クレギオン サリバン家のお引越し
野尻抱介
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目 次
第一章 湖畔《こはん》の家
第二章 サリバン夫人の花壇《かだん》
第三章 スペース・コロニー
第四章 大渦巻《おおうずまき》
あとがき
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第一章 湖畔《こはん》の家
ACT・1 花壇《かだん》
その家は北部の森林地帯の、大きな湖のほとりにあった。
一世紀ほど前から普及《ふきゅう》してきた木造の平屋で、ゆったりした前庭がある。庭には大きな花壇があって、家族三人がその前にいた。日曜の、よく晴れた午後だった。
「ほら、あなた」
夫人がつぼみのひとつを指さし、夫に見えるよう、上体をそらせた。
「ふむ」
夫は少し離《はな》れたデッキチェアで、新聞に顔をうずめていた。
「去年、お隣《となり》にわけてもらったプリムラなの。見て、ちゃんと根がついたわ」
夫は新聞をおろし、気のない顔を花壇に向けた。
「……まだつぼみだね」
「来週が楽しみ。白くてスミレ色のふちがついたのが咲《さ》くわ。これで色がそろうの」
「来週か」
夫はそう言ったきり、新聞に戻《もど》った。
つぼみに顔を向けたまま、夫人はかすかに眉《まゆ》をひそめた。
「……まだ、決まらないのよね?」
「ああ」
夫人は少し黙《だま》っていた。それから息子《むすこ》に言った。
「ユタ、堆肥《たいひ》は用意できた?」
「これでいいでしょ」
ユタと呼ばれた少年は、バケツを傾《かたむ》けてみせた。
「もっと練らなきゃ」
「もう二十分もやったよ」
「力を入れなくちゃ。男の子でしょう」
ユタは口を尖《とが》らせると、再び棒で堆肥をこね始めた。
その時、空の彼方《かなた》で、どーん、という音がした。
「雷《かみなり》かしら」
「そんな雲はないぞ」
「じゃあ何の音」
「シャトルみたいだったな」
父親の声を聞いて、少年は手を止めた。音のしたほうを見上げる。
夫人が言った。
「シャトルって、あんな音がするの?」
「ああ。大気圏《たいきけん》に突入《とつにゅう》したあとにね」
数分して、西の空の彼方に白い点が見えた。
白い点はしだいに大きくなり、左右の翼《つばさ》が認められるようになった。
「あれか。湖に降りるつもりかな? めずらしいな」
「ユタ、どこへ行くの」
「見てくる」
「ちょっと、待ちなさい!」
「すぐ戻るよ!」
少年は家の角に消えた。それから、自転車に乗って飛び出してゆく後ろ姿が見えた。
ACT・2 アルフェッカ・シャトル
「きれいな星ですね」
メイ・カートミルは航法席から身を乗り出すようにして言った。三万メートル下の地表は、海から緑に覆《おお》われた陸地にとってかわろうとしており、その上を満たす大気は水晶《すいしょう》のように澄《す》んでいた。
半時間前、百キロ上空で逆噴射《ぎゃくふんしゃ》してからエンジンはほとんど停止状態で、コクピットにはかすかな響《ひび》きしか伝わってこない。それよりも支配的な音は、機体が風を切る低いうなりだった。
「ここまでの降下率は」機長席のマージ・ニコルズが聞いた。
「毎分四千五百フィートです」
「アライメント・サークルの設定はすませた?」
「はい、もうじきそちらの画面にも見えてくるはずです」
「オーケイ……確かにね」
マージは今頃《いまごろ》になって返事した。
「バカンスで三日ぐらいなら、退屈《たいくつ》しないかもね」
「あーあ」
副操縦士席で、ロイド・ミリガンが聞こえよがしにため息をついた。いつもどおり、シートをめいっぱいリクライニングさせ、両手を枕《まくら》にしている。その顔はのけぞり、斜《なな》め後ろの航法席のスクリーンに向いていた。
「海岸線が去っていく。なんたる不幸ぞ……」
誰《だれ》もフォローしないので、ロイドは勝手に続けた。
「そう思わんかね、お嬢《じょう》さんたち。フラードルに来てシーフードを食べずに帰るなんぞ、不幸としか言いようがないぞ」
「目下の不幸は帰りの荷がないってことよ」
マージが口を尖《とが》らせた。
「だからだなあ、ケセルラト漁港で海老《えび》を積もうと言ってるじゃないか」
ケセルラトはこの地方でいちばん大きい都市だった。
「前にやってこりたでしょ。ペイロードベイの洗浄《せんじょう》にどれだけ苦労したことか」
「あの香《かお》りにそそられなきゃ神をも人をも語れないぞ、マージ」
「私はそれで結構。コンビーフサンドとコーヒーさえありゃ生きていけるわ」
「やれやれ。若い子はいいよなあ」
ロイドは煙草《たばこ》の煙《けむり》を天井《てんじょう》に向かって吐《は》き出した。
「わしなんぞ、この歳になると死ぬまであと何回食えるかなあ、なんて考えちまう」
「ええと、平均余命二十八年として一日三食だから……」
メイが暗算を始めた。
「十年ぐらい引いたほうがいいわよ」と、マージ。
「そりゃどういう意味だ」
「煙草は吸うわ酒は飲むわ、ついでに危険|全般《ぜんぱん》に対して鈍感《どんかん》だわ――」
「豊かな冒険心《ぼうけんしん》と言ってもらいたいな、最後のは。それに君の数字でもあるぞ。なんでも一蓮托生《いちれんたくしょう》なんだからな」
「だったらあたしたちの余命を縮めないでもらいたいわね」
「あの、そろそろ最終アプローチです」
おきまりの口論の気配を察して、メイが割り込んだ。
「カドリッジ湖が視界に入ります。雲量二オクタ、千八百フィート」
「いちどローパスするわ」
そう言うと、マージはスロットルをわずかに押《お》した。機首を上げ、低速で水平飛行に入る。アルフェッカ・シャトルは切れぎれに浮《う》かぶ雲の下に出た。
「コワレ物だからな、そーっと降ろせよ」
「わかってる」
ロイドはシートを起こし、外に目をやった。
「メイも合成レーダーで水面を走査してろ。よーく見てりゃ何かわかる。わしが軍にいた頃は、そいつで虫ピンみたいな潜望鏡《せんぼうきょう》を探したもんだ」
「はい」
眼下はゆるやかな丘陵地《きゅうりょうち》で、細い道路にカブトムシのような車が一台いた。その道をたどるように平野部に入ると、小さな街が見えてきた。降下するにつれて、白い垣根《かきね》や色とりどりの切手のような花壇《かだん》も見えてくる。手前の地面には大きなカモメのような、シャトルの機影《きえい》が這《は》っており、不意に陽射《ひざ》しをさえぎられた人々が、はっとしたように顔を上げるのがわかった。
湖上に出て、電柱ほどの高度で着水地点を通過する。湖面は鏡のように滑《なめ》らかで、遠くにソリッドセール・ヨットが数隻《すうせき》いるだけだった。
「眼視チェック、障害物なし」
「レーダーでも見えません。波高、二分の一フィート未満」
「いいだろう、降ろせ」
ロイドが許可すると、マージは指三本で操縦|桿《かん》をつまむようにして機体を旋回《せんかい》させた。一周して機首を風上に向け、推力を落とす。湖面が迫《せま》り、ぶれて平になった。失速警報ブザーが鳴る。
その時、マイクロ波を前方水面に向けていたメイが言った。
「あれ? これって……」
「着水復行!」
ロイドが怒鳴《どな》った。マージは答える前にスロットルを押した。推力がただちによみがえり、シャトルはまず速度を、ついで高度を取り戻した。湖面がみるみる遠ざかってゆく。
「『あれ?』じゃないわよ、メイ!」
機体を旋回させながら、マージが言った。
「何か見えたら考えてないで、危険を知らせなきゃ!」
「す、すみません!」
「レーダーに何が映ったんだ?」
「あ、あの、ぼんやりした影《かげ》です。水面のすぐ下にあったみたいで」
「たぶん腐《くさ》った流木だろう。ここじゃ航空機向けの港湾《こうわん》管理はやってない。何があってもおかしくないんだ。きれいな場所だからって油断しちゃいかん」
「すみません。気をつけます」
「今の緊急《きんきゅう》加速が二・四G。ものが壊《こわ》れてなきゃいいけど」
「あああ……」
メイは青くなった。
「進入路を西へ二百フィートずらせ。ローパスからやり直しだ」
「了解《りょうかい》」
二度目の進入はうまくいった。
対岸が目の高さに届いたかと思うと、すぐにどさっという音がして、白い機体は水にとらえられた。たちまち速度が落ち、シャトルは湖上に停止した。
「よーし、おみごと」
「着水完了」
マージはそう言うと、ピアニストのような長い指で数個のスイッチを戻《もど》した。
喫水《きっすい》下に車輪と舵《かじ》を出し、機首をめぐらせて船着き場のスロープに向かう。
漁船とヨットの並ぶ広場に、クレーンとトラック、それに数人が待っていた。
エンジンをひと吹《ふ》かししてスロープを登り、停止する。メイがベルトを解いてさっと立ち上がり、車輪止めを抱《かか》えて機外に出た。三つの車輪を固定すると、メイは操縦席から見える位置に来て、親指を立ててみせた。
ロイドとマージも外に出た。出迎《でむか》えの男たちの前に進み出る。
「こんにちは。ミリガン運送のロイド・ミリガンです。こちらは船長のマージ・ニコルズと、航法士で見習いのメイ」
「お待ちしてましたよ、みなさん」
初老の男が言って、笑顔《えがお》で三人に握手《あくしゅ》した。それから腕《うで》時計を見て、
「三十万キロも飛んできたのに、時間ぴったりですなあ」
「なあに、仕事ですからな」
ロイドも笑顔を返す。
「じゃあ、さっそくですが始めますかね」
「わかりました。おい」
マージはうなずき、操縦席に戻って胴体《どうたい》のペイロードベイ・ドアを全部開いた。
あらわになった荷台には大型冷蔵庫ほどのコンテナがひとつ。
ロイド、マージ、メイの三人は荷台に登り、コンテナを取り囲むと、息を整え、互《たが》いの顔を見た。
「二人とも、いいな」
「ええ」
「はい」
ロイドはロックを外した。
カチリ。
それから、三人でコンテナの上半分をそっと持ち上げる。
現れたのは奇妙《きみょう》なオブジェだった。球と中空の立方体と人体が融合《ゆうごう》し、その周囲を複雑にもつれあった回廊《かいろう》がとりまいている。制作者によれば、無限の輪廻《りんね》を表現しているというのだが。素材は金属のようで、青銅色をしている。
「……壊れては、いないようね」
「らしいな」
「よかった……」
メイはどっとため息をついた。
「なるほど、それがカルポフの彫刻《ちょうこく》ですか」
胴体の下から、さっきの男が言った。周囲を見回すと、見物人が集まってきていた。
「状態は完全です」
ロイドは言った。
「向こうで梱包《こんぽう》した時は緊張《きんちょう》しましたがね。あっちはコロニーの低重力区画の工房《こうぼう》だからいいようなものの、下へ降ろしたらどうなるかってね」
「そんなもんですかね」
「地上の重力を忘れてる彫刻家はけっこういますよ。まして輸送中の衝撃《しょうげき》などはね。じゃあ――クレーンを寄せる前に、見物人を遠ざけてもらえますか」
「わかりました」
初老の男は、そばに控《ひか》えていた警官に向かって、何事か言った。警官が笛を吹き、十数人の見物人を後退させる。クレーンがやってきてフックを降ろすと、三人は彫刻家の指定どおりにハーネスを結びつけた。周囲から支えながら、クレーンの運転手に巻き上げを指示する。彫刻はゆっくりと空中に持ち上げられた。
彫刻が百メートルほど先の台座に運ばれるまでに、さらに一時間ほどかかった。それは肉体労働ではないはずだったが、台座の裏側に隠《かく》されたボルトが締《し》められた瞬間《しゅんかん》、三人はどっと疲《つか》れをおぼえたのだった。
前衛彫刻家が宇宙に引っ越《こ》して久しい。
初期のメイド・イン・スペース作品は、その場においてのみ存在を許されるものだった。だが、宇宙派が主流を占《し》めるようになると、逆に重力世界からの需要《じゅよう》が無視できなくなってきた。
初期には多くの悲劇が繰《く》り返されたが、前衛彫刻家たちが耐《たい》Gテストを怠《おこた》る傾向《けいこう》は今も続いており、彼らの多くは造形の可能性を奪《うば》う重力そのものを嫌悪《けんお》していた。材料革命が状況《じょうきょう》をいくらか改善したものの、運送業者や美術館員たちの緊張はたいして緩和《かんわ》されなかったのだった。
「さあてと――」
広場にひとつだけある屋台のフィッシュ・アンド・チップスをほおばりながら、ロイドが言った。
「わしとマージはここの観光協会の事務所へ行って、帰りの積荷を物色してくることにする。夕方までには戻る」
「はい」
「まあ、あまり期待はできん。彫刻で村おこししてるようなところだからな。そのあいだ、メイは船殻《せんこく》の点検をやっててくれ。見物人が来ても、触《さわ》らせないようにな。このへんじゃ宇宙船を珍《めずら》しがる奴《やつ》もいる。植民が始まって三世紀たつからな」
「わかりました」
メイは広場の反対側に鎮座《ちんざ》しているシャトルに目を向けた。地元の警官が周閏にロープをめぐらせてくれていたが、見張りはもう引き揚《あ》げていた。ちらほらといた見物人も、今は彫刻のほうに集まっている。それでも、念を入れるに越《こ》したことはない。
二人が出かけると、メイはロープをくぐってシャトルに歩み寄った。降着装置にかがみこみ、からみついた水草を取り除く。それから複合材でできた耐熱船殻を調べた。それは黎明期《れいめいき》のシャトルに使われていたシリカ・タイルとは比較《ひかく》にならないほど強靭《きょうじん》な素材だったが、万一の危険は常にあった。ほとんどの致命的《ちめいてき》な破壊《はかい》は、ちょっとした傷に熱や力が集中することから始まるのだ。
メイは船殻の一部に傷のようなものを認めた。指でこすってみると、それはばらりと計がれ、単なる汚《よご》れとわかったのだが――
「さわっちゃだめだよ」
背後から、そんな声がした。
振《ふ》り向くと、ロープの外に少年が立っていた。やせていて、ちょっと生意気そうな目でまっすぐにこちらを見上げている。まだ八〜九|歳《さい》だろうか。
なんと答えてやろうかと思っていると、少年はまた言った。
「それ、飛行機じゃないんだ。宇宙から来たんだ。いたずらしたら大変なことになるんだよ」
メイは少年に向き直り、腰《こし》に手をあてて軽く咳払《せきばら》いした。そしておもむろに、
「知ってるわ」
「じゃあ、外に出なよ」
「いいこと、私はね、このシャトルの航法士なの。そして今は外まわりのチェックをしてるところ。わかった?」
「うそだよ。向こう岸のハイスクールの女の子じゃない」
「…………」
メイはつかつかと少年の前に歩み寄り、胸のポケットから免許証《めんきょしょう》を取り出した。
「これが読めるかな? 二級航法士メイ・カートミル、その下にはサイトロプス運輸委員会ってあるでしょう」
少年はしばらく見つめ、それから言った。
「そうだね」
「わかったんなら邪魔《じゃま》しないでちょうだいね、坊《ぼう》や」
「ユタ・サリバンだよ。名前があるんだ」
「わかったわ、ミスター・サリバン」
「ユタでいいよ。いまわざと丁寧《ていねい》に言ったでしょう。皮肉をこめていたね」
メイはかすかに狼狽《ろうばい》した。
「えと……じゃあユタ。これでいいわけね」
「うん」
間の悪い沈黙《ちんもく》のあと、メイは少年に背を向けて、仕事に戻《もど》った。
「ほかの人はどうしたの」少年が言った。
「観光協会に行ってる」
「どうして?」
「帰りの積荷を探してるの」
「メイは留守番なんだね」
「これだって大切な仕事よ」
主翼《しゅよく》の前縁《ぜんえん》にそって移動すると、少年もついてきた。
「中を見せてくれない?」
「中って……」
「シャトルの中。ペイロードベイだけでいいよ」
「それはちょっとね」
「上の人に命令されたの? 見せるなって」
「そうじゃないけど――」
「じゃあいいね」
少年はロープをくぐった。
「エアロックは向こう側かな」
「ち、ちょっと待って」
少年は機首の左舷《さげん》にまわった。メイが追いついた。
「ラッタルはどうやって降ろすの」
「あのね、ユタ。まだ中に入れてあげるとは言ってないでしょ?」
「見られちゃ困るものでもあるの?」
「そうじゃないけど――」
「わかった、密輸してるんだね」
メイはとうとう声を荒立《あらだ》てた。
「そうじゃないって言ってるでしょ!」
「悪い話じゃないんだ」
「え?」
メイはきょとんとした顔になった。
「ビジネスさ。でもその前にペイロードベイを見せてもらわなきゃ」
「ビジネス?」
「信じてよメイ。まじめな話なんだ。それに見せて減るもんじゃないでしょう?」
「そりゃ……」
メイはエアロックの脇《わき》にある小さなパネルをキーで開いて、中のボタンを押《お》した。中でカチリと音がして、別のパネルが少し浮《う》き上がる。そこから伸縮式《しんしゅくしき》のラッタルを引き下ろしてロックした。
メイはラッタルを登り、エアロックを開いて中に入ると、少年を手招きした。
「ありがとう」
少年はエアロックをくぐり、キャビンに入ると、あたりを物珍しそうに見回した。
「宇宙服があるね。メイも船外活動をするの?」
「もちろん」
「そのロッカーは何が入ってるの?」
「救急キットと清掃《せいそう》用具」
「操縦席に座《すわ》ってもいい?」
「……あなたの見るものはこっち。ほら」
なんとか主導権を回復しようと思いつつ、メイはペイロードベイに通じるドアに少年を導いた。
シャトルは、いわば翼《つばさ》の生えたトラックだった。胴体《どうたい》はコクピット、キャビン、ペイロードベイ、機関部の四区画からできているが、大部分はペイロードベイ、すなわち荷台がしめている。荷台はトラックの幌《ほろ》にあたる四枚のドアで覆《おお》われており、背骨の部分からぱっくり開くことができた。
「このドアもエアロックなんだね」
その先に第二のドアがあるのを見て、ユタが言った。
「そうよ」
「じゃあ、ペイロードベイはいつも真空?」
「ううん、気密にしておくこともできるよ」
外扉《がいひ》を開き、照明をつけると、ペイロードベイの空間が目の前にひろがった。床《ゆか》も隔壁《かくへき》も天井《てんじょう》のドアも象牙のような白で塗装《とそう》されていたが、あちこち剥《は》がれて下地の塗装や金属が顔を見せている。中央には彫刻《ちょうこく》を入れてきたコンテナがあり、こみいった形のボルトで床に固定されていた。
「へえ、案外広いんだね。降りていい?」
「うん」
ユタは三十センチほどの段差を飛び降り、その空間に数歩|踏《ふ》み出した。
「バスぐらい積めそうだね」
「幅《はば》四メートル、長さ十メートル、一Gでの最大|積載《せきさい》量百トン。――それで?」
「え?」
「あのね、ビジネスの話って何なの」
「うん……」
ユタは急にもじもじし始めて、目を伏《ふ》せた。
メイはじっと待った。
「やっぱり……いいよ。忘れて」
そう言うと、少年は踵《きびす》を返し、出口に向かった。
「ちょっと!」
ラッタルの下で、メイはユタをつかまえた。
「あなたの思うもの、このシャトルじゃ運べないの?」
「そうとは限らないけど」
「案外広いって言ったよね。よほど重くなければ、入るものはたいてい運べるの。それか、最初から嘘だったの?」
「ううん……」
ユタは首をふり、それから、きまり悪そうな顔で言った。
「……引越《ひっこ》しなんだ」
「引越し? ユタのおうちが?」
「うん」
「引越しって、シャトルで行くようなところへ?」
「コロニー」
「コロニーって、L5のエリューセラ・コロニー?」
「うん」
「へえ……」
エリューセラ・コロニーは惑星《わくせい》フラードルから三十万キロ離《はな》れた軌道《きどう》を周回している、巨大《きょだい》な人工の宇宙植民地だった。メイたちはほんの数時間前、そこで彫刻を積み込んだのだった。
「父さんが、コロニーに転勤するんだ。それで引っ越すことになったんだ」
「引越しかあ……」
メイは考えをめぐらせた。これまで、ミリガン運送が一般《いっぱん》家庭の引越しを請《う》け負ったことはなかったはずだ。ミリガン運送のテリトリーは流通業界にあるので、引越しのようなサービス業寄りの仕事は畑|違《ちが》いである。
しかし、そうは言っても荷物を運ぶことにはちがいない。いったいどれほどの荷物になるのだろう。
「引越しなら、引越し専門の会社があるでしょう? おうちの人、そこへは頼《たの》まなかったの?」
「頼んだけど、高すぎるみたいなんだ」
「料金が?」
「うん」
「荷物が多いから?」
「……まあね」
「はっきりしないのね」
「うん……。来る?」
「え?」
「うちに見に来る?」
「今から?」
「うん」
「でも私、留守番だから」
「すぐそばなんだ。五分もかかんないよ」
「でも、何かあるとね」
「何かって?」
「シャトルにいたずらされたり」
ユタは周囲を見回した。
「もう誰もいないよ。ロープ張ってあるし、この町にそんな悪い子はいないよ」
「だといいけど……」
少年の言うとおり、見物人の姿は消えていた。いるのは突堤《とってい》の釣人《つりびと》だけだ。どうやら、シャトルに触《さわ》りたがるような者はユタが最後らしかった。
それよりも、帰途《きと》の積荷を得るチャンスのことを考えたい。この少年の言うことがどこまで本当なのかわからないが、うまくすれば大手柄《おおてがら》になる。
メイは決心した。
「じゃあ、ユタのおうち、ちょっと行ってみようかな」
少年は微笑《ほほえ》んだ。
ACT・3 湖畔《こはん》の家
砂利《じゃり》をしきつめた道は、いちど丘《おか》に向かい、ゆるやかにカーヴしてふたたび湖畔へとのびていた。
「この先だよ。もう目の前さ」
自転車を押《お》しながら、ユタが言った。
やがて木立の間から、こじんまりした一軒家《いっけんや》が見えてきた。
木造の平屋だった。丸い風通しのついた大きな破風《はふ》がこちらを向いており、その右側に第二、第三の破風が折り重なるように突《つ》き出している。いちばん手前の破風の下にはアーチのついた窓があり、カーテンの隙間《すきま》から書き物机が見えた。家の左側は回廊《かいろう》のようなポーチに囲まれていて、その端《はし》に玄関《げんかん》がある。ポーチの軒下《のきした》には観葉植物の吊《つ》り鉢《ばち》がさがっており、その向こうにどっしりした石造りの煙突《えんとつ》がある。煙突の根元にはたいてい暖炉《だんろ》があるから、そこが居間なのだろう。
敷石《しきいし》のある庭を横切るとき、メイは一方にあるものに目を奪《うば》われた。
花壇《かだん》だった。
それは煉瓦《れんが》でふちどられた三つの扇型《おうぎがた》をしており、全体は幅《はば》広い四分の一の円となってポーチをとりまいていた。手前には白のアリッサム、赤と薄紫《うすむらさき》のフロックス・ビューティー、黄色いノースポールが咲き、トレニアとスイートピーが開花を目前にしていた。中央は寄せ植えで、カスミソウにポピー、キンギョソウ、プリムラ、ジャスター・デージー、そして青バラがあった。一見、めいめい好き勝手に咲いているようでありながら、入念な色彩《しきさい》設計をほどこした、正統派のイングリッシュ・スタイルだった。
いちばん奥《おく》にある花壇はハープ系を集めたもので、ローズマリー、ラベンダー、サフラン、エシャロット、タイム、バジルなどが見え、いくつかは花をつけていた。
たたずむうちに、メイは蜜蜂《みつばち》の羽音を聞いた。彼らにとってここは最高級のバイキング・レストランにちがいない。メイはこの星が今、春分点を四十日ほどすぎた位置にいることを思い出した。地軸《ちじく》の傾斜《けいしゃ》は二十度以上あり、はっきりとした四季があるはずだ。今は春から夏に向かう季節なのだろう。
「すごい花壇ね……」
「うん」
ユタは、しぶしぶ、といった顔でそれを認めた。それから、また歩き始めた。
ユタは玄関に入らず、板張りのポーチを歩いた。ポーチに面した部屋には、床《ゆか》まで続くガラス窓があり、半分開かれていた。
「あのねユタ、できれば玄関から――」
「とうさん、会ってほしい人がいるんだ」
少年は中に向かって言った。
入ってもらいなさい、という返事。
メイはおそるおそる顔を出した。
中は居間で、安楽|椅子《いす》に人の良さそうな男が腰掛《こしか》けていた。まだ三十代に見える。
「やあ、こんにちわ」
ユタの父親は読みかけの日曜版をテーブルに置きながら、快活に言った。
「はじめまして。……メイ・カートミルと申します」
「ようこそ我《わ》が家へ。ユタもたいしたもんだな。なかなかいいお嬢《じょう》さんじゃないか」
サリバン氏は破顔した。
「エレン、来てごらん。ユタがガールフレンドを連れてきたぞ」
「あ、あの、ちょっと――」
居間の奥、キッチンとおぼしき所から、夫人が姿を見せた。
ほっそりした、おとなしそうな人だった。くせのない、落ち着いた色のブルネットを肩《かた》のあたりで上品に揃《そろ》えている。
きれいな人だな、とメイは思った。
夫人は大きな、うるんだような瞳《ひとみ》でこちらを見つめた。それからエプロンを脱《ぬ》ぎ、ゆっくりと言った。
「まあ……いらっしゃい」
「こんにちは。あの私」
夫人は顔を曇《くも》らせ、メイの言葉を無視して言った。
「……どうしましょう、あなた。あたしたち、もうじき遠くに行くのに」
「あのですね」
夫人は夢を見ているような、憂鬱《ゆううつ》な顔で繰《く》り返した。
「ねえあなた、どうしましょう。せっかくユタがこんな子と知合いになれたのに、宇宙へ行くなんて」
「だからって、二度と会えなくなるわけじゃないさ」
「いいえ、離《はな》れて住むって大変なことよ」
「かもしれんが、それもまた、ひとつの経験じゃないかね。誰だってそうして大きくなるもんだよ、なあ?」と、息子《むすこ》の肩をたたく。ユタは何と言ったものか、迷っているようだった。
ここに至って、メイはようやく自分の過《あやま》ちに気づいた。
まず社名を名乗るべきだったのだ。
「あの、皆《みな》さん。私、ミリガン運送という運送会社の者です。ミリガン運送は惑星《わくせい》上、星系内および恒星《こうせい》間における全域での営業|免許《めんきょ》を持っています。……えと、それで、今日は仕事のことで来ました」
両親はしばし沈黙《ちんもく》し、改めてメイの姿をながめた。
少女の細い体は、淡《あわ》い青とオレンジの作業服に包まれていた。左手首には大きなクロノグラフがあり、腰のベルトには多機能通信機とサバイバル・キットが下がっている。
たしかに、デートをする格好ではない。それに何よりも、一人息子の倍も歳上《としうえ》に見える。
「こりゃ、早とちりだったようだね! いやね、会ってほしい人がいる、なんてこいつが言うもんだから」
サリバン氏は頭を掻《か》き、メイをさし招いた。
「まあ、そこにおかけください。話をうかがいましょう」
「あ、はい」
メイはソファのひとつに腰掛けた。夫妻も腰をおろし、ユタは父親のそばの壁《かべ》にもたれかかった。メイはまだ居心地《いごこち》が悪かった。対応は大人相手のものになったが、夫妻に見つめられていると、まるで自分の両親に説教でもされているようである。
「あの、それでユタ君から聞いたところによると、宇宙コロニーへの引越しを考えておられるとか」
「そのとおりですが」
「私たちは今朝、シャトルでそこの波止場に釆ました。広場に飾《かざ》る、カルポフの彫刻《ちょうこく》を届けるためです」
「ああ、あれね。そういやそんな話を聞いたな」
「それで、今回の仕事は片道限りのものでした。つまり――」
「帰りは空荷だと?」
サリバン氏が言った。運送業のことが少しわかるらしい。
「そうなんです。いま、ロイドさんとマージ……いえ、うちの会社の人が帰りの積荷を探してるんですけど、見つかるかどうか、ちょっとわからなくて。もし空荷だと採算が悪くなるんです」
「そうだね。するってえと――」
「はい。もし、そちらの引越しの荷物を請け負うことになれば、お互《たが》いにとって、とてもいいことになるんじゃないかと思ったんです」
「なるほど!」
サリバン氏は膝《ひざ》を打った。
「まさに渡《わた》りに船だよ。息子から聞いたかもしれないが、あちこちの引越し業者に頼《たの》んでみたんだが、どうにも費用がかかりすぎてね」
「どれくらい、ですか?」
「いちばん安かったのがエフサイ引越しセンターの『引越しスマート・パック』なんだが、これで七十八万ポンドなんだ。家が一軒買える値段だよ」
「七十八万ですか……」
ずいぶん高いな、とメイは思った。ここは緯度《いど》が高いので、やや割高になることは仕方がない。赤道直下から出発すると惑星の自転のおかげで燃料を一割ほど節約できるが、緯度が高くなるほどその効果は減り、極点ではゼロになる。
しかし、それにしても高い。最近フラードルは物価が高騰していると聞くが、そのせいだろうか。
「あの、もしかして、家ごと解体して運ぶとか?」
「まさか!」
「……最初は、そうしてほしいって言ったのよ」
夫人がうらめしげな顔で言った。
「さすがに無理ですよ、そりゃあ。もともとコロニーの家も家具つきなんで、手荷物だけで上がるつもりだったんですがね」
「そんな、あなた」
「しかしねエレン。何度も言うが、会社からはそれ以上の転居手当は出ないんだよ。向こうにまずまずの建売りが買えただけでもよしとしなきゃ」
「それはそうだけど……」
「あの、それで、結局どのようなものをお運びになりたいわけですか?」と、メイ。
「まあその、古い家具と私の書類や何かと、それから変な注文なんですが……」
サリバン氏が言いよどむと、ユタが代わった。
「花壇《かだん》だよ」
「花壇って……あの花を?」
メイは振《ふ》り返って、庭をさした。扇型《おうぎがた》に配置された花壇は、焦点《しょうてん》にあたるこの居間から見るとき、ひときわ華《はな》やかだった。
「そうなんですよ」
サリバン氏はまた頭を掻いた。
「家内が、どうしてもって聞かないんでね」
「はあ……」
宇宙へ引っ越すのに、花壇の花まで持って行くなんて聞いたことがないな、とメイは思った。控《ひか》え目な人に見えるが、この夫人、よほど花に愛着があるらしい。
しかし、生花の宇宙輸送そのものは、さほど珍《めずら》しいことではない。輸送用のプランターに数株ずつ入れて、気密コンテナで運ぶはずだ。この場合も、要領は同じだろう。ポイントは短時間で運ぶことだが、この場合、いきなりシャトルに乗せるのだから問題はなさそうだ。プランターやコンテナは地上の業者からレンタルすればいい。
メイは見積もるべき品物を、ひととおりチェックしてみることにした。
「それじゃまず、運びたい家具を見せていただけますか」
「……ええ、こちらへどうぞ」
サリバン夫人が案内する。
見せられたのは衣装箪笥《いしようだんす》が三つにダイニング・テーブルにダイニング・チェア五つに大小の食器棚《だな》に書き物机に書棚にサイドテーブル二つ、それに居間のソファ・セット。
どれも天然木でできており、年季の入ったものだった。
「結婚《けっこん》したとき、母から贈《おく》られたものなんです……」
夫人は細い声で言った。
「自分の娘《むすめ》か息子が結婚したら、その時あげなさいって言われて……」
「あ、それじゃ大切にしないとだめですよね」
メイは理解を示した。どうもこの夫人、自分の意志を通すのがつらくて仕方がないらしい。
二十点あまりの家具。プラス庭の花か……。
重量の点では問題なさそうだ。検討すべきは体積である。
ナップザック問題だな、とメイは思った。それは古典的な数学の問題で、形や大きさの異なる立体をナップザックに最大限に詰《つ》め込むにはどうするかを問う。
シャトルへの積載《せきさい》は、それよりずっと複雑だった。重量と容横の制限に加えて、航空機だから重心を考慮する必要もある。重心は決められた許容|範囲《はんい》になければならず、決して変動してはならなかった。そのため、荷物と荷台との間にパレットという構造物を入れて、確実に保持することになる。パレットはいくつもの単位部材からできていて、荷物の形に合わせて自在に組み変えることができる。それだけに、荷物の積み方を決めるのは難しい。
シャトルのライブラリに、積載の最適化をしてくれるコンピューター・アプリケーションがあったっけ……。
メイはそう思ったが、ミリガン運送に押《お》しかけ入社してこのかた、ロイドやマージが見積もりの段階でコンピューターに頼《たよ》るところを見たことがない。二人なら、この場ですべてを決定してしまうだろう。ああ、これならいけますよ、安くしときますよ――といった調子で。
メイは脳裏に家具と花壇の花とペイロードベイを描《えが》き、すばやく組み立てていった。
一分ほどして、メイは最適解を見つけたと思った。
「あの、サリバンさん」
「うむ?」
「この荷物なら、私たちのシャトルで一度に運べると思います」
「ほう! すると、いくらになるかね?」
満面に期待をうかぺて、サリバン氏は聞いた。
「えと、梱包《こんぽう》や搬入《はんにゅう》・搬出はどうなさいますか?」
「そうだな……」
「それもこの方たちにお願いしたいわ、あなた」夫人が言った。
「最初から最後まで、ずっと同じ人に面倒《めんどう》をみてもらうのがいちばんよ」
「そうだな。それから私たち家族三人も同乗できるかな?」
「あまり快適じゃありませんけど……」
「かまわないよ。それで、いくらになるね?」
「まず梱包の費用ですね……」
これはどう見積もればいいのかな、とメイは思ったが、とりあえず標準的な額で考えた。
五万もあればいいだろう。
「それに加えて、シャトルの運航経費です。ここが一Gでエリューセラ・コロニーは高度三十万キロですから……」
この答はすぐに出た。
「あと港湾《こうわん》使用料とかで……しめて四十九万ポンドでいけると思います」
「四十九万?! そりゃ安いな! 相場の三分の二以下じゃないか」
サリバン氏は歓声《かんせい》をあげた。
「ええ、そうなりますね」
「じゃあ、ぜひお願いしよう、そのミリ――」
「ミリガン運送」
「そう、ミリガン運送にだ。壊《こわ》れやすい彫刻《ちょうこく》を運ぶぐらいだ、まかせていいだろう」
サリバン氏は夫人の方に向いた。夫人はためらいがちにうなずいた。
「ありがとうございます。でも、私の一存では決められないので、一度|戻《もど》って相談してみないと」
「ああそうか。で、いつわかるんだね?」
「夕方までには」
「わかった。ひとつよろしく頼《たの》むよ!」
「はい」
それからサリバン氏は妻に向かって、よかったじゃないかエレン、と言った。
夫人は、ええ、と相変らず細い声で答えた。
ACT・4 アルフェッカ・シャトル
シャトルに戻ると、ロイドとマージが待っていた。
「いま無線で呼ぼうとしてたのよ。どこへ行ってたの? 持場を離《はな》れちゃだめじゃないの」
「すみません、マージさん。少しの間なら、離れてもいいかなと思ったんです」
「それならそれで、こっちに一報いれなきゃ。どんな時でも『報告する・連絡《れんらく》する・相談する』を欠かしちゃだめ。宇宙空間でなくても同じよ。たとえ大気があって人の住んでる惑星《わくせい》でも、知りえない危険はいくらでもあるんだから」
「すみません」
「実直なメイらしくもないな。どうしたんだ?」ロイドが聞いた。
「あの、実は……」
メイは少年との出会いから引越しの見積もりに至る、事の経緯を説明した。
「……というわけで、まだ回答は保留してるんですけど。あの、もちろんそちらで荷物が見つかったのなら、断ります」
「いや、あいにく観光協会じゃ仕事はみつからなかった。だがなあ……」
ロイドはううむ、と腕組《うでぐ》みした。あまりえり好みできる状況《じょうきょう》ではないが、いまいち気乗りしない。
「うちは民家の引越しなんて所帯じみた仕事はやったことがないしな。マージ、君はどう思う?」
「慎重《しんちょう》にいきたいとこね。ノウハウのない分野だから」
「そうだな」
「でも、荷物は荷物ですよね?」
「それもそうだ。しかしな……」
ロイドが引っかかっていたのは、専門の引越し業者の見積もりと、メイの見積もりに大きな隔《へだ》たりがあることだった。メイは利口だし、こういう家政学的な分野にはなかなかの才能を発揮する。かつて、アルフェッカ号の船倉を整理させたら空間効率が三倍にアップしたこともあった。
だが――そうはいっても、素人《しろうと》が経験を積んだプロを越《こ》えられるものだろうか?
