帰すこともならず三毛猫《みけねこ》と一緒に淋しく暮しております。
「お前の家はどこだえ」
「厚木在《あつぎざい》だよ」
平次の問いに対して、妙に怒っているような調子です。年頃は十八九、番茶なら少し出過ぎたくらいですが、|むくつけ《ヽヽヽヽ》き様子を見ると、江戸へ来て、まだ三月とは経っていないでしょう。
「あの晩どうしていたんだ」
「風呂へ入って来て、御新造さんへ声を掛けて寝ただ。翌る朝お隣の皆次さんに、雨戸が開いているぞと声を掛けられて、びっくりして飛び起きて見ると、御新造さんは殺されて居たでねえか」
|むくつけ《ヽヽヽヽ》き娘ですが、相模《さがみ》言葉ながら、思いの外達弁にまくし立てます。
「風呂から帰って声を掛けたとき、返事がなかったのか」
「よく眠って居るべえと思っただよ」
「そのとき雨戸は閉って居たのかい」
「私はお勝手から入ったから、御新造さんの雨戸は知らねえよ」
それではなんにもなりません。
「日常《ふだん》、ここへ出入りするのはどんな人達だ」
「お隣の皆次さんと――これは紙屋さんだよ。地主の寅吉さんと、庵室の鉄童さん、それから米屋の兼松旦那、もっとも米屋の旦那は滅多に来ねえだよ」
「それっきりか」
「もう一人、御浪人の浅川団七郎とか言う人がときどき来るが、おらは後姿しか知らねえだよ」
「よしよし、そんな事でたくさんだろう」
平次はそれ以上を聴こうともしません。
「一番|繁々《しげしげ》通うのは誰だい」
ガラッ八は後ろから口を出しました。
「地主の寅吉とか言う男だ。訊《き》かなくたって解っているよ」
平次は一番先に寅吉を挙げた下女の言葉の調子から、そのくらいのことは判断している様子です。
「お小夜が殺された晩、誰も来なかったかい」
とガラッ八。
「地主の寅吉旦那が来ただよ、話がこんがらかった様子で、御新造さんとなにか言い合っていただが――おらは御新造さんにせき立てられて、表の湯屋へ行ってしまったから、どう納まったか後は知らねえ」
平次はそれを聴くと後ろをふり向きました。三つ股の源吉はその寅吉を縛らずにいるはずはないと思ったのです。
「寅吉は一応引立てて見たが、どうしても小夜を殺したとは言わねえ、――盗られた物はなし、寅吉より外に、下手人の匂いのするのもないが」
源吉はすっかり投げて居ります。
「浅川団七郎という浪人者は」
「そいつはまるで雲を掴《つか》むような話だ。お小夜のところへ来る時は、大抵|頭巾《ずきん》を冠っていたそうだし、小夜はおくびにも出さなかったから、どこに住んでいるか、まるっきり見当がつかねえ。越後屋の主人が確かに顔を見たと言っているが、色白で四十前後で、ベットリと濃い青髯《あおひげ》の跡のある、とだけじゃ――そんな浪人者は江戸に何百人いるか解らない」
三つ股の源吉の言うのはもっともでした。
「八、こいつは思ったよりむずかしいぜ。当分神田へ帰らねえことにして、音羽へ泊り込むとしようか」
銭形平次がそんな事を言うのですから、よくよくの難件と見込んだのでしょう。
三
下女のお米を責《せ》めたところで、大した証拠も上らなかったので、平次はその足を伸《の》して、雑司ガ谷の鬼子母神《きしもじん》裏にある鉄心道人の庵室を訪ねました。
多寡《たか》が疫病神のような流行物《はやりもの》――と鼻であしらって来た平次も、庵室へ行って見て、まるっきり予想と違っているので驚きました。竹の柱に茅《かや》の屋根という小唄の文句のとおりの見る影もない庵室の奥に、修業者鉄心道人はささやかな仏壇を前にして読経中で、その後ろに居流れた善男善女は、一本気の信心に凝《こ》り固まった、朴訥《ぼくとつ》そのものの姿を見るような人達ばかりでした。
鉄心道人は四十前後のまだ壮年の修業者で、細面の眼の大きい、強烈な精神力の持主らしい様子までが、平次に好感を持たせます。
――こ奴はただの山師ではないぞ、――
平次はそんなことを考えながら、開けっ放した庵室の中を見ておりましたが、読経の声|凛々《りんりん》と響き渡ると、それに合せて念仏を称える善男善女の声が、一種の情熱的なリズムになって、平次の齎《もたら》した世俗の『御用』などは通りそうもありません。
平次はそっと裏口の方へ廻りました。
二十歳ばかりの目鼻立ちの柔和な若い弟子が腰衣《こしごろも》を着けたまま井戸端で水を汲んでいたのです。
「お前さんは鉄童さんと言うんだね」
「ハイ」
折目の正しい返事に、平次も少し面喰いました。
「お小夜が殺された話は知ってるだろうね」
平次の間いの気のきかなさ。
「それはもう、よく存じておりますよ」
鉄童は莞爾《にっこり》として手桶をおきました。
「お前さんはどう思いなさる」
「…………」
「誰が殺したか、見当ぐらいは付くだろう」
「その見当が付けば――」
鉄童は皮肉な微笑を浮べて、平次の腰のあたりを見るのです。『還俗《げんぞく》して御用聞になる』とでも言いたいところだったでしょう。
「お小夜が殺されて喜んでいるものがあるだろう」
平次は我にもあらず愚問《ぐもん》を連発しました。
「私も喜んでおりますよ」
鉄童の答の意外さ。
「?」
「あれは法難でございました。――心を入れ換《か》えたと言っても、お小夜殿はあのとおり美しい。お師匠様のお側には置きたくない方でしたよ」
「?」
「上野の役僧が一人、お小夜殿のために寺を追われました。入谷の親分が一人、子分に見放され、千五百石の旗本が潰《つぶ》れ、名題役者が一人首を縊《くく》りました。――外面|如菩薩《にょぼさつ》、内心|如夜叉《にょやしゃ》、――恐ろしいことでございましたよ」
鉄童はそう言って、目の前で数珠《じゅず》を振るのです。
「あの晩、お前さんはどこに居なすった」
平次の問いは唐突で乱暴でした。
「庵室に居りましたよ、――間違っちゃいけません。私には羅刹女《らせつじょ》を解脱させる法力《ほうりき》はありません」
謎のような言葉を残したまま、鉄童は手桶を提げて庵室へ入って行きました。
もういちど表へ廻ると、信心の男女は大方散って、庵主の鉄心道人が、若い男と何やら事務的なことを打合せております。
「越後屋の兼松だよ」
三つ股の源吉はそっと囁きました。雑司ガ谷から音羽へかけての物持で、手広く米屋をやって居る兼松は、鉄心道人の第一番の大|檀那《だんな》で、庵室を建ててやったのも、諸経費の不足を出してやるのも、みんなこの男の篤志《とくし》だということです。
「越後屋さん、銭形の親分が、道人に少し訊きたいことがあるそうだよ」
源吉は兼松をさし招いてこう囁きました。
「それは困りました」
越後屋兼松は渋い顔をしました。この盲信者に取っては、岡っ引と鉄心道人とは、全く世界の違った人間のように思っている様子です。
「お上の御用を勤める方に不自由をさせてはいけない。私が逢いましょうよ、越後屋さん」
後ろから静かに声をかけたのは、鉄心道人でした。歳の割には若々しい声で、なんでもないことがひどく人の心持に沁《し》み入ります。八宗兼学の大智識というにしては、少し人間味があり過ぎますが、柔かい次低音《バリトン》には一方《ひとかた》でない魅力のあることは事実です。
「お小夜が殺されたことは聴いたでしょうな」
「いかにも聴きましたよ」
平次の突っ込んだ調子を、鉄心道人は柔《やわら》かに押し包みました。
