クレギオン ヴェイスの盲点
野尻抱介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)きつね狩《が》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)機雷|封鎖《ふうさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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目 次
第一章 危険宙域
第二章 ヴェイスへの降下
第三章 カミング・ホーム
第四章 宝島へ
第五章 遠地点にて
あとがき
[#改ページ]
第一章 危険宙域
ACT・1 大気制動
船尾の不吉な物音を聞くと、マージ・ニコルズは反射的に『隔壁閉鎖《かくへきへいさ》』のスイッチを押した。計器に目を走らせながら、右肘《みぎひじ》で傍《かたわ》らの男を小突《こづ》く。
「起きてください。社長!」
社長――ロイド・ミリガンは緩衝席《かんしょうせき》を目一杯リクライニングさせて眠っていた。床に雑誌が落ちると、無節操に開ききった大口が現れる。その口からは、安物のウイスキーの臭《にお》いがぷんぷん臭っていた。
銀髪《ぎんぱつ》に口髭《くちひげ》、宇宙焼けの中年男は、目をしょぼつかせながらうめいた。
「んー……着いたか?」
「異常事態です。宇宙服を着てください。『車検』をごまかしたツケがまわったようです」
ロイドは目をしょぼつかせながら、計器パネルを見た。
赤い警告ランプがにぎやかに点滅《てんめつ》している。
マージはもう、故障箇所《こしょうかしょ》の見当をつけていた。あの御老体――液体水素の加圧ポンプがいかれたのだ。彼女は炉心《ろしん》温度を見守った。急速に冷えてゆくのは、緊急《きんきゅう》停止装置が働いているからだろう。水素の壁《かべ》がなくては炉は溶《と》けてしまうから、これはいいことだった。あくまで最悪の事態ではない、というレベルだが。
ロイドはキャビンの壁にあるラックから、宇宙服をひきずり出していた。
その足が床《ゆか》を離れる。
「な、なんだ? 重力装置を切ったか?」
「ええ。炉心の火を落としたので、これからは節電します」
「宇宙で節電とは嫌《いや》だなあ。なんとかならんのか?」
そう言って、ロイドは煙草《たばこ》に電熱ライターで火をつけた。空調への負担《ふたん》など、まるで気にしていない。
「なりません。第三|惑星《わくせい》サイトロプスまでまだ六AU(天文単位)もあります。しかもこれから秒速千キロも減速しなきゃならないんです」
「そんなにか? ずいぶん加速してたんだな」
「社長の指示です」
マージはふわりと席を離れると、自分のロッカーに漂《ただよ》っていった。
ロイドはすぐ消えそうになる煙草を何度も吸いながら、記憶《きおく》をたぐった。
「そんな指示、出したっけな」
「加速度計を見ながら『系内航行は退屈《たいくつ》でいかん。パーッと吹かせ、パーッと』とおっしゃいました。そっち向いててください」
「おう」
マージはウェーブのかかった鳶色《とびいろ》の髪《かみ》を手早くリボンで結《ゆ》うと、アンダーウェア一枚になって宇宙服に体をすべり込ませた。背後で「ごくり」という音が聞こえたような気がしたが、今はとりあっていられない。
ヘルメットをきっちりとはめ込み、気密を確認する。
「機関室を見てきますから、計器を見ていてください」
「おう。うまく直してくれ。期待しとるぞ」
マージはため息をついた。
「ペンチとスパナで直るようなとこじゃありません。充分《じゅうぶん》な時間とパーツと工具が揃《そろ》っていれば話は別ですが」
「優秀な整備士はたいていそう言う。そして半分の時間でやりとげるものだ」
「整備士まで兼務した憶《おぼ》えはありませんので」
「そうツンケンするなって。ここは我が社の最も有能な社員である君がだ……」
何が『最も有能な社員』だか。
天井《てんじょう》のハッチをくぐり、機関室に続く通路を漂いながら、マージは思った。
機関室に入り、家庭用冷蔵庫ほどもある加圧ポンプのアクセスパネルを開く。
見たところ異常はないが、ポンプの出入口にあるバルブは閉じていた。点検モニターには『配管内に異物混入』『異常|震動《しんどう》』と表示されている。おそらくタービンブレードが折れたのだろう。ケースにひびが入らなかっただけでもよしとしなければならない。
マージはコクピットに戻って言った。
「ダメージがひろがる気配はありません。フェイスプレートは上げてもいいでしょう」
「そりゃよかった。これをかぶると、なぜか急に鼻がかゆくなってな」
「ですが修理もできません。サイトロプス軌道港《きどうこう》に連絡して回収艇《かいしゅうてい》をよこしてもらいましょう」
「回収艇? そりゃ高くつくな。なんとか別の手でいこう」
「選択の余地はありません。炉が停止していては、減速も何も不可能です」
「ふむ」
宇宙船は停止するのにも、加速時と同じだけのエネルギーが要《い》る。特殊なテクニックを使わない限り、加速をやめた時点で燃料の半分が残っていなければならない。
これが宇宙の掟《おきて》というものだ。
ロイドはサイトロプス太陽系の星系図をじっと見た。
そして、同じまなざしのまま首をめぐらし、マージを見た。
「なあマージ……」
マージは嫌な予感がした。
この言い方――ロイドは何か、とてつもなく非常識な提案をしようとしているのだ。
「この星の並びなら、ちょいと針路を変えるだけでここのガス惑星に行けるな?」
「だ――だから、どうだと言うんです?」
「ガス惑星で大気制動をかけてだな、同時に重力ターンすれば第五惑星のヴェイスまでほどよい距離じゃないか」
「無理です。この船は大気制動できるようには造られていません」
マージは、相手が未練を持たないよう、つとめてきっぱり答えた。
大気制動というのは、惑星の大気圏に飛び込んで、その抵抗《ていこう》で船を減速することだ。これならエンジンの力を借りずに実行できる。ただし船体が熱や圧力に耐《た》えてくれなければならない。そもそも宇宙船というものは、真空中を極限の速度で飛ぶのが仕事で、それ以外の事をさせるのはエレガントではない。
「そりゃ、このスピードでいきなり大気の濃《こ》いところへ突っ込めばバラバラになるわな。そこで……」
ロイドは急に顔を引き締《し》めてマージを見つめた。
何か名案があるのだろうか?
「君の腕がものを言う。そういうことだ」
「そういうことだ、ってねえ……」
たかが救助費用を節約するために、なんだって命を張らなければならないのか。
「昔の船乗りはな」
ロイドは違い目をして言った。
「わずかな燃料と加速の悪いエンジンで、せこいホーマン軌道を通って惑星航路に乗り出したもんだ。ちょっとでも針路を誤《あやま》ればそれっきりだ。わずか五十万キロ横に港を見ながら、どうすることもできずに宇宙の孤児《こじ》になった者もいる。そういうことだ」
自分の言葉にうなずきながら、したり顔で言う。こうなると手がつけられない。
マージはあきらめて、軌道パラメータを航法コンピュータに打ち込んだ。
ロイドの言う通り、大気制動がうまくいけばヴェイスまで八日で行け、自力で停船できる。細かい軌道修正は補助エシジンだけでなんとかなりそうだった。
「しかし、航路情報によればヴェイスには民間|企業《きぎょう》の港しかありません。法外な施設《しせつ》使用料を請求《せいきゅう》されるかも知れませんよ」
「そんな心配は、錨《いかり》を降ろしてからでいいさ」
ガス惑星まで六時間。それまでにアルフェッカ号の外まわりを点検《てんけん》しておかなければならない。マージは船外に出た。
主恒星の光が、船体を白く照らしていた。
マージは、改めて思った。
なんて不格好な船だろう。
前半は流線型のシャトル、後半は角張った恒星間《こうせいかん》宇宙船で、ペイロードはシャトルに積みっぱなしになっている。本体からシャトルにかぶさるように細長いキールが延び、シャトルのコクピット天井部に接合していた。
木に竹を継《つ》ぐ、という言葉そのものだ。
宇宙船の外観にも商品性が加味されるようになって久しいが、この船には無縁《むえん》の要素だった。諸悪の根源《こんげん》はシャトルと本体の製造メーカーが違うことだろう。あの、フォーチュン・マキシマ社のシグナス・シリーズなんかだったら、格好よくて、商船大の同窓会に出ても恥《は》ずかしくないのだが……。全体が流線型の耐熱船殻《たいねつせんこく》で包まれていれば、大気制動も安心してできるだろう。
ボロ船とは言っても全長は四十メートルに達する。これを二人、いや、事実上自分一人で動かすのだからたいへんだ。
そう――我がミリガン運送は過疎化《かそか》が進んでいる。
かつての黄金時代には二十二人の社員を擁《よう》していたという。
今では自分のほか、ただ一人しかいない。
先ほどからマイペースで場を仕切っている、ミリガン運送社長にして船主――この一|隻《せき》きりだが――ロイド・ミリガン、五十二歳だ。家族はいない。本当はいるはずだが、二十年前に逃《に》げられている。
若い頃《ころ》は傭兵《ようへい》をしていたとも聞く。仕事の質には頓着《とんちゃく》しない男だった。稼《かせ》ぎになると聞けば、あぶない仕事も平気でやる。
つい先週は、砂漠《さばく》の惑星タルガで栽培《さいばい》されている奇妙《きみょう》な植物を運んでいた。依頼主《いらいぬし》はクロレラの一種だと言っていたが、その後の経過から、それが麻薬《まやく》の原料であることをマージは確信した。船はすでに港を出ていたが、いくらなんでもこんな仕事に加担《かたん》するのは我慢《がまん》できなかった。
彼女が意を決してそれを指摘《してき》した時、ロイドはこう言った。
「何を言ってるんだ、マージ。あれはただの食用植物だよ」
「とぼけないでください。航路の真中で引渡すなんて、麻薬の原料をおいて他に考えられません」
「ふむ……。そりゃあ、良心ってやつか?」
ロイドはにんまりと笑って、マージを見た。
マージは唇《くちびる》を噛《か》んで、そうですと言った。
「君の良心は金にならんな」
「そういうものでしょう」
「いいや。金になる良心もあるさ。わしのなんか、そうだ」
「麻薬の原料を運ぶことのどこが良心ですか。詭弁《きべん》はもうたくさんです」
「詭弁じゃないさ」
「そんなことを――」
「ニセ物なんだ」
「え?」
「積荷はニセ物とすりかえておいた。煮《に》ようが焼こうが麻薬にはならんよ」
「…………」
絶句するマージの肩を、ロイドは力強く叩《たた》いた。
「胸を張って、良心に恥《は》じない仕事をやろうじゃないか、え?」
針路を変えようにも、もう手|遅《おく》れだった。麻薬シンジケートをまくチャンスは、積荷を手渡した後しかない、という状況《じょうきょう》だった。
そんなわけで、追手を逃《のが》れたミリガン運送は、辺境《へんきょう》アレイダ宙域《ちゅういき》の中でもきわめつけの僻地《へさち》、サイトロプス太陽系でほとぼりをさますことになった。いくらか仕事にありつけそうなのは第三惑星サイトロプスだが、このさい港があるならどこでもいい、という有様だった。そうするうちに、せっかく危《あぶ》ない橋をわたって得た金も、底をつくだろう。これが無駄《むだ》でなくしてなんだろうか、とマージは思う。
彼女が自社の非合法業務の阻止《そし》に成功するのは三度に一度くらいで、それ以外は共犯《きょうはん》にさせられていた。他の社員がいた時は、団結して業務の正常化につとめたものだが、自分一人になってからは、勝率が落ちた。
せめてもう一人、まっとうな同僚《どうりょう》が欲しかった。年下の同性で、素直に言うことをきき、かつ有能なのが欲しい。だが、期待は薄《うす》かった。ここへ入ってくるような者は、わけありか、あるいは相当な物好きに違いない。
マージが辞《や》めなかったのは、ほとんど意地だった。一流の商船大学を出ていながら、周囲の忠告を退け、あえて小さな運送会社を選んだのだ。おかげで全力投球の毎日だった。はりあいがないと言えば嘘《うそ》になるが、かなり後悔《こうかい》している。
やや意外なことに、男一人、女一人が同じ船で暮らすことにはなんのトラブルも起きなかった。ずっと男まさりで通してきたマージだが、自分の外見的評価ぐらいはわかっている。思うところあって適齢期《てきれいき》を過ぎてしまったが、まだ二十八|歳《さい》。狭いキャビンに二人きりでいれば、何か起きてもおかしくないぐらいの魅力《みりょく》はあるつもりだった。そして五十代の男性が、その方面にどれほどの欲求を残しているかも知っている。ことにロイド・ミリガンはその気が強かった。
実際、他の社員がいた頃は、ちょっかいをかけられることもあった。セクハラとまではいかないが、尻《しり》をさわられることぐらい、珍《めずら》しくなかった。だがそれも、最後の一人になってからはピタリとおさまった。
「おまえが足を引っ張るから、儲《もう》け損《そこ》ねるんだ」と、ロイドはいつもこぼしていたが、彼女は、自分が頼《たよ》りにされていることを知っていた。自分の存在なくしては、会社はとうの昔に破滅《はめつ》していたに違いない。正直者は決して金持ちになれないが、そうでなければ必ず破滅するのだ、とマージは信じている。本物のプロは、冒険《ぼうけん》を好まないものだ。
マージは宇宙服のなかでため息をつくと、顔をあげた。
右前方に主恒星。次に明るいのがこれから向かうガス惑星。肉眼でも、小さな三日月型《みかづきがた》をしているのがわかる。
あとはもう、一面の銀の砂だった。
もうしばらく眺めていたかったが、仕事がある。マージは点検《てんけん》を続けた。
故障《こしょう》から7時間後。
ガス惑星は目前に迫《せま》っていた。
マージとロイドは緩衝席《かんしょうせき》に座り、ハーネスで体を固定している。フェイスプレートをおろし、インカムで話す。
「距離五百万キロ。減速|噴射《ふんしゃ》停止」
補助エンジンによるなけなしの噴射を切ると、マージは船体を反転させた。正面の窓に巨大な三日月状の惑星が現れる。
「おー、でかいなあ」
ロイドがのんきに言う。これで酒が抜けていなければ『あっぱれ、あっぱれ』などと言いそうだ。それどころではない。
目標は直径が地球型惑星の十倍もある、ガスジャイアントと呼ばれる惑星だ。緯度《いど》に沿って黄褐色《おうかっしょく》の縞《しま》が何本も走り、その境界は激《はげ》しく渦《うず》を巻いている。ガスとはいえ、この速度でまともに飛び込んだら、どんな丈夫《じょうぶ》な船でもひとたまりもないだろう。大気が希薄《きはく》になり、かつ必要な減速を果たせる領域《りょういき》は、紙のように薄《うす》かった。
ヘッドアップ・ディスプレイに惑星|外縁《がいえん》と大気密度を図示する。
航法コンピューターを使って突入地点を割り出してあるが、あまりあてにはできない。
大気は常に変動しているし、わずかな姿勢の変化で何もかもが変化してしまう。
百秒前。
夜側の縁《ふち》が迫《せま》ってきた。赤道上空二百キロに狙《ねら》いをつける。ディスプレイ上で十字線を重ね、実景でも確認する。窓枠の、左から六番目のリベットが目印だ。
これでよし……。
いや、これでいいのか?
マージは頭の中で通過手順をおさらいした。
計算できることはすべてやった。
だが、何か嫌《いや》な予感がする。
「いいのか? マージ」
ロイドが聞く。他人の顔色にだけは、敏感《びんかん》な男だった。
「なんでもありません――」
五十秒前。
正面の星空が右から左へと動きはじめる。惑星の重力が船を捉《とら》えたのだ。
「衛星との衝突は調べたか?」
「ええ。三度チェックしました」
「なら大丈夫《だいじょうぶ》だな」
航路情報によれば、この惑星には二十七個の衛星がある。進路と重なるものはひとつもなかった。
衛星はいい。――しかし環《わ》は?
この惑星に環はないとされている。
三十秒前。
だが、ここは辺境だ。
航路情報はどこまで信用できるのか?
漆黒《しっこく》のカーボン粒子《りゅうし》の環なら、容易《ようい》には見えない。完全な環ではなく、切れた弧《こ》でしかないかも知れない。
十五秒前。
環なら――必ず赤道面にある。
「軌道《きどう》変更! 赤道面を避けます」
「よしやれ!」
船体を起こし、補助エンジンを噴射する。
直後、希薄な上層大気が船体を打った。
強烈《きょうれつ》なマイナスGが襲《おそ》い、前に飛びだそうとする体がハーネスに食い込む。
視野はプラズマに染《そ》まり、レーダーがブラックアウトした。
船外温度は瞬時《しゅんじ》に二千度を超えた。
シャトルなら楽にもつが、本体はどうか。
うまく衝撃波《しょうげきは》の陰《かげ》に入ってくれるといいのだが――。
「シャトルの空力制御系を連動させろ。舵《かじ》は効《き》くはずだ」
「はい」
「軸線《じくせん》に沿わせろ。はじかれるぞ」
「はい」
スクリーンに、真紅《しんく》のメッセージが明滅する。過熱警報。応力警報。
船体上部のアンテナが吹き飛び、船体がガクリと揺《ゆ》れた。バーニア噴射《ふんしゃ》はまるで効かない。空力制御で立て直す。
三十秒経過。
嵐《あちし》のようなGがおさまった。窓外に星空が戻る。
星はまだ、右から左へと動いていた。
「抜けたか?」
「ええ。アンテナと船殻《せんこく》の一部に損傷《そんしょう》。ただし軽微《けいび》です」
「軌道はどうだ。うまくヴェイスに『落っこちる』か?」
「直前の軌道修正で少しそれましたが――」
マージは航法コンピュータにお伺《うかが》いをたてた。
「補助エンジンと残存燃料でカバーできます。金一封《きんいっぷう》ものですね」
ロイドはわははと笑うとハーネスを外し、マージの肩をどやしつけた。
マージは悪くない気分だった。
ただ気になるのは、ガス惑星には結局、環《わ》があったのかということだった。
単なる取り越し苦労かも知れない。
だが、万一予感が的中していたら、宇宙の藻屑《もくず》になっていたはずだ。
いつか、機会があったら確かめてみたい――。
続く退屈《たいくつ》な四日間のうちに、マージはその事をロイドに言ってみた。
「なあに、わざわざ確かめるまでもないさ」
ロイドはけろりと言った。
「そうですか?」
「そうさ。通らなきゃいいんだ」
「けろりとおっしゃいますが、私にとっては『通れない』も同然です。誰かがあそこで遭難《そうなん》すれば、環の存在を信じずにはいられないでしょう。ありもしないものを恐《おそ》れるのは、どうも落ち着きません」
「うんうん、そうだよなあ」
ロイドはなぐさめるように言った。
「そうやって船乗りの神話が生まれるのき」
ACT・2 L4シティ
八日後。
最後の力をふりしぼって減速を終えると、そこに第五惑星ヴェイスの軌道港《きどうこう》があった。
軌道港、といっても通常の衛星軌道にあるわけではない。
惑星ヴェイスの月の公転軌道上にあって、月からも惑星からも等距離にある一点、いわゆるラグランジュ4にそれはあった。
直径・長さともに一キロのずんぐりした円筒《えんとう》で、四十五秒の周期で自転している。いわゆるシリンダー型スペース・コロニーで、回転|軸《じく》の端部《たんぶ》が港になっていた。
港を含むコロニー全体を『L4シティ』と呼ぶらしい。
マージはもう一度、航路情報をチェックした。
備考欄《びこうらん》に、見なれない注意事項がある。
一、 第四惑星の地表より一万キロ以内の領域《りょういき》は、第一級危険宙域に指定されている。
港湾《こうわん》当局に無断で進入・降下することは厳禁《げんきん》する。
二、 L4シティはレグルス社の所有する民間|施設《しせつ》である。第四惑星との通商はすべてレグルス社を仲介《ちゅうかい》すること。
「なんだかキナ臭《くさ》いですね、これ」と、マージ。
「うむ。金儲《かねもう》けの臭《にお》いだ」
「やめましょうね、社長」
「まあ、降りてのお楽しみだな」
「…………」
ちぐはぐな会話を打ち切って、マージは船をコロニーの回転にシンクロさせた。
微速《びそく》前進。
宇宙版を着た誘導員《ゆうどういん》が現れ、赤く光る『ニンジン』を振《ふ》って誘導する。
故障《こしょう》による臨時《りんじ》入港ということで、船はそのまま整備ドックにまわされた。微小重力用のきゃしゃなドリーの上で停止、アンカー・ケーブルを放出する。
検疫《けんえき》、入国|審査《しんさ》、通関その他もろもろの手続きを済ませ、整備工場に出向いて故障の状況《じょうきょう》を説明し、見積もりを依頼《いらい》する。
それが終ると二人はコロニーの円筒部分に広がる市街区に出た。
「おー、でかいなあ」
ロイドは単純な感想を述べた。ガス惑星を見た時もそう言った気がする。
だが、事実だった。
コロニーとしては小ぶりだが、それでも高さ・奥行きとも千メートルの空間になる。これまで二週間にわたって閉じ込められてきたアルフェッカ号のキャビンとは大違いだ。
マージはおよそ三平方キロにわたる都市をつぶさに観察していた。
このタイプのコロニーには死角というものがない。どこにいても、居住区画全体が見通せるのだ。
「きれいな街ですね。公園や街路樹も揃《そろ》ってるし、野外公会堂みたいなのもある」
「もっとゴミゴミした、猥雑《わいざつ》なとこの方が好みなんだがな」
「覗《のぞ》きでもやるんですか? シリンダー型は出歯亀《でばがめ》天国っていいますけれど」
「覗くほうも困るだろう、身を隠《かく》すところがないから――いや、そういう問題じゃなくてだな」
ロイドは視線を正面のビルボードに留めた。
面発光パネルで大きく『レグルス』と描かれている。その下には『創業《そうぎょう》二百三十年』とあった。
「一|企業《きぎょう》の専制《せんせい》王国なのが好かんのさ。ここに住むものはすべて、社に忠誠をつくす従業員で、法を作るのは役員会だろう?」
「よく知りませんけど」
「この整頓《せいとん》された街を見ればわかる。だいいち、海運業でこんなコロニーを持てるほど荒稼《あらかせ》ぎしてるんだ、どうせろくな事はしてないだろう」
「悪役って気はしますけどね」
ロイドは肩をすくめた。
「まあいい、とっととホテルを決めて、一杯《いっぱい》やろうじゃないか。今夜は羽根をのばすぞ」
ACT・3 レグルス商船高校
ロイドたちがぶらぶらと歩き始めた街路から視線を上げていくと、軸部《じくぶ》をはさんだ反対側に、大きな白い建物が集まった一角がある。L4シティの文教区である。これでも人口一万二千を擁《よう》する都市だから、社宅ばかりというわけにはいかず、小学校から大学まで、ひととおりの教育施設がそろっている。
そこに通う大半の生徒はレグルス社従業員の子弟だから、海事関係の学科が多いのは言うまでもない。
なかでも異色なのはレグルス商船高校の特殊《とくしゅ》航法科、通称《つうしょう》『特航』だった。
その方面に抜《ぬ》きんでた才能を示す少数の生徒が集められ、集中教育がほどこされているという……。
教壇《きょうだん》の背後にある大きなスクリーンに、三次元投影された黒い球体が浮いていた。
正面一キロにふたつ。
左上二キロにひとつ。
その下にもうひとつ、接近中。
背後から追尾《ついび》してるのがふたつ。
地表は右下。
「さあ、この配置なら『窓』はどこだ。簡単な問題だな?」
ええと、この場合、最初に干渉《かんしょう》するのは正面だから……
教官はちらりと手元のコンソールに目を落とした。
――いやな予感。
「メイ・カートミル」
やっぱり!
メイはのろのろと席を立ちながら、必死に考えをまとめた。
「え、えーと……右下でしょうか?」
「間違い!」
教官はぴしゃりと断じた。
「機雷《きらい》は三つが臨界《りんかい》領域に入ると第一条件が成立する。第一条件とは何だ」
「えと、臨界領域内で最も疎《まばら》な区域に注目し、最寄りのユニットに召集《しょうしゅう》指令を出します」
「そうだ。その区域とは、この場合どこだ?」
「ええと……右下――あっ!」
「おまえの言う『窓』の事だ。そんなところへ船を向けたら二十秒以内に囲まれてあの世行きだ!」
「…………」
教室にくすくす笑いがひろがる。
メイはうなだれた。
教官はまた、コンソールに目を落とした。
「カートミル、君はこれで四度目だな」
「……はい」
「本日より補習授業に出ろ」
「わかりました」
「座ってよし!」
――放課後、クラスメイトたちが笑いさざめきながら出てゆくなか、メイは一人|頬杖《ほおづえ》をついて、教本に目を落としていた。
「目が死んでるじゃん」
顔を上げると、十センチ先に親友の顔があった。
「んー……ケイトか」
「元気だしなさいよ。補習ぐらいで落ち込まないでさ」
「だめ。あたしもう絶望。星の家族になんて言ったらいいんだろ……ここで退学になったりしたら、ドーム中の笑い者よね」
「だーいじょうぶだって、そうそう退学になんかしないよ。マクギル教官って、あれでけっこう生徒思いなんだから」
ケイトは明るく育ったが、メイの気持ちは沈む一方だった。
「お父さん、怒るかなあ……」
ケイトは肩をすくめた。
「メイってさ、論理演算や暗記力はいいのに、ナビになるとさっぱりなのよねえ」
「だって、頭の使い方、全然違うんだもの。解答見ると、ああなるほどってわかるのに、いざ自分でやってみるとさっぱり答えが出ないんだ」
「スランプなんだよ。もうじきさ、突然パーッとわかるようになって、すいすい通れるようになるよ――機雷原なんてさ」
「だといいけど……」
メイは深々と、ため息をついた。
ACT・4 パブ・ロングショット
ロイドとマージは、税関《ぜいかん》のビルから二ブロックほど離れた、手頃《てごろ》そうなホテルに部屋をとった。慣例どおり、隣合《となりあ》ったシングル二部屋に分かれる。
四日ぶりに入浴し、着替《きが》えを済ませた頃には『夕刻』が迫《せま》っていた。窓から空を見上げると、回転|軸《じく》の人工太陽は光度を落とし、オレンジ色に染《そ》まりはじめている。ただし光源の位置は変わらないので、影が長く尾を引くことはない。
マージが温風で髪《かみ》を乾《かわ》かしていると、ロイドが現れた。髭《ひげ》を手入れし、サンドイエローのジャケットをばりっと着こなしている。
「おお、いかすスーツじゃないか。タルガで仕入れたのか?」
「いいえ。あそこは貧しい星だって聞いたから、デネヴを発《た》つ前に買い込んどいたんです」
「しっかりしてるな。そのいでたちなら、キレ者の社長秘書に見えるぞ」
「変装《へんそう》してるつもりはないんですけど」
「あえて言うなら、もうちょっとくだけた感じがほしい。遊べるムードというのか」
「だから私は――」
「そうそう、そうだよな。えーと、ここは標準時だったか」
ロイドは腕時計を見た。
『標準 1700』と表示されている。
「夕食前に下のパブで一杯《いっぱい》どうだ?」
「いいですね」
マージは如才なく応じた。
よその星に来たら、まず酒場《さかば》で情報を仕入れる。不定期運送業者の、これも仕事のうちだった。
地階に降り、フロントの筋向いのこぢんまりしたパブ『ロングショット』に入る。
店内を一瞥《いちべつ》したロイドは、客の八割が船乗《ふなの》りであると判断した。
カウンターを見ると、髭面《ひげづら》の、太った中年男が一人で飲《の》んでいる。ロイドは男の左隣に掛けた。ロイドの左にはマージが掛ける。
「やあ、一杯おごらせてもらえるかね。ここは何がいける?」
「スコッチだね。温めたやつがいい」
バーテンに三人前注文すると、ロイドは言った。
「今日着いたばかりなんだ。実はターボポンプがいかれちまって、臨時入港したんだが」
「聞いたぜ。あのビギー・バックだろ」
シャトルを抱《いだ》いた船の事をこう言う。港湾《こうわん》関係者の俗語《ぞくご》だ。
「そうなんだ。それで――ここの事はよく知らないんだが、あの『第一級危険宙域』ってのは何なんだい?」
「おっほ!」
髭男は、目をまるくして、それから大声で笑った。店内の視線が集まる。
「たいしたもんだ!」
「え?」
「たいした度胸だよ、あれを知らずに来るとはな!」
「ふむ?」
「――あんたら、辺境《へんきょう》のもんじゃないな?」
「デネヴだよ。なあ、じらさないで教えてくれよ」
髭男はグラスを一息に空けると、おかわり! といわんばかりにロイドの前に置いた。
ロイドはバーテンに合図《あいず》した。
「『ヴェイス機雷原《きらいげん》』って言ってな、この太陽系じゃ名物なんだぜ」
二杯目を半分ほど流し込むと、男は言った。
「六千四百万個の機雷がびっしり、ヴェイスの軌道《きどう》を取り巻いてるんだ。知らずに降りようもんなら即《そく》ドカンさ」
「それ、もしかして、『大戦』の名残《なごり》ですか?」
マージが身を乗り出す。
「ご名答だね、お嬢《じょう》さん。つまりあれから二世紀半にわたって、おいそれと出入りできなくなってるってわけだ、ヴェイスとはな」
『大戦』というのは、二百六十年前に起きた、銀河の半分、人類|版図《はんと》のすべてにまたがる戦争のことだ。
この戦争で、人類は文明をあやうく失うところだった。
そのためか、わずか二世紀半前のことなのに、この戦争には謎《なぞ》が多い。おぼろげにわかっているのは、これが機械知性を中においた、人間同士の戦いだったということだ。
幸いにも、超《ちょう》光速航法と重力制御の技術は大戦を生き延びた。
だがそれ以外の、魔法のような技術を伝える者は、もう誰《だれ》もいない。
大戦前の遺物《いぶつ》は、わずかながらまだ各地に残されている。仕組みはわからなくても、高価で取り引きされるから、その発掘《はっくつ》で生計を立てている者もいる。
それにしても、その遺物が機雷原というのは初耳だ。
「待ってくれ――ヴェイスは確か、ドーム都市があったはずだ。人口三万だとか」
と、ロイド。
「そうさ」
「通商が途絶《とぜつ》していて、どうして自活できるんだ。一年や二年ならともかく、二百六十年やっていけるとは思えない」
「やってるんだ」
「え?」
「通商してるんだよ」
髭男《ひげおとこ》は満悦《まんえつ》のていで言った。
「――機雷原を渡ってかね?」
「そうよ」
「なあ頼《たの》むよ、じらさないでくれ」
ロイドは駆《か》け引きの間合いも忘れて言った。
年甲斐《としがい》もなく、血が騒《さわ》いでいる。
宝島だ。
大戦中に機雷|封鎖《ふうさ》された惑星があるとすれば、そこは宝の島に違いない。おそらくは重要な軍事|拠点《きょてん》があったのだろう。当時のテクノロジーは、同じ重さの黄金にも匹敵する値段で商《あきな》われる。それが兵器ならなおさらだ。
だが、機雷封鎖が完全でないとすると――どうなるんだ?