「メイには悪いけど、やっぱりあたしは反対だな」
ロイドの気持ちを見通したかのように、マージが言った。
「梱包や搬入・搬出の手間がかかりすぎるんじゃないかしら。そういう不揃《ふぞろ》いなアンティーク家具って、輸送のことまで考えて設計してないでしょう? たぶんこの惑星で作られて、この惑星上で使うことしか想定されてないはずだから。それに生花だって、温度や時間に制約があるわ」
「うむ」
「それは……そうですね」
メイは肩《かた》をおとした。言われてみれば、そうした懸念《けねん》は確かにあった。
メイとマージの視線は、ロイドに向いていた。
ロイドはしばらく考えていた。そしてあることに思い当たった。
「まあしかし、見習いとはいえミリガン運送の社員がうんと言った以上、きっちり見積もりを出してみるほかあるまい。本当にメイの言うとおりなら儲《もう》けもんだしな。これから三人で行ってみようじゃないか」
三人はシャトルを出た。ロイドは波止場の片隅《かたすみ》にある管理人の小屋に寄り、シャトルに気をつけていてくれるよう、いくらか心づけを渡《わた》した。
メイの案内で砂利《じゃり》道を歩く。もう、陽《ひ》は西に傾《かたむ》いていた。
「あの家です」
「ふむ。わりと小さな家だな」
ロイドが言った。居間から明りがもれている。
「花を連れてくなんていうから、金持ちの道楽者かと思ったが」
「予算はあまりないみたいなんです」
「いやいや、金持ちはどケチなもんなんだ。でなきゃ貯《た》まらんだろ」
「でも、そういう感じではありませんでした」
「金持ちじゃないとすれば、酔狂《すいきょう》ってやつかもね」と、マージ。
「かもな。たぶんその家具だって、高価なものじゃないだろう。愛着があって手放せないくちかもしれんな」
敷地《しきち》に入ったところで、三人は話をやめた。花壇《かだん》を横目に、玄関《げんかん》のベルを鳴らす。ドアを開いたのはサリバン夫人だった。夫人はびくりとしたような顔で三人を見た。
メイは、そうか、玄関から入ると母親が出るんだな、と思った。
夫人は「どうぞお入りください」と言った。
玄関から右手のついたてをまわって、さきほどの居間に通された。サリバン氏がソファから立ち上がり「これはこれは。さっそく来てくれましたか」と、にこやかに手を差し出した。
ロイドが握手《あくしゅ》する。続いてマージ。ユタは父親のそばにいて、メイとともに宇宙から来たメンバーを興味|津々《しんしん》の面持《おももち》で見ていた。
サリバン氏の案内で、三人は再び荷物を見てまわった。
最後に花壇を見せられると、ロイドとマージはしばし押《お》し黙《だま》った。
改めて数量的な観点から見ると株の総数は百を越えており、かなりの物量になる。
「これを、全部ですか」
マージが夫人に言った。
「よほど思い入れがおありなんですね?」
「ええ……」
「庭の花を運ぶなんて、あまり聞きませんから」
「結婚《けっこん》してこの家に来てから、ずっと手入れしてきましたから」
「でも、種や球根だけ持ってあがれば、同じものができるんじゃありませんか?」
「多年草が多くて、株が育つまでには何年もかかるんです」
「ああ……そうですか」
園芸のことなど皆目《かいもく》知らないマージは、それ以上聞かなかった。
一巡《いちじゅん》して、居間に戻《もど》ると主人は聞いた。
「どうです? お引受け願えますか?」
メイは秘《ひそ》かに唾《つば》をのみ、ロイドの顔を見守った。
「少し考えさせて――」
「いや」
マージが言いかけるのを、ロイドがさえぎった。
「四十九万とはちょっとサービスが過ぎるようですが、まあこれも何かの縁《えん》ですからな。もし梱包《こんぽう》作業などでご家族の協力がいただけるなら――」
「それはもう!」
「なら大丈夫《だいじょうぶ》です。我々におまかせください」
本気? という顔のマージをよそに、ロイドは請け合った。メイはほっとしたが、丁々|発止《はっし》の駆《か》け引きを想定していたので、むしろ肩透《かたす》かしをくらった気がした。
「そうですか! そりゃあよかった!」
「ほんとに宇宙へ引っ越すんだね!」
ユタが無邪気《むじゃき》な顔を見せた。夫人は突然《とつぜん》の展開に驚《おどろ》いたように、喜ぶ二人の顔を見|較《くら》べている。サリバン氏が言った。
「どうでしょう、いっしょに夕食でも。なあ?」
「ええ……でも、準備が」
「できるものでいい」
夫人はうなずいた。
「どうぞ、こちらへ」
「それじゃあ、お言葉に甘《あま》えさせていただきますかな」
宇宙から来た三人は居間の奥《おく》にあるダイニングルームに通された。
「それにしても、ほんとに四十九万で大丈夫ですか? ――いや、こちらとしては御の字なんですが、かえって心配になるほどで」
「大手の引越し会社でも、家具と人だけなら四十万台でやるでしょう」
ロイドは言った。
「問題は花ですなあ。ナマ物だから扱《あつか》いが全然|違《ちが》ってくるでしょう」
「そうですねえ」
「まず梱包が大変です。機械でガーッとやるわけにいきませんからな。それに、重量はしれていても、時間制限がきつい」
「宇宙貨物は港で一晩足止めをくらうことも多いでしょう。時差や軌道《きどう》の関係で」
「よく御存知《ごぞんじ》ですな。しかし今度の場合はシャトルがそこにいますから。ドア・ツー・ドアなら融通《ゆうずう》もきくってもんです」
「なるほど……」
「ねえ、コロニーつてどんなふう? 行ったことあるんでしょう?」
メイの前に座《すわ》ったユタが、質問を開始した。
「うん、低重力区画にカルポフさんのアトリエがあったからね」
「低重力区画って?」
「ほら、コロニーは筒型《つつがた》をしてて、その内側に街が張りついてるでしょう? あれって筒が回転していて、その遠心力があるからだよね」
「うん」
「コロニーの遠心力は中心の自転軸《じてんじく》に近いほど弱くなるの。そういう軸寄りの場所にも小さな居住区が作ってあって、特別なことに使うの。彫刻のアトリエのほかに、病院とか、遊び場とか」
「遊び場?! どんなことするの? ぼくも行けるの?」
「うん、誰でも行けるよ。手足に羽根をつけて飛んだりね」
「すごいや!」
「あと、空中でボール遊びやったり、ディスコやダンスホールもあると思う。行ったわけじゃないから、よく知らないけど、たいていのコロニーはそういうのがあるよ」
「ヘー。じゃあ、コロニーに行ったら宇宙船に乗れる?」
メイはうなずいた。
「しょっちゅうね。コロニーのまわりの水耕農場とか工場とかに勤める人だったら毎日|連絡船《れんらくせん》で通勤するし、月のシティ・ドームに遊びや買物に行ったりするかもね。学校の社会見学でも宇宙船に乗れるかな」
「へー。すごいなー」
「引越しが一段落したら、月には連れてってやろうと思ってるんですよ。なにしろ切符《きっぷ》が格安ですからね」サリバン氏が言った。
サリバン夫人が大小の皿を運んできた。マッシュ・ポテトと生ハムとグリーンサラダの盛り合わせ、それにガーリック・トーストがテーブルに並んだ。
「こりゃうまそうだ」ロイドが顔をほころばせる。
「しばらくこれでつないでてくださいな。今パイを焼いてますから」
「まだ息子《むすこ》も家内も、宇宙に出たことがないんでね。かくいう私も仕事で三度しか行ったことがないんだが」
「私、宇宙旅行なんて、なんだか恐《こわ》いわ」
夫人が言った。
「窒息《ちっそく》したり、急に爆発《ばくはつ》したり、なんだかすごい熱や放射能に当たったりするっていうし」
「迷信《めいしん》だよ。畑でカボチャに襲《おそ》われるほうがまだ多いくらいさ」
「でも、毎日のようにニュースで言ってるわ。好きで行くところじゃないって思うのだけど」
「エレン、そういう言い方は失礼じゃないか」
サリバン夫人ははっとした顔になった。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
「この星の人間が快適に暮らせるのも、宇宙交易があってのことだ。私だって、宇宙で働くことになった自分を誇《ほこ》りに思うね」
「ごめんなさい」
「あっあの、私たちなら全然気にしてませんから。ね、そうですよね?」
メイがあわてて言い、ロイドとマージに同意を求めた。
「なすべきことをきちんとしていれば、危険はありませんよ」
マージがにこりともせずに言った。
「不注意で命を落とすのは、たいてい宇宙を知らない観光客です」
「そ……そうですわね」
夫人はすごすごと引き下がった。
やがてキッチンから、肉とバターの焼ける臭《にお》いが漂《ただよ》ってきた。
白けた空気を吹《ふ》き払《はら》おうとするように、ロイドが言った。
「ほほう、こりゃたまりませんな」
「あれは凝《こ》り性《しょう》でしてね。料理もいろいろやってますよ、一日中」
「家族愛のたまものですな」
「いやあ……」
やがて大きな皿に、キッネ色の、輝《かがや》くばかりのパイが運ばれてきた。
全員の注視の中、夫人がナイフを入れると、湯気とともに肉汁《にくじる》があふれ出た。
一口味わったあと、メイがただちに言った。
「わあ、こんなパイ初めてです。おいしいですね!」
「キドニー・パイっていうの。牛の肉と腎臓《じんぞう》を包んであるの」
「キドニー・パイ……。あの、スパイスは何を?」
「ナツメグとサワー・シェリー、それにエシャロットを少しね」
「エシャロットがあるんですか」
「ええ、庭で育ててるの。少しわけてあげましょうか」
「わあ、ありがとうございます」
日頃《ひごろ》、宇宙船内での調理を一手に引き受けるメイは、惑星《わくせい》に立ち寄るたびにスパイス類を買い集めるのがきまりだった。スパイスの他《ほか》に珍《めずら》しい材料があれば、保存できる限り仕入れることにしている。
「牛の腎臓って、手に入りにくいですよね」
「ううん、そんなことないの。このへんの肉屋さんなら、どこでもあるわ。中の白いところを落として、血|抜《ぬ》きもしてくれてるの」
「へえ、いいですねえ、フラードルって」
「私は、ずっとそういうものだと思っていたけど……そういえば、コロニーは材料が少ないんですってね」
「少ないっていうか、種類が少なくなりますね。肉は培養《ばいよう》か植物性のが多くて、内臓とかはめったにないです。山羊《やぎ》のは少しありますけど」
「そう……」
「でもそんなに味は悪くないですから。スパイスもたいてい揃《そろ》いますし」
「培養肉なんて、なんとなく気持ち悪くて」
「慣れれば平気ですよ」
マージがそう言って、ケチャップの瓶《びん》に手を伸《の》ばした。パイが無惨《むざん》に赤く染められるのを、夫人は眉《まゆ》をひそめて見守った。
ロイドがサリバン氏に聞いた。
「あー、ちなみにお仕事はどういう?」
「港湾局《こうわんきょく》です。流通計画課、というところなんですが」
「船の交通を管理したりするのよね?」
サリバン夫人が言いそえると、夫は手を振《ふ》って修正した。
「いや、エレン。私が扱《あつか》うのは船の交通というより、貨物の流れなんだ」
「あら、そうでしたわね。ええと――」
「惑星上でというと、水上|船舶《せんぱく》になりますか」マージが聞いた。
「これまではね。今度の引越しは、まあ栄転ってわけです。やはり流通の本場は宇宙ですから。ま、ちょっと忙《いそが》しくなりますが」
「でしょうね」
「しかし水上も、のんびりしてるようで結構苦労があります。フラードルはなにしろ海が多いですから、過去二百年ぐらい水上輸送が進んでます。もうかなり過密状態ですよ」
「珍しいですわね……」
恒星《こうせい》間植民においては、時として歴史の逆転をみることがある。
この惑星、フラードルへの移住が始まったのは三百年前だった。
彼らはもちろん宇宙船でやってきた。人々は惑星上のあちこちに散らばり、複合材のプレハブ住居を建て、土地をひらき、動植物を移植して自活できる世界を築いた。
開拓地《かいたくち》の交通網が整備されると、水上輸送が始まった。入植者の次の世代からは、一度も宇宙船にふれずに生涯《しょうがい》を終える者も現れ始める。複合材が朽《く》ちると、住居や家具も木や植物|繊維《せんい》を素材にしたものに変った。そして環境《かんきょう》改造が進み、海の成分が地球のそれに準ずるものになると、最先端《さいせんたん》の産業として漁業が復活するのだった。
サリバン氏は続けた。
「水上船は足は遅《おそ》いですが、なにしろ燃費がケタ違《ちが》いにいいですからね」
「でしょうね。確かアクシオン級シャトルのペイロードをそのまま移すとか」
「そうそう、宇宙貨物はね。舳先《へさき》をぱっくり開いてね、シャトルをこう、くわえこむ。三千個のコンテナを四十分で船倉に移すんですよ」
「あれはすごいですね。コンテナはここでもHARE型を?」マージはつい専門分野に立ち入った。
「軍は昔からHAREですし、民間でもあれで統一を進めてるんですがね。しかし上の連中は頭が堅《かた》い。移送リグの改築に金がかかるなんて言うが、五年もやればペイするわけですよ」
「NF57星区だと、たいていHARE型ですね。うちのシャトルも四号がきっちり一個入る設計だから」
「いやあ、とにかく規格コンテナってやつはありがたいです。気密で軽量、運輸業界に革命をもたらしましたからね。導入のさいはいろいろあったようですが」
「大戦直後だったかしら、はしけ業者が軌道《きどう》港で抗議《こうぎ》デモしたとか」
「コンテナ化反対闘争ですね。戦後四十年ぐらいしてからですよ。それまでは宇宙交易そのものが復旧してなかった。そのあいだ、ずっとバラ積みでしたからね。それをB種労働の――つまり日|雇《やと》いの人が寄ってたかって運んだそうですよ。船のほうも大変だったんだろうけど」
「当時はペイロードをゴム索《さく》で押《おさ》えたこともあったそうね。商船大の教官の話ですけど、噴《ふ》かしたとたんに荷くずれして、ペイロードベイが吹《ふ》き飛んだり――」
「ありましたねえ! 今でも辺境じゃちょくちょく聞きますよ、そういう話」
サリバン氏は笑い、しだいに身振《みぶ》りが大きくなった。
夫人はそんな夫を、不思議そうな顔で眺《なが》めていた。
マージが言った。
「荷績みって才能がいると思うわ。規格もののコンテナならいいけど、不正規が八つならいい、九つを越えるととたんに難しくなる、みたいなね。名人芸っていうのかな」
「いや、それはほんとですよ。最近じゃたいていの力仕事は機械が肩代《かたがわ》りしてくれるのに、地上にせよ宇宙にせよ、港の荷役労働ってのはそうならない――完全にはね。私なんかデスクワークですが、いろいろ調べてて、ひょっとすると荷役ってのは創造的な仕事なんじゃないかってね」
「ええ、うちみたいな零細《れいさい》業者がやっていけるのもそこなんです。つまり最適化が進めば進むほど、どうしてもそのラインで処理できない隙間《すきま》がでてくるんです。たとえばこの引越しもそうですけど」
「引起し便だとシャトルの飛び方まで変るでしょう」
「壊《こわ》れ物|扱《あつか》いですね。あれは神経使います。昨日の彫刻《ちょうこく》なんか、運ぶことを考えずに作ってるから、下手にマニューバリングなんかやったら大変で」
「だから引越し便はどうしても一機貸切りになる。となると多品種小量輸送を避《さ》けて、逆に大型機で五十戸ぶんぐらいまとめようって発想ですよ、今のは。だから客は予約が埋まるまで得たなきゃならない。仕事じゃわかってるんだ、そういう仕組みがね。だけどいざ客になってみるとねえ」
「このあたりだと、集荷《しゅうか》はケセルラト港ですわね」
「ええ。しかしね、いまどきこんな田舎《いなか》でケセルラト発の引越し便なんてそうそうないですよ。こっちにも日程ってもんがあるのに」
「でしょうね。こっちもそれで苦労してて」
「あの、そこのサワーソースで召《め》し上ってくださいな……」
生ハムに塩を振《ふ》りかけるマージに、サリバン夫人が言った。
「あら、そうでしたわね」
「パイのおかわりはいかが?」
「もう充分《じゅうぶん》いただきましたから」
「わたしゃ十杯《じゅっぱい》ぐらいおかわりしたいですがね、奥さん――」
ロイドが言った。
「あんまり長居してると、レンタカー屋が閉まっちまうんでね」
「そうね。忘れてたわ」マージも言った。
「なんなら、泊《と》まっていきませんか。急ぐことはありませんよ」
サリバン氏が言ったが、ロイドは丁重《ていちょう》に断った。
「せっかくですが、上陸したらホテルと決めてますんでね。明朝おうかがいします」
「そういうことなら」
三人はサリバン家を出て、黄昏《たそがれ》の中を歩いた。
少しして、ロイドが言った。
「いいか、メイ」
「はい」
ロイドは立ち止まった。そして改まった声で、さきほど思いついたことを言った。
「今度の仕事は君がみつけたものだ」
「はい」
「だから君がミッション・ディレクターをやれ」
「私が――MDを!?」
「そうだ。荷物の梱包《こんぽう》から搬出《はんしゅつ》・搬入、資材調達、軌道《きどう》設定、アボート・モードを含《ふく》めてすべて君が計画しろ。わしとマージは君の指揮で動く。できるな?」
メイは息をのんだ。心臓の鼓動《こどう》が聞こえるようだった。
ロイドとマージに出会い、家出してアルフェッカ号に潜《もぐ》り込んで半年。航法から整備、清掃《せいそう》、調理、その他雑用|全般《ぜんぱん》をこなしてきたが、ミッション・ディレクターを任命されたのはこれが初めてだった。
MDは輸送業務の最高責任を負う。これまでは暗黙《あんもく》のうちにロイドが務め、たまにマージが担当していた。たった三人しかいないミリガン運送においては、改まって任命するほどのものではなく、せいぜい書類の欄《らん》に名前を書き込むだけだった。
それでも、指揮者は常にいた。これまでメイは、その命令を忠実に果たすだけだった。
自分にMDがつとまるだろうか。トラブルが起きたとき、自分はそれに対処し、責任を果たすことができるだろうか。
顔をあげるとロイドはまだ見つめていた。マージも見守っている。一歩|踏《ふ》み出す時が来たのだ。
「やります」
メイはそう答えた。
ACT・5 モーテル
三人は波止場からメインストリートに入り、燃料電池|駆動《くどう》のピックアップ・トラックを借りた。それから、おそらく街に二|軒《けん》しかないモーテルのひとつを選んだ。いつものようにメイとマージは相部屋で、ロイドは向かいのシングルに入った。
マージがシャワーを終え、髪《かみ》を乾《かわ》かしているところへロイドが顔を出した。
「階下で一杯《いっぱい》やらんか、マージ」
「先に行ってて。五分したら行くわ」
マージは手早く髪を整え、ブラウスの上に薄手《うすで》のジャケットをはおって、きっちり五分で部屋を出た。
一人になると、メイはシャワールームに入った。熱い湯に打たれながら、きょう一日のこと、これからのことを考える。メイは水資源を無駄《むだ》にしないよう両親にきつくしつけられて育ったが、この時は長いことそうしていた。
我に返ってシャワーを切り上げると、メイは服を着て、自分とマージの汚《よご》れ物を廊下《ろうか》のコインランドリーに運んだ。
それから部屋に戻《もど》り、ベッドに腰掛《こしか》け、サイドテーブルの上でスレートを開く。
メイは新しい文書ファイルを開き、明日からの作業のメモを作りはじめた。積荷の計量、梱包材のレンタル、生花輸送の手順|確認《かくにん》、植物|検疫《けんえき》の規定、航路情報の入手、飛行計画の提出、燃料補給、コロニー側での地上輸送、コロニーの気候設定と時差。
今回はさらに貨客輸送、つまり乗客も運ぶので複雑である。
「……途中《とちゅう》、ミールサービスをいれたほうがいいかなあ」
メイはつぶやいた。
シャトルには重力装置がなく、調理器具は電子レンジしかない。飛行計画によって食事の形態も変ってくる。飛行計画は貸物質量と最大許容加速、および航路情報を得ないと決まらない。食事のことは後回しにすべきだろう。
「そうだよね……こんどはMDだもんね」
メイはくすりと笑った。航法業務は当然の職務として果たすが、メイはミールサービス、つまり船内の食生活にも特別の情熱を傾《かたむ》けてきた。料理は自分の領分で、これだけはロイドやマージに口を出させないという自負もある。しかし今回は業務全体をとり仕切る立場にある。料理ばかりにかまけてはいられない。
たぶん、サリバン夫人が弁当を用意するだろう。あの人なら、きっと――いやいや、引越し当日に料理は無理か。
「ここの食堂でサンドイッチを作ってもらうのが無難かな……」
メイはその旨《むね》をメモし、ミールサービスの件を頭から追い払《はら》った。
一時間ほどかけてメモを仕上げると、メイは別の文書ファイルを開いた。
日記がわりに書いている、両親への手紙だった。
[#ここから1字下げ]
前略。
父さん、母さん。お元気ですか。
メイはいま、フラードル太陽系で、とても明朗かつ元気に働いています。ロイドさんもマージさんもすごく優《やさ》しくしてくれるし、お仕事も安全かつ健全なものばかり。早く一人前の船乗りになって、成長したメイの姿をお目にかけたいと思います。
きょうはフラードルにカルポフさんていう人の彫刻をおろしたのですが、そのあとちょっと変な子に出会いました。ユタといって、まだ八|歳《さい》か九歳くらいの男の子です。ユタのお母さんは花造りと料理が得意です。ちょっと暗い感じもしますけど、いい人にきまってます。それで、ユタの家はコロニーに引っ越すことがわかったので、その仕事を私たちが引き受けることになりました。
それで――喜んでください――メイはこの仕事で初めてMDをつとめることになりました。責任重大ですけど、すごくはりきってます。サリバン一家に喜んでもらえるような仕事ができるといいなと思います。ではまた。
[#ここで字下げ終わり]
フロントとひと続きになったバーでは、マージとロイドが肩《かた》を並べていた。
一杯目のバーボンを半分ほど干したところで、マージが言った。
「で? どうして引き受けたの?」
「いかんかね」
「私の意見はさっきと変ってないわ。よくてトントン、マーフィーの法則を信じるなら、必ず赤字になるわ」
「かもしれんな」
ロイドはそう言って、グラスを口に運んだ。
「全部お見通しってわけね。どうして?」
「メイの教育費とすりゃ、安いもんさ」
「教育費?」
「そうさ。あれはもう、宇宙にあこがれて転がり込んできた家出|娘《むすめ》じゃない。そうだろ?」
「それは認めるけどね」
「結婚《けっこん》退職するとしても、なんせまだ十六だ。五年ぐらいはうちの戦力になる」
「結婚退職!」
マージは思わず吹《ふ》き出した。確かに、誰《だれ》もが自分のように、婚期《こんき》を逸《いっ》してまで仕事に打ち込むとは限らない。
「そりゃま、五年はいけそうね」
「となればだ。そろそろメイに初仕事をまかせてもいいんじゃないか?」
「十六歳のMD?」
「そうさ。君はいつだった。最初のは」
「入社して半年ぐらいかな。まだ二十二の可憐《かれん》な女の子だったわ」
「だったかな……」
可憐どころか、やたら口答えの多い娘だったような気がするが……。
ロイドは言った。
「まあメイにはちょっとばかり早いが、届け先も近いからな。半日で着くし、危険物もない。ちょいと失敗して落ち込んでるところで説教のひとつもくれてやりゃあ、いい薬になるさ」
「損害はいいの?」
「そうさな……」
ロイドは少し考えた。
「もし順調にいけば、空荷に較《くら》べてざっと二十万のもうけになる。梱包費《こんぽうひ》がかさんだとしても十万は残る」
「不経済な航法になったら、あっという間に赤字よ。たとえば――」
「たとえば?」
「素人《しろうと》さんが三人でしょ。特にあの若奥様《わかおくさま》がどーもお荷物くさいのよね。宇宙へ出たら真っ先に死にそうな顔だわ」
「コロニーまで持ちゃあいいさ」
「軌道《きどう》港の病院にかつぎ込むようなことになったら、運航経費は一・五倍と見ていいわ」
「五万や十万ならいい。教育費ってことを考えてみろよ。メイにはそれぐらい投資してもいいだろ?」
マージはバーボンを一口ふくみ、横目でロイドを見た。
「ふーん、ずいぶん目をかけるのねえ?」
「ほほう、妬《や》いてるのか?」
「馬鹿《ばか》言わないで」
マージは一言のもとに否定したが、ロイドはまだにんまりしていた。
「人間ってのは、いちいち比較《ひかく》しちゃう生き物だもんなあ? あの子とあたしと、どっちが大事なんだろう――」
「いいかげんにして」
マージはグラスを置いた。
「あたしはね、あの子ならほっといても伸《の》びるって気がするだけ」
「憶《おぼ》えはいいさ。だが自分の責任で決断して動くとなると、わしらの命令を忠実に果たすようにはいかんだろ? メイは実地に弱いとこがあるからな」
「まあね」
「平和な星の平凡《へいぼん》な三人家族の引越しだ。メイの初仕事にはちょうどいいじゃないか」
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第二章 サリバン夫人の花壇《かだん》
ACT・1 モーテル
翌朝、三人はたった五|卓《たく》しかないモーテルの食堂で顔を合わせた。朝食は卵とドーナツとコーヒーしかなかった。
「こういう車輪みたいに固いドーナツを食べるにはだな――」
ロイドは勝手に講釈《こうしゃく》をはじめた。
「唯一《ゆいいつ》の可能な選択《せんたく》はダンキングだ。はしたないなんて声に耳を貸すことはない。これはドーナツを食えるものにするし、事を成し遂《と》げたあとコーヒーに浮《う》かぶオイルの風味を楽しむというボーナスもある。それにはまず、ドーナツをこう持ってだな」
ロイドはドーナツをコーヒーカップの上にかざした。
メイが神妙《しんみょう》な顔でそれにならうと、マージが不機嫌《ふきげん》な声で言った。
「真似《まね》しなくていーの」
「あ、はい」
「なんだ、せっかく知恵《ちえ》を授《さず》けようとしたのに。先人の話には耳を貸すもんだぞ」
「MDのほうが偉《えら》いんだから」
「おっと、そうだったな」
ロイドは両手を上げて、一本とられた、というしぐさをした。
「――で、メイ。今日は何から始めるんだ?」
「えとですね」
メイは急に背筋を伸《の》ばして言った。
「まず積荷の計量と梱包材《こんぽうざい》の発注内容を決めたいと思います。シャトルに行って秤《はかり》を取ってきます。ロイドさんとマージさんは家具の質量とサイズを測ってもらえますか」
「了解《りょうかい》」
「ふむふむ」
「できれば家具メーカーに問い合わせて、破壊《はかい》強度を調べたいんですが――」
「無理だな。あの手の古い家具は誰《だれ》が作ったかわからんし、どうせ強度試験なんかしてない」
「じゃあ……マージさん、できるだけ低い加速で離昇《りしょうノ》するとしたら、何Gいりますか」
「そりゃまあ、浅く上昇しながらじわじわ加速すれば、コンマ一Gでもいけるけどね。できれば二Gほしいとこね。効率を考えると、二・四はほしいけど」
「燃費と相談しないとだめですね」
「なあに、梱包さえちゃんとやりゃあ大丈夫《だいじょうぶ》さ。家具ってのは弱く見えるが、ちょっとドスンとやるだけで五〜六Gはかかってるんだ。椅子《いす》だって、自重の十倍もある人を乗せて平気だろう? そうそう壊《こわ》れるもんじゃない。それより面倒《めんどう》なのは、あの花だな」
「そうですね。生花輸送用の容器があるんですよね?」
「ああ。あれなら二十四時間はもつはずだ。しかし花を引き抜《ぬ》いて、容器に移す作業がけっこう面倒だぞ」
「でも、サリバン夫人やユタが手伝ってくれるはずですよね」
「まあな」
「あと、問題は巡航《じゅんこう》中の加速よ」
「そうですね。お客さんを乗せるとなると……」
シャトルの座席は地上での水平姿勢を基準に作られているので、宇宙空間で加速すると背中から押《お》される格好になる。あおむけに椅子を倒《たお》し、天井《てんじょう》に向かって腰掛《こしか》けているようなものだ。旅客《りょかく》用シャトルなら椅子の回転機構があったり、人工重力装置で補正したりするが、貨物専用のアルフェッカ・シャトルにはそれがない。
「〇・六Gで定常加速かな。コロニーまで四時間ぐらいでしょ?」
「それくらいですね」
「高加速は無理だし、慣性航行をはさむと一般人《いっぱんじん》は宇宙|酔《よ》いするからね。着くまでシートにくくりつけといたほうがいいわよ」
この時代、宇宙酔いには特効薬が開発されていたが、それは効果が持続する間、空間|認識力《にんしきりょく》を失うという副作用もあった。嘔吐《おうと》や思考力の低下はないが、勝手に動きまわらせると何をしでかすかわからない。ずっと座席に縛《しば》りつけて、頭を固定しておけばそもそも宇宙酔いにかかりにくくなるのだが――。
「でも、ちょっと長いですね」
「へいきよ。貨物船じゃ人も荷物|扱《あつか》いってことを教育してやりゃあいいの」
「そんな」
この方面では、マージはどうもデリカシーに欠けるのだった。
メイはためらいがちに言った。
「あの……私としては、サリバン家の人たちにはできるだけ快適な旅をしてもらいたいと考えているんですけど……」
「うん?」
「……ですからその、そう考えているわけで」
「…………」
五秒ほどメイに見つめられて、マージはようやく合点した。メイは今、MDとして指示を出したのだった。
「あ、なるなる。了解りょーかい。じゃあ、そういう方針でいくわね」
マージはあわてて答え、へらへら笑ってみせた。
朝食を終えると、三人はピックアップに乗ってサリバン家に向かった。途中《とちゅう》シャトルに寄って秤《はかり》を積みこむ。秤は無重量状態でも使用できるもので、対象を軽く揺《ゆ》すって加速度から質量を割り出すしくみになっていた。外見は平たく、家庭用の体重計に似ている。
今日は月曜日だが、夫婦とも在宅していた。サリバン氏は二週間ほど前から異動のための準備期間に入っていて、出社はしていないという。そのくせ書斎《しょさい》の机には職場から持ち帰った書類が積まれていて、暇《ひま》をみて片づけているらしい。ユタは学校だった。
メイはサリバン氏に言った。
「あの、それじゃロイドさんとマージさんが家具の計量をしますので、ご協力ねがいます」
「何をすればいいのかな」
「家具の中身を抜いてください。それから、少し持ち上げて秤を差し込みます。あとはサイズを測っておしまいです」
「おやすい御用《ごよう》だ。じゃあまず寝室《しんしつ》からいくかな」
「あのな、メイ」
サリバン氏が離《はな》れたところで、ロイドがささやいた。
「客にわしらの名を告げるときは『さん』はいらないぞ」
「あ、そうでした。すみません」
それからメイは、夫人に言った。
「あの、花の梱包について相談したいんですが」
「……そうね。じゃあ、庭にいらしてください」
ACT・2 花壇《かだん》
メイとサリバン夫人は庭に出て、花壇のひとつを前にした。
「来るときに見えたんですけど、このへんの家って、どこも立派な花壇があるんですね」
「そうね。みんな、張り合ってるの。私はただ、家にはきれいな花壇が要《い》ると思うからそうしているのだけど。この家を買ってもう九年になるけど、毎日ずっと手入れしてきたの」
「ほんときれいですよね。お世辞じゃないです。私も小さい頃《ころ》、家の花壇を世話したことがあるんですけど、どれも勝手に咲《さ》いてる感じで、こんなふうにはできなかったです。ドームだったので、ここよりずっと気候が安定してるはずなのに」
「九年間、ずっと手入れしてきたの。毎日」
サリバン夫人は繰《く》り返した。
「だからここで壊したくないの」
「そうですよね……」
「家には外から帰ったとき、ああやっぱりお家がいちばん、って思うような花壇が要るの。でなければ、誰も家に帰りたくなくなるでしょう」
「ええ」
「私、花壇を運びたいって、そんなに無理を言っているかしら」
「そんなこと……ないと思います」
「種や球根だけ運んで、向こうで造り直せばいいと思う?」
「いえ」
夫人は一方的に話し続けた。
「どれも宿根草《しゅっこんそう》で、いつまでも続くものばかり植えたの。そのスイートピーだって、こんなに株が育ってるでしょう。すぐにできるものじゃないの」
「ええ……」
「だからそっくり運びたいの。でないと、だめになってしまうの。新しい場所に引っ越したら、いろいろうまくいかないことがあるでしょう? だから花壇ぐらいきちんとしてないと」
「…………」
メイは改めて夫人を見た。思いつめたような横顔が、花を見つめていた。
この人は――何なのだろう。何にこだわっているのだろう?
