野坂昭如
エロトピア1
目 次
〈1〉エロトピア
〈2〉おのこの手わざ
〈3〉極 楽 往 生
〈4〉品かわる色の道
〈5〉不能のたのしみ
〈6〉変 態 志 願
〈7〉節片愛好症
〈8〉屍姦よもやま
〈9〉おんなの特権
〈10〉複数姦のおしえ
〈11〉世に醜きものは
〈12〉血と色のたわむれ
〈13〉真実たずねたきこと
〈14〉津々浦々の呼称をば
〈15〉性教育に惑う
〈16〉如何なるさまに相成るか
〈17〉女を改革する
〈18〉青い文化財
〈19〉人 形 の 味
〈20〉効能説明書きの妙
〈21〉おなごのたたずまい
〈22〉へんな変態
〈23〉めくるめく少年の日
〈24〉われ性的旧世代なり
〈25〉その造作や絶妙
〈26〉てれふぉん・せっくす
〈27〉性 症 流 転
〈28〉猥褻不感症に悩む
〈29〉手すさび礼讃
〈30〉処女鑑定士登場
〈31〉そのかわや怨めし
〈32〉読者諸兄の声に感謝す
〈33〉われ老いたるか
〈34〉野に遺賢あり
〈35〉観る聴く作る情熱
〈36〉そも生命のリズムなるぞ
〈37〉夢の御わざこそ
〈38〉水泡に帰す勿れ
〈39〉限りなき女族性感開発
〈40〉老衰の果てに
〈41〉不能克服の悲願
〈42〉もはや本能に非ず
〈43〉情事の裏方ども
〈44〉手すさび党に声あり
〈45〉福の神と貧乏神
〈46〉生の支えとぞ……
〈47〉天と地の隔りを知れ
〈48〉愚かな亭主あわれ
〈49〉不潔であるということは
〈50〉汁液べったりの名作?
〈51〉胎内願望のなせる業
〈52〉めざめよ錯覚居士
〈53〉隠したき心を探る
〈54〉父と子相睦むよし
〈55〉新婦のたしなみを説く
〈56〉「不惑」を過ぎたれば
〈57〉八百よろずの性教育を
あ と が き
イラストレーション 山藤章二 (省略)
[#改ページ]
エロトピア
妻にオナニーの現場をみられた男がいる。私立大学の助教授なのだが、彼は、夜|更《ふ》けて久しぶりの風呂に入り、石鹸の泡こすりつけるうち、ふと乙な気分になって、なつかしき手すさびにふけり、その生命のしるし放出する際に、のぞきこむ妻の、視線を感じ、正にそれはタイミングが合っていて、抜きさしならず、時間にすれば二秒か三秒だろうけど、互いに顔みつめたままでいたそうな。
次ぎの瞬間、妻は音高く風呂場の戸を閉めて、一言もいわず姿を消し、夫は、湯船が井戸なら、身を投じたいような気持となって、取りあえず、あたりを清め、さて何と、取りつくろえばいいか、しゃがみこんだまま、思いめぐらせて、女との情事露見よりはまだましであろう、いや、さらに侮辱したことにはならぬか、浮気ならば、あるいは妻も、納得できるだろう。だが、夫が風呂場のタイルに向かって、ぶざまな形に坐りこみ、多分、白眼むき出していたか、腑《ふ》抜けた面か、しかも、彼は、とっさのことに仰天して、ニタッと妻に笑いかけたような気さえするという。
ひょっとして、変態と思いこむかも知れぬ、以後いたしませんと誓ってゆるされるものか、まさか文字通りわれとわが手を切るわけにいかず、ずっと以前読んだ小説に、夫の一度だけの浮気嗅ぎつけた妻が何年たっても恨めしそうに「私は一回損してるんですからね」といいつづけたというのがあった。それでなくても近頃、やや御無沙汰気味なのだから、放たれた現の証拠を眼にして、「なんという勿体ないことを」と、さぞかし口惜しかったろう。かねて妻は夫の浮気について、「あなたがなされば、私もしますからね」冗談だが宣言していて、「君も、やっていいよ」とは、しかしいえないし、人に相談するわけにいかず、夫は湯船を出たり入ったり、考えまとまらぬまま、途方に暮れた。彼は三十六歳で、そう女好きではない。この一儀についても、止むに止まれぬ昂ぶりに、つきうごかされたわけではなく、なにしろ、妻が手をのばせばとどくところにいるのだ、自分でも手すさびにいたった心情がわからず、「お前、そういう経験はないか」ウィスキーのみつつ真面目に、ぼくにたずね、その気持わからないでもない。
時にホテルで、原稿を書くことがある。すると、しばしば手すさびにふけるのでありまして、これは一種の監禁状態におかれて、しかも、机に向かうのが苦痛でならぬ、風呂に入り、トイレットにしゃがみ、カレーライスを運ばせ、腹筋運動をこころみ、時計の針をながめ、もう他になにもすることはない。このいずれも、別に自ら欲してではなく、原稿書く苦痛一寸のばしに先きへ追いやるためのもの、最後に、人間の営みとしてはセックスだけが残り、つまりは右掌と睦み合うのであって、ひょっとして、ぼくの小説にいつもいやな女性が登場し、またベッドシーンの描写が下手なのはこのせいかも知れぬ、つまり女などどうでもいいやといった心ざまで、筆をとるのだから。
助教授氏はそれほど、せっぱつまった仕事かかえていたわけではないらしいが、男にとってこの業《わざ》は、しかるべき女性求め得ぬから、止むを得ずのことではなく、それ独自のたのしみがあって、妻めとった後も、ひょいと本卦《ほんけ》がえりの如く、一儀に及ぶことが、わりによくあるのではないか。これならば、どのような美女を相手どり、また、あらまほしき状態で犯すことも意のままで、しかも、いかに蛸《たこ》、巾着《きんちやく》の、チツアツのったって、わが握力にはかなわぬはず、もしそれゴルフ、麻雀、ペン胼胝《だこ》でもあれば、すなわち「数の子天井愛宕山」ではないか。
ぼくは、釣りにおける鮒のように、手すさびにはじまってまた終るのが、セックスの常道ではないかと考え、さらにインポテンツになって後、老いたるヨットマンがその日の風を庭の芝生の上で測りつつ、セールのはためき、波のしぶきありありとうかべて、心ゆくまで帆走の醍醐味にひたる如く、なえ魔羅《まら》ながめて、純粋に観念的な、セックスたのしむことこそ、エロチシズムの極致と、想像することがある。
そして、これだけ痒《かゆ》いところに手のとどくほど、性解説のいきとどいている時代に、オナニーについては、せいぜい猿にもできる原始的な方法と、以心伝心のまま、後世に伝えているのは、やはりオナニーは代用であるとの、先入観に毒されているからだろう。いや、方法だけではなく、戦時中のいいかたをすれば、オナニーを科学する心が、まったくみられない。いったいエネルギーはどれほど消耗するものか、射出距離と年齢の関係、強度を増すのか、耐久時間はどうなるか、男だって変形するだろうし、研究分野は多様にあるはずで、とても、やれ悪癖ときめつけ、また、当然の現象と気休めいうような、大|雑把《ざつぱ》ないい方では、すまないはず。近頃では、もっぱら無害説がまかり通っているけれど、それを信じて、熱中したら自律神経失調症に、かつてなった例もあるという。無責任なことはいわないでもらいたい。
その名称にしてもそうで、オナニーは、地に洩らした大先達オナンからきているけれど、戦前はもっぱら「マス」「手淫」「自涜」「せんずり」だったし、さらに古くは「かわつるみ」であろう。「宇治拾遺物語」によると、「かわ」は厠《かわや》で、屎《くそ》まることをいうから、これより尻をあらわし、男色の意というけれど、「逸著聞集」にはまた、宮仕えの女房の脛を、庭掃きの男がかいまみて、厠で「かわつるみ」を行ったとあり、江戸時代に、この言葉は、オナニーのことと定まったらしい。「かわつるみ」には「※[#「手へん+上/下」]」の字をあて、この音読みは「ロウ」つまり「弄」と同じである。この場合の「かわ」は、手ではなくて、先端|紡錘《ぼうすい》形の部分より下の、円筒形の皮膚をいう、つまり掌でもって、この皮を上下させることにより快感を得るのでありまして、この皮にゆとりがなければ、オナニーは果たしにくい、嘘だとお考えなら、おためしあれ。
オナニーは、必ずしも掌でははじまらす、キンゼイ風に調査したら、さエロトピアぞや奇想天外な、そのきっかけがわかるだろうけれど、腹ばいになって本を読むうち、ある感触に気づいて、さらに追い求め、部屋中、そのままの形で蛙泳ぎのように二時間もはいずり、膝小僧すりむけて血の流れでるのに気づかず、押入れの中で、積み上げた布団にかじりつき、感きわまって、襖押し倒し、ころがりおちたり、家の大屋根に取りつくかと思えば、杉の木をのぼりのぼって、気づけば降りられなくなっていたり、なんともはや涙ぐましいばかり。小学生中にこれを知り、たいていは、すぐ指使いにいたらぬ、そして、指にいたれば、オナニーは、指以外の器具を求めて、必ずエスカレートするもので、これがみなそれぞれに創意工夫こらすもの。江戸時代のワ印に、「独淫品くらべ」があって、抱腹絶倒の奇書だが、これは次回に紹介することとし、さて冒頭の助教授氏だが、湯ざめと湯当りでふらふらになったあげく、妻の前にうなだれまかり出たら、「ごめんなさい、あと二日すれば大丈夫よ」と同情していわれ、なんと折よくメンスだったという。
「おれそんなこと知っちゃいないもんなぁ、いやぁ神の助け」彼は、あらためて溜息ついて真面目にいった。
[#改ページ]
おのこの手わざ
あらゆる人間の業同様に、手すさびも亦《また》、より有効適切な手段、すなわちさらに快感を求めて、五指よりエスカレートする。そして、この古典的な、かつ一般的第一歩は、まず菎蒻《こんにやく》である。
手軽に求め易いこともあるだろうけど、プリプリコリコリシコシコブヨブヨと、一種形容しがたい菎蒻の感触を、童貞は思いえがく女体のそこに、もっともなぞらえ易いのであろう。江戸時代には、武士がビロード張った鞘《さや》袋、これを裏がえしにして、とっさの用に足したと同じく、貧乏な町人は、自ら菎蒻玉を求め、これをおろし金でおろし、すりばちにすり立て、灰汁の上澄みでかため、しかも、その硬軟が、微妙に影響するから、各自工夫をこらし、処方箋をつくっていたという。両国には、これ専門の菎蒻売る店さえあり、「砂おろし」と称していた。「睾丸の砂おろし」と、よく老人のいう語源ではないか。
ぼくもこれを用いたことがあり、ごくふつうに茹《ゆ》でて、少し冷ました上で、タオルに包む。菎蒻は厚い短冊形をしているから、その断面に包丁で裂け目を入れ、注意するべきは、菎蒻の内部に中空の部分があって、茹でる時ここに熱湯が入りこむ、するってえと、これを突き破って火傷する怖れがあるのだ。用いる際は、手すさびをこれに代えるだけでもいいが、さらに布団を両側から巻いて、しごきなどでほどけぬようにしばり、この合わせ目にはさみこむのも工夫のうち。
いずれにせよ、果てた後は、珍宝だけ茹だって、湯上りの如く、いかさま「砂おろし」にちがいなく、しかしこれは、布団を用いた場合、抱きしめる行為が、いくらか色どりそえるにしろ、到底手すさびの自在さに及びもつかぬ。
そして、手すさびの進化は、大別して四つの方向をとり、つまり「温」の追求、菎蒻がこれだが、「温」よりさらに柔らかい感触、ふわっとくるんで、取りとめのない境地をねがう場合は、白桃、まくわ瓜などに移り、これを「冷」とかりにする。
その他、「乾」と「湿」があって「乾」はたとえば障子紙、羽毛をこころみる。障子紙は、なにも近頃に発見されたことではなくて、やはり江戸時代、猪の毛や、水鳥の柔毛を和紙にすきこんで、そのケバ立った肌合いを賞味する道具があった、これは二重になった木の枠に、紙をややはなして二枚はさみこみ、使用し、「独障子」といった。「湿」は、ウエット派で、手すさびの際にぬれぬれさせるための液体を用い、唾ではすぐかわくし、痰《たん》は滑らかすぎる、卵の白身、鰻《うなぎ》の表皮かきおとしたぬめりなどがいいとされている。
江戸時代は、よほど暇だったらしく、手すさびの工夫もまことにこまかく行きとどいているが、これは決して、独身者が身をもてあましての苦肉の策ではなくて、吉原にも通えば妾何人もかこった粋人こそ、このたのしみの探求にいそしんだらしく、だから、手すさびの名称についても、「※[#「手へん+上/下」]」「おのこの手わざ」「着せ剥ぎ」「五指妻」「独淫」「五人組」「千《ち》ずり百《もも》がき」「五人噺」「手細工」「蝋燭」「手開」とこれは、掌を相手のものだけだが、数多い異名があって、外国ではせいぜい「ハンドジョブ」「プルザワイヤー」「ロンリービジネス」くらい、さらに「砂おろし」風いい方になると、百二十一あり、こうなれば、世界に冠たるオナニー文化であろう。
この伝統は、現代にも生きていて、たとえば、あのトルコ風呂における特殊奉仕など、他の民族の誰が、公娼制度が廃止されたからといって、こういう知恵を、思いつくだろうか。先日、ある会合で、各自のオナニー体験及び創意工夫披露しあったのだが、近頃、ホテルではたいてい、固定シャワーでなくて、電話受話器の形をしたそれがあり、なんと全員が、バスにおいて、このものを利用し、温水圧による、「水がき」とでもいうことを、経験していた。また自動車の窓硝子をふく、やわらかい皮、同じく埃を払う毛ばたき、電気掃除機の管を、逆につけ、つまり空気噴出孔に接続して、風圧をためし、「湿」派はまた、女房の用いうるさまざまな化粧用材料をこころみていて、手すさび文化後継者に事欠かぬ。
そして、ここにも日本文化の一面があらわれている如く、つまりトリビアルなことにのみ熱中して、江戸時代にも、また最近まで、我国にダッチワイフだけは、あらわれなかった。すべて手細工及びそれに関連することに憂身《うきみ》をやつし、さすがの左甚五郎も人工美女はつくっていない。これの専門はドイツであり、ダッチの名称は、「フレンチレター」「シャポーラングレー」と、英仏互いに「ルーデサック」と呼びあうのと同じ、一種の蔑称である。
十八世紀には、すでに当時、流行の衣裳をまとい等身大のダッチワイフがあって、顔や体格は木組みに綿をかぶせ、布でおおった精巧な人形だが、肝心の部分はただ交換可能のビロードかぶせた孔があいているだけで、いささか点睛《てんせい》を欠くおもむき、二十世紀に入り、ようやくゴムが使用されても、こまやかな配慮に欠けている。ただし、顔と躯は、生けるが如く、とてつもない美女に仕上げられているが。日本における人工美女の、本格的生産は戦後で、つくりはじめるとたちまち世界を制覇し、表向き性的不能者治療のための器具として、輸出され、その精巧なことは、たとえば、キスすると舌を出し、サーモスタットによって、適温に保たれ、腰の部分にはモーターが内蔵されていて、四段スイッチ切りかえによるさまざまなうごきを行う。八年前に、一式千五百ドルだったが、今はどうか。
一式というのは、顔が交換できるようになっていて、その時の、代表的美人が三通りそえられ、ただし、モンローにしろ、バルドーにしろそのままではグロテスクな印象が強く、やはり無表情な人形には、それにふさわしい顔立ちがあるのだそうだ。それに、洗滌具、部分のスペアー五組がつく。B・W・Hはじめ、すべて注文のままつくるけれども、一体の製作日数が半年近くかかり、これは主に植毛のわずらわしさという。糊で貼りつけたのでは、取れてしまうし、微妙なあたりの仕組みは、むしろ器用な日本人にとって楽で、それこそみみず干匹たわら締めなど思いのまま。ぼくが見学にいった時、テープレコーダー内蔵と、部分の回転に工夫がなされ、レコーダーはよくわかるが、回転とはなにか、たずねると、抽送の他、遠心分離器の如くに、中でまわすのだそうだ。
いかな性生活の知恵でも、まわすことまではいたるまい、と感心したのだが、これも決して新工夫ではなく、江戸時代に、棒に糸を張り、ビロード貼った筒を、同じく運動させる器具があって、いわく「笠まわし」。大和民族は、実に熱心なものではありませんか。必ずしも生殖を目的としないのが、男のセックスなのだから、手すさびの工夫こそ、真に男らしい文化と思えるけれど、いかが?
[#改ページ]
極 楽 往 生
何故、人間は長生きをしたいかという質問に、万人の納得できる答えは、ないのだそうで、いろいろ考えても行きつく先きは、生きていたいからだというような、しごく当たり前の結論になってしまう。
ある医学者の説によると、長生きしたいのは、死ぬ時の苦しみの、少しでも軽やかなことをねがってであるといい、つまり、老衰という状態で死を迎えれば、ぼけているから、恐怖感も少い。死後の世界に怯《おび》えるよりも、死ぬ時の、こればかりは想像のつかない断末魔を怖がるのが、凡人だろうから、この説明はいくらか納得がいく。
ねむるが如き大往生を、誰しもねがっているのだろうけれど、只今のところ三大死病である、心臓病、脳溢血、癌のうち、いちばんきらわれているのが癌。たいていの人は、脳溢血でころりといくことをねがい、だがこれは、いわゆる中風の状態で何年も長らえることが、よくあるから、いささか具合がわるい。心臓も勝負は早いけれど、一度の発作でカタがつけばともかく、生命取りとめたのはいいにしろ再発に怯え、しかもこの臓器だけは、そのうごきがはっきり自覚できるし、これが止まればすなわちオロクジと、誰だって知っている。だから、少しの変調にも心底怯え、恐怖に押しひしがれ、一種の廃人となることがあって、やはりうまくない。
ぼくは年がまだ若いから、勝手なことをいっているようだけど、血圧は高いし、左心室にブロックがみとめられ、一日ウィスキー一本のむから、そして、近頃、三十代での三大死病発生率は高まるばかりで、けっこう怖ろしがっているのだが、これで、腹上死という奴はいかなものであろうか。
営みにおいて、男性の消耗するエネルギーは、四百米疾走とか、五粁米競歩に匹敵する、などいわれ、すると、万歩メーターぶるさげてのマンポ運動より、ポをコにかえたって同じこと。とにかくポンコツのハートかかえて、駄馬に鞭打てば、死に至ることも、むしろ当然と素人にもわかる。もし、腹上死が、伝えられるように、しごく極楽なのであれば、せっせと営みを行うことで、死の恐怖から逃避も可能なわけだが、これも、よくきいてみると、そう楽チンではないようだ。
祇園の老妓の話では「なんやしらん、シューッとしぼみはってな、どないしたんやろおもたら、ウーンうなって、どさっと重《おも》なりやしたんえ、うち、ほんまびっくりしてもた」のだそうで、シューッやら、どさっと重くなるあたり、実感がないでもないが、医者にきくと、それはあり得ないという。
老妓の相手は、多分、心臓病だったのだろうが、その発作の前兆は、たとえば下腹部に拡散する鋭い痛みや、背中に釘を打たれる如き苦しみ、さらに脱力感、この上ない不安感が重なって、とうてい腹上にとどまり得ず、まず落馬は必至。ところが、これも医者の話なのだが、女房ならともかく、芸者相手では、男の持病を知らないから、きっと「どないしはったん、いややわ、うちまだどっせ」など、はなれた男の躯をまさぐり、うなっているのを、ごま化しと考えて、小突いたりしたかも知れぬ、そのため死期を早めたのではないかという。いやはや、怖ろしいことで、こっちはこの世の終りと、もがき苦しむところを、恨みがましい女の手に、ペニスひっつかまれ、しごき立てられるなど、まさに地獄であろう。危いむきは、あらかじめ敵娼《あいかた》につげておいた方がいい。
実際は、むしろ営みの後、三十分か一時間後に発作を起すことがほとんどで、やれやれと汗をふき、枕もとの水など含んで、相手が女房なら、これで当分はヒステリー起さないだろうとか、情婦なら、どうも少し長くつづきすぎた、いい加減に切れようか、またゆきずりの浮気ならば、まさかヒモにおどかされはしまいななど、少々反省したりする。正にその時、ドカーンと見舞われることが多い。そして、これは、通常の発作とかわりないから、極楽でもなんでもない。そりゃまあ、いざ、これからという時におそわれるよりは、いちおうなすべきことをなした後だから、思い残すことは少いにしても、苦しみは同じ。ある程度の年齢になったら、営みの後しばらくは、死刑の判決を待つように、怯えているのが当然で、女性もそれにふさわしい準備と覚悟をもって欲しいものである。
血圧にしても、営みの際は三十ミリから八十ミリの上昇がみられるといい、しかし、これが徐々であれば、そう危険はない、すなわち前の戯れなど入念に行えば、血管のパチンとはじける心配は少いそうで、やみくもにはやった場合、たとえば、老人が思いがけずに少女など得ていきり立つと、たいへんに危いし、なれきった女房との間ではまことに少いのだそうだ。
この発作は、一説によると、脳の血管が破れて、なまあったかい血液のじわっと灰色の脳味噌ににじむ感覚があり、つれてふわっと躯のうき上る感じ、やがて視界がせばまり後はわからぬ。つまり、これでよみがえらなければ、一種の安楽死にちがいなく、老人が、よく若い娘にちょっかい出したがるのは、あるいはこの死にざまに対する願望がはたらいているのかも知れぬ。この場合、ペニスはしばらく直立したままというから、相手がベテランだったりした時、気づかずに中気の躯を、なおむさぼりつづけて、これはあるいは何よりの供養か。
いずれにしても、腹上死はあっても腹下死というのはなくて、女性はシヌシヌと口先きばかりであり、カマキリのみならず、男というものは、常に死と背中合せで性の営みを行っているのだ。これはまた男の特権といえるだろう。いずれさまもまだ死ぬなんぞ先きの話と考えていたって心の奥底では、夜半に嵐の吹かぬともがな、またこの冷酪な現実を認識すれば、あだしが原におく霜の一足ごとに消えていく怯えがあり、だからこそ、その抽送の一つずつに、生命の充実感があるのではないか。
新聞の死亡記事を読んで、仏の死亡時刻が夜中ならば、また、ふと目覚めて遠くを過ぎる救急車のサイレン耳にした時、二つ枕しとね合戦に討死した男の冥福を祈り、わが身をかえりみるといい。さらに、前二回で、オナニーの快楽について説明したけれど、この行為は、通常のセックスよりも、さらに神経系統の疲労をともなうし、脈搏数、血圧の増加も、しばしば上まわることがあるそうな、ということは、これをなんと呼べばいいか、掌握死とでも称するべき死にざまも、十分に考えられるわけである。三十代にしていまだこのことに熱中する小生など、ひょっとしてこれに見舞われるかも知れず、精液空中高く射出しつつ、昇天するなど、ちょいとカッコいいことではあるまいか、血圧高めての掌握死こそ、一種の極楽往生か。
そういえば、オナニーする男の姿や表情は、仏像によく似ている。右掌で輪をつくり左でほとばしりを受けるような形ではないかね。
[#改ページ]
品かわる色の道
あてがきについて、いささかの筆を弄したら、たちまち数十通の同好の士から、おたよりをいただき、ぼくにとって、これははじめての経験である。TVでの放言に対し、抗議の電話ならば、夜を日に継いで、ベルの鳴り通したことが、再三あるけれど、手紙で、しかもいずれも達筆、内容はしごく真面目に、このことにつき、わが蒙《もう》を拓《ひら》いて下さる文章、まさに物書き冥利ここにつくる思い、わが筐底《きようてい》にそのまま秘めるのも勿体ないから、二、三紹介させていただく。
あてがきの態位、これを近頃では体位と書くけれど、まちがいではないか。体位なる言葉はむしろ戦争中に文部省あたりの提唱した「体位向上」にふさわしく、「態」すなわち姿、形に、「位」つまりくらい取りを合わせた「態位」こそ、実をあらわすように思えるのだが。それはともかく、あてがきの際のポーズについても研究なさっている方がいらして、さすが独り行う秘事ゆえ、四十八通りにはまいらぬが、名づけて「六法」「玉とり」「手やぐら」「臥竜」「竹とんぼ」「仏壇がえし」「とも喰い」「浜時雨」「居合い」「合の手」「ろくろ」「うなぎ」「茶つみ」の十三種。
このすべて、自らの掌にたよるものだが、「六法」は、右または左の脚をくぐらせて、指使いするもので、この場合、くぐらせる脚は、中空にはね上げていなければならず、だから壁などに支え、残った一方の手を床につき、躯はやや前傾する、この姿が、なんとなく「飛び六法」に似ているのだそうな。このポーズの場合、ペニスを下方にしごくこととなるから、栂指《おやゆび》の腹による、刺戟を強く味わうことができる。
「玉とり」は、仰臥し、脚を膝から曲げて、思いきり開き、双方の土ふまずで睾丸をはさみこむ如くしつつ行う。この時、足のかかとはおのずと、「蟻の戸渡り」に触れて、しごく結構な塩梅。ただし、熱中の余りにタマを潰したり、股関節脱臼を起さぬよう注意が肝心なり。
「手やぐら」は、膝と肘で、躯を支えつつ果たすのだし、「臥竜」は、横向きに寝そべって、片脚を曲げる。「竹とんぼ」なる名称の所作は、胡坐してペニスを仰角四十五度ほどに保ち、竹とんぼをとばすが如く、両掌でシュシュシュッと、必ず最後は、掌互いにすべらせて本体よりはなす。まあなんと申しますか、原始人が火を起しているようなもので、そういや手近かに燃え易い体毛もないではなし、あまり度を過せば、キナ臭くなるかも知れない。
あてがきからはそれるけれども、不能の状態となった時には、こすり立て、ひっぱり、また温湿布などしても駄目で、この竹とんぼがもっともよろしい。赤坂の老妓が「雁首をちょいとつまんで、ラジオのつまみまわすようなさりゃ、たいていよござんす」といい、悩める方はおためしあれ。
「仏壇がえし」となると、かなり高級というか、ナルシズムなのか、よく美容体操で、両手を腰骨にあて、二つ折れのような形になるけれど、あれをさらにすすめて、自らのものがすぐ顔の上にくるようにし、その独眼の竜顔|咫尺《しせき》の間に、ながめつつ物狂おしくふるまうのであって、当然のことながら、放たれた銀滴は、自らの面に直撃される。別に眼に入ったって別条はないそうだが、しかしこの態位でないと、絶対に満足できない男性も少くないのだそうだ。
これを、もっと極端になせば、「とも喰い」となって、つまり、尺八の独奏にいたる。しかし、これはおすすめしない。二十歳すぎて、躯が硬くなってからのこのあそびは、ひょっとしてなおいっそうの昂まりを求め、力入れたとたんに、背骨や首の骨を折りかねぬ、われとわがものにくらいついての討死は、壮烈にゃちがいないだろうけれど、発見者がびっくりするからよした方がいい。
「浜時雨」は、膝立ちし、躯を後にそらせ、できれば膝行しつつ行う、この命名の因縁《いわれ》として、「浜までは海女も簑《みの》着る時雨かな」によるとあるのだが、このポーズがなぜ浜時雨なのかよくわからない。しかし、たとえば、こんな形で、襖に向けて突進しつつある時に、ガラリと襖開けて誰か入ってきたら、お互いびっくら仰天するやろうねえ。
「居合い」は、膝を抱くようにして、坐り、両手でもってしごき立てる。この場合、左で根元、右でとっさきを分担し、これは刀の柄に手をかけた姿に似ているからかくいうもの。それぞれのうごきちがえることで、たのしみを増加させるそうな。
「合の手」は、右で抽送しつつ、左で、回転運動を、先端にあてがいながら行う。これはかなり運動神経を必要とし、あるいは老化防止にいいかもしれない。
「ろくろ」は、両手でにぎりしめ、手ぬぐいしぼる如く、行うのだが、この際、上下させるのがコツであるし、また「ろくろ」の由縁でもある。
「うなぎ」は、しかるべき粘稠《ねんちゆう》な液体をまぶした上で、うなぎつかみのように、掌を交互にすべらせて行い、「茶つみ」は、先端をのみ、チョンチョンとつまむのである。
さらに手紙の主は、銀滴の射出距離についても言及なさっていて、必ずしもよくとぶが故に強からず、若くて意気盛んなる時には、粘稠度が高いから、むしろとばない、三十代の、適当にその比重が軽くなった時、最長飛距離を記録するものらしい。
そしてこれを測定するには、相撲でいう蹲踞《そんきよ》の姿勢、片手でしごき立て、足の位置から測り、十代で二米六十糎、二十代で三米十糎、三十代が四米、四十代二米十糎、五十代一米六十糎、六十代一米二十糎、七十代五十糎が標準だという。こういう競技会をやってみてはどうか、そしてチャンピオンには、これは筒井康隆のアイデアだが、「マスター・オブ・ベーション」の称号を与える。
この他、いろいろな新知識をいただき、中に「みみず一匹」というのがあった。すなわち、尿道孔に、みみずのほどよきをえらんで、もぐりこませるのだそうな。「千匹ついに一匹の快に如《し》かず」と、筆者は断言されているけれど、みみずの迷惑もさることながら、大体が小便かけただけで、たたりのあるものを、もぐりこませなどして、大丈夫なのか。
いや、さらにみみずがすっかり居心地よく思っちゃって、奥へと入りこみ、膀胱になど棲《す》みついたら、かなり不安定な気持でいなければならぬ。わが腹中にみみず一匹ありて、時によりざわめき立てるなど、ウツウツたる状態の折に、思いえがく妄想みたいでかなり無気味である。
サラリーマン党もいいが、「あてがき党」を結成し、女など無用の短物、おとといこいとそっぽむいたら、女は怯えて、男の膝下《しつか》にひれふすかも知れない。口説きおとした女の、ベッドで待ち受けるかたわらに、あるいは「六法」「竹とんぼ」さては「手やぐら」「浜時雨」など、粋な業ではありませぬか。
[#改ページ]
不能のたのしみ
ぼくは、実にしばしば不能となる、突然性インポテンツというのか、いやその原因をつかめないから、本態性不能症といった方が正しいだろう。たとえばしたたか酒に酔ったあげくなら果たし得ずとも当然だろうし、また、とてつもない美人と対し、心臆することも、わからぬではない。また着つつなれにし妻にしあれば、感奮興起しなくて当然かもしれぬ。
ところがわが不能は、しごく当たり前のしかもほどよき刺戟に恵まれていてすら、ウンともスンとも手ごたえがなくなってしまうので、自分でさえ心当りがないのだから、先方さまはひたすらやきもきなさり、疑心暗鬼の権化《ごんげ》となられる。
