クレギオン タリファの子守歌
野尻抱介
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【テキスト中に現れる記号について】
:ルビ
(例)薄明嵐《はくめいあらし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)「ピーナツが一|袋《ふくろ》ありました」
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目 次
第一章 タリファに行った男
第二章 薄明《はくめい》の街
第三章 エド・ジュニア
第四章 遅《おく》れてきた嵐《あらし》
第五章 ダウンバースト
あとがき
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第一章 タリファに行った男
ACT・1
「あたしは反対!」
マージ・ニコルズはきっぱり言い、航法席にいる十二|歳《さい》年下の娘《むすめ》をうながした。
「あんたもでしょ、メイ」
「え、えーと……」
メイ・カートミルは、恒例《こうれい》のジレンマに苦しんでいた。
三人きりの船である。マージとロイドが対立すると、採否を決めるのはいつもメイの一票になる。
「誘導《ゆうどう》しちゃいかんなあ、マージ。選挙|違反《いはん》だぞ」
ロイド・ミリガンは、そう言った舌の根がかわかぬうちに、浮動《ふどう》票の確保にとりかかった。
「なあメイ。マージは遠いと言ったが、たかだか二十四光年だ。向こうは辺境の星で、ゴールドラッシュの余熱いまだ冷めずだ。人手不足で仕事はごまんとある。たった一機のシャトルがどんなに感謝されるか考えてみろ」
「X1069なんて仮|符号《ふごう》しかないような星系よ? 船の整備だってできるとは限らない。部品が届くまで何年も島流しになることだってあるのよ」
「あの……」
メイが言った。
「もうすこし詳《くわ》しいデータを検討したいと思うんですけど……」
「ああいう田舎《いなか》はね、ろくに航路情報もアップデートされないのよ。下手すりゃジャンプミスだって起きるんだから」
「でも一応」
メイは航路情報を検索《けんさく》して、摘要《てきよう》を読み上げた。
「X1069星系。ロイドさんが言うのは第一|惑星《わくせい》ですよね……公転周期は九十二日、自転周期は六十一日……ずいぶんゆっくりですね」
「潮汐《ちょうせさ》安定だな。太陽に近いから」
「軌道《きどう》半径は近日点で四千六百万キロ、遠日点で七千万キロ。地軸《ちじく》の傾斜《けいしゃ》はゼロ……」
「地上の環境《かんきょう》はどうだ」
「あまり詳しくないです。……太陽にごく近い軌道をめぐる地球型惑星で、二酸化炭素を主成分とした呼吸不可能な大気を持つ。表面重力は〇・八G、地表の平均気圧は八百三十ヘクトパスカル。地表の九十九%は砂漠《さばく》で、しばしば強い砂嵐《すなあらし》に見舞《みま》われる。住環境はDクラス。宝石タリファ・オパールが発見された三八二七年より入植が始まり、現在の総人口は三万人程度とみられる。住民の大半は鉱山労働者。特定の政府はなく、入植者の自治に委《ゆだ》ねられている。惑星の通称《つうしょう》はタリファ……」
「タリファ?」
マージは、はっとした顔で聞き返した。
ロイドはその表情を見逃《みのが》さなかった。
「どうした、マージ?」
五十二歳になるロイドは、こういうところに目ざとい。相手の仕草や口調のわずかな動きをとらえて、その内面を見抜《みぬ》くところがある。
「いや……昔の知合いがね、そこに行ったらしいの」
「どんな知合いだ?」
「どんなって……ただの知合いよ」
「わけありか」
「そんなんじゃないわ」
「じゃあどういう人物だ?」
「だから、ただの人よ」
マージははぐらかそうとしたが、かえって墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》ったようだった。
「あんな地の果てに行くとなると、かなりの酔狂《すいきょう》にちがいない。男だな?」
男!?
そう聞くと、メイは航法席から身を乗り出した。
いけないと思いつつ、口がすべる。
「ひょっとして、マージさんの恋人《こいびと》ですか!?」
「ちがうって」
「今はちがう――そういうことさ、メイ」
ロイドがにんまり笑って言う。
「それもちがう」
「マージさんてモテますもんね。港に入ると、いつも男の人に見られてるし」
メイは羨望《せんぼう》をこめて言った。
マージ・ニコルズは二十八歳。
豊かなブルネットの髪《かみ》と強い意志をたたえた瞳《ひとみ》、申し分のない肢体《したい》はどこへ出ても人目をひく。
容姿だけではなく、マージはアルフェッカ号の船長として、恒星《こうせい》船とシャトルを完璧《かんぺき》に維持《いじ》し、操縦することができる。彼女《かのじょ》に見惚《みほ》れた港の男たちは、さっき入港した船を操《あやつ》っていたのが彼女だと知って、態度を改めるのが常だった。
反面、料理や掃除《そうじ》を始め、家事|全般《ぜんぱん》にはさっぱり疎《うと》いが……。
家出してミリガン運送に転がり込んだメイにとって、マージは永遠の目標だった。
そのマージが心を寄せた男がいるとなれば、これは興味|津々《しんしん》である。
「そう、マージには選択《せんたく》の自由がある」
ロイドが引き継《つ》いだ。
「必然的にふられた男の数も星の数ほどあるってわけだ」
「ちがうって言ってるでしょ!」
「じゃあ何だい。言いたがらないじゃないか」
「今は、目的地を決める時でしょ」
「だからさ。君の知合いがタリファにいるとなりゃ、もう少し詳《くわ》しいところを聞かせてもらわないとな」
「今もいるとは限らないわ。タリファに行ったってことも、人づてに聞いただけだし」
「ふむ……」
ロイドは手元のスクリーンで航路情報を読み直した。
「二七年から入植が始まった、ってことは五十九年前だ。環境《かんきょう》が悪いのに人が集まるのは、いわゆるゴールドラッシュってやつだろう。タリファ・オパールはバカ高いからな」
「タリファ・オパール……って聞いたことないですけど」と、メイ。
「高すぎて庶民《しょみん》の前には出てこないのさ。五十カラットもありゃ、宇宙船が買えるからな」
「そんなに!」
「反物質より高価な物質といったら、これぐらいじゃないかね」
「じゃ、マージさんの恋人も、その宝石を採りに行ったとか?」
「ま、一攫千金《いっかくせんきん》は男の夢だからな」
「ですよね!」
うなずき合う二人を見て、マージは否定せずにいられなかった。
「あの人はロイドみたいな山師じゃないわ! それに今も昔も恋人じゃない!」
「じゃあ何だい。あの人ってのは」
「…………」
ロイドの敷《し》いたレールに乗って、マージは袋小路《ふくろこうじ》に追い詰《つ》められた。
「……教官よ」しぶしぶ答える。
「商船大学時代のか?」
「そうよ」
「教官といってもいろいろあるが」
「シャトルの」
「商船大でシャトルっていうと、十九歳の時ですか」
マージはうなずいた。
「なるほどねえ……」
ロイドは、ふむふむ、と合点した。メイは首をかしげた。
「どうしてなるほどなんですか?」
「まあ、宇宙船乗りにもいろいろあってな」
ロイドは説明した。
「ほとんどの宇宙船は、決して惑星《わくせい》表面には降りてこない。地上と宇宙を結ぶのはシャトルの仕事だ。ところが大気圏《たいきけん》内の様子は星ごとに違《ちが》う。ほとんど真空の時もあれば、超《ちょう》音速の嵐《あらし》の時もある。同じ星でさえ天候は刻々と変る。滑走路《かっそうろ》がなきゃ、水面や氷上にだって降りる。航法|援助施設《えんじょしせつ》がないことだって珍《めずら》しくない」
「そうですね」
「君もここで働いて身に染《し》みてるだろうが、シャトル乗りの仕事は、つまり汚《よご》れ仕事だ。それを操《あやつ》る人間も筋金入りってことになる。マージを見てりゃわかるだろ?」
「はい」
本人の前で、ロイドは講釈《こうしゃく》を続けた。
「どこのどいつだか知らんが、このマージにシャトルの操縦を仕込《しこ》んだとなりゃ、相当の猛者《もさ》にちがいない」
「なるほどー」
「ところがこの六年間、マージはその教官のことを話そうとしなかった。深く追及《ついきゅう》したわけじゃないが、いつもはぐらかすんだなあ……」
「…………」
「今だって、聞かれたことしか答えないだろ?」
メイは深々とうなずいた。そして二人の視線は、マージの顔で焦点《しょうてん》を結んだ。
興味|津々《しんしん》の四つの瞳《ひとみ》に見つめられて、マージはついに観念した。
「わかった、話す。――話すけど、そっちが期待してるようなロマンスも武勇伝もないのよ?」
「名前は、なんていうんですか? いくつぐらい?」
「ホセ・ゲレロ。当時で四十前だった。もう結婚《けっこん》していて、だから色恋沙汰《いろこいざた》とはまったく無縁《むえん》なわけ」
メイは、やや当てが外れた思いだったが、なおも先をうながした。
「どっちみち、左右の操縦席より近くに寄れる雰囲気《ふんいき》じゃなかったわ」
「厳しい人だったんですか」
「彼《かれ》は鷹《たか》の生まれ変りだと思う。あの目で見られたら、誰《だれ》でもすくみあがったものよ」
「怖《こわ》い人だったんですね……」
「ちょっと違《ちが》うな。そばにいるだけで真剣《しんけん》さが伝わってくるの。だから何も聞かれないのに、自問自答してしまう。おまえはこれから何をする気だ?――シャトルで降下します。大気制動を使うな?――はい。船殻《せんこく》が焼かれる温度はいくつだ?――ええと……そして赤面する。自分がシャトルを操縦するなんて、とんでもないことに思えてくる」
ひとたび扉《とびら》が開くと、マージは饒舌《じょぅぜつ》になった。
「決して大声で怒鳴《どな》ったりはしなかった。チェックを忘れたり、操作を誤ると『君はいま死んだ』と言うだけ。訓練生の多くが、彼にノックアウトされてやめていった。ううん、彼がやめさせたんじゃない、自分に負けたのね」
「自分に……」
その言葉はメイの心を刺《さ》した。
見習いの彼女にとって、それは切実な問題だった。
「マージさんは、やめなかったんですね」
「そう。でも乗り切るのは楽じゃなかった。ある意味じゃ、片思いの恋に似てるかな。相手が自分に失望してるんじゃないか、という思いに耐《た》えるのはね」
黙《だま》って聞いていたロイドが、ふむむ、とうなった。
「君がそんな恋をしたとは驚《おどろ》きだな」
「ロイドさん、こういう時はひやかしちゃだめです!」
「そかそか、こりゃ失礼」
「どーでもいいけど、あんたたち」
マージは言った。
「本人の前で談合しないでもらえる?」
「こりゃ失礼」
「すみません。……それじゃ続けてください」
マージはその気をなくしていた。
「そんなことより目的地を決めないと」
アルフェッカ号は今、ヴァンテン太陽系の外縁《がいえん》にいる。オールト雲の採鉱船に補給物資を納入して、ドッキングベイを離《はな》れたところだった。星系内の惑星《わくせい》に向かうか、他星系に向かうかを決めなければならない。
ロイドが言った。
「先週までのように内惑星帯で堅実《けんじつ》だが退屈《たいくつ》な仕事を探すか、それともタリファの未知に挑《いど》むか」
経理業務も兼任《けんにん》するマージの考えは変らなかった。
「要するにロイドは目先を変えたいだけなのよ。こんなことじゃいつまでたっても貯金はたまらないわ」
「金|儲《もう》けにリスクはつきものさ。メイはどうだ?」
「えと、私……」
メイは逡巡《しゅんじゅん》した。
ロイドが猫《ねこ》なで声でささやく。
「なあメイ。マージは口ではああ言ってるが、内心あの教官――ホセといったかな、彼に会いたくて仕方がないんだ」
「あのねえ。ホセのことはあくまで風の噂《うわさ》に聞いただけであって」
「私も……」
メイはおずおずと言った。
「ホセさんに会ってみたいな」
「ちょっとメイ、私も、ってのは――」
「決まりだな!」
ロイドは拳《こぶし》を固めてガッツポーズをとり、声高《こわだか》に宣告した。
「諸君、アルフェッカ号は惑星タリファに向かう。ジャンプドライブの準備にかかれ!」
マージはなおも、ぐずぐずしていた。
だが、やがてため息をひとつもらし、超《ちょう》光速機関のチェックリストに手を伸《の》ばした。
ACT・2
六年前のこと。
デネヴ軌道《きどう》港、貨物ドック。
「よお、マージじゃないか」
「あら……」
声を掛《か》けたのは、商船大で同期だった男だった。ほんの顔見知り程度で、親しく交際したことはない。二人はコーヒースタンドに寄って、少し話した。
「なんだっけ、小さな運送会社に入ったんだって?」
「ミリガン運送。持ち船二|隻《せき》、従業員八名のね」
そう――当時のミリガン運送は、これでも今より羽振《はぶ》りがよかった。
「君ならキュナード・ラインに行くと思ったのにな」
「それも考えたけどね。小さいとこのほうが、力が試《ため》せると思って」
「そうなのか?」
「まあね。書類作りから掃除《そうじ》まで、なんでもやらされるけど」
それから、訓練生時代の教官の話になった。
「ホセは教官やめたって聞いたぜ」
「本当?」
「噂だけどな。なんでもタリファとかって、辺境の星に行ったらしい」
「タリファ? 聞いたことないわ」
「俺《おれ》もさ」
「ふうん……」
話はそれきりだった。
だが、タリファのことは一日中頭を離《はな》れなかった。
あのホセが、なぜ、聞いたこともない辺境の星に行ったのか。
タリファの何が、彼を呼んだのか――。
データベースで検索《けんさく》してみたが、そんな惑星《わくせい》名は存在しなかった。
時間をかけて全文検索すればわかったかもしれない。
だが、心の隅《すみ》で何かがブレーキをかけて、それ以上|追及《ついきゅう》しなかった。
その疑問は、今でも時折、脳裏《のうり》に浮上《ふじょう》する。
たいていは忙《いそが》しさにまぎれて、すぐ忘れてしまうのだが――今度は違《ちが》った。
単調なジャンプ・ドライブが始まると、船内の話題はホセの話でもちきりだった。
ロイドとメイの詮索《せんさく》に、マージは辟易《へきえき》していた。
天性のパイロットと羨《うらや》まれているマージだが、訓練生時代には人並に、思い出すのもつらいエピソードが多々ある。
そういう思い出は、そっと胸にしまっておきたい。成功談ばかり選んで話すのも、嫌味《むいやみ》である。
だが……
一度、誰《だれ》かに聞かせたい。
そんな出来事も、確かにあった。
「アルテミナで再突入《さいとつにゅう》訓練をしたときのことは忘れられないわ」
昼食のサンドイッチを頬張《ほおば》りながら、マージは言った。
メイが身を乗り出す。
「こんどは何を仕掛《しか》けられたんですか!?」
「軌道離脱《きどうりだつ》に使う推進剤《すいしんざい》しか積まなかったの」
「じゃ、完全に滑空《かっくう》だけで着陸を?」
「そう。やり直しは許されない。でも黎明期《れいめいき》のシャトルはそうだったし、ホセはいつも『推進剤が使い放題なら、翼《つばさ》などいらない』と言ってた」
うなずくメイ。
「あたしは出発前に一人で納得《なっとく》いくまで機体を点検して、推進剤が本当にそれっぽっちしかないことも確認《かくにん》した。着陸地点の気象通報も念入りに調べたわ。天気は快晴、微風《びふう》。そして、例によってホセは副操縦士席に退屈《たいくつ》そうに座《すわ》っているだけ」
「ホセも同乗したわけだな」と、ロイド。
「もちろん」
マージは誇《ほこ》らしげに言った。
「彼は自分の命を預けることで、こちらを本気にさせたのよ。たとえどんな罠《わな》を仕掛けようとね」
「いい度胸だ」
「それで、どうなったんですか?」
「シャトルが軌道港を離《はな》れると、あたしは予定通りに逆|噴射《ふんしゃ》して、プラマイ一度の再突入|回廊《かいろう》の真ん中に乗せた。そして大気制動のため、機首を起こそうとした。高度は百四十キロ。すべて順調。ところが――」
メイがごくりと唾《つば》を飲んだ。
「ホセが聞いたの。前に何が見える? とね」
「……何があったんですか?」
「ハリケーン。見渡《みわた》す限りの雲の渦《うず》。宇宙からならいつでも見えるから、それが針路上にあることの意味は意識からすっかり抜《ぬ》け落ちてた」
「じゃあ気象通報は――」
「受信機に細工してあったってわけ。あたしは真っ青になった。シャトルはまっしぐらに落ちてゆくばかり。めざす滑走路《かっそうろ》は風速五十メートルの乱流に覆《おお》われていて、代替《だいたい》空港もなかった。あたしはもう何も思いつかなくて、ホセに泣きついた。どうしたらいいんですかってね」
「…………」
「で、どうなったんだ?」
「キャプテンは君だ、最後の決断をしろ、とホセは言った。あたしは、不時着を試みるから教官は脱出《だっしゅつ》してくださいと答えた。本気だったわ。ほかに解決なんかなかったのよ」
「それで、ほんとにそうなったんですか」
「いいえ」
マージはにんまり笑って、二人の顔を見較《みくら》べた。
「訓練はここまでだ。君の命もな――ホセはそう言って、自分で操縦|桿《かん》を握《にぎ》った」
「それで……?」
このひとときを心から楽しむように、マージは言った。
「空港に着陸したのよ」
「…………」
たっぷり五秒かかって、メイは事情をのみこんだ。
それから、とびあがって叫《さけ》んだ。
「すごーい!! ホセさんて天才なんですね!!」
「そういうこと」
ロイドも肩《かた》をすくめて、降参の意を表した。
「やれやれ。そんな訓練をよく空港側が認めたもんだな」
「ホセが認めさせたのよ」
「……たいした野郎《やろう》だ」
「野郎だなんてとんでもない。地上にいるときのホセは本物の紳士《しんし》だったわ。物静かで、気障《きぎ》なふるまいはしなかったけど、気の利《き》いたジョークでみんなを笑わせたりもした。飲みすぎたあたしを部屋まで送ってくれたこともあったし」
「それでいて手出しはせず、か」
「もちろん! 彼をものにしようとする女の子は後を絶たなかったけど、ホセはいつも、父親のようにふるまっていたの。ホセにじっと見つめられて『私には妻がいるんでね』って言われると、どんな勝気な女の子もすごすごと撤退《てったい》したものよ」
「君もその口ってことは――」
マージはきっぱり首を横に振《ふ》った。
「あたしはホセを知っていたもの」
ロイドはまた、肩をすくめた。
「でも、マージさんもすごいですよね。話|戻《もど》しますけど、自分も脱出《だっしゅつ》しようとは思わなかったんですか?」
「意地でも機を捨てたくなかった。彼の前でそんな恥《はじ》さらしなことをするぐらいなら、死んだほうがましってね――少なくとも、あの時はそう思ったわ」
「へえ……」
メイはうっとりしたまなざしで、マージを見あげた。
「諸君、わしはピンときたぞ。これで謎《なぞ》が解けた」
急にロイドが言った。
「何のこと?」
「ホセさ。彼がなぜ、タリファに行ったか」
ロイドは自信たっぷりだった。
「なぜなの?」
「航路情報にあったじゃないか――地表の九十九%は砂漠《さばく》で、しばしば強い砂嵐《すなあらし》に見舞《みま》われる、とな」
「それが、理由になるんですか?」と、メイ。
「きっと相当な嵐にちがいない」
ロイドは言った。
「ホセは腕試《うでだめ》しに行ったのさ」
ACT・3
ヴァンテンを発《た》って七日。アルフェッカ号はX1069太陽系の外縁《がいえん》に出現した。
中心|恒星《こうせい》は全天一の光輝《こうき》を放っていたが、この距離《きょり》ではまだ「星」にしか見えない。
そこから内|惑星《わくせい》帯のタリファまで三G加速で十日。
タリファと太陽との隔《へだ》たりは、近いときでわずかに五千万キロ。灼熱《しゃくねつ》する太陽面から吹《ふ》き出すコロナは、時として両者の中ほどにまで達する。タリファへの道程は、まっすぐ太陽にとびこんでゆくようなものだった。
系内航行に入って五日目。つかのまの機関停止のうちに、マージはメイとともに一仕事することにした。
指示を与《あた》える段になって、マージはふと、ホセのやり方を思い出した。
彼はいつも、問いかけることから始めるのだった。
「メイ。タリファの軌道《きどう》に乗るまでの間に、船殻《せんこく》は鉛《なまり》が融《と》けるほどの温度になるけど、これはどう解決すればいい?」
「船殻がだめになる温度じゃないですよね」
「もちろん。でも、どんな場合でも、船への負担は最小限にすべきでしょ?」
メイはうなずき、少し考えた。
「どこか……日陰《ひかげ》に入るべきですね。タリファの影《かげ》ぞいに接近すればいいんじゃないですか?」
「ゴール間際《まぎわ》では有効ね。でもその影は無限に伸《の》びてはいないわ。太陽のほうがずっと大きいんだから」
「あ、そうですね」タリファが宇宙空間に落とす円錐《えんすい》形の影は、およそ三十万キロで消滅《しょぅめつ》する。それは月と地球の距離よりも短い。
「となると、それまでは……適当な小惑星に隠《かく》れるんじゃ時間がかかりすぎますよね」
「そうね」
メイはなおも考え続けた。
「遮光《しゃこう》シートもないし……うーん、わかんないです」
「これという対策がないとなれば、やることはひとつ」
「……入念な整備?」
「ご名答。宇宙服に着替《きが》えなさい。いまのうちに外回りを点検するわよ」
「はい!」
素直《すなお》ないい子だわ、と思いながら、マージはメイとともにエアロックに入った。
エアが抜《ぬ》けるのを待つ間、メイは聞いた。
「ホセさんて、シャトル以外の宇宙船はどうだったんですかこ
「どうって?」
「他の船には興味がないのかな、って思って」
「シャトルが本領だったことは確かだけどね」
マージは言った。
「でも彼は、あらゆる船を操《あやつ》ることができたわ。宇宙船を飛ばすのは勇気でも機敏《きびん》さでもない、たゆまぬマネジメントの継続《けいぞく》だ、って言ってたな」
メイはうなずいた。ここで彼女がたたき込まれているのも、まさにそれだった。
「たとえ恒星《こうせい》間航行であれ、退屈《たいくつ》することはない。もしそうなら、何かし忘れてるんだ、ともね」
「でも、シャトルがいちばん好きだった?」
「うん。腕《うで》がもろに出るのは、やっぱり大気圏《たいきけん》内だからね」
二人はエアロックを出た。
ジェットを噴《ふ》かせて上部|船殻《せんこく》にまわると、全長四十メートルあまりの恒星船が一望できた。
船は減速にそなえて船尾を太陽に向けている。
太陽はまだ、明るい光点にしか見えなかった。船殻はどこも冷えきっており、黒い放熱板だけがほのかな温《ぬく》もりを放っていた。タリファに近付く頃《ころ》には、放熱板は赤熱しているだろう。
二人は船首側にまわった。
長く伸《の》びた恒星船のキールに、シャトルが懸下《けんか》されている。その胴体《どうたい》はバスのようにずんぐりしていた。尾翼《びよく》はなく、カモメのような大きな主翼だけが左右に張り出している。
決して優美ではないが、平面と円筒《えんとう》面で囲まれた恒星船と較べると、ずっと親しみやすいフォルムだった。その耐熱《たいねつ》船殻は長年の運用で薄汚《うすよご》れ、補修の跡《あと》があちこちに見える。同じくらい古い恒星船に較べても、シャトルのほうがずっと傷《いた》みが進んでいた。
汚れ仕事を引き受けるのは、誰《だれ》よりも、このシャトルそのものなのだ。
「ちょっとかわいそうですね……」
メイが言った。
「何が?」
「このシャトルで、砂嵐《すなあらし》の中を飛ぶの」
「ちょっとメイ、誰が砂嵐に突《つ》っ込むなんて言った?」
「でも、ホセさんは嵐と勝負したくてタリファに行ったんですよね」
「それはロイドの勝手な想像よ」
「違《ちが》うんですか?」
「私がホセから学んだのは、砂嵐とは避《さ》けるものだってこと」
「そうですか……」
「だいたい、ホセが本当にタリファに行ったかどうかもわからないでしょ。あんなの、ただの噂《うわさ》なんだから」
仕事中は余計なことを考えない。これが一番だ。
「聴音《ちょうおん》検査からやろう。それと、汚れを見つけたらそのつど徹底《てってい》的に拭《ふ》き取ること」
「はい」
それから二人は半日がかりで、船殻にヘルメットを押《お》し当てては拳《こぶし》で叩《たた》くという、見かけほど楽ではない検査を続けた。
ACT・4
内|惑星《わくせい》帯に入ると、アルフェッカ号は巧《たく》みな曲線を描《えが》きながら、タリファが宇宙空間に落とす影《かげ》の中を進んだ。
やがて、モニターカメラがとらえた太陽面の中央に、黒い点が現れた。
タリファの影だった。
接近するにつれて影は大きくなり、やがて太陽を完全に覆《おお》った。
人工的な皆既《かいき》日食の始まりだった。
カメラの遮光《しゃこう》装置が解除されると、背景の星々がよみがえり、タリファのある場所だけがぽっかりと切り抜《ぬ》かれているように見えた。
「まるで燃えてるみたいですね……」
メイは言った。
タリファのシルエットは、紅《くれない》の光輪に縁《ふち》どられていた。
惑星の大気が日照を赤く染め、こちら側に散乱させているのだった。
「珍《めずら》しい眺《なが》めだな」
ロイドが言った。
「タリファじゅうの夕焼けと朝焼けを一度に見てるわけだ」
やがてその夕焼けも輝《かがや》きを失うと、入れ替わりに薄《うす》い白銀の火炎《かえん》模様がタリファを縁どった。それは太陽から噴出《ふんしゅつ》したコロナで、この位置からは、ライオンのたてがみのようにタリファをとりまいて見えた。
濃厚《のうこう》な大気と、強烈《きょうれつ》な日照。
マージは秘《ひそ》かに、息を呑《の》んだ。
「最初にあそこに降りた人は、結構勇気があるわ……」
「大気がなきゃ、どうってことないんだがな」
「そうなんですか?」
メイが聞いた。
「大気は惑星《わくせい》の温度をかきまぜて、安定させてくれるって習いましたけど」
「そりゃそうだが、あの炎天下《えんてんか》に立つことを考えてみろ。わしらの宇宙服じゃあっという間に蒸焼《むしや》きになるぞ」
「でも、温度調節装置があるから――」
「宇宙空間ならいいさ。輻射《ふくしゃ》熱をさえぎるだけならな。だが大気中じゃ、まわりじゅうから熱がじかに伝わってくる。普通《ふつう》の冷却《れいきゃく》装置じゃ追いつかない」
「その『かきまぜる』ってのも問題よ。大気がなきゃ、嵐《あらし》は起きないんだからね」
マージは言った。
「急いで降りずに、軌道《きどう》港でしっかり情報収集したほうがいいわ。ここじゃ航路情報もあてにならないし」
惑星間速度の減速が終わり、アルフェッカ号はタリファの周回軌道に乗った。
軌道港とドッキングする前に、高度を落としながら赤道上空を一周する。その軌道|遷移《せんい》で、初めてタリファの昼の顔と対面することになる。
長くは待たなかった――暗黒の地平線の一点に光が爆発《ばくはつ》し、深紅色の光条が走ったかと思うと、たちまち視野|一杯《いっぱい》に横たわる三日月状の大地が現れた。
それは一面、赤褐色《せっかっしょく》に塗《ぬ》りつぶされていた。
海も大陸もなく、ただ芒洋《ぼうよう》と砂漠《さばく》が広がっている。
雲らしい雲も見あたらない。
「……なんだか、特徴《とくちょう》のない星ですね」
メイがやや拍子抜《ひょうしぬ》けした声で言った。
さらに接近すると、なかば砂に埋もれ、切れぎれになったクレーターがいくつか、長い影《かげ》を落としているのが見えた。
砂漠の表面にはさざ波のように連なる模様がある。砂丘《さきゅう》だった。
「あれかしら。砂嵐って――」
マージが一方を指さした。
これもクレーターの名残《なごり》だろう。三日月形に連なる山脈の切れ目から、幾筋《いくすじ》かの赤褐色の流線が、堰《せさ》を切った濁流《だくりゅう》のようにたなびいていた。流れは下流で、鎖編《くさりあ》みのように交互《こうご》に渦《うず》まきながら拡散している。
「カルマン渦か。あの程度ならどうってことは――」
言いかけて、ロイドは口をつぐんだ。
「……あれは何だ?」
はるか前方の、弧《こ》をおびた地平線上に、巨大《きょだい》な山脈が横たわっていた。
これまでに見てきた平坦《へいたん》さからは、想像もできない規模だった。
それは見える限り、地平線のすべてに横たわっていた。山頂は対流|圏《けん》の上限とおぼしきあたりに肩《かた》を並べている。ここに登るなら、宇宙服が必要になるだろう。
やがてその向こうに、第二の山脈が現れた。
さらに、第三、第四の山脈が見え始める。山脈は互《たが》いに平行しており、しだいに高さを増してきた。
第六の山脈はとびぬけて高く、険しかった。
その向こうは闇《やみ》だった。ちょうど昼夜の境目――明暗境界線ぞいにそびえていることになる。こんな地形が、偶然《ぐうぜん》に生まれるものだろうか。
マージの脳裏《のうり》で、何かが閃《ひらめ》いた。
もしかして――これがそうか?
