野坂昭如
エロトピア2
目 次
〈1〉衣ぬぎたるときは
〈2〉原罪におののきて
〈3〉「もてない病」患者たち
〈4〉動物をいつくしむこと
〈5〉亡びてもなお……
〈6〉未だ解放されず
〈7〉制服の心を探る
〈8〉覗きて何を求めるや
〈9〉カ ブ セ 考
〈10〉処女のベールを剥ぐ
〈11〉いーじー・せっくす論
〈12〉あらまほしき夢のソレ
〈13〉男女閑居して己を知る
〈14〉コレクター一代
〈15〉「表現の不自由」に感謝
〈16〉CMをなぞってみれば
〈17〉男女正道のことわりに及ぶ
〈18〉ツツモタセに見守られて
〈19〉処女屋の高笑い
〈20〉処女屋の功徳
〈21〉コールガールの長パンツ
〈22〉落ちゆく先は
〈23〉罪深きは男かな
〈24〉異国のひとを夢む
〈25〉リスボンの灯あわれ
〈26〉おんなの錯覚を諭す
〈27〉嗚呼、ムダなり記
〈28〉女につける薬なし
〈29〉新婚旅行にもの申す
〈30〉愚かしきは体位論
〈31〉女房帝国主義諭
〈32〉世に猥褻の双璧とや
〈33〉汝自身を知るべし
〈34〉ホモの心根や如何に
〈35〉膜、この曖昧なるもの
〈36〉厄年のエレジー
〈37〉カキ死にこそふさわし
〈38〉怨念に生きる
〈39〉強いて犯した心とは
〈40〉これぞ女の願望なり
〈41〉見初めてより
〈42〉男色こそ正道なり
〈43〉わが貞操の岐路
〈44〉青いダイヤのゆくえ
〈45〉さわらぬ女に祟りなし
〈46〉昭和元禄浮世床
〈47〉聖処女たちの薬
〈48〉女類のPHP
〈49〉しもじものパッケージ
〈50〉四百四病の中
〈51〉嗚呼、色道半端者
〈52〉薬石の効や如何に
〈53〉アナ怖ろしき伴侶の六感
〈54〉女大学於奈仁科
〈55〉娘十六「破瓜」のころ
〈56〉女房解放の旗手たらん
〈57〉そは愉悦の王国なる哉(あとがき)
イラストレーション 山藤章二 (省略)
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衣ぬぎたるときは
ごく最近包茎手術を行った方にうかがったのだが、手術した後いちばん困ったのは、マスターベーションの興味がいちじるしくそがれたこと。小生常日頃、ついオナニーとこのことをいってきたけれど、やはりオナニーでは実感が薄い、戦後の子供が口にしてしかるべき言葉のように思えるので、以後は、ぼくがかつて使っていた如く、マスと呼ぶべきだろう。
このマスなる行為、つまり余った皮をうごかして行うのであり、だからこそ「皮つるみ」ともいうのだが、包茎たりし時は、雄々しくなっても、先端まで皮におおわれ、つまり先きっぽにおいてもつるめたのが、手術以後、胴体のみしかたのしめなくなった。
これは実に興趣半減であって、今更悔やんでも詮方なきことながら、日夜、むき出しとなったおのがものをながめては、涙にかき暮れているそうな。こっちは、気がついた時すでに露茎の状態だから、彼のいう先きっぽの皮つるみは実感がないけれど、いわれてみると、至極よろしいようにも思える。だって、露茎ならば、刺戟与える部分は、たしかに胴体だけでしかないのだから。
さらに、手術をしたらば、さぞやこれまで浮世の波風に当てず、過保護の先きっぽ、赤ん坊の皮膚のように、薄くれないに光り輝くのかと予想していたら、これはまあ、死後三日目の金魚の腹の如く、どんより白く濁っていて、小便するたびうんざりし、他人の眼をはばかる、いや、おのが妻でさえ気味わるがって、「少し日光浴させたらどう」など、ミもフタもない。
それだけではない。ほぼ四十年近く、おおい隠してきたから、垢が石ころのようにこびりつき、これは除去したけれども、臭いだけは、いくら洗ったって消えず、自分でもはっきり異臭の立ちのぼり、躯にまつわりつくのがわかるから、他人様気がつきはしないかと、心配で、人にあうのがいやになったし、もとより敏感になり過ぎ、ちょいとこすれただけで雄々しくなって、しかも、いざ営みとなれば、まさに二こすり半で果ててしまい、まあ、こういったもろもろのマイナス面は、なれによって解決するのだろうけれど、人間の躯のバランスというものは微妙なもので、ここをむき出しにしただけで、風邪をひき易くなったそうな。
包茎に生れついている方は、本来、自然の摂理でそうなったのだから、これはそっとしておいた方がよろしくはないか。かりに、女房が、包茎亭主だけしか知らないのであれば、浮気しようとしても、露茎を眼にすればびっくり仰天するだろうし、皮にくるまれていると、その気になれば六時間でも、また半日でも続行できるというではないか、実に天の恵みといおうか、こうなると一種の才能といっていい。衣服まとっているようなものだから、怪我も防げるし、なにも流行に便乗して、手術することはありません。
そして、さらに怖るべきことには、もし皮を切り過ぎたりすると、今度こそ完全にマスがカケなくなる、胴体の部分にしても、たるみがあるからできるのであって、パリンパリンに張り切ってしまったら、いくら潤滑剤を用いても不可能であり、また、ひょっとして、斜めに深く切り過ぎると、雄々しくなった際、斜頸のように、首をかしげることもあれば、ねじれたりもする。まあ、鉄砲だって螺旋を切っているから、弾丸が真直ぐとぶので、ねじれこむ行為というのは、よろしいかと思うけれど、ねじりん棒みたいな珍宝はやはり悲しいだろう。
今やどちらかといえば、露茎者こそ、包茎になるべく手術すべきであって、これは太ももの皮を上手に利用することで可能だという。いっそのこと、その内側になる面に、ギザギザイボイボをつくっておくと、マスにおけるみみず千匹をたのしめるのではないだろうか。要するに、人の行く裏に道あり花の山であって、包茎は異形である、それによってたまる恥垢は子宮癌の原因となるなど、したり気な妄説に左右されないことだ。つまり少数派になる勇気も必要なのである。
包茎についてさえくよくよ思い悩むくらいだから、短小のなんのと噂されると鬼をもひしぐ勇者さえ、たちまちげんなりしてしまうし、この逆で、少々でかいとすぐ胸を張り、もしそれイボでもあれば天下を取った如くに威張りたがる。そして、刑務所で囚人たちは、歯ぶらしの先端をとがらせて、先きっぽに傷をつけ、一種のケロイドをつくり、めでたく出所のあかつきはこれをもって娑婆の女を征服するなど、まことしやかな伝説が流布され、なかにはこれを真似て真珠を埋めこんだりする。埋めこまれる真珠も迷惑な話だけれど、いったい少々の「凸起《とつき》」があったからと、女体に与える効果の、そんなに増大するかしないか、冷静に考えればすぐわかるはず。そもそも赤ん坊が通りくぐってこようかというほど、伸縮自在の通路なのである、なんなら二つおさめてもいいというくらいのところへ、豆粒ほどの「凸起」が、なに影響するものか。
男というものは、もう少し知恵があるはずなのに、近頃、こと珍宝に関しては、女性週刊誌の性記事鵜のみにして、うろたえまわる婦人連とまったくかわりなくなったのは、どういうわけか。すべてはこれ神様の思し召しと考えて、あるがままに行えばよろしいのだ。性的なタブーがどんどんなくなって、この分野における正常、異常など、実は区分できないのだと、小学生だって心得ているのに、珍宝神話だけは厳然として生き残り、いや、さらに余計な説が加わりつつある。
小生がなにも、ここで悲憤慷慨することはないのだけれど、冒頭に紹介した包茎手術エレジーも、女房がききこんできて主人にすすめ、かねて主人もじくじたる思いなきにしもあらずで、つい悔いを千載に残したのだし、団地では、男子の珍宝をトレーニングと称してひっぱり、成長をはやめるべく努める女房や、中学にしてまだ皮かむりの場合、母親が手をそえ、露わにさせようとしたり、いやはやすさまじい世の中になったもので、これは男である亭主が、確固たる信念をもたないからだ。
天は珍宝に上下をつくらず、少しくらい色がわるくても、ミニであって、丁度、体格においては、ウドの大木やら、知恵がまわりかねと、小男なりに肩そびやかしている如く、毅然とあるべきだろう。珍宝は、ふつうの鉛筆の太さと、煙草ほどの長さがありゃ、こと足りるのだそうですぜ、巨根など、末端肥大症のあちわれに過ぎぬと知れ。
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原罪におののきて
女性においてはいざ知らず、男は、それぞれに原罪意識を胸の奥底深く秘めているもので、たとえば、幼児の頃のお医者さまごっこの記憶が、未だに残っていて、おりに触れ思い出し、うしろめたい気持、お臍《へそ》がでんぐりかえるような恥かしさに襲われたりする。
なにも、その記憶そのものが、自らを責めるのではなくて、現在の生活の中で、さまざまに挫折したり、思い屈したりした時に、ふと過去がよみがえり、自分が今駄目なのは、幼少にしてあのようにわるいことをしたからなのではないかと、いわばかこつけるのだけれど、ぼく自身についていうと、何度もくりかえすようだが、蝉型マスターベーションでありまして、校庭の立木にしがみつき、さだめし妙な眼つきでうっとりとしていたであろう。そのわが姿を、大人たち注意もならず、空怖ろしい気持と、さげすむ心でながめていたのかと考えたら、居たたまれなくなる。そして、蝉型においては、珍宝が雄々しくなると、痛くてしがみついてはいられぬから、頭の中では、けっこう子供のくせに、美女の面影など追いもとめつつ、しかも珍宝はなえたままに保たなければならぬ。こういう一種の自己矛盾のくりかえしが、只今の小生の如き、うじうじとみじめな性質をつくり上げたのではないかと、甲斐なき反省をしてみたりする。
この他に、小学校三年の頃、近所に女の子が多くて、おままごとの際など、常にひっぱりだこであったある男は、ある時、二年年上の女に、下着はぎ取られて、同じ姿となった相手と抱き合い、その際、下腹部に熱い感触があった。もとよりただ触れ合わせただけなのだろうが、男は、そのことによって、女の子のわるい血が自分の体内に流れこみ、もはや両親の子供ではなくなったのではないかと、しごく怯えたという。その怯えが、今もあって、あの時は、果たして結合したのだろうか、したとすれば自分はずい分早く童貞を失ったのであるなあと、半分は自慢したい気持もあり、また、女の子が果たして覚えているだろうか、覚えていないにしろ一度あってみたいと考え、こんな風なノスタルジーはいいけれど、失敗やらかした時、どうも自分の頭は、あれからめっきりわるくなったようだなど、本気で考えこむ。
また別な男は、風呂の中でマスを行い、この風呂マスということは、一種特別なよろこびでありまして、あったかい湯の中へ放出された精液の、※[#歌記号]いい湯だな、と躯をうちふるわせよろこんでいる状態が、こっちに伝わってくるような、西陽さす赤茶けた畳の上のそれとは、まったく別ものの感じがある。話はちがうけれど、湯の中に放たれたザーメンは、丁度、高射砲の弾幕のような感じで、蛋白質が主成分だから、葛湯の如くなって、決してとけず、ふわふわと、まさしく「くらげなす」ように漂い、上る時、必ず脛毛や胸毛にひっかかる。よく洗いおとしたつもりでも残っていて、翌日、妙にかゆいからしらべると、毛がねじれて皮膚に張りついていて、つまり、ザーメンのひっかかった跡なのだ、指でもみほぐすと、サラサラ粉となってちるけれど。
それはともかく、要するに、風呂マスの後に、姉さんが入ろうとした。彼は、湯がぬるいとかなんとかいって、必死にとどめようとしたが、姉さん委細かまわずどんぶりこと入っちまって、さあ男は、姉さんのひめやかなる部分に、おのが弾幕がしのびこみはしないか、もしそれで妊娠したらどうしようか、よく洗って出るように指示もならず、ひたすら気をもみ、このことがあって以後、もう二十年近くなるのに、彼は、姉さんの前に出ると、自分が罪深い存在に思え、頭が上らぬという。
同じケースで、母親の例もあり、その男は、もしこのために子供ができたら、それは弟なのか、わが子なのか、どう考えてよろしいやら、うつうつと悩み、成績ががくんとおっこったそうだし、しかも、以後、ひそかに母の風呂へ入る前を狙って、わざと風呂マスを行い、間接的に母を犯そうとさえこころみたのだ。そして、恥かきっ子に近い、年取ってからの弟が生れると、男は、気も狂うほどに悩み、そんなことは絶対にあり得ないとわかった現在も、弟にはことのほかやさしい心づかいをみせ、年のはなれているせいもあるが、まるでわが子に対する如く、面倒をみてやっている。
また、酔っぱらって、自分の母の秘所をのぞこうとした男がいて、それは男の十八歳の時、ぐっすり寝こんでいる母の、寝巻きのすそを、そっとめくって、豆電球のあかりをたよりにためつすがめつし、心眼というか、はっきりみえたと思ったそうだ。そこで満足し、彼も寝入ったのだが、さあ眼が覚めてから死んだ方がましなくらいの、自己嫌悪にかられ、また酒をのむ、のむと、ふたたびみたくなり、巨大な女陰が壁や天井にちらちらして、まあ、いくらか自制しているから、家へはもどらず、そのまま、口実をもうけ下宿してしまったのだが、今度は、自分がのぞいた時に、母は実は気がついていたのではないかと考えると、さらに居ても立ってもいられなくなってもう母親の顔をみることができない。いっそ遠くへいこうと、北海道の大学へ入り、これもすでに二十年昔のことなのに、男は、今も家へかえると絶対に酒をのまないし、のんだら、母のもとには近づかないという。
こんな風に男はきわめて罪深く、そしてジャン・バルジャンもかくやと思えるほど、悔恨の情に身をさいなみつつ生きているのだけれど、女性にはまるで通じない。しかしですな、男のやさしさとか、あるいは男らしさなんてものは、こういうところから生れてくるのではありませんか。男女共学で、しかもかゆいところに手のとどく性教育とやらを受けた野郎は、どうも清浄野菜のような印象が強い。そしてまた、罪深い男たちは、今もってくよくよとおのが罪業の重さにおしひしがれつつ、うわべはほほ笑みをうかべて世わたりしているのである。
女性にはこういった経験は皆無なのでしょうか、たとえば、メンスに汚れた指で、こっそりおむすびをつくり、父親にたべさせたとか、兄貴の下着にいたずらするなど、ないものですか。
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「もてない病」患者たち
もてない男を分析してみると、精神病と同じく、外因性、内因性、心因性の三つに分かれるようだ。外因性というのは、容貌姿形のことで、社会的地位、収入はこれに入らない。よく、男は顔形じゃないなんて、なぐさめだか、また、はげましだか判然としない言葉を耳にするけれど、実はこれはかなり重要なことで、かりに女性が心やさしく、あるいは英知にみちていらして、いかなる異形の男であってさえ、その本態正しくみ抜いて下さるとしても、むしろ、醜男は醜男故に自らひがんでしまい、もてないようもてないよう自分を追いこむのだ。
かりに六尺三寸、三十貫の男がいたとする。この男の容貌が、まず「イソ弁」か、新設大学助教授程度の貫禄であったとしよう。男からみれば堂々たる風采、もてぬはずないと思えるのだが、この場合、彼がその躯を生かして、プロレスなりプロ野球なりの選手であるなら、躯も有利だけれど、なまじインテリ風雰囲気漂わすならば、まるで駄目。一説によれば、日本人でスポーツマンにふさわしい背丈の上限百八十五糎というけれど、これは女性の男性えらぶ基準にも通じ、いくらアメリカ人を凌駕《りようが》するといっても、百八十四、五は、威厳より気味わるさを感ずるものらしい。
しかも彼が、いくつの時からそのように巨漢であったかという点も重要で、高校へ入って急速にのびたならいいが、中学生ですでにして六尺ゆたかだったのなら、彼は自分を異常のように思いこみ、ひがみが骨にからむ。小男のひがみは、秀吉、ナポレオン、ヒットラーの如く、時に英雄を生む土台となるけれど、大男のそれは何も役に立たず、ひたすら当人を猫背にせしめるだけ。中学生といえばさまざまな第二次性徴が形を整える時期であり、陰毛や、あるいは包茎の翻転は人眼につかぬから口ぬぐっていられても、なみはずれた身の丈は隠しようがなく、大男は、自分の恥部を年中衆目にさらし、そして嘲笑受けているような気分でいる。女の方に、ためらう気分があり、大男またひがんでいるのだから、これはもう先方にどうやさしい思いやりがあり、当方にひたむきな慕情があっても、いすかのはしとくいちがって、つまりもてないのだ。
内因性と申しますのは、たとえば女ばかりの家庭に育ったとか、比較的、子供の頃女の児にもてた場合をいい、女の醜さ、つまり一つ視点をかえると、それが魅力となる部分について、固定観念がある。姉のメンスの不始末をみてしまった男とか、小学生の時に、親戚の年長の娘と同じ部屋に寝て、息苦しいほど抱きすくめられ、仰天した経験、あるいは、母親の中になまなましい女を幼くしてみつけ出したなど。この連中は、女なれているから、うわべだけみていると、よく女にもてているかの如くだが、実はまったく迫力に欠ける。つまり、同衾《どうきん》してかなりのとこまですすみながら、ためらってしまい、そのためらいを自分でもはっきり意識してない。
あるいは酒に酔って寝こみ、また、取りとめない話に興じてあかつきを迎える。後で考えると、どうして百尺竿頭一歩すすめなかったか自分で不思議なくらい。しかも、女もまた、この|て《ヽ》の男の安全性を、かなり早くみ抜くもので、気をゆるすからこそなれなれしくもする、だが、決して結婚は考えない、すなわちいっこうにもてないのである。
最後の心因性は、自己防禦本能が強いというか、ナルシストと申しますか、結局は女に惚れることのできない手合いであって、この場合、はた目からは気の狂ったように、ろくでもない女に入れ揚げてみたり、また、生活を破壊してまでうかれ女につくすけれど、これまたまったく甲斐がない。実にあわれな男なのだが、女には、彼が本当に自分をもとめて狂っているのではないと、よくわかっているのだ、結局は、恋する演技に酔っている、または、女がふっているから熱中するだけで、もし応じたなら、たちまち逃げ腰になると、先様も本能的に察知しているから相手にしないのであって、このケースにおいても、男は、「これほど惚れているのに、何故駄目なのだろう」と、ぼやき世をはかなむが、なにけっこうたのしんでいるのだ。ママコンプレックスやら、また、逆に母親を呪っている男によくみられて、将来はこのたぐいがふえるだろう。
もてる、もてないと簡単にいうけれど、これだけは、人類はじまって以来、もてない人間が団結して革命起した例もなく、もてないからと奮起して、立身出世した話もきかない。つまりもてない奴は、常に下積みの生活を余儀なくされるのであって、進歩だか調和だが知らないが、二十一世紀になっても、両者の差別は厳然としてあるように思える。性教育において、どうしたら子供が生れるかなど、ことごとしく教えるのは愚の骨頂と、以前申し上げたが、男の子をもうけたら、なによりもてる男になるよう、親は考えるべきではないだろうか。学歴とか、財産とかは、まったく関係ないのであって、外因、内因、心因の三つの面にわたり、もっと思慮を深くする必要がある。
そして提案したいのだけれど、これだけ精神医学が発達しているのだし、分裂症やら、躁鬱《そううつ》症も治療できるのなら、「もてない病」患者に対するあたたかい配慮があってもよろしいだろうと思う。醜男を整形によってつじつま合わせるだけではなく、その心のひがみを解放してやるような、一種のリハビリテーションは考えられないのか。
もてる人間にはまったく想像もできないだろうけれど、「もてない病」の悩みは深刻であって、いくらもてるように努力しても、それがすべて裏目に出てしまい、あげくの果てはきりきりまいしつつマスかいてチョンなのだ。痴漢やら変態になれる人間はうらやましい、もてない奴は、ラッシュアワーの電車に乗っても、どういう加減か男の間にはさまってしまうし、トルコ風呂へいけば気取っちまって、くたくたに疲れ、歩道橋を歩く女のミニにみとれて、穴ぼこにおちこみ足首をくじき、ようやくありつけば、必ず病気、それも淋とか梅なんて颯爽たるものではなく、尿道炎など面妖なわずらいを受けるのだ、実にそうなのだ。
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動物をいつくしむこと
ジンギスカンは、遠征に際して、羊を同行させ、兵士の慰めにしたという、また、昔の船員も、しばしば航海にこのしろものを伴い、同じく用いたそうな。現在でも、ヒッピーの元祖といっていい、アメリカのホーボー達は、羊をよく連れていて、ある時はそのミルクをのみ、時に応じいつくしみなさる。
華房良輔が羊を飼っていて、おとずれると必ず羊の乳をのませてくれるのだが、ふと思いつき、いったい昔からもっとも人間の雌によく似ているというそのあたり、いかがな具合になっとるのか、みせてくれとたのんだけれど、これはかなえられなかった、「そんな、お前、かわいそうやないか」憮然とした表情でいい、どうやら情がうつっているらしい。
八犬伝の例や、狐を孕《はら》んだ話はあるけれども、たいてい女とけだものの相姦譚で、男とのそれは珍しい。手近かに獣がいなかった、農耕民族のせいだろうけれど、中国の戦場では、兵士と軍馬の営みがないでもなかったらしい。前巻で触れたが、寒気凛冽たる頃は、軍馬の於芽弧から、白い湯気がポワッポワッと、機関車よろしく吐き出され、それをみるうち、春情催した兵士は、つい、自分の腕をエイヤッと刺突させ、これはまあ笑い話で済むが、中に腕だけではおさまらなくて、なんとかかじりつかんものと、よじのぼる。これはしかし、かなり難事業であって、癖のわるい馬にかかると、けとばしにかかるし、折角、突入できても、支えがないからうごきが思うにまかせず、あまりよろしくないのだそうだ。
まあ、羊、豚ならかなえられたろうけど、たいていの奥地にまで慰安婦さんが同行し、兵士の意馬心猿をとき放ち、しかし、考えてみれば、こういう慰安婦さんの努力を讃える運動が、まったくないのはどういうわけだろう。近頃、よろず復古調で、三十年近く前のあれこれ、賞めそやすむきが目立つのに、慰安婦の像建立の趣意書も、叙勲の話もきかない。死地におもむく兵士の後から、トコトコと、か弱い脚でつき従い、結局みんな死んでしまった彼女たちの慰霊祭くらい行ってもよろしいのではないか。
とにかく、日本陸軍の配慮はいきとどいていたらしいが、慰安婦さんすらいない奥地というか、激戦地では、豚や羊は何より先きにたべられてしまって、とてもまぐわうゆとりはなかったらしい。たいていのセックスにおけるアウトロウたちも、けだものとのことは二の足をふむようで、女の小水を賞味するパーティがあるくらいなら、みめよき羊や、犬などあつめて、獣姦パーティを行ってもいいだろうに、小生寡聞にして知らぬ。
ぼくの経験では、戦後すぐ鶏を飼うことが、北河内の田舎で流行し、これはもちろん卵をとるためだったが、二つ三つ年長の青年の中には、これを犯すものがいて、その発想は、やはり卵が出てくるのだから、逆もまた真であろうと思いつくらしい。床屋の長男が「人間の珍宝なんぼでかいいうても、卵より太いのはあれへんで」艶やかに光るその一つをしめして、ぼくにいい、こっちは鶏とのことより、卵がのみたくて、その時は上の空だったが、しばらく後、それほどくうことに切羽《せつぱ》つまっていなかった時だろう、身を寄せていた農家の、鶏小屋から一羽かかえ出し、しらべてみたことがある。
あれは二十一年夏の終りの夕暮れで、汗疹《あせも》が脇腹にあり、ぼりぼりかきつつ、じっと身をすくめ、ぴくともうごかぬ鶏を仰向けにひっくりかえす。鳥はどれでもそうらしいが、天井向けさせると、気を失ったようにおとなしくなるもので、ぼくは柔毛かき分け、その部分をあらためた。丁度、にぎり拳を、親指の側からみたような印象、肉色の渦巻きがみえて、漠然と想像していた一種の穴はまったくない。ここへ珍宝をおし当てるのかと、想像たくましくしてみても、それは余りに突拍子もないことに思え、この鶏は危く難をまぬがれたのだが。
床屋の長男の説明によると、刺突したとたん「ケェーッ」と一声鳴いて、天井までとび上るという。あとで考えれば、一刺突でとばれてしまっては果たしようもないだろうに、きいた時は、それなりに刺戟的だったのだ。「鶏の卵はな、穴の奥にならんどるねん、手前の方の卵はもう殻かぶってるけど、奥へいくにつれてちんこなって、黄身だけやったりな、それを珍宝で突くわけやから、こらよろしいで」舌なめずりしていい、ぼくは食欲と性欲が合体したような、妙な気分であった。珍宝で黄身をたべるなど、勿体ないような、またたしかに「よろしい」ような、今でも卵の黄身をみると、ふと思い出す。
こう都会での生活が、物理的に手狭になれば、獣姦などますますかなわなくなるが、女性にはかなりゆるされていて、江戸時代だって、お妾さんと狆《ちん》の関係はあれこれ取沙汰されていたし、現在でも、ブルーフィルムにおいて、ワンシロはごく当たり前の絵柄となっている。そして、考えれば、男だってできないことはない。女なら、狆やボクサーのように鼻の上むいた種類が、愛撫に際し有利だろうけど、男の場合はコリー、ボルゾイの如く、顔の長いのがよろしいだろう、バターを餌に何とかなりそうな気もするのだが。しかし、パックリとやられたら一大事であり、※[#歌記号]一物くわえて逃げたとさ、なんて、唄にうたわれるかも知れぬ、どうせチョン切られるなら、まだしもお定さんの方がいい。
深夜、象の小屋に侵入し、踏みつぶされた男がいたことに触れたが、これは象を相手に営もうとこころみたものらしいと書いた。しかし、実になんとも凄まじいもので、獣姦小説などもこれからはあらわれるかも知れない。
女性は生殖から解放されてより甘美な快楽をもとめ、レスビアンに走り、男はもはや相手にしてもらえないとなりゃ、どうしたってジンギスカンの故知にならわざるを得ないだろう。獣姦だけではない。魚姦鳥姦虫姦も行われて、その態位解説書も刊行されるであろう。「ムチムチとした尻のあたりのモヤモヤした柔毛をかき分けると、ピンクの渦巻きがあって」、やら、「コケーッと一声絶叫すると果てた」なんてくだりに、心躍らせ、犬のように新種のつくり易い種族は、どんどん改良され、ワンワンとは吠えず、スーハーとせめて以前をしのばせるようななき声立てるようになりはしないか。いっそそうなった方がいいかも知れない、女よりはまだしも犬の方が忠実で嘘つかないもんなあ。
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亡びてもなお……
酒をのんでいたら、同じカウンターにならぶ老人に話しかけられ、獣姦鳥姦についてのウンチクをお裾分けいただいた。老人は今こそ現役を退いていらっしゃるが、かつては斯道《しどう》の先覚者、微に入り細に渉り説明下さったのだが、あまりくわしいので、そのままひき写すことは、小生とて少々ためらいがある。せめて鳥姦における態位のみ紹介すれば、自分の手許にひきつけるようにしてなし、鶏のまさに卵を産まんとして、うずくまったところをみはからうという。
それ以外だと、労のみ多く、また烏体を傷つける怖れもあるそうで、産卵の直前だと、いい具合に開孔しており、相手が「処烏」、また経験浅きうちは、こちらの尖端のみ埋没するくらいが、動物愛護の精神にものっとるであろうとおっしゃる。先方がなれてくれば、得手吉も十分に進入することができて、しかも、卵の殻の感触などが伝わり、えもいわれぬそうで、「そりゃ女もよか、しかしカシワもまたぞっこんよかたい」と、老人九州訛りでのたまい、カシワという表現に妙なリアリティがあった。
ぼくは、カシワのテバ焼きというのか、南米大陸みたいな形の、一端に白い紙など巻きつけたのが、大嫌いであって、あれは色といい臭いといい、まったく空襲の際の、人間の蒸し焼きによく似ているけれど、老人の話をきくに及び、なおカシワの語感に特別な色合いがつけ加わったように思う。そして、酒は入ってたのだが、この他に生きとし生けるものすべて、攻撃なされたという老人のフロンティアスピリットの旺盛なること、きき入るうち背筋が寒くなり、しかも、「あんた、仏さんはどうかね、わしゃこれだけはようやりよらんかったもんね、ありゃ気色わるか」と、おっしゃる。「うちら、島じゃけん、仏さんはみな土葬たい、ばってん、よか女子衆のうっちんだ時は、墓荒しするもんも、おったとよ」。なんでも、夜ばいの習慣の残っていた頃まで、噂が時に流れ、屍姦によって性病が治るという迷信もあったそうな。
夜ばいという、まったくぼくの間に合わなかった美習は、すべて電気燈の普及によって消滅したらしく、たいていの山間僻地でも、三十年前にはなくなっている。老人がまだ若い頃は、しごく当たり前のことで、これは村の内部でのみ、婚姻が行われ、血の古くなることを防ぐ意味合いもあったらしい。「四里、五里くらい何でもなかったもんね」、山を越え谷をわたって、噂にきく美女のもとにしのび、もっとも美女といっても、暗闇だからたしかめようもない。夜ばいを歓迎する女の家は、丁度現在の、週刊誌アナ場情報の如く、青年のロコミによって伝えられたという。
そして、夜ばいの道すがら、いくつもの、村の墓場の近くを通り、昔は、ふとした病いがもとで、黄泉にいたる薄命の美女がよくいたから、いくらか気味わるく思いつつ、新仏のしるし、白張り提灯のかかるあたりをよこ眼でながめ、少しはやれ勿体なやとも思ったらしい。死体は土中におさめると、すぐに死後硬直がとけて、月の光に映えるその死顔はひどく美しいものだそうな。
ぼくは以前に、ネクロフィリアにつき、法医学の先生にレクチュア受けたことがある。その説だと、べつに死体を犯したからといって、それだけでは罪にならない。たとえば、愛する妻に先き立たれた夫が、いとしさの余りそい寝の通夜を過ごし、つい、最後の交わりにいたっても、屍姦罪にはならぬ、いや、こういう罪名すら日本にはないのだ。また、屍姦ときけば、さだめし眉をひそめるだろう良識ある婦人連も、亭主が女房をいとおしむ余りのこの行為ならば、むしろ讃美するにちがいない。
では、可能なのかというと、息ひきとって直後なら、硬直がないから、これは果たし得るし、その部分だけについていうなら、硬直の間も筋肉が少いから、なんといいますか、ワギニズムの如くなり、進入不可能というわけではないらしい。もちろん生体反応の一種である各種愛液の分泌はなく、かわりに粘膜から、淋巴液などが滲出して、かなり滑らかでもあるという。ただし、どのような死因にせよ、一酸化炭素中毒で死んだ直後、あるいは凍死で時間のたっていない場合以外は、痩せてもいるだろうし、いわゆる死相なるものは、しごく気味のわるいもので、どうしてもというなら、相当のメーキャップが必要だろうとのことだった。
この点だけでいうと、抗生物質などの発見されなかった頃は、しごくあっさりと朝の美女夕ベの白骨となったから、病みやつれのない仏さまが多くて、屍姦愛好者にはよき時代だったのかも知れない。老人の説によると、女の水死体は、若者がこれを抱くことでよみがえらせ得ると、かなり近い頃までいわれていたそうだ。これは、男の場合も人肌であたためれば息吹きかえすと、小説で読んだことがある。そして、相手が女性の場合、つい役得をしてしまうのだろうか、あるいは絶対に生きかえらぬとわかっていても、島に流れついたものは天の授けものとみるならわしだから、救援に名をかり犯したのであろうか。老人ですら気色わるかという屍姦だけれども、戦場ではかなり一般的で、中国大陸において、この習慣を身につけ、日本へもどってからも、その欲望止みがたく、この種の犯罪が敗戦直後かなり多く起った。
このことは、死体を年中かたわらにし、恐怖感の薄められている手合いでなければまず果たし難い。となると、現代の日本では、まず無理だろう。だって、葬儀から火葬に至るまで、その専門家ですら、しごく事務的で、死体に手も触れないし、たまに仏さんを身近かにするといえば、事故の犠牲者で無残な死にざま、また、花なら盛りの年頃は、どうぶったたいてもオロクジにはなりそうもない。他のかなり禍々《まがまが》しき営みも、どしどし復権がゆるされているけれど、ネクロフィリアだけは、絶滅するにちがいない。ぼく自身は、屍姦愛好も、人間の本性の中にひそんでいると考えているのだが、対女性のみならず、ソドミアにおけるこのことも含めて。
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未だ解放されず
こんなことを、公けにしてもはじまらないのだが、ぼくは、銀座の酒場に足ふみ入れてほぼ八年になるけれど、ついぞ一度も、銀座川に漂いかつ巣くう浮寝鳥の、お情けにあずかったことがない。これは、まあ小生あまりに酔っ払ってしまうから、人間扱いされないせいもあるのだが、また、金払いのわるいことも、その理由だろうと思う。
実にぼくはけちであって、小切手なら、なんだこんな紙っきれと、気前よくわたすことができるのだが、現金になると惜しくてたまらず、さすがに溜り溜って、敷居が高くなり、ではまあ二万円くらい払っておくかと心きめて出かけても、いざ店に入ると、しかし一万円でもよろしいのではないか、じくじく考えて、あげく酔ってしまえば、えい、今度まとめてひと思いに払ってやらあと、こういうのも、気が大きくなった内なのか、大手ふってバアを立ち出で、これではまずもてない。
なにしろ、酒場から勘定書が来ると、なんとなく裏切られたような、情けない気持になり中身などいっさいしらべず、右から左へ屑籠へ放りこんでしまうのだ。よくいわれるような、飲み屋の勘定と、賭けごとの金は、女房質においても払うなどの、心意気はまったくない。そして近頃、なおいけなくなったのは、以前なら原稿料も、小切手で郵送され、それをマダムに手わたす分には、心も痛まなかったのだが、近頃はすべて銀行振込みだから、どうしても現金になる。いっそ当座預金にして、小切手帳もち歩けばいいのだろうが、そうなりゃ、あっという間に「不渡」を出してしまうだろう。だから、いちばんいいのは、税金の如く、こっそり銀行からさっぴいてくれることだが、銀行にたずねたら、それはガス電話水道など、公共の料金にかぎるのだそうだ。
こういうわけで、銀行はあきらめ、銀座で駄目なら新宿があるさと、時には、新劇女優や女性イラストレーターの集るスナックに出没してみるのだけれど、なんとなくくいつかれるような感じで、手が出ない。六本木、青山でゴーゴー踊ったって、現地調達不可能だし、思い切って街頭ハントこころみれば、まず度胸づけの酒なくてはかなわず、酒いったん入れば、さらに酒を呼んで、でろでろになってしまう。かつて「スケコマシ同盟」という、中年男のこれをこころみて、無残に敗北する小説を書いたことがあるけど、まったくそのままを、現在なぞっているのだ。
ハントバアにもぐりこみ、近頃は、女事務員も酒をたしなみ、もしそれヴァイオレットフィーズでもおごるならば、たちまち意気投合ときき、血相かえてみわたしても、あれは汐時があるのか、まず女連れのカウンターに坐っていたためしがない。週刊誌を読めば、店の名イニシャルであらわした、おさわりバアやら、さらに結構な御奉仕いただけるらしいアナ場が、紹介されていて、ぼくは手帳にメモし、それらしき地域通りすがると、必ずたしかめてみるが、そして同じ頭文字探し当てても、すべてこれガセネタである。
ぼくだけならば、自らの至らぬためとあきらめるけれど、四、五人同年輩が旅行などし、よこ目でみているとまるっきりみな駄目であって、それはたとえば、ナイトクラブ付属のお茶漬屋でぼやいていると、マスターが同情して、ハイティーンの集るゴーゴークラブがあるといい、率先案内してくれるが、きまって、その夜は、不思議にいなかったり、三十分ちがいで汐ひく如く家路だか、ホテル路にだかついた後。しからばと、店がえりのホステス、有閑マダムの集るキイクラブがあるからと河岸をかえ、なるほどいるにはいても、五十近い習字の先生とかが、「オリエンタルホテルの回転ベッドええわよ」と妖艶に笑い、かと思えば、骨と皮に痩せたバアのマダムが、「うちのマンションでホームパーティしようよ」とコースターの裏に地図をえがいてくれ、みれば、牛乳屋と、保健所出張所の間を入っていくマンションで、いずれもゾッとしない。
混血児のウエイトレスで、マスターの友人十六人が、その女と寝ている、大地打つ槌はずれようとも、これは確実といわれ、そのドライブインおとずれると、「冗談じゃないわよ、みそこなわないで」けんもほろろに断られ、あげくの果ては、ラーメンくいつつ男同士のそい寝の宿たずねてみ当たらず、サウナで風呂に入り安楽椅子に寝れば一人三百円、根がけちだから、おもむいて、全身虫にくわれ、これを女房に発見されて、あらぬ疑いかけられる。
ぼくの周辺にのみ、暗雲低迷しているのだろうか。どう考えても、東海林さだお氏のえがく人物は、小生をモデルにしているとしか思えず、だからくりかえし読んでは、われとわが身につまされ、涙|滂沱《ぼうだ》と止めもあえぬのだ。それとも、セックスが解放されているなど、まったくの嘘っぱちで、実は女性すべて、戦前と同じく貞操堅固、いやしい男を、片時も近づけぬ所存、また、男子も、軽々しく女の尻を追うなど軽蔑して、セックスはすなわち子孫繁栄の実をあげれは、それでこと足りると、もっぱら天下国家のことばかり考えているのか。銀座の女給七割は、客と特別なつき合いをする、少くとも可能性があるとやら、地方のハントバアには、男友達欲しくて、女工さんが群れつどい、ポンと手をたたけばぞろぞろついてくる、吉原某トルコの某嬢は、ニンフォマニアで、金は問題でなく、気に入ればアパートヘ迎え入れてサービスする、車で女に声をかければ、成功率八○%やら、女事務員のハンドバッグには、三割の確率でルーデサックがあるなど、これはすべて大本営発表と同じ、嘘っぱちなのか、信じた小生がわるいのか。
同じ年頃の何人かと酒を汲みつつ、四方山《よもやま》話の末に、「近頃、女房以外の女と、町を歩いたことがあるか」たずねたら、全員深刻に考えこみ、そのすべてが、ここ二、三年思い当たらぬというのだ。コールガールなんてのも雲つかむような話だし、温泉地の女は、化物に近い、こうなりゃ、まったく夫婦交換パーティにでもたよるほかないのじゃないか。
せめて、美人の女房所有する男と、仲良くしておこう、その日のために。
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制服の心を探る
今日成し得ることを明日にのばすなという格言もあるし、善は急げともいう。いや、できることは何だってやっちまえという。まあヤケクソで、セーラー服パーティなるものをこころみたのである。つまり、女学生に憧れをいだく中年、青年六人ばかり貸衣裳屋から、夏冬それぞれ一着ずつ借りて、これを着てみようというのだ。
これも一種の変態だろうけれど、別にどう思われたってかまやしない、どうせ想いとどかぬものならば、自ら女学生になることで、いくらか気が済むだろうと、ホテルの一室に集合し、さてヒダのついた紺のサージのスカート取り出せば、一同どっとざわめいて、順番はあらかじめアミダできめてある。夏冬それぞれを二人がまず着用するのだが、誰一人、セーラー服を分解したことがないから、どう着こなしていいかわからない。
とにかく、一人はステテコの上からスカートをたくし上げ、いくら山間僻地へいったってこんな女学生はいるわけもないから、全員で脱ぐように強制し、すると彼は奇妙に恥かしがって、なんとスカート身にまとったとたん、花も恥じらう女子高校生になったつもりでいるのだ。
「ああ、そういうのがいるよ、なんとなくひねこびてて、いじわるそうなのが」「ちょいとふとももをみせてみろ」いわれるままに一人が裾たくし上げて、この男、毛のまばらな方だったから、ちらりとみえ隠れする下着と肌の取り合わせ、あぶな絵風に思えないでもない。「靴下だ、靴下買ってこよう」一人が絶叫して、ドアに突進し、すると別人が「パンティもついでに、木綿、あるいはガーゼのような奴、模様つきは駄目」「いや、イチゴの模様くらいならかわいいんじゃありませんか」それぞれの妄想を開陳して、つぎなる二人が、その小道具を身にまとう。
「なるほどねぇ、女学生は、こういう心境でいるのかねえ」わざわざスカートをはらりと広げて椅子に坐ってみたり、出たくもないのに便所へ入り、おのがしゃがむ姿を鏡にうつして、「へえ、女学校の便所のぞいてるみたいだなあ」と、うっとりみ入ったり、「この、むき出しのふとももがすれ合う感じは、えもいわれずセクシーだなあ」調子にのって、掌を胸にくみ讃美歌をうたい出し、かと思えば、両脚開いてひっくりかえり、「女学生強姦致死の姿」と白眼むいたり、ぼく自身もこころみてみたが、ナイロンの靴下は、かなり自己愛を満足させるものの如く、あのすべすべしたしろものを、ぐっとたくし上げる時の感触は異様であって、女性がこれに眼の色かえる気持わかったように思う。
ぼくみたいに毛深くて、まあごつい体格は評判がわるく、比較的小さい二人が、そのまま着こんで、さて酒盛りとなったのだが、化粧もしないのに、みなれると、男にちがいない彼等の姿が、セーラー服の個性に負けてしまって、けっこう女学生にみえるし、一人は学生時代サッカーの選手、一人は少林寺拳法二段なのに、これまたやたら女っぽくなって、うっかりスカートまくり上げようものなら、奇声を上げて必死にカバーしようとし、言葉づかいもおかしくなってくる。まあしかし、冷静にみると、胡坐かいてがぶのみする女学生など、すさまじいにちがいないのだが、決しておぞましい印象ではない。
こんなことでもしなければ、セーラー服を近くでみるチャンスのない私ども、実にあわれなことだけれど、やがて、酔いがまわるにつれ、偽女学生の一人、「もう暮れたから、きっと表を歩いても、わからないんじゃないか」と、制止する手をふり切ってドアをとび出し、もう一人はホテルの窓から、通行する男に手をふり、高々とスカートかかげ、カンカン踊りの真似さえしてみせる。一人が軽犯罪法に触れるといったが、「どうして、ちゃんと下着つけてるんだからいいだろう」いい張って止めず、このあたりはまだよかったのだ。
表にとび出した男もつつがなくもどり、十分に堪能したから衣裳を箱にもどし、新宿へ出かけて、「われわれは今、女学生のフレンチカンカンをみて来た」酒場の顔馴染みにいうと、みな親の仇に出あった如く表情をかえる。「それだけじゃない、机の上に立たせて、下からのぞきこんだんだ、いいねえ、汚れを知らぬ制服の処女、白い下着と赤いガーターの間の、ふっくら盛り上ったふともものあたり」しゃべるうち、先方の眼が血走り、「いったいどういうわけなんだ」決して嘘とは思わぬらしい。自分も是非眼福にあずかりたい気持が強すぎるから、疑うよりもつぎのチャンスをあれこれたずね、「そりゃ、世の中には話のわかる女学生もいるってことよ」「そうなのさ」はぐらかすと、歯ぎしりして口惜しがる。
