ロケットガール 第4巻 「魔法使いとランデヴー」
野尻抱介
-------------------------------------------------------
(テキスト中に現れる記号について)
《》:ルビ
(例)遥《はる》か未来に
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)単身|赴《ふ》任《にん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
[#本文中、《はちどり》のような《》の部分を、【はちどり】に変更した。
-------------------------------------------------------
目 次
第一話 ムーンフェイスをぶっとばせ
第二話 クリスマス・ミッション
第三話 対決! 聖戦士《せいせんし》VS女子高生
第四話 魔法使《まほうつか》いとランデヴー
あとがき
[#改ページ]
第一話 ムーンフェイスをぶっとばせ
[#改ページ]
ACT・1
「ええと、次は手順書ナンバー22025A。プラズマ粒子《りゅうし》検知器《けんちき》の掃除《そうじ》」
「掃除? そんなの中でやれるじゃん」
「EVAするならついでにって」
「あたしらは孫《まご》の手かい」
「ほい、それはどこにある?」
「さっきのORUのひとつ手前、筐体《きょうたい》上端《じょうたん》より一フィート三・一/四インチ奥《おく》に位置する――」
「たくもー、なんで日本のモジュールまでヤード・ボンド法なわけ? メートル法使わんかい、メートル法!」
吠《ほ》えたのは森田《もりた》ゆかり。気密《きみつ》ヘルメットがなければ髪《かみ》をかきむしったところだろう。
「とにかく片付《かたづ》けてしまわないと、もうじきほら……」
手順書の読み上げをしているのは三涌茜《みうらあかね》。ネリス高等女学院|在学《ざいがく》中は学年一の秀才《しゆうさい》だった。
「ほい、これかな?」
一セット八千万円の検知器を無造作《むぞうさ》に引っこ抜《ぬ》いたのはマツリ。日本人とメラネシア人のハーフで、タリホ族の魔法使《まほうつか》い見習いでもある。
「こらこらマツリ、外せなんてゆってないぞ」
「あ、いいです。電源《でんげん》切ってますから。検知器の窓《まど》を掃除して戻《もど》してください」
「ほーい」
そこはJEM――国際宇宙《こくさいうちゅう》ステーション・日本モジュールの曝露《ばくろ》部。宇宙空間に露出したテラスのような場所だった。
みずみずしい肢体《したい》を厚《あつ》さ二ミリのスキンタイト・スーツに包んだ三人|娘《むすめ》は、地中海上空四百キロをライフル銃弾《じゅうだん》の十倍の速度ですっ飛びながら、今日も勤労《きんろう》少女しているのだった。
そんな三人のお楽しみは、まもなくスペースシャトルで到着《とうちゃく》するスペシャルゲスト。
「でさー、ミムタクのシャトルってV−BARで来るんだよね?」
V−BARとはドッキング方式のひとつ。これだとシャトルはいま自分たちがいるJEMのすぐ隣《となり》にドッキングする。スーパースターを出迎《でむか》えるには絶好《ぜっこう》のポジションなのだ。
「でも拓哉《たくや》さん、宇宙|酔《よ》いでぐったりしてたりしないかしら」
茜が気遣《きづか》わしげな声で言う。
「ミムタクに限《かぎ》ってそんなことないよ。いつもどおり渋《しぶ》〜くキメてるって。カメラ意識《いしき》してさ」
「ほい、ミムタクはそんなにタフ?」
「タフってゆーか」
ゆかりは言った。
「スーパースターだもん、カメラの前じゃしゃっきりしてるよ絶対」
シャトルの飛行中も、カメラが三村《みむら》拓哉を捉《とら》え続けていることは間違《まちが》いなかった。
彼は今や知らぬ人とてない人気アイドルグループSWAPのリーダー。フジミテレビの特別番組『三村拓哉・宇宙からのメッセージ』に出演《しゅつえん》するため、補給《ほきゅう》用シャトルに便乗して、まもなくここを訪《おとず》れるのだ。
人気アイドルなどというものに、ゆかりはなんの幻想《げんそう》も持っていない。なにしろ自分が国際級のアイドルなのだ。外向きの顔と素顔《すがお》にギャップがあることぐらい承知《しょうち》している。
とはいえ、そこは恋《こい》に恋する十六の乙女《おとめ》、相手がミムタクともなれば少しばかりときめいてしまうのも事実であり――
「おっ、来たぞ来たぞ」
「うわあ、大きいなー」
茜も歓声《かんせい》をあげたが、これは宇宙船のこと。
全長四十メートルのスペースシャトルが、機首を上に、背中《せなか》をこちらに向けた姿勢《しせい》でアプローチしてくる。
近頃《ちかごろ》ではNASAのランデヴー/ドッキングもずいぶん手際《てぎわ》良くなった。接近《せっきん》・停止を繰り返すことなく、どんどん近づいてくる。
ゆかりはマニピュレーターに片手でつかまり、茜はプラットホームの固定器具に足を差し込《こ》んで立ち、マツリは実験装置《そうち》の筐体にまたがって――つまり三人三様上下左右にまったくこだわらない姿勢でシャトルを出迎えた。
「拓哉さん、見えるかしら? ミッドデッキだと思うけど」
「フライトデッキに上がってるかもしんないよ。あ、ハロー、スペースバード」
コクピットの男が手を振《ふ》ったので、ゆかりも手を振った。
「ハロー、ロケットガールズ!」
「ナイス・アプローチング、ミスタ・エイブリー」
「ゆかり、あれがミムタク?」
「あれは機長のエイブリーおじさん」
「そうでなくて、アッパーウインドウだよ」
「……ん?」
フライトデッキの天井《てんじょう》部分の窓に、誰《だれ》かの顔が見えた。
ゼロG下でも変わらない髪《かみ》、小麦色の肌《はだ》、射貫《いぬ》くような眼差《まなざ》し。その引き締《し》まった口許《くちもと》から白い歯がこぼれるのが確《たし》かに見えた。
「ミ……」
自分でも意外だったが、ゆかりは次の瞬間《しゅんかん》叫《さけ》んでしまった。
「きゃーっ、ミムタクー!」
「拓哉さーん!」
「ほーい、ミムタク、ミムタク!」
NASAが莫大《ばくだい》な経費《けいひ》をかけて運用している宇宙通信|網《もう》NASCOMの音声回線は、時ならぬ黄色い声に五分間ほど占領《せんりょう》されたのだった。
ACT・2
四時間後。
曝露《ばくろ》部での作業を予定通りに終えて、三人はステーションに戻《もど》った。
「やあ、お疲《つか》れさん。やっぱりSSAさんは早いね、仕事」
日本人の常駐《じょうちゅう》クルー、荒城《あらき》がエアロックの前に出迎えていた。
SSAとはゆかりたちが所属《しょぞく》するソロモン宇宙《うちゅう》協会のこと。独自《どくじ》の技術《ぎじゅつ》で有人宇宙飛行サービスをしていて、料金の安さと仕事の早さが売りだった。
「だけど降《お》りたらお目玉くらうかもよ。さっきのきゃぴきゃぴは」
「せめて英語でやるべきだったかなー。まあいいや、それよりミムタクどこ?」
「アメリカの居住《きょじゅう》モジュールだと思うけど」
「ありがと」
三人はモジュールの結節部に向かって泳ぎ出した。
ステーション内部は上下を意識してデザインされているが、無重量|状態《じょうたい》なので床《ゆか》も天井もないに等しい。空気があってGのない空間をふわふわ漂《ただよ》って進むのは気持ちよかった。
国際《こくさい》宇宙ステーションは、なかなかにでかい。円筒《えんとう》形をしたアメリカ、ロシア、日本、ヨーロッパのモジュールが十|基《き》以上も連結されていて、うっかりすると迷子《まいご》になりそうだ。
「なんか古い旅館みたいだよね。本館、新館、別館ってあってさ」
「本館がロシアとアメリカ、新館が日本とヨーロッパ、別館がアメリカ居住モジュール、みたいな?」
「そそ。でもってロシアはロシアで増築《ぞうちく》しまくってるし。なんかロシアのメカって決まってごちゃごちゃしてくるよね。ええっと……」
ゆかりは交差点でしばし戸惑《とまど》った。
「こっちね。ノード1を下に折れてノード3の先だから」
「そかそか」
……と、なにやら行く手から緊迫《きんぱく》した声が聞こえてくる。
「なんだ?」
「ほい、日本語だね」
三人はアメリカ居住モジュールに入った。
「拓哉さん! お願いしますよ、出てきてくださいよう!」
ばん! ばん! ばん!
「ねえ、拓哉さあん!」
「wait, wait, wait」
三十すぎの男がトイレのドアをばんばん叩《たた》き、それをアメリカ人クルーがさえぎろうとしている。
「ちょっと、そんなに叩いたら壊《こわ》れちゃうよ」
三十男は動きを止めた。
「あ、ゆかりちゃん? ゆかりちゃんだぁ……」
地獄《じごく》で仏《ほとけ》。という顔になる。
「そうだけど。あんたは」
「俺《おれ》、カメラマン兼《けん》マネージャー兼メイク兼スタイリスト兼ディレクターの賀川《かがわ》っていいます」
「さっきミムタクといっしょに来たんだ」
「ですです」
ステーションに人を送るのは大金がかかるので、今回のTV特番関係者は二人だけ。賀川はその片割《かたわ》れだった。
「で、ミムタクは? さっそく宇宙|酔《よ》い?」
ゆかりはトイレのほうを目線で示《しめ》した。
「それがどうもよくわかんないんすよ……」
「わからないって、どうしてですか?」
茜が訊《き》いた。
「ドッキングするまでは元気だったんですよ。船長さんたちと簡単《かんたん》な歓迎《かんげい》セレモニーやって、それからトイレに入ったきり、出てこないんです」
三人は顔を見合わせた。
「やっば宇宙酔いじゃない? あれって急にくるもんね、嘔吐《おうと》感」
「でも吐《は》いちゃえばトイレは出るよね」
茜は首を傾《かし》げていたが、
「あっ……」
「どしたの?」
「もしかして……そのぅ……」
茜はみるみるうちに真っ赤になった。
「なんなのさ、茜」
「だから……ここのトイレ、真空|吸引《きゅういん》するよね。ゼロG用だから」
「あっ!」「ほほー!」
ゆかりとマツリは同時に膝《ひざ》を打った。
「あるかもしんないなー。男だと」
「な、なんなの、ゆかりちゃん?」
「だからぁ、掃除《そうじ》機みたいなものにアレを……言わせないでよ!」
「ほい、ミムタクのは太いね?」
「ちげーよ、んなんじゃねー!」
その声は、トイレの中から。
まぎれもない、三村拓哉の声だった。
「では細い?」
「だからそういうんじゃないんだっ! いいからほっといてくれ! そのうち出る」
「そのうちって拓哉さん、オンエアまで四時間しかないんすよ! リハとかもあるし。とにかく出てきてくださいよ。顔見せてくださいよ」
「回してんのか」
「え?」
「カメラ回してるのかって聞いてんだ!」
「いや、僕《ぼく》はそんな。ああ、ええと……」
賀川はきょろきょろとあたりを見回した。
どのモジュールにもビデオカメラが据《す》え付けてある。三村拓哉はそれを気にしているらしい。
「大丈夫《だいじょうぶ》、いまは映像《えいぞう》下ろしてないよ」
ゆかりが言った。
「だまって流すなんてことないから。ISSはプライバシーにうるさいんだから」
「ほんとだろうな?」
「嘘《うそ》ついてどうすんの。だけどこのままトイレにこもってたらエマージェンシー扱《あつか》いで大騒《おおさわ》ぎになるよ。調査《ちょうさ》委員会が招集《しょうしゅう》されてなにからなにまで調べ上げて電話帳みたいな報告書《ほうこくしょ》が公文書館に永久保存《えいきゅうほぞん》されて誰にでも閲覧《えつらん》できちゃうけど、それでもいいの?」
「…………」
待つことしばし、ドアのロックがカチリと外れた。
固《かたず》唾を呑《の》んで見守るなか、ドアが開き、うつむいた頭がのぞいた。
トレードマークの長髪《ちょうはつ》。ゼロG対策《たいさく》はしてきたらしく、セットはうまく固定できている。
ゆっくりと、顔がこちらを向いた。
「――!」
な、なんだこれは?!
ゆかりはショックを受けた。
「ま……まんまる顔……」
そしてショックのあまり、気配りを忘《わす》れた。
「あは、あは、あははははははは!!」
もう止められなかった。ゆかりは空中で体をふたつに折って笑い転げた。
「あははははははははははははは!!」
「ゆっ、ゆかり! 笑っちゃ失礼よ、むっ、ムーンフェイスは誰でも…………くっ」
礼儀《れいぎ》正しい茜は、素早《すばや》く顔をそむけた。
しかしその肩《かた》の震《ふる》えは隠《かく》しようもなく。
「くくくくくく」
やはり体を折り、宙《ちゅう》を回転しはじめる。
マツリはといえば、猫《ねこ》のような大きな目を歓喜《かんき》と好奇《こうき》心に輝《かがや》かせて、なんの遠慮《えんりょ》もなく相手を見つめている。
「ミムタク、グッドフェイスだね。ほんとにお月様のようだよ」
的確《てきかく》な感想を述《の》べる。
その隣《となり》ではアメリカ人クルーが英語で、
「Woow! HA! HA! HA! HA!」
と、これまた無遠慮に笑い転げている。ゼロGで笑うと本当に転がってしまうのだ。
こういう時、タレントをかばうのが賀川の仕事なのだが、
「拓哉さん……ご、ごごご無事でなによりっす……」
それが精一杯《せいいっぱい》だった。
ただひとり、スーパースター三村拓哉は刻々《こっこく》と絶対零度《ぜったいれいど》の冷気に包まれてゆく。
ACT・3
ムーンフェイスとは、無重量|状態《じょうたい》で起きる生理|現象《げんしょう》のひとつだった。
人体は生まれてこのかた、重力に逆《さか》らって体液《たいえき》を頭のほうに押《お》し上げている。無重量状態になってもその動きはすぐには止まらず、結果として上半身に体液が溜《た》まってしまう。
その結果、顔がむくんで『まんまるお月様』になるのだった。三村拓哉はそれが顕著《けんちょ》に現《あらわ》れる体質《たいしつ》だったらしい。こればかりは宇宙《うちゅう》に来てみないとわからないのだから、誰を責《せ》めるわけにもいかない。
宇宙|酔《よ》いとちがって、ムーンフェイスにかかったからといって仕事に差し支《つか》えることはない。それが普通《ふつう》の仕事なら。
身を縮《ちぢ》め、顔を壁《かぺ》に向けて冷気を放ち続ける三村拓哉を囲んで、四人は対策を練った。
「あの、ゆかりちゃんたちはいつものまんまみたいっすけど、なんで平気なんすか?」
「あたしらは体が慣《な》れてるもん」
「体質にもよるけど、初めて宇宙に来た人でも数日で引きますね」
「そんなにかかるんすかぁ! あと四時間で本番なんすよ、なんとかなりませんか!」
「そうですね……下半身|陰圧装置《いんあつそうち》があれば」
茜が言った。
「なんですかその、インアツって」
「腰《こし》から下をタンクみたいなものに入れて、気圧を下げるんです。すると体液が下半身に戻《もど》るんですけど」
「ドクター・マコーレイ」
ゆかりは英語でアメリカ人に話しかけた。
「ここに下半身陰圧装置ある?」
「残念だけど積んでないね。昔のロシアモジュールにはあったんだが、かさばるので廃棄《はいき》したんだ」
「積んでないってさ」
賀川はうなだれた。
「でもさ、その番組って人間が宇宙に出ることを語るわけでしょ?」
ゆかりは言った。
「ムーンフェイスもありのままに見せていいんじゃないかな。人間がゼロGに立ち向かう姿《すがた》って、結構《けっこう》感動あると思うけどな」
「あ、それもひとつの考え方っすよね……」
「笑ったろうが」
壁際《かべぎわ》から、ゾンビのような三村拓哉の声。
「思いっきり笑ったろーが。いいかげんなこと言うなよな。なにが感動だよ。二十分くらい笑って笑って笑い転げたろーが!」
「そ、そりはまあ……」
ゆかりは一瞬《いっしゅん》ひるんだが、持ち前のアッパーな性格《せいかく》ですぐに反撃《はんげき》に出た。
「だけどそっちも男らしくないじゃん。プロだったらムーンフェイスぐらいでメゲてないで、きっちり任務《にんむ》をやりとげなさいよ!」
「ぐらいで、だとお……?」
ばっ。
三村拓哉は音をたてて振《ふ》り向くと、怒《いか》りをあらわにした。
「芸能人《げいのうじん》は顔が命なんだっ! 顔つくる前は絶対《ぜったい》カメラの前に立たないんだよ! 知ってるか、ドッキリカメラだってメイクするんだぞ! それがプロってもんなんだっ!」
ゆかりはどきりとした。
その声、髪《かお》を乱《みだ》して拳《こぶし》を振りかざすそのポーズはまぎれもなくミムタクだった。
しかし。
「ぷっ……」
顔だけがアンパンマンなのだ。
「笑うなよ」
「うぷ」
「笑うなって言ってるだろーが!」
悪いとは思うのだが、なにしろ箸《はし》が転《ころ》んでもおかしい年頃《としごろ》だ。
「あははははははは!」
スーパースターはふたたび絶対零度《ぜったいれいど》の人になった。
救いの手を差し伸《の》べたのは茜だった。SSA三人|娘《むすめ》において、茜はミスター・スポック的、もしくは真田《さなだ》工場長的|存在《そんざい》である。
「つまり……重力があればムーンフェイスは癒《なお》るんだよね……」
その知的な声に、三村拓哉も振り返る。
「人工的に重力を作ればいい。もちろん引力は作れないけど、アインシュタインのいう等価《とうか》原理を踏《ふ》まえるなら、つまり――」
「つまり?」
「体温計」
「体温計?」
ACT・4
茜の言う体温計とはデジタル式ではなく、昔ながらの水銀式だった。
「あれってほら、水銀をもとに戻すとき、ケースにいれて紐《ひも》を持ってぶんぶん振り回すでしょう?」
「そういや、そんなのもあったかな」
「あれは遠心力で高い重力を作ってるの。あっ、もちろん遠心力なんて力は存在しないんだけど、等価原理を踏まえるならそれは重力と等しいから――」
ゆかりは手でさえぎって、
「つまりなにか、ミムタクに紐つけてぶんぶん振り回すわけ?」
茜はこっくりとうなずいた。
三村と賀川は不審《ふしん》げに顔を見合わせる。
「どこで?」
「外で」
「ミムタクにEVAは無理でしょ」
EVAとは船外活動、すなわち宇宙《うちゅう》遊泳のこと。これには高度な訓練が要《い》る。
「でも拓哉さんも、レスキューバッグの訓練は受けましたよね?」
「あの寝袋《ねぶくろ》みたいなやつか?」
「ええ」
「おっと、その手があったか」
ゆかりは膝《ひざ》を打った。
レスキューバッグというのは、ステーションで空気|洩《も》れなどの非常事態《ひじょうじたい》が起きた時、一時的に退避《たいひ》する袋のこと。ジッパーを閉《と》じれば気密《きみつ》が保《たも》たれ、三時間の生命|維持《いじ》ができる。自分では身動きできないが、無線機がついているから救助は呼《よ》べる。
三村拓哉をレスキューバッグに入れ、長いロープを頭の側に結ぶ。ロープの反対側にゆかりとマツリがついて、ステーションの外でぐるぐる振り回す。遠心力で体液《たいえき》が下半身に戻《もど》れば、ムーンフェイスもオンエア中ぐらいは引っ込《こ》むだろう――これが茜のアイデアだった。
「なんか……すごく突飛《とっぴ》みたいっすけど、大丈夫《だいじょうぶ》っすか?」
「たしかに前例はないけど」
「いいさ」
拓哉が言った。
「それでこのツラが引っ込むんなら、やったろうじゃんか」
「まじで?」
と、ゆかり。
「大まじ」
と、拓哉。
ふうん。
あたしから見ても、これってかなり危険《きけん》なEVAだけどな。
わりと度胸《どきょう》あるんだ、とゆかりは思った。
結構《けっこう》。ならばやってやろう。
「よし、そうと決まったらぱっぱと片付《かたず》けるぞ。まずコマンダーにEVAの許可《きょか》をとる。茜と賀川さんはあたしといっしょに来て。賀川さんは五十億円かけた番組がだめになりそうだって懇願《こんがん》すること。ミムタクはレスキューバッグの使い方おさらいして。マツリはミムタクのサポートよろしく」
ACT・5
危険で前例のない行動だったが、意外にもコマンダーはすんなり許可をくれた。ムーンフェイスには個人《こじん》的に嫌《いや》な思い出があるらしく、ミムタクには終始|同情的《どうじょうてき》だった。
条件《じょうけん》はミムタクの回転面がステーションと交わらないこと。つまり、回転中に万一ロープが切れて振《ふ》り飛ばされても、ステーションに衝突《しょうとつ》しないことだった。
ロープの長さと回転速度は茜がその場で計算した。地上と同じ重力を作るには三十メートルのロープでミムタクとこちらを結んで、八秒弱の周期で回せばいい。
エアロックに行ってみると、三村拓哉はマツリの支《ささ》えるレスキューバッグに体を入れ、ジッパーを閉《し》めたところだった。
レスキューバッグは顔の位置に水中|眼鏡《めがね》のような窓《まど》がついている。
「いけそう?」
拓哉は窓こしにサムアップ・サインを渋《しぶ》くキメてみせた。もちろん顔はまだアンパンマンのまま。彼はときどきそれを忘《わす》れる。
コミュニケーション・チェック。
気密チェック。
生命維持システム・チェック。
オールグリーン。
「オッケー。じゃあいくか」
三人|娘《むすめ》はバックパックを背負《せお》い、ヘルメットをかぶった。こちらも念入りにセルフ・チェックする。
「あの、俺《おれ》、どこにいりゃいいすか? 拓哉さんを見てたいんすけど」
「賀川さんはJEMに入れてもらえばいいよ。あそこの窓から見えるとこでやるから。無線使えるよね。何かあったら呼んで」
「了解《りょうかい》っす」
四人は二手に分かれてエアロックを通った。まずゆかりと茜。次にマツリとレスキューバッグ入りの三村拓哉。
従来《じゅうらい》の宇宙《うちゅう》服だと、EVAの前に予備呼吸《よびこきゅう》というプロセスがある。何時間もかけて血液中から窒索《ちっそ》を追い出すのだが、SSAのスキンタイト・スーツはそれが要《い》らない。出たい時にすぐ出られる。
「うおー」
四人が外に出ると、レスキューバッグの無線機からそんな声が届《とど》いた。
「ドッキングの時はよく見えなかったけど、こうして見るとでかいなー。すっげー」
国際《こくさい》宇宙ステーションは全長八十七メートル、全幅《ぜんぷく》百七メートル、全高四十三メートルという巨大な空間を占める。サイズを稼《かせ》いでいるのは太陽電池パドルと放熱パネルだが、
居住《きょじゅう》区画だけでもジャンボジェット二機ぶんの空間になる。
ゆかりたちはジェッド・ガンを噴《ふ》かしてステーションの百メートルほど前方に移動《いどう》した。
「賀川さん、見えてる?」
「あ、はい、よく見えてまっす!」
茜はオブザーバーの役目だった。回転する三人から少し離《はな》れて、位置をチェックする。
「ゆかり、もう少し北へ動いて。回転|軸《じく》を軌道《きどう》と平行にしたいから」
「了解」
ゆかりとマツリは二人一組でミムタクのカウンター・ウエイトになる。二人は肩《かた》を組んだ姿勢《しせい》で互《たが》いをハーネスで結んだ。
ミムタクと自分たちを結んだロープが一杯《いっぱい》にのびるまで移動して、
「じゃあ、いくよ。回転開始!」
ゆかりはそう言って、ジェット・ガンを噴射《ふんしゃ》した。マツリもタイミングを合わせる。ミムタクを回り込むように移動すると、すぐに両者はメリーゴーラウンドのように回転しはじめた。
「ゆかり、少しドリフトしてる。正面に地球が見えたら二秒加速して」
茜が的確《てきかく》に管制《かんせい》する。
「了解――こんな感じ?」
「うん、そのまま均等《きんとう》にもうちょい加速」
「ミムタク、気分どう?」
「おー、いいわこれ。下のほうにぐーっと血が下りてく感じ。いい、いい。すごくいい」
マッサージを受けているような口調で言う。
「貧血《ひんけつ》起こしそうになったら言ってよ」
「おー、心配ないって。いいわこれ。じんじんくるぜえ」
「拓哉さん、本番いけそうですかね?」
「おー、楽勝楽勝。賀川もあとでやってみろよ、気持ちいいぜー」
「いやぁ、僕《ぼく》は遠慮《えんりょ》しときますけど」
「噴射とめて。いまちょうど八秒周期です。拓哉さんには一Gかかってます。拓哉さん、気分悪くありませんか?」と、茜。
「いいよ、すごくいい。おー、地球が俺の前通ってくよ。青いよなあほんと」
「太陽まぶしくない? だったら窓にサンバイザーかけて」
「いい、いい、全然平気。このギラっとくるのがいいんだよぉ」
三村拓哉はすっかり御機嫌《ごきげん》で、ゆかりに話しかけた。
「ゆかりちゃんさあ……」
「うん?」
「やっぱ宇宙ってのは一人でぽかっと浮《う》いてるのがいいよな?」
「まあね」
ぽかっとじゃなくて、一Gかかってるでしょうが。
「俺、いまやっとわかった気がするわ。シャトルに乗ってる間、窓《まど》から外見たけどさ、バスに乗ってるみたいで、なんだこんなもんかって感じでさ」
ピシリ。
ロープに奇妙《きみょう》なテンションがかかったのはその時だった。
「ん、なんだ?」
「ほい?」
「こうやって一人で飛んでみてさー、俺、なんかつかめちゃったよ」
袋詰《ふくろづ》めになって振《ふ》り回されながら、芸能人《げいのうじん》はそんなことを言う。
「地球に語りかけるって感じ? わかるなあ。俺いま地球を愛せたって気ぃするもん、まじで。いやほんと大まじ」
プツン。
遠心力がふいに消失した。
「まずい、ロープ切れちった」
「ほい、切れたね」
二人とミムタクを結ぶロープが切れた。
二人は回転運動から等速直線運動に移行《いこう》したが、すぐにジェット・ガンを噴射して停止した。
しかしミムタクのほうはそれができない。
「茜、ミムタクどっちへ飛んでった?」
「まっすぐ地球のほうへ」
「そっか」
「おい、なんだこれ、急に軽くなったぜ?」
ミムタクも気づいたようだ。
「なんだよ、ステーションがどんどん小さくなってくぜ? おいっ、どうなってんだよこれ! 回ってないよ、どうなってんのこれ! おい、おーいっ!」
「拓哉さん、どうしました? 拓哉さーん!」
「あっ、地球が見えた! なによこれ、落ちてくよ! 俺、地球に向かってどんどん落ちてくよ! うわああああああああああ!!」
「拓哉さん! 拓哉さんを止めないと! ゆかりちゃん、なんとかしてよ! ねえ!!」
パニックする二人の男。
ところが三人|娘《むすめ》はといえば、まったく動じる様子がない。
「まずったなー。オービターで追う?」
「いまから発進|準備《じゅんび》しても間に合わないよね。燃料《ねんりょう》も無駄《むだ》だし」
「間に合わないって――それじゃ、それじゃ拓哉さんどうなっちゃうんですか?! 拓哉さん、拓哉さん、応答《おうとう》してください!!」
応答なし。
「あー賀川さん、ミムタクもう交信|範囲《はんい》出ちゃったかも。レスキューバッグの無線機、パワー弱いから」
「そんなあ……」
「ほい、パニクったまま行ってしまったね、ミムタク」
「男だったら乗り切らなきゃ」
「乗り切るって、拓哉さん地球にまっさかさまに落ちていきましたよ!! どうすんですか、ああっ、もうおしまいだあ!!」
「落ちないってば」
「え?」
「この軌道《きどう》からじゃ、地球には落ちないの。ロケットでも使わないかぎり」
「え? え?」
「茜、説明してやって」
「つまりですね、私たち、すでに秒速七千六百メートルで軌道飛行してるでしょう? 拓哉さんは秒速十メートルちょっとで地球に向かっていきましたけど、それまでの軌道運動くらに比べれば微々たる変化なんです」
「はあ……」
「拓哉さんは、じきにISSの前方に出ます」
「はあ……」
「そのあと拓哉さんは上昇《じょうしょう》に転じます」
「ええと……」
「四十五分後には上昇から下降《かこう》に転じます」
「…………」
「そして九十分後には地球を一周して、結局ステーションのすぐそばに戻《もど》ってくるんです」
「それ……ほんと、ですか?」
「ほんとです。宇宙《うちゅう》の掟《おきて》ですから」
「そうそう。だから安心しなって」
ゆかりは言った。
「レスキューバッグの生命|維持《いじ》は三時間だから余裕《よゆう》でしょ。これでムーンフェイスが癒《なお》ってりゃ本番もばっちりじゃん」
「はあ……」
賀川はまだ安心できない様子だった。
「でも拓哉さん、絶叫《ぜっきょう》したまま行っちゃったのがどうも……」
ACT・6
『みっなっさーん、フジミテレピの突撃《とつげき》レポーター、桃井敬子《ももいけいこ》でーっす!! 私はいま、筑波《つくば》宇宙センターのコントロールルームに来ちゃってまーっす!! さあいよいよ、超《ちょう》大型特別記念番組【三村拓哉・宇宙からのメッセージ】の時間がまもなく、まもなく始まりまーっす!! さあみなさんごいっしょに、カウントダウンしましょー! 五、四、三、二、一、――宇宙ステーションの三村拓哉さーんっっっ!!』
画面が切り替《か》わると、そこはISS内部。
アイボリーの床《ゆか》と天井《てんじょう》。両側は実験機器のラックがびっしり並《なら》んでいる。
その中央に三村拓哉が、びしり、と浮《う》かんでいた。全|女性《じょせい》を魅了《みりょう》してきた甘《あま》いマスクはきりりとひきしまり、口許《くちもと》には白い歯が「きらーん」と輝《かがや》く。
やるもんだよなあ……。
カメラの死角で、ゆかりはかなり感心していた。回収《かいしゅう》直後の三村拓哉はさすがに興奮《こうふん》した様子だったが、ムーンフェイスはきれいに癒っていた。
そのあとの拓裁は別人のようだった。自信にあふれ、思慮《しりょ》深く、人間がひとまわり大きくなったようなのだ。
「日本の皆《みな》さん、そして世界の皆さん。僕はたったいま、一人で地球を一周してきました……」
印象的な間をおく。芸能人《げいのうじん》も芸能人なりにプロだよな、とゆかりは思う。
「僕は重力から解放《かいほう》されて、地球に向かって泳いだ。海の青い輝き、雲と大地を七色に染《そ》める夕暮《ゆうぐ》れ、ゆらめくオーロラと都市の灯……漁火《いさりぴ》、そして夜明け……撲はすべてを見たんだ……」
水を打ったような静寂《せいじゃく》。
賀川は呆然《ぼうぜん》とカメラをまわし続けている。
拓哉は台本を完全に無視《むし》していた。
「そして僕は突然、白い光に包まれたんだ……ああ、この法悦《ほうえつ》をどんな言葉で語れるだろう……僕はそこに見たんだ……神の姿《すがた》を!」
え?
「ああ神よ! 御《み》言葉が僕の心を貫《つらぬ》いた! 宇宙神ヨカタン=サキュイーサが僕に語りかけた! 汚《けが》れた地球を捨《す》てて、宇宙と合一せよと!」
え? え? ヨカタン?
「来た……来た……見えるかい、いま神が降《お》りてきた……おお、おお、子羊たちよ、まもなく地球は滅《ほろ》ぶ! 選ばれし者、神の子だけが光の船に乗りて生命の樹《き》のもとへ旅立つ……我《われ》に従《したが》え! 我は神聖《しんせい》なり! 我は絶対なり! 我は全なり! 我は無限《むげん》なり!!」
両腕《りょううで》を高く差し上げ、ただならぬ光を瞳《ひとみ》に宿して三村拓哉は語り続けた。民放のことで、中継《ちゅうけい》が中止される様子もない。
やっぱし――芸能人にいきなりソロで軌道一周はきつかったか。
無理してでも救助を急ぐべきだったか?
ゆかりはしかし、反省しないことにした。
あれは素質《そしつ》だよ。
だいたい男が宇宙《うちゅう》に出ると、すぐロマンチックなこと言い出すもんな。
三日後、クルー総出《そうで》で嫌《いや》がる三村拓哉をシャトルに押《お》し込《こ》み、まもなく滅ぶという汚れた惑星《わくせい》に連れ戻《もど》した。その後の芸能|情報《じょうほう》によると、大気|圏再突入《けんさいとつにゅう》が終わって重力が戻ったとたん、憑《つ》き物はきれいに落ちたという。
ゆかりはほっとしたが、まだ解《げ》せないニュースがあった。
彼があれから、毎日のように後楽園遊園地のフリーフォールに通っているというのは、いったいどうしたことだろう?
[#改ページ]
第二話 クリスマス・ミッション
[#改ページ]
ACT・1
「偽善《ぎぜん》」
ゆかりは低い声で、誰《だれ》にともなく言った。
「いっちばん嫌《きら》いな言葉だわさ」
二週間前から、ゆかりはその言葉を、毎日かかさずくり返してきた。
だが、とうとう崖《がけ》っぷちまで来てしまった。
ゆかりは打ち上げを目前にしたオービター・マンゴスティンの緩衝《かんしょう》座席《ざせき》に横たわっていた。隣《となり》にはマツリ、後ろには茜《あかね》がいた。
無線機から流れる秒読みは、こんな時にかぎって、滞《とどこお》りなく進んでゆく。
『Tマイナス二百二十秒。酸素《さんそ》逃《に》がし弁《べん》閉鎖《へいさ》。離昇《りしょう》圧力《あつりょく》』
あと三分ちょっとで打ち上げ。
ひとたび上がれば、二十分で北海道に着いてしまう。
「|ロックス《LOX》圧力《あつりょく》正常《せいじょう》」
短く応答《おうとう》してから、ゆかりは話を続けた。
「これが偽善でなくてなんだってのよ。ほんとうにガキどもの力になりたきゃ、この打ち上げ費用二十憶をそっくりくれてやりゃいいのよ。かけそばなら一千万|杯《ばい》ぶんよ」
「でも、どうせ着陸キットのテストはしなきゃならないんだし」
後ろの席から、茜が言った。
「クリスマスの朝に恵《めぐ》まれない子供《こども》たちをはげますなんて、私、こんなやりがいのある仕事はないって思うの」
「雪が楽しみだねえ」
陽気な声で言ったのは右隣のマツリ。
「雪だるま〜、雪がっせん〜、かもくら〜」
「かまくら」
ゆかりは言下に訂正《ていせい》した。
「あんたねえ、孤児院《こじいん》慰問《いもん》して雪遊びしようなんて考えは――」
『Tマイナス十秒』
三人はぴたりと口を閉《と》ざした。
足元の、百六十トンの爆発《ばくはつ》物に火をつける時だ。
『メインブースター点火――四―三―二――固体ブースター点火、リフトオフ!』
爆音と振動《しんどう》がキャビンを包んだ。
小山のような噴煙《ふんえん》を突《つ》き破《やぶ》ると、ロケットは進路を北にとり、みるみる速度をあげていった。
刻々《こくこく》と増《ま》すGに耐《た》えながら、ゆかりは腹《はら》を決めた。ロケット本体の制御《せいぎょ》に、飛行士は介入《かいにゅう》できない。もう、北海道まで運ばれるしかないのだ。
話は二週間前にさかのぼる。
SSA・ソロモン宇宙《うちゅう》協会は、その年最後の有人飛行として、陸上着陸キットのテストを予定していた。
それまでのオービターはすべてパラシュートで洋上に着水するタイプだった。しかし、精度《せいど》よく着地できるなら陸上に降《お》りたい。そのほうが回収《かいしゅう》コストがぐんと小さくてすむのだ。そこで釣鐘《つりがね》型のオービターに三本の着陸|脚《きゃく》と小型の逆噴射《ぎゃくふんしゃ》ロケットを取り付けて、固い地面にも軟着陸《なんちゃくりく》できる装備《そうち》が試作されたのだった。
当初はオーストラリアの砂漠《さばく》が着陸地に選ばれていた。ところが飛行二週間前になって、基地《きち》に舞《ま》い込んだ一通の手紙がそれを変えた。
手紙にはこうあった。
私は釧路《くしろ》の孤児院《こじいん》、あすなろホームの院長をしている者です。五|歳《さい》から十歳までの子供たち十四人と暮らしております。
ゆかりさん、マツリさん、茜さんの三人の宇宙飛行士は、子供たちの英雄《えいゆう》です。お三方《さんかた》が新聞に載《の》るたびに、私は何度も、それを読んでくれとせがまれます。食堂の壁《かぺ》はその切り抜《ぬ》きでいっぱいです。
それで、ひとつお願いがあるのです。
まことにお忙《いそが》しいこととは思いますが、こんどのクリスマスに、うちの子供たちにカードを送っていただくわけにはいかないでしょうか。
子供たちは、クリスマスにいつもさびしい思いをしています。宇宙飛行士の方からカードが届《とど》けば、どんなにか勇気づけられるだろうと思うのです。
どうぞよろしくお願いします。
これを読んだ所長の那須田《なすだ》は、ひとつのひらめきを得た。
カードじゃない、サンタクロースを送ってはどうだ? それもロケットで!
