ロケットガール 第2巻 「天使は結果オーライ」
野尻抱介
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目 次
第一章 ゆかり、故郷に掃る
第二章 イチジクとツバメ
第三章 オルフェウス救出ミッション
あとがき
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第一章 ゆかり、故郷に帰る
ACT・1
『みっなっさーん、こんにちはぁぁぁ! フジミテレビの追っかけレポーター、桃井敬子《ももいけいこ》でーっす!
いまや世界のアイドル、美少女宇宙飛行士の森田《もりた》ゆかりちゃん・マツリちゃんを追って、はるばる南太平洋ソロモン諸島の、ソロモン宇宙基地にやってきましたーっ!!
ここまで来るのに飛行機と船を乗り継《つ》いでまる三日!
もーあたしもスタッフも、くーったくたになっちゃいましたよぉ!
でもゆかりちゃんはですねえ、なんと高校一年の夏休みに、たった一人でこの島に来たんですよねー。すごいですよねー。
それも行方《ゆくえ》不明のお父さんを探しにきたっていうから感動ですよねー。
そしてソロモン宇宙基地との、運命の出会いがあったわけですねー。
やっぱり宇宙飛行士って、タダモノじゃないんですねー。ゆかりちゃんは初飛行のあと、あの横浜の名門女子高、ネリス女学院を中退《ちゅうたい》して一生を宇宙に捧《ささ》げる決意をしちゃったんですよねー。すごいですねー。
でもって、ゆかりちゃんの異母《いぼ》姉妹にあたるのが、第二の宇宙飛行士、マツリちゃんなんですねー。マツリちゃんはこの島の先住民族、タリホ族の一員として生まれ育って、ななんと魔法《まほう》使いの卵《たまご》なんですねー。でもなぜか宇宙飛行士やってるんですねー、すごいですねー。
さてさて――この『密着特番! 宇宙の天使ロケットガール』も今回で四回目となりまして、いよいよっ、ついにっ、なんとっ、宇宙からの生中継《なまちゅうけい》が実現しましたあ!
さーそれでは宇宙のゆかりちゃんを呼んでみましょう! ゆかーりちゃぁぁぁん!!』
この軽薄《けいほく》な、ウエハースが裸足《はだし》で逃《に》げ出すような声は、三つの地上局と二つの通信衛星を経由してゆかりのもとに届《とど》いた……わけでもなかったらしい。
『え、オンエア始まった?』
そんな声が一瞬《いっしゅん》流れ、画面がぐりぐりと揺れた。
広角レンズは海しか映していない。海は下から上へと流れてゆき、弧《こ》をおびた水平線で終わっていた。
カメラがティルトする。
画面の下から、白い、ぴったりした宇宙服に身を包んだ娘《むすめ》が現れた。
ジェットガンを右手に持ち、命綱《いのちづな》一本で宙に浮かんでいる。
足元には船体の一部が映っている。片方のハッチが開いており。座席の一部が見える。
『地球の皆さんこんにちは。こちら宇宙船ランプタン、船長の森田ゆかりです』
ヘルメットの奥に、ぱっちりした目の、ちょっと生意気そうな顔が見える。
『それから、副操縦士を紹介《しょうかい》します』
『ほーい、マツリだよ!』もう一方のハッチが開き、森田マツリが飛び出してきた。
小麦《こむぎ》色の顔に幸せいっぱいの笑みをうかべて手を振《ふ》りまわす。そのとき、腰もふりふりするのがマツリのくせだった。
ゆかりはジェットガンを一吹きして、姿勢を整《ととの》えた。
『カメラは船首のアームにつけてあります。下っていうか、足のほうにあるのが宇宙船ランプタンです。一部しか映ってないと思いますが、円錐形《えんすいけい》をしていて、大きさは乗用車くらいです。定員は二名、もう満員です。でもって……』
ゆかりは体をひねって、背後の地球を確かめた。
『私たちはいま、アフリカ西北部、カナリア諸島上空三百キロを飛行しています。むこうからジブラルタル海峡《かいきょう》がやってきます。もう少し行くと、ピレネー山脈とサハラ砂漠《さばく》がいっしょに見えます。それから地中海に入り――シリア、イラン、イラク、サウジアラビアと、あぶない国々の上を通過します』
『でも大丈夫《だいじょうぶ》だね。スカッドもパトリオットも届かないと木下さんが言ってたよ』
『そうそう、いまの高度を目の高さとしますと、スカッドなんかがとびまわってるのはせいぜい膝《ひざ》か脛《すね》のあたりですから、てんで勝負にならないわけです』
大事なときに何を言ってるんだ、まったく……。
管制室からガラス一枚へだてたゲストルームで、那須田《なすだ》は眉間《みけん》を押さえた。
こんな時は“宇宙から国境は見えません”が定番だろうに。
『まぁうちのロケットをミサイル並《な》みだなんて言う人がいますけど、高度も速度もダンチですんで、そこんとこ、よろしくぅ……なんちて』
ゆかりはアドリブを打ち切った。さすがに脱線《をつせん》がすぎたと思ったらしい。
『それでは船に戻って金魚君たちの様子をお送りします。ちょっち移動しますんで――』
マツリが船内に戻ったところで、カメラが内部に切り替《か》わった。
向かって左にマツリが着席しており、右の席にゆかりが降りてきた。両方のハッチが閉まると、ゆかりの手が視野の下方に伸び、何かを操作した。
それから二人はヘルメットを脱《ぬ》いだ。二人とも髪《かみ》はロングだが、ゆかりは左右でまとめ、マツリはポニーテールをシニョンにしている。
前髪をなでつけながら、ゆかりはアナウンスを再開した。
『えー、お待たせしました。これから金魚のフィッシュパッケージを取り出します』
“軽トラックの運転席“といわれる、狭《せま》いキャビンだった。あちこちに体をぶつけながら、ゆかりはごそごそと移動し、マツリの膝に横すわりする格好になった。
『えー、オービターはとても狭いんで、ごたごたやっとりますが――』
空いた緩衝席《かんしょうせき》の側面を操作すると、ゆかりの体型にそって成形された背もたれが手前に倒れ、実験|装置《そうち》のラックが現れた。
『これが金魚の実験装置です。とってもコンパクトにできています。上の段に水槽《すいそう》があって、まんなかはレコーダー、下は環境縫持《かんきょういじ》装置と電源《でんげん》です。金魚はですね……』
ゆかりはフィッシュパッケージを引き出し、それまで計器|盤《ばん》の上にとめていたCCDカメラを引き寄せた。
『このランチボックスくらいの水槽に、二十匹の金魚君がいます。すっごい過密ですよね。ほっとくとすぐに酸欠《さんけつ》になるので、常に水を循環《じゅんかん》させてます。……映ってるかな? はい、元気に泳いでますね。打ち上げてすぐの頃《ころ》は宙返りを繰《く》り返していて、見てて可哀相《かわいそう》になるほどでしたが、だいぶ慣れたようです』
話しながら、腕時計を一瞥《いちべつ》する。中継終了時間が迫《せま》っていた。
『この子たちはこれから地球に連れ帰ります。着水予定地点はセーシェル諸島|沖《おき》。そこからヘリや飛行機を使って、生きたまま相模原《さがみはら》の宇宙科学研究所に運びます。えー、今回の中継はそんなとこです。ではではー』
手を振る二人の姿がスクリーンから消え、もとのトラッキング・チャートに戻った。
隣《となり》の男の顔をうかがいながら、まずまずだな、と那須田は思った。しゃべりは冗漫《じょうまん》だったが、日本語だからわかるまい。十六歳になったばかりの少女二人が、立派に宇宙活動している様子はアピールできたはずだ。
「いかがでしたか、ホールデン長官」
那須田はNASAの要人にたずねた。
「我がSSA――ソロモン宇宙協会の有人宇宙船は、すでに実用飛行をこなしているのですよ」
「感心したよ」
ホールデンは皮肉っぽい調子で言った。
「あの狭《せま》い宇宙船によく詰《つ》め込んだものだ。日本人の中でも選りすぐりの小柄《こがら》な娘《むすめ》を便い、それにあわせてオービターを設計し――」
「口さがない連中はそう言いますがね、ミスター・ホールデン」
「公然の秘密だよ、所長」
「小型軽量化に心を配るのはどんな宇宙船でも同じでしょう。我々の船は貨物輸送を考慮《こうりょ》していません。極限の低コストで宇宙に人を送る――それだけに的《まと》を絞《しぼ》ったのです。あの複座オービターなら一回の打ち上げコストは二十億、スペースシャトルの十五分の一です」
ホールデンは、それは知ってるよ、という顔で聞いていた。那須田は続けた。
「SSAがそちらの宇宙ステーション建造計画に参加すれば、大幅《おおはば》なコストと時間の短縮をもたらすでしょう。浮いたぶんは好きに使えばいい」
「我々が心配しているのはコストじゃない、リスクだよ」
NASA長官は言った。
「率直《そっちょく》に言わせてもらうが、SSAは有人飛行を始めて半年にも満たない団体だ。飛行士たちは天使のようにチャーミングだが、人類の至宝、国際宇宙ステーションをティーンエージャーに手伝わせるのは勇気がいるのだよ」
「理解できますよ、もちろん。ですからこの機会に、我々の宇宙活動をよくご覧《らん》になっていただきたい。先入観を拭《ぬぐ》い去るためにね」
「ふむ……。TV中継《ちゅうけい》はまだあるのかね」
「あと一回です。そのあいだ、燃料工場にご案内します。比推力《ひすいりょく》三百二十を叩《たた》き出す魔法の固体燃料をお見せしましょう」
ふあぁぁ……
ゆかりはあくびをかみ殺した。
打ち上げから二十二時間が経《た》とうとしている。マツリと交代で仮眠《かみん》を取ったが、テレビ中継の時以外は船外活動もなく、ただ軌道《きどう》を周回しているだけなので退屈《たいくつ》だった。
帰還《きかん》まで、あと三時間。
……そろそろ、いいだろうか?
トイレのない船内で催《もよお》すと悲惨《ひさん》なので、固形物をとるのは控《ひか》えてきたのだが。
「次のTV中継までまだ時間あるよね」
「ほい?」
ゆかりは緩衝席《かんしょうせき》の下から私物入れを取り出した。
それはA4ファイルほどのジュラルミン・ケースだった。もちろん禁止事項はあるが、この私物入れに何を入れるかは飛行士の責任にまかされ、打ち上げ前の検査《けんさ》を免《まぬが》れる。
ゆかりは“乙女《おとめ》のデリカシー”を武器に、この制度を勝ち取ったのだった。
ケースを開くと、ラップに包まれた点心《てんしん》がずらりと並《なら》んでいた。
「じゃーん。冷めてもおいしい天津飯店《てんしんはんてん》の蝦餃子《ハーガウ》だよん」
マツリは慢性《まんせい》的に上機嫌《じょうきげん》な顔を、さらに輝《かがや》かせた。
「わぉ、これはいいね!」
「へっへっへ。斑麗《はんれい》ちゃんに深夜配達してもらったんだ」
ゆかりは餃子をつまんで、ロにほうり込んだ。ゼロGの影響《えいきょう》で味覚は鈍化《どんか》しているが、味気ない栄養飲料でこらえてきた後とあっては、五臓六腑《ごぞうろっぷ》にしみわたる味だった。
「このぷりぷりがたまんないのよね。……ほれ、マツリもお食べ」
「酢醤油《すじょうゆ》はある?」
「贅沢《ぜいたく》言わないの。こっそり持ち込むだけでも大変だったんだから」
「ほい、それならこれを使うといいね」
マツリは自分の私物入れを開いた。取り出したのは酢醤油のチューブ。
「……いつの間に」
「それにね、ゆかり」
マツリはうれしくてたまらない様子でケースの中身を開陳《かいちん》した。
「マヨネーズとケチャップとマスタードも持ってきたよ!
「あああやめろ、餃子につけるんじゃない!」
マツリは調味料――それも一撃《いちげき》で料理をジャンクフードにしてしまう濃厚《のうこう》かつ安直なソース類を愛好していた。宇宙船の操縦を除《のぞ》けば、マツリが受け入れた文明はこれしかない。
「それからねえ、ゆかり」
「まだあるの?」
「とっておきのデザートがあるのだよ」
マツリはかがみ込んで、床下《ゆかした》のライフラフトの収納容器を開いた。
「この奥にデッドスペースを発見したよ」
「そこって打ち上げ前にチェックされるじゃない」
「魔法だよ、ゆかり。魔法を使う」
「いいけどね……」
ラフトの下から現れたものを見て、ゆかりは仰天《ぎょうてん》した。
それは無数の刺《とげ》で覆《おお》われた、巨大な、トロピカル・フルーツの雄《ゆう》――
「ド……ドリアン!」
「おととい滑走路《かっそうろ》の横の森になっているのを見つけたんだよ」
マツリは手を伸ばして、頭上のハッチからサバイバル・ナイフを外した。
「ち、ちょっと待て、マツリ! ドリアンってのは――」
たしかに味は素晴《すば》らしい。これを食べるだけでも熱帯に行く価値があるとさえ言われる。だがその臭《にお》いたるや、下水道を流れてきたカスタードクリームにたとえられる代物《しろもの》なのだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》、食べごろだよ」
ドリアンを両膝《りょうひざ》にはさんで、ナイフを突《つ》き立てる。
「わーっ、やめろやめろ臭いがしみつくっ!」
ゆかりは必死でナイフを持つ手をさえぎった。
「ほい、何をする」
その拍子《ひょうし》に、ゆかりの私物入れが宙に浮いた。マツリのひじが容器を叩《たた》くと、中身が一度に飛び出した。それは餃子と酢醤油のビッグバンだった。
「わおー、楽しいね」
「ま、まずい、集めるんだ!」
「こうやって食べると面白《おもしろ》いよ、ゆかり」
「馬鹿《ばか》やってないで、早く回収するの! でないと――」
ホールデン長官は黙々《もくもく》とスクリーンに見入っていた。
超《ちょう》広角レンズは、船内の惨状《さんじょう》をつぶさにとらえていた。餃子と酢醤油とドリアンはブラウン運動さながらに飛び交《か》い、衝突《しょうとつ》し、融合《ゆうごう》と分離《ぶんり》を繰《く》り返していた。
背景に、間抜《まぬ》け顔が二つと、振《ふ》り回す腕が四本。
「アボロ1号の火災《かさい》事故を思い出したよ」
長官は那須田に言った。
「それで、君の娘たちは仕事をしているのだろうね?」
ACT・2
二時間後。オービターは最後の周回に入っていた。
「ソロモン基地、こちらランプタン。軌道離脱《きどうりだつ》準備に入ります」
『了解《りょうかい》。キャビン浮遊物《ふゆうぶつ》の回収は完了したか』
木下の冷徹《れいてつ》な声が、かすかな皮肉をおびて返ってきた。ゆかりもすまして答える。
「浮遊物は完全に回収しました。装置《そうち》はすべてグリーン、帰還《きがん》はゴーです」
『了解、交信終了』
「さーて、汚名挽回《おめいばんかい》にピンポイント着水するぞ。終わりよければすべてよし、セーシェルの珊瑚礁《さんごしょう》が待っている〜♪」
ゆかりはチェックリストを開いた。
「では例によって――ヘリウムプレッシャー、オープン」
「ほい、HePRS、OP」
「窒素《ちっそ》サプライ、オン」
「N2SPLY、オン」
「姿勢|変更《へんこう》、RCS−MAN」
ゆかりは自分でモードセットすると、手動で船体姿勢を変えた。慣れてしまえばシーケンサーに数値を打ち込むより早い。船のあちこちでコントロールバルブがカチカチ鳴り、オービターは船尾《せんび》を進行方向に向けた。
「ほい、軌道離脱姿勢」
「よっしゃー。……ソロモン基地、こちらランプタン、軌道離脱|噴射《ふんしゃ》スタンバイ」
『ランプタン、軌道離脱噴射はゴー』
「軌道離脱噴射シーケンス、始動」
ゆかりはシーケンサー始動スイッチのカバーを跳《は》ね上げ、指をかけた。
――と、その時。
ピーピーピーピー
「ほい? キンギョ水槽《すいそう》でトラブルだね」
「なによ、この大事なときに」
ゆかりは舌打ちしてハーネスを解《と》いた。体を浮かし、背後の操作パネルに向かう。
「ええっとなになに……」
『ソロモン基地よりランプタン、実験|装置《そうち》にエラーが出ているか?』
「ほい、その通り。ゆかりがいま調べてるよ」
『装置が修復されるまで帰還《きかん》はホールドする。金魚を生還させることはミニマム・サクセス条件だ』
「わかってますって。エラーコードは115」ゆかりが答える。
『エラーコード115了解《りょうかい》。相模原で対策《たいさく》を検討《けんとう》している。二十分以内に修復できれば帰還はゴー、それ以降にずれこむようなら第二着水地点に変更《へんこう》する』
「えーっ、第二って南シナ海じゃない。やだよあそこ、海賊《かいぞく》出るし」
『なら軌道上修理を間に合わせるんだ。ただし無理はするな』
「了〜解」
それからすぐに、相模原の宇宙科学研究所から通信が入った。
『宇宙研よりランプタン、テレメトリによればエラーコードは315となってます。よろしいか』
「ランプタンより宇宙研、パネルの表示はエラーコード115です」
『了解……装置各部のモニター値は異常ありません。金魚の映像はまだ送れますか』
「映像回線はもうクローズしてます。エラーについては誤報《ごほう》と思っていいですか」
『ええ、検討しますので、しばらくお待ちください』
「ランプタン了解」
ゆかりはいったん着席して指示を待った。
「あと九分か。セーシェルでスキンダイビングする予定なんだけどな……」
「宇宙研よリランプタン、すみませんがIFM(機上メンテナンス)要請《ようせい》です。まず金魚の状態を観察していただけますか』
「了解、宇宙研」
ゆかりは舌打ちをして、また席を離《はな》れた。
「マツリ、だっこよろしく」
「ほい」
帰ったら改善《かいぜん》要求出してやる……。
実験装置で何かあるたびに席を移動するのはまったく面倒だった。
マツリの上に体を押し込んで、シートを倒し、フィッシュパッケージを覗《のぞ》き込む。金魚は上下左右でたらめに泳いでいたが、これはおかしくない。
しかし……口の開閉がやや早いような気がする。
「ランプタンより宇宙研、金魚はすべて生存、ただ口のぱくぱくがこれまでより早い気がします」
『早いというのはどんな感じでしょう。ばく、ばく、ばく、ぐらいですか?』
「いえ、ぱくぱくぱくって感じです」
『では溶存《ようぞん》酸素モニターを読み上げてください。操作はMON、上矢印二回、オペコードは107です』
「了解《りょうかい》、MONの上矢印二回……」
「ゆかり、いまの音聞こえた?」
「え、何?」
「加圧ボンプみたいな音がしたよ」
「ちょっと黙《だま》ってて。オペコード忘れちゃったじゃん!」
「すまない、ゆかり」
「芋宙研、オペコードいくつでしたっけ」
『オペコードは107です』
「了解、107……モニター数値は0218です」
「ゆかり、シーケンサーが動いてるよ」
「え?」
『ランプタン、溶存酸素量が異常低下していますので、フィッシュパッケージのQDを点検《てんけん》してください』
「了解、宇宙研……マツリ、いまなんて言った?」
「シーケンサーが動いてるよ。もうじき噴射《ふんしゃ》する」
「うそ、まだ始動してないってば」
「でもSEQ表示が勝手にスクロールしてるよ」
「んな馬鹿な!」
ゆかりは青くなった。
そういえば、始動スイッチのカバーを開いたままにしていた。船内で動き回っているうちに、うっかり押してしまったのか?
「やばいよ、すぐ中止して!」
マツリが計器|盤《ばん》に手を伸ばしたのと、噴射の衝撃《しょうげき》が同時だった。
「だあっ!」
実験装置のパネルが、0.一Gでゆかりの顔面に向かってきた。
「いてててて。ふえーん……と泣いてる場合じゃない、マツリ、OMSカットオフ!」
「ゆかり、お尻《しり》がじゃましてる」
「うっ、これでどう」
「もすこし」
「ううっ、早く止めい!」
「ほい、届《とど》いた」
ようやく噴射は止まった。
『宇宙研よリランプタン、テレメトリが停止しましたが、どうしましたか?』
「あー、それはええとパネルがぶつかってきて、顔面でスイッチ切っちゃったかもー」
『ソロモン基地よりランプタン。短時間のOMS噴射をモニターした。状況《じょうきょう》を報告せよ』
「だからシーケンサーが知らないうちに――」
「ゆかり、高度が落ちはじめた」
『ではパネル1のスイッチ配置を読み上げていただけますか』
『それを手動で中止したわけだな?』
『送信が回復したらQDの点検を再開してください』
『中途半端《ちゅうとはんぱ》に噴射するのは問題がある。不時着の準備を』
「ゆかり、どんどん落ちてゆく」
「えーい、うるさいうるさいうるさーい!! みんな静まれっ!!」
ゆかりはわめいた。
「操縦と実験いっしょにやれったって無理だってば!!」
地上と相談したいことは山ほどあったが、軌道《きどう》高度はすでに一三〇キロを切っていた。
大気が船底を打ち始める。窓の外がオレンジ色のプラズマに包まれると、もう無線は通じなかった。
ゆかりは金魚のことを頭から追いやり、綬衝席《かんしょうせき》に体を固定した。
再突入《さいとつにゅう》姿勢は正常。大気制動は安全に終始するだろう。
だが、どこへ落ちるのか? 最後の通信では中国東北部から日本海、日本列島、北太平洋のどこかだと言われたが……。
「北朝鮮《きたちょうせん》だったらやだな……」
刻々《こっこく》と高まるGのなかで、ゆかりはつぶやいた。
四Gを越《こ》えた。もう会話するのも苦しい。
六G。ゆかりの体重も六倍。シェーカーの中にいるような振動《しんどう》。
いつもだけど――なんでこんなにゆれるんだ。
ううっ、シートに体がめりこむ……めりこむめりこむめりこむ……ちちが……
ちちがつぶれる。
ACT・3
埼玉《さいたま》県|所沢《ところざわ》市・運輸省東京航空交通管制部――通称《つうしょう》、東京コントロール。
「室長、ちょっと!」
中部北陸セクターの担当《たんとう》管制官が上ずった声で呼んだ。
「アンノウンです。装置《そうち》の故障《こしょう》でしょうか――能登沖《のとおき》をマッハ十一で飛行しています!」
室長は円形のレーダーCRTを覗《のぞ》きこんだ。恐《おそ》ろしい速度で移動する光点が、まっすぐ
関東地方に向かってくる。
「便名、識別番号もなしか。高度はいくつだ。SSRの出力は」
「ATCトランスポンダの応答がありません。音声も応答なしです。米軍の実験機でしょうか。確かオーロラとかいう――」
「実験機がこんな空域を飛ぶもんか。自衛隊は何してる。小松《こまつ》は動いたか」
「それが、回線がつながらなくて」
「まさか――北朝鮮のミサイルじゃないだろうな」
「どうします、この速度じゃすぐに」
「アンノゥン、こっちに――関東西セクターに入りました。東京……いや、厚木《あつぎ》方面に向かいます」
隣《となり》の管制官が言った。
「呼び出しを続けろ。成田、羽田に向かう国内線は名古屋と仙台にまわせ。国際線は大阪だ」
「中部上空を飛行中の国籍《こくせき》不明機、こちら東京コントロール、応答せよ。中部上空を飛行中の国籍不明機、ただちに応答せよ」
「小松基地がF15をスクランブル発進させた模様です」
中部北陸担当が言った。
「追いつくもんか。極超《ごくちょう》音速だぞ」
「しかし、アンノウンは減速してます。現在マッハ三・二」
「速度も異常だが減速率も異常だな」
そのとき、緊急《きんきゅう》周波数から耳慣れない声が流れた。
『あー、メーデー、メーデー、こちら宇宙船ランプタン、各局応答願います』
「う、うちゅうせん?」
「いたずらじゃないのか」
「ひょっとしてあれですか、女子高生が乗ってるっていう――」
「それだ。応答しろ!」
「ランプタン、こちら東京コントロール、高度と降下率および目的地を報告せよ」
『高度は現在十八・四キロメートル、降下率は秒速二百二十メートルです』
「え……?」
管制官は頭に?マークを鈴《すず》なりにした。
「高度十八・四キロメートル……というと六万フィートくらいか……降下率が秒速のメートルだから、ええと……」
管制官はひたいに汗をうかべながら、電卓《でんたく》を叩《たた》いた。
単位系が違う上に値そのものが桁《けた》はずれなので、さっぱりイメージがつかめない。
「あー、ランプタン、それでは目的地はどこか?」
『目的地はアフリカ東岸だったんですが、ちょっちタイミングがずれまして』
「了解《りょうかい》……あー、つまリアフリカの予定がちょっちずれて日本へ来た、と……」
管制官はますます混乱してきた。
「あー……それで現在はどこへ向かっているのか」
『だからわかんないんです。自由落下してますんで』
「自由落下。自由落下って……ああ、それはつまり一体、どーゆーことなんだあっ!」
管制官はヘッドホンをかなぐり捨てて頭をかきむしった。
「室長! いったい宇宙船ってやつは、どうやって管制したらいいんですかっ!」
「貸せ」
室長がマイクを奪《うば》う。
「ランプタン、もうじき厚木上空だ。地対空ミサイルで落とされても知らんぞ」
『各国航空|施設《しせつ》にはソロモン基地から連絡《れんらく》が行ってるはずなんですが』
「こっちには入ってないぞ」
「えーっ、じゃ他はどうなってんの!?」
「わからん。現在調査中だ」
「じゃあ至急米軍と自衛隊に連絡してもらえます?」
「了解」
室長は中部北陸の管制官に言った。
「米軍と自衛隊に通報しろ。電話でもなんでもいい」
「わかりました」
「自衛隊はともかく、米軍が見逃《みのが》しますかね」別の管制官が言った。
「独自の追跡網《ついせきもう》で掌握《しょうあく》してるんだろう。ミサイルだと思ったんなら向こうから連絡してくるはずだ」
『ランプタンより東京コントロール、高度九キロメートル、ただいまメインパラシュート開傘《かいさん》しました。位置は……東京の西かな? GPSの粗《あら》いマップしかないんで』
レーダーを見る。速度は時速八ノット。
「ランプタン、現在|神奈川《かながわ》県|綾瀬《あやせ》市上空だ。するとつまり、後は風まかせか?」
『そうです。降下率は秒速十メートル。できれば海上に降りたいんだけど』
「ぎりぎりだな。横浜市街に落ちるかもしれん。救助|要講《ようせい》を出すか」
『よ、横浜……』
スピーカーの声は、一瞬《いっしゅん》絶句した。それから立ち直り、
『ええ、救助要請します。ええと、日本だと管轄《かんかつ》は警察になるのかな』
「宇宙船なんぞ扱ったことないから知らんが――神奈川県警に指示しておく」
『助かります、東京コントロール』
「無事を祈《いの》る、ランプタン」
マツリはペリスコープの展望に見入っていた。その光路は計器|盤《ばん》中央から床下《ゆかした》を通って船外に開いた魚眼レンズに通じている。
「わおー、家がぎっしりだね! すごいすごい!」
「海は見える?」
「遠くにあるよ。わお、あの高い塔《とう》はなに?」
「ランドマークタワーかな」
「ゆかりの家はヨコハマだったね。ここがそう?」
「実はそうなんだ」
地球は広いのに、なんで横浜なんだ。
かれこれ十か月、日本の土さえ踏《ふ》んでないというのに。
「のんきに外見てないで、時間ないんだから着水準備手伝ってよ」
「ほい、どこまでやった?」
「燃料電池をシールドバッテリーに切り替《か》えて、02とH2をパージ」
「ほい、了解《りょうかい》」
「電圧正常。よし次、生命|維持装置《いじそうち》カットオフ、外気ベンチレーション」
生命維詩装置の空気|循環《じゅんかん》が止まり、京浜工業地帯の空気が流れ込む。
マツリは鼻をひくつかせた。
「基地の燃料工場みたいだね」
「懐《なつ》かしい臭《にお》いだわさ」
高度三百メートル。地表まであと三十秒。
ゆかりはペリスコープを見た。
だめだ、海まで届《とど》かない。
「東京コントロール、こちらランプタン。高度千フィートを切った。市街地に不時着する模様」
『ランプタン了解。羽田の精測《せいそく》レーダーが位置を掌握《しょうあく》している。県警のヘリが出動する模様だ。安心されたい』
「支援《しえん》、感謝します」
秒速十メートルで地面に衝突《しょうとつ》――衝撃そのものは訓練で経験ずみだった。
しかし、そこにあるのは何か? 高圧電線、化学工場、高速道路……。
ゆかりは外を見るのをやめて、高度計を読んだ。
高度二百メートル。
「あたしらだけどさ」
ゆかりは言った。
「ほい?」
高度百メートル。
「二度に一度は死にそうな目にあってない?」
高度五十メートル。
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、ゆかり」
マツリは言った。
高度三十メートル。
「今日は死ぬにはいい日だよ」
「そんなもんか?」
二人は衝撃に備《そな》えた。
ざーん!……ずんっ。
意外にも、水上に落ちた感触《かんしょく》だった。
沈下が止まる前に、水底にぶつかったようでもある。
オービターの窓は頭上のハッチにしかない。その視野《しや》には空しか見えなかった。
ゆかりは深呼吸をひとつした。
「……無事?」
「大丈夫だよ」
「水に落ちたみたいだね」
「そだね」
「一応、いつもの手順でやっとこう。フロート展張《てんちょう》、ダイマーカー放出」
船首から海面|染色剤《せんしょくざい》が放出される。さらにVHFおよびHFビーコンのアンテナ展開。
と、その時。
チンコロン、チンコロン、チンコロン――
「システムアラート! どこ!?」
計器を一瞥《いちべつ》する。
一次電源に漏電《ろうでん》。浸水《しんすい》警報。
「まずい、今のショックで水が入ったんだ!」
「ほい、どうする?」
足元を見ると、すでに水がひたひたと這《は》い上がってきている。
「緊急脱出《きんきゅうだっしゅつ》。サバイバル・キット装着《そうちゃく》、ライフラフト展張準備、急いで!」
「ほいほい」
二人はハーネスを解《と》き、座席下のロッカーからサバイバル・キットを出して、ガンベルトのように腰に巻いた。マツリがライフラフトを取り出す。
ゆかりは壁面《ヘきめん》のカバーを開き、封印《ふういん》を破って赤いボタンに指をかけた。
「いくよ。ハッチ爆破《ばくは》!」
バーン、と乾《かわ》いた音がして、ハッチが吹き飛んだ。
二人はオービターの船殻《せんこく》によじのぼった。
ヘルメットを脱《ぬ》ぐ。
五月の陽射《ひざ》し。微風《びふう》。
「……なんだ、ここは?」
ダイマーカーで蛍光《けいこう》グリーンに染《そ》まった水面。
水面は数メートルで終わり、レンガ色のタイルに縁取《ふちど》られている。
岸に立て札がひとつ――“トンボを呼び戻そう”
芝生《しばふ》と、レンガをしきつめた歩道。温室。花壇《かだん》。古びた百葉箱《ひゃくようばこ》。
その向こうはコンクリートの建物。三階建て。
建物は両側にあり、相互《そうご》に渡り廊下で結ばれていた。
オービターは四方を建物で囲まれた、中庭に落ちていたのだ。
「もう安心だよ、ゆかり。大勢見てる」
「…………」
窓という窓に、人影《ひとかげ》が群がっていた。皆、同じ服を着ている。娘《むすめ》ばかりだ。
「知ってる」
ゆかりは言った。
「あたし……ここ……知ってる」
「ほい、なんていう?」
「ネリ女だ」
ネリス女学院――よりにもよって、ゆかりの母校に降りてしまったのだった。
ACT・4
その時、ネリス女学院は二限目の授業|途中《とちゅう》だった。
中庭でなにかが爆発《ばくはつ》し、紅白《こうはく》のパラシュートが風下に崩《くず》れ落ちた。
池にブランデー・ボトルのような物体が浮かび、湯気《ゆげ》をたてていた。
まもなく物体中央の窓のある部分が吹き飛んで、フルフェイスのヘルメットをかぶった、小柄《こがら》な人影が二人、現れた。
一人がヘルメットを脱《ぬ》いだ。黒い髪《かみ》があらわになった。
誰《だれ》かが叫んだ。「ゆかりだ! ゆかりが帰ってきた!」
それが起爆剤《きばくざい》になった。女生徒たちの歓声《かんせい》に教師の声はかき消され、全校が沸騰《ふっとう》した。
中庭はたちまち生徒であふれかえった。千を越《こ》える瞳《ひとみ》が、ゆかりとマツリに注《そそ》がれた。
「ゆかりー、ゆかりー、あたしだよぉ」
「マツリちゃーん」
「サインしてくださーい」
「ゆかりー、おぼえてるー? 恵子だよー」
『中庭の生徒はただちに教室に戻りなさい』[#原本では太字]
「ゆかりさーん、握手してくださーい」
「宇宙服かっこいー」
「森田さん、すぐに宇宙船を片づけなさい!」
「先公はすっこんでろー」
「ああっ、こっち向いたぁ!」
『中庭の生徒はただちに教室に戻りなさい』[#原本では太字]
「あたしたち、ゆかりの味方だよー」
「マツリちゃーん、こっち向いてー」
「なにか言ってえー」
「校長ぶん殴《なぐ》っちゃえー」
「オトシマエつけちゃえー」
『中庭の生徒はただちに教室に戻リなさい。さもなくば謹慎《きんしん》処分にするっ!』[#原本では太字]
生徒たちは戻らなかった。
ゆかりは口を「い」の発音形にしたまま、凝固していた。
マツリが言った。
「……ほい、ここはゆかりだらけだね」
「そう見える?」
「見えるよ」
ゆかりはまじまじと、群集を見渡した。
「そーよ。あたしはあの群れの中にいたんだわさ……」
ネリ女といえばしつけの厳《きび》しいお嬢様《じょうさま》学校として有名だが、どさくさになればこんなものだ。
教師の一人が手前に出てきた。
覚えているぞ、山科《やましな》幸子《さちこ》。古文のオールドミス。
「森田さん、どういうつもりですかっ! 授業中ですよ!」
これも平常心というやつだろうか。
平常心――そうだ、忘れていた。
金魚だ。金魚をなんとかしなければ。
電源《でんげん》も止まってるから、このままではすぐ死んでしまう。
「みんな、ちょっと聞いて!」
ゆかりは教師を無視して怒鳴《どな》った。生徒はいっせいに口をつぐんだ。
「宇宙実験に使った金魚が死にそうなんだ。誰かなんとかできないかな」
「金魚ぉ……?」
女生徒たちは顔を見合わせた。
それから、誰ともなく、
「ここは茜《あかね》じゃない?」
「そうだ、茜ならやるよ」
「二Aの三浦《みうら》茜?」
「そそ、満点娘の三浦茜」
「いま連れてくる!」
そんな声がした。
三浦茜……そういえば、そんなのがいたな。
一学期の期末テストで、学年トップだった子じゃないか?