この距離《きょり》では、地上のどんな動きも静止して見えるのだ……理性が結論を保留しながらも、マージはすでに確信していた。
山脈が眼下に迫《せま》るにつれて、それを裏付ける材料が現れはじめる。
折り重なって空間に張り出した、巨大なオーバーハング。
マッシュルームの株を思わせる、無数のドーム。
列をなす大小のロール。
地表と同じ色彩《しきさい》。輪郭《りんかく》も陰影《いんえい》も明瞭《めいりょう》で、透明《とうめい》度は泥水《どろみず》ほどもない――そうしたことが、この大気現象を地形と見誤らせていたのだった。
「腕試《うでだめ》しだなんて、とんでもないわ……」
マージはつぶやいた。
「え?」
「これがタリファの砂嵐《すなあらし》よ」
「これが……!?」
メイは口をあんぐりあけて、その光景に見入った。
「決して近付いてはならない領域ね」
アルフェッカ号が再び惑星《わくせい》の夜側に入ると、メイは新しい現象をとらえた。
「光った!」
嵐の山脈の影《かげ》の中で、赤や紫《むらさき》の閃光《せんこう》が、そのたびに場所を変えながら、絶え間なくひらめいていた。
「稲妻《いなずま》か」
「夜の側も……危険ですね」
「昼側もよ。嵐も雷《かみなり》も、見えないだけで両方にあると思ったほうがいいわ」
「…………」
三人は、しばらく無言でいた。
マージが沈黙《ちんもく》を破った。
「引き返してもいいのよ。私はもともと反対なんだから」
「どっちみち軌道《きどう》港には入るんだ。一杯《いっぱい》やりながら、いろいろ聞いてみようじゃないか」
ロイドが言った。
「まあ、惑星じゅう嵐ってわけじゃないしな」
ACT・5
タリファ軌道港は直径三百メートル足らずの円環《えんかん》型ステーションで、惑星へのただ一つの玄関《げんかん》としてはひどく小さなものだった。全体をすっぽり覆《おお》う日傘《ひがさ》を従えて、高度千キロあまりの軌道を周回している。
自転をキャンセルした中心|軸《じく》には数|隻《せき》の宇宙船が係留されていたが、大きなものはいなかった。タリファ・オパールの原石を運ぶなら、スーツケースひとつぶんの貨物区画ですむというわけだろう。
アルフェッカ号の係留が終わると、三人はスポーク部分のエレベーターに乗って、税関に出向いた。
薄汚《うすよご》れた、小さな事務所だった。
プレキシガラスの窓口ごしに中をうかがうと、男が一人いた。アールミック繊維《せんい》のジーンズの足をテーブルに投げ出し、テンガロンハットをアイマスクにして眠っていた。
「……ここじゃウエスタン・ルックが流行《はや》りか?」
ロイドはそうささやき、拳《こぶし》でカウンターを叩《たた》いた。
男は目をさまし、不精髭《ぶしょうひげ》をこすりながら窓口にやってきた。
「デネヴ船籍《せんせき》、ミリガン運送だが」
メイが丹念《たんねん》に記入した書類を、男はばらりとめくるなり端末《たんまつ》に手を伸《の》ばし、登録処理をすませた。
書類を突《つ》き返すと、男は初めて顔をあげ、マージとメイをじろじろ眺《なが》めた。
「降りる気かい?」
と、親指を下に向ける。
「そうさ。書類にそう書いたんだが」
「気ぃつけたほうがいいぜ」
係員はうろんな笑いをうかぺて言った。
ロイドは取り合わず、かわりに聞いた。
「検疫《けんえき》はどうするね」
「ナマ物でも積んできたのかい」
「それはないが、船の滅菌《めっきん》や乗員の検査は?」
「ヴァンテンから来たんだろ。いらねえよ」
実にアバウトだった。
「シャトル乗りの集まる店を知ってるかね」
「スイートウォーターに行ってみな。メインストリート沿いに歩いてきゃわかる」
税関を出て、短い階段をおりると、そこが街だった。
小さな街だった。それは幅《はば》六十メートルの環状《かんじょう》トンネルの内部に作られており、円周に沿ったメインストリートを十分も歩けば元の場所に戻《もど》ってしまう。
案内図を見ると、ホテルが二つ、教会が一つ、学校が一つあった。あとはアパートメントと商店と、生活に必要な物資を作る工場ばかり。
家屋はどれも簡素で、地球の様式を取り入れた重厚《じゅうこう》なものは見あたらない。閉鎖《へいさ》空間に地球環境を持ち込むというよりは、大型宇宙ステーションの内部を壁《かべ》で仕切った、という印象だった。
三人は最初に見かけたホテルに入り、となりあった二部屋をとった。
いつもどおり、メイはマージと相部屋だった。
シャワールームから出てきたマージが鏡台の前に腰《こし》をおろすと、メイはすかさずドライヤーを持って後ろに立った。
「いいのよ、あなたもシャワー使いなさい」
「いえ、好きなんです。これが」
メイは笑顔《えがお》で、鏡の中のマージに言った。
いくたびかの技術革新を経《へ》ていながら、手で扱《あつか》う櫛《くし》とドライヤーがすたれないのは、同じ考えの持主が少なくないからだろうか。
丹念《たんねん》に髪《かみ》のウェーブを起こしながら、メイは聞いた。
「今日はどんな服で行くんですか」
二人が酒場で情報集めをするとき、メイはいつも留守番だった。
「ラフにしていけってね。変装するわけじゃないから」
「こないだデネヴで買ったピンクのスーツにしたら」
「ここじゃ派手すぎるわ」
「でも、ホセさんに会うかも」
鏡の中のマージに向かって、メイは言った。
「シャトルのパイロットなら、その店にいてもおかしくないですよね」
マージは苦笑した。
「だからおしゃれしていけってわけ?」
「ええまあ……」
口紅を選ぶ間、マージは黙《だま》っていた。
それから言った。
「いいのよ。着てるものなんか見ない人だし」
「そうですか」
ノックの音がして、ロイドが外から呼んだ。
「すぐいく」
マージはスツールから立ち上がり、無難なジャケットとタイトスカートを選んだ。
そして部屋を出る前にもういちど鏡の前で立ち止まり、五秒ほど確認《かくにん》作業に費《つい》やしたのだった。
ACT・6
小さな宇宙都市だったが、歓楽街《かんらくがい》は賑《にぎ》わっていた。
標準時にそって、あたりは夕刻にふさわしい照度になっていた。店々の表には華《はな》やかな、そして心にしみるような電飾《でんしょく》がほどこされており、男たちを誘蛾灯《ゆうがとう》のように引き寄せている。
大きな音は三秒後に世界を一周してくるという特性から、音響《おんきょう》広告はなかった。だから通りは、女たちの呼び声と、乾《かわ》いた靴《くつ》音で満たされていた。
『スイートウォーター』は、そんな雑踏《ざっとう》の中にあった。
店内は安|煙草《たばこ》の煙《けむり》がたちこめていた。薄《うす》暗い中、面発光のテーブルが客の顔をほのかに染めている。
地面の曲率に合わせたのか、奥《おく》の半分は中二階になっていた。短い階段を上がると、つきあたりのカウンターに客が一人。
黒いジャンパーの背中に、ウイングマークの刺繍《ししゅう》が見える。シャトル乗りらしい。
ロイドは男の隣《となり》に立った。
「いいかね?」
「ああ」
ロイドが止まり木に腰をおろすと、マージもその隣に座《すわ》った。
男はしげしげと二人を眺《なが》めた。陽《ひ》に灼《や》けた肌《はだ》と、たくましい腕《うで》の持主だった。
「見ない顔だな」
「ヴァンテンから来たんだ。さっき着いたばかりさ」
「何にする?」
女主人が聞いた。四十そこそこの、化粧気《けしょうけ》のない、しかし整った顔立ちの女だった。
「こちらと同じのを」
「お姉さんは?」
「右に同じ」
「それから、こちらにも一杯《いっぱい》おごりたい」
女主人はきびきびと三つのグラスに酒を注いだ。
安物のバーボンを一口ふくむと、ロイドは簡単に自己|紹介《しょうかい》した。マージが同業だと知ると、男は少し興味をひかれたようだった。
「……で、明日にでも下に降りたいんだが、ここの航路情報には空港の名前も載《の》ってないんでな」
「あんたら何にも知らずに来たんだな」
男はあきれ顔で言った。
「というと?」
「あの嵐《あらし》を見なかったのか。あれが通った後にゃ何もかも消えてる。空港なんか作れっこねえよ。空港どころか街らしい街もねえ」
「しかし下には三万からの人間がいるんだろ? そいつらの家はどうなるんだ」
「船さ。連中は砂上船の中で暮らしながら、薄明嵐《はくめいあらし》のあとをついていく」
「薄明嵐?」
「だから昼と夜の境目にできる、あの嵐さ」
「ふむ……あれか。なんだかすごい眺《なが》めだったが」
「タリファじゃ昼も夜も一か月続く。おかげで昼は二百度の灼熱《しゃくねつ》、夜はマイナス百四十度まで冷えてドライアイスの雪が降る。じゃあその境目はどうなる? ドライアイスの氷原に暖気がなだれこんで上を下への大騒《おおさわ》ぎさ。これが薄明嵐ってわけだ」
「なるほどねえ……」
ロイドはうなった。
薄明嵐は、タリファの自転とともに六十日周期で惑星《わくせい》を一周する。
薄明には朝側と夜側があるから、三十日で次の嵐がめぐってくることになる。
地上で、この吠《ほ》える子午線≠ゥら逃《のが》れる場所は両極しかない。それ以外の場所では、嵐とともに移動し続けるほかなかった。
「しかし、その薄明嵐のあとをついていくとはどういうことかね?」
「あんた、砂に穴を掘《ほ》ったことがあるかい?」
ロイドは首を振《ふ》った。
「軍隊の刑罰《けいばつ》じゃないか、そりゃ」
「そんなもんさ。鉱夫の連中はここでオパールを掘る。だがどうやってだ? 砂の層は何百メートルもある。露天《ろてん》掘りなんぞしてたらすぐ埋まっちまう。ケーソン工法のでかいリグを建てなきゃなるまい?」
「だが、せっかく建ててもひと月で薄明嵐が来る――」
男は大きくうなずいた。
「だから自分じゃ掘らねえ」
「じゃ誰《だれ》が?」
「嵐《あらし》さ」
「……薄明嵐か?」
「そうさ。嵐に掘らせるんだ。嵐の跡《あと》を見たことあるか? 見渡《みわた》す限り千メートル級のすげえ砂丘《さきゅう》ができてる。砂丘の谷間に岩盤《がんばん》が現れる。それも砂で削《けず》られたばかりの、ぴっかぴかの露頭《ろとう》だ。オパール掘りの連中はそこへ出かけるわけさ」
「……考えたもんだな」
「考えた? それ以外に手がねえのさ。楽なもんじゃねえぞ。砂丘はどんどん崩《くず》れる。そこらじゅう砂の河さ。嵐が去ったら大急ぎで行かなきゃ露頭はすぐに埋もれちまう。それだけじゃねえ、自分も埋まっちまう。せっかくでかい獲物《えもの》をしとめても、ぐずぐずしてたらおしまいさ」
「ふむ。――しかし、下にいるのは鉱夫ばかりじゃないだろう。バイヤーや機械の修理工だっているはずだ。その連中はどうしてる?」
「同じさ。砂上船に乗ってる。いろんな奴《やつ》の乗った船が、コンボイを組んで行進してるんだ。ここじゃそれを『街』と呼んでるがね」
「走り続ける街か……」
「いつもってわけじゃない。たいていの街は赤道帯にいるから、毎日九時間、四百キロばかり走って止まる」
「なんで赤道帯なんだね」
「いい鉱脈が集中してるんだ。それに赤道あたりじゃ嵐もとびっきり強い。それだけでかいヤマにあたるってことさ」
「……いい根性《こんじょう》だな」
「根性だけはあるぜ、連中は」
「あんた、ほんとにただの運送屋さん?」
カウンターの向こうから、女主人が言った。
「そう見えないかね?」
「どっちかって言うと、タリファ・オパールで一|儲《もう》けしようって目だね」
かなり図星に近い。
ロイドの一生の夢は宝探しだった。
どんな宝をどれほど得たいのか、明確な展望はない。ただ一攫千金《いっかくせんきん》を夢見ている。
「あんたがバイヤーやるならさ、つまんない石は買い叩《たた》いていいんだよ」
女主人は言った。
「でもあんたが、これはいい! って思った石はとびっきり高く買ってやるの。あんたに石の値打ちがわかるなら、掘《ほ》った奴だってその石に惚《ほ》れてるんだ」
ロイドはうなずいた。
「相応の値段で売れてこそ、その石は語り草になるの。そんな話が街の酒場で毎晩かわされる。それが彼らの原動力になる」
「……わかるよ。よくわかる」
「オパール掘りは、損得|勘定《かんじょう》をするようじゃ長続きしない。彼《かれ》らは石に夢をみてるのよ。それがわかんないバイヤーはだめね」
マージはいささか警戒《けいかい》して、ロイドの顔をうかがった。
それに答えるように、ロイドは言った。
「わしはそういうのが好きだな」
「まさかオパール掘りを始める気じゃないでしょうね?」
「いやいや、わしはそういう生き方が好きなのさ」
「そう?」
「わからんかなあ。つまりだなあ……」
ロイドは言いかけて、まあいい、と話を打ち切った。
マージが男に聞いた。
「その街だけど、薄明嵐《はくめいあらし》の中心からどれくらい離《はな》れてるの?」
「まあ五百キロってとこだな」
「五百キロ!?」
マージは驚《おどろ》いた。
さっき見た、あの嵐の中心からたったの五百キロ!?
まだ嵐の余波の中じゃないか……
「暮らしやすい環境《かんきょう》とは思えないけど」
「そりゃそうさ。だがそれ以上離れちゃ遅《おく》れをとるからな」
「……じゃ、シャトルは街からどれくらい離れて降りるの?」
「離れたりするもんか。連絡《れんらく》が大変だろうが」
かたん。
マージは立ち上がった。
「帰りましょ、ロイド。こんな星とはおさらばよ」
「おいおい、急にどうした」
「あの嵐に突《つ》っ込んで砂漠《さばく》に着陸するなんて狂気《きょういき》の沙汰《ささた》よ!」
「ここの連中は毎日そうしてるんだぞ」
「ここはここ。うちはうち。ささ、行きましょ」
「なあマージ……」
ロイドはなだめにかかった。
「ここまで来て逃《に》げ帰るなんて情けないとは思わんか。ここは勇気を出して挑戦《ちょうせん》してみようじゃないか」
「シャトルを飛ばすのに勇気はいらない」
「だとしてもだ、現にこの人だってシャトルで行き来してるんだぞ?」
マージは答えなかった。
だが、動こうともしなかった。
「ん……どうした?」
マージの目は、向かいの壁《かべ》に釘《くぎ》付けになっていた。
写真だった。
背景は古い型のシャトルの前輪と、大きな格納庫。
今よりひとまわり若い女主人。
その隣《となり》に、黒いフライトジャケットを着た男。長身で面長《おもなが》、秀《ひい》でた頬骨《ほおぼね》。
笑《え》みをうかぺている。だが、深い、水のように澄《す》んだまなざしは変らない。
ホセ・ゲレロだった。
「それ、亭主《ていしゅ》ね」
マージの視線に気づいて、女主人が言った。
「証拠《しょうこ》写真ってわけ。いい男だったのよ」
「だった?」
マージはどきりとして、聞き返した。
「じゃ、今は……」
「悪い男」
そう言って、女主人はにっと笑った。
死んだわけではないらしい。
「今はどこに?」
「下。レンジャーやってるの」
「…………」
あの話は本当だったのだ。
ホセは教官をやめて、タリファに来た。
そして今も、タリファにいる……。
マージは、するすると腰をおろした。
様子を見て、ロイドも察したようだった。
「その、レンジャーってのは?」
「空飛ぶなんでも屋よ。建前としては個人経営の救難隊かな。飛行機で飛び回って、砂漠《さばく》で立往生してる連中を見つけては救助するの」
「やっぱり!」マージは思わず声に出した。
「やっぱり?」
「いえ……その写真、飛行服がよく似合ってるから」
女主人は苦笑《くしょう》した。
「ま、あいつ向きの仕事かもね。かけがえのない人命を救う、とーっても貴《とうと》いお仕事だから」
女主人はいたずらっぽい顔で言った。
「下じゃ救難活動も民間でやるのかね?」ロイドが聞いた。
「そう。この港に事務所ひとつの政府があるけど、下のことはほったらかし。街じゃ保安官と自警団をおくぐらいで、とても救難隊を持つような余裕《よゆう》はないわね」
「その写真、ここじゃないようだけど――」
「うん。デネヴにいたんだけど、亭主《ていしゅ》がタリファのレンジャーの話を開いて、こっちに引っ越したってわけ。面白《おもしろ》そうだからってね。いい気なもんだわ」
「いっしょに暮らさないの? その……立ち入ったことを聞くようだけど」
「まさか!」女主人はぶんぶん首を振《ふ》った。
「あいつにそこまでつき合ってたら身がもたないよ! 下が住みよきゃいいけど、ほこりっぽいし水はケチるし、あんな所は一度でたくさん」
「ご主人は、いまどの街に?」ロイドが聞いた。
「さあね。転々としてるから」
「電話で話すことは?」と、マージ。
女主人は首を横に振った。
「街のあたりじゃ、無線はだめ」
「チャフみたいなもんさ」
客が言った。
「タリファの砂にゃ金属鉱物がどっさりある。電波が届くのはせいぜい二十キロだ」
マージは生唾《なまつば》を飲んだ。
空港がないうえに、無線|連絡《れんらく》もできないとは。
これは砂嵐《すなあらし》以上に恐《おそ》ろしいことだった。
だが、マージはもう、逃《に》げ出すつもりはなかった。
「……じゃ、街に向かうシャトルは慣性|誘導《ゆうどう》でアプローチする?」
「最後はビーコンだな。街の位置がはっきりしねえからな」
地形は嵐が通るたびに様変りする。砂上船団は常に処女地を、地形を選びながら移動するのだった。
「つまり、適当に街の近くまで来て、それからビーコン電波を探すってこと?」
「そうさ」
「あの嵐の中を?」
「だから街に行きたきゃ、嵐に突《つ》っ込むしかねえんだよ」
「GCAは?」
男は首を横に振《ふ》った。
「有視界で降りるっきゃねえ。ま、真《ま》っ暗闇《くらやみ》になるわけじゃねえからな」
マージは腕《うで》組みした。
「……手ごわいわね」
「そうさ」
男は改めて、マージを見た。
値踏《ねぶ》みする目だった。
あんたがシャトルを操《あやつ》るのかい? こいつぁヨット遊びじゃないんだぞ……。
男はしかし、多くは語らなかった。
「覚悟《かくご》してかかるこった。こっちに舞《ま》い戻《もど》るだけの燃料は持ってくんだな」
ACT・7
タリファに降下するまえに、いくつかの準備があった。
まず、シャトルの降着装置に砂地用のそりを履《は》かせる。滑走路《かっそうろ》も水面もない星である。
二酸化炭素ばかりの大気中で活動するために、呼吸器もいる。酸素ボンベはなく、二酸化炭素を還元《かんけん》する仕組みだった。
外見は軽便なもので、首輪とノズル、それに電源部からなっている。首輪からつきだしたノズルが顎《あご》のあたりにきて、顔のまわりに酸素を吹《ふ》き付ける。風が強いときは付属のマスクとゴーグルを使う。マスクには、排気《はいき》から水分を取り出す機能もあった。
地上で動きまわるにはサンドバイクが重宝するという。二人乗りで、車輪のかわりにダクテッド・ファンを持ち、地上数十センチを浮上《ふじょう》走行する。折り畳《たた》み式で軽量なので、これも一台レンタルする。
そして、積荷である。
どうタリファで最もポピュラーな輸入物資は、水だった。すべて外|惑星《わくせい》帯からタンカーで軌道港に運ばれ、そこでシャトルに移されるのだった。
ミリガン運送がありついた積荷も、やはり水だった。
積荷が決まると、目的地も決まった。
バンカーヒル、という街だった。
街の位置情報は、宇宙空間に向けてエンドレス放送されている航路情報にはなく、港内ネットワークにつないでようやく得ることができた。
それによれば、タリファ全土に十七の街――砂上船団がいた。すべて朝側と夜側の薄明《はくめい》帯に、子午線にそって一列に並んでいる。街は毎日移動を続けており、現在位置はわからない。シャトルが持ち帰った最新の報告から、予報を出すしかなかった。
軌道港について二日目、アルフェッカ・シャトルはドッキングベイを離《はな》れ、軸《じく》部にある給水プラントに接近した。
メイはロイドとともに、宇宙服を着て開け放ったペイロードベイにしがみついていた。
周囲には、他社のシャトルも数機、順番待ちをしている。
前方に、軌道港と独立して回転する風車のようなものが見えた。その六本の腕《うで》には円筒《えんとう》形の水タンクが固定されている。これは遠心装置の一種だった。
『零時《れいじ》方向ミリガン運送、六時方向タトル運輸、回収準備』
管制所から指示が入った。
回転するプラットホームから、向かい合った二つのタンクが離れた。
「メイ、ロイド、出すわよ」
『よしきた』
『了解《りょうかい》』
シャトルが動きだし、タンクの下側にまわりこんで、ぴたりとベクトルを合わせた。
『気合い入ってるじゃないか、マージ』
「無駄口《むだぐち》たたいてないで誘導《ゆうどう》して」
『わかった。微速《びそく》前進……よーしストップ!……前はどうだ、メイ』
『いいです。そのままどうぞ!』
『マージ、そのまま上げろ』
タンクの前後端《ぜんこうたん》がアダプターに噛《か》み合い、収容作業は終わった。
メイとロイドが船内に戻《もど》ると、マージはすぐ、減速シーケンスに入った。
シャトルは軌道《きどう》を離脱《りだつ》し、荒《あ》れ狂《くる》うタリファの大気に降りていった。
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第二章 薄明《はくめい》の街
ACT・1
高度二万メートル。
熱に包まれた大気制動が終わり、シャトルは澄《す》みきった対流|圏《けん》の上層に入った。
行く手の薄明嵐《はくめいあらし》は、幾筋《いくすじ》もの余波をしたがえてそびえ立ち、ほとんど真横にまで達していた。
メイは航法席から、ちらちらと前方をうかがっては、レーダーに目を戻《もど》していた。
「落ち着かないわね、メイ」
マージがたしなめる。
航法席は操縦席の後ろにあるのに、マージはどうしてかメイの様子がわかるらしい。
「すみません。――でも、レーダー全然役に立たなくて」
レーダースクリーンは真っ白だった。事前に教えられたとおり、金属鉱物を豊富に含《ふく》む砂塵《さじん》が、チャフの役割を見事にはたしているのだった。
「まあ見るだけでも見てろ」
前を向いたまま、ロイドが言った。
「真っ白にもいろいろあるからな」
「はい……」
そう答えながら、計器に集中できない。
刻一刻と近付いてくる嵐《あらし》の断崖《だんがい》が、メイは怖《こわ》かった。
怖いもの見たさに目を向けては、あわててそらす、その繰《く》り返しだった。
ただ大きいというだけで畏怖《いふ》の念をひきおこす光景がある。そのとき、大きさの尺度は主観に左右される。軌道《きどう》上から見たタリファの全景に較《くら》べれば、目の前の嵐など爪《つめ》で引っ掻《か》いた程度でしかない。にもかかわらず、その砂塵の壁は身の毛のよだつ眺《なが》めだった。
バンカーヒルの街にたどり着けるかどうか、という現実的な不安もある。
どの街も電波灯台を持っていて、そのビーコン信号は二十キロまで接近すれば受信できるとされている。だがそれは、経緯度《けいいど》の〇・二度という小さな円でしかない。ビーコンを捕捉《ほそく》するには有効|範囲《はんい》ぎりぎりの高度を飛んでいてはだめで、どうしても砂嵐の中に入らなければならない。
現在位置は南緯十七度、六時半の子午線。
予定どおりなら、バンカーヒルの上空に来ている。
タリファでは薄明嵐《はくめいあらし》の中心、明暗境界線を基準とする座標系が用いられていた。それは日の出と日没《にちぼつ》を示す子午線だから、時刻で言えば六時と十八時にあたる。そして多くの街は朝側の、嵐の中心より三十分昼側に寄った、六時半の位置にいる。その中で南緯十七度にあるのがバンカーヒルというわけだった。
「さーて、そろそろ突撃《とつげき》ね……」
マージが言った。
「メイ、準備はいい?」
「はい」
「各自、衝撃《しょうげき》にそなえるべし!」
シャトルは降下体勢に入った。
メイはもう、脇目《わきめ》もふらずにレーダーを注視した。
スクリーン上、わずかに残されていた周囲の空白が、さっと白濁《はくだく》した。
どさっ!
蹴飛《けと》ばされたような衝撃がシャトルを襲《おそ》った。ハーネスが肩《かた》に食い込む。
メイは懸命《けんめい》にスクリーンに目をすえた。
真っ白にもいろいろある――その中から少しでも薄《うす》いところを見つけて、マージにアドバイスする手筈《てはず》だった。
しかし――。
「はっ、話が全然ちがいます!」
メイは悲鳴に近い声をあげた。
「レーダーじゃ二十キロどころか、二キロ先も見えません!」
「見える範囲《はんい》で判断しなさい!」
「ひ……左四度、やや良」
「左四度|了解《りょうかい》。……大差なし。もっといい物件は?」
「あり――ません」
強烈《きょうれつ》な揺《ゆ》れがきて、首がもげそうになった。ついでゼロG状態。
その瞬間《しゅんかん》、高度を五百メートル失う。
「くそっ、なんて垂直流なの!」
機首を上げた途端《とたん》、こんどは突《つ》き上げをくらった。
まるでロデオだった。
窓の外は暗く、視界はない。前照灯の光が描《えが》く二本の円錐《えんすい》だけが、朦朧《もうろう》と見えている。
次の瞬間、前方右から左へ、紫《むらささ》の電光が一閃《いっせん》した。
「雷《かみなり》!」
マージはただちに回避《かいひ》行動をとったが、放電はそこら中で始まっていた。
何かが割れるような音がして、窓全面が光に包まれた。機内の照明が一斉《いっせい》に消える。
電源が復旧し、コンピューターが再起動するのに一秒近くかかった。
そのわずかな制御《せいぎょ》不能の間に、機体はほとんど裏返しになっていた。
必死で姿勢を立て直しながら、マージは怒鳴《どな》った。
「メイ、レーダーはいいからビーコンに集中して! ちょっとでも入感があったら言うのよ」
「はいっ!」
メイは前髪《まえがみ》をかきわけ、通信機のバンドスコープをにらんだ。輝線《きせん》は入感ゼロを示す水平線を描いていたが――
「あっ……」
「『あっ』じゃない!」
「いま一瞬、入感したような」
「方位は!?」
「はっきりしません。およそ西北西です」
少なくとも、このまま飛び続けていては離《はな》れるばかりだ。こんな飛行は一刻も早く終わらせたい。
マージは機体を旋回《せんかい》させた。
「どう?」
「えと……切れぎれに入ります。ほとんどノイズレベルですが」
「マージ、思い切って高度を下げてたらどうだ? ある程度低いほうが気流はよさそうだぞ、ここは」
「そうね……」
何もしていないように見えて、ロイドの観察力は鋭《するど》い。
瞬時《しゅんじ》に半キロも落下する乱気流である。このうえ高度の貯金を減らすのはためらわれるが――。
決心して降下に入ろうとした、その時。
警報が鳴り響《ひび》いた。
マージは素早くマスター・スイッチを押《お》して、故障|箇所《かしょ》の表示を読んだ。
「――左翼《さよく》エレボン、作動不能!」
マージは青ざめた。
アルフェッカ・シャトルの空力|制御《せいぎょ》の大半は両翼のエレボンとスポイラーで行なう。
エレボンは三|軸《じく》のすべてにかかわっており、これなしでは飛べない。
絶対に壊《こわ》れてはならない部分が故障したのだった。
「スポイラーとバーニアで補え!」
言いながらロイドは頭上のモードスイッチを押して、操縦に反動制御系を連動させた。だが、その働きは大気圏《たいきけん》内ではたいした助けにはならない。
シャトルは旋回降下を始めた。現状では、きりもみに入るのを抑《おさ》えるのが精いっぱいだった。
「推進剤《すいしんざい》、緊急投棄《きんきゅうとうき》」
少しでも機体を軽くするために、マージは推進剤の大半を捨てた。
「積荷の水は捨てられるか?」
「間に合わない。――メイ、対地レーダーを読んで」
メイは対地レーダーから高度を読み取って、マージに伝えた。操縦席にも高度計はあるが、こんな時は複数でかかったほうがいい。
「一千……九百……七百三十!……八百……七百……」
高度五百メートルを切ったところで、不意に視界が開けた。
どす黒い砂嵐《すなあらし》の天井《てんじょう》が上方に去り、視界がさっと開けた。
眼下は一面の砂丘《さきゅう》だった。風は砂丘の稜線《りょうせん》と直交して吹《ふ》いており、地表は霧のような砂塵《さじん》に覆《おお》われている。
気流は急におとなしくなった。
「稜線ぞいに降りるしかないな」
マージは降着装置を出し、砂丘のひとつに狙《ねら》いをさだめた。横風になるが、それ以外に水平な場所がないのだから仕方がない。
「山に降りるか谷に降りるか……」
「谷だな。山はすぐ崩《くず》れる」
「谷だってすぐ埋《う》まるんじゃないの」
「転げ落ちるよりはましだろ」
「オーケイ」
ボディ・フラップを上げ、速度を殺す。
機体はずっと左に横|滑《すべ》りしていた。そうでなければ飛び続けられない。
「高度百メートル……九十……八十……」
「左翼から接地する。スピンするかも」
「なら胴着《どうちゃく》のほうがいい」
ロイドは腕《うで》を伸《の》ばして、降着装置を収納した。
高度十メートル。
地表付近の砂塵の中に入った。
視程百メートル。一秒先しか見えない。
いよいよという時になって、不意にマージは言った。
「メイ、操縦やってみる?」
「こっ――今度にしますっ!」
直後、砂が機体をとらえた。
どざざざざざ――!