女性には、ヴァギニスムを除いて、不能はないし、これだって麻酔薬により緊張をとけば可能であろう。しかし、男のこのことだけは、不老長寿の薬と同じく、特効薬が絶対になく、またこの状態を女人に納得せしめる、たしかな弁明の方法もない。
ある女優さんと同衾《どうきん》した時に、インポとなり、相手は二十二歳で、それほど性経験ゆたかでないから、恥かかされたと考えたらしく、深刻にスネてしまい、こっちは千載一遇のチャンス、あせったってからみついたって、どうにもならず、しきりにヘンなことを考えようとしても、たとえば美女を無理無体に犯す妄想えがこうったって、目前にたしかに美女がいるのだから、とてもかなわぬ。はじめは「疲れてるんでしょ」とやさしかったが、さらに、「どうしてこんな風になるの?」とかわり、「私がきらいなんでしょ」から、「なにもこんなところにさそわなくてもいいのに」と恨みがましく、ついに泣き出してしまう。
自分というものがありながら、ふるい立たぬ男をみれば、女人の傷つくことはよくわかる。せめてもの思いやり、といえばきこえはいいが、次のチャンス賜わる下心で、必死に口実を考え「男ってものは、あまりに憧れが強いと、駄目になってしまうのだ。よくあるでしょ、好きな人の前に出ると、一言も口のきけなくなってしまうことが」。左手で肩を抱き、右でなでくりまわしつつ、頭では、妄想の断片をあれこれまさぐり、口でこんな台辞をしゃべるのだから、たいていの努力ではない、インポの後は、通常のセックスより、はるかに疲れてしまう。
この女優さんは、愛すればこその口実で納得してくれたけれど、これがさらに男ずれした相手の時は、こんな甘っちょろい台辞では駄目で、たとえばバアの女給さんを口説きおとし、それまで猥雑きわまりないことを口にし、ある程度の礼金まで約したあげくに、ピンともシャンともならなければ、「へえ、ダメなの、かわいそうね、若いのに」やら、「気助平って本当なのね,いやらしいこという人にかぎってインポが多いのね」「ちょっとみせてごらんなさいよ」「ああ馬鹿馬鹿しい、せめて指ぐらいかしなよ」「いただくものはいただくわよ」いいたい放題で、こっちも「さわるな、今、頑張ってるんだから」と、ヤケっぱち。しかし、なんとも屈辱的な心境で、さらに、処女の場合に不能となった時など、どう説明すればいいのか。なだめすかして、あるいは性と人間解放を論じ、また、妊娠の怖れをうち消し、「痛ければすぐにやめるから」やら、「眼をつぶってじっとしてりゃすぐ済む」など、虚実取りまぜてようやく納得させ、テキは犠牲《いけにえ》台の小羊の如く、その時を待っているのに、わがものはふるい立たぬ。
そのうち処女もうっすら眼をあけて、妙なふるまいのこちらをうかがい、「みないで、みないで」などあわてれば、なおちぢこまり、たいていの妄想より、処女を犯すただ今の現実の方が強烈だから、これにもたよれぬ。「どうなさったの?」と、小声でたずねる乙女に、なんと答えればいいのだろう。そのくせ、思いあきらめホテルを出る頃に、ふと雄々しくなったりして、ひょっとすると、ぼくの先祖は、女衒《ぜげん》かなにかで、さんざ女の恨みをかったのかも知れない。
このインポテンツについても、われわれは余り語り合わぬようである。だいたい、性豪色女の、カクカクたる戦歴のみ紹介されていて、不能など、ペストの如くに、文明国では絶滅したと思われているが、ぼくは男ならば誰にだって、必ずこの経験はあると信ずる。そしてインポとは関係ないけれど、性豪といわれる方は、何日かセックスを営まぬと、鼻血が出るらしい、いや、常人ですら、たとえばまむし酒をのむと、精力がついて鼻血といわれるが、いったい精力と鼻血に相関関係が本当にあるのだろうか。
精液を血の一種とみなし、精のつくことは、つまり血液のふえることで、だから鼻血となってあふれるなどと考えているのなら、これは無知のあらわれだし、また、精力増加が、鼻粘膜に刺戟を与えるとも、思われない。これを、一度、医者にたずねてみたい。性科学というものは、かなりかたよった進み方をしていて、こんなに迷信の横行している分野はないのではないか。そしてその理由は、このことについては、皆エエカッコしいであるからだ。ぼくはあえてカッコわるいセックスをめざし、性の荒野にふみこむ決意なのであります。
ぼくのような本態性は別として、突然性の例としてきいたところでは、わが詭弁《きべん》の通りに、精神面がこのことに影響をかなり与えるらしい。恋人が、さらに別の男とも交渉しているとわかって不能となり、これは、その交情をふと思いうかべたとたん、みるみるなえたというし、また、タテヨコ十文字の帝王切開の傷をみて、ガックリなった者もいる。もちろん、ようやく思いとげるうれしさに興奮し過ぎ、ただもう心悸亢進するばかり、ピクともしなかったり、相手の反応があまり風がわりで、びっくり仰天、「死に体」となる。また、その際の、応急方法もさまざまで、あわててオナニーの時のように、自分の好みの性的イメージを追っかけるとか、むしタオルで包んでみたり、こっそり便所でしごき立て、一人なら雄々しくなるのに、ほんの五、六米歩くうちにへなへなっとなってしまってこれをくりかえし、ついには、便所からしごきつつ駈足でベットにとびこむ塩梅で、これをながめている女は、どう思ったであろうか。
そして、女体をかたわらに、しっかとしがみつきつつ、あれこれ助平なことを考え、自分でさまざまに努力する。女性は、またできのわるい息子ほどいとしさがまさるといった態で、しずかにこっちの背中などなでさすってくれるなんてえのは、ちょいといいように思う。これはぼくにまだ幼児性が残っているせいなのか、みたされぬうちが花で、その後のうつろなことを考えれば、インポもまたそれなりのたのしみようがあるのではありませんか。えらそうなこといってたって、男の果てはみなインポなりなのだ。
[#改ページ]
変 態 志 願
セックスにおいて、正常変態の別をもうけることはまちがっているけれど、ぼくの場合は、われながらいやになるほど、いわゆる正常であって、それはたしかに四十近くにもなり、まだ手すさびに熱意を燃やすなど、いささか風がわりにみえるかも知れないが、なに無精なだけで、これがたとえばフェティシズムというような性癖があれば、世の中ずい分とたのしいように思う。
よくあるパンティ泥棒というものも、このことはさほど盗みの技術を必要とせず、夜陰に乗じて、とりこみ忘れたそれをかっぱらうのだから、まずは表札泥棒と同程度でいい。しかし、盗みという、日常生活を逸脱した行為にふみ切る、その戦慄、しかも首尾よく手に入れれば、性の満足を保証されるのだし、コレクションのたのしみにもつながる、一石三鳥も四鳥も獲得し得るわけで、特に近頃はパンティの干しものなどいくらもあるから、禁猟区へ入ったハンターの如きもの、さぞや充実した日々をフェティシストは送っているのであろう。
また窃視《せつし》症の方々も同じで、ミニスカートならば、容易に目的達し得るし、望遠鏡の進歩にしろ、また恋人密会の場が、きわめて公けとなったことにしろ、すべてこの世は、わが欲望を中心にうごいている想いではないのか。さわり魔だって、戦前ならば千載一遇のチャンスが、朝夕のラッシュ時に惜しみなく与えられ、先様だって、ある程度は一種の公害と観じておゆるし下さる。サディズム、マゾヒズムとさらに困難なことも、今では専門のクラブがあるし、同性愛にいたっては、美徳に近くなってしまった。
かくの如く結構な文明開化の世にあって、正常人間は、その正常であるが故にこそ、いっこうに、恩恵に浴せないでいる。ただ単に女性との交りをのみ志向していたのでは、千人斬りといったって、また四十八手裏表というそのヴァリエーションにしても、一言にしていえば、粘膜の触れ合いに過ぎず、小生の如く達観してしまえば、手すさびにしくはなしの心境に至る。
ところが、変態ならば、セックス未開の分野はいくらもあるので、梶山季之氏の高著にしばしば紹介される如く、女性の屎尿《しによう》を啖《くら》って満足したり、女性下着をひそかに身にまとい、鏡に写しみて恍惚となったり、いささか物騒だけれど、女性のスカートを切り、あるいはおのがものを、開陳することで、しごく極楽の境地にあそび得る。いわゆる変態のタイプをおおまかに分けても五百三十種類あり、その一つ一つがきわめて個性的な、幾十通りにも分かたれ、ということは、変態の万能選手になれば、日々にあらたな色かわり品ことなるセックスの美酒に酔い痴《し》れることができるのだ。
そしてこの変態という現象は、そのほとんどが男性にのみあらわれる。最近はラッシュ時に、痴女が出現して、男もすなるタッチを女だてらに行うそうだが、決して痴漢と同じではなくて、痴漢ならばその行為が、車中で完結するのに、女の場合は一種のゲーム、あるいは正常とされる営みの代償であって、ちゃんとした男にめぐりあえば、そこで終る。猿股盗む女の話もきかないし、映画館の厚いコンクリートの壁を、青の洞門よろしくドライバー一挺でくりぬく例も女にはない。サド・マゾにしても、女には、前戯のヴァリエーションに過ぎず、男の小水を甘露と思う女もいない。セックスにおいて男と女に二つの大きな相違があって、インポテンツと変態の現象が、いずれも男のいわば特権となっていることだ。とすると、男の変態は、インポテンツとなにか関係あるのではないか。ついでに申しそえれば女に受胎出産の特権はあっても、人工胎盤の完成、もはや火をみるより明らかで、これは決定的な差とはならぬ。
男性ならば、誰でも女性の下着を気にする。窃視症とフェティシズムの傾向は男性すべてにあるのだが、女のミニスカートからのぞくパンティを眼にして、なにがなし心はずむ理由はなんなのか。虚心坦懐にみりゃどうってこともないが、階段のぼりつつ上方にある若い女のそれがチラリとすれば、パチンコでピース一箇もうけたほどのよろこびがあり、これは、下着を眼にすることで刺戟を受けたこと、わが欲望いささかなりとかき乱されたことをたしかめ得て、安心するからではないか。
糖尿病をわずらい、今はまったき不能となった男の話では、押しても引いても駄目とわかって、別段がっくりもせず、この病気は全身病だから、欲望も機能の衰えと比例し、いわば二人三脚故それは当然にしても、チラリズムに心惹かれることは、インポの後もしばらくあったそうな。はっと胸がときめくが、それは一種の残像の如く、さらにたしかな手ざわりは失われていて、この時に、しみじみ自分はインポになったのだなと実感したという。つまり男というものは、常にいつインポになるかと怯えていて、その反証たしかめるため、銭湯でことさら番台のあたりにたたずみ、あるいは女学生の体操姿を横目でながめ、ラッシュに乗り合わせれば、無意識のうち敵のヒップに手の甲などあてがうのではないか。
たしかに、小生ブルーフィルムの権威たりし頃、新着フィルムの報せを誰かれにとどければ、たいてい親の死目ふり捨ててもはせ集《つど》い、中に、眼の腐るほどこのての写し絵ごらんになっている方もいた。その熱心さに感歎したものだが、実はブルーフィルムときけば、とにかく観賞するというしたたかな自分を、確認したくて無理していたのではないか。ブルーフィルムながめる御連中の股間を、ぼくは観察したが、ことさらな変化は認められず、果てて後、いずれもほっとしたように、俺にはまだエロ映画をみたいという気持があるのだ、まだインポテンツではないのだという、安堵の色がうかがえたのだ。
ミニスカートからパンティがみえる、ハッとする、しかし、その後のよろこびは、名画や名器に接した場合とことなり、われ知らず、いまだ雄々しきわが力に感動しているのだ。そして、インポテンツ恐怖がはなはだしい場合は、それが固定してしまって、常にたしかめていなければ安心できない、そのたしかめの手段が、変態という現象をひき起すのではないかしら。それに、インポを心配していることさえも、気取られたくない気持が、ますますアブノーマルの種々相を産み出す。
文明国の、とりわけ知識階級に変態が多いのは、その立場がインポ恐怖症をひき起し易いからだろう。本当のインポになる前に、その恐怖について自己暗示をかける、さすれば変態たり得て、今日は出歯亀明日は痴漢、げに充たされた生活であろうよ。
[#改ページ]
節片愛好症
フェティシズムという言葉をはじめて知ったのは、終戦直後にあらわれたカストリ雑誌の性解説記事によってであり、訳語として「節片愛好症」がしめされていた。恋人の、せめてその身につけていた何かを、手もとに置きたいとねがうことは、誰だって経験あるだろうけど、ぼくは二十年ほど前に、新潟でお茶の師匠の娘に惚れ、こっぴどくふられてなお思い断ちがたく、せめてサインをくれとねがったことがある。
この時先方はどう思ったのか、しごく俗悪な宗教画の絵葉書に、まるで芸能人の如くくずした字で、わが名をしるし、下し賜わったのだが、もらってしまうと、そのいかにも下種《げす》な印象も手伝って、ツキがおちたように熱がさめた。ぼくにフェティシズムの傾向があるとすると、それは思いきるためのようで、これまでいくつかの品物を、節片愛好的にもらい、常にそこで想いが断たれている。
たとえば、ある混血の女性にこがれていた時、やや自虐的に、そしていくらかはエエカッコしいもあって、どうしても駄目ならそれでもいい、せめて君をしのぶよすがとなるなにかをいただきたい、さすれば我はそれを君と観じて、終生はなさぬであろうと申し出たところ、その場では笑って取合わなかったのに一週間後に小包みが女からとどき、開けると、ヒップパットが入っていた。手に取った時、すぐそれとはわからず、さんざ頭をひねって思い当たったのだが、もとは純白だったろうに、今灰色に汚れて、いかにもバッチイ印象、そういえばコルセットとかブラジャーなど、その身にへばりついている時は輝かしいのに、脱ぎ捨てられてあるさまの、なんとなく薄汚ないのは、何故か。
ヒップパットながめるうち、これのぶる下っていたあたり思いえがいて、なおかり立てられるということはなく、ただむなしくなって、平常心取りもどしたのだが、混血女は、ぼくを冷静にさせようとの配慮から、このしろもの下さったのだろうか。それとも、ストレートにわが望みかなえるおつもりだったのか、どうも後者に思えるのだが、このあたりの女心はまさに面妖《めんよう》でわからない。
この、フェティシズムが逆にはたらくことは、ぼくだけではなくて、戦場にいる兵士が、故郷の許婚者にひそかに手紙を送り、体毛を所望した。この二人は結ばれていず、兵士は、近い決戦を前に、心昂ぶるまま、あけすけに書きおくって、しかし運よく生き残り、さて生きのびてみると、恥かしい要求したことがくやまれ、今更取消しもならぬまま、あの脳裡にやきついた美しい人が、さぞや眉ひそめ、わが下劣な心情にほとほと愛想つかしているのではないかととつおいつするうち、二月後に許婚者から手紙がとどいて、中には薄紙に包まれ、三十本ほどの飾り毛があった。
兵士は呆然とし、その思いがけずに太くたくましいちぢれぶりをながめ、当座は気になり、人眼しのんでは取出していたが、決してこの毛に飾られていたあたりをしのんで欲情するとか、また恥をしのんだ女心のいじらしさに涙するとかいうことはなくて、むしろ次第にうとましくなり、やがてまた戦いが近づいた時、こういう特別なものを身につけていると、かえって弾に当たりそうな気さえして、捨ててしまったという。妻や恋人の体毛を身につければ、弾除けになるという迷信があったらしいが、それは千人針の下にでもお守りとしておさめていたからいいのであって、年中取出しながめていたら、やはり気味わるくなったのではないか。体毛、下着だけではない、櫛にしろ着物、鏡、コンパクト、ハンドバッグ、靴といったような、日常の品物でも、女性のそれはこわい感じがある。
ぼくはかつてホテルで、朝出発した外人が、捨てていったのだろうハイヒールを、屑箱の中に発見し、その、さしてはき古しているわけではないが、ややいびつに変形した靴が気になり、なにやら執念吐きちらしているようで、わざわざ捨ててもらったことがある。これが男の靴なら、放っておいたろう。死んだ女人の櫛、鏡台といったものも空怖ろしい印象であり、安達瞳子女史の意見では、櫛のようにごく日常の用に供するものさえ、なにくれと飾り立てるところに、かわいい女心があるというが、ぼくはむしろ、女人の使う品物、あるいは身につけるすべてに、持主の執念がにじみ、しみこんで、とてもおぞましい印象となるからこそ、男が入知恵して、あれこれ飾り立てさせたのではないか。
花模様の下着もそうなら、きらびやかなハンドバッグもしかり、あの豪華な色どりはすべて女の怨霊《おんりよう》封じの如くに思えるのだ。その怨霊の節片を、いとおしみ大事にするというのだから、フェティシストはかなりタフな存在といえるけれども、一度だけ、ぼくもそれに似た行為をしたことがある。
やはりひどくふられた女性の、下宿に深夜おとずれて、あってもらえなかったから、つい、庭に取りこみ忘れた洗濯物、夜眼にも白く、しかもこっちは酔っている、てっきり彼女のブラウスだと信じこみ、こっそり盗んだのだ。こっそりのつもりだが、テキはすべて知っていて、ぼくをこらしめるつもりで交番にとどけ、当時は、フェティシストの所業とみられるより、これはれっきとした窃盗と判定される物資不足の時代、現行犯で本署へ連行されて、もとより盗品はまき上げられる、ぼくは必死になって、盗みをはたらいたことはわるいが、しかし、かなわぬ思いを、せめて女の身につけたもの手にとることで果たそうとした、この男心をわかってくれと、まあ弁解につとめ、しかし、刑事鼻でせせら笑って、「これが女の身につけていたものというのか」取出した盗品は、まぎれもない男物のYシャツであった。
刑事はみすぼらしいわが姿をながめ、「別に売るつもりがなくても、自分で着たくて盗んだって、泥棒だぞ」といった。後でわかったのだが、女にはすでに婚約者がいて、シャツは、その男のものであった。女房気取りの女が、洗濯して、きっと次ぎの日曜日に、男の下宿おとずれ「はい、着かえなさい」などといいつつ、わたすのだったのだろう。
翌日の朝、釈放されて、示談にするために、女の下宿へあやまりにいかねばならない。とぼとぼと、なんといいわけすればいいかと考えつつ歩いていたら、※[#歌記号]アイムドリーミングオブアホワイトクリスマス、という唄がラジオからきこえてきて、わが心情とあまりうらはらなのでよく覚えている。いまだにこの唄をきくと、ぼくは気が滅入る。女の下宿にたどりつき、さんざ頭を下げて、女はそう怒ってもいなかったが、かえりしな新聞にくるんだ包みをわたされ、中身は、わが盗品のYシャツだった。この時の女の気持も、小生まったくわからない。
[#改ページ]
屍姦よもやま
屍姦を罰する法律は、わが国にはない、獣姦も同じくで、これは、そのようなことはあり得ないという前提に立っているのだそうだ。もっとも前者の場合、死体損壊罪で罪には問われる。後者はいかが相成るのか、姦かならずしもいじめたことにはなるまい、動物愛護協会にたずねてみたいものだ。
この二つについて、ヨーロッパでは、たいていの国で犯罪とみなされる。あちらは土葬だし、また家畜を身近かにおく故、決してあり得べからざることではないのだ。ついでにいえば、アメリカの州の中には、オナニーをはっきり罰するところがあって、自首して出て、情況証拠もはっきりすれば、パクられてしまう。こんな法律があれば、いわゆる別件逮捕の名目には事欠かないね。
いくらそのようなことはないといっても、我国にだって屍姦はある。イザナギが黄泉《よみ》の国ヘイザナミをたずねるのも、そのあらわれというし、近くは坂田山心中、江戸時代に、妓楼へあがって、必ず女に青黛《せいたい》を刷かせ、死人の如く粧わせた坊主の話や、また、最愛の妻に先き立たれ、一夜そいふしたという話など、むしろ美談として語られている。もし今の女房族、自分の死んだ後に、まだ亭主が愛撫してくれるとわかったら、よろこぶだろうか、気味わるがるのか、多分、そうなったら感じないのだから、生きてるうちに、一度余計に抱いてくれと要求するのだろう。
何にしても、屍姦は男だけにゆるされた権利であって、いかに男女同権とはいっても、女は真似できない。そして、これを医学的にみるならば、硬直のはじまる前にてっとり早く行うこと、死後、粘膜から滲出液が出るから、特に支障はないという。
変態性欲のあれこれについて、たいていのことは考えればまあその心情わからぬでもないけれど、屍姦愛好癖というものは、見当がつかぬ。戦争の後で一時的にこれがふえるのは、つまり、戦地で敵国女性を死にいたるまでいたぶり、その果てに愛好者となるもの。僻地の漁村、山村にもいるといわれ、漁村においては、溺死した女体が流れついた時、これを犯すことでよみがえらせ得ると伝えられて、これは、仮死の者を人肌であっためれば、生きかえることもあることはたしかだから、つい人助けのつもりが、そのままで済まなくなるのかも知れないし、山村では、生娘のまま死ぬと成仏できぬとされ、村の長老が死後に犯し、あるいはその恋人にまかせたそうな。
いわゆる変態性欲は、文明の進歩とともに、正常とみなされ、その機会もふえるけれど、屍姦だけは減るばかり。この営みはいわゆる強姦致死ではなくて、土気色の肌や冷たい躯、さらにいっさいの反応をみせない女体にのみ、欲望いだくというのだから、都会ではまず無理で、近頃、若い娘の死ぬことなどきわめて稀だし、かりにあったって、にぎにぎしくたちまち重油バーナーで焼かれてしまう。
戦前の横浜|本牧《ほんもく》のチャブ屋に、通称「ねむり姫」と呼ばれる娼妓がいて、これは、クロロフォルムを少量嗅ぎ、十分間だけ昏睡状態となり、客に身をまかせる。この場合の客は、なにも屍姦愛好故に、登楼したのではなくて、一種の解剖ごっこじみたたのしみを期待したのだろうけれど、やはり老人の客が圧倒的に多かったという。
そして、屍姦は、兵士であればしごく出来のわるい臆病な者の、女に馬鹿にされたくないという気持が、屍体におもむかせたので、ねむり姫に老人の客がついたのは、すでに力なえて、通常の娼妓では、金で買うとはいえ、敗北感ばかり残るからこそ、死人のような女を求めたのだろう。そして、屍姦を行えば、不能を治し、各種の性病を治癒させるという俗説があるのは、こういった連中、相手を得られないから、ことさらに墓荒しなどやり、いい伝えが生れたにちがいない。
近頃、シンナーあそびが、単なる自己逃癖ではなくて、少女にこれを嗅がせ、意識混濁させたところで、何人もが犯すとか、また少女がすすんで、正気ではいやだからと、ねむり姫をかってでたりする例をよくきく。強姦ですら、男と女の間に触れ合いはあるのに、こういう一方的なセックスに、のっけから耽溺《たんでき》した場合、連中はやがて疑似屍姦愛好者になるのではないか。以前の赤線でも、娼妓がなんらかの反応をみせると、とたんに不能になってしまう客が時おりあったというけれど、それに似た状態をひき起すかもしれない。
あのトルコ風呂における特殊奉仕なるものも、男はずでんとひっくりかえって、女性にすべてをまかせ、女性にもとより何の快感もないから、一種の屍姦に似ている。いやこの場合は、男が死体と化したようなものだが、これになれてしまうと、新種の変態性欲が生れるかもしれない。まず人類はじまって以来、こんな奇妙なセックスの、かほどに横行した時代はないだろうから、やがて女とみると、そのかたわらに躯よこたえて、奉仕を強制する輩《やから》があらわれ、乳液に興奮し、湯気のあるところでないとふるい立たぬ亭主も出てくるだろう。
外人は、死体を気味わるがらない。たとえば朝鮮戦争の戦死者を、本国へ送還する時、防腐処理ほどこすため、日本で内臓を取りのぞいたのだそうだが、うっかり日本人係員が、舌を除去すると、えらく叱られた。つまり、別れのキッスを家族がかわす時、死体の口に舌がなければ、具合わるいというのだ。そりゃまあ、我々だってよほどいとしい相手に死なれた時、頬や額にくちづけくらいするだろうけど、とても仏様の口にベロ入れることまではできない。こう考えると、別段、屍姦の有無というのも、ただ死者の遺体に対する考え方がことなるだけで、そう突飛なものではないのかも知れぬ。
トニー・リチャードソン監督「ザ・ラブド・ワン」にでてきた「ささやきの園」なる霊園では、亡き妻とダブルベッドで寝る亭主がいた。臓器移殖がこうおおっぴらになれば、やがて、息ひき取ってもすぐに焼くというような勿体ないことをせず、防腐処理をした上で、死体を保存するかも知れぬ、となると、習うよりなれろで、我国にも屍姦愛好者がふえることが考えられる。
そうすると、生きている女性は、屍となった同性に嫉妬して、「屍姦防止条令」というのをつくるであろう。だが、このあらたなるよろこびを知った愛好者は欲望おさえがたく、これをカモにする「デッドガール」屋が生れ、「旦那いい死体あるよ、まだ死んだばっかり」てなことになる。笑いごとではありませぬ、ホモ・セクシュアリティが人間の風上におけぬとされたのは、ほんの二十年前です。この道ばかりはどうなるかわからない。
[#改ページ]
おんなの特権
ジンギス汗は、遠征に際して、羊を同行させ、その生きてある時は、兵士の仮寝の妻、また殺しては身の養いとなさしめたという。この羊というしろもののもの、はなはだ人間とよく似ているのだそうで、帆船時代の船員も、船に羊を乗りこませ、港から港への波枕に、鍾愛《しようあい》した。
外国には獣姦の話がたくさんあるけれど、以前、四つ足は口にすることすらはばかったお国柄だけに、大和島根のおのこども、いかに渇すれどもけだものに竿さすことはなかったようで、せいぜいが畠の大根の肌に、邪心をいだいて、せんずりかいた噂くらいしかない。
ただし、女とけだものの交りは沢山あって、橘春暉「北窓瑣談」の中に、「民家の娘ひそかに通ずる男ありけるが、終《つい》に懐妊し平産しけるに、四子を産せり、中に頭は人にて手足狐なるものあり、狐の男と化して姦通せしにこそありけめ」とやら、「甲子夜話」に蛇にみこまれた女の話、また河童の子をはらんだ例など紹介されている。「里見八犬伝」もその発端は、人犬相姦であって、これはあまりタブーとはされなかったらしい。
この、女もすなる獣姦を、近頃は日本男子も時にこころみるようで、五、六年前、象の柵の中に入りこみ、ふみ殺された男がいた。一般には、酔った男のわるふざけが原因とされていたけれど、実は、雌象を犯そうとして、その逆鱗《げきりん》にふれたというのが真実であるらしい。さるにても勇気のある、また自ら恃《たの》むところ大なる御仁であって、ぼくはこの話をきいてからというもの、動物園へいくと、あのどうみても美しいとはいいにくい象のひからびた肌をながめ、これを犯そうとした男の気持あれこれ忖度《そんたく》する癖がついたのだが、東山動物園では、わがいやらしい眼つきに気がついたのか、突如一匹が鼻ふり立て、キェーッとさけびつつこちらへ向かって来た。深い濠にさえぎられていたが、小生仰天して、もし、かの男、このように怒り狂った象を相手に、なおチャンスうかがったのだとしたら、これぞ大勇の士ではないのか、逸物雄々しくふり立て、象姦をいどむ姿など思いうかべ、ほとほと感服したことがある。
象をすら相手にするくらいだから、馬となれば当たり前で、姦通ではないけれども、昭和十四年冬にマンチュリで起った事件など、中でも感動的なもの。これは国境警備のために配属された兵士が、同じく鉄道で送られてきた馬の隊列ながめるうち、その中の牝馬《ひんば》が、夜目にも白く鼻息を吹き出し、それと符節合わせる如くに、尻尾のつけ根からも、ゆらゆらふっと、湯気を発しているのに気づき、女断ちの明け暮れつづいていたから、一同ひたとその有様にながめ入る。
ついにたまらず古参の上等兵、つかつかと牝馬に近寄り、人心あれば馬心か、テキは尻尾をちょいと片寄せて、湯気のみなもとあらわにし、上等兵さそわれる如くに、手袋を脱ぎ防寒服かなぐり捨てて、腕まくりした馬手《めて》ずぶりとさし入れた、とたんにひひんと馬はいななく。上等兵つけ根までも通れと、抽送すること十数度、いつしかまわりに人垣ができて、誰も止めぬ。時間にすれば、三分ほどだったというが、なお馬手くり出す男を、もはや満足したのか、馬は突如、後脚でけり上げ、まともに胯間《こかん》に当たったから兵士は悶絶。その倒れた馬手からも、そして尻尾で隠された部分からも、しばし濛々《もうもう》と白い湯気が立ちのぼり、あわれやな上等兵は、死んでしまったのだが、おびただしい精液を放出していたという。
戦場では、どうしたって、いわゆるまともなセックスの営みはむつかしいし、特に中国戦線の如く、膠着《こうちやく》状態が長くつづくと、捌《は》け口を求めて、さまざまな変態があらわれ、獣姦はしごく当たり前のこととなる。「仁田《につた》の四郎」というあそびがあり、これは豚との相姦。中国の豚はとてもすばしこくて、おもむろにのしかかるなどとてもできない。四肢をしばって横倒しにした上で、無体なふるまいを行うわけだが、この時、テキも必死だから、ついなわがほどけたりする。すると、しがみついたままとっとと、五、六米移動して、ついにはふりおとされてしまうのだが、このさまを猪狩りの勇者になぞらえたものだし、また鶏姦もよく行われ、その最中ほどよきところで首をはねると、さらに快感が昂まったそうな。