クリスマスの朝、宇宙から天使のような三人|娘《むすめ》が降りてきて、恵まれない子供たちにプレゼントを配る――
「いいっ! これはいいっ!」
那須田はそう叫《さけ》んで、どんどん机《つくえ》を叩《たた》いた。
それから、あちこちに電話をかけまくった。
安全面の問題はなかった。周囲に人家はまれだし、適度《てきど》な積雪もプラス要因《よういん》だった。
防衛省《ぼうえいしょう》に打診《だしん》してみると『ぜひやってくれ。弾道《だんどう》ミサイル監視網《かんしもう》の演習《えんしゅう》になる。必要ならヘリや隊員を貸してもいい』とまで言われた。
雪のため回収費用は割高《わりだか》になるが、PR効果《こうか》を考えれば安いものだし、自衛隊も協力してくれる。もう、北海道に降りていけない理由はなにもなかった。
この計画に、ゆかりは最初から猛《もう》反対した。しかし彼女にとって不幸なことに、今回は茜とマツリが那須田側についた。
茜は恵《めぐ》まれない孤児たちを慰問《いもん》することに使命感をいだき、陶酔《とうすい》すらしているようだった。マツリのほうは現地《げんち》の写真を見たとたん、地表を覆《おお》う純白《じゅんぱく》の物質《ぶっしつ》に夢中《むちゅう》になった。熱帯のジャングルに生まれ育った彼女は、雪にふれたことがなかったのだ。
ゆかりの主張《しゅちょう》は最後まで変わらなかったが、二人のシップメイトにまで裏切《うらぎ》られては、さすがに太刀打《たちう》ちできなかった。
ACT・2
朝食が終わっても、邦夫《くにお》は食堂に残って、ぼんやりと煩杖《ほおづえ》をついていた。
煩は汗《あせ》をかいたあとのように、べたべたしていた。昨夜、七面鳥の蒸《む》し焼きとケーキとボークパイを食べたせいだった。
邦夫はやせていたが、血液《けつえき》中にどっさりたまった脂肪《しぼう》分が浮《う》いて、煩をべたつかせていたのだった。
それが邦夫の気分をますます不快《ふかい》にした。
大事な時なのに、ずっと待っていた時なのに、自分でもどうすることもできなかった。
院長が顔を出した。
「上がったわよ、邦夫」
返事がないので、院長はくり返した。
「予定どおり打ち上がったって。ここまで二十分で来るそうよ」
「……知ってるよ、それくらい」
「お出迎《でむか》えしないの? みんな庭に出てるのよ」
「嫌《いや》なんだ」
「あんなに好きだったじゃない。これ貼《は》るのだって、いつも邦夫の役だし」
院長は壁の切り抜きを示《しめ》した。
「テレビが嫌なんだ」
「だけどせっかく――」
「嫌なんだ!」
院長は口をつぐんだ。それから、ため息まじりに「喜んでくれると思ったのに……」とつぶやいて立ち去った。
邦夫はますますやりきれない気分になった。
外の様子は、食堂の窓《まど》からもわかった。
テレビ局は昨夜から詰《つ》めかけていた。雪の積もった前庭には中継車《ちゅうけいしゃ》がずらりと並《なら》び、ルーフトップのパラボラアンテナを空に向けている。
重そうな機材をかかえたスタッフがしじゅう歩き回っているので、庭は靴跡《くつあと》だらけだった。その一角に子供《こども》たちがかたまって、スタッフの指図を受けていた。
邦夫は唇《くちびる》をかんだ。
なんでみんな、平気なんだ。
お父さんやお母さんに会いたくない? さびしくない? 学校で嫌な思いしない?――テレビのやつら、猫《ねこ》なで声でそんな質問ばかりするのに。
二言めには『恵まれない子供たち』ってかぶせやがって。あいつらさえ来なきゃ、忘《わす》れていられたのに……。
邦夫はマスコミの無神経《むしんけい》な取材にさらされて、すっかり不幸のとりこになっていたのだった。
親切を受ければ受けるほど、邦夫は不機嫌《ふきげん》になり、逆《ぎゃく》に相手を傷《きず》つけたくなった。
それが自己嫌悪《じこけんお》をよび、ますます不機嫌になる――邦夫はそんな、心の泥沼《どろぬま》から抜《ぬ》け出せずにいた。
邦夫は南の空を見た。
朝霧《あさぎり》はもうほとんど晴れていたが、ヘリコプターが四機|旋回《せんかい》しているほかは、何も見えなかった。
しばらくして、どーん、という遠雷《えんらい》のような音が響《ひび》いた。
「来た」と思った。はじめて聞く音だったが、邦夫にはその正体がわかった。
それは極超《ごくちょう》音速の宇宙《うちゅう》船が大気と衝突《しょうとつ》して引き起こす、衝撃波《しょうげきは》音だった。
ACT・3
つかのまの宇宙飛行を終えて、オービター・マンゴスティンは小笠原《おがさわら》上空で大気|圏《けん》に再《さい》突入した。
まだ超音速で落下しているうちに半球形の小型パラシュートが開き、さらに減速《げんそく》したところでそれが投棄《とうき》されて、楕円形《だえんけい》のパラフォイルにとってかわった。
陸上に降《お》りるとなれば、風まかせに漂流《ひょうりゅう》するのはさけたい。パラフォイルは結索《けっさく》の長さを加減することでグライダーのように操縦《そうじゅう》することができる。
「わおー、ほんとに真っ白だねえ!」
ペリスコープを覗き込むマツリが歓声をあげた。
それはジャングル育ちの彼女にとって、はじめて見る光景だった。
眼下《がんか》には果てしない雪原がひろがり、蛇行《だこう》する川と湖沼《こしょう》が、そこだけ黒く切り抜いたようにちらばっていた。
澄《す》んだ空気のむこうには、シーツのしわのような阿寒岳《あかんだけ》と屈斜路湖《くっしゃろこ》の銀盤《ぎんぱん》があり、そのはるか先に、知床《しれとこ》半島が矢のように突《つ》き出している。
「ほい見て。ケーキみたいだよ、ゆかり!」
「外ばっかり見てないで、茜を起こしてよ」
「ほいほい」
マツリはハーネスをゆるめて後ろに向き直り、「あーかーねー、起きよう、ほれほれ」と、煩《ほお》をぺんぺん叩《たた》いた。
茜は有能《ゆうのう》な宇宙飛行士だったが、Gに弱いのが玉に瑕《きず》だった。打ち上げと再突入のたびに気絶《きぜつ》するので、いつも誰かが起こしてやらねばならない。
「うーん……あ、いけない。もう着いた?」
「まだだよ。現在《げんざい》、高度三千」
ゆかりはペリスコープと計器盤を見比《みくら》べながら言った。右手はパラフォイルに連動した操縦|桿《かん》においている。
『回収《かいしゅう》チーム・地上|官制班《かんせいはん》より宇宙船マンゴスティン。貴船《きせん》を肉眼で確認《かくにん》。左舷《さげん》二キロをチェイスプレーンが随伴《ずいはん》中です』
「了解《りょうかい》、地上官制。コースは合ってる?」
『どんびしゃです。地上の風向は二六〇、風速三メートル』
「了解」
『ソロモン基地《きち》よリマンゴスティン、グライドアプローチ正常《せいじょう》。着陸脚《ちゃくりくきゃく》 展張《てんちょう》せよ』
「了解、着陸脚展張」
マツリが計器盤のすみに仮設《かせつ》されたスイッチを押《お》した。背後《はいご》で駆動《くどう》音がして、緑のランプが三つとも点灯した。
「マンゴスティンよりソロモン基地。着陸脚1、2、3、ラッチアップ確認。対地レーダー作動中。目標は……あれかな?」
雪原の中に一本の道が走り、その道から少し離《はな》れたところでストロボライトが点滅《てんめつ》していた。ライトのまわりにはオレンジ色の標識《ひょうしき》が敷《し》いてある。まちがいない。
「目標をペリスコープで確認」
そこで無線を切り、
「地上風向いくつだっけ?」
「二六〇」
茜が即答《そくとう》した。もう完全に目覚めている。
「てことは0八0からアプローチか」
操縦桿をわずかに倒《たお》すと、パラフォイルは索直《すなお》に反応《はんのう》した。シミュレーションと大差ない。
航空機のような万全《ぱんぜん》の誘導装置《ゆうどうそうち》はないが、降下角と潜望鏡《せんぼうきょう》の目盛《めも》りを照合《しょうごう》すれば、到達《とうたつ》地点は見当がついた。
「最終進入に入る。高度三〇〇、目標正面」
障害《しょうがい》物は見当たらなかった。半キロほど先に落葉した木立があるだけ。道路の反対側、二、三百メートル入ったところに、赤いスレートぶきの屋根が見えた。庭に人影《ひとかげ》がたくさん。手を振《ふ》っているのもいる。
あれがあすなろホームか……?
『マンゴスティン、風向風速変化なし。進路ホールド』
「了解」
『ソロモン基地よリマンゴスティン。レトロモーター・セイフティ解除《かいじょ》』
「ほい、セイフティ解除」
「高度五〇。目標正面……ちょっちずれたけど、このままいく」
半径百メートル以内に着地すれば成功だ。よくばって精度《せいど》を上げるより、成功|条件《じょうけん》を確実に満たそう――ゆかりはそう決めた。給料ぷんの仕事は、きっちりやるぞ。
地表すれすれで、ゆかりはパラフォイルをフレアさせた。機体が前進速度を失った。
最後の二メートルを垂直降下し、さくり、と停止する。下方に向いたペリスコープの視野が白色になった。
「こちらマンゴスティン、いま軟着陸《なんちゃくりく》した。着陸|姿勢《しせい》正常。パラシュートハーネス切断《せつだん》、ビーコンアンテナ展開」
『ソロモン基地よりマンゴスティン、着陸を確認した。成功おめでとう』
ソロモン基地は、もう一言つけ足した。
『続く仕事も、よろしく頼《たの》む』
高揚《こうよう》したゆかりの気分は、一気に沈静化《ちんせいか》した。
「……了〜解」
ハーネスを解《ほど》き、ヘルメットを脱《ぬ》ぐと、茜がふわふわした赤い布《ぬの》のかたまりを渡《わた》した。
「はいゆかり。かぶってね」
「やだ」
「ね、子供《こども》たちのためだから」
「やなもんはやだ!」
「仕事だと割《わ》り切って!」
「こんなの宇宙《うちゅう》飛行士の仕事じゃないっ!」
「聞き分けてよ、ゆかり。飛ぶだけが宇宙飛行士の仕事じゃないってことくらい、船長ならわかるでしょう?」
「そりゃ、そうだけど!」
苦悩《くのう》するゆかりの隣《となり》で、同じものをマツリは嬉々《きき》としてかぶった。
「ほい、ゆかり、似合《にあ》う?」
「…………」
それはサンタさんの帽子《ぼうし》だった。
三人の宇宙飛行士は、サンタクロースの扮装《ふんそう》でプレゼントを配るのだ。
涙《なみだ》がちょちょ切れる思いで、ゆかりは言った。
「お似合いよ。あんたには」
「ねえ……ゆかり、最初はヒゲもつける計画だったのよ?」
茜はこんこんと諭《さと》すのだった。
「ゆかりの希望を受けいれて、帽子だけになったんだもの。このうえわがまま言えないでしょう?」
ゆかりは深々とため息をついた。
「……かぶりゃいいんでしょ」
ハッチを開くと、どっと冷気が流れ込んだ。
あおむけの姿勢から、上縁《うわぶち》のハンドルをつかんで体を外に押し出す。
ざくり、と膝《ひざ》まで雪に沈《しず》んだ。スキンタイト宇宙服の生地《きじ》こしに、ひんやりとした雪の感触《かんしょく》が届《とど》く。
マツリは飛び降《お》りるなり、雪に体をうずめて手足をふりまわした。
「わおー、ゆかり、茜、すごいすごい!」
「ええい、やめーい!!」
茜はいちど外に出てから、機内に上半身を入れて、プレゼントの入った白い袋《ふくろ》を取り出した。
三人はそれぞれひとつ、袋を肩《かた》にしょった。
そばに人はいなかった。有毒な残留《ざんりゅう》燃料《ねんりょう》のガスにふれるおそれがあるので、着陸直後のオービターに近寄《ちかよ》るのは禁《きん》じられている。
しかし、遠くで拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》がわいていた。
あの赤い屋根の家だった。
やはりあそこが、あすなろホームらしい。
「ほらほら、ゆかりも手|振《ふ》って」
茜がうながす。
三人は声のするほうに手を振った。
歓声がひときわ高まった。
ゆかりは真っ先に手をおろし、
「行こう。さっさと終わらせてやる」
そう言って、雪の中をずんずん歩きはじめた。後ろから茜が言った。
「スマイルだからね、ゆかり。スマイル」
これがお手本よ、といわんばかりに、茜は微笑《ほほえ》んでみせた。それから、
「マツリ、道草しないで」
いつもは控《ひか》え目でおとなしい茜が、今回は人が変わったようだった。
どいつもこいつも――ゆかりは苦々しく思った――サンタさんがお似合いだ。
ACT・4
庭に入ると、三人はたちまち子供《こども》たちにとりかこまれた。
子供たちの反応《はんのう》は、さまざまだった。
歓声をあげてとびついてくる子もいれば、もじもじしている子もいる。黙《だま》ってサイン帳を差し出す子もいた。
だが、こちらを見上げる瞳《ひとみ》は、どれも澄《す》んでいた。つぶらで、曇《くも》りのない、まっすぐな瞳だった。
「その服、寒くない?」
男の子が聞いた。
「平気だよ、いまのとこ」
ゆかりが答えると、男の子はパッと仲間のほうをふり向いて、「平気だって!」「いまのとこ平気だって言ったよ!」「おれが寒くないかって聞いたら平気だって!」と、有頂天《うちょうてん》でふれてまわった。
ゆかりは、いくぶん気をよくした。
偽善《ぎぜん》にみちた任務《にんむ》だが、子供たちに限《かぎ》って、嘘《うそ》はないようだ。
院長は小太りな中年の婦人《ふじん》だった。
「まさかほんとに来てくださるなんて。もう夢《ゆめ》みたいですよ」
「私たちも、まさかこんな任務をやるとは思いませんでしたけど」
ゆかりは苦笑《くしょう》しながら、そう答えた。
「子供たちのあんなうれしそうな顔、はじめて見ましたよ。ああ、まだ一人だけ、出てこない子がいるんですけど」
「あの二人が、うまくやるんじゃないかな?」
ゆかりは茜とマツリを示《しめ》した。
茜は子供たちに身をかがめて、あれこれ話しかけていた。お名前は? いくつ? 好きなものはなに?――年下の兄弟がいるせいだろうか、子供の扱《あつか》いは慣《な》れたものだった。
マツリはといえば、まず自分が雪で遊びはじめたので、たちまち子供たちの指導《しどう》を受けることになった。最初の課題は雪ダルマらしい。よかれあしかれ、子供たちと同レベルで遊んでいる。
「ほらマツリ、雪の上に袋ほうり出しちゃだめだってば」
「サラサラだよゆかり。ほれ。ほれほれ」
「こらこらっ、溶《と》けたら濡《ぬ》れるんだから」
「気持ちいいよ、ゆかり。ほれほれ」
「やめーい!」
「じゃあみなさん、中に入りましょう!」
ひとしきり遊んだところで、院長が手を叩《たた》いて号令した。
一行は教室のような部屋に通された。
四つのテーブルはたたんで隅《すみ》に立てかけてあり、人数分の椅子《いす》だけが並《なら》んでいた。壁《かべ》には子供たちの描《か》いた絵が飾《かざ》ってある。遊具の箱にはそりやスケートが投げ込《こ》んであった。部屋の後ろにはビデオカメラやブームマイクを構《かま》えた報道陣《ほうどうじん》がかたまっている。
「みんな集まったかしら?」
「邦夫君がまだです」
「連れてきてちょうだい」
院長がそう言ったとき、後ろの扉《とびら》が開いて、少年が一人入ってきた。少年は黙って、空いた椅子にかけた。
院長はうなずき、「今日は宇宙《うちゅう》飛行士の方が、はるばる南半球のソロモン諸島《しょとう》から来てくださいました。これはとても素晴《すば》らしい出会いです。みなさんはどうかこの出会いを大切にしてください」
打ち合わせでは、ここでプレゼントを配ることになっている。ゆかりは一歩前に出て、
「それじゃ、プレゼントを配ります。人数分あるからね」と言った。
茜のあきれ顔が目に入った。
仕出し弁当《ぺんとう》じゃあるまいし、もう少し表現《ひょうげん》ってものがあるでしょうに、と言いたげだった。
三人は子供たちの間をめぐって、プレゼントを配った。
それは一個ずつ紙袋に入れて、リボンのついたピンでとめてあった。中にはクリスマスカードとSSAのピンバッジ、そして小さな宇宙飛行士のぬいぐるみが入っていた。ぬいぐるみは裁縫《さいほう》の得意な茜が作ったもので、ゆかり・マツリ・茜の三タイプがあった。
しかし――
子供たちが封《ふう》をあけ、いっせいに席を立って見せっこしはじめた途端《とたん》、ゆかりは後侮した。人のことは言えないが――こんなものを贈《おく》ったらどうなるかぐらい、誰《だれ》も考えなかったのか?
というのも、子供にも好みというものがあり、それはまったくあけすけに語られたからだった。
「あっ、俺《おれ》のマツリだ」
「わあ、わたし茜さんよ!」
「げっ、ゆかりだぁ……」
「しぶいんじゃねーの」
「じゃあとっかえようぜ」
「やだよ」
マツリを除《のぞ》く二人は、ひきつった笑《え》みを顔に貼《は》りつけて、時がすぎるのを待った。
広報部のリサーチでは、年少者間ではゆかりの人気が高いとされていた。ゆかりは最初の飛行士であり、SSAの看板《かんぱん》だった。野球でいえばエースで四番にあたる。
だが、さきほどの対面からの短時間のうちに、評価《ひょうか》は変わったらしい。つまるところ、無愛想《ぶあいそう》では子供に好かれないのだ。
「あ、あらあら」
院長が汗《あせ》をうかべながら、ゆかりに言った。
「こ、子供たち、ほんとにうれしそうだわ……」
「明暗が分かれたように見えますけど」
「そそ、そんなことは――ほほほほ」
完長は笑ってごまかしたが、
笑ってごまかせない事態《じたい》になったのは、そのあとだった。
ACT・5
その時まで、三人の慰問《いもん》はなごやかに進行していた。茜は歌をうたい、マツリはタリホ族の踊《おど》りを披露《ひろう》した。敬遠《けいえん》されがちなゆかりにも、宇宙の話を聞きにくる子はたえずいた。
そんな中で、あの遅《おく》れて入ってきた少年だけは、ふさいでいた。プレゼントを開けようともせず、歌にも加わらない。
院長も、まわりの子供《こども》たちも、彼にかまおうとしなかった。ゆかりは「地元|勢《ぜい》がかまわないなら、自分も右へならえだ」と決め込んでいた。機嫌《きげん》の悪いのが一人や二人いてもおかしくなかろう。
しかし茜は気になるらしく、しきりに様子をうかがっていた。それから、ついに決心したのか、少年の前に行った。
「ええと、邦夫君だったかな。こちらへ来て、いっしょにうたわない?」
邦夫はうつむいたまま、首を横にふった。
茜は微笑《ほほえ》みを絶《た》やさなかった。
「あのぬいぐるみ、私が縫《ぬ》ったんだけど、男の子にはうれしくなかったかな?」
「…………」
「だめね、私ったら。増り物するのに、自分が喜ぶものを選ぶくせがあって」
「…………」
「邦夫君は何がよかったかな? かわりのもの、後で送ってあげようか?」
茜は辛抱《しんぼう》強く話しかけたが、邦夫は答えなかった。
その時、そばにいた女の子が言った。
「邦夫ね、ゆかりのファンなんだよ。いつも言ってるもん。自分もゆかりみたいな――」
「るせえ!」
邦夫は真っ赤になって立ち上がり、その子を突《つ》き飛ばそうとした。女の子はきわどくかわした。
「邦夫、やめなさい!」
院長が叱《しか》ると、女の子は勢《いきお》いづいて言った。
「なによっ、プレゼントだって、すっごく欲《ほ》しがってたくせに!」
「うるせえ! こんなものいらねえや!」
邦夫は包みを床《ゆか》に叩《たた》きつけた。
大きな音がして、リボンがちぎれた。
茜は蒼白《そうはく》な顔で、床の包みを見つめていた。
それを、ゆかりが拾《ひろ》い上げた。
ゆかりはつかつかと邦夫の前に行って、包みを突き出した。
「受け取んなさいよ」
「な……なんだよ」
「これは茜が、寝《ね》る時間|削《けず》って、あんたみたいな子を元気づけようとして作ったんだ。床に棄《す》てていいもんじゃないんだ」
「ゆっ、ゆかり、いいの。それはいいの!」
茜は狼狽《ろうばい》して、邦夫とゆかりの間に割《わ》って入った。
「ね、何がいいかな。邦夫君の欲しいもの教えてちょうだい。ね?」
邦夫は燃《も》える目で、茜をにらんだ。
「プレゼントなんかいらねえや!」
邦夫は怒鳴《どな》った。
「親父とおふくろよこせ!」
「――!」
絶句《ぜっく》する茜に、邦夫はたたみかけた。
「どうなんだよっ! 可哀想《かわいそう》って思うなら、連れてこいよ!」
部屋は静まり返った。
最初に動いたのは、ゆかりだった。
立ちすくむ茜を押《お》しのけ、ゆかりは邦夫を正面に見据《みす》えた。
直後、その右手が一閃《いっせん》した。
パパーン!!
びっくりするような音が出た。
完全無欠の往復《おうふく》ビンタだった。
片道《かたみち》でも充分《じゅうぷん》な威力《いりょく》だったが、次の動作にそなえる関係で、ゆかりは往復を好む。
「甘《あま》ったれんじゃないよ、少年!」
怒《いか》りに震《ふる》える邦夫に、ゆかりは頭ごなしに怒鳴った。
「親のいないのを切り札にすりゃ、こっちが言いなりになるとでも思ってんの? いないものはいないんだ、誰にもどうにもできないんだよ!」
邦夫は目を真円に開き、口をぱくぱくさせた。
「な……んなこと、言っていいのかよ」
「言えるわよ。ためになることだからよーく聞きなさい。自分の不幸が売り物になるのは子供《こども》のうちだけなんだ。あんたが大人になったら、自分で生きてくしかないんだ。親がいようがいまいが関係ないんだ」
邦夫はうつむいて、小刻《こきざ》みに震えていた。
茜はおろおろとゆかりにすがった。
「おねがい、ゆかり、もうやめて!」
「茜は黙《だま》ってな」
ゆかりは邦夫に向き直った。
「これからあんたが考えなきゃいけないのは、何になるかってことなんだ。どんな仕事につくか。あこがれるだけじゃだめ。妥協《だきょう》するのも早い。望む仕事につくためには何が必要か、よーく考えて実現《じつげん》してくんだ。
仕事についたからって、まだゴールじゃない。ここは俺にまかせろって言えるだけの腕《うで》を磨《みが》くんだ。親なんてどうせ先に死ぬんだ。いい人生を送れるかどうかは、結局仕事で決まるんだよ」
一息に言って、ゆかりは相手の出方を待った。
たっぷり三十秒ほど、邦夫は凍結《とうけつ》していた。
それから、ふいに顔をあげた。
「お、おれ――」
両目の涙《なみだ》をふり払《はら》うように、邦夫は叫《さけ》んだ。
「おれ、宇宙《うちゅう》飛行士になりたいんだ! ゆかりみたいな宇宙船の船長になりたいんだ!」
邦夫はゆかりの胸《むね》に顔をうずめた。
「よおし……よしよし。悪くない選択《せんたく》だよ」
ゆかりは邦夫の背中《せなか》をとんとん叩きながら言った。
「あんたが甘ったれない限《かぎ》り、あたしも手を貸《か》すよ。操縦《そうじゅう》マニュアルでも送ろうか?」
ゆかりは驚《おどろ》いた。その言葉を聞くなり、邦夫がバネのように立ち置ったからだ。
「じゃあ、それもいいけど――」
「それもいいけど?」
ACT・6
十分後、ゆかりと茜は、雪原に鎮座《ちんざ》したオービターの外に立っていた。
子供たちと回収《かいしゅう》チーム、それに予定外の行動に色めきたつTVスタッフが周囲を取り囲んでいた。
茜がささやいた。
「でもゆかり、これって規則違反《きそくいはん》じゃ」
「しょうがないでしょ。勢《いきお》いでいいって言っちゃったんだもん」
「ゆかり、次は?」
半開きにしたハッチの中から、邦夫がうながした。邦夫は得意満面で船長席に身を沈《しず》めていた。隣席《りんせき》にはマツリが入って、副操縦士を担当《たんとう》している。
「通話音量プラス2。無線機のボリュームを二|目盛《めも》り上げるの」
「無線機ってどれ?」
「ほい、これこれ」
マツリが教えた。
「これか! ゆかり、それから?」
「APUスタート。返事は『作動音確認』」
「作動音確認!」
「よし、もう十秒前だぞ。十―九―八―七――メインブースター点火――四―三―二―固体ブースター点火、リフトオーフ!」
「音は」
「ごごごごごご……」
「揺《ゆ》れないの?」
「揺れるわよ、そりゃあもう」
ゆかりは両手で外板のハンドルをつかんで、力任《ちからまか》せにゆすった。
「この程度《ていど》?」
「もっと! ほら、茜も手伝って!」
「はいはい」
茜は苦笑《くしょう》した。
「結構《けっこう》お人好《よ》しなんだから……」
「なんか言った?」
「ううん」
「仕事なんだ。これも宇宙飛行士の仕事なんだ。いいから揺すれ!」
もちろん、志願者《しがんしゃ》が邦夫ひとりですむわけはなかった。
赤い帽子《ぼうし》をかぶった飛行士たちは、その日いっぱい、汗《あせ》だくになってオービターを揺すったのだった。
[#改ページ]
第三話 対決! 聖戦士《せいせんし》VS女子高生
[#改ページ]
ACT・1
「だからぁ、微妙《ぴみょう》にタレ目なほうが籠尾《かごお》で、微妙に眉《まゆ》の濃《こ》いのが辻井《つじい》なんだってば」
森田《もりた》ゆかりはチームのリーダーで、私語の最中もリーダーシップを発揮《はっき》し続ける。
「でも辻井は先月|抜《ぬ》けたでしょう?」
「うそ、そんなの聞いてない」
「ゆかりが言っているのは佐藤《さとう》だと思う。ちょっと南方|系《けい》の顔立ちの子でしょう?」
「なんで茜《あかね》が詳《くわ》しいのさ」
「紅白《こうはく》にゲスト出演《しゅつえん》する話があったでしょう。そのとき調べたの」
三浦《みうら》茜は高校を退学《たいがく》するまで学年トップの優等生《ゆうとうせい》だった。多くの優等生がそうであるように、心|優《やさ》しく礼儀《れいぎ》正しく、そしてなんでも知っている。
話題は変遷《へんせん》の激《はげ》しいアイドルグループ「ハプニング娘《むすめ》」のメンバー識別《しきべつ》方法だった。
「ほい、ときどき歌詞を間違《まちが》えるほうが辻井だね」
ゆかりはぎょっとしたようにもう一人の娘、同い年の異母妹《いぼまい》、マツリを見た。
「なんでわかる?」
「辻井だけ口の動きがちがうのだよ、ゆかり」
「おまえも詳しいな」
「紅白歌含戦のビデオで見たんだよ、ゆかり」
マツリはソロモン諸島《しょとう》のジャングルで生まれ、最近まで先住民族タリホ族のシャーマンの卵《たまご》として暮《く》らしていた。混血《こんけつ》のせいか三人中最もグラマーだ。シャーマンは部族社会における裁判《さいばん》官みたいなものだから、まだ十六|歳《さい》のくせに妙《みょう》に人間通なところがある。
眼下《がんか》を中央アジアの山々が流れてゆく。弧《こ》を描《えが》いてチベット高原をとりかこむ天山山脈とヒマラヤ。霊山《れいざん》としてあがめられる山塊《さんかい》も、この高度ではしわくちゃにした薄紫《うすむらさき》の紙のように見える。
三人がいるのは高度四百キロの軌道《きどう》を周回する、|国際宇宙ステーション《ISS》の外。
ISSの形はとてもシンプルだ。全長百二十メートルのセントラル・トラスという背骨《せぼね》に、あらゆるモジュールがとりつけてある。
トラスの両端《りょうはし》に合計十二|基《き》の太陽電池パドルが直角にのびていて、全体はH型に見える。
人間が居住《きょじゅう》するモジュールはビール缶《かん》のような形をしていて、トラスの中央にごちゃごちゃと連結されている。
三人はいまセントラル・トラスの末端《まったん》に向かっているところ。
セントラル・トラスの側面にはレールがあって、その上を大きなロボットアームが台座《だいざ》ごと移動《いどう》できる。|モバイル・サービス・ユニット《MSS》という、港にある荷役《にやく》用クレーンみたいなものだ。
三人はMSSにつかまって移動していた。
真空の宇宙《うちゅう》空間だからもちろん宇宙服を着ているが、それはNASAが使っているような着膨《きぶく》れするものではない。三人が着ているのは|ソロモン宇宙協会《SSA》の誇《ほこ》る先進テクノロジー、厚《あつ》さ二ミリのスキンタイト宇宙服――早い話が全身タイツみたいなものだ。
スキンタイト宇宙服は真空中で温度と圧力《あつりょく》を保《たも》ち、汗《あせ》だけを透過《とうか》する魔法《まほう》の生地《きじ》で作られている。それは皮膚《ひふ》に密着《みっちゃく》することによって機能《きのう》するので、その下には下着もつけていない。このセクシーな宇宙服のせいもあって、小柄《こがら》ながらも良好なプロポーションを持つ三人娘はハプニング娘など及《およ》びもつかない国際《こくさい》的アイドルの地位にある。
見かけだけでなく、彼女たちは世界中の宇宙計画で引っ張《ぱ》りだこだった。NASAやロシアの飛行士たちよりはるかに機敏《きびん》で、狭《せま》いところに入って行け、あっというまに仕事を片《かた》づけてしまう。
少女であることは、ゼロG環境《かんきょう》ではハンデにならない。世界中の選《よ》りすぐりの宇宙飛行士たちと互角《ごかく》以上にやりあえる。
ゆかりはこの仕事のそういうところが気に入っていた。
「ははーん、ここかー」
今回のトラブルは、太陽電池パドルの交換《こうかん》作業中に起きた。
一週間前、新しいパドルは折り畳《たた》んだ状態《じょうたい》で貨物ロケットで届《とど》けられた。ステーションの乗組員は船内からMSSを操《あやつ》って交換作業をしていた。
ところが操作《そうさ》を誤《あやま》って、新しい太陽電池をトラスの途中《とちゅう》に引っかけてしまった。ロボットアームでは外せないし、乗組員は原則《げんそく》として船外活動をしない。それでゆかりたちが緊急《きんきゅう》出動することになった。
ゆかりは太陽電池パドルの根元と、それが食い込《こ》んだトラス材の様子を眺《なが》めた。
「ふーん。こことそこがつっかえてるんだな。よし、マツリはそっちの端《はし》押《お》さえてて。茜はパドルのアクチュエータ部をサポート」
「ほい」「はい」
ゆかりはパドルの中央にロープを結びつけ、トラスにまたがって体を固定し、両腕《りょううで》で太陽電池パドルを保持《ほじ》した。
「いくよ」
トラスを結含するジョイントのリリースボタンを押し込む。トラスの一本が抜《ぬ》けると、太陽電池パドルは拘束が解けて、ゆらりと動いた。
「よし、はずれた」
『助かったよ。あとはこっちでなんとかする』
ステーション・コマンダーのカプラン氏が無線で言った。ロボットアームのカメラで見守っていたのだろう。
「いいよ、このまま取り付けもサービスしちゃうから」
『できるかい?』
「カプランさん、仕事|忙《いそが》しいんでしょ? こっちでやったほうが早いし」
『そうかあ、じゃあ甘《あま》えちゃおうかなあ」
「まかしといて」
ゆかりはほかの二人に指示《しじ》した。
「マツリと茜は端っこまで行って、茜だけ体を固定して」
「それを投げるの?」
「そおっとやるから平気だって」
太陽電池パドルは折り畳まれていても十二メートルの長さがあり、質量《しつりょう》は一トンになる。
無重量状態でも慣性《かんせい》はそのまま存在《そんざい》するから、下手《へた》に動かすと止められなくなる。
経験豊富《けいけんほうふ》なゆかりは心得ていた。
宇宙空間で重いものを扱《あつか》うときは、はじめに運動エネルギーをため込まないことだ。スリーポイント・シュートをほうりこむ気持ちで、
「せーの、ほいっ……」
八メートルほどの距離《きょり》をたっぷり二分ほどかけて、太陽電池パドルは飛んだ。
マツリと茜がそれを受け止めると同時に、ゆかりもロープを引いて速度を殺す。
二人はパドルを巧《たく》みに誘導《ゆうどう》して、人間の胴体《どうたい》ほどもあるシャフトをトラス末端《まったん》のジョイントに差し込んだ。固定ラッチが噛《か》み合って、両者はしっかりと連結された。
ロープをほどくと、ゆかりはインカムでカプラン氏に連絡《れんらく》した。
「こちらゆかり。太陽電池パドルの固定|完了《かんりょう》。展開《てんかい》してみて」
『もう終わったのかい? まったく君たちには驚《おどろ》かされるなあ! じゃあ展開させるよ』
三人は少し離《はな》れて見守った。
青い地球をバックに、テニスコートほどのひろがりが繰《く》り出されてゆく。屏風《びょうぶ》のように畳まれた太陽電池がほどけて、三十メートルも伸《の》びてぴんと張りつめるところは、ちょっとした魔法《まほう》だった。
「水中花みたい……」
茜がうっとりと言った。
「ほい、水中花ってなに?」
マツリが訊《き》く。
「水にひたすと、ふわっとふくらむ花よ」
「ワカメみたいに?」
「そう、ワカメみたいに」
『展開は完壁《かんぺき》だよ。MSSに乗ってくれ』
カプラン氏が言った。
三人がロボットアームの根元につかまると、MSSは居住《きょじゅう》モジュールに向かって滑《すべ》るように動き始めた。トロッコに乗っている気分だった。
ACT・2
ISSはこの半年あまりですっかり様変わりしていた。
ここは本来、科学実験をするところだったのだが、所期の成果が出せずにいた。ちょっとした実験にも巨額《きょがく》の費用がかかるので、成果が約束されなければ予算が出ない。準備《じゅんび》に何年もの期間がかかるので、実施《じっし》した頃《ころ》には旬《しゅん》をすぎている。これでは本来の意味での実験ができない。
その実態《じったい》が判明《はんめい》すると、ISSは関係各国から愛想《あいそ》を尽《つ》かされてしまった。