窓外の景色が一瞬《いっしゅん》ぶれて右に流れた。
シャトルはほとんど真横までスピンした。
ハーネスが体にくいこむ。
左手の砂丘《さきゅう》が迫《せま》る。窓が砂に覆《おお》われた。
摩擦《まさつ》音。金属の悲鳴。
それから、静寂《せいじゃく》が訪《おとず》れた。
「……とまった」
顔を上げると、窓を覆った砂が、さらさらと流れ落ちてゆくところだった。
その向こうは、砂丘と空だけ。斜面を這《は》い上がる格好で止まったらしい。
「到着《とうちゃく》……標準時一三四七」
マージはため息をもらすと、核融合炉《かくゆうごうろ》をアイドリング・モードにし、ハーネスをゆるめた。
「案の定、ってやつか?」
汗《あせ》ばんだ顔をこすりながら、ロイドが言った。
「あれだけ警戒《けいかい》してかかれば、普通《ふつう》は何も起こらんもんだがな」
「動翼のフライ・バイ・ワイヤだけは信頼《しんらい》してたんだけど」
「……検査が甘《あま》かったんでしょうか?」と、メイ。
「そうとも思えんが」と、ロイド。
「砂かしら?」
「とにかく出て、調べてみないとな」
三人はキャビンのロッカーから呼吸器をとりだして、首にはめた。ケーブルを腰《こし》のバッテリー・パックにつなぎ、電源を入れる。口元に酸素が吹《ふ》き付けられた。
「ふむ。悪くないな」
ロイドはそう言って、エアロックを開いた。
乾《かわ》ききった風が、どっと吹き込んだ。
ACT・2
ラッタルを降りると、そこは見渡《みわた》す限りの砂丘《さきゅう》だった。
空は低い雲に覆われ、薄《うす》いところはピンクや白に光っていた。直射日光はないが、空全体から散乱があるので、曇った昼間と同じくらいの明るさがある。
砂は思ったより固くしまっていて、靴《くつ》はさほど沈《しず》まない。
風は絶え間なく、びゅうびゅうと吹いていた。靴のまわりには、早くも砂の吹き溜《だま》りができている。ときおり、砂粒《すなつぶ》が頬《ほお》を刺《さ》す。
左翼《さよく》は半分砂に埋《う》まっていたが、上半角のついた翼端部《よくたんぶ》は見えていた。ロイドとマージはエレボンの上にかがみこんだ。
メイが工具箱を持ってきた。
「ボックス二番」
「はい」
翼《つばさ》のパネルを開くと、エレボンを駆動《くどう》する油圧機構が見えた。
マージは信じられない、という顔で言った。
「コンロッドが二本とも折れてる……」
油圧ピストンから動翼に力を伝達する、頑丈《がんじょう》な金属棒である。それが根元からぽっきり折れていた。
「過負荷《かふか》か?」
「折れる前にセンサーが検出するはずよ」
「じゃあセンサーもいかれてるんだ。事故ってのはたいてい、複数要因がからむもんだからな」
ロイドは部品のひとつを取り外し、軸受《じくうけ》のまわりを調べた。
「ふむ……やっぱり砂だ。見ろよ、スキンクリームより細かいぞ」
指先についた、オイルの染《し》みた砂を見せる。
「ほんとね」
「上空の砂は地上よりずっと細かいんだな。センサーの隙間《すきま》もこれがつまったんだろう」
ロイドは腕《うで》組みした。
「とにかくコンロッドをなんとかしないとな」
「予備は恒星《こうせい》船の中よ。溶接《ようせつ》機も」
恒星船はシャトルの母船で、軌道《きどう》港に係留したままだった。
「右翼《うよく》のを一本外して使うか」
マージは首を横に振《ふ》った。
「それでこの乱気流を飛ぶ気にはなれないわ」
「街まですぐなんだがな」
「離陸と着陸は一回ずつあるのよ。それもとびっきりハードなのが」
「そうだな」
「そのうえ現在位置もはっきりしない」
マージは、やれやれ、と首を振った。
慣性航法装置があるから、惑星《わくせい》上の経緯度《けいいど》はわかっている。問題は、街のほうが位置通報もしないままに移動し続けていることだった。
「今なら、街までたぶん四〜五十キロですよね……」
メイが言った。
「だが無線は届かんぞ。ビーコンでさえ二十キロなんだからな」
「ねえ、それぐらいならサンドバイクで行けるんじゃない?」
「あれか……」
ロイドは少し考えた。
「メイ、街の方角はわかるか?」
「あの時の方位を、飛行経路から逆算するぐらいなら。でも、ちょっと不確かです」
「無線の通じる範囲《はんい》まで行けばいいんだ。やってみよう。街ならロッドの修理ぐらいできるはずだ」
「あたしが行くわ」と、マージ。
「君一人じゃ心配だ。わしも行こう」
サンドバイクは二人乗りだった。
「あの、じゃあ私、また留守番ですか?」と、メイ。
「ここにいるほうがずっと安全よ。核融合炉《かくゆうごうろ》は止めないこと。それから無線を常にワッチしてて」
「……はい」
メイは不承不承うなずいた。
三人は、ペイロードベイからサンドバイクを降ろし、組み立てた。
折れたコンロッドを荷台にくくりつけ、マージは前、ロイドは後ろにまたがる。
「日暮れまでに戻《もど》るわ」
「日暮れは一か月後ですけど」
「おっとそうか。たぶん二〜三時間ですむと思う」
「あの、街も移動してることを忘れないでくださいね。標準時で午前九時から午後六時までは移動するんです。今、午後二時ですから」
「わかってる。じゃあね」
バイクは三十センチほど浮上《ふじょう》し、ついで前進を開始した。
メイは砂丘《さきゅう》に登って、しばらく見送った。バイクはすぐに見えなくなった。
ACT・3
そういえば、無線のテストをしてなかった……。
コクピットに戻ったメイは大事なことに思いあたり、サンドバイクを呼び出した。
まだ、交信|圏《けん》内にいるはずだ。
「こちら、アルフェッカ・シャトルのメイ。マージさん、聞こえますか」
『よく聞こえるわ。バイクも快調よ』
「わかりました。ちょっとテストしておこうと思って。それだけです」
『了解《りょうかい》。じゃ、留守番よろしく』
交信が終わると、メイはキャビンに行き、ロッカーから掃除《そうじ》機をとりだした。
数回出入りしただけなのに、床《ゆか》は早くも薄《うす》く砂が積もっていた。
メイは隅々《すみずみ》まで念入りに掃除した。人工重力装置のないシャトルで、砂のような微粒子《びりゅうし》はしばしば面倒《めんどう》をひきおこす。ゼロG状態で浮遊しはじめると、どんな隙間《すきま》に忍《しの》び込むかわからない。
そうでなくても、歩くたびに床がざらざらするのは我慢《がまん》できなかった。
メイはきれい好きだった。ロイドやマージが、吸殻《すいがら》やヘアブラシについた髪《かみ》をどうして床に捨てられるのか、いまだに理解できない。二人が活動しているかぎり、メイは常に掃除し続けなければならなかった。「あんたが気にしなきゃいいのよ」とマージは言うが、気になるものはしかたがない。
シャトルの外回りの汚《よご》れについては、今は考えないことにした。なにしろ半分砂に埋《う》まっているのだ。こだわりはじめたら気の遠くなるような難事業に着手しなければならない。いくら勤勉なメイでも、それは手にあまる作業だった。
掃除が終わって一息つくと、メイは自分のラップトップ・コンピュータを開いた。
新しい文書ファイルを開き、タイピングを始める。
それは両親にあてた手紙だった。
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前略。
父さん、母さん。お元気ですか。
メイはいま、X1069太陽系のタリファで、とても明朗かつ元気に働いています。ロイドさんもマージさんもすごく優《やさ》しくしてくれるし、お仕事も安全かつ健全なものばかり。早く一人前の船乗りになって、成長したメイの姿をお目にかけたいと思います。
[#ここで字下げ終わり]
ここまでは決まり文句である。
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今日はシャトルで留守番です。ロイドさんとマージさんはちょっと用事で街に出かけています。
最近、マージさんの若い頃《ころ》(今でも若いですけど)のことが話題になっています。マージさんはホセさんていう教官に操縦を教えてもらったのですが、この人がすごく立派な人で、操縦の神様なんだそうです。マージさんはホセさんをすごく尊敬しています。
メイにはマージさんが神様です。さっきも不時着
[#ここで字下げ終わり]
「おっとと……」メイは最後の単語を削除《さくじょ》した。
[#ここから1字下げ]
メイにはマージさんが神様です。さっきも、ちょっと難しい着陸があったんですけどマージさんは冗談《じょうだん》を言ったりするんです。マージさんはいつも冷静です。ときどき、ロイドさんと口論することがありますが、大事なときはいつも冷静です。
メイも早くマージさんのようになりたいと思います。ではまた。
[#地付き]心をこめて。メイ
[#ここで字下げ終わり]
タッチ・スクリーンに指でサインを入れて、故郷の両親のアドレスを冒頭《ぼうとう》に入れる。
「そっか。ここからじゃメール送信できないんだ……」
軌道《きどう》港まで行かないと、恒星《こうせい》間ネットワークのメール集配システムに乗せられない。
両親には三日と空《あ》けずに手紙を書いていたが、しばらく穴があいてしまう。
心配しなければいいが……
メイは急に人|恋《こい》しくなって、再び通信機に向かった。
もしかしたら、まだ交信できるかもしれない。
「こちら、アルフェッカ・シャトルのメイ。マージさん、聞こえますか」
三度|繰《く》り返したが、応答はなかった。
まあ、そうだろう……。
それからメイは思い直し、不特定の相手に呼びかけてみた。
「こちら、ミリガン運送アルフェッカ・シャトル。どなたか聞こえますか。現在|砂漠《さばく》に不時着しています。……こちら、ミリガン運送アルフェッカ・シャトル。応答願います」
驚《おどろ》いたことに、Sメーターの指針がピンとはね上がった。
『こちらホークアイ。アルフェッカ・シャトル、聞こえたぞ。どうした』
男の濁声《だみごえ》だった。
「こちらアルフェッカ・シャトル。ホークアイ、よく聞こえます。故障して、砂漠に不時着したんです。バンカーヒルのそばだと思うんですが」
『よーしきた。救助を要請《ようせい》するか、アルフェッカ?』
「えと……いま他の人が部品を修理しに、街に向かってるんです」
『バギーでか?』
「サンドバイクです」
『方位はわかってるんだろうな?』
「大体は」
『大体? そりゃ無茶だぞ。迷ってるんじゃねえのか?』
「あ、でも、街がわからなくても、シャトルに戻《もど》ることはできると思います」
『戻ってシャトルで野垂れ死にか?』
「それは……」
メイは不安になってきた。
一日ごとに、街は四百キロ遠ざかる。
核融合炉《かくゆうごうろ》は生きてるし、積荷は水だから二か月は楽に生存できるが、その間に次の薄明嵐《はくめいあらし》がやってきたら……。
『なあお嬢《じょう》ちゃん。タリファが初めてらしいが、悪いこたぁ言わねえ、ここは救助要請しといたほうがいいぞ』
気のせいか、押《お》し付けがましい響《ひび》きがある。まるで商売の取引をしているみたいだ。
メイはますます迷った。
「でも……私の一存では」
『遭難《そうなん》してて一存もクソもあるかい。こっちは飛行機だ、そろそろ交信|圏《けん》を出るぜ』
「ま、待ってください!」
メイは決心した。
「救助を要請します」
『そうこなくっちゃな。そっちの方位を割り出した。すぐに行く』
「ありがとうございます、ホークアイ」
『お安い御用さ』
ACT・4
低い噴射《ふんしゃ》音が聞こえてきたので、メイは携帯《けいたい》無線機を持って外に出た。
現れたのは、小型の貨物機だった。
実用一点張りの四角い胴体《どうたい》にビヤ樽《だる》のようなエンジンを一基のせている。主翼《しゅよく》から伸《の》びた二本の腕《うで》の先に、大きな尾翼《びよく》がある。短|距離《きょり》で離着陸《りりゃくりく》できる、STOL機らしい。
銀色の胴体には雑な手|塗《ぬ》りでホークアイ≠ニ描《えが》かれていた。
貨物機はシャトルの上空を一度|旋回《せんかい》すると、高度を落とし、砂丘《さきゅう》の風下側に姿を消した。
「……え?」
排気《はいき》音が聞こえない。これって、墜落《ついらく》したんじゃ……?
そのほうに走りかける。
――と、目の前の砂丘に、音もなく機が出現した。
落ちてくる!
メイは仰天《ぎょうてん》し、逃《に》げようとして足がもつれ、砂に突《つ》っ伏《ぷ》した。
破局を信じて五秒ほど、身を固くする。
……だが、何も起こらなかった。
メイは砂まみれの顔をあげた。
五メートル先に、ホークアイ機が止まっていた。
メイはしばし、呆然《ぼうぜん》と見とれていた。
乾《かわ》いた音がして、ハッチが開いた。
「上じゃ砂パックが流行《はや》ってるのかい、お嬢《じょう》ちゃん」
あの濁声《だみごえ》がした。男は砂に降り立ち、ガハハと笑った。
メイはあわてて顔の砂を払《はら》い、もう一度男を見た。
中年。大男。固太り。顎髭《あごひげ》。赤焼け。サングラスに合皮のジャンパー。
……どの要素も、好みではない。
どこかロイドに通ずるものがあるが、この男のほうが十|歳《さい》は若い。若いぶん、むさ苦しさもつのる。
それでも、メイはきちんと挨拶《あいさつ》した。
「こんにちは。ミリガン運送の見習い航法士のメイ・カートミルです。救助|要請《ようせい》に応じていただいて、ありがとうございました」
「若いな。商船高出か?」
「……まあ、そんなとこですけど」
「ふーん」
男はそばにやってきて、無遠慮《ぶえんりょ》にメイの顔をのぞきこみ、指で頬《ほお》の砂を払った。
「毛並のいいお嬢さんだ。ここにゃ似合わねえクチだな」
「……あの、お名前は」
「だからホークアイさ」
メイは少し構えた。娘《むすめ》一人だと思ってなめられてはいけない。
とにかく、彼は救助に来たのだから、期待どおりのことをしてもらおう。
「故障したのは、左翼のエレボンです。そこさえ直れば飛べます」
「ふむ」
ホークアイは急ぐ様子もなく、シャトルのまわりを一周した。メイもついて歩いた。
「モリソン級か。俺《おれ》たちゃこいつを働き者のおばさん≠ニ呼んでた」
壊《こわ》れたエレボンの前で立ち止まる。
男は腰のサックからマルチツールを取り出して、パネルを開いた。
「……そのタフなおばさんも、砂に噛《か》まれたか」
「噛まれた?」
「そうさ。ここの砂は噛みつくんだ。何にでもな。可動部にはタリファ・スペシャル≠塗《ぬ》らなきゃだめだ」
「タリファ・スペシャル?」
「グリスさ。どろどろで、嫌《いや》な臭《にお》いがする。そいつを塗りたくって、一週間おきにグリスごと洗い流す。けっこうな出費だぜ」
メイは眉《まゆ》をひそめた。
「このロッドなら、合うやつがあるかも知れねえ。待ってな」
ホークアイは自分の飛行機に戻《もど》った。
空飛ぶ修理屋さんなのかな、と思いながら待っていると、通信機の呼び出し音が鳴った。
「はい、アルフェッカ・シャトル、メイです!」
『腕《うで》のいい職人がいたわ。あと三十分くらいでそっちにつく』
マージだった。
「街に着いたんですね!? コンロッドも直った!?」
『手ぶらで帰るもんですか。じゃあね』
ぷつん。
ホークアイが戻ってきた。手に工具箱と細長いロッドを持っている。
「これでどうだ。アジャスターつきだぞ」
「あの、ホークアイさん。せっかくですけど、もういらなくなりました」
「……なに?」
「いま連絡《れんらく》があったんです。街に行ってた人たちが、ロッドを修理してもらって、もうじき帰るって」
「なんてえこった……」
ホークアイは毒づいた。
「せっかく来てもらったのに、すみませんが」
「仕方ねえ、基本料金だけもらっとこうか」
「……基本料金?」
メイはきょとんとした。
「そうよ。おめえは救助|要請《ようせい》を出した。俺はそのために飛行機でわざわざ駆けつけた。このままむざむざ帰れってのか」
「でも……」
てっきりボランティアだと思っていた。
誰《だれ》かが助けを求めていれば、救助に向かうのは常識である。後で謝礼を払《はら》うことはあるが、基本料金などという制度はメイの埒外《らちがい》だった。
とはいえ、相手の手間をわずらわせたのは確かである。
メイはとりあえず聞いてみた。
「その、基本料金って、いくらなんですか?」
「二十万だ」
「二……二十万!!」
メイはとびあがった。
自分の給料にして十四か月ぶんである。
小さな貨物機でちょっと寄り道したぐらいで、二十万とは!
「ちょっと……高すぎるんじゃないでしょうか」
「なんだとお?」
男の態度が変った。全身に怒気《どき》が漂《ただよ》う。
メイは、どきりとした。
ホークアイは、一オクターブ低い声で言った。
「俺の言うことにケチつけようってのか、ああ?」
「そっ……そんなつもりはありませんけど……」
「この星で飛行機とばすのにいくらかかるか知ってんのか!!」
ホークアイは、とびあがるような声で凄《すご》んだ。
「そっちから人を呼びつけといて、用が済んだから帰れってのか!!」
メイは真っ青になった。
確かに、呼んだのは自分だ。
しかし、ここで言いなりになったら、またまた自分のせいで大赤字になってしまう。
メイは必死で食い下がった。
「だっ、だから、必要経費の明細とか……」
「ナメた口きくんじゃねえ!! レンジャーをなんだと思ってやがる!!」
「レンジャー……」
マージが言っていた、タリファのレンジャーって、こういうのか??
「シャトルなら現金を積んでるはずだな」
ホークアイはそう言って、工具箱からプラズマトーチを取り出した。
「ち、ちょっと、何するんですかっ!!」
「もらうものをもらうだけよ」
そう言って、シャトルのラッタルを登る。
「やめてください! 勝手に入らないで!」
「うるせえ」
メイが後から駆け込むと、ホークアイはトーチをこちらに向けた。
「がたがた騒《さわ》ぐんじゃねえ! おとなしくしねえと、そこらじゆう焼き切るぞ!!」
ぴたっ。
メイはキャビンの壁《かべ》に張りついた。
「金庫はと……これだな」
ホークアイは壁に作りつけた金庫の前にかがみ込んで、扉《とびら》を焼きはじめた。
「もうじきロイドさんが戻《もど》ります。もと傭兵《ようへい》で、いつも拳銃《けんじゅう》を持ち歩いてるんです。そんなことしたら、ただじゃすまないです!」
「そうかい。じゃあさっさと片付けねえとな」
「うっ……」
な、なんとかしなくては! メイは周囲をうかがった。
エアロックのそばに、非常用の斧《おの》がある。
メイはそろそろと、手をのばした。
「妙《みょう》な考えを起こすんじゃねえ」
メイは凍《こお》りついた。
どうしてか、ホークアイは後ろが見えるようだった。まるでマージさんだ……
金庫はどんどん焼き切られていく。
メイは焦《あせ》った。必死で考えた。
そして――。
トーチからもれる灼熱《しゃくねつ》の光が、メイにあることを連想させた。
シャトルとホークアイ機の位置関係を頭の中でおさらいする。飛行機は、シャトルのほぼ真後ろにいる。
やれるかも知れない。
前に一度、マージさんもこの手を使った……。
やらなきゃ、このままじゃだめだ。
どたどたっ、ぱたん!
決心すると、メイはすばやくコクピットに駆け込み、隔壁《かくへき》の扉を閉めた。
向こうからホークアイが言った。
「おうおう、何のつもりだ? 怖《こわ》がるこたあねえ、金さえもらえば手出しはしねえよ」
メイは操縦席につき、核融合炉《かくゆうごうろ》を運転モードに切り替え、スロットルに手をかけた。そして怒鳴《どな》った。
「これからメインエンジンを噴射《ふんしゃ》しますっ!! あなたの飛行機が丸焼けになってもいいんですかっ!!」
「……おいおい。そんなはったりで俺がいいなりになるとでも」
「本気ですっ!!」
メイはスロットルに力をこめた。
ごおん!――機体後部で、エンジンが目覚めた。
「おいっ、馬鹿《ばか》な真似《まね》するんじゃねえ!!」
シャトルのエンジンは、いわば制御《せいぎょ》された水爆《すいばく》である。スロットルの一|押《お》しで、秒速数千キロのプラズマガスがほとばしるのだ。
「馬鹿なんです! 私、馬鹿ですから、ほんとにやりますっ!!」
メイの声は殺気立っていた。
頭に血が昇《のぼ》っていることがありありとわかり、そのことがますますホークアイを震《ふる》え上がらせた。
「やりますからっ!!」
さらに一押し――ごおおん!
機体がずん、と砂に食い込んだ。噴射に周囲の空気が巻き込まれ、砂が飛び始める。
「まて。わかった、わかったからやめろ!!」
ホークアイは、転がるように駆《か》け出して行った。
飛行機が動きだし、あっという間に砂丘《さきゅう》を離《はな》れる。
その機影《きえい》が砂塵《さじん》の彼方《かなた》に消えた頃《ころ》になって、メイはようやくエンジンを止めた。
しばらく、震えが止まらなかった。
ACT・5
「……ほらほら、もう泣かないの」
「キャンディーを買ってやろうか? うん?」
帰ってくるなり、マージの胸をハンカチがわりにしたメイである。
二人に赤ん坊《ぼう》のようにあやされること二十分――メイはようやく人心地《ひとごこち》がついた。
その間、メイが切れぎれに言ったことをつなぎ合わせて、ロイドとマージは事の次第《しだい》をおおむねつかんでいた。
「ほんとにまあ、ケダモノみたいな奴《やつ》だわ」
マージは嫌悪《けんお》をあらわにして言った。
「押売《おしう》り、白タク、暴力バーの航空版というべきね。よく追い返したもんだわ、メイ」
と、頭をなでる。
「……ちなみにその男だが、どんな顔してた?」
ロイドが聞いた。
「えーと、顎髭《あごひげ》があって」
「髭か。髭ならすぐ生えるわな」
「固太りで」
「体格もすぐ変るからな」
「目が険《けわ》しい感じで、ちょっと面長《おもなが》で、頬骨《ほおぼね》が張っていて」
「ふむふむ。案外いい男なんじゃないか。印象の悪さを除外すれば」
「言われてみれば……」
「ロイド」
マージが、とげのある声で割り込んだ。
「何考えてるの」
「レンジャーなんて、街に一人か二人もいれば充分《じゅうぶん》だろう。てことは、全部で二十人かそこらだからな」
「だから何よ」
「君が察しているようなことさ」
「冗談《じょうだん》言わないで!」
「言ってないだろ」
「ホセはそんな男じゃないわ。昔も今もよ!」
マージはむきになって言った。
「ならいいがな」
ロイドはそれ以上、逆らわなかった。
「さてと、諸君。エレボンを直して、街に行こうじゃないか」
街で修理させたコンロッドは、ぴたりともとの位置におさまった。くまなく特製グリスを塗《ぬ》る暇《ひま》はないが、街まで数分の飛行なら持つだろう。
半分砂に埋《う》もれ、六十トンの水を背負って離陸《りりく》するには、全力|噴射《ふんしゃ》が必要だった。
さいわい周囲に人家はない。マージは遠慮《えんりょ》なくスロットルを押《お》した。
新たな砂丘《さきゅう》をひとつ作って、シャトルは砂漠《さばく》を飛び立った。
今度は方角がわかっているので、迷う心配はない。ほどなくビーコンも受信できた。
「おー、あれだあれだ」
前方に、ひときわ目立つ砂煙《すなけむり》が見えてきた。
それは接近するにつれ、幾筋《いくすじ》かのホバークラフト――砂上船の列になった。
上空を旋回《せんかい》する。ゆうに百|隻《せき》を超《こ》える船団だった。本物の水上|船舶《せんぱく》に負けない、広い甲板《かんぱん》を持った船もいる。
「こちらミリガン運送、アルフェッカ・シャトル。バンカーヒル応答願います」
『うまく直ったようだな。いまキャリアを迎《むか》えにやる。そーっと降ろせよ、大事な水だからな!』
「了解《りょうかい》。キャリアはどこに?」
『いまわかる』
甲板とデリックを備えた大型船が列を離《はな》れた。
『こちらミルトフ・キャリア。風は一四〇、二十一ノット。いつでも降りてきな』
「了解」
大きいと言っても、空母のように直接着陸できる広さはない。
シャトルは降着装置を出して、そばの砂地に着陸した。すぐにキャリアが横付けして、デリックを舷《げん》側に伸《の》ばした。
その間も、船団はどんどん先に遠ざかる。
「一日四百キロを死守ってわけだ。さあ、係留だ。外にまわれ!」
ロイド、マージ、メイの三人は外に出て、胴体《どうたい》と両翼《りょうよく》によじ登った。
デリックから繰《く》り出された四本のケーブルにも、人がぶらさがっていた。
みんな子供だった。女の子もいる。
シャトルに飛び移ると、子供たちはこまねずみのように動き出した。
「ハードポイントこれ?」
「そうよ」
「三番、ちょい伸ばして」
「おばさん、どいて!」
「おねえさんとお呼びっ!」
「二番よし!」
「ジェシカそこ踏《ふ》むな!」
「踏んでないよお」
「一番いいよ!」
「三番よーし」
「四番、もうちょいテンションかけて」
「よーし揃《そろ》った。ボースン、上げてー!」
「おーし!」デリックの運転台から、甲板《こうはん》長が答えた。
ものの一分とかからずに、シャトルは甲板に吊《つ》り降ろされた。
四人のデッキボーイは甲板に飛び降りて、今度は降着装置と甲板のフックの間にロープをかけた。縮《ちぢ》み結びにして、全体重をかけて締《し》めあげる。
「出していいよー!」
甲板の下でタービンが轟々《ごうごう》とうなりをあげ、キャリアが動き始めた。速度を上げて遅《おく》れを取り戻《もど》そうとしている。
「シャトル、ドア開いて!」少年の一人がエンジンに負けない声で叫《さけ》んだ。
ペイロードベイ・ドアを開くと、「どいてどいて!」と、子供たちは太いホースを四人がかりでかかえて乗り込んできた。あっという間にホースを水タンクに連結する。
いつのまにか、右舷《うげん》に給水車が併走《へいそう》していた。少年の一人が飛び移ってガイドロープを受け取り、キャプスタンに通して投げ返す。残った三人がロープをたぐって、ホースのもう一端《いったん》を給水車に引き寄せる。
ロイドはすっかり感心して、作業を見守っていた。
どんな環境《かんきょう》でも、ロープを扱《あつか》うのは難しい。それはエネルギーを蓄積《ちくせき》することを得意としており、隙《すき》あらば波打ち、ねじれ、暴れようとする。一瞬《いっしゅん》の油断から手足を失う者も少なくない。だが子供たちは、息の合った連携《れんけい》プレーでロープを手なずけていた。
「まるで帆船《はんせん》時代だな。あざやかなもんだ」
「ほんとですね」と、メイ。
作業を終えた四人が、ロイドの前に勢ぞろいした。みんなすりきれたGパンにごわごわのシャツ、合皮のベストを着て、腰《こし》には誇《ほこ》らしげにマルチツールのサックをさげている。
四人は小麦色の顔に期待に満ちた目を輝《かがや》かせて、新来の客を見上げた。
「上出来だったぞ」
ロイドは気前良くチップを払《はら》った。
「やっほー!」
「ありがとっ!」
「帰りもよろしくねっ!」
子供たちは喜々としてサンドバイクに相乗りし、甲板《かんぱん》のスロープから砂地に飛び降り、前方の街に走り去った。
甲板長が大|股《また》でやってきた。
「御苦労さん! こっちで迎《むか》えに行きたかったんだが、あのへんの砂丘《さきゅう》はこいつじゃきつくてな!」
不時着のニュースは、すでに街中に広がっているようだった。
「なあに、どうってことはないよ。――ロイド・ミリガンだ」
「テレンス・ダグラスだ。ボースンと呼んでくれ」
ごつい手で握手《あくしゅ》する。
「こっちは船長のマージ・ニコルズと見習いのメイ・カートミル」
「よろしく」
「こんにちは」
ボースンは二人の女性に目を細めた。
「こいつぁ素敵《すてき》だ。ゆっくりしてってくれ」
「このキャリアに泊まれるのかね」
「もちろんだ。部屋に案内しよう。あんまりきれいじゃないんだが」
一行は甲板長に続いて、外側の、吹《ふ》きさらしの階段を降りた。エアロックと呼ぶにはひどく簡単な二重|扉《とびら》をくぐり、配管と鉄板に囲まれた廊下《ろうか》を進む。
部屋は辺境航路の二等船室、という風情《ふぜい》だった。二段ベッドと小さなサイドテーブル、壁《かべ》にぶらさがったチェスト。まあ、寝《ね》られればそれでいい。
「夕食は七時、朝食も七時だ。廊下のつきあたりにシャワールームがある。遠慮《えんりょ》なく使ってくれ」
ボースンは言った。
「あんたらにゃ、その資格がある」
貴重な水を運んでくるシャトルの乗員は、歓待《かんたい》されるらしい。
船内の水は、すべて宇宙船のように再|循環《じゅんかん》させていた。だが、気密の維持《いじ》は甘《あま》く、酸素などは洩《も》れるはなから供給している。どうやら、水はなくてもエネルギーは豊富に使えるようだった。
空気とともに水分も漏出《ろうしゅつ》するが、それは無視されていた。あまり厳密な管理は、この機械泣かせの星ではかえって高くつくのだろう。
ACT・6
「えーっ、また留守番ですかあ!?」
夕食のあと、ロイドとマージは、また二人で酒場に行くというのだった。
メイはありったけの哀愁《あいしゅう》をこめて訴《うった》えた。
「死ぬ思いでここまで来たのに……私もサンドラさんの歌が聞きたいです〜〜」
夕食の間、三人はボースンから、酒場の歌|姫《ひめ》の話を聞いたのだった。
この街にも酒場を持った娯楽《ごらく》船がある。そこに、旅まわりの芸人一座が来ていて、サンドラという歌手が人気を集めているというのだった。
「だがなあ、こういうとこの酒場は猥褻《わいせつ》だし荒《あら》っぽいんだ。喧嘩《けんか》もしょっちゅうある。君みたいな娘《むすめ》の行くとこじゃないんだ」
「私……私だって、結構荒っぽいです」
「君の荒っぽさはハプニングであってだな――」
「ロイドさん」
メイはきっぱり言った。
「こうしてタリファに来られたのは、誰《だれ》のおかげだと思いますか?」
「うむ?」
「正確に言うなら、誰の一票によって、です」
「それはだな……」
「私、これでも苦労してるんです。ロイドさんとマージさんの、どちらの希望を満たすべきか――」
メイはたたみかけた。
「そのバランスをはかるとき、いつも思うのは、残された時間が短いのはどちらかということなんです」
「…………」
ぷっ。
黙《だま》って成行きを見守っていたマージが、とうとう吹《ふ》き出した。
「あなどれなくなってきたわね。こうなると、あたしもメイを懐柔《かいじゆう》しなきゃ。三人で行く、に一票」
メイはたちまち顔を輝《かがや》かせた。
「きまりですねっ!!」
「やれやれ。……これでメイの親御《おやご》さんの前に出られなくなっちまった」
ロイドは銀髪《ぎんぱつ》を掻《か》きながら、ぶつぶつ言った。
メイの扱《あつか》いについては、妙《みょう》に堅《かた》いところがあるのだった。
少し前から、船団は停止していた。
私服に着替《きが》え、再び呼吸器を首につけると、三人は連れだってキャビンを出た。
地面に伸《の》びたラッタルを降りたところで、メイは目を見張った。
いつのまに並んだのだろう――そこに街ができていた。
およそ二十メートルの間隔《かんかく》をおいて二列に並んだ船が、メインストリートと、それを囲む家並を作っている。
風は両側の車にさえぎられて、心地《ここち》よいほどに弱まっていた。
大小の舷灯《げんとう》が街灯の代わりをつとめ、はるか前方まで連なっている。客商売の船は通りに階段を降ろし、派手なネオンサインを掲《かか》げていた。賑《にぎ》やかな音楽のもれる店もある。どうやって煙《けむり》を排出《はいしゅつ》しているのか――肉を焼く、いい臭《にお》いも漂《ただよ》ってくる。
その通りを、カウボーイ・スタイルの人々が行き来している。
砂を踏《ふ》む靴《くつ》音、笑い声、怒鳴《どな》り声、歓声《かんせい》。
三人はやがて、円形の広場に出た。メインストリートを作っていた船の列が、そこだけ丸くふくらんでいた。
めざす酒場は、その一角にあった。赤い発光パネルに「サンチョのホール」とある。その船体は、軍が使う揚陸《ようりく》ホバークラフトにそっくりだった。広場に向けて大きく口を開き、スロープをさしのべている。
それを登ったところが玄関《けんかん》だった。格子《こうし》のたくさん入った窓から、中の賑わいが垣間《かいま》見える。楽団の奏《かな》でる、ちょっと野卑《やひ》な音色も聞こえた。店の前には、サンドバギーやバイクがもやってある。突風《とっぷう》に備えるためだろうか、舷側の横棒にロープをかけたところは、西部劇の馬さながらだった。
ロイド、マージに続いて、メイは二重ドアをくぐった。
喧騒《けんそう》と煙草《たばこ》の煙《けむり》が、どっと押《お》し寄せた。
ロイドは手近な丸テーブルに向かった。まわりの客が、物珍《ものめずら》しげにこちらを見ている。
「あんたらかい。不時着したってのは」客の一人が言った。
「ああ、まったく面目ない」
「なーに、よくあることさ」
「俺《おれ》におごらせろよ」
別の男が手招きする。肩《かた》をむきだしにした金髪《きんぱつ》女を連れていた。
「ヤマから戻《もど》ったとこさ。今日は金持ちだぜ。おーい!」
と、ウエイトレスを呼ぶ。
三人はそのテーブルについた。
「こっちに酒だ! その子にはクールエイド――でいいよな?」
「あっ、はい」
「わしはロイド、こっちは船長のマージと航法士のメイ」
「俺はクリフ。こいつはアン。よろしくな」
すぐにウエイトレスがやってきて、酒と炭酸飲料、それにどんぶり一杯《いっぱい》のスナックを置いた。ウエイトレスはいったんテーブルを離《はな》れたが、なぜか近くでぐずぐずしていた。
アルフェッカ号の調理係を任じ、スパイスの収集に静かな情熱を傾《かたむ》けているメイは、身を乗り出してそのスナックを観察した。
ベースはクラッカー大の成形コーンフレーク。トッピングは、見たところタコスミート、ハラピニオ、ターメリック、パプリカ、アナットー、ペパーコーン……。
なかなか過激である。
色彩《しきさい》は、核融合炉《かくゆうごうろ》を縁《ふち》どる警戒《けいかい》色そのものだった。臭《にお》いも刺激《しげき》的だ。
メイはその一片をつまんだ。目の端《はし》に、客やウエイトレスの視線を感じたが、ここでやめたら子供|扱《あつか》いされそうな気がした。メイはそのまま口に運んだ。
がたっ!