「鶏姦」という言葉は、通常、衆道のことを意味するのだが、ぼくが十五、六歳の頃、これを文字通りに受け取って、当時は、食糧事情がわるく、どこの家庭でも、鶏の一羽二羽飼っていた。卵とるためだから雌で、ぼくと華房《はなぶさ》良輔は真剣に、その可能性につき討論したことがある。彼の説によると、鶏の卵というものは、産卵の時しごくやわらかいもので、空気に触れてはじめて殻が固くなる、故に、卵が出るからといって、同じような太さのものを入れることは無理だというのだ。
そして、手近かの卵と、おのおのの逸物比較検討したのだが、一度実物についてしらべる必要があると、華房の飼っていた一羽を空屋へ連れこみ、さかさまにしてそのあたりじっくり観察し、今もよく覚えているが、渦巻き状肉色の粘膜、直径三糎くらいのものであった。「お前やってみ」華房がそそのかし、自分は、いつも餌をやっているから、情がうつって、かわいそうだとつぶやき、手をはなせばまたあたり無心に歩きまわる鶏を、トウトウトウなどあやす。
ぼくはよほど決行しようかと思ったが、果たし得ず、もとの小屋にもどしたものの、鶏を抱き上げた時、鳥というよりは、まだ心得ぬ女体のかくもあらんかと思わせる感触があって、テキも息ひそめた如くに、びくともうごかぬその肌の塩梅、いかにも刺戟的だった。農家の息子で、実際に行った者がおり、さしこんだとたん、怖ろしい勢いでとび上り、屋根の梁《はり》にとまって、ギャアギャアと、鶏とも思えぬ声で鳴きわめいたという。
いかに偏見をなくして、生きとし生けるもの、みなはらからと観じても、男性にとっては不利なようで、これが女性であると、ブルーフィルムによくあるワンシロ、どういうわけか東南アジア製作のものに多いが、それにしろ、また狆《ちん》など、鼻面の扁平な犬を利用したペッティング、蛇あつかうストリッパーは、しばしば張形の代用として、青大将をもちいるというし、猫のざらざらした舌も、しごく重宝されるらしい。男がこんなことこころみようとしても、いかに長年飼いならした愛犬であっても、その面の前に、おのがものをさし出し、けしかけることは怖ろしくてできない。まあコリーや、ボルゾイなど、顔が長いから、フェラチオにもってこいだろうけど。
こう考えると、屍姦は男の特権であり、獣姦は女にのみゆるされたことといえるかも知れぬ。司馬江漢「春波楼筆記」には、馬と交った女の話があり、別にけとばされもしなかったし、その後、馬は人語を解するようになったそうな。
[#改ページ]
複数姦のおしえ
トルコ風呂、サウナ風呂を理由なく毛ぎらいする、それはたとえば、トルコにおけるスペシャルサービスを、「あれなら自分でやるに如《し》かず」やら、サウナについても「いかにも老人めいている」などヘリクツつけるなど、他のことには好奇心の権化の如くであるのに、この二つを敬遠したがる輩《やから》は、まず痔《じ》と考えていい。痔もちは、誰がなんといっても、パンツに雲古の残滓が付着するものであって、人前ではちょいと脱ぎにくいのだ。
銭湯の脱衣場で、常はしごく図々しく、出しゃばりたがる男が、片隅にてコソコソ裸となるのも、痔のせいであるし、温泉マークヘ首尾よくしけこんで、まるで生娘よろしく、電気消してから裸となるのも、デジイボジキレジハシリジダッコウジロウの、いずれかひっかかえたるしるし。そして彼等が、女房めとる時に、内心いちばんハラハラするのは自らのバッチイ下着を、どう説明し、また洗濯してもらうかという問題についてであって、こういった一連のことがらを考えると、痔もちは、その故に身もちが固いということになる。いわゆる色豪諸氏は、犬のように、きわめてさっぱりした肛門の所有者であるにちがいない。
なぜ、痔のことを述べはじめたかというと、今回のテーマは乱交、複数姦なのだが、小生、やはり人後におちぬ痔もちであって、そのため、ずい分とこのチャンスを、これまでのがしている。たいていの乱交パーティは、来るとそのまま脱ぎ捨てて、裸同士のさし向かいといった風には展開せず、はじめは着衣のままで、次第に脱ぎはじめる、酒とか薬のたすけをかりなければ、まずはおっぱじまらないものらしい。
一度、さる絵描きの主宰するパーティに出席したが、あきらかにサクラとおぼしき男女一組がそれぞれ先達となって、おもむろにストリップを行い、一座それにならって、ぼくはふと、パンツをここ十日ばかりかえていない、ということはわれながら、眼にするのも汚らわしい状態となっているにちがいなく、もぞもぞとやがて男はズボン、女はスカート脱ぎはじめた時、われ一人聖人君子面して、逃げ出した。
だから、赤裸々な体験談を語れないのだが、一夫一婦制に代表される単数姦から、やがて複数姦に将来おもむくことは、歴史的必然といってもいいのだそうだ。セックスについて、これまで要求されていた貞操やら、また、分かちがたくセットされていた生殖が、まったく消滅し、切りはなされたならば、二人で行うよりも、何人かの気の合った同士、あるいはゆきずりに発生したグループでもいい、にぎにぎしく行った方がたのしいにちがいないだろう。夫婦向きあってボソボソ食べる飯と、パーティの料理くらいの差はあるはず。
やがて乱交プロデューサー、乱交評論家が出てくると思われるが、現在では、まだこのことは日陰の身で、だから、セックス本来の陽気な雰囲気は少く、なにやら欠食児童の、給食むさぼる如くであるそうな、そしていろいろな発見があるという。
たとえば全員が裸になる。女性は、そうお互いの躯をみ較べないが、男はそれぞれの逸物に視線を走らせ、やはり自信のある者は、堂々とふるまい、よくいわれる短小者へのなぐさめ、他人のそれは横からながめ、自分のは上からみおろす、故に、他人の棒は長くみえるとか、なまじふだんでれっとのびているのは、膨脹係数が低いとか、それで納得できる程度ならいいが、絶対的にでかい、どう思いめぐらせようと、うちひしがれざるを得ない巨大なシロモノが一本まじっていると、実に凡チンは怯える、さらにしらけきるという。
また裸になると、ウィスキーのコップについた滴がたれたり、煙草の灰がおちた時、いちいち思いがけず冷たくまた、熱い。ふだん衣服まとっていれば何でもない、ちょっとしたけつまずきや、ひっかかりが、たいへんに痛くて、じゅうたんを敷き、家具を片づけておかないと、アザだらけになるそうだ。
乱交パーティをもり上げるコツの一つに、男女の数をちがえておくということがあり、もし、男を多くしておけば、初交においてクジ運のわるかった奴は、たいてい邪魔しにかかる。つまり抱き合った二人のかたわらに坐りこみ、しげしげとのぞきこんで、興醒めさせたり、あるいは奇声を発し、これみよがしな解説をつけ加える。ところが逆の場合だと、決して余った女は、進行さまたげるようなふるまいをせす、それどころか、男女それぞれの、お互いいきとどかぬあたりを、補助愛撫したり、もし、まだ覚悟きめかねて、ためらっている同性がいれば、男に助太刀して、行為のよりスムーズな進展をたすける。時には、身|悶《もだ》えして、からみあう二人に、のしかかったりし、いずれにせよ、積極的に邪魔することは少い。
よく、女に友情はないという。特に色事においては、いかに親しいと思われる間柄でも簡単に裏切り、片方のふしだらを発見したりすれば、鬼の首取ったように、しかもうわべはさも友人の身思いやる風な口調で、相手かまわずしゃべりまくるものだ。
ところが男は、ふだん仲がそうよくなくても、一人の浮気が、女房にバレそうだとなれば、まあ、親の葬式でさえこうまでは、心くばりしないだろうと思われるほど、電話をかけたり、口実を考えたり、滅私奉公の権化となる。
これが乱交パーティでは逆なのであって、女は、その本来そなわっているとされる、いたわり、思いやり、心くばり、やさしさが、はじめてここで発揮され、そして男は、お互いに歯むき出しいがみ合い、それは、乱交パーティの夜が明けて、ぞろぞろと男女うちつれて、まだねむりから醒めぬ街を歩く時、男は寝の足りぬせいか、いちように不機嫌な表情、かりに喫茶店へ入って、男同士あれこれ語る時も、昨夜のお互いの、醜い形や心ざまを、それぞれ自分で反省しつつ、また攻撃しあい、「なんだい、お前、ヘンな声出しやがって」「なにいってんだ、そっちが布団取っちまったから、寒くってしかたがない」などいう。
これに反し、女たちは、肩や腕を組んで、あたかも永遠の友情たしかめ得た如く、「学校どうする?」「今日、私英語で当てられる番なのよ」「ぜんぜんやってないの?」「うん」「じゃ協力するわよ」などと、リーダーをひろげ、仲のいいキョウダイ、女の場合はナニキョウダイというのか知らないが、とにかく、昨夜のことは夢のまた夢、神と精霊の名においてアーメンといった風情。この、うすむらさきの暁の空の下で、少々色にやつれた風情の女二人、指などからませて歩く姿は、美しいものだという。
というところで気がついたのだが、女性にも痔は多いはずなのだが、ありゃ別に関係ないのだろうか。
[#改ページ]
世に醜きものは
死体やけだもの相手のセックスばかりつづいたから、しごくまともな組合わせを考えてみようと思う。つまり夫婦である。ぼくには妙な偏見があって、たとえばある男が、人妻なりホステスなりと寝所を倶《とも》にしたときき、そしてその二人が連れ立って歩いていても、別に何とも思わない、よほどその女性が美しければヤキモチくらいやくだろうが、それ以上のことはない。
ところが、夫婦者をみると、正視するのさえ恥かしいような気持がして、よその家へ出かけ、亭主と話するうちに、女房があらわれ、「妻でございます」など、しとやかに辞儀されたとたん、亭主の顔もまともにみられなくなる。妻という字を分解すれば、ヒトヨニ一本サス女と、中学の頃唄ったことがあるけれど、この亭主と女房が、まああきることなく夜毎抱き寝してあられもなき姿、おぞましき声音をあげているのか、よくぞしれっとして人の前に出てくるものだというような、いたたまれぬ気持になり、とてもうちとけて世間話はできない。その女房が相当な美人であっても、亭主をうらやむ気持、あるいは、こんな男のどこがよくってとか、まあひどい面だねえ、持参金つきなのかなど批評するより先きに、こっちが恥かしくなるのだ。いわば母親と連れ立って犬の交尾にぶつかったようなもので、眼のヤリ場に困ってしまう。
そこへ子供があらわれると、ははあ、せっせと営んだあげくの成果であるのか、ひょっとして父親そっくりだったりすれば、ますます淫らな印象で、「どうだ、よく似てるだろ」なんて、ヤニ下る奴がいるけれども、まこと応対に困るのだ。もちろん、はらんだ女房従えて、得々と歩く亭主をみれば、とにかくいやなものはみたくないという気が起って、道をさけるし、そしてうっかりぶつかったりすれば、どうしたって、はらませた原因となった行為を思いうかべ、いわゆるシロクロはきらいじゃないけれど、この場合の妄想は不愉快以外のなにものでもない。
世の中の夫婦というものは、連れ立って歩く時に、いっこう恥かしくないものなのだろうか。近頃は、なにかにつけて夫婦同伴がはやるけれど、やはりこれは悪しき習慣であって、なるたけ人眼につくところでは、別にいる方が好ましいのではないか。新婚夫婦にしろ、初老のそれにしろ、前者ならば、人生は長いのに、お互い珍しいものだから夜討ち朝駈けでいそしみ、いわば精液バルトリン氏腺液まみれになっているのだろうし、初老にいたって、女房というものはますます情深くなられるそうだから、かりにモーニングショウのゲストというのか、ならび女中といえばいいか、雛壇に坐っている女房族、あれは前夜、TVに出るという興奮からきっと営んだにちがいなく、そう思ってみれば鳥肌が立つ。
ぼくは老女のセックスをけなしているのではない。結婚してから二十年とすれば、平均週二回として二千回余り、えっさえっさと同じ顔ぶれが営むことのグロテスクさに耐えられないのだ。結婚披露宴で、出席者が新郎新婦その夜のことを、あれこれ思いえがくのは、当然だが、金婚式とまでいかずとも、よく政治家など、何かの機会に夫婦ともども写真におさまり、「私の今日あるは、みな妻のおかげ」など、のたまう、その姿をみていると、この二人がこれまで交したセックス、何十年間か、よくまああきずにおやりになったものと、うんざりするし、だから、有名人などで、夫婦いっしょの写真をマスコミにゆるすのは、かなりの恥知らずといっていい。
そりゃまあ犬でも、同じ屋根の下に住めば情はうつる。その意味で女房をかわいがるのは勝手だが、果たして男、亭主なるものは、いちいち感激をもって妻を抱き得るのかしら。これについても、あまりいわれてないが、子供を二人も産めば乳房だってだらりたれ下るし、三十の半ば過ぎてなお美しい、女性の魅力をそなえる例はごく稀であろう。かりにあったって、それは表面だけであって、家にいる時は、百人が百人うす汚ない。しかも、現在はこれに肥満が加わる、どこが肉やら脂やら、シワだかへソだがわからぬ態の女房がほとんどであるのに、女房の方は、こういった醜い姿となってからが、女盛りであるらしく、どう考えたって、亭主は女房だから抱く、これを浮気の対象としてみるならば、いかに酔っていようと、タダであろうと二の足をふむはずだ。
おそらく夫婦者をみる時の、なにやらいやしい印象は、亭主が浮世の義理と観じて、あれこれあてがきの如くに妄想追い求め、ようやく果たし、ひきかえ女房の方は、この人は私を愛している。まだ私の躯は魅力的なのだとまるっきり信じこみ、ミもフタもなくおたけび上げたりする、その狎《な》れ合い、いささかの緊張もなければ、まさに惰性でしかないセックスの色合いが、にじみ出ているからだろう。
十七、八の時ならいざ知らす、また性豪なら別だが、三十、四十になって、そうやたけにはやる気持は男にはありゃしない。ましてなれっこになっているからわからぬが、時に、しごく客観的な立場で、女房の寝顔ながめてみるがいい、よくまあ、義理とはいえ、週に二度も三度もかきいだけるものではないか。自分と同年輩の、その妻をよくみてみれば、かなりすさまじくなっていることに気づくだろう。まるっきりその気はないのに、いやあったとしてまあ年に一度か二度のくせに、無理をする、いわばこれは、精神的に亭主は強姦されているといっていい。
セックスにおいて、もっとも醜いのは別に変態とはいわないが、一夫一婦制において営まれるそれであろう。五、六度くりかえせば、だれでもお互いのツボはわかる。前戯はまず乳房からはじまって、喉にくちづけし、うけて女房は亭主の背中をなでさすり、ああしてこうしてラジオ体操イチニッサン、しかも貪欲な女房は、自らの満足を求めてあれこれ指示し、亭主女郎屋にあるかの如くに、上役の顔、ツケのたまった酒場の胸算用に時をかせぎ、ようやくおゆるしがでて、ハイアラヨッと深呼吸、これではまるっきり排泄《はいせつ》に過ぎす、かつての赤線の方がはるかにましといえる。夫婦者をみると、必死に鞭うつ亭主の、情けない姿がうかび、そして、まあこの面この躯で、うめき声あげ、さまざまにねじったり二つ折れになったり、七転八倒する女房のさまがいやでも想像されてしまう。さらにこの、ぶざまな行為の果てに、そっくりどちらかの、あるいは微妙に双方の面差しうつした子供ができて、いとあっけらかんと、パパママなど、呼びたてる。なんとも面妖《めんよう》なことではないか。
夫婦共稼ぎは、そういったいやらしい行為を職場にもちこみ、夫婦同伴も同じく公けの場所を汚すものだ。社会安寧秩序を守るためにも、他人の眼に触れるところでは、堅く別行動がのぞましい。
[#改ページ]
血と色のたわむれ
近親相姦をタブーたらしめている理由は、その結果として産まれる子供、つまり生きていくために不利な、肉体的あるいは精神面での条件を背負うことが多いといわれるし、また、少し以前までなら財産分与にまつわるトラブル、あるいは一家の秩序をこれほど乱すことはないから、いけないとされていたのだろう。その他に、父と娘、母と息子、兄妹、姉弟、祖父と孫娘の間に性的関係が成立することをさまたげる決定的な理由は、考えられぬ。
父と娘については、近頃、女々《めめ》しい親父どもが、娘のとつぐに当たってよよと泣きくずれたり、またその後の述懐で、「折角ここまで育てて、まるっきり見知らぬ青年にかっ払われるのかと思えば、いっそ自分が抱きたい気持だった」と、正直に告白し、こういったことが、良識的な新聞雑誌に紹介されるくらいだから、かなりおおっぴらに認められているといっていい。父と子供の関係は、もともと他人みたいなものだから、息子をライバル視し、娘に想いかけるぐらいごく当然のことである。この気持が、気持だけにとどまらす、さらにすすむキッカケは、しごく他愛ないので、清水《きよみず》の舞台からとび降りる決意も、また、罪の意識とあらがいつつといったような深刻なものではない。
まず住宅事情のわるさがあげられるのであって、娘の寝乱れた姿やら、また団地など風呂はあっても、しかるべき脱衣場がない、ふだんは衣服に隠されている娘の、湯上りの裸の思いがけぬ美しさ、ふとかいまみて、刺戟を受ける。それに拍車をかけるのが酒であって、父と娘は盲点に入っているから、たとえ同じ部屋で寝ていても、家人はそれほど神経とがらせないし、これが十七、八歳に娘がなっていれば別だが、十四、五歳なら、いわば仲睦まじい父と娘に誰だってみるだろうが、どっこい現在のその年齢は、まごう方なき大人なのだ。
男が、表でいまだ十分に男として、女性を口説く能力があれば、娘に向かうことはないし、また、完全に男性喪失してしまっていれば、どういう破局にも至らないだろう。だが、まだ欲望は十分にある、しかし、経済的にも気力においても、あたらしく女をつくるゆとりはなくて、しかも家にあっては、妻におしひしがれている、となると、娘に攻撃の矢が向けられ、はっきりいってしまえば、今の団地という奴は、将来の父娘相姦の温床になりかねないと思われる。
娘のほうからいっても、人間の性的成長は、かなり視覚によってうながされる。以前のように、父親なり兄の裸を、そう眼にすることもなければいいのだが、なにやかやとあからさまな姿態を近くにながめて、一方において促進もされれば、また狎《な》れてもしまう。現在の政府の住宅政策というものは、なにやら近親相姦をうながしているように考えられるのだ。母と息子の場合は、母が未亡人であるか、あるいは息子が種々の事情で嫁とりのできぬ場合、いずれにしても、やさしい思いやりがすすんで道ならぬ道にふみこむといわれる。
兄と妹、姉と弟についていえば後者の方が多くて、姉の弟に対する庇護的立場が、とつぎおくれたり、また自分の劣等感からくる性的な焦燥と結びついて関係を生じる場合と、思春期にさしかかった姉の好奇心から、いわばお医者さまごっこの延長のような形で行われたりする。これも両親は気がつくことが少く、鍵っ児などの間に将来はふえるのではないか。女性にはもともと、ペニス願望が強いから、姉は自分にそなわらぬそれを、強引に求めて、その傷口は、弟の方に強くあらわれるそうだ。
逆のケースでは、兄に性的劣等意識の強いことが多く、容貌が醜いとか、友達づき合いのできぬ兄が、幼い妹を犠牲とするので、ふつうの兄妹でも、単に血のつながりを越えて仲の良い場合はいくらもあるけれど、まともな兄ならば、妹をいかなる形にしろ、傷つけるという行為に至ることは少い。
祖父と孫娘の場合は、家の中で誰も相手にしてもらえない祖父が、しかも中気などわずらっていると、時に異常に色欲の昂進することがあって、しごく幼い娘を犯し、犯さぬまでもいたずらすることはよくあり、これは祖母と孫との間にも時にみられ、相姦にはいたらないが、祖母がしごく露骨な表現で少年をいたぶり、またそのペニスがちょん切れてしまうやら、大小をいい立ておどかしにかかり、小生などはその被害をずい分受けたものだ。
オチンチンをいじっていると病気になる、まあまあ大きなオチンチンになっちゃって、いやだよ、もう色気づいてるのかねなどと、あけすけにいい、そのつどこっちは罪の意識めいたものや、あるいは、喪失を怖れて、心なえたものだし、オチンチンがどうやら小便だけの道具ではないらしいと、予感をうえつけられた。
近親相姦といえば、まずはあり得ぬもの、教養ある両親、しつけのいい子供、そして文化的環境から、そのようなおぞましい業の生れるわけがないと、信じこんでいるようだけれども、別にこれはそう異常な関係ではなく、しかも、現在のように、性行為がまったく生殖と結びつかず、また、特にその関係によって具体的に血で血を洗う一族の争いのひき起される実感も少いから、これからますますふえるであろう。アメリカのスラム街では、このことは日常茶飯といってもいいくらいで、つまり住宅事情のわるさが大きな温床となるのだし、また、各家庭が孤立してしまえば、関係のあらわれることも少くて、ひょいと気がつくと、向う三軒両隣り、すべてこれ、けもの道にいそしむという時代だってやってくるかも知れない。
近親相姦によって、自殺者が生れることは、稀であって、よほど深刻になると、尊属卑属殺人が起るが、たいていはそこにいたらず、つまり父と関係のあった娘が、家を出る、あるいは父と娘が駈けおちする。母と息子なら、完全に孤立して、離島に生きる如く暮し、兄妹、また姉弟は、女性側が結婚することで落着、この関係だけは、いかにわが家の恥を好んで人に語って、同情買いたがる老婆も、またヒステリックな女房も、「ほんとにうちの宿六ったら、娘にちょっかい出すんですからねえ」などと触れまわることはなく、ことは深くしずかに進行し、それなりにいちおうの落着をとげる。しかし、夫が娘と通じていることに気づいた妻、あるいは、姉と弟がそうであるとわかった時の親父の心境なんてものは、どうであろうか。
ぼく自身は、近親相姦もまた人間の営みとよくわかるのだけれど、身内でそんなのがあらわれたら、いや、そう考えるだけでうんざりする。すると近親相姦をタブーとするのは、子供や財産にまつわる理由ではなくて、やはりもっと本質的に拒否させる何かがあるのだろうか。
[#改ページ]
真実たずねたきこと
よく、男女のセックスにおける快感曲線が紹介され、それは、女性がゆるやかないわば三笠山風であり、男性の場合アイガー、ユングフラウ風に峻険な様相を呈し、みな、ああそうかなと、いちおう納得している。しかし御同役、胸に手を当てじっくり思い直すまでもなく、男の快感はあのようなものであろうか、いや決してあるまいよ。
人よりも、自分が性的に劣っていると認めることは、男女ともにかなり苦痛らしく、みな正直にいわないけれども、たとえば、宇能鴻一郎は、回数は少いが、一回についての放出量が五ccもあると、負け惜しみをいうし、小松左京は小生とペニス較べのあげく、あたかも大受と貴ノ花の如くであるのに焦れ、煙草の火をわがものに押しつけ、そのためさなきだに突兀《とつこつ》たるわが逸物、金魚の獅子頭の如くになったのだが、とにかくふだん冷静なる紳士も、ことこれに関する場合、非常に素直に怒ったり、負け惜しみに身をやつしたりする。それくらいだから、この性的快感においても、異をとなえる人は少い。自分だけが損をしているにしろ、それを他人に気づかれたくなくてだまっているけれど、男の快感なんて、峻険さにおいてはともかくアイガーほどに山麓の広いものでは決してないだろう。
たいていは、ああ佳境に入ったなと思ったとたんに絶頂に至り、のぼりつめた次ぎにはアッケラカンとしてしまうものであって、これは小生、他人のセックスを観察していて、よくわかるのだ。つまり女性はなにやかやとわめきたてているが、男はただもうひたすら寡黙《かもく》にゆすり立て、しごき上げて、そのリズムが、いくらか早まったと思ったら、全身硬直し、スンと一声鼻息を洩らし、それでおしまい。これはブルーフィルムにおいても、またいわゆる盗み聴きにおいても、同じことであって、男の快感など、時間にすれば二、三秒のものではないか、曲線をえがくなら、せいぜいが東京タワー風であろう。
にもかかわらず、このことを人はなかなか認めないので、ある人は抽送の一つ一つに味わいがあるとか、また別な方は、女性に負けぬくらい喜悦の声をわれも洩らすなどおっしゃる。しかし、温泉マークの女中を二十年勤めたベテランにうかがっても、男女ともにうなりたてる例は一度しか知らないといい、それは京都出身の著名な役者だったそうな。この方はうなり癖があって、はじめての女性は、そのお年召しているせいもあり、脳溢血でも起したのかと、びっくりするのだそうだ。そして、梶山季之氏のいう「友鳴き」、つまりいまだ情を解さぬ女性に、まず男が取乱してみせて、相手の羞恥心をのぞいてやることはあっても快美のあまりに発するうめきを、何十分にもわたって男性の洩らすことはない。
いったい男性にとってセックスとはなんであるのか。これがはじめて肌を合わせる女体であれば、あるいは征服欲の満足があるかも知れない。そして、何千人に一人の名器とやら、これも多分に幻《まぼろし》のと形容をつけた方がいいくらいで、「みみず千匹」「俵締め」「数の子天井」「巾着」など、ほこらしげに経験を語るけれど、あれは実在するものなのか。小生は少くとも経験がないのだが、かりに存在するとして、そのような名器をわがものとしているならば、まあわからないでもない。しかし、たいていの男の、めとっている女性は、まあ凡器であり、これをあきもせずに、ほんの二、三秒の昂まりを求めて、獅子奮迅の努力をするなど、考えてみればおかしな話である。人もやっているから、仕方なく浮世の義理とこれを観じて、求めるままに行うものの、正直にいえば、あんなアホらしいことはないのではないか、そうでしょうが。
しかも、女房の方は、あくなき性的快楽の追求は、当然の権利と考え、毎度オルガスムスに至らなければ承知せず、となると、その到来を待って、亭主は以前、赤線にあそんだ時のように、あれこれ気をまぎらわせ、おゆるしのいただけるまでもたせねばならない。
この風潮というか、傾向に拍車かけているのが、性解説記事だが、考えてみると、こういうものを書いているのは、たいてい独身のオナニー青年である。彼等は、その妄想のおもむくままに、夜毎|悶《もだ》える女体やら、またあらまほしき男の能力を、記事にしたて、意図せぬにしろ、女房もちに対する恨みをはらしているのだ。セックスカウンセラーも同じことで、しかつめらしい顔はしているが、連中あまり女性にはもてそうもない。だから、その怨念を、たとえば三十歳なら週に三回が平均とか、あるいは前戯後戯のすすめを説いて、浅墓な女を惑わせ、ひいては男に復讐しているのだろう。
そりゃ、相手がかわれば、四十歳だって五十歳だって、週に三人四人こなすことは可能である。しかし、着つつなれにしわが妻の躯を、そうそう抱けるものではないし、ましてや、こちゃこちゃややこしい手続きなど、思うだけでうんざりする。
女性にも錯覚があるので、独身時代、電車の中では痴漢にいたずらされるし、ボーイフレンドには口説かれる、現在の亭主だって、婚約時代には、もういいだろうと、いやらしい眼つきでせまったり、男というものは、性欲の権化、ペニスに眼鼻の如く考えているらしい。だから、メンスの時など、亭主は御役御免でほっと胸なでおろしているのに、「ごめんなさい、我慢してね、できる?」など、貞淑ぶって、特殊奉仕の真似までしかねない。現在ほど、女性の、男性のセックスについて誤解している時代はないのではないか。
まわりをみ渡してみれば、女房とは月に一度がようやっとという亭主が沢山いる。ただし、女房はこういう状態について、見栄があるからあけすけな愚痴をこぼさず、また、亭主も、この夫婦なら当然のことを、自分だけがおとっているのかと怯え、人にいわない。小生セックスカウンセラーの諸氏にうかがいたい。おたくさまは、古女房と、その性的アジテーション通りの回数方法で、行ってらっしゃるのか。
結婚して半月もすれば、女房はセックスの上ではどうという相手ではなくなってしまう。男というものは、女にくらべて性的快感など、まことにおしるしほどであって、だから欲望もまるっきり起らない。女房を抱くのは、これひたすら、どうもそんな風に皆さんやってらっしゃるから、止むを得ずいたすのであって、この赤裸々な現実を、世に知らしめるべきではないのか。そうすりゃ、亭主も気が楽になり、女房は、たまさかの訪れを徒《あだ》おろそかに扱わなくなるだろう。
もう一度おたずねする、本当にあなたは、女性を抱いてヒイヒイキャッキャッとわれを忘れたことがおありか。また、古女房を義理以外の、突き上げられる如き衝動によっていとおしむことが、今もおありか。
[#改ページ]
津々浦々の呼称をば
酔っぱらうと、ぼくは女性自身の呼び名を、さまざまに怒鳴り立てる癖があり、バアの通にいわせると、だまっていればもてないでもないのに、この悪癖故、駄目なのだそうだ。どうしてこんな具合になったのか、いつ頃からのことか、自分でもよくわからないが、これでも一つだけ効用はあって、そういつもいつも於芽弧の、於真牟戸のと同じことをいっていられないから、全国各地の呼称を研究、いささかそのウンチクをきわめ、そして、便利なことに、ホステス諸嬢の出身地、少くとも思春期過ごした土地を知ろうとすれば、これにまさるものはない。
たとえば「ゝ」といったとする、ちゃんと平仮名で書いてもいいのだが、性器の名称あからさまにしてはいけない慣習があるそうで、とにかくこれは佐賀地方の呼び名、佐賀以外の人ならなんでもないが、天山のふもとに乙女となったむきは「キャッ」と一声この世の別れといった態で、身悶えし、「戊々恕」なら長崎、「段兵衛」は北海道、「屁っ兵」は秋田、「夜千古」が淡路、「於満緒」「芽々」「芽っ緒」といろいろあるが、こればっかりは、かなり海千山千のしたたかな女狐も、同じ反応をしめす。「於芽弧」と「於真牟戸」は語感も似ているし、意味するところも、お互いよく知っているのに、東京育ちに「於芽弧」といっても、特に反応はなく、浪花生れに「於真牟戸」が馬耳東風。