「下手人の心当りはありませんか」
「いや少しも、――気の毒なお小夜殿。なぶり殺しに逢うほどの罪はなかったはずだが――」
鉄心道人は眉《まゆ》を垂れて、何やらしばらくは念じております。
「鉄童さんはその晩、確かに外へ出なかったでしょうな」
「出るわけはありませんよ、庵室はこのとおりたった二た間、鉄童が臥返《ねがえ》りを打ったのも解ります」
鉄心道人の言葉にはなんの疑いを挟みようもありません。平次は自分ながらこの掛け合いの不手際さにじれ込んでおります。
こうなると平次は、丁寧に挨拶をして引揚げる外に術《て》がありません。もういちど井戸端に廻ると、弟子の鉄童は盥《たらい》の前にキチンと坐って一生懸命洗濯をしておりました。
「この水は良いだろうな」
「江戸一番の良い水ですよ、この辺は高台だから」
平次の問いに、無造作な調子で鉄童は答えます。
「一杯呑みたいが、柄杓《ひしゃく》か茶碗を借りたいな」
「ハイ」
鉄童は寺住居の者らしい気軽さで、長刀草履《なぎなたぞうり》を穿《は》いたままお勝手に戻り、中へ入って茶碗を一つ持って来てくれました。
一と瓶《つるべ》くみ上げて、一杯キューッと呑んだ平次。
「甘露甘露、なるほどこれは良い水だ」
十一月の水の味は格別だったのでしょう、平次は舌を鳴らしてもう一杯傾けます。
「親分、止しましょうよ。そいつは何杯呑んだって酔いはしませんぜ」
ガラッ八はそんな事を言って眺めているのです。
四
「銭形の親分さん」
目白坂まで来ると、後から追いすがり加減に声をかける者があります。
「越後屋さんじゃないか」
平次は足を淀《よど》ませました。
先刻庵室で挨拶した米屋の兼松が、なにか言いたい事がある様子で後から来たのでした。
「下手人のお見込みが付きましたか、親分さん」
兼松は少し息をきらしております。
二十八九、せいぜい三十くらい、若いにしては分別者らしい男で、浅黒い引緊《ひきしま》った顔にも、キリリと結んだ口にも、やり手らしい気魄《きはく》があります。
「少しも判らない、困ったことに日が経ち過ぎたよ」
妖艶なお小夜も知らず、その殺されたあとの惨憺《さんたん》なる有様も見なかった平次は、後から証拠をたぐるじれったさに閉口している様子です。
「御尤もですが、地主の寅吉さんだけは下手人じゃございませんよ、親分」
「それはどう言うわけだ」
平次はツイ開き直りました。それほど兼松の調子が断乎としていたのです。
「寅吉さんを縛った三つ股の親分さんにはお気の毒ですが――」
「…………」
兼松の眼は、チラリと源吉を見やりました。この御用聞がもってのほかの機嫌なことは、その|そっぽ《ヽヽヽ》を向いた頬のあたりの痙攣《けいれん》でも判ります。
「御存じかも知れませんが、同じ音羽に住んで、お互になんとか人に立てられるだけに、私と寅吉さんは仲が悪うございます。それにつけても、寅吉さんが人殺しの罪を被《き》て、お処刑《しおき》に上るのを見ちゃいられません」
「?」
兼松の一生懸命さが、妙に平次を引入れました。
「あの晩寅吉さんが、お小夜の家を出て来るのを、私は確かにこの眼で見届けました。先刻まで近所に聞えるほど言い争って居たのが、どう仲直りしたものか、鼻歌でも歌い出した様子で、ニヤニヤしながら出て来たくらいですから、人なんか殺したんでない事はよく判ります。それに路地へ射して来る灯《あかり》でよく見ましたが、寅吉さんは脇差も出刃庖丁《でばぼうちょう》も持っちゃいませんでした。後ろから灯を差出して、寅吉さんの足許を見せてやっていたのは、お小夜だったかも判りません。そのころ下女のお米は風呂へ行っていたそうですから」
「お前さんは何用があって、そんなところにいたんだ」
平次の問いは峻烈《しゅんれつ》でした。
「私はいろいろ道人様のお世話をしておりますから、明日庵室へ入るというお小夜の様子を見に来ましたが、寅吉さんが出て来たのを見ると、出過ぎたことをするんでもないと思って、そのまま引返しました」
兼松の答えははっきりしております。
「お前さんと寅吉とは余っ程仲が悪かったんだね」
「ヘエ、――世間ではなんとか申します。行違いは去年のお祭の揉《も》め事からで――」
兼松と寅吉と仲の悪いのは、同じ音羽の物持で、両雄並び立たぬためだったでしょう。
「お前さんはお小夜をどう思っていたんだ」
「道人様が側近く召されるのを、かれこれ言っては悪いと思って差控えていましたが、正直のところあまり好きじゃございませんでした」
と兼松。
「寅吉は?」
「寅吉さんは小夜のところへ繁々《しげしげ》通っていたようで、これは町内で知らない者はありません。もっともお小夜はなんと言っていたか、そこまでは判りませんが」
「寅吉も庵室へ出入りするのか」
「飛んでもない」
兼松の様子では、寅吉は縁なき衆生《しゅじょう》のようです。
「外にお小夜を怨んでいる者は?」
「算《かぞ》えきれいないほどあります。ことに近頃ちょいちょい姿を見せる浅川団七郎――」
兼松はそう言って、脅《おびや》かされたように、ゴクリと固唾《かたず》を呑みました。
「浅川という浪人者は始終ここへ姿を見せるのかな」
「お小夜が殺された晩も、頭巾《ずきん》で顔を隠して、路地の外をうろうろしていた様子でした」
「その浪人者の住居は?」
「そこまでは存じません。ときどき後姿を見て、お小夜に訊いて浅川団七郎という名前を知っただけです。来る日は前もって下女のお米をお使いか、風呂か、遊びに出す様子でした。お小夜は賢《かしこ》い女でしたから、変な浪人者の訪ねて来るのを、誰にも知られたくなかったのでしょう」
越後屋兼松の説明は、こっちで望む以上に行届きます。
「お前さんは、浅川とか言う浪人者に逢ったことがあるそうじゃないか」
と平次。
「たった一度ありました。一と月ばかり前、蒸し暑い日で、さすがに頭巾を冠ってはいられなかったのでしょう。お小夜の家の格子戸の中で、覆面頭巾をヒョイと脱《ぬ》いだのを見てしまったのです」
「人相は?」
「四十前後の良い男でございました。何より色白の顔と、青岱《せいたい》を塗ったような、両頬の青髯の跡が目立ちました」
「外には誰も浅川団七郎の顔を見た者はないだろうな」
「さア」
「親分、――外にも浅川団七郎の顔を見た者がありますよ」
ガラッ八は横合から口を出しました。
「誰だい」
「そいつは滅多に言われませんよ、半襟一と掛け奢《おご》る約束で聞込んだネタで」
「大層|奮《はず》みゃがったな」
「それ程でもねえが――」
「ハッハッハッ」
平次はなんとはなしに空を仰いで笑いました。初冬の空は申分なく澄みきって、夕陽はもう目白の林に落ちかかっております。
五
寅吉の女房にも逢ってみましたが、これは嫉妬と心配で半病人のようになっているだけで、なんの役にも立ちません。
最後にもういちどお小夜の家へ平次と八五郎と、三つ股の源吉と、越後屋の兼松と立寄りました。
お米の言葉と、源吉の調べとを併《あわ》せて、もういちど平次の頭で整理して見ましたが、下手人はお小夜の知己《ちき》で、木戸を開けて狭い庭から通して貰って、一気にお小夜を殺して帰ったというほかにはなんの手掛りもありません。
