クレギオン フェイダーリンクの鯨
野尻抱介
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目 次
第一章 アルテミナ脱出《だっしゅつ》
第二章 ハイドラーたちの村
第三章 オデット基地
第四章 水素の海へ
あとがき
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第一章 アルテミナ脱出《だっしゅつ》
ACT・1 ワイデ島
フローズン・ダイキリは女の飲《の》む酒だと思っていたが、悪くないじゃないか。
ロイド・ミリガンはそう思いながら、二|杯《はい》目を注文した。デッキチェアに身を沈《しず》めたまま、テーブルの小海老《こえび》に手を伸《の》ばす。赤道|海峡《かいきょう》で捕《と》れた海老は、赤くゆであがり、あっさりした塩味で仕上げられていた。
セリア=アルテミナ星の熱帯域にあるワイデ島は、年中観光シーズンだった。真上から照りつける太陽で、白い砂浜《すなはま》は陽炎《かげろう》に揺《ゆ》れている。大勢の観光客は、ほうぼうで肌《はだ》を灼《や》き、海や仲間とたわむれていた。
したがって、サングラスをかけていても、怪《あや》しまれない。
身を隠《かく》すには、ちょうどいい所だ。
周囲にとけこむなら、日除《ひよ》けのあるテラスで酒を飲んでいるのがいちばんだろう。もう、肌を灼いたり砂浜をはねまわる歳《とし》ではないし、ロイドは酒が好きだった。
波打ち際《ぎわ》から、二人の女がこちらに歩いてくる。背の高い方は、鳶色《とびいろ》の髪《かみ》の、とびっきりのプロポーションだった。白いハイレグの水着が、小麦《こむぎ》色の肌をよく引き立てている。その横にいるのは、まだ十代で、やせっぽちだった。あまり陽に灼けていない。
二人とも、髪から水をしたたらせていた。
「水遊びは楽しいかね」ロイドは、年上の方に言った。
「メイは楽しんでるようよ」
二十八歳になるマージ・ニコルズは、そう言って傍《かたわ》らの、若い方の娘《むすめ》を見た。
メイ・カートミルは息をはずませて言った。
「海って初めてなんです。広くて、塩辛くて、いつも揺れてて、不思議ですよね。生き物もいっぱいいるし」
「ああ。まったく不思議さ」
「体が軽くなって、とっても気持ちいいし――」
足元にボールが転がってきた。遠くで、すみませーん、という声。
メイはボールをつかまえると、少し考えて、おもむろにボールを投げ返した。ボールは持主《もちぬし》の二メートルほど右の砂地に落下した。
「まだ勘《かん》がつかめないようだな、メイ」
「一Gだとつい自転方向を考えちゃって……」と、乾《かわ》き始めた金髪《きんぱつ》を掻《か》く。
「ここじゃコリオリ力は無視していいのよ」
マージが言う。
「ボール投げくらいならね」
メイと呼ばれた少女は十三歳まで表面重力〇・六Gの惑星《わくせい》で育ち、それから三年間、一Gのシリンダー型コロニーにいた。その回転重力下では、普通《ふつう》に投げたボールもちょっとした変化球になるのだった。
「そうですよね。頭ではわかってるんですけど」
「じき慣《な》れるさ」
二人の女はロイドの前の椅子《いす》に腰《こし》をおろした。
「喉《のど》がからから。メイも飲む?」
「はい」
「パインジュースはどうだ、メイ。とんでもない代物《しろもの》だぞ」
「え、どんなですか?」
「見ればわかるさ。君は?」
「あなたと同じでいいわ」
ロイドは指を立てて、ウェイターを呼んだ。
「このお嬢《じょう》さん方にダイキリとパインジュースだ」
メイはテーブルの上の料理に目を向けた。
「それ、何ですか」
「海老だよ。初めてづくしだな」
「もしかしてあの、後ろ向きに跳《は》ねる生物ですか?」
「そうさ。こうやって、皮をむいて食べるんだ。やってみろよ」
「はい」
キチン質《しつ》の皮は簡単にはがれた。白い繊維《せんい》質の肉が現れる。メイはおそるおそる、それを口に運んだ。
「おいしい。もしかして――この海で捕れたんですか?」
「ご名答。この星の海洋牧場じゃ、海老を捕《と》るのに鯨《くじら》を使うそうだ」
「本当?」と、横からマージ。
「鯨って?」
「この海に棲《す》む、でかい生き物だ。魚みたいな形で、小さな島ほどもある」
「そんなに!」
メイは目を丸くした。
「口のまわりが櫛《くし》みたいになってて、海水ごと海老や小魚の群れを呑《の》み込んで、水だけ外に出す。もともと地球産の生き物なんだが、頭もいいんで、うまく仕込《しこ》むと人間の代わりに働いてくれるんだな」
「じゃあ、呑み込んだ海老を持ってきてくれるんですか? 自分では食べずに?」
「そんなとこだな。もちろん、自分もいくらか食べるがね」
メイは質問を続けた。
「鯨とは、どうやって話すんですか?」
「話すわけじゃないよ。特定の音響《おんきょう》信号に反応《はんのう》するように条件づけしてあるのさ。動物愛護団体は奴隷化《どれいか》だなどと言っているが、まあ優雅《ゆうが》なもんだよ」
「その漁《りょう》をするところって、見られるかしら」
マージが聞いた。
「見せてるんじゃないかな。観光客相手に」
「見てみたいわ。ねえ、メイ」
「見たい、見たいです!」
「じゃあ、明日にでも行ってみるか。たまのバカンスだからな」
マージはバスタオルで髪《かみ》をぬぐっていた。
その手がゆっくりと、止まる。
「ロイド、振《ふ》り向かないで」
「ん……」
ロイドは小声で、追手か、と聞いた。
「たぶんそうよ。メイ、あなたも何気《なにげ》なくしてて」
「は、はい」
マージはテーブルの上に投げ出してあったポーチから、コンパクトを取り出した。自分の顔を少し眺《なが》めてから、開いたままテーブルに置く。ロイドはその鏡で、背後をうかがった。
五十メートルほど後ろの木陰《こかげ》に、サングラスの男が立っていた。白い開襟《かいきん》シャツを着ている。
「今度こそまいたと思ったんだがな。あのポケット、無線機だな」と、ロイド。
「どうする?」
「新入社員に働いてもらおう」
「え、私ですか」
メイはきょとんとした顔で言った。このミリガン運送に入って、まだ三か月だった。
「危険なことはさせないわよ」
襟からマージが言う。ロイドは手を振った。
「いいや、一番安全さ。メイ、シャトルのエンジンのかけかたは教えたな?」
「ええ――まあ」
「先に行って、始動するんだ。もし誰《だれ》かがシャトルのそばにいたら、知らんぷりして引き返せ。それから、もやい綱《づな》も解《と》いておけ」
「わかりました……あの、ロイドさんとマージさんは」
「少ししたら行く。残念だがパインジュースはおあずけだ。鯨《くじら》もな」
「はい」
ロイドがキーを渡すと、メイは素直《すなお》にテラスを離《はな》れた。ビキニ・スタイルのまま、道を渡って波止場《はとば》の方に歩いてゆく。
入れ替《か》わりに、ウェイターが二人分の飲物《のみもの》を持ってやってきた。
「お連れ様は?」
「すぐ戻《もど》る」
中央で二分されたパイナップルの実が、コンパクトの光軸《こうじく》をさえぎった。
「まだいるか、奴《やつ》は」
「ええ」
「ならいい。メイはまだ、面《めん》が割れてないからな」
「あの子を巻き込みたくないわ」
「ああ。転がり込んできたものは仕方ないとしてもな」
メイは当時二人でやっていたミリガン運送の船に、密航《みっこう》したあげく、入社したのだった。
それまでは――話せば長いのではしょるが――その才能を生かして、辺境《へんきょう》の惑星《わくせい》ヴェイスで機雷原《きらいげん》専門のナビゲーターをやっていた。いろいろあってメイとミリガン運送がその機雷原を一掃《いっそう》してしまうと、メイはその仕事をやめ、この零細《れいさい》運送会社に入ることを望んだのだった。
ミリガン運送の社長はロイドで、五十二歳になる。危険な仕事を平気で引き受けるので、パイロット兼秘書兼雑用係のマージは気の休まることがなかった。今も追われているのは――ロイドが粋《いき》がって――麻薬《まやく》組織の裏をかくような真似《まね》をしたためだった。
メイが入社したことを、マージは喜んでいた。素直だし、女同士で気心が通う。社の運営に関して多数決になれば、団結して二対一でロイドの提案を退《しりぞ》けることもできた。それはいいのだが、やはり他人のお子様を――メイはまだ十六歳だ――預《あず》かっている以上、危険な目にはあわせられない。メイは平気のようだったが、マージは新たな心配の種《たね》を抱《かか》えることになった。
「あの子、後悔《こうかい》してるかしら。私たちが組織に追われてるなんて、知らずに入ったんだし」
「入れる前に、何度も念を押《お》したさ」
「宇宙服ひとつで押しかけ入社したんだもの。しまったと思ってもひっこみがつかないかもよ」
「若いんだ、やり直す気になったらそう言うさ」
「そりゃそうだけど」
「少しは意地を張らせるさ。君だってそうだったろう?」
「かしらね」
マージはそう言って、肩《かた》をすくめた。マージはデネヴ星の一流商船大学を出てすぐにミリガン運送に入った。勤続六年になる。
ロイドは時計を見た。
「そろそろだな」
「ええ」
ロイドはテーブルにコインを置くと、ゆらりと立ち上がった。マージも続く。
二人は駆《か》け出した。監視者《かんししゃ》も走り始めたことが、気配でわかる。
道路を越《こ》え、コンクリートを打った波止場《はとば》の敷地《しきち》に入ったとき、背後でクラクションが鳴った。車は、二人を追って道路に飛び出した男をきわどくかわした。轢《ひ》かれてくれればよかったが、追跡《ついせき》は続く。
前方に木の桟橋《さんばし》が見えてきた。それは入江《いりえ》の中へ二百メートルも延《の》びていた。二人は桟橋を走った。足音が木琴《もっきん》のように響《ひび》く。数秒後、追手の足音が加わった。右手|奥《おく》に、自分たちの船――アルフェッカ・シャトルが待っていた。もやいは解《と》かれている。放熱板の海水にふれたところが、かすかに湯気《ゆげ》をたてていた。核融合《かくゆうごう》エンジンが始動している証拠《しょうこ》だ。
「いいぞ、メイはうまくやった」
ロイドは桟橋から、厚い主翼《しゅよく》に飛び降りた。直後、マージも飛び降りた。
エアロックを開いたとき、背後で銃声《じゅうせい》がした。追手は桟橋の上で、ピストルを構えていた。
エアロックの扉《とびら》を盾《たて》にしたロイドの後ろをまわって、マージが中に飛び込む。
扉に着弾《ちゃくだん》。固体弾だった。ロイドも中に入り、扉をロックする。
コクピットに駆《か》け込《こ》むと、マージは水着のまま船長席について、発進操作《そうさ》を始めていた。
「チェックリスト、六ページまで済《す》ませました」メイが言う。
「サイド・スラスター噴射《ふんしゃ》。離岸《りがん》開始」
「メインエンジンを使え。桟橋なんぞ、燃やしちまえばいい」
「無茶言わないで」
パン、パン、と着弾音が響く。神経を逆撫《さかな》でする音だった。
「いいのか。撃《う》ちまくってるぞ」
「拳銃《けんじゅう》の弾《たま》ぐらい、平気よ」
「ノズルまわりに当たると、嫌《いや》じゃないか?」
「それぐらい――」
着弾音はやまない。
マージの態度が変わった。
「あたしの船に傷つけるような奴《やつ》は――くらえ、ロケット・サマー!」
マージはスロットルを押した。
船尾《せんび》の方で、ごおん、と液体水素が沸騰《ふっとう》する。
その音を聞いたのだろう。後部モニターカメラの映像の中で、男は桟橋に身を伏《ふ》せた。
アルフェッカ・シャトルに武装《ぶそう》はないが、この核融合エンジンは武器にもなる。噴射される水素ガスの温度と速度は途方《とほう》もないものだった。
マージの限りある理性が、それを最小出力に保っていた。今のところ。
シャトルは桟橋を離《はな》れ、海面を進み始めた。伏せていた男は起き上がり、桟橋の残りを走り始めた。突端《とったん》まで来ると、男は立ち止まって身構え、また撃ち始めた。
「当たるまい。もう安心だ」
マージは被弾《ひだん》による損傷を調べたが、心配はなさそうだった。微小隕石《びしょういんせき》に較《くら》べれば、ピストルの弾の破壊《はかい》力など、たかが知れている。
「あの――左後方より、飛行物体が接近中です」
航法席のメイが告げる。
「沿岸警備隊ならいいがな」
「ここのはそんなに仕事熱心じゃないわ」と、マージ。
「なら、さっさと離水《りすい》しちまえ」
「もう少し沖《おき》へ出ないと。ビーチの人、日灼けじゃすまないわ」
波しぶきが窓を洗う。VTOL機が視野に入った。
シャトルは徐々《じょじょ》に加速していった。いちおう水陸両用だが、低翼《ていよく》のため、飛行|艇《てい》としての性能は最悪だった。速度が二十ノットを越《こ》えたところで、ようやく翼《つばさ》と海面の間に空気が入った。実をくぐった波は霧《きり》になって、翼端《よくたん》でコルク抜《ぬ》きのような螺旋《らせん》を描《えが》く。船体はぐっと身軽になった。
マージは針路を海岸と平行させると、さらにスロットルを押《お》した。
前方のモーターボートが、あわてて道をあける。どんなシャトルでも、はるか沖合いまでタグボートで引かれてゆくのがここの決《きま》りだった。
VTOLは正面から接近していた。高度を落としている。その胴体《どうたい》の左右で、何かが光った。直後、海面に水柱が並《なら》ぶ。メイが小さく悲鳴をあげた。誰《だれ》もが掟破《おきてやぶ》りだった。
「バルカン砲《ほう》を積んでやがる。本気だな」
VTOLは一瞬《いっしゅん》のうちに頭上を通過した。後部モニターの中で、それは旋回を始めている。
船体を断続的に波が叩《たた》く。マージは機首を抑《おさ》えながら、速度をかせいだ。
「まだか」
「あと五秒」
海面がきらめきながら、後ろにすっとんでゆく。
波の音がやんだ。
「後方よりVTOL接近。距離二百メートル、百六十、百……」
「蛇行《だこう》させろ。これじゃ狙《ねち》い撃《う》ちだぞ」
「待って――もう少し」
舵《かじ》――空力操縦系――に手ごたえが蘇《よみがえ》った。
「メイ、つかまって。ロールアップ!」
マージは船体を引き起こすと同時に、スロットルを一杯《いっぱい》に押し込んだ。海面が爆発《ばくはつ》し、小山のような水柱があがる。それはVTOLの運路上にあった。一瞬の後、VTOLは沸《わ》き立つ水煙《みずけむり》の中から姿を見せ、横転しながら海面にダイブしていった。
「いいぞ、もう安心だ」
「バカね。もうこの星にはいられないってことよ」
「ほとぼりの冷めた頃《ころ》に、また来るさ」
マージは操縦|桿《かん》を戻《もど》しながら、首を振《ふ》った。
そう、私たちはいつも、宇宙のあちこちでほとぼりを冷ましている。
どこかのほとぼりを冷ましながら、別のどこかで火をつけるのだ。
「短いバカンスだったな」
ロイドはのんきに言った。
アルフェッカ・シャトルは青く澄《す》んだ大気の中を、矢のように上昇《じょうしょう》していった。
背後のワイデ島はもう、手のひらほどになっていた。地平線ははっきりと弧《こ》を描《えが》いており、あのビーチが球の一部だったことを思い出させた。
ACT・2 係船軌道《けいせんきどう》
二キロ上空に、光点があった。じりじりと動いてゆく星空の中で、それはひときわ明るく、じっと静止して見えた。
自由係船軌道にあるその青白い光点は、しだいに面積を持ち始め、やがて左右|非対称《ひたいしょう》の、見間違《みまちが》いようのない形になった。
母船――というほど大きくもない、これがアルフェッカ号の本体、恒星船《こうせいせん》だった。
恒星船は四角い胴体《どうたい》が二十メートルほどの長さで、右舷《うげん》に居住区画がある。上部に細長いキールが、やはり二十メートルほど張り出していて、その下にシャトルを抱《かか》え込む仕組みになっていた。
シャトルと恒星船の外見には、共通点がひとつもない。運用|環境《かんきょう》が違うことが一番の理由だが、違うメーカーの船を強引《ごういん》に連結したことも大きい。どちらも頑丈《がんじょう》さが取柄《とりえ》の、十年選手だった。
「メイ、接近してくる船はある?」
「いいえ」
「早かったからな」
と、ロイド。
衛星軌道まで十分。恒星船とのランデブーにもう三十分。ランチ・ウインドウをまったく考慮《こうりょ》せずに出発したわりには、いい数字だった。
「だが、今のところない、ってことだ。ドッキング急げよ」
「わかってるわ。メイ、ガイドして」
マージは恒星船とのテレメーター回線を開くと、新米《しんまい》ナビゲーターに誘導《ゆうどう》をまかせた。
「ローテーション、左二度。速度そのまま」
「左二度、ステディ」
「制動|噴射《ふんしゃ》、ミニマムで」
「制動噴射、ミニマム」
「軸線《じくせん》に乗りました。そのまま――あ!」
「どうしたの?」
「惑星の陰《かげ》から飛行物体が現れました。距離《きょり》二千二百キロ、相対速度十一・五キロ/秒。衝突《しょうとつ》コースです」
メイが誘導の最中にも周囲の監視《かんし》を怠《おこた》らなかったことに感心しながら、マージは素早く暗算した。
「軌道交差まで五分弱――恒星船の始動が間に合わないわ」
「いや、これまでのやりくちからすると、奴《やつ》らはランデブーしようとするはずだ」
「いきなりミサイルで攻撃《こうげき》なんかしないってこと?」
「そうさ。さっきのVTOLも威嚇《いかく》射撃だった。生《い》け捕《ど》りにして、ボスの前に引きずり出したいんだろう。メイ、相手の光学映像が出せるか?」
「やってみます」
スクリーンに現れたのは、輝くプラズマの光芒《こうぼう》だった。
「この光、減速噴射だろ? ミサイルじゃないってことさ」
「ということは――」
相手の性能がわからない限り何とも言えないが、減速しながらやってくる以上、比較《ひかく》的時間の余裕《よゆう》があると思えた。
「軸線に乗ってます。姿勢そのまま。十センチ毎秒で接舷《せつげん》してください」
メイが思い出したように、ドッキングの指示を出す。
かすかな衝撃《しょうげき》とともに、アルフェッカ・シャトルは恒星船《こうせいせん》に連結した。キールの左右から固定|枠《わく》が降りて、胴体側面のハード・ポイントをくわえこむ。
三人は天井《てんじょう》のハッチから、恒星船に移乗した。
ブリッジに駆《か》け込むと、今度は恒星船のエンジンを大急ぎで始動し、針路を接近する宇宙船に正対《せいたい》させる。やや意外なことに、これは相手にとって、もっともロスの大きい軌道だった。
三Gで加速開始。四分後、相手の船の二キロ横を通過する。
相手はただのシャトルで、恒星船を追跡《ついせき》できるほどの性能は持っていなかった。
「しかもこっちは空荷《からに》よ」
マージは苦《にが》い顔で言った。おかげで最高の加速力を発揮できる。つらいのは、目的地で金をつくれないことだった。
「まあ、いいさ。明日は明日のプラズマが吹くというじゃないか」
ロイドは気楽に言った。
アルフェッカ号は太陽系のはずれをめざして、一直線に飛行していた。恒星の重力|圏《けん》を抜《ぬ》ければ、超《ちょう》光速航法に移行して高飛びできる。
超光速に入れば、こっちのものだ。
なんとなく、三人はそう信じていた。
だが、これは宇宙をまたにかける犯罪者《はんざいしゃ》に――彼らがそうとは言わないが――共通の思い込みにすぎなかった。
この太陽系に逃《に》げ込んだときも、やはり超光速だったのだ。
ACT・3 シューエル太陽系
セリア=アルテミナから航路に沿ってふたつ目の太陽系、それがシューエルだった。
中心恒星のスペクトルは地球の太陽と同じくG2。通常航法に戻《もど》ってすぐ、太陽系のはずれから見ても、それは全天で一番明るく輝《かがや》いていた。
「主惑星《しゅわくせい》:第三惑星シューエル。人口二億四千万……辺境《へんきょう》進出への後方基地としての性格が強く、船舶《せんぱく》修理|施設《しせつ》、航路用資材の生産などが行なわれている。外惑星帯ではエネルギー開発を目的とした、オデット計画が進行中……か」
マージは航路情報を読み上げた。
「これというポイントはないわ。地味な星系ね」
「簡単でいいじゃないか。そこでじっくり商機を待とう」
マージはため息をついた。
第三惑星まで、一週間の距離だった。
通常航法に入って三日目の午後、メイはブリッジで昼寝《ひるね》しているロイドを揺《ゆ》り起こした。
「あの、ロイドさん、起きてください」
「ふあ……なんらね」
息が酒臭《さけくさ》い。
「昨日からどうも気になってたんですけど……」
「うん?」
「どうも私たち、追われてるような気がするんです」
ロイドは目をこすった。
「追われてる?」
「ちょっとスクリーンを見てもらえますか。マージさんも」
三人は航法席のまわりに集まった。
スクリーンには太陽系の惑星と、宇宙船を示すいくつかの光点が表示されている。
メイはそのひとつを指さした。
「これが私たちのアルフェッカ号です。この一・二AU(天文単位)後ろに別の一|隻《せき》がいます」
「そいつが追手かね? しかし同じ航路から出て第三惑星をめざすなら、真後ろにいてもおかしくあるまい」
「でも、私たちは三G、後ろのは三・四Gで加速しています」
「……確かに変ね」と、マージ。
「加速が違《ちが》うのに、ぴったり同じ軌道《きどう》なんて」
「違う惑星をめざしてるんじゃないのか」
ロイドは楽観説を模索《もさく》したが、メイはすぐに否定した。
「いいえ、あの軌道で無駄《むだ》なく到着《とうちゃく》できる惑星はありません。ありうる目的地は――」
「このアルフェッカ号ね?」
「はい」
「まいったな、こりゃ」
ロイドは不精髭《ぶしょうひげ》をこすった。
「飲《の》み直すか……」
伸《の》ばした腕《うで》の先にある酒瓶《さかびん》を、マージは無言で取り上げた。
「社の一大事です。参加してください、社長」
「うむ……」
ロイドは再びスクリーンを眺《なが》めた。
「にしても、しつこい連中だなあ。辺境アレイダから、はるばるこんな星区まで追ってくるなんざ……」
「面子《めんつ》があるのよ、それに自前《じまえ》の情報ネットワークも。でなきゃ恒星間|麻薬密輸《まやくみつゆ》シンジケートなんてできっこないわ。原料の輸送を請《う》け負《お》っておいて、ニセ物とすりかえて代金だけせしめる業者なんて、あっちゃいけないのよ」と、マージ。
ロイドは知らんぷりをして言った。
「ふむ。じゃあどこかで、追手をまくことを考えようじゃないか」
「さっきからそう希望してるわ」
「つんけんするなって」
ロイドはシートにどかり、と腰を下ろすと、天井《てんじょう》に目を向けた。
しばし黙考《もっこう》する。
やがてロイドは言った。
「なあマージ……」
「何よ」
「小石を隠《かく》すには砂利《じゃり》の中っていうが、外惑星帯ってのはさびしいところだな。太陽風も希薄《きはく》だし、アステロイドもまばらだし」
「だから何よ」
「社長に向かって『だから何よ』はないだろう?」
「だから何ですか」
「外惑星帯にあって追手をまけるようなエントロピーの低いところ、知ってるか?」
「もしかして……」
マージは不吉《ふきつ》な予感にとらわれた。
「またガス惑星ですか?」
「ご名答」
マージが「また」と言ったのは、以前よそのガス惑星で、掟破《おきてやぶ》りの大気制動と減速スイングバイをやらされたからだった。それも、単なるコスト節約のために。
「ちょいと針路《しんろ》を変えて、途中の第五惑星フェイダーリンクに行ってみようや。その名の通り、でかいリングがあったはずだ」
「あの、もしかしてリングに隠れるんですか?」
メイが聞く。
「そうさ。リングの中じゃレーダーも効《き》かない。隠れるにはもってこいだ」
「危険はないんですか? 粒子《りゅうし》に衝突《しょうとつ》したら――」
「大丈夫《だいじょうぶ》さ。軍隊じゃよくやったもんだ」
「本当に、大丈夫なんですか?」
「そう言ってるだろうが」
「マージさんに聞いてるんです」
「む……」
二人の視線を受けとめながら、マージは考えた。惑星に立ち寄るためには、これまでにかせいだ速度を御破算《ごはさん》にしなければならない。しかし、相手の船の方が加速力があるらしい。このままでは、第三惑星に着く前に追い付かれる。答えはひとつだった。
「そうするしかないみたいね」
「それみろメイ、わしの言った通りだろうが」
ロイドは勝ち誇《ほこ》ったように言った。
ACT・4 フェイダーリンク
針路を第五|惑星《わくせい》に向け、減速を開始してほぼ一日。相手も針路を変えて減速に入っている。向こうの船も、持てる限りの加速能力を発揮していることは間違《まちが》いなかった。その場合アルフェッカ号の方が、約一時間早く衛星|軌道《きどう》に乗れる計算だった。
惑星まで三十万キロの地点に来たとき、マージは減速|噴射《ふんしゃ》を止めた。
姿勢制御用のバーニア噴射を操作して、船体を回転させる。
それまでは目的地に船尾《せんび》を向けていたから、第五惑星を間近《まぢか》に見るのはこれが最初になる。三人は前方を見つめた。
「さあてお立会い……」
下から上へゆっくりと星空がめぐる。
はじめに、象牙色《ぞうげいろ》の角笛が現れた。針のようにとがった吹き口は、しだいに幅を広げながら下方に伸《の》びてゆく。それにつれて、茶色から白にかけての、さまざまな色の縞が層をなして表面を彩《いろど》っているのがわかった。
そして――視野は突如《とつじょ》として、プラチナの光に満たされた。
それは巨大な、輝《かがや》く丸テーブルだった。円盤《えんばん》はいくつかの同心円で仕切られている。中心部にはぽっかりと大穴《おおあな》が開き、その左手には大きな切《き》り欠《か》きがあった。角笛はその大穴の上に立っていたが、まるで水鏡に映したように、対《つい》をなす第二の角笛が下方に伸びている。
やがて、超《ちょう》現実的な光景に幾何学《きかがく》が決着をつけた。角笛と見えたものは、三日月《みかづき》状に欠けた惑星フェイダーリンクであり、丸テーブルはそのリングだった。
惑星直径の三倍はあるだろうか――幅広く、絹《きぬ》のように薄《うす》いリングは、ぐるりと惑星をとりまいていた。中央よりやや内側に、明瞭《めいりょう》な隙間《すきま》がある。リングそのものも決して一様《いちよう》ではなく、よく見ると櫛《くし》ですいたような無数の筋が並んでいた。眼が慣《な》れると、最初見えていた幅広いリングの内外にそれぞれ一筋ずつ、細い鎖《くさり》のような別のリングがあるのがわかった。
「きれい……世界中の金色が集まってるんだ」
メイは生まれて初めて、まじりけのない、光そのものを見たような気がした。
それから、まったく唐突《とうとつ》に連想したのは、午後の陽射《ひざ》しの中に現れたウェディング・ドレスだった。
「外側の細いのがAリング、次の広いのがBリング、隙間の内側がC、いちばん内側にある細いのがDリングね」
メイの感激をよそに、マージは航路情報を思い出しながら、つとめて冷静に言った。
「さあて、どこに隠《かく》れるかな」と、ロイド。
「あんな薄《うす》いのに、隠れられるかしら?」
「BリングとCリングは不透明《ふとうめい》に近いよ。そりゃあくわしく捜《さが》せば見つかるが、なにしろ広いからな」
「それはそうだけどね」
Bリングの外径を一メートルとするなら惑星本体はビーチボール、先週までいたアルテミナ星はピンポン球《だま》にしかならない。この巨大な惑星系の中でいったん見失えば、容易《ようい》には発見できないだろう。
ロイドは提案した。
「いったんBリングとCリングの間の隙間をくぐるんだ。これで相手からは見えなくなる。それから適当な場所でリングの粒子《りゅうし》に潜《もぐ》り込む。どうだ?」
「どうかな……」
マージはレーダー・ビームをリングの隙間に絞《しぼ》り込んで、隙間がほんとうに隙間なのか調べた。
二秒後、スクリーンの両側に明るいグリーンの帯《おび》が現れた。右がBリングの内縁《ないえん》、左がCリングの外縁。両者の間隔《かんかく》をレチクルで読むと、約三千キロだった。その間に、平行する七本の筋がある。これもまた、微細《びさい》なリングの一片に違いなかった。
「やめた。きれいな空間じゃないわ」
「三千キロにたった七本だぞ。恐《おそ》れるようなもんじゃない」
「七本ですむって保証はないでしょう」
本物のプロは冒険《ぼうけん》を好まない――それがマージの信条だった。
「北極上空からフェイダーリンクの裏にまわりこむわ。相手に見えないうちにBリングの外を軌道《きどう》速度でターンしてリングに潜る。これがニコルズ船長の結論よ」
「まあ、君が言うなら異存はないがね」
と、ロイド。言葉通りの意味だった。彼はこの、婚期《こんき》を逸《いっ》しかけた女パイロットの腕《うで》を疑ったことはなかった。
それから、マージは北極まわりの軌道を航法コンピューターに入力した。一度は別の方向をめざしていると見せかけ、加速性能の許すぎりぎりのところで北極上空に向かうことにする。一時間半の行程だった。
四十分後。
それまでずっと、後部モニターが捉《とら》えていた追跡者《ついせきしゃ》の光点――プラズマ噴射炎《ふんしゃえん》が、ふいに消えた。向こうも減速を終えて反転し、最終アプローチに入ったらしい。
「でも、ちょっと気持ち悪いですね」
メイがぽつりと言った。
「何が?」
「後ろの人、停船《ていせん》しろって言わないんですもの」
「言っても無駄《むだ》だと思ってるんでしょ」
「というより、メイの感じた通りの効果を狙《ねら》ってるのさ」
と、ロイド。追手はかなりの強者《つわもの》と思えた。そう思うこと自体、相手の思うつぼだったかもしれないが。
船は惑星《わくせい》の中緯度《ちゅういど》帯を正面に捉《とら》えており、そこは白から黄褐色《おうかっしょく》にかけての、無数の平行した縞《しま》に彩《いろど》られていた。まもなく、船の下方を細いAリングが通過した。Bリングの縁《ふち》までにはまだ四万キロもあるが、数分後にはその上にさしかかるだろう。
それから、船体の向きが変わった。直後、航法コンピューターはメインエンジンを噴射《ふんしゃ》させ、針路を北極上空二千キロの地点に向けた。
北極点に近付くにつれて、それは球の一部というよりは、ゆるやかに隆起《りゅうき》するクローム・イエローの平原になった。惑星表面のすべてを覆《おお》う、緯線にそった雲の縞はここにも見られ、それは輪を描《えが》いて北極点を取り巻いていた。
北極点より少し左手からは薄明帯《はくめいたい》が始まっており、雲の平原は視野のすみで完全な闇《やみ》に溶け込んでいた。その暗がりの中に、メイはかすかな閃《ひらめ》きを見たような気がした。
「あれ? 何か光ったみたい」
「どこ?」と、マージ。
「夜の中です」
「オーロラかしら」
「稲妻《いなずま》だろう。オーロラならもっと持続するし、淡《あわ》くて見えにくいはずだ」
「ここから見えるぐらい大きいんですか」
「そうさ。ガス惑星じゃ、何もかも十倍か百倍になると思ったほうがいいぞ」
「へえ……」
ロイドが説明すると、メイはまた、闇の中に目を凝《こ》らした。
稲妻はそれからも、数分おきにちろちろと瞬《またた》いた。
フェイダーリンクは――多くのガス惑星がそうであるように、見かけよりはるかに活発な自然現象を持っているらしい。表面に陸地はなく、水素とヘリウムからなる大気は、水平な縞模様を描きながら、果てしない世界一周旅行を続けている。
そして、星の息吹《いぶき》は風の流れだけではなかった。
すでにアルフェッカ号の通信機は、さまざまなチャンネルで声にならない声を受け取っている。そのような電波は、ホワイトノイズという、うまい名前が与《あた》えられていた。メイはそれに気がつくと、通信機を調節しながら、そっとその声を聞いた。それは時折、フライを揚《あ》げるような音になったり、アルテミナ星の渚《なぎさ》で初めて聞いた、海鳴りのようだったりした。稲妻《いなずま》が閃《ひらめ》くとき、どんな音がするのだろう――と、メイは期待しながらヘッドホンに耳を澄《す》ませたが、聞こえてきたのはごく味気ないパチパチ音だった。
北極点を通過すると、アルフェッカ号はまたエンジンを噴射《ふんしゃ》して、Bリング外縁《がいえん》をめざした。速度は落ちているが、距離《きょり》が狭《せば》まったため、リングの見かけの動きはずっと速くなった。
「光学ディスクを横切るありんこの心境だな」と、ロイド。リングは虹色《にじいろ》に輝《かがや》いているわけではなかったが、船が進むにつれて微妙《びみょう》にその色合いを変えていった。
Bリングの外縁にさしかかると、マージは操縦を手動《しゅどう》に切り替《か》え、五百キロの距離を維持《いじ》しながら船を反転させた。ほどなくして、リングの裏側が見える。上下感覚を維持するため、マージは船の天井《てんじょう》をリング側《がわ》に向けた。ちょうど、氷結した海の下を潜水艦《せんすいかん》で進む格好になる。
「マージ、レーダーを切れ」
ロイドが指示する。マージは眉《まゆ》をひそめて言った。
「これからリングに接近するのよ」
「何のためにだ。敵さんに探知されちゃ仕方ないだろう」
「そりゃそうだけど――」
「なあに、どうせリングの粒子《りゅうし》はふわふわのスノーボールだろう。速度を合わせれば、たいした危険はないはずだ」
マージはため息をついた。ロイドは昔《むかし》、傭兵《ようへい》をしていた。こういう気配りでは、一日《いちじつ》の長《ちょう》がある。
「――わかったわ。メイ、せいぜい光学|監視《かんし》につとめてちょうだい」
「はい」
秒速三十四キロの速度でリング粒子の流れと平行に進みながら、マージはじわじわと船をリングに近付けた。
「あの、マージさん。リングの厚みってどれくらいあるんですか」
メイが聞いた。
「航路情報には書いてないわね。どれくらいだと思う?」
「ちょっと見当つかないですけど――直径が三十五万キロだから……十キロくらいはあるんでしょうか?」
「惜《お》しい。常識としては三十メートル程度よ」
メイはつぶらな瞳をさらに丸くした。
「そんなに薄《うす》いんですか!?」
「ええ。厳密《げんみつ》に言うなら、両側に微小粒子の層があるけど、それを含《ふく》めても二、三百メートルにしかならないわ」
「へえ……」
メイはまた、前方を見上げた。
リングは今や十キロ上方にあったが、まだ粒子らしいものは見えなかった。だが、ときおり背後の明るい星が透《す》けて見える。その星がちらちらとまたたくので、そこからリングの肌理《きめ》をうかがうことができた。
一キロの地点に来ると、リングの構造ははっきりしてきた。もはやBリング、と単数形で呼ぶのはふさわしくない。無数の平行直線――厳密には円弧《えんこ》だが――がぎっしりと並《なら》んでいる。個々の線も決して一様《いちよう》ではなく、黒板に引いたチョークの線のような粒子の配列であることがわかった。色彩《しきさい》は、プラチナというより、やや暗いベージュに近い。日影《ひかげ》の側から接近しているせいだろう。
「あっ、穴《あな》ができた!」
天井《てんじょう》の窓からリングを見ていたメイが、小さく叫《さけ》んだ。
「バーニア噴射《ふんしゃ》の熱で融《と》けたのね」と、マージ。リングまで百メートルの位置だった。
「駐車場《ちゅうしゃじょう》ができたってわけだ。だがあんまり景気《けいき》良く吹《ふ》かすなよ、マージ」
「わかってるわ」
あと一回のバーニア噴射で、マージはリングに穿《うが》たれた穴の中央に、ピタリと船を止めてみせた。
どの窓から見える景色《けしき》も、別世界だった。
多くは数センチ、ときには数メートルに及《およ》ぶ、大小さまざまな雪玉が、びっしりと周囲を取り囲んでいる。数万キロの距離《きょり》を置いて眺《なが》めたときとの唯一の共通点は、支えるものが何もないにもかかわらず、ある奇跡《きせき》によってこれらの粒子が整然と並んでいることだった。
たった今、船がそっと押《お》し退《の》けたものがひとときの玉つきを終えると、もう、まわりに動いて見えるものはなかった――雪のカーテンの外に垣間見《かいまみ》える、時計の短針ほどの速度でめぐってゆく星々を除《のぞ》けば。それはまるで、雪の降る中を、自分もそのひとひらになって果てしなく落下していくようだった。
「宇宙でクリスマスを祝《いわ》うなら、ここに限るわね」
キリスト教が衰退《すいたい》したこの時代にも、まだその習慣は命脈を保っていた。
メイはただ、うなずくばかり。
つかのまの沈黙《ちんもく》の後、ロイドは言った。
「さあ、女たち。明りを消してキャビンで待とう。ホットな一日が始まるぞ」
ACT・5 Bリング
それはまさしく「ホットな一日」だった。
リングの中にいればレーダーで見つかる心配は少ないが、赤外線で探知されてはたまらない。そのためには、エンジンの噴射《ふんしゃ》など、熱の放出をできるだけ抑《おさ》える必要があった。なにしろリングの温度はマイナス百四十度なので、赤外線カメラを通せば宇宙船はスポットライトを浴びたように目立ってしまう。
マージは排熱装置《はいねつそうち》のスイッチを切り、さらに生命|維持《いじ》に必要でない機器をすべて止めた。
もちろん、核融合炉《かくゆうごうろ》の火も落とすしかない。重力装置が止まったので、船内は無重量状態になった。
船内の温度はじりじりと上り始めた。止めるわけにいかない、いくつかの機器に加え、三人の体が大きな熱源になっている。外は真空なので、魔法瓶《まほうびん》の中にいるのと変わらなかった。追手から隠《かく》れるには都合《つごう》がいいが、中にいる方はたまらない。
三人がキャビンに移って、かれこれ六時間。
カーテンを閉じ、ここだけ弱い明りをつけている。ロイドはカウチに体を結《ゆ》わえて密閉容器からストローでスコッチをすすり、マージとメイは電送新聞のクロスワード・パズルのマスを埋《う》めていた。
メイが問題を読み上げる。
「……次、タテのFいきます。『いい人は死んだ人だけ』。二文字目がEで」
「ライアー人」
マージは即答《そくとう》した。
「合ってます。じゃあヨコのE、『自由こそわが命』」
「ニブノス」
「正解です。続いてヨコのH、『合《あい》言葉はもうかりまっか』。最初はAです」
「アレンス」
「すごーい。世慣《よな》れてるんですね、マージさん」
「年増《としま》はだてじゃないわよ。もう終り?」
「ええ。チェスでもやりませんか」
「やめとくわ。あなたに勝てっこないもの」
メイは瞬時《しゅんじ》に七手先を読む、この分野では並外《なみはす》れた才能の持主《もちぬし》だった。パズルの類《たぐい》も無敵で、マージやロイドが太刀打《たちう》ちできるのは、このクロスワードのような一般《いっぱん》教養で勝負できる分野だけだった。
「スポンジとって」
「はい」
マージはべたべたと肌《はだ》にまとわりつく汗をぬぐった。無重量状態なので、水滴《すいてき》になって宙を漂《ただよ》い始めると面倒《めんどう》なことになる。
「あなたも拭《ふ》きなさい、メイ」
「はい」
「メイ、スコッチおかわり」
横からロイドが言う。
「あ、はい」
「ロイド、もうやめて」
「いいじゃらいか……」
すでにろれつが乱れている。
「洒なくして宇宙の海がわたれるもんかい」
「これ以上カロリーと水分を発散しないで、ってこと」
「おうおう……」
ロイドはとろんとした眼差《まなざ》しを、マージのシャツ一枚の胸元に向けた。
「いつ見れもグラマーらなあ、マージ。無重量だと特にこの……」
「黙《だま》って! 暑《あつ》いんだから、これ以上むさくるしいこと言わないで」
「そうカッカするらって。よけー暑くなるぞ」
「あの、お酒どうしましょう」
「出すことないわ!」
「社長命令ら! 持ってこーい」
「ほっとくの。これは船長命令よ!」
「あの、困ります。どっちかにしてください」
「酒らー」
「うるさいっ!」
「洒らー」
「うるさいうるさいっ! えーい決めた。この無用の熱源をデコイがわりに船外|遺棄《いき》してやる!」
「マージさん、おちついてください!」
……室温三十六度C、湿度八十六%。
両方の値は、不快な方向にじりじりと動いてゆく。
ロイドは酔《よ》う前に、最低二十四時間はこうしていろと言った。それで見つからなければ、追跡者《ついせきしゃ》はあきらめて――おそらく惑星《わくせい》や衛星の陰《かげ》つたいに逃《に》げたのだと判断し――フェイダーリンクを立ち去るだろう、という。
それにしても暑かった。せめて除湿《じょしつ》ぐらいしたかったが、そのためには空気の冷却《れいきゃく》が必要だった。密室で冷蔵庫を開いてもクーラーの役目を果たさないのと同じで、冷却したぶん、どこかに熱が出る。これが宇宙の掟《おきて》というものだ。
十六時間を経《へ》た頃《ころ》には、室温は四十五度Cに達していた。ロイドに続いて、メイが眠りに落ちる。マージもそろそろ限界だった。眠る二人に薄《うす》いブランケットをかぶせる。この温度では、何かかぶっていた方がましだろう。
「ここで眠っても……死ぬことはないわね……きっと」
目覚し時計を八時間後、最大音量で鳴らすことにする。
マージは明りを消すと、せめてもの気休めにと、窓外の凍《い》てついた光景を眺《なが》めた。
「あれ……?」
気のせいか、周囲の雪玉までの距離《きょり》が縮んでいるように見えた。とはいえ、たとえ雪玉が這《は》うような速度で接触《せっしょく》したところで、どんな障害があるとも思えない。
カーテンを閉め、自分もブランケットをかぶる。ソファーの細いシートベルトで体を押《おさ》えると、マージは眠りについた。
寝込みを襲《おそ》われる危険を案じながら、意識《いしき》が薄れてゆく。
気がつくと、けたたましくベルが鳴っていた。
割れるような頭痛をこらえて、マージは起き上がった。他の二人は動かない。
室温は六十四度C。服もブランケットも汗でぐしょぐしょだった。このままでは生命の危機だ。念を入れて追跡者《ついせきしゃ》をうかがっている暇《ひま》はない。
ふらふらとブリッジに漂《ただよ》い入り、核融合炉《かくゆうごうろ》の始動マスター・スイッチを入れる。それからエアコンだ。それから、かりかりに冷えたドライ・マティーニをつくろう……。
「ん……?」
反応《はんのう》しない。
もう一度、入れ直す。
点火確認ランプも、炉心温度計の針も、ピクリとも動かなかった。
「どういうこと……」
計器|盤《ばん》で船内各部をチェックする。
なんと、六十二個の電子機器にわたって、八十七|箇所《かしょ》のヒューズが切れていた。
燃料電池でエアコンだけでも作動《さどう》させようとしたが、これも死んでいた。
ヒューズを交換《こうかん》するだけですむとも思えず、とすれば全部を修復するのに何日かかるか、見当もつかなかった。
マージは軽いめまいをおぼえた。
やらなくちゃ……そう思った瞬間《しゅんかん》、マージの意識は遠のいていった。
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第二章 ハイドラーたちの村
ACT・1 チェスター渓谷《けいこく》
一晩中、夢を見ていたような気がする。
中身はさっぱり思い出せない。怒《いか》りと恐怖《きょうふ》、ときめきと愉悦《ゆえつ》が混然とした、とらえようのない余韻《よいん》だけが残っている。
二日酔《ふつかよ》いの朝はいつもこうだ、とロイドは思った。
それから、四肢《しし》の感覚が目覚め始める。
最初は、ごわごわした触感《しょっかん》だった。それから、頬《ほお》をなでる微風《びふう》。
空調か何かの、低いうなり。無重量状態。
薄目《うすめ》をあけると、白い光。
アルフェッカ号のキャビンじゃないな……。
ロイドはぼんやりと、そう感じた。
しだいに意識《いしき》がはっきりしてくる。
目を開く。自分は直立したまま、スリーピング・バッグの中にいた。正面は弧《こ》をおびた壁《かべ》。どうやら、平たい円筒形《えんとうけい》の部屋《へや》らしい。壁はところどころ塗装《とそう》がはげて、金属が露出《ろしゅつ》している。壁の手前には、床《ゆか》に固定されたテーブル。椅子《いす》のあるべきところには、床と天井《てんじょう》をつなぐポールが二本あった。壁も床も天井も、タオル掛《か》けのような取手がついている。
一方の壁には角の丸いドアがあり、ノブは中央についていた。
首をめぐらすと、隣《となり》にメイ、その向こうにマージが、自分と同じスリーピング・バッグに入って眠っているのが見えた。バッグはやはり、垂直のポールに結《ゆ》わえられている。まるで頭だけ出したミノムシのようだが、二人とも顔に血の気があり、命に別状はないようだ。部屋には、自分たち以外、誰もいなかった。
ゼロG(無重量状態)専用のインテリアだ、とロイドは思った。
ここが宇宙船の中だとすれば、あの連中に寝込みを襲《おそ》われたのだろうか。それにしては、囚《とら》われているという印象がない。
それにしては広めのキャビンだが。この時代、シャトルなどを除《のぞ》けば、たいていの宇宙船には重力|装置《そうち》が装備《そうび》されている。アルフェッカ号も例外ではない。もちろんさっき――どれくらい前だろう?――のように、無重量状態で使うこともあり、それに配慮《はいりょ》した設計になっているが、ここのはゼロGオンリーのように見える。
無重量状態は人間にとって、必ずしも快適ではない。長期的に見ると、筋肉や骨格をそこなうので、定期的にトレーニングしないと通常の重力下で生活できなくなる。もっとも、臓器への負担《ふたん》は減《へ》るので、ある種の療養施設《りょうようしせつ》には向いている。
とはいえ、病院にしては貧相《ひんそう》だが……。
そう思っていると、壁のドアが開いた。
女だった。四十代なかばに見え、痩《や》せていて長身。化粧《けしょう》の跡《あと》はなく、白髪《しらが》混《ま》じりの金髪《きんぱつ》を看護婦のように短くまとめている。服装《ふくそう》は古びたジャケットとスラックス。いたって質素《しっそ》だった。
女は宙を漂《ただよ》い、部屋の中央にあるポールをつかんで向きを変え、ロイドの目の前に来た。無駄《むだ》のない動きだった。空《あ》いた手はランチボックスのような箱を持っている。
「お目覚めのようね。気分はどう?」
「どうにか死にそこなったってとこだな。ああ――今わかったが、喉《のど》が乾《かわ》いてるな」
「でしょうね。軽い脱水《だっすい》症状だったから。出る?」
女はスリーピング・バッグのファスナーをおろした。それからロイドの手を取り、部屋の中央に引き出す。
「飲《の》んで」
女はランチボックスから飲料水《いんりょうすい》のチューブを取り出し、ロイドに手渡した。
「ここは――」
言いかけて、トランクス一丁《いっちょう》なのに気づく。
相手は平気だった。
「今|洗濯《せんたく》してるから。ちょっと待って」
女は軽く床《ゆか》を蹴《け》って、天井《てんじょう》のラックのひとつにとりついた。中から服を取り出す。
洗いざらした、木綿《もめん》のような生地《きじ》の長袖《ながそで》シャツだった。
「大きすぎると思うけど、少しの間だからね」
その通りだった。太さはそれほどでもないが、丈《たけ》は腿《もも》の付け根まであった。
ロイドは質問を再開した。
「ここは、どこです」
「レーネ村よ。チェスター渓谷《けいこく》のはずれにある」
「チェスター渓谷?」
女は微笑《ほほえ》んだ。
「知らずに来たのね。Bリングの外縁《がいえん》だけど」
「Bリング……じゃあ、ここはまだフェイダーリンクですか?」
「ええ。見張りの牧童《ぼくどう》が、あなたたちの船を見つけてね」
見張り? 牧童?