「○×●△▼□◎――!!」
舌先の感覚|細胞《さいぼう》が絶叫《ぜっきょう》し、神経電流がスパークして脳天に駆《か》け登った。
発作《ほっさ》的にクールエイドに手を伸《の》ばし、一気に飲み干す。
「か、からいひょ〜〜」
涙《なみだ》ににじんだ視野の中で、客とウエイトレスが一緒《いっしょ》になって笑い転げていた。
「これであんたも一人前だ!」クリフは豪快《ごうかい》に笑いながら太鼓判《たいこばん》を押《お》した。
メイは息を整えて、ようやく呼吸できるようになった。
ふと見ると、マージがスナックを口に運ぶところだった。
「どれどれ……」
「あっ、マージさん、気をつけて!」
「うん」
ぽりっ。……ぽりぽりぽり。
マージはしばらく口の中で味わい、ゆっくり飲み込んだ。
「ふうん。けっこういけるじゃない」
涼《すず》しい顔で言う。
「だ……大丈夫《だいじょうぶ》なんですか?」
「辛《から》くておいしいわ」
おーっ、という低いどよめきが洩《も》れた。
「お姉さん、あんたタリファ生まれかい?」
「いいえ、デネヴよ」
「だとしたらタリファ人の生まれ変わりだぜ」
「そうかもね。砂にもしっかり歓迎《かんげい》されたし」
「ちがいねえ!」
単に味覚|音痴《おんち》なだけではないだろうか……。
三度の食事を心を込めて調理するメイは、報《むく》いられない思いだった。
その時、ステージに司会者が現れた。
「さあて皆《みな》の衆! お待ちかね、サンドラ・ウェルズのショウが始まるよ! お大尽《だいじん》も素寒貧《すかんぴん》も、今夜は砂も嵐《あらし》も忘れて楽しんでくれ!」
おーっ!!
拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》の中、歌|姫《ひめ》が登場した。小さなステージは、それだけでぱっと明るくなったようだった。
目の覚めるようなマニュキュア。口紅。アイシャドウ。
肩《かた》にかかる金髪《きんぱつ》。白い肌《はだ》。豊満な胸。
回折《かいせつ》模様を描《えが》く深紅《しんく》色のドレス。あだっぽい笑《え》み。
にぎやかなイントロが始まる。
スポットライトを従えて中央にしゃしゃり出たサンドラは、ドレスのスリットから、ずい、と見事な脚《あし》を見せた。
「うわ!」
メイはあんぐり口を開けた。サンドラはまったく遠慮《えんりょ》することなく、全身で色気をふりまいていた。
歌がはじまった。見かけより低い、弾力《だんりょく》のある声だった。
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お金 お金 お金ってすてき!
キャビア フォアグラ ミンクのコート
いかしたヨットで 星めぐり
お金があれば なんでもできる
ヤア ホー!
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やんやの喝采《かっさい》だった。
サンドラは歌いながら舞台《ぶたい》を降り、テーブルの間を歩いた。
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お金 お金 お金ってすてき!
三度の風呂《ふろ》に ふかふかベッド
どんな夢でも見られる
お金持ちなら あたしはついてく
ヤア ホー!
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静かに耳を傾《かたむ》けるたぐいの歌ではなかった。客たちはテーブルを叩《たた》き、足を踏《ふ》み鳴らして歌にまじわった。かけ声に合わせて、客も「ヤア ホー!」と腕《うで》を振《ふ》り回す。
酒やボプコーンが飛び散る。ロイドやマージでさえ、そうしている。
ああ、どうしよう……。
メイは困惑《こんわく》していた。
なんて下品で、破廉恥《はれんち》で、猥褻《わいせつ》な歌……だが困ったことに、とても楽しい。
気がつくと、メイもテーブルを叩いていた。
サンドラが目の前に来た。メイを見ると、歌姫《うたひめ》は「あらかわいい」という顔でウインクした。メイは耳まで真っ赤になった。
その時メイは、サンドラの胸の谷間に輝《かがや》く、大きな宝石に気づいた。
銀の台座に囲まれた、水のように澄《す》んだ塊《かたまり》。カットはなく、ただ楕円《だえん》に磨《みが》かれたまま。
中に、何か花びらのようなものが閃《ひらめ》いていた。
その輝きは、ひとときも同じ色を保っていなかった。石はときおり、チカリと閃光《せんこう》を放って目を刺《さ》した。
「あれだよ。あれがタリファ・オパールだ」
ロイドがささやいた。
「きれいですね……」
「貢《みつ》ぎ物かしら?」と、マージ。
「ちがいない。彼女にぞっこんの、鉱夫かバイヤーが贈《おく》ったんだろう」
「ふうん。……女|冥利《みょうり》ってやつよね」
射るような輝きを目で追いながら、マージは言った。
サンドラがたて続けに五曲歌い終わった時には、こちらも一|汗《あせ》かいた気分だった。
「だんだん好きになってきたわ」
なみなみとついだパンチを一気にあおると、マージは言った。
「こういう、貯金のたまらない人生も悪くないかってね」
「おお、君もわかってきたじゃないか」
ロイドが嬉《うれ》しげに言った。
「失う物がなにもない――これぞ究極の幸福だよ。おーし飲むぞぉ!」
「飲むのはいーけど……」
その時、玄関《げんかん》のドアが開いた。マージはそのほうを一瞥《いちべつ》した。
入ってきたのは鉱夫の三人連れだった。
マージはすぐ話に戻《もど》った。
「帰りの横荷のことも考えてよね。まったくあなたときたら――」
メイは合点した。
マージはホセが現れないかと、気にしているのだ。
メイは小声で言った。
「来ないですね、ホセさん」
「――うん」
マージはややぎこちなく答えた。
ロイドが言った。
「そういや、あんたらホセって男を知らんかね。レンジャーなんだが」
「ホセ? 知らんな」
「最近はこの街にいると聞いたんだが」
「今いるのはホークアイだぜ」
「昼間、メイが会った奴《やつ》だな……」
ロイドは顎髭《あごひげ》をこすりながら、少し間をおいて言った。
「ホークアイってのはあだ名のようだが?」
「そういや……聞いたことあるわ。修理屋が耐空《たいくう》証明の名前見たって」
女が言った。
「なんとかゲレ……」
「ゲレロ?」
「そお、そんな名前だった!」
メイとロイドは同時にマージを見た。
「な……なによ」
マージはそわそわと言った。
「ゲレロなんて――そんなに珍《めずら》しい名前じゃないわ」
「わしは、珍しいと思うがな」
「私も、初めて聞く名前です」
「そのホークアイって、昔からいるんでしょ? ね?」
マージが地元勢に聞いた。
「いや、五、六年前からだな。この街で見かけるようになったのは」
「…………」
マージの目が点になった。ちょうど教官をやめた頃《ころ》だ。
「どこから来たか、聞いてないかね」
「おー、聞いたことあるぞ。確か……デネヴじゃなかったか?」
「そう、デネヴよ。あっちで何かの教官やってたって聞いたわ」
「やはり……」
「…………」
メイは、マージの顔を見るのが怖《こわ》くなってきた。
「まあ、ホークアイのあざとさは有名だぜ」
クリフが言った。
「ほほう?」
メイは素早《すばや》く袖《そで》を引いたが、ロイドはやめなかった。
「どんな行状があるんだね?」
「人の足元見て、洗いざらいさらってくんだよ、あの野郎《やろう》は」
「あいつにかかっちゃ、助かるのは命だけよね」
連れの女が言った。
「砂ん中で立往生してあの世へ行くのを除けばさ、この世じゃ最悪の目に遭《あ》うってこと」
「あの、そろそろお開きに……」
メイの提案は、勢いづいたクリフの声に掻《か》き消された。
「こないだエイブが事故った時もひどかったぜ。怪我《けが》して動けないのをいいことに、車じゅうひっかきまわして石をぜんぶさらって行きやがった」
「外道《げどう》よねえ」
「他の人だったんじゃ……」
「いーや、ホークアイさ。レンジャーにゃタチの悪いのが多いが、奴《やつ》はとびっきりだな」
目の端《はし》で、マージが肩《かた》を震《ふる》わせているのがわかった。
「レンジャーってのは、ここじゃ嫌われ者なのかね」
さらにロイドが聞いた。
「まあな」と、クリフ。
「連中のおかげで命拾いした奴も多い。ありがたくないといやあ嘘になるが、有り金持ってかれるんじゃなたまらねえ」
「あ、あのでも、ここじゃ飛行機を維持《いじ》するのは大変ですよね!?」
メイは必死で言った。
「見かけより、ずっと費用がかかるんじゃ――」
「連中の鼻持ちならんところは、取れる奴からありったけ取ることさ。砂ん中で立往生して、人だけ助かって、後はどうする?」
「でっでも、レンジャーのすべてがそうじゃないですよねっ!?」
「そりゃそうだ」
クリフは自信たっぷりに言い切った。
「ホークアイみたいなクズ野郎《やろう》ばかりとは限ら――」
ガタン。
マージが立ち上がった。
直後、派手な音がして、クリフの顔にスナックの皿が炸裂《さくれつ》した。
「何しやがんのさ!!」
クリフの隣《となり》で、スナックの半分を浴びた女が立ち上がった。
「マージさん、別人です! きっとホセさんじゃありませんっ!」
メイがすがりついて叫《さけ》ぶ。
「ホセはそんな人じゃないわ!!」
「そうです、だから別人なんですっ!!」
「ホセだかなんだかしらないけど、他所者《よそもの》が大きな口きくんじゃないよ!!」
言うなり女は酒瓶《さかびん》を投げた。マージがかわすと、瓶は後ろのテーブルに飛び込み、そこにいた鉱夫たちのポーカーを台無しにした。
中の一人がゆらり、と立ち上がった。
「……野郎、やっと揃《そろ》えた俺のフルハウスを」
「おいおい、俺じゃねえって」
「るせえ!!」
返事とともに、椅子《いす》が飛んできた。
クリフがかわすと、今度は反対側のテーブルが爆撃《ばくげき》を受けた。
そのテーブルには若い大男がおり、女をくどいている最中だった。
肩《かた》に引っかかった椅子の破片《はへん》をゆっくりと払《はら》いのけると、その男も立ち上がった。
「イボンヌ……俺は色男だが腕《うで》っぷしも立つとこを見せてやるぜ」
「きゃー、見せて見せて!」
「うおりゃああああ!!」
男は突進《とっしん》した。
進路上にいたのはロイドだった。
「わしじゃないぞ」
言うだけ言うと、ロイドは海兵隊|仕込《じこ》みの早業《はやわざ》で男の右腕をつかみあげ、派手な背負い投げをかけた。
宙を泳いだ大男は、第四のテーブルを粉砕《ふんさい》した。そこは常連席で、年配の鉱夫がたむろしていた。
「なんのつもりだ、このウドの大木野郎」
「……じじいに用はねえよ」
「言わせといていいのか。やれ、やっちまえ!!」
「若けえ奴《やつ》らに負けるな!!」
「きゃー、ハンクがんばって!」
「ぶちのめせ! 一発ぶちかませ!」
続く三十秒で、酒場はカオスにのみこまれた。
もう、手がつけられない。混乱は同心円を描《えが》いて加速度的に拡大した。
まもなく、出火点に生まれた奇妙《きみょう》な静けさのなかで、ロイドは言った。
「マージ。メイ。ずらかるぞ」
「うん」「はい」
三人は降り注ぐ椅子やグラスやボトルを避《さ》けながら、そろそろと出口に向かった。
その時、ステージにサンドラが現れた。
歌姫《うたひめ》は肺に空気を満たすと、星系一を誇《ほこ》る声量で吠《ほ》えた。
「いーかげんにおしっ!!」
場内は、一瞬《いっしゅん》のうちに静まり返った。
三人も、動きを止めた。
「あたしの舞台《ぶたい》はまだ終わってないんだよ!!」
彫像《ちょうぞう》のように凍《こお》りついていた男たちは、ふっと力をぬいた。
そうするか……、という声なき声がひろがる。
その時、入口のドアに寄りかかっていた椅子《いす》が、がたん、と倒《たお》れた。
次いでそのドアが開き、男が一人現れた。
男はそこに立ち止まって、場内を見渡《みわた》した。
「派手にやったじゃねえか」
男は濁声《だみごえ》で言った。
「ホークアイさん!」
メイは思わず叫《さけ》んだ。しまったと思ったが、もう遅《おそ》かった。
「おう、昼間の大馬鹿娘《おおばかむすめ》か」
ホークアイはこちらにやってきた。
マージは、穴の開くような目で、男を見ていた。
男も、マージを見返した。
メイの祈《いの》りもむなしく、二人は言った。
「マージじゃねえか」
「ホセ……」
「ここじゃホークアイさ」
「あなたが、ホークアイ……」
「ああそうだ」
それだけだった。
その陽《ひ》に焼けた、脂《あぶら》ぎった顔からは何もうかがえなかった。
ホセはステージに向かって歩いた。
「おーサンドラ。見るたびにきれいになるな」
「遅いじゃないのさ、ホーク」
ホセはサンドラの手をとってキスした。
「嬉《うれ》しいぜ。まだ俺の贈《おく》った石をつけててくれるんだな」
「あんたのが一番大きいんだもの。でもこんな無駄遣《むだづか》いしてていいの?」
「無駄なもんか。もうじきもっとでかい石でおめえの胸を飾《かざ》ってやる」
「悪い人。奥《おく》さん泣くわよ」
「あいつはいいんだ」
そんなやりとりが、いちいちはっきり聞こえてきた。
メイはもう、どうしたらいいのかわからなかった。
マージが乾《かわ》いた声で言った。
「行きましょ」
どんがらがっしゃん!
足元に転がった椅子《いす》を十メートル先まで蹴《け》り飛ばすと、マージはつかつかと店を出た。
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第三章 エド・ジュニア
ACT・1
翌朝――。
胸焼けと頭痛の中で、マージは目覚めた。
首をめぐらせると、頬《ほお》に冷たいものが触《ふ》れた。
空になった酒瓶《さかびん》だった。
あれから合成酒を一瓶空けたのだった……
意識がはっきりしてきた。
無情にも、昨夜の出来事は、ただちに思い出された。
馬鹿《ばか》だった。
まるで子供じゃないか。
あんな男を、飛行の神様とあがめるなんて……。
マージはベッドの中で、ずぶずぶと自己|嫌悪《けんお》にひたった。
あの男は――要するに、金|儲《もう》けして遊び放題したいがためにここに来たんだ。
なのに、ロイドやメイに自慢《じまん》したりして……。
マージはシーツで顔を覆《おお》った。
あれから――部屋に戻《もど》って、一気飲みして……同室のメイに、ずいぶん当たり散らしたような気がする。いや、認めたくないが、はっきり記憶《きおく》している。
今日も一日、一緒《いっしょ》に仕事するというのに、どの面《つら》さげて行けっての……。
そもそもこんな星に、来るんじゃなかった。
投票で負けたとはいえ、決定をくつがえす手はいくらでもあったのに。
マージはますます自己嫌悪に陥《おちい》った。
しかたがない。まずはメイに、さっぱり謝《あやま》ってしまおう。
「メイ……」
ベッドの上段に声を掛《か》ける。
返事はなかった。
時計を見ると、もう七時をまわっていた。朝食の時間だ。
マージはベッドを這《は》い出し、身支度《みじたく》を整えた。
普通《ふつう》の顔でいこう。知らんぷりしてればいい。メイには、二人きりになった時に謝ろう。
食堂にはロイドとメイと、ボースンがいた。
マージが現れると、それまでの談笑《だんしょう》がぴたりとやんだ。
「あ……おはようございます」
メイが言った。
「おはよう」
挨拶《あいさつ》を返して、マージは席についた。
冷めかけたトーストに、ペーストを塗《ぬ》りはじめる。
「あー、ゆうべはよく眠《ねむ》れたかね」
ロイドが言った。
「ええ。ぐっすり」
「そうか。うむ。それはよかった」
「狭苦《せまくる》しいベッドで、女性を寝《ね》かせるのは心苦しいんだが」ボースンが言う。
「いいえ、とんでもない」
「ならいいんだが」
会話はそこで途切《とぎ》れた。
静まり返った食堂に、食器のふれあう音だけが響《ひび》く。
「あの」「ところでだな」
メイとロイドが同時に切り出した。
「あ、どうぞ!」
「いや、別にどうでもいい事なんだが」
「私もです、ロイドさんからどうぞ」
二人はあたふたと譲《ゆず》りあった。
「あー、マージ、いまこちらから聞いたんだが――」
「うん?」
「いや、朝っぱらからこういう話もなんなんだが」
「いいわよ」
「帰りの横荷なんだが、めぼしいものがないらしいんだな」
「だと思った」
「そうか。まあ、つまり上に運ぶものといったらタリファ・オパールの原石ぐらいなんだが、量もしれてるし、バイヤーはたいてい自分の船を持ってるそうでな」
「最初からわかってたことだわ」
マージは淡々《たんたん》と言った。
「要するに、タリファなんてただの鉱山なのよ。こんな星には見切りをつけて、さっさと帰りましょ」
「いや、マージ……」
ロイドは、笑顔《えがお》をつくってとりつくろった。
「そういう言い方は、ちょっとその、なんだな――空荷で帰っちゃ赤字になるしな」
「こんな田舎《いなか》にくすぶってたら、よけい赤字になるわ」
ロイドはちらりとボースンの顔をうかがった。
ボースンは、いいんだ、と目顔でうなずいた。
「じゃあ私、移動が始まる前に買物してきますね」メイが言った。
「お、おい……」
ロイドは、俺《おれ》を残して逃《に》げるなよ、という顔をしたが、メイはかまわず部屋を出た。
ACT・2
街の配置はゆうべと変っていなかったが、この六時間のうちに赤い空はずいぶん明るさを増していた。地球上でなら六分の時間経過にすぎないが、自転とともに嵐《あらし》が遠ざかり、雲が薄《うす》くなったせいもあるらしい。
メイはメインストリートを歩いた。酒場の明りは消えていた。道ゆく人々もさっぱりした顔をしている。たとえ時計上の昼夜でも、やはり朝は朝だった。
メイはいくらかすがすがしい気分になった。
やがてメイは「ドラッグストア」の看板をかかげた砂上船をみつけた。
食料から日用雑貨、医薬品まで、ひととおりの品が揃《そろ》っていたが、バラエティは乏《とぼ》しかった。
フリーズドライのコーヒーとミルクを買う。すべてシャトルに常備するものだった。ほしいものは他にもあったが、軌道《きどう》港のほうが安い。
買物は終わったが、メイは少し散歩することにした。キャリアに戻《もど》るのは気が進まないし、もしかしたらいい積荷に出会えるかもしれない。
さらに通りを進むうち、船と船の隙間《すきま》から、銀色の物体がちらりと見えた。
メイは立ち止まり、そのほうに進んだ。
裏手に出るとそこはもう、見渡《みわた》す限りの砂漠《さばく》だった。
赤く濁《にご》った地平から、薄明嵐《はくめいあらし》の巨大《きょだい》な乱雲がそびえている。
それを背景にして、翼《つばさ》をやすめていたのはホセの飛行機だった。ごろごろと低いうなりをあげて、暖気運転している。
翼の下に、人影《ひとかげ》が見えた。
ホセさんだ……
メイはどきりとして、砂上船の陰《かげ》に引っ込んだ。
彼《かれ》の前に出たら……また基本料金の支払《しはら》いを迫《せま》られるだろうか?
でも、ゆうペの酒場では何も言われなかった。
しばらく迷ったすえ、メイは決心した。
行ってみよう。
ホセに会って、どうして彼が変ったのか、聞いてみよう。
事情によっては、マージをなぐさめられるかもしれない……。
ACT・3
「誰《だれ》かいる!? 運送屋さん!」
シャトルの反対側で、女の声がした。
その時、マージとロイドは甲板《かんぱん》にいた。デッキボーイたちにも手伝わせて、シャトルのあちこちにタリファ・スペシャル≠塗《ぬ》り終えたところだった。
二人は機首の下で、その女と対面した。
齢《とし》はマージと同じくらい。色のあせた金髪《きんぱつ》を、女工のようにスカーフで押《おさ》えている。
化粧気《けしょうけ》はまったくない。腰には呼吸器の電源とベルトポーチ。チェックの綿シャツとショートパンツから、引き締まった四肢《しし》が伸《の》びている。
女は角の丸いジュラルミンのケースと、同じくらいの容積の旅行|鞄《かばん》をかかえていた。ジュラルミンのほうは旅行鞄より細いが、厚みは倍ほどある。
「今すぐ軌道《きどう》港に行ってくれないかい!」
女は勢い込んで言った。
「タリファ軌道港ですか?」
タクシーみたいに気楽に言うな、と思いながらロイドは確認《かくにん》した。
「そうだよ、軌道港ったらひとつしかないだろ!」
「ずいぶん急な話ですが……積荷はどういう?」
「あたしとこの荷物。どうなの、飛べるの!?」
ロイドはマージの顔を見た。
マージもけげんな顔をした。
「シャトルをチャーターするとなると、かなりの料金になりますが?」
「これで足りるでしょ!」
女はウエストポーチから、一万ポンド紙幣《しへい》の束を出し、ロイドの鼻先につきつけた。
四十枚あった。
「これなら……しかし、いったいどういう事情で?」
「追われてんのよ」
「誰にです」
「亭主《ていしゅ》」
「ご主人……?」
「だから里に帰るのよ。どうなの! 時間がないのよ!」
「できないわけじゃないが……」
ロイドはしぶった。
ミリガン運送が相手にするのは、もっぱら流通業者だった。
個人や一般《いっぱん》家庭を相手にすると、ろくなことがない。
夫に追われる妻とあれば、なおさらだった。
ロイドは、まずいよなあ? という顔で、マージを見た。
だが、マージは反対しなかった。
「いいんじゃない。引き受けましょうよ」
「しかし、推進剤《すいしんざい》タンクがほとんど空だぞ」
「よその街で入れればいいわ。この人は今すぐここを離《はな》れたいのよ」
「メイも外出中だ」
「無線で知らせればいい。明日まで帰らないって」
「逃《に》げてきたっていうじゃないか」
ロイドは小声で言った。
「トラブルの種だぞ」
「夫の暴力から逃《のが》れようとする女を見捨てろっての」
「暴力とは言ってなかったが……」
「暴力よ。どうせ稼《かせ》いだ金を家に入れず、全部飲んだあげくにアル中になって暴《あば》れてるのよ――そうに決まってるわ!」
「そのわりには、金を持ってるじゃないか」
「現金|前払《まえばら》いなら結構じゃない」
ロイドはため息をついて、念を押《お》した。
「……じゃあ君、責任とれるか?」
「いいわよ」
「本当だな?」
「いいわよ。何があろうとあたしが責任取る!」
「ふむ」
ロイドは女に言った。
「わかりました。お引き受けしましょう」
「急いで。もう亭主が気づいた頃《ころ》よ!」
「わかりました。おーい!」
ロイドはデッキボーイを集めると、大至急シャトルを降ろすよう指示した。
ACT・4
ホセは主翼《しゅよく》のパネルを開いて、整備の最中だった。
「あの……おはようございます」
メイが声をかけると、ホセは手をとめて、こちらを向いた。
「昨日の大馬鹿娘《おおばかむすめ》か」
「メイです。その……買物の途中《とちゅう》なんです。それで、飛行機が見えたので……」
「あいさつに来たってか」
「聞きたくて」
「何を」
「つまり――」
言いかけた、その時。
「ジアンニ!! ジアンニいるか!?」
怒鳴《どな》りながら、その男は駆《か》け込んできた。
男はいきなりメイの肩《かた》をつかんで顔を自分に向け、食い入るように検分した。
酒|臭《くさ》い息がかかった。
赤銅色《しょくどういろ》の肌《はだ》。顔の半分を覆《おお》う不精髭《ぶしょうひけ》。筋骨|隆々《りゅうりゅう》の腕《うで》。合皮のベストに油じみたズボン。鉱夫らしい。
男はメイを突《つ》き放すと、また怒鳴った。
「おい! ここに女房《にょうぼう》が来てないか!!」
ホセがようやく男のほうを向いた。
「飲んだくれのエドじゃねえか。来てねえぜ」
「かくまおうってんなら――」
「見てみなよ」
ホセは顎《あご》で貨物機のドアを示した。
男は機内に駆け込み、すぐに出てきた。
「おう! ここで待たせてもらうぜ!」
「やかましい野郎《やろう》だな。なんの騒《さわ》ぎだ」
「女房が逃《に》げやがった。あの売女《ばいた》めが、俺《おれ》のEJかかえて逃げやがった!!」
「愛想《あいそ》つかされたってか。けっこう長持ちしたじゃねえか」
ホセは下品に笑った。
「笑いごとじゃねえ!! 俺《おれ》のEJを盗《ぬす》みやがったんだぞ」
「そりゃ、盗むとは言わねえ」
「うるせえ。EJは俺のもんだ!」
エドはそう言って唾《つば》を吐《は》くと、いらいらと翼《つばさ》の下を歩きまわった。
ホセはかまわず、整備を続けている。
なんだか知らないが、メイは居づらくなってきた。
いったんひきあげるか、と思い始めた時、腰《こし》の通信機が呼び出し音をたてた。
「ちょっと失礼します――はい、こちらメイです」
『メイか。急な仕事が入ったんで、これから軌道《きどう》港に行くことになった』
「軌道港だあ?」
エドがこちらを向いた。
「わかりました、すぐ戻《もど》ります」
『どれくらいかかる?』
「十分くらい」
『十分は待てんな。えらく急ぎなんだ。すまんが留守番を頼《たの》む。明日には戻る』
「わかりました……」
「おい、今のはなんだ!! 軌道港へ行くと言ったな!!」
「マージんとこのシャトルか。繁盛《はんじょう》してるじゃねえか」と、ホセ。
「シャトルぅ? そんなもんが、街に来てるのか!?」
「ええ。昨日から……」
「なんてこった!! ジアンニめ、あっちに行きやがった!!」
男は猛烈《もうれつ》な剣幕《けんまく》で怒鳴《どな》った。
「時間がねえ。おいホーク、こいつを飛ばせ。シャトルをとめるんだ!!」
「走っていきな」
「それじゃ間にあわねえんだ!! 金は出す!!」
「ふん……」
ホセはやや態度を改めた。
「おい、大馬鹿娘《おおばかむすめ》」
「メイです」
「どっちが操縦してる?」
「え?」
「シャトルだよ。マージかあのおっさんか、どっちだ」
「マージさんです」
「面白《おもし》れえ……」
ホセはにやりと笑い、アクセスパネルをばたんと閉じた。それからエドに言った。
「じゃあ乗んな」
ホークは急ぐ様子もなく係留索をはずすと、コクピットに上がった。
男も貨物室に入る。
「あの……ホセさん、シャトルをとめるって、それはちょっと」
言いながら、メイも乗り込んだ。
「おめえはおとなしくしてろ。邪魔《じゃま》するとただじゃおかねえぞ!」
エドが凄《すご》むと、メイは抵抗《ていこう》できなくなった。
貨物室はマイクロバスほどの広さだった。座席はなく、工具や機械類をおさめた大小の箱がラックにくくりつけてある。床《ゆか》には毛布や衣類が散らばっていた。それは飛行機というより、配管設備業者のトラックのようだった。
エンジンの回転が上がると、メイは壁《かべ》のハンドルつかんで体をささえた。エドもそうしている。
翼《つばさ》の後縁《こうえん》から複雑なフラップが垂れ下がり、境界層|噴射《ふんしゃ》で砂が舞い始める。
滑走《かっそう》が始まったと思うが早いか、貨物機は地面を離《はな》れた。
たちまち街の全景が見えた。街はそろそろ動き始める頃《ころ》だった。どの船の甲板《かんぱん》にも、出発準備をする人々が動きまわっている。
「おい! シャトルはどこだ!」エドが聞いた。
「西のはずれですけど……」
「頭をどけろ」
「あ、ちょっと」
二人は、ひとつしかない半球形の観測窓をうばいあいながら、前方を見た。
キャリアの甲板にシャトルはいなかった。
かわりに、近くの砂地から盛大《せいだい》な砂煙《すなけむり》が上がっている。
その根元に、滑走を始めた白いアルフェッカ・シャトルが見えた。
機は、シャトルに向かってぐんぐん高度をさげていった。
メイは一段高い位置にある操縦席に顔を出した。
「あの、ホセさん、手荒《てあら》なことは困ります!」
「なあに、止めりゃいいんだろ」
「それも困るんですけど!」
「うるせえな」
シャトルは砂塵《さじん》をまきあげながら、眼下を滑走していた。まだ離陸できる速度ではない。
ホセの飛行機に較べると、シャトルのSTOL性能はいたって乏《とぼ》しい。
ホセは地上すれすれまで高度を下げると、シャトルの鼻先にぴたりとつけた。
無線機から、マージの怒鳴《どな》り声がとびこんできた。
『前の貨物機、どきなさいっ!!』
「依頼人《いらいにん》が止めろっていうんでな。エンジンとめて客をおろしな、マージ」
直後、シャトルは大きく右翼を上げて、モーターボートのように急ターンした。
「ほう、やるじゃねえか。だがそんな真似《まね》をしても――」
ホセはただちに追従した。左翼|端《たん》が砂をかすめる。メイは必死でヘッドレストにしがみついた。
「――速度を失うだけだぜ」
貨物機はあっという間にシャトルの機首にまわりこんだ。
「ちょいと脅《おど》かしてやるか」
ホセはわずかに高度をとり、シャトルの胴体《どうたい》の上に機をおろした。
どしん!
降着用のスキッドがペイロードベイ・ドアを叩《たた》く。
『ホセ、やめなさい!!』
「ホセさん、やめてくださいっ!!」
メイとマージの声がハモった。
「滑走《かっそう》やめなきゃ、やめないぜ」
どしん!
シャトルはターンを繰《く》り返したが、ホセはぴったり追従していた。
どしん!