十二三ヵ所の傷だったと言いますが、ツイ近所の人も、宵のうちの人殺し騒ぎを知らなかったところを見ると、多分最初の一撃で致命的な傷を与え、声を出す力も騒ぐ力もなくなったものでしょう。そう考えるとやはり、下手人は明日の庵室入りをくい止めようとする、必死の怨みか妬《ねた》みを持ったものという事になります。
「八、お米を呼んで来てくれ」
「ヘエ――」
八五郎は隣の部屋で神妙に縫物をしている下女のお米を呼んで来ました。
「俺は半襟一と掛なんてケチな事は言わねえ、帯でも袷《あわせ》でも買ってやるから、浅川団七郎という浪人者の素姓を知ってるなら話してくれ」
平次はいきなり高飛車に出ました。
「そいつは違やしませんか、親分」
もっての外の顔をしたのは八五郎です。
「黙っていろ、明日まで引延していて、どんな事になるかも判らない――なア、お米、知ってる事は皆んな申上げた方が宜いよ」
平次は何時ものたしなみに似ず、懐ろから十手を覗ゥせたりするのでした。
「なんにも知らねえだよ、御浪人の後姿を二度ばかり見ただけだよ」
お米は何に脅えたか、頑固に頭を振ります。
「お前はなにか知っているに違いない。言わなきゃ縛って行くが、どうだ」
「知らねえだよ、おらは、なんにも知らねえだよ」
お米は部屋の隅にピタリと引っ込んで、脅えきった猫のような眼を光らせます。その無智な頑固さを見て取ると、力攻めで急に口を開けさせるわけには行かないと見たか、
「八、気の毒だがこれからすぐ三浦屋へ行ってくれ。お小夜が勤めをしていた時分の深間を一人残らず手繰《たぐ》り出すんだ。それから下っ引を五六人狩り出して、この三年間お小夜に掛り合った人間を調べ上げて見るが宜い。その中に浅川団七郎という浪人者がいると判ったら、下手な|ちょっかい《ヽヽヽヽヽ》を出さずに、居所だけを突き留め、遠巻に見張って、すぐ俺のところへ言って来い、――明日の朝までだぞ、宜いか」
「合点だ」
ガラッ八はもう、尻を七三に端折っておりました。親分の様子で、事件がようやく峠を越したことが判ったのでしょう。
八五郎の後姿を見送って、平次はすぐお小夜の家の隣――と言っても、これは音羽の通りに面した紙屋の皆次の店へ入りました。
「あ、親分さん方」
皆次は二つ三つつづけ様にお辞儀をしました。二十五六のまだ若い男で、額《ひたい》の狭い、鼻の低い、少し出ッ歯で、小柄で、平凡そのもののような男です。
「浅川団七郎という浪人者が、時々お小夜のところへ来たそうだが、お前は気が付かなかったのかい」
平次の問いは誰も予期しないような種類のものでした。
「いえ、一向見たこともありません。――お小夜さんのところへ出入りする人間で私が気が付かないはずはないんですが――」
「そのとおりですよ、この人は間がな隙《すき》がなお小夜さんの家ばかり覗いていたんですから」
店の奥から我慢のならぬ注《ちゅう》を入れたのは、年上らしい女房のお秋でした。これは頑強で、真っ黒で、牝牛《めうし》のような感じの女です。
「お前は黙って引っ込んでいろ、――親分方の前じゃないか、馬鹿ッ」
皆次は精いっぱい亭主の威厳《いげん》を示すのでした。
「その浪人者があの晩も顔を隠して、この路地へ入って来たそうだが――」
「少しも気が付きませんよ、親分さん」
「それじゃ、あの晩、この路地を誰と誰が通ったんだ」
と平次。
「地主の寅吉さんは通りました。それから下女のお米さんが表の湯へ行って帰って、――そこにいらっしゃる兼松さんも、ちょっと覗いてそのまま帰った様子でしたが」
それだけ見張って居れば、女房のお秋が嫉妬《やきもち》を焼くのも無理のないことです。
「人一人殺されるというのに、物音もなんにも聞えなかったのか」
「お米さんが湯へ行くと間もなく、私の方も店を閉めてしまいました。目白の鐘《かね》が亥刻《よつ》〔十時〕を打つと、何時でもそうするのですが――」
「それじゃその後で下手人が来たのかも知れないな」
「そんな事かもわかりません」
「お前さんは外へ出なかったかい」
「出やしません。女房や小僧にも訊いて下さい、――お小夜さんはあのとおり綺麗だったから、いろいろ罪を持っている様子でしたが、私などには振り向いてもくれません」
皆次は先を潜って弁解をしているのです。
六
翌る朝、三つ股の源吉のところへ泊っている平次のところへ、一番先に駈けつけたのは、越後屋の兼松でした。
「銭形の親分さん、困ったことが起りました」
米屋の主人の聰明な顔が、ひどく困惑《こんわく》しております。
「なんだえ、越後屋さん」
「庵室の鉄童さんが見えなくなりました」
「そうか」
平次はひどく落着いております。
「そいつが下手人で、危なくなって風をくらったんじゃあるまいね」
三つ股の源吉は半分顔を洗って飛出します。
「大丈夫だ、庵室から一と晩出なかったというのは本当だろう、鉄童は下手人じゃない。第一そんな虐《むご》たらしい殺しようをしたなら、返り血の始末だけでも大変だ。着のみ着のままの鉄童にはそんな暇はなかったはずだ。それに――」
平次はなにか外の事を考えている様子です。
「じゃ、どこへ行ったんでしょう」
兼松はひどく気を揉《も》んでいる様子です。
「こいつは言わない方が宜いだろうと思ったが、――そんなに心配をするなら話してやろう。あの鉄童という人間は、自分の素姓が解りそうになって逃げ出したんだ」
「素姓?」
「どうかしたら、庵主の鉄心道人が逃がしたかもしれない」
「それはどう言うわけでしょう、親分さん」
兼松は縁側へにじり上っておりました。平次の言葉にはなにかしら容易ならぬものがあります。
「驚いちゃいけないよ、――あの鉄童というのは男じゃない」
「えッ」
「世間様をはばかって男にしておいたんだろう。話の調子も、身体の様子も、間違いもなく男だが、きのう庵室の裏の井戸端で洗濯をしているのを見ると、盥《たらい》の前にキチンと坐っている。男なら盥を跨《また》いでやるところだ。不思議でたまらないから柄杓《ひしゃく》か茶碗を貸してくれというと、チョコチョコと刻み足に駈け出して、草履《ぞうり》を内輪に脱いだ」
「…………」
「声も男にしては細いし、よく気をつけて見ると、咽仏《のどぼとけ》が見えない」
平次の言葉は争う余地もありません。
「そんな事が、――そんな馬鹿な事が――」
兼松はゴクリと固唾を呑みました。恐ろしい幻滅に直面して、しばらくは分別を纏め兼ねた様子です。
「お前さんの信心にお節介をするわけじゃないが、こんな事を隠しておく方が罪が深いだろう。|あっし《ヽヽヽ》は唯の岡っ引だから、相手に遠慮はしてられない。まして、寺社の御係り外の、言わば潜りのお宗旨は、気の毒だが一々|庇《かば》っちゃいられないよ」
「…………」
「鉄心道人というのは、なかなかの偉物《えらもの》らしいが、女を男に仕立てて、庵室へ寝泊りさせるようじゃ、大した生仏様でもあるまい。鉄童が逃げ出したのは、大方この平次に女と覚られたと感づいたためだろう」
平次の言葉には、判官の烈しさと、人間らしい思いやりとがありました。
「それじゃいよいよもって、あの鉄童が怪しいじゃないか。自分が女なら、お小夜のような凄い女が入って来るのを、黙って見ている気にはなるまい」
三つ股の源吉は、新しい論理を組み立てました。