ロイドは首を傾《かし》げた。だが、敵ではないらしいとわかった以上、質問より優先させるべきことがあった。
「申し遅《おく》れましたが、ロイド・ミリガンといいます。ささやかな運送会社を経営するものです」
「リヴィア・ロッシュよ。リヴィアでいいわ、ロイドさん」
「ありがとう、リヴィア。どうやら命を助けていただいたらしい。お礼の言葉もありません」
「いいのよ。旅人《たびびと》はいつでも大歓迎《だいかんげい》。機動隊以外ならね」
機動隊? またひとつの疑問。
ロイドは聞いた。
「船はどこに?」
「近くに曳航《えいこう》してあるわ。ここから見えるかしら」
リヴィアは窓のカーテンを巻き上げた。
まず手前に、縦横に走る無数の配管やケーブルが見えた。一方からトラス構造が張り出し、ふぞろいな球や円筒《えんとう》の貨物モジュールが無造作《むぞうさ》に取り付けられている。どれも長いこと宇宙塵《うちゅうじん》にさらされて薄汚《うすよご》れていた。モジュールの中には明りの洩《も》れる窓もあり、居住用に改造したのだと思われた。どうやらこの部屋も、そのひとつらしい。
混沌《こんとん》とした金属の林の向こうに、アルフェッカ号の船首がのぞいていた。見える限りでは、損傷《そんしょう》はなさそうだ。アンカー・ケーブルを引き出して、こちらの――なんと呼んだらいいのか――宇宙コロニーに係留《けいりゅう》してある。
コロニーの周辺に、リングの粒子《りゅうし》は見あたらなかった。そのかわり、右手の少し先に白い筋があり、その向こうにフェイダーリンクの両極が見える。
左手を見ると、こちらにも白い筋が伸《の》びており、右の筋と視野の中央・はるか彼方《かなた》で一点に交わっていた。ちょうど、地平線まで続く線路を両側に見ている感じだった。
ロイドは念のために聞いてみた。
「左右の白い筋はリングですね?」
「もちろん」
Bリングの外縁ということは、半径十七万キロの弧《こ》になる。
少しはカーヴして見えそうなものだが、どう見ても直線だった。
リヴィアは言った。
「私たち、リングの粒子のあるところを丘《おか》、その隙間《すきま》を谷と呼んでるの。今いるチェスター渓谷はこのへんじゃ広い谷で、六キロの幅《はば》があるわ。内側(惑星《わくせい》寄り)のリングがラムジー丘陵《きゅうりょう》、外側はシールズの丘ね」
「この村の人は、ずっとこの軌道《きどう》――渓谷で暮らしてるんですか?」
「ときどき移動するけどね。レーネ村ができてから、もう二百年になるわ」
「そんなに……」
となればこのコロニーは、その期間すべてにわたって増改築が繰《く》り返されてきたのだろうか。ことによれば、最初はコロニーではなく、宇宙船だったのかも知れない。
そのとき、背後で身じろぎする気配がした。
振《ふ》り返ると、マージが身じろぎしている。
「――ここはどこ? ああロイド……メイは?」
「隣《となり》さ」
ロイドはメイのそばに漂《ただよ》ってゆき、スリーピング・バッグの上から体を揺《ゆ》すった。
「メイ、起きなさい。メイ」
「ん……」
バッグの下で腕《うで》が動き始め、やがて手首が現れ、目をこすった。
次いでその目は大きく開かれた。
「あ、ロイドさん。……ここはどこ? マージさんは?」
同工異曲《どうこういきょく》の質問だった。
ロイドは、ちょっと待てと言い、リヴィアに向き直った。
「この二人にも服を着せたいんですが、洗濯《せんたく》は――」
「もうできてる頃《ころ》ね。持ってくるわ。それからみんなで夕食にしましょう。みんな皆《みな》さんと話すのを楽しみにしてるから」
そう言って、リヴィアは部屋を出た。
ACT・2 公共ホール
小一時間ほど後、三人はリヴィアに先導されて、食堂兼用の公共ホールに向かった。
いくつかの部屋を抜《ぬ》け、迷路のようなトンネルをくぐるうちに、方向どころか上下感覚まで失われてしまった。構内見取図もないので、迷ったらことだろうな、と思いながらついてゆく。
やがて、ひときわ広い部屋に出た。およそ二十メートル四方のホールで、今度はどの壁《かべ》も平面だった。金属のテーブルが二列に並《なら》び、片隅《かたすみ》にロッカーと加熱器があった。
「エバーウェル級の貨物コンテナだな」と、ロイドはマージに耳打ちした。
一対《いっつい》の壁が内側に傾斜《けいしゃ》し、二本の肋材《ろくざい》があるのがその根拠《こんきょ》だった。おそらく床《ゆか》の下に対称形《たいしょうけい》の区画があって、全体の断面は六角形になるだろう。
このコロニーが、あらゆるスクラップを寄せ集めて造られたのは確実だった。それはここに住む者の経済状態を反映している。
「料理も期待するなよ」
ロイドはまた、耳打ちした。
どうせゼロGでは、ろくな食事にならない。ストローで吸うために、スープは臭のないものだろうし、シチューはフォークだけで食べる代物《しろもの》だろう。そのうえ頭部|鬱血《うっけつ》で味覚が鈍化《どんか》する――むしろ幸いかもしれないが。
たいていの宇宙船に、高価でかさばり、エネルギーを浪費《ろうひ》する重力|装置《そうち》が備えられるのは、そんなわけもあった。コロニーなら、ちょっと回転させてやれば遠心力で疑似《ぎじ》重力が得られる。リング粒子《りゅうし》との衝突《しょうとつ》を嫌《きら》ったか、構造強度を低くすませたかったのだろうが、どちらも金《かね》で解決できることだった。
部屋にはすでに三十名ほどの「村人」がいた。老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》さまざまだった。めいめい料理を装填《そうてん》――この言葉がふさわしい――したトレイを持って、テーブルに向かう。三人と顔が合うと「やあ、いらっしゃい」とか「どうだい気分は」などと、気さくに声をかけてくる。マージやメイを見て口笛《くちぶえ》を吹《ふ》く者もいたが、別に嫌味《いやみ》な感じではなかった。
「みなさんはこちらへ」と、リヴィアが席を示す。
三人はトレイを持って、そこに向かった。席といっても、床《ゆか》から逆U字型のパイプが生えているだけの、至って簡単なものだった。直立したまま、パイプの中ほどにあるシートベルトで体を固定する。ゼロG下では、この姿勢が一番楽なのだが、気分的には今ひとつ、である。
ほどなくして、三人の男が部屋に現れ、向かいの席についた。
まず、全身これ骨と皮、という印象の老人。少なくとも八十歳は下らない、と思える。
ほかの二人に体を支えられての登場だった。その右はリヴィアと同年配の男。そして、まだ顔にあどけなさの残る、十代後半の少年。
老人を除《のぞ》けば、みんな色白で、ひとまわり長身だった。
リヴィアが紹介《しょうかい》する。
「こちらが長老のベン・ロッシュです」
「ミリガン運送社長のロイド・ミリガンです。こちらは社員のマージとメイ。このたびは、みなさんのおかげで命拾いしました。本当に、感謝の言葉もありません」
ロイドが言うと、老人はゆっくりと、会釈《えしゃく》のようなものを返した。皺《しわ》くちゃの肌《はだ》は浅黒く黄ばみ、ところどころに染《し》みが浮《う》いている。とても健康には見えなかった。
ロッシュ、ということは、リヴィアはその娘《むすめ》か孫らしい。
リヴィアは紹介を続けた。
「それから夫のハリー、そして息子《むすこ》のデビッドです」
「ハリー・ロッシュです。このレーネ村の長《おさ》をしています。元気になられて、ほっとしました。どうぞゆっくり滞在《たいざい》していってください」
言葉|遣《づか》いはていねいだが、いわく言い難《がた》い押《お》し出しの強さがある。そして、顔の皺ひとつひとつに、苦労の跡《あと》がうかがえた。
「ありがとうございます。しかし、あまりご厚意に甘《あま》えてもいられません。船の修理が終り次第《しだい》、出発することにします」
「雷《かみなり》にやられたようですね、あの船は」と、ハリー。
「雷?」マージが聞き返す。
「ええ。多くのガス惑星《わくせい》がそうですが、このフェイダーリンクのまわりは、四六時中|電荷《でんか》の嵐《あらし》です――見た目には静かなもんですがね。特にリングは雪玉同士の衝突《しょうとつ》で猛烈《もうれつ》に帯電《たいでん》してますから、下手《へた》に金物《かなもの》を近付けるとバチンときます。普通《ふつう》の船だと電子機器はたいていダメになるでしょう」
「そうだったんですか……」
マージは悔悟《かいご》の念にかられたようだった。
リングの中に船を止めたとき、噴射《ふんしゃ》の熱で周囲の粒子《りゅうし》は消滅《しょうめつ》していた。時間とともにその空間はケプラー運動によって変形し、粒子と船殻《せんこく》の距離《きょり》が縮んでいったのだ。落雷《らくらい》は眠っているうちに起きたのだろう。
リングにこんな危険があることなど、航路情報には載《の》っていなかったが、リングに近付く者など普通いないから無理もない。やはり、そこに何があるかも知らずに船を近付けるべきではなかった。
マージはロイドに言った。
「ロイド。甘えるつもりはないけど――傭兵《ようへい》時代に、ガス惑星に行った経験があるんでしょう? どうして注意してくれなかったの」
ロイドは頭を掻《か》いてみせた。
「いやすまん、すっかり忘れていた。軍艦《ぐんかん》はみんな落雷対策がしてあるんでな、あんまり気にしなかったんだ」
そのとき、ハリーが言った。
「息子《むすこ》に修理を手伝わせましょう。これでも、まあまあの腕《うで》ですから」
「なんでも直せるよ。サービス・マニュアルは積んでるかい?」
デビッドはメイに向かって言った。メイは少しどぎまぎしながら、ええ、と答えた。
「なら楽勝だ。三日もあれば元どおりさ!」
赤みがかった髪《かみ》を短く刈《か》りそろえた、快活な少年だった。
デビッドはそこまで言って、
「だけど、直ったらすぐ行っちまうのかい?」
「え、さあ――」
「ゆっくりしていけばいいよ。タグボートでこのへん案内するからさ。リングは初めてかい?」
「ええ。でもあの」
少年よ、メイに一目惚《ひとめぼ》れしたか、とロイドが見守っていると、メイは助けを求めるように、マージの顔を見た。
マージはすまし顔で、仲間を裏切るようなことを言った。
「それぐらいの時間はあるかもね」
「よーし、決《きま》りだ」
「あのー」
「さあ、話してないで、とにかく食べましょう。口に合わないかも知れないけど、ないよりはいいでしょ」
リヴィアが気さくに言う。たしかに空腹だった。
食事が始まった。メイン・ディッシュはペースト状のグラタンで、固形の具はジャガイモに似せたデンプン塊《かい》だけだった。パンは粉が散りにくいように、シロップを染《し》み込ませてある。味は思ったより良かった。
「ところで、私たちのすぐあとに、ここに来た船がありませんでしたか」
パンを頬張《ほおば》りながら聞く。
「ありました。半日ほど飛び回っていたようですね」と、ハリー。
「それから、どうしました?」
「客かと思ってランデブーに出向いたんですが、応答もせずに行ってしまいました。内惑星帯に向かったようですが。お仲間ですか?」
「いいえ、まったく見ず知らずの船です」
「そうですか」
ハリーは何か察している様子だったが、それ以上|詮索《せんさく》しようとはしなかった。実は追手の船から事情を聞いていて、秘《ひそ》かに自分たちのことを麻薬《まやく》組織に通報する約束《やくそく》ができている――そんなことがあるだろうか?
ないとは言えないが……。
それを見極めるには、もう少し相手を知る必要があった。ロイドは聞いた。
「ときに今、客とおっしゃいましたが、どういうお仕事を?」
「御存知《ごぞんじ》なかったですか。この村は水売りで暮らしを立てています」
「水売り? つまり、ハイドラー……ああ、いやその燃料を売って」
あわてて言葉|尻《じり》をつくろう。
この時代、水素は宇宙船の主要な燃料――正確な表現ではないが――だった。宇宙港の周辺には精製した水素を販売《はんばい》する業者がいる。それとは別に、個人経営でガス惑星やその衛星から水素を採取《さいしゅ》して商《あきな》う者もおり、彼らはハイドラーと呼ばれていた。多くはこのフェイダーリンクのような、凍てついた外惑星帯に暮らしており、生活水準は高くない。宇宙文明の担《にな》い手のひとつであるにもかかわらず、それは蔑称《べっしょう》に近い響《ひび》きをもっていた。
だが、ハリーは気を使わなくていい、という調子で手を振《ふ》った。
「そうです。ここのリング粒子《りゅうし》は水の氷なんで、集めて精製すれば水素と酸素ができます。立ち寄った船に出向いていって、金や物資と交換《こうかん》するわけです」
「しかし航路情報には、燃料補給|施設《しせつ》のことは記載《きさい》されてなかったようですが?」
今度は、相手の顔が微妙《びみょう》にこわばった。
ハリーは、やや伏《ふ》し目がちになって、話し始めた。
「八年前から、ここでの営業は非公認になっています。今でも得意客はいますが、あまり堂々とはやれなくなりました」
「わけをお聞きしてよろしいですかな」
「別に私たちが何をしたわけじゃありません。まわりの情勢が変わったのです」
「ほう?」
「太陽化計画のことは、御存知《ごぞんじ》ありませんか」
「いいえ――ああ、もしかして航路情報にあった、オデット計画のことですかな?」
「そうです。このフェイダーリンクを太陽化しようという計画です」
ほほう……。
ロイドは興味《きょうみ》を引かれた。
「穏《おだ》やかじゃありませんな」
と、相槌《あいづち》を打つ。その話題から、つかず離《はな》れずという姿勢を保つことにする。
それからハリーは、マージとメイにもわかるよう、詳《くわ》しく説明した。
このシューエル太陽系は、内惑星――地球や金星のような、太陽に近い惑星――に恵《めぐ》まれていない。あるにはあっても、金星のような濃厚《のうこう》すぎる大気に覆《おお》われ、地表に人が住むことは難《むずか》しかった。
一方、外惑星のひとつ、フェイダーリンクは十八個の衛星を従えている。その半数が地球の月ほどの大きさを持っており、水や鉱物《こうぶつ》も豊富だった。だが、ここは太陽から遠く離れており、日照《にっしょう》は地球|軌道《きどう》の三十二分の一しかない。どの衛星も氷にとざされ、最も暖かい地域でも氷点下百四十度という低温下にある。
もし、ここに充分《じゅうぶん》な日照があれば、シューエル太陽系は飛躍《ひやく》的な発展《はってん》をとげるのではないか、と考えた者がいた。
フェイダーリンクは充分に大きなガス惑星なので、外部から手を加えることによって、太陽のように核融合反応《かくゆうごうはんのう》を引き起こすことは可能なはずだった。それが火の玉になれば、周辺宙域は事実上|無尽蔵《むじんぞう》のエネルギーを無償《むしょう》で受け取ることができる。
ただし――そうなれば、二百年にわたって暮らしてきたこの村人たちが住処《すみか》を追われることは間違いない。惑星から至近距離にあるリング群も、瞬時《しゅんじ》に蒸発するだろう。
ロイドは言った。
「当然、立ち退《の》きを要求されてるんでしょうな」
「もちろんです。しかし、いくら金を積まれても、応じるつもりはありません」
「なるほど」
いくら金を績まれても、か――。
ロイドは聞いた。
「ちなみに、その太陽化――オデット計画を進めているのは、どういう団体です?」
「政府との合弁事業ですが、実権を握《にぎ》っているのはSDP社です」
SDP……このシューエル太陽系も含《ふく》めて、アルテミナ星区最大の重機《じゅうき》メーカーだ。
「あの会社なら、なんでもやりそうですなあ。かなり強硬《きょうこう》にきてますか?」
「ええ。近日中に強制|執行《しっこう》をすると通達してきました」
「どうなさるつもりです?」
「かわしてみせますよ」
やや大胆《だいたん》な発言だったが、ハリーの口調《くちょう》は淡々《たんたん》としていた。
「生まれ育った土地です。ここのことは、私たちがいちばんよく知ってますからね」
その夜はコロニー内の空《あ》き部屋《べや》に泊《と》まることになった。
ロイドはマージやメイとは別室になった。しばらく考え事をしていると、マージがやってきた。
「メイったら、ああいう経験がないみたいなのよ。可愛《かわい》いったらありゃしない」
面白《おもしろ》くて仕方がない、という顔で言う。
「ああいう? おう、あの村長の息子《むすこ》のことか」
「そう、デビッドよ。手が早いって感じでしょ? メイとまるっきり対照的なのよ。これからどうなるんだろうって思っちゃうわ」
追手のことや村人のことなどは頭から追い出されてしまったらしい。命拾いした反動もあるのか、珍《めずら》しくマージははしゃいでいた。
彼女がメイぐらいの年頃《としごろ》には、ボーイフレンドが何人もいたはずだ。マージは一クラスの中なら、常にベスト三に入るぐらいの容姿を備えているから、いつも余裕《よゆう》を持って相手を見定めることができたにちがいない。
メイも――華《はな》やかさには欠けるが――男を引き寄せる何かを備えているのは確かだ。だが、いかんせんこういう事態は経験の有無《うむ》がものをいう。ロイドは若い二人にかすかな同情をおぼえたが、マージがこの事態を楽しんでしまえるのも無理はないと思った。
ロイドは言った。
「しかし、住む世界が全然|違《ちが》うからなあ……」
「そう。あたしの予感としては、メイはデビッドをふらなきゃならないの。あの子がどうやってその関門をくぐるか、ちょっと見ものじゃない?」
ロイドはうなずいた。
「どちらにとっても、少なからぬ試練になるだろうさ。まあ、いい経験になるから、ここはさりげなくプッシュしてやるんだな」
「そう思う?」
「ああ」
マージはにんまり笑った。
「オーケイ、仰《おお》せの通りにいたしますわ」
ACT・3 アルフェッカ号
翌日。
アルフェッカ号は『西の波止場《はとば》』と呼ばれるドッキング・ベイに、蛇腹式《じゃばらしき》のチューブを介《かい》して連結されていた。そこはトラス材で組まれた三階建ての、ジャングルジムのような発着場で、ほかに一人乗りのタグボートが数台と、連絡艇《れんらくてい》が一|隻《せき》つないであった。
蛇腹にさしかかるエアロックの窓から、コロニーの全景が見えた。
全長は百五十メートルぐらいか。思ったより大きくない。全体の印象は最初の部屋から見たものと変わらなかった。主要な二本の骨格に円筒《えんとう》や直方体の居住区が何本もまとわりつき、一端《いったん》には核融合《かくゆうごう》エンジンらしきものがある。一応、宇宙船としても機能するらしい。
マージとメイ、それにデビッドの三人は、アルフェッカ号に移乗すると、恒星船《こうせいせん》のアビオニクス・ベイに入った。それまで一緒《いっしょ》だったロイドは、別の用事があると言って船内の自室に向かった。
アビオニクス・ベイは電子機器の集積された一室で、一方のラックには紙に印刷《いんさつ》されたマニュアルがぎっしり詰《つ》まっている。もちろん電子情報化されてもいるが、それだけではいざというときに困るのだ。
「さあて、何からかかるかな」と、デビッド。携《たずさ》えてきた道具箱を、壁《かべ》に吸着させる。
「まずは空調関係からいくわ。とりあえず燃料電池で動くようにしないと、またすぐ暑くなるから」
マージはそう言って、モジュールを引き出した。
雷《かみなり》のサージ電流は、電源系統から侵入《しんにゅう》したらしい。ヒューズが二本とも飛んでいた。
「ここはヒューズ交換《こうかん》だけですみそうだな。一応入力部も調べとこう」と、デビッド。機械の型番《かたばん》を見て、そのマニュアルを引き出す。
「助かるわ。メイ、備品室《びひんしつ》から予備を持ってきて。箱ごとね」
「はい」
メイが出てゆく。
少しして、デビッドは聞いた。
「なあマージさん、あの子っていくつだい?」
「十六よ」
「へえ、そうなのか」
検査器《けんさき》を操作する手が止まる。
「気になる?」
「いやあ、若いのに親元離れて働くなんてえらいなって思ってな。いるんだろ、親」
デビッドは短く刈《か》りそろえた髪《かみ》を掻《か》きながら言った。
「ええ。ちなみにあなたは、いくつ?」
「十六だよ」
「そう。じゃあ、ちょうどいい感じね」
「え?」
「けど、行きずりだからなあ……」
マージは思案してみせた。
「なんだよ」
「数々の難関があるわ。まあ、当たって砕《くだ》けろ、ってとこよね」
「……なんだか知らないけど、あんまり先走らないでくれよな」
デビッドは口をとがらせた。
それから、ぼそりと言う。
「あんたが考えてるようなことなんか、やろうと思っちゃいないよ」
「あら、そう」
マージは笑いを噛《か》み殺した。
メイが戻《もど》ると、三人は必要最小限の言葉を交わしながら作業を進めた。
二時間ほどかけて空調機器の制御《せいぎょ》システムが直ったところで、マージは言った。
「じゃあ私、アンテナまわりをチェックするから、ここは二人でお願いね。適当なところで切り上げていいわよ」
壁《かべ》を軽く蹴《け》って、部屋を出ようとする。その足首を、メイがつかんだ。
「マ、マージさん!」
「ちょっと、バランス崩《くず》すじゃない。何なの」
「あの、なんていうか、一人だと――」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。デビッドがいるじゃない」
すがるメイを振《ふ》り切って、マージは部屋を出た。
ACT・4 ロッシュ家
アルフェッカ号からコロニーに戻《もど》ったロイドは、ハリー・ロッシュの部屋を訪《たず》ねた。
「今、よろしいですかな、村長」
「ああ、ロイドさんですか。どうぞ」
ハリーは――例によって直立姿勢で――旧式《きゅうしき》のコンピューター端末《たんまつ》に向かっていた。画面にはフェイダーリンクとリングの図が表示されている。
ロイドは言った。
「船から、ちょっと貢物《みつぎもの》を持ってきました。アルテミナ星で仕入れたものですが」
そう言って、ハリーの前に琥珀色《こはくいろ》の液体の入った瓶《びん》を浮《う》かべる。瓶の中央には、ゼロG特有の、奇妙《きみょう》な形に震《ふる》える大きな気泡《きほう》があった。
「おお、ブランデーですか。これはこれは」
ハリーは笑顔を浮かべた。
「村じゃ、なんでも共有するしきたりですが――こいつは独占《どくせん》したいですねえ。妻には内緒《ないしょ》にしておきましょう。協力していただけますか」
「もちろんですとも」
二人は握手《あくしゅ》した。秘密を共有することほど、友情を堅固《けんご》にするものはない――本物の友情かどうかはともかく。
「ではさっそく、村長の不祥事《ふしょうじ》に乾杯《かんぱい》といきますか」
「そうしたいところですが、今は朝ですから。時計によればね」
「おっと、そうでしたな」
これはうかっだった。
ロイドは話題を変えた。
「しかし、なんでも共有とは殊勝《しゅしょう》なことですな」
「なあに。そうでなきゃ、やっていけませんよ。たかだか二十六世帯、総人口百五十六人の村ですからね」
「確かに」
「しかし、掟破《おきてやぶ》りは誰《だれ》でもやっています。目をつむってはいますがね」
ハリーは説明した。
村から水や水素を買う船は、危険なリングのそばには近寄らない。そこで村の方から小型のタンカーでランデブーに向かうわけだが、そうなると私的な取り引きを監視《かんし》する目はなくなる。
そうして手に入れた土産物《みやげもの》は、自分だけでしまっておいたり、親しい村人の間でやりとりされるという。
「誰でもいい、個人用のロッカーを開いてごらんなさい。酒や薬、肉の缶詰《かんづめ》やある種の本がごろごろ出てくるでしょう」
ロイドはうなずいた。そして少し、安心した。
こんな僻地《へさち》で、十年|一日《いちじつ》のごとく質素《しっそ》な生活を送っているだけ、というのは、ロイドには考えにくいことだった。どこかにはけぐちがあっていいはずだ。
「それが人間ってもんでしょう。私どもには、大いに結構なことだと思えますな」
そう言って、ロイドは話題を変えた。
「ときに――昨日のことですが、私らの船はこの村から、どれくらい離《はな》れていましたか」
「二万キロくらいでしたね。一周百万キロの丘《おか》ですから、かなり幸運でしたよ。曳航《えいこう》するのに、タグボートを二|隻《せき》出しました」
「それはどうも。あとで費用を払《はら》わせてもらいましょう。――それにしても、レーダーが効《き》かないのによくわかったもんですなあ」
「リングに入ってしまうと、ちょっとわかりませんね。しかし、それまでの軌道《きどう》はこちらで追っていましたから、見当はつきます。客をつかまえるのも商売ですから」
「なるほど……」
そして機動隊の監視《かんし》も、か。
惑星《わくせい》の陰《かげ》にまわり込んで、追跡者《ついせきしゃ》からは隠《かく》れたつもりだったが、レーネ村からは丸見えだったらしい。
「それに、レーダーの扱《あつか》いに慣《な》れると、わずかなエコーの違《ちが》いや、船がかき乱した粒子《りゅうし》の動きを読み取ることができます。村の者は、誰でも子供の頃から習熟《しゅうじゅく》してますからね」
ACT・5 ラムジー丘陵《きゅうりょう》
「よし、これで炉《ろ》の制御《せいぎょ》関係も直ったな。おっと、もうこんな時間か」
デビッドはわざとらしく時計を見て言った。
「畑《はたけ》の見回りに行かないとな」
「畑?」
メイはけげんな顔で聞き返した。
この数時間のうちに、メイは何度もデビッドに話しかけられ、そのたびに必要最小限の返答をしてきた。男の子と交際した経験が皆無《かいむ》に近いので、こういう状況《じょうきょう》には全く不慣れだった。だから、会話が持続・拡大《かくだい》するような返事をしたのは、これが最初だった。
「どうだい、一緒に見に来ないか。外は気持ちいいぜ」
「外って――」
屋内《おくない》の、水耕《すいこう》農場のたぐいではないらしい。
「リングのことさ。雪玉の収穫《しゅうかく》設備があるんだ。タグボートで連れてってやるよ」
「でも、雷《かみなり》があるんじゃ」
「俺《おれ》たちの宇宙服なら心配ないって。大丈夫《だいじょうぶ》、庭みたいなもんなんだから」
「ええ、でも……」
「リングに来るの、初めてなんだろ。しっかり見といた方がいいぜ。すっごくきれいなんだから。そうだろ?」
「ええ――じゃあ」
押《お》し切られる形で、メイはうなずいた。リングをもっとじっくり見たい、という気持ちはあった。
「じゃあ、西の波止場《はとば》にいるから、宇宙服に着替《きが》えてこいよ」
「ええ」
十分後、二人はエアロックを出て、タグボートのひとつにとりついた。気密のキャビンはなく、オートバイのようにまたがるだけの、簡単なものだった。
「これって一人乗りじゃ」
「そうさ。背中につかまれよ」
「ええっ……」
「大丈夫だって。ほら、早く」
仕方なく、言われた通りにする。
「俺の腹に手をまわして、両手を結ぶんだ。いいかい」
「は、はい」
デビッドの細く引き締《し》まった体が、宇宙服ごしに感じられる。
「よーし、しゅっぱーつ!」
デビッドはスロットルを回した。水素と酸素を燃料にする、もっとも原始的なエンジンが噴射《ふんしゃ》を始める。
タグボートは、思ったよりおとなしい、およそ〇・二Gの加速でドッキング・ベイを離《はな》れた。船首を立て、リング面に垂直に上昇《じょうしょう》する。それまで一本の帯《おび》にしか見えなかったリングは、たちまち無数の弧《こ》になった。すでに一度見た光景だったが、アルフェッカ号の窓越《ご》しに見るのとは大違《おおちが》いだった。
「わあ……」
「どうだい、すごいだろ」
「うん」
デビッドはタグボートを水平に戻《もど》し、リングの内側に向けた。
「すぐ目の前のベルトがラムジー丘陵《きゅうりょう》。その向こうがカスルバー谷だ」
見下ろすと、コロニーははるか下方に見えた。大きさは、伸《の》ばした腕《うで》の先の親指くらいで、ラムジー丘陵のすぐ横に浮《う》かんでいた。
ラムジー丘陵は幅《はば》三キロほどの平原だった。目をこらすと平原のなかに、数本の髪《かみ》の毛のような筋が見えた。ほかの丘《おか》や谷は少なくとも数百メートルの幅があるので、ちょっと不自然な細さだった。
「あの、細い筋は何ですか?」
「収穫の跡《あと》さ。これから近付くよ」
接近するにつれて、筋の中ほどに奇妙《きみょう》な白い物体が見えてきた。
さらに近付いて見ると、それはふたつの巨大な吹《ふ》き流しだった。口環《くちわ》の直径は、小さな家がすっぽり入るほどだった。長さはその三〜四倍。白い胴体《どうたい》は、しだいに先細りになって、末端《まったん》には円筒形《えんとうけい》の機械がついていた。
ふたつの吹き流しは、およそ二百メートル離《はな》れて向き合っている。
「どういう仕組みかわかるかい?」
「いいえ……」
「あの口からリングの雪玉を取り込んで、先っぽで溶《と》かして水にするのさ」
確かに口環のまわりを見ると、今まさにリングの粒子《りゅうし》が呑《の》み込まれようとしていた。だが、それはあくまで静止画であって、なんの動きも感じられない。
デビッドは説明を続けた。
「あの雪玉が、軌道《きどう》によって違う速さで動いているのはわかるだろ?」
「ええと、内側の方が速く動く――」
「そうそう。だから、ある軌道から見ると内側の雪玉は東に、外側のは西に動くんだ。一日で百メートルぐらいだけどな。あの『凧《たこ》』も東のは内側、西のは外側寄りに置いてあって、ふたつはケーブルでつないであるんだ」
そして一日放置しておくと、双方《そうほう》にリングの粒子がたまるわけだった。ふたつの吹き流しはまさしく凧のように一定の仰角《ぎょうかく》をもって結ばれており、うまく所期《しょき》の軌道にとどまる工夫《くふう》がしてあった。
メイはふと、ロイドに聞いた、小海老を口一杯飲み込むというあの生き物、鯨《くじら》という生き物を連想《れんそう》した。あれもこんな形をしているのだろうか……。
「だけど、まれにでかい雪玉にぶつかったりして、おかしな方向になびいたりするんだ。それでこうして見回るわけさ。だから俺たちのことは牧童《ぼくどう》って呼ばれてる」
「へえー」
メイは感心した。たった今まで、ガス惑星《わくせい》のリングの間を飛び回って吹き流しを見張る仕事があるなどとは、夢《ゆめ》にも思わなかった。首をめぐらすと、粒子をさらった跡《あと》は、はるか彼方《かなた》まで続いていた。一日百メートル伸《の》びてゆくとしたら、ああなるのにいったい何年かかるのだろう……。
タグボートは、速度を落としながら吹き流しのすぐそばに来た。
「この吹き流し、何でできてると思う?」
「布みたいに見えますね。もしかして、アールミック繊維《せんい》ですか」
「当り! よくわかったなあ」
「私のドームでも作ってたから」
「そうかあ。あれは鉄や何かから作る繊維だけど、その鉄も雪玉から採《と》るんだぜ。砂鉄《さてつ》みたいなのが、溶《と》かしたあとにちょこっと残るんだ」
「へえ」
「それに食い物もだな」
「食べ物?」
「この畑には、なんでか知らないけどアミノ酸が混じってるんで、合成機に入れると食い物になるんだ」
どうやら、最低の生存だけなら自給自足でやっていけるらしい。もちろん、老朽化《ろうきゅうか》した機械などは新品と交換《こうかん》しなければならないだろうが、デビッドの腕前《うでまえ》を見る限り、それもかなりの自給率なのだろう。
「ところで、メイのドームってどこ?」
「ヴェイス」
「……ごめん、知らないな」
「知らなくてあたりまえ。アレイダのはずれの、サイトロプスっていう太陽系だもの」
「アレイダかあ。ずいぶん遠くから来てるんだな」
「うん」
「そっかあ……」
デビッドは、なんでだ、と聞こうとして、思いとどまった。
そこまで立ち入るのは、まだ早すぎるような気がしたからだった。
タグボートを吹《ふ》き流しの横に静止させると、デビッドは言った。
「さあ、降りて散歩しようぜ」
「降りるって……機動ユニットも命綱《いのちづな》もないし」
機動ユニットというのは、宇宙服で活動するときの、小型の噴射装置《ふんしゃそうち》である。
デビッドはボートを離れると、そばに浮いていたバレーボールほどの雪玉を両手でつかんだ。
「雪玉があるさ。こうやって投げるんだ。それ!」
デビッドの体は雪玉と反対方向に動き始めた。巧《たく》みに身をひるがえし、まわりの雪玉を押《お》しながら、どんどん遠ざかってゆく。
「ち、ちょっと待って」
メイは大急ぎで、手近な雪玉をつかもうとした。それはできたてのフラッペのように柔《やわ》らかく、くしゃくしゃと壊《こわ》れてしまった。別のを、今度はそっと両手ではさむ。壊さないように気をつけながら、できるだけ強く投げる。
「あっ、あっ」
ナビゲーターとしてはいい腕《うで》をみせるメイだったが、このような推進《すいしん》方式にはまったく不慣れだった。世界はぐるぐる回転しながら流れ始め、二メートルもありそうな、大きな雪玉にぶつかるまで止まらなかった。
ヘルメットに付着した雪をはらいのけ、あたりを見回す。
「デビッドさん! どこにいるの!?」
「ここだよ」
「声だけじゃわからないわ」
宇宙服の無線では、距離感も方向感も得られない。
「ここだって」
「そっちからは見えるの?」
「まる見えだよ」
「どんなふうに?」
「こんなふうさ」
ヘルメットの両側から、突然《とつせん》大きな手袋《てぶくろ》が現れた。
「あーっ、わっわっ!」
ゼロG状態では視覚が頼《たよ》りなので、メイは思わず手足を振《ふ》り回した。
「おいおい、もがくなったら」
「す、すみません」
「よーし、そのまま力|抜《ぬ》いてろ」
デビッドはメイの両肩をつかむと、そばの大きな雪玉を足で押《お》した。
まわりの雪玉がゆっくりと流れ始める。
「ここで駆《か》けっこをやらせたら一番なんだぜ、俺。どうだい?」
「……きれい。シャボン玉みたい」
「なんだって」
「シャボン玉。石鹸《せっけん》でつくる泡《あわ》のこと」
「ふーん」
デビッドはピンとこないようだった。コロニーのバスルームには確かに石鹸があったが、彼らにはシャボン玉で遊ぶ理由がなかった。それは重力からの解放感を味わう遊びなのである。
周囲の粒子《りゅうし》がしだいに小さくなってきた。デビッドはリングの厚み方向に泳いでおり、その外緑《がいえん》に近付いていた。
「この上は大きな雪玉がないから、気をつけないと戻《もど》ってこれなくなるんだ」
デビッドが片手で雪玉を投げると、二人の体はほとんど静止した。
「わあ……」
メイは歓声《かんせい》をあげた。その境界は意外なほど明瞭《めいりょう》であり、二人は雪玉の濃厚《のうこう》な層から、ちょうど頭ひとつ出している格好だった。
彼女の知るところではなかったが、それは月明りの下、限りなく広がる雪原《せつげん》のようだった。その表面には、低くかすかな霧《きり》がたちこめている。
「こっちを見てみろよ」
デビッドが腕を引く。
メイはその方に体を回した。
「えっ……あれ?」
メイはヘルメットを揺《ゆ》すってみたが、そこに映り込んだものではなかった。
雪原――リング面――よりすこし高い空間に、三つの光芒《こうぼう》が浮《う》かんでいた。少し離《はな》れて左手に三つ、右手にも三つ。光芒はおぼろげな、縦に長い菱形《ひしがた》をしており、紫《むらさき》から青、黄色を介《かい》して赤へと色あいを移しながら輝《かがや》いていた。それは漆黒《しっこく》の壁《かべ》に掲《かか》げた、途方《とほう》もない宝石のようだった。
「あれは……」
「虹《にじ》さ。ちょっときれいだろ?」
「虹……ですか」
惑星上で見えるものとはかなり違《ちが》うが――。
「季節や時間によって違って見えるんだ。四つ一組になるときもあるし、磁気嵐《じきあらし》のときは揺《ゆ》れたりするんだ。すごくゆっくりとだけど」
「へえ……」
メイはしばらく虹に見とれていたが、やがて言った。
「このリング、生きてるみたい。あの星も」
「え?」
「そんな気がする。――ここへ来たときから、ずっとそんな気がしてたの」
「そうか! メイも、そう思うか!」
デビッドは、歓声《かんせい》をあげた。
「みんな迷信だって言うし、調査でも何も生き物はいないってことになったけど、俺、ガキの頃《ころ》から信じてるんだ。ここには何かいる。ここは死んだ場所じゃないんだって。やっぱりなあ――わかる奴《やつ》にはわかるんだ!」
相手の気持ちが伝わってきて、メイも思わず微笑《ほほえ》んだ。
と、そのとき。
両方の宇宙服に、男の声が響《ひび》いた。村長の声だった。
「こちら見張り台、こちら見張り台。全員村に戻《もど》れ。奴《やつ》らが来た。引《ひ》っ越《こ》しだ」
ACT・6 見張り台
足音こそ響《ひび》かないが、コロニーは騒然《そうぜん》としていた。西の波止場《はとば》から中央に戻るトンネルの中で、デビッドとメイは何人もの村人とすれ違《ちが》った。どの顔も緊張《きんちょう》し、昂然《こうゼん》としている。
「サム、東の工場を固定しろ! ケーブルは真空倉庫にある」
「わかった、まかせろ」
「東の連中はどうした」
「アンテナを巻き上げてる」
「水タンクは捨てるのか?」
「中身だけ捨てりゃいい。十分で終らせろ」
「デビッド、タグはちゃんと結んだだろうな」
「やったよ」
「お客の船は動けるのか!?」
「まだ直ってない」
「なら、あれもしっかり縛《しば》っとけ! 波止場《はとば》にじゃないぞ、大キールにだ。タグより断然重いんだからな!」
「ほかのお客はどこ?」
「見張り台だ。その子もそこへ連れてけ。それから西の外を固めろ」
デビッドはいくつものトンネルを大急ぎで抜《ぬ》けて、メイを見張り台に案内した。
中には、数人の村人に混じって、ロイドとマージがいた。
