ロケットガール 第3巻 「私と月につきあって」
野尻抱介
-------------------------------------------------------
(テキスト中に現れる記号について)
《》:ルビ
(例)遥《はる》か未来に
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)単身|赴《ふ》任《にん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
[#本文中、旭川さつきの語尾にハートマークが多く出てくるが、全て「♪」に替えた]
-------------------------------------------------------
目 次
第一章 キャプテンはあたしだ
第二章 アリアン・ガールズ
第三章 リタイヤ
第四章 地球|低軌道《ていきどう》ランデヴー
第五章 月は東に 地球は西に
第六章 ここに泉《いずみ》あり
あとがき
[#改ページ]
第一章 キャプテンはあたしだ
ACT・1
エールフランスのエアバス三四〇に三人の女子高生が乗っていた。飛行機は南米のフランス領ギアナに向かっている。あと三時間でカイエンヌ空港に到着《とうちゃく》するところだった。
正確には、二人は元女子高生で、もう一人は一度も女子高生になったことがない。
しかし年齢的《ねんれいてき》・外見的・特性的には、三人は女子高生に充分《じゅうぶん》近似《きんじ》していた。数奇《すうき》な運命に翻弄《ほんろう》されていまの職についていなければ、十六|歳《さい》の青春を謳歌《おうか》していたはずだ。
この二時間、三人は横一列に並《なら》んだ席で大貧民《だいひんみん》をしていた。いまはそれにも飽《あ》きて、しばらく黙《だま》り込み、目的地に思いを馳《は》せていた。
純粋《じゅんすい》な日本人で、元女子高生で、横浜《よこはま》育ちの森田《もりた》ゆかりが言った。
「最初が肝心《かんじん》だからね。なめられたらおしまいだよ。連中に会ったら――」
指を折りながら言う。
「その一。決して笑顔《えがお》を見せない」
「その二。決してフランス語を使わない」
「その三。決して……茜《あかね》、なにばくばくやってる」
三浦《みうら》茜は本を片手に、窓に向かって静かに発音練習していた。
「エーメ・ヴー・ルッキャッフェ?……ね、らしいかな? どう?」
「そんな敵性語おぼえなくていい」
「でも、挨拶《あいさつ》くらいはできたほうがいいと思うし」
「共同ミッションは全部英語でやるって契約《けいやく》なんだ。下手《へた》にフランス語なんて使ったら相手がいい気になるだけだよ」
「そんな、むきにならなくても。絶対|喧嘩《けんか》しちゃだめってさつきさんに言われてるし」
「そんなの現場の判断よ」
たしかにゆかりは、むきになっていた。
まずこの日仏共同ミッションというのが気に食わない。おいしいところはすべてフランスが持っていく。日本側はフランス人の発進準備を手伝うだけで、まるで下僕《げぼく》みたいな扱《あつか》いなのだ。
ここまでの旅も最悪だった。
三人はフランス本国、ツールーズの施設《しせつ》で四週間の基礎《きそ》訓練を受けた。お目付役《めつけやく》の旭川《あさひかわ》さつきはパリに残ったので気楽な空の旅になるはずだったが、出発はエールフランスのストライキで三日|遅《おく》れた。
フランスにいる間は、一度たりとも愛想《あいそ》のいい顔に出会わなかった。エールフランスの窓口にかけあっても「スト中です」の一言ですべて拒絶《きょぜつ》してくる。客を困らせるためにストをしているのだから、大いに困ってくれと言わんばかりだった。
「ギアナじゃ人間扱いされたいわ。食い物もなんとかなるといいんだけど」
「ほい、フレンチフードは気持ち悪かったねえ」
日系メラネシアンのマツリが言った。
「どれもつぶれた脳みそみたいだったよ」
「それを言うな」
「焼き栗《ぐリ》はおいしかったわ」茜が言った。「あの屋台《やたい》も風情《ふぜい》があったし」
「でも笑顔がなかった」
ゆかりは口をとがらせた。
「客をなんだと思ってんの。仏頂面《ぶっちょうづら》で袋《ふくろ》つきだすなんて、こっちは一生懸命《いっしょうけんめい》フランス語で注文したのにさ」
三人があふれるような笑顔に出会ったのはその直後だった。
ミセス・バーネットは背後《はいご》から聞こえてくる小鳥のさえずるような声が気になっていた。トイレから戻《もど》ったとき、なにげなく後ろをうかがうと、三人の東洋人の少女が座《すわ》っていた。
まあ、なんてかわいい子たちだろう!
ミセス・バーネットは遠慮《えんりょ》を忘れて三人に見入った。三人もこちらを向いた。
大きな黒い瞳《ひとみ》につややかな黒髪《くろかみ》。溶《と》かしたチーズのような肌《はだ》。
通路側の席で口をとがらせているのは、髪をふたつにまとめた、ちょっと生意気《なまいき》そうな娘《むすめ》。真ん中にいるのは小麦色《こむぎいろ》の肌をした、モームの南洋ものの小説にでてきそうな肉感的な娘。窓際にいる子はショートカットで、とても思慮深《しりょぶか》い眼差《まなざ》しでこちらを見ている。
三人ともとても小柄《こがら》で、シートはたっぷり余っていた。
ミセス・バーネットの脳裏《のうり》に、グラビア記事で見た記憶《きおく》が電光のようによみがえった。
「んまーっ、あなたたち、ソロモン宇宙局のちっちゃな天使さんたちねっ!」
まじまじとこちらを見つめていた婦人が、突然《とつぜん》顔をくちゃくちゃにゆるめて大声を発したので、ゆかりは思わず身を引いた。
「あなたたち、ユッカーリ、マツゥリ、それからアカーネね!? そうでしょう!」
そのアメリカ英語を聞くまでもなく、国籍《こくせき》は明らかだった。この仕事についてから各国の人間と会ってきたが、これほど愛想のいい国民はアメリカ人をおいてほかにない。
「あー、ソロモン宇宙協会ですけど」ゆかりは訂正《ていせい》した。
「んまーっ、英語がお上手《じょうず》なのねえ! 三人とも生きたお人形みたいだわ。素敵《すてき》な旅になりそうね。私はミセス・バーネット。ギアナ宇宙センターへ行くのね? 私もそうなの。娘がアエロスパシアルのエンジニアと結婚《けっこん》してそこに住んでてね。私はフランス男なんてと思ったけど娘はもうぞっこんで。あなたたちもフランス男には気をつけないとだめよ。女癖《おんなぐせ》は悪いし約束《やくそく》はルーズだし煙草《たばこ》は吸《す》うし。ああそうそう、いいアイデアがあるわ――」
ミセス・バーネットは天井《てんじょう》からハンドバッグをひっぱり出し、ペンと手帳《てちょう》を取り出した。
「サインしてくださらない? お願い、一生の思い出になるわ。三人とも、ねえ?」
やれやれと思いながら、ゆかりはサインにとりかかった。
「えーと、バーネットのスペルは」
「まあごていねいに。うれしいわ。BURNETTよ。Tはふたつね」
手帳を隣《とな》りのマツリにまわす。
そのとき、ミセス・バーネットは「おうっ」と声をあげて前方をふりかえった。
通路をせきとめていた婦人の尻《しり》を、スチュワーデスが機内食のワゴンで押《お》したのだった。
ミセス・バーネットは大仰《おおぎょう》に肩《かた》をすくめると、自分の席に戻《もど》った。
マツリが言った。
「ゆかり、この飛行機は呪《のろ》われているよ」
「うそ」ゆかりは真顔《まがお》になった。
「タリホ族うそつかない」
いまの仕事につくまで、マツリは部族のシャーマンをしていたので、ときどきこういうことを口走る。
ゆかりはそれを無視《むし》できなかった。タリホ族の精神文化はなにやら奥《おく》が深いのだ。
「どう呪われるの」
「魚の呪いだよ。海に墜《お》ちてみんな魚の餌《えさ》になるよ」
「どうすればリカバーできる?」
「それはね」
「フイツシュ・オア・ミート?」
スチュワーデスがチョイスを求めた。
「ほい、ミート」マツリが答えた。
「ミート」ゆかりが答えた。
「ミート、トゥ」茜が答えた。
「これでいいね」マツリはうれしそうにトレイを眺《なが》めた。
「どういうこと?」
「大丈夫《だいじょうぶ》、これでいい」
マツリはにこにこ笑うだけだった。
三人そろって肉を選んだのは、半日前にパリの空港で死ぬほど不味《まず》いブイヤベースを食べたからだった。運が悪かっただけかもしれないが、三人はもう二度とフランス人の魚料理は食わないと心に誓《ちか》ったものだった。
トレイの中央には、ヒレステーキらしきものが鎮座《ちんざ》していた。
白いソースの容器がついているが、これをぶちまけるのは危険《きけん》な気がした。
ゆかりは塩だけをふりかけた。――と思ったらそれは砂糖だった。
これがフランスだ。塩のあるべきところに砂糖がある。運が悪かっただけかもしれないが、ゆかりのフランス嫌《ぎら》いは着実にエスカレートしてゆく。
砂糖をはたき落として肉をばくつき、パンをコーヒーで飲み流す。メロンは一口かじってやめた。ここにもシロップがかかっていた。
まずい食事で腹がくちくなると、ゆかりはしばらくうとうとした。
重苦しい夢《ゆめ》を見た。冷えきった暗闇《くらやみ》のなかで体がぐるぐる回り続ける。つかまるところがない。腕《うで》を振《ふ》って縮《ちぢ》めてを繰《く》り返しても、回転《かいてん》が止まらない。
それから機内の騒《さわ》ぎで目がさめた。
もう着陸かなと思ったが、ちがった。
前方のトイレに行列ができていて、最後尾《さいこうび》は真横の通路まで達していた。皆、一様《いちよう》に顔をゆがめ、脂汗《あぶらあせ》をうかべている。こらえきれずにブルーバッグを使う者もいた。
「……どしたの?」
「みんな急にこうなって。まさか、急性《きゅうせい》 食中毒《しょくちゅうどく》かしら?」
「大西洋のどまんなかで食中毒? それってやばいんじゃ」
機内はいよいよ騒然《そうぜん》としてきた。
きみはどっちを食べた?
肉だ。
俺《おれ》も肉だ。
彼は魚だ。
おかしいのは魚のほうだ――そんな声がとびかう。
「魚の呪いってこれ?」
「ほい」
「今回はわかりやすいな」
スチュワーデスが隔壁《かくへき》の前に立って、青ざめた顔でアナウンスを始めた。まずフランス語、それから英語で繰り返して、内容がわかった。
『機内で食中毒が発生した模様です。当機はあと二時間でカイエンヌに到着《とうちゃく》いたしますが、それまでの間、お客様の手当てをしてくださる方を募《つの》ります。ドクターか看護婦《かんごふ》、医療《いりょう》経験のある方はご協力ねがいます』
数人が名乗り出て、スチュワーデスのもとに進んだ。
三人は顔を見合わせた。三人とも応急処置の訓練はひととおり受けているのだが――
「どうしよ?」
「ほい?」
「でも食中毒の処置なんて知らないし……」茜が言った。「気道確保くらいならできるけど、必要かどうか……」
通路は混雑《こんざつ》している。下手《へた》に動くとかえって邪魔《じゃま》になりそうな気もした。
その時、スチュワーデスが一段と青ざめた顔でアナウンスを始めた。
『あー、ええ、本機は順調に飛行しておりますが、実は副操縦士《ふくそうじゅうし》も魚を食べて体調を壊《こわ》しております。もちろん飛行に支障《ししょう》はありませんが、もし航空機の操縦経験をお持ちの方がいましたら名乗り出てくださるよう、お願いします。……いらっしゃいませんか? どうか協力を……』
機長は無事なのか、という声があがる。
『ええ、ええ、飛行に支障はありませんとも。ですが……できれば操縦は二人でしたほうがいいのでして……』
名乗り出る者はいなかった。ただ不安げに顔を見合わせるばかり。
『ああああのっ、操縦経験のある方はいらっしゃいませんか!? お願い、どうか……」
スチュワーデスはいまにもゲシュタルト崩壊《ほうかい》しそうな顔で繰《く》り返す。どうもただごとではない雰囲気《ふんいき》だ。それは乗客にも伝染《でんせん》した。低いどよめきがひろがってゆく。
三人はまた顔を見合わせたが、飛行機の操縦となると論外《ろんがい》だった。とても役に立てそうにない。
ところが、肉を選んで無事だったミセス・バーネットが立ち上がり、両手をメガホンにして吠《ほ》えたのだった。
「ここに宇宙飛行士がいるわよっ! それも三人!」[#この行、原本では太字]
おおっ!
乗客がどよめき、スチュワーデスの瞳《ひとみ》に希望の光がともる。
ミセス・バーネットはこちらを向くと、さあとばかりにゆかりたちの手を引いた。
「ち、ちょっと待って。私たちは宇宙飛行士で……」
「そうよ、いまいちばん若くて優秀《ゆうしゅう》な宇宙飛行士だわ! ああ私たちなんてラッキーなんでしょう! こんな飛行機より何十倍も速く飛ぶのよね! もうパイロットの中のパイロットだわ! さあ、操縦席の殿方《とのがた》を手伝ってあげて」
それから婦人はまわりにむかって、まるで司会者のように叫《さけ》んだ。
「みなさんに紹介《しょうかい》します! ニッポンの天才少女宇宙飛行士――森田ゆかり、森田マツリ、三浦茜!」
おおーっ!!
「ちょっとおばさん、だから私たちはぁ……」
抗議《こうぎ》の声は万雷《ばんらい》の拍手《はくしゅ》にかき消されてしまった。」
スチュワーデスが人ごみを蹴散《けち》らしながらやってきた。
「どうかこちらへっ! あなたも! あなたも! さあ早く!」
「三人とも?」
「いいから早く! コクピットへ!」
地獄《じごく》で仏《ほとけ》、藁《わら》にもすがる形相《ぎょうそう》でスチュワーデスは三人を席から引きずり出し、通路を先導した。さらに乗客の歓声《かんせい》が大波となって三人を押《お》し流した。
もう、どうすることもできなかった。
ACT・2
ミセス・バーネットが言ったことは本当だった。三人はSSA――ソロモン宇宙協会に所属《しょぞく》する宇宙飛行士である。SSAは日本政府が百パーセント出資してソロモン諸島に設立した組織で、世界にさきがけて少女宇宙飛行士を採用《さいよう》して商業的成功をおさめた。
この成功は国際的に波及《はきゅう》し、SSAに続いてフランスのアリアン社が有人宇宙ビジネスに乗り出した。飛行士はアリアン・ガールズと呼ばれる五人組の美少女で、EU諸国を中心にめきめき売り出し中だった。
ゆかりたちがこの飛行機に乗ったのも、アリアン・ガールズとの共同ミッションのためだった。もちろん、無事に到着《とうちゃく》すればの話だが――。
どたばたとコクピットに押し込まれた三人は、そこで凝固《ぎょうこ》した。
フル・リクライニングさせたシートに、二人の男が伸《の》びている。
エアバスはツーマン・クルーだから、この二人が操縦士のすべてだった。
眠《ねむ》っているのではない。二人とも顔面に脂汗《あぶらあせ》をうかべて昏倒《こんとう》している。
「……どーゆーこと、これは?」
バタンと扉《とびら》を閉《し》めて、スチュワーデスが言った。
「機長も副操縦士も魚を食べたの」
「同じものを食べるのって規則|違反《いはん》じゃ……」
「二人とも舌平目《したびらめ》のムニエルが食べたかったのよ!」スチュワーデスは泣き顔になって叫《さけ》んだ。
「さあ、操縦を替《か》わって。この飛行機をカイエンヌ空港に降ろしてちょうだい!」
「んなこと言ったって、私たち宇宙船以外じゃスクーターも運転《うんてん》できないし」
「宇宙船ができるんだったら飛行機なんか簡単でしょう!」
「そうかな?」
「他《ほか》にいないのよ。お願いだからなんとかしてえ!」
スチュワーデスはいよいよヒステリックに叫《さけ》んだ。
三人の宇宙飛行士は顔を見合わせた。
「……とにかく無線で空港に連絡《れんらく》してみたら」
茜が言った。
「新しい飛行機だから、全自動で着陸できるかも」
「あ、そーゆー手があると」
それくらいならやれそうだ。無線で問い合わせていくつかボタンを押《お》すだけなら。
「やってくれるのね!? お願い、さあ。化粧《けしょう》の崩壊《ほうかい》した顔でスチュワーデスはたたみかける。
「……やってみよか」
四人は力を合わせて、二人の男を隣《とな》りのギャレイに移した。
ゆかりは左側の機長席に座《すわ》った。右の副操縦士席にマツリ。二人の間に茜が立つ。
三人乗りのオービターではいつもこの配置だ。
「わおー。飛行機は広くていいねえ」マツリがにこにこしながら言った。SSAのオービターはぎりぎりまでコンパクトに設計されているし、十Gという大加速に耐《た》えるため、緩衝席《かんしょうせき》も体にあわせて成形してある。このエアバスのシートは広くて、上でころころ転《ころ》がってしまいそうな感じだ。
「雲の海だよ。きれいだねえ」マツリは腰を上げて計器盤《けいきばん》にもたれかかり、前面風防に顔を近づけて言った。
たしかに前方|視界《しかい》がいいのは驚《おどろ》きだった。オービターだと頭のすぐ上に前傾《ぜんけい》した天窓《てんまど》があるだけで、正面を詳《くわ》しく見るときはペリスコープを使う。
「エアバスのインパネってアースカラーなんだ。わりとオシャレじゃん」
ゆかりものどかな感想《かんそう》をもらした。
ブラウン系統のカラーリングで統一された計器盤に六つのCRTがある。
左の肘掛《ひじか》けの先に操縦桿《そうじゅうかん》。オービターと同じ配置だ。ちょっと触《さわ》ってみると、ロール操作《そうさ》、ピッチ操作が入力できる。だが、奇妙《きみょう》なことにヘディング操作の軸《じく》がない。これでは機体を左右に回転できないではないか。
「ヘディングはどうやるのかな?」
「床《ゆか》にペダルがあるわ」茜が言った。
「どれどれ」
足元を覗《のぞ》き込むと、床からペダルが生えている。
「器用だなー。飛行機の人って足も使うんだ」
ゆかりはつまさきでペダルをつつきながら言った。
「これで機首を後ろに向ける。で、エンジンに点火すれば軌道離脱《きどうりだつ》して降下するんだ」
「ゆかり、飛行機は後ろ向きには飛ばないと思うけど……」茜が慎重《しんちょう》に言った。
「そういやそうか。こいつ最初っから最後まで大気圏《たいきけん》に突入《とつにゅう》しっぱなしだもんね」
ゆかりは考えを改めた。
「じゃあ前を向いたまま、逆噴射《ぎゃくふんしゃ》エンジンに点火するんだな」
パイロットが聞いたら卒倒《そっとう》するようなことを言う。
ゆかりにとって飛行とは自由落下であり、操縦とはエンジンに燃料を送るバルブ操作だった。
飛行機は楊力《ようりょく》と重力《じゅうりょく》、推《すい》力と抗《こう》力をバランスさせて飛行するのだが、宇宙船はそれよりずっとシンプルだ。ある向きに推力を加えて自由落下するだけ。軌道を周回《しゅうかい》するのも、地球の引力と違《ちが》う向きに自由落下しているにすぎない。
ゆかりは計器盤に掛かった、マニュアルのようなものをみつけた。
「手順書ってこれ? よくわかんないけど……再突入《さいとつにゅう》シーケンスどおりに姿勢《しせい》とタイミングあわせて逆噴射すれば高度が落ちて、勝手《かって》に滑走路《かっそうろ》にのっかるんだよね」
ゆかりが合点《がてん》した様子《ようす》を見て、スチュワーデスが言った。
「ねっ、ねえ、大丈夫《だいじょうぶ》? できるんだよね? ね?」
「あー、オーライオーライ、なんとかなると思うよ。ボタン押すだけなら」
「じゃあここはまかせるから。私、パッセンジャーの面倒《めんどう》をみないと」
「いつてらー」
スチュワーデスが出ていくと、ゆかりは日本語に戻《もど》って言った。
「開傘《かいさん》高度はどんなもんかな?」
「普通《ふつう》、飛行機はパラシュートで着陸しないんじゃ」
「そうだっけ」
たしかに、空港で見かける飛行機はそんなことはしてなかったような気がする。ゆかりは飛行機を見る時、塗装《とそう》にしか注意を払《はら》わない。
「とにかく、無線機をみつけないと」
「おーそれそれ」
「これかしら」
茜が二つのシートの間、センター・ペデスタルの一角を指した。無線の周波数らしき数字をセットした装置《そうち》がある。
「電源《でんげん》、入れてみようか」
「やってやって」
ゆかりはヘッドセットをはめ、シートベルトを締《し》め、操縦桿《そうじゅうかん》のトークボタンを押した。
「ハロー、こちらSSA……じゃない、エールフランスのエアバス。カイエンヌ追跡《ついせき》ステーション、オーディオチェック、ハゥドゥユリー?」
「ゆかり、追跡ステーションじゃなくて空港」
「そうか。あー、カイエンヌ空港、オーディオチェック。こちらエアバス。パリ発のエアバス、ハゥドゥユリー?」
『こちらカイエンヌ。あー……エアバス、そちらはエアフランス三〇七か?』
「えっと……」
「そう、三〇七便」
「カイエンヌ、そのとおり、こちらエアフランス三〇七。こちらでちょっと問題が起きた。エマージェンシー・プロシージャに入りたいんだけど」
『エアフランス三〇七、それは緊急《きんきゅう》事態《じたい》宣言《せんげん》か?』
「カイエンヌ、そのとおり」
『了解《りょうかい》エアフランス三〇七。状況《じょうきょう》を報告せよ』
「機内で食中毒が起きて、パイロットも二人とも倒《たお》れて。それで乗客の私たちが躁縦することになっちゃって」
『なんだって……エアフランス三〇七、君たちは航空機の繰縦経験があるのか』
「宇宙船なら――えっとつまり私はソロモン宇宙協会の宇宙飛行士、森田ゆかりで、そばに森田マツリと三浦茜がいるんだけど」
『なんだって! わぉう、こりゃすごい! 君たちなら安心だ。四発機の操縦経験もあるのかね?」
「だから飛行機のことは全然知らないの。どうすればいい? エアバスってこのままほっといても着陸するの?」
『いや、こちらの航行|援助《えんじょ》システムはカテゴリー2だからタッチダウンは手動でやるしかない。たぶん空港上空までは自動で来るはずだが……君たちは小型機の操縦はできるのか。単発機は?』
「だからできないんだってば。飛行機のコクピットに入るなんて今日《きょう》が生まれて初めてなんだから」
『なんてこった……どうすればいい』
「こっちに聞かれても! カイエンヌ空港、もしもし? なんとかして!」
長く待たされたような気がした。
『エアフランス三〇七、こちらカイエンヌ。いまエアバスのパイロットを探している。そのまま待機していてくれ』
十分ほど待ったが連絡《れんらく》がない。ゆかりはだんだん不安になってきた。音速以下なんて、宇宙飛行なら終了|間際《まぎわ》のことで、もうパラシュートを開いて風まかせに漂《ただよ》っているところだ。そのせいでなんとなく楽観していたが、この速度でも地面に激突《げきとつ》すればえらいことになるだろう。しかも訓練を受けていない乗客をうじゃうじゃ乗せているのだ。
ゆかりはしびれを切らした。
「おいっ! カイエンヌ! こちらエアフランスなんとか。どうなってんの!? なんとか言いなさいよっ!」
『エアフランス三〇七、すまないがもう少し待ってくれ』
「もう少しもう少しって、こっちはあとどれだけ飛んでられるのよ!?」
『空港到着まで四十分ほどだ。フライトプランによると、三十分ぶんの余剰燃料があるはずだ』
さらに二十分ほどして。
『エアフランス三〇七、こちらカイエンヌ。空港内とカイエンヌ市内、それからエアライン各社にも問い合わせたが、エアバスのパイロットがみつからない。いちばん近いのはアメリカン航空のスリナム行きだが、到着まで一時間五十五分かかる』
「なによ、全然だめじゃん! どうすんのさ」
『そのかわり訓練中のジェット戦闘機《せんとうき》をそちらに向かわせた。並《なら》んで飛んで、針路や飛行|姿勢《しせい》の指示を出させる。安心してくれ、きっとうまくいく』
そのジェット機は三機|編隊《へんたい》で現れた。右舷《うげん》前方でキラリと光って翼《つばさ》をひるがえし、六時方向に消える。それから派手《はで》なバレルロールをして左前方に現れ、きれいなV字編隊を組んでみせた。アイボリーの地に赤いストライプを描《えが》いた、民間機のような塗装《とそう》だ。しかし鋭《するど》いデルタ翼《よく》を持っており、戦闘機であることはゆかりにもわかった。
「あれは二人乗り? フランス空軍かしら」
「さあ……」
『エアフランス三〇七、こちらシムーン・アン。そちらの前方にいる。これよりカイエンヌまでエスコートする』
大人びた、女の声だった。英語だがフランス訛りがある。シムーン・アンはコードネームらしい。
「シムーン・アン、了解《りようかい》。エアバスの操縦わかるの?」
『飛ばしたことはないけど、ハンガーからフライトオペレーション・マニュアルを持ってきたから』
「マ、マニュアルと首っ引きでやろっての?」
『やるしかないわ。エアバス三四〇には最も進んだFCCが搭載《とうさい》されてる。空港までは自分で飛んでくれるし、誤《あやま》った操縦をすればコンピュータがプロテクトする。エアバスは墜落《ついらく》したくてもできない飛行機よ』
「でもさ、そのわりにエアバスってぽろぽろ墜《お》ちてない?」
『それは操作を誤ったからよ』
「誤った操縦はよくて誤った操作はだめなわけ?」
『とにかく、あなたは言われたとおりにやればいいの!』
「やるけど」
なんだこいつ。
ゆかりは口をとがらせる。だいたいなんで女がジェット戦闘機飛ばしてるんだ?――という疑問が一瞬《いっしゅん》脳裏をかすめたが、ゆかりにはそれ以上考える余裕《よゆう》がなかった。
シムーン・アンは次々と指示を出してくる。
『次、FMSの設定を確認《かくにん》する。モードをコンファームにして表示を読み上げて」
「FMSってどこ?」
『わからないけど、電卓《でんたく》みたいな装置《そうち》よ』
相手もよく知らないのだ。どうやらチェックリストを見ているらしい。
「FMSっての探して。電卓みたいなやつ」
三人がかりで計器盤《けいきばん》を調べる。
「ほい、FMS……FMS……」
「電卓みたいな――ってこれかしら」茜が計器のひとつをさした。
「それだ。シムーン・アン、FMS見つけた。モードをどうするって?」
『コンファームよ、コンファーム』
フランス訛《なま》りが繰《く》り返す。
「茜、コンファームって画面出る?」
「いま調べる」
キートップにそんな文字はない。茜はセンター・ペデスタルの前にひざまずき、三つあるFMSのひとつに向き合った。
「そうか、これってメニュースイッチなんだ」
茜は愛用の電卓と躁作が似《に》ているのに気づいて、急に要領《ようりょう》をのみこんだようだった。画面を縁取《ふちど》るように並《なら》んだスイッチを次々に押《お》してゆく。
FMSはフライト・マネジメント・システム。あらかじめ飛行ルートを設定し、そのとおりに自動躁縦する。方位と高度を維持《いじ》するだけの従来のオートパイロットよりはるかに進んだシステムだという。
「終わって、戻《もど》って、戻って――出た。コンファーム・モード」
「やりっ。シムーン・アン、読むよ。ウェイボイントってのが並んでて、上から――」
さながら解体新書《かいたいしんしょ》の翻訳《ほんやく》に悪戦《あくせん》苦闘《くとう》する杉田《すぎた》玄白《げんぱく》だった。苦労して表示内容をつきあわせる。それが終わった頃《ころ》――
「陸が見えるねえ」マツリが言った。
「おまいは、のんびり外見てたかっ!」
と言いつつ、ゆかりも久しぶりに外を見た。飛行機の操縦で外を見るのは当然といえば当然なのだが。
紺碧《こんぺき》の海の彼方《かなた》、水平線に緑の筋が横たわっていた。あれが南米大陸か。
『そろそろカイエンヌへの降下が始まる頃よ』
シムーン・アンが告《つ》げた。
『降下は途中《とちゅう》で打ち切って、操縦訓練をするわ。オートパイロットを解除して』
ゆかりは指示されたとおりベルト着用サインを出し、オートパイロットを解除した。
左手で操縦桿《そうじゅうかん》を握《にぎ》る。
「オッケー。準備できた」
『まずローリングから。操縦桿を左右に軽く押《お》してみて』
「どれ……ん?」
反応《はんのう》がない。かすかに機体が揺《ゆ》れたような気はしたが。
「反応しないけど」
『もう一度。もうすこし大きく操作して』
「ん……ちょっと揺れたかな?」
『もしかしてあなた、操縦桿|叩《たた》いてすぐ戻してない?』
「もちろんそうよ」
『それは宇宙船のやりかたでしょ! 飛行機は倒《たお》しっぱなしにするの!』
「そんなの、ゆってくんなきゃわかんないって!」
しかし相手はなぜそんなことを知ってるんだ?――という疑問が一瞬《いっしゅん》脳裏《のうり》をかすめたが、ゆかりにはそれ以上考える余裕《よゆう》がなかった。
『宇宙飛行士なら飛行機との違《ちが》いぐらい知ってるでしょ!』
「宇宙飛行士が飛行機やる必要なんてないじゃん!」
『いいからとにかく倒しっぱなしでやりなさい!』
「やるけど!」
エアバスはゆっくりと右に傾《かたむ》き、横滑《よこすべ》りしながら旋回《せんかい》しはじめた。
「だーっ、なにこれ、すっげーレスポンス悪い!」
『文句《もんく》言わずに慣れなさい。次は左旋回。ノン! ノン! 高度|維持《いじ》してー,スティック引いてスロットル押《お》して目は総合飛行情報ディスプレイに!』
シムーン・アンはびしばしと命令する。こいつ楽しんでるのか? という疑問が一瞬脳裏をかすめたが、ゆかりにはそれ以上考える余裕がなかった。ただ漠然《ばくぜん》と、アリアンとの共同訓練でこんなやつに頭ごなしに命令されたら切れるだろうな、と思った。
スロットル操作《そうさ》をマツリ、計器の読み上げを茜に分担《ぶんたん》させて、飛行訓練を繰《く》り返す。
すでにエアバスはカイエンヌ上空に到着《とうちゃく》していた。トラフィック・パターンなるものにそって進入降下、滑走路《かっそうろ》の上空通過、上昇《じょうしょう》を繰り返している。飛行機の着陸は宇宙船どうしのランデヴーに似《に》ていた。位置と速度と方向がすべて一致《いっち》しないと着陸できないのだ。しかし操作はまったく違《ちが》う。操作と結果が単純に結びつかない。
頭がウニになりかけているところへ、またスチュワーデスが駆《か》け込んできた。
「ちょっと、いつになったら着陸するのっ!」
「いま練習中。もうちょっと待って」
「患者《かんじゃ》が死にそうなのよ! 早く降ろしてっ!」
「あと何分飛べる?」
「二十八分」
茜がFMSをすばやく操作して答えた。
「あと二十分くらい練習させて」
「二十分も待てないわ!」
フランス女はヒステリックに叫《さけ》んだ。
「死ぬのよっ! 食中毒って遅《おく》れたら死ぬのよっ! 墜落《ついらく》するまえにみんな死ぬわっ!」
JALのスッチーだったらもっと冷静なんだろうなと心の半分で思いながら、ゆかりはその訴《うった》えを受けとめた。
二十分が生死を分けることだってあるかもしれない。
ゆかりは心を決めた。
「すぐ降ろすからあっち行って、客に衝撃《しょうげき》防御《ぼうぎょ》と緊急《きんきゅう》脱出《だっしゅつ》の用意させて」
「わ、わかった!」
スチュワーデスが出ていくと、ゆかりはシムーン・アンに通告した。
「患者の容体《ようだい》が悪化してるから、いまから降りるね」
『無理よ。もっと練習しないと! 着陸に失敗したら患者どころか全員死ぬのよ!』
「全員助けるんだ。やるとなったらコンプリート・サクセス狙《ねら》うもんね」
『やめなさい! 考え直すの!』
「キャプテンはあたしだ」
ゆかりは一方的に通信を打ち切った。
口元に笑《え》みがうかぶ。面白《おもしろ》くなってきた。
コクピットに押《お》し込まれてから、ずっと誰《だれ》かの言われるままになってきた。
初めて自分で決断する時がきたのだ。
「茜、さっき滑走路の上で高度いくつだった?」
「百八十メートル」
「じゃ、こんどはさっきより百八十メートル低く飛ぶ。それで車輪が地面につく。逆噴射《ぎゃくふんしゃ》してホイールブレーキかける。なんか忘れてたら言って」
「いいと思う」
もう茜の脳には新しいチェックリストが組み上がっているはずだ。ゆかりは機体を左《ひだり》旋回《せんかい》させながら思った。この子は――気絶さえしなければ――どんなコンピュータより信頼《しんらい》できるんだ。
「マツリ、スロットルよろしく。さっきの感じだと、飛行機ってのも結局スロットルで降ろすらしいから。で、地面に触《ふ》れたらすぐリバースね」
「ほい、まかせて」
正面に滑走路がきた。飛行情報ディスプレイの表示もぴったりシンクロしている。
失敗する気がしない。決断をまかされると天性のリーダーシップが発動して全身の細胞《さいぼう》を活性化《かっせいか》させる。それがゆかりに備《そな》わった、宇宙飛行士の“正《ライト》しい資質《スタッフ》”だった。
「降下率、百五十をキープして」茜が指示する。
『スロープが浅すぎるー 降下率をもっと上げなさい! 地面効果を考えて!』
シムーン・アンがうるさく指示してくる。大きなお世話だ。
すると別の声が呼び掛《か》けた。これも女だ。
『どうしても降ろすってんなら、そのろくでもないフライト・プロテクションを切りな』
そういや墜落《ついらく》しようにもできないって言ってたな。コンピュータに着陸を妨害《ぼうがい》されちゃ困る。ゆかりはプロテクション機能をオフにした。
滑走路の末端《まったん》を示す六本の白い帯が、ぐんぐん追《せま》ってくる。
「いいぞ。このまま――ん?」
さっきのように降りてくれない。なぜだ? プロテクションは確かに切ったのに。
地面効果のことなど知る由もなかった。着地寸前の高度では、地面と機体にはさまれた空気がクッションになって余分な揚力《ようりょく》をもたらす。単純に上空通過の手順を平行移動するだけではだめなのだ。
ゆかりは焦《あせ》った。滑走路がどんどん消費されてゆく。
『復航《ふっこう》しなさい! エアフランス三〇七、スロットル全開にして着陸復航なさい!』
「降りるんだ。マツリ、もっとスロットル絞《しぼ》って」
「もうゼロまで絞ったよ」
「でも降りないんだ」
「じゃあ逆噴射しようか」
「それだ! やってやって!」
「ほい」
逆噴射。宇宙飛行士にはわかりやすい発想だった。
マツリはためらいもなく四本ひとたばのスロットルをリバース位置に押《お》し込んだ。
逆噴射――スラスト・リバーサーは車輪が接地してからでないと作動《さどう》しない設計だった。
が、なぜか今回は作動した。四基のエンジンが咆哮《ほうこう》した。
とたんに機首ががくりと落ちた。視野《しや》のすべてが滑走路になった。
前輸が滑走路を強打する。タイヤがバーストし、白煙《はくえん》をしたがえたゴムの破片が機首のまわりに飛び散った。
「きゃあ!」
茜が悲鳴をあげて尻餅《しりもち》をつく。
床下《ゆかした》から黒板を引っ掻《か》いたような音が響《ひび》く。
それから後輪が接地した。
機首が滑走路をそれはじめる。コクピットはシェーカーのように揺《ゆ》れた。止まらない。
茜が叫《さけ》んだ。「ゆかり、ホイールブレーキ!」
「こいつかっ!」
ゆかりはブレーキペダルを思いっきり踏《ふ》んだ。車輪に制動のかかる手応《てごた》えがあったが、まだ充分ではない。エアバスはランウェイ・ライトを蹴散らして滑走路脇の草地を走り、右翼《うよく》で吹《ふ》き流しのポールをなぎ倒《たお》し、誘導路《ゆうどうろ》を横切った。まだ止まらない。
金属《きんぞく》の破断《はだん》する音がした。窓の外に火の粉《こ》がとんだ。
急減速でハーネスが体に食い込む。尻餅をついていた茜は舞《ま》い上がり、機長席の背もたれに抱《だ》きついた。「きゅう!」
それから、嘘《うそ》のように静かになった。
まだコクピットごとぐわんぐわん揺れているような気がするが――気がするだけか。
「止まった……?」
「止まったね」
マツリがひょっこり立ち上がる。
ゆかりもハーネスを解《と》いて席を立ち、まわりを見回した。無意識にサバイバルキットと救命ラフトを求めている。それから、座席の背もたれにしがみついたまま凝固《ぎょうこ》している茜を揺さぶった。
「茜、茜、生きてるか!?」
「う……うん、大丈夫《だいじょうぶ》。着陸した? 止まった?」
「うん、地面の上で止まってる。これで、いいんだよな?」
「ほい、こっちは大丈夫だよ」
マツリは右舷《うげん》の側方窓に顔を寄せて、主翼《しゅよく》のほうを見ている。
そうだ、外を見ないと。ゆかりも左舷側を見た。主翼もエンジンも健在《けんざい》で、炎《ほのお》も煙《けむり》も出ていない。
赤色灯《せきしょくとう》を閃《ひらめ》かせて、大小さまざまな車両がやってくる。消防車。救急車。乗用車。バス。
すぐそばのハッチが開いて、脱出《だっしゅつ》シュートが膨張《ぼうちょう》してゆく。
キャビンから喝釆《かっさい》と歓声《かんせい》がひびいてきた。
「結果オーライ……かな?」
ACT・3
うかつにコクピットを出たのは失敗だった。食中毒《しょくちゅうどく》をまぬがれた乗客たちは元気|一杯《いっぱい》で、たちまちキスと抱擁《ほうよう》の嵐《あらし》に翻弄《ほんろう》されたのだった。
三人はそれを振《ふ》り切って機外に脱出し、機首の前に来た。
目の前に、二十度ほど折れ曲がったエアバスの前脚柱《ぜんきゃくちゅう》がそびえていた。
タイヤは消滅《しょうめつ》し、じかに滑走路《かっそうろ》をこすった金属《きんぞく》ホイールは無残《むざん》に削《けず》れ、ささくれ、消火液の泡《あわ》にまみれていた。飛散した破片を受けたのか、胴体《どうたい》下面にも無数の衝突《しょうとつ》痕《こん》がある。
再突入《さいとつにゅう》した宇宙船よりひどいな、とゆかりは思った。Gや揺れ具合《ぐあい》は宇宙船のほうがきつい。だが、たかだか秒速二百五十メートルをゼロにするのに、こんなにてこずるとは思わなかった。得体《えたい》の知れない乗物を操《あやつ》るのはまったく疲《つか》れる。
三人はくたくたとコンクリートの上に腰《こし》を下ろした。
手をついて地面の感触《かんしょく》を味わう。消火液をかぶったコンクリートは、熱く湿《しめ》っていた。
正午前の陽差《ひざ》しが頭上から降《ふ》り注《そそ》いで、濃《こ》い影《かげ》が落ちている。赤道直下の南米大陸。
三人は座《すわ》り込んだまま、しばらく惚《ほう》けていた。
どこかでごうごういうジェットエンジンの音がしている。
暑《あつ》くなってきたので、そろそろ建物に入ろうかと思った頃《ころ》――
靴音が近づいてきて、目の前で止まった。
黒い靴とオレンジ色のフライトスーツの裾《すそ》が視野《しや》に入った。
「ほい……?」
マツリが顔をあげ、目をぱちくりとしている。
ゆかりも顔をあげた。
Gスーツを着込んだ、五人のパイロットが立っていた。ヘルメットを小脇《こわき》にかかえ、にこりともせずにこちらを見下ろしている。
女だ。それも小娘《こむすめ》だ。ゆかりは自分の立場を忘れてそう思った。
赤毛が一人、ブロンドとブルネットが各二名。
五人の背後《はいご》の誘導路《ゆうどうろ》には、あの戦闘機《せんとうき》が縦《たて》一列に並《なら》んでいる。
ブロンドその一が口を開いた。
「キャプテンって子は誰《だれ》?」
その声でわかった。シムーン・アンだ。
ゆかりはゆっくりと立ち上がった。
「あたし」
と、相手の右手が一閃《いっせん》した。
視覚《しかく》と聴覚《ちょうかく》がフラッシュした。その大音響《だいおんきょう》は、鼓膜《こまく》よりも頬骨《ほおぼね》から内耳《ないじ》に伝わった。
遠慮《えんりょ》会釈《えしゃく》のない平手打ちだった。
……そうか、着陸の時こいつの指示を無視したんだった。
それで怒《おこ》ってる。ゆかりはとっさに理解した。
だけど全員助かったんだからいいじゃないか。
理由がないなら、ぶたれたままでいるべきじゃない。この結論もとっさに出た。
ゆかりも手は早いほうだ。のけぞった上半身を立て直す反動を生かして、右手のバックハンドで平手打ちを決めた。完壁《かんぺき》に命中した。それから相手を見た。
乱れた金髪《きんぱつ》の下で、瞳《ひとみ》が燃えていた。こんどは拳《こぶし》を固めている。
くるか、と思った直前、向こうの仲間がシムーン・アンの片腕《かたうで》をつかみ、何か言った。
ゆかりの腕をつかむ者もいた。マツリだった。
「ひとつにひとつ。おあいこだね」
ふだんと変わらない、低い、よく響《ひび》く声だった。
ゆかりは腕のカを抜《ぬ》いた。
シムーン・アンは仲間に向かって、短く、断固とした口調《くちょう》で命じた。
仲間は腕を離《はな》して引き下がった。
シムーン・アンはゆかりを見据《みす》えたまま、構えをゆるめた。
それからフランス訛《なま》りの英語で言った。
「三百人を殺すところだったわ」
「全員助かったんだからいいじゃん」
「結果オーライで事《こと》を進めるような人に、私たちのサポートは任《まか》せられない」
「あんたたちのサポート?」
ゆかりは相手の飛行服のワッペンを見た。ARIANE。アリアン。
「てことは――」
「私はアリアン・クーリエ社の宇宙飛行士、ソランジュ・アルヌール。今回の月飛行ミッションのコマンダーでもある」
そうか。そうだったのか。こいつが月へ行くリセエンヌの頭目《とうもく》か。
このへんでジェット戦闘機《せんとうき》を乗り回す小娘《こむすめ》など、アリアン・ガールズくらいのものだろう。気づいてしかるべきだった。
ならばこちらも名乗らねばなるまい。
「SSAの先任《せんにん》宇宙飛行士、森田ゆかり。SSAじゃあたしがリーダーってことになってる」
「今日からリーダーは私よ。肝《きも》に銘《めい》じておくことね」
ソランジュは頭ごなしに言った。
「さっきのような独断《どくだん》は認めないからそのつもりで」
言い捨てて、つかつかと歩《あゆ》み去る。
仲間の四人は、一呼吸|遅《おく》れてそのあとを追った。
ゆかり、マツリ、茜の三人は、呆然《ぼうぜん》とそれを見送っていた。
「信じられん。なにあのステロな言い回し」
これは日本語。
「最っ低」
[#改ページ]
第二章 アリアン・ガールズ
ACT・1
数年前、日本が海外|援助《えんじょ》の名目でソロモン諸島に宇宙基地を建設したことは、当時ほとんど誰《だれ》にも知られなかった。
その組織の名はSSA、ソロモン宇宙協会。どこにも「日本」の字はない。現地法人の隠《かく》れ蓑《みの》である。ソロモン諸島に独自の放送|衛星《えいせい》を打ち上げて無数の島々にあまねく教育をほどこす名目で設立されたのだが、実は那須田《なすだ》勲《いさお》なる野心家のワンマン企業だった。
「というわけで本日の特集です。スタジオにあのソロモン宇宙協会の代表、那須田勲さんに来ていただきました――うわあ!」
岩山のような男がフレームインすると、中年のキャスターは大袈裟《おおげさ》に驚《おどろ》いてみせた。
「いやー、ビッグマン。すっごい貫禄《かんろく》ですねえ。ソロモン宇宙協会っていうとちっちゃな宇宙飛行士で有名なんですが、なんて申しますか……すっごい対比《たいひ》ですよね」
「はっはっは」
那須田は鷹揚《おうよう》に笑ってみせた。
巨躯《きょく》に猪首《いくび》。体格はむやみに大きいが、丸い銀縁《ぎんぶち》眼鏡《めがね》の奥《おく》に鋭《するど》い目が光ったところは往年の軍師《ぐんし》を思わせる。コンピュータつきブルドーザーと言われ、斬新《ざんしん》な発想と度胸《どきょう》でSSAを立ち上げた男だった。
「那須田さんは低コストの有人宇宙飛行を実現して世界の宇宙ビジネスに斬《き》り込む、という野望を見事実現されたわけですが――」
「いやいや。野望なんてもんじゃないですがね」
「僕ねえ、去年ゆかりちゃんが初めて飛んだ時はもうびっくりしちゃいましてね。日本の宇宙開発っていえばもう人工衛星ばっかり上げてたじゃないですか。まさか人間が、それも女子高生が宇宙に行くなんて、そういうこと思いつくだけでもすごいなあって」
「なに単純な物理法則ですよ、これはね」
ロケットという乗物はおそろしく効率が悪い。一握《ひとにぎ》りの荷物を運ぶのにその何十倍もの燃料を要する。燃料を運ぶために燃料を消費するから、雪だるま式に燃費が悪くなる。
言い換《か》えれば、その荷物が少しでも軽くなれば、何十倍もの燃料を節約することになる。
那須田は小柄《こがら》で体重の軽い少女を宇宙飛行士に仕立てた。
