クレギオン アンクスの海賊
野尻抱介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)海賊船《かいぞくせん》ガスプラ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)基地|攻略《こうりゃく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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目 次
第一章 船体検査
第二章 チェックメイト
第三章 客船の人々
第四章 ハイジャック
第五章 よみがえる泉
あとがき
[#改ページ]
第一章 船体検査
ACT・1 アルフェッカ号
二人はシャトルに通じるハッチの前で立ち止まり、こちらを振り返った。
「それじゃ、行ってくるぞ」
「七時には帰るわ。留守番《るすばん》よろしくね」
それから、男の方が聞いた。
「今夜のメニューは何だ?」
「ロースハムのソテーとオニオン・サラダです。生野菜《なまやさい》、きのう第六|桟橋《さんばし》で新鮮《しんせん》なの仕入れましたから」
「そりゃあいい。遅刻《ちこく》できないなあ」
「行ってらっしゃい」
ハッチの向こうに二人が消えると、メイ・カートミルは気密を確認し、両側に配管の束《たば》が走っている通路をブリッジへと引き返した。ブリッジには彼女のほか、誰《だれ》もいない。窓の外に、キールに吊《つる》されたシャトルが見える。そのはるか下には砂色の惑星《わくせい》の地表がひろがり、ゆっくりと流れていた。
メイは航法席につき、インカムをはめて待った。少しして、シャトルの窓に明りがともった。メイは、シャトルの機長席でマージがチェックリストを読み上げているところを想像した。その横でロイドがふんぞり返っているのも。
シャトルの発進を待つ間、メイも窓越しに目視チェックした。見える範囲《はんい》に異常はなかった。要所要所のチェックはコンピューターがやってくれる。しかしメイは、朝食のあと、マージがラウンジの窓越しに、外のシャトルに目をやっていたのに気づいていた。マージがそうするなら、何か意味があるにちがいない。メイは彼女を信奉《しんぽう》していた。
『こちらアルフェッカ・シャトル、全システム異常なし。ドッキング解除《かいじょ》シーケンスに入るわ』
マージの声がインカムに響《ひび》いた。
「アルフェッカ恒星船《こうせいせん》、了解。気をつけて」
『行ってきます』
シャトルの胴体を左右から押えていた固定|枠《わく》が開く。クランプの外《はず》れるかすかな音がして、それからすぐ、翼端《よくたん》のバーニア噴射《ふんしゃ》がちろりと閃《ひらめ》いた。
シャトルは水平姿勢のまま恒星船を離れた。見えないレールに乗っているような、なめらかな動きだった。
メイはまた席を立って窓に寄り、下方に目をやった。シャトルはもう小さくなっていて、メイン・エンジンを噴射したところだった。大きな翼《つばさ》を持った白い機体はするすると進みはじめ、すぐに見えなくなった。
航法席に戻り、レーダーで航跡《こうせき》を追う。
異常なし。すべていつもどおり。
それ以上何も起きないのを見ると、メイは折り畳《たた》み式の机を開いて、その上に自分のスレート(ラップトップ・コンピューター)を置いた。
新しい文書ファイルを開き、細い指でタイピングを始める。
[#ここから1字下げ]
前略。
父さん、母さん。お元気ですか。
メイはいま、メルウィック太陽系で、とても明朗《めいろう》かつ元気に働いています。ロイドさんもマージさんもすごく優しくしてくれるし、お仕事も安全かつ健全なものばかり。早く一人前の船乗りになって、成長したメイの姿をお目にかけたいと思います。
今日は恒星船で留守番です。このまえは三人で下に降りました。帰りに、マージさんはメイに操縦桿《そうじゅうかん》を持たせてくれました。正式な飛行時間には加わらないそうですけど。
自分でやってみると、シャトルはすぐふらふらして、マージさんはダッチロールだと言っていました。いけないと思って片方に動かすと、まだついてこなくて、もっと動かしたところでやっとついてくるので、結局やりすぎてしまうみたいです。
早くシャトル操縦士の資格を取れたらいいなと思います。そしたら今よりずっと役に立てるし、メイがいなくちゃ仕事にならん、なんて言ってくれるかも。そしたら
[#ここで字下げ終わり]
そこまで書いた時、無線呼び出しのブザーが鳴った。カンパニー波とよばれる、運送会社ごとに割り当てられたチャンネルで、今は秘話モードになっていた。
メイは外していたインカムを頭に戻し、通信機のスイッチを入れた。
「こちらアルフェッカ号恒星船」
『メイ、大至急《だいしきゅう》ドッキング準備にかかって』
マージの声だった。緊張《きんちょう》している。さっき出発したばかりなのに、どうしたのだろう。
「ドッキング準備、了解。どうしましたか?」
『連中にでくわしたみたいなの。南半球にいる船が見える?』
レーダー・スクリーンを見ると、アルフェッカ・シャトルのほかに、もうひとつの光点があった。後者の軌道《きどう》は接線を描いてシャトルに合流しようとしている。
光点の下に表示された数値を読んだとき、メイはどきりとした。
「あの、あちらの船のほうが加速力が上みたいですけど」
『ああ、その通りだ』
ロイドの声になった。
『だが恒星船なら勝てるさ。ドッキングしちまえばこっちのもんだ』
メイはスクリーン上に、双方の船の将来位置を表示してみた。
「こちらの推算だと、ドッキング前の減速《げんそく》行程で追いつかれます、ロイドさん」
『減速はせん。今からマージの言う通りにするんだ』
『メイ、船長席に移りなさい』マージが言った。
「え?」
『質問は禁止。言われたとおりにするの』
「は、はい」
高鳴る胸をおさえながら、メイは船長席についた。二人に知られながらそうするのは、これが初めてだった。メイの資格は二級航法士なので、船長席に座ることは――こんな小さな船でも――タブーだった。船長席はほかの席よりひとまわり大きく、高級な革張りがほどこされている。
「えと、船長席に座りました」
「今からあなたが船長よ。まずコンピューターに暗証コードを入力。コードはJAH02647』
「えと、JAH02647……入力しました。でもこれって船員法違反じゃ」
『いいの。どんどんいくわよ。メイン・スクリーンにレーダー画面を転送。次、亜光速エンジンのマスタースイッチをON。スイッチは中央コンソールにある』
額《ひたい》に汗がにじむ。質問したい気持ちを必死で押えながら、メイはマスタースイッチを押した。パチリ。
「マスタースイッチ、ONしました」
『ウォームアップ、始まった?』
「音が聞こえます。ブーンって」
『オーケイ』
『メイ、何をしようとしてるのかわかってるか?』ロイドが割り込んだ。
「たぶん……恒星船のほうでも迎《むか》えに行くんだと」
『正解だ。こっちはドッキングまでエンジン全開で加速する。そっちも合わせるんだ』
「でも、噴射したままドッキングはできないはずです」
『直前で切るさ』
「でもあの、そういう運動はコンピューターが拒否《きょひ》すると思います」
『マージ、裏技《うらわざ》を教えてやれ』
『コンピューターにはランデヴーするとだけ教えるの。ドッキングはあたしが手動《しゅどう》でやる。大丈夫《だいじょうぶ》、うまくいくわ』
「……わかりました」
それからメイは、航法コンピューターの操作《そうさ》パネルに向かった。
すり減っていて、押すたびにこくりと鳴るキーを叩《たた》いて、シャトルに追従《ついじゅう》しつつランデヴーするよう、コンピューターに指令する。加速状態のシャトルと恒星船を一キロ以内に接近させる指令は、コンピューターが許してくれなかった。真空中での噴射は真横近くまでひろがるので、併走《へいそう》には危険がともなうのだ。最後の一キロは手動|操船《そうせん》でやるしかない。
エンジンのウォームアップが終わると、外の星空がぐるりと回転し、加速の開始を告げるブザーが短く鳴った。メイはハーネスを締《し》めた。加速は重力装置がキャンセルしてくれるが、小さな揺《ゆ》れまでは打ち消せない。
一瞬、体がシートにめりこみ、低い震動《しんどう》と音がして、噴射が始まった。
「こちら恒星船、いま軌道|離脱《りだつ》しました。ランデヴー完了時刻は〇九四六・二七になります」
『〇九四六・二七、了解。合図したらスロットルを停止位置に引くの。わかる?』
「右手のレバーですね、T字型の」
『そう。そしてドッキングが終わったら、ただちに全開噴射すること』
「針路《しんろ》はどこへとりますか」
『そんなことは後』
「わかりました」
レーダーを見ると、三つの光点はほとんど重なっていた。右手でレンジを変えると、シャトルは五十キロ下方にいて、こちらとほぼ平行して飛行しているのがわかった。追手《おって》の船はシャトルの後方三百キロにあり、じりじりと距離を狭《せば》めている。八分半で追いつく計算だった。
やがてドッキング監視《かんし》カメラの視野に、シャトルが現れた。距離八百メートル。
突然、警報ブザーが鳴り響《ひび》いた。
「マージさん、船殻《せんこく》の過熱警報です!」
『聞こえてるわ』
「あっあの、噴射を切らなくていいんでしょうか!?」
『大丈夫、まだ持つって』
マージは慎重《しんちょう》さと大胆《だいたん》さをあわせもつ、希有《けう》なパイロットだった。今はその腕を信じるしかない。
シャトルはエンジンを全開にしたまま、ぐんぐん近付いてくる。
警報を手動解除したのもつかのま、今度は衝突《しょうとつ》警報が鳴った。
「距離四百メートル。進入速度、速すぎます!」
『大丈夫、大丈夫。さあて、そろそろよ』
メイはスロットル・レバーに手をかけた。
『三、二、一、噴射停止!』
メイは過剰《かじょう》な力をこめてスロットルを引いた。カチリ、と音がして、エンジンが沈黙する。推力ゼロ。加速ゼロ。
監視カメラの映像に目を戻した時、メイは悲鳴をあげそうになった。視野一杯にシャトルが映り、なおも急速に接近している。
「マージさん! もっとゆっく」
どおん!
言い終わる前に、シャトルは鈍《にぶ》い音を立ててドッキングした。船がぐらりと揺れ、直後、キールの左右に開いていた固定枠がおりてシャトルをくわえる。間髪《かんぱつ》をいれず『噴射再開!』の声。メイはスロットルを前方一杯に押し込んだ。音と震動がよみがえる。三Gを越す加速が始まった。
足音が近付いてきて、ロイドとマージがブリッジに現れると、メイは船長席をあけわたした。マージは素早《すばや》く数個のスイッチを叩き、船を回した。
「いけそうか」ロイドが聞いた。
「大丈夫、ついてこれない」
マージはレーダーを一瞥《いちべつ》して言った。追手を示す光点はじわじわと引き離されてゆく。
「メイ、新手《あらて》が来る気配《けはい》はある?」
メイは航法席のレーダーのレンジを広げた。十数個の光点が映ったが、こちらにランデヴーしようとするものは見あたらなかった。
「惑星|近傍《きんぼう》にはいません」
「どれどれ」
ロイドがメイの肩越しにレーダーをのぞき込む。ぷんと男の臭《にお》いがした。半世紀にわたって蓄積《ちくせき》された、酒や煙草《たばこ》や、その他いろんなものの入り混じった臭いだった。ロイドは追手が引き離されていく様子《ようす》をしばらくながめ、それから言った。
「よーし、上等だ。逃げ足にかけちゃ宇宙一だからな、この船は」
アルフェッカ号には銃もミサイルもない。トラブルが起きたら、逃げるしかなかった。
メイが聞いた。
「じゃああの、お仕事のほうは――」
「今週ぶんの働きは、奉仕《ほうし》活動として世のため人のために役立ったよ」
「つまり契約不履行《けいやくふりこう》ですね」
「そういうことだ」
「ロイド」
マージが腹にすえかねた様子で言った。彼女はいつも社長を呼び捨てにする。
「賃金をもらい損ねただけじゃないってことを認識してもらいたいものね。月曜から四日間、シャトルで一日に地上と三往復、推進剤《すいしんざい》に核燃料に消耗《しょうもう》部品に人件費に食費、どれだけかかるかわかってるの?」
「大体は」
「なんなら帳簿《ちょうぼ》のやりくりもあなたにやってもらおうかしら。奉仕活動がお好きなようだし」
「まあそう悲観するな。明日は明日のプラズマが吹くというじゃないか」
「まだあるわ」
マージは腕組みをして続けた。
「契約不履行をやらかした以上、当分この太陽系じゃいい仕事にありつけないってこと。バシェマーグみたいな流通|大手《おおて》はヨコのつながりが深いんだから、一度でもブラックリストに載《の》ったらおしまいよ。うちみたいな信用度の低い零細《れいさい》運送会社は、確実に実績を積み上げていかなきゃだめ。今日みたいにトラブル起こして高飛びして、次から次へと仕事場を使い捨てにしていけるほど植民世界は広くないんだから」
「なあに、積荷《つみに》の持ち逃げをやったわけじゃないさ」
「甘いっ! 信用ってものは――」
ロイドは手を振ってなだめにかかった。
「まあ今回は連中のほうから来ちまったんだから仕方ないじゃないか」
「前回も、前々回もそうだったわ。もとはと言えばあなたが粋《いき》がってクレメント・ファミリーの裏をかくような真似《まね》をするからよ。マフィアの報復《ほうふく》に時効《じこう》はないの。一生追われ続けるのよ」
「麻薬《まやく》原料の密輸《みつゆ》だぞ。そんなもの、まじめに届けちゃ寝ざめが悪かろう」
「だからって中身《なかみ》を偽物《にせもの》とすりかえて、金だけ受け取るなんて許されないわ。それも最初から知ってて請《う》け負《お》ったんでしょう。あたしには内緒《ないしょ》で」
「わかった、わかった。そりゃ確かにそうだったかもしれん」
「かもしれんじゃなくて――」
メイが入社する前から繰《く》り返されており、その後も何度となく繰り返されてきた口論だった。マージも自覚はあったが、言うべきときに言わないと気がすまないらしい。
「まあ今日はこのへんでかんべんしてくれよ。あんまり怒ると皺《しわ》になるぞ」
「ロイドさん、届出はいつもの書式でいいんですよね」
絶妙のタイミングでメイが言った。
「ああ。船体|不具合《ふぐあい》につき、契約の履行がまっとうできなくなりました、ってやつだ。昼までに事業所に送信しといてくれ」
「わかりました」
メイは淡々と答えた。
マージはため息をつくと「あんたも少しは怒りなさいよ」とつぶやいた。
それから、アルフェッカ号はメルウィック太陽系を後にし、アラコス星区・アンクス太陽系に向かうことになった。超光速航行に入るため、数日かけて太陽系の外縁《がいえん》に出なければならない。
軌道のプログラムを終えると、メイはブリッジを離れ、急に三人分必要になった昼食の支度《したく》にとりかかった。
メイはこのミリガン運送の航法士だが、実際にはありとあらゆる雑用をまかされており、その最たるものは料理だった。
料理の基本は、喜ばせる相手を念頭におくことにある、とメイは教えられていた。
そして今、ささくれた心を癒《いや》すべきなのはマージだった。
マージの嗜好《しこう》と冷蔵庫の中身の共通集合から、メイは決定を下した。
スープはコンソメ、アントレはロースト・ターキーのアップルソース添えとフレンチ・サラダ。デザートに低糖分のネーブルオレンジを出そう。
アルフェッカ号のギャレーはわずか三メートル四方の広さしかなく、調理器といえばオーブンレンジ、電熱コンロ二基、シェーカー&ミルがあるきりだった。本来なら調理済みの食品を解凍・加熱したり、コーヒーの湯をわかす程度のギャレーである。
にもかかわらず、そこから運び出されるものが驚《おどろ》くほどの多様性を持っているのは、ひとえにメイの働きのおかげだった。イースト酵母《こうぼ》を使い、前夜から一次|発酵《はっこう》に入るパンも、雲母《うんも》のような積層《せきそう》構造を持つパイ生地も、舌にとろける東坡肉《トンポーロ》も、すべて彼女の細い腕とまな板から生まれるのだ。
まだ少し時間があったので、不意に始まった航海のために、メイは船倉に降りて食料や生活|必需品《ひつじゅひん》のストックを点検した。
軌道港《きどうこう》で仕入れた生野菜は、航海の終わりまで持ちそうになかったので、フリーズ・ドライ加工した。この、エアロックをうまく操作して生ものや洗濯《せんたく》ものを真空乾燥《しんくうかんそう》させるテクニックは、マージに教えられた。航海科の教科書には決して載《の》っていない、船乗りの知恵だった。そうした野菜はもうサラダには使えないが、スープの具にはなった。
ACT・2 工作室
太陽系外縁まで五日、超光速航行に移って七日。
航海中はおおむね単調な生活が続くが、今回はちがった。
その日、メイとマージは右舷居住区画《うげんきょじゅうくかく》の最後尾《さいこうび》にある、工作室にいた。工作室といっても、部屋の半分はロッカーや洗濯機に占められているのだが――。
「そろそろね」
マージはそう言って、超音波|洗浄槽《せんじょうそう》の蓋《ふた》を開いた。
中から引き上げられたのは拳《こぶし》ほどのパルプの部品で、洗浄液のしずくをたらしながら、きらきらと輝いていた。
「へえ……」
メイは布を持った手でそれを受け取り、洗浄液をふきとった。
「きれいですね」
飾り棚《だな》に置いてもいいな、とメイは思った。それは過去二年間にわたり、配管の結節点《けつせってん》で一万気圧に耐えてきた部品だった。半球状にえぐられた空洞の内面は鏡のように磨《みが》かれていて、わずかな傷も見あたらない。
「検査してみて」
「はい」
メイは部品を検査装置のターンテーブルに乗せ、部品番号を入力した。検査装置はミクロン単位で外形を走査して設計図面と照合《しょうごう》し、摩耗《まもう》部分や見えない亀裂《きれつ》を調べてくれる。
まもなく『検査合格推定|寿命《じゅみょう》七・二カ月』の表示がパネルに現れた。
「よかったですね」
「うん」
マージ・ニコルズは、そう言ってチェックリストに印をつけた。
彼女はミリガン運送の大黒柱《だいこくばしら》だった。パイロットとして雇《やと》われたのだが、その後会社が規模《きぼ》を縮小するにつれて、事務から整備まで、ありとあらゆる仕事をまかされてきた。数カ月前メイが入社して、雑用を一手に引き受けるまでは、目の回るような忙《いそが》しさだった。
マージは現在二十八歳で、商船大学を卒業してすぐにミリガン運送に入社した。腕がよく、独身で、ちょっとした美貌《びぼう》の持主だった。この零細《れいさい》運送会社になぜ彼女がいるのか、辞《や》めずにいるのかは一つの謎《なぞ》だった。
「――船体検査もこの調子でいくといいんだけど」
「そうですね」
目下《もっか》、マージにとって最大の課題は、一カ月後にひかえたアルフェッカ号の船体検査だった。船体検査は質量百トン以上の船に、二年おきに課せられるものだった。検査に合格しないと、船を使っての営業活動が行なえなくなる。整備の予算は限られているので、建造されて二十年近いこのボロ船を検査に通すのは年々|難《むずか》しくなっていた。せめて今のうちにできるかぎりの改修をして、本番で大事にならないよう備えるしかない。機関部分はすべて複式ないし複々式になっているので、航行中でも検査や修理をすることができた。
船体検査は見習いのメイにとっても重要課題だった。メイの母親は古いタイプで、女を評価する尺度《しゃくど》は、その生活空間をいかにうまくまとめあげられるかにある、という考えの持主だった。十六歳のメイは家出してこのミリガン運送に飛び込んだのだが、母親の教えまで置き去りにしてきたわけではなかった。アルフェッカ号は自分たちの家だったから、それをより快適で安全なものにすることに、メイは使命感さえ抱いていたのだった。
ACT・3 アンクス太陽系
メルウィック太陽系を出て一週間目。
ギャレーで昼食の支度をしていると、壁《かべ》のスピーカーが呼んだ。
『メイ、ブリッジへ来てみろ』
「すぐ行きます」
メイは手を拭《ふ》き、エプロンを脱いでブリッジに向かった。
「アンクスは初めてだろ?」
右の席で、地図台の上に両足を投げ出したロイドが、上体をこちらにひねって言った。
「ええ。どんなところなんですか?」
「じきわかるさ。なあ?」
マージは船長席で、計器のひとつを見て答えた。
「そうね。ジャンプ航法終了まであと一分、プラマイ三十秒」
「あの、もしかしてとんでもない場所なんですか?」
メイは少しわくわくしながら、重ねて聞いた。
「なあに、たいしたことはないがね」
「でもロイドさんがたいしたことないって言うときは、たいてい――」
その時、この一週間なじんでいたジャンプ・ドライブの響《ひび》きがやんだ。空間を飛石《とびいし》つたいに移動する、超光速航法が終了したのだった。
アルフェッカ号はアンクス太陽系の外縁に出現した。
窓の外、正面にひときわ明るい星があった。
メイは目を細めた。アンクスの太陽にちがいない。超光速航法を終えたときのおなじみの光景だった。
「太陽を覆《おお》ってみろよ」ロイドが言う。
メイは腕を伸ばし、手のひらを立てて、ぎらぎらと輝く白い光をさえぎった。それからマージが室内灯を切った。窓枠《まどわく》が黒い額縁《がくぶち》になり、周囲は計器盤の、ほのかな照明があるきりになった。
しばらくすると、眼が暗さに順応《じゅんのう》しはじめた。
闇《やみ》の中にひとつ、またひとつと、星々がよみがえる。
やがてメイは、外にひろがる光景が、どこか普通でないことに気づいた。
最初は残像《ざんぞう》か、窓の曇《くも》りのように見えた。その柔らかな光芒《こうぼう》は、太陽をさえぎった手のひらの両側に、舌のように張り出していた。
コロナだろうか。だが太陽系外縁、三十億キロの距離をへだてた太陽は一個の光点にすぎず、それを包むコロナも手のひらに覆われているはずだった。
太陽のまわりに、霧のようなものがたちこめている、と考えるしかなかった。見えない部分を補《おぎな》うなら、それは銀河のミニチュアともいうべき、厚いレンズ状をしていた。
メイはくわしく観察しようと、注意深く指を折って――せっかく暗順応した視覚をそこなわないように――最後には小指だけで太陽の直射をさえぎった。
「あ……」
メイは小さく声をあげた。
太陽を包む霧の中に、なにかが浮かんでいた。それは細長く、刷毛《はけ》の一振りで描いたように見えた。確固とした実体はなく、霧がそこだけ濃さを増したようでもある。右上にひとつ、右下に短いのがひとつ、そして左横にふたつ。位置はまちまちだったが、方向はすべて、太陽からの放射にそっていた。
メイは息をのんで長いこと見つめ、やがて一つの結論に達した。
「……もしかして、彗星《すいせい》ですか?」
「ご名答」
「初めてです、あんなの――外惑星帯から見た彗星なんて」
「外側のベルトには気づいてる?」
マージが聞いた。
「外側って」
「太陽よりずっと遠く」
「ええと――」
それまでずっと、太陽の近傍《きんぼう》に目を奪《うば》われていたメイは、言われて初めてその存在に気づいた。それは霧の円盤よりもはるかに希薄《きはく》なものだった。黄道面《こうどうめん》を縁《ふち》どる、巨大なアーチをなして――手前にくるほど淡《あわ》くなり、ついには闇と区別できなくなるのだが――どうやらこの太陽系の外縁をすっかり取り囲んでいるようだった。惑星のリングとは違ってドーナツのような厚みがあるかわり、どこから始まってどこで終わるかは判然としない。
この芒洋《ぼうよう》とした円環体は、希薄な粒子《りゅうし》の雲――カイパー・ベルトのように思えた。だが、通常のそれは限りなく真空に近く、肉眼で見えるようなものではない。
メイは腕をおろした。商船高校で習った天文学の知識を動員して考えるに――
「ここって、生まれたての太陽系なんですか? アンクスって?」
太陽やその従者である惑星たちは、はるかな昔、その空間に集まったガスや塵《ちり》が集まって生まれたのだ、とメイは教えられていた。黎明期《れいめいき》には、まだ安住の地を見いだしていない粒子が空間に残っていて、降着円盤《こうちゃくえんばん》と言われる形態をとどめていたという。いま目の前にある光景こそ、それなのかもしれない、とメイは考えたのだった。
だが、マージはにんまり笑って首を振った。
「アンクスは少なくとも三十億歳になってるはずよ」
「じゃあ、あのガスはいったい――ガスなんでしょう?」
「まあね。太陽を包む霧みたいなのは塵の集まりで、単に『バルジ』って呼ばれてるわ」
一般には、銀河系の中心部分をさす言葉である。
「バルジ……。それにカイパー・ベルト、それに彗星が一度にあんなにたくさん尾をひいてるなんて!」
「ほんと不思議《ふしぎ》よね。普通なら、こんなにいろいろ残ってないはずだし」
「…………」
彗星が肉眼で見えるようになるのは、太陽のそばに来たときだけだった。とすれば、見えない彗星はいったいどれほどの数になるのだろう。
マージは計器盤の横にクリップしていた航路情報を外《はず》し、メイに渡した。
「ヒントはここにあるわ」
メイは最初のページにある、惑星の一覧表を見た。
惑星数は十個。小惑星帯があるところをみると、かつては十一個あったかもしれない。
人が住んでいるのは第二惑星コスギン、第三惑星アンクス――ここがいちばん賑《にぎ》わっている――そして第七惑星ポート・バッジス。最後のはおそらくガス惑星で、居住地《きょじゅうち》はその衛星《えいせい》にあるのだろう、とメイは思ったが、そうではなかった。ポート・バッジスは直径一万四千キロの、平凡な地球サイズの惑星だった。
惑星の大きさに注目したとき、メイはあることに気づいた。
「大きな惑星がひとつもないですね。フェイダーリンクみたいな、ガス惑星が」
「鋭《するど》いじゃないか」ロイドが言う。
「じゃあ、ガス惑星になりそこなったガスが残ってて、あんなに?」
「どうかな。生《お》い立ちについては諸説あるがね」
「特大の彗星が同時に四つも尾をひいてる――つまり彗星の数が異常に多いのよ、この太陽系は」
マージが言った。
「太陽のまわりにあるダストは、その残り物ってわけ」
「じゃ、どうして彗星があんなにたくさんあるんですか?」
「ま、じっくり考えてみることね」
マージは解答をおあずけにして、室内灯をつけた。
「さて航法士さん、ポート・バッジスへの軌道《きどう》を設定してちょうだい。ごらんの通りこの太陽系は塵まみれだから、黄道面《こうどうめん》からできるだけ距離を保ちつつアプローチすること。外惑星帯での最高速度は秒速四千キロ、バルジ内では二千キロに制限される。いい?」
「……わかりました」
メイは首を振り振り航法席についた。メイはそれからも、おりをみて外の光景に目を向けていた。
ACT・4 ポート・バッジス
一週間後、アルフェッカ号は第七惑星ポート・バッジスの衛星軌道に到着した。
褐色《かっしょく》の惑星地表は青みをおびた大気の底にあり、幾筋《いくすじ》もの氷晶《ひょうしょう》の雲が緯度《いど》にそってたなびいていた。地上にはアラコス軍の施設《しせつ》があるというが、夜の側にも昼の側にも、それらしきものは認められなかった。
アルフェッカ恒星船は、直接地上に着陸できるようにはできていないので、係船《けいせん》軌道か軌道港にとめるしかない。今回は船体検査があるので、軌道港の桟橋《さんばし》の一角を予約した。
軌道港は巨大な独楽《こま》のような形をしており、地表より千キロの高みをめぐりながら、それ自身もゆっくり回転していた。両側に張り出した軸は入り組んだ表面をもつ四角柱で、宇宙船用の桟橋になっている。桟橋は軌道港の本体に対して回転しておらず、発着する宇宙船に不自然な運動を強いることがないよう配慮《はいりょ》されていた。
アルフェッカ号は、予約しておいた区画に接舷《せつげん》した。宇宙服を着た作業員が出てきて、手際《てぎわ》よく船体を固定する。
それから三人はボーディング・チューブを通って港内に入った。人工重力のほどこされた長い廊下を歩き、税関の事務所に入る。査証、パスポート、船籍《せんせき》証明書、入港届、係船届、積荷目録《つみにもくろく》、乗組員氏名表などの書類を渡し、二十分ほど待つと、手続きは終わった。
「さて諸君」
税関の隣《となり》にあるスナックでコーラを飲みながら、ロイドは言った。
「ミリガン運送がポート・バッジスに来たのには二つの理由がある。アルフェッカ号に船体検査の時が迫《せま》っており、ここの検査場はどこよりも甘いという噂《うわさ》がある――これが最初の理由だ。そして首尾《しゅび》良く検査をパスすれば、ここには宇宙一わりのいい仕事が待っている。内惑星に向かう航路は塵《ちり》だらけだ。ささやかな危険と船体の消耗さえがまんすれば、のんびり飛びながら相場の倍の報酬《ほうしゅう》が転がり込んでくるってわけだ」
「消耗した船の整備は誰《だれ》がやるんだか」
マージが不満げに言った。彼女はこのような、汚れた空間にアルフェッカ号を乗り入れるのが大嫌いだった。
「それに、ちらほら海賊《かいぞく》が出るっていうし」
「海賊?」メイが聞いた。
「そう、宇宙海賊。怖《こわ》いのよ!」
マージはあてつけるように、大げさな身振りで言った。
ロイドは気にもとめていない様子《ようす》だった。
「どこの太陽系だって海賊の一人や二人いるさ」
「その、海賊って、どんなふうに船を襲《おそ》うんですか?」
「大加速で接近して、武器の射程に入ったら言うことをきかせるの。それから積荷や金品を奪《うば》って、人は船外|遺棄《いき》するか売り飛ばす」
「わあ……」
「言うほど出食わすもんじゃないんだ。ここじゃ二万航海に一度だ」
「でも、当たったらおしまいですよね。ポートパトロールに護衛《ごえい》を頼めないんですか」
マージは苦笑した。
「まさか。一日に何百|隻《せき》も行き来してるのよ。とてもおいつかないし、彼らには救助すらろくにできないと思ったほうがいいわ」
「そんなあ」
「とにかくランデヴーされないことね。千キロまで寄せられたらアウトだと思ったほうがいいわ」
「おいおいマージ、そんなにメイを脅《おど》かすなよ」
ロイドはメイに向いた。
「君がちゃんと航法をやってくれりゃ平気さ。バルジの中じゃ速度制限もある。のろのろ寄ってくる船なんか、すぐわかる。そうだろ?」
「そ――そうですね」
「ここはみんなで力を合わせて乗り切ろうじゃないか、なあメイ?」
「はい」
「いい返事だ。さてと――」
ロイドは続けた。
「まずは船体検査の準備だ。君はメイといっしょに船を磨《みが》きあげてくれ」
「たぶん部品や何かの買い出しで、下に降りることになると思う。あなたは?」
「検査官に渡りをつけておく。なあに、酒の一杯もおごればOKだ」
「いいこと、ロイド」
マージはすかさず釘《くぎ》を刺した。
「接待費《せったいひ》で遊ぼうなんて考えは捨ててもらいますからね」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ経理部長どの、そんな無駄遣《むだづか》いはせん」
翌日早く、マージとメイはシャトルに乗って地表に向かった。
軌道港《きどうこう》を出た時、眼下の惑星は夜の半球の中にあった。減速《げんそく》し、濃厚《のうこう》な窒素《ちっそ》大気の中へ降下する。
その直前、メイは前方にかすかな閃《ひらめ》きを見たように思った。
「あれ、何か光った……」
「このへんでも結構あるわね」
マージはその正体を知っているらしく、歓迎《かんげい》してはいないようだった。
閃光《せんこう》の主は彗星《すいせい》の置き土産《みやげ》だった。太陽のそばで揮発《きはつ》成分とともに空間に投げ出された塵は、その後も母彗星の軌道をたどって、このような外惑星帯まで運ばれてくる。その経路が惑星大気にさえぎられたとき、ひとときの流星となって悠久《ゆうきゅう》の生涯《しょうがい》を終えるのだった。
流星はひとつ、またひとつと、絶え間なく現れては消えた。たっぷり一秒もの間燃え続けるものもあり、願い事はいくらあっても足りないようだった。
やがて大気圏突入が始まり、視野はオレンジ色のプラズマに包まれた。
十分ほどでそれが終わると、まわりは冷えびえとした濃紺《のうこん》の空に変わっていた。
やがて眼下に都市ドームの群れが見えてきた。十数キロ離れて空港があり、シャトルは平行する二本の滑走路《かっそうろ》のひとつをめざした。星ごとに異なる大気や重力、気象条件をまったく意に介《かい》さない様子で、マージはグライド・パスを正確にたどり、非のうちどころのない着地をきめてみせた。
メイは計器盤にある、ひとつのランプが消えているのを見て、感嘆《かんたん》の声をあげた。
「手動だったんですね」
「そうよ」
抑制《よくせい》のきいた笑顔をうかべて、マージは言った。
「オートを切ることにゃ、パイロットの実存がかかってるんだから」
「へえ……」
メイは感心することしきりだった。
それから、以前、女が名パイロットになる秘訣《ひけつ》はなにか、とたずねた時のことを思い出した。マージの答えはこうだった――「決して悲鳴をあげないことね」
意表をつかれたメイは、その時点で小さな悲鳴をあげ、以来ずっと、自分には素質がないのだろうか、という秘《ひそ》かな苦悩を背負うことになったのだった。
滑走路の中ほどでシャトルは右に折れ、誘導路《ゆうどうろ》をごろごろと進んだ。
アルフェッカ・シャトルは宇宙でも大気中でも申し分のない運動性能を発揮するが、地上走行だけはどうにも情けない感じがした。カモメのような美しい主翼《しゅよく》も、この時ばかりは役立たずのハリボテにすぎない。
駐機場にシャトルをとめると、二人は空港駅でレンタカーを借り、シティに入った。
久しぶりの上陸なので、二人ともいつもの作業服は着ていない。熱の九十四パーセントが人工的に与えられている、シティ・ドームの現在の季節設定は初夏《しょか》だった。メイは赤いギンガム・チェックの半袖《はんそで》シャツとカーペンター風のジーンズ、マージはヨット・パーカーにショートパンツ、それに大きなウエスト・ポーチ。いたって飾り気のないいでたちだが、あまりひらひらした格好ではジャンク屋になめられる、という配慮《はいりょ》もあった。
船舶《せんぱく》部品を扱《あつか》う店は空港道路からシティに入ってすぐのところに集まっていた。多くはみすぼらしく、店のわきに屑鉄《くずてつ》まがいのジャンク・パーツを野積みにしていたりする。ドーム都市とはいえ、雨も降ればほこりも舞う。売物――と思うのだが――をあのように野ざらしにしておく感覚が、メイはもうひとつ理解できなかった。
二人はそうした店のひとつの前で車をとめた。
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チェン商会創業三七二四年
縮退炉《しゅくたいろ》からビス一本まで
宇宙船・航空機部品名種取り揃《そろ》え 品質保証 格安
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朽《く》ちかけた看板にはそうあった。
メイは不安げにマージの顔を見上げた。
「大丈夫でしょうか?」
「ハイリスク・ハイリターンってとこね」
マージはそう言って、ドアを引いた。
地震があったらどうするのだろう、と思わずにいられない空間がそこにあった。かつて四角かったはずの部屋は、うずたかく積み上げられたガラクタの山に覆《おお》われ、天井《てんじょう》から吊《つる》された部品とあいまって、金属の鍾乳洞《しょうにゅうどう》と化していた。部屋の奥には薄暗い闇《やみ》が口を広げており、その先はシャトルがすっぽり入りそうな、未知の堆積物《たいせきぶつ》に占められた空間があった。グリースと洗浄液の臭《にお》いが鼻をつく。
「駅なら二ブロック先を左だよ、お嬢さんがた」
奇妙にかん高い声がした。振り向くと、小柄な老人が旧式戦闘機の射出座席に腰を沈めていた。のっぺりした顔と、頭の両側に残されたわずかな黒髪から、東洋系であるとわかる。
「プラズマ誘導路《ゆうどうろ》の冷却管《れいきゃくかん》はあるかしら。シェフィールド恒星船の」
主人は、ほほう、という顔になった。
「あんたら船乗りかね。いやな、そうかもしれんと思っとったんじゃよ……」
「そうです」
メイが言った。自分も船乗りのうちに数えられたのがうれしく、つい口がすべった。
主人はゆっくりと腰をあげ、店の奥に行った。
しばらくして、声だけが聞こえた。
「純正はないねえ。オカムラのC4でどうかね」
「ペトロリアルのはない? C4ならなんでもいいんだけど」
「オカムラしかないねえ」
「じゃあそれでいいわ。見せてちょうだい」
冷却管は主人の押す台車で運ばれてきた。
「どうだい、まっさらだよ」
見たところ異常はなさそうだが――
「検査器使わせてもらえるかしら?」
マージが言うと、主人は顔をしかめた。
「検査器?」
「そう、非破壊《ひはかい》検査器」
「お姉さん、こりゃ輸出流れの品で、一度も使ってないんだ。検査なんかするこたぁないさ」
「ないの? 検査器。ジャンク屋さんだもの、ないわけないわよね?」
「そりゃ、あるけどよ……」
主人はしぶしぶ、倉庫の一角を指さした。
「メイ、そっち持って」
「はい」
二人がかりで持ち上げ、非破壊検査器のテーブルに乗せる。スイッチを入れると、スクリーンに透視映像が現れた。
「ほほお」
マージはにんまり笑って、主人の方を向いた。
「おじさん、このぎざぎざした筋《すじ》は何?」
「……最近目が弱くなってのう……」
ばんっ!