「そのとおりだ。俺も鉄童が女と判ったとき、余っ程引っ立てようかと思ったが、お小夜を殺したのはどうも鉄童らしくない。宵のうちの人目を避けて、坊主頭があの路地へもぐり込めそうもないからだ」
「頭巾を冠って、浅川団七郎に化けるとしたら?」
源吉の想像はすばらしい飛躍を遂げました。
「俺もそれを考えている。庵室から出ないというのは、鉄心道人の言葉だけだから、信用は出来ない。――とにかく、――八五郎が帰って来て、浅川団七郎の素姓と居所が判りさえすれば、目鼻が付くと思う」
平次はそればかりを頼みにしている様子です。が、八五郎が帰って来たのは、その日も暮れて、平次がもう諦めて神田へ引揚げようと言う時でした。
七
「親分、お小夜はありゃ人間じゃねえ」
ガラッ八は息を継ぐ遑《いとま》もなく、驚きをブチまけるのでした。
「何を聴き出したんだ、八」
「話しになりませんよ、親分。あの女はいくつ身上《しんしょう》をフイにして、幾人の人間を殺しているか判りゃしません、――一番堅そうな男に喰い付いて、自分の思うとおりになるまで、手をかえ品をかえ揺すぶるんだ。身上も、生命も吸い取ると、蜘蛛《くも》の巣に引っ掛った虻《あぶ》のようにされて、なんの未練もなく振り捨てられるんだ。恐ろしい女があったものさ、――鉄心道人だってその餌の一人さ。あの女がもう二月三月生きていると、清水寺の清玄のようにされて、首でも縊《くく》るか、身でも投げるか、地獄へ真っ逆様に落ちるより外に道はなかったんだ」
仏説の羅刹鬼女《らせつきじょ》――そんなものをガラッ八は考えていたのでした。
「そんな事は解っているよ。鉄心道人はもう半分地獄に堕《お》ちている。それより浅川団七郎の方はどうしたんだ」
「それですよ、親分」
「何がそれだ」
「下っ引五人に手伝わせて、一日一と晩江戸じゅうを捜し、お小夜の行った先々を当って見たが、そんなケダモノはどこにも居ねえ」
「なんだと?」
「浅川にも、深川にもお小夜は見識《けんしき》が高いから、素浪人や貧乏者を相手にする女じゃありません。三浦屋に勤めている頃から、音羽へ引っ込むまでの間に、お小夜と係り合った男も少くないが、みんな身分の者ばかりで、浪人者などは寄せつけもしませんよ」
「フーム」
「お小夜の気じゃ、大名のお部屋様にでもなる心算《つもり》でいたんでしょう」
「本当に浅川団七郎という浪人の事を聞かないのか」
「聞きませんよ」
「フーム」
「あんまり馬鹿馬鹿しいから、帰りにちょいと音羽の家へ寄って、あのお米とか言う下女に当って見たが――」
「あれは田螺《たにし》見たいな女だ。どうしても口を開かねえ」
平次もお米の剛情には驚いている様子です。
「ところが、|あっし《ヽヽヽ》には皆んな言ってしまいましたよ。半襟一と掛けにも及ばねえ、――浅川なんて浪人は来たこともないと言うんで。ヘッ、驚くでしょう、こいつは」
「なんだと」
「浅川という浪人の後姿を見たことがあると言え――と脅かされたんだそうですよ」
「本当か」
「本当にも本当でないも、――今聴いて来たばかりの煙の出るところ、お米坊はあれでなかなか良い娘ですよ。親分、ことによったら」
「馬鹿ッ、それどころじゃないぞ。もういちど行って見よう。来いッ、八」
平次は三つ股から音羽まで飛びました。続くガラッ八、源吉、四方《あたり》はもうすっかり暮れて、彼方、此方には灯も入っております。
お小夜の家へ来て、一番先に飛込んだ平次。
「居ないッ」
ひどく息がはずみます。
「井戸端かも知れませんよ、親分」
「うん」
家の中を突き抜けて裏口へ出ると、井戸端に何やら踞《うずく》まるもの。
「あっ」
飛んで行った平次の手に抱き起されたのは、もう息の絶えたお米でした。細紐で後ろから締められて、声も立てずに死んだのでしょう。
触って見ると体温が残っておりますが、もう呼び活《い》けても、さすっても、息を吹返す見込みはありません。
「親分、こいつは誰でしょう」
「浅川団七郎だ」
「ヘエ――」
「少し気が変になったかも知れない、――何をやり出すか解らない。すぐ行って見よう」
「どこへ?」
平次はもうそれに返事もしませんでした。夕闇の中へ飛び出すと、真っすぐに雑司ガ谷庵室へ。
ガラッ八と源吉が何やら解らぬなりにそれについて駈け出します。
庵室の中は貧しい灯がはいって、鉄心道人は看経《かんきん》をおわったところでした。
「さア、道人、鉄童をどこへやった、――言って貰おうか」
「…………」
詰め寄る平次をジロリと見たっきり、道人は静かに仏壇の前を離れました。恐ろしく尊大な態度です。
「あの女はどこへ行った――まだ判らないか、鉄童と言う女をどこへ隠した」
「?」
「気取っている隙《ひま》はないぞ、お小夜を殺した下手人は、下女のお米を殺して、今度はあの鉄童を狙って来たはずだ。半分気の違った人間だ、何をやり出すか判らない。さア言って貰おう、鉄童をどこへやった」
「…………」
「えッ、言わないかッ、人の命は大事だ。山師坊主に気取られて、俺は隙《ひま》を潰してはいられないぞ、三つ股の兄哥、この道人を引っ括《くく》ってくれ。寺社のお係りへ渡して、鰯《いわし》を銜《くわ》えさして四つん這いに這わしてやる」
平次は相手がしぶいと見たか、何時にない十手を取り出してふり冠ったのです。
「…………」
鉄心道人はもう一度ジロリと見上げると、さすがに力及ばなかったものか、無精らしく立上がって裏の雨戸を引開けました。
「あッ」
驚いたことに、眉を焼くような焔《ほのお》。
「た、大変ッ」
庵室の後ろの納屋《なや》の入口から、車輪のような煙が噴《ふき》出して、その間からカッと焔が舌を出しているのです。
「八、後ろへ廻って窓をブチ壊《こわ》せ。中に人間が二人いるぞッ、危いから気をつけろ」
「よしッ」
「三つ股の親分は、その道人を頼むッ」
平次は言い捨てて、お勝手から手桶の水を一杯、半分は有合せの筵《むしろ》にかけて引っ被《かぶ》り、半分は納屋の中にブチまけて、パッと飛込みました。
納屋の中にいたのは、越後屋の兼松と弟子の鉄童。鉄童は首を絞められて、息も絶え絶えでしたが、手当が早かったので助かり、兼松はガラッ八の糞力《くそぢから》で窓から担《かつ》ぎ出されると、焼け落ちる納屋を眺めてゲラゲラと笑っております。可哀想に気が違ってしまったのでした。
火事が済んで気が付くと、鉄心道人は三つ股の源吉の手から逃れてそれっきり姿を隠しました。
庵室と納屋の焼跡を見ると、物欲に恬淡《てんたん》だと思わせた鉄心道人が、何百両という黄金を溜込んでいたことが発見されたのです。
何もかも済んでから、
「|あっし《ヽヽヽ》には少しも解らねえ。あれは一体どうした事でしょう、親分」
ガラッ八は例《いつ》ものような絵解きをせがみます。
「気の毒なことに兼松は鉄心道人を活き仏のように思っていたのさ。かなりの身上《しんしょう》も入れあげ、出来るだけの事をしたが、お小夜が弟子になって庵室へ入り込むと聴いて気が気じゃなかった」
「…………」