しばらくして、人垣《ひとがき》の一角が渦巻《うずま》いた。
クラスメイトに背中を押されるようにして、ほっそりした、小柄な娘が現れた。
ショートカットの、さらさらした髪がひたいにかかっている。
眼鏡《めがね》はかけていない。優等生というよりは、文学少女って感じだな、とゆかりは思った。
茜は池のほとりまで押し出された。
表情は当惑《とうわく》しているが、見開いた瞳《ひとみ》はきびきびと状況《じょうきょう》をスキャンしている。
その視線がオービターの上のゆかりに止まった。
「それで、金魚って……」
静かな、やわらかい声。
ゆかりはフィッシュパッケージを掲《かが》げてみせた。
「これなんだけど」
「…………」
茜は池に身を乗り出すようにして、水槽《すいそう》を見つめた。
ゆかりは池に飛び降りた。生徒たちがどよめく。腰までの深さを渡って岸に上がり、茜に水槽を手渡す。
「軌道《きどう》にいたときから、警報が出てて」
強化ガラスごしに、中の金魚が見える。
茜は顔色を変えた。
「大変、急いで曝気《ばっき》しないと。生物教室に運びます。来てください」
茜はそう言って、ゆかりを先導した。野次馬《やじうま》がさっと左右に道をあけた。ゆかりは池のほうにふり返って言った。
「マツリ、船をよろしく! 近寄らせちゃだめだよ」
「ほーい」
生徒がついていこうとするのを、教師が押しとどめる。
「みなさんは教室に戻りなさいっ!」
生物教室は授業に使われていなかった。茜は隣《となり》の準備室に入った。
棚から空の水樽を出して水を満たし、何か薬品を入れる。
「これに移せばいいですか」
「あっ、たしか水を替《か》えると実験条件が壊《こわ》れるとかって聞いたような」
「そうか……」
茜は眉《まゆ》をひそめた。
「この、コネクターみたいなところから水を循環《じゅんかん》させるんですよね?」
「そう。でもトラブルが起きたとき、QDがつまってるんじゃないかって話だったけど」
「QD?」
「クイック・ディスコネクター。抜いても水が漏《も》れない仕組みになってるの」
茜はQDを観察した。
「少し空気が入るけど、それじゃだめですか?」
「平気だと思う」
「なんとかできるかも」
「ほんと?」
茜は棚から工具箱と段ボールに入った機材を持ってきた。
「QDはやめて、こちらの覆《おお》いを外して水を外に引き出します。ウォーターポンプにつないで、このチャンバーで曝気して循環させます。間にフィルターをいれて。これでどうですか?」
「……よくわかんないけど、いいんじゃないかな。やってみて」
「はい」
茜はてきぱきと働いた。シリコンチューブを切って装置《そうち》の間を配管し、酸素ボンベをレギュレーターにつなぐ。配管の合わない部分はテープを巻いて応急処置する。
ボンプのスイッチを入れると、するすると水が循環しはじめた。
「ほお……」
ゆかりは感心した。
「待ってください、まだ安心できません」
茜は水槽から水をスポイトでとり、試験紙にたらした。
「やっぱり。アンモニア濃度《のうど》が危険なとこまで来ています」
「……って、どうすりゃいいの?」
「薬で中和できますけど、実験条件が壊れるかも」
「うーん、どうなのかな」
「たぶん、本来の実験装置でも同じことをやってるはずです。生存条件のうちですから」
「そうか。じゃあ、やっちゃって」
「はい」
茜は水槽のサイズから水の量を計算すると、適量の中和剤《ちゅうわざい》を量《はか》って投入した。
「そうだ、水温もあわせなきゃ。設定はどうでしたか」
「ええと……」
ゆかりは頭を掻《か》いた。
「この品種だと、ふつう二十三度ですけど、繁殖《はんしょく》させるならもっと高温かも」
「繁殖は関係ないと思う。そう……確か二十三度だった」
「わかりました」
茜はポンプをいったん止め、チャンバーの中にヒーターとサーモスタットを入れた。
「すぐには効《き》きませんけど……いまの季節なら大きな温度変化はないと思います」
「ほかに問題ある?」
「もうないと思います」
「助かったー」
ゆかりは安堵《あんど》のため息をもらした。
金魚はもう、常態に戻りつつあった。
ゆかりは少し改まって言った。
「えと、私、森田ゆかり。ありがとう」
「あっ、三浦茜です」
ゆかりが握手《あくしゅ》を求めると、茜は頬《ほお》をそめた。
「名前、覚えてるよ。一学期の期末テストでトップだったでしょ」
「あ……あの、私も覚えてます。一年のときB組にいましたよね」
「そんなに目立ってたかな」
「小柄なのに、陸上都で活躍《かつやく》してたから。それに――つまりその」
「アルバイトして退学《たいがく》になった、と」
「いえ……でも私、そのことは――」
その時、準備室の扉が開き、教師が現れた。
「森田ゆかり、あのロケットの責任者は君か!」
「ロケットじゃなくてオービターです。船長は私ですけど」
「至急校長室に来なさい!」
「……行くけど」
ゆかりは憮然《ぶぜん》と答えた。それから茜に言う。
「金魚、よろしくね」
「はい」
茜は眉《まゆ》を曇《くも》らせて、ゆかりを見送った。
ACT・5
校長室には厚い絨毯《じゅうたん》がしかれていた。
飾《かざ》り棚《だな》にトロフィーと盾《たて》の列。
壁《かべ》には「七転八起《ななころびやおき》」の書。
正面にはマホガニー風の重厚な両袖《りょうそで》机。
ゆかりには、初めての校長室だった。
「森田ゆかり、入りまーす」
ゆかりは泥のついた宇宙靴のまま、中に踏《ふ》み込んだ。
机の向こうに、銀縁《ぎんぶち》眼鏡・バーコード頭の男が構えていた。
ひたいにはすでに青筋が浮き、顔面の筋肉はまわりの空気まで震《ふる》わせているようだった。
校長は口を開いた。
「宇宙船でお礼参り[#「お礼参り」に傍点]かね」
「は?」
「伝統と格式ある本校でも、処分を受けた生徒が車やバイクで乗りつけることはたまにある。だが宇宙船で来た者は初めてだ!」
「はあ」
「しかもそんな、女学生にあるまじき破廉恥《はれんち》な格好《かっこう》で!」
「はあ……」
スキンタイト宇宙服のことを言っているらしい。だがこれとて、好きで着ているわけではない。ゆかりがぼんやりと応じていると、校長はますます興奮《こうふん》してきたようだった。
「私を恨《うら》んでるんだな?」
「はあ?」
「君は退学《たいがく》処分を受けた.私は教育者として当然のことをしたまでだ。君は校則で禁止されているアルバイトを公然とやった。退学にしなければ、他の生徒にしめしがつかん。この件は県の教育委員会でも説明し、理解を得ている」
「…………」
そりゃまあ確かに、初飛行まではアルバイト扱《あつか》いだった。
ソロモン基地の所長に、父の捜索《そうさく》を手伝うからアルバイトで一度だけ宇宙飛行してくれと頼《たの》まれて引き受けたのだった。きちんと休学の許可をとり、三学期から復学する予定だった。それが突然《とつぜん》、退学になった。
しかし、気に入らないのはその理由だ。
学業をおろそかにしたというならまだわかる。校則で禁止のアルバイトをしたからという理由で退学になったのだ。
ゆかりはだんだん腹が立ってきた。
「言い訳したくて呼び出したんですか」
「なっ、何が言い訳だ! 君こそ自らの非を棚に上げて私怨《しえん》を晴らしに来たんじゃないか!」
「ここに着水したのは、単なる偶然《ぐうぜん》です」
「広い地球のなかで、こともあろうに母校の中庭に降りて、偶然だと言い張るのか君は」
「私も驚《おどろ》いてますけど――宇宙船ってのはそうそう思い通りに降りられるもんじゃないんです。とくに今回は帰還《きかん》中のトラブルで」
「アメリカのスペースシャトルは毎回|滑走路《かっそうろ》に降りてるじゃないか」
「あれは飛行制御するからです。うちのはパラシュートが開いたらあとは風まかせに漂流《ひょうりゅう》するだけで――」
「知らないと思ってでまかせを言うんじゃない!」
「そっちが無知なだけです!」
ゆかりは断じた。
「だいたい、ちょっと校則に違反《いはん》したぐらいで退学にするなんて最低じゃない」
「規則とはそういうものだ。生徒が社会に出る前に、規則を守ることを教えるのが教育者としての使命であり――」
「あたしはここに戻りたかったんだ!」
ゆかりは語気を強めた。
「初飛行が終わったら、ここに戻るつもりだったんだ。ここの管理教育を乗り切る自信があったし、きちんと受験勉強して一流大学入って、一流|企業《きぎょう》に就職してゴージャスなOL生活送るつもりだったんだ!」
一気にまくしたてると、校長の顔におびえが走った。
「やっ……やはり私を恨んでいたんだな!」
「恨むわよ、あんなしょーもない理由で人生設計ぶち壊《こわ》されたら誰《だれ》だって恨むわよ!」
「そっ、それで知名度を利用して、マスコミを動かして私を失脚《しっきゃく》させるつもりなんだな!」
「んなことするわけないでしょうが!」
「やろうと思えばできるんだ! きっ、君はそれを示すためにここに着陸したんだ!」
「だからそれは偶然だってゆってるでしょうがっ!」
不毛な議論を続けていると、腹にこたえるような爆音《ばくおん》が響《ひび》いてきた。
窓ガラスがびりびりと震《ふる》え、部屋全体も揺れているようだった。
外を見ると、目と鼻の先に海上自衛隊のヘリコプターがホバリングしていた。
「海自が来たか……でかいの奮発《ふんばつ》したなー」
シコルスキーMH−53E。四千四百馬力のガスタービンエンジン三基で直径二十四メートルのローターをまわす、西側最大級のヘリコプターだった。
神奈川県警にも海上保安庁にも東京消防庁にも、これほどの大型ヘリはない。オービターの浸水《しんすい》を想定して、出力に余裕《よゆう》のある機種が手配されたのだろうか。
向かいの校舎の窓は、再び生徒で鈴《すず》なりになった。
校長が金切《かなき》り声を上げた。
「じっ、自衛隊まで連れてきたのか君は!」
「あたしが呼んだんじゃありませんてば」
「とにかくあれをなんとかしろ! マスコミが来る前にどかすんだ!」
「言われなくたってやるわよ!」
ゆかりは腰からトランシーバーを引き抜くと、トークボタンを押した。
「こちらSSA宇宙船ランプタン、ネリス女学院上空の海自ヘリ、応答願います」
『ランプタン、こちら海上自衛隊第三|掃海隊群《そうかいたいぐん》所属掃海ヘリ〈おおとり)であります。ソロモン宇宙協会の依頼《いらい》で救難出動しました』
「あ、どうもご苦労様です」
『いえいえどういたしまして。回収作業に入りたく思いますが、隊員を二名ほど降ろしましょうか』
「いえ、こっちでやります。まずスリングで一人上げてもらって、タマカケの後にもう一人上げてください」
『了解《りょうかい》しました』
「準備に十分ほどかかりますが、そのまま待てますか?」
『ハイ、大丈夫《だいじょうぶ》です』
「それと、船はどこに運びますか?」
『相模原の宇宙科学研究所、との指示が出ています』
「実験担当者に直行ってわけですね。了解です」
脳卒中《のうそっちゅう》を起こしかけている校長を残して、ゆかりは校長室を出た。
生物準備室に戻ってみると、茜はフィッシュパッケージの前に顔をよせ、指でガラスをつついていた。
ゆかりを見ると、茜はにっこり笑って言った。
「ほら、みんなとっても元気になって――」
「茜、その装置《そうち》だけど、これからヘリで宇宙研まで空輸するの。バッテリーか何かで動かして、持ち運べるようにできない?」
「えっ……ええと、できると思うけど……」
「お願い、すぐやって」
「は、はい!」
茜は棚をあさって乾電池《かんでんち》と電池ボックスを取り出し、直流電源に置き換《か》えた。
「入れ物ですけど、段ボールでいいかしら?」
「いいよ、なんでも」
段ボールの内側に、水槽《すいそう》や装置類をガムテープで固定する。
「こんなので、いいかしら?」
「うーん、なんか不安だな」
「そうですね……」
輸送中に壊《こわ》れたりしたら、自分で直せるだろうか?
飛行は短時間のはずだが、ちょっとした手違《てちが》いで遅《おく》れたらアウトだ。
ゆかりは茜を見た。
「茜さ、いっしょに来てくれない?」
「ええっ!?」
茜は目を見開いた。
「ヘリに同乗して、金魚のお守《も》りしてほしいんだ。万一に備えて」
「そっ、それは――」
「ね、お願い」
「それは――金魚は見守ってあげたいけど……」
茜は顔を伏せた。
「でも私……授業が……」
「いいんだよ、こんな学校のことはっ!!」
吠《ほ》えてから、ゆかりは自分の言葉に驚いた。
これじゃほんとに不良少女だな。
ゆかりは言葉をやわらげた。
「まーその、授業も大事かもしれないけど、この金魚だってさ――担当研究者の人、ここまでこぎつけるのに十五年かかってんのよ」
「十五年も!?」
「そう。宇宙実験って、やるまでが大変らしいんだ。だから最後の最後で死なせちゃ寝起きが悪いって思うんだけど」
「そうか……」
茜は関節《かんせつ》が白くなるまで拳《こぶし》を渥《にぎ》りしめていた。
それから、パッと顔をあげた。
「私、行きます!」
「そうこなくっちゃ!」
中庭には烈風《れっぷう》が吹き荒れていた。
マツリはパラシュートを丸めて船首に押し込んでいるところだった。
ゆかりは池のほとりまで進んでヘリコプターを見上げ、トランシーバーに怒鳴《どな》った。
「収容人員が一人増えました。最初に、私の後ろにいる子を上げてください。一般《いっばん》ピープルですんで、お手やわらかに」
『了解《りょうかい》。では救難ストロップを降ろします』
ヘリは校舎すれすれまで降下した。側面のスライディング・ドアが開き、幅広《はばひろ》のベルトのようなものが降りてくる。末端《まったん》を池に接触《せっしょく》させて静《せい》電気を逃《に》がすと、ヘリはわずかに前進した。吹き散らされた砂が頬《ほお》を打つ。
ゆかりはストロップをつかみ、茜を手招《てまね》きした。
茜は段ボールを脇にかかえ、空いた手でスカートを押さえながらそばに来た。
ゆかりはストロップを茜の脇の下にまわし、Vリングを根元のフックにかけた。それから段ボールを両手で持たせる。
「ぶらさがってるだけでいい。あとはヘリの人がやってくれるから。いい?」
茜はおびえた顔で、こくこくとうなずく。
ゆかりはヘリの隊員に向かってサムアップサインを送った。
茜の体はするすると吊《つ》り上げられてゆき、自衛隊員の手で機内に引き込まれた。
続いてオービターの上からマツリが収容される。
ゆかりは白波のたつ池を渡って、オービターによじ登った。
「こんどはオービターをお願いします。水入ってますから、四〜五トンありますよー」
『楽勝です。では曳航《えいこう》フック出しまーす』
「どうぞー」
ヘリはローター直下にある掃海《そうかい》用具曳航用のフックを降ろした。
「あと一メートル……オーライ! フォワード、デッドスロー!」
ヘリはフックの慣性《かんせい》を打ち消しながら、たくみに移動する。ゆかりは風圧に耐《た》えながら、トランシーバーに向かって怒鳴った。
「ステディ、ステディ、ステディ……オーライ!」
両手で重いフックを受け止め、バラシュートハーネスのカラビナを通す。
「タマカケ終わりましたー。次はあたしをお願いしまーす」
池に入って、降りてきたストロップをつかむ。背中にまわしてフックをかけ、合図する。
ゆかりの体はあっという間に持ち上がり、二名の隊員に引かれてヘリに乗り込んだ。
マツリと茜は、すでに壁際の席に着席している。茜は段ボールを抱えて硬直《こうちょく》していた。
まるでぬいぐるみにしがみついた子供だった。
「茜、大丈夫《だいじょうぶ》? もう平気だからね」
「え、ええ」
パイロットがゆかりをふり返って怒鳴った。
「上げていいかね?」
「どうぞ! 水が落ちますんで、ゆっくりお願いします!」
「了〜解!」
パイロットの赤銅《しゃくどう》色の左手に、わずかなカがこもった。
タービンエンジンの爆音《ばくおん》がひときわ高くなる。
ゆかりは胴体《どうたい》から顔を出して、下の様子を見守った。
七枚のメインローターがあたりの空気を打ちのめすと、中庭はかつてない砂嵐《すなあらし》に見舞《みま》われた。園芸部の温室がつぶれ、花壇《かだん》のチューリップがひれ伏し、腐《くさ》りかけた百葉箱《ひゃくようばこ》が倒壊《とうかい》する。
ワイヤーがぴんと張り詰《つ》め、白波を立てる池の中でオービターがぐらりと動いた。
「宇宙船、すこし傾斜《けいしゃ》してますが、いいんですか!」
ウインチ担当の隊員が言う。
「平気です。ああいう仕様《しよう》ですから!」
隊員はインカムでパイロットに何か指示した。
ヘリは上昇を開始した。
オービターから漏《も》れる水が白い霧《きリ》になって飛散する。
校舎の窓も屋上も、手を振《ふ》る生徒でいっぱいだった。
ゆかりも軽く手を振って応じた。
さらばだ、ネリス女学院。もう来ることはないだろう。
隊員がスライディング・ドアをしめた。
機内はようやく、普通《ふつう》に話ができるほどの静けさを取り戻した。
水平飛行に入ると、ゆかりは操縦席の後ろに行ってパイロットに挨拶した。
「お見事でした。あれの船長やってる森田ゆかりです」
「第三十五掃海隊、木村二等|海尉《かいい》であります!」
中年のパイロットは日焼けした顔をこちらに向けて、意気《いき》揚々《ようよう》と名乗った。
「いや驚きました。テレビでは何度かお目にかかってたんですが、まさかここに降りてくるとは――」
「あたしも驚いてるんです。でも自衛隊から来てくれるとは思いませんでした」
「海上保安庁からこっちに回ってきまして。宇宙船の回収なんて初めてだから、とにかく馬力のあるヘリで行けってことで――そうだ、桑原海曹《くわばらかいそう》!」
「はっ」
後ろの隊員が応じた。
「ここへ来て写真を撮《と》ってくれ」
「承知しました!」
「私がこう、後ろを向くから、こちらといっしょにだ」
「はっ」
「それじゃ、お二人もいっしょに」
別の隊員がマツリと茜を呼ぶ。
「ほーい、写真だ写真だ。茜、行こう」
「えっ、わた、私も!?」
「そうそう。思い出、思い出」
マツリはにこにこ笑いながら、茜のハーネスを解《と》いた。
茜は段ボールをそっと床《ゆか》に置いて、前に来た。
「海尉、自分も写りたく思います」
「自分もぜひ」
隊員たちもどやどやと集まってくる。
「あのう、ひとつゆかりさんとツーショットでお願いします」
「自分はマツリちゃんと」
「お、おれ、ネリスの制服の方と……」
入れ替《か》わり立ち替わり写真を撮られているうちに、ヘリは相模原上空に来た。遅《おく》れ馳《ば》せにやってきた神奈川県警のヘリも隣《となり》を飛んでいる。
「えーと、宇宙研のほうには連絡《れんらく》入ってるのかな」
「そのはずです」
「……ええと、あのまっすぐなのが横浜線だから……あれかな?」
「あれですね」
四角い建物が数個|並《なら》んだ敷地《しきち》が見える。中央に芝生《しばふ》があり、そばに細長いロケットが屋外展示されていた。
芝生の上でホバリングに入ると、宇宙研の職員が走り出てきて合図した。
機体がじわじわと降下しはじめる。
芝生に落ちた影《かげ》と本体が徐々《じょじょ》に接近し、やがてひとつになった。
オービターがごろりと横たわると、パイロットは慎重《しんちょう》にワイヤーを横たえながら、隣にヘリを着陸させた。ドアが開き、隊員が飛び降りて周囲を確保する。
「さあ、行こう」
ゆかりは茜をうながした。
頭上でアイドリングするローターにおびえながら、茜は二人の宇宙飛行士に腕を引かれてヘリを離《はな》れた。隊員の一人はオービターからフックを外しにかかっている。
本館のほうから、五十すぎの男がネクタイをはためかせながら駆《か》け寄ってきた。
ああ、宮本さんだ、とゆかりは思った。
金魚の実験――正しくは前庭順応機構《ぜんていじゅんのうきこう》実験の担当研究者、宮本教授。
先月シミュレーション訓練でソロモン基地に来たときも、終始せかせかと走り回っていた。短足で小太りでげじげじ眉毛《まゆげ》の、なんか憎《にく》めないおじさん。
宮本はハンカチで汗をふきふき三人を迎《むか》えた。
「どうもー いやあ、どうも! まったくもう――」
ヘリが離陸《りりく》を始めて、教授の声はかき消された。
ゆかりはふり返って、ヘリに一礼した。
ヘリはすぐに小さくなり、静けさがよみがえった。
ゆかりは教授に向き直った。
「突然《とつぜん》ですが、ついさっき横浜に帰還《きかん》しまして」
「聞いた聞いた。いや、まさかいきなりこっちに来るとは――それで、あれ、生きてる?」
「これです」
ゆかりは茜の段ボールを示した。
茜が差し出すと、宮本教授は頭を箱の中に突っ込んだ。近眼なのだ。
「おお! 生きてる! 元気だ! 生きてる生きてる!」
それからガバッと頭を出し、
「どうも! いやあ、どうも! ほんとにもう、ありがとう!」
三人の手を次々に握《にぎ》り、ぶんぶん振《ふ》り回す。嬉《うれ》し涙がちょちょ切れるというのは、こんな状態だろうか。ゆかりも笑顔になって言った。
「この子がありあわせの材料で作ってくれたんですよ」
「そうかっ! いやあ、ありがとう! ほんとにありがとう!」
宮本は左手で箱を抱《だ》きかかえると、あらためて茜の手を握り、ぶんぶん振り回した。
「あ、いえ……なんか、みっともない工作で」
「そんなことない、そんなことないよ! さあ、研究室に運ぼう!」
いやあよかった、生きてた生きてた、と言いながら、教授はずんずん歩きはじめた。
「…………」
茜はすっかり圧倒されて、その後ろ姿を見送った。
「よかったじゃん。喜んでるよ」
「ええ……」
「あの歩きっぶり。いまにもスキップしそうだよ」
「……ほんとですね」
茜はそこで初めて、くすりと笑った。
はるか前方で、教授がふり返って呼んだ。
「おーい、来て来て。話、聞かせてくれー」
ACT・6
管制室のスクリーンはすべて消灯《しょうとう》し、隅《すみ》のカウントダウン・クロックだけが動いていた。
ETA:1day 2hour 17min 5sec――打ち上げを起点とした経過時間だった。
中央|最後尾《さいこうび》の管制|卓《たく》で、主席管制官の木下和也《きのしたかずや》が電話応対していた。
「……そうか……金魚は無事なんだな?……よし。よくやった……そっちはOECFの事業四課が手配するはずだ。今日はどうする?……そうか。あまり豪遊《ごうゆう》するなよ……わかった、ゆっくり休め」
基地いちばんの切《き》れ者《もの》は、静かに受話器を置いた。
「みんな聞いてくれ。一行は宇宙研に着いた。本ミッションの管制業務はこれで終了する。今回も大騒《おおさわ》ぎだったが、ご苦労だった」
管制卓についていた担当者はいっせいに伸びをし、ばたばたと書類を片づけはじめた。
木下はログブックに何か書き込むと、ゲストルームに入り、那須田に報告した。
「オービターと乗員は宇宙研に着きました。船体は小破《しょうは》、金魚は無事です。二人は宮本教授に報告の後、ゆかりの実家に泊《と》まる予定だと言ってます」
「そうか。よし――ミッションは成功ということだな」
「最小の、ですが」
「成功は成功さ。結果オーライだ」
那須田はホールデン長官に向き直り。英語で言った。
「我々のミッションは完全な成功をおさめました。複座オービターの二度めのテスト飛行、船外活動中のテレビ中継《ちゅうけい》、金魚による前庭機能実験――すべて所期《しょき》の目的を達成しています」
「完全な?」
長官は眉《まゆ》を上げてみせた。
「実験装置の故障《こしょう》、異常な軌道離脱《きどうりだつ》とロスト・ポジション、それに不時着。ここではそうした出来事はトラブルに数えないのかね?」
「予定外のイベントがいくつかあったことは認めましょう」
那須田は落ち着き払って言った。
「しかし乗員と金魚は無事に生還《せいかん》しました。軌道上および地上での柔軟《じゅうなん》な対応が。ミッションを成功に導いたのです」
「私には、幸運か必要だったように見えたがね」
長官は言った。
「このたびの招待《しょうたい》では、いろいろ面白《おもしろ》いものを見せてもらった。SSAの活動はまことに興味深《きょうみぶ》い。なんといっても合衆国、ロシアに続く第三の有人宇宙飛行機関が小規模ながらも成立しているわけだからね」
「おっしゃる通りです」
「だが、はっきり言おう。国際宇宙ステーションの建造に参加するのは時期|尚早《しょうそう》、というのが私の結論だ」
「しかし長官――」
那須田が抗弁《こうべん》しかけるのを、ホールデンは制した。そしてアメリカ人らしい率直《そっちょく》さで言った。
「出る杭を打とう、などとは思ってないよ。我々のシャトル船団は常にオーバーワークだ。正直言って猫の手も借りたい。君がスキンタイト宇宙服やハイブリッドエンジンの技術を独占《どくせん》していることも理解できる」
ホールデンは席を立った。
「果実はまだ青い。いましばらく成熟《せいじゅく》を待つとしよう――そういうことだよ」
ACT・7
宮本の研究室は混沌《こんとん》をきわめていた。
壁《かべ》にそってデスクやパソコンや書棚、整理棚がぎっしり並《なら》び、中央には車一台ぶんくらいの作業台がある。作業台をとりまく通路部分を除《のぞ》けば、あらゆる平面に何かが山積していた。
宮本教授は作業台をかきわけて段ボールを置いた。
ふむふむなるほどと言いながらフィッシュパッケージを外す。
隣《となり》には、配管むきだしの込み入った装置《そうち》がある。実験装置のプロトタイプらしい。
「やっぱりQDが詰《つ》まってるねえ……これは糞《ふん》かな? うん、糞だな」
言いながら上部の蓋を開いて、画筆とスポイトを使って掃除する。それが終わると、パッケージを装置に差し込み、電源《でんげん》を入れた。水が循環《じゅんかん》しはじめる。
「よーし、もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。宇宙じゃこうはいかないよね」
「そこらじゅう水玉だらけになりますね」
「だろうねえ。いやあ、帰る直前のトラブルで、大変申し訳ないことをした」
「直前というより、途中《とちゅう》だったんですよね。実験と操縦、分業できればよかったんだけど」
「あのせまいオービターじゃやむをえんか」
「オービターを三人乗りにする計画はあるんですけどね……」
「そうか」
教授は自分のデスクのまわりに椅子《いす》を集め、三人を座らせた。
「それにしても――」
宮本は段ボールをしげしげと眺め、茜に言った。
「これはうまくやったなあ。応急修理の天才だね、ええ?」
「いえ、それほどでも……」
茜はまた、顔を赤らめた。
「うちじゃ装置を今の水準までもってくるのに十五年かかったんだ。宇宙用の飼育装置なんてなかったからねえ。もういろんなとこで聞いてまわってさ。酸素のレギュレーターなんか、医学部行って人工|肺《はい》借りてきたんだ」
「へえ……」
「濾過《ろか》フィルターだってそりゃあ苦労した。上で卵生んじゃったらどうなるか、とかね。粘液《ねんえき》はふとんの綿がいいとか、アンモニアはゼオライトで除けるかとか、いちいち実験してさ」
「ええ」
「だけどその場でいきなり作れって言われたら、僕だってお手上げだよ。生物の飼育とか、やってるの?」
「生物部でアクアリウムとテラリウムやってます。ただ飼って、観察してるだけですけど」
「それで十分さ! 得るものあるだろ? どっさり」
「はい」
茜はちょっと嬉《うれ》しそうに言った。
「あの、それで――聞いていいですか」
「なんだい?」
「この金魚の実験って、どんなテーマなんでしょう?」
「前庭順応《ぜんていじゅんのう》の学習効果だよ!」
教授の声がひときわ高くなった。よくぞ聞いてくれた、という顔だった。
「一度宇宙飛行を体験した金魚が、二度めの飛行でどれだけ早く順応できるか。もし学習効果があるとすれば、金魚のどこがその情報を保持しているのか――それをつきとめるんだ」
「あ、なるほど……」
「前庭機能は宇宙|酔《よ》いと関係があるとされている。宇宙酔いが宇宙飛行の障害になることは知ってるだろう?」
「ええ。最初の数日間、船酔《ふなよ》いにかかったようになるんですよね」
「そうだ。宇宙にはほかにも、いろんな障害がどっさりある。放射線にカルシウム損失に体液移動。だけど人間は遅かれ早かれ宇宙に進出しなきゃいかん。そうだろ?」
「ええ……」
「宗教だの思想だの領土だのにこだわっていちいち戦争しててどうする。さっさとちがう場所に引っ越せばいいんだ。地球がせまきゃ宇宙へ引っ越すんだ。最初はステーションでいい。次は月、それから火星だ。彗星《すいせい》に引っ越そうって言う学者もいる。だから、そのためのハードルを一個一個乗り越えていくんだ。今回の実験は、その手がかりになる。そうだろ!?」
「ええ、そうですね!」
「今回の実験が失敗したら、次の実験もできなくなる。なんとしても金魚を生還《せいかん》させたかったんだ。帰還直前にトラブったと聞いたときには、もうだめかと思ったが、君のおかげで助かった。いや、ほんとにありがとう!」
宮本は茜の肩をぱんぱん叩《たた》いた。
「こういう臨機応変な対応ができるあたり、やっぱり宇宙飛行士はちがうなあ!」
「え……?」
茜は一瞬《いっしゅん》、きょとんとした。
「いえ、私はちがうんです。つまり、ちがうっていうのは――」
「この子、不時着地点にたまたまいた一般《いっぱん》市民なんです」ゆかりが助け船を出す。
「あーっ、そうかあ! 僕はまた、てっきりSSAから派遣《はけん》されたとばっかり」
「つまりですね、不時着したのがネリス女学院ってとこで――」
ゆかりが一部始終を説明すると、宮本は頭を掻《か》いた。
「そうかあ。だってこんな離《はな》れ業《わざ》見せてくれるし、年格好も似てるしさ」
女子高の制服を着ている、という点には注意を払わなかったらしい。
「いかんなあ。僕かぁ最近、小柄《こがら》な女の子はみんな宇宙飛行士に見えてくるんだ」
「小柄な……」
改めて、ゆかりは茜を見た。
自分と同じか、ひとまわり小柄というところか。
身長・体重は適格だ。
あの時、こんな子がいてくれたら。
自分とマツリは操縦に専念し、三人めの飛行士が実験装置の面倒を見る。これならすべて順調だ。
ゆかりは言ってみた。
「茜さ、うちで働いてみる気ない?」
「え……?」
「SSAで宇宙飛行士やるの」
きょとんとした顔が、一気に爆発《ばくはつ》した。
「そっ、そんな、冗談《じょうだん》!」
「冗談じゃなくて」
「ほい、それは名案だね。茜がいれば何があっても安心だよ」
「うちって公募《こうぼ》してないけど、ほんとはすっごく人がほしいんだ。今ならチャンスだと思うな。ほんとだよ?」
「でっでも私、宇宙飛行士なんてとても――体も弱いし……」
「体くらい、トレーニングでいくらでも鍛《きた》えられるよ」
「でも……」
「僕だったらとびつくけどなあ」
宮本が言った。
「志願者いないのかね? 君ら、すごい人気じゃないか」
「いるにはいるんですけどね……」
ゆかりはため息をついた。
公然と募集はしていないが、月に一人や二人は志願者がソロモン基地に現れる。
だがそこは文明の果て、ソロモン諸島の片隅《かたすみ》の、なんの娯楽《ごらく》もない小島である。ゆかリやマツリにあこがれてやってきた志願者は、島に上陸したとたん意欲を喪失《そうしつ》してしまう。
宇宙をめざす熱心な志願者もいたが、そんな者に限って体格が合わない。身長百五十五センチ以下、体重三十八キロ以下が暗黙《あんもく》の絶対条件だった。
絶対条件とはいえないが、女性であることも強く望まれていた。船内にはトイレがない。用をたすとき、隣に異性がいるのは問題がありすぎる。
そんなわけで、本当に望ましい人材は、SSAではなく宇宙開発事業団を選んだ。ここなら実績のあるNASAのスペースシャトルに乗れるし、建造中の国際宇宙ステーションに滞在《たいざい》するチャンスも与えられる。
実際にはスペースシャトルはそれほど安全ではないし、SSAは見かけほど危険でもないのだが――警官や自衛官と同様、ゆかりたちの活躍《かつやく》はテレビで眺めるぶんには魅力《みりょく》的だが、自分がやるとなると二の足を踏《ふ》むところがあった。
「……健康で体格さえあえば誰《だれ》でもできると思うんだけど、まあ、帯《おび》に短《みじか》しっていうか。茜ならぴったりな気がするけどな」
「ふーむ……」
宮本はあらためて茜を見た。
「茜ちゃんだっけ。フライトクルーというよりは研究者タイプなのかな? 生物の研究が好きなの?」
「あ、はい、小学校の時からなんです!」
理解を得られたのがうれしかったのか、茜は急に饒舌《じょうぜつ》になった。
「三年生の夏休みの宿題で朝顔の観察をやったんですけど、つるがどちら向きに巻くのか気になって。あれって右巻きも左巻きもあるんですよね。でもうちにある株《かぶ》だけじゃ確信がもてないから町内の朝顔をかたっぱしから調べていって、隣の町まで行って全部で百株のつるを調べたんです。それで平均《へいきん》とったら右巻きが五十三パーセントって」
宮本は大笑いした。「有意の差はなかった、と」
「その頃《ころ》は統計|検定《けんてい》なんか知らなかったから、右巻きが多いって結論だったんです。でも先生に努力を認められて、なんかまいあがっちゃって。そうそう、中学一年のときは宇宙実験の真似事《まねごと》みたいなことしたんです」
「ほほう?」
「無重力は作れないけど、高い重力なら地上でも作れるって思って、古くなったレコードプレーヤーを改造して遠心装置《えんしんそうち》を作ったんです。それで、装置の先にチューリップの球根をセットして、重力が倍になるように回転させたまま栽培《さいばい》するんです」
「おお、素晴らしい着眼点だな。アメリカでは同じ方法で鶏《にわとり》を育てたことがあるし、ドイツでも宇宙でクラゲの観察をしたことがあるね。しかし、ずいぶん時間かかったろう?」
「そうなんです。ベランダに置いて、夜も昼もずっと回しっぱなしにして――母にプレーヤーが火を吹きそうだからやめなさいって言われたけど、じゃあずっと見てるからって言って三日間座り込んだら許してくれて。緒局、八日めにプレーヤーが壊《こわ》れて、はっきりした成果は出なかったんですけど。でも理科の先生にほめられて、将来研究職につくなら理科のほかに英語と数学もしっかりやって、受験技術も身につけなさいって言われて、それでやってみたら勉強が好きになったんです」
「……勉強って、好きになるもんなの?」
横からゆかりが言った。
「あたし、勉強好きも嫌《きら》いも、そーゆー星の下に生まれてくるだけだと思ってたけど」
「ううん、ほんとに好きになったんです。考える道具っていうのかな、勉強すればするほどいろんなことがわかってきて、幾何《きか》だったら補助《ほじょ》線一本ひくだけで展開がぱーっと開けてくるし、うまい証明がひらめくと痛快《つうかい》だし、英語は簡単な単語で言いまわすのが面白《おもしろ》いし、社会科だって新聞読むのが面白くなるし、どの科目もテストで結果がはっきり出るからはりあいあるし、それから――」
茜はそこで我に返った。
「やだ……私、何言ってるのか」
真《ま》っ赤《か》になって、顔を両手で覆《おお》う。
「いやいや、面白い話だった。君のような人がいてくれるなら、科学界は前途《ぜんと》有望だよ。大学はもう決めてるの?」
「東大に入って、似内《にうち》教授の下で分子生物学をやろうと思ってます」
「ああ、似内さんか。あそこはいいね。これから分子生物は面白いよ」
茜は顔をぱっと輝《かがや》かせた。
「生命って神秘《しんぴ》ですけど、簡単に神秘って片づけたくないんです。それで、さかのぼって考えてくと、分子生物からやらなきゃって思ったんです」
「そうだね。私は行動学から入ったが、それも正しいアプローチだよ」
「やっぱり、そうですよね!」
「はー……」
二人が盛《も》り上がる横で、ゆかりはため息をついた。
「やっぱし優等生はちがうなあ。もうビシッと進路決めてるんだ」
「だって、もう二年生ですもの!」
「そか……」
ゆかりは頭を掻《か》いた。
入学年度は同じだが、高校二年というものを、ゆかりは知らない。
だが、自分があのまま進級しても、こんなにはっきり進路を決めていただろうか?
