“文学少女”の追想画廊《ガレリア・アール》
“文学少女”特別ショートストーリー
いつか、きみに会う日まで
大切な人と別れたのは、夕暮れの金色に染まる校庭だった。
あれから四度目の春を、ぼくは迎えようとしている。
◇   ◇   ◇
「戻って来ますよ、遠子姉《とおこねえ》」
流人《りゅうと》くんはそういって、ぼくの反応をうかがうように目を細めた。
チェーン店のカフェで、「話はなに?」と尋ねた直後のことだ。
締め切り開けで、ベッドに倒れ込もうとしていたところを、携帯で呼び出されてもうろうとしていたぼくは、いっきに目が覚めた。
「大学卒業したの、知ってますよね? 来月からこっちで働くんです」
「どこに就職したの」
「佐々木《ささき》さんのとこっすよ」
「薫風社《くんぷうしゃ》……?」
とっさに息をのむ。遠子先輩は、お父さんと同じ道に進んだのか。
「って言っても、営業職での採用っすけどね。コネがあるんだから使えばいいのに。佐々木さんにも、うちの母さんにも、内定もらうまで黙ってたんすよ。天野文陽《あまのふみはる》の娘だって言えば、面倒くさい入社テストだの面接だのフリーパスだったのに」
遠子先輩らしい……。微笑《ほほえ》もうとして、胸がつまった。
「本人は、いつか編集部へ行って本を作るんだって張り切ってました。ねぇ、心葉《このは》さん、そろそろいいんじゃないっすか?」
ぼくの心の揺れを見澄ましたように、流人くんが切り込んでくる。
「あれから四年も経つんですよ。いいかげん二人とも、会うくらいいいでしょう。通信手段もない未開の地で離れ離れになったわけでもないのに、この四年間一度もも会わないなんて、信じらんねーっす!」
怒ってるような険しい顔つきで、電車の出発と到着時刻が細かく印刷された紙をテーブルに置いた。
「遠子姉の帰郷スケジュールです。今朝、向こうを出発して、明日の夜にはこっちへ到着します。適当なところで迎えに行ってやってください」
「明日? ――いや、それよりなんで今朝北海道を出発して、到着が明日なんだ? こフェリーの出航時間って一体……! ひょっとして普通電車を延々乗り継いで来る気じゃ」
「青春18きっぷとフェリーを使うのが、安上がりだそうです」
「けど、これだと丸々二日もかかるよ。飛行機を使うほうがマシなんじゃ。探せば安いチケットとかあるし」
「まぁ、そのへんは本人のこだわりすから」
庇いつつ、流人くんも苦い顔になる。が、すぐに目を輝かせ、勢いよく身を乗り出してくる。
「ほら、この深夜にフェリーが到着したとこで出迎えるのとかお勧めっすよ! 明け方の電車の始発まで二時間もあるし、ホテルにでもしけ込んで、朝まで過ごすとか最高でしょ? まぁ四年間で、胸の周りとかまったく成長してませんけど、ないはないなりに、いいものっすよ」
なにを言ってるんだ、なにを!
心の中で突っ込みつつ、静かに尋ねた。
「遠子先輩は、なんて言ってた? ぼくに会うつもりだって、きみに言った?」
「それは……」
流人くんが視線をそらし、しかめ面になる。
「今は、心葉さんには会えないって……」
納得いかなそうにつぶやいたあと、また食いつくような視線をぼくに向ける。
「でも、遠子姉は、絶対心葉さんに会いたいはずです。だから心葉さんのほうから会いに行って――」
「行けないよ。遠子先輩が会えないって言うなら、ぼくも同じだ」
きっぱり告げると、流人くんはやりきれなさそうに顔をゆがめ、椅子《いす》にどすんと腰を落とした。
「なんで、そうなんすか。遠子姉が北海道へ行っちまったときも、心葉さんなら引き止めてくれるって信じてたのに――。あんな小説まで書いておいて。あれって、まるっきし遠子姉へのラブレターっすよね? なのに、なんで一人で行かせるんですか。あの主人公は、彼女を追いかけないんすか」
胸がズキッとする。
幸福な物語の、ほろ苦いラストシーン。
それは、ぼく自信の体験と重なるものだった。