「親父《おやじ》、メイを連れてきた」
「よし。牧童連《ぼくどうれん》は西だ。凧《たこ》をたため」
「わかってる」
そう言うなり、デビッドは飛び出していった。
「メイ、心配したわよ」
マージが床《ゆか》のフッタに足をかけたまま、メイの体を引き寄せる。
一段低くなった部屋の奥では、ハリーがマイクを取ってコロニーのあちこちに指示を出していた。その横に、ロイドがいる。まわりはさまざまな計器やスクリーンで占《し》められていた。
見張り台というのは、要するに宇宙船のブリッジだった。ほとんど原型をとどめていないが、おそろしく旧式《きゅうしき》の計器|盤《ばん》が垣間見《かいまみ》える。そのまわりには、新たに増設された居住モジュールなどのモニター類《るい》が集められ、無造作《むぞうさ》にラックに収《おさ》まっていた。計器盤の前には、このコロニーで初めて見るもの――椅子《いす》があった。
「何があったんですか。『奴《やつ》らが来た』って?」
メイはマージに聞いた。
「シューエル政府の機動隊よ。強制|執行《しっこう》が始まったの」
「強制執行って、つまりどうなるんですか」
「このコロニーを制圧して、しかるべき場所へ牽引《けんいん》するのよ。リングから無理やり立ち退《の》かせるってこと」
「ひどい……ほんとにそんなこと、するんですか」
メイは顔をこわばらせた。
「そうはさせんよ」
ハリーが振《ふ》り向いて言う。
「安心していればいい」
「しかし、アルフェッカ号が邪魔《じゃま》じゃありませんか。加速に響《ひび》くでしょう」
横からロイドが言う。
ハリーは首を振《ふ》った。
「大丈夫《だいじょうぶ》です。どうせ〇・二G以上は出しません」
「もっと出せるのに、ですか?」
「そうです。――体の弱い者もいますのでね」
そう言って、ハリーはかすかに顔を曇《くも》らせた。
それから、またマイクを取る。
「全点に告《つ》げる。十八時二十分をもって移動を開始する。あと五分だ。手の空いている者は浮遊物《ふゆうぶつ》を調べろ。移動が始まれば、物は西の床《いか》に落ちる。繰り返す。物は西に落ちる」
「ハリー、エンジンの予備加熱を始めるぞ」
村人の一人が言う。
「やってくれ。あわてるなよ」
「機動隊から通信が入っています」と、別の村人。
「流してくれ」
スピーカーから、淡々《たんたん》とした男の声が響いた。
『こちらシューエル政府・外惑星方面第二機動隊。Bリング外縁の居住者に告ぐ。諸君らは当|軌道《きどう》に不法|滞留《たいりゅう》している。すみやかに軌道を離脱《りだつ》し、当局のもとに投降せよ。抵抗《ていこう》するなら、武力を行使する』
「返答しますか」
「いや。それより相手の現在位置を映してくれ」
部屋中から見える大きなスクリーンに、レーダー画像が映った。機動隊の宇宙船は四|隻《せき》で、フェイダーリンクの北半球を越えてくるところだった。直線|距離《きょり》は約十五万キロ。一時間で渡れる距離だった。
「いいぞ。こっちはリングの南側にまわれば――」
ロイドが言いかけて、口をつぐむ。機動隊を示す四つの光点のうち、ふたつが分離して、赤道方向に向かっている。
ハリーが説明した。
「親父《おやじ》と内垣《うちがき》の隙間《すきま》をくぐって丘《おか》の南北から挟《はさ》み打《う》ちにする気でしょう。向こうも少しはものを知ってますよ」
親父はフェイダーリンク、内垣は最も内側の、細いDリングのことだった。
「落雷対策《らくらいたいさく》はしてあるのかしら、あちらの船は?」と、マージ。ハリーはうなずいた。
「仮にも軍隊|仕様《しよう》の巡視船《じゅんしせん》ですからね」
雷《かみなり》を利用して宇宙船を機能|停止《ていし》させることはできないらしい。
ハリーは時計を見た。
「時間だな。フランク、いけそうか?」
「ああ。いつでも出せる」
「よし、加速〇・二で出せ。北から海峡《かいきょう》に向かう。丘《おか》より二キロの距離を維持《いじ》しろ」
海峡とは、BリングとCリングの隙間をいう。
「わかった」
フランクと呼ばれた若い男がいくつかのレバーを倒《たお》すと、部屋《へや》に低い震動《しんどう》が走った。
外の景色《けしき》が回転し始め、続いて床《ゆか》がせりあがる。床だけではない、部屋全体がせりあがっているように感じられる。コロニーが加速し始めたのだった。
ミリガン運送の三人は床に着地して、久しぶりの重力を味わった。〇・二Gといえば体重は五分の一にすぎず、いたって楽なものだ。だが、生まれてこのかたゼロGで育った村の人間にとっては、これでも結構な負担《ふたん》になるらしい。室内の村人たちは、例外なく椅子《いす》に身を沈《しす》めていた。
コロニーはリング面から二キロの距離を保ちながら移動を開始した。
「西へ二点」
ハリーが指示すると、コロニーはリングの回転方向とは逆向きに旋回《せんかい》し始めた。
ロイドはマージのそばに立って、小声で言った。
「連中の操船《そうせん》をよく見とけよ。うまいもんだ」
「ええ」
マージは正面のスクリーンを見すえたまま、うなずいた。
軌道《きどう》速度を失ったコロニーは惑星《わくせい》に向かって落下し始めている。最小の加速で最大の運動量を得ながら、ハリーは機動船隊をみずからの土俵《どひょう》に引き込もうとしていた。
「あの、機動隊がこちらとランデブーしたら、どうなるんですか」
メイがロイドに聞く。
「アンカー・ケーブルをかけて強引《ごういん》に接舷《せつげん》するさ。それから斬《き》り込みだな。武装《ぶそう》した連中がエアロックを破ってなだれこみ、ブリッジを制圧する。もちろん投降を呼びかけはするがね」
「政府って、そんなこともするんですか……」
「そうさ。法のもとにやっていることを除《のぞ》けば、海賊《かいぞく》と変わらない。向こうの考えじゃ、こっちは悪人なのさ。抵抗《ていこう》しない限り殺そうとはしないが――とにかくランデブーされないことだ。お手並《てなみ》拝見《はいけん》といこう」
メイは少し青ざめていた。ロイドはその肩に手を置いて、またスクリーンに目を向けた。
コロニーはBリングの北側を、内側へ斜《なな》めに横切ろうとしていた。レーダーには同じ側にいる二|隻《せき》の巡視船《じゅんしせん》が映っており、裏側の二隻はわからない。
「赤外線で見えないかしら」
マージの声を聞いて、ハリーが答えた。
「無理ですね。そうされないように、噴射《ふんしゃ》を切っています。しかしいつまでもそうしてはいられませんよ。こちらを追いつめたければね」
ほどなくして、赤外線カメラの映像に特異点を示す光点が瞬《またた》いた。表の二隻に較《くら》べると、裏の二隻は短時間の強力な噴射を行なっている。
「海峡《かいきょう》でランデブーする気だな。芸のない連中だ」と、ハリー。
結局、四隻の巡視船は内側から、コロニーは外側から、それぞれ海峡に向けて接線《せっせん》運動を行なっていることになる。
「あと七分ほどで合流します」フランクが告げる。
「海峡のすぐ外側にそわせろ」
「わかった」
「南へ一点。丘《おか》に五百メートルまで寄せる」
リングの縞《しま》模様が、右前方から左後方へと飛び去ってゆく。やがてはるか前方に、黒ぐろとした海峡が近付いてきた。
気がつくとロイドは、爪《つめ》が食い込むほど拳《こぶし》を握《にぎ》りしめていた。そこはリングに逃《に》げ込む前、レーダーで調べたBリングとCリングの隙間《すきま》だった。三千キロの空間に、七本の細いリングがあったはずだ。あのときマージは嫌《いや》がったが、ハリーはそこへ入るつもりらしい。それも粒子の流れと逆方向に、秒速数十キロの相対速度で。
表側の二隻が、百キロ後方に迫《せま》っていた。裏側の二隻は、さらに千キロほど後ろにいると思われた。
「よし、飛び込め」
ハリーがそう言うなり、コロニーは海峡の縁《ふち》からその内部に入った。Bリングは一本の直線となって左手真横を流れ、反対側にも別の細いリング――七本のうちのひとつ――が見える。コロニーは右手のリングにすれすれまで接近した。速度のせいで個々の粒子は見わけられず、果てしなく続く固体の壁《かべ》のようだった。
「巡視船、五十キロに接近」
「メインエンジンを吹かせておけ。三番|岩《いわ》までは?」
「八百四十キロです」
「百キロ手前で脱《ぬ》けろ。ぬかるなよ」
「はい」
操縦|桿《かん》を握《にぎ》るフランクは、額《ひたい》に汗《あせ》を浮《う》かべていた。さすがに緊張《きんちょう》しているらしい。
「何を始めるつもりかしら?」
マージが小声で聞く。ロイドは肩をすくめただけだった。
「今だ!」ハリーが怒鳴《どな》る。
突然《とつぜん》、コロニーはリング面を離脱《りだつ》した。
リングが遠ざかると思えた瞬間《しゅんかん》、それは鞭《むち》のようにうねって目の前を通過した。
「えっ!」
マージは思わず声をあげた。
「噴射《ふんしゃ》を切れ。後ろを見せろ。最大望遠だ」
ハリーがまた怒鳴ると、後方|監視《かんし》カメラの映像がスクリーンに現れた。
一|隻《せき》の巡視船《じゅんしせん》が独楽《こま》のように回転し、まわりで霞《かすみ》のようなものがきらきらと輝《かがや》いていた。
「いったい――」
絶句するマージに、ハリーが説明した。
「あの細い丘《おか》――リングの内側に、三番岩――小さな衛星がめぐっています。その重力に引きずられて、リングの一部が外側にふくらんでいるんです」
「……それに接触《せっしょく》したんですか、巡視船は」
「そうです。こちらのプラズマ噴射で正面のレーダー監視《かんし》ができませんから、とても避けきれないでしょう」
「もう一隻がターンし始めました。救助に向かいます」
フランクが告げると、ハリーは大きくうなずいた。
「裏にいた二隻はどうなった?」
「今|海峡《かいきょう》から表に出ました。距離《きょり》、八百キロ」
「波で一気に片付けてやる。フランク、噴射を再開して丘から二キロの距離を保て」
ハリーは今や、闘志《とうし》をあらわにしていた。その頬《ほお》は紅潮《こうちょう》し、視線はせわしなく計器の間を行き来する。
ロイドは、メイの肩が震《ふる》えているのに気づいた。その耳元にささやく。
「これが戦いだよ、メイ。相手を殺すことになるかもしれん。誰《だれ》も願ってはいないがね」
「ひどい。どうしてそこまで――」
「彼らには戦う理由があるのさ」
フランクが、巡視船五百キロに接近、と告げた。
「舳先《へさき》を上げて右へ振れ!」
メインエンジンの噴射がリングに向き、ワイパーのようにその表面をなめる。その高温高速の排気《はいき》は、レンズで集めた光が紙を焼くように、リングに細いスリットを穿《うが》った。
「噴射停止。どうだ!?」
また、巡視船に焦点《しょうてん》が合わせられる。
二隻はこちらに船腹を見せていた。噴射は止まっている。
「驚《おどろ》いたな――漂流《ひょうりゅう》してる!」
ロイドは声をあげた。
「教えてくれ、ハリー。今度はどんな手品《てじな》を使ったんだ」
「スポーク現象ですよ、人工的なね」
「スポーク……」
ハリーは説明した。
惑星《わくせい》のリングは、必ず赤道面上に存在する。だが、そのリング面は厳密《げんみつ》に平面ではなく、ある領域《りょういき》でスポークと呼ばれる放射状の「さざ波」を立てることがある。それは惑星|磁場《じば》と、帯電した微粒子《びりゅうし》の電磁作用によるものだった。
「すると――今の噴射で粒子をかきまぜた、と?」
「そうです。他の粒子と接触《せっしょく》して余分に帯電した微粒子は、磁場の働きで大波を作ります。巡視船はそれに巻き込まれたんです。微粒子だからさほど破壊力《はかいりょく》はありませんが、なにしろこの速度ですからね」
それからハリーはマイクを取って、緊急《きんきゅう》チャンネルで呼びかけた。
「こちらレーネ村コロニー。後方の巡視船、応答せよ」
たっぷり三十秒ほどして、苦々《にがにが》しい声が返ってきた。
『……こちら巡視船シーライオン。やってくれたな』
「他人《ひと》の畑《はたけ》を荒《あら》すからだ。お仲間は別の用事があるようだが、本船に救助要請《きゅうじょようせい》をするか?」
『糞《くそ》でもくらえ。交信終了!』
ハリーは丸一日分のため息を吐《は》き出すと、フランクに命じた。
「一件落着《いっけんらくちゃく》だ。村に帰るぞ」
かすかな震動《しんどう》とともに、コロニーは回転を始めた。
そのとき、ブリッジー見張り台――に、リヴィアが飛び込んできた。
「どうした、リヴィア」
リヴィアは蒼白《そうはく》だった。唇《くちびる》が震《ふる》え、しばらくは声にならない。
「どうしたんだ」
「祖父が……長老が、死んだわ」
かすれた声で、リヴィアは言った。
ACT・7 墓地《ぼち》
長老ベン・ロッシュの死因は、心筋梗塞《しんきんこうそく》だった。八年前――百四歳のとき――ベンは第三|惑星《わくせい》の軌道《きどう》病院で冠状《かんじょう》動脈のバイパス手術を受けている。その後、小康状態が続いていたが、心臓の機能はゆるやかな下降線をたどっていた。このゼロG状態は、臓器《ぞうき》に負担《ふたん》を与《あた》えないかわり、回復力も奪《うば》うのだった。
彼の一世紀を越《こ》える生涯《しょうがい》に終止符《しゅうしふ》を打ったのは、やはり先ほどの加速だった。わずか〇・二Gとはいえ、あるとないでは大違いだった。
コロニーの移動が始まると、老人は床《ゆか》に敷《し》いた何枚もの毛布の上に横たえられ、ずっとリヴィアがつきそっていた。
「動きはじめて半時間ほどして――」
リヴィアは亡骸《なきがら》を安置した部屋で、ハンカチを何度も眼にあてながら言った。
「疲《つか》れたと言うので、お眠りになったらって言ったんです。それがいちばんです、って。そしたら……それっきり、もう……」
ハリーはその前に漂《ただよ》ってゆき、妻の体を抱いた。
「私が――気にはしていたんだが――私が悪かったんだ。加速をひかえるべきだった」
リヴィアは夫の胸の中で首を横に振《ふ》ったが、ハリーのこわばった表情は変わらなかった。
翌日、村人は冷えきった亡骸とともに、ラムジー丘陵《きゅうりょう》よりずっと内側の丘《おか》に出向いた。
ミリガン運送の三人も客人《きゃくじん》として同行する。
白々と輝《かがや》くリングの表面に、白い布に包まれたベンの遺体《いたい》が安置される。その周囲を、宇宙服を着た村人たちが囲んでいる。
「この丘、墓地なんだ」
デビッドがヘルメットをメイのそれに押《お》しつけて言った。
「明日には何千キロも先に行っちまう。また村のそばにやってくるのは、ちょうど一年後さ。そのときはみんなで来て、花束《はなたば》をそなえたり、歌を贈《おく》ったりするんだ」
「そう……」
「俺《おれ》にとっちゃ、長老っていうよりじいさんさ。宇宙服をぞんざいに着たりすると、えらい剣幕《けんまく》でさ。だけど、元気な頃はよく散歩につれてってくれた。丘《おか》渡りの名人だったんだ。雪玉ひとつかかえて、平気で隣《となり》の丘に渡るんだ」
「うん」
「それから、一緒にでかい雪玉にあだ名をつけたりした。あれはニコルんとこのせがれに似とる、とか言ってな。それから、春先にしか見えない虹《にじ》があるって言って、夜中に俺を連れ出したりした。珍《めずら》しいんだ。ここじゃ季節が一巡《いちじゅん》するのに十年と八か月かかるんでさ。それから――」
ヘルメットのスピーカーからハリーの弔辞《ちょうじ》が流れ始めると、デビッドはようやく口をつぐんだ。
メイは、何度も目をしばたたかせながら、葬儀《そうぎ》を見守った。
彼方《かなた》にある太陽は春分点《しゅんぶんてん》を目前にしてリングの地平線のすぐ上にあり、それは地球で見る満月よりもずっと明るかった。リングの微粒子層《びりゅうしそう》は逆光の中でミルクのように輝《かがや》いて見え、振《ふ》り返ると村人たちの影《かげ》が暗い線条となって、はるか彼方まで伸《の》びていた。
ACT・8 アルフェッカ号
葬儀が終ると、村人たちはコロニーにくくりつけた一切合財《いっさいがっさい》を元通りにする仕事に追われた。村人たちは――それが悲しみを忘れるすべであるかのように――実によく働いた。
小さく折り畳《たた》まれた凧《たこ》も、またラムジー丘陵《きゅうりょう》に運ばれ、手際良《てぎわよ》くリングの中に係留《けいりゅう》された。
それが終ると、デビッドはまたアルフェッカ号にやってきて、電子機器の修理を手伝った。デビッドはみるみるうちに故障箇所《こしょうかしょ》を片付けていった。
「……終った。これで全部直ったよ」
「ありがとう、デビッド。どんなにお礼を言っても足りないわ。ねえ、メイ?」
マージはそう言って、メイに水を向けた。
「うん。デビッドさん、ほんとに上手《じょうす》だもの、びっくりしちゃった」
「なあに、ちょろいもんさ」
デビッドは顔を赤らめながら、久しぶりに明るい笑顔を見せた。
「じゃあ、ちょっと試運転してみようか。お手並《てなみ》拝見《はいけん》といくわ」
「前よりよくなってるぜ」
「自信あるわねえ」
「まあな」
三人はブリッジに入った。マージは船長席、メイは航法席につき、.デビッドはメイのそばの取手を掴《つか》んで体を浮《う》あせる。
マージとメイは二百十七項目のチェックリストを順に調べていった。
それから核融合炉《かくゆうごうろ》に火を入れる。二十世紀の地球なら一国の総需要《そうじゅよう》をまかなえるほどのエネルギーが、すみやかに立ち上がった。
「本当。前よりレスポンスがよくなってるわ」
マージはそう言って、デビッドが満足げにうなずくのを背中に感じながら、次の操作《そうさ》に入った。
――それからのことを、マージは後で、死ぬほど後悔《こうかい》した。
彼女にとってそれは全く日常化された手順であり、試運転という目的からすれば当然行なうべきことだった。
マージが重力|装置《そうち》を入れた直後、背後で物音がした。浮遊物《ふゆうぶつ》のチェックなら充分《じゅうぶん》にしたのに、と思いながら振り返ると、ちょうどメイが席を立つところだった。
「デビッドさん!」
メイはそう言ってかがみこみ――床《ゆか》に這《は》いつくばったデビッドを起こそうとした。
それから、こちらを向いて叫ぶ。
「重力を切って!」
マージの手は反射的に動いた。だが、もう何もかも手遅《ておく》れだった。
ゼロGに戻《もど》ると、デビッドはメイに引かれて起き上がった。どこかに怪我《けが》をしたわけではないが――少年の顔は悲痛と羞恥《しゅうち》にゆがんでいた。
「ごめんなさい、ついうっかりして――」
デビッドは何も言わず、ブリッジを飛び出していった。
彼に限ったわけではない。
村人のすべてがそうだった。
彼らは文字どおり、骨の髄まで無重量状態に適応していた。それ以外の環境では、立って歩くことさえままならないのだ。
ロイド、マージ、メイの三人はアルフェッカ号での生活に戻った。
その夜|遅《おそ》く、マージはロイドの船室を訪《たず》ねた。
おもな家具はベッドと一対《いっつい》のソファ、ライティング・ビューローと衣装箪笥《いしょうだんす》ぐらい。会社の規模に相応《ふさわ》しい、ごくささやかな部屋《へや》だった。壁《かべ》には古ぼけた何枚かの写真と、どんないわくがあるのか、一枚の大きなタービン羽根が飾《かざ》ってある。
ロイドはマージをソファに座らせると、戸棚《とだな》からウイスキーとグラスをテーブルに運んだ。壁《かべ》に埋《う》め込まれた、小さな冷蔵庫から氷を取り出し、グラスに落とす。
「ここを発《た》つ前に、あの雪玉でロックを作ろうと思ってるんだ。ちょっと粋《いき》だろ」
そう言いながら、ロイドはグラスを差し出した。
「シャーベットにしかならないと思うわ」
「かもしれんがな……探せばいい音をたててはぜる氷があるかもしれんぞ」
「かもね」
短い沈黙《ちんもく》のあと、マージは昼間のことを話した。
一部始終を聞くと、ロイドはグラスをテーブルに置き、ソファに身を沈《しず》めた。
「そっか。さっきから二人とも沈んでるなと思ってたんだが――そりゃまあ、なあ……」
ロイドは不精髭《ぶしょうひげ》の伸《の》びはじめた顎《あご》をなでながら、みずからの過去に思いを馳《は》せた。
身に覚えがないわけではない。
俺《おれ》は総じてうまくやった方だが――好きだったキャサリンの目の前で、エアバイクのスピンターンに失敗したときのことは、三十五年の歳月《さいげつ》を経《へ》てなお、鈍《にぶ》い痛みをともなって思い起こされる。この宇宙に人類が発生して以来、決して変わることのない情動《じょうどう》として、恋人の前で醜態《しゅうたい》をさらすことほど辛《つら》いものはないのである。
ロイドは言った。
「そいつは、ちょっと取り返しのつかないミスだったな、マージ」
「え……」
「彼は死ぬまで悔やみ続けるぞ」
「そりゃ、そうだけど」
マージは鼻白《はなじろ》んだ。相手の言うことが正しいと思えるだけに、やるせない。
「対処《たいしょ》を相談したいのよ。メイまで落ち込んじゃってるし、なんとかならないかしら」
「まあ……時間が解決してくれるさ」
「今、死ぬまで悔やみ続けるって言ったじゃない」
「そうか」
ロイドは少し考えて言った。
「しかしこればっかりはなあ。なにしろゼロG育ちってのは、融通《ゆうずう》がきかん」
「そりゃあね」
「タイミングが悪かったんだ。リングからの立ち退《の》きを要求されてる矢先だからな」
「うん」
現在、銀河に広がった人類を治《おさ》めているのは『連合条約』と呼ばれる機構だった。連合条約は久しく〈重力|環境《かんきょう》の統一〉という政策《せいさく》を続けている。人工重力が実用化されている今、居住環境はすべて通常重力、つまり一Gに統一することを奨励《しょうれい》しているのである。
そうでなければ、その環境で育った人々はその地域に固着し、容易《ようい》に移住できなくなる。
常に人類|版図《はんと》の拡大《かくだい》を指向している連合条約にとってそれは、好ましくないことだった。
だが、レーネ村の住人たちに立ち退《の》き――移住を迫《せま》るのは酷《こく》だった。彼らは生まれてこのかたゼロGで育ったので、若者を除けば、これから一Gに適応することは不可能といってよかった。もちろん、障害者用のパワードスーツを着れば別だが、それはそれで大変な不便をともなうだろう。
「どこかの軌道港《きどうこう》にコロニーごと引っ越したらどうかしら。船舶雑貨商《シップ・チャンドラー》とか整備なんかで生計を立てて――」
「駄目《だめ》さ」
ロイドは首を振《ふ》った。
「メイの話を聞いたろう。連中は何代にもわたって、リングでの生活に徹底《てってい》的になじんでるんだ。親から子へと受け継《つ》がれた、伝統文化……ってのか、ノウハウを全部捨てることになる。するとどうなる?」
「生活が荒《あ》れる?」
「子供が親を信じなくなるってことさ。こりゃ不幸なもんだぞ」
「……そうね」
しばらく考えあぐねていると、誰《だれ》かがドアをノックした。
「おう、開いてるぞ」
ためらいがちにドアを引いたのは、メイだった。
「あの、ちょっといいですか」
「いいさ。入りなさい」
「お二人で話があったんじゃ」
「たぶん同じ話題だろう」
メイはマージの隣《となり》に腰を下ろした。
「何か飲《の》むか? スコッチにバーボン、ブランデーもあるぞ」
「馬鹿《ばか》ね」と、マージ。
ロイドはカクテル用のグレープ・フルーツの果汁を水で割って、メイに差し出した。
「どうした、目が赤いじゃないか」
こくりとうなずくメイ。
「マージから聞いたよ。まあ、気にすることはない。どんな男の子だって一度は――」
「あの」
メイはロイドの方に向き直って、勢い込んで言った。
「ここの人たちの立ち退《の》き、なんとかやめさせられないでしょうか」
ロイドはつとめて淡白《たんぱく》に答えた。
「そりゃあ、難《むずか》しいな」
「そんなに大切なことなんですか」
「何がだい」
「太陽化計画です」
「SDPとシューエル政府はそう考えたんだろう」
「でも、それって、エネルギーのためですよね。ここの人たちだって、燃料を売ってきたのに、どうして立ち退けなんて言われるんですか」
「わしに聞かれてもな。同じエネルギーでも、規模が違《ちが》うってことじゃないか」
「裁判《さいばん》するとか、できないんですか」
「村長に聞いたが、却下《きゃっか》されたそうだ」
「じゃあ……」
メイが言葉に詰《つ》まると、ロイドは言った。
「どうやるのか知らないが、このフェイダーリンクを燃やすなんてことは大事業さ。おいそれと中止できるもんじゃない」
「何もしないんですか……」
うつむいたメイは、すぐに顔を上げて言った。
「私たち、ここの人たちに命を助けてもらったのに、何もしないで行っちゃうんですか」
「どうすればいいね?」
メイはまた、沈黙《ちんもく》した。
「確かに――義理はあるわね」と、横からマージ。
「マージ、君もか?」
また多数派|攻勢《こうせい》でくるのか、女どもは――と思いながらロイドは受け流そうとした。
「命の恩人だってことは確かよ」
「だから、どうすりゃいいんだ、え?」
ロイドはかすかに声を荒立《あらだ》てた。
「曳航《えいこう》や修理その他もろもろ、相応の代金は払《はら》ったさ。ほかに何ができる」
「もっと考えるべきかも。後味の悪い航海をしたくないのよ」
「よし!」
ロイドは膝《ひざ》を打って言った。
「考えようじゃないか。今から徹夜《てつや》で」
マージは肩をすくめた。
「わかったわ、もう退散《たいさん》する。メイ、明日にしましょう」
マージはメイをうながすと、おやすみロイド、と言い残して部屋を出た。
女たちが出てゆくと、ロイドはベッドに横になった。煙草《たばこ》を吹《ふ》かしながら、無数の配管が走る天井《てんじょう》を見つめる。
そりゃあ、一宿一飯《いっしゅくいっぱん》の恩に報《むく》いたい、ぐらいのことは考えたさ……。
正義の味方を気取ってみたい、とも思う。これもまた、子供の頃からの秘《ひそ》かな願望だった。しかし世の中、何が正義だか、そうそうわかるもんじゃない。
オデット計画の規模は知らないが、国家権力が動くほどだ。すでに莫大《ばくだい》な資金が動いているだろう。いまさら、一握《ひとにぎ》りの先住者のために計画を中止するとは思えない。そうなれば、それはそれで大勢の首が飛ぶだろう。やはり――何が正義か、などと簡単に判断できるものではない。
それにしても、とロイドは思った。
いったい政府は、どれほどの立ち退《の》き料を提示したんだ? これほどの計画なら、進行を遅《おく》らせるだけでも相当な損失になる。金に糸目をつけなかったとしたら、村人は額の多少にかかわらず、拒《こば》み続けていることになる。もし俺が村人だったら……。
そのときロイドは、心の片隅《かたすみ》にともっている、ひとつのランプに注意を向けた。
そのランプは「正義」でも「義理」でも「女」でもなかった。
ロイドは煙草の灰《はい》がこぼれるのもかまわず、じっと天井を見つめ続けた。
金か……。
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第三章 オデット基地
ACT・1 アルフェッカ号
アルフェッカ恒星船《こうせいせん》の居住区画には、ロイド、マージ、メイの個室のほか、共有スペースとしてラウンジがある。といっても、別にゴージャスな空間ではない。ラウンジはもっぱら、食堂として利用されていた。中央には軽金属製の簡素なダイニング・テーブルがあり、隣《となり》のギャレーとは薄《うす》い仕切があるきりだった。
翌朝、三人は朝食のため、ラウンジに集まった。
ポタージュスープ、マーマレード、チーズクラッカーの山、それにコーヒーとオレンジ・ジュースがテーブルに並んでいる。朝食の支度《したく》は、いつもメイの仕事だった。
ロイドは「せっかく修理が終ったのに、パンを焼いてくれなかったのか」と思ったが、何も言わずに席についた。
食事が終る頃《ころ》になって、ロイドは言った。
「ゆうべの話だがな、あれからいろいろ考えてみたんだ」
二人の女は、手を止めてこちらを向いた。
「いや――あまり期待してもらっても困るんだがな。つまりだ、このレーネ村の立ち退《の》きを阻止《そし》するためには、オデット計画を中止させにゃならん。だが、なにしろ相手は国家的大事業だ、おいそれとやれるもんじゃない」
「だから?」と、マージ。
「まずは計画のことを詳《くわ》しく調べるべきだ。そうすりゃ本当に中止させるべきかどうかわかるだろう」
マージは、ほう、という顔になった。ロイドにしてはオーソドックスな提案だった。
「じゃあ、不正を調べるとか?」
「それもある。SDPが政府に賄賂《わいろ》を贈《おく》っていたとか――ありそうな話だ。叩《たた》けばほこりが出るというからな。それがわかれば、村の者が訴訟《そしょう》に持ち込むこともできるだろう。どうだ、メイ」
「いいと思います」
「よし」
ロイドは両手でテーブルを打った。
「そうと決《き》れば即《そく》実行だ」
「どうやるの」
「オデット基地に潜入《せんにゅう》するのさ。わしと、よければ君とでな」
「あの、私は?」
メイが聞く。
「君は船で留守番《るすばん》だ」
「でも――」
「潜入ったって、正面から求人に応じて入るつもりなんだ。君はちょっと若すぎる。それに留守番も大事な仕事さ」
「村の人には言うの?」
マージが聞く。
「いや、黙《だま》って行こう。余計な期待を持たせたくない」
「そうね」
それから三人は村長一家の居住区画に出向いて、別れを告げた。もちろん、派手な送別会などはない。三人は村に何をもたらしたわけでもないし、まだ長老の死の余韻《よいん》が色濃《いろこ》く残っている。
村長夫妻は波止場《はとば》のエアロックまで見送りに来たが、デビッドは最後まで姿を見せなかった。
「いろいろありがとうございました。近いうちにまた、立ち寄らせていただくかもしれません」
「いつでもどうぞ。特上の水素をサービスしますよ。まだ村があれば、ですがね」
ロイドの言葉に、ハリーはそう答えた。
エアロックのふたつの扉《とびら》が閉まると、すぐにボーディング・チューブが外《はず》された。
ブリッジへと歩きながら、ロイドはメイにささやいた。
「とうとう来なかったな」
「ええ」
「来たかったろうにな」
「そうでしょうか」
「そうさ。賭《か》けてもいい」
三人はブリッジに入ると、また入念な発進前チェックを行ない、それからアンカー・ケーブルを収納《しゅうのう》した。リングに接触《せっしょく》しないように、そして噴射《ふんしゃ》でリング――彼らの畑《はたけ》――を乱さないように気を使いながら、マージはそっと船を発進させた。
航路情報によれば、オデット基地はフェイダーリンクの衛星のひとつ、ランツフートの地表にあった。
ランツフートはレーネ村より、七十万キロほど高い軌道《きどう》にある。それは村に滞在《たいざい》していたときにも、展望窓から何度か見かけた。大きく見えるときでも地球の月ほどで、黄色い、ぼんやりとした濃淡《のうたん》をもつ衛星だった。
マージは二Gの加速で、螺旋《らせん》を描《えが》きながら高度を上げていった。その軌道はフェイダーリンクのまわりを半周するもので、ちょうどピックアップをレコード盤《ばん》の出発点に戻《もど》すときの軌跡に似ていた。
ACT・2 オデット基地
六時間後――そろそろ午後のお茶の時間かな、と思う頃になって、アルフェッカ号は減速《げんそく》行程を終え、衛星ランツフートが目の前に現れた。
その表面は暗色の、海草の繁《しげ》みのようだった。その背景として、やや明るい黄土色《おうどいろ》の土壌《どじょう》が垣間見《かいまみ》える。無数のクレーターがあるが、その外輪山《がいりんざん》のほとんどは鋭《すろど》さを失い、周囲よりやや明るい斑点《はんてん》のようにしか見えなかった。
「赤道半径二千五百三十三キロ、表面重力〇・一三G。地殻《ちかく》の主成分は凍結《とうけつ》した水、か」
マージが航路情報を読み上げる。
「シャトルならバーニア噴射《ふんしゃ》だけで着陸できるな」
「そうね」
衛星の地上港には滑走路《かっそうろ》はなく、ヘリポートのような離発着床《りはっちゃくしょう》があるだけだった。港から軌道進入の許可をもらうと、マージはアルフェッカ号を高度百五十キロの係船《けいせん》軌道に乗せた。ここから地上までは、シャトルで降下することになる。
「じゃあメイ、退屈《たいくつ》だろうけど、留守番お願いね」
「はい」
「朝と晩に定時|連絡《れんらく》を入れる。それ以外は、好きにしてていいぞ」
「はい――でもあの、やっぱり私、一緒に行けないんでしょうか」
「できればマージも置いて行きたいんだ。だが、少なくとも二人いないと信用されないからな」
「実際に信用できないわけよ、ロイド一人じゃ」と、マージ。
メイは笑わなかった。
「でも――」
「なあメイ」
ロイドは言った。
「何が正義だろうと、これからやろうとしてることは非合法なんだ。気持ちはわかるが、君に関《かか》わってほしくない。聞き分けてくれるな?」
ロイドはその肩をぽんと叩《たた》くと、マージとともにブリッジを出た。
二人は天井《てんじょう》の低い、配管だらけの通路を通ってシャトルに移乗した。
マージは核融合炉《かくゆうごうろ》を始動し、アビオニクスの主電源を入れ、無線で入港許可を求めた。
許可が出ると、マージは恒星船《こうせいせん》に連絡《れんらく》を入れた。
「ドッキング解除シーケンスに入るわ。全部こっちでやるからね、メイ」
『恒星船、了解《りょうかい》。気をつけて』
「行ってきます」
胴体《どうたい》を左右から押《おさ》えていた固定|枠《わく》が開く。それから頭上の連結部でがちゃり、とクランプのはずれる音がした。バーニア噴射《ふんしゃ》をひと吹《ふ》かしすると、シャトルはゆらり、と恒星船を離《はな》れた。
ランツフートは地球の月のように、常にフェイダーリンクに同じ面を向けている。オデット計画の基地はファーサイド、つまり惑星から見て裏側にあった。これは惑星が絶えず周囲に放っている各種の放射から、デリケートな精密機器を保護するためだろう。
「もしフェイダーリンクが太陽になったら、この衛星はどうなるかしら」
マージは眼下を流れる、黒ずんだ地表を眺《なが》めながら言った。
「昼の側のどこかで、日光浴ができるさ。ワイデ島みたいにな」
「地殻《ちかく》は融《と》けないの? あれでも氷なんでしょ」
「さあな」
ほどなくして、オデット基地のビーコンが入感し始めた。大気は限りなく真空に近く、翼《つばさ》が風を切る音は聞こえない。
最初にそれを見たとき、マージが連想したのはマッシュルームの群れだった。直径百メートルもありそうな白い球形の建造物が七つあり、離れて見たときの衛星ときれいな相似《そうじ》をなして、半月状に照らされていた。その長い影《かげ》はゆるやかに起伏《きふく》する平原に落ちて、黒ずんだ土地に、一段深い闇《やみ》をもたらしていた。
誘導《ゆうどう》電波に乗って、離着陸床のひとつに向かう。それは明るいライトで縁《ふち》どられており、計器|盤《ばん》のスクリーンにも同じ形が図示されていた。車輪を出し、水平姿勢のまま降下する。
「うまく降ろせよ。仕切り屋が見てるだろうからな」
「まかせて」
マージは毎秒四メートルの速度で船を下ろしてゆき、しだいに噴射を強めていった。
最後の数メートルは羽根が落ちるほどの速度になり、やがて三つの車輪は同時に接地した。推力《すいりょく》を絞《しぼ》ると、車輪の上にある緩衝装置《かんしようそうち》が今や数トンになったシャトルの重量を受け止め、わずかに縮んだ。
「お見事」
「どういたしまして」
それからすぐ、離着陸床が下降し始めた。全体がエレベーターになっており、見上げると、すでに天井《てんじょう》は第二の離着陸床によって閉じつつあった。
下降が止まると、轟音《ごうおん》とともに空気が満ち始めた。次いで正面の分厚いシャッターが開く。その向こうは――古い伝統にしたがって桟橋《さんばし》と呼ばれる――広い空間で、煌々《こうこう》と輝《かがや》く照明のもと、数|隻《せき》の貨物船が荷の積み下しを行なっていた。床《ゆか》はそのままスライドして、光の中に入った。
シートベルトをほどき、計器をチェックしていると、軽金属のラッタルを抱《かか》えた中年男が船首の下にやってきた。髭面《ひげづら》で、派手なワッペンを縫《ぬ》いつけたフライトジャケットを着ており、腰には大きなポーチをさげている。
「仕切り屋のお出迎《でむか》えだ。行こう。愛想良くやれよ」
「わかってるわ」
エアロックを開く。マージが最初に顔を出し、下で待つ男に笑顔でハイ、と言った。
「船はごついが、中身はべっぴんさんだなあ、ええ!?」
仕切り屋は、胴間声《どうまごえ》で言った。
「あんたが降ろしたのかね?」
「そうよ。ちょっとしたもんでしょ」
ラッタルを降りながら答える。
続いてロイドが降りた。
「ミリガン運送のロイド・ミリガンだ。こっちは船長のマージ」
「代理人のメル・マクニコルだ。マックスでいい。ゲートからこっちは俺《おれ》のなわばりだ。なんでも言ってくれ」
「よろしく頼《たの》む」
マックスはくるりと背中を見せると、二人を事務所に先導した。荷物の積み下しの便のためか、この区画にも人工重力は付与《ふよ》されていなかった。
「どっから来たんだい」
「アルテミナよ。その前はアレイダ」
「あちこち渡ってんだな」
マックスはプラスチックのカップを出して、ポットからコーヒーを注いだ。新入《しんい》りが八分の一G下でうまく飲《の》むかを見守る。二人は合格だった。
それから書類に目を通す。モリソン級シャトルとシェフィールド級恒星船《こうせいせん》のビギー・バック――輸送能力は申し分ない。腕《うで》もよさそうだ。信用はいまいちだが、いちいち詮索《せんさく》していては船が足りなくなる。船舶《せんぱく》保険はなんとかしよう。