ちょっち疑問だ。
「でもさ、大検《だいけん》とかあるし、勉強ならいつでもできるよね」
軽い気持ちで誘《さそ》ったのだが、ゆかりは少し食い下がった。
「誰かの受け売りだけど、本当にものを学べる場所は宇宙だって言うよ」
「それは……そうでしょうね、きっと……」
茜の視線はすこし、宙をさまよった。
あの目だ、とゆかりは思った。
宇宙にあこがれ、想いをめぐらせるまなざし。
この仕事についてから、ゆかりは何度もそんな目を見てきた。
ゆかりはすでに四度の宇宙飛行を経験している。ゼロGはもうおなじみだし、打ち上げや帰還《きかん》の緊張《きんちょう》も、マスコミをあしらうのも慣《な》れた。
だが、宇宙からの眺めは――
こればかりは、飽《あ》きることがない。
言葉や映像では伝えようがない、あの眺め。
ゆかりはインタビューのたびにその質問を受けたが、型通りの返事しかしなかった。
本当に知りたいなら、いっしょに来てくれとしか言えないのだ。
この子には、どう言おうか? なんとなく、型通りに答えたくない気がするのだが――
「行ってみないと、わからないかな」茜が言った。
ゆかりは虚《きょ》を突《つ》かれて、相手の顔を見直した。
水のように澄《す》んだ瞳《ひとみ》が、まっすぐこちらを見ていた。
なにげなく言ったのか? それとも――
「いつしょに……来る?」
思わず、ゆかりはそう言った。
茜は返事をためらった。それから、少しうつむき加減になって、
「いえ……やっぱり私、机に向かって勉強するのが向いてるみたいなんです」
「そっか……」
ゆかりは小さくため息をついた。思いすごしだったか。
「変なこと言っちゃったね」
「いえ」
思えば非常識な話だ。そこの君、宇宙飛行士やらない?――なんて。
しかし、ゆかりがあっさり引くと、茜は少しさびしげな顔になった。
「あ、もし気が変わったら、いつでも連絡《れんらく》してね。ソロモン諸島に電話して、交換手《こうかんしゅ》にSSAって言えばOKだからさ」
「はい」
「さあ、デブリーフイングだ。打ち上げ直後から教えてよ」宮本が言った。
「そうでした。えとですね――」
宇宙飛行士は飛行が終わると、すぐに詳細《しょうさい》な聞き込みを受ける。記憶《きおく》が新鮮《しんせん》なうちに、宇宙での出来事を細大漏《さいだいも》らさず報告させて、ノウハウを蓄積《ちくせき》するのだった。これをデブリーフィングという。
ゆかりはメモを見ながら言った。
「最初はETA0130か。著《いちじる》しいルーピング、ローリングってあるな」
「みんなきりきり舞《ま》いしてたね」と、マツリ。
「うん、なんか哀《あわ》れって感じで。疲《つか》れないのかな、とか思った」
「あの時は溶存《ようぞん》酸素|濃度《のうど》がちょっと落ちて焦《あせ》ったんだ。魚の活性《かっせい》が高すぎてね」
教授はテレメトリのグラフと照合しながら言った。
「水槽《すいそう》内で気づいたことはある?」
「ほい、うろこが二、三枚、きらきらしてたよ」
「あれうろこだったのか。さすが野性の観察力」
「あの――」
茜が言った。
「私、そろそろ……」
おっと、そうだった。
「この子、授業の途中《とちゅう》で抜けてきたわけで」
「おう、そうかそうか。勝手に引き止めて悪かった」
「いえ、ほんとはもっと話、聞いていたいんですけど――今なら午後の授業に間に合うから……」
「いつでも遊びにおいでよ。なんでも見せるからさ」
「ありがとうございます!」
教授はぱっと立ち上がり、名刺を渡した。
「タクシー呼ぼう。こっち持ちだからね」と、受話器を取る。
「いえ、歩きますから」
「近いようでも結構あるんだ。それぐらいおごらせてよ」
正門でタクシーを待つ間、ゆかりは茜に言った。
「悪いことしちゃったかな。ネリ女ってエスケープしたりするとうるさいでしょ」
「ううん、学術研究のためだもの、わかってくれると思う」
「そう……かな?」
「それに、とっても素敵《すてき》な経験だったし」
「宇宙飛行士になると、毎日こんなだよ」
「あ、はは……」
茜は返事に困って苦笑した。ゆかりも苦笑する。
「しつこかったか」
「いいえ。誘《さそ》ってくれて、とってもうれしかったです」
タクシーが現れた。
ゆかり、マツリ、宮本の三人は、手を振《ふ》って茜を見送った。
ACT・8
デブリーフィングが終わったのは夕方だった。簡単に記者会見をすませると、二人の宇宙飛行士はタクシーで宇宙研を出た。
「……あんたたち、もしかして宇宙飛行士のゆかりちゃんとマツリちゃん?」
運転手が言った。
「そそ」「そうだよ」
「すごいねえ。それ宇宙服? いつもそんな格好なの?」
「今回は特別なの」
ゆかりが事情を話すと、運転手はルームミラーの中でしきりに驚いていた。
「まったく、宇宙飛行士ってのは大変だねえ!」
「狭くて着替え積めないから。これから一式|揃《そろ》えるわけ」
「ああ、それで元町《もとまち》?」
「そそ。石川町のほうから入って、店の裏に横付けしてほしいんだ。このカッコじゃ目立ってしょうがないから」
「よーし、まかしてよ」
「ところで、アメックス使えるよね?」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
サバイバル・キットには十ドル紙幣《しへい》の束《たば》とアメックス・カードが装備《そうび》されている。万全《ばんぜん》とはいえないが、世界中どこに不時着しても不自由しないよう、という配慮《はいりょ》だった。ゆかりはこれを拡大解釈して、到着地での買物に盛大《せいだい》に活用している。
車は横浜市街に入った。
マツリはずっと窓に張り付き、外を物珍《ものめずら》しげに眺めていた。
「ヨコハマはにぎやかだねー」
信号待ちの間もそうしているので、ゆかりはマツリを窓から引き剥《は》がした。
「目立つと面倒だからさ」
「ほい、みんな友達だよ」
マツリは外に向かってぱたぱた手を振った。
歩道の女子高生が数人、「うっそー!」という顔でこっちを指差している。
「やめなってば」
運転手は車を元町商店街の裏通りに入れた。
「えーと、このへんですか?」
「もう一ブロック先。あ、そこで」
二人は車を降りると、路地《ろじ》を通って表通りにまわり、筋向かいのブティックに入った。
中学生の頃《ころ》から行きつけ、高校に入ってからは下校|途中《とちゅう》に寄っていた店だった。
「ちわーっす」
「あれっ、ゆかりちゃんじゃないの!! いやいやいやいや、これはこれは」
上背《うわぜい》のある、ちょび髭《ひげ》をたくわえたマスターが相好《そうごう》を崩《くず》して出迎《でむか》えた。
マスターは宇宙服の二人を上から下まで眺めた。
「いいなあ、白のボンデージかあ……うん、これなら度胸ありゃ街《まち》歩けるねえ」
「そうもいかないって。いろいろあってさ、宇宙研からタクシーで直行したの。着替え一式、見繕《みつくろ》ってくんないかな」
「よしきた。どんなのでいく?」
「ワンビに一枚はおってアレンジ――なんてダサいかな」
「んなことないって。コーディネートしだいよ」
「じゃあ、そつないとこで」
「まーかせて。靴どうする? サンダルくらいならあるけど?」
「それもお願い」
マスターはたちどころに上から下まで揃《そろ》えた。Aラインのミニたけワンピースに、そでの短いカーディガン。プラチナホワイトのサンダル。
「マツリちゃんだったよね。どういうトーンでいこうか?」
「ほい、マツリはあんなのがいいよ」
ショーウインドウのモデルを指差す。
「ヘソ出し。いいねえ、マツリちゃんグラマーだから似合うよ」
マツリの服を揃えている間、ゆかりは試着室に入って着替《きが》えにかかった。
まず、首の周りのアダプターリングを外さなければならない。
アダプターリングと首の間にはゴム状の皮膜《ひまく》があって、ヘルメット内の空気が服の内部に入るのを防いでいる。首と皮膜の間には特殊《とくしゅ》な接着剤が塗布《とふ》されており、はがすときはちょっと痛い。
宇宙服は上から下まで一体成形で、喉元《のどもと》から股間《こかん》までの気密ファスナーを開いて脱着《だっちゃく》する。ゆかりはゴム手袋を脱《ぬ》ぐ要領で、裏返しにしながら四技《しし》を抜いていった。
その生地は気密と圧力と断熱性を維持しつつ、汗を浸出《しんしゅつ》させて皮膚《ひふ》の温度調節機構を生かすという、魔法《まほう》のような機能を持っている。
いわばスキンタイト宇宙服は「宇宙|環境《かんきょう》に適応できる第二の皮膚」であり、その性格上パンティもブラジャーもつけられない。皮膚にぴったり密着したところは、ボンデージ・ルックと言われてもしかたがない。
ゆかりは着替えをすませて試着室を出た。
空気の抜けたゴム人形のような宇宙服を見ると、マスターは言った。
「ねえねえ、その服うちに払い下げてみない? ウインドウに飾《かざ》るからさ」
「一着千七百万円だよ?」
「ひえーっ、そんなにする!」
「フライトモデルだからね。宇宙服としちゃ格安だそうだけど――でも最高機密だから、売らないよね。よそで脱《ぬ》ぐのも避《さ》けろって言われてるくらいだし」
「そっかあ……」
マスターはあきらめた様子だったが、かわりに言った。
「じゃあさ、『宇宙飛行士の寄る店』って宣伝していいかなあ〜 そこに二人の写真飾ってさ」
「あはは。いいけど別に」
ゆかりは鷹揚《おうよう》に言った。
「色紙もサービスしちゃおうか?」
「いいねいいね、うれしいなあ!」
ほどなく、マツリが試着室から出てきた。
「ほーい、どう?」
マツリはブラの上にノースリーブのシャツをはおり、マイクロミニのパンツをヒップハンガーに穿《は》いていた。
「……へそ出しってか、水着に迫《せま》ってるね。ぜんぜん違和感《いわかん》ないけど」
「マツリちゃんならこれくらいいかなきゃ。……もうワンポイントあっていいかな」
サングラスをひとつ選んで、マツリの頭に乗せる。
「よおし、これで完壁《かんぺき》。さあ写真写真」
マスターはカメラを持ってくると、着替えた二人を店の一角に立たせて、さかんにシャツターを切った。
カードで支払いをすませると、かさばる宇宙服を店に預《あず》けて、二人は通りに出た。
「おっ……」
「ほい?」
はす向かいの美容院の看板を見たとたん、ゆかりは頭にかゆみをおぼえたのだった。
「マツリ、あそこ入ろ」
「ビューティサロン? なにするとこ?」
「髪《かみ》あらってさ、かるーくお化粧してもらうの」
「ほー、楽しそうだね!」
二人は連れ立って店に入った。
「洗髪《せんばつ》とカット、そろえる程度でいいや。それとファンデーションも」
「かしこまりました」
これよこれ――このキビキビした応対と信頼《しんらい》感。これが南の島にはないんだ。
ゆかりはひさびさに、日本の商店の活気にふれた思いだった。
「ほい、あれはなに?」
カット中にもかかわらずきょろきょろと店内を見回していたマツリが言った。
「ネイルアートですね。爪《つめ》に飾りつけするんです。簡単なところではシールがありますし、イミテーションの宝石を貼ったりもできます」
「わお! それはいいね――」
マツリの部族は祭祀《さいし》のとき、赤土などの顔料《がんりょう》を豚《ぶた》の脂肪《しぼう》で練ってボディーペイントする習慣がある。ネイルアートは、彼女の心をとらえたようだった。
「牧田《まきた》君、こちらにネイルしてさしあげて」
「はい」
専門の係がやってきて、カタログを見せる。マツリは真紅《しんく》のマニキュアにトパーズ色のラインストーンを選んだ。
「ほい、ゆかりもやろう。きれいだよ!」
「うーん……」
マツリにならっていると、とめどもなく満艦飾《まんかんしょく》になるのだが――
「じゃあ、マニキュアだけしてもらおうかな」
それから、ゆかりはつけ足した。
「サンダルだから足もおねがい」
文字どおり頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで手入れしてもらうと、ゆかりは生き返った気がした。美容院を出ると、舗道《ほどう》で立ち止まり、元町の空気を深呼吸する。
イタリアン・フードと香水《こうすい》と排気《はいき》ガスの臭《にお》い。悪くない。
「さあて、買いまくるぞ」
ゆかりはレコード店に入った。
「ZlMAの新譜はと……お、アルバムが出てるじゃないか。即ゲット。そういやさつきさん、五木《いつき》ひろしが好きだって言ってたな。このへん土産《みやげ》にするか――マツリもなんか買ったら?」
「そだねえ、なにか楽しいのある?」
「あんたの好きそうなっていうと、サンバあたりかな。ほれ、そっちの棚」
「ほー、いっぱいあるね」
マツリはサンバのCDを十枚ほどわしづかみにした。
続いて入ったのは本屋。
ゆかりは【国際情勢】のコーナーで五|冊《さつ》選び、さらに『現代用語の基礎知識』と『知恵蔵』のCD版を買った。
「立花隆《たちばなたかし》の宇宙本も読んどくか。そろそろ取材に来そうだしな。そーだ、マンガマンガ。おお『葵《あおい》と良一』の七巻が出ている。ゲットしとこ……」
マツリのほうを見ると、洋雑誌のコーナーで何冊か選んでいた。
「WORD FISHING? 釣《つ》りでもやるの?」
「この魚が気に入ったよ」
マツリは表紙のキングサーモンを示した。
「とてもいい顔だね」
「……そんなもんか?」
ゆかりは深く追及しなかった。マツリのすることを理解しようとしても、脳が疲《つか》れるだけだ。
それから二人はイタリアン・レストランに入った。
ゆかりは紙のように薄《うす》いクリスピー・ピザをつまみ、流行遅れと知りつつもティラミスでしめくくった。どちらも懐《なつ》かしい、買い食いの味だった。
マツリはスパゲッティをマヨネーズとケチャップとタバスコの海に沈めて、うまそうに頬張《ほおば》った。さらにトマトジュースにもタバスコを入れてぐびぐび飲んでいる。どうやらマツリは、赤や黄色の食品に誘引《ゆういん》されるらしい。
腹がくちると、ゆかりは言った。
「さーて。もう七時だし、ぼちぼちサバイバル活動を終了するか」
「いつもこんなサバイバルだといいねー」
「だよねー」
山のような買物と宇宙服をタクシーに積み込み、野毛山《のげやま》の閑静《かんせい》な住宅街に向かう。
十か月ぶりにみる家は、何も変わっていなかった。
庭は芝生《しばふ》が敷《し》かれているだけで、手間《てま》のかかる花壇《かだん》やペットなどはない。家は鉄筋《てっきん》三階建てで、建築デザイナーをしている母の資金が投入されたものだった。
現在の住人は母一人のはずだが、明かりはついていなかった。
玄関のドアには錠《じょう》が下り、インターホンにも応答がない。
「出張中かな。例によって」
錠は電子式なので、ゆかりは暗証番号を入力して家に入った。
家電関係は母の趣味《しゅみ》で集中コントロール方式になっている。【帰宅】ボタンを押すと家中の明かりがつき、エアコンが始動した。
冷蔵庫からジンジャーエールのペットボトルを出し、居間のソファに身を沈める。
「ふー。やっぱりおうちが一番、てか」
テレビのスイッチを入れる。
ニュースの時間だった。
空から撮影した、見覚えのある光景が映っていた。
『……その時ネリス女学院は二限目の授業中で、突然《とつぜん》の宇宙船の飛来に大騒《おおさわ》ぎになりました。奇《く》しくもここは森田ゆかりさんの出身校で……』
「やってるやってる」
中庭を背景に、校長が現れた。
『ええまあその、過去のいきさつはいきさつといたしまして、私どもではまず人命優先ということでその』
「おーおー、校長のやつ脂汗《あぶらあせ》うかべて」
それからレポーターは、茜の活躍《かつやく》に話を向けた。
『ええまあその、我が校の生徒が協力したか、ということにつきましては、現在調査中でしてその』
ゆかりは首をかしげた。
「自慢《じまん》しちゃえばいいのにな。国民の税金何億も使った実験を救ったんだから」
「ほい、この人も難しいこと考えるんだね」
マツリが言った。
「難しいこと考える人の言うことはわからないよ」
「本人もわかってないんじゃないかな……」
『中庭の被害《ひがい》につきましては、まず被害額を算定いたしまして、ソロモン協会のほうにしかるべき処置を――』
「ま、いい気味よね。園芸部には悪いけど――よくぞ命中ってとこかな」
「そだねー」
「まったくタリホ族の呪《のろ》いには恐《おそ》れ入るわ」
ゆかりはそう言った。
SSAでは、基地のそばで暮らすタリホ族の呪術《じゅじゅつ》の効用が、なかば本気で信じられている。呪いによって召喚《しょうかん》された精霊《せいれい》が、ロケットやオービターに数奇《すうき》な運命をもたらすというのだった。
碓かに、ゆかりたちの飛行はいつも波乱に富んでいた。超常《ちょうじょう》 現象《げんしょう》こそ起きないが、とんでもない偶然《ぐうぜん》の一致がいくつも起きるのだ。
いかに科学技術の粋《すい》を操《あやつ》る集団とはいえ、ムヱ皮のようなことが続くと、なにか神秘《しんぴ》的な存在を信じたくもなる。
「あれって禁止になったはずだけど。村の連中、まだ儀式《ぎしき》やってんじゃないの?」
「ちがうよ、ゆかり」
マツリは首を横に振《ふ》った。それから、こともなげに言った。
「今度のはゆかりの呪いだよ」
「え?」
「心のどこかであの学校を呪っていたね。憎《にく》しみや恨《うら》む気持ちがあった。それが悪い精霊を呼んだんだよ」
「……んな、ばかな!」
だが、マツリの論拠《ろんきょ》は明快だった。
「ゆかりのほかに、誰があの学校を呪《のろ》う?」
ACT・9
茜は校長室に呼び出されていた。
なぜこんなことになったのか、茜は理解できなかった。
たしかに授業をエスケープはした。でも自分はいいことをしたと思っている。ほめられてもいい、とさえ思っていた。
茜は尋問《じんもん》されていた。
同じ言葉が何度もめぐってきた。
「君は森田ゆかりに強要されて、無理やりヘリに乗せられた。そうだな?」
校長の隣《となり》で、生徒指導部の教師が問いただす。
「いいえ、頼《たの》まれはしましたが、私の意志で決めたんです」
何度言えばわかるのだろう?
この人たちは、何を知りたいのだろう?
「誘導《ゆうどう》されたんじゃないのか」
「森田さんが言ったのは、大切な実験だということだけです。研究者の人に会って、それは本当だってわかりました。金魚の前庭《ぜんてい》機能を調べて、宇宙|環境《かんきょう》に人間が適応するための一歩を――」
「そんなことはどうでもいい。大切な実験だと迫《せま》られて、君は断りきれなかった。そうだろう!?」
どうでもいい?
――なぜ?
茜はもう、不信感をおさえられなくなった。
「私、金魚を救ったことですごく感謝されたんです」
茜は言った。
「先生は、そうは思わないんですか?」
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第二章 イチジクとツバメ
ACT・1
地球儀を眺めると、ニューギニアの東、赤道のすぐ南に、北西から南東へ連なる小さな島々がある。
ソロモン諸島。日本人には太平洋戦争の激戦地《げきせんち》、ガダルカナル島があることで知られている。十六世紀にスペイン人が発見して歴史に登場するが、オセアニアの海洋民族がそこに住みはじめたのは遅くとも紀元前千年とされている。
ソロモン諸島を訪《おとず》れる観光客はほとんどが戦地|巡礼《じゅんれい》の日本人だが、最近ではその数もめっきり減った。日本との間に新たな関係が生まれたのは四年前、珊瑚礁《さんごしょう》と密林に囲まれた小島、アクシオ島にソロモン宇宙協会の基地が建設されてからである。
SSA・ソロモン宇宙協会――ーそれは日本のOECF(海外協力基金)が百パーセント出資して設立した組織だった。
その創始者は那須田《なすだ》勲《いさお》。一介《いっかい》の宇宙屋だったこの男のロビー活動が、なぜ成功したかは謎《なぞ》に包まれている。
「海外|援助《えんじょ》の一環《いっかん》として、ソロモン諸島の無数の島々にあまねく放送教育と通信|綱《もう》を提供しよう。そのためには人工衛星を活用するのが早道である」
「海外援助でダムや橋を建設するのはいいが、建てっぱなしで維持《いじ》しないことが批判《ひはん》の的《まと》になっている。ところが衛星通信網の維持には莫大《ばくだい》な費用がかかる」
那須田はそんなことを訴《うった》えた。ここまでは正論だった。
「最小のコストでこれを行うには、有人宇宙飛行による支援体制が必要不可欠である」
我田《がでん》引水《いんすい》もいいところだった。
少しでも手宙開発を知る者なら、那須田の嘘《うそ》は見抜けただろう。それは自転車のパンク修理をするのに、整備工場を建てるようなものだった。
だが、不勉強な役人をだますにはこれで十分だったらしい。
もちろん、那須田が欲しかったのは整備工場のほうである。低コストの有人飛行を実現して、世界の宇宙ビジネスに切り込む――これが那須田の野望だった。
海外援助は情報公開が不十分なこともあって、これという世論の反発もないままに基地の建設が始まった。四年前のことだった。
そして、独自の技術による有人宇宙飛行システムの開発が進められた。
計画は大型ブースター・ロケットの実用化で難渋《なんじゅう》した。しびれを切らした経済|企画庁《きかくちょう》は「あと半年以内に有人飛行を実現しなければ、計画は白紙に戻す」という最後|通達《つうたつ》を出す。
そんな時、たまたま島を訪《おとず》れた森田ゆかりに白羽《しらは》の矢が立った。
小柄《こがら》で体重の軽いゆかりを一人乗せるだけなら、既存《きぞん》の小型ロケットでもなんとかなる。
さらに、体格の似たマツリを予備の飛行士にした。
間に合わせのロケットによる初の有人飛行は、大騒動《おおそうどう》のうちに、ともかく成功した。
SSAはきわどく生き延びた。
それどころか、予想外のコストダウンが実現してしまい、那須田の嘘は嘘でなくなった。
有人飛行による宇宙サービス事業が実現したのである。SSAはたちまち世界の脚光《きゃっこう》をあびた。
そのあと、実用型の複座オービター、MOB2シリーズがロールアウトした。
だが、小柄な飛行士を使う方針は変わらなかった。
飛行士の体重が一キロ減れば、ロケットの全体重量は七十キロも節約できる。
身長制限を百五十五センチにすれば、オービターだけで七百キロも軽減する。
軌道《きどう》に運ぶ最終重量をきびしく節約しなければ、「ダンピングだ」と言われるほどのローコストは実現できない。
かくしてSSAの未来は、小柄な少女パイロットたちが担《にな》うことになったのだった。
それにしても――
五百人の宇宙飛行士を擁《よう》するNASAに比べて、SSAはたったの二人。
これはいかにもさびしい……。
横浜不時着から五日後。
ソロモン宇宙基地本部|棟《とう》三階、第一会議室に幹部が集まり、前ミッションの総括《そうかつ》が行われた。
「――酢《す》醤油《じょうゆ》のほうは、これというダメージを与えていませんでした。キャビンの電装品《でんそうひん》はすべてシールドしてますから、少々の水気ではこたえません。さすがに船殻《せんこく》に亀裂《きれつ》が入ってはおしまいですが」
チーフエンジニアの向井博幸《むかいひろゆき》が報告する。
「その浸水による一次|電源《でんげん》のダウンだが、改修すべきかな?」
SSAナンバー2の木下和也が聞いた。
「しなくていいでしょう。着水後にどこが壊《こわ》れようがかまうもんか、ってことで」
「残存燃料が爆発《ばくはつ》したりしない限りね」
「それは着水前に捨てるでしょう。燃料電池のは」
「ゆかりは残したがるんだ」
木下は言った。
「燃料電池が生きていれば電力は格段に豊富になる。着水後もエアコンが使えるし、無線も節約しなくてすむからね」
「うーん……でもそれはゆかりちゃんの教育しだいじゃ……」
「それも限界があるのよ」
宇宙飛行士の生活|全般《ぜんぱん》を監督《かんとく》する、医学主任の旭川《あさひかわ》さつきが言った。
「ゆかりちゃんの場合は、むしろ教育が進みすぎて、自分で抜け道を深すとこが問題なの」
一同は苦笑した。
「流行追ったり受験したりで鍛《きた》えられてるからなあ。日本の女子高生が本気になりゃ、宇宙船のマニュアルなんかあっというまに丸暗記しちまう」と、那須田。
「マツリちゃんにしてもドリアンを一個まるごと隠《かく》すからあなどれないわ」
「あれ、どうやったんですか? 打ち上げ前にチェックしたはずですが」
向井が聞いた。打ち上げの時、彼は射点《しゃてん》まわりの責任者をつとめる。
「一種の催眠術《さいみんじゅつ》らしいんだけどね。最終チェックをする作業員をトランス状態にして、ドリアンを見逃《みのが》すよう仕向けたんだと思う」
「できるんですか、そんなこと」
「としか思えないわ。タリホ族一万年の精神文明ね」
さつきはすでに、作業員を調べていた。こちらも催眠法を使って、打ち上げ直前に何があったのかを聞き出そうとしたのだが――結局、はっきりした答えは得られていない。
「だけど、それができるんなら銀行|強盗《ごうとう》だって思いのままじゃないですか」
「できてもやらないところがタリホ族の偉大《いだい》さなのよ。今後は打ち上げ直前にマツリちゃんを出歩かないようにするつもりだけど」
「マツリちゃんを軟禁《なんきん》する係が催眠術にかかったらどうします?」
「…………」
「まあ、そのへんは二人を信じるってことにしょう」
那須田が言った。
「ドリアンに実害はなかったし、ゆかりも今回は危ないと思って燃料を捨ててるんだ。シーケンサーの誤動作《ごどうさ》について話し合おうじゃないか」
「誤動作っていうと、まるであそこが故障《こしょう》したように聞こえますが――」
向井がこだわりをみせる。
「起動スイッチの保護カバーを開いたところで金魚のほうのトラブルシュートにかかって、そのとき体が触れてスイッチが入ったんです。ゆかりちゃん本人がそう言ってますし、テレメトリの記録も一致します」
「つまり操縦ミスか」
「無理もないところですがね。今回はタイミングが悪すぎた」
木下が言う。
「ゆかりが訴《うった》えたのは、一人二役は無理だってことです。正しくは二人二役ですか。操縦は二人でチェックしながらやる手順になってるから、そこへ宇宙実験が割り込んでくると大混乱になる」
「やはり三人はほしいか……」
那須田が腕組みする。
実際、NASAのスペースシャトルではMS(ミッション・スペシャリスト)やPS(ペイロード・スペシャリスト)が乗っていて役割|分担《ぶんたん》している。
「三人乗リオービターの開発は順調かね?」
「まったく問題ありません。基本的にMOB2の貨物ロッカーに席をひとつ押し込むだけですから」
「問題は、MSもゆかり・マツリ並《な》みに小柄《こがら》でないと無理ってことですけどね」
「そうだな。たった五十センチの隙間《すきま》に押し込むんだからなあ……」
ACT・2
「だーからさ、ディスコのひとつも作ればいいんだよ」
昼休み。海岸の椰子《やし》の木陰《こかげ》でココナツミルクをすすりながら、ゆかりは言った。
「ほい、ディスコってなに?」
「若い連中が集まって踊《おど》ったり飲んだりするところ」
「シンシンと同じだね」
「シンシン?」
「Sing Singでシンシン。みんなで歌って踊って、男はいい女を選ぶ。女はいい男に選ばれるように、体を飾《かざ》って胸や腰をふりまわすね。楽しいよお」
「……まあ、似《に》たようなもんかな」
どうせ広場で輪になって太鼓《たいこ》でも叩《たた》くのだろうと思いつつ、ゆかりは相づちを打った。
「とにかく、日本の女子高生を島に呼びたいんなら、ディスコのひとつもなきゃだめなのよ。こないだ横浜で見たでしょ。ブティックやアクセサリーショップやファーストフードの店とかもさ。それがこーんな――」
ゆかりの視線は前方百八十度をパンした。
椰子の木。白砂《はくさ》。珊瑚礁《さんごしょう》。南太平洋。
「――まあすてき、なんて思うのは初日だけよ。ここなら当分|面白《おもしろ》おかしく遊べるって思えなきゃ、誰《だれ》も残らないって」
「でもゆかりは、ここにいるね」
「あたしゃ帰るとこないもん」
「ほい?」
「退学《たいがく》になったから」
「ほー」
わかったようなわからないような顔をしている。
それから、たき火の横からカサゴに似た魚の丸焼きを引き抜いた。
「うまく焼けたよ」
「ん」
ゆかりは魚に一口かぶりつき、マツリにまわした。
慣れればそうひどい味じゃないんだけど――ああ、元町のピザが懐《なつ》かしい。
ゆかりは左手首のオメガ・スピードマスターを見た。昼休みもそろそろ終わりだ。
「さーて、ぼちぼち帰るか」
ゆかりは水着の上にパーカーをはおると、トランシーバーのトークボタンを押した。
「もしもーし、保安部? お迎《むか》えよろしくー」
『了解《りょうかい》しました。ただちに向かいます』
しばらくすると、ジープを縦横二倍にしたような、ハマー軽トラックが現れた。
保安部のパトロールカーを足がわりに使うのは、宇宙飛行士の特権だった。
なにしろSSAの未来を担《にな》っているので、かなりの所業《しょぎょう》が黙認《もくにん》されている。適当な口実があれば、ヘリで島の反対側にある中華街《ちゅうかがい》に繰《く》り出したり、ジェット連絡《れんらく》機ガルフストリームでオーストラリアに買物に出たりもする。日本でこんなことをしたら非難ごうごうだろうが、ここではマスコミがいない限り、ばれようがない。
ばれなきゃいいじゃん――この倫理観を、基地の人々はソロモン病と呼んでいた。
最初は唖然《あぜん》としたゆかりも、いつしかソロモン病に感染《かんせん》していた。
かかってみれば、これも悪くない。
二人を乗せたハマーは発射台の横を通り、VAB(ロケット組み立て棟《とう》)に通じる二キロの直線道路を走った。
珊瑚《さんご》の破片をまぜた白っぽい舖装路《ほそうろ》は、陽炎《かげろう》に揺れていた。
道の両側には椰子《やし》の木が並び、ポップアートのような眺めだが人影《ひとかげ》は皆無《かいむ》だった。
車載《しゃさい》無線機が運転手を呼んだ。
『五号車、五号車、いまどちらですか』
「VAB横です、どうぞ」
『それでしたら正門に寄ってもらえますか。訪問者《ほうもんしゃ》一名、座り込んでますんで』
「了〜解」
保安部員はマイクを戻すと、ゆかりたちに言った。
「つーわけで、ちょっと寄り道させていただきますんで」
「いいよ。でも座《すわ》り込んでるってなんだろね」
「タロ芋《いも》の行商人《ぎょうしょうにん》ですかね?」
「かな?」
紅白《こうはく》に塗《ぬ》り分けた遮断機《しゃだんき》が見えてきた。右手に守衛所と、フタバガキの木立がある。
その木陰《こかげ》に人影が二つ。
一人は守衛で、もう一人は――これが訪問者なのだろう――ぺたりと地面にすわりこんでいた。薄手《うすで》のジャンパースカートが地面にひろがり、白い肩の間にがくりと首を垂れている。顔はつば広の帽子に隠《かく》れて見えない。
車が止まると、守衛がやってきて言った。
「女の子なんですがね。さっきタクシーで着いたんですよ」
”タクシー”にアクセントをおいて言う。
「車酔《くるまよ》いというか、なんというか――運転手の話じゃ、サンチャゴの港に着いた時点で、すでに船酔いで半死《はんし》半生《はんしょう》だったそうですが」
一般人《いっぱんじん》がここを訪《おとず》れる場合、ガダルカナル島から三日に一度のおんぼろフェリーに乗り、島にひとつの街、サンチャゴの港で下船する。そこから、これまた島に一台限りのタクシーに乗って山越えのダートロードを二十キロ揺られる。ハマーのような路外《ろがい》走行車ならともかく、スクラップのダットサンを再生した「車検《しゃけん》? 何それ」のタクシーでは悪夢《あくむ》のような旅になる。
保安部員が降りて、娘《むすめ》の前にかがみ込んだ。
帽子がゆれ、訪問者が顔を上げた。
ゆかりは車をとびだした。
「茜《あかね》! なな、なんでまたっ!」
三浦《あうら》茜はゆかりを認めると、笑顔といえなくもない顔になって、声を絞《しぼ》り出した。
「……来ちゃいました」
「来ちゃいましたって」
茜はあえぎながら言った。
「私……宇宙飛行士……やってみようって……」
「本気……?」
「学校、やめてきました……もう、帰るとこ……ないんです」
そう言って、こっくりと首を垂れた。
ACT・3
医務室に運んだら、いきなり人体実験が始まるかもしれない。
そんな予感がしたので、ゆかりはまず、茜を女子|寮《りょう》の自分の部屋に運んだ。
ベッドに横たえ、水を与えて休ませると、茜はどうにか人心地《ひとごこち》を取り戻したようだった。
頃合《ころあ》いをみて。ゆかりは声をかけた。
「生きてる?」
「……ええ」
茜はゆっくりと上体を起こした。
ゆかりとマツリはベッドの横に椅子《いす》を持ってきて座《すわ》った。
タピオカ入りのココナツミルクをすすめてみるが、茜は口をつけようとしなかった。
まだ胃がひっくり返ったままらしい。
「驚《おどろ》いちゃったよ。いきなり来るんだもん」
「ごめんなさい、電話したら断られそうな気がして」
「あやまることないよ。うれしいよ、とっても」
「ほんとに?」
「ほんと。あたしさ、誘《さそ》ったのって初めてなんだ」
「宇宙飛行士に?」
「うん。なんで誘ったのか自分でもわかんないけど、応《こた》えてくれてうれしいよ」
「よかった……」
茜の白い顔に笑みがひろがった。春の陽射《ひざ》しのようだった。
「でも――学校やめたって……?」
「ええ」
茜は、校長室での出来事を話した。
ゆかりは最初、「しまった、やはり叱《しか》られたか」と思ったが、話を聞くうちに自分でも腹が立ってきた。
「校則で無断外出は禁じられている、の一点張りなんです。金魚のこと、どうでもいいみたいに言われたのが悔《くや》しくて」
「そーよ、あそこはいつもそーなのよ!」
「金魚を救ったことで学術研究に貢献《こうけん》したはずなのに、うわべばかり見て、不良の仲間入りみたいに扱うのっておかしいですよね。教師なのに」
「そんな教師、蹴飛《けと》ばしてやればいいんだ!」
「それで私、思い切って言ってみたんです」
「おっ、タンカ切った!?」
「外の世界に出て、何を学ぶべきか考えてみます、って」
「…………」
優等生は違う。
「切れるって、ああいう状態なんでしょうね。自分でも驚いちゃった」
切れたわりには理性的な気がするが――
「でも、親とか反対しなかった?」
「ううん、猛《もう》反対だったの」
茜はぺろりと舌を出した。あっ、かわいい、とゆかりは思った。
「でも、三日間部屋にこもってハンストしたら『一年間だけ許そう。病気で一年入院したんだと思えば、考えられないこともない』って、父が」
「へえ……」
「一年後にどうするか、わからないし、一年で何が学べるかもわからないけど」
「大丈夫《だいじょうぶ》、時間はいくらでも延びるよ」
それまで黙《だま》ってにこにこしていたマツリが、いきなり口をはさんだ。
「ゆかりも最初は半年のつもりだったよ」
「あのねえ」
「当面の問題は、採用されるかどうかなんですけど……」
「茜なら二つ返事でOKに決まってるよ」
「でも私、体弱いし……」
「まかせて!」
ゆかりは茜の両手を握《にぎ》った。
「なにがあっても不合格になんかさせない。あたしが必ず宇宙につれてったげる!」
「ゆかりさん……」
茜は目をうるませた。
「ゆかり、でいいよ」
「ありがとう、ゆかり」
「女の約束だかんね。ま、どーんとまかして」
茜はこっくりうなずき、
「それであの、宇宙飛行士に志願するのって、どうすれば……」
「決まった手続きはないけど。所長んとこ行くのが近道かな。立てる?」
「ええ……」
茜はふらつきながらも、ベッドを出た。
ゆかりは内線電話で所長室にかけた。
「ゆかりです。志願者が来てるんですけど。例の、金魚を救った天才少女です……はい、わかりました」
受話器を置くと、ゆかりは言った。
「すぐ来てくれって」
茜はさっと顔をひきしめた。
那須田の所長室は、ネリ女の校長室とは大違いだった。
奢侈《しゃし》なものはいっさいなく、書類の山積したスチールデスクとホワイトボード、書棚、貧相な応接セットがあるだけ。壁《かべ》にロケットの写真が並んでいることを除《のぞ》けば、中小|企業《きぎょう》の社長室と変わらない。
机の向こうに一組の男女がいた。
男は六十代。頭頂部を残してきれいに禿げているが、眉《まゆ》は精力的な黒。丸い銀縁《ぎんぶち》眼鏡の下には、野心的な眼が光っている。
女はまだ三十前後。豊かな黒髪《くろかみ》。はだけた白衣と、ミニのタイトスカート。赤いハイヒール。
してみると、ワンマン社長と膝乗《ひざの》り秘書、という風に見えなくもないが――
「よく来てくれた。所長の那須田だ。こちらは医学主任の旭川さつき君。宇宙飛行士の身体訓練や健康管理を担当している」
「三浦茜です。宇宙飛行士を志願して来ました。よろしくお願いします」
茜は髪をなびかせて、深々とお辞儀《じぎ》した。
「ゆかり君から話は聞いてるよ。見事な手際《てぎわ》だったそうじゃないか」
「それほどでも……あっでも、宇宙飛行士になれたら、きっとお役に立てると思います」
「うむ」
那須田はさつきに目配《めくば》せした。
さつきは那須田に顔を寄せて、耳元でささやいた。
「体重は三十六キロ」
「サイズは?」
「身長百五十三センチ、スリーサイズは上から七十四、五十二、七十五」
「文句なしだな」
「即断《そくだん》はしないでください。体力面で不安があります」
「わかった」
一瞥《いちべつ》しただけで体重体格、健康状態をびたりと言い当てるのがさつきの特技だった。
那須田は茜に言った。
「茜君、よく来てくれた。今日は疲れているだろうから、審査は明日からにしよう」
「はい」
「以後はさつき君が面倒をみてくれる。医学検査はちょっとハードかもしれないが、辛抱《しんぼう》してくれ。当面はゲストハウスで寝泊《ねと》まりしてもらおう。ゲストハウスといっても、殺風景《さっぷうけい》な部屋だが――それでいいかね?」
「はい」
茜はさつきにも挨拶《あいさつ》した。
「明日からよろしくお願いします」
「よろしくね、茜ちゃん♪」
さつきは艶然《えんぜん》とした笑みをうかべた。
……二つ返事で採用ってわけじゃないのか、とゆかりは思った。
自分やマツリのときはそうだったのだが。
大丈夫かな?
茜が不採用になったら、ちょっと困るな……。
ACT・4
本部|棟《とう》に平行して並ぶ、鉄筋三階建てのビル、宇宙飛行士訓練センター。
翌日、茜は朝からここにこもりきりだった。
医学検査が始まるとすぐ、茜は旭川さつきがセンターの女王様であることを悟《さと》った。
身長、体重、胸囲、座高、握力《あくりょく》、視力、色覚、聴力、肺活量――
ここまではまあ、普通《ふつう》の身体検査だったのだが。
それから茜は、ブラとパンティというあられもない姿で、口に呼吸マスク、金身に筋電位センサーを貼《ば》り付けられ、エルゴメーターを漕《こ》がされた。自転車のような装置《そうち》である。
最初の十分で息が切れ、三十分|経《た》った時にはめまいがしてハンドルにうずくまった。
「どうしたの? もうギブアップ?」
さつきが悲しげな顔で覗《のぞ》き込む。
茜は焦《あせ》った。女医の顔には失望感がありありと浮かんでいる。
「い、いえ……大丈夫……です」
「そう? ほんとに大丈夫?」
「ええ、もう、大丈夫です」
「ほんとにほんとに大丈夫?」
「はい、もう完壁《かんぺき》に大丈夫です」無理に笑ってみせる。
「ようし! そうこなくっちゃ!」
一転、さつきは目を細めた。
「じゃあ次は減圧チャンバーいってみようか」
さつきは嬉々《きき》として別室に茜を連れ込んだ。
それは人が立って歩けるほどの円筒《えんとう》形の容器で、肉厚《にくあつ》のステンレス合金でできていた。
「これは気圧をいろいろ設定して、人体の適応能力をテストする装置《そうち》なの。中に座《すわ》ってインカムで通話する。だめだと思ったらそう言って。デッドマン・スイッチもあるからね。でも、できるだけ我慢《がまん》しないと宇宙飛行士にはなれないわよ」
デッドマン・スイッチは右手に遅《にぎ》り、終始押したままにする。もし意識を失えば、スイッチが開いてそれが知れる。
茜はチャンバーに入り、椅子《いす》に腰かけた。
「それじゃ、がんばってね」
「はい」
分厚いハッチが閉じた。丸窓の外に、機械を操作するさつきが見える。
嬉《うれ》しそうだ……。
茜は昨夜、ゆかりたちから聞かされた話を思い出した。
「あの人、|佐渡ケ島《さどがしま》だかんね」
ゆかりはのっけから、そう言ったのだった。
「あたしは陸上部だったし、マツリはジャングル育ちだから、どうにか乗り切ったけどさ」
「……??」
「そんなあたしでも、五、六回気絶したもん」
茜はまだ、話が見えない。
「その、医学検査ですよね?」
「建前《たてまえ》はね」
「ちがうんですか?」
「人体実験よ。こっちがどこまで耐《た》えるか試すの」
「……はあ」
「耐えれば耐えるほどエスカレートするからね、さつきさんて人は」
「具体的にはどんなことを……?」
ゆかりはさまざまな検査《けんさ》項目を、克明《こくめい》に説明した。
茜の顔から血の気がひいてゆく。
「それ……検査ごとに合格ラインってわかるんですか?」
「教えないのよ、それが。絶対教えない」
「それじゃ対策《たいさく》のとりようがないわ!」
茜は初めて狼狽《ろうばい》を見せた。
およそ筆記試験というものには腕《うで》におぼえのある茜だが、配点もわからずに受験したことはない。ましてや体力テストである。
「心理テストって一面もあるのかな。ねえ、マツリ?」
「そうだね。試験するときのさつきさんは、仮面つけたみたいだよ」
「仮面……?」
「心配することはないよ、茜」
マツリは言った。
「嘘《うそ》をついてもわかってしまう。ありのままにやればいいね」
「はあ……」
「そうね。さつきさんの顔色気にして動揺するよりは、そのほうがましかな」
「そうですか……」
「あたしたちとしては、他《ほか》にできることってないのよねえ」
「そだねー」
「……なんとか、耐えてみます」
真空ボンプだろうか、ブルブルいう音が響《ひび》いてくる。
耳が痛くなってきた。
茜はごくりと唾《つば》をのみこんで、耳抜きした。
落ち着け、落ち着け。
『気分はどう?』
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
昨夜聞いた話とは、ちょっと連うな、と茜は思った。
さつきの表情は仮面のようではない。むしろ、こちらの状態に一喜一憂しているようだ。
これは何を意味するのだろう?