体重もさることながら、大きく響《ひび》くのは体格だった。それに合わせて軌道船《きどうせん》――オービターをぎりぎりまで小型化すれば、ロケットもICBM並みになる。
この計画に最初に巻き込まれたのが、当時十五|歳《さい》の女子高生だった森田ゆかりだった。
次がゆかりの異母妹《いぼまい》である森田マツリ。半年後に三浦茜が参加した。
那須田の計画は大成功をおさめる。一回の打ち上げコストは二十億円、スペースシャトルの十五分の一になった。
主な業務は人工衛星のメンテナンスだった。それまでの人工衛星は打ち上げ後に故障《こしょう》したらジ・エンドだった。厳《きび》しい重量制限から冗長性《じょうちょうせい》も充分ではない。極限《きょくげん》まで高い信頼性《しんらいせい》を要求されるから、費用は一機あたり数百億になった。わずか二十億でメンテナンスできるなら、もっと安く作り、故障したらSSAの少女たちを派遺《はけん》すればよい。
「でも僕なんか子供の頃《ころ》アメリカのアポロ計画とか見て、ただもうすごいすごいって思って育ったもんですから――もうロケットとか人工衛星とかって人類の科学技術の粋《すい》じゃないですか。それを女子高生に修理させようなんてねえ、できるとお考えでした?」
「情報量ってこと考えるとね、いまどきの女子高生はたいしたもんですよ。受験勉強からファッションまで、とんでもない量の情報の海を平然と乗り切ってきてる。手順書などはすぐに暗記しますし、裏技《うらわざ》まで見つけてきますからね。もう立派《りっぱ》なもんです。はっはっは」
キャスターは三人の宇宙飛行士の写真を掲《かか》げた。
「で、このゆかりちゃんマツリちゃん茜ちゃんの三人ですけども――いやあ、かわいいですよねえ。ぶしつけな質問ですが、やっぱりルックスってのは考慮《こうりょ》されてます?」
「いや、彼女たちとは数奇《すうき》なめぐりあわせでしてね。まったくの偶然《ぐうぜん》ですよ」
「こんなかわい子ちゃんじゃなくても採用《さいよう》された?」
「もちろんです」
那須田はきっぱり肯定《こうてい》した。嘘《うそ》ではなかった。森田ゆかりとの初対面では、体格と気丈《きじょう》な物言いに注目しただけで、容姿はどうでもよかった。
だが、今でもそうというわけではない。
SSAの宇宙飛行士たちはロケットガールと呼ばれて、たちまち国際的アイドルになった。税金の無駄遣《むだづか》いと批判《ひはん》ばかりされてきた宇宙開発は、これを転機《てんき》に熱狂的《ねっきょうてき》な支持を集める。海外協力基金の私物化に対する筋の通った批判でさえ、愛らしい三人|娘《むすめ》の絶大な人気の前にかき消された。いまでは日本政府も公然とSSAの存在を認めている。那須田はこのボーナスを手放《てぱな》す気はなかった。
「さて――その昔、宇宙飛行士といえば男の中の男と相場《そうぱ》が決まってました。それがいまや、宇宙は女の子でいっぱいです。SSAの成功をみて後に続いた組織がありまして、それがこの――」
キャスターはカメラ目線になって、フリップを取り替《か》えた。
「フランスのアリアン・スペース社ですね。あ、僕たちついアリアンってフランスの企業《きぎょう》だって言っちゃうんですが、正式には――」
「アリアンはESA、ヨーロッパ宇宙機関が営利事業を行なうために設立した多国籍《たこくせき》企業です。ヨーロッパの宇宙開発はフランスが中心になってやってましてね。だからアリアンの射場《しゃじょう》はフランスの植民地にありますし、みんなフランス語でやってますよ。それに飛行士も全員フランス人ですから」
有人飛行に関してはフランスが百パーセント出資してアリアン・クーリエ社という子会社を設立した。なぜ百パーセントかといえば、宇宙飛行士をすべてフランス人にしたかったのだろう。そして国内の小柄《こがら》な女子高生――リセエンヌから五人の宇宙飛行士を選抜《せんばつ》した。五人はすでに一ないし三回の宇宙飛行を経験している。
アリアン・クーリエ社はSSAと同様の宇宙|派遣《はけん》サービスを行なうが、それが設立された直接の背景《はいけい》はきわめて野心的で、発表されたときは世界を驚《おどろ》かせた。
彼ら――彼女たちは月をめざしていた。
アポロ計画から実に三十年ぶりの、有人月飛行である。
「僕ねえ、どうもこの月飛行ってのが複雑でよくわからないんですが、月面|滞在《たいざい》がたったの二時間なんですって?」
「そうですね」
「人類|初《はつ》の月着陸はもうアメリカがアポロ計画でやっちゃったわけですよね。それがわざわざリセエンヌかき集めてたった二時間だけ月に降りるってのは、フランスっていったい何考えてるんだろって思うんですけども――そもそもこれは、何をしにいくわけですか?」
「月の氷を持ち帰ろうとしてます」
「氷ってのは、オンザロックに入れる、ああいう氷ですか。それが月にあると?」
「透《す》き通ったきれいな氷じゃないかもしれませんが、あると考えられてますね。北極と南極にね」
月の北極と南極は、ほぼ真横からしか陽《ひ》が当たらない。そのため低地やクレーターの内部には永遠に日照のない地域が存在する。
そこにもし、彗星《すいせい》が落下したらどうなるか。
彗星の本体は“汚《よご》れた雪だるま”といわれる。衝突《しょうとつ》の熱で盛大《せいだい》に気化するが、残った水や泥《どろ》は凍結《とうけつ》して、永遠の夜の中に堆積《たいせき》する。
月に彗星が衝突することなどめったにないが、宝くじも億単位の年月にわたって買い続ければいつか大当たりする。昇華点《しょうかてん》を下回る温度なら凍結した水はいつまでも待っていてくれる。このゲームの勝率は高い。
「月に氷があるからって、それがどうしたって僕なんか思っちゃうんですけども」
「これはすごいことです。やられたって思いましたね」
「やられた? といいますと、SSAも月をめざしてたんですか!?」
「もちろんです。誰《だれ》かが行って確かめなければならない、とね。我々もスポンサーを探していたんですが、フランスに先手を取られました。不覚でしたね」
「ははあ……」
もし月にまとまった量の水があれば、月面|開拓《かいたく》における途方《とほう》もない福音《ふくいん》となる。
理論的には、水素さえあれば人類は地球から独立して月に永住できるのだ。
月の極地に氷が存在する可能性は一九七〇年代から指摘《してき》されていた。九〇年代になって、NASAの月探査機クレメンタインとルナ・プロスペクターがその兆候《ちようこう》をつかんだ。
どうやら月の両極には六十億トンの水が凍結して存在するらしい。
だがそれは軌道《きどう》からの遠隔探査《えんかくたんさ》でしかなかった。明白な証拠《しょうこ》をつかむには、サンプル・リターン――その氷の実物を地球に持ち帰る必要があった。
いくつかの機関がその準備にとりかかった。最初に名乗りを上げたのはアメリカだったが、計画なかばで議会の否決《ひけつ》にあって撤退《てったい》した。
有力|候補《こうほ》に残ったのは中国の採掘《さいくつ》ロボットだった。だがこれには疑問の声もある。月面との往復だけでも難度《なんど》が高いうえ、無人の採掘ロボットを開発するのは茨《いばら》の道だった。もし装置《そうち》がぐらぐらしたら。もしドリルが何かにひっかかったら。もし堅《かた》い岩にぶつかったら。ほんのささいなトラブルがあっても、巨費《きょひ》を投じた計画はたちまち破綻《はたん》してしまう。
それなら人間を送り込もう。人間なら何があっても柔軟《じゅうなん》に対応できる。月面を五十センチ掘《ほ》ることなどたやすい――アリアンはそう考えたのだった。
「ここに模型《もけい》があります。ええと、この筒《つつ》をつないだようなのが月飛行モジュールというんですね。まずこの部品を二度にわけて打ち上げて、地球のそばで組み立てて月に向かいます」
打ち上げにはアリアンVという大型ロケットを二機使うが、それでさえアポロ計画の超《ちょう》大型ロケットには遥《はる》かにおよばない。月面に運べる質量はわずか七百キログラム。
アポロ計画に使用された月着陸船は十四トンもある。その二十分の一で事をなすために思い切った方策《ほうさく》がとられた。
「月飛行モジュールは月のまわりをぐるぐる回るだけで着陸はしません。まあ母船みたいなもんですね。で、月に降りるのはこれです」
キャスターは模型の中から小さな物体を取り出した。骨組みとタンクがむき出しになった、昆虫《こんちゅう》のような乗物だった。これに二人の飛行士がまたがって月面に降りる。
「で、これが重要なんですが、月に行くのは四人。そのうち二人が月に降りるんですよね。僕なんか思うのは、日仏共同ミッションっていうなら、なんでその四人のなかに一人も日本人が入ってないのかって――ねえ? ゆかりちゃんたちは地球のそばの軌道で、出発のお手伝いだけして引き返すんですよね。あの子たちだって悔《くや》しいと思うんですが」
「まあ金を出すのはフランスですからね」
「国辱《こくじょく》もんだっていう声もありますが」
「ここはフランスを称《たた》えるべきでしょう。月の極地に着陸するのは技術的に難《むずか》しいです。燃料が余分にいりますし、通信もどこかで中継《ちゅうけい》してやらないといけない。無難《ぶなん》な低緯度帯《ていいどたい》にしか降りなかったアポロ計画に比《くら》べると、これはかなりの冒険《ぼうけん》です」
那須田は笑《え》みを絶やさずに言う。
「危険を承知《しょうち》で挑戦《ちょうせん》したフランスは、月への切符《きっぷ》を独占《どくせん》する資格があります。確実にできることにしか金を出さない国は、指をくわえて見てるしかないですね」
目は笑っていなかった。
ACT・2
「たくもー、これだからフランス人は――」
「帰っちゃったのかしら……」
カイエンヌ空港は国際空港だが、規模《きぼ》は日本のローカル空港に等《ひと》しい。こぢんまりした空港ビルとハンガーがぽつぽつ並《なら》んでいるだけで、ボーディング・ゲートのたぐいもない。案内標識はフランス語が基本で、主《おも》なところは英語も併記《へいき》されている。
空港ビルのロビーを三十秒で横切るとロータリーがあった。
ロータリーの向こうは開墾《かいこん》された平地がひろがり、遠くにフラットな森がある。
空は濃《こ》く、積雲がCGのように同じバターンを繰《く》り返して地平線まで連《つら》なっていた。
三人はそんな景色《けしき》の前にたたずんでいた。
ロータリーに車はない。迎《むか》えの車が来るはずなのだが。
「あいつら、国際空港に勤めてるくせにフランス語しかしゃべれないんだから」
事情|聴取《ちょうしゅ》にあたった係官《かかりかん》のことである。おかげで筆談《ひつだん》したりしてずいぶん時間がかかった。その間に出迎えのほうは帰ってしまったのだろうか。
「CSGに電話してみるか。英語話せる奴《やつ》がいりゃいいけど」
CSGはギアナ宇宙センターのフランス式|略称《りゃくしょう》。ここから陸路七十キロの彼方《かなた》にある。
派手《はで》なブレーキ音がした。
駐車場《ちゅうしゃじょう》のほうから出てきた黄色いオープンカーが道路の真ん中でアクセルターンして逆走し、ロータリーに飛び込んでくる。
白人の娘《むすめ》が四人乗っていた。車は目の前で止まった。
「ボンジュー! さっきは大変だったわね!」
黄色い声を上げながら、こちらにひらひらと手を振《ふ》る。なんだかまぶしい、ファッション雑誌のグラビアみたいな眺《なが》めだった。
「悪く思わないでよね、ソランジュはああいう娘《こ》なんだから。これからCSG? 乗ってかない? みんなでランチにしようよ! ほかの人は? 付《つ》き人《ぴと》さんとかいないの? 三人だけで来た?」
派手な金髪《きんばつ》娘が、いきいきと英語でまくしたてる。
さっきの“その他四人”か、とゆかりは思った。私服のアリアン・ガールズ。
「えーと……」
なにから答えたものか、ゆかりは戸惑《とまど》った。
「私たち、アリアンの迎《むか》えを待ってるんだけど」
「来ないんなら待つことないよ。大丈夫《だいじょうぶ》乗れる乗れる。ほら荷物こっち!」
トランクに荷物をつめこみ、後部座席に三人で乗る。降りた二人はどうするんだろうと思ったら、左右のドアにハコ乗りした。
「いいよ、出してイヴェット!」
「イグニションシーケンス・スタート!」
車は重低音を響《ひび》かせて発進した。ものすごく燃費が悪そうだ。
「ええと、ユケリだっけ。あたしシャルロット。シャルロット・ゲンズブール」
「ゆかり。森田ゆかり」
「ゆかり、なに食べる? ギアナでいちばんましなフレンチ・レストランはどう? クレオール風じゃないやつ。プロバンス料理もいけるわよ」
「フランス料理はちょっと」
「じゃあブラジルは? シュラスコとか?」
「よくわかんないけど、そっちでいいや」
「イヴェット! ペルナロンガ・オテルに軌道《きどう》修正!」
「聞こえてるよ、あんたの声はでかいんだから!」
イヴェットはアクセルを踏《ふ》み込み、カイエンヌ市街《しがい》に向かう一本道を爆走《ばくそう》した。
数分で市街に入った。コロニアル風の建物が並《なら》んでいる。そのなかにひときわ大きなホテルがあり、一階がレストランになっている。ギアナとしては高級なほうだろう。
アリアン・ガールズが入っていくと、蝶《ちょう》ネクタイに白いスーツ姿《すがた》のウェイターが笑顔で出迎《でむか》えた。薄暗《うすぐら》い店内はよく冷房《れいぼう》がきき、肉の焼ける煙《けむり》と胡淑《こしょう》の香《かお》りが立ちこめていた。
奥《おく》のパーティ・ルームに通される。
「おっ、肉だ」ゆかりが言った。
「あっ、ごはん食べてる」茜が言った。
調理場との仕切りで、巨大《きょだい》な肉塊《にくかい》が串刺《くしざ》しにしてあぶられていた。
テーブルでは客がピラフのようなものを食べている。
マツリはどのテーブルにもケチャップとマスタードがあるのを見て顔を輝《かがや》かせた。
シャルロットが適当に注文しながら、
「ドリンクは?」
メニューはフランス語で読めない。
「ソフトドリンクとか、ひととおりある?」
「オレンジ、パイン、マンゴー、ココナツミルク、その他いろいろ」
「じゃオレンジ」
「私、ココナツミルク」
「パイン・ジュースがいいね」
飲み物が運ばれてくると、娘たちは自己紹介《じこしょうかい》した。
イヴェット・グランベールはブルネットをショートにした小麦色《こむぎいろ》の健康美人。洗いざらしたジーンズベストにショートパンツという姿だが、ヘルス・エンジェルスのような退廃《たいはい》ムードはない。腕《うで》には航空|仕様《しよう》のGショック。
「あの、イヴェットさんて月面に降りる二人のうちの一人ですよね? ソランジュさんと」
茜がまぶしいものでも見るような顔で言った。
「そうそう」
「うらやましいなあ。素敵《すてき》でしょうね、月の北極って」
「そお? CGで見たけど、ぞっとしない感じだよ。真《ま》っ暗闇《くらやみ》だしさ」
イヴェットはこともなげに言った。
「オレさ、宇宙とか月っていうより、ジェットに乗れるって聞いたから応募《おうぼ》したんだ。女じゃ空軍パイロットは狭《せま》き門だし、リセにゃ飽《あ》き飽《あ》きしてたし、渡《わた》りに船だったよね。宇宙飛行は三回したよ」
それからイヴェットはゆかりに向かった。
「にしてもさっきの着陸はすごかったよね。スロットルもあんたが?」
「推力《すいりょく》はこいつが」
「ほい、マツリがしたよ」
イヴェットはマツリに言った。
「エアバスにあんな機動させるとはクレイジーだよね。こんどミラージュ飛ばしてみる?」
「ほい?」
「ミラージュV。昨日《きのう》見たろ? あたしらの訓練用に空軍からもらったやつ」
マツリはにっこり笑った。
「いいね! ゆかりもやろう」
「やめとく。飛行機は当分乗りたくない」
「そう。あんたは? えーと」
「三浦茜です。あの、私も飛行機はちょっと」
「淡白《たんぱく》だなあ。操縦《そうじゅう》するなら飛行機のほうが断然|面白《おもしろ》いぜ? 宇宙船なんて一本道の上で決まった時にデルタVするだけだろ。電車と同じさ」
デルタVとは速度|変更《へんこう》、つまリロケット噴射《ふんしゃ》のこと。
「べつに面白いからやってるわけじゃないけど」ゆかりが答えた。
「じゃ何で宇宙飛行士になんかなったのさ」
「成り行き。夏休みにソロモン諸島に行ったらいつのまにか打ち上げ基地ができてて、体格が合うから一回だけ乗ってくれって言われて」
「それでやみつき?」
「まさか。乗ったら学校|退学《たいがく》になって。うちの学校アルバイト禁止だから。それで帰るとこなくなって、ずるずると」
「まあ、帰るところがないなんて! あなたぐらい有名になれば何にだってなれるのに!」
シャルロットが華《はな》やかな声で言った。ゆかりはなんとなくむっとして相手を観察《かんさつ》した。
派手《はで》なウェーブをかけた金髪《きんばつ》に真紅《しんく》の口紅《くちべに》。ピアスにアイシャドウ。笑顔になると、耳まで裂《さ》けそうな口。とがった顎《あご》に秀《ひい》でた煩骨《ほおぼね》。欧米《おうべい》における美人の条件をひととおり揃《そろ》えている。
ゆかりは先が読めた気がした。
「そういうあんたは何を狙《ねら》ったわけ?」
「もち、芸能界デビュー!」
「……やっぱしか」いるんだ、こういうやつが。
「歌でもテレビでも映画でも、なんでもこなせるスターになるわ。まず宇宙を飛べるってわけ! 地球に国境はない。愛を語る宇宙の天使! もうおいしすぎるぅ!」
長いまつげをはためかせて、歌うように語る。それからシャルロットはダイキリをぐびぐび飲んだ。見ればアリアン・ガールズの飲み物はすべてアルコール入りだった。
隣《とな》りの娘《むすめ》が言った。
「この子ね、もう歌手デビューはすませてるの。シャルロットはここのクラブで歌ってるんだ。週末の夜とかね。すごい人気だよ」
「ええと――」
「ゾエ・ワリオ。あたしも似《に》たようなもんかな。バカロレアに進むには山ほど勉強しなきゃいけないし、それより思いっきり目立つことやって人生変えちゃえって思ってね。あたしみたいなチビが向いてるっていうんだから、チャンスだったよね」
会ってみて意外だったのだが、アリアン・ガールズの身長はこちらと大差なかった。写真ではモデルみたいな八頭身《はっとうしん》に見えたのだが、身長制限は百五十五センチだという。
ゾエはブルネットで、ウェーブのかかった髪《かみ》を胸まで垂《た》らしていた。インド人のように彫《ほ》りが深く、神秘《しんぴ》的な顔立ちだ。
「ゾエも歌手とかめざすわけ?」
相手は急に顔をゆるめて、
「うーん、あたしはいまのまんまで充分《じゅうぶん》かも〜〜」
「ゾエはいまがこの世の春だもんね」シャルロットが言った。なんだかしらないが、すごくハッピーらしい。
ゆかりは四人目、赤毛のショートカットの娘に顔を向けた。
ほかの三人と同じく、美人にはちがいない。しかしジョン・レノンみたいな丸眼鏡《まるめがね》のせいか、ちょっとファニィフェイスに見える。
アンヌ・マーラーは超然《ちょうぜん》とした目でこちらを見て、いきなり言った。
「あのくそったれな飛行|制御《せいぎょ》システムを殺したのは超《ちょう》正解だったわ」
「は?」
「フランスのシステムはどれもサイテー。エアバスはしょっちゅう墜《お》ちるし、アリアンVの初号機だってあのザマだったしね。知らない? 制御ソフトがバグってて打ち上げ四十一秒後に大爆発《だいばくはつ》。あんたたちの着陸はベストじゃないけどけっこうイカしてたわ」
「そりゃどうも」
ゆかりは思い出した。この声、着陸直前にアドバイスしてきた奴《やつ》だ。
「ここに来りゃリセのよりはマシなシステムが使えるって思ったんだ。バカロレアに入るまで待つのもかったるいし」
宇宙飛行士になった動機を語っているらしい。
「システムって、つまリコンピュータ?」
「そう」
こいつはハッカーか?
山盛《やまも》りの野莱と果物《くだもの》、ライスが運ばれてきた。
それから料理人がワゴンに肉塊《にくかい》を載《の》せてやってきた。
肉は岩塩《がんえん》と胡椒《こしょう》をこすりつけて焙《あぶ》ったもので、外側から山刀《やまがたな》のようなもので削《けず》りおとして皿に盛る。これに玉葱《たまねぎ》とピーマンのマリネのようなものをぶっかけて食べる。
「うまい! 塩と胡槻と玉葱。肉はこれに限るな!」
フランス式の得体《えたい》の知れないソースに浸《ひた》すなんて邪道《じゃどう》だ。ゆかりはもりもり食べた。
隣《とな》りを見ると、マツリがケチャップとマスタードを肉にふりかけている。
「言ってるはなからそれかい、おまいは」
「赤と黄色だよ、ゆかり。これですべておいしくなる」
「ジャングルで木の根っこの澱粉《でんぶん》食ってた反動か?」
「……もしかしてあんたら、ろくな食事してないわけ?」
イヴェットが聞いた。
「ソロモン基地では宇宙飛行士専用の食事を出されるんだけど」
ほかの二人の口がふさがっているのを見て、茜が答えた。
「これがいまいち、食べたって感じじゃなくて。量も味も」
「病院食みたいな?」
「そうかも。体重制限きびしいし」
おーう。四人のフランス娘は大仰《おおぎょう》に両手をひろげ、天を仰《あお》いだ。
「飛行機も車も乗れなくて食事もおしきせで、よく我慢《がまん》してるなあ」
「それくらいは平気。宇宙に行けるんだもの」
四人は急に真顔《まがお》になって、顔を見合わせた。
それからシャルロットが茜をまじまじと見て、
「えーと、アクネー」
「茜です」
「もしかして茜、ボーイフレンドもいない?」
「いないですけど?」
「一人も?」ゾエが聞いた。
「ええ、一人も」
「毎朝ジョギングしたりする?」
茜はこっくりうなずいた。
「すこし。体弱いから」
「夜は持ち帰った手順書を復習するとか?」
「もちろん」
四人はまた顔を見合わせた。
「同じだ」
「同じね」
「ね、あんたらもそうなの?」
ゆかりとマツリは肉を煩張《ほおぱ》ったまま、ぶんぶん首を横に振《ふ》った。
「だよねえ。にしてもソランジュと同じのがもう一人いるとは……」
「ほらんりゅ」
ゆかりは肉を飲み下してから、言い直した。
「ソランジュってそういうタイプ? あこがれの宇宙めざしてまっしぐら?」
「メ・ウイ!」四人は口を揃《そろ》えて肯定《こうてい》した。
「謹厳実直《きんげんじっちょく》で――ほれ、『ザ・ライトスタッフ』のジョン・グレンみたいな?」
「メ・ウイ!」
「そーかあ……」
全員の視線が茜に集まった。
「そ、そんなに変ですか、私?」
茜はフォークを持つ手を止めて、たじろいだ。
「でも、みんな宇宙へ行ったんでしょう? 宇宙で感動とか……しなかった?」
フランス娘たちの表情はさまざまだったが、素直《すなお》にうなずく者はいなかった。
「ま、眺《なが》めはなかなかのもんだよね。ゼロGも慣れれば悪くないし」
「それだけ?」
「あたしの考えじゃ、あの感動ってのは」アンヌが醒《さ》めた目で言った。「地上で大騒《おおさわ》ぎした余勢《よせい》ってやつよ」
「そうそう、宇宙飛行士の本分は地上にあり!」
「やっぱ、人生を楽しもうってことになりゃ――ねえ?」
四人は完壁《かんぺき》なユニゾンで唱和《しょうわ》した。
「ソランジュではいられない!」
ACT・3
カイエンヌからCSGのあるクールーまでは七十キロの道のりだった。海岸線にそって北西にのびる国道一号線――ギアナ唯一《ゆいいつ》の幹線道路を通る。あたりは見渡《みわた》す限りの平野で、海も山も見えない。道路の両側は森ばかり。人家《じんか》もときどきはある。
イヴェットは猛スピードでオープンカーを走らせた。
小一時間ほど走ると、右手の沖《おき》に小さな島が見えてきた。手前にひとつ。遠くにひとつ、ふたつ。
出発前に読んだ観光ガイドを思い出す。
あれが『パピヨン』の脱獄《だつごく》したサリュ諸島か。
ギアナはフランス革命のあとにできた流刑《るけい》の地だった。本国から送られてきた囚人《しゅうじん》たちは過酷《かこく》な労働をしいられ、マラリアや熱病で次々と倒《たお》れていった。ほんの半世紀前まで、ギアナは「呪《のろ》われた土地」「緑の地獄《じごく》」と呼ばれていた。現在でも入国にあたっては黄熱病《おうねつびょう》の予防接種が義務づけられている。
もっとも、ふだん南緯《なんい》八度のソロモン諸島で暮《く》らしているゆかりたちには、どうということはない。そもそも熱帯の暑苦しさは盛夏《せいか》の日本と大差ない。それが年中続くだけだ。
いまどき植民地支配なんてやってる国も珍《めずら》しいけど……。
ゆかりはまた、ソランジュのことを思った。
茜とちがうのは、支配者然《しはいしゃぜん》としたとこか。あいつは。
「で、あんたたちのオテルはどこ? ヒルシュ?」
イヴェットがふりかえって怒鳴《どな》った。
「オテル?」
「ホテル、ホゥテール!」フランス人はhを発音しない。
「知らない。全部アリアンにまかせきりだったから」
「了解《りようがい》、じゃあまずCSGに行こう」
単調だった風景が変わってきた。人家や看板が少し増《ふ》えた。広い河口にさしかかった。橋を渡るあいだ、マングローブと椰子《やし》の繁《しげ》る海岸がちらりと見えた。クールーの街《まち》も海寄りにある。
橋を渡った正面がCSGの中心部だった。ゲートを顔パスで通過する。
いろんな旗がたなびいていた。フランスのトリコロール。ESAとCNES。それからカナダ、日本、イタリア、インドネシアの国旗。
「あのへんはスポンサーや関係国の旗ね。衛星《えいせい》の打ち上げもやってるから」
少し進むと、やわらかな曲線に包まれた、象牙色《ぞうげいろ》の塔《とう》が目に飛び込んでくる。
塔ではない。アリアンVロケット。その実物大摸型だった。
エアバスの胴体《どうたい》を立てたくらいあるな、とゆかりは思った。直径五メートル、高さ五十メートル、打ち上げ時重量七百トンの巨体《きょたい》。SSAの主力ロケット、LE−6に比《くら》べて寸法で二倍、体積で八倍以上あると聞いている。
「あいつに乗れってか……」
ロケットの向こうに、モダンなデザインのビルがあった。
「わあ、おしゃれ。やっぱリフランスねえ!」
茜が声を弾《はず》ませる。
円筒《えんとう》やガラス張りのドームが複雑にからみついて軍艦《ぐんかん》の艦橋みたいだ。色はライトブラウンの地に真紅《しんく》のアクセント。こんな色遺《いろづか》いはフランス人しか思いつかないだろう。
「ジュピター2。アリアン・ロケットの管制センターだよ。あたしたちの部屋もあそこにあるんだ」
駐車場《ちゅうしゃじょう》に車をとめて玄関《げんかん》に入る。
受付にはフランス女優みたいなブルネットの女がいた。アリアン・ガールズを見ると、軽く会釈《えしゃく》した。
女はシャツの胸元《むなもと》を大きくはだけていて、谷間がくっきり見える。
ゆかりはなんとなく茜の顔を見た。茜は赤面していた。それから二人はマツリを見たが、この裸族《らぞく》はなにも感じていないようだった。
シャルロットがなにかフランス語で話しかけ、女がうなずくと一行は奥《おく》に進んだ。
「ゆかり、ベルモンドは知ってる? マネージャーの」
「ああ、名前だけなら」
宇宙飛行士室室長。ゆかりたちを含《ふく》めて宇宙飛行士の世話をし、訓練を監督《かんとく》する。CSGに着いたらまずベルモンドと会うことになっていた。
ベルモンドは自分専用のオフィスを構えていた。窓を背にしたハの字型の広大なデスク。コンピュータとアリアンVのデスクトップモデル。観葉植物。
娘《むすめ》たちが入ると、ベルモンドは機敏《きびん》に立ち上がった。
「やあ、来たね! 空港で会ったのかい」
「ま、いろいろあってね」と、イヴェット。
名前のせいか、ジャン=ポール・ベルモンドに雰囲気《ふんいき》が似《に》ている。細身《ほそみ》の長身にボロシャツをさっくりと着こなして、なかなかの伊達男《だておとこ》だった。
ベルモンドはこちらにやってきて、順番に握手《あくしゅ》した。
「ピエール・G・ベルモンドだ。宇宙飛行士室のチーフ・マネージャーをしてる。なんでも相談してくれ」
「よろしく」
「至らぬこともあるかと思いますが、よろしくお願いします、ムッシュー・ベルモンド」
茜がていねいにおじぎすると、また全員の視線が集まった。
「あ? え?」
「いーのいーの」うろたえる茜の肩《かた》を、ゆかりはぽんぽん叩《たた》いた。「模範《もはん》的ってやつよ」
「ソランジュはいっしょじゃなかったのかい」
「自己紹介《じこしょうかい》はすんでるわ。エアバスの残骸《ざんがい》の前でね」アンヌが皮肉《ひにく》っぼく言う。
「ほう?」
ベルモンドは顔面の筋肉をいっぱいに使って片眉《かたまゆ》をあげた。Mr.ビーンみたいだ。
アリアン・ガールズはしばらくにやにやしていたが、やがて事情をうちあけた。
「なんとね。それで飛行訓練のほうも打ち切りってわけか」
「滑走路閉鎖《かっそうろへいさ》だし。あたしたちは無理やり降りたけど」
「なるほど。なんにせよ無事でよかった。ゆかり――」
「ん?」
「ソランジュはまじめで責任感の強い子だ。それでつい手が出たんだろう。悪く思わないでやってくれないか」
「まあ……そう思いたいとこだけど」
「ライバル意識もあるんだろう。我々の人気は上々だが、先に成功した君たちの猿真似《きるまね》だとささやかれることもある。ときどきね」
「ふむ」
「こんどの共同ミッションだって、ソランジュは自分たちだけでやれると言い張ってた。そのほうがチームワークがいいってね。そうかもしれないが、なにしろ、ちょっとした宇宙ステーションの建造に匹敵《ひってき》する作業を半日でやっつけるんだ。僕らとしては無理せず、経験豊富なSSAに頼《たよ》ることにした。わかってやってくれ」[#原本では「ちょっとした宇宙」の「宇」の後に挿絵]
「まあ努力はしてみるけど」
「ありがとう。オテルのチェックインはすませたかい?」
「まだ。どのホテルかも聞いてないし」
「おっとそうか。ヒルシュ・オテ――ホテルだ。僕が案内するよ」
「あたしたちが連れてくけど?」
シャルロットが言った。
「君たちには時間を有効に使ってもらおう。三時にプロシージャ・シミュレーターに集合だ」
「あーあ。カイエンヌで遊んでりゃよかったな」
「打ち上げまであと四十日。そんな余裕《よゆう》はないはずだよ」
イヴェットの車から荷物を移すと、ゆかりたちはベルモンドの車に乗ってジュピター2の駐車場を出た。
ベルモンドは頼《たの》みもしないのに、CSGの施設《しせつ》を案内すると言う。
また道路だけになった。カイエンヌからの道とおなじ眺《なが》めだ。
「遠いの?」
「もう敷地《しきち》の中だよ」
数キロ走ったところで、ちらほらと建物が見えてくる。
「あのへんが固体燃料の製造プラント。ロケットはツールーズやヨーロッパ各地で作るんだが、燃料は現地生産なんだ」
「うちもそう。なんかバウムクーヘンみたいにして作ってる。職人芸でさ」
「ほう、変わった製法だね? あの傾斜《けいしゃ》機能性はそうやって与《あた》えるのか」
「あ、これ機密|事項《じこう》だった。忘れて」
「ウイ」
ベルモンドは小粋《こいき》にウインクしてみせた。
さらに進むと、背の高いビルのようなものがある。
「あちらがELA2。一世代前の、アリアンWの射場《しゃじょう》だね」
やがて、鉄道のレールをまたいだ。複線だ。ベルモンドは線路のまんなかで車を止めた。
「これがアリアンVを運ぶレールさ。このダブルトラックの上を発射台やモジュールが移動するんだ」
「発射台が一般《いっばん》道路とクロスするわけ?」
「そう。だけどロールアウトや打ち上げ前は交通規制するからね」
これという産業もないフランス領ギアナは、いまやアリアンのためにあるらしい。
「で、この先一帯がELA3。アリアンVの射場だ。こっちの固体ブースター組み立て棟《とう》からブースターがBAFに移動する。BAFは最終組み立て棟。そこで本体と合体して射点に移動する。射点はほら、遠くに鉄塔《てっとう》が四つあるね? あの中心だ」
なんだかよくわからない。とにかく各パーツを組み立てる工場がちらばっていて、その間をレールで結んでいて、流れ作業で打ち上げ準備をすすめるらしい。
「すごくシステマティックですね」茜は話についてきていた。
「そう、あんな大きなロケットを年間十回以上打ち上げるんだからね。しかも今回は二機連続で打ち上げるから特別な改修もした。すべての工程を同時進行で進めるシステムだよ」
「連続打ち上げならうちだってやるよ」ゆかりは言った。
「だが七百トンの巨体《きょたい》じゃあるまい?」
「それはね」
「有人飛行じゃ遅《おく》れをとったが、僕らは八百機のロケットを打ち上げてきた。君が初飛行する前から、そして今も、ここは世界で最も進んだ打ち上げ設備と言われてるんだ」
そう言ってベルモンドは胸を張った。
……要するに自慢話《じまんぱなし》がしたかったのか。
打ち上げ施設《しせつ》を一巡《いちじゅん》すると、一行は来た道を引き返した。
CSGの敷地を出て、クールー市街《しがい》に入る。
しめっぽい、閑散《かんさん》とした、いかにも植民地風の街《まち》だった。古びた石造りの建物もあるが、目立つのはごく現代風の民家だった。遠くに十階建てぐらいの新しいビルも見えた。
街を貢通《かんつう》して海岸ぞいの道路に出る。
五階建てくらいの白いビルが見えてきた。
「ヒルシュ・ホテルに到着だ。悪くないだろう? 大西洋が一望できる」
絵に描《か》いたような、椰子《やし》の木の緊《しげ》る海岸だった。
ボーイに荷物を運ばせ、ロビーに入る。
ベルモンドがフロント係《がかり》に何か話しかけた。
「○口◆×◎◎△?」
「○×◎△」
「×○◎△◆!!」
「□◎×△○×◆◎△口」
フランス語の応酬《おうしゅう》が始まった。
二人の声が大理石のロビーにがんがん響《ひび》いた。
ベルモンドとフロント係は十分ほど怒鳴《どな》りあっていた。
それからキーを受け取った。
「予約してなかったの?」
「したさ」
「じゃあなんで激論《げきろん》したのさ?」
「いまは部屋がないというんだ」
「どうすんの」
「すまないが三人でツインルームに入ってもらう。ベッドをもうひとつ運ばせるから。部屋があいたらすぐデラックス・シングルに移ってもらうよ」
やれやれと思ったが、案内された部屋は清潔《せいけつ》でゆったりしていて、ソロモン基地の宿舎《しゅくしゃ》よりよほど快適だった。
「あの、CSGまではどう行けば」茜が聞いた。
「センターの車を使ってくれ。ここに運ばせるから」
「私たち、運転できないんですけど」
「運転できない? 車が?」ベルモンドは片目をひんむいた。
「ええ」
「宇宙船が操縦《そうじゅう》できるのにかい?」
「車の操縦訓練は受けてませんから」
「なるほど」
ベルモンドは少し考えて言った。
「よろしい。では運転手と車を手配しよう。明日からは八時に隣《とな》りのブリーフィング・ルームに来てくれ。ああ、これがIDカード。CSGへの出入りに必要だ。それからと……食事はここのレストランがおすすめだ。夜はむやみに出歩かないこと。これという娯楽《ごらく》もない街だしね。ほかに質問は?」
「迎《むか》えはちゃんと来るんでしょうね?」ゆかりが念を押《お》す。
「もちろんだ」
「ならいいけど」
「大丈夫《だいじょうぶ》、レディーを待たせるようなことはしないよ」
ベルモンドは「では明日」と言って出ていった。
ACT・4
翌朝、ゆかりは吠《ほ》えた。
「だからなんで遅《おく》れるっ!!」
ヒルシュ・ホテルの玄関《げんかん》。小太りの運転手は悪びれる様子もなく言い訳した。
「スタンドでオイルを交換《こうかん》してたら思いのほか時間がかかったんだ」
「それは遅刻《ちこく》してまでやることかっ!!」
「エンジンが焼き付きでもしたら、遅刻じゃすまなくなるじゃないか」
「だったらなぜ昨日《きのう》のうちにしない!!」
茜が袖《そで》を引いた。
「とにかく乗りましょう。話はそれからでも」
「そうだったわさ」
三人はばたばたとCNESのシトロエンに乗った。宇宙飛行士の習慣でシートベルトは必ず締《し》めて、「ぶっとばせ!」
「ウイ、マドマゼール」
「英語使え!」
「ラッジャー」
アリアン・ガールズとの共同訓練が始まる朝である。初日から遅刻したら、あの女王様にどんな嫌味を言われるかわからない。訓練だろうが実地だろうが、一分の隙もなく完壁にやりとげてみせたい。少女宇宙飛行士第一号であるゆかりの意地《いじ》だった。
八時二十七分。刺《さ》すような視線を覚悟《かくご》してブリーフィング・ルームのドアをノックする。
応答がない。ドアを開けてみる。
「……いないじゃん」
部屋は無人だった。
「ここに来いって話だったよね?」
「もう訓練場に行っちゃったのかしら」
その時、背後《はいご》から快活な声がした。
「やあおはよう! 昨夜《さくや》はよく眠《ねむ》れたかい」
ベルモンドだった。ゆかりはそれを皮肉と思い、
「寝坊《ねぼう》したんじゃないよ。送迎《そうげい》の車が遅れて」
「遅れて? 誰《だれ》が?」
「へ?」
「適当に座《すわ》っててくれ。いま渡《わた》すものを持ってくるから」
ベルモンドはいったん部屋を出て、封筒《ムうとう》や分厚《ぶあつ》いバインダーの入った箱を抱《かか》えてきた。
「この赤いのはオービターのオペレーション・マニュアル。グレーのは君たちが関《かか》わる、LEO作業の手順書だ」
LEOとはロー・アース・オービット、地球低軌道《ていきビう》のこと。スペースシャトルやSSAのオービターが飛行する軌道はいつもLEOだ。
「そのリングで綴《と》じたやつは潜水《せんすい》シミュレーターのマニュアル。これから実地に教えるけどね。まあ別に難《むずか》しくはない」
三人はLEO作業マニュアルから読んだ。オービターの基礎《きそ》訓練はすでにフランス本土、ツールーズにあるアエロスパシアル社の施設《しせつ》で受けている。
ふつう、乗員の訓練は打ち上げ基地ではやらないものだ。月飛行ミッションの訓練施設はやたら大がかりなので用地が確保できず、こちらに建設したと聞いている。ギアナなら土地だけは腐《くさ》るほどある。
八時五十分、ソランジュが現れた。白いサマー・ジャケットにタイトスカート。大人《おとな》びた感じにまとめている。
ソランジュはこちらを視野《しや》に入れたが、完全に無視して離《はな》れた席についた。
九時をまわってから、シャルロットとイヴェットとアンヌが入ってきた。
「すげー重役出勤」ゆかりは日本語でつぶやいた。
ベルモンドがホワイトボードの前に立った。
「では始めよう」
「ゾエは?」ゆかりが聞いた。
「ああ……彼女は体調がすぐれないそうだ」
「ふうん」
昨日は元気そうだったのに。
「さて、君たちは昨日まで別々に訓練してきた。今日から始まるLEOパートの訓練は、チームワークがものを言う。人間関係の構築においてもプロの仕事をしてくれると信じている。いいね?」
ゆかりもソランジュも、反応《はんのう》は表に出さなかった。
「では手順書の二章を開いてくれ」
飛行計画の概要《がいよう》はすでにレクチャーされているが、ベルモンドは作業内容をおさらいした。
月飛行用に改修されたアリアンVCbisのLEOへの輸送能力は二十トン。西側最大級のロケットだが、アポロ計画で使用されたサターンVの輸送能力は百二十トンだから、まだまだ圧倒《あっとう》的に小さい。
そこでアリアンVを二度打ち上げて、LEOで合体させる。それぞれのロケットでLE0に運ばれるのは、円筒《えんとう》にとんがり帽子《ぽうし》をかぶせたような物体だ。
とんがり帽子はオービターで乗員の居住区画になる。直径三メートルの円錐形《えんすいけい》をしており、この狭苦《せまくる》しいなかで四人が一週間をすごす。月まで片道三日かかる。
円筒部分は推進段《すいしんだん》とよばれる。本来ならロケットの二段目にあたる部分で、燃料タンクとエンジンから成っている。推進段はLEOと月との往復に使う。
一号機はオービターと推進段の間に貨物モジュールが挟《はさ》まる。ここには月着陸機や各種の機材、消耗品《しょうもうひん》が格納《かくのう》される。
LEO作業をひとくちに言えぱ、二号機の推進段を切り離し、二[#ここはどう考えても「一号機だと思うが原本に従う]号機の後ろに連結する。
これで一号機は月飛行モジュールになる。
口で言えば簡単だが、推進段は直径五・四メートル、全長十ニメートル、質量《しつりょう》は十四トンにもなる。これを連結するのは宇宙ステーションの建造作業と変わらない。
アリアン側の四人はそれぞれのオービターで操船《そうせん》と計器の監視《かんし》。残る一人とSSAの三人は船外で作業する。
一号機“ポアソン”にはソランジュとアンヌとゆかりとゾエ、二号機“ヴェルソー”にはイヴェットとシャルロットと茜とマツリが乗る。
月飛行モジュールが完成したら、SSAの三人とゾエは二号オービターに乗って地球に帰還《きかん》する。残る四人はもちろん月に向かう。
「じゃあ、セキスタンスに行こう」
ベルモンドが言った。
「SSAのスーツもそこの更衣室《こういしつ》に運んである。封印《ふういん》を確認《かくにん》してくれ」
ACT・5
ジュピター2の北隣《きたどな》り、セキスタンス・ビル。こちらは工場のような飾《かざ》り気《け》のないビルだった。ここがLEO作業や月面活動の訓練場になる。
その更衣室は――もちろんその名のとおりの部屋なのだが、着替《きが》えるのは宇宙服だった。
壁際《かぺぎわ》にあるものを見て、ゆかりは一瞬《いっしゅん》たじろいだ。
ピンクの甲冑《かっちゅう》が五体、ものものしいラックにおさまっている。
「これが噂《うわさ》の、アリアンのハードシェル・スーツか……」
カーボン繊維《せんい》かなにかでできているらしいが、NASAの宇宙服とちがってアウトラインは女性そのもの。胸はふくらみ腰はくびれている。関節《かんせつ》部分は斜《なな》めに切った円筒《えんとう》を重ねた感じ。
「勝手にいじらないで」
後ろで険《けわ》しい声がした。ソランジュだった。
「見てるだけだってば。そっちこそ、うちのスキンタイト・スーツを調べたりしないでよね。最高機密なんだから」
「興味《きょうみ》ないわ、あんなゴム服なんか」
ふんっ。
SSAのスキンタイト宇宙服は、三つの専用コンテナに収めて届《とど》けられていた。蓋《ふた》には封印《ふういん》が貼《は》ってある。それを破り、キーを差し込んで開く。
ヘルメット、アダプターリング、スーツ本体、手袋《てぷくろ》、靴《くつ》、コントローラー、パックパック、ジェット・ガン、付属品《ふぞくひん》一式。全部|揃《そろ》っている。
「そっちは。茜」
「OK」
「マツリ」
「いいよ」
振《ふ》り返ると、アリアン・ガールズは壁にもたれたり、装置《そうち》に腰掛《こしか》けたりしながら、こちらを見守っている。興味津々《きょうみしんしん》の顔。にやにや笑い。さまざまだ。
ゆかりはままよ、とばかりに服を脱《ぬ》いだ。
スキンタイト宇宙服は「真空に適応する第二の皮膚《ひふ》」といわれる。一糸《いっし》まとわぬ姿《すがた》で着用して、厚さニミリの膜《まく》で首から下の全身を覆《おお》う。その膜は真空中でも一気圧の圧力を保ち、断熱し、空気は遮断《しゃだん》するが汗《あせ》は通すという魔法《まほう》のような機能を持っている。皮膚にもともと備《そな》わっている体温調節機能が生かされるから、宇宙服につきものの複雑な冷却《れいきゃく》機構は必要ない。動きは真空中でも軽快そのものだ。
三人は全裸《ぜんら》になると、ゴム手袋をはめる要領《ようりょう》でスーツに体を通していった。それから首に特製の接着剤《せっちゃくざい》を塗《ぬ》り、アダプター・リングを装着《そうちゃく》する。リングはヘルメットとのジョイントになる。首とリングの間には気密シールがあり、リングは蛇腹《じゃばら》で胸部に結合する。
バックパックを背負《せお》い、装備品のベルトを腰《こし》に巻く。
コントローラーでセルフチェック。オールグリーン。
よし、できた!