髭男はおもむろに言った。
「ここの親方――レグルス社はな、機雷原専門の水先案内人、『ヴェイス・ナビゲーター』抱えているんだ」
「ヴェイス・ナビゲーター?」
「あの機雷はな、宇宙船を認識すると、自分で軌道を変えて寄ってくるんだ。ただし他の機雷に誘爆《ゆうばく》しちゃあ損《そん》だから、一定の距離をおくらしい。理屈《りくつ》はよくわからねえが、チェスみたいな要領で、専門の訓練を受けた奴なら、その隙間《すきま》を縫《ぬ》って通れるってわけだ」
「じゃあ、そのナビゲーターを乗せていれば、安全なんだな?」
「いやあ、そうは問屋がおろさねえ。三月に一度はドカンといく」
「……なら、外から無人貨物船を遠隔《えんかく》操縦すればいいんじゃないかね?」
「だめだね。機雷原の中は猛烈《もうれつ》なジャミングがあって、電波が通らねえ。レーザーにしたって、急激《きゅうげき》な機動で安定が悪いし、どのみち通信にコンマ一秒の遅延《ちえん》がでちゃおしまいなんだ。何度か試したが一度も成功してねえな」
「航法コンピューターにまかせられないのか?」
「機械にはいい答えがだせねえ」
「ふむう……」
訓練されたナビゲーターはどんな推論《すいろん》コンピューターより早く結論を導くことができるという。この時代においても、コンピューターはまだ、人間に追いつけない部分があった。無難な解を二十個選ばせるならコンピューターの方が早いが、最適解への到達を競《きそ》えば人間が勝つのだった。
マージがロイドの袖《そで》を引いた。
「やめましょう、社長」
「何をやめるんだ」
「ナビゲーターを雇《やと》ってヴェイスに降りることです。私はお断わりしますからね」
「そう先回りするなよ、マージ。話だけでも聞こうじゃないか」
ロイドは髭男に三杯目をすすめた。
「で、報酬《ほうしゅう》とかはどうなんだね?」
「相場の三十倍は軽い」
「三十倍!」
ロイドの目の色が変わった。
「半分はナビゲーターの派遣料《はけんりょう》としてレグルスに払う。それでもいい儲《もう》けになるだろ?」
「ああ――いい」
目がすわっている。
マージは鼻先で手を振《ふ》ってみた。
反応は、なかった。
ACT・5 辞職
港に入った翌日のロイドがどんな風になるか、マージはよく知っていた。
夜のうちにたらふく酒を飲《の》み、もうひとつの欲求も満たして、洗いたてのハンカチのような顔になっている――いつもなら。
その朝のロイドは、赤い目をしていた。一晩中、考え事をしていたらしい。
朝食のコーヒーを一口すすると、ロイドは開口一番、こう言った。
「君は来なくていいんだ。まきぞえにする気はない」
「もちろんです。保険も下りない、死亡率〇・七%なんて仕事に、誰が行くものですか」
「もっともだな。それがまっとうな生き方というものだ」
「社長一人で行かれても困ります。触雷《しょくらい》したら、私はどうなるんですか」
「すまんが、自活してくれ」
「横暴です」
ロイドの顔に、変化が起きた。突然《とつぜん》、両方の拳《こぶし》をテーブルに振り降ろして怒鳴《どな》る。
「行きたいんだ! 宝島に行って、大金|稼《かせ》ぎたいんだ!」
「そんなに困ってないでしょう?」
「金は稼ぐことに意義がある!」
「…………」
あまりに異質な価値観に、マージは一瞬《いっしゅん》ひるんだ。
立ち直って、思ったままを言う。
「いいですか、金が必要な状況《じょうきょう》ならともかく――」
「そうか。じゃあ、金が必要な状況なら、危険を冒《おか》してもいいんだな?」
「そ――そうは思いませんが、少なくとも、筋道として理解できます」
「よろしい。いっしょに来てもらおう」
「どこへですか?」
「整備ドックさ。修理の見積もりができてるはずだからな」
「は?」
二人はそそくさと朝食をたいらげると、昨日アルフェッカ号を入れた整備ドックに向かった。
そして。
事務所で修理費の見積もりを受け取ったマージは、へなへなと傍《かたわ》らの椅子《いす》に座り込んだ。
「八百八十万ポンド……」
いまのミリガン運送には、逆立ちしても払える額ではない。
これはすなわち、ロイドの主張する、社運をかけて危険を冒《おか》す状況だった。
「どうしたもんかね、マージ・ニコルズ君。以前君が心配していたように、ここじゃレグルス社があらゆる価格体系を決めてるんだ。法外な値段に思えるが、文句は言えない」
ロイドは勝ち誇ったように言った。
「そして、昨夜調べたところでは、ヴェイスに降りる仕事を請《う》け負《お》えば、船を整備する代金を前借りできる慣例があるそうなんだよ」
なぜ勝ち誇ったような言い方になるのか、マージは理解できない。
だが、成行き上、負けを認めるしかなかった。
「わかりました。もう何も言いません。せいぜい社運を賭《か》けて挑戦《ちょうせん》してください」
「すまないな。なあに、わしは九十九・三%の確率で生還《せいかん》するんだ。安心して待っててくれたまえ」
「いいえ。その前に辞職させてもらいます」
「何?」
「ミリガン運送の消滅にともなう債務《さいむ》やら何やらの手続きで、ごたごたに巻き込まれたくありませんから」
「そうか……」
ロイドは堅《かた》い表情のままで言った。
「三年のつきあいだったな。君は生涯《しょうがい》最高のパートナーだった。このわしがコクピットで昼寝できるほど信頼《しんらい》できたし、それに――美しい。この先、幸《さち》多からんことを祈ろう」
「社長も、お達者《たっしゃ》で」
辞職|届《とど》けはアルフェッカ号のキャビンの、書類入れにあった。
マージはそれにサインすると、一人ホテルに戻った。
ACT・6 レブルス商船高校
放課後。
教官室に呼び出された時、メイは覚悟《かくご》を決めていた。
成績不良につき、退学《たいがく》になるのだ。
故郷《こきょう》に錦《にしき》を飾《かざ》るどころではない。
「メイ・カートミル、入ります」
中にはマクギル教官が待っていた。
「来たか」
凄《すご》みのある声。メイはすくみあがった。
「なぜここに呼ばれたか、わかるか」
メイは自分をはげますように、声をあげた。
「はい! 覚悟はできています!」
「よし! その意気だ。明朝九時、第四|桟橋《さんばし》にてブリーフィングを行なう。復唱《ふくしょう》!」
「はい! 明朝九時、第四桟橋にて……あの、ブリーフィング、するんですか?」
「当然だ」
「退学――するのに?」
「馬鹿者! 誰が退学と言った!」
「というと――」
「仕事だ! ヴェイス・ナビゲーターとして、実地に仕事するんだ!」
「……ほ、本番?」
「そうだ」
信じられない、という面持《おももち》でメイは聞いた。
「いつも――いつも居残りばっかりさせられてるのに、どうして……」
「俺も不安だ」
「教官……」
「だが上からの指示でな。急にナビゲーターが一人必要になった。同時にこういう指示もた。最終課程でスランプに陥《おちい》っている訓練生に、ショック療法《りょうほう》を加えてみたいとな。そこで、お前が指名された」
マクギルは言葉が相手の胸に浸透《しんとう》するのを待って続けた。
「特例のことなので、拒否《きょひ》する自由は与えられている。どうだ?」
メイは迷った。
三年間、この日を、本物のヴェイス・ナビゲーターになれる日を夢見てきた。
こっそり入学願書を出し、試験に通ってからは母親の猛《もう》反対を受け、家出同然に飛び出て三年。
メイは特航科の中でこそ振《ふ》るわないが、チェスなら瞬時《しゅんじ》に七手先を読める、恵《めぐ》まれた頭の持主だった。この才能を生かし、自分の生まれ育ったヴェイスのために、なくてはならない仕事をやろう――そう決意して三年。
しかし今の自分に、本当にこの大任がつとまるだろうか。
メイが逡巡《しゅんじゅん》しているのをみて、教官は低い、諭《さと》すような口調で言った。
「確かに、今のおまえはスランプだ。実地に出れば、真の力が発揮《はっき》できる可能性は高い。だがな……まだ早すぎるかも知れん。正直なところ、拒否した方がいいか、とも思う」
まだ早すぎる――いや、もうそんなことは言っていられない。
同期の仲間たちが次々と巣立《すだ》ってゆくなかで、自分だけが取り残されていたのだ。
メイは言った。
「やります」
「いいのか」
「はい」
マクギルはうなずくと、平坦《へいたん》な声で運航票を読み上げた。
「船名、アルフェッカ・シャトル、モリソン級。船主、ロイド・ミリガン、パイロット、マージ・ニコルズ。どちらも機雷原《きらいげん》の経験はない」
「はい」
「今夜はよく寝ておけ。下がってよし――ああそうだ、これを持っていけ」
マクギルは引出しから小さな包みを取り出して、メイに手渡した。
「……ありがとうございます」
「気をつけてな」
ACT・7 パブ・ロングショット
辞職したマージと、かつての上司が再会したのは、わずか六時間後のことだった。
マージはあれからホテルに戻り、パブでしたたかに飲《の》んでいた。
潰《つぶ》れるまで飲むつもりだった。
だが、生来酒に強いせいか、あるいは別の理由か、一向に酔《よ》いがまわってこない。
「こんな辺境《へんきょう》の地で会うとは奇遇《きぐう》だなあ。わしのこと、憶《おぼ》えてるか?」
ロイドは隣《となり》に掛けるなり、冗談《じょうだん》めかして言った。
「……忘れたわ」
「こっちは憶えてるよ。若く、美しく、稀代《きだい》の名パイロットにして――」
「やめて」
「ふむ」
ロイドはアプローチを変えた。ごまかしの効《き》く相手ではない。
「頼《たの》みがある」
返事はないが、ロイドは続けた。
「あれから、ヴェイスまで荷を運ぶ仕事を請《う》け負《お》ったんだが、契約《けいやく》の必要事項にだな、二名以上の操船《そうせん》要員を揃《そろ》えろ、とあった」
「…………」
「御承知かと思うが、今やミリガン運送にはこのわし一人しかいない。操船は一人でもなんとかなる。昔とった杵柄《きねづか》だ。ただ、臨時《りんじ》にパイロットを雇《やと》うメドが立たなかった。それでだ――」
「……使ったのね?」
「うむ?」
「あたしの名前、使ったのね?」
ロイドは、ゴホンと咳《せ》き込《こ》んだ。
「まあ、そういうことだ。――すまん」
マージは黙《だま》っていた。黙って、グラスを口に運ぶ。
ロイドは半ば絶望しながら、話を進めた。
「頼みがある。明日のブリーフィングに、その時だけ、顔を出してほしいんだ。ナビゲーターとともに乗船し、君は適当な理由を作って本船に移る。それからシャトルを切り離して発進するんだ。なあに、港を出てしまえばこっちのもんだからな」
「……そんな違法《いほう》行為を、この堅気《かたぎ》のマージさんが引き受けると思って?」
ロイドはしばしためらったが、攻勢に出た。
両手で相手の肩をつかみ、鼻先二十センチに顔を寄せる。
「頼む! ロイド・ミリガン、一生の頼みだ! もう金輪際《こんりんざい》、こんな申し出はしない!」
「…………」
マージは表情を変えなかった。
酔《よ》っているような、いないような、奇妙《きみょう》に朦朧《もうろう》とした意識の中で、彼女は自分が、ある言葉を待っているのに気づいた。もちろん、求愛の言葉などではあり得ない。
ロイドも口をつぐみ、何かを自問していた。
やがてロイドは言った。
「いや、そうじゃない――本当は顔を出すだけじゃ困るんだ。機雷原を抜けるには――マージ、君の腕が必要だ。君以外の誰にも、頼めない」
そこまで言うと、ロイドは身をしりぞけ、きまり悪そうに頭をかいた。
「明朝九時、第四|桟橋《さんばし》だ。待ってるぞ」
そう言い残して、ロイドはパブを出た。
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第二章 ヴェイスへの降下
ACT・1 第四桟橋
翌朝――。
回転|軸《じく》に向かうエレベーターを待ちながら、マージは考えていた。
桟橋《さんばし》でロイドに会った時、どんな顔を見せるか。
きっと控室《ひかえしつ》の窓に張りついて、そわそわと待っているにちがいない。
ここはやはり、クールに行きたい。
「ハイ」と一声かけ、相手が感激《かんげき》の面持《おももち》で「マージ、来てくれると信じてたぞ」と言ったら「キャビンに忘れ物をしたのよ」ぐらいに切り返す――。
エレベーターのドアが開いた。
中に入り、『閉』ボタンを押す――と、外から声が呼んだ。
「おう、待ってくれ!」
閉じかけたドアから飛び込んできたのは、ロイドだった。
「よう、マージ。早いな」
「え、ええ」
予定が狂《くる》った。
こんなところで会うとは。しかもこの態度――自分が来てあたりまえという顔をされるとは。数分の差とはいえ、ロイドより先に出たのが悔やまれる。
「ひとつ断《ことわ》っておきますが――」
「うん?」
「私、ブリーフィングに顔を出すだけですから。そちらの提案どおり、出発|間際《まぎわ》に追出《たいしゅつ》させていただきます」
「ああ――そうか。いや、それはそれでいいんだ。覚悟《かくご》の上だ」
エレベーターが上昇を始める。回転軸に着くまでの一分間を、マージはひたすら黙《だま》り通した。
L4シティの桟橋は回転軸の南端に位置している。桟橋といっても、それは宇宙船を取り囲む足場のようなものだ。ここでは四つの桟橋が束《たば》ねられて、一本の円筒《えんとう》に収まっている。この円筒が、すなわちコロニーの回転軸になっている。円筒は気密になっていて、もちろん桟橋側は真空である。遠心力もほとんど働かないので、環境《かんきょう》は宇宙そのものと言ってもよい。そこに立って紙テープを持ち、出船を見送ることなどは、ちょっと難《むずか》しい。
アルフェッカ号は本体とシャトルを連結したまま、ここに廻されていた。ターボポンプの修理はまだ終っていないが、これから使うのはシャトルだけなので差し支えはない。
シャトルの船首上部には、直径一メートルほどの球体が取りつけられていた。
通路の窓からそれを認めたマージは、つい沈黙《ちんもく》を破ってしまった。
「あれは何?」
「機雷《きらい》を感知する、特殊《とくしゅ》センサーだそうだ。ヴェイスに行く船はみんなあれをつける決まりになってるんだ。ナビゲーターが便うんだな」
通路は桟橋の一角にある、小さな控室《ひかえしつ》に通じていた。桟橋に来いと言われればここに入ることになる。
二人は中に入った。
微小《びしょう》重力下なので椅子《いす》はなく、書類を固定するクリップのついたテーブルがあるだけだった。その向こう側に、レグルス社のロゴ入り作業服を着た女子作業員がいた。
娘《むすめ》は言った。
「あの、ミリガン運送の方ですか?」
「ああ」
ロイドは時計を見ながら言った。九時四分。
「九時にヴェイス・ナビゲーターと待ち合わせることになってたんだが……君、その関係者かね?」
「ええ、まあ」
「ペイロードの積み込みは済んでるね?」
「ええ。あとでリストをお渡しします」
「ああそう。センサーの配線とかも、終ってるかね?」
「そのはずです」
「ふむ」
もばし沈黙。
再び、ロイドが育った。
「あー君、ナビゲーターの人は遅《おく》れるの?」
「あの、私なんです」
「ああそう……え?」
ロイドとマージは、改めて相手を見直した。
まだ十五、六の、少女だった。
胸や腰にわずかな張りが見られるものの、全体として痩《や》せていて、頼《たよ》りない。
澄《す》んだ金色の髪《かみ》は、微小重力に備えて後ろで束《たば》ねている。ヘアスプレーも使っているはずだが、髪はとても柔《やわ》らかそうだった。
少女は、白い、おびえたような顔でこちらを見ていた。
「あなたが、ナビゲーターなの? そう言った?」
マージが聞く。
「はい。メイ・カートミルといいます。よろしくお願いします」
「……マージ・ニコルズ。よろしく」
「ロイド・ミリガンだ」
三人はぎこちなく自己紹介《じこしょうかい》した。
短い沈黙のあと、ロイドが聞いた。
「あー、なんだその、ヴェイス・ナビゲーターというのは、みんな君ぐらいの歳《とし》なのかね?」
「ええ。十歳から基礎《きそ》過程に入って、早い人は十四ぐらいでお仕事します」
マージは、機雷を避けるのに『チェスの要領』がいる、と聞いたことを思い出した。
確かに、チェス・プレイヤーは若いうちから仕込まれるものだが……。
「あなたは――その」
「十六になります」
「そう……」
「機雷原には何度も行ったのかね?」と、ロイド。
「ええ。十回くらい。二百三十時間になります」
「そりゃたいした度胸だな」
「とんでもありません。――えと、では、軌道《きどう》の説明をします」
メイは傍《かたわ》らのスーツケースからスレート(ラップトップ・コンピュータ)を取り出した。電源を入れると、ディスプレイにヴェイス、月、L4シティが図示された。ヴェイスの周囲には、薄《うす》く着色された球殻《きゅうかく》がある。
「機雷は、高度二百キロから一万キロまでの範囲《はんい》に分布しています。この、色のついた部分です」
「ほう、卵の白身みたいなもんだな」
ヴェイスの直径も一万キロ弱だから、機雷原の厚みにほぼ等しい。黄身《きみ》が惑星ヴェイス、白身が機雷原――そしてその境《さかい》にある安全地帯は、大気|圏《けん》を含めても惑星の直径の五十分の一しかない。
「機雷原の五百キロ手前まで来たら、秒速二キロに減速して、指示に従っていただきます」
「指示はどんな風に?」と、マージ。
「十六方向と角度、それに噴射《ふんしゃ》出力で示します。右上・やや右・五度、プラス三、みたいに」
「それは、船を基準にしたベクトルかしら。それとも惑星が基準?」
「船です」
「そりゃ助かるな」と、ロイド。
ヴェイス・ナビゲーターは、船の回転にともなう座標|変換《へんかん》を頭の中でやってしまうようだ。
「ところで、機雷は見えるのかね? 肉眼やレーダーで」
ロイドが聞く。
「いいえ。どちらでも見えません。機雷原の中ではレーダーや電波通信が使えませんし、光もほとんど吸収する、真っ黒な物体なので」
「なら、惑星をバックに影が見えそうだが」
「とても小さいんです。これくらい」
メイは親指と人指し指で輪を作ってみせた。
「信じられないな。それが自分で判断して動き、触雷《しょくらい》すると爆発するのかね」
「ええ。核融合《かくゆうごう》爆発が起きて、目標もろとも蒸発《じょうはつ》します」
「ふむ……痛みを感じる暇《ひま》もなし、か」
周囲に反応する物質がないので、宇宙空間での核爆発は一般《いっぱん》に想像するよりずっとソフトなものだ。それでも、至近距離で食らえばひとたまりもないことは間違いない。
「――それはそうと、電波通信が可能になるのはどこ?」
「高度百五十キロくらいからです。でも、すぐに大気圏に突入《とつにゅう》するので、実際には空力操縦が始まってからになります」
「ふむふむ」
「じゃあ、宇宙港との連絡《れんらく》は見通し通信しかできないわけ? 通信衛星はあり得ないし、短波もだめでしょう? 電離層の反射が期待できそうにないから――」
「ふむふむ」
「そうです。でも宇宙港は赤道直下にありますから、万一ロストしてもすぐ見つかると思います」
「ふむふむ」
ロイドはしきりにうなずいていたが、やがて大きくうなずいた。
「ふむ――なるほどなるほど、わかってきたぞ」
「何が?」
「この機雷原のしくみさ。実にうまくできてる。宇宙との交通を阻害《そがい》するだけじゃない、惑星内外の通信にも大打撃《だいだけき》を与えるわけだ。考えてもみろよ、通信衛星なしでどうやって戦争できる?」
それはそうだが――感心してる場合じゃないでしょうに、とマージは思った。
ロイドは興味津々《きょうみしんしん》の面持《おももち》でメイに質問した。
「しかし待てよ――レーダーでも光でも見えないのなら、あの機雷用のセンサーはどんな原理で動いているのかね?」
「それは、企業《きぎょう》秘密になっていて、私たちも知らないんです。大戦期のユニットを使っていて、噂《うわさ》では機雷の重力波を検出しているっていいますけれど」
「ほう。まあ、ブラックボックスってわけだな」
ロイドはそう結論して、思考を停止した。
だがマージは、まだ納得《なっとく》しなかった。
「もし、隕石《いんせさ》や小惑星がヴェイスに落下しようとしたら、機雷原はどうふるまうかしら?」
「無視します」
「じゃあ、小惑星の中をくり抜いて宇宙船に改造したら? ノズルとかをいっさい露出《ろしゅつ》させないようにして」
「それは、大昔に実験したことがありましたけど、見破られました」
「離れたところから物質の内部を見通し、人工物かどうかを判断できる――」
「そうです」
手ごわい相手だ。なら、物量作戦はどうだろう。
「スクラップ寸前の無人宇宙船を片《かた》っ端《ぱし》から機雷原に投げ込んだらどうなる? 機雷はどんどん消耗《しょうもう》していくわ」
「六千四百万個分のスクラップを用意するのは、ちょっと無理みたいです。それに、触雷で蒸発した金属原子を別の機雷が集めて新しい機雷を作るとか、その燃料になるとかっていう説もあって」
「そっかあ……」
マージはため息をついた。
「機雷が燃料切れになることは?」
「大戦当時の敵側のアナウンスでは、五百年後だそうです。確認したわけじゃありませんが」
「そりゃそうよね」
極小のブラックホールと重力制御装置があれば、あるいは可能かも知れない。
その上、高度な判断能力を持っている。こんな機雷があるなら、銀河|征服《せいふく》だって朝飯前ではないか。
いや、きっと同レベルの対抗《たいこう》兵器があったんだろう……。
マージは暗い気分になった。
三人はブリーフィングを終え、シャトルに乗り込んだ。
まず、積荷をチェックする。
メイの差し出したリストによれば、ライフ・プラント――都市ドームの生命|維持装置《いじそうち》群――の補修《ほしゅう》資材と工具、そして医薬品が大半を占めていた。それぞれ色違いの汎用《はんよう》コンテナに収められ、ペイロード・ベイに固定されている。
ちなみに帰途《きと》の積荷は、惑星側の指示に従うことになっている。
「しっかり固定してあるわ。荷|崩《くず》れの心配はなさそうね」と、マージ。
「荷役の人、心得てると思います。Gがかかりますから」と、メイ。
機雷を回避《かいひ》する時の事を言っているのだろう。
次いで機関部をひととおりチェックすると、三人はコクピットに入った。
右側のアビオニクス・ベイから一本のケーブルが伸びている。特殊《とくしゅ》センサーからのものらしい。
「あなたはここに座るのね?」
マージは普段《ふだん》使っていない、機関士用の補助席を指した。
「はい。――あの、メイと呼んでくださって結構です」
「わかったわ、メイ」
たぶん、ファーストネームで呼ぶのも手順のうちなのだろう。これからの航海ほど、チームワークが要求されるものもないはずだ。
「こっちもマージ、ロイドでいいわよ」
「はい、マージさん。それにロイドさん」
メイは自分のスレートにセンサー・ケーブルを接続し、いくつかのキーを叩《たた》いた。
「センサーとの接続、OKです」
それから、ポケットから青いスカーフを取り出し、右腕に巻いた。
「何かいわくがあるのかね、それは?」と、ロイド。
「おまじないです」
「航海の無事を祈《いの》って、か」
「ええ。伝説《でんせつ》の天才ナビゲーターっていう人がいて――アシュトン・クリーブっていうんですけど――十八年もお仕事してたんです。その人がいつも青いスカーフをつけてて」
「勤続十八年で天才なのかね?」
「契約《けいやく》期間は四年なんです。もっと続ける人もいますけど、たいてい十年くらいで、その……」
殉職《じゅんしょく》する、というのだろうか。マージは思った。宇宙で働く者が命懸《いのちが》けになることはあたりまえだし、自分もそうしてきたつもりだ。だがそれが、自分より十以上も若い娘《むすめ》となると、話は別だった。
マージは何も言えず、前方左側の船長席についた。
右にはロイドが座る。
ロイドが全二百十七項目のチェックリストを読み上げ、マージがチェックしていった。
「全システム異常なし。いつでもスタートできます」
マージはそう言うと、ほっ、とため息をついて、席を立った。
「じゃ私、発進の間、『後ろ』でエンジンの調子を見てますから」
「うむ、じゃあな」と、ロイド。
――手筈《てはず》通りの行動だった。
マージがコクピットを去ると、ロイドはメイに説明した。
「この船のしきたりでね。マージは発進の時、機関部を見てないと気が済まないたちなんだ」
「そうなんですか。慎重《しんちょう》なんですね、マージさんて」
「ああ。まったくだ」
ロイドはエンジンを始動した。
管制室に発進許可を求める。すぐにOKが出た。
操縦系を副操縦席に移す。
動力炉始動。パルス化したレーザーが核融合炉《かくゆうごうろ》に最初の火をともした。
マージが本船に移乗した頃合をみて、ロイドはドッキングを解除した。
「さあ、いくか。微速《びそく》前進」
バーニア推進《すいしん》のかすかな音が響《ひび》く。
アルフェッカ・シャトルはゆっくりと前進を開始した。
「インナー・ゲート・クリア」
桟橋《さんばし》を出ると、港の出口まで二百メートルの円筒《えんとう》が続く。
ロイドは加速を強めた。
操縦桿《そうじゅうかん》を持つ手が汗ばむ。単独操縦は、実に三年ぶりだった。まだ勘《かん》は忘れていないつもりだが、手足がついてくるかどうかは、自信がない。
「アウター・ゲート・クリア」
シャトルは港を出た。
視界は一面の星空になった。片隅《かたすみ》にぽっかりとヴェイスが浮かんでいる。
港より十キロ地点の通過を確認すると、ロイドは視線を前方に向けたまま、メイン・エンジンのスロットル・レバーに手をかけようとした。どんな操作も、目を閉じたままできなければプロではない。少なくともマージはいつも、そうしていた。
だが、伸ばした手は、宙を切った。
ロイドは初めて、シートが後退《こうたい》しすぎていることに気づいた。――その方が、昼寝には都合がいいのだ。
五ミリ秒ほど自己批判した後、ロイドはシートを正しい位置に戻し、改めてスロットル操作に入った。
「後方クリアーメイン・エンジン噴射《ふんしゃ》、一速、と」
体が、じわりとシートに押しつけられた。
メイン・エンジンを始動したところで、また端《はし》から計器をチェックする。
炉心《ろしん》温度、推進剤《すいしんざい》流量、熱交換効率、サーミオニック発電量、酸素残量、水素残量、加速度、船内温度……。どの計器も理解できる。だがパイロットに必要なのは、一瞥《いちべつ》で異変の兆候《ちょうこう》を知ることだった。コンピューターの出す警報を待っていたのでは遅《おそ》すぎる。今の自分にそれができるだろうか。
「メイ……」
計器に目を向けたまま、ロイドは聞いた。
「なんだその――機雷原《きらいげん》に入ったら、かなりの高機動になるんだろうな?」
「ええ。でもこの、モリソン級シャトルなら大丈夫《だいじょうぶ》です」
「そうか。そうだよな、うん」
心細いのはシャトルの性能ではなかったが、メイは勝手にそう解釈していた。
「機雷原を越えられる機動力があるかどうか、運航部で審査《しんさ》してますから――あ、エンジンのほう、大丈夫でした?」
ロイドは前を向いたまま、凝固《ぎょうこ》した。
メイは明らかに、自分以外の誰《だれ》かに向かって話しかけていた。
その誰かは、ええ、と答えた。
空調のもたらす微風《びふう》が、慣れたコロンの香《かお》りを運んでくる。
「いつまでコロニーといっしょにローリングしてるの」
「マージ……」
ロイドはようやく、その方を向いた。
マージは船長席にもぐりこむと、手早くハーネスを締《し》めた。
「アイ・ハブ」
「……ユー・ハブ」
操縦系が船長席に移る。
マージは操縦桿を軽く傾《かたむ》けて、シャトルの回転を打ち消した。次いで針路をヴェイスに向ける。
ロイドは小声で聞いた。
「マージ、君は――」
「ペイロード・ベイに忘れ物をしたのよ。取りに戻っているうちに、発進したの」
機雷原まで三十六万キロ。
このシャトルなら、二時間の距離だった。
ACT・2 レグルス社・社長室
社長室は、コロニーの港と同じ側の端面《たんめん》にあった。
壁《かべ》には厚い窓があり、照明を落とした部屋《ヘや》から、ゆっくりと回転する星空が見えた。部屋は居住区と同様、回転|軸《じく》から最も離れた位置にあったが、星空は窓に映る自分の顔を中心に回っているように見えた。
視野の上から青白い光芒《こうぼう》が現れ、めぐる宇宙の中心に向かって遠ざかり始めた。
「行ったか……」
それがかすかな光点になるまで見送ると、エドガー・クレメントは窓辺《まどべ》を離れ、照明をもとに戻した。
大きな、本物のチーク材でできたデスクに戻り、ため息をつく。
刻《きざ》まれたような眉間《みけん》の皺《しわ》に、はらりと前髪《まえがみ》がかかった。
「いつ見ても、嫌《いや》なものだな」
エドガーは、視線をそらしたまま、デスクの前の男に言った。
「弱気になってはなりません。三千人の社員と、その家族のことをお考えください」
「おまえはタフな男だな、ボリス」
エドガーはそう言って、デスクの上の運航票をディスポーザーに投げ込んだ。運航票にある、あどけない少女の顔写真を追い払いたかったのだ。
「それでよいのです、エドガー様」