『気圧は高度に反比例するわよね。いま標高二千メートルまで行ったとこ。いったん地上の気圧に戻して、こんどは五千まで行くからね』
「わかりました」
気圧が戻り、ふたたび減圧に入った。
茜は何度も耳抜きして、追従した。
耳から出血する人もいるが、耳抜きさえできれば大丈夫、とゆかりは言っていた。
『質問。アララト山の標高は?』
「ご……五千百二十三メートルです」
『さすが優等生ね。いまその頂上にいるわ。気分はどう?』
少レ前から頭痛が始まっていた。痛みは刻々《こっこく》と強くなっている。
「えと……大丈夫です」
『ほんとに?』
「ほんとに大丈夫です」
『無理してない? ほんとにほんとに大丈夫?』
「絶対ほんとに大丈夫です」
『じゃあアンナプルナまで行ってみようか。それともやめる?』
ゆかりなら、迷わず挑発《ちょうはつ》と解釈しただろう。だが、茜はそうは思わなかった。
期待に、こたえなければ。
「……行きます」
ボンプの音が、ひときわ高まった。
標高八千……いくつだっけ?……八千九十一メートル?
猛烈《もうれつ》な頭痛とともに、思考力が低下してきた。呼吸が荒《あら》くなる。
ずいぶん長くかかったような気がした。
『到着〜♪ アンナプルナにようこそ』
さつきが告げた。
『そこで質問。自然|対数《たいすう》の底にもっとも近い平方根《へいほうこん》をもつ整数は?』
えっ……なに? 計算問題? 自然対数の底……?
鮒一鉢《ふなひとはち》二鉢で……2・71828……
八のルートが2・82……七が……ええと、七が……
茜は割れるような頭痛の下で、懸命に思考を集中しようとした。だが、ルート七がどうしても思い出せない。
……そうだ、eを二乗して右辺のルートを払えば……
ににんがし、しちしち……しちしち……しちしち……四十九……
「な……七です」
『さすが優等生。じゃあ、下山しようか』
ポンプの音がやんで、気圧が戻りはじめた。
『再突入《さいとつにゅう》したオービターの終端《しゅうたん》速度は時速二百キロになるの。そこで気密が破れたらどうなるか――いま茜ちゃんはそれを経験してるわけ。時間をかけて慣らす登山家よりずっと悪条件よ』
ふたたび、懸命に耳抜きする。もう意識してやらないと、耳が痛いのか頭が痛いのかわからない。
気圧が地上に戻り、ハッチが開いた。
頭痛はまだやまない。
茜はよろよろと外に出たが、すぐ四つんばいになって嘔吐感《おうとかん》にむせんだ。
涙でにじんだ視野に、赤いエナメルのハイヒールがあった。
「あらあら……どうしたの? もうギブアップ?」
見上げると、また、あの悲しげな顔があった。
失望のまなざし。
自分は、期待に応《こた》えられなかったのだろうか。
「い、いえ……大丈夫……です」
「そう? ほんとに大丈夫? 真っ青よ?」
「ええ、もう、大丈夫です」
「ほんとにほんとに大丈夫?」
「はい、もう完壁《かんぺき》に大丈夫です」
茜は最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》って、笑顔を作った。
「ようし! そうこなくっちゃ!」
さつきはにっこり笑った。
「じゃあ次は、遼心機いってみようか。うふふ♪」
ACT・5
「ゆかりちゃん?……ゆかりちゃーん? 聞いてる?」
名を呼ばれて、ゆかりは我に返った。
「あ……めんごめんご」
VABの一角、オービターのクリーンルーム。
「改修|箇所《かしょ》はしっかり把握《はあく》しとかないと、上で困るよ」
説明しているのはチーフエンジニアの向井。
「うちは”人を乗せる以上はこき使う”って方針で、搭載装置《とうさいそうち》の冗長性《じょうちょうせい》は極力|抑《おさ》えてあるんだ。メインが壊《こわ》れた、サブも止まったとなれば、君たちがその場で修理しなきゃだめなんだからね」
「わかってますって」
「なにか心配事でもあるの?」
「うん――まあ、ちょっとね」
「向井さん、ゆかりは茜の検査を心配してるんだよ」
マツリが言った。
「検査って、さつきさんがやってる?」
「うん」
「そうか……それでかあ」向井は合点した。
「それでって?」
かすかな違和感《いわかん》を感じて、ゆかりは聞いた。
「いやね、どうもさっきから工場の電源《でんげん》電圧が安定しなくて、変だなと思ってたんだ」
「電源電圧?」
「どこかでとてつもなく電力を大食いしてるはずなんだけど、このVAB内じゃないんだ」
「……というと?」
「さつきさんの遠心機さ。あれってフルパワーで運転すると、小さな都市|並《な》みにワット数食うから」
「ふっ、フルパワーで遠心機を!?」
ゆかりの脳裏に、いまわしい記憶《きおく》がよみがえった。
遠心機というのは、一人乗りのメリーゴーランドのような装置である。
人を乗せる部分は木馬《もくば》ではなく、密閉式の箱になっている。箱の姿勢は自由に変えられるので、中の人間はあらゆる方向に遠心力をうける。
宇宙飛行士を引き受けてまもない頃、ゆかりはこの装置で徹底《てってい》的にしごかれた。
はじめての時は、胸から背中にかかる九Gで呼吸困難に陥《おちい》り、気絶した。
だが、この方向ならまだいい。
頭から足に向けてのGは、その数倍こたえる。
さつきはなんの前触《まえぶ》れもなしにGの向きを変えて、ゆかりをもみくちゃにした。内臓が転げまわり、何度も気絶し、嘔吐《おうと》した。関節を脱臼《だっきゅう》しかけたこともある。
Gの大きさは、装置の回転速度を変えることで最大三十まで設定できる。その場合、四十キロの体重は三十倍、つまり千二百キロになる。この荷重だと、たいていの人間は短時間で死亡する。
そして今――かよわい茜が、フルパワーでぶん回されている……。
ゆかりは顔面蒼白《がんめんそうはく》になった。
「む、向井さん、悪いけど、ちょっち中座していいかな!」
「だけど――」
言いかけて、向井はため息をついた。この様子では、とても無理だろう。
若い向井は、飛行士たちのわがままに弱かった。
「……いいよ。行ってくれば」
ゆかりはクリーンルームを出て作業服を脱《ぬ》ぎ捨てると、訓練センターにダッシュした。
正面玄関に入った時から、もう作動音が響《ひび》いていた。
装置は地下にある。
ゆかりは階段を二段ぬきで駆《か》けおりた。
遠心機室のドアを開け、管制室にとびこむなり、ゆかりは怒鳴《どな》った。
「機械とめて! 茜にいきなりフルパワーなんて無茶よっ!」
「え?」
白衣の背中を見せていたさつきがふり返った。
「誰も乗ってないわよ。久しぶりに使うから、ウォームアップしてるだけ」
「……なんだ」
ゆかりはどっとため息をついた。
しかし、勢いはすぐに衰《おとろ》えなかった。
「茜は?」
「ちょっと休憩《きゅうけい》させてる。もうじき来るわ」
「成績、どうなの?」
「うん、思ったよりついてくるわね」
「ほんと!?」
つい口元がゆるんでしまう。
「うん。あとはこの遠心機のテストをクリアすれば、まず合格かな」
ゆるんだ口元が、また引き締《し》まった。
「それ……何Gまでやるつもりなの?」
「始めてみなきゃ、わかんないわね。そのためのテストなんだし」
「あたしん時は気絶するまでやったよね。いきなり九Gもかけて。今度もそうする気?」
「だからやってみなきゃわかんないって」
「気絶するまでやるのかってこと!」
さつきは首をかしげた。
「どうしたの? なんでそうむきになるの」
「だから……オービターだって二人乗りになったし、打ち上げだって前は十Gかかったけど今は八Gでしょ。だから……あんまリシビアにテストすることないと思って」
「ロケットの運用と適性検査は別よ。この子が何Gまで耐《た》えられるか把握《はあく》しないと、適性もわからないし訓練スケジュールだって立たないでしょ?」
「そりゃ……そうかもしれないけど」
ゆかりは言いよどんだ。
「ゆかりちゃん。こう見えてもあたしは医学博士よ? 乱暴するように見えても、ちゃあんと紙一重《かみひとえ》で止めるからさ」
「だからっ! なんで紙一重までやるかってー」
そのとき、トレーニングシャツを着た茜が入ってきた。顔はげっそりとやつれ、引きずるように歩いている。
「あ……ゆかりさん。どうかしたんですか」
「談判《だんぱん》してんのよ。検査と称《しょう》してしごくのやめろって」
「そんな、いいんです。私、できる限りのことしますから。きちんとテスト受けますから」
「あんたはその気でもね、挑発《ちょうはつ》に乗ってずるずるやってたら何されるかわかったもんじゃないのよ、この人のばやい。人体実験が趣味《しゅみ》なんだから!」
「えらい言われようだこと……」
「八Gよ!」
ゆかりはさつきにつきつけた。
「先任宇宙飛行士として意見するわ。今回は胸から背中へ八Gまで!」
「たった八G?」
「そう。いまのブースターならこれに耐《た》えれば十分だもん!」
そう言って、さつきをにらみつける。
さつきも顎《あご》を引いて、頭ひとつ低いゆかりをにらみ返した。
しばらくにらみ合ってから、さつきが折れた。
「なんでも言いなりになるとは思ってほしくないんだけど――まあいいわ。今回はそうしとこうか」
さつきはコンソールを操作して、遠心機を止めた。
「じゃあゆかりちゃん、茜ちゃんをケージに乗せてくれる?」
ゆかりは黙《だま》って応じた。
「行こ、茜。歩ける?」
「ええ……」
ゆかりは茜に肩を貸して、管制室を出た。階段を降りると、円形のプールのような空間があって、遠心機はその中央に鎮座《ちんざ》している。
末端《まったん》にあるケージのドアを開き、中に茜を座《すわ》らせる。
上半身を四点式ハーネスで固定し、さらに腰と膝《ひざ》、脛《すね》も縛《しば》りつける。
「ちょっときつめだけど、我慢《がまん》してね」
「はい」
ゆかりは念入りに点検《てんけん》した。高G下では椅子《いす》から落ちただけでも骨折するのだ。
「正面にボタンがあるでしょ。点灯《てんとう》したのを押すように指示されるから」
「ええ」
「四G越《こ》えると腕上げるだけでもきついけど、腹式呼吸してれば意識はもつから」
「はい」
「がんばってね。さつきの奴《やつ》さ、茜のこと成績いいって言ってたよ」
「ほんとですか!?」
「うん。これさえクリアすれば合格だって」
「私、がんばります、ゆかりさん」
「ゆかりでいいったら」
「ゆかり、ありがとう」
「うん。じゃあ、上で見てるから」
ケージのドアを閉めると、ゆかりは管制室に戻った。
さつきはインカムで茜に話しかけた。
「茜ちゃん、聞こえる?」
『よく聞こえます』
「ボタン操作のことは聞いた?」
『点灯したのを押すんですね』
「そうそう。高重力下での判断力と操作能力を試すの。じゃ、はじめるよ」
回転面クリア、装置始動……と唱《とな》えながら、さつきはスイッチを入れていった。
遠心機が回転しはじめる。
さつきはコンソールのG表示を読み上げた。
「二G。気分は?」
『だ……大丈夫です……』
ゆかりは女医の顔をうかがった。
さつきは無表情だった。
マニキュアの指で、回転数設定ダイヤルをじわじわと回してゆく。
「三G。どうしたの、ボタン操作遅いわよ」
『はあっ……はい……』
茜の声は苦しそうだった。
ゆかりは拳《こぶし》に力をこめた。
がんばれ。三Gじゃスボーツカーの加速だぞ。
ロケットは八Gだぞ。
たのむ茜、八Gまで耐《た》えてくれ。
「四G。そろそろ本番よ。気分はどう?」
返事がない。
「茜ちゃん? どうしたの?」
茜は答えなかった。
どうした茜?
「インカムの故障《こしょう》かしら」
さつきは停止ボタンを押した。
遠心機が止まると、ゆかりとさつきはケージに駆《か》け寄った。
ドアを開けて、中を覗《のぞ》き込む。
「…………」
「…………」
二人は黙って顔を見合わせた。
茜は気絶していた。
たった四Gで。
ACT・6
「だからさ、あたしにあやまることないって」
「すみません……」
茜はぐったりとベッドに横たわり、うつろなまなざしを天井《てんじょう》に向けていた。
胸にはテディベァのぬいぐるみを抱《だ》いている。茜が日本から持ってきたものだった。
ベッドの横にはゆかりとマツリが、病人を見舞《みま》うように腰掛けている。
「……やっぱり、無理ですよね。四Gで気絶してるんじゃ、私なんか、とても」
「それは、今後の訓練しだいじゃないかと……」
「でも採用されなきゃ訓練もないでしょうし……ゆかりさんは九Gまで耐えたんですよね」
「……まあね」
「マツリさんは……?」
「ほい、最初は十七Gだったよ」
「…………」
茜は壁に顔をむけた。
「あ、マツリは特別よ。叩《たた》いても死なない女ターザンなんだから」
「でも、ゆかりさん――」
「ゆかりでいいって」
「ゆかり――打ち上げのたびに気絶する子と、いっしょに飛ぶ気になる?」
「そ、それは……」
一瞬《いっしゅん》、間ができてしまった。ゆかりは急いで続けた。
「平気平気。打ち上げ中は特にやることないし、最初は一人で飛んだんだもん。上に着いたら起こしてあげるだけでしょ。楽勝だって」
「……いいの。無理しなくても……」
消え入りそうな声。
ゆかりはいたたまれなくなった。
「マツリさ、なんかこう、ぱーっと元気の出る魔法《まほう》ってないの?」
「寝ることだよ」
マツリは言った。
「茜、今日はぐっすり寝よう。疲《つか》れたから、よく眠れるよ」
「ええ……」
「じゃあ、今夜はお開きにするか」
ゆかりはほっとした思いで、立ち上がった。
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
ACT・7
「体格と感覚器官には問題ありません。性格は温厚《おんこう》にして従順で、責任感が旺盛《おうせい》。知能も優秀で集中力があります。体力も思ったよりありました。ただ問題なのは耐《たい》G特性です」
翌日の幹部会議で、旭川さつきは報告した。
「耐G特性か。致命《ちめい》的かね?」那須田がたずねる。
「四Gかけたとたんに気絶しました。あれではジェットコースターにも乗れません」
「なんと……四Gかあ……」
「学力は最高なんですがね」
木下が面接の印象を語った。
「いや――学力というより理解力かな。選りすぐりの引っかけ問題をいくつか出してみたが、どれも正解だった。現象の本質を見抜き、理解して演繹《えんえき》する能力があるんだな」
「でも、四Gじゃね」
さつきが言った。
「打ち上げと再突入《さいとつにゅう》のたびに少なくとも八Gの荷重がかかります。たかだか四Gで気絶するんじゃ、いじめがいが――いえ、飛行任務の遂行は不可能です」
「訓練しだいでなんとかならないかね?」
さつきは首を横に振《ふ》った。
「八Gで気絶しなきゃいいってわけじゃないんです。八Gのもとで状況《じょうきょう》を判断し、緊急《きんきゅう》操作を実行できなければ。意識を保つだけなら、せめて十Gは耐《た》えてくれないと」
「うーむ……」
那須田は聡《うな》った。
「念を押すが、可能性はゼロかね?」
「ゼロというわけではありませんが……?」
さつきはいぶかしげな顔で見返した。
「ゆかりも訴《うった》えているが、軌道《きどう》上での分業体制を確立したいんだ。NASAの信用を得られないのも、この点が大きい。さらにだ――」
那須田は書類入れから一枚のカラーコピーを取り出し、皆に見せた。
ブロンドやブルネットの娘が五人、ずらりと並んでポーズをとっている写真だった。
「昨日付けのCNESホームページだ。アリアン・スペース社の子会社で、アリアン・クーリエというのがフランスで旗揚《はたあげ》げした。商業飛行はまだ先だが――小型オービターに小柄《こがら》な飛行士を乗せて、衛星修理などのサービスを行なうというんだ」
「まんま、うちの真似《まね》じゃないですか!」向井があきれ顔で言った。
「ライバル登場というわけさ。まさかここまで開き直るとは思わなかった。ロケットは有人|仕様《しよう》に改造したアリアン4を使うらしい」
「宇宙服はどうなんです? スキンタイト服があるんですか?」
「まだないとみている。この写真はただのレオタードだろう。だがアイドル性はかなりのもんじゃないかね、木下君」
「そうですね。うちの二人にしても、ゆかりはあの歳《とし》でAV女優ばりのナイスバディですし、マツリは往年のアグネス・ラムの再来ともいわれて、世界を前にしても見劣《みおと》りするものではないんですが――」
木下の専門知識は多岐《たき》にわたるが、なぜか少女アイドルについても通暁《つうぎょう》している。
もっとも、これはSSAの経営戦略上の要請《ようせい》でもあった。
かつての宇宙飛行士は国家の威信《いしん》を背負ったが、現在ではスポンサーである国民の理解を得るために利用されている。ことにSSAのような野心的な事業は、ゆかり・マツリの人気があってこそ生き長らえたといっても過言ではない。事実――知らないうちに巨額の税金が投入されていたことへの反発は、愛らしい二人の活躍《かつやく》によってたちまちうやむやになったのだった。
「――しかし、フランス娘五人の前には、いささかパワー負けの感もありますね。いろんな意味で」
「その通り。ルックスはともかく、最大の問題はすでに五人|揃《そろ》えてるってことなんだ」
那須田は言った。
「正副二チームとして、二人乗りなら四人、三人乗りなら六人は欲しい。それがたったの二人だ。これじゃNASAに信用されなくても仕方がない。誰か一人が風邪《かぜ》を引いただけで打ち上げ延期になるんじゃな」
「要するに、頭数だけでも揃えろとおっしゃりたい」
さつきが言った。
「本音を言えばだ。最悪――茜が気絶しても、もう一人が起こしてやればいい、と考えることもできる」
「私は反対です! 三人乗りがロールアウトしたとしても、多くの飛行は二人乗りになるでしょう。最もクリティカルな打ち上げと帰還《きかん》の間、事実上の単独飛行になるなんて、ますます信用を失います!」
「世間がそれを知れば、の話だ」
「所長!」
「まあまあ、さつき君ー」
「信用問題はごまかせても、安全がおびやかされることは変わりません!」
さつきはテーブルを叩《たた》いた。
「あの子たちが死ぬところを想像できますか? 安全とはつまり、そういうことですよ!」
「…………」
場内はひととき、水を打ったように静まった。
向井が沈黙《ちんもく》を破った。
「さつきさん、それは言いっこなしですよ……」
「なによ、それって」
「いまの言葉です。命がけってことは誰でもわかってるんです。絶対安全を望むなら、宇宙飛行なんかできません。宇宙ビジネスとの最艮の妥協点《だきょうてん》をみつけるために、みんな頑張《がんば》ってるんですよ」
「じゃあ向井君は、打ち上げ中に一人が気絶しててもいいっての?」
「そうは言いませんよ。でも打ち上げ中は二千個のセンサーと多数決処理のコンピューターが異常をチェックして、フルオートでオービターを分離脱出《ぶんりだっしゅつ》させる機構があるんです。もちろん基地からの遠隔《えんかく》操作もできます。それでもだめってときに初めてパイロットの操作が必要なわけで」
「そのわりには毎回はらはらさせられるじゃないの」
「すみません……。でも、たとえばブースターが突然|爆発《ばくはつ》したら、それはもう、どんな安全機構があっても、どんな優秀なパイロットがいてもおしまいなんです。それを恐《おそ》れるなら有人飛行なんてやれない。僕がエンジニアとしてやってられるのは、そういう最悪の事態は地上の努力で防げるって信じてるからですよ。事実、細かいトラブルは毎回あるけど、大事故は起きてないでしょう?」
「…………」
年下の実直な技術者からそう言われて、さつきは態度を改めた。
「わかったわ。死ぬとかって言ったのは悪かった。それは認めるけど、ヒューマンファクターの責任者としては、茜ちゃんの採用は認められない。この結論は動かないわ」
「こう考えることはできないかな」
木下が言った。
「確かに最大の危険は打ち上げと帰還《きかん》にあるんだが、それは全飛行時間の二パーセントにすぎない。軌道《きどう》飛行中にも結構な危険があるわけだ」
「だから?」
「とかく感情的になりがちなゆかりや、何をはじめるかわからないマツリのことを思えば、茜君のようなタイプは二人の補佐《ほさ》にうってつけじゃないかな。飛行時間の九十八パーセントについては、むしろ安全性が向上するともいえる」
「あなたも茜ちゃん派ってわけね」
木下は苦笑した。
「生理学は僕の専門外だが、あの子なら体力不足を知性でカバーできそうな気がしてね。そこで提案なんだが――リターンマッチとして総合的な能力を試すテストを実施して、それで決めるというのはどうかな?」
「総含能力のテストって?」
「つまりね――」
木下が説明すると、さつきは眉《まゆ》をひそめた。
「あの子に、あれ[#「あれ」に傍点]をやるの!?」
「そう。完全に単独、誰のサポートもなしだ」
「無理よ。体育会系のゆかりちゃんの時だって、マツリちゃんと出会わなかったらどうなってたことか」
「やってみなきゃわからんさ。もし合格したら、さつきさん、評価を改める?」
「まあ……再考してもいいけど」
「どうです、所長?」
「そうだな。それに望みをかけてみるか……」
それから、那須田は言った。
「だが、完全に単独でやらせるとなると、ひと工夫いるな」
ACT・8
「こんこん。茜、おっはよー」
「ほーい、茜、朝だよー」
この二日間、ゆかりとマツリは毎朝茜の部屋を訪《たず》ね、朝食をいっしょにとっていた。
いつもなら、茜はすでに身支度を整《ととの》えていて、すぐに出てくるのだが。
「ほい、気配がないね」
「茜? 開けるよ?」
ゆかりはノブをまわした。
錠《じょう》はおりていなかった。
中はもぬけの殻《から》だった。
スーツケースも、壁《かべ》にかかっていた上着《うわぎ》も、机の上の本も消えている。ベッドには寝た跡《あと》もない。
ゆかりは急いで外に出て、部屋番号を確認した。201号。間違いない。
二人はフロントに行った。
「ねえ、茜って、部屋移った?」
「あれ、知らなかったの? 三浦さんなら昨日出られましたよ」
寮母《りょうぼ》風のフロント係が言った。
「出たって……?」
「帰国するので、ルームの使用は今日まで――つまり昨日のことね――って通知があったんだけど?」
「そんな! 黙《だま》って帰るなんて――」
「あれあれ、仲良くしてたのに黙って帰っちゃったの、あの子?」
詮索《せんさく》するように言う。ゆかりは答えず、外に出た。
そのままずんずん歩いて、訓練センターに入る。階段を上がり、『宇宙生理学研究室』というプレートのかかったドアを、ノックもせずに開けた。
旭川さつきはトマトジュースとトーストの乗ったトレイを前に、片手で学会誌か何かを読んでいた。
「さつきさん」
「あらゆかりちゃん、おはよう」
「茜が帰国したって本当?」
「知らなかった? 昨日帰ったんだけど」
フロント係と同じことを言う。
「帰ったって、つまり不合格だったってこと?」
さつきは雑誌を置いて、さりげなく身構えた。
「そう。あなたも見たでしょ。四Gで気絶するんじゃ、ちょっと宇宙飛行士はつとまらないわね」
「だけど、訓練でなんとかならなかったの!」
「そんな恐《こわ》い顔しないでよ。適性|検査《けんさ》なんだから、その時点の能力で判断するしかないじゃない」
「そりゃそうだけど、学校やめてはるばる来たのに、あっさり不合格なんて――」
「あたしだっていい気待ちはしないわよ。だけどやる気があればいいってもんじゃないでしょ? それがあの子のためだし、ゆかりちゃんやマツリちゃんのためでもあるのよ。聞き分けてくれないかな」
「…………」
確かに、さつきに当たっても詮無《せんな》いことだった。
それはわかるのだが――
「だけど――だけど黙って帰るなんて……」
「合わす顔がなかったんじゃないかな」
「なんで」
「だから……推薦《すいせん》してくれたゆかりちゃんの顔に泥《どろ》を塗《ぬ》った、とか思って」
「そんなわけないよっ!」
ゆかりは怒鳴《どな》った。
「あたしが引っ張りこんだんだもん! 茜なら大丈夫《だいじょうぶ》、即《そく》採用だよって――あの子、それ素直に信じて、ここまで来たんだ! 悪いのはあたしで、あの子がすまなく思うことなんてこれっぽっちもないんだよ!」
唾が飛んで、トマトジュースに小さな波紋が立った。
「わかった、わかったからさ――」
さつきは両手で押し返すような仕種《しぐさ》をした。
「あたしが悪かったんだ」
声が変質していた。
「うん、それはわかった――」
「こんな子がいたら便利だって思って、それで誘《さそ》って」
「そのアプローチはちっとも間違ってないし――」
「ヘリに乗った時は、酔《よ》いもしなかったし気絶もしなかったし」
「乗り物酔いにはいろんな要因があってね」
「あの子の目、なんかきれいだったから、いっしょに宇宙へ行こうって思ったんだ」
「ゆかりちゃん」
「地球を見せたいって。きれいだから、とっても――」
「ゆかりちゃん、もういいから」
さつきは席を立って、ゆかりの側にまわった。
ハンカチを出して、涙を拭《ふ》く。
「なんで泣いてんだろ……変なの……」
「いいから座《ずわ》って。さ、座って」
肩をうながして、長椅子に並んで腰をおろす。
「その――今回はだめだったけど、再挑戦《さいちょうせん》する機会はあると思うわ。あの子、見かけよりずっとがんばり屋さんだから」
ゆかりは答えず、子供っぼく両手で眼をこすり、しばらく泣いていた。
さつきはもう何も言わず、見守っていた。
やがて、ゆかりは言った。
「さつきさん……」
「うん?」
「茜の電話番号、教えて」
「電話番号……?」
「家に電話して、謝《あやま》りたいから」
「でもさ、ゆかりちゃんが謝ることなんか」
「顔に泥塗ったなんて思わせたくないのっ!」
「わかった、わかったけど――」
さつきはあわてて言った。
「電話番号は……その、聞かなかったと思うわ、たしか」
「聞かなかったって、カルテとかに書かないの!?」
「ああ……それはつまり……採用が決まってからにしようと思って……」
「住所も?」
「そう、住所も」
「じゃ、一〇四で問い合わせるか……」
「あっ、あのさ、ゆかりちゃん。昨日の今日じゃまだアレだし、せめて一週間ぐらい待ったほうがいいんじゃないかな。電話するなら」
「なんで」
「お互い、心がしずまってからのほうがさ、言葉も素直に響《ひび》くと思うし」
「……そうかな」
「そうよ、絶対そう! 医学博士のあたしが言うんだから間違いないって!」
「……わかった。そうする」
ゆかりはこっくりうなずき、ぐずぐず鼻を鳴らしながら出ていった。
さつきは胸をなでおろした。
ACT・9
六日後、日曜日。
現在SSAでは毎月のようにロケットの打ち上げがあり、職員も飛行士も休日返上で準備することが多いのだが、この日はめずらしく、完全に休みだった。
マツリは朝から民族|衣装《いしょう》に身を包んでいた。包むといっても、肌《はだ》を覆《おお》うのは腰蓑《こしみの》と胸当てのみ、というビキニスタイルである。
そのかわリネックレスやブレスレット、アンクレットなど、装身具《そうしんぐ》は豊富につけている。
それには椰子《やし》やラタンの繊維《せんい》、貝や動物の牙など、天然素材が多く使われているが、基地でひろったボルトやワッシャー、サーマルブランケットの切《き》れ端《はし》なども活用している。装身具にはどれも呪術《じゅじゅつ》的な意味があるが、様式にはこだわらない。
タリホ族が普段からこのように盛装《せいそう》することはないが、マツリは一族の次期シャーマンとされているので特別だった。
マツリは右手に槍《やり》、左手に麻袋《あさぶくろ》を持って、すたすたと正門を通った。
「あー、マツリさん、どこ行くんです?」
守衛が呼び止めた。
「ほい、北の森へ行ってイリッペナッツをひろうよ。ドリアンもあるかもしれないね」
「いまジャングルは立ち入り禁止なんですよ」
「ほい、なんで?」
「保安部が実弾射撃演習してるもんですから」
「北の森でナッツの実がなるのは九年ぶりだよ。いま採《と》らないともったいないね」
「すみませんが、誰も立ち入り禁止って通達《つうたつ》なんで」
「ほい……」
マツリは守衛の前に歩み寄った。
黒い、猫のような瞳《ひとみ》が、相手の目を射抜いた。
それからマツリは、鼻にかかった声でなにかささやいた。
守衛の顔が弛緩《しかん》した。
「マツリに弾はあたらないよ」
「……マツリに弾はあたらない……」
「だから行っても大丈夫だね」
「だから行っても大丈夫……」
「オープン・ゲート」
「オープン……」
守衛はボタンを押し、遮断機《しゃだんき》を開いた。
マツリはにっと笑って、すたすたと外に出た。
ソロモン宇宙基地は島の東岸から数キロの平坦地《へいたんち》を開墾《かいこん》して造られている。
正門を出ると、未舗装《みほそう》の道路はすぐジャングルにのみこまれる。ジャングルは南西に向かってせりあがり、島の中央に走るシリバ山地と溶《と》けあう。
こうした熱帯のジャングルについては、多くの幻想《げんそう》的な誤解《ごかい》が蔓延《まんえん》している。
酷暑《こくしょ》、猛獣《もうじゅう》と大蛇、マラリア、人食い人種……。
確かにそこは蒸《む》し暑《あつ》いが、不快感は梅雨《つゆ》どきの日本と大差ない。
大型の動物はほとんど見られず、人食いの習慣は宣教師たちの努力で一掃《いっそう》されている。マラリアは予防接種を受けた健康人なら、さほど心配するにはあたらない。
密林では栄養と日照を奪《うば》い合う植物間の闘争が音もなく進行しているが、その主戦場は樹冠《じゅかん》にある。薄暗《うすぐら》い地上に、大きな植生はない。
とはいえ、このあたりの低地混交フタバガキ林を徒歩で渡るのは、一般《いっばん》の文明人にとって悪夢《あくむ》だった。
密林の底で、フタバガキの根元はミサイルのフィンのような板根《ばんこん》を四方に張り出している。折り重なった根やつる植物、小山のような倒木は草と苔《こけ》に覆《おお》われ、足場と視界をさらに悪くしている。
労力の大半は上下移動に費やされる。周囲の展望が得られないために、困難な障害を乗り越えてようやく、そこが行き止まりであるとわかることも多い。疲労《ひろう》がつのると、人はルートを探る努力も放棄《ほうき》してしまい、身動きもとれないまま衰弱《すいじゃく》してしまうのだった。
マツリはしばらく道を歩いてから、ひょいと密林の中に入った。
そして、それまでとまったく変わらないペースで、木々の間を進んだ。
音も立てず、枝もゆらさず、猫のような身のこなしで歩いてゆく。泳ぐといったほうがふさわしい。
正午近くになって、マツリはめざす森についた。
「ほーい……きれいだねー」
マツリは小さく歓声《かんせい》をあげた。
はるか高みにある樹冠から、たえまなく、何かがくるくると回りながら落ちてくる。
それは木漏《こも》れ日《び》をさえぎるたびに空中でちかりと光った。
足元に落ちたのは褐色《かっしょく》の種子で、バドミントンの羽根《はね》のような形をしていた。
マツリはかがみこんで、実をひろった。丸い果実だけをはずし、袋《ふくろ》に入れる。
実はそこらじゅうに落ちていた。マツリは無心にひろった。そうする間も、種子はあとからあとから落ちてきた。
イリッペナッツは脂《あぶら》をたっぷりふくんでいて、マツリの大好物《だいこうぶつ》だった。しかし、花が咲いて実がなるのは数年から十数年に一度だから、気をつけていないと食べそこねる。
タリホ族はこれを「ナッツの年」と呼んでいた。この年は、なぜか付近一帯の木がいっせいに開花するのだった。
前回のナッツの年はマツリが七歳のときで、その時のうれしさは忘れられない。あとでリスが大繁殖《だいはんしょく》して割りをくったが、それでも喜びが帳消《ちょうけ》しになることはなかった。
宇宙船で島の上を通過するときも、マツリはかかさず様子を観察した。開花は深緑の中の、かすかな淡色《たんしょく》でわかった。
麻《あさ》袋に半分ほど実をひろうと、マツリはそこを離《はな》れた。
まだ陽は高いから、尾根沿《おねぞ》いに少し登って、他の果実をさがそう。
もしかしたら、またドリアンにありつけるかもしれない。甘酸《あまず》っぱいミルクのにおいが案内してくれる。コウモリやオランウータンの足跡《あしあと》もヒントになる。
しかしドリアンはそうそうお目にかかれるものではない。
ジャックフルーツやイチジクや、赤いランプタンの実でもいいね、とマツリは思った。
どれでもいい。どれもおいしい。マツリはそれらを思い浮かべて、にんまりした。
ときどき立ち止まっては木を見上げた。果実をみつけると、するするとよじのぼって摘《つ》んだ。両手が使えないときは、いちど地面に落としてからひろい集めた。いくつかの実は、その場で食べた。
果実をどっさり集めて、そろそろ帰ろうか、と思った時だった。
かすかな異臭《いしゅう》を感じて、マツリは立ち止まった。
防虫スプレーのにおいだ。
基地の人だろうか? それとも人類学者? 商社員?
マツリはちんまりした鼻をひくつかせて、臭跡《しゅうせき》をたどった。
しばらく歩くと、前方の茂《しげ》みの間から、オレンジ色の何かが見えた。
マツリはすたすたと歩み寄った。
「ほい、茜。ここで何してる?」
三浦茜は二枚の板根の間に、カなく横たわっていた。
顔も手も服も、汗と泥《どろ》で汚《よご》れていた。
体の下には銀色のサバイバル・ブランケットが敷《し》かれている。
オレンジ色はツナギになったフライト・カバーオールで、SSAの航空部員が使用しているものだった。上半身にはサバイバル・ベストを装着《そうちゃく》している。これは胸と腹をとりまく大小のボケットの集合体で、サスペンダーで吊《つ》る構造になっていた。
茜はゆっくりと声のするほうを見た。
「マツリ……」
うつろな目に、驚きが宿った。
上体を老人のようにゆっくりと起こす。
マツリは向かい合ってぺたりと座り、あぐらを掻《か》いた。
「ナッツをひろいにきたんだよ」
マツリは袋の中身を見せた。
「いつしょに食べよう。おいしいよ」
「わあ!」
茜は目を見張った。
たっぷり十秒抵ど、果実に釘付《くぎづ》けになる。
それから――茜はぷいと顔をそむけた。
「ありがとう……でもだめなの。誰の助けも受けちゃいけないの」
「ほい? なんで」
「単独|踏破《とうは》訓練なんです。……訓練っていうか、テストなんですけど」
「ほー……」
単独踏破訓練――それは軍隊で行われる、最も過酷《かこく》な訓練として知られている。
限られた食料と装傭《そうび》を持った隊員は、ヘリコプターで大自然のただ中に運ばれる。
そして、誰の援助《えんじょ》も受けず、完全に単独で行動し、時間内に指定の場所へたどりつくことが求められる。
判断力と体力、サバイバル技能、そして孤独《こどく》に耐《た》える精神力が試される訓練だった。軍隊の訓練では死者や発狂者《はっきょうしゃ》が出ることもある。
単独踏破訓練はゆかりも受けたことがある。しかし、初日にジャングルでマツリと出会い、その案内でやすやすと帰還《きかん》したのだった。訓練としては不完全だったが、SSAはすでにゆかりを宇宙飛行士にしたてると決め込んでいたので、問題にはならなかった。
「茜がこんなことをしているとは知らなかったよ」
「秘密だったんです。もし知られたら、その、こっそり助けるかもしれないからって。それで保安部の演習場でキャンプして、三日間サバイバル訓練して、それからヘリコプターでジャングルに運ばれて」
「来てから何日になる?」
「三日目です。今日中に帰還しないと失格なんですけど……でも……」
茜は目を伏せた。
携帯食糧《けいたいしょくりょう》は一日分しか与えられていない。サバイバル訓練は熱帯〜亜《あ》熱帯域のグローバルなもので、この島の地理や食用果実などの知識は与えられなかった。
茜は食糧を三日ぶんに配分して取ってきたが、飢《う》えはもう限界だった。いくら休養しても、体力が回復しないのだ。
「茜は不合格になって日本に帰ったと聞いたよ」
「そ、そんなこと言ったんですか……」
「ゆかりはとてもがっかりしてるね。そして茜にすまないと言ってた」
「そんな! これは私が選んだことなんです。ゆかりが悪く思うことなんてないのに!」
茜は左右の板根《ばんこん》を手すりにして、ゆらりと立ち上がった。
ブランケットを畳《たた》んで、背嚢《はいのう》にしまう。
茜は一歩ずつ、腐葉土《ふようど》を踏《ふ》みしめて、歩きはじめた。
「行かなくちゃ……今日中に、帰らなきゃ」
「ほい、近道するならねえ――」
「教えないで!」
茜は鋭《するど》くさえぎった。
「私を助けないで。助けられたら失格なの。お願い」
「ほい……」
茜の目をみて、マツリは口をつぐんだ。
それから言った。
「茜、今日はいい天気だから、大丈夫だよ」
「ありがとう。もいっぺん、がんばってみる」
マツリはまわりを見回した。それから空の一方を指差した。
「わお、ツバメが飛んでるよ。いっぱいいるねー!」
茜もそのほうを見た。密生する樹木の向こう側に、なにかがすばしこく飛び回っていた。
「あれ、ツバメなの?」
「そうだよ。ツバメは飛ぶのがうまいね」
マツリは麻袋を持って立ち上がった。
「ほい、マツリはもう少し木の実を集めて帰るよ」
そして、すたすたと歩み去った。
マツリの姿はあっという間に見えなくなった。
木の実を集めて帰る――つまり、基地へ直行するとは限らないという意味か……。
茜はそれを、自分への配慮《はいりょ》だと解釈した。
茜はしばらく、ツバメを見ていた。
日本で親しんでいる鳥と再会して、ほっとした思いだった。
ジャングルに初めて降り立ったとき、茜は感激《かんげき》した。その途方《とほう》もなく豊かな生物|相《そう》に、呆然《ぼうぜん》とした。だが、喜びは長続きしなかった。
生物には詳《くわ》しい茜だが、惜《お》しいかな、熱帯のものには知識が及んでいなかった。もう少し勉強しておけば、食料を見つけることもできたはずなのだが……。
それから、頭の片隅《かたすみ》で、なにかがひらめいた。
あのすばしこい飛び方は――ツバメたちは空中で昆虫《こんちゅう》を捕食《ほしょく》しているんだ。
つまり、あそこには昆虫が群れている。
昆虫が群れるのは、たいてい羽化《うか》したときだ。
茜は耳を澄《す》ませた。
かすかな羽音が聞こえる。高いうなり。蠅《はえ》か?……いや、蜂《はち》だ。小さな蜂にちがいない。
熱帯の蜂。どこかで読んだことがある。
あれは――寄生生物の本だった。
茜は懸命《けんめい》に記憶《きおく》をたどった。
そう、イチジクコバチ!