マージは力まかせに検査器のケースを叩《たた》いた。
「トボケんじゃないよ、このアブラじじい! 女だと思って見かけだおしのキズもの売りつけようったって、そうはいかないからねっ!」
「い、いやあ、そんなつもりじゃ……」
「メイ、スレート持っといで! シティネットの電子|掲示板《けいじばん》に、チェン商会は欠陥品《けっかんひん》しか置いてないって書き込んでやるから!」
「ちょちょ、ちょっと待ってくれい、そりゃあ困る……」
主人はすっかりあわてて、平身低頭《へいしんていとう》した。
「屑鉄《くずてつ》ひろいから始めて幾星霜《いくせいそう》、どうにか店を開いて、一代でやっとここまで来たんじゃ……」
「一代? 看板には創業三七二四年ってあったけど、あれ嘘《うそ》なのね?」
「いや、それはそれ……」
「あるの?」
「え?」
「キズ物じゃない、ちゃあんとした冷却管」
「ま、待ってくれ。今すぐ――」
主人はおたおたとジャンクの山に向かった。
「マージさん、あんまりお年寄りをいじめちゃかわいそうじゃないですか」
メイが小声で言う。マージはとりあわなかった。
「いいのいいの。たまにはこういうこともないと、ボケるんだから」
主人が持ってきた第二の冷却管は、マージの検査を無事《ぶじ》通過した。
これで買物の第一段階――正しいモノを選ぶ――は終わった。
次は第二段階である。
「さてと」
マージは切り出した。
「おいくらになるかしら?」
「そうさのう……最近相場が上がっとるんじゃが……六万でどうかのう」
「六万!」
マージは大げさに驚《おどろ》いて見せた。これまでの経緯もあり、意思表示はこれで充分だった。
「なら……四万で手を打とう」
きっぱり、首を横に振る。
「……三万」
「二万よ」
「後生《ごしょう》じゃよ、お姉さん。そんな値段じゃあ干上《ひあ》がっちまう」
「因果応報《いんがおうほう》ってやつよね」
「ならどうかね、同じのもう一本つけて五万じゃ」
「船倉がふさがっちゃうわ。二万ジャスト」
「うーん……」
主人が考え込むのを見て、マージは作戦を変えた。あまり追いつめると開き直られることもある。コンスタントに有効なのは、その商品を誉めることだ。商人は、これに弱い。
「ぜひとも欲しいのよ、これ。仕上げも最高だし、掘出《ほりだ》し物よねえ」
「そうじゃろ?」
「これならペトロやSDPのより、実質上じゃない?」
「苦労したんじゃぞお、見つけるのに」
「わかるわ。だから二万! お願い! 港のみんなにお店のこと宣伝しとくから!」
主人は両手をひろげて降参《こうさん》のポーズをとった。
「わかった、わかった、二万で手を打とう」
「ありがと!」
商談成立。
金を手渡す直前になって、マージは言った。
「当然ガスケットもつけてくれるのよねえ?」
「う……」
主人は泣きそうな顔になり、そしてわめいた。
「あーあー、もってけい!」
……と、こうした作業を繰《く》り返しながら、午前中いっぱいかけて二人は部品を買い揃《そろ》えた。ハンバーガー・スタンドで昼食をすませたあとは、日用品と食料の買い出しである。
今度はメイの出番だった。
「リム側の住宅街に行ってください」
メイはハンドルを握《にぎ》るマージにそう指示した。リム側とは、ドーム都市の周縁《しゅうえん》方向をさす。逆に中心方向はコア側といい、繁華街《はんかがい》や行政《ぎょうせい》施設が集中する地域だった。
「どうして」
「そのほうが安くていい店が多いんです。中央のは品数は多いけど、値引き率は低いし、見かけだおしのものが多くて、贈答品《ぞうとうひん》や嗜好《しこう》品以外はおすすめできません」
「そう」
マージは素直《すなお》に従った。環状《かんじょう》道路を走る間、メイは膝《ひざ》の上でスレートを開いてシティのネットワークにアクセスした。しばらくキーを叩いて言う。
「二十一号線との交差点を左に入ってください。『オネスト・ジョン』って店で牛肉の特売をやってます」
「了〜解」
やがて車は、こぢんまりした住宅の並ぶ地域に入った。めざす店はすぐに見つかった。
路肩《ろかた》に車をとめ、カートを押して店内に入る。メイはまっすぐ精肉売場に向かった。
「マージさん、ありました。ほら、グラム二十五ポンドです。軌道港じゃぜったい考えられない値段ですよね」
「そうだっけ……」
メイは滅菌《めっきん》パックされた牛肉を片っ端からカートに移した。
「こっちの生ハムもいいんじゃない? ロイドの好物よ」
「ですね。じゃあ半切れのをひとつ。それと野菜、野菜」
メイは入口付近に引き返した。宇宙の法則というべきものがここにもあり、スーパー・マーケットの順路は野菜で始まるのが常だった。最奥部《さいおうぶ》に肉類があり、袋入りの穀物《こくもつ》などは重いのでレジ付近にある。バーゲン売場に直行したことを除《のぞ》けば、メイのナビゲーションはまったく無駄《むだ》がなかった。
野菜の次は、スパイス売場を探索《たんさく》する。
「あ、こんなところにホースラディッシュが! ほしかったんだ、これ」
「なにそれ」
「牛肉に合うんです。ローストビーフやステーキのソースに使うと、みちがえるようになります」
「そう……」
マージの理解を越える話題だった。
半時間後、二人ははちきれそうな紙袋を山ほど抱《かか》えて店を出た。袋をトランクに押し込んだところで、マージは言った。
「ねえメイ。向かいのブティック、こんな場所にしてはオシャレじゃない?」
「あの、あんまり無駄|遣《づか》いしないほうが」
「いいじゃない、自分のお金だもの」
「でも、こういう会社の経営危機においてはですね――」
「スカーフ買ったげようか」
「…………」
「誓《ちか》って言うけど、今ごろロイドだって酒や煙草《たばこ》を買い込んでるわよ。そう思わない?」
「思いますけど……」
「たまの上陸だしさ、少しは楽しもうよ」
「じゃあ、ひやかすぐらいなら」
「そうこなくっちゃ!」
かくして午後七時。
交換部品と食料と日用雑貨、それに女物の衣類を満載《まんさい》したアルフェッカ・シャトルは、軌道港に向けて離昇を開始したのだった。
ACT・5 船体検査場
それから数日。
港内の船体検査場に移動し、検査を目前にしたアルフェッカ号では、その最後の準備がたけなわだった。『ミリガン運送の生ゴミ』と言われ、大半の時間を飲酒と昼寝にあけくれるロイドも、この時ばかりはせわしげに立ち働いていた。
「ほれ、借りてきたぞ、六分儀《ろくぶんぎ》」
「ありがと。観測窓に固足しといて」
「おう」
「あ、懐《なつ》かしい。一年生のとき実習で使ったのとおんなじ」と、メイ。
「骨董品《こっとうひん》もいいとこだわ。いまどき手動《しゅどう》で天測なんてやるわけないのにね」
マージがうんざりした顔で、あらゆる船乗りに共通の不満を述べた。
この小さな黒い器械は宇宙空間での測位に使われるもので、いっさいの動力を使わずに角度の秒まで測定できる、円熟した光学・機械技術のたまものだった。
しかし、現実の宇宙航行においてこの器械は、絶対と言っていいほどに使われない。はるかな過去に、進歩した自動装置がとって代わってしまったのだ。非常用とも言うが、自動測位システムが機能しないほどの非常時では、天測をしようがしまいが助からないのが常だった。六分儀があらゆる宇宙|船舶《せんぱく》に搭載《とうさい》を義務づけられているのは、ひとえに行政当局の頑固《がんこ》な保守性、もしくは事なかれ主義によると言っていいだろう。
現在、六分儀は船体検査をパスするためだけの目的で製造されている。役に立たないわりに高価なので、常備していない船も多く、アルフェッカ号もそうだった。だが、そこはよくしたもので、たいていの軌道港のドックには「予備の」六分儀が備えられており、しかるべき人物にしかるべき謝礼を払えば、検査に先立って借り出すことができるのだった。もちろん、こうした微妙《びみょう》な工作はロイドの十八番だった。
「『おいジョンじゃないか、ほら商船高校でいっしょだったろ?』――てな調子で話しかけるのさ」
ロイドはかけひきの機微《きび》を大得意で説明した。
「それから酒をおごっておもむろに切り出す。『ときに、六分儀を調整しようと思うんだが、ちゃんと動くやつと較べてみるのが一番じゃないかって思うんだ』――ここまで言ってピンとこない作業|監督《かんとく》なんていないね。『みんなで幸せになろうや』と言って乾杯《かんぱい》さ」
「試験官のほうはどうなの? また、ありもしない旧交をあたためたわけ?」
「そんなとこだな。変に実直《じっちょく》そうな奴《やつ》だったが――まあ大船に乗った気でいろよ」
マージが異変に気づいたのは、試験開始の五分前だった。
「なんてこと。機関コンソールのモード・セレクターが壊《こわ》れてるわ!」
「さっき調べたんじゃないのか」
「今故障したのよ」
「エントロピーの法則ってやつか?」
「冗談言ってる時じゃないわ、じきに試験官が乗り込んでくるのよ!」
「直せないのか」
「モジュール交換しないと。でもスペアなんかないし」
「まいったな……。いくらなんでも、こんなでかい故障は見逃《みのが》してくれんぞ」
「あの、それってどういう働きをするんですか?」
メイが聞いた。
「ひとくちには言えないけど、計器盤の八個のスイッチの組み合わせから、二百五十六通りの機能を選択《せんたく》するモジュールよ」
「つまり八ビットの入力を解読して、二百五十六本の信号線のひとつをオンするわけですね?」
「そうだけど……」
「あの、私、代わりに中に入ります」
メイは決然と言った。
「中に?」
「計器盤の裏に潜《もぐ》り込んで、入力に応じて出力をつなぎかえれば――」
「無理よ、できっこないわ」
「私、体が小さいから入れます」
「そうじゃなくて、論理素子《ろんりそし》の動作を瞬時《しゅんじ》に真似《まね》するなんて」
「最初からあきらめるよかましです。真理値表《しんりちひょう》とテスターとクリップを用意してください。それと懐中電灯も」
マージはロイドの顔を見た。ロイドもためらっていたが、やがて言った。
「だめもとでやらせてみるか」
「うん……」
マージは不承不承《ふしょうぶしょう》うなずいた。
「メイ、何か危険なことになったら、すぐに降参するのよ」
「はい」
計器盤の下にあるアクセスパネルを開くと、メイは体を二つに折って、尻から潜り込んだ。苦労して膝《ひざ》を折り、工具その他一式を受け取る。
「なにか不具合ですかな?」
背後で試験官の声がしたのは、ちょうどパネルを閉め終わった時だった。
ロイドとマージは弾《はじ》かれたように立ち上がり、こわばった笑顔を向けた。
「い、いえ、ちょっと掃除《そうじ》を」
「なにしろボロ船ですから、あちこち汚《きたな》くて」
中年の試験官はけげんな顔をした。
「そうですか? 確かに古い船ですが、中はとてもきれいですよ」
「ま、まあ、掃除はまめにやるほうでしてね。はは」
「そうですか。――では始めるとしますか。船検手帳と検査証書を見せてください」
黙《だま》って入ってくる、という先制攻撃をかけた試験官は、てきぱきと書類をあらためた。次いで鞄《かばん》からハンドターミナルを取り出す。それは電子化されたチェックリストと言うべきもので、検査項目ごとに合否《ごうひ》を入力するしくみになっていた。
「それじゃあ、航法システムからいきますか」
「ひとつお手柔らかに」と、ロイド。
「承知しておりますよ」
試験官はほのかな笑みをたたえて言い、マージに指示を出した。言われた通りに各機能を作動させ、所期の結果が返ってくれば○、だめなら×ボタンを押す。
整備のかいあってか検査はつつがなく進み、いよいよ機関コンソールにさしかかった。
「ではモードを、TCSあり、補助反応あり、外部同期なしにセットしてください」
「TCSあり、補助反応あり、外部なしですね!」
マージはゆっくりと、かつ大声で復唱《ふくしょう》した。それから、ひとつひとつ確かめるように、モード設定スイッチを押してゆく。
「どうかなさいましたか?」試験官が不思議《ふしぎ》そうな顔で聞いた。
「いえ……それではモード更新《こうしん》ボタンを押します!」
「細かい操作まで説明しなくて結構ですよ」
「……はい」
カチリ。
パッ。
ボタンを押すなり、スクリーンの表示が切り替わった。試験官がのぞき込む。
「TCSあり……補助反応あり……外部同期なしと。いいですね」
マージはほっと胸をなでおろした。メイはうまくやったのだ。
「それではと。ああ、今度は私がやりましょう。見てましたから」
「いえいえっ、そんなことしていただかなくても!」
「遠慮《えんりょ》なさらなくても結構ですよ」
止める間もなく試験官は計器盤にかがみこみ、素早《すばや》く数個のスイッチを押した。次いでモード更新ボタンを押す。
カチリ。
……パッ。
「おや」
マージとロイドは息を呑《の》んだ。
「どこか――おかしいですかな?」ロイドがおそるおそる聞く。
「気のせいか、応答が遅かったような」
「ああ、それはその、ボタンの押しかたに若干《じゃっかん》こつがありまして。マージ、やっぱり君がやったほうがいい」
「そう、そうなんですよ、試験官。郷《ごう》に入りては郷に従えって言いますものねえ。じゃあ、モードはどうなさいます?」
「そうですか。では、第二ポゴ制御《せいぎょ》なし、予備加圧なし、外部同期ありで」
「第二ポゴ制御なし、予備加圧なし、外部同期ありですね。……あら、いま気づいたんですけど、素敵《すて き》なタイピンですわね?」
「それはどうも。続けてください」
「はい。ではいきます」
カチリ。
パッ。
「ふーむ……」
試験官はうなった。それから、
「よさそうですね」と、○ボタンを押した。
ロイドとマージは、安堵《あんど》のため息一週間分をもらした。
さらに十数箇所のチェックをしたところで、試験官は言った。
「じゃあ、ブリッジでの試験は終わりましたので、少しの間全員退船していただけますか」
「全員退船?」
「なあに、船の外から簡単なテストをやるだけです。すぐすみますから」
言われるまま、二人は試験官とともに船を下りた。
ドック内には警報ベルが鳴り響《ひび》き、四|隅《すみ》では赤い回転灯が点灯していた。数人の作業員が退去していくのが見える。
試験場の待合室に来たとき、ロイドが聞いた。
「なんだか大がかりですな。これから何が始まるんです?」
「おや、ご存じなかったですか」
「は?」
「半年前に導入《どうにゅう》した新兵器なんですが、これを使うと船体構造の細かい亀裂《きれつ》なんかがたちどころにわかります」
「外から、ですかな?」
いやな予感がしてきた。マージも同じ気持ちだった。
「それは、どういう原理で?」
「レントゲンの大きいやつですよ」
試験官は窓の外を指さして言った。
「ほら、あそこでガントリーみたいなのが動き始めたでしょう。あれが船を横切りながら、超強力な放射線ビームで船体をスキャンするんです」
「じゃ、中に人がいたら――」
「イチコロですね。だから降りていただいたんです。なあに、いい殺菌《さっきん》になりますし、電子装置の被曝《ひばく》テストにもなります。おや、どうしたんです? 顔色が……」
「ち、ちょっと船に忘れ物を」
「だめですよ、もう始まってます。それにほんの五分で終わりですから」
「ペ、ペットなの! 私の部屋にペットのカナリヤがいるのっ!」
「それは困りましたねえ。非常停止するなら管制室に行か」
二人は部屋を飛び出した。
試験場のドックを囲む回廊《かいろう》を全力|疾走《しっそう》する。だが、めざす管制室はドックの反対側だった。ガントリーはもう、アルフェッカ号の目の前に来ている。
「マージ、止まれ! こっちだ!」
ロイドが急停止して叫んだ。傍《かたわ》らのドアに「電源室」とある。体当たりでドアを破り、なだれ込む。中には大きな配電盤《はいでんばん》が並び、低いうなりをたてていた。
「どこからやる!?」
「根元から壊《こわ》すのよ! ここ、一次電源! パネル開けて!」
ロイドがパネルをこじあけると、マージはそばのパイプ椅子《いす》をつかみあげ、渾身《こんしん》の力をこめて投げつけた。閃光《せんこう》と火花の洪水《こうずい》が部屋を満たし、直後、試験場全体が闇《やみ》につつまれた。
十秒経過。
「……マージ、無事《ぶじ》か?」
「……ええ」
闇の中で、視野はまだ赤く濁《にご》っていた。ゆっくりと身を起こす。怪我《けが》はない。
「今のうちに出るぞ」
廊下に出てすぐ、非常灯がついた。ガントリーは止まっている。
何食わぬ顔で歩きながら、ロイドは早くも今後の算段をつけていた。
「わしらは管制室に向かう途中、電源室に入る男の後ろ姿を見たんだ。二十代後半の痩《や》せた男で、テロリストみたいだった、とな」
「わかったわ。弁償《べんしょう》させられちゃ、たまんないものね」
「そういうことだ」
作業員が二名、小走りでやってくる。二人は何食わぬ顔ですれ違った。
少しして、ロイドが言った。いつになく低い声だった。
「軽率《けいそつ》だったよ」
「うん?」
「もうすこしで、あの子を殺すとこだった」
「……そうね」
[#改ページ]
第二章 チェックメイト
ACT・1 バルジ
事情|聴取《ちょうしゅ》と船体検査をどうにか切り抜けたミリガン運送の、久しぶりの航海が始まった。
新しい仕事は、八十トンのイリジウム塊を十日以内に第三惑星アンクスに運ぶというものだった。
アンクスは内惑星帯にあり、霧《きり》の円盤――バルジの中をめぐっている。
それは美しくも危険な宙域だった。想像を絶する速度で飛ぶ宇宙船は、たった一粒の砂と衝突《しょうとつ》しただけでも致命的《ちめいてき》な損傷《そんしょう》を受けることがある。バルジは人間の感覚からすれば限りなく真空に近い空間だったが、一秒ごとに十億立方メートルもの空間を横切る船にとって、危険は現実のものだった。微小《びしょう》な塵《ちり》は電磁気《でんじき》学的に除去《じょきょ》できたが、それ以上の障害物は、船のほうで避けるしかない。
アルフェッカ号がバルジにさしかかった頃には、無数の彗星《すいせい》が空を横切っていた。それは夜の海底に漂《ただよ》うクラゲの群れのようであり、遠く、近く、さまざまな大きさと形をもって空間を占《し》めていた。時として三億キロにもなる尾だけは、どれも太陽と反対向きにたなびいており、その光景に一定の規則性をもたらしていた。
尾は、見かけほど危険ではなかった。それは太陽風に吹き流された、ごく希薄《きはく》なガスと微粒子《びりゅうし》にすぎない。本当に危険な領域は、彗星頭部――コマと呼ばれる――の周辺と、その前後の軌道《きどう》上にある。人類初の彗星探査機がこの領域への果敢《かかん》なフライバイを試みた時は、入念な装甲にもかかわらず、最接近の直前に連絡を絶《た》ったものだった。
航法士のメイにとって、バルジでの軌道設定はまさに正念場《しょうねんば》だった。秒速二千キロを決して越えることなく、十日以内にアンクスに到着しなければならない。
その作業は、航法というよりはチェスを指すようなものだった。相手のキングは惑星アンクスであり、周囲の彗星はそれを守る駒だった。彗星は小さなものを含《ふく》めると数百にもなり、それらは運と、ある力学的な傾向によってアンクスを防御《ぼうぎょ》するうえで最も有利な位置を占めていた。チェスなら腕におぼえのあるメイだが、この時ばかりはナイト一個で敵陣に乗り込むような気がしたものだった。
彗星の軌道は軌道力学だけでは決定できないので、メイは毎日、レーダーを見ながら微調整をしなければならなかった。付近に大きな彗星があると、その背後が死角になるのも困る。とにかく、心がやすまる時がなかった。
「あんまり根《こん》をつめないほうがいいぞ、メイ」
出港して七日目の午後、ロイドが言った。
「ゆうべも遅くまでやってたじゃないか」
「あ、うるさかったですか。すみません」
ロイドの部屋はブリッジの隣《となり》にある。
「いやあ、廊下に出たら明りがついてたんでな。なんにしても睡眠不足《すいみんぶそく》はいかん。美容の大敵だぞ」
「でも、大事な所に来てますから。それに海賊《かいぞく》のこともあるし」
「毎日軌道|修正《しゅうせい》してるんだ、連中には寄せられっこないさ」
「それは、まあ……」
「ロイド、メイ、お茶が入ったわよ」
ティーセットを持ってブリッジに現れたマージを見て、メイは口をとがらせた。
「またあ。私がやるって言ってるのに」
「いいのいいの。あなたは大切な航法士さんなんだから、座っててくれればいいのよ」
「マージさんだって船長じゃないですか」
「船員に気を配るのも船長の大切な仕事さ、メイ」ロイドが言う。
「でも」
「ほらほら、冷めるわよ」
「うーん……」
内心悪い気はしないのだが、どうも落ち着かない。あの船体検査事件からこのかた、妙に大事にされるのだ。見習いのメイにとって、二人から対等な扱《あつか》いを受けることは宿願《しゅくがん》と言ってもよかったが、それは実力で勝ち取るべきものだった。今のは、どちらかと言えば病人扱いに近い。
加えて言うなら――。
メイは紅茶を口に含みながら思う。マージのいれた紅茶はいまひとつ風味に欠けるのだ。自分なら機関室の濾過《ろか》装置を通して、金属イオンを完全に除去《じょきょ》した水を使うのだが……
「おっ」
その時、紅茶にかすかなさざ波が立つのを見て、ロイドが言った。
「またよけたな」
「だんだん多くなるわね」
進路上に障害物を検知したので、船が自動的に回避したのだった。
「明日から減速噴射《げんそくふんしゃ》に入りますけど……」
メイが言った。ここ数日間はずっと慣性《かんせい》航行だった。加速を続けていればもっと早く到着できるが、これ以上速度を上げると塵《ちり》や隕石《いんせき》を避けきれなくなる。
「まあ、のんびりやってりゃいい」
「海賊が心配だけどね」
マージが言った。
「どうもあの彗星が気になるわ。あれに隠《かく》れて近寄られたら――」
そう言ってマージは、左舷《さげん》に横たわる彗星に顔を向けた。
それはわずか一千万キロの距離にあり、しらじらと輝くコマは満月の十五倍にも見えた。氷と塵でできた核は見えなかったが、噴水《ふんすい》のような白いジェットがそのあたりから吹き出しており、太陽風に押し流されながら、周囲のガスに溶《と》け込んでいた。その流線が奇妙にゆがんでいるのは、核が自転しているせいだろうか。
「なあに」
ロイドが言った。
「向こうだって彗星のそばにいりゃ、彗星並の速度しか出せないだろ。いくら近くても、これだけ速度差がありゃランデヴーできっこないさ」
「でもね……。メイ、もう少し離れて飛べないの?」
「いろいろ考えたんですけど、今のところどの彗星とも充分に離れた軌道って、ないみたいなんです」
「海賊にすりゃ、かきいれ時ってわけね」
「あ……」
メイは、はっとした。
言われてみれば、いくつか思い当たることがある。
まるで意図《いと》的に布陣《ふじん》したかのような彗星群。
そしてこの時期に仕事にありつけたこと――これはすなわち、他の船が出港を見合わせていたのではないか。
しかし、このアルフェッカ号の軌道を決定するには、あまりにも不確定要素が多すぎる。こちらに知られずにランデヴーしようとするなら、軌道を何日も前から先読みしていなければならないはずだ。海賊に、それができるはずがない……。
メイは何か言おうとして、思いとどまった。言うべきことは、すでにマージが言っている。いまさら自分の不安を告げても詮《せん》ないことだった。
代わりに、ロイドが言った。
「マージ、君も心配症だな」
「慎重《しんちょう》なだけよ。なぜだかわかる?」
「なぜなんだ?」
「あなたが海賊保険を掛けなかったからよ」
「掛金がべらぼうに高かったんだ。めったにないことに金を捨てられるか」
「そうと知ってたら、絶対に出港しなかったわ。とにもう……」
「なーに、ちょっとした危険は人生のスパイスだよ」
ロイドはそう言って紅茶をあおると、座席を倒して昼寝の体勢に戻った。
マージも追及を切り上げて、ティーカップを口に運んだ。
その、少し険《けわ》しくなった顔がメイは好きだったので、しばらく見つめていた。それから、今の口論はロイドがわざと振ったのだろうかと思った。マージの不安を発散させるために。
「ん? どしたの」マージがこちらを向いて言う。
「あ、いいえ」
メイは顔を上げ、外の彗星に目を向けた。
まるで吹雪《ふぶき》の中にいるようだった。
そして、こうして狭《せま》いブリッジに三人でいると――映画の中でしか知らなかったが――雪に閉ざされた山小屋でじっと身を寄せ合っているような気がした。心配事は山ほどあるのに、それはどこか心地よいものだった。
不安が現実のものとなったのは、それから四時間後のことだった。
ACT・2 海賊船《かいぞくせん》
最初それは、夕食前に追い越した彗星《すいせい》の核が分裂《ぶんれつ》したのかと思われた。彗星が太陽に接近したとき、そのような現象はさほどめずらしくない。
だがその物体は、二千万キロ後方のコマの中から、こちらを上回る速度で飛び出してきた。仮に四Gで加速できたとしても、その速度に達するには半日かけて五千万キロの助走をする必要がある。
「あいつは彗星から出発したんじゃない、そのはるか後ろからやってきたのよ。何日も前から加速しながらね」
マージは後方モニターの望遠《ぼうえん》映像を指して言った。
視野全体が白いガスに占められ、その中に小さな黒いしみが映っている。
「なんだ、この黒いのは。やけにぼんやりしてるな」
「彗星にできたトンネルよ。相手の宇宙船――にちがいないけど――が通ったあと、噴射《ふんしゃ》で吹き飛ばされたの。本体はまだ小さすぎて見えないけど」
「信じられん。あの中を抜けて、なんでバラバラにならないんだ。逆噴射してきたのか?」
「いえ、加速してます。あの、あと二十七時間で追いつかれます!」
メイがおびえた声で言った。
「こっちにランデヴーしようとしてるのは確かなんだな?」
「そうとしか――でも信じられません。こちらは毎日|軌道《きどう》を修正していたのに、何日も前から、二十七時間後の位置を予測してたなんて! それもこちらのレーダーの陰《かげ》から」
「そんな疑問は後だ。振り切れそうか」
「あの、これ以上は加速できないんです」
ロイドは舌打ちした。
「そうだったな。そのくせ向こうは彗星を突っ切るのも平気ときてる。ちくしょうめ、こりゃあ面白《おもしろ》いことになってきたぞ」
ロイドは、心からそう言っているようだった。
「乗ってるのは誰《だれ》だと思う? 海賊――それともクレメント・ファミリー?」
マージが聞く。
「海賊だろう。この宙域を知りつくしてる連中だよ」
「ファミリーに雇《やと》われてる海賊かもしれないわ」
「本物のアウトサイダーはマフィアの飼犬《かいいぬ》にはならんさ。奴《やつ》らは本物だ。この塵《ちり》の海で稼《かせ》ぎまわるんだからな」
「だとしたら、狙《ねら》いは積荷ね」
「まあな」
「……すみません」
メイが唐突《とうとつ》に言った。
「君があやまることはないさ」
「いいえ。……ポート・バッジスを出たときから、こうなるって決まってたんです」
「まてまて――」
メイは首を振って続けた。
「彗星がたくさん並んでて、よけながら十日以内にアンクスへ着くの、この軌道しかなかったんです。その時、おかしいって思わなきゃいけなかったんです。海賊は最初からそれをわかってて、彗星つたいに接近して――」
メイは唇《くちびる》を噛んだ。
やはり、そうだった。海賊はこちらの手の内を完全に見通していた。
自分はゲームに破れたのだ。
「落ち込んでる時じゃないぞ、メイ。次善《じぜん》の策を考えるんだ。マージ、積荷を捨ててその間にずらかるってのはどうだ?」
「先に船を襲《おそ》うんじゃない? 積荷はいつでも回収できるわ」
「かもしれんな。救難通報は出したか」
「まだ。でもパトロール艇が到着するのは早くて四、五日先になるわ」
「そうか。……なら、まずはナシをつけるとするか」
ロイドはインカムをつけ、船舶《せんぱく》間の通信チャンネルを開いた。
「こちらミリガン運送、貨物船アルフェッカ号。後方の船舶、応答願いたい。貴船は本船との衝突《しょうとつ》コースにある」
それからメイに向き、返事に何分かかる? と聞いた。
「二千万キロ離れてますから……二分ちょっとです」
「ふむ……」
三人は息を殺して待った。
返答は百三十五秒後に届いた。
その濁声《だみごえ》は、この上なく率直《そっちょく》な口ぶりで、三人のかすかな希望を打ち砕《くだ》いた。
『先刻承知さ。あさってにはそっちにお邪魔《じゃま》させてもらうぜ』
相手はこちらの通信に即答しているのだが、タイムラグのせいでひどく間の悪い会話になる。ロイドもすぐに返答した。
「所属と船名ぐらいは聞かせてもらいたいんだが」
百三十五秒経過。
『所属だあ? そんな言葉は忘れたね。船名はいずれわかる。海賊船とだけ言っておこう』
「積荷を捨てる用意がある。それで勘弁《かんべん》してもらえるかね」
百三十五秒経過。
『みなさんそうおっしゃる――だが俺《おれ》たちゃまず船から狙うことに決めてるんだ。積荷にゃ、賊よけのトラップが仕掛けてあったりするんでな』
「なるほどね。だが、いずれわかると思うんだが、こっちはひどい老朽《ろうきゅう》船で、現金もろくにない。船体検査で使っちまったんでね」
百三十五秒経過。
『そのへんはこの目で調べねえとな。さあ、あとは御対面の楽しみにして、このへんで切り上げようぜ。ポートパトロールにでもなんでも連絡するがいい。どうせあさってまでに手出しのできる船はいねえんだ。それからな、エアロックの前で銃を構えて待とうなんて考えは捨てるこった。こっちはプロなんだ、素人の浅知恵は通用しねえと思いな』
それからはもう、何秒待っても応答はなかった。
ロイドはううむ、と言って腰をおろすと、それきり黙《だま》り込んだ。
マージとメイも、沈黙した。
重苦しい一日が始まろうとしていた。海賊に乗り込まれるまで丸一日以上の時間があるにもかかわらず何も打つ手がないことが、どうにもやるせなかった。半径二千万キロ以内には他に二|隻《せき》の船がいたが、いずれも速度や向きがまるで違うために、救助を求めることはできなかった。
『こちらカルデア通商、貨物船コンステレーション。通信を傍受《ぼうじゅ》させてもらったよ。そちらまでたった八百万キロなんだが、ベクトルが違うんだ。どのみち武器もないんだが――力になれなくて残念だ。幸運を祈る』