全身にカがみなぎってくるような気がする。
最初の頃《ころ》は恥《は》ずかしかったが、もう慣《な》れた。事あるごとにこの姿《すがた》が全世界に中継《ちゅうけい》されるのだ。週刊誌の常連だし、写真集や同人誌まで出まわっている。SSAのコンピュータがハッキングされて五ミリメッシュの全身ポリゴンデータまでネットに流れてしまった。もはや恥じようにも隠《かく》すものがない。
スタイルには結構自信があるし、ゼロGでの体形変化に最適化されたスーツは、脚《あし》を細く絞《しぼ》り、ヒップとバストを持ち上げてくれる。
さあ、なんとでも言ってみろ、とばかりにゆかりはフランス娘《むすめ》のほうを向いた。
四人はこちらにやってきた。にやにや笑いは消えていた。
しゃがんだり、背後《はいご》にまわったりしてしきりに観察《かんさつ》している。
「素敵《すてき》ね。でも――」
シャルロットがゆかりの腹部をつんつん突《つ》いた。
「破れないかなあ、これ。とがった角《かど》に引っ掛《か》けたりしたら」
「破れても空気が噴き出すわけじゃないもん」
「そうか、生地《きじ》で圧力作ってるんだ」
「そそ」
「だけどメテオロイドには無防備じゃないか?」イヴェットが言った。
「それ言い出したら戦車みたいな服になるじゃん。身軽になったほうがいいよ。船外に出たらぱっと仕事終えてぱっと戻《もど》るんだ」
微小隕石《ぴしょういんせき》との相対《そうたい》速度はライフル銃弾《じゅうだん》の十倍以上になる。パチンコ玉《だま》くらいの物体でも衝突《しょうとつ》すれば瞬時《しゅんじ》に気化して爆発《ばくはつ》し、大穴《おおあな》を開けるだろう。ただし致命《ちめい》的な大きさのメテオロイドと衝突する確率は非常に低い。
「ふうん。潔《いさぎよ》い設計だな」
目先の安全重視がもたらす悪循環《あくじゅんかん》をイヴェットは承知《しょうち》しているようだった。
「だけどあたしらのスーツだって充分《じゅうぶん》に身軽だし、NASAのスーツ並《な》みの防護能力があるよ。予備呼吸もいらないし」
「でもいまいちゴツくない?」
「皮膚《ひふ》から外皮までニセンチよ。NASAのみたいにみっともなくないわ」シャルロットが言った。「それに成形はオーダーメイドだから、ラインはばっちり出るってわけ」
と、ウインクしてみせる。
隠すどころか見せたいわけだ。ルックスには自信があるらしい。
確かにそうだ。四人ともグラマーだし脚は長いし、身長百五十センチ台のくせに八頭身《はっとうしん》に見える。顔ヤセではとても太刀打《たちう》ちできない感じだ。
「じゃ、早くそっちも着替《きが》えてみせてよ」
「ウイ」
アリアン・ガールズは部屋の反対側で服を脱《ぬ》ぎはじめた。下着姿になると、ロッカーからピンクのボディ・スーツを出して全身をぴったりと覆《おお》う。
「それもスーツ・システムの一部ですか?」茜が質問した。
「そそ。熱輸送に配慮《はいりょ》した素材なんだ」
「それとさ、お腹《なか》と腿《もも》の付け根だけはフィードバック・アクチュエータがあるから」
イヴェットが説明した。ハードシェル・スーツのボディはへそのあたりで分割されて、前後に可動《かどう》する。これがないと身を屈《かが》められないのだ。
だが、腹部や腿のような太い部分を内圧に逆らって動かすのは大変だ。真空中の宇宙服は一平方センチあたり一キログラムの内圧を持つ。ふくらませた浮《う》き輪《わ》が畳《たた》めないのと同じで、関節《かんせつ》が曲がらなくなるのだ。関節を曲げても体積を変化させない工夫《くふう》はあるが、完全ではない。
そこでアリアンのスーツは、人体の動きを検出《けんしゅつ》してモーターで追従《ついじゅう》する機構を加えた。倍力装置――いわゆるパワードスーツである。人体の動きを宇宙服に正しく伝えるためには、ごわごわした服を着ていてはいけないのだ。
「じゃあ、電力が止まったら固まっちゃうんですか」
「駆動部《くどうぶ》をフリーにできるから、固まりはしないけどね。まあかなりしんどいな」
やはりいろいろ複雑になるらしい。
それからフランス娘《むすめ》たちはハードシェル・スーツ本体の着用にとりかかった。スーツをラックに固定したまま、背中部分を冷蔵庫の扉《とびら》のように開く。いささかコツがいるようだが、娘たちは奇術師《きじゅつし》のように内部に潜《もぐ》り込んだ。
まだヘルメットは装着《そうちゃく》せず、手首のコントローラーでセルフチェックをする。正常動作を確認《かくにん》すると、ラックから離《はな》れて歩きはじめた。
「わー、ジャンヌ・ダルクみたい!」
茜が声を弾《はず》ませる。
たしかに甲冑《かっちゅう》に身を包んだ女《おんな》騎士《きし》のような感じだ。着膨《きぶく》れ感はなく、むしろきりりと引き締《し》まって見える。フランスのことだから外見にはこだわったのだろう。宇宙飛行士のアイドル性がいかに重要かはSSAが証明している。
「ねえゆかり、かっこいいよね?」
こいつは、なんで我が事のように喜ぶ?
「ま、『スター・ウォーズ』の金ぴかロボットの女版《おんなぱん》ってとこか。でもさ」
ゆかりは小声で言った。
「あれなら嘘《うそ》、つきほうだいだよね」
「何が言いたいの」
無視をきめこんでいたソランジュが聞き咎《とが》めた。
「胸とかさ。好きに作れるわけじゃん」
「スーツはすべて体形に忠実に成形されてるわ」
「なんかボディ・スーツの時とちがうような気がするけど。こんなに張ってたっけ」
ゆかりはソランジュの胸をじろじろ見ながら言った。
「ゼロGではこれが最適なのよ」
「それだけ?」
「……乳房《ちぶさ》まわりは断熱材も厚くなる」
ソランジュはしぶしぶ答えた。
「ほれみー、やっぱり上げ底なんだ」
「私たちは何も隠《かく》していないわ。水着写真だって出てる。邪推《じゃすい》は失礼よ!」
「あっそう。ごめんね」
相手を動揺《どうよう》させたことに満足したので、ゆかりは引き下がった。
マツリはイヴェットのスーツに近寄って拳《こぶし》で小突《こづ》いている。こん、こん。
「丈夫《じょうぶ》そうだねえ」
「車に轢かれても平気だぜ」
「ほー。それは重くない?」
「十八キロ。でも肥満児《ひまんじ》はもっと重い脂肪《しぼう》しょってんだから、へっちゃらさ」
サイズが小さいこともあるが、十八キロといえば船外用の宇宙服としてはきわめて軽い。アリアンのハードシェル・スーツは既存《きぞん》の技術を最大限に洗練したものといえる。
しかし動作はまだまだ鈍《にぶ》い感じだ。スキンタイトの敵じゃないな、とゆかりは思った。
いまのところ、この魔法《まほう》の生地《きじ》を作れるのは世界においてもSSAの化学主任、三原素子《みはらもとこ》をおいてほかにいない。この技術を独占《どくせん》しているおかげでSSAは他の宇宙機関より圧倒的《あっとうてき》な優位に立っている。今回の仕事も、つまりはスキンタイト宇宙服のおかげでもらったようなものだ。
全員でヘルメットをかぶった。どちらも船外活動用だから、透明《とうめい》なフェイスプレートの上に遮光《しゃこう》バイザーのついた二重構造をもつ。いまは両方オープンしておく。
ソランジュが壁際《かぺぎわ》のスイッチを押《お》すと、それまで壁だと思っていたものが重々《おもおも》しく左右にスライドした。その向こうには、広大な空間がひろがっていた。
「おおっと……」
アリアンの持ち物に感心するのはやめる方針だったが、ゆかりは思わずうなった。
これは――月飛行そのものより金がかかるんじゃないか?
ACT・6
セキスタンスとよばれる施設《しせつ》の本質《ほんしつ》は、巨大《きょだい》なプールだった。
地球上でゼロG、つまり無重量状態を長時間再現できるのは水中しかない。宇宙船やタンク類は実物大の模型を作り、大型のプールに沈《しず》める。宇宙服はバラストをつけて浮力《ふりょく》を。中和する。道具類は浮力材をつけて水中に漂《ただよ》うようにする。するとちょうど宇宙遊泳しているような感じになる。
もちろん完全なゼロGではない。水中で逆立ちすれば血は頭に集まる。水の抵抗《ていこう》もある。しかしプールの中では歩き回れないし、道具を手放《てぱな》すとどこかに漂流《ひょうりゅう》してしまう。ゼロG作業の困難《こんなん》をかなり再現できるのだ。
縦横《たてよこ》五十メートル、深さ八メートルのプールはさすがに壮観《そうかん》だった。プールの上を造船所のガントリー・クレーンのようなものがまたいでおり、水中の重量物を動かすらしい。天井《てんじよう》にはTVスタジオのように無数の照明|装置《そうち》がある。
青い水中には巨大な白い円筒《えんとう》が沈んでおり、海底基地のようだった。
その主要部分を占《し》める推進段《すいしんだん》は、直径五・四メートル。エアバスの胴体《どうたい》とほぼ同じボリュームだった。
プールサイドにはアクアラングを装着したフロッグマンとベルモンドが待っていた。
「揃《そろ》ったね。やあ、日本の宇宙服はすてきだなあ。インカムは水中|仕様《しよう》だね? よしよし。じゃあ水に入ってバラストを調節《ちょうせつ》してくれ」
鉛《なまり》の錘《おもり》のついたベルトを渡《わた》される。これを腰《こし》に巻いて、気密バイザーをおろし、水中に続く階段を途中《とちゅう》まで降りた。水中で浮《う》きも沈みもしないように錘の数を調節する。
『三人とも浮力はいいかい?』
ヘルメットのなかにベルモンドの声が響《ひび》いた。すべてOK。
前方を見渡す。青一色の世界。
ビルの二階の窓から飛び降りたような感じ。
水底ははるか下方にあって、ちょっと恐《こわ》い気がした。高度四百キロの宇宙では平気なんだが。
『ゆかりはソランジュに続いてポアソンに入ってくれ。茜はシャルロットについてヴェルソーに入る』
頭上の水面が割れて、救助隊員のフロッグマンがエントリーしてきた。水深八メートルとなればかなりの水圧があり、急浮上すれば潜水病《せんすいびょう》にかかる。移動するモジュールに体を挟《はさ》まれる危険もある。訓練中は常に救助隊員が見守ることになっていた。
アリアンのハードシェル・スーツが降りてきた。
「誰《だれ》が誰だかわかんないよ」
『こっちもだわ』
ソランジュの声。
「ファスナー部分の色で見分けて。ピンクはゆかり、グリーンはマツリ、ブルーが茜」
『私たちは肩《かた》のマークで識別《しきぺつ》する。クイーンは私、イヴェットはキング、シャルロットはビショップ、アンヌはルーク』
チェスの駒《こま》をあしらったマークが左右の肩パッド部分にある。ソランジュがクイーンってのはわかりやすいな、とゆかりは思った。
クィーンとキングとビショップとルークがやってきて、二手に分かれる。
『ゆかり、このロープをつたって』
ソランジュが水中を斜めに下降するロープを示した。
ロープをつたってゆくと、オービターのエアロックにたどりついた。オービターの外観はずんぐりした三角錐《さんかくすい》で、上向きに置けばUFOみたいな感じ。たしか、アポロ宇宙船で最後に地球に戻《もど》ってきた部分もこんな形だった。
円形のハッチをくぐって船内に入った。水の満ちた船内はSSAのオービターよりふたまわりは広い。立って歩けそうな空間もある。計器盤《けいきばん》があり、その手前に担架《たんか》のようなものが四つ。
「パネルはちょっと安っぽいな」
『これはモックアップで、大部分の計器は作動《さどう》しないの。細かい操作《そうさ》訓練はプロシージャ・シミュレーターを使うから』
ルークのマークをつけたハードシェル・スーツが入ってきた。これはアンヌ。
『一号機ポアソン、全員|搭乗《とうじょう》しました』
『ヴェルソーも全員|揃《そろ》った』
『では訓練をはじめよう』
ベルモンドがアナウンスした。
『君たちはいま高度二百キロの軌道《きどう》にいて、互《たが》いに十メートルの距離《きょり》をおいてランデヴーしてる。まず二つの推進段をポールで連結する作業だ。SSAの三人は船外に出てくれ』
「はいはい。んじゃ、肉体労働に出かけるか」
ゆかりはそう言って、足で水をかいて外に出た。
『泳いじゃだめ!』
ソランジュの叱声《しっせい》が飛んだ。
『ここは宇宙なんだから、必ずロープか手すりをつたいなさい!』
「わかってますってば、女王様」
まったく。SSAじゃこんな大仰《おおぎょう》な訓練なんてやんないぞ。
ゆかりは相手に見えるように肩をすくめた。
ACT・7
一日のしめくくりにはデブリーフィングをした。その日の訓練を振《ふ》り返って、疑間点や改善《かいぜん》すべき点を話しあう。
ソランジュは口うるさかったけど、まあ訓練としてはこんなもんかな――とゆかりが思っていると、茜が挙手《きょしゅ》した。
「あの、ひとつ疑問があります」
「なんだね?」
「LEO作業ですが、連結前に両機をまっすぐに並《なら》べますね。その操船《そうせん》は、ほんとうに手順書どおりに進むでしょうか?」
「あたしたちの操船が信じられないってこと?」
イヴェットが言った。操船はアリアン側が行なう。
「そうじゃないんです。マニュアルを調べてみたんですけど、姿勢制御用のバーニア・エンジンはオービターにしかついてないですよね。今回はその後ろに貨物モジュールと推進段《すいしんだん》がついています。つまリオービターだけであんな大きなものを振り回すのかって」
「確かにレスポンスは悪くなるけど、充分《じゅうぶん》にシミュレーターで訓練してるわ」
ソランジュが言った。
「もちろんそうでしょう。でも――たとえば手順書二章の百三十二番ですが、タンクとのランデヴー確立に、たった四十五分ですむでしょうか」
「たいていは三十分で終わるわ」
「もし過修正《かしゅうせい》してドリフトが始まったら――」
「それもシミュレーション済《ず》みよ。すぐに打ち消せる」
「そうですか……」
茜は釈然《しゃくぜん》としない顔だった。
ベルモンドは一同の顔を見回す。
「ほかに意見がないようなら――」
「言われてみりゃ、順調すぎる気もするな」
アンヌが言った。
「メーカーにシミュレーターの制御ソフトをチェックさせてよ」
「宇宙飛行士からの要請《ようせい》としてかい?」
「そう。当該《とうがい》部分のソースコードと仕様書《しようしょ》を用意させて」
「なるほど。ソランジュ?」
「要請を承認《しょうにん》します」
コマンダーは凜《りん》とした声で言った。ベルモンドは小さく肩《かた》をすくめる。この時期にこんな検査が入ると、下手《へた》をすれば打ち上げが延期になるかもしれない。だが宇宙飛行士の要請とあれば無視できない。
「わかった。メーカーに伝えておこう」
「回答はいつ?」
「来週中に」
アンヌは無表情にうなずく。デブリーフィングはそれでお開きになった。
玄関《げんかん》で、茜はアンヌに駆け寄った。
「さっきはありがとう。差し出がましかったかもしれないけど、なんだか気になって」
「礼にゃ及《およ》ばないし、心配しすぎってこともない」
ぶっきらぼうに言う。
「フランスのシステムってのは信用しちゃだめなんだ」
二人はジュピター2に向かう道を並《なら》んで歩き始めた。アンヌはせかせかと早足で歩く。
茜もそれに合わせた。
「いまからやる?」
「え?」
「もう三十分もすりゃ、施設部《しせつぶ》のオフィスが空《あ》く。そこで調べりゃわかる」
「それってつまり、ハッキング?」
「して悪い?」
アンヌはしれっと言う。茜は強い興味《きょうみ》をおぼえた。
「私もついてっていい?」
「好きにすれば」
茜はゆかりたちに、しばらく居残ることを告げた。それからカフェテリアで少し時間をつぶして、訓練施設関連の技術者の集まるオフィスに向かった。
ドアはロックされていた。
ここぐらいは残業してると思ったのに――と茜はひそかに驚《おどろ》く。
アンヌはショルダーバッグから黒い下敷《したじ》きをとりだして、ドアの隙間《すきま》に差し込んだ。ドアは簡単に開いた。
「フランスのシステムなんてこんなもん」
アンヌはずかずかと部屋を横切って、パーテイションで仕切ったデスクのひとつに腰をすえた。茜も椅子《いす》をひっぱってきて横に並んだ。
「この机は?」
「アエロスパシアルのソフト屋」
アンヌはワークステーションを立ち上げ、慣《な》れた手つきでログインした。
「知ってるんだ。暗証番号とか」
「引き出しん中にメモがあったんだ。ここはそんなのばっか」
「…………」
アンヌはキーワードを入れてローカル・ファイルを検索《けんさく》し、エディターで次々に読んだ。めざすファイルは五つめに出てきた。月飛行モジュール・プロシージャ・シミュレーター制御システム。C++言語でコーディングされている。
アンヌはそのディレクトリに移動して、最新のソースファイルを調べた。
「こりゃダメっぽいわ」
「もうわかった?」
「定数が抽象化《ちゅうしょうか》してない」
「……ほんとね」
「こりゃぜったいバグってるよ。茜、そのへんにアリアンVの仕様書ある? 推進段《すいしんだん》の構造重量が知りたい。タイプCbisのね」
「わかった」
茜は暗くなってきた部屋で、壁際の書棚《しょだな》を探した。『アリアンVCbisの概要《がいよう》』――これか。フランス語の勉強が役に立った。バインダーを抱《かか》えてアンヌの横に戻《もど》り、モニターの光で読む。
「ええと、二段目は四・三八六トン」
「合つてる」
「推進剤質量は考慮《こうりょ》してる?」
「それはやってるね。さすがに」
「じゃあ……」
「モーメント・アームか」
「月飛行用の推進段は普通《ふつう》の二段目より長いんだ! 一号機は貨物ラックがはさまるし」
「そいつが臭《くさ》い」
小さなとんがり帽子《ぼうし》が大きな円筒《えんとう》を振《ふ》り回す、そのカが足りないのではないか。
それが茜の疑問だった。質量が等しくても、短いより長い棒《ぽう》を振り回すほうが大きな力が要《い》る。長さが間違《まちが》っていれば、シミュレーターの応答性も変わってくる。
「えっと、慣熟《かんじゅく》マニュアルに図面が。ちょっと待ってね」
茜は自分が使っているのと同じ装丁《そうてい》のマニュアルを持ってきた。
「これね。貨物ラックに三・八メートル。推進段は重心まで八・七メートル」
「ビンゴ! やっぱリバグってた」
茜は画面を覗《のぞ》き込んだ。アンヌはその部分をカーソルで示す。
「ほんと。でもどうする? ここに忍《しの》び込んで調べたって報告する?」
「向こうが気づくのを待てばいい」
「そんな悠長《ゆうちょう》なことでいいかな」
「待つ間にこっちは新バージョンでやるさ。とりあえずバグ取って実行ファイル出す」
アンヌは新しいファイルを作り、修正を加えてコンパイルした。実行ファイルはLANを通してシミュレーターの制御コンピュータに転送《てんそう》する。
「でも新しい手順を検討《けんとう》するなら、ベルモンドさんに知らせないと」
「話すさ。あいつは話わかるから」
アンヌはこちらを向くと、にっと笑った。
「そっか」茜もにっこり笑った。
茜はアリアン・ガールズの誰かと、はじめて心が通ったような気がした。
「これで訓練しなおして――オービターだけでモジュール全体を振り回すのが無理となると、どうすりゃいい?」
「私たちがモジュールの末端《まったん》にとりついて、ジェット・ガンを噴《ふ》かしたら」
「SSAってのはなんでも人力で片付けるんだな」
「人使い荒《あら》いから」
二人はくすくす笑った。アンヌはめまぐるしくキーを叩《たた》いてプログラムを追加した。
「モジュールのあっち側に力点《りきてん》をおけるようにしといた。これで“ジェット・ガン補助《ほじょ》”姿勢制御の訓練ができる」
「すごーい」
「ソランジュの奴《やつ》がどう言うかってとこはあるけどな。そうだ、ついでにあれもしとこう」
アンヌはそれまでのファイルをすべて閉じて、別のコンピュータに侵入《しんにゅう》した。
「メディカル・データ?」
「ソランジュとイヴェットのやつだ。こいつにちょいと細工《さいく》する」
アンヌはソランジュの体重記録を二キロ減らした。
「だめよ、そんなのすぐばれるわ!」
「このデータは医者は見ないんだ。見るのはペイロード管理者」
「…………?」
「ペイロード管理者は装備と乗員の質量を合計して、あとどれくらい余裕《よゆう》があるかを設定する」
「それって問題あるんじゃ」
「二キロくらいなら飛行には影響《えいきょう》しないよ。で、体重が二キロ減りゃ、そのぶん月に持っていける私物が増《ふ》えるってわけ。二人は月面に降りるメンバーだから」
「私物ってどんな」
「それは着いてのお楽しみ」
アンヌはまた、にっと笑った。
ACT・8
翌日はプールには行かず、一行は朝からプロシージャ・シミュレーターに取り組んだ。
これは普通《ふつう》の模擬《もぎ》操縦《そうじゅう》装置《そうら》で、ゆかりたちもツールーズでこれを使った。三人がオービターを操縦することはないが、乗客になるだけでもハッチの開閉や無線機の操作、緊急時《きんきゅうじ》の対処法《たいしょほう》は知っていなければならない。
プロシージャ・シミュレーターは手順書にそって細かい作業――プロシージャを実行する訓練をするから、実機そっくりに作ってある。ゼロGは再現されないが、船体を回転《かいてん》させれば計器はそのとおりに反応するし、窓の外の地球や月も動く。
シミュレーターにソランジュ、イヴェット、シャルロットが搭乗《とうじょう》した。
SSAの三人とアンヌ、ベルモンドは管制室にいる。ゾエは今日も欠席だった。
管制室にはワークステーションが三台とモニターテレビが並んでいた。モニターには広角レンズを通したキャビン内部が映っている。三人が入ってきて、担架型《たんかがた》の座席《ざせき》に横たわったところだった。
アンヌはワークステーションに向かい、ヘッドセットをはめた。
「いい? あんたたちが乗ってるのはポアソン。二十メートル離《はな》れて二号機の推進段《すいしんだん》が浮《う》かんでる。上の窓から見えるはず」
モニターの中で、三人は天井《てんじょう》方向を見上げた。
「手動操縦でそいつと一直線に並《なら》べてみて。誰《だれ》からいく?」
『私がやるわ』
ソランジュが操縦桿《そうじゅうかん》に手をかけた。ベルモンドがストップウォッチを押す。
ワークステーションの画面の中、線画で表示されたポアソンが回転《かいてん》しはじめた。
「レスポンスはどう?」
『重いけど……なんとかなるわ』
「お手並《てな》み拝見《はいけん》」
アンヌはマイクを切ってつぶやいた。
「トランスレーションで焦《あせ》るよ、絶対」
宇宙船の動きには|回 転《ローテーション》と|移 動《トランスレーション》の二種類がある。前者はその場で首を振るような動き、後者は向きを変えずに位置をスライドさせる。
オービター・ポアソンはいま、貨物モジュールと推進段を連結して長い棒《ぼう》のようになっている。棒の一端《いったん》を押《お》して回転させることはできるが、平行移動させるのはいかにも苦しい。その駆動《くどう》には、オービターの各部に取り付けられた小さなバーニア・エンジンしか使えないのだ。
案の定、ソランジュは苦戦しはじめた。思うように船体が動かない。平行移動するつもりが、どうしても回転が混じってしまう。
小一時間ほどして、ソランジュは憔悴《しょうすい》した顔でシミュレーターを降りてきた。イヴェットとシャルロットもこちらに来る。
「納得《なっとく》した?」
「信じられないわ。こんな重大な欠陥《けっかん》がいままで放置されてたなんて! 関係者に厳重《げんじゅう》注意すべきだわ!」
ソランジュは怒《いか》りをあらわにした。
茜が指摘《してき》するまで自分だって気づかなかったじゃんか――とゆかりは思ったが、黙《だま》っていた。
「どうすればいいか、考えてみようじゃないか」
ベルモンドが言った。
「推進段にもバーニア・エンジンをつけるべきです。オービターと連動するものを」
「いまからその改修をするのは間に合わないと思うね。打ち上げを延期するなら別だが」
それでは中国の採掘《さいくつ》ロボットに先を越《こ》されるかもしれない。
「私たちが、推進段をジェット・ガンで推《お》すしかないと思います。効果を計算してみたんですが――」
茜はそう言って、ゆうベホテルでまとめた計算書を取り出した。
ジェット・ガンはスプレー缶《かん》のようなもので、宇宙遊泳での移動に使う。構造は簡単だが、これもロケットエンジンの一種にはちがいない。
「ジェット・ガンの推力は弱いですが、推進段の後端で使えば効き目はすごくあるんです。もちろんオービターのバーニア・エンジンと連動させるんですが。オービターだけの場合と比《くら》べて、レスポンスは五倍もよくなります」
「どうやって連動させるの」ソランジュはいぶかしげだった。
「パイロットの合図《あいず》で、噴射《ふんしゃ》すれば……」
「そんな原始的なやり方じゃ迷走したあげく二号機と衝突《しょうとつ》するのがオチよ!」
「ちょっと、そんな言い方ってないでしょ」
ゆかりはソランジュの前に出た。
「茜はさ、ゆうぺ遅《おそ》くまでかかって計算してきてるんだよ。頭ごなしに原始的だなんて言ってもらいたくないね」
「ゆかり、私は別に――」
茜が袖《そで》を引いたが、ゆかりは止まらなかった。
「こっちが信用できないってんなら自分らだけでやればいいじゃん。せいぜい操縦の特訓でもしてみれば」
「そうさせてもらうわ。LEO作業をこれ以上|野蛮《やばん》にするのはまっぴらだから!」
「あたしらのどこが野蛮だってのさ! 後発が大きな口きくんじゃないよ!」
「まあまあ、二人とも。前向きにいこうじゃないか」
「あのさ」
アンヌが言った。
「ジェット・ガンでサポートした場合のシミュレーションもできるようにしといたんだ。それで試してみたら」
ソランジュは怒りに歪《ゆが》んだ顔でアンヌを睨《にら》んだ。
「すべてお見通しってわけ?」
「力学的にはね」
それから午前中いっぱいかけて、ジェット・ガンとの連動が実験された。操縦者の合図にあわせて、ゆかりはワークステーションのマウスボタンを押した。それがジェット・ガンの噴射のかわりだった。結果はコンピュータがただちに計算し、シミュレーターに反映した。
効果は上々で、予定時間内にやすやすとドッキング体勢をつくることができた。
最後にベルモンドがコマンダーに手順|変更《へんこう》の許諾《きょだく》を求めた。
ソランジュは憤懲《ふんまん》やるかたない顔で、「承認します」とだけ言った。
[#改ページ]
第三章 リタイヤ
ACT・1
週末をはさんで、八日目のブリーフィング。
ベルモンドは今日もゾエを待たなかった。ゆかりはのっけに質問した。
「ゾエはどうなったの? みんな知らないって言うけどさ」
室内の空気が、ふいに緊張《きんちょう》した。
ベルモンドは鼻をこすりながら、あいまいに答えた。
「ああ……それはちょっとした健康上の理由なんだ」
「打ち上げまであと一ヵ月だってのに、それでいいの? ゾエとはいっしょに船外活動するんだし、そのあと二号機であたしたちを地球に連れ戻《もど》す役だよ?」
「それについては、もうしばらく様子を見守って考えるつもりだ」
「もしゾエがリタイヤしたら誰《だれ》が二号機のパイロットになるのさ。月に行くメンバーが一人|減《へ》るってこと?」
「それも検討《けんとう》しなければならないだろう。いずれにしても今は答えられない」
「今日の訓練はどうすんの。船外活動を三人でやるのか四人なのか、どっちを想定すりゃいいのかさ」
「うーん……」
ベルモンドは自分の顎《あご》をかかえて、しばらく考え込んだ。
「よろしい、とりあえずゾエが戻るまではシャルロットに代役を演じてもらおう」
「えーっ!!」
けたたましい声。
「あたし、月に行けない組になるのぉ!?」
こいつ、月旅行なんかどうでもよかったんじゃないのか?
ゆかりはいぶかしんだが、すぐに答をみつけた。シャルロットは居残り組に混じるのがかっこ悪いと思ってるんだ。
「いやいや、訓練の穴埋《あなう》めとしてだよ」
「ほんとだろーね?」
「心配いらない。少なくともゾエの穴埋めが君だなんて決まっちゃいない」
「ならいいけど」
二時間後。ゆかりとシャルロットは水深八メートルのプールの底で、連結ポールをつかんでいた。
根元のハンドルを回すと、ポールはロッドアンテナのように伸縮《しんしゅく》する。これで一号機と二号機の推進段《すいしんだん》を結び、ゆっくりと距離《きょり》を縮《ちぢ》めて両者を結合する。
二号機にシャルロット、一号機にゆかりがとりついていた。シャルロットがポールをこちらに伸《の》ばしている。
『あーん、届《とど》かないよ。ソランジュ、もっと船を寄せられないかなあ?』
『この位置で届くはずよ』
「大丈夫《だいじょうぶ》、届くってば、シャルロット」ゆかりも言った。「もうひとつ先の足場に移動すればいい。体をタンクにそわせて、三点確保して――」
『もう、こっちはそんなに身軽じゃないんだからね!』
「知ってる。だからあわてないでさ」
シャルロットは不機嫌《ふぎげん》だった。タンクの反対側で同じ作業をまかされたマツリと茜はとっくに連結を終えている。シャルロットのもたつきが作業進行の足を引いていることは、本人にもわかっていた。
「オーケイ、いいよ――つかんだ」
ゆかりはシャルロットが伸《の》ばしたポールの先端《せんたん》をつかんで、推進段の表面にある小さなジョイントに差し込んだ。カチリ、と手応《てごた》えがあった。
「左舷側《さげんがわ》も連結|完了《かんりょう》」
これで二つの推進段は四本のポールで結ばれたことになる。あとは各ポールに一人ずつ移動して、同時に縮めればいい。
「じゃあ全員、ポールの根元に移動――」
そのとき、インカムに「あぐっ」という声が流れた。
「誰《だれ》? シャルロット?」
シャルロットのハードシェル・スーツが、体をくの字に折っていた。フェイスプレートの内面に白いものが張《は》りついている。
「レスキュー来て! シャルロットが嘔吐《おうと》した」
船外活動中の嘔吐は命にかかわる。
ゆかりはポールをたぐってシャルロットのそばに行った。ひどくむせている。背中をさすろうかと思ったが、硬《かた》い宇宙服の上からでは無意味だった。
「あわてないで、ゆっくり呼吸して」
フロッグマンが二人来て、両側から宇宙服の腕《うで》をつかんだ。ゆかりは足首の固定具を外した。
「いいよ、上げて」
シャルロットは水面に引き上げられていった。ハードシェル・スーツなら急浮上《きゅうふじょう》しても減圧症《げんあつしょう》の心配はない。
ゆかりは近くの梯子《はしご》まで泳ぎ、ゆっくりと水面に向かった。
プールサイドに上がったとき、シャルロットはもう宇宙服を脱がされて横になり、タオルで顔をぬぐっていた。片膝《かたひざ》をついたベルモンドがなにか話しかけたが、興奮《こうふん》してうまく答えられないようだった。
距離《きょり》をおいて、イヴェットとアンヌとソランジュが見守っている。
シャルロットはよろよろと立ち上がった。
顔色は驚《おどろ》くほど蒼《あお》い。白人だとあんなに蒼くなるのか、とゆかりは思った。
ベルモンドがつきそって、エレベーターに向かう。
「彼女は大丈夫《だいじょうぶ》だ。念《ねん》のため診察室《しんさつしつ》につれてゆく。君たちはできる範囲《はんい》で訓練を続けてくれ」
「どうやって」
刺《さ》すような声が響《ひび》いた。ソランジュだった。
「誰《だれ》が何をするの。三人で何ができるの」
耳障《みみざわ》りな音がして、なにかが床《ゆか》に転《ころ》がった。
ゆかりは息をのんだ。ソランジュのヘルメットだった。
訓練用のノンフライト・モデルでさえ、ヘルメットは宝物《たからもの》のように扱《あつか》うものだ。それは一千万円を下らない高価な装備《そうぴ》であり、なによりも宇宙飛行士のシンボルだった。
ベルモンドが初めて険《けわ》しい顔を見せた。
「ソランジュ、いま君がしたことは――」
「いらないもの」
「どういう意味だね」
「おしまいってこと。そうでしょう? 行けっこないわ! わかりきったことだった。月は、行こうと願いもしない人間が行けるところじゃない!」
「ソランジュ」
「ボーイハントに明け暮れる尻軽《しりがる》娘《むすめ》が月へ行こうなんて――こともあろうに――傑作《けっさく》だわ! あははははははは! 本気で考えてたの? シャルロット?」
ソランジュはけたたましく笑った。それからシャルロットに迫《せま》った。
「こっち向きなさいよ。泣いてるの? 何が悲しいの? わかっててしたことでしょう? 答えなさいよ!」
「よさないか、ソランジュ」
「誰とでも寝《ね》ればいいわ。あなたにはそれが素敵《すてき》な人生なんでしょうよ! ついでに月にも行ってみる? 女ばっかりじゃうんざり? それなら――」
乾《かわ》いた音がした。
部下の前でリーダーを叱《しか》る危険を、ベルモンドは承知《しょうち》していた。
だがいまは、その危険をおかす時だった。
煩《ほお》を打たれたソランジュは、ひるむことなく相手をにらみ返した。
あのときと同じ目だ、とゆかりは思った。
だが殴りあいにはならなかった。ソランジュは急にまわれ右して、更衣室《こういしつ》に向かった。
「全員、装備を解《と》いてブリーフィング・ルームに集まっててくれ。僕も後で行く。話し合おう。きっといい手が見つかるはずだ」
そう言うと、ベルモンドはシャルロットを抱《だ》くようにしてエレベーターに乗った。
着替《きが》えの間、イヴェットとアンヌは黙《だま》りこくっていた。ソランジュとは距離《きょり》をおき、目を合わせようとしない。
月飛行は四人で行なう。ソランジュとイヴェットが月面に降下し、アンヌとシャルロットが月軌道《きどう》のオービターに残る計画だった。
月面活動を終えて、軌道に戻《もど》った二人はオービターとランデヴーしなければならない。これは双方《そうほう》が微調整《びちょうせい》しなければならないので、それぞれに飛行士が二人つき、補佐《ほさ》しあう。五人が三人になったことは、致命傷《ちめいしょう》といってもよかった。
自業自得《じこうじとく》ではある。
いい気味だ、とゆかりは考えようとした。ソランジュが言ったとおり、人生を楽しんだツケがまわったのだ。宇宙飛行士に選ばれたとたんバラ色の人生が送れるなんて、そんな甘《あま》いもんじゃない。
だけど――この惨《みじ》めな、おもしろくない気分はなんなのだろう?