質問するのははばかられた。メイはとりあえず、仕事に徹《てっ》することにした。
「だいじょうぶ、ちゃんと運べます。植物の輸送には専用のコンテナがありますから、それを取り寄せます」
「そう。そんなに大きいのがあるの」
「はい。ここのだと、冷蔵庫くらいのがあればいいですよね」
「冷蔵庫?」
サリバン夫人は眉《まゆ》をひそめた。
「ええ。キッチンにあったような……」
「そんなのじゃ、とても入らないわ」
「でも、そこのバラだってせいぜい――」
「この花壇をまるごと入れるんでしょう?」
「か、花壇をまるごと!?」
「そうよ。ここのは宿根草が多いでしょう。もう根は深く広くひろがってて、互《たが》いにからみあってるわ。だから花壇ごと移さないとだめ」
「そ、そんな――」
顔から血の気がひいていくのがわかった。
これだ。
これが引越し業者の見積もりをつり上げていたのだ。
「あの、なんとか株ごとに分けるわけにはいかないでしょうか」
「分けたりしたら、どうしても細かい根毛が切れるでしょう。根と葉のつりあいがきちんととれてないと、どんなに水をやってもしおれてしまうわ」
「それは……そうですよね……」
メイはくらくらする思いで、花壇のサイズを測ってみた。扇型《おうぎがた》をしているから、四角いコンテナにはきっちり入らない。これに外接する矩形《くけい》は、三・五メートル×三・三メートルだった。
シャトルに積める最大のコンテナは九・四メートル×三・四メートル。互い違《ちが》いに入れて、どうにか三つ入りそうだが、それでも家具を含《ふく》めて二往復しなければならない。運航経費で足が出るのは確実だった。
しかし、あきらめるのは早い。そのまま入らなければ、曲げてでも押《お》し込むのだ。芝生《しばふ》など、草丈《くさたけ》や根の浅いものは苗床《なえどこ》ごとロールにして運ぶこともある。
「あの、根の深さはどれくらいありますか?」
「八十センチくらいかしら」
「は……はちじゅう……」
期待した値《あたい》の数倍だった。重量も相当なものになる。
「えと、それじゃですね、根についた土を落とすことは――」
サリバン夫人は目を丸くした。
「そんなことしたら枯《か》れてしまうでしょう!」
「そうですよね。そうですよね。あはは……」
メイはひきつった笑顔《えがお》を浮《う》かべた。脇《わき》の下に冷たいものが流れた。
「ちゃんと運んでいただけるのかしら?」
「それは……でき……」
メイは言いかけて、かろうじて思いとどまった。
「……ると思いますが……ちょっと、考えないと……」
サリバン夫人が昼食の支度《したく》に戻《もど》ると、メイはポーチに腰《こし》をおろし、長いこと考え込んでいた。
昼食後、メイは計量の終わった家具のデータをコンピューターに移して、必要な梱包材《こんぽうざい》を割り出した。サリバン家の電話回線を借りて地域ネットワークにつなぎ、梱包材を扱《あつか》っている業者を調べる。そこは、湖畔《こはん》にそって三十キロほど離《はな》れた町にあった。
「なら、こっちから取りに行くか。配達料を払《はら》って、ピックアップをあそばせとくのも無駄《むだ》だからな」
「そうですね」
「あの車で全部積めるかしら。生花のぶんもあるでしょ?」マージが聞いた。
「それはその……花壇のぶんはあとにして、とりあえず家具の梱包を進めたいと思います」
「それでいいの、メイ?」
「あの、道みち話しますから……」
ACT・3 街道《かいどう》
ピックアップの運転台は大きくて、三人が横一列に座《すわ》れた。左でマージがハンドルを握《にぎ》り、メイは真中に座った。
繁華街《はんかがい》はすぐに終わり、着陸前に見えた丘陵地帯《きゅうりょうちたい》の街道に入った。前も後ろも、他の車はろくに見あたらなかった。
メイは花壇にまつわる問題を二人に打ち明けた。
「なるほどねえ」
聞き終わると、ロイドは言った。
「スフィンクスの問答みたいだな。あの花壇を分けずに、深さ八十センチで掘《は》り出してそのまま運べってか」
「ええ……」
「奥《おく》さんに妥協《だきょう》してもらうしかないわね」
マージがきっぱり言った。
「花壇だけでペイロードベイがほとんど一杯《いっぱい》になるわ。家具まで運ぶとなると、二往復するしかないじゃない。それか料金アップする?」
「料金を変えるのはまずいな。プロの運送屋が、見積もり額を後から変えるなんてことはやらんぞ、普通《ふつう》。だいいち向こうはあれ以上|払《はら》えんだろう」
「すみません。私がよく調べもせずに見積もったのがいけなかったんです……」
メイが消え入るような声で言った。
「どうするの、ロイド。家具か花壇か、どっちかにしてくれって言うの? それともキャンセル?」
「どれにしても、プロのやるこっちゃないな」
「すみません……」
「そういうのは後だ、メイ。花壇の荷造りについては充分《じゅうぶん》検討したか?」
「そのつもりです」
「説明してみろ」
「えと、花壇は扇型をしているので、三つを互い違いに並べればHAREの四号コンテナにきっちり入ります。でも、残るスペースには箪笥《たんす》二禅ぐらいしか入りません」
「じゃあ最初に花壇二つと家具半分、ってわけにはいかないの?」
「花壇二つでも四号コンテナがいるんです。コンテナの中に家具を同居させられないので、そうなると三往復になっちゃうんです」
「四号コンテナだと、ペイロードベイに張り出してるエアロック・モジュールは外さなきゃならんな」
「ええ……。結局、最初の便でエアロックは地上に残し、四号に入れた花壇を運ぶしかありません。そして次の便でコンテナを降ろしてエアロックを戻し、パレットに家具類をバラ積みすることになります。それと、花壇の積み下しには大型の土木機械がいると思います」
「……そうだよな」
「じゃあ、結局二往復でいくわけ? 料金|据置《すえおき》で?」マージが聞いた。
ロイドは指折り数えた。
「二往復となると、実費でも六十五万はかかりそうだな」
「十六万ポンドの赤字ってわけね」
それみなさい、という顔でマージは言った。メイの給料にして十一か月ぶんに相当する金額である。
ロイドは腕《うで》を組み、大きくため息をついた。
「まあ、たしかにきついが、やると言っちゃった以上はなあ……」
そう言ってメイの顔をうかがう。メイはもう、泣き出しそうな顔をしていた。
「あの私、もう一度奥さんに頼んでみようと思います。花壇をもっと細かく区切って移植できないかって」
「だめだと言われたんだろ、きっぱり」
「それは――」
「コンテナに入りゃいいってもんじゃないのよ」
マージが言った。
「あんな重くて脆《もろ》い物、加速で崩《くず》れたらどうするの!?」
「彫刻《ちょうこく》だってそうだったさ」
「降ろすだけならどうってことないわ。こんどは上りよ?」
「低加速でじわじわいけば、なんとかなるだろう」
「あたしは反対。なんとかなるで宇宙船を飛ばすわけにいかないわ」
「マージ」
ロイドの声が険しくなった。
「あの程度の壊《こわ》れ物が上げられないほど、君の腕は鈍《にぶ》いのか。きちんと梱包したうえで、計算通りに飛べれば、危険は回避《かいひ》できるはずだ。推力が許す限り、宇宙に上げられないものはないんだ」
「そりゃあ……」
マージは首を振《ふ》った。
「でも釈然《しゃくぜん》としないのよ」
「何がだ」
「花壇ごと運ぶってこと。確かに根は痛むだろうけど、すぐに生えてくるもんでしょ? だいたいコロニーに行けば気候も達《ちが》うんだから、移植ばっかり神経質になっても仕方ないんじゃないの。あの人、だだをこねてるとしか思えないな」
「サリバン夫人がか?」
「そう。引っ越すのが嫌《いや》だから、無理な条件持ち出してるのよ。きまってるわ」
「コロニーに引っ越すのが、そんなに嫌なもんかね」
「最近の平地人には、多いって聞くわ。とくにこういう、きれいな地球型|惑星《わくせい》にはね」
マージの口調には、いくらか軽蔑《けいべつ》がこめられていた。宇宙で働く者――すなわち宇宙人は、地上で一生を終える人々を平地人と呼ぶことがある。
「しかし宇宙ったって、エリューセラはコロニーとしちゃ、かなりリッチだぞ。深さ三メートルしかないが、床《ゆか》面積の四分の一が海だ。フラードル人は海がなきゃ我慢《がまん》できないそうだからな」
「ここは内陸でしょ」
「しかし湖がある」
「でも物を知らない宇宙嫌いっているのよ。やれ空気|洩《も》れが恐《こわ》い、放射線が恐い、寒い、窮屈《きゅうくつ》だ、空気が悪い、食べ物がまずいっていうのが」
「そいつは認めるがね。――ちょっと止めてくれ」
マージは車を路肩《ろかた》に寄せて、サイドブレーキを引いた。
ロイドは言った。
「いいかマージ。宇宙嫌いだろうがなんだろうが客は客だ。荷主の言うことは絶対だ。相手が積荷について無知な場合は別だが、サリバン夫人はあれだけの花壇を育ててきた。つまらん事に思えても、客のそういうこだわりに応《こた》えられなきゃプロの運送屋とは言えん」
「そりゃ、まあね」
「メイ」
「はい」
「君はサリバン家の引越しのためには二往復必要だと結論した。ミッション・ディレクターの君がそう言うなら、そうしようじゃないか」
「でもあの、費用が……」
「費用より完璧《かんぺき》な仕事をやることを考えろ。花の一輪たりともしおれず、今ふくらんでるつぼみがコロニーでわっと咲《さ》くぐらいにな。もちろん家具にもかすり傷ひとつつけん」
メイはためらいがちにうなずいた。
「採算なんてものはしょせん経営者が考えることだし、現場の人間が仕事に凝《こ》りすぎることはよくある。うちはたった三人の零細《れいさい》企業だし、給料も安い。そのかわりと言っちゃなんだが、凝りたいときに凝る自由ぐらいなきゃ、仕事が楽しくないじゃないか。貯金ってのは、こういう時に使うもんじゃないのか」
「………」
「なあマージ」
「うん?」
「確かにあの奥さんは平地人で宇宙嫌いかもしれん。だがそれならなおさら、宇宙人のわしらが心に残るようなサービスをしてやろうじゃないか。ゆうべの話にも出てたが、物を運ぶってのは創造的な仕事なんだ。わしらは宇宙じゃどんなミスも許されんことを知っている。それでも避《さ》けられん災難にあえば、助け合うことを知っている。宇宙人のそういうところを、あの一家に見せてやろうじゃないか。そうやって、新参者を三人ばかり宇宙に連れ出してやろうじゃないか」
マージはため息をつき、小声でつぶやいた。「……らしくもない言い様だこと」
「まだ反対か?」
「いいえ。まったく異義なし」
「メイもわかったか。わかったなら短くきっぱりと返事しろ」
萎《な》えかけていた元気がよみがえった思いだった。メイは指図どおり、簡潔に答えた。
「はい!」
「よーし上等だ。ではいい仕事をするぞ。しゅっぱーつ!」
車は再び、走り始めた。
街道《かいどう》はゆるやかに上下しながら続いていた。
しばらくして、マージが言った。
「ロイド」
「うん?」
「あなたが張り切るのがどういう時か、わかったわ」
「ほう?」
「すごく金になるか、まったく金にならない時よ」
「ほう……」
ACT・4 サリバン家
梱包材《こんぽうざい》を仕入れた三人はサリバン家に戻《もど》り、夫妻をまじえて詳細《しょうさい》な打ち合せに入った。これはMDの仕事だった。
「えと、この引|越《こ》しは――いろいろ検討した結果、こことコロニーの間を二往復することにしました。最初の飛行で花壇《かだん》、二度目の飛行で家具類を運びます」
「やはり二度になったか。費用のほうはどうなるね?」サリバン氏が聞いた。
「ええ、ちょっと目論見《もくろみ》からはずれましたけど、四十九万、据置《すえおき》でいけそうです」
「本当かい。こちらとしてはうれしいが……」
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
「ふむ。……ま、続けてくれたまえ」
「花壇《かだん》ですが、HARE四号コンテナに収容します。このために、こことコロニーの両方で造園業者の人に頼《たの》んで工事してもらいます」
「どんな工事を?」夫人が聞いた。
「大きなコテみたいなもので、花壇を深さ八十センチですくいあげて、コンテナに移すんです。そのために少し周囲を掛り下げる作業もあります。コロニーでは逆の作業をします」
「大丈夫《だいじょうぶ》かしら。崩《くず》れたりしないかしら」
「問い合わせてみましたが、実績があるそうですから。ただ、花壇のまわりの煉瓦《れんが》は輸送中に崩れるおそれがあるので、できれば置いていきたいんですけども……」
「そう。煉瓦を……」
メイは――他の二人も――息を殺して夫人の言葉を待った。
このうえ、あの煉瓦には思い出があるから、などと言い出されたら――。
機先を制してサリバン氏が言った。
「煉瓦ぐらいいいだろう、エレン。中身がそっくり運べるんだ、ここで欲を言ったらばちが当たるよ」
「……そうね」
メイはひたいの汗《あせ》をぬぐった。呼吸を整えて、説明を再開する。
「飛行ですが、花壇を積んでいるときは〇・二G以上の加速は危険なので、ゆっくり飛ぶしかありません。下向きの重力があるうちはいいんですけど――最初にコロニーに行くときは七時間かかります。ちょっと長いですけど、がまんしてください。帰り道、および二度目の飛行は片道四時間くらいです。それで、御《ご》家族がどちらの便に乗るかを決めたいんですが」
「はじめに花壇を運ぶんだね?」
「ええ。コンテナが大きいので、いま積んでいるモジュールを降ろさなければならないんです。それを二度目の飛行で回収したいんです。それにコンテナの返却《へんきゃく》も、コロニーの代理店に渡《わた》すより地上に持ち帰った方が安上がりなんです」
「なるほどね。じゃあ最初の飛行には妻が乗ってないとだめだな。むこうで工事とかあるわけだし」
「あなたも来てくださらないと」夫人が言った。
「私、コロニーに行ったことがないもの。それに花壇を移したら、大急ぎで手入れしないと。輸送で弱ってるんだから」
「手入れならユタがいればいいだろう」
「いいえ、ユタだけじゃ足りないわ。コロニーは土が悪いでしょう? だからまわりに置き肥したり、囲いを作り直したり」
「しかしねえ……」
「私、いやよ。ユタと二人っきりでコロニーに行くなんて絶対いや」
「いいかエレン、いい歳して子供みたいなわがままを言うもんじゃ」
「あのっ、こうしたらどうでしょう!」
メイが割り込んだ。
「最初は家族全員で行って、ミスター・サリバンには二度目の飛行にも同行してもらうんです。エレンさんには初めての宇宙で心細いでしょうし、人手もいるから、私もコロニーに残って花壇の仕上げを手伝います。シャトルはこの二人だけでも飛ばせますから。そうですよね?」
「ああ、もちろん大丈夫だ」と、ロイド。
「ただでさえ格安なのに、そんな無理をきいてもらっちゃ――」
「いやあ、いいんですよ」ロイドは鷹揚《おうよう》に手を振《ふ》った。
「私らも花壇や一般《いっぱん》家庭の引越しには経験が浅《あさ》いんで、この機会に勉強させてもらうつもりです。どうです、奥《おく》さん?」
「……ええ……それなら」
夫人はしぶしぶうなずいた。ここまで譲歩《じょうほ》されては従うしかない、という顔だった。
メイは胸をなでおろした。
MDとしては両方の飛行につきそいたいところだったが、このさい仕方がない。
とっさの判断だったが、この時までにメイは、今度の仕事で最も難しい積荷が何か、わかった気がしていた。
それは花壇ではない――サリバン夫人なのだ。
ACT・5 サリバン家
翌日は大|忙《いそが》しになった。この一日ですべての準備を終え、明朝には第一便が出発する計画だった。全員総出で家具の梱包をしているところへ、造園業者の車がやってきた。四号コンテナを乗せたトレーラーと自走型のブルドーザーである。
「奥《おく》さん、このへん掘り返しちゃっていいすかぁ?」
ブルドーザーの運転手が言った。
サリバン夫人はうなずいた。
「けど、いい芝生《しばふ》なのにもったいないねえ」
「花壇が運べればいいの」
「へい」
花壇を深さ八十センチにわたって切り取るには、横からすくい上げるしかない。
ブルドーザーはまず花壇の脇《わき》に深さ八十センチのスロープをえぐった。それからショベルを外し、土壌《どじょう》移植用のアタッチメントに取り替《か》える。
それはフォークリフトに似ていたが、フォークと言うよりは巨大《きょだい》な櫛《くし》だった。その櫛は振動《しんどう》しながら花壇の底に差し込まれ、ついで花壇を土壌ごと持ち上げた。運転手は重心が前に寄りすぎていないか確かめると、ゆっくりと車両をバックさせ、花壇をコンテナに差入れた。
花壇はあと二つある。最初の花壇を床《ゆか》のスライド機構を使って奥に押《お》し込み、第二、第三の花壇を入れる、という段取りだった。花壇の間には仕切り板をいれて、横方向にGがかかってもずれにくいようにした。
作業が終わると、メイはユタとともに、コンテナの中に入った。中は花壇に占領《せんりょう》されていたが、両脇《りょうわき》にどうにか歩けるほどの隙間《すきま》があった。メイは右側、ユタは左側から入った。
二人は手分けして、花壇の土の表面に細長いクッションのようなものを敷《し》き詰《つ》めた。それが終わるとメイはロープを持ってきて、内壁《ないへき》に並んでいる穴のひとつに通した。
「そこのルビナスの間を通すの。いい?」
「いいよ」
メイはロープを投げた。ユタはその端《はし》を取り、自分側の穴に通して投げ返した。こうして交互《こうご》に、花壇の地面を覆《おお》う形でロープをかけ渡《わた》すことになる。
「ずいぶん厳重にやるんだね」ユタが言った。
「宇宙に出てからは、コンテナを縦に置いたのと同じになるもの。よほどしっかり押《おき》えないと、土砂崩《どしゃくず》れになっちゃうんだから」
「でも〇・二Gで飛ぶんでしょう?」
「急に加速するかもしれないでしょ? こないだだって着水寸前に流木をみつけて二・四Gもかけたんだから。急に制御《せいぎょ》装置が故障したり、海賊《かいぞく》に襲《おそ》われることだってあるし」
「へえ……」
ユタは目を輝《かがや》かせた。
「冒険《ぼうけん》なんだね」
「遊びじゃないのよ。……ほら、手が止まってる」
ユタはロープをたぐりはじめた。
「だけど、父さんなんかよりずっと冒険してるよ。父さん、ずっと机に座《すわ》ってるか、出張して人と会うばっかりなんだ」
「そうとは限らないよ」
「でもメイは知らないでしょ?」
「ユタは見たことあるの? お父さんが働いてるところ」
「ないけど、話聞いてればわかるよ」
「全部話してくれてるとは限らないでしょう」
「でも、わかるもん」
「そうかなあ……」
メイは自分の父親のことを思った。メイも父親が働くところを見たことがなかった。
「私の父さんは居住ドームの浄水施設《じょうすいしせつ》の技師だったの。やっぱり、夜が遅《おそ》かったり、日曜も出勤したりで、あんまり遊んでくれなかったけど」
「遊んでほしいなんて思ってないよ」
「そうじゃないの。……職場|対抗《たいこう》の野球大会に父さんが出ることになったから、母さんと応援《おうえん》に行ったの。父さんは犠牲《ぎせい》フライを打っただけだったし、試合も負けたけど、そのあとバーベキュー・パーティーがあってね」
「うん」
「チームの、父さんといっしょに仕事してる人たちを見てたら、なんとなくわかったの。父さん、頼《たよ》りにされてるなって。笑ったり、ビール飲んだり、ふざけあったりしてるだけだったけど、なんとなくわかった」
「ふうん」
「ユタのお父さんだって、コロニーに転勤するんだもの、立派な人にちがいないよ」
「仕事はできるかもしれないけど、母さんは喜んでないんだ。これからますます帰りが遅くなるって」
「そう……そんなこと言ったの、お母さん」
「うん」
「じゃあ、夫婦喧嘩《ふうふげんか》したり?」
ユタは首を横に振《ふ》った。
「喧嘩するとこなんか一度も見たことないよ。でも、引っ越すっていうのに、花壇の世話はやめないんだ。新しい苗《なえ》を植えたりね。父さんはどういうつもりだって言ったけど、母さんはやめなかった。やんなっちゃうよね」
「そう……」
メイは考えた。
サリバン夫人が花壇に愛着を持っていて、失いたくないのは本当だろう。
宇宙コロニーでの生活に気が進まないのも本当だろう。
でも、花壇が無事に運べて、コロニーの暮らしに馴染《なじ》めたとしても、たぶん……。
その時、湖のほうから、遠い雷《かみなり》のような音が響《ひび》いてきた。
「何?」
「シャトルね。燃料を入れにケセルラト港に行くの」
ユタは外へとびだした。メイも続いた。
木立の梢《こずえ》の間から、上昇《じょうしょう》するシャトルが見えた。翼《つばさ》の上面に午後の陽射《ひざ》しを受けながら、こちらに旋回《せんかい》してくる。
ユタが手を振ると、シャトルも頭上を通過しながら翼を振った。
それからすぐ、丘《おか》の向こうに消えた。
ユタはしばらく、それを見送っていた。
ACT・6 書斎《しょさい》
夕方、花壇《かだん》が一段落したところで、メイは家に入った。
サリバン氏は書斎にいた。書棚《しょだな》から抜《ね》いた本を、箱に詰《つ》めている。
「あの、花壇の処置、だいたい終わりましたので……」
「ああそう。御《ご》苦労だったね」
「いえ……あの、手伝いましょうか、それ」
「いやあ、一人でやれるよ。捨てる本を選んでるんでね」
「そうですか……」
メイは話の糸口を探した。
「フラードルって、紙の本も多いんですね」
「読み捨てにはこれがいいね。何度も引くような本は後でデータを取り寄せればいいし」
「そうですね」
床《ゆか》に積まれた本は、大半が流通関係の専門書だった。
「あの、家でもお仕事の勉強を?」
「でもないがね。変化の激しい業界なんで、民間の動きは把握《はあく》しとかないとね」
「そうですよね……」
話が途切《とぎ》れた。
メイは、家族サービスもしてあげないと奥《おく》さんさびしいんじゃないですか、と言おうとしたが、ためらっているうちにサリバン氏に先を越《こ》されてしまった。
「エリューセラは、港が混《こ》んでただろう? 今の伸《の》びでいくと、あと二年でパンクだそうだね」
「え、ええ」
「早く赤道ポートが完成するといいんだがね。あそこは第三工区にかかる前に港を拡張すべきだったね」
「そうかもしれませんね」
「しかしねえ。コロニーもアパート経営みたいなもんで、入居を稼《かせ》がないとだめなんだな。で、ついつい内装工事を急ぐことになる。出入りする君らにとっちゃ迷惑《めいわく》だろうがね」
「ええまあ」
「地上にせよコロニーにせよ、トータル・バランスってことを考えないと、都市は発展しないんだけどなあ」
「そう……ですよね」
三十分後、メイはげんなりした思いで書斎を出たのだった。
ACT・7 アルフェッカ・シャトル
出発の朝はあいにくの曇《くも》り空だった。低く垂れこめた雲の底は、岩山のように乱れていた。風が湖面をかき立て、あちこちに白波が見える。
ミリガン運送の三人は早朝から波止場に来て、コンテナをトレーラーからシャトルに移す作業をしていた。あらわになったペイロードベイで、ロイドは前、メイとマージは後ろに立って、目の前に降りてきた四十トンのコンテナを見守っていた。コンテナは一本のケーブルで宙づりにされ、両端《りょうはし》にはロープが結《ゆ》わえられていた。それをたぐって、コンテナを正しい位置に誘導《ゆうどう》する。
ロイドの胴間声《どうまごえ》が響《ひび》いた。
「まっすぐ、まっすぐ、まっすぐ……ストップ!」
クレーンの動きが止まり、コンテナは反動でゆらりと揺《ゆ》れた。もう手の届く距離《きょり》だった。
「回転止めろ!」
三人はコンテナにしがみつき、ゆっくりと回転するコンテナを押《おさ》えた。動きは遅《おそ》くても、四十トンの質量が持つ慣性はすさまじい。
「ううっ……」
メイは腰《こし》をペイロードベイの側壁《そくへき》にあて、全身の力を両腕《りょううで》にこめた。それでも止まらなければ、ある時点で決断して身をかわすしかない。下手をすれば体が押《お》し潰《つぶ》されることもある。
「大丈夫《だいじょうぶ》……いける」
隣《となり》で同じように踏《ふ》んばっているマージの口から、声がもれた。
「後ろよし!」マージが怒鳴《どな》る。
「前よし! 降ろせ!」
ロイドのかけ声で、クレーンの運転手は這《は》うような速度でケーブルを繰《く》り出した。
コンテナはじりじりと、床《ゆか》から生えた円錐形《えんすいけい》のガイドピンに近づいた。
五十センチ……二二十センチ……二十センチ……
風がごうと鳴り、コンテナを揺すぶった。
「ストップ!」
「そっちはどうだ!」
「二センチバック」
「ちょい左!」
クレーンがかすかに動く。揺れを殺したあと、再度チェック。
「後ろよし!」
「前よし! 降ろせ!」
ガイドビンにコンテナの底のボルトがかぶさった。
「ピン・クリア!」
「そのまま、そのまま!」
ボルトがかちりと鳴った。作業者から見える位置に開いた小窓に「ロック」の文字が出る。
「後ろロック!」
「前ロック! クレーン・ストップ!」
コンテナはペイロードベイに固定された。
メイはコンテナの屋根によじ登り、今は少したるんでいる幅《はば》広のハーネスを解いた。運転手に一礼すると、クレーンはフックを巻き上げ、ジャッキを上げて後退した。
メイは緊張《きんちょう》を解き、額の汗《あせ》をぬぐった。風が心地よい。
それからペイロードベイに降り、コンテナと検体の間の配線作業にかかった。コンテナは各種のセンサーや恒温《こうおん》機構を内蔵しているが、電源や放熱はシャトルに依存《いぞん》している。そのためのケーブルやホースをつながなければならない。
作業をしていると、いつのまにかシャトルの周囲に小さな人だかりができていた。サリバン家の三人と、見送りの人らしい。動きやすい格好で来てくれ、という言いつけどおり、三人ともハイキングにでも行くようないでたちだった。サリバン氏はブリーフケース、夫人はハンドバッグを持ち、ユタは首にカメラをさげていた。
「おはようございます」
「おはよう」サリバン氏が答えた。
「ちょっと早いが、何か手伝えないかと思ってね」
「いえ、それにはおよびません。ちょっと待っててください」
メイは配線のチェックをすませると、インカムでコクピットのマージに連絡《れんらく》した。
「配線終わりました。それと、外にサリバン一家が来てます」
『キャビンに来て。まずペイロードベイを閉めるから』
「了解《りょうかい》」
メイは前部|隔壁《かくへき》をくぐってキャビンに移った。キャビンは幅《はば》四メートル、長さ二メートルの小さな空間で、簡単な仕切りひとつでコクピットにつながっている。コクピットではロイドとマージが飛行前の点検を進めていた。
「後ろ見てて。いい?」マージが言った。メイは隔壁の小窓からペイロードベイを見た。
「ペイロードベイ、障害物なし。どうぞ」
「ドア閉鎖《へいさ》」
モーターの音がして、四枚のドアがゆっくりと閉まった。がちゃり、とラッチが噛《か》み合い、トラックの荷台のようなむきだしの空間は、完全に外気から遮断《しゃだん》された。
「閉鎖|確認《かくにん》。椅子《いす》を用意したら、ボーディング開始ね」
「はい」
メイはキャビンの床下にもぐり、折り畳《たた》みのシートを三つ運び出した。シートを組み立ててキャビンの床に固定すると、エアロックから顔を出し、外の三人に呼びかけた。
「どうぞ。お入りください」
「いっちばーん!」
ユタが真っ先に駆《か》け込んできた。サリバン夫妻は見送りの人々と、何度も握手《あくしゅ》したり抱《だ》き合ったりしていた。それから夫人が、おぼつかない足取りでラッタルを登ってきた。
「天井《てんじょう》が低いですから、気をつけて」言いながらメイは夫人の手をとり、中に誘導した。
「ちょっと窮屈《きゅうくつ》ですけど、しばらくの我慢《がまん》です」
「旅費が節約できるんだ、文句は言わないよ」サリバン氏が入ってくる。
「僕、窓際《まどぎわ》がいいな。いいでしょう、父さん?」
ユタが右舷《うけん》の席に座《すわ》って言った。サリバン氏はうなずいた。
マージがチェックリストを置いて、こちらに来た。
「トイレとレスキュー・バッグの説明をするから、あなたはペイロードベイを仕上げて」
「はい」
メイは掃除機《そうじき》を持ってペイロードベイに入った。飛行中は五分の一の重力しかなく、一時的にはゼロGになる。固定されていない機材や小さなゴミが浮き上がって思わぬトラブルの原因になることもあるので、清浄《せいじょう》にしておかなければならなかった。ことに今回はエアロック・モジュールがないので、飛行中に中からペイロードベイに入ることはできない。
メイは念入りに内部を清掃した。
キャビンに戻《もど》ると、三人の乗客はレスキュー・バッグと格闘《かくとう》しているところだった。
それは白い寝袋《ねぶくろ》のようなもので、緊急時《きんきゅうじ》に使用するものだった。シャトルが宇宙空間で事故に遭《あ》ったとき、バッグに入ってファスナーを閉めれば、三時間は生存できる。バッグの中には簡単な生命|維持《いじ》装置と通信機が入っていた。バッグが使われることはまずないが、乗客を乗せる場合は使用方法を説明することが義務づけられている。
「そのボタンじゃありません、ミセス・サリバン。もう一度!」
マージは通信機の使い方を厳しく教えていた。
「こ、これかしら……」口の開いたバッグの中から、夫人が言う。
「そうです。それで軌道《きどう》港と緊急チャンネルで通話できます。あなたの位置を示すビーコンは自動的に作動しますが、緊急時には誰《だれ》かと話すことも大切なんです。心をリラックスさせるために」
「わかりました」
「でもさ、しゃべってると酸素をよぶんに使うんじゃない?」と、ユタ。
「パニックしてる時のほうがもっと多いの。じゃあみなさんバッグを出てください。メイ、手伝ってあげて」
「はい」レスキューバッグを畳み、ロッカーに戻すと、マージは「あとよろしく」と言って操縦席に戻った。
「じゃあ、ベルトを締《し》めますね」
メイは三人のハーネスを順に締めていった。ハーネスは肩《かた》と腰《こし》に一対《いっつい》ずつあり、へその上のバックルでひとつにまとめる、四点式だった。
「やっぱり輸送機のは厳重だな」
サリバン氏が言う。旅客《りょかく》専用のシャトルは、もっと簡単な三点式だった。
「ちょっと座り心地《ごこち》が悪いんですけど、軌道に上がってからはずっと五分の一の重力になりますから、つらくはないと思います。そのあいだ、正面の仕切り板が天井になります。後ろの隔壁《かくへき》は床だと思ってください。トイレに立つときは前のポールにぶらさがるようにして移動します」
「ずっと座ってなきゃいけないの?」ユタが聞く。
「できればそうしててほしいんですけど……」
メイは苦笑《くしょう》した。
「大気圏《たいきけん》を出たら、席を離《はな》れてもかまいません。でもなるべく、急に頭を動かさないようにしてください。弱い重力があるから大丈夫《だいじょうぶ》だと思いますが、宇宙|酔《よ》いにかかることもあります」
「無重力にはならないの?」
「途中《とちゅう》、減速行程に入る前のほんの三十秒ぐらいそうなります。あと、港に入る前はたっぷり楽しめますね」
「減速に入ると、前が下になる?」
「ううん。機体を反転させて後向きに飛ぶから、それまでと同じよ」
「ふーん……」
「ああ、そうだ」
メイはロッカーから小さな缶《かん》を取り出し、サリバン夫人に渡《わた》した。
「ヘア・スプレーです。ゼロGだと髪《かみ》が大|騒《さわ》ぎになりますから、いまのうちに使ってください」
「ありがとう」
「ほかに、なにかご質問は?」
質問がないので、メイは外に出て車輪止めを回収した。タイヤの緩衝機構《かんしょうきこう》は深く沈《しず》み、積荷の重さをうかがわせていた。
機内に戻り、航法席についてハーネスを締める。航法席は操縦席の後ろ、右舷に向いて配置されており、首を伸《の》ばせばキャビンが見えた。三人とも、神妙《しんみょう》な顔で成行きを見守っている。
マージが核融合《かくゆうごう》エンジンを始動させた。全システム異常なし。
「じゃあ、これより発進しますから」メイが後ろに声をかけた。
シャトルは後向きにスロープを下った。湖面に出るとバーニア噴射《ふんしゃ》で機体を回転させ、湖の中央に向かう。
「前後方クリア。メイ、レーダーは?」
「おなじく、前後方クリアです」
「了解。離水《りすい》開始」
メイはシートを正面に向けた。
機関部で重低音が響《ひび》き、遠くの水鳥がいっせいに飛び立った。後ろでユタが「動いた!」と声を上げた。体がシートに押《お》しつけられる。
機体はみるみるうちに速度をあげて水面を離れ、浅い角度で上昇《じょうしょう》し始めた。いつもならここでマージは機首をほとんど垂直にするが、今回は慎重だ《しんちょう》った。花壇《かだん》が壊《こわ》れないよう、加速は床《ゆか》方向の重力より〇・二Gを越《こ》えないことになっている。速度が上がるにつれて惑星《わくせい》の重力は遠心力と相殺《そうさい》されてゆくので、加速も弱めなければならない。最初は一・二Gで加速できるが、惑星を離れる頃《ころ》には〇・二Gになるだろう。大気圏を出るまでに半時間近くかかるので、かなり効率の悪い飛行になるが、それも花壇のためとあらば致《いた》し方ない。
鉛《なまり》色の雲を抜《ぬ》けると、白銀の雲海が広がった。気がつくと、ユタが席を離れ、操縦室に半身を乗り出していた。まっすぐ前を向き、まぶしそうに目を細めている。加速に逆らって、仕切りを掴《つか》む指が白い。
「ユタ、まだ座《すわ》ってなきゃ」
「いいさ。こっちへ来るか」
ロイドが、振《ふ》り向いて言った。
「計器にさわらないと約束するなら、席を代わってやってもいいぞ」
「――する! 約束する!」
「よおし。ちょっと待ってろ」
ロイドはハーネスをはずし、副操縦士席から腰をあげた。あちこちのハンドルにつかまりながらキャビンに移動する。機体はごく浅い角度で上昇していたが、加速とあいまって床の傾斜《けいしゃ》は四十五度に等しい。入れ替わりにユタが木登りをするようにして副操縦士席にたどりついた。
「うわあ……」
展望が急にひらけた。雲はもう支配的な存在ではなくなっており、最も高い層にある巻雲《けんうん》でさえ、はるか足元にたなびいていた。その下の積雲は綿ぼこりのように見え、海面に落ちた影《かげ》とのわずかなずれが、どうにか立体感を与《あた》えている。
「気分は?」
「最高、マージさん! いまどれくらいの高さに来てるの」
「五万メートルぐらいね。速度はマッハ七」
「すごいや。……もう海に出たんだね」
「大陸なんかとっくに通りすぎたわよ。もうじき赤道に来るわ」
「うそ」
「ほんとよ。いまはキンドール湾《わん》の出口にいるの。左の半島――メイ、あれなんて言ったっけ?」
「クオディア半島です。地図を出しましょうか?」
「そうしてあげて」
計器|盤《ばん》のメイン・スクリーンに惑星全図が現れた。
「ほら、この白い線がこのシャトルの軌跡《きせき》でしょ。外と較《くら》べて」
ユタは地図と窓の外を見較べた。
「ほんとだ……」
マージがレバーのひとつをまわすと、ユタはすかさず質問した。
「それは?」
「トリム調整。さっきから旋回《せんかい》してるのに気づいてる?」
「いいえ」
「半径千キロだから、わからなくて当然だけどね。赤道の真上にくるように微《び》調整してるわけ」
「へえ……」
空は青を通りすぎて、濃紺《のうこん》に染まりつつあった。正面の窓は防眩《ぼうげん》機構が働いて黒く変色していたが、太陽がその向こうで混じり気のない白色光を放っているのはわかった。
「まだ星は見えない?」
「まわりが明るいからね。あと四十分くらいでフラードルの夜側に入るから、その時かな」
「ふうん」
「これからはいつでも見られるわよ。コロニーに行けばね」
「そうだね」
「ありがとうございます、ロイドさん」
サリバン氏が、隣《となり》にかけたロイドに言った。
「息子《むすこ》には一生の思い出になるでしょう」
「お安い御用《ごよう》です」
「実のところ、私も前に座りたい心境ですよ」
サリバン氏は照れ笑いをうかべた。
「息子さんと交渉《こうしょう》することですな。人生は椅子《いす》の奪《うば》い合いだってことを教えるチャンスですぞ」
「そりゃあいい。しかしまあ、今回はゆずっておきます」
それからロイドはサリバン夫人の顔を見た。夫人は無表情だった。
ちと、よけいな事をしたかな、とロイドは思った。
ロイドは夫人に言った。
「私らは、このへんの眺《なが》めを天の贈物《おくりもの》だと思ってます。大気と宇宙とのはざまにある、このあたりの眺めがいちばん美しい」
「ええ……」
「八|歳《さい》の子供が、これからどう変るかなんて誰にもわからんです。今はきれいなものや不思議なものをいっぱい見せてやるに限る……とまあ、そう思いましてね」
「そうかもしれませんわね……」
夫人は、表情を変えないまま、そう答えた。
緊急《きんきゅう》回線のブザーが鳴ったのはその時だった。
ACT・8 遷《せん》宇宙空間
マージの手はすばやく通信機に伸《の》びて、チャンネルを切り替《か》えた。
「こちらアルフェッカ・シャトル。緊急コール受信、どうぞ」
「こちらフラードル軌道《きどう》港。救助活動を要請《ようせい》したい。遭難船舶《そうなんせんぱく》はメネディア宇宙軍《うちゅうぐん》哨戒艇《しょうかいてい》ハーミズ、三百四十トン、乗員二名。機関暴走により操船不能。あと十三分で大気圏《たいきけん》突入《とつにゅう》の見込《みこ》み。貴船に可能なら乗員の回収に向かわれたい』
「了解《りょうかい》。ただちに救助プランを検討します」
「ユタ、席を代われ」
ロイドが後ろに来ていた。少年は弾《はじ》かれたように立ち上がった。ロイドと席を代わることで役に立てるなら、全力をあげてそうしようという思いらしい。
「哨戒艇の軌道要素が届きました。メインスクリーンに送ります」
メイが説明した。
「南極上空で大気圏突入します。向こうの速度は秒速十八キロ、突入角三十五・八度、現在は自由落下しています」