イチジクの果実は内側にむかって咲いた花だ。開花は外からではわかりにくい。そのイチジクが受粉するために、共生する蜂が一役買っている……。
そのプロセスは「共生の最高|傑作《けっさく》である」と述べられていた。
イチジクの花には雄《お》花、雌《め》花のほかに蜂の卵を宿すタイプの花がある。その花――つまり実の内部で、まず雄蜂と雌蜂が交尾《こうび》する。そこには必ずイチジクの雄花がある。
雌蜂は花粉をつけたまま外に出て、卵を産みつけるのにふさわしい花をさがす。雌花の形状は蜂の産卵にむかない形状をしているので、蜂は別の花を求めてとびまわることになる。その過程で、イチジクの受粉は完了する。
――ああ、なんてうかつだったんだろう!
蜂の羽音は、この三日間で何度も聞いた。刺《さ》される危険だけを意識していて、ここまで考えがおよばなかった。あそこには、イチジクの実がなっていたのだ!
茜はツバメの乱舞《らんぶ》するあたりに進んだ。
そしてまもなく、たわわに実ったイチジクの木をみつけた。
実をもいで、二つに割る。汁気《しるけ》たっぷりの、ねっとりと熟《じゅく》した果肉が現れた。
皮もむかずに煩張《ほおば》った。口いっぱいに甘《あま》いジュースがひろがった。
涙が出てきた。茜は立て続けに三つの果実を食べた。四つめは蜂を宿していた。食べられる実を選んでは煩張る。少し気持ちが落ち着くと、腹痛を恐《おそ》れて食べるのをやめた。
よさそうな実を十個ほど選んで、背嚢《はいのう》につめる。
全身に体力がみなぎってくるのがわかった。
時計を見ると、二時をまわったところだった。
帰れるかもしれない。あと十時間。日没《にちぼつ》までなら四時間。
マツリは基地から歩いてきたらしい。あの子にできるなら、自分にだって――物理的に不可能なはずはない。
しかし……。
不安な思いが脳裏をよぎった。
イチジクを見つけたことは、マツリの援助《えんじょ》によるものだろうか?
マツリはツバメの存在を指摘しただけだった。
それを聞いたときは、ヒントだとは思わなかった。しかしマツリは、そのつもりだったのかもしれない。あの子が、その下にイチジクがあることを知らないわけがない。
でも――ツバメとイチジクを結びつけたのは自分だ。
もし帰れたら、時間内に帰れたら、正直に話してみよう。不合格になるとは限らない。
チャンスはまだある。
茜はコンパスを取り出して、進路を見定めた。
地形。植生。鳥の群れ。水の流れ。ヒントはどこにでも転がっているのだ。
もう見逃《みのが》さないそ。
茜はそう肝《きも》に銘《めい》じて、歩きはじめた。
ACT・10
休みだというのに何もする気が起きないので、ゆかりは部屋で横になり、横浜で買った『シオニズムとイスラム社会』を読んでいた。
ひたひたと足音が近づいてきて、ノックもなしにドアが開いた。
「ほーい。大漁《たいりょう》だったよゆかり。いっしょに食べよう」
うんぐぐ、と奇妙《きみょう》なうめき声を上げて、ゆかりは枕元《まくらもと》に本を伏せた。
「ドリアンはやよ」
「ナッツとランプタンとジャックフルーツとイチジクがあるよ」
ゆかりは起きあがって、
「あーっ、汚《きたな》い袋《ふくろ》をベッドに置くんじゃない!」
マツリは麻《あさ》袋を床《ゆか》に移し、椅子《いす》の上にあぐらをかいた。
「なにがいい?」
「じゃ、イチジク」
マツリが手渡すと、ゆかりはあまり嬉《うれ》しくもない様子で皮をむきはじめた。マツリのほうはアーミーナイフでランプタンの実から果肉をえぐりだしにかかる。
二人は黙々《もくもく》とトロピカル・フルーツを食べた。
皮や種をごみ箱に捨て、汁《しる》をティッシュで拭《ふ》く。
手とあごだけが動いている。
マツリはいつも陽気だが、口数はさほど多くない。むしろゆかりのほうが饒舌《じょうぜつ》だが、茜の一件以来、寡黙《かもく》になっている。
やがて、マツリが言った。
「森で茜に会ったよ」
ゆかりは動きをとめた。
「……なんて言った?」
「森で茜に会った」
ゆかりは飛び上がった。
「あ、茜がジャングルにいっ!!」
口からイチジクの雌《め》しべが飛び散った。
「なんで、どうして、どんなふうに!?」
「秘密で単独|踏破《とうは》訓練をしていたんだよ。今日中に戻らないと失格になると言ってた」
「つーことは……なんだ、つまり――」
ゆかりは眼球をめまぐるしく動かして、突然《とつぜん》入ってきた情報を整理した。
「茜はまだ不合格になってないってこと? あれは嘘《うそ》だったの!?」
「そうだよ。ゆかりやマツリに手伝わせないように、嘘をついたね」
ゆかりはカッと赤くなった。
「あんの女狐《めぎつね》があ……」
ゆかりはドアに向かってダッシュしかけ、きわどく立ち止まってふり返った。
「で、茜はどこにいたの? 帰ってこれそうなの!?」
「滑走路《かっそうろ》の東の端から三キロくらい山に入ったとこでくたばっていたよ」
三キロ。ジャングルの三キロは長い。
「くたばるって――それで、あんたはどうしたのさ」
「どうもしなかったよ。すぐに別れて木の実を探したよ」
「道案内とかしなかったのっ!!」
「助けないでくれと言われたんだよ」
「……ったく」
ゆかりは憤懣《ふんまん》やるかたなく、どいつもこいつもと言いながら、けたたましく部屋を出た。
会ってどうなるものでもなかったが、一言|吠《ほ》えてやらないと気がすまない。
ゆかりは旭川さつきを探して、まず女子|寮《りょう》に走り、不在だとわかると訓練センターにまわった。階段を駆《か》け上がり、研究室のドアを開く。
錠《じょう》はおりていなかったが、ここも不在だった。
しばらくセンター内を調べまわったが、さつきは見つからなかった。
ゆかりは毒づいた。
「明日、のこのこ出てきたらただじゃすまないぞ……」
それから、自分にできることを考えた。
助けに行く……というのはだめなのか。
茜は――あいつは律義《りちぎ》だから。まったく。
茜を、そうとわからないように誘導《ゆうどう》するとか……?
ゆかりは時計を見た。
午後五時。
今からそんなことができるとは思えなかった。
茜の体力を信じて待つしかないらしい。……信じられないけど。
もしかしたら、すぐそこまで来ているかもしれない。
ゆかりは訓練センターを出た。
陽射《ひざ》しはもう、黄色味をおびていた。
長い影《かげ》を従えて、ゆかりは正門に歩いた。
ちょっと門の外に出るだけだから、と守衛に言って、ゲートを通る。
コンクリートの門の表側にまわったとき、ゆかりは息を呑《の》んだ。
目の前に白衣の後ろ姿があった。
ここにいたとは。
さつきはふりかえると、戸惑《とまど》った顔で言った。
「あ……ゆかりちゃん。今から、お出かけ?」
「ちょっち散歩」
ゆかりはとっさに、そう答えた。
さつきは秘密がばれていることを知らないはずだ。この優位は、維持《いじ》して損はない。
だが、ここで何をしているのだ?
女狐が、しおらしく出迎《でむか》えか……?
「さつきさん、誰《だれ》かと待ち合わせ?」
「うん……まあね」
「オトコ?」
「さあ、どっちかな」
「言えないんだ」
「言わなきゃだめ?」
「そうじゃないけど」
会話はそこでとぎれた。
二人は五メートルほど離《はな》れてたたずみ、ジャングルのほうを見ていた。
やがて太陽が西の山腹にかかった。
ねぐらの安全を確かめあう鳥の鳴声が、森全体から蜂《はち》のうなりのように響《ひび》いてくる。
遠く、樹海《じゅかい》の上を、黒煙のようなものが流れてゆくのが見えた。
ゆかりは言った。
「あれ、コウモリだよね」
「え、そうなの?」
「夕方になると、洞窟《どうくつ》から飛び立つんだって。マツリが言ってた」
「人を襲《おそ》ったりしないの?」
「さあ」
「…………」
最後の光が、木々の梢《こずえ》に消えた。
「ゆかりちゃん」
「うん?」
「あのね――」
「うん」
その時、足音がして二人は同時にふり返った。
現れたのは木下だった。
「おっと……おそろいか」
少々|面食《めんく》らった顔で言う。
綿《めん》シャツにイージーパンツというラフなスタイルだが、髪《かみ》は端正《たんせい》なオールバックに整《ととの》えている。
「ははーん。待《ま》ち人《びと》って木下さんだったんだ」
ゆかりはそう言ってみた。
木下とさつきは素早く目配《めくば》せを交わした。
「ご想像にまかせるよ」
木下はしれっと答えた。
「あたし、邪魔《じやま》かな?」
「そんなことはない」
両人は、どこかへ消える様子もなく「SOLOMON SPACE ASSOCIATION」のボードにもたれている。
熱帯の太陽はほぼ直角に沈むから、日が沈むとたちまち暗くなる。ゆかりは暗いジャングルに目をこらしたが、動くものは認められなかった。
ここに来て、かれこれ一時間かたつ。
さつきは出端《でばな》をくじかれたのか、言いかけた話を再開しようとしない。
ゆかりはしだいに、黙《だま》っているのが面白《おもしろ》くなくなってきた。
困ったことに、怒りもおさまってきた。こちらを信用しなかったのは不快だが、知っていたら座視《ざし》していられただろうか? 茜の敗者《はいしゃ》復活戦《ふっかつせん》を公正にやろうとすることは、何も間違っていない。
秘密がばれていることは、むこうも薄々《うすうす》気づいているだろう。そうでないとしても、逢《あ》い引きの邪魔《じゃま》をしていると思われるのは嫌《いや》だ。
ゆかりが口を開こうとした、その時――
「ほーい、ゆかりー。茜はまだ戻らない?」
麻袋を持って現れたマツリが、あらゆる疑念と情報格差をリセットした。
「…………」
「…………」
さつきと木下が、黙《だま》ってこちらを見る。
「まだだよ」
「あと六時間あるね。大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
「知ってたのか」
木下が言った。
「今日の昼、ジャングルでマツリが茜に会ったの」
木下とさつきはすばやく守衛のほうを見た。それから、すぐゆかりに向き直った。
「そうなることを防こうと思ったんだが。嘘をついたのは悪かった」
「マツリはなんにも助けなかったよ。茜のほうで拒否《きょひ》したって」
「そうか」
「信じる信じないは勝手だけど」
「信じるさ」
「だけど段階ってもんがあるんじゃないかな。いきなり単独踏破なんて、きつすぎるよ」
「準備と実施《じっし》に一週間かけたんだ。一般《いっばん》の応募者《おうぼしゃ》よりは丁寧《ていねい》に審査《しんさ》してるつもりだよ。この島に猛獣《もうじゅう》はいないし、トランシーバーも持たせてある。困難は大きいが、危険はそれほどでもない」
「毒蛇《どくへび》と毒カエルはいるけどね」
「できるだけの予防処置はしたわ。抗生《こうせい》物質の注射も教えたし」
さつきが言った。
「もっともあたしは、このテストに賛成じゃなかったけど」
「僕が提案したんだ。さつきさんを恨《うら》まないでくれ」
「いいけど、もう」
ゆかりは矛《ほこ》をおさめた。吠《ほ》えそこなったのは欲求不満だが、いまは茜の安否《あんぴ》に気がそがれている。
「それで――マツリ、茜君はどこにいた?」
「滑走路の東の端《はし》から三キロくらいのとこだよ」
「会ったのはいつ?」
「昼すぎだったね」
「そうか。いいところまで来てるんだがな……」
木下は守衛室に行って、すぐに戻ってきた。
まもなく、監視塔《かんしとう》のサーチライトが夜空に光条を突き立てた。
本部や訓練センターの向こうに見える光は、滑走路灯《かっそうろとう》だろうか。
「この程度の照明はノーマルだからね。サイレンまでは勘弁《かんべん》してくれ」
礼など言うものか、とゆかりは黙《だま》っていたが、自分で思いつかなかったのは悔《く》やまれた。
四人は待ち続けた。
九時をまわると、仕事を終えた向井と那須田も現れた。
向井は集まった顔触《かおぶ》れをみると、すぐに引き返して、大きなクーラーボックスを抱《かか》えてきた。
「サンドイッチとコーラ、食堂で用意してもらいました」
一同、黙って手をのばす。
こうして出迎《でむか》えているのが、なんとなく決まり悪いようだった。
ゆかりはマツリに聞いた。
「ジャングルの第一人者に聞きたいんだけど、いちばんいいルートってどこかな」
「楽するなら、まっすぐ北に出て、浜を歩いてくるのがいいね」
「そうか……」
自分のときもそうだった。海岸を東に進めば、基地の敷地《しきち》にぶつかる。あとはフェンスぞいに歩けば、自然に正門に出る。
ゆかりはフェンスのほうを見たが、闇《やみ》が広がっているだけだった。
「ライト、大丈夫かな」
「二時間で電池切れだ。予備は持ってない」
木下が言った。
「最終日のために温存していたとしても、もう切れてるだろう」
「今日の月の出は」
「夜半になるね」マツリが言った。
ゆかりはカッとして、幹部|勢《ぜい》に怒鳴《どな》った。
「せめて満月の夜にできなかったの!」
「まあまあ、ゆかり君ー」
那須田がなだめにかかった時だった。
「ほい、なにか光ったよ」
「どこ!」
マツリの指差す方向を見る。
しばらくは何も見えなかった。だが数分後、六人はいっせいに反応した。
ジャングルのなかで、確かになにかが光った。
およそ半キロ先の斜面《しやめん》だった。
「マツリ、どうなの!?」
「左に動いたね。海岸ではなくて、山道に出るつもりだよ」
「あそこから来れそう?」
「すぐ小さな谷にかかるよ。谷を横切ればいいけど、谷ぞいに降りるのはよくないね」
「谷ぞいに行くとどうなるの」
「泥沼《どろぬま》があるよ」
「…………」
基地の光が見えていても、たどりつけるとは限らないのだ。
あれ以来、光は見えない。
ゆかりは無宗教を棚上《たなあ》げにして、神に祈《いの》った。
午後十一時。
「光った!」
前回よりかなり左で、光が見えた。
「谷を越《こ》えたね」
「ほんと!?」
「あのまま歩けば道に出るよ」
「よおし!」
ゆかりは手をメガホンにして、深く息を吸った。
「呼ぶんじゃない」
木下がすかさず言った。
「これはテストなんだ。最後まで独力だ」
ゆかりはぶはっと息をはきだすと、前方の道に目をこらした。
カーブの向こう側《びわ》から、黄色い光がちらちらとやってくる。
「大丈夫だよ、ゆかり。もう道に入ったね」
やがて、木々の間から、小さな人影《ひとかげ》が現れた。右手に松明《たいまつ》のようなものを持っている。
「あかねーっ!! おーい! こっちこっち!!」
たまらず叫ぶと、相手も松明を振《ふ》って応《こた》えた。
「やたっ! 茜、やったよ!」
ゆかりは小躍《こおど》りした。
オレンジのカバーオールが見える。茜はふらふらと、しかし着実に前進していた。
ゆかりはコンクリート舗装《ほそう》が途切《とぎ》れるところまで出て、バトンを待つランナーのように待ち受けた。
最後の五メートルで、茜は松明を地面に落とし、倒れるようにしてゆかりの胸に飛び込んだ。擦《かす》り傷《きず》と泥だらけの頬《ほほ》が触《ふ》れた。
「やったね茜。やったやった」
肩を抱き、その場に座《すわ》らせる。さつきが片膝《かたひざ》をついて、すばやく診察《しんさつ》した。
「怪我《けが》はない?」
「だ……大丈夫です」
「気分は」
「いいです、とても」
「よーし。よくがんばったわ」
「松明という手があったか。さすがだね」
「イチジクにラテックスの固まった枝があって……暗くなる前に集めました」
「よしよし――これで三人めの宇宙飛行士、誕生《たんじょう》だな」
那須田が握手《あくしゅ》の手をさしのべた。
茜は伸ばしかけた手を、途中《とちゅう》で引っ込めた。
「でも私、マツリさんと会って……」
茜はイチジクを見つけるまでのいきさつを話した。
「マツリ君、本当のところはどうなんだ。ヒントを与えるつもりだったのかね?」
「そんな難しい考えはしないよ」
マツリは言った。
「すばしこいツバメを見るのは楽しいね。茜にも見てほしかったよ」
「ふむ。さつき君はどう思うね」
「まあ……マツリちゃんが言うと、嘘に聞こえないんですけどね」と、苦笑する。
「そういうことだ」
那須田は茜に言った。
「君は合格したんだよ!」
「あ――ありがとうございます!」
「明日からみっちり訓練するからね」
さつきが言った。
「その根性《こんじょう》があるなら、八Gくらいはいけるよね?」
「それは……まあ……」
「期待してるわよ」
そう言って、さつきはばっちりとウインクしたのだった。
一週間後。訓練センター、トレーニング・ジム。
男子禁制――というわけではないが、男が入る時は慎重《しんちょう》さを求められる部屋である。
ここではしばしば、飛行士たちがあられもない姿で訓練や測定を受けるのだった。
この日もさつき、ゆかり、マツリと、女ばかりがいた。飛行士の二人は宇宙服姿だった。
ほどなく、別室のドアが開いた。
「じゃ〜〜ん。できたよ〜〜」
化学主任の三原素子《みはらもとこ》に手を引かれて現れたのは、真新しいスキンタイト宇宙服に身を包んだ茜。
ゆかりやマツリのようにグラマラスではないが、そのほっそりした肢体《したい》はいかにも可隣《かれん》だった。そのうえ宇宙服は無重量状態の体型変化にあわせて成形されているので、脚はスリムに引き締《し》まり、バストもヒップもアップする。
「ほぉ〜。いいじゃん」
「素敵よ、茜ちゃん。若い頃《ころ》のコマネチみたい」
「ほい、これで茜もヒクテアマタだね」
「は、はあ……」
茜は顔を真《ま》っ赤《か》にして、胸と下腹部を手で覆《おお》っていた。
「そうやってると、よけーやらしく見えるんだよ」
ゆかりは言った。
「バーンと開き直っちゃえば、自分も相手も慣れるからさ。つまるとこ、やらしさってのは非日常性なのよ」
「でっ、でもなんか……裸《はだか》で歩いてるみたいで」
消え入るような声で言うと、素子がビン底眼鏡の下でくふふふと笑った。
「裸みたいなら上出来かな〜〜。第二の皮膚《ひふ》だからね〜〜」
宇宙服は素子の職人芸で造られており、新調のたびに着心地《きごこち》はよくなっている。コクピットに着席した姿勢が最も楽なのだが、立って歩いても、ウェットスーツ並みの柔軟性《じゅうなんせい》があった。
ノックの音がして、那須田の声がした。
「入っていいかね?」
「どうぞ」
背広姿の那須田は、茜をまじまじと見て、ポンと手を打った。
「よおし! どこから見ても一人前のアストロノーツだ!」
「そんな……恥《は》ずかしいですぅ」
「だからそのボーズだとよけい恥ずかしいんだってば」
「見た目がどうあれ、君にはこれがある」
那須田は茜に、薄《うす》い手帳のようなものを手渡した。
「宇宙飛行士用のパスポートだ」
「わあ……」
開くと、ラミネート加工された顔写真があり、その横にASTRONAUT AKANE MIURAとある。次のページには「この人物は日本政府およびソロモン諸島政府が承認した宇宙飛行士であり、各国関係機関の援助《えんじょ》を求む者である」という文句が十か国語で書かれていた。
「それさえ持っていれば、およそ世界中どこへ降りても君の人権は保障されるんだ」
「うわー、やっぱり宇宙飛行士ってすごいんだ」
「人のいるとこに降りればの話だけどね」
ゆかりがまた茶々《ちゃちゃ》を入れた。
「こないだみたいに街《まち》の真ん中に降りるなんて、もう二度とないと思うな」
[#改ページ]
第三章 オルフェウス救出ミッション
ACT・1
「なんだって? ヒューストン、もう一度言ってくれ」
クリアに聞き取れはしたのだが、ノーマン・ランドルフは認めたくない気分だった。
『オルフェウスの姿勢制御スラスターのひとつにトラブルがある。二つのセンサーが異状を伝えているんだ』
「ここで修理しろというのか。探査機《たんさくき》本体のスペアパーツはないんだぞ」
『故障したまま発進させるわけにもいくまい』
ノーマンは宇宙服の外からは見えないしぐさで、肩をすくめた。
「手順を教えてくれ」
あまりだだをこねると評価がさがる。へたをすると二度と宇宙に出られなくなる。
ノーマンはそう考えて、さからわなかった。
スペースシャトルの乗員となって宇宙に出るまでに五年かかった。今回が三度めの宇宙で、船外活動はこれが初めてだった。NASAでの宇宙飛行は生涯《しょうがい》に三度が目安とされている。それで終わりにしたくなければ、忍耐《にんたい》することだ。
『動かすぞ、ノーマン。いいか』
キャビンから、ゴードン・クレニシクが言う。
ノーマンは昆虫《こんちゅう》の脚のようなRMA――遠隔《えんかく》操作アームの先端《せんたん》に足を固定している。
ゴードンはそのアームの操作担当だった。
「やってくれ」
ノーマンの体は三メートルほど持ち上がり、反動で小さくゆれながら止まった。
ペイロードベイの床《ゆか》が遠ざかり、シャトルの両翼《りょうよく》が視界に入る。その向こう側には、青い地球が流れていた。
目の前には、オルフェウス無人探査機の本体があった。
本体の下に、探査機を冥王星《めいおうせい》まで押し出すための上段エンジンがある。
探査機とエンジンの結合体は、ペイロードベイの中央に大砲《たいほう》のようにそびえ立《た》っていた。
どこをとっても、堂々とした眺めだった。
今後、このような大型探査機が計画されることはまずないだろう。
探査機は年々小型化し、小型の無人ロケットで打ち上げられる傾向《けいこう》にある。今回のようにシャトルで低い軌道《きどう》に運んでアンテナ類を展開させ、念入りに点検《てんけん》してから惑星《わくせい》間空間に送り出す方式は、あらゆる面で制約が大きすぎるのだった。
オルフェウス計画は、人々がまだスペースシャトルに薔薇《ばら》色の夢をいだいてた時代にスタートした。
シャトルの運用が始まってまもなく、そのコストや運用効率の悪さが表面化してきた。そして八十六年に起きたチャレンジャー爆発《ばくはつ》事故がすべてを変えた。スケジュールは大幅《おおばば》にキャンセルされ、安全性の見直しが徹底《てってい》的に行われた。
オルフェウスはその影響《えいきょう》をもろにうけ、長らく“積み残し”になっていた荷物だった。
ヒューストンの指示にしたがって、ノーマンはオルフェウスの表面を覆《おお》う、金色のサーマルブランケットをはがしにかかった。
地上でなら封筒《ふうとう》を破るより簡単な作業だが、ここでは難事業だった。宇宙用の手袋は何かをつまむだけで三十キロもの握力《あくりょく》がいるうえ、生地《きじ》が厚いので触感《しょっかん》が得られない。そして足場は、釣竿《つりざお》の先のようにぐらぐらしている。
どうにかブランケットをはがし終えると、ジュラルミンの筐体《きょうたい》があらわになった。
ノーマンは工具ポケットからアーレンキーを取り出して、ビスをゆるめにかかった。部品を宇宙の迷子にしないよう、慎重《しんちょう》に左手をあてがう。
八本のビスを外すのに四十分かかった。
パネルを開くと、奥のほうにヒドラジンを通すチューブが見えた。その横に、コントロールバルブの複合体がある。大きさはポータブルラジオぐらい。
あれを外せというのか……。
バルブにつながった配管と電線の束を見て、ノーマンはうんざりした。
「ボトルシップを組み立てたごとがあるかい」
誰《だれ》にともなく言ってみる。
「そんな気分だ」
『やりとげれば君は英雄だ』
船長のウェイン・バークハイマーが言った。
そう――その通り。軌道《きどう》上のトラブルこそ宇宙飛行士の最高の見せ場だ。国民はそのニュースを聞いて、やはり宇宙に人を送ることには意味がある、と思い直すのだ。
三時間かけて、ノーマンはバルブを取り外した。左手でバルブをつかみ、体に押し付けるようにして抱《かか》える。あとは船内に持ち帰り、詳《くわ》しく調べればよかった。
ほっとした思いで、ノーマンは言った。
「終わったぞ。エアロックまで運んでくれ、ゴードン」
『これで再選まちがいなしだな』
足場にしていた遠隔操作アームが動きはじめた。
ノーマンは手違《てちが》いに気づき、鋭《するど》く言った。
「おい、そっちはだめだ!」
インカムを通して、ゴードンが毒づくのがわかった。
ノーマンを乗せたアームは、宙に張り出した探査機のアンテナのひとつに衝突《しょうとつ》しようとしていた。慣性《かんせい》が大きいので、アームはすぐに止まらない。
ノーマンは体をかがめてやりすごそうとした。
かさばった宇宙服で大きな動きをするには渾身《こんしん》の力が必要だった。
そして一瞬《いっしゅん》、左手でつかんだものへの注意がそれた。
アンテナをかわすことには成功したが、バルブが手から離《はな》れた。それはくるくると回転しながら、探査機のエンジンに向かって漂流《ひょうりゅう》した。
バルブは外板に触《ふ》れて方向|転換《てんかん》し、探査機とエンジンの隙間《すきま》にもぐりこんだ。
「くそっ、なんてこった!」
『すまん、ノーマン。大丈夫か?』
「こっちは問題ないが、バルブを流しちまった。探査機とエンジンの連結部分に入ったのが見えた」
『わかった。どうすればいい』
「もう少し探査機に寄せてくれ。あと三フィートだ」
「オーケイ。こんどはちゃんとやってみせる』
足場が寄ると、ノーマンは連結部分を覗《のぞ》き込んだ。
そこは直径三メートル、幅《はば》五十センチの狭《せま》い谷間だった。エンジンは探査機を惑星間軌道に乗せたところで切り離される。そのための成形爆薬《せいけいばくやく》を仕込んだリングがあり、それにつながるフレームが複雑に交差してジャングルジムのような空間を作っている。
ライトで照らしてみると、奥のほうにバルブが引っかかっているのが見えた。
「あったぞ……届《とど》きそうだ」
ノーマンは隙間に腕を入れた。やってみると、とても思い通りにはいかなかった。宇宙服の腕はもとの三倍に着膨《きぶく》れているうえ、関節も自由にまげられない。
どうにかバルブに手が届いたが、触れたのは指先だけで、これが致命《ちめい》的な失敗になった。
逆にバルブを奥に押し込んでしまったのである。
「ちくしょうめ! こんどはタンクの隙間に入っちまった!」
『すぐに取り出せそうか?』
船長が聞いた。
「まってくれ……いや、すぐには難しいようだ」
『わかった。いったん船に戻れ。なあに、方法はいくらでもあるさ』
ACT・2
「おーい、音。もっと音」
離れた席で、そんな声がした。
ゆかり、マツリ、茜の三人は昼食をとる手を休めて、声のした方を見た。
食堂中の視線が、壁《かべ》のテレビに集まっていた。
いつもCS放送を受像しているテレビで、今はCNNのニュースらしい。
「なんだろ? うちかな?」
「ほい、行ってみよう」
三人は席を立ってテレビのそばに行った。
映像はスペースシャトルから送られてきたものだった。アッパーデッキの後部観察窓から撮影したもので、宇宙飛行士が二人、ペイロードベイ中央の装置にとりついているのが見える。
女性アンカーマンの声がかぶさる。
「……以来、今日で三日目。オルフェウス探査機《たんさき》の隙間《すきま》に入り込んだ部品は、まだ取り出せません。機体をゆすったり、マジックハンドを使うなどの試みが実施《じっし》されましたが、すべて失敗に終わりました』
「げー まだやってたかー」
ゆかりが声をあげると、前にいた作業服の男が振《ふ》りむいて言った。
「そろそろ出番《でばん》かもよ、ゆかりちゃん」
「まさか」
「いやいや――」
『部品を取り出すためには探査機のエンジン部分を分解しなければならず、それは軌道《きどう》上では不可能とのことです』
「上のほうはもう動いてるぜ。。昨日からVABがブースターのアセンブリに入ってる。まだ準備の準備って段階だけどな」
「あの、出番って、SSAがあそこに出張するんですか?」
茜が聞いた。
「そうさ。あんたらだったら体ごと入れるだろ? あんな隙間ならさ」
茜はもう一度テレビを見た。
「どうかな……きわどいとこかも」
この一か月に数回、茜はプールで船外活動の訓練を受けている。
宇宙服を着てバックパックを背負い、適量のバラストを身につければ、水中は無重量状態に近い環境《かんきょう》になる。その状態で人工衛星に見立てた機械を組み立てたり、分解したりするのだった。
『滞在《たいざい》延長はあと三日。それまでにできるだけのことをするとNASAは発表しています。しかし最悪の場合、オルフェウス探査機を積んだまま地上に引き返すことになるでしょう』
「そうなったらオルフェウスもおしまいだな」
作業服の男が言った。
「でも、また打ち上げられるんじゃ」
「甘《あま》いって、茜ちゃん」
男はひらひらと手を振る。
「シャトルのスケジュールなんて十年先まで埋《う》まってんだから。で、探査機のほうは組み立ててから十年近くもお蔵入《くらい》りしてたんだぜ。次に番がまわってくるまで部品が持つかどうか、わかったもんじゃないよ」
「もったいないですね……」
「それ言ってちゃ宇宙開発なんかやれないよ。俺《おれ》なんか補助《ほじょ》ブースターのシールやってっけど、全工程四か月だぜ。それを二分間で使い捨てるんだもんな」
「そうですか……知りませんでした」
茜がしんみりと肩をおとすと、作業員は言った。
「あ、俺のことだったらいいんだぜ。使い捨てるにゃ理由があるんだしさ。ああいう一発勝負のモジュールってのは領収試験もできないだろ? 腕のみせどころってわけよ。ま、あんたらは大船に乗った気で命あずけてくれりゃいいのさ」
なにカッコつけてんだよ、と仲間がひやかす中、茜はぺこりと頭をさげた。
三人は席に戻って、食事を再開した。
ゆかりは白身魚《しろみざかな》のムニエル、マツリはオムレツ、茜はタコのマリネを選んでいる。
三人とも主食はライスだった。基地には現地採用の従業員もいるが、大半は日本人なので、メニューは和食が多く取り入れられている。
「茜って小食だね。そんなんで足りる?」
「ほんとはもうちょっと食べたいんだけど、三時からアレだから……」
「ああ、アレね」
遠心機の訓練である。
学科や操作手順の習得は順調なのだが、ただひとつ、Gに弱いのが茜の急所だった。
「どお? だいぶ慣れた?」
「ううん。八Gだとまだ五秒が限界なの」
「五秒持てばいいじゃん。本番はそんなもんだよ」
「でも、本番だと振動《しんどう》が加わるから、もっと余力がなきゃだめだって、さつきさんが」
「たしかにガタピシ揺れるけどね」
「それに、打ち上げはともかく、再突入の高Gは長く続くから……」
茜はため息をついた。
「大丈夫《だいじょうぶ》、初飛行まで五か月あるんだから、きっと慣れるって」
「寝ていればいいよ。起こしてあげるね」
マツリが能《のう》天気に言う。
「マツリさあ、どーでもいいけど口のまわり拭《ふ》きなよね。ケチャップだらけだよ」
「ほい、あとで拭くよ」
「ついたときに拭くの。それが文明人ってもんなの」
「文明人はたいへんだね」
「たいへんでいいの」
「ほい」
「あの、前から思ってたんだけど……」
茜が言った。
「マツリの『ほい』ってどう解釈すればいいんですか?」
「ないわよ、解釈なんて」
ゆかりは言下に決めつける。
「『バケラッタ』と同じこと」
「ばけらった?」
「知らないか。じゃあ『くぴぷー』とか」
「それもちょっと……」
「茜さ、マンガとかアニメとか見ないで育った?」
「ええ。子供の頃《ころ》、理髪店《りはつてん》でぱらぱら読んだきりで」
「そーかぁ……」
説明に窮《きゅう》して、ゆかりはマツリに向かった。
「あんたから説明しなさいよ」
「ほい?」
「話、見えてる?」
「ほい」
「これよこれ。こうやって何もかもうやむやに過ぎてくの」
ゆかりは肩をすくめた。
「これが南太平洋なのよ。椰子《やし》の木三本で一生遊んで暮らせちゃう民族なのよ」
「はは……」
茜は苦笑するばかりだった。
そんな三人の昼休みは、構内放送で打ち切りになった。
『宇宙飛行士は至急ブリーフィングルームに集合してください。繰《く》り返します。宇宙飛行士は至急ブリーフィングルームに集合してください』
ACT・3
部屋には那須田、木下、さつきの三人が待っていた。ラウンドテーブルの対面に着席すると、那須田が言った。
「さっそくだが、緊急《きんきゅう》ミッションを実施《じっし》することになった。打ち上げは明朝十時三十四分。オービターはマンゴスティン、船長はゆかり、MSは茜。マツリは地上でバックアップだ」
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》。
それから本人が、おそるおそる聞いた。
「ミッションスペシャリスト……茜って言いました?」
「そうだ」
茜はあんぐり口を開いた。
「わた、私がもう――フライトですかっ!?」
那須田は深々とうなずいた。
「そうだ。予定よりずいぶん早いが、いよいよ初飛行だ」
「どうして――」
「その前にミッションの内容を説明せねばならないが」
「オルフェウスですか」
ゆかりが言った。
「そうだ。あの不運な冥王星《めいおうせい》探査機《たんさき》の発進を支援《しえん》する。故障《こしょう》を起こしたパーツのスペアは現在空輸中だ。明朝には届《とど》くだろう。そのパーツをシャトルに届けるとともに、隙間《すきま》に入り込んだほうを回収する――これが今回の任務だ」
那須田は三人の顔をにらんだ。
「NASAの失態を我々が収拾し、高度な船外活動能力をアピールする。これは願ってもないチャンスだ」
「ついでに新人の茜をNASAに売り込もうってわけですか」
「そういうことだ。SSAにもMSがいることを見せるんだ。茜君には船外活動をして部品を回収してもらう」
「無理です、できません!」
茜が叫んだ。
「訓練期間は六か月なのに、一か月で本番なんて!」
「訓練プログラムは単独飛行を目標にしたものだ。今回はゆかり君がいる」
「足を引っ張るだけです!」
ふーむ……。
那須田の強引《ごういん》さには慣れているが、いきなり茜を起用するとは思い切ったものだ。
ゆかりはさつきの顔をうかがった。
茜の起用には反対したのだろう。それごらん、という顔をしている。
「飛ぶ前からしこりは作りたくない。君たちの意見を尊重しよう。どうしてもと言うなら、マツリ君に代えてもいい。どうだね、ゆかり君」
茜が気遣《きづか》わしげな顔でこちらを見た。
「無理だと思うかね? 茜君には」
「いいえ」
ゆかりはきっぱり言った。
「楽勝よ」
「ゆっ、ゆかり――」
茜があわてるのを、ゆかりはさえぎった。
「大丈夫。あんたなら絶対楽勝」
「でも私、明日いきなりなんて、とても――」
「いいの! あたしが連れてくってゆってんだから!」
「でも……」
「宇宙、行きたいんでしょ?」
「それは……そうだけど」
「チャンスは逃《のが》しちゃだめ。SSAなんて吹けば飛ぶような団体なんだ。一度でも大事故があったらお取り漬《つぶ》しなんだ。だから行ける時に行かなきゃだめ!」
「う……」
茜は目を白黒させて、ゆかりの言葉をのみこんだ。
ゆかりの論理も、強引《ごういん》さでは那須田にひけをとらない。
さまざまな思いが脳裏を横切るのが、外から見ていてもわかる。
葛藤《かっとう》すること六十秒。
茜は言った。
「私――行きます」
「よぉし!」
ゆかりと那須田の声がハモった。
これであたしの肩の荷も下りるってもんだわ。
ゆかりは思った。
まず一回飛ぶんだ。それからどうするかは、あんたが決めることだ。
ゆかりは那須田に言った。
「にしても、あのNASAがよくそんな依頼《いらい》してきたもんだね。ステーションには近寄らせもしないってのに」
「依頼なんか来るもんか。こっちから頼《たの》み込んだんだ。出血大サービスの成功|報酬《ほうしゅう》で」
「やっぱしか」
ゆかりはため息をついた。
いまさら驚きもしないが――SSAはこの男の野心で動いているのだ。
「でもってあたしらは、ろくな訓練もなしに飛ぶわけね」
「今からやるさ」
木下が言った。
「どうやって? これからガルちゃんに乗ってヒューストンと往復?」
「そうしたいが時間がない。かわりにCGで状況《じょうきょう》をつかんでもらう」
「コンピュータ・グラフィックスで?」
「迷路ゲームだと思えばいい。NASAからデータを取り寄せてある。夜までみっちりやるぞ」
ACT・4
スペースシャトル・アトランティスは、インド洋上空で五十七回めの夜を迎えていた。
船内時間では昼になる。シャトルのクルーはミッドデッキに集まって、昼食にとりかかっていた。
フリーズドライされたスープの袋《ふくろ》に湯を注入し、もみほぐして吸い込む。
機嫌《きげん》のいい者はいなかった。
宇宙食には覚悟《かくご》も経験もあったが、不毛な作業を四日も続けていると、せめて食事くらいはなんとかならないか、と言いたくもなる。
「本当に明日、来るのか? “ガールズ”は」
ノーマンが言った。
「ランデブーだけでも一日はかかるんじゃないのか、普通《ふつう》」
「打ち上げて軌道《きどう》一周したら即《そく》トランスファーに入るそうだ」
船長が答える。テストパイロットあがりの、沈着《ちんちゃく》な男だった。
「どんな手品を使うのかしらんが、連中の軌道投入は恐《おそ》ろしく高精度だ」
「そして、あそこへ潜《もぐ》り込むのか……」
「この目で見るまでは信じられないな」
パイロットのルイス・クリーガーが言った。
「テレビで見たが――いまだに特撮《とくさつ》じゃないかって思ってるんだ。それも十六の女の子だぞ。まるでジャパニメーションだよ」
「ジャパニ……?」
「日本のアニメーションさ。いつも女の子が活躍《かつやく》するんだ。帰ったらテープを貸してやる」
「なんにせよ、心の準備をしておかないとな」船長が言った。
「なにがです?」
「万一――ガールズがやりとげた時のことさ」
「…………」
クルーは、互《たが》いの顔をうかがった。
宇宙をめざして、夢のような競争率を勝ち残ってきた男たちだった。敗北には慣れていない。
やがて、ノーマンが言った。
「俺は、それでもかまわん。すべてが失敗に終わって、オレアリー博士に会うことを考えるとな」
誰も答えないので、ノーマンは続けた。
「あの人のことだ、俺たちをとがめたりはしない。『君たちはよくやってくれた。チャンスはまだあるだろう』と言うだろう」
ノーマンはチキンスープの袋を握《にぎ》りしめ、力まかせにディスポーザーに投げ込んだ。
大きな音がした。
ノーマンは吐《は》き出すように言った。
「……くそっ、そんなことがあっていいもんか!」
ACT・5
翌朝五時、三人の宇宙飛行士はさつきのモーニング・コールで起こされた。
茜は正式採用されてから、ゆかりたちと同じ、基地内の宿舎に引っ越している。それぞれ個室をあてがわれ、部屋は二階の端《はし》からゆかり、マツリ、茜の順に並んでいた。
「ほーい、ゆかりー、朝だよー」
身支度をしていると、ドアの外でマツリが呼んだ。マツリはいつも早起きで、二人を起こしてまわるのが日課だった。
部屋を出ると、茜もいた。
「おはよう。茜、眠れた?」
「なんか、ぐっすり眠れちゃいました」
「ほー、茜はけっこう図太《ずぶと》いね」
「疲《つか》れてたんだよね」
熟睡《じゅくすい》したといっても四時間である。とても満足ではない。
宿舎を出て、朝日に目を細めながら、食堂に向かう。
「そうか。馬鹿《ばか》に静かだと思ったら、プレスがいないんだ」
昨日の今日では間に合わなかったらしい。
「いつもはもっといるんですか?」
「まず宿舎の玄関で記者会見よ。まだメシも食ってないのにさ」
「いまにじゃんじゃん飛行機でやってくるよ。所長さんはプレス好きだね」
マツリが言った。
食堂に入ると、三人はトレイを持たずにカウンターに言った。
「おばさーん、スペシャルお願い」
「はあい、できてるよ」
トーストと卵とココナツミルクの乗ったトレイを渡される。厳重に衛生管理された宇宙飛行士用の特別メニューだった。もう一、二品ほしいところだが、食べ過ぎるとろくなことにならない。
「がんばってきてね」
「うん」
「茜ちゃんも、初飛行がんばって」
「はい、がんばります!」
食事が終わると、三人は訓練センターで診察《しんさつ》を受けた。体温、血圧、心拍《しんばく》、尿《にょう》――
さつきは手早く診断書を書き上げて言った。
「よし、三人とも問題なし。マツリちゃんは管制センターに入ってちょうだい。二人はここに残って」
さつきは所長室に電話した。
「ゆかり、茜ともゴーです」
短く言って受話器を置くと、さつきは二人の浣腸《かんちょう》にかかった。下から冷水を注入して、大腸をすっかり空にする。これで当分「大」の心配はなくなる。
それから本番用の宇宙服を装着《そうちゃく》し、髪《かみ》をまとめた。