そんなメッセージを送ってくる船もあった。荷主やポートパトロールとの連絡も、長いタイムラグをおいて交わされた。大勢に見守られながら海賊の餌食《えじき》になるのは、この上なくみじめだったが、それが宇宙の掟《おきて》というものだった。
ACT・3 海賊船
二十七時間後。
海賊船が五百キロまで迫《せま》ったとき、またあの声が通信機から流れた。
『待たせたな、あと五分の辛抱《しんぼう》だ。舳先《へさき》をこっちに向けろ。それから、口径三十ミリのレールガンが狙《ぬら》ってることを忘れるな』
マージが船を回そうとすると、ロイドが止めた。
「ブリッジを望遠鏡で覗《のぞ》かれる前に、メイを隠《かく》そう」
「そうね」
マージも同意した。
「メイ、宇宙服とサバイバル・キットを持って二番船倉に入りなさい。ラックの陰に隠れれば、見つからずにすむかもしれない」
突然の命令を、メイはきっぱりと拒否《きょひ》した。
「いやです。私、いっしょにいます」
「船体検査の時とは違うのよ。海賊が奪《うば》うのは物だけとは限らないの。わかるでしょう?」
「会いたいんです。海賊に会って、どうやって私の――こちらの軌道を読んだのか聞きたいんです!」
「そんなことに意地をかけちゃだめ。船乗りはもっとクールでなきゃ」
「なあメイ。そんなに知りたきゃわしが代わりに聞いといて――おい、何する!」
メイは矢のように手を伸ばして、通信機のトーク・ボタンを押していた。
「こちらアルフェッカ号、乗員は三名です! ドッキング手順を指示してください!」
ロイドとマージは真っ青になった。
何をする間もなく、海賊からの返答が入る。
『こりゃ驚いた、可愛《かわい》い声がしたな。名前はなんてんだ』
「メイです。メイ・カートミル航法士」
『会うのが楽しみだぜ、メイ嬢ちゃん。よし、三人とも宇宙服を着て外へ出ろ』
マージは深々とため息をつき、全システムを待機モードに切り替えた。
「いいかメイ、一つだけ約束してくれ」
ロイドが言った。
「海賊の前に出たら、今みたいなよけいな口は絶対にきくな。わかったか」
「……はい」
三人はラウンジで宇宙服に着替え、その左舷《さげん》側にあるメイン・エアロックに入った。
内部が真空になり、外扉が開くと、マージが言った。
「まだ外には出ないで。今でも秒速二千キロで飛んでるんだから」
間もなく目の前に海賊船が現れ、そこで一つの謎《なぞ》が解《と》けた。
海賊船はその船首に巨大な円筒形《えんとうけい》の氷塊《ひょうかい》を抱いていた。それは灰色に汚れ、前面は砂を吹きつけたようにぐさぐさになっていた。それが使い捨ての防壁《ぼうへき》として機能しているのは明らかで、原料は彗星《すいせい》の核から切り出したものと思われた。
「一種の融除材《ゆうじょざい》だな。生活の知恵ってやつか」
ロイドはそう言って、じりじりと接近する海賊船を見つめた。氷塊の後ろには全長七十メートルほどの六角柱があり、これが本体だった。太陽|輻射《ふくしゃ》を避けるためか、船殻《せんこく》は鏡のように磨《みが》き上げられている。船名は見あたらない。船尾寄りの上下に砲塔《ほうとう》があり、砲身は移動中もこちらを照準《しょうじゅん》し続けていた。船尾には見るからに強力そうな噴射《ふんしゃ》ノズルが六基あった。ノズルは船首寄りにもあり、姿勢|制御《せいぎょ》というよりは、前を向いたままでの減速《げんそく》に使われるようだった。
海賊船はいったんこちらを追い越し、二百メートルほど先で静止した。ちょうどこちらの進路をふさぐ形になる。
「見たかマージ。思ったよりいい連中かもしれんぞ」
「なぜ?」
「船体でわしらを塵からカバーしてくれてる」
「獲物《えもの》だからよ」
「そりゃま、そうだがな」
海賊船のエアロックが開き、赤い光が洩《も》れた。
『よおし、こっちへ移りな。そっちのエアロックは開けとけ』
濁声《だみごえ》がヘルメットのスピーカーに響《ひび》いた。
三人は背中の機動ユニットを噴《ふ》かして、真空の中に踏み出した。
呼応するように、海賊船のエアロックからふたつの人影が現れた。人影は数メートル外にとどまり、銃らしきものを構えて待機した。
三人はその前を通って、エアロックに入った。一度に十人は入れそうな広さだった。外扉が閉まり、空気が満たされると『宇宙服を脱げ』とアナウンスが入った。
言われた通りにする。
監視カメラで見ていたらしい。すぐ内扉が開いた。
そこは何かの格納庫《かくのうこ》のようだった。壁《かべ》も天井《てんじょう》もむきだしの肋材《ろくざい》や配管に覆《おお》われている。右の隅《すみ》には二人乗りの宇宙スクーターが四台と、傷だらけのパワーローダーが二台、ワイヤーで固定されていた。左の壁ぎわには宇宙服が十数着ラックに吊《つ》られており、その手前に薄汚れた軽金属のテーブルと椅子《いす》があった。テーブルのひとつには、コーヒーメーカーとプラスチックのカップが置かれ、まわりに菓子類の包装が散らばっていた。空気はよどんでおり、オイルと煙草の臭《にお》いがした。
正面には、十数名の男がいた。服装はまちまちだった。ツナギもあれば、アルミ繊維《せんい》のジャケットもある。揃《そろ》っているのは腰のガンベルトだけ。銃は手の中にあったが、構えてはいなかった。
男たちは二人の女を見ると、たちまち口笛を鳴らした。
「やめとけ!」
中央の男が怒鳴《どな》った。一転、静まり返る。
男は首領格らしく、彼だけ椅子に腰をおろしていた。まだ四十代に見える。枯草のような髪の下に、年中甘いものを食べていそうなぽっちゃりした顔があった。色白で童顔《どうがん》だが、目は鋭《するど》い。首から下の主成分は脂肪で、椅子もそれに見合う立派なものだった。この対面のために、わざわざ椅子をエアロックの前に運んできたはずで、そう考えるとどこか滑稽《こっけい》だった。
男が言った。
「ドクター・アンガスだ。海賊船ガスプラへようこそ」
まぎれもない、あの濁声だった。ドクターというのは愛称だろうか。
「ロイド・ミリガン、ミリガン運送の社長だ」
「そちらは」
「アルフェッカ号船長、マージ・ニコルズ」
マージはにこりともせずに名乗った。
「はきだめに鶴《つる》ってとこだな。……そしてあんたがメイちゃんってわけか」
「はい」
メイもむっとした顔で、必要最小限の返答をした。こんな時でも礼儀正しく「はい」になってしまうのは、やはり両親の躾《しつけ》のたまものというべきだろうか。
「ほほお。怒った顔がまた、可愛いねえ……」
アンガスはこのうえなく下品な笑みを浮かべた。
「はじめに言っておきたい」
ロイドが言った。
「船でも積荷でも、欲しいものはくれてやる。だがこの二人には手を出すな」
濁声は、人指し指を立てて、ちっちっ、と舌を鳴らした。
「指図《さしす》するのはこっちだぜ、社長さんよ」
「指図じゃない。あんたにもまだ残ってるかもしれん、良心に訴えてるだけだ」
「おっと……」
アンガスは目を丸くしてみせた。
「そういう言い方って嫌いじゃないぜ。若い頃ゴールディンに熱中したくちか?」
「わしの若い頃にゃあゴールディンなんぞ、まだ小便たれのガキだった。アークラント紛争《ふんそう》の頃、デネヴあたりの若造が熱中してたのは聞いてるがね」
アンガスは顔を紅潮《こうちょう》させた。声が一オクターブ低くなる。
「……口のききかたに気をつけろよ、ロイド・ミリガン」
「ほう。さっきは嫌いじゃないと言わなかったか?」
「ロイド!」
マージが短く言い、腕をつかんだ。
「喧嘩《けんか》を売るのはやめて」
「女に手を出すなと言ったよな」
アンガスが言った。
「ここをどこだと思ってるんだ、ええ? 俺様のなわばりに、小娘に舵取《かじとり》させてのこのこやってきたのはおめえだぜ。そのおめえが、手を出すななんてキザな口を叩《たた》きやがる」
海賊たちは、どっと笑い声をあげた。
ロイドの顔色が変わった。
とびかかろうとした瞬間《しゅんかん》、マージが立ちふさがった。
「ロイド、やめて!」
「どけよマージ。そこのデブ野郎は人間のクズだ。どうせ最悪の結果になる以上、言いなりになる必要はない」
「なにおう……」アンガスがゆっくりと腰をあげた。
ロイドはかまわず続けた。
「君もクズに何か言ってやれ」
マージの平手が、ロイドの頬《ほお》に一閃《いっせ人》した。
一瞬、格納庫は静まり返った。それから、海賊たちはまた、盛大な笑い声をあげた。
アンガスは椅子にもどり、相好《そうごう》を崩《くず》して言った。
「社長、社長。――女にぶたれちゃたまんないよなあ、ええ?」
ロイドは答えなかった。歯をくいしばり、マージをにらんでいた。それから、相手の本心に気づいた。何もかもめちゃくちゃにして、メイをまきぞえにするな、と言いたいのだ。
マージはアンガスに向きなおり、こう言った。
「あなた、いつまで立たせておく気?」
「おう」
アンガスは眉《まゆ》をあげ、急に丁重《ていちょう》な口調《くちょう》になって言った。
「そりゃ気づかなかった。どうぞそちらへ」
三人は数歩あるいて、こぎたない椅子に腰をおろした。
ロイドは自制を取り戻したつもりだったが、テーブルの上のゴミに目をとめると、右腕で力まかせになぎ払った。プラスチックのカップが、耳障《みみざわ》りな音を立てて床に転がった。
アンガスは、ここは度量を示すのが得策と思ったらしく、にらみをきかせただけだった。
「あんたらの船は、いま部下に調べさせてる。しばらく待ってもらおう。――おい」
「なんです?」
右隣の、痩《や》せた男が応じた。
「コーヒーでもいれてやれ」
「へい」
男は別のテーブルにあるコーヒーメーカーに行き、水タンクを抜き取った。
メイは男の動きを、批判的なまなざしで追っていた。
男は壁際《かべぎわ》に歩いて、油じみた蛇口《じゃぐち》にタンクをあてがい、水を入れた。
「その水――」
メイの口がすべった。
「なんだい、嬢ちゃん」
「その水、いいんですか?」
「何がいいんだい」
相手の口調が思ったより柔らかいので、メイは続けた。
「残留塩素《ざんりゅうえんそ》とか……。私、お茶やコーヒーをいれるときは、推進剤《すいしんざい》の濾過《ろか》装置の検査孔から汲《く》んでるんですけど」
「へえ、そうかい。そりゃ知恵ってもんだな」
痩せ男は心からそう思ったらしく、水を捨てて奥のドアに向かって歩きはじめた。
「おい」
アンガスが口を尖《とが》らせて言った。
「そこの水でいいんだよ」
「でもボス、この子が言うにゃ」
「いいんだ」
「へい……」
痩せ男は、メイのほうをちら、とすまなさそうな顔で見て、また蛇口から水を汲んだ。
タンクをコーヒーメーカーに戻し、スイッチを入れると、湯はすぐに沸騰《ふっとう》した。続いて抽出《ちゅうしゅつ》サイクルに入り、ガラスのサーバーに褐色《かっしょく》の液体が落ち始めた。
それが終わると、痩せ男はカップにコーヒーを注ぎ、三人に配った。
「うまくないかもしれないけど、がまんしてくれよな」と、メイにささやく。
「はい。ところで、ダイエット・シュガーはありますか?」
「ダイエット・シュガー?」
「マージさんはいつもそれなんです」
「メイ、いいのよ」
「すまねえが、そんなものは置いてねえよ」
「ブラックでやるからいいわ」
「すまねえな」
「おい!」
またアンガスが言った。
「何ごちゃごちゃ言ってやがる」
「へい……」
痩せ男は口をつぐんだ。
そのとき、エアロックの内扉が開いた。
二人、入ってきた。
「どうだ。金目のものはあったか?」
「シャトルのペイロードベイにイリジウムが八十トン。あとはろくなものがありませんや。シケた船でさあ」
背の低いほうが答えた。
「だと思ったぜ。船は使えそうか」
男は首を振った。
「ひでえボロ船でさあ。あちこちガタがきてるうえに、バルジ用の装甲もついちゃいねえ。ここじゃ使い物になりませんぜ」
「ボロじゃ仕方ねえな。ベルト≠フ屑鉄屋《くずてつや》にでも売りとばすか」
「トンいくらでですかい? やめましょうや、あんなボロじゃ燃料代も出やしませんぜ」
「そうか。こりゃあ、とんだ貧乏くじだったな。ボロかどうか、遠くからわかるようなレーダーがありゃいいんだがな」
「まったくでさあ」
二人の海賊は、ぺちゃくちゃと喋《しゃべ》り続けた。
「あんな言い方ってないですよね」
メイがマージにささやく。
それからメイは、マージの異変に気づいた。
うつむいた顔はすでにどす黒く染まっており、今は豊かな鳶《とび》色の髪が逆立ってゆくところだった。
海賊たちの会話は、なおも続いていた。
「聴診器《ちょうしんき》でもあててみりゃボロかどうかわかるんですがね、ボス。きっとガチャガチャいってますぜ」
「ちげえねえ。ポンプも炉心《ろしん》も始終ガチャガチャ鳴っていそうだな。そういや交信中、そんな音がしてたぜ。けっけっけ」
ガタン……。
マージは席を蹴《け》って立ち上がり、つかつかとアンガスの前に進み出た。
「あたしのアルフェッカ号を――」
言いながら、左手で首領の胸ぐらをつかみあげる。
「おいマージ」「マージさん!」
ロイドとメイが声をかけるが、耳に届いていなかった。
「ボロボロ、ボロボロ――」
そして右腕を一杯に引き絞り、
「言うんじゃないよおっ!!」
ごっ。
固く握《にぎ》りしめたマージの拳《こぶし》が、アンガスの顔面をえぐっていた。
アンガスはぐら、とよろめき、椅子とともに派手な音を立てて倒れた。
空気がさっと緊張した。
「このアマぁ……」
アンガスは切れた唇《くちびる》をぬぐいながら、よろよろと立ち上がった。
「ちょいと優しくしてやりゃあいい気になりやがって。女は殴《なぐ》らねえと思ったら大間違いだぞ」
「女しか殴れないんじゃないのか」
いつの間にか、ロイドが前に立っていた。
言うが早いか、太鼓腹《たいこばら》にしたたかなパンチをくりだす。
「……っ。効《き》かねえな」
アンガスはにやりと笑い、続く右フックがロイドの頬を打った。
脳がゆさぶられ、同時に理性もけしとんだ。
「この脂肪まみれがっ!」
ロイドのストレートが、顔面に二度目の爆撃を加えた。今度は効いた。
「野郎、ボスに何しやがる!」
手下の一人がロイドの背中につかみかかる。すかさずマージが、組んだ拳をその延髄《えんずい》に振り下ろした。男が床にのびると、別の手下が向かってきた。たちまち大乱闘に発展した。
輪の中心で、ロイドとマージは背中合わせになって奮戦《ふんせん》した。
これは、弱いものいじめだ!
メイはそう判断するなり、参戦を決意した。なまじ喧嘩の仁義を知らないので、背後からコーヒーメーカーや消火器や椅子やテーブルを投げつけることには、まったく抵抗がなかった。もちろん、海賊の誰《だれ》一人として銃を抜いていないことなど気づいていない。
四人ほど倒したところで、今度は何を投げようかと探すうち、ふと片隅《かたすみ》の機械に目がとまった。
パワーローダー。
それは人型をした起重機《きじゅうき》で、操縦者《そうじゅうしゃ》の姿勢をそっくり真似《まね》て動く仕組みだった。筋力は油圧で数百倍に拡大され、数トンの荷物を軽々と持ち上げることもできる。
これだ、という気がした。
使い方は知らなかったが、誰でも歩行運動ぐらいはできると聞いている。
メイはパワーローダーに駆け寄り、固定|索《さく》を切り離し、操縦席に駆けのぼった。始動キーをひねり、両手両足をセンサーアームに通す。
ぐおん、という地響きとともに、パワーローダーは最初の一歩を踏み出した。
「おい、あれ見ろ!」
「なんてこった!」
「やめろ! やめさせろ!」
海賊たちはいっせいに駆け寄ろうとしたが、自重四トンの巨人がどかどか歩き始めると、一転、蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。
「いいぞメイ! やっちまえ!」
ロイドも喧嘩の不文律《ふぶんりつ》を忘れてけしかける。
だが、メイは早々と「無我夢中」といわれる危険な心理状態に陥《おちい》っていた。目についた海賊たちに向けて鋼鉄《こうてつ》の腕を振り下ろすと、見当違いの床《ゆか》に大穴があき、火花の大噴火が起きた。
「やめろ! 船をこわすなあっ!」
悲鳴に近い声がとぶ。メイもまた、悲鳴をあげて両腕を開いた。腕の動きはそのまま機械の腕に伝達され、天井《てんじょう》のクレーンと換気ダクトを吹き飛ばした。
そして――全員の注視のもと、生涯《しょうがい》の思い出になるような一瞬が訪《おとず》れた。
大人の体ほどもあるクレーン・フックが床でバウンドし、そこだけには行ってくれるな、と願う方向に跳躍《ちょうやく》した。それはエアロックの内扉を粉砕《ふんさい》し、さらに外扉をくの字に折って止まった。
誰もが顔色を失った。
轟音《ごうおん》とともに空気が抜け始めた。
直後、それに勝るとも劣らぬ音量で、サイレンが鳴り響く。
「げ、減圧警報だっ! 隔壁閉鎖《かくへきへいさ》!」
「待て、その前にみんなここを出ろっ!」
「メイ、もういい。動くなっ!」
「す、すみません。えと、えとあの」
空気は冷えて白濁《はくだく》し、あらゆるものをエアロックに運んでゆく。烈風《れっぷう》の中、マージは声を限りに叫んだ。
「メイ、センサーアームから腕を抜きなさい!」
「えと、抜きましたっ!」
「始動キーを停止位置へ」
「で、できましたっ!」
マージはパワーローダーに駆け寄り、外からドアを開け、メイを引きずり出した。
だが、二人の体は吹き荒れる風とともに、エアロックに引き寄せられはじめた。
ロイドと海賊たちは、格納庫の反対側、半分閉じた隔壁の向こうでそれを見ていた。
「いかん! 吸い出されるぞ!」
「やばい!」
「ロープだ! 誰かロープを持ってこい!」
海賊の一人が消火栓のホースを引き出してきた。ロイドがその先を体にくくりつけ、格納庫の中に飛び込む。空気の大渦《おおうず》の中で、ほとんど垂直《すいちょく》の壁を落下しているようだった。
破壊《はかい》された内扉の直前で、ロイドは二人をつかまえた。
ロイドは背後に向けて怒鳴《どな》ったが、もはや何も聞こえなかった。
だが、体はぐいと引かれた。海賊たちが総出でホースを引いていた。
刻々と真空に近づいてゆく格納庫の中で、ロイドと、その腕に抱えられた二人の女は、じりじりと隔壁に引き寄せられていった。
悪夢のような三十秒がすぎ、ついに三人は隔壁の内側に転がり込んだ。
直後、隔壁がぴしゃりと閉まる。
ひとしきりエアの流入音《りゅうにゅうおん》が響いたあと、あたりに静寂《せいじゃく》が戻った。
あたりは、まるで負傷兵のひしめく野戦《やせん》病院の廊下のようだった。
誰もがぐったりと座り込み、いったい何が悪かったのだろう、と思いながら、すぐには結論に到達できずにいた。言うべきこと、言いたいことはいくつかあったが、脱力感に負けて、誰も口に出さなかった。
少なくとも、一つの事柄は明らかだった。
そう遠くないうちに、裁《さば》きは行なわれるだろう……。
ACT・4 船長室
アンガスの部屋はこぢんまりとしていたが、ビクトリア朝時代の書斎《しょさい》を思わせる豪華な内装がほどこされていた。ライティング・ビューロー、箪笥《たんす》、書棚《しょだな》、ソファ、大小のテーブルなど、家具のほとんどがこってりとニス塗りされた天然《てんねん》木材を使用している。
机の脇《わき》には大きな端末《たんまつ》装置があり、周囲は乱雑に積み上げられた書類の山だった。書棚には何やら難《むずか》しそうな本と光学ディスクがぎっしり並んでいる。ゲームテーブルは寄木細工《よせぎざいく》のチェス盤になっており、いくつかの駒が並べられていた。
部屋にいるのは五人。
肘掛《ひじか》け椅子《いす》にアンガス、向かい合ったソファにロイド、マージ、メイの三人が腰をおろし、アンガスの隣《となり》には副長――あの痩《や》せた男――が所在なさそうに立っていた。
あの騒ぎから三時間。
まだ顔の腫《は》れはひかないものの、とりあえず人心地《ひとごこち》はついていた。
「あれは、喧嘩《けんか》だった」
アンガスが沈黙を破った。
「いろいろぶっ壊《こわ》れたが、これについちゃ俺《おれ》はどうこう言うつもりはねえ。ただの喧嘩だからな。だがな――」
三人の顔を見較べながら言う。
「決着はつけにゃならん。何事にも、示しってもんがいるからな。問題は誰と、どうやるかだ」
誰と決着をつけるか。最初に手を出したのはマージ、もっとも破壊《けかい》したのはメイ、そしてミリガン運送の代表者といえば、やはりロイドだった。成行《なりゆ》きかもしれないが、あの時他の二人に較べればいくらか理性的なふるまいを見せたのは、やはり年の功と言うべきか。
そのロイドが言った。
「わしがやろう。どうやる? 拳銃か、また殴《なぐ》り合いか」
「そうさな……」
「ちょっと待って。決闘を始めようっての?」マージが言った。
「そうだよ」
「ああ」
「どうかしてるわ。あなた海賊《かいぞく》でしょ? 海賊が貨物船を拿捕《だほ》した。あとは取り放題なのに、なんでここにきて決闘になるのよ」
「いいかい女船長さん。海賊ってのは獲物《えもの》の船に乗り込んで荒し回るのが仕事なんだ。だのに今度のケースはまるっきし逆だ。こっちの船であれだけ騒がれちゃ、ただそっちの積荷をいただき、おめえらを外へほうり出すなり女郎屋《じょろうや》に売り飛ばすなりしても事はおさまらねえ。キャプテンたるものの度量《どりょう》を見せなきゃ、部下はついてこねえのさ。なあ、そうだろうが?」
と、副長を向く。痩せ男は「はい、そうですね」と答えた。
それからアンガスはロイドに向かって、
「拳銃でどうだ。楽でいい」と言った。
「いいだろう。わしが勝ったらメイとマージを釈放《しゃくほう》してくれ。他には望まん」
「おう。決まりだな」
「ちょっと――」
マージが言いかけた時、メイが割り込んだ。
「あの、その前にひとつ聞きたいことがあるんです」
「なんだい、嬢ちゃん」
「ランデヴー軌道《きどう》を設定したの、あなたですか」
アンガスは、虚を突かれた顔になった。
「なぜそう思う」
「この部屋を見て思ったんです。ドクターって名乗ってましたけど、教授のことですよね。天文学や軌道力学のこと、専門なんじゃありませんか」
アンガスは、少しの間、黙っていた。
それから言った。
「そうさ。俺は昔教授だった。それがどうした」
「アルフェッカ号の軌道を決めたの、私なんです」
アンガスは、微笑《ほほえ》みをうかべた。嫌味《いやみ》な笑いではなかった。
「その歳にしちゃ、上出来《じょうでき》だったさ」
「じゃあ、私と決闘してください」
「ああ!?」
「航法士として勝負したいんです。前回は私の負けでした。もう一度勝負してください」
「じゃあ何か、もう一度バルジで追いかけっこをするってのか?」
「そうです」
「あの船じゃ――船長にゃ悪いが――勝ち目はないね」
「今度は負けません。三番目の彗星《すいせい》が近日点《きんじつてん》を通過したら――」
「あいつの自転周期を知ってるのか? ダスト放出速度は? 非重力効果曲線は?」
「いえ……」
「嬢ちゃんの気骨《きこつ》には感心するが、俺たちゃここで食ってんだ。彗星ごとの癖《くせ》をとことん知り抜いてなきゃ、手筋は読めっこねえ」
「…………」
「それにこれだけ船に差がありゃ、俺が勝っても示しにならんだろ。それが一番の理由だ」
「でも私――」
メイは必死に食い下がろうとした。意地でもアンガスと勝負したかった。海賊につかまった先のことはあまり実感がなく、それよりも軌道をめぐるゲームに敗《やぶ》れたことのほうが重大だった。このまま引き下がるのではおさまらない。せめて別の何か――。
その時、メイは片隅《かたすみ》のゲームテーブルが意味するものに思い当たった。
チェス。アンガスも、チェスをやるのだ。
そう、あれはチェス・ゲームだった。
実際にプレイしてみないとわからない点では、チェスも軌道設定も同じなのだ。
メイは言った。
「あの……チェスならどうですか?」
「チェス?」
「そうです。チェスで決闘するんです」
「ほほう……」
アンガスは興味をそそられたようだった。
思わぬ展開に、ロイドとマージは息をのんだ。二人とも、メイのチェスの腕前は何度も思い知らされていた。メイは瞬時《しゅんじ》に七手先を読む、驚異《きょうい》的な才能の持主だった。そのことが、メイを若くして航法士の英才教育に進ませるきっかけになり、ひいてはミリガン運送との出会いをつくったのだ。
メイにとってはやや不本意な代案だったかもしれないが、ロイドとマージには、これこそ最善の解決手段と思えた。
「お言葉ですがね、ドクター。メイは強いですよ」
ロイドが言った。
「子供と思ってなめないほうがいいわ」
マージも口添《くちぞ》えする。
「それはどうかね。俺も学会にいたころは鳴らしたもんだぜ」
「航法士としちゃ、メイはまだ経験や知識が不足してる」
ロイドはさらに煽《あお》った。
「――だが、チェスじゃあそうはいかない」
「結構! これで決着をつけようじゃねえか」
「メイが勝ったら、積荷も船もわしらも、全部解放してもらうぞ」
「いいともさ。嬢ちゃん、それでいいかね」
「はい」
「よおし、決まりだ。おい! みんなを食堂に集めろ。それからこのテーブルを食堂のど真中に置け」
アンガスは副長に命じ、あわただしく対局の準備が始まった。
二十分後。
食堂のゲームテーブルのまわりには、すでに海賊たちの人垣《ひとがき》ができていた。おそらく船内の全員が集まってるのだろう。
テーブルの上には駒が並べられ、その横には対局時計が置かれている。
アンガスは中央に進み出ると「いいか野郎ども!」と怒鳴《どな》った。
「これからチェスでごたごたのケリをつける。やるのは俺と、このメイ嬢ちゃんだ。メイが勝ったら三人は放免《ほうめん》する。俺が勝ったら獲物《えもの》扱《あつか》いだ。文句のある奴《やつ》はいるか!?」
異議なし。
アンガスは白と黒のポーンをひとつずつ、見えないように手に握《にぎ》り、メイに言った。
「どっちだ」
「右手」
アンガスが手を開く。右手には白のポーンがあった。メイは白側の席についた。アンガスは反対側に座る。
「船長、審判を頼もうか」
「オーケイ」
マージはテーブルの横に立った。
「二人とも、用意はいい?」
「おう」
「はい」
「では、始め」
チェスでは、白が先攻になる。アンガスが対局時計を押すと、メイはクイーンの前のポーンをふたつ進めた。
アンガスはまったく迷わず、f列のポーンをふたつ進めた。オランダ・オープニング、と呼ばれる定跡《じょうせき》だった。
メイはキングの前のポーンをふたつ進めて、ギャンビットに出た。アンガスのポーンがそれを奪《うば》う。続いてメイはc列、アンガスはf列にナイトを出した。
第四手 メイ、ビショップをg5へ。アンガス、ポーンをe6へ。
第五手 メイ、ナイトで最初のポーンを奪う。アンガス、ビショップをキングの前へ。
第六手 メイ、ビショップでナイトを奪う。アンガスもビショップでメイのビショップを奪う。
第七手 メイ、キング側のナイトを出す。アンガス、b列のポーンをひとつ出して、もうひとつのビショップに道を開く。
第八手 メイ、前回のナイトをさらに進め、黒の陣に攻《せ》め込む。ビショップの火線上にあるが、最初のポーンに守られている。アンガスは入城。キングとルークが互いに寄り添いながら入れ替わる。これで黒のキングの位置はほぼ確定した。
第九手 メイ、キング側のビショップをクイーンの前へ。自陣からの掩護射撃《えんごしゃげき》で、黒のキングに狙《ねら》いを定める。アンガスも先ほど開いた道にビショップを出す。
第十手 メイ、クイーンを右端、h5へ。アンガスは「ほほう!」と言った。小駒をろくに活かさず、強い駒で突進しようとする――この娘、まだまだ青い、とアンガスは思った。アンガスは落ち着き払って自分のクイーンを斜《なな》め前に出す。
第十一手 メイ、クイーンを直進させてキングの前のポーンを奪う。「チェック(王手)」
アンガスはため息をついた。まるで素人の手だ。
「やり直してもいいんだぜ、嬢ちゃん。ビショップはナイトが邪魔《じゃま》してる」
メイは「結構です」とだけ言った。アンガスは同情の念をこめながら、キングでメイのクイーンを奪った。横で、ロイドとマージが顔を見合わせる。この瞬間《しゅんかん》、メイは戦力の半分を失ったのだ。
第十二手 メイ、手前のナイトでビショップを奪う。ナイトは三つの駒の射程内にあったが、ナイトの背後のビショップが黒のキングを刺していた。「チェック」
アンガスは黙《だま》ってキングをひとつ進めた。
第十三手 メイ、もうひとつのナイトをg4へ。「チェック」キングの退路はひとつしかない。アンガス、キングをg5へ前進。
第十四手 メイ、右端のポーンをふたつ進める。「チェック」またしても退路はひとつ。ついにキングは白の陣に入った。アンガスは、脂汗《あぶらあせ》を浮かべ始めた。
第十五手 メイ、g列のポーンをひとつ進める。「チェック」退路はひとつ。黒のキングは、たった一人で敵陣をさまよい続ける。
第十六手 メイ、長らく掩護に使っていたビショップをひとつ後退。「チェック」
アンガスの顔から血の気が引いてゆく。退路はひとつ。キングはg2、白側の端から二番目に達した。
第十七手 メイ、ルークをひとつ進める。「チェック」
アンガスはうめき声をもらした。
もう、何もかも明らかだった。名誉《めいよ》を守る唯一《ゆいいつ》の選択《せんたく》は、投了《とうりょう》だった。だが、その手は機械的に、キングをただひとつの退路に押しやった。ついにキングは、敵陣の最前列にさまよい出た。
第十八手メイ、クイーン側に入城。アンガスのキングの真横にルークが出現した。
メイは淡々と言った。「チェックメイト」
クイーンを捨ててから、ちょうど七手目の王手詰めだった。
アンガスは、凍《こお》りついたようだった。頬をつたう汗が一滴、テーブルに落ちる。
一分後、アンガスは口を開いた。
「嬢ちゃん」
「はい」
「あんた……俺のキングをあの[#「あの」に傍点]軌道《きどう》に乗せたな?」
メイはうなずいた。
「そうです。クイーンとふたつのナイトが彗星《すいせい》、ビショップが太陽です。あの時、アルフェッカ号は最初の大きな彗星をすぐに抜けました。でも太陽寄りの、動きの速いのがずっと邪魔だったんです」
アンガスは、そうだったな、とつぶやき、またしばらく沈黙した。
それから立ち上がり、メイに手を差しのべた。
メイも立ち、二人は握手した。マージがメイの肩を抱き、メイは笑顔で答えた。
アンガスが、ロイドに向かって言った。
「ごらんの通りだ。とっとと消えてくれ」
「そうさせてもらうよ」