きっと女性は、少女の頃、発毛やら初潮やら、なんとなく得体の知れぬものが、わが体内に育ちゆき、その焦点となるものが、つまり性器で、恥かしいやら、またある予感に、日々めくるめく思いだったのだろう。
悪童たちが、ことさら露骨にその名を口にしてひやかし、そのつど身も世もあらぬ気持となり、しかも、意識は常にそこを向いている、その存在を罪深く感じたり、また、いとしんでみたり、その混乱した気持が、「於芽弧」や「於真牟戸」などに封じこめられている。故に、今や罪もへったくれもなくなっていても、呪文の如く、この名称をきくと、以前と同じ感情がひき出されて、あわてふためく。デリケートな感情だけに、キイワードは正確でなければならず、一字ちがっても、混乱は起きない。意味ではなく、語感に衝撃を受けるのだから。
そして、女性にこのキイワードを用いると、二つのタイプに分かれ、恥かしさのあまり、かえって心の垣根が取払われ、丁度、裸みられた女性が、開き直ってしまうように、以後スムーズに運ぶ場合と、逆に駄目になってしまうのがある。「それをきくと、私、醒めちゃうの、もう無性にいやあな気になっちゃって」、フーッと溜息つきつつ、本当に空しい表情となったホステス嬢がいた。これは、よほど思春期に意識過剰であったか、いやな記憶があるにちがいない。「母々」「於曾々」「BB」はほぼ全国的にいわれ、どちらも西にその起源があり、この名称の発生伝播を探れば、文化東漸の別の面でのたしかめを得られるのではないかと思うが、では、現在の女性は、わがものを何と呼んでいるのか。
男は「珍宝」「珍保古」がほとんどで、別に罪の意識もないから、アッケラカンとしている。人体各部分につき、名称がさだまっていないと困るもので、女子大生にたずねたら「おしり」と答え、これはあまりに不明確であろう。いかにおしりが巨大であり、そこがおしりに近いからといっていっしょくたにしてしまうのは、もしそれ国際関係でこんな杜撰《ずさん》さでは、紛争が起る、と、指摘したら、ちいさい声で、「じゃ、おしりの前」と答え、たしかに「前」とはよくいう、母親など、女の子を風呂に入れる時、「前をよく洗って」といっている。
女子高校生にきけば、「あれ」といい、ちょいと具合のわるいものはすべて「あれ」で済ませ、前後の脈絡から十分にこれで判断できるそうな。こういう非科学的な態度は困るので、だからまた、あけすけに「陰部」やら「生殖器」とかわいげのないいい方を、近頃のハイティーンは口にし、「私の陰部とってもかわいいのよ」なんていわれると、返答に困るし、水着のデザイン解説をみていたら、「生殖器は幅五センチもあれば、十分におおえるもので、それより横からみて、体の前方の部分をゆったりとる必要があります」とあった。
この際、女性性器の全国統一名称を広く募集してはどうか。余談になるけれど、乳房のゆたかなるを表現するのに、「ボインボイン」といっているけれど、「母陰」というのは、実にあきらかな、「於真牟戸」の異名なのであって、小生のような専門家は、TVでぬけぬけといわれると、思わずうつむいて頬を染めてしまう、それともこれは巨泉のひそやかなるいじわるなのか。
男性の名称は、女性ほど多様ではないけれど、これはそのなにを口にするかによって、性格判断ができる。たとえばいい年して、「ぼくの於珍々はねぇ」などという奴は、なにやら包茎野郎、恥垢へばりついた印象だし、「魔羅の先きっちょが」という野郎はみかけ倒し、ウドの大木。「珍保古」ならば軽薄で、「へのこ」は気どり屋、「玉茎」は春本の読み過ぎ、「ペニス」はしごくつまらない凡人のしるしであろう。「男根」は小男の強がりみたいで、「得手吉」なんていうキザな奴とはつき合いたくない。ぼくがもっとも感心したのは、田中小実昌氏の「デチ棒」というのであって、実にどうも、しみじみわがものをながめれば、デチ棒といった感にうたれ、これはどうやら香具師《やし》の陰語らしい。
大体、われわれの日頃使っている言葉は、官僚用語、学術用語、科学用語が多くて、こういうたぐい、どうも性器及びそれに付属するもろもろを表現する場合、しっくり噛み合わない。「正常位」なんて、よく考えりゃ馬鹿馬鹿しいいい方で、それより「本手」の方が、どれほどやさしい言葉であるか、少くとも、雑文でも書こうと志すものならば、こういった名称につき心をくばるべきであって、なにもあてがいぶち、味もそっけもない単語を使うことはないのだ。
そして、これはごく最近の経験だが、近頃の若者に向かって、男性性器のあからさまな名称をいうと、ものの見事に仰天して、もじもじなさり、この点では、まったく女性と同じ反応をみせる。彼等は、その思春期にあたり、おのが「デチ棒」につき、あまりにもくだらない意識をもち過ぎているらしく、「珍宝」などいおうものなら、出身地の別なく、「まいったなあ、そんなこといわないで下さい」と消え入りそうになり、「じゃなんていえばいいんだ」「セックスで通じます」のだそうだ。
そのうち、例のホストクラブあたり、女性客が「珍保古」と怒鳴り、ホスト諸氏のひんしゅくを買い、当の客は「私もあれをいわなきゃもてるんだけど」と、ぼやくのかも知れぬ。
[#改ページ]
性教育に惑う
性教育といえば、思春期にさしかかるあたりで、ほどこすものと、されているようだけれども、ぼく自身かえりみても、性について特別な意識をもちはじめたのは、そのはるか以前であって、そのあらわれを母にとがめられた最初は、四歳の時である。
※[#歌記号]イケアッテ、ハシアッテ、マメオチテ、ヘイタイサンガハシトール、と唄いつつ地面に絵をえがくあそびがあり、池は直線、橋はその上にかかる半円で、池だから下にも同じ形がうつる、以下同じように中心に豆をかき、橋の上に兵隊にみたてた線を放射状にしるせば、これすなわち於芽弧であって、唄の最後にそのむねの文句があるのだが、卑猥過ぎて紹介できない。母が庭で洗濯している横で、ぼくはあきらかに一種の冒険をするような昂ぶりを覚えつつ、この唄を口にし絵をえがき、でき上った絵には何もいわなかったが、おしまいの歌詞を耳にすると、母はこっぴどく叱り、ああやっぱりとぼくはある納得をした。
その後、大人の叱責によって、わが性意識はかたちづくられていったようで、性行為につき、確信をいだいたのは、小学校二年の三学期、女学生の姉をもつ同級生が、「生理衛生」と白地に黒で筆太にかかれた姉の教科書をもち出し、それを輪読しつつ互いの観測述べあって、まことによく腑《ふ》におち、ただ一つ「天皇陛下もしはるのやろか」という点でのみ、疑問が残った。徹底的に神格化されていた時代ではあっても、心の底ではやはり人間と考えていたのだろう。
お医者さんごっこでいうと、三歳の女児から、小学校四年生までの解剖を行い、たいてい神社の境内であって、四年になるともう教室が別だし、かなり抵抗するから、立木にしばりつけて下穿《したば》きをおろし、これはその娘が親にいいつけたため、後でひどい目にあった。わがものについていえぼ、小学校三年の時、物指しではかりっこをし、尖端をつまんで思いきりのばすと皮だけだが十二糎くらいの長さとなり、これも告げ口されて、町内でぼくはかなり助平な子供といわれていたらしい。
性的快感は小学校一年の時、木のぼりをしていて目覚め、指による「※[#「手へん+上/下」]」は十七歳まで知らなかったのに、この手段、つまり布団やら床柱に下腹部押しつけて、快感を求めることは、以後習慣となり、精通は中学二年の夏であった。この方法によると珍宝は、雄々しくならず昂まりにいたる。雄々しくなれば痛くて駄目だし、気持の焦っている時、たとえば、教室へ入るベルの鳴るのをききつつ、校庭のヒマラヤ杉を支える丸太にかじりつくと、ことの他によろしかった。
しかし、これが性行為に通じるものという意識はかなり後までなく、特定のイメージを求めたのは中学一年になってから。国民学校卒業記念アルバムの、しごくちいさい女生徒の写真に唇押しつけつつ行い、後で唇のあとがつきはしなかったかと、心配でたしかめた覚えがある。この頃、布団の中でえがく妄想は、シュミーズ姿になった女性何人にも、押しひしがれるとか、また顔の上にどしんと乗っかられるようなものが多く、こっちが積極的に行為することはない。
べつに珍しくもない幼時性体験を披露したのは、こんな具合に早く意識していながら、いざ自分の子供のこととなると、子供はすべて神の子の如く無邪気なものと信じこみ、かつての親のように、叱責でしか性を説明しようとしない、すくなくとも五、六歳の子供に対しては、ただ当惑し眉をひそめ、低声で注意するだけの風潮を、おかしく思うからで、とはいうもののぼく自身、自分の子供をみていて、なかなか素直になりきれないのだが、性教育というものは、生れてすぐも大袈裟だけれど、二歳くらいから行うべきではないのか。
ぼくが女房と喧嘩して、その時は世にも悲しそうな顔をしてながめていた娘が、今度、同じベッドにわれわれのいるとこをみて、「やっぱり夫婦ね」とまことにうれしそうな表情でいい、娘は五歳になったばかりだから、夫婦のなんたるかをまだ知ってはいるまい。にしても、こっちはびっくり仰天して、あわてふためいたのだが、性行為を仲の良い夫婦のあらわれとして、取りあえず理解させることができれば、いいのではないか、と考えてみたり、また、娘はトイレットに入っても決してドアを閉めない、排泄作業をことさら恥ずべきこととも思ってないらしいのだが、これを閉めるように強制すれば、やはり特定の意識を、性器にうえつけてしまうのではあるまいか、とすると、こっちも開けっぱなしでしゃがんだ方がいいのだろうかと、悩んでみたり、他人のことはいくらでもいえて、わが娘となると具合がわるい。
この自分の子供には具合がわるいという点が、また性教育のうじうじしがちなところで、文部省が、このことを純潔教育などいかがわしいいいかたをしてけしからんと、攻撃はできても、自分の娘については、つい純潔無垢の伝統的教育になりがちである。
近頃、知りあった妙齢の女性なるもの、その御両親がしごく先進的考えをもち、七歳くらいの時に、タイム・ライフ社の児童性教育書風に、あけすけな表現で教えられ、十三歳の時、なんと御両親のシロクロをみせられたそうな。このようにしてでき上った御当人をみていると、かなり妙ちくりんな、恥知らずといった印象であって、ぼくはもうおいぼれのせいなのか、完璧な性教育受けた結果が、これであるなら、もちろん彼女をつくりあげた他の要因もさまざまにあるだろうけれど、真平御免と思う。つまり、彼女だけが特別な教育を受けたために、いびつになってしまったのだろう。こういうことは、世間一般歩調を合わせた上で、それぞれ個性的に行わなければならないので、やがては性教育だけが、両親の子供にほどこす、庭訓しつけとなるのではないか。
子供の成熟年齢がどんどん低下しているのに、親は自分自身の記憶を失って、子供をいつまでも子供としてみたがる、現代の日本において、もっとも古典的考え方のまかり通っているのが性教育であって、東大医学部よりなおひどい。「都市の論理」より「性の論理」を確立しておかないと、やがてこっぴどいゲバルトをふるわれるだろう。そしてそのためには、春画春本の全面的な復権が必要ではないか、すぐれた文学者なり画家が、手をつければいいのだ。このたぐいのものほど、書き手の才能をあらわにすることはないから、みなおっかなびっくり手をつけないのだろうけれど、次代を担う児童のために、挑戦するといい。
そもそも二十世紀に入って以後、荷風散人の三作以外、みるべきものもないのは、後世に対し恥かしいではないか。みっともよくない両親の実地教育より、たとえば「宵待草」作詞者による春本の方が、どれほど性を美しく、たしかに意識させることか。
[#改ページ]
如何なるさまに相成るか
一人の女性をくまなく利用して、いったい何人の男性が同時にたのしめるか、考えたことがある。まず頭からいくと、髪の毛の中にデチ棒包みこむことにより、果たし得るであろう。車の埃を払う毛ばたきは、けっこう乙なものであって、緑なす黒髪さやかにもみこめば、なかなかよろしいのではないか。
つづいて耳二つに二人がかかる。石に立つ矢のためしもあることだし、あきらめずにくりかえせば、その尖端くらいは埋没できるのではあるまいか、鼓膜破るのは無理にしても。そして、昂まりに至り、生命のしるし放った時、これが鼓膜にぶつかって、女体はすさまじい物音を感ずるにちがいない。
眼窩《がんか》二つも利用できるであろう。眼球そのものを、リンの玉とすればいいので、かりに眼球がとび出したって、視神経さえつながっていれば、元通りにおさめて、視力失うことはない。この時女体は、全宇宙これ男根となったようにみえるはずだし、注ぎこまれた精液は、粘稠な涙となって流れ出で、精子のうごめきもとらえられるかも知れぬ。
鼻二つに二人がかかる。鼻の孔というものは、鼻クソほじくる時にもわかるように、かなり拡大できるものであって、十分に抽送は可能のはず。ただしアクメに際し、女体はきっとくしゃみをするだろうけれど、男にとってこれは、あたらしい快感ではないか、いかに巾着三段じめとはいっても、くしゃみする女陰というものはないだろうから。
口は一人、そして、極端なくすぐったがりでなければ、顎と首の部分で一人をこなせる。読者の中の女性は、ちと想像していただきたい、そこに隆々たる男根はさみこむ、考えただけで、ウヒヒヒとなるようだったら、その方は不可能である。かくの如く頭だけで、九人ができる。
胴体にうつって、両腋の下に二人、この場合、前からでも後からでもよろしかろう。また、脱毛をしていた方が快適かどうかは、その人の好みによる。剛毛の場合は毛切れするし、また腋臭《わきが》であると、うつるかも知れない。
乳房の谷間において一人がなし得るし、臍も、出ベソでなければ大丈夫。あのひだやらゴミやらは、望外なたのしみを与えてくれるだろう。両掌に二人はいうをまたないが、さらに肘を曲げることにより、二人可能であって、この場合、力の強い女体なれば、力コブができて、具合わるい。そして、BCGや種痘のアトが、いわば数の子天井的な役割を果たすと思われる。
尿道孔において一人営める。決して誇張ではなく、まったくの童貞が、孔の処在を知らないで、「屈掘」し、そのあたりはやわらかいから、見事果たし得たという臨床例があるのだ。本来の箇所にて二人はできる。同時に二つを収容するだけの広さのあることは、諸賢つとに気づいていられるはずで、いざとなれば、赤ん坊の躯をひり出すのだから、一つ二つは面倒だ、束になってかかってこいと、ひょっとすれば、女体も考えているのではないか。二人は贅沢、まあ四人の面倒みてもらおう。
肛門において一人が可能だから、胴体で、十四人が至福の境地にあそび得る。
下肢にうつって、ふとももぴったり合わせれば、丁度、ポルトガルの洗濯女風に、男性一列にならんで、三人くらい、シャッシャッとこすり立てることができよう。両足の裏を合わせ、ここで一人といきたいところだけれども、さらに、指の股に一人ずつはできないものか。
掌にしたって、結局は、親指と人差指の間で行うのだから、残る三つの空間が勿体ない。両手で八人、両足で八人と計算した方がいい。
総計、頭で九人、胴体で二十人、脚により十一人で、四十人まとめて女性は面倒み得るのである。
ひるがえって、男性はどのように、くまなく利用できるかといいますと、両足の先きで二人、これは炬燵《こたつ》なんかに入っていて、さりげなく足をのばし、親指うごめかせた経験は誰にでもあるはずで、つぎに膝小僧により二人。赤ん坊の頭を考えれば、膝小僧をおさめることくらいできるだろう。ここまでで四人。
デチ棒によって一人、睾丸も考えられるのだが、もしそれ女体が名器であったりしたら、悶絶してしまうから、いちおうはずしておこう。
また出痔いぼ痔の利用も考えめぐらせたのだけれど、いかに壮大ないぼ痔でも、ペニスのかわりにはなりにくいのではあるまいか。
五本の指をいっぱいに拡げれば、女体の態位にもよるけれど、三人を同時に愛撫できやしないか。両手ですなわち六人、肘によって二人、女性とは逆にデベソなら、ここで一人、計十人。
頭では、頭をそのまま入れこんでしまう考え方だと一人しか駄目だが、舌で行い、よほどの低いものでなければ鼻をさし入れて満足させることが可能だし、おとがいをアグアグッとやって一人、耳をうごかす特技があるなら、これで二人、計五人。
男性は多目にみつもって十九人であり、ここにおいても、女体の効率のよさがうかがい知れるのだが、よく外国では、一台の車に何人乗りこめるかというようなコンテストが行われるらしいけれど、一人の女体、あるいは男性によって、同時に何人の男性また女体が果たし得るか、競ってみればいいと思う。
一枚の皮を効率よく使って靴をつくるには、どう裁断すればよいかという競争がルネッサンスの頃あって、ダビンチの考えた裁断法が、もっともすぐれていたのだが、一個の女体に取りかかる四十人の男性の、いちいちことこまかな状態を、絵によってあらわせば、おもしろいと思う。そして、このように多くの男性から愛される女体は、なにせ鼻も口もふさがっているのだから、窒息死してしまうけれど、精液にまみれた討死は、しごくしあわせな境地ではないのだろうか。
もっとも、わが身にひきかえて、十九人の女体にふみつけられ、押しひしがれ、耳も聾《ろう》せんばかりであろうその声音や、大地ゆれうごかんばかりの狂態が、わが身を中心に展開されると考えれば、あまりうれしくない。宇能鴻一郎などは、あるいは泣いてよろこぶのかもしれないが。
ねむれぬ夜などは、このような物狂おしいあれこれを思いうかべ、いろいろ研究してみると、実にすやすや寝つけるものであります。
もっとも夢でうなされるかもしれないけど。
[#改ページ]
女を改革する
人間の躯というものは、なかなかうまくつくられていて、たいてい自らのぞむことを行えば、それが躯にもよろしいことになっている。ビタミンCの足りない時には、自然と果物や野菜を食べたくなるし、タクシーにばかり乗っていれば、今度はむやみに歩きたくなる。スモッグの下に生きる者は、鼻毛がのびるというのもうまいしかけで、ただ不思議なのは、鼻毛によって空気中のゴミを濾過するためと説明されても、それはあくまで結果であろう。どうしてスモッグを吸いこむと、鼻毛だけ成育がよくなるのか、その具体的な説明がない。これを研究すれば、禿《はげ》に毛を生やすことだってできはしないか。
とにかく、神様はかゆいところに手のとどく配慮をして下さっているけれど、ただ一つの例外は、男女交合の際のアクメ不一致である。殿方よ、胸に手を当てじっくり考えれば、男なんてみな早漏ではありませぬか。そのつもりになれば、二こすり半くらいで種族繁栄の実をあげられるはずで、酒をのんでいるか、先様がよほどの粗芽弧でないかぎり、そう三十分の一時間のと、かかることはない。
女性はというと、これは二こすり半ならば、いかにおとなしい婦人とて柳眉さか立て、男のケツくらいひっぱたくであろう。しかたなく男性としては、古来よりあれこれ伝えられる延長の秘術をつくし、あほみたいな抽送をあくことなく行わねばならず、それも、三浅一深とやら、こねくりまわしたり、折れんばかりにしなわせたり、実に無駄なことをせにゃならぬ。
男が、交合のために疲れるという大半の理由は、このひきのばしの作業のためだし、二こすり半なら、その抜きさし一つ一つにたしかな喜悦を味わい得るのに、何百何十合のあとでは、ようやくおゆるし賜わって、心とき放っても、くたびれているからいっこうにたのしくない。
セックスドクターというしろものをこそ、曲学阿世というべきで、通常の男性二こすり半説を、なぜはっきり表明しないのか。こんなことをいえば、貪欲な女性たちに総スカンをくう、また、ひたすら長きが男の甲斐性の如く思われている時に、世の軽蔑を受けやしないかと怯えて、十分の十五分のというのだろう。しかし、ガリレオ・ガリレイの故事にならい、いかに指弾されようと「それでも二こすり半でゆく」と、はっきりいってもらいたいのである。
二こすり半なら、男は疲れなくて済む。つまり翌日の仕事に、なんの影響も与えないし、日本の国力増強のためには、交合時間短縮のもたらす効力偉大なものがあると考えられる。男あってのことなのだから、女性は、この二こすり半にして、十分に快楽を味わえるように努力するべきであろう。
しかし、どうしてこういう長い方がいいなどの迷信が生れたのか。浅学にして古代、中世あたりの男性の、早漏ゆえに馬鹿にされたなんて話を見聞したことがないし、江戸時代にだって、早飯早糞はあっても、「早母々」の例はなく、だが、何時、外敵に交合中に襲われるか知れなかった昔の方が、今よりなおスピーディであったはずで、むしろ早い方が男としてのほこりではなかったのか。
造化の神がこのような不手ぎわ、つまり男女不一致のメカニズムをつくったとは思えない。これはやはり、人間が、本来なら二こすり半で一致するしかけをおかしくしてしまったのであって、二こすり半は、決して現代人故の、性的おとろえのしるしではない。たとえば、交合中、いつ背後から襲われぬともわからなかった原始時代など、男は多分、半こすりで放ち終えたと思うし、遅漏の奴は、それ故に殺されることが多かったにちがいないのだ。そして女性だって身にふりかかる危険を思えば、瞬間における爆発的快感を享受し得るようなしかけであったはずで、つまり、現在のような、まずは安全な交合が、女をして堕落せしめている。
女を改革するためには、だから、危険きわまりない場所、たとえばダモクレスの剣の如く、天井から大きい石など釣り下げ、そして営むとよろしい。まだまだ、まだ駄目よなんて、相撲の行司みたいなことはいわなくなるだろう。
そして、また考えれば、娼婦という存在が、男を愚かしくさせたと思う。ようやく金を無理算段して女を買う、泊りであっても、まわしという制度があるから、女を手近かにひきつけておくには、長びかせるのがいちばんだし、もしそれチョンの間ならなおのこと、時間あたりの値段を安くしようというような下種な計算、必死に「我が国の軍隊は世々天皇の統率したもうところにぞある」やら、「三十六の五翻は、七十二百四十四二百八十八」など上の空たるべく努力し、本来の二こすり半を忘れてしまう。女房もらっても、そのくせが抜けずに、長びかせることで、なにやら得した如く思い、只今のセックスドクターも、以前は貧乏医学生で、玉の井あたりのお世話になったにちがいなく、だから、長きをよしとする説なのであろう。
また、女性は少し交合を求め過ぎるとも考えられる。どう考えても現代ほど、各人せっせとこのことを営む時代はなかったはずであって、武士の妻なら、夫が戦場にある時、ただひたすら孤閨を守っていたろうし、町人の女房だって、夜おそくまで金勘定に忙しい亭主に向かい、そうそう長襦袢でさそうこともしなかった。小生の想像では、年に二回、盆と暮くらいではなかったかと思われる。
これだけ間遠ならば、御入来のとたんに失神、ということだってあり得るし、二こすり半にいたろうなら、もう悶絶の状態だったろうと思う。それが、男女ともに暇になっちまったから、昼夜をおかずに営んで、女の感覚は鈍磨し、ついには今のように、線香花火の火の玉を大事に捧げもち、パチパチと松葉の出るのを待つ如く、心気すませてオルガスムスの到来をねがわねばならぬ。そのため男は、鼻毛ひき抜き、いやな男の顔を思いうかべ、畳の目の勘定をし、この作業のためにこそ、ぐったり疲れてしまうのだ。
古女房となれば、あてがきの如く、まずみだらな心をかき立ててとっかかり、すぐ気分を一変して、ひきのばしの堅苦しいあれこれ思いうかべ、これはあたかも自動車のギヤ入れかえるような、わずらわしさ。すべからく二こすり半の本来の形にもどろうではありませんか。
[#改ページ]
青い文化財
手塚治虫のアニメラマ「千夜一夜物語」がたいへんな人気を呼んだが、氏の話によると、かのディズニープロにおいても、若手がひそかにアニメーションによるブルーフィルムをつくったのだそうで、それは、七人の小人が白雪姫を輪姦したり、「わんわん物語」のレディと、ドナルド・ダックの痴戯フィルム、あの国粋主義と、ヒューマニズムの権化たりし大ディズニーに反抗して、こっそりこの手の作品をものしたという、その心境まことによくわかる。
日本にも、ブルーアニメーションはあって、ぼくがいちばんはじめにみた「青い映画」は、実写ではなく、カチカチ山に題材をとったもの、狸が兎を犯すのだが、いわゆる八畳敷の上で、稚拙なうごきながら、かなりの迫力であった。「桃太郎」「かぐや姫」「西遊記」などが他にあり、多分、戦前の作品と思われるが、昭和三十一年頃に、アメリカヘ密輸され、ぼくはその試写に立ち会い、丁度、アーサー・キッドの「ショジョジ」がはやっている時でもあり、カチカチ山に、この曲をBGとして流したらどうだろうと、関係者が話していた。
アニメーションによるブルーフィルムは、いくらでも奔放にふるまえるから、性的刺戟としては、これにまさるものなく、孫悟空の如意棒にひっかけられた天女が、須弥山《しゆみせん》の頂きにまでふっとばされたり、また、「ミクロの世界」よろしく、躯をちぢめた悟空が、女陰の中に入りこみ探検をし、まことユーモラスに仕上る。
これが、実写となると、むしろ撮影現場をそのまま撮った方が、おもしろいくらいで、人間の態位は四十八手の裏表とはいっても、カメラを考えると、おのずから制約され、そう干変万化がゆるされるわけではない。ぼく自身近いうちに、ブルーフィルムをつくってみるつもりであって、監督や女優さんにも、内々、承諾を得ているのだが、この場合困るのは男役である。
なにしろ、監督カメラマン進行係など、最低三人が、しごく事務的にわさわさとうごきまわる中で、常に雄々しく保つ、ということは至難の業であって、以前はヒロポンを使用し、怒張を持続させたものだが、現在は、せいぜいゴム紐で根元を緊縛するくらい。よくロケーションでピーカン待ち、つまり空の晴間をのぞんで何時間もスタッフ無為に過ごすことがいわれるけれど、ブルーフィルムにおいては、エレクト待ちがしばしばある。
そしてこの時、相手役の女優さんが、心やさしい方ならば、あれこれ協力してくれるけれども、たいていは以前の赤線における、もっとも情薄き娼婦よりさらに手ひどい言葉、扱いをするもので、それは一面において、自らの肉体に対し、しごく具体的に関心しめさぬ男へのいら立ちだろうし、また、いかにもみじめなわがなりわいを考え、自分よりさらにあわれな存在と、男をおとしめることに、いくらかよろこびを感じているようにも思える。
「ほら、みせたげるからさ」ヨイショと、あけっぴろげにされたからって、あれは白昼堂々とながめて、それ故にふるい立つというものではない。しぶしぶといった態度で腹ばいになり、のぞきこみ、その表情はげに深刻なもので、「どうなのよ、少しはよくなった」「うん」男役、まことに不得要領な返事をし、「冗談じゃないよ、あそんでんじゃないからね」やがて身じまい正した女役、ふてくされて煙草などくわえる。男役は、部屋のすみで、しごいてみたりねじくったり、「半立ちでいいんだよ、なんとかしろよ」進行係がせき立てる。
ブルーフィルムを御覧になればわかるだろうけど、男役というものがしごく深刻な表情で行為しているのは、少しでも長くエレクトを保たせようと、あれこれ助平なことを思いめぐらせているのであって、時には、撮影開始に先き立ってブルーフィルムをみせることもある、正に、豆を煮るに豆殻をもってすといった感じだけれども、こういう時の、男役の心情思えば、まさに同情を禁じ得ない。
よく、若いバーテンダーなどで、女を抱き、しかも、金になるなら御《おん》の字と、かって出たりするけれど、まずは駄目であって、これにもプロが存在し、通称銀平という四国のお兄さんなどは、ライトが点《つ》いたとたんに宙に向いてそそり立ち、一種の条件反射になってしまって、周囲に人の騒がしく立ちまわる環境でないと果たし得なくなったという。
しかも、この場合、男役は運よく雄々しくなっても、昂まりに到達してしまっては困るので、羽化登仙《うかとうせん》の境地に入る寸前に醒める努力を払わねばならず、ましてや、オンボロカメラで技師もまた未熟、フィルムがうまくまわらなかったり、レンズの焦点があやふやだったりすると新規|蒔《ま》き直しで、三時間くらいはかかるその撮影の後、二、三日はぐったりと男役のびてしまい、それは単に肉体的な疲労だけではなくて、かなり自己嫌悪に苛《さいな》まれるらしい。
完成したブルーフィルムを、主演男優とみたことがあるけれど、終始一言も口をきかず、その後「まあ、いいべぇいいべぇ」誰にともなく田舎訛りでつぶやいていた。ひきかえ女優の方は、キャッキャッと笑って、まるで別人の姿をみる如く、あれこれ批評し、男性と女性の羞恥心の差をここにまざまざとみせつけられた感じだった。
女性は閨《ねや》の中であれほど取乱しても、決してそれを恥らうことがないけれど、あれは、どういう精神構造になっているのだろうか、ヒステリーと同じく、日常の意識と断絶しているのか、それとも取乱すことを、本質的にほこらしく感じるのだろうか。