そこでISSは転身を迫《せま》られた。関係国が出資《しゅつし》する一|企業《きぎょう》として民営化《みんえいか》されることになり、みずからを存続させるために、みずからで稼《かせ》ぐことになったのだ。
ISSは、研究モジュールを人工|衛星《えいせい》の組立工場に模様替《もようが》えした。プレハブ化した人工衛星のパーツを運び込み、ここで組み立て、最終調整して、無人タグボートで目標|軌道《きどう》に送り出す。ISSと異《こと》なる軌道に投入するには、衛星をまとめて高度十万キロ付近まで運んでから順次投げ落とす方法がとられた。この高度まで遠ざかれば軌道面の変更《へんこう》に必要なエネルギーが激減《げきげん》するからだ。
これまでの人工衛星は地上で組み立てるから、打ち上げ中の激《はげ》しい振動《しんどう》や音響《おんきょう》に耐《た》える強度が必要だった。地上で宇宙《うちゅう》環境《かんきょう》を模した試験をするのにも巨大《きょだい》な施設《しせつ》と莫大《ばくだい》な費用がかかった。衛星の組み立てを宇宙でやれば、そうしたコストが不要になる。プレハブ化した衛星の部品は、まとめて何十機ぶんも運べる。
人工衛星は劇的《げきてき》に安く、小型軽量に作れるようになった。何百億もかかっていたものが数億ですむようになり、その差額《さがく》がISSの収入《しゅうにゅう》になった。
この転身によってISSは生き延《の》びた。
七人の従業員《じゅうぎょういん》が常駐《じょうちゅう》して、人工衛星の基板《きばん》やセンサーをバスボードに差し込んだり、電線を結んだり、外の宇宙環境にさらして動作テストをしていたりする。まるでATコンパチのパソコンを組み立てる町工場のようだった。
そこで働く人たちにも、いわゆる宇宙飛行士らしさがない。もっぱら長期の缶詰《かんづめ》生活に不平をもらさず淡々《たんたん》と作業を続けられる才能《さいのう》によって選ばれている。
だからISS自身の大がかりな改築《かいちく》やメンテナンスは“プロ”の宇宙飛行士が出張《しゅっちょう》しておこなう。SSAのロケットガール三人|娘《むすめ》もときどき出向いていって、ちょっとした土木作業をするのだった。
今回は到着《とうちゃく》してそのまま船外作業に入ったから、まだステーションに入っていない。
三人はいったん自分たちの船に戻《もど》って、コンテナボックスを抱《かか》えてエアロックに入った。
内側のドアを開けると、どっと歓声《かんせい》が上がった。
エアロックの先の円筒《えんとう》空間、ノード3モジュールに七人の乗組員が勢揃《せいぞろ》いしていて、中には手作りの日の丸の小旗を振《ふ》っているのもいる。
「やあ、いらっしゃい。助かったよ、ほんとに」
つなぎの作業服を着たカプラン氏が挨拶《あいさつ》する。銀縁《ぎんぶち》眼鏡《めがね》をかけて、貧相《ひんそう》でひょろりとした、いかにも技術者《ぎじゅつしゃ》風のおじさんだ。
「おやすい御用《ごよう》でーす。でもって恒例《こうれい》のフルーツ持ってきたからね」
ゆかりは気密《きみつ》コンテナの蓋《ふた》を開いてみせた。
また歓声があがった。
バナナ、パパイヤ、マンゴー、パイナップル、それにココナッツミルクやジュースのボトル。缶《かん》ビールも下の方に隠《かく》してある。
甘《あま》い香《かお》りがひろがり、それまでたちこめていたプラスチックと絶縁材《ぜつえんざい》と汗《あせ》の臭気《しゅうき》を吹《ふ》き払《はら》った。
いかに忍耐《にんたい》力のある彼らでも、新鮮《しんせん》な食べものには飢《う》えている。ソロモン宇宙基地は南緯《なんい》八度の熱帯にあるから、ISSを訪問《ほうもん》するときはトロピカルフルーツを差し入れるのが常《つね》だった。民営化《みんえいか》でNASA式のややこしい食品|検査《けんさ》が廃止《はいし》されたから、打ち上げの朝に市場で仕入れたフルーツが運ばれるのだった。
細いの、太いの、白いの、黒いの、黄色いの。
さまざまな容姿《ようし》の作業員たちがフルーツにかぶりつく様子を見て、ゆかりは目を細めた。ゆかりはいまのISSが好きだった。
ひと頃より、ずっと人間の居場所《いばしょ》らしくなった気がする。宇宙空間に浮《う》かんだちっぽけな泡《あわ》のような空間だが、いつも人がいて、みずから稼いで自立している。
やっぱり人間も施設も、自分のことは自分で決めなきゃだめだよな、とゆかりは思う。
自分も茜もマツリも、親元を離《はな》れてソロモン基地で募《く》らしている。すったもんだの末に高校をやめてきたから、学歴は中卒のままだ。
それがひょんなことから宇宙飛行士になり、人類の最前線で働いている。ときどき故郷《こきょう》の横浜《よこはま》が恋《こい》しくなるが、いまの暮らしに不満はない。誰《だれ》かが押しつけた道じゃないから、いつも気を張《は》っていられる。
飢《う》えを満たしたあと、作業員たちは歌やジャグリング芸を披露《ひろう》し始めた。
ロシア女性《じょせい》のジェンヤがふわふわ漂《ただよ》ってきて、英語で言った。
「あなたたち、いつまでいるの? 明日は神舟《しんしゅう》十号が来るのよ」
「うん、聞いてる。でも今回は半日コースなんだ」
「そう。残念ねえ」
「神舟ってことは、こんどは中華《ちゅうか》の差し入れ?」
「そう、そうなのよう!」
ジェンヤは顔を真っ赤にして笑った。
神舟は中国が新開発した有人宇宙船だ。ロシアのソユーズ宇宙船をお手本にしているが、ひとまわり大きくて進歩した設計になっている。
神舟十号はドッキングの実績《じっせき》をつけるために、初めてISSを訪問する。ゆくゆくはステーションの人員交代を請《う》け負うつもりらしい。
ACT・3
十時間後。
ゆかりたちが帰還《きかん》凖備《じゅんび》をしていると、カプラン氏がやってきた。
「ちょっとお知恵《ちえ》を拝借《はいしゃく》したいんだけど――あれはどういうことかなあ?」
「ん?」
「神舟十号なんだが、打ち上げ以来|連絡《れんらく》を絶《た》ってるんだ」
「えっ?! 墜《お》ちたの?」
「いや、NORADが軌道《きどう》追跡《ついせき》してるんだが、飛行は正常《せいじょう》だ。ただ、何度|呼《よ》んでも応答《おうとう》がない」
「無線機が故障《こしょう》したのかな? CNSAはなんて言ってるの?」
CNSAは中国のNASAみたいな組織《そしき》だ。
「彼らも無線機の故障を疑《うたが》ってる。これでドッキングがうまくやれるかねえ?」
「どうだろ。神舟って自動ドッキングシステムがあるんでしょ?」
「ああ。それがだめでも手動|操縦《そうじゅう》でやれるはずだが、そうなると音声で通信したいところだね」
宇宙ステーションにとって、ドッキングは危険《きけん》な作業だ。たとえ低速でも八トンの神舟に体当たりされてはかなわない。
「わかった。ドッキングはあたしたちでサボートするよ。神舟がランデヴーに入ったら、こっちで横付けして、誘導《ゆうどう》してみる」
「頼《たの》めるかい?」
「まかして。首に縄《なわ》つけてでも引っぱってくるから」
ゆかりは発令所の無線機を借りて、ソロモン宇宙基地《うちゅうきち》と相談した。帰還を十二時間|延期《えんき》して、回収《かいしゅう》船の位置を変更《へんこう》させる。
二時間後、神舟がISS近傍《きんぼう》に現《あらわ》れた。
肉眼《にくがん》では光点にしか見えないが、望遠鏡でその形がわかった。串《くし》だんごのような胴体《どうたい》から四|枚《まい》の太陽電池パドルを張り出している。
「変だわ。ドッキングレーダーを展開《てんかい》してない」
茜が双眼鏡《そうがんきょう》をかまえたまま言った。
「見てわかるもんなの?」
「小型のパラボラアンテナを張り出すはずだから」
優等生《ゆうとうせい》はなんでも知っている。
神舟十号はしだいに接近《せっきん》してきた。しかし動きは上下左右に振《ふ》れていて、ずいぶん無駄《むだ》がある。
ついに一キロメートルまで接近したとき、神舟は頭部をぴたりとこちらに向けた。円柱形の胴体の背後《はいご》で白い燃焼《ねんしょう》ガスがコロナのように広がる。
「なに、軌道変更エンジンを噴射《ふんしゃ》した?!」
微調整《びちょうせい》に使うバーニアエンジンではない、ずっと大出力の噴射だ。この距離《きょり》で使うエンジンではない。
神舟はかなりの速度でこちらに向かってきた。
が、徐々《じょじょ》に進駱をそらし、ISSの百メートルほど上を通過《つうか》した。
「おいおい、ずいぶん乱暴《らんぼう》な操縦だなあ」
カプラン氏が言う。
「てゆーか、まるで素人《しろうと》だよ」
ずいぶん推進剤《すいしんざい》を無駄にしている。無線機だけでなく、操縦|系統《けいとう》も故障しているのだろうか。
ISSへのドッキングはV−VAR、R−VARなどの決まったパターンがあるが、神舟の挙動はどれにもあてはまらない。なんだか直感に頼《たよ》って操縦しているような感じだ。
しかし宇宙船の軌道運動は直感に反している。軌道後方からISSに向かって加速すれば、速度が上がったぶん船は上にそれる。上昇《じょうしょう》すると速度が落ちるから、いったん追い越《こ》した神舟はやがてISSに追い越される。
「まさかなあ……」
「まさかって?」
茜がこちらを向いた。
「いや、なんとなく」
もし彼らが直感で操縦しているとしたら。
最後の噴射は、まるでこちらに体当たりしようとしていたみたいなんだが……。
それから。二時間ほど、神舟はISSのまわりを行ったり来たりしていた。
CNSAの管制《かんせい》センターに問い合わせてみると、彼らも途方《とほう》に暮《く》れていた。無駄な噴射をやりすぎて、そろそろ燃料切れになるだろうという。
「やっぱりあたしらの出番か」
ゆかりは言った。
「カプランさん、うちの船で神舟を曳航《えいこう》するとなると、あとで燃料|補給《ほきゅう》しなきゃいけないかもしれないけど、それはいい?」
「ああ。もちろん提供《ていきょう》させてもらうよ」
ISSはいまや人工|衛星《えいせい》のガソリンスタンドも兼《か》ねているから、スタンダードな燃料はひととおり補給できる。
「よおし、出かけるよ、茜、マツリ」
「ほい」「はい」
三人はエアロック・モジュールに移動《いどう》して、ヘルメットとバックパックを装着《そうちゃく》した。
自分たちの船はすぐ外に繋留《けいりゅう》してある。
SSAのオービター『マンゴスティン』は円錐形《えんすいけい》をしていて、最大直径二メートル。軽自動車くらいの小型宇宙船だ。
船にエアロックはなく、天窓《てんまど》部分のハッチをウイングドアのように開いて出入りする。
左の船長席にゆかり、右にマツリが着席し、後部中央に茜が起立|姿勢《しせい》で搭乗《とうじょう》する。極限《きょくげん》まで軽量化するため、小柄な三人でも体を触れ合わずにはいられないほど船内は狭い。
ゆかりは動力系統のスイッチを次々に入れた。
各部ウォームアップ開始。
セルフチェック開姶。通信リンク接続。
「こちらSSAマンゴスティン、交信チェック」
『ISSよリマンゴスティン、音声|明瞭《めいりょう》』
発令所からカプラン氏が応答《おうとう》する。
ゆかりは船内の二人に言った。
「キャビンエア、真空のままでいくよ。どうせすぐに出入りするから」
「了解《りょうかい》」「ほい」
船内|環境《かんきょう》とハッチ閉鎖《へいさ》のアラームを解除《かいじょ》。
全システム・グリーン。
マツリが|ロボットアーム《RMA》の操縦桿《そうじゅうかん》に手をかけ、調子を見る。
「RMA、いいね」
「了解。ドッキング、リリース」
「ほい」
ISSの保持《ほじ》ハンドルからアームを離《はな》す。
「マンゴスティン発進」
ゆかりは操縦桿を小刻《こきざ》みに倒《たお》してバーニアエンジンを噴射《ふんしゃ》させた。窓の外をISSのセントラル・トラスが流れてゆく。
「ISSクリア。ローテーション、右へ百四十度」
潜望鏡《せんぼうきょう》で神舟十号を追尾《ついび》していた茜が指示《しじ》した。
「動いてる? あっちは」
「ううん。相対速度四メートルで漂流中《ひょうりゅう》」
「やっぱり燃料《ねんりょう》切れかな」
船体が回転して、神舟が視野《しや》に入った。
「自転はしてないな。ええっと、上に一発でいいかな? 茜、誘導《ゆうどう》して」
「うん、トランスレーションで上にひとつ」
ぷしゅっ。コントロールバルブが作動して、バーニア噴射が一閃《いっせん》する。
「ローテーション、右三十度」
ぷしゅっ。ぷしゅっ。
「トランスレーション、左にひとつ」
ぷしゅっ。
茜は軌道《きどう》ナビゲーションの天才だ。マンゴスティンは燃料を一滴《いってき》も無駄《むだ》にせずに神舟との距離《きょり》をつめてゆく。
神舟の小さな丸窓に、人影《ひとかげ》が見えた。
「ほーい!」
マツリが無造作にハッチを開いて上半身を乗り出し、手を振った。大きな胸がふるふる揺《ゆ》れる。
「ほーい、ほーい!」
窓の人影が、あわただしく入れ替《か》わった。よく見えないが、驚《おどろ》いているような感じだ。
ゆかりは国際《こくさい》緊急波《きんきゅうは》で呼《よ》びかけた。
「SSAマンゴスティンより神舟十号、ニーハオ。聞こえたら手を振って」
反応《はんのう》がない。
「受信もできないんだ。いいや、問答無用で曳航《えいこう》しよう」
ゆかりはマンゴスティンを神舟の船首にまわした。マツリがRMAで相手をつかむ。
操船を茜にまかせ、マツリと二人で船外に出てロープで両者を結びつける。
神舟の乗組員は目をまんまるにして窓にはりついていた。
ゆかりはOKのサインをしてみせながら、かすかな違和《いわ》感を覚えていた。影になってよく見えないが、中国人にしては顔の彫《ほ》りが深い感じだ。表情《ひょうじょう》に感謝《かんしゃ》や安堵《あんど》もうかがえない。
まあ広い国だからいろいろあるんだろうな、とゆかりは一人《ひとり》合点《がてん》した。
「連結完了。茜、曳航はじめて」
「了解」
軌道|変更《へんこう》エンジン噴射《ふんしゃ》。
一体となったマンゴスティンと神舟は、じりじりと動き始めた。もっと盛大《せいだい》に噴《ふ》かしたいが、止めるときにも同じだけ燃料を使うから、浪費《ろうひ》はできない。ISSへ戻《もど》るまえにガス欠をおこしたら、こっちまで宇宙《うちゅう》の迷子《まいご》になってしまう。
三十分ほどかけてISSのドッキングポートの前に曳航し、両船の結合を解《と》く。三人はリスのように働き回って、神舟の頭部にロープをかけて曳《ひ》き、人力でドッキングを完了《かんりょう》させた。
「さーて、どんなへっぽこが操縦してたのか、ご対面といこーか」
「ほい、いい男だといいねえ」
「筋肉《きんにく》バカだよ絶対《ぜったい》」
三人はエアロックに入った。
「でもゆかり、笑ったりしちゃかわいそうよ」
茜が言った。
「あの人たちドッキングは初めてなんだし、きっとすごく落ち込《こ》んでると思う」
「でもガス欠になるまで行ったり来たりってのはどーよ?」
「ゆかりだって最初は緊張《きんちょう》したでしょう?」
「昔のことは忘《わす》れたな」
ヘルメットとバックパックを脱《ぬ》いでロッカーにしまい、ノード3に入る。ここはドッキングポートにも直結している。
カプラン氏が先に来ていて、ハッチの開閉ハンドルをまわしていた。
ハッチが開いた。
黄褐色《おうかっしょく》の船内宇宙服を着た男が三人、トンネルを通って入ってきた。
カプラン氏は両手をひろげ、
「二ーハオ! 国際宇宙ステーションへよ……」
そこで絶句《ぜっく》した。
三人の男が、そろって大口径の拳銃《けんじゅう》をこちらに向けたからだった。
ACT・4
男たちは、どう見ても中国人ではなかった。モンゴル系《けい》でもない。シルクロードをもっと西の方に行った顔立ちだ。
そろって彫りが深く、浅黒く、黒い顎鬚《あごひげ》を生やしている。
最初に現《あらわ》れたのは、リーダー格《かく》らしい。鉈《なた》で刻《きざ》んだような険《けわ》しい顔立ちで、ちょっとクリント・イーストウッドに似《に》ている。
その後ろから、若《わか》い二人が左右に進み出る。ゼロGに慣《な》れていないらしく、もたもたと手すりを探《さぐ》っている。しかし右手は拳銃から離《はな》そうとしない。
「全員をここに集めろ」
リーダー格が訛《なま》りのある英語で言った。
「ええと、待ってください。いきなり命令されても――せめて自己《じこ》紹介《しょうかい》くらいしていただいたほうが、何かと円滑《えんかつ》でしょう。あなたがた、CNSAの宇宙飛行士ですよね?」
カプラン氏が尋《たず》ねた。
「我々《われわれ》はベラモークの聖戦士《せいせんし》だ」
「べ……ベラモークの聖戦士? どこの国からおみえになったんです?」
「サゴヤスタン」
「サゴヤスタン?」
「あの、確《たし》かインドと中国の国境《こっきょう》あたりにそんな勢力《せいりょく》があったような」
茜がささやいた。
「正式な国家じゃなくて、単なる“勢力”だと思うんですけど」
「はあ。私はステーション・コマンダーのカプランと申します。失礼ですがお名前は?」
「ジムシャ」
「そちらのお二方は? お名前を」
「アミルソ」「ラカイム」
二人はジムシャよりひとまわり若く、まだ十代のあどけなさが残っている。二人ともひどく興奮《こうふん》した様子でこちらを見ている。
「その、サゴヤスタンのベラモークの聖戦士であるみなさんが、なぜ、どうやってここに」
「これ以上話すことは――」
対話を打ち切ろうとするジムシャの脇《わき》から、ラカイムが突然《とつぜん》かん高い声で叫《さけ》んだ。
「僕《ぼく》らは打ち上げ前、中国の飛行士とすり替《か》わったんだ! 飛行士はバスに乗ってロケットへ行く。途中《とちゅう》でバスを止め入れ替わる」
そんな馬鹿《ばか》な、とゆかりは思ったが、すぐに考え直した。
中国のロケット発射施設がどんなものか知らないが、管理棟と発射台は何キロも離れているのが普通《ふつう》だ。死角になる場所で警備《けいび》車輌《しゃリょう》もろともすり替われば、可能《かのう》かもしれない。
宇宙服を着てしまえば顔は見えにくくなる。警備に隙《すき》があればそんなことが可能なのかもしれない。神舟に搭乗《とうじょう》してしまえば、交信|内容《ないよう》は決まり切ったものだし、音声もさほどクリアではないからごまかせるのかもしれない。そして打ち上げ後は無線機を止めてしまえばいい。
ISSの近くまではコンピューターが神舟を運んでくれる。だが、最後のところで人間の操作《そうさ》が必要になったにちがいない。まんまとすり替わったからには中国の宇宙飛行のプロセスをかなり研究したのだろうが、シミュレーターで操縦《そうじゅう》訓練したとも思えない。
「それで、あなたがここに来た目的は?」
「このISSを破壊《はかい》するに決まってる!」
「どうしてまた、そんな」
「これ以上話すことは――」
対話を打ち切ろうとするジムシャの脇から、こんどはアミルソがかん高い声で叫んだ。
「邪悪《じゃあく》なアメリカのシンボルを壊《こわ》すんだっ!」
「よーするにテロリストじゃん」
ゆかりが言った。
「ちがう! 僕らはベラモークの聖戦士だ!」
「寅戦布告《せんせんふこく》もせずに物を壊すやつをテロリストっていうんだよ」
「聖戦士の戦いは神の意思だ!」
「ゆかり、ゆかり」
マツリが腕《うで》を引いた。
「ゆかりはあまり話さないほうがいいね」
カプラン氏が対話を再開《さいかい》した。
「ですが、アミルソさん、ISSをアメリカ主導《しゅどう》で建造《けんぞう》したのは過去《かこ》のことで、いまは民営化《みんえいか》してISSコーポレーションが経営《けいえい》してるんですよ」
「ヨーロッパ、日本、みんなサゴヤスタンを食い物にしたアメリカの仲間だ! ISSは天上にのさばる思い上がりのシンボル! 破壊しなければならない!」
「もしかしてドッキングじゃなくて体当たりしようとしてたの?」
ゆかりがまた口を出す。
「そうだ。神舟をぶつける。ペラモークの聖戦士は死を恐《おそ》れない!」
「最低。自爆《じばく》テロじゃん」
「これは勇敢《ゆうかん》なる聖戦士の戦いだ!」
「どうせ死ぬまで家族の面倒《めんどう》をみるとか言われたんでしょ! 船長として部下の命あずかってきたあたしに言わせてもらえば、そういうのって勇気じゃないんだよ、単に人生|設計《せっけい》が未熟《みじゅく》なだけで――」
「ゆかり、ゆかり」
マツリがまた腕を引いた。
「ゆかりはもう話さないほうがいいね」
「けどあたしこの手のバカには我慢《がまん》できないし!」
「聖戦士はとても怒《おこ》っていて、もうすぐ魂《たましい》をなくすと思うね」
アミルソを見ると、確《たし》かにそうだった。
「女、女、生意気な女! 恥《はじ》を知らない裸《はだか》みたいな女が僕に口答えするっ!」
こちらに向けた拳銃《けんじゅう》が殺気を放っている。
「あ、たんま、たんま」
ゆかりは両手をあげて身を引いた。
いまのセクハラ発言を小一時間ほど問いつめたくもあるが、捨《す》て身のテロリストに銃を向けられるのはさすがに怖《こわ》い。
「話はこれまでだ」
ジムシャが低い声で言った。
「従《したが》え」
空気がキンと張《は》りつめた。
この男には、うむを言わせぬ迫力《はくりょく》があった。
カプラン氏はためらいがちに、インカムで全モジュールに放送した。
「あー、コマンダーより全 |従業員《じゅうぎょういん》へ。ちょっと困《こま》ったことになった。さきほどドッキングした神舟十号から三人のテロ……もとい、聖戦士が乗り込んできた。リーダーの男はこちらに銃を突《つ》きつけて全員をノード3に集めろと言ってる。これは命令じゃないんだが、とにかく彼の言った通りに伝えておくよ」
これはうまいぞ、とゆかりは思った。
従業員たちが馬鹿《ぱか》正直に集まってくるとは思えない。物陰《ものかげ》に潜《ひそ》んだり、武器《ぶき》になるものを隠《かく》し持ってくるんじゃないか? いや、みんな優秀《ゆうしゅう》な技術者《ぎじゅつしゃ》なんだからもっとスマートにやるだろう。離《はな》れたモジュールからここを監視《かんし》カメラで窺《うかが》って、それから――この区画の二酸化《にさんか》炭素《たんそ》分圧《ぶんあつ》を上げて犯人《はんにん》を眠《ねむ》らせるとか?
ゆかりはちょっとわくわくしながら、事態《じたい》の推移《すいい》を見守った。
ところが。
「忙《いそが》しいのに何事ですか、カプランさん」
「中華《ちゅうか》の差し入れってことですかね?」
「ずいぶんかかったわねえ、ドッキング」
ひとり、ふたり、さんにん……
「なんの趣向《しゅこう》かなっと」
「なーんだ、女の子じゃないんだ」
「すいません遅くなりましたぁ!」
従業員たちは手ぶらでぞろぞろ集まってきて、口々にそんなことを言った。
よにん、ごにん、ろくにん。
ゆかりは唖然《あぜん》とした。
全員集まっちゃったじゃないか!
「ちょっと! なんで集まってくんのよ!」
「だって呼《よ》ばれたし」
「呼ばれたしって」
ゆかりは拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
これが従順さによって選《よ》りすぐられた人材なのか。
だめだ、ここはプロの宇宙《うちゅう》飛行士であるあたしがしっかりしなきゃ!
聖戦士たちはさっきから壁《かべ》の案内図を指さしながらなにやら議論《ぎろん》していたが、考えがまとまったようだ。
「そこの七人はここへ行け」
ここというのはアメリカ居住《きょじゅう》モジュールだ。
ISSの居住モジュールの多くは出入り口がひとつしかない。その袋小路《ふくろこうじ》に人を押《お》し込《こ》んで気密《きみつ》隔壁《かくへき》を閉《と》じれば、簡単《かんたん》に軟禁《なんきん》できる。
アミルソが銃をつきつけると、七人の技師《ぎし》たちはすごすごと従った。
ゆかりは唇《くちびる》を噛《か》んだ。素直《すなお》だ。素直すぎる。
七人が出ていくと、ジムシャはこちらをにらんで言った。
「女三人はここへ行け」
コロンバス・モジュール。元ヨーロッパの研究|施設《しせつ》で、これも袋小路だ。
「みんなといっしょがいいな」
「だめだ」
仕方がない。ゆかりは茜とマツリを目でうながして、言いつけに従った。
こんどはジムシャとラカイムがついてくる。
こちらを特別に警戒《けいかい》しているらしい。
コロンバス・モジュールに入る。
両側に実験機器ラックの並《なら》んだ、短い廊下《ろうか》のような空間だ。いまは倉庫がわりになっているらしく、ネットに包んだガラクタ類があちこちに結《ゆ》わえつけてある。
「手を後ろにまわせ」
「軟禁するだけでいいじゃん」
「お前たちは危険《きけん》だ。僕たちの船を拿捕《だほ》した」
「燃料《ねんりょう》切れで漂流《ひょうりゅう》してたんじゃん……」
日本語でつぶやく。
ジムシャが見張《みは》るなか、ラカイムは三人の手足を縛《しば》りにかかった。
ラカイムは童顔《どうがん》で、ターバンを巻《ま》いたらインドの王子様みたいな感じだろうな、とゆかりは思った。
ラカイムは三人を縛り終えると、さらに一人ずつ機器ラックの把手《とって》に結びつけた。ミノムシが三つぶらさがっているような感じだ。
二人の聖戦士《せいせんし》はモジュールを出て、外から気密隔壁を閉《し》めにかかった。
「ちょっと、食事は運んでくれるんでしょうね! トイレはどうすんの! せめてインカムで話せるようにしてよ!」
「心配ない。そうなる前にみんな終わる」
ラカイムが答えた。
「終わるって、どうやってこのでかいISSを壊《こわ》すつもりなのさ! 神舟は燃料切れでしょ?」
「それは、これから――」
ラカイムは何か言いかけたが、ジムシャが地の言葉でさえぎった。
それから隔壁がぴったりと閉じた。
ACT・5
三人の聖戦士は再《ふたた》びノード3に集結した。
「偉大《いだい》なる戦士ジムシャ、これからどうしますか」
アミルソが尋《たず》ねた。
「ここは思ったより大きい。ウズヤーダの大伽藍《だいがらん》ほどもある。うまく壊さないと、壊しきる前にこちらが死ぬ」
「偉大なる戦士ジムシャ、僕たちは宇宙《うちゅう》服を着て拳銃《けんじゅう》で壁に穴《あな》をあけてまわったらどうでしょう」
「それではすぐに修理《しゅうリ》されてしまうだろう」
「ああ、それは考えていませんでした」
「偉大なる戦士ジムシャ、火事を起こしてはどうでしょうか」
ラカイムが提案《ていあん》する。ジムシャは首を振《ふ》った。
「それではうまく燃《も》え広がらないだろう。空気が抜《ぬ》け始めたら、そこで火は消える」
「思慮《しりょ》が足りませんでした、偉大なる戦士ジムシャ」
そのとき、あたりを見回していたアミルソが言った。
「ああ、偉大なる戦士ジムシャ、ここに斧《おの》があります! これで壊せばいいのではありませんか?」
「見せてみろ」
ジムシャは斧をあらためた。ジュラルミンの長い柄《え》のついた、非常《ひじょう》用の斧だった。
「これなら太い部材も切り離《はな》せそうだ」
「しかし偉大なる戦士、これでISSをすべて壊すのは大変ではありませんか」
ラカイムが言った。
「ほかに手があるか」
「爆弾《ばくだん》のようなものはないでしょうか」
「爆弾はないだろう」
ジムシャは即答《そくとう》したが、少し考えて付け加えた。
「だが代わりに使えるものがあるかもしれない。よし、お前たちは爆弾に使えそうなものを探《さが》してみよ」
「はい! 全身|全霊《ぜんれい》を傾《かたむ》けて探索《たんさく》にあたります!」
二人は声をそろえた。
ACT・6
コロンバス・モジュール。
「さて、どーするよ?」
と、ゆかり。
「ISSをどうやって壊すつもりかしら」
茜が言った。
「簡単《かんたん》だよ。太陽電池の接続《せつぞく》を切ればいいんだ」
電力が止まれば生命|維持《いじ》はもちろん、通信も姿勢《しせい》制御《せいぎょ》もできなくなる。温度制御もできないから凍結《とうけつ》や沸騰《ふっとう》で配管が壊れる。
「でもあの人たち、神舟で体当たりしてばらばらに壊すつもりだったんでしょう?」
「だから?」
「ISSのモジュール配置も知らなかったし。だから、もっとその、野蛮《やばん》な発想で壊そうとするんじゃないかしら」
「野蛮な発想ってえと……」
ちら。
ゆかりと茜は、なんとなくマツリを見た。
「ほい、なぜこっちを見る?」
「ワイルドライフの専門家《せんもんか》に意見を聞きたい」
「壊すなら斧だね」
「うわ、フィジカル〜」
体当たりがだめなら斧。やりそうな感じだ。
ISSのモジュールはほとんどが軽|金属《きんぞく》で作られているから、斧を打ち込めば破壊《はかい》できる。実際《じっさい》、非常|事態《じたい》に備《そな》えてここにも斧が常備《じょうび》してある。
聖戦士《せいせんし》たちが宇宙服を着て壊《こわ》してまわれば、体力しだいではISSを全壊させることも不可能《ふかのう》ではないだろう。
このモジュールにはバックパックもヘルメットもない。エアが抜けたらアウトだ。
「まずこの縄《なわ》をなんとかしなきゃ――いてて」
手首のロープはがっちり縛《しば》ってあって、ゆるみそうにない。
「映画《えいが》みたいにはいかないなあ」
「ゆかり、無理しなくていいね。なんとかなるよ」
マツリが言った。
「なにかアテでもあるっての?」
「ほい」
「ほいって?」
と、その時。
気密《きみつ》隔壁《かくへき》の開閉《かいへい》ハンドルが回り始めた。
ACT・7
入ってきたのはラカイムだった。
ラカイムは宙《ちゅう》を泳いでゆかりの前を通り、茜の前を通り、マツリの前で止まった。
両手でマツリの肩《かた》をつかみ、性急《せいきゅう》な口振《くちぶ》りで言った。
「あなた、名前、なんていいますか?」
「マツリだよ」
「マツリ。いい名前だ。僕《ぼく》といっしょに逃《に》げよう、マツリ!」
「ほい、それはいい考えだね」
ラカイムは目を輝《かがや》かせ、マツリを縛っていたロープを解《と》き始めた。
人生を左右する重大決定が約十二秒で発案・了承《りょうしょう》されたことに、ゆかりは唖然《あぜん》とした。
「ちょっと何それ、どういうことよ?」
「僕、窓《まど》の外にマツリさんをひとめ見たときから好きになりました。こんなむちむち可愛《かわい》い人、見たことないです。僕の人生、変わりました」
「聖戦士はやめたと?」
「聖戦士も愛を知るですし」
「知るですしって……マツリ、あんたこの子に催眠術《さいみんじゅつ》でもかけたの?」
「必要なかったよゆかり。最初から目をラブラブにしていたね」
「つまりその、マツリは」
茜がたずねた。
「ずっと惚《ほ》れたような目で見られていたの?」
「そうだよ、茜」
「そう……」
茜はなぜか赤面して口をつぐんだ。
「どした、茜?」
「ううん、なんでもない」
束縛《そくばく》を解かれたマツリは宙に舞《ま》い、「ほー!」と言いながら大きく伸《の》びをした。
その小柄《こがら》ながらもグラマラスな肢体《したい》を、ラカイムはうっとりと眺《なが》める。
「ああマツリ、マツリ、むちむちの可愛いひと。まるで夢《ゆめ》のようです」
「ちょっと。あたしらはこのままかい」
「僕、すべての愛をマツリさんに注《そそ》ぐです。さあマツリさん、行きましょう。あなたの船でどこかの無人島に降りて、愛の巣をつくるですよ」
「自爆《じばく》テロにやってきて一目惚れなんて、こいつ女に免疫《めんえき》ないのかさ[#実に気になる語尾であるが原本はこうなっている]?」
ゆかりは茜に言った。
「そういえばサゴヤスタンの宗教《しゅうきよう》はすごく禁欲《きんよく》的で、女は十|歳《さい》になるとサリーみたいな服とべールで体や顔を隠《かく》さないと外に出られないとか」
「やっぱりか。ちょっとマツリ、あんたからうまく言って、こっちのロープもほどかせてよ!」
「ほい、ラカイム」
マツリは英語で言った。
「ゆかりと茜も自由にしてあげよう。愛はたくさんあるといいね」
そういうもってきかたをするな、とゆかりが言いかけると、
「僕、この人は嫌《きら》いです」
ラカイムはゆかりを指してきっぱり言った。
「態度《たいど》が不遜《ふそん》で乱暴《らんぼう》です」
「自爆テロリストに言われたくないわっ!」
「ほら、ほら、ほら、これですよ」
「ほいラカイム、自由にしてあげないと、ゆかりはよけい暴《あぱ》れるよ」
「自由にしてこそ暴れるのではないですか?」
「体を縛《しば》られていても、ゆかりは口で暴れるね。口の暴力《ぼうりょく》は心の暴力だよ。ナイフや鉄砲《てっぽう》より怖《こわ》いものだよ」
「おお、それはいけない」
ラカイムはゆかりのロープをほどきにかかった。さるぐつわをかませようという発想はないらしい。
マツリも茜のロープをほどき始める。
自由になるやいなや、ゆかりは身をひるがえしてラカイムの懐《ふところ》に飛び込《こ》んだ。
「よしとりあえず一発なぐらせろ!」
「ほら、ほら、ほら!」
きわどいところでマツリが後ろから押《お》さえ込む。
「ゆかり、ゆかり、ここはこらえよう」
がるるる!