マックスは言った。
「燃料は出すが、払《はら》いは後だ。航路は三つある。アルテミナとの星間ルート、第三惑星とここ、軌道《きどう》工場とここ」
「軌道工場ってのは?」ロイドが聞く。
「このすぐ上さ。ラグランジュ1にある。フェルミオン加速器群の組み立てを一手にやってる」
そこならシャトルだけで往復できる。
「それがよさそうだ。いくら出る」
「コルフの一・三掛《が》けだ。このへんじゃ悪くないぜ」
コルフ計算は宇宙運送の貸金の算定手順のひとつだった。積荷の質量や輸送距離、時間、目的地の重力などを一定の係数とともに掛けあわせる。その結果にさらに一・三倍したものが、ここでの払いだった。
「積荷はなんだい」
「超《ちょう》電コイルとかの部品、それに人だな」
「旅客モジュールは持ってないんだが」
「こっちにあるさ。要るときは載《の》せてやる。ここの賢《かしこ》いガントリーなら二分でやるぜ」
「そりゃすごい。よし、決《きま》りだな」
「ここにサインしてくれ。契約《けいやく》は週ごとに更新《こうしん》する。仕事は明日の朝からだ」
手続きが終ると、二人は事務所に隣接《りんせつ》した『関連|企業《きぎょう》ハウス』に案内された。それは下請《したう》けの業者が一時的に使う仮営業所兼宿舎で、小さな部屋にデスクとロッカー、一対のソファ、それに二段ベッドがあるだけの、いたって簡素な部屋だった。ハウスにはこうした部屋が二十あり、それと別にやや広いサロンがある。業者たちは毎朝サロンに集まって、仕切り屋からその日の仕事をもらう決りになっていた。このあたりのルールはおよそ宇宙共通で、ロイドやマージにはおなじみのものだった。
時計を見ると、午後六時にさしかかっていた。ここでの一昼夜は四・七日なので、それとは無関係な標準時が使われている。
マージは船舶電話で軌道《きどう》上のメイに連絡《れんらく》を入れ、それから二人は近くの食堂でビールとサンドイッチの夕食をすませた。最初からかぎ回るのはよくない、というロイドの考えで、その夜は特に何もせず、早めに寝《ね》ることになった。
翌朝七時、二人は固いベッド――といっても低重力なので苦痛はないが――を抜《ぬ》け出し、顔を洗ってサロンに出た。すでに十数名の海運業者が集まっており、二人も彼らにならって自販機《じはんき》でコーヒーを求めた。
やがてマックスが紙ばさみを持って現れた。
「おはよーさん。まずは本部から通告がふたつだ。知ってると思うが昨日、第二ドックからフェルミオン・ガン一二四号機が進水した。今日から一二五号機にかかる。もうひとつは本日一四〇〇、アルテミナからトレーディング級が到着《とうちゃく》する。コイル用のケーブルを四百巻、四時間で降ろしたい。バージシップは大忙《おおいそが》しってわけだ。さてと――」
マックスは運航票の束《たば》を取り出した。
「今日のお仕事だ。スレイトン運輸――」
社名を読み上げると、その業者が前に出て運航票を受け取る。ミリガン運送は六番目に声がかかった。
「――次、新入りのミリガン運送。まずはパーツ運びだ。地域航路情報はチャンネル8で受けてくれ」
マージは黄色いユポ紙に印刷《いんさつ》された三枚の運航票を受け取った。
「ねーちゃん、終ったら一杯《いっぱい》やろうぜ」
「わかんねーことがあったら、この俺《おれ》に聞いてくんな」
「晩飯《ばんめし》にいい店教えるぜ」
と、たちまちまわりから声がかかる。
「ありがと」
マージは笑顔で答え、最初の便の運航票をちらりと見た。
貨物一〇五便のペイロード積み込み開始は〇八〇〇時。離昇《りしょう》〇八四〇時、到着〇九三五時。先方で別の荷を積んで戻《もど》る。目的地の軌道《きどう》工場は基地の真上、およそ一万キロの地点にあった。
「――六時にはここに戻れると思うわ」
皆にそう言って、親指を立てる。イェ〜イ、と、いたって品のない歓声《かんせい》があがった。
マージはこうした港の男たちが、嫌《きら》いではなかった。彼らは女を差別しないし、腕《うで》さえあれば対等に扱《あつか》ってくれるのだ。
サロンが散会になると、ロイドとマージは近くのスナックでドーナツとコーヒーの朝食をとり、桟橋《さんばし》に向かった。
船のまわりを一周して目視点検《もくしてんけん》したあと、マージはコクピットに上がって四枚のペイロードベイ・ドアをすべて開いた。トラックの荷台のような、幅《はば》五メートル、長さ十八メートルのペイロードベイ(貨物区画)がむきだしになる。これで荷積みの準備ができた。
八時になると二人の作業員が現れ「じゃあ始めますんで」と言って、首から下げたコントロール・ボックスを操作し始めた。すぐに天井《てんじょう》のレールを通って、大きなガントリー・クレーンが現れる。クレーンは独自の視覚を持っており、シャトルのペイロードベイを認識すると、自動的に最適な位置を選んでコンテナを降ろし始めた。二人の作業員は、互《たが》いに死角を打ち消す位置に立って、クレーンの判断にミスがないかを監視《かんし》していればよかった。シャトルの背中に降ろされた横荷は、大きなコンテナが四個、小さなコンテナが十五個。船にコンテナを固定する作業までは自動化されていず、床《ゆか》のクランプで押《おさ》えたあとは、荷物の両側に立った作業員がケーブルを投げ合いながら手際良《てぎわよ》く進めていった。
それが終ると、作業員たちは「じゃあ終りましたんで」と言って立ち去った。
外で一部始終を見守っていたロイドとマージはコクピットに入り、離昇までの二十分ほどをチェックに費《つい》やした。
「なんだか、潜入《せんにゅう》調査しようとしてるのを忘れそうだな」
チェックが終ったところで、ロイドは言った。
「久しぶりにまともな運送業をやってるって気がしないか」
「そうね」
マージは少し考えて、言った。
「やめたいの?」
「何がだ?」
「村の人たちのために、動くこと」
「いやあ」
ロイドは、今の返事がややあいまいに響《ひび》いたので、もう一言付け加えた。
「やるさ。やれるだけ、やってやる」
軽い震動《しんどう》とともに、床――作業員たちはパレットと呼んでいた――が動き始めた。
アルフェッカ・シャトルは昨日とちょうど逆に、まず船舶《せんぱく》用のエアロックに運ばれ、空気を抜《ぬ》いたあと、地上に持ち上げられた。
管制塔との短い交信のあと、アルフェッカ・シャトルはバーニア噴射《ふんしゃ》を全開にして離昇。高度五百メートルでメインエンジンを噴射し、二Gの定常加速で軌道《きどう》工場をめざした。
シャトルに重力|装置《そうち》はないので、これからしばらくゼロGになる。操船《そうせん》をコンピューターにゆだねると、マージはミッドデッキに降りて、トイレの棚《たな》にあるヘアスプレーで髪《かみ》を固定した。
ACT・3 軌道《きどう》工場
三十分後。
減速行程を終えたアルフェッカ・シャトルの目の前に、軌道工場が現れた。
工場はいくつかの空間構造物の群れで、目立つのは二本の六角柱だった。それは鳥籠《とりかご》のような素通《すどお》しの足場で、うち一方はがらんどうだった。真空中なので実感しにくいが、かなりの大きさになるようだ。これがフェルミオン・ガンを組み立てるドックなのだろう。
ロイドは首をめぐらして、彼方《かなた》に浮《う》かぶ銀色の林に目をやった。
「あれが完成品だな」
「フェルミオン・ガン?」
「ああ。かなりの数だな」
「そうね」
マージはスクリーンに表示されている、入港ガイダンスを見て言った。
「あの空っぽの足場が第二ドックね。なんとまあ――あの中で降ろすのか」
普通《ふつう》なら外で荷を降ろし、その先は小型のバージシップが引き継《つ》ぐのだが――スクリーンに点滅《てんめつ》している赤い矢印をにらみながら、マージは慎重《しんちょう》にシャトルを接近させた。
針路をその長軸《ちょうじく》にそわせると、ドックは途方《とほう》もない大きさに見え、その消失点は無限の彼方にあるようだった。
間もなく無線で指示が入る。
『第二ドック管制より貨物一〇五便。マーク14Aで停船せよ』
「貨物一〇五便、了解《りょうかい》」
果てしなく続くトンネルのような中をしばらく進むと、マーク14Aの発光標識が見えてきた。機動ユニットを背負った誘導員《マーシャラー》が正面に現れ、赤い信号灯で案内を始める。
シャトルが停止すると、誘導員は信号灯を「ハ」の字に振《ふ》って見せた。ペイロードベイを開放しろ、という意味だ。
ドアを開くとたちまち数人の作業員がとりついて、コンテナの固定を解《と》いた。
数分後、また誘導員が現れ、離脱《りだつ》を指示する。
シャトルをそのままの姿勢で、ゆっくり下方に移動させると、それまでいた空間に積荷がそっくり取り残された。
「貨物一〇五便より第二ドック管制。ペイロード放出完了」
『第二ドック管制了解。一〇五便は建設本部二番ポートに接舷《せつげん》せよ』
「貨物一〇五便、了解」
マージはバーニアを軽く吹《ふ》かせて、ドックの中央部をめざした。建設本部はドックの外にぶらさがった形をしており、二番ポートは内側に開いていた。
「翼《つばさ》をたたんだ方がいいぞ。あまり広くない」
「そうね」
ここの発着場は宇宙空間専用の作業艇向けに造られていた。大型船用のポートもあるが、ふさがっている。このような場合にそなえて、アルフェッカ・シャトルの大きくて厚い主翼《しゅよく》は、その先端《せんたん》から三分の一ほどが折《お》り畳《たた》める仕組みになっていた。
すでに数|隻《せき》の船がいる中にシャトルを滑《すべ》り込ませ、アンカー・ケーブルを放出する。船体の固定が終ると、ボーディング・チューブが伸《の》びてきて、船首のエアロックに密着した。
運航票その他の書類を持って、チューブをくぐる。
その先は、一Gの人工重力が付与《ふよ》されていた。
「なるほどな。これじゃ村の連中、ここに転職するわけにもいかんわけだ」
ロイドは、よみがえった体重で床《ゆか》を踏《ふ》みしめながら言った。
「ランツフートでも駄目《だめ》かしら」
「発着場のそばだけだろう、天然の重力は」
「そうね。でも同じ人間なのに、ゼロG育ちだとそんなに弱くなるものなの?」
「ああ。筋肉はともかく、骨がな」
ACT・4 係留区画
帰途《きと》の荷物は、折り畳んだコンテナが三十八個。
ここでも積み込み作業は能率良く行なわれ、二人はコーヒーを一杯《いっぱい》呑《の》んだだけで、ほとんどトンボ返りだった。
発進前のチェックをしていると、管制室から通信が入った。
『第二ドック管制より貨物一〇五、まだ接岸しているか』
「貨物一〇五、その通り」
『人員を一名、便乗させてほしい。キャビンに収容できるか』
「キャビンに一名収容、可能です」
『では、そのまま待機せよ。十分以内に乗船の予定』
「貨物一〇五、了解《りょうかい》」
通信が終ると、マージは言った。
「誰《だれ》かしら」
「偉《えら》いさんだといいがな。コネをつけるチャンスだ」
ほどなくして、背後のキャビンで物音がした。
マージが席を立とうとすると、入ってきた男は「いや、そのままでいい」と言った。
「航法席を使わせてもらうよ。壁《かべ》にはりついててもいいんだが」
男は一段低いコクピットに降り、普段《ふだん》はメイが使っている席に身を沈《しず》めた。
いくらか白髪《しらが》のまじった茶色い髪《かみ》に、宇宙|灼《や》けの肌《はだ》。五十代後半というところか。小柄《こがら》だが、動作はきびきびとしている。男は体のわりに大きな、がっちりした手を差しのべた。
「初めてかな。技術部長のジム・ダンカンだ」
ロイドは振《ふ》り返って握手《あくしゅ》した。――たなぼたもいいところだ。技術部長といえば、かなりのVIPである。
「こりゃどうも。ミリガン運送のロイド・ミリガン、こちらは船長のマージ・ニコルズ。アルフェッカ・シャトルにようこそ」
「よろしく、社長。それに船長。急に基地へ戻《もど》る用事ができてね。さあ、こっちはいいぞ」
地位相応の押《お》し出しはあるが、気さくな話しぶりだった。叩《たた》き上げのエンジニアだな、とロイドは思った。
ジムは慣《な》れた手つきでシートベルトを締《し》めた。
管制室との短いやりとりのあと、シャトルは建設本部を出発した。
ドックの側面にある、宇宙船用の出入口から外に出る。
「見ない船だが、君ら、この現場《げんば》は初めてかな」
「ええ。――どうも、とんでもないドックですな」と、ロイド。技術部長は笑みを浮かべ、右前方の彼方《かなた》を指さした。来るときに見た、銀色の林だった。
「あれが何かわかるかね」
「フェルミオン・ガン、でしたかな。機能はさっぱりですが」
「中性微子《ニュートリノ》の発射|装置《そうち》さ。あれをフェイダーリンクのまわりに並《なら》べて、中心|核《かく》を加熱するんだ。まあ、超《ちょう》望遠の電子レンジと思ってくれていい」
「あれだけで太陽化ができるんですかな? つまり惑星《わくせい》の内部で核融合反応《かくゆうごうはんのう》が始まると?」
「いや。ほかにも起爆《きばく》装置やら、いろいろあるんだが――まあ、いちばん大がかりな仕掛《しか》けはあのフェルミオン・システムだね。どうだい、ちょっと見ていくかね」
「そりゃうれしいですな。ぜひ」
「船長、マーク41から接近してくれ」
「了解《りょうかい》」
マージは入港ガイダンスを一瞥《いちべつ》して、シャトルを旋回《せんかい》させた。マーク41はフェルミオン・システム係留区画の入口を示す座標だった。
接近するにつれて、そこにあるものの細部が見えてきた。
熟練《じゅくれん》した目があれば、レーダーの助けを借りずにその大きさを推《お》し量《はか》ることができる。宙に浮《う》かぶ銀色の木々は、どう見ても一キロの長さがあった。
「こりゃあ、すごい……」
ロイドは――自分でも意外だったが――胸が高鳴るのをおぼえた。
「巨人のレイピア(細身《ほそみ》の剣《けん》)だな」
「うまい表現だね。あの柄《つか》だけで、三百メートルあるんだ」
ジムは誇《はこ》らしげに言った。
「残りの、刃の部分だが、あれでもたたんだ状態なんだ。縄梯子《なわばしご》みたいにほどくと、百キロの長さになる。その中でニュートリノは準光速まで加速され、惑星《わくせい》の核《かく》を射抜《いぬ》くわけだ。まさに大砲《たいほう》さ」
「百キロともなると、かなりの潮汐《ちょうせき》力でしょうな」
「切れなきゃいいのさ。おかげで大砲は自然に惑星の中心を向くことになる。うまいやり方だろ?」
ジムはロイドの方を向いて言った。
「軌道《きどう》力学の勝利さ。もちろん摂動《せつどう》やら何やらあるから、微調整《びちょうせい》用のバーニアがついてはいるがね。ああ、そのまま飛んでくれ」
係留区画は、小さな市ぐらいの広さがあった。
シャトルは二列に並んだフェルミオン・ガンの間を、ゆっくりと進んだ。
「これを一二八基、フェイダーリンクの衛星軌道に並べて惑星をローストするんだ。これは最後の三二基で、すでに九六基が軌道に乗っている。私らはそれを――非公式にだが――Eリングと呼んでいるよ」
ジムは左手首のクロノグラフを見た。
「さてと、あまり寄り道していられないな。そろそろ引き返してもらおうか」
「名残惜《なごりお》しいですな。もっといろいろ聞きたかったんですが」
「そう思うかね?」
「五十年生きてきましたが、こんな代物《しろもの》に出会ったのは初めてですよ」
ロイドは相手の自尊心をくすぐる言い方をした。ただし、まったく嘘《うそ》でもなかった。
ジムは少し考えて、言った。
「君は、今夜は下かね?」
「ええ」
「なんなら、自慢話《じまんばなし》の続きをさせてもらってもいいが――」
ロイドは身を乗り出した。
「喜んで」
「二二〇〇時にバー『クーホ』で会おう」
ACT・5アルフェッカ号
[#ここから1字下げ]
前略。
父さん、母さん。お元気ですか。
メイは今、シューエル太陽系で、とても明朗《めいろう》かつ元気に働いています。ロイドさんもマージさんもすごく優しくしてくれるし、仕事も安全かつ健全なものばかり。早く一人前の船乗《ふなの》りになって、成長したメイの姿をお目にかけたいと思います。
このまえ、ふとしたことから、デビッドっていう男の子と出会いました。もしかしたら、デビッドは私のことが好きみたいです。マージさんは絶対そうだって言ってました。私がどう思っているかは内緒《ないしょ》。とてもいい子なんですけど、ずっとゼロGで暮らしているので
[#ここで字下げ終わり]
そこまで書いて、メイはキーボードから手を離《はな》した。そして、両親に手紙を書く、第一の目的に立ち戻《もど》った。
つまり――この内容で、二人を安心させることができるだろうか?
もう少し、ふてぶてしく生きている、というイメージを与《あた》えた方がいいかもしれない。ボーイフレンドができたけど、ふってやった、というのはどうだろう? いや――ミリガン運送に就職《しゅうしょく》したせいで、世間ずれしたと思われるかもしれない……。
先週送った手紙がああで、先々週に届《とど》いた手紙はああだったから――と、メイは思案を重ねたが、考えはなかなかまとまらなかった。
この手紙を星系内の郵便局に送信して、故郷《こきょう》の惑星ヴェイスに届くまで三か月。その返事が届くのは半年後。返事を待たずに次の手紙を出すから、混乱することこのうえない。
アルフェッカ号の現在位置によっては、手紙の順序が入れ替《か》わることもある。
それでも、手紙は欠かさなかった。親から届く手紙がうれしいから、相手も同じくらいうれしいに違いない、とメイは考えていた。
返事はたいてい母が書いたもので、きまって「体に気をつけなさい。元気にやっていると信じています」と結ばれている。
うれしいのは確かだが――この「信じています」というのが、メイは苦手《にがて》だった。自分を信じてくれを人を裏切るのは、そうでない人を裏切るより、ずっとつらい。
別に裏切っているわけじゃないわ、とメイは自分に言いきかせた。いつも元気だし、職場の人間関係もきわめて良好だし。
ただ、親には言えない危険を冒《おか》しているだけのことで……。
無線機が呼び出し音を立てた。
定時|連絡《れんらく》だ。そうとわかっていても、メイはつとめてプロフェッショナルな応答をした。
「こちうアルフェッカ号、どうぞ」
『元気にやってるか、メイ』
ロイドの声だった。
「はい、いつも元気です。ちょっと退屈《たいくつ》することもありますけど」
『一人にして悪いな。もうちょっとの辛抱《しんぼう》だ。早ければ今夜あたり、ケリがつくかも知れん』
「何を始めるんですか?」
『まあ、わしらを信じて待っててくれ』
「危険なことや違法《いほう》なことはしないでくださいね」
『だんだんマージに似てきたな。ひとつ忠告しておこうか』
「なんでしょうか」
『小言は皺《しわ》になる』
「は?」
『まあ、そういうことだ。今はわからなくても、忘れるなよ。以上、連絡終り』
「さよなら、ロイドさん。マージさんにもよろしく」
時計を見ると午後七時をまわっていた。眼下のランツフートは昼の中にある。ここには夜も昼もないが、とにかく夕食をとることにしよう。
それから何をするか――。また自分の部屋で書籍《しょせき》ファイルを読みふけろうかとも思ったが、今夜は下で何かやるらしい。メイはブリッジにいることにした。
一人でブリッジにいるとき、メイはよく、航法|卓《たく》の通信機をいじってフェイダーリンク自身が放つ声――惑星電波に耳を傾《かたむ》けた。これは彼女のささやかな発見であり、お気に入りのひまつぶしでもあった。商船高校では、ガス惑星の周辺では通信障害が発生することがあると習っただけで、その原因については何も聞かなかった。
惑星電波は短波帯といわれる、現在ではほとんど使われていない帯域《たいいき》にそのピークをおいており、スピーカーに通しただけではただの雑音にしか聞こえなかった。いくつかの処理を加えることでそれは可聴音《かちょうおん》になり、その不思議な響《ひび》きはメイの想像力をかきたてるのだった。
ACT・6 バー『クーホ』
オデット本部のマッシュールーム型構造物は、地下で互《たが》いに結ばれていた。この、衛星ランツフートの地下は永久|凍土《とうど》なので、レーザーを使って簡単に掘削《くっさく》することができる。
工事が終ってからは、排熱《はいねつ》にさえ注意すれば地盤《じばん》がゆるむ心配はない。
バー『クーホ』は、そうした地下街の一角にあった。
ロイドは入口で立ち止まって、蛍光《けいこう》を放つ看板を見上げた。
C2[#原文では「C」の右下に「2」]H5[#原文では「H」の右下に「5」]OH――エチル・アルコールの化学式――を、強引《ごういん》にこう読むらしい。
こりゃあ、宇宙最悪の酒場《さかば》かもしれんな、と思いながら中に入る。
マージは連れていなかった。彼女は朝の約束《やくそく》通り、同業者たちと別の店で飲《の》んでいる。この本部地下街には、少なくとも十八の酒場があった。
そしてこの俺は、あの技術部長と飲むわけだ。
店内を見回すが、まだ相手は来ていない。
ロイドはカウンターにふたつ続いた空席を見つけた。
「ここ、常連席かな」
「まあね。主《ぬし》が来たら、ほかに移ればいいですよ」
若いバーテンは言った。
ロイドはスツールに腰をおろした。重力は一G。
「ここにゃ、どんなエチル・アルコールがあるんだね?」
「ダイキリはどうです? バナナ入りの」
「すごいな。アルテミナ産か?」
「ええ。なにしろ週に一度はトレーディング級が来ますからね。それに便乗すれば、ずいぶん割安なんですよ」
「それにしよう」
バーテンは手際良《てぎわよ》くシェーカーに材料を注いだ。それを振《ふ》りながら、言う。
「お連れの美人さんはどうしたんです?」
「早耳だなあ。――残念だが、よその店に行ったよ」
「娘《むすめ》さんで?」
「そんなに似てるか? ただの使用人さ」
「こりゃ失礼しました」
そう言って、バーテンは音もなくグラスを置いた。
一口すする。悪くない味だ。
ロイドにとって、酒の味は記憶《きおく》のアドレスだった。どういうわけか過去に同じものを飲《の》んだ場所が写真のように思い出されるのだ。たちまち、彼の脳裏にはセリア=アルテミナ星の、熱帯の白い浜辺《はまべ》がよみがえった。
潮の香《かお》り、陽光、そして肌《はだ》もあらわな女たち――。
いい気分になってきたところで、肩をつかむものがいた。
振り返ると、ジム・ダンカンがいた。
「そこは私の席なんだが――」
ロイドが腰を上げかけると、ジムは手を振った。
「いいんだ。今夜は進呈《しんてい》するよ」
そう言って、隣《となり》に腰掛ける。
バーテンは黙《だま》ってオン・ザ・ロックを常連の前に置いた。
それを一息に飲み干すと、ジムは言った。
「この店が気に入ってるんだ。地下はいい」
「変わった趣味《しゅみ》ですな」
「そうかな。目障《めざわ》りなエアロックがないところがいいんだ。十トンもの圧力が扉《とびら》一枚にかかってるなんて、おかしなことさ」
技術部長はロイドの飲物《のみもの》に目をやった。
「アルテミナに行ったことは?」
「つい先週まで」
「私はあそこの生まれでね。太陽と青空と樹木に囲まれて育ったんだ。工科大学を出てからは海洋牧場の技師になった」
「私らはワイデ島で羽根を伸ばしたんですが――海洋牧場もあのへんでしたな?」
ジムはうなずいた。
「このシューエルにまわされたときはぞっとしたよ。ここには地球型|惑星《わくせい》がない。惑星なんて、みんな大気や海があるもんだと思い込んでいたからね」
「それで、太陽化計画を志《こころざ》した?」
「いやあ」
ジムは手を振《ふ》った。
「そんなに単純なものじゃないよ。ただ、海洋牧場にいた頃、新しい水中通信システムのために、ニュートリノをさわっていた。水中で電波が通じないのは知ってるね?」
「ええ。代わりに音波を使うとか」
「音波の到達距離《とうたつきょり》は知れているし、鯨《くじら》を刺激《しげき》する弊害《へいがい》もあるんだ。ニュートリノは水中でもおかまいなしだから、それで通信ができないかってことだった。大戦前にはそういうシステムがあったらしいんだ。結局、コストが引き合わずに計画は中止され、私はシューエルにとばされた。それが転機だったね。SDPがここで太陽化の話を持ち出したとき、素粒子屋《そりゅうしや》を募集《ぼしゅう》したんだ」
「そして一も二もなく、というわけですかな」
ジムは大きくうなずいた。
「天職だ、と確信したよ。自分が何をやりたかったのか、そのときわかった気がしたんだ。この氷に閉ざされたシューエル外惑星帯を、熱帯の光で照らしてやる。あのワイデ島の砂浜《すなはま》みたいにね。――いや、わかっている、コンスタントに光があたるのはこのフェイダーリンクの衛星群だけだよ。それで充分《じゅうぶん》じゃないか。ここの衛星は惑星|並《なみ》の大粒《おおつぶ》ぞろいだ。窒素《ちっそ》大気をまとったのもある。水もある。あとは植物さえあればいいんだ」
この男は惑星改造《テラフォーミング》をするつもりなのか、とロイドは思った。
フェイダーリンクに火がつけば、まわりの星はもはや「衛星」ではなく「惑星」になる。それらは常にフェイダーリンクに同じ面を向けており、もとの太陽の淡《あわ》い日照《にっしょう》を除外すれば、永遠の昼と夜を持つことになるだろう。そして昼夜の境界線、薄明帯《はくめいたい》のどこかに、かならず適当な温度を持つ地域が見つかるはずだ。常夏《とこなつ》の半球では植物が繁茂《はんも》し、融《と》けた氷が海や川を作る。低重力と風がもたらす途方《とほう》もない大波が岸辺《きしべ》を洗い、命知らずのサーファーたちを魅了《みりょう》するだろう。肺をうるおす大気が生まれるまでには、それなりの年月と工夫《くふう》がいるだろうが……。
ロイドは目の前の男を眺《なが》めた。話しぶりは若々しいが、自分と同年配である。普通《ふつう》に生きて、せいぜいあと三十年だろう。それまでにこの男は、どれほどの成果を見られるのだろうか。
「ん、どうした? ちょっと自分ばかりしゃべりすぎたかね」
「ああ、いや――大変|興味深《きょうみぶか》いお話です。あなたはいい夢《ゆめ》をお持ちのようだ」
「夢か。そうだな。これがなくちゃ生きていけないな。あなたはどうなんです」
「え?」
「あなたの夢ですよ」
「まあ――まあ、つまらん夢ですがね」
「お聞かせ願えるかな」
「そうですな……」
ロイドは顎《あご》に手を当てた。そうして無意識に顔の向きを変えるのは、照《て》れ隠《かく》しなのだろう。
「宝島に行って、大儲《おおもう》けするのが夢ですな」
「その金を何に?」
「そんなことはどうでもいいんだ。両手で宝をわしづかみにして、狂喜乱舞《きょうきらんぶ》する。これぞ男子の本懐《ほんかい》でしょう」
ジムは笑った。あざける調子ではなかった。
「そりゃあいい。ひとつ、乾杯《かんぱい》といきますか」
と、グラスを差しのべる。
その頃にはロイドもオン・ザ・ロックに切り換えていた。
「互《たか》いの夢に」
「乾杯」
グラスをほすと、気持ちがほぐれた。しばらく、世間話になる。
「アークラント紛争《ふんそう》の頃は、まだ海洋牧場ですかな」
「もうこっちに来てましたよ。設計部で使い走りみたいなことをやらされてました」
「私は傭兵《ようへい》やってましてね、その頃は」と、ロイド。
「そりゃまた、勇ましい」
「それまでは民間だったんですが、軍隊の方がいい船に乗れるってんで、脱《だつ》サラに走ったわけです。それも数年でやめましたがね」
「やはり命が惜《お》しい、と?」
「いやあ」
ロイドは手を振《ふ》った。
「宇宙|戦闘《せんとう》なんてものは、上手《じょうす》に立ち回っていればそうそう死にません。まあ――人や物を壊《こわ》して金をもらうってのが、やっぱり飽《あ》きるんですな。傭兵ってのは、支えになる愛国心やら使命感やらがない。それで船会社を始めたわけでしてね」
「なるほどねえ。で、今は悠々自適《ゆうゆうじてき》ですか――夢は夢として」
「そんなとこですな。夢を追うばかりじゃ破綻《はたん》します」
グラスをあおり、少しして続ける。
「……そういうものは、大事《だいじ》にしまっとくのがいいんでしょうな」
ジムはうなずいた。
「私だって、なんでフェイダーリンクに火をつけるのかって聞かれて、夢だから、なんて答えたらえらいことになる。そりゃあ、世のため人のためですと言うしかない」
「そうですか……」
ロイドは言った。
「これほどのビッグ・プロジェクトとなると、足をひっぱる奴《やつ》も出てくるでしょうなあ」
「そりゃあねえ」
ジムは苦笑した。
「シューエル一の美観を壊《こわ》すのか、ってね。今でも環境《かんきょう》保護団体が抗議《こうぎ》してくるよ。大気中に生命が存在するかもしれない、とも言う。だけどそんな調査は二十年以上前にやってて、シロと出てるんだ。でなきゃ始められないよ、生態保護法があるからね」
なるほど。そういう障害もあるのか。
ロイドはこの会見の、本来の目的に立ち戻《もど》った。
生態保護法というのは、未踏《みとう》の惑星上に生命現象がみられた場合、それに多大な影響《えいきょう》を与《あた》えてはならない、という法律だった。人間が入植して共存するぐらいなら許されるが、フェイダーリンクのように太陽化する場合は論外である。
「その調査ってのは、実際にシャトルで潜《もぐ》ったわけですかな。あの大気の中へ」
「もちろんです。かなり徹底《てってい》してやったはずだ」
はず、か……。
ジムは続けた。
「美観にしたって、確かにはたから見てればきれいなもんさ。私だって、初めて見たときは鳥肌《とりはだ》が立ったからね。しかし、あの美しさってのは氷の美なんだ。リングも衛星もね。零下《れいか》百四十度の氷漬《こおりづ》けの世界だってことをわかってほしいんだ。それが融《と》ければ別の、この手で触《ふ》れることのできる美が生まれるってことをね」
ロイドはうなずいた。
「確かリングにはハイドラーがいて、立ち退《の》きをしぶっていると聞いたんごすが」
「それは……そうなんだ」
ジムはかすかに顔を曇《くも》らせた。
「こっちだって、彼らをないがしろにしたくはないんだ。だから――強制|執行《しっこう》に入る前に、わかってほしかった」
「わかって?」
「彼らがリングに居座ることで、どれほど多くの可能性が奪《うば》われるかってことさ。このシューエルに愛着があるなら、わかってくれてもいいじゃないか。甘《あま》いかね」
そう言うと、ジムは三|杯《ばい》目を飲《の》み干《ほ》した。
ACT・7 地下ゲート
ロイドが関連|企業《きぎょう》ハウスの、自分たちに割り当てられた部屋《へや》に戻《もど》ったのは、十一時をまわった頃だった。
マージはもう戻っていて、ベッドで広報誌を読んでいた。
「どうだった? 部長さんと話せた?」
「ああ。たっぷりとな」
その声を聞くと、マージは雑誌を置き、身を起こした。
「浮《う》かない顔ね。喧嘩《けんか》でもしたの?」
「そんなことはないさ。ヒントが見つかったぞ。オデット計画|阻止《そし》のな」
「どんな?」
「あたりまえと言えばそれまでなんだが、もしフェイダーリンクに生物が見つかったら、法律上、計画は中止ってことになるんだ」
「ええと……生態保護法だっけ?」
「それだ」
「でも、ガス惑星《わくせい》に生物なんかいるの?」
マージは聞いた。ガス惑星は普通《ふつう》、水素を主成分とした大気があり、その下は高温高圧の液体水素の海に覆《おお》われている。陸地はなく、酸素もないに等しい。そこに生物が誕生《たんじょう》し、進化する可能性はきわめて低い。
「いないだろうさ。それでも建前《たてまえ》として、調査はしたらしい」
「じゃあ、いまさらどうしようもないでしょう」
「そこが思案のしどころさ。まずは本部のライブラリに侵入《しんにゅう》して、生態調査の記録を調べてみようじゃないか。どこかにつけこむ隙《すき》があるかもしれん。問題はどうやって侵入するかだがな」
「オンラインで入るのは難《むすか》しいでしょう。それより、直接ライブラリ室を狙《ねら》った方が確実だと思うわ。さっきみんなと飲《の》んでる間に、さりげなく聞き出したんだけど――」
マージは説明した。
このミリガン運送のような下請《したう》け業者が自由に出入りできる区画は、もっぱら地下だった。あのマッシュルーム状建造物に入るにはワンランク上の資格が必要になる。ライブラリ室はその中にあった。
「マッシュルームの中心にエレベーターがあって、地下からそこへ行くにはエレベーターホールの前のゲートを通らなきゃだめなの。ゲートには三|交替《こうたい》二十四時間、警備員がいるわ」
マージは運航票の裏に略図を描いた。ロイドは身を乗り出した。
「何人いる? ゲートには」
「一人」
「かえってやりにくいな。陽動をかけて誘《さそ》い出すとしても、一人ならまず警備室に通報してから動くだろう」
「二人なら違《ちが》うの?」
「二人だけで解決しようとするさ。プロは細かいことをいちいち通報したがらないもんさ。まあ、プロの定義にもよるがな」
「ふーん」
「となると、交替のタイミングを狙《ねら》う手だな。いつだ?」
「夜なら〇時ジャストね」
「よく調べたもんだな」
「うまいぐあいに、そういう話が出たのよ。不吉《ふきつ》にも失敗談だったけど――以前、どこかの業者が、夜中にこっそり運航スケジュールを改竄《かいざん》しようとしたの。いい仕事をもらおうとしてね」
「で、どんな顛末《てんまつ》になった?」
「ゲートの警備員を後ろからぶん殴《なぐ》って気絶させたけど、それを動かそうとして、床《ゆか》にある何かを自分で踏《ふ》んじゃったんだって。その何かとは、非常ベルを鳴らすフットスイッチだったってわけ」
「ご愁傷《しゅうしょう》さまだな」
「他人事《ひとごと》ですむかしら。自分だけはうまくいくと思うのが犯罪者《はんざいしゃ》の常よ」
ほら始まった、と思いながらロイドは言った。
「うまくいくと思わずに成功した犯罪者はまれさ」
「そうかもね」
マージはそれ以上からまなかった。今回は多分、彼女のほうがやる気になっている。
ロイドは言った。
「ときに、いつやる?」
「なんなら今夜でも」
「飲《の》んできたんじゃないのか?」
「ロックで三|杯《ばい》ほど。でも平気よ」
「その換算《かんさん》なら、わしは六杯ぐらいだ。もちろんやれる」
二人とも、酒には強かった。
小一時間ほどして、変装《へんそう》した二人は部屋を出た。ロイドは浅黒い最下層の労働者風、マージは商売女風に髪《かみ》をおったて、濃《こ》い口紅《くちべに》とミラーコートのサングラスをかけている。
人気《ひとけ》のない廊下《ろうか》をしばらく歩く。ある曲り角にさしかかると、マージはロイドを押《お》しとどめた。
「この先がゲートよ」と、小声で言う。
ロイドは姿勢を低くして、そっと様子をうかがった。
なんとなく地下|駐車場《ちゅうしゃじょう》を思わせる空間だった。角から二十メートルほど先に公衆電話のようなボックスがあり、中に若い警備員が一人いる。ゲートの幅《はば》は一メートルほどで、黄色と黒のストライプの入ったバーが通行をふさいでいた。照明は必要最小限で、ゲートの周囲は白色光で照らされているものの、その先も手前も薄暗《うすぐら》かった。
「交替《こうたい》はどっちから来る?」
「内側からのはずよ」
ロイドは腕時計を見た。あと三分で交替だ。
二人はじっと待った。
〇時七分。奥のほうから足音が近付いてきた。
「おう、お待たせ」
「遅《おそ》いじゃねーか、きちっとやれよ」
「いいじゃねえか、人生長いんだ」
「俺はきちっとしてるのが好きなんだよ」――などとやりあっている。話しぶりからすると、同年配の男だろう。
ロイドとマージは、足音を忍《しの》ばせて後退《こうたい》した。
ゲートから数えて二つ目の角まで来ると、マージは、足音をたてて歩き始めた。そのまま角を曲り、ゲートに向かう。
二人の警備員は、まず足音を聞いてその方向を見た。
歳《とし》のころなら二七、八の、いい女が歩いてくる。
後から来た方の警備員が、ヒュウ、と口笛《くちぶえ》を鳴らした。
「掃《は》きだめに鶴《つる》ってやつかな」
マージは、チューインガムを噛《か》んでいるように口を動かしながら二人の前に来ると、やや崩《くず》れた調子で言った。
「ちょっとさァ、手伝ってもらいたいんだけど、いい?」
「なんですか」と、もう一方の警備員。
「そこで男が酔《よ》っぱらって倒《たお》れてんのよ。蹴《け》っても起きないの」
「あんたのお友達かい?」
「まーね」
「そんな野郎とはきれいさっぱり別れて、俺とつきあえよ。明日は夜勤明けで非番なんだ」
「手伝ってくれたら考えてもいいわ」
「お安い御用さ」
C調の警備員はいそいそとゲートを出て、マージのそばに来た。もう一人の、まじめな方は動こうとしない。
「図体《すうたい》でかいのよ。一人じゃ無理かもよ」
「おい、おまえも手伝えよ」
まじめ警備員は少しためらったが、ため息をひとつつくと、ゲートを出た。
この、どうでもいいようなやっつけ仕事、という設定が、彼を油断させていた。
マージと二人の警備員がふたつ目の角を曲ると、確かに男が一人、隅《すみ》に寝転《ねころ》がっている。
「ちょっとあんた。ここはベッドじゃないぜ」
男――ロイドは、ぐう、とうめき声をあげ、身じろぎした。酒臭《さけくさ》い息が漂《ただよ》う。これは本物である。
しょうがねえなあ、と言いながらC調警備員が右腕をつかんで引き起こした。
「こりゃ重いや。おい、そっち持ってくれ」
「ああ」
まじめ警備員がロイドの左腕を肩にまわす。ロイドは二人に挟《はさ》まれ、肩を借りた格好で立ち上がった。
直後、ロイドは弾《はじ》かれたように身を引き、同時に両腕を引き寄せる。
ごつ。