沈黙《ちんもく》がつらくなったので、ゆかりは小声で言ってみた。
「日本じゃこういうときは、クラスのみんなでカンパするんだけど」
「同じだね」
イヴェットがうなずいた。
「だけど今のオレたちならポケットマネーでやれる」
「公然とはやれないけどね」これはアンヌ。
「このギアナでも?」
「もちろん。海外県だから特別ってことはない」
「ほい、なんの話してる?」
「つまりだな、シャルロットが妊娠《にんしん》したって話」
「ほー、それはめでたいね! お祝《いわ》いしよう!」
マツリのこういう反応《はんのう》には免疫《めんえき》がある。ゆかりはむしろ、茜がいま初めて顔色を変えたのに脱力《だつりょく》した。
「茜さあ、連中の反応見ててわかんないかな。あれが二日酔《ふつかよ》いに見える?」
「じ、じゃあその――公然とできないっていうのは……」
「妊娠中絶。フランスは力トリックの国だから」
「そうか……」
中絶手術は国外でやるか闇医者《やみいしや》にかかるしかない。堕《お》ろしたとしても完全に回復するまで三週間はかかる。歩き回るくらいならいいが、プールを使うような激《はげ》しい訓練はできない。
「じゃあ、どっちにしてもミッションには参加できない――」
茜の顔に、また驚愕《きょうがく》が浮《う》かんだ。
「それってゾエも?」
「たぶん――ていうか、この感じだと九十九パーセントまちがいなく」
「じゃあ打ち上げは延期?」
「そうもいかないんだ」
イヴェットが言った。
「中国が無人の採掘《さいくつ》ロボットを打ち上げるって噂《うわさ》は聞いてるだろ。来月、ギアナから月へ、オレたちの“窓”が開く。それを逃《のが》すと二週間後に中国からの“窓”が開く。このときに打ち上げられたら、もう追いつけない」
窓とは出発可能な時間帯のこと。月は楕円軌道《だえんきどう》をめぐっており、軌道面は地球の赤道面と斜交《しゃこう》しているので、条件が合わないとエネルギーを大きくロスすることになる。準備が整《ととの》ったからといって、いつでも出発できるわけではないのだ。
「中国のロボットって、ほんとにちゃんと動くのかな」
「五分五分《ごぷごぶ》ってとこね。だけどこのレースに負けたらあたしたちは世界の笑い者になる。小娘《こむすめ》に宇宙飛行を仕込むより、中国製のロボットのほうがましってことで」
それは――くやしいじゃないか。
ゆかりは急に血が騒《さわ》ぐのをおぼえた。
小型軽量でルックスがいいというだけで宇宙飛行士がつとまるわけじゃない。
同じくらいの体格の男だっている。公衆電話ボックスほどの空間に何日もぎゅうぎゅう詰めになって番狂《ばんくる》わせの多い複雑な仕事をこなすなんてことは、誰《だれ》にでもできることじゃないんだ。それがロボットに負けるなんて。
ばたん。
着替《きが》えを終えたソランジュが、更衣室《こういしつ》を出ていった。
アンヌは肩《かた》をすくめて、その胸中を代弁してみせた。
「アリアンの大計画とフランスの威信《いしん》、放蕩《ほうとう》娘どもの前に瓦解《がかい》す。無念なり」
「茶化《ちゃか》すなよ」
イヴェットが低くたしなめた。
「あいつの夢なんだから。月は」
ACT・2
玄関《げんかん》を出ると、ゆかりはソランジュの姿《すがた》を探した。ソランジュはジュピター2への歩道をそれ、駐車場《ちゅうしゃじょう》のほうへ歩いていた。
ゆかりは小走りに後を追った。足音にソランジュは振《ふ》り返った。
「フケようっての?」
「私の勝手でしょ」
ソランジュは自分の車めざしてどんどん歩いてゆく。ゆかりは横に並《なら》んだ。
「まだ三人いるじゃん。アポロだって三人でやったんだよ。なんとかなるって」
「LEO作業のあと、あなたたちを帰還《きかん》させるパイロットが一人|要《い》るわ。月に向かうのは二人になる。百歩|譲《ゆず》ってオービターを一人で操縦《そうじゅう》するとしても、月着陸にはどうしても二人要る」
「帰還ぐらいあたしらだけでやるよ。シーケンサーのボタン押《お》すだけでしょ」
「再突入《さいとつにゅう》の最も危険な部分は地上から支援《しえん》できないわ。どんな故障《こしょう》があるかもしれない。ハッチの開け閉めと脱出《だっしゅつ》訓練をしただけのあなたたちには、とてもまかせられない」
「これから訓練するって」
「あと一ヵ月でそんな大きな手順|変更《へんこう》ができると思う? 帰還だけじゃない、月まで七十時間、シフトを組み変えるのだって――」
「それでリーダーのつもり?」
ソランジュは立ち止まり、こちらを見た。
「私が無責任な判断《はんだん》をしているとでも言うの?」
「じゃなくて、そやってごちゃごちゃ突《つ》っ込むなんて、リーダーのするこっちゃないよ」
ゆかりはたたみかけた。
「トラブったとたん自分がまっさきに降参《こうさん》して、メット投げて逃《に》げ帰るのかさ[#この語尾はありえないと思うが、何が正しいのかも不明]」
「私は――私はチームに愛想《あいそ》がつきただけ! やる気のない人間にどうしろって言うの!」
「やれ」
「やれ?」
「『やれ!』って言うんだよ。トラブルが起きたら、みんなが絶望《ぜつぼう》してたら、めげるな、やれ! ってぶちかますのがりーダーじゃないのかさ[#信じられないかもしれないが原本通りです「さ」になっています]! シャルロットを罵倒《ばとう》したのはいいよ。ちょっとかわいそうだけど――まじめに仕事しない奴《やつ》は出てけ! ってかますのはさ。だけどいっしょに自分までへこたれてどうすんの。あたしらだけでやる! ってタン力切るんだよ。それがリーダーってもんだろ。細かいことは知恵《ちえ》のある奴にまかせりゃいいんだ」
「それがあの着陸だったってわけね」
ソランジュは軽く受け流した。再び背中を向け、歩きはじめる。
「エアバスのこと? いいじゃん、全員助かったんだから!」
「月飛行はちがう。カミカゼ式の蛮勇《ばんゆう》で乗り切れるほど甘くないわ」
ソランジュは白いルノーのドアを開け、助手席にハンドバッグを投げ込んだ。
キーを差し込み、エンジンを始動する。
「待ちなよ」
ゆかりはドアを腕《うで》で突《つ》っ張《ぱ》った。ソランジュはいらいらとその腕を払《はら》いのける。
「邪魔《じゃま》しないで。もうほっといて!」
「あたしだってかれこれ二ヵ月|関《かか》わったんだ。簡単にやめられちゃたまんないんだよ!」
ソランジュが敗北主義に逃《に》げ込もうとしているのが、ゆかりにはわかっていた。
自分にも身におぼえがある。宇宙飛行にはいろんなリスクがある。自分でも把握《はあく》しきれないほどの危険が。それは自分や仲間の命にかかわる。安全第一でありたい。
だけど宇宙飛行というやつは、気軽に中止しちゃだめなんだ。一度の宇宙飛行に何百、何千という人が関わっている。自分の知らないところに、その飛行に生涯《しょうがい》を賭《か》けてきた人が必ずいる。それは帰還のあと、廊下やパーティ会場や整備工場の片隅《かたすみ》で、はにかみながら、そっと握手《あくしゅ》を求めてくるような人たちだ。その笑顔《えがお》と涙《なみだ》は忘れられない。
前進か退却《たいきゃく》か。宇宙飛行のシステムは、決断の重圧を飛行士にかけないよう工夫《くふう》をこらしている。そうした思いやりが、かえって飛行士を苦しめる。ベルモンドは事あるごとに宇宙飛行士の意見と承認《しょうにん》を求めるが、それにはなにか茶番《ちゃばん》めいたものを感じる。
だけど、たとえアイドル歌手みたいな飛行士でも、一人ぶんの人格はある。その言葉が、行動が、すべてを葬《ほうむ》ってしまうこともできるのだ――大勢の人々の夢《ゆめ》を。自分自身の夢を。
「いま帰ったら、あんたが月飛行を終わらせたことになるよ」
「馬鹿《ばか》な!」
「シャルロットじゃない、最初に絶望したのはあんただもん」
ソランジュはキーを抜《ぬ》き、憤然《ふんぜん》と車を降りてきた。
ゆかりは一歩|後退《こうたい》して身構えたが、ソランジュは目の前を通過してどんどん歩いていった。ジュピター2への歩道を、早足で、まるでゆかりを引率《いんそつ》するかのように、ソランジュは歩いた。
ブリーフィング・ルームに入ると、ほかの四人が待っていた。
「ゆかり、いま話してたんだけど」
茜が言った。
「二号機は私たちだけで帰還《きかん》すればいいよね?」
「それだ」
「まだ三週間もあるし。私たちだけちょっと残業してプロシージャ・シミュレーターで特訓すれば」
「マツリもいい? それで」
「ほい」
「よし、決まりだ」
ソランジュに口出しする隙《すき》を与《あた》えずに、ゆかりは仕切りにかかった。
「月でやることは変わんないよね。LEO作業の手順はちょっと変えないとだめ。そっちにも船外活動してもらうよ。操船《そうせん》一人、外に二人。ちょっと聞いてる、フランス?」
フランス娘《むすめ》たちはなにやら気まずい顔をしている。
「どしたの? イヴェット?」
「いや……うちのオービターにそっちだけで乗って帰るってのはなあ」
「そんなにじゃじゃ馬なの? アリアンのオービターって」
「別にそうじゃないけど。なんつーか……」
なおもイヴェットは言いよどむ。
「なんなのさ」
「つまり……たった三週間であれに乗られると、こっちの立場がないっつーか」
ゆかりは脱力《だつりょく》した反動で大声を出した。
「んなことにこだわってて月に行けるかっ!」
「いやまあそれは。だけど万一ってこともあるし……」
「あのねえ、SSAってのは出前迅速《でまえじんそく》、ICBM並《な》みの即応《そくおう》態勢で宇宙飛行やってんだから、一夜《いちや》漬《づ》けでマニュアル暗記して朝には打ち上げなんてザラなんだ。やれって言われりやなんだってやるから、どーんとまかせてくれりゃいいんだってば!」
ベルモンドが入ってきた。
「にぎやかだね」
「どうだったの、シャルロットは」
「まあその――簡単な検査をしてみたんだが、陽性だったよ。九週間だ。みんなにすまないと言っていた」
「ちなみにゾエは」
「おおむね同じ状況《じょうきょう》だ。彼女は産みたいと言ってる。もちろん胎児《たいじ》を宇宙線にさらすわけにはいかない。そうでなくて……つまりいますぐ処置《しょち》すれば打ち上げに間に合わないことはないが、どのみち訓練スケジュールがこなせない。したがって――」
「こっちは話がまとまったよ」
ゆかりは変更案《へんこうあん》を説明した。
ベルモンドは安全|規定《きてい》に抵触《ていしょく》する部分を列挙《れっきょ》したが、この場は宇宙飛行士の意見をまとめることに徹《てっ》したようだった。いつもどおり、ソランジュに承認を求める。
「……ふむ。それでいいのかね、ソランジュ?」
ソランジュはためらっていたが、やがて言った。
「それしかないでしょう」
「LEO作業はどうするね? 船外に四人、一号機と二号機の操船《そうせん》にそれぞれ二人つく予定だったが」
「一号機はアンヌ、二号機はイヴェットが操船して、私が船外に出ます」
「操船は一人か。かなりの綱渡《つなわた》りだな。飛行安全委員会が許すかどうか」
「それで月飛行は可能になるんです」
「わかった。上層部にはかってみよう」
ACT・3
有人飛行事業部長のフランクールは“シシリアン”とあだ名されていた。上背《うわぜい》はないが顎《あご》が角張《かくば》っていて、細身《ほそみ》の葉巻を横っちょにくわえた姿《すがた》はギャングめいたところがある。この男がアリアンの有人月飛行計画を牽引《けんいん》してきた。
ベルモンドが報告すると、フランクールはその場で幹部会議を招集《しょうしゅう》した。
説明を受けると、四人の幹部は口々に悪態《あくたい》をつきはじめた。
「ゾエの次はシャルロットか! このままじゃ全員リタイヤするぞ!」
「娘《むすめ》たちから車を取り上げるべきだ。そして夜間は外出禁止に」
「そんなことをしたら、たちまち任務をボイコットするだろう。娘どもは我々の弱みを握《にぎ》っているし、それを自覚している」
「まったく……いまどきの娘ときたら」
「今も昔もだよ。娘はふつう、恋《こい》するか勉強しているものだ。宇宙飛行はしない」
「SSAはどうなんだ。なぜあんなに身持ちが堅《かた》い?」
「勤勉なんだろう。日本人だから」
ごほん。
フランクールは咳払《せきばら》いひとつで雑談を封《ふう》じた。
「欠員はどうする、ベルモンド?」
「SSAの三人は自分たちだけで帰還《きかん》する――これは本人たちからの提案《ていあん》ですが、私もそうするしかないと考えています」
「装置《そうち》がすべて正常なら、とりたてて難《むずか》しい操作《そうさ》はいらないな。しかしトラブルが発生したら?」
「軌道離脱《きどうりだつ》の噴射《ふんしゃ》をしたら、どのみち機械まかせです。その噴射が始まるまで月飛行モジュールをそばにおいて、経過を見守らせればいい。もしうまく点火しなければ、フランス人クルーが移乗して復旧《ふっきゅう》する。最悪、月飛行はキャンセルされるかもしれませんが、殉職者《じゅんしょくしゃ》が出るよりはましです」
「それはそうだ」
フランクールは言った。
「だがLEO作業中の操船《そうせん》を一人にまかせるのは反対だな。ポアソンはこれまでどおり二人で操船させて、ヴェルソーのイヴェットを船外活動に参加させたほうがいいだろう」
「それだとヴェルソーは無人になりますが?」
「LEO作業中、ヴェルソーは仕事がない。そばに浮《う》いていればいいんだから、地上から遠隔操作《えんかくそうさ》して位置を保つさ」
「至近距離《しきんきょり》で位置を保つのはかなリデリケートな操船です。遠隔操作でそれをやった実績はありませんが?」
「今回で実績を作るんだ。ポアソンは例の、人力|支援《しえん》の操船をやるんだろう? パイロット一人じゃ無理だ。月飛行も三人でやるのは承認《しょうにん》できんな。安全規定に反する。船外活動も操船も常に二人一組で活動する。これは必要から生まれたルールだ」
「単独飛行になるのは、月|周回《しゅうかい》のたかだか数時間ですが」
「時間は問題じゃない。月着陸組とのランデヴーに補佐《ほさ》が一人ほしい。パイロット一人ではトラブルに対応できない」
フランクールがここまで言うからには、考えがあるのだろう。ベルモンドも考えた。
いま使える宇宙飛行士は六人。そのうち四人を月に送るとなれば――
「SSAから一人、月飛行に加えろとおっしゃる?」
「彼女たちは経験豊富だし、こみ入った仕事でもすぐマスターするというじゃないか」
「それはそうですが……」
「SSAで一番優秀《ゆうしゅう》なのは誰《だれ》だ」
「総合成績ではゆかりです」
フランクールは苦《にが》い顔になった。
「ソランジュと犬猿《けんえん》の仲《なか》だな。次は誰だ」
「茜でしょう。体力と度胸《どきょう》に欠《か》けるところはありますが、記憶力《きおくりょく》や理解力はゆかり以上です。人間関係も良好ですし。特にアンヌとは気が合うようです」
「よし、では茜を月に連れていこう。SSAとはこれから交渉《こうしょう》する。なに、那須田はふたつ返事でOKするさ。SSAの顔が立つわけだからな」
「しかし……ゆかりがどう思うか。。SSAでは彼女がリーダーですから」
「どう伝えるかは君に一任する。往復一週間の飛行だ。チームワークを重視することはゆかりだってわかるだろう」
「それはまあ」
ベルモンドはうなずくしかなかった。嫌《いや》な仕事ができてしまった。
「日本人を三人ともみっちり仕込んでくれ」
「わかりました」
フランクールは飛行計画部長をにらんだ。
「異議あるかね?」
「いえ」
「よかったじゃないか、ええ? 月飛行を三人でやるなら、五百ページの手順書を刷《す》りかえなきゃいかんところだ」
「そう思っていたところです」
「だが茜のために英訳版は用意しろ」
「わかりました」
最後にフランクールは総務部長に指令した。
「ゾエとシャルロットの妊娠《にんしん》はごまかせ。マスコミはいろいろ詮索《せんさく》するだろうが、とにかくシラを切り通すんだ。たとえ本人が告白してもだ」
「わかりました」
一方的に会議をお開きにすると、フランクールはソロモン諸島に電話をつないだ。
現地は午前一時だがフランクールは遠慮《えんりょ》しなかった。二分ほどで相手が出た。
『那須田だ』
「三浦茜を月に連れていきたいがかまわんかね? 月周回軌道までだが」
『そうこなくっちゃな』
やはりふたつ返事だった。
「うちの子守《こも》りは、ゆかりをさしおいて茜を指名するのはどうかと言ってる。そうかね?」
『まあ大丈夫《だいじょうぶ》だろう。ゆかりは親分肌《おやぶんはだ》で、茜のことは大事《だいじ》にしてる。この意味わかるか?』
「暗黒街《あんこくがい》のギャングの友情みたいなものか?」
『そんなところだ。あれで子分《こぶん》には面倒見《めんどうみ》がいい。荒《あ》れたりはせんさ』
「それを聞いて安心した。それから月で万一のことが起きても、お互《たが》い恨《うら》みっこなしでいきたい。いいかね?」
『いいさ。保護者にはこっちから話を通しておく。なあに、茜を連れていけば生還率《せいかんりつ》は一桁《ひとけた》アップする。体は弱いがあの娘は逸材《いつざい》だぞ』
ACT・4
その宵《よい》、三人が連れていかれたのはカイエンヌの「シャンシャン」という中華《ちゅうか》料理店だった。中華料理店は世界中どこにでもある。この店も極彩色《ごくさいしょく》の店構えだった。
「日本料理があればよかったんだけどね。でもここは美味《うま》いって評判なんだ。北京《ペキン》、広東《カントン》、上海《シヤンハイ》。四川《シセン》、それにべトナム料理もありだ。メニューは読めるかな。中国語もついてるが。ペキンダックはどうだい? 遠慮《えんりょ》しなくていい」
「飲茶《ヤムチャ》やってる?」ゆかりが聞いた。午後九時ともなると、ディナーだけになる店も多い。
ベルモンドはウェイトレスを呼び止めてフランス語で尋《たず》ねた。
「できるそうだ。ええと、まずお茶を選ぶんだったかな」
「ポーレイ」
ゆかりは即答《そくとう》した。三人で飲茶するときはいつもこれだ。
「すぐに料理が来るよ。ところで低温試験部に君たちのファンクラブができたのを知ってるかい? フランスの男は東洋の美少女に弱くてね。つきまとって迷惑《めいわく》をかけたりしてないだろうね?」
ベルモンドはやけに愛想《あいそ》がよかった。
「それはないけど。――で、なんなの? 急にディナーおごるなんて」
「いやなに、君たちの仕事が増《ふ》えたんで、労《ろう》をねぎらおうと思ってね」
「ふうん……」
見守っていると、ベルモンドはそわそわしはじめた。あたりを見回し、点心《てんしん》の載《の》ったワゴンを呼びつけた。
「ええと、何がいいかな」
「ハーカウ、シーザアパイガ」
「ハースイコウ」
「ユイタン、マツユイユン」
ベルモンドは肩《かた》をすくめて、「慣れてるんだね」
「ソロモン基地のまわりで御馳走《ごちそう》ったら中華しかないから」
「なるほど」
また会話が途切《とぎ》れた。ゆかりはじっとベルモンドを見た。
「なにか顔についてるかな?」
「ううん」
「じゃあなんで見るんだね?」
「見ちゃ悪い?」
「そんなことはないが……」
茜とマツリもベルモンドを見た。
「な、なんだい。東洋の美少女に三方から見つめられると、僕だって落ち着かないな。誘惑《ゆうわく》に負けそうだ。ははは」
「バッド・フェイスがでているね」マツリが言った。
「なんだいそれは。易学《えきがく》かな?」
「悪い精霊《せいれい》が顔を変えているんだよ。気をつけたほうがいいね」
「それは、気をつけないとどうなるのかな?」
「痛い目にあうよ」
ベルモンドは一瞬《いっしゅん》ひきつった。そのあとも、眉間《みけん》のしわは消えない。
「なんなのさ」
ゆかりが言った。
「言いにくいことがあるんでしょ。その凶相《きょうそう》に書いてある。あててみようか」
「あ、ああ」
「実はイヴェットも妊娠《にんしん》してた」
ベルモンドはどうっと息を吐《は》いた。
「はずしたか。じゃ、アンヌ? まさかソランジュってことはないよね?」
「いいかい、フランスのリセエンヌのすべてが妊娠するわけじゃないんだ。――わかった、話すよ。君たちの提案を幹部会議にはかったんだが、月飛行は四人でないとだめだというんだ。それで、どうせオービターの操船《そうせん》を特訓するんだから……つまり、君たちのうち誰《だれ》か一人を月飛行に参加させようということになった」
三人娘は動きを止めた。
「月面まで行くわけじゃない。オービターにとどまって、軌道周回《きどうしゅうかい》するだけなんだが」
「まじ?」
「ほんとですか!?」
「ほほー」
「SSAからはすでに承諾《しょうだく》を得ている。もちろん、本人の意志は尊重《そんちょう》するということだ。それで、つまり、誰が行くかということなんだが……」
六つの視線の焦点《しょうてん》で、ベルモンドは脂汗《あぶらあせ》をうかべていた。
「幹部会議では、チームワークを重視せよという意見があった。往復一週間、せまいキャビンにとじこめられるわけだからね。そこに険悪《けんあく》な関係があってはならない。宇宙飛行士ならわかるだろう?」
ベルモンドは、本来なら第一に指名されるはずの飛行士を見た。
「君は――ソランジュと親しく話をしていないようだね、ゆかり」
「そうね」
「でも」
茜が言った。
「でもゆかりは、今日だってソランジュと二人で話したんです。ソランジュが帰ろうとするのをひきとめて」
「ちがうって。親しくなんか話してないよ、茜」
「でも、駐車場《ちゅうしゃじょう》のほうへ行ったのをとめたでしょう。私、見てたもの。話は聞こえなかったけど、絶望しかけてたのをはげまして――ほんとです、ベルモンドさん!」
「サボるなって言っただけだってば。あのね――」
ゆかりはベルモンドに向かって、
「あんなマリー・アントワネットの生まれ変わりみたいなのと一週間もいっしょなんてこっちからお断りだわ。月に行くなら茜かマツリだね。どっちがご指名なの?」
「会議では、つまり……茜に行ってもらおう、ということになった」
「――――!」
茜は目を見開き、それから両手で顔を覆《おお》った。声が出ない。
「いいんじゃない?」
ゆかりはふっと力をぬき、笑顔《えがお》をみせた。
「行きたかったんでしょ、月。私は興味《きょうみ》ないけど。よかったじゃん」
「ほい、めでたいね、茜」
マツリもにこにこしながら言った。
「おい、茜?」
反応《はんのう》がないので、ゆかりはつついたり袖《そで》を引いたりした。
茜の金縛《かなしば》りが解《と》けるまで、五分ほどかかった。
「ご、ごめんなさい。私、月へ行くって聞いたらもう、いろんな絵で頭がいっぱいになっちゃって」
「絵ってどんな?」
「それは――まず遠ざかる地球があるの。もう地面っていう感じじゃなくて、宇宙にぽっかり浮《う》かんでる球として。それがどんどん小さくなっていって、かわりに月がどんどん大きくなってくる。月の南極でデルタVして周回軌道《しゅうかいきどう》に乗ったら百キロ下が月面でしょう?」
「そうだっけか」
「うん。月って宇宙から見ると黄色がかった銀色だよね。月の裏側はクレーターばっかりなの。クレーターにはロシア語の名前がたくさんついてる。ガガーリン、バーコフ、コロリョフ、メンデレーエフ……最初に裏側《うらがわ》を撮影《さつえい》したのがロシアだったから。そういうのがいっぱい銀色に光ってて、それで一時間たつと北極にさしかかるよね。すると、するとね――」
茜はうっとりと上気して、視線を宙にさまよわせる。
「月の――半分が影《かげ》で真《ま》っ暗《くら》になった北極の地平線に、青い地球がわーっと昇《のぼ》ってくるの。満月の四倍の大きさで。地球も月と同じで、レモンみたいに欠けてる。都市の明かりはたぶん無理ね。でも日本海の漁船の集魚灯《しゅうぎょとう》は見えるかも。その時はインド洋が正面に来てるから、右っていうか、東の端《はし》に日本列島があって。月から人の営みが見えるなんてすごいよね」
「へえ……」
行きたくなってくるじゃないか。
ゆかりは、すぐにその考えをふり払った。
茜。このおとなしい、勉強好きな、面白《おもしろ》みのない娘《むすめ》は、知らないうちにアリアンの手順書をすみからすみまで読んで、そんなことを考えていたんだ。
こいつこそ、月に行く資格がある。
「ンコイ、シウジェ!」
ゆかりは大声でウエイトレスを呼びつけ、ペキンダックと上海蟹《シャンハイがに》を注文した。
そして心から、茜を祝《いわ》った。
ACT・5
「事後報告になってすまんが、深夜だったんでね。起こしちゃ美容に悪いと思って」
翌日、那須田はソロモン宇宙基地の宇宙飛行士室に出向くと、事の次第《しだい》を報告した。
「結局、ゆかりも茜も快諾《かいだく》したそうだが――」
「かまいませんわ。総被曝量《そうひばくりょう》もまだ安全|圏内《けんない》ですし」
美貌《びぼう》の医学主任、旭川さつきはこだわらなかった。
彼女はSSAで宇宙飛行士の健康と生活全般を監督《かんとく》する――アリアンでいえばベルモンドの立場にある。飛行士たちを実験動物|扱《あつか》いすることで恐《おそ》れられているが、それだけにゆかりたち三人のことは肉体から精神にいたるまで知りつくしていた。
「ゆかりちゃんが親分肌《おやぶんはだ》というのは正解ですね。あの子は基本的に自分一人じゃ動かないんです。勉強にも恋《こい》にも宇宙飛行にも、これといって意欲がない。ゆかりちゃんの真価は、誰《だれ》か子分《こぶん》ができたときに発揮《はっき》されるんですよ」
「それで潔《いさぎよ》く身を引いたわけか。『よしわかった茜、このあたしがあんたを月に連れてってやる』――と」
さつきはうなずいた。
「ソランジュとの関係が悪いのも、そういうリーダーシップがかち合ってるからなんです。誰かのためには全力を出すんだけど、それは自分がリーダーになってないとうまくない。あたしはこれを、ゆかりちゃんの長所だと思ってるんですけど」
「いささか扱いにくい長所ではあるな」
「あの二人は必ず喧嘩《けんか》すると思ってました。しつこく注意したんですけどね」
さつきは苦笑する。
霊長類《れいちょうるい》では群れの中に複数のリーダーが許容《きょよう》されることもあるが、ゆかりは狼《おおかみ》タイプだ。でもそれだけの実力はある。支援《しえん》の手が届《とど》かない宇宙空間では、その資質《ししつ》は貴重《きちょう》だ。
私はわかってるからね、ゆかり――さつきは胸中でささやきかけた。
誰かを護《まも》る時の、あなたの優《やさ》しさを知る者は少ない。それは雲間から洩《も》れた、春の陽射《ひざ》しのようなものだ。
「まあ往復一週間、狭《せま》いキャビンでいっしょになるとなれば、茜ちゃんが適任ですけどね。ゆかりちゃんが参加するとしたら、ソランジュの上位に立たない限りうまくいきません。そんな状況《じょうきょう》はありえないと思いますが」
聡明《そうめい》なさつきも、このときまではそう考えていたのだった。
[#改ページ]
第四章 地球|低軌道《ていきどう》ランデヴー
ACT・1
玄関《げんかん》を出ると報道|陣《じん》のカメラの放列《ほうれつ》ができていた。無数のシャッターとオートワインダーが盛夏《せいか》の蝉《せみ》のようにわんわんうなる。ロープとガードマンがかろうじて確保した道を、バスに向かって歩きはじめる。
イヴェットはハードシェル・スーツ。ゆかり、茜、マツリの三人はスキンタイト・スーツに身を包み、先導役のベルモンドに続いて歩いた。
NASAのスペースシャトルの乗員なら、気休めにしかならないオレンジ色の気密服を着る場面だが、SSAもアリアンも本物の船外活動服を着ている。地上で歩けるほどの軽快な宇宙服は決定的な技術|革新《かくしん》なので、アリアンもSSAも報道へのアピールを忘れない。
ゆかりは指示されたとおり笑顔《えがお》をつくり、手を振《ふ》りながら歩いた。自分にとって最もナチュラルな表情――仏頂面《ぶっちょうづら》でいこうかとも思ったが、月飛行を茜にとられて機嫌《きげん》を損《そこ》ねていると思われては癪《しゃく》だ。
悪い気分ではなかった。三週間の特訓もさることながら、この三日間はCSGの施設《しせつ》内に防疫《ぼうえき》隔離《かくり》されたのでいいかげん飽《あ》き飽《あ》きしている。今日《きょう》これから打ち上げられてしまえば明後日《あさって》の朝には大西洋に着水して、のんびり茜の帰還《きかん》を待つだけだ。多くの宇宙飛行がそうだが、飛ぶまでの準備があまりに長いので、打ち上げ当日はすでに『やっと終わる』と感慨《かんがい》するのだった。
バスの前には礼装《れいそう》したソランジュとアンヌが待っていた。そういうしきたりらしい。ゆかりは笑顔を固定したまま、おざなりに握手《あくしゅ》した。
「んじゃ、上で待ってるから。明日は遅刻《ちこく》しないようにな」
バスに乗り込む間際《まぎわ》、イヴェットはそう言った。
茜は少しハイになっていて、英語とフランス語でなにか言った。
マツリは手と腰《こし》をふりまわす大きな動作で、「ほーい、行くよ!」と叫《さけ》んだ。
近くに顔馴染《かおなじ》みのレポーターがいたので、ゆかりは日本語で「行ってきまーす」とだけ言った。
バスは封鎖《ふうさ》されている国道一号線を走り、アリアンVの打ち上げ施設、ELA3に入った。発射台にはロケットが鎮座《ちんざ》していて、もう液体酸素の白い蒸気をたなびかせていた。
そこにはアリアンの記録カメラマンがいるだけで、もう儀式《ぎしき》のたぐいはなかった。
作業員とともに整備塔《せいびとう》のエレベーターに乗り、地上六十メートルまで上がる。
ボーディング・ブリッジは風ですこし揺《ゆ》れていた。打ち上げに支障《ししょう》があるほどではない。アクリルの窓|越《ご》しに外を見ると、白くかすんだ地平線の彼方《かなた》に平たい山が見えた。ギアナ高地のテーブル・マウンテンだろうか。
ハッチには飾《かざ》り文字で Verseau(ヴェルソー)とあった。水瓶座《みずがめざ》のことだ。明日打ち上げられるポワソンは魚座《うおざ》。月の水資源にちなんだらしい。
オービターの狭《せま》いハッチから内部に潜《もぐ》り込み、担架《たんか》のような座席《ざせき》に横たわる。左からマツリ、イヴェット、ゆかり、茜の順だった。
「ボン・ボヤージュ!」
外から作業員が手を振《ふ》ってハッチを閉《し》める。マツリが内部からロックして、ハッチの内側にグリーンのランプが灯《とも》るのを確かめた。
宇宙服のコネクターにオービターから出ているケーブルをつなぐ。相互《そうご》にインカムのテスト。すべて正常。
正面に計器盤《けいきばん》、その上に小さな台形の窓が四つ。窓の外は白っぽい青空。
打ち上げまであと二時間。
「上がるかしら……」
茜が小声で言った。
「ここまで来りゃ上がるよ。でしょ、イヴェット?」
「乗ってから中止になったのはこれまで一回だけだよ。燃料注入した段階で十中八九、上がると思っていい」
「だってさ。大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
茜は心配でならない様子《ようす》だった。
この手につかみかけた夢《ゆめ》が奪《うば》われないか。
この打ち上げ。明日の一号機の打ち上げ。両者のランデヴー。LEO作業。太陽活動の急変。どれかひとつでも問題があれば、月飛行は中止されてしまう。やり直すとしても、その頃《ころ》にはゾエかシャルロットが復帰している。
チェックリストを開いて点検《てんけん》にとりかかる。イヴェットが船長、ゆかりが副操縦士《ふくそうじゅうし》の立場だった。二つの液晶《えきしょう》パネルにチェックリストと同じものが表示されるので、能率よく進められる。このへんはなんとなくエアバスに似ていた。
しばらくして、ゆかりは言った。
「なんか眠《ねむ》くなってくるな、このシートって」
「みんな一度は居眠《いねむ》りしたもんさ」
アリアンの緩衝席《かんしょうせき》は寝椅子《ねいす》そのものといっていい。Gに耐《た》えるには最適の姿勢《しせい》だし、もちろん宇宙空間では何かに腰掛《こしか》ける必要はない。SSAのオービターでは腰掛け姿勢をとるが、それは体を伸《の》ばすスペースがないためだった。
担架《たんか》型《がた》のシートが四つ並《なら》ぶと壁《かべ》のようなものができる。その壁の背後《はいご》には直径三メートル、厚さ七十センチの空間があり、ペイロード区画と呼ばれている。簡単な宇宙実験も行なうらしいが、今回は食糧《しょくりょう》その他の荷物が大量に固定してある。
ペイロード区画の片隅《かたすみ》にはトイレがある。大小男女兼用の小さな吸引式便器で、使用するときはカーテンで周囲を囲み、脱臭《だっしゅう》ファンをまわす。この程度の装置《そうち》でも、ゆかりはうらやましく思った。SSAのオービターでは、それが必要な時はもっと原始的な手段をとらねばならない。特に大のときは宇宙服を脱《ぬ》いで袋《ふくろ》をつかう悲惨《ひさん》さで、SSAのオービターが男子禁制といわれるゆえんだった。
Tマイナス三分。打ち上げ三分前。
打ち上げ準備は遅滞《ちたい》なく進んだ。マツリは寝息をたてているが、別に起こしてやることもない。茜も仕事はないが、何ものも見逃《みのが》すまいと目だけは忙《いそが》しく動いている。
『02[#2は下付き小文字…つまり酸素]ベントリリース・バルブ閉鎖《へいさ》』
『APUスタンバイ』
発射管制官が淡々《たんたん》と伝えてくる。商用ロケットを日常的に打ち上げてきただけあって、手慣《てな》れた感じだ。
「オービター、全装置《ぜんそうち》正常」
『低温燃料、プレッシャー正常。打ち上げ最終判断はGO』
『アクセスアーム収納。発射台、注水開始』
発射台の底にウォーターカーテンが形成される。これは熱ではなく、噴射《ふんしゃ》で生じる破壊《はかい》的な音響《おんきょう》を吸収してロケット自体を守るためにある。その水音に、マツリが目を覚ました。
「ほい、そろそろ?」
「あと一分ちょっと」
Tマイナス七十五秒。フェイスプレートを閉《と》じる。
『内部電力に切り替《か》え。オービター電圧チェック』
「電圧、異常なし」
Tマイナスニ十秒。
『固体ブースター、APUスタート』
「APU1、2、スタート」
Tマイナス十二秒。
「オービター、全装置正常」
『十―九―八―七――メインエンジン点火――推力《すいりょく》正常―四―三―二―ソリッドブースター点火』
オービター全体がゆらり、と揺《ゆ》れた。固体ブースターの打ち出す衝撃波《しようげきは》が、高い可聴音《かちょうおん》となってキャビンを包み込む。
ロケットは静かに浮上《ふじょう》した。でかいだけのことはあるな、とゆかりは思った。
『ローンチサイトクリア――フランスの有人月ロケットは離昇中《りしょうちゅう》』
「こちらヴェルソー、順調に飛行中」
液晶《えきしょう》スクリーンには飛行プロファイルを示す右上がりの曲線が表示され、その上をロケットのマークがじりじりと這《は》い登ってゆく。
窓の外は紺碧《こんぺき》の青に変わっていた。高層雲《こうそううん》を貫通《かんつう》するたびに視界は白くフラッシュする。振動《しんどう》が高まってきた。マックスQ――動圧が最大になる領域《りょういき》にさしかかる。しかしこれも、ミサイルのように急加速するSSAのロケットに比《くら》べればずいぶん静かだった。
Tプラス百三十秒。
「そろそろ固体ブースター切り離《はな》すよ」
イヴェットが言った。
「ガツンとくるけど、びっくりすることないから」
Gが弱くなったな、と思った瞬間《しゅんかん》、重い打撃音《だげきおん》が響《ひび》いた。窓からは見えないが、液晶ディスプレイにブースター分離《ぷんリ》の表示が出た。
「固体ブースター分離|完了《かんりょう》。順調に飛行中」
『ヴェルソー了解《りょうかい》』
茜の様子《ようす》を見ようとしたが、ヘルメットの中で頭だけが動くのでよく見えなかった。
インカムの声が外部に流れないモードになっているのを確認《かくにん》して、ゆかりは話しかけた。
公然の秘密だが、茜は四Gを超《こ》えると気絶する。
「茜、起きてる?」
「うん」
「第一関門|突破《とっぱ》だね」
「うん」
「こっちが上がっちゃえば、一号機だってそうそう中止しないでしょ」
「そうだよね……」
一段目のバルカン・エンジンの燃焼はまだ続いており、燃料を消費して軽くなったぶん、Gが刻々《こくこく》と増《ま》してゆく。燃焼終了まであと四分。
茜が苦しそうなので、ゆかりは話すのをやめた。
Tプラス九分四十三秒、一段目燃焼終了、分離。
続いて推進段《すいしんだん》に点火。液体酸素・液体水素を燃料とする高性能エンジンは、予定通りに点火した。この加速は十分の一Gほどしかない。推進段は短時間|噴射《ふんしゃ》して、大半の燃料を残したまま燃焼|停止《ていし》した。
「オーケイ、宇宙に到着《とうちゃく》だ」
イヴェットが宣言《せんげん》し、管制所に通報した。
「ヴェルソーは現在アフリカ西岸、ギニア湾《わん》上空を高度二百三キロで順調に飛行中。こちらの天候は快晴、無風」
隣りで茜が深呼吸した。
「……着いたのね。おめでとう」
やはり気絶していたらしい。
九十分後、地球を一周したところで軌道《きどう》修正のデルタVを一回。その四十五分後にもう一回。これでオービターは所期の軌道に乗った。
あとは各部を点検《てんけん》して、明日のランデヴーを待つだけ。明日になれば――
ソランジュの奴《やつ》と共同作業か。
ゆかりはひそかにため息をついた。いまだ、関係は改善されていない。
ACT・2
「見えるかな」
「昼だもん、無理だよ」
「でも、あんなに煙《けむり》が出るんだし」
「見えるといいねえ」
一昼夜を宇宙ですごした四人はいま、窓にしがみついて下界を見守っていた。
オービター・ヴェルソーは――あえて上下にこだわるなら――背面《はいめん》飛行をしていた。窓は地球に向いている。
眼下には砂粒を散らしたようなガラパゴス諸島。前方にはアマゾン河|流域《りゅういき》の熱帯《ねったい》雨林《うりん》がくすんだ緑のカーペットのように広がっている。あちこちで活発な積乱雲が成長しつつあり、雲間に稲光《いなびかり》がまたたいているが、この高度では足元の綿《わた》くず程度にしか見えない。
四人が気にしているのは、これから打ち上げられる一号機が肉眼《にくがん》で見えるかどうかだった。こちらは秒速七・六キロ、発射基地は地球の自転により秒速○・五キロで運動している。地上を出発したポワソンがこちらとランデヴーするためには、こちらより少し先に出発しなければならない。
「そろそろだよ」
左腕《ひだりうで》のGショックを見ながら、イヴェットが言った。こちらはコロンビア上空にさしかかっている。
『ヴェルソーへ。一号機は定刻にリフトオフした』
ジュピター2から連絡《れんらく》が入る。
「ヴェルソー了解《りょうかい》……やったね! 順調順調!」
「よかったねー」
「また一歩野望に近づいたね」ゆかりは茜の肩《かた》を叩《たた》く。
四人は外の観察に戻《もど》った。
「そろそろCSG、視界に入るはずだけど……」
「ほい、あれだね」
野性の視力を誇《ほこ》るマツリが言った。
「トゲみたいなのがあるよ」
「トゲ?」
「どれどれ?」
たっぷり一分ほどかかって、他《ほか》の三人にもそれが見えた。
はるか前方、スープのように白濁《はくだく》した大気のなかに、一筋《ひとすじ》の――まさしくトゲのようなものが一本、斜めに突き立っていた。
「固体ブースターの煙?」
「そうだ、間違《まちが》いないよ。高度五十キロのあたりで途切《とぎ》れてる」
イヴェットは地上に通報した。