「早いわね。こっちはまだ軌道速度も出てないのに」
「あの、哨戒艇って大気圏航行能力はないんですか?」
「ここの宇宙軍のはないな。高度百キロを切ったら火だるまになるぞ」
「とりあえず、大気のあるうちにベクトルだけでも合わせるわ。メイ、哨戒艇の将来位置で、高度二百キロポイントを表示して」
「でも、二百キロからじゃ突入まで十秒もありません」
「いいから早く。相手は兵隊、十秒あれば充分《じゅうぶん》よ」
メイが航法|卓《たく》のキーボードを操作すると、スクリーンにマークが現れた。マージは空力|制御《せいぎょ》でその向きに機首を向けた。現在の高度は七十キロ。まだ希薄《きはく》な大気がある。シャトルにとってはなんでもない大気密度だが、宇宙空間専用の哨戒艇にとっては不可触《ふかしょく》の壁だった。
「ランデヴー軌道は設定した?」
「あの、現状ではランデブーはできそうにありません」
「どうして! 南極までほんの一万キロよ?」
「積荷のことを考えてください。〇・二Gを越えたら花壇《かだん》が」
「花……このさい花壇なんかどうなったっていいわ!」
マージの怒声《どせい》が響《ひび》きわたった。
「マ、マージさん!」
「そんな……」
後ろから、かぼそい声が返ってきた。
「どうでもいいって、そんな」
「人の命がかかってるんですよ、ミセス・サリバン!」
「それは、そうだけど」
「エレン!」
サリバン氏が言った。
「マージさんの言うとおりじゃないか。わがままはやめて、花と人命と、どっちが大事か考えてみろ」
「そ――」夫人は息をのみ、目を見開いた。
「そんな、あなたまで……」
「とにかく、これ以上そちらの感傷につきあってる暇《ひま》はありません!」
「マージさん、そんな言い方ってないです!」メイが叫《さけ》ぶ。マージはかまわずスロットルに手をかけた。
「ちょっと待て、マージ」
ロイドが止めた。
「もう一分だけ考えよう。メイ、他《ほか》に救助可能な船はいないのか」
「いません」
「いたら救助要請なんか来ないわよ! 早く加速しないと」
「マージ、花壇が崩《くず》れたらペイロードベイまで壊《こわ》れるおそれがある。ミイラ取りがミイラになっちゃかなわんぞ」
「そ――」
マージはぐっとつまった。
「だから……だからあたしは反対したのよ! 宇宙で暮らそうってのに、こんな花壇だなんて、ばかばかしい! 下に捨ててくればよかったのよ!」
「いいかマージ、今度そういう言い方をしたら――」
そこでロイドは凝固《ぎょうこ》した。
「それだ! メイ、もしコンテナを積んでなかったとしたらどうだ。最大加速で会合地点に向かうとして、あと何分|余裕《よゆう》がある!?」
「えと……三分二十秒です」
「よし」
ロイドは席を離《はな》れ、キャビンに向かった。ラックから自分の宇宙服をおろしながら言う。
「これからペイロードベイに行ってコンテナを切り離す。コンテナは軌道《きどう》に放置しておき、救助活動のあとに回収する。それなら思う存分加速できるだろう」
「でもまだ速度が足りないわ。コンテナだけならすぐ落下するでしょう」
「いえ、できます!」
キーを叩《たた》いていたメイが言った。
「いまからやれば、コンテナを仰角《ぎょうかく》三十度の弾道《だんどう》に乗せられます。それなら四十五分は飛びつづけます」
「四十五分……その間に哨戒艇《しようかいてい》を救助して、軌道一周後にコンテナを回収するってわけか……」
マージは考えた。フライを打ち上げた間に進塁《しんるい》するようなものだった。三Gの加速がフルにできるなら、不可能とは言えなかった。
「やってみる価値はあるかな」
ロイドはもう宇宙服に四肢《しし》を通していた。ヘルメットをかぶるまぎわに、ロイドは小声で言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、奥《おく》さん。花壇は完璧《かんぺき》に運んでみせます」
サリバン夫人はただ、肩《かた》をふるわせていた。
ロイドが外に出るあいだ、メイは連続する二つのランデヴー軌道を再計算した。まず赤道から南極に向かって、斜《なな》め上方にコンテナを投げ上げる。それから全力で加速し、哨戒艇とランデブーする。十秒以内に乗員を回収し、軌道修正。その頃《ころ》コンテナは放物線の峠《とうげ》を越え、ゆっくりと降下し始めている。シャトルは力まかせの加速で軌道を一周し、惑星《わくせい》裏側の赤道上空でコンテナに追いつく。火だるまになる直前に回収するとなると、作業に許された時間は四分しかない。
メイは計算結果をマージに見せた。
「コンテナの回収にどうしても二人いります。直前に私がペイロードベイに行きます」
「仕方ないわね。哨戒艇の乗員はあてにできないし」
「位置はシャトルのほうで合わせてもらえますか」
「ミリ単位でやってみせるわ。でも無理はしないこと。リトライしてる暇はないから、しくじったらすぐ離脱《りだつ》するからね」
「はい」
インカムから声が流れた。
『ロイドだ。いまペイロードベイに入った。通話チェック』
「感度良好。あと一分四十五秒」
『余裕だな。いまケーブルを抜《ぬ》いた。これから前のロックピンを外す』
「了解《りょうかい》。これからバーニア噴射《ふんしゃ》で上向きにも加速するわ」
『やってくれ。そのほうが動きやすい』
ロイドの息遣《いきづか》いは荒《あら》かった。
『いま前のロックピンを外した。後ろに移動する。……ほう、翼《つばさ》の前縁にハロが見えるな』
それは赤い、かすかな光だった。セントエルモの火のようにも見える。希薄な大気分子が絶え間なく衝突《しょうとつ》している証拠《しょうこ》だった。
メイは後ろの三人に言った。
「まもなく三Gで加速します。もういちどハーネスを確認《かくにん》してください。トイレに行きたい人はいますか?」
「三Gって、どんな感じ?」ユタが緊張《きんちょう》した顔で聞いた。
「自分と同じ背丈《せたけ》の子が、上に二人乗っかると思って。ちゃんと座《すわ》ってればそんなにつらくないけど、自由に歩きまわるのは無理ね。転んだだけで骨折するかも」
「わかったよ」
「メイさん、それからマージさん」サリバン氏が言った。
「人命優先でお願いします。少しでも危険があるなら、花壇のことはかまいません」
「大丈夫です。ちょっと忙《いそが》しいだけで、無理な計画じゃないんです。安心して見ててください」
メイは笑顔《えがお》をつくった。
『いま後ろのピンを外した。やってくれ』
「あなたは退避《たいひ》した?」
『後部|隔壁《かくへき》にしがみついてる。いつでもいいぞ』
「了解」
マージはバーニア噴射の方向を百八十度切り替えた。一瞬《いっしゅん》体が軽くなり、シャトルはわずかに下降した。コンテナは空間に取り残され、ゆっくりと上昇《じょうしょう》していった。
『いいぞ。うまく離れた。五つ数えたらエンジン全開にしろ』
「そっちはどうするの?」
『このままペイロードベイにいる。隔壁にへばりついてるから平気だ』
「……わかったわ。疲労《ひろう》したら正直に言ってね」
『そうするさ』
「メイ、タイミングは?」
「あと八秒以内、いつでもどうぞ」
「全員加速に備えて。全開噴射開始!」
ごう、と音がして体がシートにめりこんだ。
天井《てんじょう》の観測窓に小さく見えていたコンテナが、たちまち後方に引き離されてゆく。最初の一秒で十五メートル、次の一秒で六十メートル、その次は百三十五メートル。
鉛《なまり》のように重くなった腕《うで》をもちあげ、マージは哨戒艇との通信回線をひらいた。
「こちらアルフェッカ・シャトル、船長マージ・ニコルズ。哨戒艇ハーミズ応答願います」
返事はすぐに返ってきた。
『こちらハーミズ、艇長《ていちょう》ウェイン・ホートン。よく聞こえる』
「貴船の救助に向かっています。八分後、高度二百キロ地点でランデヴーの予定」
『かたじけない! しかし二百キロとはぎりぎりだな』
「接舷《せつげん》したら十秒で移乗してください。船外活動はできますか」
「ああできる。だが推進装置がない』
「なんとかペイロードベイに飛び込んで下さい。誘導《ゆうどう》係が一人います」
『了解。ではこれから外に出る』
「あまり船を離れないように。視認《しにん》しにくくなりますから」
『ああわかってる。終わったら一杯《いっぱい》おごらせてくれ』
「楽しみにしてるわ」
それからロイドに話しかける。
「ロイド、聞いてた?」
『ああ』
「念のため命綱《いのちづな》を用意してちょうだい。接近したらドアを全開するわ」
『わかった、まかせろ』
前方の瞬《またた》く光点を見たとき、マージは眉《まゆ》をひそめた。宇宙空間で物が瞬いて見えるとしたら、それは回転していると考えていい。
「ロイド、向こうはトンボ返りしてるわ」
『派手に暴走したらしいな。寄せすぎるなよ』
「ええ。そっちも命綱を引っかけないようにね」
『わかってる。あとどれくらいだ」
「一分で到着《とうちゃく》するわ。今からドア・オープンする」
マージはペイロードベイを開き、宇宙服の周波数で哨戒艇に話しかけた。
「こちらアルフェッカ・シャトル、聞こえる?」
『よく聞こえる。もうそっちが見えてる。急いでくれ、もう風圧を感じるほどだ』
「船が回転してるけど、うまく離脱《りだつ》してね」
『ああ。この遠心力を利用して離《はな》れる」
「離れたら、接線方向に飛ぶことは御存知《ごぞんじ》ね?」
『理科の時間に習ったさ。……そろそろだな。進行方向後ろ側にまわってくれ』
「了解」
シャトルはメインエンジンを切り、哨戒艇に背を向け、バーニア噴射で接近した。
『こちら、ペイロードベイのドアマンだ。そっちが見える。二人とも船首にいるな?』
『その通り。この反転で離れる。いくぞ、ジョシュ……三……二……一!』
マージは天窓を見上げた。白い宇宙服が二つ、空間に漂《ただよ》い出た。
高度は百キロを切っていた。すでに船殻《せんこく》を擦過《さっか》する風音が聞こえはじめている。
『いいぞ、このまま着地だ』
『そこのハンドルにつかまれ』
『ちくしょうめ、後ろ向きだ!』二人目が言った。
『大丈夫、今つかまえる。力ぬいてろ! よーしよし』
「ロイド、閉めていい?」
『ああ、いいぞ。閉めてくれ』
「ペイロードベイ・ドア閉鎖《へいさ》」
その時、モニター画像を見ていたメイが叫《さけ》んだ。
「哨戒艇接近! 接触《せっしょく》します!」
「総員加速待機!」
返事を待つ暇《ひま》はない。マージはスロットルを一杯に押《お》した。叩《たた》きつけるような衝撃《しょうげき》とともに加速が始まる。一瞬、天窓いっぱいに焼けただれたノズルが通過し、直後、インカムから悲鳴が聞こえた。
「ロイド! 聞こえる!?」
返事はなかった。
三人はペイロードベイのどこにいたのか。もし中央に浮かんでいたとすれば、この加速では四階の窓から飛び降りるのに等しい。
「ロイド! 誰か答えて!」
『……ああ、生きてるぞ、マージ』
マージは胸をなでおろした。ロイドの息は荒かった。
「ごめんなさい、哨戒艇が流されてきて――怪我《けが》はない? 二人は?」
『わしは平気だ。一人、派手に落ちた。……おい、無事か?』
『ジョシュ、しっかりしろ!』
『……あ、足が動かん。右が……』
苦痛をたたえた声だった。
「マージ、骨折してるかもしれん。宇宙服は大丈夫だ。まだ加速は切れんか」
「あと三十秒がまんして」
「聞こえたか。もうちょっとの辛抱《しんぼう》だ』
『ああ、聞こえた。待つよ……』
高度を取り戻《もど》し、噴射《ふんしゃ》を切ると、最初にロイドとジョシュが、次いで艇長がキャビンに入ってきた。サリバン家の三人はまだ補助席に体を縛《しば》りつけたままだった。その見開かれた目の前に、どやどやと宇宙服の男が三人現れたわけだった。
空中でジョシュの宇宙服をぬがせ、足の具合を見る。艇長《ていちょう》は応急手当の心得があるらしく、慣れた手つきで触診《しょくしん》をはじめた。まだ二十そこそこのジョシュの顔は、血の気が失《う》せていた。
「どうだ、痛むか」
「いや……そうでもない」
「ここはどうだ」
「いい、そこもいい」
髪《かみ》に白いものの混じった艇長は、ため息をもらした。それから破顔した。
「ジョシュ、この野郎《やろう》。大げさに騒《さわ》ぎやがって、こりゃただの脱臼《だっきゅう》だ!」
「脱臼……」
「いいかいくぞ。ハッ!」
艇長は手刀でジョシュの膝《ひざ》を打った。若い兵士は短く悲鳴を上げ、それから顔をゆるめた。右足を、ゆっくり動かしてみせる。
「……よくなった。動く。治りましたよ、艇長!」
「そうさ、もともと怪我なんかしてなかったんだからな」
「いやあ一時はどうなるかと思いましたよ」
「騒ぐなよ、軍人のくせして。こちらの操船を見たか? 民間のほうがよっぽど度胸があって腕《うで》もいい」
それから艇長は上半身を機長席のマージに向けた。
「そのままで結構です。私はメネディア宇宙軍第一|艦隊《かんたい》のウェイン・ホートン艇長。貴船の救助活動に感謝します。おかげで命拾いしました」
マージは椅子《いす》をまわし、手をさしのべた。
「どういたしまして。こちらは航法士のメイ、それとドアマン兼《けん》社長のロイド。後ろは乗客のサリバン一家です」
ひとしきり、握手《あくしゅ》をかわす。
「ところで、このシャトルはエリューセラ・コロニーに行くところですが――」
「なら好都合です。我々もエリューセラに向かうところでした。便乗させていただけますか」
「立ち席でよければ。せっかく苦労して乗っていただいたんですし」
「マージさん、もう加速しないと」メイが言った。
「そうね。みなさん、すみませんがそのへんの壁《かべ》に張りついててください」
加速が再開すると、仕切りから計器を見下ろしていた艇長が言った。
「つかぬことを聞きますが、この機動――宇宙レースの最中でしたか?」
「そんなとこです。壊《こわ》れ物を運んでいたので、いったん投棄《とうき》しました。これから回収に向かいます」
「それはそれは。何か手伝えることがありますか」
「HARE型コンテナを扱《あつか》ったことは?」
「運んだことならありますが、残念ながら積み下しは」
「なら、見物しててください。ロイド、もう一度出られる?」
「最近わしを年寄り扱いすることが多いようだが、今のわしは盛《さか》りのついた雄牛《おうし》だぞ」
「ならいいけど。メイ、ペイロードベイで襲《おそ》われないように用心してね」
「はい、気をつけます」
「なんだ、メイも出るのか」
「一人じゃ無理でしょう」
「そりゃそうだが……時間はあるのか」
「四分。一度できまらなかったらあきらめるけど――これも仕事だからね」
「そうだな」
やりとりを聞いていた艇長が言った。
「そちらも、台所はきびしいようですね」
「というと、軍もですか?」ロイドが聞いた。
「火の車ですよ。毎年のように国防費|削減《さくげん》でね」船長は吐き捨てるように言った。
「平和ボケってやつですか」
ロイドは適当に相槌《あいづち》を打ったが、相手は真顔だった。
「今度のトラブルも、もとはといえばそれです」
「整備不良ですか」
「ええ。コントロール・バルブがね。まずメインが吹《ふ》きとんで、そのフラッターで予備までいかれました――想像ですがね。今となっちゃ調査もできません」
「バルブですか……。しかしそういう事情だと、整備隊を責めるのもはばかられますなあ」
「悪いのは議員連中ですよ。やりもしない戦争準備に金を出す必要はないなんて言う。宇宙軍ってものがわかってないですよ。軍は存在し続けることに意義がある。そのためにどれだけ金がかかるかってことです。ろくな整備もできずに宇宙船が飛びますか。飛ばなきゃいいって奴《やつ》までいるが、あたりまえの哨戒《しょうかい》から宇宙ゴミの撤去《てっきょ》まで、ポートパトロールの管轄《かんかつ》外は全部軍がカバーしてるんだ。船を維持《いじ》する金ぐらい出なきゃ、やってられませんよ」
艇長は今になって、船を失った怒《いか》りがこみあげてきたようだった。
「議員の連中を、ガタのきた船に乗せてやりたいですよ。三Gかけてるさなかに、タービンの異常|振動《しんどう》が始まったらどんな心地か――。連中はねえ、船が故障したら宇宙服着て外へ出て、ぶかぶか浮かんで救助を待てばいいと思ってるんですよ」
「そうじゃないんだね」
キャビンから、ユタが加わった。子供の声を聞いて、ホートンは声をやわらげた。
「さっきのでわかったろう、坊《ぼう》や。脱出《だっしゅつ》したって速度は船と同じさ。秒速十八キロで岩のような大気に突《つ》っ込む。熱いと思うひまもないね」
「ふうん……」艇長はユタのほうを見た。
「君は地上育ちか」
「わかる?」
「座《すわ》り方やなんかでね。もっと力を抜《ぬ》かないと、筋肉痛になるぞ」
「すぐ慣れるよ。コロニーに引っ越《こ》すんだ。しょっちゅう宇宙船に乗るから」
「そうか。ならまず宇宙服の扱いをおぼえることだな。学校でやるが、半年に一度の訓練じゃ不足だからね」
「うん。憶《おぼ》えとくよ、キャプテン」
半時間後、惑星《わくせい》を一周して落下中のコンテナに追いつくと、メイはキャビンに行って自分の宇宙服に着替《きが》えた。
作業服を脱《ぬ》ぐと、その下はぴったりしたアンダースーツなので、できれば他人の前では着替えたくなかった。相手が礼儀《れいぎ》正しく視線をそらしてくれたとしても、漂《ただよ》う体臭《たいしゅう》までは隠《かく》せない。だが、可能な限りの空間をペイロードベイにまわしているシャトルでは、更衣室《こういしつ》を期待するわけにもいかなかった。かつてこの悩《なや》みを、こっそりマージに相談したことがあったが、返事は「慣れることね」の一言だった。
ヘルメットをかぶり、装置のチェックをすると、メイはロイドとともにエアロックで待機した。
「こちらメイ、いまエアロックです。通話チェック」
『感度良好』
『こちらロイド、あと何分だ』
『一分ちょっと。ランデヴーしたらこちらでゴーを出すわ』
『了解《りょうかい》』
少しして、マージが合図した。二人は外に出た。
雲をちりばめた青い惑星が、頭上にのしかかっていた。無重量状態なのになぜ惑星を上にあると感じたのか、よくわからなかった。いずれにせよ、コンテナもシャトルも秒速七キロで落下していることに変りはない。あと四分で、大気との接触《せっしょく》がはじまる。希薄《きはく》な高層大気との衝突《しょうとつ》はすでに始まっており、四分後にはそれが手に負えない高熱を引き起《お》こすのだった。
顔をあげると、コンテナは百メートルほど先に浮《う》かび、ゆっくりと回転していた。
まずこの回転を止めなければならない。メイは既視感《きしかん》をおぼえた。ほんの二時間前、同じ作業を地上でやったばかりだった。今は無重量状態だが、四十トンの質量がもつ慣性は変らず存在する。
ペイロードベイの後ろに行き、命綱《いのちづな》をつないで待機する。ロイドは前部にあるマニピュレーター・アームの先につかまった。それは蚊《か》の足のように細い遠隔《えんかく》操作の腕で、今回のような重い荷物を動かすことはできない。しかし、その弾力性を利用してコンテナの回転を止めることはできるはずだ。
『いまアームを抱《だ》いてる。いいぞ』
二つの関節を持つアームが伸《の》び、同時にシャトルも動き始めた。シャトルはコンテナの前方にまわりこみ、すでに矢のように降り注いでいる空気分子からコンテナを守った。メイはクロノグラフを一瞥《いちべつ》した。エアロックを出てからもう一分|経《た》っている。
『あと十メートル……七メートル……速度半分……停止!』
ロイドの右手がコンテナの角のハンドルをつかんだ。木こりが梢《こすえ》から梢に渡《わた》るように、アームを引き寄せ、ハンドルをつかませる。四十トンのコンテナは、すぐには止まらなかった。細いアームは、不気味なほどにたわんだ。ロイドはコンテナの挙動を見守った。回転が止まったと見えた瞬間《しゅんかん》、ロイドは怒鳴《どな》った。
『放せ!』
アームがコンテナから離《はな》れた。アームはもとの位置に折り畳《たた》まれ、ロイドはペイロードベイの前端《ぜんたん》にとりついた。コンテナはほぼ静止状態になった。
『ローテーション二度。もうちょい!……いいぞ、寄せろ!』
シャトルがコンテナに接近《せっきん》する。
『前、そのまま。メイ、指示だせ!』
「後ろ、右へ五十センチ」
『前、そのまま。距離《きょり》三メートル』
「後ろ、そのまま」
シャトルはこつ、こつ、と小刻みに噴射《ふんしゃ》した。
『前を先に通す。あと一・五メートル』
「後ろ、二十センチ高いです。そのまま」
『前、ピンまで三十センチ。右へ五センチ……いいぞ、そのまま!』
数秒後――『前、ロック!』
「後ろ、そのまま。どうぞ!」
こつり。床《ゆか》が持ち上がる。
その時メイは、コンテナがわずかに左に回転しはじめたのに気づいた。前端を固定されたために、残っていたわずかな運動量がその向きに自由を求めたらしい。
回転はごくわずかだった。すでに前端がロックされた今、下手にシャトルを動かすとかえって暴れるかもしれもない。メイはとっさに側面《そくめん》にまわりこみ、コンテナを押《お》し戻《もど》そうとした。
コンテナはびくともしなかった。
メイは全身に力をこめた。逆に体が押し戻された。バックパックが側壁にふれる。
コンテナは止まらなかった。両腕《りょううで》が降伏し、胸が圧迫《あっぱく》される。
「――!」
危険を感じた時は、声が出なくなっていた。肋骨《ろっこつ》がきしみ、上半身に激痛が走った。
コンテナは止まらない。マージの声がした。
『後ろ、どうなった?』
『メイ、どうした――』
気が遠くなりかけたとき、目の端《はし》にロイドのヘルメットが見えた。
『船尾左! メイが挟《はさ》まれた!』
ロイドが怒鳴った。シャトルはただちに反応した。
コンテナの動きが止まり、後退に転じた。
『止めろ! いま引きずりだす』
両肩《りょうかた》にロイドの手がまわり、メイの体は持ち上げられた。
『メイ、返事しなさい!』
『おい、しっかりしろ!』
ヘルメットのスピーカーがやかましく呼び立て、体がゆすぶられる。肺に空気が戻った。
「……す……すみません……大丈夫《だいじょうぶ》」
『折れてないか?!』
「……大丈夫です。早く……回収しないと」
『本当にいいんだな? 吐《は》き気はしないか?』
「ありません、ほんとに大丈夫です!」
ロイドはメイを抱いたまま、コンテナの背後にまわった。メイは後部|隔壁《かくへき》のハンドルをつかんだ。ハンドルから伝わるかすかな振動を感じて、メイはおののいた。
もう大気圏《たいきけん》突入《とつにゅう》が始まっている!
すでに翼端部《よくたんぶ》のバーニアはゼロGを維持《いじ》するための上方噴射を続けていた。機体が高温のプラズマに包まれるまで、もう一分もない。
『マージ、メイは良さそうだ。コンテナは投棄する。これから前にまわってピンを抜《ぬ》く』
『了解、急いでね』
「だめ!」
メイはロイドの腕をつかんだ。
まだ頭がくらくらしていたが、腹にありったけの力をこめて叫《さけ》ぶ。
「捨てる時間があれば回収できます!」
『もう無理よ。コンテナを捨てて離脱《りだつ》しなきゃ!』
「まだいけます。コンテナの後端《こうたん》は左二十センチ、高さ五十センチでほぼ静止。始めてください!」
『メイ!』
「マージさん、始めてください。これは命令です!」
『しょうがない、マージやれ。間に合うかもしれん』
マージは口論で時間を浪費《ろうひ》しなかった。こつり。
『いいぞ、真上にきた。そのまま上げろ!』
こつり。
『もう一発』
こつり。
『ガイドピン、クリア……そのまま……ロック完了《かんりょう》!』
『二人ともつかまって。ペイロードベイ緊急閉鎖《きんきゅうへいさ》、加速開始!』
メイとロイドは後ろの隔壁につかまった。
体重の五分の一がよみがえった。弱いとはいえ、加速度をこれほど頼《たの》もしく感じたことはなかった。
シャトルの降下はなおも続き、たちまち二千度近い熱に包まれたが、その時にはドアが閉じていた。危険な弾道《だんどう》から脱出《だっしゅつ》したシャトルは、一秒ごとに高度を取り戻していった。
十分後、安全な高度に達したところで二人はキャビンに戻った。
通信を聞いていたサリバン家の三人は、蒼白《そうはく》な顔でメイを出迎《でむか》えた。
心配顔に取り囲まれたメイは、少なくとも二十回ほど「大丈夫です」を繰《く》り返し、最後には「いいからそっち向いててください!」と叫ばなければならなかった。
周囲の声とは裏腹に、メイは英雄《えいゆう》ではなかった。わずかな判断のミスで、死に直面しただけだった。
みじめな思いで宇宙服をぬぐと、ひどく汗臭《あせくさ》かった。
航法席に戻って一息つくと、メイは現在の軌道《きどう》と燃料の残りをつきあわせた。
救助活動のために一時間ほど寄り道したが、輸送ミッションは継続《けいぞく》できるだろうか。
「……ずいぶん浪費しましたけど、まだ大丈夫ですね。フライトは続行します」
「よおし。〇・二Gの飛行だからって、燃料|搭載《とうさい》をけちらなくてよかったな」
ロイドは満足げに言った。
「加速が低ければ低いなりに、軌道|変更《へんこう》がたいへんだと思って」
「そのへんはさすがね」
マージに言われて、メイは照れ笑いをうかべた。彼女の評価が得られるのはめったにないことだったから、かえって心配になった。これまでの作業をおさらいするうちに、ひとつ思い当たった。
「あの……コンテナを放出してから、内部温度はどうなったんでしょう? 極軌道だったから、ずっと日照があったはずですが――」
メイはコンテナの塗装《とそう》を思った。ベースは白だが、幅《はば》広いネイビーブルーのストライプがあったはずだ。それは太陽|輻射《ふくしゃ》をかなり効率よく吸収するだろう。シャトルと切り離《はな》されたあとは温度調整がきかない。花壇《かだん》が蒸焼《むしや》きになっている可能性もある。
「記録が残ってるはずよ。フライトレコーダー再生で『ペイロードモニター』を選択《せんたく》」
メイは言われたとおりに操作して、スクリーンにコンテナの内部温度のグラフを表示した。離昇からしばらく二十二度が維持《いじ》され、それから四十五分の欠測がある。計測が再開したときの温度は――
「三十四度……すぐにもとに戻ってますが」
「それぐらいならいいと思うけど……」
マージは判断しかねて、ちら、とサリバン夫人のほうを見た。夫人はうつむいていた。
マージはさっきの口論を思い出したらしかった。国交回復には絶好の機会だったが、マージは口をつぐんでいた。
代わりにメイが声をかけた。
「あの、エレンさん……エレンさん?」
「ん? 様子がおかしいぞ」ホートン艇長《ていちょう》が壁際《かべぎわ》から離れ、夫人の前に行った。
「母さん、どうしたの?」隣《となり》の席でユタが肩《かた》をゆする。
「エレン、どうした。気分が悪いのか?」
サリバン氏がハーネスを解いて夫人に寄り添《そ》う。
「どうしたエレン。うん?」
夫人はかすれた声で言った。顔に血の気がなかった。
「……すみません……ちょっと、めまいが……」
「早く言わなきゃだめじゃないか! あの――」
メイがロッカーから救急箱を取り出した。
「吐《は》き気はしますか?」
「少し……」
「貧血か鬱血《うっけつ》のどっちかだろう。だいぶGがかかったからな」艇長が言う。
「エレンさん、アレルギーはお持ちですか?」
「いや、家内にはないよ」
「とりあえず万能|酔《よ》い止めでいいだろう。眠くなるほうだ」ロイドが言う。
メイは夫人の肩のハーネスをはずした。それからカップに水をくみ、酔い止め薬のカプセルを差し出した。
「これ、飲んでください」
「何……そのぶよぶよしたの……」
「水です。低重力でふくらんで見えるだけです。さあ」
夫人は顔をしかめた。メイはなかば無理やりカプセルを口に押《お》し込み、水を飲ませた。
口の端《はし》から水滴《すいてき》がすこしこぼれて、ゆっくりと隔壁《かくへさ》に落ちていった。
メイは、不透明《ふとうめい》なシリコンラバーの袋《ふくろ》を手渡《わた》して言った。
「こらえずに、いつでも使ってください」
夫人はかすかにうなずいた。
メイは後部隔壁に立ったまま、しばらく様子を見守った。
夫人はやがて目を閉じた。
それから七時間、静かな飛行が続いた。
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第三章 スペース・コロニー
ACT・1 北極ポート
ゆるやかな減速行程が終わったとき、起きていたのはメイとマージ、それにユタだけだった。あれからまた、ロイドはユタに席をゆずり、自分は後ろでいびきをかいていた。
メイは乗客を起こそうと、席を立ちかけた。
「あたしが起こしてあげようか?」
マージが言いながらスロットルに手をかける。メイは趣味《しゅみ》の悪い冗談《じょうだん》だと思った。
「結構です」
メイはキャビンに入り、みなさんまもなく到着《とうちゃく》です、と告げた。夫に続いて、サリバン夫人も細く目を開けた。
「まもなく到着です。ご気分はいかがですか?」
「……着いたのね。あら?」
夫人はけげんな顔で手足を動かした。
「まだ港の外で、無重量状態です。気分のほうはいかがですか?」
「……よくなったみたい」
「よかった。ゼロGのうちは、頭を急に動かさないようにしてください。でないと、また酔《よ》うかもしれません」
「ええ、気をつけます」
それから夫人は前方の窓を見た。遠くに青い半月が、ぽっかりと浮《う》かんでいた。
「あれ、もしかして……」
「フラードルです。もう三十万キロ離《はな》れてますね」
「遠くに来たのね」
「でも、電話もかけられるし、一Gの客船なら片道三時間です。いつでも帰れます」
「……もうたくさん」
「え?」
「宇宙船はもうたくさん」
メイはどう答えたものか、とまどった。いきなり貨物機に乗せられて、あのむちゃくちゃな加速を体験させられたあとでは、無理もないところだが。
夫人はたずねた。
「コロニーは」
「減速のために後ろ向きに飛んでいたので、これから見えてきます。入港まで十分くらいです」
「そう」
夫人はなおも、自分の生まれ育った惑星《わくせい》を見つめていた。
メイが席に戻《もど》ると、マージは機体を反転させた。フラードルが下方に去り、明るい星がいくつか流れる。少しして、幕を引きおろすようにエリューセラ・コロニーの全景が現れた。
「へえ……」
ユタは興味|津々《しんしん》の面持《おももち》で、その観察に集中した。
最も重要に見える構造物は、中心に横たわる巨大な円筒《えんとう》だった。表面は陶器のように白く、すべすべしている。両端《りょうたん》は半球形をしていて、スライスする前のハムのようだった。
円筒の一部は細いガラス張りになっていて、一端からもう一端へ切れ目なく続いている。ガラス越《ご》しに円筒内部の都市が見えるはずだったが、青緑色のなにかがある以外は、判然としなかった。
円筒の右端《みぎはし》からは、薄《うす》く平らなリボンが三枚、互《たが》いに百二十度ずつ開き、円筒を取り囲むようにのびていた。ちょうど骨が三本しかない傘《かさ》を半開きにしたようだった。
「メイ、あれ何? あの三つあるのは」
「集光ミラーね。内側が鏡になっていて、太陽の光を中に反射するようになってるの」
「あれ、鏡なのか……」
ミラーの内側は背後の宇宙を反射して黒く見えたが、ところどころにモザイク状の模様が見えた。集光ミラーは円筒とともに、ゆっくりと回転していた。
コロニーの周囲には、蛍《ほたる》の群れを思わせる無数の光点が浮かんでいた。動くものも、静止しているものもある。
「まわりに浮いてるのは? 隕石《いんせさ》かな」
「ううん、あれは宇宙工場と連絡船《れんらくせん》」
「……あれが?」
「そのぶんだと、まだ距離感《きょりかん》つかめてないのね」
「そうかな」
「右寄りの明るいの、どれくらいあると思う?」
「二〜三メートルかな」
メイはくすりと笑った。
「レーダーによると、三百メートルはあるよ」
「うそ!」
「ほんとよ」
「じゃあ……」
ユタはようやくコロニーの規模を実感することができた。それが直径八キロ、全長三十八キロあり、三百万人が暮らしていることは知っていたが、これまではただの数字でしかなかった。コロニーはすでに視野のすべてを占《し》めており、手を伸《の》ばせば届きそうなほどだったが、その間の空間にはなおも数隻《すうせき》の宇宙船がいるのだった。
白亜《はくあ》の壁《かべ》が右から左へと流れはじめ、シャトルが円筒の一端に向かっているとわかると、ユタは質問を再開した。
「メイ、入口はどこ?」
「北極点にあるわ」
「北極?」
「そう。ミラーの付け根になってるほう。ミラーつきのコロニーって、パラボラアンテナみたいに、いつも太陽のほうを向いてるでしょう。それで、ずっと影《かげ》になってるほうを北極半球っていうの。寒いから」
「じゃあ、反対側は南極?」
「まちがい。いつも陽《ひ》があたって暑いから、赤道半球っていうの」
「ふーん。そこって中も暑い?」
「ううん。コロニーの居住区はみんな同じ温度に保たれてるよ」
「一年中、同じ温度なの?」
背後から、サリバン夫人がたずねた。
「いいえ。ミラーを調節して、四季が作ってあるはずです。夏も冬も、人間に快適な範囲《はんい》ですけど、植物が育つのには問題ないはずです」
「そう」
「コロニーのなかは、木や草花もいっぱいあります。生態系を維持《いじ》するために必要だから、大切に育てられてるんです。勝手に摘《つ》んだりしたら、たいへんなことになります」
「そう」
「ユタ、これからが面白《おもしろ》いんだが――後ろに戻ってくれ」
「わかりました、ロイドさん」
ユタは素直《すなお》に席をあけわたした。
管制室との交信が始まった。
「こちらミリガン運送アルフェッカ・シャトル、エリューセラ管制、入港許可願います」
『アルフェッカ・シャトル、マークA12で待機されたい』
「了解《りょうかい》」
マージは見えない電波信号でしるされたポイントにシャトルを移動させた。
そこは北極半球のほぼ真上にあり、三枚のミラーの付け根がよく見えた。コロニー全体が、ゆっくりと時計まわりに自転しているのがわかる。
隣《となり》あったエリアには、数隻の宇宙船が入港を待っていた。
「ずいぶんたまってるわね」
「ふむ……」
ロイドは半キロ先のドッキングベイに目をこらした。
「ありゃあ、軍の輸送部隊か?」
「マージさん、時間かかりそうですか?」メイが聞く。
「さあ」
「これ以上|遅《おく》らせたくないんです。花が痛みます」
「かけあってみる?」
メイはうなずき、自分のマイクで管制室に呼びかけた。
「こちらアルフェッカ・シャトル。積荷が生花なので、優先順位を考慮していただけませんか?」
『アルフェッカ・シャトル了解、少し待て』
数分後、管制官の返事がきた。
『アルフェッカ・シャトル。宇宙軍の輸送船団入港中につき、いましばらく待機されたいとのことです』
「いましばらくって、どれくらいですか?」
『えー、二時間と少々かかるそうです』
「そんなの困ります。なんとか割り込めませんか」
『しかし、軍のほうが先約ですから。そちらは延着でしょう』
「延着にはちゃんとした理由があるんです!」
『こちらとしては、運航計画どおりに来る船を優先するしかありません。以上』
管制官は一方的に通信を切った。
「ちょっと代わってもらえるかな」
唇《くちびる》を噛《か》むメイに、ホートン艇長《ていちょう》が言った。
「我々のせいで延着したんだからね。これ以上借りをつくりたくないよ」
ヘッドセットを渡《わた》すと、艇長は通信機のチャンネルを軍の公開回線に切り替《か》えた。
「こちらメネディア宇宙軍第一|艦隊《かんたい》第十一任務群所属、哨戒艇《しょうかいてい》ハーミズ艇長ウェイン・ホートン少尉《しょうい》。現在入港中の輸送部隊の責任者を出していただきたい」
三十秒ほどして、応答があった。
『こちら第四輸送隊隊長エリク・クラウゼン中佐。哨戒艇ハーミズと聞いたが?』
「そのとおりです、中佐。さきほど地獄《じごく》の一丁目から帰還《きかん》したところです」
『災難だったな。それで要件はなんだ』
「私と部下を救出してくれた民間船が、至急入港したいそうです。彼らは我々のために延着したわけです」
『……なるほど。そういうことなら道をゆずるしかあるまいな。よろしい、こちらから運航部に話を通そう』
「ありがとうございます、中佐」
通信を終えると、艇長は言った。
「命の恩人に、今はこんなことしか返せないが――」
「いえ、とってもうれしいです。助かりました!」
「おー、さっそく動いたぞ」
ロイドが言った。
ドッキングベイの軸線《じくせん》上でコロニーと同期して回転していた輸送艦が、その動きをとめ、一方に移動した。次いで管制室から入港許可がおりる。
「こりゃいい気分だわ」
マージがにんまりして、バーニア噴射《ふんしゃ》をかけた。
三千トン級の輸送艦がずらりと並ぶ横を、シャトルは静々と前進した。
「……ずいぶんな数ですな。演習でもやるんですか?」
ロイドが艇長に聞いた。
「ええ。もうじき演習がありましてね。かなりの規模になります」
「しかし、資金難なのに大変でしょう」
「ようやくできた、ということですよ。意外に思われるでしょうが、我々の海兵部隊がコロニー内|戦闘《せんとう》の演習をするのはこんどが初めてです。コロニーもこう大きくなると、立派な国土です。それがわずかな戦力で簡単に制圧されてしまうとなると、ほうっておけませからね」
「なるほどねえ」
「演習って、中で大砲《たいほう》撃《う》つの?」ユタが聞いた。
「少しはね。しかし危険はないよ。まだ入居の始まってない第三工区でやるし、砲弾《ほうだん》は一定距離を飛ぶと四散するしくみになってる。VTOL戦闘機《せんとうき》がとびまわってうるさいかもしれないがね」
「あの中を飛行機が飛ぶんですか?」
サリバン夫人が驚《おどろ》いて言った。
「おや、ご存じなかったですか。このシャトルだって中まで入るんでしょう、引越しなら」
「え……」
夫人は知らなかったようだった。メイが説明した。
「そうなんです。北極ポートから引越し先まで二十キロありますから、シャトルでそばの空港に降りた方が早いんです」