夜へ向かうやわらかな金色の光と、風に舞う白い花びら。儚《はかな》く揺れる三つ編み。遠ざかる後ろ姿。
何度も何度も、名前を呼んだ。
『遠子先輩! 遠子先輩っ!』
本当は追いかけたかった。
手をつかんで、抱きしめて、今度こそ離したくなかった。
あなたがいなければダメです! 一緒にいてください! 泣きながら訴えたら、こんな風に会えなくなることもなかったかもしれない。
けど。
「追いかけちゃいけないと……彼《`》は、思ったんだ」
そう、追ってはいけない。
「彼女が――振り返らなかったから」
声に出した瞬間、胸が張り裂けそうに、いっぱいになる。
もし、あのとき遠子先輩が少しでも振り返ったら、泣きそうな目でぼくを見つめたら、きっと走っていた。
けど、遠子先輩は、振り返らなかった。
門をくぐるとき、肩が少し震えたけれど、決して振り返らなかった。
だからぼくも、追いかけなかった。
胸が裂けそうで、喉《のど》が苦しくて、体がひりひりして――息の根が止まってしまいそうだったけど、それでも、追いかけてはいけないのだと強く思った。
これまで遠子先輩は、ぼくの手をずっと繋《つない》いでいてくれた。
あたたかで、やわらかな存在を、すぐ近くに感じながら、その門の前まで歩いてきた。
『泣かないで』
『立ち上がって、一人で歩いて』
愛情のこもった声が優しくささやく。
誰よりもぼくに関わり、ぼくを見つめていてくれた遠子先輩がせれを望むなら、ぼくはぼくの意志で、一人きりで門をくぐらなければならない。
でなきゃ遠子先輩が一人で行った意味がない。ぼくがどんなに子供でも、そのくらいはわかる。
今が、叶子《かなこ》さんに告げた言葉を、ぼく自信が証明すべきときなのだと。
狭き門は、すべてを捨てて入らなければならない至高の門じゃない。
大切なものを胸に抱きしめてくぐるのならば、暗く狭い道を、明るく照らすこともできるはずだ――ぼくはあの孤高の作家に、そう言ったのだから。
「――ったく……なんだって二人ともそう頑固なんですか」
ぼくの答えをじっと聞いていた流人くんが、悔しそうに唸《うな》る。
「じゃあ、せめて写真見ません? 卒業式で、いいショットが撮れたんすよ。遠子姉、ますます美人になりましたよー。なんか色っぽくなったし。これ見たら、絶対、今すぐに会いに行きたくなりますから。あっ、動画もありますよ!」
「やめておく」
「またっすかー! 心葉さん、遠子姉の成人式の写真も、卒業式の写真も、カナダ旅行の写真も、温泉行ったときの浴衣《ゆかた》も、海水浴の時の水着も、オレがせっかく心葉さんに見せるために撮ってきたのに、スルーしてくれましたよね」
「ごめん。写真を見ると、気持ちが揺れそうだから」
小さく微笑んで告白すると、流人くんは携帯をぎゅっと握りしめ、寂しそうな顔になった。
「また……遠子姉と同じことを言うんすね」
「え……」
「遠子姉も、オレが心葉さんの写真を見せようとすると、いいって言うんですよ。写真を見たら、泣いちゃうそうだからって」
「……」
「心葉さんの本は全部買って、ぼろぼろになるまで読み返しているのに」
切ないような甘さが、胸に込み上げる。
ぼくの本を、読んでくれているんだ……。
「予定表、置いてきますから、好きにしてください。けどオレから見れば、心葉さんはあの頃よりじゅうぶん成長したし、強くなったと思いますよ」
淡い笑みを浮かべて、流人くんは店を出て行った。
遠子先輩が、戻ってくる。
カフェの椅子にもたれて、うつむく。
人差し指を唇《くちびる》にあてるのが、考え事をするときの癖《くせ》になっている。
それは遠子先輩の癖だ。
――いいかげん、会うくらいいいんじゃないすか。
――心葉さんはあの頃よりじゅうぶん成長したし、強くなったと思いますよ。
今ならば、あの人と一緒にいられるだろうか……。
あの人に頼るだけでなく対等なパートナーになれるだろうか……。
――ねぇ、井上《いのうえ》は、まだ遠子先輩と会わないの?