でろでろに酔ってぼくは家へかえったのだが、朝早く電話でたたき起され、それは、最後に女ぶりを演じた一人で、「あのねえ、俺ねえ、うっかりあの、パンツはいたままだったんだなあ」「パンツ?」「ああ、つまり女学生のさ」「へえ」「それで、女房にみつかっちゃったんだよ」。とたんにぼくにも事情がわかって、そりゃ、一大事にちがいない。あたらしい男物のそれを身につけていてさえ、つまりサウナに入り、取りかえたのでも、疑心暗鬼となるのに、女もの、それもイチゴの模様じゃ、こりゃ申し開きのしようがないであろう。「それでさ、俺、正直にみんないっちゃったんだけど、信用しないんだよ」「そうだろうなあ」「あなたねえ、ちょっと説明してくれないかあ」待てという間もなく、先方の奥方にかわって、「本当なんですか、女学生ごっこって」「ええ」と答えたものの、小生のすぐかたわらに、わが女房がおりますのだ。弁解して上げたいのは山々だけれど、ことこまかにいえば、どうなるか。「つまり我々は、女学生を知りませんので、まあ、せめてその制服だけでも身にまとってみようと、これも大人の遊びといいましょうか」てなこといえば、こっちに火がつく。そこで私は、こりゃもう緊急避難の如きものと、「まあそういうわけでして、アハハハ」笑って切っちまったのだ。
その後、少林寺拳法がどう処罰されたかは知らぬ。仕方がないよなあ、天は自ら守るものを、守ると格言にあるもの。
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覗きて何を求めるや
人間は、なぜ他人の情事をのぞきたがるのであろうか。いわゆるプロの、というのも妙だけれど、変態の中には、のぞくことで、すべて満足してしまい、通常の営みを必要としない連中がいるそうだが、ぼくなど、他人のうまくやってる光景に接すれば、ただただ腹立たしく、「お前、何やっとるのか、アーン、時局を何と心得るか」と、特高よろしく怒鳴りつけたくなる。
にもかかわらず、のぞきのしかけをした旅館というものは、一種のユートピアみたいなものに思えて、老後の設計など露考えないのに、温泉マークを一軒所有し、その各部屋にTVカメラをそなえ、自由自在にのぞいてみたいと妄想し、そういった噂をきけば、大金積んででも、眼福にあずかりたいと奔走するのだ。
そして、のぞきだけは、ブルーフィルムの販売や、各種のショウプロデューサーにも、なかなか手がかりがつかめないことらしく、その理由の一つは、どうしてものぞいた人間がいい触らすし、いったん口コミで広まってしまうと、のぞきのしかけは、映写機や布団とちがって、手っ取り早く隠すことができない。たとえば床の間の天井を細い竹で組み、座敷からは変哲もないが、天井裏からおみ通しの設計をして、隣部屋の押し入れに入りこみ、観察させる旅館が、井の頭線沿線に一軒あった。そして、ごく内々の客にだけみせていたのだが、半月もたず、たちまちその筋にふみこまれて、いっさいの証拠を押さえられてしまった。
また、池袋にあるときいて、ぼくの出かけた例では、特定の部屋に、アベックの入るまでのんで待っていてくれと、案内人にバアを紹介され、三時間ほどして、「いや、どうも今夜はしけてましてね、客が来ないんです、またの機会に」と断られ、そのバアの勘定はふつうの倍近くて、これは、のぞきを餌にした客寄せらしかったし、浅草のそれは、なんのことはない、ごくふつうのシロクロを、襖のすき間からみせられたので、演技者は、よくみせようと、姿隠したこっちの視線を意識してあれこれなさり、まったくしらじらしい気持となった。
昭和二十七年の春、ぼくは戸塚二丁目近くの国税局が管理する土地に、無断で建てられたバラックに住み、それは六畳を二つ割りにして、二世帯が暮していたのだが、お互いの仕切りは、高さ六尺ほどの板壁で天井がないから、いくらでも隣室をうかがえる。隣りには、ビルの硝子ふき夫婦が住んでいて、別に特別な気配の伝わったわけでもないが、ひょいと壁の上からのぞいてみたら、今しもお祭りの最中。下になった女の顔を、男の後頭部がおおい隠し、またあらわれ、あらわれた時、女の眼とぴったり合ってしまうのだが、あまり無表情なので、かえって金縛りに合った如くながめつづけ、のぞきをやめるきっかけがつかめなかったのを、覚えている。そして、営みは、上下ではなく、前後につまりピストン運動をするものだと、よく納得できたのだが、ぼくは何となく気がとがめ、翌日、夏ミカン五つほどとどけたら、何と考えたか、この夫婦、すぐひっ越してしまった。
宮域前広場とか、同伴喫茶にいけば、いくらも秘戯の姿をみることができるそうだけど、一人ではかなわぬし、一度だけ、東京の夜のルポルタージュとかを依頼され、カメラマンと日比谷公園に出かけて、アベックの種々相観察した。いや、しようと心がけたのだけれど、ひがみが先きに立ち、この若者たちの両親は実に監督不行届であると、みれどもみえず、まったくの上の空で通り過ぎただけ、ぼくにはピーピング・トムの素質、あるいは資格がまったくないのだ。
なぜ、のぞきたいのか、のぞくことで刺戟を受け、意馬心猿に猛り狂うのが目的なのだろうか。べつにお祭りでなくとも、女性の隠された部分をみたいという気持もよくはわからない。ぼくはわりに銭湯が好きで、パンツを人前にさらして大丈夫な時なら、手当たりしだいにとびこみ、その門口をくぐる時、一瞬、女の脱衣姿がみえるかなとかすかな期待がある。あれは、実際にみたところで、どうというものではない。むしろ寒々しい印象が強いけれど、番台の高さや、女の方とのくぐり戸の具合を、巧妙にはかりつつ、百円玉まさぐって、視線さまよわせるたのしみは、特別なものだ。
男は、去勢コンプレックス、あるいはインポテンツになることを怖れる気持があり、女体を身近かにし、そして自分の欲情を常にたしかめなければ、心落着かないのだろうか。中年ならば、たまに眼にした若い女性の白いふとももを、しっかと胸に抱き浮世の義理果たすのかも知れず、また、若者であれば、マスターベーションのあてとして拾い集めることも考えられる。そういった具体的な効用以外に、女性のそのあたりについ吸い寄せられる男の視線の、理由をあれこれ考えても、これはもう不可解としかいいようがない、女の股倉をのぞいて、何がたのしいのか。
古い昔は、のぞくこと即ちものにできると、両者直結していて、その残影が未だにあるのだろうか。あるいは、他人の営みをみることは、これも原始時代なら、男性はほとんど無防備の状態だから、襲いかかって殺してしまうことも、比較的楽だったろう。つまり、敵を倒し、その女を奪う絶好のチャンスだから、今もって他人の情事うかがうことに血がさわぐのか。
しかし、ある専門家にきいたところによれば、男女あまりひたむきになって抱き合っている場合に直面すると、ちょいとわるさはできないものだそうで、まして、男の後頭部に一撃を加え、交替するなど、いかなる人非人さえもためらうという。たいてい、その果てるのを待つか、あるいは、先方がこっちに気づいて、怯えをみせた時に襲うのだという。もはや乗りかかった舟で、後にひけなくなった二人が、人眼もあらばこそ七転八倒している姿は、やはり、殺人鬼をもうんざりさせるような迫力があるらしい。結局は、先方が隠すから、のぞきたがるという、しごく当たり前のことなのだろうか。つくづくみてみれば、女体なんてかなり不出来な印象だし、営みはまた、あんたら何をそう一生懸命やってはんのんと、おうかがいしたいようなものだから。
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カ ブ セ 考
ぼくが、はじめてルーデサックを知ったのは、昭和二十二年夏のことで、闇市はもうなかったが、その延長のような露店が、びっしり立ちならぶ千林のはずれ、婆さん一人が店番している、まあ荒物屋というのか、貝殻に木の柄をつけたしゃもじや、硫黄の付け木、罐詰の空罐に木蝋をつめた永久燈など、当時としても少々お粗末な品をならべたすみに「カブセ」と札が立っていて、その小さな包みが五、六十無造作に積まれていた。
見当まったくつかぬまま、たずねてみると「カブセやがな」婆さんつまらなそうにいい、「三ケ十円、いるのんか」「何に使うのん」「こないしてカブセるねん、病気うつらんようにな」指を一本おっ立て、別の指二本でしごくようにする、十円といえばコッペ一つが買えたが、ぼくは病気予防ときいて、薬を考え、どこといってわるいところもなかったのだが、少々栄養失調の気味だったから何かの役に立つかと、買いこみ、こっちはどうみても子供なのに、婆さんひやかしも、不審がりもせぬ。
紙包み開けて、黄灰色のゴム製品があらわれた時、べつにびっくりした覚えも、また、それをどう処分したかについても記憶はない。そのたしかな使用法を知ったのは、ほぼ一年たってからだけれど、まあ、どのみち当座は役に立たぬしろものと、ドブにでも捨てたのだろう。つぎにみたのは、三十前後の人妻の許へあそびにいき、これはその所有するレコードをきくためで、妙な野心なぞ毛頭なかったのだが、人妻の外出を狙い、なんとなく屋敷内探検したら、ちがい棚の上の戸袋に、掌の如く骨の開いた干し物器の、骨一つ一つにサックがかけられていて、しごくなまなましい印象だった。人妻はかなり裕福な暮しをしていたのだが、二十三年頃は、まだまだ、このしろもの貴重品に近かったのだろうか、後できいた話では、よく水洗いしてから、かげ干しにし、片栗粉をまぶし、すりこぎの細い方にかぶせて、下からまき上げれば、三度はじゅうぶんに使えるらしい。
自分で使ったのは、赤線においてだが、当時はまだ女が、いちいち煙草の煙を吹きこんで、穴が開いてないかどうかしらべたものだし、勢いよく吹くと精液溜の部分が、風船のようにふくれ、着用も、娼婦がこまかく面倒をみてくれた。脱ぐ時は、これはもう自分でやらなきゃ、毛がはさまってしまい痛くてかなわないけれど、いろいろと進歩しているらしいのに、ワンタッチで取れるような工夫の、いっこうにこらされないのは、はなはだ心外である。
果てて後に、これをひっぱがす心境というものは、かなりうんざりするもので、及び腰になり、しっかりと眼をすえ、とば口を指で広げつつ、ずり下げる。かならず二、三本は毛が巻きこまれて、脳天にまでひびき、こういうのは、丁度、煙草のセロファンを破るような、赤い線を入れておいて、つまみをひけばはらりとすぐ取れるように、考えるべきではないのか。
カラースキンなんてものがあるけれど、この前身は、ブルーフィルム販売人が、よく手土産に持参した、変型サックにみられ、これはすべて手造りだから、うっかり使用すれば色が流れ出す。黒ならまだしも、赤の場合だと鮮血淋漓といった印象になり、お互いさまびっくりしたものだ。変型サックには、ビラビラのついたのや、先端にスポンジのカバーをしつらえた、一種の助け舟、みるからに深海の怪魚風こしらえのものなど、細工が簡単だからバラエティにとんでいて、これもすべて観賞用、ノリがわるくて、先様をかぶれさせる怖れもあれば、また、サックに付着したもろもろ、すべて置き去りにしてしまうことだってある。
あまり何もすることがない時、こういった手のものを、取っかえひっかえ装着し、ためつすがめつながめたことがあるけれど、一種のナルシシズムを満足させる効果はある、カラースキンというものも先様に与える効果より、こちらに一種の錯覚を生じせしめるのではないか。
用心のいい人は、日常坐臥サックをはなさず、その隠し場所としては、背広上衣の、左側襟の後にある、本来は鍵でも入れておくのであろう小さなポケットか、あるいはチョッキのポケット、この二つは女房どもの盲点になっているから、洗濯に出す時だけ気をつければいいという。温泉マークヘ入って、小母さんにサックをたのむと、黙っていても、たいてい三つもってくるし、懐紙や荻野式の表とセットになったケースにも、サックは三つ入っている、すなわち三回が平均であるらしいのだが、この余ったのを、残してくるのは癪だし、もちかえれば危険、それにサックという奴は、たしか水洗便所に流してはいけないはずだが、いずれさまも、どう処理なさっているのだろう。
ストリップ劇場近くの薬局では、サックがよく売れて、これはステージをながめつつマスにふける客が買いもとめるためだが、ダンスホールにおいても、そのトイレットにこれがよく捨てられていて、ダンスに興じつつこっそり果たすのであり、サラリーマンの中には、ラッシュを利用して、「すりつけマス」というのをたのしむ者があり、この場合も衣服汚さぬために、家を出る時サックを着用する。そして、途中ちぢこまっては困るから、ポケットに手を入れて、刺戟与えつつ駅に向かうのだそうだが、うまく果たし得ればよし、日がわるく、そのままおりるべき駅に放り出されると、実に中途半端な感じだという。包茎の人間も、やはりサックは用いるけれど、サックにひっぱられて、皮が少しだけ反転するから、先端をのぞきこめば、一つ目小憎がアカンベエしてるみたいで、われながらおぞましく、だから、彼等は、みえないようにたいていカラースキンを愛用するらしい。
サックは、本来あるべき使用法の他に、海へ行った時など、これに時計を入れておけば、塩水に触れても大丈夫だし、パチンコの球三つばかり封じこめると、喧嘩の武器になる。こまかく切って魚の疑似餌とすることは、夙《つと》に有名だけれど、こういうサックの使い方を発明した方の、その思いついた時を考えると興味深い。
深夜、男一人がサックをひきのばし、デレッとだらしない、まったく無用のものを、ためつすがめつするうち、そうだ、魚釣りにどうかしら、天来の啓示がひらめいたのではあるまいか。ごく最近知ったのだが、関西の遊廓では、ずっと昔にこれを「チンカブセ」といっていたらしい。あの千林の婆さん、あるいは娼婦上りだったのかも知れぬ。
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処女のベールを剥ぐ
処女峰を征服するとか、処女地を開拓したなんて言葉があり、前人未踏の世界に足をふみ入れることは、憧れの眼でみられるのだから、何だかんだといっても、男性にとって処女なるしろもの、やはり特別な存在なのだろう。
近頃は、とかくこのものを、軽んじる風潮があって、そんなくだらぬ膜一枚、そもそも人間ともぐらにしかそなわらぬのであって、膜にこだわることは、すなわちもぐらと同じ立場に身をおくことで、愚かしいなんて意見がまかり通っている。これが、男性側よりする一種の謀略であるなら、まあわからぬでもない。そんな風に軽蔑してみせることで、さっさと捨てさせちまう魂胆なら、みあげたものだが、必ずしもそうではなくて、主に女性側からいわれ、つまり、膜にこだわることは、女性を物品扱いするものであって、もっと女性の主体性を認めろとおっしゃるのだ。たしかに、こだわるのも、どうかと思うけれど、しかし、男性側に、膜についての関心が非常に深いことは事実。まあ、処女なんてものは労多くして功少いやら、また、うっかり触れると、後のたたりが怖ろしいなんて、負け惜しみ風いい方がなされはするけれど、処女風装いの女性をみる時、男は必ず、未通か、既通か、一瞬のうちにみさだめようとする気持がはたらくものである。そして、処女鑑別法みたいなことが、おもしろ半分眉つばながら、手をかえ品をかえてあらわれるのも、そういった好奇心あらばこそであって、麻雀必勝法くらいには、読まれるものなのだ。
昭和のはじめ、ナチスの手で焚書《ふんしよ》されたドイツ医学書があり、この中に、ドイツ風几帳面さでもって、あらゆる形態の処女膜、及び、七歳から三十五歳にいたるその周辺の変化を、カメラにおさめ、印刷し、ぼくは二十歳の頃、これを丹念にながめたあげく、なんとなくうんざりして、只今の不能気味も、その淵源を探ると、このあたりに存在するのかも知れない。わがドイツ語では、その解説の文字ほとんど理解できなかったが、辞書ひきつつ理解したその一節に、「みよ、神々しき処女の玉門」という条《くだ》りがあり、ドイツの科学者もやはり人の子、つい主観が出たのかも知れず、それは十七歳のものであって、二十二、三歳過ぎると、不思議な形状の花弁があらわれたり、色が沈着し、同じ処女でも、神々しいとはちといいかねるようになる。
日本のエロ写真屋も、けっこうこのものに意欲を燃やし、大学病院が研究用に撮影した、無影燈によるしごく鮮明な画像を、ひそかに入手して、十二、三年前、一枚千五百円で売買されていたし、もっと悪質な手段による写真が、間歇《かんけつ》的に出まわる。そして、誰彼なく、処女膜の写真ありまっせといえば、かなりのベテランも、眼の色かえるそうで、ひどいのになると、腋の下閉じたところを接写して、玉門と称した例がある。
現在、女性は十五、六歳で、その半分が経験し、二十歳過ぎて未通なるは一割という説があり、かと思えば、いや、大和撫子は意外に貞節でござって、二十歳までに都会で三分の一、田舎では一割が経験するに過ぎないという意見、両者極端に分かれているけれど、こんなこと、実際にこまかく調査できるわけはない。もともと、こわれものの集る病院の医者ならば、十二、三歳ですでに何人かの男を知っている患者によく接し、びっくり仰天して、世は乱れたとなげくのだろうし、また、十五、六歳の年齢にある少女なんて、悪魔の如き面をもつから、質問者の意向汲みとり、どんな風にでも返事をする。それに加えて、調査する側の偏見も加わるのであって、つまり、未婚の女性は、やはり大半が生娘であって欲しいと潜在的にねがっていれば、かすかな処女ぶりについても、過大評価し、逆ならば、口紅アイシャドウの色合いをみて、非と断定下してしまう。
非童貞が童貞装うよりも、非処女が処女ぶり演ずる方が、はるかに楽だし、というのは、男はどうしたって能動的にふるまわなきゃならず、あの昂まりの前後は、なりふりかまわぬ感じだから、そう覚めつづけ、ぎごちないままではいられない。女性はとにかく、躯をずり上らせ、痛い痛いといってりゃよろしいのだ。男なんてものは、たしかな実感で、女性を把握することができず、ただもう頭の中に妄像をくみ立て、夢とうつつの境で果てるものなのだから、非処女も、もし処女ぶり演ずることが、有効とわかっているならば、どしどしやればよろしい。これは決して、羊頭狗肉ではなく、女性が装えば、すなわちそれこそ男にとっての実体なのだ。
現在の、またよみがえった処女尊重諭は、他のさまざまな復古調の、一環なのかも知れないが、それ以上に、男性のセックス全般をおおう、中年風無気力インポテンツムードが原因となっているように思える。すなわち、成熟した女には、もはや怯えが先き立って、手を出しかねるのだ。純情無垢な処女ならば、まさか軽蔑されないだろう、いくらかは、こっちが鼻面ひきまわし、ますらおぶりを果たし得るのではないかと、いわば悲鳴のようなものなのです。だから、決して、処女を問題にするなんて、古めかしい、いやらしいなどいわず、そういったあわれな男の心情くみとり、せめて一夜の処女まがいを演じて下されい。それがやさしさというものであって、なにも、抱かれるたんびに天地鳴動阿鼻叫喚だけが、あらまほしき女性の姿じゃないのだ。
日本には、於芽弧の、地方による、また時代による異名がずい分あって、世界に冠たる文化国家の名に恥じないが、処女のそれも、「生娘」「新鉢」「未通女」「おぼこ」にはじまり、各地それぞれ特有の呼び方、階級によってもことなる。それだけ、このものについての関心が深いのだろうけれど、ぼくなども、童貞の頃は、いったいどんなことするのだろうと、隔靴掻痒《かつかそうよう》のもどかしさいだき、妄想たくましくしたものだけれど、処女さんもやってはるのやろか、どんな風に考えておられるのかうかがえば、これは、かなり刺戟的であるにちがいない。
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いーじー・せっくす論
身をよこたえれば、あとは特に腹筋の力も腕力もいらないというベッドがある。つまり、腰の下にあたる部分が、エジソン氏発明エレキテルのしかけによって、ムクリモコリと上下し、男女双方、ただひしといだき合ってれば、涅槃《ねはん》に到達するもの。この|て《ヽ》のしかけこらしたホテルは、タクシーの運転手にたずねると、よく心得ているもので、これはあまり詳細に広告もできかねるから、経営者が口コミを依頼するためだが、アングラベッド、コンピュータベッド、サイコベッド、サディスティックベッドなど、元禄の名にふさわしいしろものが、取りそろえられている。
もともと日本人は、寝室に金をかけないことで、戦前まで有名だった。ミもフタもなく敷と掛けをひき出して、その間に身をさし入れる。そりゃ関西に幅広の夫婦布団があり、水鳥の羽根をつめた柔らかなものも、つくられてはいたが、要するに寝具など風邪ひかなきゃいいやと、きわめて質実剛健だったし、そこにおける営みも、儒教のせいだが、子孫繁栄の実をあげることが第一、たいていの家に、寝室というものが、そもそもなかったのだ。もとより西洋では、小さなアパートだって、独立したベッドルームがあり、そこにそなえられる調度はしごく豪華で、日本の高級ホテルのそれと、あちらのスラムのベッドが、同じレベルとは、以前、よくいわれたことであります。
その大和民族が、いかなる不思議のなせる業か、現在では、世界に冠たるといってよろしいほど、ベッドのしかけに頭をひねって、1DKの団地ですら、ルイ王朝風やら、ファルーク愛用の如きダブルベッドを用意し、三分の一を大事に考える余り、三分の二はどうでもいいような印象さえ受ける。
そして、万国博覧会には、是非とも、これを出品して欲しかったと思うほどに、日本文化の粋を集めたのが、温泉マークの前述したアイデアであって、もう少し説明すれば、コンピュータベッドなるものは、男女それぞれ好みのリズムなり、よこぶれや上下動のパターンを、セットしておけば、自動的にギヤが噛み合って、羽化登仙できるもの。サイコベッドは、一時はやったゴーゴークラブ風しかけ、つまり、音響と光で、夢幻郷にいざなうのだし、サディスティックと銘うったものは、みたところ少々大ぶりの椅子だが、肘かけに皮ベルト、足のあたりに金属製品の足枷《あしかせ》、首の部分に首輪があり、それぞれしばりつけたところでスイッチ押すと、足枷は左右に開きはじめ、椅子は逆立ちとなったり、なにも鞭を使わなくても、充分に嗜虐趣味を満足し得るわけ。アングラだけは、よくわからない。
自らの額に汗することなく、営みたいという願望は、これ男性すべてに共通するようで、誰だって、どたっとよこたわったまま、鼻息声音ものすごく、のたうちまわる女体ながめつつ、こっちばかり獅子奮迅、それも足らずに文句いわれる時、なんで男ばっかり苦労せんならんねんと、けたくそわるくなる。だからこそ、男の身になって、いわばイージー・セックスのマシンが考えられ、けっこう愛用されているのだろう。
そして、このての工夫は、原始国にもありまして、そのもっとも有名かつ普遍的なのは、ハンモック応用、つまりハンモックを二本の木の間に、二段にかけて、女性が上によこたわる。男性は、まあ、背位というか下位と申しますか、下なるハンモックによこたわり、そして手に二本のヒモをもつ。このヒモは木の先端に結ばれていて、これを強くひけば、二本の木の間は、せばまって上なるハンモックは下降する、ヒモをゆるめると、上昇するというもので、果たして、これが楽かどうか、ためしたことがないからわからないが、これだって男の願望を、かなりはっきり表現している。すなわち、全身全霊をあげてなすのではなく、ちゃらんぽらんに、紐などひいたりゆるめたり、鼻唄うたいつつ行いたい気持を、満足させているからだ。
また、天井からモッコの如きものを吊り下げて、これに女を坐らせる、そして、その部分に穴を開け、風通しをよくした上で、吊り下げているナワをよじる。よじれば、それだけみじかくなるから、そこでわがものを通風孔に当てがい、モッコ支えていた手をはなす。するってえと、よじれは自然にほどけて、女は激しく回りつつ、徐々に下降してくる。謝先生も、ドクトル・ベルデも、こういった態位とそのよろこびについては言及してないし、どんな風か、ちと想像を絶するのだが、かなりおもしろいとは思う。ただ注意しなければならないのは、体液のとぼしい女性だと、摩擦熱によって発火するかも知れぬ。こまめに水をくれてやるのが、下なる男の義務いたわりというものだろう。
女を上から吊り下げるというこのアイデアは、日の本の温泉マーク業者も取り入れるとよろしい。たとえば、部屋の中にブランコを二つぶる下げて、片方に女性が腹ばいになってしがみつく、男性は目標しっかとみさだめた上で、互いにゆらりゆらりとゆれうごきつつ、いわば空中ブランコセックスとでもいうべきか、そういえば、これを唄ったらしき流行歌もある、※[#歌記号]ゆらりゆらり、ああいい気持。
世の中すべて、ラクチンにやることが美徳とされているのに、そして、そのための解説書がベストセラーとなっているのだから、ラクマン秘訣集なんてものを発行すれば、きっと巨万の富を手にし得るのではないか。近頃もてはやされている態位解説書なんてものは、みているだけでくたびれそうな、アクロバティックな形が多く、しかも、そこで汗水たらすのは、みな男なのだ。男と女の快楽を比較すれば、男の一に対し、女は五百とも千ともいわれ、されば、努力は女がなして当然なのである。亭主なんてものは、いうならば、すべてトルコ風呂の従業員みたいなもので、金ももらわず、スペシャルやダブルを強制されている。男の短命なのは、ストレスやら、あるいは癌のためではなくて、夜毎苦しいたたかいを強制されるからだ。考えてもごらんなさい、まず三千回が平均として、一回につき四粁かけ足しただけのエネルギーをロスするのだ、一万二千粁も女より余計に走らなければならぬのだ。
ラクチンという言葉を死語とし、ラクマンをもって、イージーの意味を担わせるべきなのだ。
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あらまほしき夢のソレ
ものの本によるとなんとかという王様が、夢精こそこの世で最高の悦楽と、喝破しているそうだ。ところが、ぼくは夢精においてもまた不能者であって、これの経験がない。というよりも、大体まとまった夢をみた覚えがなく、フロイトの説を借用して、自らの分析に努めようとしても、あまり取りとめないから、不可能なくらいなのだ。
よく怖い夢というけれど、その覚えも、また夢見心地とたとえにいわれるような、たのしいそれも、まして、艶夢など皆無なのであります。そりゃ、たしかに夢をみていたなと、覚めてすぐ思うことはあっても、たちまち薄れてしまい、こういった経験では、ニューヨークで、マリワナ及びアシシュをためした時、実にあざやかな夢ともうつつともつかぬ境地をさまよい、その記憶は今鮮明であるし、この幻覚は、自分の意のままにコントロールできた。つまり、京塚昌子さんと寝たいなど考えれば、もとよりみたこともないその豊満な裸身が、触感としてあざやかに肌身に触れるし、視覚にもうかぶ、よくぞこの体験をトリップと名付けたもので、思うまま放恣《ほうし》な旅をたのしめるわけだが、夢精という現象には至らなかった。
夢精とはことなるが、珍宝のいっこうに雄々しくならず、また於芽弧といささかの関係もなしに、射精したことは何度かあって、はじめは、ブランコに乗っている時、射精といったけれど、小学校五年だから、具体的なそのあらわれはなく、ある昂まりを感じただけだけれど、同じことをもとめてその後何度かこころみたのだ。くわしくいえば、ブランコを漕いで上から下へおりる時、下腹に一種の焦燥感、もどかしさ、くすぐったいような感触が生れ、ひと漕ぎごとにわずかずつだが昂まり、それは、その一点に神経集中していなければ、たちまち雲散霧消してしまいそうな心もとない感覚。多分、無念無想で漕いでいたのだろう、突如、放出する感じが生れ、その後はキョトンとしてしまう。
同じようなことを同年輩の一人が洩らし、しかし彼は、その境地を不快に思ったらしく、気色わるうてなあと、兆しかけたらすぐにブランコを止め、ぼくは、逆にそ知らぬ顔で誰にも告げず、ブランコの周囲に人のないことをたしかめ、よくこころみたのだ。
また、中学の試験場で、これはまったく突然に、放出感覚を覚えたことがある。何の課目だったか忘れたけれど、ぼくは、まあ当たり前の生徒で、試験の前にはけっこう勉強もしたから、特に不安感にさいなまれたあげくではなかったろう。試験場に入って、用紙くばられるのを待つ間の一種の緊張感が、ぼくはわりに好きで、自信のあるなしにかかわらず、これをうっとうしくは思わなかった。答案用紙がくばられ、まず名前記入しようとしたら、この時は予兆も、また、じわじわと水のみつる如き塩梅《あんばい》でもなく、急におこりのついたように五体うちふるえて、あれよの間もなく昂まりに襲われたのである。
直後の降下感覚もまた激しいもので、しかも隣の男に気づかれやしなかったか、その瞬間は忘我の境にあるから、つい声音など発したのではないか、教師はちゃんと知ってても、知らぬふりしてるのとちゃうか、すっかりうろたえ、自分自身取りつくろうことに時を過ごし、試験問題には、まるっきり手がつかなかった。これは一種の発作みたいなものかも知れない。白日夢というにはあまりに強烈で、試験が終っても、呆然としたまま、まだ精通はなかったが、かなりの疲労を覚えた。
さらに、よくいわれることだが、登山している時に、少し物理的刺戟を加えはしたが、夢精風の経験があって、十八歳のみぎり立山にのぼり、弥陀ヶ原の山小屋に一泊して、翌朝早く、頂上を目指す、胸突き八丁もっとも急な傾斜にさしかかった時、前をのぼる連中がつかえたものだから、岩に齧りつくような形で少し待ち、この時、股間はたしかに岩に触れていたから、小生得意の蝉スタイルに似ていたけれど、別だん腰をすりつけるまでもなく、また妄像にたよることも、予感もないまま、はっきり射精をした。後からものぼって来るし、妙な姿で必要以上そこにいることもならず、まだ昂まりの継続するのに、岩からはなれ、しかし快感はつづいていた。
とにかく、少年の頃、朝起きるとパンツがゴワゴワになっていて、洗濯物のなるべく下にそれを隠したとか、こっそり自分で洗ったなんて経験はないし、この人生最高の悦楽を知らぬなど、実に口惜しいことだ。ある時は一念発起し、なんとか夢精してみたいものだと、禁欲をつづけ、医者の説では、これはダムに水がみちてあふれるようなもの、自然の摂理というから、マスかきたいのを我慢に我慢し、寝る時はできるだけ猥褻な妄想を追いもとめ、そしてたしかに、ゴワゴワどころか、まだほやほやの精液の、パンツに付着していることに気づき、すわこそしてやったりとよろこんだが、まるっきり夢の記憶がないのだ。
夢精がたのしいのは、やはり夢のあれこれにあるのだし、覚めて後、その記憶が残っているから、ああよかったと思うのだろう。ぼくだって、きっと至福の境にあそんだのだろうに、まるっきり忘れていては、こりゃ只損をしただけではないか。よくよくついてないと、あるもの知りにこぼしたら、では催眠術を受けるといいと忠告され、つまり、術師がいろいろ猥褻な夢の暗示を与える、すると、かけられた者は、必ず果たし得るというのだ、これはインポテンツの治療法として、効用が認められているそうな。
よほどぼくはたのんでみようかと思ったが、自分のセックス営む姿を人にみられるのは、まだいいが、夢をみながら、ヒイヒイというんだか、スウスウと声音洩らすんだか知らないが、そんなところを、いかに医者にだって知られたくない。「ほーら、あなたは今、セーラー服の乙女を犯しつつあるんですよ、乙女はいやだいやだっていってるけれど、あなたは強引にそのスカートを」なんて暗示にかけられ、のたうちまわって放出するなど、どう考えたっていやではありませんか、早くマリワナの許可されることを、ねがうしかないね。
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男女閑居して己を知る
男というものは、何もすることがない時、いや、しなければならないのだが、どうも気乗りせず、うたた呆然としております時など、つい股間に関心の向かうものなのであって、たとえば、しわまみれの袋の、そのしわしわを丹念にのばし、じっくり観察したり、すでにみあきたはずのおのが肉棒、あらためて、ためつすがめつし、黒子やらブツブツなどあたらしい発見をすると、なんとなく気がまぎれる。
肉眼で足らず、写真のネガしらべる時の拡大レンズをもち出し、首の根っこの痛くなるほどみ入っていると、これは実になんともあきないもので、黒子かと思い爪先きでいじくっていると、これが脂肪の小さなかたまりだったり、まったく覚えのない傷を発見したり、さながら秘境とでもいうべき印象なのだ。そして、いじくっていれば、思いがけずに雄々しくなり、まったくその気はないのに、いわば形から心に入るというのか、物狂おしい気も兆し、ふと二度三度しごき立て、すると勿体なくなって、み入るだけにとどめれば、年なのか、脈うちながらたちまちしぼみはじめる。
ある時は、皮ひっぱり上げて、包茎者の心境を味わってみたり、ひょいと思いつき、最大時の寸法を計り、べつだんどうってこともないのに、十五糎八粍とたしかめ、平均は十四糎だから、まあまあだなど安心する。まあ、こういったくだらぬ業で時を過ごすのだが、女性にも同じような経験があるのだろうか。手鏡などもち出して、しげしげながめ、あるいは抜毛をならべて、そのちぢれ具合を観察するなんてことはあるのか。そして、男性のこのような閑居は、なんとなくほほえましい気がするけれど、女の場合はうす気味わるい。もちろん他人様のそんなところをみたことないが、そんな印象があるのは、わが偏見なのかしら。
マスだってそうで、男は物狂おしくなりゃ、手っとり早く放ち終えて、チャッチャッと後始末し、それでつきものがおちるのだが、いったい女のそれは、どんな風になるのであるか、その気になりゃ、果てしなくつづくだろうし、失神体質の方など、ばったりひっくりかえって、しばし忘我の時を過ごされるのか。
よく考えてみると、男にはわからぬ女性の部分というものがいくらもあるもので、特に一人でいる時、何をして暇つぶしするかということについては、単純な質問では、みな嘘をつくし、実態が探りにくいのだ。ぼくはどんな風に想像をたくましくしても、女性が一人部屋にいる時、心しずかに机に向かい読書しているという姿は考えにくいし、またスリップ姿で寝っころがり、煎餅かじりながら週刊誌拾い読みしているという月なみな形も、不自然だし、といって、指使いして須磨の浦にふけると妄想するのは、いやな感じが先きに立つ。一般的に、女の閑居という情景考える時、何しているところを思いえがけばよろしいのか。
わからぬといえば、よく老化の目安として、「ハ、メ、マラ」といわれる。マラという以上これは男のことだろうし、女の場合、最後を於芽弧とすれば、このまま通用いたしますのか。そりゃ、女性も、義歯を用いるし、老眼鏡かけるとわかっちゃいるけれど、実は、こういった代用品あるいは、道具で補える老化は、どうってことないのであって、ハとメは、あくまでマラの枕言葉みたいなもの。マラだけどうにも支えようがなく、だからこそ深刻なのに、女の於芽弧は、八十になっても九十になっても、まあ、機能的には使うことができる。
となると、女は、自分の老化について、あまり認識することがないのではないかと思う。妊娠ということを重視するなら、さしずめ「ハ、メ、メンス」となるのだろうけれど、インポテンツに近くなって、男ががっくりすることはあっても、閉経したからと、女性が意気消沈したなんて話をきいたことがない。むしろ、残り火かき立てて、以後、第二の青春を迎えるなんて話もあり、実にどうもタフな話だが、女性は自らの老化を、何によって自覚し、そして人生につき、あらためてしみじみ考えることをするのだろう。お婆さんをみていると、どうにも救いがたく老いぼれているくせに、まったくその自覚の足りないような、気分が若いのはいいけれど、実際に、二十代三十代でいる如き錯覚をいだいているのではないかと、気味わるくなることがある。
つまり、男というものは、閑居している時に、自分のものを冷静にみつめ、自分に対する問いかけを年中行っておる、そりゃ後で手を洗わなきゃ汚ないかもしれないが、うわべ乙にすましていても、みんな日に何度かは、トイレット以外の場所で、さわったりながめたりしているのだ。女は、どうも、その体型上、みにくいという点もあるけれど、あまりなさらぬ。
また、男のマスには、かぎりがあるのであって、つまり果てる、いかに血気盛んな時代でも、一日に十回は不可能であるのに、女性はウジウジと、梅雨のように濡れつづけることができてきりがない。貪欲であるなら、一週間くらいやりっぱなしが、機能的にできるのだ。
さらに、女性には「ハ、メ、マラ」の如く、老化についての節目というか、けじめがはっきりしない。男なら、四十過ぎると、やれやれもう人生も第三コーナーをまわったのかと、あきらめたり、またはラストスパートかけてみたり、またことさらに「不惑」と自らいいきかせもするが、女性は、四十も五十もあまり関係ないようである。
男と女の別についていろいろいわれるけれども、この三点だけはどう世がかわってもいたし方なく、両者の考え方、生き方の差のよって来たる源はここにあるように思えるのだ。自らながめることがないから、わりに無反省であるし、欲望における限度というものを、女性は心得ないし、そして、ふてぶてしく年を重ね、美しい老年ということが少い。
女流作家にちょいとうかがいたいのだが、締切りはせまるし、どうも気が乗らないし、いらいらしている時、男ならついじっとわがものにみ入ったりするのだが、あなた様方も、おやりになるのですか。いや、どうもやっぱりその御姿、考えにくいなあ。
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コレクター一代
ぼくには、まったくコレクターとしての、器量がなくて、その気にさえなれば、かなりのものが、手許に集って不思議はないのに、一巻のブルーフィルムも、一葉のエロ写真ももっておりませぬ。なにもこれは桜田門をはばかっての偽りごとではなく、小生時おりその世界のあれこれにつき、知ったかぶりの文章を書いたりする故、眼福期待して来訪される方もあり、いつも申しわけないような気がして、一念発起溜めこんでやろうかとも考えるのだが、お金と同じで、右から左へ素通りしてしまう。
現在、ブルーフィルム業界は、低調をきわめていて、制作も配給ルートも、出たらめだけれど、十年ばかり前は、月に新作が百二、三十あり、これがそれぞれ百本近くプリントされて、実に整然と、顧客筋にくばられていた。制作者は関西に存在し、プリントは関東で行う、だから、いわばオリジナルを配給業者は、自分で四国や九州に取りに出かけ、トランジスタ・ラジオのケースに格納し、夜行を利用して、東京へ運びこむ。
まだ、ひかりもこだまもない頃で、朝早く東京に着いた業者、取りあえず、四谷のわが下宿へ運びこみ、つまり、人の出盛るまで身をひそめるのである。まったくあの頃は、一週間に二日くらい朝まだきたたき起され、すると、妙に人なつっこい小父さんが門口にたたずんでいて、「えー、新作おもちしましてん、ちょっとみてもらおかな思いまして」など、浜松の鰻弁当手土産にさし出しつつおっしゃる。
二日酔いの寝不足で、拝見する男女の秘戯写し絵は、なかなかにおもむきのあるものだったけれど、この連中、たいへん礼儀正しくて、盆暮には必ずとどけものをなさり、これがフィルムのこともあれば、また、アルバムや、特製のエロ本だったりして、すべて手許にとどめておけば、箪笥一棹分くらいにはなったろう。フィルムはたいてい使い古しのものだったが、アルバムは、それぞれ取っておきの写真を趣向こらして貼りつけ、中には第一次大戦当時の、外国エロ写真や、十二、三歳から三十五、六歳になるまでの、同一女性於芽弧変化の図など、不思議なものがあった。また本では、某大家の筆になると称する仮名書きの名文やら、精神分析医の記録があって、以後、その噂もきかないから、かなり貴重な文献なのだろう。
この頃は、小生も血気盛んで、こういったものを手土産に、コレクターの許をおとずれ、眼福にあずかったのだけれど、収集家、特に性に関係する場合は、いずれ様も、かなり奇人に近い印象を受けることが多い。
職業で申しあげると、医者、官吏、学者のような、うわべ堅い職業の方、及び、材木問屋、旅館経営者、計理士といった自家営業で、小金の自由になる御身分、それに地方の旧家が多かった。共通するのは、みな眼助平とでも申しますか、実戦の経験は少いようで、どちらかといえば色白く、体躯もやさしげであって、頭髪は年に似ずゆたか、言葉つきも丁寧、むしろ寡黙に近いのだ。コレクションで分類すると、風のもってくる品々すべてバタヤの仕切場の如く手許にとどめる場合と、系統立てて、絵なら絵、玩具は玩具だけを集め、この他のものは、たとえもっていても、自分の好みと交換するためであって、まったく執着しない方に分かれる。
後者は、学者肌であって、わるくいえば偏屈な印象、あまりみせたがらないし、相手の知識をさりげなく探っては、その度合いで応対をかえる。つまり、小生の如きちゃらんぽらんだと、しごく軽蔑なさる。
おもしろいのは前者のタイプ。たとえば大阪郊外、風呂屋を営む方など、来客さえあれば、うむことなくみせつづけて、その情熱たるや、すさまじいものがあった。浮世絵ならば、十二カ月とか、くみ合わせなど、シリーズとなっているものを、一枚一枚ばらしてスクラップブックに貼りつけ、その周囲を赤や黒のマジックでふちどりして、元のままなら何十万かの値がつくのに、わざわざぶっこわし、さらに足りず、その絵に解説を加える。解説といっても、絵師や時代、あるいは風俗、美術的価値についてではなく、「見よ! 赤裸々なこの男女奔放の姿態、まさしく至福の境とはこのことだ!」など、しごく無用の文章が、これまた色とりどりのマジックでつけられているのだ。この方は、絵の他、森羅万象すべて性に関するものなら、河原で拾って来た石ころが、ちょいと男根に似ていると、大事に保存し、みせたがるくせに、客が盗みはしないかと、ちょこまか眼をくばり、決して二種類のものを一度に出さぬ。張形を何百本もどさっとならべ、いちいち解説、「えーこれはでんな大坂城落城の際、濠にういておったもんやいわれてま、つまり大奥の女中が使いはったんやねぇ」とか、まさか左甚五郎作とはいわぬまでも、奇怪な言辞を弄して、こっちが手にとってながめていると、すぐ奪いかえし、いとしげになでさすり、「まあ、後は駄ものでっけど」と、また不器用に二、三本こぼしつつ運び去り、すぐ、うしろ向きに長持ひきずりながらあらわれて、これは性に関係するレッテルの収集。昭和初期のエログロ時代のそれは、女の裸ばかり。これが何の整理も分類もされぬままおさめられていて、中に、まったく関係のなさそうな洋裁店のものもあるからたずねると、「番号が一九一九でっしゃろ、イクイクや」まことに徹底しているのだ。