とにかく、ブルーフィルムにおいて、女役はすぐにみつかるし、もっていきようによっては、あらゆる女性すべて、カメラの前で営み得るのだが、男役に困る。これが単に、観客の前で、つまりシロクロショウのクロならば、可能な人物に事欠かないのだが、カメラの前で、しかも必ずしも連続しない性の営みを、三時間近く果たし得る男というものは、実に稀なのである。もし読者諸賢の中で、われこそはと思う方がいらしたら、応募していただきたいのだが、条件としては、決して偉大である必要はなく、つまりあまりに巨大であると観客の反感をかってしまう。そして中肉中背、痔でない方、これは、接写の際に、脱肛トサカ痔など、目ざわりだからで、また、入墨や傷跡もない方がいい。
あらゆる時代に春画春本がつくられているのだから、現代における、フィルムによる人間の営みを残しておくことは決して意味のないことではないだろうし、五千年後の人類におくるタイムカプセルには、このての映画こそが必要ではないかと思える。性的快楽追求の姿勢は、その時代の文化を端的にあらわすのであって、これぞ文化財といっていい。
[#改ページ]
人 形 の 味
週刊誌といっても、天下国家大学未来学に血道あげるものから、ただひたすら色の道に精進なさるたぐいまで、まこと百誌斉放のにぎやかさ、そして、色道誌の読みどころはその広告頁である。小生、これはと心ひかれる、といっても、その広告文キャッチフレーズにより判断するしかないのだが、おもしろそうなのには、必ず送金して、「思わすドッキリ、ウーンとシロクロ」など称する写真秘本を注文するのだが、もとより羊頭狗肉もはだしで逃げ出すしろもの、これまでのところ淳風美俗の枠一歩もはみ出ていない。
ただし、品物とは別に手紙が入っていて、特別会員になれば、何某家より売りにでた国宝級浮世絵のカラー写真を、特にわかち与えるやら、ドイツ製の秘薬をプレゼントするなど、好き心をそそり、だが現代に北明は求むべくもなくて、これもたいていはガセネタである。ぼくは人こそ知らね、ダッチワイフの研究家であって、外国製品、一九二〇年代にドイツでつくられたものから、巷間、探検隊の携行したといわれる精巧な人形まで所持しているが、通信販売の主要な品にこれがあって、ひと通りは注文してみた。
まず、もっともありきたりなのは「全国統一価格六千円」を三千円に割引きと称して販売する、ビニール製の「BG人形」「芸者人形」「アメリカ娘」の三種類。背中にある孔から息を吹きこむのだが、等身大のややグラマラスなこの人形ふくらませるには、かなりの肺活量を必要とし、でき上ったそれは、まあ人間の形はしていても、縫合線がいたるところに走るし、首と顔の太さが同じで、表情も、しごく奇異な感じ、もとより、しかるべきあたりの、翳りも谷間もないから、まあ、不時の出水のおりなど、浮袋ぐらいには使えるだろうが、とても、欲情そそられる態のものではない。
ためしに、かじりついてみたが、強く抱きしめると、パチンとはじけそうだし、いわゆる素股《すまた》風に工夫してみても、別段、感興はわかず、ただ一つの発見は、この人形の表情、上に乗っかってみると、けっこう美人にみえるのであって、もし、この計算の上でつくったのであれば、左甚五郎級の心づかいといえるだろう。二日置くと、空気が抜けて、ミイラとも、老婆の油揚げとも、いいようのない姿にかわるが、小生、三体計九千円の投資にしては、いかにもつまらないから、これに衣裳つけさせたらどうか、たとえばセーラー服、看護婦の制服、長襦袢などまとわせて、薄くらがりの中でみれば、少しはましでないか。
そこで、古着屋を探したのだが、昭和元禄使い捨ての時代には、このなりわい生きにくいとみえて、心覚えをたずねても、すべて廃業した後だし、といって、「学習院高校女子部制服御用達」など看板のかかった店では買いにくい。いくら妹思いの兄貴風に装っても、下心が下心だから体裁わるいのだ。白衣の天使のコスチュームも同じことで、しかたなく、女房の長襦袢着せてみたが、これは、いかにそっと裾まくってみたって、余りおもしろくない。
ではと、同じく好き心の所有者呼び集め、一体ずつ与えて、絵筆により本来あるが如く、色どらせたら、まあ、いずれも不器用な方で、便所の落書の如き紋様をしるし、中の一人は、描くうちに心激したか、マジックを股間に突き立てる始末。
これが八千円の製品になると、頭には粗末ながら、髪の毛があって、縫合線を横に配し目立たない。股間には、直径八糎、深さ三十糎ほどのくぼみがついている。これは人形の脚を、自然のままにのばしていると、わからないのだが、押し開くとあらわれて、知らない人は、その巨大な孔に、ただ恐縮するばかりだろうが、ここへ直接ナニするわけではなく、アダプターとでもいうか、スポンジ製三千五百円の、吾妻形があり、これを、そのホールにセットして、用いるのである。アダプターは、三糎の厚さのスポンジを二つに折って、下部で糊付けしてあり、その割れ目のとば口には赤いゴムが貼られ、上部に乳首の如き突起と、粗毛が、これも糊で貼られている。これは、完全な観賞品であって、まるで実用にならないのだが、そうとは知らずに、小生これをためし、ひどい目にあった。まず、割れ目の内部にコールドクリームを塗ったのだけれど、スポンジだから、すべて吸収してしまって、どうもスムーズにまいらず、いかに数の子天井とかいっても、ゴワゴワではすりむけてしまう。
こういうことは、いったんはじめると、途中であきらめにくく、ついにコールド一瓶をついやし、どうにかなめらかにして、なんとか果たしたのだが、まあ、馬鹿馬鹿しいといって、これにまさるものはないだろう。アダプターセットしたから、どでんと脚おっぴろげたビニール人形の、その部分の色どりにしろ、形にしろ、ただもうけったくそわるくて、さて、自らの側を清めようとひょいとふき取ったら、なんと無数の抜毛があり、べつだん放射能雨に当たった覚えも、お岩にたたられることもないのに、後から後から際限なく、しかし、よくみるとふだんのそれと少々ことなっていて、これは、アダプター附属の毛が、熱のせいかクリームのためか、はがれてこちらにからまりうつったのだった。一本一本、指で毛なりにしごいてそれをひっぺがし、灰皿に捨てながら、わが身こそは世の中でもっとも汚れたる存在と、しごく憂うつな経験であった。
通信販売の中の、「独身男性待望の性具」なんてあるのは、すべてスポンジ製コケシの、内部を空にしたもので、石鹸にまぶして使用するのだが、これは制作者の配慮なのか、少々小ぶりにつくられていて、さだめし独身男性はこれをあてがい、いささか窮屈な感触に、人知れずニンマリとほくそ笑むのではないか。
ドイツ製吾妻形の中には、モーターが内蔵されていて、二重になった部分の、内側がゆっくり回転したり、震動を与えたりするものから、五本の指をかたどって、これがやわやわと圧迫するもの、表向きはインポテンツ治療器となっているのだけれど、指たるやまさに迫真のできばえで、これを使用中の「独身男性」の姿なんてものは、かなり奇怪であろう。小生、まことに電気に弱いから、コードひきずったこのようなしろものは、ためすだけの勇気がなく、だって、万一、感電したらどうなるか。ほっそりと女のそれを形どりマニキュアまでしたプラスティックの指に、ひっつかまり、泡ふいて死んでいる姿なんてものは、あまり考えたくない。
現代の科学の、ほんのお裾分けほどの技術で、きっと快適なダッチワイフがつくれるだろうに、技術者にその夢はないのかしら。
[#改ページ]
効能説明書きの妙
昔の人は、色情にわかに昂まって、しかも手近かに女人のない時、瓜、大根また刀の鞘袋《さやぶくろ》で、代用させたらしく、特に鞘袋は、ビロードで裏うちされていたから、しごくよろしかったという、もっとも放ち終えた後の始末に困っただろうが。
ダッチワイフのように大仕掛ではなくとも、女陰だけの代用品は、以前からあって、天保年間の川柳に「落城の濠に浮いてる吾妻形」がある。張形についてのさまざまな考察はあっても、吾妻形は少く、春画では英泉の「枕文庫」に、その使用中の図があるというくらい、まあ、平時であれば、なにも代用品使うまでもなく、いくらも女体に接し得たから、必要性も薄かったのだろう。
明治に入ると、その中頃に吾妻形の広告がくばられて、「女子乃代用男乃娯み」というキャッチフレーズ、極上製桐箱人一箇拾六円、並製拾弐円、下等八円送料拾銭。
「本具は女子陰部の全体形にして、当店の名工が永年苦心の結果遂に実用上、女陰と毫末《ごうまつ》も異ならざる様完成せしものなり。外面は肌ざわりよき絹布を用い、殆ど饅頭に酷似し、妙齢の女子の如く大陰唇より膣内の工夫にいたるまで、伸縮自在のゴムを用い、以て全部を暖める仕掛なり。使用法は口に湯を含みて外面に表しあるゴム管より吹込み、十分に温めおきて陰茎に『みやこ衣』をかぶせ、交合する時は実際の婦人と交接するよりも、なお一層の快味を思わしむると、実験する人の確証する処なり。故に品行を重ずる士、又は陸海軍人無妻の人旅行者にして、色欲勃興する場合に於ては、本具を使用して、その欲情を洩らすは、手淫の害を防ぎ、花柳病に感染せざる安全無害の良品なり」。
「品行を重ずる士」というのも珍であるが、わざわざ「饅頭に酷似し」とほこるくらいなのだから、この時代は、ふっくらともり上った形を珍重したのかも知れぬ。日清、日露の戦役に際し、この発売元である両国宝順堂主人は、製品二百箇を陸軍に献納したそうだけれど、ひょっとすると、「遼陽城頭夜は闌《た》けて」の頃、塹壕の中でこれを使用する兵士がいたかも知れない。
吾妻形とくれば、張形にも触れなければならないが、これも同じ発売元が広告を出し、
「本具は春はりかたと称し、一名『女人一人あそび』ともいう、御殿女中が多く是を使用せり。形状は陰茎様にして中空なり。大家の婦人方が色欲しきりに勃興するの時、これを強く忍耐することは生理的作用を害し、いわゆる鬱病その他の疾病を起す。故に医家に第一の治療器として使用を奨めるものなり。他の器物をもって手淫を行う時は大いに害あるも本具はその憂いなく安全にして実物と同様、かの交接時と同じく快味を起し、射精して精神機能充足す。ただし使用過多なれば反対の害をまねくべし。使用法はそのままにても可なれど、人体度の温熱を附せんと欲せば、綿を湯に浸し、これをしぼりて形の腔中に入れ使用すれば快味多し。婦人貞節を正しくせんには、本器必携せざるべからず。夫いらずの宝器なり」
ここで「射精」というのは、女人のそれをいうので、張形がいたすわけではない。アメリカ製のウイドウズドールと称するこのものには、圧縮すると精液類似の液体が尖端よりとび出るしかけとなっているが。ともあれ支那事変の頃、このたたかいの長期にわたることを予想した軍の一部で、軍人留守家族に、一種の張形を配給しようという案がねられたそうだ。兵士の妻の不貞が、新聞には報道されなかったけれど、いろんな事件をひき起して、士気に影響を及ぼすと憂えたのであって、しかし、これは実施されなかったという。
戦前は、取締りがうるさかったから、広告もままならず、吾妻形、張形いずれにせよ、医療器具を装って売り、大正年間には、
「本器こそは独身婦人救済珍具なり。久しく男性にあわざれば、必ず子宮病月経不順ヒステリーを起すものにして、本器を使用すれば婦道いささかも乱すことなく、諸病退散できるにより、故に婦人必携の要具なり。女学校女子寮女工未亡人など、特に試まれよ。特製参円別製(特大寸法)参円五拾銭、密送内地拾弐銭海外四拾銭」
とある。
これが、男性用になると、陰萎、早漏、交接不能を治し、精力増強とうたって、しかし、できぐあいは明治初代におとり、こういうたぐいのものは、科学文明の進歩とは比例しないらしい。
現在ある張形も、江戸時代の、呉渡り水牛の角でつくったそれに及ばず、吾妻形も饅頭に似ていた頃と較べ、今のは、しごく艶消しな形をしているのだ。
少年の頃新聞の広告の中で、わが心をひいたのは「ホリック真空治療器」という奴で、短小コンプレックス克服の利器、これは、硝子製の容器にペニスをさし入れ、空気の流通をふさいだ後に、ポンプで中の空気を抜く。すると、空気の減った分だけ、ペニスの容量が、といってもみかけだが、ふくらむわけで、当時の青年にはけっこう売れたらしい。
今は短小よりも、包茎が問題になっているらしく、週刊誌に重々しく、白いキャップをかぶり、手術着をきた医者の写真入りで広告があるけれど、真性包茎の手術ならともかく、仮性包茎のそれは、ほんの二三分で、まあ、素人にもできるくらい、その尖端の余っている皮を切るだけだから、しごく手軽で、こんな金もうけはないらしい。
真性包茎になると、熟練がものをいって、うっかりみじかく切ってしまうと、エレクトした折に、皮が突っぱり痛くてかなわないそうだ。それにまた、はじめて空気に触れたその部分は、赤ん坊の肌みたいにやわらかくて、ようやく一人前になったと、いさんでおもむくままにふるまったりすれば、怪我をするし、またすぐ化膿し、とんでもないことになるという。
この包茎専門の医者の中で、妙なコレクションをしている人がいて、真性包茎の、切りとった皮を集め、適当に処理して、指輪につくっている。手術は、皮をうんとのばしておいて、ちょん切るわけだから、筒型の皮が残るわけで、いわれなければ、たしかに風変りな指輪としかみえない。
だから、これから包茎手術する人におすすめするのだが、切りとった皮は必ずもらっておいて、指輪につくり、フィアンセにおくったらどうだろうか。そしてまた、女性の方も、処女膜には、輪状、冠状などいろいろあるそうだから、これを上手に切りとって、リングにすればいい。包茎の皮と処女膜でつくった指輪を、交換するなど、いきなことではあるまいか。
[#改ページ]
おなごのたたずまい
男性はいやおうなく、日に三、四度は、わがものをみつめる。もしそれ多忙にして、心上の空に放ち終える時だって、格納に際し、チラッと視線を向け、たとえば公衆便所にずらりとならんだ男の後姿というものは、まことにユーモラスで、いずれも微動だにせず、あるいは面壁し、また黙祷の如く、そしてある時間が過ぎると、みな上体小刻みに三、四度ゆすって後、腰を後にひく。格納にあたって、男は決して、たぐりこみ巻きこむということはせず、腰の一動作によりすいっとおさめるので、しかし、近頃のブリーフでは時に先端の、ひっかかることがある。すると指で押しこめなければならないが、いずれにしても、チャックをしめ、ひょいとふり向いた表情の、決してほほ笑んでいたり、また、しかめ面もない、まずは能面の如き印象である。
とにかく、小便の時にみるし、風呂へ入ったって、日本式だろうと、西洋式だろうと、対面せざるを得ない。後者であれば、躯を横たえたとたんに、眼前|咫尺《しせき》の間にゆらゆら浮遊して、いくどみても、これはあきぬながめなのだ。あらためて、まあ、寸足らずの如く思えるけれども、胴まわりは人一倍だとか、近頃、特に色艶よろしく思えるとか、さらには、無用のしごきを加えて、その雄々しき姿を観賞してみたりする。もし、男が無人島に漂流して、他に何もなくとも、これさえあれば、一年や二年、おもちゃにして暇つぶしできるであろう。
これにひきかえ、女性はいったいわがものを、日に何度くらいながめるのだろうか。幼女の頃は、直立していても、その形状あからさまにうかがえるけれど、やがてそこかしこ皮下脂肪の沈着するに及んで、それは押し下げられ、また、翳りも加わってみえなくなるのだが、あれは、当人にとっても、かなり努力しないと、その全貌をうかがうことはできないものらしい。
ぼくはよく、婦人に向かって、おのがしろものをとくとながめたことがおありかどうか、たずねるけれど、十人が十人、否定なさるのだ。こんなことが信じられるだろうか。現代の浮世絵師杉浦幸雄氏の作品に、「少女手鏡の図」というのがあって、十五、六の少女が、ガニマタとなり、その間に手鏡をさし入れのぞきこんでいる絵があって、こんな構図は世界中探したって他にないと思われるけれど、こういった経験を、すべての女性はなさっているのではないか。
だって、そのあたりに突如、毛が生えてきたり、出血やら、他にもさまざまな、怪異が起こるのだから、誰だって、いったいどんなことになっているのやろかと、しらべてみたくなるのは、理の当然ではないか。また、その年齢を過ぎてからも、女性というものは、自分の躯について、実に気にするもので、乳房の大きさが左右違うとか、発毛の具合がどうだとか、人知れずこだわるらしいから、なおのこと、わがものについて、あれこれ詮索して当然なのだ。これが男なら一目瞭然だし、わりに開放的だから、ヤレ自分は皮かむりであるとか、また、ちょいと左に湾曲しておるとか、互いに情報を交換しあう。しかし、いかに女性同士の密談があからさまであるといっても、「私どうも、大陰唇肥大らしいのよ」「あらそう、みてあげるわ」てなことになるまい。つまり、各人ごとに、いったい自分はまともなのであろうか、奇型ではないかしらと、悩んでいるにちがいない。
そのやましさが、みたことあるかときかれて、「きゃっ、いやあね、みるはずがないじゃない」と、シラ切らせるのだろうが、よく考えると、本当にみてないのかもしれないのだ。だって、人間の躯というものは、どこもかしこも、かなり機能的に美しくつくられていて、ペニスなど、いうまでもなくアポロ何号とやらに酷似し、実に見事な流線型をしているし、女性の乳首も、赤ん坊に乳を与えるという目的にふさわしい形態をもっている。
ところが、女性のものというのは、ありゃいったいいかなる造化の神の失策であろうか。いや、こういうのは、既成の審美眼によって判定しているのであって、あれを美の極致とみることは、たしかに可能だろうけれど、花を美しいとながめ、小鳥をかわいいと感じるセンスからすれば、ヴァギナというものは、しごく妙てけれんである。機能的にすぐれたものがもつ、当然のバランスとか、あるいは洗練された印象、典雅なたたずまいのかけらもない。
無影燈の下で撮影した処女のヴァギナと称する、写真をみたことがあるけれど、たしかに色はきれいだが、形状としては、かなりいびつなものであるし、これが既婚者となれば、まず緊張感が失せて、内臓のずりおちかけている如く、経産婦は、まあ、深海に棲息する、イソギンチャクの変種みたいだし、中年になれば、もはや眼の毒というほかはない。
女体を美しいとみることは、まあできても、実をいうとぼくはあまりそう思わないので、ゆたかな乳房や、あるいは肩から腰にいたる曲線なんてものも、じっとみていると、なにやらできそこないといった感じが強いのだが、特にヴァギナは、まあ、めちゃくちゃな造作といっていいだろう。そして、このみるもおぞましく、いかなるメーキャップも受けつけぬ部分を、女性が日に一度でもいいから眼にしているなら、とても、おてんとさまの下を、そうでかい面して歩けるものではない。もし、水洗便所の、水の溜っているあたりを鏡にしておいて、簡単に、わがものをながめられるようにしつらえたら、世の女性の大半は、ノイローゼになるか、厭世自殺するのではあるまいか。
ぼくの考えでは、ある時期まで、女性はしばしば、わがものをながめるのだと思う。そして、そのいびつになりかけたり、変色しはじめたのに気がついた時、キャッと一声びっくり仰天して、ほら、思春期の一時期、娘が妙にふさぎこんで、一室に閉じこもったり、家出を考えたりするではないか、あれはキャッと悲鳴あげたしるしなのだ。以後は、かたくなに眼をそむける、女性特有の自己催眠によって、あれはきれいなのだ、決しておぞましいしろものではないのだと、自らにいいきかせ、心を平静に保つ。
だが、ぼくはあえて申し上げたい、女性は一日に一度、わがものをとくと御覧になるとよろしい。そのものに慕いよる男性を考えて、自己弁護することなどやめ、心しずめてしみじみながめてごらんなさい、あらゆる妖怪変化の原形がそこにあることがわかるであろう。そういった形状のものを、自ら刻みこんでいる存在として、少しは反省するとよろしい。
男性なんてものは、女性の顔をみれば、とたんに、そのものの形状色合いに思いをはせているのだよ、恥かしくないかい。
[#改ページ]
へんな変態
加藤武氏に、傑作な読物があって、文中に「ヘンな変態」という、新語、あるいは新説が紹介されている。へンな変態とは、まことにいい得て妙であり、近頃はたいていのこのたぐい、正常の中にくり入れられていて、これはよろこばしいことにちがいないけれど、一抹のさびしさもないではない。「ひょっとすると、俺は変態ではあるまいか」と、くよくよ思い悩むのは、やはり人生にとって欠くべからざる自省のチャンスであるし、「変態」なる言葉のもつ、妖しい気配もまたいいものだ。変態の出そうな夜というものがたしかに五、六年前まではあったと思う。
加藤氏の紹介するそれは、トルコ風呂へいって、トルコ娘のおならを嗅がないと満足しない変態なのだが、性における市民権を獲得した、いわば堕落ヘンタイ以外の、正統的伝統的アブノーマルは、よくみればまだ残っている。
たとえばオナニーなんてものは、少年期の止むに止まれぬこととみれば、どうって業でもないが、ぼくの知っているブルーフィルム元締めの小父さんは、女房の枕もとでこれを行わないと満足できない。この発端というのがきくもあわれな物語り、つまり、彼はパクられた時のことを考え、また老後の生活設計に心をくばって、孜々《しし》営々とへそくりを貯めこんできたのだが、ブツを仕入れに出かけた留守、女房がこれを発見し、自分名義のアパートを買ってしまった。怒り心頭に発した彼は、三くだり半たたきつけたのだが、テキはいささかもたじろがず、「どうぞいつでも別れてあげましょう、だけど、私にも考えがありますからね」と、つまり亭主のなりわいだけならまだしも、仕入れ先き取引き相手のいっさいを密告するというのだ。彼は降参して和睦申し入れたが、以後、何かといえばこの脅し文句をちらつかされ、財布いっさいにぎられちまって、その腹いせに、せめてお前を抱くよりこの方がと、眼前でしごき立て、それがくせになってしまったという。
ヘンなくせがついて以後、芸者を相手にしても、同じくしなければ満足できず、となると、芸者は馬鹿にされたと怒る。浮気もしにくくなって、もよおしたら、どうしたって女房のもとにもどり、その視線を意識しつつしごき立てねばならぬ。女房はまた、亭主のふるまいながめつつ、自ら処理なさるのだそうで、お互い果てた後に、自分のことは、それぞれ自分で始末し、ほら、ここにもとんでるわよなど、女房にいわれ、雑巾で畳をふくなど、実に味気ないのだが、これ以外はまったく駄目。
こういうヘンなくせは簡単についてしまうもので、あの月へ出かけた宇宙船の三十時間だか一人で月のまわりをくるくるまわってた方は、きっとオナニーをしたんじゃないかと思う。かなりいらいらしたはずだし、一人でぼんやりしてりゃ、鼻毛を抜くか、このことでも行わなきゃ間がもたない。そして、広漠たる宇宙空間で、友の安否を気づかい、また自分は縁の下の力もちでしかないし、果たして何をしにこんなところまできたんやろか、ちゃんと地球にもどれるのかしら、あれこれ思いつつしごき立て放ち終える。そのめくるめく生のしるしをたしかめたら、以後、アホらしくて、女房など抱けなくなるのではないか、押入れなどに入りこみ、宇宙の暗黒しのびつつオナニーで、満足するようになりはしないか。
クリニングスとか、あるいはその逆もしごく当たり前のこととなったが、トルコ娘の中に、化学調味料、塩、胡淑、タバスコまでそろえて、この娘はサービスして下さり、その事前にお互いふりかける。自らのものに、二、三種類の小瓶をしゃっしゃっと、料理長よろしく塩梅し、自分で味をみてから、客にうながし、そして彼女はわが好みの味つけを、男のものに入念に行って後、しかるべくなさるのだ。男の気分としては、ちょっとモロキュウになったようで、なれぬうち落着かない。
痔の手術を受けて後に、まったく意気上らなくなった男もいて、それは、ナニ痔というのか知らないが、手術の前には、その患部のじめじめしているあたりを、女房に、耳かきでチョコチョコかいてもらうたのしみ、さらに、排便のさいの痛がゆい感触のたのしみ、いろいろ変化があったのに、そのいっさいが手術で失われた。女房の方も、すべっとした肛門など、魅力がないと不満を洩らし、現在、痔になるべく日夜努力をしている。
これなど、ぼくも疥癬《かいせん》のよろこびを経験しているから、実によくわかり、うかつに痔を手術するものではないし、水虫とかおできなども、その利用のしかたでは、ヘンなたのしみの源となるはずである。わざと長時間靴の中に水虫の足を閉じこめ、我慢の限界までおいて、一気にひっかきむしるたのしみ、これはそうざらにあるものではないし、おできをひどく化膿させ、痛いのを我慢して、その根を切る。ニュルニュルと膿があらわれ、ドロリとかたまりがとび出て、あとに深い孔が残る。あの爽快さは、化膿すればすぐ抗生物質で処理する意気地なしに、わからぬ境地だろう。
淋病だって、梅毒だって、考えよう一つなのであって、淋病の、妙に熱っぽく、けだるい感じ、躯の芯にひびく痛みや、放尿というこの上なく快い作業にともなう苦しみ、パンツにくっついた血膿、※[#歌記号]うしろ雲古で、前なら血膿、色で仕上げたこのパンツ、も近頃の清浄野菜風少年のあずかり知らぬことだろう。梅毒だって、その顕症期つまり梅の花のような赤い斑点が肌を飾り、また扁平コンジロームの、いわば月のクレーターよろしく点在して中はじくじくとくずれている、こういう時に、出版記念パーティとか、受賞祝賀会といった派手やかな会合に出て、すみにひっそりいるのも、おもしろいもので、毛虱だって、タムシ、シラクモ、インキンなど、皮膚病というものは、すべて性的よろこびにつながる可能性がある。
しかも、こういう人類の遺産は、日に日にかげを薄くしているから、その保存に心すべきではないだろうか。ローソク病の男が、毎朝わがものをのぞきこみ、やれやれまたとけたかと、うんざりしつつも、やがて消滅するまでのわずかな間を、性的妄想にふける、その世界のきらびやかなことは、とうてい健全男根の片鱗もうかがい得るものではないし、包茎だってそうだ。手術することはないのであって、包茎の皮をあれこれたぐってあそぶなど、独自の快楽だろう。
ヘンな変態を大事にしてはどうか、個性というようなものは、もはやここにしか残っていないと思われるのだ。
[#改ページ]
めくるめく少年の日
十五、六歳時分、於芽弧とはそもどんな形態をしているのか、ずい分、思い悩んだものである。女性は、少し前までのもんぺから解放されて、白い素脚むき出しにして下さってはいても、また巷《ちまた》にはさまざまの好色雑誌があらわれ、裸体を観賞させてくれても、肝心|要《かなめ》のあたりは、杳《よう》として消息不明なのだ。
当時、中学四年では、かなりの猛者も、まだ娼婦に至らなかったし、人妻とつき合っているという二枚目は、「やっぱし童貞は大事にせなあかんと思うねん」と、しごく殊勝なものだった。
そこで、於芽弧に関するさまざまな情報が乱れとび、一人は、「俺な、淀川の堤防で、みてんけどな、あれは大体において眼鏡の玉くらいの穴があいてんねんわ」と報告する。ぼくはセルロイドのつるにまん丸なレンズの眼鏡をかけていたから、その情報を耳にした後、しみじみわが眼鏡をながめ、そして、レンズのこわれたのに、わがものをあてがった。決して自己宣伝するつもりではないのだが、わが珍宝はつるにひっかかって、完全にはくぐり抜けず、だからといってうれしい気にもならなかった。
それ以後は、道行く女性みるたびに、股間に開くレンズ大の孔を思い、それは、いかにそう思いこもうとしても、実感が薄い。聖母女学院のジャンパースカートまとった美少女のそこに、ポカンと空洞があるなど、そのイメージがまとまらないのである。いかにも焦れったくて、華房良輔にうち明けると、彼は実にさげすんだ眼つきで、「アホヤな、あれはな、女が興奮すると、パカッと開きはじめるもんやねん」、新説を披露する。
女が興奮する、それはいったいいかなることを意味するのか、女もまた、自分と同じように悶え苦しむ夜があるのか、女がやはり於芽弧を欲して、七転八倒するとは、これはまた奇想天外であるし、しかも、孔が開いたり閉じたりするとは面妖なことではないか。もとよりその部分が、一種の割れ目であるとは知っていた、つまり幼女のそれを記憶しているのだが、すると女は、興奮した時、あの割れ目がパカッと、レンズ大に開くのであるか、なんとうまいしかけになっているものだ。「それでやな、そこに処女やったら処女膜いうのんあるねん」良輔はなお言葉を継ぎ、ぼくもその言葉を知っている。
処女膜ときいただけで身ぶるいが生れ、だから、その言葉をなるべく考えないようにしているくらいで、「いっぺん男と寝たら、バチコンと破れてしまうねんなあ」とさらに彼が言葉を継ぎ、ぼくは今でも、その時に、良輔が右手を頭上でひらひらさせ、バチコンといった表情を覚えている。
ぼくは以後、戸の開閉をみるたびに、女性の興奮を思いうかべ、そこに膜が張りつめられていてバチコンとけしとぶ幻影を思いうかべたが、於芽弧情報はさらにいろいろあって、それは上部にある突起があり、また下部にはエインという箇所も存在する。あまり乱暴に営むと、エインがバリッと裂けてしまうから注意せねばならず、上部の突起は、ここに触れると女はたまらなくなるそうな。今考えても、実に一語一語がめくるめく印象であった。女がたまらなくなるとはどういうことなのか、たちまち喉がからからに干上って、唾をのむこともできなくなる。エインとは、英語なのだろうか、上部の突起とはなんか知らんが出っ張っとるらしい、それはピンクの塔の如きものであるのか、こめかみに、動悸が生れ、眼を開けていられなくなる、早く一人になって、この情報を加え、さらに完璧な於芽弧像を築き上げたい。