空港と言っても恒久的《こうきゅうてき》なものではない。コロニー内の工事が終わるまではやたら搬入《はんにゅう》物資が多いので、円周方向にそった道路を利用するのだった。
シャトルのような大気圏《たいきけん》内を航行する能力のある船は、港での貨物|転換《てんかん》の混雑を避《さ》けて直接内部に進入することが多い。内部は閉鎖《へいさ》生態系なので必要以上の噴射は禁じられているが、この時代の核融合《かくゆうごう》推進は噴射速度が大きいぶん、ごく小量の推進|剤《ざい》しか排出《はいしゅつ》しない。推進剤はこの場合水素を使うが、大気中で水に変るので、いたって清潔だった。わずかに生成される窒素《ちっそ》酸化物は、還元《かんげん》装置で楽にカバーできる範囲《はんい》だった。
「もし墜落《ついらく》して穴が闘いたりしたら、危険じゃありませんか」
「いいえ、今のコロニーは見かけよりはるかに強靭《きょうじん》です。たとえ戦闘機が超音速で激突《げきとつ》しても、穴があくことは絶対にありません。あの、ガラスのように見える部分でもね」
「でも、人家の上に落ちたりしたら――」
「演習地はいちばん近い市街からでも十キロ離れてます。心配いりませんよ」
「そうだといいけれど……」
夫人はまた顔を曇《くも》らせた。
「君も心配|症《しょう》だな、エレン。演習だって毎日あるわけじゃないし、終わってみればなんてことはないさ」
サイパン氏が言う。夫人は口をつぐんだ。
正面に長方形のドッキング・ベイが近づいてきた。シャトルはすでに、コロニーの二分周期の自転に同期しており、背後の宇宙のほうが回転して見える。
外側のゲートを通過して、明るく照明された内部に入る。大小の格納庫のような区画のひとつに入ると、背後でシャッターが閉じた。宇宙服を着た作業員が機体を床《ゆか》に固定する。
すぐに低い、海鳴りのような音が響《ひび》いてきた。空気が満たされているのだった。いわばここは、宇宙船用のエアロックだった。
外が呼吸可能な気圧になると、マージはペイロードベイ・ドアを開いた。メイはキャビンに移ってエアロックを開いた。ちょうどボーディング・ブリッジが近づいてくるところだった。
ボーディング・ブリッジの先端《せんたん》に、作業服を着た男がつかまっていた。
検疫官《けんえきかん》はゼロGのなかを、慣れた仕草《しぐさ》でこちらに飛び移った。
「MDの方は?」
「私です」
男は、ほう、という顔をしたが、何も言わなかった。運航票やその他の書類を渡《わた》すと、検疫官は手際《てぎわ》よく内容をあらためた。
それから二人はペイロードベイに移り、コンテナのドアの前に来た。
メイは緊張《きんちょう》した。
まだ、中身がどうなっているか確かめていない。大きな重心移動がなかったことは計器でわかっていた。しかし、もし蒸焼《むしや》きにでもなっていたら――。
検疫官がドアを開いた。
むせかえるような甘《あま》い香《かお》りが二人を包んだ。暗い、洞穴《ほらあな》のような内部に照明がともると、花壇《かだん》の姿が浮《う》かび上がった。
無事だった。どの花も、ぴんと茎《くき》をのばしている。メイは胸をなでおろした。
「じゃ、拝見しますので」
検疫官がコンテナの中に漂《ただよ》い入った。腰《こし》から検査器を抜《め》き、数歩ごとにセンサーを土に突《つ》き刺《さ》して表示を見る。
「土壌《どじょう》はいいですね。そこの列はインパチェンスですか?」
「えと、そうです」
「ならいいです。規則で殺虫|剤《ざい》を噴霧《ふんむ》しますが、よろしいですか?」
「強いものですか」
「無資格で使える、ごく弱いものです。家庭用と同じです」
「なら、かまいません」
検疫官はコンテナを出ると、ドアの隙間《すきま》から小さなカプセルを投げ込んだ。
「二分で気化します。三十分はドアを開けないでください」
検疫官は書類にサインして、メイに返した。
「では検疫は終わりましたので、インナー・ゲートへ進んでください」
ACT・2 円筒《えんとう》世界
前方のシャッターが開くと、その先は薄暗《うすぐら》い、大型|戦艦《せんかん》がらくに通れそうなトンネルだった。遠くに明るい出口が見えていた。
「全員、ベルトしたかな?」
「OKです、マージさん」
「それじゃ出発」
固定を解かれたシャトルは、ふわりと床《ゆか》を離《はな》れ、自動車並の速度で前進を開始した。
トンネルはコロニーの、目に見えない自転軸《じてんじく》上にあった。そこでは遠心カ――重力に相当するもの――が働かない。空気はあるが、ここなら普通《ふつう》の宇宙船でも航行できるだろう。
速度が遅《おそ》すぎて翼《つばさ》の舵《かじ》が効かないかわり、弱いバーニア噴射《ふんしゃ》だけで思いのままに移動できる。
トンネルを出ると、ぱっと機内が明るくなった。
背後で息をのむ気配があった。振《ふ》り向くと、ユタは目をまん丸に見開いて、前方の光景に見とれていた。メイは手招《てまね》きした。
「こっち、来ていいよ」
ユタはいらだたしげにベルトをほどき、大急ぎで前に飛び込んできた。
メイの座席のヘッドレストにつかまり、この万華鏡《まんげきょう》のような世界を、呆《ほう》けたような顔で眺《なが》め続けた。
シャトルは自転軸にそって自動車なみの速度で進んでいた。下界までは四千メートルあり、中距離旅客機《ちゅうきょりりょかくき》の巡航《じゅんこう》高度に等しい。
だが、この円筒の内面にひろがる世界において「下界」とはどこをさすのだろうか。
すぐに受け入れられるのは、たまたまシャトルから見て下向きの部分だった。
首をめぐらせると地表は次第《しだい》にせりあがり、垂直の壁《かべ》となって真横をとおり、ついには大寺院のような天井《てんじょう》に達する。そのいずれの場所にも、低く綿屑《わたくず》のような雲が浮かび、その先に森や道路や、タイルを敷《し》き詰《つ》めたような住宅地が見えるのだった。
地表のかなりの部分はそり返った青い海面にしめられており、軸方向に並ぶさざ波が白くちらちらと輝《かがや》いていた。すべてが遠心力によって円筒の内面に張りついていることはわかっていたが、その海がなぜこぼれ落ちないのか、いつまでも感性が拒否《きょひ》していた。
円筒の三方には、細長い透明《とうめい》の採光窓があった。その向こうには真っ黒な宇宙と、集光ミラーらしさものが見える。採光窓の最も近い部分にはミラーで反射された太陽が強く輝き、風防の防眩《ぼうけん》機構が働くほどだった。
「すごく明るいね……窓」
「あそこで光を絞《しぼ》ってるからね」
メイは採光機構を簡単に説明した。
ここでは太陽光は平行していない。採光窓は無数の短冊状《たんざくじょう》のプリズムからなっていて、集光ミラーが六倍に圧縮した光をもとどおりに拡《ひろ》げているのだった。
「どうしてそんな面倒《めんどう》なことをするの?」
「光が平行のままだったら、地面と同じ広さの窓がいるでしょう? 窓に土地をとられたらもったいないよね」
「あ、そうか」
「この自転軸のあたりはまだ光が濃いし、三方から照らされるからオーヴンの中にいるみたいなの。たぶん、翼《つばさ》の上でオムレツが焼けると思うよ」
「へえ……」
前方に目を向けると、白くかすんだ三十キロの大気の向こうに、赤道側の半球が見えた。
半球の中心は生地《きじ》のままだったが、外周部分は不規則な形の岩盤《がんばん》で覆《おお》われていた。
「向こうはまだできてないね。岩のままみたいだ」
「うん。あっちは第三工区って言って、まだ工事中ね。でも岩みたいなのは後からわざわざ作ったとこ。山登りができるようにね。赤道山脈って言うの」
「僕も行けるの?」
「工事が終わったらね」
「ふうん……あれ?」
ユタはロイドの席のヘッドレストにつかまって体を浮かせていたが、ふと気づくと、爪《つま》先が床にふれていた。
やがて膝《ひざ》が体重を感じはじめた。
「重力、戻《もど》ってきたみたいだ」
「地表に近づいてるからね。地面に近いほど重くなるの。前に説明したよね」
「あ、そうか」
降下のあいだ、シャトルは横滑《よこすべ》りしているような気がしたが、それは本当だった。
大気は円筒《えんとう》内の空間とともに回転しており、この世界に立つ者から見ればほとんど静止している。だが外から見れば、中心は依然《いぜん》静止しているものの、地表は時速七百キロ以上で回転していた。自然はいつもエネルギーの帳尻《ちょうじり》を合わせようとするので、上下に移動するときはその速度差ぶん、どこかで貸し借りをつけなければならなかった。結果として高度を下げると機体は自転と逆方向に流され、逆に高度を上げると自転方向に流される。渦潮《うずしお》や台風の渦を一定方向に向けているのと同じ、コリオリ力の働きだった。
コリオリ力の作用は本物の重力に支配された惑星《わくせい》上では目立たないが、この遠心力によって成立している世界では歴然としており、操縦するマージもそれに逆らおうとしなかった。たとえ人工の世界であろうと自然法則は居座《いすわ》りつづけるので、逆らっても得することはないのだった。
「じゃあユタ、そろそろ着席してちょうだい」
ユタは我に返って、キャビンに引き返した。
まもなく、小さな揺《ゆ》れがはじまった。低い空ほど気圧が高くなり、気流も生まれやすいらしい。
シャトルは速度を上げて滑空《かっくう》降下しながら、円周と正対する向きに進路を変えていた。
それはエスカレーターを逆向きに進むようなもので、機体に働く遠心力を打ち消すことになった。もし速度が七百キロになれば重力はゼロになるが、だからといってヘリコプターのように着陸することはできない。地面が七百キロで後方に流れているから、結局|滑走路《かっそうろ》が必要になる。
円周にそった滑走路は二つの採光窓に区切られ、七キロもの長さをもっていた。
重い荷物を背負っているにもかかわらず、シャトルは二百キロに満たない速度で、羽毛のように着地した。
駐機場《ちゅうきじょう》に入ると、いつものようにメイは先に降りて機体を誘導《ゆうどう》した。車輪が固定されると、まもなくエンジンが鳴りをひそめた。
足元に影《かげ》がおちる、静かな昼下がりだった。空全体から街の背景音が響《ひび》いてくるようだった。遠く、鳥の鳴き声も聞こえる。この世界には、人間とともにさまざまな動植物も移り住んでいるのだった。
少しして、全員がラッタルを降りてきた。
サリバン夫人は、夫に寄り添《そ》うようにして、周囲を眺《なが》めていた。
ユタは数歩足を踏《ふ》みしめて立ち止まり、湿《しめ》った、暖かな空気を深呼吸した。
それから顔をあげ、遠くにかすむ北極半球に向いた。中心に黒いしみのような点があり、それがさきほど通ってきたトンネルの出口だった。ユタは視線をさらに上げた。
八キロ上の逆さ吊《つ》りの土地には、曲りくねった海岸線と――おそらく対称《たいしょう》設計なのだろう――この滑走路と同じ、定規で引いたような道路がかすかに見えた。
メイは手を後ろにまわし、ユタに歩み寄った。
「どう? 新しいとこ、気に入った?」
ユタはなんともいえない顔をした。
「まだわかんないよ」
「そうだよね」
ユタはまた、空を見上げた。
「……向こうにいる子も、こっちを見てるかな」
「見てるかもしれないね」
「大声出したら、聞こえるかな」
「さあ。いつか歩いていって、確かめたら」
「歩いていけるんだ」
「うん。採光窓にも橋があるから、歩いていけるよ」
「窓の橋って、ぎらぎらして暑くない?」
「かえって涼《すず》しいんじゃないかな。光にさえ当たらなければね」
「そうか。じゃあ、ずーと歩いてって、だんだん逆立ちになるんだね!」
メイは目を細めた。少年の無邪気《むじゃき》さがほほえましい。
「で、向こうからこっちを見ると、やっぱり逆立ちしてるのね」
「うちも見えるかな?!」
「望遠鏡があれば、絶対見えるよ」
「じゃあ、花壇《かだん》も見えるね」
「もちろん」
ユタは顔を輝《かがや》かせた。それから言った。
「かあさんに教えてやらなきゃ。コロニーじゅうから見えるんだって」
「へえー」
メイはちょっと意外に思った。あんがい母親思いらしい。
ACT・3 新居
花壇の無事を確かめ、コンテナを造園業者のトレーラーに移すと、一行はレンタカーに乗ってトレーラーを先導しながら、サリバン家の新居へと向かった。
「ええと……このまま海岸ぞいに行って、広いクリソ通りに入ります。二ブロック直進してプーク通りとの交差点の左の角です」
メイは電子地図を見ながら、ハンドルを握《にぎ》るマージに指示した。
顔を外に向けると、椰子《やし》の木に似た街路樹が道の両側に並んでいた。フラードルの首都が亜熱帯《あねったい》にあるので、このコロニーもそれに近い気候が設定されているらしい。道行く人はみな、半袖《はんそで》シャツだった。
左手には狭《せま》い砂浜があり、その向こうはヴィンターキル海という大仰《おおぎょう》な名前の湖だった。フラードルの人々が海にこだわるのはわかるとしても、こんなせりあがったので満足するのかな、とメイは思った。海につきものの水平線がない。海に限らず、この世界にはどこを探しても地平線がないのだった。
「ああ、あれです。あの茶色い屋根の」
サリバン氏が言った。車は家の裏手のガレージに通じる道に入って止まった。
家はカントリー・スタイルの木造平屋で、高い屋根がよく目立っていた。正面に大きな破風《はふ》のついた玄関《けんかん》ポーチがあり、左右にひとまわり小さなポーチがある。
どことなく、前の家に似てるな、とメイは思った。
敷地《しきち》の左右も、同規模の住宅だった。南側には道路をはさんで、丸いヘリポートのような施設があり、「第十八リフト」という標識が立っていた。その先はまだ家も道もない第三工区の平原が、はるか先の赤道山脈まで続いている。山脈の麓《ふもと》には宇宙軍の演習地があるはずだが、遠すぎてよく見えなかった。
車を降りた一行は、新居の敷地に入った。
玄関の扉《とびら》の上には教会のようなアーチ窓があり、細かい木の桟《さん》がていねいに組み立てられていた。見たところ、壁《かべ》も柱も木の質感を生かした仕上げになっている。惑星《わくせい》上での習慣が、ここにも持ち込まれているようだった。
もっとも、このコロニーで本物の木材が使われているとは思えない。おそらくはサトウキビやトウモロコシなど、光合成効率の良いC4型植物の繊維《せんい》を固めたものだろう。そうした建材はシュガーボード、コーンボードといった商品名で知られていた。
庭は全く手が入っておらず、低い雑草がまばらに生えていた。エリューセラ・コロニーは、入植が始まってすでに半世紀|経《た》っている。さまざまな植物の種子が入り込むには充分《じゅうぶん》な時間だった。ただし土壌《どじょう》はもっぱら月や小惑星の火成岩を粉砕《ふんさい》したものなので、栄養豊富とはいえない。ここが惑星上なら、雑草は背丈《せたけ》ほどに伸《の》びて密生していただろう。
車から降りると、一家は正面にまわり、しげしげと新しい我が家を眺《なが》めた。
「ふーむ。まるっきりカタログと同じだな――この石畳《いしだたみ》なんか」
「そうね」
「玄関を入るとT字路で、その先にホールがあるんだ。それから中庭に出る」
「中庭にもポーチがあるわね」
「そうだ」
「僕の部屋、ホールの右だよね」
「ああそうだ」
サリバン一家はこれまで誰《だれ》も、実際に新居を見たことがなかった。家を選ぶのに必要な情報は電子化されており、自宅の通信端末《つうしんたんまつ》で立体画像として再現することができた。その鮮《あざ》やかな画面の中で、一家は門をくぐり、玄関の扉を開け、部屋の中を歩きまわったのだった。映像には敷地から見える半径百メートル以内の家々も含《ふく》まれており、その眺めまでまったく同じだった。もっとも、その向こうに広がるコロニーの眺めまでは再現されていなかったが。
造園業者が車を降りて、こっちにやってきた。
「始めていいですかね」
「ああ、やってくれ」
「この図面どおりでいいですかね?」
業者は花壇の配置図のコピーを見せて確認《かくにん》を求めた。事前に電送したものだった。
「どうだい、エレン」
「ええ、間違《まちが》いありません」夫人が答えた。
「それにしても、よく運んでこられたもんですね、奥《おく》さん」
「苦労しましたわ」
「こんな花壇は、学校か美術館の庭にでも行かないと、ちょっとないですねえ」
「どうぞ始めてください」
夫人は淡々《たんたん》とした声で言い、工事を見届けようともせず、新居に入った。
花壇の移植作業は、前回とほぼ同じだった。ブルドーザーでスロープを掘《ほ》って進入路を作り、花壇を大きなコテに乗せて土壌にはめ込む。単純だが慎重《しんちょう》さを求められる作業なので、工事は夕方までかかりそうだった。
ミリガン運送の三人はポーチの一端《いったん》に腰《こし》をおろして、作業を見守っていた。
小山のような土木機械が動きはじめると、前の通りを行く人が立ち止まってこちらを見るようになった。左右の隣家《りんか》からも人が出てきて、垣根越《かきねご》しに様子をうかがっている。表情はよくわからなかったが、メイはなんとなく、好意的ではないように感じた。
「ロイドさん。ここの人、どう思ってるんでしょう?」
「花壇を持ってきたことか?」
「ええ」
「君もコロニーに三年いたじゃないか。住民の気質は知ってるだろ?」
「節制第一ですよね。でも、いろんな草花が来るのはうれしいんじゃないですか」
「そりゃまあな。しかし郷《ごう》に入りては郷に従えって言うだろ。コロニーは安全に地球型の暮らしができるが、気質的には宇宙人だ。しょっちゅう宇宙へ出るし、コロニー自体でっかい宇宙船みたいなもんだからな。そこへ以前の生活を引きずって引っ越《こ》してくるとなりゃ――まあ、あまりよくは思わんだろうな」
「そうですね……」
メイは肩《かた》をおとした。ロイドはその肩をたたいた。
「初めは誰でもぎくしゃくするもんさ。すぐ慣れるよ」
「それはそうなんですけど……」
メイはもう一度、周囲を見回し、サリバン一家がそばにいないことを確認した。
「あの、ロイドさん、それにマージさんも、ちょっと相談したいんですけど」
「うむ?」
「なに?」
「マージさんにはさっき、出すぎたことを言いましたけど――」
「ん? どのさっき?」
「ほら、哨戒艇《しょうかいてい》を救助するしないで口論になった時――」
「……そうだっけ?」
マージはよく憶《おぼ》えていないようだった。メイは小さくため息をつき、話を進めた。
「じゃあいいですけど……あの時、エレンさんに向けて、ちょっときつい発言があったように思うんです」
「あたしが?」
「それもありますけど、いちばん致命的《ちめいてき》なことを言ったのはミスター・サリバンなんです。あのときは当然の発言だと思ったんですが、いま思うと……」
「うーん、よく思い出せんなあ」ロイドが言った。
「あのときは哨戒艇のほうで頭がいっぱいだった。なんて言ったんだ?」
「サリバンさんはですね、『マージさんの言うとおりじゃないか。わがままはやめて、花と人命と、どっちが大事か考えてみろ』って言ったんです。エレンさんに向かって」
「おっと……」
ロイドはしばし絶句し、それから渋《しぶ》い顔になった。
「……なるほどねえ。たしかに、それはちとキツかったなあ」
「ですよね? 花壇が無事に運べたことを除けば、事態は最悪かもしれません」
「まったくだ」
「というか、花壇そのものが意味をなさなくなってきてるような気がしてるんです」
「そういう見方もあるな」
うなずきあう二人を見て、マージはますます当惑《とうわく》した顔になった。
「ねえ、どういうことなの? ちっとも話が見えないわ」
「マージ、君は男|勝《まさ》りでいろんな能力が秀《ひい》でてるうえに独身で、デネヴみたいな都会の出身だから、こうした事柄《ことがら》にはさして注意を払《はら》わんかもしれんが――」
ロイドは言った。
「つまり、あのサリバン夫人というのは、ひどく繊細《せんさい》で、結婚《けっこん》当時の初々《ういうい》しさをいまだに残してる人なんだな。そうだろ、メイ」
「そう思います」
「だから?」
「エレンさん、寂《さび》しいんです」
メイが言った。
「ご主人は仕事に熱心で、あんまりエレンさんにかまってくれないみたいで。だからコロニーに引っ越《こ》すと、出世したのはいいんですけど、仕事が忙《いそが》しくなって、ますます寂しくなるって思ったみたいなんです」
「それであんなダダをこねたわけ? 花壇がいっしょじゃなきゃいやだ、って」
「そういう打算があったかどうかはよくわからないですけど……」
「無意識って気がするぞ、わしは」
「かもしれません。エレンさんて、庭や家をきれいにして、そうすることでご主人を家につなぎとめようと思ってたみたいなんです。そんなことを言ってました」
「ふーん……」
マージは肩《かた》をすくめた。
「けなげっていうか、ひどく消極的なやりかただわね」
「それはまあ……でも、そういう人もいるわけで」
「まあね」
「思えば、最初の夜もそうでした。マージさんはサリバンさんと仕事の話がはずんでましたけど、エレンさんは入っていけずじまいで――」
「ちょっとお、またあたしが悪役になるわけ?」
「いっいえ、そうじゃないんですけど、結果的にですね」
メイは汗《あせ》をぬぐった。
「いろんな悪い条件が重なってるんです。宇宙船の事故なんてそうそうないのに、たまたま哨戒艇がああなったし、私もコンテナの回収のときへまをやらかして死にそうな目にあいました。エレンさん、宇宙って恐《こわ》いなと思ったにちがいないんです。そんな時は誰よりもご主人に頼《たよ》りたいはずなのに、ああいうことを言われて――それにユタも宇宙に夢中で、エレンさんから離《はな》れてく感じだし。やっぱり、母親っていつまでも子供に頼られたいですよね」
マージは深々とため息をついた。
「了〜解。だいたいわかったわ。で、あたしはどうすりゃいいの? あたしの仕事は何?」
「そう言われると困るんですけど……」
メイはしばし口ごもり、それから言った。
「あの、これは私の勝手な考えなんですけど、こんどの引越しで、いちばん大事な荷物はエレンさんだと思ってるんです」
「じゃあよかったじゃない。五体満足でかつぎこめたわ」
「それはまあ……でも――」
この人に理解を求めるのは無理かな、と思いつつ、メイは続けた。
「完全な状態とはとても思えないんです。せっかく花壇を運んだのに、喜んでもらえないんじゃ悲しいです。私としては、みんなにこにこ笑って、ああ安くコロニーに引っ越せてよかったね、宇宙っていいとこだねって言うような形で仕事を終わりたい……と思ったわけなんですけど……」
言いながら、メイは虚《むな》しくなってきた。マージがどう返答するか、想像がついたからだ。おおかた、結局あたしにどうしろっての、あたりだろう。
「それで? 結局あたしにどうしろっての」
「やっぱり……」
「何がやっぱりよ!」
「マージさん、私としては、何をどうしてくれと頼《たの》むつもりじゃなくてですねっ!」
「よーしよし、まあそんなとこだろう、二人とも」
ロイドがなだめた。
「メイだって、仕事に凝《こ》りたいもんな。なあ?」
メイはふくれっ面《つら》のまま、うなずいた。
「つまんないこだわりかもしれませんけど――ロイドさん、でも人間って、こだわる生き物なんじゃないでしょうか?」
「そうそう、その通りだ」
ロイドはにこやかにとりなした。
「そしてマージは完璧《かんぺき》な操縦で難局を切り抜《ぬ》けた。二人とも、実に模範的《もはんてき》な仕事をしている。社長としてこれ以上うれしいことはないね」
「皮肉はやめて」
「皮肉じゃないさ」
「結局どうしろってのよ――繰《く》り返すけど」
「まあ、それなりに気配りするってことさ……たとえば、今夜は頼まれてもここには泊《と》まらない。そして明日は、奥《おく》さんの前で亭主《ていしゅ》と仕事の話で盛り上がったりしない」
「結構」
「あとですね」
メイが言い添《そ》えた。
「エレンさんとご主人との関係は、こちらとしてはちょっと手が出せない気もしますけど、ご主人には、なるべく奥さんに優《やさ》しくしてあげるよう、それとなくアドバイスできるんじゃないかと思うんです」
「あたしが?」
「できれば」
「いやー、それはちとデリケートな作業だぞ、メイ」
ロイドがしたり顔で言った。
「はっきりいって、サリバン夫人よりマージのほうがいい女だからな。そういう女が『奥さん大事にしてね』なんて言うと、『あたしたちの関係も長持ちさせましょうね』と聞こえることがあるんだなあ、男には」
「え、そういうものなんですか」
「そうさ。そのへん誤解されずにアドバイスするってのは、マージにはむずかしいぞ」
「言われてみれば、そうですね」
「あんたたちねえ……」
たまりかねたように、マージが言った。
「本人の前でそういうこと言うわけ?」
「あ、じゃあこの件はいいです、マージさん。あとですね――」
「まだあるの?」
「夫婦《ふうふ》関係はともかくとして、エレンさんには、コロニー暮らしも安全で快適だな、ぐらいの印象は与《あた》えたいと思うんです」
「あんたってほんっとに凝り症《しょう》だわね……」
「といっても、明日エレンさんと一緒《いっしょ》にいるのは私ですから、この件はこちらで配慮《はいりょ》したいと思いますけど」
マージはため息をついた。
「オーケイ、ならおまかせするわ。せいぜい心ゆくまで配慮してやってちょうだい」
ACT・4 新居
翌朝、ミリガン運送の三人は、ホテルで朝食をとり、車でサリバン氏を迎《むか》えに行った。
玄関《げんかん》に現れたのは、サリバン氏とユタだけだった。
メイは、悪い予感がした。
「あの、エレンさんは?」
「ちょっと疲《つか》れが出たと言いましてね。朝食のあと、ベッドに入ってます。まあ、時差ボケもありますしね」
「じゃあ、今日はついててあげたほうが」
「私もそう言ったんだが、平気だから行ってきてくれと言うんでね」
「でも、無理してるんじゃありませんか。一日延期してもかまいませんけど」
おいおい、という顔のロイドとマージを後目に、メイはそう言った。
「いいえ、これ以上予定を遅《おく》らせるつもりはありません。どうせ夕方には戻《もど》りますし、ここにはユタも、あなたもいますからね」
「そうですか……」
サリバン氏は、少し苛立《いらだ》っているように見えた。だだっ子のように振舞《ふるま》う夫人に辟易《へさえき》しているのだろうか。メイは釈然《しゃくぜん》としないながらも、それ以上逆らわなかった。
「じゃあ、いってらっしゃい。ロイドさん、マージさん、よろしくお願いします」
「ああ。着いたら電話するよ」
「いってらっしゃい、父さん」
「ああ。かあさんをよろしくな」
「うん」
三人の乗った車が角に消えると、メイとユタは家に入った。
「お母さんは?」
「こっち」
夫妻の寝室《しんしつ》は、入って右側の廊下《ろうか》のつきあたりにあった。
メイはそっとドアを開け、中をうかがった。
夫人は一方のベッドに、こちらに背を向けて横になっていた。
眠っているようではなかったので、メイはそのまま扉《とびら》をノックした。
「おはようございます」
毛布がもぞもぞと動き、疲れた顔がこちらを向いた。
「……おはよう」
「あの、ご気分いかがですか」
「ちょっとね、だるくて」
「飲物でも作りましょうか。トマトジュースとか」
「まだ……冷蔵庫もからっぽなの」
「じゃあ、何か注文しましょうか?」
「ゆうべはピザをとったの。おいしくなかったわ」
「いえ、材料も配達してもらえますから」
「そう……じゃあ、お願いしようかしら。適当でいいわ。お野菜に肉と卵、小麦粉にコーンスターチ……それに、あれば鰊《にしん》か鮭《さけ》のスモークを」
「わかりました。クレジット・カードは?」
「そこのバッグに」
カードを手にすると、メイは寝室を出た。
夫人は夕食を作って、サリバン氏を迎えるつもりでいるらしい。ふせっているのは単に数時間の時差と、わずかなコリオリ力によるコロニー酔《よ》いかもしれない。そう考えると、メイはすこし気が楽になった。
「ユタ、端末《たんまつ》はどこ?」
「こっち」
それはキッチンの隣《となり》にあった。それは家庭用のコンピューターでもあり、通信機でもあり、電話機でもあった。引っ越《こ》す前の家にあったものより進んだタイプだったが、基本操作は同じだった。
「ねえ、お父さんの好物は?」
「キドニー・パイにステーキに……スモーク・サーモンかな」
「なるほどねー」
メイは材料を想像しながら、キーを叩《たた》いた。
「じゃあ、お母さんの好きなものは?」
「うーん……よく知らないや」
「そう」
あまり自分を出さない人らしい。わずかな間をおいて、ユタは言った。
「あ、ストロベリー・アイス!」
「それはユタの好物でしょ」
「わかった?」
「完璧《かんぺき》に」
注文書を作り、適当に選んだ食料品店に送信すると「はじめまして、サリバンさん。ご注文の品は一時間以内にお届けします。今後ともテンシン百貨店をよろしくご愛顧《あいこ》ねがいます」というメッセージが返ってきた。
それが終わると、メイはユタとともに花壇《かだん》の仕上げにとりかかった。縁《ふち》どりに使うブロック材は庭の隅《すみ》に山積みになっていた。昨日造園業者が置いて行ったものだった。
やれやれ、なんで運送屋がこんなことするんだろう。それもミッション・ディレクターたるものが――などと思いながら、黙々とブロックを績む。このあと、周囲の土壌《どじょう》改良もしなければならないが、一刻を争う仕事だとはとても思えなかった。すべてはサリバン夫人をなだめるための決定だったのだ。
「ねえ、ユタ……」
返事がない。メイは顔をあげた。いつの間にか、ユタは姿を消していた。
さっきまでそこにいたのに――家に入ったのだろうか。
ACT・5 廃車《はいしゃ》置場
ユタは見たいものが山ほどあったから、とても庭仕事など手伝っていられる気分ではなかった。
庭を抜《ぬ》け出し、交差点から二車線のプーク通りを進む。道に迷う心配はなかった。行く手が徐々《じょじょ》にせり上がって見えるので、コロニーの自転方向か、その逆方向に向かっていることは明らかだった。地面が遠くまで平坦《へいたん》なままなら、向きは自転|軸《じく》に平行しているはずだ。
朝の空気は湿《しめ》っていて、透明度《とうめいど》はあまりよくなかったが、見上げれば彼方《かなた》に北極半球、その対面に赤道半球が見えた。赤道半球のほうがずっと大きく見えるので、ユタはコロニーの中で、およそ自分がどのあたりにいるか想像できた。昨日の飛行でも、北極ポートから大体三分の二ほど入ったように見えた。
なんとなく午後のような気がするのは、陽射《ひざ》しのせいだった。太陽はここに来たときから、ずっと空の一点、天頂より少し斜《なな》めの採光窓にとどまっており、変るのは明るさだけだった。窓|越《ご》しの太陽はまぶしい光の塊《かたまり》に見え、惑星《わくせい》上から見たものと意外なほど似ていた。
自転方向は見通しがきくので遠くまで観察できた。ずっと住宅地が続いており、似たり寄ったりの家が並んでいる。
ユタは冒険《ぼうけん》の可能性を軸方向に求めることにした。軍の演習地を覗《のぞ》いてみたかったが、十キロも先だというから、今は無理だろう。
少し歩くと空き地があり、その隣《となり》に廃車置場があった。周囲には塀《へい》がめぐらせてあったが、ところどころ破れている。ユタはそのひとつに目をつけた。
「坊《ぼう》や、学校は?」
どきりとして振《ふ》り向くと、年配の婦人が立っていた。
「あの、きのう引っ越してきたばかりで、まだ転校の手続きをしてないんです」
「あらそう。もしかして三ブロックほど先のおうちの子?」
「ええ、そうです」
「すごい花壇《かだん》を持ってきたって聞いたわ」
「ええまあ」
「このへんは、悪ガキどもがいるから気をつけなさいね」
「はい、気をつけます」
「いい友達を選ばないとだめよ」
「わかってます」
「ほんとうよ」
「わかってますから」
「そう? それじゃあね」
老婦人はのんびりと歩み去った。交差点の角を曲るのを見届けると、ユタは改めて周囲を確かめ、行動を再開した。
塀をくぐり、最初の廃車の陰《かげ》に転がり込む。
外を窺《うかが》うが、誰《だれ》かに見られた気配はない。腰《こし》を上げ、運転席をのぞき込む。計器や電装品はすべて取り外され、めぼしいものはなかった。
ユタはさらに奥《おく》にある、大きな金属の山に向かった。
見なれない型の車が山積みになっている。
少し離《はな》れて、小さなプレハブ事務所があった。窓ガラスは割れたままで、中に人気はない。
不意に、うなじに息がかかった。
大きな手が目の前に現れ、口を塞《ふさ》いだ。
ユタはあお向けに引き倒《たお》され、後頭部と背中が地面に押《お》し当てられた。
白くかすんだ対面の市街をバックに。三時と九時の方向からソバカス顔が二つ現れ、こちらを見下ろした。
「見ない顔だな。こいつか?」
「ああ。昨日|越《こ》してきた奴《やつ》だ」
ユタより一つか二つ歳上《としうえ》の少年だった。ユタはうめき声をあげた。
「ジタバタするんじゃねえよ。大声ださないって誓《ちか》えるか」
ユタは数回うなずいて見せた。
「大声出したらただじゃすまねえぞ! わかってんだろうな!」
ユタがふたたびうなずくと、手が離れた。
「名前は」
「ユタ。ユタ・サリバン」
「ここへ何しに来た?」
「探検してたんだ」
「探検だあ? おい、こいつ探検だとよ!」背の低いほうが笑った。
「こりゃけっさくだ」もう一人も笑った。
「おまえ、下から来たのか」
「下?」
「フラードルだよ」
「ああ」
「ああじゃないだろ、ああじゃ。そうですって言えよ」
「そっちこそ、名前ぐらい言ったらどうさ」
二人は顔を見合わせた。
「恐《こわ》いもの知らずってやつだな」
「まったくだ。立場ってのが、わかってないよな」
「もう放せよ。逃げたりしないよ」
「逃げないって保証があるかよ、フラ公」
「自分から来たんだ、逃げるわけないだろ!」
「…………」
二人はうなずきあい、両肩《りょうかた》に置いた手を放した。ユタは立ち上がった。二人も立ち、廃車のひとつにもたれかかった。
二人とも、よく似たフライトジャケットを着ていた。肩や胸に、バッジやワッペンがべたべたと張りつけてある。背の高いほうが言った。
「教えてやるぜ。俺《おれ》はテリエ、こいつはリー。よーく憶《おぼ》えときな」
「ああ」
「探検って言ったよな。ここに何があるか、知ってんのか」
「……スクラップの車だろ」
二人は笑った。
「そんなもん、見りゃわかるだろ」
「そうさ、上にまわって望遠鏡で見りゃおしまいさ。探検ってのは、見えないとこを探すもんだぜ」
テリエが言った。
「そうだね」ユタは素直《すなお》に同意した。そして聞いた。
「ここに何があるの」
「聞けば教えてもらえると思ってんのか?」
「聞かなきゃはじまらないだろ」
「聞きたきゃ仲間入り≠オないとな」
「仲間入り?」
「そうさ。入隊試験だ」
「入隊って……」
テリエは得意げに胸をそらせて言った。
「我《わ》が『エリューセラ遊撃隊《ゆうげきたい》』のだよ」
「エリューセラ遊撃隊……」
「そうさ。合格して仲間に入りゃ、いろんなことがわかるんだ」
「どうやればいいの? 試験って」
「それはな……」
テリエはわざとらしく声をひそめた。
ACT・6 新居
メイが黙々《もくもく》と庭仕事をしていると、玄関《げんかん》のドアが開いてサリバン夫人が姿を見せた。
「あ、もういいんですか?」
夫人は花壇に目をすえたまま、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「ベッドにいても、メリーゴーランドに乗ってるみたいで落ち着かないから」
「あはは……気のせいだと思いますけど」
「今にも床《ゆか》が抜《ぬ》けたり、空が落ちてきそうな気がしてね」
「コロニーはすごく丈夫《じょうぶ》で、安全にできてるんです。すぐ慣れますよ」
「だといいけど……」
夫人はメイの横にしゃがみ、トレニアの茎《くき》にそっと手を伸《の》ばした。花は地上にいた時と変りなく、ふんわりと紫《むらさき》の花弁をひろげていた。
少しして、夫人は言った。
「ごめんなさいね、こんな仕事までさせちゃって」
「いいんです。いつも船に乗ってるから、土いじりって面白《おもしろ》くて」
「あんな狭《せま》いところに、毎日?」
「あ、シャトルと別に母船があって、そちらはもうちょっと広いです。自分の部屋もありますし」
「そう……」
それから夫人は、ようやく気づいた。
「ユタは? どこに行ったの?」
「あれ、中にいるんじゃ」
「いないようだったけど」
「ちょっと見てきます」
メイは立ち上がり、手を拭《ふ》いて家に入った。ユタの部屋から、広間、ダイニング・ルームをめぐり、キッチンに入ったところで足をとめる。
冷蔵庫のドアが細く開いていた。
中を見ると、さっき配達してもらったばかりの食品が、半減していた。ハムにクリームチーズ、ミルク、それにテーブルの上に置いたはずのパンがない。
目の端《はし》で、何かが動いた。窓の外だった。
見覚えのある、ズボンの裾《すそ》が垣根《かきね》の向こうに消えた。
メイは玄関に走り、庭に飛び出した。
「いました! いまつかまえます!」
目を丸くするサリバン夫人にそう告げて、メイは裏手に駆《か》け込んだ。
ガレージの横を通り、垣根をジャンプする。歩道に出ると、ユタは三十メートルほど先でクリソ通りに折れたところだった。
「ユタっ! 待ちなさい!」
全力|疾走《しっそう》で角を曲ったとたん、買物帰りの三輪自転車に正面|衝突《しょうとつ》した。
「いっ!……てぇ」
ハンドルか何かで腰《こし》をしたたかに打ったが、メイはよろめきながら立ち上がり、すみません! と叫《さけ》んで追跡《ついせき》を再開した。
前方にユタの姿は見えない。
途中《とちゅう》の交差点はひとつ。
角まで来て左右を見る。どちらも人影《ひとかげ》はなかった。
「どっち行ったんだろ……」
その時メイは、足元の歩道の縁石《えんせき》に、小さな染《し》みを認めた。
月面から採掘《さいくつ》した火成岩の、小さなくぼみに白い液体がたまっている。
ミルクだ!