「兼松はお小夜の前身をよく知っていたんだろう。上野の役僧を一人台なしにした事も、大旗本をつぶした事も、役者が首を縊《くく》ったことも、――お小夜が道人の傍へ来ると、いかに道徳堅固の道人でも、万一の事がないとは言えない。道人はあのとおり若くて、ちょっと良い男だ、――兼松にしては、こんなに身も心も打ち込んで、身上まで入れ揚げた活き仏が、唯の人間になってしまってはやりきれなかったろう。危ないものは遠くへやるに限る、道人を活き仏のままにして、心のままに信心するには羅刹女《らせつじょ》のような女を側へやっちゃいけない――多分こう思い詰めて、お小夜を殺す気になったのだろう。変な信心に凝《こ》り固まって、少し気が変になりかけた兼松は、それが悪事とは思わなかった。それどころか仏敵を滅《ほろ》ぼすのは、功徳の一つだと思い込んだに違いない」
平次の絵解きは少しの無理もなく発展しました。
「――ヘエ――」
「ところで、兼松ほど夢中になった人間でも、お小夜のような阿婆摺《あばず》れ女の命と、自分の命と取り換えちゃ叶わないとおもったんだろう。仏敵は亡ぼしたいが、自分が縛られたくない。そこで思い付いたのは、この世にない下手人を拵《こしら》えることだ。浅川団七郎などという浪人は、最初からこの世にない人間さ。兼松はそれを拵えて、疑いをみんな浅川団七郎に向けてしまった。うまい細工だが、自分だけが浅川団七郎を知っていると言っちゃ拙《まず》いから、田舎からポッと出のお米をだまして、やはり浅川団七郎を見たと言わせた、――それが拙かった」
「それを、お米がベラベラと喋舌《しゃべ》ってしまいそうになったんで驚いたというわけだね」
「そのとおりだよ。お前がお米を口説《くど》き落したと聴いたときは、兼松はまだお米を殺す気にならなかったかも知れないが、鉄童が女で、鉄心道人は飛んだ食わせ者だと聞くと、フラフラと変な心持になった」
「なるほどね」
「兼松は自棄《やけ》になった、――その上あんまり落胆して、気が少し変になったんだろう。お米を殺すと鉄童もそのままにしては置けない心持になったに違いない。とうとうあんな騒ぎになってしまったのだよ、納屋へ火をつけたのも兼松だ」
「可哀想だね、親分」
「イヤな捕物さ。でも、一番無欲な顔をする奴は一番大欲で、一番取り済ました奴が一番臭いことだけは確かだよ」
「お小夜は」
「外面如菩薩《げめんにょぼさつ》だ。金持、親分、旗本と手玉に取って、自分の縹緻《きりょう》と才智で、活き仏さまを地獄に引き摺り込もうとした女だ。あんな女は石の地蔵さままでモノにする気になるだろうよ」
二人はそんな事を言いながら、江戸川縁を歩いておりました。
木枯《こがらし》の吹く寒い日の夕方です。
権八の罪
一
「八、居るか」
向柳原の叔母さんの二階に、独り者の気楽な朝寝をしている八五郎は、往来から声を掛けられて、ガバと飛起きました。
障子《しょうじ》を細目に開けて見ると、江戸中の桜の蕾《つぼみ》が一夜のうちに膨《ふく》らんで、甍《いらか》の波の上に黄金色の陽炎《かげろう》が立舞うような美しい朝でした。
「あ、親分。お早う」
声を掛けたのは、まさに親分の銭形平次、寝乱れた八五郎の姿を見上げて、面白そうに、ニヤリニヤリと笑っております。
「お早うじゃないぜ、八。もう、何刻《なんどき》だと思う」
「その|せりふ《ヽヽヽ》は叔母さんから聞き馴れていますよ。――なんか御用で? 親分」
八五郎はあわてて平常着《ふだんぎ》を引っ掛けながら、それでも減らず口を叩いているのでした。
「大変だぜ、八五郎親分。こいつは出来合いの大変と大変が違うよ。溝板《どぶいた》をハネ返して、野良犬を蹴飛ばして、格子を二枚モロに外すほどの大変さ」
平次はそういいながらも、一向大変らしい様子もなく、店先へ顔を出した八五郎の叔母と、長閑《のどか》なあいさつを交しているのでした。
「あっしのお株を取っちゃいけません。――どうしたんです、親分」
八五郎は帯を結びながら、お勝手へ飛んで行って、チョイチョイと顔を濡らすと、もう店先へまぶしそうな顔を出しました。
「観音様へ朝詣りをするつもりで、フラリと出掛けると、途中で大変なことを聴き込んだのさ。お前に飛込まれるばかりが能《のう》じゃあるまいと思ったから、今日は俺の方から、『大変』をけしかけに来たんだ。驚いたか、八」
「驚きゃしませんよ。まだ、親分はなんにもいってないじゃありませんか」
「なるほど、まだいわなかったのか。――ほかじゃない。広徳寺《こうとくじ》前の米屋、相模屋《さがみや》総兵衛が、昨夜《ゆうべ》人に殺されたんだとさ」
「ヘエ――。あの評判の良い親爺が?」
「どうだ、一緒に行って見ないか」
「行きますよ。ちょいと待って下さい親分」
「これから飯を食うのか」
「腹が減っちゃ戦が出来ない」
「待ってやるから、釜《かま》ごと齧《かじ》らないようにしてくれ。あ、自棄《やけ》な食いようだな。叔母さんが心配しているぜ。早飯早なんとかは芸当のうちに入らない」
「黙っていて下さいよ、親分。小言をいわれながら食ったんじゃ身にならねえ」
「六杯と重ねてもか」
そんな事をいいながらも、八五郎は飯を済ませて、身仕度もそこそこに飛出しました。
広徳寺前までは一と走り、相模屋の前は、町内の弥次馬で一パイです。
「えッ、退《ど》かないか。その辺に立っている奴は皆んな掛り合いだぞ」
三輪《みわ》の万七の子分、お神楽《かぐら》の清吉が、そんな事をいいながら、人を散らしております。
「どうした、お神楽の。下手人《ほし》は挙がったか」
平次は穏かに訊きました。
「挙ったようなものですよ。帳場の金が百両無くなって、下男の権八《ごんぱち》というのが逃げたんだから」
「逃げた先の見当は付いたかい」
余計なことを、ガラッ八は口を挟《はさ》みました。
「解っているじゃないか。吉原の小紫《こむらさき》のところよ。――野郎の名前は権八だ」
「ヘッ」
八五郎は唾《つば》を吐きました。まさに一言もない姿です。平次はそんな事に構わず、相模屋の中に入って、いきなり事件の核心《かくしん》に触れて行きます。
殺された相模屋総兵衛は、その時もう六十歳。早く女房に死に別れて、跡を継《つ》ぐべき子供も無かったので、二人の姪《めい》――お道、お杉――を養って、淋しいがしかし満ち足りた暮しをしている、有徳の米屋でした。
口やかましくて、手堅い性分で、なまけ者や誤魔化《ごまか》しを見ていることの出来なかった総兵衛でしたが、その一面には慈悲の心にも富み、信心も篤《あつ》く、まず町人としては申分のない人柄で、人に殺されるはずもないようですが、物事に容赦のない性格が、飛んだ怨《うらみ》を買ったのかもわかりません。
平次はともかく、番頭の市五郎に逢って、いろいろのことを訊きました。市五郎は四十五六の一癖あり気な男ですが、日頃主人の総兵衛は何もかも自分の胸一つに決め、大事小事ことごとくその差金《さしがね》でやっていたので、番頭といっても、あまり身上に立入ったことは知らず、米の粉に塗《まみ》れて、ただもう他の奉公人たちと一緒に働いているといった様子でした。
主人総兵衛の死骸は、今朝姪のお杉――下女同様に働いている二十五の大年増が、雨戸が一枚開いているのに驚いて、その寝間を覗いて発見しました。お杉の声に集まった人たちは、床から少しのり出して、紅《あけ》に染んでこと切れている主人の凄まじい姿に胆《きも》を潰《つぶ》し、たちまち煮えくり返るような騒ぎが始まったのです。
傷は喉《のど》へ一ヵ所、馬乗になって突いたものでしょうが、余ッぽど落着いた手際で総兵衛はたぶん声も立てずに死んだことでしょう。兇器は総兵衛自身が寝室の床の間においた用心の脇差で、それは曲者が逃げる時、面喰《めんくら》って持出したものか、裏口の外、溝の中に抛《ほう》り込んでありました。