三人が部屋を出るとき、アンガスはもう一度、ロイドに言った。
「いい子をひろったもんだぜ。大事にしろよ」
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第三章 客船の人々
ACT・1 アンクス軌道港《きどうこう》
いくつかの悪条件にもかかわらず、アンクス軌道港はこの星区でも有数の貿易拠点《ぼうえききょてん》だった。港内にある市場は周辺から集まってくる物品と商人たちでいつもにぎわっており、それは毎年一月に各地の貿易商人が集まる、ラマーズ・ショップと呼ばれるコンベンションで最高潮《さいこうちょう》に達すると言われている。
港で積荷《つみに》の納品の手続きをすませ、支払いを受け取ると、ロイドは上機嫌《じょうきげん》で言った。
「いろいろあったが、諸君らの活躍のかいあって無事《ぶじ》納品もすみ――こうして当分遊べる金もできた」
「貯金するのよ」例によって、マージが釘を刺す。
「ちょっとぐらい羽根を伸ばしても罰《ばち》はあたるまいさ。二人にボーナスを出そう。せっかくアンクスに来たんだ。一日買物してても飽《あ》きないぞ」
「まあ、いいけどね……」
内心悪くない気分で、マージは言った。
「ホテルにする?」
「ああ。ちょいと上等のにしよう。だが今夜は帰らんぞ」
「わかってるわ」
「たまの上陸だからって、あんまり飲みすぎないほうがいいですよ、ロイドさん」
「だんだん生意気《なまいき》になってきたな、メイ」
「あの、生意気って言葉を使うと後で必ず後悔《こうかい》しなきゃならなくなる、って父さんが言ってました」
「ならきちんと反論しよう。酒は飲むためじゃない、話をすすめるためにあるのさ」
ロイドは得意顔《とくいがお》で言った。
「酒は出会いと思い出、そしてよき友人をつくる魔法の薬なんだ」
「へえ……」
「メイ、真に受けたりしないことよ」
「しません、しません」
三人はいったん船に戻り、荷物を持って港内の居住区《きょじゅうく》にあるホテルに入った。
ロイドはシングル、メイとマージはツインの部屋に入る。その日はもう、自由行動になった。
夕刻になると、ロイドはいっちょうらのジャケットを着て軌道港内の歓楽街《かんらくがい》に向かった。
街は百秒ごとに一回転する巨大な円筒《えんとう》の内面にひろがっており、円周方向の道を歩いていると、いつも坂のふもとにいるような気がした。
この街は二年ぶりだった。見覚えのある店の前で立ち止まる。
パブ『ホワイト・テイル』。彗星《すいせい》にちなんだ名前だった。
三日ほど通《かよ》ったはずだ。顔は忘れられているだろうが、こちらは思い出せるだろう。女気はないが、宵《よい》の口に軽く下ごしらえをするのもいいだろう。
ロイドはドアを押した。中はごくありきたりの英国風パブで、特色らしいものといえば、奥の壁《かべ》に埋め込まれた大きなアクアリウムだけだった。ヘヴンフィッシュと呼ばれる優美な観賞魚が漂《ただよ》っている。客はまばらだった。
カウンターの中ほどに腰をおろし、スコッチをダブルで注文する。主人の姿は見えず、代わりに若い、こざっぱりしたバーテンがいた。どこかで見た顔だなと思いながら、スコッチをすすると、ロイドの記憶はたちどころに鮮明になった。酒と記憶が結びついているのは彼の不可解な特技で、同じ酒を飲むと以前飲んだ時のことが写真のように思い出されるのだった。バーテンとは初対面だったが、主人の息子《むすこ》にちがいない。
「この店は久しぶりなんだが、おやじさんは元気かね」
「今日は酒の試飲会に行ってます。八時頃には戻ると思いますが」
「健在ならいいんだ。あいかわらずいい酒を仕入れてくれてるようだな」
「親父の鼻には誰《だれ》もかないませんよ。機械もね」
「孝行するこった」
その時、ロイドは目の端に視線を感じた。隅《すみ》のボックス席の男だ。ロイドは本能的に警戒《けいかい》した。まさか、クレメント・ファミリーの者だろうか――アンクスにはいないはずだが。視野の隅にあるので、ぼんやりとしか見えない。だが、下手《へた》に顔を向けると、あらゆるチャンスを失うことになる。
思案するうち、向こうが立ち上がり、こちらにやってきた。
「もしかして――ロイドか?」
ロイドは相手に向き直った。恰幅《かっぷく》のいい男だった。金髪で口髭《くちひげ》をたくわえ、歳は五十代。ラフなジャケット姿だが、身に付けているものはどれも高級品だった。右手にグラスを持っている。クレメント・ファミリーの刺客《しかく》なら、こんなことはしないだろう。
ロイドは記憶の糸を手繰《たぐ》った。十年、二十年。そしてある顔に思い当たると、弾《はじ》かれたように腰をあげた。
「マイク……マイク・ガードナー!?」
男は相好《そうごう》を崩《くす》し、ロイドの肩をどやしつけた。
「憶《おぼ》えていたか、ロイド!」
「なんてこった、こいつめ、生きてやがったのか!?」
「当然さ。俺《おれ》は武勲《ぶくん》は立てなかったが、生き残るのは得意《とくい》だった。いまだに一度も失敗してない」
「ちがいない!」
それから二人は、カウンターに腰をおろした。
けげんな顔で二人を見ていたバーテンが、マイクに言った。
「お知合いでしたか、船長」
「ああ。もう二十年も前のな。傭兵《ようへい》時代の戦友さ」
「というと、アークラント紛争《ふんそう》ですか」
「そうだ。私はシャトルの操縦士《そうじゅうし》、ロイドは軌道降下兵だった」
「それはそれは」
「いま船長と言ってたようだが――」ロイドが言った。
「ああ。ただし定期客船だがね。キュナード・ラインだ」
ロイドは目を丸くした。
「キュナードか。えらく出世したもんだな!」
「なあに、たかだか五十四万トン、それも辺境航路だよ」
「にしてもアルフェッカ号の四千倍だな……」
ロイドは胸に軽いうずきを覚えた。だが、人生同様、価値観《かちかん》もいろいろある。アルフエッカ号は俺の所有物で、好きなときに好きなところへ飛ばすことができる。確かに、一般の尊敬をかうのはキュナード客船の船長だろうが……。
「君の船か?」
「ああ。しがない運送会社をやってる。明暗が分かれたってやつかな」
「そんなことあるもんか。一国一城の主《あるじ》じゃないか」
「ちがいない」
問題は、この程度の一国一城の主なら世間にごまんといることだが。
その時、マイクの顔にある変化が現れた。
「待てよ――てことはあれか、海賊《かいぞく》に放免されたミリガン運送ってのは君か!? ついさっき港湾《こうわん》局でそんな話を聞いたんだが」
ロイドはにんまり笑ってうなずいた。
「聞かせてくれ。いったい何がどうなったんだ!?」
ロイドは身振り手振りをまじえつつ、事の経緯《けいい》を語った。もちろん、その冒険譚《ばうけんたん》にはいくらか、罪のない改良が加えられていた。
「……いざ決闘という時になって、俺の灰色の脳細胞《のうさいぼう》にピンときたんだ。拳銃や殴《なぐ》りあいなんか野蛮《やばん》だ、チェスならどうかってね。部屋にチェス・テーブルがあったんで、奴《やつ》もやることはわかってたんだ」
「で、君はその勝負に勝ったというわけか」
「まあ……そうさな」
「たいしたもんだな。チェスなら傭兵時代にもよくやったが、あの頃はそんなに強くなかったじゃないか」
「相手が弱かったのさ」
ロイドはグラスをあおり、それからふと、思い出したように言った。
「マイク。君はつれあいのほうはどうなんだ?」
「いるさ。除隊後キュナードに就職《しゅうしょく》して、そこのオフィスで出会った娘が今のワイフだ。はじめに言っとくが、後悔《こうかい》はしてないぞ」
「子供はいるのか」
「娘がひとりいる。十五になる」
「十五か」
ロイドは、メイと同じくらいだな、と思った。
「そっちは?」
「まだ独《ひと》り身だよ。言っとくが、後悔はしてないぞ」
二人は笑って、軽く乾杯《かんぱい》した。
ロイドは聞いた。
「ちなみに、娘はどうするつもりなんだ。やっぱり船乗りか?」
「まさか」
マイクはきっぱりと否定した。
「娘を船乗りにしたがる親がどこにいる」
「そうか……」
ロイドはふと、酔《よ》いがさめるのを覚えた。言われてみれば、確かにそうだ。
「じゃあ、娘がなりたいと言いだしたらどうだ」
「船乗りにか?」
「ああ」
マイクは、少し考えた。
「立場上不利だな――自分がそうだからな。しかしできる限りの反対はするだろう」
「そんなもんかね」
「作ってみりゃわかるさ。こんな海賊やマフィアのいる宇宙に、大事な娘をほうり出せるか」
「マフィア?」
ロイドは眉《まゆ》をあげた。
「なんて奴らだ?」
「でかいのはマナロフ・ファミリーだな。最近じゃクレメント・ファミリーの本部が引っ越してきたって噂《うわさ》もある」
「クレメントが?」
「ああ。アレイダ方面へのとばくちだからな、アンクスは。彗星のせいで船の出入りには向かないが、そのぶん身を隠《かく》すにも都合《つごう》がいい」
「知らなかったな。その本部はどこにあるんだ?」
「わからん。あくまで噂だ」
ロイドは急に立ち上がった。
「ちょっと用事を思い出した。またな」
クレメント・ファミリーはNF57星区にはびこるマフィアで、最近では隣接《りんせつ》する辺境地域、いわゆるアレイダ音域への進出も著《いちじる》しかった。長いこと、その本部はヒューナー星にあると言われていた。
以前、ロイドが麻薬《まやく》原料のすりかえをやったのも、アレイダ宙域だった。本部がアンクスに移った理由はさだかでないが、何も知らずにその膝元《ひざもと》にやってきたのはうかつだった。噂とはいえ、もとよりマフィアの挙動《きょどう》は未知のベールに覆《おお》われているので、たいていの真実は噂以上のものにならない。ここは警戒するにしくはなかった。
店を出るとロイドは、人工的に作られた黄昏《たそがれ》の中を、ホテルと反対方向に歩き始めた。
まず公衆電話ボックスに入り、マージとメイの部屋に電話する。
まだ外出中らしく、応答はなかった。
電話をかけながら、それとなく周囲に目を配る。
流行のファッションに身を包んだ男女が、三々五々、そぞろ歩いている。
中に、立ち止まっている男が一人いた。
三十メートルほど離れた歩道で、タクシーを待つような顔で車道に目をやっていた。だが、前を空車が通りすぎても、男は手をあげなかった。
ロイドは何食わぬ顔で電話ボックスを出て、そのまま歩き始めた。
ここはセオリー通りにやるのがいいだろう。
ロイドは見覚えのある路地に入り、さらに数メートル先の角を曲がったところで駆け出した。酒のおかげで、二年前にこの界隈《かいわい》を探検した時のことが鮮明に蘇《よみがえ》っている。ロイドは複雑なルートをたどって路地をめぐり、やがて尾行者の背後に出現した。肩越しに相手の口をふさぎ、引き倒し、数回なぐりつける。地面に崩《くず》れおちたところで上着の前をはだけ、男のショルダー・ホルスターから銃をぬき、数歩きがって狙《ねら》いをさだめた。
「いろいろ聞きたいことがある。素直《すなお》に答えろ。俺は気が短い」
男の喉《のど》がうごく。
「クレメント・ファミリーは本部をアンクスに移した。そうだな?」
「し……知らん」
「お互い、生き延びる道を模索《もさく》しようじゃないか、え? おまえはヘマをしでかした。だが、俺がつかまらなきゃ、おまえのことは黙《だま》っててやる。おまえは俺に協力して、俺がつかまらないことを祈るんだ。それとも、今ここで死にたいか?」
「…………」
沈黙のあと、男はかすかにうなずいたように見えた。
「さあ、どうなんだ。本部はこの太陽系にあるのか」
「……そうだ」
「本部はアンクスのどこにある」
「知らないんだ。本当だ」
「最近、ミリガン運送への追及がエスカレートしている。ついこないだも、メルウィックくんだりで追い回されたぐらいだ。なぜだ」
「それは……」
「早く言え。俺は短気だ」
「ボスが、焦《あせ》っていると聞いた」
「なぜ」
「期限までにミリガンをつかまえないと、ナンバー2にその座を明け渡すことになるらしい」
「期限はいつだ」
「今月一杯」
「狙ってるのは俺だけか」
「相棒《あいぼう》の女もだ。マージ・ニコルズとか言った」
「こっちの捜索《そうさく》に何人さいてる」
「知らん。だが、総動員をかけてるのは確かだ」
「俺がどこに泊《と》まっているかは知ってるか」
「知らん」
「言ったろ。協力しなきゃためにならんぞ」
「本当に知らないんだ。俺はこの四ブロックを担当してる。あんたがホワイト・テイルから出てくるところを見たのが最初だ」
「船はどうだ」
「もう見張りがついてる。近寄らねえほうがいいぜ」
「俺を見たことは報告したか」
「まだだ」
これは本当らしい。
「ベルトを抜いて手を後ろにまわせ。そっとだ」
ロイドは男の両手を縛りあげた。さらに両足をネクタイで縛り、さるぐつわをかけ、物陰に押し込んだ。
拳銃はポケットに入れ、ロイドはそこを立ち去った。
マージとメイのことが気がかりだった。マージがメイを連れているなら、もう、いつ戻ってもいいはずだった。ロイドはサングラスをかけ、周囲に目を配りながら、ホテルへと急いだ。
ACT・2 ホテル
「七〇三号のお客様なら、まだお戻りになっておられませんが」
フロント係は、そう言った。
「どこへ行ったかわかるかね?」
「お待ちください……ああ、君」
と、控え室にいた昼の当番に声をかける。
「なんでしょうか」
「七〇三号のお二人連れの行き先を知らないか」
「七〇三号というと――」
「美人の凸凹《でこぼこ》コンビだ」ロイドが端的に補足する。
「ああ、そちら様でしたら、評判のいいミュージカルはどこかとお聞きになりまして」
「なんと答えた」
「ビューフォート・ホールの『金曜日の贈物』と」
「いつはねる?」
最初のフロント係がてきぱきと端末で調べた。
「さきほど夜の部が終わりました」
「ありがとう。――そうだ、もうひとつ」
ロイドは聞いた。
「私またはあの二人がここに泊まっているかどうか、問い合わせはあったか?」
「いえ、ありませんでした」
「もしあったら、いないことにしてくれないか。そしてそのことをすぐに知らせてくれ」
「かしこまりました」
ロイドはロビーを出て、正面玄関の車寄せに出た。
ドアマンが「タクシーをお呼びしますか」と聞いたが、ロイドは手を振って退《しりぞ》けた。
それから、ネオンに彩《いろど》られた夜の街路をにらみながら、待ち続けた。
フロントに問い合わせがなかったことは安心材料だった。桟橋《さんばし》から尾行されていたのなら、すでに襲撃《しゅうげき》されているだろう。だが、問題はこれからだ。いつ刺客《しかく》が現れてもおかしくない。
ロイドは待ち続けた。二本目の煙草《たばこ》に火をつける。
八台めに現れた赤いスポーツカーの助手席のドアが開き、メイが降りた。白いブレザーを着て、右手に食べかけのアイスクリームを二つ持って、にこにこ笑っている。
「メイ!」
「あ、ロイドさん」
運転席からイブニング・ドレス姿のマージが降りた。マージはレンタカーのキーを代送係に手渡した。
「ロイド。どうしたの?」
「早く、こっちだ」
「午前様じゃなかったんですね」メイが言う。
「心配したぞ。二人とも早く入れ」
「どうしたの」
「いいから早く!」思わず大声になった。
ロイドは、いっそ今の車でよそのホテルに移ろうか、とも考えたが、すぐに思い直した。このホテルなら、どこよりもセキュリティがしっかりしているはずだ。ロイドは二人の手を引いてエレベーター・ホールに向かった。ロビーを横切る間、ロイドは周囲の人々にせわしなく目を配った。
エレベーターに乗り、七階の自分の部屋に入る。ドアに鍵《かぎ》をかけ、液晶《えきしょう》のはさみこまれた窓を遮光《しゃこう》状態にする。
二人をソファに座らせると、ロイドは反対側にかけ、出しっぱなしのコールド・ウォーターを一息に飲み、そして言った。
「アンクスに、クレメント・ファミリーの本部がある」
「なんですって!」
「場所はわからんが、この軌道港にも情報網《じょうほうもう》を張っている。さっき手下をひとり絞め上げて聞き出した」
「見つかるのは時間の問題ってわけね」マージが言った。
「そうだ。しかも総動員をかけてるらしい」
「まさか、こんな零細《れいさい》企業に?」
「そのまさかだ。どうやら内部にいろいろあるらしい」
ロイドは期限のことや、ボス交替のいきさつを語った。
「おそらく、ナンバー2が因縁《いんねん》をつけたんだろう。『そういえばあの、ミリガン運送はどうなりましたか? まだケリがつかないんですかね?』てな調子だ」
「……となれば本気ね」
マージは眉をひそめた。
「どうやってここを出る? 船はマークされてるわね、きっと」
「ああ。手下もそう言ってた」
「困ったな……」
軌道港とそれに付随《ふずい》する都市は直径五キロ、全長十四キロという大きさだが、それは真空の宇宙に浮いた泡《あわ》のようなもので、ひとつの密室といってよかった。アルフェッカ号が使えないとなると、脱出はむずかしい。
「その前に、言っておきたいことがある」
ロイドは二人の顔を見較べながら言った。
「連中のターゲットはわしとマージだ。メイは関係ない」
メイは、はっとした顔になった。
「メイ」
「――はい」
「いきなりですまんが、君は家に帰れ」
「……え?」
「ここからアレイダ方面への定期客船が出てる。フォートビストニアスで乗り換えれば、ヴェイスまで一本道だ」
「あの、私――いやです」
「君の身を考えてのことだ。わかるだろ」
「私、役にたてます、きっと。だからいっしょに」
「今度ばかりは、これまでのようにはいかん。これ以上巻き込みたくないんだ」
「ちがいます。みんなで力を合わせたから、乗り切れたんです」
メイは泣き声になった。
「メイ、あなたはまだ若いんだから」マージが言った。
「でも、航法できるし、掃除《そうじ》もするし、料理できるし、お茶やコーヒーだって私のいれたのがいちばんおいしいし、それから後片付けも――」
言葉がよどみ、かわりに涙がこぼれだす。
マージが肩をだきしめるが、涙はあとからあとからこぼれた。
「……私がいなきゃ、逃げられません。絶対逃げられません」
「大丈夫《だいじょうぶ》、うまくやるって。私たちはずっとそうやってきたの。あなたはまだ半年にもならないでしょう?」
「そうだけど、そうだけど……」
メイは顔をぐしゃぐしゃにしながら、なおも逆らおうとした。
ロイドは言った。
「メイ、すまんが君はな――お荷物なんだ」
「――――!」
マージは一瞬、ロイドをにらみつけた。
メイは息をのみ、唇《くちびる》を震わせ、それからやっとの思いで声をしぼりだした。
「そんな……ひどい……」
「君がいないほうが、ずっと動きやすい。本当だ」
ロイドは顔をそむけるようにして言った。
「今夜はこのへんにしよう。マージ、メイを部屋に連れてってくれ」
ACT・3 旅客ターミナル
翌朝、マージは従業員用の通路から直接駐車場に向かい、メイを助手席に乗せてホテルを出た。朝の道路はすいていて、尾行はないようだった。環状《かんじょう》道路を折れ、旅客ターミナルに向かう。
円筒《えんとう》の内面にある都市部分から軸《じく》部への移動は、何度やっても奇妙な感じだった。街から見ると次第に急勾配《こうばい》になって、ついには垂直《すいちょく》になるハイウェイだが、実際に走ってみると、いつしか坂を下っているような気がしてくるのだった。
メイは――いつもなら、こうした光景をおおいに楽しむのだが――今はまだ赤い目をしていて、ずっと口をつぐんでいた。ぼんやりと窓に頬をあて、外に顔を向けている。
「もう予約してあるから、出港寸前に駆け込むのよ。ゲートをくぐったら、あとは安心だから」
メイは答えなかった。
「聞いてた?」
「……はい」
「ロイドはああ言ったけど、本当はあなたをとっても信頼してるの。船体検査も海賊《かいぞく》も、メイのおかげで乗り切れたんだもんね」
「…………」
「ロイドはあなたが可愛《かわい》いのよ。大事にしてるから、追い出したの。わかるわね」
「あの」
「なあに?」
「一件落着したら、また使ってもらえますか」
「ロイドはそうしたくてたまらないはずよ。あたしもね」
「手紙、書いてくれますか」
「もちろん」
メイは変装のため、ホテルの売店で買った伊達《だて》めがねをはずして、目をこすった。
「私も書きます」
「楽しみに待ってるわ」
車はターミナル・ビルのゲートをくぐった。
駐車場に車をとめ、時計をにらみながら、しばらく様子《ようす》をうかがう。
「よさそうね」
ここからは、マージがいるとかえって危険になる。
「あんまりきょろきょろしないで。何気《なにげ》なく歩くのよ。大丈夫、あなたは狙《ねら》われてないんだから、そんなに心配しなくていいわ」
「はい。マージさんこそ気をつけて」
「わかってる。さあ、もう時間がないわ」
「それじゃ、マージさん――」
「気をつけて。ご両親によろしくね」
メイは車を降りて、駐車場を横切り、ターミナル・ビルに入った。ラッシュ時にはまだ早かったが、かなりの人出があった。床《ゆか》も天井《てんじょう》も人々の身なりも、貨物ターミナルに較べると格段の華《はな》やかさだった。系外航路のターミナルはメイには初めてだった。
船会社の切符売場に行き、メイは小声で名前を告げた。
受付係は「まもなく出港です。お急ぎください」と言って、切符を渡した。
切符を受け取ると、メイはバゲージ・カウンターを素通りして、足早に出発ゲートに向かった。前から白い制服を着たグランドホステスが、小走りに駆け寄ってくる。
「フロンティア・ゲート行きのお客様ですか?」
「はい」
「ご案内します。いっしょに来てください」それから無線機に向かって「こちらゲート前、四〇五便最後のお客様をお連れします」と言った。
グランドホステスに先導されて、メイはゲートをくぐった。
税関を通り、ボーディング・チューブに入る。窓のすぐ外に、白い、巨大な客船が見えた。ゆるやかな曲線を持つ船殻《せんこく》には、赤く「キュナード」のロゴがあり、船首寄りには「ネビュラ・カウンテス」と描かれていた。
ACT・4 桟橋《さんばし》
マージは駐車場に車を置き去りにして、トラムで貨物ターミナルに向かった。それは――ここが北極とするなら――南極側の軸郡にあり、両極間は磁気の線路で結ばれている。
貨物ターミナルの外側にはアルフェッカ号のもやわれた桟橋があった。軌道港《きどうこう》を脱出するなら、なんとしても船を奪回《だっかい》したい。メイのように、客船で逃げることなど考えられなかった。それはミリガン運送の消滅《しょうめつ》を意味しており、マージにとっては初めて船長として乗り組んだ船を失うことになる。小さくても、ボロでも、かけがえのない船だった。
マージは貨物ターミナルの一駅手前で降りた。
打ち合わせどおり、売店の前のベンチにサングラスをかけたロイドが腰掛け、新聞を読んでいた。
「メイは大丈夫《だいじょうぶ》。ゲートに入るの、外から見えたから」
「そうか」
ロイドは少し、落ち着かない顔をしていた。
「君は、いいのか」
ロイドが聞いた。
「何が?」
「覚悟《かくご》というか――」
「クレメントから逃げ回るようになって、もう一年近いのよ。辞《や》めようと思ったら、いつでも辞められたわ」
マージは、何をいまさら、という口ぶりで言った。
「いつかこうなることぐらい、わかってたわ」
「そうか。そりゃま、そうだな」
「非常口、下見した?」
「ああ。行くか」
二人は待合室を出た。
計画はこうだった。船が見張られているとしても、それは桟橋の通路からにちがいない。
宇宙服を着て、外から接近すれば、見つからずに船に入れるかもしれない。もし船が壊《こわ》されたり、燃料を抜かれたりしていたら、引き返して別の手を考えるしかないが――。
二人は駅の前にある「非常脱出口」から地下に入った。螺旋《らせん》階段を降りてゆくと、しだいに人工重力が弱くなり、やがてほとんど無重量状態になった。二人は階段を使うのをやめ、中央の吹抜《ふきぬ》けから真下に漂《ただよ》い降りた。
つきあたりがエアロックだった。そばに非常用の宇宙服が十着ほど、錠《じょう》のおりたケースに収められていた。
ロイドはまず、壁の配電盤《はいでんばん》をこじ開けていくつかの配線をつなぎかえた。非常用のエアロックを操作すると管理本部の警報が鳴る。単に配線を切るだけでは断線警報機構が作動するので、ちょっとしたテクニックが必要だった。
「いいぞ」
マージは透明カバーに囲まれたボタンを押し破って、宇宙服のケースを開いた。宇宙服はあくまで急場しのぎのもので、ヘルメットもソフトタイプだった。空間移動用のガス噴射器《ふんしゃき》はあるが、スプレー缶のようなもので、とても長距離の使用にはたえなかった。
「エアが一時間ぶんしかないわ。桟橋まで二キロはあるけど、間に合うかな」
「外壁つたいにやってみるさ。だめなら引き返せばいい」
「銃は持ったの?」
「ああ。使う気はないがな」
傭兵《ようへい》をやめて以来、ロイドは銃を使っていなかった。それは生き方を変えることでもあった。銃などなくても人生は充分|面白《おもしろ》い、とロイドは考えることにしていた。
ACT・5 ネビュラ・カウンテス
全長六百メートルの客船の中をしばらく歩いて、メイが部屋にたどりついた時、船はもう動き始めていた。アルフェッカ号のようなぎくしゃくした揺れがまったくないことに、メイは少し驚《おどろ》いた。
メイの二等船室は、二人部屋だった。二段ベッドにテーブルセット、衣装戸棚《いしょうとだな》、ティーセット、冷蔵庫、それに船外にもかけられる電話端末などがある。
メイのベッドは上段で、下には一人の老婦人が腰をおろしていた。婦人はベッドの上にスーツケースを開き、中身をかき回していた。身なりは小ぎれいで、金持ちには見えないが、品は良さそうだった。銀髪を後ろでまとめてネットで包み、耳に小さなピアスをつけている。皺《しわ》くちゃの指にはエンゲージ・リングが埋まっていて、すぐには抜けそうになかった。
メイが観察を終えた頃になって、ようやく老婦人は顔をあげた。
「あら、いらっしゃい。乗り遅れたのかしらって、心配していたの。ごめんなさいね、すっかりちらかしてて」
「いえ……」
「今ね、鞄《かばん》の中身を片付けていたの。長い旅になるから、きちんと整理しておかないとね。もしなくしものでもしたら、船員さんや、あなたにも迷惑をかけてしまうでしょう」
「ええ」
「窓のあるお部屋でよかったわ。そう思わないこと? 彗星《すいせい》がたくさん見られるもの。高い部屋ほど内側にあるのっておかしいと思うの。ビュー・スクリーンがあるというけれど、やっぱりこの目で見た方がきれいだし、本当の景色だってわかるものね。どうかしら、その椅子《いす》とテーブルを窓のそばに移さない? 外を見ながらお茶をいただくの。きっとすてきよ。あなたがいいと思うのなら、ボーイさんに頼んで動かしてもらうわ」
「いえ、私やりますから」
メイはハンドバッグを壁に掛けると、一対《いっつい》の椅子と小さなテーブルを窓辺に移した。
「ごめんなさいね、使ってしまったみたいで。そうそう、紹介がまだだったわね。私はミセス・マリア・マーガレット。変わった名前でしょう。ビストニアスの娘夫婦に会いにいくところなの。子供は四人いて、ビストニアスで暮らしているのは次女のナンシー。もう孫が二人いて、上のほうは今年ハイスクールに入ったわ。ちょうどあなたぐらいかしら。そうそう、あなたのお名前は?」
「メイ・カートミルです」
数次にわたり、自分の返答が一瞬のうちに終了していることに気づいたメイは、少し付け加えた。
「サイトロプスのヴェイスに行くところです」
まだ足りないような気がする。メイは相手にならって、家族構成で水増しした。
「ヴェイスには両親がいます。父はジェフ、母はベス、兄弟はいません。父はドームの浄水施設《じょうすいしせつ》で働いていて――」
最初は当惑したが、昼食が始まるまでに二人はすっかりうちとけていた。世間話《せけんばなし》をしているうちに忘れかけていた家族のことがよみがえり、それは前夜から心を占《し》めている痛みを、いくらかやわらげてくれた。
食事は早番と遅番があり、二人は遅番だった。いちばん近いレストランはクォーター・デッキにあり、一度に八十人入れる広さがある。二等船客用のデッキなので、さほど豪華《ごうか》ではないが、カーペットもテーブルクロスも清潔で、ウェイターのきびきびとした動作が快《こころよ》かった。
前菜のヒラメのカクテルが運ばれてきたとき、男が一人入ってきて、少し離れた席にすわった。
男は一度だけ、メイのほうを見た。
ACT・6 桟橋《さんばし》
ロイドとマージがエアロックの外に出たとき、最初にしたことは上下感覚の再構築《さいこうちく》だった。しばらくは壁面を這《は》うように進むので、桟橋側を上、居住区《きょじゅうく》の南極面を下とするのが自然だろう。自分たちは、垂直《すいちょく》の岸壁を登ってゆくことになる。実際、南極面は直径十五キロあるので、ちょっとした平原のようだった。ちがうのは、それがゆっくりと回転していることだろう。
頭上には増改築を際限もなく繰《く》り返した桟橋の群れが、樹木の枝のように生えていた。
背景の星空には時折、テレビのノイズを思わせる閃光《せんこう》がちらちらとまたたいた。軌道港《きどうこう》に衝突《しょうとつ》しそうな隕石《いんせき》をレーザーが自動的に狙《ねら》い撃ち、蒸気に変えているのだった。周囲を行きかう宇宙船と限石の区別は、速度と針路《しんろ》でつけているらしい。たとえ人の乗った宇宙船であれ、高速で軌道港に接近すれば、この防御《ぼうぎょ》システムの餌食《えじき》になるのだろう。
マージは時計を見た。
「もう二十分になるわね。あと十分進んで行き着けなかったら、引き返さないと」
「なあに、酸素切れまでに船に乗り込めばいいのさ」
「まずは偵察と思った方がいいわ」
「後ろを見ろ。あれに便乗《ぴんじょう》しよう」
ロイドが指さした。
一|隻《せき》のはしけが、のんびりと近付いてくるところだった。
二人は頃合をみはからって壁面を蹴《け》り、はしけに飛び移った。はしけの船殻《せんこく》にはふんだんに取手があり、つかまる場所には苦労しなかった。桟橋から見て反対側にまわり、頭だけ出して観察する。
「そろそろだな。確かモーリタニア級の隣《となり》だった」
「そう。D―三二区画よ。いま二九……三〇……」
「あれだ!」
手前の貨物船の向こうから、船尾をこちらに向けたアルフェッカ号が見えてきた。
周囲に人影はなく、舷窓《げんそう》の明りは消えている。