「……タフで、そして冷酷《れいこく》だ」
「先代に仕《つか》えるうち身につけた、処世術とでも申しましょうか」
当年五十一歳になる運航部長、ボリス・ネイサンは言った。現在のレグルス社社長であるエドガーより、十は年かさに見える。だが、肉体の衰《おとろ》えはうかがえない。ぴったりとした黒いスーツに身を包んだ、精悍《せいかん》な、鷹《たか》のような男だった。
「お疲《つか》れのようですな。一度フラードル星にでも行って保養されるといい」
エドガーは答えなかった。
「では、時間が来ましたら、また」
そう言って、ボリスは退出《たいしゅつ》した。
ACT・3 アルフェッカ・シャトル
アルフェッカ・シャトルはヴェイスより四万キロの地点にさしかかっていた。
船尾《せんび》は前方に向き、減速行程が始まっている。
機雷原までまだ少し時間がある。コクピットでは、ヴェイス・ナビゲーターにまつわるよもやま話が続いていた。
「母さんは猛《もう》反対したけど、父さんは許してくれたんです」
「そんなものかなあ。いやいや、君のお父さんが情のない人だと言ってるんじゃないんだが……」と、ロイド。
「ヴェイスはドーム都市だから、交易《こうえき》が途絶《とだ》えるとすぐに干上《ひあ》がってしまうんです。だから、その、ナビゲーターになるのは、すごく名誉《めいよ》、っていうか――」
メイは少し照れ笑いを浮かべた。
「父さんは前からよく、誰かがやらなきゃいけない仕事だって言ってました。おまえが本物のナビゲーターになれたら、これ以上の誇りはない、って」
マージは釈然《しゃくぜん》としない思いだった。
名誉なのは確かだろう。
だけど――。
「だけどメイ、ヴェイスの人口ってたった五万なんでしょう? 命がけで交易するぐらいなら、なぜよその惑星に移住しようとしないの?」
「それは……うーん」
メイが口ごもると、横からロイドが言った。
「ちっちっち。マージ、君は郷土愛《きょうどあい》というものがわかってないな」
「郷土愛?」
「そうさ。大戦からこっち、少なくとも二百六十年間暮らしているわけだろう? ドームだろうとなんだろうと愛着が湧《わ》くし、そこに住んでいることを誇《ほこ》りに思うようになるもんさ」
「そうなの? メイ」
「あまりそういうこと、考えたことなかったです。ずっとヴェイスで育って、高校に入るまで、上に行ったことなんかなかったし――切符《きっぷ》がものすごく高いですから――でも、そうですね、言われてみれば」
「郷土愛?」
「みたいな。ドームを暮らしやすくするためにみんな一生《いっしょう》懸命《けんめい》やってるから、自分もやろうって思ったんです。父さんも浄水《じょうすい》施設で働いてますけど、濾過装置《ろかそうち》をドーム内の材料で済ませるように工夫《くふう》したりして、表彰《ひょうしょう》されたことあるんです」
「ふうん。……やっぱり家庭|環境《かんきょう》の違いかな」
マージは、自分の子供時代を思い出した。
「父親が商船会社に勤めててね。小学校から高校にかけて、十回は転校したわ」
「知らないところへ、ですか?」
「もちろんよ」
「怖《こわ》くなかったですか?」
「まさか」
「へえ……」
メイは心底驚いているようだった。
マージは、わかりかけてきたような気がした。
ヴェイス人は長年にわたる機雷封鎖《きらいふうさ》のせいで、安住の地へ移ろうとする志向を失ったのではないだろうか。直径十キロのドーム都市なら、年頃《としごろ》になるまでにその隅々《すみずみ》まで熟知《じゅくち》するのだろう。だから、知らない所へ行き、知らない人と出会うことが、想像もつかない冒険《ぼうけん》になる――第四|桟橋《さんばし》で会ったときのメイの、おびえた表情もそのせいだろう。
メイは言った。
「そんなに引っ越してたら、友達できても、すぐ別れなきゃならないですね」
「まあね。でも、また作ればいいでしょ」
「それもそうですね」
ちょっと嘘《うそ》かな、とマージは思った。別れるのが惜《お》しくなるような友達は作らなかった、という方が真実に近い。
だが、さばさばしていいではないか。
常に世間・隣《となり》近所と折り合いをつけていかなければならない『コロニー根性《こんじょう》』――ヴェイス人はその最《さい》たるものにちがいない――に較《くら》べれば。マージはそう、結論した。
「そろそろだぞ、マージ」
ロイドが計器を見て言った。
高度一万五千キロ。
「五キロ/秒に減速」
メインエンジンをひと吹かしすると、マージは船体を反転させた。
旅の終りの、わくわくする瞬間《しゅんかん》――今回はそうでもないが――正面の窓に惑星ヴェイスがその姿を見せた。見かけの大きさは、三十度を超えている。
船体各部に配置されている四十二基のバーニア推進《すいしん》機構を再度チェックする。
異常なし。
「高度一万三千キロ。三キロ/秒に減速。メイ、準備はいい?」
「えと、大丈夫です。進路・姿勢連動モードにしてください」
「了解《りょうかい》」
これでシャトルの姿勢は常に進行方向を向くことになる。飛行機なら当り前のことだが、宇宙では違う選択《せんたく》もあった。
「あの、こちらの画面を転送しましょうか?」
「そうね。役に立つかどうかわからないけど、ないよりはいいな」
メイのスレートの画面内容が、そのまま計器|盤《ばん》のスクリーンに表示された。
「左の半球が前、右が後ろの視野を表《あらわ》しています。機雷は黒い球《きゅう》で表示されます」
「この白い球は?」
「機雷原の外側を周回する、レグルス社の監視《かんし》衛星です。たまに、知らずに入り込もうとする船がいますから」
「確かにいそうだわね。まだ機雷は表示されないの?」
「探知できるのは百キロぐらいからです」
「そう。――高度一万五百キロ。二キロ/秒に減速」
「そのまま直進してください」
「了解」
機雷原突入まであと二百五十秒。
急にロイドが言った。
「ふと思ったんだがメイ、ハイスピードで突っ込むのも手じゃないか? 囲まれる前に機雷原を抜けられるだろう」
「機雷を振《ふ》り切れるほどの速度だと、惑星との衝突《しょうとつ》を避けられないんです」
機雷原の下限は高度二百キロ。惑星を一メートルの球に縮めるなら、その表面から二センチの距離《きょり》にすぎない。そして機雷原を最短距離で抜けるには、惑星に対して鉛直《えんちよく》に接近しなければならないのだ。
「ロイド、しばらく黙《だま》ってて」
「へいへい、船長どの」
八十秒後、スクリーンに黒い点が現れた。その数二十あまり。
背後で、メイがこくりと唾《つば》を呑《の》みこんだ。
予期してしかるべきだったが、マージは今初めて気がついた。機雷は軌道《きどう》飛行をしていなかった。あの小さな球体の中に、重力制御システムが内蔵されているというのだろうか。
「左下二度、速度マイナス五」
「左下二度、マイナス五」
マージは言われるままに操船した。直観とは裏腹に、メイは機雷の密度が最も高い領域に船を向けようとしていた。
信じるしかない。ああ見えても、幾度《いくど》か死線を越えてきたプロなのだから。
機雷原まで、あと六十秒。
ACT・4 レグルス社・社長室
時計を見ると、ボリスは金庫室に向かった。社長と自分しか持てない電子キーを差し込み、傍《かたわ》らの装置で網膜《もうまく》照合を受ける。
金庫室の制御コンピューターは、まず背後の扉《とびら》を閉め、部屋に人間が一人しかいないことを確認すると、目の前の、重厚な扉をゆっくりと開いた。
ボリスは中に入り、棚《たな》から黒いアタッシェケースを引き出した。
社長室に入ると、ボリスはつかつかとエドガーの前に進み出て言った。
「時間でございます、エドガー様」
「うむ」
ボリスがデスクの上にアタッシェケースを置くと、エドガーはキーを取り出してその蓋《ふた》を開いた。
それは、スレートの一種に見えた。
電源を入れるとすぐ、ディスプレイに『RNET・リンク完了』と表示された。
暗唱《あんしょう》番号を入力し、内蔵された固体|撮像素子《さつぞうそし》カメラの視野に、自分の瞳《ひとみ》を置く。
箱の中で、何かがかちりと鳴った。
エドガーは中央にある、小さな蓋を開いた。
中には赤いボタンがあり、『起動』と刻印《こくいん》されていた。
「運航は予定通りか?」
ボリスはうなずいた。
「あと六十秒でございます」
「わかった」
エドガーはボタンを押した。
かすかなクリック音が響《ひび》いた事をのぞけば、何も起きなかったように見える。だが、壁面《へきめん》のレセプターはアタッシェケースが発した微弱《びじゃく》な信号をとらえ、L4シティのネットワークにその最優先メッセージを送った。
メッセージを受けたホスト・コンピューターはあらかじめ決められた手順で、コロニーの軸部《じくぶ》にある送信センターに命令を送り、ヴェイスに向けられたアンテナから、ある信号を放った。
ACT・5 アルフェッカ・シャトル
「左一度、えと、速度そのまま!」
「左一度、了解《りょうかい》」
目の前に二個の機雷《きらい》が迫《せま》っている。メイはその中間を抜けようとしていた。
次に近いのは右上の一個。その奥にもう一個。
「まもなく右上六度に転進。カウントします」
「右上六度、スタンバイ」
「四秒前、三、二、一、ゼロ」
マージは操縦桿《そうじゅうかん》を倒した。
「速度プラス六!」
「速度プラス六」
バーニア推進《すいしん》としては最強の出力だった。
アルフェッカ・シャトルは、黎明期《れいめいき》のスペースシャトルと較《くら》べると、はるかに強力なバーニア推進《すいしん》機構を持っている。これはさまざまな重力や大気密度に対応するためで、VTOLとまではいかないが、真空中のみならず、大気圏内での制御をも担《にな》っていた。
その能力をフルに使うことを余儀《よぎ》なくされて、そろそろ一時間。
その頃にはもう、誰の目にも明らかだった。
メイは苦戦しているのだ。
後方および左舷《さげん》前方は、すでに包囲|網《もう》が完成されていて、素人目にも突破できそうにない。残された右舷側には八個の機雷がポジションを固めつつあった。
だが、そこへ船を向けることは自殺行為らしい。機雷をそらし、脱出《だっしゅつ》用の『窓』を確保するには、他の機雷の干渉《かんしょう》を利用するしかないのだろう。
「上・やや右五度、い、いえ六度!」
「上、六度。――落ち着いてメイ。あと二千キロよ」
「す、すみません。本番がこんなに厳《きび》しかったなんて……」
「え?」
ロイドがメイの方を向く。
マージもおそらく同じ疑問を掛ったが、反射的にその考えを追い払った。
「加速――プラス三・五!」
「プラス三・五」
「メイ、今、本番がどうのと言ったな?」
「はい……左上・やや上、二度!」
「左上・やや上、二度。ロイド、メイの邪魔《じゃま》をしないで!」
「もしかして、初《はつ》仕事なのか?」
「ロイド!」
マージは怒鳴《どな》った。
聞きたくも、信じたくもない事に、今結論を出す必要がどこにあるだろうか。
「まもなく減速、ええと、一キロ。カウントします」
「マイナス一、スタンバイ」
「五秒前、ええ、初めてなんです、二、一、ゼロ!」
「じゃあ十回、二百三十時間ってのは」
「ロイド、殺すわよ!」
「訓練です。教官と――ああっ! 下、下十二度!」
「下十二!」
――殺してやる。ああ、殺してやるとも。どうせ死ぬんだ。
「まもなく右下四度、二、一、ゼロ!」
「右下四度!」
「マ、マイナス」
「いくつ!?」
「一! だめ、一・二!」
「マイナス一・二。落ち着いて、メイ」
その時マージは、前方にかすかな閃光《せんこう》を認めた。惑星上の何かではない。もっと近い、宇宙空間にあるものだ。機雷《きらい》でないとすれば、スペース・デブリ――衛星|軌道《きどう》を周《まわ》り続ける、人工物の残骸《ざんがい》――に違いなかった。
「メイ、右上四度にデブリ!」
「み、右上四度、デブリ、了解」
「落ち着いて。衝突《しょうとつ》の心配はないわ」
だが、その存在はメイの混乱に拍車《はくしゃ》をかけた。メイは泣き声をあげた。
「ああっ、だめ。もう『窓』が……」
マージは機雷原に入ってはじめて、後ろを振《ふ》り返った。
メイは左手で、汗か何かをぬぐっていた。
マージは怒鳴りつけた。
「あと五百キロよ。メイ、頑張《がんば》っておうちまで案内してちょうだい!」
「す、すみません。――加速、四」
「プラス四」
「合図《あいず》したら、左へ八十五度。高機動になります」
「左八十五度了解。みんな、Gに備えて」
「まだ……もう少し……はいっ!」
マージは力まかせに操縦桿を倒した。
唐突《とうとつ》に与えられたベクトルに、船全体が悲鳴をあげる。まるで空中戦だった。
窓外には暗闇《くらやみ》と惑星しか見えないが、スクリーンは雲霞《うんか》のような黒点に埋《う》めつくされている。残されたわずかな『窓』――目に見えない脱出|回廊《かいろう》に向けて、シャトルは突進した。
「右上七十度!」
「右上七十!」
その時、コクピットの上方で、鈍《にぶ》い物音がした。
直後、メイが悲鳴をあげる。
「どうしたの!? あっ!」
スクリーンの表示が消えていた。
ということは……。
「セ、センサーの信号が……切れて」
「なんだとお?」
「今の機動で脱落《だつらく》したんだわ!」
「じゃあなんだ、盲目も同然ってことか?」
メイは両手に顔をうずめたまま、うなずいた。
「もう、だめ。おしまいです!」
「メイ――」
何か、叱咤激励《しったげきれい》の言葉を投げようとして、マージは思いとどまった。こんな時は具体案出すべきで、それ以外は時間の浪費《ろうひ》にしかならない。
その時、ロイドが言った。
「メイ、最後の配置を憶《おぼ》えているだろう? いちばんよさそうなベクトルを指示してくれ」
「そんな、無理です。機雷の配置、どんどん変わってて」
「それまでの動きから予想がつくだろう」
「だめです、とても責任持てません」
「正解を出せなんて言ってない。いちばんましな答えでいいさ」
ロイドはマージに向き直った。
「マージ、指示が出たらメインエンジン全開だ。あと四百キロ、気合いで突っ切ろう」
「だ……」
「だめです!」
マージの声にかぶせて、メイが叫んだ。
「そんなことしたら、惑星に衝突《しょうとつ》するって、さっき」
「いいかよく聞け。このマージおばさんはな」
ロイドはにやりと笑った。
「大気制動の名手なんだ。――さあメイ、指示してくれ」
メイは汗だくの顔で、目を閉じた。
今こそ能力を最大限に発揮《はっき》する時だ。
脳裏に、それまでの機雷の配置が蘇《よみがえ》った。架空《かくう》の時計が動きはじめ、機雷はこちらの針路や他の機雷と複雑に干渉《かんしょう》しあいながら位置を変えてゆく。突破《とっぱ》できる『窓』はすぐに塞《ふさ》がった。時計を戻し、別の針路で再スタート。これもだめ。針路を再設定してやりなおす。
――きっかり三秒後、数十回の試行をへて、メイは結論を出した。
「左上・やや上、二十九度に」
「マージ、やれ」
今日のロイドにはいろいろ文句があったが、マージの手は反射的に動いていた。
「左上・やや上、二十九度。メインエンジン、最大出力」
重低音が轟《とどろ》き、船体構造がみしりと鳴った。
針路は鉛直《えんちょく》に近い。視野はたちまち赤茶けたヴェイスの大地と、絹《きぬ》をひいたような高層雲に占領《せんりょう》された。
「高度四百」
前方に目をこらすが、機雷らしきものは何も見えなかった。
「高度三百。メイ、今でもこのコースを維持《いじ》する意味はある?」
「いいえ」
最短距離で脱出したいところだが、速度は秒速三十キロに迫《せま》っていた。このままでは確実に大気|圏《けん》で燃え尽きる。マージは地表と平行する向きに軌道を遷移《せんい》させた。
突然、メイはそれがもたらす意味に気づいた。
機雷は自身の節約のため、自殺的な軌道を選ぶ船は無視する。マージの軌道修正は自殺からの転向を意味していたから、再び機雷の注目をあびることになるのだ。
「マージさん、やっぱりそのコース、だめです!」
メイが叫ぶ。
「もう遅《おそ》い! 逃げきるしかないわ!」
高度計の針は、じりじりと下がってゆく。
あと少し――。
「高度二百!」
「やったぞ、抜けた!」
ロイドが脳天気に言う。
喜ぶのはまだ早い。シャトルは軌道速度の五倍で大気圏に突入しようとしていた。地上で十分の一気圧しかない大気で、どうやって減速するというのか――。
機雷原を出てから大気圏まで、十数秒。何かを計算している暇《ひま》はなかった。
「突入角二十度。メイ、シートを前に向けなさい!」
「はい!」
全開|噴射《ふんしゃ》のまま、マージはベクトルをほぼ逆にとった。水平分力に割り振った七十度に、深い根拠《こんきょ》はない。突入までに少しでも減速しておきたいが、それにも限度がある。むしろ進入角を浅くする方に力を注ぐ方がよくないか? 惑星の弧《こ》のぶん、時間と距離《きょり》がかせげるから――。
「高度七十キロ」
窓外が、パッとオレンジ色に染《そ》まった。
表面温度二千四百。
強烈《きょうれつ》な減速で、視野が狭《せば》まりはじめた。操縦|桿《かん》はアームレストの先にあるが、手首を持ち上げることさえつらい。そして報《むく》いられないことに、どう操縦しようがたいした自由は得られなかった。この速度と高度では、シャトルは翼《つばさ》を持った揚力体《ようりょくたい》というより、砲弾《ほうだん》に近いのだ。
だが、降下率は下がっている。
このぶんなら、もしかして――。
悲鳴のような警報が鳴り響き、スクリーンが強制的に切り替《か》わる。現れた船体の三面図は、真紅《しんく》のブロックに彩《いろど》られていた。過熱警報。冷却液圧力|過剰《かじょう》。
マージは警報を手動で解除して、昇降計を見守った。
降下率がゼロからマイナスに移る。
表面温度二千七百。
「……どうやら生き延びたようね」
「ほんとか?」と、ロイド。
「一度上昇して船を冷ますわ」
「うっかり機雷原に戻るなよ」
「憎《にく》まれ事しか言えないの?」
「ああ――いや」
ロイドは左手を伸ばして、操縦桿を握《にぎ》るマージの右手に重ねた。
そして、顔を前に向けたまま、言った。
「感謝してる」
「そう?」
「いつだって、君には感謝してるんだ」
「そうかしら」
「本心だ」
「わかったわ、ロイド。もう充分《じゅうぶん》」
マージは思い出したように後ろを振《ふ》り返った。
「メイ。……メイ?」
初仕事を終えたばかりのナビゲーターは、気を失っていた。
「起こすのは、降りてからでいいだろう」
「そうね」
シャトルは高度百五十キロの周回軌道に乗っていた。赤道軌道にトランスファし、惑星を一周して、アプローチをやりなおすのに九十五分。
少々遅れたが、地上はもう、目と鼻の先だった。
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第三章 カミング・ホーム
ACT・1 ヴェイス空港
ヴェイスは直径一万九百キロ、表面重力〇・六Gの、やや小振《こぶ》りな惑星だった。
大気成分の大半は二酸化炭素で、気圧は地球の十分の一しかない。
地表に植生はなく、岩山と砂漠がどこまでも続いている。寒暖の差は激しく、そのせいか秒速五十メートルを越す暴風に見舞《みま》われることもあるという。
大気は澄み切っている。滑空速度が音速を切ると、船体が急速に冷えてゆくのがわかった。
もう無線は使える状態になっていて、目的地を示すマーカー・ビーコンも良好に受信できる。赤道直下の淡《あわ》い青空の下、電波の示す坂道をゆるやかに降りてゆくと、前方に灰白色の滑走路が見えた。
周囲に大きな建築物は見あたらない。大部分の施設《しせつ》は地下にあるのだろう。
滑走路から十キロほど北に、大きなレンズ状の構造物があった。居住ドームらしい。
赤茶けた地表が迫《せま》り、素晴らしいスピードで後方に流れてゆく。
大気は薄《うす》いが、空力的な着陸が可能なだけの密度はあった。
ボディ・フラップ、五度UP。ギヤ・ダウン。スポイラー展開。
タッチ・ダウン。エアプレーキ展開。
メイン・エンジンを最小出力で噴射《ふんしゃ》させながら、マージはシャトルを誘導路《ゆうどうろ》にまわした。その先は長いスロープになって、地下に続いている。
シャトルをランプにつけ、ホイール・ブレーキをロックする。
エンジンの火を落とすと、マージはメイを揺《ゆ》り起こした。
「メイ、起きなさい。メイ」
「……マージさん。あっ! ここは――」
「天国よ」
「うそ! ここ、ヴェイスです。こんなに体が軽いんだもの!」
ロイドは一瞬《いっしゅん》、おや、という顔になったが、すぐに大声で笑った。
「はっはっは。やっぱり土地の子にはかなわないな。――メイ、ちょっと心許《こころもと》ないところもあったが、よくやってくれた。おじさんは嬉《うれ》しいぞ」
「お疲《つか》れさま、メイ」
「いいえ……ほんとに、私のせいで、危ない目にあわせてしまって。すみません」
「とにかく結果を喜ぼうじゃないか。なあ、マージ」
「ええ」
二人にそう言われると、メイはにっこりと笑った。この子にも、こんな無邪気《むじゃき》な笑顔がったのか、とマージは思った。
ボーディング・チューブを渡って税関のロビーに入ると、驚いたことに、かなり地位の高そうな職員四名の出迎《でむか》えを受けた。
「このたびはあの機雷原《きらいけん》を越えて、よくぞおいでくださいました。どうぞヴェイスに逗留《とうりゅう》の間は、存分におくつろぎください」
「お……こりゃどうも、ご丁寧《ていねい》に」
物に動じないロイドでさえ、対応に戸惑《とまど》っている。
NF57から辺境《へんきょう》アレイダにかけて、かれこれ三十を越える星をめぐったが、こんな税関は初めてだ。普通なら「仕事増やすなよな」「手間かけさせるなよな」「密輸《みつゆ》してるんじゃないだろうな」的な視線を向けられ、書類に不備があるとあしざまに指摘《してき》されるものだ。もちろん、大手の運送会社ならそうでもないのだろうが……。
「お持ちします」
と、職員の一人がメイのスーツケースとヘルメット・ケース――宇宙服の――を持った。誰《だれ》がナビゲーターなのかは、一目でわかるのだろう。
メイはただ、はい、と答えて職員に従った。決して尊大《そんだい》ではないが、臆《おく》する様子もなかった。初めての本番とはいえ、この星でのナビゲーターの社会的地位には自覚があるらしい。ヴェイスに着いてからのメイは、表情に自信が宿り、何もかも心得ているように見えた。
事務所に入り、入港|届《とど》け、積荷目録、乗組員氏名表などの書類を手渡すと、「どうぞそちらでお待ちください」と、ふかふかのソファを示された。
やがてさきほどの職員の一人がやってきて、三人の前に座った。
座るなり、「おーい、お茶が出てないぞ」などと言う。旅行会社や海外|赴任《ふにん》の職員などに共通してみられる快活さだった。
「いやあ、どうも行き届きませんで、あいすみません」
「いえいえ、こんな気持ちのいい税関は初めてですな」と、ロイド。
「恐縮《きょうしゅく》です。――ときに、運航票によればETA(到着予定時刻)が1470となっておりますが、これは……」
「いや、実は機雷原でトラブルがありましてな」
「おやおや」
「ナビゲーター用のセンサーが脱落《だつらく》したんで、盲滅法加速して九死に一生を得たというあんばいでしてね」
「なんと! これはまた、前代未聞《せんだいみもん》ですねえ。よく御無事でいられた」
職員は目をまるくした。
「まったくです」
「しかし……そうなりますと、帰りはどうなさいますか?」
「というと、予備のセンサーとかは?」
「当港にはありませんのです。次の便で手配するとなると、早くて七日後になりますが」
「ふむ。まあ、こちらとしては別に急ぎませんので、待つとしましょう。はっきりした事はいつ頃《ごろ》わかりますかな」
「L4とレーザー回線が開くのが夜になってからでして、早ければ今夜中、というところですか。なにしろ、あれのせいで電波通信ができませんのでねえ、この星は」
職員は天井《てんじょう》を指さしながら、そう言った。
各種の手続きが終ると、三人は入国ゲートをくぐった。
ガタン、とスーツケースの落ちる音に続いて、駆《か》けてゆくメイの後ろ姿が見えた。
メイは待合室にいた一団のなかに飛び込んでいった。
家族と友人たちだろう。歓声《かんせい》がロビーに響《ひび》く。
「あのぶんじゃ、一年ぶりじゃきかないな」
メイのスーツケースを持つと、ロイドは言った。
さらに九十五分の延着がある。家族にとっては、その何年かより長く感じられたに違いない。
「家族も会社も、ナビゲーター訓練生の帰省など望まないだろう。消耗率《しょうもうりつ》を考えたらな」
「じゃあ、一人前になるまでは別れたきりかしら?」
「そうだなあ……。おそらく電話もろくにできないんだろう」
後でわかった話だが、メイの場合、三年ぶりの対面だった。
メイがさかんに手招きしている。
二人は人だかりに近付いた。
「こちらミリガン運送のロイドさんとマージさん。これ、うちの両親です」
と、隣《となり》にいた中年の男女をさす。父親は実直そうな男で、町工場の経営者という感じ。
まだ頬《ほお》を濡《ぬ》らしている母親は、派手さはないが聡明《そうめい》な顔立ちだった。メイは母親似らしい。
二人とも、身なりは質素だった。
兄弟を紹介《しょうかい》されなかったところをみると、メイは一人っ子だろうか。
「おいおい『これ』とはなんだ、『これ』とは。あー、いや、父親のジェフ・カートミルです」
「マージ・ニコルズです」
「ロイド・ミリガンです。このたびは娘《むすめ》さんに、大変お世話になりました」
「お世話なんてとんでもない。ああ、こちら家内のベスです」
「なんでもメイが大失敗やらかしたそうで……」
「とんでもない。センサーも使わずに脱出《だっしゅつ》経路を割り出してくれて、本当に命拾いしたんですよ」
「マージさんて、操縦の天才なの。三十キロ秒でリエントリーするんだもの」
「それは自慢《じまん》することじゃないのよ、メイ」と、マージ。
「でも、ロイドさんも天才だって言ってました。そうですよね? ロイドさん」
「まあ、そうさな」
二人の異邦人《いほうじん》と親しげに話すメイを、母親は嬉《うれ》しげに眺めていたが、やがて言った。
「――ところでお二人とも、ホテルはお決まりですか?」
「いえ、まだですが」
「じゃあ、ぜひうちに泊《と》まってくださいな。あまり広い家じゃありませんけれど、料理もたくしてありますし」
「しかし……」
ロイドがしぶると、父親も口を揃《そろ》えた。
「私からもお願いします。ナビゲーターの家に船の方をお泊めするのは、よくあることなんですよ。ことに初仕事のあとでは、そうしていただくと縁起《えんぎ》がいいとされてましてね」
「はあ」
縁起というよりは、職能の評価ではないだろうか……。
ロイドもマージも、今日のような大仕事を終えた夜には、それぞれのしきたりがあった。要はいかに羽根を伸ばすかだが――しかし、こう言われると、むげには断《ことわ》れない。
二人とも、黙《だま》って申し出を受けるだけの分別はあった。
ACT・2 オンタリオ緑地
空港から市街まではトラムと呼ばれる鉄道が通っている。超《ちょう》伝導コイルの並んだ線路は、最初地下を進み、ドームに入ると地上に出て、ゆるやかな下り勾配《こうばい》になっていた。
ドームの直径は十キロ。多くの居住ドームと同様に、地面は浅いすりばち状になっている。行政|施設《しせつ》や繁華街《はんかがい》は中央に集中しており、外周に向かうに従って工場や農場、住宅地が増える。方位は東西南北と、外周をさす『リム側』、中心をさす『コア側』を使う。
太陽光は天然のものを使用していた。ドームの天井《てんじょう》は中央で千三百メートルになり、素材は透明《とうめい》だった。ヴェイスは主恒星《しゅこうせい》からやや離れているが、ドームは赤道直下にあるので、日照は地球の中緯度帯《ちゅういどたい》とほぼ同じになる。
「このドームは、戦前からあったんですかな?」
トラムが地上に出るとすぐ、ロイドはメイの父親に聞いた。
「そうです。骨格がずいぶん細いでしょう。あれで三世紀近くも持ちこたえてるんです」
「言われてみればそうですなあ。失われた結晶《けっしょう》制御技術、というやつですか」
「ええ。もっとも、ライフ・システムの方はかなりガタがきていて、半分くらい今の技術にすげ変わってますがね」
「そういえば今回の積荷も、その関係でしたな……」
そう言いながら、ロイドは視線を外に戻した。
地形がすりばち状なので、すこし開けた場所なら、どこからでも街《まち》を一望できることはL4シティと似ている。
外周部分の工場や農地、ライフ・プラント群と森林地帯。
彼方《かなた》まで続く、放射状の道路と街路樹。
中間の住宅地と公園。
中心部の高層ビル街。
街路を行き来する車や歩行者。歩道で遊ぶ子供たち。
必要なものはすべて揃っている。
人間生活に必ずともなう、適度の混沌《こんとん》と汚《よご》れを含めて――。
だが、そうでない、必然として生まれたもの以外が見あたらない。
快適《かいてさ》そうではあるが、決して華美《かび》ではない。
ロイドは思った。
――ヴェイスが宝島、というのは勇み足だったか?