無くなったものは、現金で百両、それは番頭の市五郎もよく知っております。昨夜|帳尻《ちょうじり》をしめて現金百十二両主人に渡し、主人はそれを空《から》財布に入れてふところに入れたのを見ていたのですが、死骸の側にほうり出した財布には、小粒で十二両残っているだけ、小判で百両の金は、どこにも見当らなかったのです。
「主人を怨む者はなかったのか」
平次は、こんな平凡なことを訊ねました。
「慈悲深い、よく出来た御主人でございました。怨む者があるはずもございません」
「昨夜から見えないという下男は?」
「権八と言って、二十九になる男でございます。下総《しもうさ》の古河《こが》の者で、十年前から奉公し、まことに実直に勤めておりました。主人を害《あや》めるような、そんな男ではございません」
「その権八の荷物はどうした」
「それも三輪《みわ》の親分さんがお調べになりましたが、――着換え一枚だけ持ち出したようで」
そういわれると、この下手人《げしゅにん》は、権八に間違いはないようです。
「権八の在所へは?」
「三輪の親分さんが追手を出しました」
それではもう、平次にしなければならぬ仕事は一つもありません。
二
念のため、二人の姪に会って見ました。一人はお杉と言って二十五、これは総兵衛の妹の娘で、容貌も十人並、少し三白眼《さんぱくがん》で、身体は頑丈ですが、なんの特色もない女、下女同様にこき使われて自分もそれに満足し切っている様子です。
「縁側の雨戸が一枚開いているんでびっくりしましたよ。もしやと思って覗いて見ると伯父さんが――」
お杉はゴクリと固唾《かたず》を呑んで、三白眼を大きく見開きます。肩に肉の付いた、手は凍傷《とうしょう》の痕《あと》のある、なりふり構わぬ姿です。
平次は総兵衛の死骸を一応見せて貰い、わけても、傷口をよく調べた上、雨戸のあけてあったという辺の敷居を念入りに見たり、戸締りの工合を見たり、
「戸締りは誰がするんだ」
「私がしますよ。昨夜も酉刻半《むつはん》〔七時〕前によく締めたはずです――え、上下の棧《さん》と心張《しんばり》で」
「その心張はどうなっていた」
「縁側に落ちて居ましたよ。戸は一枚開けっ放したままで」
「主人は眼ざとい方か」
「それはもう、お年ですから、少しの音でも眼を覚しました」
「もっとも、ここで少しくらい音を立てても、皆んなの休む方へは聴えないな」
「ずいぶん離れていますから」
お杉は顔にも、様子にも似ず、よく気の廻る女でした。こう話していると、次第にこの女のよさや賢さが解ってくる様な気がします。
平次は狭《せま》い庭へ降りて見ました。そこから裏口まではほんの二間ばかり、滅多に陽の当らない土の上には、少しばかり庭下駄の跡《あと》が印《しる》されてありますが、それがなんの意味があるのか、ガラッ八には解りません。
もう一人の姪のお道というのは、総兵衛の弟の娘で十九、これは美しくもあり、若くもあり、その上|身装《みなり》なども、相模屋《さがみや》のお嬢さんらしい贅沢なものでした。後で店の者や近所の人の噂を集めると、総兵衛はこの美しいお道の方を溺愛《できあい》して、同じような関係の姪でありながら、これに聟《むこ》を取って、相模屋の跡取りにするつもりであったようです。
「私はなんにも知りません。――どうしたら宜いでしょう」
なにか訊《き》かれれば、そういっておろおろするお道――その直ぐでも泣き出しそうな美しい顔を見ていると、平次も手の下しようがありません。ただ、伯父の世話は一切お杉が引受けてするので、自分はなんにも知らなかったということ。夜はお杉と同じ部屋に寝るが、二人ともよく眠るので、地震や近所の火事さえ知らずにいて、翌る朝、よく店の者に笑われる話など、まことに他愛《たわい》も無い口振りです。
「逃げた権八はどうだ」
平次は問いを転じました。
「正直者で、よく働きました。でも、本当の田舎者で――」
お道の頬は少し綻《ほころ》びます。
手代の徳松というのは二十五六、これは店中で一俵の米を扱《あつか》い切れないただ一人の弱い男で、色の白い背の高い美男でした。
「主人は商売柄六十を越しても、一俵の米が軽いという人でしたが、私は御覧のとおりの病身で、帳面の方ばかりやっております」
そういって淋しく笑うと、女のような表情になるのを、徳松は、自分でもひどく恥入っている様子です。
「ゆうべなんか変ったことが無かったのか」
「表二階へ小僧の庄吉と一緒に早寝をしてしまいました。なんにも存じません」
「下男の権八はどんな男だ。知ってるだけのことを訊きたいが――」
「正直一途の男でございます。自分が曲ったことをしない代り、人の曲ったことも容赦《ようしゃ》しないといった」
「フーム、主人とよく気風が似ているんだな」
「ヘエ、時々それで変なことがございました。これはまア、申上げない方が宜いでしょうが」
徳松は自分のいい過ぎに気が付いたらしく、あわてて口を緘《つぐ》みました。
「変な事? それを聴かしてくれ」
「ヘエー」
「隠しちゃいけない。いずれは知れることだ。主人と権八の間に何があったんだ」
「では申上げます。――私はただ小耳に挟《はさ》んだだけで、詳《くわ》しいことは、番頭さんがよく知っておりますが」
「番頭さんからは後で訊くよ」
「――こうでございます。権八がここへ奉公してから十年になるんだそうで、その間に稼《かせ》ぎ貯めた給金――年に四両の決めと、いろいろの貰いやなんかを、手も付けずに主人に預けたのが、五十両とかになったそうで――」
「フムフム」
「在所へ帰って質《しち》に入れた田地を請出《うけだ》し、年を老った母にも安心させたいから、それを返して下さいと、一年も前から二三度主人にかけ合いましたが、主人はどうしたことか返してくれません」
「フーム」
「今年も出代りの三月三日が過ぎたが、暇《ひま》もくれそうもないといって、権八は昨日《きのう》も愚痴《ぐち》をいっていました。仏《ほとけ》相模屋総兵衛といわれた御主人がわずか五十両ばかりの奉公人の金を、どうしようというつもりはないに決っておりますが、権八は国にいる頃――まだ前髪も取れないうちから勝負事に凝《こ》り、それで祖先伝来の土地まで質に入れ、年取った母一人を留守に、自分は江戸の知辺《しるべ》を頼って奉公に出たそうですから、それを知っている主人は容易に金を渡さなかったのも無理はありません」
徳松の話は思わぬ方まで発展して、下男権八の動機を説明してくれます。
つづいて平次は小僧の庄吉に会いましたが、これは十四五の白《しら》くも頭で、脅《おび》え切って何を聴いても解りません。ただ、表二階に徳松と同じ部屋に寝ているが、ぐっすり寝込んで何も知らなかったというだけの事です。
三
昼過ぎまで、なんの発展もありません。下総《しもうさ》の古河《こが》へ下男の権八を追わせたのは、三輪の万七の指図ですが、本当に主人を殺して金を取ったのなら、自分の故郷へノメノメ帰るかどうか、それも怪《あや》しいものです。
平次はともかく家中の者の持物を調べる事にしました。まず番頭の市兵衛から始めて、徳松、庄吉と調べて行くと、