「於芽弧脱腸」という不思議な言葉を教えてくれた男もいた。それは、あまりにはげしく営むと、腸を刺戟して、たれ下ってくるというのだ。「そういう女はな、まともに歩かれんさかい、こんな具合になる」、彼は、両手を前にのばし、左右にふりながら、ガニマタでひょこひょこ歩き、調子つけつつ、「於芽弧脱腸、於芽弧脱腸」と唄うようにつぶやく。ぼくはまた眼を皿の如くにして、そういう歩き方の女はいないかと注意したのだし、別の男は、「あれはお前、パクパクするもんなんやで」ともいった。
「パクパクいうてどんな風に」「こんなもんや」彼は、両掌を合わせ、指先きを開閉させ、「ここに珍宝が来るやろ、ほしたら、パクパクとこうのみこんでまうわけや」、指先きをあごでしめし、あたかも蛇が卵をのみこむ如き塩梅であるらしい。そして彼は、右腕を高くさし上げ、左手でその手首をにぎり、右掌を開閉させる、「まあ、こんなもんやいうてるな」、ぼくもならったが、はじめは強くにぎり過ぎてよくわからず、あれこれ工夫するうち、実に的確な感じで、それは右手が感じとったとも、左手にその感触が伝わったともわからぬ、まさに鐘と撞木《しゆもく》の合いが鳴るという風に、思いえがく於芽弧の実感がわかったのだ。
経験もしないのに、そんな確信の生れるはずはないのだが、一種の直感であろうか、あ、これやこれやと、実に納得できた。まあ、日に何度、やましいから人眼しのんで、この一人シェークハンドとでもいうべき、行為にふけり、そして自涜を行ったのだ。待望のものを、直接眼にしたのは、野良で立小便をする、六十年輩の女性のそれであった。西陽に背を向け、やや前かがみになった老姿の腰から、放物線をえがいて銀線が走り、ぼくは三米ほどはなれた麦藁の束の中に寝ころんでいたから、まずは、眼のあたりにしたわけで、それは、しごく赤っぽい亀裂であった。とても思いえがいていたやさしさはなく、内臓があらわになっているような、むき出しの醜さと、予想よりはるかに大きな面積をそれがしめていることにおどろいた。
ぼくは、その四、五年前にみた幼児、といっても三歳くらいのそれと、六十歳のいまみたものをつき合わせ、その中間の形を必死でくみ立てたのだが、情報によって得た、レンズ大やら、パクパク、開閉、脱腸の方がはるかに強烈であり、明らかなイメージが固定されない。それだけならよかったが、いやだと思ったくせに、日のたつにつれ、老婆の於芽弧の残像が、ますます鮮明となって、女性をみれば、赤っぽい亀裂が重なり合い、あれは一種のノイローゼだったのだろう。
ややたしかな形に接したのは、十六歳の暮に、友人の兄がうつしたヌードの、その部分だけを拡大したもので、ぼやけていたけれど、それは、あたかも唇をイーッとしている感じて、しばらくは、鏡にむかっては、「イーッ」と唇をつくり、わずかに舌を突き出してながめつつ、自涜にふけり、もし他人がこの姿をみたら妙なものだったろうと思う。
[#改ページ]
われ性的旧世代なり
「世界をつなげ花の輪に」という唄があり、そのパロディの一つに「世界をつなげカマの輪に」がある。つまり、アヌスとペニスでもって世界中の男がつながってしまったら、戦争も起きないだろうというのだが、ざっと考えて地球上に十六億の男性がいる。そのうち十二憶が、性的に現役であると仮定し、これが輪になるためには、どの程度の広さが必要であろうか。
男の躯の厚さを、まず三十糎とすれば三百六十億糎、つまり三億六千万米、すなわち三十六万粁であって、これを円周率で割れば、まあほぼ十万粁の直径の円になり、こんな大きな大陸はないから、全世界の男性が一度につながることは不可能なのだが、現在のような単細胞的セックスから解放されて、さらに全人的な性感覚を男が開発すれば、くだらぬトラブルも少くなるのではないだろうか。たとえは、ニクソン氏とコスイギン氏が、儀礼的握手だけではなく、互いに掘りつ掘られつするならば、いろいろな問題の話し合いも、よりスムーズに運ぶ、後藤ジプシー氏風にいえば、「掘り下げた」会談もできようというもの。
そして、今ではかなりホモについての偏見もなくなってきているし、こういうことがらについて、ミもフタもなくさらけ出す、小生も含めて物書きの数も少くないのに、「私はこうして掘られた」という体験談の皆無なのは、どういうわけか。「掘られてよかった」という人があらわれてよさそうなのに、ぼくはまだ読んだことがない。掘ることについてまでは、許容度があっても、掘られるとなると、やはり沽券《こけん》にかかわるといった感じが、ぼくたちの年齢には、抜きがたく骨がらみとなっているらしい。
近頃の若い連中の話をきいていると、実にこだわりなく掘られることについて、あたかも戦前の娘たちの、結婚した友人によってたかって初夜の具合をたずねた如く、とっても痛かったとか、まだよくわからないんだと、報告し合い、そしてアヌス感覚について、すでに十分のたのしみを心得ている者は、自信にみち、コツを伝授する。いわゆるオネエ言葉ではなく、ごく当り前の、その年齢にふさわしい口調だし、服装体格もかわりない、そして彼等は、ちゃんと女性を口説くこともするのだ。
彼等に較べると、ぼくなどは性的旧世代であることが実によくわかる。掘る方は経験があるけれど、られる側に立ったことがないから、一度ためしてみたいものと、心に思っていても、その度胸がない。噂によると、アヌスの感覚というものは、通常の営みでは信じ難いほどにまで昂まるらしく、男もまたよがり泣きをするし、枕カバーによだれの丸く大きなしみがつくのだそうだ。実にどうも考えただけで、身ぶるいが出るけれど、まさか、夜の新宿にたたずみ、「お兄さん、あそばない?」と呼びかけるわけにいかず、第一、こう中年も盛りにさしかかっては、なかなか掘っていただけないだろうと思う。
しかし、この世界は、しごく簡単にホモといい切っているが、複雑怪奇であるらしく、いわゆる女装し、女言葉のホモは、彼等が女性になりたいという願望があるにしろ、これと接する男性の大半は、まず女のまがいものとしてみているわけで、本当のホモではない。たとえばジャイアント馬場氏の如き、男らしい御姿をみて、これを犯したいと考えるならば、立派だけれども、犯すだけなら、まだ男性的立場にこだわっているだけで、犯されたいとも、思わなければならず、この時は受身ではあるが、またちがう撰択が行われるだろう。つまり丸山明宏氏のような美少年に掘られたいなどと考える。
しかも、男ばかりを相手にしていたのでは、ホモすなわち均一性に欠けるから、女性とも交わり、この場合も、犯すだけでなく、女性にわがアヌスを犯されなければならない。
ぼくが経験したホモ氏は、まずはじめにフェラチオを行い、その雄々しくなったところで、床にはいつくばり、いわば「へ」の字の如くしつらえて迎え入れ、その陽物はしごく巨大にして、仰角もあり、少々こちらが恥かしいくらいだった。そこまではよかったのだが、適当なところで、といってもこっちにはわからないのだが、彼はわが身をふりおとし、右手でこちらの珍宝しごき立てつつ、背後へまわり、立場をかえて、つまりわが身に突き立てようとした、まさにケツも身のうちであり、まして痔もちとしては仰天して、躯をよけたのだが、しつこいというより、もっとちがう印象で、彼はあきらめず、それまでよりさらに極端な女言葉を口にしつつ、「冷たくなさらないで、ねぇ、いい気持にしてあげるから」など、へばりついてくる。結局、喧嘩別れのようになったのだが、最後は、涙声となっていて、このあたりの変幻自在ぶりは、いまだに見当がつかないのだ。
このホモ氏とは、今から十年近く前に知り合って、毎日午後四時きっかりに、わがアパートヘあらわれ、それはゲイバアヘ出勤する道すがらに立ち寄り、食事や片づけものを、女房気取りでしてくれ、はじめおもしろがっていたのだが、あまり時間が正確なので気味がわるくなり、四時前後留守にしていたら、夜、酔払ってあらわれ、一儀に及んだもので、それ以後、姿をみせなかった。
旧世代としては、やはりホモに偏見があるのだが、たとえば、小生もいろいろ怖い目に遭っているけれど、本当に骨身にしみる思いをしたのは、ついふざけがすぎて、ゲイボーイ三人に取りかこまれ、「なにいってんのよ、あんまりなめたこというと、強姦しちゃうわよ」とすごまれた時だ。オネエ言葉の啖呵《たんか》も怖ろしかったが、ゲイボーイに強姦されるという、なにやら悪夢の如き情景が脳裡をよぎって、膝がガクガクし、ただもうやみくもにあやまったのだが、この時の強姦というのは、何を意味するのだろうか。こっちを掘るというのか、それともよってたかってわが身をもてあそび、いわば強チンしようというのか、とにかく、しばらくはゲイボーイの姿をみると、いやな気がした。
もっとも、これはぼくだけではなくて、チンピラなどが、因縁をつける時、相手が実は唐手何段という猛者であっても、喧嘩となれば別で、そう怖くはないが、ちゃんと男の姿をしているのに、やりとりするうち、だんだんオネエ言葉になってきて、「なによ、馬鹿にしないでよ」などとやられると、うんざりした気持が起って、適当に切り上げるという。
喧嘩に自信のないむきは、応用してみてはどうか、もっとも新世代の連中には通用しないし、おもしろいってんで、それこそ強姦されちまうかもしれないが。
[#改ページ]
その造作や絶妙
物理的機能の面で、機械はどこまで人間のかわりを果たし得るか、つまりロボット工学というような分野は、また一面人間の躯のしくみの精密玄妙な具合を、証明する学問でもあるそうな。そして、この学問は進めば進むほど、造化の神の配慮の深さに、研究者ただうんざりするばかりという。
まったくの受け売りなのだが、口の上に鼻があるのは、鼻によって腐敗の匂いを嗅ぎわけるためだし、寝る時に耳が閉じれば、便利に思えるけれど、閉じないからこそ、あやしい物音にガバとはね起きて、敵を迎えうつことができる。では於芽弧と珍宝の位置はどうなのであろうか、これが指の先きとか、頭のてっぺんについていれば、具合わるいのかしら。しかし、頭をひねるまでもなく、於芽弧が躯の表と裏の間にあるからこそ、さまざまな態位をたのしめるのであって、もし乳房の中ほどに、縦横いずれにしろ、ぱっくり開いていたならば、男は、まず石臼みたいなもので、せいぜいがくるくるまわって、変化を味わうだけであるし、頭のてっぺんにあった場合は、こりゃもう一つの形しかとれやしない。また、肛門とそれが、逆になっていたらどうであろう、たいして関係ないけれど、ヌード写真の修整に手間がかかるし、痔持ちの女性は困るだろう、ペッティングするったって、痔核とクリトリスの区別がつかない。
男の場合もほぼ同じで、指と同じく手の先きに生えていたりしたら、セックスの際躯は楽にちがいないが、日常の行動においてしごく不便で、ボクシングなどできやしない。背中でも困るし、眼と眼の間にあったらエレクトした時眼の前がまっくらになる。現在の状態以外のレイアウトはまず考えられない。
位置は仕方ないとして、では、その形態機能についてはどうであろうか。女性の於芽弧は一つの穴であって、それならば、意志によって、閉じたり開いたりできるように、たとえば口くらいの自律性があれば、まず、強姦など不可能になる。あるいは猫の爪のように、出し入れ自由な歯の如きものがあっても、同じことで、こういった自然の貞操帯がそなわっていないのは、しかし、決して神さまが忘れたのではなく、女性というものが、精神的に本来男性を拒否し得ないしくみだからであろう。
色だけは、もう少しきれいな配色にすればいいと思う。なぜ暗褐色やら暗紫色と、ダークトーンでまとめられているのかよくわからない。せめて男性の亀頭ほどに、あざやかなピンクに色どられていれば、たのしいのに、これだけは、手おちと思えるのだが、まあ考えれば、みるよりもしろという思召しなのかも知れない。そして、よくいわれるタコの巾着のというような能力が、万人にそなわっていないのはどういうわけだろうか。あるいはこれは、潜在的にはあるのに、ただもうあるがままの於芽弧に満足して、努力を怠っている女性にその責任があるのかも知れず、あるいはまた、男性はただ放つだけが役目で、そんなにたのしんではいけないのか。
珍宝の形態についてみれば、まずこんなによくできたものはない。先端が紡錘形だからよろしいので、あれがかりに、切り立っていたりしたら、やりにくいし、また亀頭の部分がもっとも太いのも、よく考えられている。視本に至るに従い太いのであれば、楔うちこんでるみたいで、味気ないし、一本の筒なら、変化にとぼしく、また少々湾曲しているあたりも、態位工夫する上で有利なのだ。
ダビンチや源内の如き天才をもってしても、珍宝の今の形以外に、あらまほしき姿はひねり出せないと思う。ましてや、あの伸縮自在を考える時、神様というのも、かなり自分の身にひき較べてよく考えたもので、巨大なるままでは、行動に不便だから、巨根の持主はすべてその不利さゆえに、殺されてしまったろうし、睾丸との位置関係もよろしい。逆だったら、男は抱擁のたびに悶絶しなければならず、といって、あれが体内にあったら、熱に弱い精子の都合は別にしても、ずい分たよりないであろう。
もっとも、珍宝は、ふだんちぢまっているのだから、いっそ体内に格納しておいた方が、さらにいいかもしれない。ナチスの要塞砲みたいに、ことに応じするするとあらわれるなど、いさましくていいけれど、これだと、睾丸を守る楯がなくなるわけで、満員電車では、年中悲鳴あげなければならぬ。ただし、女性からみると、男性に対していろいろ注文はあるらしく、いっそ睾丸も一緒にたのしめればいいのにといった人もいる。そして、そのようになさろうとしたのだが、いろいろ男女お互いの躯について、理解の足りない点はあるが、この、睾丸を他人につかまれた時の男の不安感、それに、打撃加えられた際の痛みくらい、女性にとってわからないものはないらしい。かりに睾丸を門口に置くのはかわいそうだからと、無理したとして、先様が巾着だったりしたら、こりゃ考えただけで、下っ腹がおかしくなる。
珍宝の理想的なサイズ、及び持続時間はどれくらいがよろしいかと、小生たずねたことがあって、ある人妻においては、腕くらいの大きさで、一晩中と答えた。赤ん坊の頭が出てくるのだから、腕くらい欲しい気持は、わからないでもないけれど、この不満は、やはり神様の手おちによるものなのか、あるいは女が貪欲なのか。
もし腕くらいが当たり前として、いろいろ考えてみると、男というものはなにも欲望と結びつかなくったってエレクトするものなのだ。このエレクトの秘密についても、女性は理解がなく、大きくなれば、すなわちそのつもりとなっているしるしで、不能なら、愛してないてなことをいうけれど、あんなものは、風が吹いたって、雄々しくなることもありゃ、あまりに興奮し過ぎると、仮死状態のまま取残されてしまうのだ。とにかく、若いうちはところかまわず巨大となり、そのつど腕の如きものがぶら下ったのでは、これも困る。せいぜいズボンのふくらみが目立つ、今の状態でよろしいのであり、一晩中もって欲しいなんてのは、あまりないい草、そんなことをすれば、昼間働けなくなってしまう、あるいは日本の高度成長支えているのは、早漏の夫かも知れないのだ。
於芽弧の配色をのぞいて、お互いさま、よくできているものだと思う。そして、どのようにコンピュータ支配とやら、情報社会とやらの時代になっても、この二つだけは厳然として人間を主張するにちがいなく、あらゆる動物的機能が低下したって、これだけは残るだろう。何千年かすれば、人間は手も脚も内臓もすべて退化して、珍宝と於芽弧に眼鼻だけくっついたような形になるのではないか。男性の場合は、すぐ想像できるけど、女はそうなると、どんな姿やろうか。
[#改ページ]
てれふぉん・せっくす
ぼくのような男のもとへも、なまじTVなどに時おり顔を出しているせいか、身の上相談の手紙や、電話をよくいただくことがあって、その大部分は性に関係がある。
手紙を大別すると三つに分かれていて、一つは十五、六歳くらいの女性、いずれも東京からはるかはなれた地方の住人で、たいへん具体的に性的欲求不満を訴えなさる。それはたとえば、発毛の塩梅がよろしくないがいかがすべきかといった、医学的相談の形をとっていたり、また、性的な夢をしばしばみるけれど、自分はよほど罪深い存在なのではないかと悩むものや、さらにはっきり、誰にでもいいから犯されたいなど、あけすけなものであって、ぼくは子供の頃、姉妹がいなかったし、思春期にさしかかった女性の、生理や心理にうといから、はじめはいちいちびっくりしていた。|ヘヤー《ヽヽヽ》やら、またそのあたりの見取図まで送られてくるのだから。
しかし考えると、彼女たちは、自らの内に生れた、性的感情をどう制御していいのかわからず、また、きわめてひっこみ思案だからボーイフレンドも少いのであろう、思いくっしたあげく、はるか遠い東京に住む、ちょいと助平そうな中年男に、べつだん返事はいらない、ただ文章に整理することで、少しは気が楽になるのではないかと、よしなしごとつづったのであろう。こういう手紙に返事を書くと、以後は絶対にこなくなる。遠くにいて、自分と関係ない存在だからいいので、反応があっては、怖ろしいのだ。多分、彼女たちは、ぼくが以前、性的妄想の昂まるにつれて、つい春本を書き、読みかえしてさらに身悶えし、自涜した如く、こういううわべ医学相談の形をかりて、しごく猥雑な字をつらね、それである納得をするのか、また指使いにまで至られるのか知らないが、こっちは、まあいい面の皮。
二つ目は、人妻の人生相談で、三番目は小生とほぼ同じ年齢の方の、戦時中のあれこれ語りつつ、自分の子供とどうつき合っていけばよいか、まあ愚痴のようなもの。敗戦時に二十歳だった女性は、現在大学生の母親となっているので、この年齢の方も、ずいぶん星のわるい生れのように思える。
手紙はまだいいのだが、電話となるとさらになまなましくなって、これは圧倒的に人妻が多い。「私が、いまどういう姿で、お電話しているか、おわかりになって?」など、のっけにいわれる。わかるわけもないが、こんな台辞をきけば、またその声の調子から判断して、つい「きっと裸なんでしょう」など、答えてみる。
べつにいつも、こうサービスがいいわけではなく、原稿のしめ切はせまるし、何を書いていいやらわからず、怖ろしく心さびしくなっていると、地獄で仏にみえる時があるのだ。「ズバリ当たっちゃったぁ、そうなのよ、いまお風呂からあがってね、生れたまんまのなりで、ストーブにあたっているの」うきうきした声でテキはつづけ、なんとなくなまぐさい感じとなり、「私ねぇ、肥ってるのよ、ううん、半年前まではすらっとしていたんだけど」からはじまって、肥った理由、現在の性的情況につき、しごくことこまやかな報告をなさる。
いかになんでもつき合いきれず切ると、テキは味をしめたか、以後、深夜に必ず電話を寄こして、時には酔っていたり、またのっけから、あやし気な溜息が洩れて、何もいわず、ぼくが、今は忙しいし、当分旅行にでるから、電話はかけないでくれと、もたもたおねがいするのに、返事がなく、溜息はうめきとかわり、気味がわるいから切れば、またすぐかかって、「おねがい、一分間だけお話して下さい、おねがい」息も絶え絶えの様子、あまり深刻だから、声もなく耳をすますと、どうやら指使いにふけってらっしゃるようで、仰天したのだが、「ねえ、あなたの声をあすこにきかせてやって、ねえ、おねがい」といわれ、これはどういうことか、於芽弧に受話器をこすりつけるのか、自分のもっている電話をあらためてながめ、そういえば、やや大ぶりだが張形にみえぬでもない。
電電公社も、こんな利用法は御存知あるまいと考えつつ、ただ呆然としていたのだが、こういうのを「てれふぉん・せっくす」というのでありましょうか、他人の家で、特に欲求不満の奥様のいらっしゃるところの、電話はうかつに借りられませぬ。「お友だちになってくれない?」というさそいもあって、「あなたどういう方ですか」たずねると、「一介のサラリーマンの妻ですけど」と、しごく切口上にいい、一介のなど古めかしい言葉を使うところが不思議だし、また「社会見学させていただきたいの、おもしろい場所、御存知でしょ」というのもよくある。なんでまた小生がガイド役押しつけられるのかと、いったいおもしろいとは何をいうのか、根掘り葉掘りたずねれば、みな温泉マークなのであって、これを社会見学と飾るところに、見栄があるのだろう。
電話の声は、大体においてきれいだし、時に早口で、何をいってるのかよくわからないのもまじる。雑誌社の名を使うのもいれば、自分で文章を書いているというのもいらして、電話口で読み上げてくれたりする、たいていしごくあけすけなもので、「はめる」とか「男根」とか「私の仔猫」とか、なんともなまなましい、こういった電話を受け取るのは、何もぼくだけではなく、たまには女房が出るし、すると無言のまま切ってしまい、よくいわれることだが、電話の最大の欠点は、こういういじわるができる点だろう。一夜に二度三度となれば、女房もいらいらする、また、ぼくが出ても、そういつも丁重に受け答えできないから、耳に覚えの声がひびいたとたん、ガチャリとこっちで切る、出るとガチャをやられて、しごく腹が立つだろうに、しかし先方はけろっとしていて二、三日後にまたかけてきて、「奥さま、そんなに怖い? ウフフ」などおっしゃる。
こっちが浮気して、その当の女性からいじわるされるなら自業自得とあきらめるけれど、「てれふぉん・せっくす」の、この場合小生は強姦されてるみたいなもの、なにがウフフだと腹が立ち、逆探知できないかと、真剣に考えるのだが、探知したってどうにもなりはしない。まあ、わがなりわいの副産物とあきらめているのだが、しばらくは、電話をみるたび、それを使って悶えなさる御姿がうかんで、かなりうんざりした心境であった。
そして、たとえば、受話器をあてがい、声をひびかせると、それだけで、感じるものなのかしら、あるいは逆に、女性が送話器の部分を同じくしたとすると、於芽弧のなにやらブツブツとぼやく声音がきこえるのであろうか、それはちょいときいてみたいような気もする。
[#改ページ]
性 症 流 転
電話をかけてくるのは、自身はっきり性的欲求不満を意識し、それを解消しようと、目的あってのことなのだろうけど、この欲求不満に気づいてないで、おかしくなっている女性が、時おり、わが家におこし下さる。ノイローゼというのは、自分の症状に気がついている場合をさすのだそうだが、この方たちは明らかに、自分たちはまともだと思いこみ、つまりマニアに属するといっていい。
しかし、彼女たち適当な恋人、あるいはボーイフレンドができれば、たちまちまともになってしまうのだから、まあエロトマニヤと称するのは酷で、性的ノイローゼが適当だろう。彼女たちは、たいてい男女別学の学校で教育を受け、また、男の兄弟がなくて、女ばかりの家庭に多いように思える、つまり、これだけ性的刺戟にみちみちている世の中で、まったく男性と言葉を交す機会が与えられていないのだ。
そして、いらいらしつつも、彼女たちは性的好奇心抱くことに罪悪感をもっている、となるとどうなるか、彼女たちは一人であらわれず、たいてい二人で、実にすさまじい性意識調査などを口実に、男性である小生に接近なさる。こちらとしては光栄の至りだが、別によろこぶことはない、ああいう助平なことを書いている男なら、協力するだろうと甘くみられているのであって、たとえば、調査項目には、「肛門性愛について、どう思うか」、「経験の有無」、「オナニー初体験の年齢」などと、いかにも女性週刊誌からひきうつしたような設問があって、これを怖ろしく真面目にたずねる。花も恥じらうセーラー服の女学生に、コーモンセーアイなんていわれると、かなりショックを受けるもので、そして彼女たちは、決して自分の学校姓名調査目的をあきらかにしない。
小生は一度、インタビューでも調査でも、なるべく協力はしますが、身分と目的をいってくれなければ困る、と丁重にいったところ、鼻でせせら笑われ、「後でへんなことになると困りますから」といわれた。また、別の時には、こっちが忙しいので、その非礼であるゆえんについて、怒鳴りつけたら、押花を入れた手紙がとどいて、冒頭に「あなた(と呼んでよろしいでしょう?)に、あのようにはっきりいわれて、たいへんなショックを受けました。でも、怒鳴ってるあなたって素敵!! あらためて御尊敬申しあげますわ」とあり、感歎符がやたらとくっついてる手紙など気色わるいものだが、これだけでなくて、すぐ追いかけて、相棒がまた手紙を寄こし、「私の友達が、あなたに手紙をさし上げたそうです、でも本気になさらないで下さい、彼女は少々興奮状態で書いたのですから!」ぼくは呆然として、これはどうなっとるのか、首をひねったが、宮原昭夫氏「石のニンフ達」を読めば、この程度は大したことでないらしい。
つづいて、わが小説の読者と称して面会を求める二十歳前後の方がいらして、こっちは欣喜雀躍《きんきじやくやく》ほいほいとお通しし、拙著にサインなどしてプレゼントするつもりが、これまた面妖な具合なのであって、「尾崎紅葉にしようか、あなたにしようか迷ったのですけど、やっぱり生きてらっしゃる方のほうがしらべ易いから、あなたを夏休みのレポートのテーマにします」。紅葉山人とならべられるなど、恐懼《きようく》のかぎりだが、生きてる方がなどといわれると、生簀《いけす》に飼われてる魚のような気分となる。
そしてやおら、帳面を取出し、「執筆時間は」、「月に何枚」、「そんなに書いて粗雑になると思わないか」、「何故結婚したのか」刑事のようにつぎつぎ質問なさり、読者とおっしゃって下さる以上、おろそかにはできない、最後におそるおそる、小生の小説のどれをお読みになったのかとうかがえば、「これから読みますから、著作リストを教えて下さい」またペンをかまえられ、それだけならいいのだが、「三十分でいいから、創作風景をみたい」という。映画の撮影風景じゃあるまいし、みたってどういうこともありませんよと断っても、「明日の午後二時から三時、あるいは来週金曜の四時から六時の間がつごういいんです」「その時間には、創作しておりません」と答えると、実に心外そうな声で、「どうしてですか、何故なさらないんですか?」私がみてやる以上、親の死目にあわなくても、創作にいそしむべきではないかという調子なのだ。大体これは女子大生に多い。
三番目が、小説を書きたいとおっしゃる方で、二十四、五の年齢の方、「はじめはTVの台本書いていたのですけど、どうもディレクターがセンスなくて、(ここで実に陰険にニタリと笑い)まあ詩もいくつかつくったんですけど、日本では詩はお金になりませんし、(ここで日本の現状を憂う如く眉をひそめ)やっぱりそういう点では小説でございますからねぇ」だから、四百枚ばかり書いたとおっしゃる。みせてくれというと、たいてい字が汚ないから清書してからと、決して読ましては下さらず、急に姿勢を正して、あなたの創作にあたって、もっとも心がけることはなんでございましょう、心理描写ですか、それとも全体のコンポジションでしょうか、こっちは、ええとかまあとかしか答えようがなく、最後に近く百枚ほど書くから、必ず読んでくれるかと、しつこく念を押し、「某先生は読んで下さらないんですよ、私、わかるように、ところどころ原稿用紙に糊をつけておきましたの、ちっともはがれていないんですもの」とおどかしてひきあげる。
以上のタイプは、すなわち性的ノイローゼのあらわれではないか、言語動作にも特徴がある。
まず、きわめて押しつけがましく、自分の勝手ばかりいい立て、こっちがだまっていても、平気で三十分くらい坐っている。
また、手荷物が多い。大型のハンドバッグ、他にスーパーマーケット特大の袋をもっていて、そのまま無人島へ流れついたっていいくらいに、たとえば目覚し時計、毛糸のショール、ビスケット、パンティ、トランジスタラジオ、カメラ、オペラグラス、ナイフ、万年筆、ボールペン、本ならば、十冊くらい所持している。
それに声が細いことと、字がこまかいこと、消えも入りなん風情で、くどくどと質問し、手紙をいただけば、虫眼鏡で読みたくなる字であり、そして、「あなた」とか、「してますか」という風な切口上でしゃべる、また前にもいったが、自己防衛本能が強いのか、身分姓名はあきらかにしない。とはいえ、小生に関心をいだいて下さる方なのだ、決して徒おろそかには思っておりませんがね。
[#改ページ]
猥褻不感症に悩む
猥褻なものを、ぼくはしきりに求めている、あるようでないのがこのしろものであって、たとえば春画というような、きまりきった様式におさまった図柄をみても、いっこう猥褻感を受けないし、ブルーテープも、まず滑稽感が先きに立つ。商売柄、よく旅行をして、駅の便所には、いっこうもよおさずとも必ず入り、落書をながめることにしているが、これとても近頃は傑作が少い。
ぼくのもっとも強烈な印象与えられた落書は、中学一年の夏、神戸上筒井の公園にあった便所に、しるされたもの。足のふみ場もないほどに汚れて、すさまじい臭いを放つ小部屋の壁に、極彩色の秘戯図があり、学校の帰途必ず寄り道し、ながめたものだが、以後、古着の行商やら、知人たよっての放浪のつど、駅の便所、公衆便所をずい分しらべて、どうも、ここにおける猥褻度は、低下するばかりのように思える。特に都会では、水洗の普及と、落書のレベルダウンが比例しているようで、まことにつまらないのだが、こんな風にことさら猥褻物を必死に探し求めるようになったのは、この三、四年であって、よく胸に手を当てて考えると、小生、もはや女には興味がないのではないかとさえ思う。