ここから見た限り、船体に異常はないようだ。
ロイドは身構えた。
「行くぞ。ノズルの真横に来たら飛び移る。はしけの速度を殺すのを忘れるな」
「わかってる」
「……今だ!」
二人ははしけの船殻を蹴って、アルフェッカ恒星船《こうせいせん》の船尾に飛び移った。
桟橋の通路からはちょうど死角になる。
ロイドは通路の様子《ようす》をうかがった。
「手前の窓に二人、右舷側にも一人だ。気づいた気配はない」
「問題は中ね」
マージは外板にヘルメットを押し当てた。
「何も聞こえない」
「となれば突入あるのみだ。どこから入るかな」
メイン・エアロックはボーディング・チューブが接続されたままだったので、外からは通れない。シャトルのエアロックは通路から丸見えだった。
「工作室のアクセスパネルがいいわ。あそこなら死角よ」
「中の空気が全部吹き出すぞ」
「あなたは忘れてるでしょうけど、上陸前には必ず、メイが全部の隔壁《かくへき》を閉めてるの。工作室のエアだけ逃がせば大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「そうだったか」
マージは工作室の船尾側に移り、アクセスパネルの開閉ハンドルにキーを差し込んで回しはじめた。少しすると、かすかな、白い蒸気のようなものが吹き出してきた。
エアの漏出《ろうしゅつ》が止まるまで待って、マージは分厚《ぶあつ》いパネルを全開した。内側にもうひとつパネルがあり、それも開く。
二人はそっと、身をくぐらせた。
パネルをもとどおりにして、廊下に通じる隔壁を少し開く。気圧が均一になったところで、ロイドは拳銃を取り出した。
「合図したら開くんだ。君は隔壁の裏に隠《かく》れてろ」
「オーケイ」
ロイドはロッカーの前の床《ゆか》に片膝《かたひざ》をつき、拳銃を構えた。さすがに射撃フォームはさまになっているな、とマージは思った。
「開け」
隔壁、全開。
誰《だれ》もいなかった。
「いいぞ。次はブリッジだ」
廊下を進む。
ブリッジは桟橋から見えるが、室内灯さえつけなければ大丈夫だろう。同じ要領で隔壁を開くが、ここも無人だった。
「どうやら中には誰もいないようだな。マフィアにしちゃ甘いもんだ」
「どうする?」
「燃料はあるか」
「ええ」
「なら発進しよう。出港してしまえばこっちのもんだからな」
「そうね」
マージは姿勢を低くしたまま席につき、マスター・キーを差し込んだ。ロイドも着席する。暗闇《くらやみ》であるにもかかわらず、マージの手の動きはまったく滞《とどこお》りがなかった。コンピューターに暗証番号を打ち込み、核融合炉《かくゆうごうろ》始動。
エンジンのウォームアップが終わると、マージは言った。
「発進準備完了」
「出せ」
「アンカー・ケーブル切断。ボーディング・チューブ分離。航法灯点灯。離岸開始」
バーニア噴射《ふんしゃ》の一吹きで、アルフェッカ号は桟橋を離れた。
船が回頭しはじめると、通路の男たちがいっせいに動きだすのが見えた。
ロイドは笑った。
「あわてろあわてろ。マージ、室内灯をつけろ。あかんべえをしてやる」
「やめなさいって」
マージは管制室に連絡を入れた。
「こちらD―三二、貨物船アルフェッカ号、緊急《きんきゅう》発進を要請します」
『アルフェッカ号、発進を許可する。マークS一二より離脱せよ』
「アルフェッカ号了解」
標識を通過したところで、亜光速エンジンを最小出力で噴射。さらに離れた地点で、全開にする。三Gの加速が始まった。
「よーし、エンジンに細工《さいく》したかとも思ったが、これで安心だな」
「まだまだ、これからよ。追手《おって》がかかるわ、きっと」
「なあに、バルジの航法にかけちゃ、こっちにはメイがいる。なあ!」
ロイドは航法席を振り返った。
そこは空席だった。
「そうだったな……」
ロイドは舌打ちした。
「ロイド、ここはあたしがやるから、他の部屋を調べてきてちょうだい」
「おう、まかしとけ」
ロイドは拳銃を握《にぎ》り、ブリッジを出た。
そして、ラウンジに通じる隔壁を開きながら、今の失敗のことを思った。
「ちくしょうめ。こんなに簡単に逃げられるんなら、メイを帰すことはなかったなあ……」
つぶやきながら、ラウンジに入る。ロイドは愕然《がくぜん》とした。
見知らぬ男が一人、テーブルにカードを並べ、ソリテアをしていた。
ロイドは反射的に銃を構えた。
「なんだ貴様は」
「おっと、撃たないでくれよ。俺《おれ》はただの案内人なんだ」
男は驚《おどろ》く様子もなく、カードをめくりながら言った。三十前後で、痩《や》せぎすの、小悪党という印象。手袋とヘルメットははずしているが、宇宙服を着たままだった。
「どういうことだ」
「あんたらを本部に案内するのさ。パレルモ基地って言うんだがね。クレメント・ファミリーの本拠地《ほんきょち》さ。いやあ、待ちくたびれたぜ。ぽちぽち部屋の空気が濁《にご》ってきたしな」
「こっちが言いなりになると思うか」
「ああ思うね」
「誰、この人」
声を聞きつけてやってきたマージが、後ろから言った。
「おう、あんたがマージさんか。写真で見るよりぐっといかすぜ」
男は笑顔をうかべた。
「俺はナット・ベーカー。ファミリーの下《した》っ端《ぱ》ってとこだな」
「さっきの質問に答えてもらおう、ナット」
「あんた、メイを帰すんじゃなかったとか言ってたよな。まさにしかりさ」
「メイに何をした」
ロイドの声に、怒気がこもった。
「何も。なんせ我がクレメント・ファミリーは子供には手出ししないってのが原則でね。メイはちゃんとキュナード四〇五便に乗ったさ。二等船室、B五六で婆《ばあ》さんといっしょに楽しくやってる」
ナットは少し間をおいて続けた。
「だが、あんたらが俺の言うことを聞かないようなら、話は別だ。あくまで原則だもんな」
「四〇五便に手下がいるのね」マージが言った。
「そうさ。あんたらが本部に着いたって連絡が届けば、そいつは何もしない。だが、あんまりのんびりしちゃいられないぜ。ネビュラ・カウンテスがアンクスを出たら、もう連絡できねえもんな。そうなると、まあ――俺としてもあんまり気は進まないんだが、あの子がどうなるか保証できねえってわけさ」
ナットは勝ち誇ったように言った。
「それより、何か食わしてくれねえかな。俺は上の指図《さしず》に従ってるだけで、あんたらに恨《うら》みはねえし、これからしばらく世話になるんだ。まあ楽しくやろうや」
いやもおうもなかった。
マージは言われたとおりの軌道《きどう》をセットした。それによれば、パレルモ基地はバルジの中をめぐる小惑星のひとつにあった。
現在の相対位置からすると、三日の行程になる。ナットは本部に定時連絡を入れるほかは、まったく何もせず、しじゅうラウンジでごろごろしていた。ロイドが二人になったようなものだ、とマージは思った。
ACT・7 ネビュラ・カウンテス
三日目の夕食が終わりに近付いた頃、ミセス・マーガレットが小声で言った。
「あら、またあの人が来てるわねえ。ずっとお一人かしら。きっと誰《だれ》か話相手がほしくてうずうずしてるのにちがいないわ――特にあなたにはね」
「え?」
メイは何のことかわからず、けげんな顔をした。
「あなたのすこし後ろにいる男の人――ああ、振り返らないで。こういうことはとてもデリケートなのよ。あの人ね、最初の日からいつも食事のとき、ちらちらあなたのほうを見てるの。きっとあなたが好きなのね。あなたとってもチャーミングだもの。私もあなたぐらい若ければって思うわ。これでも昔はダンス・パーティの花形だったの。信じなくてもいいけれど」
「あの、どんな人ですか」
「髪が黒くて、ちょっと小柄だけどあなたとはよくつりあうわ。まだ二十すぎかしら。眉《まゆ》がきりっとしてて、なかなか男前よ。私のビストニアスの娘婿《むすめむこ》にちょっと似てるわね。あごの形がちがうけど。ハリーのは――その娘婿だけど、もっと尖《とが》った感じでね、ボクサーみたいなの。ナンシーはそこに惚《ほ》れたのかもってときどき思うのよ」
メイは不安になった。クレメント・ファミリーの一員だろうか。
「……どうしよう」
「あらあら、心配することはなくてよ。私がちゃあんと橋渡ししてあげるから。こういうことは年寄りにまかせるのがいちばん。これでも経験はたっぷりあるの。こないだは上の息子が離婚だなんて言い出して、あわてて駆けつけて、そうね三時間ほどで仲直りさせたのよ。ちょっと待っててね」
そう言うなり、ミセス・マーガレットは立ち上がった。
「あっ、あの、マーガレットさん――」
メイの制止も聞かず、老婦人はつかつかと男のテーブルに歩み寄った。
男は顔をあげ、少しのけぞるようにして、その接近に身構えた。
「ねえあなた、お一人かしら」
「それが何だ」
「あの子がね、あなたと御一緒したいようなの。いいえ、はっきりそう言ったわけじゃないんだけれど、そうしたいのが顔にありありと出ていてね。どうかしら、こちらのテーブルに移っていただけないかしら?」
「いや――俺は」
「まあ、内気な方なのね。あの子もそうなの。メイっていうんだけど。ねえあなた!」
ミセス・マーガレットは隅《すみ》にひかえているダイニングルーム・マネージャーを呼んだ。
「なんでしょう、ミセス・マーガレット」
「この方のお席を、そちらに移していただけないかしら」
マネージャーはにっこり笑って「かしこまりました」と言った。
「いや――俺はその、一人のほうが」
「たまにはご相席《あいせき》もよろしいのでは。長い船旅ですから」
マネージャーが言った。彼もまた、男がいつも一人で食事していることを気にとめていたのだった。そして伝統あるキュナード・ラインの乗務員たるもの、常に客のいいなりになるばかりではなく、時には積極的な提案もしていかなければならない、と考えていた。
二対一の攻勢を受けて、男はしぶしぶ承諾《しょうだく》した。
「なら……そうしてもらおうか」
二人のテーブルに、男の椅子が引き寄せられた。
男が目の前に座るのを、メイは蒼白《そうはく》な顔で見守った。
男もまた、ひどく居心地《いごこち》悪そうだった。
メイは、なんとかあたりさわりのないことを言おうとした。
「あの……」
「おう……」
ミセス・マーガレットは興味津々《きょうみしんしん》の面持《おももち》で二人を見較べ、キューピッド役を果たしたことにすっかり満悦《まんえつ》していた。
「あらあら、お二人ともシャイなのね。微笑《ほほえ》ましいこと。けれどシャイな人ほど知り合うとおしゃべりになるものなの。だからそんなに固くならないで。まずは名前とルームナンバーを教えあうの。それから趣味《しゅみ》や行き先、家族のこと。話すことはいくらでもあるはずよ」
「では、えとあの、メイ・カートミルです。B五六にいます」
「ヴィクター・リー……です。部屋はB四九」
男はていねいな話し方に慣《な》れていないようだった。
デザートが運ばれてくると、ミセス・マーガレットはそれをさっさとたいらげ、席を立った。
「それじゃ私、お先に失礼するわね。あなたたちはどうぞごゆっくり」
気をきかせたつもりなのだろう。老婦人はすたすたとレストランを退出した。
「…………」
「…………」
メイとヴィクターは、気まずい沈黙のなかに取り残された。メイは、思い切って言った。
「あの――」
「ん?」
「あの、失礼ですが、ご職業は」
「俺か。俺はその――自由業だ」
「自由業っていいますと」
「まあその、いろいろだな。あ――あんたはどうなんだ」
「私は、航法士で……」
メイは急に目をふせた。忘れかけていた悲しみがよみがえる。
このことはまだ、ミセス・マーガレットにも打ち明けていなかったが、今は誰かに話さずにはいられなかった。
「だった、っていうか。足手まといだって言われて……」
「そうか。……そりゃ、災難《さいなん》だったな」
メイの悲しげな顔を見て、ヴィクターも思わず引き込まれた。写真では知っていたが、あの海千山千のミリガン運送にいたのが、こんな可憐《かれん》な女の子だとは思わなかった。
「でも、仕方ないんです。ロイドさん、私のこと巻き込まないようにって思ってそうしてくれたんです」
「心を鬼にしてってやつか。奴《やつ》もいいとこあるじゃないか」
「でもほんとは私、あんまり役に立ってなかったかもしれないんです。ちょうど潮時《しおどき》だったのかもって思ったり」
「その歳じゃよくやったほうさ。元気だしなよ」
「マージさんは手紙書くって言ってくれたし、一件落着したらまた使ってくれるって」
「そうなるといいな」
揺れ動くメイの話を、ヴィクターはつとめてフォローした。
「うん……」
メイは目をこすった。こういう時優しい言葉をかけられると、涙が止まらなくなるのだった。ヴィクターは急いでハンカチを取り出したが、汚れていたのでテーブルのティッシュを差し出した。
「拭《ふ》きなよ」
「すみません」
メイはティッシュを受け取った。
「まだ十六じゃないか。そのうちいいこともあるさ」
「そうですよね……」
と、目を拭く。
その手が止まった。
「……あれ?」
ここに至って、メイはようやく、ひとつの疑問にいきあたった。
「あの、ヴィクターさん、私たち初対面のはずなのに――」
「あっ!」
「やっぱり――クレメントの人なんですか!?」
メイは大きな目を見開いて、まっすぐにヴィクターを見た。
ヴィクターは、ぐっ、と息を呑んだ。
「私をつかまえに来たんですか。殺しに来たんですか」
周囲の客が、こちらを振り返った。
「おっ、おい。何言い出すんだ」
「でも、マフィアなんでしょう」
「マフィアだって、見境《みさかい》なしにやるってわけじゃない」
「じゃあ、どうしてここに」
「た、ただの監視《かんし》さ。手はださねえよ」
「どうして監視する必要があるんですか」
「そりゃ……予防線っていうか」
「予防線ってどういう意味ですか」
「いや、それはな」
「教えてください!」
メイの声がひときわ高くなる。
部屋中の客が振り返った。
マネージャーが、こちらにやってきた。
「コーヒーのおかわりをお持ちしましょうか?」
「あ、ああ、そうしてくれ」
ヴィクターは汗だくになって答えた。それからメイに顔を寄せ、小声で言う。
「なあ、頼むぜ、こっちにも規則ってもんがあるんだ。なんと言ったかな、そう守秘義務ってやつだ」
「教えてくれなきゃ、また大声出します」
メイは折れなかった。
「それから保安の人、呼びます」
「俺が何したっていうんだ」
「船では船長が法律なんです。アルフェッカ号だとマージさんがいちばん偉くて、ロイドさんも逆らえません。船長に話せば、あなたのことをちゃんと裁《さば》いてくれるはずです」
「おいおい……」
ヴィクターは頭をかかえた。やっぱり、こいつもミリガン運送なのか。
だが――と、ヴィクターは考えた。アルフェッカ号はまもなく本部に到着するはずだ。ここでメイが何を知ろうと、特に問題はないじゃないか。
「わかった、あらいざらい話そう。しかしひとつ条件がある」
「なんですか」
「俺はこういう稼業《かぎょう》だから、身分をばらされると身の破滅《はめつ》だ。それに組織の仕事でしくじったらどうなるか、あんたも知ってるだろ」
「それは」
「それから、あんたには悪いが、もう何をやっても手遅れなんだ。だから聞くなら、つまり――落ち着いて聞いてくれ。騒《さわ》がずに」
メイはごく、と唾《つば》をのみこみ、うなずいた。
ヴィクターは、事の真相をひととおり話した。
「……というわけだ」
メイはみるみるうちに真っ赤になった。
「ひどい! じゃあ私のためにロイドさんとマージさんはおとなしくつかまろうとしてるんですか!? そんなのって卑怯《ひきょう》じゃないですか!」
「まてよ、落ち着けって言ったろ」
「どこに、本部はどこにあるんですかっ!」
「知らないよ。本当だ。俺みたいな下《した》っ端《ぱ》は教えてもらえないんだ」
「じゃあ、じゃあ――」
「なあ、落ち着けって」
メイは突然立ち上がって、マネージャーを呼んだ。
「あのっ、支配人さん!」
「お、おいっ!」
場内が静まり返るなか、マネージャーは足早にやってきた。
「どうなさいましたか、お嬢様」
「私とこの人を、船長に会わせてください。今すぐに!」
「まず私が承《うけたまわ》りましょう。なにかのトラブルでしょうか」
「人命がかかってるんです。一刻をあらそいます!」
「そういうことなら。……君」
マネージャーはウェイターを一人つけて、二人を先導した。廊下に出たところでインターホンを取り、二言三言話す。船長の所在を確認しているらしい。
それが終わると、四人はエレベーターに乗って、ブリッジへと向かった。
ACT・8 アルフェッカ号
「おーいマージさんよ、なんとかなんねえのか」
ありったけの不満をこめて、ナットは言った。
「毎日毎日、缶詰とビスケットとインスタント・コーヒーばっかりで、いいかげんうんざりだぜ。おめえそれでも女か? 料理のひとつぐらいできるだろうよ」
「缶詰しかないんだってば」マージはギャレーから、仏頂面《ぶっちょうづら》で答えた。
「缶詰だってよ、ちょいと工夫《くふう》すりゃ食えるもんになるぜ。せめて胡椒《こしょう》を振るとか、皿に盛りつけるとかしたらどうだい。あんたときたら、缶の口をひらいてコンロに乗せるだけじゃねえか」
「台所を勝手にいじるとメイがいやがるのよ」
「胡椒がどこにあるかもわかんねえってのか」
「そうよ! 文句ある?」
「あるさ、大ありだよ! こんなせまい宇宙船のギャレーならそれぐらい」
「なら見てみなさいよ。胡椒だけで何種類あると思ってんの!」
マージは調理台の引出しを抜いて、中に詰まったものをナットに見せた。
彼女が胡椒と呼んだものは、メイが上陸のたびに買い集めたスパイス類で、シナモンからターメリックまでしめて二百七十四種類あった。これらは料理の宇宙を網羅《もうら》するものであり、キャップの色と形だけで検索するのは至難《しなん》の業《わざ》だった。
「黙《だま》れよ、ナット」
それまで黙々と缶詰をつついていたロイドが言った。
「マージには何も期待するな。あれは腕ききのパイロットで、経理でも整備でも完璧にやるし、喧嘩《けんか》の腕も男勝《おとこまさ》りなんだが――料理だけはだめなんだ」
「おいおい、ほんとかよ?」
「ほんとだ。メイを追い払った時は断腸《だんちょう》の思いだったぜ」
「なんてこったい……俺はアルテミナ育ちで味にはうるさいんだ」
「もうじき着くんだ、我慢《がまん》しろ」
「食いもんだけじゃねーぜ」
ナットはしつこく続けた。愚痴《ぐち》をこぼすしかストレスの解消手段がないのだった。
「この三日、バスタオル一枚で床《ゆか》に寝かせやがって。メイの部屋が空《あ》いてるじゃねえか」
「あそこはだめだ。メイの部屋なんだからな」
「じゃあ、せめて毛布ぐらいよこせっての」
「予備は船倉《せんそう》だ。自分で探すか? 小さくたって貨物船だ。二百二十立方メートルあるが、じっくり探しゃそのうちみつかるぜ」
ナットは両手を開いて、降参《こうさん》のポーズをとった。
「またかよ。おめえら自分じゃわかんねえのか」
「おうよ。わしだってこの三日パンツを替えてない。ぜんぶメイにまかせてたからな」
「メイメイっていうが、昔はメイなんかいなかったろーが」
「昔はわかったさ。だがメイが来て、徹底的に整理しなおした。おかげで空間効率が三倍になったぞ」
「……ったく」
それからナットは、ロイドが煙草《たばこ》に火をつけるのに目をとめた。
「吸うなよ、煙がこもるじゃねえか。だいたいこの船の換気システムはどうなってんだ。ちっとも効かねえぜ」
「フィルターのスペアはな……」
ロイドはこれ見よがしに煙を吐き出して言った。
「船倉にあるんだ」
ナットはがくり、と肩をおとした。それから懇願《こんがん》した。
「せめて酒ぐらいくれよ。いつも自分だけうまそうに飲みやがって」
「マフィアに飲ませる酒はないと言ってるだろ」
ロイドはそう言ったが、やがて見兼ねて立ち上がった。食器棚からグラスをもう一個取り出し、ウイスキーを注ぐ。
「……だがまあ、武士の情けだ。やれよ」
「かたじけねえ」
「二人とも酔っぱらわないでよね。もうじき着くんだから」
マージが刺々《とげとげ》しい声で言った。
ACT・9 ネビュラ・カウンテス
五十万トン級の客船のブリッジは、大昔の地球の海を走った船舶《せんぱく》のそれに、不思議《ふしぎ》なほど似ていた。教室ほどの広さがあるうえに、両舷《りょうげん》に長い張り出しがあって、接舷作業を直接|指揮《しき》できるようになっている。
誰《だれ》が船長なのかは、すぐわかった。
一行がブリッジに通されたとき、その恰幅《かっぷく》のいい男は一段高くなった座席から立ち上がったところだった。純白のシャツの肩には、金筋の縫《ね》い込まれた肩章がある。
「船長のマイク・ガードナーです」
そう言って、軽く会釈《えしゃく》する。
「こちらがメイ・カートミル嬢、それからヴィクター・リー氏です」
マネージャーが紹介した。
「よろしく、みなさん。連絡では何か人命にかかわることとか。お伺《うかが》いしましょう」
一同の視線がメイに集中した。
「あの、つまり――私、この船で知らないうちに人質《ひとじち》になってたんです。そのために二人の人が命を狙《ねら》われることになっていて、早く私が無事《ぶじ》だって知らせないと、その二人が大変なことになるんです」
「待ってくれ。君が人質になっていたというのはどういうことかね。この船に、そんな悪党が乗り込んでいたと?」
「あ……いえその……」
今になって、メイはヴィクターとの約束を思い出した。
目の端で、ヴィクターが懇願《こんがん》するような顔を向けているのがわかる。
「……それは、ただの狂言なんです。でも二人はそのことを知らないから」
「その二人は、誰に命を狙われてるんだね?」
「クレメント・ファミリーです。マフィアの」
「ほう。で、二人はいまどこにいるのかな?」
「アルフェッカ号っていう貨物船にいて、いまはまだバルジの中にいるはずです。アルフェッカ号にもクレメントの人が乗り込んでいて、本部へ連行されてるんです」
「アルフェッカ……どこかで聞いた名前だな。まあいい、やっと話がみえてきたぞ。で、どうしたいのかね」
「通信機を使わせてほしいんです。アルフェッカ号に連絡して、こっちが無事なことを知らせないと。私、二級船舶通信士の免許あります」
「船の通信機を使うとなると、ちょっと慎重《しんちょう》にならざるを得ないね。失礼だが、その話をどこまで信じていいのか――」
「よろしいですか、船長」ダイニングルーム・マネージャーが割り込んだ。
「カートミル様はこちらのミスター・リーとともに船長にお会いしたいと申されたのですが、この方の存在理由がいまひとつ明確でないと思うのです」
そう言って、ヴィクターに視線を向ける。
「確かにそうでしたな。あなたは、この件においてはどういう御関係なのですか?」
「俺は……その……この子の知合いで」
「私どもが見ておりましたところ、ついさきほど初めて対面されたようでしたが。しかもカートミル様と口論されていたようで」
「いや、俺は別に――」
「あの、それより早く連絡しないと!」
メイが叫んだ。
「ロイドさんとマージさんがつかまっちゃうんです!」
「ロイド? 一人は、ロイドというのかね?」船長が言った。
「そうです! ロイド・ミリガンです!」
その瞬間、船長は合点《がてん》した。先日パブで会った、あのロイドか!
あいつならマフィアに追われるぐらいやりかねない。そんなそぶりもあった。
「よろしい、そこのコンソールだ。エリナ、代わってやりなさい」
「はい」
通信士が立ち、メイに席をゆずった。
「モードセレクターはここ。これトークボタンね。わかるかな」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。あの、ボイス/ファックス両用で送りたいんですが」
通信士はスイッチのひとつを押した。
「これでいいわ」
メイはチャンネルをカンパニー波に切り替え、暗証コードを入力して回線を開いた。
「こちらネビュラ・カウンテス、メイ・カートミル。本文、メイは無事。メイは人質《ひとじち》にはなっていない、リピート、メイは無事。人質ではない。本文終わり。こちらネビュラ・カウンテスのメイ。通信終わり」
メイはさらに念を入れ、同じ送信を繰《く》り返した。
それが終わると、あとは返信を待つのみだった。
メイはしばらく通信機のディスプレイを見つめていたが、やがて席を立ち、船長に言った。
「ここで待たせてもらえますか」
「どれくらいかかるのかね」
メイは素速く暗算した。
ネビュラ・カウンテスはいま、バルジの外縁《がいえん》にさしかかっている。アルフェッカ号の性能からすれば、両者の距離は遠くて六AU(天文単位)。十六・六倍すると分単位のタイムラグになるから――
「早ければすぐ、遅ければ一時間四十分かかります」
「返信があったら、すぐお知らせしますけど?」
通信士が言う。船長もうなずいた。
「それがいい。一度部屋に戻りなさい」
「あの、船長――」
「なんだね」
「もし返信がなかったら、アンクスに引き返してもらえませんか」
船長は困った顔になった。
「引き返して、どうするんだね」
「助けに行きます」
「どうやって」
「それは……でも、とにかく戻らないと。このまま太陽系を出るわけにはいかないんです」
「ポートパトロールになら、ここからでも通報してあげられるよ」
「ポートパトロールなんかあてになりません。私たちが海賊《かいぞく》につかまった時も、どうすることもできなかったんです」
「だからって君に何ができるね? 気持ちはわかるが、認められないよ。これは君のためでもあるんだ」
「でも……」
「とにかく待とうじゃないか。君は部屋に戻りたまえ」
船長はそう言って、メイの肩を叩いた。
「ミスター・リーに関しての話がまだ終わっておりませんが、いかがいたしましょうか、船長」マネージャーが言った。
「そうだったな」
船長はヴィクターに向き直った。
「支配人といっしょに、隣《となり》の船長公室に来ていただけますかな。すこし、お伺いしたいことがありますので」
ヴィクターは、こわばった面特《おももち》でうなずいた。
マネージャーが、ウェイターに命じる。
「君はカートミル嬢を部屋にお連れして。B五六だ」
「承知しました」
メイはただ、従うしかなかった。
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第四章 ハイジャック
ACT・1 パレルモ基地
それは宇宙の中にあって、宇宙よりなお黒い小天体だった。
距離感がないので、全体の大きさはレーダーの測定を信じるしかない。それによれば、この小惑星三八五一四四の最大直径は八百メートルだった。
遠距離からの観測では日照《にっしょう》を受けた半面がじゃが芋《いも》のようにいびつに見えただけだったが、接近するにつれ、表面の地形があらわになってきた。クレーターらしき地形もいくつか見えたが、全体は思ったより滑《なめ》らかだった。長年にわたって微小隕石《びしょういんせき》に削《けず》られてきたせいだろうか。
結局、表面に建造物といえるものは見られなかったが、アルフェッカ号が接近すると微弱なビーコン信号が送られてきた。
マージはサーチライトを点灯し、ビーコンを頼りに船を接近させたが、地表より百メートルまで接近しても桟橋《さんばし》らしきものは見あたらなかった。
「どこに寄せろってのよ」
「いまにわかるさ」
ナットが言う。
不意に目の前の地面に赤い筋が走り、みるみるうちに幅を増してゆく。
その奥は赤色灯に照らされた、宇宙船のドッキング・ベイだった。
無線交信はナットが禁じている。マージは黙《だま》って、船を前進させた。
ドッキング・ベイの扉《とびら》の外側はカモフラージュされており、その下は分厚《ぶあつ》い装甲《そうこう》がほどこされていた。入口付近には、二基の砲台があり、ぴたりとこちらを照準《しょうじゅん》していた。
内部には戦闘機がずらりと並んでいる。
「ほう、まるで要塞《ようさい》だな。どこでこんな資材を調達《ちょうたつ》したんだ?」と、ロイド。
「マフィアをなめるんじゃないぜ」ナットはそう言った。
着陸には最小出力のバーニア噴射《ふんしゃ》で充分だった。
船体が固定され、エアロックにボーディング・チューブが連結される。
マージは核融合炉《かくゆうごうろ》の火を落とし、全システムを待機モードに入れた。
ナットは「さあ、行きなよ」と二人をうながした。
「じゃあ行くか、マージ」
「そうね」
ロイドとマージは席を立ち、ブリッジを出た。後からナットがついてゆく。
チューブを抜け、さらに二十メートルほど通路を進むと、白い光に満たされたロビーに出た。
そこに、数人の部下を従えた男が立っていた。
五十代も後半だろうか、ロイドより少し年かさの大男だった。一点の染みもない白いスーツに身を包んでいる。髪はすっかり銀に染まっていたが、眉《まゆ》はまだ濃い褐色《かっしょく》で、それが攻撃的な印象を与えていた。
「ようこそ、我がパレルモ基地へ。私はシグノラ・クレメント、ここの総裁《そうさい》です」
男は笑顔で二人を迎《むか》えた。
二人が答えずにいると、クレメントはマージの前に動いた。
「ミス・マージ・ニコルズ様ですな。これはこれは」
マージのおとがいに手をあて、顔を自分に向けさせる。生臭《なまぐさ》い息がかかった。
「正直《しょうじき》なところ、御一緒してくださるとは思ってなかったのですよ」
それから大仰《おおぎょう》なしぐさでひざまずき、マージの手にキスした。
マージはこれみよがしに、手を服でぬぐった。
クレメントは立ち上がり、ロイドの前に移った。
「ミスター・ロイド・ミリガン。ようやくお会いできましたな」
「遅れてすまんね」
「いやいや」
クレメントは目を細めた。
「お楽しみはこれからです」
そう言って、ロイドの手を握る。
ロイドは顔を歪《ゆが》めた。
クレメントの右手は機械だった。
骨が砕《くだ》ける寸前で、クレメントは手をゆるめた。
「長旅でさぞお疲れでしょう。まず部屋に案内させましょう」
そう言って、部下にうなずく。
部下が二人を先導した。
クレメントは歩き始めた二人の背中に「ディナーには御招待させていただきますぞ」と呼びかけた。
廊下の一方の壁はゆるい曲面になっており、全体の形を想像させた。おそらくは、小感星の中をくりぬいて作った、大きな円筒《えんとう》なのだろう。
歩きながらマージは、クレメントの言葉にどのような暗喩《あんゆ》が含まれているのだろう、と思った。「部屋」とは何か。「ディナー」とは?