「もうやめて! 壊《こわ》さないで!」
メイは夢中でホセの腕《うで》にしがみついた。
「おめえは引っ込んでろ!」
その腕が、万力のような力でメイを突《つ》き飛ばした。コクピットの隅《すみ》で、したたかに尻もちをつく。
メイがふたたび外を見たとき、シャトルは滑走をやめていた。
ACT・5
「――あの乱暴者の極道《ごくどう》の浮気《うわき》男、ぶっ殺してやるっ!!」
停止したシャトルの中で、マージは計器盤《けいきばん》をばんばん叩きながら、空に向かってありったけの罵声《ばせい》を浴びせた。
「ちょっとあんた」
ジアンニはハーネスを解き、航法席から立ちあがって言った。
「まだ負けたわけじゃないよ」
マージは、ジアンニを振《ふ》り返った。
「あんた、腕は確かなんだろうね」
「…………」
マージは慎重《しんちょう》にうなずいた。
いまの離陸中止を、自分の腕のせいと思われたのだろうか。もしそうなら、考えを改めてもらいたい――。
「いいかい、大事なのはこれなんだ」
ジアンニはジュラルミン・ケースを指さした。
「軌道《きどう》港まで、このクーハンをきちんと届けるって誓《ちか》えるかい」
ケースは、クーハンというらしい。
「あのくそったれの貨物機さえ邪魔《じゃま》しなきゃね」と、マージ。
「三時間もありゃ着くんだよね?」
「補給が順調なら」
「よし……」
ジアンニはマージに紙切れを手渡《てわた》した。
「軌道港のその住所に、クーハンだけでも運んどくれ。あたしは外に出て、亭主《ていしゅ》をくいとめるからさ」
マージは目を丸くした。
「そんなことしたら、あなたは――」
「自分一人ぐらい、なんとでもなるよ。そのかわり何があってもクーハンを届けて。これさえ里に届けりゃ勝ちなんだ。いいね?」
マージはジアンニを見た。
女の顔には、自分を盾《たて》にしてでもやりとげようとする意志があった。
詳《くわ》しい事情はわからないが、マージはその心意気に動かされた。
「わかった。死んでも届けてみせる」
「女の約束だよ」
「うん」
ジアンニはさっさと旅行|鞄《かばん》だけ持ってエアロックに向かった。
「あー、ちょっと……」
ロイドが呼び止めたが、ジアンニはすでに自分でエアロックを開けて、外へ飛び降りていた。
「そのクーハン≠ニやらの中身を聞きたかったんだが……」
左舷《さげん》側に歩いていく姿を、ロイドは操縦席から眺《なが》めた。
「……なんだか知らんが、肝っ玉のすわった女だな」
マージもじっと見守っている。
百メートルほど歩いたところで、彼女は鞄を左|腕《うで》で抱《だ》きかかえ、あいた手を大きく振《ふ》った。
上空を旋回《せんかい》していたホセの貨物機が、着陸体勢に入った。
貨物機は、ほんの五十メートルほど滑走《かっそう》して、ジアンニの目の前で停止した。
ACT・6
エドは外にとびおりて、ジアンニをつかまえた。
「このアマぁ、ふざけた真似《まね》しやがって」
ばしっ!
いきなり平手打ちにした。
「なによこの、アル中!」
がっ!
ジアンニは夫の顔にアッパーカットをきめた。
「ちょ、ちょっと、喧嘩《けんか》しちゃだめです!」
メイがエドの背中にしがみつく。
「おいこら!」
「よしっ、そのまま押《おさ》えてて!」
がっ!
ジアンニは第二|弾《だん》を顔面にたたき込んだ。
さらに第三弾を放つべくふりかざした手を、ホセがひねりあげた。
「アネさんよ、俺《おれ》の客に乱暴はよしな」
それからホセは、エドに言った。
「夫婦《ふうふ》喧嘩の前に払《はら》うもん払ってもらおうか。大サービスで基本料金だけにしてやる」
「……いくらだ」
腫《は》れあがった顔を振《ふ》りながら、エドは言った。
「二十万」
「馬鹿野郎《ばかやろう》!! ちょいと跳《は》ねただけじゃねえか」
「基本料金ってのはそういうもんよ」
「この業突張《ごうつくば》りめが……」
エドはメイの手を振り払うと、ズボンに手を突っ込んだ。その手をホセに突き出す。
「五千だ。これで我慢《がまん》しな」
「ちっ、しけてやがる」
ホセはあっさり受け取った。
この違《ちが》いはなんなのだろう、とメイが思ったその時――。
砂漠《さばく》に爆音《ばくおん》がとどろいた。
シャトルが、再び滑走《かっそう》を始めたのだった。
それだけではない。速度を上げながら、まっすぐこちらに向かってくる。
「おい、なんだありゃあ」
「マージさん、どうして……」
「きゃははっ、やったやった!」ジアンニが飛び跳ねる。
ホセの顔に緊張《きんちょう》が走った。
「いかん、伏《ふ》せろ!!」
真横を通過したところで、シャトルは推力を全開にした。噴流《ふんりゅう》に巻き込まれた砂が、滝《たき》のように降り注ぐ。
三秒後。
半分砂に埋まったホセが身を起こし、爆音に張り合う声で何か吠《ほ》えた。
シャトルは滑走を続け、はるか前方で地面を離《はな》れた。
そのまま一直線に上昇《じょうしょう》してゆく。
「……なんだありゃ。街に戻《もど》るんじゃねえのか」
それから、エドは重大な見落としに気がついた。
「ジアンニ、おめえ……EJはどうした!!」
「へへーん!」
ジアンニは勝ち誇《ほこ》ったように上体をそらせた。
「あたしの勝ちね。EJはシャトルん中よ」
「なんだとお!!」
エドは拳《こぶし》をふりあげようとして動きをとめ、ホセに向かった。
「おい、まだ仕事は終わってねえ。あれを追っかけろ!!」
ホセは砂の上に仁王立《におうだ》ちになったまま、小さくなってゆくシャトルを見送っていた。
「マージの奴《やつ》……ちったあ大人になったかと思ったが、突っぱるじゃねえか……」
「ほい、ホーク! 聞いてんのか。早く追っかけろ!」
「だめだ」
ホセは首を振《ふ》った。
「くやしいが、空にあがったシャトルには勝てねえ。なんせあっちは宇宙船だからな」
「こいつだって結構速いじゃねえか。やれるさ!」
「宇宙までは行けねえんだよ」
「あ、でも」
メイが言った。
「シャトルはまだ推進剤《すいしんざい》を補給してないんです。いまは大気圏《たいきけん》内の低速|巡航《じゅんこう》しかできなくて、それもせいぜい二時間半……」
メイは、はっと口をつぐんだ。
大失言だった。
「本当か」
「嘘《うそ》です! 真っ赤な嘘なんです!」
「本当らしいな。――これなら勝負になる。よし、追うぞ!!」
「そうこなくっちゃ!!」
ホセは砂をかきわけてドアをこじあけ、コクピットに駆け上がった。エドも妻の腕《うで》をひっつかんで中に入る。
「ち、ちょっと待ってください!!」
メイが乗り込むと、ホセが言った。
「おいエド。その娘《むすめ》をほうり出しな」
「よしきた」
「あっ、あっ、やめてください!」
エドは、ばたばたもがくメイを小脇《こわき》に抱《かか》えてドアに向かった。
「あんた、よしなよ」
ジアンニが立ちはだかった。
「もう街が動きだす時間だよ。こんなとこにほうり出したら死んじまうじゃないか!」
「……そうか。そうなっちゃ寝起《ねお》きが悪いな」
エドは言った。
「おいホーク、そういうわけだ。連れてくぜ」
「なら邪魔《じゃま》しねえように見張ってろ」
「おいこら、客に向かってその言いぐさはねえだろ!」
「てめえら、もう客じゃねえ。金もいらねえ」
ホセは言った。
「マージの奴《やつ》、俺に砂をぶっかけやがった。恩師の俺様に向かってな……」
スロットルを押《お》しながら、どすのきいた声で言う。
タービンがうなりをあげた。
「ちょっくら痛い目にあわせて、思い出させてやる。そら動け、このオンボロ!」
ホセはさらにスロットルを押し込んだ。
砂に脚《あし》をとられた機体が、悲鳴を上げる。
「動きやがれ、このくそったれ!」
貨物機は、よたよたと体を震《ふる》わせて、砂の吹《ふ》きだまりを脱出《だっしゅつ》した。
そしてたちまち、空に舞い上がった。
ACT・7
「あー、すかっとした!」
マージはすっかり上機嫌《じょうきげん》になっていた。
「気にくわない男には一発ぶちかます。これに限るわね」
「そりゃあいいが……」
ロイドは右の席にふんぞり返って言った。
「横を通ったとき、メイもいたような気がするぞ」
「やっぱり?」
「うむ。ありゃあ、確かにメイだった」
マージは肩《かた》をすくめた。
「いいわよ。後で服でも買ってやるから」
「というかだな、立場上メイは敵の手中にあるわけだ。ひどい目に遭っちゃいないか、とわしは心配してみたりするんだが」
マージは二秒ほど考えた。
「ま、大丈夫《だいじょうぶ》でしょ。例によってマイペースでやってるわよ」
「だといいがな」
「今は燃料補給を考えないと。バンカーヒルには帰れないから――メイ、いちばん近い街の予想位置をプロットして」
「いないんだ」
「だったわね」
ロイドは秘《ひそ》かにため息をついた。
機嫌が直ったのはいいが――用心しないとな。
まだ、いつものマージじゃないぞ……。
マージはオートパイロットのスイッチを入れて、航法席に移った。
「えーと、X1069・第一|惑星《わくせい》の航路情報はと……ん?」
プー。
操作エラーを示すビープ音が鳴った。
マージは数回キーを叩《たた》き、同じ数だけビープ音を鳴らした。
「どうなってんの、これ。マクロ登録がめちゃくちゃじゃない」
「メイが自分用に書き換《か》えたんだろう」
「そっか……じゃ、かったるいけど音声対話ね」
マージはセレクター・スイッチを切り替《か》えた。
「ハロー・ナヴコム、現在位置を報告」
『X1069星系第一惑星、通称《つうしょう》タリファ。惑星上の現在位置は東経七十二度十七分、南緯《なんい》十六度四十五分です』
「合ってるぞ」と、ロイド。
「ここから一番近い燃料補給所を教えて」
『最も近いのはタリファ軌道《きどう》港です。直線|距離《きょり》で一千百三十八キロです』
「そうじゃなくて、惑星上で」
『グラングイルです。直線距離で一千四百七十三キロ、プラスマイナス百二十キロです』
「低速|巡航《じゅんこう》モードでグランヴィルまでの飛行計画を立てて」
『残念ながら、不確定要素が多すぎるため不可能です』
「なぜ」
『航空気象通報が入っていません」
「じゃあ、現在の気象条件を仮定して」
『ダランヴィルの位置も不明確です』
「明暗境界線から一定|間隔《かんかく》をおいていると仮定」
『グランヴィルへの飛行計画を作成しました。気象|実況《じっきょう》に注意して使用してください』
「中央スクリーンに表示――グッバイ、ナヴコム」
マージは操縦席に戻《もど》った。
「飛行計画ができたってことは、燃料は足りるわけだな」
「グランヴィルまで一時間半、燃料はその倍以上持つわ」
「一安心ってとこか。ホセに先回りされなきゃいいんだが」
「まさか。いくらなんでも飛行機でシャトルを追うほど酔狂《すいきょう》じゃないわ」
「こっちが低速巡航しかできないとも知らずに、か?」
「そうよ」
「ふむ……」
マージはロイドの顔を見た。
「ばかに慎重《しんちょう》ね。ロイドらしくもない」
「なあに、ちょっと嫌《いや》な予感がするだけさ」
ACT・8
メイはまず、機内の掃除《そうじ》から始めた。
汗《あせ》くさい毛布をたたみ、散らばった道具類を箱におさめ、床《ゆか》一面を覆《おお》う食品包装のゴミをひとつの袋《ふくろ》につめこむ。アルコールで窓や壁《かべ》の汚《よご》れを拭《ふ》き、折り畳《たた》みの補助|椅子《いす》を並列に配置してエドとジアンニを座《すわ》らせる。
やがて給湯器とカップを発見したメイは、自分の買物を開封《かいふう》して四人ぶんのコーヒーをいれ、クリップボードを盆《ぼん》にして配ってまわった。
着実に三人の心証を勝ち取ったメイは、離陸から二十分もたたないうちに副操縦士席に居座っていた。
「それで、参考までに聞きますけど――」
メイは質問をくりだした。
「この飛行機の航続距離はどれくらいですか」
「タリファを楽に三周できるぜ」
「そんなに?」
「そうさ」
ホセは退屈《たいくつ》しのぎに、エンジンの仕組みを説明した。
それはタービンで圧縮した空気を、核融合炉《かくゆうごうろ》から取り出した熱で高温高圧にして噴射《ふんしゃ》するものだった。タリファの大気をうまく利用しているので、核融合炉の反応物質さえあればいくらでも飛んでいられる。
一方、さまざまな惑星《わくせい》を渡《わた》り歩くアルフェッカ・シャトルは、空気を取り入れるかわりに液体の推進剤《すいしんざい》を携行《けいこう》する。推進剤がなくなれば、たとえ核融合炉が生きていても飛べなくなる。推進剤には液体水素を使うと効率がいいが、水やアルコール、ケロシンなどでもよい。原則として、液体ならなんでもよかった。
メイは計器盤《けいきばん》を見た。
こちらの速度は、時速七百八十四キロ。
低速|巡航《じゅんこう》モードのシャトルは七百七十キロ。燃料切れまで、二時間半。
もし追い付かれたら……。
「この飛行機、武器はついてますか?」
「んなものは、ねえよ」
それでも、追い付かれたら、先に着陸するのはシャトルになる。
そこを邪魔《じゃま》されたら勝ち目はない。
「俺《おれ》の操縦を邪魔しようなんて思うなよ。さっきみたいにぶっ飛ばすからな」
「わかってます。もうしません」
メイは計器盤を調べた。エンジン関係を除けば、おおむねシャトルの部分集合だった。
レーダーもあるが、スイッチは切られている。
「あの、シャトルですけど、レーダーで捕捉《ほそく》できないんですか?」
「まだだ。半径二十キロまで寄らねえとな」
「じゃ、今のところ手がかりはないんですね?」
期待をこめて、メイは聞いた。
「大ありさ。連中はグラングィルで補給する。いちばん近いからな」
「……でも、裏をかいて別の街に行くかも」
「追われてるとは思ってねえさ。粗忽《そこつ》なマージのこった、おめえがウルトラお人好《ひとよ》しなアドバイスをするとは考えまいて」
「う……」
その時、後ろで騒《さわ》ぎがもちあがった。
「よ、四十万だあ!! このアマぁ、いつの間にそんなへそくり貯《た》めやがった!!」
「ほっときゃあんたが飲んじまう金さ」
「飲まねえ石|掘《ほ》りがどこにいるっ!!」
メイは仲裁《ちゅうさい》に入った。
「あの、エドさん、あんまり怒鳴《どな》らないで……」
「うるせえ! この泥棒猫《どろぼうねこ》め、俺の稼《かせ》いだ金でEJを盗《ぬす》みやがったんだぞ!」
「EJはあたしのもんだよっ!!」
「さっきから気になってたんですけど、そのEJってなんですか?」
「エド・ジュニアだ! 俺の赤ん坊だ!!」
あ……赤ん坊?
メイは唖然《あぜん》とした。
「あんただけのもんじゃないよ! ジュニアはあたしが産んだんだからねっ!!」
「あの……じゃあ、シャトルには今もその、赤ちゃんが乗ってるんですか?」
「そうよ」
「よくマージさんたち、引き受けましたね」
「え……?」
ジアンニの顔に、かすかな動揺《どうよう》の色が浮《う》かんだ。
「赤ん坊とは言わなかったけど……でもあの入れ物見りゃわかるだろ?」
「あのって?」
「クーハンだよ。こんな、ジュラルミンのさ――ここじゃ誰《だれ》でもあれを使うんだよ。一目見りゃわかるだろ!?」
「わかってたら、引き受けるかどうか……」
「ちょっとお!」
メイも不安になってきた。
「その子、生後何か月ですか?」
「八か月」
「八か月……」
メイはごく、と唾《つば》を呑《の》んだ。
メイは子供の頃《ころ》、近所でベビーシッターをしていたので、赤ん坊の世話ならひととおり心得ている。その経験からいえば、八か月というのは、いちばん大変な時期なのだ。
その頃の赤ん坊は、手足の動きがかなり自在になる。
はいはいで移動する。周囲の物を手当たりしだいつかむ。つかんだ物を口に入れる。
母親の識別ができるので、人見知りも激しい。母親以外が抱《だ》くと、火のついたように泣き叫《さけ》ぶ。離乳《りにゅう》も終わっていない。昼夜の区別なく、三〜四時間おきに授乳する必要がある。
「予防接種はしましたか」
「そんなもの、ここじゃやらないよ」
「えっ……」
メイは不安を押《お》し殺して、先に進んだ。
「離乳食は始めてますか」
「やってるわ。まだ少しだけど」
「ミルクだけでも持つんですね?」
「まあね」
「おむつやミルクは赤ちゃんといっしょに?」
「しまった……」
ジアンニは舌打ちした。
「……持ってきちまった。全部こっちの鞄《かばん》の中だよ」
「そんな無茶な!」
メイは青くなった。
ジアンニはあわてて言った。
「でっ、でもさ。あっちにも女の人がいたじゃない? あの人ならうまく面倒《めんどう》みてくれると思ってさ」
「だめです!」メイは興奮して言った。
「マージさんに赤ちゃんの世話なんかできっこありません!」
「じゃあ、男の人は……?」
「ロイドさんは結婚《けっこん》したけど子供作る前に奥《おく》さんに逃《に》げられてるんですっ!」
「そんな!……」
ジアンニも青くなった。
「なんてすさんだ人たちなの……」
ACT・9
高度五百メートルまで上昇《じょうしょう》したところで、マージは水平飛行に入った。できればもっと高空を飛びたいが、途中《とちゅう》の乱気流を考えるとそうもいかない。
すぐ上には、嵐《あらし》の底が見える。どうしてかわからないが、薄明嵐《はくめいあらし》のこの付近では地上五百メートルに境界層があり、そこで空はがらりと様相を変えるのだった。
境界層の下なら、ひっくり返るほどの乱気流はない。頻繁《ひんぱん》にがたがた揺《ゆ》れるものの、まずは平穏《へいおん》な飛行だった。
「ん、なに?」
マージは耳をそばだてた。
「どうした?」
「キャビンで、変な音がしたわ」
「そういや……」
マージは計器盤《けいきばん》に手を伸《の》ばし、オートパイロットに切り替《か》えた。
ホセの貨物機に蹴《け》られた場所だろうか……。
「ちょっと見てくる」
マージはキャビンに入り、周囲を見回した。
変った様子はない。
いつもと違《ちが》うのは、折り畳《たた》み式のシートがひとつ、床《ゆか》に固定されていることだった。
ジアンニが下船した今は、代りにジュラルミンのケースがくくりつけてある。
「ふーん……気のせいかな」
マージはロッカーから、ほとんど空になりかけた粉末コーヒーを取り出した。
ダイエット・シュガーとともにカップに入れて湯を注ぐ。
「ロイド、コーヒー飲む?」
「わしはスコッチがいいな」
「コーヒーのみ許可」
「ならいい」
マージは自分のカップを持ってコクピットに戻《もど》ろうとした。
その時――
んあっ。
すぐ後ろで、そんな音がした。
マージは動きを止めた。
音源は二メートルと離《はな》れていなかった。下のほうから聞こえた。
奇妙《きみょう》に有機的な響《ひび》きだった。
「なに……」
マージは音のしたほうを注視した。
待つことしばし――
んあっああ…… んあああ、ぐけっ……
音はジュラルミン・ケースの中から洩《も》れていた。
「ロイド! ケースの中に何かいるわ!」
「なんだって」
ロイドがやってきた。
「中に何かいるのよ」
「ふむ……」
ロイドはかがみこんで、ケースをあらためた。
プレス成形した外殻《がいかく》を貝殻《かいがら》のように組み合わせた、大きめの枕《まくら》ほどの容器である。
継目《つぎめ》に二か所、止め金がある。
「開けてみよう」
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
「毒蛇《どくへび》だったりしてな」
言いながら、ロイドは止め金を外《はず》した。
「君は下がってろ」
マージはロイドの背後にまわった。
そっと蓋《ふた》を開けたロイドは――大きくのけぞった。
「うーむ……」
ロイドはそのままコクピットまで後退して、席に身を沈《しず》めた。
「そいつぁ君にまかせる……大丈夫だ、噛《か》みつきはせん……」
ロイドはそう言ったきり、沈黙《ちんもく》した。
いまやマージにも、その中身が見えていた。
ケースの一端《いったん》には小さな機械があり、後でわかったところでは呼吸器の一種だった。
それ以外の大部分は、柔《やわ》らかい布が果肉のように詰《つ》まっている。
詰め物の中央には、一部を厚い布で覆《おお》われた、ぶよぶよした肉塊《にくかい》があった。
肉塊は四本の延長部分と、中央|胴体《どうたい》と、目立つ一個の球体の集合体だった。
球体の半分は薄《うす》い金色の毛に包まれ、残る半球にはいくつかの開口部と突起《とっき》がある。
要するに――それは赤ん坊だった。
「赤ん坊……」
マージは混乱した。心の準備がまったくできていなかった。
「ロイド。赤ん坊じゃないこれ。なによこれ。どうすんのよこれ」
マージはコクピットを振《ふ》り返った。
「ねえロイド! 赤ん坊がいるわ、ここに!」
「わしは知らん。すべて君にまかせたからな」
「ちょっと――困るわよ。あたしだって、なんにも知らないんだから!」
「わしは赤ん坊が苦手なんだ。何かあったら責任を取ると君は言った。だからまかせたぞいいな」
「なこと言ったって……」
マージはおろおろと、赤ん坊に対峙《たいじ》した。
赤ん坊も、マージを見上げた。
「会話はできるの? ねえ、あなた、名前は?」
赤ん坊は、じっとマージを見つめていた。
マージは床《ゆか》に跪《ひざまず》き、顔を近付けた。
その途端《とたん》――
あっ、あっ、あっ……あんぎゃあああああ――!!
赤ん坊は顔をぐちゃぐちゃにして号泣《ごうきゅう》した。
「た、たはっ……」
マージは動転して、尻《しり》もちをついたまま後じさった。
あんぎゃあーあー! (息継《つ》ぎ)うぉぎゃあーあーあー!
「なっ、泣いてるわ。ロイド、泣いてるわよこれ!」
「よく聞こえる」
「どうすりゃいいの。なにをあげればいいの!」
マージは質問を重ねた。
「どうすれば泣きやむの!? 泣きやまなかったらどうなるの!?」
「わしに聞くなよ。この五十年、わしは赤ん坊を避《さ》けてきた。神かけて、なんにも知らんのだ」
「あたしだって知らないわよっ!!」
「子守歌でも歌ってみたらどうだ」
「知らないって言ってるでしょ!!」
マージが怒鳴《どな》ると、赤ん坊はますます泣きわめいた。
ACT・10
「ミルクの時間だわ……」
ジアンニが言った。
「ねえあんた、シャトルにミルクぐらい置いてないの? コーヒーにいれる粉末でもいいからさ」
「それが……」
メイは買物袋《かいものぶくろ》を示した。
「さっき街で買って、これから補充《ほじゅう》しようと思ってたところでした」
二人は、ため息をついた。
「おい、大丈夫《だいじょうぶ》なんだろうな!」
エドが言う。
「EJは一日じゅう飲んでなきゃだめなんだ。毎日|離乳《りにゅう》食二回にミルク五回だぞ、わかってんのか!」
「あたしらはね」
ジアンニが刺《とげ》のある声で言った。
「問題はあっちに何ができるかってこと」
エドは舌打ちした。それから操縦席に向かって怒鳴《どな》った。
「おいホーク! まだ追い付けねえのか」
「うるせえな。荷物は黙《だま》ってろ」
「あんだとこの野郎《やろう》」
「およしったら!」
ジアンニがひきとめる。
メイは副操縦士席に戻《もど》った。
「あの、ホセさん。何か手伝えることはありませんか?」
「おう、寝返《ねがえ》る気か」
「追い付くのは困るんですけど、通信できるところまで接近してほしいんです」
ホセは苦笑した。
「そんな都合のいいこと言われてもな」
「長引くようなことになると、困るんです。最悪、赤ちゃんを死な――」
メイは急に小声になって言った。
「死なせることに、なるかもしれません」
「大げさな。一日や二日ぐらいほっといても平気だろうが」
「あの子、生後八か月なんです」
メイは言った。
「六か月をすぎると、母体からもらった免疫《めんえき》がなくなります。いちばん感染症《かんせんしょう》にかかりやすい時期なんです。発病したら、すぐ四十度の熱を出します」
「あのバカ夫婦《ふうふ》が育ててるんだ、そんなヤワなガキじゃねえさ。だいたい知恵《ちえ》熱で死んだなんて聞いたことないぜ」
「タリファは最高の衛生状態なんです!」
メイは思わず声を荒《あら》だてた。
「ここの環境《かんきょう》じゃ、どんな細菌《さいきん》も繁殖《はんしょく》しません。そんな中で育った赤ちゃんが、よその星から来た雑菌だらけのシャトルに乗ったらどうなりますかっ!」
「おいおい、そう脅《おど》かすなよ」
「脅しじゃありません!」
「でも……EJは、育児ケースの中なんだよ?」
ジアンニが蒼白《そうはく》な顔で言った。すでに会話は筒抜《つつぬ》けだった。
「あれなら、外気は入らないから」
「でも泣き出したら、絶対|蓋《ふた》を開けてみるはずです」
「おう、EJになにかあったら承知しねえぞ!」
「あんたは黙《だま》っててよっ!!」
「うるせえ! てめえに子を案じる親の気持ちがわかってたまるか!」
「あたしが産んだんだってば!」
「るせえってんだ! おいホーク、早くなんとかしろ!!」
「やるこたぁやってる」
ホセは言った。
「感染したって、すぐ発病するわけじゃねえだろ。グランヴィルでシャトルをつかまえりゃそれでよし。しくじっても軌道《きどう》港まで一時間だ。どうってこたあるめえ」
「長引かなければいいんですが……問題は、他にもあるんです。もっと差し迫《せま》ったのが」
「な、なんなの」ジアンニが聞いた。
「シャトルですが、食べ物があんまり積んでありません」
「半日ぐらいなら持つよ。大泣きするけど」
「何もあげないならいいんですが……」
メイは言った。
「ピーナツが一|袋《ふくろ》ありました」
「ピーナツだあ!?」
今度はエドが反応した。
「なんでそんなものを置きやがるんだ!」
「私だって、赤ちゃんを乗せるとわかっていれば、隠《かく》します!」
メイもいらいらしながら言った。
「でもマージさんなら、逆に与《あた》えようとするかもしれないんです!」
「なんてこと……」
「話が見えねえな」
ホセが聞いた。
「ピーナツってそんなに悪いのか」
「ちょうど喉《のど》に詰《つ》まる大きさなんです。八か月だと噛まずにのみこむから、窒息死《ちっそくし》する事故がすごく多いんです!」
「んな、大げさな……」
「大げさじゃありません。ホセさん」
メイは決然と言った。
「私、これでも航法士なんです。手伝わせてください」
「ここの空は知るめえ」
「シャトルは知ってます。マージさんのくせも」
「ふん……」
ホセは何か言いたそうな顔をしたが、やがて言った。
「なら勝手にしな」
ACT・11
落ち着け落ち着け落ち着け……。
泣き叫《さけ》ぶ赤ん坊の前で、マージは必死に考えをめぐらせていた。
とにかく、この生き物は何かを求めてるんだ。
温度と空気はいい。重力もある。
食料? 水? いや両者を兼用《けんよう》するものがあったはずだ――そうだ、ミルク!
赤ん坊といえばミルクだ!