「ゆかりもマツリも髪長いけど、邪魔《じゃま》にならない?」
茜が聞いた。
「長いとさ、かえってまとめやすいでしょ」
ゆかりは髪を二つに結《ゆ》ってゴムでとめ、ヘアスプレーをかけた。
「ショートはショートでいいけどね。要はアダプターリングに髪がかまなきゃいいの」
「そうか……」
「どれどれ」
ゆかりは茜に向き直ると、その髪を整《ととの》え、おくれ毛をカットした。
「いいね、茜の髪。細くてさらさら」
「うん。ほっといても平気なの」
「けど、このまま上に行ったら開いちゃうよ。目つむって」
ゆかりは念入りにヘアスプレーをかけた。
それからヘルメットをかぶり、宇宙服の気密チェックを済ませて、準備は終わった。
部屋を出るまぎわになって、茜は立ち止まった。
「あの……すみません、ちょっと――いいですか…」
許しを得ると、茜は実家に電話した。飛行のことはすでに通知されているが、昨夜から余裕《よゆう》がなかったので、まだ自分では話してなかった。
『三浦っす』
出たのは四歳年下の弟だった。がらがらした声が、離《はな》れていても聞こえる。
「あ、秀人《ひでと》? 私」
『ねーちゃん、タイミング最悪〜』
「え?」
『父ちゃんと母ちゃん、いまさっき神社行ったよ。お参りするって』
「あ……そう」
『テレビとかでやんねーの? 初飛行だろ』
「ううん、急だから、間に合わなかったみたい」
『父ちゃんたち、じき戻るよ。また電話する?』
「これから発射台だから、もうできないの。元気に出かけたって言ってくれる?」
『おー』
「じゃあ……秀人、勉強みてあげられなくてごめんね」
『いーよ、俺、要領いいから』
「そう。じゃあ……もう行くから」
『おー。いつてら〜』
茜はそっと受話器を置いた。
さつきに先導されて訓練センターの玄関を出ると、広報部のカメラマンと那須田が待っていた。那須田は二人を値踏みするように見た。
「ゆかり君。現場の判断はまかせる。息の合ったところを見せてくれ」
「まっかせて」
「茜君。急な任務で不安だろうが、できないことを頼《たの》みはしない。記念すべき初飛行だ。楽しんでこい」
「はい!」
「よおし!」
眼鏡の奥で、那須田の目が光った。
「二人でNASAの鼻をあかしてこい!」
面白《おもしろ》い、やったろーじゃんか。
ゆかりもその気になった。
さつき、ゆかり、茜の三人は保安部の車に乗って、発射台に向かった。
二キロの道のりを走る間、発射台はずっと見えていた。その高さは、気象|観測塔《かんそくとう》まで含めると四十メートルになる。ロケットにはすでに液体酸素が注入されていて、その白い蒸気がたなびいていた。
ロケットの先端《せんたん》までは二十七メートル。
そのうち二十メートルはLSー6メインブースターがしめている。
メインブースターの左右には二基の固体ブースターがつく。固体ブースターは打ち上げの最初の段階で、ロケットを地面から引き離すのに使われる。
ロケットは自重と同じ推力で押しても、燃料を浪費《ろうひ》するばかりで上昇しない。より大きな推力で機体をすみやかに大気の薄《うす》いところまで運ぶのが、固体ブースターの役目だった。
固体ブースターが切り離されると、その先はメインブースターが主役になる。こちらは細く長く燃焼して、推力よりも速度をかせぐ役割が大きい。
この頃《ころ》には高度も六十キロを越《こ》えている。飛行姿勢は水平に近いし、空気|抵抗《ていこう》もわずかなので、推力が弱くてもさほど損はしない。それよりも、より少ない燃料で効率よく加速することが重視される。
とはいえ、ブースターは燃焼とともに軽くなるから、加速度はどんどん上がる。燃焼終了まぎわには八Gにもなり、打ち上げ中で最大の加速になる。
この時が、茜にとっては第一の試練だった。
発射台の横で車を降りる。少し立ち止まって、そびえたつロケットを見た。
それから、三人でエレベーターに乗る。
地上は無風だったが、二十メートル上がったところは、少し風が吹いていた。
足元から細い橋がのびており、その先にオービターがあった。
さつきが言った。
「二人とも、気分はどう?」
「問題なし」
「いいです」
「それじゃ、がんばって」
「はい」
「行ってきまーす」
ゆかりと茜は、橋――ボーディングブリッジを歩いて渡った。
オービターのハッチを開き、あおむきの姿勢で座席にもぐりこむ。
ゆかりは左、茜は右。座席はそれぞれの体型に合わせて成型され、そこへ体をはめこむ形になる。
宇宙服のコネクターにケーブルをつなぎ、肩、胸、腰、膝《ひざ》を八本のハーネスで固定する。
動くのは頭と両腕だけになった。
重要なスイッチ類の位置を確認し、電源《でんげん》のマスタースイッチを入れる。
空調|装置《そうち》ON。室内|灯《とう》ON。
ハッチを閉めて外界から隔離《かくリ》されると、もう宇宙に片足をおいた気分になった。
二人は顔を見合わせた。
「いよいよだね」
「うん」
声は小さかったが、茜の気力は充実《じゅうじつ》しているようだった。軽く深呼吸して、眉《まゆ》をひきしめ、計器盤に視線を戻す。
「うん、おんなじだ」
茜はつぶやいて、言い直した。
「プロシージャ・シミュレーターとおんなじだね。何もかも」
「そう。加速は遠心機と同じだし、眺めもおんなじ、交信内容もおんなじ。ちがうっていったら――」
「行ってみないとわからない?」
「そそ。行ってのお楽しみ」
ゆかりは通信機のスイッチを入れた。
「ソロモン基地管制、こちらマンゴスティン。感度いかが」
『ほーい、ゆかり、感度艮好だよ』
陽気な声が返ってきた。基地側の交信は、原則としてバックアップの宇宙飛行士が担当する。同じ訓練を受けているので、「あ・うん」の呼吸で意思が通じるからだった。
マツリは、あれで仕事はちゃんとやるから、ゆかりは結構|信頼《しんらい》していた。ジャングル暮らしをやめてわずか三か月で単独飛行をしたからには、頭も悪くないはずだ。
イベントクロックはTマイナス一時間五十四分。
ゆかりはチェックリストを開き、ボールペンを持って読み上げにかかった。
「一、火成品セイフティ・ピン」
茜が状態を確認して、返答する。
「ロック」
「二、姿勢制御ハンドル」
「ロック」
「三、アボート・ハンドル」
「ロック」
こんなチェックを打ち上げまでくりかえす。宇宙飛行士を退屈《たいくつ》させないため、という噂《うわさ》もあるが、ゆかりは手を抜かないことにしている。
自分たちでしたチェックは、誰《だれ》かのチェックを信じるよりいい。
船内でチェックできる範囲《はんい》は限られているが、やれるだけやっておけば、その範囲は自分で太鼓判《たいこばん》が押せる。そして、あとは天命を待つのみ――という心境になれば、恐怖心《きょうふしん》を飼い慣らすことができる。
今回で五度めになるゆかりでも、やはり打ち上げは恐《こわ》い。
三メートル下には戦術|核《かく》兵器に匹敵《ひってき》する爆発物《ばくはつぶつ》があり、自分たちを数分でマッハニ十六に加速する。空軍の戦闘機《せんとうき》パイロットでさえ未知の領域に、スクーターも運転できない娘《むすめ》が挑《いど》むのだ。恐れをいだいたとして、誰が笑おう。
ゆかりはときどき目を上げて、茜の様子をうかがった。
茜はきびきびと、読まれた項目をチェックしている。
よしよし、ちゃんとやってる。
まあ、この子はまだいい。自分が初飛行するまで、SSAのロケットは打ち上げのたびに爆発していたのだ……。
Tマイナス三十五分。
外から、ごーん、という音が響《ひび》いてきた。
茜ははっとして、耳をそばだてた。
「……なに? あの音」
「移動|整備塔《せいびとう》が離《はな》れたの。順調に行ってる証拠《しょうこ》だよ」
「そうか。ちょっとびっくりしちゃった」
「こういう音はシミュレーターにないもんね」
船内のいろんな物音を、ゆかりは説明した。
「ジージーゆってるのは電源《でんげん》のインバーター。シャリシャリ鳴るのは液体酸素タンク。ときどきコーンって鳴るのも低温系で、問題はないんだって。あと風音はベンチレーターね」
「へええ……」
「打ち上げのちょっと前に液体酸素タンクを加圧するでしょ。そんときも結構、神経にさわる音するよ。チリチリ、メリメリって」
「五感、駆使《くし》してるんですねー」
「駆使ってわけじゃないけど。勝手に聞こえてくるから」
尊敬のまなざしで見られて、ゆかりはそう答えた。
Tマイナス十五分。
カウントダウンは順調に進み、はたしてチリチリ・メリメリが聞こえてきた。
「LOXタンク、プレッシャー正常」
『システムはすべて調子いいよ、ゆかり。茜のプレッシャーはどう?』
ゆかりがうなずくと、茜が答えた。
「マツリ、私は大丈夫《だいじょうぶ》。とってもわくわくしてるの」
『ほい。それはいいねー。しっかりしていれば悪い精霊は寄りつかないよ』
「うん、ありがとう」
Tマイナス五分。
打ち上げ五分前。もう船内は多くの装置《そうち》がアクティブになって、さまざまな音が混然《こんぜん》一体となっている。二人はヘルメットの気密バイザーをおろし、インカムを通して会話していた。もう、あまり私語はしない。
『フライトコントロールデータ、チェック』
「コントロールデータ、異常なし」
『時計動作チェック』
「時計作動中」
『APUスタンバイ・スイッチON』
「APUスタンバイ、ON」
Tマイナス三分。
『アクセスアーム収納。発射台、注水開始――通話音量、プラス二』
「通信音量、プラス二」
離昇《りしょう》中の轟音《ごうおん》にそなえて、通信機の音量を上げる。発射台の底を滝《たき》のように流れる水音が聞こえる。
「どうやらほんとに上がるね。ここまで来たら上がるよ、普通《ふつう》」
ゆかりは言った。茜は答えず、うなずくのみ。
『酸素|逃《に》がし弁閉鎖《べんへいさ》。離昇圧力』
「マンゴスティン、全装置正常」
Tマイナス六十秒。
『内部電力に切り替《か》え。オービター電圧チェック』
「電圧、異常なし」
Tマイナスニ十秒。
『固体ブースター、APUスタート』
「APUスタート。作動音《さどうおん》確認」
Tマイナス十四秒。
「さあきたぞ。全装置正常」
『ゆかり、茜、打ち上げはゴーだよ。Tマイナス十―九―八―七――メインブースター点火――四―三―ニ―固体ブースター点火』
オービター全体がゆらり、と揺れた。固体ブースターの打ち出す衝撃波《しょうげきは》が、高い可聴音《かちょうおん》となって船を包み込む。発射台の固定ボルトが吹き飛び、ロケットは解き放たれた。
体が沈み込む感覚。
『ランチサイトクリア――マンゴスティンはいま離昇したよ』
マツリが何事もなかったように告げる。
ゆかりは最初の報告を送った。
「こちらマンゴスティン、快適に上昇中。――茜、はじまったよ」
「はい」
かすれた声で、茜はそれだけ言った。
窓の外には空しか見えない。
速度は暴力的に上昇してゆく。重量がスペースシャトルの十分の一しかないSSAのロケットは、ミサイルのように急激《きゅうげき》に加速する。
船内の振動《しんどう》が刻々《こっこく》と高まってきた。
宇宙から見た大気|圏《けん》は紙のように薄《うす》いが、ロケットの最初の難所はこの中にある。それは空気|抵抗《ていこう》との戦いだった。最大動圧――マックスQと呼ばれるポイントの前後で、ロケットは雹《ひょう》に打たれたように振動する。それはTプラス六十秒、高度一万メートル弱にさしかかる頃だった。
『ゆかり、茜、そろそろマックスQだよ』
「ぜっ、全装置正常」
振動で舌を噛《か》みそうになりながら、ゆかりは短く答えた。
「いっ、生きてるっ? 茜」
「え、ええ」
「Gはしれてるよ。揺れは、じき、おさまるから」
「ええ、ええ」
一分ほどこらえると、振動は峠《とうげ》をこえた。
「マックスQ通過。全装置正常」
『よかったね、ゆかり、茜』
よかったね、なんて言うなよ、と思いながら高度計をにらむ。
高度はもう三十キロを越えている。仰角《ぎようかく》は約四十五度になり、二人は背面飛行の姿勢になっていた。だが、逆《さか》さ吊《づ》りになっている実感はない。地球が頭上にあるだけだ。
「窓の外、海が見えるよ」
「ああ、ほんと。真っ青」
「まだ平気?」
「なんとか」
Tプラス百四十秒。高度六十八キロ。
こーん、という音がして、固体ブースターが切り離《はな》された。
「SRBセパレーション点灯《てんとう》」
「くっ」
茜が小さくうめいた。固体ブースターが分離《ぶんり》した直後、Gが急増するのだった。
『固体ブースター、セパレーションはうまくいったよ』
だから、うまくいったなんて言うなよ。
茜の声が聞こえたのだろう。マツリはさらに余計なことを言った。
『茜、勝負はこれからだよ』
「え、ええ……」
懸命《けんめい》に声を絞《しぼ》り出した。胸が苦しげに上下している。
「マツリ、当分茜に話しかけないで」
『ほい、すまない』
オービターの先端《せんたん》についている緊急脱出《きんきゅうだっしゅつ》ロケットが切り離された。
Tプラスニ百六十秒。高度百七十キロ。
もう四Gを越えている。ゆかりも体の自由がきかなくなった。
することは計器の監視《かんし》のみ。報告は任意でかまわない。
四・五G……五G……六G……七G……
「もうちょっとの辛抱《しんぼう》だかんね……」
八G――そしてふいに、体重が消失した。
「メインブースター燃焼終了」
乾《かわ》いた音がして、メインブースターが切り離された。ブースター側の小型モーターが逆噴射《ぎゃくふんしゃ》し、オービターとの間隔《かんかく》を引き離す。
「MBセパレーション点灯」
『メインブースター、セパレーション。うまくいったよ、ゆかり、茜』
「うまくいったともさ。マンゴスティン全装置正常。えー、ちょっち交信中断」
念のため、ゆかりは通信機を「垂《た》れ流し」から「プッシュ・トゥ・トーク」に切り換《か》えた。音声が地上に送信されないようにして、茜に話しかける。
「茜、着いたよ。ほら……」
返事がない。
ゆかりはハーネスを解《と》いて、ヘルメットの奥をのぞきこんだ。
天使のような寝顔だった。
やっぱしか……。
バイザーを開き、頬《ほお》をつつく。
「茜。……茜、起きて」
「う……んん…ゆかり……」うっすらと目を開く。
「おはよう茜。宇宙だよ」
「…………」
茜は大きく息を吸い、まわりを見回した。
両手を顔の前にかざす。手は漂《ただよ》うように浮かんでいる。
茜は弾《はじ》かれたように顔を上げて、窓の外を見た。
「海!……それに雲……」
これが第一声だった。
「雲のへりが虹《にじ》色……そか、スコールなんだ! スコールって、上から見ると虹なんだ! うわあ……」
まるで、初めて電車に乗った子供だった。
「どう? きれいでしょ」
「すごいね、ゆかり……地球って、きれいなんだねー」
茜は目を輝《かがや》かせて言った。
「でしょでしょ」ゆかりは満足げに言った。
来ちゃいましたで正解だったよ、茜。
ここに来れば、ネリ女のことなんか、どうでもよくなってくるんだ。
あそこを呪《のろ》ったのは不覚だったけど、一度で充分《じゅうぶん》だ。
「でも、ほんとに感動なのは船外活動のときだよ。その前に基地のみんなを安心させてやらない?」
「あ、そうね」
「交信記録に残るから、気絶してたことは言わなくていいよ。どうせ医学モニターでばれてるからさ」
「……そうか」
茜は悄然《しょうぜん》とした。
「やっぱり気絶しちゃったんだ……」
「いいって、まだ訓練中なんだから。さあ、第一声いってみよ」
「うん」
西はうなずき、トークボタンを押した。
「ソロモン基地、聞こえますか。こちらマンゴスティン、茜です」
『ほーい、茜! 宇宙はどう?』
「虹が見えたの。とってもきれいだったよ!」
『よかったねー。茜はいいものを見たよ』
「ありがとうマツリ。基地の皆さんにも、ありがとう」
ゆかりが後をついだ。
「てなわけで軌道変更《きどうへんこう》の準備に入るから、交信終了ね」
『ほい、こっちもプログラムができしだい送るよ』
さあ、最初の正念場《しょうねんば》だ。ゆかりは念をいれて、各|装置《そうち》の点検《てんけん》にとりかかった。
宇宙に出たからといって、じっとしていても浮いていられるわけではない。シャトルもマンゴスティンも、秒速七キロ以上のスピードで周回していなければ地球に落ちてしまう。
マンゴスティンはいま、高度二百キロの円軌道に乗っている。
目標のスペースシャトルはそれより百キロ高い円軌道にいる。
中心の等しい大小二つの円を紙に描《えが》いたとしょう。小さい円がマンゴスティン、大きい円がスペースシャトルのいる軌道をあらわす。
ここで、小さい円の六時の位置と、大きい円の十二時の位置を結ぶ楕円《だえん》を描く。
これから行なうのは、六時から十二時へ、楕円を半周しながら上昇する飛行だった。
軌道を上昇するためには、速度を上げなければいけない。
六時の位置で正しく噴射《ふんしゃ》すると、この楕円軌道に乗れる。
だが、そのままでは十二時の位置を通ったとき、楕円の下り坂に入ってしまう。
だから十二時の位置で、もういちど噴射してシャトルと速度をあわせる。
もちろんこのとき、スペースシャトルがそこにいなければならない。
ランデヴーするには、一度限りのタイミングで二度の噴射を正確に行い、相手と位置・速度・方向のすべてを一致させなければならない。これはただ宇宙に出るだけの飛行より、桁外れに難しい技術だった。
ちょっとでももたついてタイミングを逃《のが》すと、すごすごと地上に引き返す羽目《はめ》になる。
SSAの威信《いしん》などどうでもよかったが、そんなみっともない真似《まね》だけはしたくない。
ことにゆかりの場合、とかく好奇《こうき》の目で見られ、飾《かざ》り物《もの》だとか、実は全部コンピューターがやってるんだろうとか言われることが多いのだ。
「……なまじルックスがいいから不幸なんだよなあ。あたしって」
「え?」
「なんでもない。茜はアンテナ系統、全部チェックして。あたしはエンジンみるから」
「はい」
オービターの背面部では耐熱《たいねつ》シールドの蓋《ふた》が開いて、軌道変更に使うOMSエンジンのノズルが顔を出している。燃料はモノメチル・ヒドラジンと四酸化|窒索《ちっそ》。さらに燃料を圧送するのにヘリウムガスも使う。
この方式は二種類の燃料を触《ふ》れ合わせるだけで点火《てんか》するので、動作は確実だった。エンジンをコントロールするのは結局、多数のバルブなので、ゆかりは水道屋の仕事に似ていると思っていた。
胴体《どうたい》下部からは小型のパラボラアンテナが開いて、NASAの静止通信衛星TDRSを指向する。この衛星通信|網《もう》を借りることで、軌道上のどこにいても地上と交信できた。
「TDRSとのデータリンク、成立しました」
「よしよし。これでもう、シャトルの連中とつながるわけか」
「そのはずですけど。話してみます?」
「楕円軌道に乗ってからにしよ。見得《みえ》切ったあとでトラブったらみっともないもん」
「はは、そうですね」
ACT・6
「見えたぞ、あれか……ほんとに打ち上げから二時間半で来たんだな」
天井《てんじょう》の観測窓から双眼鏡《そうがんきょう》を覗《のぞ》いていたルイスが言った。
「大昔のジェミニ宇宙船にそっくりだ……日本もとうとうここまで来たってわけか」
「みかけは似てるが、あの形態で再突入《さいとつにゅう》する完全再使用型だ」
船長が言った。
「耐熱《たいねつ》タイルひとつとっても、いきなり海面にとびこんで平気って代物《しろもの》だ。連中をなめないほうがいい。我々より一世代新しいテクノロジーを使ってる」
それから、エアロックで待機しているノーマンを呼んだ。
「マンゴスティンは三キロ下方だ。予備呼吸は終わったか?」
『いつでも出られます』
「向こうがRMAをつかむまで出ちゃいかんぞ。噴射をかぶるかもしれん」
『わかってますよ』
そのとき、通信機に子供のような声が流れた。日本なまりの英語だった。
『スペースシャトル・アトランティス、こちらSSAオービター・マンゴスティン。貴船を肉眼で確認しました、オーバー』
「マンゴスティン、こちらアトランティス。感度艮好だ。いつでもアプローチしてくれ」
「了解《りょうかい》。あと四分でランデヴー・シーケンスを終了します』
遠地点《えんちてん》噴射《ふんしゃ》が終わると、二|隻《せき》の宇宙船は一キロの距離《きょり》をおいて相対的に停止した。
「よーし、シーケンス終了。誤差《ごさ》百メートルってとこか」
「ぴったりでしたね」
「ドッキングもかっこよく決めるぞ」
ゆかりはRCSを手動モードにして、船首を少し下げた。
窓から見える範囲《はんい》にシャトルが入る。
シャトルは機首を地球にむけて、どっしりと棒立ちになっていた。
左右の翼《つばさ》の上にペイロードベイ・ドアが開いていて、銀色の放熱板がきらきらと光っている。中央にはあの、オルフェウスらしきものが見えた。
茜は小さな歓声《かんせい》をあげた。
「うわぁ……なんて立派な船なんだろ」
「一キロおいてあれだから……やっぱりでかいよね」
ゆかりは操縦|桿《かん》のボタンを押した。こつん、という感じで背中が押される。
「ソロモン基地、こちらマンゴスティン。手動操船《しゅどうそうせん》でドッキングを開始する」
『ほい、マンゴスティン了解《りょうかい》。NASAはヒドラジンをぶっかけられないか心配してるよ。上手《じょうず》にやろう、ゆかり』
「ヘマをしたのはそっちだろって言ってやんな」
『木下さんに伝えておくよ。これから共通チャンネルに切り換《か》えるね。日本語はここまでだよ』
「了解」
茜が通信機のチャンネルを切り換えた。
「アトランティス、こちらマンゴスティン。距離三百メートルに接近」
『了解、マンゴスティン。RMAが見えるか』
「よく見える」
RMA――速隔操作《えんかくそうさ》アームは、シャトルの機首付近からマストのようにほぼ垂直に張り出していた。
こちらも、小型のRMAを持っている。それで向こうのアームの先端《せんたん》をつかみ、ロープをかけて係留《けいりゅう》すれば、ドッキングは完了したことになる。
「RMA、めいっぱい外に伸ばしちゃって。よっぽど信用がないんだな」
「やっぱり、そうなんですか」
「噴射《ふんしゃ》で汚《よご》れるのがやなのよ。ていうかニアミスが恐《こわ》いんだろうね。連中、臆病《おくびよう》だから」
「うまくできるかしら……」
「なによ、あんたまで」
「いえ、私のRMA操作がです」
操船はゆかり、RMAで相手をつかむのは茜の担当だった。
「大丈夫《だいじょうぶ》だって。RMAはシミュレーターと違和感《いわかん》ないよ。そおっと伸ばして、パッとつかむ。思い切りよくね」
「そっと伸ばしてパッとつかむ……うん」
茜は自分に言い聞かせた。
話しているうちに、船はシャトルの目前にきた。
ゆかりは小刻《こきざ》みな噴射を数回やって、船を相手のRMAの先端に寄せ、停止させた。
『うまいぞ、マンゴスティン。こっちはやることがない』
シャトルのRMA担当が言ってきた。必要ならシャトル側のRMAで追いかける手順だった。
「どういたしまして。では先端部の捕捉《ほそく》にかかります」
茜が右手でRMA用の操縦|桿《かん》をにぎった。左手はモードセレクターに置いている。
船首に折りたたまれていた腕が起き上がって、前方に伸びた。
腕の全長は二・四メートル。十五メートルもあるシャトルのRMAに比べると、動きは機敏《きびん》だった。
末端の二本指を、平板状の目標に寄せる。
「うん――いいよ、その調子」
船が小さいので、RMAを動かすと反動で船もわずかに動く。茜は教科書どおり、反動ができるだけ船の重心を貫くように操作している。
「いいかしら、つかんで」
「やっちゃえ!」
操縦桿のボタンを押すと、金属の指がすっと閉《と》じて、目標をつかんだ。
「できた!」さらにボタンを押し込んで「ロックオン」
「うまい!……アトランティス、そちらのRMAを捕捉。これより船外活動に入ります」
『お見事。こう順調にいくとは思ってなかったよ』
シャトルの装置がどうだか知らないが――
ゆかりは思った。
小さくて機敏なものは、すべてうまくいくんだ。
二人はハーネスを解《と》くと、座席の背もたれに埋《う》め込まれているバックパックを背負った。
バックパックには小型の生命|維持装置《いじそうち》と通信機が内蔵されていて、二時間の船外活動ができる。大きさはデイパックとたいして変わらない。
ケーブル類を宇宙服に接続し、動作を確認する。
ゆかりは茜の装置も念入りにチェックした。
「ここが正念場《しょうねんば》だからね。リラックスしつつ慎重《しんちょう》に、あわてず急がずテキパキと」
「はい」
「地球を眺めるのは後回しだよ。外へ出たらまず上下感覚をシャトルにあわせるの。いまこっちはシャトルの真上にとりついて、旗竿《はたざお》のコイノボリみたいになってる。外へ出たら、体はむやみに回転させないこと」
「はい」
二人はケプラー繊維《せんい》の命綱《いのらづな》を結び、ヘルメットの気密バイザーをおろした。
「通話テスト」
「音声|明瞭《めいりよう》です」
船内の空気を抜き、ハッチを開く。
「よし、行くよ」
「はい」
クルー全員が後部観測窓にむらがっていた。
「見ろ、もう出てきたぞ!」
「信じられん。ドッキングから十分もたってないのに」
スケジュールは聞いていたが、事実を前にした驚きは格別だった。
シャトルの船外活動は、準備に二時間以上かかるのが常だった。NASAの宇宙服は内圧が低いので、長時間かけて減圧環境《げんあつかんきょう》に体を順応させないと外に出られない。
一人めが外に出て、船首にまわりこんだ。腰のポーチからロープを出して、あっという間に船をRMAに係留《けいりゅう》する。
「いまのロープワークを見たか? 宇宙空間でシープシャンクをしたぞ」
「それにしても、なんてキュートな宇宙服なんだ!」
ルイスが感に堪《た》えたように言った。
「まるでエヴァだ……」
「エヴァ・ガードナーか?」
「ちがう。帰ったらテープを貸してやる」
二人めが出てきた。
こちらは、最初のより動きが遅い。慎重《しんちょう》に船殻《せんこく》をつたって移動している。
二人はシャトル側のRMAに乗り移り、中ほどまで降りてきた。片手で体を保持して、こちらを向く。
『アトランティスのみなさん、こんにちは。こっちが見えますか?』
「ずっと釘付《くざづ》けになってる。天使に会った気分だよ」
『いま左手をあげてるのか私、船長の森田ゆかりです』
「アトランティスにようこそ、ゆかり。船長のウェイン・バークハイマーだ」
「よろしく、バークハイマー船長」
「ウェインと呼んでくれ。お隣《となり》は?」
『ええ……ミッション・スペシャリストの三浦茜です。よろしくお願いします』
「よろしく、茜」
『宇宙服のカラー・ストライプで識別してください。ビンクはゆかり、ブルーは茜です』
「了解《りょうかい》した。二人とも素敵だよ」
『では、回収作業に入りますので』
「こちらも一人外に出すよ。――ノーマン、天使たちを御案内してくれ」
『了解。これからエアロックを出る』
だが、ノーマンが外に出た時、二人はすでにオルフェウスの上段エンジンにとりついていた。マンゴスティンからのびた命綱の末端《まったん》はRMAの根元にもやってあり、二人は互《たが》いを命綱で結んで移動していた。
ノーマンは急いで二人のほうに向かった。だが、七、八メートルの距離をつたい歩くうちに、一人はもう中に入ろうとしていた。
「おい、ちょっと待ってくれ。――あんたはアカネか」
茜はトラス構造に突っ込んだ頭を出して、声の主《ぬし》を探した。
こちらを見た茜が、びくりとしたのがわかった。
「ああ、どうした?」
「すみません。大きいので、ちょっとびっくりしちゃって」
「俺《おれ》がか? 別に噛《か》みつきゃしない。いまそっちへ行く」
ノーマンは上段エンジンのカバーを這《は》い上がった。
ゆかりがさっと手を伸ばして、男を引き寄せた。
「すまん」
こいつらに比べたら、俺はディズニーランドの着ぐるみだな……。ノーマンは思った。
ニ人の娘《むすめ》は恐《おそ》ろしく小さく、細く見えた。ウエストは自分の宇宙服の腕くらいしかない。
しかし――成熟《せいじゅく》しているとはいえないが――女としてのあらゆる曲線を備えてもいる。高度三百キロを飛行するシャトルのペイロードベイにあって、それは非現実的な眺めだった。
金コーティングの遮光《しゃこう》バイザーを上げているので、相手の顔もはっきり見えた。
二人とも人形のような顔立ちだな、とノーマンは思った。
「問題のバルブだが、この奥にある。リングの中央からエンジン側に空洞《くうどう》があるだろう?」
「その空洞の奥の、ヘリウムタンクの裏ですよね」茜が言った。
「そうだ。よくわかるな」
「一夜漬《いちやづ》けは得意なんです」
「そうか。だが気をつけてくれ。まわりは危険なタンクばかりだぞ」
「わかってます」
「始めようか、茜」
ゆかりが言った。
「まずは偵察《ていさつ》のつもりで潜《もぐ》ってみよう。無理せずにね。CGより入り組んだ感じだから」
「はい」
ここまでの船外活動で、茜はかなり自信をつけたようだった。実際、スキンタイト宇宙服での作業は、スキューバダイビングと大差ない。だが予行演習の映像に比べると、実物はあちこちに小さな突起《とっき》があって、そんなに楽ではなさそうだ。
茜はトラス構造の中に入った。
「もすこし、左に寄って」
「はい」
「いいよ、そのまま」
「いま頭が中心に来ました。これからターンします」
少しして、茜は報告した。
「バルブを見つけました。あと一メートルくらい……あれ?」
「どうした? よく見えないが」
「バックパックがつかえてるみたい」
「茜、無理しないで」
「ええ……向きをかえてやってみます」
「どう?」
「あと五十センチなんですけど……」
「無理するな。別のアプローチを考えよう」
「茜、いったん戻って」
「戻ります」
茜は足から先に出てきた。
ヘルメットの奥の顔は少し汗ばんでいた。
「途中《とちゅう》に握《にぎ》り拳《こぶし》くらいの出っ張りがあるんです。それがつかえちゃって」
「道具を使ってみたらどうだ。“孫《まご》の手”みたいなものがあるが」
「まっすぐな棒では難しいと思います。入り組んでて」
「そうか」
それから茜が言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》、できますよ。バックパックを外してやってみます」
「なに……?」
ノーマンは唖然《あぜん》とした。
「バックパックを外すだと!?」
「茜、それならあたしがやるよ」
「おい、ちょっと待て。バックバックを外したら即死《そくし》だぞ!」
「即死はしませんて」
ゆかりが言った。
「接続はクイック・ディスコネクターになってます。真空中で外してもエアは漏《も》れません」
「しかし、ヘルメット内の空気なんて一分と持たんぞ!」
「素潜《すもぐ》りでも一分は楽勝でしょ? 手際《てぎわ》よくやればできますよ」
「だが、中で何かあったらー」
「大丈夫。あたしがやります。茜は今回が初飛行だから」
「いいえ、ゆかり、私にやらせて」
「茜――」
「大丈夫、自信あるんです」
「無線も使えなくなるんだよ?」
「酸素分圧を上げて飽和《ほうわ》呼吸します。三分は持ちます。それでも出てこなかったら命綱《いのちづな》を引いてください」
「…………」
ゆかりはヘルメットごしに、茜の顔を見た。
水のように澄《す》んだ瞳《ひとみ》――いけるかも。
「わかった。まかせる」
「おい!……船長、聞いてますか! こんなことがあっていいのか――」
ウェインが応じた。
『ゆかり、SSAの安全規定は知らないが、前例のない危険|行為《こうい》に思える。許可していいのか?』
「SSAじゃ、船外でバックパックを交換《こうかん》するのは当たり前なんです。その延長だと思えば、どうということはありません」
『しかし、万一ということもある。もし中で手間取ったら……』
「スキンダイビングと同程度の危険はあります。アメリカじゃそういうレジャーは禁止なんですか?」
『……わかった、君たちを信じょう』
ゆかりがうなずくと、茜は生命|維持装置《いじそうち》の操作にかかった。
酸素分圧を上げ、小刻《こきざ》みに深呼吸を始める。
「やりすぎないようにね。思考力なくすから」
「わかってます」
それから、手際よくバックパックを外し、ハンドライトを手首にはめた。
ゆかりはヘルメットを接して、声を届《とど》けた。
「今日は何曜?」
「ソロモン諸島は木曜です」
「よし。気をつけて」
「はい」
茜は人魚のような身のこなしで、つい、と潜り込んだ。
ゆかりは腕のクロノグラフをスタートさせた。
顔をあげると、ノーマンがこちらを睨《にら》み付けていた。
だが、何も言わなかった。
二人は息を殺して待った。
分針が二周したとき、トラス構造の奥で何かが動いた。
白い手袋――そしてバルブ。
「きたっ!」
ゆかりは手を伸ばしてバルブをつかんだ。それをノーマンに手渡すと、急いで手を中に戻し、茜の右手をつかんだ。
茜はするすると全身を現した。大急ぎでバックパックを装着《そうちゃく》する。電気系統のコネクターをつなぐと、インカムから荒《あら》い息が聞こえた。
「大丈夫!?」
茜の声は、大きく弾《はず》んでいた。
「最初より、ずっと簡単でした」
「こいつはぁ!」
ゆかりは思わず茜を抱きしめた。
「コンプリート・サクセスだよ! さっすが優等生!」
「あはは、お荷物にならなくてよかったぁ!」
「着替《きが》えも積めないのに、お荷物が積めるわけないじゃん!」
「それもそうですね! うふふっ」
日本語で盛《も》り上がっていると、バークハイマー船長が割り込んできた。
『アリガトゥ――私の知ってる目本語はこれだけなんだが』
「あ、すみません」
『いやいや、気持ちはアリガトゥさ。狭苦《せまくる》しいところだが、ミッドデッキで歓迎《かんげい》パーティーを開きたい。来てくれるかね? ソロモン基地の許可はもらってあるんだが』
本来のミッションへの影響《えいきょう》を最小限にとどめるため、シャトル船内への訪問《ほうもん》はしないことになっていた。SSAの参加は、あくまでダメモトのお手伝いだったのだ。
ゆかりはただちに答えた。
「よろこんで、招待《しょうたい》をお受けします」
ACT・7
円柱形のエアロックを抜けると、そこがミッドデッキだった。正面には白いロッカーが並び、右は三段の寝棚《ねだな》、その横が小さなギャレイ。左側はトイレと昇降ハッチ。
残った二|畳《じょう》ほどの空間に、Tシャツとショートパンツ姿の男三人が待っていた。
ゆかりと茜は、ヘルメットを脱《ぬ》いで脇《わき》に抱《かか》えた。
おお〜う、という声がもれる。
いつもの反応だった。どういうわけか男どもの目には、ヘルメットを脱ぐシーンがこの上なく魅力的《みりょくてき》に映るらしいのだ。
「ようこそ、アトランティスへ」
船長が握手《あくしゅ》を求めてきた。歳《とし》は五十代の前半というところ。面長《おもなが》で、ぼさぼさした感じの口髭《くちひげ》をたくわえている。着くずした英国紳士という印象だが、シャトルの船長といえば米軍のテストパイロット出身と相場《そうば》が決まっている。
「素晴《すば》らしい活動だった。君たちは我々が五日がかりでできなかったことを五分でやってのけたんだ。いさぎよく脱帽《だつぼう》するよ」
「脱帽だなんて、とんでもありません」
ゆかりはまず如才《じょさい》なく言った。
「でも、この子の働きは自慢《じまん》してもいいかな。SSA期待のルーキー、三浦茜です」
「あっ、いえ、そんな――」
謙遜《けんそん》もむなしく、茜はたちまち握手ぜめにあった。
それから、クルーの自己《じこ》紹介《しょうかい》。
パイロットのルイスは空軍出身の三十七歳。眉《まゆ》のあたりが、どこか石坂浩二に似ている。なぜかいきなり、いま日本でいちばん流行《はや》っているアニメは何か、と聞いてきた。
茜は答えられず、ゆかりが適当に「バラモンボールZかな」と言うと、「それはすでに終了したはずだ」と指摘《してき》してきた。
MSのゴードンは三十一歳で、航空機メーカーからNASAに転職した。金髪《きんばつ》のハンサムだがちょっと神経質そうでもある。今度のトラブルは彼のRMA操作が原因だっただけに、ほっとした様子だった。
二人はチューブ入りのジュースや、ビスケット、フリーズドライのアイスクリームなどを振舞《ふるま》われた。私物を入れたロッカーから板チョコやガムを出してくる者もいた。美味《おい》しいものはなかったが、いろいろ選べるのは確かに楽しかった。
その頃《ころ》になって、エアロックからノーマンが現れた。クルーカットの大柄《おおがら》な男だった。もし地上で前に立ったら、胸板しか見えないだろう。
ヘルメットとバックパックは外していたが、かさばる宇宙服はそのままだった。ミッドデッキはいきなり人口過密になり、五人は天井《てんじょう》や床《ゆか》まで利用して場所をつくった。
「すまないが、先に始めさせてもらったよ。ご苦労だった」
船長が労《ろう》をねぎらう。
「私は何もしませんでしたよ。すべて彼女たちのおかげです」
ノーマンは憮然《ぶぜん》とした声で、そう答えた。
改めて見ると、彼の宇宙服はとてつもなく不格好だった。ドラム缶《かん》を毛布でくるんだような胴体《どうたい》。腕も脚も断面は円筒《えんとう》で、人体の美などかけらも表現できない。
「スモウレスラーみたい」
ゆかりが何気なく言うと、ノーマンはむっとした顔になった。
「君のような宇宙服があれば、遅れはとらないさ」
「その体格じゃ、どのみち入れなかったと思うけど」
「…………」
一瞬《いっしゅん》、白い空気が流れた。
船長が咳払《せきばら》いして言った。
「あー、どうだね君たち、コクピットを見ていかないか」
「そうですねっ、ぜひ見せてください!」
茜が必死で同意する。ゆかりは気のない顔で言った。
「それもいーかな。七十年代の枯《か》れた技術ってやつを見るのも」
こんどは茜が険《けわ》しい目でこちらをにらんだが、ゆかりは知らんぷりをしていた。
二人は船長に先導され、天井の穴を通ってアッパーデッキに移った。
写真やビデオで見ると広く感じるが、実際のコクピットは寝台つき長距離トラックの運転台と大差なかった。
「天井と床以外はすべて計器類で埋《うま》まってるんだ。正面は飛行制御をするところで、旅客機と大差ない。右はミッション・オペレーション、左はペイロード・オペレーションに使う。背面はRMAの制御やドッキング操作をするんだ」
「座席は二つなんですね」茜が言った。
「そう。座る必要があるのは飛行制御だけだからね。そこに足を固定する台があるだろう。高さが調節できるから、君のような小柄な人でも大丈夫だよ」
「ほんとだ。親切な設計ですね」
「スペースシャトルにはいろんな人が乗るからね。体格はもちろん、人種も宗教もまちまちだ。そうした人々を、幅広《はばひろ》く受け入れる設計だ」
「そのへんがSSAとは違うってわけね」
「ゆかり!」
茜はとうとう怒りをあらわにして、日本語で言った。
「どうしてそんな言い方するの。ここの人たちが何か悪いことした?」
「してないけどさ」
「だったらどうして」
「NASAみたいな権威《けんい》を前にすると、無性《むしょう》に反抗《はんこう》したくなる性格なの」
「だけど――宇宙では人間関係を大切にしなきゃ!」
「あんたってほんっとに優等生ねえ! 教科書みたいなこと言わないでよ。こんなとこ、すぐおさらばするんだもん、どーだっていいじゃん!」
船長が気遣《きづか》わしげに見ている。表情や語調から見当がつくのだろう。
茜は静かに言った。
「……私は、出会いって、大切にしてる」
「あーそ」
「いま別れても、また会うかもしれないもの。それが人生を変えることだってあるもの」
「いい奴《やつ》ならいいけどね」
「私、ゆかりに出会ったから、ここまで来られたんだもの」
「……そこへもってくわけ?」
茜はうなずいた。
「あの時――ヘリに乗ってって言われた時、すごくおっくうだったよ。だけど思い切って踏み出したの。なにか始まりそうな気がしたから」
茜はちょっと笑顔になった。
「それでますます、出会いってことに味しめちゃったのね。今度もいいことあるかもって」
「そーゆーのをお人好しっていうのよ」
「うん。私、お人好しでいい」
あっけらかんとした笑顔を見て、ゆかりはため息をついた。
あたしの相棒って、なんでこう能《のう》天気な奴が多いんだ?