マフィアの秘密基地なら、鉄格子《てつごうし》のはまった部屋ぐらいあるだろう。ことによれば、鮫《さめ》の泳ぐプールだってあるかもしれない。
「こちらです」
先導していた男が立ち止まって言った。
通されたのはこざっぱりした客間だった。続きの二間になっており、それぞれにセミダブルのベッドがある。箪笥《たんす》からバーまで、ひととおりの調度品《ちょうどひん》も揃《そろ》っていた。
「このぶんだと、ディナーも本物らしいな」と、ロイド。
同じことを考えていたらしい。
「奴《やつ》はいたぶるつもりだ。腹をすえてかかったほうがいいぞ」
「そのようね」
ロイドは上着を脱ぐと、自分のベッドの上にほうり投げた。
それから、バーを吟味《ぎんみ》する。
「君はブランデー党だったな」
ロイドはブランデーを二つのグラスに注ぎ、ベッドに腰掛けたマージのもとに運んだ。
それから、自分も隣《となり》に座った。
「プロージット」
マージはグラスをしばらく手の中で温め、香りを楽しんだ。
「今のうちに断っておきたいんだがな、マージ」
「何」
「前回でこりたから、もう言いたくないんだ」
「だから何を」
「この女には手を出すな、とな」
マージは口からグラスを離し、くすり、と笑った。
「どうせ、言ってどうなるって状況じゃないでしょ? あの時にしても」
「ちがいない。前から一度言ってみたかったんだ」
ロイドはグラスをあおると、つけ加えた。
「馬鹿だったよ。いい歳して、ガキっぽさが抜けてないんだな」
その頃――。
誰《だれ》もいないはずのアルフェッカ号のブリッジに、細く、しかし焦燥《しょうそう》をおびた声が流れた。
『こちらネビュラ・カウンテス、メイ・カートミル。メイは無事《ぶじ》。メイは人質《ひとじち》にはなっていない。メイは無事。人質ではない。こちらネビュラ・カウンテスのメイ……』
その声は数回|繰《く》り返されて、沈黙した。
続いてファクシミリが明りの消えた部屋に一枚の紙を吐き出すと、通信機はそれきり沈黙した。
ACT・2 ネビュラ・カウンテス
部屋に戻ったメイの顔を見ると、ミセス・マーガレットはただちに、何か重大な事件が起きたことを察した。
「どうしたの、メイ。ヴィクターさんと一緒じゃなかったの?」
メイはそれどころではなかった。いや、そのことも少しはあるのだが――。
「ねえメイ、黙《だま》ってちゃわからないわ。話してちょうだい。何があったの。あの子と喧嘩《けんか》でもしたの?」
「いえ――」
「じゃあ何なの。私に言えないことなの?」
「いいえ……」
メイはとつとつと話しはじめた。ミセス・マーガレットはときどき合《あい》の手をはさみながら、メイの話に聞き入った。
話が終わるとミセス・マーガレットは、うっすらと涙さえ浮かべ、それこそ全身全霊で同情を示しながら言った。
「まあ……なんて切ないんでしょう。ひどいわ、今のあなたの気持ちを思えば、この船で引き返すことなんて何でもないはずなのにね。いいえ、何も打つ手がなくたって、そうしてあげるのが人間というものよ。おおいやだ、まるでロボットの操《あやつ》る船に乗せられてるみたいだわ。こうしてはいられないわね」
老婦人はそそくさとハンドバッグをつかんで立ち上がった。
「ブリッジに行って、船長にかけあってあげるわ。あらあら遠慮《えんりょ》しなくていいのよ、こういうことは年寄りにまかせるのが一番。これでも昔、電力会社にかけあって街中を四時間も停電させたことがあるの。ナンシーがまだ六歳のとき、コロニーの送電線に登ってね。その時は重力も切らせたの。そりゃあもう大騒ぎになったけれど、おかげでナンシーはかすり傷ひとつせずに助かったわ。さあ、ブリッジへ行きましょう」
「でも、やっぱり、返信を待たないと。それで助かってるかもしれないんです」
「まあ……」
老婦人はハンカチを取り出し、自分の目にあてた。
「えらいわ。若いのになんて落ち着いてるんでしょう。あなたぐらいの年頃のときのナンシーとは大ちがい。わかったわ、いっしょに待ちましょう。そうそう、いいことを思い付いたわ。こういう時はお茶がいちばんなの」
と、メイを窓際《まどぎわ》の椅子《いす》に座らせると、給湯器《きゅうとうき》からポットに湯を注いだ。抽出《ちゅうしゅつ》を待つ間、ミセス・マーガレットは向かい側に腰掛け、テーブルの上でメイの手を握った。
「さあメイ、神様にお祈りして」
そう言って、目を閉じる。
メイは少しとまどったが、やがて目を閉じた。
老婦人の手のぬくもりが感じられた。
それから、おだやかな声が聞こえた。
「きっと何もかもうまくしてくださるわ。祈る気持ちが神様に届くのに、時間はいらないの。だって神様は心の中にお住いなんですものね」
メイはうなずき、祈り続けた。
だが、永遠とも思われた一時間四十分がすぎても、ブリッジからの連絡はなかった。
だからと言ってアルフェッカ号からの返信がなかったことにはならない。通信士が見逃《みのが》していることもありうる。
メイは立ち上がった。
「私、ブリッジに行って確認してみます」
「いっしょに行くわ。私、船長に言いたいことがあるの」
「いえ、マーガレットさんはここに」
「いいえ、いっしょに行きます」
老婦人は断固《だんこ》として言い張った。
メイは時間を浪費《ろうひ》するのをさけ、二人はブリッジに向かった。
ブリッジに通じるドアの両側には、保安要員が一人立っていた。
「すみません、通信士の人に用事があるんです」
メイが言うと、保安要員はインターホンで中に連絡した。
エリナと呼ばれていた通信士は、すぐに出てきた。
「あの、返信はまだ……」
「ずっと気にしてたんだけど、ないみたいね。残念だけど」
「記録を見せてもらえますか」
エリナは少しためらったが、やがて言った。
「入って」
三人はブリッジに入った。
「船長、こちらが通信記録を見たいとおっしゃるのですが−」
「それぐらいならいいだろう。見せてやりなさい」
船長はすぐに許可を出した。
メイは通信席に座った。
エリナが横から手を伸ばし、ディスプレイに過去の通信記録を表示させる。反対側から、ミセス・マーガレットものぞき込んだ。
メイは表示をスクロールさせながら、さっきの送信から現在までの記録をつぶさに調べた。
「どうなの、メイ」ミセス・マーガレットがたずねる。
メイは首を横に振った。
「まあ……残念ねえ。どうしましょう」
何度見直しても、返信らしき記録はひとつもなかった。
やはり、手遅れだったのだ。
そう考えるしかない。
たとえ聞き取れない、ノイズ混じりの返信でも、そこから距離を割り出すことぐらいはできたのだが……その時、メイの脳裏《のうり》で何かが閃《ひらめ》いた。
そうだ。連絡というなら、これ以外にも――。
メイはエリナの腕をつかんだ。
「あの、ちょっといいですか」
「何?」
「ちょっと、こちらへ」
「え? え?」
メイはエリナの手を引いて、ブリッジの隅《すみ》に移動した。
「お願いがあるんです」メイは小声で言った。
「何かしら」
「無理なのはわかってるんですけど、どうしても聞いてほしいんです」
エリナは肩をすくめた。
「だから何なの」
「あの通信コンソールなら、この船のあらゆる通信記録が読み出せますよね」
「もちろん」
「じゃあ船室にある船舶《せんぱく》電話の通信記録もわかりますね。あとで課金を請求するのに」
「そりゃあ……ちょっと待って、カートミルさん」
「メイで結構です」
「いいことメイ、それはプライバシーの侵害になるから、閲覧《えつらん》は厳禁《げんきん》されてるの」
「わかってます。でも内容を知ろうっていうんじゃないんです。時刻さえわかればいいんです。B四九の部屋から発信されたボイスメールと、そこに届いたボイスメールの」
「同じことよ。それに、そのことで何がわかったとしても」
「お願いです、人の命がかかってるんです!」
「そりゃそうだけど……」
「あなたのせいで、ロイドさんとマージさんが死んだら――」
「ちょっと!」
「エリナ、何を話してるんだね?」
船長が言った。
「いえ、なんでもありません。ちょっと通信機の操作《そうさ》のことで……」
エリナはあわてて取りつくろった。
それからメイにささやく。
「これから起きることは、何もコメントしないからね。あたしはただ、通信士として業務を果たすだけ。あなたがどこから覗《のぞ》いていようが、知らないから」
そう言って片目をとじる。メイの顔が輝いた。
二人は通信コンソールにもどり、エリナは何食わぬ顔でキーを叩《たた》いた。
画面に表が現れた。それは六行からなっており、部屋番号、発信/着信、日付と時刻、そして通話時間があった。
[#ここから2字下げ]
B四九 発信 九月二八日 午後六時一二分二四秒 二三秒
B四九 着信 九月二八日 午後六時三四分一七秒 一二秒
B四九 発信 九月二九日 午後六時 七分 七秒  八秒
B四九 着信 九月二九日 午後六時二四分二一秒  四秒
B四九 発信 九月三〇日 午後六時一三分三八秒  七秒
B四九 着信 九月三〇日 午後六時四五分四六秒  四秒
[#ここで字下げ終わり]
B四九はヴィクターの部屋番号で、この記録は彼がどこかと連絡を取り合っていたことを意味している。
メイは表を目に焼きつけ、素早く暗算した。出港初日の応答時間は二十二分。翌日が十七分、そして今夜が二十三分。ヴィクターの相手がすぐに返答したと仮定すれば、ここから相手の場所が絞《しぼ》り込める。
いちばん短い時で十七分、ということはたった一AU、一億五千万キロしか離れていない! 今夜の六時でさえ、一・四AUだ。
「すぐそばなんだ……」
メイはいてもたってもいられなくなった。
「何がそばなの、メイ」ミセス・マーガレットが聞く。
「ロイドさんとマージさんがつかまってる場所、このすぐ近くなんです! たぶん、どこかの小惑星か宇宙ステーションです。航法コンピューターで照合《しょうごう》すればわかるかも!」
「まあすてき。じゃあ、今からこの船で行けば間に合うのね?」
「なんですと……」
船長がやってきた。
「メイ、さっきも言ったようにこの船の軌道《きどう》は変えられないんだ。――そもそも、なぜ近くだとわかったんだね」
「それは……言えません」メイが言う。その横で、エリナが素早《すばや》く表示を消した。
「ミスター・リーも黙秘権《もくひけん》を行使していたようだが、君もかね」
「ねえ船長さん、どうしてこの船で助けに行ってあげられないの」
ミセス・マーガレットが言った。
「あんまりだと思うのよ。この子の気持ちを考えてもごらんなさい。家族みたいにいっしょに暮らしてた人たちがマフィアにつかまってるのよ。それを見殺しにしていいとおっしゃるの? それが伝統あるキュナード・ラインのやり方なの?」
「乗客の安全を第一に考えるのが私の任務です」
船長も負けていなかった。
「三千人の生命を預かるものとしては、この船をマフィアのアジトに差し向けるわけにはいきませんな。第一、行ったところで何ができます?」
「何をどうするかは殿方の考えることだわ。現に外にも拳銃を持った方がいらしたじゃないの」
「いや、あれはただの保安要員で――」
言いながら、船長は老婦人からメイに向き直った。
「君ならわかるだろう。マフィアの本部といえば、難攻不落《なんこうふらく》の要塞《ようさい》にきまってる。そしてここの保安要員たちは兵士じゃない。装甲宇宙服も重火器もないし、まして向こうには人質《ひとじち》がいる。制圧するどころか、近寄るだけで蜂《はち》の巣にされるだろう。君が船長なら決断できるかね? この船で本部に向かうことを」
言いながら船長は、かつてロイドとともに戦った日々を思い出していた。基地攻略ほど兵力を消耗する戦いはない。それらは勝敗にかかわらず、多くが悲惨《ひさん》な結果を生みだしてきたのだ。
「それは……」
メイは目を伏せた。
「わかってくれたなら、二人とも部屋に戻りたまえ。ポートパトロールにはこちらから連絡しておく。それに希望を托《たく》すんだ」
船長をにらみつけるミセス・マーガレットの横で、メイはこくりとうなずいた。
二人はすごすごと、ブリッジを出た。
そして隣の、船長公室の前にさしかかった。
その時――。
弾《はじ》かれたようにドアが開き、男が二人、もつれあって廊下に飛び出してきた。
小柄な方が上になり、組み伏せた男を殴《なぐ》りつけた。
殴られたのは保安要員で、腰の銃に手を伸ばそうとした。
それより早く小柄な方が銃を奪《うば》った。銃把《じゅうは》でもう一度殴りつけて相手を気絶させると、男は跳《は》ね起き、駆け寄ってきた別の保安要員に銃を向けた。
「動くな!」
保安要員は、凝固《ぎょうこ》した。
「銃を捨てろ。ゆっくり!」
保安要員は、言われたとおりにした。
「ヴィ、ヴィクターさん!」
後ろでメイが叫んだ。
ヴィクターは素早くメイのほうを振り向き、一瞬けげんな顔をした。
それから腕を伸ばし、メイを乱暴に引き寄せた。
「あっ、あの!」
「おとなしくしろ!」
ブリッジのドアが開き、船長が現れた。
「いったい何事――」
「動くな!」
ヴィクターが怒鳴《どな》った。
「動くとこいつの命がないぞ!」
「あなた、メイに何しようっていうの!」ミセス・マーガレットが叫んだ。
「婆《ばあ》さん、あんたもそっちへ行け。――行けったら!」
ミセス・マーガレットは船長のそばに移った。
「全員、ブリッジへ入れ」
それからヴィクターも、メイを抱いたままブリッジに入った。
ドアが閉まると、ヴィクターは震《ふる》える声で言った。
「いいか……これからみんな、俺《おれ》の指図《さしで》どおりに動くんだ。わかったな!」
ブリッジは静まり返った。
ヴィクターは、ブリッジの中を素早く見回した。
船長のほかに、乗組員が五人。保安要員が一人。そして老婆とこの娘。
船長が言った。
「落ち着きたまえ、ミスター・リー。単独で恒星船《こうせいせん》のハイジャックが成功した例はない。そして君は、さっきの尋問《じんもん》でも黙秘していた。今なら取り返しがつく」
「黙れ! 誰もハイジャックするなんて言ってねえ」
「なら何が望みなんだ。聞こうじゃないか」
「それは……」
「何も考えてなかったのか」
「ランチだ! 船に構んであるランチ(小型連絡船)を出すんだ」
「あ……」
メイはヴィクターの腕の中で、小さく声をあげた。
そうか、その手があった。
「ランチでどこへ行こうと言うんだね。あれの加速性能などたかが知れてるぞ」
「あんたの知ったこっちゃないさ。さあ、準備しろ」
「あの、ヴィクターさん」
メイが小声で聞いた。
「本部へ行くんですか。やっぱり知ってたんですね。それなら――」
「知らねえよ」
「じゃあ、どこか逃げるあてがあるんですか」
「ねえったら。だがここにいるわけにゃいかないんだ」
「そんなの、無謀《むぼう》です」
「仕方ねえだろ」
「あのっ!」
メイは不意に、船長に向かって声をはりあげた。
「ランチって、ちゃんとした惑星間航行システムがあるんですか」
「そんなものはないよ。ほら、その子も言ってるだろう、ミスター・リー。だからランチで逃げようなどという考えは捨てて――」
「あの、航法士の方にお願いがあります!」メイは言った。
「これから言う数値で、目標|検索《けんさく》をしてください!」
「おい、何言い出すんだ」
「メイ、何を言い出すんだね」
「どうするつもりなの、メイ」
ヴィクターと船長とミセス・マーガレットの声が重なった。
「あの、私、人質《ひとじち》ですから――」
メイは言った。
「この人の言いなりになって無計画に出発しても、宇宙の孤児《こじ》になるだけなんです。ランチを乗っ取るなら乗っ取るで、きちんと航法計算をするべきです。それで、この人――もう言っちゃいますけど――クレメント・ファミリーの本部に行くのがいちばんいいはずなんです」
「おい――」
「それに、私も本部に行きたいんです。でもヴィクターさんはマフィアの中での地位が低いので、その場所を聞かされてないんです」
「あのなあ」ヴィクターは赤面《せきめん》した。
「だけど、私の言う数字で目標検索をしてもらえれば、その場所がわかるかもしれないんです」
「お、お前、これ以上よけいなことをしゃべると――」
ヴィクターは脅《おど》そうとしたが、メイはやめなかった。
「でも、そうでしょう? 私たち、本部に行くのがいちばんいいんです」
「そりゃ、まあ――」
「ヴィクターさんからも、みんなを説得してください」
ヴィクターは、いささかプライドを傷つけられた気がした。
いったい誰が主犯なのだろう。
だが彼は、今に至る予想外の展開に動転しており、この時はメイに従うのが最善の道のような気がした。
「よ、よし。みんな! こいつの言うとおりにしろ!」
「待て――」
船長が唖然《あぜん》とした顔で抗議しかけたが、ミセス・マーガレットの声にかき消された。
「そうだわ、メイの言うとおりにするべきですよ。その子は内気《うちき》だけれど、とっても頭がいいの。それになんといっても大切な人質さんなんですからね。メイの将来のためにも、ここはみなさん、言うことをきいてあげて」
「えと、それでは――」メイは説明に入った。
「これから言う三点の位置情報から、目標を絞《しぼ》り込むんです。いいですか?」
ひとときの沈黙のあと、航法士がためらいがちに「はい、どうぞ」と言った。
「各ポイントから、それぞれの距離に共通して存在する目標を検索します。目標は加速していない、小惑星ないし人工天体を想定します」
「了解」
「距離の算出ですが、レーザー測距と同様に考えてください。パルスの発射時刻と入射時刻、およびそれぞれの時刻における本船の位置を与えます」
「了解」
「第一ポイントの発射時刻は九月二八日、午後六時一二分四七秒。入射時刻は午後六時三四分一七秒。復唱《ふくしょう》ねがいます」
「第一ポイント発射時刻、九月二八日、午後六時一二分四七秒。入射時刻、午後六時三四分一七秒」
通信士のエリナが「すごい」とつぶやいた。メイはヴィクターの電話の記録を丸暗記していたのだ。
「第二ポイントの発射時刻は九月二九日、午後六時七分一五秒、入射時刻は午後六時二四分二一秒」
「第二ポイント発射時刻、九月二九日、午後六時七分十五秒、入射時刻、午後六時二四分二一秒」
「第三ポイントの発射時刻は九月三〇日、午後六時一三分四五秒、入射時刻は午後六時四五分四六秒」
「第三ポイント発射時刻、九月三〇日、午後六時一三分四五秒、入射時刻、午後六時四五分四六秒」
「以上です。二光秒の誤差をみて検索してください」
「了解……」
数秒後、航法士は結果を読み上げた。
「該当するものは一件、小惑星三八五一四四」
メイは目を輝かせた。
「じゃあ、そこへ行くランチの航法計算をして、プリントアウトしてください」
「了解……待ってくれ……こりゃあきついかもなあ」
航法士は首を振りながら、何度かキーを叩《たた》き、やがて言った。
「だめだ、やっぱりランチの性能じゃ行き着けないよ」
「なぜですか」
「ベクトルがこの船とほとんど正反対なんでね。ランチは一Gしか加速できないうえに、推進剤《すいしんざい》も少ないんだ」
「じゃあ、この船のベクトルを変えてください。目標に向けて反転し、最大加速で」
「ちょおっと待った!」
船長が割り込む。
「黙って聞いてりゃ、めちゃくちゃ言うじゃないか、ええ?」
「この船で小惑星まで行けと言ってるんじゃありません。ブースターがわりに使いたいだけです」
「ブ……」
船長は絶句し、次いで真っ赤になった。
ブースターとは一般に、加速を助長するために使い捨てられる推進機であり、船乗りがもっとも軽視する存在だった。
「このネビュラ・カウンテスをブースターにするだとお!?」
「ガタガタ言わずにこいつの言うとおりにしろよっ!」ヴィクターが怒鳴《どな》る。
「そうよ、メイに従うべきだわ」ミセス・マーガレットも言う。
船長の意向に関係なく、航法士はメイの提案にそって再計算しはじめていた。彼はすでにメイを同じ職業のプロとして認めており、ともに目標達成への道を模索する気になっていた。
「どうですか、航法士さん」
「……ああ、確かにそれならいけるね。今から減速《けんそく》をはじめると、四時間後にはランチで出発できるな」
「小惑星到着はいつになりますか」
「三日後だね」
「三日……」
遅い。マフィアが三日間も二人を生かしておいてくれるだろうか。ロイドが口八丁手八丁《くちはっちょうてはっちょう》で引き延ばしをはかれば、不可能ではない気もするが……。
「もっと早くならないんですか。ブースト期間を延ばすとか」
「無理だね。こちらはもうバルジの外にいるからいいが、ブーストしすぎると、ランチは秒速二千キロを越える速度でバルジに突っ込むことになるだろ?」
「……そうですね」
「大丈夫《だいじょうぶ》さ。今の計算の最適化には自信あるよ」
「わかりました。じゃあその数字いただきます。ありがとうございました」
「どういたしまして」
航法士はプリントアウトを取ると、ヴィクターに手渡した。
「おい船長!」ヴィクターがさっそく言った。
「なんだ!」
「この計算書どおり、今からブースターをやるように指示しろ」
船長はすでに頭から湯気《ゆげ》をたてていたが、かろうじて「やれ」と命じることに成功した。
「それから」
「まだあるのか」
「ランチに案内しろ」
「くっ……」
船長は帽子《ぼうし》をかなぐり捨てると、憤然《ふんぜん》と歩き始めた。
「こっちだ!」
ヴィクターとメイの後に老婦人が続く。
船長は振り返るなり怒鳴った。
「あなたはいいんです、ミセス・マーガレット!」
「いいえ、わたくしもいっしょに行かなくては。メイを一人でマフィアのいる場所になんか行かせられるもんですか」
「いいですか、あなたはさきほどから絶妙のタイミングで私を邪魔《じゃま》してきたが、こんどばかりは――」
「ヴィクターさん」
ミセス・マーガレットは船長を無視して言った。
「私、映画をみてよく知ってるのだけれど、人質は一人じゃだめね。たった一人の人質を殺すと脅しても、それは自滅《じめつ》するぞと言うのと同じことなの。警察の人もそれを知ってて踏み込むのね。だから悪いことは言わないわ、私をいっしょに連れて行くよう、船長にお話しなさいな」
「あんたが二人目になるってのか」
「そうよ。それとも腕っぷしの強い男の人のほうがいいかしら? そんなことないわね。こういうことは年寄りにやらせるのがいちばんなの。そうでしょう」
「それもそうだな。よし、あんたも連れてく」
「でも、マーガレットさん――」メイが顔を曇《くも》らせる。
「いいのよメイ。私、好きでやってるの。なんだかわくわくしちゃって。それに人の世話をやくのは年寄りのつとめでもあるの。そう思わないこと?」
「別に、そうとは……」
「いいえ、あなたも歳をとれば必ずわかるわ」
こうしてミセス・マーガレットは不敗の論法で相手を説き伏せ、いまや犯人グループと呼ぶべき集団に加わった。船長は少し前から抗議する意欲を失っており、四人はランチのあるエアロックに続く長い廊下を黙々と歩いた。
ランチは全長二十メートル足らずの宇宙船で、キャビンの屋根部分に二本のアームで固定されていた。エアロックをくぐるとそこはもうコクピットで、客室には十二の座席があるだけだった。
「つきあたりがトイレ、その向かいのロッカーに非常食と水がある。三日はもつだろう」
船長は無愛想《ぶあいそう》に説明した。
メイは操縦《そうじゅう》・航法装置を調べた。ごく簡単なもので、ほとんど目の前にある目標に移動する程度のものだった。だが、シーケンサーはついており、さきほどの計算書どおりに飛ばせることはできた。測位システムはビーコンを受信するタイプのものだけで、惑星間空間では役に立たない。しかし、例によって六分儀《ろくぶんぎ》だけは備わっていた。これさえあれば、なんとかなるだろう。
「そうそう、まだ出発まで四時間あったわね」
ミセス・マーガレットが船長に言った。
「お部屋の荷物を移してもらわないと。それからレストランに頼んで、お料理を運ばせてちょうだい。非常食ばかり三日も食べていたら体だけでなく心までささくれてしまうわ。そうね、お料理は冷製がいいわね。ローストビーフにスモークド・サーモン、サンドイッチと、お野菜はマリネにしてたくさん作らせてちょうだい。それにお茶の用意も忘れないでね。エリノス・ダージリンにアールグレイがあれば言うことないわ」
「ピクニックに行くんじゃないんですよ、ミセス・マーガレット」
「ヴィクターさん」
ミセス・マーガレットはきっぱりと言った。
「船長に言うことを聞かせてくださいな」
「おう、婆さんの言うとおりにしな」
この時ばかりはヴィクターも反発しなかった。
「ついでにペントハウス・デッキにある特上のバーボンとワイン、ドライジンに瓶詰《ぴんづ》めのオリーブも頼むぜ」
「あと、毛布と歯磨《はみが》きと石鹸《せっけん》、それにタオルもお願いします」
これはメイが言った。
ACT・3 パレルモ基地
ダイニング・ルームに通された時、ディナーの用意はすっかり整っていた。
部屋は、ここも白で統一されていて、様式はごく近代的なものだった。テーブルには赤い薔薇《ばら》が飾られている。本物かどうかは、すぐにはわからなかった。
長いテーブルの奥にはホストのクレメントがかけていた。
クレメントは、相好《そうごう》を崩《くず》して二人を迎えた。
「さあどうぞ。そちらにおかけください」
ロイドとマージの席は、クレメントの左手に用意されていた。
見ると、正面にもう一人ぶんの席がある。
マージの視線に気づいたのだろう、クレメントが言った。
「まもなく来ますよ、ミス・ニコルズ。どうにも無作法《ぶさほう》な男でね」
遅れてきた男を見たとき、マージは思わず息をのんだ。
いまやマフィアがダークスーツを着ることは旧時代の滑稽《こっけい》な模倣《もほう》にしかならないが、彼は違った。その黒ずくめの衣装《いしょう》は非のうちどころのない技術であつらえられており、肌の一部といってよかった。青白い頬はそぎ落とされたようであり、奥の双眸《そうぼう》は真空の闇《やみ》に光る星を思わせた。
クレメントが紹介した。
「補佐のニコラス・カウフマンだ。私の忠実な右腕としてやってくれている」
忠実な、というところに奇妙なアクセントがこめられていた。
気がつくと、ロイドは真っすぐにカウフマンをにらんでいた。
こいつがナンバー2なのか、とマージは思い当たった。
カウフマンのロイドを見返す目には憎悪《ぞうお》が宿っていた。ミリガン運送の捕獲《ほかく》があと数日遅れれば、彼がナンバー1の地位を手にするはずだったのだ。彼にしてみれば、のこのこつかまりやがって、という思いなのだろう。
彼とクレメントとの確執《かくしつ》も、容易《ようい》に感じとれた。
実際、忠実な右腕にちがいない。でなければこうして生きていられないはずだ。
だが、そうありながらもナンバー2として、その上の階梯《かいてい》に登ることを狙《ねら》い続けてきた男、それがカウフマンなのだろう。
ウェイターが現れ、食前酒のシェリーが注がれる。
「お二人の到着を祝って、乾杯《かんぱい》といきますかな」
クレメントが言って、グラスを掲《かか》げた。
他の三人も、黙って従う。
前菜《ぜんさい》が運ばれてきた。
「ほう、アスパラガスのソース・オランデーズか。これはいい。賓客《ひんかく》をもてなすのにはぴったりだ」
クレメントはそう言って、得意《とくい》げに笑った。
「どうしたね。毒など入っていないし、正真正銘《しょうしんしょうめい》、本物のアスパラガスだよ。もっとも、ミスター・ミリガンは偽物《にせもの》がお好きなようだがね」
「いただくとするか」
ロイドはアスパラガスをつまみ、半分ほどかじった。
「こりゃうまいな。――まるで偽物みたいにうまい」
「どんどん食べたまえ。いまのうちに体力をつけておいたほうがいい」
「……ほう?」
「体力だ。カウフマン、あれはいつ届く?」
「明後日になります」
「あさってか。そりゃ楽しみだな」
クレメントはロイドに向き直った。
「ミスター。ミリガン、お聞きのとおりだ。あなたにとっても、楽しみな届け物になるだろう」
「何が届くんですかね」
ロイドは二本目のアスパラガスをつまみながら聞いた。
「なに、ちょっとした機械だよ。最初に試す栄誉《えいよ》は、あなたに授《さず》けよう」
「光栄の至《いた》りだね」
「できのいい拷問装置《ごうもんそうち》ってのは――」
クレメントは目を細めながら言った。
「決して殺さないようにできてるんだ。紙一重《かみひとえ》のところでね。だが、どんな機械もテストは必要だからね。本当に死なないのか、どこまでやれば死ぬのか――ちょうどいい実験台がここにいるというわけだ。よろしければミス・ニコルズにも参加していただこうかな?」
ACT・4 ランチ
三人を乗せたランチがネビュラ・カウンテスを離れて、丸一日がたった。
ランチはすでにバルジに入っており、一路《いちろ》小惑星三八五一四四をめざしていた。
操縦《そうじゅう》と航法はメイの役目で、就寝時《しゅうしんじ》を除《のぞ》けば二時間おきに六分儀《ろくぶんぎ》で自分の位置を確認した。噴射《ふんしゃ》の制御《せいぎょ》はシーケンサーがやってくれるので、操縦|桿《かん》を握り続けることはなかったが、天測の結果をみて随時《ずいじ》プログラムに修正を加える作業は必要だった。
アルフェッカ号に較べればどの装置も簡単なものなので、メイにとってはさほどの困難ではなかったが、他の二人の彼女を見る目はしだいに尊敬をおびてきた。
一方、ミセス・マーガレットはヴィクターに指図《さしず》しながら、キャビンの改造にとりかかっていた。
「船の椅子《いす》というのは回したり外《はず》したり自由にできるものなのよ。ヴィクターさん、この二つとそちらの二つの背もたれを倒してくださいな」
「よし」
ヴィクターは試行錯誤《しこうさくご》のあと、中央の四席の背もたれを倒すことに成功した。
「それからね、このコンパートメントの仕切り板を外してちょうだい。ちょうどいい大きさだわ」
「外してどうするんだい」
「やればわかるわ」
取り外された仕切り板は、さきほどの椅子の上に置くと、たっぷりした広さのテーブルになった。
「これでいいわね。お料理を床にならべるのはもうたくさん。さあ、ここに移して。ああ、その前に手を洗ってね。タオルがあったわね。それでテーブルも拭《ふ》きましょう。今夜は何からいただきましょうね」
夕食が始まると、ヴィクターがメイに言った。
「まったく――あん時ゃ何を言い出すかと思ったけどよ、たいしたもんじゃねえか」
ヴィクターは珍《めずら》しく上機嫌《じょうきげん》だった。
「これからお前のことは船長と呼んでもいいぜ。もっとも、指図は俺《おれ》がするけどな」
「この子はね、本当に頭がいいのよ。あなたみたいに何も考えずに飛び出すだけじゃないのよ」
「ちゃんと航法士も連れ出すつもりだったさ」
「そうには見えなかったけれど……あらあら、メイったら食欲がないのねえ」
ミセス・マーガレットは心配そうにメイの顔をのぞき込んだ。
「このミートローフとってもおいしいわよ。もっと召《め》し上がらないこと? 若いうちはたくさん食べないとだめ。ことにあなたは船長さんなんだから」
「……はい」
「あまり先のことを心配しないほうがいいわ。あと二日もあるんですもの、じっくり考えればきっといい方法が見つかるわ」
「あの、ヴィクターさん」
メイは急に言った。
「なんだい」
「私の味方になってくれませんか」
「味方だあ?」
「ひとつ思ったんですけど、私、マフィアのルールのことよく知らなくて」
「なんだよ」
「ネビュラ・カウンテスの人たち、本部が小惑星三八五一四四にあるってこと、もう知ってますよね。それにポートパトロールにも通報が届いて……」
「あっ!!」
ヴィクターの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「……なんてこった。すっかり忘れてた。だいたいお前、どうやって本部の場所を知ったんだ!?」
「あなたの船外電話の記録を、こっそり読んだんです」
「お、俺の電話を……」
「あの、そういう時、マフィアはヴィクターさんをどうするんでしょう?」
「処刑だ。まちがいなく、処刑される!」
ヴィクターは小刻みに震えながら言った。
「やっぱり。……あの、はじめに言っておきますけど、いまさら軌道《きどう》を変えることはできないんです。ネビュラ・カウンテスに加速を手伝ってもらって、やっと本部にたどりつけるぐらいですから、とても他の場所には」
「じ、じゃあどうするってんだ」
「だから、味方になってほしいんです」
「どういうことだよ」
「本部についたら、ロイドさんとマージさんを助ける手伝いをしてほしいんです。うまくいったら、アルフェッカ号にヴィクターさんも乗せてあげられるよう、ロイドさんに頼んでみます。もちろんマーガレットさんも」
「…………」
「ありがとう、メイ。あなたほんとにいい子ね」