メイは勝利を予感した。
第二の染みは道路を右に入って数メートルの位置にあった。メイは足早に、跡をたどった。ミルクの染みは、ほぼ等間隔《とうかんかく》に落ちていた。
空き地を越え、塀《へい》で囲まれた区画を通りすぎたところで、跡《あと》は途絶《とだ》えていた。
メイは塀の一角の、大きな破れに目をとめた。ユタがそこをくぐる姿が、目にうかぶようだった。
「待ってなさい、わんぱく坊主《ぼうず》め……」
メイは歩道に四つんばいになり、頭からもぐりこんだ。どうにか肩《かた》を通し、後は順調と思えたが、腰《こし》でつかえた。
「う……」
こんな所を誰《だれ》かに見られたら、一生の思い出になってしまう。
身|悶《もだ》えすると、塀の破れ目のほうが広がり、メイは中に転がり込んだ。
周囲は大小の廃車の山だった。
ここで子供相手に捕《と》り物をするのは危険だな、とメイは思った。そっと忍《しの》び寄り、一気に取り押《おさ》えるのがいいだろう。
いちばん大きな山に目をつけ、そっとまわり込む。
地面にチューインガムの包み紙が散らばっていた。
ユタがガムを噛むところを見たことがないので、たぶん地元勢だろう。
「なんてこと……」
メイの脳裏に、ありがちな少年非行の構図がうかんだ。冷蔵庫の中身を仲間に貢《みつ》ぐぐらい、男の子なら一度はやものだが、躾《しつけ》の厳しい家庭に育ったメイにはひどく重大なことに思えた。
コロニーに引っ越《こ》してきたとたんに一人|息子《むすこ》が非行に走ったと知ったら、サリバン夫人はなんと思うだろう。ここはなんとしても阻止《そし》しなくては……。
相手が複数とわかって、メイは警戒《けいかい》を強めながら、周囲を検索《けんさく》した。
その時、奥の事務所のほうで物音がした。屋内からではないようだった。見たところ、事務所の裏と塀のあいだに二メートルほどの袋小路《ふくろこうじ》がある。
メイは足音を忍ばせ、歩み寄った。
かすかな、くぐもった声が聞こえた。
「気をつけろ」と言ったようだった。ユタの声ではない。
別の声が「いいぞ」と言い、それから、何か重いものが動く音がした。事務所の角からそっと顔をだす。
人影はなかった。
地面には、二メートル四方ほどのコンクリートの領域があった。中央に金属の丸い蓋《ふた》がある。エアロックの外扉《とびら》のような厳重な造りで、一方に開閉機構があった。
どうやら、地下に通じるマンホールらしい。
耳を押し当ててみるが、かすかな背景音のほか、何も聞こえなかった。
人が入れるところを見ると、地下は真空ではないのだろう。
開閉機構の表示は「閉」となっていたが、手動開閉ハンドルは容易に回った。どうやら故障しているらしい。
メイは躊躇《ちゅうちょ》した。一度サリバン夫人か、警察に知らせたほうがいいだろうか。さほど危険ではないが、コロニーの地下は宇宙放射線のレベルがひとまわり高いはずだ。そうでなくても上下水や電力、通信ケーブルなど、都市のライフラインが走っているので、一般人《いっぱんじん》は立入り厳禁だった。
……いや、夫人に知らせるのは、なんとしても避《さ》けたい。
昨日の今日である。夫人がコロニーが抱《かか》えている危険を知るのは、もう少し免疫《めんえき》ができてからにしたい。警察に知らせても、結局は夫人のもとに通報されるだろう。ここは自分とユタだけで解決しよう。
メイはハンドルをまわした。蓋が徐々《じょじょ》に持ち上がり、数センチのところで空回りになった。
蓋を持ち上げると、中は真っ暗な縦穴だった。一方に梯子《はしご》がある。メイは腰のサバイバル・キットからペンライトを出し、点灯して口にくわえた。
梯子は、果てしなく続いているような気がした。
中ほどまで降りて下を照らすと、地底までまだ五メートルはあった。
宇宙空間ではちっとも恐《こわ》くないのに、わずか数メートルの闇《やみ》におびえる理由はないぞ、と思いつつ、メイは梯子を降りた。空気は冷えていて、息が白い。
地面は濃《こ》い灰色で、拳《こぶし》ほどの凹凸《おうとつ》があった。月や小|惑星《わくせい》の岩石を砕《くだ》いてしきつめ、同じ材料を使ったセメントを流したのだろう。
ライトを水平に向けると、すぐそばに太い、橋脚《きょうきゃく》のような円柱があった。円柱はいくつもあった。規則的ではなく、ある範囲《はんい》ででたらめに並んでいるようだった。
天井《てんじょう》には大小の配管が走っていた。工事用の照明装置を探したが、見える範囲にはなかった。そういえば、コロニーの基礎工事はほとんどロボットまかせだと聞いたことがある。ここに人が入るのは、保守点検の時ぐらいだろう。
目が慣れると、マンホールからもれる光で、あたりはまだ薄《うす》明るいことがわかった。しかし、ここを離《はな》れたら迷わずに戻《もど》ってこられるだろうか。林立する柱のせいで、たとえ照明があっても、百メートルも見通せそうにない。
目印を探すと、柱の高い位置に「B―211―56―210」と記されたナンバープレートがあった。一つ先の柱は「B―211―56―209」。
おそらく、若い桁《けた》ほど頻繁《ひんぱん》に変るのだろう。最初のアルファベットは大陸≠示すコードにちがいない。エリューセラ・コロニーの地表は採光窓で三つに分断されており、それぞれをA〜C大陸と呼ぶことになっていた。ここがB大陸であることは、サリバン家の新住所を見て知っていた。
「これなら大丈夫《だいじょうぶ》かな」
メイはメーテルリンクの古い童話を思い出しながら独りごちた。あの二人はパンの切れ端《はし》を目印に置きながら森に入ったが、小鳥がそれをついばんだために道に迷ったのだった。この記号化された目印なら、脳をつつかれでもしない限り大丈夫だろう。メイは、こうしたコードを記憶《きおく》することにいささか自信があった。
それにしても、ユタをどうやって探そうか――。
かすかな期待をこめて梯子のまわりを調べたが、ミルクの染《し》みはなかった。
だが、それに代わるヒントは簡単に見つかった。
文字どおりの足跡《あしあと》だった。地面が平坦《へいたん》でないために明瞭《めいりょう》ではないが、コンクリートの一部に地上の土砂《どしゃ》が付着している。足跡というよりは帯状の汚《よご》れに近い。何度も往復するうちに付いたもののようだった。
「基地っていうんだよね……男の子たちの秘密のたまり場」
メイはそうつぶやいて、跡をたどりはじめた。
ACT・7 秘密基地アルファ
「もういいだろ」リーが、我慢《がまん》できない、という顔で言った。
「まだだ。ちょっと焦《こ》げて、脂《あぶら》が垂れ始めた頃《ころ》がうまいんだ」
テリエは慣れた手つきで串《くし》をまわした。
串には厚く切ったハムが刺《さ》してあり、その下には熱を放射する黒い金属板があった。金属板からは電線が伸《の》びており、そばの柱をつたって天井に届いている。電線は途中《とちゅう》で分岐《ぶんき》し、柱に吊《つる》された電灯にもつながっていた。
この電化されたキャンプファイヤーを取り囲むように、古自動車の座席が並べてあった。壊《こわ》れかけた箪笥《たんす》やテーブルもある。テーブルの上には双眼鏡《そうがんきょう》やおもちゃのピストルや菓子《かし》の袋《ふくろ》が散らばっていた。
ユタは、今もらったばかりのバッジを、しげしげと眺《なが》めていた。
それは親指の頭ほどの小さなもので、半透明《はんとうめい》の樹脂《じゅし》でできていた。ユタは台所の食品をくすねてきたことで、エリューセラ遊撃隊《ゆうげきたい》の入隊試験に合格したのだった。
「裏を押《お》してみなよ」リーが言った。
バッジはぱっと緑色に輝《かがや》き、「EI」という文字が浮《う》かび上がった。エリューセラ遊撃隊のイニシャルだった。
「暗いとこで合図に使うんだ」
「かっこいいなあ……」
「もう一回押すと消える。電池を無駄《むだ》にするなよ」
「うん」
ユタは光を消し、バッジを胸にとめた。
「それで。ユタの親父《おやじ》さんは何やってるんだ」テリエが聞いた。
「港湾局《こうわんきょく》。流通計画課ってとこにいるんだ」
「お役人かよ」
「そうかな」
「偉《えら》ぶってるだろ」
「そんなことないよ」
「おまえさ、野球やるか?」リーが聞いた。
「やるよ。ラブターズってチームにいたんだ。五番だよ」
「コロニー式か」
「知らないよ、どんなの?」
「ディープ・ライト≠チてのがいるんだ。全部で十人だぜ」
「へえ……」
「マウンドはどこも北極を向いてるんだ。ライト側にゃ肩《かた》のいい奴《やつ》がつく。タマは飛ぶし返球は沈《しず》むからな。おまえ、送球得意か」
「あんまり」
「ちぇっ。チームじゃいいライトを探してるんだ。……なあ、もういいだろ、テリエ」
「ああ、そろそろだな」
リーはへへっ、と笑いながら串からハムを抜《ぬ》いた。最初の一切れをテリエのナイフに刺し、次のをユタに渡《わた》した。
「熱いぞ」
「ありがと……あちち!」
ユタはハムを手の中で転がし、大急ぎでくわえた。
リーは串についたままのハムにかぶりついた。
「こりゃうめえ!」
それからパンをかじり、パックに入ったままのミルクを飲んだ。
「よこせよ」
テリエがミルクを奪《うば》う。
この『秘密基地アルファ』では、食器は使わないらしかった。
「こんどはコーヒーにしてくれよな。ミルクなんか赤ん坊《ぼう》の飲むもんだぜ」
「わかったよ。だけど、毎日は無理だよ」
「毎日じゃなくていいさ。おまえんちの親、カタそうだもんな。騒《さわ》がれちゃまずいや」
「うん」
その時、テリエが鋭《するど》く「しっ!」と言った。それから、
「誰《だれ》か来る」
リーは急いで明りを消した。三人は闇《やみ》に目を凝《こ》らした。
「どっちだ?」
「入口のほうだ」
「バレたのか? まさか、こいつ――」
「僕が言うわけないよ。来るまで知らなかったんだ」
「静かにしろ!」
「…………」
遠くで、何かがちらりと光った。
少しして、また光った。光はしだいに近づいてきた。
「こっちだ」
テリエが小声で言った。
「柱の陰《かげ》にまわれ」
三人はそっと移動し、息を殺して待った。
足音が聞こえる。
細い光条が、目の前のテーブルの上を通過して、すぐそこに戻った。
光はテーブルから椅子《いす》やヒーターに移った。
「誰かいる?」
ユタはびくりとした。メイの声だ。
「ユタ、でてらっしゃい。お友達も。いるのはわかってるの、いい匂《にお》いがするもの」
三人は沈黙《ちんもく》を守った。
「大丈夫《だいじょうぶ》、誰にも言わないよ。でも、出てきてくれなかったら、戻って警察か誰かに知らせないと」
「オーケイ、わかったよ」
テリエが降参して、壁《かべ》にぶらさがったスイッチをひねった。
まぶしさに目を細めるメイの姿がうきあがった。
柱の陰から現れた三人の少年を見ると、メイはほっとした。手に負えない年長のボスがいたらどうしようかと思っていたが、どちらもユタと変らない年格好だった。
メイはペンライトを腰《こし》に戻すと、三人に歩み寄った。
ここはひとつ、理解を示してやろう……。
「ふうん、なかなか立派な基地だよね?」
三人は悪びれた顔で、メイを見上げていた。
「私もまぜてくれるかな。隊長さんは誰?」
ユタともう一人の視線が、背の高い少年に集まった。
「私はメイ。あなたは?」
「テリエ。こいつはリー。……そこ、座《すわ》んなよ」
「ありがと」
メイは椅子のひとつに腰をおろした。三人も、まわりの椅子にかけた。
「ずいぶん歩いちゃった。八百メートルくらいかな。柱の番号、座標になってるのね。百メートルでひとつエリアが変るの。そうでしょう?」
「ああ」テリエが答えた。
「メイは航法士なんだ。宇宙船の」ユタが言った。
「あんた、なんでここがわかったのさ」
「あんたじゃなくて、メイ」
「メイ」
「足跡《あしあと》がついてたの。今度から、靴《くつ》はきれいにして入った方がいいね」
三人の少年は、顔を見合わせた。
「ちぇっ、まずったよな」
「まったくだ」
「これからどうするの、メイ」ユタが不安げに聞いた。
「まず食べ物を盗《ぬす》んだことをお母さんに言わないとね」
「新しい友達ができたから、プレゼントしたんだって言うよ」
「うーん……それなら嘘《うそ》にはならないけど」
「でしょう? でもこの基地のことは言えないよ。約束したんだ」
そう言って二人の顔を見る。テリエとリーは、そろってうなずいた。
そのしぐさが微笑《ほほえ》ましかった。
「だから、嘘《うそ》はつかないけど、黙秘《もくひ》はするよ」
「まあ、どこでそんな言葉おぼえてくるんだろ。黙秘はいいけど……」
「あんた――メイも黙《だま》っててくれよな」テリエが言った。
「でもね、地下は放射線が強いから危険でしょう? こんなとこ、来ちゃだめよ」
「ここは心配ないよ。フレアの風ならたいてい赤道に当たるし、斜《なな》めにくるやつもマイクロ波で吹《ふ》き飛ばしてるんだ」
「ほんとう?」
「ほんとさ」
「じゃあ系外宇宙線はどう? マイクロ波ぐらいで防げるかな?」
「平気さ。決まってるよ」
「いちど理科の先生に聞いてごらんなさい。こんな大きなコロニーを、宇宙船みたいにシールドしようと思ったら、ものすごいエネルギーがいると思うけどな。それから、放射線をよけいに浴びたら、どんなことになるかもね」
「ふん、優等生ぶりやがって」
「でもね、あぶないことをするときは、ちゃんと敵の正体を知らなきゃ」
メイは得意になって、ロイドやマージから何度も聞かされた教訓を伝授した。
「よーくわかったよ、先生」
「いまのはほんとよ、あなたのために言ってるんだから。……さあユタ、もう行かないとお母さんが心配するから」
「お母さんが心配するから」リーが真似《まね》た。
メイはかまわず立ち上がって、ユタの手を引いた。
ユタは、きまり悪げに新しい仲間のほうを向いた。
「ごめん。もう行かなきゃ。秘密守るから」
「ああ行けよ。ママんとこへ帰れよ」
「あなたたちもいっしょよ」メイが言った。
「俺《おれ》たちの勝手だろ」
「そうだよ、勝手だよ。言いなりになんかならないぞ」
「放射線がたくさん当たったら……」
メイは言った。
「細胞《さいぼう》のDNAが壊《こわ》れるの。髪《かみ》の毛が抜けて、歯茎《はぐき》や、体のあちこちから出血がはじまるわ。それから吐《は》き気がして、何を食べてももどしてしまう。しまいに体がだるくなって動けなくなって――」
「よせよ!」
「ここにいれば、かならず地上の何倍かの放射線を受けるの。今ならまだ、手遅《ておく》れじゃないかもしれないけど、次の一時間も無事とは限らないよね」
二人は神妙《しんみょう》な顔になった。
メイは話を極端《きょくたん》に誇張《こちょう》したことに罪悪感をおぼえたが、相応の手ごたえを感じた。
これなら、自分といっしょにではなくても、二人がすみやかに地下基地を閉鎖《へいさ》することはまちがいないだろう。
メイはペンライトを持って、歩き始めた。
ユタは黙ってついてきた。
ACT・8 地下世界
暗闇をしばらく歩いて、そろそろ出口が見える、という時だった。
遠くで、かすかに、何かが崩《くず》れるような昔がした。
「聞いた? メイ」
「うん。さっきの二人かな」
「方角がちがわない?」
「そうね。もっと、右のほうだったよね」
「行ってみようよ」
「うん、でもね……」
これ以上遅れると、夫人が心配するだろう。警察を呼んで、騒《さわ》ぎが大きくなって、隣《となり》近所の顰蹙《ひんしゅく》を買ったりするのはよくない。
「早く帰らないと」
「怪我《けが》してるかもしれないんだよ、ほうっといていいの?!」
「そ、そうだね」
メイとユタは、音のした方向に向かった。
少しして、メイは立ち止まり、耳をすませた。
「……なにも聞こえないね」
「うん」
メイはコロニーにまつわる、古典的な恐怖《きょうふ》を思い浮《う》かべた。
確かに、二重三重の防御網《ぼうぎょもう》をかいくぐつて、隕石《いんせき》が衝突《しょうとつ》する可能性は皆無《かいむ》ではなかった。そんなところに近寄るのはごめんだ。
しかし、気密が破れているのなら、もっと盛大《せりだい》な音がしていいはずだった。
二人は前進を続けた。
「待って!」
ユタが短く叫《さけ》んで立ち止まった。
「明りを消して! 向こうに何か見えたよ」
ライトを消すと、あたりは真の暗闇になった。隣にいるユタの頭さえ見えない。
メイは奥《おく》に目をこらした。
目が慣れるにつれて、遠くの柱のひとつが、おぼろげに浮き上がってきた。
距離《きょり》は二百メートルくらいか。
「……見えた。なんだろ」
「わかんない」
それから二人は、同時に息をのんだ。柱に、何かの影《かげ》がおちたのだった。
「誰かいる……」
「そうね」
「悪い人かな」
「まさか。工事の人よ、きっと」
「怪我してる人かもしれないよ。足を挟《はさ》まれて、動けなくなって」
「呼んでみようか?」
「悪い人だったらどうするの」
「そんな人いない……と思うけど」
暗闇が二人の警戒心《けいかいしん》をあおっていた。
テリエとリーにしても、見方によっては「悪い人」かもしれないし、地下にいるのが、彼らだけとも限らない。B大陸だけで二百平方キロもあり、百万人が暮らしている。どんなことがあっても、おかしくない。
メイはペンライトをハンカチで包み、目立たないようにして点灯した。
それから小声で言った。
「ユタ、あなたはここにいるの」
「いやだよ! いっしょに行くよ!」
表情は見えなかったが、容易に想像できた。
「じゃあ……絶対物音を立てないでね。大声もだめよ」
「わかった」
二人はゆっくりと前進した。
やがて、物音が聞こえてきた。
距離は百メートルを切っていた。
この地下世界では、思ったほど音が反響《はんきょう》せず、むしろ野原の真中にいるようだった。
ランダムに配置された柱は過剰《かじょう》な応力が加わったとき、その力を分散する働きがあったが、同様に音の反響も散らすのだろう。
いまや教本の柱が、光の中に浮かんでいた。その中ほどに、ちらちらとうごめく影がある。三人……四人……もっといるだろうか。
前方の光源で、すでに足元もうす明るく照らされていた。
メイはライトを消し、手前の柱に身を隠《かく》した。ユタも続く。
それから、足音を忍《しの》ばせて、ひとつ前の柱に移った。
数回柱をわたると、めざす場所まで十メートル足らずになった。
男たちの話し声が聞こえる。
「……今晩はおまえのおごりだぞ。まったくへマやらかしやがって」
「このいまいましいでこぼこの床《ゆか》がわるいんだよ!」
「いいからさっさと積めよ」
「ったくもう、ケースが崩れた時は肝《きも》をひやしたぜ。超高《ちょうこう》カロリーの成形|炸薬弾《さくやくだん》だぞ、誘爆《ゆうばく》したらどうする」
「しねえよ」
「しねえって言い切れるかよ」
「ちゃんと発射しない限り作動しねえって。てめえの武器ぐらい信頼《しんらい》しろっての」
「じゃあヒデ公、おまえこのタマの頭をハンマーでぶってみろよ」
「そりゃおもしれえ、やってみろよヒデ」
「ばかいえ!」
「おまえが言ったんだぞ。ほら、やってみろったら」
「そうそう、兵士たるもの武器を信頼しなきゃあな」
「よせやい」
メイは柱の縁《ふち》から顔半分出して、様子をうかがった。
メイの下から、ユタも前をのぞいた。
二人は、あやうく声をあげそうになった。
この方面にはうといメイだったが、それが何かは一目でわかった。
戦車が六両。
銃座《じゅうざ》のついた装甲車が四両。トラックが一台。
軍服を着た兵士が六人。
背後には、宇宙港の立体|駐機場《ちゅうきじょう》にあるような、大きな昇降装置《しょうこうそうち》があった。それを取り巻く回廊《かいろう》の一角に「第十八リフト」という標識が見える。メイはその標識をどこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。
右手寄りに、スーツケースほどの箱が山積みになっていた。うち数個が地面に散らばっている。どうやらこれが、最初に聞いた音の原因だったらしい。
息をつめて見守るうちに、遠くからサーチライトのような光が近づいてきた。
トラックだった。トラックは器用に柱の間をくぐり、荷物の集積場の前に止まった。
「どうだ。作業の進行状況《しんこうじょうきょう》は」
「はっ、順調であります、大尉どの」
「そこの散らかったのはなんだ」
「はいその……手をすべらせたようでありまして」
「弾薬《だんやく》だぞ。注意しろ」
「はっ」
「よし、荷物を降ろして点検しろ。正午までに終えろ」
「はっ」
大尉ともう一人は、最初にあったトラックに乗って、暗闇の中に消えた。
兵士たちは荷台に群がり、ケースの一つを開けた。
「すげえ、M66Lだぜ!」
「ほんとだ!」
「アラコス製か。よく揃《そろ》えたもんだな」
「これで戦争できるな」
「いよいよって気がしてきたぜ」
「ああ」
「新型のノクトビジョンがついてる。ちょっと試《ため》してみるか」
ヒデ公と呼ばれていた兵士が、ケースの中身を持って荷台を降りた。
兵士の腕《うで》にあったのは、大きなライフル銃だった。
「おいヒデ、撃《う》つんじゃねえぞ。弾《たま》が入ってるんだからな」
「わかってるって。サイトを試すだけだ」
ヒデはライフルを構え、周囲の暗闇《くらやみ》に向けた。
「おう、見える見える……解像度も悪くない」
兵士は銃の照準器を覗《のぞ》きながら、ゆっくりと体を回した。
うかつにもメイは、兵士の言葉の意味を正しく認識《にんしき》していなかった。
見える、と言っていたようだが――その照準器が、たったひとつの光子を数万倍に増幅《ぞうふく》する――すなわち、ほとんどの暗闇を昼間のように明るく見せる機能があることに気づいたのと、兵士が声をあげたのが同時だった。
「誰かいる! 見られた!」
直後、何かが耳元を通過した。頬《ほお》を張られたようだった。背後の柱で、パッと火花が散った。
「おい、撃ったのか!」
「誰かいるんだ! そっちだ!」
「いかん、しとめろ!」
メイはユタの手を引き、全力で走った。
悪夢の始まりだった。
柱のひとつにまわりこむ。細く絞《しぼ》られたライトの光が体を照らした。
また、足元で火花が散った。二人は走り続けた。
「ユ、ユタ! まだ走れる?!」
「走ってるよ。手を放して」
「でもっ」
「そのほうが走りやすいんだ」
メイは手を放した。ユタは横に並んだ。
「次、右の柱っ!」
「うんっ」
「次も右っ!」
「うんっ!」
二人は柱つたいに、大きくカーブしながら走った。そのほうが、まだ逃げられそうな気がした。
振《ふ》り返ると、ライトの群れは二手に分かれていた。あの中に暗視照準器を持っている者が何人いるかわからない。最初に撃った兵士だけならいいのだが――。
メイは走りながら腰《こし》のベルトから通信機を抜《ぬ》き、スイッチを入れた。手探《てさぐ》りで公衆電話回線に切り替え、警察の番号を押《お》した。
「もしもし! もしもし!」
返事のかわりに、回線接続不良のブザーが鳴った。
考えてみれば、宇宙放射線の大半をさえぎるほどの物質が、無線電波を通してくれるわけもなかった。
「メイ――ライト消せない?!」
ユタが息を切らしながら聞いた。
「だめっ、見えなくなるもん」
「ちょっとの間だけだよ」
「どうするの!」
「いい考えがあるんだ。次の柱、越えたら消してよ」
柱の裏にまわると、メイはライトを消した。ユタは胸からバッジをひきちぎり、裏のボタンを押した。緑色の光がともった。ユタはそれを、力のかぎり遠くへ投げた。
「あれと反対向きに走るんだ!」
「そっか、おとりか!」
二人は手探りで、小走りに進んだ。
兵士たちはバッジのほうに向かっていた。
何度も転び、柱にぶつかったが、追手との距離《きょり》はしだいに開いてきた。
だが、いつまでも兵士たちを欺《あざむ》けるとは思えない。二人は走り続けた。
やがて、前方にかすかな光が見えてきた。
「出口?!」
「わかんない」
進むにつれて、それが一|箇所《かしょ》からもれる光ではないことがわかってきた。
前方一帯が、夜明け前の空のように明るくなってきている。
「きっと出口だよ!」
ユタが声を弾《はす》ませた。
林立する柱の間から途切《とぎ》れとぎれに見える光は、まるで白いショーウインドウのようだった。
「でもユタ――こんな明るかったら、まる見えじゃないかな」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、あそこに出れば助けが呼べるよ!」
「そうね、そうよね!」
光の帯が近づいてきた。それはまぶしく、きらきらと輝《かがや》いていた。
最後の柱を越えたとき、二人ははたと立ち止まった。
しばらく、言葉も出なかった。
そこは見渡す限りの、輝く水晶の林のほとりだった。
それまで地下世界の天地をなしていたコンクリートの床と天井は、目の前で分厚い、透明な物質にとって代わっていた。柱はなく、かわりに透明の壁が進行方向にそって幾筋も走っている。
正面の光景は、まるで合わせ鏡だった。反復する細胞構造をもったトンネルは、しだいにせり上がりながら、はてしなく続いていた。
左右の壁の向こうにも、同様のトンネルが平行しているのが見える。トンネルはその向こうにも、そのまた向こうにも並び、無数のガラスと継目が折り重なって、ついには霧のように混じりあっていた。
徐々《じょじょ》に傾斜《けいしゃ》を強めながら、限りなく立ち昇《のぼ》ってゆく坂道。
――それは、この円筒《えんとう》世界に特有の光景だった。
「ユタ……」
メイはようやく、この途方《とほう》もない構造物の正体に思い当たったのだった。
「これ、採光窓だね」
「採光窓……」
「ほら、来るときシャトルから見えたでしょう。あの透明な細長い窓」
「あれの……あの窓の端《はし》っこなの? ここが?」
メイはうなずいた。
「ここも、地面と同じで上下二重になってるのね……」
「上に出る道はないの?」
「わかんない。でもあのガラスの中にはないよね、きっと。穴なんかあったら、弱くなっちゃうもの」
「じゃあ……」
「ううん、このへんに、きっと作業用のマンホールがあるよ。それを探そう」
「そうだね!」
その時。
背後の暗闇から「いたぞ!」という声が響《ひび》いた。
弾丸《だんがん》がうなりをあげてそばを通過し、採光窓の中に飛び込んだ。
弾《たま》はバシッと音をたてて透明な床を跳《は》ね、天井と床の間を電光のように反射しながら遠ざかった。
「こっちだ! 二人いる!」
二手に分かれた兵士が、左右から光の中に姿を見せた。
逃げ場がない。あるとすれば――
「ユタ! こっち!」
メイはとっさに採光窓の中に駆《か》け込んだ。ユタも続いた。
また銃声《じゅうせい》がした。
「おい、相手は子供じゃないか!」
兵士の一人がそう叫《さけ》んだ時、メイとユタはすでにガラスのトンネルをひた走っていた。
十メートルも行かないうちに、二人は足元から光の洪水《こうずい》に包まれた。
縁《ふち》から見たときには想像もしなかった、強烈《きょうれつ》な光の束だった。
集光ミラーは太陽光を六倍に収束してこの採光窓に送り込むのだった。
二人は、ほとんど目も開けていられない光の中を、無我夢中《むがむちゅう》で走った。
全身から吹《ふ》き出す汗《あせ》を、ぬぐおうともせずに走った。
ガラスのトンネルは、果てしなく続いていた。上り坂のように見えながら、それはいつまでも水平のままだった。やがて背後の道もしだいにせり上がり、行く手と区別がつかなくなった。マウスホイールの鼠《ねすみ》のように、永遠の堂々回りをしているようだった。
輻射熱《ふくしゃねつ》が、耐《た》え難《がた》いほどになった。
最初にユタが倒《たお》れた。
メイは少年を抱《だ》き起こした。
「ユタ、しっかりして!」
「うん……」
ユタは数歩進んでよろめき、また床に手をついた。
「……もう、走れないよ。暑くて死にそうだよ」
「もうちょっとの辛抱《しんぼう》よ! 採光窓はそう広くないの。あと一キロも行けば、隣《となり》の大陸に行けるよ。さあ!」
ユタの手を引き、歩きはじめる。
ユタは立ち止まり、服を脱《ぬ》ごうとした。
「だめ! 肌《はだ》を露出《ろしゅつ》したら、もっとひどくなるの!」
メイはハンカチを持っていたことを思い出し、それでユタの顔にほおかむりをした。
ユタはさからわなかった。しかしすぐ、床に座《すわ》り込んだ。
「さあ、ちょっとでも進まないと」
手を引いて、無理やり立たせようとする。
「ね、がんばって。歩けるうちに……早く……お母さんのとこへ……」
メイはふいにめまいをおぼえ、床に倒れた。
真下から、全身に光が照りつけた。
頬《ほお》に触《ふ》れた床は少しも熱くなく、外は絶対|零度《れいど》に近い空間なのに、冷たくもなかった。ただ、光をほぼ百パーセント透過《とうか》させるだけだった。それが恨《うら》めしかった。
渾身《こんしん》の力をふるって、顔をもちあげる。
目がかすんで、よく見えない。
数歩先に、ガラスの継目《つぎめ》がある。そこなら、少しは光が弱いはず……。
ユタを引きずりながら、メイはガラスの床を這った。
空いた手を前に伸《の》ばす。手は汗で滑《すべ》った。
意識が遠のきはじめた時には、もうどうすることもできなかった。
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第四章 大渦巻《おおうずまき》
ACT・1 指令部
にじんだ二本の光の柱が、しだいに焦点《しょうてん》をむすんでゆく。
白い光。――まだ、あそこにいるのだろうか。
ちがう。この光は、あそこのより、ずっと柔《やわ》らかい。
光はやがて、二筋の蛍光《けいこう》パネルになった。両側に、格子のはまった換気《かんき》ダクトがある。
メイはベッドに横たわり、天井《てんじょう》を見上げていたのだった。
頬《ほお》がひりひりした。腕《うで》を持ち上げようとしたが、手首がベッドの縁《ふち》に固定されていた。
身じろぎすると、足首もベルトか何かでいましめられていた。
「起きたか。よしよし、元気そうだな」
視野の外から、四十すぎの男が現れた。
「ごこ……」
メイはいったん咳払《せきばら》いして、言い直した。
「ここは、どこですか。あなたは――」
「ここは野戦|医療車《いりょうしゃ》で、私は軍医だ。当然だがね」
軍医はてきぱきと答えた。こうした質問には慣れているようだった。
「君は採光窓の中で倒《たお》れた。ATVが突入《とつにゅう》するのがあと十分|遅《おく》れていたら、顔の皮膚《ひふ》の移植手術をするとこだった。二、三日ひりひりするだろうが、日焼け程度ですんだ。医者としちゃ、物足りんぐらいだ」
「あの……」
聞きもしないうちに軍医はどんどん答えた。
「症状《しょうじょう》なら熱射病と脱水《だっすい》。さいわい軍には熱線兵器に対処する用意がある。全身|冷却《れいきゃく》タンクで三十分、それと栄養補給だ。あと知りたいのは経過時間か。今は同じ日の午後一時三十二分。あんまり経《た》ってないだろ」
「あの、そうじゃなくて」
「服ならそこだが洗濯《せんたく》はしてない。ちゃんと女物のパンツとブラをしといたから安心しろ。サイズはちと余るようだがな。君はやや痩《や》せすぎだ。若いうちは太る心配などいらん。もっと甘《あま》い菓子《かし》を楽しんでいいぞ」
「あのっ、ユタは――いっしょにいた子は!?」
「心配いらん、隣《となり》のモジュールでおやすみ中だ。症状は君と同じ。顔にハンカチを巻いたのはうまい処置だったな。ハンカチは純白、これも正解だ。手と額の日焼けを除けばもう全快してるが、本人は気づいてない。なんせ眠ってるんだからな」
メイはほっとした。
――いやいや、それどころではない。
自分たちはいきなり銃撃《じゅうげき》されたのだ。銃殺のかわりに介抱《かいほう》してもらえたのはいいが、手足が拘束されているのはどうしたわけだろう。
「あの、私、縛《しば》られてるんですけど……」
「そうしろって命令なんでな。理由は聞いてないし、君は快復してるから、もう私の物じゃない。いま連絡《れんらく》するから、おっつけ迎《むか》えが来るだろう」
「私たち、地下で銃撃を受けました。相手は、兵隊みたいでした。軍ってメネディア軍のことですか」
「私がメネディア軍に所属してることは確かだ。それ以外はノーコメントだな」
軍医はアンプルのケースをかざして見せた。軍のマークが入っている。
それから軍医は、傍《かたわ》らのインターホンを取り、キーを押《お》した。
「医療隊だ。少佐を頼《たの》む。……ああ私だ。二人とも快復した。……うむ、わかった」
軍医は受話器を置いて言った。
「すぐ迎えが来るそうだ」
「ユタに会わせてください」
「行った先で会えるさ」
少ししてドアが開き、銃を持った二人の兵士が入ってきた。
軍医が手足のベルトを外すと、兵士の一人が「服を着ろ」と言った。
メイはむっとした。
「あっち向いててください」
「だめだ」
兵士はあっさり却下《きゃっか》した。
屈辱《くつじょく》を噛《か》みしめながら袖《そで》を通す。ベルトのサバイバル・キットと通信機は消えていた。
兵士に両側から挟《はさ》まれる格好で、メイは野戦医療車を出た。
暖かな風が、髪《かみ》をなでつけた。
やや意外なことに、そこは地上だった。
目の前は、一面|灰褐色《はいかっしょく》の原野だった。
家も道路もない。かわりにアーチ型の大型テントの集落があちこちにあった。
戦車や装甲車、VTOL磯なども並んでいる。ジープやトラックに乗った兵士たちが、集落と集落の間を、さかんに行き来している。
荒涼《こうりょう》とした原野は地平線に届く前に終わっており、そこから唐突《とうとつ》に、芝居《しばい》の書割《かきわり》のような岩山が立ち上がっていた。稜線《りょうせん》は地上二千メートル付近を上下しており、その上は灰色の半球だった。
赤道半球だ、とメイは思った。
その麓《ふもと》とすれば、ここは第三工区にちがいない――メネディア軍の演習地だ。
とすると、自分たちは地下で、軍の機密に触《ふ》れてしまったのだろうか。
見られたら、ただちに射殺しなければならないほどの機密に。
メイは百メートルほど先のトレーラー・ハウスに連行された。
押し込まれた部屋に、ユタがいた。
隅《すみ》の椅子《いす》から、ユタはとびあがった。
「メイ!」
赤く日焼けした顔が飛び込んできた。メイは力いっぱい抱《だ》き締《し》めた。
「起きたらベッドにいたんだ。兵隊に起こされたよ。病院だと思ったら、車の中で」
「そうね。私もそうだったよ」
「そこの人に聞いたんだ。どうして僕ら、追いかけられなきゃならなかったのかとか、いろいろ。メイが来たらいっしょに説明するって」
メイは顔を上げた。
簡素な部屋だった。奥《おく》にデスクがあり、男が一人、肘《ひじ》をついてこちらを見ていた。細面《ほそおもて》で、そのわりに顎《あご》ががっしりしていて、刻まれたような皺《しわ》があった。