琴吹《ことぶき》さんにも、言われた。
琴吹さんとは大学は別だけど、ときどき会ったり、携帯で話したりする。
――竹田《たけだ》は、櫻井《さくらい》とよく遠子先輩のところへ行ってるよ。井上も、一緒に行ったらいいのに。
あたしも、遠子先輩に会いたいな……琴吹さんは携帯越しにつぶやいていた。
井上が遠子先輩に会わないと、あたしも会えないよ……。だから、早く会いに行きなよ、と。
琴吹さんは、今はいい友達だ。
けど、二人で彼女のことを話すとき、僕らの胸には、同じ切なさが込み上げる。
多分、あの人に再会するまで、ぼくも琴吹さんも、その痛みを抱えてゆくのだろう。
「もし、もしぼくが会いに行ったら、あなたは喜んでくれますか」
つぶやきがこぼれる。
会いに行ったときの遠子先輩の反応が、想像できない。
流人くんはきっと喜ぶと言っていた。飛行機と新幹線を使えば、余裕で待ち伏せできる……。
流人くんが置いていった予定表を、ぼくは手に取り、じっと眺めた。
そのとき、パンツのポケットで携帯が鳴った。
「もしもし」
「あっ、井上先生」
担当の編集者からだった。今朝、雑誌連載の原稿をメールで送ったので、その件だろう。
「原稿いただきました。けど、これ枚数足りませんよ」
「えっ、六十枚、ありませんでしたか?」
「今回は、増ページで百枚とお願いしていたはずですが」
「ええっ!」
マズいっ。メールを見落としたのか。
ここしばらく大学のレポートやテストもあって、特に忙しかったので、他の仕事とごちゃごちゃになっていたのかもしれない。
「すいみません。すぐに書き直します! はい、はい、明日の夜には必ず」
ぺこぺこ頭を下げて、通話を切った。
汗がどっと噴き出てくる。
大変だ、急いで家に戻って原稿を書かなきゃ!
◇   ◇   ◇
お兄ちゃん、と話しかけてくる舞花《まいか》を部屋の外へ追い出して、パソコンを立ち上げ、ひたすら原稿を書き進める。
信じられないミスだ。
連載も五回目で、気がゆるんでいたのだろうか。情けない……っ。やっぱりこんなんじゃ遠子先輩に会いに行けない。
一睡《いっすい》もせずキィを叩き続け、どうにか午前中いっぱいかかって、百枚の原稿が完成した。
あとは見直しをして、メールで送るだけだ。
一度頭を切り換えようと、部屋を出てシャワーを浴びた。
ところが、機能も徹夜だったので、疲れていたのだろう。着替えて部屋に戻り、少し休むつもりがそのままベッドに倒れ込んで、眠ってしまった。
目を覚ますと、外は真っ暗だった。体に毛布と布団がかけてある。お母さん?
いや、それより今、何時だ?
時計を見て、ぎょっとする。
七時!
タイミング良く、担当からも携帯に着信が入る。
「今終わったところです。いえっ、まだ少し細部の調整を――はい、大丈夫です」
再びパソコンに向かい、原稿をチェックし、直してゆく。
うわ、慌てて増やしたから整合性が。
間に合うのかとひやひやしながら、原稿を送り終えたのは、十時だった。
「はぁー、終わった」
力が抜け、椅子にへたり込んだとき――。
テーブルに投げ出した、予定表が見えた。
会うつもりはない。
まだ、会っちゃいけない。ぼくはまだ学生で、遠子先輩もようやく就職が決まって、自分の道を歩み始めたところで……。
なのに、たった一枚の紙切れから、目が離せない。
まだ、間に合う……。
頭を絞り上げるような激痛とともに、そんな思いが浮かぶ。
遠子先輩の家の近くの駅で待てば、会える――。
会っちゃいけない。
奥歯をかみしめ、必死に自分自身に言い聞かせる。
今会ったら、台無しだ。
けれど、そのすぐ側から、抑えていた気持ちが、胸を突き上げた。
会いたい。
話が出来なくてもいい、一目だけでも姿を見たい。
離れたところから、遠子先輩に気づかれないように、こっそり顔を見るくらいなら、いいんじゃないか?