こういったタイプの方が、薬石効なく世を去ると、遺族は収集品の始末に困る。コレクションを、いっさい家族に内緒の場合だと特に困る。その他の場合には、公認の方に分けることもできるのだが、系統立ててあつめていれば、中には価値のあるものもあって、思わぬ美田を残すけれど、玉石混淆のコレクションに、まず玉は少い。
ぼくはわりに、死んだ方を大事にする方なので、うやうやしくひき取ってくるが、これもすべて人に上げてしまって、手許にはない。しかし、何百本も張形をあつめ、これをいちいち磨き立て鑑賞し、使用者の遺徳をしのぶというなら、まだわからぬでもないが、ただひたすら溜め、人にみせびらかし、しかもすぐ勿体なくなって、しまいこむ、いわば子供じみたコレクターの情熱を考えると、なんとなくにやにやしてしまう。最後につけ加えるとコレクターには酒煙草博奕女いっさいやらぬ方が多い。
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「表現の不自由」に感謝
小説を書いていて、どうもはかばかしく筆がすすまず、いや、こんな乙にかまえた表現はおかしいので、ただ呆然と原稿用紙をながめ、もはや才つきたるか、もともとなかったのに、なんとかこれまでごま化して来て、ついに化けの皮はがれたるか、など陰うつにへたりこんでいる時、ふと、猥本的文章を書くことがある。
これがまあ、われながらいやになってしまうような、つまりトイレットの落書をさらに下卑させ、中学生の妄想の如く直接的なしろもの。しかも、書いているうち、妙に興奮してきて、それだけではなく、主人公ともいえぬ、作中の男に嫉妬めいた感情が生れ、腹が立ってさえくるのだ。こういうのを、何といえばよろしいのか、ズロースの、於芽弧の、スウスウ、痛イ、オ母サン、イヤイヤといった、しごくありきたりな言葉を駆使し、よほど想像力がないせいか、筋書といえば、ピアノ弾いている令嬢に、暴漢が襲いかかったり、川の堤防で浴衣着ている乙女を、手ごめにするもの。克明にえがくうち、実際に息苦しくなり、先程、嫉妬といったが、もう落花狼藉をみるにしのびない気持もあって、途中で筆をおき、あてがきなりなんなりに気をまぎらわせ、本業にもどるのである。
あやしげな言《こと》の葉《は》つづられる原稿用紙にも、鉛筆にも申しわけない気がするけれど、月に一度か二度こんなふうな、物狂いに取りつかれて、完結させたことはないが、ことなったストーリーが十五、六はある。常にあたらしいものを書くとはかぎらず、前にうかんだ筋を、あらためてなぞったり、工夫してみたり、そしてつくづく、猥褻文書を規制する法律があって、かなりたすかっていると思う。
ぼく自身、表現の自由は、天に一つの太陽がある如く、理の当然で、何をもって猥褻ときめつけ、人に不愉快を与えると断定するのか、疑問に思うのだけれど、そして、猥褻文書が青少年に悪影響与えるなど、馬鹿もやすみやすみいえと腹立たしい、しかし、書く側からすれば、性描写に規制があって、どうにか救われているのだと、少くとも小生は考える。
というのは、物狂おしく猥文を書く、その経験に基づくのだが、あの行為を、ありのまま思いっきりえがけといわれたら、こりゃたいへんなことでござるよ。たとえば、赤裸々な於芽弧の描写を、自然主義風にでも、私小説まがいにでもやるとなったら、小生非才故だろうがまずお手上げだ。ぼくは、小説の中で、こういうシーンになると、「つい手がふれ、足がからみ、そして果てた後」と、しごくそっけない。そっけないのは、ストイックに、猥褻描写を拒否してるのでは毛頭ありませんので、その力がないからに過ぎぬ。
あんなものは大体取っかかる手続きもきまっている。行為そのものも、どうってことはない。みてきたような嘘というけれど、いずれさまも、あからさまにゃ書けないから、さも女の生理のわかったようなふりして、うまく先きへすすむけれど、何をどう表現しようとかまわぬとなったら、これは、かなりの難事ではあるまいか。術語とか、ポーカライゼーションを縦横に使ったからって、性行為をえがいたことにはならぬ。現在では「入ってきた」とか、「昂まりに達した」「のけぞって失神」と、いかにも規制ある故これ以上は表現できぬと、書き手も読者も考えているけれど、実は規制がなくなっても、つまるところこんなところではないのかしら。
「入ってきた」状態について、この場合、女の側だから、我等は取材しなければならなくなる、いったいどんな風なのか、口の中にほおばった感じか、肛門に異物挿入した時とどうちがうのか、ちゃんと入る度合いがわかるのか、大小はそれほど問題なのか、よく締めるといい、それは男性に恩恵与えるらしいが、女性もよろしいものなのか、出ると入るとを較べれば、どちらが好もしいか、果てて後の寂莫感はいかなるものか、昂まりの具合は正確にわかるものなのか、思いついただけでも不明確なことは沢山ある。
第一、ぼくのような性癖だと、書いてはカキ、カイては書きでたちまち自律神経の失調をきたすだろう。その点、絵描きは大丈夫らしくて、現代の名だたる大家の中にも、春画の名品をものし、自分だけのたのしみとして秘蔵なさっていたりするし、また、春画をえがくことは絵描きとして必要な習練でもあるらしい。そして、モデルを使っても、ことさら嫉妬したりしないし、じっくり於芽弧と対面して、世をはかなんだ話もきかない。きっと画家の方がタフなのだろう。もしぼくが、男女交合の姿を眼の前にみせられ、その女が美人だったりしたら七転八倒してしまい、とうてい筆など走らせるゆとりはない。そしてまた、心やさしき山藤画伯は、時に小生とおぼしき人物のあれこれ秘戯の姿えがきなさるけれど、ぼくがかりに山藤画伯をモデルにして、猥本を書くとしたら、とても最後まで書き通せぬ。「章二は抗う女の背後より、羽交締めに攻め立て」なんてうちに、いらいらしてきて、章二だけにそんなええことさせてたまるかあと、自ら昂ぶってしまうのだ。
ぼくは、一生に二、三冊の春本を書きたいと思っているけれど、結局、これは私小説のような形をとらざるを得ないだろう。自分とは関係のない男が、つぎつぎに女をものにするなど、腹立たしくてならず、といって、小生はまったくもてないし、一種のオナニストだし、インポテンツも、もう近きにあるらしい。なんとか、春本書き上げるための経験を積みたいと思うのだが、いっこうにままならぬ。
近頃、ストリップ劇場へしばしば出入りし、やがて来るべき日のため、数多く、於芽弧を取材しておこうと、眼を皿にしてながめているのだが、しかしありゃどうえがけばよろしいのですかなあ。形状にしろ色合いにしろ、あんな表現しにくいものもないのであって、描写力のテストにはもってこいかも知れない。また数少いチャンスみつけては、先様の反応声音をメモしているのだけれど、こんなことしてると、さなきだに力弱きものが、なおなえ果てて、一兎をも得られぬ。誰か協力してくれませんでしょうか。とにかく当分は、猥褻規制のある方が、わが世わたりのためにはありがたいのであります。
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CMをなぞってみれば
「マスが多すぎマス」というTVCMの台辞がある、これをマスターベーションにひっかけてにやにやするむきのあることは知っていたが、最近「マスイズベスト」といういい方もはやっているらしい。GAS IS BESTのもじりである。
小生この欄を借りて、やたらマスのよろしきことを吹聴強調するものだから、バアなどへまいりましても、さなきだにもてぬのが、なお輪をかけて、どうせそっちの趣味は自給自足であろうから、知ったこっちゃないと、冷たくあしらわれ、同年輩の男からも、半ば変人扱いされたりする。
しかし、あえて男性諸氏におうかがいしたいのだが、本当にマスの方がよくはないか。女体を相手取れば、それが着つつなれにし妻女、妾であっても、やれ前の戯れ後のいたわりとこうるさく面倒みなければならないし、子種についてのおもんぱかりも、必要である。しかしマスにおいては、実に何というか焼酎を口に含んで、夏の盛りプッと吹きつけるような爽快感、いかにも後くされがないのである。そしてまた、よくいわれる短小とか、早漏というような、勇者をしてじくじたらしめる現象も、マスであればどうってことはない、どうもわがものは小さきに過ぎて、たなごころの感触がもの足りぬなんて考えるわけはないし、早メシ早グソ早ジタクと同じで、早マスもむしろ武士のたしなみみたいなもの。
小生などは、達人の域と申しますか、もはやこすり立てることはいらないのであって、じっくりわがものをにぎり締め、また雄々しくする必要もない、グニャグニャのまんま保持していると、あたかも潮のみつる如くに、至福の境地をさまようことができる。大体エレクトとか、立つという現象も、あれは女性を相手にするから必要なのであって、妙ちくりんな、じめじめした、奇怪きわまる、うすら怖ろしい裂け目に、無理矢理入れこもうとすればこそ、固くなる必要がある。しかし、マスにおいては、まことに自由にうごかし得る一掌もって包みこむのであって、別だん金鉄の如くになることはない、グニャチン、インポテンツであっても、まったくよろしいのだ。
まあ、考えてみなさるがよい、わがグニャチンをしっかと、あるいはやんわりとにぎり締めつつ、ありとあらゆる妄想をたくましくして、美女をすえるもよし、犬を相手取るも、また姿よろしき木やら、流るる雲やら、まさに「性ハ万象ニ在リ」といった融通無碍の境地にあそんで、そして放出するのだ。夏だって別に汗かくことはなく、先様の鼻息うかがいつつタイミングはかる要もない。すべてエゴイスティックにふるまってよろしいので、これこそ近代の性というものではあるまいか。
奇妙な裂け目を相手取れば、どうしたって、先きがつかえてしまう。つまりほとばしりが壁にさえぎられて、なにやらじくじたる感じだけれど、マスなら、それこそ天にもとどけと放出して、この感覚はマス独特のものであろう。これはなにも婉曲にわがものの長大なることをPRしようという魂胆ではないので、実際に男性諸氏のすべて、なんとなく具合わるいなあと感じていることなのだ。マスならば天に放ち、そしてパラパラと畳うつその生命のしるしこそ、天来の妙音ときけて、イクイクやらシヌシヌの比ではない。
裂け目に押し入れて抽送いくたびくりかえしたとて、男性としてはどうってことはなく、これはまあ前戯という段階だろう。そして昂まりの予感があって、ほんの二、三秒は、たしかにエエコンコロモチであるにしろ、放ち終えれば、後はひたすらくすぐったくまたむなしい。この二、三秒のために、なにも奮励努力、名誉やら金やら棒にふってもというその心意気買わぬではないが、馬鹿馬鹿しいではないか。
そしてなにより、マスにおいては、自分の好みに合わせてきつくしごき、またやんわりと羽毛のはいずる如くあしらい、握力に較べれば、三段締めの巾着のといったって、比較にならぬ。数の子天井が珍品であるなら、指のでこぼこもよろしいはずで、ペンダコ雀ダコゴルフダコなど、実に天の恵みといわねばならぬ。しかも、手は通常の場合二本あるから、左右双方使用すれば、それぞれに味わいことなって、こんな風なことを、もし女体相手に営むとなりゃ千万金積んで、なおいい顔はされない。人間の手は何のためにあるか、人間が後肢で立ったのは、なにも道具を使って、文明を築き上げるためだけではなく、マスをカクためでもあったのだ。また、人間が手の使い方について、深く思いをいたした最初は、多分、マスではなかったかとも考えられる。おのが男根に触れて、その変化をたのしみ、しごき立てることによって快楽をもとめ、マスにおける動作は、人間文明の、基をなすものと思える。
このように、小生はマスイズベストと深く信じこんでおりますのだが、一つだけやっぱり具合わるいなあと思うのは、カキ死にというか、マス死、あるいは握死といえばよいのか、マスをカイてその負担に耐え切れず、心臓がこむらがえり起した時のこと。たとえば、二日酔いで寝不足なんてあかつきに、この営み行うと、しごく動悸の昂まることがある。今のところタカくくっているものの何時の日か射精して心臓麻療の仏かななんてことになり、パラパラと畳うつ音を、祈園精舎の鐘の音ときき、はかなくなるかも知れぬ。するってえと、かなりぶざまな死に方であって、男根あらわに白眼をむき、そのあたり生命のきわのしるしとびちっているなんざ、どうもよろしくない。きっとつつしみ深い小生は、胸の激痛に耐えつつ、必死であと始末して、しまいこみ清め終えた後に、バッタリ倒れるのではないか。さぞかし苦しいだろうなあと、時に怖ろしくなるのだ。
だから、女性との営みも、年老いてからは満更でもなく、腹上死ならば、いくらか安心して死ぬことができるだろう。よく、「死水を取る」というが、結局、このことをいうのではないか。そしてまたCMのもじりでいえば、「男はだまってマスターベーション」「カイてますか」。だまされたと思って、妻女の寝しずまった夜更け、こころみるとよろしい。「隣の於芽弧が馬鹿にみえまーす」
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男女正道のことわりに及ぶ
ぼくは近頃、まったく女体についての興味を失ってしまい、もしこれが、肉体的な衰えによるものなら、肝心のものより先きに、ハとメがおかしくなってよかりそうなもの、この両者はいまのところつつがない。糖尿の気味はないし、コーチ受けているトレーナーの言葉によると、二十代の柔軟な筋肉をしているらしい。
にもかかわらず、いかなる傾城《けいせい》の美女眼のあたりにしようと、いわば豚に真珠であって、あるいは、「中折れ」という暗礁に乗り上げたのだろうか。名だたる色豪諸氏にも、このことはあったというから、それなりにあきらめる。いや、あきらめるといえば、未だ意馬心猿の勢いありながら、手びかえることをいうので、小生の場合、欲のなければいら立ちも、諦観もありはしないのです。
そもそもエトロピアと銘うつからは、男女の営みについて、あるいは耳年増披露したり、夜の蝶との手練手管やりとりかけひき紹介し、おもしろく、かつ実用的な効果もある、抱腹絶倒して読むうち知らず知らずに、その道の達人ともなり得るのが上々だろうに、わがつたなき文章では、その御利益がまったくない。これでは申しわけないから、少し、男女正道のことわりについて、筆をすすめようと思うのだけど、今、思いかえしてみて、とても人様に開陳して、およろこびいただける情事、あるいはもって他山の石となさる、苛酷な失敗談も記憶にない。
女性を知ったのは十七歳の時だから、すでに二十三年現役を勤めて、いったい何人こなしたのやら、つい昔の赤線を語る時、連日連夜通いつめたようにいうけれど、ショートで最低五百円だから、そうあそべるわけもなく、素人女とは、二十六歳になるまで、ろくすっぽ口をきいたことすらないのだ。なにも男女共学を経験しなかったためではなく、ぼくは未だかつて、酒をのまないで、女性と一時間以上同席したことがない。女性がそばにいると、どうにも間がもてず、まあ、女房は別だけれど、これだって結婚するまでは、あう前から酔っていたし、今でも、時に家でさし向かいの時、酒を必ずのむ、素面《しらふ》で口をきけないのだから、もてる道理はなく、酔えばまた、やたら於芽弧やら、便所で寝ようとわめきちらすから、たいていあきれられてしまう。もっともトイレットでセックス営むことは、最新の流行らしいが。
ある時期は、積極的にハントしてみようと、なりふりかまわず、とどいた手紙が女名前なら、必ず返事を出したし、電話でみず知らずの女性からさそいかけられると、いそいそ出かけ、これもすべてむなしかった。小生の所へ若い女性が手紙寄越すのは、みな遠隔の地に住む孤独な処女であって、やがてあらわれるだろう理想の男性を夢想しつつ、退屈しのぎに書くのであり、無視されて当然なのだ。うっかり返事をもらうと、小生の存在が急に身近かとなり、もともとこっちは当て馬なのだから、かえって困惑する。そして、「軽々しく手紙を書くような方とわかって、少し幻滅。貴男は、誰にでもあんな風な、やさしい返事を出すのですか、いやらしい感じ」なんて、今度は怖ろしく乱暴な走り書きがとびこむのである。
かれこれ十年前、独身だったし、Cソングでかなり泡銭《あぶくぜに》をもうけ、当時全盛のナイトクラブで、ファッションモデル、ステージダンサーとドドンパ、トゥイストを踊ったことはある。いや、その中の何人かとホテルヘ同行もしたのだが、どうも色恋沙汰はもとより、情事といった色合いからも遠くて、あるモデルと、しとねを倶にしたのはいいが、小生もとより海月《くらげ》の如く酔いつぶれ、とにかくなすべきことはいたさねばと猿臂《えんぴ》をのばし、こことおぼしきあたりを、入念にまさぐり、いかに指使いこまやかにしても、いっこうしっとりうるおわぬ。こういうタイプもいるのかと、少し乱暴に扱ったら、ようやく敵娼《あいかた》、蚊の鳴く如き声で、「あの、そこ痔なんよ」と申しはべったのだ。つまりトサカ痔という奴で、ピラピラがとび出しているのを、酔った指ざわりでは、てっきり於芽弧の付属品と思いこみ、こっちも徒労だったが、丹念に痔をいじくられて、恥かしいから歯をくいしばり我慢なさった乙女の胸中思えば、酔いも醒めるし、気もなえるではありませんか。
かと思えば、これは混血児で、しごく大柄な、小生に輪をかけたのんべえのモデル娘、この方も同衾に際し、酒をのまずにいられない淑女だったが、いざことに及んで、まず数十合となり、それまで酔いつぶれた如く、枕から頭をはずし、よこ向いていたのが、ぶるっと髪の毛一つふるい立てて、「私、あんまりしつこいペッティング嫌いなのよ、ちゃんとして」と、醒めた声でいう。冗談ではない、小生粗チンなりといえど、雄々しくふるまっているというのに、ペッティングとはなにか、わがものを、小指とでも勘ちがいしているのか、怒り心頭に発したけれど、「ちゃんとしてるよ」といえば、なお恥の上塗りになるから、しずかに躯をはなし「まあ、今夜はこのまま寝よう」必死の強がりに、女こっくりうなずいて、すさまじい鼾を立てはじめ、あんなにげんなりしたこともない。
また、これは比較的近い頃の経験だけれど、「シェーッ」という流行語がはやっていた頃、その際に、「シェーッ」「シェーッ」と絶叫する方とおつき合いして、そのつどこっちは、右手を頭の上にかかげ、片脚上げたくなって、索然たるものだったし、地方で知り合った女性は、まったくの不感症でいらして、その間、じっと眼をみ開いたままだから、つい不満を洩らすと、「じゃ、どうすればよかとね」「まあ、いいとか、死ぬとか、ふつうならいうんじゃないかね」うんざりして、それ以上つづけるつもりもなくいうと、やさしい心の方で、「んじゃ、そうしちみる」とおっしゃり、眼カッパと開けたまま、人か顔をちらちらながめつつ、「よかぁ、よかぁ」「死ぬるぅ、死ぬるぅ」怒鳴りなさったのだ。
さなきだに少い体験の上に、こういう不幸なめぐり合わせにぶつかるのだから、小生が女体に興味失ったのも、無理ないことかも知れぬ。現在、毎日三粁走ってるし、腕立てふせ、腹筋運動、脚力トレーニングをおこたらず、かなりスタミナも涵養《かんよう》できたというのに、勿体ないことです。
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ツツモタセに見守られて
何年か前のことだが、銀座のバアのホステスに、珍しく、アパートヘさそわれたことがある。ニューヨークマンボと称する、不思議なダンス、これを踊る者は、男女を問わずおかま風にみえてくるというあやしいステップだが、はじめは、それ専門の地下舞踏場に、噂を耳にしたホステスが、案内を乞い、別だん小生に妙な下心はなかったのだ。
車の中で、唐突に「私の部屋でホームパーティをしない?」と切りだされ、ホームパーティとは、そも何であるか、酔っているから、詮索する気も、女の魂胆おしはかることも面倒臭くて、うんうんとうなずき、深夜、訪問するのだし、ちらっと脳裡に期待めいたものがうかんだけれど、それまで指一本触れたこともない。そして、渋谷の警察署前でおり、これが予感というものか、警察の近くならまさか、身の危険はあるまいと、安心する気持があった。
女の部屋は、六畳二間、その奥にダブルベッドがあって、手前の一室は、アパートのかまえに不似合いな家具調度しごくごてごてとつめこまれ、一つ一つは高価なものらしいが、ひっ越し直後の如く混乱している。そのたたずまい眼にしたとたん、小生はーんと思い当たり、つまり赤線の部屋によく似た印象だから、すぐ風呂場へ入った女の、わざとらしい物音耳にしつつ、ポケットまさぐって銭勘定。かつての赤線の女のなかには、やがて世帯もつ日にそなえてか、あるいはその夢をせめてたしかめたいのか、せまい部屋いっぱいに嫁入り仕度風安っぽい道具をならべていることがあり、ぼくは少々なつかしい気持さえして、あたりをながめまわす。
しばし後に、女はバスタオルを躯に巻きつけ、外国映画に出てくる妖婦のように、五体くねらせつつ、ベッドのよこの鏡に向かい、ぼくは、果たしていくら払えばよろしいのか、金は先きにわたすべきなのか、しかしそれではいかにもプライドを傷つけよう、紙にくるんで枕の下においておくかと思案しつつ、ネクタイをとき、靴下をぬぐ。銀座のバアのホステスと、しとね惧にした時、金をどうすればよろしいのか、誰も明確に説明してくれていないから、まことに困るのだ。金額、授受のタイミング、今でもさっぱりわかりゃしない。
風呂へ入ろうとしたら、ノックがあり、こちらのこたえぬうちに男があらわれ、三十前後、ちぢれっ毛で顔ばかり大きく、まあ貧相な感じの野郎が、「おや、いらっしゃい」と挨拶する、あまりさりげなくいわれたから、こっちも「今晩は」間の抜けた声を出し、女いっこう平然と、髪とかしつけていて、やむなくソファに二人、ならんでかける。「麻雀やるんでしょ」男が口を切り、「まあ、少しは」「これからイーチャンどうです」断るのも具合わるくて、しかし、なにも深夜、酔ったあげくみ知らぬ同士チイのポンのとやりとりも、気が重い。
あいまいに言葉にごしていると、男はすぐ電話に取りつき、やがてうってかわったやくざ言葉。「でよ、頭きてんだよ、そうだろ、ああ、なんでもいいから来いつうんだ、長く手間取らせねえけどよ」相手が何をしゃべってるのかわからぬだけに、なお気味がわるい。はじめは麻雀のさそいだったが、いかにもおそい時刻だから先方もしぶるらしいのを、現在の事態説明し、「頭に来る」を連発しはじめたのである。
電話の後は、男だまりこくって煙草をくゆらせ、女はガウン身にまとったものの、いっこう鏡からはなれず、どう窮地切り抜けていいものやら、警察署みた時の予感を思いだして、|ほぞ《ヽヽ》を噛んだが、後の祭り。二十分ばかりして、廊下を乱暴な靴音が近づき、つい身がまえて、もはやなぐられるのは覚悟の上、客観情勢どう判断してもわれに利はない。
あらわれたのは、意外に小造りな男だったが、「この人みたことあるだろ」ちぢれっ毛がいい、「いや、知らねえな、俺」小男、尻上りのアクセントで甲高《かんだか》く答える。「みたことねえのか、TVとかよ」「みたことねえな」「よく出てんじゃねえか」「そうかなあ」小生の顔しさいに観察し、しかし小男首をふりつづけ、こっちはますます身のおきどころがない。
思い切って、「麻雀といっても、ぼく酔っぱらってますし、なんならどっかでのみませんか、麻雀はあらためてということにして」いうと、「俺たち実業家だからな、朝早く起きなきゃならねえんでよ、おそくまで酒なんかのめねえ」にべもなくちぢれっ毛がいい、なお食事にさそったり、後日を固く約束したり、何とか部屋を脱出したくて必死にしゃべりつづけ、「この男よ、みてるうちに、だんだん不愉快になってくんな」小男が、ひょっこり断言した。
白刃を首筋に当てられた思いで、とたんに言葉がつまり、「じゃ、明日でもこれで何か召上って下さい、ぼくも用がありますから、失礼します」やけくそになり懐中の金すべてさらけだして、三万二千円、「タクシー代に二千円はいただきます」あらためてしまいこみ、立ち上った。「済まねえな、気ィつかってもらって」小男がにたっと笑い、どうやらこれで済みそうなのだが、まずいことにネクタイと靴下を、身に着けていない。捨てて帰りゃいいのに、つい眼で探し、先方も気づいて、「ゆっくり身仕度しなよ」ちぢれっ毛が、ソファのよこにまるめた靴下手わたしてくれる。「済みません」礼をいいつつ、ネクタイ靴下、ふるえる手でまといつけ、この時間こそ屈辱にあふれたものであった。
結局、三万円で難をのがれたのだが、いったい女はどういうつもりだったのか。バアでは、いちおう女の客であったし、こんなことがありゃ、以後はこちらの足も遠のくのが当然、悪い評判になるだろうに。翌日、たしかめるつもりで店にいくと、まったくけろりとして、ホステス嬢われを迎え、「昨晩はどうも、麻雀すればよかったのに、今度ぜひ」とのたまう。あっけにとられ、うわべはこれまで通りそのかたわらでウィスキーをのんだのだけれど、詰問する気も、誰かに女の素姓たずねる気もなく、狐につままれたような気分だった。
これも一種の美人局《つつもたせ》だろうが、以後、小生はいかにホステスにさそわれても、いっさいそのアパートには足ふみ入れず、というのも、たちまち「おや、いらっしゃい」の声が空耳にひびきわたるのだ。いや、あるいは助平心に負けて、部屋に入りこむことがあったとしても、ぼくは頑として、ネクタイと靴下だけは、身につけているつもりであります。
二人の男にじっとみられながら、この二つのものを装うくらい、気分のわるいことはない。そのホステスは、一年後に姿を消し、悪いひものいることでは、かなり有名だったという。
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処女屋の高笑い
ごく最近、小生は十三年前、現役だった処女屋と再会し、向こうから声かけられたのだが、はじめまったく気づかず、キョトンとしていたら、キョキョキョと、何にたとえればいいのか、まことに不思議な笑い声を先方が発して、ようやくぼくも思い当たったのだ。
よく、何年か隔てて再びまみえた時、そのあまりの変貌ぶりに、み分けがつかなかった話をきくけれど、処女屋の場合は逆、つまり十数年の歳月まったく無きに等しいほど若いから、面立ちや声音に覚えはあっても、まさかと打ち消す気持が強く、とっさの失礼をしてしまったので、現在、東京に五人、うち山の手をなわ張りとする処女屋は三人、上野、浅草界隈が二人といわれていて、下町ではこの存在をポンプ屋と称し、いずれも三十歳をとっくに過ぎている。
処女屋と知り合ったのは、やはりブルーフィルムのブローカーを通じてで、それまでかなりうちとけたつき合いをし、ブローカー氏の娘の進学相談、つまり中学は、共学がよろしいか、別学をえらぶべきか、どうすりゃいいのさ思案投首で、小生の意見をもとめたりしていたのだが、商売となれば話は別。今思えばかなりみえすいた嘘で、ぼくに処女屋を押しつけにかかり、「母一人子一人の引揚者、英語が少しできるので、母親は外人の会社に勤めている。娘も、そういういわば植民地育ちだし、母親が派手好みなので、年よりは早熟。処女とひきかえにお金がもらえるなら、こんなありがたい話はないと、心底思っている。つまり処女の価値を知らないのである」なんてことを真面目な顔でいい、「あなたは興味ないだろうけれど、お知り合いに、こういう興味をおもちの方はいらっしゃらないか、値段は五万円、先方に三万をわたし、差額は折半」と説明した。
興味ないどころではない、小生それまで処女なんてものに触れたことがなく、処女膜ときいただけで、五体うちふるえるくらい憧れていたし、また、しかしこっちには配給されないだろうとあきらめてもおりました。だってそれまで素人女と口きいたことがなく、ホームグラウンドの赤線にこれをもとめるほど愚かではない、いっそ第三次大戦でも起ったら、もうやけくそで処女を強姦してやりましょうと、考えていた。
だから、すぐに「ぼくやります」とは、恥かしくていえなかったが、たちまちその気になって、「心当たりを探してみましょう、処女を好むっていうと、やはり中年男かなあ」など、うわべ冷静を装っていたが、どうか他の客に紹介しないでくれ、なんなら今すぐ手付金わたしてもいいと、いらいらし、「年は十七になったばかり、中学を出た後はタイプライターと英会話を習ったらしいんですが、まあ、私のみたところまちがいない新鉢でございます」ブローカー氏の言葉ひとつひとつに興奮し、ついにたまりかねてぼくは、「しかし気の毒だなあ、三万くらいならぼくが貸して上げるから考え直してみるとか、まあどっちみち処女を失うにしろ、やはり少しは好意のもてる男性をえらぶとか」うじうじとつぶやき、抱くどころではない、処女と話をできるなら、三万くらい惜しくはない、いや、三万わたせばキスくらいゆるすのではあるまいか、考えただけで射精しそうになるのである。
「じゃ、一度、あってごらんになりますか、あなたの眼でたしかめていただければ、なお確実ですし」テキは小生が処女鑑定の大家の如くいい、すぐその段取りをつけた。舞台は新宿の喫茶店、夕方五時の待ち合わせで、ぼくは背広着てみたり、いや十七歳ならこちらも若造りとジーパンにかえ、結局は裕福な青年のイメージが必要であろうと、ドレスアップし、残暑きびしい頃で、汗をかきつつ定刻におもむけば、ブローカー氏のみつまらなそうな表情でいる。小生すっかりその気になっていて金も用意したし、処女と考えただけで意馬心猿となり、それをマスでなだめたほどだから、女の姿ないことに胸をつかれて、たちまちものいう気も失せる。
「あの、彼女お腹が減っているそうで、そこの寿司屋にいるんです」。われはただうなずくのみで、そのあとに従い、そして寿司屋のカウンターに、処女がいた。白いブラウスに紺のスカート、木彫りのブローチを飾り、白い靴下、白と茶コンビネーションの靴、粗末なハンドバッグといったいでたち、胡瓜巻きをたべていらっしゃった。
後で偽物とわかったのだが、この時の印象が鮮明だったから、以後ぼくの抱く処女のイメージの中には、胡瓜巻きをたべるという項目が加わり、だから、ひき合いに出して申しわけないけれど、吉永小百合嬢を考えると、いつもこれをポリポリたべている御姿思いうかべるのである。ブローカー氏は処女をカウンターからテーブルにまねいて、「まあ、気楽にお話なさいよ」とぼくに命ずる。「あの、映画などごらんになりますか」たずねるとこっくりうなずき、二人は京橋たもとの、ロードショウ劇場へ「吸血鬼ドラキュラ」をみにでかけ、こっちはまあ半々の期待、うまくいけば温泉マークヘ同行し、果たせぬまでも、同じベッドでよこになってみたい、処女を犯すなど、あり得べからざることであって、そい寝すればそれだけで、夢うつつになるような気がする。もし、拒まれたら、以後はせめてお友達づき合いをおゆるしいただきたいとの心づもり、ブローカー氏には四万円をわたし、映画館へ入って指定席につくと、「あの、小父さんからいただきました。どうもありがとう」処女はハンドバッグの中の千円札の束をチラリとみせ、向こうから手をさしのべてきた。
スクリーンみるゆとりなどなくて、本当に処女だろうか、手をにぎりに来るなど少しおかしいのではないか、いや、男を知らぬからこそ大胆にふるまい、あるいはブローカー氏にいい含められたのではないか、処女のコケットリーとはこんなものかも知れぬ。暗い場内にひびきわたるかと思うばかりの、わが鼓動気にしつつ、にぎられた手に力も入らぬ。
そうこうするうち、処女はけたたましくキョキョキョという笑い声を上げて、スクリーンみると、今しも窓から侵入しかけたドラキュラ、ニンニクの臭いに閉口して尻もちついたところだった。初夜を迎えるにあたり、こんなに高笑いするものなのか、小生また深刻に考えこむ……
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処女屋の功徳
〈承前〉映画館を出たが、陽はまだ中天に高く、初対面でそのまま直行しちまえばよかったのだろうが、なまじあれこれしゃべったから、ホテルヘ行こうとは切り出しがたい。第一、小生温泉マークなるものを知らず、旭町のドヤに娼婦と泊ったことはあっても、電車の窓からながめる千駄ヶ谷、高田馬場の、その看板眼にして、これまでただ腹が立つだけ、あの建物の中で、夜毎男女がからみ合うのかと思うと、胸が痛んで、みること自体苦しみなのだから、名前も心当たりもない。第一、女と二人で「今日は」とそこへ昼日中から入るなど、照れ臭くて、到底不可能に思える。
しかたなく、昼間から開いている新橋の酒場へ入ってウィスキーをのみ、処女屋ものめる口で、はじめジンフィズとおとなしかったが、すぐブランデーに切りかえ、ぼくはバーテンダーとばかりしゃべって、ひょいと気づけば、敵娼かなり酔っていて、「早くかえらないと、母さんに叱られるのよ、ねぇ、どうするの」小生の膝に手をおき、しなだれかからんばかりで、こっちも酔ってしまえば怖いものなしだから、「放っときゃいいだろ、いい年して何が母さんだい」「それもそうねぇ、じゃのんじゃうか」「そうだよ」「アブサン頂戴」
今にして思えば、やはり処女を装うには、かなり緊張していなければならず、だから、その演技のあとは、酔いで発散しなければならぬ欝屈が残るのだろう。一種のアル中になっていて、ベッドをかたわらにした時は、職業意識はたらいても、ふつうのバアでは気をゆるし、とたんに酔ってしまうのだと思う。なにしろしごく饒舌となり、母と別居している父親は、誰でも知っている有名な会社の重役だとか、勤めている会社の、若い外人にプロポーズされて困っているなど、あまり本当とも思えぬことを口にし、ジュークボックスに何十曲分もコインを入れて、でたらめに選曲し、自分でも酔いをなんとかまぎらわせようとして、水をがぶのみし、不意にだまりこむのだが、酒ならこっちの方が一日の長があり、かなりゆとりをもちながらながめた、そして、女の正体に気づいた。
結局、ぼくは処女屋を上野まで送って、それまでは何ともなかったのに、テキを車からおろしたとたんやみくもに腹が立ち、四万円だまし取られたことや、インチキをみ抜けず、一時は信じてオタオタした不甲斐なさを悔いる気持、しかしなお、信じたくて処女というものは、あんな風に酔うのではないか、初めてのことで気持張りつめていたのが、肩すかしくって泥酔したのかも知れぬ。だまされたと思う気持と、千載一遇のチャンスのがしたような口惜しさ、それよりも、指一本こっちからは触れなかったことが残念で、またバアにもどり、仲介の小父さんに電話をかけたのである。
「なんだいありゃ、冗談じゃないよ、処女だなんて」当たりちらすと、小父さんしばし沈黙していたが、「そうですか、やはり駄目でしたか」「とぼけちやいけないよ、処女なんてものははばかりながらかなり知ってるんだ、まあ、はじめみた時から見当はついたけど、安いおあそびだと思って、にしてもだね、もう少し上手に演技してくれなきゃなあ」|かさ《ヽヽ》にかかっていいたい放題怒鳴りちらし、小父さんはすっかり恐縮して、今夜の内にお目にかかりたいと申し出る。すでに十一時近かったが、六本木の焼肉屋で待ち合わせ、「いやあ、まいりましたなあ、絶対に大丈夫っていわれたんですが」まだ弁解がましくいうから、「あんな処女はないよ、まあ、かなり深い仲の男がいるねぇ、年に似合わず」「いくつくらいとごらんになりました?」「若造りしてても二十になってるんじゃないかな」「実は二十八なんです」ぼくは仰天して、酔いも醒めてしまい、「これまで八年間処女を売りものにしてきたそうです、絶対にバレないからと、保証付きで、まあ私も気はすすまなかったんですが」小父さんは用意してきたらしい四万円をかえそうとするから、「いや、いいんだよ、なかなか面白い経験だったし」ええかっこしいをして、なおくわしくたずねると、女はもともと関西の出身、上京してたよった叔母さんというのが、戦前大森の曖昧宿にいたことがあって、今は鶯谷で旅館を経営し、そこに身を寄せる内、因果ふくめられて、処女屋を開業したらしい。そのあどけない顔つき、幼い躯も有利だったが、一種の天才で、これまでに三度中絶しているのだが、膣を収縮させるための薬品や、出血装う工夫も必要なく、月に二人客をとり、安楽に暮らしてきたものらしい。八年間といえば二百人近くこなしたわけだが、そして二十八というのに、どうみたって十六、七にしかみえず、おかしいおかしいと思いつつ、ぼくは最後まで、しかしひょっとすれば真物《ほんもの》と思う気が、捨てきれなかったのだ。
キョキョキョと笑い声上げる処女屋とは、商売抜きで以後三度あい、あれこれそのコツをうかがったのだが、「だって痛いんだと思いこめば、自然と躯がそううごくもんよ」けろっといい、月に二度処女のまねびをすれば、自分でも不思議なくらい、若さを保てるとのたまう。
小父さんは罪滅ぼしのつもりか、処女屋とわかっている女を、だまされて抱いてみませんかと以後二人もちかけ、こっちもワルノリしたが、そのつもりでつき合うと、奇天烈《きてれつ》な台辞をいうもので、「男の人とお風呂に入るのは、これが二へん目」「はじめは誰?」「パパよ」とか、経血を利用したデフロラチオンの、付着したシーツを、「女になったしるしですもの、もらっていっちゃいけない?」などおっしゃる。
処女を装って男をだますのがわるいか、処女屋とわかって、だまされた|ふり《ヽヽ》をする方が罪深いかといえば、それは後者にきまっていて、いかなる女性でも、装うことで、男性にあらまほしきイメージを与えるなら、それは功徳であり、決して詐欺罪は構成しないだろう。鶯谷の処女屋は、二百人近い、いや、その後も営業したろうから、数百人の男の処女願望をかなえてやったので、あるいは聖女といってよろしいのではないか。
それにしても、四谷であった彼女、本来なら三十七、八歳なのに、どうみたって二十過ぎたばかり、どういう生理のなせる業なのか、装うことこそ、若さ保つ秘訣ではないのかしら、世の女房どのよ。
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コールガールの長パンツ
女あそびについて、文章を書く時、いろいろやさしく心づかいし、いや、実はあるむきに怯えて、わがことであっても、他人の体験の如く、めかす場合がよくある。小生、なるべく正直に、自分の関わりあった珍事愚見申しのべるつもりなのだけれど、まともな男女の営みとなれば、しごく見聞が少くて、やむを得ず、友人知己の色ごと噂話をご披露することにします。
五年ばかり前になるけれど、高校時代の友人で、当時はすこぶる堅物だったのに、七つ下りの雨よろしく、三十過ぎて色にうちこみわき目もふらず、といったって、せいぜいトルコ娘や、場末のキャバレー専門なのだが、ふと電話かけてきて、コールガールを何とかならないかとおっしゃる。まあ、この存在は幽霊みたいなもので、どこそこに出ると、情報ゴシップのたぐいは取沙汰されても、なかなか接触しにくいのだ。「今晩おひま?」式のカードはほとんどインチキだし、ポンビキ氏に出くわすことも、まずは稀、何をどう手づるたよっていいか、見当つかない。「いくつ位のがいいんだ、好みの躯つきは?」ブルーフィルム映写しつつの解説と、女の世話することに、当時、小生はひそかな生き甲斐をみいだしていたから、うてばひびくでたずねかえした。
「いや、どんなんでもいいんだが、やっぱり何かな、真物のデパートガールとか、BGがやってるのかね」「そりゃ、素人もいるよ、女子学生やら、電話交換手、またテクニシャンがいいというなら」「いやいや、その、素人を一つたのみます、なるべく若くて、それから、あの値段はどんな風になっていますか」うろたえぶりのよくわかる口調で、ぼくはかなりポンビキ氏のたのしみを理解できる。その頃何十人かの男に、コールガール紹介してあげたのだが、実に同じ反応をしめすもので、だからこっちは思うままその鼻面をひきまわすことができ、優越感を味わえる。とにかくぼくは友人の意向を小父さんに伝え、時刻と場所を取りきめたのだ。
友人、天にものぼる喜悦の色あらわにやってきて、コールガールとの情事はやはりホテルがいいだろう、それもさかさくらげではなく、一流ホテルというから、ついでのことにぼくは、知っているボーイにたのみ、少々いかがわしい印象でも大目にみてくれといって、その部屋までを検分し、ベッドやトイレットのたたずまいみているうち、何となく癪にさわってきて、紙とマジックペンを借り、ベッドカバーの下、便器の中、戸棚など、必ず開けるだろう所に、猥褻きわまりない文句や絵を書いた紙を、おいたのである。一種の地雷のようなもので、どういう女か知らないが、自分の行く先き先きに便所の落書風文句があれば、友人を変態と思いやしないか、そんな風な下心があった。
ぼくはそのままかえり、翌朝早く報告があって、素人にはちがいないが、近郊の鋳物工場ではたらく女性、年は十九、みるからに山出しで、ホテルヘ入ったとたん怯えきり、ものをいわず、眼をひきつらせ、まずバスをすすめると、湯槽の外で躯を洗い、それもバスマットをタオル代り。友人は、すぐぼくのいたずらに気づき、右往左往して処分したが、ひょいとみれば、浴室から水が流れだしていて、注意すると長ズロースだけの女が困惑しきってあらわれ、トイレットも使ったらしく、それが逆向きに坐ったから、ウンコが床に積みあがっていて、その裾野は湯にひたされ、みるみるとけはじめる。
仰天して、「それ、早くしまいなさい」妙なことを口走り、女は腑抜けたように突っ立ったまま、やむなくタオルで黄色い小山ひっつかみ、便器に放りこんで、水を流したからたまらぬ。タオルがつまって、ヒモをひけばひくほど、黄色の水が逆流し、あふれて、こまかく砕けたシナチクの残骸、糸コンニャク、胡瓜のかけらが遊弋《ゆうよく》する。やけくそでタオルをひき出し、湯槽に放りこみ、あふれた汚水を、バスマットにしみこませては、便器にしぼって、ほぼ三十分、その間女は何も手伝わなかったという。だから、ぼくのいたずらなど、吹っとんでしまい、片づけた後は、汲取りまがいの作業させた女がにくたらしくて、抱く気になれず、といって金払っているから、このままかえすのも、勿体ない。無言でにらみつけていると、「私、あんたみたいなタイプ、好きなんよ」多分、小父さんに教えられたのだろう、ぼさっといって、「そりゃどうもありがとう」友人怒鳴ったつもりだが、かすれ声しか出ない。