二人の頭が、鈍《にぶ》い音をたてて衝突《しょうとつ》した。凸凹コンビの警備員は意識《いしき》を失い、くたくたと床《ゆか》に崩《くず》れおちた。
「あっけないな。久しぶりに大立ち回りをやるつもりだったんだが」と、ロイド。
そう言いながら、警備員の一人を引きずる。マージももう一人を引きずって、ゲートのそばの物陰《ものかげ》に押《お》し込んだ。用意したロープで手足を縛《しば》り上げ、さるぐつわをかませる。
「ミリガン運送に入社してこのかた、いろいろあったけど――」
マージは言った。
「ここまで犯罪者《はんざいしゃ》っぽいことをしたのって初めてだわ」
さすがに、少し興奮《こうふん》している。
「また一歩プロの道を進んだわけだ。そうやって、ひとつずつ捨てていくんだ」
この女、まだ自分が犯罪者だという自覚はないらしいな、と思いながら、ロイドは言った。そして、警備員の内ポケットから、IDカードを引き抜《ぬ》いた。
ゲートを越《こ》えると、その先はエレベーター・ホールだった。
この先にも警備員はいるが、一度入ってしまえばいちいち呼び止められない雰囲気《ふんいき》だという。中に入り、八階のボタンを押す。
エレベーターは音もなく動き始めた。
ACT・8 ライブラリ室
マッシュルームの八階は照明が入ったままで、地下区画にくらべるとずいぶん明るかった。人気《ひとけ》はないが、寝静《ねしず》まった、という感じでもない。遠くで物音がするから、まだ働いている者もいるのだろう。
エレベーター・ホールにある案内図でライブラリ室を探す。
「北の外だな」
ロイドが言った。フロアは同心円状の通路が内側と外側にあり、その間を放射状の六本の通路が連絡《れんらく》している。ライブラリ室は北側の外側、つまり外壁《がいへき》に近い側にあった。
二人は特に足音を忍《しの》ばせるでもなく、何気《なにげ》ない顔で歩いた。
ほどなく、ライブラリ室の前に出る。
ドアに耳をあてて中をうかがう。人のいる気配はない。
ノブをそっと回す。
錠《じょう》がおりていた。
ロイドはその横のパネルを見た。細いスリットがあり、その横に『レベル五以上』とある。
「カード錠だな。よしよし」
「開くの?」
「まあな」
ロイドは警備員から奪《うば》ったIDカードを取り出した。
「このカードなら、たいていのドアは開くはずだ」
マージは肩をすくめた。
「さあてお立会い……」
ロイドがカードを差し込む。
ドアは静々と開いた。
中に入り、照明をつける。
部屋は十メートル四方ほどで、書類|棚《だな》と三台の端末《たんまつ》があった。正面に外に面した窓、左手には隣室《りんしつ》に続くドアがあり、その向こうからは大型コンピューターの低いうなりが響《ひび》いている。
ロイドは端末を見て言った。
「システム・オペレーター用のマシンだな」
「うん。これなら暗証番号も何もいらないはずよ」
「やってくれ。急げよ」
ロイドはマージをうながした。こういう機械の扱《あつか》いは、彼女の方がうまい。
マージが電源を入れると、画面にエントリー・メッセージが出た。
「セキュリティ・レベルの高い方から探すんだ」
「わかってるわ」
マージはすばやくキーを叩《たた》いて、過去の記録を検索《けんさく》していった。「調査」「大気|圏《けん》」「生物」「セキュリティ・レベル二以上」などのキーワードを入力し、該当《がいとう》するファイルを絞《しぼ》り込む。コンピューターの検索|支援《しえん》システムはそれらのキーワードから検索|意図《いと》をくみとり、類語辞典《シソーラス》にある「生態」「自然保護活動」などのキーワードを自動的に加えた。次いで検索が始まり、数万件のファイルのなかから、関連するものがピックアップされる。
最終的に選ばれたのは、次のようなリストになった。日付、セキュリティ・レベル、タイトルの順である。
三八六五・〇二・一六  〇二  第一回生態調査報告
三八六五・〇二・二三  〇二  グリーンソルジャー抗議《こうぎ》活動記録@
三八六五・〇三・〇四  〇二  第二回生態調査報告
三八六五・〇三・〇九  〇二  グリーンソルジャー抗議活動記録A
三八六五・〇五・〇四  〇五  ケルヴィン号事故報告
三八六五・〇六・一一  〇三  グリーンソルジャー抗議活動記録B
現在が三八八六年だから、すべて二十一年前の記録になる。
「このケルヴィン号って何だ? やけにセキュリティが高いな」
「中身を見ないとね。たぶん生態調査がらみの事故だと思うけど」
ちなみにグリーンソルジャーというのは、過激《かげき》な抗議行動で知られる自然保護団体である。ほとんど狂信者《きょうしんしゃ》の集まりで、自然や生態系のためなら破壊《はかい》活動も辞さないと言われている。
「とにかくコピーしよう。読むのはあとでいい」
「そうね」
マージは手近《てぢか》にあった光学ディスクにファイルをコピーした。
「さて、帰るか」と、ロイド。
「ちょっと待って。ログ(操作記録)を消去しておかないと」
「急げよ」
ロイドはそう言ってドアを開き、廊下《ろうか》をうかがった。内心、かなり焦《あせ》っている。ゲートの警備員の不在が露見《ろけん》したり、交替要員が戻《もど》ってこないために怪《あや》しまれることもある。いつ非常ベルが鳴るか、わかったものではない。
遠くで、低い、機械の作動音《さどうおん》が聞こえた。
エレベーターが開いた音だ。続いてゴム底の、ひそやかな足音。
この歩き方――警備員か。二人連れだ。
ロイドは顔をひっこめ、ドアを閉めた。内側からカードでロックする。
「見回りが来たぞ。急げ」
「もうちょっと」
ドアに耳を押し当てて、外の音を聞く。足音は、はす向かいあたりの部屋の前で止まった。
「終ったわ」
マージが小声で言う。今部屋を出るわけにはいかない。
「隣《となり》に移ろう」
二人は、続きの部屋に入った。そこはコンピューターの本体がある部屋で、誰もいなかった。
「この裏だ」
コンピューターの匡体の裏に隠《かく》れる。
直後、もとの部屋のドアが開いた。
「あーあ、またつけっぱなしにしてるぜ」と、男の声。端末機《たんまつき》のことらしい。
そのとき、ロイドは重大なミスに気づいた。
顔色を見て、マージがどうしたの、と目顔で聞く。
ロイドは首を横に振《ふ》った。気づかれないよう祈《いの》るしかない。二人は息を殺して待った。
隣室から警備員の声が響《ひび》く。
「ここも異常なしだな。次、行くか」
「ああ。いや……ちょっと待て」別の声。
「ん?」
「これってなんだ?」
「見せてみろよ」
短い沈黙《とりんもく》。
「こりゃあ……コリンズのカードだぜ!」
「なんだって!? あいつは地下のゲートだろ」
二人の警備員は、そこに同僚《どうりょう》のカードがある理由を、正しく推測した。
「侵入者《しんにゅうしゃ》がいるかもしれん。通報しろ。俺は隣を調べる」
「こちら八階ライブラリ室、本部どうぞ。侵入者の形跡《けいせき》を発見」
ドアが開き、一人がこちらの部屋に入った。
コンピューターを挟《はさ》んで、数メートルの位置に来る。
警備員の靴がきゅっ、と鳴った。身構えて、上半身をまわしているらしい。
カチャ、という音。拳銃《けんじゅう》のセイフティを外《はず》している。
警備員は、見えない相手に呼びかけた。
「隠《かく》れているなら出てこい。出口はないぞ」
声はかすかに震《ふる》えていた。またきゅっ、という音がする。警備員はこちら側にまわりこもうとしていた。黙《だま》っていても、すぐに見つかる。見つかるよりは、こちらから出た方がいい。
だが、ロイドもマージも、武器を持っていなかった。ロイドは周囲を見回した。足元に、光学ディスクの空箱が転がっている。ロイドはそれをそっと拾い、ポケットの中からケーブル状の鋸《のこぎり》を取り出して、一端を箱に差し込んだ。
ロイドは言った。
「撃《う》つな。こっちには爆発物《ばくはつぶつ》がある」
そう言って、ロイドは警備員の前に姿を現した。左手に箱を持ち、右手に箱から伸《の》びるケーブルを持っている。手製爆弾に見えなくはない。
「自分も死ぬぞ」と、警備員。
「いいさ。フェイダーリンクの生態保護のためなら、いつでも死ねる」
ロイドは一《いち》か八《ばち》か、はったりをかました。
「グリーンソルジャーのテロリストか」
隣室にいた警備員が、後ろから言う。手前の警備員は顔をロイドに向けたまま、うなずいた。
「二人とも、銃《じゅう》を捨てろ。捨てないと、部屋ごと吹き飛ぶぞ」
「やれるもんか」
「おい、よせ。テロリストは平気で死ぬぞ」と、後ろの警備員。
「その通りだ。さあ、早く言う通りにしろ」
「わかった。だがその前にいくつか聞きたいことがある」
手前の警備員が言った。
「あんたを逃《に》がしたら、俺は始末書を書かなきゃならん。少しは実のある内容にしたい」
「まず銃を捨てろ」
「ここまでどうやって侵入《しんにゅう》したんだ。どうせわかるとは思うが、警備体制の不備のせいににすれば、俺は責められずにすむんでな」
「銃を捨てろ」
「それぐらい教えてくれてもいいだろ」
まずいな、とロイドは思った。かなり凄《すご》んでいるつもりなのだが、今度の警備員は肝《きも》がすわっている。時間を引き伸《の》ばしてこちらの出方を観察しているのだ。ここで断固とした態度に出ないと、はったりがばれる。
警備員はまだ、マージの存在を知らない。彼女は何をしているか。何を期待できるか?
コンピューターと壁《かべ》との隙間《すきま》は人間一人が通れるぐらい。裏側にはこの箱以外、武器になるようなものはなかったが……。そのときロイドは、近くの壁に何か細長いものが立てかけてあったのを思い出した。それはコンピューター室に必ずあるもの――電気|掃除機《そうじき》だ。
ロイドは賭《か》けてみることにした。
「じ、時間かせぎはやめろ。さもないと、ドカンだぞ」
わざと虚勢《きょせい》を張った調子で言ってみる。
警備員は、ニヤリと笑った。
「そりゃあ、本当に爆弾なのか? え?」
ロイドは一歩さがった。
同じだけ、警備員も前に出る。
さらに一歩引く。
さあ、マージ。今だ。
警備員が一歩|踏《ふ》み出した、直後。
マージが陰《かげ》から飛び出し、掃除機をつかんで大きく振《ふ》り降ろした。重い動力部が警備員の肩を直撃《ちょくげき》する。
それからマージは、掃除機を後ろの警備員に向かって投げつけた。ロイドは倒《たお》れた警備員から銃《じゅう》をもぎ取り、体勢を崩《くず》した二人目の警備員に向けた。
「動くなよ――弾《たま》がはずれるから」
ロイドは相手に目をすえたまま、言った。
「入社六年にして最高のタイミングだったぞ、マージ」
「どういたしまして」
「倒れた奴《やつ》を見ててくれ」
「大丈夫《だいじょうぶ》、気絶してる」
ロイドは警備員に言った。
「さあ、銃を捨てろ。……そうだ、そしてこっちへ蹴《け》るんだ。ゆっくりな」
警備員は言われた通りにした。こちらに滑《すべ》ってきた拳銃を、マージが拾う。
「両手を頭の上に置いて壁《かべ》に向け。セオリー通りにな。マージ、奴を縛《しば》ってくれ。俺の右のポケットに紐《ひも》がある」
マージは言われた通りに、警備員の手首を縛った。
「ひとつ言っておきたいんだが……」
手を縛られながら、警備員が言った。
「さっき無線で応援《おうえん》を呼んだんだ。そろそろ来ると思う」
「だからおとなしく降参《こうさん》しろってか? そうはいくか」
このコンピューター室には、廊下《ろうか》に通じるドアはない。隣《となり》のライブラリ室をふさげば、とりあえず籠城《ろうじょう》できる。
ロイドとマージはライブラリ室から、廊下に出た。
向こうから数人の警備員が駆《か》けてくるのが見えた。
いたぞ、あいつらだ、動くな、という声。
「戻《もど》れ!」
二人はライブラリ室に戻った。ドアを閉め、開閉パネルを壊《こわ》す。二秒後、そのドアが荒々《あらあら》しく叩《たた》かれ始めた。
「どうするの。袋小路《ふくろこうじ》よ」
ロイドは窓を見た。
「その窓は開くぞ。非常|脱出《だっしゅつ》用だ」
「外は真空よ。宇宙服はないし、ここは八階で――」
「大丈夫さ。外へ飛び出せば、天然の重力に戻るんだ。さあ、深呼吸しろ」
マージは、そんなバカな、という顔をした。だが、廊下へのドアは長く持ちそうになかった。見てわかるほどにたわみ、今にもこじ開けられようとしている。
やるしかなかった。観念して壁の送風装置のスイッチを切り、深呼吸を始める。
言い出しっぺのロイドにしても、これから始まることを受け入れるためには、ふたつの固定観念と戦わなければならなかった。真空にさらされた人体が、ただちに沸騰《ふっとう》したり破裂《はれつ》したりするというのは迷信だ。そしてこの衛星の重力では、三十メートルの高さから飛び降りても、致命傷《ちめいしょう》には至らない。
「あんたも深呼吸しろよ」
ロイドは縛《しば》られた警備員に言った。
真空中で――数分間だが――生き延《の》びるためには、肺の空気を捨てなければならない。
そのために血液中に充分《じゅうぶん》、酸素を蓄《たくわ》えるのだ。
「俺たちが出たら、すぐに窓を閉めるんだ。手首が縛られてても、できるよな」
言いながら、警備員の腰から無線機を奪《うば》う。
それから窓の下のパネルを開いて、中のハンドルをまわした。
シュウ……という音がして、部屋の空気が抜《ぬ》け始めた。口を開くと、肺の空気が出ていくのがわかった。皮膚《ひふ》がひりひりする。目が痛い。
一分ほどで、ほとんど真空になった。
もう誰の声も、ドアを打つ音も聞こえない。廊下の者たちも、減圧《げんあつ》が始まっているのに気づいたはずだ。
ハンドルの横の赤いレバーを引くと、窓の固定金具がはずれた。内側に引く。
はるか下に、荒涼《こうりょう》とした地表があった。
ためらっている時間はなかった。
――こういうことは、男が先にやるもんだ。
ロイドは窓枠に足をかけ、外の空間に身を躍《おど》らせた。
ゆっくりと、落ちてゆく。
計算上は、一G下で四メートルの高さから飛び降りるのと同じはずだった。
体が回転し始める。上を見ると、窓はまだ数メートルのところにあり、マージが飛び出したところだった。
手足をばたつかせるが、思うように姿勢を変えられない。
地面が迫《せま》ってきた。
傭兵《ようへい》時代の、機動降下兵の訓練を思い出す。慣《な》れるまで、あれは怖《こわ》かった。今も怖い。
前傾《ぜんけい》姿勢で着地。表面の土くれが、放物線を描いて飛び散る。ロイドは受身の要領《ようりょう》で転がった。幸い、どこも痛めなかった。
すぐそばに、マージが着地した。こちらはまずスマートなフィニッシュだ。
二人は周囲を見回した。どこかにエアロックがあるはずだ。なければ死ぬ。
そう思った途端《とたん》、苦しくなってきた。
せいぜいもって、あと一分。
マージが発着床《はっちゃくしょう》を指さした。あった。距離、五十メートル。
二人は走った。大股《おおまた》で、まるで三段|跳《と》びのように。
凍った地面はそれほど滑《すベ》らなかったが、体重が八分の一ほどになっているので、思うように踏《ふ》み込めない。肺が灼《や》けるように痛む。もう目は開けていられず、どうしても必要なときにまたたく。
エアロックが近付いてきた。今度はうまく止まれない。二人はそばの外壁《がいへき》にぶつかって停止した。
あたふたと、扉《とびら》の緊急《きんきゅう》開放ボタンを押す。「減圧中」のパイロットランプが点灯《てんとう》する。永遠とも思えた二十秒がたち、ドアが開き始めた。半開きのうちに飛び込み、今度《こんど》は緊急|閉鎖《へいさ》。
狭《せま》いエアロックの中に、空気が満ち始めた。
二人は魚のように口を開いて、肺に酸素を送った。
ようやく、人心地《ひとごこち》がつく。
「死ぬかと思ったわ」
「わしもだ」
内扉の小窓から廊下《ろうか》をうかがう。人影《ひとかげ》はない。
エアロックを出て、小走りに廊下を進む。階段をひとつ降りると、そこはもう関連|企業《きぎょう》ハウスだった。
自分たちの部屋の前まで来たとき、廊下の曲り角の向こうで足音が聞こえた。
二人はあわてず騒《さわ》がず、そっと部屋に戻《もど》った。
しばらくドアに耳をあてて、外の気配をうかがったが、その夜はもう、何も起きなかった。
ACT・9 アルフェッカ号
翌日、二人は軌道《きどう》工場からの帰途《きと》、係船《けいせん》軌道をめぐるアルフェッカ恒星船《こうせいせん》に立ち寄った。
メイはシャトルのドッキング・ポートに出迎《でむか》えて、ハッチが開くなりマージにとびついた。
「おかえりなさいっ!」
ほんの二日間の留守《るす》だったが、やはりさびしかったらしい。もし尻尾《しっぽ》があったら、さぞぱたぱた振り回しただろう、という勢いだった。
「よしよし、今エサをあげるからね、ポチ」
「ひどーい」
「孤独《こどく》に耐《た》えることも船乗《ふなの》りの仕事よ――なんて説教は今はやめとく。ブリッジでおみやげを見ましょ。お茶をいれてちょうだい」
「はい」
五分後、三人はブリッジに集まった。少なくともオデット基地のよりはずっとうまいお茶で一息いれたあと、ロイドはおもむろに光学ディスクを取り出した。
「さあてお立会い……」
航法コンピューターのリーダーに挿入《そうにゅう》し、キーボードを叩《たた》く。
「どれからいく?」
「まずは第一回生態調査報告だな」
スクリーンに文字と図版《ずはん》が現れる。
第一回生態調査報告
本報告は、オデット計画の予備調査段階における、惑星《わくせい》フェイダーリンク大気|圏《けん》の生態調査結果をまとめたものである。
期日    CY三八六五 一月十五日より二十九日まで。
調査地点  赤道帯、北部熱帯、北部温帯、北部寒帯、北極帯の五箇所
調査方法  耐圧《たいあつ》シャトル「ケルヴィン号」にて、十気圧地点までを可視光、赤外光、紫《し》外光、音波にて〇・一秒|毎《ごと》に観測。大気サンプルを一時間毎に採取《さいしゅ》。基準高度は千分の一気圧地点とする。
……そして、学術的な内容が続く。
「学者ってのはどうしてこう、しゃちこばった書き方をするんだろうな」
ロイドは言った。
「結局何かいたのかね? わざわざマル秘にしてるんだ、どこかにヤバいことがあったんだろう?」
「待って。今『総括《そうかつ》』を読むわ」
マージはスクリーンに目を走らせた。
「大気圏内にアミノ酸分子を検出《けんしゅつ》、とあるわ。赤道帯から熱帯に比較《ひかく》的多く分布するって」
「あ、そう言えば――」
メイが言った。
「リングの中にもアミノ酸があるって、デビッドが言ってました。でも、それってどんな意味があるんですか? 村では食糧《しょくりょう》にしてたみたいですけど」
「炭素型生物を構成する分子の基本は蛋白質《たんぱくしつ》で、その蛋白質のもとになるのがアミノ酸なのよ。でもアミノ酸くらいならそれほどめずらしくないわ。一酸化炭素や窒素《ちっそ》に宇宙線が当たれば、わりと簡単にできるはずよ」
「それでも灰色《はいいろ》ってことにはなるだろ?」
ロイドが言った。フェイダーリンクに生命が存在する可能性がある、ということだ。
「調査が長引いて、何年も計画が遅《おく》れることになる。一般《いっぱん》には何もありませんでした、と報告したんだろう」
マージはグリーンソルジャーの記録を読んだ。
「そのようね。グリーンソルジャーは、『何もないとは不自然だ。オデット計画本部は故意に情報を隠《かく》している』と抗議《こうぎ》してるわ」
「もっとなあ、らしい嘘《うそ》をつけばよかったんだ。嘘ってのはだ、相手の期待にそうか、相手を驚《おどろ》かせるかしなきゃ信じてもらえないのさ」と、得意顔でロイド。
「わしが若かった頃のことだが――」
「いいから先を読みましょ」
「へいへい」
生態調査とグリーンソルジャーの抗議は交互《こうご》に行なわれている。調査にグリーンソルジャーのメンバーを同行させるのさせないので、相当もめたらしい。しかし実際の調査の方も、アミノ酸より高度な有機分子は見つけてはいないようだ。
そして問題の「ケルヴィン号事故報告」にさしかかる。
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五月一日、標準時〇八一〇。
ケルヴィン号は母船を離《はな》れ、赤道帯大気|圏《けん》に向けて降下を開始した。テレメトリ・データはすべて正常。〇九四八、千分の一気圧地点より観測開始。降下速度、秒速五十メートル。通信状態は優良。
〇八二三時。深度四十キロ。気圧〇・〇一二。
パイロット「カフェオレのような、澄《す》んだ空だ。外へ出て深呼吸したいが、寒すぎるだろう。三十キロ下方に雲頂《うんちょう》が見える。その南に雲のない谷間がある。谷間をめざす」
管制官「降下率を毎秒四十メートルに落とせ」
パイロット「了解《りょうかい》。降下率、毎秒四十メートル」
〇八三六時。深度七十キロ。気圧〇・一二七。
パイロット「両側に雲の頂上が見える。気流は比較的安定。風速八十メートルもあるとは信じられない。このまま谷を降りる」
管制官「降下率を秒速二十メートルに保て。下降気流に注意せよ」
パイロット「了解。降下率、毎秒二十メートル」
〇九〇一時。深度百キロ。気圧〇・五一五。
管制官「ケルヴィン号、状況《じょうきょう》を報告せよ」
パイロット「南側と北側は、見渡す限り雲の絶壁《せっぺき》だ。下方モニターで赤褐色《せきかっしょく》の下層大気が見える。海かもしれない。船外温度は摂氏《せっし》マイナス六十三度」
管制官「海面までまだ千キロもある。タービュランス(乱気流)はどうか」
パイロット「平穏《へいおん》だ。慣性航法装置によれば、水平風速八十二メートル、垂直四メートル。おおむね層流と思える」
管制官「了解。慎重《しんちょう》に降下せよ」
〇九二五時。深度百二十七キロ。気圧〇・九三四。
パイロット「数キロ下に雲の底が見える。その下は赤褐色の下層大気。タービュランスが少しあるが、危険ではない」
管制官「降下率を秒速十メートルに保て」
パイロット「降下率、秒速十メートル。了解」
管制官「船外温度はどうか」
パイロット「摂氏二度。酸素さえあれば外に出られる――高い山に登った程度だ」
管制官「大気サンプルは採取《さいしゅ》しているか」
パイロット「自動的に行なっている。モニターと作動音で確認」
管制官「了解。視覚による所感を報告せよ」
パイロット「雲の崖《がけ》は白い。動きはあま……れない。大気の透明度《とうめいど》はかなり良い。雲以外に何かがいるという気配……ない。レーダーはノイズが入るので、あまり信用できない」
管制官「音声の了解度が落ちている。レーダーが信用できないのは故障のためか」
パイロット「外部のノイズ……思う」
管制官「了解。ほかに問題のある計器があれば、早期に報告せよ」
パイロット「了解。――今、軽いタービュランスを感じた。弱い上昇《じょうしょう》気流らしい。サーマル計によれば、毎秒二・四メートルの上昇……ある」
管制官「絶対的な降下率はいくらか」
パイロット「毎秒――待ってくれ。揺《ゆ》れが激《はげ》しく――」
管制官「よく聞き取れない。ケルヴィン号、再度|連絡《れんらく》せよ」
(二秒間の沈黙《ちんもく》)
管制官「ケルヴィン号、応答せよ」
パイロット「外が真っ暗……計器を……ている。赤外線モニターに異常。大気サンプル吸入口に……発生。船体が激しく……ている」
管制官「赤外線モニターの異常はどのようなものか」
(二秒間の沈黙)
管制官「ケルヴィン号、応答せよ」
パイロット「この……は……まるで鯨《くじら》か何かに……」
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交信はここで途切《とぎ》れている。
ケルヴィン号から自動的に送信されてくる各種のデータもほぼ同時に途絶していた。事故の直前、瞬間《しゅんかん》的に五Gの加速を記録していたが、その程度で壊《こわ》れるような船ではなかった。交信途絶の四十八秒前から船外温度が数度上昇しており、パイロットの報告を裏付けているが、それも船体が焼損《しょうそん》するにははるかに低い温度である。
怪《あや》しい。
これは充分《じゅうぶん》、怪しい。
ロイドはそう思った瞬間、女たちの前でこのデータを読んだことを後悔《こうかい》した。
俺《おれ》としたことが、考えが足りなかった。なんとかせねば。
ロイドは言った。
「まあ、ありがちな話だな。局部的な乱気流にぶつかったんだろう」
「それにしちゃ意味深なダイイング・メッセージじゃない? まるで鯨か何かに、なんて」と、マージ。メイもうなずく。
「そうかね。こいつ、アルテミナの出身じゃないか?」
マージはファイルの終りにある、パイロットのプロフィールを見た。
「ジェイ・アボット、三十二歳――そうね。セリア=アルテミナの出身だわ」
「なら、とっさにそういう言い回しが出てもおかしくないさ」
「本当に鯨がいたんじゃないでしょうか?」
メイが真顔《まがお》で聞く。
ロイドは笑った。
「まさかな。深度百二十キロったって、まだ大気|圏《けん》のほんの上っつらだからな。せいぜい鯨に似た何かさ」
「でも――」
「気球生物かもしれないでしょう。体内に水素だけを取り込んで――理論的にはいてもおかしくないわ」
マージが言った。
「本部の公式発表では、レーダーの故障による事故ってことになってる。グリーンソルジャーは納得《なっとく》せずに、詳《くわ》しい資料を公開せよと追《せま》っているわ」
「鯨発言についてはオフレコか」
「ええ。本部はかなり神経質になってるみたいよ」
マージはシートに座り直し、少し考えて言った。
「この資料をマスコミに公開すれば、再調査ってことになるわ。大気中にアミノ酸分子が存在したことを隠《かく》した罪《つみ》も問われるのよ」
「じゃあ!」
メイが顔を輝《かがや》かせる。
「オデット計画は中止になるんですね!?」
「いやいや、そう簡単にはいかんよ」
ロイドは手を振《ふ》って言った。
「アミノ酸は生物じゃないし、この程度の罪じゃこの計画は止まらんさ」
「中止にならなくても、かなりの時間かせぎになるでしょう、ロイド。やって損はないわ」
「ちょっと考えさせてくれ」
「真実を公開するだけよ。法的にも人道的にも、なんら問題はないわ」
「だから考えさせろと言ってるんだ!」
抑《おさ》えて言ったつもりが、大声になってしまう。
マージは眉《まゆ》をひそめた。
「……どうしたの? ロイド」
ロイドはそそくさと立ち上がった。
「そろそろ基地に戻らないとな。門限に遅《おく》れるとまずい」
そう言い残して、ブリッジを出る。
二人の女は顔を見合わせた。
「変ですね、ロイドさん。いつもなら『よし考えようじゃないか』って言いますよね」
「だいたい、考えることなんてないはずよ……」
マージはそう言って、首をかしげた。
ACT・10 オデット基地
ミリガン運送の契約《けいやく》期間は一週間だった。当初の目標は早くも二日目に果してしまったが、それでさっさと基地を離《はな》れるわけにはいかなかった。当局に怪しまれるし、少しはかせがないと他の星系に移る燃料代も出ない。
ロイドとマージは黙々《もくもく》と働いた。
マージは事あるごとに、情報公開の話を持ち出したが、ロイドは「考えさせてくれ。明日には結論を出す」と言い逃《のが》れてきた。
三日目の夜、仕事を終えてハウスに戻ると、ロイドはマージを置いて、一人でバー・クーホに向かった。
技術部長は、あの席に座っていた。
「同伴《どうはん》させていただいて、よろしいですかな」
「どうぞどうぞ」
ロイドは隣《となり》に腰掛けた。
しばらく世間話をするうち、話題は一昨日、ライブラリ室に侵入《しんにゅう》した賊《ぞく》のことになった。
「まあ、連中ももうあきらめたと思ったんだがなあ。工程管理のファイルを壊《こわ》されちゃことだってんで、警備を強化するよう申し渡したよ」
ジムはそう言って、肩をすくめた。
「連中というと、やっぱりグリーンソルジャーですか」
「十中八九ね。ああいう頭に血の昇《のぼ》った手合いは、どうにも話が通じなくて困る」
「まったくですな」
ロイドは酒を一口|飲《の》むと、さりげなく話を切り出した。
「しかし、きょうび市民団体も強いですからなあ」
「ありゃあ、市民団体なんてものじゃないよ。テロリストさ」
「ごもっとも。しかしここにきて、もし計画中止――てなことになったら、どうします」
ジムは眉《まゆ》を上げた。
「そりゃ、たまらんね」
飲みに来て、こんな話題は避けたい、という様子だった。
だが、ロイドは続けた。
「しかし、ここまで作ったものを、全部捨てるとなると――」
「そうすると思うかね?」
「やはり、初志貫徹《しょしかんてつ》ですかな」
ジムは手を振《ふ》った。
「いやいや、仮定の話だろ。このフェイダーリンクに火がつけられない、となったらどうするか――」
一拍《いっぱく》置いて、ジムは言った。
「よその星に行くさ」
「えっ?」
「フェルミオン・システムは移動可能なんだ。ひっくり返るほど費用がかかるが、最初からそのように設計してある。この宇宙には、太陽化を待つ星が、まだいくらでもあるんだ」
「そう――でしたか……」
ロイドは心のうちを悟《さと》られまいと、懸命《けんめい》になった。
そうか。そうだったのか。
「ここまでくるのに、二十年かかった」
ジムは言った。
「今からよそに移るとなったら、生きて最初の光を拝《おが》めるかどうか、わからん。それでも、システムの欠陥のせいで中止になるのでなければ、私の夢はかなうことになるのさ」
ロイドがすがすがしい顔でバーを出たのは、それから一時間ほど後だった。
部屋に戻ると、マージが待っていた。
「まだ起きてたのか。寝とかないと、明日がきついぞ」
「そろそろ決着をつけるときよ」
「何か重要な話があるなら、しらふのときにやろうじゃないか」
「まだ酔《よ》うほど飲《の》んじゃいない顔だわ」
そう言って、テーブルにスコッチのボトルを置く。
マージは言った。
「私たち、どんなことでも話し合ってきたわ。ロイド、あなたは社長だし、歳《とし》も倍近く離《はな》れてる。専制君主《せんせいくんしゅ》としてふるまう資格があることは認めるけど、今度は違うと思う。たった三人でやってる会社なのよ。なんでも相談しなきゃ、うまくいきっこないわ」
マージは続けた。
「慈善《じぜん》事業が嫌《いや》なのね。正義のため、レーネ村を救済するために、一肌脱《ひとはだぬ》ぐのが気が進まない――そんなとこかしら。金になることがしたいんでしょう?」
「なかなか鋭《するど》いぞ」
「冷やかさないで。そりゃ、メイはがっかりするでしょう。でも私となら、もう少し大人《おとな》の話ができると思うわ」
ロイドは観念した。
「わかった。話そう」と、ソファに腰をおろす。
マージは流し台のグラスを持って、ロイドの反対側に座った。
黙《だま》って、酒をつぐ。
それを半分ほど流しこむと、ロイドは言った。
「……何が正義か、なんてことは、わからんもんだな」
「うん?」
「君は大人の話をすると言ったが、わしの胸のうちを知ったら驚くだろうな。これでも、正義の味方や義賊《ぎぞく》を気取ったり、他人の喜ぶ顔を見たいと思うことはあるんだ」
「うん」
「一方、金儲《かねもう》けのことも最初から考えてたさ。SDPがここで大事業をやってると知ったときからな。いや、その前からかもしれんが――」
「始終そうよね」
ロイドはうなずいた。
「君にはいつもはらはらさせているが、文無《もんな》しで新天地に飛び込んで、さあどうやって儲けるかと考えるのがわしは好きなんだ。そういうとき、ああ、つまりなんだ――」
女にこういう話はしたくないが、今はするしかない。
「――年甲斐《としがい》もなく、ときめきを感じるんでな」
マージは素直《すなお》にうなずいた。
「わかったわ。総論としては認めてもいい」
「うむ」
マージが譲《ゆず》ったので、ロイドは続ける気になった。
「とにかく、レーネ村はオデット計画の急所だ。巨額の資金が投入されてるんだ、うまく立ち回れば、ちょっとした金になる」
「うん」
「村の連中のことを、なんとかしてやらにゃ、とは思った。だが強制|執行《しっこう》まで始まってるんだ、いまさらどうにもならんとも思った。そこへきて、生態保護法の話を聞いた。最初の夜、ジムと飲《の》んだときにな」
ロイドはスコッチをあおった。
「ジムと話して、ここの連中の気持ちもわかった気がした。君だってそうだろう? 毎日|軌道《きどう》工場に荷物を運んで、ただ金をもらうだけじゃ人間やってられないよ。その荷物が何かの役に立つってことがあるから、やりがいが出てくるんだ」
「それで迷ってたわけね? あっちこっちに正義があると」
「正義というか、一人の男の夢《ゆめ》なんだ。ジムはそれに二十年かけてきたんだ。奪《うば》いたくない――と、思ったさ」
ロイドはグラスを置いた。
マージは黙《だま》って、続く言葉を待っていた。
「ライブラリ室からデータを盗《ぬす》み出したら、公開せずにSDPをゆすろうと思ってたんだが、どうも気乗りしなくてな。ゆすった金を半分くらい、レーネ村にくれてやろうかとも思ったんだが、どうもすっきりしない。人の夢や不幸をだしにして金儲《かねもう》けするなんて、やりたくないじゃないか」
マージはため息をついた。
「夢ねえ……」
そのとき、ロイドは初めて、にやりと笑った。
「あきらめたかね?」
「え?」
マージはきょとんとした顔になった。
「わしも、やめようと思っていた」
「いた?」
「こういう、すっきりしない仕事は嫌《いや》だからな。だが、さっきジムと会って、考えを変えたんだ」
「というと――」
「フェルミオン・システムは、何もこのフェイダーリンクだけで使うものじゃないんだ。ここが駄目《だめ》ならよそがあるってことさ。ジムは二十年ここでやってきたと言うが、レーネ村の連中はそれどころじゃない。二百年暮らしてるんだからな!」
ロイドはまじりけのない笑顔を見せた。
「これで戦える気がしたね。やるからには確実に勝ちたい。そうだろ?」
「ええ」
マージは思わず身を乗り出した。
「金は儲からん。まったくの慈善《じぜん》事業だ。それでもいいな?」
「もとよりそのつもりよ」
「次の星へ行くとき、片道分の燃料しか買えないぞ」
「経費のやりくりも仕事のうちだわ」
「よおし!」
ロイドは言った。
「考えようじゃないか――うまい嘘《うそ》のつきかた、って奴《やつ》をさ」
[#改ページ]
第四章 水素の海へ
ACT・1 アルフェッカ号
契約《けいやく》分の仕事を終え、賃金を受け取ると、アルフェッカ・シャトルは三日ぶりで恒星船《こうせいせん》にドッキングした。
メイの用意した食事を楽しんだあと、ロイドはその話を切り出した。
「さてとメイ。お待ちかねのことと思うが、これから始まる大仕事について話そう」
「はい」
メイはこくりと唾《つば》を飲んだ。
「あのときも言ったように、SDPのような大企業《だいきぎょう》の不正を暴《あば》くときは、いかにしてもみ消されないようにするかが大切だ。わかるな?」
「わかります」
メイにとっても、これは身に憶《おぼ》えのあることだった。
「大企業がすべて悪者《わるもの》だと思っちゃいかん。このことは忘れるな」
ロイドは念を押《お》した。
「だが、大きくて金持ちの組織というやつは、悪いことがずっとやりやすくなるものなんだ。もし、あのケルヴィン号のいきさつを公開しても、再調査して生物が見つからなかったら、それきりだ。結局、時間かせぎにしかならん。オデット計画のようなビッグ・プロジェクトを、そうそう中止されるわけにはいかないんだ」
「わかります」
「そこでだ」
ロイドは紅茶《こうちゃ》を半分ほど流し込んで、続けた。
「ケルヴィン号のファイルをマスコミに流せば、大気|圏《けん》の再調査が行なわれることは確かだろう。その再調査に焦点《しょうてん》を向けよう。要するに、ここで生物が発見されればいいわけだ」
「じゃあ――」
メイは考えた。
「調査の前に大気圏に降りて、生物をつかまえておいて、うまく誘導《ゆうどう》するとか?」
「はずれずといえども、かなり遠いな」
ロイドは言った。
「本当にそこに生物がいると思うか、メイ?」
「ええ――」
メイは口ごもった。
デビッドはあのとき、あそこには何かいると言った。
メイもそう感じていた。何の根拠《こんきょ》もなかったが、そんな気がしたのだ。
しかし、このことは、二人だけの秘密だった。
「――わかりません」
「ここはいない、と仮定しようじゃないか」
「……はい」
「確かにいるとわかってるのは、リング外縁《がいえん》の村人たちだけだ。もし彼らが人間以外の生物だったら、やはり保護の対象になっただろう。わしらがやろうとしているのは、村人たちの生活や伝統を護《まも》ることだ。生物など一匹もいない大気圏にハリボテの鯨《くじら》を持ち込んだところで、大きな嘘《うそ》をついたことにはならないとわしは思うんだ」
「はい――え? ハリボテ?」
「そう、ハリボテだ」
ロイドは残る半分の紅茶を飲《の》み干《ほ》した。
「鯨のハリボテを作って、調査|艇《てい》の前を横切るんだ」
「…………」
メイはきょとんとした。
「最近のセンサー技術は進んでるから、あまり近くに寄っちゃいかん。長く見られてもいかん。雲間から、さっと顔を出して、すぐ隠《かく》れることだ」
「……そんなことが、ハリボテでできるんですか?」
「不可能ではない、と考えてるのよ」
マージが言った。
「そのハリボテをかぶるのが、私たちのシャトルだとすればね」
「そんな――」
「びっくりしたんなら、成算はあるぞ」と、ロイド。
「うまい嘘のつきかた、ってのを前に言ったろう。相手の期待にそうか、相手を驚かせるんだ。この場合、連中は半信半疑で、生物がいることをひどく恐《おそ》れている。いちばん引っかかりやすい状態だ。ポイントは今も言ったが、調査艇にハリボテであることを見破られないことだ。調査艇が本気で追跡《ついせき》したら、逃《に》げ切れるとは思えない。そこでだ――」