「親分――こんなものがありましたぜ」
ガラッ八の八五郎は紙包みを持って来ました。
「なんだいそれは?」
「小判ですよ、親分。小判で五十両」
「何?」
受取って見ると、まさに小判で五十両、紙包みは少し破れましたが、燦《さん》として山吹色に輝きます。
「こいつが仏様の前にありましたよ」
「仏様の前?」
「線香の側、――香奠《こうでん》じゃありませんよ」
「荷物の調べが始まるんで、あわてて仏様の前へ持って行ったんだろう。誰があの部屋へ入ったか訊いてくれ。荷物の調べが始まってからちょっとの間だ」
「ヘエ――」
ガラッ八は飛んで行きましたが、これは縮尻《しくじ》りました。あんまり多勢入ったので、誰がそんな事をしたかわからなかったのです。
荷物の調べはつづけられました。お杉の荷物――行李《こうり》が一つと、一抱えの着物の中から、ひどく血に汚れた袷《あわせ》が一枚出た時は、見ている限りの者は色を失いました。わけても当のお杉の狼狽《ろうばい》振りは目もあてられません。
「あ、それは、それは」
三白眼が無気味に見開いて、口はただパクパクと動くだけ。
「え、女、神妙にせい」
どこから飛出したか、お神楽《かぐら》の清吉、お杉の後ろに廻って、その背を十手でピシリと叩きます。
「お神楽の兄哥、そいつはまだ早い」
平次はそれを押止めました。
「えッ、何が早いんだ。銭形の親分」
「血は皆んな袷の背後《うしろ》に付いているぜ。後向きになって人を突き殺す奴はないよ。それに、お杉は自分の着物に血の付いていることも知らずにいた様子だ。――この着物はどこに置いてあったんだ」
平次はお杉に訊きました。
「洗濯物と一緒に、梯子段の下に突っ込んで置きました」
お杉は平次の助け舟に、ようやく平静を取戻しました。
「だがネ、銭形の親分、この女は伯父を怨《うら》んでいたぜ。――伯父の総兵衛は、自分より年の若いお道を可愛がって、跡取《あととり》にしそうだったんだ。いま殺さなきゃ――」
「そんな、親分。私はそんな事を考えたこともありませんよ」
お杉はあわてて清吉を遮《さえぎ》りましたが、自分の身にふりかかる恐ろしい疑いに圧倒されて、ろくに口もきけない様子です。
「それより面白いことがあるんだ、八。荷物の調べが一と通り済んだら、その小僧に訊いてくれ。五十両という大金をどこから出した――と」
「え、五十両を仏様の前においたのは、この小僧ですか」
八五郎はえんびを伸ばして、逃げ腰の庄吉を押えました。
「小判の包み紙に、豆捻《まめね》じの粉が付いているんだ。小判と駄菓子と一緒に懐へねじ込むのは、店中にその小僧の外にはあるまい」
「この野郎、――どこから、誰に頼まれて持って来た。言わなきゃお前が下手人だぞ。主《しゅう》殺しは磔刑《はりつけ》だ。来るか」
八五郎の脅《おど》しは利き過ぎるほど利きました。
「ワーッ、勘忍しておくれよ。おいらじゃない。おいらはなんにも知らないんだ」
「じゃ、誰に頼まれた」
「権八だよ」
「何?」
「権八がゆうべ遅《おそ》く帰ってきて、店の臆病窓《おくびょうまど》を締めようとしたおいらに、この金包みを渡したんだ」
と庄吉は泣きながら、思いも寄らぬことをいい出すのでした。
「それからどうした」
と平次。
「これは旦那に返してくれ、百両持って行っちゃ済まないから、わざわざ千住から引返して来ました――というんです」
「なぜ昨夜のうち返さなかった」
「旦那はもうお休みだったもの、返せやしないや。仕方がないから一と晩待っていると、今朝はあの騒ぎだ」
「なぜ直ぐ出さなかった」
「怖《こわ》かったんだもの、うっかり金なんか出せはしないや」
庄吉は脅《おび》え切っておりますが、それでもどうやらこうやら、これだけの事は説明しました。
四
この上は追手が古河から、権八をつれて来るのを待つほかはありません。相模屋の店中も、ようやく平静を取戻して、型どおりの検屍を済ませた上、親類や近所の衆が集まって、葬《とむら》いの仕度に、しばらくは取紛《とりまぎ》れております。
しかし平次は、その間も黙って見ていたわけではありません。下男の権八が下手人にしても、千住から引返して、盗んだ百両の半分を返して行くというのは、なんとしても説明のしようのない態度です。事件は外面に表れた形相より、もっともっと深いものかもわからず、どうかしたら、権八は下手人でないかもわからないのです。
八五郎と力を協《あわ》せて、その日一日、平次の手に纏《まと》めた材料というのは、総兵衛は慈悲心に富んだ人間ではあったが、少し頑固《がんこ》で曲った事や正しくない者には恐ろしく冷酷であったこと、お道とお杉の二人の姪のうち、自分に親しかった弟の娘で、美しくて女ひと通りの諸芸にも疎《うと》くないお道を偏愛《へんあい》し、それと手代の徳松を嫁合《めあ》わせて、相模屋の身上を譲るつもりであったこと、お杉は正直で働き者だが、世辞も愛嬌《あいきょう》もないために、伯父の総兵衛にもあまり可愛がられず、お道の父の姉の子でありながら、下女同様に追い使われていたことなど、――次第に、この家の空気や人の関係が明かになって来ました。
その日はともかく引揚げた平次は、八五郎と下っ引を二三人動員して、なお念のために、相模屋の家族と奉公人の身持を洗わせることにしました。
「番頭の市五郎は喰えない男らしい。通いだというから、暮し向きをよく調べてくれ、手代の徳松は男が良くて人付きが宜いから、少しは遊ぶだろう。それも念入りに、金の費い振りや、悪い癖《くせ》がないか、よく訊き出すんだ」
「ヘエ、そんな事ならわけはありませんよ」
ガラッ八は、気軽に飛んで行きました。
それから、まる一日。
「親分、――お助け――」
いきなり平次の家へ飛込んだ者があります。薄暗くなりかけた格子の中、柄《がら》の大きい男は、上がり框《がまち》に縋《すが》りついて、追われた猛獣のような目で平次を見上げました。
「お前は?」
晩飯までの待遠しさ、長閑《のどか》な春の夕暮を煙草にしていた平次は、なんか期待していた者が飛込んだような心持で、その男を眺めました。
せいぜい二十八九、まだ若くて目鼻立ちも立派な男ですが、恐ろしく陽に焦《や》けて、手足も節くれ立ち、着ているものも、木綿布子《もめんぬのこ》の至って粗末なものです。
「権八です。――相模屋の権八ですが、私は縛られるかも知れません」
「…………」
「私が主殺しをするかしないか、銭形の親分さんなら、よく解って下さるでしょう」
「まあ、話を聴こう、入れ」
「ヘエ――」
平次の表情はまだほぐれませんが、調子がいくらか柔《やわら》かになると、権八は安心した様子で、そそくさと草鞋《わらじ》を脱《ぬ》ぎます。
「ところで、お前はどうして古河から帰ったんだ」
座が定まると、平次は静かに問いました。
「私は大変な間違いをしました、親分」
「間違い?」
「相模屋へ奉公してから十年、若い時フトした間違いで質《しち》に取られた田地を受け戻そうと、私は必死に働きました。旦那の総兵衛様は、私に取っては二代の主人でございます。と申すのは、亡くなった私の父親も、昔は相模屋に奉公しておりました。本当に良い方で」
「…………」
権八がホロリとするのを、平次は黙って先を促《うなが》しました。