結局、肌は合わせたのだけれど、まずは棒っきれも同じ、友人、義理果たしたつもり、後はひたすらまどろみたかったのに、「サービスしとくから、もう一度あそびなさいよ」黄色い歯むきだし、口臭ふっかけつつ女はニッと笑い、嘘ではなく涙がにじむ。「もういいよ、早くかえってくれ」「どんな風に電車に乗ればいいのかね」心細いらしく、しつこくきいて、ようやくその姿消えたのだが、パンツを忘れていったそうな。
「コールガールっていうからさ、まあファッションモデルとはいわないが、もう少しましなのと 思って」友人、わざわざぼくを呼び出し、いかにひどい女であったかと、忘れていったパンツをみせ、なるほどデレッとのびきったかなり巨大なるしろもので、痴漢も顔しかめるほどに各種の汚れが付着していた。友人、よほど腹が立ったのか、パンツを捨てず、人にあうたび事の次第物語っては、その証拠として、みせびらかし、気の毒なことに誰も同情しやしない。「いいじゃないか、そんな純朴な女は、当節珍しいぜ」「かわいそうに、女だって必死に努めたんだよ、善意をかってやらなきゃ」からかわれるのはよかったが、以後、女とベッドに同行し、便所へ入ると汲取りを思いうかべ、相手のかすかな口臭にも、パンツの妄想がちらついて、半年近く、不能の状態になってしまったそうだ。
コールガールは、あくまで小父さんの胸三寸で、否応なく押しつけられるのだから、当たりはずれのあるのは当然だが、この友人の如き無惨な話はきいたことがない。しかし、この鋳物女工氏、その後斯道に精進してつい二年前まで、純朴を売物にたいへんな稼ぎだったという。
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落ちゆく先は
コールガール斡旋業者の中には、ごく珍しいが、女性もいる。現役だった者が、寄る年波に心細くなり、また、搾取ばかりされていることの馬鹿馬鹿しさに気づき、独立はかるのだが、そううまくことは運ばず、つまり、女たちには自分の躯切り売りしている実感があるから、その機微を察し、自尊心傷つけぬようおだて、またある時は鞭当てて、緩急自在の呼吸身につけるまでには、やはり何度か桜田門のお世話になる。
うぬぼれも残っているから、タマに嫉妬し、そして、やはり男をつくり、これに入れ揚げして、この道に男まさりといわれる女傑は少いのだ。そのかわり、十年十五年と甲羅へた女業者は、これはもう酷薄無惨なことこの上なくて、タマに仕立て上げる技術も、狡猾きわまる。
女業者は、町歩いていて男好きのする同性み受けると、客の顔思いうかべつつ、誰にはじめ抱かせ、次ぎはあの禿にもちかけてと、走馬燈の如く、男の鼻の下のばした顔と手数料の実感がうかんで、いらいらしてくるのだそうだ。彼女たち、といっても、ぼくの知っているかぎりでは二人だが、主にデパート、ふつうの会社に勤める女を狙い、あそび好きで派手好み、男をすでに知っているなどが、撰択の目安。
デパートならば、「私ねえ、年甲斐もなく彼氏ができちゃったのよ、でもさ、もう若い男性の好みなんてわからないでしょ、おたくセンス良さそうだから、小母ちゃんをたすけると思ってえらんでくれない?」などまずいう。「おいくつくらいの方ですか?」「笑わないでよ、これが二十三歳なの」。女業者はみたところ四十近くだから、デパートガールびっくりして、半分は自分にこそふさわしい年齢の男をツバメにもつなど、けしからんとも思うし、また、いい年して、きっとふられるだろう、男だってお金が目当てなんだからと、優越感をもつ。
業者はけっこう金のかかった身なりをしているし、安心させようと、「うちの亭主ね、交通事故で死んじゃったのよ、まあ、あそんで暮らせるだけのものは残していってくれたんだけど、やっぱりいくらお金はあってもね、わかるでしょ、いや、わかんないかな、あなたみたいに若い、しあわせな方には」と、相手が気をゆるすようにペラペラしゃべりつづけ、一週間してまたあらわれると、「どうもありがとう、おかげで、とっても賞められたわ、これからお礼の意味でちょっとお食事でも御馳走したいんだけど」と、さそう。もとより勤務時間中、表に出られないことは承知の上、駄目ときくと眉ひそめ、「まあ、たいへんねえ、といって夜はお家に叱られるでしょうねえ、寄り道なんかさせちゃ」さらにカマトトぶる。
デパートガールは、これはよほど世間知らずの小母さんだとふんで、「いいえ、十一時までにかえればいいんです」「まあそんなにおそく? いいなあ、私の娘時代は父がうるさくて、七時が門限、少しでもおくれると、なぐられたりしたものよ」「まあ、ひどい」「だから、本当にあそび場所なんか、ちっとも知らないのよ、よかったら案内して下さる?」
こうやって夜の盛り場をひきまわし、その間に、一方では贅沢な暮らしを身につけさせる。知り合いの洋服屋で服も作らせるし、食事も一流のレストランでとって、「ねえ、女ばかりじゃやっぱりつまらないでしょ、私の知り合いに紳士がいるんだけど、あなたのパートナーにどうかしら、立派な方よ」この段階で、客に紹介する。もちろんコールガールとしてではなく、あそび好きの女の子がいる、ダンスを踊るくらいのつき合いなら、いつでも応じるし、それ以上もかなり可能性があると下話。女には、「とはいうものの男だし、男なんてみんな下心があるのよ、やっぱり止めた方がいいかな」緩急自在にあやつって、結局は、ふだん素人女のふみこめないキャバレーや、バアに男が席をもうけ、女は好奇心につられて出かける。
たいてい、その夜のうちに何とかなるものだそうだ。酒ものませるし、女業者も、同伴した若いツバメとこれみよがしないちゃつきをして、そそり立て、何も知らないふりしていても、翌日が休みの前夜をえらんで、その解放感も利用する。首尾よくまとまると、男からは、五万円くらい、いわば初店だからふんだくり、四万円を現金で女に手わたす。「先日の紳士がね、あなたにプレゼントしたいけれど、何がいいかわからないからって、いただいときなさいよ」
一月間をおいて、またあらわれ、前回のことはおくびにも出さず、「私、ふられちゃったのよ、やっぱり駄目ねえ、こんなお婆ちゃんになっちまっちゃ、うらやましいわ、若い方が」気がくさくさするから、今夜、少しのみたい、つき合ってくれと、ひっぱり出し、ここにも紳士がいて、やけ酒よりも二人の取りもちに精を出し、その不自然さに女は気がつかぬ。
二度、男と寝て、しかも金を受けとれば、後はおどしの手で、「あなただって処女じゃなかったんだし、お金も受けとったんでしょ。今さらどう弁解しても、駄目よ。まあ、半年私のいう通りに、紳士とおもしろおかしく交際して、まあ五、六百万は貯るわよ、外国に旅行もできるし、結婚資金にすればいいじゃないの」もし従わなければ、いっさいぶちまけるとまでいう。
開き直って反抗する女はいないそうで、「お勤めだけはつづけなさいよ、その方がいつまでも堅気の印象で高く売れるのよ」とかなり露骨ないい方ですすめても、まあ、三月たつとデパートを辞め、本職のコールガールさんになってしまう。
親元からはなれてアパート暮らし、小母さんからの電話を待って、一日に五、六人の男に抱かれ、いっこう罪悪感もなく、ただし、どういう理由かわからないが、数多くの男と肌を合わせると、特有の表情身のこなしとなり、この変化は半年ほどであらわれて、そうなると半値にダンピング。そしてすべて女業者のいいなりになって、小父さんの扱っているタマが結婚することはあっても、小母さんの場合はまずない。
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罪深きは男かな
たとえば、団地などで調査をすると、十人のうち、八人までは妊娠中絶の経験者なのだそうだ。あのせまい空間では、カソリックの信者でもないかぎり、四人五人と産みかつ育てることには、なかなかふみ切れず、たいてい二人で止める。
人妻の中絶はまだしも、母体に与える害が少いそうだが、ぼくも、二十年くらい前には、友人の種《たね》を刈るため、よく病院へつきそって、この時ほど身も世もない思いをすることはなかった。だって足やら顔やらが、ほんの一日でげっそり痩せ、麻酔の醒めないまま、どさっと待合室のソファに投げ出される、その姿をみると、自分も含め、男というものはなんと罪深い存在なのかと、滅入るばかり。
ぼく自身は、わりに細心な方で、また娼婦専門だったから、女性に中絶を強要したことはないが、友人の無器用なのや、また同棲している連中など、大体、半年に一度はわが下宿へかけこみ、鬼をもひしぐ大男もこの時ばかりは、肩をおとし、ものもいわず、「どうしたんだ」たずねても「うむ」と寡黙にあたりみまわし、たまに背広など壁にひっかかっていると、それにじっと視線を当てる。「あの背広、いくらくらいで入る?」つまり入質をいっているので、ようやくこっちも察しをつける。のみたくてきたなら、取りあえず、すぐに出かけようというし、性病にかかったならば、単刀直入にそのことを切り出すはず。ひたすらうなって、金目のものを物色する時は、女の中絶費用捻出に困っている証拠。
当時、約二千円を必要とし、そんな金の余っているはずはない。だから「七とこ借り」するわけだが、光陰矢の如しというけど、胎児の成長もずい分早く感じられるもので、われわれは妊娠矢の如しといっていたが、今二カ月だったのが、あれよという間に四カ月になり、こうなるといろいろむずかしい手続きを必要とするから、責任者のいら立ちは、はた目にも気の毒なくらい。なんとか金はできても、心やさしいわが友は、怖ろしいのと恥かしいので、みんな女につきそうのをいやがり、ぼくがひき受ける。
新宿花園近くの産婦人科へいった時は、丁度、娼婦の検診日にぶつかっていて、彼女たちてっきりぼくを張本人とふみ、「あんまり女泣かせんじゃないよ」とか、「まだ学生だろ、生意気に」口々に、きこえよがしな悪口をいう。しかたなく順番を待つ間、ソファのケバなどむしり、女としゃべる話題もない。
順番となって女が診察室に消え、どのような操作のなされるのかわからぬまま、三十分くらいだったと思う、スリップ姿の女がドサッと運びこまれ、病室借りる金はないから、待合室で麻酔の醒めるのを待つ。毛布をかけてはいるが、どうしたって外来の視線を集め、なれてからは本をもっていったが、はじめの頃の具合わるいっちゃなかった。
首尾よく終ったむね、当人に報告すると、まさに青天白日といった風に顔ほころばせ、こっちはひたすら癪にさわる。女も気の毒だし、一方的に辛い目をしたうさ晴らし、「先生がね、バラバラになった胎児みせてくれたよ」「胎児?」「ああ、これから気をつけるようにってね、つまりみせしめだろうな」「どんなだった」「男の子だね、なんとなくお前によく似てた」「本当かい?」「わかるさ、もっとも手足首バラバラで血まみれだから、何がどうってわけじゃないが、やっぱり血は争えないもんだなぁ」たちまち、青天白日が青菜に塩となり、「もういい、わかった」「わかったじゃないよ」しつこくいじめたものだ。
一度は不思議な方法の先生がいて、なんでもソ連に抑留されているうち、教わったとか、これは掻爬ではなく、子宮内に風船を入れ、ふくらませる、そして、風船には糸がついていて、体外でおもりと接続させるのだ。つまり、おもりにひかれて、ふくらんだ風船が、子宮孔を開き、ずるずるとひっぱり出されたら、一種の早産の如く、胎児も出てくるしかけ。
女の寝るベッドの裾から、糸が出ていて、滑車を通り、時間ごとにおもりを重くするのだが、これはつきそいの役目。重くするつど、女はうーむとうめいて、しごく妙な感じだった。この糸が腟から子宮に通じると思うと、いささか猥褻な感じもするし、そこに風船がふくらんでいると思うと、おかしくもなる。暗い子宮の中に、孤独な風船と、あわれな胎児がゆらゆら漂いまいあそぶ如き妄想がわいて、「イタイイタイ」と、時に金切声上げる女の存在感の方が薄れてしまう。この時は、胎児はまあ五体満足であらわれて、はじめてぼくもその姿をみた。かすかにうごいていたように思うけれど、五カ月児だったから錯覚かも知れない。先生は、火葬に付して、お墓に葬りなさいといって、海苔の罐に死体を入れてくれ、さあ、始末のつけようがない。
さんざ考えた末、新橋から浅草へ向けて出ていた水上バスに乗り、張本人が罐を捧げもって、つきそいが五人、粛々と川の流れながめつつ、吾妻橋の近くで、隅田川に投げこんだのだ。ぼくは思わず「敬礼」と号令をかけ、海兵中退一人、予科練中退一人のまじる六人、いっせいに姿勢を正し挙手の礼をして、あわれな胎児を送ったのである。この経験は、小説の中に書いたけれど、水葬というものは、妙にすがすがしく、肩の荷を下したというエゴイズムだけではなく、一種の満足感があり、土に埋めたり、ましてや焚火ででも焼いたのなら、きっと後味がわるかったろうと思う。
ぼく自身の考えでは、中絶児の姿を、張本人である男にみせればいいと思う。みぬもの清しといった感じで、しかも、中絶の悲しさなど男には想像できないのだから、性こりもなくわがまま勝手なふるまいをするのだろう。丁度、解剖の時は、肉親が立ちあうように制度としてきめれば、あらずもがなの中絶は少くなるはず。というのは、かなり後になってから、はじめて、五体バラバラのその姿をみて、まったくびっくり仰天、こんなむごいことはするべきではないと、肝に銘じ、少々怯え過ぎているきらいさえあるのだから。
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異国のひとを夢む
小生にとって、外人女性、いやはっきりいえば、紅毛碧眼《こうもうへきがん》の女とは何かと、時々大袈裟に考えることがある。なにしろ、えらいめりけんアレルギーであって、酒のんでいても、周囲に毛唐をみ受けると、なんとなくそわそわ腰が落着かなくなるのだが、これは、戦後のショックが尾をひいているので、アメリカ人だろうと、イタリア人だろうと、肌が白く鼻の高いその姿に、焼跡のジープがうかび上ってくる。
ギブミーチューインガムとは、さすがいわなかったが、連中に何かしゃべりかけられ、卑屈に笑いつつ、大あわてに手をふり、身のおき所のないまま、しかし、これは少々晴れがましい経験であって、「俺なあ今日アメ公に話しかけられてん」と、友人にしゃべり、あるいはしゃべることで、一方的に押しつけられた屈辱感をなしくずしにしていたのかも知れぬ。しかし、これは外人の男に対してであり、女には同種のことがない。
何度も書いたことで、少々申しわけのないくりかえしだけど、今でもその真偽をはっきりたしかめたい二つのことがあり、その一つは立川にあったという死体縫合所、一つは女兵士男狩りの噂。前者は、朝鮮戦争で戦死したGIの躯が、たいてい地雷、迫撃砲でやられているから、手足はバラバラとなっていて、これを縫い合わせる。日本なら野辺の送りを現地で済ませ、白木の箱に遺骨おさめて、無言の凱旋となるところを、アメリカ人は死体みなければおさまらぬ。
「そやからな、胴体から内臓抜いて防腐剤つめて、適当な手エや足くっつけるねん。うっかりして右手二つつけてしもたりしても、これはかまへん、肝心なんは舌や、これを臓物と一緒にほかしたりしたら怒られる、なんでやいうと、アメリカ人は、死体にキッスしよるんや、その時、舌なかったら困るやろ」説明してくれた男はニヤニヤ笑いながらいったが、ぼくは死体にキッスと、そして舌の関係がしごくグロテスクな感じというより猥褻に思えた。無器用に縫い合わされた夫の唇に唇を寄せ、その舌を舌でまさぐるのやろか。しかし、そんな妄想たちまち吹きとばしたのは、そのアルバイトの賃金が、一日三千円という高額であること。
早速ぼくは立川に出かけ、まさか人にたずねるわけにいかず、ゲートの周辺うろつきまわっては、それらしいものをもとめたのだが、見当つかぬ。ただし、進駐軍払い下げ物資を専門に扱う店にシュラーフザックが山とおかれていて、「寝袋につめて、ドライアイスこみで朝鮮から送ってきよるねん」と教えてくれた男の言葉を、裏書きしていたが。
後者は、神田の近辺に進駐軍女将校があらわれ、学生をその宿舎にさそいこむというもので、「なにしろ飢えてるからな、一晩中はなさない。相当な猛者でも、朝はふらふらになって、悲鳴上げるっていうな。べつに金はくれないが、珈琲の半|封度《ポンド》缶やチョコレートは欲しいだけもたされるらしい」。珈琲の半封度缶ときけば、今でも六百円とその闇値が頭にうかぶほどで、当時は現金と同じだったのだが、しかし金よりも、女将校なるものが、一晩中いどみつづけるという、到底妄想さええがき切れぬ地獄極楽図を、必死に追いもとめ、これまた馬鹿みたいに夕方になると、懸命に鬚をそりアストリンゼンをぬりたくって、小生うろつきましたのだ。
ともかく、アメリカ女性を、いくらかでも身近かに感じたのは、男狩りの話をきいた時、また、いざあらわれたらすっとんで逃げたろうけれど、暮れなずむ頃、うろうろと下駄ばきで駿河台下を歩きまわった時、さては昼風呂に入り、懸命にめかしつつ、その飢えているという女性とはどんなものか、あれこれ思いえがく時だけで、直接口をきいたことも、いや、その姿を正視したことだってない。
まあ、スクリーンの上では、すでに死んでしまったコリンヌ・リュシェールに想いを寄せ、彼女についても、ぼくは異様な思い出がある。「美しき争い」「格子なき牢獄」の二本しかみてないのだが、リュシェールは戦争中の対独協力、実はドイツ将校の情婦となり、その責任を問われ、戦後すぐ丸坊主にされて花のパリを歩かされ、いたたまれずアルジェリアに流れて娼婦となった。しかも、苛酷な明け暮れにたまらず胸をわずらい、もはや余命いくばくもないけれど、なお男、それもひどい下級の客に抱かれていると、とにかくカストリ雑誌で読んだ時、ぼくはかわいそうで涙が出た。
そして、スクリーンでみるリュシェールはとてもあてがきの対象にならないが、娼婦となっているならしごく身近かで、どういうわけか妄想の中の彼女はいつも「ボンソワール」とわれにささやきかけ、そのあたりできわまりに達するのだ。心底、金を貯めてアルジェリアに出かけ、できるものなら身うけしてやりたい、当時もてはやされていた結核の新薬を入手し、コリンヌ・リュシェール様宛て送りとどけてさし上げたかった。
同じ映画で、常にリュシェールのひき立て役を勤めたアニイ・デュコウが、五、六年前だったか、コメディ・フランセーズの重鎮となり来日したが、ぼくはなんとなく癪にさわって、切符もらったのにみにいかなかったのも、リュシェールに対する想いが残っているからだ。なぜ、たすけてやらなかったのかと、見当ちがいな恨みを、デュコウにいだき、監督のレオニード・モギィにも冷たいじゃないかと、戦後の作品「明日ではおそすぎる」はみなかった。
ぼくにとって外人女性は、娼婦となったリュシェールなのかも知れない。たしかに二年前ヨーロッパに行った際、何とかしてアルジェリアにいき、そこの娼婦をかいまみたい、ひょっとして彼女はまだ生きているのではないか、必死にスケデュールを調整し、さて出かけるとなったら、なんとアルジェリアは、社会主義国で、そんな存在はとっくにない。アホらしくなって取り止めにし、リスボンにおもむいて、せめてその面影を残す場末の女を探したくだりは、次章に。
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リスボンの灯あわれ
四、五百年前の市街、家なみがそのまま残っているリスボン市はアルファマ地区の近くに、何軒もの居酒屋があり、ここが下級娼婦の溜り場。ややましなのはアメリカンバアと看板かかげ、ジュークボックスをそなえたスナック風飲み屋にたむろし、高級娼婦ならダンスホールと、こんなことは公式の案内書に出ているわけもなく、ある自動車メーカー営業部員に、予備知識さずけられたのだ。
小生、くいものなら高級も下等もなくて、ただ腹いっぱいになりゃそれでよく、そして衣服類は、とてつもなく愚かな事大主義にこりかたまっていて、何でも高い物がよろしいのだろうと、舶来品崇拝の権化である。つまり、戦争中及び戦後の、なんとも情けなかった国産繊維製品の印象が、まだ骨がらみとなっていて、とても信用できないのだけれど、さて女となると、高等下級の別をどこにおき、そしてわれはいずれをよしとするか、よくわからない。
かつての赤線でいえば、吉原は高嶺の花みたいな感じだったし、新宿花園町は安直だったが、どっちが好みにあっているともいえず、大店小店の別も、それほどあそぶ時、気にはならなかった。なにしろやみくもにはやり立っているから、女なら何だっていいというこちらの事情、そして、嫖客は自由に遊女をえらべる如くでも実はさまざまなしかけがあり、一種のあてものでしかないとあきらめていたためかも知れぬ。
しかし、すでに性の勢いおとろえ果て、まあ土産話にちょいと紅毛の女に触れてみようかといったくらいの気持で、居酒屋がいいか、ダンスホールに足ふみ入れるかと考えた時、自分が上品を好む性質なのか、あるいは下賤がよろしいのか、取りあえず、床にオリーブの種いっぱい散乱した居酒屋へおもむき、潮の香の漂い、素朴なファドのしのびやかにきこえるおもむきは、まことにけっこうだけれど、み受ける住人の姿すさまじいもので、娼婦というものはある程度、年とってしまうとしごくコスモポリタン風になるのではないか。つまり性別はまあスカートはいてるから、女と見当つけても、とても西洋人という印象ではないのである。
精いっぱい気取って入ったら、日本人よき|かも《ヽヽ》とみなされているらしく、すぐ取っつかまって、毛の生えた手の甲で頬やら顎やらなでさすられ、びっくり仰天とび出し、つづいてアメリカンバアこころみんとて、盛り場のはずれへ足を向けると、ほとんどネオンのない街なみに、ここだけは、夜目にも毒々しく赤く、ミもフタもない字体でネオンが入口を明るく照らし出していて、毒虫というか、しごく禍々《まがまが》しい印象、いわば暴力バアの雰囲気を感じて敬遠。ヨーロッパでは、この手のやや低級な店は、みなアメリカンと冠せて呼ぶけれど、「ダッチアカウント」やら「台湾坊主」式の、アメリカに対するなんとない反感、軽蔑意識のあらわれなのだろうか。
さて、観光客専用といってもいいらしいダンスホールは、パスポートの提示を守衛にもとめられて、入ると木の床、壁には五月になってまだ桜祭りの飾り未練がましく残した新興住宅地のキャバレー風色どり、待合室の如くそっけない木の長椅子が幾列もフロアーに向いてならび、左側に女性軍、右が紳士の御席。みていると、曲のはじまるつど、紳士がプロポーズし、踊っている間に交渉して、うまくまとまれば、後方の椅子に二人で坐る、ここでさらに詳細なうち合わせをし、腕をくみホールを出る際、女がマネージャの如きタキシードの男に、金をわたしている、つまりしょば代なのであろう。
ぼくは、まともなステップ何一つふめないから、ゴーゴーを待って、これまでにかなり酔っているし、ポルトガル人の体格は小柄だから、そうひけ目も感じない。場内の薄明りでは、なかなか美醜さだめがたいのだが、とにかく若そうなのに目星つけてプロポーズしたら、これがマリー・ラフォレそっくりの美女だった。ぼくは今でも、彼女にもう一度あいたい気持が強いのだけれど、あまりの美しさに呆然とし、とにかく値段をきくことくらいはできても、先方は母国語以外まるでしゃべれないから、だんまりのまんま。とにかく洋の東西を問わず、この営みに差のあるわけはなく、そのままホテルヘいけばいいものを、小生は、むしろ彼女と二人で、月夜の海岸を散歩したいような気がして、妙に中途半端なまま、結局、ドイツ人らしい葡語の手練れに奪われてしまった。
あまり美しいのは駄目と悟り、つぎにアタックしたのは、少々油のまわりかけた娼婦、まあダニー・ロバンといった感じで、これはしごく心得た風にすぐ腕をひっ立て、タクシーに乗りこみ、アルファマ地区の、ホテルかと思えばその住まいに連れこまれ、てきは少しばかり英語を理解なさる。「ワレハ未亡人ナリ」「主人ハ亡クナッタノカ」「シカリ、我国ハ目下交戦中ナリ、あふりかニオイテ」へえとびっくりして、国際情勢にうとい小生、そんなことは露知らず、戦争未亡人ときいたとたんに、小学生の頃、父に戦死された同級生の家の、妙に洗いさらされたように、白々としたたたずまい、もてなしてくれる菓子や果物の一つ一つも、しごく貧しい感じで、ひっそりと生気抜けたような未亡人、大きな仏壇が脳裡にうかび、意気そそう。
だけではなくて、女が共同トイレットに入った後、ひょいと中仕切りの向こうをみると、からみ合って三人の子供が、一つベッドに寝ている、いずれも天使の如く顔立ちすぐれ、しかも毛布からはみでた手足は、しごく痩せこけている。かじりかけのパンが戸棚にあり、食器類も、そう思ってみるせいか、たいへん貧しい。
懸命に、それ以上余計な連想はたらかせることを押さえ、窓からみ下せば、傾斜のひどい露路の向こうにランタン一つかかるだけ。さらに海が少しみえて、そういや、海の向こうは地の果てアルジェリア。もはやリュシェールの面影どころではなく、みたこともない未亡人の亭主の冥福、祈るばかりでありました。
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おんなの錯覚を諭す
ぼくは、かねがね、女には性欲はないと考えている。また、性的な快楽を享受する能力もないと信じこんでいる。よく、男に抱かれてのたうちまわり、阿鼻叫喚ただならぬ具合をみせ、ついには気を失ったりするのは、すべて錯覚であり、一種の自己催眠術にかかっているだけのことなのだ。
それが証拠に、戦前まで、女性が男性に抱かれて、いささかなりと快感を覚えるようになるには、ほぼ半年から二年の歳月が必要とされていた。現在では、極端な場合、デフロラチオン即オルガスムスなんてこともあるそうで、つまりこれは、もともと女体に快感神経というものなどなく、ただ、気のもちようでよくなったり、ならなかったりするしるしであろう。そして、何故、よくなったような錯覚をいだくかといえば、戦前の女性の場合、あまり妙てけれんなかっこうで、営みを行わなければならないから、その屈辱の代償にそうとでも思いこまなければ、すくわれなかったのだろうし、また、戦後は、よくならなければ女でないようないわれ方をするから、必死に、「いい」「いい」と暗示をかけ、そのつもりになるのだと考える。
あの閨中における女性の発声なるものは、本当にいい気持だから、「いい」というのではない。いい気持にならなければならぬと自分を叱咤激励するための掛声と心得るべきだろう。もし、まぐわいにおいて、快感を覚えたならば、遠からず子宮癌になるというような説を流布《るふ》すれば、たちまち女は、棒切れの如くよこたわるだけとなるにちがいないのであります。
また、性欲がないという点についても、たとえば、男は、同性の欲望に対して、きわめて思いやりが深い。つまり、ぼくが浮気をして、これがバレそうになった時、ふだん、ぼくをあまり快く思ってない方でも、わが窮地を救うために、かなりの手段を講じて下さる。それは決して、今日は人の身、明日わが身といったいやったらしい慈悲心からでも、ここで恩を売っておけばという計算、また、赤い羽根風の同情からでもない。実になんとも無償の行為、シュバイツァも脱帽の塩梅で、わが女房の手前取りつくろい、また、アリバイ成立に力をかし、それはあたかも飢えた子供をみるが如くである。これは、しかし当然のことであって、男にとって食欲と性欲が二大本能であるから、腹が減って一片のパンを盗んだ者を、誰もとがめ立てできぬように、女房以外の女と、止むに止まれぬ関係におちいってこれを指弾するなど、人非人の業と、自らをかえりみればよくわかるのだ。
女はどうかというに、まったくこれがない。浮気をした同性、あるいは娼婦や水商売の女をみる、女房族のあの冷たい眼を思えば、彼女たちに性欲のないことが、よくわかる。もし、食欲と同じように、このことがあるのなら、もう少しやさしい思いやりをはたらかせるだろうに、その実感がないから、ただもう劣等者をみる如く、なんのいたわりもない言葉で攻撃し、すすんで告発さえしかねない。女房、あるいはそれ以外の女でもいいが、手を取り合い、力を合わせて、浮気がバレるのを防ぐような、うるわしい友情をみせぬ以上、ぼくは彼女たちに性欲が存在するとは、信じられないのである。
女に、男と同様な性欲があり、そしてオルガスムスと称するひきつけをともなう現象が起るというのは、まったくの誤りなのだ。女はただ、子供を産むために、いやいやながら躯をまかせ、それも、二人産むなら二度、五人なら五回、きちんと行うべきであって、ただ精液を受け入れるためだけなのだから、時間でいうと、二、三秒で十分なのだ。
ベッドにおいて、自己暗示を行い、そしてのたうちまわらなければ、女性としての資格に欠けるなんていう愚かしいことを、誰がいいはじめたのか知らないが、ぼくはガリレオ・ガリレイばりに勇気をもっていう、女に性欲も快感神経もない。一種の情報公害で、女は錯覚しているに過ぎない。そのおかげで男は、女の、催眠状態に至るまで、なにやかやと手続きを行わなければならず、心上の空にして、無意味な運動に、労力ついやさなければならぬ。もともとないものをあるように錯覚しているから、たとえば、三十代の妻は、週に三度営みを欲するとか、その営みは平均して十五分四十二秒必要だとか、数字ばかり口にし、GNPや平均貯金額と同じく、こういうものにたよってること自体が、あやふやの証拠であろう。そしてこの錯覚は、未亡人をして、いたずらに損をしているような印象をうえつけ、未婚の女にいら立ちを与え、百害あって一利もない。
よく、胸に手を当てて考えてごらんなさい。貴女は、止むに止まれぬ性欲を覚えたことがありますか、人がいうから、そうかいなと思ってるだけでしょう。また、夫に抱かれる時、あんな妙ちくりんなポーズをとらされ、いかがわしいふるまいを強制されて、本当はいやなだけじゃないのですか、しかし、いい気持になったふりをしないと、欠陥人間の如く思われるのではないか、その怯えから、必死の演技をなさり、そのうち技神に入ってひきつけ現象を起すのではありませんか。
女性というものは、本来、子供を産み、育てる大使命を帯びて、世に棲息するわけでありますから、清く正しく美しいものであって、みだりに口から泡を吹き出したりしちゃおかしいのだ。そして、なにもかも錯覚だから、罪の意識さらにない。世上おみ受けする、えらそうな口ぶりの女史をみてごらんなさい。あの方たちが、夜な夜な七転八倒するなど信じられないし、いや、それほど極端でなくても、街を歩いているご婦人方、夜のことなどどこ吹く風ではないか、彼女たちに、性欲と、快感の身にしみた実感がないから、あのようにケロリンポンとしていらっしゃるのだ。
女よ、本来の姿にもどれ、自己催眠など、それこそ逃避であり、自らの劣等をあらわすものであろう。
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嗚呼、ムダなり記
近頃は、何かといえば原点にかえって、物事を考え直すことが流行であるらしい。野球の解説者までが、この必要性を説いているから、小生もおくれじとばかり男女両性のあれこれを、原点からながめてみることにする。もっとも、何が原点なのか、よくわからないのだけれど。
世の中に、精力絶倫の男というものが存在するらしい。そういった人たちは、みるからに脂ぎっていて、たべものも、肉類を好み、酒や賭けごとなど、セックスと関係のない営みにみ向きもせず、一日に三度いたさねば、鼻血が出るという。こんな化物みたいなしろものは、本当にいるのだろうか。
第一、精液の放出と、鼻血の関係について、因果関係があるとは信じられず、たしかに鼻孔内の粘膜は敏感で、しかもそのあたり血管が集っているというから、出血はし易いにしても、この二つの部分は、札幌と岡山くらいにも隔っているのだ。かなりみえすいた嘘だと思うけれど、自称絶倫男は、得々としてこのことをいい立て、巷間、「鼻血」は精液放出の代償作用の如く信じられていて誤りを指摘する者はいない。もし本当ならば、谷岡ヤスジの主人公風に、実演してもらいたい。
もっとも、女性においては、メンスの代りに鼻血の出ることはあるらしいが、このメンスというものにつき、およそ図々しくなった女性が未だに、人に知られることをいやがり、そのしるしを隠したがる理由もよくわからない。なにもかもあけっぴろげにして、平気なくせに、この現象については、封建時代とあまりかわらぬようで、いや、昔よりさらにひっこみ思案となっている。何故、生理現象であるこのことを、不必要に恥かしがるのか。今月もまた妊娠し得なかったと、ざんきの念のあらわれなのだろうか。あるいは、ちと営みにくい自らの状態を人に知られたくないのかしら。メンスったって、まあ、放屁とさしてかわらぬことなんだから、「失礼」くらいで、ケロッとしていてもいいだろうに。
そして、あのメンスという奴は、とにもかくにも血なのであるからして、わらじの如き、あるいは小型アイスキャンディの如き、生理用品に、血液凝固防止剤を加えて、この尊き血を、利用できないものだろうか。およそ人間の放出するさまざまな物体は、何か取り得のあるもので、屁ですらも、野菜にとっては、只の風より肥料になるのだそうだ。ふけは、下剤の代用だし、抜毛も集めれば、アミノ酸がとれる、汗をかわかせば塩となり、小便雲古すべて何かの足しになる。しかるに経血のみは、ただ汚物であり、「そなえつけの紙以外」のものとして、不当におとしめられている。月に女性一人あたり五十瓦の血を放出するらしいから、生理人口三千万人とすれば、年に一万八千瓲の血がむなしく水に流されているのであって、このための海水汚染はしばしおくとして、実に勿体ない。これだけあれば心臓移植の千や二千軽くできるだろうし、「御町内の婦人の皆様、こちらはおなじみメンスとトイレットペーパー交換屋でございます」など、十分に成り立つのではないだろうか。
女体を美しいとする考え方も、原点に立ちかえって考えればおかしいのであり、本当に女の裸など、男はみたいのか、ほとんどの雑誌にそのヌードが飾られているけれども、あんなもの、眼光紙背に徹したってどうってこともないだろう。女の裸に興味をしめさなければ、男の資格に欠けるような迷信が流布されているから、みな関心ある|ふり《ヽヽ》しているが、よく胸に手を当て考え直してごらん、手前と関係ない女の裸をみて、何の足しになるのだ。それとも、マスの際のたよりどことするのか、古女房抱く時の、妄想の拠りどころなのか。多分、あれは編集者の怠慢であり、裸のせときゃいいだろうという、いわば上げ底なのではあるまいか。
そして女性という生物は、自分の於芽弧をみたことがないと自称したがるが、それは何故か。こんなものは嘘にきまっているので、毛が生えてきたり、さまざまな分泌を行うこの部分に興味いだかないとすれば、よほど鈍感な人間に相違ない。誰だって、手鏡で股のぞきしたにきまっているのだが、それを実に頑固に否定するのは、やはりわれながら、おぞましい、おっかないものがくっついていることに仰天して、みぬふりを装うのだろうと思う。これは、やはりいけないことであり、日に一度は女性たるもの、股のぞきして、ああ自分はこのように奇怪なる存在なのであるなあと、自己批判するべきではないか、つまり原点にもどるのだ。男だって、時には自らの通ってきた、母の産道をながめる必要がある、そうすりゃ、そうそうヒューマニズムとか、世界平和、公害追放などお題目ばかり唱えてもいられなくなるだろうよ。
そもそも、男に性欲はあるのか、女にこのことのない立証を、前回、論理明快に小生成し遂げたのであるが、よく考えてみれば、男の性欲も錯覚じゃないかしら。十四、五から二十歳にかけて、一種止むに止まれぬ衝動を覚えることがあるけれど、あれは性交欲ではなく、もっと他のさらにふさわしい充足の手段があって、そっちの方がよほどすばらしいのではないか。何でまた人間の雄ともあろうものが、性交というような、奇怪な行為をしなければならぬのか。しかも三十過ぎれば、たいていは習慣としてこのことを行い、よく連れ立って歩く夫婦をみてごらん、あの二人が、週に何度かからみ合うなど、とても想像しにくい。飯をくい、便所に入るであろうことは推察できるけれど、みるかげもなくやつれた同士が、ただもう他人もやるらしいからと、仕方なく営むなど人倫にもとる行為としか思えないのだ。
まあ、子供を産み育てるためには、現行の一婦制度が、比較的有利らしいけど、だからといって、何も年中やることはないのである。まあ、閏《うるう》年に一度、種とりのために営めばよろしいので、原点に立ちかえりこのことを考えれば、いずれさまも|つきもの《ヽヽヽヽ》がおちたように、納得できると思う。
ねえ、どうして、あんな妙なことをしたがるの? 恥かしくはありませぬか。
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女につける薬なし
ウーマンリブとかなんとかいう、うさん臭い連中が、わが国にもあらわれたらしい。アメリカで何かがおっぱじまると、すぐさま真似をして、イミテーションはそれなりに肩身せまく存在するならまだしもかわい気があるけれど、一種の使命感の如きものを錯覚し、声高にののしりさわぐさま、げにこそおぞましく、けたくそわるい。女性解放とかなんとか、いやそれにかぎらず衆をたのんで値上げ反対にしろ、戦争反対にしろ、わめき立てる女というものは、どうしてあのように醜いのであろうか。
かつて、長袖は非国民だとか、電髪は敵だとか称し、町角に立ってはビラを押しつけていた婦人会の姿は、軍国少年であった小生の眼にもいやらしくうつり、どうかわが母親だけは加わらぬようにと、神に祈りたい気持だった。女性がいきり立つと、馬車馬の如く、視界がせまくなり、他の一切目に入らず、ましてや相手の立場についての思いやりなど、皆無になってしまうらしいが、ウーマンリブとかいう醜女集団も例外ではなく、それはまさに人間ばなれとしかいいようがない。
いや、いきり立たなくても、女性というしろもの、近頃ますます奇怪になりまさる如くであって、小学校へ入る前の少女は、かたわらでみていると、いかにもすがすがしい印象であるのに、いったん社会生活の片鱗に触れたとたん、なだれうって、あたかも銅の緑青《ろくしよう》吹くように、薄汚なくなってしまう。
そして以前は、いろいろな歯止めがあったのに、つまり家庭でのしつけとか、あるいはつつしみ深く身を持することの教育がなされて、なんとか化物じみるのを防いでいたけれど、現在は皆無だから、実に百鬼夜行のありさまで、たとえば、何かというとヌード姿を写真にとらせたがる風潮も、じっくり考えりゃ、あれは露出狂であって、本来なら、しかるべき施設に収容されて当然だろう。ヌードでなくとも、美容体操のモデルや、下着姿のマネキンも、いったい男がどんな興味をいだいて、自らの姿をながめているものか、考えてごらん。体操の開脚したポーズをみて、ああ、よく訓練されたものだなどとは、誰も考えやしない、おっ広げたそこに、於芽弧がついておるのだなと、みな思いえがくのであります。
しかしまあ、こういうのは、まだかわい気があるのであって、あの山へのぼらんとして週末の駅や地下道などに寝っころがっている女性の、醜さぶりはどうであろうか、或いは男もすなるという旅行を、女もこころみて、三々五々連れ立ち観光地のし歩く手合いの恥知らずな印象は女害としかいいようがない。
一人でいれば女なんてものは、マスのカキ過ぎで変形した小陰唇を悩んでいる風情だし、二人ならばレスビアン的で、しかも、二人連れの女で、双方ともに美人ということがないのはいかなるわけなのか。男ならば、まあ、顔じゃないよ心だぜとかなんとか負け惜しみも通用するけれど、女性は決定的に面によって価値が左右される。あの、ちぐはぐな二人連れの、ややましな方は、優越感にひたって、しかも、醜い同性とつき合ってあげている自らを確認し、うっとりしてるのだろうし、醜い方はまた、私は顔なんか気にしてないのよと、逆手のつもりで、美人と行動を倶にし、しかし、いつの日か、世の中の美人という美人に硫酸ぶっかけてやりたいなど心中|寝刃《ねたば》をといでいるのだ。そう思うと、なんとも薄気味わるい。
女マネージャーというしろもの、あるいは女プロデューサーなる肩書の者も、男っぽい言葉を使ってみたり、ことさらおしろいっ気を遠ざけて、男まさりを気取るけれど、気色のわるいことは、おかまの湯上りも同様であって、しかも、二言目には「お仕事」の大義名分をふりまわし、とにかく「お仕事」を口にする女性なんてものは、人間の皮をかぶった油虫とみてさしつかえない。思いうかべてごらんなさい、「私、他はわりにちゃらんぽらんだけど、お仕事となると人には負けないわよ、意地っ張りっていうのかしら」などそのつぶやく姿を。
そのくせ女は、方向音痴だとか、計算に弱いことを、ことごとしく吹聴し、それが女の美徳の如く思っているらしい。ウーマンリブとか何とかいう前に、九九の計算くらいきちんと身につけろってんだよなあ。けたくそわるい女について書いていると、われながら腹が立って来て、とても冷静に筆をすすめることができないのだが、とにかく、馬鹿と女につける薬はない。
TVの画面にあらわれる女司会者の、あの面妖な猫なで声は何であるか、きけば人妻が多いというけれど、前夜、夫に抱かれてのたうちまわったあげく、ケロッとして、「考えさせられますわね」などぬかしやがって、えんま様だってその舌抜く気にもなりゃしない。女は今後どうなってしまうのだろうか、結局、終末戦争というものは、男性と女性の間で争われるのかも知れず、われわれはそのための用意をおこたってはならぬと思う。
世の中にやさしい女性、美しい女性、知恵ある女性が死に絶えてすでに久しい。現在地球上に生息しているのは、あるいは他の星の、邪悪な精神が地球支配せんとして、女の躯を借り、侵入してきているのかも知れぬ。女性週刊誌でも、TVでも、あるいは巷をうろつきまわっている一見人類の雌風しろものを、認識し直す必要があろう。あんなものを相手にしてエロトピアを語るなど、実にむなしいかぎりという他はないのだ。あの胸に二つのいやしいふくらみをもち、でっぱった尻と、醜悪な裂け目を有する動物は、本当に女なのだろうか。低級な頭脳と、偏平な容貌を恥かしげもなくふり立て、やれ同権とやら解放とやらいいつのるあのしろものは、このやさしい地球の生み出した物体なのだろうか。
もはや、女に対し反省をもとめるだけの、やさしさは小生に残っていない、すべからく皆殺しにしてしまった方がいい。女のいなくなった世の中、ああ、思うだけでも安らかなものではありませぬか。嗚呼!