この予感は、メイがこの、〇・六Gの重力を懐《なつ》かしんだ時からあった。
繁栄《はんえい》したドームなら、連合条約の規範《きはん》どおり、大規模な重力装置をドーム全体に展開して一G|環境《かんきょう》を作っているはずなのだ。
現在の重力|装置《そうち》には膨大《ぼうだい》な電力とかさばる装置が必要なので、決してすべてのドームがそうしているわけではない。
だが、ここが宝島なら、その恵《めぐ》まれた少数に属するはずだった。
ロイドは聞いた。
「この星はその――外との通商が乏《とぼ》しいだけ、昔の物が多く残っていると思いますが……」
「そうですねえ。そのぷん、流行にはきわめて鈍感《どんかん》ですがね」
「大戦期の遺物《いぶつ》は、どれくらい残ってますかな」
「ははあ、そういうことですか」
ジェフ・カートミルは相手の意図《いと》に気づいた。
「このドーム内には、もう目ぼしいものはほとんど残っていませんねえ。ドームの基本構造は別としても――。今は隣の軍事工場|跡《あと》を発掘《はっくつ》しています」
「それが外貨|獲得《かくとく》の、唯一《ゆいいつ》の手段ですかな?」
「そうですね。鉱物《こうぶつ》資源もありますが、とても輸送コストに見合いませんから、ドーム内の需要《じゅよう》をまかなうだけです」
ややぶしつけかなと思いながら、ロイドは質問した。
「大戦期の遺物が枯渇《こかつ》したら、この星は……」
「全員で移民することになるでしょう。売物になるような遺物は、せいぜいあと三十年で、尽《つ》きますから」
「三十年!?」
「それまでに機雷原が一掃《いっそう》されるか、機能停止しなければ、ですね」
「なんと……」
ロイドは言葉が続かなくなった。
彼は、その終末が予定されている世界、というものを知らなかったのだ。
一行は『オンタリオ緑地』という駅で降りた。
メイの友だちはそこで別れ、二人の船乗《ふなの》りと家族だけで、家に向かうことになる。駅からは徒歩で十分ほどだという。
通りに立つと、リム側は鬱蒼《うっそう》とした森だった。梢《こすえ》は三百年近い歳月《さいげつ》と低重力のせいか、およそ四十メートルの高みにある。
コア側は住宅地だった。幅《はば》二十メートルほどの道路が縦横に走り、街路樹がきれいに並んでいる。道に沿って、小ざっぱりとした一戸建ての住宅がゆったりと並んでいた。
多くは一、二階建てで、屋根は傾斜《けいしゃ》している。
歩きながら、マージはメイに聞いた。
「かなり降雨があるようね、ここは」
「ええ。週に一度か二度は必ず降ります。けど、予定は立ってないんです」
「変わってるのね。予定表が出ないと、気象管理部に文句が殺到《さっとう》じゃない?」
「わからないんです。技術者の人がいくら調べても、どういう周期で雨を降らせているのか。昔の技術が残ってるところですから……」
「ふーん。不思議なもんねえ」
「でも私、このドームのそういうところが好き。天気のゆらぎは月単位でも、年単位でもあるけど、そろそろかなって思うときに、必ず降ってくれるもの」
メイは笑顔で言った。
ナビゲーターの才能を一般化するとしたら、こうしたカオス現象を予測することだろうか、とマージは思った。その才能がドームへの愛着――郷土愛《きょうどあい》というのか――を育《はぐく》み、命がけの仕事へと駆《か》り立ててゆくのかもしれない。
メイの家は五十メートル四方ほどの敷地《しきち》の中にある、こぢんまりとした一軒屋《いっけんや》だった。壁《かベ》は石材のブロックで組まれており、淡《あわ》い赤の屋根は複合材らしい。二階は大きな屋根にすっぽり収まっていて、その一部が切りとられて窓になっている。東側には一段低い棟《むね》が張り出していて、その先は地面より一段高いテラスだった。南に面した玄関《げんかん》の横には出窓がふたつと、花壇《かだん》がある。西側にはガレージと、物置小屋があった。
敷地の西側は小さな林になっているが、都市計画にそったグリーンベルトというよりは、最初からあった雑木林を避けて住宅地ができたような感じだった。
メイは芝生《しばふ》を割って玄関に続く小道の前で立ちどまった。
三年ぶりに見る家だった。
「あの風見、まだあるの」
屋根の片隅《かたすみ》で揺《ゆ》れている、小さな吹き流しのことらしい。
「ああ。最初は近所の人に笑われたが、慣れると捨てがたいもんでな」
と、父親。
「キンギョソウ、大きな株になったね」
「ああ。ほうっておいたからね。少し勢定《せんてい》したはうがいいかな」
「あのままでいいよ。とってもきれい。――へえ、居間のカーテン替《か》えたんだ」
「お前の部屋《へや》はそのままにしてあるよ」
「うん、よろしい」
「こらこら、親に向かってなんだ」
「メイ、お客さんを立たせておいちゃだめでしょう?」
母親にうながされると、メイは家に向かって歩きはじめた。
ACT・3 カートミル家
ロイドとマージは二階の中央と西側の部屋をあてがわれた。どちらの部屋も、来客を予想してきれいに整頓《せいとん》されていた。床《ゆか》と窓枠《まどわく》には天然木が使われ、それ以外は複合材が使わている。天然木は一般に贅沢品《ぜいたくひん》だが、ドーム内にはかなりの森林資源があるので、こうした非消耗《ひしょうもう》部分への使用が許されているのだろう。
マージの部屋は裁縫室《さいほうしつ》らしく、隅にミシンや各種の生地《きじ》が置かれていた。生地は鉱物《こうぶつ》を原料とするアールミック繊維《せんい》だった。惑星上の資源を使い、ドーム内で製造されているのだろう。手触《てざわ》りは悪くない。
まず各階にひとつある風呂《ふろ》に入り、髪《かみ》を整え、着替えする。
時計を見るとまだ四時。
ずいぶんいろんな事があったような気がするが、L4シティに来てからまだ二十四時間しか経っていない。
ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺める。
静か――というのだろうか。音だけでなく、五感に受ける刺激《しげき》が、どれもおとなしい。
一昨日までは、宇宙船内の絶え間ない空調と機関の騒音《そうおん》に包まれていた。L4シティには人々の喧噪《けんそう》と、手足を動かす時に感じる、かすかなコリオリ力があった。
ここにはそれらがない。低重力のせいだろうか。ベッドの感触《かんしょく》も、シャワーからほとばしる水滴《すいてき》も、廊下《ろうか》の足音も、空気のしめりけも、すべてが柔《やわ》らかだった。
少しまどろんでいると、夕食のお呼びがかかった。
ダイニング・テーブルには、チキンのロースト、オムレツ、コンソメスープ、クルミのペースト、苺《いちご》のプディングなどが、心地《ここち》よく、にぎやかに並んでいた。大人たちにはワイン、メイにはオレンジ・ジュースが用意されている。直径十キロのドーム内で自給しているものとしては――もちろんそのはずだが――なかなかの充実《じゅうじつ》ぶりだった。
「メイの初《はつ》仕事がどうにか無事に済んだことを祝《いわ》って――乾杯《かんぱい》!」
「乾杯!」
グラスの触《ふ》れ合う音が響《ひび》き、晩餐《ばんさん》が始まる。
「このローストおいしい。おかあさん、料理うまくなったね」
「何言ってるの、この子ったら」
「いや、ほんとにおいしいですよ」
ロイドが言った。
「いろんな星でいろんな料理を食べてきましたが、やはり最高のスパイスは『家庭』ですなあ。いや、実にうらやましい」
「お上手《じょうず》ですこと。さあ、どんどん食べてくださいな。メイもたくさん食べるのよ」
「やだ。太ったら上で大変だもの――でもいっか」
などと、なごやかな団らんが続く。
小一時間もたった頃、電話のベルが鳴った。
パターソンさんかしら、と言いながら、ベスが電話を取る。
「はい、カートミルです……まあ、いつもメイがお世話に……え?――すみませんがもう一度……」
ベスはきょとんとした顔になって、こちらを向いた。
「もしもし? あの、メイならここにおりますが。……いえ、間違いなく、本人はここにおります。幽霊《ゆうれい》なんかじゃございません。もしもし?……冗談《じょうだん》にもほどがあるんじゃありません?……はい……はい……いいですか、もう切りますよ!」
ベスは強い調子で受話器を置いた。
ジェフが聞いた。
「どうしたんだ、ベス」
「……失礼しちゃうわ」
「なんだって言うんだ、おい。誰《だれ》からだ?」
「レブルスの運航本部。突然《とつせん》、お悔《く》やみ申し上げます、とくるのよ」
「どういうことだ」
「メイの乗った船が事故《じこ》にあったって。冗談じゃないわ。だから、本人はここにおります。幽霊なんかじゃございません、って言ってやったのよ」
「やだ。誰かな? 男の人だった?」と、メイ。
「本当に運航本部なのか?」
「確かにそう言ったわ」
「もしかして、いたずらじゃ……」
マージが聞くと、ベスはきっぱりと否定した。
「ここには、そんな事する人はいません!」
「ああ、つまり――到着が遅れたのが、何かの間違いで事故に化けたんじゃないですかな。無線が不自由だから、連絡の行き違いとかがあったんでしょう」
ロイドが説明する。
ベスはまだ、おさまらなかった。顔色が変わらないので気づくのが遅《おく》れたが、その肩は小刻《こきざ》みに震《ふる》えていた。危険な兆候《ちょうこう》だった。
「ほんとにひどい。ちゃんと確かめるべきよ。こちらの気持ちも考えてほしいわ」
「おかあさん、もういいよ。私、こうして元気に生きてるし」
「いいわけないわ!」
「ベス、やめないか」
「この三年間、何度も見たのよ。夢で、電話が鳴って」
ベスは泣いていた。明らかに誤報《ごほう》とわかっていながら、悪夢を追体験した衝撃《しょうげき》から、彼女は立ち直れずにいた。
「四年もあるの。契約《けいやく》が終るまで、あと四年もあるのよ……」
ジェフはしゃくりあげる妻を、背後からそっと抱いた。
メイも立ち上がって、母の顔に頬《ほお》をすり寄せる。
マージは、ロイドをうながして、そっと居間を出た。
ACT・4 カートミル家
翌日、朝食の席でベスは昨夜の事をわびた。
「あの、ゆうべは取り乱してしまって、本当に申し訳ありませんでした。わざわざ泊《と》まっていただいたのに、怒鳴《どな》ったりして、なんとお詫《わ》びしたらいいのか……」
「いいえ、私こそ『いたずら』なんて、無神経なこと言ってしまって」と、マージ。
「とんでもありません」
ベスは顔を赤らめて、視線をそらした。
「こちらの思い上がりなんです。――ほんとに恥《は》ずかしいわ、親ばかもいいところで。どうか悪く思わないでくださいね」
「それはもう」
数度にわたる謝罪《しゃざい》の応酬《おうしゅう》のあと、ジェフが言った。
「あの後、レグルスから通達がありましてね。ミリガン運送の方もこちらに滞在《たいざい》していると言ったら、伝言してほしいとのことでした」
「ほう、どんな?」と、ロイド。
「センサーの脱落《だつらく》の件については、規定の慰謝料《いしゃりょう》を支払うとのことでした。予備のセンサーは、一週間後の便で運ぶとのことです。それまでの滞在費も支給すると言ってます」
「なるほど、まずまずの対応ですな、レグルスは」
「まあ、あの誤報の後ですからねえ。電話口でぺこぺこ頭を下げてるのが目に浮かぶようでしたよ」
「はっはっは。いい気味ですな」
ロイドが笑うと、ジェフはやや真顔《まがお》に戻って言った。
「それでも、ヴェイスの人間にとっては、レグルス様々ですからねえ。あそこが機雷原《きらいげん》を越えての交易《こうえき》を体系化してくれなかったら、我々はこの土地を捨てなければならなくなります。レグルスが交易を独占《どくせん》して、途方《とほう》もない利潤《りじゅん》を得ているのは確かですが、まあ、じっと我慢《がまん》の子でいよう、ってとこですか」
「……なるほど。お察しします」
どうもここの人間と話すのは神経が疲《つか》れるな、と思いつつ、ロイドは頭を掻《か》いた。
「ところで、これからの一週間も、もちろんここに滞在していただけますわね?」
ベスが言う。
「いや、しかし――」
ロイドが断わりかけると、すかさずジェフも口を揃《そろ》えた。
「ぜひそうしてください。出港まで滞在してもらえると、縁起《えんぎ》がいいとされてましてね。なあ、そうだろメイ?」
「うん! ずうっといてくださいね、ロイドさん、マージさん」
「あ、ああ」
「そうねえ……」
ロイドとマージは顔を見合わせると、ため息をついた。
食事が終ると、二人は自室に戻った。
少したって、マージはロイドの部屋をノックした。
「おう、今そっちへ行こうかと思ってたんだ」
ロイドは洗面台の鏡に向かって、髭《ひげ》の手入れをしていた。
マージは中に入ると、壁にもたれ、鏡の中の相手に言った。
「昨日からずっと、気になってるんだけど」
「ん?」
「変だと思わない? ここの家族」
「まあな」
「一人娘《ひとりむすめ》が体張って働いたり、母親がヒス起こしたり、冗談《じょうだん》通じなかったり、冗談みたいで本気だったり。みんな善人だし常識もあるのに、どうしてこう変なのかな」
「確かに変だ。だがまあ、わからんこともない」
ロイドは左右に顔を傾《かたむ》けて髭《ひげ》の形を確かめると、こちらに向き直った。
「君は、戦争に行ったことがあるかね」
「まさか」
「戦争になると、おうおうにしてこんな風だ。メイを兵士だと考えてみろよ」
「メイが兵士?」
ロイドは説明した。ヴェイス機雷原は戦場でもあり、戦争そのものでもある。二百六十年前の『大戦』は、ここではまだ終っていないのだ。ヴェイス人は兵士を送り、家族はその安否《あんぴ》を気遣《きづか》う。贅沢《ぜいたく》はできない。
「でも――実地に経験したわけじゃないけど、戦争なら戦争なりの、もっとすっきりした抑圧《よくあつ》があると思うけど?」
「本物の戦争には敵がいるからな。このヴェイスじゃ、憎《にく》しみをぶつける相手がいない。機雷を憎めったって、そりゃ長続きしないよ。じっとしていれば撃《う》ってもこないしな。結局、戦争と平和が中途半端に混じり合ってるんだ、ここは」
「確かにそうね」
マージは少し考えて、言った。
「ねえ、ロイド……」
言いかけて、マージは急に口調《くちょう》を変えた。
「あれ? いつからだろ、『ロイド』なんて呼ぶようになったのは」
「辞職してからだよ」
「――そうか」
マージは秘《ひそ》かに舌打ちした。自分は観察されていたのだ。
ロイドは真顔になって歩み寄り、両手をマージの肩においた。
「秘かな喜びだったよ。君のような素敵な女性に、ファースト・ネームで呼ばれるのはね」
ロイドはマージの体を引き寄せた。
「ちょ、ちょっと……朝からいったい」
「うれしいよ、マージ。君はわしを一人の男性として見てくれるんだな。ずっと我慢《がまん》してきたんだが、実はこのわしも君のことを――」
「単に雇用《こよう》関係から開放されたと認識しているわ!」
マージはロイドの手を振《ふ》りほどいた。
「相談することもないんだった。それじゃ」
「お、おい、待ってくれよ。こっちは話があるんだ」
「パイロット兼秘書兼経理兼整備士が御入り用なら、職安《しょくあん》へどうぞ。そんなものがここにるならね」
そう言い捨てて、マージは部屋を出た。
ACT・5 緑地公園
メイは台所で、ベスと肩を並べて食器を洗っていた。
「手伝いましょうか?」
「いいんですよマージさん、お客様なんですから。ああ、メイに用事ですか?」
「ええ、まあ」
「メイ、ここはいいから、マージさんのお相手してさしあげて」
「うん」
メイは手を拭《ふ》くとエプロンを脱《ぬ》ぎ、いそいそと台所を出た。
「どこか見物に行きます? これでも面白いところ一杯あるんです。中央公園の鏡の像とか、風で動く彫刻《ちょうこく》とか、博物館なら大戦前の遺物も揃《そろ》ってて――昔よりだいぶ品数は減ったっていいますけど――建物もドームと同じくらい古いんです。まだ動くものもあって、毎日午後二時にデモするんです」
「そうねえ……」
「緑地公園もいいかな、歩いてすぐだし。樹齢《じゅれい》四百年の木があるんです。ドームは二百八十年前にできたのに。不思議でしょう?」
それにするか。
二人きりの方が気楽だ。
「面白そうね。散歩がてら、行ってみましょうか」
「はい」
緑地公園は、駅前から見えていた森の一部だった。
起伏のある土地に、直径二メートルもありそうな大木が立ち並び、その間に小道が通っている。空気は湿《しめ》っているが、空調が故障《こしょう》したときの感じとは違って、芳《かんば》しく、むしろ心地《ここち》よかった。枝の間をちらちらと横切るのは、本物の鳥らしい。見える数よりずっと多い、澄《す》んだ鳴き声が響《ひび》いている。
これという施設《しせつ》はなく、数百メートルおきに休憩所《きゅうけいじょ》があるぐらいだったが、この時代の天然木の価値を考えると、この公園はかなり贅沢《ぜいたく》な代物《しろもの》だった。機雷原さえなければ、観光名所として他星の客を呼ぶことさえ可能だろう。
「あった! ほら、あれがここでいちばん古い木です。立札があるでしょう?」
メイが前方の木を指さす。
そばのプレートに、その木の誕生年《たんじょうねん》が刻まれていた。CY3459、とある。
「よかった。もし抜かれていたらどうしようって思ってたんです」
「抜かれる?」
「ええ。こういう木も、最近は輸出品目に入ってるんです。ストレッチ型のシャトルで運ぶの。どんなお金持ちが買うのかって思うけど」
「そう。……ちょっと座りましょうか」
二人はそばのベンチに腰掛けた。
二、三のあたりさわりのない話の後、マージは言った。
「私ね、このままじゃだめだと思うの」
「マージさんが、ですか?」
「ううん、そうじゃなくて、ここ。ヴェイスのこと」
「ヴェイスがだめになる?」
「うん。つまり――いくらメイみたいなナビゲーターが頑張《がんば》っても、あと三十年でこの星は経済的に破綻《はたん》するわけでしょう?」
「それは――そうだけど」
メイは目を伏せた。
「あ、そう深刻にならないで。考えたくないのはわかるし、あなたに何か頼《たの》もうとしてるんじゃないわ。私がね、ちょっと納得《なっとく》したいって思ったの」
「納得?」
「ヴェイスがこの二百六十年間、機雷原を取り除くために何をしてきたかってね」
「掃海《そうかい》作業、ですか?」
「うん。おとといこの星系に来るまで、こんなことは知らなかったし、考えようもなかったんだけど――まあ、何かの縁《えん》ね。ちょっとした好奇心《こうきしん》だと思ってくれればいいわ」
「わかりました。知ってる事なら、なんでもお答えします」
「ありがとう。じゃあ、まず――」
「そこまで高度な機雷なら、戦後に解除することも可能なはずだけど――その方法は試されたの?」
「それなら今もやってます。電波やレーザーで、いろんなキーワードを、いろんな変調をかけて送信してるんですけど……」
これは確かに無理そうだ。兵器の制御命令は暗号化されるのが普通《ふつう》だから、まぐれ当りで成功するとは思えない。
「戦後に掃海作業が一度くらいはあってもいいと思うけど――。どさくさで放棄《ほうき》されたのかしら」
「解除手順を持った掃海|艇《てい》が来た、っていう記録はあります。でも、どういうわけか遭難《そうなん》して、行方《ゆくえ》不明なんです」
「当然|捜索《そうさく》したんでしょうね?」
「ええ。惑星上も周りの宇宙も、徹底的《てっていてさ》に。でも見つかりませんでした。何かのミスで機雷に触《ふ》れて、蒸発したんだって言われてます」
「ふうん……」
まあ、こんなものかも知れない。
「ありがとう、メイ。納得したみたい」
それから二人は一度家に戻り、午後から『セントラル』に繰り出した。日本のほとんどの市に『本町』があるように、居住ドームの中央部はセントラルと呼ばれることが多い。
同じ名のついた駅でトラムを降りる。
平日とはいえ、人々の賑《にぎ》わいはあまりない。商店の数も少なく、デネヴ星区あたりの都市に氾濫《はんらん》している、空間投影の看板や指向性BGMなどはみられなかった。
周囲は石造りの建物と緑の生《お》い茂《しげ》る公園が溶《と》け合って、辺境《へんきょう》にはめずらしい、瀟洒《しょうしゃ》なたたずまいを見せていた。公園の向こうには、広い人造湖が見えた。ここはドームの中で最も低いところだから、ごく自然に湖ができる。沿岸のどこかにメイの父親の勤める、浄水《じょうすい》施設《しせつ》があるはずだ。
公園の中をしばらく歩くと、博物館の前に出た。
前庭には噴水《ふんすい》があった。放物線を描《えが》いて落ちる水は、一個ずつの水玉に分かれて見える。
マージは正面を見上げて言った。
「立派な建物ね」
「ええ。戦前からあって、もとは公民館だったそうです。ぜんぷヴェイスの石でできてるんです」
それは四階建てで、玄関の石柱の上には堂々としたペディメントが張り出している。玄武岩質《げんぶがんしつ》の黒ずんだ石材が使われているのが美的にやや難点だが、各所にほどこされたレリーフは精緻《せいち》だった。
「ヴェイスの街って、軍事工場のためにできたんでしょう? そのわりにはずいぶん行き届《とど》いてたのね」
「あの頃は、こんな建物ぐらい簡単にできたんだと思います。軍事工場って言っても、家族も揃《そろ》って移住したわけだし」
市民の慰安《いあん》施設は必要不可欠、ということらしい。
ホールに入ると、中央に大きな切株が安置されていた。切断面は異常なほど急な傾斜《けいしゃ》を持っていて、教会の尖塔のようだった。プレートには『空襲《くうしゅう》を受けた木』とある。
「戦争の時、艦砲射撃《かんぽうしゃげき》を受けた木なんです」
メイが言った。どんな砲弾《ほうだん》なのか見当もつかないが、それがチェンソーの代わりをつとめたらしい。
「この木は、もちろんドームの中にあったのよね?」
「ええ。貫通弾《かんつうだん》だったんです。これでドームの気密が破れて、大勢死にました。二カ月も減圧したままで、生き残ったのはシェルターにいた人だけでした」
「じゃあさっきの、緑地公園の木は……」
「枯《か》れなかったんです。葉を全部落として、もうだめかって思われたんですけど、半年ぐらいして気圧が半分ぐらいまで戻るとまた芽《め》が出て。ヴェイスを救ったのはあの森のおかげなんです、ほんとに」
順路にそって展示を見るうちに、当時の様子がわかってきた。
発電所の大半が破壊《はかい》され、失われた空気の回復と備蓄《びちく》酸素の、きわどいリレーがあった。最初の空襲を生き延びた人々も、飢《う》えによって次々と倒れていった。あらゆる化学的手法が駆使《くし》されて、およそ考えられないような素材から有機分子が抽出《ちゅうしゅつ》され、人々の栄養源となった。ある展示ボードの遠まわしな表現によれば、『埋葬《まいそう》のしきたりさえ、変更《へんこう》を余儀《よぎ》なくされた』とある。
その頃にはもう、ドームを襲《おそ》った『迂回《うかい》艦隊』は軌道《きどう》から姿を消していた。その代わり、ヴェイスは機雷原《きらいげん》に包まれていた。いっさいの物資が届《とど》かない中で、人々は原始人さながらに、木の実を食べて命をつないだ。
「結局、大空襲から一年後に生きてたのは――それまで十二万人いたんですけど――二千人くらいでした。工場に出てたエンジニアの人は全滅《ぜんめつ》で、シェルターにいた中でドームを直せる人ってほんとに少ししかいなかったそうです」
メイは淡々《たんたん》と説明した。マージは少女の表情を観察したが、悲しみに類する兆候《ちょうこう》はうかがえなかった。
「あ、こんな暗い展示、つまんないですか?」
「ううん。とても興味深《きょうみぶか》いわ」
「ごめんなさい。この博物館は私たちの自慢《じまん》だけど、ヴェイスって、ほんとは遊ぶところ、あんまりなくて」
「そんなことないわ。落ち着いた、いい所ね」
「ほんとにそう思いますか!?」
メイは目を輝かせた。
「ええ。なんていうのかな、一生暮らしていけそうな気がするもの」
マージはそう言って、およそ柄《がら》にもないことを言った自分に驚いた。宇宙船を『家』として、遊牧民のような暮らしをしてきた自分の、どこにそんな下地があったのだろうか。
メイを喜ばせるつもりで言ったつもりはなかったのだが――少し、老《ふ》けたのだろうか?
ACT・6 港湾局《こうわんきょく》
同じ頃、ロイドは空港の地下にある、港湾局に出向いていた。
考えているのは帰途《きと》の積荷のことだった。どうせ運ぶなら、割りのいい、高価な荷を引き受けたい。しかも――軽いやつだ。なにしろあのメイのナビゲーションに頼《たよ》るのだから、慣性質量は可能な限り低減したい。
「臨時《りんじ》の輸出貨物ですか。船はモリソン級でしたね?」
「そうです。ペイロードは百トンです」
「ちょっと待ってください――」
のっぺりした顔の若い係官は、傍《かたわ》らの端末《たんまつ》を引き寄せた。
「すぐに出せるものとしては熱伝導管ですかねえ。あと、単結晶《たんけっしょう》ケーブルかな」
「それは、大戦期の遺物ですかな」
「もちろんです。あの軍事工場跡から回収したものです。もっとも最近じゃ、これに近い品質のものが生産されてますけどね」
「なるほど。となると――それはつまり、モノとしては……」
「は?」
腹芸のきかない男らしい。
「つまりお買い得な品物か、ってことです。もちろん、運ぶ身にとってですが」
「はあはあ、そういうことですか。それなら――中の下、ですね」
「中の下……」
「いや、中の中かな? 最近は品薄《しなうす》でしてね、相場《そうば》が落ちてますから」
係官はへらへらと答えた。
ロイドはいらだちを覚えた。職務に徹《てっ》するのもいいが、少しは未来を憂《うれ》いて深刻な顔をしてもよさそうなものだ。――ことによるとヴェイス人は、生まれた時から逃避《とうひ》することを身につけているのだろうか?