「ところが、十年の約束の年限が過ぎ、金も五十両と溜りましたが、主人はどうしても私にお暇も下さらず、預けておいた金も下さいません。あとで考えると、昔が昔ですから、金の顔を見ると、また私の道楽が始まりはしないかと、それを心配して下すったのでしょう。でもそのとき私は、そんな事とは気が付きません。約束の年季を一年も過ぎ、古河の母からは矢《や》の催促《さいそく》で、近ごろ年を取って、めっきり弱ったから、早く帰って顔を見せてくれと言われる度に、私は暇《ひま》も金も下さらない主人を怨みました。とうとう我慢が出来なくなったのは、この出代り時の三月三日でございました」
「…………」
「主人はあの晩私を呼んで、お藏前へ届ける百両の金を預け、明日夜が明けたらすぐ持って行ってくれ、私は遅いかも知れないから、今からやって置くと仰しゃるのです。私は承知をしてその百両の金を受取りましたが、それを見ていたのは姪御《めいご》のお道さんだけ――」
「…………」
「私はフト、気が変りました。どうせ暇も金も下さらないのなら、この金を持って故郷の古河へ帰り、十年振りで母の顔も見、質に入れた田地も請戻《うけもど》そうとそのまま飛出してしまいました。が、千住の大橋へ行って気が付いたのです。腹立ち紛《まぎ》れに飛出したものの、私が主人に預けてある金は五十両、ここで百両の金を持ち逃げしては、私は、泥棒になります。そう思うと矢も楯《たて》もたまらず、引返して店の臆病窓《おくびょうまど》から小僧の庄吉どんに半金の五十両を渡して、御主人に返すように頼み、それから夜通し歩いて下総の古河へ、翌日の夕方着きました――ところが驚いたことに――」
権八はたくましい拳骨《げんこつ》で、涙を押し拭いながらつづけました。
「――驚いたことに、それより三日前、江戸の相模屋の使いの者が、五十両の金を持って来て、私が昔質に置いた田地を、皆んな請戻して帰ったと言うじゃありませんか。私が並べた五十両の小判を見て、母も驚きましたが、それより、母の話を聞いた私の驚きは――」
「…………」
「皆んな御主人の有難い思いやりでした。私に金を持たせると、碌《ろく》な事はあるまいと、わざわざ金を持たしてやって、質に入っている田地を受けて下すったのです。――私は大地をこの額で叩いて、江戸の御主人にお詫《わ》びをしました。母も思いのほか達者で、まだしばらくは私の帰りを待ってくれるといいますから、その晩のうちに古河を立ち、一刻も早く主人に会ってお詫をしたい心持一パイで江戸へ帰ると、――あの騒ぎです」
「途中で追手に逢わなかったのか」
「私は近道を拾って来ました。――広徳寺《こうとくじ》前まで来ると、店に入る前に、運よくお杉さんに逢ったのです。――私はお杉さんから皆んな聴きました。旦那は本当にお気の毒で、あんなに良い方を殺すなんて、罰《ばち》の当った野郎があったもので――私じゃありません。が私が下手人と思い込まれているそうですから――うっかり顔を出すと、どんな事になるかも知れない。こいつは銭形の親分さんに相談して見るが宜い。現に血の付いた袷で、私も疑われたが、後向きになって人を刺す者はないと言って、たった一言で疑いを解いて下さった銭形の親分さんだから、お前さんの潔白もよくわかるだろうと――お杉さんが教えてくれました。親分さん、お願いでございます。私を助けて、主人の敵を討って下さい」
若くて生一本な権八は、平次の前に手を合せて、恥も外聞もなく泣くのです。
「拝むのは止してくれ。――話を聴くと、なるほどお前のいうのは本当だろう。あの晩五十両の金を持って、千住の大橋から帰ったと聴かなきゃ、俺だってお前を下手人にするよ。ところで、その晩主人から金を受取るのを、お道が見ていたと言ったな」
「いえ、それは」
「言訳しなくても宜い。お前は先刻《さっき》そう言ったはずだ。――金を持って故郷へ帰る気になったのは」
「ヘエ――」
「お前の智恵じゃあるまい、誰に教わった」
「そればかりは親分さん」
権八は尻ごみするのです。
「馬鹿ッ」
「ヘエ――」
平次がいきなり大喝《たいかつ》すると、権八は雷鳴《かみなり》に打たれたように、がばと身を起して居ずまいを直しました。
「主人が殺されたんだぜ、おい。お前が泣いて有難がる御主人の総兵衛は、お前の不心得が切っかけになって人出に掛ったとしたら、お前にも主殺しの罪はないとはいえない」
「親分さん」
「さア言え、お前に金を持ち逃げする智恵をつけたのは誰だ。その人間が下手人だとはいわないが、それからたぐれば、下手人が知れるんだ。お主《しゅう》の敵を討つ気があるならいえッ」
「私は約束しました。――こればかりはいわないと」
「馬鹿ッ、お前がいわなきゃ、俺が言ってやろう。その智恵をつけたのはお道だろう」
平次の言葉は辛辣《しんらつ》で、厳重で、なんの仮借《かしゃく》もありません。
「そうまで御存じなら申して宜いでしょうか、親分さん――実はお道さんが、何時までそうして奉公していても、伯父さんは吝《けち》だから、五十両と纏《まと》まった給料は払わないだろう。お前は金で釣られて無駄奉公しているのに気が付かないか。幸い金が手に入ったんだから、それを自分のものだと思って国へお帰り、あとは私がうまくいっておくから――と」
「よしよし、大方そんな事だろうと思ったよ。八、聴いたか」
「ヘエ――」
「市五郎は人相は悪いが手堅《てがた》い男だ。徳松はなかなかの道楽者だと言ったな」
「その上、町人のくせに勝負事にも手を出して、主人にひどく叱られたそうですよ」
「それで解った。下手人は家の中の者、権八の家出を知ってやった仕事だ、お道は女だからまさかあんな手荒な事はできまい。――お杉の袷《あわせ》を胸へ当てて、返り血を除《よ》けながら主人を刺すような太い奴は誰だ。解るか、八」
「親分、行きましょう」
平次と八五郎は広徳寺前へ飛びました。
手代徳松が、主人の柩《ひつぎ》を送り出して、澄して帳場にいる所を苦もなく縛り上げられた事は言うまでもありません。それを慕《した》う姪のお道も、泣き叫びながら、ガラッ八の手に引立てられます。
「相模屋の一件は片付いたが、あっしにはまだ解らない事がありますよ」
一と月も経《た》ってから、ガラッ八は、また平次に絵解きをせがむのです。
「底も蓋《ふた》もないよ。徳松の不始末が知れた上、主人の総兵衛は、お道のおしゃれで薄っぺらなのがだんだん嫌になったのさ。それに比《くら》べると、お杉は不縹緻《ぶきりょう》だが良い女だ。――跡取がお杉になりそうなので、徳松はお道をそそのかして、権八に金を持ち逃げさせ、その晩庄吉の寝息を窺《うかが》ってあんな事をしたのさ。梯子段の下でお杉の袷を見付け、逆に手を通して、胸へ飛沫《しぶ》く血を除けたのは憎いじゃないか」
「なるほど」
「いずれ相模屋の跡はお杉が継《つ》ぐだろうよ。聟《むこ》は権八さ。あれは考えは足りないが良い男だ。千住の大橋から引返して五十両を小僧に渡した心掛けが気に入ったよ。――もっとも最初から逃げ出さなきゃなお良いが、そこが凡夫《ぼんぷ》の悲しさだ」
「お道は?」
「可哀想だが心掛けが悪い。追放かな、島へやるほどの罪かも知れないよ。もっとも徳松が伯父を殺す気があるとは知らなかったらしい」
平次はまた平静な生活に浸って、静かに次の事件を待つのでした。
(完)