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新婚旅行にもの申す
ただ今は結婚式のシーズンであるらしく、ホテルや主要駅で必ず、なんとも面妖としか思えぬ集団にぶつかる。面妖と、あえて申し上げるのは、学者犬の調教師よろしき、老人のモーニング姿、昼酒のみつけぬ若者の、正視しがたい酔態、また、花嫁友人なのであろう、不出来な菊人形の如き和装のいで立ち、なにより奇怪なのは、新郎新婦の、これから於芽弧しにいくにもかかわらず、恬然《てんぜん》として恥知らずなその表情であって、これも一種の白日夢といっていい。
新婚旅行なんてものは、かつて家族制度の厳然として存在した頃、姑小姑鬼千匹と同じ屋根の下で、はじめての契り交すのもうっとうしいし、気がねだろうからと、山間僻地へおもむかせた。まあものわかりのいい大人の知恵の賜なのだ。現在では、ばば抜きとか称して、アパートの一室誰はばかることなく、営めるのだから、まったく必要がない。なまじ、宿泊地で女中に気がねをし、於芽弧に徹底すりゃいいものを、欲張りにあちこちうろつきまわるから、新郎たるものくたびれもする。長い人生の、そののっけにおいて、亭主は女房にみすかされる素地をつくる。旅行中ならば、どうしても男がいろいろと気を使わなきゃならないし、何かの手ちがいがあれば、すべて亭主の至らなさときめつけられ、まったく百害あって一利はない。
よくいわれるシーツの汚れだって、手前の部屋なら、鮮血にまみれようが、鼻をかもうが、あるいは寝小便したってどういうことでもないし、式の翌日から女房たるもの、てきぱきとはたらかなければならぬ。妻としての自覚をひしひしと感じることができ得るのに、旅行先きではこれがない。
さすがに近頃は、新婦のシャッポ姿少くなったけれど、それにしても、ブーケなど洒落たつもりで腕にかかえ、鞄は依然として新品が多いから、まずはハニムーンと、だれにでも見当がつく。あれは本当に恥かしくないのだろうか、ああいった姿ながめる男は、決して、ああ産めよ育てよ地にみてよ、よき子宝もうけて一家繁栄、国家百年の大計に力をつくして下さい、おめでとうなんて思わない。ヘーえ、これとこれが今晩おやりになるのかね、それにしちゃお互いずい分かすをつかんだもんだなあ、割れ鍋にとじ蓋《ぶた》というけれど、こりゃどうしようもない、優生保護法は、こういうカップルにこそ適用すべきじゃないのか。この手合いが、乳くり合って、恥知らずな絵葉書を誰かれに送り、「私たちは、永遠にかわらぬ愛をたしかめ合ったのです!」なんて書きやがる、女というのは、どうしてあんなに感歎符を乱用するのだろうか、からはじまって、あの女はすぐ肥る体質だよ、腰の太いところからみりゃ、お待ち腹ですぐはらむんだろうけど、みっともないだろうな、これの妊婦姿なんてものは、またどうです、新夫の貧相な面つき、ありゃけちでしまり屋、こまかいところに気がついて、大きく抜けてるって奴だな、とまあうわべ無表情ながら、あれこれと考える。
そして、こんな周囲の思惑くらい、ごく当たり前の頭脳の持主なら、当然推察していいはずなのに、新郎新婦ともに、世界は二人のためにある式|のーてんき《ヽヽヽヽヽ》な面つき、あれは瞬発性痴呆症とでもいえばいいのだろうか。また新婚旅行の行き先きが、みな同じだから、大安吉日の翌朝など、温泉なり観光地の、どこをみても昨夜やりつくした如き手合いが、うようよしていて、どうも不思議なのだけれど、新郎は、他の新婦の姿をみて、あっちの方がよかったとか、いや失敗したとか考えないものか。小生の経験によれば、かつて赤線にあそんだ時、他の客がいい娼婦にぶち当たっているとわかると、腹が立って居たたまれなかった、ましてや一生を倶にする女が、同じようなカップルの片割れと比較して、あきらかにおちるとみきわめついた時、口惜しくはないものなのか。
そりゃ女には美醜があり、自分のところへ最上の品が当たるなど思うのも、身近かにそのあらわれをみて、歯噛みするくらいなら、家にひっこんでいた方がいい。別だん誰も奪《と》りゃしないのに、新伴侶を後生大事にひっかかえ、マス覚えたての猿よろしく、なりふりかまわず色情あらわにし、新婚旅行者の集団というものは、どうみたって気ちがい沙汰としか思えないのだ。
また、新婚旅行からもどって、挨拶する時の、この二人のしれっとしたことといったら何であろうか、さんざっぱら淫らな営みにふけってきたくせに、「ええおかげさまで、とってもお天気がよくって」やら、「雨にたたられちゃって、宿屋にこもりっぱなし」などぬかす。こっちはお天気がいいときくと、へえさぞかしおてんとさまが黄色くみえたこってしょう、また雨なら、ちぇっ、それをいいことにしてと、余計な気をまわさなきゃならない、無駄口はつつしむがよろしい。さらにいやらしいのは、旅行先きであんまをとったとか、やたらねむいねむいと口にし、いかに奮励努力|切磋琢磨《せつさたくま》にいそしんだかと、デモンストレーションをする。あんなことは、つつしみ深く恥らいをもって、人にわからぬようするべきであり、これみよがしは人倫にもとる行為と知るべきなのだ。
そりゃまあ、結婚式、あるいは披露宴はわからぬでもない。神前に誓いを立てるのも、理由のないことではなく、縁者知己にお披露目するのも、意味はあるだろうが、旅行だけは考え直した方がよかろう。ぼくは、夫婦が於芽弧することを、いけないといってるのではない、ああおおっぴらに、これからやってきますと、出征兵士よろしくいさんでいで立つことはないし、どうしても行きたいのなら、くたびれた服と、つぎの当たった鞄かなにかで、くいつめた二人が、別府あたりヘトウモロコシ売りに出かける如く、目立たない姿で出立《しゆつたつ》するがいい。たいていの新郎新婦にゃそれがいちばんよく似合う。
くれぐれも断言しておくけど、新婚旅行者み守る世間の眼は、あたたかいものではないよ。
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愚かしきは体位論
前にも、異を唱えたことがあるけれど、当節、於芽弧の際の男女の形について、「体位」なる術語の使われていることは、まったくの誤りであろう。これは、高橋鐵先生の、御指摘でもあるのだが、体位といえば、どうしたって戦争中、少年たちのもっぱら心がけなければならなかった「体位向上」を連想するし、「体」といえば、要するにボディであって、そこには営み、うごきがない。
スチール写真の如く、互いにガッキと四つに組んでうごかないなら、そりゃ体位でもよろしいだろうけど、あれはやはりもぞもぞとあやしくうごめき、からみ合い、七転八倒するものではないか。とすれば、「体」ではなく「態」を用いるのが正しく、態には、状態、動態、実態という風に、そのものの息づかいも伝われば、あたたかさがある。実体といえば、無機物的だろうけれど、実態なら、無限に変化する混沌をあらわし、たとえばカーセックスの実態といっても、実体とはいわないだろう。だから、「体位」ではなくて、「態位」なのであり、この誤用が、現今の性文化をいちじるしく品下ったものとし、あたかも体操のような、その際の位どりを当然とさせているのだ。
於芽弧という女性性器をあらわす言葉は、これに「する」をつけると、営みを意味して、そりゃまあ、男からいえばそれでいいけれど、女性は当然「珍宝する」でなければならないのに、そういわないのは、なんだかんだといっても、女の受身であることをあらわしているが、それはともかく、於芽弧する際に、やれ四十八手だとか、あるいは時間の長短を問題にし、それが真髄の如くいわれる理由の、その遠因は、「体位」というミもフタもない表現に由来するのではないか。体位には、要するにアクロバットまがいのポーズを互いに演じて、しかも、常に日進月歩向上しなければいけないようなニュアンスがある。なんとなく孜々《しし》として努力、研究しなければ、人間扱いされぬ印象であって、常におっかない教師にみ張られ、「ほら山藤、腰をもっと上げろ」やら、「やい章二、気を抜くんじゃない。茶臼がすんだら松葉くずし!」と、棍棒で、叱咤激励されてるようなおもむきがある。
言葉には、言霊というものがあり、只今の如く技術にばかりこだわり、耐久時間が長ければそれでよしとする風潮は、すべて「態」を「体」と誤用したことからはじまっているのだ。国語審議会なんてものは、こういう点に注目して、文化向上のため、はげまねばならず、また、日本語に関心をもつ物書きも、心してあらためるべきだろう。「態位」にはやさしさがうかがえる。なにも体操の規定種目の如く、ウルトラCを二つ以上取り入れなければならぬというような、機械的セックスではなく、おじいさんとおばあさんに適用してもとらず、二人抱き合って、よよと泣き合うような境地は、夫婦の醍醐味だろうと思うけれど、それはやはり態位だからよろしいので、インポと子宮癌の於芽弧なんかは、「体位」に含まれない。
つまり「体位」はまた差別をもたらすものであり、あるがまま、粗チンと粗マンが、秋の夜長にでれでれと、じゃれつくような於芽弧は、「体位」の認めるところではない。「体位」はすべからく、「開脚位」にはじまって、膣の締りのわるくなったのは「伸張位」で補い、少々目先きかえるなら、「後方座位」やら、「屈曲位」やらと、きめつけ、思いやりについての配慮がなく、枝葉末節のみを重視する。しかし、於芽弧において、もっとも重要なのは、いたわりなので、あんなものは、脚をどうよじろうが、二つ折れになろうが、たいして差のあるもんじゃない。まず、パートナーに対する心やさしい配慮があって、つぎにそのよりよき満足を得さしめるため、態をかえてみるのだ。「体位」には、ビニールの肌ざわり、また、ダッチワイフの色合いが強く、とても、人間味をうかがうことができないのだ。
「体位」を愛用するドクターなり、セックス解説者氏は、もともと日本語についての意識が低いせいか、なんとも無粋な用語を、他にもよくお使いあそばして、何故「茶臼」とか「松葉くずし」「窓の月」「入船」「後どり」というような、みやびやかな語を嫌うのだろう。「騎乗位」なんて言葉は、決して科学的でも、また意味を正確に伝えるわけでもない。もし、本当に馬に乗ったつもりで、ハイドウハイドウやられちゃたまったもんではなし、その点「茶臼」なら、よくわかり、ゆっくりとまわすそのスピードまでが、言葉の中にこめられているのだ。
そのくせ、なにかといえば科学的を標榜するのに、肝心な点をなおざりにして、たとえば、於芽弧の後で女のなすべき始末、もし抜き身ならいかにして殿方の立ち去りたまうのを、お送り申し上げるか、また皮膜でおおっている時は、その除去に際し、いかにいたわりこめるべきかなぞ、いっさい説明しない。珍宝なんてものは、果てた後は、しごくくすぐったくて、みだりにいじくりまわされては迷惑だし、また無理にふるい立たされても、しごく痛いものであるということを教えない。故に当節の女子は、手前勝手で、ただもう木偶《でく》よろしく、ポーズさえかえりゃそれでいいように錯覚し、ひどいのになるとアフターサービスまで要求する。果てた後の男なんてものは、いかに惚れた相手であっても、ティッシュペーパーにくるんで、うっちゃってしまいたい気のするもので、さっさと下《しも》を押さえ、立ち去るのが当然なのであります。
このように心を忘れ、技にばかり走る現在の風潮の根源は、「体位」という言葉にあると思う。しかしなんですねえ、女の方は、ああやって脚をおっ広げて、男にのしかかられ、恥かしくないもんだろうか。自分一人で鏡に向かい、あんな風なポーズをとってごらんなさい、キャッとさけんでこの世の終り、当分は御飯も喉を通らなくなるだろう。於芽弧なんてものは、つつましく、せいぜい「本手」で、うしろめたく済ませりゃよろしいのよ。そして「本手」の中にこそ、形にとらわれぬ於芽弧の実態があると、知らねばならぬ。
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女房帝国主義論
どういうわけで、女房なるもの、亭主にとってあのように怖ろしいのだろうか。ある時期、恐妻という言葉がもてはやされ、それは、戦後の、珍現象の如くにみられたものだが、今では、亭主関白が、暁天の星の如くなって、しかも、この言葉は、ひどく滑稽な印象を与える。つまり、夫は妻を怖ろしがるのが当然のことで、怖れないのは、人間として欠陥があるようにさえみなされる。
しかし、考えてみると、戦前だって、またさらにさかのぼって封建社会の頃も、夫は妻を、うわべはともかく心の底では怖ろしく思っていたのではないか。そりゃ、昔の家長たるもの、床の間背負って、みだりに口もきかず、子供もあやしやしないし、外に妾をつくってむしろ甲斐性といわれ、家にかえらないのも当然とされたが、しかし、それはあくまで表面上のこと、妻とさし向かいになった時、あるいは、したい放題のことを行いつつも、一種の怯えを妻に抱いていたような気がする。
社会のしくみがいくらかわったって、男と女の間柄など万古不易、まして、夫と妻なる関係のもとでは、あたらしい現象など起る余地がない、一つ家に男と女が起居し、それが社会的に夫婦と認められている場合、ひたすら夫は妻が怖い。乃木大将なんて人も、かなりびくびくしていたのではないかしら。二人ならんだ写真から、十分にそれがうかがえるのだ。
しかし、どうして夫は妻を怖ろしがるのだろうか。現在、考えてみると、そりゃ世の中がそんな風にでき上っているから、しかたないにせよ、夫は妻を養っておるのだ、妻はくわしてもらってるのに、実際は逆の立場にある如く、文句いうのは妻ばかり。そりゃ家庭内の雑事はさまざまにあるだろうけれど、そして、いちいち昔と比較するわけではないが、掃除洗濯育児つき合い、とても夫の会社における労働、気のつかい方に匹敵するとは思えぬ。経済面からいえば、妻は居候みたいなものなのに、三ばい目をそっと出しどころか、養い主のくいぶちを削りにかかって、癌もはだしで逃げかねぬ。
夫に対し性的な充足を与えているというかも知れないが、性的欲望なんてものは、水泳と同じで、十七、八歳がピーク、三十過ぎれば、例外をのぞいて特に、どうってものではない。むしろ、妻の方が、しゃかりきになって、自らの欲望を満足させてくれなきゃ、ヒステリー、あるいは浮気に走ることを当然のこととし、夫は、男妾かホストクラブの従業員よろしきの態。性的関係においても奉仕してるのは、夫の方ではないか。
さらに、子供を考えてみると、そりゃ両親そろっていた方が、いいといえないでもないだろう、現在のところは。しかし、片親として考えると、男親も女親も五分五分、いったんわかれた以上、お互いさま同じであり、子供は少しと惑うかも知れないが、すぐになれる。女房にとび出されると、子供がかわいそうだなんていう、特別な理由はないのだ。
このように、天地神明に誓って、夫が妻にひれふし、あたかも農民のお代官に年貢負けてもらう如く、御機嫌伺いしなけりゃならない理由は、まったくない。こっちがくわせてやり、性的充足を与えてやり、子供については五分の立場でいる。にもかかわらず、鬼をもひしぐ男子が、二日つづけて夜おそくなったその三日目には、しごく曖昧な笑いうかべつつ、「たまにゃ早くかえってやらないとな」など、薄気味わるい声でいって、うしろ髪ひかれつつ家路につく。また、どうせうれしがってももらえないのに、旅先きで土地の土産物を、買いこむ。よんどころない理由で家をあけたのに、また旅をすればこそ妻子もおまんまにありつけるのに、しごくやましい印象であり、怯えがうかがえる。
ぼくは、フェミニストだから、妻がわるいのだとはいわない、多分、夫に事情があるのだろう。夫は、妻に対しうしろめたい理由のあればこそ、こそ泥の刑事と対するように、ちぢみ上ってるのだろうが、そのうしろめたさとは何なのか。男はすべて、女から生れてきたわけで、その恩義というか、前借金みたいな負い目があるのだろうか、あるいは動物的面で比較した場合、女の方が、はるかに男より強い。痛みについても、男はこらえ性がなく、血をみるとすぐに気持がわるくなり、しごく感傷的である。そういった弱さ、つまり、山猫と同居している兎みたいなもので、知らずに気おされ、圧倒されてしまうのかしら。
いったいどこの世の中に、夫の如く搾取され、労働を強制され、自由を束縛された存在があろう。いかなる弱虫であっても、かくの如くいじめられたら、決然と立って一戦交えるだろうに、夫はひたすら怯えるばかりで、女房帝国主義のいいなりになっている。生れついてこの方、こういう関係であったのならまあ運命とあきらめてもいい。しかし、元はまったくの他人なのだ。ただ、ある日から、夫婦という約束取り交わしたとたんに、収入と自由を奪われ、さらに男妾の業まで強要される、こんな馬鹿な話があっていいものだろうか。
夫をして、決起せしめぬ理由はなんなのだろう、また、あのように理ふじん、思いやりのかけらもなく、ひたすら夫をこき使う妻の、自信を支えるものは、何であるか。あらゆる動物には、天敵というか、とてもかなわない存在がいるそうで、それは、人間の場合、土に埋めた臍の緒の上を、最初に通過した動物だという。あらゆる妻は、その夫の臍の緒をまたいだのだろうか。あるいは、前世において、夫は、妻の前身にしごくひどいことをして、その報いを今受けているのだろうか。きっとそうにちがいない、つまり現世の夫は、前世の妻だったのだ、そして、夫をいじめ抜いたから、今のみじめさは因果応報なのだ。とすると、現世の夫は、きっと来世においては、妻となり、逆の立場となって、苦しめることができるのであろう。そう考えると、なんともつまらないみたいだが、少くとも今日一日は我慢できやしませんか。
今にみていろ、今度生れかわって来た時は、小遣いなど一銭たりとやるもんかと、そうでも思ってあきらめなきゃ、生きてる甲斐がない。
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世に猥褻の双璧とや
この世で、もっとも猥褻な存在は、インポテンツと処女であろう。性的妄想のあれこれえがき得ぬほど肉体的に衰えて、あげくの果ての不能であれば、これはしごく枯淡の境で、どうってこともないが、意馬心猿のほむら身うちに蔵して、しかも立つ能わぬとなったら、その脳裡に去来するものは、どれほどにあざやかな、またおどろおどろしき妄想であることか。
男性において、性的イメージは、射精と同時にかき消えてしまうが、これがいかにしてもかなえられないのだから、まあ蟻地獄みたいなもの。森羅万象何をみても、また耳にしても、刺戟となって、たいていこの場合、射精を伴わない行為、つまり変態に逃避するらしいけれど、あくまで頑と、地獄にふみとどまったなら、さだめし、性の深淵をかいまみることができるはずで、小生の常々インポテンツに憧れる由縁でもあるのだ。
戦争中は、偶然のいたずらという奴で、しばしば兵士の胯間を、手投弾の破片などが狙い、男根を吹っとばした。この際、睾丸の方も機能を失ったなら、いわゆる宦官と同じで、欲望を感じなくなるから、どうってこともないらしい。
しかし、男根だけだと、それも根元えぐるように傷ついた場合は、まったく復元不可能で、いちばん辛い名誉の負傷だったという。また、現在でも、交通事故で腰椎《ようつい》を強打した場合、ペニスがエレクトしなくなることはよくあり、そのアフターケアはどうなっているのだろうか。あるいは当節、A感覚についての知識が普及しているから、そちらへ切りかえなさるのかしら。また、夢精によって、けっこう補いのつくものなのか。
そして、処女の猥褻さについては、いうまでもないことで、童貞もあれこれ性的営みについて、とてつもない臆測をするけれど、まあマスをカケば済む。第一、猥褻なイメージの根源である男根が、すぐ手もとにみえるし、要するにこのものが、なにやら穴の如き部分に入りこめばいいらしいと、明快な結論を得ることができるのだ。
処女にあってはそうでなくて、まず、自らのものを、そう簡単にはたしかめ得ぬ。手鏡でのぞきこんでも、いったいどうなってるのかさだかならず、しかもそこは、時々刻々と、毛が生えてきたり、血を吐き出し、かと思えば、不思議な形状色合いのものが、はみ出しさえもする。しかも、ある種の感覚はあって、それは、はっきりとけじめをつけるような形では、ピリオドがうたれぬ。いじくりまわしてりゃ、いつまでも果てがないものらしい。
この、なんとも面妖な部分に、男根が突進してくると考えても、これは実感としてつかみにくいであろう。第一、大きさがわからない。硬度がいかなるものやら、射精というけれど、「射」という以上、それは鉄砲みたいに、遠くまで、「精」がとび出るのか。そも「精液」とはなんぞや、色はどんな風で、粘稠というから、水アメみたいなものなのか。なまじ知識を与えられているから、あれこれ考えて、当然のことに隔靴掻痒、しきりに焦れて、ますます猥褻一途となってしまう。
中学生になりゃ、どんなおくてだって、男性が上になることぐらい知っている、すると、六十瓩もある男の躯に乗っかられて息ができるのかしらと心配し、秋から冬にかけ、布団が重くなると、その重さだけで刺戟を受ける。また、態位についての知識もあるから、深夜ひそかにその姿を真似てみて、破瓜の際の、疼痛なるものに思いをいたし、「刺す」「入る」「はまる」という何気ない単語に、びりびりと身うちがふるえる。
自分の躯の中に、妙なものが入りこむという予測は、逆にこっちが入るというそれに較べ、かなり目星つけにくいことであり、だからこそ妄想が、さまざまに生れるのだ。さらに加えて、男性そのものが、複雑怪奇に思える。つまり、童貞が女をみる時、それは、一個の穴を所持したる存在に過ぎず、ほとんど年齢美醜に関係ない。せいぜい危惧するといえば、その際男らしくふるまえるかどうかであって、特に女の機能につき考えることはない。
処女はそうではなく、男の中にはホモという種族がいて、それはどうも、ちがう「突破孔」をもとめるらしい、もし、そんなのにぶち当たったらどうしよう。また、ペニスそのものに大小があり、さらに包茎なる不思議なしろものも存在するらしい。うっかりして妙なのに当たったら大変だ。といって、あらかじめしらべるわけにいかず、第一、ノーマルなペニスがどんなものか、わからない。
やがて中学も三年くらいになると、かなりはっきり性的感覚を自覚できるから、一方で怖れつつ、しかし、早く受け入れたくもある、その怖れもさまざまで、妊娠したらどうしよう、学校にわかったら大変やら、やっぱり結婚まで待たなきゃいけないか、というためらい。しかし、結婚までは十年以上もあって、それまで我慢しなきゃならぬのか、と考えれば、気も遠くなってしまう。
処女のえがく性的妄想のすさまじさは、ますインポテンツと双璧といってよく、この二者こそ、もっともきらびやかな性的イメージの世界に生きているのだ。それに較べりゃ、小生などまったく常識的でありまして、何やらわけ知りの如きものを書いてはいても、常に処女のせせら笑い、インポテンツの皮肉な冷笑が眼にみえるように思う。
ちなみに、この両者とはまったく逆、きわめて猥褻性の薄い存在は何かといえば、娼婦と、男の精神病者だろう。娼婦なんてものは、とことん性の営みが何であるか知りつくしてしまっているから、プラトニックな恋をする資格は、娼婦にしかないといっていいくらいのもの。
そして、男の精神病者は、ほとんど性欲を有していないことが多い。これは、治療の過程で、欲望の抑止剤を使用するのかも知れないが、精神病院で、ふしだらな事件の起きたのを、寡聞にして知らず、性的犯罪を犯したこともきかぬ。
娼婦と男の精神病者こそ、実に神聖な存在なのである。
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汝自身を知るべし
かつて銭湯はなやかなりし頃には、男性それぞれおのがものを、他と比較検討し、やれほくそ笑んでみたり、また、思い悩んだりしたらしい。らしいと、他人ごとのようないい方だけれど、もとより小生も以前は銭湯の常連であって、さまざまな珍宝を眼にしたのだが、どうも、大小やら形の特異性には関心がおもむかず、むしろ目方が気になった。ぼくは小学校四年の身体検査の時に、丁度三十瓩あり、中学へ人った時は四十一瓩、どちらかといえば痩せがた、なんとか肥りたかったのだ。
現在でもそうだろうけれど、十三、四歳の頃に、男の場合、急激にその体型に差が生れて、筋肉質の者は、胸やら腕に、隆々たるもり上りが生れ、また、のっぽもたいていこの頃にあらわとなる。わが十三、四歳のみぎりといえば、戦争末期であって、銭湯にも少年戦車兵や、予科練募集のポスターがあり、特に後者にえがかれた筋骨隆々たる姿には、ある怯えというか劣等感をいだいたものだ。どうも、これが、同性の裸をみる時の基盤となっているようで、男根の大小などてんから関心はなく、ひたすら胸の厚み、力こぶのたくましさが気になって、今でも、わがもの、まあ無駄魔羅ではあるけれど、これがでかいか、小さいか、そんなことはどうでもいい。
というより、短小とかで気に病む方の心理がわからず、昔々の中等学校あるいは旧制高校には、かなり野蛮な習慣があって、多勢の力をもって紅顔の少年の局所をあらため、なにやかやと評したらしい。また、相撲柔道剣道が正課だったから、練習の後で躯を清める際に、上級生がひやかしもしたろう。寮生活が一般的だったから、共同風呂でお互いの品さだめをし、もちろん内湯より銭湯が当たり前のこと、他山の石に触れるチャンスが多かったから、短小に悩み、真空膨張器なんていう不思議なしろものが、もてはやされたのもわかる。
しかし、現在は、銭湯すたれる一方で、たいていの団地や、民間アパートに風呂がある。また、スポーツもゴルフやボウリング、カー・ラリーなど、その後で一風呂浴びなければ気持わるくてたまらぬといったたぐいは少くない。泳ぎにいっても、ロッカールームが完備していて、ほとんど他人の珍宝を眼にすることなどないと思われるのに、やたらと短小コンプレックス多いのは何故だろうか。
まあ、他にもやもやした欝屈があって、これがそういった意識を定着させるのだとは思うけれど、また大きな理由は、雑誌などに紹介される平均何糎という数字であろう。あの何糎は、いったいどこを測ればいいのか説明がなく、珍宝の上側と下側ではずい分差を生じる。どっちみち大したことはないのだから、いっそその平均雄々しき時に長さ六糎、太さ一糎五粍くらいのことをいえば、みんなずい分気楽になるだろう、こういうのを仁術と申すのではないか。
そして、この若い男たちが、何かにつけて自らを平均以下の劣等者と思いたがるのに較べ、女というしろものはどうして、あんなに図々しいのであろうか。彼女たちも、自らの於芽弧に、俵締めやら巾着、数の子天井、愛宕山などの別があって、わるい方としては、お皿のっぺりいたちっぺ、さては茶筒に腹鼓があることくらい知ってるだろう。
解説しておけば、お皿はつまり於芽弧脱腸の気味があって、すぐに突き当たってしまう開をいい、のっぺりは、タンポンこそ入り易いだろうが、何の摩擦もない開をしかくいう。いたちっぺはいったん臭いをかいだら、三日間くらい食欲を失うものだし、茶筒はとば口から奥までずん胴であることをいい、これがさらにわるくなれば奥千畳である。腹鼓は、パクンボコンガバッと音を発する開であって、こういうのはすべて下品《げぼん》という。
これを、女たち知らないわけはない、締まりがいいかわるいか、音を発するか発せざるか、臭いにおいて人倫にもとるかどうか、よくわかっているくせに、ちっとも恥じたり、また肩身せまい感じがないのは、どういうわけでありましょうか。
男などは、平均十四糎といわれて、ほんの二粍足らざれば天を仰いで長歎息し、自殺しかねないのに、奥千畳のいたちっぺであっても、女はけろっとして、ノイローゼになることはない。女は、はじめっから他人様とみ較べることがなく、また自分でちょいとまさぐれば、のっぺりか数の子かすぐに見当つくし、腹鼓もいたちっぺも自覚できるはずなのだ。自分がかなりの粗芽弧であると思い知れば、少しは人格にも深味が生れ、その欠点を長所とかえることもできるだろうに、そういったことはいっさいなさらぬ。
ぼくは、ここで提言したいのだが、このさい、しとねを倶にした相手が、きわめつきの粗芽弧であった場合、そのことをはっきりいった方がいいのじゃないか。「いいにくいことだけれど、あなたは極端ないたちっぺですなあ、食生活の改善及び、入浴をもう少しまめになさった方がよろしい」と、単刀直入にいう。されば、女性も恥じて努力するだろうし、中にはノイローゼとなり、自殺なさる方も出るかも知れぬ。男ばかりが、やれ小さいの、時間がみじかいの、また、間をおきすぎると、責められることはないのである。ウーマンリブとかいうなら、まず於芽弧を改造してからの話であって、手前たちはただもう富士山の風穴か、竹輪のくせして、勝手なることをいうではない。
男が年頃になって、わがなり余れるものは、人と較べてどれくらいに余っているのかと思いわずらうその十分の一でも、そちらのなり足らざる部分について深く内省していただきたいのだ。参考のために於芽弧の平均的能力を申し上げれば、指を一本さし入れ、締めつけると、血行がさえぎられ、指一本|壊死《えし》してしまうくらいが当たり前なのだし、アコーディオンほどに、ひだがなきゃいけないのだ。
さあ、ちょいとしらべてごらんよ、鈍器諸嬢。
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ホモの心根や如何に
変態がこうおおっぴらになって、いわゆる市民権を獲得してしまうと、やがては夫婦の間で於芽弧するなど、きわめて猥褻きわまる行為、タブーになるかも知れぬ。そうでなくても、SF作家の中には、夫婦のそれは、近親相姦であると、重々しくのたまう方がいるのだし、このところ、通常のセックス営むなど、きわめて野暮なこととみなされ、母親にいどんだとか、妹をどうしたなんて話題が、むしろサロンでもてはやされている。
しかし、ぼくなど、わかったようなことをいっていても、結局は平凡な男に過ぎないので、もっとも一般的な変態であるホモですら、よく考えると、とんと見当つかぬ。また、これだけ克明に、性のあれこれ解説が行きとどいていても、いったい男と男がどんな風に結合するのか、態位の説明もないのは、えらそうな顔しているセックスドクターやら、性心理学者にも、とことんの境地はうかがい知る能わざるのではないか。
いわゆるゲイバアなる場所に存在するゲイボーイは、みな女まがいの、まあ美少年で、また言葉つきも女らしく、これを相手取るのはわからないでもない。真物の女性の有する属性、その大部分はいやらしいものだから、これを除去した偽物を、女性として愛するのは、十分に小生にも考えられる。しかし、これならマスターベーションだっていいわけだろう。また、ゲイボーイの方に、A感覚の刺戟をたのしみ、また、変身というか、男でありながら、女の心ざまなぞるよろこびがあるのも理解できる。
ぼくだって、時には、女のように、といっても、特に意識してではなく、ふと気がつくと、女まがいの心のうごかし方をし、それに身をゆだねていれば、しごく気楽な場合があり、もし、小生がホモになるのなら、多分、おねえの方だろうと思う。まあ、考えるだけで、気持わるいことだが、ゲイバアなどで酒をのんでいて、ひょいと、客席にいるより、カウンターの中に入って、女言葉使ってみたくなることが、ないでもないのです。
しかし、こんなのは、インチキなホモであるらしく、さらにすすむと、もっとも男らしい男、といっても外見上のことだが、筋骨隆々たる男性を、あたかも女扱うごとくにして、満足するらしい。らしいというのは、ここから先きについては、あまり説明した文章がないからだが、ニューヨークあたりだと、たくましい男と、わりになよなよしたのが同棲していて、てっきり前者が、ホモにおける男性的立場をとるのかと思うと、実は逆なんて例をよくきくのだ。
ぼく自身の経験でいうと、浮浪児まがいの頃に、餌でつられてアパートの一室へ、痩せた美男子、年頃三十四、五だったろうか、連れこまれ、夜中に気がつくと彼はわがものをまさぐり愛撫し、ついにはフェラチオに及び、これが、ホモにおける女性なのかと思うと、意外にも、わがA感覚を狙ったのである。仰天して逃げたのだが、ホモの真骨頂は、どうやら、一身に両性をそなえるものらしい。もしそうなら、相手の珍保古をわがAに収め、わがものを、敵のAにすすめるような態位をとれば、まさに至福の境地であろうと思われるけれど、いったいホモの場合における態位の研究というものはあるのだろうか。
また、梶山季之氏の小説で有名になった現象だが、あの「ドンデン」というのは、何なのか。これは、はじめゲイボーイなどを相手どって、女の如く扱ううちに、いかなる不思議のなせる業か、今度は自分が、女の立場をとりたくなる現象をいう。本当にこんなことがあるのかしら。女を相手どっている時、たしかに女の方が、男より何百何千倍も喜悦し、うらやましいけど、まあ男と女とちがうのだと、あきらめ得る。しかし、男を女の如くにふるまいつつ、しかも、実は相手が男のくせに、女と同様キャアキャアヒイヒイいうのなら、これは腹が立ってきて、ちょいとわれにもその境地を味わわせろと、主客転倒することは考えられる。ドンデンというのは、そういうことなのか。
もし、ホモというのが、文字通り均質性を意味し、男的立場女的立場を、自在にえらべるものなら、もはや肉体的な関係による上下はなくなって、後は精神面での優劣だけが残る。その時、精神面で優位に立ったものは、通常の男女に当てはめると、どっちの立場をとるものなのだろうか。
ウーマンリブとかなんとかいって、女性がしきりに、性における差別を撤廃しようと提言している。たしかに、これまでは、男が女を犯したのだし、また、女は男に捧げていた。つまり、女は性において常に弱い者とされてきた。それは、於芽弧する際に、たいてい男が上位をしめ、そのポーズだって、女性はかなりみっともない姿をとらされるから、男が優者の如くみなされてきたのだ。
しかし、性において、まったく平等だとすると、後は、精神面における優劣が問題になる、ある男と女の場合、男がすぐれていたら、女をかばうために、あるいはやさしい思いやりの余り、女にリードされる形をとるようになるのではないか、そして、逆ならば、女が男を立てる。これは十分に考えられることで、夫婦なんてものは、もはや於芽弧についてどっちが上かなんていちいち考えてやしない、既婚者にウーマンリブがいないのも、これが理由だろうけど、いわばホモ化している。だから後は、どっちが精神面ですぐれているかは、夫と妻の、いずれが鼻面ひきまわしているかを観察すればよい。
精神面の優劣は、まずやさしさ、思いやりにあらわれるものだから、やさしい亭主つまり恐妻家という存在は、精神的に妻よりすぐれているとみていいし、事実、世の中みわたしてみれば、尊敬できる男はみな、家の中でちぢこまっているではないか。
変態が妙な話にそれてしまったけれど、ホモを観察すると、未来の男女の在り方が、いくらかわかるように思うのだ。
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膜、この曖昧なるもの
ストリップの権威がつくづくいうには、もはや、この上は、お産の実演か、処女膜をみせるより、|て《ヽ》はない、他のすべてはやりつくしたそうだ。そしてまたこの二つの奥の|て《ヽ》も、舞台にかかったことはあって、お産の方は臨月のストリッパーが、無理してステージ相勤めるうち、産気づき、楽屋にもたどりつけず、その場で玉の如き男の子を出産、いちおう幕を閉めたものの、七、八人の客は一部始終をながめ入り、産声《うぶごえ》をきくと、みんなでお祝いの金を集め、こっそりおいていったそうな。そして、この噂はたちまち拡まって、翌日から客がつめかけたけれど、こればっかりはままならぬ。
また処女の方は、東京近郊の町にある劇場専属の踊り子に、正真正銘のそれがいて、これはレスビアン。小屋の主は、関西とやら金髪とやら、さまざまに惹《ひ》き文句はあるが、処女ストリップだけは前代未聞だから、いくどか看板にうたおうとして、しかし、どう考えても客が信用するわけがないと、ついに公表しなかったという。あまりにも|がせねた《ヽヽヽヽ》を売ると考えられては、後々のためによろしからずと判断したのだろう。
お産実演は、近頃TVなどでみせて下さるけれど、処女、それもれっきとした処女膜を眼にする機会など、未来永劫来ることはないようで、また考えれば、人類の雄も雌も、ほとんどの場合、この膜をみることなく死ぬのではないか。いかに猜疑心の強い男だって、初夜の花嫁に膜をみせろとまではいわないだろうし、こんなことを申し出れば、まあ、変態と思われて先方は自殺しかねない。芸者の水揚げなんていう場合も、大金がからんでいようと、いちいちはっきり眼利きしてからのことではないはず。女将かなんかの保証で納得し、だからこそ何十ぺんも処女を捧げたなんて話が伝わる。
素人の眼には触れにくいものだが、といって、玄人、つまり産婦人科の医者も、まあ開業何十年のベテランで、せいぜい二、三例しかないものらしい。こわれものとしての婦人がやってくるのだから、膜など雲散霧消しているし、同じように婦人のその部分を克明にながめ得る警察医にも、チャンスはない。警察医の対象は仏さんで、不幸な婦人の仏は、たいてい膜を失っているのが通常なのである。ふつうの医者は、たとえば痔を治療の際に、いかにそばだからといって、ちょいとのぞくわけにいかず、表面をたしかめえても、内部には至らぬ。
多分、性器美容なんてことを手がける方が、いちばん眼にしているのだろう、自らの形を思い悩む処女はよくいるらしいから、その治療の時しっかとたしかめ得るのだ、この世には、まず膜を眼にする男性は、いないといっていい。そして女性だって、まあむつかしい。自分のそれをのぞきみようとしても、首の骨を痛くするだけで、手鏡などつかっても、どれが膜やらひだやらわからないにちがいない。
結局、人類はみたこともない膜について、あれこれいっているのであり、本当のところは、あんな百害あって一利もないしろものなど、とっくに退化して、なくなっているのではないか。いや、はじめからあったかどうかも疑わしいのだ。そもいったい誰がこんな妙なものを発見したのだろうか。昔だってみるチャンスはきわめて少かったろうと思う。妾を沢山はべらせていた殿様だって、いちいちのぞきこみはしなかったろうし、処女の於芽弧には膜があるという定説を、唱えはじめた方はどこのどなたなのであるか。
小生の考えるには、もともとこんなものはないのであって、一種の教訓として、まるで包装紙の如く、それを破るともはや新品の価値がなくなるような、いわれ方がなされたのではあるまいか。春本をみても、また春画にも、処女膜の描写というのに、小生ぶつかったことがない、処女膜は、外来語に当てはめた言葉だろうけれど、江戸時代にこの膜のことを何と呼んだのか。
ほとんどの人間がみたこともない、またみたとしても、どれがそれなのか判別するための知識を与えられていないものについて、思いわずらうのはおかしな話であり、いっそ、人間もついに動物なみに進化して、処女膜は今やなくなったと、えらい先生でも宣言すれば、ずい分気楽になるだろうと思う。膜という、いかにも薄くて、触れなばすぐに破れてしまうような感じのものを、意識するから、「破った」の「失われた」の「捧げた」のという、おかしな考え方を女性がし、また男性も、処女性につきことさら思いわずらうのだ。
実に馬鹿馬鹿しいことだけれど、ふつうの紳士に向かって、「あなたは処女を経験したことがありますか」と質問すると、なんとなく曖昧な表情となり、「ええ、まあ」など答える。どうして処女であるとわかったのか、しつこくたずねれば、怒り出すか、あるいは世にも悲しげな表情となって、「そういえば、あぶないもんだなあ」と、何やらしきりに考えこむ。男が、自分の子供に対し、その親であるという確証を絶対にもてないのと同じく、女の処女非処女を、たとえばねむり薬でも嗅がせて、意識不明とさせ、性器美容の医者にでも確認させなきゃ、とてもわかるものではないのだと、説明すると、納得しつつもあまり愉快そうな顔つきではなくなる。
また女性には、処女膜がちゃんとありますかと、たずねれば、同じような反応がうかがえて、つまり於芽弧したことはないから、自分が処女であると確信していても、膜はどうか保証のかぎりではない。過激な運動や、生理の手当てで破れることがあると、PR行きとどいていて、しかもちょいと自分でまだつつがないかどうか、たしかめもならぬ。ひょっとして膜がなくなっていたら、処女じゃないのではないか、あるいは、まだ処女にこだわっているのは、つまらないと、うろたえなさるのです。
まあ、こんな風に、処女膜は人をからかうためには、もってこいのしろものでありますがね。
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厄年のエレジー
しごく個人的なぼやきもいかがなものかと、少し気がひけるけれど、小生とって数えの四十二歳、つまり厄年であります。おみくじをひけば、「有径江海隔、車行峻嶺危、亦防多進退、猶恐小人虧」と出て、すなわち凶、解説にいわく「神仏を頼まば十に一つは助かるべし、悦びごとなし、あらそいごと負なり、旅ゆかば災難にあうべし、生死危うし」なのだそうだ。
しかも、覆面子とか申す占い師の言葉では、小生は世人の失笑をかうような業をなすという。失笑されるのは、何も昨日今日はじまったことではなくて、別に占いともいえぬ理の当然と思われるけれど、あらたまってこう御託宣されると、いい気持はしません。
何故に四十二歳を厄年とするのか、かの孔子様だって、四十にして惑わずと、あえていったのは、自らかえりみた時、あれこれ惑いそうな心ざまがあったからだろう。生きるためのなりわいにしたって、大体先きはみえたような感じだし、まさしく沈香《じんこう》はたかず、屁のみをひる日常が、死ぬまでつづくにちがいなく、これを性的な面でみれば、四十の中だるみとかいうらしく、いっこうにふるい立たぬ。マスターベーションの権威の如くみなされていても、マスのあてとするべき妄想が種切れになった感じで、特に近頃の何かといえば女学生の制服を淫らにうつし出す映画やTVは怪しからん。