「こちらヴェルソー、ブースターの航跡《こうせき》を視認《しにん》」
『了解。一号機は順調に飛行している』
さらに数分すると、バルカン・エンジンの官い、かすかな光点が見えてきた。それは地表と異なる速度で動いており、しだいに鮮明《せんめい》になってくる。
「直接交信してみるか」
イヴェットは第二系統の無線機のスイッチを入れた。
「でも、まだ加速中で応答しにくいんじゃ」
「平気平気。……ポワソン、こちらヴェルソー。そっちの噴射炎《ふんしゃえん》が見えるよ。ぐずぐずしてると追い越《こ》しちゃうぞ」
数秒して返事があった。ソランジュの声だ。
『ヴェルソー、こちらポワソン。こちらのバルカン・エンジンはいいのが当たったようよ。切り離すのが惜しくて』
「だからって軌道《きどう》に連れてこないように。じゃもう一噴《ひとふ》かしがんばって」
ゆかりは驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。
「いまのって、もしかして冗談《じょうだん》?」
「ソランジュだって年に一度くらいは言うさ。機嫌《きげん》がよけりゃね」
明るさを増《ま》していたバルカン・エンジンの光がふいに消えた。
ゆかりは自分のオメガ・スピードマスターを見た。ポワソンの打ち上げと同時にスタートさせておいたクロノグラフは九分四十三秒を示している。
「予定通りか。……あれ、推進段《すいしんだん》は?」
「大丈夫《だいじようぶ》、点火したよ」
マツリが言った。一度目をそらしたゆかりには見つけられない。そのうちに燃焼|終了《しゅうりょう》してしまった。
だが数分後、それは太陽光できらきら輝《かがや》きながら現れた。
もう光の点ではなく、なにか面積のある物体だとわかる。丸めたアルミ箔《はく》みたいな感じ。
真空中で距離《きょり》がつかみにくいが、斜《なな》め下方――二十キロくらいだろうか。
ポワソンはゆっくり上昇《じょうしょう》するとともに距離をつめてきた。
十分ほどするとほとんど同じ高度になったが、まだ距離は開いている。
「おっと、こっちより高くなっちゃったな」
「大丈夫《だいじようぶ》、いちど上に出て距離を詰《つ》めるの」
茜が言った。高度が上がるほど軌道《きどう》速度は遅《おそ》くなる原理なので、前後の距離を詰めるには上下運動から始めるのだ。後ろへ行くなら上へ。前に行くなら下へ。
イヴェットは相手を視野《しや》に入れ続けるように船体の向きを変えたが、ほどなく地球の影に入って見えなくなった。
「ま、ソランジュのことだ。追突《ついとつ》なんてへまはしないよ」
「腕《うで》はいいの?」
「でなきゃコマンダーなんかやれないよ」
ACT・3
一号機の打ち上げから三時間――地球を二周したところで両者はランデヴーに入った。推進段《すいしんだん》、貨物モジュールをしたがえたポワソンは前方三十メートルにどっしりと浮《う》かんでいる。
ヴェルソーは自分の推進段を置き去りにして軌道《きどう》側方に退《しりぞ》き、船首をもといた場所に向けた。
操船《そうせん》を担当《たんとう》したイヴェットは相互《そうご》の位置関係をじっくり観察し、やがて満足げに言った。
「いい感じ。両方ともぴったり静止してる」
『ジュピター2よリヴェルソー、船外活動の準備を開始せよ』
「ヴェルソー了解《りょうかい》」
「さあてと、宇宙労働者の出番だね」
四人は船内に浮遊《ふゆう》するものをすべて固定し、真空に耐《た》えない物品を圧力容器に収納した。全員、ヘルメットとバックパックを装着《そうちゃく》する。
これからしばらく、オービター・ヴェルソーは無人になる。
宇宙服の点検《てんけん》が終わると、イヴェットは船内の空気を抜《ぬ》いた。完全に真空になったところでハッチを開く。船内に直射日光が差し込まないように、ハッチは日陰側《ひかげがわ》にまわしてある。マツリ、ゆかり、茜の順に船外に出て、外のハンドルにつかまる。最後にイヴェットが出てきてハッチを閉《し》めた。
眼下《がんか》はインド洋。モルジブ諸島上空のはずだが、島らしきものは見えない。
ゆかりは自分とマツリを数メートルの命綱《いのちづな》で結び、ジェット・ガンを構えた。
めざすはポアソンの推進段の最後尾《さいこうぴ》。ほんの十メートル先だが、マツリ以外のどこにも命綱を結ばない自由飛行だった。
「いくよ」
『ほい』
ニ人は脚《あし》を進行方向に向け、頭上にジェット・ガンをかざして引き金を引いた。窒素《ちっそ》ガスが噴射《ふんしや》されて、ゆっくりと動きはじめる。
マツリが針路をそれはじめたが、命綱が張って中和《ちゅうわ》された。
『ゆかり、このままでいい?』
「いいよ。こっちが取りつくから、自分でたぐってきな」
『ほーい』
ゆかりは自分だけ軽く噴射して針路修正し、推進段の外部にあるハンドルのひとつにつかまった。マツリが命綱をたぐってやってくる。ゆかりは左手でマツリの肩《かた》をつかみ、少し離《はな》れたハンドルに押しやった。
『ゆかり、こっちも着地したよ。命綱を外した』
「了解《りょうかい》。ゆかりとマツリ、一号機|推進段《すいしんだん》に到着《とうちゃく》」
『こっちももうすぐだ』
イヴェットの声。茜とイヴェットの組も順調に接近し、ヴェルソーの推進段にとりついた。イヴェットは後から到着したが、命綱はたぐらず、自分で噴射して動いている。反動で推進段を動かさないための配慮《はいりょ》だった。
『茜とイヴェット、二号機推進段に到着』
分刻《ふんきざ》みのLEO作業が始まった。
訓練はやたら大袈裟《おおげさ》だったけど、それだけのことはあるな、とゆかりは思った。
作業は意外なほど順調に進んだ。プロシージャ・シミュレーターやプールでやったことを繰り返すだけ。ジェット・ガンでアシストしながらポアソンを動かし、二号機推進段との間に四本のポールを掛《か》け渡《わた》す。これでもう漂流《ひょうりゅう》の心配はなくなった。
ひと安心してまわりを見ると、無人のヴェルソーはいつのまにか百メートルほど上方に離れていた。
「ヴェルソーあんなとこまで流れてるけど大丈夫《だいじょうぶ》かな」
『見えてるうちは平気だよ』イヴェットが答えた。『ポアソンにつかまって行けばすぐだし、遠隔操作《えんかくそうさ》してるはずだし』
「だよね……」
ゆかりには、なんとなくただ漂流しているように見えた。
上は後ろ。後ろは下。下は前。前は上。オービターはいずれもとの場所に戻《もど》ってくる。
もし、その位置がわずかにずれていたら。
その時は誰《だれ》も、その可能性を考えなかった。
イヴェットと茜がポールをつたってこちらに渡ってきた。それぞれが受け持つポールの根元にかがみこむ。
「全員いい?」ゆかりが号令した。「せーの、はじめ!」
伸縮用《しんしゅくよう》のハンドルを逆回転《ぎゃくかいてん》させてポールを縮《ちぢ》める。
重い手応《てごた》えがあって、十四トンの推進段がじりじりと近づいてきた。三段変速のギヤをローに入れているので、ハンドルを回せど回せど、ポールはごくゆっくりとしか縮まない。
『なんかこう、舟歌《ふなうた》でも歌いたい場面だな』
イヴェットが言った。
『A Long Time Ago って知ってる? 英語の歌だけど』
「知らないな」
『もしかして“ヤンキーの帆船《はんせん》が”っていう歌かしら?』茜が言った。
『それぞれ。A smart Yankee packet lay out in the bay〜ってさ』
「なんかテンポよすぎない?」
『ギヤ、トップに入れちゃおうか』
『いいね。時間短縮しよう』
『みんな、気を抜《ぬ》かないで』
見えない場所からソランジュがたしなめる。
『んじゃスローに歌うからついてきな』
イヴェットがリードして、三人が続けた。
三十分近くかかって、ヴェルソーの推進段《すいしんだん》は目の前まで来た。あと十センチというところで一旦停止《いったんていし》。
ゆかりとイヴェットは前後の推進段の連結部にとりつき、状態《じょうたい》を確認《かくにん》した。
ポアソン側の連結部はロケットノズルのまわりのトラス構造の末端《まったん》にある。爆破《ぱくは》ボルトの四つの穴《あな》にヴェルソー側の推進段から出ている突起《とっき》を差し込むと、強固に結合する。構造がある連想をもたらすので、何度も冗談《じょうだん》の種《たね》にしてきた部品だった。
『男女とも正常』
イヴェットが笑いを含《ふく》んだ声で報告する。
四人はもとの場所に戻り、最後の十センチをつめた。
不要になったポールを外して宇宙空間に投棄《とうき》する。この高度では高層大気の抵抗《ていこう》があるので、四日以内に地球に落下して燃えつきる。
それから、電気系統の結合にかかった。ケプラー繊維《せんい》の消火ホースのようなもので保護されたケーブルの集合体をヴェルソー側から引き出し、ポアソン側のコネクターに差し込む。推進段を切り離すときは、このコネクター部分も火薬で切断される。
「電気系統、結合終わり」
『了解《りようかい》。いま信号をチェックしてる』
数分後、ソランジュは異常を知らせてきた。
『データバス4Aの信号が入ってないわ。結合を確認して』
「4Aね。ちょっち待って」
ゆかりは「4A」のシールが貼《は》られたコネクターを抜《ぬ》き、接点《せってん》をあらためた。
「見たとこ異常ないけど。もいっぺん差し込んでみるよ――どう?」
『やはりだめ。接点はオス/メス両方確認した?』
「したよ、もちろん」
『いまそっちに行く』
「誰が見ても同じじゃない?」
『あたしが行こうか』これはアンヌの声。
『アンヌはここにいて。自分で見てみるわ』
信用しろよな、とゆかりは思ったが、ここでの会話は全世界に中継《ちゅうけい》されているので黙《だま》っていた。船首のほうにソランジュのハードシェル・スーツが現れた。ハンドレールをつたってこちらにやってくる。
ソランジュは4Aのコネクターを手に取り、ゆかりと同じことをした。
『アンヌ、どう?』
『変化なし』
『おかしいな……』
『それは4Bと同じ形だね』
マツリが言った。
『シールが違《ちが》ってるかもしれないよ』
「まさか。4Bの信号は正常なのよ』
ジュピター2から連絡《れんらく》が入った。
『4Aと4Bが入れ代わっている可能性を検討《けんとう》する。そのまま待機せよ』
『了解』
五分ほどしてジュピター2から指示が届《とど》いた。
『4Aと4Bは正副《せいふく》二系統のセンサーで、入れ代わっても一部にしか異常が検出《けんしゅつ》できない可能性がある。現状がそうだとすれば、4Aと4Bを逆につないで試しても支障《ししょう》はないと考えられる』
「……要はシールの貼り間違いってことか」
『ありがちありがち』
複雑な宇宙ミッションでは馬鹿馬鹿《ぱかぱか》しいミスが必ず一度や二度はあるものだ。
ソランジュは黙《だま》ってコネクターを入れ替《か》えた。
『再結合完了。アンヌ、どう?』
『あー、オーケイ、系統4はABとも正常』
ハードシェル・スーツの下で、ソランジュがほっと力を抜《ぬ》くのがわかった。
その時、なにかが日照をさえぎった。
「ん? もう夜?」
ゆかりは太陽のほうを見て、愕然《がくぜん》とした。
ソランジュとイヴェットも気づいた。
視野《しや》いっぱいに質量三・七トンの円錐《えんすい》、オービター・ヴェルソーが迫《せま》っていた。
『逃《に》げて!』
ソランジュが叫《さけ》ぶ。
イヴェットは逃げるかわりにオービターの船殻《せんこく》にとびつき、下半身をこちらにのばした。
ゆかりは足首を器具で固定していた。すぐには外れない。
何かが乱暴に体を押《お》さえつけた。フェイスプレートにピンク色の物体がかぶさった。
背中が強く圧追《あっぱく》された。
ヘルメットに直接|打撃音《だげきおん》が伝わり、同時にインカムに悲鳴が響《ひび》いた。
圧迫はすぐに解《と》けた。誰かのハードシェル・スーツの脚《あし》が視野を覆《おお》っていた。ヘルメットを動かすと、回転《かいてん》しながら離《はな》れてゆくオービターが見えた。かなりの速度だ。
『大丈夫《だいじょうぶ》!? イヴェット――その腕《うで》!』茜の声。
『大丈夫だ、気密は保ってる。マツリ、ソランジュとゆかりを見てくれ』
『ほい、すぐ行くよ』
「こっちは大丈夫!」
ゆかりはまず自分の状況《じょうきょう》を伝えた。それから自分に覆い被《かぶ》さったハードシェル・スーツから体を離した。肩《かた》にクイーンのマーク。
「おいソランジュ、大丈夫?」
ソランジュは数回|咳《せ》き込んだ。
『圧力……正常、いまセルフチェックを……うっ!』
ソランジュの体は一瞬《いっしゅん》痙攣《けいれん》したように見えた。
「どっか痛む!?」
『いえ……大丈夫、もう平気』
「ほんとに?」
ゆかりは相手の全身をあらためた。
「見たところ異常はないみたいだけど」
『そう言ったわ』
ソランジュは周囲の状況を把握《はあく》しにかかった。
『イヴェット、あなたはどう?』
『左腕《ひだりうで》がちょっと痛む。スーツが負けた』
『負けたって?』
「なにがどうなったの? 気がついたらヴェルソーが目の前に来てて」
『ほい、ソランジュとイヴェットがつっかえ捧《ぼう》になって撥《は》ね返したよ』
「じゃあ……」
自分は二人に守られたのか。
あの瞬間《しゅんかん》の視覚がよみがえった。オービターにイヴェットがとびついた直後、ソランジュが自分を組み伏《ふ》せた。ヘルメットが地面――推進段《すいしんだん》の表面にこすりつけられ、見えるのは推進|剤《ざい》タンクの表面とその向こうの宇宙空間ばかり。そこへ矢のような勢いでソランジュのスーツの膝《ひざ》が打ち下ろされた。イヴェットは仁王立《におうだ》ち、ソランジュは膝をついた姿勢で両腕をさしのべ、オービターをはねのけたことになる。
ゆかりは言った。
「とにかくキャビンに戻ろう。スーツを点検《てんけん》しないと」
『ジュピター2より月飛行モジュール、何があった? 状況を報告せよ』
『漂流《ひょうりゅう》してきたオービター・ヴェルソーと接触《せっしょく》した。直接接触したのはソランジュ、イヴエットの二名。これより船内に戻って装備《そうぴ》を点検する』
両腕でハンドレールをたぐりながら、ソランジュが簡単に報告した。
「ソランジュ、大丈夫? 牽引《けんいん》しようか」
『私は平気。かまわないで』
イヴェットのほうはマツリと茜が支えて移動していた。推進段、貨物モジュールを越えてオービターにたどりつく。アンヌがハッチを開いて待機していた。ゆかりはソランジュに続いて中に入った。それからイヴェットの乗船をサポートした。
全員が船内に入り、ハッチが閉鎖《へいさ》されると、アンヌはキャビンに空気を充填《じゅうてん》した。
一気圧になると、全員ヘルメットとバックパックを片付け、イヴェットのスーツを脱《ぬ》がしにかかった。背中を開き、上半身を抜こうとする。
直後――イヴェットは悲鳴《ひめい》を上げた。
ACT・4
ハードシェル・スーツの欠点のひとつは、亀裂《きれつ》などが入った場合、内部の空気が一度に抜けることだった。
あの衝突《しょうとつ》でイヴェットのスーツの左前腕は座屈《ざくつ》したが、気密は破れなかった。アリアンのスーツは硬《かた》い殻《から》の内側に軟質《なんしつ》の膜《まく》があり、万一殻にひびが入ってもチューブレス・タイヤのように気密を保つ工夫《くふう》があった。もしそれが効《こう》を奏《そう》さなければ、イヴェットは即死《そくし》していただろう。
しかし、強靭《きょうじん》なカーボン樹脂《じゅし》の腕《うで》はその瞬間《しゅんかん》、限界を超《こ》えて折れ曲がったらしい。
中身も無事ではなかった。イヴェットは左|前腕《ぜんわん》の手首に近い位置を骨折していた。
アンヌが医療《いりょう》キットを出して痛み止めを注射し、金属《きんぞく》の副木《そえぎ》とテープを出して腕を固定した。
それから一時間あまり、飛行士たちは狭《せま》い船内で点検《てんけん》作業に忙殺《ぼうさつ》された。ジュピター2は装置《そうち》のテストを矢継《やつ》ぎ早《ばや》に指示してくる。気密、生命|維持《いじ》系、通信系、推進《すいしん》系、熱遮蔽《ねつしゃへい》、航法系。そして衝突《しょうとつ》したオービター・ヴェルソーの眼視観測《がんしかんそく》。
ヴェルソーは地上からの遠隔操作《えんかくそうさ》でポアソンの後方二百メートルに保持された。ヴェルソーが自動送信してくるテレメトリを地上で調べた限り、故障《こしょう》を示すデータはなかった。
『現在、今後の飛行計画を協議している。そのまま待機せよ』
連絡《れんらく》を受けて、六人は力を抜《ぬ》いた。
スポンジで顔をぬぐい、髪《かみ》を宙に漂《ただよ》わせる。
気詰《きづ》まりな沈黙《ちんもく》がおりてきた。
あれこれ指示されて、忙《いそが》しくしていたほうがまだよかった。
衝突《しょうとつ》の原因については、いまは考える時ではなかった。無人のヴェルソーは地上からの遠隔操作で位置を保つはずだったが、なんらかの原因で漂流《ひょうりゅう》したのだろう。そして六人の宇宙飛行士とジュピター2の管制官のすべてが、必要な時に必要な注意を払《はら》っていなかったのだ。
イヴェットは月に降りる二人のうちの一人だった。月着陸機はオートバイのような代物《しろもの》で、キャビンはもちろん、まともな緩衝座席《かんしようざせき》もない。これで秒速二キロの加速をおこなうのだから、両手両足が使えないと乗れない。月着陸機の訓練を受けているのはイヴェットとソランジュだけだった。一人で操《あやつ》れないわけではないが、それで未知の月面と往復するのはあまりに危険すぎる。
月着陸機はもちろん、この骨折部位ではスイッチやレバーをひねる動作が難《むずか》しくなるから、オービターの操船《そうせん》も難しい。
茜は月周回飛行、ゆかりとマツリはLEOからの帰還《きかん》に絞《しぼ》って訓練を受けてきたが、あくまで補佐《ほさ》としてであって、とっさの手動操船に対応できるかどうかは未知数だった。
月面から戻《もど》った着陸機とのランデヴーのチャンスは一度しかない。それを逃《のが》したら着陸機の二人が生還《せいかん》する望みはない。
もとより、ぎりぎりの人員で出発したのだ。ミッションの核《かく》になるメンバーのリタイヤは致命的《ちめいてき》だった。
イヴェットは体を丸め、右手で顔を覆うようにして、ペイロード区画に浮かんでいた。
ゆかりの位置からは頬《ほお》しか見えなかったが、泣いているのはわかった。
しばらくして、イヴェットは不自然に明るい声で言った。
「痛み止め打てば……やれないこたぁないと思うんだがな」
「イヴェット。これから何をするにしても、あなたはここから帰還しないと」
ソランジュが言った。
「骨折したまま一週間も宇宙|滞在《たいざい》させるわけにはいかないわ」
無重量状態《むじゅうりょうじょうたい》では健康な骨|組織《そしき》でさえダメージを受ける。前例はないが、骨折の治癒《ちゆ》にプラスの効果があるとは考えにくく、もし悪化したらどうなるかわからない。
「いや、オレとしちゃ、それはいいんだけど」
「だめ。絶対にだめ」
「イヴェットを帰還させるとしたら、あたしがパイロットだな」
アンヌが言った。
「ヴェルソーは一度ガツンとやってる。計器に異常は出なくても、土壇場《どたんば》でどんなエラーが出るかわからない。とてもSSAにはまかせられないよ」
「それぐらい、こっちにまかせてくれていいけど? 訓練なら充分《じゅうぶん》やったし」
「ノン、ノン、ノン」
アンヌはぷるぷる首を振《ふ》ってゆかりをさえぎった。
「ヴェルソーはアリアンの――あたしたちの船なんだ。故障《こしょう》するかもしれない船にそっちを乗せたくないってこと。もし再突入《さいとつにゅう》にしくじってあんたたちが丸焼けになったりしたら、毎朝、鏡で自分の顔を見るたびに思い出すだろ」
ゆかりは拒《こば》めなかった。自分だって同じ判断をするだろう。
「だけど、このうえアンヌとイヴェットが戻ったら――」
言いかけて、ゆかりはさすがに遠慮《えんりょ》した。
そうなったら、アリアン側はソランジュ一人になってしまう。
「えーと、つまり……」
ゆかりはいま言えること、言うべきことを深した。
「二人が私をかばってくれたんだよね。ありがとう、イヴェット、ソランジュ」
「なあに、硬《かた》い服着てる者のつとめさ」
「私がかばったのは推進段《すいしんだん》よ」
「そーゆーことなら今の礼は撤回《てっかい》するけど」
「よくてよ」
困難《こんなん》に直面したとき大切なのは、士気とチームワークだ。お礼を言えば多少は雰囲気《ふんいき》が明るくなるかとも思ったが、逆効果だった。
それに追い打ちをかけるように、ソランジュは決定的なことを言った。
「もう、おしまいね。月飛行は。そうでしょう?」
誰も答えない。
「無理して、頑張《がんば》って、ここまで来たけれど――もう矢|尽《つ》き刀折れた。最初の計画どおり八人でやればこうはならなかったはず。これが私たちの限界ね。もう誰も、二度とフランス娘《むすめ》を宇宙飛行士にしようなんて考えないでしょう」
声に出したほうが、言葉にしたほうが、まだましとソランジュは考えたのだろうか。
大規模《だいきぼ》な計画ほど、二度目がない。どんなつまらない不運、不可抗力《ふかこうりょく》による失敗であれ、やり直しが許されない。今回の飛行だけで高価なアリアンVロケットを二機使い捨てている。苦労して完成させた月飛行モジュールも、軌道《きどう》上に放置すれば燃料が揮発《きはつ》してしまう。人間だけ出直すわけにはいかない。
仮《かり》にやり直すとしても、失敗の原因は徹底的《てっていてき》に排除《はいじょ》される。自己管理のできない少女に、二度とチャンスは与《あた》えられないだろう。
「でも、まだ四人いる」
茜がぽつりと言った。
ゆかりは、はっとしてその顔を見た。
怒《おこ》るでもない、悲嘆《ひたん》にくれるでもない、水のように澄《す》んだまなざし。
茜はこんなとき、必ず傾聴《けいちょう》に値することを言う。
「それにまだ、三日ある」
「三日って……どういうこと、茜?」
「月|周回《しゅうかい》軌道《きどう》に乗るまで三日ある。燃料は無駄《むだ》にできないけど、ここには実物がある。シミュレーターよりずっといい」
「これから訓練するっての?」
「私、月軌道でのランデヴーの訓練はひととおりやったし、ゆかりとマツリだって帰還《きかん》のための操縦訓練は受けてるよね。だから――私とどちらかもう一人で船はあずかれると思うの。それは、もちろん月に降りる人がまかせてくれればの話だけど」
「月に降りるほうはどうするの」
「それも、ゆかりかマツリのどちらかが――」
「無理よ!」
ソランジュが叫《さけ》んだ。
「オービターはいいとして、ゆかりもマツリも月着陸機には触《さわ》ったこともないんだから!」
「だから、三日ある」
茜は静かに答えた。
「月へのトランスファー軌道に乗ったら、慣性《かんせい》飛行が三日続く。その間に月着陸機を出して、船外で練習すれば」
「そんな……」
「それであなたの夢《ゆめ》がかなう。拒《こぱ》むこと、ないと思う」
茜は言いつのる。ソランジュは動揺《どうよう》をあらわにした。
「そんなこと……コマンダーとして責任が持てないわ。自分の夢のために未経験の者をまきこむなんて!」
「あたしなら平気だよ。だいたいソランジュだって月着陸は未経験じゃん」
ゆかりは進んで言った。つまらない遠慮《えんりょ》で誰かの夢が壊《こわ》れるのはやめにしたい。
「経験したことしかしないんだったら、宇宙飛行士なんて自慢《じまん》できる仕事じゃないよね」
「そんな――簡単に言うけど!」
「マツリはどう? 月までつきあう気はある?」
「ほい、周回軌道までなら行くよ」
「着陸はしたくない?」
「そこは月の精霊《せいれい》の領分《りょうぶん》なんだよ、ゆかり」
タリホ族のシャーマンはそう言った。
「月の精霊はいたずら好きでたちが悪い。マツリが降りたら魂《たましい》を奪《うば》われてしまう」
「んな、馬鹿《ばか》な」
「ほんとだよゆかり。タリホ族が月の精霊のすみかに行くときはランプタンの実とイチジクの蔓《つる》で結界《けっかい》をつくって、それから赤土を豚《ぶた》の脂《あぶら》で練《ね》って体じゅうに塗《ぬ》らないとだめだよ。でも持ってこなかったね」
マツリの表情は読み取りにくいが、どうやら本気らしい。ひとたび本気になると、マツリは決して考えを変えない。
「この呪術師《じゅじゅつし》が宗教上の理由で着陸できないとすると……茜はどう? 行きたいんでしょ、月面まで。ほんとは」
「行きたくないって言ったら嘘《うそ》になるけど、それはだめ。正式に月周回の訓練を受けたのはSSAのなかで私だけだもの。私が船をあずからないと。だいいち私、Gに弱いから」
「そうか。となると……」
まいったな。
ソランジュと目を合わさないようにしながら、ゆかりは言った。
「……つまリソランジュとあたしが月に降りるって展開《てんかい》になるんだけど」
しばらく待ったが、ソランジュは反応《はんのう》しない。かわりにイヴェットが言った。
「オレは、いいと思うな」
「やってやれないことはないかもね」
アンヌとしては、かなり前向きの肯定《こうてい》だった。
五人の視線がソランジュに集まる。
ミッション・コマンダーは見るからに困惑《こんわく》していた。目はせわしなく動くが、焦点《しょうてん》は脳裏にある。
かなり待たされてから、ソランジュはうなずいた。確かにうなずいた。
「日本人三人にフランス人一人なんて――」
屈辱《くつじょく》にまみれた顔で言う。
「まるで植民地だけど」
なぐったろか。
思わず拳《こぶし》を固めたが、ゆかりは自制した。
行こう。これで茜を月軌道に送りこめる。
実は自分も行きたかったんだ。
茜と同じものが――それ以上のものが見られる。
「そうと決まれば地上を屈伏《くっぷく》させないとな。絶対|承認《しょうにん》しないから」
ゆかりは仕切りにかかった。
「船を遠隔《えんかく》制御《せいぎょ》で乗っ取られないようにしなきゃ。イヴェットとアンヌは知らん顔してヴェルソーに乗って、制御をこっちに取り戻す。コンピュータもロックしないと」
「よしきた。だけどこれからの月飛行の手順はどうする? 予定に遅《おく》れてるし、地上がうんと言わなきゃ新しい計算結果がもらえないぜ」
「トランスファー・ウインドウ3でいけるわ」
ゆかりに好き勝手はさせまいと、ソランジュが言った。
「ウインドウ1と2はもう遅刻《ちこく》だけど、3はまだ間に合う。ルナ・トランスファー開始まであと――一時間三十五分。これで地球周回軌道を離脱《りだつ》したら、地上もあきらめて協力するはずよ」
ソランジュは時計を見ながら指示する。
「全員、EVAにそなえてスーツをチェック。SSAはエア・カートリッジを交換《こうかん》。それからイヴェットをレスキューバッグに入れてちょうだい」
「あれに入るのかあ。かっこ悪いな」
「気にしない。あなたはミッションを救った英雄《えいゆう》よ。アンヌはイヴェットを牽引《けんいん》してヴェルソーに乗船し、ただちに点検《てんけん》開始。もし再突入《さいとつにゅう》に無理があるならこの計画はキャンセルする。マツリと茜は二人の乗船をサポートし、ヴェルソー外部の点検を行なう」
「ほい」「はい」
「アンヌはヴェルソーの制御を奪回《だっかい》したらこっそり知らせて。合言葉は「帰ったらドン・ペリニヨンで乾杯《かんぱい》しよう」
「ウイ」
「ゆかりは推進段《すいしんだん》の外部点検。傷《きず》、曲がったもの、へこんだものがあったらなんでも報告して」
「了解《りょうかい》」
「ハッチ開くとテレメトリで地上にばれるよ」アンヌが指摘《してき》した。「なんか口実を作らなきゃ」
「船外活動で外部を点検すると言うわ。どっちみち必要だから」
ソランジュはその旨《むね》をジュピター2に連絡《れんらく》し、承認を得た。
船内の空気を排除《はいじょ》して、ソランジュを除《のぞ》く全員が外に出た。イヴェットは寝袋《ねぶくろ》のようなレスキューバッグに包まれて引かれていったが、カメラの死角を選んだのでばれる心配はなかった。
ゆかりは推進段の後部まで移動し、タンクの外壁《がいへき》を重点的に調べた。あのときハードシェル・スーツの一部が食い込んだのだろう――断熱材の一部がえぐれていたが、問題はなさそうだった。それ以外に目立った故障《こしょう》はない。
半時間後、アンヌが知らせてきた。
「オービター・ヴェルソーは健在。帰ったらドン・ペリニヨンで乾杯《かんばい》しよう」
『いい考えね』
ソランジュがすました声で答える。
ほどなくジュピター2からの通達が入った。
『諸君に残念な報告をしなければならない。わかると思うが――月ミッションは中止される。オービター・ヴェルソーは点検のうえ、アンヌとイヴェットが乗って帰還《きかん》する。残り四名はオービター・ポアソンで帰還する。詳細《しょうさい》な手順はまもなくアップロードする』
『ポアソンよりジュピター2へ。アンヌとイヴェットの帰還については承認。しかしミッションは継続《けいぞく》します。月飛行モジュールはウインドウ3を使用して五十三分後に発進、月トランスファー軌道《きどう》に移行する予定』
数秒の間があった。
『……ポアソン、内容が理解できない。再度送信してくれ』
『なんどでも言うわ。月飛行はやめない。SSAの三人と私、ソランジュ・アルヌールで月へ向かう。以上!』
それからジュピター2はひっきりなしに呼び出しをかけたが、ソランジュは応じなかった。
ヴェルソー船内では、アンヌとイヴェットが着々と帰還《きかん》準備を進めていた。
現在の軌道はほとんど赤道直上にあるので、九十分ごとに洋上で待機する回収チームの上空を通る。帰還の”窓”も九十分おきに開くので、月飛行モジュールが発進する前に二人は帰途《きと》につくことができた。万一|装置《そうち》にトラブルが起きても、そばに月飛行モジュールがいるのは心強い。
『それじゃお先に』
直通回線のむこうでアンヌは淡々《たんたん》と告《つ》げて、逆噴射《ぎゃくふんしゃ》エンジンの点火シーケンスを開始した。
ポアソンに乗り込んだ四人は五百メートル離《はな》れて様子を見守った。インド洋の青い弧《こ》を背景に、オービター・ヴェルソーのOMSエンジンが閃《ひらめ》いた。半透明《はんとうめい》の燃焼ガスが絹《きぬ》のように広がってゆく。円錐形《えんすいけい》のオービターは静かに動きはじめ、軌道後方に離れていった。
『燃焼は正常。ボン・ボヤージュ、ポアソン!』
「ボン・ボヤージュ、ヴェルソー!」
ヴェルソーの軌道|離脱《りだつ》から八分後、月飛行モジュールも噴射を開始した。0・三G、十五分間にわたる噴射が終わると、苦労して連結した二号機の推進段《すいしんだん》は用済《ようず》みになった。連結部の爆破《ばくは》ボルトに点火して切り離す。
「ポアソンよりジュピター2、月|遷移《せんい》軌道へのデルタV終了。これよりシェルターに移る」
『了解《りょうかい》――』
マイクに管制官のため息が入った。
『とうとう手の届《とど》かないところへ行ってしまったな。せめてシェルターにいる間、制御を渡してくれないか。もう物理的に引き返せないんだから、邪魔《じゃま》はしない』
ソランジュは少し考えて、この申し出を受け入れた。
月飛行モジュールはまだ地球|近傍《きんぼう》にいるが、すでに月軌道に到達《とうたつ》するだけの増加速度、秒速三・三キロを得ている。位置的にはスペースシャトルの行動|範囲《はんい》だが、この速度に到達できる有人宇宙船はこの世に存在しない。こうなったからにはジュピター2も飛行を支援《しえん》するしかないだろう。
ソランジュは船の制御をジュピター2に開放し、シェルターへの退避作業に取りかかった。
ACT・5
「……てなわけで、ただ乗りで三人とも月へ行っちまったよ――さつき君。フランス様々《さまさま》じゃないか、ええ?」
那須田《なすだ》は笑いが止まらない様子だった。
「笑い事じゃありませんよ! ゆかりちゃんとソランジュが組んで月面に降りるなんて、想像しうる最悪の人員配置です! もう、どうしたらいいのか――」
さつきは頭を抱《かか》えた。
「それはそうだが、行っちまったもんは仕方がない。なんとか折り合いをつけてくれることを祈《いの》るしかないじゃないか」
「祈ってすむならお百度でもしますけどね!」
医学主任は引き出しから薬瓶《くすりびん》を取り出し、錠剤《じょうざい》をひとつかみあおった。胃薬《いぐすり》だった。
[#改ページ]
第五章 月は東に 地球は西に
ACT・1
月への旅路の途中《とちゅう》には、ヴァン・アレン帯と呼ばれる放射線《ほうしゃせん》の濃《こ》い領域《りょういき》がある。放射線は船体を貫通《かんつう》して、飛行士たちの体に降り注《そそ》ぐ。粒子束《りゅうしょそく》が最強になる場所は避《さ》けるが、それでもLEOより桁外《けたはず》れの密度になる。
アポロ計画ではこれという対策《たいさく》もとられなかったが、未婚《みこん》の少女が月に向かうとあってはそうもいかなかった。
そこでアリアンは一号機の推進段《すいしんだん》内部にシェルターを設《もう》けた。液体水素・液体酸素タンクを貫《つらぬ》くように直径九十センチ、長さ三メートルのトンネルをつくり、断熱材で覆《おお》って空気を循環《じゅんかん》させる。液体燃料は放射線を防ぐ壁《かぺ》としてかなり有効に機能する。帰途《きと》はタンクが空になるので役に立たないが、往路だけでもこのシェルターを使えば総被曝量《そうひばくりよう》を安全|圏内《けんない》にとどめられるのだった。
「時間がないわ。急いでシェルターに入って」
ゆかりは地球が遠ざかってゆくところを見たかったが、放射線|漬《づ》けになるのは御免《ごめん》だった。茜、マツリに続き、貨物モジュールを貫通するトンネルを通ってシェルターに入る。
「うわ。こりゃカプセルホテル以下だな」
シェルターの奥《おく》は茜とマツリで満員だった。目の前にスキンタイト・スーツに包まれた四つの足があって、それ以上進めない。そこヘハードシェル・スーツを着たままのソランジュが割り込んできた。これはつまり、直径九十センチ、高さ一・五メートルのドラム缶《かん》に二人で入ることになる。
せめて背中を向けたかったが、もう手遅《ておく》れだった。
目の前に相手の顔がきた。他人とここまで顔を近づけるのは、キスの時ぐらいだろう。
胸と胸もぶつかる。ハードシェル・スーツの中にいれば平気だろうが、ゆかりのほうは容赦《ようしゃ》なく圧迫《あっぱく》された。
「なによ、宇宙服くらい脱《ぬ》いでくればいいじゃないのさ!」
「そっちだって着てるじゃない」
ソランジュは鼻をひくつかせた。
「臭《にお》うわね。嫌《いや》だ、スキンタイト・スーツって汗《あせ》が外にしみだすのね!」
女どうしが、傷《きず》つくようなことを言う。
「嫌ならヘルメットかぶってれば!」
「バックバックのスペースがないしアンビリカルも届《とど》かないわ。そもそもこのシェルターはそんな汗臭い格好《かっこう》で入るように設計されてないの」
「入れって言うから入ったんじゃない!」
「二人とも喧嘩《けんか》しないで」茜がたしなめる――というより懇願《こんがん》する。
「あと二時間のしんぼうだから」
「二時間も!」
訓練というものの重要性をゆかりは思い知った。知っていればこの順番では入らなかっただろう。今となってはソランジュと向き合うのをやめるわけにいかなかった。
ゆかりは顔だけをそむけ、ソランジュも同じことをした。
すぐに首筋《くびすじ》が疲《つか》れてきた。
「あのさ、総督《そうとく》」
「私のことを言ってる?」
「そう。こうやって抱き合うんじゃなくて、背中まるめて膝を抱く姿勢にならないかな。胎児《たいじ》みたいにさ」
「そんな姿勢、このスーツではできないわ」
「自由度低いんだな」
「これのおかげで命拾いしたことはお忘れかしら」
「月でもよろしくたのむわ」
ゆかりはソランジュの両脚《りょうあし》の間をまさぐり、自分の右脚を押《お》し込んだ。これで少し楽になった。
「うっ……」
ソランジュが急に顔をしかめた。
「虫歯でも痛むの?」
「ちがう」
「宇宙酔《うちゅうよ》い?」
「まさか」
ソランジュは急いで付け加えた。
「だから――汗臭くて気分が悪いだけ!」
「ああそうごめんね!」
ゆかりはそれっきり口をきくのをやめた。目を閉《と》じて、眠《ねむ》ろうとする。
意外にも、すぐ眠りに落ちた。
ACT・2
大型のプロジェクション・スクリーン。ずらりと並《なら》んだコンソール。ガラスで仕切った報道スペース。宇宙船の管制室としてはスタンダードな構成だが、ジュピター2のそれはインテリアに目の覚めるような真紅《しんく》のカラーリングをほどこして、フランスならではのセンスを発散していた。
ヴェルソーの大気圏再突入《たいきけんさいとつにゅう》は成功し、回収チームがすでにコンタクトしている。アンヌもイヴェットも元気だった。
少なくともこれで、矢継《やつ》ぎ早《ばや》に起きた心配事《しんばいごと》のひとつは解消された。
コンソールの最後列にはアリアンの幹部が陣取《じんど》っていたが、いまは空席になっていた。
彼らはカメラを避《さ》けて、別室に集まっていた。
なにしろ宇宙開発史上初めての、明白な反乱だった。小さな衝突《しょうとつ》はいくらでもあったが、飛行中止を命じられた船がそれを無視《むし》した事例はなかった。
「相当な動揺《どうよう》があったことは確かでしょう」
フライト・サージェント――飛行士たちの専任医師は、ソランジュの心理状態をそう分析した。
「ヴェルソーの衝突を回避《かいひ》できなかったことへの後悔《こうかい》と自信|喪失《そうしつ》。仲間の負傷《ふしょう》。日本人クルーとの反発。これで正常な判断《はんだん》ができるとは思えません」
「日本側が反乱をそそのかしたと言うのかね」
フランクールが問いただす。
「だが日本人たちはそんなに月へ行きたがっていたのか?」
フランクールはベルモンドを目でうながした。
「茜はそうでした。しかし誓《ちか》ってもいいですが、軽率《けいそつ》な行動をする子ではありません。反乱に賛成したとしても、それは相談して一致《いっち》をみたからでしょう」
幹部たちは別の心配をはじめた。
「我々は日本|娘《むすめ》を月に運ぶために巨額《きょがく》の投資をしたんじゃないんだぞ」
「しかし船長はソランジュです。SSAはサポーターであって、ソランジュの指揮下で動いている。面目《めんぼく》はかろうじて保てるでしょう」
「いずれにせよ、月飛行モジュールはもうLEOを離脱《りだつ》してしまったんだ。逆らわずに手を貸すしかない」
「いや、まだ手はあります」
飛行主任が言った。
「モジュールはどうあっても月|軌道《きどう》まで行ってしまう。これは決定|事項《じこう》です。しかし最も危険なのは月着陸です。これを阻止《そし》する手はあります」
「どうするんだね?」
「自由|帰還《きかん》軌道です」
その一言で、一同は理解したようだった。
「だが、せっかく月軌道まで行って何もせずに戻《もど》ってくるとは……」
「これは救助活動なんですよ」
飛行主任は言った。
「娘《むすめ》たちが向こう見ずな行動に出たら、それを止めるのが我々のつとめでしょう」
「それはそうだが……」
フランクールは苦い顔で葉巻を噛《か》んだ。
だが、まったく訓練を受けていない森田ゆかりを月着陸に同行させるなど、承認《しょうにん》するわけにはいかない。阻止する手段があるなら、それを採用するしかなかった。
「やむをえんか。月の裏をまわるだけでもいい演習になる。アポロ計画だってそんなテストを繰り返したんだからな」