男は、やれやれ困った、という顔をしていた。それは今始まったのではなく、年中そんな顔をしているようでもあった。
「椅子を――そう、前に持ってきて――かけてくれ。私はメネディア宇宙軍のリック・フィドラー少佐」
少佐は一度言葉を切って、続けた。
「君たちに謝罪しなければならない。地下で私の部下が君たちに発砲《はっぽう》したことをね。君のエマージェンシー・スーツを見て慌《あわ》てたらしい」
「この作業服を?」
メイは眉《まゆ》をひそめた。
「こんな服着た人、コロニーならどこにでもいます。それでいきなり撃《う》つなんて変です。スパイかどうか、はっきりしないうちに殺してもいいなんて!」
「スパイと思ったわけじゃないんだ……たぶんね」
少佐はゆっくりと言った。
「報道もよく、そういう服を着てる」
「報道って……」
なお悪い、とメイは思った。
「民間の人を撃っていい、どんな理由があるんですか」
「ないだろうね。それは確かだ」
少佐は「困った顔」のままで言った。
「だが、この計画を実行に移すためにはやむを得ない、という判断だった」
「そ――」
「許されないのはわかっているから、その時とばす首も用意してある。どこにでも、損な役回りの男がいるものでね」
「そういう問題じゃ」
「計画ってなんなの」ユタが聞いた。
「我々はクーデターを計画している」
「クーデター?」
「武力で政府をひっくり返すことさ。いまの政権は、宇宙軍を理解していないからね」
「…………」
少佐はため息をついて、背もたれに体をあずけた。
「明後日に、首相《しゅしょう》と国防大臣の一行が演習を視察にくる。その時をねらって身柄《みがら》を確保し、このエリューセラ・コロニーを内外から封鎖《ふうさ》する」
「じゃあ、あそこにあったのは」
「地下に配置したのは、いわば伏兵《ふくへい》だね。警察も視察団の警護隊も、兵力があるのは演習地のある第三工区だけだと思い込んでいる。その背後を突《つ》き、同時に北極ポートを占拠《せんきょ》すれば、戦闘《せんとう》らしい戦闘もしなくてすむだろう。作戦がうまくいけば、呼応して惑星《わくせい》上でも地上作戦がスタートするが……」
「そんな――」
メイの声にバイアスがかかった時、デスクの上の電話が鳴った。少佐は受話器を取った。
「私だ。……そうか、わかった。第三中隊はアラスカ≠ノ配置しろ。……それでいい。車両は本部のをまわす。〇四〇〇までに終えろ」
少佐は受話器を置くと、二人に向き直った。
「君たちに知らせたかったのは、決行が明後日ということだ。それまではここにいてもらう。申し訳ないが家族や知人に連絡することはできない。蜂起《ほうき》の後、君たちはすぐに解放する。君たちはもちろん、コロニーの一般《いっぱん》市民には決して危害を加えないと約束する」
「そんなの、困りますっ!」
思わず大声が出た。
「これ以上ユタの帰宅が遅《おく》れるの、絶対困るんです! エレンさんがどんなに心配するか考えてみてください! そのうえ戦争なんか始められたら、エレンさん、もう二度と宇宙には住まないって言い出すに決まってます!」
「ちょっと待ってくれ――その」
「いいえ絶対そうです。こんどは花壇《かだん》は置いていくかもしれないけど、自分の荷物まとめて一人でカドリッジ湖に帰ると思います。もし離婚《りこん》なんてことになったら、ユタはどうなるんですか。たとえご主人のほうが折れたとしても、出世のチャンスをなくして、そのことでずっとしこりが残るはずです。どうあってもサリバン家はおしまいなんです!」
「いいかね、落ち着いて聞いてほしいんだが――」
「私は冷静です!」
「だまれ!」
少佐は一喝《いっかつ》した。
「冷静な人間なら、わかるように話せるはずだ」
「どこがわからないって言うんですか」
「全部だ。たとえばエレンさんというのは何者か――まあいい、やめた」
少佐はもとの困り顔に戻《もど》った。
「なんであれ、納得《なっとく》してもらえるとは思ってないよ。ただ何が起きているか、知らせるぐらいはしようと思ってね。すまないが、そういうことだ」
会見はそれで終わりだった。
ACT・2 サリバン家
サリバン夫人は、門の前で立ち止まり、ため息をついた。
家のまわりを四角くめぐること、六周めだった。
あれからもう、三時間以上|経《た》っている。あの時メイは「いまつかまえます!」と言って飛び出していった。キッチンの様子を見て、およその筋書きは想像がついたが、それにしても遅《おそ》すぎる。
ユタは遊び盛《ざか》りで、夕方まで戻ってこないことはよくある。メイをうまくまき、どこかに隠《かく》れてパンを頬張《はおば》っているのかもしれない。
だが、ここは宇宙コロニーだ。なにが起きるかわからない。
警察に届けたほうがいいだろうか。
夫人は思案した。
笑われても、迷惑《めいわく》がられても、届けるだけ届けたほうが――。
その時、近くで声がした。
「あなた、昨日|越《こ》してきた人よね?」
振《ふ》り向くと、自分と同年配の女性が立っていた。ジーンズにTシャツ、というラフないでたちだった。
「ええ……」
「隣《となり》のセベックよ。よろしくね」
「サリバンです。どうぞよろしく」
「さっきからぐるぐる回ってるようだけど、どうかしたの?」
単刀直入な物言いだった。
「うちの子供が、帰ってこないので……もしかして、見かけませんでした?」
「いいえ。コロニー見物かしらね」
「だといいんですけど、何か危険な目にあってないかって」
「大丈夫《だいじょうぶ》だと思うけどなー」
「もしかして、誘拐《ゆうかい》されたり……」
「考えすぎよ」
セベック夫人はくすくす笑った。
「だいたい、こんな袋小路《ふくろこうじ》で誘拐してどうすんのよ?」
「袋小路?」
「ここって出入口は北極ポートだけでしょ? 外へ連れ出すなんて、ちょっとできない相談よね」
「ああ、それもそうですね」
「うちの子も遠征《えんせい》が好きでね、最初は心配したもんだけど。それより、待つんなら庭でお茶でも飲まない? クッキー焼いたんだけど――もしかしてダイエット中?」
「いえ……それじゃ、そうさせてもらおうかしら」
ACT・3 留置所
メイとユタは少佐の部屋から百メートルほど離《はな》れた場所に並んだトレーラーのひとつに移された。
中は部屋というより、倉庫か何かに近かった。トイレと洗面台のモジュールはあったが、窓はなく、椅子《いす》もテーブルもない。
ひととおり室内をあらためたが、抜穴《ぬけあな》のたぐいは見つからなかった。
気持ちは急《せ》いていたが、どうすることもできない。二人は、床《ゆか》にぺたりと座《すわ》り込んだ。
しばらくして、ユタが口を開いた。
「ねえメイ」
「うん?」
「この部屋さ、なんか見覚えない?」
「言われてみれば……」
「これ、うちの花壇をいれたのと、おんなじみたいだよ」
メイははっとして、立ち上がった。
改めて、室内を見回す。
確かに内装はがらりと違《ちが》うが、大きさといい、隅《すみ》の面取り部分といい、天井《てんじょう》の照明灯の形といい、HARE四号コンテナにそっくり――というより、そのものだった。そういえば、メネディア軍は昔からこの規格だった……。
「ユタ、大発見だわ。これ、HARE型よ!」
「じゃあ、脱出《だっしゅつ》方法わかる!?」
「待って……」
メイはもういちど、ドアノブを調べた。どんなコンテナでも、中に閉じ込められないよう、手動の開閉ハンドルがあるはずだ。
しかし、あるべきところにハンドルはなく、代わりに四角いプレートが溶接《ようせつ》してあった。――無理もない。このコンテナは、仮設の留置場として改造されているのだ。
「ねえ、どうなの?」
「ううん、だめ。手動では開かないみたいね」
「他《ほか》に方法はないの?」
「あとは上にハッチがあるけど、外からしか開かないの」
ユタは天井を見上げた。
「あの四角い切れ目?」
「あ、そうね」
「ちょっと肩車《かたぐるま》してくれない?」
「無理だと思うけど……」
そう言いながらも、メイはしゃがんだ。すべての可能性を試《ため》してみるしかない。
「うっ……」
ユタは思ったより重かった。よろめきつつも、メイはどうにか立ち上がった。
「どう? 届く?」
「うん……」
ユタはハッチを押《お》した。それから数回、どんどんと叩《たた》いた。
「だめだよ、びくともしないよ」
「やっぱり」
ユタは肩から飛び降りた。
メイはため息をつき、また座り込んだ。ユタも隣に座った。
その時。
どこからか、かすかに、トントンという響《ひび》きが伝わってきた。
二人は顔を見合わせた。
それから、周囲を見回した。
「下だよ、メイ」
二人は床に伏《ふ》せ、耳をあてた。
よく聞くと、音は「トン」と、何かを擦《こす》るような「ツー」に分かれていた。
ツー・トン・ツー・ツー ツー・トン・ツー・トン……
ツー・トン・ツー・ツー トン・ツー・ツー・トン……
少しして、再び、
ツー・トン・ツー・ツー ツー・トン・ツー・トン……
ツー・トン・ツー・ツー トン・ツー・ツー・トン……
「なにかの合図かな」
「二進数みたいね。四、五、四、九……これの繰り返しね」
「わかった!」
ユタが叫《さけ》んだ。
「ぼく、やったことあるよ。仲間に秘密の指令を送るときに使うんだ。一つの文字を二つの数字で表すの。ああ、コード表があったらなあー」
「つまり四五と四九の二文字なのね?」
「うん」
メイは指折り数えた。それが悠久《ゆうきゅう》の昔から使用されているコード体系なら、Aが四一だったはずだ。Bが四二、Cが四三……。
「つてことは、EとIね」
「EI――エリューセラ遊撃隊《ゆうげきたい》だ! テリエとリーだよ、床下にいるんだ!」
ユタは色めきたった。
「あの二人が? どうして?!」
「わかんないよ。でも間違《まちが》いない、あの二人ならやるよ。返事しなきゃ!」
「なんて?」
「ぽくらの間じゃイエスは五九、ノーは四Eだったよ。それは憶《おぼ》えてる」
「方言はない?」
「わかんない。でも、わかると思う」
ユタは拳《こぶし》で床を叩いた。
返事はすぐに返ってきた。イエス。
「どうする? 何て言えばいい?」
「エレンさんに……じゃなくて、警察に知らせろ、かな」
「じゃあ『連絡《れんらく》、警察』でわかるよ。数字教えて」
メイは単語を逐一《ちくいち》文字コードに翻訳《ほんやく》し、指でユタに伝えた。ユタはその通りに床を叩いた。
だが、返事は「信じない」だった。
メイはテリエの顔が目に浮《う》かぶようだった。
俺《おれ》たちが言ったって、警察が信じるわけねえよ……。
「あきらめずにやってみて、って言おうか」
「だめだと思うな。メイだったら信じる? ぼくみたいな子が、軍が悪だくみしてるって言ったら?」
「うーん……」
「やっぱり、ここを出るしかないよ。メイが言えば信じるよ。訳して。『天井・ハッチ』」
「あの子たちに天井を開けさせるの!?」
「天井しかないよ」
「でも、見張りがいるかも」
「あいつらならやるよ。ぜったい」
「見つかって、撃《う》たれたりしたら……」
「それでもやらなきゃ!」
「…………」
メイはためらいがちにうなずいた。そして、コードを翻訳した。
返事は「イエス」だった。
二人はずっと壁《かべ》に耳を押し当てていた。
最初の五分ほどは、何も起きなかった。
それから、天井がかすかに、みしりと鳴った。続いて――ガチャ。
ハッチが浮き上がり、そろそろと一方にスライドした。
メイとユタは、まぶしさに目を細めた。
四角く切りとられた天井から、テリエとリーが顔を見せた。
「早く!」テリエが手招《てまね》きした。
メイはユタを肩車して、天井に運んだ。
それから、力いっぱいジャンプして、ハッチの縁《ふち》にぶらさがった。
子供たちの手に助けられながら、メイは屋根に這《は》い上がった。
両側にも同じ型のコンテナがあった。そのせいでやや目立たなくなっているものの、それも時間の問題だった。
「下のほうがいい。メイ、あんた先に降りて俺たちをうけとめろ。音がしないように」
テリエが指図した。
「うん」
メイはコンテナのへりからぶらさがり、腕《うで》をいっぱいに伸《の》ばしてから飛び降りた。
顔をあげると、少年たちは次々に飛び降りてきた。
トレーラーの下に潜《もぐ》り、タイヤの陰《かげ》に身をひそめる。周囲をうかがうと、兵士やジープがいたるところを動きまわっていた。
テリエは地面に地図を描《えが》きながら、説明した。
「北側百メートルぐらいのとこに、監視塔《かんしとう》がある。監視塔の東にゲートがあるけど、車が通るたびに閉まるんだ。このへんはずっとフェンスで囲まれてる。フェンスのまわりは開けてて、近づく前に見つかる」
「二人とも、入るときはどうしたの」
「地下でトラックに潜り込んだんだ」
「あの場所に行ったの?」
「そうさ。変な音がしたんで行ってみたんだ。装甲車が戻《もど》ってきて、連中の話で、あんたらがつかまって中に乗ってるのがわかったんでさ」リーが言った。
「すごいのねえ……」
「地下は俺たち遊撃隊のシマだぜ」
「自慢話《じまんばなし》してる時じゃねえぞ、リー」
「じゃあ、出るときもトラックに潜り込んだら?」ユタが言った。
「それができりゃ一番だ。けど、ちょっと近づきにくいぜ」
テリエはトラックの集まった場所を顎《あご》で示した。直線で三百メートルはある。
「夜になるまで待つって手もあるけどな。けど、そいつは」
テリエは急に話すのをやめ、唇《くちびる》に指を当てた。
すぐそばで、兵士の声がしたからだ。
「おい、ここにトレーラー置いた奴《やつ》は誰《だれ》だ!」
少し離《はな》れて、別の声が答えた。
「私ですが」
「ここは戦車の場所だぞ。トレーラーはシルチス≠セ」
「そ、そうでしたか。では至急移動させます」
「今すぐかかれ」
「はっ! ――おい、みんな。三台とも動かすぞ」
「へーい」
「よしきた」
それからすぐ、牽引車《けんいんしゃ》のドアが開閉する音がした。
モーターが回転しはじめ、トランスミッションが動いた。
「まずい! つかまれ!」テリエが言った。メイは意味がわからなかった。
「つかまるって……」
「車体にぶら下がるんだよ」
「そんな、できっこないわ!」
「メイ、やるしかないよ」ユタも言った。
「でっ、でもそんな、映画みたいなこと――」
「置いてかれるぞ!」
「メイ、早く!」
車体が動きはじめた。
「うがっ!」
メイは無我夢中《むがむちゅう》でほこりまみれの車体にしがみついた。すぐ下で地面が流れはじめ、まもなくやってきた突起《とっき》が、メイの尻をしたたかに打った。
「くっ!」
体を反らすと、目の前にうなりを上げて回転するプロペラシャフトがきた。あわててのけぞると、今度はポニーテールが地面をこすった。
「ひ、ひええ!」
「子供みたいに騒《さわ》ぐんじゃねえ!」テリエが叱《しか》った。
「あ、あなたに言われたく……ないわっ……」
まだ整地されていないので、車体はひっきりなしに揺《ゆ》れた。
メイは死ぬ思いでしがみついた。
永遠とも思えた三分がすぎ、トレーラーは停止した。
四人は、九死に一生を得た思いで地面に降りた。周囲をうかがう。
「ずいぶん奥《おく》に入っちまったな」
「ここ、VTOLの発着場じゃねえか?」
「そうらしいぜ」
近くでタービンの回転音がした。
牽引車のドアが開き、運転手が降りてきた。
四人の隠《かく》れたタイヤのすぐ外に、黒い軍靴《ぐんか》が止まった。
そばに止まった別のトレーラーからも人が降りて、二人は話しはじめた。
「やれやれ、こつから歩くのかよ」
「ジープ呼ぶか?」
「そのまえに一服つけようぜ」
「そうだな……おっと!」
カテンと音がして、何かがメイの目の前に転がってきた。
ライターだった。
「やれやれ。落とした物は、かならず奥へ転がり込むってな」
靴《くつ》がこちらを向いた。兵士はしゃがみこみ、車体の下にもぐった。
「どこだどこだ……俺の大事なライターは、と……」
そこで兵士は絶句した。
メイとまともに目が合った。
「な……」
「こ、こんにちは!」
「馬鹿《ばか》、逃げろ!」テリエが叫《さけ》んだ。
四人は、いっせいに車体の反対側に飛び出した。
「おい! つかまえろ!」
背後で声が呼んだ。靴音が、駆《か》け足になった。
四人はだだっぴろい荒野《こうや》を、走りに走った。
前方で、一機のVTOL戦闘機《せんとうき》が暖機運転をしていた。背後の兵士が、それに向かって怒鳴《どな》った。
「おーい、そいつらをつかまえてくれ!」
操縦席からパイロットが降り、こちらに身構えた。
テリエが叫んだ。
「一対四だ、かかれ!」
抗議《こうぎ》する間もなかった。テリエはパイロットの腰《こし》めがけて飛び込んでゆき、地面に押《お》し倒《たお》した。すかさずリーが、股間《こかん》に蹴《け》りを入れる。悲鳴を上げるパイロットの腹に、ユタが飛び乗った。
「メイ、あんた宇宙船乗りだろ。こいつを飛ばすんだ!」
「そ、そんなっ!」
「走らすだけでもいい。早く!」
追手が迫《せま》っていた。
もう、どうなってもいいという心境で、メイはコクピットに駆け昇《のぼ》った。
席はひとつしかない。
少年たちは主翼《しゅよく》によじのぼり、前縁《ぜんえん》にしがみついた。
シャトルの操縦なら、たまにマージに教えてもらうことがある。メイは必死で操縦装置を調べた。右に操縦|桿《かん》、左にスロットル、方向舵《ほうこうだ》はペダル――ここまでは同じだ。
「早く動かせ! エンジンかかってるだろ!」
「えと、えと、ホイールブレーキは……」
「こらーっ、馬鹿なまねはよせーっ!!」
兵士たちがすぐ下に来た。
「メイ! 吹《ふ》かすんだ!」
兵士がラッタルを昇ろうとする。テリエがその脇腹《わきばら》を蹴った。兵士は一度地面に落ちたが、すぐ立ち上がった。
「このガキ!」
「メイ、早くしろ!」
「もう、知らないからっ!」
力まかせにスロットルを押す。エンジンが咆哮《ほうこう》した。
パッと砂ばこりが舞《ま》い、兵士たちが地面を転がった。
その地面が、みるみるうちに遠ざかってゆく。
「と――飛んだっ! 飛んじゃった!」
「いいぞ、その調子だ」テリエが怒鳴る。
戦闘機はめざましい速度で、ほとんど垂直に上昇《じょうしょう》していた。
「わ、あわわ、どうしよう」
スクリーンにアナログ表示されたメーターが、ぐるぐる回っている。
外の世界も、独楽《こま》のようにぶれて回っていた。
落ち着け、落ち着くんだ、メイ。
必死で自分に言い聞かせながら、メイは計器を読んだ。
まずは警告表示を消すことだ。
車輪が出たまま――これはいい。
キャノピーが開きっぱなし――これも無視。
出力過大――まずい。メイはスロットルを少し戻した。まだ上昇は続いているが、下手に低くとぶよりはましだ。もっとも、この空には限りがある。下手をすれば、コロニーの反対側に墜落《ついらく》することを忘れてはならない。
それから、姿勢表示器が――つまり機体が――水平にぐるぐる回転しているのを止めないと。だがどうやって? 宇宙船だと、大きく分けて空力|制御《せいぎょ》と反動制御がある。前者は大気圏《たいきけん》内、後者は宇宙空間で使うものだが……これはどうなっているのだろう? メイはペダルを一方に、そっと押してみた。
回転が遅《おそ》くなった。いいぞ、もう少し。
何度も過剰《かじょう》操作を繰り返すうちに、どうにか外が観察できるほどにおちついた。
夕刻ということもあって、かなり照度は落ちていたが、三方の採光窓から来る光が交差する空中はまだ地上の昼よりも明るかった。株首の下に見える下界の演習場のテントや車は、もう豆粒《まめつぶ》のようだった。
メイは大事なことに気づいた。子供たちは!?
中腰《ちゅうごし》になり、右翼《うよく》をかえりみる。ユタとテリエが腹這《はらば》いになっていた。
「リーは!!」
テリエが顎《あご》で左翼側を指さした。そちらを見ると、リーがいた。リーは得意になって、片手を上げてみせた。
「ばかっ! しっかりつかまってっ!!」
「おっとと!」
リーは手をすべらせ、後ろに転がった。
「ああああっ!」メイは悲鳴を上げた。
こわごわ目を開くと、リーは後縁《こうえん》のフラップの付け根につかまっていた。
リーは前縁に這《は》いのぼり、境界相|制御板《せいぎょばん》につかまった。
全身から冷汗《ひやあせ》が出た。
高度計は、もう二千メートルを指していた。
さあ、これからどうするか。サリバン家はどこに……? 困ったときは報告する、連絡《れんらく》する、相談する、ということだったが、無線を使おうにも、マイクもスピーカーもなかった。それらはあの哀《あわ》れなパイロットのヘルメットの中にあったのだ。
……とりあえず、演習場から離《はな》れよう。メイはどうにか北極に機首を向けると、おそるおそる操縦|桿《かん》を倒《たお》した。
「わわっ!」
戦闘用《せんとうよう》に造られた機体は、パイロットの意志にきわめて鋭敏《えいびん》に反応するよう調整されていたのだった。
ACT・4 指令部
「……VTOLで乗り逃げされただと!?」
フィドラー少佐は、受話器に向かって怒鳴《どな》った。
「機体はどこに向かった?!……なんてこった、すぐに追跡機《ついせきき》を出せ。何機ある?……すぐ出せるのは一機しかないだと? とにかく出せ。撃墜《げきつい》してかまわん!……いいんだ、責任は私が取る」
少佐は受話器をつかんだまま、戦闘指揮車につないだ。
「今すぐ電波|妨害《ぼうがい》をかけろ。……そうだ今すぐだ。あとでなんとでも言い訳する。私もすぐそっちに行く」
受話器を置くと、少佐はたっぷり二秒ほどかけてため息をついた。
それから席を立ち、隣接《りんせつ》する戦闘指揮車に向かった。
ACT・5 アルフェッカ・シャトル
「なるほど……確かにこりゃすごい眺《なが》めだ」
シャトルが北極ポートのゲートを出ると、航法席に座《すわ》っていたサリバン氏は感嘆《かんたん》の声をあげた。
「そうでしょう。コクピットからじゃ、視野の広さが違《ちが》いますからね」と、ロイド。
「ユタのやつも、もういっぺん乗りたそうな顔をしてたからなあ……」
「きっと今ごろ、恨《うら》めしげに空をながめてますよ。庭でね」
「そういえば、奥《おく》さん、元気になったかしらね?」
マージが言った。
「その……だいぶ滅入《めい》ってたみたいですけど」
「あれなら大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。ちょっと疲《つか》れが出ただけでしょう」
「あー、ならいいんですけど……慣れない場所で心細い思いしてるかもしれませんよね?」
「ユタもいるし、メイさんもいますから平気ですよ、家内は」
「そう――そうですわね……」
話はそこで途切《とぎ》れた。
どうやら最後のチャンスも逃《のが》したかな、とマージは思った。この往復飛行の間に、なんとかサリバン氏の心を夫人に向けさせようとしてきたのだが。
悪く思わないでよね、メイ――マージは心の中でつぶやいた。あなたの気持ちはわからなくもないけど、あたしには不向きな指示だったわよ、新米MDさん……。
マージは通信機のチャンネルをB大陸の空港に合わせた。
「こちらアルフェッカ・シャトル……ん?」
計器盤《けいきばん》に、回線接続不良のサインが出ている。
予備のチャンネルに変えてみるが、やはり接続不良だった。
「おかしいな、管制塔《かんせいとう》と連絡《れんらく》できないわ」
「故障か?」
「だとしても、こっちじゃないわね」
「北極ポートはどうだ」
これも接続不良。
「どうなってるんだ。さっき交信したばかりなのにな」
「どうしたんです?」サリバン氏が聞いた。
「いえね、無線がどこにも通じなくなってるんですよ」
「そりゃ変ですね」
「とにかく空港まで行くわ。別に進入|誘導《ゆうどう》なんかいらないし」
「レーダーに気をつけてろ。せまい空路だからな」
「わかってる」
マージはメインスクリーンに空対空レーダー画像を出した。レーダーもひどくノイズが目立ったが、どうにか使えた。
「……ん? 何これ?」
スクリーンに、奇妙《きみょう》な光点が映っていた。
「なんだこりゃあ? 飲酒運転か?」
「軍の演習かしら。訓練にしても最悪のパイロットね」
「まさか、教官がだまって見てるはずはないだろう」
光点は高度も進路もまったく安定せず、スパゲティのように空中を迷走していた。
マージは外を見た。前方、やや下方で何かが光った。
「いたわ、一時の方向」
「……軍のVTOLらしいな。もうちょい加速しとけ。いつでもかわせるようにな」
「了解《りょうかい》」
ACT・6 VTOL戦闘機《せんとうき》
メイは今や、どちらが上かさえわからなくなっていた。
原因はコロニーの構造にもあった。高度四千メートルの自転軸《じてんじく》付近まで来ると、そこを境に上下が逆転する。VTOLは推力を水平より上に向けることができないので、上昇《じょうしょう》するためには、機体を裏返しにしなければならなかった。そのために操縦|桿《かん》を動かすと、機体はおそろしく敏感《びんかん》に反応し、願う角度の三倍も回転してしまう。
これも飛行機の一種だから、充分《じゅうぶん》な前進速度があり、適切な操作をすれば、シャトルの空力操縦とほぼ等しくなるのだが、メイはいまだに垂直|離着陸《りちゃくりく》モードのままで飛んでいた。
これは彼女にとって、未知の操縦形式だった。せめて搭載《とうさい》コンピューターの協力を得ればよかったのだが、この状況《じょうきょう》では思いもよらないことだった。
「おおい、そろそろなんとかしろよ!!」
外からテリエが怒鳴《どな》った。
「腕《うで》が折れそうだぜ」
「わっ、わかってるったら!!」
メイは口を∞の形にして、懸命《けんめい》に操縦した。
何秒ぶりかで計器盤《けいきばん》を見ると、新たな警報表示が出ていた。BINGO。
「ビンゴ……って燃料切れのことよね?……どっ、どうしよう!」
メイは視野を右から左へと流れてゆく北極半球を見た。まだ十キロはある。
着陸地を探したほうがいいだろうか。しかし、この調子ではとても軟着陸《なんちゃくりく》できそうにない。自分たちだけならまだしも、民家に突《つ》っ込もうものなら――。
その時、視野の片隅《かたすみ》を何かが横切った。
なにか、ひどく懐《なつ》かしいものだったような気がする。
機体が一回転して、またそれが見えた。
間違《まちが》いない――
「ア、アルフェッカ・シャトル! マージさんだ!」
メイは声を限りに叫《さけ》んだ。
「マージさんっ、助けてぇーっ!!」
ACT・7 アルフェッカ・シャトル
その声が通じたわけでもないが――。
「なんか、こっちに寄りたがってるような気がするわね、あれ」
「言われてみれば、そんな感じもするな」
「もうちょっと接近してみようか」
「危ないぞ。ありゃあ、メイの故郷《いなか》にあった宇宙|機雷《きらい》よりたちが悪い」
「大丈夫、すぐかわすって」
マージは機首をVTOLに向けた。
近づくにつれて、相手の異常さがわかってきた。
「なんて奴《やつ》だ。車輪が出たままだぞ」
「翼《つばさ》に何か乗ってない?」
「あんな兵装、わしゃ知らんぞ」
「ちょっと、キャノピーも開いたままよ。……あれ?」
マージは視力一・七の目をこすった。
「あのパイロット、ヘルメットもしてないわ。ほら、金髪《きんぱつ》が揺《ゆ》れてる」
「ほんとだな。女の子みたいなポニーテールだな……」
ロイドは首をかしげた。
「なんとなく……いや、まさかな」
「まさか……何なの?」
「いやな、ちとメイに似てるかな……なんてな」
「あたしも、実はそう……おっと!」
VTOLは急に横転して、こちらに向かってきた。
マージは急いでシャトルを反転させた。
両機はほんの二十メートルほどの距離《きょり》をおいてすれちがった。
一瞬《いっしゅん》、機体の細部が見えた。
「……マージ、今の見たか?」
「……ええ、確かに」
「メイだったよな?」
マージはこく、とうなずいた。
「それともうひとつ。翼の上に、子供がいなかったか?」
「いたわ。二、三人、いたような気がした」
「それもその……サリバンさん、あなたの息子《むすこ》さんが混じってたような気がするんだが」
「な――なんですってえ!?」
「とっ、とにかく、ありのままの現実を受け入れて、助けないと」
マージは必死に呼吸を整えながら言った。
「しかしどうやる? 無線は通じないし、あれじゃおちおち編隊も組めんぞ」
「待って……ほら、動きが止まったわ」
VTOLはそれまでの狂《くる》ったようなダンスをやめていた。速度がみるみるうちに落ちてゆき、やがて漂流状態《ひょうりゅうじょうたい》になった。
「燃料切れか? 高度は?」
「三千八百。鉛直《えんちよく》方向の加速度は〇・〇五G」
「こりゃあいい。バーニア噴射《ふんしゃ》でいけるな」
「今のうちならね」
「よし、空中で回収しよう。わしが機動ユニットをしょって出る」
「そうね」
「あの、ユタは助かるんですか?」
「もちろんです。何の危険もありませんよ」
ロイドは席を離《はな》れ、背もたれを蹴《け》ってキャビンに飛び込んだ。ロッカーから船外活動用の推進装置を取り出し、ノズルを引き出して背中にしょった。
エアロックを開こうとすると、警報ブザーが鳴った。中と外で、気圧が違《ちが》うせいだった。
「マージ、与圧《よあつ》を解除してくれ。エアロックが言うことを聞いてくれんのだ」
「了解」
シュッと音がして、耳がつんと痛くなった。ロイドは唾《つば》を飲み込んだ。
エアロックが開くと、生暖かい風がどっと吹《ふ》き込んだ。
「いいぞ、寄せろ!」
ACT・8 VTOL戦闘機《せんとうき》
メイはコクピットで泣いていた。
エンジンが止まったとたん電力も止まり、動翼《どうよく》も、計器も、スイッチも、一切《いっさい》応答しなくなった。
それでも、一秒ごとに高度が落ちているのはわかった。
このゆるやかな死刑《しけい》宣告にふさわしい、奇妙《きみょう》な静けさが、あたりを包んでいた。
後ろで子供たちの声が聞こえる。何をはしゃいでいるのか――たとえ今が無重量状態に近くても、降下速度は容赦《ようしゃ》なく増え続け、地面に叩《たた》きつけられる頃《ころ》には時速二百キロに達するというのに。
せめて滑空《かっくう》降下できれば万にひとつの可能性もあったが、操縦|桿《かん》さえ凍《こお》りついた今となっては、それも望めない。
メイは唇《くちびる》を噛《か》んだ。
いいところまで行ったのに――ユタをサリバン夫人のもとに連れ戻《もど》すことができなかった。そしてこの、小憎《こにく》らしくも真珠《しんじゅ》のような瞳《ひとみ》を持った子供たちも……。
と、その時。
「よう、メイ。出迎《でむか》えごくろうさん。元気でやってたか」
耳元で、そんな声がした。
幻聴《げんちょう》が始まったらしい。死の直前には生涯《しょうがい》の記憶《きおく》がパノラマのように蘇《よみがえ》るというが、これもその一部なのだろうか。
その声は不思議なほど現実味をおびていた。メイは思わず、声のほうを見た。
ロイドがいた。コクピットの外の、空中に。
「ロ……ロイドさん?」
「ああ、わしだよ。だいぶ動転してるみたいだな。ちょっと待ってろ。まず子供たちから収容する。いいな、うん?」
言いながら、ロイドは手をのばし、メイの頬《はお》をつねった。
メイは我に返った。振《ふ》り返ると、すぐ上にアルフェッカ・シャトルがどっしりと浮かんでいた。機首の窓|越《ご》しに、けげんな顔のマージも見える。
脳にたちこめていた霧が、一度に吹《ふ》き払《はら》われたようだった。
メイは初めての単独飛行で――同乗者もいたが――自分の思考力がどれほど低下していたかを思い知った。なんの不思議もないことだった。メイは、大気のある場所では決して宇宙遊泳できないという、誤った先入観に支配されていたのだ。
ロイドに抱《かか》えられたリーが、シャトルのエアロックをくぐった。
「おい、いつまでしがみついてんだよ」
テリエがユタをひやかしていた。テリエは、軸部《じくぶ》の遊戯施設《ゆうぎしせつ》でこの状況《じょうきょう》に慣れていたのだろう。自分でVTOLの翼《つばさ》を蹴《け》って泳ぎ始めていた。一方ユタは、いまだこの四千メートル近い断崖《だんがい》のもたらす、生理的な恐怖《きょうふ》を克服《こくふく》できずにいた。
メイは急いで涙《なみだ》を拭《ふ》き――ここは余裕《よゆう》を見せたいので――コクピットを抜《ぬ》け出した。
キャノピーの縁《ふち》を蹴って舞い上がり、ユタのそばに軟《なん》着陸する。すべてが自由落下する系の中にあったが、VTOLのほうが空気|抵抗《ていこう》のぶん降下がわずかに遅《おそ》く、機上には見かけ上の弱い重力があった。
「メ、メイ……あぶないよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》だったら。ほら、手を放して」
メイはユタを抱え上げ、シャトルに向かってほうり投げた。
「ああっ!……あ……あ?」
ユタの体はゆっくりと回転しながら宙を漂《ただよ》った。ロイドがその足をつかまえ、エアロックに引きずり込む。テリエも自分の力でシャトルにとりついた。
「メイ、これをコクピットのあたりに結んでくれ。ポートまで曳航《えいこう》するんだ。そいつを落とすわけにはいかんからな」
ロイドが船外活動用の命綱《いのちづな》を投げた。
メイはロープの端《はし》のカラビナをつかみ、VTOLの操縦席の金具に通した。ロープのもう一端《いったん》は、シャトルの胴体《どうたい》底部のフックにつながれていた。
ロイドが降りてきて、メイを抱きかかえた。
「さあ行こうか、泣き虫さん」
「は、はい……」
メイは赤面し、しかし、こみあげる笑みを抑《おさ》えることができなかった。
その時、頭上でテリエの怒鳴り声がした。
「おい! まだ終わってねえぞ! 急げ!」
「なんだ?」
テリエはエアロックから半身を乗り出して、赤道半球を指さしていた。
「あっ、何か来る!」
数キロ先、光るものが急速に接近していた。
すぐ下で砂利《じゃり》をぶちまけたような音がした。
VTOLは破片《はへん》の雲に包まれ、いま結んだロープの先も消滅《しょうめつ》していた。
「いかん、機銃斉射《きじゅうせいしゃ》だ!」
ACT・9 アルフェッカ・シャトル
ロイドはメイを抱えたまま、大急ぎでエアロックに飛び込んだ。サリバン氏とテリエが二人を中に引き入れた。ごったがえすキャビンをくぐって、メイとロイドはコクピットに入った。
「サリバンさん、後ろで子供たちをお願いします。席か壁《かべ》に張りついて、しっかりつかまるように」
「ああまかせろ!」
メイが航法席につくと、マージが怒鳴った。
「総員加速待機!」
「後ろ、OKです!」
どおん!