ミセス・マーガレットが言った。
「ヴィクターさん、あなたもメイに感謝《かんしゃ》しなさい。よかったわ、これであなたもマフィアから足を洗えるわね」
「うるせえ!」
ヴィクターは怒鳴った。
「組織を裏切ったら、一生追われ続けるんだ、ミリガンみたいにな!」
「それでも、そのまま組織にいるよりずっといいわ。はじめてあなたをレストランで見たとき、悪い人じゃないってすぐわかったのよ。だからメイに引き合わせたの。あなたはまだ若いんだし、必ずやり直せるわ」
「……ふん、勝手に決めるなっての」
ヴィクターは居心地《いごこち》悪そうに目をそらした。
「じゃああなた、組織の人にメイを殺せって命令されたらどうするの? 黙《だま》って従うの?」
「そ――そりゃあ……」ヴイクターはちら、とメイのほうを見た。メイはうつむいた。
「命令なら、まあ……」
「命令なら、どうなの?」
「言わせるのかよ」
「おやめなさいな」
ミセス・マーガレットはきっぱりと言った。
「そんな組織に使われるのはおやめなさい。世界は広いんだし、マフィアの手の届かないところなんていくらでもあるわ」
「婆さんは知らないんだよ、クレメントのネットワークがどんなに広いか」
「でも、これからは大丈夫《だいじょうぶ》ね」
「なんでだよ」
「これから私たちがやっつけるもの」
「馬鹿《ばか》言え、ファミリーの本部がランチひとつで制圧できるもんか! あっちにはきっと武装艇《ぶそうてい》もありゃ砲台もある。だいたい俺が味方したって、力にゃなれねえぜ。すぐに事情を聞き出されて、本部の場所を教えた間抜け野郎ってことで処刑されてアウトだ。本部をやっつけるなんてことはな、軍隊でもなきゃできっこねえよ!」
「じゃあ、海賊《かいぞく》さんを呼んだらどうかしら。メイはね、海賊さんとも知合いなの。友達がたくさんいるっていいことだわ」
「海賊……」メイは、はっとして声をもらした。
「んな、馬鹿な」と、ヴィクター。
「ねえメイ、どうかしら。あなたの知合った、ほら、アンガスっていう人に頼んで加勢してもらったら? あの人、とてもいい人みたいだもの、きっと力になってくれるわ」
「でも、どうやって……」
「海賊さんともなれば、太陽系中の船に目を光らせているはずよ。こちらから呼べばきっと答えてくれるわ」
「でも、ランチの通信機じゃ出力が弱くてとても――」
「やってみなけりゃわからないじゃない。近くにいるかもしれないわ」
メイの顔に変化が現れた。
「そう……そうですね。やってみます!」
「おいおい――」
メイはフォークを置くと、操縦席に移り、通信機のチャンネルを共通波に切り替えた。
「こちらネビュラ・カウンテスのランチ、メイ・カートミル。現在バルジ内を航行中。海賊船ガスプラ、応答願います。こちらランチのメイ・カートミル」
すぐに応答があるとは思えない。
そう思ってテーブルに戻りかけた時――。
『なんてこったい、また嬢ちゃんか! いったいそこで何やってる」
聞き覚えのある濁声《だみごえ》がスピーカーから流れた。
メイは弾《はじ》かれたように通信機にとびついた。
「アンガスさん! どうして! どこにいるんです!?」
『もっと送信出力をしぼりな。このままじゃそこらじゅうに聞かれちまう」
メイは言われたとおりにした。
「聞こえますか、アンガスさん」
『ああ充分だ。いま嬢ちゃんの七十万キロ後ろにつけてる。ランチのレーダーじゃ見えねえはずだが、知らずに呼んだのか?』
「そうです! でもどうして――」
とても偶然とは思えない。七十万キロといえばニアミスも同然だ。
『ネビュラ・カウンテスさ。あんなでかい船にゃ手を出さねえことにしてるんだが、レーダーで見てたら急にバックしはじめるじゃねえか。それから、ランチが船を離れるのがわかった。こりゃ、よっぽど大物が乗ってるんだろうってな。ちょいと様子《ようす》を見に行こうってことになったのよ。それにしても嬢ちゃんだとはな。いったい何事だい』
「あの、お願いがあるんです! 話せば長いんですけど、助けてほしいんです!」
『おほっ、俺にか? 面白《おもし》れえ、寄せるから噴射《ふんしゃ》を切りな。ざっと一時間で行く。ただし今度は、暴《あば》れるのだけはナシだぜ』
「わかってます! わかってます!」
ACT・5 海賊船ガスプラ
一時間後、海賊船はランチの真横に現れ、ぴたりと停止した。
船首の巨大な氷塊《ひょうかい》は、前より倍も長くなっていた。どうやらあれから新調したらしい。
ミセス・マーガレットに宇宙服を着せるのはさぞ大仕事だろう、とメイは思ったが、海賊船は伸縮《しんしゅく》式のボーディング・チューブを持っていて、普段着《ふだんぎ》のままで移乗《いじょう》することができた。宇宙服で移乗させるのは、相手が信用できないときに限るのかもしれない。
チューブの先は、あの騒動《そうどう》のあった格納庫《かくのうこ》だった。破壊《はかい》された箇所には不細工《ぶさいく》な応急修理がほどこされており、メイは少しばかり気のとがめる思いだった。しかし、今はそれどころではない。
アンガスは今回も手下を従え、椅子《いす》にどっかと腰をおろして待っていた。
メイ、ヴィクター、そしてミセス・マーガレットが現れると、海賊たちはいっせいに歓迎《かんげい》の声をあげた。
「また会うとは思わなかったぜ、嬢ちゃん。それに婆さんに兄ちゃん」
「あ、紹介します。えと、こちらは人質《ひとじち》のミセス・マーガレット、そしてこちらは犯人のヴィクター・リーさんです」
アンガスは首をかしげた。
「……なんだい、そりゃ」
「私も人質なんですけど、ヴィクターさんは味方になってくれるみたいなんです」
「んなこと言ってねえぜ」と、ヴィクター。
「よけいわからんな。仕切ってるのは嬢ちゃんみたいに見えるが」
「いえ、どちちかといえばミセス・マーガレットです」
「俺が主犯だっての」
「いいえメイよ。この子はほんとに頭がいいんだから」
「いいから順番に話せよ。まずそのへんに座んな。おい」
アンガスは副長に言った。
「コーヒーでもいれてやれ」
「へい」
コーヒーメーカーの横には水の入った大きなガラス瓶《びん》が置かれており、副長はそこから水を移した。
「これ、濾過《ろか》装置から汲《く》んだんだぜ。へへ」
副長はそう言って、メイに笑いかけた。
メイも顔で笑ってみせた。
それから、メイは事情を説明した。
聞き終わると、アンガスは言った。
「要するにこういうことか。ロイドとマージがクレメントの本部につかまったんで、助けにいきたい、手を貸してくれ、と」
「そうです」
「なるほどねえ……。なんともでかい話だな、こりゃ」
アンガスは腕を組んで、ううむ、とうなった。
「ボス、相手はマフィアですぜ。下手《へた》に手出しすると、後が大変でさあ」
副長が言う。
「まあな。マフィアの、それも本部となるとなあ」
「あの、助けてもらえないんでしょうか」メイが細い声で訴《うった》える。
「いや、そうは言ってないんだが――マフィアとなるとなあ……」
「そこをなんとかお願いします! 一生のお願いです! 私、ミリガン運送に戻りたいんです!……いいえ、クビになったから、戻れなくても、マージさんやロイドさんと永久に別れ分かれになるのは絶対いや。だから助けてください! お願いです!」
両手を合わせ、涙ながらに懇願《こんがん》する。
場内は一気に同情ムードになった。
「あ、あのさ、俺、反対したわけじゃないんだよ。大変だって言っただけでさ」
副長があわてて言う。
「ねえ、そうでしょボス?」
「まあな」
「それで、ボスはどうお考えなんです?」
「確かに――」
アンガスは言った。
「クレメントがアンクスにしゃしゃり出てきたって話は前から聞いてた」
そこで一度言葉を切り、また続ける。
「いけすかねえ連中だと思ってた。それがこうして場所までわかった。となりゃあ……」
「じゃあ、助けてくれるんですね!?」
メイは希望に目を輝かせた。
「とも思うがなあ……」
一転、うなだれるメイ。
その時、ミセス・マーガレットが言った。
「ねえアンガスさん、私、マフィアのことは映画で観てよく知ってるの。ほら『コンシリオーリ』っていうのがあったでしょう。私、二十回も観たのよ。若い頃のテレンス・ペンジアスがとっても素敵《すてき》だったから」
「それがどうした。要点を言え」
「マフィアってところは、いろんなことでお金がすごく必要になるの。だからあの人たち、いろんなことでお金もうけして、それをたくさん貯《た》め込んでるの。よその星へ行ったらオンラインでお金がおろせないし、ああいう取り引きには現金がたくさんいるでしょう? あの人たちは一度にたくさん使うから、ほんとにたくさん貯め込んでるのね。それも秘密の隠《かく》れ家《が》みたいなところに」
「……ほう。秘密の隠れ家みたいなとこか」
海賊たちの間に、どよめきが走った。
アンガスは副長と顔を見合わせた。
副長がささやく。
「そんな金がありゃ、フジツー・クレイの新型スパコンが買えますよ、教授《きょうじゅ》」
「ボスと言え。海賊らしい言葉使えって言ってるだろ」
「すみません、ボス。でもそうでしょう?」
「ふむ……」
アンガスはしばらく考え、やがてメイに顔を向けた。
「嬢ちゃん」
「はい」
「俺も男だ。嬢ちゃんみたいな女の子に頼られりゃ嫌《いや》とは言えねえ。ここはこの宇宙海賊ドクター・アンガス様に――」
そう言って、親指を立てる。
「どーんとまかせろ!」
直後、格納庫は大歓声に包まれた。
メイは五メートルほど走ってアンガスの首に抱きつき、頬にキスした。
アンガスは、爪《つめ》の先まで真っ赤になった。
ACT・6 船長室
それから、アンガスと副長、メイ、ヴィクター、ミセス・マーガレットの五人は船長室に移った。
「基地|攻略《こうりゃく》ともなりゃ、相手の素性《すじょう》をじっくり研究しとかなきゃならねえ」
アンガスはそう言いながら、書類の山をかきわけ、端末《たんまつ》装置の前に座った。
「そこの兄ちゃんみたいに何も考えずに飛び出すようじゃだめなんだ」
「悪かったな。みんなで馬鹿にしやがって……」
「それでメイ、その小惑星のカタログ・ナンバーは?」
「三八五一四四です」
「三、八、五、一、四、四と……」
アンガスがキー入力すると、画面に楕円形《だえんけい》をした軌道《きどう》が図示された。
他の四人ものぞき込む。
「ほう? 小惑星にしちゃ、やけに低いな」
低い、というのは、太陽に近いという意味である。
「ここの小惑星帯のピークは五・三AUなんだ。こいつの近日点はその半分しかねえぞ」
「でも、このあたりでも小惑星はめずらしくないんじゃ」メイが言う。
「まあな。だが、こいつはちょいと軌道|傾斜《けいしゃ》が強すぎるうえに、逆行してるじゃねえか。こんなのは小惑星としちゃ、一パーセント以下だぜ」
「じゃあ……?」
「俺はピンときたね」
「何なんですか?」
「こいつ、昔は彗星《すいせい》だったんじゃねえか」
「彗星?」
「そうさ。水気《みずけ》の干上《ひあ》がった、彗星の抜け殻《がら》だ。待ってな」
アンガスはめまぐるしくキーを叩《たた》いた。
「ここのコンピューターにゃ、過去二百年、八十万個の彗星のデータがぶちこんであるんだ。一致するのがあるかもしれねえ」
話しているうちに、画面に表示が出る。
■該当なし
「となると『巻き戻し』ですかね、教授」副長が言った。
「そうだな。……おう、ボスと言え、ボスと」
「すみません、ボス」
「あの、巻き戻しって?」メイが聞く。
「時間を逆転させて軌道計算しながら、こいつの過去を洗うのさ」
アンガスはキーを叩きながら言った。
「ちょいと時間がかかるがな。なんせ延べ五千万個の彗星と小惑星を流体シミュレーションつきで軌道計算するんだからな」
メイは仰天《ぎょうてん》した。
「そ、そんな大計算がここでできるんですか!?」
「そうよ。なんせアンクス国立理科大からかっぱらってきた超並列マシンだからな。ただし、一回限りで太陽系を通過する彗星のデータがねえのが難点だがな。まあ、やってみりゃわかる。待ってな……」
アンガスがキーを押すと、画面上の小惑星が素晴らしい速度で逆転しはじめた。同時に日付表示もスロットマシンのように流れはじめ、たちまちマイナスがついて有史以前に遡《さかのぼ》った。
やがて、画面に新たな小惑星が加わった。二つの小惑星は、頻繁《ひんぱん》にかなりの距離まで接近した。
「第四惑星の摂動《せつどう》でこっちに流れてきやがったんだ。こりゃ、もうじきぶつかるぜ」
十分ほどして、ビープ音とともに画面が停止した。
「ほらな。こんなとこで衝突《しょうとつ》してやがった」
日付は紀元前二百七十三万七千二百四十六年の五月二四日、午前八時四七分を指していた。
「相手はどんなのですか?」
「ありふれた珪素質《けいそしつ》の小惑星だ」
小惑星三八五一四四は別の小惑星と衝突し、現在の軌道に移ったのだった。それは、この塵だらけの太陽系にあってもごくまれな現象だった。
「さあて、ここからが難《むすか》しいぞ」
アンガスは言いながら、さらにキーを叩いた。
「ぶつかる前の両方の軌道ってのは、わかりそうでわからねえ。だがおよその見当をつけることはできる。さあ来たぞ……おう、やっぱりそうか」
「やっぱりって?」
「三八五一四四は彗星のなれの果てってことさ。どうやらな。それまでは周期千五百年ぐらいの長楕円軌道にいたらしい。今じゃ表面は揮発成分が抜けて、炭みたいに真っ黒だろう」
「ねえアンガスさん。秘密の隠れ家ってふつう地下にあるのよ。この星の地下はどうなってるの?」
ミセス・マーガレットが聞いた。
「いい質問だぜ、婆さん。あんた、雪を見たことあるかい」
「ええあるわ。子供の頃、家族そろってポーラー・パークに行ったの。一面真っ白の野原で、みんなで雪を投げて遊んだわ。それからそりにも乗ったの。くたくたに疲れたけど、ほんとに楽しかったわ」
「その雪だが、土をまぜて玉にしたと思いな。それを日向《ひなた》に置いとくとどうなる?」
「雪が融けて流れて、スポンジみたいな隙間《すきま》だらけの土の玉になるわね、きっと」
「そうだ。そしてしばらくは、中にまだ雪が残ってる」
「ええそうね」
「それのでかいのが、こいつさ」
アンガスは画面を指さした。
「だが小惑星三八五一四四は、今じゃ氷が融けるほど太陽のそばには来ない。表面の氷は昇華《しょうか》するが、中はまだ手つかずのままだろう。といっても密な氷じゃねえ。せいぜいシャーベットみたいなもんだぜ」
「でもおかしなところに住むのね、マフィアって。まるで――ほら、なんといったかしら、昔地球にいたイヌ……」
「イヌイットか。どうだかな。宇宙じゃ氷は役にたつ。溶かせば燃料になるし、生活用水にもなる。基地をつくるのも簡単だ。熱で溶かしながら掘《ほ》りゃいいんだからな。それに軌道がバルジの中だから、マフィアの隠れ家にゃうってつけだ。おまけに地表付近は年月がたつうちにすっかり固まって、ちょっとした装甲板《そうこうばん》になってるはずだ。要塞《ようさい》としちゃ、かなり手ごわいぜ」
「ところで、ここに女物のコートはあるかしら。毛皮のがいいわ」
突然、ミセス・マーガレットは話題を変えた。
「あるわけねえだろうが。だいたい何に使うってんだ、婆さん」
「だって氷の洞窟《どうくつ》に行くんでしょ? 寒いに決まってるわ」
アンガスはため息をついた。
「……婆さんにゃ船に残っててもらうことを提案するぜ」
「けどあんた、どうやって攻める気だい」
ヴィクターが聞いた。
「だいたいどんな武器があるんだ、ここには」
「三十ミリのレールガンが二門、それにパワーローダー二台とランチ一|隻《せき》だ」
「そんだけかよ」
「充分だぜ、兄ちゃん。あとはオツムで勝負よ」
「具体的にはどうする気なんだ?」
「そいつぁ、これから考えるさ」
「あの、アンガスさん。まず小惑星への接近方法から考えたらどうでしょうか」
メイが言った。
「一分でも早く行かないと……」
「そうだな。だがこれについちゃ、そんなに工夫《くふう》はいらねえぜ。相手は逃げっこないし、全速で向かうとなりゃ、どうせバレるからな」
「じゃあ、ロイドさんたちを盾《たて》にされたら――」
「無視するさ。ここは海賊がマフィアのお宝を狙《ねら》うって格好でいく。そうとなりゃ、相手も人質《ひとじち》にはかまわねえだろ」
「あ、そうですね」
「俺の見たとこじゃ、あの二人は相当タフだ。手荒にやってもくたばりゃせん。そう思わねえか?」
「それは、まあ……」
「あいつら、真空生存法は心得《こころえ》てるだろうな?」
「ええ」
「なら大丈夫だ」
それからアンガスはマイクをつかみ、ブリッジに連絡した。
「小惑星三八五一四四に最大加速で向かえ!」
それからアンガスは一同に言った。
「到着は明日の夕方だ。寝といたほうがいいぞ」
ACT・7 パレルモ基地
二日目のディナーの後、部屋に戻ったロイドはルーム・サービスを呼んだ。
「退屈なんでね。雑誌か何か持ってきてくれないか」
「探してみます」
「頼むよ。ああ、そうだ――」
「それより話相手のほうがいいな。ミスター・カウフマンに、いっしょに一杯やらないかと伝えてくれないか。今夜はディナーにも現れなかったんでね」
「承知しました」
ボーイが部屋を出ると、マージが聞いた。
「あのカウフマンと飲む気なの?」
「まあな。なあに、ちょっとした暇潰《ひまつぶ》しさ」
カウフマンが現れたのは、それから半時間ほど後だった。
「やあ、お待ちしてましたよ。どうも暇をもてあましてね」
ロイドはそう言って出迎えた。
「大事に使ったほうがいいんじゃないのか。あと一日だ」
カウフマンは無愛想《ぶあいそう》に言った。
「明日は明日のプラズマが吹くというでしょう。何がお好みかな」
「バーボンを」
ロイドはバーからボトルとグラスを出して、二人ぶん注いだ。
「この部屋は臭《にお》うな。俺は煙草《たばこ》が嫌いなんだ」
カウフマンが言った。ロイドは相手の顔を見た。
「そりゃ気づかなかったな。マージ、そうなのか?」
「あたしは慣《な》れてるから」
「どこか、いい場所があるかな?」ロイドが聞いた。
「少し先にラウンジがある」
「よし、ならそっちに移ろう」
二人の男は部屋を出た。
ドアの外の、見張りが言った。
「どちらへ行かれるのですか?」
「そこのラウンジだ」
「部屋から出すなとの指示でしたが」
「俺がついていて不足か?」
「い、いいえ――」
見張りはおびえた顔になった。
「行こう」
カウフマンは歩き始めた。
廊下を少し歩くと、開けた空間に出た。ソファとテーブルが数セット置かれている。
ロイドとカウフマンはその一つに腰をおろした。
「ないのか、ここは」
ロイドが小声で聞いた。
「大丈夫だ。カメラも盗聴《とうちょう》マイクもない」
「あんた、いい勘《かん》してるな」
「俺としゃべりたがる奴《やつ》など、ここにはいない。用件のある者だけだ」
「ちがいない」
ロイドはさっさと切り出した。
「どうだ、逃走《とうそう》に手を貸してくれるか。ミリガン運送を逃がしたとなりゃ、クレメントは左遷《させん》され、あんたがナンバー1だ。お互い幸せになろうじゃないか」
カウフマンはちらりと周囲に目をやり、それから言った。
「難《むずか》しいな。貴様が自力《じりき》で逃げたように見せかけるとなるとな」
「しかし、不可能じゃない。そう思って来たんだろう?」
「見極《みきわ》めに来たのさ」
カウフマンは言った。
「何を」
「やるとなれば、俺と貴様は共犯だ。失敗すればともに破滅《はめつ》する。組んでいい相手かどうか、見極めねばならん」
「裏切りも何もない。どうせマフィアの報復《ほうふく》に時効はないんだ。一度あんたがナンバー1の座におさまっちまえば、今度はあんたが俺たちを追うことになるんだからな」
カウフマンは酒を一口|含《ふく》み、しばらくロイドをにらんでいた。
それから言った。
「明日の夕方、例の装置を積んだ貨物船が入港する」
ロイドはうなずいた。
「その時ドッキング・ベイの扉《とびら》が開く。逃げるとしたら、その時しかない」
「ほほう……」
ロイドが部屋に戻ったのは、それから一時間後のことだった。
ACT・8 海賊船《かいぞくせん》ガスプラ
アンガスは襲撃《しゅうげき》計画を練《ね》るため、一人で船長室にこもりきりになった。
部屋を追い出されたメイ、ヴィクター、ミセス・マーガレットの三人は、副長に連れられて、かつてチェスの決闘が行なわれた食堂に入った。
コインの戻ってくる自販機でジュースやホットドッグを買い、テーブルのひとつを囲む。
「教授はああいうことになると、面会謝絶《めんかいしゃぜつ》なんだ。没頭《ぼっとう》しちゃってさ」
副長がコーヒーをすすりながら言った。口調《くちょう》が妙に学生ぽくなっている。どうやらこれが地のようだった。
「あの、アンガスさんって国立理科大に勤《つと》めてたんですか?」
メイが聞いた。
「そうだよ。惑星学の教授だったんだ。専門は彗星《すいせい》でさ」
「あなた、お弟子《でし》さんなのね。そうでしょう?」と、ミセス・マーガレット。
「そう、俺、教授の研究室にいたの。教授が旗揚《はたあ》げしたときは、研究助手だったんだ」
「旗揚げって、海賊になるってことか」ヴィクターが聞く。
「そう」
「なんでだよ」
「教授さ、学内でのけ者|扱《あつか》いされてたみたいなんだ。CPUタイム(コンピューターの使用時間)の割り当てが少ないって、いつも文句言ってた。ああ、これ秘密だよ」
「それで飛び出したってのか」
「まあね。あるとき学部の会議で、例によって『もっとうちにCPUタイムをよこせ』って言ったら、『いまどき彗星の研究なんぞなんの役に立つ』って言われてキレちゃってさ。『俺に好きなだけコンピューターを使わせてみろ。十メートルの精度で彗星の位置推算をしてやる』って啖呵《たんか》を切ったんだ」
「まあ。かっこいいじゃないの、アンガスさんて。ねえメイ?」
「そうですね……」
「うん。そしたら『そんな精度で調べてなんになる』って言い返されて、で教授は『彗星の位置が十メートルの精度でわかりゃ、このアンクス太陽系を支配できる!』って怒鳴《どな》って、席を蹴《け》って退場したんだ。後で聞いた話だけどね。俺が見たのは、真っ赤になった教授が研究室にどかどか入ってきて『おい、お前も手伝え。これから電算室に行ってマシンをかっぱらうぞ!』って怒鳴ったとこさ」
「それであなた、手伝ったの?」
「うん。さすがにその日はやらなかったけど、有志あつめてさ。俺たちも相当《そうとう》頭にきてたから。で、ある晩電算室に忍び込んで、パワーローダーでコンピューターを運び出したんだ。それからトラックで港へ運んで、シャトルに乗せた。ちょうど衛星軌道《えいせいきどう》に学部で持ってる調査船が戻ってたから、そいつを乗っ取ったんだ。このガスプラね。あれから大改造しちゃって、見る影もないけどさ」
「素敵《すてき》ねえ……。私、そういう話って大好きなのよ。わくわくしちゃうわ。私も若いころはいろいろ無茶をしたけれど、あなたたちにはかなわないわね」
ミセス・マーガレットはうっとりしながら言った。
「じゃあここで働いてる海賊ってのは、みんな奴《やつ》の生徒かい」
ヴィクターが聞いた。
「今じゃ――全部で三十人だから――三分の一ぐらいかな。辞《や》めるのもいるし、襲《おそ》った船のなかでここで使ってくれって人がたまにいるんだ。船を奪《うば》われちゃ身の破滅だから、いまさら帰れないってね。悪いと思うけど、こっちも意地があるしね。教授の言ったことを証明してやろうってさ」
「太陽系を支配するってか?」
「そう。現に教授のやりかただとポートパトロールも歯が立たないしさ。ま、あんまり派手に暴れると向こうも戦力を増やすから、ほどほどにやってるけどね」
「そんなんじゃ支配したことにゃならないぜ」
「だけど痛快《つうかい》だよ。教授も前から宇宙海賊にあこがれてたみたいで、いろいろ調べてたらしいんだ。海賊始めて五年になるけど、マフィアより絶対いいと思うな。年に二、三度はこっそり地上に降りて羽根のばせるしさ。君も来たら?」
「俺が? いや、俺は……力学のことなんか知らねえし」
ヴィクターは、うつむき加減《かけん》になって言った。
「ろくに学校も出てないんだ」
「力学なんかどうでもいいよ。得意《とくい》なことがひとつあればさ」
「得意なことったってなあ……」
「そうかなあ。やっぱりプロのギャングが来てくれりゃ、俺たちもいろいろ参考になると思うんだけどな」
「いやあ、プロのギャングたってなあ」
ヴィクターは頭を掻《か》いた。まんざらでもない様子《ようす》だった。
「そうそう、ここだけの話だけどさ、教授はメイのこと気に入ってるみたいだったよ」
「え、そうなんですか?」
「あのあと言ってたんだ。決闘なんかするんじゃなかった、あれはここで仕込めばすげえ航法土になる、ってね」
「あの……それはうれしいですけど、でも――」
「いやいや、本気じゃないよ。ドロップアウトはしたけど、教授ってあれで結構分別あるんだ」
その時、一同は食堂の入口から数人の頭がつきだし、こちらをうかがっていることに気づいた。
「なんだい?」副長が声をかける。
「あの、お客さんの部屋の準備できましたんで……」一人が言った。
「ちゃんと、きれいに掃除《そうじ》しといたから」と、もう一人。
「まあ、ありがとう。海賊さんてとても親切なのね」
ミセス・マーガレットが言う。だが、彼らのめざす相手はこの老婦人ではなかった。
「それでその……まだ時間があるようだったら……」
「なんだい。入れよ」副長がうながす。
海賊たちは手に手に四角い板と小箱を持っていた。
「俺、チェスでいつもボスに負けてばかりなんで、ちょっとその子に手ほどきしてもらえねえかと……」
「お、俺も、そう思って来たんだ。こいつと鉢合《はちあ》わせしちまったけどよ」
「実は俺も」
「俺も」
海賊たちは口々に言った。
メイは小さく口をあけていたが、すぐに言った。
「それぐらいでしたら、喜んで」
海賊たちは歓声をあげ、嬉々として付近のテーブルを寄せた。メイのまわりには、たちまち五つのチェス盤がならんだ。
これはチェスの名人が興行《こうぎょう》でしばしば行なう、同時対局というものだった。
メイは五人の相手に対し、順番に手早く指していった。一方、海賊たちには充分な思考時間が与えられる。
だが実のところ、彼らの持ち時間の多くは、相手を眺《なが》めることに費《つい》やされていた。この男ばかりの船内にあって、メイは路地裏《ろじうら》に咲いた一輪の花のように見えたのだった。
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第五章 よみがえる泉
ACT・1 海賊船《かいぞくせん》ガスプラ
久しぶりにメイは熟睡《じゅくすい》し、さわやかな気分で目覚《めざ》めた。
夜のうちにガスプラは加速行程を終了し、船尾を小惑星三八五一四四に向けて、減速《げんそく》のための噴射《ふんしゃ》を始めていた。これは一見|無駄《むだ》に思えるが、宇宙船は車のようにブレーキを踏めばすぐ停まれるものではない。目的地に最も早く到着し、そこで停止するためには、道程の前半を加速し続け、残る半分を減速にあてなければならなかった。
メイとミセス・マーガレットが食堂に入った時、ヴィクターはすでに来ていて、数人の海賊と何やら話し込んでいた。
朝食はセルフサービスだった。トレイにサンドイッチといり卵とミルクを載せると、
「ここ空《あ》いてるよ!」
という声があちこちからメイに向けられた。
メイは少し迷ったあげく、そのひとつを選んだ。ミセス・マーガレットも隣《となり》に座る。
「どうだい、よく眠れたかい」海賊の一人が聞いた。
「ええ。ぐっすり」
「そりゃよかったな。今日はいろいろあるもんな」
「ええ。あの、アンガスさんはどうしてますか」
「ボスならまだ部屋にこもってるよ」
「もしかして徹夜したんでしょうか」
「心配いらねえって。ボスは四、五日ぐらい寝なくても平気なんだ。なあみんな?」
そうそう、という声。
「夜直《やちょく》に聞いたけど、ずっと赤外《せきがい》をやらされたらしいぜ」誰《だれ》かが言う。
「赤外って?」
「赤外線望遠鏡さ。マフィアのホシに向けたんだ。まだ形は見えねえが、普通よりずっと高い熱を出してたとさ。これで本決まりだな」
赤外線を使えば、離れた場所の温度を知ることができる。普通の小惑星ならマイナス七十度ほどの低温を保っているはずだが、小惑星三八五一四四はそれよりはるかに高い熱を放射しているという。海賊たちはそれまで、メイの話を信じるしかなかったが、これでひとつの証拠が加わったことになる。
そのせいだろうか――海賊たちは何気《なにげ》ない顔で朝食を口に運んでいたが、どこか、戦いを前にした、張りのようなものが感じられた。
食事がすんだ頃になって、副長が現れた。
「ボスがブリッジに来る。みんな集まってくれ」
よーし、きたきた、と言いながら、海賊たちはどやどやと立ち上がった。メイたちも、いっしょになってブリッジに向かう。
ブリッジはレールガンの砲塔の下にあり、結構な広さがあった。一列に並んだ窓の外には、氷の冠《かんむり》をかぶった船首が見えた。
アンガスは、中央の壇《だん》に立っていた。一同が集まると、彼は言った。
「もう知ってるだろうが、小惑星三八五一四四からは、天然《てんねん》には有りえんレベルの熱放射が検出された。ここがマフィアの本部だってこたあ間違いねえ。ゆうべからの観測じゃ、熱放射は一時間十四分の周期で変動している。これは奴《やつ》の自転速度と一致する。表面のどこかに放熱板があるんだろう」
「やっぱ、彗星《すいせい》の抜け殻《がら》なんですかい」海賊の一人が聞いた。
「そうだ。普通の小惑星なら地盤《じばん》に熱を捨てればいい。わざわざ放熱してるのは、でなきゃ何年かするうちにホシが溶けちまうからだ」
アンガスが手元の端末《たんまつ》を操作《そうさ》すると、正面の大型スクリーンに回転する小惑星がアニメーション表示された。
「こいつが狙《ねら》う星だ。長径は八百メートル。赤い点はヒート・スポット、熱放射のある場所だ。本部はこの近くの地下にあるとみていい。たいしてでかくはない。本部の容積はざっと十万立方メートル、大きめのビルってとこだ」
「あの、どうしてそこまでわかるんですか」メイが聞いた。
「熱の放射量から逆算するのさ。このテクは慣性《かんせい》航行中の船にも使えるぜ」
「あ、ほんとですね」
メイは感心して言った。
続いてアンガスは、さらに驚《おどろ》くべき発言をした。
「本部にいる人間だが、ざっと二百二十人だ」
「ええっ! どうして――」
「生命反応探知装置があるのさ」
「…………」
メイはいぶかしんだ。そのような装置のことは聞いたことがあるが、多くは人間の放つオーラや脳波を受信するといった、エセ科学に属する説明がなされていた。
「それって……どんな原理なんですか」
「種を明かせばどうってこたぁねえ。この船もそうだが、たいていの宇宙|施設《しせつ》は標準時《ひょうじゅんじ》にそって夜と昼を切り換える。朝になったら熱の放射もわずかに増えた。これはベッドから出た人間の活動ぶんだと考えていい。中で何をやってるかによって誤差は出るが、俺たちにゃデータの蓄積《ちくせき》がある。まあ、一割もはずしゃしねえ」
「すごーい!」
「だろ? 宇宙じゃ熱ってやつはそうそう隠せるもんじゃねえんだ」
アンガスは得意《とくい》げに笑い、端末のキーを叩《たた》いた。
スクリーンの小惑星が断面図に変化した。その一角に地下の本部が描かれている。
「これからの段取りは、俺たちにしても初めてのもんだ。よく聞け。俺たちゃ本部の裏側に突入する」
画面の右から、海賊船ガスプラが現れた。ゆっくりと小惑星に接近してゆく。
「十キロ手前で船首を前に向けて、隕石《いんせき》よけの氷塊《ひょうかい》を切り離す。次いで船は減速する。噴射で氷を溶かさないようにしてな。するってえと――」
スクリーンの上でガスプラから氷塊が分離し、船に先行するかたちで小惑星に近づいてゆき――やがて衝突《しょうとつ》した。
「自転と接近のタイミングをどんぴしゃり合わせて、地殻《ちかく》の一番弱いところを狙う。一メートルもはずしちゃならねえ。これで小惑星には深さ二十メートルの穴があく。本部は震度六の地震をくらうはずだ」
「氷塊をレーザーや固体弾で撃たれたらどうするんだ」ヴィクターが聞いた。
「あれは秘伝の圧縮加工がしてあって、けっこうな熱容量がある。すぐにゃ溶けねえし、弾があたってもばらばらに砕《くだ》けることはねえ。もともと隕石よけの盾《たて》だからな」
「なるほどな。で、地震で本部を混乱させて、その隙《すき》につけ入ろうってわけか」
「いーや。地震はすぐ終わるから、たいした効果はねえ。問題はこのあとだ。今の衝突でできたクレーターは地下のシャーベット部分まで達する。つまり表面の固い殻が破れて、凍《こお》ったとこがむき出しになってるわけだ。見てろ――」