ACT・3
何かが体の上を移動してゆく。胸から腹、腹から腰《こし》へ。
なんのテストだ痛いぞこら。人を実験動物みたく扱《あつか》うな。
――ゆかりは我に返った。
ソランジュが身をよじりながら出口に向かっているところだった。
こうしてみると、もし全員がハードシェル・スーツを着ていたらシェルターに入れないのは明らかだった。本来のプログラムではスーツを脱《ぬ》いで入る予定だったのだろう。ソランジュはさんざん汗臭《あせくさ》いと文句をたれたが、あれを脱いでいたらもっと臭《にお》ったはずだ。ソランジュはそうなるのを避《さ》けたのだろうか。
ゆかりはソランジュに続いてキャビンに出た。茜とマツリも出てくる。
「さてと総督《そうとく》。次の手順は?」
「アースビュー。燃料に余裕《よゆう》があるなら」
「あるの? 余裕」
「まだ無駄《むだ》にはしてない。省略《しょうりゃく》する理由はないわ」
ソランジュは操縦席《そうじゅうせき》につき、姿勢制御系《しせいせいぎょけい》を起動《きどう》した。
どこかでリモートバルブの音がして、かすかなGを感じた。
三分ほどしてもう一度バーニア・エンジンを噴射《ふんしゃ》する。姿勢指示器を見ると船体が百八十度|回転《かいてん》したことがわかった。いまは慣性飛行中なので、船はどこを向いていてもかまわない。
ソランジュはルームライトを消した。液晶《えきしょう》スクリーンも消す。
キャビンは真《ま》っ暗《くら》になった。
四人は、窓からさしこむ青い光に気づいた。
地球光。
腕《うで》を伸《の》ばした先の、青いビーチボール。それが地球だった。三分の一が宇宙の闇《やみ》に溶《と》け込み、地球はレモンのように欠けていた。
いかん。宇宙飛行のプロたるものが、こんなもので感激《かんげき》してどうする。
ゆかりは反射的にそう思い、まわりをうかがった。
茜もマツリも呆然《ぼうぜん》と見とれている。
ゆかりはソランジュの横顔から目が離《はな》せなくなった。
青い光が髪《かみ》と瞳《まつげ》を冷たく照らし、鼻梁《びりょう》から顎《あご》にかけての端整《たんせい》な線を浮《う》き彫《ぼ》りにしている。マスカットの粒《つぶ》をそっとはめこんだような瞳《ひとみ》は、やはり一心に地球を見つめていた。
きれいだ、とゆかりは思った。ギリシャの彫像《ちょうぞう》みたいだ、
それが今にもこちらを向きそうな気がして、ゆかりは地球に視線《しせん》を戻《もど》した。
アフリカ大陸とヨーロッパがこちらに向いていた。青い光の正体は大西洋とインド洋の総和だった。紺碧《こんぺき》の海に斑《まだら》の雲がいきいきと輝《かがや》いている。雲が優勢《ゆうせい》なのは高緯度帯《こういどたい》で、それぞれの極のまわりを冠《かんむり》のようにとりまいていた。
地球は海と雲の球体だった。陸地は驚《おどろ》くほど目立たない。サハラ砂漠《さばく》だけが雲ひとつなく、褐色《かっしょく》の大地をあらわにしている。
地球は静止していた。その自転《じてん》速度は時計の短針の半分にすぎない。低軌道《ていきどう》では刻々《こくこく》と眼下《がんか》を流れてゆくが、周回軌道を離脱《りだつ》するや、あらゆる見かけの動きが消滅《しょうめつ》したのだった。
いや、そうじゃない。
ゆかりは、世界のかすかな動きに気づいた。
窓枠《まどわく》の上下にカメラを固定する金具があり、それがちょうど地球の両極をはさむように見えていたのだが――気がつくと地球は“ごそごそ”だった。
「離れてくね、地球。動いてるのがわかる」
自分たちはいま、急速に地球から離れている。秒速十キロとして、一分間で六百キロ。
三分も眺《なが》めていれば、日本列島を縦断《じゅうだん》する距離《きょり》だけ離れるのだ。
「みんなに見せたかった」
ソランジュがつぶやいた。
そうすれば、恋《こい》にうつつをぬかすこともなかったろうに――そんな思いだろうか。
「不思議。これを見たらさびしくなると思ってたのに」
茜がマツリに話しかけた。
「なんだかすごく優しい気持ちになるみたい。ねえ?」
「ほい、マツリは心配になってきたよ」
「どうして?」
太陽を飛び出した荷電粒子《かでんりゅうし》が地球の磁場《じぱ》につかまって濃縮《のうしゅく》されるドーナツ状の領域《りょういき》――マツリはヴァン・アレン帯を正しく理解している。
LEOにいるうちはまだ地球に包まれていたが、ヴァン・アレン帯を出たらその気配《けはい》が消えた。地球生命の存在が許されない場には、もちろんそれに代わる何かがいるのだ。マツリはそう確信していた。
「茜はなぜ優しい気持ちになる?」
在学中、学年ナンバーワンだった秀才《しゅうさい》は、少し考えて言った。
「ポテンシャル、かな?」
茜は自分の口をついて出た言葉に首をかしげた。
わずか三十七キロの体重だが、いま茜が持っている運動エネルギーは対戦車砲弾《たいせんしゃほうだん》をやすやすと押《お》し戻《もど》せる。優しさのよりどころは強さだ。全世界で四位以内に入る高いポテンシャルがその優しさをもたらしたのだ……ということらしい。
ソランジュは時計を見ると、ルームライトを点灯《てんとう》した。
船の姿勢を整《ととの》え、バーベキュー・ロールといわれる回転《かいてん》運動を与《あた》える。これは船体への日照を均一《きんいつ》にするための二十分周期の緩《ゆる》やかな回転で、遠心力はほとんど発生しない。もちろん、直径三メートルのカプセルを回転させて擬似《ぎじ》重力を作っても、コリオリ力で不快になるだけだろう。
それから、DSN、ディープスペース・ネットワークへの切り替《か》えをチェックする。
静止軌道より遠方の宇宙船との交信はNASAの――文字どおり――深宇宙《しんうちゅう》ネットワークを使う。世界各地に設置された直径六十メートル級のバラボラアンテナが入れ代わり立ち代わりこちらを照準してくれる。DSNにとって月は庭先にすぎない。それは太陽系外に出た探査機《たんさき》の微弱《びじゃく》な電波さえキャッチする、世界最強の遠距離《えんきょり》通信網《つうしんもう》だった。
「ポアソンよリジュピター2、シェルター退避《たいひ》およびアースビュー・プログラムを終了《しゅうりょう》、バーベキュー・ロールに入った。全装置《ぜんそうち》は正常、オーバー」
『ポアソン、こちらジュピター2、感度良好。キャンベラ局の観測《かんそく》では軌道精度《きどうせいど》は良好。追って軌道修正データをアップロードする。ほかに欲しいものはあるかね?』
「ゆかりとマツリの訓練スケジュールを作ってほしい。飛行計画書四章|冒頭《ぼうとう》から六章五十八ページまでを再編成することになる。インタビューや優先度の低いプログラムはすべて削除《さくじょ》して」
『了解《りょうかい》した。飛行計画の再編成にはすでに着手している。できしだいアップロードする』
「ポアソン了解」
交信が終わると、ソランジュは他の三人に命じた。
「月軌道までの三日間はブルー、レッドの二|交替制《こうたいせい》になるわ。ブルー・シフトは私とゆかり、レッド・シフトは茜とマツリ。それぞれ一日十六時間活動して八時間は両シフトが重複する」
犬猿《けんえん》の仲《なか》が同じシフトなのはやむをえなかった。ゆかりに月面活動をコーチできるのはソランジュしかいない。
「就寝《しゅうしん》はシェルターで行なう。予定からずれ込んでるけど、茜とマツリはいまからでも就寝にかかって」
「はい」「ほい」
「ゆかりは月着陸機と月面活動の手順書を精読《せいどく》して」
「は〜い」
ソランジュはロッカーから分厚《ぶあつ》いマニュアルを出してこちらに押《お》しやった。空中で受け取ると、それはどっしりした慣性があり、反作用で自分の体が回転《かいてん》するほどだった。
ソランジュはあいかわらずハードシェル・スーツを着ていた。
「ねえ、いいかげん宇宙服|脱《ぬ》いだら? 汗臭《あせくさ》くても平気だよ、あたしなら」
「後にするわ」
「あっそ」
ゆかりは寝椅子《ねいす》のようなシートに体をゆわえ、手順書のページを繰《く》った。
たちまち問題が表面化した。
「なにこれフランス語じゃん!」
「……しまった」
ソランジュは舌打《したう》ちする。月周回軌道までの手順書は茜のために英訳版が用意されていたが、そこから先にSSAの参加は想定されてなかった。
「とりあえず、絵と略号《りゃくごう》だけでも理解して」
「やってみるけど」
フランス語の略号にはいつも当惑《とうわく》させられる。「ギアナ宇宙センター」は英語ならGSCだが、フランス語ではCSG(Centro Spacial Guyanais)となる。単語は似通《にかよ》っていても語順がまるで違《ちが》うのだ。
「……さっそくだけどCPって?」
「Chambre Propulsive 燃焼室」
「フランス語ってなんでいちいち逆にするわけ?」
「英語が逆なのよ」
「日本語だって英語と同じなのに。ネンショウ・シツって」
「じゃあ日本語も逆なのよ。この機会にフランス語の美のなんたるかを教授してもいいわ」
「遠慮《えんりょ》しとく」
ソランジュはゆかりの横に来て、手順書にボールペンで英語訳を入れはじめた。
「あー、そのへんはいいよ。エンジンの修理なんかしないでしょ」
「構造はきちんと理解しないと。何が起きるかわからないんだから」
ソランジュはページをめくりながら、次々に記入してゆく。
ゆかりはまた、その横顔に見入った。
とことん真摯《しんし》な奴《やつ》。似《に》てる。やっぱりこいつ――
「これはあなた自身を救うためにしていることよ? 月着陸をあのエアバスみたいにやられちゃおしまいなの。そのためには手順書を隅々《すみずみ》まで理解して、あらゆる事態に対応できないと。わかってる?」
ゆかりは思わず吹《ふ》き出した。
「やっぱりあんたってさ、茜に似《に》てるわ」
「茜に?」
「そう。みんな言ってるけど」
ソランジュは肩をすくめた。
「彼女はSSAのなかでは見所《みどころ》のある人材だわ」
ぶっきらぼうに言う。だがその煩《ほほ》は、かすかにゆるんだような気がした。
ACT・4
茜とマツリが起床《きしょう》して、両シフトの重複時間帯になった。茜の初仕事として、ソランジユはバーペキュー・ロールの停止《ていし》を命じた。茜はとまどうこともなく、バーニア・エンジンを噴射《ふんしゃ》して難《なん》なく船の回転《かいてん》を停《と》めた。
ソランジュは船を茜にまかせ、ゆかりをともなって船外に出た。
地球はいつのまにか夏みかんサイズになっていた。月はまだ遠くて、大きさの変化は感じない。錯覚《さっかく》にちがいないが、地上から見たときよりむしろ小さく感じる。
ソランジュとゆかりは貨物モジュールにとりついた。金色の熱遮蔽《ねつしゃへい》シート、サーマルブランケットをめくり、折畳《おりたた》んだ月着陸機“ポレール”を引き出す。
実機を使ってのリハーサルをするのだ。
こごでも伸縮式《しんしゅくしき》のポールを使った。貨物モジュールから旗竿《はたざお》のように突《つ》き出したポールの先にポレールは留《と》まっていた。どうみても月着陸機には見えない。金属《きんぞく》フレームとサーマルブランケットのもつれあう、スクラップの塊《かたまり》のようだった。
「魔女《まじょ》のホウキってゆーか、蜘蛛《くも》の死骸《しがい》みたいだね。これで月と往復するのは度胸《どきょう》だな」
『誰《だれ》もがそんな言い方をするわ。でも先駆者《せんくしゃ》の旅ってそういうものじゃなくて? サン・テグジュペリたちが海を越《こ》えて南米に飛ばした郵便機も単発機だった。リンドバーグもそう。そんなちゃちな飛行機では自殺行為《じさつこうい》だと言われた』
「確かにね」
二人はポールの先に移動した。
『わかる? リリースボルトを外して外側に倒《たお》す』
「えーと……こうか」
軽金属《けいきんぞく》でできた着陸脚《ちゃくりくきゃく》のひとつが、手品《てじな》のように展開《てんかい》した。四本の脚《あし》をすべて開き、二種類のアンテナを展開すると、なんとなく着陸機らしくなってきた。
四本の脚は平たい八角形の箱の四方から伸《の》びている。箱の底部には二基一組のメインエンジン。箱の上には球形《きゅうけい》のタンクが二つ。タンクの間に簡単なサドルがふたつあって、背中あわせに着席する。二人の背中にはさまれるようにして、一本の太いマストが頭上にのびている。搭乗者《とうじょうしゃ》の体を保護する、ロールバーのようなフレームもある。マストの先端《せんたん》にはパラボラアンテナ。
二人はサドルにまたがり、両脚を外側にのばし、四点式ハーネスで体を固定した。
計器盤《けいきばん》はきわめてシンプルだった。一枚の液晶《えきしょう》ディスプレイと数個のスイッチ類、パイロットランプしかない。操縦装置《そうじゅうそうち》は複式で、ゆかりとソランジュの両方に同じものが付いている。アームレストの先には操縦|桿《かん》が左右にひとつずつ。
操縦はソランジュが担当《たんとう》し、ゆかりはそのサポートを受け持つ。操縦はコンピュータにまかせてもいいが、先人の得た教訓からいつでも手動にスイッチできる。もし最後の瞬間《しゅんかん》に手動操縦できなかったら、アポロ十一号の月着陸船は転倒《てんとう》していただろう。
月面での転倒は悪夢《あくむ》だった。転倒しないまでも、着陸後の姿勢《しせい》が二十度以上|傾斜《けいしゃ》すると帰還《きかん》できなくなる。
着陸地点は永遠の暗黒《あんこく》のなかにある。そこへ照明弾《しょうめいだん》と電波高度計を頼《たよ》りに降下してゆく。高度百メートルを切ったらライトで下界を照らし、着陸地点を探す。
このときポレールは、ロケットを下方に噴射《ふんしゃ》して最長百秒間のホバリングができる。
タイムリミットが来たら安全装置が働いて自動的に全力噴射に切り替《か》わり、月|周回軌道《しゅうかいきどう》に戻《もど》る。目的地の目前で撤退《てったい》することになる。やりなおす燃料はない。
『まず通信トラブルのリハーサル。地球と交信不能になった。どうする?』
「えーと、まず通信システム画面を選んでシステムチェック。送信系と受信系の消費電流を調べる。異常なら予備系統に切り替える」
『それで異常がなかったら?』
「高利得《こうりとく》アンテナの追尾《ついび》を疑う。正しくリピーターを指向しているかどうか。もし地球が見通せる位置なら、手動で地球に向けてみる」
『やってみて』
計器盤についた十字スイッチを押《お》して、バラボラアンテナの首を振《ふ》る。
「……やりにくいな。レスポンスが鈍《にぶ》い」
『あとでじっくり練習してもらうわ』
ソランジュは次の課題を出す。
『それでもだめだったら?』
「低利得《ていリとく》アンテナに切り替える」
『低利得アンテナを使うときの制約は?』
「画像が送れないのと、音質が悪くなること」
『いいわ。それでもだめなら?』
「もう打つ手はないんじゃなかったかな。通信ができないまま降りるか……中止するか。それはそっちが決めるんでしょ?」
『手順書には中止せよとあるわ』
「強行する気?」
『自分ひとりの命なら。でも、まあね……』
肩《かた》をすくめるしぐさが、宇宙服の上からでもわかった。
ゆかりは言った。
「あたしがコマンダーでも同じ判断《はんだん》だろうね。他人の命あずかってないんだったら、降りちゃうよきっと」
『そう?』
フェイスプレートの奥《おく》から、ソランジュはこちらを見た。
『それじゃ、このシチュエーションでのGO/NOGO判断はGOにしていいかしら』
「異議なし」
姿勢異常。スピン。弾道逸脱《だんどういつだつ》。異常燃焼。照明弾《しょうめいだん》の不発。
さまざまなシチュエーションを想定して、迅速《じんそく》にGO/NOGO判断――続行・中止の判断ができるように体と頭を慣らしてゆく。
バックパックの空気が尽《つ》きてきたので、二人はトレーニングを終え、船内に戻《もど》った。
ついでに貨物モジュールから食料や水酸化リチウム・カートリッジなど、消耗品《しょうもうひん》を取り出して船内に移す。オービターにはエアロックがないので、出入りのたびに船内の空気を捨てなければならない。出入りの回数は厳《きび》しく制限されている。
船内に空気が満ちて全員がヘルメットを脱《ぬ》ぐと、操縦席《そうじゅうせき》の茜がソランジュに言った。
「あの、ジュピター2から軌道修正《きどうしゅうせい》プログラムがアッブロードされてきたんですけど、ちょっと変なんです」
茜は液晶《えきしょう》ディスプレイに軌道図を表示させた。
月と地球を結ぶ月トランスファー軌道は、一般《いっぱん》に想像するより遥《はる》かに細長い。ソフトボールとピンポン球《だま》を三メートル離《はな》して並《なら》べると、地球・月系の正しいスケールモデルになる。ふたつの球の間に輪ゴムを8の字にかけたような曲線が月トランスファー軌道だった。
「現在位置はまだ道のりの三分の一ぐらいだから、ほとんど差はないんですけど……」
軌道の途中《とちゅう》にあるウェイポイントのひとつを、数値で表示させる。
「ほんのわずかですが、手順書の予定軌道とずれています」
「出発がずれたせいじゃないの?」
「それを考慮《こうりょ》しても、この差は不自然です」
茜は自分の解釈《かいしゃく》を説明した。
月飛行モジュールは最初、自由帰還《じゆうきかん》軌道とよばれる軌道に投入される。万一エンジンが故障しても、この軌道なら勝手に月の裏をまわって地球に舞《ま》い戻《もど》ってくるので、安全性が高い。
だが、いつまでも自由帰還軌道のままではいない。そのままでいると月周回軌道への移行が難《むずか》しくなるので、可能な限りなめらかに、燃料を無駄遣《むだづか》いしないように軌道修正していく。これをハイブリッド軌道という。
「今日|届《とど》いた修正プログラムは、自由帰還軌道からハイブリッド軌道に移行しようとする意志が感じられないんです」
「意志が感じられない?」
不穏《ふおん》な表現に、ソランジュは眉《まゆ》をひそめた。
「ジュピター2は私たちを月に降ろさないつもりだというの?」
「考えすぎでしょうか」
アポロ計画では月の赤道に近い、無難《ぶなん》な場所にばかり降りた。両極の上空を通る今回の飛行では自由帰還軌道とハイブリッド軌道のギャップはかなり大きい。
このまま自由帰還軌道を取っていたら、月周回軌道に乗りそこなう。LEOを離脱《りだつ》して全システムの正常を確認《かくにん》したら、ある時点で自由帰還軌道は放棄《ほうき》すべきなのだ。
「ジュピター2は私たちの月着陸を承認《しょうにん》してないんです。手遅《ておく》れになったところで事実を明かせば、私たちが月着陸をあきらめて、何もせずに地球に戻《もど》ると考えたんじゃ」
「あなたを連れてきてよかったわ、茜」
ソランジュは言った。
「正しいハイブリッド軌道を計算できるかしら」
「可能です。こちらからは正確な速度|測定《そくてい》ができないんですけど、さっき届いた自由帰還軌道から逆算すれば」
「オーケイ、ではその位置情報から軌道修正プログラムを作って実行してちょうだい。コンピュータをスタンドアローン・モードにするのを忘れずに。二度と地球に乗っ取られないようにしなきゃ」
「軌道修正の噴射《ふんしゃ》をすれば、ジュピター2は気づくと思いますけど」
「かまわないわ」
ソランジュは不敵な笑《え》みを浮《う》かべた。
ACT・5
月飛行モジュールが小さな噴射を実行すると、搭載《とうさい》コンピュータはそれに関《かか》わるバルブや推進剤《すいしんざい》の動き、温度、圧力、電流の変化をとらえて、自動的に地球に向けて送信する。これをテレメトリという。
十万キロを渡《わた》ってきたテレメトリはDSNのひとつ、アメリカのゴールドストーン局が受信、増幅《ぞうふく》し、再び空に放《はな》った。データの列は静止|衛星《えいせい》を介《かい》して南米のジュピター2に中継《ちゅうけい》される。
月飛行モジュールがみせた予想外の挙動《きょどう》に最初に気づいたのは、誘導《ゆうどう》航行主任だった。飛行主任が確認《かくにん》し、フランクール部長が呼び出された。
三人の前に軌道図《きどうず》が表示され、内容が吟味《ぎんみ》される。
宇宙船が行き当たりばったりに飛ぶことはない。その軌道は当事者の意図《いと》が最初から反映される。軌道に乗った最初の時点ですべてが確定すると言っても過言ではない。月トランスファー軌道は極端《きょくたん》に細長いので途中《とちゅう》での修正が意味を持つが、それも航程の三分の一を経過した今となれば決定的だった。
月飛行モジュールは月周回軌道をめざして、正確なハイブリッド軌道を描《えが》いていた。
フランクールは突然《とつぜん》笑いだした。
「やりおったか! 制御《せいぎょ》システムはロックされてるんだな? いいぞ!」
「いいぞって部長、これじゃもう手の出しようがありませんよ」
「好きにさせるさ。娘《むすめ》どもはテストに合格した。自分で月に降りる資格を得たんだ!」
飛行主任はフランクールに批判《ひはん》的な眼差《まなざ》しを向けながら、
「嬉《うれ》しそうですね?」
「嬉しくないのかね。月着陸を中止しなくていいんだぞ?」
「それで何が起きるか――私には責任が持てませんが」
「かまわんさ。我々が誘導して無知な小娘を月に運ぶのなら責任も問われよう。だがそうじゃないんだ!」
フランクールは顔を紅潮《こうちょう》させ、拳《こぶし》をふりあげた。
「彼女たちは自分で飛んでる! ヤッホー! もう誰《だれ》にも止められん! それが本物の宇宙船ってもんだ!」
報道席にいた数人の記者が、何事《なにごと》かとこちらを見た。
フランクールはプロジェクション・スクリーンの前に進み出た。そして叫《さけ》んだ。
「みんな聞け! 彼女たちは月に行く。全力をあげてサポートしろ!」
ACT・6
ゆかりはペイロード区画に潜《もぐ》り込んで、スポンジでスキンタイト宇宙服の表面をぬぐった。いわゆる“スポンジ風呂《ぶろ》”だった。裸《はだか》になって体を拭《ふ》けばベストなのだが、三日ぐらい着たままで過ごすことはよくある。スキンタイト宇宙服は“第二の皮膚《ひふ》”と言われるだけあって、表面をぬぐうだけでもかなりさっぱりするから不思議だった。
「さて、こんどはそっちの番よ」
ゆかりはソランジュを招《まね》いた。
「手伝ったげるからさ、いいかげん宇宙服|脱《ぬ》ぎなよ」
「まだいいわ」
「見るからにかったるいじゃん。その格好で動きまわられるとこっちまで狭《せま》いし、ボディスーツ着替《きが》えればさっぱりするしさ」
打ち上げ以来、もう三十時間も着たきりだった。下着感覚のスキンタイト宇宙服ならまだしも、甲冑《かっちゅう》のようなハードシェル・スーツは長時間の着用に向いていない。
「じゃあ……脱いでみようかしら」
ソランジュはためらいがちに、胴体《どうたい》側面の金具に手をまわした。
胴体の後ろ半分がぱくりと開き、肩《かた》まわりも固定が解《と》けた。改めて見れば、さほど厚みもないシェルが、強度と気密を保ちながらこれほど大きく開閉できるのは驚《おどろ》きだった。
甘酸《あまず》っぱいような体臭《たいしゅう》が漂《ただよ》い出す。ソランジュは両腕《りょうそで》を抜《ぬ》き、空《から》になったスーツの上半身を前方に折り曲げた。
あとは両脚《あし》を抜くだけだった。
ソランジュは爪先《つまさき》を壁《かぺ》の固定具に掛《か》けて、脚を抜こうとした。
うまくいかない様子なので、ゆかりは背後《はいご》からソランジュの上半身をつかみ、引っ張ろうとした。
「いいわ、手伝わなくても」
「遠慮《えんりょ》しないで。女どうしじゃん」
「よけいなことはしないで。一人でやれるから!」
「こういうことはチームワークでさ、いくよ」
「ちょっと! 待って!」
ゆかりは自分の両足を周囲の構造材にかけて、力任《ちからまか》せにソランジュの体を引っ張った。
「あううううううう!!」[#この行、原本では太字]
ソランジュは絶叫《ぜっきょう》した。
「どっ、どした!?」
ゆかりは狼狽《ろうばい》した。ソランジュは答えない。歯を食いしばって激痛に耐《た》えている。
「何、どうしたの!?」
「ほい、何があった?」
茜とマツリもやってくる。
「いや……ちょっと引っ張っただけなんだけど……おい、ソランジュ、大丈夫《だいじょうぶ》??」
金髪《きんぱつ》からのぞく耳朶《みみたぶ》が真《ま》っ赤《か》になっていた。
「どこが痛むんですか?」
茜が体を反転《はんてん》させて、ソランジュの脚に顔を近づける。
そしてハードシェル・スーツの右脚のふくらはぎ部分に、三日月状《みかづきじょう》の白い筋《すじ》を見つけた。
「これって、シェルが凹《へこ》んだ跡《あと》じゃ!」
「えっ?」
見覚えがある。座屈《ざくつ》したイヴェットのスーツの腕もこうなっていた。この素材は大きく曲がっても割れずに復元する。気密を保つために必要な仕様《しよう》だった。
だが、イヴェットは命拾いしたかわり、骨折したのだ。
「てことは、あんたも……?」
ソランジュはうなずいた。
痛みがやや引いたのだろうか、スーツの上半身を起こして腕を通し、背中を閉《と》じた。
「まだ……脱げる状態じゃなかった……腫れてて……」
迫《せま》ってきたオービター・ヴェルソーを押《お》し退《の》けようとした時だった。
ハードシェル・スーツの関節《かんせつ》は斜《なな》めにスライスした円筒《えんとう》を組み合わせたもので、素早《すばや》い動きには追従《ついじゅう》できない。全身が一本の棒《ぼう》のようになり、左脚に応力《おうりょく》が集中した。そして座屈した。
「なんで――なんで今まで隠《かく》してたのさ!」
「イヴェットといっしょに、帰還《きかん》するわけにはいかなかった」
「だけど自分で言ってたじゃん、ゼロG状態で骨折を放置《ほうち》しちゃだめだって!」
ソランジュは苦痛ににじんだ目で、ゆかりを見た。
「こうも言ったわ。自分ひとりの命なら、って」
「…………」
返す言葉が見つからない。
茜は正視に耐《た》えかねて、掌《てのひら》に顔をうずめている。
マツリは何を思ったか、ロッカーから工具箱を取り出した。
「スーツを分解しようっての、マツリ?」
「無理よ、やめて」
「ちがうよ。――これがいいね」
マツリは十四ミリのソケットレンチを取り出した。
「タリホ族の女は亭主《ていしゅ》が死ぬと自分の指を切って弔《とむら》うよ。マツリはソランジュのために指を折るね」
と、中指をレンチに突《つ》っ込む。
「ままま待て待て待て!」
ゆかりはあわててレンチを奪《うぱ》った。
「部族の儀式《ぎしき》やるなら、地球に帰ってから!」
「マツリはこのほうが楽になれるよ。みんなもやろう」
「つーか、これ以上|状況《じょうきょう》を悪化させちゃ困るんだってば!」
「気持ちだけでいいわ、マツリ」
ソランジュは弱々しく笑った。
「スーツがギプスの代わりになってるの。着ている限り、強い痛みはないし、脱《ぬ》がなくても死ぬわけじゃない。排泄《はいせつ》もできる」
「だけど、月面活動はどうすんのさ」
「脚で複雑な操作はしないわ。突《つ》っ張《ぱ》ればいいだけだから。土壌《どじょう》コアを切り出すのは……ゆかりに頼《たよ》るけど、装置《そうち》を支える役には立てるはず」
「しかしなあ」
「忘れないで。月面には六分の一の重力しかないってことを」
「うーん……」
体重は装備込みで十キログラム相当にしかならない。だが慣性はそのままだ。止まる時は三歩前から準備を始めよ、と手順書にはあった。そしてもちろん、片脚が不自由なまま月面歩行した前例はない。
考え込むゆかりを見て、ソランジュは目を伏《ふ》せた。
「騙《だま》すつもりはなかったわ。ゆかり――いずれ打ち明けて、あなたの承諾《しょうだく》を得るつもりだった。私の骨折があなたを危険にさらすんだから。でもまだ三日ある。月の周回《しゅうかい》軌道《きどう》に乗る頃《ころ》には、ひょっとしたら、もっとましな状態になってるかもしれない。だから――」
「いいよ、大丈夫《だいじょうぶ》。なんの問題もない」
ゆかりはソランジュに手をさしのべ、そっと引き寄せた。
「月に降りるまでに、あたしが聞いときたかったのはひとつだけ。そっちがさ、どれくらい行きたがってるかってこと。フランス人て、どうもそのへんで心が通わない感じだったんだ。でもこれでいいよ、もうわかった」
脱脂綿《だっしめん》を差し出しながら、ゆかりは言った。
「這《は》ってでも行こう。月に」
ソランジュは目を見開いた。こぼれようとしない涙《なみだ》に、光がまたたく。
[#改ページ]
第六章 ここに泉《いずみ》あり
ACT・1
「みっなっさーん、こんにちはぁぁぁ! フジミテレビの追っかけレポーター、桃井敬子《ももいけいこ》でーっす! 突然《とつぜん》の反乱でいまや全世界がテレビに釘付《くぎづ》け、美少女宇宙飛行士たちの決死の月飛行レポート、今日《きょう》も南米フレンチ・ギアナはクールーのギアナ宇宙センターからお届《とど》けしまーっす! さて月飛行も今日で三日目、いよいよゆかりちゃんたちは月|周回《しゅうかい》軌道《きどう》に乗っかろうとしています!」
画面はスタジオに切り替《か》わり、生《は》え際《ぎわ》の後退《こうたい》した男性キャスターが出た。
「いよいよ運命の時が迫《せま》ってきましたが、その月周回軌道っていうのは――桃井さん? 桃井さん? 聞こえます?」
「はいはい、よっく聞こえますよぉ!」
「僕ねえ、どうも月飛行のことは複雑でよくわからないんですが、月へ行くってんならどーんと打ち上げてそのままびゅううんと飛んで、すとんと月に降りりゃいいじゃないかって思うんですけど――今回はまず地球のそばでぐるぐる回りながら宇宙船を組み立てて、それから月に移動して、月でもまわりをぐるぐる回るわけですね?」
「ええそうなんです! これをELOR、アース・ルナ・オービット・ランデヴーと言いましてぇ、両方でぐるぐる回るんです。なんでかっていいますと、ロケットの力が足《た》りなくて、ぎりぎりまで軽いものしか月に運べないからなんですね。全部がまとめて降りられないんでぇ、ポアソンが母船になって月をまわりながら待機して、その間にちっちゃな二人乗りのポレールだけが月面と往復するんですぅ」
「母船から小人数で降りるっていうと、なんか登山でやる頂上アタック隊みたいですね」
「そうなんですぅ」
「えーっと、ポアソンってのはこれですね」
キャスターは模型を引き寄せて指差す。
「正式には全体を月飛行モジュールと言うんですってね。その先っぽにある三角の、これがポアソンなんですが、通信なんか聞いてますと全部ひっくるめてポアソンポアソンって言ってますね。で、月着陸機のボレールっていうのはポアソンの後ろのここ、貨物モジュールの中に折畳《おりたた》んであると――これですね。ゆかりちゃんとソランジュ・アルヌール船長はこれに乗っかって月に降りるわけですね?」
「はいはい、そうなんですぅ!」
「これからのヤマ場ってのはどこなんでしょうか?」
「まずはですねえ、ポアソンが月をぐるぐるまわる軌道に乗れるかってことなんですね」
レポーターは月球儀《げっきゅうぎ》を掲《かか》げて、その底を示した。
「ポアソンはまず月の南極の上を通って、裏側にまわります。月をぐるっと一周するのに二時間かかりましてえ、裏側にいる一時間は地球からの交信ができないんですね」
「ははあ、音信不通ですか!? じゃあなにが起きてもゆかりちゃんたちは、自分たちで判断しないといけないんだ! うわー大変だなあ!」
わざとらしく驚《おどろ》いてみせる。
「そうなんですぅ、もう私たちもドキドキハラハラなんですよぉ。二周目からはリピーターっていう中継装置《ちゅうけいそうち》を飛ばして、月の北半球にいる間は交信できるんですけど、でも助けに行けるわけじゃないですからぁ、もー無事を祈《いの》るしかないって感じで大変なんですよぅ」
「わかりました。ギアナ宇宙センターから桃井敬子がお伝えしました。桃井さん、これからも管制センターですか?」
「はいはい、月面からゆかりちゃんたちが戻《もど》ってくるまで、ずうううううっと寝《ね》ないで貼《は》りついてますぅ!!」
それからキャスターは、手元にまわってきた原稿《げんこう》を読み上げた。
「えー、ついさきほどフランス大統領が今回の飛行についての談話を発表しました。えー、こんなことを言ってますね。“四人のとった行動をなぜ賞賛《しようさん》してはいけないのか、私はひどく困惑《こんわく》している。いまは無事|生還《せいかん》してくれることを祈るのみだ。結果にかかわらず、彼女たちの勇気と行動力は長く語り草になるだろう”――はい、コマーシャル」
ACT・2
LEO離脱《りだつ》から七十時間。
月周回軌道《しゅうかいきどう》への移行を目前にして、ゆかりは落ち着かない気分だった。
半日前までは、確かに月に向かっていることを実感できた。それがいよいよ月周回軌道に乗り移る時になると、船は何もない虚空《こくう》に向かいはじめたのだ。
しだいに頻度《ひんど》を増《ま》す噴射《ふんしゃ》の方向も直観に反している。船首や船尾《せんび》を月に向けることは一度もなく、まるであさっての方向に噴射する。
「ううん、これでいいの」
茜は自信をもって言い切った。
「私たちは地球を背にして進んでて、右からやってきた月と交差するところ。ここはもう月の引力圏《いんりょくけん》だから船は勝手《かって》に加速してるけど、月は秒速一キロで前進してる。そういうベクトルを全部足し算して、船が月の南極上空に来たとき月面と平行に秒速一・六キロで飛べばいいわけだから」
なんだかよくわからない。地球を周回するだけの軌道飛行ならゆかりも慣れているが、他の天体に乗り移るのはこれが初めてで、要領《ようりょう》がまったくちがった。すべての問題は高校で習う物理で解決でき、月に行くからといってなんら新しい知識は必要ない――と茜は言うのだが。
茜は、見慣れない月面の地形をガイドした。
いまや月は観測窓《かんそくまど》いっぱいに広がり、一つ目の巨人《きょじん》のような顔をしていた。地球から見ると西端《せいたん》にあってほとんど見えない月面最大のクレーターが、いまは正面の高い位置に鎮座《ちんざ》している。それは月の直径の五分の一にも達するので、オリエンタル海と呼ばれていた。それが生まれたときの衝撃《しょうげき》は、あと少しで月を粉砕《ふんさい》したといわれている。
オリエンタル海の右上には嵐《あらし》の大洋が黒ずんだ染《し》みとしてひろがっているが、ほかは一面のあばた面《づら》だった。地球からは南極に近い場所に見えるクラビウス・クレーターも赤道近い位置に見える。
船のコンピュータは茜の入力したプログラムを着々と実行してゆく。前触《まえぶ》れのチャイムが鳴って船体が回転《かいてん》しはじめ、月は視野《しや》を外れた。軽いGが加わり、浮遊《ふゆう》していた宇宙食のパッケージが後部|隔壁《かくへき》に落下する。ソランジュは六分儀《ろくぷんぎ》で月。地球、太陽の位置を測《はか》り、自分の位置を割り出した。
「いいわ。すべて予定通りに進んでる」
それから地球に連絡《れんらく》した。
「ポアソンよりジュピター2、ウェイポイント五十六を定刻に通過。月周回軌道まであと二十六分」
『ウェイポイント五十六通過、了解《りょうかい》。成功を祈る』
この距離《きょり》では、相手がすぐに応答しても三秒弱のブランクが生まれる。それは不自然に長く感じられ、いらぬ緊張感《きんちょうかん》をもたらした。なんのことはない復唱《ふくしょう》が返ってくるとため息が出てしまう。
「だけど向こうが返事を待ってる時はもっと緊張するだろーね」
「ほい、ポアソン応答せよ! 二酸化炭素分圧が異常だ!――がりっ」
マツリが管制官の口調《くちょう》を真似《まね》る。ゆかりは腕時計で三秒測って答えた。
「あー、こちらポアソン、それはたぶん換気口《かんきこう》の前でコーラの栓《せん》をぬいたためと考えられる――がりっ」
SSAの三人は大いに笑った。ソランジュでさえくすくす笑っている。
緊張が笑いを増幅《ぞうふく》しているにちがいなかった。
自由《じゆう》帰還《きかん》軌道《きどう》とハイブリッド軌道のギャップは大きい。もし月周回軌道に乗り損《そこ》ねたら、船が地球のそばに舞《ま》い戻《もど》ってくるのに何十日もかかる。物理的な損傷《そんしょう》はなにひとつなくても、船は死の棺《ひつぎ》になるだろう。ほんの少し減速すれば地球のどこかへ降りられる、いつもの軌道飛行とは大違《おおちが》いだった。
推進段《すいしんだん》の噴射《ふんしゃ》が終わると、姿勢|変更《へんこう》用のバーニア噴射に制御が移った。
「大きな噴射はいまのが最後」
「乗ったかな?」
「そのはず」
船が首を振《ふ》りはじめる。
いまは背面《はいめん》飛行の姿勢だから、月面は“上”にあるはずだ。
四人は固唾《かたず》を呑《の》んで計器と窓を見守った。
三秒……四秒……五秒……
窓の外に、銀色の弧《こ》が降りてきた。
ほんの数キロ先と錯覚《さっかく》しそうな地平線から、月の裏側の光景が次々に繰《く》り出されてきて頭上を流れてゆく。まるで山岳《さんがく》地帯を低空飛行しているようだ。
電波高度計の表示は百キロ、プラスマイナス三キロで安定している。数字のちらつきは地形変化のせいだ。
もう間違《まちが》いない――月周回軌道に乗った! 四人は抱《だ》き合って祝《いわ》った。これをじかに見た者は人類史上二十四人しかいないのだ。
ソランジュは我に返って送信機のスイッチを入れた。
「ポアソンよリジュピター2、本船は月周回軌道に乗った。軌道高度百キロ、全装置正常」
『ポアソン、おめでとう。テレメトリはすべて正常、ミッションの成功を――』
返信はそこで途切《とぎ》れた。船が月の裏側にまわったのだ。
交信|途絶《とぜつ》の間も仕事は山ほどあった。軌道の正確な測定《そくてい》、月着陸機ポレールの準備、リピーターの射出準備。
リピーターは超《ちょう》小型の中継衛星《ちゅうけいえいせい》で、ポレール、ポアソンおよび地球間の交信を中継する。着陸地点は北極のクレーターの底だから、地球からは電波が届《とど》かない。そのためにリピーターを北極上空に数時間|滞空《たいくう》させる。着陸機はこれにアンテナを向けて送受信すればよい。ポアソンもこれを利用することで、月周回の四分の三で地球・ポレールと交信できる。アポロ計画が地球を見通せる場所にしか着陸できなかったことを考えれば、大きな進歩だった。
そのかわり、アポロ計画のように何日も月に滞在することはない。月をもう一周したら、ゆかりとソランジュは月面への降下にとりかかり、二時間滞在したら軌道に戻る。飛行の最も重要でクリティカルな部分が矢継《やつ》ぎ早《ぱや》に起きるので、船内は急に慌《あわ》ただしくなった。
「マツリ、天測《てんそく》おねがい!」
「ほいほい」
「月面用の手順書どこだっけ」
「昨日《きのう》あなたに預《あず》けたままよ」
「ETA73のチェックリストはどれ?」
「スーベニア・ボックスってポレちゃんに移したっけ?」
「リストはここ」
「電卓《でんたく》、電卓!」
「月面図ここに貼《は》っとこうか。テープどこ? テープテープ」
「チェックリストの補足《ほそく》発見。昨日ファックスで届《とど》いたやつ」
「ゆかり、予備のエア・カートリッジは数えた?」
「数えた数えた。たっぷり六時間ぶんある」
四人が忙殺《ぼうさつ》されるうち、受信機が突然《とつぜん》声を発した。
『……ソン応答せよ。ポアソン応答せよ。ジュピター2よリポアソン、応答せよ』
「こちらポアソン、感度良好――」
ああっ!