春本、ブルーフィルムもくさるほど眼にしたし、かなりの稀覯本《きこうぼん》も、またいかがわしい物件も知っている。この中には、やくざが公園で密会するアベックをカメラで写し、それだけならまだしも、中に知名人がいて後で脅迫し、あわれやな自殺をはかったためばれて、警察にあげられ、その押収フィルムが、まわりまわって手もとにまいこみ、その迫真の姿、それは当然なのだけれど、すさまじいもので、まずふつうのエロ写真の比ではないが、こういうのをみても、いっこうおもしろくない。某病院の無影燈で撮影した処女膜の写真三十葉ほど所持していたこともあれば、処女を犯すフィルムをみたことがあるし、北海道のレストランで、便所に八ミリをしかけ、そこにおけるさまざまな姿態のフィルムも観賞した。温泉マークで、例の盗聴マイクを使い、つぶさに声音をきかせてもらったこともあれば、大阪のホテルでは、一日に六組の密会をのぞいたことがある。
なにをみてもきいてもつまらなくなってしまったので、これは猥褻中毒なのかとも思う、いや中毒ならば、こういった手のものを、あきることなくみつづけ手もとに置くはずで、猥褻不感症といった方がいいのかも知れぬ。今でも月に一度その道の人物があらわれて、珍奇な品物を開陳してくれるのだが、まったく何の興味もいだけなくなってしまった。
これは考えると空怖ろしいことで、ひょっとすると、ぼくはヘンタイになりつつあるのではあるまいか、ヘンタイに対する偏見はそうないつもりだけれど、やがて、夜な夜な、女性の下着の干されているのを求めて、徘徊《はいかい》しはじめたり、糞尿愛好症とやらになって、旧式公衆便所の溜めに身をひそめたり、あるいはまた、女装して中年男に犯されることをのぞみ、拍車のついた長靴にふみにじられ、ヒーッとうれし泣きするのではあるまいか。
いささか梶山季之氏の小説の読み過ぎかも知れないけれど、ふつうの男性なら、そして、ほんの少し前までは、小生も心はずませて手にとり、耳にしたはずの猥褻物を身近かにして、なにより面倒臭さが先きに立つのだ。実際にぼくのテーブルの上には、ある有名な女優さんと、その愛人の睦言を収録したテープと、志摩半島のホテルで録音したという、処女を犯すやくざの声音がある。そして、テープレコーダーもそろっていながら、きく気になれないし、近着、北欧のエロ写真が封筒に入っているのだが、封を切る気になれないのだ。
べつだん、インポテンツではないのだが、こう猥褻物について関心が薄れるのは、やはり危険なしるしだろう、なんとか、胸躍らせる猥褻に触れたいと、現在、考えているのは、今を盛りの劇画家先生たちに、春画をかいてもらったらどうか。水木しげる、石森章太郎、さいとう・たかを、つげ義春、楳図かずを、佐藤まさあき、小島剛夕、モンキーパンチ、これらの天才諸氏に、男女からみ合うの図をえがいてもらって、これを紙芝居に仕立てたらどうかと妄想している。
そして、その解説には、西村小楽天師、貞鳳丈などいかがであろうか。考えてみると、ずい分種類があるようでいて、猥褻のジャンルは、数が少い。さらに壮大な、オーケストラを使って、男女交合の音響を表現するとか、またシネラマでこれをえがくとか、逆に、しごく不健全なセックスでもいい、蛆虫《うじむし》にまみれ幽鬼とまごう男女の、鬼火たよりに抱きあう姿、なんとかわが猥褻の情をかき立ててはくれないものか。
そして、つらつら思うのだけれど、例のストリップにしたって、特出し、オープンから今ではウテルスまでをあらわにするといい、それをみてきた男は、ひどく興奮してしゃべり立てたりするが、本当にふるい立っているのかしら。春画にしろエロテープにしろ、その存在をきくと、男ども色めき立つけれど、あれは、いわば浮世の義理、ここでそういったふりをしないと、沽券《こけん》にかかわると怯えて、躍起になるのではないか。それが証拠に、たまにあそびに見えた誰かれに、到来の珍物供しても、たしかに「ほーう、是非おねがいします」と口にはいえども、いっこう迫力がないのだ。猥褻不感症には、ずい分の人が悩んでいるように思える。
現代の男性の女房子もちにとって、猥褻とはなんであるか、再検討の要があるように思える。もはや、浮世絵にしろ、北欧渡りの極彩色男女秘戯図、アベックののぞきや、内臓オープンのヌード、こういったものは古めかし過ぎて何の感激をも与えないのではないか。猥褻なんてものは、本来、なれてしまえばそれでおしまいの、くだらないことかも知れないけれど、今のような時代にあっては、常にあたらしい猥褻こそ、なによりの暇つぶしであり、人間回復の手段であろう。このまま、どんどん猥褻不感症が深刻になったら、小生など、浮世ばなれのした名僧知識になってしまうかも知れず、痴漢も困るが坊主もやり切れない。
猥褻同盟でも結成して、より新鮮な、その刺戟を開発したい気持があるし、これだけはコンピューターに不可能な業ではないか。以前、デパートで入手不能であった女学生のセーラー服を読者の御好意により、なんと夏冬それぞれ十六着そろえ、金三千円のダッチワイフ六体求めて、これに着せかけ、六畳の部屋に寝かせてその上をとびはね、ちょいとした「パノラマ島綺談」を気取ってみたが、どうということはなかった。
なにかすばらしい猥褻物はないものでしょうか。
[#改ページ]
手すさび礼讃
第一話で、女房に、自らの手すさびの現場みられた亭主の、その苦悩について書いたが、逆の場合もあって当然であろう。煩悩《ぼんのう》のほむらは、女盛りにして孤閨《こけい》をよぎなくされる人妻の方が、はるかにしれつに燃えさかるはずである。
これは、あるTVディレクターの体験談なのだが、夜更けてもどり寝室へ入ると、しごくただならぬ息づかいがきこえて、それは耳なれたものだったが、なにしろ妻は一人で横たわっているのだし、密事《みそかごと》のわけもない。ふと、病気かと思い、だがくらがりになれた眼では、あやしくうごめく布団のぐあいに、すぐそれとわかり、とたんに身うごきできなくなったそうな。
自分がここにいるとわかったら、恥かしさに狂わんばかりとなるだろう、そして、すぐそれをごま化すために、ちっともかまってくれないからだと、攻撃してくるだろう。いかがするべきか、立ちつくしつつ、はじめてみる妻物狂いのさまをながめ、そのうち、しごくかわいく思えてきたそうな。それは、情欲にもだえる不満妻とか、自涜にふける人妻といったみだらな印象ではなく、ひたむきな、いっそいとしいものであって、彼はいったん部屋を忍び出た後、そしらぬ顔でもう一度入り直し、すでにセルフサービス十分の妻を愛撫したのだという。彼は心やさしいから、いとしく思ったのだろうし、またその女房は二十七、八だが、いまだに女学生の如く若々しくて、そのせいもあるでしょうな。四十二、三の女房が、ガマ蛙の臨終よろしくのたうっていたのでは、ちょいと印象がことなる。
他人にあてがきをみられる、その種々相を考えてみると、まず、年少の頃母にみられる。これは大したことではなくて、決して母は叱らないそうだし、頭で考えると、息子たるもの窮地におち入った感じだが、お互になかったことにいわず語らずとなるそうな。また、父親の場合だと、かえって父の方が当惑して、以後、やさしく扱うという、その息子のデチ棒が巨大であって、劣等感をいだいたのかもしれない。
話はまるでかわるけれど、団地の女房族は、二つ三つの男の子の珍保古を、互いにみせあって、誰それの坊ちゃんは大きいの、小さいのと、品定めするのだそうだ。「二階のPさんちの子供、大きいのよ、どうなっちゃうのかしら、今からあんなで」と亭主に報告して、亭主はただ返答に困るだけ。そりゃそうだろう、こんなのにいちいち、「あれは膨脹系数が問題なので、ふだんの大きさは関係ない」と、得意の論法ふるうわけにいかず、また、はしたないとたしなめるのも、大人気ない。しかし、一種の不愉快にはちがいなかろう。そして女房の中には、他の子供に負けるのがいやで、のばしたりひねったり、天才教育に励むのもいるという。
弟が、自慰の現場を姉にみられ、逆上して、とびかかり、姉は、一種の弟に対する愛情を口実に、実は自分もそそられて、道ならぬ道をふみ分けてしまうことがある。近親相姦のうちでは、姉弟の関係がいちばん多くて、兄妹が逆に少いのだが、兄の自慰をみる妹というのはしごくざらにあって、女学校のクラスでいえば常に二、三人はいる、そして、「すっごいの、天井までとんで、ピシャッて音がしたわ」など、針小棒大に報告するし、兄は妹の成熟するにつれて、おもはゆく眼をそむけてしまうけれど、妹は、いちばん手近かにある異性が兄であるから、鵜の目鷹の目で観察しているのだ、ローティーンの妹をもった兄は注意しなければならぬ。
姉のあてがきをながめた弟は、しごく女嫌いになり、妹のそれをかいまみた兄も、かなり厭世的になるという。ぼくは一人っ子だったので、こういったチャンスがなく、実に残念なのだが、一度、七、八歳の少女が、運動場のとび箱にうつぶせになって、しきりに腰をうごめかせ、頬を、それこそまっかに染めて、夢うつつとなっている姿をみたことがあって、これはなにやらおぞましいばかりだったし、精神薄弱青年の堂々たるあてがきも拝見した。妙に陰険な目つきで、人の顔をにらみつけながら、手早く動作し、うっかりながめ入っていると、顔に命中しそうな怖れを感じた。
ぼくの友人で今まことに悩んでいる男がいるのだが、それは、とって五歳になる娘に、あてがきの現場をみられてしまったのであって、まったく気づかず、放ち終えてそこかしことびちった白濁の液体を、ティッシュペーパーでふき取りつつ、ひょいとふりむくと娘が、深刻な顔でいる。あわててあやしにかかると、娘は急に泣き出し、弁解もならず、懸命に気をそらせるようにご機嫌とって、まさか母親にいいつけはしないだろうが、しばらく不安であり、しかも、彼女が父親の奇妙な行動を忘れていないことは、時にじっと、あの時と同じ表情で父をみつめることがあり、「今はええけどな、そのうち男のせんずりについて知るやろ、そうかうちの父ちゃん、あれやってたんかと、気いついた時、俺は軽蔑されるやろな」と頭をかかえ、かと思えば、せんずりというショッキングな行為を眼にして、あたかも「昼顔」の主人公のように、性意識がゆがみはしなかったかと、思い悩むのである。
息子が父のその現場をみれば、同志愛を感じるのだろうか、また、娘が母のあてがきをみればどうなるのだろうか。この場合はいずれも、子供がやさしいいたわりの心を起こして、かえって親子のきずなを深めるのではあるまいか。親子の断絶がいわれている時に、あるいは、お互いにうちながめながら、このことにふければ、ずい分うちとけるように思う、「君ね、左手をあそばせていちゃいけないよ、左はこのようにして軽く触れさせつつ円をえがく」とか、「パパは古いなあ、うちの学校で今はやってるのは、逆手斬りって奴だよ」。これなら、古いの、ついていけないのということはないだろう、母と娘の場合は、ちょっと、どんな会話になるか見当もつかないが。
学校でも、会社でも、いっそおめず臆せず、教授と学生、経営者と労働者、あいさつがわりに、せんずりを行えば、すくなくとも人間の雄であるという基本的な連帯感が生れるのではあるまいか。国際会議においても、ライオンズクラブや、さらに誰それを励ます会とか、還暦のお祝いに、みんなそろってしごき立てるなど、実にめでたいわけで、糖尿友の会など、病気のよくなった者が、これこの通りと、宙に向けうち放し、ベトナム休戦には彼我オナニー交歓を行う、考えてみるとこれこそ、世界を平和にみちびく最良の手段かも知れない。もっともそうなると、オナニー公害が出るかも知れぬ。都市近くの海は白濁して、一ccあたり十万匹の精虫がいるなどと。しかし大腸菌よりゃいいだろう。
[#改ページ]
処女鑑定士登場
近頃、巷《ちまた》においては、しごく処女の価値が下落しているらしい、いわく、処女などはつまらない、処女を尊重するなど、古めかしいという考え方である。処女を犯すことは、その女の未来についてある程度、責任負わねばならぬ故うっとうしい、処女をありがたがるのは、自らの性的能力に自信がないからであるなど、さまざまにいわれる。そして、三十過ぎて処女など気持がわるいと、女性自身も口になさるし、どういうわけか、処女を重荷に感じる乙女もふえているそうな。
しかし、時代がかわったからといって、そう男女の間に変化のあるわけもなく、別に処女崇拝は、封建主義のあらわれでもないだろう。男にとって「ていらず」を求める気持というのは牢固として存在し、これをいやしめるのは、とどかぬブドウの実は酸っぱいときめつけた狐の如きもので、また、開発されつくした女体をのみ求める気持は、つまり物臭《ものぐさ》なのだろうし、後がめんど臭いと逃げるのは卑怯のあらわれといえる。そして、この処女非処女鑑定について、なにやかや、まさに十年一日の如く、いわれつづけ、また女性もこれに答えて、処女のまねびをなさったり、医者の手わずらわせ、結んだり閉じたりして、男性の要望にこたえている。したり気な医者は、処女であるかどうかなど、絶対にわからないというけれど、これは非処女を安心させる、一種の知恵と思うが、事実はまずわかるものであって、処女が非処女を装うよりも、非処女が処女を真似る方が、はるかに易しいことはわかるけれど、どことなくおかしい点が残るものだ。
たとえば、破瓜に際しての疼痛《とうつう》なんてものは、男性が逆立ちしてもわからないことだけど、あれは、ものの本にあるように、はっきりとその痛みを訴えることはなくて、たいていは、あやまって雨戸に指をはさんだような、しごく色気のないヴォーカルを発しなさる。また、出血についても、どのみち、こちらと思えば、またあちらという風に移動しがちなものだから、鮮血淋漓とはまいらなくて、なにやら枯淡な一筆描きの如きパターンをしめすことが多いのだ。
あまりオーバーに痛いと発声する場合や、雨上りの水溜り風に赤い色の残存するのは、かなりうたがわしいと考えてよろしい。この点については、以前から、さまざまに研究がされていて、江戸時代、京都に住んでいた老婆は、処女鑑定の大家として、巨万の富を得たそうで、それは、女性を、きれいにならした灰の上にしゃがませ、カンゼヨリをもって、その鼻孔を刺戟する。当然、くしゃみが出るわけだが、この時に、灰が乱れると、非処女のしるし、つまり、底が抜けているとみるのだ。
ずい分いんちきな方法のようだけれど、「好色知恵海」という奇書の中で、この方法の正しいことを説明してあって、
「按《あん》ずるにはなはだ理なり、女開のおくにうす紙のようなる隔あり、これ玉茎にて破れる也。指にては破れず、此故に一度にても男の肌知りたる女は灰たつなり、其証拠はまだあり、交合して精気もれてのち、玉茎を抜かず開の中に置く、なへたる時、女をこそぐりて笑はすれば、開玉茎を吹き出すなり、是れ上の息遣開にかよう理一也、ためしてしるべし」
という。
開の中には、逆巾着と称するのがあって、これはとば口ではなく、奥の方が閉じ、そのため珍宝が押し出されてしまい、まことに妊娠しにくいというけれど、果たしてふつうの場合も、笑わせると「吹き出す」ものであろうか。小生、時にためしてみようと考えるのだけれど、果てて後は、もはやこそぐる元気もなくて、ついぞためしたことがない、どなたか実験してみてはいかが。
この他に、処女鑑定のあれこれは昔からいくらもあって、鼻の頭に触れてみて、二つに分かれていればどうとか、「腰つき平たくなりたる」はなんだとか、ホルモンの関係で喉首が太くなるやら、肌の色艶が赤みを増すとやら、意外にはっきりめききするのは、風呂屋の番台に坐る婆さんであって、かなりたしかに鑑定を下し、それは数多の女体をながめて来た経験、娘から人妻にかわるそのありさまをみるうち、自然と、その微妙なうつろいを、探り当てるようになったのだろう。その話によると、しまりがなくなるのだそうで、どこといって指摘できないが、全体によくいえばふくよかな感じにかわるという。
ぼく自身は、処女にかぎらす、女性が好きなのだけれど、近頃はすべてに億劫になり、視姦というか、ながめるだけでなんとなく満足してしまい、その半ばインポテンツの眼でみると、実によく処女非処女の別がわかる。いわばよこしまな心に左右されない達人の境地に入ったとでも申しますか、セーラー服に身を固めた女学生でも、また、あどけなきふりを装う純情スターでも、まさに一目瞭然といったところ。といっても、これだけは、実証的にたしかめることができないのだけれど、飢えている子供の表情が、すべて共通した色合いをもっているように、処女にはそれなりの特徴があるものなのだ。だから、もし、配偶者には是非処女をとねがってらっしゃるむきがあれば、相談に乗ってもいいので、べつに灰神楽立つかも知れぬといった不粋な方法ではなく、無料で鑑定してさし上げる。
しかし、現在の、処女を不当にいやしめる風潮は、どの方面の陰謀によるものであろうか。男性は、この一種の農地解放めいた手段によって、より多くの女体を得たいと考えているのか、また、女性にも、フリーセックスヘの志向があり、自らも協力しているのか、それにしても、「処女なんてつまらない」といったり書いたりする男の顔は、まずいやしい印象であるし、といって、「ぼくの妻となるべき女性は、やはり処女であって欲しい」なんていう野郎は、かげが薄い。「処女なんてなによ、気持わるい」とのたまう女は、無理している感じというか、「そう、よかったねえ、失って」とひやかしたくなるし、「やっぱり愛してる人に捧げたい」なんてのも、ゾッとしない。
現代は、建前と本音のしごくかけはなれてしまった時代であるけれど、処女観についてもそうのようで、処女を軽んじることだけで性的革新を気取ってみたり、また、処女でないからと、それを国家試験に合格したように威張ったり、もう少し、素直になった方がよろしいのではあるまいか。それにしても、杉田玄白より以前にあらわされた「好色知恵海」の、著者はしごく実証精神にみちていたものですな。
[#改ページ]
そのかわや怨めし
人こそ知らね、世に包茎の男は多いのだそうで、糖尿病の向こうを張り、「包茎友の会」なるものが、ただいま準備中だという。ことさら威張るつもりはないが、ぼくはかなり早くから露呈していて、中学に入った時、便所で舷々相摩する際、かえってきまりがわるく、また脛毛も密生していたから、体操の時にひやかされて、むしろ逆に肩身のせまい思いをした。
こんなことをいうと、ひょっとして包茎大革命でも起ったら、イの一番に処刑されそうだが、尋常の者からみて、包茎の悩みなんてものは、まず理解できない。無毛症やら、短小、早漏なら、およそ見当がつくけれど、なぜ皮かむりであると、そのように悩まなければならぬのか、よくわからぬ。この原稿を書く前、すべてにおいて入念な小生は、わがものの皮をひっぱって、懸命におおい隠そうとしたのだが、触れるうちに体積増大してしまうし、どうにかまとめてみても、フーッと皮が引潮の如く退いて、うまくいかない。さらばと、一気に皮をひきのばし、先端を洗濯ばさみで止めて、包茎気分味わったのだが、たしかにミバはあまりよろしくない。みみずが卵のみこんだような姿で、威風辺りを払うといったおもむきに欠け、そのうっとうしい気分いくらかは察しがつく。
包茎には、真性と仮性があって、真性は有事の際にも、その頂きわずかに雲間晴れるのみにて、いわばドテラ着こんでいるようなものだから、遅漏の気味となり、女性にはかえって珍重されるそうな。
これはつまり、皮が余ってるのだから、ぐいとたるみをひっぱり、ほどよきところで切りとれば済む。そして、ようやく陽の眼をみることになった、頂きのあたり、まさに日陰のなすびで、なめくじ色というか、茹《ゆ》でみみずというか、奇怪な色をしていて、これはほどよく風と太陽にあてなければ、通常のさまにならず、といって、早く達成しようと、日光浴などしたら、弱い粘膜だから、すぐ火ぶくれになるそうな。しかも、今度は敏感きわまりなく、三秒たらずで涅槃《ねはん》に入るし、傷がつき易く、よほど先方に理解がないと、うまく営めない。
仮性の場合は、ふだん皮かむりでも、いざとなればちゃんとなり、困るのは風呂や立小便の時だけで、この仮性が、真性に対して優越感をいだくことはなはだしく、しばしば「ホーケー牧場の決闘」が行われるという。差別受けているものが、さらに自分より下の存在を求めることはありがちなもので、「なにいってんだい、真性のくせに」と淫靡《いんび》な笑いうかべる仮性に向かい、真性はただうつむいて口惜し涙をうかべ、国連に訴えたくなるそうな。「ホーケイホーケイと馬鹿にするな、生れた時にはみなホーケイ」とか、包茎にして才能のある各界名士を思いうかべて、心なぐさめる。たしかにきいてみると、包茎文化人録ができそうに沢山いて、これはその劣等感が、彼等の現在を築いたのかも知れない。
包茎友の会としては、ゲイバア、レズビアンバアがある以上、包茎バアをつくって、同じ悩みの者肩をくみ、どこの整形医がうまいかとか、また、私はこうして包茎を克服したという体験談、それに、包茎セックスの知識交換を行う。オナニー一つにしても、包茎では、いろいろさしさわりがあるそうで、五本指よりも、一本指がよろしいとか、また、封筒の中にハエを十匹閉じこめ、これに挿入して入口を押さえていると、えもいわれぬなど、真面目に語りあうのである。
さらに、少数派であるからといって、くよくよすることはない。包茎こそは、男の処女膜であると、一種のイメージアップをはかるプランもあれば、真性包茎で切りとった皮、つまり少し幅の広いゴム輪風だから、これを干し固めて、恋人の指輪にすれば、なによりの愛のしるしだとか、よくいわれている恥垢が、子宮癌のもとになるという学説への反論、しかし、垢の溜るのはとにかくよくないから、包茎ブラシ、恥垢よけクリームの開発、また、手術によって包茎でなくなった者に対する各種の注意まで、いろいろ考えているらしい。
やがては包茎会館をつくって、この包茎かわかむりというしろものは、春本などにもあまりあらわれないのだが、歴史上の人物の、言動をくわしくしらべて、包茎者特有のしるしがないか、ひょっとして、義経包茎説やら、竜馬のかわかむりが、ある程度立証できたら、これは悩める者にとって力強いことだから、その研究室、資料室をもうけ、文学美術音楽の分野にも、調査すすめたいという。ぼく自身は、絶対に口外しない約束で、包茎有名人の名を教えてもらったのだが、いわれてみると、包茎フェイスというような、共通する特徴があり、それは全体に皮が余っている印象なのだ。
そもそも皮膚というものは、外傷をはじめとする刺戟から、躯を守るためにあるのであって、真性はともかく、ふだん皮によってプロテクトされ、臨機応変抜身鞘走らせる仮性の方が、本来あるべき姿なのではあるまいか。また、雄々しくなっても、丁度、土佐犬か、ブラッドハウンドの頬の如くに、皮が余っていて、それがしごく女体にとって、よろこばしいショックを与えるのだし、いったん包茎の男を知った女は、二度と、露茎の者を相手にせず、一に包茎二に胴返し、三ねじれ魔羅四にかぶら、の順であるとまで包茎研究家にきかされた。
そういわれると、ぼくは自分が片輪のように思えてきて、朝夕、大いにひっぱりのばそうと決心したのだが、男だってあまりこのことの知識がないのだから、女性は、包茎とはすなわち童貞のたぐいかと考えていて、ある包茎者はようやく念願かなってしとねを倶《とも》にした時、相手に「私、今、大丈夫なの、だからサックとってよ」といわれ、もじもじしていたら、テキは猿臂《えんぴ》をのばし、むんずとひっつかみ、手なれた指さばきで、逆にしごき上げ、さらに先端の余っているところをつまんでぐいとひっぱったから、たまらず悲鳴を上げて逃げだしたそうだし、また、別の包茎は、「私が直したげる」と、バナナの皮むくように扱われて出血し、かなり被害を受けている。
包茎もまた迫害を受けている少数派なのであるから、われわれ露茎者はさらにやさしい思いやりをもって、彼等の心を傷つけぬよう心くばりをしたいものだと思う。なにしろ彼等は、火星」ときいて「仮性」すなわちわがことかと思い、「神聖にして犯すべからず」というくだりには、「真性にして」うんぬんと解釈して口惜し涙にかき暮れ、法政大学の校歌「ホーセイおおわが母校」を耳にすると、皮肉いわれてるように思うのだそうだ。
[#改ページ]
読者諸兄の声に感謝す
以前、オナニーについて書いた時、読者の方から、さまざまの新知識を教えていただいたのだが、このたびの包茎においても、さらに多くの御教示をいただいて、実にどうもこの世は広大かつ深刻なものであると、感じ入った次第である。
たとえば、かの有名な尾崎士郎、北原白秋が盃かたむけつつ即席につくったという「ペニス傘さしホーデン連れて帰るかワギナのふるさとへ」「きたかワギナのふるさとへペニス傘とれ夜は長い」の絶唱こそは、これ包茎の歌であるそうな。傘とはそもなんであるかというに、皮の余った部分であり、ワギナにのぞんでそれを脱ぎさるとは、仮性に他ならないというのだ。
べつに文学史上の大発見というわけでもないけれど、おもしろい観察であるし、現在、包茎友の会のできつつあることは申し上げたが、大正末期から昭和のはじめにかけ、「包茎社」という結社があって、友の会と同じような意図のもとに、運動を行っていたそうな。その発行していたパンフレットを一部いただいたが、包茎に関する術語解説があって、「包茎がえり」なる言葉が紹介されている。「ホンケガエリ」のもじりだろうが、これは青年の頃にはしごくまともだったのに、年老ゆるにつれ、皮がのびてきて、包茎となっちまうもの。この理由は、女体に接しない、あるいはオナニーを怠ったためとされ、やはり肉体は心して鍛えておかなければならないとわかるのである。
当時から包茎手術は行われていたらしくて、その医者のえらび方、つまり技術の下手なドクトルにかかると一生の不覚をまねくと注意がなされ、子供に対する包茎教育について、各界名士のアンケートがあり、親が手をそえて皮むきを行った方がいいか、またその年齢はいくつくらいが適当であるか、包茎であることに気づいた年、場所、指摘した相手、あるいは他山の石とした対象は誰であったかなど、貴重な資料である。
この包茎についての文章をさらにつづけることはできるのだが、するとどうしても特定の名前が登場するし、現在はまだ包茎差別意識が強いから、遠慮して、包茎者以外から頂戴した手紙の中の、かわりダネを拾うと、その際に絶叫するという男性がいらっしゃる。これは、小生が、男は二、三秒が涅槃《ねはん》であって、その他はケロリンポンとしたものだといった反論である。
この方は、三十九歳で、以前は映画界にいたという美女を妻になさり、現在でも週に二交で、一交に要する時間約二時間半、ずっとおらびつづけて、果てた時は、喉がかれているというし、奥様の方が、その場所によっては、周囲をはばかり、手で旦那様の唇にふたをするそうな。はじめはやはりケロリンポンだったのが、こころみに自分でも声を出してみると、一種の自己催眠というのか、うめきにつれて背筋伝わる快感が生れ、それをさらに持続させたくて、なおおたけびをあげる、そのうち夢うつつの境地に入り、やはり物音や、奥様の不意の動作にふとわれにかえることもあるけれど、すぐまた桃源郷にさまよい、最後はオーウッとうなることが、テープレコーダーにより確認されているという。もし希望があれば、証拠としてそのテープを送付するというのだが、あまり気持いいものでもないから、深謝して辞退し、では小生もこころみてみようかと、二、三ためしたのだが、なかなかふん切れるものではない、「ぼくもちょっと声を出してみるけど、よろしいでしょうか」まず断りをいい、「ウーン」といったが、どうも才能がないらしくて、駄目だった。
また、へんな変態については、自分の躯の上に雲古をしてくれと要求する女性について、男性から報告いただき、あるキャバレーのホステスとホテルにいったところ、型通り風呂へ入るまではよかったが、洗い終ったところで、ホステス嬢はわが躯の上に雲古をしろと寝そべり、はじめなんのことやらわからなかったし、わかってからも冗談だと思い、しかし「ねえ、してよ、ねえ、いっぱいして」というのはセックスのことではなく、半信半疑ながらしゃがみこみ、だが人間の躯の上になどなかなかひり出せるものではない。
それでも、やけくそでいきむとかなりの量が出て、なにしろ風呂場だから、その臭気たるや、わがものとはいえ到底たまらず、早々に布団へもぐりこみ、しばらくすると、女あらわれて、みれば躯中くまなく雲古をなすりつけている、なんとも形容しがたい姿のまま、にじりよって「ダッコオ」といい、この方は、本当に裸のまま廊下へとび出たという。こういうのは糞尿愛好症スカトロジアというのかも知れないが、そしてぼくも自分の雲古や痔に、かなり愛着をもっているけれど、ここまでは徹底できない。
また、他の方は、一文をしるして、「とび出し於芽弧」につき、説明なさり、いろいろとこのものについて、あるいは巾着俵じめタコなど形容はあるけれど、最高のは「とび出し」なのだそうで、これはなんと、その際に男性が不手際により珍宝を取りはずしそうになった時、ピョンととび出して、くわえつづけのままいるという。