「我慢《がまん》すればいいことがある」
がるる……るる……
茜が横から尋《たず》ねた。
「それでラカイムさん、ジムシャさんは何をしようとしているの?」
「ジムシャ、ISSを壊《こわ》します」
「どうやって?」
「ジムシャはどうするか考えています」
「爆弾《ばくだん》とかは持ってないの?」
「爆弾、ありません。僕たちは中国の宇宙《うちゅう》飛行士にすりかわったので、あるのは拳銃《けんじゅう》だけ。神舟でぶつけることだけ考えていたです」
「そう……」
茜は少し考えた。
「神舟は燃料《ねんりょう》切れだから、使える宇宙船はマンゴスティンとCRVしかないけど」
CRVはクルー・リターン・ビークル、乗員|帰還《きかん》船のことだ。緊急時《きんきゅうじ》の救命ボートとして常時《じょうじ》連結してある。
「僕たち、ほかの船の操縦《そうじゅう》は知りません」
「神舟については知ってるみたいに聞こえるじゃん」
ゆかりが口を出す。
「僕、そんな言い方する女性《じょせい》、嫌《きら》いです!」
「なによこの自爆テロリストがっ!」
「ゆかり、ゆかり」
「と・に・か・くっ!」
茜が軌道修正《きどうしゅうせい》する。
「ラカイムさん、あなたはISSを守るのに協力してくれるんですよね?」
「僕はマツリといっしょに逃《に》げたい」
「ISSはどうなってもいいんですか?」
「ISSは、壊したいです」
「どうして」
「ISSはアメリカのシンボル。アメリカは僕の国からすべてを奪《うば》った。サゴヤスタンの資源《しげん》を目当てにして、反|政府組織《せいふそしき》を支援《しえん》して政権《せいけん》を倒《たお》したら手に負えなくなってロシアが出てきて泥沼《どろぬま》になって空爆して地雷《じらい》まいた。いまでも毎日地雷で大勢《おおぜい》脚《あし》をなくしたり死んだりしてる。アメリカ、なんでも持っているのになぜ僕の国、食い物にしますか? アメリカ許せない。絶対許せない」
「うーん、でもね……」
茜はマツリに応援《おうえん》を求めた。
「あなたから説得できない?」
「ほい。ラカイムは戦う相手を間違《まちが》えているよ」
「そ、そうでしょうか」
「ISSはもうアメリカのシンボルじゃないね。ここはみんなの長屋だよ」
「みんなの長屋……」
マツリの言う長屋とは、インドネシアに多い高床《たかゆか》式のロングハウスのことだ。そこでは数家族が同居《どうきょ》してひとつの共同体をつくる。
「ほい。ISSは宇宙に来たみんなの家だよ。マツリの家でもあるし、いまはラカイムの家でもあるね。だから大切にしなくてはいけないのだよ」
説得なんて無理よ。
ゆかりは思った。
マツリに一目惚《ぼ》れしたとはいえ、はるばる宇宙までやってきた自爆テロリストの信念など、そうそう改心させられるわけがない。
と思いきや、聖戦士《せいせんし》の顔はたちまち悔俊《かいしゅん》の念に染《そ》まった。
「ああ、なんということだ、僕はみんなの家を壊そうとしていたのか! 僕は間違っていた!」
「そうだよ。だからジムシャを止めなければならないね」
「おおおう……それは大変だあ!」
その時、気密《きみつ》隔壁《かくへき》がまた開き始めた。
一同は身を固くした。
ジムシャか?
どう言い訳する? ロープを結び直していたとでも言うのか?
入ってきたのはアミルソだった。
この男もラカイムと同じくらい若《わか》い。
アミルソは娘《むすめ》たちが自由の身でいることに疑問《ぎもん》を示《しめ》さなかった。宙《ちゅう》を泳ぎ、ゆかり、マツリ、ラカイムの前を素通《すどお》りして、茜の前で止まった。
「ああ、茜さん、茜さん」
「は、はいっ!」
茜の声は裏返《うらがえ》っていた。
「ステーションの人にあなたの名前聞いたのです。僕、あなたをひとめ見て好きになりました。僕といっしょに逃げてください、茜さん」
「ああ、やっぱり……」
茜は真っ赤になって顔をそむけた。
「そういうの、困《こま》ります……」
「大丈夫《だいじょうぶ》、誰《だれ》もいない南の島に降《お》りて子供《こども》をたくさんつくって暮《く》らしましょう」
「急にそんなこと言われても」
「僕はきっと茜さんをしあわせにします。してみせます。大丈夫」
「あの、そういうことを言う前にもっとお互《たが》いに知り合うのが普通《ふつう》じゃ」
「僕たちもう知り合った。大丈夫、大丈夫」
「うわーん」
「やっぱりって何なのさ、茜」
ゆかりが割《わ》り込むと、茜は蚊《か》の鳴くような声で言った。
「ノード3で会ったとき、ずっと私を見つめていたんです。だから、もしかしてって」
「ほお……」
ゆかりは名状《なざ》しがたい不快《ふかい》感を覚えた。
禁欲《きんよく》生活を送ってきたウブなサゴヤスタンの若者が、こぞって世界のアイドル、ロケットガールズに一目惚れしたというわけだ。
あたしを除《のぞ》いて。
「あのね、アミルソさん」
茜はどうにか冷静さを取り戻《もど》して、話を誘導《ゆうどう》しにかかった。
「ラカイムさんはマツリが好きになって、あなたと同じような申し出をしたんですけど」
「おお、戦士ラカイム、そうなのか!」
「そうだ、僕はいま初めて愛に目覚めたんだ!」
「わかるぞ戦士! 僕も茜の次にマツリがいいと思った」
「僕もマツリの次に茜がいいと思ったぞ、戦士アミルソ!」
二入は抱《だ》き合って意気投合した。
「それで、話を続けますけど」
茜が辛抱《しんぼう》強く言う。
「ジムシャさんがこのISSを壊《こわ》すのを止めないと、私たちにはどんな未来もないんです。わかりますか?」
「おお、ジムシャ……」
「偉大《いだい》なる戦士ジムシャはとても強い。最後までやり通す人だ」
「偉大なる戦士ジムシャは決してくじけない」
「家族を人質《ひとじち》にとられても使命をはたす」
「虎《とら》の肉体と鷹《たか》の心臓《しんぞう》を持つ漢《おとこ》です」
「そして蛇《ヘび》のように聡明《そうめい》です」
二人の聖戦士は口々にジムシャを讃《たた》えた。
がたん!
ゆかりは機器ラックを蹴《け》とばして出入り口に向かった。
「ゆかり、どこへ行くの」
「雑魚《ざこ》二名は萌《も》えキャラ二名にまかした!」
振り向いたゆかりの顔を見て、茜はすくみあがった。それは、どちらかといえば笑っているように見えた。
「偉大なる戦士ジムシャとやらはあたしが落とす!」
ゆかりは半開きの隔壁からするりと出ていった。
「落とすって……」
ACT・8
勢《いきお》いで飛び出してきたが、ゆかりにこれという算段《さんだん》はなかった。
ノード3に向かう途中《とちゅう》、ゼロG洗面台《せんめんだい》を目にとめて、ゆかりは急停止した。
呼吸《こきゅう》をととのえ、じっと鏡を見る。
髪《かみ》をふたつにまとめた、ふくれっ面《つら》の、気の強そうな娘《むすめ》がこちらを見返していた。
「……いますこし愛矯《あいきょう》がなくちゃだめかな?」
無理に微笑《ほほえ》んでみる。変な顔になった。
それでも目はぱっちりと大きく二重瞼《ふたえまぶた》、眉《まゆ》も鼻も口も案配よく配置され、アイドル雑誌《ざっし》のグラビアから飛び出してきたような美少女ではある。と思う。
胸《むね》は――マツリには負けるとしても――超《ちょう》女子高生級と言われるし、ウエストも痛々《いたいた》しいほど細くくびれ、最小|質量《しつりょう》にして最大級のカーブを描《えが》いている。
「少なくとも茜に負けるとは思えんのだがな」
胸元《むなもと》の気密《きみつ》ファスナーを少し引き下げてみる。
スキンタイト宇宙《うちゅう》服の生地《きじ》がすっと左右に収縮《しゅうしゅく》して、胸の谷間が露《あらわ》になった。
「おー、いい女じゃん!」
ボンドガールか何かみたいだ。ゼロG下の胸はまっすぐ前方に張《は》り出し、地上に較《くら》べて四|割増《わりま》しの存在《そんざい》感になる。
これでいくか、とゆかりが誤《あやま》った戦術《せんじゅつ》に傾《かたむ》きかけたとき――
裸《はだか》の胸にひんやりした風を感じた。
なんだ?
鼓膜《こまく》に気圧《きあつ》差を感じた。
どこかで風の音がする。
「エア漏《も》れ? もう始めた?!」
指を唾《つば》で濡《ぬ》らして風向きを確《たし》かめる。
ゆかりは耳|抜《ぬ》きをすると、風下《かざしも》に向かって大急ぎで移動《いどう》し始めた。左右の手すりを素早《すばや》くたぐって、通路をジグザグに進む。
台風の目は、第二|衛星《えいせい》組立モジュールだった。
固定されていなかったマニュアルや工具、サーマルブランケットが壁《かべ》の一|箇所《かしょ》に吸《す》い付いている。壁自体も大きく陥没《かんぼつ》して、細い裂《さ》け目ができていた。
だが、ジムシャの姿《すがた》はない。
かわりに壁の向こう側から鈍《にぷ》い音が響《ひび》いてきた。
外。あいつ、船外宇宙服が使えるのか。
ゆかりは大急ぎでモジュールの両端《りょうはし》にある気密隔壁を閉《と》じた。
それからノード3のエアロックに向かう。
ロッカーからバックパックとヘルメットを取り出し、装着《そうちゃく》する。
セルフチェック。
空気残量、一時間四十分。
通信リンク、正常。
気密――エラー。スーツ装用不良。
「おっと!」
ゆかりは胸のファスナーをぐいと引き上げた。
あたしとしたことが、何を考えてたんだ。
色|仕掛《じか》けで落とそうだなんて。
あたりを見回すと、ISSが常備しているハードシェル宇宙服が一セット消えていた。
あれを着ているとなると、素手《すで》では勝てない。動きは鈍《にぶ》いが、全身が堅《かた》い殻《から》に覆《おお》われた、文字通り甲冑《かっちゅう》のような宇宙服だ。
ゆかりはロッカーをあさって武器《ぶき》を探《さが》した。非常《ひじょう》用のツールキットの中からサバイバル・ナイフが出てきた。ランボーが使っていたようなやつだ。
ナイフを装備ベルトにとりつけて、ゆかりは船外に出た。
大西洋が細い弧《こ》になって遠ざかってゆく。
ISSは地球の影《かげ》に入ったところだった。
日照はないが、月光でものの形はわかる。直径四メートルの円筒《えんとう》形のモジュールが上下左右に連なり、その向こうにセントラル・トラスと太陽電池、屏風《びょうぶ》折りになった放熱パネルが見える。
モジュールの外側についているハンドレールをたどって、ゆかりは第二衛星組立モジュールに向かった。
モジュールを一周するが、人影はなかった。
どこだ。ジムシャはどこへ行った。
通信機のスイッチを入れてみると、かすかな息づかいが聞こえた。送信スイッチを入れっぱなしにしているらしい。どこかにいるはずだが、無線機は場所までは教えてくれない。
しだいに目が暗|順応《じゅんのう》してくる。
遠くでうごめくものが見えた。
一体のハードシェル宇宙服が、セントラル・トラスの上にとりついていた。どうやら足を固定しようとして手間取っているらしい。
あいつ、ISSの背骨《せぼね》をへし折るつもりか!
そうなったら致命傷《ちめいしょう》だ。しかもあそこで折れたら、張り出した放熱パネルがCRVに衝突《しょうとつ》する。CRVが壊《こわ》れたらみんなを脱出《だっしゅつ》させられない。
ゆかりは相手の死角を選びながら近づいていった。真空中だから音は伝わらない。トラスを通して直接《ちょくせつ》伝わる音はあるが、あの分厚《ぶあつ》い宇宙服から耳まで響《ひび》くことはないだろう。
ゆかりはジムシャの背後《はいご》に忍《しの》び寄《よ》った。
距離《きょり》、二メートル。つま先をハンドレールに差し込《こ》み、体を踏《ふ》ん張る。
装備ベルトからナイフを引き抜く。
殺さずにやれるだろか?
ゆかりは自問した。
ハードシェル宇宙服は気密《きみつ》が破《やぶ》れた場合の安全|機構《きこう》を持っている。自動的に内貼《うちば》りの膜《まく》が収縮《しゅうしゅく》して人体を締《し》めつけ、減圧《げんあつ》から守るのだ。しかしスキンタイト宇宙服と違《ちが》って一方的に締めつけるだけなので、四肢《しし》が動かせなくなる。
想定どおりに安全機構が働けば、ジムシャを生かしたまま拘束《こうそく》できるだろう。
だけど、そうならなかったら?
リスクは覚悟《かくご》の上だ。あたしはプロの宇宙飛行士として、みんなを守らなきゃいけない。
ゆかりは脳裏《のうり》で手順をおさらいした。
肩《かた》の関節部分に蛇腹《じゃばら》状《じょう》の気密シールが見える。あそこを破れば、安全機構が作動するはず。
まず左手で相手のバックパックをつかむ。それからナイフを右肩へ。
ゆかりがとびかかろうとした、そのとき。
周囲で光が爆発《ばくはつ》した。
光は赤からオレンジ、そしてまばゆい白となってあたりを照らし出した。
しまった、夜明けだ! この時期、ISSの夜は三十分も続かない。
ゆかりの細い影が、ジムシャの前方に落ちた。
ジムシャはとっさに全身をまわすようにして振り返った。ゆかりを見て、斧《おの》を構《かま》え直す。
ゆかりもナイフを手に、身を低く構えた。
背景は一直線に伸《の》びるセントラル・トラス。その下を夜明けの地球が流れてゆく。
まるで鉄橋上の決闘《けっとう》だな、と頭の片隅《かたすみ》で思う。
「おまえか。どうやって抜《ぬ》け出した」
ジムシャが言った。
「ラカイムとアミルソはこっちに寝返《ねがえ》ったよ。マツリと茜に一目|惚《ぼ》れして」
「そんなことだと思った」
「そっちに勝ち目はないよ。降参《こうさん》すれば命は助ける」
「笑わせるな」
「悪いけど、その宇宙服じゃ身軽に動けないから、勝ち目はないと思うな」
「そうは思わん」
ジムシャは斧をバットのように構えたかと思うと、一気にスイングした。
ジムシャはつま先を固定していたが、四肢と斧の柄《え》の長さをフルに使った。予想外のリーチになった。
斧は正確《せいかく》にゆかりのナイフを打った。ナイフはめまぐるしく回転しながら虚空《こくう》に消えた。
周囲に赤い粒子《りゅうし》が散らばる。
フリーズドライされた血液《けつえき》。
【スーツ装用《そうよう》不良。スーツ装用不良。ただちに船内に戻《もど》り、右手部分をチェックしてください】
合成音声の警告《けいこく》がヘルメット内に響《ひび》く。
右手に痛《いた》みと冷気を感じた。手首の外側が切れている。ゆかりは左手でその上をきつく握《にぎ》った。スキンタイト宇宙服のいいところは、破れても他の部分が減圧しないことだ。
だが両手がふさがっていては移動《いどう》もおぼつかない。
敗色|濃厚《のうこう》。
だけど、負けるわけにはいかない。
ゆかりは萎《な》えかけた右手で、腰《こし》のボーチからプライヤーを取り出した。ないよりはましだ。相手の懐《ふところ》にとびこめば、関節部分を破れるかもしれない。
ゆかりは屈《かが》み込んだ姿勢《しせい》から、一気にダッシュした。
ジムシャが斧を構え直す前に、胸元《むなもと》に潜《もぐ》り込む。だが、今度もジムシャの動きは速かった。斧の柄が腹部《ふくぶ》を突《つ》き上げた。体がくの字に折れ曲がり、プライヤーを放してしまう。
ジムシャはゆかりをボロ布《ぬの》のように投げた。数メートル離《はな》れたトラスの肋材《ろくざい》に叩《たた》きつけられる。全身に激痛《げきつう》が走り、ゆかりは気を失いかけた。
【空気|循環系《じゅんかんけい》停止。空気循環系停止。これより使い捨《す》てモードに移行します。十分以内に船内に戻ってください】
警告音声に意識《いしき》を取り戻す。バックパックの故障《こしょう》だ。空気をリサイクルできないから、これからは呼吸《こきゅう》のたびに空気を捨ててゆく。長くは持たない。
目の前にジムシャが立ちはだかっていた。
「邪魔《じゃま》する奴《やつ》は殺す。女|子供《こども》も容赦《ようしゃ》しない」
「そっ……」
声を出そうとして、ゆかりはせき込んだ。赤黒い唾《つば》が飛んでヘルメットの内側を汚《よご》す。
「そんなことして、何になるのさ」
「聖《せい》なる使命に意味を問うことはない」
「ロボットみたい。ここまで来て、何も感じないわけ? 自分の目で地球を見たんでしょ?」
「それがどうした」
話すだけでも横隔膜《おうかくまく》のあたりがひどく痛む。しかし舌《した》だけは回った。
「民族だか宗教《しゅうきょう》だか、何にこだわってるのか知らないけど、そんなことどうでもいいって思わなかった?」
「少々高いところから見たぐらいで、何が変わる」
「何がって……」
ゆかりは返答に窮《きゅう》した。宇宙《うちゅう》飛行士になって、自分の人生が変わったのは確《たし》かだ。だがそれは、軌道《きどう》から地球を見たからだろうか?
「人生変わったって人はいっぱいいるし」
「この程度《ていど》で変わるのは、そいつの生が薄《うす》っぺらだからだ。俺《おれ》たちの営《いとな》みはここから見えない。見えなければないのと同じか」
「そうは、思わないけど」
否定《ひてい》してみるが、先が続かなかった。
前に見た光景がよみがえる。
中央アジア。しわくちゃの大地。どんな家で、どんな服を着て、何を食べているのか。畑なんかあるのか。テレビはあるのか。何して遊ぶのか。
わからない。自分は何も知らない。
「そうだよね……想像《そうぞう》してなかったかも……」
腕《うで》の感覚が麻痺《まひ》してきた。ゆるんだ手首から漏《も》れた血液が霧《きり》のように舞《ま》う。
【警告! 警告! 生命|維持《いじ》できません。ただちに船内に戻ってください】
わかってるってば。でも体に力が入らない。
エアロックまで四十メートル。
いまとなってはあまりに遠い。
その時ゆかりは、ジムシャの背後《はいご》で、ある変化が起きているのに気づいた。
まだ終わりと決まったわけじゃないらしい。
話し続けなきゃ。これが最後の武器《ぶき》だ。
「……でもさ、地上からじゃ、ここも光の点にしか見えないよね。ここに人の暮《く》らしがあったなんて知らなかったんでしょ。何をするか決め込む前に、両方見とくべきだったんじゃない?」
白い腕がゆっくりと伸《の》びてくる。あと少し。
「これ以上話すことはない」
「待って、いまわかった。出会いだよ」
ゆかりは急いで言った。話せるうちに話しておきたかった。
「あたしが宇宙飛行士を続けてるのは、地球を見たからじゃない。宇宙で人に出会って、それがすごくいいと思ったから。ラカイムもアミルソも、出会いがあって、考えを変えたんだ。それって、すごく人間らしいと思う。ちょっとムカついたけど」
「そうがどうした――何だ、くそっ!」
音もなくセントラル・トラスを移動《いどう》してきたモバイル・サービス・ユニット。その機械の腕がジムシャの体をがっちりと掴《つか》んだ。複雑《ふくざつ》な関節の先にある四つのエンド・エフェクターが、数トンの握力《あくりょく》で宇宙服の四肢《しし》を押《お》さえ込んでいる。
「オーライ、最高、完壁《かんぺき》な仕事だよ。操縦《そうじゅう》してるのカプランさん?」
『ああ。茜ちゃんたちに助け出してもらってね。みんなCRVに避難《ひなん》したんだけど、こないだの汚名《おめい》返上をしようと思って、僕《ぼく》だけ残ったんだ。これでもコマンダーだしねえ!』
カプラン氏は声を弾《はず》ませていた。柄《がら》にもなく興奮《こうふん》しているのがわかる。
アームのカメラがこちらを向いた。
『腕を押さえてるね。怪我《けが》したの? その赤いのは、まさか――』
「かすり傷《きず》。大丈夫《だいじょうぶ》、まだ平気」
『なんてこった!、君をサブアームでつかむよ。こいつでエアロックの前まで運ぶ。大丈夫、長くはかからない。それまで意識《いしき》をなくさないで』
「ありがと。実は動けなくて……でもその必要はないみたい」
エアロックから光が漏れて、小さなふたつの人影《ひとかげ》が現《あらわ》れたところだった。ジェットガンを噴《ふ》かして、大急ぎでやってくる。
もう、さっきまでの感情《かんじょう》は消えていた。
おなじみの仲間。なのに宇宙で出会うと、何か特別な、かけがえのない感じがするのはどうしてだろう。このことを、あとでジムシャに伝えられるだろうか。
気がゆるんで、泣き出しそうになるのをこらえながら、ゆかりは言った。
「いま、茜とマツリが来たから」
[#改ページ]
第四話 魔法使《まほうつか》いとランデヴー
[#改ページ]
ACT・1
南緯《なんい》八度のアクシオ島、ソロモン宇宙基地《うちゅうきち》。
朝食に向かう渡《わた》り廊下《ろうか》の途中《とちゅう》で。森田《もりた》ゆかりは背後《はいご》に人の気配を感じた。
微《わず》かに漂《ただよ》う硝酸《しょうさん》とヒドラジンの臭気《しゅうき》――
「ゆか〜りちゃあ〜〜ん……」
耳元で名を呼《よ》ばれて、森田ゆかりは飛び退《の》いた。
背後に立っていたのは化学|主任《しゅにん》の三原素子《みはらもとこ》だった。薄汚《うすよご》れた白衣を着流し、ぼさぼさ頭に黒縁《くろぶち》眼鏡《めがね》。さわやかな南の島の朝にふさわしくない風体《ふうてい》なのは、徹夜《てつや》明けのせいだろうか。
いや、この人はいつもこうだ。慢性《まんせい》的に徹夜明けの人なのだ。
いつもと違《ちが》うのは、両手をキョンシーのように前方に突き出していること。もし咄嗟《とっさ》に飛び退かなかったら、羽交《はが》い締《じ》めにされていたのだろうか。
「なな、なんですか素子さん」
「これこれ」
「ん?」
へらへら笑いを浮《う》かべながら、突き出した両手を揺《ゆ》すってみせる。と、手と手の間の空間がゆらりと光った。なにかハンカチくらいの透明《とうめい》なシートをつまんでいるらしい。
おそるおそる、指を触《ふ》れてみる。すべすべした手触《てざわ》りで、弾力性《だんりょくせい》がある。
「ビニール……?」
「ちがうちがう。また新|素材《そざい》作ったのー。軽くて丈夫《じょうぶ》で熱に強くて〜」
「何に使うんですか」
「厚《あつ》さ○・〇三ミリのスーパースキンタイト宇宙服! 紫外線《しがいせん》と赤外線は全|反射《はんしゃ》しながら可視光線は透《す》け透け、指紋《しもん》や毛穴《けあな》までくっきり浮き出る超《ちょう》極薄《ごくうす》仕様! つっぱり感|皆無《かいむ》で裸同然の着心地ぃ〜〜」
「却下《きゃっか》」
瞬殺《しゅんさつ》する。
「だめかな〜?」
「だめ。絶対《ぜったい》」
覚醒剤《かくせいざい》取り締まリキャンペーンさながらに拒絶《きょぜつ》する。
「上から水着着てもいいし」
「絶対だめ。開発|禁止《きんし》」
「じゃあ論文《ろんぶん》発表だけにするか。ゆかりちゃんの3DデータでCG作ってネイチャーの表紙|狙《ねら》うから楽しみにねえ〜〜」
ゆかりの全身にみなぎった殺気の照射を受けて、さすがの素子も心中を察したようだった。
「うそうそ。いくらなんでもそんな薄かったら伝導《でんどう》熟を遮断《しゃだん》できないもんねえ」
「…………」
四月一日じゃないぞ、今日は。
「これねえ、ほんとは極超音速カイトの素材なの〜〜。いまから向井《むかい》君に見せに行くんだよん」
「極超音速カイト?」
「そお。ガスで膨《ふく》らんで紫外線で固まってえ、マッハ三十でエアロキャプチャー。へへへへへ」
何も説明せずに行ってしまった。自己《じこ》完結した人だ。
ここは、そんなのばっかりだ。
食堂に入ると、三浦《みうら》茜《あかね》が先に来ていた。開いた本に目を落とし、上品なしぐさでティーカップを口に運んでいる。
「おはよー。マツリは?」
茜は本から顔をあげ、きょとんとした顔でテーブルを見回した。
「さあ?」
いつもなら一番に来ているのに、どうしたのだろう?
ACT・2
アクシオ島北岸、ソロモン宇宙基池の敷地《しきち》から数キロ離《はな》れた浜辺《はまペ》。
凪《な》いだ海に、一|隻《せき》のカヌーが漕《こ》ぎだした。舳《へさき》の立てる波が海中の珊瑚礁《さんごしょう》を揺さぶり、エメラルド・グリーンのマーブル模様《もよう》に変えてゆく。
漕ぎ手はアフロヘアで漆黒《しっこく》の肌《はだ》をもつ男たち、六人。それより明るい肌色の娘《むすめ》が舳の張《は》り出しにまたがり、長い髪《かみ》を風になびかせている。娘は椰子《やし》の葉を編《あ》んだ腰簑《こしみの》と粗《あら》い繊維《せんい》の胸《むね》当てをつけ、あちこちにきらきら光るアクセサリを結びつけていた。両の手に小さなまといのようなものを持ち、交互《こうご》に振《ふ》りあげて音頭《おんど》をとっている。
「ほいよーっ、元気出してこげよー、ほいほーい」
ほいほーい!
「ほいよーっ、根性《こんじょう》出してこげよー、ほいほーい」
ほいほーい!
娘の音頭に合わせて、カヌーはわっしわっしと進んでゆく。珊瑚礁を外れて水深が深くなると、数頭のイルカか現《あらわ》れて、舟《ふね》のまわりでジャンプを繰《く》り返した。漕ぎ手たちには見慣《みな》れた光景らしく、歓声《かんせい》を上げることもない。
一時間ほど漕ぎ進むと、前方の水平線に緑の筋《すじ》が見えてきた。
「ほいよーっ、レミソは近いそ、ほいほっほーい」
ほいほっほーい!