マージは食料品のロッカーを開けた。
バーボン、スコッチ、ブランデー……。
「なんだって洒ばっかりあるのよ!」
ベビーミルクがないのはもちろんだが、牛乳もコーヒーフレッシュもない。
酒の他に、あるのはコーヒーと炭酸飲料。
固形物ではビスケット、ビーフジャーキー、そしてピーナツ。
そうだ……固形物。
マージは離乳《りにゅう》食という単語を聞き憶《おぼ》えていた。ミルクばかりじゃないんだ。
ミルクなんかより、腹にたまるものがあるじゃないか。
好き嫌《きら》いはわからないが――。
マージは結論した。
順に与《あた》えてみよう……。
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第四章 遅《おく》れてきた嵐《あらし》
ACT・1
「そろそろ追い付く頃《ころ》だが……」
ホセはレーダーを見ながら言った。
「まさかマージの奴《やつ》、嵐の上を飛んでるか?」
「ないと思います」メイはきっぱり言った。
「だが成層圏《せいそうけん》まで上がったほうが燃費はいいぞ。速度も出る」
「昨日嵐の中に入ってひどいことになりましたから、できるだけ避《さ》けようとするはずです。マージさんはいつも安全で確実な道を選ぶんです」
「ほほう……」
ホセはにやりと笑った。
「マージの奴も少しは大人になったか」
「マージさんはいつも完璧《かんぺき》です!」
メイは抗議《こうぎ》した。
「不時着したじゃねえか」
「あれは不可抗力《ふかこうりょく》です。自分ではどこも壊《こわ》してません」
「下調べが甘《あま》かったのさ」
「下調べなら充分《じゅうぶん》やりました。グリスのことなら、聞いた相手が忘れてたんです」
「そうかい」
ホセは適当に切り上げ、前方の監視《かんし》に戻《もど》った。
視程は約五キロ。その先は、赤潮のように濁《にご》って何も見えない。
シャトルも貨物機も、嵐の境界層のすぐ下――高度五百メートルを飛行している。
それは赤褐色《せきかっしょく》の雲と大地に挟《はさ》まれた、ほとんど二次元の空間だった。
両機はともにグランヴィルをめざしているから、一次元と言ってもよかった。速度はこちらのほうがやや速いから、そろそろ追い付くはずだった。
少しして、ホセが言った。
「……これだな」
「えっ?」
ホセはレーダースコープを指さした。
それは二十キロ前方にあたる、白く濁って表示された領域だった。
「どこですか?」
「よーく見てみな。動かない点がある」
自濁《はくだく》して見えるのは砂塵《きじん》のエコーで、場所によっていくらか濃淡《のうたん》がある。それは風や機の移動とともにスクロールしてゆく。動かない点があるとすれば、こちらと同じ速度・針路をとっている物体ということになる。
しばらくスコープをにらんで、メイはようやくその光点を見いだした。
「ほんとだ……ほとんど正面ですね」
よほど注意して見ないとわからない。シャトルもレーダーを装備しているが、これでは気づかないだろう。
「そだ、レーダーの圏内《けんない》ってことは、もう無線通じますよね?」
「しゃべるのは向こうが着陸してからだ」
「そんな!」
メイは声をあげた。
「赤ちゃんがどうなってもいいんですか!」
「あと三十分でグランヴィルだ。何も起こらんさ」
「でも――」
「こっちが追ってるとわかったら、マージは無理してでもよその街へ行こうとするだろう。そのほうが長引くし危険も多くなる」
「でも、今すぐ危険なことになるかも知れないんですよ!?」
「ピーナツか?」
「そうです!」
「この世にバナナの皮で転ぶ奴《やつ》が何人いる?」
「…………?」
「ピーナツだって同じさ。五人に一人が死ぬってんなら話は別だが、そんなことがこの三十分のうちにあるとは思えん」
「それは、そうですけど……」
この場合、赤ん坊の面倒《めんどう》をみるのはロイドかマージである。
メイの不安はつのるばかりだった。
ACT・2
「やっぱり栄養のありそうなやつからよね……」
マージは考えたあげく、長さ十センチ、幅《はば》五センチほどのビーフジャーキーを選んだ。
彼女の脳裏《のうり》には、八か月の赤ん坊がそれを端《はし》からむしゃむしゃかじる姿があった。
「どう? おいしいわよ」
赤ん坊は、泣くのをやめた。
小さな、人形のような手が、乾燥肉《かんそうにく》をつかむ。
「そうそう、その調子!」
だが赤ん坊は、それをポイとほうり投げてしまった。
「おいしいのに……」
もちろん――動体視力に秀《ひい》でたマージは、赤ん坊の口に門歯が二本しかないことを見ていた。
だが、それが意味するところまでは理解していない。
そもそも彼女の認識《にんしき》では、赤ん坊とは「約三|歳《さい》以下の人間」でしかない。生後二か月も二年も変りがない。
「じゃ、ピーナツはどう?」
マージは袋《ふくろ》を破り、ピーナツをひとつつまんだ。
「ピーナツが嫌《きら》いな子供なんていないよね」
と、赤ん坊の鼻先に差し出す。
赤ん坊は、少し躊躇《ちゅうちょ》しているように見えた。
「食わず嫌いはだめよ。勇気を出すの。――ほら、思い切って飲み込むのよ!」
ACT・3
メイはシャトルの中にある食べ物を、順に脳裏《のうり》に描《えが》いた。
酒ならいい。コーヒーもいい。炭酸飲料はげっぷとともに吐き出すだろうが、死にはしないだろう。ビスケットもビーフジャーキーも、そのままでは食べられないが、喉《のど》にはつまりにくそうだ。
だが、ピーナツの危険性は依然《いせん》として存在する。
――やはり、なんとかして知らせたほうがいい。
たとえ長引くことになっても、その前に適切なアドバイスをしておけば、EJは殺されずにすむだろう。
メイはそう結論した。
レーダーの探知|範囲《はんい》すれすれなら、メイの持っている通信機でも通じるかもしれない。
「ちょっと失礼します」
メイはそしらぬ顔をして席を立ち、貨物室の一角にあるトイレに入った。
通信機のスイッチを入れ、小声で話す。
「こちらメイ。アルフェッカ・シャトル、聞こえますか? 応答願います」
……応答なし。
メイはアンテナを、小さな丸窓に近付けた。そのほうが電波が通りやすそうだ。
「アルフェッカ・シャトル、聞こえますか? 応答願います。こちらメイ、アルフェッカ・シャトル、応答願います!」
メイは待った。スケルナをいっぱいまで落とし、ノイズの中に相手の声をさがす。
『……ちらアルフェッ……トル……どうし……』
ロイドの声だった。確かに聞こえた。
「もっと送信出力を上げてください! くりかえす、送信出力を上げてください!」
『……どうだ聞こえるか、メイ』
「よく聞こえます!」
『いったいどういうことだ。いまどこにいる?』
「それより、赤ちゃんはどうなりましたか!?」
『おーそれそれ。いまマージがな、食事をさせようといろいろやってるとこだ』
メイは心臓が止まりそうになった。
「すっ、すぐやめさせてくださいっ!」
『なんでだ?』
「理由はあとです。『マージやめろ』と怒鳴《どな》ってください!! 今すぐっ!!」
ACT・4
赤ん坊がピーナツに手を伸《の》ばした。
「マージやめろ」
「え?」
マージはピーナツをつまんだまま、コクピットを振《ふ》り返った。
赤ん坊の手は、宙を切った。
「いや、メイに頼《たの》まれてな」
「メイに? どういうこと?」
マージはピーナツの袋《ふくろ》をクーハンのそばに置くと、コクピットに戻《もど》った。
「メイから無線が入ってる。詳《くわ》しいことは聞いてない」
マージは狐《きつね》につままれたような顔で、ヘッドセットをつけた。
「メイ、聞こえる? どういうこと?」
『マージさん、赤ちゃんにピーナツをあげちゃだめです!』
「え……なんでわかるの?」
『もうあげちゃったんですか!?』
「まだよ。これからあげるとこ」
五秒後に返ってきたメイの声は、ひどくあえいでいた。
『だめなんです。赤ちゃんにピーナツを、そのままあげちゃ、だめなんです!』
「そうなの?」
『その子、八か月なんです。噛《か》まずに飲み込むんです。喉《のど》につまるんです! わかりますか、マージさん!?』
「あー……そかそか」
マージはぽりぽりと頭を掻《か》いた。
それから、当初の疑問に立ち返った。
「それよりメイ、いったいどこから送信してるの?」
『ホセさんの飛行機で、トイレに隠《かく》れてやってます』
「なんですって!」
『ホセさんはその、シャトルに補給が必要なのを知って、追跡《ついせき》してるんです。飛行機はシャトルの二十キロ後方、レーダーの有効半径すれすれにいます』
「どうしてホセが知ってるの」
『あの……つまり私がうっかり話しちゃいました』
「馬《ば》っ鹿《か》もーん!!」
『すっ、すみません!』
「もうグランヴィルには降りられないわ。あんたのせいよ、メイ!」
『それはそれとしてですね――』
「話をそらすなっ!」
「その前に、赤ちゃんの処置について聞いてほしいんです』
「…………」
マージは一瞬《いっしゅん》怒《いか》りを忘れた。
これは知りたい。切実に知りたい。
たった今、殺しかけたとあってはなおさらである。
「……聞くわ」
『まず赤ちゃんの手の届くところから、口に入れそうなものを隔離《かくり》してください。ピーナツはもちろん、ネジ類など食べ物以外もです』
「ん。わかった」
『それから、ミルクがないので離乳食《りにゅうしょく》を与《あた》えます。ビスケットに湯を注いでどろどろにすりつぶしてください。味付けはしないほうが無難です。人肌《ひとはだ》ぐらいの温度にして、スプーンで与えます。いやがるようなら、それ以上は与えません。これで数時間はもちます』
「よーし、それで赤ん坊は泣かなくなるのね?」
『そうはいきません』
「まだあるの?」
『泣く原因はいろいろあるんです。空腹、喉《のど》の渇《かわ》き、おむつの汚《よご》れ、人見知り、眠《ねむ》いのに眠れないとき、身の回りの窮屈《きゅうくつ》、暑すぎたり寒すぎたり、病気だったり――それに昼間遊びたりなかったり、興奮した余韻《よいん》で夜泣きすることもあります』
「ちょっと……そんな難しいことわかるわけないじゃない!」
警報ブザーひとつで故障|箇所《かしょ》を割り出すようなものだ、とマージは思った。
『これは母親でも悩《なや》むんです。とりあえず最初の三つを順に調べてください。熱さえなければ、ほうっておいても死にはしません』
「うむ……じゃ、おむつはどう扱《あつか》えばいい?」
『その子のは再処理タイプだそうです。股間《こかん》の袋《ふくろ》部分に高吸水|樹脂《じゅし》のカートリッジがあります。新品ならシート状ですが、濡《ぬ》れると膨張《ぼうちょう》してゼリー状になります』
「ふむふむ」
『カートリッジが限界になると、水分がおむつ本体にもれます。泣くのはこのときです。カートリッジは、普通《ふつう》なら水分を抽出《ちゅうしゅつ》して再使用しますが、今回は捨てちゃっていいです。おむつ本体は、できれば洗濯《せんたく》しておいてください』
「でもどっちみちスペアがないのよ」
『それじゃ、かわりに私のナプキンを使ってください。ロッカーの十一番にあります。おむつ本体が濡れたらタオルや下着で代用できます。とにかく、濡れたらどんどん取り替《か》えるんです』
「うーん、大変そうだな……」
庶民《しょみん》生活がどっと押《お》し寄せてきた感じだった。
それは船乗りの道を選んで以来、マージがずっと、本能的に避《さ》けてきたものだった。
「他に注意|事項《じこう》は?……メイ?」
マージはカチカチとトークボタンを押した。
「メイ?……メイ、応答なさい」
それっきり、通信はとぎれた。
「どうしたのかしら」
「ホセに見つかったのかもしれんな」と、ロイド。
「距離《きょり》が開いたのかも」
「それにしちゃ、唐突《とうとつ》な切れ方だったぞ」
「そうね……」
マージは眉《まゆ》をひそめ、少し沈黙《ちんもく》した。
「メイ、ひどい目に遭ってないかしら」
「ホセにか?」
「ええ」
「大丈夫《だいじょうぶ》だろう。女を殴《なぐ》るような奴《やつ》には見えなかった」
「……うん」
だが、彼《かれ》はもう、昔のホセではない。
マージはいまや、ホセのふるまいを理解する自信をすっかりなくしていた。
「さしあたってだが、赤ん坊は君の担当だよな?」
ロイドは言った。
「その間にわしは飛行計画を練り直そう。代わりの街がみつかるといいんだが」
「わかった」
マージはキャビンに入り、メイの指示に従って離乳食《りにゅうしょく》を作った。ビスケットをカップに入れて湯を注ぎ、スプーンの腹ですりつぶす。
なるべく考えまいとしたが、それは吐渇物《としゃぶつ》にそっくりだった。赤ん坊にできない咀嚼《そしゃく》をこちらでやるのだから、当然といえばそれまでだが。
「こんな不気味なもの、食べるかしら……」
マージはクーハンの前にひざまずき、かすかに湯気を立てるビスケットのなれの果てをスプーンですくった。
「ほら、おいしいって話よ……」
と、赤ん坊に差し出す。
小さな口が、ぱくりと開いた。
おっ……。
いいのか? お前、本当にその気なのか?
マージは妙《みょう》にどきどきしながら、スプーンを口に押《お》し込んだ。
引き出すと、中身はきれいに消えていた。
赤ん坊はロを数回もぐもぐやり、次いで喉《のど》のまわりの筋肉が動いた。
「……食べた!」
マージはコクピットを振《ふ》り返って叫《さけ》んだ。
「ロイド、食べたわよ!」
「黙《だま》っててくれ。ナヴコムと対話中なんだ」
「あら……ごめんなさい」
マージは赤ん坊に向き直り、第二|弾《だん》を与《あた》えた。
今度も成功だった。
「すごーい、どんどん食べるじゃないのよ」
マージは嬉《うれ》しくなってきた。
三さじ……四さじ……。
与えるはしから、赤ん坊はそれを受け入れた。
正直、こんなにうまくいくとは思わなかった。
「さすがメイだわ。……だけど、そんなに美味《おい》しいのかな?」
マージはカップに指をつっこみ、少しなめてみた。
そして、首をかしげた。
「……ちょっと味が薄《うす》いんじゃないかな? ねえ?」
赤ん坊はじっとこちらを見たままだった。
「人間には糖分と塩分が必要なのよ。ビスケットだけじゃバランスが悪いはずよ」
マージはロッカーから塩と砂糖を取り出し、カップの中に注いだ。
ざざー……。
スプーンでぐるぐるかきまぜ、再び赤ん坊に与える。
赤ん坊は今度もきれいに飲み込んだ。
マージはすっかり自信をつけた。
「そらごらんなさい。こっちのほうが美味しいわよ、ねえ?」
と、またスプーンを差し出す。
赤ん坊は、ロを開けなかった。
「もうおなかいっぱい? そうか、小食なんだ」
赤ん坊は口を開くかわりに、両手をマージに向かってさしのべた。
「ん? どうした?」
小さなふたつの手とつぶらな瞳《ひとみ》は、マージの豊かな胸に焦点《しょうてん》を結んでいた。
「……ちょっと、それは無理ってもんよ。あたしのは準備中なんだから」
と言って、聞き分ける相手ではない。
んあああ……。
みるみる顔がしわくちゃになり、ぐずりはじめる。
急いだので、マージが今度も味付けしようと考えなかったのは幸いだった。
マージは新しいカップに水を注ぎ、そのまま赤ん坊の口にあてがった。
赤ん坊はこくこくと水を飲み干した。
「よしよし。こうしてみると、結構かわいいもんじゃない」
マージは、ちょっとした達成感をもって、赤ん坊を眺《なが》めていた。
赤ん坊の目は、しだいに半閉じになってきた。
「食事の後はお昼寝か……幸せなもんねえ」
マージはそっとクーハンの蓋《ふた》を閉め、ハーネスで椅子《いす》に固定すると、コクピットに戻《もど》った。
「こっちは完璧《かんぺき》よ。赤ん坊、どっさり食べて眠《ねむ》ったわ。そっちはどう?」
「推進剤《すいしんざい》があるうちに行き着ける街はフラグスタッフしかない」
スクリーンに、三つの船団の推定位置が表示されていた。
北に向かって手前からバンカーヒル、グラングィル、フラグスタッフ。
グラングィルまでは三百キロあり、そこからフラグスタッフまでは八百キロ。三者は一本の直線上に並んでいた。
「問題はホセとの距離《きょり》ね」
「そうだな」
推進剤の補給には急いでも一時間かかるから、その間にホセが追い付いてしまう。
「もしわしらがグラングィルに降りてないとみれば、ホセはすぐフラグスタッフに向かうだろう。結局同じ事だ。せめて次の街が別々の方向に二つあれば勝負できるんだがな」
タリファの街は子午線にそって一直線に並ぶ、という鉄則がある。こればかりはどうすることもできない。
「となると途中《とちゅう》でホセをまいて、グランヴィルに引き返す?」
「あるいは裏の裏をかいてフラグスタッフに行くかだ。五分五分の賭けになるな」
マージは少し考えた。
「……そうじゃない、もっと分が悪いわ」
「なぜだ?」
「だって、ホセはこっちが補給に一時間かかることを知ってるのよ?」
ACT・5
「こおの大馬鹿娘《おおばかむすめ》が、こざかしい真似《まね》しやがって!!」
トイレから引きずり出されたメイに、ホセは罵声《ばせい》をあぴせた。
「何が手伝わせてくださいだ、俺《おれ》の勝負の邪魔《じゃま》しやがって!!」
ホセはメイの襟元《えりもと》をつかみ、吊《つる》し上げた。
「すっ、すみま……でも……」
「でももヘチマもあるか!」
「ちょっと、女の子に乱暴するんじゃないよ!」
ジアンニが立ち上がってホセの腕《うで》をつかむ。
「うるせえ。こういう大馬鹿娘はな、体で教えなきゃわからねえんだ」
「だからって乱暴はいけないよ!」
「おめえは黙《だま》ってろ!」
「おい、やめねえかホーク」
今度はエドが間に入った。
「あんだと」
ホセはじろりとエドを睨《にら》んだ。
「おめえが言う筋じゃねえだろうが。こいつぁ無線で俺が追ってることをマージにばらしやがったんだからな」
「だがよ、おめえそのマージって女と勝負してるんじゃなかったのか」
「そうさ。だから邪魔はさせねえと言ってるんだ」
「……おめえの勝負ってのは、不意討ちか?」
「なに?」
「そういうふうに聞こえたぜ。こっそりシャトルの後をつけてって、着陸して動けねえところを押《おさ》えるってな」
「いや、それは……」
ホセは言葉につまった。
「あんた、珍《めずら》しくいいこと言うじゃないか!」
ジアンニが喜々として夫を見た。
「珍しくはよけいだぜ、ジアンニ」
まんざらでもない顔で、エドは言った。
「俺はだな――つまり」
ホセは弁明にかかった。
「おめえらの赤ん坊のためを思ってやってるんだ、そこんとこわかってるんだろうな」
「でも、この子が無線で教えてくれたから、もう安心だよね! そうだろメイ?」
ジアンニが勝ち誇《ほこ》ったように言う。
「ええ……当面必要なことは教えましたけど」
「……くそったれが」
苦虫をかみつぶしたような顔で、ホセは操縦席に戻《もど》った。
メイは少しためらっていたが、やがてホセの後ろに行き、おそるおそる言った。
「あの……すみませんでした。隠《かく》れてやったことは、悪かったと思います」
「悪いさ。悪いに決まってる」
「すみません。……ここ、座《すわ》っていいですか?」
「勝手にしろ!」
メイは副操縦士席に座った。
少しして、メイは言った。
「あの……シャトル、つかまりそうですか?」
「まあな。だがおめえのせいで面倒《めんどう》になった」
「すみません」
「向こうの推進剤《すいしんざい》だが、二時間半ぶんあったんだな?」
ホセは念を押《お》した。
「ええ」
「グランヴイルまで一時間半、そこからフラグスタッフまで一時間だ。ほとんど余裕《よゆう》がねえ」
「そうですね。まっすぐ飛ぶしかないですし、速度も変えられないですね」
空気|抵抗《ていこう》は速度の三乗に比例する。少しでも速度を上げると、てきめんに推進剤を浪費《ろうひ》する。逆に速度を落とすと飛行時間がのびるうえ、機関効率も落ちる。
低速|巡航速度《じゅんこうそくど》はそうした微妙《びみょう》なバランスの上に設定されているので、下手に変えることはできないのだった。
「勝負はグラングィルとフラグスタッフの中間地点だな」
「……どうしてですか」
「あのシャトルなら補給に一時間かかるだろ」
「ええ」
「こっちも向こうも速度は同じだ。普通《ふつう》に飛んでも一時間先行することはできねえ。マージがこっちをまこうとするなら、グランヴィルからもフラグスタッフからも三十分以上|離《はな》れたところしかねえんだ」
「あっ、そうですね!」
もし中間地点でシャトルがホセをまいてグランヴィルに戻《もど》り、ホセがフラグスタッフに向かったとすれば……。
三十分後にシャトルは補給を開始する。
同じ頃《ころ》、ホセはフラグスタッフにシャトルがいないのを知ってUターンする。
ホセがグランヴィルに着くのは一時間後。シャトルの補給が終わるのも一時間後。
きわどいところだが、補給を終えたシャトルは無敵だ。
「条件を満たすのは二つの街の中間地点しかねえ。マージはここで仕掛《しか》けてくる」
「どうやって……」
「境界層の上に出て、薄明嵐《はくめいあらし》に隠《かく》れるのさ」
「でも――派手な空中機動はできませんよね。推進剤《すいしんざい》に余裕《よゆう》がないから」
「俺ならタンクが空でもフラグスタッフまで行くがな」
メイは驚《おどろ》いた。
「ど……どうやって? そこから四百キロもあるんですよ!?」
「薄明嵐の乱気流の中から、上昇気流《じょうしょうきりゅう》だけをつかむのさ。シャトルの本領はソアリングだ。いよいよとなったら、マージだって同じ事を考える」
「でも、あの嵐《あらし》の中で無動力飛行なんて危険すぎます! 失速して水平きりもみに入ったら――」
「マージがおまえの言うとおり安全第一なら、やるまいな」
ホセは言った。
「だが本当にそうなら、はなっからこの星には来ねえはずだ」
「え……?」
それはちがいますと言いかけて、メイは思いとどまった。
マージさんは、ホセに会いたかったんだ。これは確かだと思う。
でも、言われてみれば――ホセが選んだこの星を、この空を知りたかったのかもしれない。どっちだろう? 両方? わからない……。
そんなメイの思いを無視して、ホセは言った。
「マージだってこっちの考えはわかってるはずだ。あいつなら、きっと食いついてくる」
ホセは好戦的な笑《え》みをうかべていた。
「エドの野郎《やろう》の言うことにも一理あるってわけだ。面白《おもし》れえゲームになりそうだぜ」
ACT・6
最初に来た時も、こうすればよかったんだ……
マージは改めてそう思いながら、航法スクリーンを見守っていた。
数分前から、アルフェッカ・シャトルの計器はグランヴィルのビーコンを捉《とら》えていた。
ビーコンの方位はシャトルの移動とともに変化した。左前方からしだいに真左になり、次いで左後方にまわる。自分の位置から逆算すると、街は地図上の推定位置より十キロあまり北西にずれていた。
高度五百メートルの境界層より下を飛ぶ限り、街を探すのは大した冒険《ぼうけん》ではなかった。
宇宙からまっすぐ街に向かわず、手前の嵐《あらし》の弱いところで地表付近まで降りて、ゆっくり接近すればよかったのだ。燃費は悪くなるが、不時着よりはずっといい。
「そろそろだな」
ロイドが言った。
「うん……」
せっかく見つけた安全地帯とも、まもなくお別れになる。二つの街の中間地点でホセをまくには、どうしても嵐を利用するしかない。
正直なところ、勝算があるわけではない。こちらは昨日着いたばかりの新来者、相手は手だれのホセだ。
「止めないのね」
「ん?」
「グラングィルに降りて、ホセに降参したって大損することはないわ。シャトルや赤ん坊を危険にさらすこともないし。……要するに意地の張合いなのよね」
「止めてほしいかね」
「そうじゃないけど」
「意地の張合い、大いに結構さ。わしだってあの離陸妨害《りりくぼうがい》は頭にきてるんだ。ここで降りたらくやしいじゃないか」
「そう……そうよね?」
「人生、やせ我慢《がまん》が肝心《かんじん》だ」
「いえてる」
沈《しず》み気味だったマージの顔に、明るさが戻《もど》ってきた。
「まあ、分別のある君のことだ。赤ん坊もいることだし無茶はしないだろ?」
「そりゃあもちろん」
「よーし、その意気だ! 絶対負けるなよ!」
「ほえづらかかせてやるわ!」
いつもならブレーキ係のマージがこの調子なので、どうも歯止めがきかない。
マージはスクリーンをレーダー画面に切り換《か》えた。
「ロイドはレーダーをお願い」
「まかせろ……ん?」
さっきまでかすかに見えていたホセの機影《きえい》が、消えていた。
「どうしたの?」
「遅《おく》れたのかな。いないんだ」
「まさか……嵐《あらし》に入ったんじゃ」
「向こうが先にか?」
その時、レーダースクリーンのほとんど中央に、まばゆい光点が出現した。
「後方三百メートルだ! 来たぞ!」
「そんな馬鹿《ばか》な!」
マージは信じられなかった。
ホセはこの嵐の中で、二十キロ後方から正確にこちらの位置をつかんで接近していたのだ。いったいどうやって――。
「こっちは入る!」
マージは機をぐいと引き起こした。
けば立った嵐の底が、みるみる迫《せま》ってくる。
一瞬《いっしゅん》のうちに、シャトルは盲目《もうもく》状態になった。
昨日、辛酸《しんさん》を嘗《な》めたあの揺《ゆ》れが、再び襲《おそ》ってきた。
昨日と違《ちが》うのは――
あんぎゃあああああああ!![#原文では「!!!」]
機体を包む風音にも増して、神経を逆なでする響《ひび》きだった。
「ちょっと、こんな時に!」
「ほっとけ。泣いてる間は生きてるってことだ」
「そ、そうよね!」
「向こうもくらいついてる。後方二百五十メートルだ」
「なんて奴《やつ》!」
嵐《あらし》の中なら、レーダーの有効|範囲《はんい》は二キロ以下に激減する。
なんとかして、有効範囲を出なければ。
「こうなったら、噴《ふ》かすわよ……」
マージはスロットを押《お》し、さらに旋回《せんかい》・反転を繰《く》り返した。
だが、ホセはぴったりついてきた。
ホセが嵐の中に、こちらに接近する回廊《かいろう》を見つけていることはまちがいない。
たけり狂《くる》う風音と赤ん坊の泣き声の中で、マージは必死に機体の揺れを観察した。
激しい突《つ》き上げが一秒近くも続いた。直後、正反対の下降気流につかまる。
そしてまた、上昇《じょうしょう》。
「――これって、もしかして、ローター気流?」
山岳《さんがく》の風下に、そんな気流ができることがある。水平に並べた円筒《えんとう》状に、気流が回転するものだ。
ならば、その中心|軸《じく》にそって飛べば――。
マージはわざと真っ直ぐに飛んでみた。
吹《ふ》き上げ――横風――吹き降ろし。
揺《ゆ》れる機体から風の向きだけを抜《ぬ》き出すと、確かにそんなパターンがあった。それは脳裏《のうり》に描《えが》いた円筒面の流れに、パズルの一片《いっペん》のようにかみあった。
「てことは――こっちが中心か!」
急に揺れがおさまった。
砂塵《さじん》で散乱していた前照灯の光が、さっと薄《うす》くなる。
そこは壮大《そうだい》な雲のトンネル――。
シャトルは横倒《よこだお》しになった台風の目の中を飛んでいたのだった。
ACT・7
「やりやがったか!」
ホセは毒づいた。
「マージの奴《やつ》、シャフトを見つけやがった。くそったれめ!」
「シャフトって――?」
木の葉のように揺れる機内で、メイは懸命《けんめい》に姿勢を保ちながら聞いた。
「いまわかる。タリファは自転が遅《おそ》いうえにここは赤道に近い。コリオリ力が弱いせいで横倒しの渦《うず》が長持ちするのさ」
ホセは貨物機をバレル・ロールさせながら、自分も渦の中心軸に乗った。
前方に、何かが光った。
「あっ、見えた! シャトルだ!」
メイは声をあげた。
シャフトの中は不思議なほど透明《とうめい》度が高かった。その薄暗《うすぐら》いトンネルのはるか前方で、シャトルの航法灯が明滅《めいめつ》していた。
「ふん。航法灯をつけっぱなしなのは減点だが――シャフトを見つけたのは誉《ほ》めてやるぜ」
「でもマージさん、これからどうやって逃《に》げるんでしょう?」
「別のシャフトに移るのさ。もうじきだ……今はまだ、シャフトの観察で忙《いそが》しい……そらそら、もうシャフトが終わるぞ、早くしろマージ……」
メイは思わずホセの顔を見た。
これって、教官の顔……?
「……よおし合格! お引っ越《こ》しだ!」
シャトルが離脱《りだつ》にかかるのを見ると、ホセもただちに背面飛行に入り、そのまま急降下した。途中《とちゅう》で引き起こし、トンネルの円周にそわせて機を沈《しず》める。
ごう、と機体が揺《ゆ》れ、濃厚《のうこう》な砂塵《さじん》の中に入った。
「おいホーク! もっと静かに飛べ!」
後ろから、エドが怒鳴《どな》る。
「うるせえ! つまみ出されたくなきゃ黙《だま》ってろ!」
長く思えたが、おそらくは十秒足らずだろう。
機は第二のシャフトの中に出た。
直後、目の前に赤と緑と白の航法灯が見えた。
右が赤――ということは――こっちに向かってる!
「ぶつかるっ!」
メイは叫《さけ》んだ。
シャトルと貨物機は、数メートルの差で相手をかわした。
両者とも正確にシャフトの中心|軸《じく》上を飛んでいるので、向きが違《ちが》えば衝突《しょうとつ》の恐《おそ》れが生じるのだった。だが、この場合Uターンを余儀《よぎ》なくされるのは、追う側のホセだった。
「ちくしょうめ、やりやがる!」
ホセは円筒《えんとう》内の気流を利用して、目ざましい機敏《きびん》さで機体を反転させた。
「ん……どこへ行った? マージめ、もうここを出たのか!」
ホセの声に、はじめて焦《あせ》りがこもった。
「裏をかいて最初のに戻《もど》ったか?――きっとそうだ!」
ホセは砂塵の壁《かべ》を貫《つらぬ》いて、最初に入ったシャフトに戻った。
だが、シャトルの航法灯は見えなかった。レーダーにも映っていない。
「……なんてこった。別のに行きやがったか」
ホセの額に、汗《あせ》がにじむ。
メイはしだいに愉快《ゆかい》になってきた。
「マージさんを甘《あま》く見ましたね」
「うるせえ」
「マージさん、天才なんです。ひょっとしたらホセさん以上かも」
「あれが安全第一のやることか!」
「そうじゃないって言ったのはホセさんですよ」
「うるせえ、おめえは黙《だま》ってろ!」
ホセは貴重な数十秒を浪費《ろうひ》して第三のシャフトに入った。ここもそれまでと同様、南北に横たわったトンネルだった。
だが、肉眼でもレーダーでも、シャトルの姿はつかまえられなかった。
「グランヴィルに行くにも、フラグスタッフに行くにも、ここしかねえはずだ」
「境界層の下に降りたのかも」
「馬鹿《ばか》言うな。あれだけの機動をやったんだ、下を通ってじゃガス欠になる」
シャフトを通れば、内面の渦《うず》を上昇気流《じょうしょうきりゅう》として利用できる。
問題は、どちらの街に向かったか、だった。
やはり、五分五分の賭《か》けになった。
「どっちに行ったか、判断材料はありませんよね?」
「……いや、フラグスタッフだ」
機をその向きに旋回《せんかい》させながら、ホセは言った。
「グランヴィルなら来る途中《とちゅう》で正確な位置をつかんだはずだ。それだけ確実だが、今のマージは俺《おれ》をまいて自信満々だ。その道を選ぶだろう」
「その裏をかいてるかも。マージさんだって、ホセさんの考えることはわかりますよね」
「やめろ。きりがねえ」
「ホセさん、すぐやめろとかうるさいとか言いますけど――」
「それがどうした。俺はタリファに来てから、ぐちゃぐちゃ考えるのはやめたんだ。ここじゃ、うるせえ・黙れ・それがどうしたで事足りるからな!」
「はあ……」
ACT・8
「ふふっ。ま、ざっとこんなもんだわよ」
マージは余裕《よゆう》の笑顔《えがお》で親指を立てて見せた。
薄明嵐《はくめいあらし》の内部に穿《うが》たれたローター気流――シャフトを渡《わた》り歩いて、見事ホセを出し抜《ぬ》いたのだ。
依然《いぜん》として、最終的にホセを振《ふ》り切れる可能性は五割しかない。
しかしマージは、すでに勝った気分だった。この逃避行《とうひこう》の中で、フェアな腕較《うでくら》べは今の戦いだけだ。フラグスタッフに行くかグランヴィルに戻《もど》るかは、確率の問題でしかない。
マージは、フラグスタッフを選んだ。
その場の勢いで、そう決めたのだった。
「まあ、あっぱれとしか言いようがないな」
ロイドも満足げだった。
「しかし、推進剤《すいしんざい》のほうはもちそうか」
「このトンネルのおかげで、だいぶ取り返したわよ」
「そりゃいい。しかし長いな、今度のは」
「そうね」
シャフトを北上して、すでに十分近くたつ。距離にして百キロを越えている。薄明嵐の乱気流の中に、これほど大きく、安定した構造があるとは驚《おどろ》きだった。
マージは機を中心|軸《じく》より左に寄せていた。円筒《えんとう》面上の気流は右回りに回転しているので、左側に近付けば幾体は上向きに持ち上げられる。ここで機首を下げて上昇《じょうしょう》をキャンセルすれば、気流のエネルギーは前進方向に振り分けられる。
気流は猛烈《もうれつ》な速度を持っていたので、エンジンはほとんどアイドリングでよかった。
その時、また赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「ロイド、操縦代わってくれる?」
「やってみよう」
「トリム操作だけで位置を保つの。外の様子が変ったら呼んで」
「わかった」
マージはキャビンに移動し、クーハンの蓋《ふた》を開いた。
赤ん坊は、例によって顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。
「よーしよし。こんどは何かな?」
水と食事は与《あた》えたばかりだ。
……とすると、いよいよおむつか?