こっちにはこっちの、制服イメージがあるのだ、決してみたことはないのだが、かくもあらんかと、そのひだの多いスカートに隠された内なる部分を、あれこれ思いえがいてたのしんでいたのに、ああおおっぴらにみせられると、げんなりしてしまう。あんな風に下着もあらわな女学生の胡坐姿など大うつしにされては、とてもマスの対象にはならず、必死にそれをふり払おうとしても、こっちの妄想は、ひどく取りとめないものだから、スクリーンのそれがよほど鮮明で、すぐに取ってかわり、とたんに意気消沈。あれなら、今から十四、五年前の性典映画の方がまだよかった。ハレンチのなんのといっているけれど、小生にとってこの種の写し絵は、矯風会小母さんの講演と同じ効果をもたらすのです。
マスも駄目で、さて生身の女性となると、つくづく胸に手を当て考えてみても、この十年間、女性と表を歩いたことがない。そりゃ夜に、バアのホステスと寿司をくいにいったことぐらいはあるが、昼日中素面で、女性とお茶をのんだことも、また、映画をみたこともないのだ。実にくだらないと思うが、一度くらい、ファッションモデル風のかっこいい女性と腕をくんで銀座を歩いてみたいと考え、しかし、その術がない。
土曜日の午後など、男一人あるいは、男連れで歩いてりゃ、それだけで変態にみられかねぬほどの周囲はアベックばかり。じっとながめていると、実に腹が立ってくるが、いまさら「お茶のみませんか」と、女連れに声かけもならず、ハントバアなんかへいっても、よくいわれるような男欲しげな年増女事務員はいやしません。といって、雑誌に広告を出している、異性交遊の会合に参加もできない、ダンスパーティなど誰からもさそわれぬ。
四十男というしろものは、どこで女をみつけりゃいいのか。東海林さだおの漫画の主人公だって、時には女にもてているし、また、女友達がいたりするけれど、こっちは、うっかりすると、半年くらい女房子供以外に、異性と口をきかないまんまでいるのだ。みるからに馬鹿面な男が、ビヤホールなどで、けっこう美人であるところの女から、マフラーをプレゼントされている光景に出くわすと、第三次大戦ぼっぱつをねがいたくなるし、十四、五と思われる少年が、同じ年頃の少女と、夜の公園に歩み入る姿ながめりゃ、第二次関東大震災を祈念してしまう。
四十男は、どこで女をみつけりゃいいのか。生れてすぐに男女別学、共学の甘酒をついに知らず、女といえば娼婦ばかりで、ようやく、古のねがい胸によみがえらせ、セーラー服をよすがにマスのたのしみを身につけたと思えば、それすらもぶっこわされてしまう。夫婦交換とか、やれ複数姦とか、女子中学生の三分の一、高校生の三分の二はすでに男を知っているとか、性的情報のみが多すぎて、気はせけども、いかんとも術がない。
四十二歳というのは、多分、性的に厄年なのではないだろうか、これが五十になってしまうとかなり開き直れる。三十代なら、まだ青年の部類で、先きを信じ、現在もてなくても夢をいだき得る。しかし、四十歳という一つの峠をこえて、中年男の実感が肌身になじみ、さてと来し方行く末を考えると、いったいこれで男として生れてきた甲斐があるのだろうか、いっそなりふりかまわず、そんなにセーラー服が好きなら、強姦でもしてやりましょうかと思うが、とても勇気はないし、各種週刊誌の、秘密情報めいたものを、ノートに写して、その近くへいった時、なんとなく探しはするけれど、これも足ふみ入れるまでには至らぬ。
このまま荏苒《じんぜん》時を過ごして、老いさらばえるのかと考えると、実になんとも情けないのであります。今日にでも、若づくりの服を着こんで、ハントに出かけるかと何度も考えるけれど、そのつど雨がふってきたり、来客があったり、あるいは原稿の締切りにぶつかって、これは何か強い悪意がはたらいているのかと、あやしまれるほど。
今年は厄年で、生死危うく、うまく生き長らえたって世人の嘲りを受けるらしい。そして多分的中するだろう。きっと、性的な面で馬鹿なことをしでかすにちがいないのだ。公園であそぶ少女を、チューインガムで釣ったり、あるいは少し知能のおくれた娘をだまかしたりするのだろう。だって、こんな風なこと以外に、異性と接触するチャンスはないのだから。
ああ実にあやうし。いっそ変態になって、下着を集めることで満足できるなら、ずい分よろしいだろうになあ。
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カキ死にこそふさわし
物書きも、自らの死にざまについて、時には思いを馳せなければならぬらしい。はるか以前は、肺病というのがあって、世の人に惜しまれつつ、よみじをたどることができたし、また、情死なんて手段も粋なものであった。
日頃、男女のあやなす人情の機微、女に溺れる男の愚かしさを写実にえがいていた小説家が、その作中人物を自ら生きて、果ては心中にいたるということは、おもむき深いものであったし、あまりにも繊細で、到底人の世を生きつづけ得るとも思えぬ作家の、コホンコホンと力なく咳きこみ、喀血して死ぬなんぞ、なんともつきづきしい。
どの道、物書きは半端者でありまして、畳の上での往生をねがってはおかしいのだけれど、近代文明の恩恵は、こういった|はんちく《ヽヽヽヽ》者をもすら、けっこう長生きさせて下さるから、妙なことになる。小生など、現在のように、アルコール飲料が上質になっていなければ、とうの昔に死んでいたはずで、自分自身の才能の量と、死期は適当に一致しただろうと思う。あけすけにいってしまえば、直木賞受賞した直後にでも、その祝い酒に狂って、メチールでコロッとオロクジになってりゃ、かなりかっこよかったのだ。そして交通事故による死は、常に身辺に用意されているが、どうも当てものみたいな具合で、いっこうに予測はつかないし、核戦争の死は、右や左の旦那様と一蓮托生だから、死の意味はない。
そのうち癌にはなるだろう。ピース一日に五十本は吸うから肺もやばけりゃ、出もしない声をかすれさせて唄をがなり立てて、喉頭もあぶないし、酒で胃肝臓をいかれ、キックボクシングで心臓麻痺の可能性は十分あるものの、特に物書きである自分とのつながりは薄く思える。
あれこれ考えたあげく、小生は、こりゃカキ死ににかぎるのではないかと結論を下した。つまり、結婚して後も、マスをかいていっこうにさしつかえないという、新説でもないけれど、告白をしたのが、物書きである小生の唯一つの功績であるらしいのだ。これまでマスは、正常な営みの代用品であったのに、マスはマスで、独自のたのしみがあり、しかも、その精神的な操作を考える時、マスこそは男にのみゆるされた快楽、女には及びもつかぬ境地と、偏見を弄して、これはかなりの共感をいただくことができた。
だからぼくにとって、死はカキ死にこそふさわしい。物書きとして、マスにつき駄文をつづり、銭稼いで来たのだから、つまり言行一致ではあるまいか。そしてやはり、死に際しては、マスの効用を訴え、男一匹生命を賭けるのだから、皆さんに注目されつつ、遺書の一くさりもものしたいと考える。どこでカキ死にするのがよろしいだろう、結婚式場へ暴れこむか、あるいは中学、高校か。
「諸君は、まだ男女間の、月並みな性行為を、唯一至上のものと認め、これに憧れるのであるか。それはまったく誤った考え方であり、男性自身を、抹殺するものである。男が男であるためには、マスターベーションこそふさわしく、一掌もって快楽を追求することに、女性では到底うかがい知ることのできぬ、極楽があるのだ。諸君、女をもとめることを止めよ、今こそ決起して小生と共にマスをカケ、マスイズベスト」というようなことを、ぼそぼそつぶやき、小生は、ひたすらカキにカクのであります。
切腹については、かなりくわしい文献が残っておりますけれど、カキ死にはあまりない、辛うじて小生の拙作「エロ事師たち」の中に、わがあらまほしき姿として、その描写がなされているけれど、自分でも自信はないし、この場合は介添えをたのむわけにもいかぬ。いや、手練れのトルコ嬢を伴えばよろしいかも知れない、つまり、はじめ自らの掌により、マスを行う。しかしこれは当然かぎりがある。まあ、二度もいたしたならば、もうどうでもいいやという感じになって、後はねむくなるだろう。それでは、おさまりがつかないから、トルコ嬢に強制的に、カイていただく。
きっとくすぐったいだろうし、また痛いだろうけれど、いたし方ない。しかし、本当に死ねるのだろうか、精液が底をついた後は、けむりがぽっと出るそうだけれど、けむりの後まだ生きていたら、これは困る。きくところによると、肛門に一種の電気しかけをほどこしたならば、とことんまで射精がつづくというから、こういうのも用意した方がいいか。
しかし、何の妄想も、昂まりもなくて、老人の小便の如く、精液のみが、間歇的にじわりじわりと滲み出る境地はいかがなものであろうか。そもそもあの精液とは、何ccくらい貯蔵されていて、何度噴出すれば種切れとなり、それでもかまわずつづけるうち、どのあたりで心臓麻痺だか、脳卒中だかを起すものなのか。考えてみるとどうも小生、これまでただ、いたずらに、机上の空論的にのみマスをあげつらい、科学的な面での探究を、おろそかにしてきたような感じが強い。
いや何もマスにかぎらず、射精学とか、ぺニスオロジーといったものは、常に民間の好事家のみが研鑽され、体系だった学問には未だ至っていない。そして、こういった勉学に励まれる方は、どことなく風がわりで、変人奇人といった印象が強いのも、面妖なことだが、これからはぼくもその効用ばかりを説かず、科学的にマスターベーションの解明に努めようと思う。
果たしてカキ死には可能であるか、それほどまでに人間は観念の世界に殉ずることができるものなのか。もはや、息も絶え絶えになりつつ、なお必死で、あやしい妄想をふるい立て、昂まりと共に死がおとずれた時、果たしていったいどんなイメージがうかぶものでありましょうか、桑原桑原こまんだら、考えているうち、胸が苦しくなってきた。
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怨念に生きる
近頃は、何でも復古調ばやりで、総合雑誌の目次みるたび、おやこの方はまだ生きてらしたかとびっくり仰天、そして、名のみ伝えられ、その文章には触れることのなか った小生の年代としては、なんとなくがっかりするような感じが強い。
と申しますのは、戦前戦中に、しごく強大な影響力をもっていたときいているから、どんな風な卓説名文がものされるのかと、期待する気があるのに、どうにも古めかしく陳腐なのだ。たしかに、戦後二十五年たったのだと、つくづくわかり、戦争体験も風化したかは知らねど、戦前戦中のみくにぶりも、かなりずれてしまっているのさ。
そして、ことセックスについて申しますなら、小生は復古大歓迎の気持、ウルトラコンサヴァティブであって、性文化こそが、あるいは守らなければならぬものではないかと、心中ひそかに考えております。「性文化防衛論」などいうと、なにやらパロディめいてしまうけれど、大和島根によって生きる者の、その美しい特性は、性にまつらうみやびやかな態度、つつましい考え方にあるのではあるまいか。
現在の、乱れた男女関係は、性を罪悪視する欧米の、だからこそ反動というか、逃げ場失い、ただもう動物の如くつるみ合えばそれでよろしいという退廃の、その物真似である。なにも、肌合わせるだけが能ではなくて、「未だ見ぬ恋」の激しさや「しのぶ恋」のせつなさを、もう一度再確認する必要がある。大体、肌合わせてしまえば、あっけらかんとしてその後何も残らないのに、遠国に美女ありときいて、日夜悶々の情を抱き、いねがての夜を過ごす分には果てしがなく、いや、思いは募るばかりで、平たくいえば、誰にも迷惑をかけず、金もいらない。そして和歌などものし、うっとり自らのやさしい心ざまに酔っていればよろしい。
そのためには、なんといっても男女共学を廃止することでありましょう。小生は経験がないからわからぬが、あんな制度の中で、まともに勉強できるわけがないし、また、男女ともに異性についての夢がなくなる。男女共学諸悪の根源論を申し述べるならば、百枚二百枚でもまだ足りないけれど、そもそも男と女を生物学的にみりゃ、女の方が強いにきまっている。そして、人間というより、まだ動物に近い年齢の頃、同じ教室に机をならべると、どうしたって男は女に怯えをいだく。女のやさしさに眼を向ける以前に、ただひたすらおっかないもんだと思ってしまう。
あるいはまた、女のもつ生物的汚ならしさについても、かなり早くから認識を得る。年中便所のまわりでごそごそしているし、あのセーラー服というものが、紺や黒であるのは汚れ隠しに他ならず、泥や垢やその他もろもろの汚物を付着させていることを、よく理解できるのだ。また、女の思考力についても、あっさり絶望してしまうだろう。その結果、男子生徒は生物的に怯えつつ、一方では軽蔑の念をいだくようになって、やがて思春期に入ると、女をただの性欲処理器官としか思わなくなる、かつての赤線の客だって、もっといたわりをもって娼婦に接したものだ。今の、高校生男子の女性観など、一種の復讐心に支えられたものであり、小、中学校と圧迫されつづけた腹いせを、男根一本に託して、ただ犯すといったかたむきが強い。
みやびやかなふるまいなど皆無で、これがさらに適齢期になりゃ、技術的な枝葉末節に走って、精神面はまったくなおざりにされ、恋の手管など、みたくてもみられず、また習熟しようともしない。未成年の男女が、手をつないで都大路を歩くなど、断乎取締るべきであります、機動隊のお兄さん方ふるって風紀係となり、公園などでいちゃいちゃする連中を、よろしくしょっぴくがよろしかろう。
せかれればこそ募る想いは古今の真理、今のように電話一本でデートとやら、このデートなんていんちきな言葉も止めた方がいい、「逢い引き」とか、「乳くり合い」と、はっきりその実をあらわす言葉を用うるべきであろう。なにしろ簡単に男女が出あい、そしてつるみ合うから、いっこうに昂まりがない。あの温泉マークやらモーテルというのも、禁止とはいわないが、臨検を行って、未成年者、あるいは道ならぬ情事にふける者を、どんどん摘発するのだ。あうこともままならぬ、ただ遠くから眼を合わせるだけで、しかしはっきり好いた同士なら通い合う、その戦慄的情感に較べたら、回転ベッドなど、屁みたいなことでござんすよ。
また、閨中において、女が無制限に色欲をみたし、それを当然とするような風潮を、制限するべきであろう。大体、性的快楽の充足が、即人間解放だなんて、まったくの錯覚ではないか。ヒイヒイハアハアがどうしてそんな大袈裟なことにつながるのでありましょう。ねやのことはつつしみ深く、いつ抱かれるかわからぬまま寝化粧などし、殿御の入来を待つそのせつないよろこびに較べると、騎乗位も、所要時間もまったく色あせて思えるはずだ。
要するに男と女は、そう簡単にいちゃついてはいけないのであります。人妻と通じたならば、男女共に刑に服すべきであるし、未成年者はつつしみ深く身を持して、それ女なら、やがてあらわれるだろう背の君のあれこれ思いえがきつつ、清らかな日々を過ごし、男に付け文されたら仰天して、両親教師に報告するのだ。男は、罪悪感のかたまりとなって、マスターベーションにいそしみ、遠くから女の来るのをみれば、満面の面皰《にきび》から膿を吹き出すくらいで丁度よろしい。
要するに、小生は癪にさわっておるのであります。こっちはちっともいいことがなかったのに、今時の若い者うまいことばかりしくさって口惜しいのだ。復古調なんてものは、大体が、個人的怨念に支えられるのだから、これもいたし方ないだろう。
「男女共学反対」「未成年の情事禁止」「姦通罪復活」この三点をスローガンにすると、四十歳以上の票をかなり稼げるはずだよ、候補者諸君。
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強いて犯したき心とは
強姦というものを、ぼく自身したことがないし、友人知己の、この体験談も、いっこうきかぬ。また、された方の赤裸々な告白を、眼にも耳にもしないけれど、一種の強姦願望みたいな気持は、小生のなかにあり、時々、冗談めかして誰かれにこのことを洩らしてみると、「そりゃ、一度はやってみたいよなあ」先方も、かなり曖昧な表情ながら、うなずく。
女性に、強姦されたいと思ったことはないかとうかがえば、「十五、六の頃になんでもいいから犯されたい、滅茶苦茶にわが躯をふみにじられたいって、考えるものよ」と、しごく達観したような口ぶりでおっしゃり、へーえ、あの虫も殺さぬ顔でいながら、そんなことを考えてはるのかと、あらためて、その年齢にある少女をながめ、複雑怪奇な気持になるのだが、いったい我国では、年に何件くらい強姦事件が発生し、どんな具合にことが運ばれ、また当事者はその後いかなる人生を辿りはるのか、知りたいものだ。
ぼくがはじめて強姦という、しごく禍々しい語感のこの言葉を、はっきり意識してきいたのは十五歳の時、軍隊がえりの青年が、具体的に方法を教えてくれたので、「女いうのんはな、いややいややいうとっても、胸押さえたったらいっぱつで力抜きよるわ」、こともなげにいい、もしそれ和服の女襲うならば、後から近づいて裾に手をかけ、エイヤッと頭の上までたくし上げる、すると女は仰天し、半ば気を失った如くなって、しかも、抵抗するにも、両手の自由がきかぬ。「それでやな、恥かしい気はあっても、なんせ於芽弧むき出しになってしもてるやろ、こらあかん、とあっさりあきらめよるねんな。これをいちいち押し倒して、もちゃもちゃやってたら、けとばされるし、声上げよるし、ごつい声出すで、ウギャァいうて、こっちがびっくりしてしまうわ」ズロースなんどという障害物がある場合は、決して前からおろさず、尻の方から丸みにそってひきおろす、「破ったりしたらあかん、後でサツにいわれた時な、強姦の証拠になるもんな、破けてなかったら、和姦やと認めてくれるわ」
そして、彼は和姦と強姦のちがいについて説明し、よくいわれるような、尻の下に新聞紙を当てがう、後始末をきちんとしてやる、また、爪でひっかき傷をつくると、これもやばい証拠になるから、爪は切っておかねばならぬといい、「強姦いうても、そのうちな、もくりもくり腰うごかしてくるのが女いうもんやねん。なんし、畠でいっぺんやったらな、味忘れられんのんか、二、三日して、ぼやっとそいつが同じとこに立っとったこともあるわ、やって欲しいねんな」
ぼくは、この強烈な言葉のはしはしから、夕焼け空を背に、肥溜めのほとり一人佇む女、それが何歳くらいで、どのような姿形なのか、まったくわからぬが、要するに女が、強姦してもらいたくて待っている光景を、その後何度思いえがいたことか。今でも、強姦ときくと、袋かぶせられたようになった女の上体、二本ニューッとむき出しの脚、あるいは、尻の丸みに沿ってずり下ってゆく下穿きがうかび、もくりもくりと大地のゆらめく感じが、伝わってくるのだ。
青年の知識が、かなりインチキであることはこれが、親告罪であるのを、「強姦いうたかて、親がサツにいわな罪になれへん。そやから、親のおらん女狙い目にするとええわ」と、もっとも肝心なことについて、まったく無知であったことからわかるのだが、男の中に、強姦についての知識をひけらかしたい気持があるのは事実で、たとえば酒席などで、ハンケチ敷けば罪にならぬとでも一人がいうと、反論やらあるいは判例について、実に一座姦しくなる。
そして、男の強姦願望には二種類あるようで、いやがる女を力ずくで征服し、やがてもくりもくりと先様の腰をうごかす、そのあたりに、日頃なれ合いばかりのセックスとことなるよろこびをえがく者と、最後まで抵抗しつづけてもらいたい一派に分かれる。前者が、まあフェミニスト、心やさしいのかというとそうでもなく、女なんてものは、口であらがいつつも生身の悲しさに、いつしか息づかいも乱れ、むしろすすんで行為をたのしむと、期待しているのだし、後者の方が、女の精神性を認めて、いやなものは最後までいやというだけの、気位があるはずと、ねがっている。
ぼく自身どっちかというと、まあ後者の方であって、実に困ることは、相手が死物狂いで暴れるだろうと考え、きっと口をきわめて小生をののしりつづけ、半狂乱となるその女体を想像したとたん、しごく興醒めして、そんな怖ろしい相手に向かっていどみかかるなど、とても不可能に思えてくる。つまり、強姦はよろしいだろうなと妄想してみても、被姦者と自分の関係を考えると、すっと醒めてしまうのであって、しかし、青年の説の如く、乳房押さえたとたん、くにゃくにゃになられちまったり、または阿鼻叫喚の状態がもたらされるのなら、これは通常の営みと何らかわることがない。
それまでまったくの他人、言葉なんてものもいっさい交したことのない男女が、お互いの表情たしかめることもなく、男はひたすら力によっておしひしぎ、女の方は、生命の危険感からいやいや受け入れて、じっと袂を噛み、耐えているというようなのが、ではあらまほしき姿かといえば、これでは芸者の水揚げみたいだし、奉仕精神のかけた娼婦を抱いているようでもある。
誰でも男ならこの種の願望をいだいているくせに、では、具体的にどうするのか、突きつめて考えたらよくわからないのではないか。だから、枝葉末節の手段やら、あるいは法律的な妄語を弄し、わかったようなつもりになるのだろう。しかし、女性の方の、被姦願望についていうと、処女の考えるセックスというものは、まず自分が犯されるという形であり、また、数多の男を知った女性の抱く被姦妄想は、めくるめく快感の期待が大きいらしいのだ。
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これぞ女の願望なり
少年が、セックス営むことにつき、あれこれ妄想たくましくする際の、まず第一の障害は、あの何くわぬ顔して、おちょぼ口に手を当て、おほほのほなど取りすましている女性一般が、自らの、この醜悪なるしろものをおさめてくれるとは、到底信じがたいということにある。
しかも、少年は自分の欲望を、いやしく動物的なたぐいとみなして恥じているから、なおじくじたる気持となり、一生のうちで、セックスのかなえられるチャンスなど、自分にはめぐり来ないのではないかと、危惧しているし、また、強姦について具体的に考えられもしない。
ところが少女のそれは、セックスすなわち犯されることである、まさか自分からすすんで、そのような行為のできるはずもなく、何時の日か、白馬にうちまたがった騎士が、颯爽とあらわれ、自分を力ずくでものにするのだろうと考えている。その行為は、あくまで清らかなままでいる自分を、無理無体に押しころがし、乱暴をはたらく、またそうでなければならない。自分の方から迎え入れるなど、いかにも魅力にとぼしい女の如くであり、はしたないと思いさだめてもいる。だから、少女たちがセックスについて口にする単語は、きわめて直接的であり、「ハメル」とか「ヤル」などけろっとしていい、それは、自分とは関係のない、相手側の行為であるからだ。
そして、少年なら、セックスを経験することが、本質的な大人の資格ではない。まあ、酒や煙草と同じ、大人ぶりの勲章といったところだけれど、少女の場合はことなる。メンスや発毛は、女の、というより人間として欠かすべからざるものであるし、男に犯され、その結果、妊娠しなければ、半端者という予感をいだいている。セックスを営む、すなわち犯されることで、ようやく一人前になるのだから、その願望は、少年よりはるかに強いのが当然であろう。少年なら、妄想のさまざまなパターンの一つでしか強姦はない。要は、自分のところに女がまわって来るのだろうかと、ねがう気持がまずあるのだが、少女は、取りあえず強姦されなきゃ、大人になれないと信じているのです。
ところが、白馬の騎士はいっこうにあらわれない。そこで一方は、無理にも犯されたい気持から眼をそらせて、愛の、わかれのと懸命に精神的な面で発散させようとし、また一方では、そういった言葉のむなしさを心得ているだけに、誰でもいい、乞食だってかまわないから、一足とびに自分を女にしてくれないかと考えはじめる。いっそこの時期を通り過ぎてしまうと、セックスが何もいわゆる強姦でのみはじまるものじゃないとわかるし、自分の男についての好みもはっきりしてくる。「気持わるい」「いやらしい」「かっこいい」「ごきげん」といった大雑把な分類ではなく、処世上の分別がはたらき、自分の分際もわかってくる。したがって強姦願望は少々遠のくけれど、十四、五歳の少女の、この気持はきわめて強いものなのだ。そしてそれは、春、洋服が開放的になった時の、風の肌ざわりや、にじむ汗に触発され、また、秋、下半身にのしかかる布団の重さやら、女にならぬまま、また一年を過ごす悔恨に、あらためてそそのかされる。
少女期を過ぎるとしばらく薄れて、また二十五、六歳以上になると、快楽をはっきり目的として、あるいはその年まで、まだ男を知らないならば、今度は、自分で探し求めたり、わずらわしい恋の手続きの果てにセックス営むだけのゆとりがなくなり、このことを切望しはじめる。夫がある場合でも、ありきたりの、かくすればかくなりはつる月並みな営みにあき、しかも、男と同様にセックスについては、妄想がはっきりえがけるようになるから、密通を思い、少年たぶらかすことを考え、中でも強烈な刺戟は、自分の意志と関係なく、力ずくで男に犯される行為である。
これは、やはり人妻でありながら、いちいち男漁りをするうとましさやら、おっくうさ、また、いくらかは罪の意識もあって、男まかせにしたい気持もあるだろうけれど、なにより、なれ合いのセックスではなく、圧倒的に強い力、当然、男根も巨大であるだろうし、息も絶え絶えの状態にまでさいなまれる自分に、うっとりしてしまうのだ。
人妻は強姦を、一つのあるべきセックスの形と考え、世間体やら、その際に与えられるかも知れぬ外傷、生命の危険は好ましくないが、決して心底身ぶるいして嫌悪する行為とは、考えていない。人妻の多くは、強姦体験談にかなりの反応をしめし、その際の快楽についても、それが自分の意志とかかわりあいのない、一方的に運ばれた行為でも、十分に味わえるだろうと、予測している。
そして強姦という行為は女性にとり、たとえその時は屈辱以外の何物でもなく、また、何の快楽が得られずとも、丁度、少年がただ一度、少女と抱擁した記憶、その息づかいや体臭を思い起して、「|※[#「手へん+上/下」]《ヽ》」のアテとするように、あとになって、その体験を自分なりに再構成し、夫あるいは情人の躯を借り、被姦の追体験が可能らしい。それは、かなり強烈であって、男性に、その際の強姦者に似た行為をさりげなく強制し、ある場合には、前戯風行為、愛のささやきを拒否し、常に単刀直入をもとめるようにかわるという例がある。
若い女性が、男性と営むことを、「ゆるす」「あげる」「捧げた」というような表現を好むのは、少女時代の被姦願望が尾をひいているので、セックス即犯されるというイメージから抜けきれていないためだし、人妻がかなり積極的に男を誘惑しておきながら、いっこうに罪の意識がないのも、強姦されたいとねがう気持が、誘惑者であったにもかかわらずすりかわって、自分を世間一般の考え方による被害者と、み立てているからなのだ。すすんで酒をのみ、あやしげな場所に同行しつつ、最後を男の力ずくで犯されるという形を好むのも、亭主相手では絶対に、強姦が成り立たないためである。
以上の願望の中に、不思議といわゆる輪姦は含まれず、多人数による強姦は、少女も人妻もいやであるらしい、輪姦罪が親告を必要としない、一つの理由であろうか。
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見初めてより
戦争中だったからか、あるいはぼくが、小心勤勉なる中学生たりし故か、中学へ入ってもきわめてとぼしい性知識しかなく、また、親切に解説してくれる先輩、軟派も身近かにないまま、誰でもやるように広辞林の「淫売婦」の項をひき、「春をひさぐ女、売笑婦、女郎」なんて解釈に、「春とは何や、スプリングハズカムの、あのスプリングか」と呆然、また以後は「女郎花」「女郎蜘蛛」の字をみて、胸がさわぐというたわいなさだった。何も淫売婦という、玄妙不可思議な存在についての無知だけではなく、営みそのものが、隔靴掻痒の感じで、理くつはとっくにわかっていたが、いわば姿がどうものみこめないのだ。
中学一年の時、同衾する男女の線画をみたことがあり、もとより布団をかぶっていて、頭二つならぶだけのものだが、まことに衝撃的な印象を受け、今でも、漫画などで、よく似た図柄に出くわすと、もっとより直接的な写真みるよりも、異様なショックを受ける。つまり、眼にしてはいけないものという、感じがある。同時に、裸の女の、床におちた豆拾う姿を、男たちがながめてうち興ずる一枚も観賞したが、このポーズが、いかに卑猥なものであるかなど、わからないから妄想のえがきようもなく、困惑しきった女の表情だけが記憶に残っている。
はじめて蒙を啓《ひら》いたのは、学校からの帰途、前巻で触れた上筒井の公園の便所へ入り、そこのまったく写実にえがかれた落書によってである。その便所に入ったのは、便意もよおしてのことだったかどうだったか、はっきり覚えていない。
戦時中のことだから、公園といっても、ろくに立木もなく、便所の硝子や戸も破れ放題、それはまあとにかく、汚れ方がすさまじかった。大便所なのだけれど、便器などどこにあるかわからないほど、糞便の盛り上り、床にあふれたか、あるいは、せめて腰しゃがませる空間を探して、あたりかまわず放出したのか、とにかく厚さ三十糎くらいが糞の海。さらにくわしくいえば、こういう場所にかけこむのだから、皆様下痢気味なのだろう、ほとんど形ないまま固まって、幾重にも層をなし、色合いは千差万別、偏見を捨ててみるならば、あれはあれで一種の美があったように思う。
眼の高さの壁一面に絵があり、裸の男女がからみ合う図柄、釘で彫ったらしく、その絵の上にも刷毛でこすったような、糞のあとがあったが、いっこう観賞をそこなうにはいたってない。気がつくと、小生糞の海の中の、わずかにみえる|きんかくし《ヽヽヽヽヽ》の、前の部分に片足を乗せ、窓枠に手を支えて、しげしげとながめ、かたわらにそえられた文字を読んでいた。
作者は、たしかな腕をもっていて、それまで交媾の姿がいかなるものか、さっぱりつかめないでいたのに、すっきり納得でき、からみ合った姿態については、かなりこまかい部分まで覚えている。珍宝の浮世絵風誇張はなく、みたことのない於芽弧のたたずまいについても、なるほどこうなっているのかと、説得力があったのだ。帰校時だし、あれは秋もかなり深まった頃だったから、つるべおとしに陽の暮れる中で、三十分くらいも面壁していたのだろうか。
便所の表へ出たら、突如としてすさまじい臭気が襲い、ぼくは立木の根方に吐いた。入った時、当然糞の臭いに取り巻かれ、かなり辟易したのだが、絵の迫力にすぐ忘れ、やがてなれてしまったのだろう。面壁している時は、まるで気にならなかったのに、表の空気に触れると、爆発した如く、臭いがよみがえったのだ。
吐きつづけ涙を流しながら、ぼくは、あんなに克明に、しかも上手にえがけたのは、きっと写生したにちがいないと、妙なことを考えていた。あの通りに糞の中で営みつつ、右手で壁に釘をはしらせたのだと、その姿を想像し、図柄は今でいう立位ではなかったから、まったく不可能なのに、そうきめこんで、ようやく気が落着いた。想像だけで、あんなに精密にえがくことができるなど、なんだかゆるせないような感じがあった。
交媾について、はっきりたしかめたといっても、別にこっちの意識がかわる、つまり女をみる眼に変化をきたすとか、自分も、具体的に真似てみたいなど思わず、ぼくはすでに一種のマスターベーションを常時行っていたが、その際のあては、これまで通り国民学校で一緒だった美少女、卒業記念アルバムの、その姿にくちづけをし、あまりくりかえしたから、小さなその顔に、なめくじはいずったあとのような光沢が加わり、わが行為バレやしないかと、心配になり指でこすると、破れてしまった。それでも、ぼくはけば立ち破れたそこにくちづけをくりかえし、以後アルバムは本棚の後に隠しておいた。
この便所には、何回も友人を連れておとずれ、彼等は、ぼくほど胸うたれなかったようで、ごく素直にすさまじい臭気に閉口し、おそるおそるながめるだけ。ぼくは、あまり反応がないのにいら立って、「あんな、こいつやりながら描きよってん、俺みててんで。そいで、俺がのぞいてるのん気いついてから、ものすごい声で怒鳴りよったわ」、嘘八百を口にしたのだけれど、かえってしらけるような感じ。
連中が、もうこの|て《ヽ》の絵を幾度もながめたことがあるように、落着いていたのは、ぼくほど関心がなかったからなのか、あるいは、その時期を通過していた、いや、そんなことはあるはずがないだろうけど、あきずに通いつめたのは、ぼくだけで、そのつど反吐《へど》をはき、条件反射みたいなもので、公園に近づくと、吐き気が生れ、まだ残っているだろうかと心配し、絵と一緒に幾重にも積み重なった糞のたたずまいを思い、はっきり臭気が鼻をうつ。
当時、少年警官というのがいて、サーベルの代りに、なわを腰に下げていたが、そのなわがほどけ、長くひきずりながら歩いているのを、こっちはうしろめたいから、遠ざかるのを待ち、暮れなずむ便所へこっそり入ったことを、ほんとうに、昨日のことの如く思い出す。
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男色こそ正道なり
近頃、おかまとのむことが多いのだけれど、彼女たちの話をきいていれば、ぼくのようなジュンタチ族、これは女だけを相手とするむきをいうのだが、むしろ異常であるような気がして来る。そして、つくづく胸に手を当て考えてみると、小生にもその気配は十分あるのであって、ただ、男性の、たとえば石堂淑朗氏の珍宝やら、五木寛之氏の唇に接触することになれてないだけではないかと思う。つまり、かなり幼い頃、男と女の差についてはっきり心得ぬ時代に、これを経験してしまえば、何のこだわりもないはず、ぼく自身が、今のところホモでないのは、一種のくわず嫌いでしかないように思えて来るのだ。
中学一年の頃、同級生に美少年がいて、この男と角力を取る時、簡単に勝てるにもかかわらず、取っくみ合ったまま、じっとしていたい気持が強く、そして、投げたらどうしたって躯がはなれるから、土俵際まで押しこみ、重ね餅になって倒れることを、意識して行ったことがある。これは決して、女性にもとめ、かなえられぬ代償を美少年に果たしたのではなく、当時は、異性と言葉交すこともゆるされなかったから、あまりたしかにいえないけれど、それなりに完結するたのしみだったと思うのだ。
また中学四年の時、農村の灌漑池で泳ぎ、朝鮮人の少年、あれは十歳くらいだと思うが、ぼくの膝に乗っかって、そのすべすべした尻の感触に、みるみるわが珍宝いきり立ち、ひどくあわてたことがあった。十五、六歳といえば、風が吹いてもエレクトする頃だから、これをもってわが男色的傾向のあかしとはいえないだろうけれど、未だにこのときの、濁った水の色や、そのぬるま湯の如き肌ざわりをはっきり覚えているし、池のほとり通るたび、少年の尻の具合、よみがえらせた記憶がなまなましくあるのだから、いくらかその素質のないでもないのではないか。
男色について、はっきり知ったのは、父の蔵書の中に、昭和初期の、まあ秘密出版に属する雑誌があり、綿貫兵助氏なる方が、自らの体験を物語っていて、よく覚えていないが、七十歳くらいの老人を相手どる描写があり、綿貫氏によると、男は七十歳であっても、そのアヌスは処女の如くに締まりがよくて、これを犯しにかかると、爺さん額にしわを寄せ、痛みに耐える風情がえもいわれず、ついいとしさの余り「痛いか」ときくと、「うんにゃ」と、答えるのだ。
ぼくは、男色ときくと、この「うんにゃ」を連想し、つづいて七十歳の老人を考え、それで、ついためらってしまう癖がついたように思う。しかし、今から十五年くらい前に、一種のゲイバアブームというのが起り、これはすぐに消え去って、なぜなら、ゲイバアの主人はひどく心やさしく、しかも惚れっぽいから、勘定取り立てることが苦手で、経営不振となったのだが、そしてまたこの頃は、ホモが、文化人であることのしるしみたいにいわれ、三流四流の連中、ことさらカマッ気をひけらかしていたように思うけれど、近頃はそうじゃない。
しかも、別だんアリバイという意味ではなく、おかまだってちゃんと女房をもち、子供も産む。女を抱くこともできりゃ、また男も抱ける、さらに女として男に抱かれることもできるというのは、セックスにおける八宗兼学というべく、この方が、さらに実り多い快楽を得られるにちがいないのだ。
今ふと考えたのだけれど、そういえば、セックスだけでなく、おかまというか、ホモの人間は、一つことにだけ熱中せず、たとえば、語学でいうと五カ国語くらいマスターし、肉体的表現なら、踊りを、日本、中国、西洋、東南アジアとそれぞれのお国ぶり身につけるようなところがある。スペシャリストではなく、ジェネラリストなのだ。この点からいったって、小生など、それなりにかなりおかま的ではないかと思うのだが。
そして世間一般の風潮をみると、抜きがたくおかま風になっているので、あのゴルフなんてものはそうではないか。昔なら、料理屋などで、とにかく女を席に加えて、男はたのしんだ。しかし、ゴルフは男同士だし、麻雀もまずは同じこと。また、競馬だってそうで、男は、仕事以外の場所において、非常におかま的というか、同性愛風色どりを濃くしている。
今から、十年くらい前は、女にもてる男が、まあ英雄であったけれど、現在はまったくちがって、女にもてる、あるいはこまめに女を口説きまわる男なんてものは、特異に近くみられているのだ。にもかかわらず、モテモテ男を、たてまつっているのは、自分は男とつき合ってる方がいい、しかし、残像の如く、女との交渉こそあるべき形のように思い、だから、未だに女を口説く男を、いやあ御苦労さんです、あなたのような方がいるから、こっちは気楽に男同士たのしんでいられるのですと、感謝する気持。本来なら、こっちが面倒みてやらなきゃいけないところを、すすんで肩代りしてくれるから、ありがとうありがとうとねぎらう気持があるので、プレイボーイなんて肩書は、どうもピエロと同じではないのか。
ウーマンリブも、こういった男側の変化を本能的に嗅ぎとって、ぎゃあぎゃあのたうちまわっているのだろうし、セックスにおいて、ひどく機械的な考え方、それは婦人雑誌のとじこみ付録をみればよくわかるけど、あれも怯えのあらわれだ。やがては、女と於芽弧するなど、えらいアブノーマルなことになるにちがいない、特に人工胎盤が完成して、人類の未来を、あんなにややこしい手続きに託さなくて済むとなれば、男は、どうして女などと一緒に暮しましょうや。地球上のもっともいやな男と共同生活する方が、同じくもっともやさしい女と同じ屋根の下に暮すよりいいと、つくづく思うのであります。
ホモとかおかまというからいけない、そっちが本当で、於芽弧の方がおかしいのだ。「あいつは於芽弧だってよ」「へえ、気持わるい」なんてことに、やがてなるでしょう。
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わが貞操の岐路
おかまという言葉をきいたのは、戦争中のことで、年長者が説明してくれたが、説明する方にも、はっきりした概念はつかめていないようで、ぼくはなんとなく、見世物小屋に出て来る蜘蛛女や蛇娘の如きものを想像し、セックスに結びつけては、まるで考えなかった。
戦後になり、男色愛好者にさそわれて、こっちはただ飯にありつけるならありがたいと、のこのこその下宿へ同行し、危機一髪のことはあったが、それでも相手の意図をはっきりはつかめず、なんでけったいなことをするのかと、あるいは哀願し、またカサにかかって、あれこれしかけるのをながめ、かなり複雑な気持で、というのは、男が当時としては極上の御馳走であるスキヤキを用意してくれ、半ば平らげたところで、おっぱじまったからで、その意を迎えれば、残りを平らげることもできるし、あるいはその後、汁に飯を入れ、おじやの如くしてたべると非常にうまい、実にどうも残念とうしろ髪ひかれる思いで逃げ出したのだ。男は、朝鮮からの引揚者、平壌で洋服屋を営んでいたらしいが、あれでもし、スキヤキに箸つける前だったら、匂いにつられて、我慢したかも知れず、すると今頃小生は、アーラヤーネェなんてんで、手の甲を唇に当て、しなをつくり夜の巷に、アダ花を咲かせていただろう、実に人の運命というものは、あやふやなものだと思うのである。
つぎに、ぼくが、そのチャンスを得たのは、すっかり有名になったが、銀座五丁目小野ピアノ隣りの「ブランスウィック」に一週間ばかり勤めた時。昭和二十七年春に、この店がボーイを募集し、まんまと合格して、一階のカウンターではたらいたのだが、すでに熱帯魚の水槽があり、壁にソンブレロを飾り、外国製ドーナッツ盤レコードが無造作につみ上げられていて、妙に植民地風雰囲気の店だった。水|捌《は》けがわるくて、カウンターの中側は常に水が溜り、長靴をはき、ズボンまくり上げて、ぼくはせっせとコップ磨き、氷割りに精を出し、昼間はごくふつうの喫茶店で、夕方から少々ムードがおかしくなる。
といっても、しかとはわからず、ぼくは六時になると御用じまいで、かえる時、入れちがいにとてつもない美少年が二階へつぎつぎに吸いこまれ、早番というのだろうか、その一人二人が、まだこっちの勤務中、階下へおりてきて客としゃべり、どうやら薄化粧をしているように見えた。
マスターはケニーといい、混血児風美男子だったが、ひどくやさしい男で、アイスピックで傷ついたわが掌を、痛ましげにながめ、赤チンなどぬってくれ、がっちりした体格なのに、マシマロの如くやわらかい掌が印象に残っている。今もその人物は、ゲイ界で有名なのだそうだが、そのうち、客の一人が酒をおごるといってぼくを連れ出し、こっちはまたしても意地汚なくついていって、突如、キスを迫られたのだ。月島の先きの方だったが、仰天して逃げ出し、夜道をとぼとぼ歩きながら、男色についての知識ほとんどなかったのに、店のたたずまいや、美少年の物腰を考えて、納得がいき、翌日夕刻、ミスターケニーに辞める旨申し出たら、ゆっくりうなずきつつ、「じゃ、最後だから、二階でお酒をおごりましょう、こういう世界のあることも知っておいてわるくない」と、案内してくれ、まだ時間は早くて、客はいなかったけれど、丁度、今の銀座のバアの開店前のような感じて、美少年が四、五人ひっそりボックスに坐り、奥に螺旋階段のあるのが、印象に残った。