「わかったよ……ノーマンだっけ、あいつに謝《あやま》ってくりゃいいんでしょ?」
茜は嬉《うれ》しそうにうなずいた。
ゆかりは船長に断って、ミッドデッキに降りた。
ルイスとゴードンがスニッカーズか何かをかじっていた。
「あれ? ノーマンは?」
「エアロックで予備呼吸してるよ」ルイスが答えた。
「また外に出るの?」
「そう。君たちが持ってきた新しいバルブを取り付けるためにね」
「予備呼吸って、二時間くらいかかるんでしょ?」
「そうだよ」
「…………」
もしかして――歓迎《かんげい》パーティーに出るために、わざわざ戻ったのか?
「彼に用事かい? インカムで話せるよ」
「ううん、いいの」
バックパックの酸素を補給《ほきゅう》しに戻ったんだ、きっと。
ゆかりはそう考えることにした。
「ところでゆかり、記念品|交換《こうかん》をしないか?」
ルイスが言った。
「ロシアの連中とドッキングしたときもやったんだ。これなんかどうかな」
ルイスはポケットから布製《ぬのせい》のワッペンを取り出した。オルフェウス・ミッションの文字を織り込んだ特製品だった。
「へえ……凝《こ》ってるんだね。でもあたし、交換するようなもの持ってないし」
「なんでもいいんだ。メモ帳でも、ボールペンでも」
「ペンならあったかな」
ゆかりはウエストボーチからフィッシャーのボールペンを出した。
「いちおう、ソロモン宇宙協会のロゴ入り。こんなのでいい?」
「いいよ、最高だよ!」
ルイスは心から嬉《うれ》しそうに言った。
その時、上から船長が呼んだ。
「ゆかりも来てくれないか。オレアリー博士がぜひ話したいと言ってる」
「オレアリー?」
アッパーデッキに移動しながら、ゆかりは聞いた。
「オルフェウスの計画主任だ。君たちにひとこと礼を述べたいそうだ」
そういう話なら、出会いもやぶさかではない。
ゆかりと茜は、操縦席のバックレストにつかまり、インカムをはめた。
「あんたが主役だかんね。応答はまかせる」
「いいんですか」
「出会いよ出会い。好きなんでしょ?」
特に科学者って人種がさ。
茜はうなずき、トークボタンを押した。
「こちらアトランティスの三浦茜です。こんにちはオレアリー博士」
『君が……あのバルブを取り出してくれたのかね? バックパックを外して』
「そうです」
『ありがとう……』
語尾《ごび》が少し震《ふる》え、しばらく搬送音《はんそうおん》だけが聞こえた。
『……そうとしか言えないんだ、茜。私がどんなに喜んでいるか、うまく伝えられたらいいのだが……』
茜は小さく咳払《せきばら》いして答えた。
「よくわかります、博士。オルフェウス探査機《たんさき》は十年も眠っていたと聞きました」
『計画がスタートしたのは、二十二年前だよ』
「二十二年前……」
茜は息をのんだ。
『冥王星《めいおうせい》はつまらない星だと考えられていてね。何度も議会で予算がカットされた。そしてチャレンジャー爆発事故《ばくばつじこ》があった』
「そうですか……」
『オルフェウスの推進には強力な液体燃料エンジンが必要だった――冥王星は遠いからね。だが、あの事故以来、そうしたエンジンをシャトルで運ぶのは難しくなった。安全基準が厳しくなってね。無理もない判断だとは思うが……ああ、こんな話は退屈かね?』
「聞かせてください、もっと」
『冥王星が脚光をあびはじめたのは最近のことだ。冥王星は冷えきった小さな天体で、惑星《わくせい》としては見栄《みば》えのするものじゃない。だが近年の研究から、それは惑星というよリカイパーベルトを代表する天体だという見方がでてきた』
「カイパーベルト……彗星《すいせい》の故郷っていわれてる場所ですか」
『そうだ』
カイバーベルトは冥王星|軌道《きどう》のすぐ外側に存在するといわれる、リング状の領域だった。
ここには望遠鏡でも見えない微小天体が無数に存在する。それらは凍《こお》りついた天体だが、何かのきっかけで軌道が乱れて太陽のそばに来ると、華麗《かれい》な彗星として開花する。
彗星にはもっと遠方から飛来するものもあるが、軌道周期の短いものはカイパーベルトの出身とする説が有力だった。
そしてこのカイバーベルトの入り口に君臨《くんりん》するのが、冥王星なのだ。
「じゃあ、冥王星が、彗星族の大親分だと……?」
『それを知りたいんだ。外惑星系をめぐり歩いたボイジャー探査機も、冥王星だけは取りこぼした。冥王星は近接探査の行なわれていない最後の惑星なんだ。オルフェウスがそこに到達すれば、天文学の教科書は書き換えられるだろう』
「到着は、いつになりますか?」
『十二年後だよ。光でさえ四時間かかる距離だからね』
それから、博士はたずねた。
『そのとき君はいくつになる?』
「二十八歳です」
マイクを通して、ほう、という息づかいが聞こえてきた。
『素敵だな。君がうらやましいよ。私はさっきまで、生きて冥王星の近接写真を見ることに絶望しかけてたんだ。だが――決めたぞ。今日から煙草とドーナツはあきらめよう!』
博士は陽気な声になって言った。
『君のおかげだよ。ほんとうに、ありがとう』
「博士も、どうかお元気で……」
交信が終わっても、茜はしばらく動かなかった。見ると泣いていた。
ACT・8
今回の緊急《きんきゅう》ミッションでは、回収チームの配置が万全ではなかった。仕事を終えたらさっさと帰還《きかん》したいところだが、なにぶん急な飛行だったので、回収はソロモン基地の近海でしか行えない。
自分たちの軌道《きどう》の直下にソロモン基地が来るのは十二時間おき、夜間の回収を避《さ》けるなら二十四時間おきになる。仕事が早く終わっても、それまでは軌道上で暇《ひま》をつぶさなければならない。
ゆかりと茜は、帰還を待つ間、シャトルでごろごろしていることになった。
二人はフリーズドライのイチゴをつまみながら、後部観察窓からオルフェウスの発進準備を見物していた。
宇宙服を着たノーマンとゴードンが取り付いて、何かごそごそやっている。
「じれったいなあ……道具持ち替えるのに何分もかけるなよ。きりきりやらんかい」
「それはノーマンさんたちのせいじゃなくて――」
「わかってるけどさ。あーもう、手伝いにいってやろうかなあ!」
「喜ばないと思うけど。男の人って、そういうの嫌《いや》がるでしょう」
「だろうけどさ……」
彼らにとっては、名誉挽回《めいよばんかい》の時だった。おせっかいを慎《つつし》むぐらいの分別は、ゆかりにもある。
実際、彼らの忍耐《にんたい》力は見上げたものだった。一度外に出たら、作業は何時間も続く。飲料水とキャンディーはヘルメット内に装着《そうちゃく》されているが、休憩《きゅうけい》らしいものはとっていない。
そして、あのタイプの宇宙服は一挙一動が筋力トレーニングなのだ。
自分には、とてもできないな――とゆかりは思った。
異変が起きたのは、シャトルに来て五時間が経《た》った頃《ころ》だった。
そのとき二人はミッドデッキにいた。
『何が起きたんだ!』『伏せろ!』
そんな声がスピーカーから聞こえた。
茜とともにアッパーデッキに上がってみると、船長とルイスが後部観測窓にとりついていた。
「二人とも大丈夫か!」
船長が怒鳴《どな》るように言った。
外を見たゆかりは、愕然《がくぜん》とした。
オルフェウス探査機《たんさき》と上段エンジンが消えていた。
がらんとしたペイロードベイの中央で、ノーマンとゴードンがきりきり舞《ま》いをしていた。
『大丈夫だ。ガス圧を感じたが、生命|維持《いじ》に支障《ししょう》はない。だが――ちくしょうめ、あいつはいっちまった!』
「落ち着くんだ、ノーマン。まず船に戻れ。対策《たいさく》を検討《けんとう》しよう」
「何があったんですか!」ゆかりが聞いた。
「上段エンジンが暴発《ぼうはつ》したようだ。二人は無事だ」
「エンジンが爆発!?」
「暴発だ。なんらかの原因でエンジンに点火したらしい」
ヒューストンのジョンソン宇宙センターから呼び出しが入る。
『アトランティス、こちらヒューストン。トラブルをビデオ映像で確認した。状況《じょうきょう》を報告せよ』
「ヒューストン、人命に損失はない。船外活動中の二人はいま船内に引き返すところだ。詳細《しょうさい》は追って報告する」
「いま噴射《ふんしゃ》が止まった。燃焼そのものは制御されていた感じだ――ああ、もう見えない」
ルイスが言った。彼は窓にとりついて、。双眼鏡《そうがんきょう》でオルフェウスの行方《ゆくえ》を追っていた。
「ノーマン、聞こえるか」船長が言った。
『いつでも通話できる。いまエアロックだ』
「タグの状態を確認したい。オルフェウスの遠隔《えんかく》操作はできるのか」
『遠隔操作はできない。安全タグはついたままだ』
「ゴードン、同じ質問だ」
『直前にタグがついているのをこの目で確認した。その上で固定金具をリリースしたんだ』
「ではなぜ暴発したか、思い当たるか」
『わからん』
「ヒェーストン、状況を報告する。オルフェウスは安全タグをつけたまま、なんらかの原因で上段エンジンに点火した。燃焼はおよそ三分で停止した。今わかるのはそれだけだ」
『了解《りょうかい》。こちらでオルフェウスのテレメトリをチェックしている。何かわかりしだい連絡《れんらく》する』
あわただしく交信していて、割り込むのははばかられた。
ゆかりはミッドデッキに戻った。ちょうどエアロックのハッチが開いて、ノーマンが出てきたところだった。ノーマンはすぐにハッチを閉めて、インカムで「入っていいそ、ゴードン」と言った。
宇宙服の右腕のネームプレートのようなものが、黒く焦《こ》げていた。ヘルメットの片側も白濁《はくだく》している。
「ノーマン、大丈夫!?」
「平気だ」
ノーマンは短く言った。
汗のにじんだ顔は、険《けわ》しかった。ゆかりは殺気のようなものを感じた。
ノーマンは装備を解きはじめた。
「あの、手伝えることある?」
「女には手伝わせたくない」
「汗も尿《にょう》も平気だよ」
ノーマンはゆかりを一瞥《いちべつ》した。
「なら下半身を支えていてくれ」
ゆかりが腰を支えると、ノーマンは胴体《どうたい》の連結を解《と》き、宇宙服を上下に分離した。
さらに冷却服を脱ぐと、アンダーウェアと採尿オムツ姿になる。汗が臭《にお》った。
「怪我《けが》はない? 打撲《だぼく》とか?」
「大丈夫だ。噴射《ふんしゃ》をかぶったのは一瞬《いっしゅん》だった」
ノーマンは船内服に手足を通しながら言った。
「オルフェウスはどうなった?」
「噴射が三分くらい続いて、それから見えなくなったって」
「三分か……」
ノーマンは唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「どういうこと?」
「三分も噴射すれば、シャトルで回収するのはむずかしいだろう。地球重力|圏《けん》を脱出《だっしゅつ》するほどじゃないが」
「そうか……。もひとつ聞いていい?」
「なんだ」
「安全タグって何のこと?」
「エンジンの動作を電気的に禁止する札《ふだ》だ。オルフェウスは無線でコントロールするが、発進準備か完全に整《ととの》うまで、事故《じこ》がないようにタグをはめておく。タグがついている限り、あんなことは起きないはずなんだが」
「じゃ、今から遠隔《えんかく》操作で減速させることもできないの?」
「不可能だろう。暴走があった以上、遠隔操作もできてほしいところだが」
ノーマンはアッパーデッキに行こうとした。
「あの――」
「後にしてくれ」
「む……」
ゆかりは踏《ふ》みとどまった。
ノーマンと入れ替《か》わりに、茜が降りてきた。
「ゆかり、どうしよう!」
茜は目に涙をためて、いまにも崩壊《ほうかい》寸前だった。
「どうしようって」
「私のせいなの。私が上段エンジンに潜《もぐ》ったとき、どこかを壊《こわ》したの。それでああなったに違いないよー ああ、オレアリー博士になんて言ったらいいの!」
「あっ、おい」
茜はゆかりの胸に顔をうずめて泣きはじめた。
「待ちなって。どこか壊した覚えがあるの?」
「……ないけど、でも……あちこちこすったし」
「エンジンなんてちょっとこすったぐらいじゃ壊れないよ。熱や振動《しんどう》だって相当あるの、知ってるでしょ?」
「そうだけど……」
「まだ絶望ときまったわけじゃないよ。気分を落ち着けて、いつもの澄《す》んだ瞳《ひとみ》に戻って」
「…………」
「でなきゃ、何もまかせられないよ」
茜はまだしゃくり上げていたが、やがて、こくりとうなずいた。
一時間ほどして、船長は全員をミッドデッキに集めた。
「これまでにわかったことを確認しておきたい。最初に断っておくが、事態は深刻だ。
オルフェウスは発進準備をほぼ終えた状態でエンジンを暴走させ、高度三千キロに達する楕円軌道《だえんきどう》に乗った。
これは本来の軌道と大差ないので、遠隔操作が可能なら再点火して冥王星に送ることができる。燃料のロスは許容|範囲《はんい》だ。
だが、地上からの遠隔操作はまだできない。安全タグがついたままだからだろう。
エンジンが暴走した理由については、さきほど判明した。確定はしていないが、おそらく間違いないだろう。
打ち上げ前に、臨時に行った燃焼テストがあった。そのさい、技師の一人が制御回路を故意にショートさせて、安全タグをつけたままエンジンを点火させたというんだ。
安全タグを外すには書類|申請《しんせい》が必要なんだが、時間が切迫《せっぱく》していたのでつい手を抜いたらしい。信じられない怠慢《たいまん》だが――技師はその後、ショートさせるのに使ったジャンパー線を取り除《のぞ》いた記憶《きおく》がないと告白している」
ゆかりは茜の表情を見守った。
まず現れたのは安堵《あんど》。それから、静かな怒り。
クルーたちもそれぞれに舌打ちし、拳《こぶし》を固め――低く罵声《ばせい》を吐《は》いている。
「もしオルフェウスとランデヴーできれば、やることは簡単だ。安全タグと問題のジャンパー線を取り除けばいい。だが――」
船長は少し間をおき、一同に覚悟《かくご》をうながした。
「相手は最高高度三千キロの楕円軌道だ。このアトランティスでオルフェウスとランデヴーするにはうんと加速してやる必要があるが、現状ではとても燃料が足りない。シャトルで行けるのは、高度千キロが限界だ」
「俺たちの仕事は終わったってことだな」
ルイスが言い、肩をすくめた。
「しょうがない、帰ろうや。帰って酒飲んで忘れちまおう」
「そういうことだ。ああ、念のために聞くが――」
船長がゆかりに向かった。
「マンゴスティンの上昇限度はいくつだね?」
「高度八百キロです」
「そうか。……いや、聞いてみただけだ」
沈黙《ちんもく》が流れた。
どちらの宇宙船を便っても、オルフェウスには手が届《とど》かない。それが地球に最接近するときはシャトルとほぼ同じ高度になるが、速度は秒速六百四十メートルも大きい。
位置と方向が一致しても、速度が一致しない限り、ランデヴーはできないのだ。
茜が口を開いた。
「オルフェウスは、どうなるんですか」
「地球に接近したときの高度が低いからね。大気の摩擦《まさつ》をうけて、数週間のうちに大気圏《たいきけん》に突入《とつにゅう》するだろう」
「私たちが帰還《きかん》したら、もう、オルフェウスを救うチャンスはないんですか」
「残念だが」
「ひとつ提案があります、船長」
「ふむ?」
「どちらの船でもオルフェウスに追いつくことはできません。でも、二|隻《せき》を合わせたらどうでしょう?」
「……なんのことだ?」
「アトランティスにマンゴスティンを積んで、ぎりぎりまで加速するんです。そこからマンゴスティン単独で加速したら」
「それは、しかし――」
「この場合は足し算で近似《きんじ》するんだよな。千プラス八百――高度三千キロにはてんで足りないよ」と、ルイス。
「いいえ」
茜は言下に否定した。
「それは円軌道《えんきどう》の場合でしょう。楕円《だえん》軌道ならその半分の加速で行けるんです」
「そうか、忘れてた! つまり――高度三千六百キロまで行けるのか!」
「そうです。高度を目安《めやす》にするより、速度で考えるべきなんです」
「待て待て、軌道面の変更《へんこう》成分と帰還《きかん》の燃料もいるぞ」
「軌道面はほとんど変わらないんでしょう? それにどちらの船も大気制動です。帰還用の燃料はわずかでいいはずです」
「マンゴスティンの質量は?」ノーマンが聞いた。
「乗員含めて約二トンです」
「七十トンのシャトルに比べれば、空荷と変わらないな」
「ペイロードベイにも余裕《よゆう》で積めます。突起《とっき》含めて直径三メートルにおさまりますから」
「そうか……やってやれないことはないかな?」
ゴードンが首を傾《かし》げながら、興味《きょうみ》をそそられた様子で言った。
「ランデヴーのタイミングさえ合えば、理論的に不可能とは言えないんじゃ」
「できますよ、きっとできます!」
「待つてくれ、待つてくれ」
船長がなだめるように言った。
「スペースシャトルに予定外の荷物を積んで加速するなんて前代未聞《ぜんだいみもん》だ。シャトルはトラックとはちがう。荷崩《にくず》れでもしたら、たちまち爆発事故《ばくはつじこ》につながるんだ。
それにシャトルが着陸するには空港が要るんだ。勝手に軌道変更して、不時着したらオルフェウスを失うよりひどいことになる。それに高度三千キロというのは、アポロ計画以来、有人飛行としては未経験の領域だ。何が起きるかわからない」
「じゃあ確認すればいいじゃないですか! ソロモン基地とジョンソン宇宙センターに打診《だしん》して、きちんと計算すれば!」
茜は語気を強めた。
「否定材料ばかり持ち出すのは、やろうとしてない証拠《しょうこ》です!」
船長は、ぐっ、と喉《のど》を鳴らした。
「茜の言うとおりだよ。三千だろうが三万だろうがあたしたちは行くよ。そっちさえよければね」
ゆかりが加勢する。
船長はなんとも言えない顔になって、インカムを宇宙通信|網《もう》に接続した。
「ヒューストン、ならびにソロモン宇宙基地、こちらアトランティス。応答願いたい」
『アトランティス、こちらヒューストン、感度艮好』
『ほい、アトランティス。ソロモン基地はずっと聞いてるよ』
「オルフェウスの救出について、至急|検討《けんとう》してほしいことがある。SSAの三浦MSより提出されたアイデアで、かなり型破りなものだが――つまり……」
ACT・9
ソロモン基地、管制センター。
バークハイマー船長の話が終わると、那須田は「よおし!」と怒鳴《どな》るような声を上げた。
「気絶はしたが、茜は上出来だ。通信班は必要な情報をただちにヒューストンに送れ。木下君、他の作業|分担《ぶんたん》を頼《たの》む」
木下はただちに言った。
「誘導《ゆうどう》航法班は軌道《きどう》計算にかかってくれ。シャトルから分離するタイミングに幅《ばば》をとって、あらゆる状況《じょうきょう》を検討《けんとう》するんだ。
宇宙船システム班はシャトルにマンゴスティンをどうやって搭載《とうさい》するかを検討してくれ。0・一Gで加速するとして、三百キロの荷重《かじゅう》に耐《た》える必要がある。船体のハードボイントや固定材料のデータをまとめてヒューストンに送るんだ。向こうが主《しゅ》、こちらは従《じゅう》だ。
医学班はゆかりと茜の生命維持《いじ》を検討してくれ。前代未聞の高度三千キロだからね。
すべてはヒューストンとデータをつきあわせながら作業を進めることになるだろう。通信班は班ごとに連絡《れんらく》窓口を設定してくれ」
宇宙船と地上管制の関係は、古い大型|船舶《せんばく》のブリッジと下甲板《げかんぱん》にたとえられる。
下甲板では大勢の航海士が働き、ブリッジの航海士を補佐《ほさ》する。水上船舶では全員が同じ船に乗るが、宇宙船ではその余裕《よゆう》がないので、ブリッジだけを切り離《はな》して飛ばす形になるのだった。宇宙飛行士は認めたがらないが、本当の船長は地上にいると考えても間違いではない。いずれにせよ、地上と宇宙は密綾な連絡を保ちながら仕事を進める。
テキサス州ヒューストン、ジョンソン宇宙センター。
こちらの反応も、ソロモン基地と大差なかった。
「あの小娘《こむすめ》が、こんどはえらい仕事をよこしてくれたもんだな」
ミッションディレクターのジョージ・グラントはそう言った。
彼が舌打ちしたのは、そのアイデアが、まじめに検討せざるを得ないものだと直感したからだった。
可能性がみつかった以上、後侮《こうかい》するような怠慢《たいまん》はおかしたくない。彼もまた、オルフェウスの制御を取り戻すためなら、どんなことでもするつもりだった。
最初に浮かんだ難関は、安全規定だった。この計画は、なにもかもがクリティカルだ。
シャトルだけでも高度二千キロ近くまで上昇し、そこで燃料の大部分を使い切るのだ。
その時ペイロードベイには、熱帯産の怪《あや》しげな荷物がまだ乗っているかもしれない。
帰還《きかん》用の消費燃料は、マンゴスティンの放出に失敗した場合を想定しなければならないだろう。人命救助ならともかく、無人探査機を救うためにこんな危険が冒《おか》せるだろうか?
ジョージはアポロ十三号の事故を思い出した。
もう三十年近く前のことになる。月に向かった宇宙船の酸素タンクが爆発《ばくはつ》し、燃料も電力も空気も欠乏するなか、三人の飛行士を奇跡《きせき》的に生還《せいかん》させたのだった。
当時の彼はまだ二十そこそこの下《した》っ端《ぱ》だったが、IBM360コンピューターを駆使《くし》して軌道計算に取り組んだ不眠不休の四日間のことは忘れられない。まったく予想もしなかった危機に直面し、ありあわせの材料だけを便って、不可能を可能にしたのだ。
ジョージは、自分がそれに関《かか》わったことを誇《ほこ》りにしていた。この誇りこそ、NASAとともに歩んできた自分の原動力だった。
――とにかく、やれることからやってみよう。
彼は年配のエンジニアの常として、暗算で素早く見当をつける技《わざ》を身につけていた。
オルフェウスの軌道周期は一時間五十九分。
アトランティスのそれは一時間三十分。
ほぼ四対三の比率だ。アトランティスが地球を四周し、オルフェウスが三周したとき、両者は再会する。このときマンゴスティンを秒速六百四十メートル加速すれば、オルフェウスとランデヴーできることになる。だが、その加速は二段構えで、間に切り離し作業が入る。コンピューターまかせにはできない、複雑な手順だ。
暴発事故《ぼうはつじこ》からすでに一時間が経過している。
なんてこった――これをあと五時間で準備しろというのか!
ジョージは受話器をとりあげると、訓練センターのモックアップ担当者を呼び出した。
モックアップというのはアトランティスおよびオルフェウスの実物大模型で、打ち上げ前の訓練に使ったものだった。
「大至急|検討《けんとう》してもらいたい。飛行中のアトランティスにSSAのオービター・マンゴスティンを積んで加速したいんだ。マンゴスティンの設計|仕様《しよう》はすぐ届《とど》くだろう。作業時間は五時間――いや、四時間半しかない」
『やってみよう。オルフェウス用のプラットホームが利用できるかもしれない』
よけいな質問はしない。いいそ、これがプロというものだ。
ジョージはひさびさに、胸が高鳴るのをおぼえた。
ACT・10
二時間後――アトランティスのミッドデッキに全員が集められた。
全員インカムをはめ、地上との交信に参加する用意をしている。
ノーマンとゴードンは船外活動にそなえて宇宙服を着用し、ヘルメットを気密状態にして予備呼吸に入っていた。
船長が言った。
「ソロモン基地とヒューストンでそれぞれ中間報告がまとまった。それを受けて我々が合意すれば、茜の提案はゴーだ。まずヒューストンから聞こう」
『こちらヒューストン、ミッションディレクターのジョージ・グラントだ。こちらでの検討結果を伝える。飛行安全委員会はかなり難色を示したが、結論はゴーだ。シャトル側に限って言えば致命《ちめい》的な危険はないと考えられる。ただし条件がひとつある。マンゴスティンの分離作業をSSA側の飛行士が行なうことだ』
ゆかりが即答《そくとう》した。
「最初からそのつもりです」
『ありがとう、ゆかり。作業手順の詳細《しょうさい》はファクシミリで通知する。以上だ』
保守的なNASAにしては、意外な決定だった。裏でどんなやりとりがあったのかわからないが……これ以上お株《かぶ》を奪《うば》われてはたまらない、とでも思ったのだろうか。
ようし、やってやるぞ――四人のクルーも、そんな顔だった。
続いてマツリの声。
『アトランティス、こちらソロモン基地、茜のプランを検討《けんとう》したので知らせるよ』
「ソロモン基地、始めてくれ」
『シャトルとマンゴスティンのステージング、それからオルフェウスとのランデヴーは不可能ではないと考えてるね。着水地点はチリ沖《おき》になるよ。うちの回収チームは間に合わないけど、アメリカの第六|艦隊《かんたい》がそばにいるから手伝ってくれるね。ただ、ひとつだけ問題があるよ』
「なんなの、マツリ」
ゆかりが聞いた。
『ほい、フライトサージャンが説明するよ』
旭川さつきが代わった。
『二人ともよく聞いて。放射線|被曝《ひばく》の問題があるの。マンゴスティンがオルフェウスの軌道にそって飛ぶと、赤道付近でバン・アレン帯の内帯を通過することになる。ここは最も放射線密度の高いところよ』
「危険なの?」
『致命的ではないけど、レントゲン技師が真っ青になるくらい被曝する恐《おそ》れがあるわ。そしてあなたも茜ちゃんも、育ち盛《ざか》りの女の子よ』
「結諭を言って」
『医師として、二周以上の軌道周回は許可できない』
「じゃ……軌道一周、たった二時間でランデヴーと船外活動と再突入《さいとつにゅう》をやれってこと!?」
『そう。それが無理なら救出ミッションは中止するしかない。放射線密度は高度三千キロにさしかかったあたりが一番高いわ。これはランデヴーの噴射《ふんしゃ》から一時間後、軌道を半周したときね。船外活動はそれまでに終えること。船内にいるほうが、いくらかましだから』
「…………」
『あたし個人としては、軌道一周することも反対よ。慎重になることを恥じてはだめ。宇宙飛行士に勇気はいらない。それをふまえた上で、茜ちゃんと二人で考えてみてちょうだい』
「ソロモン基地、了解《りょうかい》」
通信が終わると、すぐに船長が言った。
「私の希望を言わせてくれ。この計画には賛成できない。君たちの熱意には感謝し、感動もしているが、もう充分《じゅうぶん》だ。ここでやめにしないか」
「……そうだね」
ゆかりは、火が消えたような気分だった。
二時間ですべてをやりとげるのは、できる気がした。
しかし、自分にミスはなくても、どんなトラブルが起きるかわからない。
何かあって帰還《きかん》のタイミングを逃《のが》したら、バン・アレン帯を二度も通過することになる。
自分ひとりでやれるならまだしも――
ゆかりは茜に向き直った。
「中止しよ、茜。女の子があんなばっちい所へ行くことないよ」
だが、茜はうなずかなかった。
「さつきさん、優しいからー」
茜は言った。
「だから、慎重《しんちょう》になってるんだよ。大袈裟《おおげさ》に言ってるの、私わかるもの」
「そんなことないって」
「アポロ宇宙船だって往復あそこを通ったんでしょう? それに磁場《じば》のない月面で何日も活動して、相当に被曝《ひばく》したはず。なのに平気だったじゃない」
「でもあれは、装備《そうび》もちがうし、第一おじさんたちだしさ」
「あたしたちだって大差ないよ。十六になったら発育はほとんど止まるんだから」
「そうだっけ……?」
いかん、知識の差で論破されそうだ。ゆかりはアプローチを変えた。
「茜、自信あるの?」
「え?」
「あたしたち四時間|睡眠《すいみん》で、もう十五時間ぶっつづけで働いてるんだよ。これから七時間、ひとつも間違えずにやりとおす自信ある?」
茜の顔に、狼狽《ろうばい》の色がうかんだ。
「それは……徹夜《てつや》してテスト受けること……よくあるし」
「テストと宇宙飛行は違うよ。それに今回は二人でフルに働かないと間に合わない。茜がしくじったら、あたしも危なくなるんだよ?」
「…………」
うつむく茜を見て、ゆかりはただちに後悔《こうかい》した。
卑怯《ひきょう》だ。こんな言い方はすべきじゃなかった。
「ごめん、いまの取り消し。自分のことだけ考えて、思ったこと言って」
茜はうなずき、まる一分ほど考えていた。
それから茜は、顔をそらすようにして、とつとつと話しはじめた。
「危険なのは、わかるの」
「うん」
「でも、その……ただの機械だけど……」
「うん」
「オルフェウスには、命を賭《か》ける価値がある――そう、思うから」
そして茜は、感情を爆発《ばくはつ》させたのだった。
「ゆかり、私――どうしても、オルフェウスを助けたい!」
船内の空気は、この瞬間《しゅんかん》に変わった。
やってやる。俺達が手ぶらで帰るものか。
このとき六人は、見えない契約《けいやく》書に、そうサインしたのだった。
ACT・11
ソロモン基地、本部|棟《とう》・有人機設計室。
ワークステーションの画面には、釣鐘《つりがね》状の物体が三次元|投影《とうえい》されていた。
物体の表面は、無数の格子で仕切られ、格子ごとに白から赤、紫《むらさき》、青へと、虹《にじ》色に彩《いろど》られている。
物体はオービター・マンゴスティンで、色は表面温度を表していた。
ワークステーションを操作しているのは、若い技術者。
「よし。突入《とつにゅう》速度、プラス六百四十にしてみて」
横から向井が指示した。数値を設定し、シミュレーションを再スタートする。
画面の中の宇宙船は、再び白熱しはじめた。別のウインドウに最高温度のグラフが表示される。
「……千三百七十……千四百六十……千四百五十……ここがピークか」
「これなら楽に持ちこたえますね」
「このモデルではね」
向井は慎重《しんちょう》に答えた。
高度三千キロからの大気|圏《けん》再突入は、SSAのオービターにとって未知の領域だった。
高いところから飛び込めば、速度はそれだけ大きくなる。速度が大きければ、大気との衝突で発生する熱も高くなる。その温度に、オービターは耐えられるのか?