マージは赤ん坊に顔を寄せて、臭《にお》いをかいでみた。
ミルクの臭いはするが、これといって異臭《いしゅう》はない。
マージは赤ん坊の尿《にょう》や便に、ほとんど臭いがないことを知らなかった。
「でも一応、チェックしてみるか」
赤ん坊をクーハンから出し、床《ゆか》に横たえる。
腰の前面と両側にあるベルクロをはがすと、おむつはT字型の一枚の布になった。
「うん……?」
股間《こかん》に触《ふ》れていた部分が、クッションのように厚くなっている。
「吸水カートリッジはこの中ね」
おむつの一端《いったん》を開くと、中からカートリッジが現れた。
マージはそれをつまみあげて、観察した。
表面は薄《うす》い紙のようなもので包まれ、内部にはゼリーのようにぶよぶよ揺《ゆ》れる樹脂《じゅし》が詰《つ》まっている。
「ゲル化したおしっこか……」
臭いはないが、やはり汚《きたな》い気がする。
マージはカートリッジをそばの床に放《ほう》り出した。
おむつ本体は、多少|湿《しめ》っているが、まだ使えそうだった。
メイに言われたとおり、ロッカーから生理用品を取り出し、カートリッジの代用品としておむつに詰め込む。
「よおし、では装着」
おむつの上に赤ん坊の腰《こし》を乗せる。
んあっ! んあっ!
「こら、じたばたするんじゃない!」
何が嫌《いや》なのか、赤ん坊は足をばたばたやって作業の邪魔《じゃま》をした。
その刹那《せつな》。
ぴゅぅぅぅぅぅ……。
その細い噴水《ふんすい》は、一部マージの頬《ほお》にかかり、残りは床《ゆか》とロッカーの扉《とびら》を濡《ぬ》らした。
「こっ、この……」
手の甲《こう》で頬をぬぐうと、マージは急いで濡れた部分を拭《ふ》き取った。
水は宇宙船の大敵である。キャビンの内装はもちろん防水構造になっているが、老朽化《ろうきゅうか》していることもあり、どこからしみ込まないとも限らない。
「もう許さないぞ〜」
マージは赤ん坊の胴体《どうたい》を左手で押《おさ》えつけ、空いた手でおむつを一気にまきつけた。
その時、ロイドが呼んだ。
「マージ、来てくれ」
「ちょっと待って」
「今すぐだ! トンネルの終わりがきた」
「そりゃまずい」
言い終わる前に機体が、どさっ、と揺《ゆ》れた。
ロッカーのひとつが開いて、調味料の瓶《びん》が床にちらばった。マージは大急ぎで赤ん坊をクーハンに入れ、ハーネスで固定すると、コクピットに駆《か》け戻《もど》った。
外の様相は一変していた。
シャフトはもう、きれいな円筒《えんとう》面をなしていない。それは前方で拡散し、赤褐色《せっかっしょく》の混沌《こんとん》の中に消えていた。
「追い風のボーナスもこれまでか。境界層の下に降りるわ」
シャトルはまた、乱気流の中に突入《とつにゅう》した。
機体はもみくちゃにされたが、三十秒も飛べば静穏《せいおん》な下層に出るはずだった。
だが……
「どうなってるの? もう抜《ぬ》けてもいいのに!」
電波高度計はすでに高度四百メートルを示していた。
さらに降下。
高度三百メートル。境界層は現れない。
まさか、境界層が消滅《しょうめつ》した……!?
「気をつけろ、ここで下降気流にぶつかったらおしまいだぞ!」
「わかってる……けど……このっ!」
マージは水平を保とうとした。
だが、気流の壁《かべ》は岩のように固く、思うように姿勢を保てない。
赤ん坊が、また泣き始めた。
「どんどん気流が悪くなってくわ!」
外が急に暗くなった。
「マージ上昇《じょうしょう》しろ!」
ロイドが血相を変えて怒鳴《どな》った。
「エンジン全開だ! 先のことは考えるな!」
ACT・9
ホセが異変に気づいたのは、その三十キロ手前だった。
「いかんな……」
いままでと違《ちが》う声だった。メイは胸騒《むなさわ》ぎをおぼえた。
「どうしたんですか」
「もう二、三日は持つと思ったが」
「だから、何がどうしたんですか」
「おくれ嵐《あらし》さ」
「おくれ嵐……?」
「小さなハリケーンみたいなもんだ。タリファの夜の側じゃ大気が冷えてドライアイスの雪が降り、積雪は十メートルにもなる。薄明嵐《はくめいあらし》はそれが溶けて起きるんだが――」
「ええ」
「何かの拍子《ひょうし》で積もった雪を砂が覆《おお》うと、溶けるのが遅《おく》れる。ドライアイスのまま昼の側にきて、風が表面の砂を吹《ふ》き飛ばす。−するとどうなる?」
三十度を超える空気と強烈《きょうれつ》な日照が、ドライアイスに当たったら……。
「いっぺんに気化しますね」
「そうだ。十メートルものドライアイスがたった一日で気化するしくみはわかってねえが、とにかくそうなる」
ホセは低い声で言った。
「どえらい量の冷気ドームができる。本来上昇するはずのない、冷えた空気が一万メートルも持ち上がるんだ。そのドームが崩《くず》れたら、とんでもねえ嵐になる」
「それって……もしかして薄明嵐より?」
「範囲《はんい》は狭《せま》いが、ずっと激しい。あれに巻き込まれたらおしまいだ。俺《おれ》だってあれには近付けねえ」
「そんな……」メイは青くなった。
「もしこの先でUターンしてりゃ、もう出会ってるはずだな」
ホセはシャフトを離脱《りだつ》して、境界層の下に出た。
雲の天井《てんじょう》は前よりいっそうけば立ち、もはや平らではなかった。
北の空は、真っ黒だった。
ホセはマイクを取った。
「マージ聞こえるか」
応答なし。
「悪いことは言わん。引き返せ」
応答なし。
「もっと接近しないと!」
「このへんが限度だ」
ホセは機を反転させた。
針路をグランヴィルに向ける。
「グランヴィルに着いてりゃ、マージの勝ちだ」
ホセは不機嫌《ふきげん》な声で言った。
「そう……ですよね。きっと、グランヴィルに行ったんです。そうに決まってます!」
「ならいいがな」
ACT・10
マージは推進剤《すいしんざい》をすべて失い、どこかに不時着することを決断していた。
ロイドが言ったとおり、それからのことは考えなかった。
この狂《くる》った空域から脱出できさえすれば――。
推力を全開にして、力任せに上昇旋回《じょうしようせんかい》する。推進剤はあと三十秒ももたない。
それまでに、できるだけ高く、できるだけ遠くへ。
シャトルは一進一退しながらも、徐々にその空域を離《はな》れつつあった。
だが、その少し前から、後にマージが死ぬほど後悔《こうかい》することになる出来事が、数メートル後方で進行していた。
マージがキャビンの床《ゆか》に捨てた吸水|樹脂《じゅし》カートリッジ――アクリロニトリル。
そして、同じく床に転がった食塩の瓶《びん》。
材料はこれで充分《じゅうぶん》だった。
激しい揺《ゆ》れが両者を合体させると、吸水樹脂に含《ふく》まれるカルボン酸ナトリウム塩は、塩化ナトリウムのイオンにとびついた。
だが、その手≠ノはすでに、EJが排泄《はいせつ》した大量の水分子があった。吸水樹脂は、自分の体積の数千倍もの水をかかえて、そのつとめを果たしていたのだ。
二股《ふたまた》をかけるわけにはいかない。カルボン酸は新しい恋人《こいびと》を選び、かわりに水分子をほうりだした。
結果として――キャビンの床に、小さな水たまりが生まれた。
それは機体の動揺《どうよう》にあわせて右に左にさまよい、やがて狭《せま》い隙間《すきま》を見つけた。
通常なら弾《はじ》かれてしまう隙間だったが、いまやそこにはタリファの砂の微粒子《びりゅうし》がつまっていた。毛細管現象が水を床張りから構造材へ、そして目に見えない亀裂《きれつ》を抱《かか》えていた絶縁被覆《せつえんひふく》から内部の鋼線へと導いた。
もちろん、進歩した宇宙船はこの程度の故障ではびくともしない。
ただ、今回はタイミングが悪すぎた。
動翼《どうよく》の制御《せいぎょ》信号線に漏電《ろうでん》が発生し、コンピューターがそれに気づいて予備回路に切り替わるまでに〇・七秒もかかった。
その間、右翼のスポイラーが全開したままになった。すさまじい空気応力がシャトルの姿勢をくつがえした。
シャトルはたちの悪い水平きりもみに入った。
もはや紙屑《かみくず》同然だった。
おくれ嵐《あらし》の腕《うで》を振《ふ》り切るまであと少しというところで、シャトルはふたたびその懐《ふところ》に引き戻《もど》されていった。
ACT・11
一時間後、ホセの貨物機はグラングィルの船団を眼下にとらえた。
メイは身を乗り出した。
キャリアが数台。しかしどこにも、アルフェッカ・シャトルの姿は見えなかった。
ホセは地上に無線を入れた。
「ホークアイだ。こっちにミリガン運送のシャトルが来たか」
『来てないぞ』
「アルフェッカ・シャトルというんだが」
『いや、今日はシャトルは一機も来てない』
「……わかった。それから、フラグスタッフへ行く途中《とちゅう》でおくれ嵐にぶつかった」
『了解《りょうかい》。そっちには行かないよう、皆《みな》に伝えておこう』
「どうなんだい」
エドとジアンニがやってきた。
「ここで補給したんじゃねえのか、シャトルは」
「来てねえ」
「じゃ、今どこにいるのさ? もうガス欠なんだろ!?」
「わからん」
「ホセさん、引き返してください!」メイが涙《なみだ》声で言った。
「まあ待て」
「おねがいです! もういちど、あのあたりに――」
「行ってどうする? お前もその目で見ただろうが。何ができる」
「無線が通じるかも」
「あの嵐《あらし》じゃ二キロも届きゃしねえ。待つんだ。おくれ嵐は二、三日でおさまる」
「そんな悠長《ゆうちょう》してたら砂に埋まっちまうだろうが! 金ならいくらでも出す!」
「あたしの赤ん坊が乗ってるんだよ!」
「うるせえ!!」
ホセは一喝《いっかつ》した。
「できねえもんはできねえんだ! 素人《しろうと》が口出しするんじゃねえ!」
沈黙《ちんもく》が訪《おと》れた。
それを破ったのは、メイだった。
「マージさんから聞きました。訓練でハリケーンの中に飛び込んで、空港に降りたって」
「憶《おぼ》えてねえな」
「マージさんは、そのことを自慢《じまん》してました。今だって、きっとそうだと思います。ホセさんなら、きっと来てくれるって――」
「うるせえ! アルテミナのハリケーンとここのを一緒《いっしょ》にするな!」
「憶えてるじゃないですか!」
「今思い出したんだ!」
「どうして、変っちゃったんですか。昔のホセさんなら、こういう時はきっと」
「黙《だま》れ! 俺《おれ》は昔も今も変ってねえ!」
「でも」
「黙れと言ってるんだ!!」
ホセは割《わ》れ鐘《がね》のような声で怒鳴《どな》った。
メイはもう、何も言えなくなった。
ホセは機をグランヴィル船団の前方に降下させた。
砂の上で機が停止すると、ホセは三人の乗客に言った。
「さあ、とっとと降りろ。十分もすりゃ街がここを通る。無線で言っとくから拾ってもらえ」
「……あの、ホセさんは?」メイが聞いた。
「俺は仕事だ」
「仕事って……?」
「いいから降りろ」
「あの、仕事って何ですか?」
「決まってるだろ。立往生してる奴《やつ》を見つけて有り金せしめるんだ!」
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第五章 ダウンバースト
ACT・1
着いたぞ、マージ。
何をぼんやりしてる。早く機関を停《と》めろ。
ホセの声だった。
窓を洗う雨。
濡《ぬ》れた滑走路《かっそうろ》。路面に映《は》える誘導灯《ゆうどうとう》。
真っ黒な空。風の音。ハリケーン。
再突入《さいとつにゅう》訓練の日?
……ちがう。
タリファに雨は降らない。これは夢だ。
マージは薄《うす》く目を開けた。
暗かった。スクリーンと計器の照光が、にじんで見えた。
ゆっくりと腕《うで》を持ち上げる――折れてない。
意識がはっきりしてきた。
計器を順に調べる。気圧、温度、電力、警報表示。
あちこち壊《こわ》れているようだが、急を要する故障はなかった。
窓は半分砂に埋《う》まっていた。外は一面ミルク色で、よくわからない。
室内灯をつけ、ハーネスを解き、立ち上がる。
体がよろめいた。
機体は前に十度ほど傾斜《けいしゃ》していた。
「ロイド」
不精髭《ぶしょうひげ》の頬《ほお》を軽く叩《たた》く。
「ロイド!」
ううむ……。
ロイドはうめき声をあげ、息を深く吸い込んだ。
「……マージ。生きてたか」
「どうやらね」
「赤ん坊は?」
マージはキャビンに駆《か》け込んだ。
椅子《いす》の上には何もなかった。
クーハンは、床《ゆか》の片隅《かたすみ》に転がっていた。
急いで蓋《ふた》を開く。
赤ん坊はすやすやと寝息《ねいき》をたてていた。
全身の力が抜《ぬ》け、マージはその場にぺたりと座《すわ》り込んだ。
「元気に眠《ねむ》ってるわ」
ロイドもやってきて、様子をあらためた。
「やれやれ。体重の軽いのが幸いしたか」
「かなりの衝撃《しょうげき》だったよね」
「ああ。ガンときたのは憶《おぼ》えてる」
「そうね……」
マージは記憶《きおく》をたぐった。
真っ暗な雲の中で、水平きりもみに入った。
操縦はまったくできなかった。
かなり長いこと、風にもまれていた。
高度が下がってきて、必死で姿勢を保とうとした。
一度接地して、バウンドするような感じでふわりと落ちた。
それから、窓に砂がかかったと思ったら、衝撃がきて――
「ざざざざ、どすん、て感じだったわ」
マージは腕《うで》時計を見た。
標準時、午後一時二十二分。墜落《ついらく》から二時間。
「外に出る?」
「そうだな」
二人は呼吸器を首につけた。マスクとゴーグルも装着する。
忘れないうちにクーハンの蓋もきっちり閉める。
外気圧は八百八十二ヘクトパスカル。地上の平均値よりかなり高い。
「船内気圧を九百にしよう。砂が舞《ま》い込むと面倒《めんどう》だからな」
「そうね。出口、エアロックはだめよね?」
「ああ」
開いたとしても、流れ込んできた砂に溺《おぼ》れたくはない。
キャビンの天井《てんじょう》に恒星《こうせい》船とのドッキングポートがある。出るならここだろう。
ロイドは天井のハンドルをまわした。しゅっ、という音がして、エアがもれた。
折り畳《たた》み式の梯子《はしご》を引きおろし、ハッチを全開する。
ごうっという風音がして、冷気と砂が舞い込んできた。
ロイドに続いて、マージも梯子を登った。
屋根に出て、片手でハッチを閉める。
支えていないと、吹《ふ》き飛ばされそうな風だった。
肌《はだ》の露出《ろしゅつ》部分を砂が刺《さ》す。空気はひどく冷たい。
風は右翼《うよく》側から吹きつけていた。風下側は砂が吹きだまり、小さなスロープができている。二人はそこから降りた。
明るさは薄暮《はくぼ》よりやや暗い程度。
視程はせいぜい二十メートル。地面はおおむね機首方向に傾斜《けいしゃ》している。
砂丘《さきゅう》の底のあたりだろうか、とマージは思った。
二人はシャトルのまわりを一周した。主翼はあらかた埋まっており、翼端《よくたん》部だけが見えていた。後部はメインノズルの下まで砂が来ている。
外から見た限り、これという損傷はみあたらない。
「ひとまず中に戻《もど》りましょう!」
マージはマスクをはめたまま、大声で言った。
「いや、もう少し周りを見ておきたい」
「迷子になるわよ」
「風上に進めばいいんだ、こういう時は」
そう言って、ロイドは歩き始めた。
腰《こし》から携帯《けいたい》用のジャイロコンパスを取り出し、方位を確認《かくにん》すると、マージも後に続いた。
シャトルに致命傷《ちめいしょう》がないとしても、推進剤《すいしんざい》が空では身動きがとれない。そばに川でもあれば別だが――そうなると、徒歩による脱出《だっしゅつ》も考えなくてはならない。
風に押《お》し戻されまいと、前のめりに歩く。
風は斜面《しゃめん》に直交して吹いているようだった。
振《ふ》り返ると、シャトルはもう見えなくなっていた。
「ロイド、そろそろ引き返しましょう」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ、ちゃんと歩数も数えている」
二人はさらに歩き続けた。
三百メートルも来ただろうか。
マージは方位をあらためた。さっきより、十度ほど西に向いている。
「ロイド、おかしいわ」
「どうした」
「ずっと風に向かって歩いてるのに、方位が動いてるの」
「ということは、風向きが変ったんだな」
「この地面もよ」
風はあいかわらず、斜面に直交して吹《ふ》いていた。
「……そういやそうだな」
「あたしたち、たぶん、蟻地獄《ありじごく》の巣みたいな所にいるのよ。すりばち状になっていて、中で風がぐるぐるまわってるの」
「三日月状の砂丘《さきゅう》かもしれんぞ」
「砂丘なら、風は斜面にそって吹くわ」
「そうか」
二人は立ち止まって周囲を見回した。
「……マージ、あれが見えるか」
ロイドが斜面の下方を指さした。
乳白色の砂塵《さじん》のヴェールの向こうに、かすかだが、黒いものが横たわっていた。
三十メートル先にあるとすれば小屋ぐらいの物体だった。
遠ければ、もっと大きい。
もしここが巨大《きょだい》な蟻地獄の巣だとすれば、その主人の居場所にあたる方角になる。
不吉《ふきつ》な想像を、マージは頭から追い払《はら》った。タリファに人間以外の生物はいないはずだ。
「何かしら」
「百歩進んでわからなければ引き返そう」
「そうね」
歩数を数えながら、斜面を降りる。
その物体は、おおむね流線型をしていた。裏返しにして地面に伏《ふ》せたスープ皿のようでもある。だが、人工物という感じはしない。
奥《おく》行きがあるらしく、物体と空との境界ははっきりしなかった。
皿というよりは、半島のようにこちらにせりだしたカマボコ状をしているらしい。
しだいに色彩《しきさい》が明瞭《めいりょう》になってくる。
赤褐色《せっかっしょく》――タリファでもっとも普通《ふつう》に見られる色だった。
「岩だ! ありゃ岩山だぞ」
「こんな蟻地獄《ありじごく》の底に岩山?」
「そうさ、君も聞いたじゃないか。ここの鉱夫たちは、嵐《あらす》が掘《ほ》った砂の谷底でタリファ・オパールを採掘《さいくつ》するとさ」
「あれが地下の岩盤《がんばん》ってこと?」
「そうにちがいない」
岩山は思ったより近くにあった。
その壁《かべ》は地面からほとんど垂直に立ち上がり、ずっと上のほうでゆるやかになっていた。
風でかなり侵食《しんしょく》されており、表面の節理を浮《う》き彫《ぼ》りにしている。
二人は岩壁《がんペき》にそって少し歩いた。
やがて、深い割れ目を見つけた。
人が二人、並んで歩ける幅《はば》だった。
「入ってみよう」
「ロイド、探検に来たわけじゃないのよ」
「地下水があるかもしれんじゃないか。推進剤《すいしんざい》を補給できるぞ」
「あったら宇宙から輸入するもんですか」
言いながら、二人はすでに十メートルほど入り込んでいた。
割れ目は奇妙《きみょう》にゆがみ、一部で広くなり、やがて登り勾配《こうばい》の狭《せま》い洞窟《どうくつ》になった。
空気はますます冷たくなる。
ロイドは懐中《かいちゅう》電灯をつけた。
「少年時代を思い出すな」
「ロイド――」
今度こそ引き返しましょう、と言いかけたとき、マージは急停止したロイドの背中にぶつかった。
ロイドはかがみこみ、何かを拾い上げた。
「なんなの?」
「……採鉱ハンマーだ」
ACT・2
「おめえら、俺《おれ》が本当は善良でお人好《ひとよ》しだと思ってるだろ」
ホセはますます不機嫌《ふきげん》な声で言った。
貨物機は再び離陸し、フラグスタッフ方面に向かっている。
「俺が本当にいい奴《やつ》なら、おめえらを乗せはしねえ。おめえらが有り金出すとか死んでもいいとか言い張るから、仕方なく乗せてやってる」
ホセはメイとジアンニとエドの顔を、順ぐりに見た。
「こいつぁビジネスだ。そのへん、わかってんだろうな?」
「はい」
「ありがとね」
「恩に着るぜ」
「……わかってねえな」
ホセは舌打ちし、それからぐいと機首を引き起こした。
薄明嵐《はくめいあらし》に突入《とつにゅう》し、その揺《ゆ》れに見舞《みま》われると、意気の上がっていた三人も口をつぐんだ。
貨物機はさらに上昇《じょうしょう》を続けた。
「あの、シャフトは使わないんですか?」
「嵐《あらし》の上に出る。一度上から様子を見てみねえとな」
乱気流の中を上昇し続けること二十分。
なんの前触《まえぶ》れもなく、貨物機は降りそそぐ光の中に出た。
地上からはまず見られない、主|恒星《こうせい》の直射日光だった。
そのまぶしさに目が慣れると、外の様子がはっきりしてきた。
紺碧《こんペき》の空と、眼下にひろがる赤褐色《せっかっしょく》の雲海。
そして正面には――途方《とほう》もない大きさの、純白の雲のドームがそびえていた。
タリファで初めて見る、白い雲だった。
その巨大《きょだい》な半球の外周は、積み重ねたスカートのように裾《すそ》を開き、周囲の大気に崩《くず》れ落ちようとしている。
まるで、核兵器《かくへいき》の威力《いりょく》をとらえたニュース映像のようだった。
メイは喉《のど》の渇《かわ》きをおぼえた。
「あれが……おくれ嵐ですか?」
「そうだ」
ホセは、前方に静かなまなざしを向けたまま言った。
「怖《こわ》けりゃ引き返してもいいぜ」
「いえ……」
「減衰《げんすい》期にさしかかった頃《ころ》だな」
「え?」
「あのおくれ嵐さ」
「じゃあ、風は弱くなりますか?」
「むしろその逆だ。上昇気流《じょうしょうきりゅう》が弱まって、凝結《ぎょうけつ》したドライアイスが落下をはじめる。たいていは途中《とちゅう》で蒸発するが、そこで潜熱《せんねつ》を奪《うば》って気温はますます下がる。しまいにゃダウンバーストも起きる」
「ダウンバースト?」
「下降気流の強烈《きょうれつ》なやつだ。そいつが地面にぶつかると、えらい突風《とっぷう》になる。こいつにでくわしたら、ひとたまりもねえ。飛行機どころか、戦車だって吹《ふ》っ飛ぶ」
「そんな……」メイは青くなった。
「もう、始まってるんですか?」
「きわどいとこだ。急がねえとな」
「嵐《あらし》には、どうやって接近するんですか」
「知るか。そんな酔狂《すいきょう》をした奴《やつ》はいねえ……」
貨物機は上昇を続けていた。
ドームが目前に迫《せま》る。
メイはホセの横顔を見守った。
ホセは言った。
「怖《こわ》いのは嵐の外側だ。上からドームの中心にとびこんで旋回《せんかい》降下する。お前は通信係だ。高度が二千を切ったらずっと呼び続けろ」
「はい」
ホセは後ろを振《ふ》り返った。
「おめえら、覚悟《かくご》はいいな! シェーカーの中みたいに揺《ゆ》れるぞ」
「いいよ、やっとくれ!」
「こう見えてもタリファの鉱夫だ、嵐にゃ慣れてらあ!」
ドームの頂上を眼下に見たところで、ホセは機をひるがえした。
まるで固体のような、雲の表面に突入する。
直後、貨物機はザーッ、という音に包まれた。
白いものが窓を覆《おお》う。
「くそったれ、雪かあられか――」
ワイパーが窓に付着したドライアイスを拭《ふ》き取る。
だが、どのみち視界はゼロだった。
胃がとびだしそうな揺れの中で、メイは懸命《けんめい》に高度計を読んだ。
一万二千……一万一千……一万……。
恐《おそ》ろしいほどの降下だった。
姿勢指示器を見ると、機体の向きは水平に近い。降下速度の大半は、下降気流が負担しているのだった。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか、このままじゃ地面に――」
「流れに乗ってりゃなんとかなる……ん、なんだ?」
ホセは操縦|桿《かん》をがたがた動かした。
「エルロンが氷結しやがった!」
ホセはヒーターのスイッチを入れた。だが、エンジンから送られる熱風がドライアイスを融《と》かすまでに、しばらくかかる。
貨物機は横転しはじめた。
「くそったれ、早く融けやがれ!」
「あのっ、大丈夫ですか!」
「うるせえ、心配ばっかりするな!」
ACT・3
洞窟《どうくつ》は数メートル先でくの字に折れていた。
マージはマスクを外した。空気は冷たく、かすかな異臭《いしゅう》がした。
「誰《だれ》かいるかね?」
ロイドの声が、洞窟に谺《こだま》する。
だが、返事はなかった。
二人は奥《おく》に進んだ。
そこは子供部屋くらいの空間だった。洞窟はまだ先に伸《の》びていたが、ここが一番広いのだろう。床《ゆか》には大小の道具類が散らばっていた。ライト、発電機、削岩《さくがん》機、雑嚢《ざつのう》、水筒《すいとう》、非常食の包装……そして、男が一人。
男は壁《かべ》ぎわにもたれ、細長い二本の脚《あし》を床のタオルの上に横たえていた。
ロイドはそのヘルメットをそっと持ち上げた。
マージは、息を呑《の》んだ。
うつろな眼窩《がんか》が二つ、新来の客を見上げていた。
頬骨《ほおぼね》に張り付いた皮膚《ひふ》は黒ずみ、乾燥《かんそう》しきっている。
「……ミイラ作りにはうってつけの環境《かんきょう》だからな」
「どれくらい経《た》ったのかしろ」
「さあな」
ロイドは死体の傍《かたわ》らから、一冊の手帳を取り上げた。
「一匹狼《いっぴきおおかみ》のオパール掘《ほ》りなら、まめに野帳をつけてるもんだ」
ロイドはページをめくった。マージものぞき込む。
嵐《あらし》の跡《あと》に出現した露頭《ろとう》やタリファ・オパールを産する鉱脈の位置が、スケッチとともに細かく記載《きさい》されている。
「三八四二年、とあるな。四十年前だ」
やがて、運命の日の記述にいきあたった。
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七月二十一日
おくれ嵐の発生を聞き、現地に向かう。
北緯《ほくい》九度三十七分、絶対経度七十七度十二分。
直径二・三キロのクレーター、深度四百三十メートルより岩盤《がんばん》を発見。
(南北五百メートル、東西百四十メートル)
風速、時に四十メートルを超《こ》える。
岩盤東側に洞穴《どうけつ》あり。徒歩にて調査。
内部に優良な変成鉱脈発見。
時間を忘れて失敗した。外に出ると、車が流されていた。
サンドアンカーも効かない、予想外の流砂。
車はあきらめ、装備を運び出す。
穴の中で救助を待つ。
[#ここで字下げ終わり]
「最後のページは?」
「だいぶ先だな……ここか。字が読みにくいな」
[#ここから3字下げ]
十一月二十五日
あれから二度目の夜明けが終わった。
昨日までの風の響《ひび》きも、今日は聞こえない。
今度も出口は開かなかった。
この洞穴は、おくれ嵐の時しか出現しないようだ。
もう水も食料もつきた。
発見者に、石を托《たく》す。
[#ここで字下げ終わり]
「こんなところで四か月も生きてたなんて……」
「発電機さえ生きてりゃ、空気も水もかなり使い回せるからな」
ロイドはかがみこみ、雑嚢《ざつのう》の中を探《さぐ》った。
「これだな」
小さな袋《ふくろ》をとりだし、中身を手のひらにあける。
親指の頭ほどもあるタリファ・オパールが数個、転がり出てきた。
「こりゃ、ちょっとしたもんだぞ……」
マージは別のことを考えていた。
「ロイド、シャトルに戻《もど》らないと! この人の車みたいに、流されてるかも」
「おっと、そうだったな」
ロイドは野帳と袋をポケットにしまうと、鉱夫の骸《むくろ》に目礼した。
「神の祝福のあらんことを。――石のことはまかせてくれ」
「ロイド、早く!」
二人は足早に、洞窟《どうくつ》を下った。
「場合によっちゃ、ここに引き返すこともありうるな」
「馬鹿《ばか》なこと言わないで。赤ん坊がいるのよ」
「確かにな。だがもう推進剤《すいしんざい》は一滴《いってき》も残ってないし、救助も期待できん」
「救助は……ないかしら」
「この嵐《あらし》だぞ。運よく鉱夫に出会えりゃ別だが」
「そうね……」
出口に急ぎながら、マージは思った。
でも、彼《かれ》なら――もしかして……。
ACT・4
「あと五百メートルで地面ですっ! ホセさん、なんとかしてくださいっ!!」
「うるせえ、もう少しだ!!」
四百……三百……二百……百……。
「ああああ、おかあさーん!!」
メイは目を閉じた。
だが、高度がゼロになったとおぼしき時間を過ぎても、衝撃《しょうげき》はやってこなかった。
メイは目を開き、高度計を読んだ
「マイナス三百! ……マイナス四百……!?」
「よーし、動いた!」
ホセが操縦|桿《かん》を戻し、引き起こしにかかる。
「立て! 立ち直れっ、このポンコツ!」
強烈《きょうれつ》なGが襲《おそ》いかかる。メイは歯をくいしばって前を見た。
窓のすぐ下を、何かがすっとんでいった。
高度マイナス五百三十メートル。
そこを境に、高度は増加に転じ、あっという間にプラスになった。
「命拾いしたな」
「……ど、どういうことですか?」
「そいつは慣性高度計だ。地形変化まで教えちゃくれねえ」
おくれ嵐が掘《ほ》り起こした深い谷間が、執行猶予《しっこうゆうよ》を与《あた》えてくれたのだった。
「高度三百で嵐の円周上を周回する。シャトルを呼べ。耳を澄《す》ませろ。どんな声も聞き逃《のが》すな!」
「はっ、はい!」
メイはヘッドセットをはめ、トークボタンを押《お》した。
『こちらホークアイ、アルフェッカ・シャトル応答願います! こちらホークアイ、アルフェッカ・シャトル応答願います!』
ACT・5
おそらく周囲の砂が動いたのだろう。
キャビンの床《ゆか》が、ぐらり、と傾《かたむ》いた。
たいした傾斜《けいしゃ》ではなかったが、円に近い断面をもつクーハンは、それをきっかけに、コクピットに向かって転がり始めた。
ごつん。
クーハンは操縦席の根元にぶつかって止まった。
その拍子《ひょうし》に、掛金《かけがね》が外れた。
少しして、クーハンの蓋がぱくりと開いた。
あぶう……。
EJは自由の身になった。
クーハンを這《は》い出ると、EJは操縦席の脚《あし》につかまって、のたのたと立ち上がった。
最初に目についた目標は、二つの操縦席の間に挟《はさ》まれたセンターコンソールだった。
レバーのひとつを手がかりにして、コンソールに這い上がる。
ぶはっ、ぶほほほ……。
EJは笑った。視界が広くなったことが、快感だった。
今度は肘掛《ひじか》けにつかまって体を起こす。ますます世界は広がった。