ロイドは言った。
「もっとこう、とっておきの貴重品《きちょうひん》はないですかね? 博物館に収蔵してあるような」
「ありますけど、輸出品目選定委員会の認可が要りますね。手続きされますか?」
「かかりますかな?」
「は?」
「認可が下りるまで、日数がかかりますかな」
「ま、早くて四、五カ月……」
「そりゃだめだ」
「では、先にあげたものからお選びになるのがいいでしょう」
「ふむ。ときに――」
「はい?」
「軍事工場以外にも、この惑星上にはいろんな遺物があるんじゃないですかな? まだ発見されてないものも」
「可能性としては、皆無《かいむ》ではありませんがね」
「遺物を軌道《きどう》から捜索《そうさく》したいが、船が用意できなくて困っている、とか」
「船ぐらいありますが――そりゃ、やりたがる者はいませんね。なにしろ、大気圏のすぐ上がアレでしょう? ちょっとした操縦ミスで、すぐ機雷原《きらいげん》に入ってしまう」
「そうそう。ところが我がミリガン運送は一週間も船が遊んでいて、しかも命知らずの腕利《うでき》きパイロットがいる――」
「あなたですか?」
「いや、別のな……。それよりどうですかな。うちの船が雲上の遺物捜索をやってはいけない、という法はありますまい?」
「簡単な届出程度で済むと思いますが。でも無駄《むだ》だと思いますよ」
「なぜかね?」
係官は端末を押し戻すと、一息ついて話し始めた。
「『掃海艇《そうかいてい》大捜索』ってのがありましてね」
「掃海艇?」
「終戦直後、機雷を解除するための掃海艇がヴェイスを目前にして遭難《そうなん》した、という、かなり確かな情報があるんです」
「ほう」
「その船を見つければ、機雷を解除できる見込みがあったわけです。もう二百年以上も前のことですが、徹底的《てっていてき》な捜索が行なわれました。これが『掃海艇大捜索』です。第一次から五次まで、かれこれ三十年にもわたって惑星上と周辺宙域が徹底的に捜索されました。しかし、結局発見されなかったんです」
「ちゃんと捜索したんですかな。レーダーが稚拙《ちせつ》だったとか」
「それはないでしょう。掃海艇以外の難破船を、いくつも発見してますからね。ま、それが唯一《ゆいいつ》の収穫《しゅうかく》ってとこですか」
「ふむう……」
三十年と一週間か。
ロイドはため息をういた。
「納得《なっとく》した――ことにするかな」
「じゃ、品目をお決めになってください」
ACT・7 カートミル家
ロイドが帰ったとき、マージは一人でテラスに出て、午後のお茶を味わっていた。
「ハイ、マージ。暇《ひま》そうだな」
「最高の贅沢《ぜいたく》よ」
「そりゃよかった。邪魔《じゃま》だったかな」
「べつに」
くつろいでいたせいか、いつもなら相手を見るたびに首をもたげる自尊心は、鳴りをひそめていた。
マージは水を向けた。
「その顔じゃ、上首尾《じょうしゅび》でもなかったようね」
「どこに行ってたかわかるのかね」
「港湾局でしょ」
「ご名答」
ロイドはテラスに上がり、正面のデッキチェアに腰をおろした。
肘掛《ひじか》けに両腕を置くと、ほうっ、とため息をもらす。
「少年の夢破れたり、ってとこだな。ここは宝島なんかじゃあ、なかった」
「ここは黄昏《たそがれ》の星だわ」
「まさにしかり、だ。――うまいことを言うな」
マージはふっ、と笑った。
「メイに半日ひっぱりまわされて、公園や博物館をまわったの。結局わかったのは、やれることはすべてやってあるってこと」
「やれること?」
「掃海《そうかい》の試み。あとは交易品が枯渇《こかつ》する前に機雷が機能停止するのを願うしかないみたい」
「君は――それをやろうと思ったのか?」
マージは一瞬|後悔《こうかい》したが、素直に白状した。
「そんなとこね。――若さの特権、と思っていただきたいわ」
「まぶしいばかりだよ」
「宝島を夢見る男、ってのも負けてない気がするけど?」
「かも知れん」
会話はそこで途切《とぎ》れた。
二人がぼんやりと考えていることは、これから一週間の暇《ひま》を、どうやって潰《つぶ》そうかということだった。
午後の陽射しが、ゆるやかに傾《かたむ》いていった。
だが、マージが「最高の贅沢《ぜいたく》」と言った状態は、長続きしなかった。
それは、カートミル家での夕食のさなか、ロイドの頭の中で起きた。
最初に気づいたのはマージだった。
ロイドは皿《さら》の上の、スライスされたゆで卵を見つめていた。フォークの先には黄身《きみ》だけがあり、それを持つ手はテーブルの上十五センチで静止している。
ロイドの視線は、皿に落ちた白身に釘付《くぎづ》けになっていた。
ジェフとベスが顔を見合わせる。
最後にはメイが気づき、ポテトを頬張《ほうば》ったまま、きょとんとした顔でロイドをのぞき込んだ。
「あの、スープに髪《かみ》の毛でも?」
ベスの古典的な問いを無視して、ロイドの視線は白身から宙へと動いてゆく。
「……白身だ」
「白身に、髪の毛が?」
「機雷原だ。機雷原のことを言ってるんだ!」
「ロイド、しっかりして。どうしたっていうの?」
ガタン、と音を立てて、ロイドはマージに向き直った。
「マージ、君はあの時、『デブリ』と言ったな?」
「え? なんの事?」
「機雷原の中で、障害物《しょうがいぶつ》に出会った時、そう言ったじゃないか」
「確かに言ったわ」
「わしもそう思った。あの反射の感じ、小惑星や隕石《いんせき》じゃなく、確かにデブリ――人工物だった」
「だから?」
「わからないか? なぜ機雷原の中に人工物が存在できる?」
「…………」
「現在の船なら、たちまち触雷《しょくらい》して蒸発するはずじゃないか!」
「まさか――」
「そうさ。爆発に耐《た》えられるのは、あの機雷と同レベルの技術を持った何かだ。今日、港湾局の男に聞いたんだ。少なくとも一隻、終戦直後ヴェイスを目前にして、消息を断《た》った船があると」
「まさか――掃海艇!」
「ご名答−」
「ち、ちょっと待ってください、ミリガンさん」
ジェフが言った。
「それが掃海艇――いや、何かの人工物だったとしたら、始終触雷して花火のように光ってるはずで」
「いいえ。そうとは思えないわ」
今度はマージが言った。
「どんな偽装《ぎそう》も見破るほどの判断力を持つ機雷が、自分で壊《こわ》せないものに何度も襲《おそ》いかかるはずがない。そうでしょう、メイ?」
「え、ええ――確かに、機雷はむやみに消耗《しょうもう》しないように動きますけど……」
ダイニング・ルームに、立ち上がったロイドの哄笑《こうしょう》が響《ひび》く。
「どうだ、マージ! 本当にあったじゃないか! 宝島さ――本当の宝島は、あの機雷原にあったんだ!」
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第四章 宝島へ
ACT・1 ヴェイス空港
翌朝――。
たった二日しか経っていないのに、格納庫《かくのうこ》のアルフェッカ・シャトルを見たとき、マージはひどく懐《なつ》かしく、そして後ろめたい気がした。
あの、むちゃくちゃな大気|圏《けん》突入の後だ。本当なら、着いた翌日、いやその日のうちに耐熱船殻《たいねつせんこく》を調べ、補修《ほしゅう》を始めるべきだった。もちろん整備士の助けを借りずにできることではないが、それが船長たるものの務めだろう。
マージ、ロイド、メイの三人は、コクピットに入った。
例によってマージは船長席、ロイドは副操縦士席に座る。
といっても、今日出発するつもりはない。特に用事のないメイは、二人の背後に立って、計器盤《けいきばん》をのぞき込んでいる。
マージはアビオニクスの主電源を入れた。続いてフライトレコーダーを起動し、再生キーを押す。そこには、直前の航海の軌道《きどう》や速度、通信内容、船内状況、そして進行方向の画像が記録されているはずだった。もし錯覚《さっかく》でなければ、機雷原で遭遇《そうぐう》したデブリも記録にあるはずだ。
スクリーンに、グラフと表が現れた。
「確か、高度五百キロぐらいだったわね」
「五六二キロだったと思います」と、メイ。
「おう、すごい記憶力だな」
「えへへ。一番あせった時ですから」
「ここね。画像、出すわよ」
スクリーンが船外画像に切り替《か》わった。画面の大半はヴェイスの地表で占《し》められている。右下には時刻が百分の一単位で表示されていた。
「確か右上四度って言ったはずね、メイ」
「ええ」
「もうちょっと先じゃないか――そこだ!」
再生を一時停止させる。
惑星表面に重なって、かすかな光点があった。
コマ送りすると、光点は惑星上を相対的に移動していた。
「宇宙空間にあったことは間違いないな」
「でも、人工物でしょうか。私にはよくわかりませんけど……」と、メイ。
「拡大してくれ、マージ」
「ええ」
スクリーン上の光点に十字線を合わせ、拡大操作をする。
まずは十倍。続いて三十倍。
それはいつまでたっても光点のままに見えた。
拡大率を最大にしても、光点はたったひとつの画素を占めているだけだった。
「周囲に黒い画素があるわね――一、二、三……全部で九つ」
「その外側は背景との中間色になってるな。これが七画素か。ふむ……」
ややあって、ロイドは言った。
「わかったぞ、これは球体だ!」
「え、そうなんですか?」
メイが聞く。
「そうさ。この点光源は太陽の反射だ。黒くて光沢《こうたく》のある球体なら説明がつく。隕石《いんせき》のたぐいなら、もっと広い範囲《はんい》が反射するはずだからな」
「……どうやら第一関門はパスしたみたいね」と、マージ。
「でも、掃海艇《そうかいてい》って、黒くてまん丸なんでしょうか?」
メイが聞く。
「いや、その一部だと思いたいね。絶対に失いたくないものを保管する、金庫なのさ」
「じゃあ、その中に機雷の解除手順が?」
「期待していいと思うぞ、メイ」
「わあ!」
「まだまだ喜ぶのは早いわよ。動力|炉《ろ》の殻《から》かも知れないわ」
マージはそう言うと、航法コンピュータを起動して、音声対話モードに切り換えた。
「コンピューター、メインスクリーンでポイントしている光点に注目して」
中性的な機械音声は、すぐに返答した。
「はい。フライトレコーダーの画像ですね」
「その通り。その光点を十字線で示したまま、画像再生してちょうだい」
「わかりました」
画面が通常速度で再生される。光点が視野を外れるまでの四秒間、十字線は正確に対象をとらえていた。これで航法コンピューターが目標を正しく認識しているのがわかった。
「次、注目している光点の軌道を割り出して」
コンピューターは即座《そくざ》に応答した。
「できました。ただし最大〇・六%の誤差《ごさ》を含みます」
「光点は黒い球が太陽光線を反射しているものと想定してちょうだい」
「はい」
「シャトルとの距離から、球の直径を推算《すいさん》して」
「五・四メートル、プラスマイナス〇・九メートルです」
「いいぞ! 当時の動力炉なら最低八メートルはあるはずだ」と、ロイド。
「コンピューター、注目している軌道をヴェイスの図形に重ねて、メインスクリーンに表示して」
「わかりました」
スクリーンが軌道チャートに切り替わる。
光点はかなり強い楕円《だえん》を描《えが》いて、ヴェイスを周回していた。
近地点――惑星に最も近い地点――の高度は二百三十キロ、遠地点は九千三百キロ。
軌道|傾斜角《けいしゃかく》は二度。ほとんど赤道上を周回している。
一見して、マージはそれが何を意味しているかがわかった。
厳密《けんみつ》な物理学に支配されていながら、軌道は目的や時期、船の性能や経済力、ミッションの緊急性《きんきゅうせい》、パイロットの技量などによってさまざまな個性を見せる。
「トランスファ軌道だわ。古くてだいぶナマってるけど、ちょうど機雷原《さらいげん》の一方から他方へ遷移《せんい》しようとしてる」
「よおし、上出来だ。つまりこういうシナリオだろう。掃海艇《そうかいてい》は機雷原の外から、その機能を解除した。ところが何かのミスで、実際には解除できていなかった。掃海艇はそのまま、惑星に降りようとしてトランスファ軌道に入る。そして――ドカン!」
ロイドはオーバーな身振《みぶ》りで説明した。
「ちょっと待って、名探偵さん。――つまるところ、掃海艇は機雷を解除するのに失敗したわけよね?」
「そうさ」
「ってことは、解除手順を手に入れても無駄《むだ》じゃない?」
「ちっちっち。マージ、君は人間がわかってないな」
「どうして?」
「人類が宇宙に出て四千年近くたつが、なぜ今でも宇宙船は事故《じこ》を起こすのか?」
「なんの話?」
マージはけげんな顔をした。
「いいから答えろよ」
「それは――ヒューマン・ファクター、油断の入る隙《すき》があるから」
「その通りだ、マージ・ニコルズ君」
ロイドは先生気取りで言った。
「人間が造り、人間がその意志を航行に反映させる以上、宇宙船は人間の油断による事故から逃《のが》れることはできない」
「じらさないで。だから何なの」
「いいかね? 掃海艇が機雷を解除した後、そこに突入《とつにゅう》する。それもわしらのように最短|距離《きょり》を通ろうともせず、重力まかせのトランスファ軌道を通ってだ。なぜだ? 機雷原を前にして、掃海作業のプロが油断できるのはなぜだね?」
「……そうか」
マージは合点《がてん》した。よほど確実な解除手順が与えられていない限り、そんな行動をとるはずがない。解除手頗そのものが間違っていた可能性もなおあるが、彼女の六年間の経験に照らしても、油断説のほうがはるかに有力に思えた。
「わかったわ、ロイド。じゃあ話を進めましょう。この球体が回収するに値《あたい》するとして、どうする?」
「もちろん回収に出向くさ。他ならぬこの、ミリガン運送がだ」
「相手は機雷原の中よ」
「それはそうだが――よし、それを考えようじゃないか」
考える前に結論を出す男だった。
「あの、私、迷惑《めいわく》でなかったら」
メイがおずおずと言う。
「予備のセンサーが届《とど》いたら、ナビゲーターをつとめたいと思うんですけど……」
「気持ちはうれしいけど、だめよ」と、マージ。
「やっぱり……」
「いいえ、あなたの腕は信じてるわ。あなたは最後までうまくやったし、事実命びろいしたんだもの。でもシャトルで球体に接近し、回収作業をする間は機雷を避けようがないのよ」
「うんうん、そうだよメイ」
全面的には信じてないんだが、と思いつつ、ロイドも言った。
「君のような前途《ぜんと》有望な子に、こんな危険な仕事はまかせられないな」
メイはうなだれた。
「なんにせよ、近地点は二百三十キロなんだ。安全地帯からたった三十キロ入るだけでランデブーできるんだから、何か手はあるだろう」
「ロイド、ランデブーは容易《ようい》じゃないわ。高度差は小さくても、こっちは円軌道、向こうは楕円軌道で」
「だがな、相手はその円軌道にトランスファしようとしてたんだぞ。ちょいとベクトルを変えて、減速してやればいいんだ。たとえばだ――球体の通り道に砂をばらまくなんてどうだ?」、
「ダメよ。重大な航路|汚染《おせん》になるわ。これでもし機雷が解除できなかったら、そこを通るのはますます難《むずか》しくなる――そうでしょ、メイ?」
「ええ。……ちょっと、困ります」
「ふむ」
ロイドは腕組みして、思案した。やがてマージの方を見る。
「なあマージ……」
マージは嫌《いや》な予感がした。
この言い方――ロイドはまた何か、とてつもなく非常識な提案をしようとしているのだ。
「こうしよう。安全地帯からロープをかけてひきずり出すんだ」
「お願い。まじめにやってちょうだい」
「まじめさ。大まじめだよ」
「どうやってロープをかけるっていうの」
「わしがロープを持って、球体にとりつく。ロープの一端はシャトルにくくりつけておき、わしが戻ったら、バーニアを噴射《ふんしゃ》しながら巻き上げるんだ」
「そんな――」
抗議《こうぎ》しかけるマージを差し置いて、ロイドはメイに聞いた。
「メイ、仮《かり》にシャトルが高度百九十キロの軌道を周回したとして、機雷にはそれが『見えて』いるのかね?」
「ええ。感応圏内です」
「機雷はシャトルを注目する。そうだな?」
「はい」
「そのシャトルから、宇宙服を着た男がロープを持って出てきて、機雷原に入ったらどうなる?」
「そうですね。シャトルより充分に軽いから――機雷はシャトルの方を注目し続けるはずですけど……」
「質量比で決まるわけだな。いいぞ、なら危険はない」
「でも、そんなこと、とても保証できません。距離が離れれば、別の物体とみなして向かってくるかも」
「その時はその時だよ」
「だめです! そんな無茶なことを――」
メイは抗議しかけた。ナビゲーターである彼女にとってロイドは――マージも含めて――友人であるとともに、大切な『お客様』だった。機雷原を越えて、無事に送り届けなければならない預《あず》かり物ともいえる。それだけではない。二人のような命知らずの運送業者こそ、ヴェイスの生命線なのだ。
だがロイドは、メイのそんな気持ちなど、まるで意に介《かい》していなかった。
「大人には、こういう生き方も許されるんだ。メイ、君は家にいて、空が晴れるのを待っていればいい」
「そうね。それはその通りだわ」と、マージ。
「でも、ロイド。少なくとも長さ四十キロのケーブルが必要になるでしょう。相当な重量になるわよ」
「いやいや。うまいことに、帰りの積荷が単結晶《たんけっしょう》ケーブルなんだ。それも直径〇・二ミリで、八百トンの荷重に耐《た》えられる代物だ。専用のウインチもセットだしな」
「長さは?」
「五十キロだ。充分《じゅうぶん》だろう」
「他人様から預かった積荷を勝手に――」
「つまらん事にこだわるなよ。ははん、そうかマージ、君はわしの事を心配して」
うまい挑発《ちょうはつ》だった。マージは即座《そくざ》に乗った。
「やるか。試す価値はありそうね」
「決まりだな」
ロイドは手を伸ばして、メイに握手《あくしゅ》した。
「わしは単結晶ケーブルの荷受けをしてくる。マージはランデブーに最適な軌道《きどう》を計算して、航行計画を立ててくれ」
「船の総点検《そうてんけん》が先よ」
「私も手伝います、マージさん」
「ありがとう、メイ」
それから午後にかけて、マージとメイはアルフェッカ・シャトルの耐熱船殻《たいねつせんこく》を徹底的《てっていてき》に調べた。丈夫《じょうぶ》さで選んだだけあって、あれほどの無理をかけたにもかかわらず、補修《ほしゅう》の必要な部分はほとんどなかった。要所にはフィルム状のパテを張り付け、硬化《こうか》後にサンダーをかける。
一方、機雷探知用センサーの固定金具は、根元からぽっきりと折れていた。金属|疲労《ひろう》が原因らしい。
二時すぎになって、ドックにロイドが現れた。単結晶ケーブルを積んだ電動カートに乗っている。ケーブルは直径三十センチほどの、一方がゆるやかに開いたボビンに巻き取られていた。これで五十キロメートルの長さになるとは、にわかには信じられない。
ボビンは高速の電動ウインチに直結していた。
マージは四分割されたペイロードベイ・ドアをすべて開いた。幅《はば》五メートル、長さ十八メートルのペイロードベイ(貨物区画)がむきだしになる。その床《ゆか》と壁《かべ》には、貨物の積み下しのさいにできた傷《きず》やへこみが無数にあり、宇宙船というよりはトラックの荷台に近かった。
ウインチをクレーンでつり上げ、ペイロードベイの中央にある汎用《はんよう》プラットホームに固定する。プラットホームは四本のボルトで床に固定されていた。
続いてウインチの操作をコクピットで行なえるように配線した。操縦席の前にはウインチとセットになっているコントロール・ボックスが仮固定された。
すべての作業が終ると、三人はコクピットに集まって航行計画を立てた。コンピューターによれば、この次、球体がランデブーに最適な位置に来るのは、明日の午前十一時三十四分とのことだった。
それにもとづいてプランを決定し、港湾局に提出すると、三人は帰途《きと》についた。
ACT・2 カートミル家
夕食の席で、ロイドはメイの両親に球体のことを詳《くわ》しく話した。
ジェフは二、三の質問をしたあと、感に堪《た》えない、という面持《おももち》で言った。
「……素晴らしいことです。すべてうまくいけば、あなたがたはヴェイスの救世主になるでしょう」
ロイドは相手の様子をみて、唯一《ゆいいつ》恐《おそ》れていたことが杞憂《きゆう》に終ったことを知った。
「では、やはり過去にこのような試みはなされなかったんですね?」と、念を押す。
「私の知る限り、ありませんね。機雷原の中に何かあるかも知れない、ぐらいなら誰かが思いついたかも知れませんが、実際に確認しようとして、すぐにあきらめるんでしょう。なにしろレーダー観測ができませんからね」
「しかし、原始的な方法ですが、光学観測でも根気良くやれば見つかったかもしれませんなあ。黒い球体ではかなり難《むずか》しいとは思いますが」
「そうですねえ……」
ジェフはフォークを置くと、遠い目になった。
「――いつの日か、我々は掃海艇《そうかいてい》を捜《さが》すことなどあきらめてしまったんでしょう。機雷をリモート解除する送信を続けていることは御存知ですか?」
「マージから聞きました」
「あれが希望の綱《つな》でした。お恥ずかしい限りですが、ああしているうち、ある日突然、機雷が止まるんじゃないかとね――やれることは全部やっているつもりになってたんでしょう」
「いや、いや、恥じることはありませんよ」
ロイドは手を振ってなだめた。
「この星で、二百六十年なんて短いもんです」
学校で教えられるのは億単位の人間が築く歴史だった。どんな惑星でも年代相応の歴史があるものと思いたくなる。だが、わずか三万の人間が二百六十年間にできることは限られている。
「それも――以前はおそらく……」
ジェフはうなずいた。
「三六二五年の『大空襲』を生き延びたのは、シェルターに残った四千九百人だけです。ひどい時代だったにちがいありません――レグルス社がナビゲーターを使った交易《こうえき》システムを確立したのは、それから三十年も後ですからね」
「……そうでしたか」
「もっとも、祖父の代あたりでエコロジー・バランスが修復されて、それからはずいぶん住みやすくなりました。――肉はチキンばかりですが、それが嫌《きら》いでなければね」
「ああ、これなら最高ですよ。毎日食べたいくらいです」
ロイドは自分の、チキン・ソテーの皿《さら》を指した。ベスが微笑《ほほえ》む。
その時、メイが言った。
「ロイドさん、私――」
「ん?」
「私、思ったんですけど、球体にケーブルをかける仕事、私がやるべきじゃないかって」
「はっはっは。メイ、気持ちはうれしいがね、わしは金儲《かねもう》けがしたいだけなんだ。機雷の解除手順を見つけて、政府に売るためさ」
「そうじゃなくて――質量比の問題なんです」
相好《そうごう》を崩《くず》していたロイドは、そのままの体勢で動きを止めた。
「宇宙服を着たときのロイドさんの質量は九十六キロでしょう? 私は五十一キロです。私なら、機雷に目をつけられる確率は半分になります」
「ちょっと待った……」
マージが後を引き継《つ》ぐ。
「メイ、数字のトリックで惑《まど》わさないでちょうだい。五万分の一が十万分の一に減ったところで、たいした意味はないのよ」
だが、メイは折れなかった。
「いいえ、意味がないほど安全だとは思えません。よくて百分の一です」
「だったら、なおさら君には任せられないな」
ロイドは言った。
「前にも言ったろう? こんな事ができるのは、大人の特権なんだ」
「そんな事、ないと思います! 私、前の航海はロイドさんとマージさんのおかげで助かったんです。今度は私の番です。船外活動の資格も経験もあります。体重が軽いぶん、早く行けますし」
「だめだね、メイ。これはミリガン運送のビジネスだ」
「さっき港湾局《こうわんきょく》に提出したプラン、あのままじゃ航行法規|違反《いはん》ですよね。一人が船外活動する時は、船内に二人以上残る規則になっています。本当は船外活動するんだって知らせたら、飛行は差し止めになると思います」
「私たちを脅迫《きょうはく》する気かね? ミリガン運送は何度も危険な仕事を引き受けてきた。そんな事で私たちがひるむと思うかね。とにかくだめだ」
ロイドは拒《こば》み続けた。
そろそろ両親の加勢がほしかった。
だが、二人は沈黙《ちんもく》を守っていた。
自分に遠慮《えんりょ》しているのだろうか。祖国より我が子を大事にすることが、それほど恥ずかしいのだろうか。
その時、メイは思いつく限り最強のカードを出した。
「もし失敗したら、球体の軌道《きどう》がどう変わるかわからないでしょう? 本当に最後のチャンスかも知れないんです。少しでも成功の可能性を高くしないとだめなんです。それでもロイドさんが行くっていうのなら……」
「なら、どうする」
「私、当局にこのことを報告します。だって、ヴェイスの未来がかかってるんですもの。そうでしょう、父さん」
「いや、しかしな」
ジェフは額に汗をうかべていた。伏せた視線が、せわしなくテーブルの上をさまよう。
「父さんだって自分の、水をつくる仕事が誇《ほこ》りだって言ったわ。ヴェイスのために役に立つんだって。私も同じ。私も、役に立ちたいもの。行くななんて、言えないはずよ!」
「言えるさ!」
そう言ったのは、ロイドだった。
「親にはそう言う資格がある。子供を守る権利があるんだ。そうでしょう?」
ロイドはそう言って、父親を見た。
だが、ジェフはやがて、首を横に振《ふ》った。そして言った。
「メイを――行かせてやってください」
ベスが両手で顔を覆《おお》った。
「これがうまくいけば、もう機雷におびえなくていいんだ。わかるね、ベス」
ベスは震えながら、うなずいたように見えた。それから立ち上がり、部屋を去った。
ジェフは二人の異邦人《いほうじん》に、もう一度言った。
「ロイドさん、マージさん。娘《むすめ》をよろしくお願いします」
ACT・3 レグルス社・運航本部
ロイ・ヘックマンは、終業時刻が過ぎた今も、まだ事務室に居残っていた。
彼は律儀《りちぎ》な男で、どんな事でも二度チェックしないと気が済まないたちだった。そのせいでよく残業する。家には妻と二人の子供が待っているが、それを思うとますますミスはできないと思ってしまう。
七時になると、壁ぎわのプリンターから数枚の紙がはき出された。
ヴェイスとのレーザー回線が開いて、最新の運航計画が送られてきたのだろう。
恒例《こうれい》のことなので、ロイはよく承知していた。
内容をあらためる。特に変わったことはないが――いや、まてよ。
ロイは一番目の船に目を止めた。
ミリガン運送、アルフェッカ・シャトル。あの、センサーが脱落《だつらく》して一時は触雷《しょくらい》したと思われた船だ。うっかり殉職《じゅんしょく》通知をやらかして、慰謝料《いしゃりょう》を払う騒《さわ》ぎになったという。
ロイは運航部長のボリスから、ミリガン運送の船が飛ぶときは連絡《れんらく》してくれと言われたのを思い出した。
航行目的は試験飛行で、機雷原には入らず、軌道を一周してまた地上に戻ることになっている。だが、これも「飛ぶ時」のうちだ。
ロイは持前の律儀さでそう判断すると、そのページをコピーして、運航部長の部屋に向かった。
「そうか、よく報告してくれた。君の仕事ぶりにはいつも感心しているよ」
コピーを受け取ると、ボリスはにこりともせずに言った。
「だがもう帰りたまえ。残業は誉《ほ》められたことじゃない」
「わかりました」
ロイが退出《たいしゅつ》すると、ボリスはもう一度コピーを眺めた。
積荷は単結晶《たんけっしょう》ケーブル一巻。
どういう意味だろうか。まさかこちらに来る時も、これっぽちの積荷だとは思えないが、試験飛行に一個だけ積むのも妙《みょう》だ。
まさか、何かをたくらんでいるのだろうか。
あの「誤報《ごほう》事件」の船だけに、余計ひっかかるものがある。
ここは念には念をいれた方がいい……。
ボリスは端末の電源を入れて、機雷原の外を周回する監視《かんし》衛星との間に回線を開いた。
自然言語によるコマンドは『明日、ヴェイス空港を飛び立ったシャトルを光学的に追跡《ついせき》し、逐次《ちくじ》報告せよ』だった。
ACT・4 アルフェッカ・シャトル
その夜、マージはあまりよく眠れなかった。いろいろ考え事があったこともあるが、第一の理由は、隣室《りんしつ》で自分より先に眠った者にあった。寄せては返す波のように、その重低音はマージの聴覚《ちょうかく》を襲《おそ》った。メイの家は、アルフェッカ号のキャビンほど防音がよくなかったのだ。
寝る前、マージはロイドに、本当にメイを行かせるつもりか、と尋《たず》ねた。
ロイドは「ああ」と言った。「わしが行く事にやぶさかではないが、何が残酷《ざんこく》かって事を考えるとな」とも言った。
そう言い残して、先に寝てしまった。
ロイドが舌戦で負かされるところを見たのは、これが初めてだった。もしかすると、不貞寝《ふてね》かも知れないと思ったが、いびきを聞いているうちに、考えを改めた。
翌朝、「さあ、こっちも燃料補給だ」と言いながらトーストを頬張《ほおば》るロイドを、マージは恨《うら》めしげに眺めていた。
大仕事を前に高いびきをかいて熟睡《じゅくすい》し、食欲も満点、というこの中年男の体質に、マージは軽い敗北感を味わった。この土壇場《どたんば》の強さがミリガン運送を支えてきたことは認めざるを得ない。その一方、平気で土壇場に踏《ふ》み込むために、多くの社員が離れていったのも事実なのだが。
マージはふと思いついて、メイに聞いてみた。
「メイ、もしすべてがうまくいったら、あなた失業ね」
メイはきょとんとした顔で、トーストを飲《の》み込んだ。
「あ、それもそうですね。どうしよ」
そう言って両親を見る。
「オンタリオ・ハイに行けばいいわ。まだ十六だもの」
ベスが言う。近所の高校のことだろう。
「いや、工業高校でもいいぞ。環境《かんきょう》工学を学んで、父さんの仕事を継《つ》ぐんだ」
と、ジェフ。
「それもいいけど、メイにはもっと女の子らしい仕事のほうが――」
「うーん」
平静を装《よそお》った両親の前で、メイはようやく本気になって考えた。
ヴェイス・ナビゲーターほどエキセントリックな職業も少ない。成績が悪かったとはいえ、才能を生かすことになるし、なにしろやりがいや使命感は無限にあった。
この命懸《いのちが》けの仕事から離れた後のことなど、容易には想像できなかった。普通《ふつう》の高校を卒業して、女の子らしい仕事につくとしたら、それは人生の残りかすのように思えてくる。これでいいのだろうか。
メイはふと、目の前にいる『働く女性』のことを思った。少なくとも彼女は、残りかすを生きているようには見えない。
「マージさんって、どうして今の仕事を選んだんですか?」
「私? 私は――」
たまたま求人広告が目についたからという、いつもの言い逃《のが》れはできなかった。
メイは十二年前の自分なのだ。その頃マージは、すでに未来の職業を決めていた。
「宇宙で働こうって心に決めたのは、十歳の時、課外授業で軌道飛行を経験してからかな」
そばでロイドが、ほう、と言った。彼にとっても初耳だった。
マージは続けた。
「定期客船の遊休時間を使うから、ドームを出たのは夜明け前だった。ああそう、ドームってデネヴ星のユーリズレクト市ね。離昇《りしょう》した時はまだ眠い目をこすってて――それが完全に醒《さ》めたのは、船が軌道を一周した時ね……」
その時の光景を、マージは今でもありありと思い出すことができる。
マージの乗った船は、惑星の夜側を通る間に、千キロの高みに昇っていた。やがて前方の希薄《きはく》な大気層に一筋の光条が走るのが見えた。地理の教師は「夜明けが来た」と言い、それ以上の説明はしなかった。
昼夜の分かれめ――明暗境界線は、すばらしい速度で眼下に迫《せま》っていた。その線に、奇妙《きみょう》な突出部分があるのに、マージは気づいた。彼女の注視の中で、それは夜の影から分離し、先の丸い、くさび型の模様になった。まるで途方《とほう》もない巨人が、大地に黒いペンキの刷毛《はけ》を振り降ろしたようだった。模様が近づくにつれて、くさびの根元が真珠《しんじゅ》のように輝いているのがわかった。
「ほとんど真下に来た時、突然その正体に気づいたの。光っているのはさっきまで自分のいたドームで、くさび型はその影だってね」
「へえ……」
ユーリズレクト市のドームは大戦後の建築工学の結晶《けっしょう》ともいえる、直径百二十キロの無柱建造物だった。幼《おさな》いマージにはそれが世界のすべてだったし、果てしない未知の空間だった。だが軌道《きどう》から見下ろした時、それは五十センチ先の、つぶれたテニスボールにすぎなかった。彼女が宇宙への船出を決意したのは、それからだった。
「メイ、あなたも自分のドームを外から見たことがあるでしょう? そんな風に思わなかった?」
「L4シティの望遠鏡で見た時は、小さな世界だなって、あらためて思いました。でも、わかってたことですから――」
「ああ、そうか……そうよね」
ヴェイス人なら誰でも、自分の住む世界が宇宙と切り離されていることを忘れたりはしない。ヴェイスの百四十四倍の面積を持ち、数分おきにシャトルが発着する世界で育ったマージとは、認識の根本が違っていた。
マージは少し恥《は》ずかしくなった。めったに人に話さない、自分の原体験を明かしたあげく、この部分ではメイの方が大人だったことがわかったのだ。
もちろん、今の自分はそれほどナイーブではない。十歳の時の感動を忘れたわけではないが、商船大学を卒業し、ミリガン運送に就職《しゅうしょく》して星々をめぐる間に、いくつかの転機があった。宇宙で生き延びる事が真のプロの証《あか》しだとわかると、マージはそれに徹してきた。どんな事態にも冷静かつ的確に対処できる人間を彼女は尊敬したし、そうなることが今の目標だった。
マージは原体験の話題から離れようと思った。
「メイには、混沌《こんとん》とした状況《じょうきょう》から正解を見つける才能があると思うわ。問題解決能力っていうのかな。それを生かすことを考えたらどう?」
ロイドが笑った。
「はっはっは。マージ、混沌にさらされない職業なんてどこにあるね」
「程度問題よ」マージはむっとして言った。
「じゃあ、最も混沌とした仕事はなんだね?」
「もちろん――ボロ船一隻の運送会社で万能社員として働くことよ」
「おっと、これはやられたな」
その時マージは、メイの両親の、やや白い視線に気づいた。
マージは急いで事態を立て直そうとした。このいたいけな少女を、ミリガン運送に勧誘《かんゆう》することは許されないのだ。
「メイ、あなたならどんな仕事でもできると思うわ。でも、首尾良《しゅぴよ》く失業したのなら――変な言い方だけど――ご両親のそばで働くのが一番よ」
「……そうかもしれませんね」
両親はほっとした顔でうなずいた。
朝食が終ると、五人は空港に向かった。
デバーチュア・ゲートの前で両親と別れ、業者用の区画を通って格納庫に向かう。テスト飛行ということで、めんどうな手続きは不要だった。
アルフェッカ・シャトルは翼内《よくない》タンクに推進剤《すいしんざい》を満たして、主人たちを待っていた。それは外からでもわかった。降着ギアの緩衝《かんしょう》シリンダーが縮んでいるからだ。
船内に入り、電源を入れ、チェックリストを読み上げる。
いつも通りのことを、いつも通りに繰り返す。
核融合炉《かくゆうごうろ》が息を吹き返した。
「全システム異常なし。いつでも発進できます」
マージが言うと、ロイドは無線で地上管制官を呼び出して、トーイングを申請《しんせい》した。
間もなく、トーイング・カーが現れ、牽引《けんいん》ロッドを前脚に連結した。
ホイール・ブレーキを解除し、窓ごしに運転手に合図する。
格納庫の扉《とびら》が上向きに開き、アルフェッカ・シャトルはゆっくりと動きはじめた。
地上へのスロープを登る頃になって、メイが聞いた。
「マージさん、今回は後ろに行かないんですか?」
「え?」
「発進の時はいつも機関部を見てるって……」
「ああ――そう、そうよね。そろそろ行こうかと――」
マージが立上りかけると、ロイドが右腕をつかんだ。
その目は、「わしに離昇《りしょう》をやらせるのか」と語っていた。
それもそうだ。
「でもまあ、今回はここに居るわ。昨日じっくり整備したし」
「あ、そうですね」
メイは素直に納得《なっとく》した。
シャトルは地上に出た。
連結を解いたトーイング・カーが引き返してゆく。
散在する施設《しせつ》と、遠くの居住ドームを除けば、見渡す限りの地平線だった。
かすかに赤みがかった空は、雲ひとつない。
送迎デッキにメイの両親がいるはずだが、遠すぎてよくわからなかった。
航空気象台は北部の砂塵《さじん》あらしを予報していたが、まだその気配はうかがえない。
マージはメインエンジンを最小出力で噴射《ふんしゃ》させて、滑走路《かっそうろ》に船を走らせていった。
滑走路端でいったんブレーキをかけ、管制塔《かんせいとう》に離昇許可をもらう。
進行方向クリア――障害物《しょうがいぶつ》なし。
後方もカメラ映像でチェックする。ここに人や車があってはならない。
「メイン・エンジン、水平離昇出力」
スロットルを押すと、プラズマの噴射が後方数百メートルの大気を焦《こ》がした。船体が前のめりに沈み、噴射に導かれた風が周囲の砂塵を巻き上げる。
「ホイール・ブレーキ解除」
シャトルは弾《はじ》かれたように滑走を開始した。最初の一秒で三メートル進み、十秒後には。時速二百キロを超える。
滑走速度が三百キロを超えた時、マージは四千年の伝統を持つ船乗《ふなの》り――かつては飛行機乗りだが――のかけ声を口に出して、操縦桿《そうじゅうかん》を引いた。
「VR――ロールアップ」
前輪が地面を離れ、すぐ主車輪もそれに続いた。
この瞬間《しゅんかん》、マージはいつも最大出力で噴射《ふんしゃ》したくなる。その方が空力的には安全でもある。だが、そんなことをしたら二度とその空港に入れてもらえなくなるだろう。途方《とほう》もなく高熱の噴射を、滑走路面に叩《たた》きつけることになるからだ。
機首を惑星の自転方向に向け、高度が一万フィートに達するのを待って、マージは出力を最大にした。
衝撃波音が響き、空の青さがみるみるうちに濃《こ》さを増してゆく。左右の窓から見える地平線は、はっきりと丸みをおびてきた。
それまで上を向いていた船体が、しだいに水平に戻る。びりびりと座席を震《ふる》わせていた震動《しんどう》がおさまった。物理の練習問題に出てきそうな、外乱のきわめて少ない領域に入ったのだ。
前方の窓に地平線が現れた。
赤く乾《かわ》いた大地と漆黒《しっこく》の宇宙のはざまにある、青く、はかない大気の層。
ヴェイス人に許された、限りなく二次元に近い空間がそこにあった。
高度百二十キロで軌道《きどう》速度に達し、進路を球体との近似的なランデブー軌道に合わせる。
マージは、ハーネスを解いて席を離れた。
「さあメイ、支度しましょう」
「はい」
二人の女は、ペイロードベイに通じるエアロックの前に行った。
マージはメイに宇宙服を着せた。
光沢《こうたく》のある白い服を着たメイを見て、確かにロイドの半分だ、とマージは思った。
ウエストは、服の上から測っても六十センチ台だろう。ベルトにつけた生命|維持装置《いじそうち》のコントローラーが、ひどく大きく見える。
この時代の宇宙服は、宇宙時代の黎明期《れいめいき》にあったものと較べれば、はるかに柔軟《じゅうなん》で、軽量だった。ここまで進歩するためには、ある工学的|矛盾《むじゅん》を解決しなければならなかった。真空中での内圧で服が風船のように膨《ふく》らみ、関接が曲《まが》らなくなるのだ。そのため、当時の宇宙服の内圧はかなり低く、減圧に体を慣らすのに十数時間もかかったものだった。もちろん、誰が着ようが体の線などほとんど見えない代物《しろもの》だった。今では、均一《きんいつ》にかかる内圧から人体の動きを引算して変形する素材が開発されて、この問題を解消している。
マージはメイの背中に、機動ユニットを取り付けた。
これは宇宙空間での機敏《さぴん》な移動を可能にするもので、肩と腰の左右に、互いに直交する五つの小さなノズルが張り出しており、背中には推進剤《すいしんざい》タンクとメイン・ノズルがある。コントローラーは右手首にマジック・テープでくくりつける。
「よく似合うわ」
バックパックのハーネスを締《し》め直しながら、マージは言った。
これは嘘《うそ》だった。機動ユニットを背負うと、メイの細い体はますます頼《たよ》りなく見え、痛ましいほどだった。
できることなら、自分が代わってやりたい、とマージは今初めて思った。
利己主義を弁護する言葉はいくらでもある。だが、どんな言い訳も、世のため人のために体を張ろうとしているこの小娘《こむすめ》の前には無力だった。L4シティの桟橋《さんばし》で初めてメイに会ってから、ずっとそうだった。
マージはため息をついて言った。
「ロイドの腕がもう少し頼りになればねえ……」
「え?」
「彼に操船をまかせて、私が出たんだけど」
「そんな――」
「あら、私そんなにデブに見える? ロイドとの質量比じゃ、そうは負けてないつもりだけど?」
「いえ、そんなんじゃ」
そう言いながら、メイはマージの体を見た。
「……私も、マージさんみたいにグラマーになれるかな」
「何言ってるの、こんな時に」
「すみません」
マージはヘルメットを持つ手を止めて、言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》、なれるって。ヴェイスは低重力だし、これからが発育の盛《さか》りよ」
メイの頭にヘルメットをかぶせ、ロックして気密を調べる。
問題はなさそうだ。酸素は二時間ぶんある。
時計を見た。ランデブーの軌道に乗ってから二十分ほど経っている。
マージは首に掛けていたインカム(通話装置)をはめて、話しかけた。
「五分したら外へ出て、単結晶ケーブルのリードワイヤーを腰に結んでまっててちょうだい。出発のタイミングはこちらで指示するわ」
「わかりました」
「船を離れたら無線は使えないからね。何かあったら無理しないで、すぐ引き返すのよ」
「はい」
「それから、ケーブルには絶対|触《ふ》れないこと。どんなナイフよりよく切れるんだから」
「わかってます」
「よし――グッドラック」
マージが親指を立てると、メイも同じ仕草《しぐさ》を返した。
コクピットに戻ると、マージは船体をローリングさせて、ペイロードベイを機雷原側に向けた。高度は一九五キロに設定する。近地点を通過する球体とランデブーするためには、遠心力と重力の釣《つ》り合った純粋な軌道飛行より、倍近い速度を出さなければならない。その上で遠心力で機雷原側にひきずられないよう、バーニア噴射《ふんしゃ》を続ける必要があった。
忙《いそが》しく噴射出力を設定する横から、ロイドが言った。
「メイの様子はどうだった? おびえてないかね」
「しっかりしてるわ」
「そりゃそうだわな。なにしろ機雷原が仕事場なんだからなあ」
「ええ」
「まったく大した娘だな。あの親にして――」
「ちょっと黙《だま》ってて!」
マージは怒鳴《どな》った。
自分でも驚くほど、大きな声になった。
きわどいところで、続く言葉を飲《の》み込む。
いったいあなたはなんの役に立ってるの。操縦をまかせることもできず、球体の回収にも出られない、ただの八十七キロの質量じゃないか。今度の仕事は、あたしとメイでやってるんだ――。
「マージ、どうしたんだ。気に触《さわ》ることを言ったのならあやまるが……」
マージは答えなかった。
「緊張してるのはわかるよ。だが返事ぐらいしてほしいな。こんな時、黙りこくってて何かがうまく運ぶとは思えないんだ」
「…………」
「『うん』でいいんだ。『うん』――それだけで」
マージはなおも沈黙《ちんもく》を保っていたが、やがて言った。
「うん」
ACT・5 レグルス社
つけっぱなしの端末が短いアラームを鳴らし、画面にメッセージ・ウインドウが開いた。
『光学|追跡《ついせき》中の物件・挙動《きょどう》異常』
発信元は監視《かんし》衛星二号、とある。
ボリスは受話器を取ると、隣室の秘書に言った。
「指示があるまで外出扱いにしてくれ」
秘書は何も聞かず、かしこまりました、と言った。
ボリスは端末を操作して、監視衛星の画像を呼び出した。
赤い惑星表面をバックに、白い飛行物体が映っている。
高度一万五千キロを周回する衛星から、超《ちょう》望遠レンズで捉《とら》えたもので、解像度はかなり低い。それはにじんだ十字架《じゅうじか》のように見えた。
飛行物体の船首、船尾、および両翼端《りょうよくたん》には、青白い光がともっていた。
「なんだ、これは」
飛行物体――アルフェッカ・シャトルは、軌道《きどう》を遷移《せんい》させようとしているかに見えた。
だが、画面の隅《すみ》に表示されている数値は、一向に変化しない。
ボリスは監視衛星のコンピューターを音声応答モードに設定して、端末のマイクに話しかけた。
「監視衛星二号、挙動異常の根拠《こんきょ》を説明せよ」
「目標は正常な軌道飛行を行なっていません。高度に対応しない軌道速度を維持《いじ》しようとています」
「そうする理由は何か」
「わかりません」
コンピューターはさらりと答えた。
「ふむ。わかりません、ときたか」
自分に対して、これほど率直にものを言う相手はコンピューターをおいて他にない。
少なくとも、この十年来はそうだった。
ボリスは監視を続けた。
ACT・6 アルフェッカ・シャトル
軌道計算を信じるなら――球体との最接近の時が迫《せま》っていた。
マージは有線通話でメイに話しかけた。
「メイ、聞こえる? まもなくペイロードベイ・ドアを開くわ」
「了解《りょうかい》しました」
「外側に弱い重力がかかってるから、近くのハンドルにつかまってなさい」
「はい」
「それから、太陽と惑星の方向を見ないこと。暗さに目を慣らしておかないと、球体を発見できないわ」
「はい」
「十分以内に見つからなかったら引き返すのよ」
「わかってます、マージさん」
「じゃあ、開くわよ」
マージはペイロードベイ・ドアの開放スイッチを押した。
バシャ、というラッチの解除音。続いてモーターの減速ギヤの音が響《ひび》く。
「わあ」
「どうしたの!? メイ」
「すごい星空です」
「あのねえ……。とにかく出発して」
「はい。行ってきます!」
プツリという音がして、有線通話のコネクターが引き抜かれた。
マージとロイドは同時に天井《てんじょう》の観測窓を見上げた。
すぐに機動ユニットを背負ったメイの姿が視野に入った。
「あー、ひとつ言っていいか? マージ」
「ええ」
「なかなかいい娘じゃないか」
「ええ」
メイの姿が小さくなってゆく。
すぐに、星と見分けがつかなくなった。
ACT・7 レグルス社
ボリスは画面に見入った。
白い十字の一部が、かすかに膨《ふく》らんだように見えた。そこから、白い光点が分離する。
「EVA(船外活動)を始めたのか……」
光点は、すばらしい速度でシャトルを遠ざかってゆく。その先は――。
どういうことだ。機雷原《きらいげん》に入る気か?