小瓶のビールを四、五本おごってくれ、ケニーはどうものまなかったように思うし、何をしゃべったかも覚えていない。やがて客があらわれ、美少年の肩を抱き、くちづけをし、その風態が、美少年に較べ、いちじるしく野暮ったい感じで、むしろ残酷なながめにみえた。「時々ね、ショウをやることもある」ケニーは螺旋階段を顎でしゃくり、ぼくはその上から、裸の美少年がしゃなりしゃなりおりてくる姿を想像し、刺戟受けるより、呆然としてしまって、その後、酔ったあげくたかり半分に、ブランスウィックをおとずれると、ケニーはいつもおごってくれた。二十九年頃に火事で焼けて、再建されず、ケニーは死んだと噂が流れたが、昭和三十七年の暮だったか、三島由紀夫氏にあったら、「ケニーは生きてるんだってさ」と、いっていた。その生き死にについてさえ、明確に判定下しかねるような、やさしい怪物といった印象が、強く今もある。
それからゲイバアブームが起って、銀座にもふえ、男十人に、何気ない調子で、「あなたはゲイボーイにもてるでしょう」とたずねれば、まあ九人は、「そういえば、そんな風だなあ」と、鼻の下をのばすもので、これはただ彼等が、いかに人あしらいの名手であるかという証拠に過ぎない。女にもてなくても、小生もまた、ゲイボーイに惚れられたような気分になったことは既に述べたが、昭和三十四年頃、六本木に住んでいた時に、午後三時になると、必ずノックがあって、ボーイ氏がにこやかにあらわれる。そして家政婦よろしく、掃除洗濯をし、飯の用意ととのえ、何ということもなくかえっていくのだが、あまり毎日きちんと時間がきまっているので、気味がわるくなり、三時近くなると落着かず、居留守使ってみたり、銭湯に出かけたり、そのくせ、いっそ百尺竿頭一歩すすめてみるかなあと、思ったり。この時に、もし結ばれていたら、どうなったろうか、いわゆるおタチになり今頃、鋭い眼つきで、敵娼をもとめ、巷をさまよっているかも知れぬ。
それ以後は、チャンスもないが、一度、身の危険を感じたというか、新宿を歩くのが怖かったのは、おかまとかゲイボーイにつき、知ったかぶりの駄文を書いたら、その親玉の逆鱗に触れ、「あの黒眼鏡、今度あったら強姦しちゃう」といっていると、人伝てにきいた時。こりゃ何ですよ、テロのブラックリストにのるより、怖いですよ。
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青いダイヤのゆくえ
処女が好きだなんてことを口にすると、たいていの相手は、複雑な表情をうかべるものである。決して、「そうか、俺も好きなんだ、あれはええなあ」など相槌を期待はできない。
まず、お前もいよいよ骨の髄から中年男になったなと、軽蔑の色あらわにされるか、あるいは、あんな労多くして功少きものはないと、教えさとすか、また、悪趣味であるとけなしつけるか、しかも、それ以上に話題の発展することものぞめないのだ。
つまり「俺は処女がいいなあ」「へっ」「お前、そうは思わないか」「別に。ところで、キックボクシングはまだやってんのか」というように、先方はなにやらあわてて関係のない事柄を口にする。
本当に皆様、処女などくだらないと思っていなさるのか、あるいは、いくら望んだところで、そうおいそれとかなえられることじゃないから、強いて眼をそむけておられるのか。小生は、これまでずい分いろんなことを体験してきたけれども、組合運動と処女についてはあまり知らなくて、しごくトンチンカンな考え方をしているのかも知れぬ。
たとえば、あの賃上げ闘争とかで、上役とぎゃんぎゃんやり合ったあげく、交渉妥結すれば、また仲睦まじく社業の発展に力をつくすなんてのが、しごく摩訶不思議に思える。そしてまた、誰だって、その女にとり自分がはじめての男というのは、かなりいい気分だろうと考えるのだけれど、これはまちがっているのか。
まあ、処女を犯せば、なんとなく、先方の今後人生について責任を負わなきゃならないような、心理的負担はある。また、さまざまな手続きについても、濶達自在の場合よりは面倒臭いにちがいない。男のよろこびというものは、先様の阿鼻叫喚のたうちまわるさまをたしかめて、得られるというから、処女の場合にはそのかなえられぬこともわかる。
近頃では、国際保護鳥トキの如くに、この存在は数が少くなっているそうで、わが愛読する女性週刊誌によると、中学生で半分、高校生で二割、女子大生に至っては、おどろくなかれ五%しきゃ、未通女ではないというのだ。いったい誰がわるいことをするのかと思うと、案外同年輩の男によって手ほどきを受けることはなく、中年が多いらしい。しかし、やはり処女のそばにいないと、そのチャンスはないのだろうが、いったい中年男がどうやって、そんなうまいことできるのか、いくら考えたってわからない。
実にどうも小生などは、処女から縁遠い地点に棲息してきたのであって、戦争中、つまりこっちも童貞だった頃は、うかつに席を同じゅうすりゃ半殺しの目に遭わされ、戦後は取りあえず腹が減り、さて衣食どうやらこと足りて、種族保存の本能にいそしむゆとりが生れても、相手は処女とは逆の娼婦。このものすらお上に取り上げられ、時代は性解放なんていっても、まったくチャンスがないまま気がつくと中年であり、この枕言葉は「いやらしい」なのだ。
同じ中年の中に、ばりばり処女破りの英雄がいるというのは、いささか希望を与えてはくれるが、これは本当なのかしら。よく学校の教師に機会が多いというけれど、その立場で生徒を口説くなど、まさしく火中の栗を拾うようなもので、また上役が新入りの女性社員を口説く話もきくけれど、これだって危険きわまりない。そんな勇気ある中年が世の中にみちみちているとは信じがたいのだ。
銀座のバアにだって、たまさかいるらしいけれど、これをあてにするなど、待ち呆けの百姓より愚かしいことだし、いったいどこで探し求め、どうやってアプローチすりゃいいのかさっぱり要領を得ない。ぼくの考える処女というのは、なんとなく集団就職のイメージであって、給料など貰い、いそいそと刺しゅうを袖口に飾ったブラウスを買いもとめ、手入れの行きとどいたバスケットシューズをはいて、日曜日盛り場にくり出したのはいいが、何分土地不案内、新宿でいうなら二幸の裏とか、銀座なら東側のわりにへんぴなあたりを、キッとまなじり決して一直線に歩いているような惑じであり、きっとそうにちがいないと出かけてみても、まあいるのは愚連隊みたいな連中で、こっちが一直線にふし目がちのまま逃げ出さなければならぬ。
男女共学の女学生となると、どうも掃除当番の後で、同級生と歓を倶にしてるような印象。処女とは信じがたく、別学はまた、それだけに好奇心が強くて、案外お粗末に扱っているのではないかと、疑念が湧く。看護婦さんは、医者の餌食となり、踊り子はコメディアンに口説かれ、スチュワデスは国際線パイロットに犯され、処女のそばには、必ず小生以上に強力な存在が鎮座まします。
そして、男に向かってこの話題をもち出せば、みな木で鼻くくった返答をするけれど、女性になるとまるで逆で、「そう、じゃ一人紹介したげましょうか」と、実にどうもシュヴァイツァの化身かと思うほど、やさしい答えのいただけることも、面妖といえば面妖なのだ。たとえばバアのマダムにもちかけると、「じゃあね、とっときのがいるのよ、これはもうきわめつき、しかも美人ときてる。あの娘が男を知ってるようじゃ、もう私、人間が信じられない」なんておっしゃって、こういう場合の処女は、たいてい美人で家が金もちであることが多い。
同性あげつらう場合、しばしばきびしい批判者であるのに、こと処女については、口をきわめて賞めそやすのは、つまり非処女は処女を少しおとしめてみているのだろうか。そういや、二十歳過ぎて処女など気味がわるいという、同性の言葉をよく耳にもする。しかしながら、非処女に処女の紹介をたのむと、安請合いばかりで、かなり義理堅い人だって、必ずすっぽかし、なお念を押すと「二、三日前まではたしかだったけど、どうも男ができたらしいわよ」。常に一足ちがいとなるのは、実にどうも腹立たしい。
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さわらぬ女に祟りなし
ぼく自身、かえりみるとかなりの女人恐怖症であって、その理由は格別なことではない。つまり聖セバスチァン殉教の図にショックを受けたというような、高尚なるいわれ因縁とは縁遠く、ただ、ひどい目に遭っただけのこと。それすら、家に火をつけられたとか、先方が恨み死にしたというが如き、深刻なものではなくて、まあ、かなり以前のできごとだから、包み隠さず告白いたしますと、もう十年になりまするが、小生コールガールを買ったのです。
ごくありきたりの女にみえたが、ホテルヘでもしけこめばいいのに、自分の部屋へ迎え入れて、とどこおりなく一儀を終え、さて三日後、み知らぬ女名前の書留がまいこんで、つまり件《くだん》のガール嬢。文面にいわく
「お金をいただいてしまった私は、あなたを愛する資格を失った女です。でも、私はあなたを愛してしまった、バターフィールド・エイトの主人公の気持が痛いほどよくわかるのです。今更何をとおっしゃるかも知れないけど、そして、かえしたからいいというわけじゃありませんが、いただいたものかえします、せめて遠くから、あなたに思いを寄せることだけ、ゆるして」
てなことが書いてあって、金子《きんす》が同封されている。小生愚かなもんで、かなりよろこんでしまい、バターフィールド・エイトがどんな映画か知らないが、たしか主役はリズのはず。ウヒャウヒャしていると、深夜、不意にガール嬢があらわれ、こっちはまあ据膳とばかり頂戴いたしました。
そして三月後、またまたみ知らぬ女名前の手紙がまいこんで、文面にいわく、
「彼女のあなたに寄せる想いは、私にもわかります。私だって女ですもの。でも、それでは彼女も、そしてあなたも不幸になります。私も自分がどんなに憎まれてもいい、心を鬼にして、やはり中絶するようすすめるつもりです」
仰天して、よく読みかえすってえと、ガール嬢はわが子種を宿し、産むといって日夜ガーゼの産着など縫っているというのだ。この手紙の主は、ガール嬢の親代りとかで、日暮里に知っている医者があるから、一週間入院させて、万遺漏なく処置する、ついては費用五万円寄こせというのであります。
ガール嬢に金を払っていれば、子供ができようと、ひっちゃぶけようと、知ったことじゃない。しかし、金をかえしてきてこっちが受けとり、さらに据膳頂戴した以上、通常の男女の関係と差はないわけで、そりゃまあ突っぱねることも考えたけれど、子供といわれると、百の内九十九まで詐術と思いつつ、残る一つが癪の種。
五万円を指定の宿屋の番頭に預けると、また手紙がきて、無事かき出したから安心しろと御丁寧な文面。ほっと胸なで下したのだが、すぐ追っかけるように電話がガール嬢からあって、「ヘヘヘヘ、私おろさないわよ、ちゃんと産むの、心配しないで」ガチャンと切れて、さあこっちは七転八倒。二人の女に連絡の取りようもなく、この広い空の下のどこかに、わが子種が育ちつつあるかと思うと、いかに陽光さん然と輝いていても、たちまち暗雲低迷の心もちとなり、その後一年に一度ずつ、五年間、
「とっても大きくなったわよ、あなたにそっくり」
と、電話があった。ぼくは据膳くった以外、何もわるいことした覚えはないのだが、これはどういう執念なのだろうか。
ヒモ氏におどかされたことは、以前書いたと思うから略すけれども、風呂拒絶症というのにも出あったことがあり、この方は、温泉マークの湯につかったとたん、泡ふいてひっくらがえっちまったのだ。小生も後から入るつもり、ひょいとのぞくと、もうもうたる湯気の中で白眼むいた女が、大の字によこたわっていなさる。はじめ、そんな入浴癖なのかしらと、声をかけたがこたえはなく、しっかりせよと抱き起せば、心なしか冷たい。
とたんにぼくは死んじまったと考え、松本清張氏は黒の連作を思い出した。小心翼々たる人物が、たまさか浮気をすると、天網恢々なんとやらでえらいアクシデントが起り、これをカバーするうち殺人やら何やらしでかす。こんな温泉マークで女に死なれ、このまま逃げ出せば、天に誓ってぼくが殺したんじゃないけど、まず同伴者が疑われる。番頭に顔をみられているし、といって自首というのか、連れの女が風呂場で死にましたととどけるのも、いかにもぶざまであろう。びくともうごかぬ女体のかたわらで、心底げんなりし、バラバラ事件や、焼きつくすことをしばし妄想したあげく、とにかく着物くらい着せてやろうかと思うが、現場を荒すと刑事の心証わるくするやも知れず、丁度、午後七時二十分、あと十分たったら番頭にいおうと、ひたすら時計をみておりました。
するってえと、女が低いうめきをもらし、頭をもち上げて、ゴツンとまたタイルにうちつけたから、ぼくはほっとするなんてものではない、馬鹿力で女体を布団に運び、タオルで必死に手足こすりたて、やがてキョトンと女は意識を取りもどし、一瞬、小生の顔のみわけもつかないようだった。もはや一儀どころではない、せき立てて宿を立ちいで、右と左にわかれたのだが、一人になったらまたあらたに恐怖感が湧き、膝はガクガクで、とにかく二度と女連れで宿屋などへいくまいと固く決心したのである。
この他に狂人と知らず、契りを交しかけたこともあり、どうも変なのでひかえて、後からきけば、病院から出てきたばかり、この女の「私ねえ、性交が好きなんよ、おかしいかしら」といった言葉が、今もまざまざとよみがえる。
つまり、バターフィールド・エイト、ヒモつき、などなどのおかげをもちまして、小生は女人恐怖症となったのであり、世の女性みればたいていこのどれかに該当するように思える。
そりゃまあ、広い世間には心やさしい、健康で奉仕的美女もいるのだろうが、今のところそういったむきにはぶつかったことがない。なまじ、やさしい女に出あえば、入れあげて破滅するかも知れず、となると、やはり小生はしあわせなのであろうか、どうもよくわからない。
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昭和元禄浮世床
近頃、温泉マークにおける、寝室の知恵というか、創意工夫なるもの、もはや珍奇を通りこして、複雑怪奇の様相を呈している。
戦前にも、もちろん連れこみ宿はあったし、特に神戸では、早くからこの面における開発がすすんでいて、これはやはり港町だから、世界各国のベッド情報が流れこんで、経営者に刺戟を与えたのだろう。
昭和初年の、いわゆるエログロナンセンス時代、ハンモックベッドが出現し、いかなるものかと申しますと、通常のベッドの上に、ハンモックというよりは、網籠に近いしろものが天井からぶら下っていて、この籠は、ベッドサイドの把手により自由に高さを調節できる。男はまず仰臥して、籠の真下に珍宝が来るよう塩梅をこらし、女を籠に入れる。なにしろせまい籠だから、まず二つ折れになった如き態、しかとは申しにくいが、網目から於芽弧ののぞく形にいたしまする。しかる後、籠をゆっくり降下させる時は、これすなわちお前上から下り藤という奴で、陰陽まさに合致する、されば把手で、「上り目下り目くるっとまわってネコの目」ってな具合にたのしむのだ。
このしかけの特徴は、「まわし」にある、すなわち籠を支えているロープをよじって陰陽互いに辛うじて相接するくらいにまでする。そして手をぱっとはなす時は、天然自然にロープはよじれをほぐそうとして、ぐるぐるまわりつつ、しかも下へおりて来る。男はだまって寝てりゃいいのだ。世のドクトルだって、回転於芽弧にまでは言及しておらないだろう、マルセイユの淫売窟が本家という。
大和民族は、寝室をただ寝りゃいいとのみ考え、実に貧しい夜の生活を過ごす。たとえば中国人なら、女房質においても、ここに贅《ぜい》をつくし、またヨーロッパの下宿だって、そのベッドは、三井三菱の番頭の寝床より豪勢であると、昔はよくいわれていた。現在、団地における、あるいはマンションなどのベッドルームがどんな風になっているのか、よく芸能人の寝室が週刊誌に公表されているけれど、これも別だん大したことはないように思える。第一、ふつうの家で寝室という独立した部屋もつことは、まず不可能だし、出し入れ自在の布団であれば、寝室変じて客間、また一転してお通夜営むとか、多面的に活用するから、ベッドルーム独自のインテリアやら、照明やらにはこりにくい。
そのうさを晴らさんがためか、世界に冠たる温泉マーク文化が確立されて、これは他国に例をみない。戦後すぐの頃は知らないけど、昭和二十五、六年になると、神戸にはネオン風呂が出現し、これは何とも能のないようなあるような、つまり、風呂場の電気を消すと、湯船の側壁にうめこまれたネオンというか、とにかくピンクのライトが点くのであります。きっと、まだ肌なれぬ女とここにやってまいりました男、ともに湯へ入ろうと慫慂《しようよう》するが、女恥じらってきき入れぬ。じゃ、君からどうぞなんてんで、先きへ入れ、あとから押しこむと、「あら恥かしい、せめてあかりを消して頂戴」「あいよ」とスイッチ切れば、たしかに闇とはなっても、湯船が煌々と照らし出され、なにもかもあからさま。まあ、そんな風にして使用するのが、正しい用い方なのだろうが、小生一人でここに泊り、暗闇の中に、ぽっかりうかび上ったわがものにながめ入って、しごく中途半端な気持になった。
東京ではどうか知らないが、関西だと、連れこみ宿に一人で泊ることは、不思議でなく、それは番頭に申し出たなら、必ず敵娼を得られるからなのだが、まあ、一人で寝たって追い出されはしない。昔の人は、馬上枕上厠上を、三思の場所としたが、温泉マークに一人呆然として、そこのさまざまなしかけいじくりまわすのも、実にどうもの思いにふけることができ、たとえば、神戸でしごく当たり前の回転ベッド。これは、スイッチ入れるとゆっくりまわりつつ、ベッド自体がせり上るものであって、なぜこんなベッドがよろこばれるかというに、いやがる女を、「何もせえへんて、キスだけや、ええやろ」なんてことをいって、連れこむ。そして、ベッドの上に二人よこたわり、清らかにくちづけなどかわすうち、男はスイッチを入れる。
口であらがいつつも、女体の生理の悲しさに、やはりキスする時は、目をつぶりはるから、せり上りに気がつかぬ。いい加減天井に近くなったところで、男が本性あらわにする、たちまち理性に目覚めた女、「いやよっ」と逃げ出そうったって、ベッドの外は千仭《せんじん》の谷、うっかりとびおりたら、脚を折りかねない。
また安楽ベッドというのもあって、これはベッドの中ほどが、もくりもくりとうごくものであり、女は、いっさい肉体的労働をいたさなくてもすむ。こういう女に楽させる工夫ばかりするから、ますます駄目になるのだが、閑話休題、この回転ベッドや、もくりベッドに一人で寝て、冷蔵庫のビールなどのみながらつれづれなるままスイッチを入れてごらんなさい。
こっちは、醒めているから回転しつつ、ベッドのせり上るその具合がよくわかる。次第に近づく天井をながめながら、一人で回転しているわが身の来し方行く末思う時、実にどうもコギト・エルゴ・スムみたいな心もちであるし、もくりベッドのもくりにわが腰を当て、もくりもくりと他動的に腰をうごかしていても、つい思索的になりがちのものであります。
といっても大したことは考えない、まあ、のぞきはできぬか、便所のカンカラの中をしらべてみよう、冷蔵庫のビールごま化せないか、このベッドをこっそりこわして、せり上ったままおりられないように、あるいはもくりのリズムを突拍子もなく早くできないかなど。そして、小生の如きオナニストであっても、温泉マークに一人泊る時は、不思議とその気はおこらない。
そりゃそうだろうなあ、もくり、ベッドで、もくりもくりとマスをカクなど、こりゃいくらなんだってヘンタイじみておりますよ、ねえ。
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聖処女たちの薬
なんとなく、文章は薬に似ているような気がする。つまり総合保健薬みたいな、何に効くのかよくわからないけれど、いちおう眼を通しておかないと流行おくれになるような文章。これがいちばんベストセラーになる確率が多いのだが、また、長期服用をつづけると、毒に変ずる場合もある。風邪薬の如く、ある特定の症状に対し、有効であるかのように錯覚させる本やら、また、中毒におとしいれる小説だってある。
ハウトゥものは、頓服みたいな感じで、それも富山の薬風印象、記録読物とくると、煎じ薬、これ以上うんぬんすれば、さしさわりがあるからやめるけれど、この小文など、薬にたとえると何だろうか。
まず、読んで下さる方の大半は、男性であるらしく、また意外に多いのが、未成年女性なのであります。血気|旺《さか》んな青少年は、中年のぼやきめいた拙文などにかかわりをもたれぬらしく、また成熟された女性にとっては、たとえば亭主、恋人と較べて、あまりに奇怪だからと、ヘンタイ扱いなさって、はじめから度外視。これは当たり前で、小生のいうように、マスの方がいいなど、信じたくはないだろうし、「ねえ、あなた、私より指の方がいいの?」などとたずねたって、亭主が「はっきりいえばそういうことかな」と、答えるはずがない。
ここで心配なのは、未成年女性が読者である点、この場合、エロトピアは百害あって一利なき危険な薬ということになる。だって、小生決して嘘いつわりを書いているつもりはないが、そしてまた、そちら様があまり自らの快楽をのみ貪ろうとするなら、男は、マスに逃げこみますよと、年少にして知っておくことも、わるくはないだろう。
しかし、男がマスばかりカイているしろものと、てんから信じこんじまったらこりゃ問題であります。「マスターベーションの方がいいっていうのに、どうして赤ちゃんができたの?」と、しごく真面目に質問されたこともあるし、「おねがいがあるんですけど」なんて電話がかかり、何かと思えば、自分は浅学非才にして未だマスの現場をみたことがない。男の兄弟はなく、父にもたのみ難い故、是非、見学さしていただきたいと、お申し出になるのだ。
インポについてもそうで、どういう体型顔つきの男がなり易いか、本当に治療法はないのかとしつこくたずね、これは、やがて背の君をえらぶ際の、参考にしたいのだそうで、純真なる年少読者は、どうやら、男はすべてマス愛好者にして、残りはインポだと、信じこんでいるように思える。
では、どうしてこの小文についてだけ、例外的に若年女子の読者がいるかというと、多分、ぼくが処女を臆面もなく礼讃し、女学生に渇仰するからだろう。よくきいてみると、十四歳くらいから十六歳までの女の子の、自己嫌悪癖というのは激しくて、いや、そういう内攻型の女性だからこそ、手紙を賜わるのかも知れないが、たいていは自らを「いやらしい」「いじましい」「いじわるな」じつにつまらない餓鬼であるとのたまい、何故、こういう最低なる存在に、憧れを寄せるのかわからないとおっしゃる。
彼女たちは、自らの内なる、未だ分明ではないが、しだいに形を明らかにしつつある性の意識について、ある時、強いて眼をそむけ、また開き直って自虐的に考えこみ、思い屈しているらしい。これが十七歳になると、実に実にケロリンポンとして、もはや一人前の女である自分に、大変な自信をもつようになって、すると、馬鹿馬鹿しくって、小生になど手紙は書かないし、小文からも遠ざかる。
すぐけろっと、迷いの季節を過ぎてしまうのだからいいようなものの、しかし、この時期にうえこまれた偏見という奴は、かなり後をひくものであって、ぼくが未だに、女性に性欲があると信じにくいのは、十四、五歳当時のわれを取り巻く環境が、わるかったせいであろう。マスとかインポについて、女性の理解がないと、小生なげきつづけてきたが、といって、年少の読者が、わが偏見を金科玉条とし、これらにつきわかり過ぎちゃうのも、気味がわるい。ベッドで、四苦八苦している男をながめつつ、にたりにたり笑って、「そうなの、あまり私を愛して下さってるから、インポになったのね。わかるわ、あなたの気持、焦らなくていいのよ」など、なぐさめたら、男はなお窮地に追いつめられるし、また、机に向かう亭主のかたわらに、まるめた鼻紙があれば、眉吊り上げて、「またわるい癖がでたのね、自律神経失調症になりますよ」と叱りつけたり、時限爆弾の如く、遠い将来にわが小文は火を吹くかも知れぬ。
こりゃもう薬ではなく毒であって、文章に毒があると自分でいうなど、うぬぼれもいいところとわかっちゃいるけれど、少々罪深くも思います。そしてまた、生きのいい若い女性をわがものとする、青年諸氏に、何よりのいじわるができると考えれば、これはこれで心たのしい。「男というものは、結婚後半月もすりゃ、もう妻を抱きながら、他の女の面影をいだいて、果たすものである」やら、また「結婚式場で、他の花嫁をながめ、しまったと後悔しない花婿はいない」というような説を書きつらね、年少読者をこれからもたぶらかしてやりましょう。
しかし、薬がそうであるように、文章も両刃の剣であって、「もしもし野坂さんですか、あなたは今もせんずりをやってるんですか」やら、「於芽弧って、いつごろからある言葉なんですか、芽はクリトリスで、弧は小陰唇をあらわしているって本当なの」という電話が、すずやかな声でかかってくると、一日暗澹たる気持となる。ましてかたわらに女房でもいてみろ、「いや於芽弧は、私流の当て字で」とはとても答えられないのだ。
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女類のPHP
処女に対して、童貞がある。そして女性が処女でなくなり、さらに何度か経験すると、必ず、肌の色艶とか身のこなし、また、息づかい声音にまであらわれるものだ。しかし、童貞が、女体を知ったからといって、さほどそのしるしが目立つわけではなく、当人がいい触らさなきゃ、まずわからない。
これは、男なら、ただ放出するだけなのに、女は何やかや受け入れて、ホルモンにまで影響するという、その差なのだろうか。あるいは、もっと精神的な面で、つまり、男は童貞でなくなっても、特に男として完成されたわけでも、社会的に認められるのでもない。
しかし、女の場合、よくいわれるように、これで、ようやく一人前の「女になった」という、充足感があるから、あのようにデレッとした感じにかわるのか、あるいはまた、もはや非処女であるという、開き直りが、彼女たちから、緊張感を失わせているのだろうか。
もし、童貞に、たとえば童貞栓というようなものがあって、女体と接することで、これがはずれるというようなしかけになっていたら、女性もまた、しごく物理的というか、即物的に、童貞栓の有無を問題にするのかしら。いや、そうではあるまい、たいていの女は、自分の亭主が童貞だなんて、気味がわるいといい、これはかなり本音らしいのだ。
もし非処女ならば、亭主たるべき男は、なるべく床上手で、初手から十分にたのしませてもらいたくて、このものを嫌悪するのだろうし、また未通女は、お互い暗中模索ごちゃごちゃするのがいやで、手練れを望むのだろう。そして不思議なことは、いかなる嫉妬深い女も、亭主の結婚前の相手には、あまりとやかくいわないもので、何かにつけてしごく非論理的な女性が、このことにだけ筋を通すのは何故だろうか。
この点でだけみれば、男の方がよほど女々しくて、とっくに承知で結婚しても、十年二十年経って、まだ折りに触れ、妻の結婚前の関係を問いつめたりする。これと丁度逆に、結婚したが最後、女房は亭主の浮気を絶対にゆるさず、この理由の第一は、本来なら自分がたのしむべきものを、他の女に与えてしまったということらしい。別に家庭をこわすわけでもないし、男が浮気するなんてことは、犬がワンワン、鴉カァと鳴くほど、当然な現象と、十分心得ているはず。小説だってTVだって、日夜そのことをPRしてるようなものなのに、まったく思いやりがないのは、丁度、犬が餌をとられた状態と同じなのだろう。
亭主は、そりゃ女房の浮気が明らかになれば、怒るだろうけれど、このことについて、実に心くばりをしない。女房の悪しき心ざまを、十分に知りながら、どういう確信の上に立ってか、自分の女房だけは、絶対に浮気するはずがないときめこんでいる。
しかし、ぼくの知っているかぎりでも、人妻ほど図々しくあそび、バレないというその場かぎりの保証でもあれば、簡単に男に抱かれる存在もない。かなり亭主より劣る男であっても、ふだんのどっちかというと義理にからまれた交情に較べりゃ、新鮮だし、男の方も、あたらしい相手なんだから、必死に奮励努力するのが当然で、おもしろいにはちがいない。
亭主の浮気は、女房にバレやしないかと、怯えきっているから、かえってボロが出やすいけれど、亭主が自分を疑うわけないと、たかくくっている女房のそれは、まず露見しないものである。幼稚園、小学校のPTAとか、遠足、あるいは出身校の同窓会やら、知人の葬式と、いくらだって、理由はつけられるのであって、男とうまくしめし合わせりゃ、デパートヘ特売の買物と称しても、目的を果たし得る。
これはつまり、亭主はいっこうに女房とのことにたのしんでいないから、こんな女をひっかける男がいるわけもないと、古女房を馬鹿にしているせいでもある。根本的にいや、浮気されたって、どうってことはないんだもの。
夫婦が、かなりの年になって、お互いさまもう欲も得もなくなった関係、子供は結婚したし、財産もいくらかはある。妻からすれば半分分けてもらって、老後をのうのうと暮せばいいのに、ぶつぶついいつつわかれないその理由は、亭主以外に、もう誰も自分を抱いてくれないとわかっているからである。口うるさくて、ケチで、まったく取柄のない亭主と、とにかく一緒にいるのは、時々、たとえ半年にいっぺんでも、肌を合わせる、あるいはその望みをもっていられるからであります。五十になったって、女性はかなりすさまじく欲情するものらしく、そしていかに他人の女房が色増さるといっても、その年齢ならば、よほどのことがなきゃ、男は相手にしない。たよるところは亭主だけなのだ。
同様にして、亭主がわかれない理由は、ひたすら死水を取ってもらいたいから。どうせ亭主の方が先きに死ぬにきまっている、いかに金があり、上等な病院へ入って、看護婦につきそわれても、最後の時に、「お母ちゃん」と甘えることのできるのは、ふだんいかに鬼か夜叉の如くであろうとも、女房だけ。いや、少くとも、甘えさせてもらえると、亭主は信じている。かなり豪毅大勇の士でも臨終の際は子供にかえり、妻に駄々こねたりするらしい。この時、看護婦じゃ困るのです、いうなれば、臨終要員として、妻を飼うといってもよろしかろう。それが証拠に、老夫婦で、女房が先き立った場合、みるもみじめに亭主は老いの度を早め、逆だと、残された方はのびのびするではないか。
男と女のちがいはずい分あるけれど、そしてつまるところ凸と凹の差なんだろうけど、しぶといというか、生きることに貪欲である点をいえば、これはもう女性が圧倒的に強くて、男など屁みたいな存在。そこいらへんにいるお爺さんとお婆さんを較べてごらんなさい、前者が、いかにも脱け殻といった感じであるのに、後者はびっしり中身がつまっている印象。
しかしどう考えても、セーラー服の女学生が時をへて、あのお婆さんになるとは信じられないなあ。
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しもじものパッケージ
ミニスカートから、ホットパンツに至って、ますます女性風俗の幼女化が顕著になったけれど、これは完全に男性側の、性的能力の衰退を反映するものであろう。
満六十歳を本卦がえりといって、老人に赤いチャンチャンコなど着せ、もう一度、子供からやり直す、つまりこの場合は長寿をねがうのだろうけれど、今や、男性すべて本卦がえりみたいなもの、性意識については、どんどん幼児期に逆行しているように思える。
たとえば、あの、アメリカン・クラッカーなるカチンカチンとうるさい球は赤ん坊のガラガラによく似ていて、一面においては孤独をまぎらわせ、また、自己顕示欲のあらわれでもある。
かつて、不況時代にヨーヨーがはやったけれど、そしてカチンカチンとの相似性がいわれているが、ヨーヨーよりさらにむなしいのは、あの音であって、道を歩きながら、カチカチとせわしく球をあやつり、したりげに鼻うごめかしている若者をみれば、ガラガラをふって、大人の注意をひきたい赤ん坊そっくりであり、せめて音でも立て、周囲の関心を集めたいというしごく幼稚な欲望がうかがえるのだ。
本来なら、女を口説くとか、あるいは敵とたたかうなど、若者らしい行動に出てしかるべきところを、敵などいやしないし、女についても、自らをかり立てるべき拠りどころがない。男にとっての性は、かなり観念的なもので、つまりあわねばこそかなわぬからつのる想いであって、しのぶ恋といった色合い、あるいはライバルを想定することで、カッカとのぼせ上る。具体的に女を抱きたいのではなく、そういった心理的カセを自分でつくり、そして、熱を上げるのだけれど、今ではしごくやりにくい。
フリーセックスなんてものは、北極をこえた向こうの国にあるから憧れるのであって、実際にそんな考え方が一般的になれば、地獄におちるのは男である。挑戦すべきタブーがなければ、男などまるでふるい立たないはず。フリーセックス自体、ある国において、秩序に対する反抗だったから、はじめこそ、かなり刺戟的であり得た。しかし、そういう考え方が定着したとたん、男は、すぐになれて、意欲を失う。
ポルノ解禁だって同じこと、いざあけっぴろげになってみろ、誰も粗末な写真や、文章など読みはしない。このことについては小生などにも関係があるから、よく考えるのだが、ポルノ解禁こそは、良貨が悪貨を駆逐する稀有の例になるのではないか。
小生は、おおむね助平な物書きということになっていて、わが憧れの女学生など、家庭の中では、読めないという。その分だけ、また助平な期待で読んで下さる方もいるのだろうけれど、どんなに舞文曲筆《ぶぶんきよくひつ》をこらしたって、現在は限度があるから、それ以上は、読者の奔放な想像にまかせ、こっちはくわえ煙草で、のほほんとしてりゃいい。
しかし、すべてあからさまに書いていいとなったら、これはことである。読者の方は、書き手まかせで、どんどん強い刺戟を要求なさるだろうから、そして、百人百様であろうその性的パターンのすべてをカバーすることなどできないから、たちまちみはなされるのではないか。桜田門に向かって、どうぞ取締って下さいと、おねがいする事態にならぬともかぎらない。
書き手が困るだけではなく、遠国にポルノ在りと思えばこそ、あれこれ妄想をたくましくし、その片鱗なりと手に入れば、ふるい立って男らしくもなれたのに、そこいらの雑貨屋で売ってるとなると、なんてことはない。あこがれのポルノは手に入れたとたん砂利やビニールと同じく輝きを失い、貴重な性的刺戟のチャンスを、失ってしまうことになろう。
かつて男女七歳にして席を同じゅうせずと教えられていた頃は、まことによかった。かいまみる女のすべて美女に思えたし、女と口をきけば、その片言隻句を一年くらい大事にあたため、声音息づかい口臭までを、いちいちよみがえらせては、あてがきのあてにすることができたのだ。電話が普及しない前は、恋文であって、書く方も自らの気持を抑制したし、読む側はまた書かれざる相手の心を、推察し、これまたかなり自分勝手なものにしろ、意気高揚したのだ。近頃の男の性的衰退をみていると、小生など保守の上に反動がついて、男女共学止めてしまえといいたくなる。
そりゃまあ、十五、六から二十二、三までは、一種の|さかり《ヽヽヽ》状態であって、自らの性欲を、あるがままに確認できるだろうけれど、|つき《ヽヽ》がおちた時、何をたよりに女を求めていいのか。つき合うのなら、女より男の方がおもしろいし、また、小学生上級から中学時代、男より女の方が生理的には圧倒的に強くて、おしひしがれた記憶も残っている、とてもかなわないと考えて、男は自閉気味になる。
そこでカッチンカッチンと、せめてもの自己顕示を行うのだが、女性の方も、それではかなわないから、男をふるい立たせるため、必死に童女がえりをこころみる。男の弱体化に合わせ、せめて服装を幼くすることで、刺戟を与えようとするのだ。しかしミニを、ホットパンツにしてみても、すぐ男はなれるだろうから、やがては、おしめファッションや、ついにあけっぴろげにまでいたるだろう。遠からず、ノーパンティをひけらかすデザインが登場するはずで、そうなると、陰毛のブリーチやら、そのあたりを飾るアクセサリーが流行するにちがいない。
しかし、いくらやったって、男は即物的な刺戟にすぐなれてしまう。これはもう、男女別学、不同席という古えの知恵をひっぱり出す以外にはない。そして、そうなれば、フリーセックスの国が、珍しがられ観光客を集めたように、うっかり女に口をきくとぶんなぐられる社会は、世界の男性の憧れの的となり、熱い想いをこめて、遠くから美女をながめる、あの本来の男性的思慕の情を、ここでよみがえらせ、男らしさを取りもどすべく、蝟集するにちがいない。別学観光というわけである。
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四百四病の中
蚤や、あの毛虱という小動物も絶滅寸前であるらしく、若者たちの間に、さまざまな性病が流行しているといわれるが、これの噂はきいたことがない。毛虱は実際、奇妙な生物であって、ふだんは、陰毛の付根に深く頭を突っこみ、ペン先き、マッチの軸などで、血の出るほどほじくらなければ、取れないのに、ほんの少し、異性の肌が触れると、たちまちそっちへうつり住むというのがまず不思議。
あれは、その時の人間の体臭とか、肉弾相うつことで発する熱に刺戟され、新天地求める意欲をかり立てられるのだろうか。また、通常の蚤や虱なら、一匹寄生しただけで、たちまちかゆくなるのに、毛虱では、かなりの数に至らぬと、自覚症状がない。つまり、突如、爆発する如きかゆさが発生し、何ごとなるかとあらためれば、もう毛根にびっしりと取りついているのであって、これは発痒《はつよう》点とでもいうものがあり、個体数がある程度までふえなきゃ、人体に影響与えないのだろうか。
そして、女より男において、そのかゆさが著しいのも面妖である。ぼくは一度だけ、淋病にかかったことがあって、たちまち、身近かの者にうつしてしまい、やむなく、風邪薬といつわり、四時間おきに抗生物質を与え、なにしろ夜中にも、こっちはまんじりともせず、時刻が来れば起して、のむようすすめたから、テキは、ぼくのあまりの心やさしさに涙せんばかり。ついわが思いやりを他人に吹聴し、そして明敏なる他人様はすぐ察しをつけ、すべてバレたのだが、この時は、もう治った後でもあり、女はあまり怒らなかった。ところが、同じようにして、毛虱をうつしてしまったらしいが、これはどうにも口実がない。
トリッペルに較べりゃ毛虱はまだ罪が軽いだろうと、正直に告白し、水銀軟膏つけるように要請したら、この時は、めちゃくちゃに怒鳴られ、つまり、自分はそのように不潔なものを寄生させるほど、だらしなくはないというのだ。そちらさまの不潔のせいではない、すべて罪はわれにあると説明したが受けつけず、しかしまあ、そのうちかゆくなるだろう、なんとなく心上の空の表情で、もぞもぞやるはずと、心待ちにしていたのに、まるっきりその気配はあらわれぬ。
しかも、その女は、ぼくの友人とも深い仲となって、友人はちゃんとうつされたし、ぼくも、いくら退治したって配給元がいるのだから、二月おきに、軟膏ぬらされる羽目がつづき、たしかに女に毛虱はいるのだ。これはどういう摂理のなせる業だろうか。
そして考えれば、男なら、珍宝も睾丸周辺も、しんしゃくなしに水銀軟膏塗りつけ、毛虱虐殺をほしいままにできるけれど、於芽弧近辺のたたずまいを考えると、かなり塗りにくい。軟膏は劇薬で、だからこそドラマティックに効果を発揮し、まず一時間塗布したままおけばかぶれてしまう。こういうものを、うっかり体内にまですりこんでしまったらえらいことになろう。毛虱がたかっても、かゆさを覚えないのは、この配慮のためかしら。
いや、女性には、これはまあ病気じゃないけど月のものとやら、他に帯下《こしけ》とか、トリコモナスとか、また蟯虫とか、奇怪な現象があらわれるらしいが、たいてい外部からはうかがわれぬ。帯下に悩める婦人なんてものも、うわべはケロッとしているし、自白されるまでは、亭主だってわからない。
ところが、男はインキン、帯状湿疹、尿道炎など、股間周辺の異常にはきわめて敏感に反応し、顔つきさえ、かわってくる。これは痔についてもいえることで、男は、その症状ひどい時、この世の終りといった印象なのに、数からいえば男より多いという女性が、痔に悩むことを、あからさまにはしない、決して忍耐力があるから、あるいはつつましいためではなく、鈍いのであろう。あるいは、こういったたぐいの苦痛も、場所が場所だから、性的快楽に転化してしまうのだろうか。
そういえば、男だってインキンなんてものについては、かなり趣味的につき合うことが多い。ぼくも、これにかかったことはある。特に治療もしないまま治っちゃって、あるいは真性のそれではなかったかもしれないが、とにかく、睾丸の表皮がじくじくと常にうるおっていて、かわいたかと思うと皮が、丁度、陽灼けした後の背中の如く、するするむけて、むけた後の皮は、赤ん坊の肌のようにピンクに輝き、やがてまた湿ってくるのだ。
この皮をむく作業も、そして、痛がゆいピンクの肌を、指の腹でじわっと押さえるのも、ちょっとしたたのしみであった。尿道炎なら、小便するさいのむずがゆさが、そりゃよく考えると、不愉快にちがいないのだが、一種の快楽でなくもなく、つまり、しぶり腹でしゃがんでいる時の、直腸感覚によく似ている。
環状湿疹なら、これに天花粉はたきこみ、また、ペニシリン軟膏をつけ、うっかり乱暴に扱うと雄々しくなって、されば皮がひきつれて痛い。なるべく心を空にあそばせ、無念無想で作業するのも、暇つぶしになる、また、つつがなくある時は、粗末にふりまわし、またしごき立てていても、いったん傷ものとなると、いとしさがいやまし、連帯意識さえ生れる。
とはいうものの、男の場合、このての病いかかえている時は、みな表情が暗くて、ひっこみ思案になるのだ。到底、人前にしゃっ面《つら》さらす気にはなれない。しかし、女性はそうでもないらしい。モーニングショーに雁首ならべている主婦の三分の一くらいは痔であるし、五分の一は異常帯下に悩み、八分の一はトリコモナスのはずだろうが、まったくケロッとしている。
結局、毛虱のかゆさを知らず、インキンの感触を味わえず、そのあたりが、苦痛に対してきわめて鈍感であることが、女性をして恥知らずになさしめているのではないか。とにかく、性病がふつうの病気と大差なく受け取られ、毛虱がいなくなってから、男性の女性化がすすんだことはたしかである。