レミソは小さな環礁《かんしょう》の島だった。かろうじて海面より高い土地は差し渡《わた》し五百メートルほどの弧状《こじょう》をしており、椰子の木や塩水に強い常緑樹《じょうりょくじゅ》が茂《しげ》っている。
男たちは漕ぐのを止め、カヌーはビーチに乗り上げた。その白砂《はくさ》はすべて珊瑚の破片《はへん》だった。
「ほいっ、着いたね。ご苦労さん」
船頭の娘――マツリは舳から飛び降《お》りて上陸した。
「それでは行ってくるよ。皆《みんな》はここで待っていて。舟を降りてはいけないよ」
ほーい。男たちが声を揃《そろ》える。
マツリは茂みに向かってすたすた歩き始めた。右手に槍《やり》を持っているが、狩《か》りをするわけではないらしい。
茂みは海から見たときほど薄《うす》っぺらではなかった。さまざまな植生がからみあっていたが、マツリはそれを苦にする様子もなく、奥《おく》へと分け入っていく。
百メートルほど進んだところで、マツリは急に立ち止まり、振り返った。
漕ぎ手の一人がついてきていた。
「ほい、アニモ、今日は魔法使《まほうつか》いだけが島に入るのだよ」
「わかってる。でも来た」
アニモと呼《よ》ばれた少年は漕ぎ手の中で一番|若《わか》い。引き締《し》まった体つきをしている。右の胸に傷跡《きずあと》があった。普段《ふだん》は寡黙《かもく》だが、喧嘩《けんか》っ早いところもある。
「俺《おれ》、マツリとやりたい。やらせてくれ」
「それはできないね」
陽気な顔のまま、マツリは答えた。
「でもやりたい。うまくやる」
「アニモは舟に戻《もど》るといい」
「俺、マツリが好きだ」
アニモは性急《せいきゅう》なしぐさでマツリに歩み寄《よ》った。
マツリは初めて表情《ひょうじょう》を険《けわ》しくした。
マツリが槍を構《かま》えかけると、アニモは素早《すばや》く腕《うで》を伸《の》ばして穂《ほ》の根元を掴《つか》んだ。槍はびくとも動かなかった。マツリは右脚《みぎあし》で男の股間《こかん》を蹴《け》り上げた。素足の甲《こう》が急所を直撃《ちょくげき》した。
「◎×△$$!!」
アニモは悲鳴とも呻《うめ》きともつかない声を上げて地面にうずくまった。
「悪《あ》しき精霊《せいれい》に奪《うば》われし心、取り戻すがよい!」
マツリは男を見下ろし、表情をゆるめて言った。
「おまえはレミソの精霊にいたずらされたのだよ。だから舟を降りてはいけなかった。これからマツリが精霊と話をする。おまえは一目散《いちもくさん》に舟に戻るがいいね」
そう言い残して、マツリは茂みの中に消えた。
小一時間ほどして、マツリは浜に出てきた。
漕《こ》ぎ手たちは全員カヌーに座《すわ》っていた。アニモは前から二番目に座っていて、今しがたまでべそをかいていたような顔だった。
「ほいフォークス、仕事は終わったよ。帰ろう」
マツリが舳《へさき》によじ登ると、男たちはオールを海中に突《つ》き立てて舟を押《お》し戻し、来た道を引き返し始めた。
アクシオ島の浜に着くと、漕ぎ手たちは舟をそのままにして漁の支度《したく》を始めた。マツリはすっかりしょげているアニモに声をかけた。
「元気出すね。マツリはお前が嫌《きら》いでないよ」
少年はすがるような目でマツリを見た。そのひたいを指で弾《はじ》くと、マツリはきびすを返し、山に向かう道を歩き始めた。
マツリは山の中腹《ちゅうふく》にあるタリホ族の集落に戻った。広場に面した酋長《しゅうちょう》の家の、あぶなっかしい階段《かいだん》をひょいひょいと登る。
酋長――森田|寛《ひろし》はちくちくする敷物《しきもの》の上であぐらをかき、イルカの歯を数えては麻紐《あさひも》に通していた。マツリは向かい合わせに腰《こし》をおろし、やはりあぐらをかいた。
「ほい、とうちゃん、レミソの精霊と話をしてきたよ」
「おう、どうだった」
「アニモがついてきて、マツリはこくられたよ」
「ほほう! あのむっつりがか」
寛は両手を膝頭《ひざがしら》に置いて身を乗り出した。
「それでどうした」
「目を覚まさせてやったよ」
マツリは右腕でアッパーカットのしぐさをしてみせた。
「ははは、そりゃいい」
寛はカラカラと笑ってから、真顔に戻った。
「魂《たましい》を乗っ取られたか。島に上がったんだな」
「ほい」
「そこまでは本人の意思だな」
「そうだね」
マツリはうなずいた。
「レミソの糟霊もたまっているね。相手が来ないのでいらいらしているのだよ。それでアニモとハーモニックになった」
「そうか。レミソのやつも年頃《としごろ》だからな」
タリホ族の信じるところでは、精霊は至《いた》るところに宿っている。山には山の、島には島の精霊が棲《す》む。精霊は人間同様の欲求《よっきゅう》を持ち、恋《こい》もすれば嫉妬《しっと》もする。
この奇妙《きみょう》な隣人《りんじん》たちの意向をうかがい、うまく折り合いをつけるのが魔法使《まほうつか》いたち――一般《いっぱん》には呪術師《じゅじゅつし》、シャーマンと呼《よ》ばれる人々――の仕事だった。
マツリは母トトの後を継《つ》いで、タリホ族の魔法使いになる途上《とじょう》にあった。
「しかし島の精霊が不機嫌《ふきげん》なのはよくないな。相手の精霊はどんなやつだ」
「よくわからなかったよ。そこだけ言葉が合わなかった。相手は三年も遅刻《ちこく》していて、こんどこそ来ると思ったらそれもあやしくなってきたので、レミソはいらいらしている」
「ほう。三年遅刻とはなんだな、遠いのか、待ち人の住処《すみか》は」
「それもわからないね。でも――」
椰子《やし》の葉で葺《ふ》いた屋根を、マツリは指さした。
「空から来ると言っていたよ」
「なんだか雲をつかむような話だな。代わりの嫁《よめ》はいないのか」
「ほい、それは……」
マツリは少し言いよどんでから、続けた。
「やっぱりわからないね」
若《わか》い魔法使いがひととき顔を曇《くも》らせたことに、酋長は気がつかなかった。
ACT・3
昼休みが終わって食堂内に人影《ひとかげ》はまばらだった。テレビ前のテーブルではゆかりと茜がくつろいでいた。午後からの訓練が中止になり、暇《ひま》をもてあましているのだった。二人ともトレーニングウェアを着たまま。ゆかりは頬杖《ほおづえ》をつき、茜は少し小首を傾《かし》げたような姿勢《しせい》で静かに読書をしていた。
「マツリ来なかったな。昼飯には絶対《ぜったい》遅《おく》れないと思ったのに」
ゆかりが言った。
「用事が長引いてるのかしら」
「いっちょまえに用事があるってか。タリホ族のくせに」
「祭祀《さいし》とかいろいろあるみたいですよ。ほら、マツリはシャーマンだから」
入り口のほうできゃらきゃらいう音がしたので、ゆかりはそのほうを見た。
マツリが半裸《はんら》の先住民スタイルで駆《か》け込《こ》んできたのだった。
「ほーい! おばちゃん、ごはん! ごはん! まだあるね!?」
陽気な声が食堂中に響《ひび》きわたる。
宇宙《うちゅう》飛行士用に調製《ちょうせい》された特別ランチをトレイに載《の》せると、マツリはこちらにやってきた。
「ほいほい、間に合ってよかったよ!」
「いいけど着替《きが》えろよな」
「着替えていたらごはんにありつけないと思ったのだよ」
言いながらマツリは、ケチャップとマヨネーズのボトルを両手に握《にぎ》って白身魚のソテーに垂《た》れ流した。
「また調理|師《し》の苦労を無にして」
「この魚は舟《ふね》だよ。ケチャップとマヨネーズを運ぶ舟だね」
SSAに来て以来マツリが受け入れた文明は、宇宙船の操縦《そうじゅう》を除《のぞ》けばケチャップとマヨネーズだけだった。
テレビの中でNHKのアナウンサーが正午を告げた。こちらの時間では午後二時だ。
アナウンサーがニュースを読み始めた。
『JAXAl宇宙航空研究開発|機構《きこう》は、小惑星《しょうわくせい》探査機《たんさき》【はちどり】によるサンプル回収《かいしゅう》が絶望的になったと発表しました』
茜が本から顔を上げた。
『【はちどり】は日本が独自《どくじ》に開発した無人の小惑星探査機で、世界で初めて小惑星マトガワにタッチダウンし、土壌《どじょう》サンプルを採取《さいしゅ》しました。しかし小惑星から離《はな》れる途中で燃料《ねんりょう》漏《も》れが発生し、通信途絶に陥《おちい》りました』
サツマイモに似《に》た小惑星を背景《はいけい》に、ゆっくりと自転する探査機のCG映像《えいぞう》が現《あらわ》れた。
『相模原《さがみはら》市の宇宙科学研究本部では遠隔操作《えんかくそうさ》によって慎重《しんちょう》に救出作業を進め、通信の回復《かいふく》、姿勢|制御《せいぎょ》とイオンエンジンの始動に成功、【はちどり】は地球への帰還《きかん》コースに乗りました。しかしバッテリーが復旧《ふっきゅう》できなかったため、採集《さいしゅう》した小惑星の土壌サンプルを帰還カプセルに挿入《そうにゅう》し、カプセルを分離《ぶんり》することができなくなりました』
画面は【はちどり】の図解《ずかい》に替《か》わった。本体は大型|冷蔵庫《れいぞうこ》ほどの直方体で、左右に太陽電池パドルを翼《つばさ》のようにひろげている。典型的な人工|衛星《えいせい》の形だ。
本体は大気|圏突入《けんとつにゅう》に耐《た》えられないので、土壌サンプルだけを小さな帰還カプセルに入れて地上に届《とど》ける。帰還カプセルはSSAのオービターを寸請《すんづ》まりにしたような形で、サイズはバケツくらい。
『現在《げんざい》【はちどり】は太陽電池でイオンエンジンを動かしていますが、サンプル容器《ようき》を帰還カプセルに移送《いそう》し、切り離すにはバッテリーの電力が必要です。しかしバッテリーは完全に放電して準短絡状態《じゅんたんらくじょうたい》にあるため再充電《さいじゅうでん》は不可能《ふかのう》とわかりました。【はちどり】は来月十七日、地球に接近《せっきん》しますが、そのまま人工惑星として宇宙をさまようことになる見込みです』
「ほい、惜《お》しかったねえ」
「まー、めげずに二号機を打ち上げるだなあ」
茜はというと、目にうっすらと涙《なみだ》をためて画面を見つめている。
「かわいそうに。がんばったのに……」
茜はたとえ無人の探査機にでも、思いっきり感情《かんじょう》移入してしまうのだ。オルフェウス探査機の救出ミッションのときもそうだった。
「しょうがないよ。あれでもずいぶん成果あげたっていうじゃん」
「うん……」
「あれもだいぶ前からやってたよね。私らが中学の頃《ころ》だっけ? 小惑星に着地したって盛《も》り上がったの」
「うん。危篤《きとく》状態の【はちどり】をだましだまし救出運用して――手探《てさぐ》り状態だから時間がすごくかかって、だから地球帰還の予定を三年|延期《えんき》したんです」
「ほい、三年廷期?」
マツリが急に身を乗り出した。
「うん。小惑星のそばで漂流《ひょうりゅう》してたのはほんの数か月なんだけど、地球との位置関係とかいろいろあったから、三年延期になって」
「ほほー……」
マツリはテレビのほうに向き直った。アナウンサーは次のニュースを伝えていた。
「三年延期がどうかしたのかさ、マツリ?」
「ゆかり、茜、【はちどり】を助けにいこう!」
マツリは慢性《まんせい》的に元気な顔で言った。
「はあ?!」
「【はちどり】は助けないといけないね!」
「だからなんで」
「みんなのためになるからだよ」
「そりゃ、なるっちゃなるかもしんないけど……」
ゆかりは適当《てきとう》に流した。マツリの思考をいちいち理解《りかい》しようとすると、生きている時間がなくなるのだ。
「だけど、助けるったってデルタVが違《ちが》いすぎるよ。だよね茜?」
「うん。惑星《わくせい》間空間からだと、どうしてもね」
「ほい?」
茜が説明を引き継《つ》いだ。
地球引力圏の外から飛来するものは、地球引力圏を脱出《だっしゅつ》できる速度を持っているのが宇宙《うちゅう》の掟《おきて》だ。仮《かり》に地球|低軌道《ていきどう》で出会うとしても、秒速三〜四キロという大きな速度差があるのでランデヴーできない。この場合のデルタVとは、その速度差を示《しめ》す言葉だ。
もしこちらが相手に速度を合わせたら、自分たちも地球引力圏を脱出してしまう。ランデヴー後に元の速度まで減速《げんそく》しようとすると膨大《ぼうだい》な燃料が必要だ。それを打ち上げるとしたらたぶん月ロケットと同じくらいの規模《きぼ》になるだろう。
マツリは神妙《しんみょう》な顔で茜の話を聞いていた。
「もし【はちどり】がそのまま地球に突《つ》っ込んだら、サンプルはどうなる?」
「現状だとサンプル容器は耐熱《たいねつ》カプセルに挿入される前のところで止まってるの。だから本体が大気圏に突入したらまともに高熱にさらされて、溶岩《ようがん》のスプレーになって散っちゃうと思う」
マツリは口を半開きにしたまま、真顔になった。
「……それでは精霊《せいれい》は生きていられないね」
「精霊?」
「精霊はどこにでもいるよ、ゆかり、茜。大切にしないといけない」
ACT・4
「【はちどり】を回収《かいしゅう》する?」
「ええ」
所長室。部屋の主、那須田《なすだ》勲《いさお》とナンバー2の木下和也《きのしたかずや》を前にして熟弁《ねつべん》をふるっているのは。若《わか》いながらもチーフエンジニアの向井|博幸《ひろゆき》。
「来月に予定していたテザー実験と、次期オービター用に開発していた極超音速《ごくちょうおんそく》カイト。この二つを組み合わせれば、できると思うんです」
「新しいものを二つか」
木下が腕組《うでぐ》みしたまま言った。
「冒険《ぼうけん》だな」
「どうせテストです。ダメモトでやってみては」
「テザー笑験なら失敗しても文句《もんく》は出ないさ。自社でやるテストにすぎないからね。だが【はちどり】の回収に挑《いど》むとなると、人々の期待を集めてしまう。それを裏切《うらぎ》ったらいいことはない。たとえダメモトの奉仕《ほうし》活動であってもだ」
「そうですか……」
「いや、それはあまり心配しなくていいんじゃないか」
うなだれる向井と入れ替《か》わりに、那須田が言った。
「前に立つのはガールズだ。新しいことに挑戦《ちょうせん》して、がんばったけど失敗した。返ってくるのは温《あたた》かい拍手《はくしゅ》さ」
「ああ、そうでしたね」
木下は三人の宇宙飛行士をアイドルとして利用することに、いまだに慣《な》れていなかった。宇宙事業に立ちはだかる三つの障壁《しょうへき》――技術《ぎじゅつ》の壁《かべ》、コストの壁、世論《よろん》の壁のうち、最後のひとつはSSAにおいては存在《そんざい》しない。三人|娘《むすめ》の絶大《ぜつだい》な人気によってすっかり覆《おお》い隠《かく》されているのだ。
ただしそれは、三人が無事であった場合の話だ。
「回転する全長二百キロのテザー、二トンの張力《ちょうりょく》、その末端《まったん》で行うランデヴー、大気|制動《せいどう》、そして極超音速|域《いき》の飛翔《ひしょう》体――どれも一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない、カオティックな現象《げんしょう》ばかりです。相当な危険《きけん》がともなうでしょう。危険とは予測《よそく》不可能性《ふかのうせい》ですから」
「僕《ぼく》には、最善《さいぜん》を尽《つ》くすとしか言えませんけど」
「それじゃ困《こま》る」
言下に否定《ひてい》されて、向井は呼吸《こきゅう》を整えた。
「それは、そうですね」
しばしの沈黙《ちんもく》のあと、那須田が言った。
「前向きにいこうじゃないか。もともとやるはずだった実験に付加|価値《かち》をつけようというのは悪い考えじゃない。実施《じっし》については娘たちに相談してみたらどうかね」
「実現性検討《フィジピリティ・スタディ》の段階《だんかい》で、ですか」木下は片眉《かたまゆ》を上げた。
「そうさ。いまやあの子らは現役《げんえき》宇宙飛行士の誰《だれ》よりも宇宙を知ってる。何をやるのか、ちゃんと理解《りかい》させれば、それなりの判断《はんだん》をするだろう」
那須田は木下と向井の顔を見比《みくら》べながら言った。
「手札をさらして、自分の頭で決めさせるんだ」
三人娘がブリーフィングルームに現《あらわ》れると、窓辺《まどぺ》にたたずんでいた木下がブラインドを引き下ろした。窓に近い席に那須田が腰掛《こしか》けている。教壇《きょうだん》には向井がいて、プロジェクターに自分のノートパソコンをつないでいた。黒板の前にはスクリーンが降《お》りていた。
「ちょっと待ってね。二分で支度《したく》するから」
向井のノートパソコンのデスクトップ画面がスクリーンに現れた。壁紙《かべがみ》は三人娘が並《なら》んでサムアップサインをしている写真。SSAのウェブサイトで提供《ていきょう》しているものだった。
起動|完了《かんりょう》を待つ間に向井は話を始めた。
「ええと、【はちどり】が地球に近づいてることはみんな知ってるよね」
さっきね、とゆかりは心の中で答えた。
「これをうちのオービターで回収しようとしたら、何が問題かな」
「デルタV」
こんどは声に出して答える。
「そう。だけどこれには抜《ぬ》け道があって、オービターが速度を変えないまま【はちどり】をキャッチする方法があるんだ。わかるかな?」
ゆかりは茜を見た。茜は小首を傾《かし》げるようにして熟考《じゅくこう》モードに入っていた。さっきの食堂では不可能で一致《いっち》したのだが、抜け道となれば常識《じょうしき》判断ではすませられない。知識を総動員《そうどういん》して問題を理解し、抽象化《ちゅうしょうか》し、組み立て直す必要がある。
「オービターに対して【はちどり】はプラス秒速四キロ……つまり一つの物体に異《こと》なる速度を共存させる……もしかして、テザーですか?」
「ご名答! さすが茜ちゃんだなあ」
「でも、回転を止めるためには結局――」
「そう。そこでこういうものを使うんだ」
向井はプレゼンソフトを立ち上げた。
太いゴチック体で【テザーおよび極超音速カイトによる惑星探査機《わくせいたんさき》の回収《かいしゆう》システム】というタイトルが現れた。
続いて投影《とうえい》されたのは、システムの概念図《がいねんず》。
向井はレーザーポインターで各部を指しながら説明していった。
高度三五〇キロの軌道《きどう》にSSAのオービター、マンゴスティンがいる。オービターから細くて強靭《きょうじん》な紐《テザー》が下方に伸《の》びている。その長さは二百キロメートル。しかし太さは○・八ミリメートルしかないので、束ねると丸めた毛布《もうふ》ほどのボリュームしかない。
テザーの末端にはキャプチャーと呼《よ》ばれる小型軽量の装置《そうち》がある。キャプチャーのロケットエンジンを噴射《ふんしゃ》することで、テザーは回転する。約三百秒の周期で回転させると、テザー末端の速度は秒速四・ニキロになる。
オービターの質量《しつりょう》は二トン。テザーやキャプチャーはずっと軽いので、ほとんどオービターを中心に回転する形になる。回転方向は、地球に近い側が軌道前方に進む。
「茜ちゃんが言ったとおりで、全体としては低軌道をまわる人工|衛星《えいせい》なんだけど、その先端《せんたん》は地球|脱出《だっしゅつ》速度を超《こ》えてるんだ」
このキャプチャーで、地球に最接近《さいせっきん》する【はちどり】を捕獲《ほかく》する。タイミングと方向を合わせれば相対速度がゼロになるから、なんの衝撃《しょうげき》もなく相手をつかまえられる。
これで全長二百キロのテザーの一端にオービター、もう一端に【はちどり】とキャプチャーが結ばれたことになる。
【はちどり】側の総重量は二百七十キログラムで、オービターよりずっと軽い。重心、すなわち回転中心はオービターから約三十キロメートル離《はな》れた地点になる。オービターに加わる遠心力は一G程度《ていど》。【はちどり】は七Gの遠心力を受けるが、打ち上げ中はそれを超えるGがかかるので、設計《せっけい》強度の範囲《はんい》内だ。
テザーで結ばれた全体は、秒速五百メートルほど増速《ぞうそく》するので楕円《だえん》軌道に移行《いこう》する。
近地点(地球に最も近づく地点)で高度三百二十キロ、遠地点(地球から最も離れる地点)で二千四百キロ。これは回転中心の話で、近地点付近にいるとき【はちどり】が下方にまわれば有効《ゆうこう》な大気制動《エアロブレーキング》がかかる。その高度は百五十キロ。ここには希薄《きはく》な高層《こうそう》大気がある。温度|上昇《じょうしょう》はごくわずかで、赤熱することはない。この高度で時間をかけて大気制動をかけていけば、やがて回転は止まり、楕円軌道はもとの円軌道に戻《もど》る。
「結局、ロケット噴射《ふんしゃ》を便うのは軽量のキャプチャーを加速するときだけなんだ。減速《げんそく》はすべて地球の大気がやってくれるんだ」
茜が小声で、すごい、ともらした。マツリも感心した様子で、にこにこしている。
ゆかりは、ずいぶん複雑《ふくざつ》だな、と思った。
「えーとつまり、【はちどり】だけで大気の濃《こ》いところへ突《つ》っ込《こ》ませると燃《も》えちゃうから――」
「そう」
「いったん紐《テザー》でつないどいて、空気の薄《うす》いところでじっくリブレーキをかけるわけか」
「ご名答。【はちどり】をつかまえてからは、オービターは微調整《びちょうせい》以外に噴射を使わない。錘《おもり》になるだけでいいんだ」
「そう言われると簡単《かんたん》そうではあるかも」
ゆかりは慎重《しんちょう》に言った。これまでの経験《けいけん》では、どのミッションも出発前は簡単そうなのだ。
「実際《じっさい》、捕獲《ほかく》を終えてしまえば宇宙《うちゅう》飛行士の仕事はほとんどないんだよ。捕獲も君たちが直接するわけじゃない。カメラの映像《えいぞう》を見ながら、【はちどり】が近づいてきたらボタンを押《お》すだけでいい」
向井はプレゼン画面を進めた。
テザーの回転が止まったら、キャプチャーは膨張《ぼうちょう》式の極超音速カイトを展開《てんかい》する。
それはロガロ翼《よく》と呼《よ》ばれるもので、もともと宇宙船のパラシュートの代わりとして考案され、ハンググライダーや凧に転用されたものだ。相合い傘の形に配置された棒の間に膜を張《は》った形をしている。
「カイトは長さ十一メートル、左右の幅《はば》が十八メートル。棒になった部分は直径一メートルあって、ガスで膨《ふく》らませたあと、紫外線《しがいせん》で硬化《こうか》するようになってる。すごく薄いフィルムでできていて、畳《たた》むとリュックサックに入るんだよ」
今朝、素子さんが見せたあれか、とゆかりは思った。棒の部分はキールバー、ウイングバー、クロスバーなどと名付けられていて、内部にもハニカム状《じょう》の壁があった。
カイトは三十メートルのラインでキャプチャーに結ばれている。ちょうどキャプチャーが凧を揚《あ》げているような感じだ。
「そしてテザーを切り離す。オービターはいつもどおりに軌道|離脱《りだつ》して帰還《きかん》するだけでいい。【はちどり】とカイトはゆっくりと大気|圏《けん》に沈《しず》んでいく。ちょうどハンググライダーみたいにね。このときの揚抗比《ようこうひ》はおよそ一で、ほとんど真空に近い大気圏を滑空《かっくう》して降《お》りていくことになる。空気が薄いうちにほとんどの減速を終えて終端《しゅうたん》するから――」
「終端するって?」
「重力と空気|抵抗《ていこう》が釣《つ》り合って、それ以上加速しなくなる速度のこと。トスした紙風船が一定速度で落ちてくるとき、それが終端速度なんだ」
「了解《りょうかい》」
「高いところで減速を終えてしまえぱ、みんなが再突入《さいとつにゅう》の時に受けているような強いGも高熱もない。表面温度は百度以下で、地面に着くまでふわふわ滑空するだけなんだ」
「ほんと? そんなにうまくいくもんなの?」
「何度もシミュレーションして確《たし》かめたよ。大気圏突入でみんなが大きなGを受けるのは、高いところで十分に減速しないまま空気の濃いところへ飛び込むからなんだ。大気密度は急激《きゅうげき》に増《ふ》えるから、壁《かべ》にぶつかったような感じになるんだね。空気の薄いところで減速を終えてしまえば、あとは紙風船と同じだよ」
「百度だったら宇宙服のままでもいけるじゃん」
「ええと、理諭《りろん》的にはそうなるかな」
「じゃあこれまでの私らの苦労はなんだったわけ? なんで毎回おっぱいぺちゃんこにして八Gに耐《た》えなきゃなんないの」
「おっぱ……」
向井は赤面した。飛行士が女ばかりだから、当人たちにはまだ女子校気分がある。そのモードにおける女子たちの露骨《ろこつ》な物言いに、男たちは慣《な》れていない。そしてゆかりが無造作《むぞうざ》に拳《こぷし》をふりあげるたび、Tシャツを押し上げる胸《むね》が小さく揺《ゆ》れるのに気づかないわけにはいかなかった。
「え、ええと、その、人の乗った宇宙船を減速するには、実績《じっせき》のある方法をとるものなんだよ。高層《こうそう》大気中で、極超音速《ごくちょうおんそく》で凧《たこ》みたいなものを操《あやつ》るのは未開拓《みかいたく》の分野なんだ。ぶらさがっているカプセルは衝撃波《しょうげきは》の穀《から》みたいなものを作るよね。船の舳《へさき》にできる波みたいな」
「ボーショックだっけ」
大気中を超音速で進む物体のまわりには、船の舳が立てるようなV字の衝撃波が生じる。海面は二次元だが空は三次元だから、傘のような形になる。
「そう。そのボーショックがカイトの姿勢《しせい》を乱《みだ》すかもしれない。このカイトは揚抗比が大きいから、ボーショックの上側に浮《う》かぶことになるんだけど、普通《ふつう》のパラシュートだとこうはいかない。でも軌道《きどう》速度に近いときのカイトは不安定だから、ずっと操縦《そうじゅう》してなきゃならないんだ。今回はキャプチャーについているコンピューターが操縦してくれるんだけど、それがうまくいくかどうか、まだ実績がないんだ」
それから向井は速度と高度のグラフを示《しめ》して、減速行程《げんそくこうてい》のほぼすべてが、通常《つうじょう》よりずっと高い高度で終わってしまうことを示した。
「今回のが成功したら、それ、私らの船にも装備《そうび》する?」
「うーん、実績がつけばそうなるかなあ? でも今回のカイトが運べるのは五百キロまでだからね。【はちどり】なら余裕《よゆう》だけど、オービターは無理だなあ」
「おっきいの作ればいいじゃん」
「もちろん、その方向で考えてるよ。これがあれば耐熱《たいねつ》を考えなくていいから、メンテしたい人工|衛星《えいせい》や宇宙ステーションで製造《せいぞう》した物資《ぶっし》を低コストで地上に降ろせるんだ。それから、宇宙ステーションで怪我《けが》人が出た時も、Gをかけずに降ろせるね」
「これのシステムを前提にすれば、サンプルリターンする惑星探査機もシンプルになりますね」
茜が顔をほころばせて言った。
「これがあれば、サンプルを帰還カプセルに入れて大気圏突入させなくていいんですよね。そのまま戻《もど》ってくるだけで、あとは地球側がやってくれるから」
「そうだね。よその惑星や小惑星まで送るものは、できるだけ軽くしたい。旅のいちばん最後でしか役に立たない荷物を抱《かか》えていくのは、まったくもって無駄《むだ》なことなんだ」
「えーと、結局」
ゆかりが言った。
「このミッションで私らはオービターで振り回されてるだけ? 面倒なことはそのキャプチャーがやってくれるみたいだけど」
「そういうことだね。つまり――」
「いや、ここからは僕が言おう」
木下が教壇《きょうだん》に上がった。
「向井君はいわば弁護《ぺんご》側で、僕は検察《けんさつ》側だ。このミッションの危険《きけん》な面を伝えたい。もちろん向井君でも公平に話せるんだがね」
ゆかりは木下の顔を見た。憎《にく》まれ役は僕の仕事だから、と唇《くちびる》が動いたような気がした。
木下にはいつもシミュレーション訓練や学科|講習《こうしゅう》でしごかれている。小さなミスも見逃《みのが》さず、ガミガミ叱《しか》りつける嫌《いや》な奴《やつ》だ。だがそうやって叩《たた》き込まれた知識《ちしき》が、宇宙《うちゅう》で役に立ったことが一度ならずあった。彼の話は、聞かなくちゃいけない。
「秒速四キロの物体をつなぎとめておける、テザーというものは実に強力な道具だが、それだけの危険を孕《はら》んでいる。それはコンクリートの壁《かべ》みたいなものだ。車が衝突すれば大破《たいは》する。そこに壁がなければ車は通り過《す》ぎるだけだ。車をぐしゃぐしゃに叩きつぶすポテンシャルは、動かない壁によって引き出される。わかるかな」
「…………」
なんとなく、とゆかりは心で答えた。目の端《はし》で、茜がちいさくうなずいた。
「虫歯を引っこ抜《ぬ》くのにテザーを使うのを知ってるかな。患者《かんじゃ》を座《すわ》らせ、歯とドアの把手《とって》を丈夫《じょうぶ》な糸で結んで、少したるませておく。ドアを一気に閉《し》めると、糸が急にぴんと張《は》って、その瞬間《しゅんかん》に虫歯が抜ける。きわめて短い時間に強いテンションがかかるから、痛《いた》みを感じずにすむわけだ。ドアを閉める動きは比較《ひかく》的|緩慢《かんまん》なのに、テザーが介在《かいざい》することで鋭《するど》いピークが生じる。これもテザーの怖《こわ》いところだ」
「濡《ぬ》れタオルをぴんってやるようなもんかな?」
「いい答えだ」
眼鏡《めがね》の奥《おく》で、目尻《めじり》がかすかにほころんだような気がした。
「タオルが張りつめた瞬間に大きな音がしてしぶきが飛ぶ。腕《うで》を開く動作よりずっと高速が生じているのがわかるだろう」
木下は少し間をおいてから言った。
「もしたるんだテザーが急に張ったら。逆《ぎゃく》に張りつめたテザーが急に切れたら。振り回されているオービターがどうなるかを考える必要がある」
「そのために衝撃《しょうげき》ジョイントがあるんです」
向井が割って入った。
「テザーに想定外のテンションがかかったら、自動的に切り離《はな》す仕組みがあるんだ」
「だが切り離せばいいというわけじゃない」
木下は弁護側を制《せい》した。
「その瞬間、宇宙船は接線《せっせん》方向に突《つ》っ走ることになる。テザーは【はちどり】の運動量を温存《おんぞん》しているのだからね」
「それはそうですが、オービターの質量《しつりょう》は【はちどり】側の約七倍ですから、周速度は秒速五百メートル程度です。自分で噴射《ふんしゃ》して打ち消せます」
「それはそうだ。その速度ならオービターの軌道《きどう》変更《へんこう》能力《のうりょく》で対処《たいしょ》できる。ただし迅速《じんそく》な操縦《そうじゅう》が必要だ」
「オンボード・コンピュータがやってくれますよ」
「それが故障《こしょう》した場合も想定しなくちゃなるまい。すぐ下は大気|圏《けん》だ。突然《とつぜん》そこに飛び込むことになったら、再《さい》突入の準備《じゅんび》をする時間にあまり余裕《よゆう》がない」
ゆかりはふと、マツリのほうを見た。
「ついてきてる?」
「スリングと同じだね」
「スリング?」
「二つの石を紐《ひも》を結んで投げる。鳥や獣の脚《むし》にひっかけるのだよ」
マツリは右手を頭上にさしのべて、投げ縄《なわ》を振り回すようなしぐさをした。
「そんなもんかな。だとして、危険はあると思う?」
「鳥に当たったらスリングはからむね。でも宇宙に鳥はいない。ノープロブレムだね」
宇宙に鳥はいない。確《たし》かにそうだ。
しかし鳥に代わるものとテザーが接触《せっしょく》したら? なにしろ全長二百キロメートルもあるのだ。なにかとぶつかる可能性《かのうせい》は少なくないだろう。
「えっと、テザーがスペースデブリと衝突したらどうなるのかな?」
「切れるだけ――ですよね」
茜が言った。
「たいていのスペースデブリは大きな速度差を持っていますから、絡《から》みつくようなことはないと思います」
「ふむ。茜君としてはこのミッションに賛成《さんせい》かね?」
「はい。とても有意義《ゆういぎ》なミッションだと思います」
「どうかな、ゆかり君」
ずっと黙《だま》っていた那須田が口を開いた。
「君はこのなかで一番|経験《けいけん》豊富《ほうふ》だ。細かい検証《けんしょう》や政治《せいじ》的|背景《はいけい》その他もろもろはすっとばして、パッと感じたところでどうだね。このミッションをやっていいかどうか」
「えっと……」
急に答を求められて、ゆかりはあわてた。
だいたいこの人たちは暖味《あいまい》に答えることを許《ゆる》してくれない。ニュアンスってもんがあるのに、いつもイエスかノーだ。
そのいっぽう、自分の判断《はんだん》を求められるのは悪い気がしない。ここはリーダーとして毅然《きぜん》としたところを見せたい。
えーと……
ゆかりの脳内《のうない》で技術《ぎじゅつ》用語の翻訳《ほんやく》が始まった。つまリスリングは投げ縄みたいで、歯をひっこぬくのはピアスの穴《あな》あけみたいで、テザーは細い紐で、細いやつはなんか嫌《いや》だ。ピンヒールは敷石《しきいし》の隙間《すきま》にはさまる。編《あ》み物苦手。手芸とかだめ。新体操《しんたいそう》のリボンなんかありえない。でもスパゲティは好き。冷や麦もラーメンも。
「どうかね、ゆかり君。えいやっと一声」
えいやっ、か。脳内のあちこちにうずまいている声にならない声を、アンプのボリュームを上げるようにして無理矢理《むりやり》言葉にする。
「テザーやばい! 今回パス!」
男たちはいっせいに目を丸くした。
「そ、そうか?」
「一回テストしてからのがいい」
言いながら、考えがまとまってきた。
「テストのついでに【はちどり】助けるって、ついでになってないじゃん」
木下が小さくうなずいた。
ミッションの現場《げんば》に立てば、使命感も湧《わ》いてくるし、いいところを見せたくなるものだ。
茜みたいな子なら、苦難《くなん》の旅を続けてきた探査機《たんさき》をどうにかして助けようとするだろう。
今回はマツリも妙《みょう》にやる気になっていて、この子は本気になったら何をしでかすかわからない。そうなったらついでどころではすまなくなる。無理に無理を重ねて、自分や仲間を危険《きけん》にさらすことになってはいけない。
「茜君は。君はどう考える」
木下が訊《き》いた。
「私は……その」
茜は言いよどんだ。視線《しせん》が小刻《こきざ》みに揺《ゆ》れる。額《ひたい》にかかった柔《やわ》らかな髪《かみ》の下で、脳細胞《のうさいぼう》が総動員《そうどういん》されているのが目に見えるようだった。
「ゆかりの言うとおり……かもしれません。あのときとは、ちがうから……」
あのときとは、オルフェウス救出ミッションのことだ。あれは予定のミッションではなかった。軌道《きどう》に上がってから緊急事態《きんきゅうじたい》が発生し、その場でミッションを組み立てたのだ。それは成功|裡《り》に終わったが、かなりの冒険《ぼうけん》だった。最初からああなるとわかっていたら、やるべきではない。
「マツリ君は?」
「ほい、みんなでひとつの気持ちにならないと、うまくできないね」
それからマツリは、ゆかりのほうを向いた。
大きな、猫のような目がゆかりを見据えた。その視線に、ゆかりは釘付《くぎづ》けになった。
急に周囲の音が消え、背景《はいけい》がホワイトアウトした。
マツリの顔だけが視野を占《し》めている。その唇《くちびる》が動き、音もなく言葉を伝えてくる。
ゆかり、避《さ》けてはいけない。
きっとうまくいく。大丈夫《だいじょうぶ》。
ゆかりはこのミッションをやりたい。
ゆかり、がんばろう。
精霊《せいれい》たちを喜ばせるために、がんばろう。
みんなよろこぶ。ポジティブでいこう。
ビー・ポジティブ。
……
背景とノイズが元通りになった。
「ええと……」
ゆかりは木下のほうに向かって言った。
「前言|撤回《てっかい》。やっぱりやろう! やったほうがいいよ、このミッション」
「ふむ? 急にどうした」
「さっきはちょっと臆病《おくびょう》になってたみたい。私ら、そんな使命感なんてないし、やばいって思ったらすぐ中止するし」
「……そうか?」
「【はちどり】、せっかく近くまで帰って来たんだから、できるだけのことしてあげたいじゃん。だよね、茜?」
「それは、ゆかりがそう言うなら」
「マツリもいいよね」
「ほい、もちろんだよ!」
男たちはまた顔を見合わせた。木下が口を開きかけたが、その機先を制《せい》するように那須田が号令した。
「よし! ゆかり君がそう言うなら、ダメモトでやってみょうじゃないか!」
向井は顔を輝《かがや》かせ、木下は控《ひか》えめに肩《かた》をすくめた。SSA内で、那須田の「ダメモトでやってみようじゃないか」に泣かされなかった者はいない。面前でそう号令されると、よしやってみようという気になるのだが。その時は。
「忙《いそが》しくなるな、向井君!」
「大丈夫、完壁《かんぺき》に準備《じゅんぴ》してみせますよ!」
「オービターだが、何人乗っていく?」
「装備《そうび》が重くなるので、二人が限度《げんど》です」
「とすると……今回はGのかかる場面もあるから、ゆかり君とマツリ君に飛んでもらうのがよさそうだな。茜君は地上でバックアップだ。どうかね?」