高いところは楽しい――EJは楽しむ努力を続けた。
進捗《しんちょく》ははかどらなかった。生後八か月では、支えなしに歩くことは普通《ふつう》できない。だが、〇・八Gという控《ひか》え目な重力が、活動にいくらか自由度を与《あた》えていた。
EJはさらなる高地、機長席へと向かった。
肘掛けに右足をかけ、上半身をその先に乗り出す。
ごろり。
EJはシートの上に転がり込んだ。
背もたれにそってたちあがり、あたりを見回す。
ヘッドレストに、マージのヘッドセットがひっかけてあった。
手を伸《の》ばすと、届いた。
EJはそれを引き下ろし、しばらくもて遊んでいた。
半円形のヘアバンド部分が、自分のウエストにぴったり合う。EJはそれをベルトのように腰にはめてみた。左のイヤーパッドから突《つ》き出したマイクが、ちょうど顔の前に来た。
その時、不意に人の声がした。
『……こちらホークアイ、アルフェッカ・シャトル応答願います! こちらホークアイ、アルフェッカ・シャトル応答願います!』
緊張《きんちょう》した、少女の声だった。
EJはびっくりして、声のするほうを向いた。
体の回転とともに、音源の一部も移動した。受信音声が計器盤《けいきばん》のスピーカーとヘッドセットの両方に流れることが、EJを混乱させていた。
あっぶー……。
その声は送信されなかった。
操縦|桿《かん》か通信機のトークボタンを押《お》さない限り、こちらの声は発信されない。
また、声が呼んだ。
『こちらホークアイ、アルフェッカ・シャトル応答願います!」
声は切実に、何かを求めていた。
未発達な心の一部が、じっとしていてはいけない、と命じた。
込《こ》み入った計器盤が目に入る。
その中にひとつ、明るい光の点滅《てんめつ》があった。
トークボタンはその『受信中』ランプの五センチ右にある。
EJは、光に向かって手を伸《の》ばしたが、まるで足りなかった。
シートの上で少し前進する。
だが、どう動いても、シートの上にいる限り、届く見込みはなかった。
その時、奇跡《きせき》が起きた。
EJはバランスを失いかけた。
咄嗟《とっさ》につかまるものを求めた右手が、肘掛《ひじか》けの先にある操縦桿を探《さぐ》り当てた。
倒《たお》れかけたEJの慣性質量のほとんどが、操縦桿にかかった。
ボタンのひとつが、カチリと音をたてて押し込まれた。
あぶぅ……。
ACT・6
「ホセさん、ストップ!」
メイは航空力学を無視して注文した。
「どうした」
「いま何か聞こえました!」
エドとジアンニが身をのりだす。
「なんだって!」
「生きてたのか!」
「方位はわかったか」
「わかりません。微弱《びじゃく》すぎて」
ホセはとりあえず機を旋回《せんかい》させた。
メイは再び呼びかけた。
「こちらホークアイ、応答願います!」
三秒経過。
「こちらホークアイ、応答願います!」
三秒経過。
『……あぶうふぅ……』
「ほら!」
「風音か何かみたいだがな」
「でも、確かに電波に乗ってるんです」
「方位はわからんか」
「だめです。もっと長く送信してくれないと――」
「貸して!」
急にジアンニがメイのヘッドセットをむしり取った。
「ちょっと、何するんですか!」
「EJだよ! EJがしゃべってるんだ」
「まさか、そんな!」
「確かにEJの声だったよ。母親のあたしが言うんだから間違《まちが》いない!」
「でも、どうして!?」
「赤ん坊のすることに理由なんかあるもんか。どうすりゃしゃべれるんだい」
「このボタンを押《お》して」
「あっちは? シャトルのほうはどうやって送信するのき!」
「通信コンソールは遠いから――たぶん操縦|桿《かん》のトークボタンです。右の肘掛《ひじか》けの先に、こんなふうについてて、押せば送信です」
「ってことは……」
シャトルのコクピットを脳裏《のうり》に描《えが》き、EJの姿勢を想像する。
ジアンニはまなじりを決してトークボタンを押した。
予想してしかるべきだったが、ジアンニの口をついて出た言葉は、あまりに場違いなものだった。
「さあ〜EJ、ぶっちゅしましょ。ぶっちゅよ、ぶっちゅ!」
怒鳴《どな》ってばかりいたジアンニが、こんな声を出せるとは。
不本意にも吹《ふ》き出しそうになりながら、メイは言った。
「すっ、少し間をおいて――はい」
「ほーらどうしたの、ぶっちゅよ、ぶっちゅ!」
待つことしばし――Sメーターの針がぴんと跳《は》ねた。
『……ぶうちゅ……』
メイは方向探知機をにらんだ。
「もっと長く!」
「おじょうずおじょうず。もっとずーっとぶっちゅしましょ! ママと競争よ〜〜」
『……ぶっちゅ! ぶっちゅ!……まーま……』
「わかりました! 絶対方位、百四十二度!」
「上出来だ!」
ホセはただちに機をその方位に向けた。
対地レーダーが、前方に直径二キロの、中心に小山を持つクレーターの存在を知らせた。
『……まーま、まーま……』
「方位修正、右へ二度。いま交点を出します……クレーターの底です!」
「ジアンニ、もういい席に戻《もど》れ。荒《あら》っぽい着陸になるぞ!」
ACT・7
ロイドとマージは、烈風《れっぷう》の中で立ち止まり、あたりを見回した。
「このあたりのはずなんだが……」
シャトルは見あたらなかった。
「流されたか」
「だから言ったのよ、早く戻ろうって!」
「落ち着くんだ、マージ。風下に向かえば必ず見つかる」
二人は足早に歩き続けた。
三百メートルほど進んだとき、マージが言った。
「何か……光ったわ」
「ほんとか?」
「正面。サーチライトみたいだった」
それから、風音とは明らかにちがう、ごうごうという響《ひび》きが近付いてきた。
突如《とつじょ》、砂塵《さじん》のカーテンの向こうから巨大《きょだい》な機影《きえい》が出現した。
それは二人の数メートル上を通過し、風上に消えた。
「ホセ……」
マージは、幻《まぼろし》を見た、と思った。
ロイドが先に反応した。
腰の無線機を取り出し、マスクに密着させる。
「こちらミリガン運送のロイドだ。ホセ、聞こえるか!?」
『どこで道草食ってたんだ、ええ?』
「いろいろあってな。シャトルの位置がわかるか?」
「目の前だ、そのまま一ブロック進め」
「わかった。礼はあとで言う」
『ビジネスだ。一周して着陸する。赤ん坊を入れ物に戻《もど》して待ってろ!』
「戻す……?」
シャトルはすぐに見つかった。
出たときより、さらに深く砂に潜《もぐ》っている。
二人はまた、ドッキングポートから中に入った。
キャビンにあったはずのクーハンは、コクピットに転がり込んでいた。
赤ん坊は機長席にぺたんと腰掛《こしか》け、すっかり御満悦《ごまんえつ》だった。
クーハンに戻し、念入りに掛金《かけがね》をかける。
「来たぞ」
ロイドが窓の外を指さした。
貨物機の二つの前照灯が、煌々《こうこう》とこちらを照らしていた。
マージは急いでキャビンの天井《てんじょう》に登った。ロイドからクーハンを受け取り、外に飛び降りる。
貨物機の扉《とびら》が開き、ホセが現れた。
マージはクーハンを抱《だ》いたまま、砂の中に突《つ》っ立っていた。
夢か幻か――そんな気分は、まだ続いていた。
ホセはこちらに歩いてきた。
ゴーグルごしに、ホセの目が一瞬《いっしゅん》見えた。
「何をぼんやりしてる。早く入れ!」
ホセはマージの腕《うで》をつかむと、貨物機に引きずりこんだ。
ACT・8
マージが機内に入ると、ジアンニは一瞬、口を半開きにして相手を睨《にら》んだ。
それから、クーハンをひったくるように奪《うば》った。
ジアンニは我《わ》が子を抱きあげると、しばらく放そうとしなかった。
「ごめんねジュニア……怖《こわ》かったかい……もう大丈夫《だいじょうぶ》だよ……」
「この野郎《やろう》、平気な顔してにこにこ笑いやがって……」
エドは手をさしのべてEJの頬《ほお》に触《ふ》れ、その感触《かんしょく》を確かめていた。目で見ただけでは足りないらしい。
メイも興味|津々《しんしん》の面持《おももち》で、EJをのぞき込んでいる。
ロイドは、ホセと話し始めた。
「この飛行機で曳航《えいこう》するのは無理か?」
「重すぎて無理だな」
「離陸して、せめて安全|圏《けん》までシャトルを運びたいんだ。だが推進剤《すいしんざい》がない。液体ならなんでもいいんだが――なんとかならんかね」
「いま、空荷なんだな?」
「そうだ」
「あれを離陸させるとなると噴射《ふんしゃ》に三十秒は欲しい。毎秒十二・五キロ噴《ふ》かすとして――三百七十五キロか」
「そんなとこだ」
「街までこいつで取りに行くか。往復一時間、タンクを用意して注入に一時間……いや」
ホセは首を振《ふ》った。
「無理だな。それまでにこのへん一帯、ダウンバーストでむちゃくちゃになる」
「この飛行機に、水は積んでないか」
「二十リッターしかない」
ホセは言った。
「あきらめたほうがいい。命があっただけでもめっけもんだ」
「そうか……」
「おい、液体がいるって言ってたな」
エドが話に加わった。
「そうだ。三百七十五キロな」
「ドライアイスじゃだめなのかい」
「そりゃ固体だろうが」
「溶《と》かしゃいい。氷点で三十四気圧かけりゃ液体になるぜ。このへんの鉱脈は、それでできたんだからな」
ロイドは手を打った。
「その条件なら、タンクのヒーターと加圧ポンプでやれそうだな!」
「タンクだが、アイスの塊《かたまり》のままで入るのか?」と、エド。
「口金の台座を外せば、三十センチの穴になる」
「砂は混じってていいのか」
「濾過《ろか》装置がある」
「なら上等じゃねえか!」
「いや、ちょっと待った」
ホセが言った。
「作業をやってるうちにダウンバーストが来たらどうする。もう、いつ来てもおかしくねえぞ」
「そうか……」
アルフェッカ・シャトルはミリガン運送の歴史とともにあった機体だった。
メーカーの異なるシェフィールド恒星《こうせい》船に無理やり連結したところは、ひどく不格好で、アルフェッカ(南の欠け皿)という名前もそこからつけられた。
だが、この質実|剛健《ごうけん》な機体は、常に信頼《しんらい》に応《こた》えてくれた。
この機体から日々の糧《かて》を得、時には命を救われもした。
そんな思い出のしみついた愛機だが――どうやら別れの時をむかえたらしい。
ロイドは観念した。
「やむを得ん、シャトルは残して脱出《だっしゅつ》だな」
その時、マージが言った。
「私は残る」
「おいマージ……」
「マージさん、無茶です!」
「自分の機を捨てるわけにはいかないもの。ここに残って、ドライアイスでやってみる」
「一人で何ができる!」
「いいえ、やってみせる」
「無理なものは無理だ!」
「マージ」
ホセが静かに言った。
その目は、じっとマージを見すえていた。
「それで充分《じゅうぶん》だ。おまえを置いていくわけにはいかん」
「ありがとう、ホセ。でも意地を張らせて。ここで逃《に》げたら――」
マージは声を震《ふる》わせた。
「あたし――たぶん、飛ぶのが嫌いになる」
「だがな……」
ホセは、続く言葉を見つけられなかった。
ロイドが言った。
「そういうことなら、つきあうぞ、マージ」
「私も手伝います」と、メイ。
「勝手に盛り上がってるようだが、ドライアイスの掘《ほ》り方を知ってるのかい?」
エドが言った。
「ここは俺《おれ》がいなきゃダメだろうな」
「あんた、危ないことはしないでって、いつも言ってるのに!」
ジアンニがすがりつく。
「うるせえ。亭主《ていしゅ》が男をあげようって時にきーきー言うんじゃねえ」
「だって!」
「俺の勘《かん》じゃ、あと三十分くらいは持ちそうだ。おめえはEJ連れてこの飛行機で逃げろ。ホーク、そういうことだ、よろしく頼《たの》むぜ!」
「この……」
ホセは憮然《ぶぜん》としていた。この一大事に、避難誘導《ひなんゆうどう》係を押《お》し付けられた格好だった。
「くそったれが……。マージ!」
ホセはかつての訓練生を怒鳴《どな》りつけた。
「なに、ホセ」
「上がったら東に向かって薄明嵐《はくめいあらし》をつかめ。うまくやればフラグスタッフまで無動力でいけるはずだ」
「わかった。きっとやる」
「よし」
ホセはマージの肩《かた》を叩《たた》いた。
ACT・9
「ホーク、道具借りるぜ」
「持ってけ」
エドは貨物機から砂上用のそりをおろし、斧《おの》、スコップ、バケツ、爆薬《ばくやく》のキットを投げ込んだ。
「これだけありゃ、なんとかなる」
エド、ロイド、マージ、メイの四人が降りると、貨物機はすぐに動き始めた。
風に向かって滑走《かっそう》らしい滑走もせずに離陸し、すぐに見えなくなる。
もう、シャトルを飛ばす以外に生き延びる道はない。
エドは矢継《やつ》ぎ早に指示を出した。
「女二人はシャトルで準備してろ。まわりの砂をどかすんだ。タンクも開いとけ!」
「わかりました」
「あんたはいっしょに来てくれ」
エドはロイドに言った。
「レーダーで見たが、真ん中に岩盤《がんばん》が出てる。そこでアイスの脈を探す」
「岩の風上寄りに洞窟《どうくつ》があった。閉じ込められた鉱夫のミイラを見つけた」
「よしそこだ。こんな手|押《お》しのそりじゃ二往復しなきゃなんねえ。走るぞ!」
エドはそりの曳綱《ひきづな》を持って走り始めた。ロイドも続く。
「すまんな。危ないことにつきあわせちまった」
「どうってこたぁねえ。こちとらガキの頃《ころ》から石掘りやってんだ」
エドは走りながら言った。
「あのマージって女、おめえの何なんだい」
「相棒さ」
「そうか」
少しして、エドは言った。
「あの女の気持ち、わかるぜ。前にいっぺん、俺《おれ》も車を沈《しず》めたんだ」
「そうか」
「俺は石掘りだから、石さえ持って帰れりゃ気は済むがな。あんたらにしてみりゃ、船が命だろ」
「そうだ。その通りだ」
ロイドは少し息を切らせた。エドはまったくペースを変えずに、砂を走り続けた。
岩山が見えてきた。
「このへんか」
「もっと先だったかもしれん」
少し走ると、見覚えのある割れ目に行き着いた。砂の地面はさっきより一メートル近く高くなっている。
エドは割れ目に入って、両側の岩壁《がんぺき》を見た。
「なるほど……こいつぁそそられる脈だぜ」
「奥《おく》は登り勾配《こうばい》になって、洞窟《どうくつ》になってる。仏はそこにいたんだ」
「そいつの石は拾ってやったか?」
「ああ。だが全部あんたにやる」
「いいや、どっちみちホークの野郎《やろう》がせしめるさ。特別料金ってな」
エドはそりから斧《おの》をおろし、岩壁を見定めた。数メートル奥へ進む。
「洞窟の先にも、何かありそうだったがな」
「そこまで行ったら、俺も出られなくなる」
エドは苦笑《くし主ノ》した。
「それに奴《やつ》の墓をかきまわしちゃ、かわいそうだもんな」
エドは斧を振《ふ》り降ろした。
堅固《けんご》に見えた岩が、ぱくりと剥《は》がれ落ちた。
さらに数回|叩《たた》くと、岩に白い破片《はへん》が混じった。
「アイスだ」
ロイドはその一片をつまんでみた。
冷たい。通常の大気中で見られるような白煙《はくえん》はないが、見る見るうちに昇華《しょうか》し、小さくなってゆく。
エドはそりからプラスチック爆薬《ばくやく》を持ってきて、割れ目につめこんだ。点火装置のタイマーを三十秒にセットして、外に出る。
「はりつけ」
二人は岩壁にへばりついた。
鈍《にぶ》い音がして、粉塵《ふんじん》がどっと吹《ふ》き出す。
「待ってろ、まだ入るな」
「わかってる」
爆薬なら、ロイドもひととおりの心得はあった。
エドは斧の背をつかって、岩壁を叩いた。
奥のほうで、どやどやと岩屑《がんせつ》が崩落《ほうらく》した。
ライトを向けると、爆破した部分の周囲が大きく崩《くず》れ、真っ白なドライアイスの脈が露出《ろしゅつ》していた。
「いいぞ! 砕《くだ》くから、あんたはそりに積んでくれ」
「よしきた!」
エドは斧《おの》を振《ふ》り回して、端《はし》からドライアイスを砕いていった。ロイドはそれをバケツにとり、そりの中にぶちまけた。
三百七十五キロのドライアイスは、およそ一辺六十センチの立方体になるが、破片にするともっとかさばる。そりは手押《お》しの台車くらいしかないので、一度には運べない。どちらにせよ、重くなりすぎては手にあまる。
最初の半分がそりに乗ったとき、ロイドは初めて時計を見た。
作業に入ってから、二十分。
もう、いつダウンバーストが来てもおかしくない。
ACT・10
「マージさん、だめです! あとからあとから砂が流れてきて――」
「翼《つばさ》の下に風が入ればいいの。それだけを考えて」
マージとメイはスコップをふるって、押し寄せる砂と格闘《かくとう》していた。
いまや砂は、風に乗って飛んでくるどころではなかった。泥流《でいりゅう》のように、地面の広い範囲《はんい》が舌状に流れている。
「翼端《よくたん》のはバーニア噴射《ふんしゃ》で散らすわ。付け根のあたりを重点的にやって」
「わかりました」
風音に混じって、遠雷《えんらい》のような音も轟《とどろ》く。おそらく、クレーターの外縁《がいえん》が崩落しているのだろう。
「マージ!」
ロイドの声がした。
埋もれかかった翼の向こう側に、そりと二人の人影《ひとかげ》が見えた。まるでブリザードの中のトナカイのようだった。
「こっちよ!」
マージは右翼上面のシートをはがし、仮止めしておいたパネルを開いた。
翼内|推進剤《すいしんざい》タンクの口が開いていた。
「ここにぶちこんでちょうだい!」
「よおし」
汗《あせ》だくの二人の男は、満載《まんさい》のそりを引き寄せた。
もはや運用規定もなにもない。砂混じりのドライアイスの塊《かたまり》を、がらがらとほうりこむ。
「次の便はどれくらいかかる?」
「今度は早い。十分くらいだろう」
「風が重くなってきた。もうじき来るぜ」
エドがドライアイスをかき出しながら言った。
「ロイド、まだ走れるか」
「君には負けんよ」
「よし、行くぞ!」
二人は空になったそりを引いて、砂塵《さじん》の中に消えた。
マージは、ほんの何秒か二人を見送り、作業に戻《もど》った。
「メイ、動翼《どうよく》のチェックをするから、観察して無線で報告。左翼からいくわ」
「はいっ!」
マージはコクピットに駆《か》け込み、主電源を入れて運転モードに切り換えた。
スクリーンにはいまだ、二十件もの警報表示が点滅《てんめつ》していたが、大気圏《たいきけん》内で低空飛行をする限り問題のないものばかりだった。マージはマスタースイッチを押《お》して、警報を強制的に解除した。
EJのよだれだろうか――べたべたする操縦|桿《かん》をにぎり、左右に圧力をかける。
「左翼エレボン、アップ」
『エレボン、アップ――OKです』
「ダウン」
『ダウン、OK』
「ニュートラル」
『ニュートラル、OK』
「次、インナースポイラー」
『待ってください、砂を払《はら》います――どうぞ!』
「インナースポイラー、全開」
『全開、OK』
「ハーフ」
『ハーフ、OK』
「クローズ」
『クローズ、OK』
「よし、右翼に移って」
『はいっ』
右翼のチェックが終わったちょうどその時、メイが言った。
『二人が戻《もど》ってきました!』
「今いく」
マージはまた外に出て、二人を出迎《むか》えた。
すべてのドライアイスをタンクに入れ、外してあった注入|栓《せん》を十六本のボルトで締め付ける。パネルを閉めながら、マージは言った。
「みんなありがとう。中に入ってて!」
「急げ、もうバーストが来るぞ!」
エドが怒鳴《どな》る。
三人は大急ぎで屋根に上がり、キャビンに転がり込んだ。
ロイドは副操縦士席、メイは航法席、そしてエドは補助席に座《すわ》り、四点式ハーネスで上体を固定した。
少し遅《おく》れてマージが駆け込み、機長席に座る。
マージは機関|制御《せいぎょ》パネルに手を伸《の》ばし、推進剤《すいしんざい》タンクを〇度、三十四気圧に設定した。次いで四段の濾過《ろか》装置をフル稼働《かどう》させる。
だが、推進剤の流入を示すランプはまだつかない。
「温度上昇《おんどじょうじょう》が鈍《にぶ》いわ」
「ボイラーじゃないからな」
息を殺して待つ。
気がつくと、外の風音がやんでいた。
「嵐《あらし》の前の静けさってやつだ……」
エドが言った。
「踏《ふ》んばってろ、もう間にあわねえかもしれねえ」
その時、待望のランプがともった。液化した二酸化炭素が、ついに炉心《ろしん》の手前まで達したのだ。
「いいぞ、マージ出せ!」
「まだよ」
マージはバーニア噴射《ふんしゃ》で機首と翼端《よくたん》下面の砂を吹《ふ》き飛ばした。
低い、獣《けもの》のうなりのような音が響《ひび》いてきた。バーニア噴射の音ではない。
「来るぞ!」
エドが怒鳴《どな》った。
経験を積んだ鉱夫なら誰《だれ》もが知っている、ダウンバーストの最後の予兆《よちょう》だった。
その破壊《はかい》的な気流は、音速の三分の一でここに到達《とうたつ》する。
「出力、五十パーセント」
マージはスロットルを押《お》した。
噴射ノズルが轟音《ごうおん》をあげ、機体がびりびりと震《ふる》える。
だが、砂にとらえられた機体は動かない。
「何やってるんだ、早く出せ!」
マージは目を閉じて、全身で機体のありさまを感じ取っていた。
噴流が後部に巨大な溝《みぞ》をえぐっている。
脳裏《のうり》の片隅《かたすみ》で、時計の秒針が容赦《ようしゃ》なく進んでゆく。噴射|終了《しゅうりょう》まであと二十秒。
翼《つばさ》の下の砂が、外側から吹《ふ》き散らされてゆく。
翼の上は、もうきれいになった……いいぞ……あと少し……よし!
「出力全開!」
スロットルをいっぱいに押し込む。アルフェッカ・シャトルは身悶《みもだ》えしながら、砂の海に乗り出した。
滑走《かっそう》開始。対気速度計の指標が、じりじりと上がってゆく。
V1……VR……。
マージは操縦|桿《かん》を引いた。機首が持ち上がる。
胴体《どうたい》を擦過《さっか》する砂の音がやんだ。
直後、強烈《きょうれつ》なマイナスGが機を襲《おそ》った。
前のめりになった体に、ハーネスが食い込む。
シャトルはダウンバーストを、真正面から受けていた。
対気速度は瞬時《しゅんじ》に三百キロを超えたが――あろうことか、機は地面に対して後退していた。
「マージさん、後ろに崖《がけ》が!」メイが叫《さけ》ぶ。
「大丈夫《だいじょうぶ》――もう飛んでる」
たとえ後退していようと、風との関《かか》わりにおいて、シャトルは定常飛行に入っていた。
自由はこの手にあった。わずかに操縦桿を引くと、機体は弾《はじ》かれたように上昇《じょうしょう》し、クレーターの断崖《だんがい》をゆうゆうとかわした。
シャトルはなおも高度を獲得《かくとく》してゆく。
慣性高度計の表示がプラスに転じた。
「高度二百……三百……五百……ほんとだ、飛んでます、マージさん!」
メイが歓喜《かんき》の声を上げる。
そして噴射《ふんしゃ》音が途絶《とだ》えた。推進剤《すいしんざい》を使い切ったのだった。
マージは機体を旋回《せんかい》させ、上昇気流を探した。
そこはまだ、おくれ嵐《あらし》の支配地域だった。境界層もローター気流も見あたらない。
見えるのは地表を這《は》う砂塵嵐《さじんあらし》ばかりだった。
こうなったら、できるだけ距離《きょり》をかせいで着陸するしかない。
マージがそう覚悟《かくご》した時――
『旋回をやめろ。とっておきの気流が見えないのか』
スピーカーから、あの声が命じた。
左前方に、貨物機が現れた。
「俺《おれ》についてこい。フラグスタッフまで連れてってやる』
「……了解《りょうかい》」
マージは短く言って、トークボタンを離《はな》した。
にじんだ視野の端《はし》で、ロイドがちらりとこちらを見たのがわかった。
声は聞かれずにすんだ。
だが、こぼれる涙《なみだ》は、どうすることもできなかった。
ACT・11
フラグスタッフにたどり着いてからの出来事に、マージは参加していない。
着陸するなり眠《ねむ》りこんでしまい、気がついたら翌朝になっていたのだった。
ロイドは、洞穴《ほらあな》で得たタリファ・オパールをすべてエドに差し出したが、鉱夫はそれを拒《こば》み、最後に山分けで話がついた。
ホセは基本料金と、エドとジアンニをバンカーヒルまで帰す料金しか求めなかった。
救助|要請《ようせい》もしてないのに金は取れねえ、という理屈《りくつ》だった。
ロイドはオパール原石の一つを残して、あとはバイヤーに売った。シャトルの整備費を差し引いても、どうにか赤字はまぬがれそうだった。
あれから三日。
ミリガン運送の三人は、新たに借りたキャリアの上で、シャトルの整備を続けていた。
損傷は相当なものだった。いずれきちんとしたドックに運んで、オーバーホールするしかない。
とりあえず、今は軌道《きどう》港まで飛べる状態にしたい。
フラグスタッフにも、腕《うで》の立つ機械職人がいたのは偶然《ぐうぜん》ではなかった。この辺境の地では、なんでも部品|交換《こうかん》ですませるわけにはいかない。あるもので間に合わせるには、職人芸がものをいうのだった。
夕刻、街が停止してまもない頃《ころ》、キャリアを訪ねてきた者がいた。
「元気そうじゃないか。ちょっと心配してたんだよ」
ジアンニは、マージを見るなり、そう言った。
「あん時は、悪かったね」
「あの時?」
「あんたがEJかかえて飛行機に入ってきた時さ。礼を言わなきゃいけなかったのに」
「……憶《おぼ》えてないわ」
「なーんだ、気にして損したよ」
ジアンニは、少し白けた顔で笑った。
「それを言いに、わざわざ?」
「でもないけどさ。ちょいと河岸《かし》を変えようと思って、この街に引っ越《こ》してきたんだ」
ジアンニは、少し先に止まっているホバークラフトを指さした。
それがこの夫婦《ふうふ》の家だった。
「ジアンニ、こいつを忘れちゃだめだろうが」
エドがクーハンを抱《かか》えて階段を上がってきた。
「あー、ごめんなさい」
ジアンニは夫からクーハンを受け取った。
「こんにちわ、エドさん、ジアンニさん、それにEJ」
メイとロイドもやってきた。
「ホセの飛行機で来たかと思ったら、家ごと引っ越して来たのかね」
「こないだの脈が忘れられなくてな。北緯《ほくい》十五度線にツキがあるかも知れねえって、俺《おれ》の勘《かん》がうずくのさ」
「ホセはどうしてる」
「あの野郎《やろう》は、バンカーヒルから消えたぜ」
「こっちにも来てないようだが」
「ま、見当はついてる」
「というと?」
エドはにんまり笑って言った。
「サンドラの尻を追っかけてるのさ」
ロイドは肩《かた》をすくめた。
「ちがいない」
「そーゆー奴《やつ》だよ、あの野郎は」
二人の男は笑いあった。
メイがそばに来てささやいた。
「いいんですか、マージさん。あんなこと言わせといて」
「いいのよ」
マージは鷹揚《おうよう》に言った。
でも、歌|姫《ひめ》なんかじゃない。
マージは知っていた――ホセが惚《ほ》れているのは、タリファの空だ。
「ねえマージ、今日はあんたにさ」
ジアンニが言った。
「赤ん坊の世話を教えてやろうと思ってきたんだよ」
「え?」
マージはかすかに顔をひきつらせた。
「客を運ぶことだってあるんだろ? 憶《おぼ》えといたほうがいいって、絶対」
「いえその……気持ちは嬉《うれ》しいけど……」
「部屋に行ってさ、まずおむつの取り替《か》えからやろうじゃないか!」
ジアンニはマージの腕《うで》を引いた。
「それってグッドアイデアですよね」メイも、もう一方の腕を引く。
「ち、ちょっと!」
「そうだな、この機会に君も――」
ロイドが追い打ちをかけた。
「女として、バリエーションってもんを学んだほうがいいよな」
三人の女が甲板《かんぱん》の下に姿を消すと、エドが言った。
「どうだい。うるさ方がいねえうちに、思いっきり飲むってのは」
ロイドはにんまり笑った。
「そうこなっくちゃな」
[#改ページ]
あとがき
少し前から、鉱物採集を始めました。
ハンマーを持って山に入り、脈のありそうな石を探して、叩《たた》いて割って中身をあさるという、いたって地味な趣味です。
こつこつと各地の山をめぐっているうちに、煙ったような色合いの水晶や、金色に輝《かがや》く黄鉄鉱や、ペンキのように赤い鶏冠石などを見つけました。
集めた石は、ルーペで眺《なが》めたり、比重を測ったり、塩酸をたらしてみたり、ガラス管に入れてあぶったり、一部を粉末にして炎色を調べたりします。そうこうするうちに、石は囲い口を開き、いろいろ語りかけてくれます。
石の魅力にふれたことがきっかけで、今度の小説の舞台はきれいな宝石のとれる惑星にしよう、と思いました。
それを糸口に、つらつら考えてゆくと……。
きれいな宝石には、厳しい環境がふさわしい。
たとえば水星みたいな、灼熱《しゃくねつ》と極寒をくりかえしていて、おまけに砂嵐が吹き荒れているような。
そんな星との間を、シャトルで行き来するのはさぞ大変だろう。
きっと腕利きのパイロットが集まっているにちがいない。
そうなると、これは私の好きな、航空冒険ものになりそうだ。
主役はマージにして……。
そう――彼女は最初、文句なしに主役だったのですが、三巻あたりからメイにその座を奪われています。
メイは確かに人気者で、私も気に入っています。しかし一握《ひとにぎ》りの読者から、マージを主役にというリクエストがあったことも事実です。
最初の頃は素敵だったのに、だんだん壊れてきてませんか? という、看過《かんか》できない指摘もありました。
確かに……そうかもしれません。
さらにある女性から、マージに最も不向きな、○○をやらせてみては、という決定的なヒントをいただいて、物語の骨格は完成しました。
そのヒントをくださった真田ゆかりさん、科学考証を手伝ってくださったNIFTYサーブ/サイエンスフォーラムの皆さん、富士見書房の松岡さん、イラストの弘司さん――今回もありがとうございました。作中にミスがあれば、その責はすべて著者の負うところです。
[#地付き]野尻抱介
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
クレギオン タリファの子守歌《こもりうた》
平成6年11月25日 初版発行
著者――野尻《のじり》抱介《ほうすけ》