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嗚呼、色道半端者
ほぼ十年ばかり前になるが、高名な小説家と一緒にブルーフィルムをみて、その後、なにやかやのネヤ談議となり、小生がフェラチオされるのはいいが、その後、女に唇寄せられてくると、少々有難迷惑の気味だといったら、小説家は眉をしかめ、「野坂君はまるで修行が足りない」とつぶやかれた。
小生まことに恥かしく、というのは、本当にそう思っていったのではなく、一種の作り話、フェラチオでうっとりした男が、わがデチ棒の臭いまつわらせた唇に、ふと興醒めするなんてことは、まあありそうな話ではないかと、こざかしく考えて、座興のつもりだったのだ。
小説家が、小生のそういった魂胆み抜いた上で、けんもほろろにあしらったのか、あるいは於芽弧においてきたないのきれいのとののしりさわぐ愚かしさを指摘されたのか、わからないが、なんとなく眼から鱗《うろこ》のおちる思いがあった。
世間一般の美的尺度を、このことに当てはめるなど、まったくナンセンスだけれど、また羞恥心についても同じくいえるのだが、しかし男は、かなりハレンチを装っていても、まさかそんなことまでしやしないと、妙なプライドというか、こだわりをもっているものであって、たとえばおかまを掘ることは、他人にしゃべるが、掘られた経験はひた隠しにする。
このことでも、去年の暮に感心させられたのであって、これも高名な芸術家が、いと気楽な口調で、「一度、味わってみたいと思っていたのですが、ついに念願かないました」としゃべりはじめ、何のことかと思うと、つまり掘られたのだ。彼は、実に克明に物語り、はじめは、いやな顔をしていた者、これだってこだわっているのであって、猥談をきき流す処女と同じ心ざまなのだが、そういった連中も、芸術家のあまりにあけっぴろげな体験談に、やがてひきこまれ、むしろうらやましそうに耳を傾けた。考えてみると、掘る方はまだ容易なことで、こちとらを掘って下さる情深いお人など、どこでみつけりゃいいかわからぬのだ。
小生のオナニーも、いい年しながら、まだおのこの手わざにふけっているなど、告白するに、いくらかのふん切りが必要でありました。こういうこだわり方を、他にも考えてみると、わが畏友華房良輔が、かつてこの小文(第四話)の誤りを指摘し、それは山羊とするべきところを羊にしてしまった、まあ、粗こつ故のことだったが、彼はその時、「そやけど、山羊の於芽弧なんか、なんにも人間に似てないで」と説明し、「あれは、スポンとしとって、先き細りやしな」と、おっしゃる。
この時、小生よほどびっくりした表情をしたらしい。彼はあわてて手をふり、「ちゃうちゃう、俺してないで、したんちゃうねん」と、否定しつつ早口で事情を物語り、「山羊がさかりつくと、二十四時間くらい、メエメエいうて鳴きつづけよんねん。近所迷惑やさかい、満足させたろかおもて、指でぺッティングしたっただけや」。天地神明に誓うといった印象。
彼にしてみれば、いくらなんでも山羊とだけはしてないと、いいたかったのだろうが、ぼくはこのことについて、いっこう偏見はないから、なんでそないに必死に弁解するねん、てな感じだった。まあ、山羊は飼主のやさしい手わざを無視し、あくまで雄山羊もとめて鳴きつづけたそうだが、これで、思いがけぬタブーというか、自己規制のしかたを皆様しているようで、トルコ風呂の特殊奉仕を、絶対いやという方がいる。つまり、あれは一方通行であり、於芽弧に必要な、交流がない。いわばファッショ的だというのであるし、女学生に想いを寄せるなど、サディズムの権化であって、ゆるせないと小生を弾劾なさる方もいらっしゃる。
一種の差別意識みたいなのがあって、あいつは気持わるいよ、えたいの知れない面があるな、だって、ナニナニとやったんだから、あるいはナニナニ好み故にといういい方が、男の中にある。六十五歳の女性といたした男が、以後仲間からうとんじられたり、また、寝入った幼い娘のふとももに、あやしげなふるまいしかけた者が、敬遠されたりすることは、よくあるもので、こういった差別意識を、少くとも小生、身につけまいと思うのだけれど、やはりいくらかは定着しているらしい。
小生の場合は、決しておとしめて考えるのではなく、ある新機軸開いた方のあれこれうかがうと、うもすもなく尊敬してしまう。あらゆる於芽弧の営みについて、虚心坦懐な気持でいれば、そうびっくりしなくてもいいのだが、まだ修行が足りないのだ。
最近でいうなら、十年前に小生をさとされた小説家の文章の中に、おかまに対し、フェラチオをなさったというくだりがあって、心底敬服した。なさっただけではなく、そのやや小ぶりな珍宝を口に含んだ時、クリニングスとちがって、はっきり特別な感覚があり、女性はこの営みの際、あきらかな快感を享受するのだろうと、洞察なさっている。
小生もおかまを掘り得る、また、掘られることもできるだろう。しかし、その珍宝をしゃぶるなど、到底思いつきもしなかったことだ。そりゃまあ、その場にのぞめば、ことの成行きでおしるしほどにやってみるかも知れないが、とても洞察にまでは至るまい。きっと、あわてて口をすすぎにいくにちがいない。
まったくがっかりして、こんな雑文を書く資格などないと思いさだめ、といって、こういうことは、手前もほおばったからって、それで済むものではない。要するに、於芽弧について、どれだけ自由に思考し、また、この不毛だか肥沃だか知らないが、えたいの知れぬ世界を探検するに際し、どこまで自ら謙虚であり得るかということだろう。小生、いかにも偏見によりかかりすぎ、しごく開き直った風を装いながら、まだまるで女学生なみ、あるいは嬌風会の小母さん程度の、しろものでしかないのである。
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薬石の効や如何に
ぼくは、あまり他人様のなさるあれこれについて、とやかくいわない方ではないかと、うぬぼれているのだが、いや胸に手を当てよく考えてみると、そうでもないかも知れぬ。けっこうあいつは馬鹿だねとか、ナルシシズムのかたまりだなんて、あげつらうことはあって、しかし、いったとたんに、たいてい反省しております。
人をいうまいそしるまい、人を呪わば穴二つみたいな、考え方が身についているので、となると、他人様のふるまいをやさしくながめているのも、処世術みたいなものだけれど、一つだけ、ほんまにアホやなあと、感じ入るのは、精力剤とか、それに類するものを、珍重される方である。
焼鳥屋などで、これは効くんだよなんていいつつ、親の仇にあった如く豚の睾丸や、子宮なんてものを、がつがつたべている方は、まず例外なく貧相な印象。いやそりゃ涙ぐましくはありますよ、家内安全をねがって、鰯《いわし》の頭も信心から、小生のとやかくいう筋合いではないけれど、いかにも単純な発想じゃありませんか。睾丸くったからって、すぐにザーメンがふえるわけじゃなし、この強精願望という奴は、ひどく単細胞的である点が、馬鹿馬鹿しいのであって、たとえば、何十頭の雌を支配するというので、アザラシだかオットセイのペニスの干物をありがたがってみたり、蛇は、その形状も似ているし、営みが何時間にもわたるから、眼をつぶって食したり。
これはまったく、連中にとっては迷惑きわまりない。もし、それをいうなら、年中いとまなく発情している人間様の、そのあたりがいちばんいいのではないか。かの珍獣パンダなんてのは、なかなか|さかり《ヽヽヽ》がつかないというから、生きのいい人間の睾丸の、ニンニクおろしあえとか、男根の千六本でもさし上げるとよろしいのだ。
また、その考え方をすすめるなら、ねずみなんてしろものは、のべつまくなしに子供を産んでるのだから、不妊症の婦人は、これの丸焼をたべればいいのだし、長時間もたしたいなら、犬のペニスもよろしかろうよ。
実にどうも非科学的というか、めちゃくちゃな説がまかり通っていて、あのニンニクだって、本当に効くのですか、あるいは高麗人参と称するものを、焼酎につけておくと、どういう成分が抽出されて、鼻血がでるのであるか。まむし酒もそうだし、こういったたぐいは、気のもので、なまじカメノコでCやらHと明示されないから、よろしいのかも知れないが、公取委にはっきりさせてもらいたい。
効いた効いたとよろこんでいる方に、水をさすこともないけれど、寝酒に、まむし酒を、これは決して水割りとかロックスにしませんな、昔ながらのウィスキーグラスで、まずそうにのんで、ウフーッとおくび吐きつつ寝る前の身だしなみ、鏡に向かって櫛をあやつる中年男の姿なんて、どうもぞっとしない。
そりゃ、ヨヒンベなんてのはわかります、性神経を異常に昂奮させるとか、あるいは性的抑圧を一時的に取りのぞく薬はあるだろうけれど、これは長つづきしない。麻薬と同じで禁断症状があらわれ、前者の場合、後で長期間インポテンツとなるし、後者は、早晩死んでしまう。
体力のもっとも充実した十七、八歳、つまり水泳にいちばんふさわしい年齢が、性的にも高揚する時期と、男なら誰だってわかるはずでしょう。性的欲望なんてものは、基礎体力がものをいうのであって、ちょっくらちょいと何をたべようがのもうが、よみがえりはしないのです。
よく、女性が化粧品を買う場合、一に香り、二に容器、三に有名、四に品質といわれ、女が馬鹿であるしるしとされる。しかし、男の精力剤に対する態度は、まさに同様でありまして、迷信俗説を疑うことなく信じこみ、牛のレバーなどどう考えてもうまくないのに、無理してパクつき、アスパラガスが効くといえば丸ごと齧って、実にどうも浅間しい。また逆に、ナニナニは精力を弱めるというような噂をきくと、あたかも天然痘の如くいみ嫌って、まあ、特定の食料品でも薬品でも、売れなくさせようと思うなら、インポと結びつけるのがいちばんである。名前はあげないけれど、これで被害をこうむったむきもあるはずだ。
不老長寿、強精、そして錬金術は人類のみ果てぬ夢らしく、錬金術は化学の発達をもたらし、不老長寿は、現在、臓器移植によって毀誉褒貶《きよほうへん》さまざまだが、かなり実現しつつある。しかし強精だけは、あまり人類の進歩と関係ないようで、洋の東西を問わず、この手段は実に姑息《こそく》なものが多い。いわば駄洒落みたいな方法であって、思わず膝をうって、三嘆せしめる如きは皆無なのだ。
古い井戸の底に溜った辰砂《しんしや》をとって、煎じてのめというのは、井戸の底には竜が棲んでいる、竜はタツで、すなわち立つとか、鯉の生血をすすれというのも、滝昇りの勢いにあやかるのだし、西洋のまじないにいたっては、さながら魔女晩さんのメニューみたいなもの。
だいたい精力剤というしろものを好む方は、どこか性格に欠陥があるか、あるいは劣等感にとらわれているのではないだろうか、なんとなく共通の表情がうかがえるように思う。
バアなどで、ゴルフのコンペのくり言や、またかえらぬ役満の思い出きかされるのも憂うつだけど、さらにいやなのは、「今度、香港へいくんだけどね、あちらにはすごく効くのがあるってね、なんでもちいさな虫でね、一匹のむと一晩立てつづけが可能なんだって、ウヒヒヒ」などの話から、綿々と恨みがましく、精力剤遍歴譚を語られることである。
それともやっぱり小生がおかしいのだろうか。男たるもの、マヤ王国の秘宝探るように、風の噂草のささやきにも耳をはたらかせ、ともあれものはためしと、精力剤服用するのが常なのだろうか。
さもあらばあれ、今日もまた、彼等のために、かわいそうな牛や豚の隠しどころが、えぐりとられているのだ、嗚呼。
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アナ怖ろしき伴侶の六感
女房族の、亭主のあれこれに関する、恐るべき探知能力については、以前、その一端を紹介したことがあるけれど、丁度、これと対をなして、亭主、いや小生にかぎった方がいいのかも知れぬ。とにかくドジというか、運がわるいと申しますか、あきれるほどに諸事万端うまくいかない。
たとえば、ごくたまに女性と銀座辺をうろつく、そのまま酒でものんでりゃいいものを、まったく魔がさすとはこのことなのか、ひょいと洋服屋で、夏服でも注文してみようかと考えつく。これは別に、その女性の手前、かっこよくみせようとか、あるいはそのセンスを拝借しようなんて下心ではなく、といって時間つぶしのためでもない。
運命の糸にあやつられて、洋服屋のドアをあけ、生地をみている内には、件の女性もなんだかんだと口をはさみ、わが肩に布をあてがって、「少し派手かしら、でも一つくらいぐっと若造りもあっていいんじゃない」てなことをのたまう。すると、まさにその時、女房の親友が、ふらりとあらわれるのだ。こっちが狼狽《ろうばい》すればするほど、テキはわけ知り風にふるまって、しかし、これは確実に通報されてしまう。まあ、こっちが気づいている時はまだいいので、親友に発見されてわからないでいたりしたら、これは目も当てられぬ。
そうかと思うと、TVの打合せで、ホテルの部屋へまかりこし、まったく偶然、ロビーで同じ番組に出演の女優さんとバッタリあう。
しごく当然の成り行きとして二人でエレベーターに乗り、目的の階でおりようとしたら、ここでもぶつかるのだ。エレベーターは待てしばしないから、「アラ」「いやどうも」てんでわかれ、その間、テキは実に鋭い眼で、女優さんを上から下まで観察し、これまた修羅場を現出せしめることとなる。
女房子供連れで外出し、二人がしきりにショウケースなどながめているのを、こっちは所在なく初夏の空をみ上げ、ふっと溜息ついたとたん、コツゼンとして銀座のバアの女給さんがあらわれて、「あらお一人? 何してんの」と声をかけ、別にあわてることもないはずなのにじたばたして、「あの、ええ女房と子供です、ええ、こちらは」と妙な紹介をし、その日の買物には一切口出しができなくなってしまう。
こういうことは、いったいいかなる邪悪な意志のなせる業なのか。ぼく一人で歩いている時、これは絶対といっていいほど、女房の友人や、バアの方にあわないのだ。
いやまだある、やはりTV女優さんが誕生日のパーティを開くといい、こっちは出る気もないから花など送っておく、すると、花屋が、気を利かせて間が抜けるという奴で、「お時間は何時頃がよろしいのでしょう」などと電話がかかり、必ず女房が受けるのだ。
あるいはまた、バアの女給さんが手術で入院し、おそばがたべたいという。家の近くにうまい店が一軒あり、こういう時に恩を売っておけばなど、いやしい気持で買っていると、なんと女房子供がお稽古がえりとかで入って来て、ぼんやり包装されるのを待っている小生の肩をポンとたたきなさる。これはまあごま化せるにしても、こういうことが何度もつづくと、どっかの神社でおはらいを受けたくなってくる。
人間には予知能力がある程度そなわっているそうだが、ぼくの場合、逆のそれが身についているのではないかしら。つまり、自分ではわからないが、女房の友達が洋服屋へひょっこりやって来ることを、ひそかに予知し、本来なら避けてしかるべきことを、どうも配線の具合がおかしくて、のこのことんで火に入る夏の虫を演じてしまうのではないか。
みられて具合のわるいような郵便物は、必ずぼくが本屋へ出かけたとか、便所にしゃがんでいる時にとどくのだが、これとて、ぼくの潜在意識の中では、わかっていて自分を外出せしめるのだろうと思う。洗濯屋へ出すので、ポケットを探っていると、バアでお土産にもらった罐入りパンティ、罐に入ってりゃいいのだが、ポケットヘ入れるくらいだから、そのものズバリで、それが麗々しく女房の前にあらわれたり、まったく身に覚えのない鍵がひょっこりとび出したり。実にどうも怖ろしいことばかり起るのは、何のたたりであろうか。
そしてこのような、一種の悪運は、他人様にもついているらしく、温泉マークの前で、ばったりあった知人の妻と立ち話してたら、女房がタクシーで通りかかり目撃された話や、また、女にプレゼントするため、指輪を買ったら、その店は女房の姉の友人が経営するもので、たちまちバレてしまったとか、もし、小説とか映画でこんな風な偶然を使ったら、いかにもつくりごとめいていると、必ず非難されるだろうことが、事実は日常茶飯事としていくらもあるのだ。
この種の体験談をもし集大成したならば、これはもう現代の怪談風に、読む者の心胆を寒からしめるにちがいない。亭主の方にこういうわるい星がつきまとい、女房に探知能力があるのだから浮気などできる方がおかしいのであって、亭主は浮気をするもの、男の甲斐性といった俗説は、完全にまちがっているのだ。
よく胸に手を当てて考えてごらんなさい、近頃、いつ浮気をなさいました、世はあげてフリーセックスとかなんとかいっているけど、今の世に女房もちほど貞操堅固なしろものはいないのではないか。かりに、一念発起して浮気をすれば、そして、一つや二つ関門を突破できたとしても、不倫の恋とやらの最後は必ず、ひどいことになるのであって、これは週刊誌をひもとけば、毎週その事例がことこまかに紹介されているのだ、週刊誌のあの|て《ヽ》の記事は、子供の頃みたお寺の地獄図のように、ぼくを怯えさせ、また修身の教科書の如く、こっちの好き心をなえさせるのである。
実際に浮気など可能なのだろうか、そして、ぼくに取りついているこのわるい星を追い払うことはできないものか、できるなら新興宗教でもなんでも、入りますがねえ。
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女大学於奈仁科
「婦人の手わざ」なる小冊子を入手し、これは男のすなるマスターベーションの、女性向け解説書である。近頃、一人前の男子となりながら、このことを心得ぬ無器用者が多いらしく、どういうわけか女性週刊誌に、おしぼりなど使って、その図解が掲載されたりするが、「婦人の手わざ」の、まさにかゆいところへ手のとどくような、その指導ぶりには遠く及ばぬ。
そっくりひき写すだけで、十分におもしろいのだが、そして、少しやってみたのだけれど、男のこのことなら、かなりあけすけに書いて、そういやな気もしないのに、婦人の場合、なんとも具合がわるい。そりゃ、到底そのまま公けにしかねるような、露骨な表現や、名称があり、これをおきかえるだけなら、ことは簡単なのだけど、何といいますか、わが偏見のせいかも知れぬが、少しバッチイ感じなのです。
たとえば、ふとももをぴったり閉じ合わせ、なわよじる如くふるまって快美感を得るという、しごく単純な方法でも、それだけでなく、個人差について言及してあり、於芽弧の位置やら、左右の感度の差によって、よじれ方をちがえねばならぬらしい。
ぼくは、はじめて知ったのだが、一人|蟄居《ちつきよ》して在る時、ついデチ棒に触れて、あやしくまた物狂おしい気持になるのは、男だけかと思ったら、女性もやるらしくて、それはつまり、開いたり閉じたりしてあそぶのだそうだ。実にどうも表現しにくいが、柏餅の合わせ目のようになったところを、二本の指で、目なりにつーっと閉め、しかし、成熟した於芽弧なら、じわりとフタを開けるんだそうで、何故こんなことを紹介してあるかといえば、このふだん何気なく行っている操作もおろそかにせず、右から圧力をかけた方がいいか、左がしかるべきかしらべろというのだ。
男のマスターベーションは、観念的遊戯といっていいだろうけれど、女性の場合も同じで、ただし、その妄想は、男に犯されるとか、意中の人に愛撫される、また、積極的にふるまうといったような、性行為には結びつかず、ナルシシズムが主体となるらしい。
この小冊子の著者は、マスターベーションの極意は、世界でいちばん美しい自分を、たしかめつつ行うのがいちばんだと強調なさる。つまり、あらまほしき姿に自分をあてはめ、うっとりとその妄像を追いつつ、また刺戟によってさらに、極彩色の世界へ入りこむのが、理想だという。他人をまったく拒絶した行為であって、いかに日常生活の中で、醜くまたいやしい女性でも、手わざ一つでどのような美女、あるいは女王の境地にもあそび得る、となると、何を好んで、男などもとめるのか、実に愚かしいときめつけなさるのである。
小生、かつて妄語を弄し、マスならば、自由にのぞみの美女を抱き、好きなように欲望を果たすことができる、これに較べりゃ現実の女などまったくつまらないてなことを、申し上げたけれど、女性においてマスがナルシシズムの追求というのであれば、まったく符節が合うではないか。
女性が恋人をもとめたがるのは、結局、自分の美点を、たしかめたいからで、やれ「私のこと好き?」やら、「きれいだと思う?」なんて愚問を、まああきずにくりかえすのは、その端的なあらわれだろう。となると、女性におけるマスターベーションも、それなりに独自の営み、決して通常の性行為の代用とばかりはいえなくなってくる。男性が、美女を妄想して、マスにいそしみ、女性はまた、自ら美女となって世界に君臨することを思いえがきつつ、手わざにふけるなら、こりゃもう文字通りのエロトピアではないかしら。
そして女性の思いえがく美女が、そのまま男の求める妄想の主人公であるとしたら、ここに観念的な相姦関係が成立し、なんともみやびやかな、それこそ夢で契るというようなものではないか。
「婦人の手わざ」には、実はこんな上品な見解などほんの少ししかなく、ほとんどあからさまな文字で埋められているのだが、これと一緒に買ったやはり珍本「男女交情の大埋」というのも、かなりなもので、これは明治二十九年にあらわれた性教育読本。小学校尋常科高学年用というのだが、全頁、卑語俗語が氾濫していて、ぼくなどかなり平気で、於芽弧と口にし、筆にもするけれど、なんと申しますか、「於佐弥」「大部呂」「小部呂」などの単語が、まったく自然に使われている文章を読むと、少し平常心を失いかけてしまう。
明治の中頃までは、こんなにおおらかだったのか、「前庭」の「クリトリス」のと、もったいぶった用語はいっさいなく、「於佐弥」を「於佐弥」とよんで何がわるいといった感じ、また、どこがどんな風に年を追って変化し、男女いかにすればよろしき具合になるか、赤裸々なんていい方自体おかしく思えるほど、淡々たる調子で、微に入り細にわたって説くのだ。
そこで考えるのだが、年頃になって、あわてふためき性教育をするより、まず名称をちゃんと子供に教えるべきではないか。「お風呂に入る時、きちんと於芽弧を洗いなさいよ」と母親がいえば、子供は別だんおかしくも思うまい。大陰唇小陰唇膣なんてのも、そりゃ慣れてしまうと、何でもないだろうけど、「陰唇」なんて、語感もわるいし、なんとなくうさん臭い感じがする。何かやさしいいいまわしはないものか。そもそも「陰部」なんて、ガサツな言葉を発明したのは、明治以後の田舎者にちがいない。よく銭湯に公衆衛生の心得みたいなのが貼ってあり、「一つ、入浴前に、陰部を清めること」なんて書かれているが、ひどく不愉快な感じだし、「局部」というのもおかしい。
国語問題では、伝統的用法やら、新仮名遣いやら、論議がかまびすしいけれど、性的用語についても、薩長出身の邏卒がオイコラと同様の発想でひねり出した如き現在の術語を、さらに以前のみやびやかな言葉にもどすとか、あるいはあたらしく考えるとかした方が、よろしくはないか。もっともあたらしくったって、「アポロの塔」やら「おチョンチョン」はねがい下げにしてもらいたいけれど。
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娘十六「破瓜」のころ
山藤画伯が、文藝春秋漫画賞をお受けになり、この拙文を飾っていただいた絵も選考の対象となったとかで、なおわがことの如くうれしい。選考委員である河盛好蔵氏がいわれる如く、たしかに文章から独立して、たのしい絵であります。絵の方は冴えるばかりでも、字面はタネ切れ息切れであって、はじめはひたすら自らをかえりみて、思い当たることなど書きつらねていたのだが、やがて酒席で耳にする片言隻語にヒントをいただき、さらに図々しく他人様の考えをうけたまわり、また少しばかり、本をひもといて、エロトピアの片鱗を探し求めもしました。
なんとなくメモしておいたあれこれを、紹介いたしますと、「燕居雑話」という本の中に、春画の起源について、考証があり、これによると漢の成帝が、夜長のたのしみとして、絵師にえがかしめたのがはじまりだという。成帝はBC三十年頃の人だから、我国ではようやく水稲耕作がはじまった時代。
日本の記録としては、「古今著聞集」の中に、「ふるき上手の書きて候おそくつの絵などを御覧も候へ。その物の寸法は分に過ぎて大に候事、いかでか実には、さは候べき、ありのままの寸法に書きて候はば、見所なきものに候」なるくだりがあって、春画は和名を「そくつ」といったらしく、これは、鳥羽僧正が、男根の巨大にえがかれていることにつき、文句をいったら、「ふるき上手」の春画絵師にたしなめられる話。漫画をはじめてえがいたこの僧正は、十一世紀後代に生れているから、平安朝の頃、すでに男根をデフォルメした、我国特有の春画があったのだ。
春画にまつわることどもを、たとえばその起源をきっかけとして、しらべていけば、あっぱれ研究家にもなれるのだろうけれど、これ以上はすすまず、どうしたって断片だけを拾うにとどまってしまう。
だから、「そくつ」とはどういう字を当てるのか、わからないのだけれど、ぼくなどがごくふつうに使う言葉の中に、ずい分まちがった意味に解釈しているものがあって、「破瓜」なんてのもその一つ。てっきりデフロラチオンのことと思っていたら、単に十六歳のことをいうので、男女いずれにも通用するらしい。その説明にいわく、「瓜を割れば、※[#「瓜+上」]※[#「瓜+下」]、如此故に二八のことにとれり」とあって、「※[#「瓜+上」]※[#「瓜+下」]」がどうして二八なのか、小生一晩中考えたが、ついに解けなかった。
婦女初寝の義がうまれたのは、西施、つまり春秋時代越国の美女が、はじめて男とそい伏しした年齢が十六歳だったからといい、ここでも「瓜」を破ると十六であることにちがいはないのだ。
また、「瓜」ではなく「爪」とする説もあって、思春期になると、爪が割れやすくなることから、十六歳前後を、「破爪」と称すると断言したり、諸説乱れているが、十六歳に主な意味がある点では共通している。
「水揚げ」という言葉にも、いろんな説があり、「商人の荷物を船から下し、はじめて店頭へ出すを水上という、これに准じて娼妓はじめて寝を人にすすめるを水上と云」。これは「近代世事談」なる書物の中の説明。
また「女子すでに笄《こうがい》をさすに及んで上頭という、礼に許嫁して笄すとあり。これより上頭を、娼女初めて人と寝るをいう」なんてのもあって、上頭にみづあげと訓が付いている。この説だと、みずあげは、笄をさすことからきているらしいが、さらに別の書物では、生花の技術の中に、「水揚げ」があって、それを語源とするというし、明らかな俗説としては、井戸のつるべが、穴に出たり入ったりして水を汲むことからきているとしてみたり。
「おぼこ」という言葉は、いささか死語になった感じだけれど、これだって大へんな因縁があるので、十四、五歳の破瓜より少し幼い娘を、なぜかくいうかといえば、徳川将軍は、大名に命じて、その幼い娘に、大般若経、法華経を筆写せしめ、その写経で書き手に似せた人形をつくった。そして、活けるが如く衣裳をまとわせ、これを称して「御法子」。ここから、いまだ男にあわず色情うすき娘を、「御法子」といって、決してけなす意味合いはなく、あいらしさを強調する言葉という。
「即事考」なる書物の中にあるのだが、なんでまた徳川将軍は、こんな妙なことをしたのか、まったく解せませぬ。「ありゃ、まだおぼこだから」なんてんで、この「おぼこ」という語感の中には、未だ体毛生えそろわず、春情のうるおいを知らぬ態の、少し猥褻なイメージあるけど、実は写経の人形なのです。襟を正して口にすべきでありましょう。
六月ともなれば、「更衣」、だけれども、本来この言葉は、便所へ行くことを意味し、つまり厠へ入る時、昔は臭いのつくことを嫌って、冠や裳を脱ぎ捨てた、出てからもちろん身にまとうから、「更衣」なのであり、「起居」ともいう。文字通り、しゃがんで立つからかくいうのであって、西洋風なら「起座」であろうか。
また、なぜ女陰を「開」というか。これは、女の門つまり「※[#「門の中に女」]」が本来なのを、誤って「開」としたといい、処女のそれは「閂《かんぬき》」、よろしき機能の「開」は「※[#「門の中に吉」]」、老女の場合は「※[#「門の中に古」]」と当てて、いずれも「カイ」とよませるという珍説もある。もっとも古い女陰の当て字は「※[#「門の中に也」]」であって、訓を「シナタリクボ」とし、「也」は女陰を形どった字なのだそうだ。
こんな風に、眼にとまるかぎり書きつけて、これをきっかけに、エロトピア一回分原稿用紙にして六枚余りを、でっち上げようとこころみ、しかしここに紹介したような先人の卓説からは何も発展しなかったのだ。売淫を「ぢごく」、というのは「地獄」、ではなくて、「地上の極楽」であるからだという新説に触れて、しごく同感し、「シナタリクボ」とは、「したたり窪《くぼ》」であって、いつもうるおっているくぼみの謂《い》いなど教えられ、よろこんでみたものの、どうも小生は、資料をしらべて、そこからさらにあたらしい発見をするというタチではないらしい。
しかし、先人のさまざまに書き遺した文字に触れてみると、まったく皆様、偏見やらこじつけがお好きで、この拙文などとても及ばぬとよくわかるのです。外国にも、こういう毒にも薬にもならぬ態の、珍書はあるのかしら、どうも古えの日本は、ひどくのんびりして暇をたのしむ君子が、沢山いたように思えます。
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女房解放の旗手たらん
一夫一婦制度を支えているものは、何なのだろうか。たとえば食事にしても、毎日、同じ献立て味つけでは、やはり鼻につくから、目先きをかえるべくいろいろ工夫もするし、わが家以外の場所で、美味求真をこころみ、より豊かなる生活を送ろうとする。小生の如く、くいものなんぞ、とにかく腹がくちくなればそれでいい、かりにみるから貧しい食膳に向かわなきゃならないとしても、自己暗示の調味料によって、どうにでもおいしくいただける性癖なら、まあいいけれど、いわゆる美食家とまでいかなくても、ふつうの方なら、おいしいものをたべるべく、えり好みをするのが当然である。
セックスについても同じことがいえるのであって、より色どりあざやかなそれをもとめる気持は、万人にあるはず、小生の如きオナニストはまず例外といっていい。なにも男性側の自分勝手な理くつではなく、女性、女房殿も、年中同じ主に抱かれているのは、退屈なものであろう、浮気をしたいと思うのは、むしろ必然であって、にもかかわらず、このことは悪とみなされている。
女房が、たまに台所に立つのがおっくうで、店屋ものをとってたべても、今では特にだらしがないとはいわれぬ。また、レストランヘ食事しに、子供連れで出かけても、背徳行為ではない。同様に、亭主の留守に、いや、いてもかまわぬ、他の男と、ベッドを共にして何がいけないのか、何故、亭主は、女房を自分だけの女として考えるのだろうか。
亭主のいわゆる浮気について、女房がキリキリするのは、まだしもわからぬではない。これはさんざん論じつくされて来たことだから、あらためて考える必要もないが、亭主側の気持は、あたかも天地|開闢《かいびやく》以来、きまりきったこととして、あまりかえりみることがない。何故、女房の浮気はいけないのだろうか。
妻を、私有物とみなしているせいなのか、しかし、私有物にしては、夫というしろもの、ずい分とみじめであって、戦前はどうであったか、しかと知らねど、只今は週に何度かの営みを強制され、義理マンと称して誰も疑わぬ如く、私有物に性的満足を与えるため、ひいひいいわされている。私有物という、いわば錯覚にふりまわされているおもむきで、しかし人間が人間を私有できるわけはないのだ。丁度、植民地をかかえて、泥沼にはまりこんだ老大国よろしき態、いっそさっぱり解放してしまった方が、どれほど気楽なことか。
妻の方は、それほどはっきり意識していないが、他の男と通じてさえいなければ、他にはどのような人間的堕落を演じようと、ゆるされると考え、いっさいの努力を放棄してしまっている。これはまあ無理もないことである、一夫一婦制度をつくったのは男の方なのだから、男が現今みられる女の無惨なる姿を、招来したといっていい。
この際、男は考え直すことだ、妻が友人と、ベッドに入っていても、それは、友人と店屋ものの鰻か何かたべているところへ、出くわしたと同じようにながめるのが当たり前、それ以上にどんな意味があるというのだ。粘膜の接触以外の何ものでもなく、妻によろこびを与えてくれてありがとう、お務めを一回分たすけていただいたのだから感謝するべきではないか。枠の中にしばられ、強制された一夫一婦制度の間柄でしか、夫と妻が共同生活を営めないというのなら、それは解消した方がいい。
男が、まず意識をかえなければならぬ、他の男の精液が、妻の腟に入りこむなど、ゆるせないというのは、かなりの無知か、潔癖性というべきであって、あんなもの、洗い流してしまえば、子孫繁栄についても、何のさわりにもなりはしない。妻が、亭主に対し、愛の名をかりて、営みを要求するのも、おかしな話なら、亭主が、単に肉体を他人にゆだねないからといって、その貞節、すなわち自分の独占欲をみたされたと思うのも、馬鹿馬鹿しいかぎりであろう。膣一つをたよりに、妻を私有している錯覚こそが、亭主地獄の大本を形成するのである。
一夫一婦制というのは、まあ、便利な形式にちがいない。子供を育てる上にも、今のところ有利に運ぶことが多いように思える。しかし、この制度は今や、夫婦の性をしばりつけることだけで成り立っているような面がある。そして、その弊害ばかりが目立っている。
妻が、夫以外の男に抱かれること、あたかも外で食事をするのも同様になれば、公害なんてのも、かなりなくなるのではないか。つまり、夫をせっついて、車を買わせ、レジャーにおもむくよりも、もっと生きている実感を味わえる、配給された性の営みよりも、自らをその年齢なりに美しくととのえ、お互いにえらびあうことの充足感があれば、形ばかり文明の利器によってつくり上げるむなしさに気づくはずなのだ。
「エロトピア」の最後に当たって、一夫一婦制度の矛盾を論ずるなど、しごく月並みなことのようだが、これまで書いてきたあれこれを読みかえしてみると、結局のところ、罪は男の、妻に対する独占欲にあるのではないかと、当然の結論に達したのだ。なぜ、亭主は、妻が他の男と通じた際、怒るのだろうか、下世話にいう如く減るもんじゃないし、むしろ刺戟にこそなれ、他の男と通じた妻が、その後一夫一婦を営む上で、決定的なマイナスを得るとは、どの面からも考えられないのだ。
いろんな意識革命がいわれているけれど、妻についての支配欲というか、あるいは独占していたい気持、実は到底かなえられぬとわかっていて、なおこのことを、夫権の最後の拠りどころの如く信じこみ、お互いさまの躯をくい合うような、せめぎあいをつづけるなど、愚かしさ以外の何物でもないだろう。
女が堕落したとか、女を図々しいと責めるより何より、まず夫族は、わが内なる亭主帝国主義を抹殺せねばなりませぬのだ、さればこそ、エロスのユートピアは、おのずともたらされるでありましょう。
[#地付き]〈了〉
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そは愉悦の王国なる哉(あとがき)
「エロトピア」は、約二年半、週刊文春に連載した、一種の好色読物である。週刊文春の、こういった読物はかなり伝統があり、これまで抜きんでた粋人が筆をとり、だから小生としても、意気ごんだのだけれど、さて胸に手を当て考えてみると、男女の機微については、まったく無知だし、経験も乏しい。
そこで、まともな男と女の関係にはいっさいかかずらわず、アウトサイダーをのみ狙うことにし、まずマスターベーションからはじめたのであって、いっそもう包みかくさずいってしまうと、このことを、あまりおおっぴらに強調すると、さなきだにもてないのが、なお輪をかける結果になりはしないかと心配で、なにやら江戸時代の好色本に、その指南書がある如く装い、その内容を紹介する態にカムフラージュしたのだ。
実際はそんな本などなく、しかし、あてがきに十二通りの方法があるといったのは、小生いちいち実験というのもおかしいが、自分でそのポーズを研究し、これなら可能であると納得したものばかり。そして、マスターベーションは何も、セックスの代用品ではなく、それ独自のたのしみがあるというわが偏見は、かなり同感されて、物書き稼業のうち、もっとも多くの、読者からの手紙をいただいた。
まあ、光栄の至りではあるけれど、あまりふだん字を書いたことのないような、金釘流で、せつせつと品かわり色ことなるマス体験をつづった手紙読んでいるうち、一種の怨念がこっちに乗りうつるような感じで、あまりたのしいものではない。さらにそれが、七十をこえた男性であったりすると、どうしたって、その姿を想像してしまうから、妄想払うためには、ウィスキーのむより他はない。
また、やさしい女性からの手紙も少しはあり、マスの方がいいなんて、そんな馬鹿なことはない、私はかねがねみんなにタコといわれているものだが、一つおためしあそばして女の本当のよさを知るとよろしいやら、マスはいいかも知れないが、おどろきがない、つまり通常のセックスなら、女性の収縮は男にとって、突然のことだが、マスにおいては自分で締めようと思って握力を強めるのだから、つまらないだろうと、御教示いただいた。
総じて女性の方が表現があけすけで、これが活字になっていれば別だけれど、肉筆はどうも無気味な感じが先きにたち、また、こういう文章書いていると、よほどの好色漢に思われるらしく、電話で誘う方もいらっしゃる。
さすがに単刀直入にはいい出しにくいのか、「あの、私、社会見学をしたいのですが」「社会見学?」「はあ、もう三十過ぎたのですけど、あまりに今まで世間を知らなさすぎた、と思いまして」そのガイドをなんで俺がやらんならんねんと考えつつ、「社会って、どっちの方面ですか」「それは、先生におまかせします」「たとえば、バアで酒をのむとか」「そんな子供っぽいことじゃなくて」「すると乱交パーティのような?」「それは行き過ぎよ」このあたりから、口調が乱暴になり、つまり浮気をしようともちかけなさる。
二十年くらい前にいって下さりゃ、何はさておいてもとんでいくけど、電話でしゃべってるうちに早くも上ずって来た様子、ゼイゼイ息を切らすから、「すみません、ちょっと今忙しくて」と失礼し、この方は、丁寧な人で、一週間後に、ぼくとは駄目だったが、路上でボーイハントし、首尾を遂げたと、ことの次第くわしく報告なさった。
ぼくは、この頁に書く場合、原則として取材をせず、またものの本をたよらないで、ひたすら自分自身をのみみつめ、駄文を弄してきたのだけれど、書くことで、自分を分析し、また整理するような効果があり、だから、これまでの文章読み直してみると、ずい分矛盾していたり、また君子ヒョウ変してみたり、また、自分の性癖のささやかな歪みを、拡大解釈しすぎるきらいもある。
たとえば、エロトピアを支える二つの柱は、マスターベーション礼讃と、女学生のセーラー服願望なのだが、少くとも後者においては、はじめそれほどでもなかったのに、苦しまぎれに書いたら、何となく自分でも錯覚するし、また、他人様がそんな眼でみて、自繩自縛というか、近頃ではセーラー服がしきりに気になり、また半分くらいは、気にしなければいけないような義務感も出てきた。
しかも、親切な方がいらっしゃるもので、亡くなった娘のセーラー服、夏冬二着ある、手もとにおいといても、思い出して悲しむばかりだから、さし上げる、どうかかわいがってくれと、送って下さったのだ。まさか、お地蔵さんじゃあるまいし、故人の遺品をかたわらにして、その菩提をとむらうわけにもいかず、いかに女学生の制服といっても、仏様のは少し困るのである。女房が、包み開かぬまま放置しているのをみて、「開けましょうか」といい、小生すっとび上ってとめたが、もし内容をみられたら、何といって弁解すりゃいいのだろう。
捨てるわけにいかず、開けたら、何かに取りつかれ、わるい夢をみそうで、困っております。仏様以外にも十数種の制服が手もとにとどけられて、将来、セーラー服博物館をつくるかなど妄想しているのだ。
好色とはまったく関係ないが、山口瞳氏、市川三郎氏の、エッセイも週刊誌に連載中で、これはまったく気の遠くなるほど、長くつづいている。市川氏にそのコツをうかがったところ、「まあ、日記みたいなものですから」とおっしゃって、納得したのだが、「エロトピア」も、一面において、小生の日記風な面があるように思う。
二年半といえば、やはりいろんなことがあって、時のうつろいのいちいちに、それなりの影響を受け、あるいは高揚していたり、また思い屈したその色合いが、けっこう文中にあらわれているし、小説を書く以前、小生は雑文で世わたりし、ポケット判だが、本も七冊ある。
しかし、「エロトピア」が中でもっとも長く、そして、自分に密着した読物であると思う。かりに長寿を得たとして、老残の身で、この書を読みかえした時、どんな感想をいだくものだろう。妙なことばかりしてないで、もっと女体をたのしめばよかったのにと、くやむのかしら、あるいは、「昔は元気があったなあ」と、前立腺肥大の珍宝をしみじみながめ、過ぎし日の手すさびに思いをいたすのだろうか。
なんにしても、数えで四十二、つまり男の厄年の前後に、物狂おしく書いたこのよしなしごとを通じて、自らたしかめられるのは、どうもますます女嫌いというか、恐怖感というか、そういった気持が昂まり、このままだと、どこへ行っちまうか、いささか憂うつにさえなる。
まだ老いこむには早いような気もするし、筆を捨て、いざ巷に出でなん、女狩りにいそしまなんと、懸命にふるい立たせているのでありますが、どうも心もとない。「エロトピア」を厄年の厄払いにしたいのだが、逆に自己暗示にかかったようで、やはり「エロス」はあだおろそかにもてあそんでは、毒が強すぎるらしい。「エロトピア」から浮世にもどって、白髪の翁といった態たらくなのだ。
昭和四十六年六月二十日
[#地付き]野坂昭如
初出誌
週刊文春/昭和四十五年四月二十七日号〜
昭和四十六年六月二十八日号
単行本
昭和四十六年八月一日文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十二年七月二十五日刊