「はい」「ほい」「わかりました」
「いい返事だ!」
三人が口を揃《そろ》えると、那須田は喜色をうかべて言った。
「よろしく頼《たの》む!」
ACT・5
ゆかりはマツリと肩を並《なら》べ、宿舎《しゅくしゃ》への舗道《ほどう》を歩いていた。
茜は図書室に寄《よ》ったので、いまは二人きりだった。
西に傾《かたむ》いた陽《ひ》が、海上の積乱雲《せきらんうん》を紅《あか》く染《そ》めている。
二人は黙《だま》って歩いていた。ゆかりは誰《だれ》かがそばにいるとき、黙っているのがつらくなるたちだったが、今日はちがった。
心の半分に、まだあの奇妙《きみょう》な感じが居座《いすわ》っている。
と、それを打ち壊《こわ》すように、雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》いた。思ったより近い。
はっとした途端《とたん》、ゆかりは我《われ》に返った。
「え?」
「ほい?」
マツリがきょとんとした顔でこちらを見る。
こいつ――
その瞬間《しゅんかん》、ゆかりは呪縛《じゅばく》から解放《かいほう》された。
さっき。あのとき、マツリがこちらを見て――その目に吸《す》い込《こ》まれた。
ゆかりはマツリの二の腕《うで》をつかんだ。
「ちょっとマツリ、あたしに何をした?!」
「ほい、なんのことを言っている?」
「とぼけないで! 使ったんでしょ、魔法《まほう》とかっての!」
「ほほー、ゆかりは心が強いね。もう術《じゅつ》を破《やぶ》った」
「ほほーじゃないっ!」
「キープ・クール、ゆかり。こっちへ来るね」
マツリはゆかりの手首をつかんで腕から引き離《はな》すと、逆《ぎゃく》にその手を引っぱって舗道《ほどう》を外れた。
「ちょっと、どこ行くの?!」
「見せたいものがあるよ」
マツリはゆかりの手を引いて、ずんずん歩いてゆく。
トレーニング・ジムの裏手《うらて》に来た。
「ここでいいね」
「ここでいいって、ここはいわゆる体育館の裏――おいっ!」
マツリはゆかりの自由なほうの腕を握《にぎ》り、一気に地面に押《お》し倒《たお》した。
背中《せなか》に砂利《じゃり》が食い込む。マツリは馬乗りになってきた。がっしりと自分の両肩《りょうかた》を押さえ込んでいる。視野《しや》をマツリの顔が覆《おお》った。
「やりなおそう、ゆかり。こちらを見て」
マツリの瞳《ひとみ》を見た途端《とたん》、またあの感覚がよみがえってきた。現実《げんじつ》感が喪失《そうしつ》し、異世界《いせかい》に吸い込まれるような浮遊《ふゆう》感。
「さ、させるかっ!」
ゆかりは目をくいしばった[#「くいしばった」に傍点]。
マツリは視線で術をかける。目を見たらおしまいだ。
「ゆかり、目を開けよう」
「開けない!」
「ゆかり、こっちを見て」
「見ない!」
「見ないと大変なことになるよ」
「でも見ないっ!」
するとゆかりの唇《くちびる》に、なにか柔《やわ》らかいものが押し当てられた。
それから、温《あたた》めたマグロの刺身《さしみ》のようなものが口腔《こうこう》内に押し入ってきた。その侵入《しんにゅう》物はたちまちこちらの舌を探《さぐ》り当て、からみついてきた。
「○●×◎△□!!」
思わず目を開くと、あの瞳が待っていた。
だめだ、やられる――
次の瞬間、自分の身に起きたことは自覚しなかった。火事場の馬鹿《ばか》力スイッチがオンになったのだろう。ゆかりは振《ふ》り立てた右脚《みぎあし》の反動で右肩から上体を起こし、一気に半回転した。
形勢《けいせい》が逆転《ぎゃくてん》した。マツリをうつぶせに組み伏《ふ》せ、右腕をねじり上げる。よく引き締《し》まった小麦色の腕を、指が白くなるまで握《にぎ》りしめる。
「ほおい、ゆかり、痛《いた》い、ギブ、ギブ、降参《こうさん》だよ!」
「やめるかっ!」
「ゆかり、痛い! 痛い!」
「こっ……ちょ……はぁ……」
まだ警戒《けいかい》は解《と》かずに、カを少しゆるめる。噴《ふ》き出した汗《あせ》がマツリの背中にぼたぼた落ちた。
ゆかりは尋間《じんもん》にかかろうとしたが、破《やぶ》れそうな心臓《しんぞう》をなだめるのに二分、肺《はい》に酸素補給《さんそほきゅう》以外の仕事をさせるのにもう二分かかった。
「は……話を聞こうか、マツリ――」
うつぶせになっていたマツリは、首を回し、横顔を見せた。
「こっち見るな!」
「ほひ、もうしない、もうしないよ、ゆかり」
マツリは横顔のまま言った。
「なんで私に魔法を使った。なにをたくらんでる」
「それは話すと長いのだよ」
「いいから話せ!」
「精霊《せいれい》のためだよ、ゆかり」
「精霊。またそれか」
「マツリはレミソの精霊をなだめないといけなくなった」
「レミソって、レミソ島の?」
「ほい」
マツリは今朝のレミソ島であったことを語った。カヌーで島に渡《わた》ったこと。精霊の居《い》るブッシュに入ったこと。そこで精霊と語り合ったこと。
「んで、その精霊のイライラが今回のミッションにどうつながるのさ」
「ゆかり、レミソの恋人《こいびと》は【はちどり】に乗っているのだよ」
「はあ?」
「恋人は小惑星《しょうわくせい》マトガワに棲《す》んでいた。そこへ【はちどり】がタッチダウンした。レミソの恋人はそれに乗って地球にやってくることにしたのだよ」
「【はちどり】。トラブルで三年|遅《おく》れたって――」
「ほい。そのうえ地球を素通《すどお》りしようとしているね。これでレミソの精霊がイライラしているわけがわかったよ。まちがいないね」
「まちがいないって」
どんな確証《かくしょう》があるというのか。
「魔法使《まほうつか》いにはわかるのだよ。魔法使いは精霊といい関係を作るのが仕事。だからレミソの精霊を鎮《しず》めなくてはならないね」
「鎮めないとどうなるの」
「いろんなよくないことが起きる。このごろレミソ島のまわりで魚がとれない。そのうちもっといろんな災《わざわ》いが起きるよ」
「じゃさあ、代わりの相手を紹介《しょうかい》してやれば」
「そうだね」
マツリは真顔で言った。
「この結婚《けっこん》がうまくいかなかったら、そうするしかないね。魔法使いの仕事だよ」
「……え?」
ゆかりは思わず両手の力をゆるめた。もう必要がない気がして、マツリの体から身を離《はな》した。
マツリはゆっくりと上体を起こした。視線《しせん》は地面に向けたままだった。
うつむいた煩《ほお》に、涙《なみだ》がつたうのが見えた。
「かわりに、マツリが嫁入《よめい》りしないといけないよ」
「そんな!」
「レミソの精霊に言われたよ。もし相手が来なかったら、代わりにおまえが来いと」
マツリはこちらに顔を向けた。笑っているような顔だった。しかしその双眸《そうぼう》にもう妖気《ようき》はなく、かわりに涙がたまっていた。
「そしたら、ずっとレミソ島にいないといけなくなるよ。みんなともお別れだね」
「そんな、馬鹿《ばか》なことって……」
「馬鹿じゃないよ、これはタリホ族に伝わる――」
「馬鹿よ! 親父《おやじ》が言ったの? あの無責任《むせきにん》親父が!」
「ちがう、父ちゃんではないね。これはこのような成り行きなのだよ」
なんて馬鹿馬鹿しい。宇宙《うちゅう》飛行士が迷信《めいしん》のせいで生け贄《にえ》みたいなことになるなんて。
だがマツリの顔には、なんの揺《ゆ》らぎも読み取れなかった。
これはマツリにとって、純粋《じゅんすい》で切実な問題なのだ。その信念を破壊《はかい》することはできない。
なのに気づいてやれなかった。昼間、食堂に現《あらわ》れたときも、いつもどおりの陽気なやつだと思っただけだった。
ゆかりは膝《ひざ》をついたまま、マツリを抱《だ》きしめた。
「話して」
「ほい?」
「困《こま》ってたら話して。こんどから」
「ほい……」
「魔法いらないから」
「ほい」
「私がなんとかするから」
「ほい」
マツリは、そのたびに異《こと》なって聞こえる「ほい」で答えた。
二人はそのまま抱き合っていた。涙《なみだ》がおさまるまで、そうしているしかなかった。
ACT・6
宇宙飛行士たちが暮《く》らすのは基地《きち》の敷地《しきち》内にある三階建ての宿舎《しゅくしゃ》で、その二階にゆかり、マツリ、茜の順で個室《こしつ》が並《なら》んでいた。ベッド、机、小型|冷蔵庫《れいぞうこ》、ユニットバスがある程度《ていど》で、宇宙飛行士だからといって格別豪華《かくべつごうか》な部屋ではない。
部屋に戻《もど》ってまもなく、ゆかりは茜の部屋を訪《たず》ねた。
茜は難《むずか》しそうな航空工学の本を開いて、傍《かたわ》らの計算用紙の上に数式を書き連ねていた。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな」
「あ、はい?」
「うん、ちょっと」
ゆかりがすぐに話し始めないのを見て、茜は床《ゆか》に転がしてあるクッションを示《しめ》し、自分もそのひとつに腰《こし》を下ろした。
「うんとね」
「はい」
「マツリのさ、魔法とかってどう思う?」
「守衛《しゅえい》さんの目をごまかしたりする、あれ?」
「うん」
茜はちょっと小首を傾《かし》げた。
「催眠術《さいみんじゅつ》かなって思ってるけど」
「じゃあ、タリホ族のみんなでロケットに呪《のろ》いをかけるってのは?」
「因果《いんが》関係、あるわけないですよね。失敗しそうな空気を読んで、呪いの儀式《ぎしき》をするっていうのは、ありそうだけど」
タリホ族は有人ロケットには呪いをかけないことになっている。有人機は万全《ばんぜん》の検査《けんさ》をして打ち上げるから、空中で爆発《ばくはつ》するような失敗例はない。それに較《くら》べて無人のテスト機は失敗|率《りつ》が高く、そんな機体に限《かぎ》ってタリホ族は呪いをかけるのだった。呪いが成就《じょうじゅ》すれば酋長《しゅうちょう》や呪術|師《し》の株《かぶ》が上がり、人心|掌握《しょうあく》に貢献《こうけん》するのだろう。
「じゃあさ、精霊《せいれい》ってあると思う?」
「精霊……ですか」
茜はしばし、視線《しせん》を宙にさまよわせた。
「それも物理的には存在《そんざい》しないと思うけど。あると思えばある、みたいなものかな?」
「そういうのに縛《しば》られて生きるのってどう思う?」
「縛られるのはよくないと思うけど。でも、誰でも、どの民族でも、多かれ少なかれあるんじゃないがな。縁起《えんぎ》をかつぐとか」
「その精霊とやらのために、家族や友達と別れて暮らしたり、仕事を辞《や》めたりしなくちゃいけなくなったら?」
「そんな極端《きょくたん》なのは、たまんないけど――」
茜はいぶかしげな顔で問い返してきた。
「どういうこと? もしかして、マツリが?」
ゆかりはうなずいた。
そしてマツリが【はちどり】に精霊が乗っていると信じていること、その精霊をレミソ島へ案内しなければ、自分が身代わりになる気でいることを話した。
茜は眉《まゆ》をひそめ、戸惑《とまど》いをあらわにした。
「そんな、迷信《めいしん》のために身代わりになるなんて!」
「それはそうなんだけどさ」
「野蛮《やぱん》な迷信なんか、さっさと捨《す》てるべきよ。ましてや宇宙《うちゅう》飛行士ともあろうものが、身代わりだなんて!」
茜は決然と眉をひきしめて、立ち上がった。
「前から一度言おうって思ってたの。今日こそは科学的合理精神をもって密林《みつりん》に理性《りせい》の光を」
「まま、ちょと待て、茜」
「だって!」
「試験の問題じゃないんだから、間違《まちが》ってます、そうですか改めますってわけにいかないよ」
「でも」
「本人はそう信じて生きてきたわけで、さくっと否定《ひてい》していいの? マツリが急にシャーマンやめたら人格《じんかく》変わっちゃうよ? マツリらしくなくなっちゃうよ? それでいいの?」
「マツリらしく……」
茜は立ち上がったまま、考え込んだ。
その視線が窓の外に向いた。外は暗闇《くらやみ》で、山の上のパラボラアンテナの赤い航空|保安灯《ほあんとう》が見えるだけだった。しかし部屋の明かりを消して目を慣《な》らせば、降《ふ》るような星空が現《あらわ》れるだろう。
マツリは何を見ても何かの精霊に結びつける。
水平線上に昇《のぼ》ってきた月を見て、月の精霊が水浴びに来てるよと言う。
その光が波間に砕《くだ》けるのをさして、月が子供《こども》を産んだよと言う。
雲を見ても、鳥を見ても、雨に降られても、マツリは陽気な顔で精霊のふるまいを語る。それを蒙味《もうまい》な迷信として切り捨てていいのだろうか。
茜が口を開いた。
「失敗するわけにいかないね」
「うん。私としては、絶対《ぜったい》成功させなきゃって思いながらやりたくないんだけど」
「そういえばゆかり、会議でもそう言ってたね。そのあと気が変わったみたいだったけど」
「あ……うん、それはまあ、ちょっとね」
マツリが自分に術《じゅつ》をかけてきた一|件《けん》は伝えなかった。それはプライペートな事柄《ことがら》だと思えたからだ。しかし話せるだけのことは話した。茜はバックアップ・クルーとして管制《かんせい》室で宇宙との連絡《れんらく》役になるのだから――
「わかっててほしいんだ」
ゆかりは言った。
「マツリが、そういう気持ちでいるってこと。私もその気持ちを知ってるってこと」
「うん」
簡単《かんたん》な返事だったが、その澄《す》んだ瞳《ひとみ》を見て、ゆかりはこれ以上の言葉はいらないと思った。
ACT・7
窓外《そうがい》は成層圏《せいそうけん》の群青《ぐんじょう》に染《そ》まっていた。
ガルフストリームV――ゆかりたちが“がるちゃん”と呼んでいるSSAの連絡機は巡航《じゅんこう》高度一万三千メートルを維持《いじ》し、北上を続けていた。
すでに生産|終了《しゅうりょう》となった機体ではあるが、プライペート・ジェット機界におけるハイエンドの座《ざ》はゆるがず、一万キロを越《こ》す航続|距離《きょり》を誇《ほこ》っている。定期航空路の未整備《みせいび》なソロモン請島《しょとう》にあっては、SSA幹部《かんぶ》の海外|出張《しゅっちょう》の脚《あし》だった。
めざすは日本、相模原のJAXA宇宙科学研究本部。
六人|掛《が》けの対面シートに一人で腰掛《こしか》けているのはゆかり。
突然《とつぜん》こんなことになったのは、【はちどり】の|計画主任《プロマネ》、本橋《もとはし》教授《きょうじゅ》を説得するためだった。
話は前日に遡《さかのぼ》る。
ゆかりが所長室に呼《よ》び出されてみると、那須田が一人で待っていた。
「どうもね、君たちがやる気になっていたところで申し訳《わけ》ないんだが、回収《かいしゅう》ミッションはキャンセルになったんだ」
「ええっ?!」
「本橋教授がこの話を断《ことわ》ってきたんだ。だから、マツリ君と茜君には君からうまく伝えてほしいんだ。テンションが上がってたところ、申し訳ないんだが――」
「なんで! どうして断るんですか。費用こっちもちで、向こうは指一本動かさなくていいってのに!」
ゆかりが吠《ほ》え終わると、部屋にキーンという残響《ざんきょう》が残った。
「いや、指一本動かさないわけじゃないんだ。満身|創洟《そうい》の探査機《たんさき》を誘導《ゆうどう》して直径百メートルの的に命中させなきゃいかんのだからね」
「でも、それくらい、やればできるんでしょ?」
「危険《きけん》だっていうんだ」
「でも失敗したって、どのみち――」
「そっちじゃなくて、君たちがだよ」
那須田は言った。
「本橋教授といえば、宇宙研《うちゅうけん》随一《ずいいち》の切れ者だ。一晩《ひとばん》で詳細《しょうさい》にこっちのプランを検討《けんとう》して、君らにふりかかる致命《ちめい》的なトラブルの可能性《かのうせい》を見つけてきた」
「どんな」
「大気|圏《けん》のすぐ上で回転しているときテザーが切れて、オービターが地球に向かって飛び出した場合だよ。秒速五百メートルでね」
「その話は打ち合わせでも出たじゃないですか。大気圏突入開始まで二百秒あれば、なんとかなるでしょ」
「逆噴射《ぎゃくふんしゃ》、再《さい》突入《とつにゅう》姿勢《しせい》、アンテナ格納《かくのう》、OMSエンジン格納、余剰《よじょう》燃料《ねんりょう》投棄《とうき》を立て続けにやるわけだが、最悪の場合、大気圏内でそれをやることになる。高度百キロ付近だ」
「百キロなら、まだ空気、そんなにすごくないけど」
「体感的にはそうだろう。だが希簿《きはく》な大気が秒速八キロ近い速度で衝突《しょうとつ》して、オレンジ色に発光しているレベルだ。窓《まど》から見えるだろ?」
「それは」
バックが暗いとそんな光が見える。なにかが燃《も》えて光っているのではなく、原子|状《じょう》の大気が励起《れいき》されるとかなんとか。
「わずかとはいえ、動圧《どうあつ》や熱が加わる。そういう状態《じょうたい》で再突入前の最もクリティカルな操作《そうさ》をやったことはないだろう――本橋教授はそう指摘《してき》してきたわけさ」
「でも……それって、どうなんですか」
「向井君に確認《かくにん》してもらった。問題ないと思うが、かなり慌《あわ》ただしいことは確《たし》かだ、って返事だった」
「だったらいいじゃん。向井さんがそんな言いかたするんなら大丈夫《だいじょうぶ》ってことだよ。あの人なんでも慎重《しんちょう》だもん」
「私もそう思うんだが、本橋教授としては認《みと》められないんだろう。私だってGOとは言いにくいんだぞ?」
「そう?」
「これまでも結構《けっこう》あぶない目にあってきたが、それは不測《ふそく》の事態だった。今回は打ち上げ前からわかっているリスクだ。責任者《せきにんしや》としては厳《きび》しい判断《はんだん》になるさ」
「でも私らが平気って言ってるんだから平気じゃん」
「そうはいかんよ。君ら未成年だしな。責任者ってのはそういうもんだ」
「うー」
しばらく、二人で唸《うな》る。
つまりは遠慮《えんりょ》しているのだろう。ゆかりは思った。
こちらの身の安全を案じてくれるのはありがたいか、すべてに大事を取っていたら宇宙飛行なんてできない。遠慮でミッションがキャンセルされてはたまらない――というか、何があってもやらねばならないのだ。マツリのために。
「がるちゃん空いてる?」
「がるちゃん? 空いてることは空いてるが――」
那須田は目を丸くした。
「私、本橋教授に会って話つけてみる。私が直談判《じかだんぱん》すれば考え変わるかも」
「いや、あの人は|理詰《りづ》めで攻《せ》めないとだめだろうし、というか……」
那須田はいぶかしげな顔でゆかりを見上げた。
「馬鹿《ばか》に積極的だな、ゆかり君?」
「へ?……いや、そうかな?」
「そうさ。先のミーティングでも、一度は否定《ひてい》的なことを言ったじゃないか」
「あ、あれはほら、わかってますよっていうサインで!」
「それにしても熱心だぞ。茜君がそう…言うのならわかるが」
「あー、あの子は探査機フェチだもん。あはははは」
「君もフェチが染《うつ》ったのか」
「まさか! でもほら、【はちどり】ってずいぶん頑張《がんば》って地球に帰ってきたんだから、ここで何もしなかったら宇宙飛行士がすたるってね!」
那須田はなお、まじまじとゆかりを見ていた。
「え、えーと、変かな私。柄《がら》じゃない?」
那須田はゆっくりと首を横に振《ふ》った。
「感動してるんだ」
「へ?」
「歴史に立ち会った気分だ。君がこんなに積極的になるなんてついぞなかったことだ!」
「そ、そうかな」
「よろしい、君の熱意を尊重《そんちょう》しよう! ガルフを出すから教授に会ってきたまえ!」
「あ……ありがと」
「頼《たの》んだぞ! 成功を祈《いの》る!」
那須田は自分で熱狂《ねっきょう》を再生|増幅《ぞうふく》していくタイプの男だった。近頃《ちかごろ》ではゆかりもこの男の操縦法《そうじゅうほう》がつかめてきていたが、今回に関してはまぐれ当たりだった。
那須田はその楊で本橋教授に電話してアポを取り、保安《ほあん》部の車を呼《よ》びつけてゆかりを滑走路《かっそうろ》に運ばせたのだった。
――そんなわけで、ゆかりはいつになく熱心に【はちどり】の報告書《ほうこくしょ》を読んでいた。
かなり難解《なんかい》だが、およその経緯《けいい》はわかる。そして、いささか感動していた。
【はちどり】のトラブルは目的地に着く前から始まっていた。太陽の巨大《きょだい》フレアによって生じた放射線《ほうしゃせん》によって太陽電池の発電|能力《のうりょく》が低下した。そこで三基使っていたイオンエンジンを一基停止して航行を続けた。
小惑星《しょうわくせい》マトガワを目前にして、姿勢制御《しせいせいぎょ》用のリアクション・ホイールが故障《こしょう》した。これは独楽《こま》の反作用で姿勢を変える装置《そうち》だ。代替《だいたい》手段《しゅだん》としてスラスターと呼ばれる小型ロケットを使った。
だがスラスターでは精密《せいみつ》な姿勢制御が難《むずか》しかった。電波でさえ往復《おうふく》三十分かかる距離《きょり》なので、地上からコマンドを送っていては間に合わない。
そこでメーカーの技術者《ぎじゅつしゃ》がカメラ画像《がぞう》から姿勢を検出《けんしゅつ》して自分で機体を誘導《ゆうどう》するプログラムを急速《きゅうきょ》組み上げ、アップロードすることで対処《たいしょ》した。
小惑星にタッチダウンした後、このスラスターが燃料《ねんりょう》漏《も》れを起こした。腐食性《ふしょくせい》のヒドラジン燃料が盲腸炎《もうちょうえん》のように探査機《たんさき》内部を洗《あら》ったらしい。【はちどり】は姿勢制御不能、通信不能、バッテリーは完全放電という致命傷《ちめいしょう》を負って漂流《ひょうりゅう》 状態《じょうたい》に陥《おちい》った。
交信を回復するためには、中利得アンテナが地球を向く必要があった。漂流開始時点ではアンテナは地球を向いていなかった。だが時間とともに自転|軸《じく》や地球との位置関係が変化する。
運用チームは辛抱《しんぼう》強く待ち、ついに交信が可能になる位置関係がめぐってきた。毎秒八ビットという超《ちょう》低速での通信が始まる。通信速度は送信出力に依存《いぞん》するからだ。根気よく対話を続け、【はちどり】の状態が明らかになった。
電源系《でんげんけい》、姿勢制御|系統《けいとう》は壊滅《かいめつ》していた。バッテリーも使えず、太陽電池でいま発電している電力しか利用できない。太陽電池が陰《かげ》になったら即《そく》シャットアウトだ。
だがイオンエンジンは生きていた。これはイオン化した推進剤《すいしんざい》を電気のカで噴射《ふんしゃ》するエンジンだ。イオンエンジンの電荷の中和に使うキセノンガスも残っていた。
キセノンガスは推力《すいりょく》を生むために使うものではないが、ガスを放出すると微小《びしょう》な回転力が生じる。それを姿勢制御に利用しようという奇想《きそう》天外なアイデアが実行に移《うつ》された。
そしてついに【はちどり】は姿勢制御に成功し、イオンエンジンを始動して地球への帰還軌道《きかんきどう》に乗った。
不死身の探査機――人々は【はちどり】をそう呼んだ。
絶対《ぜったい》にあきらめない、不眠《ふみん》不休の救出運用に人々は熱狂した。運用|担当者《たんとうしゃ》の机《つくえ》にリポビタンDが積み上げられている画像が話題になり、それを知った大正製薬《たいしょうせいやく》が同じ製品を何箱も進呈《しんてい》して労をねぎらった。インターネットには【はちどり】を擬人化《ぎじんか》したイラストや漫画《まんが》が大量に出回った。
だが、【はちどり】の不死鳥伝説もここまでだった。
漂流のあと、リチウムバッテリーが準短絡《じゅんたんらく》状態になって、どうしても充電《じゅうでん》できなかった。太陽電池は生きているが、その電力だけではサンプルを収《おさ》めた再突入《さいとつにゅう》カプセルを切り離《はな》すシーケンスが実行できない。
【はちどり】もろとも地球の大気|圏《けん》に飛び込めば、カプセルは燃《も》え残るかもしれない。だが、カプセルは定められた姿勢で突入しなければ、熱防御《ねつぼうぎょ》もパラシュート開傘《かいさん》もできない。
当初の予定では、地球の手前で【はちどり】は再突入カプセルを切り離し、本体は地球を|側方通過《フライバイ》して宇宙空間に葬《ほうむ》られる手筈《てはず》だった。
イオンエンジンとキセノンガスの制御で、地球|近傍《きんぼう》を通過《つうか》することだけはできるのだが、それ以上はどうすることもできない。誰《だれ》かが手をさしのべない限《かぎ》り。
いつのまにか、眼下《がんか》の海が緑褐色《りょっかっしょく》に変わっていた。東京湾が近い。
木更津《きさらづ》沖《おき》で旋回《せんかい》したガルフストリームVは羽田空港のC滑走路に着陸した。
「んー。東京の匂《にお》いだなー」
ランプに降《お》り立ったゆかりは、そうつぶやいた。その主成分は車の排気《はいき》ガスで、これに気づいたのはソロモン諸島《しょとう》から“帰国”するようになってからだ。
十一月の空気は冷たかった。機内に引き返し、べージュのブレザーを取り出して袖《そで》を通す。
入国手続きを終えると、ゆかりはポーチとトートバッグをぶらさげて空港を出た。モノレールとJR線を乗り継《つ》いで相模原に向かった。
ACT・8
JAXA相模原キャンパス、宇宙《うちゅう》科学研究本部――通称《つうしょう》宇宙研。
ここに来るのは、茜を巻《ま》き込《こ》んで自衛隊《じえいたい》のヘリで金魚を運んで以来だ。
質素《しっそ》な建物だが、玄関《げんかん》ホールには歴代の人工衛星やロケットのミュージアム・モデルが誇《ほこ》らしげに展示《てんじ》されている。最小の予算で最大の成果を上げてきた機関だ。階段《かいだん》を上がり、本橋|教授《きょうじゅ》の部屋を探《さが》す。
ノックしてドアを開けると、部屋の主は奥《おく》の机でパソコンに向かっており、横顔を見せていた。五十代、銀髪《ぎんぱつ》で端整《たんせい》な顔立ちに銀縁《ぎんぶち》眼鏡《めがね》。黒いタートルネックのセーターを着ている。
「はいはい――おや」
区切りがつくまでキーボードを叩《たた》いてから、男はこちらを向き、ちょっと驚《おどろ》いた顔で立ち上がった。
「ほんとにみえたんですね。困《こま》ったな。宇宙飛行士の、ええと――」
「森田ゆかりです」
「どうぞ。中へ」
細長い都屋で、両側に書棚《しょだな》と机があり、中央に細長いテーブルがある。
本橋教授は手近な椅子《いす》を引き寄《よ》せて、座《すわ》るようにうながした。湯沸《ゆわ》かしポットから急須《きゅうす》に湯をつぎ足し、ふぞろいな湯飲みを二つ選んで茶を注いだ。
「すみません、急に押《お》し掛《か》けちゃって」
「いや、そうじゃなくてね。今朝那須田さんから電話があって、半信|半疑《はんぎ》だったんです。この時間に着いたってことは、SSAのジェット機で飛んで来られたんでしょう」
「はい」
「何百万かかるか知らないけど、それでゼロ回答じゃあんまりだってね」
「ゼロ回答なんですか」
「僕《ぼく》の気が変わらなければね」
無駄《むだ》話をしない人だな、とゆかりは思った。
「危険《きけん》だから、ってことですよね」
「そう。おさらいしようか?」
「いえ、それについては所長から聞きました。でも私は、それくらいなら平気だって思うので。ちょっとイレギュラーだけど大丈夫《だいじょうぶ》だから、あきらめることないって」
「あきらめる、か」
本橋教授は湯飲みを口に運んだ。
「あきらめずにやりたいということなら、最終的にはいちかばちか、リチウムバッテリーの破裂《はれつ》を覚悟《かくご》で充電《じゅうでん》してみるつもりだ。そちらに回収《かいしゅう》してもらう場合、それを試みずに軌道《きどう》制御《せいぎょ》に専念《せんねん》することになる。ひょっとしたらすべて自力でやれるかもしれないのにね。わがるかな?」
「はい。でも絶望的《ぜつぼうてき》ってニュースで」
「報道《ほうどう》発表は報道発表さ」
「すべて自力でやることより、サンプルの回収が大切なんじゃないですか」
「【はちどり】が工学試験|衛星《えいせい》だというのは知ってるかね」
「ええと、はい」
言われてみれば、さっき読んだ報告書にそんな言葉が出ていた。さっぱり注意を向けていなかったが。
「工学試験衛星の主目的は新しい技術《ぎじゅつ》がどこまで有効《ゆうこう》かを実証《じっしょう》することだ。小惑星《しょうわくせい》を探査《たんさ》したりする、サイエンスの仕事は付録でしかない」
「いないんですか? 小惑星のサンプルを待っている人」
教授はつかのま、視線《しせん》を宙に泳がせた。
「いるよ。しかしサイエンスのグループとは長いつきあいだからね。こうしたケースでの対応《たいおう》については、よく理解《りかい》してもらっているよ」
長いつきあいか。そういえば茜が言っていた。【はちどり】も構想《こうそう》段階からここまでに十五年かかっている。
「すでに後継機《こうけいき》の製作が始まっている。これはもはや試験衛星じゃなく、本物の惑星探査機だ。もちろんサンプルリターンが最優先《さいゆうせん》の課題になる。君たちが負うリスク、工学試験衛星としての使命を全《まっと》うさせること、【はちどり】がすでに大きな成果を上げていること、それから――僕の意地も少しはあるかな。諸々《もろもろ》の事柄《ことがら》をトータルに判断《はんだん》すると、SSAのオファーはお受けできない。そう結論《けつろん》せざるを得ないね」
これにて一件《いっけん》落着という口調で、本橋教授はしめくくった。
「そうですか……」
完敗だな、とゆかりは思った。ここに来るまでずっと【はちどり】の回収を慈善《じぜん》事業みたいに考えていた。こちらの身の安全を思って遠慮《えんりょ》しているだけで、内心はそうしてほしいにちがいない、と。
「わざわざ来てくれたのに、つれない返事しかできなくてすまなかった」
「いえ」
ゆかりは悟然《しょうぜん》と腰《こし》を上げた。
「気持ちはうれしいんだ。ありがとう」
「いえ」
ドアに向かって三歩歩いたところで、ゆかりはふと立ち止まった。
気持ちはうれしい? ありがとう?
ちがう。
こんな形でしめくくられちゃたまらない。
ゆかりは教授《きょうじゅ》のほうに向き直った。
「ちがうんです」
「ちがう?」
本橋教授は片眉《かたまゆ》を上げた。欧米《おうぺい》人との交流が多いせいか、しぐさもどこか欧米風だ。
「お礼なんて言われる話じゃないんです」
「どういうことかな?」
「あれを、待ってる子がいて」
「待ってる子?」
おうむ返しに言って、教授は首を傾げた。
そう。それもサイエンスの対極に位置する理由で。
「こっちが手伝うって話じゃないんです。あのサンプルが要るから、協力してほしいんです。お願いしますっ!」
ゆかりは両腕《りょううで》を下に伸《の》ばし、腰で体を折って深々と頭を下げた。髪《かみ》がどさっと顔のまわりを覆《おお》う。いまどきの娘《むすめ》にとっては土下座《どげざ》に等しい行為《こうい》だったが、体がそう動いていた。
礼儀《れいぎ》知らずの学生に慣《な》れている教授も、それを奇異《きい》に感じたらしい。
「不可解《ふかかい》だね。どうにも」
「不可解です、私も!」
ゆかりは顔を上げ、いま見せた礼節をリセットして教授の前にずいずい進み出た。
「お時間いただけますかっ!」
「あ、ああ……」
「話聞いてほしいんです!」
「はい、はいはい……」
必死の形相に圧倒《あっとう》されて、とりあえず教授はうなずいた。
「なんてか、科学的じゃないです。でも本人が信じてるから、それはあるわけで」
「話が見えないんだが」
「前置きですから!」
「では本論をたのむ」
「とですね――ええと――つまり――」
こんどはゆかりが頭を抱えた。
「病気の子がいて、大きな手術《しゅじゅつ》の前で弱気になってて、たまたま出会った野球選手が今晩《こんばん》僕が必ずホームランを打つから君もがんばれ、みたいな? ドラマで!」
「たとえ話かな?」
「ホームラン打ったって手術とは関係ないじゃないですか。でもその子にとっては大ありなわけで!」
「本諭は」
「だからっ、【はちどり】がそういうことになっており!」
本橋教授はぽかんと口を開けた。
「【はちどり】がホームランに?」
「です!」
「地球|到着《とうちゃく》までまだ四十日あるわけだが」
「だからたとえですってば! 四十日後に小惑星《しょうわくせい》のサンプルを地球に軟着陸《なんちゃくりく》させないと、その子は悪霊《あくりょう》の生け賛《にえ》になっちゃうんです!」
本橋教授はぽかんと口を開き、目を白黒させていた。
ACT・9
ソロモン宇宙基地《うちゅうきち》、SSA所長室、午後四時。
「すべてGO? これから教授を拉致《らち》って帰る? そんな強引《ごういん》な……そうか……うむ……承知《しょうち》した。しかしどうやって――」
言い終わる前に通話が切れた。受話器を置くと、那須田は木下を部屋に呼《よ》びつけた。
「【はちどり】回収《かいしゅう》ミッションはGOだ」
「ほんとですか」
「ゆかり君が本橋教授を説《と》き伏《ふ》せたんだと」
「本橋さんを? どうやって?」
「わからん。とにかく同意を得て、しかもガルフでいっしょに帰るっていう」
「信じられないな。本橋さん、意志《いし》は固いように思ったんだが……」
木下はしばらく考えて、付け足した。
「魔法《まほう》でも使ったか?」
「魔法のひとつやふたつ持ってるかもしれんな。女子高生だからな」
その夜、ソロモン基地の滑走路《かっそうろ》にガルフストリーム機が着陸してみると、そこには確《たし》かに本橋教授が乗っていた。機を降《お》りた教授は、無数の昆虫《こんちゅう》が舞《ま》い踊《おど》るナトリウム灯と、その向こうにある深い闇《やみ》を見回した。そしてゆかりに「近くに悪霊はいるかね?」と訊《たず》ねたのだった。
翌朝《よくあさ》から、向井、木下、本橋教授と宇宙飛行士三名をまじえて、ミッションの具体的な検討《けんとう》が始まった。ホワイトボードに難解《なんかい》な数式が書き連ねられ、向井が片《かた》っ端《ぱし》からシミュレーション・プログラムに反映《はんえい》させては実行してゆく。
本橋教授によると、【はちどり】の最終的な誘導《ゆうどう》は月|軌道《きどう》のあたりから始めるという。
地球到着の二十時間前にゆかりたちが打ち上げられ、高度三百五十キロの低軌道で回収|準傭《じゅんび》を始める。テザーを展開《てんかい》し、三百秒周期の回転を与《あた》えたところで両者の軌道の微調整《びちょうせい》にかかる。そこから両者が出会うまでに四時間あるが、その間に【はちどり】は十五万キロを旅し、オービターは地球を二周半し、テザーはオービターのまわりを四十八周する。それが最終的にどんぴしゃりのタイミングで半径十メートルの的に命中しなければならない。
この途方《とほう》もない複雑《ふくざつ》さを悟《さと》ると、ついには茜まで溜息《ためいき》をもらした。
「できるんでしょうか。この高度だと大気の影響《えいきょう》も出てきますよね……」
「こんな曲芸をしなくていいように、実は無人の『深宇宙港』というものを提唱《ていしょう》してるんだけどね」
本橋教授が言った。
それは地球・太陽のラグランジュ2地点に置かれる宇宙ステーションだった。帰還《きかん》した惑星|探査機《たんさき》は深宇宙港でサンプルを渡《わた》し、そこから地球までは別の輸送《ゆそう》機でサンプルを運ぶ。こうやって役割分担《やくわりぶんたん》すれば、飛行|領域《りょういき》に応《おう》じて最適《さいてき》な設計《せっけい》ができる。惑星探査機はそこで燃料《ねんりょう》の補給《ほきゅう》を受けて、さらなる探査に向かうことができる。地球の重力|井戸《いど》の外にあるので、発進に要するデルタVも小さくてすむ。
「……だが、ないものねだりをしても仕方がない。今回はやるしかないね」
「すっかり乗り気になられたようですね」
木下が言った。
「まあね」
本橋教授はそう言って、ゆかりをちらりと見た。あの話は二人だけの秘密《ひみつ》だった。
「だがこうして検討するうち、ますますやる気が出てきたよ。これは技術《ぎじゅつ》試験|衛星《えいせい》としても最高度の挑戦《ちょうせん》になるだろう」
「としても?」
「も」にアクセントを置いて、木下は問い返した。
「いやなに、科学衛星としての役割もあるから」
「ああ、そういうことですか」
本橋教授は真顔のままだったが、ゆかりには、彼がちろりと舌《した》を出したような気がした。
だが雑念のようなものが見えたのはそのときだけだった。検討作業が再開《さいかい》すると、教授は驚《おどろ》くべき集中力をみせた。両手で煩杖《ほおづえ》をついて考え込《こ》んだり、立ち上がってホワイトボードを小突《こづ》いて議諭《ぎろん》を戦わせたりした。
ゆかりはときどき、マツリの様子をうかがった。
今回はずっと神妙《しんみょう》な顔で耳を傾《かたむ》けている。どこまで理解しているのかわからないが――いつもなら居眠《いねむ》りしたり、脳内《のうない》で鳴っているらしい音楽にあわせて手足でリズムを取ったりするところだ。