『ポアソン、いまの悲鳴《ひめい》はなんだ? 茜の声だったようだが』
「どうしたの、茜?」 フランジュも茜のほうを見た。
「あっ、いえ、“地球の出”を見ようと思ってたんだけど……ごめんなさい、大声出しちゃって」
まだリピーターは作動《さどう》してない。無線が入ったということは、すでに月の地平線上に地球が出ていることになる。どの窓からも、その劇的《げきてき》な光景は見えなかった。準備に追われて姿勢を変える暇《ひま》がなかったのだ。茜はこれを楽しみにしていたのだが。
「まだチャンスはあるって」ゆかりはなぐさめた。
月を四分の三周したところで、全員がヘルメットを着用し、船内の空気を抜《ぬ》いた。
ゆかりとソランジュは船外に出た。何度もリハーサルしたとおり、ポレールを引き出し、組み立て、装備《そうび》を点検《てんけん》する。体を固定し、ウ・ームア・プが終わると、ソランジュはポールの先からポレールを切り離《はな》した。
すぐには発進しない。バーニア・エンジンを短く噴射《ふんしゃ》して姿勢を整《ととの》え、ポアソンから百メートルほど離れる。
眼下の月面は、三日月《みかづき》の影《かげ》にあたる部分だった。“雲の海”を出て、ティコ・クレーターにさしかかる。ほのかな地球照《ちきゅうしょう》に照らされた月面に、急峻《きゅうしゅん》な地形はみられない。風雨に摩滅《まめつ》したように見える丘陵《きゅうりょう》が、音もなく流れていた。その上にぽっかりとポアソンが浮《う》かび、船首をこちらに向けていた。窓越しにちらちら動く人影《ひとかげ》は、茜かマツリか。
『ほーい、カメラを向けたよ。手を振《ふ》って』
マツリののんきな声がヘルメットに響《ひび》く。二人は注文どおり手を振った。
「こっちはすべて順調だよ。ポアソンもいい顔で浮かんでる」
ゆかりはソランジュに言った。
「クレーターって丸いのばっかりだと思ってたけど、けっこういびつだね」
「そうね。あんな段丘《だんきゅう》みたいになってるなんて」
「大きなのほど形がゆるいみたい……ところで月面での第一声は考えた?」
『いちおうね。お仕着《しき》せの原稿《げんこう》もあるけど』
「それって――うわっ、まぶし!」
視野《しや》の隅《すみ》で光が爆発《ばくはつ》した。ゆかりは急いでサンバイザーをおろした。
二人は南極上空にさしかかっており、月面より一足先に日照を浴びたのだった。
明暗《めいあん》境界線が眼下に迫《せま》ってきた。
真横から光をあびたクレーターの内部にはわずかな光も届《とど》かず、うつろな眼窩《がんか》のように口を開けている。わずか数百メートル上に光の奔流《ほんりゅう》があるにもかかわらず、それは宇宙そのものより暗かった。
北極の着陸地点もこんな闇《やみ》の中にあるわけか……。
「な、なんかすごいよね、あたしたちってさ! あんな真《ま》っ暗《くら》な中に降りてくんだ。アポロの男たちだってそんなことしなかったよね!」
『恐《おそ》れることは何もないわ』
ソランジュは静かに言った。
「素敵《すてき》よ。なにもかも素敵」
ゆかりの空元気《からげんき》はお見通しだったらしい。
南極から赤道に向かう三十分で、ポレールの発進準備は整《ととの》った。着陸機は四本の脚《あし》を張《は》り出し、ビーチパラソルのようにバラボラアンテナを開き、底部を前方に向けて横倒《よこだお》しの姿勢《しせい》をとっていた。
もうリピーターのカバーエリアに入ったはずだ。アンテナをそちらに向けると通信リンクの成立を示す表示が出た。
「いいよ、やってみて」
「ジュピター2、こちらポレール。ファーサイドより通信テスト。応答願う」
三秒後――
『こちらジュピター2、感度良好。テレメトリはすべて正常』
「ポレールはまもなく降下に入る。全装置《ぜんそうち》は正常、月着陸はGO」
『了解《りょうかい》、ポレール。音声・画像とも鮮明《せんめい》だ。世界が君たちを見守っている。成功を祈《いの》る』
ソランジュに脚の具合《ぐあい》を聞こうかと思ったがやめた。これからの無線交信は二人の会話もろとも世界中に生中継《なまちゅうけい》されるのだ。クールにいこう。女の子だからって、いつもきゃあきゃあ言ってるわけじゃないってことを見せてやる。
「ポレールよりポアソン、降下準備は予定通り進行中」
『ポアソンよリポレール、双眼鏡《そうがんきよう》で外観をチェック、すべて異常ありません』
『ポレール了解』
『ジュピター2了解』
「オンボードチェック。電力、温度、圧力、通信ゲイン安定」
『了解。月着陸はGO』
ソランジュが計器盤《けいきばん》に手を伸《の》ばした。
『セイフティ解除。月着陸シーケンス・スタート』
数秒後、足元で二基のエンジンが点火した。
二メートルと離れていない場所でロケットエンジンの噴射《ふんしゃ》を見るのは初めてだった。絹《きぬ》のような燃焼ガスが半球形にひろがり、ときどき白く輝《かがや》く粒子《りゅうし》が飛び散ってゆく。まるで噴水《ふんすい》に乗っているようだ。
推進系統《すいしんけいとう》が集中表示された液晶《えきしょう》ディスプレイを見る。
『月周回軌道|離脱《りだつ》。ポレール、降下開始』
「温度、圧力、すべて正常。高度九十七キロ、九十四、九十二――」
『ポレール、順調に降下中。月のロストワールドが見えてきた』
のっぺりとしていた月面に、しだいに陰影《いんえい》が目立ちはじめた。北極が近づいている。
高度二十キロを切る。二十キロっていうと……横浜から品川《しながわ》くらいだっけ?
クレーターの中にクレーターがある。降下するにつれて小さなクレーターが見えてくるので、距離感《きょりかん》がつかめない。明暗のコントラストが強いせいで、何だかすごく険《けわ》しい地形に見えてくる。落ち着け落ち着け。
『照明弾《しょうめいだん》スタンバイ』
「了解《りょうかい》」
その発射器は迫撃砲《はくげきほう》のような形をしていた。撃鉄《げきてつ》を操作《そうさ》するワイヤーが手元に来ている。
ゆかりは保護カバーを外した。
高度二千メートル。北極上空。
横倒《よこだお》しで降下していたポレールは起立|姿勢《しせい》になった。エンジンはアイドリング状態で、暗黒《あんこく》の地表に向かってほとんど自由落下している。
真横には、満月の四倍の大きさで地球が浮《う》かんでいた。
それを除《のぞ》けば、世界は上も下も暗黒だった。
『ゆかり、照明弾発射』
「了解」
引き金を引く。下方に飛び出していったカプセルはすぐに見えなくなった。
不発か、と思った瞬間《しゅんかん》、ふたつの光芒《こうぼう》が出現した。
ひとつは照明弾の閃光《せんこう》、もうひとつは――
「すごい! 照明弾で地面が――月面が光ってる!」
『こちらポレール。直下の月面は平坦《へいたん》で高い反射率を持っている。海面に太陽が反射しているような感じだ』
高度五百メートル。さらに照明弾を放《はな》つ。褐色《かっしよく》の月面がぎらりと光る。
「こちらポレール、月面はごく平坦で着陸地に迷うことはなさそう。降下率、毎秒三メートル、まもなく逆噴射《ぎやくふんレや》にかかる」
噴射が始まると、液晶《えきしょう》ディスプレイの残燃料《ざんねんりょう》バーがぐんぐん短くなってゆく。同じ画面に高度、降下率と連動した燃料消費の相関図《そうかんず》があり、グラフがある範囲《はんい》に留《とど》まっていれば着陸できる。
ゆかりは高度と燃料消費|状況《じょうきょう》を読み上げた。
「高度二百、残燃料グリーン……高度百八十、残燃料グリーン……百四十、グリーン、降下率ちょい過大……百十……照明弾いく?」
『そうして』
「照明弾発射……下方は平坦、高度六十、残燃料グリーン、降下率グリーン……」
照明弾が光を放《はな》ったまま月面でバウンドするのが見えた。
「フラッドライト点灯《てんとう》、月面は平坦」
『こちらポレール、月面まであと十メートル……まもなく着地する』
ライトに照らされた褐色の月面に、放射状の噴流《ふんりゅう》がひろがってゆく。まるで地吹雪《じふぶき》のようだ。
着陸《ちゃくりく》脚が接地した。綬衝《かんしょう》シリンダーを縮《ちぢ》めながら、機体はなおも沈《しず》み込む。
『エンジン・カットオフ!』
ソランジュがそう告《つ》げたのと、同時だった。
ポレールは突如《とつじょ》、ひとつの脚を接地したまま、しこを踏《ふ》む力士《りきし》のように体を持ち上げた。
「えっ?」
世界が九十度|回転《かいてん》した。
視界《しかい》がぶれ、衝撃《しょうげぎ》が襲《おそ》った。ハーネスが体に食い込む。
なにもかもめちゃくちゃになった。
『きゃあ!』
アンテナがマストに押《お》し潰《つぶ》される百分の一秒前、そんな声が送信された。
それがソランジュの月面第一声だった。
ACT・3
暗闇《くらやみ》でのたうちまわる。いつも見る夢《ゆめ》だな……。
まぶたを開く前、ゆかりはそんなことを思った。
まぶたを開いても、何も見えなかった。目をこすろうとすると、何か丸いものに遮《さえぎ》られた。ヘルメットだ。
ヘルメットのライトを点《つ》ける。ねじ曲がった軽金属《けいきんぞく》と、暗い地面が見えた。
思考力がよみ述えった。夢じゃない。月だ。自分は月面にいる。
着陸機が、急に転倒《てんとう》して――いまも転倒したままだ。
やばい、爆発《ばくはつ》する!
ゆかりは急いでハーネスを解《と》き、三百キロの爆発物から離《はな》れようとした。
体は動くのか? わからないが、とにかく動かしてみる。
動いた。あちこち痛むが、どこも折れてない。
そうだソランジュ。
体を持ち上げて、振《ふ》り返るとソランジュはそこにいた。
「おいっ! ソランジュ! 生きてるっ!?」
返事がない。インカムが壊《こわ》れたのだろうか。
ゆかりはよたよたと座席《ざせき》を抜け出し、からみあった金属塊《きんぞくかい》の反対側にまわった。
ハーネスを外し、ピンクのハードシェル・スーツに包まれた体を引き上げる。
ソランジュを抱《かか》えたまま、ゆかりは月面に立ち上がった。立てる。ソランジュの体重はほとんど感じない。火事場《かじば》の馬鹿力《ばかぢから》というやつだろうか、そのまま五十メートルほど離れた。そこで身を伏《ふ》せようとしたがうまく止まれず、ずるずる滑《すべ》ったあげくに二人して月面に倒《たお》れ込んだ。
匍匐《ほふく》する兵士さながらに様子を見守ったが、ポレールが爆発する様子はない。
少し余裕《よゆう》をとりもどすと、ゆかりはソランジュに馬乗りになり、覚悟《かくご》を決めてヘルメットのサンバイザーを開いた。
透明《とうめい》のフェイスプレート越《ご》しに、血の気のない顔が見えた。
気密が破れた様子はない。
気絶しているだけならいいが。ゆかりはソランジュの上体をゆすった。
「おい! おいっ! ソランジュ!」
フランス娘《むすめ》はうっすらと目を開いた。
ゆかりは声が直接伝わるようにフェイスプレートを接して、呼びかけを繰り返した。
『ああ……ゆかり……どうして』
声はスピーカーから聞こえた。インカムは壊れていない。
「ボレちゃんが転倒したんだ。安全|距離《きょり》は取った。体と装備《そうび》点検《てんけん》して。どっか痛む?」
ゆかりは相手の傍《かたわ》らに移動し、ひざまずいた。
ソランジュはもぞもぞと体を動かした。荒《あら》い息が聞こえる。
「どう? 折れてる? 脱臼《だっきゅう》とかは?」
『いや……痛むけど、いつものとこ。新しい骨折はないみたい』
ソランジュは上半身を起こした。
『ポレールはどこ?』
「頭のほう。気をつけて。爆発するかも」
ソランジュは身をひるがえし、うつぶせの姿勢になって顔をそちらに向けた。ゆかりもその横に伏《ふ》せた。
目が慣れたせいか、月面は完全な闇《やみ》ではなかった。頭上には降るような星空がある。クレーターの外輪山《がいりんざん》の稜線《りょうせん》だろうか、地平線近くにちらちらと日照のある部分があり、漁火《いさりび》のように月面を照らしている。
だが、まだ光が足《た》りない。二人でビームライトを取り出して前方を照らした。
滑走路《かっそうろ》のように平坦な月面の彼方《かなた》に、もつれあった金属《きんぞく》の塊《かたまり》が転《ころ》がっていた。
煙《けむり》やガスは洩《も》れていないようだが……。
「ん?」
自分のフェイスプレートの前に何かが漂《ただよ》っている。見るまにそれはフェイスプレートに付着して、複雑な六角形の模様を描《えが》きはじめた。
「な、なにこれ!?」
と同時に、全身に冷気を感じて、ゆかりは月面から身を離《はな》した。靴だけを月面に触《ふ》れるようにして、しゃがみこむ。
氷だった。スキンタイト宇宙服は真空中では申し分のない断熱性を発揮《はっき》するが、物質に直接|触《ふ》れると熱を移してしまう。体温で月面の氷が融《と》け、揮発《きはつ》してフェイスプレートに着氷したのだった。
「やはり……氷原なのね。月に氷は存在したんだわ」
ソランジュも身を起こし、月面に触れていた手や肘《ひじ》を調べている。
『そうか、それで……』
「それでって?」
身を起こしたとき、ハードシェル・スーツが月面から剥《は》がれるような感触《かんしょく》があった。
それでソランジュはポレールが転倒《てんとう》した理由を悟《さと》ったのだった。
着陸脚《ちゃくりくきゃく》の先端《せんたん》には金属の円盤《えんぱん》がついていて、そこが最初に月面に接する。月面の表面温度はマイナス百八十度C。着陸脚は噴射《ふんしゃ》の熱が伝わって常温になるから、接地《せっち》した瞬間《しゅんかん》に氷が融け、ただちに熱が奪《うば》われて再凍結《さいとうけつ》する。
いっぽう、燃焼ガスをあびた月面の氷は水蒸気となって膨張《ぼうちょう》し、想定外のクッションとして作用した。
『どうもあなたと組むと、地面効果が裏目に出るジンクスがあるようね』
「地面効果って……あのとき、エアバスがなかなか着地しなかったのと同じ?」
『そう、たぶん。燃焼が急に不安定になったような気がして手動でエンジンを切ったんだけど、間に合わなかった。ポレールは再び浮《う》き上がろうとした。ところが着陸脚のひとつが月面に凍《こお》りついていた。それでバランスを失って転倒した』
接地面にもっと熱容量の小さい素材を使えばよかったのかもしれないが、無理もないかな、とソランジュは言った。月面の氷は、泥《どろ》にしみこんだ永久凍土《えいきゅうとうど》のような形で存在すると考えられていたのだ。
『むきだしの氷原《ひょうげん》になってたら、ぜひスケートをしてみたい、なんて冗談《じょうだん》を言ったものよ。まさか本当にそうだとはね』
ソランジュは少し笑った。それから立ち上がった。
『ゆかりはここにいて。ポレールの様子を見てくるわ』
「まだ危《あぶ》ないよ」
『この宇宙服なら平気よ』
そうかもしれないけど……。
ゆかりは固唾《かたず》を呑《の》んで、ふらふらと前進するソランジュを見守った。片足が不自由なまま、六分の一Gの氷上を歩くのは容易《ようい》ではなさそうだ。
靴底《くつぞこ》が充分《じゅうぶん》に冷えたせいか、氷に張りつくことはない、とソランジュは報告してきた。
それでも二度転倒した。さいわい前方に倒れたので、腕立《うでた》て臥《ふ》せの要領《ようりょう》ですぐに起き上がったが――ゆかりはもう、見ていられなくなった。
「あたしも行くよ。どっちみち爆発《ばくはつ》したんじゃ生還《せいかん》できないでしょ!」
『それはそうね』
ゆかりはこけつまろびつしながらソランジュに追いつき、肩《かた》を貸した。
『いいわよ、自分で歩けるから』
「見てらんないんだってば」
と言いつつ、ゆかりも転《ころ》びかける。引きずられてソランジュまで転びかける。
『これじゃ“だめな双発機”ね。どちらかのエンジンが止まると墜落《ついらく》する。単発機にくらぺて故障率《こしょうりつ》が倍になるだけ』
「かわいくないなー。あたしは、あんたが変な向きに倒れないようにって思ってさ」
『感謝しておくわ』
歩くうちに足が冷えてきたので、ゆかりはヒーターのスイッチを入れた。
マイナス百八十度Cといえば液体《えきたい》窒素《ちっそ》並《な》みの低温だ。ゆかりは理科の演示実験で、液体窒素に浸《ひた》して凍《こお》らせた花が手の中で粉々になったのを思い出した。
もしスキンタイト宇宙服がありふれた素材でできていたら、さっき腹這《はらば》いになったとき、同じことになったかもしれない。低温には破壊力《はかいりょく》があることを心しなければ。
二人はポレールにたどりつくと、慎重《しんちょう》に各部を点検《てんけん》してまわった。
「どう? 大丈夫《だいじょうぶ》そう?」
『推進剤《すいしんざい》も酸化剤も、洩《も》れてないようね……でもエンジンは片方、完全に壊《こわ》れてる』
「まじ……」
ゆかりは横倒《よこだお》しになったポレールの底部にまわりこんだ。
二基並んでいるロケットノズルの片方が、ぐしゃぐしゃに漬《つぶ》れていた。
ポレールのメインエンジンはオービターの軌道変更《きどうへんこう》エンジンを流用したもので、二基|束《たぱ》ねて使用する。ほかには姿勢制御用のバーニア・エンジンがあるだけで、これはスプレー缶《かん》ほどの推力《すいりょく》しかない。
「これも“だめな双発機”ってやつ? エンジン一基じゃ帰れない?」
『はっきり言って無理ね』
「だけどさ、燃料がまるまる残ってるんだったら、倍の時間|噴射《ふんしゃ》すればいいんじゃ」
『重力損失よ、問題は』
二基あるエンジンのひとつが壊れると、推力は半分になる。軌道上で使うなら、推力が半分でも倍の時間噴射すればいい。
だが月面上ではそうはいかない。自重《じじゅう》百キロの機体が百五十キロの推力で噴射すれば離昇《りしょう》できるが、その半分ではいくら噴射しても月面を離《はな》れられない。運動エネルギーを蓄積《ちくせき》できないのだ。
「そっか……」
終わったかな。
急に死の予感がこみあげてきた。
この暗闇《くらやみ》のなかで死ぬ。自分が。
「ええっと、あとどこ調べるかな。アンテナか。アンテナアンテナ」
『パラボラアンテナは潰れてるわ。直せるかもしれないけど』
「アンテナ、アンテナと」
『でも低利得《ていりとく》アンテナは無傷《むきず》よ』
「アンテナ、アンテナ」
こんなさびしい場所で。
凍りついた、誰《だれ》も来ない、永遠の闇のなかで。
『ゆかり?』
「アンテナどこかな」
冷えて、窒息《ちっそく》して。
ひとりきりで。
「アンテナどこかな」
『もう両方調べたわ、ゆかり』
「アンテナ、アンテナーっと」
『ゆかり』
「アンテナ、アンテナどこいった」
『ゆかり!』
肩《かた》に痛みを感じた。上体が乱暴に揺《ゆ》さぶられる。
目の前にソランジュのヘルメットがあった。
フェイスプレートがかち合い、鈍《にぶ》い音をたてた。
『ゆかり、しっかりなさい!』
「え?……あれ?」
ゆかりは我に返った。
『生きてるうちから死なないでちょうだい。まだ仕事はたくさんあるのよ』
ああ、そうだった。死んでた。
『生き返った?』
「ごめん、ありがと。生き返った」
『できることからやりましょう。まず地球に連絡《れんらく》しないと』
「だよね」
いかんいかん。あたしとしたことが、ソランジュに助けられるなんて。
ゆかりは任務に復帰した。
「バッテリーは生きてるみたい。無線のスイッチ入れてみよっか」
『待って。漏電《ろうでん》してエンジンが暴発《ぼうはつ》したら恐《こわ》いから』
ソランジュはヒューズボックスの蓋《ふた》をこじ開けると、慎重《しんちょう》に電気系統を分断した。
『いいわ。やってみて』
二つの席の両方から操作してみたが、無線機はパイロットランプすら点灯《てんとう》しなかった。調べてみると、折れた着陸脚の構造材が二系統ある無線機の箱を貫通《かんつう》していた。
「あーあ、せっかく二つあるなら離して取りつけてくれればよかったのにな」
『使える無線機は宇宙服のだけってことね』
だが宇宙服の無線機はPHS程度の出力しかない。リピーターが中継《ちゅうけい》してくれればいいのだが、周波数が違《ちが》うし距離《きょり》も遠すぎる。月面活動中の会話はすべてポレールの無線機を介《かい》して送信されるシステムだった。
二人は貨物ラックを調べた。土壌《どじょう》コア採集用《さいしゅうよう》のボーリング装置《そうち》。これはコルク抜《ぬ》きを大きくしたようなもので、月面の土壌を直径八センチ、深さ五十センチの円筒形《えんとうけい》にくりぬける。片方がピッケル状になった採鉱《さいこう》ハンマー。ニコンのスチルカメラ。試料を収める断熱容器。月面に残すフランス国旗と記念プレート。月まで運んでただ持ち帰るだけの、切手やメダルをおさめたスーペニア・ボックス。補修用《ほしゅうよう》の工具。宇宙服用の予備のバッテリーパックとエア・カートリッジが六時間ぷん。月着陸にゆかりが参加するのは想定外だったが、SSA用のも補充《ほじゅう》してあった。
ウエストバッグにあるものを見せあってみる。ビームライト、ストロボ信号灯《しんごうとう》、マルチプライヤー、ナイフ、宇宙服の補修キット、小型の標本瓶《ひょうほんびん》、真空中でも使える手帳《てちょう》とボールペン。
標本瓶は緊急《きんきゅう》に離昇《りしょう》しなければならなくなった場合にそなえて、着陸してすぐに一片の月試料を収めるためのものだった。
『やれることはしておこう。ゆかり、おねがい』
「うん」
ソランジュは袋《ふくろ》を破って標本瓶とピンセットを手渡《てわた》した。
しゃがむのが難儀《なんぎ》なソランジュに代わって、ゆかりは足元の月面にハンマーを打ち込んだ。氷のかけらをピンセットでつまみあげ、瓶に移す。氷は褐色《かっしょく》の半透明《はんとうめい》で、コーヒーゼリーのようだった。
「濁《にご》ってはいるけど、大部分は水ね……すごい』
ソランジュは標本瓶を手にすると、ガラス越《ご》しに長いこと眺《なが》めていた。
それから、闇の平原に目を向けた。
『いつかここは都市になるわ。無尽蔵《むじんぞう》のエネルギーと水があるんだから』
「水はいいけど、無尽蔵のエネルギーって? 原発でも建てるの?」
『そんなことしなくてもいい。月の極《きょく》は文字どおり両極端《りょうきょくたん》なの。ここは永遠の夜だけど、クレーターの縁《ふち》まで登れば永遠の昼になる。いくらでも太陽エネルギーが取り出せるわ』
「そっか……」
月面都市。そこに殉死《じゅんし》した二人の少女の銅像《どうぞう》が。
いかんいかん、そのことは考えちゃだめだ。
そのとき、ソランジュが急に声を高くした。
『そうか、そこに登れば――』
「え?」
『クレーターの縁《ふち》まで登れば、地球が見えるわ! そしたら宇宙服の無線でも届《とど》くかも!』
「無理だよ、こんな出力じゃ」
『忘れたの? 地球にはディープスペース・ネットワークがあるってこと』
「あっ!」
巨大《きょだい》なアンテナを持つDSNは、地球・月間の三万倍も離《はな》れた探査機《たんさき》と交信できる。電波の減衰《げんすい》はその二乗だから九億分の一。それで交信できるなら、ここからPHS並みの出力でも交信できるかもしれない。
「……だけど、DSNは宇宙服の無線機の周波数になんかチューンしてないよね」
『向こうが気づくことを祈《いの》るだけ。でもやらなければ可能性はない。照明弾《しょうめいだん》が残ってたわね?』
「あと二発」
『使ってみよう。歩いていける範囲《はんい》に外輪山《がいりんざん》があったら、試す価値はあるわ』
マルチプライヤーを使ってポレールの機体から照明弾のランチャーを外す。
ソランジュが地球のあるべき方向に構え、ゆかりが操縦席の引き金を引いた。
カプセルは星空に消えた。
『目をそらして』
直後、閃光《せんこう》が降りそそいだ。
二人は急いで周囲を見回した。
『ゆかり、あれを見て』
ソランジュの腕《うで》の方向を見る。彼方《かなた》に屏風《びょうぶ》のように高さのそろった山脈――というより丘が薄暗《うすぐら》く見えた。クレーターの外輪山だ。標高《ひょうこう》は事前のレーダー測量《そくりょう》で、百五十メートル前後とわかっている。
「遠いな。地平線よりずいぶん向こうじゃん」
『月の地平線は地球の半分、たった二キロ先よ。ここが予定通りの位置だとすれば、外輪山までは十キロくらいのはず』
「十キロって、簡単に言うけどー」
さっきは五十メートル歩くだけでも苦労したのに。
『ペガサス座をめざして歩けばいい。帰りは――ストロボ信号灯を目印《めじるし》に置いていけばいいわ』
「でもさ、生命《せいめい》維持《いじ》、あと六時間だよ。戻《もど》ってこれる? それよりここで対策《たいさく》を考えたほうがよくない?」
『ここにいて、もし何もできなかったら?』
「それは……」
それは最悪のパターンだ。
「じゃあたし一人で行ってみるよ。ソランジュはここにいて」
『それはだめ。あなたじゃ技術的な話ができないわ』
「だけどさ……」
その脚じゃ。
ソランジュは目の前にやってきた。ヘルメット越《ご》しに、まっすぐこちらを見る。
『ゆかり、私は知らせたい』
「え?」
『ここに泉《いずみ》がある。ここが宇宙への懸《か》け橋《はし》だと。水を電気分解すれば、燃料が作れる。燃料は簡単にLEOまで運べる。もうアリアンVを連結しなくても月と往復できる。鉄もアルミもチタンもシリコンもダイヤモンドもコンクリートも食料も、すべて月でまかなえる。永住できる都市ができる。そして月は、あらゆる世界への出発ゲートになる』
ソランジュは話し続けた。
『けれど地球が何も知らずにいたら。このミッションが失敗したら、アリアンは月から手を引くでしょう。中国の採掘《さいくつ》ロボットだってどうなるかわからない。そしたら次に誰かがここに来るのはいつ? 人類がこのまま地球の資源《しげん》を食い潰《つぶ》して身動きできなくなるまえに、最初のステップを踏《ふ》まないとだめ。だから地球に知らせないと。それさえできれば、ゆかり、私は――』
こういう時、言ってはならないことを、ソランジュは明瞭《めいりょう》に発音した。
『私は、死んでもいい』
ACT・4
月|周回軌道《しゅうかいきどう》にいる茜とマツリは、その声を地球より一・三秒早く聞いた。
『きゃあ!』――それを最後に、すべての送信が止まった。
ポアソンはもう着陸地点から遠ざかっていて、状況《じょうきょう》を視認《しにん》することはできなかった。
リピーターは生きているから、着陸機になにかあったとしか考えられない。アンテナも無線機も電源も二系統ある。単純な故障《こしょう》とは考えにくい。かなり大きなトラブルだ。
「ジュピター2、こちらポアソン、茜です。その後わかったことはありますか」
『まだテレメトリを解析中《かいせきちゅう》だが……着陸脚一と二が接地したのが送信|途絶《とぜつ》の一・三秒前。その0・二秒前にエンジンをカットオフして、主機の燃料バルブは閉鎖《へいさ》している。0・八秒前から姿勢が大きく乱れている。それから信号が急に減衰《げんすい》した』
「信号が弱くなったのは、高利得《こうりとく》アンテナの向きがリピーターをそれたせいでしょうか」
『おそらくそうだ』
「つまリポレールは大きく傾斜《けいしゃ》したか転倒《てんとう》して、回復できない状態《じょうたい》にあると考えていいですか」
『おそらくは。現在、夜側にある天文台が月の北極に望遠鏡を向けている。もし大きな爆発《ばくはつ》があれば、そのガスが地球から見える高さまで立ち昇《のぼ》るはずだ。だがそれは観測されていない。まだ希望は持てる』
「わかりました。こちらも北極上空にさしかかったら着陸地点を観察《かんさつ》します。視界《しかい》を確保するために船外に出たいんですが、許可いただけますか?」
『許可しよう。できるだけ詳《くわ》しく観察してくれ』
爆発が起きなかったからといって、二人が生きている保証はなかった。
二人が生きているからといって、生還《せいかん》できる保証はなかった。
着陸地点の観察に成功したからといって、二人を助けられるとは限らなかった。
最接近時でわずか百キロ。世界中の誰よりも近くにいるのに、軌道上からできることはあまりに限られている。
やれることをやるしかない。自分たちにやれることを、もれなく完壁《かんぺき》にやりとげる――ただそれだけを考えるのだ。
通信|途絶《とぜつ》の直後から、茜は自分の心の一部を遮断《しゃだん》していた。
<あのとき、この四人で月に行こうと訴《うった》えたのは自分だ>――ひとたびその言葉が意識の中に放《はな》たれれば、たちまち自分の理性は食《く》い荒《あ》らされてしまうだろう。心の中の獣《けもの》はいまも戸外をとりまき、扉《とびら》を破ろうと唸《うな》り声をあげている。
不利な闘《たたか》いだった。脇目《わきめ》もふらず、全力で走り続けるしかなかった。
あれから一時間四十分が経過した。ポアソンは月を一周し、ふたたび北極に接近している。茜は船内気圧をあらためた。
「キャビンプレッシャー、ゼロ。マツリ、出るよ」
「ほい」
二人は船外に出た。船殻《せんこく》の固定具に足を差し込み、月面に向きあって直立する。
茜は双眼鏡《そうがんきょう》を携《たずさ》えていた。フェイスプレート越しに使えるハイ・アイポイント仕様《しよう》のもので、倍率は十倍。視力のいいマツリは、裸眼《らがん》で広い範囲《はんい》を観察する。
「目標直上まで、あと四分」
『ほい』
茜は双眼鏡の焦点調節《しょうてんちょうせつ》を忘れていたことに気づいた。左右で異なる視力にあわせて、双眼鏡のほうも別々に調節しないといけないのだ。
『茜、地球が昇《のぼ》ってきたよ』
「待って」
いまそれどころじゃない。茜は慣れないドイツ製の双眼鏡の操作にかかりきりだった。
調整を終えると、もう北極の暗黒《あんこく》領域《りょういき》は目の前に迫《せま》っていた。
それは複雑な輪郭《りんかく》をしていた。大きさの異なる黒い円盤《えんぱん》をずらして重ねたような感じだ。
直線|距離《きょり》は三百キロくらいか。この距離で何がわかるだろう? だが真空と暗黒が大きな味方になる。人工衛星なら千キロ離れていても肉眼《にくがん》で反射光が見えるのだ。
「マツリ、着陸地点わかる? 地球寄りの、いちばん大きな弧《こ》の中央寄りだから」
『ほい、了解《りょうかい》』
「しっかり見て。これ逃《のが》したら、次は二時間先だから」
茜は双眼鏡を構え、懸命《けんめい》に目をこらした。脇《わき》をしめて手の震《ふる》えをおさえる。
その光が飛び込んできたとき、茜は心臓がとびあがりそうになった。
「点滅《てんめつ》――ストロボ信号灯《しんごうとう》だ! 二人は生きてるんだ!」
『ほんとだね!』
「ポアソンよリジュピター2、月面にストロボ信号灯を確認《かくにん》、周期およそO・五秒」
『いいぞ、観察を続けてくれ!』
『茜、もうひとつ光があるよ。少し離れてるね』
「えつ、どこ?」
『ストロボよりずっと地球寄りだよ。黄色い光だね。点滅してない』
「見えない。どこ……?」
茜は焦《あせ》った。着陸地点はもう直下をすぎて、後方に去ろうとしている。
「……あっ、これか!」
ストロボよりずっと暗い、ほのかな光だった。すぐそばにクレーターの縁《ふち》があり、その明るさに負けてひどく見にくい。
直線距離は百キロと少しだが――気のせいだろうか、それはちらちらと揺《ゆ》れて見える。
「マツリ、あれ、揺れてない?」
『ゆかりだよ。ゆかりがライトを持《も》っている。――ゆかり、ゆかり』
「だめ、この距離じゃ無線は届《とど》かないわ!」
『大丈夫《だいじょうぶ》、聞こえるよ』
マツリはそう言って、穏《おだ》やかな声で繰《く》り返した。
『ゆかり、こっちを向いて。近くにいるよ、ゆかり。ゆかり――』
ACT・5
「ホップ……ステップ……ジャーンプ!」
外輪山《がいりんざん》への踏破《とうは》に挑《いど》んでまもなく、氷原《ひょうげん》を普通《ふつう》に歩くのでは、とうてい間に合わないことがわかった。そこで二人は苦心のすえ、別の方法をあみ出した。[#原本では「間に合わないこと」の「こ」の後に挿絵]
互《たが》いの肩《かた》を抱き、二人《ににん》三脚《さんきゃく》の体勢でカンガルー跳《と》びをする。最初は転《ころ》んでばかりいたが、スピードが乗ってくると一回の跳躍《ちょうやく》で六〜七メートルも進む。
一時間ほどで氷原が途切《とぎ》れ、外輪山の裾野《すその》にさしかかった。
地面には細かい塵《ちり》が積もっており、ところどころに岩や石もあった。
また転倒《てんとう》が多くなってきた。ジャンプの時に二人の力が揃《そろ》わないと、空中で姿勢《しせい》が乱れて、なすすべもなく転倒する。しかし残り時間を考えると、カンガルー跳びをしないわけにはいかなかった。
『ああっ、ごめんなさいー』
ソランジュが空中で詫《わ》びた。片脚を酷使《こくし》しているために、思うように力が入らない。
二人は空中でバランスを崩《くず》し、横倒《よこだお》しに着地した。もつれあうように転がる。
ここでは地球上の六倍も大きくジャンプできるが、転倒すれば相応の衝撃《しょうげき》がある。
岩壁《がんぺき》に体当たりして止まり、ゆかりは一瞬《いっしゅん》意識を失った。
『ゆかり、大丈夫!? ゆかり!』
「あ、ああ……平気平気。ぜんぜん平気」
言葉とは裏腹《うらはら》に、全身が痛んだ。生地《きじ》の薄《うす》いスキンタイト宇宙服で何度も月面を転がるのはきつい。宇宙服はレゴリスとよばれる月の塵《ちり》にまみれていた。したたかに打った肘《ひじ》を調べると、生地の表面が傷《きず》だらけになっていた。
「ちょっと待って。こすった。パッチ当てるから」
月面に片膝《かたひざ》をつき、補修《ほしゅう》キットを開く。丸いパッチをとりだして接着《せっちゃく》する。
ソランジュは身を屈《かが》めてこちらを覗《のぞ》き込んでいた。
『私が、両脚使えればいいんだけど』
「いいって。ちょっと休もっか」
『ええ』
動きをとめたせいだろうか、全身に鉛《なまり》のような疲労《ひろう》を感じた。低重力下とはいえ、全力でジャンプを繰り返していることにはかわりない。
ソランジュは岩にもたれていた。少し身を屈《かが》め、骨折したほうの脚《あし》に、探《さぐ》るように手をあてがっている。
「そっちは痛む?」
『ううん』
「痛くない?」
『もう感覚なくなってるから』
自分の脚に電気が走ったような気がした。自分の苦痛は我慢《がまん》するだけだが、仲間のそれは、こらえようがない。野蛮《やばん》に思えたタリホ族のしきたりが、ひどく理にかなっていることを思い知る。
ゆかりは顔をそむけ、行く手を見た。ただ荒《あ》れ地が続いていた。
来た道を振《ふ》り返ると、ストロボの光はもう地平線の下に隠《かく》れていた。
どこを見ても真《ま》っ暗《くら》で、ライトの届《とど》く範囲《はんい》しか見えない。光を消せば星明かりでほのかに地表が見えるはずだが、いまはできなかった。闇《やみ》に呑《の》み込まれそうな気がした。
「だいぶ来たかな」
『八、九キロは来たと思う』
「あのさ……」
『うん?』
もう、やめようか――
ゆかりはそう言いかけた。
実は座《すわ》り込んで泣きたい気分だった。
泣きながら眠《ねむ》ってしまえば、暖かい光の満ちた部屋で目がさめて、もう安心なんだとわかる。そう信じかけていた。
「……え?」
誰《だれ》かに呼ばれたような気がしたのは、そのときだった。
ゆかりは呼び声のしたほうを見上げた。
そこに輝《かがや》く光点があった。
「なにか飛んでる」
『えっ?』
「ほら、あそこ! ポアソンだ!」
ゆかりはライトを持った手で指した。光はもう頭上を通過し、前方の稜線《りょうせん》に隠《かく》れようとしている。
『貸して!』
ソランジュがビームライトをひったくった。スイッチをシグナルモードにして、光を点滅《てんめつ》させた。
「ソランジュ、それって――」
「お願い、読んで!」[#ここはソランジュのはずだから『』だと思うが何故か「」になっている]
このとき起きたことを、茜は一生忘れないだろう。
双眼鏡《そうがんきょう》の視野《しや》の中で、光が急に明るさを増《ま》したのだ。
光はひととき消え、また点《つ》いた。それから不規則な点滅が続いた。
「モールス信号だわ! ツー、トン、トン……トン、トン、トン……」
サバイバル訓練のマニュアルにあったモールス信号表を、茜は忠実に暗記《あんき》していた。
「D、S、N……またD……DSNって繰り返してる!」
その意味を西はただちに理解した。
「ジュピター2、月面から光信号で要請《ようせい》、ディープスペース・ネットワークを使ってください。周波数は宇宙服の無線機に。いまはまだ無理、でも二人は――歩いてクレーターの縁《ふち》に登るつもりです!」
言いながら茜は大急ぎでキャビンにとびこんだ。
船外|照明灯《しょうめいとう》のスイッチを、歯切れよくオン/オフさせる。
ツー、ツー、ツー……ツー、トン、ツー。
なにか励《はげ》みになることを伝えたかったが、その二文字しか出てこなかった。
いまはこれだけ。
どうか思いが二人に伝わりますように。茜はそう祈《いの》った。
ポアソンに新たな光が加わった。作業灯だろうか。光が明滅《めいめつ》し、長短の信号を返してくる。直後、ポアソンは稜線に消えた。
「なに、いまの返事? なんて答えたの!?」
『“OK”。それだけ返してきた』
「OKならオッケーじゃん! ディープスペース・ネットでワッチしてくれるんだ!」
『まちがいないわ』
「やりっ!」
『でもよく気がついたわね』
そう言ってソランジュはライトを返した。
「マツリだよきっと。あいつは野性の視力持ってるから」
『そうじゃなくて、あなたが。ポアソンが二時間ごとに上空を通ること、すっかり忘れてたわ』
「ああ、それか」
呼んだのはマツリ。答えたのは茜。そうにちがいない。
また、二人に助けられてしまった。
しっかりしなきゃ。
ゆかりは心の霧《きり》が晴れた気がした。
自分がリーダーなんだ。骨折したソランジュを、地球の見えるところまで、自分が連れていくんだ。そう心に決めて出発したんだ。
「ようし、頂上はもうすぐそこだ。もうひとっ跳《ぱ》ねすれば、第一目標達成だね!」
『ええ』
ソランジュも声を弾《はず》ませた。汗《あせ》ばんだ額《ひたい》に。前髪《まえがみ》が貼《は》りついている。
「もちょっとの辛抱《しんぼう》だからね。地球に帰ったら、いい思い出になるよ」
『ありがとう、ゆかり』
私たち、いつからこんな仲になったんだろ?
一人でないことが、これほどかけがえなく思えたのは初めてだった。
ソランジュはお荷物《にもつ》だった。だがその荷物がなければ、とうにくじけていただろう。
「……一人じゃリーダーできないもんな」
『え?』
「なんでもない。行くよ! 三、二、一、ホップ!」
ニ人はまた肩《かた》を組み、前進を再開した。
この先はどうやら段丘《だんきゅう》地形《ちけい》らしい。段々畑のような斜面《しゃめん》を登っているのだが、低重力のせいか傾斜《けいしゃ》は感じられず、波打つ平地のようだった。
波のひとつを跳び越えたとき、ゴールラインは唐突《とうとつ》に現れた。
光と影《かげ》のおりなす地平に浮《う》かび上がった、燦然《さんぜん》と輝《かがや》く青い球体《きゅうたい》。
二人は同時に母国語で叫んだ。
『terre!』
「地球だ!」
そして三秒後、思わぬ声に二人は驚愕《きょうがく》する。
『待ってたよ、ソランジュ! ゆかり!』
『イカす展開《てんかい》だよね。最高!』
イヴェットとアンヌだった。
続いてポアソンから、茜とマツリの声。
『光を見たときはもう……なんて言っていいか』
『声を聞いたね、ゆかり。月の精霊《せいれい》は邪魔《じゃま》しなかった。もう大丈夫《だいじょうぶ》だよ』
それから管制官にマイクが戻《もど》った。
『二人ともよくやった。君たちは本当に素晴《すぱ》らしい。さあ状況《じょうきょう》を聞かせてくれ。こちらに対策《たいさく》チームがスタンバイしている。必ず打つ手があるはずだ』
『その前に――最初に知らせたいことがあるの。記録してちょうだい』
ソランジュは言った。
『ここは月世界最大のスケートリンクだった。氷の純度はかなり高くて、凍土《とうど》というよりは黒水晶《くろすいしょう》のように透《す》き通っている。私たちはその氷原《ひょうげん》を歩いてきた。外輪山《がいりんざん》の斜面《しゃめん》が始まるまで氷原は途切《とぎ》れなかった。その氷はドライアイスじゃなくて、水が凍《こお》ったものにちがいない。いちど融《と》けたものが、宇宙服の表面で六角形に結晶したのを確かめたから。まだボーリング調査はしていないけど、ハンマーで着陸点付近の月面を叩《たた》いたところ、少なくとも表面から五センチは氷の塊《かたまり》だった。サンプルをそちらに届《とど》けられるといいんだけど――いま伝えられるのはこれだけ』
ひと息に報告して、ソランジュは少し咳《せ》き込んだ。
荒《あら》い息遣《いきづか》いがマイクから伝わってくる。
それからソランジュは、着陸機のありさまを詳細《しょうさい》に伝えた。
管制官は着陸機システム主任と交替《こうたい》して、さらに質疑応答が続いた。
ゆかりは時計を見た。月に降りてから二時間五十分。
ここまでの移動に一時間半かかった。
生命維持《せいめいいじ》の限界まで、あと三時間十分。
着陸地点に戻《もど》るのに一時間半かかるとすると、残りは一時間四十分。
たった百分で、なにができるというのだろう……。
地球とのやりとりの頻度《ひんど》はしだいに低下し、やがて沈黙《ちんもく》が支配的になった。
燃料も電力もある。折れた着陸脚は修復できる。無線交信は地球が見える高度まで上昇《じょうしょう》すればDSN経由で可能になる。
だが、エンジンの片方は、どう考えても修復不可能だった。
『離陸時《りりくじ》の質量《しっりょう》は七百五十キロだ。月面での重量は百二十七キロになる。正常な場合、エンジンの推力《すいりょく》は二百三十キロだから、倍近い推力で上昇できるわけだ』
着陸機システム主任は、淡々《たんたん》と説明した。
『エンジンのひとつが失われると、重量百二十七キロに対して推力は百十五キロになる』
十二キロ足りない。それくらいなら、なんとか減量できるんじゃ、とゆかりは思う。
『よけいなものは捨てよう。氷のサンプルも記念品も壊《こわ》れた無線機もアンテナも、それから君たちの携帯《けいたい》している道具類もすべて捨てたとしよう。これでも月面上で百十七キロになる』
あと二キロ。
『いや、推力が自重《じじゅう》を上回ることは本質的な問題じゃないんだ。燃料の重量は五十六キロある。噴射《ふんしゃ》を始めたら燃料を消費したぶん軽くなって、ポレールはやがて月面を離《はな》れるだろう。だが、月に居座《いすわ》っている間のロスがある。決定的なのは月面を離れてからも、自分を浮《う》かせるために無駄《むだ》に下方に噴射することだ。このあたりのことはわかるね? ポアソンとランデヴーするには、上昇するだけじゃなく、水平方向に秒速一・七キロまで加速しなきゃいけない。ただ空中に浮かんでいるだけでは、ポアソンと秒速一・七キロで激突《げきとつ》することになるからね』
結局、先にソランジュが説明したとおりだった。推力が半減したために重力損失に負けてしまう。
『わかりました、主任』
ソランジュは静かに答えた。
『私も同じ結論を持っていました。それが月における”冷たい方程式”でしょう。ほかに解《かい》はありません』
冷たい方程式――それは古いSF小説のタイトルだが、宇宙飛行につきまとう掟《おきて》をよく表している。単純な物理法則が飛行士の生死を何時間、ときには何日も前に決定してしまうのだ。
『まだ時間はある。抜《ぬ》け道がないか、できるだけの検討《けんとう》はする』
『感謝します』
「茜、すごい顔だね。どこか痛む?」
「邪魔《じゃま》しないで!」
茜の剣幕《けんまく》に、マツリは目を丸くした。
あれから――月|軌道《きどう》を周回《しゅうかい》しながら、茜は目を固く閉《と》じ、小さな頭をフル回転《かいてん》させて、この方程式と取り組んでいた。
地上から軌道への飛行は、方程式としては“汚《きたな》い”間題だ。地球からの打ち上げの場合、重力や大気、自転速度など、いろいろな要因がからんでくる。
月には大気がない。自転も無視できるから、方程式はかなリクリーンになる。
だが方程式は、単純になるほど抜け道を探すのが難《むずか》しくなる。
茜は発想を切り替《か》えた。
なにか新しい要素を加えて、方程式を“汚《よご》す”んだ。
たとえば――あの氷は?