ボリスは監視《かんし》衛星に命令を送った。
「目標から分離した光点も追跡《ついせき》し、別の画面に表示しろ」
「わかりました」
それからボリスは、社長室に直通電話をかけた。
相手はすぐに出た。
「私です。ちょっと見ていただきたいものがあるのですが――」
ACT・8 球体
妨《さまた》げるもののない、一面の星屑のなかを、メイは飛んでいた。
宇宙船の中からでは、これほど多くの星は見えない。瞳孔《どうこう》が船内照明に順応しているためだ。メイは少なからず、胸をときめかせていた。もちろんEVAは初めてではなかったが、今回の始まりは劇的《げきてき》だった。薄暗《うすぐら》いペイロードベイの天井が、急に二つに割けて――まるで芝居《しばい》の幕《まく》が上がるようだった。
不思議にも、恐怖《きょうふ》はあまり感じなかった。他人の命を預《あず》かるナビゲーション業務に較《くら》ベれば、単独でそこに飛び込むことは、解放感さえあった。
メイはロマンチックな連想を追い払って、周囲に目をこらした。
直径五メートルの、黒い球体。
本当に、そんなものが見えるのだろうか。
時計を見る。シャトルを離れてから、七分経過している。極小の慣性航法装置が示す高度は、二百三十一キロを示していた。
ランデブー予想地点まで、もう二十秒で着くはずだった。
そろそろ見えてもいい頃だが、視野にはただ、またたく星空があるだけだった。
もしかしたら、目の前に機雷があるかもしれない。もう、まわりじゅうを囲まれていて、次の瞬間《しゅんかん》に爆発するかも――。
メイはその考えも追い払った。
入れ替わりに、何かが意識の表層に上ろうとしていた。
なんだろう? 何か、ひっかかる。
待てよ――星がまたたく?
確かにさっき、前方の星がまたたいたように見えた。宇宙空間ではあり得ないことだ。
その方に、注意を集中する。
消えた!
星がひとつ消え、すぐにもとに戻った。続いてもうひとつ。
目の前の機雷かも――いや、だとしたらとうに触雷《しょくらい》しているはず。
明滅が視野を斜《なな》めに横切る天の河にさしかかった時、それは決定的になった。
星の絨毯《じゅたん》が、丸く切り抜かれていく。
「あった! マージさん、見つけました!」
無線が通じないことも忘れて、メイは叫んだ。
黒い影はみるみるうちに大きくなった。
それは全くの黒ではなかった。内側に、ぼんやりと赤茶けたものが見える。ヴェイスの反射像だった。
手首のコントローラーを操作して、減速する。
距離感はなかったが、五・四メートルという予測を信じるなら、それはもう十メートル先にあるはずだ。
メイは小刻みに噴射《ふんしゃ》を繰《く》り返して接近し、その表面にとりついた。
球体は微動《びどう》だにしなかった。表面は黒曜石《こくようせき》のようになめらかで、突起《とっき》のたぐいは見あたらない。
曲面にそって移動し、ケーブルを結べそうな所を探す。
唐突《とうとつ》に、メイは幼《おさな》い頃《ころ》、母に読んでもらった童話《どうわ》を思い出した。ちょうどこれくらいの大きさの星に、奇妙《きみょう》な衣装《いしょう》を着た人――たしか王子様だ――が立っている挿絵《さしえ》があった。どうして転げ落ちないのだろう、と子供心に思ったものだ。
球体に、重力は感じられなかった。
裏側にまわりこむと、奇妙な模様が見えた。中心から放射状に、白い筋が無数に広がっている。直径は二メートルほど。メイの知るところではなかったが、それは地球の月にある、ティコ・クレーターに酷似《こくじ》していた。
クレーターといっても、表面は少しもえぐられていない。中心部を手でこすると、球体の黒い表面が現れた。他の部分より、わずかに艶《つや》が少ないように見える。
「これって――もしかして、触雷の跡《あと》?」
メイは独りごちた。
その時、メイは背中に、何かを感じた。
皮膚《ひふ》感覚ではない。肉体の内部に浸透《しんとう》するような、奇妙な――決して不快ではない――感蝕だった。
メイは振り返った。
視野の大半を占めるヴェイスの地表に、ぽっかりと小さな黒い穴《あな》が開いていた。
それが穴ではなく、この球体と同じように、目の前にある物体のシルエットだと気づくのに一秒もかからなかった。
――機雷《さらい》だ!
メイは身を固くした。
どんなプログラムが働いているのか見当もつかないが、それはおそらく、はるか昔に仲間が球体の破壊《はかい》に失敗して以来、ずっとそこにいたのだろう。
動く気配はなかった。
だが、何かが始まったとしても、その前触《まえぶ》れを知ることはできないだろう。
たった今、自分がそのすぐ横を通り抜けたのだと思うと、メイは総毛立《そうけだ》つ思いだった。
腰につけたケーブルが、かすかに張力を増した。体が機雷の方に引き寄せられはじめたので、メイはあわてて噴射《ふんしゃ》した。
近地点を通過した球体が、ふたたび機雷原の奥へ戻ろうとしているのだ。早くケーブルを結合しなくては。経過時間は、まもなく十分になろうとしていた。
肩のライトを点灯《てんとう》して、球体の表面を子細に観察してまわる。
これが金庫なら、どこかに入口があるはずだ。
やがてメイは、親指が入るほどの小さなくぼみを見つけた。よく見ると、くぼみに接して差渡し二十センチほどの、弧状《こじょう》の筋が走っている。
くぼみに指をかけて引くと、弧状の部分が起き上がり、半円形のアーチになった。
たぶん――ここをまわせば、扉《とびら》が開くのだろう。
だが、今それを確かめている時間はない。
メイは腰のガイド・ケーブルをアーチに通した。ケーブルを引いて、単結晶ケーブルの本体をたぐり寄せる。ケーブルを数回アーチに巻きつけ、固定金具を締《し》めた。
活動開始より十二分と二十一秒。
メイは慎重《しんちょう》に機動ユニットを操作して球体から充分《じゅうぶん》に離れた。そばにつきそっている機雷にも、単結晶ケーブルにも触《ふ》れたくない。
ACT・9 アルフェッカ・シャトル
マージの視線はいらいらと、時計とウィンチのコントローラーの間を行き来していたげ現在の単結晶ケーブルの繰り出し量は四十七キロメートルで止まっている。
やがて、繰り出しが再開した。
「メイは何かを釣《つ》り上げたらしいわ」
「やりおったか。高度に気をつけろよ」
「わかってる」
マージはケーブルの繰り出しにじわじわとブレーキをかけた。張力がついたところでブレーキをロックし、同時にバーニア噴射《ふんしゃ》の出力を上げる。
張力は六十キロに達していた。
「重いな」
「球体がか?」
「ええ」
無重量状態といっても、慣性は地上と変わらない。質量のあるものを動かすには、相応の力が必要だった。
高度計の最小|桁《けた》が一秒ごとに値を増やす。
シャトルは明らかに、機雷原に向かって引き寄せられていた。
「最大出力」
四基のバーニア・ノズルがうなりを上げる。
張力が五百キロを超えた。すでにケーブルは長さいっぱいまで繰り出している。
「どうしたんだ、まだ高度が上がってるぞ」
「わかってるわ。相手が重すぎるのよ!」
高度は百九十七キロに達していた。
「姿勢を変えて、メインエンジンを吹かせ」
「やってみる」
マージはシャトルを回転させて、軌道《きどう》の進行方向やや上にノズルを向けた。
だが、始動スイッチに伸ばした手は、そこで止まった。
「だめよ。メイがどこにいるかわからないわ!」
「そうか」
高熱のプラズマ噴射にメイを巻き込むわけにはいかない。
だがこのままでは、シャトルは機雷原に引き込まれる。船が失われれば、メイも助からないだろう。
ロイドは握《にぎ》りしめた拳《こぶし》をコンソールに振り降ろした。
「ちくしょうめ、ここまできて――ケーブルを切るしかないのか!」
「それもだめ。同じことよ!」
ウインチには、緊急用の爆破ボルトが仕込まれている。これに点火すれば、ケーブルはボビンごと切り離すことができる。
それをやめたのは、切れたケーブルのふるまいを考えたからだった。ボビンが弾《はじ》かれたように飛び出し、ケーブルがスパゲティのようにもつれながら後に続く――もしそこにメイがいたら、その体はチーズのように寸断されるだろう。
マージは額の汗をぬぐった。
「メイを待ちましょう。もう戻るはずよ」
二人は観測窓の外に目をこらした。
高度が百九十九キロに達したとき、彼方《かなた》に光点が見えた。メイだ。
「来た!」
「あの位置なら大丈夫だ。メインエンジンを使え」
マージは始動スイッチを叩《たた》きあげ、スロットルを巡航《じゅんこう》出力に合わせた。同時にバーニア噴射も行ない、推力《すいりょく》を球体と正対させる。
ケーブルの張力は一気に三百トンにはね上がった。
これでもケーブルはびくともしない。
だが、この負荷《ふか》はウインチを固定したプラットホームにとっても、予期せぬ値だった。四本のボルトは均一《きんいつ》に荷重《かじゅう》を受け止めていたが、やがて左舷側《さげんがわ》の一本に潜《ひそ》んでいた目に見えない傷《きず》に、応力が集中しはじめた。
高度はまだ、上がり続けている。
「なんてこった。ブラックホールみたいに重いじゃないか! マージ、ケーブルを切れ!」
マージは透明《とうめい》の覆《おお》いを外し、爆破ボルトの点火スイッチに手をかけた。
その手が止まる。
心臓が早鐘《はねがね》を打っていた。
「何やってるんだマージ。早くしろ!」
「これを切ったら、永久に球体を見失うかも知れないわ。軌道は変わったんだし、下手《へた》すれば地上に落ちるかも」
「心配ごとは後にしろ。時間がない」
「それに――」
「メイを巻《ま》き添《ぞ》えにしたいのか!」
「待って!」
ロイドはかまわず、マージの手の上から点火スイッチを押した。
すべては一ミリ秒のうちに起きた。
ボビンを切り離す震動《しんどう》が、降伏点に差しかかっていた左舷船首側のボルトを破断《はだん》させた。直後、船尾側のボルトが続く。ケーブルのすべての荷重は右舷側の残り二本のボルトに集中し、チタニウム製のプラットホームはアメのように折れ曲った。変形した肋材《ろくざい》は抜けようとしていたボビンを押え込み、その自由を奪《うば》った。
そして一方に偏《かたよ》った荷重は、船体を弾《はじ》かれたように横転させた。
マージは反射的にメインエンジンを切り、バーニア噴射《ふんしゃ》で船の回転を止めた。
「どういうことだ!」
「この――」
マージは真っ赤になって相手を怒鳴《どな》りつけた。
「待てって言ったのに、このクソじじい!」
「何がクソじじいだ、この偏屈女《へんくつおんな》!」
「五百トンも負荷をかけたまま切断したら、ウインチにどんな力がかかるかわからないでしょ! 一度エンジンを絞《しぼ》るべきだったのよ!」
「そんな事は先に言え!」
「言おうとしたらそっちが勝手に――」
マージは絶句した。その視線は、高度計に釘付《くぎづ》けになっている。
高度二百キロ――機雷原に入った。
マージは身を硬《かた》くした。
顔から血の気が引いてゆく。
なけなしの理性が、これから起きることを想起させた。――死は、閃光《せんこう》とともに訪《おとず》れるだろう。
わけもなく目を閉じると、恐怖《きょうふ》と悔悟《かいご》が同時に押し寄せた。
ついで願望。死ぬのなら、何か残したい――何を、誰に。故郷《こきょう》の両親か?
なんの用意もできていなかった。宇宙での死が突然に訪れることを、何度も見聞きしていたにもかかわらず。
宇宙にあって今日まで、心の奥で、自分だけは死なないと信じていた。それが根拠《こんきょ》のない信念だったことを、彼女は今初めて悟《さと》った。
信じられないほど初歩的なミスだった。球体が並外れて重いという可能性を、真剣に考えていなかったし、それからの判断も誤《あや》っていた。噴射を止め、張力をゼロにしてからケーブルを切断すれば、メイを待つ必要はなかったのだ。
その時、かすかな、聞こえるはずのない声に、マージは目を開いた。
そして悲鳴をあげた。
窓の外に、メイがいた。
ヘルメットを窓に押し当てて、メイは叫んでいた。
「いったい、どうしたんですか!? ペイロードベイは破片だらけで――」
マージは思わず席を立って、窓に顔を寄せた。
「メイ! 船から離れなさい! もうすぐ触雷《しょくらい》するわ」
「どうして――ケーブルは切れないんですか!?」
マージは大きく首を横に振《ふ》って、怒鳴った。
「とにかく船から離れなさい! 空港の真上まで行けたら、あなたの無線でも救助が呼べるわ!」
メイはまる二秒ほどこちらを見つめていたが、すぐに視界の外に出た。
マージはエンジンの噴射を止め、呼吸を整えると、普段より低い声で言った。
「ロイド、あなたは脱出《だっしゅつ》して」
「君はどうするんだ」
「ケーブルを切り離せないか、やってみる」
「だめだ。君も脱出しろ」
「メイにはああ言ったけど、ここから宇宙服ひとつで助かる見込みなんて、万にひとつしかないわ。なんとかこの船を救って、メイを助けに行かないと」
ヘッドレストを蹴《け》ってエアロックに向かうマージの後に、ロイドが続いた。
「なら、わしも手伝おう。理由は君と同じだ」
議論で時間を無駄《むだ》にしたくない。
二人は手早く宇宙服を着ると、エアロックを通って真空のペイロードベイに出た。
無数の破片が漂《ただよ》う先に、奇妙《きみょう》にゆがんだウインチと――人影が見えた。メイだった。
至近距離なので、インカムを通してその声が響《ひび》く。
「外れないんです。ここにケーブルが食い込んでて」
「メイ、離れろと言ったでしょう!」
「だって――」
メイは口ごもったあと、二番目の理由を言った。
「酸素が切れる前に、救助が呼べるとは思えないんです。それよりケーブルをなんとかしないと」
「ロイド、メイを抱《かか》えて脱出して!」
「わかった。まかせろ」
ロイドはメイにつかみかかろうとした。
だが、メイはひらりと身をかわした。
「無駄です、ロイドさん。私の方が身軽だもの。それより――見て!」
メイの指さす方向を見て、マージは心臓が飛び出しそうになった。
折れ曲がったプラットホームから伸びるケーブルが、ペイロードベイの縁《ふち》を一メートルも切り裂《さ》き、電線と燃料パイプを束《たば》ねたコンジット管に食い込んでいる。
何をする暇《ひま》もなかった。
コンジット管から青白い火花が飛び散り、吹き出した液体水素から身をかわすのが精一杯だった。
床《ゆか》に身を伏せたマージがおそるおそる顔を上げた時、切断面は黒く焼けただれて、何もかもめちゃくちゃになっていた。
幸いだったのは、真空のせいで水素に引火しなかったことと、今度も炉心の自動停止装置が働いたことだった。
マージはまず、船首側にある液体水素のバルブを締めて、他の二人に声をかけた。
「大丈夫? メイ、ロイド」
「大丈夫です」
「ああ――なんとかな」
三人はしばらく沈黙《ちんもく》した。
破損《はそん》したのは、人体で言うなら脊髄《せきずい》にあたる場所だった。修理に二日はかかるだろう。それも整備施設があっての話だ。どのエンジンも使えなくなり、今からケーブルを切ったところでどうすることもできなかった。
マージは絶望的な気分で聞いた。
「メイ、今の高度は?」
メイは宇宙服の高度計を見た。
「五百四十二キロです」
「そう……」
もう、機動ユニットで脱出するのは不可能だった。シャトルは球体と同じ軌道に乗り、機雷原の真っ只中を猛スピードで上昇している。
マージは泣きたくなった。
ここに重力があれば、膝《ひざ》を折って床に座り込むところだった。
メイとヴェイスの未来を奪《うば》ったのは、この自分だ。ロイドをまぜてもいいが、それで罪《つみ》が軽くなるわけではない。罪人《ざいにん》が二人になるだけだ。
「メイ。なんて言ったらいいのか……ごめんなさい。もう、あなたを救えそうにないの」
「いいんです、マージさん」
メイの声は平静だった。
ロイドが手招きした。
「とにかく、中に入ろうじゃないか。遺書を書く暇ぐらい、あるかもしれん」
ACT・10 レグルス社
「こちらから出向いて処置するしかありますまい。機雷用のセンサーを積んでいない船が、そこから生還《せいかん》することがあってはなりません」
ボリスは言った。
彼は社長のエドガーとともに、アルフェッカ・シャトルの一部始終を見ていた。船外活動や、メインエンジンを噴射《ふんしゃ》しているにもかかわらず、軌道がほとんど変化しなかったことから、およその状況《じょうきょう》は判断できた。
ただし、シャトルが機能を停止していることはわからなかった。監視《かんし》衛星の距離から見た映像では、コンジット管が破裂《はれつ》した時の状況はつかめない。
そうとわかっていれば、静観していてもよかったのだが。
エドガーは眉《まゆ》をひそませて言った。
「あのパトロール艇《てい》を出動させるのか」
「左様です。指揮は私がとりましょう」
「怪《あや》しまれないか?」
「大丈夫です。どうせ誰も気づきませんし――気づいたとしても、あれが機雷原に入ったのは事実ですからな」
ボリスは平然と言った。
エドガーは不快感を抑《おさ》えながら、答えた。
「いいだろう。君にまかせよう」
エドガーの沈痛《ちんつう》な顔を見て、ボリスは言った。
「なに、うまく行きます。これが初めてではないのですから」
エドガーが部屋を出ると、ボリスはL4シティのポート・パトロール内にある、特別な番号に電話をかけた。
「三号艇を用意しろ。すぐ私も行く」
短い通話が終ると、ボリスはアルフェッカ・シャトルの軌道要素を書き留めた。それから監視衛星のコマンドを解除し、端末の電源を切って部屋を出た。
この時代、宇宙には無法者が多かった。最も高速の宇宙船は通信速度と等しい速度が出たので、さまざまな犯罪《はんざい》を犯《おか》したあげく、港を脱出《だっしゅつ》することさえ成功すれば、理論的には逃げおおせることができる。
そのため、どんな港にも高速の武装艦《ぶそうてい》を持つ、ポート・パトロール隊がおかれていた。
民間|施設《しせつ》であるヴェイス軌道港も例外ではない。
ボリスは急行エレベーターを使って軸部《じくぶ》に上がり、第二|桟橋《さんばし》のブリーフィング・ルームに入った。
そこにはすでに、三人の隊員が待機していた。慎重《しんちょう》に選抜され、口が固く、必要なことは、すべてわきまえている男たちだった。
ボリスはその一人に目標の軌道を記したメモを手渡すと、言った。
「では行こう。きつね狩《が》りの時間だ」
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第五章 遠地点にて
ACT・1 アルフェッカ・シャトル
機動ユニットを使ってかすかな船体の回転を止めると、三人はコクピットに戻った。
生命|維持《いじ》に必要な電力を燃料電池に切り替え、不要な回路、暴走の危険のある装置《そうち》をすべて止めたところで、三人はヘルメットを脱いだ。
席につき、ハーネスでゆるく体をとめる。
やるべき事がなくなると、誰も、一言も話さなくなった。ただじっと、わけもなく、耳を澄《す》ませている。一秒一秒が、音をたてて刻まれてゆくような気がした。
次の瞬間《しゅんかん》、触雷《しょくらい》するかもしれない。
口を開いて、言葉の途中でそうなるのは嫌《いや》だった。誰かが何か言った途端《とたん》、すべてが終るような気もした。だから、誰にも、何も話してほしくなかった。
一方で、沈黙《ちんもく》することの苦痛が、しだいに高まっていた。
緊張《きんちょう》の糸は、ぎりぎりまで張りつめていた。
ついに、ロイドが咳払《せきばら》いした。
二人の女は、びくりとした。
丸一分ほどかけて、ロイドは、二人が自分の言葉を待っているという結論に達した。
「あー、なんだその……今、どのへんだ?」
高度計はロイドの席からも見えるはずだったが、男の視線は天井《てんじょう》に向けられたままだった。マージは素直に計器の値を告げた。
「二千百五十七キロ」
「……ずいぶん、来たもんだな」
「ええ」
再び、沈黙が訪《おとず》れた。
次にそれを破ったのは、メイだった。
「ちょっと……」
言いかけて、とがめられないか、確かめるように言葉を切る。
「うん?」
マージが先をうながした。
「ちょっと、変ですね……。機雷原《きらいげん》にこれだけ入って、まだ――その」
「そうね」
短い沈黙のあと、ロイドが言った。
「たまたま――近くにいないんじゃないか」
「いいえ。私、球体のそばで見ました。すぐそばに機雷がいたんです」
「そばで機雷を見た?」
「ええ。ほんの数メートルの距離に、じっと浮いてました」
「なんのためにだね?」
「わかりません。球体を見張ってるみたいな感じでしたけど」
「ふむ……」
ロイドは、今度は自分で高度計を見た。
「二千二百四十八キロ。……こりゃ、神の思《おぼ》し召《め》しかな」
「ほんとに、ちょっとおかしいです。どうして触雷――」
メイは不意に言葉を飲《の》み込んだ。
「どうしたの、メイ!?」
「何かわかったのか!?」
「ええ、その……」
メイは、二人の過敏《かびん》な反応にたじろぎながら、言った。
「もしかして、球体と同一視してるのかも。同じ軌道《きどう》を通っているから……」
「それに――ケーブルで物理的に結ばれてるわけよね」と、マージ。
ロイドは視線を宙にさまよわせて、思案した。
機雷がこんな初歩的な勘違《かんちが》いをするとは考えにくい。
だが、機雷原の五分の一を経て触雷《しょくらい》しないのは、なお不自然だった。
「球体が露払《つゆばら》いしてくれる……こりゃあ、本当かもしれんな!」
ロイドはふいに陽気な声をあげた。
その声を聞いた途端《とたん》、マージはパブロフの犬のように条件反射した。ロイドの軽率さに対する警戒心《けいかいしん》が、雲のように湧《わ》き上がったのだ。
マージの頭脳はめまぐるしく回転し始め、ミリガン運送の業務における常態に戻った。
「喜んでる場合じゃないでしょう。この軌道にいる限り救助を求めることも、船を修理することもできないんだから」
「よしよし、それを考えようじゃないか」
ロイドは煙草《たばこ》に火をつけた。もう誰も、話すことを恐《おそ》れなくなっていた。
「まず、黙《だま》っていても救助が来るってことはあり得るかな。機雷原の外には、確か監視《かんし》衛星があったはずだな、メイ」
「ええ。でもあれは、外から機雷原に迷い込む船を見つけるものですから――」
「機雷原の中でも、光学的になら見えるんじゃないかね?」
「レーダーが先です。そこに何かが映って、はじめて望遠鏡を使うはずです」
「筋道ってもんだな。――しかしだ、テスト飛行から戻らないとなったら、空港の方で騒《さわ》ぎはじめるだろう? すぐに捜索《そうさく》が始まって――」
「だめよ、ロイド」
マージが言った。
「機雷原にいるとなったら、おいそれと助けには来ないわ」
「それもそうだな」
仮に、シャトルがまだ蒸発せずにいることがわかったとしても、救助方法を思いつくだろうか。
「でも捜索が始まれば、父さんたちが当局に話すと思います。そしたら、私たちと同じ方で助けようとするかも」
メイが言うと、ロイドは首を横に振った。
「いや、マージの言う通りだ。こんな命知らずの方法を、すぐに採用《さいよう》するかね。現に理由はどうあれ――こっちはしくじったんだしな。メイのような勇敢《ゆうかん》な子が志願してくれるかどうかってことさ」
メイは顔を赤らめた。
「私――べつに勇敢じゃ……」
「いやいや、大したもんだよ。さっきから感心してるんだ。なあ、マージ」
「そりゃあもう――ちょっと、この非常時に何のどかな会話してるの!」
「そうだった。よし、考えようじゃないか」
ロイドは二本目の煙草に火をつけた。
やがて、ハタと手を打つ。
「そうだ! 考えてみりゃ、機雷をコントロールすれば、万事OKじゃないか。機雷の電波|妨害《ぼうがい》機能を停止させれば救助が呼べる」
「この場にあるもので、それが可能かしら」
「やってみなきゃわからんさ」
「それもそうね。そういえば、まだ聞いてなかったけど、球体はどうだったの? メイ」
メイは見た通りのことを話した。
「そうか、取手があったか! こりゃあ、今すぐ行くしかないな!」
ロイドは有頂天になって、何か歌のようなものを口ずさんだ。
「おお、わしの金庫が呼んでいる〜扉《とびら》を開けてと呼んでいる〜」
二人の女は、深々とため息をついて、男の後に続いた。
ACT・2 ポート・パトロール三号
パトロール艇《てい》は全長二十メートルほどで、どこか角張ったナマズに似ていた。宇宙空間専用なので、翼《つばさ》はない。左舷《さげん》には短い翼のようなものが張り出しているが、武装《ぶそう》やアンテナ類のラックになっていた。右舷はその代わりに、フレキシブルなボーディング・チューブが折り畳《たた》まれている。これで、たいていの船に接舷し、宇宙服なしで移乗できる。船首上部には、おなじみの機雷《きらい》用センサーが取り付けられていた。
ボリスと三人の隊員を乗せたパトロール艇は、すばらしい加速で機雷原に向かっていた。
「まもなく機雷原です」
パイロットが言った。
「かまわず突っ込め」と、ボリス。
隊員は、はい、と言って前方を見続けた。
内心、気持ちのいいものではなかった。機雷が電波|妨害《ぼうがい》以外の機能を停止していることは知っていても、こちらから衝突《しょうとつ》すれば無事ではすまないだろう。その確率は、バスルームで石鹸《せっけん》に足をすべらせて死ぬより低いと言われているのだが……。どんな時代でも、船乗《ふなの》りは迷信深いものだ。
だが、ここでボリスに気乗りしないそぶりを見せても、なんら得になることはなかった。――そう、石鹸を踏《ふ》んで死ぬより、ボリスの機嫌《きげん》をそこねて命を落とす確率の方が、はるかに高いだろう。
ミリガン運送のシャトルが機雷原に入ってそろそろ一時間たつ。シャトルが軌道《きどう》を変更していないなら、遠地点にさしかかる頃だ。それは機雷原の最も外側の領域にあたる。
ボリスは他の二名に言った。
「宇宙服を着ろ。ボーディング・チューブは使わない。銃を点検《てんけん》しておけ」
「かまわんのですね?」
体格の大きな方が言った。射殺してもかまわないか、という意味だった。
ボリスは否定した。
「かまわないのではない、必ずそうしろ。ミッションの目的には奴《やつ》らが何をサルベージしようとしたかを知ることもあるが、事態が混乱するようなら、さっさと始末してよい」
いつもなら、遠距離から砲撃《ほうげき》して済ませるところだ。
三人がコクピットを出る間際、パイロットが振《ふ》り向いて言った。
「光学センサーが目標を捉《とら》えました。あと八分で到着します」
「我々はエアロックで待機する。逆光で接近しろ」
「了解」
ACT・3 球体
「ほら、そこです」
メイが指さす方向に、確かにそれはあった。目の前の黒光りする球体とは違って、機雷《きらい》はまったくといっていいほど光を反射せず、背景をさえぎるものとしてしか認識できなかった。
三人の新参者が現れても、機雷はぴくりとも動かなかった。『彼』は自分たちをどう思っているのだろう、とマージは思った。これが本当に、二百六十年間にわたって球体につきそっているのだとしたら、機械を越えた意志――何か執念《しゅうねん》のようなものを感じてしまう。
「たぶん、反対側から回り込めば大丈夫です」と、メイ。
「入口はどこだね」
ロイドが聞く。メイはかすかに光る単結晶《たんけっしょう》ケーブルを追って機動ユニットをひと吹かしした。二人が後に続く。