ロイドは一度言葉を切って、続けた。
「わしが調査艇に潜《もぐ》り込む。パイロットとしてな」
「……できるんですか?」
「できるさ。基地のことはいろいろ調べたし、潜入《せんにゅう》の算段《さんだん》はしてある」
「そうじゃなくて、操縦が」
ロイドは一瞬《いっしゅん》むせた。
嫌《いや》なことを聞く娘《むすめ》だ。
「資格はあるんだぞ。傭兵《ようへい》時代に取った奴《やつ》でな」
「ペーパー・パイロット……」
「今回の作戦で操縦の腕《うで》を要求されるのはハリボテのほうだ。そっちはマージがやる。君にもアシストしてもらうことになるだろう。それに較《くら》べれば、調査艇のほうは、まあ普通《ふつう》にやっていればいいわけだ」
メイはまだ不審《ふしん》げな顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。
「ハリボテはどうやって作るんですか?」
「このへんで、腕利《うでき》きのエンジニアがいるところはどこだ? もちろん軌道《きどう》工場は別だぞ」
言い終る前に、メイの顔が輝《かがや》いた。
「レーネ村!」
「ご名答」
ACT・2 レーネ村
アルフェッカ号は翌日ランツフートの軌道を離《はな》れて、リング外縁《がいえん》への遷移《せんい》軌道に乗った。
オデット基地の管制官に気づかれないよう、ランツフートとレーネ村が惑星《わくせい》をはさんで反対側になるタイミングを狙《ねら》っての出発だった。
そのゆるやかな降下の間、メイはずっとそわそわしていた。
気まずいままで別れたデビッドと、また会うことになるのだ。村に戻《もど》ると聞いたときはうれしかったのに、いざとなると、どうしたらいいかわからない。
「まあ、なるようになるさ。気を使いすぎなければいいんだ」
「そうですね……え?」
ロイドの読心術に気づいて、メイはあわてた。
「――わかるんですか!?」
ロイドは笑った。
「読心術ってのは技術じゃない。心を読まれなくする技術があるだけさ」
「…………」
メイは赤面した。
大人《おとな》たちにかかれば、なんでもお見通しなのだった。十六といえばもう大人だ、とメイは聞かされてきたが、多くの若者がそうであるように、少なくともあと十年は子供《》扱《あつか》いされる運命にあった。幸いにもメイはまだ、そのことを知らなかったが。
絹《きぬ》のリボンのようなAリングをかすめて、一時間ほどでBリングの外縁、チェスター渓谷《けいこく》に入る。
「メイ、通信機の出力をぎりぎりまで絞《しぼ》ってちょうだい。基地に傍受《ぼうじゅ》されたくないから」
「わかりました」
用意ができると、マージは村人たちの符丁《ふちょう》を使って呼びかけた。
「アルフェッカ号より見張り台、最小出力で答えてください」
ややあって、応答が返ってくる。
『聞こえるかな、マージさん』
「その声はフランクさんね。こっそり戻ってきました。入港許可願えますか」
『西の波止場《はとば》を使ってください。ビーコンなしで進入できますか?』
「大丈夫《だいじょうぶ》。ありがとう」
コロニーが見えると、マージは出たときと同じように、慎重《しんちょう》に船を寄せていった。
波止場につくと、たちまち数人の牧童《ぼくどう》が出てきて、手際良《てぎわよ》く係船作業を始める。
ボーディング・チューブが結合すると、三人はエアロックを出た。
その先はもう、おなじみのゼロG空間だった。
一歩足を踏《ふ》み入れた――というか、漂《ただよ》った――途端《とたん》、ロイドは言った。
「ああ、この臭《にお》いだったな」
今の今まで、ここにこんな臭いがあったことなど忘れていた。
それは不快なものではなく、場所に結びついた、懐《なつ》かしい臭いだった。酒が記憶《きおく》を呼び覚ますのと、同じようなものかもしれない。
コロニー側のエアロックを抜《ぬ》けると、村長のハリーが待っていた。
「また会えるような気がしていましたよ、ロイドさん」
「何も聞かずに入れてもらえてうれしく思います、村長」
二人は握手《あくしゅ》した。
ハリーは言った。
「よもや、また故障ではありますまいな」
「息子《むすこ》さんの腕はピカ一ですよ」
「お話があるなら、私の部屋でやりましょう」
「お邪魔《じゃま》します。ああ……」
ロイドはマージとメイのほうに首をまわした。
「君ら二人は、食堂にでも行っててくれるか」
「そうするわ」と、マージ。
村長の部屋に入ると、ロイドは計画を話した。
「……おせっかいだと思われるのなら、我々は何もやりません。しかし、あなたがたはけんめいに村を守ろうとしておられた。どうですかな?」
ハリーは、少し興奮《こうふん》している様子だった。
「これは、やりたくてもできないことでした。フェイダーリンクの大気|圏《けん》は、二・五Gの世界で、私たちにはとうてい近寄れません。あなたたちがそうしてくださるのなら、村は救われます。危険な賭《か》けですが、聞いてしまった以上、やらずにはいられません」
ロイドはうなずいた。
「しかしロイドさん。いきなり、こんなことは言いにくいのですが――」
「なんなりと」
「さっきあなたは、一宿一飯《いっしゅくいっぱん》の恩に報《むく》いたいと言われた」
ハリーは探るような目になった。
「それだけですか」
ロイドはにんまりと笑った。
この男は、単純な正直者ではない。ならこっちも、はりあいがあるというものだ。
「誓《ちか》って言いますが、今はそれだけです」
「今は、といいますと」
「白状しましょう――」
ロイドは、ここに至る経緯《けいい》を、かいつまんで話した。ただし、レーネ村立ち退《の》き問題をだしにひと儲《もう》けしようと思ったことは、省略しなかった。
話を聞くと、ハリーはうなずいた。
「そうでしたか……」
「このことは、メイは知りません。しかしあなたなら、理解していただける、と期待するのですが」
「ええ。なら、お返しにこちらも白状しますか」
ハリーは笑顔を浮《う》かべて、話し始めた。
「あなたがたの救助に向かう前、どこの与太者《よたもの》かと疑ったものです。あるいは機動隊の船なら、助ける筋合いもないとね。救助にかかった燃料代ぐらいはせしめられるか、と思っていましたが、あてにはしませんでした。――結局、単純なことなんです。遭難《そうなん》した船があるなら助けてやろう、リングのことを一番知ってるのは俺たちなんだからな、とね」
「人助けに理屈《りくつ》はいらない、ですかな」
「ええ。しかし――」
ハリーは筋ばった、大きな手を差し延べた。
「あなたがたを助けて、よかったと思ってますよ」
ロイドはその手を、握《にぎ》り返した。
その夜、村長は公共ホールにミリガン運送の三人と、村人全員を集めた。
ハリーは言った。
「みんな聞いてくれ。いい話だ。うまくいけば、オデットに終止符《しゅうしふ》を打てるかもしれん」
簡潔《かんけつ》な言いかただった。この村では、言葉を飾る必要などない。
村人たちは口をつぐんで、続く言葉を待った。
「この星区には、生態保護法という法律がある。もし親父《おやじ》のどこかに生き物がいれば、太陽化計画はとりやめになるんだ。このロイドさんたちの調査で、実際にその可能性がないわけではない、とわかった」
ホールにどよめきがひろがる。
「二十一年前、オデットの調査船が親父の底で沈《しず》んだのを憶《おぼ》えている者もいると思う。あの時、パイロットは『まるで鯨《くじら》か何かに』と言い残していたんだ。我々はその可能性を追究したいと思う。それも、もっとも確実なやり方でだ」
じらさないでくれよ、という声に、ハリーは手を振《ふ》って応じた。
「何をするかを言おう。でっかい鯨のハリボテを作るんだ。中にあの、アルフェッカ号のシャトルが入れるような奴《やつ》をな。もうじきオデットは再調査を始める。それに間に合わせたい。――なあに、やれるさ。あの凧《たこ》をさばく知恵《ちえ》があれば、きっとうまいハリボテが作れるはずだ。明日からとりかかってもらいたい。――フランク」
「はい」
「設計のリーダーになってくれ」
「わかりました。何人か手伝いがほしいんですが」
「デビッドにやらせよう。もちろん、組み立てのときになったら、総出でやる」
ハリーは客の方に向かって言った。
「そちらからも手伝っていただけますね? ロイドさん」
「もちろんです。マージとメイが手伝います」
それから、あの情報をマスコミに流す算段《さんだん》をする。
ロイドは言った。
「これは簡単だ。連中、わしらのことをグリーンソルジャーのテロリストだと思ってるんだ。そう信じさせてやった方がいい。あのファイルはグリーンソルジャーのシューエル支部に送りつけるんだ。あとは連中がよろしくやってくれるさ」
見張り台に行き、ロイドはその文面を口述した。
[#ここから1字下げ]
我々はオデット計画という、エネルギー開発の名のもとに行なわれる破壊《はかい》行為を憂慮《ゆうりょ》するものである。このたび、当基地より、惑星大気圏における生命の存在をにおわせる極秘資料を入手した。以下はその全文である。……
[#ここで字下げ終わり]
そして生態調査報告とケルヴィン号事故報告のファイルを手紙に連結する。差出人の名前は匿名《とくめい》とした。早ければ明日にも太陽系内のマスコミが騒《さわ》ぎ始め、オデット計画の責任者は苦しい答弁を迫《せま》られることになるだろう。
手紙の送信が終ると、ロイドは言った。
「さあ、もう後戻《あともど》りできないぞ。目を開き、耳を澄《す》ませて敵の動きを見守ろうじゃないか」
ACT・3 レーネ村
工作室では、ハリボテ鯨《くじら》の設計が始まっていた。フランクはまだ二十代後半の青年だったが、宇宙工学のことはよく心得《こころえ》ているらしい。
壁際《かべぎわ》の大きな黒板――というべきか――に、フランクはスタイラスペンで概念図《がいねんず》を描いた。大きな紡錘形《ぼうすいけい》の物体があり、内側に飛行機のようなものが入っていた。
「問題はどうやって飛ぶかだ。大気圏に入ると軌道《きどう》飛行ができないから、二・五Gの重力に勝たなきゃならない。かといって、核融合《かくゆうごう》エンジンを使うのはおよそ生物らしくない。赤外線ですぐにばれるだろう」
「気球生物を真似《まね》るのがいいと思うけど? 水素ガスをつめた気嚢《きのう》を作って」
マージが言った。
「そう。たぶんそれしかない。だけど親父《おやじ》の大気も大部分は水素だから、あまり浮力がつかない。やるとすると、内部のガスを不自然でない程度に熱してやるんだろうな」
「爆発《ばくはつ》しない?」
「酸素がないから大丈夫《だいじょうぶ》さ。それにしてもシャトルを腹に入れて飛ぶとなると、少なくとも全長二百メートルぐらいにはなるだろうな」
ハリボテの内部にはアルフェッカ・シャトルが入るという前提だった。村にはそれ以外に手頃《てごろ》な宇宙船がなかった。このシャトルは最大一・五気圧しか耐《た》えられないが、ケルヴィン号が遭難《そうなん》した地点はおよそ一気圧なので、なんとか到達《とうたつ》できる。
それにしても、その気嚢はどうやって膨《ふく》らませるのだろう? 軌道上で膨らませてから大気圏に入ることはできそうにない。かといって、大気中で展開できるだろうか。
マージは中に人が入った、大きな風船を想像した。その風船は中の人物が膨らませたのだが、はたしてそんなことは可能だろうか? 数々の工学的難関はともかく、トポロジー的にはどうなのだろう?
そのことを指摘すると、フランクは言った。
「まず、でかいパラシュートを考えてくれ。普通《ふつう》のパラソル型じゃなくて、もっと口がせまくて細長い、ストッキングみたいなやつをさ」
「うん」
「それをシャトルの後ろで開く。吹《ふ》き流しを曳航《えいこう》している格好になるな。それから、シャトルとパラシュートを結ぶケーブルを巻き上げるんだ。もし巻き上げ機がシャトルの鼻先にあったとしたらどうなる?」
マージは言われた通りに想像した。滑空《かっくう》するシャトルの後ろでパラシュートが開く。それは機首についた巻き上げ機で引き寄せられ、ついにはシャトルをすっぽり包み込む。
「……あ、はは」
マージは思わず吹き出した。
「オーケイ、わかった。その手品《てじな》は間違《まちが》っちゃいないわ、理論的にはね。でもどこにも引っかからずに、うまくいくかしら?」
「超《ちょう》音速飛行の最中にパラシュートを開く技術なら、大昔に確立されてるよ」
「それだけじゃないわ。シャトルの外形、不規則な烈風《れっぷう》、ケーブルの震動《しんどう》、温度変化――いろんな要素をすべてクリアできる?」
「できるさ」
そう言ったのは、デビッドだった。
今回、初めての発言だった。
「俺《おれ》たちは、ガキの頃から凧《たこ》を扱《あつか》ってきたんだ。このハリボテだって要領《ようりょう》は同じだよ」
「でもそれは真空の、軌道上でのことでしょう? 環境《かんきょう》が違いすぎるわ」
「あの――」
今度はメイが発言する。
「雪玉だって流れてるんだし、大きさもまちまちで、わりと不規則に動くんです。それにリングには波も立ちます」
舌たらずな表現だが、レーネ村の凧にも流体力学が生かされていると言いたいらしい。
「その通りさ」
フランクが言った。
「もちろん、慎重《しんちょう》に計算はする。だけど直観的にも、空で何が起きるか、およその見当はつくつもりなんだ。それでも心配かな」
わかった、もうよそう。
この議論は要するに、村人の腕《うで》を信じるかどうかということだ。できあがりを見て、判断すればいい。
マージは必要なスペックを述べることにした。
「気を悪くしないでほしいんだけど、船長としては慎重にならざるを得ないのよ。それで、最悪の場合、なにもかも爆破ボルトで切断できるようにしてほしいんだけど」
「できるよ。どのみち村へ帰るときは、ハリボテを捨てるしかないだろ」
「そうだったわね。あと、ケーブルや気嚢《きのう》は、予想外の荷重《かじゅう》がかかったら自然に破れるようにしてほしいわ。爆破ボルトだって、場合によっては使えないことがあるから」
マージがそのことを身をもって知ったのは、それほど昔のことではなかった。
「わかってる。船長が納得《なっとく》できるものを、必ず作って見せるよ。――おっと、忘れてた」
フランクはマージに聞いた。
「あのシャトルは大気圏内で、ペイロードベイ・ドアを開いたまま飛べるかな?」
「そんな――」
そんなバカな、と言いかけるのをぐっとこらえて、マージは考えた。自分はやらないことにしているが、高熱に包まれていない限り、我がモリソン級シャトルはそれができるとされている。操縦性と空力安定を犠牲《ぎせい》にするなら、翼端《よくたん》をたたんだまま飛ぶことさえできてしまうのだ。
マージは腹を決めて言った。
「そんなことは……できるわよ」
「よし。それを聞いて安心した」
こっちは不安だわ、とマージは思ったが、何も言わなかった。
ハリボテ鯨《くじら》を作る場所はコロニーの前方に張り出した、二本の主骨格に挟《はさ》まれた空間だった。もちろん、むきだしの宇宙空間である。スケールはまるで違うが、オデット計画の軌道《きどう》工場に似ていなくもない。村人たちはここを、単に『広場』と呼んでいた。
あれから、マージはフランクとともに設計を詰《つ》めることになったので、ここにはメイとデビッドだけが来ている。
「凧《たこ》をつくろったりするとき、ここでやるんだ。メイは命綱《いのちづな》を使った方がいい」
デビッドは、少し固い口調《くちょう》で説明した。
「うん」
メイは命綱のカラビナを近くのパイプに通した。
「デビッドはつけないの?」
「そんなもの使ったら、みんなに笑われるよ」
「でも、雪玉もないのに」
「宙ぶらりんになったら、ロープを投げるさ。それだって、かっこいいことじゃないけどな」
「へえ」
デビッドに得意気な調子が戻《もど》ってきたので、メイは少し安心した。あのときのことをなぐさめたり、同情を示したりしたら、かえって相手を傷つけそうな気がしていた。ゼロGの世界にいる限り、デビッドは元気で、メイよりも優位に立っていられるのだろう。
でも、以前ほどじゃない、とメイは思った。
デビッドの話し方や表情には、かつてリングで二人きりになったときに較《くら》べて、どこか陰《かげ》りがあるように思えた。
デビッドは数メートル離れた倉庫に飛び移って、紡錘形《ぼうすいけい》に固く巻かれた、絨毯《じゅうたん》のようなものを引き出した。
「もしかして、それが凧?」
「そうさ。たたむとこんなに小さくなるんだ。凧の布って、厚さ八十ミクロンなんだぜ。そっちを結んでくれ」
凧の端《はし》にある紐《ひも》を骨格に結《ゆ》わえると、デビッドはそばにあったホースを凧の口金にはめ込み、根元のバルブをひねった。
次に起きたことは、超大型の巻《ま》き笛《ぶえ》現象といってよかった。内部にガスが送り込まれると、固く巻かれていた凧はくるくる回りながら前方に伸びてゆき、たちまち長さ百メートルの円錐《えんすい》になった。凧の口は、リングの「畑」の中では大きく開いて使われるが、今はガスを逃《に》がさないよう、ファスナーで閉じられている。
「……すごーい」
「これをもうひとつ使って、向かい合わせにつなぐんだ。そうすればハリボテの一丁《いっちょう》あがりさ」
「そんなに簡単に?」
「でもないな。生き物みたいに見せなきゃいけないし、浮力《ふりょく》がついたとき、うまいことシャトルを支える仕組みがいるだろ。鳥って生き物、知ってるか?」
「うん」
メイの故郷《こきょう》の惑星《わくせい》には、本物の鳥がいた。
「あんな翼《つばさ》もいるだろうな。でないと好きな方向に動けないだろ」
「そう……かな。デビッド、鯨って知ってる?」
「魚みたいなやつだろ。メイは?」
「知らないの」
「実は俺もよく知らないんだ」
「…………」
メイはロイドが言っていたことを思い出した。
「ロイドさん、嘘には嘘の真実味がなくちゃだめだ、って言ってたけど」
「そっかあ……」
一度調べた方がいいかな、と二人は思い始めた。
ACT・4 見張り台
ハリボテの制作が進むなか、ロイドはオデット計画本部が再調査を行なうというニュースを聞くと、基地|潜入《せんにゅう》の計略を練《ね》り始めた。
そのニュースから、調査に使われる船がアルテミナ星のトリチェリ号であることがわかっている。前回のいきさつがあるので、トリチェリ号は大気|圏《けん》にいる間、ずっと映像そのほかの探査データを、絶え間なく母船に送信することになっていた。それはさらに母船を中継《ちゅうけい》して第三惑星にも送信され、一般《いっぱん》の民放にも生《なま》中継される。これならSDPがデータを握《にぎ》りつぶす心配はない。さらに念を入れて、船には環境省《かんきょうしょう》の査察官も同乗する。
オデット基地への進入|軌道《きどう》や、普段《ふだん》の発着スケジュールも先週の潜入でわかっている。十中八九、トリチェリ号はトレーディング級で運ばれてくる。当然、パイロットも一緒に来るだろう。
どんなやつかはわからない。
多くのパイロットがそうであるように、罪《つみ》のない奴《やつ》にちがいない。
俺はそいつを、どこかの物陰《ものかげ》で殴《なぐ》って気絶させ、代わりにコクピットに座るのだ。
「……なあに。奴にとっちゃこれも、ちょっとした人生のスパイスさ」
ロイドはひとりごちた。
「何がスパイスですって?」
ハリーが聞く。二人は見張り台で、広域レーダーをにらんでいたのだった。
「いや、ちょっとね。それより、どうしたもんですかな」
遠からず、トレーディング級がこの太陽系に現れるだろう。どの時点でパイロットとすりかわるか。メイには算段《さんだん》があると言ったが、まだ何も考えてなかった。
「今度はマージがハリボテで待機するから、雇《やと》われるふりをして基地にもぐりこむわけにはいかんのです」
「となると、トレーディング級から基地に荷を下すときじゃありませんか。あれはかなりの修羅場《しゅらば》でしょう」
トレーディング級というのは、三百万トンのペイロードをもつ大型貨物船である。その荷物の積み下しは、確かに修羅場だった。
「私らが基地で働いている間も一度来ましたが、シャトルやら積荷やらがまわりじゅうに浮かんで、ありんこの群れになりますな。しかしどうやって接近するか――アルフェッカ号で近付くのは目立つしなあ」
「私らがやっている方法はどうです」
「というと――」
「タグボートで接近するんです。水素タンクをしょってれば別ですが、本体だけをレーダーで見ると、よほど熟練《じゅくれん》した使い手でない限り、宇宙服と見分けがつきません。普通《ふつう》のレーダーなら、ノイズとみなして自動的にふるい落すでしょうしね」
「いやしかし、衛星までは近い時でも七十万キロありますよ。タグボートの加速力だと、ざっと十時間はかかるでしょう」
「十時間ぐらい平気でしょう」
ハリーはこともなげに言った。
「私らはよくそうします。そりゃ、ちょっとは腹も減《へ》りますが――あなたの服は採尿装置《さいにょうそうち》がついてませんか?」
「いや、それはありますが――」
宇宙服を着たまま十時間以上過ごしたのは、傭兵《ようへい》時代に一度、小惑星の陰《かげ》でまちぶせをしたときだけだった。作戦が終ったとき、こんな任務は二度とごめんだ、と思ったものだ。
ロイドがためらっていると、ハリーは言った。
「まあ、私が提案できるのはそれくらいです。ほかにいい手があるといいですがね」
ふむ……。
「その、タグボートは簡単に扱《あつか》えるんですかな」
「デビッドに操縦させますよ」
「彼はどうするんです?」
「あなたを降ろしたら、Uターンして帰ります」
「な――」
ロイドはあっけにとられた。その場合デビッドは、少なくとも二十時間宇宙服を着たままになる。
ハリーは手を振《ふ》って、驚くロイドをなだめた。
「なあに、あれは何度もそうしたことがあります。あとで腹一杯《はらいっぱい》食わせてやると言えば、喜んで引き受けますよ。――おっ、来たな」
広域レーダーのスクリーンの隅《すみ》、太陽系|外縁《がいえん》を示すあたりに、新たな光点が現れていた。
スクリーンはアナログ式の単色CRT――いわゆるブラウン管で、それが示すものは数値処理されない、生の電波を反映している。ハリーはスクリーンに顔を寄せ、じっとその光点を見すえた。
「この感じ、トレーディング級に間違《まちが》いありません」
ハリーはそう断定した。ロイドはそのとき、ここが見張り台と呼ばれるわけがわかった気がした。
「あと二日でこっちに来るでしょう。それまでに覚悟《かくご》を決めることですね、ロイドさん」
ACT・5 広場
メイとデビッドは、コロニーやアルフェッカ号――もちろん重力装置は切ってある――に備わっている辞典や電子情報をあさってみたが、鯨《くじら》に関する情報は見つけられなかった。
その代わり、いくつかの魚のデータを発見した。それは <食品> という項目《こうもく》を経由して得たもので、図解があったのはツナとサーディンだった。
「まあ別に鯨にこだわることもないだろ。魚を真似《まね》ればいいんじゃないか。このツナってのがよさそうだ。丸くて作りやすそうだしな」
「うん。じゃあ――」
メイはノートにラフ・スケッチを描いた。
「こうかな。尖《とが》ったひれがあって上半分が青くてしましまで、おなかが銀色なの」
「そうそう」
……巨大風船マグロが誕生《たんじょう》するのだろうか。
「でもデビッド、凧《たこ》に色ってつけられる?」
「お安い御用さ。こういうとき、真空ってのはいいんだぜ。下手《へた》すると服まで染《そ》まるけどな」
「へえ」
それから、ハリボテを大気圏内で推進する機構を考えなければならなかった。フランクは外形が決るのを待ってその設計に入るという。その推進機構は熱を放出せず、折《お》り畳《たた》んだときシャトルのペイロードベイに収《おさ》まらなければならなかった。
「魚が泳ぐところを、アルテミナで見たの。ひれはあんまり動いてなくて、体を曲げて泳ぐの」
「それぐらい知ってるよ。だけどハリボテをそんなふうに曲げられるかな……」
「わからない」
とにかく外見が決ったので、工作室のフランクのところへ持ち込む。
フランクはスケッチを見るとうなずいた。
「なるほど、紡錘形《ぼうすいけい》か。まあこれなら容積もあるし、生き物に見えなくもないな」
「動かせるか?」と、デビッド。
「後ろ三分の一を薄《うす》く作って、内側からケーブルであやつればなんとかなるだろう。凧《たこ》につかうウインチがあったろ」
「ああ」
「あれを四つ、広場に出しといてくれ。足りなきゃ畑《はたけ》から持ってきてもいい。それで張力《ちょうりょく》がどれだけあるか調べるんだ。それから口輪に使うパイプもありったけかき集めてほしい。南の物置にあるはずだ」
「わかった」
「今日から組み立てに入るからな。忙《いそが》しくなるぞ」
「ああ。でも俺、あさってはロイドさんを連れて出るんだ」
「そうか。こっちは総出でやるからなんとかなる。明日は早めに切り上げて、ゆっくり休んどくんだな」
それはマージを戦慄《せんりつ》させるに充分《じゅうぶん》なことだったが、ハリボテの組み立ては、ろくに設計図も引かないうちから始まった。フランクは手の空いている村人をホールに集めると、展開機構の概念図《がいねんず》と、メイの描いたラフ・スケッチを見せて「こういうものを作るんだ」と言っただけだった。
コロニーの下方にある、南の物置と呼ばれた場所は、ゴルフ練習場のようなネットに包まれていた。中にはクラッシュした宇宙船から冷蔵庫まで、ありとあらゆるガラクタが漂《ただよ》っている。小惑星帯の採掘《さいくつ》業者は、最近ではこうした資源ゴミの再生も請《う》け負《お》っており、村人たちは水素と引き換《か》えに、こうしたガラクタを購入《こうにゅう》することもあるらしい。なかにはオデット計画のロゴの入ったジャンクも見受けられた。
村人たちは――子供も年寄りも、男も女もいたが――物置に入ると、巧《たく》みに自分とガラクタの運動エネルギーを取り替えながら、使えそうな部品を探し出し、自分の体にくくりつけた。それからコロニーの外周をつたって広場に運び、手近な肋材《ろくざい》に結《ゆ》わえる。
「ここの入って、ほんとに機動ユニットを使いたがらないのねえ」
作業を手伝っていたマージは、さすがに感心して言った。
「それが心意気ってもんですよ」
エンジニアというよりは職人タイプのフランクは、広場に運ばれてくる部品を品定めしながら言った。
「噴射《ふんしゃ》を使わない限り、コロニー内の運動エネルギーはほとんど保存されますからね。どうでもいいようなことですが、それがエレガントってもんでしょう」
「そうか――」
村人たちはこの環境《かんきょう》のなかで、水や空気だけでなく、運動量さえも循環《じゅんかん》・再利用しているのだ、とマージは思った。暮《く》らしを築いていくなかで、これもひとつの知恵《ちえ》として根付いたのだろう。
「よし、そのリニア・アクチュエーターは使えそうだ。ヒンジの下に溶接《ようせつ》してくれ」
フランクが指示すると、それを持ってきた男は「おい、足を借りるぞ」と対向してくる別の男に言い、その足を掴《つか》んだ。二人の男は何もない空中でくるりと輪を描《ぇが》いて、互《たが》いの運動量を打ち消し、そのまま作業に最適なポジションを確保した。運動量を奪《うば》われたほうの男は、新《あら》たにやってきた者を停止させ、そこで受け取ったエネルギーを使ってめざす方向に泳いでいった。
マージはその光景に見とれた。まるでダンスを踊《おど》っているようだ。
これを見る限り、連合条約がすすめている重力環境の統一|政策《せいさく》に疑問をいだかずにはいられなかった。ゼロG環境にさまざまな生理学上の問題があるとしても、人間は必ずそこに適応し、独自の生き方を見つけてゆく。そうした異なる世界に生きる人々から、学ぶことはいくらでもあった。
見ると、メイが何かの部品を持って、こっちに漂《ただよ》ってくる。ヘルメットのスピーカーから、そのあわてた声が聞こえた。
「あの、すみません。そこの人、止めてください」
メイは対向する村人の伸ばした手につかまった。だが、その体は止まるだけでなく、逆方向に押《お》され始めた。
「はっはっは。お嬢《じょう》ちゃんは軽すぎるんだな。ほれ、そこの棒《ぼう》につかまんなよ」
村人はメイの体をコロニーの方に投げ、自分はカウボーイのようにロープを投げて軌道《きどう》修正した。村人がロープをひと振《ふ》りすると、肋材《ろくざい》に巻き付いたそれは魔法《まほう》のようにほどけて手元に戻《もど》った。すべてがこの調子だった。
「……私もやってみるかな」
マージはそう言って、機動ユニットを背中からはずし、そばの肋材にくくりつけたのだった。
ACT・6 西の波止場《はとば》
翌日の午後、ロイドはデビッドの操縦するタグボートで、村を出発することになった。
ロイドは出発の少し前、マージを呼びつけた。
「どうしたの?」
「いやな、ちょっと聞いておきたいんだが、知ってるか?」
「何」
「わしが乗る調査|艇《てい》さ。トリチェリ号――マブナセン級|耐圧《たいあつ》シャトルってやつだ」
マージは首をひねった。
「基本はモリソン級と同じだと思うけどね。でもきっと、相当改造してあるわよ」
「だろうな」
ロイドはため息をついた。
「自信ないの?」
「いやなに、古い型だから、君よりは知ってるつもりさ。ピッチ・トリムは前二中一後三だろう? マニュアルの」
「だと思うけど。私が商船大にいた頃は前二後二のセミオートだったわ。それよりセンサー類の扱《あつか》いが大変じゃない?」
「当たって砕《くだ》けろさ。それともうひとつ、頼《たの》みがある」
「なあに」
「変装《へんそう》を手伝ってくれ。警備員とやりあったときは、あまりしっかり変装しなかった。今度は別人にならないとな」
「そうね。どう化ける?」
「髭《ひげ》を剃《そ》ろうと思うんだ。それから髪《かみ》を黒く染《そ》める。これでだいぶ若返るだろう?」
「へえ?」
マージは目を丸くした。
「トレードマークがふたつ消えるわけか。思い切ったわねえ」
「今度のことは、君が言い出したんだぜ」
「じゃあ、あとでいいものあげるわ」
「ほう?」
二時間後、ロイドはデビッドの待つ、西の波止場《はとば》に行った。
デビッドは三秒ほどぽかんとした顔をしていたが、やがて言った。
「……もしかして、ロイドさん?」
「へィ、ベイビー、誰《だれ》だいロイドってのは」
「ロイドさんだろ?」
「違《ちが》うと言ったら?」
「そうに決ってるよ」
ロイドは笑顔になった。
「君がそう言うなら、まずまずの成功だな。さて、支度《したく》するか」
二人は宇宙服を着始めた。デビッドのそばには、予備の酸素と水酸化リチウムのカートリッジが束《たば》になって浮《う》いている。これでロイドは十二時間、デビッドは二十三時間呼吸できるはずだった。あまり余裕《よゆう》はない。
と、そこへ二人の女が現れた。
マージとメイだった。
「おやおや、見送りとはうれしいね」
「まあね。これから、本番までお別れだから」
マージはそう言うと、ロイドの頬《はお》にキスした。
ロイドは目を丸くした。
「こりゃいいや。ずっと変装したままでいるかな」
「関係ないわよ。さあ、入って入って」
マージは小声で言うと、ロイドをエアロックの奥《おく》に押しやった。その反動で自分も後退《こうたい》し、そのまま通路を引き返す。
あとには、メイとデビッドが残された。
メイは少しもじもじしていたが、やがて言った。
「あの、二十時間もぶっ続けで飛ぶって聞いて――」
「平気さ。けっこうタフなんだぜ、こう見えても」
「知ってる」
メイは言った。
「――でも、心配しちゃ駄目《だめ》?」
「あ……」
少年の顔は、みるみるうちに赤く染《そ》まった。
「あ、いや。ありがとな」
メイも赤くなりながら言った。
「あの、これはマージさんから教わったんだけど」
「ん?」
「男の人は、こうすると元気になるって」
メイはデビッドの両肩に手をかけて引き寄せ、その頬にそっと唇《くちびる》をあてた。
それから大急ぎで顔を離《はな》す。
「じゃあ――気をつけてね」
言うが早いか、メイは身をひるがえして、通路の奥に消えた。
デビッドは頬に手をあてた。
あとには、桜の花びらのような感触《かんしょく》が残っていた。
ACT・7 オデット基地
ロイドはデビッドの背中にしがみつき、漆黒《しっこく》の宇宙の中を、何もかもむきだしのタグボートにまたがって進んだ。
あたりは星の海で、動いて見えるものは何もなかった。
すぐ後ろには、エンジン・スカートの向こうに白銀の噴射《ふんしゃ》が丸く広がっているのが見えたが、それさえも何かが流れているようではない。
左手には、最初横一文字だったリングが、しだいに面積をおびて見え始めていた。その反対側、右手の奥には黄色いランツフートが半月状に見える。行ってみると黒褐色《こっかっしょく》なのに、ここから見ると黄色いのはなぜだろうな、とロイドは思った。その影《かげ》の部分も、よく見るとかすかな灰色《はいいろ》に浮き上がって見える。これはフェイダーリンクの照り返しだろう。
ランツフートのほかにも、いくつかの衛星が見える。ロイドは七個まで数えることができた。フェイダーリンクの衛星群のうち、最も外側のものは二千万キロも離れている。恒星《こうせい》と見分けがつかないか、あるいは暗すぎて見えないに違いない。
「ちなみにデビッド、このボートには航法装置はあるのかね」
「ないよ。ジャイロと時計があるきりさ」
「それで大丈夫《だいじょうぶ》か? 宇宙じゃ、そこに見えてても到達《とうたつ》できないってことがあるぞ」
「知ってるよ、それぐらい。だけどいまさら言っても遅《おそ》いだろ?」
出発して、すでに二時間近く経《た》っている。このような軌道変更《きどうへんこう》能力の小さい船では、どこに到着するかは出発時におおかた決まってしまうものだ。
「『星だて』って言ってな、こういう長い航海のとき、俺たちは星を目印《めじるし》にして飛ぶんだ」
「ほんとかね?」
デビッドは黙《だま》っていた。
「いくら君たちでも、目分量《めぶんりょう》で衛星間飛行は無理だろう。なんといったかな、N――」
「N体問題だろ。そうさ、白状すると出る前に見張り台で計算書をもらったんだ。だから安心しなって」
「そうか」
ややあって、ロイドは言った。
「ときに――」
「ああ?」
「さっきは、いいものもらったかね? メイから」
「……ああ」
顔は見えなかったが、赤面しているのがありありとわかる。
「好きかね?」
「ああ」
今言うと、到着するまで気まずい思いをするかな、と思ったが、ロイドは続けた。
「先のことは考えたかね? デビッド」
「先のこと?」
「そうさ。メイとの関係が、この先どうなるか――」
「考えちゃいないよ」
口を尖《とが》らせたような声が、すぐに返ってきた。
「そうか。なら、まあいいが」
会話はそこで途切《とぎ》れた。
ロイドは宇宙服のベルトに通したハーネスを確かめると、体の力を抜《ぬ》き、目を閉じた。
どこでも眠れることは、ロイドの特技のひとつだった。
デビッドに揺《ゆ》り起こされたとき、もうランツフートは視野の半分を占《し》めていた。
「……着いたか」
「これから減速して軌道傾斜《きどうけいしゃ》と昇交点《しょうこうてん》をあわせる。しっかりつかまっててくれ」
「わかった。トレーディング級はもう来てるのかね」
「さっきまで、ちらちら見えてたよ。散開星団みたいだった」
係船《けいせん》軌道は地表から百五十キロの高さにあり、貨物船はオデット基地の上に静止しているわけではない。
デビッドが操縦|桿《かん》をひねると、こつん、という感じで視野がくるりと回転した。さらに小刻《こきざ》みに数回姿勢を変えると、続いて後部のメインエンジンが噴射《ふんしゃ》された。
しばらくすると、視野の下方からランツフートの地平線がせりあがってきた。タグボートはいったん地表近くまで降下し、トレーディング級にそった軌道を進みながら、それに追い付こうとする。
衛星を半周したあたりで、前方にきらきらした光の群れが見えてきた。その中ほどに、抜《ぬ》きんでて明るい光点がある。
「あれか」
「ああ。準備はいいかい」
「いいぞ。影《かげ》に入ったらいつでも飛び込んでくれ」
デビッドは噴射を強めた。〇・五Gはあるだろうか。
「この加速、つらくないかね、デビッド」
「平気さ」
「無理するなよ。まだ半分残ってるんだからな」
「ああ」
デビッドは少し黙《だま》っていたが、やがて言った。
「決めたんだ、俺」
「ん?」
「俺、今までずっと、村でトレーニングするのさぼってたんだ」
「トレーニング?」
「ああ。ゼロGでいると、体が弱くなるだろ。そうならないように、いい子はまじめにトレーニングするんだ」
「君はいい子じゃなかったってわけか」
「まあな。だけど親父《おやじ》に聞いたら、若いうちにみっちりやれば、一Gで暮らすことだってできるっていうんだ」
「そうか」
「……まだ、村を出るなんてことは考えてないけどな」
「選択肢《せんたくし》は多い方がいいよな」
「だろ?」
ちゃんと先のことも考えてるじゃないか、とロイドは思った。
こいつなら、やれるだろう。
若い奴《やつ》は、その気になったらなんでもやってのけるもんだ。
そしていつか、メイと同じ世界で生きようとするだろう。その頃には、おそらく別の相手に出会っているだろうが――なんにせよ、選択肢は多いに越《こ》したことはない。
光の群れが、ふいに消滅《しょうめつ》した。
「衛星の影に入ったな。今だ」
「ああ」
タグボートはすばらしい勢いで上昇《じょうしょう》していった。消えていた光点は、やがて星空をさえぎる、巨大なシルエットとして再登場した。あちこちに航法灯《とう》が点滅《てんめつ》し、まわりに別のタグボートがいるのもわかる。