二日目になると、ゆかりたちにもミッションの全容《ぜんよう》が見えてきた。拍子抜《ひょうしぬ》けしたことに、宇宙《うちゅう》飛行士に特別な作業はほとんどなかった。所定の軌道に乗ったらシーケンサーのスイッチを入れるだけだ。あとは地上からアップロードされたプログラムをコンピューターが実行してくれる。
なんでも機械でやろうとするのは本橋教授の思想の反映だった。なにしろ三億キロ離《はな》れた小惑星に自律《じりつ》的にタッチダウンしてサンプルを採集《さいしゅう》するロボットを作った人物だ。
それゆえ、たびたびこんなことを言われている。
「本橋先生、そこは彼女たちにまかせていいですよ」
協議の績果、【はちどり】を捕獲《ほかく》する作業は宇宙飛行士が遠隔操作《えんかくそうさ》することになった。
近づいてくる【はちどり】をハイビジョン・カメラで観察して投綱《とあみ》のようなものを投射《とうしゃ》するのだが、これを地上からやると一秒かそこらの時差が問題になる。音声とちがい、精細《せいさい》な映像《えいぞう》データを地上に送るのも容易《ようい》ではない。今回は全体が回転しているから、常時《じょうじ》アンテナを中継《ちゅうけい》衛星に向けていられるわけではない。キャプチャーとオービターの間なら、位置関係は変わらないから安定して通信できるし、時差もゼロに等しい。
ゆかりたちはシミュレーターで訓練を開始したが、感覚的には宇宙ステーションへのドッキングに近かった。打ち上げ時点ではキロメートル単位、軌道|変更《へんこう》ではメートル単位、そしてドッキング直前はセンチ単位で船を操《あやつ》るのだが、今回は何もない空間で同じことをするわけだ。
基本《きほん》的なハードウェアはすでにできており、【はちどり】を捕獲する装置《そうち》も手持ちの装置の改修《かいしゅう》ですみそうだった。一週間目にはおよその目処《めど》が立ったので、本橋|教授《きょうじゅ》は帰国することになった。
ゆかりは飛行場まで教授を送った。
「まきこんじゃって、すみませんでした」
「いや、僕《ぼく》は楽しんでるから。ここはいい処《ところ》だね」
「そうですか」
「宇宙研が東大にあった頃の雰囲気《ふんいき》に似《に》てる。個人主義《こじんしゅぎ》が尊重《そんちょう》されていてね。それでいて団結《だんけつ》するときはがっちり団結したもんだよ」
「へえ」
「君がマツリ君のことを話したとき――戸惑《とまど》いもしたんだが――そのことを思い出したんだ。人ひとりの願いを叶《かな》えられなくて、何が宇宙開発だって思ってね」
そう言って本橋教授はラッタルを昇《のぼ》り、機内に消えた。
ACT・10
【はちどり】が月軌道を横切った翌日《よくじつ》の朝。
ゆかりとマツリは鳥かごのようなエレベーターで射座整備塔《しゃざせいびとう》に昇り、ボーデイング・ブリッジを渡《わた》った。
今回のロケットはハイブリッド・エンジンを持つLSー6に固体ブースターを四基とりつけた増強《ぞうきょう》バージョン。
オービターは二人乗りのマンゴスティン。並列《へいれつ》席の左にゆかり、右にマツリが座《すわ》る。後部中央は三人目の席を取りつけることもあるが、今回は貨物スペースになっていた。いずれにしても、すし詰《づ》めもいいところで、飛行士の小柄《こがら》な体格《たいかく》とスキンタイト宇宙服の恩恵《おんけい》がなければ、席を代わることすら不可能《ふかのう》だろう。
ゆかりはオービターの運行|全般《ぜんぱん》を受け持ち、マツリは主にミッション機器を受け持つ。
カウントダウンはよどみなく進み、午前七時二十一分、LSー6は轟音《ごうおん》とともに熱帯の空に突き刺《さ》さった。ICBM並《なみ》の小型ロケットはスタートダッシュから猛烈《もうれつ》に加速する。
「くうううう……」
「ほいいいい……」
SRBの分離《ぶんり》で振動《しんどう》はいったん和《やわ》らぐが、Gのピークはこの後だ。|燃焼 終了 間際《ねんしょうしゅうりょうまぎわ》のロケットは出発時の数分の一の質量《しつりょう》になる。エンジンの推力《すいりょく》は変わらないから、Gは数倍になる勘定《かんじょう》だ。もちろん、スロットルが利《き》くのがハイブリッド・エンジンの長所だから、最終|段階《だんかい》では推力を絞《しぼ》る。だがロケットの打ち上げは「細く長く」より「太く短く」加速すべきなので、あまり乗員をいたわってはくれないのだった。
その荷重がふいに消減《しょうめつ》した。メインブースター燃焼停止。
いつもなら直後にメインブースターを切り離すのだが、今回はまだ仕事がある。
「メインブースター、アイドル燃焼モードに移行《いこう》」
燃焼は完全に終わっていない。種火《たねび》だけ残して遠地点まで慣性《かんせい》飛行し、そこでもう一回|噴射《ふんしゃ》する。いつもならオービターのOMSエンジンでやる作業だ。だが、今回はオービターとメインブースターの間に貨物パッケージを積んでいる。それをオービターの船首に移《うつ》すまではOMSを噴射できないのだった。
「アンテナ系展開《けいてんかい》」
「ほい」
ローゲイン・アンテナ展開。ハイゲイン・アンテナ展開。ATRS捕捉《ほそく》。Sバンド・データリンク確立《かくりつ》。今回は大盤《おおばん》振《ぶ》る舞いでNASAのデータ中継|衛星《えいせい》の回線を借りっぱなしにするので、音声でなら軌道のどこにいてもソロモン基地と通信できる。
「こちらマンゴスティン、ソロモン基地|応答《おうとう》願います」
「こちらソロモン基地、クリアにリンクしてます」
茜の声が返ってくる。応答にわずかな間《ま》が入ることで衛星|中継《ちゅうけい》に切り替《か》わったとわかる。
半時間ほどの慣性飛行の後、再《ふたた》び体がシートにめり込んだ。噴射はすぐに終わった。
「メインブースター、アポジ噴射完了。燃焼停止」
固体燃料のくすぶりが止まるまで待ってから、メインブースターを分離する。
「メインブースター・セパレーション。続いてキャプチャーの移動いくね」
「ソロモン基地|了解《りょうかい》。時間はたっぷりあるから、落ち着いて」
「マツリ、|遠隔操作アーム《RMA》セットアップ」
「ほい」
マツリがRMA操作用《そうさよう》の操縦桿《そうじゅうかん》をアームレストの前に引き出し、右手を添《そ》えた。左手で起動スイッチを入れる。
ゆかりは操縦系をローテーション・モードにして、船を百二十度ほど回転させた。窓《まど》にメインブースターがめぐってきた。大きな煙突《えんとつ》を覗《のぞ》き込んでいるようだった。
「ライトつけるね」
マツリがRMAについたフラッドライトを点灯すると、煙突の中に白いブランケットで包まれた貨物パッケージが浮《う》かび上がった。
「ほいゆかり、もすこし近づいて」
「らっじゃー」
電磁弁《でんじべん》がコンマ何秒か開き、バーニア・スラスターが閃《ひらめ》く。パン、と乾《かわ》いた噴射音がキヤビンに響《ひび》いた。
船はじりじりと距離《きょり》を詰め始めた。
「いいね。ではやるよ」
マツリはRMAを巧《たく》みにあやつって、アームの先端《せんたん》を貨物パッケージの把持《はじ》金具に寄《よ》せてゆく。
「ほい、つかんだよ。ロックオン」
「貨物パッケージ開放――確認《かくにん》」
ディスプレイに応答があったので、ゆかりはスラスターを噴《ふ》かしてオービターを後退《こうたい》させた。
「ソロモン基地、こちらマンゴスティン。貨物パッケージ引き出し完了。いまマツリが船首ジョイントに移動させてる」
『ソロモン基地了解。マツリ、落ち着いて』
「ほい、落ち着いてるよ。あと少しだね」
貨物パッケージはかなり大きくて、直径はオービターとほぼ同じ、長さは三分の一くらいある。質量はしれているが、RMAの関節が動くと反動でオービターも回転するのがわかった。
「ほい、できたよゆかり」
「よし。ジョイント固定。貨物パッケージ移動完了」
『こちらソロモン基地。マンゴスティン、メインブースターとの距離は?』
「ええとね……ああ、もうずいぶん遠くにいるよ。五百メートルくらいかな」
『じゃ予定通りレトロモーター点火していいかな?』
「うん、やっちゃって」
今回はメインブースターも軌道《きどう》に乗ったので、そのままではスペースデブリとしてしばらく居座《いすわ》ってしまう。そのため逆噴射《レトロ》モーターで軌道を離脱《りだつ》させ、大気|圏内《けんない》で燃《も》やして捨《す》てる段取りだった。
まもなく、メインブースターの側面二|箇所《かしょ》から緑味をおびた燃焼ガスが噴き出した。ブースターはゆっくりと下方に離《はな》れていった。
「さてと、こっちもトランスファーだね」
「ほい。チェックできてるよ」
「手回しいいね。じゃOMS噴射シーケンス始動――OMS伸展《しんてん》確認。AUTOモード」
「ほい、グリーンだね」
OMSエンジンが点火した。体がシートにめりこむ感覚がしばらく続き、高度四百キロの円軌道に遷移《せんい》する。
ゆかりは新しい軌道の測定値《そくていち》を見て驚《おどろ》いた。
「すごい。誤差《ごさ》たったの十四メートルだよ」
ATRS――発展型トラッキング&データ中継|衛星《えいせい》――は日本、欧州《おうしゅう》、インドが国際《こくさい》共同で打ち上げた四機|編成《へんせい》の地上・軌道間通信システムだ。高度一万キロの高軌道を周回し、ユーザー側の衛星にATRS対応のトランスポンダが積んであれば自動的に位置を一メートル以内の誤差で割《わ》り出し、通信があれば地上に中継してくれる。向井が【はちどり】回収《かいしゅう》を思い立ったのも、ATRSあってのことだという。
返事がないので、ゆかりは隣《となり》を見た。マツリは天井《てんじょう》部分――といってもほんの二十センチほど先だが――の窓を見つめていた。両大西洋の青い海面と、綿《わた》くずのような雲がスクロールしていた。
「マツリ、調子はどう?」
「ほい、絶好調《ぜっこうちょう》だよ!」
マツリはこちらを向き、いつもの笑顔《えがお》になって答えた。
ゆかりは心の中で唱えた。マツリ、グリーン。
軌道を二周してポジショニングが完璧《かんぺき》になると、いよいよテザー展開フェイズが始まった。船首を軌道後方に向け、キャプチャーをウォームアップ。セルフチェック。
キャプチャーの三箇所に取り付けられたカメラから映像《えいぞう》が届《とど》いた。計器|盤《ばん》の液晶《えきしょう》ディスプレイに表示《ひょうじ》する。そのひとつには地球の昼半球が映《うつ》り込《こ》んでいたが、露光《ろこう》オーバーで真っ白になっていた。
「目視チェック。異常なし……に見えるけど」
「ほい、よさそうだね」
「じゃこのステージはクリアだ。あとはおまかせモードで、と」
シーケンスを次に進める。
予定の時間が来て、貨物パッケージからキャプチャーが音もなく発進した。それは軽金属《けいきんぞく》の担架《たんか》を二つ重ねたような物体で、その間にさまざまな機器を組み込んである。
キャプチャーはタングステン合金を編《あ》んだ五十メートルの耐熱《たいねつ》ラインを従《したが》えていた。そのあとに全長二百キロメートルのテザー本体が結ばれている。
ゆかりは窓《まど》に顔をこすりつけるようにして、船首の貨物パッケージを観察した。ブランケットに隠《かく》れて見えないが、中にはドーナツ状《じょう》に巻《ま》き束ねたテザーがある。荷造《にづく》り用の紐《ひも》と同様、内側からテザーが繰り出される仕組みだった。
キャプチャーは自律制御《じりつせいぎょ》で小刻《こきぎ》みな噴射《ふんしゃ》を繰り返しながら離れていった。その速度はやがて時速七十キロに達し、小さな光点になった。手元のテザーは縄跳《なわと》びのように旋転《せんてん》しながら繰り出され、蛇《へび》のようにうねりながら虚空《こくう》に消えてゆく。
速度ぶん軌道速度が減《げん》じているので、キャプチャーは遠ざかるとともに降下《こうか》していった。軌道力学の教科書どおり、高度が下がると速度が増《ふ》え、キャプチャーはこちらの下方を通って軌道前方へ移動《いどう》してゆく。位置エネルギーと運動エネルギーの交換《こうかん》だ。
三時間後、計器がビープ音をたてた。全長二百キロのテザーが伸《の》びきったのだった。
船体が、つい、と引かれるのを体で感じた。
「いまのは?」
「ほい、コンマ四メートル増速《ぞうそく》したね」
マツリが加速度表示を読んだ。
「あ、手順書に書いてあった。これも計画|値《ち》か。よしよし」
「目視チェックするね」
マツリがキャプチャーのカメラを遠隔《えんかく》躁作《そうさ》して、周囲を確《たし》かめた。キャプチャーの本体、その中央からリボン状のショックコードが虚空に立ち上がっている。別のアングルでは青い地球が見えた。
「いいね」
地上との通信リンクが確立《かくりつ》しているのを確かめて、ゆかりは無線機のトークボタンを押《お》した。
「ソロモン基地《きち》、こちらマンゴスティン。テザー展開、目視チェック完了《かんりょう》です」
『了解《りょうかい》。そのままスタンバイしていて。いま相模原で本橋|教授《きょうじゅ》が【はちどり】の軌道を微調整《ぴちょうせい》してるから』
「マンゴスティン了解」
半時間ほどして、ソロモン基地から連絡《れんらく》があった。
『【はちどり】の軌道|修正《しゅうせい》が完了しました。シーケンサーに最新のプログラムをアップロードしますね』
「了解――あ、来た来た」
『タイミングの修整量は一秒以内です。まもなく回転運動に入ります。落下物がないように点検《てんけん》してください』
「了解」
二人で浮遊《ふゆう》物を点検する。キャビンエアの吸《す》い込み口に張《は》りついていた手順書を、計器盤の下にベルクロで留《と》める。
「キャプチャー、周回エンジン点火まで三十秒」
「見えるかな?」
キャプチャーは小さな物体だが、秒速四・ニキロの増速をするからにはかなりの噴射になるはずだ。ゆかりは窓に顔を寄《よ》せた。
オービターは地表に対して背面《はいめん》飛行の姿勢《しせい》になっている。パナマ地峡《ちきょう》と南北アメリカ大陸、白雲をちりばめたカリブ海が広がっていた。ショックコードとテザーが地球に向かって伸びているが、肉眼《にくがん》で見えるのはほんの二十メートルくらいだ。
「ほい、そろそろだよ。十、九、八、七――」
マツリがカウントダウンする。ゼロの声と同時に、紺碧《こんぺき》の海にチカリと閃光《せんこう》が灯《とも》った。
「光った」
光点はゆっくりと動き始め、地球の縁《ふち》をまたいで宇宙《うちゅう》空間に泳ぎだした。炎《ほのお》は黄色く、絹《きぬ》のヴェールのようなガスの傘《かさ》をしたがえていた。それから炎は、ふっと消減《しょうめつ》した。
「こちらマンゴスティン、周回エンジン燃焼《ねんしょう》終了を眼視|確認《かくにん》――おっと、いま船が動きました。ひっぱられてます」
船の前方に浮《う》かんでいたショックコードがぴんと張《は》り、船体が音もなく回転しはじめた。
自転周期は三百秒。
遠心カ――回転によって受ける加速度は微々たるものだが、スラスターの噴射とちがって、ずっと持続している。
『マンゴスティン、こちらソロモン基地。キャプチャーが回転運動に入ったのをテレメトリで確認しました。すべて計画値です』
「了解。こっちでも弱いGを感じてる」
『【はちどり】はいま二万五千キロ地点、コンタクトまで三十六分。それまで何もしなくていいです。オービターを揺《ゆ》すらないようにね』
「了解、ソロモン基地」
通信を終えると、ゆかりは言った。
「なにもするなってさ」
「ゆかり、灯《あか》りを消していい?」
マツリが言った。
「いいけどなんで?」
「糖霊《せいれい》の声を聞くよ」
「そっか」
まわりは真空だというのにどんな声が聞こえるというのだ――とゆかりは思ったが、好きにさせる。
「窓《まど》のシャッターも閉《し》める?」
「ほい、そこは開けておいて」
「ほいほい」
キャビンの照明を消し、液晶《えきしょう》ディスプレイの輝度《きど》を絞《しぼ》る。
青い地球光と、まばゆい太陽光が五分周期で窓から差し込み、狭苦《せまくる》しいキャビンの中を這《は》ってゆく。
マツリは目をつむり、普段《ふだん》なら緩《ゆる》みっぱなしの口元を引き結び、身じろぎもしなかった。両手は胸《むね》の前に浮かせて、指をからめるようにしている。
タリホ族の村の一角にある精霊の家――合掌造《がつしょうづく》りみたいな急傾斜の屋根のある高床式の小屋――に籠《こ》もるときも、マツリはこんなことをしているのだろうか。
そう思うとちょっぴり敬虞《けいけん》な気持ちになったが、沈黙が苦手なゆかりは五分ほどでしびれを切らした。
「どう、なんか聞こえた?」
「ほい」
マツリは瞼《まぶた》を開くとこちらを向いて言った。
「近づいてくる精霊がいるよ」
「どんなやつ? レミソの精霊と相性《あいしょう》よさそう?」
「たぶんうまくいくね。とてもさびしくしてる。昔、精霊のすみかの星が別の星に近づいた。精霊は相方ができたと思って喜んだけど、ふたつの星はぶつかってひとつになった。精霊もまじりあってひとつになったので、やっぱりさびしいままだったというよ」
「ふーん……」
ゆかりは適当《てきとう》に相づちを打った。そういえばなにかの番組で、岩塊《がんかい》がどんどん合体して小惑星《しょうわくせい》に成長するアニメーションを見たごとがある。衝突《しょうとつ》しても砕《くだ》けたり弾《はじ》けたりせず、粘土《ねんど》のようにくっつくのが奇妙《きみょう》な感じだった。あれは、ラブルパイル構造《こうぞう》だったか。ばらばらの岩石が弱い重力でひとまとまりになっているという。
「精霊は|壊れ物《フラジャイル》だよ。簡単《かんたん》に違《ちが》うものになってしまう。だから地球にぶつけてはいけない。そっと降《お》ろしてやるね」
「そうなんだ」
問題なさそうだ、とゆかりは思った。このミッションの目的は【はちどり】をやんわりと受け止めて、そっと地球に降ろしてやることだ。それと食い違いがなければ、マツリがどんなビジョンを持っていようとかまわない。
『マンゴスティン、こちらソロモン基地《きち》。【はちどり】とのランデヴーまであと十分です。いま七千キロ地点まで来てます。最終調整に入ります』
「マンゴスティン了解《りょうかい》」
キャプチャーからのテレメトリとカメラ映像《えいぞう》を一瞥《いちべつ》する。
「全|装置正常《そうちせいじょう》です」
『修正《しゅうせい》データをアップロードしました』
「アップロード確認《かくにん》。えーと、Z軸《じく》にプラス五・四センチの加速か」
『その通りです。オービターは何もしなくていいですから』
「了解」
ランデヴーのチャンスは一度きりだ。逃《のが》したら【はちどり】は惑星間空間に投げ出され、生きているうちに地球に近づくことはないだろう。それはマツリがソロモン基地を去ることを意味する。
ゆかりは緊張《きんちょう》を覚えたが、ランデヴーは二百キロ先の自動装置が行うことだし、こちらにできるのは計器を見守ることだけだ。することは何もなく、いささか気持ちが空回りする思いだった。
五分前。テザーがもう一回転したとき、キャプチャーのすぐそばを【はちどり】が通過《つうか》するはずだ。
キャプチャーのネット投射《とうしゃ》装置の脇《わき》についたハイビジョン・カメラを地球方向に向ける。
【はちどり】は地球大気をかすめるようなコースで飛来する。キャプチャーは【はちどり】のコースに接《せっ》するように円周上を移動《いどう》し、【はちどり】が大気に飛び込む直前にすくいあげる。
「ほい、来たよ、【はちどり】が這《は》っているね」
「どこ?」
「ここだよゆかり」
マツリがディスプレイを指さした。青い太平洋――キリバスのあたりか――をバックに、なにかキラキラしたものが動いている。大気|圏内《けんない》を動くものは、この距離《きょり》ではすべて静止して見える。この光点は宇宙《うちゅう》空間にあるものだ。
マツリはジョイスティックでカメラの向きを変えて、光点を視野《しや》の中央に持ってきた。
「光学|追尾《ついび》、ロックオンするね」
「他《ほか》の人工|衛星《えいせい》ってことはない?」
「まちがいないよ、これは【はちどり】だね」
カメラを望遠にすると、二|枚《まい》の太陽電池パドルと、その間にある四角いボディが見えた。
「うん、そうだね」
ゆかりはソロモン基地に【はちどり】の視認を報告《ほうこく》した。
カウントダウンクロックを見る。ランデヴーまで七十秒。
光学|測距《そっきょ》の表示《ひょうじ》がディスプレイに現《あらわ》れた。あと八百メートル。その数字は刻々《こっこく》と小さくなってゆく。レンズを標準《ひょうじゅん》に切り替《か》えたが、それでも本体の上のメッシュ・パラボラアンテナが識別《しきぺつ》できた。本体を包む板チョコの包み紙のようなサーマルブランケットがきらきらと輝《かがや》いている。
マツリがネット投射ボタンの透明《とうめい》カバーを開いた。フィンガーガードに指をかける。
「距離二百メートル。まだだよ」
「ほい、こわくないよ」
マツリの横顔を、目の端《はし》でとらえる。マツリの視線はディスプレイに注がれていたが、何に呼《よ》びかけているかはわかった。
「百メートル。まだ接近中」
「そのままくる。こわくないよ」
「五十メートル。まだ接近中」
「よくきた、よくきた、そのままそこにいて」
「四十……三十……まだ寄《よ》ってる……二十五、二十四、二十三……いま!」
……言い終わる前に、マツリはボタンを押《お》していた。
ケプラー繊維《せんい》を編《あ》んだ投網《とあみ》が、円形に回転しながら広がってゆく。
それは音もなく【はちどり】を覆《おお》い、さらにその先へ進んだ。直後、高速のウインチが作動して朝顔の花のように開いたネットを絞《しぼ》った。【はちどり】は捉《とら》えられたが、なおも本来のコースで飛ぽうとする。ネットはその慣性《かんせい》で、石ころを入れたストッキングのように緊張した。
「ほい、つかまえたよ! 精霊は元気にしてる。うまくいったよ、ゆかり!」
「やたっ! マツリ、グッジョブ!」
ゆかりはマツリと腕《うで》を絡《から》めあって喜んだ。それからソロモン基地に連絡《れんらく》した。
「こちらマンゴスティン、【はちどり】を捕獲《ほかく》。マツリが【はちどり】をつかまえました!」
それからすぐ、ゆかりはGを感じた。体がシートに沈《しず》む。計器|盤《ぱん》にむすびつけたタリホ族のおまもりがぴんとぶら下がった。Gは弾力《だんりょく》的に変化したが、徐々《じょじょ》にその振幅《しんぷく》を狭《せぱ》めていく。
「いまオービターが引っぱられました。ええと加速は……一・OGで落ち着いた」
『おめでとう、マツリ、ゆかり。テレメトリもすべて計画|値《ち》です。大気|制動《せいどう》が終わるまで、しばらくこらえなきゃいけないけど』
「マンゴスティン了解《りょうかい》。平気だって。地上と同じ重力だもん」
二百キロのテザーを介《かい》して回転するオービターと【はちどり】の回転中心は、オービターから三十キロの地点に移《うつ》った。この位置を基準《きじゅん》に考えると、近地点高度三百二十キロ、遠地点高度二千四百キロの楕円軌道《だえんきどう》に乗ったことになる。
これから軌道五周をかけてエアロブレーキングする。終了まで約八時間。しばらくは一Gの遠心力を背中《せなか》に受けて過《す》ごすことになる。
「よし、いまのうちにメシにするか」
「ほい! おべんと、おぺんと、楽しいねえ!」
【はちどり】の捕獲に成功して、マツリは見るからにリラックスしていた。
ゆかりたちの要望が叶《かな》ったのだが、SSAのミッションにおいては、打ち上げて最初の食事はいわゆる宇宙《うちゅう》食ではない。NASAのようにHACCIPシステムで厳重《げんじゅう》に管理する制度もないので、普通《ふつう》の食事を摂《と》ることになっている。今回はまだほんのりと温《あたた》かい天津飯《てんしんはん》店の特製弁当《とくせいべんとう》だった。斑麗《はんれい》の字で「ゆかりさんえ」「マツリさんえ」とサインペンで書いてある。
「おー、いいねいいねえ」
パッケージを開いたゆかりは顔をほころばせた。中には蝦《えび》ギョウザやシュウマイ、固めに作った杏仁豆腐《あんにんどうふ》などが詰《つ》まっていた。
ドリンクはプラスチック袋《ぶくろ》に入ったココナツミルクで、小さなタピオカの粒《つぶ》が入っている。ドリンクは宇宙食用の飲み口つきチューブに入っているが、これはSSAが天津飯店に提供《ていきょう》しているものだった目店ではちゃっかり土産《みやげ》物として宇宙ドリンクを販売《はんぱい》している。
「しまったなー」
ゆかりは舌打《したう》ちした。
「考えてみたら宇宙で重力があるミッションって初めてじゃん。だったらこんな味気ないチューブじゃなくて、飲茶《ヤムチャ》セット持ってくれば!」
「ほい、ゆかり、こんなこともあろうかとマツリは用意していたのだよ」
「え?」
マツリはシートの下から手品のように三つの容器《ようき》を取り出してみせた。
急須《きゅうす》、湯飲み、ビニール袋に入れたウーロン茶葉。カーバッテリーで使える中国製の電熱ポット。」
「どうやって、いつの間に」
「魔法《まほう》だよ、ゆかり。魔法を使う」
「それは使っちゃだめって――」
「平和利用オーライね。ゆかりはいらない?」
「いるけど」
「でもポットの電源《でんげん》がわからないよ。ゆかりたのむね」
「よし、まかせて」
電熱ポットの電線の先は自動車のシガーライター・ソケットを使う仕様だった。
「十二ボルトか。ってことは――」
ゆかりはサバイバルキットからマルチツールを取り出した。電線を途中《とちゅう》で切り、被覆《ひふく》を剥いた。
それからヒューズパネルのカバーを開く。
「十二ボルト電源A系統《けいとう》――まてよ、これ使うとテレメでばれるな」
「ほい?」
「普段《ふだん》より多く電流流れたら地上が怪《あや》しむじゃん。ここはC系統の予備《よび》バッテリーを使うべし」
手際《てぎわ》よく電線をターミナルに結ぶ。
「よしできた」
「ゆかり、グッジョブね」
マツリは膝《ひざ》に私物入れのケースを載《の》せてポットを置き、飲料水のチューブから水を注いだ。スイッチを入れるとパイロットランプが灯《とも》り、すぐにコトコトと音を立て始めた。
五分周期でサーチライトのように差し込む日照が、立ちのぼる湯気を白く輝《かがや》かせる。
茶葉を入れた急須に湯を注ぐと、鉄観音の香《かお》りが狭《せま》いキャビンに広がった。
「ほー、天津飯店、の匂《にお》いするね」
「だねー」
お茶すすり、天心をつまむと、ゆかりは満ち足りた気分になった。
「こうやって食べてると、なんかシミュレーター訓練みたいだよね」
「ほい、それあるねえ」
地上でも考えることは同じだ。時には数時間にわたって缶詰《かんづめ》になるシミュレーターの中で、娘《むすめ》たちは秘密《ひみつ》の間食にトライし続けてきたのだった。
「さつきさんにさー、歯に青《あお》海苔《のり》ついてるわよって言われたときはびびったよねー」
「ほい、マツリはドリアン食ってたら排気《はいき》ダクトから臭《にお》いがばれてど叱《しか》られたよ」
と、その刹那《せつな》。
『こちらソロモン基地《きち》、マンゴスティン応答《おうとう》願います』
無線機から医学|主任《しゅにん》・旭川《あさひかわ》さつきの声がして、二人はとびあがった。
「はいはいっ、こちらマンゴスティン、感度良好」
『回転運動に入って一時間になるけど、気分はどう?』
「あ、至《いた》って快調《かいちょう》ですです、どうぞ」
『お弁当食べた? 食欲《しょくよく》はある?』
「そりゃもう、デザートがあったらいいなーなんて言ってたくらいで。てへ」
『そう。ならいいけど、あんまりはしゃいじゃだめよ』
「まっさかー。そんな子供《こども》みたいなことしませんてぇ」
『コリオリ効果《こうか》で酔《よ》っちゃうかもってこと。なるべく頭を動かさないようにしてるのよ?』
「了解《りょうかい》。気をつけまーす」
『長丁場なんだから、おトイレも我慢《がまん》しないこと。二人でヘルメットかぶってやれば臭わないでしょ?』
「んなこと無線で言わなくても」
『そう? じゃあがんばってね』
そしてふと思った。
医学主任のさつきさんがあれこれ気遺《きづか》うのは当然ともいえるが、マツリもミッションのこの部分を正しくイメージしていたのだ。回転重力がかかり、普通の電熱ポットで湯が沸《わ》かせることを。急須でお茶を淹《い》れられることを。
ときどきすごいよな、この子は……
あらためてマツリを見ると、ケチャップのボトルを逆《さか》さにしてシュウマイに垂《た》らしてい
た。
……味覚も。
ACT・11
【はちどり】が高層《こうそう》大気|圏《けん》に接《せつ》するたびに、テザーの回転は遅《おそ》くなっていった。その抗力《こうりょく》は二百キロ離《はな》れたオービターにも伝わってくる。遠心力は周速度の逆《ぎゃく》二乗で減《げん》じるので、軌道《きどう》三周目にはほとんどGを感じなくなった。
もう飲茶《ヤムチャ》を楽しむわけにはいかない。第二食はレトルト容器《ようき》に入ったカレーとパン、味の濃《こ》いオレンジジュースになった。
五周目、テザーの回転は停止し、楕円《だえん》軌道はもとの円軌道に戻《もど》った。空気抵抗と潮汐《ちょうせき》力によって【はちどり】はオービターの下方、やや後方にたなびいている。
カイトの展開《てんかい》作業のため、オービターは短い噴射《ふんしゃ》をして、軌道高度を二十キロ持ち上げた。
「こちらマンゴスティン。えー、いまオレンジ色のバーが膨《ふく》らみ始めました――早っ、もう展開終わり? ぽんって相合い傘《がさ》になった。すごい、簡単《かんたん》じゃん?」
なんのかの言っても素子さんて偉大《いだい》だ。
クリアオレンジに着色されたロガロ型カイトは直射日光の中でゆらめいていた。紫外線《しがいせん》によって各部が硬化《こうか》したのを見計らって、それぞれのバーにあるガス抜《ぬ》き孔《こう》を火薬で開いた。
カイトの膨張《ぼうちょう》に使われたガスは真空よりわずかに高い密度《みつど》しかない。そのままでは降下《こうか》して大気|圧《あつ》が上がったとき、潰《つぶ》れてしまう。潰れないだけの内圧をガスで作ろうとすると、その質量《しつりょう》は馬鹿《ばか》にならない。
「カイト形状《けいじょう》、正常《せいじょう》。曳航《えいこう》モード、姿勢《しせい》正常。すべてオッケーです」
相合い傘の頂点《ちょうてん》にラインを結んで牽引《けんいん》しているような形になったのが、ハイビジョン映像《えいぞう》で確認《かくにん》できた。この状態《じょうたい》では揚力《ようりょく》は生まれない。カイトには枝《えだ》分かれした多数のラインが結ばれているが、頂点にあるライン以外はすべてたるんでいる。
『了解《りょうかい》しました。最終シーケンスをアップロードします。そちらも帰還準備《きかんじゅんぴ》に入ってください』
「マンゴスティン了解」
順調ならキャプチャーのウインチが作動し、ラインの長さを加減してカイトに仰角《ぎょうかく》を持たせる。これによってカイトは揚力モードになる。凧《たこ》のように揚力を発生する状態だ。
ゆかりとマツリはハイビジョン映像を見守った。
時間が来た。
「……ほい? 始まらないね」
「どうしたんだろ」
ゆかりはトークボタンを押《お》した。
「ソロモン基地、こちらマンゴスティン。カイトに変化なし。どうなってる、茜?」
『いま調べてます。ウインチが動いてないとか――はっきりしたことがわかったら連絡《れんらく》します』
「マンゴスティン了解」
ゆかりは隣《となり》の相棒《あいぼう》を見た。
マツリはディスプレイを見つめたまま、眉《まゆ》をひそめていた。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、すぐ直るって」
「ほい」
だが、続く二十分あまりの作業でも状況《じょうきょう》は変わらなかった。
電気信号は確《たし》かにキャプチャーに届《とど》いており、ウインチのモーターも回っている。だが、モーターの負荷が想定よりずっと小さい。空回りしているような感じだという。
「ゆかり、あっちにランデヴーしよう」
マツリが言った。
ゆかりはすでに覚悟《かくご》を決めていた。テザーを巻《ま》き上げることはできないが、相手は自分たちのすぐ下の軌道にいる。この位置からのランデヴーは難《むずか》しくない。
「そうだね。こっちは何もしないって話だったけど、やれるだけやってみたいもんね」
ゆかりは地上に運絡した。
「こちらマンゴスティン。あのね、IFMを提案《ていあん》したいんだけど」
IFM――インフライト・メンテナンスとは、飛行中に行う修理《しゅうり》作業のこと。
『了解。きっとそう言ってくると思って、もう提案してあるの。いま木下さんたちが相談してるから、少し待って』
さすが茜だ。十五分後、茜は伝えてきた。
『マンゴスティン、キャプチャーのIFMはGOです。でも……その、修理はせず、観察とランデヴーの訓練を目標にするように、とのことです』
「どういうこと?」
『向井さんが、修理は難しいだろうって言ってます。ギヤボックスの中で電磁《でんじ》クラッチがスリップしてるらしくて、簡単には直せないだろうって。それに、わずかとはいえ空気|抵抗《ていこう》を受けてる物体と長時間のランデヴーはできない、十五分が限度だって』
ゆかりとマツリは顔を見合わせた。
「いいよ、それでも」
『私からもお願い。無理しないって約束して』
「うん――まあ、やるだけやったら戻るから」
『了解。じゃ、これからランデヴーのプログラムを送ります』
届いたプログラムを点検《てんけん》し、シーケンサーを実行に移《うつ》す。
いつもの軌道《きどう》遷移《せんい》とは手順が異《こと》なる。
現在《げんざい》【はちどり】側は潮汐《ちょうせき》力でテザーにぶらさがった状態なので、テザーを切り離《はな》すと潮汐力のぶんだけ降下《こうか》してしまう。それを補《おぎな》うため、いったん【はちどり】を引き上げる操船《そうせん》を行う。
次いでオービター側と【はちどり】側の両方でテザーを切り離す。テザーは軌道に残ることになるが、それもせいぜい数日のことだ。下端《かたん》側の空気抵抗がかなり大きいので、すぐに全体が減速《げんそく》して大気|圏《けん》に落下し、灰《はい》になるだろう。
OMSエンジンを噴射《ふんしゃ》し、マンゴスティンはトランスファー軌道に乗った。小刻《こきざ》みな修整を加えながら、軌道を半周したところで目標が見えてきた。
ネットに包まれた【はちどり】を先頭に、キャプチャー、カイトが一直線に並《なら》んでいる。軌道高度は百七十キロだが、わずかな空気抵抗に引きずられる形でこのように並んだらしい。
『忘《わす》れないで。ランデヴーは持続しないと木下さんが言ってます』
茜が伝えてきた。
『【はちどり】のほうはゆっくりだけど減速し続けているから。キャプチャーに取り付いたらすぐに命綱《いのちづな》でオービターと結ぶこと。そして十五分経ったら必ずオービターに戻《もど》ること』
「了解」
すでにフェイスプレートを閉《と》じ、船内のエアを放出している。
「ほい、ハッチを開けるよ」
「そうして」
マツリがハーネスを解《と》き、腰《こし》を浮《う》かせてハッチを開いた。
目の前――ほんの十メートルほど先に、【はちどり】が浮かんでいた。かすみ網のような捕獲《ほかく》ネットは目立たず、航行中の姿《すがた》そのままのようだった。八年あまりにわたって宇宙塵《うちゅうじん》と荷電|粒子《りゅうし》に叩《たた》かれてきたはずだが、見た目には新品同様だった。ただ、サーマルブランケットの一部が破《やぶ》れてめくれあがり、周囲が変色している。ヒドラジン燃料漏洩《ねんりょうろうえい》の痕《あと》だろうか。
マツリは身を起こしたまま、じっと【はちどり】を見つめていた。
「ゆかり、少し時間、いいか」
「時間はあんまり――なに?」
「精霊《せいれい》を呼《よ》んでみるよ。このままにしていて」
「わかった」
マツリは両腕《りょううで》を【はちどり】にさしのべた。
唇《くちびる》が動く。なにか歌っているようだが声は届かない。インカムを切っていた。
でも、この歌は聴《き》いたことがある、とゆかりは思った。いつか、月夜の海岸で。
マツリの唇が止まり、手がインカムのスイッチに伸《の》びた。
「だめだよゆかり。こちらの船には乗ってくれないよ」
「そっか」
小刻みにスラスターを噴射して、船をキャプチャーの真横に付ける。
ゆかりはマツリに係船用のロープを手渡《てわた》した。
「先に行って、これ結んで」
「ほい」
マツリは軽く船殻《せんこく》を蹴《け》って船外に泳ぎ出し、猫《ねこ》のような身のこなしでキャプチャーに取り付いた。そのフレームに手際《てぎわ》よくロープを結びつける。
同じロープがマンゴステイン側にもしっかり結ばれていることを確認《かくにん》して、ゆかりも船を離れた。
キャプチャーの全長は一・九メートル。軽金属《けいきんぞく》のフレームに囲まれた細長い物体だ。