メイがケーブルを結んだアーチ型のハンドルは、五百トンの荷重《かじゅう》を受けたにもかかわらず、傷《きず》ひとつついていなかった。一方、ケーブルの先端にある固定金具は、奇妙《きみょう》な形にゆがんでいる。ケーブルを外すのは容易ではなさそうだ。
「このまま廻せるかな。ケーブルがたるんでるから」
マージが言う。
「ああ。わしがやる」
ロイドがハンドルに手をかけ、反時計回りに回した。
真空中に二百六十年間漂い、太陽放射と核攻撃《かくこうけき》にさらされてきたにもかかわらず、ハンドルはなんの抵抗《ていこう》もなく動いた。
「この超《ちょう》物質の金庫だけでも相当な金になるな」
ロイドはハンドルを回しながら、感想を述べた。
三十回ほど回したところで、初めて反応が現れた。
ハンドルを中心として半径一メートルほどの球殻《きゅうかく》が、じわりと持ち上がったのだ。
ロイドが手を止めても、その動きは止まらなかった。
「離れていろ。いよいよ宝箱の御開陳《ごかいちん》だ」
三人は球体から数メートル遠ざかった。
その『扉』は、三十センチもの厚みを持っていた。縁《ふち》は潜水艦《せんすいかん》のハッチのように、階段状になっている。もう三十センチほど持ち上がったところで、扉は一方に開いた。
中から、何かが吹き出してくる気配はない。
ロイドは機動ユニットのノズルをたたむと、無言で頭から内部に入った。
後にマージ、メイが続く。
内部は直径二メートル、高さ四メートルほどの、円筒形《えんとうけい》の空間だった。扉はその底面――もしくは上面にあったことになる。
円筒の周囲には、同じ大きさの白いパネルがずらりと並んでいた。パネルには1から順に番号がつけられている。文字の方向から、扉が床方向にあったことが知れた。
「貸金庫みたいだな。このパネルは引出しだ」と、ロイド。
「気をつけて。不用意に開けると自爆するかも」
マージが言うと、ロイドはヘルメットの中で首を振《ふ》った。
「そんな物騒《ぶっそう》な機能をつけるんなら、まず錠《じょう》があるはずだろう」
ロイドは手近な引出しを開けた。
中は空だった。
隣《となり》をあらためるが、やはり空だった。
「手伝ってくれ。全部の引出しを調べるんだ。わしは上からいく」
マージは中段、メイは入口付近を調べにかかった。
すぐにメイが歓声《かんせい》をあげた。
「ここ! ナンバー1の引出しに何か入ってます!」
ロイドは身をひるがえして近寄った。
「出してみろ」
「はい」
それは、アタッシェケースだった。
それを受け取ったロイドは、ここで開くべきかどうか、一瞬迷った。
庫内がすでにそうだったから、真空にさらしても問題はないだろう。怖《こわ》いのは凍結《とうけつ》だが、この宙域なら粉々になるほど冷える心配はなさそうだ。
だが無重量状態なので、中身が散乱するとやっかいなことになる。
結局ロイドは、はやる気持ちを抑《おさ》えきれなかった。
ロックを外し、ゆっくりとケースを開く。
中は書類の束《たば》だった。
一番上の書類には、「作戦命令書」とあり、その下に「デネヴ軍艦《ぐんかん》掃海艇《そうかいてい》バレンシアFD1022」とあった。
「掃海艇……ほんとに……あった」
メイは声をうわずらせた。
続いて数通の封書が現れる。
ロイドは中をあらためず、先に進んだ。
一番下に、小振《こぶ》りのハンドブックがあった。
表紙には「AK4000能動機雷 取扱説明書」とある。
ロイドはそれを、メイのヘルメットの前に突き出した。
「あげるよ。君へのプレゼントだ」
「…………」
メイは震《ふる》える手で、目の前にあるものを掴《つか》んだ。
それからメイは、唐突《とうとつ》にロイドに抱きついた。
ヘルメットが触《ふ》れ合い、乾《かわ》いた音をたてる。
ロイドは言った。
「さあ、船にもどってじっくり読もうじゃないか。今泣くと、面倒だぞ」
「――ありがとう、ロイドさん。ありがとう」
メイはそう言って、何度も目をしぼたたかせた。首を振ると、小さな水玉がヘルメットの中に漂《ただよ》った。
ACT・4 アルフェッカ・シャトル
パトロール艇はアルフェッカ・シャトルから二十メートルの位置に、ぴたりと静止していた。
左舷《さげん》のハッチが開き、三体の宇宙服が現れる。
ボリスと二人の部下である。
三人は小刻みにガスを噴射《ふんしゃ》しながら散開し、船の周囲をあらためた。
「コクピットには誰もいません」
「船尾側《せんびがわ》にもいません」
部下の報告を受けると、ボリスは言った。
「ペイロードベイの上に集まれ。様子がおかしい」
三人が集結すると、ボリスは言った。
「あのウインチを見ろ。破損《はそん》して、ケーブルが船体に食い込んだ跡《あと》がある」
「コンジット管がやられてますね。これでは当分動けないでしょう」
「となると、キャビンで安楽死を?」
ボリスは否定した。
「いや、そんなヤワな連中には見えん。中を調べろ。デニスは前、ノートンは後ろだ」
デニス・カーマンはペイロードベイの船首側に降り、そのエアロックを開いた。
電力はまだ生きている。
内側の扉《とびら》のガラス窓越しに中を見るが、誰もいなかった。
デニスはキャビンに入った。
宇宙服のラックが三つあり、ひとつは衣装袋《いしようぶくろ》がくくりつけてある。壁面《へきめん》の棚《たな》には宇宙服用のスーツケースとヘルメットケースがあった。レグルス社のものだ。ケースには「メイ・カートミル」と刻印されていた。
「隊長、聞こえますか?」
デニスは無線を試してみたが、返事はなかった。やはり数メートルしか届《とど》かないようだ。
さらに部屋を調べる。
一方の壁《かべ》には折りたたみ式のテーブル、天井《てんじょう》には、おそらく母船との連絡《れんらく》に使うハッチ、床《ゆか》にはミッドデッキに通じる穴《あな》と梯子《はしご》があった。
床に張り付き、中をのぞき込む。
下は真っ暗だが、ヘルメットライトで見た限り、人の気配はなかった。トイレの中にいる可能性はないとみていいだろう。暗闇《くらやみ》でそんなことをする者はいないはずだ。
デニスは起き上がり、前方のコクピットに入った。
手前の補助席が使用状態になっている。おそらく、メイ・カートミルが座っていたのだろう。運航計画には、乗員二名とあったが……。
船長席の前の計器盤《けいきばん》に、ウインチのコントロール・ボックスがあるほかは、特に変わったものはなかった。
デニスがペイロードベイに出ると、ボリスとノーマンが待っていた。
「誰もいません。中にメイ・カートミルの宇宙服のケースがありました」
「となると、乗員はおそらく三名だな。他の宇宙服はあったか」
「いいえ。機動ユニットも見あたりませんでした」
「船尾の機関部も空だった。おそらく連中は、このケーブルの先にいるんだろう」
ボリスは虚空《こくう》へと伸びるケーブルを指さした。
ケーブルは大きくたるんでいて、どこへ伸びているのかよくわからなかった。
「ノーマン、ケーブルのたるみを取れ」
「はい」
ノーマンは手を切らないように注意しながら、慎重《しんちょう》にケーブルをボビンに巻き付けていった。やがて、ケーブルはほぼまっすぐに空を指すようになった。
「こちらから出向きますか」
「いや、ここで待ちぶせた方がいい。この向きなら、船底が死角になる――いや、その前にあれを用意しておけ」
ロイド、マージ、メイの三人が異変に気づいたのは、シャトルの手前、五キロの地点だった。それまで見えていたシャトルの光点は、近づくにつれて長く伸び、やがてふたつの点に分離した。
「どういうことだ。まさかあの切れ目が広がって、船がふたつに割れたんじゃないだろうな」
「まさか――別の船がいるのよ!」
「救助か? こりゃあ、意外だな」
一キロの地点に来たとき、メイが言った。
「あれ、ポートパトロールの船です。まんなかに赤いストライプがあるでしょう?」
「ポートパトロールが救助に来るのはおかしくないが……ずいぶん勇敢《ゆうかん》だな」
ロイドは首をかしげた。
考えられる解釈としては、シャトルが機雷原にさまよい込み、かつ触雷しないのを見て、救助に来た、というものだった。あるいは他星から来た密輸業者と思って拿捕《だほ》に来たか。
「メイ、パトロール艇《てい》には機雷用のセンサーはあるの?」
マージが聞いた。
「あります。めったに使いませんけど」
「これまでの常識として、機雷原の中で、あんな風に停止したままでいられると思う?」
「状況が良ければ、一分ぐらいはできるかもしれませんけど」
「つまりこういうことか」
ロイドが言った。
「あそこにはナビゲーターが乗っていて、いつでも発進できる態勢でいる、と。危険を承知で釆てるんだ。ここは機雷原のはずれだから、危ないとなったらメインエンジンを吹かして逃げられると思ったんじゃないか? こないだのわしらみたいに、出てすぐ大気圏にぶつかる心配もないわけだ」
「それもそうね……」
心の片隅《かたすみ》に赤信号がともるのを覚えながらも、マージは同意した。
なんであれ、船に戻らないわけにはいかない。
やがて、二|隻《せき》の船が間近に迫《せま》った。
三人はまず、パトロール艇のコクピットに接近した。
中には誰もいなかった。少なくとも見える範囲《はんい》には。
「どうやらこっちの船に移乗したようだな」
ロイドは言った。
「こんなところで留守宅《るすたく》に踏《ふ》み込まれるとは思わなかった。フォートビストニアスで買ったエロ本を見つけられなきゃいいんだが」
冗談《じょうだん》は、受けなかった。
三人はシャトルの、開け放たれたままのペイロードベイに降りた。
船首のエアロックに向かったとき、突然インカムに耳慣れない声が響《ひび》いた。
「三人とも、そこを動くな」
無線の声だけでは、相手がどこにいるのかわからなかった。少なくとも、半径数メートル以内にいることは確かだが。
第二の指示がきた。
「足を床に吸着させて、両手をヘルメットにつけろ」
言われるままにする。
ロイドが聞いた。
「どこにいる。姿ぐらい見せてもらわないと、これ以上従う気になれないな」
「いまわかるさ。ゆっくり船尾側を向け」
いつの間にか――ペイロードベイの中央、床から一メートルほどの宙に、三人の銃を持った男がいた。顔はバイザーに隠《かく》れて見えない。
「こんなところで海賊《かいぞく》に会うとはな」
「海賊か。そう思ってくれてもいい」
「違うわ!」
メイが叫んだ。
「声でわかるもの。あなたは運航部長の――確か、ボリス・ネイサン」
「その通りだ、カートミル君」
ボリスは低く笑った。
「君こそこんな所で何をしてたんだ? 当社の規則では、アルバイトは禁止のはずだが」
「アルバイトじゃありません。給料もらってませんから」
メイはまじめに答えた。
「それは結構。だが無駄話《むだばなし》はここまでだ。そのアタッシェケースをこちらに渡せ、カートミル」
「嫌《いや》です!」
「嫌がるところをみると、貴様らが命を張ってサルベージしようとしたのはそれだな」
声に、かすかな嘲《あざけ》りが混じった。
「素直に従わないと、他の二人を撃《う》つことになる」
「…………」
メイは言葉に詰まった。
「どっちみち、撃《う》たれるような気がしてるんだが」
横からロイドが言った。
「その前に二、三質問していいかね。いわゆる『冥土《めいど》のみやげ』にしたいんだ」
「冥土のみやげは言わない事にしている。それを言った途端《とたん》に形勢が逆転するケースが、あまりにも多いのでな」
「まあ待てよ。このアタッシェケースだけだと思うか? わしらが探していたのは」
「ほう?」
ボリスは興味《きょうみ》をひかれた。
ロイドははったりを続けた。
「とりあえず運び出せたのはそのケースだけだった。残りを出すには特別な知識と工具がいるんだが、聞きたいかね?」
「聞いてもいい」
「気が進まないな。どうせ死ぬんだと思うと、怖《こわ》いものなしでね」
ボリスはまた、低く笑った。内に秘めたサディズムが、頭をもたげる。
「死刑囚《しけいしゅう》は無敵というわけか。いいだろう、何が知りたい」
「なぜ――わしらは殺されなければならない」
「機雷が破壊《はかい》機能を停止していることを知ったからだ」
「いつから停止してる」
「六十年前からだ。どうやら敷設《ふせつ》後二百年で破壊機能を停めるプログラムだったらしい。電波|妨害《ぼうがい》機能は今も続いているが、これは我々にとって幸運だった」
「そんな――」
メイが叫んだ。
「じゃあ……私たちは、いったい……」
「機雷が止まっていることを知った時、誰かが言った。いいじゃないか、どうせ機雷は目に見えないのだ。ナビゲーターたちには今まで通り、誇《ほこ》り高い伝統業務を続けてもらおうじゃないか、とな。機雷原とヴェイス・ナビゲーターの働きなくして社の経営は成り立たないんでね。そして彼らは命がけで機雷原を渡り、時折り何人かが殉職《じゅんしょく》する――」
「でも……触雷《しょくらい》したのは、あれは――」
「そう。実は君も殉職する予定だったが、奇跡的《きせきてき》な幸運にめぐまれたんだ、カートミル。こんなことさえしなければ、生きて契約《けいやく》期間を全うできたはずだよ」
「まさか、あの機雷用センサーが!?」
マージが聞いた。
「その通りだ。あれには機雷が運動しているように見せかけるプログラムが組み込んであるが、さらに君達のには時限爆薬が仕掛けてあった。機雷原に入る直前に無線で起動するものだ。経験の浅いナビゲーターと、くたびれたシャトルに乗った流れ者の運送業者が機雷原で蒸発する――誰もが納得し、機雷への恐怖《きょうふ》を新たにするシナリオだった。あの、センサーの脱落《だつらく》さえなければだ。できの悪いナビゲーターのせいで、予想外の高機動をするはめに――」
「黙《だま》れ!」
マージは声を限りに叫んだ。
年若いヴェイス・ナビゲーターたちが、どんな思いで仕事にのぞんでいたことか。
家族が、どんな思いでその帰りを待っていたことか。
真実を告げることが、これほど人を傷《きず》つけた例を彼女は知らなかった。
飛びかかろうとするマージを、ロイドが押えた。
「やめろ、マージ。落ち着け」
「それが賢明《けんめい》だな」と、ボリス。
「お前は黙ってろ!!」
ロイドが怒鳴《どな》る。
「ほう? 君が聞きたがるから言ってやったまでだがね」
「何を――」
憎《にく》しみを煽《あお》ることに長《た》けた相手だった。
このような男を、ロイドはあと二人、知っていた。
二人がいたのは、ともに戦場だった。
それは、戦場の狂気《きょうき》の中でしか、存在を許されないはずだった。
そう思ったとき、ロイドは突然、抑《おさ》え難《がた》い衝動《しょうどう》にかられた。
今度はマージが、触《ふ》れ合った宇宙服ごしにその気配を察した。
「ロイドやめて! 落ち着けって言ったのはあなたでしょう!」
ボリスの哄笑《こうしょう》が響《ひび》く。
「まったく、お似合いの二人だな。これこそチームワークというものだ。そう――クールになるのが一番だ。さあカートミル、ケースを渡しなさい」
メイは答えなかった。
かわりに、かすかな鳴咽《おえつ》が響いている。
「カートミル、私は気が短いたちなんだ。ついかっとして、引金を引いてしまうかもしれない。君の友人に向かってね」
メイの手が、かすかに動いた。
「そうだ、それでいい。変な気を起こすなよ。そっと投げてくれたまえ」
メイはゆっくりと、アタッシェケースを押し出した。
それは空間を漂《ただよ》い、ボリスの左手に収まった。
「さあ、これで仕事は終った。お別れの時が来たようだな」
ボリスと二人の部下は、銃を構えた。
「待ってくれ」
ロイドが言った。平静を取り戻していた。
「向こうに何があるか、聞きたくないのかね」
「やめたよ。君の話にはもう、興味がなくなった」
「アタッシェケースに何が入っているのか知ってるのか」
「自分で調べるさ」
「機雷がさっきから、どんな状態になっているのかもか? このまま無事に帰れると思ってるのか」
「よせ。時間|稼《かせ》ぎは無駄《むだ》だ」
図星だったが、ロイドは食い下がった。
「いいから聞けよ。機雷には五つの動作モードがあるんだ。ひとつめは……」
ロイドの横で、マージも必死に考えをめぐらした。
何か――何かきっかけはないか。
落ち着け、状況を確認しろ。
銃を持った三人の男。
その下に壊《こわ》れたケーブルのウインチ。
左には切断されたコンジット管。
コンジット管の中には電線と――。
そこまできて、マージはある考えに思い当たった。
いや――だめだ、遠すぎる。
何か、別のきっかけがないと……せめて地震でも起きてくれれば。
マージは秘《ひそ》かに首を振った。
この真空の宇宙で、どんな天変地異《てんべんちい》が期待できるというのだろう。
遠地点|近傍《きんぼう》を秒速数キロの速度で飛行しているにもかかわらず、ことりとも揺《ゆ》れないこの世界で――。
その時、視野の隅《すみ》で、何かが動いた。
マージはその方向に、注意を集中した。
ケーブルだ。
単結晶ケーブルが揺れている。なぜ――?
「そして五番目の動作モードだが、これはまあ、なんだその――」
「もうやめろ、ミリガン。お前の話には飽《あ》き飽《あ》きした」
「ロイドったら、一番重要なモードをもう忘れたの?」
マージが割り込んだ。
「運航部長さん、聞いておいた方がいいわ。私が説明してあげる。五番目のモードは機雷の動作期限を無制限にするもので」
「黙れ、女。デニス、ノートン、撃て」
その時、マージは叫んだ。
「ロイド、メイ、構えて!」
直後、シャトルは見えない腕につかまれたように跳《は》ね上がった。
銃を持った男たちが床に叩きつけられる。
マージは膝《ひざ》で衝撃《しょうげき》を吸収すると、反動を利用して左舷《さげん》の水素バルブにとびつき、それを一杯《いっぱい》に開いた。コンジット管の破断《はだん》箇所から液体水素が噴出《ふんしゅつ》し、男たちを包む。
ロイドは背後の壁を蹴《け》って飛び出し、視覚を奪《うば》われた男に組みついて銃をもぎ取った。
次の瞬間、床の中央にあったウインチが台座ごとはがれ、もう一人の男のバックパックを直撃した。酸素タンクが破裂《はれつ》し、男は狂《くる》ったようにもがきながら、虚空《こくう》に消えた。
ボリスは後部|隔壁《かくへき》に叩《たた》きつけられた。衝撃でアタッシェケースが手から離れる。彼は思わずケースを追った。
誤算《ごさん》だった。まず、銃を構えるべきだったのだ。
「そこまでだ、運航部長」
ロイドの銃が、まっすぐにボリスのヘルメットを狙《ねら》っていた。
「銃を捨てろ。ゆっくりとだ」
ボリスは身じろぎもせずロイドを睨《にら》んでいたが、やがて銃を手放した。
マージがその銃を空中で拾い、もう一人の男――デニスに向けた。
「メイ、動ける?」
「は、はい」
「まずアタッシェケースを回収して。それが済んだら、そのへんに荷造り用のロープがあるから、二人を縛《しば》ってちょうだい」
「わ――わかりました」
メイは機動ユニットを噴射して、左舷の先、二十メートルほどを漂《ただよ》っていたケースをつかまえた。それをエアロックにしまうと、ロープを持って、まずデニスから縛りにかかった。
その時、急に加速したシャトルを追って、パトロール艇《てい》が姿を見せた。
「おっと、まだ乗員がいたのか」
ロイドはボリスに言った。
「運航部長、あなたに盾《たて》になってもらおう」
「その必要はない」
「なぜだ」
「我々がどうなろうと、彼は時間通りに帰還《きかん》するだけだ」
「時間通り?」
「そうさ」
ボリスは手元の時計を見た。
そうして、ボリスはパトロール艇に向かって、はっきりとうなずいて見せた。
一度停船しかけたパトロール艇は、再び加速をはじめ、視野から消えた。
「どういうことだ」
「わからないか。機雷原に、こんな船が壊《こわ》れもせずに残っていては困るのだよ。早々に蒸発してもらわないとね」
「あれが艦砲《かんぽう》射撃をするというのか」
「まさか。ただのパトロール艇に、そんな強力な砲を積んだら怪《あや》しまれるだろう?」
「じゃあどうするんだ」
ボリスは、くっくっ、と笑った。
これは言うべきことではなかったが、死を目前にしたボリスは、そうせずにはいられなかった。
「機雷と同じ事をするのさ。君達が留守《もす》をしている間に、機関室に水爆をセットした。あと五分足らずで爆発するだろう。解除は不可能だ」
「なんてこった――マージ! 調べてくれ」
「メイ、ちゃんと縛った?」
「はい」
マージはそれを聞くなり、船尾に飛び込んだ。
機関室の床に、およそ五十センチ立方の物体がマグネットで固定されていた。
カバーを開くと、いくつかのキーとディスプレイが見えた。
ディスプレイには「〇〇/〇五/三四 解除不能」と表示されている。
数字の最小|桁《けた》は秒単位で減少していた。
マージはペイロードベイに戻り、見たことを伝えた。
ロイドはただちに言った。
「よし、捨ててやる。宇宙空間でなら水爆が爆発しても、数キロも離れれば大丈夫だ」
「それなら船は蒸発しないだろう」
ボリスは平然と言った。
「いずれ、他の者が処理してくれるだろうがな。だが、あの水爆は大量の高速中性子を放射するタイプだ。最低でも百キロ離れないと人間は数分で死ぬ。その機動ユニットで、五分以内にそこまで運べるとは思えないね」
ボリスは自分の死など、まるで意に介《かい》していなかった。他人に対して同様、自分にも酷くなれる男だった。
メイの、ボリスを縛《しば》ろうとする手が止まっていた。肩が震《ふる》えている。
「メイ、替《かわ》って。私がやるわ」
マージは相手の手足をきつく縛りあげ――思わず力が入った――さらに船尾隔壁《せんびかくへき》のフレームに結びつけた。それから、ボリスのインカムのスイッチを切る。
これ以上、この男にしゃべらせたくも、聞かれたくもなかった。
ロイドは機関室に入り、水爆を見た。それは堅固《けんご》なタングステン合金の容器に収まっており、容易に解体できないことは、一目でわかった。
ロイドは渾身《こんしん》の力をこめてそれを床から引きはがした。それをかかえて、外に出る。
「マージ、これはわしが捨ててくる」
「ロイド、無駄《むだ》よ。そんな重い物を持ってたら十キロも行けないわ」
「中性子を浴びても、即死《そくし》するわけじゃない。わしはこれを――できるだけ遠くに運ぶ。君はその間に、なんとかして機雷の全機能を停止させろ。電波が使えるようになったら、ヴェイスに連絡するんだ。何もかも」
「そんな――」
「こういう仕事は年寄りから順にやるもんなんだ。マージ、それからメイ、世話になったな。今度の仕事にはボーナスをはずむつもりだったんだが――ここでお別れだ」
そう言うなり、ロイドは機動ユニットを噴射《ふんしゃ》した。
すぐに、何を言っても聞こえなくなった。
ロイドは、できるだけ遠くに運ぶ、と言った。爆発の瞬間まで、それを抱いて加速を続けるつもりなのだ。
マージはメイの前に行って、その肩を掴《つか》んだ。
「メイ、気を確かに持って、聞いてちょうだい」
「――はい」
蚊《か》の泣くような声だった。
「船の通信機は使えるわね?」
メイはうなずいた。
「私はロイドを追って、運ぶのを手伝うわ。一人より、二人で加速したほうが、ずっとましな結果になるから。あなたを一人にしたくないけど、これが最善の選択なのよ」
「いや! そんなの――絶対いや!」
メイは激しく首を横に振って、マージの腕をつかんだ。
「メイ、聞き分けてちょうだい。あなたはミッドデッキに入って、四分待つの。そこがいちばん、放射線の遮蔽《しゃへい》が厚いから。宇宙服も脱《ぬ》がないこと。爆発は宇宙服の被曝計《ひばくけい》を見ていればわかる。熱や衝撃はないと思う。それから、ロイドが言ったとおりのことをして。これはヴェイスのためよ」
マージはメイの手を振りほどくと、床を蹴《け》った。
「マージさん!」
「さよなら、メイ」
マージは機動ユニットを最大出力で噴射《ふんしゃ》した。その姿は、みるみるうちに小さくなっていった。
ACT・5 遠地点近傍
八十秒ほど飛び続けると、前方に水爆を抱《かか》えたロイドの姿が見えた。
マージは減速せず、水爆の反対側にとびついた。
ロイドは目を丸くして言った。
「マージ! なんてこった、君は――」
「初歩的な物理学よ。こうすれば加速度は線型に増え、メイに届《とど》く中性子は逆二乗で減少するわ」
ロイドは女の顔をじっと見つめた。
「……マージ、君は素敵な奴《やつ》だな」
「そのつもりよ。いつもね」
マージは一度言葉を切って、言った。
「あなたもちょっと、格好よかったわ。ロイド」
「いつもそのつもりだったが――在職中にはついぞ聞けなかった言葉だな」
「そうか……」
マージは笑った。
「また忘れかけてたな。辞表出したの」
「そうさ。あんなものは紙切れにすぎん」
「あの時は、本気だったわ」
「今は違うのか?」
「さあ――もう、どうでもいいじゃない」
「そうだな」
二人はそう言って、前方の星空を見た。
少しの沈黙《ちんもく》の後、ロイドは聞いた。
「ときに――さっきシャトルが大揺れした時のことだが、君はそれを知ってたようだな?」
「ああ、あれね。ケーブルがかすかに揺れるのを見て、気がついたの。これも――初歩的な物理学よ」
「聞かせてくれないか、先生」
「つまり、シャトルは球体に引きずられて、同じ構円軌道《だえんきどう》に入ったわけでしょう?」
「そうだな」
「両者はケーブルでつながれたまま、およそ五十キロの距離をおいてランデブーしていた。だけど、遠地点に向かうにつれて軌道速度は遅くなるわね」
「ああ。峠《とうげ》にさしかかる車のようにな」
「前をゆく球体のほうが先に遠くなるから、少しずつだけど、両者の距離は狭《せば》まるわ。そしてケーブルはたるむことになる」
「確かにそうだったな。球体の扉《とびら》を開けたとき、ケーブルはたるんでいた」
「そう。球体が遠地点を通過すると、両者の距離は離れていくことになる。そして、ありがたいことに、侵入者《しんにゅうしゃ》たちはたるんだケーブルを巻き上げてくれていた。ケーブルは早い時期に、ピンと張りつめることになる――」
「そうか! その瞬間《しゅんかん》が、あの大地震か」
「そういうこと。あの状況では、床に足をつけていた私たちの方がずっと有利だったわ」
ロイドはため息をつき、そしてまた、星空を眺めた。
水爆の点火まで、あと九十四秒。
「まったく――いろいろあるもんだな、この宇宙には」
「ほんとね」
「その広い宇宙の中で、君のような――」
言いかけてロイドは宙の一点を凝視した。
「マージ、あれはなんだ!」
「あれって……?」
「あそこだ! あの青い星のそばに――球体じゃないか!?」
「そんなばかな! あれは五十キロも先にあるはず――」
マージは絶句した。
それは確かに、あの球体だった。
ACT・6 アルフェッカ・シャトル
そろそろ四分――。
メイはミッドデッキの空間に、胎児《たいじ》のように丸まったまま浮いていた。
涙にかすんだ目で、時計を眺める。
これはヴェイスのため――マージが最後に残した言葉だけが、彼女の意識を支えていた。
時計の、分の桁《けた》がひとつ進んだ。
もう、いつ爆発してもおかしくない。
メイは視線を胸についた放射線|被曝計《ひばくけい》に移した。
まだ二十ミリラドしか被曝していない。水爆が点火すれば、値は数百万倍に跳《は》ね上がるはずだった。
被曝したら、どんな感じがするんだろう。体は熱くならないのかな?