「中央のハッチに向けてくれ」
「あの光ってるとこか」
「そうだ。よし――君は酒を飲《の》むか」
ロイドはハーネスを解《と》きながら、早口で言った。
「飲むよ」
「村で会ったら乾杯《かんぱい》しよう。じゃあな!」
ロイドはシートを蹴って、タグボートを離《はな》れた。すぐに機動ユニットを噴射《ふんしゃ》して、さしわたし五十メートルある貨物船のハッチに向かう。
まわりの空間には、少なくとも三十人の作業員がいた。ロイドはその中に飛び込み、何食わぬ顔で船倉《せんそう》の一角にあるエアロックに入った。そこで宇宙服を脱《ぬ》ぎ、ブリッジに船内電話をかける。
「やぼ用で出遅《でおく》れたんだが、人員の降下はもう終ったかね」
『まだだ。A20ゲートで待機してろ』
「わかった」
そばの案内図でゲートの位置を確かめる。二百メートルほどの距離《きょり》だった。
行ってみると、四、五十人の乗客が待合室にたむろしていた。そばにはスナックがあるのを見ると、ロイドは誘惑《ゆうわく》に勝てず、ビールとサンドイッチを注文した。
人心地《ひとごこち》がついたところで、乗客の顔を眺《なが》める。
この中に、トリチェリ号のパイロットがいるだろうか? 今はわからない。
襲《おそ》うのは、基地に降りてからだろう。
ほどなくして、シャトルへの搭乗《とうじょう》が始まる。予想はしていたが、身分証明証やチケットのたぐいのチェックはないとわかって、ロイドはほっとした。いちおう偽造品《ぎぞうひん》を用意してはあるが、この時代、完全にだませるものを作るのは容易《ようい》ではなかった。
シートにつくと、隣《となり》はすばらしい美人だった。髪《かみ》はブロンド、瞳《ひとみ》はブルー。加えて非のうちどころのない、小麦色《こむぎいろ》の肌《はだ》をしている。
これは、声をかけない方が不自然だな、とロイドは判断した。
「驚いたな。一週間も同じ船にいて、こんな美人に気づかなかったなんて」
「こちらも気づきませんでしたわ」
「ロイ……ロイ・ギブソンといいます。お見知りおきを」
「クリスティー・サウストンです。クリスで結構よ」
笑顔がまた、チャーミングだった。
ロイドはすっかりいい気分になってきた。美人は彼のビタミンである。
「ちなみに、ここへはどういうお仕事で? ご一緒できるといいですが」
「それは無理かしらね」
クリスは眉《まゆ》をひそめてみせた。
「私、耐圧《たいあつ》シャトルのパイロットをしてますの」
「た……」
「耐圧シャトル。トリチェリ号っていう船でね。急にフェイダーリンクの大気|圏《けん》を調査することになったんです。御存知《ごぞんじ》ありませんでした?」
ACT・8 地下街
ロイドは悩んでいた。
美人で腕《うで》のたつパイロットなど、宇宙中探してもマージぐらいだろうと思っていたが、まさか、これから物陰《ものかげ》に連れ込んで殴《なぐ》って気絶させる相手がそうだとは。もちろん、腕がたつと決《きま》ったわけではないが、ああいう特殊船《とくしゅせん》のパイロットが凡庸《ぼんよう》とは思えない。
この五十年間、俺はさまざまな場所で、さまざまな悪さをしてきたが――
ロイドは思った。
――女に暴力を振《ふ》るうことだけはしなかったぞ。
その信条を守るなら、ここは話し合いでいくしかない。どう説得したものか、見当もつかないが、とにかく今夜、基地地下のバーで会う約束《やくそく》をとりつけはした。
時間より少し前からロイドは店に入り、ボックス席を占領《せんりょう》した。親密な話をするときはカウンターの方がいいが、今回の話題は、バーテンに聞かれるとまずい。
スコッチのオン・ザ・ロックを注文し、待つことしばし。
入口にクリスが現れた。ロイドを見つけると如才《じょさい》のない笑顔をつくり、席についた。
「やあ。ほんとに来てくれたんだね」
「友達づきあいは大切にしなきゃね」
そう答えて、ロイドと同じものを注文する。宇宙の片隅《かたすみ》で酒落《しゃれ》たカクテルを求めるような真似《まね》はしなかった。ロイドはますますこの女が気に入った。
「しかし、君のようなきれいな人が、耐圧《たいあつ》シャトルを乗り回すとはなあ」
「変かしら?」
「いや、素直《すなお》に驚いてるんだよ。ガス惑星《わくせい》だと、Gが大変だろう?」
「三Gで六時間ぶっ続けってのがあったわ。さすがにくたくたになるけど――いつもガス惑星ってわけじゃないの。アルテミナで潜水艇《せんすいてい》に乗る方が多いくらい」
「潜水艇というと、海の?」
「もちろん。特性っていうか、気の遣《つか》い方は耐圧シャトルと似てるわ」
「そんなものかな」
ロイドはこの、小麦色の肌がどこで作られたかわかった気がした。潜水艇乗りは、実際には大半の時間を洋上で過ごすものだ。
「ところで今回の仕事なんだが――」
ロイド劇切り出した。
「フェイダーリンクの大気|圏《けん》に生物がいないことを確かめる、だね」
「そうよ。あの『鯨《くじら》か何か』の正体を探すわけ」
「もし、その鯨か何かが出てきたら、どうするね」
「接近して、精密に調べるわ」
「危険じゃないか」
「それが仕事ですもの」
「じゃあ、どこまでも深追いすると」
「船の性能が許す限りね」
「SDPは嫌《いや》がるだろうな」
クリスの顔に、かすかな警戒《けいかい》の色が浮かんだ。
「何がおっしゃりたいの? あなた、SDPの回し者?」
「いや、大違《おおちが》いだ。まるきり違う」
「説明して。なぜ私に声をかけたの。なぜシャトルで隣《となり》に座ったの?」
「単なる偶然《ぐうせん》だった」
「なら、こちらも話すことはないわ」
クリスは腰を上げかけた。ロイドは急いで言った。
「待ってくれ。あれは本当に偶然だったんだ。だから困ってるんだ」
クリスは座り直すと、ロイドをまっすぐに見た。
「洗いざらい話してちょうだい。今度の調査ミッションとあなたはどういう関係があるの。私に何をしてもらいたいの」
ロイドは決意した。
「わかった。話そう」
ロイドは包み隠《かく》さず話した。
ハイドラーの村が立ち退《の》きを強要されていること、SDP社が生物存在の可能性をもみ消そうとしていること、
そのためにハリボテの鯨《くじら》を用意していること、自分がトリチェリ号のパイロットにすりかわろうとしていたこと――。
クリスは困惑《こんわく》した様子でしばらく考え、そして言った。
「つまり――今回の再調査の種を蒔《ま》いたのは、あなたたちってことね」
「そうだ。我々こそ、影の依頼主《いらいぬし》ってわけさ」
「だからって、おいそれと従うわけにはいかないわ」
「君の気持ちはどうなんだ。やろうとする気はあるか?」
クリスは眉《まゆ》をひそめ、少し考えた。
「要するに、ハリボテ鯨が出てきたら、深追いするなってことね」
「簡単なことだろ」
「いいえ」
クリスは断固とした口調で言った。
「ハリボテに振《ふ》り切られるなんて、なんて間抜《まぬ》けなパイロットだろうって思われるわ」
「慎重《しんちょう》さの証《あかし》にもなるさ」
「それだけじゃないわ。これは科学調査の意義を冒涜《ぼうとく》するものよ」
「本当に科学調査する気があるなら、何十回も調査すべきさ。この一回で生物が見つからなかったから、大手を振《ふ》ってオデット計画を進めようってのがSDPの腹だ。それでいいのか?」
ロイドはたたみかけた。
「やめて」
クリスは両手で耳を押《おさ》えるしぐさをした。
「ちょっと考えさせて」
「出発は明日だ。今、結論を出してくれ」
「もしあなたの申し出を断《ことわ》ったらどうなる? あなたは力ずくでも船を奪《うば》う?」
「それが嫌《いや》だから、こうして話してるんだ」
「…………」
たっぷり三分間、クリスは考え込んだ。そして顔をあげる。
「こうしましょう。トリチェリ号は、私が操縦する。そしてあなたも同乗するの。計測器を扱《あつか》う助手としてね」
「席はあるのか」
「狭《せま》いけど、センサーラックの前に補助席があるわ。そして私は私なりにベストをつくす。あなたはあなたなりにやればいい。ただし、お行儀《ぎょうぎ》の悪い真似《まね》は許さないわ。ボロが出そうだからって、センサーを壊《こわ》したりするようなことは――」
「わかってる。それで異存はないよ」
「じゃあ、明日九時、第二発着ゲートで会いましょう。環境省《かんきょうしょう》のお役人とブリーフィングする前に、少し操作《そうさ》を教えるわ」
「ありがとう――感謝するよ」
ACT・9 レーネ村
まだハリボテの最終チェックは終っていなかったが、マージとメイは乗組員なので、一足先に寝《ね》ることになった。マージは最後まで見届《みとど》けることを強く主張したが、聞き入れられなかった。実際、一G育ちの人間にとっても、二・五Gの荷重《かじゅう》を長時間受けることはかなりの負担《ふたん》になる。睡眠《すいみん》不足は特に禁物だった。
体を慣《な》らすため、今夜は重力装置を作動させたアルフェッカ号で寝ることにする。
メイがシャワールームから出てくると、先にシャワーを浴びたマージはラウンジで寝酒を飲《の》んでいるところだった。
「いよいよ明日ですね、マージさん」
「うん。うまく動くといいんだけどね」
「デビッドとロイドさん、無事《ぶじ》に着いたかな」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ、あの二人ならね」
「あの――」
「ん?」
メイは少しためらいがちに言った。
「前、デビッドがね」
「うんうん」
「ここには絶対何かいるって、言ってた」
「ここって、フェイダーリンク?」
色恋の話じゃないのか、と思いながら、マージは応じた。
「うん。別にはっきりした理由はないんだけど、そんな気がするって」
「メイはどう思うの」
「私も――なんとなく、そんな気がして」
「ふーん」
マージは欠伸《あくび》した。
「いたらいいよね。……そろそろ寝るか」
「はい」
メイは部屋に入ると、明りを消した。カーテンを開けると、三日月《みかづき》状に欠けたフェイダーリンクが見えた。メイはしばらくそれを眺《なが》めてから、ベッドに入った。
ACT・10 広場
翌日、軽い朝食をとると、マージとメイは宇宙服を着て広場に出た。
そこには、奇妙《きみょう》なガラクタを背負った、アルフェッカ・シャトルがあった。ペイロードベイのドアは四枚ともいっぱいに開かれており、後ろ半分には皺《しわ》だらけのネイビー・ブルーの円筒《えんとう》が鎮座《ちんざ》している。前半分は複雑な、クレーンのような骨組みが折《お》り畳《たた》まれて収納《しゅうのう》されていた。
そしてシャトルのまわりには、百五十の、色とりどりの宇宙服を着た村人が浮《う》かんでいた。二時間後に帰還《きかん》するはずのデビッドを除けば、村人総出と言ってよかった。一晩中、仕上げ作業をしていたらしく、誰もが赤い目をしている。
「どうだい二人とも。レーネ村特製、巨大風船鯨のできばえは」
フランクが徹夜明《てつやあ》けのハイな声で言った。
「わからないわ。たたんであるもの」と、マージ。
「お楽しみはこれからさ。トリチェリ号からの送信はこっちも見張り台で傍受《ぼうじゅ》する。期待してるよ」
「あのねえ……」
最終兵器は常にテストをせずに使うもの、というB級ビデオ映画の法則がマージの脳裏をよぎる。とはいえ、今となっては何を試《ため》す時間もなかった。少なくとも、昨夜寝るまでの経過を見る限りでは、まずまずの仕上がりになっていた。――信じよう。
マージは改まった調子で言った。
「船長として宣言します。これより、この奇妙《きみょう》なハリボテをもって、フェイダーリンク大気|圏《けん》に進水することを!」
途端《とたん》に、おーっ!! という声がヘルメットに響《ひび》いた。
誰もが拍手《はくしゅ》の代わりに手足を振《ふ》り回すので、シャトルは突如《とつじょ》として、蝶《ちょう》の大群に包まれたようだった。
その中を、マージとメイはシャトルのエアロックに向かった。
二人がコクピットに入ってルームライトをつけると、村人たちはシャトルを係留《けいりゅう》していたケーブルをほどきにかかった。
マージは左の船長席、メイはその右に座る。電源をたち上げ、二百十七項目のチェックリストを調べる。それからメイは、普段《ふだん》使っている航法席の指示情報を、自分の席のスクリーンに連動させた。
「いいわね、メイ」
「はい」
「ペイロードベイ・ドア閉鎖《へいさ》」
「閉鎖確認」
「メインエンジン始動シーケンス、スタート」
「炉心《ろしん》温度正常。巡航《じゅんこう》出力」
マージはインカムを外部に切り替《か》えて言った。
「発進体勢に入ります。退去《たいきょ》してください」
『了解《りょうかい》。おーいみんな、さがれー』と、フランクの声。
『見張り台よりアルフェッカ・シャトル。今オデット基地は親父《おやじ》の陰《かげ》だ。いつでも発進していい。成功を祈《いの》る』
「了解、村長」
『こちらフランク、退去完了。前後方クリア』
「了解、フランク。これより発進します。――微速《びそく》前進」
かすかな震動《しんどう》とともに、シャトルは二本の主骨格の間をゆっくりと動き始めた。
コロニーから数百メートル離《はな》れたところでバーニアを噴射《ふんしゃ》して、リングの北側に出る。メインエンジンをリングの回転方向に向けて噴射すると、シャトルはすみやかに、フェイダーリンクの巨大な重力|圏《けん》に向けて自由落下を始めた。
ACT・11 オデット基地
オデット基地・第二発着ゲートの待合室では、ロイドがクリスからセンサー類の操作《そうさ》のレッスンを受けたところだった。
「無人でやるぐらいだから、あなたがやることは特にないわね。しいて言うなら、ディスプレイを睨《にら》んで、特異な値が出たら私に報告することかな。表示の切り替《か》えはいつやってもいいから」
クリスはそうしめくくると、機上用のマニュアルを綴《と》じたバインダーを手渡した。
「わかった。せいぜい、らしくやることにするよ」
「もう一度言いますけど、私は全力で任務を遂行《すいこう》しますからね」
「わかってる。全太陽系に中継《ちゅうけい》されるんだ。君が腰抜《こしぬ》けよばわりされるような展開は、こっちも望んでないよ」
「そう願いたいわ」
グレーのスーツを端正《たんせい》に着込んだ、五十前後の男が近付いてくる。銀ぶち眼鏡《めがね》をかけた、実直そうな男だった。
「クリスティー・サウストン様ですね」
「そうです」
「わたくし、今回の調査|行《こう》におともいたします、環境省《かんきょうしょう》デニス・ミュラー査察官であります」
やけに大時代な話し方だった。
「こちらこそ。ええと、こちらは計測員のロイ・ギブソン」
「よろしく、査察官」と、ロイド。
査察官は、おや、という顔になった。
「搭乗員《とうじょういん》はわたくしどもを含《ふく》めて二人だと聞いておりましたが――」
「ええ。でも重要な調査ですから、念のため要員を追加したんです。もし不都合《ふつごう》がおありなら、ロイには降りてもらいますが」
「いえいえ、それにはおよびません。それでは予定を確認いたします。大気圏|突入《とつにゅう》が十三時二十六分、地点は北緯《ほくい》〇度、標準|東経《とうけい》〇度と……まあ、細かい話は移動中でよろしいでしょうかね?」
「ええ。じゃあ、行きましょう」
三人はゲートをくぐり、待たせてあった普通《ふつう》のシャトルに乗った。トリチェリ号とその母船は、ランツフートの係船軌道《けいせんきどう》に待機していた。
ACT・12 ハリボテ鯨《くじら》
最も内側のDリングにさしかかると、マージは二度のバーニア噴射《ふんしゃ》で、リングのすぐ内側の赤道軌道にアルフェッカ・シャトルを乗せた。
大気|圏《けん》までは、わずか三万キロ。フェイダーリンクは圧倒《あっとう》的な大きさで迫《せま》っており、視野のほぼ半分を占《し》めていた。これは直径十五メートルの球を三メートル離《はな》れて見るのと同じ眺《なが》めになる。象牙色《ぞうげいろ》から黄褐色《おうかっしょく》にかけての縞《しま》模様は村から見たときよりずっと多く見えた。目をこらすと縞の境目に、互《たが》いに回転方向を変えながら連なる、奇妙《きみょう》な渦巻《うすまき》の列が透《す》けて見えた。
「カルマン渦ね。あれが対流圏――つまり雲のある、大気圏の本体よ」
マージは説明した。
「じゃあ、すごく荒《あ》れてるんじゃないですか?」
「まあね。でも気球は風と一緒に流れるから、思うほどすさまじい揺《ゆ》れにはならないはずよ。あの渦だって地球型|惑星《わくせい》の低気圧の十倍も大きいから、実際に出会うのはまっすぐな流れに近いしね。少なくともケルヴィン号の報告を読む限り、そんな感じだったわ」
「そうか……」
メイは頭の中で、故郷《こきょう》の惑星ヴェイスを目の前の光景にあてはめてみた。
それは直径一メートルの球にすぎなかった。自分の育った、直径十キロのドーム都市はその縮尺だと一ミリにすぎず、カルマン渦のひとつと較《くら》べても、比較《ひかく》にならないほど小さかった。
そのとき、通信機のスピーカーから、唐突《とうとつ》に短いメッセージが洩《も》れた。
『〇一二七』
これは村の見張り台が送信した、トリチェリ号の到着《とうちゃく》予報だった。傍受《ぼうじゅ》されないように、必要最小限の言葉にとどめている。
「向こうはあと一時間半で大気圏|突入《とつにゅう》するそうよ。そろそろこっちも降りるわ」
「はい」
ハリボテを展開する前に鉢合《はちあわ》せをしてはたまらない。相手の降下位置を狙《ねら》って、先に降りて待つしかなかった。
マージはじわじわと、減速|噴射《ふんしゃ》を強めていった。普段《ふだん》なら短いインパルスでドーンとやるのだが、得体の知れない機械を積んでいる以上、震動《しんどう》は最小限にしたい。
軌道《きどう》速度を失ったシャトルは、みるみるうちに降下していった。
三十分ほどすると、どこからともなくザーッという音が響《ひび》き始めた。惑星を包む、途方《とほう》もない大気との、最初の接触《せっしょく》だった。
やがて窓外が、オレンジ色に染《そ》まり始める。数千度に熱せられた空気分子が、プラズマに相《そう》を移したのだった。
重力が急速によみがえる中で、二人は下から押し上げられるような錯覚《さっかく》をおぼえた。秒速四十五キロの軌道速度が二十分かけてマッハ三に落ちると、周囲の光景は水晶《すいしょう》のように澄《す》んだ大気と、乳白色の雲海《うんかい》に変わっていた。それは地球型惑星で見る雲と不思議なほどよく似ており、その成分がアンモニアであることなど想像もつかなかった。
マージは両翼《りょうよく》のエレボンについたピッチ・トリムを調整して、シャトルを時速七百キロで滑空《かっくう》させた。
乱気流による動揺《どうよう》は、ほとんどない。風船鯨《ふうせんくじら》に変身するときが迫《せま》っていた。
「さあて、いよいよね。メイ、後ろを見てて」
「はい」
メイは、よっこらしょ、と腰をあげてキャビン最後部に移動した。そこにはトラックのリヤ・ウインドウのような、貨物区画を一望する窓がある。
インカムから、その声が響《ひび》く。
『異常ないみたいです』
「了解《りょうかい》。これからドアを開くわ。ずっと見ててね」
『はい』
マージにとっては初めての、大気圏内飛行中のドア展開だった。
ベンチレーターを開いて内圧を逃《に》がすと、マージは覚悟《かくご》を決めて、ドアの開放スイッチを押《お》した。
『今開き始めました。四分の一………半分……全開。異常ありません』
「ドアは震動《しんどう》してない?」
『今|双眼鏡《そうがんきょう》で見ます――大丈夫《だいじょうぶ》です、震動はありません』
「オーケイ。じゃあ双眼鏡は置いて、衝撃《しょうげき》にそなえてちょうだい。これから気嚢《きのう》を放出するわ」
『わかりました』
マージはフランクがコクピットに据《す》えつけた、ハリボテ用のコントロール・ボックスに手を伸ばした。
「いくわよ。3、2、1、放出!」
ドン、という音が響いた。続いてメイの報告。
『どんどん伸《の》びていきます。くるくる回って――あ、ぴんと張った――膨《ふく》らんで――ばたばたしながら膨らんでます――ううっ』
最後の、ううっ、はマージにもよくわかった。開いた気嚢の空気|抵抗《ていこう》で、機体が急激《きゅうげき》に減速しているのだった。メイはおそらく、後部|隔壁《かくへき》で腕立《うでた》て伏《ふ》せの格好になっているのだろう。
マージは機体が失速しないよう、慎重《しんよう》に操縦|桿《かん》を引いた。現在の降下角度は三十度。数字で見るとたいしたことはないが、ほとんど真《ま》っ逆様《さかさま》に落下しているような感じだった。
「メイ、どうなった?」
『成功です。大きな魚が、あんぐり口を開いてこっち見てます。変なのー』
「双眼鏡で調べてちょうだい。ケーブルの張り具合と、気嚢の亀裂《きれつ》の有無《うむ》に注意して」
『わかりました』
「もうじき逆さ吊《つ》りになるわよ。ハーネスで体を支えてる?」
『やってます。ええと、ケーブルは八本とも元気です。気嚢は、おなかのあたりにしわが寄って、ばたばた動いてます』
「それはいいの。シャトルの乱気流で――フランクの予想通りだわ。やるもんねえ」
『ですね』
「じゃあ次、アームを前に出すわ。目の前の骨格だけど、あれから異常はある?」
『ありません』
「じゃ、始めるわ。アーム展開開始」
『動き始めました。どんどん伸《の》びてます』
それはすぐに、コクピットからの視界にも入った。アームの先端《せんたん》には滑車《かっしゃ》が並んでおり、八本のケーブルを引いて機首の前、数メートルの位置に来た。
異常はない。
「よさそうね。続いて気嚢《きのう》の牽引《けんいん》、開始」
巻き上げ機のスイッチを入れる。
『ウインチ、動き始めました。あ、どんどんお魚が近付いてきます。ヘー。すごーい』
「あのねえメイ」
『わー、どんどんやってくるやってくる〜〜』
「メイ、報告は客観的に」
『あ、すみません。えと、気嚢が近付いてきます。あと三十メートルくらい』
「口が翼端《よくたん》に触《ふ》れる恐《おそ》れはない?」
『ありません。このままいけます』
「後ろ側のケーブルも張ってる?」
『張ってます』
速度はすでに時速三百キロを切っていた。降下角はほとんど九十度で、パラシュートを引く飛行機というよりは、気球にぶらさがったゴンドラだった。そのゴンドラーアルフェッカ・シャトルは、巻き上げ機の力によって気嚢の中に引き上げられつつある。
まったく唐突《とうとつ》に、正面の視界が四方から白いものに塞《ふさ》がれた。
シャトルが風船鯨に飲《の》み込まれたのだった。
鯨の顎《あご》を形成する、ふたつの半円形の口金が上下からぴたりと組み合う。
「メイ、気嚢に亀裂はない?」
『ありません』
「じゃあ、水素を出すわ」
外気はマイナス百三十度という低温だが、水素の沸点《ふってん》よりははるかに高い。リモート・バルブのスイッチを入れると、貨物区画に置かれたタンクから、水素ガスが放出され始めた。周囲の大気はヘリウムそのほかの成分が混じっているので、純粋《じゅんすい》な水素で気嚢《きのう》をみたせば、かなりの浮力《ふりょく》になる。少なくとも、鯨――マグロかもしれなかったが――の形状を維持《いじ》できるぐらいの内圧にはなる。
それが終ると、別のケーブルを使ってシャトルを鯨の重心付近まで移動させる。
機体が後退《こうたい》するにつれて、正面の窓に、まるでサーカスの大テントのような気嚢内部が見えてきた。無数の細いケーブルが巧《たく》みに張りめぐらされ、外形を保っているのがわかる。マージはフランクや村人たちの技《わざ》に、敬服せずにはいられなかった。
シャトルが気嚢の中央に移動すると、直立していた風船鯨《ふうせんくじら》は水平姿勢に戻《もど》った。
「メイ、戻っていいわ」
『はい』
席に戻るなりメイは紅潮《こうちょう》した顔で、あーすごかった、と言った。
「どんなだった? こっちはろくに後部モニターを見るひまがなかったけど」
「えと、ほんとにでっかいお魚なんです。目は小さいけど、口が大きくて、ぐんぐんこっちにやってくるから、なんだかおかしくって」
「見たかったな。今どんな格好なんだろう?」
「中からじゃ見えませんよね。盲点でしたね」
「言えてる。トリチェリ号の送信が始まれば、向こうからの絵は見られるけどね」
そう言いながら、マージは鯨の外皮に仕込まれた、監視《かんし》カメラのスイッチを入れた。
スクリーンには一面の雲海が映ったが、それにしても自分たちの格好はわからなかった。
それから、シャトルの各部にあるバーニア噴射《ふんしゃ》を、互《たが》いに正対《せいたい》するペアにして弱く噴射させる。この高温の水素ガスが気嚢内にたまると、鯨は正真正銘《しょうしんしょうめい》の熱水素気球になるのだった。余分なガスは気嚢の下部にある弁から放出する仕組みになっている。
降下速度は秒速数メートルになり、高度は〇・一気圧地点にさしかかろうとしていた。アンモニアの雲の頂上と、ほぼ同じ高さである。トリチェリ号の降下地点、北緯〇度・東経〇度の地点まではわずか十キロで、まずまずの精度だった。こちらの移動速度が遅《おそ》いだけに、遠すぎて相手に発見してもらえないという愚《ぐ》だけは避けたかった。
「右手に雲の谷間があるわね。あそこから降りるわ」
うっかりメインエンジンを噴射しそうになるのをきわどいところで中止し、マージはコントロール・ボックスの前進スイッチを入れた。
鯨はゆっくりと尾《お》ひれを左右に振《ふ》り始めた。本物の鯨は上下に振るのだが、そんなことは設計者の知るところではなかった。
ACT・13 トリチェリ号
トリチェリ号は全長わずか十六メートルで、アルフェッカ・シャトルより二回りも小さい。ラグビーボールのような胴体《どうたい》とオージー翼《よく》――S字型の前縁《ぜんえん》を持つ三角翼を持ち、全体はオレンジ色の耐熱《たいねつ》・耐圧複合材料に包まれている。
トリチェリ号には単一のメインエンジン・ノズルはなく、代わりに胴体の前後と両翼端に分岐《ぶんき》した四つの可変噴射《かへんふんしゃ》ノズルを持っている。いわばVTOL機であって、自重《じじゅう》の四倍の重力下で浮揚《ふよう》でき、大気圏突入のさいも噴射を続ける。ほとんどのガス惑星《わくせい》は重力も大きく、大気圏突入時の速度は秒速四十キロメートルにも達するから、逆噴射を続けながらゆっくりと降下する方が安全だった。その代わり、翼と胴体の大半は推進剤《すいしんざい》タンクに占領《せんりょう》されている。
狭《せま》いコクピットでの配置は、前の船長席にクリス、後ろ右側にロイド、その左がミュラー査察官だった。息苦しいが、ここは辛抱《しんぼう》するしかない。
小さな窓からは、かつてケルヴィン号のパイロットが『カフェオレのような』と表現した空が見えていた。
「そろそろ千分の一気圧地点です。データ送信を始めます。私が外に向かって話しているときは、船内の音声もひろいますから、私語《しご》はひかえめに願います」
「了解《りょうかい》しました、船長」と、査察官。ロイドは黙《だま》って計器をにらんでいる。
クリスはアップリンク送信のスイッチを押《お》した。
「こちらトリチェリ号、データ送信を開始しました。現在の外気圧は〇・九四、位置は北緯《ほくい》〇度、西経《せいけい》〇度三十四分。経度ゼロ地点に向かって順調に降下中。搭乗員《とうじょういん》は船長クリスティー・サウストン、計測員ロイ・ギブソン、そして環境省《かんきょうしょう》のデニス・ミュラー査察官です」
「正面の渦《うず》の南側をまわったらどうかな、クリス」
ロイドは気象レーダーを見ながら言った。
「渦の直径がちょうど七百キロある。向こう側に出ると経度ゼロ地点になるだろう」
「そうするわ、ロイ」
とぐろをまいたアイスクリームのような、しかし途方《とほう》もない大きさの雪の渦を右手に見ながら、トリチェリ号は東に向かった。雲の頂上はまだ見えているが、下ははるかな奈落《ならく》の底に消えていた。
「あら、何かしら」
クリスは前方に伸《の》びる黒い筋を認めて言った。雲の表面を這《は》いながら、東西に一直線に伸《の》びていた。まるで天空にある、巨大な定規《じょうぎ》を使って引かれたようだった。
「わたくしどもも初めて見るのですが――」
ミュラー査察官が言った。
「リングの影《かげ》ではありませんか。あのように細いのは、今がちょうどこの星の春分《しゅんぶん》の日にあたるからだと思うのですが」
「そうか。真上からの光だと、あんなに細くなるのね」
クリスは無線で報告した。
「こちらトリチェリ号、リングの影を目視《もくし》確認しました。惑星が春分点にあるため、幅《はば》はわずか二キロメートルほどです。この天然の赤道線にそって進みます。降下率は秒速四十メートル」
ACT・14 ハリボテ鯨《くじら》
「ロイドったらなんで計測員なのよ?」
マージはトリチェリ号の送信を聞きながら言った。
「あちらの船長って、女の人なんですね。とってもきれいな声」と、メイ。
「なんとなく、嫌《いや》な予感がしてきたけど……でも一度は対面しないとね」
マージは船外カメラの映像を見ながら言った。
「それにしても春分の日だったとはね。こんな日にリングの真下にいるなんて、千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスだわ。あった、あれね!」
雲の壁《かべ》を少しまわりこむと、彼方《かなた》に、まったく場違《ばちが》いな印象を持つ黒い線が見えた。
「あれか、天然の赤道線って。あそこで待っていればトリチェリ号がやってくるってわけね。こりゃ便利だわ」
マージはほくそ笑んだ。
その横で、メイはデビッドの言葉を思い出していた。ここでは季節が一巡《いちじゅん》するのに十年と八か月かかる――。
「ケルヴィン号のときも、春分の頃《ころ》だったんですね」
「そうなの?」
「二十一年前だからフェイダーリンク年≠セとちょうど二年前になります」
「そうか。ガス惑星《わくせい》じゃなんでも十倍スケールだもんね」
そう言ってから、マージははたと思い当たった。
「春分か秋分《しゅうぶん》の日に赤道帯を探査《たんさく》するのって、ちゃんと理由があるのよ。太陽が真上から射し込むから、このへんもわりと明るいわ」
「あ、そうですね」
現在の高度はアンモニア雲の頂上から、五十キロも低い地点だった。ケルヴィン号の報告にもあった通り、下方には赤褐色《せっかっしょく》の大気が満ちている。
「気圧〇・八、外気温マイナス十二度か。そろそろ鯨《くじら》が出てもおかしくない場所ね」
マージはトリチェリ号が送信している画像に見入った。マイクロ波で送信しているにもかかわらず、画像のあちこちにメダカが泳いでいるようなノイズが入っている。
「雷《かみなり》のせいかな……」
その画像にも、雲に落ちたリングの影《かげ》が映っていた。どうやら同じ雲を、別方向から見ているようだった。ともに緯度《いど》はジャスト○にあり、経度《けいど》の差は一分と二十秒だった。
「向こうは三十キロ先にいるわ。さあて、一世一代《いっせいいちだい》の大芝居《おおしばい》、はじまりはじまり――」
ACT・15 トリチェリ号
「何、あれは!」
クリスは彼方《かなた》の雲のへりに浮《う》かぶ、小さな点を差して叫《さけ》んだ。ロイドからハリボテのことは聞いていたが、実際に見ると聞くとでは大違《おおちが》いだった。今日までに何度も経験してきた、未確認物体を追うときの緊張感《きんちょうかん》がよみがえる。
クリスはただちに報告を入れた。
「こちらトリチェリ号。前方に青白色の浮遊《ふゆう》物体を発見。距離《きょり》、約三十キロ。これから接近します」
「慎重《しんちょう》にやってくれよ、クリス」
「わかってる」
そう言いながら、クリスは可変《かへん》ノズルをまわして、前進速度をあげた。
「……紡錘形《ぽうすいけい》をしてる。なんとなく魚みたいですな。ほら、ひれまでついている」
ミュラー査察官が、目をこらしながら言った。
ロイドは苦《にが》い気持ちで、その感想を受け止めた。もう少し、異星生物らしく作れなかったものか……。
十キロまで接近すると、未確認物体はもう、満月の直径の二倍ほどに見えた。
「あれは、マグロにそっくりですよ。ほら、ツナの原料になる魚です」と、査察官。
「でも、なんとなくプロポーションが違いますね」
ロイドは反論を試みた。
「しかし色まで似ておりますね。アルテミナで養殖《ようしょく》されておるのにそっくりです。詳《くわ》しくはビンナガという品種ですけれども」
査察官は頑固《がんこ》にマグロ説を主張した。
「旋回《せんかい》し始めたわ」
クリスが言う。
巨大マグロはゆっくりと尾《お》ひれを振《ふ》りながら、遠ざかろうとしていた。
「こっちに気づいたんだ。あまり刺激《しげき》しない方がいい」
と、ロイド。
「まだ大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「俺《おれ》はケルヴィン号の二の舞《まい》になるのはごめんだよ、クリス」
「大丈夫だって。赤外線カメラの映像を確認してちょうだい」
「ああ、わかった。入感《にゅうかん》してる。周囲より数度高いようだ」
「ほほう、あのマグロは熱源を持ってるんですかな」
査察官は興味津々《きょうみしんしん》の面持《おももち》で言った。
「まあ、生き物ってのはそういうもんでしょう」
ロイドは言った。
「クリス、前方にタービュランスの兆候《ちょうこう》がある。減速した方がいい」
「わかったわ」
クリスはしぶしぶ速度をゆるめたが、トリチェリ号はなおも、ハリボテに接近してゆく。
これ以上近寄られたらアウトだ。
ロイドは必死で考えをめぐらせた。
ACT・16 ハリボテ鯨《くじら》
同じ頃、マージも焦《あせ》っていた。
「ちょっと、逃《に》げ切れないじゃないの。ロイドったら何やってるの!!」
「やっぱり女の人の船長に負けてるんでしょうか!?」
「きっとそうよ。まったく情けないったら――よおし」
マージは決断した。
「決めたわ。あの雲に突入《とつにゅう》する!」
「で、でも、乱気流があるんじゃ……」
「突入と同時にハリボテを放棄《ほうき》するわ。もうショーは終ったのよ」
「でも、うまく脱《ぬ》げるでしょうか。乱気流でからまったりしたら」
「こうなったらフランクたちの腕《うで》を信じるしかないわ」
マージはハリボテを、まっすぐ雲に向けた。
『こちらトリチェリ……浮遊……本船に背を向けて移動中。速度およそ五十……距離、二十四キロ。あと五分あま……接触《せっしょく》の予定』
トリチェリ号からの送信状態は一段と悪化していたが、こちらの動きは逐一《ちくいち》把握《はあく》しているらしい。
そのとき、メイが何か言いかけた。
「あの、マージさん、この雑音ってあのときも――」
「ちょっと待って」
マージは後ろ向きのカメラで、トリチェリ号を探した。尾《お》ひれの動きのせいで、カメラがぶれてよく見えないが――。
「あれか……え? メイ、トリチェリ号ってあんな色だっけ?」
「よく知りませんけど」
激《はげ》しく揺《ゆ》れる画面の下のへりに、何か大きな、黒いものが映っていた。
それは徐々《じょじょ》にせりあがっていき、ついには画面の半分を占《し》めるほどになった。
もしあれがトリチェリ号だとしたら、もう目の前にいることになる。
「ちょっと――なんなの、あれは!」
ACT・17 トリチェリ号
ハリボテは雲の中に逃《に》げ込もうとしていたが、あの速度ではとても間に合いそうになかった。
ロイドは決意した。
こうなったら、最後の手段だ。
立ち上がって、Gのせいでバランスを崩《くず》したふりをしてクリスの席に倒《たお》れかかるのだ。
とにかく針路を変えさせなければ。
ロイドはそっと、シートベルトを解《と》いた。
そのとき、センサーのひとつが警告音を鳴らした。
「ロイ、今のは何」クリスが聞く。
「ええと――」
ロイドは傍《かたわ》らのレーダー・スクリーンを見た。船を中心とした扇形《おうぎがた》の領域に、白い砂を散らしたような無数の光点が閃《ひらめ》いていた。それはすぐに消えたが、たちまち別の扇形が現れる。
「レーダーの了解度《りょうかいど》が低下してる。ノイズが入ってるみたいだ」
「変ね。惑星《わくせい》電波かしら」
「さあな……いや、待てよ」
ロイドはあることを思いついた。
――確かケルヴィン号の事故報告にも、似たような現象があったじゃないか。
「クリス、警戒《けいかい》した方がいいぞ」
「慎重論《しんちょうろん》はもうたくさんよ」
「いや、そうじゃなく――」
その途端《とたん》、衝撃《しょうげき》がトリチェリ号を襲《おそ》った。
もみくちゃにされる。まるでシェーカーの中だった。ロイドはシートからほうり出され、計測器のラックにしたたかに叩《たた》きつけられた。
クリスはその瞬間《しゅんかん》、乱気流かと思ったが、突如《とつじょ》として窓の外が暗闇《くらやみ》に包まれたことは理解できなかった。
「こちらトリチェリ号、異常事態に遭遇《そうぐう》! 乱気流のようなものに遭遇し、視界がブラックアウトしている!」
そのとき、無線機から、クリスにとってはまったく聞き慣《な》れない声が割り込んできた。
『トリチェリ号、噴射《ふんしゃ》を停止しなさい! ただちに噴射を停止しなさい!』
「マ、マージ……」ロイドがうめく。
「あなたは誰《だれ》? なぜ噴射を停《と》めるの!?」
『いいから停めなさい!』
「……クリス、言われた通りにしろ。その女の言うことは信じていい!」
ロイドが言う。
半信半疑のまま、クリスは噴射を止めた。