水を電気分解すれば燃料が造《つく》れる。だがそんな装置《そうち》はないし、そもそも燃料は不足しているわけじゃない。足りないのは推力《すいりょく》だ。
いや、推力が足りないことが問題なんじゃない。
運動量を蓄積《らくせき》できないことが問題なんだ……。
ACT・6
ゆかりとソランジュは、地球を見通す丘《おか》の頂《いただき》にならんで腰《こし》をおろし、まるで恋人《こいびと》どうしのようにヘルメットを接していた。
無線機は受信オンリーにしてある。ヘルメットを接して声をじかに伝えれば、地球に会話を聞かれずにすむ。
両親と会話するのは、最後の一時間まで待つことになっていた。気丈《きじょう》な二人だが、親と話せば動揺《どうよう》するだろう。帰還《きかん》の望みがあるうちは、冷静でありたい。
ゆかりも家族の話題は避《さ》けた。
「ソランジュ、ここが宇宙への懸《か》け橋《はし》になるって言ってたけどさ」
「ああ」
「なんでそういうこと思うわけ?」
「なんでって……」
「なんてゆーか、そういうこと普通《ふつう》考えないよね」
「そうかしら」
「大統領か何かみたいじゃん。人類の未来のために、なんてさ」
「リセエンヌが考えちゃいけない?」
「そうじゃないけど」
アポロ計画の頃《ころ》、ゆかりはまだ生まれてなかった。月に行きたいなんて考えたこともない。ましてそれに使命感を持つなんて想像を絶する。
理科少女の茜が月にあこがれるのは、まだわかる気がしたのだが。
「NASAのクレメンタイン探査機のニュースは聞かなかったの?」
ソランジュが尋《たず》ねた。
「記憶《きおく》にないけど」
「月に水があるかもしれないって、大騒《おおさわ》ぎしてたわ。それで、どうしてそんなに騒ぐのかって、学校の図書館でいろいろ調べたりした」
「ふうん」
「結局、理科の先生の言ったことが、私の人生を決めた。『それは神が用意してくださったのだ』ってね。地球から目と鼻の先に月がある。そこにはあらゆる資源《しげん》が揃《そろ》っていて、邪魔《じゃま》な大気も強い重力もない――さっき話したわね?」
月に拠点《きょてん》を作れば、火星への道筋《みちすじ》が開ける。
火星から木星へ。
木星から土星へ。
土星からカイパーベルトの彗星群《すいせいぐん》へ。
そしてよその恒星《こうせい》へ。
「神はそんな階梯《かいてい》を用意していたんだ――先生はそう言った。太陽系は決してでたらめに生まれたんじゃない、神の御業《みわざ》そのものなんだって。理科の先生にしちゃ信心深いんだなって思ったけど、私にはそれがとても素敵《すてき》なことに思えた。天界にそんな道筋があって、私たちが門をくぐるのを待っているなんて」
「ふうん……」
結局ソランジュは、ただひたすらまじめに月に行きたかった。それだけなのだ。
性格が高慢《こうまん》なのではない。目標が高遭《こうまい》なだけだった。
「そゆこと、最初に聞いとけばよかったな」
「出会いがあれじゃね」
ソランジュはくすりと笑う。ゆかりも笑った。
それから話すのをやめて、地球を眺めることにした。
月の地平に南極海を接した地球は、本当に大きく見えた。見かけの直径は地球かち見た満月の四倍だが、もっと大きく感じる。
それぞれが母国を探したが、海と雲しか見えなかった。
別の会話がヘルメットに流れこんだのは、それからまもなくのこと。
『ポアソンより対策《たいさく》チーム、あの、いいですか?」
茜だった。着陸機システム主任が応じる。
『なんだね』
『ランデヴー高度については検討《けんとう》されたでしょうか。予定では高度百キロでしたが、月に大気はありません。山に衝突《しょうとつ》しない限り、ポアソンを地表すれすれまで降ろすことができますよね』
『もちろん検討したよ。残念ながら、それでも水平速度が足りないんだ。秒速二百五十メートルもね』
『それじゃ、もう一点、いいですか?」
『なんでも指摘《してき》してくれ』
『ポレールを水平発進させることは考えられたでしょうか?』
ゆかりとソランジュは、顔を見合わせた。
主任の返答には三秒以上の間があった。
『……水平発進、かね?』
『そうです。ソランジュさんの報告では、そこはスケートリンクのようなんですよね。ポレールを横倒《よこだお》しにしたまま、橇《そり》のように発進させたら? 低重力だから摩擦《まさつ》はごくわずかでしょう。自分を浮《う》かせる必要がありませんから、これなら弱い椎力《すいりょく》でも運動量を蓄積《ちくせき》していけます。速度が上がれば自重《じじゅう》も小さくなる。極端《きょくたん》なことを言えば、月では高度ゼロでも軌道飛行《きどうひこう》できるんですから』
『いやいや、待ってくれ。それはあまりに無茶だ。クレーターの端《はし》には外輪山《がいりんざん》がある。途中《とちゅう》だってどんな障害物《しょうがいぶつ》があるかわからん。とても不可能だよ』
『3Dマップで確認しました。着陸地点から地球に向かって滑走《かっそう》します。これはゆかりたちが歩いてきた道と同じで、九キロの滑走路が確保できます。いまゆかりたちがいる外輪山の高度は百五十メートル。そこを越《こ》えたら、しばらく高い山はありません。氷原《ひょうげん》を滑走して速度をかせいで、外輪山の手前で機体を立てて下方に噴射《ふんしゃ》する。山を越えたら姿勢《しせい》を水平近くまで戻《もど》して、また速度をかせぐ。ポアソンも高度二百メートルまで降下してランデヴーにかかります』
『ポアソンをそんな低空に降ろすのは危険すぎる。月の重心は偏《かたよ》っているし、あちこちに重力異常があるから軌道は不安定だ。君たちまで遭難《そうなん》の危険にさらすことなど、とても許可できないよ』
『私たちは全員で帰ることしか考えていません』
茜はあらゆる反駁《はんばく》を拒《こば》むように、きっぱり言い切った。
『ゆかりとソランジュにも言っておきます――聞いてるでしょう? 重量軽減のためにどちらかが残るなんて考えは持たないこと。そんなことは検討《けんとう》する価値もない。いいですか主任、私がお願いしたいのはメカニズムと物理学の問題だけです。私の概算《がいさん》ではぎりぎりで二人を回収できます。ただの思いつきじゃありません』
『だが……そんな飛行じゃ誤差《ごさ》が大きすぎる。確かなことはなにも言えないよ』
『すべてうまくいったと仮定《かてい》してください。燃料がつきたら、ゆかりとソランジュはポレールを離《はな》れて宇宙遊泳します。こちらもマツリが船外に出て迎《むか》えにいきます。ありったけの命綱《いのちづな》をつないで、速度と位置の誤差を吸収します』
着陸機システム主任は、ぐうう、と奇妙《きみょう》なうなり声を発した。六〇年代、ディアマン・ロケットの時代から宇宙工学に取り組んできたが、この歳《とし》になって日本の少女に月|軌道《きどう》からやりこめられるとは思わなかった。
自信を喪失《そうしつ》した声で、彼はなけなしの反論を試みた。
『簡単に言うが、あれをロケット橇《そり》に改造するといってもなあ……』
間髪《かんはつ》を入《い》れず、アンヌが割り込んできた。
『ソランジュ、スーベニア・ボックスは調べてみたかい?』
『いいえ。あれは真空にさらせないもの』
『切手やメダルなんてくだらないものは降ろしといたよ。あそこにはあんたへのプレゼントが入ってるんだ』
『えっ?』
『前に言ってたろ。もしほんとに氷原《ひょうげん》があったら、スケートしてみたいって。あんたはめったに冗談《じょうだん》言わないから、こっちは重く受け止めたわけ。だからスケート靴《ぐつ》を入れといた』
『アンヌ、なんてことを!』
『車輪つきのインライン・スケート靴にしたよ。そこは凍土《とうど》状態だって考えられてたし、純粋《じゅんすい》な氷だったとしても温度が低すぎてエッジと氷のあいだに水の膜ができないよね。だから車輪のほうがいいんだ』
『あなたって娘《こ》は……』
『低温に耐《た》える素材で特注《とくちゅう》したし、重量にも楽に耐えるはずだよ。百キロちょっとだろ? どこの広場だってそんな太っちょが平気で滑《すぺ》ってるよね』
アンヌは立て板に水を流すように続けた。
『三秒のロスが惜《お》しいから、おじさん連中の説得はあたしらがやるよ。すぐに手順書作らせるから待ってて。茜たちは二人の空中回収に使えそうなもんをありったけ用意しといて。じゃあね!』
普段《ふだん》はのんべんだらりと働いているフランス人たちも、ここぞという時には瞬発力《しゅんぱつりょく》を発揮《はっき》するらしい。二十分後にポレールをロケット橇に改造するための手順が伝えられた。
続いて飛行手順が説明された。ペガサス座べータ星を目標に発進し、可能な限り長く水平滑走《すいへいかっそう》する。機体を引き起こす地点には、ストロボ信号灯《しんごうとう》を置いておく。
『姿勢表示器が生きているかどうか調べてこなかったわ。それなしで仰角《ぎょうかく》を知る方法はない?』
『待ってくれ、いまシミュレーターで星座を確認《かくにん》してる……なんだって?……オーケイ、ケフェウス座ガンマ星に機軸《きじく》を向けてくれ』
『ケフェウス座ガンマ星、了解《りょうかい》』
ゆかりとソランジュは、続々と送られてくる情報をメモしていった。この丘《おか》を降りたら、もう誰《だれ》とも連絡《れんらく》できなくなる。いまのうちにあらゆる問題を検討《けんとう》しておかないと取り返しがつかなくなる。
だが、いつまでも粘《ねば》っているわけにもいかなかった。生命《せいめい》維待《いじ》の限界まであと二時間と十分しかない。
二人は決意して立ち上越り、地球に背を向けた。互《たが》いの肩《かた》を抱《だ》き、号令をかける。
「行くよ、ソランジュ」
『ええ』
「三、 二、 一、ホップ!」
ACT・7
帰りは下り坂だから楽だよ、などと言ったものだが、氷原《ひょうげん》に向かう斜面《しゃめん》はやはり平地にしか感じられなかった。
往路と違《ちが》うのは、二人の疲労《ひろう》が増《ま》していることだった。
休憩《きゅうけい》の頻度《ひんど》がしだいに高くなっている。それは休憩というより、足がもつれて転倒《てんとう》し、そのままじっとしているだけのことだった。
塵《ちり》に覆《おお》われた裾野《すその》から氷原に入ったところで、二人はまた転倒した。
ソランジュはなかなか立とうとしない。
フェイスプレート越《ご》しに見る顔は汗《あせ》まみれだった。ソランジュは喘《あえ》ぎながら言った。
『ゆかり、相談があるんだけど……』
「先に行けって話ならお断《ことわ》りよ」
ゆかりは機先を制して言った。
「メモった手順は二人の体重込みで計算してあるんだから、あんたが乗ってくんなきゃ困るわけ。いやだって言っても引っ張ってくからね」
『そうだったわね……』
ゆかりに支えられながら、ソランジュは体を起こした。
二人はカンガルー跳《と》びを再開した。
ストロボ信号灯《しんごうとう》が再び地平線上に現れると、気力がよみがえった。
あれは目の高さに置いたから、地平線までの距離《きょり》の倍だ。
あとたったの四キロじゃないか。こちらは一歩で六メートルだぞ!
ポレールにたどり着くと、二人は工具を取り出して解体作業にとりかかった。
作業時間は三十分しかない。そのタイミングを逃《のが》したら、たとえ発進してもポアソンがそこにいない。
着陸脚《ちゃくりくきゃく》は二基を残して取り外す。残った脚《あし》は転倒を防ぐ橇《そり》として残す。貨物ラックの荷物は片《かた》っ端《ぱし》から捨てる。
大半の重量を受け止めるインライン・スケート靴は、自転車の車輸《しゃりん》のようにタンデムに並《なら》べてくくりつけた。
損傷《そんしょう》したエンジンは根元から外して捨てる。
心配なのは姿勢《しせい》制御《せいぎょ》系統だった。本来なら慣性《かんせい》誘導《ゆうどう》装置《そうち》が噴射《ふんしゃ》ノズルの向きを制御してくれるが、横倒《よこだお》しに発進することなど想定されていない。そのまま使えば、誘導装置は機体を立て直そうと必死になるだろう。機械が人間の意志に反抗《はんこう》しないよう、制御を切り離《はな》す必要がある。
着陸機システム主任は、制御システムを「ジンバル・テストモード」と「RCSテストモード」だけで使うよう指示した。前者は操縦桿《そうじゅうかん》の動きがそのまま噴射ノズルの首振《くびふ》りに反映される。後者は機体を回転《かいてん》させるためのバーニア噴射をじかにオン/オフする。ほとんど究極《きゅうきょく》の手動操縦だった。
もうひとつの心配は、燃料がエンジンに正しく送られるかどうかだった。燃料はヘリウムガスの圧力でタンクから押し出されるのだが、横倒しのままで正しく作動するかどうか。
『発進してしまえばGが加わるから大丈夫《だいじょうぶ》なんだが、点火直後にエンジンが咳《せ》き込む可能性がある。残念だがこれは解決策《かいけつさく》が見つからない。エンジンの火が消えたら、点火ボタンを再度押してくれ。できることはそれしかない』――そう言われた。
それから二人は、機体の中心軸《ちゅうしんじく》を貫《つらぬ》くマストにまたがった。
座席《ざせき》は使えない。噴射《ふんしゃ》ノズルの首振りだけで姿勢が変わらない場合、人体を動かして重心移動させるのだった。ソランジュはマストの根元寄りに馬乗りになり、手をのばして操縦桿をあやつる。ゆかりはソランジュの前にまたがった。元のシートから移したハーネスを手綱《たづな》のように握《にぎ》る。
「こりゃほんとに魔女《まじょ》のホウキだね」
『マッハ五で飛ぶホウキね』
時計を見る。発進まで三分十四秒。
すでに各部のウォームアップを始めているが、音もなければ表示もない。何がどう進行するのか、まったく神頼《かみだの》みだった。
ソランジュは急に言った。
『今からでも、氷をボーリングできないかしら』
「無理無理。時間もないし、余分な荷物は持てないよ」
『じゃ、国旗だけでも立てるわ』
「ち、ちょっと!」
どこにそんな余力があったのか、ソランジュはマストから飛び降りた。ゆかりも後を追った。氷上に放《ほう》り出したケースから、丸めたフランスの三色旗を取り出す。
三脚《さんきゃく》をひろげ、横棒《よこぼう》で支えられたケプラー繊維《せんい》の旗をひろげる。
「日本のは?」
『そんなものないわ』
「ひっどーい! 日仏共同ミッションでしょ!」
『それはLEOまでの話』
「んじゃ、ここに書き込んじゃうかんね」
『ちょっと、|フランス国旗《トリコロール》を汚《よご》さないで!』
ゆかりはかまわずポールペンの赤インクで三色旗の中央に日の丸を書き込んだ。
ソランジュは鼻を鳴らして、
『シンプルな国旗だこと』
「いいじゃん、永遠に日が昇《のぼ》らないとこに日の丸なんてさ」
「太陽だったの? てっきり輪切りのサラミソーセージかと思ったわ』
憎《にく》まれ口はそこまでにして、二人はロケット橇《そり》に戻《もど》った。
二人の体を命綱《いのちづな》で結ぶ。
一分前。前方に向けて最後の照明弾《しょうめいだん》を発射《はっしゃ》する。
『ゆかり、カウントダウンお願い』
「了解《りょうかい》……四十秒前。三十五……三十……二十五……」
身をよじって後ろをみると、ソランジュは上体を右舷側《うげんがわ》にのばして計器盤《けいきばん》を見ていた。
「温度圧力ともに正常」
「しっかりつかまっててよ。十秒前……五、四、三、二」
『マーク――点火!』
ゆかりは競馬《けいば》の騎手《きしゅ》のように身を丸め、体をマストに密着させた。
がつん、と衝撃《しょうげき》が走った。
ポレールは一メートルほど進んだ。そして止まった。
『再点火』
がつん――今度は止まらない。かすかだが、加速が持続している。
ポレールは滑走《かっそう》を開始した。
フラッドライトに照らされた月面は、すぐにぶれて見えなくなった。
みるみるうちに振動《しんどう》が高まってきた。平らに思えた氷原《ひょうげん》に、こんな凹凸《おうとつ》があったとは。
モーターボートに乗っているようだった。波に乗り上げるように月面を離《はな》れては着地する。その間隔《かんかく》はしだいに長くなってゆく。
照明弾《しょうめいだん》の光芭《こうぼう》が後方に去ると、星座が見やすくなった。
「それてる。ちょい右」
機体がぐらりと傾《かたむ》き、空中に跳《は》ね上がった。機体が回転《かいてん》しはじめる。
「やりすぎ! ジンバルはセンターにして、ローテート!」
『わかってる!』
ポレールは横倒しのまま落下してゆく。
このまま接地したらポールのように転《ころ》がってお陀仏《だぶつ》だ。
ソランジュは着地寸前に姿勢《しせい》を立て直した。滑走を再開する。
地平線上にストロボ信号灯《しんごうとう》が現れた。
「ストロボ発見! 裾野《すその》まであと三キロ!」
『引き起こし開始』
前方のスケート靴が月面を離れた。機首は三十度くらい持ち上がった。
『仰角《ぎょうかく》が足《た》りない。ゆかり、立って!』
「おっし!」
ゆかりは手綱《たづな》をにぎりしめ、両膝《りょうひざ》で力いっぱいマストを挟《はさ》んだまま、上体を起こした。
重心が中心軸《ちゅうしんじく》からずれたせいで、機首はさらに持ち上がった。
『戻《もど》って!』
「わっ!」
あたふたとマストにしがみつく。
前方には星しか見えない。
「ケ、ケフェウス座ってどこ?」
『大丈夫《だいじょうぶ》、見えてる。そっちに向いてる』
ならいいが――月面はどこへ行った?
下方に目をこらすと、暗闇《くらやみ》の中を動くものがあった。光を失いつつある照明弾に照らされて、あの段丘《だんきゅう》地形《ちけい》が音もなく後方に流れてゆく。高度は百メートルくらいか。
「すげー。飛んでる」
ソランジュは徐々《じょじょ》に姿勢を水平に戻してゆく。
前方に外輪山《がいりんざん》が迫《せま》っていた。稜線が日照《にっしょう》をあびて白く輝《かがや》いてみえる。
それは――自分たちより高く見えた。
「ちょっと! 高度足りないよ!」
『すれすれに越えないと、あとで水平速度が足りなくなる』
「だけど、このままじゃぶつかるよ!」
暗《くら》い壁《かぺ》が、恐《おそ》ろしい速度で接近してくる。
ゆかりは理性を失った。
「わーっ、ぶつかるぶつかるぶつかるぶつかるーっ!!」
直後、白い閃光《せんこう》が視覚《しかく》を占領《せんりょう》した。
「…………?」
固く閉《と》じたまぶたをこじ開ける。
世界は一変していた。
光と影《かげ》の奔流《ほんりゅう》。月の表側に出たのだった。暗い口を開けたクレーターが、めざましい速度で突進《とっしん》してきては眼下を飛び去ってゆく。静止しているのは地平線上の地球だけだ。
こんな視覚体験はビデオゲームの中でしか知らなかった。むきだしの体で、山岳地帯《さんがくちたい》の超《ちょう》低空をマッハ四で飛行しているのだ。
『…………ソンよりポレール、ポアソンよリポレール、応答願います!』
茜の高い声がヘルメットに響《ひび》いた。ソランジュが応じた。
『ポレールよリポアソン、こっちが見える?』
『見えます! 前方約三キロ。それ以上高度を落とさないで。もうすぐ追いつきます!』
振り返ると、燃焼ガスのむこうに明るい光点《こうてん》が浮《う》かんでいた。
『針路、少し右ヘ――ほんの少し』
『了解《りょうかい》』
「針路、少し右へ――ほんの少し』
『了解』
『え?』
『いまのはちがう!』
『え?』
『いまのはちがう!』
「なんだ、なにが起こった?」
『なんだ、なにが起こった?』
『ポアソンよりジュピター2、DSNの中継《ちゅうけい》を止めてください。もう直接交信できます』
『ジュピター2了解』
『ポアソンよりジュピター2、DSNの中継を止めてください。もう直接交信できます』
『ジュピター2了解』
三秒遅れのDSN中継と、直接交信の音声が混《ま》じったのだった。
ふいにGが消失した。機体が前後に震え、すぐにしずまった。
「ポレール、燃焼|終了《しゅうりょう》』
『まだ速度が足りない! ポレール、高度が落ちてる!』
茜が悲鳴のような声で叫《さけ》んだ。
『前! 前! 前方に山!』
ひときわ高いクレーターが追《せま》ってくる。
ゆかりは急いでマストから体を離《はな》すと、ソランジュの横に移動した。
「あたしに抱《だ》きついて。こいつ蹴飛《けと》ばすから」
『よ、よし――』
「いくよっ!」
ゆかりは両脚《りょうあし》を縮《ちぢ》め、渾身《こんしん》の力で燃料タンクを蹴った。
ポレールが下方に退《しりぞ》いてゆく。直後、閃光《せんこう》が走り、なにかが視野《しや》をワイプした。
後方を見ると、矢のように遠ざかってゆくクレーターの縁《ふち》に、無数の輝《かがや》く破片が舞《ま》っていた。
その上方に接近するポアソンの丸い船首が見えた。側面にマツリがしがみついている。
「マツリ、今の破片|大丈夫《だいじょうぶ》?」
『平気だよ。ゆかりたち、高さが足りない。もっと上昇《じょうしょう》して』
「わかった」
ゆかりとソランジュはジェット・ガンを出して噴射《ふんしゃ》する。だが、効果は小さかった。
二人はいまだ軌道速度に達しておらず、すでに放物線《ほうぶつせん》の頂点をすぎていた。
ジェット・ガンのガスはすぐに尽《つ》きた。もうどうしようもない。
『茜、もっと下だよ、もっと下』
マツリが茜に指示する。
『でも速度が――』
『大丈夫、マツリがかっさらうよ』
ポアソンのバーニア噴射が閃《ひらめ》いた。軌道力学を無視《むし》して減速しながら突っ込んでくる。それは降下というより墜落《ついらく》だった。
マツリは船体を蹴って空中に泳ぎ出した。ヘビのようにうねる命綱をしたがえながら、ぐんぐん接近してくる。
その命綱が伸《の》びきった。マツリはこちらに向かって両手を振《ふ》り回した。
『ほーい! ゆかりたち、もっと上へ!』
水平距離は百メートルもない。このままではマツリは数メートル上を追い越してしまう。
「ソランジュ、手はなして」
『何をする気?』
「いいから!」
ゆかりはソランジュの下方にまわりこみ、相手の腹を力まかせに蹴った。
上方に遠ざかってゆくソランジュの目が見開かれた。
「ゆかり、なんてことを――」[#ここもソランジュなので『』のはずだが何故か「」になっている]
言いおわる前に何かがソランジュの体に衝突《しょうとつ》した。
それは相対速度《そうたいそくど》、秒速十五メートルで飛んでいたマツリだった。瞬間《しゅんかん》、マツリはソランジュのヘルメットにヘッドロックをかけ、両脚で胴体を締《し》めつけていた。
直後、ゆかりの体も猛烈《もうれつ》に引かれた。ソランジュは忘れていたらしいが――二人は命綱で互《たが》いを結んでいたのだ。
『ほい、ソランジュをキャッチしたよ! 茜、上昇して。このままではあぶないよ』
『そのまえに船まで戻って。噴射で焼いちゃうから! 急いで!』
ポアソンの二十メートル下方にマツリとソランジュ、その八メートル下にゆかりがぶらさがった格好《かっこう》だった。
キャッチの瞬間、張ったロープが戻《もど》る勢いでマツリとソランジュは船体に引き寄せられたが、直後、ゆかりとソランジュを結ぶ命綱が張ったのでキャンセルされた。最大の運動量をもらったゆかりが真っ先に船に戻り、マツリとソランジュを引き寄せた。
三人が船内になだれ込むと、茜はただちにメインエンジンを全開噴射した。
三人の体はぼたぼたと後部|隔壁《かくへき》に落下した。
ポアソンはアペニン山脈上空を高度差二十メートルで通過して、周回軌道に舞《ま》い戻《もど》った。
『……ビター2よリポアソン、応答せよ。ポアソン、聞こえるか。ポアソン応答せよ』
管制官の悲痛な声がもう二十回ほど反復している。
だが四人は、いまにも破れそうな心臓をなだめるのが精一杯《せいいっぱい》だった。
やがてソランジュが計器盤《けいきばん》に手をのばし、声を電波に乗せた。
『船長ソランジュ・アルヌールよリジュピター2。……なんだかよくわからないが、気がついたら船に戻っていた。いまは四人いっしょだ。そばに茜とマツリと――』
ソランジュはこちらを見た。
『ゆかりがいる。ポアソンは安全に月|軌道《きどう》を周回《しゅうかい》している』
三秒後――地球から返ってきたのは、割れるような歓声《かんせい》だった。
ACT・8
「あの、余裕《よゆう》がなければ、いいんですけど……」
南極をまわったあたりからそわそわしていた茜は、月の裏側、赤道近くにあるコロリョフ・クレーターの上空で、ついに切り出した。
「ずっと余裕がなくて、チャンスを逃《にが》してたんです。この次の、オービット7ではもう周回軌道を離脱《りだつ》しなきゃいけないから……できれば外で見られたらいいな……とか」
ソランジュはにっこり笑って許可した。
「素敵《すてき》な思いつきだわ。みんなで出ましょう」
ソランジュとゆかりはエア・カートリッジを交換《こうかん》し、全員で船外に出た。
茜が足を固定して船殻《せんこく》に立つと、その首根っこにマツリが抱《だ》きついた。
ゆかりは低利得《ていりとく》アンテナのマストにつかまり、ソランジュも反対側に立った。
「あたしらは、嫌《いや》っていうほど見たけどね」
『何度見てもいいものよ』
そのとおりだった。
月の地平の一点に青い光が爆発《ばくはつ》し、たちまち巨大《きょだい》な球体《きゅうたい》に膨《ふく》れあがる。
ヘルメットに流れこむ茜の感嘆《かんたん》の声を、ゆかりはそのまま自分の心に重ねていた。
あそこに帰れるんだ。
あの水と風の世界に。
着水したら、裸《はだか》になって思いっきり泳いでやろう。
港についたら、ピザとアイスクリームと蝦《えび》シュウマイを腹一杯《はらいっばい》食べてやろう。
『見て見て、まだ光ってるよ』
マツリが下界を指差した。
暗闇《くらやみ》のなかで、二つのストロボ信号灯《しんごうとう》が、いまも点滅《てんめつ》を繰《く》り返していた。
ひとつは着陸地点に、もうひとつは氷原《ひょうげん》のほとりに。
その二点を結び、白く輝《かがや》くクレーターの縁《ふち》までのばすと、それが二人の往復した道だった。
「すごいな。あんなに歩いたわけか。ていうか、跳《と》んだんだよね」
『まっすぐに地球をめざしたのね』
いつかあそこに都市ができたら――
ゆかりは思いをめぐらせた。
そこに暮らす人たちも、ときどきクレーターの縁まで出かけるんだろうか。
望郷《ぼうきょう》の念《ねん》にかられて、地球を見るために。
オービット7――月を七周したところで、ポアソンは推進段《すいしんだん》に点火《てんか》し、月|周回《しゅうかい》軌道《きどう》を離脱《りだつ》した。
ゆかりとソランジュの回収で燃料を浪費《ろうひ》したため、帰還《きかん》は最も経済的な軌道を選んだ。地球|到看《とうちゃく》は半日ほど遅《おく》れるが別に支障はなく、三日後、早朝の南大西洋に着水する予定となった。
ソランジュは骨折の件を地球に報告して相手をひどく驚《おどろ》かせた。医師と相談した結果、地球に帰還するまで宇宙服から脚《あし》を抜《ぬ》くのは延期になった。
「その間、骨の回復は進行しないと思われるが、下手《へた》に癒着《ゆちゃく》するよりはずっといい」
医師はそう言い、帰還後には問題なく回復することを請《う》け合った。
ソランジュはゆかりに支えられ、上半身だけ脱《ぬ》いでスポンジで体をぬぐっていたが、そのとき目の前に漂《ただよ》ってきたものを見て悲鳴《ひめい》を上げた。
「しまった! 私としたことが、なんてことをー」
「どうしたの?」
「氷の標本よ。このウエストバッグに入れたきり、すっかり忘れてた。もう融《と》けてるわね」
「えっ、氷、採取してたんですか?」
茜が勢い込んでたずねた。
「ああ、やっぱり融けてる」
ソランジュは標本瓶《ひようほんびん》を取り出して、茜に渡《わた》した。
黒ずんだ液体が、瓶の片側に張りついてぷよぷよと震《ふる》えていた。
「へえええ……」
茜は私物入れから愛用のルーペを出して、しきりに観察《かんさつ》し始めた。
「断熱容器に入れておけばよかったんだけど。氷の組織からいろいろわかったろうに」
「でも減ったわけじゃないし、水がどっさりあるってわかっただけでいいじゃん」
「それはね。でもあの水がいつどこから来たのか、まだまだ謎《なぞ》だらけだし」
茜は瓶を船内灯《せんないとう》に透《す》かして、一心に中を見つめている。
「茜先生は何か発見した?」
「何かしら、これ……」
茜はひどく興奮《こうふん》した面持《おもも》ちで言った。
「どれどれ」
ゆかりは瓶とルーペを奪《うば》って、自分で眺《なが》めてみた。
「何かしらって何が?」
「繊維《せんい》みたいなものがあるでしょう?」
「ああ、このもじゃもじゃしたやつ?」
「その繊維のなかに、ふくらんだところがあってー」
「おー、あるある」
「そのふくらみが、動いてない?」
「…………」
ゆかりは無言で観察し続けた。言われてみれば……透き通った、体長一ミリにも満たない何かが、もぞもぞと動いているような。
こんどはソランジュが瓶とルーペを取り上げた。
「ほんとだわ、なにか動いてる! こんな生物がいたわね。英語でなんて言ったかしら」
「日本語では“クマムシ”。熊《くま》みたいな形の虫だから。でもクマムシは体節《たいせつ》が四つで肢《あし》も四対《よんつい》なんです。それは体節が五つで肢は二対でしょう?」
「確かにそうね。こんなプランクトンって地球にいたかしら?」
「調べてみないと。微生物《ぴせいぶつ》はいろいろあるから。その繊維は珪藻《けいそう》みたいだし」
「それって、つまり、あれ?」
ゆかりが言った。
「瓶に最初からまぎれこんでたってこと?」
「まさか。厳重《げんじゅう》に滅菌《めっきん》処理《しょリ》までしてあるのよ。月でラップを破ったのを見たでしょう?」
「たしかに」
瓶とルーペがマツリに渡る。
「ほー。これは宇宙生物?」
こうしたことに無頓着《むとんちゃく》なゆかりでさえはばかっていた言葉を、マツリはさらりと言った。
「専門家に見てもらわないとなんとも言えないわ、マツリ」
茜はあくまで慎重《しんちょう》になろうとしている。
「大きな隕石《いんせき》が地球に落ちて、海水が月まで飛んできたのかもしれないし」
「でも月の水は彗星《すいせい》が運んできたというのが定説よ?」
「ほい、じゃあ彗星生物?」
「だからそう簡単には結論できないんだってば! 確かにそれは、彗星が生命を育《はぐく》んでるって説はあるけど……ああ、そうだったらすごいけど!」
茜は興奮《こうふん》を抑《おさ》えかねていた。どうやらこれが茜のもっとも期待する説らしい。
クマムシは環境《かんきょう》が悪化すると亀《かめ》のように身を縮《ちぢ》めて冬眠《とうみん》状態になる。その状態では驚《おどろ》くべき耐久力《たいきゅうりょく》を発揮《はっき》し、百度の熱湯で六時間、乾燥《かんそう》状態では何年も生き延びる。
「でも地球産だったとしてもさ、長いこと凍《こお》ってたのがまた生き返るなんてすごいじゃん。いつごろ月に来たんだろうね」
「かなり新しいと思うわ。あの氷原《ひょうげん》、ほとんどクレーターがなかったもの」
ソランジュは月面観察の訓練を受けており、クレーターの密度から地表の年代を推定《すいてい》することも観察|事項《じこう》のひとつだった。
「新しいって何年くらい? 百年とか?」
「五億年よりこっちかしら」
「ぜんぜん古いじゃん!」
「地質学的には新しいのよ。クレーターの大部分は三十億年くらい経《た》ってるから」
「でも、それだって古生代《こせいだい》ね。恐竜《きょうりゅう》時代より古いわ」と、茜。
「それもなんともいえないの。あの水は一度にたまったわけじゃないかもしれない。彗星が衝突《しょうとつ》して水蒸気が月を包む。それが地表に落ちて、北極と南極だけは揮発《きはつ》せずに残った。その蓄積《ちくせき》があの氷原になったっていう説も有力だし」
それからソランジュは茜に言った。
「なんにせよ第一発見者はあなたなんだから、命名権があるわね。なんてつける?」
「えっ! わあ、どうしよう!」
茜は真《ま》っ赤《か》になった。
「ほい、茜が見つけたんだからアカネムシ」
「アカネムシ! あはは、そりゃいい、最高!」
「待って、そんなの、ちょっと!」
「アカネムシ。悪くない響《ひび》きだわ。決まりね」
それから宇宙食の袋《ふくろ》をかたっぱしから破って、祝杯《しゅくはい》をあげた。チキンサラダ、オムレツ、ビーフシチュー、チーズ、ジャムトースト、レモネード、洋梨《ようなし》、苺《いちご》、チョコレート。
腹がくちくなると、ゆかりはまた標本瓶《ひょうほんびん》を眺《なが》めた。
それを採取《さいしゅ》した暗い氷原《ひょうげん》のことを思い出す。
「こんなのがいるって知ってりゃ、あんな寂《さび》しい思いしなかったろうになあ……」
「寂しかったの?」ソランジュが口をはさんだ。
「まあね。そばにいる生き物っていえば高慢《こうまん》ちきなフランス娘《むすめ》だけ。このまま凍《こお》りついて死ぬんだったら、あんまり寂しいよなって思ってた」
「そう? それじゃ次に行く時は素敵な男性を連れていくことね」
ソランジュは初めてフランス娘らしいことを言った。それから、みずからの信念をつけ加えることも忘れなかった。
「あそこが、いつまでも二人きりになれる場所でいるとは思わないけど」
そうかもしれない。
観測窓のなかで小さくなってゆく月を見ながら、ゆかりは思った。
そう遠くないうちに、またあそこを訪《おとず》れる気がする。
今度行くときは、食べ物も空気もどっさり持っていこう。
スキーとスケートとスノボーも持ち込んで、大勢で思いっきり遊んでやろう。
そして氷を融《と》かしてお湯にして、温泉に入るんだ。宇宙旅行はこうでなきゃ!
[#改ページ]
あとがき
またまた長らくお待たせしてしまいました。本書は『ロケットガール』『天使は結果オーライ』に続くシリーズ三作目です。新刊のたびに強調するのですが、私の本はどれも一話完結ですので、この最新刊から読んでいただいてもまったく差し支えありません。
加えて申し上げますと、本書はおそらく二十世紀最後にして最高の月探検SFであり来世紀においても永《なが》く語り草になりうる作品です。ぜひとも初版のうちにお買いもとめになり、現実の月面開拓が本書の筋書きどおりに進むさまを見守っていただきたいと願うものです。
もし充分《じゅうぶん》に実用的な宇宙服が開発され、小柄で体重の軽い少女を宇宙飛行士にすれば、有人宇宙飛行は劇的なコストダウンがはかれるだろう。そうなれば経済原理にしたがって宇宙は女の子でいっぱいになるだろう――
これが本シリーズの基本コンセプトです。このおめでたいロジックに些細《ささい》な欠陥《けっかん》があるとしても、野暮《やぼ》はいいっこなしにしましょう。
日本の女子高生トリオに加えて、今回はフランスのリセエンヌが一挙五人登場します。少女たちが呉越《ごえつ》同舟《どうしゅう》してめざすのは月の北極。地球の北極でさえかなりの危険をはらむのに、月ではどんな冒険が待ち受けているのか。そして危機に瀕《ひん》したとき、少女たちに求められるのはどんな能力か。本書ではそれらをまじめに、ストレートに、手を抜かずに描こうとしました。
月は著者にとって思い入れの深い天体です。
いまからちょうど三十年前、人類は初めて月に立ちました。
当時小学生だった私は、映《うつ》りの悪い白黒テレビにかじりついてムーン・ウォークの月面生中継を見守りました。街のおもちゃ屋では大小さまざまなアポロ宇宙船のプラモデルが売られ、私もいくつか組み立てました。お気に入りだったのは噴射ノズルの後ろにプロペラがついたルナ・オービターで、電灯の紐《ひも》にぶらさげると見事に旋回《せんかい》飛行《ひこう》したものです。
一年後の大阪万博ではアメリカ館に月の石が展示され、それを一目見るために長蛇の列ができました。当時の父の口癖《くちぐせ》は「人間が月まで行く時代だからなあ」でした。
全世界が月に熱狂した――そんな時代が確かにあったのです。
あれから人類は月を訪れていません。しかし一九九〇年代に入って月の両極に水資源が存在する兆候《ちょうこう》が得られ、「ふたたび月へ」という気運が高まっています。
本書ではそれを先取りして、アメリカでもロシアでもなく、フランスが有人月飛行を企《くわだ》てる物語にしました。
月への飛行プロセスは、可能な限りの現実性をもたせて設定してあります。
アリアンVは実在するロケットですが、本書では二段目に低温燃料を便った発展型を想定しています。
月面からの帰還シーンは専門家の手によるシミュレーションで検証しました。あのシチュエーションを受け入れるなら、奇跡《きせき》が物理的に可能であることをどうぞ憶えておいてください。
月の地形についてはNASA・ゴダード宇宙飛行センターから取り寄せた十五枚組のCD−ROMを使って検討しました。これは本文にも登場するクレメンタイン探査機が撮影したもので、一画素《がそ》が百五十メートルという解像度です。ただし着陸地点は永遠に日照《にっしょう》のない暗黒地帯にありますので、その描写は著者の想像で補いました。
最新のデータを駆使《くし》して描いた本書が楽しめたなら、月を舞台にした往年の名作を読み比べてみるといいでしょう。アーサー・C・クラークの『渇きの海』『地球光』、R・A・ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』などがおすすめです。
最後に、本書が最高のスペシャリストの協力によって執筆されたことを特筆しておきます。
シミュレーション・プログラムを制作してくださった宇宙機エンジニアの野田篤司氏。ギアナ宇宙センターを二度にわたって取材し、山のような資料と「アリアンV初号機爆発ビデオ」を貸してくださったジャーナリストの松浦晋也氏。エアバスの資料を揃《そろ》えてくださった宇宙開発評論家の江藤巌氏。そして物好きな私のためにシュールストレミングの缶詰を取り寄せてくださった内藤繁之氏に、この場を借りて心より御礼申し上げます。もちろん、本書の記述に意図《いと》せぬ間違いがあれば、その責はすべて著者が負うものです。
一九九九年六月 野尻 抱介
[#改ページ]
底本     私《わたし》と月《つき》につきあって
出版社    富士見書房
発行年月日  平成11年8月25日 初版発行
入力者    ネギIRC