進行方向に向かってネットを投射する装置《そうち》と小型のハイビジョン・カメラがあり、【はちどり】を包んだネットの根元が結ばれている。後方にはカイトの固定具とウインチを収《おさ》めたケースがあった。その向こうに小さなロケットエンジンがのぞいている。
本体中央には姿勢制御《しせいせいぎょ》用のホイールや電源《でんげん》、通信装置を納《おさ》めた箱。
ウインチからは凧糸《たこいと》ほどの太さのラインが四本出て、分岐《ぷんき》を繰《く》り返しながら後方三十メートルに浮かぶカイトにつながっていた。ぴんと張っているのは一本だけで、残りの三本はたるんでいる。
マツリはウインチに屈《かが》み込み、ラインをつまんで手応《てごた》えを調べていた。
「ウインチは仕事をしてないようだね」
「そう?」
マツリが地上に報告《ほうこく》すると、向井が直接応答《ちょくせつおうとう》してきた。
『じゃあマツリちゃん、右から二番目、「2」って書いた穴から出てるラインを強く引っ張ってみて』
「ほい、二番だね……五十センチくらい出て止まったよ」
『摩擦《まさつ》はあった?」
「なかったよ。するする出てきて、こちっと止まったね」
「了解《りょうかい》。思った通りだ。電磁《でんじ》クラッチが開きっぱなしだ」
「ほい、どうすれば直る?」
『申し訳《わけ》ない。残念だけど、そこでは直せないよ。分解する工具がないし、やるにしても時間がかかりすぎる』
ゆかりが割《わ》り込《こ》んだ。
「ありがとう向井さん。それじゃ船に戻《もど》って帰還準憶《きかんじゅんび》にかかります」
『ごめんね。何度も点検《てんけん》したんだけど、最後の最後でこんなことになっちゃって』
「いいよ。しょうがないよね」
通信を終え、ゆかりはマツリに同じことを言った。
「しょうがないよ。マツリ。帰ろ」
マツリはウインチの上に屈み込み、まだ二番ラインをいじっていた。
ゆかりはいたたまれない思いだった。しかし未練を断《た》ち切るなら早い方がいい。
「あのさ、マツリ。残念だけど――」
「ほい、これを見て」
「え?」
マツリは三番ラインを左手に巻《ま》きながらたぐっていた。
「ち、ちょっと!」
「見て、カイトに仰角《ぎょうかく》がついたよ」
これまで先端をまっすぐこちらに向けていたカイトが、一方の面をこちらに向け、斜《なな》め下方――地球に向かって逸《そ》れ始めている。
「それ、まずいって、引きずり降《お》ろされるじゃん!」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ。ゆかりはこれを持っていて」
三番ラインを手渡《てわた》される。マツリはキャプチャーのフレームに馬乗りになり、一番ラインを右手、四番ラインを左手で握《にぎ》った。まるで御者《ぎょしゃ》のようだ。
「こうやって操縦《そうじゅう》するね。人がウインチの代わりをすればいいよ」
「ちょっと、これはカヌーじゃないんだから、そんな簡単《かんたん》に……え?」
マツリが右手のラインを引くと、カイトが回転し、高い位置に移動《いどう》しはじめた。
「ほれ、うまくいくよ」
「……たしかに」
カイトは地球の反対側に移動し、こちらに下面を見せる形で浮《う》かんだ。それに引かれて、キャプチャーもわずかに持ち上げられるのがわかった。
しかしカイトは何もしないでいるとすぐ左右に傾《かたむ》き始める。
安定のいい凧なら、一本のラインを地面に結んでおけば何もする必要はない。だがいまは無重量|状態《じょうたい》だ。上下の情報《じょうほう》がないのだから、上下方向には安定の生じようがない。
ゆかりはマツリの恐《おそ》るべき構想《こうそう》を理解した。
マツリはこうやってカイトを操縦しながら、大気|圏《けん》に再突入《さいとつにゅう》するつもりなのだ。
「無理よ! 無理無理無理! これって極超音速《ごくちょうおんそく》だよ? 耐熱《たいねつ》タイルとかないんだよ?!」
「大丈夫だよゆかり、宇宙《うちゅう》服いっちょでもいけると向井さん言ってたね」
「だめ。絶対《ぜったい》だめ。船長的にだめ!」
「ゆかり、これは魔法使《まほうつか》いとしてどうしてもやらなくてはならない」
「いまは宇宙飛行士でしょ! アルバイト禁止《きんし》! これは船長命令だっ!」
「仕方がないね」
マツリは上半身をひねり、まっすぐにこちらを見た。
ゆかりは目をそらさなかった。
「約束したよね。マツリ」
「…………」
マツリの目から妖気《ようき》が消えた。
「でもゆかり、マツリはどうしてもやらねばならないよ」
「部族の掟《おきて》なんて破《やぶ》っちゃえばいいよ。あたしが親父《おやじ》に話つけるからさ」
「タリホ族に掟なんかないよ」
マツリは言った。
「ウィズダムに従《したが》うだけ。この仕事をするのはマツリのためでない。世界のためね」
「わかんないよ、そんなの。全然わかんない!」
ゆかりが泣き声になる一方、マツリの声は平静なままだった。
「ゆかりはマンゴスティンで帰るがいいね。マツリはこれに乗ってゆくよ」
「だめ」
「ゆかり、聞き分けるがいいね」
「絶対だめ」
ゆかりは断固《だんこ》として言った。
「マツリ一人残していくなんてできない。私もいっしょに行く!」
「ほい?」
「両手ふさがってるのに何かあったら困《こま》るでしょ。五百キロまで降ろせるって向井さん言ってたから、二人乗ったって平気だし。マンゴスティンはリモートで降ろしてもらうし」
マツリは顔を輝《かがや》かせた。
「ほい、そのだめはうれしいだめだね!」
「よし、船からサバイバルキットとか移《うつ》そう。どこに落ちるかわかんないから」
「そうだね。でもなるべくレミソ島の近くに行きたいよ」
知らないうちにマンゴスティンは前方に移動し、繋留《けいりゅう》ロープがぴんと張《は》りつめていた。船体が【はちどり】を包んだネットに触《ふ》れている。
「や、しまったな。マツリ、カイトを元の姿勢《しせい》に戻《もど》して。ブレーキが利《き》きすぎてるよ」
「ほい」
ゆかりはロープをつたってマンゴスティンに取り付いた。ネットに触れた部分を調べたが、異常《いじょう》は認《みと》められなかった。
後からマツリがやってきた。二人でキャビンに戻り、荷物をまとめる。
救命ボート、サバイバルキット、繋留や命綱《いのちづな》に使うロープ類――正確《せいかく》にはテープスリングと呼《よ》ばれる平たいもの。
それからカイトの手順書を開き、この高度からの降下《こうか》プロファイルを調べた。
「えーと、仰角三十度で始めるとして……結構幅《けつこうはぱ》があるなあ」
カイトの仰角のちょっとした変化や、高層《こうそう》大気圏の状態によって、減速《げんそく》の度合いが異《こと》なり、ひいては着水地点も動いてしまう。
「ま、ベストエフォートってことで勘弁《かんべん》ね」
ゆかりは逆《ぎゃく》ボーランド電卓《でんたく》で補完《ほかん》計算をして飛行計画をまとめた。
「時計用意して。次のゼロ秒から開始」
「ほい」
秒針がゼロになったところでクロノグラフをスタートさせる。
「三十三分後に降下|態勢《たいせい》に入るよ」
「ほい」
ソロモン基地《きち》に連絡《れんらく》するのは、キャプチャーに移ってからにしよう、とゆかりは思った。
一悶着《ひともんちゃく》あるに決まってる。無人テストにいきなり人間が乗るなんて、自分でも無茶《むちゃ》だって思うし。
必要な荷物をすべてキャプチャーに運ぶと、ゆかりはマンゴスティンに戻って操縦系統《そうじゅうけいとう》を手動からリモートに切り替《か》えた。ハッチを閉《と》じ、繋留ロープを解《ほど》く。
「さよなら、マンゴスティン。自分で帰れるよね」
船はゆっくりと前方に流れていった。
ACT・12
ソロモン基地、管制《かんせい》室。
『……というわけだから、マンゴスティンはリモートで再突入《さいとつにゅう》させて。無理言ってごめんね、茜。みんなに説得よろしく』
「そんな、無茶言わないで! だいいち私が説得されてないし!」
茜はそう返したが、返事はなかった。
おそるおそる周囲を見回す。
管制室内にいた者は一様に固まっていた。
次に動いたのは三原素子。ぼさぼさ頭を掻《か》きながら、
「スキンタイトスーツで再突入……度胸《どきょう》あるじゃん?」
とつぶやく。
それから向井が我《われ》に返って、「そんな無茶なあ!」と叫《さけ》んだ。
木下が自分のマイクで話しかけた。
「ゆかり君、極超音速下のカイトの挙動は完全には予測《よそく》できないんだ。そのためのテストじゃないか」
『でもさっきちょっとマツリがやったらいけそうな感じだったし』
「大気|密度《みつど》が変わったらどうなるかわからんぞ」
「ものは試《ため》し、やってみるって」
「もし途中《とちゅう》でカイトが壊《こわ》れたりラインが切れたら火だるまになるんだぞ!」
『そんなのオービターに乗ってたって同じじゃん』
「オービターとそれじゃ実績が違うんだ。わからない君じゃあるまい」
「ゆかりちゃん、聞いてくれ!」
向井が割《わ》り込んだ。
「カイトを支《ささ》えるラインには冗長《じょうちょう》 系がないんだ。一本でも切れたらおしまいなんだよ! 人命を託《たく》せるようには作ってないんだ!」
『心配してくれてありがと、向井さん、木下さん。心配っていうか、失敗したらすごい迷惑《めいわく》だもんね。基地に帰ったらたっぷり叱《しか》ってね。でもこれはやらなきゃいけないから。通信終わり』
「待て、聞き分けるんだ!……くそっ!」
木下は小さく毒づいて沈黙《ちんもく》した。
直後、JAXA相模原キャンパスとの間を結んでいた双方向《そうほうこう》会議システムから通話が入った。
『提案《ていあん》があるんだ』
相模原からライブで交信を見守っていた本橋|教授《きょうじゅ》だった。
『【はちどり】を投棄しよう。マンゴスティンを遠隔《えんかく》操作してOMS噴射《ふんしゃ》で捕獲ネットを焼き切ってくれ。それぐらいやらなきゃあの子はあきらめないだろう』
「ええっ!」
茜が驚《おどろ》きの声をあげる横で、木下が応《おう》じた。
「しかし、リモートでは正確《せいかく》な位置決めができません」
『低ビットレートなら音声回線でも船外カメラの映像《えいぞう》を降《お》ろせるだろう』
「その手がありましたか。しかし、噴射の後でマンゴスティンを元の位置に戻《もど》せるでしょうか」
『動径方向に噴射させればいいだろう。軌道《きどう》一周後にもとの位置に戻るさ』
木下は舌《した》を巻《ま》いたようだった。あの三日間のうちに、本橋教授はマンゴスティンのシステムまで徹底《てってい》的に調べ上げていたのだ。
「ところで教授、『それぐらいやらなきゃ』とは? なにか御存知《ごぞんじ》なんですか?」
『それは話すと長いんだ。とにかくゆかり君にとっては【はちどり】を降ろすことが命から二番目くらいに大事らしい』
「命から二番目? もう少しヒントをいただけませんか」
『友達のためだそうだよ。僕《ぼく》にはよく理解《りかい》できなかった。【はちどり】を降ろさないと、友達とずっとお別れになってしまうそうだ』
「そんなことがあったとは……」
那須田が後を継《つ》いだ。
「本橋先生、もう少し詳《くわ》しく教えていただけますか」
『ゆかり君の友達の信仰《しんこう》上の理由だそうだ。本人にとっては切実らしい。しかし僕の印象じゃ、ここで命を賭《か》けるようなことには思えなかった』
「友達の信仰か……」
那須田は首をひねった。
「およその事情《じじょう》はつかめました。とにかく、ご提案の方法でやってみましょう。木下君、プログラムを頼《たの》む」
そうだろうか。
なにか違う、と茜は思った。
「あの――」
考えをまとめながら、茜は起立する。
「それじゃだめだと思うんです」
「なにがだね」
と、那須田。
「ゆかりは、それじゃ説得できません。ゆかりは友達のためならなんでもやります。ネットが焼き切られたら、命綱《いのちづな》なしで宇宙《うちゅう》遊泳してでも、ゆかりは【はちどり】を運れ戻そうとします」
「それは無理だ。ジェットガンの推力《すいりょく》じゃ――」
「無理でもやっちゃうんです。ゆかりと、それにマツリなら。これまでもそうだったじゃないですか。電子装置《アビオニクス》を捨《す》てて、単座《たんざ》機《き》に二人乗りして帰ってきたりするんですよ? 私とオルフェウス探査機《たんさき》救出に行ったときだって、山勘《やまかん》でスキップ弾道《だんどう》に入れたり」
「そりゃあそうだが……」
那須田は腕組《うでぐ》みをしたまま押《お》し黙《だま》った。
「プログラムができました」
木下が言った。それまで通奏《つうそう》低音のように響《ひび》いていたキータイプの音が止むと、管制室《かんせいしつ》は急に静まり返ったようだった。スクリーンにシミュレーション画像が現《あらわ》れる。動きは完壁《かんぺき》だった。
「確《たし》かに、実際《じっさい》に【はちどり】を切り離《はな》したら、ゆかり君たちが何をするかわかりません。しかし脅《おど》かすだけでもやってみては。OMS噴射の直前まで実行して説得すれば、あるいは」
木下の言葉に、那須田は顔を上げた。
「そうだな。やれるだけのことはやってみよう」
木下がコンソールの透明《とうめい》カバーを開いて、コマンド送出ボタンを押した。
「さつき君」
那須田が医学|主任《しゅにん》に言った。
「胃《い》の薬ないか」
「ありますよ」
白衣のポケットから、一挙動でカプセル剤《ざい》を取り出す。
「私にもくれないか」
木下が来て言った。そして宇宙飛行士たちの気心に通じたさつきの意見を求めた。
「さつき君はどう思う? ゆかりは言うことを聞くかな」
女医の見解は端的《たんてき》なものだった。
「茜ちゃんが正しい」
ACT・13
ゆかりとマツリは、キャプチャーにロープで荷物をくくりつけていた。なりふりかまわず結びとめたところは、サンチャゴの街路にいる物売りの荷車のようだった。
あれから十五分。地上は何も言ってこない。もっとわあわあ言ってくると思ったのに。
ゆかりは目前の仕事に集中しようとした。
「もやい結びって今は流行《はや》らないんだってね。わっかを両側から引っ張《ぱ》るとほどけやすいんだってさ」
「ほい、そうだね。タリホ族は昔からエイトノットだよ」
「そうなんだ。じゃあこれ知ってる? トラック結び。ねえ?」
マツリは答えず、ゆかりの肩越《かたご》しに軌道《きどう》前方を見ていた。
「ほい、マンゴスティンが動いてるよ」
「そりゃあ、こっちが減速《げんそく》してるぶん、あっちは前に――え?」
ゆかりが振《ふ》り返ると、二十メートルほど先に浮《う》かんでいたマンゴスティンが、いつのまにか側面をこちらに向け、ゆっくりとピッチ運動に入っていた。そのすぐ下――地球方向――には【はちどり】を包んだネットが、引き伸《の》ばしたストッキングのように横たわっている。
ネットに触《ふ》れたのか? そう思った時、船首の姿勢制御《しせいせいぎょ》用スラスターがパッと閃《ひらめ》いた。
「リモート躁船《そうせん》してる? でもなんであんな――」
マンゴスティンは船尾《せんび》をネットに向けて静止した。
船尾中央にある耐熱《たいねつ》シールドの蓋《ふた》が開き、OMSエンジンのノズルが繰《く》り出されてきた。
『ゆかり君、聞いているか。マンゴスティンを見たまえ』
木下の声だった。
「見てる。何をする気?」
『これからOMSを噴射《ふんしゃ》してネットを切断する。この距離《きょり》なら危険《きけん》はないと思うが、一応《いちおう》気をつけていてくれ』
「なに、それでやめさせようっての?!」
『その通り。これは本橋|教授《きょうじゅ》の提案《ていあん》だ』
「教授が……?」
なにかかゆかりの胸《むね》を刺《さ》した。
教授はこちらの気持ちを知っている。そして教授こそは【はちどり】を誰《だれ》よりも救いたいはずだ。にもかかわらず、こんな強気の提案をしてくるとは。
思いとどまったほうがいいのだろうか。
ゆかりはオフラインでマツリに問いかけた。
「どうしよう。どうしたらいい?」
「これは勝負だよ、ゆかり」
「え?」
「戦《いくさ》で敵《てき》のカヌーに並《なら》ばれたらアンカーを打つね」
「なに? わかんない」
マツリはウインチの上に後ろ向きにまたがるなり、ラインの一本をたぐりはじめた。それはカイトの後尾中央に結ばれたものだった。カイトの仰角がたちまち三十度近くになり、高い位置に持ち上がった。
はっきりと、キャプチャーが引かれるのがわかった。それまでただ風になびく形だったカイトは、仰角を持ったことで揚力《ようりょく》と抗力《こうりょく》を激増《げきぞう》させたのだった。
狼狽《ろうばい》した木下の声がヘルメットに響《ひび》いた。
『おい、何をしている!』
「ええと、マツリがなんか勝負するって、カイト煽《あお》ってて――」
我《われ》ながら意味不明だ。こちらの減速と上昇《じょうしょう》は続き、マンゴスティンとの距離がどんどん離《はな》れてゆく。すでに【はちどり】の横を通り過《す》ぎたので、OMSによる脅《おど》しは無効《むこう》になった。
「ほい、この船はいい脚《あし》してるね! 燃料《ねんりょう》いらないでよく走るよ」
マツリが上機嫌《じょうきげん》で言う。
「い、いいのかな?」
かなり減速しているのに、見たところマンゴスティンより高い位置にいる。
普通《ふつう》なら、減速したぶん遠心力が弱まって高度を下げるはずなのだが、揚力がそれを支《ささ》えている。もはやマンゴスティンがこちらにランデヴーすることはできない。やるとしたら揚力と抗力に相当するだけの噴射を続けなければならないが、そんな燃料はないはずだ。
ともかく、カイトは使いこなせている。ゆかりは少し自信を取り戻《もど》した。
「ごめん、木下さん。もうマンゴスティンじゃついてこれないよね。無理に追わないでそっちで降《お》ろしてあげて。こっちは大丈夫《だいじょうぶ》だから。やりかけたことやっちゃうから」
応答《おうとう》があるまでにしばしの間があった。
『不本意だが君の言う通りだ。もうこちらには手出しできない。成功を祈《いの》る』
「ありがとう、木下さん。それから茜と本橋教授も。もう交信|圏外《けんがい》かな。勝手だけど、降りたら回収《かいしゅう》よろしく」
『わかっ……揚抗比……るだけ高く……』
音声が復調《ふくちょう》できなくなり、搬送《はんそう》波も途絶《とだ》えた。これまでは宇宙《うちゅう》服についた無線機の微弱《びじゃく》な電波をマンゴスティンで中継《ちゅうけい》していた。これからはサポートなしでやるしかない。
ゆかりはふいに、泣きたい気分になった。
言うことをきかない、悪い子だ。みんなあんなに心配してくれてるのに。
それからゆかりは、カイトをあやつるマツリの背中《せなか》を見た。
この子が、あんな迷信《めいしん》さえ持ってなければ。
でも――茜や本橋教授を説得しようとするうちにつかんだことを、ゆかりは辿《たど》り直した――これが、マツリや、あの馬鹿親父《ばかおやじ》の選んだ生き方なんだ。やめさせられるものじゃない。
地球を見下ろす。揚力があるとはいえ、かなり高度が下がってきているのがわかる。もう高度百五十キロくらいだろうか。
眼下《がんか》を流れてゆくのは、白雲をちりばめたマレー半島と大スンダ列島。マラッカ海峡《かいきょう》に集まった船の航跡《こうせき》が見える。海面に平行した影《かげ》を落としている飛行機雲も見える。その先端《せんたん》には、飛行機とそれをあやつるパイロットがいるはずだ。
航跡の先にはタンカーと航海士たちが。
陸地の濃《こ》い緑の中にはゴムの木のプランテーションで働く人たちが。
街路には屋台で粥《かゆ》や揚《あ》げバナナを売る中国人たちが。
いろんな人が、いろんなことを考えて生きている。
そんなことを思うのは、いつもよりずっと低い高度から眺《なが》めているせいだろうか。通常《つうじょう》なら軌道離脱《きどうリだつ》をすませて余剰《よじょう》燃料を投棄《とうき》している頃《ころ》で、地球をゆっくり眺めることはできない。
大きなニューギニア島が視界《しかい》に入ってきた。このままソロモン諸島《しょとう》までいけるだろうか。
「ゆかり、だいぶラインが重くなってきたよ」
「ほーら、いわんこっちゃない。片方《かたほう》持つよ」
「それよリプライヤーを出して」
「了解《りょうかい》」
ゆかりはマツリの腰《こし》についたツールキットのポーチを開いて、ペルクロで固定されていた工具を剥《は》がした。プライヤーといれかえに、マツリが両手であやつっていたラインの一方を預《あず》かる。
「うわ、けっこう張《は》ってるな」
通学|鞄《かばん》を凧糸《たこいと》一本で吊《つる》しているような感じだ。滑《すべ》らないように手のひらに巻《ま》き付けたが、時間とともに締《し》め付けてくる。
マツリは空いた左手で右手のラインをプライヤーに巻き付け、それに持ち替《か》えた。ゆかりはマツリの背後《はいご》にタンデムでまたがり、左のラインを自分のプライヤーに巻き付けて握《にぎ》った。
「ほい、これで持ちやすくなったよ」
「うん。そろそろ減速《げんそく》のピークだね。高度百五十キロから百三十キロだって、向井さん言ってたから」
「ゆかり、最後に木下さんが言っていたのはなんのこと?」
「あれか。えーとつまり、『揚抗比《ようこうひ》をできるだけ高く保《たも》て』かな?……って言われてもなあ」
「ほい、カイトをなるべく高く揚げればいいね」
「ああ、そういえばそうだ」
揚抗比とは揚力と抗力の比だ。凧糸の地面に対する角度が大きいほど揚抗比が高いことになる。
それはカイトの仰角《ぎょうかく》で決まるのだろう。それ以外に調節するところがないし。
「ほい、ではマツリが仰角を調節するよ。ゆかりは左右のラインを持っていて」
「わかった」
マツリはキャプチャーのフレームに巻き付けてあったテールラインをほどき、長さを加減しはじめた。
ノーズラインはウインチから繰《く》り出したままの状態《じょうたい》になっていた。
それをゆかりは目にとめていたが、そこに潜《ひそ》む危険《きけん》には考えが及《およ》ばなかった。ある機構《きこう》が故障《こしょう》したら、同じ機構を持つ別の場所も故障しうることを。
弧《こ》をおびた地球の縁《ふち》から宇宙空間に踏《ふ》み出したところで、カイトはマツリの躁作《そうさ》に応《おう》じて上下した。
いま、速度はどれくらいだろう? マッハニ十から十五の間くらいか? こちらは【はちどり】のショックコーンの内側にいるはずだが、体に弱い風圧《ふうあつ》を感じる。風上側にはほのかな熱も感じた。
「ほい、ここがいちばん高いね」
マツリはその状態を保ちながら余《あま》ったラインをキャプチャーのフレームに巻き付けた。ラインは地表に対しておよそ四十五度で立ち上がっていた。
そのカイトが突然《とつぜん》がくりと機首を持ち上げた。もんどり打つように裏返《うらがえ》しになり、フレームの間にある膜面《まくめん》が不規則《ふきそく》に振動《しんどう》している。ラインが暴力《ぽうりょく》的な勢《いきお》いで引かれ、ゆかりはあやうく手放すところだった。大急ぎで近くのフレームにラインを結びつける。しかしカイトのランダムな動きは、キャプチャーを木《こ》の葉のようにゆさぶった。ゆかりは両手両脚を使ってキャプチャーのフレームにしがみついた。
「なに、何が起きたの?」
「ノーズラインが急に伸《の》びて、そのまますっぽ抜《ぬ》けていったよ」
なんてことだ。たぶんノーズラインはウインチの中で何周か巻き取られた状態でひっかかっていたのだろう。それが一気に空転して繰り出され、伸びきったショックで根元から抜けたのだ。
カイトは不規則な振動をやめ、そのかわり時計回りに回転しはじめた。ノーズラインは遠心力で外側に振り出されている。残った三本のラインは一本に撚りあわせられ、さらにキャプチャーも追従《ついじゅう》して回転し始めた。ゆかりの視点《してん》からは地球と宇宙《うちゅう》がいっしょになってローリングしている。
「や、やばい、まず回転を止めないと!」
ゆかりは左右のラインをたぐって回転を止めようとしたが、ラインは束ねられた摩擦《まさつ》でびくともしなかった。
「マツリが取ってくるよ」
「え? 取るって、ノーズラインを?」
「ほい」
言うが早いか、マツリは命綱《いのちづな》をカラビナから外し、ラインをよじ登り始めた。
「ちょっと、あぶないよ、マツリ!」
「タリホ族はこういうの得意だよ」
マツリは猿のような身軽さでラインを登ってゆく。たちまちその姿は小さくなり、カイトの根元に達した。
カイトのまわりには細かく枝《えだ》分かれしたラインがある。マツリはそれをつたってノーズ側に移動《いどう》した。ノーズラインをたぐりよせ、束ねて近くのラインに巻《ま》き付ける。
それから、カイトの上を移動し始めた。
「マツリ、何してるの」
「撚りを戻《もど》すんだよ。逆《ぎゃく》回転させるね」
マツリはまず右舷《うげん》側に移動し、効果が逆だとわかると反対側に移《うつ》った。カイトはたわんで変形していたが、重心が変わったせいで空力が変化し、それまでと逆向きに回転し始めた。
「すごい……マツリ、いいよ、その調子!」
撚りが戻ると、マツリはノーズラインの端《はし》をカラビナに結びつけ、めざましい速度でラインをつたい降《お》りてきた。ゆかりは命綱を持ってマツリを出迎《でむか》えた。
「女ターザン、グッジョブ!」
「ほい、タリホ族には道を歩くのと変わらないね」
ノーズラインをキャプチャーのフレームに結びつけ、改めて仰角《ぎょうかく》を調節する。カイトはもとの位置に浮かび、安定した。
まもなくゆかりは、操縦《そうじゅう》操作が必要なくなってきていることに気づいた。いつのまにかキャプチャーは後部を上にして煩《かたむ》き、前方にいた【はちどり】は地球の縁《ふち》よりずっと下方に移動している。
「そうか、もう重力が戻ってきてるんだ!」
地球の引力そのものは軌道《きどう》上にも届《とど》いているが、速度が落ちたぶん重力が勝っている。試《ため》してみると、片手《かたて》で楽にぶらさがっていられた。風圧《ふうあつ》はほとんど感じない。
見上げる空は真っ黒だが、水平方向の空は濃紺《のうこん》で、地球の縁のカーブもかなり平らになってきている。雲の層《そう》ははるか下方にあり、まだ旅客機よりは何倍も高いところにいるが、ここはもう、宇宙というよりは空だ。
帰ってきたのか。地球へ?
「ほい、ひいばあちゃんの島が見えるよ」
マツリが直下を指さした。ビスマーク諸島《しょとう》の島のひとつが流れてゆくところだった。
「ひいばあちゃんって、魔法使《まほうつか》い?」
「そうだよ」
「それって、やっぱりその島の精霊《せいれい》のために?」
マツリはヘルメットの中でうなずいた。
「魔法使いはそうなること多いね」
「そうなんだ……」
「そんなに悲しいことではないよ、ゆかり。ときどき村のみんなとカヌーに乗って会いに行く」
「どこでもカヌーで行っちゃうんだ」
「タリホ族は七つの海を支配《しはい》してるんだよ」
「んなばかな」
ゆかりは笑ってみせたが、なんだか泣きたい気分だった。
半時間後、キャプチャーと【はちどり】は、カイトからほぼ垂直《すいちょく》にぶらさがる形になった。
軌道速度は完全に失われ、空力と重力によって決まる終端《しゅうたん》速度に至《いた》ったのだった。
いまや重力は歴然としており、ゆかりとマツリは垂直の梯子《はしご》につかまった格好《かっこう》になった。
前方にソロモン諸島が見えてきた。
「あそこまで行けるかな?」
「ほい、なんとかなりそうだね」
マツリはキャプチャーの上に立ち上がり、帆桁《ほげた》に登った水夫のように身を乗り出して腕《うで》に巻いたテールラインに体重をかけ、滑空比《かっくうひ》を調節していた。さらに両手で左右のラインも操作《そうさ》している。
「ゆかり、行き先はレミソ島にするよ」
「わかってる」
プーゲンヴィル島がすぎ、マライタ島にさしかかる。その先にアクシオ島。そしてこの高度では目と鼻の先にあるレミソ島が視野《しや》に入る。
連なった積雲が真横に見えてきた。ゆかりはヘルメットの下のバルブをゆっくり開き、ついでフェイスプレートを上げた。
ひんやりした外気が煩《ほお》をなでる。
「そうだ、サバイバルキットのトランシーバーなら――」
ゆかりはフレームにくくりつけたサバイバルキットの封《ふう》を解《と》いて、トランシーバーを引っばり出した。ダイヤルを回して救難《きゅうなん》周波数をソロモン基地《きち》の連絡《れんらく》波に切り替《か》える。
トークボタンを押《お》そうとして、ゆかりは指を止めた。
マツリが精霊に会うなら、ヘリコプターがつきまとったりしないほうがいい。
とはいえ、茜たちを一刻《いっこく》も早く安心させてやりたい。その気持ちが勝った。
「あー、こちらマンゴスティン――じゃなくて【はちどり】の森田ゆかりです。ソロモン基地、応答ねがいます」
『ゆかり! 無事だった?! いまどこ? マツリは?』
茜があらゆる交信|規定《きてい》を無視して応答してきた。
「二人とも無事だよ。まだ着水してないけど、地球の空気|吸《す》ってる。心配かけてごめんね。ええと、場所はよくわからないけど、たぶんソロモン諸島のどこかに接近《せっきん》中。とにかく安心して」
『よかっ……』
あとは声にならない。
高度はもう千メートルくらいか。右手の水平線近くにアクシオ島がかろうじて見えた。
正面の海に小さなエメラルド・グリーンの染《し》みが浮《う》いている。不動点――見かけ上の位置が変化しない地点――にぴったり合っているのは、マツリがそこに狙《ねら》いを定めているからだろう。
「あれがレミソ島?」
「ほい」
マツリは真剣《しんけん》な顔で、ラインをたえず操《あやつ》っていた。高度が低くなるとともに気流が複雑《ふくざつ》になり、操縦《そうじゅう》が難《むずか》しくなるらしい。
「手伝おうか」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよゆかり。うまくやるよ」
海鳥の群《むれ》が前を横切った。進路は島の北側に逸《そ》れている。これは救命ボートの出番だな、とゆかりは覚悟《かくご》したが、直前でカイトは大きく右ターンして風に乗り、島の中央に向かった。このあたりの海洋民族は波を見ただけで風向風速を割《わ》り出すというから、マツリもそうしたのだろう。
ブッシュが最も濃《こ》くなったところでマツリはカイトをもう一度ターンさせ、風と正対させた。樹冠《じゅかん》に落ちた【はちどり】の影《かげ》が直下点に近づいてくる。接触寸前《せっしょくすんぜん》、マツリはテールラインを思い切りたぐり寄《よ》せた。カイトの前進が止まった。【はちどり】はいったん前に振り出されてから、少し後退《こうたい》するようにして大きなフタバガキの樹冠に舞《ま》い降りた。
完壁《かんぺき》な軟着陸《なんちゃくりく》だった。続いて自分たちのつかまっているキャプチャー部分が三十メートルほど離《はな》れた別の木の上に降りた。【はちどり】の重量を地球に渡《わた》した後なので、さらにソフトな着地になる。密生《みっせい》する葉の海面はゆかりの胸《むね》のあたりまで来て止まった。
それから、オレンジ色のカイトがひらひらと近くに舞い落ちてきた。
「ナイスランディング、マツリ!」
マツリは答えず、近くの樹冠にめり込んだ【はちどり】をじっと見ていた。
それからぱっと顔を輝《かがや》かせてこちらを向き、ささやくように言った。
「うまくいった。精霊《せいれい》は島に降りたよ、ゆかり」
「そうなんだ」
とにかく、マツリの中の物語はそのように進んだのだ。誰《だれ》にでも大切に護《まも》らなくてはならない物語がある。それは当人にとって、まぎれもない事実だ。
「よかったね、マツリ」
「ほい!」
そう答えると命綱《いのちづな》をキャプチャーのフレームから外し、ゆかりに手渡《てわた》した。
ゆかりは自分の命綱を束ねて腰《こし》につけ、マツリの命綱をベルトのカラビナに通した。
樹冠の下は薄暗《うすぐら》く、地上まで三十メートルもの高さがあったが、ゆかりは不安をおぼえなかった。相棒《あいぼう》はこういう場所を渡る達人だ。腐《くさ》りかけた枝《えだ》を避《よ》け、若《わか》い着生植物の幹《みき》を選んで体重をゆだねてゆく。
マツリが先導《せんどう》し、交互《こうご》に命綱を確保《かくほ》しながら、二人は地上に降り立った。
少し歩くと、白砂《はくき》の敷《し》き詰《つ》められた波打ち際《ぎわ》に出た。
「ゆかりはここにいて。すぐ戻《もど》るよ」
マツリはそう言って、ヘルメットを地面に置き、また木立の中に入っていった。
マツリの言う「すぐ」はあてにならないが、このときは二十分ほどで戻ってきた。
「ゆかり。レミソの精霊はいい結婚《けっこん》をしたよ」
「そう。よかったね」
「ほい」
マツリは二歩ばかり進み、ゆかりの目の前に来た。
「ん?」
「ゆかりのおかげだよ」
術《じゅつ》を使うときとはまた別の、しかし蠱惑《こわく》的なまなざしに見据《みす》えられる。
ゆかりは抱《だ》きしめられ、唇《くちびる》にキスを受けた。
生身に近い格好《かっこう》で大気|圏突入《けんとつにゅう》をした後となれば、無理もない気がするが――ゆかりは自分がどれほどこの感蝕に飢《う》えていたかを自覚した。スキンタイト宇宙《うちゅう》服の生地《きじ》ごしに押しつけられたマツリの体は、ただ温《あたた》かで心地《ここち》よく、逆《さか》らう気が起きなかった。
抱擁《ほうよう》は、近づいてくるヘリコプターの音で我《われ》に返るまで続いたのだった。
[#改ページ]
あとがき
大変ごぶさたしました。久しぶりのロケットガール・シリーズ新刊です。アニメ放映とタイアップして年始早々に刊行される予定でしたが、なんだか夏休みの終わり頃になってしまいました。
本書はドラゴンマガジンに掲載された短編三編と書き下ろし中編一編からなっています。
順に解説してみます。
・ムーンフェイスをぶっとばせ! (一九九九年 DM九月号掲載)
宇宙ステーションにやってきた芸能人が頭部鬱血《とうぶうっけつ》でまんまる顔になってしまったので、遠心力《えんしんりょく》で血液《けつえき》を下半身に戻そうとする話。オチに便用した軌道力学《きどうりきがく》ネタはアーサー・C・クラークの短編『木星第五衛星』と同じです。
・クリスマス・ミッション (一九九七年 DM二月号掲載)
掲載《けいさい》がクリスマスの頃だったので、それっぽい話をねらいました。知人によればクリスマス・ストーリーとは、人間がいろいろ頑張ったあげく最後に幸運が一押ししてハッピーエンドになり、「神様っているんだ」と思えるような話です。ですが本編では最後の神秘《しんぴ》現象が起きず、フォーマットどおりになりませんでした。
パラフォイルによるピンボイント着陸はNASAのX−38計画でテスト飛行まで実施《じっし》されたのですが、諸般の事情でキャンセルされてしまいました。
・対決! 聖戦士VS女子高生 (二〇〇二年 DM四月号増刊)
911テロがあった後だったので、テロリストと戦う話を書いてみました。よく、宇宙飛行を体験すると「世界はひとつ、人類はみな兄弟」みたいな思想《しそう》に染《そ》まるといわれますが、私はそんなこと信じていません。あれは宇宙飛行士のリップサービスでしょう。
・魔法便いとランデヴー (書き下ろし)
二〇〇六年秋から半年くらいかけて書いた中編で、これまで描写《ぴょうしゃ》されなかったマツリの謎《なぞ》に一歩踏み込んでいます。
執筆《しっぴつ》中にアニメがあったので、著者の脳内にあるマツリの声は生天目《なばため》仁美《ひとみ》バージョンに書《か》き換《か》えられています。生天目さんの演技は素晴《すぱ》らしくて、「えっ、これがマツリ?」→「いや確かにマツリだ」→「もうこれ以外のマツリなど考えられない」という段階を経《へ》て洗脳《せんのう》されました。マツリに限らず、アニメでの声優さんの演技はいずれも素晴らしいものでした。
小惑星探査機【はちどり】については、ご存知の方も多いと思いますが、JAXAの【はやぶさ】に起きたことをほぼそのまま書き写しています。
本編の【はちどり】はリチウムバッテリーを回復できないのですが、執筆中に実機はこれを成功させてしまいました。【はやぶさ】の神業《かみわざ》的な救出運用には舌《した》を巻《ま》くばかりです。
その運用を指揮《しき》した川口プロジェクト・マネージャーにお会いしたとき、本編の回収方法を話してみたのですが、「さあ、できるかなあ?」と苦笑されていました。確かに一発勝負の曲芸《きょくげい》にはちがいありません。これに関して川口プロマネは太陽―地球系のラグランジュ2地点に深宇宙港《しんうちゅうこう》を置き、惑星探査機を地球の重力井戸に近づけないシステムを提唱《ていしょう》しています。
高々度での大気制動《たいきせいどう》についてはJAXAの歌島昌由氏、野田篤司氏の研究を参考にしました。本編の記述《きじゅつ》が正しいとは限りませんが、「あんな大気圏突入ができるわけない」と早合点《はやがてん》されないよう、願うものです。
野尻抱介
[#改ページ]
底本     魔法《まほう》使《つか》いとランデヴー
出版社    富士見書房
発行年月日  平成19年8月25日 初版発行
入力者    ネギIRC