揺《ゆ》れはすぐにおさまり、コクピットは静寂《せいじゃく》に包まれた。
窓の外はあいかわらず暗黒のままで、まるで宇宙空間にいるようだった。
しかし二・五Gの重力は依然《いぜん》として存在している。少なくとも、自由落下しているわけではなさそうだ。
クリスはけんめいに状況《じょうきょう》を整理しようとしたが、うまくいかなかった。
「どういうこと? ロイ、いったい何が起きてるの!?」
ACT・18 ハリボテ鯨《くけレら》
その少し前――。
マージはいったん逃走《とうそう》を中止し、ハリボテを旋回《せんかい》させた。
別のカメラから揺《ゆ》れの少ない映像が入った途端《とたん》、メイは叫《さけ》んだ。
「鯨――鯨が来てる! マージさん、あれって鯨ですよね! やっぱりいたんだ!」
「そんな……でも……」
マージは目を疑った。
そして最初に思ったことは、いったい誰があんなものを作ったのか、ということだった。
そこには途方《とほう》もない、黒々とした物体が浮《う》かんでいた。そのすぐ前に小さなオレンジ色の物体があり、これがトリチェリ号だった。
較《くら》べると、物体は少なくとも直径六百メートルある。全体は紡錘形《ぼうすいけい》をしており、現在は正面が見えていた。上下左右に細長いひれが伸《の》びており、左右に揺れているのがわかる。
今、物体の頭部中央に、水平の亀裂《きれつ》が広がりつつあった。亀裂の奥《おく》は、外皮よりもさらに深い、まったくの暗黒だった。
その亀裂が意味するものは、物体が生物であるという前提で考えなければ、すぐには理解できないものだった。
「トリチェリ号を呑《の》もうとしてる!」
メイの声で、マージは我に返った。
警告しないと。
いや――そんなことをしたら、こちらの正体がばれてしまう。
「ばかね、なんで気づかないの!?」
レーダーが使えなくなっていることなど、知る由《よし》もない。
その途方もないあぎとは、今やトリチェリ号の後方、百メートルの位置に迫《せま》っていた。
もう限界だった。
マージの手が送信機のチャンネル・セレクターに伸びる。
「こちらアルフェッカ・シャトル、トリチェリ号――ああっ!」
遅《おそ》かった。
何をする間もなく、物体はトリチェリ号を呑み込み――そして、暴《あば》れ始めた。
外皮のあるところは突っ張り、別の場所はくぼみ、頭部全体がゼリーのように震《ふる》えている。その震動《しんどう》はみるみるうちに全身――少なくとも三千メートルはある――に伝わっていった。
「熱いのよ。噴射《ふんしゃ》でやけどしてるの! はやくやめさせないと、死んじゃう!」
メイが叫ぶ。
マージは交信規定を無視して命令した。
「トリチェリ号、噴射を停止しなさい! ただちに噴射を停止しなさい!」
応答はすぐに返ってきた。ノイズが耳障《みみぎわ》りだが、あの女船長の声とわかる。
『あなたは誰? なぜ噴射を停《と》めるの!?』
「いいから停めなさい!」
数秒後、物体の動きはおさまった。
「トリチェリ号、聞こえる? こちらはアルフェッカ・シャトル、マージ・ニコルズ船長。そちらの船から約五キロの地点にいます」
『……こちらトリチェリ号、クリスティー・サウストン船長。何が起きたのか、そちらの方がわかっているようね』
マージは答えた。
「私の目とカメラを信じるなら、あなたたちは何か巨大な物体に呑み込まれたらしい。直径はおよそ六百メートル、全長は少なくとも三千メートルあるように見える。物体の動きはゆるやかで、ほとんど気流に対して動いていない。本船とランデブーしたまま流されている」
『了解《りょうかい》……その物体も人工物かしら』
「信じてほしいんだけど、生物のように見えるわ。印象としては、鯨《くじら》に近い。全体は紡錘形《ぼうすいけい》をしていて、前から三分の一くらいのところが一番太い。そのあと四|箇所《かしょ》が芋虫《いもむし》の節目《ふしめ》みたいにくびれていて、その節目のおのおのから、上下左右にひれが伸《の》びているの。この表現でわかるかしら?」
『紡錘形をしていて……ひれは全部で十六枚あるのね?』
「その通り」
『ひれは動いてる?』
「今は風で揺《ゆ》れてるみたい。自律的な動きは感じられないわ」
それから、相手はロイドに代わった。
『マージ、脱出《だっしゅつ》のことを考えたいんだ。どうすればこの化物《ばけもの》鯨はわしらを放してくれるかな』
「嘔吐《おうと》させるのかしら」
「あの、それは無理だと思います」
そばからメイが言った。
『なぜだね、メイ』
「さっき、やけどしかけたのに、吐《は》き出そうとしなかったんです。まずいものを食べても、もどそうと思わないんです、きっと」
『いったい普段《ふだん》は何を食べてるんだ、こいつは。アンモニアか?』
『アミノ酸の化合物じゃありませんか。大気中に浮遊《ふゆう》しておるわけですから』
ミュラー査察官の声。
「ロイド、まわりの状況《じょうきょう》はどうなの? 何が見える?」
『待ってくれ、今クリスが航法|灯《とう》をつける』
ACT・19 トリチェリ号
左翼端《さよくたん》の赤、右翼端の青、それに胴体《どうたい》のフラッシュ・ライトを点灯すると、真っ暗な鯨の口腔《こうこう》は、まるで夜の繁華街《はんかがい》のように照らし出された。
三人は、二・五倍になった体重に逆らいつつ、腰をあげて外の様子を観察した。
それはオペラ劇場がすっぽり入るほどの空間だった。空間はおおむね横倒《よこだお》しになった円錐形《えんすいけい》をしており、壁面《へきめん》はどこも、あらゆる角度で交差する無数の線条で埋《う》めつくされている。線条と線条の隙間《すきま》には、茶褐色《ちゃかっしょく》の鱗《うろこ》のような薄板《うすいた》がびっしりと並んでいた。
「こりゃあ、まるで超《ちょう》巨大な音響《おんきょう》試験場だな」
「あるいはラジエターに紛《まぎ》れ込んだ蟻《あり》ってとこかしら、私たち」
クリスは言った。
「これでひとつわかったわ。この鯨にも髭《ひげ》があるってね」
「あの薄板かね。小海老《こえび》を食って、水だけ捨てるのにか?」
「しかし原理的にはそうかもしれませんですよ。もしこの鯨が大気中のアミノ酸を糧《かて》にしておるのなら、吸収のためのフィルターがあってもいいはずでして」
査察官が言った。
役人のくせに、この男なかなか詳《くわ》しいな、とロイドは思った。実直そうだから、きっと関連知識の勉強も怠《おこた》らないのだろう。
「いずれにしても、壁《かべ》はたいして丈夫《じょうぶ》そうじゃないな。ナイフで突破《とっぱ》できそうだ」
ロイドが言うと、査察官は眉《まゆ》をあげた。
「つまりなんですか、宇宙服を着て外へ出るとおっしゃる?」
「ええ。ちょっと体が重いですが、なんとかなりますよ。外皮を破ったところで、あの飛行船に回収してもらえばいい」
つい今しがた事情を聞いたばかりの査察官は、ため息をついた。
「……あなたがたの茶番が役に立った、というわけですな」
「ちょっと待って」
クリスが言った。
「船を捨てろというの? 半径三十光年に一|隻《せき》しかないこの船を」
「仕方ないだろう。船長はいつの日か、船と決別するものき」
「そんな――」
「エンジンを境《ふ》かして強引《ごういん》に脱出《だっしゅつ》しようとしてみろ、また暴《あば》れるだろう。ここは人命優先でいこうじやないか」
「…………」
クリスはしばらく逡巡《しゅんじゅん》していたが、やがてうなずき、アルフェッカ・シャトルに連絡《れんらく》した。
「こちらは船を捨てて、徒歩で脱出することを考えているわ。鯨《くじら》の外皮に出たところで、回収してもらえるかしら」
『……このハリボテを接舷《せつげん》させろと?』
「そうなるわ。無理なら別の手を考えるけど」
『今みたいに鯨が大人《おとな》しくしててくれれば、不可能じゃないと思うけど……」
「無理しなくていいのよ」
『できると思う。やってみるわ』
クリスは秘《ひそ》かに舌打ちした。
「了解《りょうかい》。こちらは五分後に船外に出る」
ACT・20 ハリボテ鯨
赤い下層大気の上、そしてはるか六万メートル上空までそびえ立つ雲の谷間を、巨大な鯨は、何を思う様子でもなく、ただ遊弋《ゆうよく》を続けていた。
これに較《くら》べるとハリボテ鯨は、馬の足元でじゃれる子猫のようだった。鯨があの巨大な口をひらけば、このハリボテでさえひと呑《の》みだろう。
マージはハリボテの針路《しんろ》を鯨の頭部に向けると、ゆっくりと前進させた。
「皮を破ったりしたら、痛がらないかな」
メイがつぶやく。
「大丈夫《だいじょうぶ》じゃないかな。あの大きさでしょ」
「そうですね……」
スピーカーが鳴った。
『こちらロイドだ。今船外に出た。聞こえるか?』
「よく聞こえるわ。歩けるの?」
『ちょっと腰を打ったが、大丈夫だ。これから口の先端《せんたん》のほうに向かって歩く。ざっと二百メートルの上り坂がある』
「がんばってちょうだい。こっちは鯨の頭部まであと二キロぐらい」
『わかった。今ミュラー査察……とクリス……出た……これから……』
「ノイズが大きくなったわ。ロイド、よく聞き取れない」
『……んだって……こっちも……聞こえ……』
急に雑音が激《はげ》しくなってきた。宇宙服の無線機だから出力は弱いが、それでも最初はきれいに聞こえていたのだ。
そのとき、メイが言った。
「鯨が動き出した!」
「こっちに気づいたのかしら」
鯨は、十六枚のひれを波のようにシンクロさせて動かしていた。その頭部が、ゆっくりと下がり始める。
「下へ――雲の底に行こうとしてる」
「まずいな」
マージは気嚢《きのう》に熱を供給していたバーニア噴射《ふんしゃ》を止めた。
「ロイド、聞こえる? ロイド、鯨が動き始めたわ。いったん船に引き返して!」
応答なし。強いノイズが聞こえるばかりだった。
鯨はどんどん潜《もぐ》ってゆく。
ハリボテもゆっくりと降下を始めていたが、とても追いつけそうにない。
「困ったな。このままじゃ見失うわ」
「ハリボテを捨てたら――」
「ランデブーできなくなるじゃない」
「そうか」
ハリボテの最高速度はせいぜい時速五十キロ。鯨は――あの巨体からは想像もつかないことだったが――ゆうに百キロは出していた。
ACT・21 口腔《こうこう》
二百メートルのスロープの登攀《とうはん》は、予想外に難航《なんこう》した。
二・五Gということは、自分と同じ人間を、あと一人半背負っていることになる。しかも足元には、カサカサしたキチン質の筋が無数に走っていて、歩きにくいことおびただしい。
数メートルおきに高さ一メートルほどの塀《へい》のような組織があり、これを越《こ》えるのにも大汗をかいた。足を持ち上げるだけでも苦痛で、鉛《なまり》の靴をはいているようだった。
「早く行かないと……マージが待ちくたびれて……行っちまうな」
ロイドは息を切らしながらこぼした。
「あの人、勇気があるわね」
クリスが言った。
「そうかね」
「それに、判断力もある。ずっと、相棒《あいぼう》なの?」
「六年……だな。いい奴《やつ》だよ、確かにな」
「いつも……こんな、ことしてるの?」
クリスも喘《あえ》ぎ始めていた。
「でも……ないがね。不思議と愛想《あいそう》はつかされ……なかった」
「ふうん……」
「ああ……とうとう、来たな」
三人は、口腔《こうこう》の最前部にたどりついた。
ロイドは腰からサバイバル・ナイフを抜《ぬ》くと、壁《かべ》を形作っているブラインドのような薄板《うすいた》を切り裂《さ》いた。体液のようなものは流れていない。鯨《くじら》が暴《あば》れ出す気配もなかった。
「よし、いけるぞ」
ロイドはさらに切り進んだ。
それは玉葱《たまねぎ》の皮のように、切っても切っても新しい板が現れてきた。薮《やぶ》を刈《か》っているようなものだった。だが、それもついに終り、一枚の硫酸紙《りゅうさんし》のような皮が見えてきた。
ナイフを入れると、それはすぐに切れ、どっと風が吹《ふ》き込んできた。
「やったぞ、外が見える!」
「ハリボテは?」
「ここからは見えんが……」
ロイドは穴《あな》を広げて、ヘルメットを突《つ》っ込んで外を見回した。
やはり、ハリボテはいなかった。
周囲はさっきより薄暗《うすぐら》くなっており、周囲の雲は、その底面が見えた。
「ちょっと高度が落ちたかな」
「わたくしもさっきから感じておるのですが――」
査察官が言った。
「宇宙服がやけに体にはりつくんです。耳も痛くなりますし――これは気圧が上がっている証拠《しょうこ》ではありませんか?」
「え……」
ロイドとクリスは顔を見合わせた。
このあたりの空では、五キロ降下するごとに一気圧|上昇《じょうしょう》する。そして温度は十度上がる。そして宇宙服は、真空には耐《た》えても、正の圧力は考慮《こうりょ》されていなかった。あと五十キロも降下すれば、水深百メートルに匹敵する圧力と、摂氏《せっし》百度の高温にさらされることになる。
ロイドは穴から吹き込む風に手をかざしてみた。
「生暖かいな……」
「船に戻《もど》りましょう。このままじゃ――ああっ!」
クリスの言葉は途中《とちゅう》から悲鳴に変わった。
二百メートル先で、航法灯をつけたままのトリチェリ号が、ゆらゆらと揺《ゆ》れていた。
その周囲の薄板《うすいた》が、まるでイソギンチャクの触手《しょくしゅ》のように蠕動《ぜんどう》し、船を一方に動かしているのだった。背後の壁は、いつのまにか大きく開き、船体を呑《の》み込もうとしていた。その向こうにあるのは、果てしない暗闇《くらやみ》だった。
「早く! 行かないと!」
「駄目だ、もう遅《おそ》い!」
ロイドは飛び出そうとするクリスの体を押《おさ》えた。
「放して! あれは私の船よ!」
「もう駄目だ、行っちまった。あきらめろ!」
トリチェリ号は、闇の向こうに姿を消した。
ACT・22 ハリボテ鯨《くじら》
鯨との距離はひろがり続け、ついには視界から消えた。
レーダーもろくに使えず、こうなると処置のしようがない。
「せめて無線が通じればなあ……」
マージがため息をついたとき、メイが言った。
「あの、さっき言おうとしたことなんですけど――」
「何?」
「さっき、鯨が動き始める前でしたよね、ノイズが強くなったの」
「うん」
「ケルヴィン号のときも、急にノイズが出始めたって」
「そう言えばそうね」
「あれ、鯨の声かもしれないって思うんです」
「このノイズが?」
マージは眉《まゆ》をひそめた。
「あの鯨が、電波でしゃべるっていうの?」
メイはうなずくと、航法席に移った。
恒星船《こうせいせん》のブリッジにあるのと同じ、大きな汎用《はんよう》通信機の電源を入れ、いくつかのキーを叩《たた》いて、スペクトル解析《かいせき》モードにした。周波数の下限を百キロヘルツ、上限を十ギガヘルツに設定し、スキャンを開始する。
スクリーンに、周波数を横軸《よこじく》に、電波強度を縦軸にとったグラフが現れた。そこにはふたつの小山が描《えが》かれていた。
「見てください。ふたつのピークがあります」
「ひとつは二十メガヘルツ帯ね。もうひとつは四十メガヘルツあたりか……」
「低い方はフェイダーリンク自身が出してる電波ですけど――」
メイはオデット基地の係船軌道《けいせんきどう》で留守番《るすばん》している間、何度もこの帯域《たいいき》を聞いていた。
「四十メガの方は、こんなに強く入るのは初めてです。これは、鯨がそばにいるからだと思います」
「だとしたら、その声はなんて言ってるの?」
「聞いてみないと――」
メイはヘッドホンをかけて、受信周波数を四十メガヘルツに合わせ、目を閉じた。
それは最初、まったく耳障《みみざわ》りなパチパチ音でしかなかった。海に棲《す》む鯨の声のような、哀愁《あいしゅう》をおびた、人の感傷をさそう響《ひび》きではない。
だが、同時に受信する範囲《はんい》を数メガヘルツの幅《はば》に拡大すると、そこにひとつのパターンが浮《う》かび上がってきた。それは砂浜《すなはま》を退《ひ》いてゆく波が立てるような、さわさわとした涼《すず》しげな響きだった。
メイはやがて、強い声と弱い声があることに気づいた。それは、強弱だけでなく、声の質もどことなく違《ちが》うようだった。
「もしかして、ほかの鯨の声……」
そうだ。これが鯨の声だとするなら、必ず相手がいるに違いない。弱い声は、遠くにいる、第二の鯨なのだ。
メイは弱い声の放射方向を調べた。それは北北東、方位角二十三度から響いていた。
「マージさん、鯨の今の針路は?」
「二十度前後だけど?」
「やっぱり。あの鯨、仲間に呼ばれてるんです。こっちへおいでって」
「本当?」
「そんな気がします」
「…………」
マージは、なんとなくメイの話が信じられるような気がしてきた。こういうとき、メイの勘《かん》はよく当たる。
その気になって考えてみると、答えは目の前にあった。
「――メイ、その声は再現できる?」
「え?」
「つまり、録音してこっちから送信できるかってこと。鯨を呼び戻せるかもしれないじゃないの!」
「あ……」
メイは大急ぎで通信機を操作し始めた。
まず、信号にフィルターをかけて、仲間の声だけをひろい出し、オーディオ信号として記録する。数十メガヘルツの幅を持つ、超《ちょう》ワイドFMで送信できる通信機などここには存在しなかったが、できる限りの幅を設定する。
「アンテナを、鯨の方向にロックしてもらえますか」
「オーケイ」
「じゃあ、あの、うまくいくかどうかわかりませんが――」
「実験あるのみ!」
「は、はい」
メイは再生ボタンを押した。
モニター・スピーカーから、その『声』が流れる。
さわさわさわさわ……
再生停止。
二人はじっと、耳を澄《す》ませた。
何も起こらない。
「もう一度送信して。出力最大で」
「はい」
再生ボタンを押すと、コクピットの照明が一瞬《いっしゅん》ちらつくほどの大電流が通信機に流れ込んだ。
一分経過。
「駄目《だめ》でしょうか」
「待つのよ」
二分経過。
何も起こらない。
「やっぱり――」
駄目かな、とマージが言いかけたとき、メイは急に人指し指を唇《くちびる》に当てた。
それは、退《ひ》いた波が再び浜を濡《ぬ》らすように、かすかに、そしてしだいにはっきりと、響《ひび》きはじめた。
さわさわさわさわ……
メイの顔がばっと輝《かがや》いた。
「返ってきた……あの鯨の声……マージさん、鯨がこたえてくれました!」
「これが――これが返事なの!?」
「ほんとです。これ、あの鯨の声です!」
マージは思わず、メイの体を抱《だ》き締《し》めた。
メイはそれからずっと、呼びかけを繰《く》り返した。
鯨の声は、しだいに強く、明瞭《めいりょう》になってくる。
二十分ほどすると、はるか彼方《かなた》の雲の谷間に、ぽつりと黒い点が現れた。
まぎれもない、あの鯨だった。
十六枚のひれを、舞台《ぶたい》に並んだ踊《おど》り子《こ》のように振《ふ》りながら、鯨は着実にこちらに向かっていた。
やがて、その鼻先に、ちかちかと瞬《またた》く光が見えた。
「発光信号だわ。……シ、ヌ、カ、ト、オ、モ、ツ、タ、ゼ……ああ、ロイドったら!」
マージは慎重《しんちょう》に高度と針路を合わせて、鯨の鼻先に接近した。
鯨に呑《の》まれる心配もあったが、電波で呼びかけをしている限り、鯨は大人《おとな》しくしているようだった。少なくとも、アミノ酸の塊《かたまり》だとは思ってないらしい。
シャトルのサーチライトを点灯して見守っていると、やがて気嚢《きのう》の下部の一点が内側にぺこりと押《お》し込まれた。
二頭の鯨が、空中でキスしたのだった。
しばらくすると、その接触《せっしょく》部分に穴《あな》がひらき、丸いものが突《つ》き出された。ロイドのヘルメットだった。続いてクリス、そしてミュラー査察官が姿を見せる。
三人は薄《うす》い、しかし驚くほど強靭《きょうじん》なアールミック繊維《せんい》の上を、のたのたと七転八倒《しちてんばっとう》しながら、こちらにやってきた。
三人がアルフェッカ・シャトルのエアロックに入ると、マージは気嚢の温度を上げて、上昇《じょうしょう》を開始した。
カメラの画像の中で、鯨が小さくなってゆく。
「メイ、もう呼びかけは止めていいわ」
「はい」
「あの鯨とも、お別れね」
「はい」
「ちょっと、いい奴《やつ》だったな。ねえ」
「はい」
見ると、メイは涙ぐんでいた。
やがてキャビンの方から、がやがや言う声が聞こえてきた。
「いやあマージ! あんときゃ死ぬかと思ったぞ!! 見ろ、汗びっしょりだ!」
「ローイド、まったくあなたって人は世話ばかり焼かせて――」
「こんにちは。マージさんですね」
クリスが手を差しのべる。
「助けていただいて、お礼の言葉もありません。本当にありがとう」
マージはその手を握《にぎ》り返した。同性として、一目で好きになれるタイプだった。
それから、ミュラー査察官が謝辞《しゃじ》を述べる。
「まったく、なんと感謝の言葉を申したらいいのでしょうか。わたくしの生涯《しょうがい》において、これは最初にして最後の大冒険《だいぼうけん》と言えるものとなりましょう」
「楽しんでいただけまして?」
「それはもう」
マージは笑顔を返すと、前に向き直った。
それから、トリチェリ号にいた三人は、カメラの画像に見入った。
鯨はもう、はるか下方にいたが、彼らにとっては、初めて見る鯨の全体像だった。
三人がひと通り堪能《たんのう》したところで、マージは言った。
「メイ、ハリボテを捨てるわよ」
「はい」
スイッチを入れると、いっせいに数十|箇所《かしょ》の爆破ボルトが点火し、ハリボテはばらばらに分解した。
シャトルは機首を下にして落下し始めたが、メインエンジンを噴射《ふんしゃ》し、操縦|桿《かん》を引くと、たちまち上昇《じょうしょう》を開始した。
「マージさん」
メイが言った。
「なあに?」
「あの、もしよかったら、針路《しんろ》を北北東に向けてもらえませんか」
「……いいわ」
いくつかの雲の渦《うず》を避けながら、シャトルは飛び続けた。
やがて、はるか彼方《かなた》まで雲ひとつない、広大な空間に出た。
見渡す限り、赤い下層大気の海だった。
それだけではなかった。
最初は、大気がそこだけ黒く濁《にご》っているかのように見えた。
シャトルが接近するにつれ、その色素は小さな黒点に分離《ぶんり》した。
黒点は、およそ直径数百キロの領域に、無数に存在していた。
「まさか……メイ、あれって……」
メイはかすかにうなずいた。
ロイド、クリス、ミュラーの三人も、息を殺してその方向を見つめている。
さらに接近すると、黒点のひとつひとつは、細長い紡錘形《ぼうすいけい》になった。
もう、誰《だれ》の目にも明らかだった。
鯨《くじら》だった。数千の鯨が、群れをなして移動しているのだった。
北へ、北へと――。
最初に沈黙《ちんもく》を破ったのはミュラー査察官だった。
「どうも……わたくしどもが最初に出会った鯨とは違うようですね……あれは」
望遠レンズを通して見ると、体節は十二箇所あり、まわりには合計四十八枚のひれが、ゆらゆらと波打つように揺《ゆ》れていた。
これは最初の鯨のちょうど三倍になる。
「ここから体長を測《はか》れますか、船長」と、査察官。
「ええ」
マージは、航法コンピューターが割り出した値を、つとめて冷静に読み上げた。
「九千七百四十五メートル」
「なんてこった……」
ロイドはうめいた。
「わしらを呑《の》み込んだやつはまだ子供だったってことか」
「……きっと、好奇心《こうきしん》の旺盛《おうせい》な仔鯨《こくじら》だったんでしょうなあ」
査察官が言った。
「わたくしの思いますところ、あれはトリチェリ号の出す電波にひかれて群れを離《はな》れたのではありますまいか。このような生物をあまり擬人化《ぎじんか》して見るのは軽率《けいそつ》というものですけれども――」
一度言葉を切って、査察官は続けた。
「ことによると、なかなか戻《もど》らない子供に、親が心配して呼びかけておったのかもしれませんねえ……」
ロイドの視野の隅《すみ》で、メイがこくりとうなずくのがわかった。
この勘《かん》のいい娘《むすめ》は、眼下の途方《とほう》もない光景を、ごく素直《すなお》に――直観的にわかっているのだ、とロイドは思った。
自分自身はまだ、どう受け入れたらいいのかわからなかった。レーネ村のことも、オデット計画の行く末のことも、さっぱり頭から追い出されている。
ただ、なんだか知らんが素晴《すば》らしい、と思うのだった。
「もういいかしら、みなさん。燃料がそろそろ乏《とぼ》しくなってきたんだけど」
マージが言った。
名残惜《なごりお》しいことだったが、いやもおうもない。
アルフェッカ・シャトルは、水素の海の中に、いつになくかん高い衝撃《しょうげき》波音を轟《とどろ》かせると、レーネ村への帰途《きと》についた。
ACT・23 レーネ村
村では、疲《つか》れ切って帰還《きかん》したデビッドを含《ふく》めて、ほとんど全員が見張り台に集まっていた。そのスクリーンには、トリチェリ号から送られてくる画像が、逐一《ちくいち》表示されていた。
その映像が突如《とつじょ》として暗黒に包まれると、村人の不安は極致に達したが、およそ一時間後、アルフェッカ・シャトルからの元気な声を聞くに至って、皆《みな》一様《いちよう》に胸をなでおろしたのだった。
またもや総出で出迎《でむか》える中、シャトルは西の波止場《はとば》に接舷《せつげん》し――ゼロG下では、はなはだ始末の悪い代物《しろもの》だったが――色とりどりの紙吹雪《かみふぶき》の中を、五人は凱旋《がいせん》したのだった。
メイは出迎えの中にデビッドの姿を見つけると、一直線にその前に飛んでいった。
「デビッド! 私、会ったの。本当に鯨《くじら》がいたの。話しかけたら、返事してもらったの!」
「そうか、やっぱりいたかあ! 俺《おれ》、ぜったい信じてたんだ!」
抱《だ》き合う二人。
「それから、デビッドも無事《ぶじ》に帰ってこれたのね、ほんとにおつかれさま」
「平気さ。タフだって言ったろ」
「うん。でもやっぱり心配だったもの。信じてたけど。……ねえ?」
デビッドは答えなかった。
「……デビッド?」
顔をあげると、デビッドの視線はメイを越《こ》えて、どこか後ろの一点に釘付《くぎづ》けになっていた。
メイはその視線を追った。
その先には、輝《かがや》くような笑顔をふりまく、クリスの顔があった。
生涯、初めて迎《むか》えた事態であるにもかかわらず、メイにはその意味するところが、たちどころにわかった。
メイはゆっくりと、相手の首にまわしていた手をほどき、ついでデビッドの体を、その視線の方向に押し出した。
反動でメイの体も遠ざかってゆく。
村人たちの喧噪《けんそう》のなかから、デビッドの声がいやに明瞭《めいりょう》に響《ひび》いた。
ゆっくりしていけばいいよ。
タグボートでこのへん案内するからさ。
リングは初めてかい?……
それから、村人たちとシャトルで戻《もど》った五人はホールになだれこみ、祝宴《しゅくえん》が始まった。たちどころにワイン、シャンパン、ブランデー、ウイスキーなどなど、それもロイドでさえめったに口に入れられないような銘柄《めいがら》のボトルが運び込まれ、さらにはキャビアやフォアグラ、七面鳥《しちめんちょう》の缶詰《かんづめ》まで登場するしまつだった。かつて村長が言った通り、掟破《おきてやぶ》りは誰《だれ》でもやっているというわけだった。
そんな中で、誰かが急に、こんなことを言い出した。
「なあみんな。水をさすようなことを言うようだが、俺たちゃ本当に勝ったのかい?」
場内は静まり返った。
「どういうことだい」
「トリチェリ号が調べたのはあのハリボテだろ。本物のほうは、いきなりパックリやられて、それっきり音信不通になったわけだ。あそこに鯨がいるって証拠《しょうこ》はどこにもないってわけじゃないか?」
村人たちは、互《たが》いに顔を見合わせた。
「そういや、そうだな」
「……確かに」
「連中、またもみ消しにかかるってか?」
そのとき、ミュラー査察官が言った。
「ああ、皆さま、それでしたらわたくし、せっかくの機会にと思いまして――」
査察官はスーツのポケットから、ハンカチに包まれた、褐色《かっしょく》の板のようなものを取り出した。
「鯨の口腔《こうこう》から、これを失敬してまいりました。見たところ、どの生物にも存在し得ない組織のようでして、これを分析《ぶんせき》すればおそらくは――動かぬ証拠になるかと」
続く三秒間のうちに、ミュラー査察官の端正《たんせい》なスーツは、あますところなくシャンペン漬《づ》けになったのだった。
それから査察官はしだいに饒舌《じょうぜつ》になり、ロイドのすすめたストローつきのグラスを片手に、こんなことも言った。
「わたくし、常々リングを持つ惑星《わくせい》での生態に興味《きょうみ》を持っておりましたんですが、どうもあの鯨は、そこにとどく日照《にっしょう》を、えらく大事《だいじ》にしておるんじゃないか、と思うわけですね。あの黒い色といい――実際、ケルヴィン号のときも――あれが鯨だとしますなら――赤道帯におったわけですし。ところでこちらのリングは、夏になると南半球に、冬になると北半球に、数万キロもの幅《はば》をもつ影《かげ》をおとすわけでありましょう? そこはもう、昼というものがありませんから、ひどく暗くて、寒い場所になると思うわけですね。思うに、あの鯨にしてみても、そんなところを渡ることはおそらくできますまい。
「しかるに、もし夏のあいだ、赤道のまわりに鯨がいたとして、季節が移りますとどうなりますでしょうか。南半球に落ちていたリングの影はしだいに赤道に近付いてきまして、ついにはそれを越《こ》え、北へ北へと鯨どもを追いやることになるでありましょう?
「そうなると鯨どもは、赤道よりずっと陽当りの悪い、中緯度から高緯度地方で冬を越すことになるわけでして、ちょっとつらいことになるんではないか、とわたくしどもは思うのですね」
「……確かにそうですな」と、ロイド。
温度だけなら少し潜《もぐ》れば得られるが、もし鯨に日照が必要なら、その通りだろう。
査察官は続けた。
「そこで、もしわたくしが鯨でしたら、こうしたと思うのです。リングの影の幅は、冬至《とうじ》か夏至《げし》のあたりがいちばん広くなり、春分《しゅんぶん》と秋分《しゅうぶん》の頃《ころ》にはほとんど一本の細い筋になるわけであります。さよう――このときをねらって、影を横断するのです。さすれば、リングの影がどこにあっても、自分は太陽の真下で暮らしていけるわけでありまして――」
「すると、あの大群もそうしていたと? まるで渡り鳥みたいに?」
「はい、おっしゃる通りですね。あの鯨どもは、およそ五年おきにこのフェイダーリンクにめぐってまいります春分、ないしは秋分の日に、南から北へ、北から南へと大移動をするのではないか、と、こう考えたのであります」
ロイドはちょっと感心した。今の段階ではまだ想像の域を出ない説だが、実にうまくつじつまがあう。
「面白《おもしろ》いですな。いや、本当に面白い。生き物って奴《やつ》はまったくうまくできてる」
査察官は深々とうなずくと、ストローからウイスキーを一口飲《の》んだ。
少し、顔が上気している。
「わたくし、気になっておりましたのはねえ……」
「ええ」
「あの鯨どもが、大気中のアミノ酸を食べておるだけで、どうしてあのような見事な体を持つに至ったのか、ということなんですね。といいますのも、あなたもおっしゃいましたように、うまくできてないようなものは生き物じゃないと思うのですよ。もしリングの影がなかったら、せいぜいクラゲ程度になったところで進化をやめてしまってもおかしくないのではありませんか?」
査察官は自問自答するように、首をかしげてみせた。
「それなりの試練があってこそ、生き物は進化するのだ、とわたくしは思うのでありまして、そしてこのフェイダーリンクにおきましては、ここにリングが生まれたとき、その影をわたる知恵《ちえ》を身につけたものだけが、生きることを許されたのではないか――」
そう言って、遠い目になる。
フェイダーリンクがいつリングを持ったのかはわからない。悠久《ゆうきゅう》の時を経《ヘ》ていることは確かだが、それが生命の誕生《たんじょう》より新しいことは、ありそうな話だった。
「あなたは、生き物がお好きなようですな。そこからいろいろ学ぼうとしておられる」
ロイドが言うと、査察官ははにかむような笑顔を浮かべた。
「わたくしどものような仕事をしておりますとねえ、人間もふくめて、生き物というものは、みんなこう――実にしぶとく、生きよう生きようとしているのがわかってくるんですねえ」
「人間も、ですか」
「ええ。たとえば――どうぞお怒《いか》りにならないでいただきたいのですが――ここでの太陽化計画が沙汰《さた》やみとなりましたことに、わたくしはいくらかの寂寞《せさばく》を感じるのですよ……。あの鯨と同じように、わたくしども人間も、ここにあらたな日照《にっしょう》をおきまして、生きる活力を得ようとしておったわけでありましょう? 鯨どもが得ました知恵と、この星を太陽にしようとする知恵の間に――そしてまた、このレーネ村の皆さまがここで培《つちか》ってこられた知恵の間に、どのような隔《へだ》たりがありましょうか……」
そこまで言うと、査察官はみずからの饒舌《じょうぜつ》に恥《は》じ入ったように、口をつぐんだ。
ロイドの心は、少しのあいだ、あの光景をまのあたりにしたときに立ち戻っていた。
あのとき――鯨の大群を前にしたとき――なぜ素晴《すば》らしいと感じたのか、その答えを得たような気がしたのだった。
グラスに新しい酒を注入すると、ロイドは言った。
「もういちど、あなたに乾杯《かんぱい》させていただけますかな、査察官どの」
査察官は丁重《ていちょう》に、その申し出を受け入れた。
そしてロイドは心の中で、もう一人の男――オデット計画に半生を捧《ささ》げてきた男――ジム・ダンカンにも、杯《さかずき》を捧げるのだった。
マージは、ホールの窓辺《まどべ》にひっそりと浮《う》かんでいるメイの姿を見つけると、そっとそばに寄った。
「沈《しず》んでるのね、メイ」
「ううん……」
「デビッドのこと?」
「…………」
「図星《すぼし》でしょ」
「あの、マージさん」
メイは顔をあげた。
「ん?」
「男の人って、みんなああなんでしょうか?」
「おっと……」
これは重大な質問だった。
マージは今日までの人生において、何人もの男に接してきたが、このとき脳裏に浮かんだ人物はただ一人だった。それはしぶとく、したたかで、常に周囲に迷惑《めいわく》をまき散らし、こだわりのために命を賭《か》け、そのくせどんな苦境に陥《おちい》っても「死ぬかと思ったぜ」と言いながら帰ってくるような男だった。
もしかすると彼こそ、男といわれる生き物の代表かもしれなかった。
そうだ――そうに違いない。
マージはそこで、つとめて率直《そっちょく》に、真実と信じることを告げた。
「その通りよ」
[#地付き](完)
[#改ページ]
あとがき
クレギオン・シリーズの二作目ができました。
二作目にして作者は、自分の作品にある、ひとつの法則に気づきました。すなわち、「主人公たちの宇宙船、アルフェッカ号は故障せずに一章を持ちこたえることができない」のです。
ロイド&マージの二人組に、新たにメイが加わって女性上位になった宇宙の運び屋、ミリガン運送の船が逃げ込んだのは、巨大なガス惑星フェイダーリンク。その壮麗なリングの中を漂流するアルフェッカ号のドアをノックしたものは、はたして――
とまあ、物語はこんな調子で始まります。
木星や土星をはじめとする巨大なガス惑星に、作者はずっと魅了されてきました。手作りの望遠鏡で初めて土星の輪や木星の雲の渦を見たときの感激は、いまも衰えていません。ボイジャー探査機がそれらの星々にフライバイを行なった今日でも、夜空にその光をみとめると、望遠鏡を覗く誘惑に逆らえずにいます。
あらゆるものが地球の十倍スケールになる、この驚異の世界を舞台にした物語を書いてみたい、と思ったのは、それほど最近のことではありません。しかしながら、ガス惑星を扱った小説は名作ぞろいです。クラークの「メデューサとの出会い」や「二〇××年」シリーズ、小松左京の「さよならジュピター」などなど……
作者の体質として、これらの作品を越えよう、などという野心を抱かなかったのは幸いなことでした。これがクレギオンという架空世界にあることも、ずいぶん肩の荷を軽くしてくれたように思います。
それでも、リングの表面や大気圏の内部などを描くのはかなり勇気のいることでした。詳しいことがわかっていないのをいいことに冒険もしましたし、いくつか嘘をついたところもあります。しかしほとんどの場合、それらはガス惑星のありさまをより親しみやすくするためのものでした。現実の星々には、作者の想像力を遥かに越えた驚異が待ち受けているに違いありません。
この先、NASAが送り出したガリレオ探査機やカッシーニ計画がどんな知識をもたらしてくれるか、楽しみなところです。かつてボイジャーが、いくつかの『ガス惑星小説』の息の根を止めたように、本書の寿命もそう長いことではないかもしれません。
だとしても、その時はその時。作者はしらんぷりをして、新たな小説にとりかかろうとするでしょう。願わくばロイド、マージ、メイの三人を連れていきたいところですが、こればかりはなんとも予想がつきません。
最後に、今回も面倒をおかけした富士見書房の菅沼さん、厳しいチェックをしてくれたホビー・データの大宮氏、いつもチャーミングなイラストを描いてくださる弘司さん、そして世界構築を手伝ってくださった多くの方々に心より感謝の意を表したく思います。
[#地付き]野尻抱介
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
クレギオン フェイダーリンクの鯨《くじら》
平成4年12月15日 初版発行
著者――野尻《のじり》抱介《ほうすけ》