あらゆる航空法規を無視して、マージはシャトルのエンジンを全開にした。
推力線にそって、途方《とほう》もない高温プラズマのトンネルができた。VTOLの残骸《ざんがい》が独楽《こま》のように舞う。
新手は――同型のVTOL戦闘機だったが――左後方から高速で接近していた。
シャトルは二十秒で時速八百キロに達した。
逃げたいのはやまやまだが、マージは高Gで機体を旋回《せんかい》させた。この速度ではコロニーのどこへ行くにも一分とかからず、常に旋回し続けなければならない。通信が途絶《とぜつ》している以上、北極ポートのゲートは閉じたままなので、逃げ込むことはできない。それ以外で、このコロニーのどこに安全な場所があるのか。
「メイ、簡潔に状況報告」マージがぴりぴりした声で命じた。
「はいあの、宇宙軍はこんどの演習に乗じてクーデターを計画してました。私と子供たちは偶然《ぐうぜん》その場を目撃《もくげき》して、いろいろあって、VTOLで脱出《だっしゅつ》したんです」
「秘密を維持《いじ》するために、目撃者を消そうとしてる。そうだな?」と、ロイド。
「はい」
「通信障害も軍のせいだな、マージ」
「でも、空中戦なんかしたら目立つでしょうに」
「地上四千メートルだぞ。模擬戦《もぎせん》とでも言うさ。メイ、こっちは視界が狭《せま》い。レーダーで後ろをしっかり見てろ。マージは前に集中しろ」
「はい!」「了解《りょうかい》」
その時、メイはレーダーに映ったVTOLの光点が、一瞬|膨《ふく》らむのを認めた。
なんだろう――と考えていてはいけない――ただちに危険を伝えるべし。
「VTOL、エコー変化!」
「発砲《はっぽう》だ! かわせ!」
シャトルは背面飛行し、直後、急激に引き起こしをかけた。頭が肩《かた》にめりこむ。負けじと旋回するVTOLが、斜《なな》め上方にちらりと見えた。
「いいぞ、向こうはどうやら機銃しか積んでない。燃料はあるか?」
「あと一時間は飛べるわ」
「敵が弾《たま》を使い果たすまでねばるんだ」
「いいけどね……」マージは額に汗《あせ》をうかべていた。
「VTOL、右後方にまわります」
「シザー開け!」
ロイドが言った。
「何よそれ!」
「シザーズを知らんのか、空戦テクニックの初歩だぞ。――メイ、敵の向きが変ったと思ったらすぐに言え。マージはメイの合図で旋回方向を反転する。いいな、まず左だ」
「了解」
「VTOL、左にスイッチ!」
マージはただちに右に切り返した。
「VTOL、右にスイッチ!」
「ぐっといけ、ぐっと!」
叩《たた》きつけるように左急旋回。後ろでどさっと音がし、リーの「あいてて!」という声がした。
「進路交差します。VTOL、左後方から右前力に」
「速度|絞《しぼ》れ!」
推力が落ち、左右の翼《つばさ》にスポイラーが立った。右前方にVTOLの後部が見える。
「いいぞ、後ろをとった。教えたとたんに成功するとはさすがだ。このまま尻にくらいつけ。死んでも離《はな》れるな」
「無茶言ってくれるわ。こっちは満載《まんさい》の貨物機、むこうは戦闘機《せんとうき》よ」
言い終わらないうちにVTOLはターンした。たちまち真横から背後へとまわりこむ。
「甘《あま》かったか」
「VTOL、後方右より接近――発砲!」
「こなくそっ!」
シャトルは急上昇した。スクリーンに警報表示がひらめいた。右翼端《うよくたん》破損。
「あ、あたしのシャトルを――!」
マージが罵《ののし》り声をあげた。
「落ち着け。考えがある。全速で自転軸《じてんじく》に向かえ」
「どうするの?」
「積荷を空中投棄する。空戦のセオリーだ」
「投棄って、また?」
「そう、まただ。ペイロードベイを開いて、パレットごと爆破《ばくは》ボルトで切り離す。なあに、外はゼロGだ。あとでゆっくり回収すればいい」
「でもこの速度じゃ空中投棄は無理よ」
「推力を切ってバーニアで機体を立てるんだ。積荷は無風状態のウェーキの中に落ちる」
「それでもかなりのロスよ。追いつかれたら――」
「このままで乗り切れると思うか?」
「そりゃ……」
「質量が半減すれば、まだ勝ち目はある」
「やるしかないか」
マージは機首をおこし、自転軸をめざした。直線加速なら宇宙船に分がある。シャトルは十秒で高度四千メートルに駆《か》け昇《のぼ》り、進路を自転軸上にのせた。
「メイ、敵位置は」
「後方二千四百メートル」
マージは反動|制御《せいぎょ》モードに切り替え、シャトルを強引《ごういん》に立てた。ペイロードベイ・ドア開放。しかし、ドアが開ききるのはまだ何秒も先だ。
マージはバーニア噴射《ふんしゃ》で機体を床《ゆか》方向に動かした。空いた手をペイロード・オペレーション・パネルにのばし、赤いボタンのカバーをはらう。爆破ボルトの点火スイッチがあらわになった。
「VTOL、千八百メートルに接近!」
ドアはまだ半開きだった。
「VTOL、千二百メートルに接近!」
メイは声を震《ふる》わせた。
「――も、もう撃《う》ってきます!」
ドア、全開。マージはボタンを押《お》した。
何の音も聞こえなかったが、後部モニターに、サリバン家の家具を満載したパレットが離れていくのが見えた。
メインエンジン全開。ペイロードベイ・ドア緊急閉鎖《きんきゅうヘいさ》。
「敵、発砲!」
「ほいきた」
操縦|桿《かん》を倒《たお》すと、視野はぶれた緑のスクリーンになった。見違《みちが》えるほどの身軽さだった。
たちまち百八十度|旋回《せんかい》してシザーズ機動で相手の背後にまわりこむ。
ロイドは笑《え》みをうかべた。
「いいぞ、この調子でとことん粘《ねば》れ」
「そりゃ粘るけどね……」
いつまでも、こうしていられるものだろうか、とマージは思った。
空荷とはいえ、シャトルに勝てないような戦闘機が、競争の激しい兵器産業で生き残れるはずがない。たまたま装備の足りない機体とできの悪いパイロットに恵《めぐ》まれたのではないか。そして、軍はいつまでも、この状況《じょうきょう》に満足しているのだろうか……。
ACT・10 セベック家
隣家《りんか》の庭は一面の芝生《しばふ》だった。門から玄関《げんかん》までと、その途中《とちゅう》からガレージに向かう歩道はコンクリート打ちにとどめている。
一見して、まあ大味な庭づくりだな、とサリバン夫人は思った。
庭の中ほどにチューブフレームのテーブルと椅子《いす》があり、二人はそこで茶|飲《の》み話にふけっていた。ときおり空の彼方《かなた》から爆音《ばくおん》が響《ひび》くことを除けば、のどかな午後だった。
セベック夫人は話好きらしく、話題のストックが豊富なうえ、冗長《じょうちよう》な会話には自他ともに寛容《かんよう》なタイプだった。
「……最初はね、その数学者くずれの講師ってのがいい男だからって、面白《おもしろ》半分で覗《のぞ》いたんだけどさ――やってみると結構ハマるのよ、これが」
「その、オリガミ教室が?」
「そお。あれってちょっとした手品よ。はじめて行ったとき、目の前で一枚の紙が鳥に化けた時はたまげたもん」
「そう?」
「ちょっとやってみようか」
セベック夫人はティッシュ・ペーパーを一枚|抜《ぬ》いて広げると、対角線に折り目をつけた。
よどみなく指が動いて紙は小さく折り重ねられてゆき、それからまったく突然《とつぜん》に、尖《とが》った尾と長い首をもつ、優美な鳥の姿が現れた。
「まあ、ほんとね!」
「でしょう? あなたも来てみなさいよ」
「そうねえ……面白そうね」
「月謝だって千ポンドだしさ。あたしなんか養育費が月三万で、あとパート収入でしょ。子供いるから高いとこはだめなのよ」
「養育費?」
サリバン夫人は眉《まゆ》をひそめた。
「言わなかったっけ。あたし、亭主《ていしゅ》と別居してるから。そのうち別れると思うけど、手続きとかいろいろ面倒《めんどう》だしね」
「まあ……でもそんなんじゃ、子供さん、可哀《かわい》そうじゃありません?」
「ううん」
セベック夫人は首を振《ふ》った。
「月に二度は会いに来るしさ、子供は子供で勝手に育つもんよ」
「そんなものかしら」
「ガキ大将でね。時々学校サボるけど、あれで仲間うちじゃ結構|頼《たよ》られてるらしいから。どっか取柄《とりえ》があればいいかって思ってんの」
「ふうん……」
夫人はちらりと時計を見た。四時半をまわっている。いったいユタもメイも、どうしたというのだろう……。
その時、また大きな爆音がした。
二人は空を見上げた。
はるか上空で、光点がちらちらと瞬《またた》いている。
「ったく、軍の連中、やかましいったらないわね!」
「そうね。こんな民家の上まで来るなんてね」
「ほら、また新手がやってきたわよ」
「どこ?」
「赤道のほう。二つ並んで飛んでるわ」
ACT・11 アルフェッカ・シャトル
レーダー・スクリーンに新たな二つの光点を認めると、メイは絶望的な気分になった。
とにかく報告はしなければならない。
「あの、また二機現れました。赤道側から接近中です。距離《きょり》十三・七キロ」
マージが口を開くまでに、数秒の間があった。
「……ロイド。もし生きて帰れたら、ひとつ注文したいことがあるわ」
「なんだ」
「このシャトルにミサイルとバルカン砲《ほう》を装備して」
「考えてみるか。生還《せいかん》できたらな」
「とにかく、逃げ回ってるだけじゃもたないわ。相手を倒《たお》さなきゃ終わらないのよ!」
「武器としちゃ、メインエンジンをプラズマ砲がわりにするぐらいだが」
「後ろを向けたら撃たれるだけよ」
「ううむ。……となるとマニューバリングしかないな。低空で格闘戦《かくとうせん》に持ち込んで、相手を地面に激突《げきとつ》させるんだ」
「このコロニーのどこへ墜《お》とすっての? 三百万人暮らしてるのよ」
「第三工区だ。いるのは軍だけだろう」
「たった十キロの範囲《はんい》でドッグファイトしろったって、保証できないわよ」
「あの」
メイが割り込んだ。
「さっきから思ってるんですけど――VTOLのパイロットはコリオリ力や遠心力に慣れてないみたいなんです。東西方向にターンすると機体が少し沈《しす》みますし、射撃《しゃげき》の精度も悪くなるようです」
「ほう。……そういや艇長《ていちょう》が言ってたな。コロニー内|戦闘《せんとう》の演習はこれが最初だってな」
「制御《せいぎょ》システムも、まだ補正つきじゃないってこと?」
「そうだ。……こりゃあ、使えるぞ」ロイドは言った。
「マージ、なんとか第三工区に出るんだ。連中の本拠地《ほんきょち》で勝負だ」
「了〜解」
シャトルはスプリットS反転で高度を落としつつ、機首を赤道半球に向けた。
「ちょっと市街にかかるけど、超低空《ちょうていくう》で演習地に進入するわよ」
「このさい仕方ないな。だが全開|噴射《ふんしゃ》だけはするな」
「わかってる」
マージは眼下をにらみ、南北に走る幹線道路のひとつに目標を定めた。
地表が急速に迫《せま》ってきた。そのレース織りのような模様は、みるみるうちに縦横に走る道と敷地《しきち》に分離《ぶんり》し、ついで歩道と車道、街灯、道路標識、屋根と壁《かべ》と窓、門柱や垣根《かきね》や人や車になった。風景が近いところからぶれ始め、あらゆるものが前方の一点から手前に、放射状に飛び去ってゆく。
メイは思い出したようにキャビンを振《ふ》り返った。折り畳《たた》み式のシートは撤去《てっきょ》してあったので、ユタ、テリエ、リー、サリバン氏の四人は、両手両足をさまざまな向きに踏《ふ》んばって隔壁《かくへき》に張りついていた。元気だった子供たちも、今はさすがに蒼白《そうはく》な顔をしている。
「これからたぶん、床《ゆか》方向に五〜七Gかかります。ありったけの力でつかまってください」
四人はこく、こくとうなずいた。
「リー、右足はそこのハンドルに差し込んで――サンダルみたいに」
「あ、ああ、こうかい?」
「うん。じゃあ、もうちょっと辛抱《しんぼう》ね」
メイは向き直り、三機のVTOLの監視《かんし》に戻《もど》った。
「新しい二機が引き起こしはじめました。まもなく後方一キロ。最初の一機は高度二百で水平です。いつ撃《う》たれてもおかしくないです」
「撃つのはためらうだろう。第三工区に入るまではな」
「こちらのターンが早いか、向こうの撃つのが早いかってことね」
「そうだ、相手の気持ちを読め。急|旋回《せんかい》ならいいってもんじゃない、ついていこうって気にさせろ」
「むずかしい注文だこと……」
マージはさらに地表に迫った。シャトルは三階の窓と同じ高さを、時速八百キロで突《つ》き進んだ。車は急停止し、通行人は地面にひれ伏《ふ》した。地表付近の不規則な風が機体を震《ふる》わせる。
「一機は高度三十メートルで真後ろ、残りは左右で二百を維持《いじ》。距離五百メートル」
「三機同時にはめるのは無理かもしれんな……。メイ、マップがあったらこっちに表示してくれ」
「いま送ります」
「そろそろよ! 街の終わりが見えてきた」
正面のスクリーンに道路地図と現在位置が表示された。
「ここか。今クリソ通りだな。マージ、あと一キロだ」
「えっ、クリソ通りって――」
メイの声はマージの怒鳴《どな》り声にかき消された。
「総員、高加速待機! 三秒前!……二……一!」
不意に視野が開けた。
地面はすべて灰色に染《そ》まり、正面|一杯《いっぱい》に赤道山脈が現れた。
その反り返った地平線が一瞬《いっしゅん》のうちに直立し、下方に消えた。機体構造が過負荷《かふか》に悲鳴をあげ、一瞬視野がブラックアウトする。メイの手は、航法|卓《たく》のパームレストに磁石のように張りついた。
シャトルの直後につけていたVTOLのパイロットは、機銃斉封《きじゅうせいしゃ》が空振りに終わったことを知った。シャトルは左に九十度バンクし、無謀《むぼう》ともいえる急旋回を始めていた。
ようやく思う存分撃てる位置に来たんだ、このチャンスを逃《のが》すものか。
彼はただちにそう判断し、自らの機体を東――自転方向に向けた。この超低空では、地面の湾曲《わんきょく》を考慮《こうりょ》しなければならないことを知っていた。そしてまた、自転方向に飛行すれば、機体重量がほぼ二倍になることも知っていた。知ってはいたが――体がついてこなかった。
なぜだ――なぜ思うように上昇《じょうしょう》できない?
それが彼の、最後の意識になった。
シャトルの左右についていた二機は、やはりコリオリ力の罠《わな》に落ちたが、高度があるぶん、わずかな余裕《よゆう》があった。しかし注意力の大半は予想外の機体の沈下《ちんか》を食い止めることに注がれていた。等しく九十度の左旋回を開始した二機は、同一線上に前後して並ぶ運命にあった。
不幸にして、外乱とわずかな反応のずれが二機を引き寄せた。より早く高度を獲得《かくとく》した一番機の尾翼《びよく》が、二番機の機首を突《つ》き破った。二番機のパイロットは機首を赤道側の無人地帯に向け、ただちに座席を射出して脱出《だっしゅつ》した。
一番機のパイロットは、衝突《しょうとつ》と同時に機首が市街に向いたことを知って、必死に向きを変えようとした。だが、尾翼を失った機体は、もはや操縦不能だった。
機体は浅い角度で上昇し、やがて下降に転じた。
前方に住宅地が見えたが、どうすることもできなかった。
パイロットは座席の右下にあるレバーを引き、機外に脱出した。
ACT・12 サリバン家
息子の帰りが遅《おそ》いことを心配するサリバン夫人に、隣人《りんじん》はこう言った。
「もしかしたらもう家に帰ってるかもよ。こっそり裏から入ってさ。うちの子もよくやるから」
「そうね。そうかもしれない。じゃあ……だいぶ長居しちゃったし、そろそろ帰ります」
サリバン夫人は立ち上がった。
「うん。またおいでよ」
「今日はいろいろありがとう。これからもよろしくお願いします」
「こっちこそ。話相手ができてうれしいわ」
二人は握手《あくしゅ》して別れ、夫人は垣根《かきね》をまたいで自宅の庭に入った。
その時、尋常《じんじょう》でない爆音《ばくおん》が近づいてきた。
空からではない。前の通りの先からだった。
顔をその方に向けた瞬間《しゅんかん》、新居の角から巨大な白い物体が飛び出してきた。
一瞬|網膜《もうまく》に焼き付いたその形は、昨日自分をさんざん苦しめた、あの宇宙船だった。
直後、それよりひとまわり小さい、何か尖《とが》った物体が続いた。
ほとんど固体のような空気の塊《かたまり》が押《お》し寄せ、夫人は尻もちをついた。
顔をあげると、南の平原で真っ赤な火炎《かえん》が見え、それを追うように黒煙《こくえん》が湧《わ》き上がっていた。それからドーンという爆発音が聞こえた。
その破片《はへん》だろうか。黒煙の右手の空を、何かが煙《けむり》を引きながら飛んでいた。それはいったん上昇《じょうしょう》し、向きを変えながらゆっくりと下降線を描《えが》き始めた。
その向きが、こちらを向いた。
物体から何か小さなものが飛び出したが、本体は依然《いぜん》こちらに向かっていた。
サリバン夫人は、呆然《ぼうぜん》として、その成行きを見守った。後ろで「あぶない!」という隣人の叫《さけ》びが聞こえたが、手足は硬直《こうちょく》していた。
操縦者のいないVTOL戦闘機《せんとうき》は、みるみるうちに大きくなり、金属の継目《つぎめ》が見えるほどになった。
そして道路の向こう――「第十八リフト」のフェンスの中に突《つ》っ込んだ。
それは、地上から地下へ土木機械を運ぶための大型エレベーターだった。
コロニーの地盤《じばん》には並外れた強度があり、たとえ戦闘機が激突《げきとつ》しても壊《こわ》れないとされていた。だが、リフトはちがった。それは直径三十メートルの、ありふれた金属素材でできた円盤《えんばん》にすぎなかった。戦闘機の衝突でリフトは崩壊《ほうかい》した。高温高圧の燃焼《ねんしょう》ガスが獣《けもの》の舌のように地下に広がった。
コロニーの外殻《そとがら》――地下の第二の地盤も、また強靭《きょうじん》なものであり、この程度の爆発《ばくはつ》や火災では決して壊れない設計だった。
だが、そこにはクーデター軍が秘《ひそ》かに集積した、武器・弾薬《だんやく》の巨大《きょだい》な集積があった。そこでの主役は、戦車の複合装甲さえ貫《つらぬ》く、五百発の成形|炸薬弾《さくやくだん》だった。
炎《ほのお》に包まれた砲弾《はうだん》の一つが爆発すると、たちまち誘爆《ゆうばく》が始まった。
上下わずか十メートルの空間で、爆圧は途方もなく上昇し、一部はリフトの穴を通って地上に抜《ぬ》けたものの、それでは追いつかなかった。
コロニーの外層は一瞬《いっしゅん》のうちに、直径二十メートルにわたって崩壊した。
この時点では、爆風の大半が宇宙空間に抜けたことが、サリバン夫人の命を救ったのだった。夫人はその瞬間、前の道路が陥没《かんぼつ》し、庭の垣根《かきね》が消滅《しょうめつ》するのを見た。
空気が自濁《はくだく》した。
恐《おそ》ろしい音をたてて烈風《れっぷう》が押《お》し寄せ、門柱と郵便受けを押し倒《たお》した。
落葉、看板、自転車、ゴミ箱、芝刈《しばか》り機、標識、自動車――穴の周囲にある、固定されていないあらゆるものが、突如《とつじょ》口を開けた真空の淵《ふち》へと吸い込まれていった。それはいわば、地面から地中へとのびた逆さまの竜巻《たつまき》だった。風速は穴の縁《ふち》で超《ちょう》音速に達しており、渦《うず》を巻いてそこに至る風もまた暴力的なものだった。
「た、助けて! あなた……誰《だれ》か助けてーっ!」
夫人は地面に這《は》い、懸命《けんめい》に踏《ふ》みとどまろうとしたが、圧倒的《あっとうてき》な力がそれを引き剥《はが》した。夫人の体は地面を数回転がり、それから何か固い壁《かべ》にしたたかにぶつかって止まった。
花壇《かだん》だった。今朝、メイとともにブロックを績んだ、花壇の囲いが夫人の体を受け止めたのだった。
だが、安堵《あんど》するのは早かった。
夫人はそこで耳を聾《ろう》する風音に混じって、異質な音を聞いた。
それは繊維《せんい》の切れる、渇《かわ》いた音だった。音のする方――風上を見たサリバン夫人は恐怖《きょうふ》の叫《さけ》びを上げた。
家が――買ったばかりの新居が、こちらに向かって倒壊《とうかい》し始めたのだった。
ACT・13 アルフェッカ・シャトル
高度を取り戻《もど》したシャトルが一周したとき、地下での爆発はすでに終わっており、今は灰白色の柱が空中に伸《の》びてゆくところだった。それはサリバン家の南隣《みなみどなり》の道路のあたりから垂直に立ち昇《のぼ》り、しだいに太さを増しながら南に傾《かたむ》き、ついには水平になって拡散《かくさん》していた。遠心力によって東進する風は重く、西進する風は軽くなるために、ここで発生する渦流《かりゆう》は横倒しになる性質をもつ。
「なんてこった、コロニーの底が抜《ぬ》けたぞ!」
「エレンさんは?! あそこ、サリバンさんの家ですよ!」メイが叫んだ。
「なんだって!!」
キャビンからサリバン氏が飛び込んできて、副操縦士席のヘッドレストにしがみついた。
続いてユタ、テリエ、リーが操縦席に群がる。
「どこです、どれがうちなんです?!」
「あの、竜巻の隣です!」メイが指さす。
「な……」
サリバン氏は絶句した。
「マージ、サリバン家にできるだけ近寄せろ」
「竜巻があるのよ!?」
「竜巻に寄れとは言っとらん!」
「やるけどね。みんな、しっかりつかまって!」
シャトルはできるだけ速度を落とし、高度百メートルでサリバン家に向かった。右手に不気味な塵《ちり》の柱が近づいてくる。それにつれて、機体は激しく上下した。風速は渦《うず》の中心に向かって、指数的に大きくなる。気づいてからでは遅い。
シャトルは家の北側五十メートルを通過した。
前庭に扇型《おうぎがた》の三つの花壇が並び、その縁に張り付くように、人が倒れていた。一瞬、頭と手が動くのが見えた。生きている!
「エレン! あそこに妻が!」サリバン氏が叫んだ。
「マージ、もう一度接近しろ」
「了解《りょうかい》」シャトルは旋回《せんかい》し、再度の接近を試《こころ》みた。新居が視野に入ったとき、一同は息を飲《の》んだ。
屋根が消滅しており、四方の壁も渦にむかって大きく傾《かし》いでいた。
「家が――家がとばされるよ!」
ユタが叫んだ。
見守るうちに、壁は基礎からもぎ取られ、紙のように舞いながら四散して花壇に覆《おお》いかぶさった。
「あぶない! エレン逃げろっ!!」
シャトルは上空を通過し、三たび旋回に入った。サリバン氏は右舷《うげん》の窓に顔をすりよせ、視野の外に消えた新居を見ようとした。
「早く、引き返してくれ!」
「落ち着いて。もうすぐよ」
四分の三周すると、左の窓に新居が見えてきた。
いや、もはや新居ではない。
敷地《しきち》内の建物は跡形《あとかた》もなく消えていた。
花壇はまだ残っていた。中央の花壇に、サリバン夫人のワンピースが見えた。夫人は花壇の中に這いつくばり、ひれ伏《ふ》したキンギョソウの株にしがみついていた。数年を経《へ》たキンギョソウの株は木質化しており、烈風の中でかろうじて夫人の体を支えていた。
だが、それも時間の問題だった。
すでに渦から数メートルの範囲《はんい》は、厚さ二メートルの土壌《どじょう》が消滅し、コンクリートの基礎《きそ》がむき出しになっていた。侵食《しんしょく》はサリバン家の前庭を、刻一刻と蝕《むしば》んでいる。
サリバン氏が怒鳴《どな》った。
「マージさん、着陸してください! 妻を助けないと!」
「いまから空港へ行ってたら――」
「空港じゃない、そこの道路ですよ! あなたならできるでしょう!」
「むっ、無茶言わないで!」
「いや、やれるかもしれんぞ、マージ」
「ロイド!」
「下をよく見ろ。さっき通ったクリソ通りだが、あの幅《はば》ならいけるだろう」
「路駐《ろちゅう》だらけじゃないの!」
「しかしあの向かい風だ。ざっと風速四十メートルはある。渦《うず》と逆向きに、反時計まわりに旋回《せんかい》してアプローチすれば、超《ちょう》低速で着陸できるかもしれん」
「かもしれん、って言うけど――」
「マージさん、お願いだ! やっとここまで連れてきたんだ!」
サリバン氏が、すさまじい形相で懇願《こんがん》する。
「あの、マージさん」
メイが言った。
「あの竜巻《たつまき》は位置が変らないんです。思うほど、危険じゃないかも……」
危険じゃない、という言葉にかちんときて、マージは一瞬《いっしゅん》メイをにらみつけた。
それから言った。
「わかったわよ……やるわよっ!」
シャトルはいったん竜巻から離《はな》れて右旋回に入った。
前方、地上百メートルほどの空間に、横倒《よこだお》しになった竜巻の空気柱が迫《せま》ってきた。
その下をくぐる時、正面からの風で機体は急激に浮《う》き上がった。
「巻き込まれる!」
「こなくそっ!」
マージは力まかせに操縦|桿《かん》を押《お》した。激しい減速があり、一瞬機体は宙吊《ちゅうづ》りになったようだった。機内の誰もが、渦の吸引力をはっきりと感じた。
機首をほとんど真下に向けて離脱《りだつ》。ただちに引き起こして右旋回を続ける。
高度三十メートルで、クリソ通りを正面に捕捉《ほそく》。一瞬、右手にサリバン家の花壇が見えた。夫人はまだ、そこにいた。
ギヤダウン。対地速度、時速四十。
「いくわよ! つかまって!」
弓なりにたわんだ街路樹が真横にきた。
渦から離れると、風速は急激に落ちた。
シャトルは失速し、屋根ほどの高さから叩《たた》きつけるように接地した。十数メートル先に、放置された車が立ちふさがっている。力|一杯《いっぱい》ホイール・ブレーキを踏《ふ》む。シャトルは車の屋根を押し潰《つぶ》して停止した。
「ロイドさん、来ていただけますか」サリバン氏が言った。
「もちろんだ」
ロイドは素早《すばや》くベルトを解き、席を立った。
「僕も行くよ!」
ユタが言った。
「だめだ。ここは父さんたちにまかせろ。ロープはありますか。丈夫《じょうぶ》なのを」
ロイドはキャビンのロッカーから船外活動用の命綱《いのちづな》を出した。
「これなら持つだろう」
「二人とも、宇宙服を着ないと。万一吸い出されたら――」メイが言った。
「いらんよ。あの渦じゃ、落ちたらどうせバラバラさ」
言い残して、二人の男は機外に飛び降りた。
風に押し流され、坂を駆《か》け下るようにして二人は竜巻に向かった。
そこはすでに、差渡《さしわた》し百メートルあまりのミルクのような砂塵《さじん》の大渦の中にあった。風はやすりのように頬《ほお》を打ち、目も開けるのもままならない。
どうにか新居の敷地《しきち》に入り、むき出しになった家の土台につかまる。コンクリートの土台は、かつての家の間取りそのままに、地上五十センチほど残っていた。
花壇まで、あと十メートル。ひれ伏した株の向こうに、夫人の服と髪《かみ》が見えた。夫人の掴《つか》んでいるキンギョソウの株は、白い根が半分|露出《ろしゅつ》し、破断寸前だった。
サリバン氏が叫《さけ》んだ。
「エレン!」
反応はなかった。
ロイドがロープをコンクリートに結びつけた。
サリバン氏は、もう一端《いったん》を自分の体に巻いた。
「合図したら引きあげてください!」
「わかった。気をつけろ」
サリバン氏は烈風《れっぷう》の中に進み出た。ロイドはその場に踏んばり、ロープを少しずつ繰《く》り出した。渦に近づくにつれて、風は加速度的に強くなった。ほとんど水平に飛ぶ小石や土くれが、サリバン氏の全身に降り注いだ。
サリバン氏は庭を横切り、花壇にとりついた。そして再び妻の名を呼んだ。
「エレン!」
夫人がその方を向き、目を見開いた。
サリバン氏の右|腕《うで》が伸《の》びた。夫人も右手を出した。直後、株が根元から切れた。
砂塵のベールの向こうで、一瞬二人の体が重なり合った。
二人は離れなかった。サリバン氏の右腕が、夫人の体を引き上げた。左腕が背中にまわり、妻の体を抱《だ》きしめた。それからこちらを向き、はっきりとうなずいた。
直後、二人の姿が消滅《しょうめつ》した。その一帯が、土壌もろとも渦に巻き込まれたのだった。
ロイドは渾身《こんしん》の力をこめてロープを引いた。
サリバン氏の体が、地上に姿を見せた。
夫人を抱いていた。
ロイドはさらに引いた。二人は庭を這《は》い進んだ。
土台の緑《ふち》に、サリバン氏の手がかかった。
ロイドは二人を抱え、渾身の力をふるって土台の内側に引きずりこんだ。それから、息を整えた。
二人はまだ、抱き合ったままだった。
ACT・14 戦闘《せんとう》指揮車
薄暗《うすぐら》い部屋の中心を占《し》める大型スクリーンに、A大陸の望遠観測カメラが捉《とら》えた映像が大映しにされた。斜《なな》め上から俯瞰《ふかん》する構図の中に、湾曲《わんきょく》した空気柱と地表の大渦巻《おおうずまき》がありありと映し出されている。渦の中心のすぐそばに民家の敷地があるが、家は洗い流されたように消滅していた。
「なんてこった……」
フィドラー少佐の思考の一部は、その映像を見た瞬間《しゅんかん》に結論を下していた。
VTOLとシャトルの空中戦。それに続く、途方《とはう》もない悪条件の重なった墜落《ついらく》事故。
もはや揉《も》み消しは不可能だった。たとえ真相の究明に数日かかるとしても、それに先立って、予定通り演習の視察が行なわれるとは考えられない。
思考の残りを占める未練の感情は、すぐに抑圧《よくあつ》された。
少佐はマイクを取った。
「第一、第二工兵隊はただちにB大陸第十八リフトに急行し、外壁《がいへき》の補修と被災者《ひさいしゃ》の救助にあたれ。残る各隊は臨戦体勢を解除し、現状で待機せよ。諸君は刑事|罰《ばつ》の対象にはならないだろう。冷静に事態を見守り、軽率《けいそつ》な行動に走らないよう心がけてもらいたい」
通達が終わると、コンソールに向かう数人のオペレーターが、ゆっくりとこちらを向いた。皆、もの言いたげな顔だった。
少佐はつぶやくように言った。
「……やむを得まい。今回はこれまでだ。電波|妨害《ぼうがい》を解除しろ」
半時間後、工兵隊が現場に到着《とうちゃく》した。
彼らは数キロ離《はな》れた別のリフトから地下に入り、穴の周囲に陣《じん》取った。まず、柱から柱へ強化ポリマー繊維《せんい》のロープが架《か》け渡《わた》される。次いでそのロープに先導させる形で、目の粗《あら》い、同じ材質のネットが張りめぐらされた。
この、蜘蛛《くも》の巣を張るような作業が穴の四方から進められ、次第《しだい》に目の細かいネットが張り重ねられた。
最後に、金属線で補強されたシートが重ねられると、空気の流失は著《いちじる》しく減少した。
コロニーの気圧低下は敏感《びんかん》な計器では検出されたものの、住人への影響は皆無だった。たとえ穴が修復されなくても、人々が高山病にかかり始めるのは、三か月も先のことだろう。スペース・コロニーは、それ自身の巨大《きょだい》さによって、ひとつの安全性を確保していたのだった。
ACT・15 跡地《あとち》
風が弱まると、シャトルに残っていた者も地上に降り、サリバン夫妻を取り囲んだ。
救急車を待つ間、メイは夫人の応急手当をした。
夫に抱《だ》きおこされたサリバン夫人は、体中に打ち身と擦傷《すりきず》を負っていたが、致命的《ちめいてき》な怪我《けが》はなかった。まだ意識は戻《もど》らないが、呼吸も脈拍《みゃくはく》も正常だった。
地面に開いた穴からはまだ、低い、滝のような音が響《ひび》いていた。
手当を終えると、メイは立ち上がり、あらためて周囲を見回した。
穴の周囲はコンクリートの基礎があらわになっており、まわりを風に洗われた土壌《どじょう》の斜面《しゃめん》が、外輪山のように取り囲んでいた。メイはその、さしわたし五十メートルはありそうなクレーターの縁《ふち》に立っていたのだった。
扇《おうぎ》型の花壇《かだん》は、外側半分がチーズナイフで切りとられたように、きれいに消滅《しょうめつ》していた。残った半分には、かろうじて、かつての花壇であることを示す痕跡《こんせき》があった。
アリッサム、フロックス・ビューティー、ノースポール、トレニア……サリバン夫人が丹精《たんせい》こめて育てた花々は、すべて倒伏《とうふく》し、花弁をもぎ取られていた。
花壇に歩み寄り、かがみこんで、プリムラの葉に手をさしのべる。ふっくらとしたスプーンのような葉には、霙《みぞれ》に打たれたような大小の穴があり、メイの手の上で急速に生気を失いつつあった。
悲しみを自覚するよりさきに、ほろほろと涙《なみだ》がこぼれた。
記念すべき初仕事に決定的な大赤字を生み、運ぶために文字どおり死ぬ思いをし、時には憎《にく》らしくさえあった花壇の花に、どうしてこのような気持ちが抱《いだ》けるのか、メイにはわからなかった。
背後で、いやここはわしが、という声が聞こえ、足音が近づいてきた。
「あー、メイ……」
ためらいがちな、ロイドの声だった。肩《かた》に大きな手が触《ふ》れた。
「まあ、なんだ――よかったじゃないか。考えてみりゃ、この花壇がミセス・サリバンの命を救ったわけだもんなあ。こんな結果になったのはちと残念だが……夫妻もきっとそう思ってるんじゃないかね?」
「……でも」
「植物の命ってのは、地面の下で決まるそうだ。倒《たお》れて穴だらけになってるが、すぐ生えてくるんじゃないかな」
「……でも」
メイは涙声で言った。
「半分なくなっちゃいました」
「ま、それはそうだが……」
「秒速……たぶん四百メートルぐらいでラグランジュ点を離れて……」
メイはすすりあげた。
「もう回収、無理ですよね……」
「そ、そうかもしれんが――半分も残った、という考え方もあるぞ?」
「私……プロの運送業者として、半分残ったから、これでいいでしょなんて……エレンさんに言えないです」
「うむ……」
ロイドは返答に窮《きゅう》して、懸命《けんめい》に考えをめぐらせた。
「いや、半分じゃないぞメイ。今日の便で家具を運んだんだ。あっちは無事だから、四分の三はやりとげたってことに――」
その時。
どこか上のほうから、笛の鳴るような音が近づいてきた。
ロイドは何気なく空を見上げた。
彼方《かなた》に、細長い、不定形の物体が浮かんでいた。
「ん……おいマージ、なんだありゃ!?」
「え?」
その方を見たマージは、顎《あご》がはずれそうになった。
パレットごと空中投棄したサリバン家の家具だった。自転軸《じてんじく》上の、ゼロG空間にあったものが、この嵐《あらし》で中心をそれたのだった。
それは東の空から斜《なな》めに、まっすぐこちらに向かって落ちてきた。
マージは声を限りに叫《さけ》んだ。
「みんな伏《ふ》せてーっ!!」
ロイドがメイの体を押《お》し倒した。
直後、すぐ先で乾《かわ》いた破壊者《はかいおん》が轟《とどろ》いた。
身を固くしてうずくまること三十秒……。
一同はおずおずと顔をあげた。
前の道路に、粉々になった木片《もくへん》と、ねじ曲った金属塊《きんぞくかい》が散乱していた。
メイは立ち上がり、呆然《ぼうぜん》とした面持《おももち》で落下地点に足を踏《ふ》み入れた。
破片《はへん》は半径十メートルほどの領域に散乱していた。三十センチより大きなものは見あたらなかったが、それが家具とパレットの残骸《ざんがい》であることは明らかだった。
「あああ……」
メイは路上に、くたくたと膝《ひざ》をついた。
これで、四分の三……いや事実上、運んだものの全部を失ったことになる……。
マージが足早にやってきた。
「ね、ねえメイ、今のはあたしの責任よね。たぶん投棄するときに、ちょっと自転軸をそれてたんだわ。失敗しちゃったなあ……なんてね」
マージはかなり不自然な、明るい声で言った。
「だからさ、あんたは気にしなくていいわけよ。ねえ?」
メイは暗い顔で首を振《ふ》った。
「いいえ……誰の失敗でも、ミッション・ディレクターの責任です……」
「そ――そうとも言えるけど、ここはもう少し柔軟《じゅうなん》に考えてさ……」
メイはまた、すすりあげた。
それから腰《こし》を上げ、家の跡地《あとち》のほうに歩き始めた。マージが後に続く。
「私……サリバンさんに謝《あやま》らないと」
「ね、ねえ、そんなに深刻にならないでさ」
「いいえ、責任者として、まずやらなきゃいけないんです。これだけは」
「そりゃーそうかもしれないけどね」
メイは夫妻のもとに立った。
「あの……このたびは――」
言いかけて、メイはぽかんと口をあけた。
ついぞ見たことのなかったものが、そこにあった。
夫人が、意識を取り戻《もど》していた。
――その、少女のような、桜色に染まった頬《ほお》。うるんだ瞳《ひとみ》。サリバン夫人は、夫の腕《うで》の中で、この上なく幸せそうな笑顔をたたえていた。
同じ表情が、見下ろす夫の顔にも映じていた。
まるで、たったいま神父の前でキスを交《か》わしたばかりのカップルのようだった。
その二人を、ユタが不思議そうに見|較《くら》べていた。
「ねえ、メイ……ひょっとしてさ」
マージが耳元でささやいた。
「あんたが一番大事にしてたお荷物だけは、運べたんじゃない?」
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あとがき
小学生の頃から引越しが多くて、ずいぶん得をしたと思っています。
転校生は疎外されるものと思われがちですが、私の場合、なぜかいつもクラスの女の子がやさしく面倒をみてくれて、いい思いばかりしました。
子供のうちはどこに引っ越そうと、友達さえできればまずOKで、それ以外の心配事は親まかせでした。加えて、引越し先はどこも風光明媚で――単に田舎だった、とも言いますが――美しいソフトフォーカスの映像として思い出されます。
そんなわけで(?)今回は宇宙時代のお引越しの物語です。これまで宇宙機雷や宇宙鯨や宇宙海賊とわたり合ってきた奇跡の零細企業ミリガン運送が、ふとした縁でとある家庭の引越しを請け負います。これは十六歳の見習い社員メイにとって、初めて全責任を負う仕事になりました。
引越し先はロボットアニメでおなじみの、巨大なスペースコロニー。一九七四年にアメリカのG・K・オニール博士が発表した円筒形のものを、ほとんどそのまま拝借しました。――というのも、これは少なからぬ思い入れがあるからです。
当時はスペースシャトルがあと数年で処女飛行を迎えるという夢いっぱいの時代で、それに関する本もたくさん出ていました。そうした本の終わりには、きまって「これからの宇宙時代はこうなる」的な章があり、そのカラーグラビアにデン! と居座っていたのがオニールのスペースコロニーでした。
まあ、そのイラストのよく描けていること。緑野をたたえた大地が、円筒面にそってずーと立ち昇ってゆき、ついには頭上六千メートルの対岸に達する。その眺めにはただため息をつくばかりでした。そして、ひょっとしたら自分が生きているうちにもこんなコロニーが誕生するかもしれない、と胸をときめかせたものです。
宇宙開発の現状を見る限り、コロニーの夢は当分おあずけのようですが、せめて小説のうえでは可能な限りリアルに再現しようとつとめました。
そんなわけで、本書の執筆にあたってはスペースコロニー研究の第一人者である福江純博士が天文雑誌やハードSF研究所の公報に発表された論文を、特に参考にさせていただきました。また、例によってNIFTYサーブ・SF/科学フォーラムの皆様にもたいへんお世話になりました。この場を借りて、心からお礼申し上げます。
[#地付き]野尻抱介
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底本
富士見ファンタジア文庫
クレギオン サリバン家《け》のお引越《ひっこ》し
平成5年12月25日 初版発行
平成6年6月15日 再販発行
著者――野尻《のじり》抱介《ほうすけ》