すでに概算式《がいさんしき》を解《と》いて「可能である」と向井は暫定《ざんてい》したが、もちろん本番開始までに検証《けんしょう》を重ねておく必要があった。
千四百六十度という最高温度は、思ったより低いものだった。進入速度は一割増しだが、温度上昇はそれほどでもない。空気|抵抗《ていこう》は速度の三乗で効《き》いてくるはずだが……。
かすかな不安をおぼえて、向井は念を押した。
「パラメーターを変えて何度も試してくれ。ランデヴーに入ったら、もう中止できないんだからね」
「はい」
そのとき電話が鳴り、別の技術者が受話器を取った。
「チーフ、管制センターからです」
「うん」
向丼は短く応対して、受話器を置いた。
「みんな聞いてくれ。アトランティスから回答があった。オルフェウス救出ミッションはゴーだ。あと六時間、がんばろう!」
歓声《かんせい》が部屋に満ちた。
同じ頃《ころ》、ジョンソン宇宙センターも沸《わ》いていた。
ジョージはとっておきの葉巻に火をつけると、おもむろに立ち上がって言った。
「よおし皆《みな》の衆《しゅう》、ガールズをオルフェウスに送り込むんだ! ぬかるなよ!」
ACT・12
「いいから寝るんだ。知りたいことはすべてソロモン基地が教えてくれる」
「だけど、あんなぶかぶかの宇宙服で引き解け結びなんて無理だよ!」
「我々だってロープワークぐらいできるさ」
船長はうむを言わせず、ゆかりを寝台に押し込み、シェードを閉めた。
「一時間前になったら叩《たた》き起こすからね。おやすみ」
船長は外からそう言った。
下の寝台には茜が押し込まれている。
二人とも一応の抵抗《ていこう》はしたが、すぐ眠りに落ちた。
ペイロードベイでは、ノーマンとゴードンがマンゴスティンの固定作業を進めていた。
マンゴスティンを床面《ゆかめん》までおろし、オルフェウス用のプラットホームに固定する。
この作業にもっとも活躍《かつやく》したのはケプラー繊維《せんい》のロープだった。
シャトルの加速が終わったら、マンゴスティンはただちに切り離《はな》されなければならない。
切り離しが遅れれば、そのぶんエネルギーロスが大きくなる。ソロモン基地は、この切り離しを二十秒以内に終えるよう要求していた。
強固に固定し、かつすばやく分離《ぶんり》するために、ジョンソン宇宙センターの面々《めんめん》が考案したのは、なんのことはない、三箇所を引き解け結びで縛《しば》るというものだった。加速中の荷重《かじゅう》は、結び目ではなく、プラットホームと船体の間に押し込まれたクッションが受け止める。クッションには緊急避難《きんきゅうひなん》用の救命ボールが利用された。
マンゴスティンを分離するときは、その三本のロープをゆかりか茜が引っ張る。結び目がほどけたら、シャトルのほうで降下して、マンゴスティンを置き去りにする。
「ちがう、そうじゃない」
ノーマンはゴードンに結びの指示をしていた。
「その輪に下からくぐらせるんだ」
「こうか。ボーイスカウトで習ったんだがな」
「ヨットを始めるといい。いやでも身につく」
二人で協力し、四本の手でひとつの結びをつくる、という手順だった。
「ところで、ゆかりのことだが――」
ゴードンが言った。
「君に何か言いたそうだったぞ」
「まだ悪口が言い足りないか」
「そんなふうじゃなかったがな……」
「ふん」
ノーマンは鼻を鳴らしただけだった。
それから、結び目を見て言った。
「ちゃんと締《し》めないか。これじゃ加速中にゆるむぞ」
ACT・13
ランデヴー開始一時間前。
ゆかりと茜は船長に起こされると、ミッドデッキの真空トイレを使い、スポンジで顔と手をぬぐった。それからヘルメットとバックパックを装着《そうちゃく》する。
「二人とも、気分はどうかね?」
「上々です」
「おかげさまで、よく眠れましたから」
「よろしい」
それから船長は、リングで綴《と》じたファックス用紙の束《たば》をゆかりに渡した。
「最新版の手順書だ。この袋《ふくろ》に入れて運んでくれ」
「はい」
これが見納めと、ルイスが降りてくる。
「二人とも最高だよ。帰ったら、また会えるかい?」
「今からの仕事しだいかな」
「そうかあ」
握手をかわすと、ゆかりと茜はエアロックに入った。
外に出ると、マンゴスティンの前にノーマンとゴードンが立っていた。機首側から差し込む、青い地球照に照らされている。
「ハロー、ノーマン、ゴードン」
ゆかりが呼びかけると、二人は腕を持ち上げて合図した。
四人でマンゴスティンのまわりを一周して、固定を確認する。
「ふーん。うまく結んであるね」
「どうってことないさ」ノーマンが言った。
「じゃ、ロープの端《はし》をちょうだい」
「君らは持たなくていい」
「え?」
「君たちがロープを引いて、結びが解けたことを確認して、それからハッチを閉めるんじゃ時間がかかりすぎる。俺とゴードンがナイフで切ればそれまでだ」
「だけど……ヒューストンは分離作業をこっちがやるって条件で――」
「ヒューストンには内緒《ないしょ》だ」
「でも、二人とも外に出たままシャトルを加速させることになるんだよ!?」
「オープンカーに乗ってるようなもんだ。どうってことはない」
ゆかりはバイザーの奥の顔をじっと見つめた。
男は無表情だった。
「驚いちゃうわ」
ゆかりは口を尖《とが》らせた。
「NASAにこんな無謀《むぼう》な飛行士がいたなんてさ」
「ゆかり!」
茜があわててたしなめにかかる。
ノーマンが言った。
「同じ事をやっても自分たちは勇敢《ゆうかん》、俺たちは無謀か?」
「あの、ノーマンさん、ゆかりは素直に感謝を表せない性格なんです! ね、そうでしょ、ゆかり?」
「そうよ」
「ほら」
「…………」
ゴードンだろうか、インカムのマイクにぷっ、と息がかかる音がした。
「本人の口から聞きたいもんだな。感謝の気持ちってやつを」
ノーマンが言った。
「英語だとTで始まるんだか」
「いまは思い出せないな」
ゆかりはそう答えた。
「思い出したら言うよ。行こ、茜」
ゆかりはつい、とマンゴスティンに乗り移った。
「す、すみませんね、ああいう性格ですから……根はいい子なんですけど」
茜は微小重力空間で、器用に頭をぺこぺこ下げた。
「……いつから世話女房《せわにょうぼう》になったのよ」
コクピットに空気が満ちると、ゆかりは言った。
「だって、まだ謝《あやま》ってもいないんでしょう? ありがとうって言っちゃえば『それとさっきはごめんね』って言えたのに」
「別に、言い出せなくて言ってないわけじゃないよ。連中、始終インカムつけてて会話|筒抜《つつぬ》けじゃん。そういうとこで言いたくなかったから」
「結局、言い出せなかったんだ」
「どーでもいいでしょ、そんなこと」
「私は――これから大事な時だから、しこりやわだかまりがあるのはよくないって思って」
「あたしは喧嘩《けんか》してるほうが気が張っていいの!」
「なら、いいけど」
もう、口論しているひまはない。
ゆかりは手順書を計器|盤《ばん》の下にとめ、通信機のスイッチを入れた。
「アトランティス、こちらマンゴスティン。いま搭乗《とうじょう》した。全装置正常」
『マンゴスティン、了解《りょうかい》』
「ソロモン基地、こちらマンゴスティン。通信チェック」
『ほい、マンゴスティン、音声|明瞭《めいりょう》』
それから二人は手順書を読んだ。
ランデヴー作業はミッドウェー島上空、オルフェウスが後方二百キロに来たとき始まる。
止まっている自分にオルフェウスが迫い越しをかけてくる形だった。それをバトンリレーのように、自分も加速して速度をあわせる。
まずアトランティスがOMSエンジンを六分間、全開|噴射《ふんしゃ》。
噴射終了から二十秒以内にマンゴスティンを分離、アトランティスは退去《たいきょ》。
そしてマンゴスティンのOMSエンジンを五分間、全開噴射。
この噴射はアトランティスの退去を確認しなければならないので、ゆかりが手でシーケンス始動スイッチを押す。あとはコンピューターがやってくれる。
両船の噴射が終わった時、十一分が経過し、オルフェウスとマンゴスティンは並んでハワイ諸島上空を通過する。
四分後、両者の位置を精測して軌道《きどう》修正が行なわれる。これはソロモン基地が遠隔《えんかく》操作で行なう。
この時点で燃料不足がわかれば、ミッションは中止される。
軌道修正を終えたとき、十九分が経過している。
続いてゆかりの操船《そうせん》でオルフェウスに肉薄《にくはく》、茜が船外に出て問題の配線を取り除き、安全タグを抜く。
この作業は二十分以内に終えることが望ましい。その頃《ころ》には高度二千キロを越《こ》えており、放射線密度が高くなる一方だからだ。
ランデヴー開始より四十分後、ブラジル上空で船内に戻る。
最高高度の三千キロはその二十分後、アフリカ南部上空で迎《むか》える。
このとき、わずかな減速噴射《げんそくふんしゃ》をして軌道|離脱《リだつ》。オルフェウスは上空に残り、インドネシア上空で上段エンジンに再点火、一気に地球軌道を離脱する。
同じ頃、マンゴスティンは日本の東方で大気|圏《けん》再突入、地球を半周近くしてチリ沖《おき》に着水する。現場には米海軍のヘリコプターが待機しており、二人は空母に運ばれる。
「……ちょっと待て、なんだこりゃ」
ゆかりは注意事項のひとつを読んだ。
「茜の船外活動中、マンゴスティンは安金距離まで待避《たいひ》せよ……だと?」
「万一エンジンが暴発《ぼうはつ》した時の用心ね。ゆかりだけでも助かれってことでしょう」
「んな……」
「いいの。そうなっても追いかける燃料はないし――」
茜はくすりと笑ってみせた。
「私、冥王星まで行けるんなら本望だから」
「ちょっと、いまどき特攻隊《とっこうたい》みたいなこと言わないでよ!」
「結構近いと思うけど? 志願したときからわかってたことでしょう」
「そりゃ、そうだけどー」
この子は……みかけによらずタフだ。こっちも負けちゃいられない。
「あたし、離《はな》れないかんね」
ゆかりは断固として言った。
「命綱《いのちづな》しっかり結んどきなよ。やばいって思ったらすぐオルフェウスから離れて燃焼ガスをかわすんだ」
「だけどー」
「でなきゃ女がすたる! これは船長命令だっ!」
時間は容赦《ようしゃ》なく進んだ。
ヒューストンが秒読みを担当している。
『オルフェウス、後方二百三十キロに接近。アトランティス、OMS点火まで五十秒』
『全装置正常』これはバークハイマー船長の声。
『アトランティス、OMS点火まで三十秒』
『状況《じょうきょう》はすべてゴー。ノーマン、ゴードン、ちゃんと座《すわ》っているな?」
『ああ、ちゃんと座っている』
『アトランティス、シーケンス・スタート。点火まで十秒………四……三……二……エンジン点火』
こつん、という感触《かんしょく》があって、背中にかすかな重みを感じた。
『ヒューストン、こちらアトランティス。OMS噴射《ふんしゃ》は正常』
『こちらマンゴスティン。異常な振動《しんどう》はない』
『両船了解。オルフェウスは後方百七十キロに接近。分離まであと三分四十五秒』
エンジンの噴射音はほとんど聞こえてこない。数メートル後ろでは七トンもの推力が発生しているというのに。
『ノーマン、ゴードン、ちゃんと座っている[#「座っている」に傍点]か?」
『二人ともなんの問題もない』
『アトランティスおよびマンゴスティン。噴射終了まで一分』
あいつら、どうしてるんだ?
ゆかりはペリスコープを覗《のぞ》いてみたが、装置《そうち》の陰《かげ》に隠《かく》れて二人の姿は見えなかった。
いま話せば、アトランティスはもちろん宇宙通信|綱《もう》に流れてしまう。
かといって分離後では、交信が成立するとは限らない。
ゆかりは唇《くちびる》をかんだ。
ぐずぐずしていたために、最悪のタイミングになってしまった……。
『アトランティスおよびマンゴスティン。噴射終了まで二十秒』
「ヒューストン、こちらマンゴステイン、噴射準備完了、すべてゴー」
ゆかりはシーケンサー始動スイッチのカバーを上げ、指をかけた。
『全員無重力に備えよ。カウントはこちらでやる。五秒前……四……三……二……一……噴射終了、分離作業開始!』
『ロープ切断完了。アトランティス退避《たいひ》せよ』
間髪《かんはつ》をいれず、ノーマンが言った。
下方に開いたペリスコープの視野のなかで、ペイロードベイの床《ゆか》がすっと離れていった。
続いて両翼《りょうよく》、エンジンナセル、機首――シャトルが真っ青な地球の中に溶《と》け込んでゆく。
『退避完了。マンゴスティン、始めろ!』
始動スイッチを押す。
エンジンは即座《そくざ》に点火した。今度はごーっという音がして、びりびりいう振動も伝わってくる。いいぞ、うまくいった。
「こちらマンゴスティン。シーケンス始動。OMS点火、すべて正常」
ゆかりはトークボタンを離さずに続けた。
「ありがとうノーマン、それからゴードン、ルイス、バークハイマー船長。それとさっきはごめんなさい。みんな勇敢で、最高にかっこいいよ。あとはまかせて」
茜が目を丸くして見ている。
ゆかりは計器をにらんだままつぶやいた。
「言えた……。勢いってやつかな」
ACT・14
管制センターの向井に電話がかかってきたのは、ちょうどその頃《ころ》だった。
「なんだって? 落ち着いて、順番に話して」
相手の声はおびえきっていた。
「Cdbの設定が三つとも?……それで最高温度は?……千六百七十度!? 本当かっ!」
今度は向井が蒼白《そうはく》になった。
「どうした?」木下が聞く。
「その――空気|抵抗係数《ていこうけいすう》の設定が――その、つまり――」
「結果だけを」
「……マンゴスティンがあの速度で大気|圏《けん》再突入すると、熱破壊《ねつはかい》すると」
「本当か」
まわりの管制官がふり返った。
「念のため三つのモデルでシミュレーションしたんですが、ある設定値を誤《あやま》ったままコピーしたそうです。すみません、僕の責任です!」
「ほい、熱破壊するって言った?」
マツリが聞いた。
「まだ二人には話すな」
「ほい……」
「どうしたらいいんですか、木下さん! もう燃料はほとんど残ってないしー」
向井は顔をゆがめた。
「落ち着くんだ。今から軌道《きどう》を変えることはできない。ミッションは予定どおり進行する。その間に大気圏再突入の方法を再検討《さいけんとう》しよう。動かせるのはここだけだ」
「でも、すでに最適の進入角度でテストしてるんです」
「どうした。トラブルか?」
ガラスの向こうにいた那須田が、気配を察してやってきた。
木下が説明すると、那須田はさほど動じた様子もなく「そうか」と言った。この男は、喜びは派手に表現するが、それ以外の感情は抑制《よくせい》する。
「進入角を思い切って浅くとったらどうだ」
「だめなんです。一度大気圏を弾《はじ》かれたら次は急角度に入ってしまいます」
「オルフェウスの燃料を移すことはできないか。あれもヒドラジンだろう」
「それは――」
「不可能です」木下が言った。
「あのタンクは長期飛行にそなえて半永久的な封《ふう》がしてありますから」
「ふむ……」
那須田は少し考え、さしあたってやれることを指示した。
「二人にはまだ知らせるな。ヒューストンには隠《かく》さず報告しろ。向こうを通じて回収チームを増強させるんだ」
ACT・15
軌道修正は完壁《かんぺき》だった。
オルフェウスは前方五十メートル。漆黒《しっこく》の空を背景に、上段エンジンの円筒《えんとう》形がきらきらと輝いている。
二人はすでに船外活動の装備《そうび》を整《ととの》え、船内の空気を抜いていた。茜は工具を入れたウエストポーチをつけている。今度は内部に潜り込む必要はない。安全タグもジャンパー配線も、外から手の届《とど》く場所にある。
燃料を無駄《むだ》にしないよう、慎重《しんちょう》かつ大胆《だいたん》に、ゆかりは噴射《ふんしゃ》を重ねていった。
「オルフェウスまで十メートル。いま茜がハッチを開いた」
『ほい。二人ともがんばって』
マツリの声は、どこか平坦《へいたん》だった。
「それじゃ、出ます」
「気をつけて」
茜は右側のハッチを開いて、上体を外に出した。
ゆかりも左のハッチを開いて視界を確保する。オルフェウスの上段エンジンは、すぐ目の前にどっしりと浮かんでいた。
ゆかりは腕時計のストップウォッチ針を見た。
ランデヴー開始から二十七分。順調だ。
「船首下げようか?」
「そうしてください――はい、じゃ行きます」
茜は軽く座席を蹴《け》って、外に漂《ただよ》い出た。命綱《いのちづな》が後を追って、生き物のようにうねった。
茜は上段エンジンのカバーにとりつき、その上縁《じょうえん》に移動する。
ゆかりは手順書の図と見比べた。
「右へ五十センチぐらい。そう、そのへん」
「ここですね」
茜はヘルメットを奥に入れて、中を見た。
「……あった。ジャンパー配線発見。先端《せんたん》は宙に浮いてる」
「まわりに触《ふ》れないように」
「大丈夫」
ウエストポーチからニッパーを出し、中に入れる。
「いま切断」
ゆかりはどっとため息をついた。
「次は安全タグ……これか……抜きました」
「やたっ、一気に終わったね!」
「案ずるより生むがやすし、かな」声に笑みがこもっている。
「ヒューストン、こちらマンゴスティン。いま茜がジャンパー配線と安全タグを外した」
『マンゴスティン、よくやってくれた! こちらもテレメトリで確認した。みんなの声が聞こえるか? 沸《わ》きに沸いてる』
聞こえるどころか、管制官の声がかき消されるほどだった。
茜が命綱をたぐってこちらに来た。ゆかりは足首を持って中に引き入れようとした。
そのとき、茜は動きを止めた。いま初めて、背後の光景に気づいたのだった。
「待って! お願い、ちょっとだけ」
「なに?」
「すごいよ、ゆかり。後ろ――」
一刻も早くハッチを閉めたかったが、その口調にただならぬものを感じて、ゆかりはハーネスを解いた。
上体を乗り出し、船尾《せんび》をふり返る。
ゆかりは打ちのめされた。
こんな地球は見たことがなかった。
高度は二千キロを越えていた。日本列島を縦に置いたほどの高さになる。この高度では、地平線は視野を一周して、完全な円をつくるのだ。
直下に見えるのは蛇行《だこう》するアマゾン川と、その流域の大森林。
北方にはキューバ、メキシコ湾《わん》、フロリダ半島――その向こう、大気にかすんでワシントンやニューヨークのあたりまで見える。
南には、南米大陸のほぼ全容があった。左右に太平洋と大西洋がひろがり、もう少しでひとつに溶《と》けあうところまで見渡せる。
ジェット気流にそって大蛇のようにうねる巨大な巻雲《けんうん》。
中緯度に渦巻《うずま》くハリケーン。
積乱雲の谷間から閃《ひらめ》く稲光《いなびかり》。
そして気がつくと、東方から夜の半球がしのび寄っていた。
「サハラ砂漢《さばく》、いまタ暮れなんだ……」
茜が言った。
「日が暮れるって、こういうことだったんだね……」
「……うん」
ゆかりもその眺めに目を奪《うば》われていた。
手首が、じんわりとつかまれた。茜がこちらを向いていた。
「ありがとう」
「え?」
「ここまで連れてきてくれて、ありがとう。ゆかり」
「茜が自分で来たんだよ」
それから、
「おさえて、おさえて。泣いてばっかしじゃん」
ゆかりは、笑ったような声で言った。
「ここで泣くと、なんにも見えなくなっちゃうよ」
「そうだね。拭《ふ》けないの、困っちゃうね」
「……戻ろう。もう、やばいよ」
「うん」
二人は船内に戻り、ハッチを閉めた。
「ソロモン基地、こちらマンゴスティン。いま船に戻った。地球の眺めが素敵だったよ。あとはチリ沖《おき》にダイブするのみだね」
『ほい。二人ともおめでとう』
「どしたの? なんかそっけないね、マツリ」
応答までに、しばらく間があった。
『……ゆかり、茜。大事な話があるよ』
「なに?」
『ライフラフトの奥に、ランプタンの実を入れておいたよ。二人で食べて。これは魔除《まよ》けの実だよ。きっといいことがある』
「あんたったら、またやったの!」
『必ず食べて。ゆかり、茜』
「そりゃ食べてもいいけど、無線で堂々と言うようなもんじゃないよねえ」
『おねがいだよ。ランプタンは魔除けになる』
「…………」
ゆかりは初めて違和感《いわかん》をおぼえた。
「どうしたの、マツリ?……何が起きてるの?」
『食べおわったら言うよ』
ACT・16
ジョンソン宇宙センター、ミッションコントロール・ルーム。
さきほどまでの歓声《かんせい》は、ふっつりと消えていた。
ソロモン基地からの報告が、空気を暗転させたのだった。
まだ十六歳の、天使のような少女が二人、この事業の犠牲《ぎせい》になろうとしている……。
状況《じょうきょう》は絶望的だった。
これが危険に挑《いど》むことの代償《だいしょう》なのか――ジョージはそう、思い知った。
だが、あのときはやれた。
アポロ十三号の奇跡《きせき》を、もう一度起こすことはできないのか。
彼の脳裏に、閃きが走ったのはその時だった。
ジョージは立ち上がって叫んだ。
「みんなうかつすぎるぞ! これは月からの帰還《きかん》と同じだ。こんなことは三十年前に経験ずみじゃないか!」
前席の飛行力学主任がふり返った。
「なんだ。なんのことを言ってる」
「スキップ弾道運動さ。大気|圏《けん》のふちでアップダウンを繰《く》り返して、速度を殺すんだ」
月から戻ってきたアポロ宇宙船は、スペースシャトルよりずっと高速で大気に突入《とつにゅう》する。
これでは過熱して燃えつきてしまうので、イルカがジャンプを繰返すように、大気圏に出入りしながら徐々《じょじょ》に減速させたのだった。
「だがマンゴスティンには翼《つばさ》がないぞ。どうやって操縦する」
「忘れたのかランドール。カプセル型でも揚力《ようりょく》は発生するんだ。姿勢を変えれば揚力も変わる。アポロは姿勢制御エンジンでやったんだ!」
「そうか……まてよ……」
ランドールの顔に理解の色がひろがってゆく。
「マンゴスティンのデータはあるんだな――そう、重心位置と前面形状がわかればいい。アポロ・モデルにあてはめられると思う」
「今すぐかかってくれ。今度は俺《おれ》たちがガールズを助ける番だ!」
それからジョージはソロモン基地に連絡《れんらく》した。
「こちらヒューストン。質問がある。マンゴスティンは再突入中に姿勢制御できるか?」
『普通《ふつう》のやり方では不可能だが?』応じたのは木下。
『仰角《ぎょうかく》をわずかに制御できれば、ドルフィン運動で温度上昇をやわらげられると思うんだ。いま飛行経路を計算してる』
「そうか、アポロ方式か!」
『我々の方法を勉強していてくれてうれしいよ。だが姿勢制御ができないと意味がない。方法はあるのか?』
『再突入中の噴射《ふんしゃ》制御はシーケンサーで扱えないし、遠隔《えんかく》制御もできない。手動操縦ならできるが――高G下で操縦|桿《かん》をあやつるのはどうかな』
「操縦桿はどこにある?」
『右手の肘掛《ひじか》けの先だ』
「戦闘機《せんとうき》スタイルだな。やってやれないことはないんじゃないか?」
『屈強《くっきょう》の男ならね。だが、試す価値はあるな。大至急計算結果をくれ。礼はあとで言う』
「できしだい送ろう――」
ジョージはランドールに聞いた。
「いつできる」
「もう五分くれ」
「三分でやるんだ」それから木下に「五分以内に転送する」
ACT・17
「で、再突入に問題があるってなんなのよ! ポロっと言うんだ、マツリ!」
『ほいほい、ゆかり――まだマツリにもよくわからないんだよ。ちょっと待って。木下さんが代わるよ』
『二人とも落ち着いて聞いてくれ。今更ですまないが、予定通りに再突入すると船体が熱破壊《ねつはかい》する可能性かでてきた』
「えっ!」茜が小さく悲鳴を上げる。
「ちょっと……何それ!」
『こちらの手落ちだった。いくらでも罵倒《ばとう》してくれていいが、今はよそう。熱破壊を回避《かいひ》するためには、再突入中に姿勢制御をする必要がある』
「……再突入中に? そんなことできるの?」
『手動操縦するしかない。君の腕力《わんりょく》が頼《たよ》りだ』
「ちょっと、八Gかかってるときに操縦なんてできないよ!」
『そうなる前にやるんだ。たぶん五〜六Gだろう』
「にしたって、か弱い乙女《おとめ》のやるこっちゃないよ」
『そこにはか弱い乙女しかいないんだ。どちらかがやるしかない』
「そう言われると、悪い気はしないけど……どうやるの? 具体的には」
『船首のアップダウンを三回やる。問題なのは時刻と仰角《ぎょうかく》だ。正しい時刻に正しい仰角を保てばいい。いまNASAがその数字を送ってきた。時刻/仰角のチェックボイントが二十四組ある』
「そんなの覚えられないな。そっちで読み上げてくれるんだよね」
『再突入中は無線が使えないんだ。書き取って計器|盤《ばん》に貼《は》ってくれ』
「そうか。ちょっと待って、メモの用意するから」
ゆかりはオペレーションマニュアルの白紙部分を開いた。
「あ……茜、ボールペン貸して。あたしの、ルイスにあげちゃったんだ」
「えつ、ゆかりも!?」
「なによ、あんたも??」
「記念品|交換《こうかん》しようって言われて」
なんなんだ、あいつはぁ……。グッズオタクか?
「どこかに予備のペン、なかったかしら」
「ないよ。SSAのオービターに限って、そんな冗長性《じょうちょうせい》はないんだ」
「じゃあ……ナイフでひっかくとか」
「あのGと振動《しんどう》の中だよ? 計器読むのもつらいのに」
「指切って血で書くとか」
「字か大きくなって紙が何枚もいるよ。そんなの貼るスペースないって」
『どうした。メモの用意はできたか。もう時間がないぞ』
「それがその――」
ゆかりが事情を説明すると、木下はううむ、と唸《うな》った。
「なにか方法がありそうなものだが……」
その時、茜が言った。
「あの、私が覚えて口述しましょうか」
「覚えるって、あの数字を?」
「合計四十八個ですよね。私、暗記得意ですから、覚えられます」
『本当にできるのか、茜』
「ゆっくり読み上げてください。頭の中の表に書き込みます」
『わかった。やってみよう』
木下が数字を読みはじめる。
茜は目を閉じて、数字を聞くごとに指で眉間《みけん》をつつくようなしぐさをした。
全部を聞き取ると、茜はそれを復唱《ふくしょう》してみせた。
木下の声には驚きがこもっていた。
『素曙《すば》らしいな……全部正解だ』
「すっごーい!! さすが優等生!」
『よろしい。では通常どおりの帰還《きかん》手順を進めてくれ。ただし燃料は一滴も捨てるな。再突入まであと二十一分だ』
少し考えればわかることだったが、この手順には重大な欠陥《けっかん》が潜《ひそ》んでおり、少しもよろしくなかった。
あれだけ人がいて、なぜ誰も気づかなかったのか――そうした後悔《こうかい》は、宇宙開発の現場に常につきまとう。それは手品師《てじなし》の技巧《ぎこう》に似ており、すべてに周到な木下でさえ、すっかり注意をそらされていたのだった。
ランデヴー開始から二時間。マンゴスティンは地球を一周して、小笠原《おがさわら》諸島の東方千五百キロ地点で軌道《きどう》を離脱《りだつ》した。
まだ、Gはかすかにしか感じないが、大気の擦過《さっか》する音は着実に大きくなっている。
「はじまったよ、茜」
「ええ……」
「いろいろあったけど、結果オーライだよね」
「うん。とにかくオルフェウスは助かったし」
「みんなよくやったよ。茜もほんと、上出来だったよ。もう一人前の宇宙飛行士だね」
「ほんとう? だったらうれしいな!」
茜は煩《ほお》をピンクに染《そ》めた。ゆかりは、そんな茜を見るのが好きになっていた。
振動が高まり、窓の外がオレンジ色に染まりはじめた。
重力がよみがえる。一G……二G……三G……
ゆかりは操縦|桿《かん》を持つ右手に、左手をそえた。
いけそうだ。手首で自重を支えれば、なんとかコントロールできる。
「茜、チェックポイント1は?」
返事がない。
「茜、チェックポイントの数字教えて」
茜は答えなかった。
「茜……まさか!」
ゆかりの顔から、音を立てて血の気がひいていった。
「おいっ! 茜っ! 起きろっ!! 起きてくれーっ!!」
打ち上げと同様、高Gがかかったとたん、茜はばったりと気絶したのだった。
「どっ、どーしたらいいんだ! 仰角は!? おい! おーいっ!!」
揺り起こそうにも、もう腕が持ち上げられなかった。
ゆかりはやけくそになって叫んだ。
「こーなったら山勘《やまかん》でやってやる! どこへなと落ちろ、生きてりゃ文句は言わんっ!」
アップダウンを三回やる――ゆかりが覚えていたのはそれだけだった。
一度は完全に大気圏外に戻ったような気がしたが、すぐに高Gがよみがえった。
これはやばいと思って仰角を変える。Gが減る。茜は起きない。またGが高まる。
悪夢《あくむ》のような時が続いた。
ゆかりは疲労困懲《ひろうこんぱい》した。もう手の感覚がない。目もかすんできた。
……もういいよね? あたしはよくやったよ。誉《ぼ》めてやりたいよ。
あとはマンゴスティン、あんたにまかせる。パラシュートだけは開いてくれ。
ゆかりはあらゆる努力を放棄《ほうき》し、操縦|桿《かん》から手を離した。
そして眠りにおちた。
『……の国籍《こくせき》不明機、こちら東京コントロール、応答せよ。日本海を飛行中の国籍不明機、ただちに応答せよ』
そんな声で、ゆかりは目覚めた。
ん……? なんだ、なにがどうなった? あれから……?
外は紺碧《こんぺき》の空だった。
『日本海を飛行中の国籍不明機、こちら東京コントロール、ただちに応答せよ』
東京コントロールつーことは……地球を余分に半周したのか。
「あー、東京コントロール、こちら宇宙船マンゴスティン。感度良好」
『宇宙船って……またあんたか! ソロモンのゆかりちゃんか!?』
「えー、そうです。たびたびすみません」
『マンゴスティン、いちおう聞くが、高度と目的地は』
「高度二十一・三キロメートル。目的地は……南太平洋だったんですけど」
『よしわかった、あとは前回同様だな』
「ですです」
『警察と消防庁と海上保安庁と自衛隊に連絡《れんらく》しておく』
「恐《おそ》れ入ります。で、今回はどのへんに落ちそうですか?」
『前回と同じようなコースだな。神奈川か、東京|湾《わん》か、相模《さがみ》湾あたりだろう』
「……また?」
『そう、まただ』
どさっ、という衝撃《しょうげき》があって、パラシュートが開いた。
「……だけどなんでまた、またなんだろ」
ゆかりはひとりごちた。
「まさかまた、あそこへ落ちたりして」
ゆかりは頭を振《ふ》った。
「んなわけないよな。呪《のろ》いなら、もうふっきったもんな。前回のあれで」
燃料電池をシールドバッテリーに切り替《か》える。02、H2、パージ。
生命|維持装置《いじそうち》カットオフ。
外気ベンチレーション。
ペリスコープに見えるのは――しかしまぎれもなく、横浜の街《まち》。
盛大《せいだい》な水音をたてて、マンゴスティンは着水した。
「茜! 起きなってば! 着いたよ、どこだか知らないけど」
「……ああ、ゆかり……え、もう着いた……着水した?」
「そお。ともかくどこかに着水した」
「へえ……」
へえじゃないだろうが、と思いながら、ゆかりはハーネスを解《と》き、ハッチを開いた。
最初に目にとびこんできたのは――“トンボを呼び戻そう”の立て札。
ゆかりはもう、驚かなかった。
……そうよ、こんなもんよ。何か神秘《しんぴ》的な力が、あたしたちを翻弄《ほんろう》してるんだ。
「茜さ」
ひとまずハッチを閉めてから、ゆかりは言った。
「もうこりごりだって思ってるなら、学校に戻るチャンスだけど?」
「いいえ」
その頬は、またピンクに染《そ》まっていた。気絶する直前の感情がよみがえったらしい。
「私、わかったの。私が学ぶ場所は宇宙だって」
「……そう?」
返事は優等生だけど――ゆかりは思うのだった。
往復で気絶しといて、やっていけると思うわけね、あんたは。
『中庭の生徒はただちに教室に戻りなさい!』[#原本では太字]
周囲の喧騒《けんそう》がエスカレートしてきた。
やれやれ、また校長室か。
そういえば――
【ゆかりのほかに、誰があの学校を呪う?】
マツリはそう言っていた。
自分のほかに……
ゆかりは、はっとして隣《となり》を見た。
「……茜。もしかしてあんたさ」
「はい?」
「ネリ女のこと、呪ったりした?」
「そんな、呪ったりなんか――」
言いかけて、茜はふと口をつぐんだ。
頬に冷汗が一筋、光った。
「するわけ……ない……と思う」
「ほんと?」
「…………」
ゆかりは茜の顔をのぞきこんだ。冷汗が、あとからあとから流れ落ちていた。
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あとがき
今をさること数年前――私は電卓を叩《たた》きながらある試算をしていました。
もし宇宙飛行士の身長・体重制限を大幅に緊縮したら、宇宙飛行のコストはどれくらい節約できるのだろうか……?
結果は「ほほう!」というものでした。
面白くなってきたので、私はさらに別の検討をしました。
もし宇宙服に革命的な進歩があれば、現代の宇宙技術でなにができるか……?
その結果は、さらにわくわくさせられるものでした。
むっちりむうにいさんの素晴《すば》らしいイラストにひかれてこの本を手に取ったあなた――そこに描かれているものこそ、この検討結果なのです。
もしも身長百五十五センチ以下、体重四十キロ以下の宇宙飛行士に新素材の宇宙服を着せたら、明日にもこんな宇宙冒険ができる!
はい、この結論に嘘《うそ》はありません。
本書の執筆《しっぴつ》にあたってはインターネットを駆使《くし》して最新の宇宙情報を集め、コンピューター・シミュレーションによる検証もしました。別件ではありますが種子島宇宙センターでH2ロケットの打ち上げも取材しました。本書のリアリティたるや、宇宙開発の入門書と言ってもいいほどなのです。(……まあ、話半分ということで)
では、そんな小型軽量の宇宙飛行士をどうやって調達《ちょうたつ》するか?
これはもう、我が国の漫画やアニメや小説で伝統的に活躍《かつやく》し、半年ごとに世界を救っている「じょしこーせー」なる種族に活躍していただくほかありません。
意地っ張りで損な性格のゆかり、心優しい優等生の茜《あかね》。そして(種族は異なりますが)密林の陽気なシャーマン・マツリ。この三人は生徒指導部にも自衛隊にもNASAにも物《もの》怖じせず、地球と宇宙をまたにかける活躍をしてくれました。
この種族について確かに言えることは、開き置ったら無敵だ、ということです。なかでもリーダー格のゆかりは「もはや失うものは何もない」と、恐いもの知らずです。
そんなゆかりも今回は、「後輩」なる存在に手を焼きました。クラブやサークル、職場で「後輩」に悩まされた人は多いでしょう。いまは自分が「後輩」もしくは「無所属」の人も、いつかどこかで彼らを迎《むか》えることになります。
後輩に対処する鉄則は「決して優しくしない」ことですが、ゆかりは柄《がら》にもなくその禁を破ってしまいました。そして、あやうく命を落としかけるのです。
さて、本書には『ロケットガール』なる系列作品があります。二年近く前に発表されたものですが、作者の怠慢《たいまん》であまりに間があいてしまったので、今回は独立した作品として仕切りなおしました。先任飛行士であるゆかりとマツリの過去に興味のある方は『ロケットガール』をご覧《らん》ください。
本書の設定で遊んでみたい方には、富士見ドラゴンブック『ロケットガールRPG』をおすすめします。これはソロプレイを重視したシステムで、さいころと鉛筆だけでロケットの打ち上げから帰還《きかん》までを模擬《もぎ》体験できる希有《けう》なRPGです。
本書の執筆《しっぴつ》にあたっては、宇宙開発評論家の江藤巌さん、ニフティサーブ/スペースフォーラム/宇宙開発の部屋管理人のS.MATSUさんの協力をいただきました。
謎の多い種族「じょしこーせー」の服装については真田ゆかりさんに手伝っていただきました。こうして多くの方の協力をいただきましたが、本書に誤りや不適切な表現があれば、それらはすべて作者の黄任です。
最後に私信を少し。
釣り仲間で宇宙開発事業団のKさん、勇気がおありなら職場の皆様に本書を宣伝してやってください。
同じく釣り仲間のDさんの娘さんの万理絵ちゃん、その歳で『ロケットガール』を楽しめるとはたいしたものです。学校でみんなに自慢してやりましょう。
H2ロケット4号機の取材でお世話になったNASDA広報部の皆様――有難迷惑かもしれませんが、ここに宇宙開発の伝道者が一人いることをどうかご記憶ください。このような小説で宇宙開発を題材にすることがどれほど骨の打[#ここは「折れる」なんでしょうね。たぶん]れる作業か、皆様ならきっとご理解いただけると思います。
そして本書の若い読者は――遠からず有権者となり、かつ納税者となるわけですが――決して宇宙予算の増大に反対票を投ずることはないと信ずるものです。
野尻抱介
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底本     天使は結果オーライ
出版社    富士見書房
発行年月日  平成8年12月25日 初版発行
入力者    ネギIRC