それは火のような衝動だった。
ぼくはコートをつかんで、部屋を飛び出した。
◇   ◇   ◇
タクシーで駅へ向かう間、遠子先輩のことを考えていた。
別れてから四年間、寂しいときや苦しいとき、一緒に過ごした二年のことを繰り返し思い出したように。
木蓮《もくれん》の下で、本を読む三つ編みの少女――。
あの出会いは、偶然ではなかった。
きっと、ぼくが気づかなかったことや、見過ごしにしてきたことは山ほどある。
そんな目で、あのあたたかで切ない二年を振り返れば、いろんな発見があった。
たとえば、はじめてぼくに五十枚綴《つづ》りの原稿用紙を差し出したとき、遠子先輩がほほを緊張に染めていたこと。
ぼくが胸のことでからかったとき、怒って頭をぽかりと殴ったあと、こっそり胸元を見おろして、しょんぼりしていたこと。
なにげなく手が触れあったとき、びっくりして目を見開いて、赤くなったこと。
頭によみがえる小さな出来事から、遠子先輩の心情をあれこれ想像するのは、楽しかった。
もしかしたら遠子先輩はあのとき、笑顔の裏で焦《あせ》っていたのかもしれない。
遠子先輩の中にも、ぼくがあのとき感じていた、くすぐったいような想いが芽生《めば》えていたのかもしれない。
それは、ぼくの勝手な想像≠セった。
もし、遠子先輩に、心の中をのぞかれたら、
『違うわ、違うわ、違うわっ』
と、手をばたばた振り、真っ赤な顔で否定されるかもしれない。
それでも、遠子先輩がくれたたくさんの物語を、別の視点から見直すのは、幸福な作業だった。
『心葉くん、部活の時間よ』
朗《ほが》らかな声が耳の奥によみがえるたび、暗闇の中に小さな明かりが灯る。
その明かりに励まされ、ぼくは立ち上がり、一人で歩き出す。
そうやって四年間、歩き続けてきた。泣きたいときも、歯を食いしばり、こぶしを固く握りしめ、決して泣かなかった。
一人だけど、一人じゃない。
四年間、遠子先輩はずっとぼくの心の中にいた。
別れたときより、もっともっと好きになっていた。
ずっと恋をしていた。
会いたくて、たまらなかった。
声を聞きたくて、死にそうだった。
だから――。
だから、遠子先輩。
もう、いいですよね。
ぼくは作家になりました、だからもう、いいですよね。
ほんの少し、顔を見るくらい、いいですよね。あたなは幻ではなく、ぼくのいるこの世界に存在しているんだと、確かめるくらい、いいですよね!
タクシーを降り、駅の改札へ向かってがむしゃらに駆け出す。
そのとき。
風が強く吹き付け、目の前に白いマフラーが、ふらりと飛んできた。
「!」
視界が白で覆われ、記憶が頭の中を疾走する。澄んだ瞳で微笑む文学少女。ぼくの首に巻かれた、あたたかなマフラー。頬をこぼれるしょっぱい涙。すみれの香り。十七歳のぼく。十八歳の彼女――。
『ねぇ、泣かないで』
震えるほどに優しい声。
あの日交わした約束。
「すみませーん!」
慌てた顔で走ってきたのは、知らない女性だった。放心するぼくにマフラーが風で飛ばされてと謝る。マフラーを受け取ると、連れの男性のほうへ走っていった。
電車の到着を知らせるアナウンスが、改札口の向こうから流れてくる。
ぼくまだ、立ちつくしている。
『約束して、心葉くん』
体から狂気のような熱が、ゆっくりと引いてゆく。
あたたかな声が、耳の奥でこだまする。
その声が、その約束が、弱いぼくを引き戻す。
ぼくは、手をぎゅっと握りしめた。
ここで待っていれば、多分遠子先輩に会える。
けど、遠子先輩はそれを望まない。
駅に背を向けて、歩き出す。
背中を押す強い風に、体が冷たく震えた。振り返りたいという衝動を、強い心で抑え込む。
四年も待ったんだ。
まだ待てる。
この先、ずっと一緒にいるためなら、何年だって待てる。もっと強くなれる。
ぼくも、あの人も、まだ半人前だ。たった一枚の写真にもくじけそうで、平静に見ることができないほど、未熟だ。
弱音を吐いている場合じゃない。夜はこの先も続いている。
それでも、暗い道を一人きりで歩くぼくは、想像≠キる。
いつか遠子先輩が、編集者として、ぼくに会いにくる、まぶしい未来を。
季節はきっと夏だ。
そうしたら、遠子先輩がぼくに残したあの白いマフラーを巻いて、出迎えよう。
イブにもらった熊のマスコットの口に、紙に描いた鮭を貼り付けて。
それから再会を祝して、うんと甘いおやつを書いてあげよう。
編集者だった彼女の父親は、作家である叶子さんの原稿を決して口にしなかった。
だから、遠子先輩も受け取らないかもしれない。別れの日に、ぼくの原稿を返して寄越したように、食べられないと言うかもしれない。
あいにく、そんなことは予想済みだ。
遠子先輩は食い意地が張っているから、ぼくに返したおやつを、名残惜《なごりお》しそうに、ちらちら眺めているだろう。気にしてないふりをしながら、そわそわしている。声もだんだん上擦《うわず》ってくる。
これ以上我慢《がまん》できなくなったところを見計らって、余裕のすまし顔で言ってやる。
「我慢しないで食べてください。あなたのために書いたんですから」
遠子先輩は顔を赤らめて、なんのことかしらととぼけるだろう。
だから、ぼくは言うのだ。
「食べてください。これを書いたのは、井上心葉です。井上ミウは、みんなの作家だけど……」
不安そうにぼくを見つめる彼女が、運命の恋に落ちてしまうように。
目と目と合わせて。
甘く微笑んで。
「井上心葉は、あなたの作家です」
<END>