アニメーションが再開した。
ガスプラは速度を落としながら、小惑星に接近してゆく。
一同は固唾《かたず》を呑んで、スクリーンを見守った。
ガスプラは針路《しんろ》を変えない。まっすぐ、生まれたてのクレーターに向かってゆく。
「もしかしてボス――」副長が言った。
「そうさ」
「本気ですかい?」
「本気さ」
「ホシは八百メートルあるんですぜ!」
「たかだか八百だ。熱容量は見かけよりずっと小せえ。氷たって隙間だらけのクラスレート包接《ほうせつ》化合物だからな。それにだ――」
アンガスは得意げに言った。
「四Gで加速できる宇宙船が、どれぐらいすげえ熱を出すか想像できるか?」
ACT・2 パレルモ基地
三日目――処刑の日の朝食を黙々とたいらげると、ロイドは言った。
「つかぬことを聞くが、君のほうのトイレはどうなってるんだ?」
「どうして?」
「抜け穴がないかと思ってね」
「真っ先に調べたけど、なかったわよ」
「ちょっと見せてくれないか。この目で確かめたいんだ」
「最後の悪あがきね。どうぞお好きに」
ロイドはマージの部屋のトイレに入り、すぐに出てきた。
「確かにな。がっかりだな」
「でしょ」
マージはため息をついた。
今日の夕方には装置が届き、処刑が始まる。今までそうすることをつとめて避けてきたが、マージはクレメントの趣味《しゅみ》について、不吉《ふきつ》な想像をしないではいられなかった。装置を使って、クレメントはロイドをさんざん痛めつけ、飽《あ》きたところで処刑に及ぶにちがいない。それについては、いくらか切なくはあるが、あきらめていた。ロイドはそれだけのことをしてきたのだし、少なくとも理不尽《りふじん》とは思えなかった。
だが、自分の扱《あつか》いはどうだろう? クレメントの憎悪《ぞうお》は、もっぱらロイドに向けられるだろう。だが、それとは異なる種類の満足を、クレメントが自分に求めたら……。
「マージ」
久しぶりに女に生まれたことを恨《うら》めしく思っていると、ロイドがまた言った。
「何もなかったよ」
ロイドはこちらの目を、のぞき込むように言った。
マージはその時初めて、自分の知らない、何かが進行していることに気づいた。
「だ――だから言ったじゃない」
マージは目顔で相槌《あいづち》をうった。
サインの交換は終わった。
ロイドが自分の部屋に戻ってしばらくして、マージはおもむろにトイレに入った。
洗面台の上に、紙切れが置かれていた。
そこには、ロイドの字で、こう書かれていた。
[#ここから2字下げ]
親愛なるマージ。
トイレにはカメラもマイクもないんでな。
カウフマンが逃走を手伝うと言った。信じていい。
今日の午後五時、貨物船が入る。拷問《ごうもん》装置を積んだやつだ。
その時、ドッキング・ベイの扉《とびら》が開くから、アルフェッカ号で逃げるチャンスがある。
入港直前に、火災報知機が鳴ることになってる。場所はドッキング・ベイだ。
その時俺たちはまだ部屋にいる。
外には見張りがいて、警報が鳴っても動かない。しかしだ……
[#ここで字下げ終わり]
続く十行ほどの脱出手順を頭にたたき込むと、マージは手紙を細かくちぎってトイレに流した。
それからにんまり笑った。やってくれる。悟《さと》ったような顔をしていて、ロイドは最後まであきらめていなかったのだ。
元の顔に戻るのにいくらか時間を費《つい》やしてから、マージはトイレを出た。
基地のレーダーが、高速で接近する物体をとらえたのは、その時だった。
ACT・3 指令室
クレメントが入ってくると、レーダー係はスクリーンの光点を示して言った。
「これです。まっすぐこちらに向かってきます」
「うちの貨物船じゃないだろうな」クレメントが言った。
「いいえ、貨物船は方向が全然違います」
「ポートパトロールだというのか」
「こんな速度では飛べないはずです。できるとしたら海賊《かいぞく》くらいのもので」
「海賊? アンガスか。もっと分《ぶ》をわきまえた連中だと思ったがな」
クレメントは、同じテリトリーを徘徊《はいかい》するこの海賊に、さほど注意を払っていなかった。アンガスのことは、大学をドロップアウトして海賊ごっこを始めた変人だと聞いている。いつか始末しなければならないが、このバルジ内で一|隻《せき》の海賊船を追うとなると、その何十倍もの戦力が必要になる。ならば、わざわざこちらから出向かなくても、ぶつかった時に思い知らせてやればすむことだ――クレメントはそう考えていた。
「どうしますか」
「砲台の射程に入るのはいつだ?」
「午後四時頃になります」
「うちの船が巻き込まれると面倒《めんどう》だな。貨物船に到着を一時間遅らせるよう連絡しろ。海賊には何も呼びかけるな。向こうからの通信にも応じる必要はない。挨拶《あいさつ》は砲弾で充分だ」
「承知しました」
「ふん」
指令室を出ながら、クレメントは口の端をゆがめて笑った。
「これで楽しみが一時間延びたってことだな」
ACT・4 海賊船ガスプラ
午後三時。
朝の打ち合わせから、七時間がすぎていた。それは長いような、短いような、不思議《ふしぎ》な時間だった。メイたちは、食事の時を除《のぞ》けばずっとブリッジにいた。
「なあ、アンガスさん……」
一時間後に突入という、この時になって、ヴィクターが、おずおずと切り出した。
「俺《おれ》、仲間に入れてくれねえかな。基地のことは知らないから、大した力にはなれないけど、銃と宇宙服なら使えるし」
「お前がか」
「これでもマフィアのはしくれなんだ。いや、だったっていうのか――寝返るのは確かだけどよ、俺、この作戦が失敗したら終わりなんだ。だから死ぬ気でやる。約束する」
「よし。おまえは第二小隊だ」
アンガスはあっさり許可した。
海賊たちは二小隊、各八名の編成で襲撃《しゅうげき》を行なうことになっていた。それぞれの小隊にはパワーローダーが一台つく。このパワーローダーには宇宙空間でも活動できるように、噴射装置が取り付けられていた。
アンガスと副長、および操船・機関要員は船に残る。
「メイと婆《ばあ》さんは食堂にいろ。あそこが一番安全だ」
「いいえ、私はここにいますよ。こんな面白《おもしろ》いものを見逃《みのが》すなんて、絶対いやだもの」
ミセス・マーガレットは言ったが、アンガスは断固として拒否した。
「いいかい婆さん、これから戦争なんだ。女子供のでしゃばる時じゃねえ」
「マーガレットさんは食堂へ行ってください」
メイが言った。
「でも、私はここにいます」
「おいおい嬢ちゃん」
「これは私が言い出したことなんです。それに、ロイドさんとマージさんのこと、いちばんよくわかってます。こういうときは、二人の動きを適切に判断しないと、うまく助け出せっこありません」
「だがなあ」
「宇宙服の扱《あつか》いも慣《な》れてます。これでも船乗りなんです」
「よーしよし、わかった。メイはここに残っていい。婆さん、あんたは食堂だ。おい」
アンガスは副長に命じた。
「婆さんを食堂に連れてって、宇宙服を着せてやれ。着せたらすぐ戻れ」
「へい」
アンガスはマイクをつかみ、全船に通達した。
『総員戦闘態勢! 宇宙服着用! 二十分後に全船のエアを抜く』
それからメイに言う。
「そこのラックからなるべく合う服を探せ。右手の奥にトイレがある。そこで着替えろ」
「はい」
メイはいちばん小さいサイズの宇宙服を選ぶと、いったんブリッジを離れ、数分後に戻ってきた。手には畳《たた》んだブレザーとスカートがあり、メイはそれを宇宙服のラックに押し込んだ。かわりにヘルメットを取る。それからアンガスの隣《となり》に立ち、まっすぐ前を見た。これから起きることは何ひとつ見逃すまい――そんなまなざしだった。
もう、誰《だれ》も無駄口《むだぐち》をたたくのをやめていた。真剣勝負の始まりだった。
午後四時。
ガスプラは減速《げんそく》行程をほぼ終了し、百八十度回転して船首を前方に向けた。
小惑星は前方百キロにあり、今は氷塊《ひょうかい》の盾《たて》にさえぎられて見えなかった。回転の途中にちらりと見えたその姿は、目の前に浮かんだ黒曜石《こくようせき》のようだった。
不意に氷塊の向こう側に、白い霧のようなものが閃《ひらめ》き、同時にかすかな震動が走った。
あんなところにバーニア・ノズルが? とメイが思った直後、「盾に被弾《ひだん》!」という声がした。
「もう当てたか。連中、なかなかいい砲を持ってるな」
アンガスは平然と言った。
「ペリスコープを出して砲台の位置を精測《せいそく》しろ。砲術手、盾を切り離したらこっちは裸だ。必ず当てろ」
「了解」
ガスプラは秒速一キロの速度で接近していた。小惑星に衝突《しょうとつ》するまで、あと二分とかからない。
「盾に被弾。本体への損傷《そんしょう》なし」
被弾の頻度《ひんど》はしだいに増してきた。
「盾の分離機構をチェックしろ。まもなくだ。操舵手《そうだしゅ》、分離後の質量減を忘れるな」
「了解」
「敵砲台位置確認。現在三門が砲撃中、ただし十キロ地点で一門が死角に入ります」
「よし。砲台位置をFCSに登録」
「FCS登録」
「操舵手、盾分離の十秒後からランダム回避だ」
「了解」
「盾分離、五秒前、四、三、二、一、分離」
軽い震動とともに、前方の氷塊が離れた。
氷塊はゆっくりと前方に動いてゆき、そのまわりから、小惑星の黒々とした姿が現れた。
直後、船全体がぐい、と突き動かされるのがわかった。盾を失ったガスプラが、不規則な回避運動を始めたのだった。
「主砲発射!」
小惑星の表面で、青白い火花が散った。
「敵砲台一、命中確認!」
「いいぞ。その調子だ」
その時、衝撃《しょうげき》が走った。
「右舷《うげん》船首に被弾――C二十三ブロック、隔壁閉鎖《かくへきへいさ》!」
「整備班を向かわせろ。逆|噴射《ふんしゃ》エンジンはどうか」
「大丈夫《だいじょうぶ》です」
「よし」
「盾に砲撃が集中!」
氷塊は前方の空間を秒速一キロで進みながら、激しい砲火をあびて、回転花火のように破片をまき散らしていた。パレルモ基地がその危険に気づいたのは明らかだった。そのぶんこちらへの砲撃が減るが、氷塊は所期《しょき》の成果をあげてくれるだろうか。
「大丈夫、いける! あと六秒」
「もろに見るんじゃねえぞ! 四、三、二、一!」
アンガスが怒鳴《どな》った。
メイは顔をそむけた。
直後、前方の地表に巨大な閃光《せんこう》がほとばしり、ブリッジは一瞬真っ白になった。
ACT・5 パレルモ基地
突き上げるような衝撃があって、部屋全体が蹴飛《けと》ばされたようだった。バーの酒瓶《さかびん》やグラスがすべて空中に取り残され、ついで盛大な音をたてて床に砕《くだ》け散った。
マージは床に投げ出され、数回ころがった。
「マージ、大丈夫か」
顔をあげると、ロイドが手をさしのべていた。
「ええ。いったい何? 小惑星に地震?」
「わからん。限石《いんせき》でも落ちたかな。――血が出てるぞ」
右手の甲だった。ガラスの破片で切ったらしい。
マージは傷をなめながら、あいた手で髪に触れた。濡《ぬ》れている。
不吉な予感をいだきながら手を見たが、ブランデーの臭《にお》いがしただけだった。
どこかで警報ベルの音が聞こえる。
「鳴ってるわね」
ロイドは首を振った。あれじゃない。時間が早すぎる。
「だいたい今の揺れは何なんだ」
「見張りに聞いてみたら」
「そうだな」
二人はドアに寄り、内側からノックした。
「おおい、開けてくれ。今のはなんだ!」
少し間があって、ドアが開いた。
見張りの男は額《ひたい》にあざをつくっていた。
「あんたらは無事《ぶじ》か」
「ああ。マージが手を切っただけだ。何があったんだ」
「わからん」
その時、壁《かべ》のスピーカーから放送が流れた。
『保守要員は持場を点検しろ。守備隊はただちに戦闘配置。基地は現在、海賊《かいぞく》の襲撃《しゅうけき》を受けている。繰《く》り返す、基地は今、海賊の襲撃を受けている』
「なんてこった。あんたらは中にいろ」
見張りはそう言うと二人を部屋に押し戻し、ドアを閉めた。
「海賊って、アンガスのこと?」
「らしいな。ここじゃアンガスぐらいのもんだろう。しかし、なぜだ?」
マージは首を振った。
「わかるのは、運が向いてきたってことだけか……」
ロイドはそう言った。
ACT・6 海賊船ガスプラ
クレーターが濃厚《のうこう》な白煙に包まれていたのは、ほんの数秒間だった。高熱で融けた塵《ちり》や水蒸気はみるみるうちに真空の中に拡散してゆき、ガスプラが逆噴射エンジンを全開にしてそこに達した時には、少なくとも百メートルの視程があった。
だが、それも束《つか》の間《ま》だった。
高温のプラズマ噴射がクレーターをあぶると、内部の氷は爆発的に気化し、窓の外はミルクの海のようになった。水蒸気が船体を押し戻そうとするのがはっきりわかる。
「負けるな、メインを噴《ふ》かせ! 地表高度は!?」
アンガスが怒鳴る。
「マイナス十二メートル」
「よーし、もう穴の中か。秒速三メートルで前進!」
「了解!」
この時、パレルモ基地を発進した四機の戦闘機は、地表すれすれに小惑星をまわりこみ、クレーターのすぐそばまで来ていた。突如《とつじょ》として沸《わ》き上がった水蒸気と土砂の柱が視界を奪《うば》ったかと思うと、直後、機体は分解をはじめていた。パイロットには、何が起きたのか考える暇《ひま》もなかっただろう。
そしてクレーターの中を突き進むガスプラは、建造以来ついぞ聞いたことのない、大気と水が船殻《せんこく》を叩《たた》く音に包まれていた。外気温は数百度に達しており、一寸先も見えない濃厚なガスの中から、沸騰《ふっとう》する巨大な泥水の塊《かたまり》が突然現れては、ブリッジの窓を洗い流していった。乱流の中で宇宙船は木の葉のように揉《も》まれた。
「姿勢を保て! 穴の中心をそれたらおしまいだぞ!」
「やってます!」
近距離レーダーを信じる限り、周囲の空洞は目ざましい速度で膨張《ぼうちょう》しており、すでに半径百メートルに達していた。高温高圧の水と土砂は、穴の入口から宇宙空間に飛び出すとたちまち気化熱を奪《うば》われ、フリーズドライ粒子《りゅうし》となって四散《しさん》してゆく。
「いいぞ、この調子だ。行け! どんどん行け!」
アンガスは額に汗をうかべながら、昂然《こうぜん》と怒鳴った。すでに船体の数十箇所に破損《はそん》と過負荷《かふか》が発生していたが、アンガスは気にしなかった。
「見たか、俺《おれ》たちゃ今、エンジンの炉心《ろしん》になってるんだ!」
「現在、深度三百メートル!」
「第一・第二小隊、もうじき出るぞ、準備しろ。空洞はどこまで広がった!?」
「直径二百二十メートル」
「五百に届いたら出力を半分にしろ。やりすぎると爆発しちまうからな!」
アンガスはそう言って、がははと笑った。
二百七十万年前の衝突《しょうとつ》を生き延びた小惑星三八五一四四は、いまや崩壊《ほうかい》の危機に瀕《ひん》していた。ガスプラが突入したクレーターは、すでに百メートルを越す大穴になり、火山のような勢いで内部の物質を噴《ふ》き出していた。
内圧の上昇とともに、小惑星全体に亀裂《きれつ》が成長し、逃げ場を求めた水蒸気がそこを這《は》い昇っていった。水蒸気は地表に達すると、無数の噴泉《ふんせん》となって高々と吹き上がり、束の間の大気となって周囲をとりまいた。それはこの星がかつて彗星《すいせい》であった時代に、太陽|近傍《きんぼう》で見せたであろう光景に酷似《こくじ》していた。冷えきった彗星は、その終焉《しゅうえん》を前にしたひとときに、いにしえの泉をよみがえらせたのだ。
時間とともに数を増してゆく噴泉は、しだいにある明確なパターンを描いて立ち並び始めた。それは惑星の海溝《かいこう》や島弧《とうこ》を思わせる曲線であり、互いに結節《けっせつ》しながら地表を十あまりの区域に分断していった。
そしてついに、崩壊の時が来た。
亀裂から一斉に水蒸気が噴き出し、分断された地殻《ちかく》がゆっくりと互いの距離を広げてゆく。このとき地殻は百メートルの厚みしかなく、まるでオレンジの皮の断片のようだった。
ACT・7 パレルモ基地
基地の主要部分は直径三十メートル、全長百二十メートルの円筒《えんとう》に納められており、全体は気密・断熱構造で、ひとつの宇宙船に近い構造を持っていた。だがその構造は、地表の装甲《そうこう》を除《のぞ》けば、宇宙船に較べてはるかに脆弱《ぜいじゃく》なものだった。
このことで設計者を責めることはできないだろう。基地が何Gもの加速にさらされることはありえず、一平方メートルあたり十トンに達する内圧も、周囲の地殻が受け止めてくれるはずだったのだ。
だが――アンガスの目論見《もくろみ》どおり――基地の存在は地殻に深い穴をうがつことになり、地質構造上の弱点を生んでいた。地割れが成長する過程で、そのひとつは基地を横切り、小惑星が崩壊した時、外壁の半分は真空の宇宙にさらされた。断面に真円を選んだことが幸いして破裂《はれつ》はまぬがれたものの、とても安心できる状態ではなかった。基地の残る半分を包む地殻は熱膨張《ねつぼうちょう》によって歪《ゆが》んでおり、それが基地全体を圧迫していた。すでに各所で空気|洩《も》れが生じており、その区画は増える一方だった。
内部は混乱の極致《きょくち》だった。指令室からの放送が途絶えると、宇宙船のように窓のないことがそれに拍車をかけた。
人工重力が止まり、部屋の照明が非常灯に切り替わるのを見ると、ロイドとマージは脱出にとりかかった。
ドアを蹴破《けやぶ》って廊下へ飛び出すと、すでに見張りの姿はなく、代わりに不慣《ふな》れな無重量状態の中でなんとか脱出しようと四苦八苦する者たちがいた。壁には、宇宙船なら必ずある手がかりや足がかりがなかった。ロイドとマージは、靴《くつ》の摩擦《まさつ》を利用して、ジグザグに壁を蹴りながら進んだ。
来たときの道を逆にたどり、アルフェッカ号のあるドッキング・ベイをめざす。
だが、やがて通路は閉じた隔壁《かくへき》で行き止まりになった。
「道を間違えたか?」
「これでいいはずよ」
マージは隔壁にとりつき、拳《こぶし》で叩いてみた。
その奇妙な響《ひび》きから、重要な事実が判明した。
「向こうは真空ね」
「なんてこった」
「どうする? 手動《しゅどう》で開けて、また真空渡りをやる?」
「確か、ここからドッキング・ベイまでほんの二十メートルぐらいだったな」
「ええ」
「それでいくか。アルフェッカ号に乗り込んじまえば勝ちだからな」
ロイドは通路を引き返し、ひとつ内側の隔壁を閉鎖《へいさ》した。
それからもとの場所に戻り、マージとともに深呼吸を何度も繰《く》り返した。こうして血液中に酸素を充分にため込めば、肺の空気を全部吐き出しても数分間は生きていられる。
マージに体を支えてもらいながら、ロイドはゆっくりと、隔壁のハンドルをまわした。
空気が不気味《ぶきみ》な音をたてて抜けはじめた。
数ミリの隙間《すきま》ができたところで、通路が真空になるまで待つ。
気圧の低下とともに、耳が鳴り、空気が冷えはじめた。
二人は口を開いて、肺の空気を逃がした。
やがて何の音も聞こえなくなると、ロイドはハンドルをひといきに回し、体が通れるまで隔壁を開いた。
二人は隔壁をくぐり、先を窺《うかが》った。
通路は数メートル先で消滅《しょうめつ》し、宇宙が口を開けていた。その宇宙が奇妙に白っぽいことに二人は気づいたが、すぐ別のものに目を奪《うば》われた。
吹き飛んだ通路の先に半壊《はんかい》したドッキング・ベイがあり、裂け目の間から見えたのは、まぎれもない、アルフェッカ号の船殻《せんこく》だった。
直線距離にして、ほんの二十メートル足らず。
これならいける。
二人はそう判断し、背後の隔壁を蹴った。
もう少し慎重《しんちょう》に状況を見極《みきわ》めていれば、二人は思いとどまったに違いない。だが、この状況で、ゆっくり考えている時間はなかった。基地の外で起きたことをまったく知らず、ましてすぐ先に懐《なつ》かしいアルフェッカ号が見えたとなれば、無理もないことだった。
二人がそれに気づいたのは、宙に漂《ただよ》い出た直後だった。
真空の谷間と思えた空間には、気流があったのだ。
それはほんの微風といってよかったが、体を一メートルほど押し流すには充分だった。
二人はドッキング・ベイに取り付くことができなかった。
二人は流され続けた。
その先は数億キロにわたって、何もつかまるものがなかった。
ACT・8 海賊船《かいぞくせん》ガスプラ
「どうだ。基地はまだ見つからんのか」
「どうも破片が多すぎて、レーダーじゃわかりません」
「しょうがねえな。霧が晴れるまで待つか」
アンガスはそう言って、腕を組んだ。
メイは待っていられなかった。
窓のそばに寄り、外に目をこらす。
沸騰《ふっとう》する小惑星の中心にいたガスプラは、今も濃霧《のうむ》に包まれていた。
霧は太陽光を反射してまばゆく輝いており、その中に、長い影を引きながら無数の地殻の破片が漂っている。
その時、メイははるか前方に、人影を見たような気がした。
「あそこに――」
メイはアンガスのほうに振り返って叫んだ。
「あそこに誰《だれ》かいます!」
「どっちだ!」
「左二十五度、上三十度! 距離四百メートル!」
「よし、その向きに前進!」
「了解」
ガスプラは移動を開始した。
だが、接近しているはずなのに、なかなかそれらしいものが見えてこない。
「どこだい、嬢ちゃん」
「たぶん……たぶん正面の大きい破片のそばです」
「見えねえがな」
「さっき、確かに見えたんです!」
「ん――?」
移動するにつれて、霧が薄れてきた。
破片の輪郭《りんかく》に、天然《てんねん》のものとは思えない、直線部分が見えてきた。
「なんだありゃ、基地の一部か?」
「その向こう! 左二度、距離百五十!」
メイがまた叫んだ。
「二人……あれ、ロイドさんとマージさんです! う――宇宙服を着てない!」
アンガスがマイクに向かって怒鳴《どな》った。
「第一小隊、外扉開け。十秒後に出動だ! 外に二人いる。大至急《だいしきゅう》収容しろ!」
それから操舵手《そうだしゅ》に言う。
「右舷《うげん》のハッチ前にどんぴしゃ合わせろ。あわてず急げ! 噴射《ふんしゃ》で焼くんじゃねえぞ!」
「了解!」
ロイドとマージが収容されたのは、それからきっかり二十秒後だった。
メイはブリッジを飛び出し、螺旋《らせん》階段を駆け降りて、急遽《きゅうきょ》空気の満たされた格納庫《かくのうこ》に飛び込んだ。
エアロックの前の床《ゆか》で、ロイドがむっくりと半身を起こしたところだった。
「ロイドさん!」
次いでマージも起き上がった。腕が動き、真空に痛めつけられた目をこする。
メイは膝《ひざ》をつくなり、二人まとめて抱きついた。
「あー、死ぬかと思ったぜ……」
ロイドはそう洩《も》らし、視線を胸元に下ろした。
「ん……ここにしがみついてるのは誰だ……?」
「メイ……メイなの?」マージが言った。
しがみついている誰かは、涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげた。
それは確かにメイだった。
ACT・9 パレルモ基地
クレメント・ファミリーの貨物船は、基地まで千キロの位置に来ていたが、突如《とつじょ》前方に発生した異変を見て、それ以上近寄れずにいた。
ドッキング・ベイにはまだ数|隻《せき》の宇宙船が残されていたが、ロイドたちがそうだったように、そこへ行くには真空の谷を渡らねばならない。
こうなると、基地は羽根をもがれたも同然だった。
アンガスは共通波で呼びかけた。
「こちら宇宙海賊ドクター・アンガス。パレルモ基地、誰か生きてるか?」
少しして、返事があった。低い声だった。
『……アンガスか』
「そう言うあんたは、クレメントだな?」
『そうだ。シグノラ・クレメントだ』
「ドッキング・ベイに通じる通路がいかれてる。もう逃げられんし、基地も長くはもたんだろう。こっちに収容してやるからおとなしく投降しろ。通路の隔壁《かくへき》をエアロックがわりに使え」
通信機はしばらく沈黙した。
やがて、同じ声が言った。
『いま部下に命令した。よろしく頼む』
それから、ふっつりと通信は途絶えた。
二百名あまりをガスプラの格納庫に移乗《いじょう》させるのに、三時間かかった。
エアロックが開くたびに、海賊たちは現れたマフィアたちの手を縛《しば》り、格納庫の片隅《かたすみ》に座らせた。
最後の移乗が終わった頃には、格納庫の床はマフィアだらけになった。
アンガスはロイドに聞いた。
「どれがクレメントなんだい」
「探してるんだが、いないようだな」
アンガスはマフィアたちに向かって言った。
「おーい、おめえらの親分はどうしたんだ?」
マフィアたちも互いに顔を見合わせている。
やがて一人が答えた。
「ボスは……指令室で自害されました」
アンガスは、ごくりと唾《つば》を呑んだ。
「……そうか」
代わってロイドが聞いた。
「カウフマンはどうした。奴《やつ》もいないようだが」
誰も答えなかった。
本当に、知らないようだった。
その時、窓のそばにいた海賊の一人が叫んだ。
「おい、あれを見ろ!」
見ると、すぐ外に浮かぶ残骸《ざんがい》の向こうから、一隻の小型宇宙船が飛び出してゆくところだった。
「しまった、あそこに乗ってやがったか!」
アンガスは舌打ちした。
それから急に、あることに思い当たって、基地の内部を捜索している第二小隊を無線で呼んだ。
「こちらアンガス、第二小隊、あれ[#「あれ」に傍点]はあったか!?」
『はいボス……金庫はありました』
その声は、奇妙に沈んでいた。
「中身はどうなんだ!」
『それが……』
「はっきり言え!」
『空《から》でさあ』
「…………」
アンガスはマイクを壁に叩《たた》きつけた。
「なんてえこったあ! おい!」
アンガスは副長に怒鳴《どな》った。
「あの船を追うぞ。発進準備だ、急げ!」
「ボス、そりゃ無理です」
「なんでだ!」
「さっきの無茶で、あちこち壊《こわ》れてて、修理に二日は」
「飛びながら直せ! 少々の無理はきくはずだ!」
「盾《たて》なしでですかい?」
「う……」
アンガスは言葉につまり、くたくたと床に膝《ひざ》をついた。
「なんてこった……」
「こりゃ、また貧乏くじだったなあ、アンガス」ロイドが笑いかける。
「うるせえや、この恩知らずめが」
「あらあらアンガスさん――」
いつの間にか現れたミセス・マーガレットが言った。
「そんなに気を落とすことはないわ。すごい収穫《しゅうかく》だったじゃないの」
「何がだ」
「こんなにたくさん仲間ができたわ。二百人もいるのね。若い人も多いし、ここで使ってやれば、きっとよく働くわ。そうよ、警察に突き出されることを思えばね」
「ば、馬鹿《ばか》言うんじゃねえ! 二百人だぞ、二百人!」
「あら、ヴィクターさんは雇《やと》ってあげたんでしょう? そう聞いたわよ」
「ありゃ、先着一名限りってやつだ」
「じゃあメイは雇ってあげないの?」
「……何?」
アンガスは顔をあげた。
ミセス・マーガレットは言った。
「メイはね、ミリガン運送をクビになったの。でも、私にはわかるんだけれど、家には帰りたくないみたいなのね。まだまだ宇宙で働きたくてしかたがないの。航法士としてね」
「……ほんとか?」
「そうでしょ、メイ?」
「えと……」
メイはどぎまぎした。
ちらり、とロイドのほうを見る。
「私……どうしよう」
アンガスが立ち上がり、急に改まった顔でメイに向かった。
「メイ、おめえがここで働くってんなら、俺《おれ》は――」
「ちょーっと待った。何言ってるんだ、アンガス」
ロイドが割って入る。
「誰がメイをクビにしたって? メイはうちの大事な社員だ。この子がいなきゃアルフェッカ号は飛ばん。誰が海賊なんかに渡すもんか。なあ、そうだろメイ?」
「ロイドさん……」
メイはロイドを見上げ、しばらく言葉が出なかった。
「ほらほら、そうだって言えよ」
メイはすうっと息を吸い込み、それから、とびきり明るい声が格納庫に響《ひび》いた。
「そうです!」
二日後、修理を終えた海賊船ガスプラとアルフェッカ号は、薄れゆく彗星《すいせい》の霧《きり》の中を、そろそろと発進した。アルフェッカ号にはミセス・マーガレットが乗っており、ポート・バッジスに送り届けることになっていた。
それにしても宇宙には、離れてみなければわからないことがいくつかある。
自分たちのしでかしたことが客観的にわかってきたのは、五千万キロも進んだ頃からだった。
少なくとも七千万トンの氷と土砂は、自転する小惑星から高速で噴射《ふんしゃ》されたために、巨大な螺旋《らせん》を描こうとしていた。その中で微小粒子《びしょうりゅうし》は太陽風に押し流され、今まさにカーテンのように延びてゆくところだった。ことに太陽風に乗りやすい電離分子《でんりぶんし》は毎秒百キロもの速度で他をだしぬき、複雑にもつれあいながら、白銀のレース模様《もよう》を編みあげようとしていた。それらはこの彗星に富んだアンクス太陽系にあっても、まず千年に一度の見ものだった。
だが不幸にも、この壮観《そうかん》をメイが楽しむゆとりは、あまりなかった。
彼女は全船にわたる、徹底的な清掃《せいそう》ならびに整頓《せいとん》作業に忙殺《ぼうさつ》されていた。
自分がいないあいだ――アンクスからパレルモ基地まで、たった三日間の航海のうちに船内をこれほどまでに汚せるとは、いまだに信じられない気がした。ことに換気システムの劣化は著《いちじる》しく、二酸化炭素分圧は生命を落としかねないレベルにまで達していた。
このことでロイドを追及すると、彼はこう言った。
「だから言ったじゃないか。メイがいなきゃアルフェッカ号は飛ばん、とな」
ごまかされないぞ、という顔のメイに、ロイドはつけ足した。
「離れてみて、わかったのさ」
[#地付き](完)
[#改ページ]
あとがき
「おまえの小説だが、どこがスペースオペラなんだ」と、彼は言ったものです。
たしかに、前二作にはスペオペにつきものの怪物も光線銃も宇宙海賊も登場しませんでした。私は仕方なく、こう答えます。
「加速のいい宇宙船なら出てくるぞ。三Gだ、すごいだろ」
「三Gってそんなに速いのか?」
「太陽系をたった十日で横断できる」
「十日もかかるのか。退屈だな」
夢のような速度であることを彼は理解せず、さらに言います。
「だいたい、ヒーローがいないじゃないか。おまえの宇宙船は女が操縦してばかりいる。広川太一郎の声が似合うような、かっこいい宇宙英雄はいないのか」
「いちおう、英雄不在のスペースオペラ、という方針なんで」
「どうして?」
「そりゃまあ、その……」
照れくさいのでずっと秘密にしてきましたが、白状しましょう。
スペースオペラに欠けがちで、あればいいなと思うものに「心のやさしさ」があります。正義とか友情はよく描かれるのですが、やさしさとは別のものです。やさしさを前面に出し、正義や友情が控えられると、英雄の出る幕はありません。
そんなわけで、本書の主役は料理とチェスの得意な十六歳のナビゲーター、メイ。
この、何を言うにも「あの」で始まる心やさしい少女が、自分なりのやり方で、およそ柄にない難題に挑む、というお話です。
それにしても。
開き直ってはみたものの、スペオペと銘うつ以上、ひとつぐらいは「らしい要素」を加えたいものです。そこで今回は、思い切って宇宙海賊を登場させました。
これは理屈屋の作者としては、かなり勇気のいることでした。
宇宙海賊が生きてゆくためには、なんらかの方法で相手を出し抜く必要があります。つまりは「技量の差」ですが、多くがシンプルな物理法則に支配されている宇宙空間で、どんな差がつくというのでしょうか……。
そんなある日、天文雑誌に面白い記事をみつけました。もし現在の太陽系に木星や土星のような巨大惑星がなければ、地球に衝突した彗星の数は千倍にもなっただろう、という説です。
彗星が千倍! なんとも想像力をかきたてる世界です。見かけほど凄いかどうかは検討の余地がありそうですが――作者はいくらか誇張した上で、これを宇宙海賊たちにプレゼントすることにしました。
最後に。
本は下調べから装丁、印刷に至るまで、大勢の人の手によって完成します。これを無造作に「私の本」と語ることには罪悪感をおぼえます。もちろん内容にミスがあれば、その責は作者の負うところですが――。
ホビー・データの大宮氏、イラストの弘司さん、富士見書房の菅沼さん、そして(財)横浜市青少年科学普及協会の山田さんと、ニフティサーブ・SF/科学/チェス/天文フォーラムの皆さん。
いつか恩返しができればいいのですが。
[#地付き]野尻抱介
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
クレギオン アンクスの海賊《かいぞく》
平成5年6月25日 初版発行
平成6年2月28日 再版発行
著者――野尻《のじり》抱介《ほうすけ》