メイは恐怖《きょうふ》がこみあげてくるのを感じて、被曝計から目を離した。
時計を見る。
また一分進んでいた。
メイはあれ? と思って再び被曝計を見た。数値は変わっていなかった。
それから二分間、メイは時計と被曝計を見比べ続けた。
時は進み、被曝量は変化しない。
さらに一分経っても状況が変化しないので、メイは宇宙服の被曝計が壊《こわ》れているのかも知れないと思い始めた。
――確か、コクピットにも被曝計があったはずだ。
メイはミッドデッキを出て、コクピットに入ろうとした。
その時、背後で物音がした。
どきりとして、振りむく。
エアロックに、人影が見えた。まさか、ボリスが縄《なわ》を抜けて――。
メイは身構えた。
やがて内扉が開き――現れたのはロイドとマージだった。
メイはヘルメットを脱ぎ、目をこすってもう一度見た。
「ロイドさん……それにマージさん……どうして!」
二人もヘルメットを脱ぐ。
ロイドが言った。
「メイ、大丈夫だ、幽霊《ゆうれい》じゃないよ。何もかもうまくいった」
「でも、水爆は――」
「爆発したさ。私たちの二メートル横でね」
「…………」
メイは狐につままれたような顔をした。
マージが説明した。
「球体よ。あの球体の中に水爆を押し込んで、扉を閉めたの。今でも信じられないけど、あの黒い壁は、中からの核爆発にもびくともしなかったわ」
「もう一つの疑問に答えてやろう」
ロイドが交替《こうたい》する。
「シャトルが大揺れした時、わしらは船ごと球体に向かって弾《はじ》かれていたんだ。船から水爆を持ち出したとき、球体はほんの十キロの地点にあった。――いや、心配することはない、このままでもシャトルは球体に衝突《しょうとつ》しない。こっちの速度が早いから、相手のすぐ外側を通過するはずだ」
「じゃあ……つまり……」
メイの頬《ほお》は、しだいに赤みを取り戻しはじめた。
「言っただろう。何もかもうまくいったって」
混乱した思考の中で、二人は天使か何かに見えた。
「すごい! ほんとにすごいんだ!」
メイは二人に抱きつくと、かわるがわる、キスの雨を降らした。
「おいおい、そんなにはしゃぐなよ」
「そうよ。これぐらい、プロとして当然の仕事よ」
メイは頭を引き離すと、マージの顔をじっと見つめた。
「プロ……」
「そうよ」
さっきはあれほど自責したのだ。我ながら軽薄《けいはく》だなと思いつつも、マージはそう言わずにはいられなかった。
「宇宙で生き残れるのは、本物のプロだけだもの」
「マージおばさんの言う通りだよ、メイ」
ロイドはメイの小さな頭に手を置いて、ごしごし撫でた。
「さあ、まだ仕事が残ってるぞ。機雷の解除を試してみようじゃないか」
三人は機雷の取扱説明書を開いて、その解除作業にとりかかった。
人類|版図《はんと》における言語は今も昔も共通だから、一部の単語を除けば、、ほとんど理解できた。機雷を操作するコマンドは五十六ギガヘルツの電波に乗せて、機雷原に向けて送信すればよかった。この電波|妨害《ぼうがい》下で、なぜ電波によるコントロールが可能なのかは一つの謎だった。少なくとも戦時下、敵側に傍受《ぼうじゅ》されにくいことは確かだが。
しかし、説明書のどこにも、予想された暗号化手順の説明が見あたらない。
「この封筒の中身も、暗号関係だと思うんだがな」
ロイドは四通の封筒に、各々一枚ずつ入っていた短冊をテーブルの上にとめた。
それは、次のようなものだった。
送信者のID
AAG5487―390
送信者のキャスラグ
8375834978439258905438……
送信者の非キャスラグ
6894032566038749085904……
受信者のキャスラグ
5748930589969076894535……
数字は、すべて六十七|桁《けた》だった。
「謎《なぞ》ね。このキャスラグってどういう意味かしら」と、マージ。
「その単語、説明書の中にありました。後ろのほうです」
メイはそう晋うと、ページをすばやく繰った。
やがて、その手が止まる。メイは説明書を他の二人に見せた。
そこには、次のような文章があった。
<<ユージナム手順>>
@ 送信者のIDを送信者の非キャスラグでユージナムし、記入せよ。
A 送信者のキャスラグをマトリークで記入せよ。
B 任意のオペレーション・コマンドをマトリークで記入せよ。
C 全文を受信者のキャスラグでユージナムし、送信せよ。
D 個々のユージナム手順は以下の通りである。受信者のキャスラグは……
「……お手上げだ。まるで見当がつかないな」
ロイドは肩をすくめて天井をあおいだ。
一方、メイはそのページに見入っていた。
「『キャスラグ』と『マトリーク』は名詞、『ユージナム』は動詞ですね」
「鋭いわね、メイ」
「この説明書のどこにも『暗号化』って言葉がないから、『ユージナム』がその意味だと思います」
「いえてる。とすると最初は……送信者のIDを暗号化するわけね。『非キャスラグ』が問題だけど」
「『キャスラグ』は『キーワード』みたいな意味だと思います。ロイドさんの言った通り、わざわざ別の封筒に入れてあるんですから」
ロイドが立ち直ってこちらを向いた。
「おいおい――メイ、君は天才だな」
「でも、翻訳《ほんやく》すると『非キーワード』になるじゃない? 矛盾《むじゅん》してるみたいだけど?」
「うまい言葉が見つかりませんが、『キーワード』そのものにも暗号化手順が織《お》り込まれていると考えたらどうでしょう。最初とその次の項目は、送信者が機雷を操作する資格のある人物ってことを、機雷に教えるための操作みたいな気がします」
「そうなのかな……」
マージはついていけなくなった。
「じゃあ、『マトリーク』はどういう意味?」
「うーん」
メイはしばらく文面を眺めていたが、やがて言った。
「『記入せよ』の前にあるのは『ユージナム』か『マトリーク』のどちらかです。前者が『暗号化』だから、後者は『平文』じゃないでしょうか。ああ、やっぱりそうだ! これで二番目までの意味が通ります。五番目の数式は素因数分解の変形みたいですから、一方行の手順なんです。この桁《けた》数で、キーワードを知らずに逆向きにやろうとすると計算量が爆発するんです」
メイは全文を通して翻訳して聞かせた。
@ 送信者のIDを送信者の非キーワードで暗号化し、記入せよ。
A 送信者のキーワードを平文で記入せよ。
B 任意のオペレーション・コマンドを平文で記入せよ。
C 全文を受信者のキーワードで暗号化し、送信せよ。
D 個々の暗号化手順は以下の通りである。受信者のキーワードは……
メイは何ら予備知識を持っていなかったが、この『公開|鍵《けん》暗号』といわれる、悪魔《あくま》のように巧妙《こうみょう》な暗号体系を解明してのけたのだった。もちろん、暗号そのものを解いたのではない。だが、ここに使用されたごく初歩的な数学を、暗号に応用することを思いつくのに先人たちは二世紀もかかっている。「暗号」という前提を知っていたとはいえ、メイはそれを、五分でやりとげたのだ。
ロイドとマージは、ぽかんとした顔でメイの講釈に聞き入っていたが、やがて実際的な話題に移った。
「……とりあえず、なんとかなるのかね?」と、ロイド。
「はい。航法コンピューターをプログラムすれば、簡単に暗号文が作れます。その前にオへレーション・コマンドを平文で作ってください」
「そうか。よし、マージ、言うとおりに入力してくれ」
ロイドは説明書をつかみ、マージはキーボードに向かった。
「まず、全|阻害《そがい》機能停止命令だな。コードはDFG1004だ」
「D、F、G、1、0、0、4、と」
「これで保守モードに入るはずだ。次は、可視化命令。コードはDTY2305」
「D、T、Y、2、3、0、5」
「これで言いなりになったかどうかわかるな」
「遠すぎて見えないかも知れないわ。集結命令ってのがあったでしょう」
「ああ。えーと、SOI5622だ」
「S、0、T、5、6、2、2、と。それから?」
「集結地点の軌道《きどう》要素だ。形式は今と変わらないが――どこにするかね?」
「前方一キロ。これなら見えるでしょ」
マージは航法表示盤を見て、軌道要素を入力した。
続いてメイが暗号化プログラムを作成した。出来上がった暗号文は、果てしない数字の列《れつ》だった。これが正しいかどうかは、やってみなければわからない。
全文を通信機に送り込むと、あとは待つのみだった。
三人は窓外に目をこらした。
その兆候に、最初に気づいたのはメイだった。
「何か――何か流れてる! ほら、あそこ!」
「どこだ?」
「ああ、ほんとね! あの明るい星のあたり!」
それは肉眼で天の川やガス星雲を初めて見たときのように、気がつくとそこにあった、いう見え方をした。
きらきらと輝く雲のようなものは、次第に小さく、濃《こ》さを増しながら凝集《ぎょうしゅく》していった。それはつかのま、生まれたての銀河のように見えた。やがて核部《かくぶ》から四方に角が成長し始め、ついには角砂糖のような、巨大な白い立方体が生まれた。
もう、誰の目にも明らかだった。
「この子ったら、やったわね!」
マージはそう言って、メイを抱きしめた。
「私だけでやったんじゃ――でも、ちょっとは役に立てましたよね?」
「ちょっとなんてもんじゃないわ!」
「仲良く三等分といこうじゃないか。これは三人でやりとげたんだ」
「ロイドったら、お金の話?」
男は人指し指を立てて、ちっちっ、と舌打ちした。
「誇りだよ。誇りの分け前のことを言ったんだ」
「ロイドさん……」
メイは言葉を詰まらせた。何よりも嬉《うれ》しい言葉だった。
ミリガン運送の二人は、自分を対等に扱ってくれたのだ。
「これがもたらす金については、独《ひと》り占《じ》めしたい気分だがね。――さあてと」
ロイドは二人に言った。
「さっそくこの成果を天下にお披露目《ひろめ》してやろうじゃないか」
「でもロイド、大丈夫かしら?」
「何がだ?」
「電波で通信すると、レグルスにも傍受《ぼうじゅ》される可能性があるでしょう。また刺客《しかく》を仕向けかも」
「大丈夫さ」
ロイドはにんまりと笑って否定した。
「こっちには機雷があるじゃないか。それにあの、ボリスとかいう男も」
ACT・7 レグルス社・社長室
それから三十分ほど後――。
社長室の直通電話が鳴った。
エドガーが受話器を取る。二秒半ほどの間隔《かんかく》をおいて、相手は言った。
「私です」
「ボリスか。処理は終ったのか」
また二秒半の沈黙《ちんもく》。
エドガーはこれが、四十万キロ彼方からの通信であることに気がついた。
「残念ながら、私は重大なミスを犯《おか》しました、エドガー様。画像をご覧《らん》ください」
いわゆるテレビ電話である。エドガーは言われるままに、ディスプレイのスイッチを入れた。
ボリスは手を後ろにまわして、どこかの宇宙船の中に立っていた。
見覚えのある顔が、そのまわりにいた。ミリガン運送の二人と、ナビゲーターのメイ・カートミルだ。
「どういうことだ、ボリス。そこはどこだ」
「機雷原《きらいげん》の中――いえ、かつて機雷原だった、と申すべきでしょう」
顔から血の気が引いていくのがわかった。ボリスは冗談《じょうだん》を言う男ではない。
ボリスの横から、ロイド・ミリガンが慇懃《いんぎん》な調子で言った。
「誠にお手数ですが、窓の外を見ていただけますかな」
エドガーは、何を仕掛けた、と言いかけたが、二秒半の遅延《ちえん》がその気持ちを鎮《しす》めた。
言われるままに、カーテンを操作する。
すぐ外の宇宙に、白い立方体が浮かんでいた。
「何だ、あれは」
「まあ、見てていただきましょう」
白い立方体は、エドガーの目の前で粉々に分解した。
無数のきらめく光点は、そのまま膨張《ぼうちょう》して直径五百メートルの球体を形成した。
エドガーは目を見張った。
その光点は突然消滅し、三秒後にまた姿を見せた。
「ボリス、どういうことだ! 説明しろ!」
返ってきたボリスの声は、淡々《たんたん》としていた。
「あれはヴェイスを包囲していた機雷です。ミリガン運送は機雷原の中から、その解除および操作手順を入手しました。すでにその手順はヴェイス当局のもとに送信されており、自由にコントロールできる状態にあります――すなわち、L4シティを包囲することも可能です」
ボリスの声は一度|途切《とぎ》れて、また続いた。
「すべては終りました、エドガー様。どうぞ短気をおこされぬよう、お願いいたします」
エドガーは黙《だま》って受話器を置いた。
軽いめまいをおぼえる。
エドガーはそのまま力を抜き、椅子にどう、と腰をおとした。
いつか来る、と考えていた日が来たのだった。
会社はどうなる?
資産の大半はヴェイス政府に没収《ぼっしゅう》され、このL4シティは公有企業になるだろう。
サイトロプス太陽系のほぼ全域に伸ばしていた販路《はんろ》は、大幅な縮小を余儀《よぎ》なくされるに違いない。
自分を含め、機雷原の虚構《きょこう》に関わっていた人間は司法当局の手で裁かれるだろう。
少なくとも無期懲役《むきちょうえき》――極刑も覚悟《かくご》せねばなるまい。
エドガーは天井に目を向けたまま、長いこと、動かなかった。
幸福な人生ではなかった。
厳格《げんかく》な父からは個を殺すことを叩き込まれ、役員連中からは常に先代と比較《ひかく》されてきた。
それでも、あの日が来るまでは、懸命《けんめい》に生きてきた。
今日まで守り抜いてきた秘密を知らされたのは、社長に就任《しゅうにん》した日だった。その時の衝撃《しょうげき》は今も忘れていない。
それからの日々は、エドガーにとって、いわば余生だった。どんな種類の喜びも、あの赤いボタンを押すたびに霧散《むさん》した。
すべては終った――か。
これで、何もかもから解放されたのだ。
エドガーは不意に、乾《かわ》いた笑いをもらした。
ACT・8 ヴェイス
ミリガン運送の一行がヴェイスのシャトルに救助されてからの一週間は、それこそお祭り騒《さわ》ぎだった。
空港での出迎えには、まだ数名の要人しか集まらなかったが、その夜からマスコミの攻勢が始まった。人口五万のヴェイスでは何事も小規模なはずだったが、事件は少なくともサイトロプス太陽系中に広がり、他の惑星からも取材が殺到した。
三日後にはロイド、マージ、メイをオープンカーに乗せての市内パレードが繰り広げられ、おそらく全市民がそれを見に集まった。
事態は司法、行政面でも異例の早さで進行した。
まず、あの日――三月四日は『掃海《そうかい》記念日』として、ヴェイス市民の休日に制定された。レグルス社は、三週間の営業停止の後、ヴェイス政府の公有企業となった。
惑星上の交易資源――主に大戦期の遺物――は向こう三十年で枯渇《こかつ》するとされていたが、今後の収益は、レグルスではなく、ヴェイスのものとなる。固有の産業を育成し、貿易国家として自立してゆく時間は充分にあった。
同社のあらゆる賃金体系は見直しを迫られたが、そんな中で、ミリガン運送が請《う》け負《お》った仕事に対しては、破格の二千万ポンドが支払われた。アルフェッカ号とそのシャトルが、徹底的な修理を受けたことは言うまでもない。
一方、人の手の届《とど》くところとなった機雷《きらい》は、近隣星域の二つの軍事大国、ライアーおよびグレイバールの知るところとなった。両国は機雷を――たとえ一個でも――購入するために、途方《とほう》もない額を切り出した。両国の代表は口をそろえて、これこそが失われた黄金時代の科学技術を復興させる鍵《かぎ》になると言い、それを独占《どくせん》することは罪悪《ざいあく》であるとさえほのめかした。
だが、その暗黒面の恐《おそ》ろしさを誰よりも深く知っていたヴェイス人たちは、これをきっぱりと否定した。六千四百万個の機雷は衆目の前で集結し、黄道面より北へ十五億キロ移動したところで自爆された。この措置《そち》についてヴェイス政府は次のように言明した。
「自分で技術を開発するのがそれほど嫌《いや》なら、遣物をあさるのもいいだろう。だが、それが兵器でなければならない理由がどこにあるだろうか」
もっとも、自爆したものが本当に六千四百万個すべてであったかどうかについて、若干の疑問を呈する者もいた。少なくとも、ヴェイス以外の惑星で刊行された、十四のエスピオナージ小説に格好の題材を与えたことは確かだった。
これもまた、ひとつの神話を生むのだろうか。
宇宙は、ありもしない――そう願いたい――ものを恐れるのに、充分すぎるほどの広さを持っているのだ。
ロイドとマージは、カートミル家に滞在《たいざい》していた。騒《さわ》ぎの最盛期には一時ホテルに移ることもしたが、結局のところ世間の関心の三分の一以上はメイに向いていたので、カートミル家の事情はさほど改善されなかった。
三月末になると世間のお祭りムードもようやく鎮静化し始め、にわか英雄たちはテラスに出て、のんびりとお茶をすすることができるようになった。
緑地帯を抜けてきた、湿《しめ》りけを含んだ微風《びふう》が頬をなでる。
ロイドはしばらくの間、黙って煙草をくゆらしていたが、やがて言った。
「そろそろ――これからのことを考え始めてるんだが……」
マージは黙ってうなずいた。
「ここはいいところだ。商売の上でもな。ドーム都市が生き延びる道は宇宙交易しかない。これから仕事に困ることはないだろう」
「そうね」
「人を雇《やと》うことも、事業所を広げることも、新しい船を買うことも思いのままだ。なにしろ、わしらはこの星じゃ、ちょっとしたもんだからな」
「そうね」
マージは気のない調子で繰り返した。
ロイドは身を乗り出して聞いた。
「そうねと君は言うが、どうなんだ?」
「どうって?」
「ミリガン運送は、ヴェイスに腰をすえるべきかってことさ」
「そうすべきでしょうね。ベッドの上で死にたければ」
「君はわしが、それを望んでいると思うか?」
「さあ? 私としては、それがまっとうな生き方だと思うだけ」
マージはにんまりと笑った。
「私なりの忠告と受けとっていただいて結構よ」
「君自身はどうなんだ。ここに落ち着く気はあるか?」
「私としては……」
マージは顔をそらし、空に向けた。その先には、ドームの骨格があった。
「そろそろアルフェッカ号が懐《なつ》かしくなってきたかな、なんてね」
「…………」
ロイドは意外に思った。たいていの女は、ひとつの場所にとどまりたがるものだが――。
「端的に聞くが、マージ、君は復職してくれるのか?」
「ええ」
マージはあっけなく言った。
「わしが、今の――君の提案を受けなくてもか?」
「慣れてるもの」
マージは笑った。
「あなたが仕事に関して、私の忠告を聞いてくれたことがあった?」
「そりゃ確かに……」
「あなたは宝探しがしたかったんでしょう? ロイド」
「その通りだ」
よくわかっている。それがこの女のいいところだ。
「ここはもう宝島じゃない。それに――金と同義だが――宝は、探し続けることに意義がるんだ」
夕食の席で、二人はその事を話した。
ベスは顔を曇《くも》らせた。
「まあ、明日出発なんて――ずっといてくださると思ってましたのに」
「奥さん。私らは、別にここが嫌いになったわけじゃないんです。まあその――性分みたいなもんでしてね」
「わかりますよ」
ジェフが言った。
「このひと月で、なんとなくわかってきました。機雷原《きらいげん》があるうちは、正直なところ、星々をめぐる仕事なんて、どうにも実感が持てなかったんですがね。これからは私たちも、よその星との関わり方を学んで、様々な事業を進めていかなければなりません。それはきっと――刺激に満ちた、やりがいのある仕事なんでしょう」
メイの父親らしい、およそ模範的《もはんてき》な解釈だった。それでいて、どこか奇妙なニュアンスもある。まあ、戦争と平和の入り混ざった状態から脱したばかりのことを思えば、こんなものだろうか。
「そう言われると照れますが――そんなところでしょうか」
その時、それまで黙っていたメイが言った。
「ロイドさん――」
「なんだね」
「私を、雇ってもらえませんか?」
「君を!?」
「メイ、あなた――」
マージが何か言おうとする。
「私、役に立てると思うんです。通信とか、航法とかできるし、他のことも身につけていると思います」
「だがなあメイ、君はまだ十六だし」
「法律上は問題ありません」
「保護者の同意がいるだろう」
「父は、やりがいのある仕事だって言いました」
メイはまた、父親の弱点を突こうとした。
「そうでしょう? お父さん」
「そりゃ――確かに言ったが」
口ごもる父親に代わって、ベスが言った。
「メイ、母さんたち、やっとあなたといっしょに暮らせるって喜んでたのよ。なのに――」
「大丈夫だって。これからはいつでも外と行き来できるんだし」
「喜ぶと思う?」
ベスの声は低く、しかし硬く響いた。
「え?」
「娘が今度みたいな冒険をするのを、親が喜ぶと思う?」
「それは……」
母親はたたみかけた。
「あなたは立派だったし、とても誇りに思ってるけど、二度はたくさん。お願い、もう危ないことはやめてちょうだい」
メイは目を伏せた。
一カ月前までは、なんの迷いもなく、ヴェイスのために働いていた。
これからは何の、誰のために働くのだろう――家族のために?
メイは自分の可能性を試してみたかった。超人的な仕事をやってのけた、ロイド・ミリガンやマージ・ニコルズのように。自分だって、負けないくらいのことをやったのだ。
自分が、自分の思う意味で幸せになることが、それほど親を悲しませるのだろうか。
だが、意を決して顔を上げたとき、メイの視界にあったのは、母親の顔だった。
その、小皺《こじわ》の寄った目にたたえられたものを見たとき、メイは心が萎《な》えるのを覚えた。
メイはまた、目を伏せて言った。
「……もういちど、考えてみます」
「あー、そうだな。それがいい」
ロイドが言った。
「君の申し出はとても嬉《うれ》しいし、実際かなりそそられたよ。だけど、やりがいのある仕事なんて他にいくらでもあるし、どんな仕事でもやりがいは見つけられるもんだ。それを決めるのは、もう少し先でもいいんじゃないか。なあ、マージ」
ロイドはマージが即座に賛同するものと思っていた。
だが、マージはためらいを見せた。思いがけないほどの。
「そう……そうね。たぶんロイドの言う通りよ。私だって働き始めたのは二十二からだし――それで遅すぎたとは思ってないわ」
顔をそむけたマージの視野の隅で、メイが顔を上げるのがわかった。
その目は、何かを必死に求めていた。
マージは、こうつけ加えずにはいられなかった。
「もちろん、その――早すぎたとも思ってないけど」
その夜更《よふ》け、メイは頃合を見計らって、父親の部屋をノックした。
「どうぞ――ああ、メイか」
ジェフは娘を見ると、読んでいた本を閉じて向き直った。
部屋に彼一人しかいないのを確かめると、メイは中に入った。
「なんだね、改まって」
「お父さん、ちょっと――お願いがあるんだけど」
「うん?」
ジェフはかすかに笑みをたたえて、娘を見た。
大きくなったものだ――父親は、改めてそう思った。
三年前、家を飛び出した時は、まだ怖《こわ》いもの知らずの、小さな、やせっぽちだった。
今でも、変わらないところは変わらないが――。
「なんだね、メイ」
「母さんには内緒にしてほしいの」
「ふむ。……いいだろう、約束しよう。で、なんだね」
「明日、ロイドさんたちを見送りに、宇宙港まで行くでしょう?」
「ああ」
「それで――」
メイが計画を説明すると、ジェフは意外にあっさりとうなずいた。
やはり、メイはメイだった。おそらくは、ベスにもわかっているはずだ。
ジェフはさらに、メイの計画にいくつかの修正を加えた。
最大の問題は宇宙服をいかに目立たずに運ぶかだったが、別送貨物とすることでなんとかなりそうだった。
ACT・9 ヴェイス軌道港
翌日。
ミリガン運送の二人は、港湾局の旅客シャトルに乗ってヴェイスを離れた。シャトルにカートミル一家も乗っており、L4シティの軌道港まで同行した。
五人|揃《そろ》って、桟橋に向かう。
整備と補修の終ったアルフェッカ号は、すでにシャトルを接合して、そこに係留されていた。ロイドはそれを見るなり、大げさな身振りで言った。
「おお、ひさかたぶりの我が家よ――じっとあるじを待っていてくれたか。なあ、マージ、懐かしいだろ! こりゃ、シャンペンでもぶつけてやりたい気分だな!」
「そうね」
マージは笑顔を浮かべた。そう、さしあたっては、ここが私の家――。
ロイドは振り返って、メイとその両親に言った。
「これから発進まで二時間ほどかかります。いろいろ準備がありますので。――皆さんとは、ここでお別れしたほうがいいでしょう」
「わかりました。出発の時間になりましたら、送迎デッキの方に行きます」
ジェフは手を差しのべた。ロイドが握手する。
「本当に、名残惜《なごりお》しい限りです。私たちは、そしてヴェイスは、あなた方のことを忘れないでしょう」
「また、こちらに来ることがありましたら、いつでも寄ってくださいね」と、ベス。
最後にメイが言った。
「さよなら、ロイドさん、マージさん。また会えますよね」
「ああ!」
「もちろんよ」
ロイドとマージは、かわるがわるメイの頬にキスした。
それから出港までの間、カートミル一家は市街区に降りて、時間をつぶすことになった。
エレベーターを降りて、前の広場に出たとき、メイは言った。
「父さん、ちょっと商船高校の友達に会ってきていい?」
「ああ。会ってきなさい」
メイは母親にも聞いた。
「母さん、いい?」
「一人で行きたいの?」
メイはどきりとして、しかし、うん、と言った。
「そう」
ベスはしばらく娘の顔を見ていたが、やがて言った。
「じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
二時間後、アルフェッカ号は定刻どおり、軌道港を発進した。
もともとサイトロプスには、ほとぼりを冷ますために来たのだった。逆に脚光《きゃっこう》をあびてまったのでは長居できない。新しい目的地は、数十光年の彼方にあった。
超光速航法に入るためには、サイトロプス太陽系の重力圏を離れる必要がある。
マージは決められたコースに軸線を合わせ、亜光速用のエンジンを全開にした。重力装が働いているため人体には感じられないが、加速度は計器に表示されている。
マージはその値を見て、首をかしげた。
「変ね。予想より、ほんの少しだけど加速が鈍《にぶ》いわ」
「出力が落ちたのか?」
「そっちは正常だけど……」
「となると、どこかに余分なペイロードがあるんだな。質量はわかるか?」
「ええ。概算だけど、五十一キロ増ね」
「五十一キロ?――はて、どこかで聞いた数字だな」
唐突だが、ここでこの物語は終る。余分な質量をまじえたミリガン運送の顛末《てんまつ》は、またの機会に語られることになるだろう。
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あとがき
大昔の宇宙戦争の名残で機雷|封鎖《ふうさ》されたままになっている惑星があって、そこへ渡る時、機雷原専門の水先案内人を雇うしきたりがある。その水先案内人というのが、頭はいいけど、なんとも可憐《かれん》な女の子で――
とまあ、こんなプロットを思いついたのは、「クレギオン」のゲーム・シナリオを考えいた時です。
クレギオン、というのはテーブルトークRPG、メイル・ゲーム(郵便を使ってプレイするRPG)、そして小説などのメディアにまたがって構築される、架空世界です。本書の舞台となったサイトロプス星系は、全国より数千人が参加したメイル・ゲーム「遥かなるアーケイディア」に、ちらりと登場しています。クレギオンは参加者の手によって構築れてゆく世界ですから、この小説もその一助となればいいな、と思います。
この「ヴェイスの盲点」の執筆にあたっては(無謀にも)、現代に通用するスペースオペラを、と考えていました。スペースオペラというのは半世紀以上も前に流行した、破天荒かつ荒唐無稽な宇宙活劇のことです。
光速をやすやすと突破する宇宙船を駆り、腰に銃を吊って星々をめぐり歩く、スペースオペラの楽しさは他に類のないものです。しかし、非科学的で安易な筋立てが裏目に出たのか、いつしか読者を失ってしまったようです。
本編では科学的なリアリティもそこそこ考慮し、舞台もこの三十年あまり人類になじみある、衛星軌道までとしました。
作者が小説を書くのはこれがはじめてです。今回の仕事で、それがいかに難しいかを悟りました。一晩で書いた文章なら、翌日読み返せば大体の欠点はわかるのですが、何カ月もかかったものは、同じくらい待たないと欠点が見えてきません。そしてその頃には、何もかも手遅れになっているのです。
それでも、ほんの少しは自己満足している部分もあります。それがどこかは秘密ですが、「ああ、SFって案外面白いんだな」と感じていただければ、これ以上の喜びはありません。
最後に、こちらの趣味を通し、かつ適切なアドバイスを与えてくださった富士見書房の菅沼さん、ホビー・データの大宮氏、イラストレイターの弘司さんに心より感謝の意を表したく思います。
[#地付き]野尻抱介
なお、「クレギオン」に関するお問い合わせは左記まで。
〒221 横浜市神奈川区台町11―30 台ビル11号
(有)ホビー・データ
電話 045―323―5320
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底本
富士見書房
クレギオン ヴェイスの盲点《もうてん》
平成4年6月25日 初版発行
著者――野尻《のじり》抱介《ほうすけ》