たしかに、先方となれぬうちは、取りはずすことがあるもので、そのつど味気ない思いをするけれども、とび出すといって、いったい何がどうとび出すのであるか、想像もつかず、このことをあるゲイボーイ氏にたずねたら、彼はけっけと笑って、つまりこの方は、おかまと知らずに営んだらしいのだ。おかま氏は、両脚の間に、にぎりこぶしをかまえて、これにより男性をあしらうことが多いけれど、早く一儀終えたくて焦っている時、不器用な客がはずしたりすると、ついうっかり、こぶしを開いて、少々はなれた珍宝を、むんずとひっつかみ、穴の場所にひきすえる、これがつまり「とび出し於芽弧」の実体であろうといい、ゲイボーイ氏実演してみせてくれたが、それはあたかもとんでるハエをひっつかまえるが如き塩梅だった。
まったく世の中には、さまざまに品かわる色の道を、あれこれ探求なさっていらっしゃる方がいて、御手紙を下さるすべて男性であり、一方の女性がいないことは、同じ物書きでも五木寛之、庄司薫とことなり女にもてないわが不徳のいたすところだろうが、また女性は、実行することにのみいそがしくて、色の道に思い悩まないのではないか。
なえ魔羅かかえて男は一人思い悩み、あるいはわれインポにあらざるや、変態ではないやろか、くよくよ考えるのに、表歩いてる誰もかも、あんな妙なしろものもってるくせして女はケロっとしている、実にどうも図しいものである。
[#改ページ]
われ老いたるか
週一年齢というのがあって、これは週に一度はセックス営める年齢をいい、アメリカにおいては五十一歳、女ならでは夜の明けぬはずのわが国のそれは三十八歳だという。アメリカ女性の五十歳近いおみお姿は、みなかなりタフな印象であって、あのお姿と週に一度なさるなど、実にやっぱり世界の大国だけのことはあるわいと感歎せざるを得ないのだが、これが月一年齢となると、七十二歳まではね上り、紅毛七十歳前後のレディなんてものは、時にホテルのロビーあたりでおみ受けするけど、かなりのものであって、ますますびっくりしてしまう。我国では、年一がようやく六十五歳といわれている。
こういった性のおとろえは、回数以外にも判定の基準があって、輪姦年齢というものもある。輪姦し得るか、それも前車の轍《てつ》をふみ得るかどうかであり、小生、若い頃には心ならずもこういった状態になった経験が二度あって、いずれも友人が、女人伴い、わが下宿へあらわれて、もとより布団は一組しかなく、女人を中に男二人がはんべってやすみ、やがて手が触れ脚が触れ、暁方までに女人は延六人の男と交渉をもつ仕儀となる。
他人のセックスを、すぐつぎに自分も成し得るという期待と共にながめているのは、刺戟的であって、まさしく珍宝が痛くなった。やがて身を起した友にかわりあって、開拓しつくされた如きありさまの中に、なんとかわが爪跡残さんものと奮迅の努力、そして、かたわらをみれば、煙草くゆらせつつ、友がながめ入っていて、はやくも逸物雄々しく宙をのぞんでいる。あくことなくくりかえして、実に充ちたりた情痴の一夜だった。ごく最近、このチャンスにぶつかったのである。
友の伴った女人が稀代の淫乱であって、それは月の周期により、発作が起こるらしく、一月のうち三夜は連続して、男二人にいどまれなければ、深更、裸でとび出しかねない。はじめ話をきいた時、半信半疑だったが、わがホテルにあらわれたその表情みれば、もはやエクスタシー寸前といった感じ、ホテルヘ入ったとたん背筋にしびれがはしり、ベッドみたら、おもわずへたりこんでしまい、衣服脱いだとたんに失神状態となる、すさまじい色情狂なのだ。
まず友がいどみかかり、しかし、反応がありすぎて、友の六尺二十貫に近い巨体、まさに波浪にもまれる捨小舟《すておぶね》といった塩梅、果てて後、タッグマッチ風に小生乗り出したのだが、どうも、友の後がまに坐るのは、具合わるい。不潔というのでもないが、そしてけっこうエキサイトしてはいるのだけれど、もう一つ心はずまなくて、しばし、子供じみたしぐさあれこれしかけた後、友にまかせて部屋を出てしまった。そして、つらつら思うに、どうも輪姦という形式に、入りきれなくなっている自分を感じて、それは形式に対する嫌悪感でも、友の珍宝をいやしくみるわけでもない、なんとなくうんざりしてしまうのである。
これをたしかめようと、同じ年頃の友二名と相語り、これはまた詩を書くために男と寝ると豪語しなさる女人にもちかけて、一夜を倶にしたのだ。順番は、ジャンケンできめ、小生が幸か不幸かトップバッター、輪姦で具合わるいのは、インサートまでであって、やはり他者の眼を意識してなかなか雄々しくならず、いざ結ばれちまえば、要するに、人間二人重なっているだけで、どうということもない。女人、北海道出身で、しきりに「段兵衛頂戴」とさけび、おもむき深かったのだが、やがて交替となると、次の打者気のない様子で、ラストの者にゆずり、お互い謙譲の美徳の権化となってしまった。
後でたずねると、まったく小生の感慨と同じであって、十年若ければこんな風にはならなかったろうと歎じあったのだ。強姦ならば、雄々しさをそなえ体力のあるかぎり、いくつになっても可能なはずで、むしろこのことは、年老いてますます気力充実するのかもしれない。
たしかに輪姦年齢がある。また、嫖客年齢というか、買娼年齢もありそうに思える。せめて二万円持って二丁目をうろつきたいと十三、四年前に考え、そしてようやく二万円かなえられた今は、狭斜の巷変じて打球場となり、ひたすら古えがなつかしいのだが、三年前大阪の飛田、尼崎の初島に、往年の風よみがえるときき、それっとばかり小生おもむいた。道の両側に、飛田は昔のまま、初島は青線的印象で、女が立ちならび、さてこそと気負ったが、どっこい駄目なのだ。
射るように思える女たちの視線浴びつつ、到底その品定めするゆとりはなく、伏眼がちにとっとと道の中央をかけ歩き、勇をこしてどうにか一軒の玄関に足ふみ入れたものの、口がきけない、どういうわけか怖いのであります。さらに勇往邁進の気風かり立て、一セット千二百円を二つにチップ千円の計、三千四百円支払い、まずはけっこうな女人と相対して、さてしゃべることといったら、あたかも童貞様のようなもの。天候からはじまって身の上話くりかえし、「時間もうないよ」テキは大ぶりの座布団ひっぱり出して、ポーズとったとたんに、今度は病気の危惧が焔と燃えさかって、「いや、どうも酒のみ過ぎたらしいから」口ごもりつつ、逃げ出したのだ。もし、今、赤線が復活しても、ぼくは駄目だろうと思う。そこを通り過ぎることはあっても、決して登楼しないだろう。買娼年齢をはるか過ぎてしまったのだ。
この他にトルコ年齢もあるだろう。あたらしいお風呂ができれば、遠路いとわずかけつけた年を、やはり過ぎている。特別奉仕されそうになれば、「マッサージの方がいい」とだらしないことおびただしく、ガールハントももう駄目であって、ハントバアヘおもむき、心きいたるバーテンダー殿が、わざわざ女人の横に席つくってくれても、声かけるのが億劫、ましてや、街路におけるハンティングなど、とても無理。もっともこれは、本卦がえりというか、さらに老人になると、狒々《ひひ》爺の名にふさわしくいやらしくまたはじめるというが。
ぼくの場合は、オナニー年齢が非常に高くて、他が異常に低いのだが、こういった調査を行い、各数字を結んで出来る曲線の、形によって性生活の一面がうかがえるのではなかろうか。もっとも、今となってわかっても、いたしかたないけれども。
[#改ページ]
野に遺賢あり
蔵書家に二代なしといって、本道楽であった当主が亡くなると、その未亡人あるいは息子が、汗牛充棟《かんぎゆうじゆうとう》の遺産を眼のかたきの如く処分するのがふつうである。本道楽には、いずれも人間ばなれしたところがあって、その世に在るうちは女房子供にずいぶん辛い思いさせたにちがいなく、お乳欲しがる子供のミルク代までかっさらっては、家族の眼からみれば古雑誌以外の何物でもない屑を購入し、また娘祝言の日にだって、売り立てがあればすっとんでいってしまう。
残された家族にしてみれば、亡き人の手塩にかけた愛着の品というより、もっと恨み深くみるのも当然で、しかも、あんな古本と考えていたのが、ひょいと専門家に相談すると、とてつもない値打ちがあるとわかり、後は、なだれうって四散してしまう。しかし、これだからまたいいので、二代三代と個人の蔵書家がつづいたら、稀覯《きこう》本の大半はここに集ってしまい、いわば死蔵ということになるが、春本春画のたぐいも御同様、父の遺愛のワ印を子供が受け継ぐことはまず稀であり、これが世に知れたコレクターなら、遺族もさすがに価値を知っているから、しかるべき方面に処分依頼するけれど、女房子供にもひた隠しにしていた場合、途方に暮れるらしい。
亡き人の想い出にふけりつつ、遺品を整理していると、押入れのすみから大きな茶箱があらわれて、中あらためればすなわち歌麿北斎英泉春信があらわれ、謄写印刷から豪華装幀までの猥本やら、また丹念にアルバムに整理した東西のエロ写真、げにびっくり仰天するものらしい。こういう家族にも気づかれぬコレクターは、日常まことに謹厳実直な方に多くて、酒煙草女賭けいっさい身辺に近づけぬ紳士、だからなおのこと遺族はうろたえ、さて、その品の価値はわからないながら、これがかなり貴重なものとくらい判断できる。仏の日常が固かったから、この手の品の処分について相談もちかける心当たりもない。といって焼き捨てるのは勿体ない。この勿体ないというのは金目の品を灰にするというより、まことたしかな人間の営みのあらわれを、烏有に帰せしめることの怖れといった方がよく、なかなか春画を火に投ずることはできないものなのだ。
こういう方が、年に一度か二度、小生に連絡してきて処分をたのむことがある。ぼくはまったくコレクターの素質がないから、また、価値もわからないので、とりあえずその品によって心当たりの誰かれに連絡し、いちばん手っとり早いのは、アメリカ人に紹介すると、彼等はまとめて買うけれど、こういう点では、ぼくもまた、ナショナリズムの権化となり、ふるアメリカに袖は濡らさじ的心がまえがある。
とりあえず遺品拝観させていただくこととし、まかり出ると、あらかじめ家族を遠ざけた一室で、品よき未亡人が、数珠こそつまぐらね、殊勝な表情で、「ほんとに私、ちっとも存じませんでねえ」夫の隠れた面を、ついに生存中は知り得なかった恨み、いささかあらわにしつついい、まことによく保存された春画春本を一つずつみせてくれるのだ。一度、小説に書いてみたいと思うのだが、故人の怨念がのりうつっているようでもあり、その未亡人が、人に相談もちかけたくせに、妙に出し惜しみをし、鑑定などできもしないのに、「これなんぞ、ほんとによくできておりますわねえ、彼と彼女の姿が」なんて勿体つけたり、興味はつきない。
黄泉あたりの、もつれ合うさまについて、彼と彼女などいわれると、まことに奇妙な感じで、こっちは、真贋の別もきわめられぬまま、眼福にあずかり、あげくどれくらいの心づもりでいらっしやるのかたずねると、今度はしごく小心になって、少くとも数百万円はかたいとぼくにもふめる遺品を、十分の一にも値ぶみしていない。これは、自分の知らなかった夫の生活の、残したものについて低くみつもりたいのか、あるいは、いかがわしいとされる春画春本を、高くいっては、品性にかかわると考えるのか。
ぼくが狡猾に立ちまわるなら、そのうちの上質なものばかり、浮世絵はわからないが、ゲテには通じているから、かっさらってもいいのだけれど、さっきも述べたように、仏の執念がこもっているようで、とてもそれはできない。できることなら、そっくりそのまま、好事《こうず》家に渡したいと考え、まあ、たいていはスムーズにことが運ぶ。税金はかからないし、遺族に残す美田としては、かなり有効なものではないかと思われる。
そして、ぼくは、残った本当の屑を頂戴してくる。これも屑といっては仏に失礼なのであって、また、近頃は値のすこぶる高くなった敗戦直後のカストリ雑誌や、戦前の、しごく粗末な春本がまじっているから、徒おろそかには扱えぬのだが、ぼくは、この手のものを、深夜ひもとくうちに、昭和二十二―三年頃、本屋の店頭にすらならばなかった、仙花紙の、ただけばけばしいだけの、稚拙な表紙や挿絵に飾られた原始エロ雑誌の記憶が、よみがえり、読んだ覚えのあるくだりをみつけ出し、故人が他人とは思えなくなってくる。
ずい分、戦前や戦後の文書資料が復刻再版されていて、この種の本をそう大袈裟に扱うこともないけれど、これも人間文化の所産であるのだし、手もとの雑誌もちより保管しておくといいのではないか。そしてまた、浮世絵は、くまなく調査いきとどいているようだけれど、大正昭和期のエロ写真というものも、現在では、風俗資料としてきわめて貴重であろう。当時のエロ写真はたいてい、場末の魔窟で撮影したものらしく、その部屋のたたずまいにしろ、女の表情躯つき、態位などまことに興味深いのだ。
日本中のこのてのコレクターについて、大どこはまずしらべがいきとどき、そして二代目なしの定説に従い、ハイエナの如くに、その秘蔵する品を狙っている専門家がいるけれど、こればかりは野に遺賢ありで、思いがけぬ方が、もっているものなのだ。だから、コレクターは遺言の中に一言その処分につき触れておかれると、いたずらに散逸することを防げると思うし、また御遺族の方は、処分に困った際、一言お申しこしいただければ、しかるべきむきを御紹介いたします。
闇から闇へしぶとく生き残るワ印だが、浮世絵ばかりがもてはやされて、多分、みかん箱の上に原紙を置き、カリカリ鉄筆の音ひびかせて、肺病やみのものしたであろう春本だって、貴重なものにはちがいない。そしてよくあることなのだが、トイレットペーパーなどと夢にも交換なさらぬようおねがいしたい。つけ加えれば、多分、現代はもっとも春本の衰退している時代であろう、印刷製本の具合はよろしくなったけれど。
[#改ページ]
観る聴く作る情熱
いつ頃から、ブルーフィルムという言葉が一般的になったのだろうか、グレアム・グリーンに同名の小説があって、これが翻訳されてから、なんとなくそれまでの「八ミリ」「Y映画」が、ブルーフィルムに統一されたように思える。
戦前、十六ミリの頃には秘密映画と呼んでいたらしく、こういわれると、なにやら、盛り場のはずれ、しもた屋の二階あたり、雪駄つっかけた兄ちゃんに案内され、スクリーンのすぐ横に女の子の赤い草履袋がひっかかっているような、うらぶれムードが漂ってくるけれど、八ミリにかわってからは、秘密という印象は少くなり、いや、Y映画というのも、少々ふさわしくないような、いわば毒を失ってしまい、まあ、ブルーフィルムと、デパートのファッション紹介よろしく横文字で実態ごま化した、この呼び名が適当であろう。
ところが、エロテープは未だに、そのままで決してブルーテープといわないし、またY写真を、ブルーフォトとも申しはべらぬ。つまり、八ミリはブルーフィルムという、れっきとした名称におさまってしまったから、もうこれ以上の刺戟をそこから得ることはむつかしい。特に近頃はカラーのプリントが、個人でもできるから、以前のように、何台ものカメラを一時にまわして、それを継いだりはいだりし、演ずる男女は同じでも、ストーリーのまったくちがうオリジナルフィルムだけつくっていた頃からみると、質の低下はいかんともしがたい、手工業から、大量生産になり、堕落してしまったのだ。
そこへいくと、はじめからプリントはいくらも可能だったテープは、逆に、オリジナリティを求めるために、さまざまに工夫こらしていて、現在、このての中ではいちばんおもしろいジャンルである。古典的なものとしては昭和三十二年につくられ、南極観測隊がダッチワイフと共に持参したというしろもの、通称「雨だれ」なるテープで、はじめからおしまいまで、タンタンタンとトタン屋根をうつ雨の音がBGとして入っている。完全なつくりものであって、演じた役者の名前もわかっているのだが、それでも耳にするたび、あらたなる感銘をかき立てられる、名作。女は「いや」「駄目」「お母さんにしかられる」「こわい」「恥かしい」ばかりくりかえしていて、これに対し男のさまざまに発する口説きが、おもしろくもまた悲しく、この台本つくった方は、かなりの数奇者であろう。
エロテープは、ふつう題名がなくて、中の男女の発する声音の、しごく特徴的な言葉をもってあらわし、だから「お隣さん」「良子」「しあわせ」などと分類される。「お隣さん」というのは、さんざうなりわめいた末に、女がぼさっと「お隣さんにきこえなかったかしら」、というのだし、「良子」さんは「良子さんにわるいわね」、「しあわせ」は男の方が往生する際、「ああこのしあわせエ」、陰気な声でつぶやくのであります。
テープの場合、完全な盗みどりというのはまずなくて、合意の上か、あるいは男だけが心得ていて録音する。盗みどりをこころみても、まあ実験すればわかるけど、マイクが近すぎると、鼻息ばかり轟々とひびき、あるいはベッドのきしみだけが入っていたり、そう思うようにはまいらぬのだ。
合意の場合も、男だけが心得ている時も、結果としては同じ。これが八ミリの撮影であれば、カメラマンがごちゃごちゃ注文するし、いやが上にも明るい中で行わねばならず、いかに女性とはいえ没入しにくいのだが、テープはほとんど邪魔にならない。醒めている男は、意識してなにやかや演技しようとしても、録音中と知っていて女は夢中になり、かなりあられもなきことを口走りなさる。
最近作の中では、「マゾ」というのが珍妙なもので、これは男だけが録音を心得、どうやらキャバレーのホステスらしき女性は事情を知らない。はじめの一回はなんということもないのだが、二回目となって、女ががぜん積極的になり、「ねぇ、今度は私のいうこときいてくれる?」「ああ、いいよ」「あのねえ」つまりなぐってくれ、けとばしてくれと要求するので、男はかなりびっくり仰天し、しかし、多分兄貴分から金をもらい、しっかり録音してこいといわれているのだろう、勇をふるって頬をパチンとなぐる。するってえと興奮しきった女、「なによ、もっと力入れてよ」「だって痛くないのかァ」「いい気持なんだからさ、たのんでんじゃないの」「でもよう」「ねえ」パシッと前より強い音がひびき、「ねえ、もっと」さあそれからはなぐる音や、けとばされて女のベッドからころげおちる音、なにかの倒れる音が交錯し、「噛みついて」「つねって」間に女のまさにひたむきな声音がまじり、なにがどうなってるのかわからぬうち、まあつつがなく終って、「ひゃあおどろいた、俺はじめてだなあ」男のぼやきが、これだけは真に迫ってきこえるのだ。
現在、ラジオドラマというものは、まったくなくなってしまったが、エロテープでは、ドラマ仕立てのものが多くなって、その制作者たちが、行為の物音とは別に、そこへいたる過程をいろいろ工夫する。テープの場合は、八ミリよりはるかに奔放に舞台をえらべるから、たとえば高原とか、カーセックスとか、病院を設定し、あれこれ効果音にも工夫をこらしている。考えようによると、制作者の、かくあらまほしきセックスの形がよくあらわれるのであって、「君、きれいな高原だねえ」「ほんとう白樺の林がロマンチックだわ」「月が出たねぇ」「でも、アポロなんかがいくようになっちゃ、夢がないわ」てな馬鹿馬鹿しいことからはじまり、歯のうくような台辞がつづいて、「君の肌には若葉の匂いがしみついている」「いや、かんにんして」「すばらしい、桜ん坊のようなこの乳首」「そんなとこ、駄目」などあって後、処女変じて脱兎の如きありさまとなるのだが、こういう台本を考えている人間の表情なんてものは、かなりなつかしいものではないだろうか。
きっと、彼は、いまだに高原の白樺林の中で、若葉の匂いをもつ女体を抱いてみたいと、考えているのだ、多分、うす汚ない中年男だろうけれど。そうかと思えば、患者と看護婦に仕立てて、終始女が男をリードしつづけるテープや、女教師と生徒なんてのもある。どうも、制作者には子供っぽい面が残されているようで、だからこそこういったしろものに、金のためとはいえ、情熱をかけ得るのだろう。
ぼく自身かえりみるまでもなく、えらく未発達な面があって、どうやらそこが、物を書く場合のエネルギー源となっているらしい。そしてエロテープの新顔は、ビデオテープであろう、家庭用のビデオコーダーが普及したら、きっとこれの制作者があらわれる。ブルービデオなんてのは、ちょっといい語感ではありませんか。
[#改ページ]
そも生命のリズムなるぞ
女性は、その気にさえなれば、いくらもみることができるけれど、男にとってまことに難事であるのが、他人の精液観察することである。男どもは、自分の精液がまともであると信じて疑わないが、そんな保証はどこにもないのだ。
小生の自涜は木のぼりスタイルでまずはじまり、これは立木にしがみついて蝉の如くとどまるうち、昂まりを覚えるものだから、もとより着衣のままで、このスタイルにつき少々説明すると、まず手頃なる樹木、青桐などが手がかりもあって適当なのだが、これに下腹部を押し当て、この時、珍宝が雄々しくなってはいけない、痛くてどうにもならぬから、フニャフニャのまま妄想を追わなければならぬのだ。この微妙なかね合いをはかることはむつかしいのであって、助平なことを具体的に思いうかべれば、当然エレクトしてしまうから、観念的な中にも、さらに観念的な、プラトニックあてがきというべきであろう、脚を、丁度平泳ぎでもするようにうごかすと、昂まりはよりすみやかにおとずれる。昭和十九年の、たしか夏の頃、わが十三歳のおりに、果てて後なんともけたくそわるい感触がパンツに残って、これは精液というより、ただ透明の液体だった。
わが性的眼覚めの先達は、畏友華房良輔であって、淀川の堤防を歩きながら、ぼくが精液について、清澄な液体であろうとのべたら「あほいうな、あれ、米のとぎ汁みたいやんか」けんもほろろにいい、「なんでわかる」「なんでいうて、お前マス知らんのか」さらに軽蔑した如く、いや、今思うとこのカマトトめと考えたのかも知れない。
わが木のぼりがマスターベーションとは思わず、ただし人に現場みられると恥かしい気持だけはあった。だが何分にも、精通があった後も、パンツの中に、そもそもエレクトしていないのだから、かなりじわじわっと吐き出したそれを、しばしがに股となってかわかし、くわしくしらべることをせず、精液がいかなるものかわからないのだ。
その後、二十二年十月に、ようやく正規の自涜を知るにいたり、とすれば当然、精液をながめたろうが、その印象も覚えていない。このあたりは一日に二度三度、他にすることもないから、あてがきにふけって、後始末をどうしたのかも、記憶がない。目黒は碑文谷署にパクられた時、留置場の中で、毛布にそのしるしがついて困ったという覚えがないのは、あるいはうすかったのだろうか。
はっきり意識したのは、娼婦と寝て、衛生サックの、精液溜に格納されたものを、眼にした時、妙にぶわぶわした感触が、ある感慨を与えたのであるが、もっと、よくしさいに観察したとなると、かなり最近のことのように思う。畳の上にちらばった白濁の液を自涜後特有の、虚脱感のまま、あり合わせの紙でふきとる、その際に、なんとなく科学者のような気分となり、指先きで、こねくりまわしてみたり、時にはゼラチン状となって盛り上っているのを、押し潰し、これはコンクザーメンであるのかと考えたり、また、量や色合によって知らず知らず自分の健康状態をおしはかってみる、こういう心境はかなり中年に近い年齢にならなければ到達できないのではないか、ヤレヤレと、事後、特に罪悪感もなく、虚心にながめるのは。
風呂の湯の中で放出すると、あれは蛋白質が多いから、熱によって凝固するのか、わりにかたまったまま浮遊し、そのさまはまさしく、B二九迎撃する高射砲の弾幕そっくりである。戦争映画の特撮の時など、是非応用すればいいと考えるのだが。
ただし風呂場で具合わるいのは、小生まことに多毛であるから、湯から上る時に、弾幕が毛にからまってしまって、上り湯を少々浴びたくらいでは取れない。そのまま一日過ぎると、弾幕の水分は蒸発してしまって、妙な風に、毛がべったり貼りついているからしらべると、丁度、糊でくっついたようになっていて、指先きでもむと、白い粉がポロポロこぼれ、これすなわち精粉であろう、インスタントザーメンとでも名づけ、人工受精に使えないものだろうか。
先日、何人かの同年輩が集り、お互いの精液を比較検討しようではないかということになり、それぞれに処置して、まず掌に受けたものを、小皿に移し名前を書いて、はじめておのれ以外のザーメンをみたのだけれど、これはたしかに個人差がある。採集法がずさんだから量についてはいえないが、粘稠度に差があるし、なによりおどろいたのは、その色合いが千差万別であることだった。
一口に白濁というけれど、較べあってみると、赤味がかったのや、青いのや、紫じみたのから、しごく透明に近いものがあって、はっきりとことなる。ウンコというしろものは、人間の内部についての、なにより貴重な報告者だというし、オシッコも、これによって糖尿病の判定ができたりする。さらば、精液によっても、いろいろと健康診断のデータを得ることができるのではないだろうか。そして、これは生の時だけではなく、乾いた時の状態や、さらに、射出距離、そのちらばり方、もちろん量も正確に測定すれば、疲労度くらいはわかると思えるし、このことは、また、女性のメンスにおいても通用しないだろうか。人間のいわば、生命のリズムなのだから、闇から闇へほうむるにはもったいないように思える。
精液比重計とか、精液試験紙というようなものをつくり、衛生具の先端に溜ったそれにこころみて、たとえば試験紙であるならば、少々無理して営んだ時は、赤く色がかわったり、まだ余力あるしるしは青であるとか、わかると御夫婦どちらさまにとっても便利ではあるまいか。もっとも、深夜、女房が衛生具の裏をかえして、ネグリジェふり乱しつつ、しらべるなんてあまりいい気持のものではない。そしてそうなれば、男たちは、必ず赤く色のかわる薬を発明し、今と同じように疲れた、まいったを印象づけようとするだろうけれど。
それにしても、女房というしろものは、あの衛生具をひっぱずすのが、どうしてあのように下手なのですかねぇ、かならず毛をまきこんじまいやがって、アチチチとなるのは、実になげかわしい。
[#改ページ]
夢の御わざこそ
この世に何がよろしいといって、夢精にまさるものはない、まさしく羽化登仙の境地でありまして、果てた後、ふと目覚めて、股間あたりのじめじめした感触は、そりゃ気色わるいけれど、それを補ってはるか余りある心持よさである。
夢精にもいろんなパターンがあって、フロイトは何と判断しているのか知らないけれど、約半数は、まぐわいに至らぬもどかしさのうちに放ち終え、残る半分の、その三分の一は、女人以外を対象として、たとえばラッシュアワーでドアに押しつけられている夢やら、岩のぼりに成功したというものやら、ある時はわが子の尻の感触をたぐって登仙する。また三分の一は、女陰をみる、さわる、匂いを嗅ぐといった刺戟により、放出するのであって、実際に女体と交わり、そして大満足にいたるのは、全体の六分の一しかない。
いちばん有り勝ちなのは、女性からことをもちかける。しかし、据膳くうには、いろいろさしさわりがあって、つまり衆人環視の中であったり、親とか女房がいつあらわれるかも知れぬ場所、いらいらそわそわするうち、ひょいとこれは夢なんだなとおぼろげにわかる。わかるとなお覚めたくなくて、布団をかかえこみ、その先きへすすもうと努力し、そして逆にはっきり目覚めてしまう、夢だと気づいた時にじたばたしてもしかたないので、夢よりも、さらに深くねむろうと虚心坦懐になれば、つづきがみられるものなのだ。
途中で気がつかない時は、一人ないし二人の女性が、ストリッパー特出しよろしく、すべてあらわにして、露骨にせまってくる。こうなると、まだ周囲への気がねは残っているものの、しゃにむに突きすすみ、埋没は果たすのだ。夢精において、女体がタコのキンチャクのと、上質であることはまずない、たいてい粗芽弧であって、いっこうにたよりないまま、しかし時いたれば、これはもう現実のいかなる上品《じようぼん》よりもけっこうな味わいを与えてくれるのである。
ドラマティックな夢精というものはまずないといってよく、女をようやく口説きおとしてベッドにいざない、あれこれあってようやく欲望をみたすとか、また、いやがる相手を腕ずくでおしひしぐというのもない、こういうのはたいていは途中で覚めてしまうもので、夢精の特徴は、据膳にありといってもいいほどである。それともう一つの特徴は早漏であって、顔形さだかならぬ女体を抱きすくめ、しかるべく指をはいずらせているうち、昂まりにいたってしまったりする。視覚嗅覚が夢精の主な支えとなる時は、精神的に疲れていることが多く、とにかく、ふだんそうしげしげとみたこともない於芽弧が、パカッと眼前に開けていて、それにながめ入るうち、じわっとにじみ出てしまったり、状態はどうであれ、とにかく、女陰のまごう方なき匂いが濃密に漂い、その香りの中に身をまかせていると、突き上げられるような昂ぶりが生れるのだ。女体以外のモノにしがみついていて放つ場合は、逆に肉体的な疲労の残っている時が多くて、デモ行進からかえった若者などは、えたいの知れないもみ合いの中で果てる夢をよくみるという。
夢精願望は、江戸時代からあったようで、「好色とのい袋」に、「夢に女人と契るの一法」という項目があって、それによれば、まず枕を想う女の寝る方角に向け、盃に水を入れて枕もとに置く、寝姿はどうでもいいのだが、女を念じつついくたびも珍宝を伸縮させ「南無コンダラニ南無コマンダラボー南無コマニダラソク」ととなえて眼を閉じる、するとあらふしぎ、夢ともうつつともつかず、思いをかけた女性と枕かわせる。
もっとも「精気十倍消耗する故にみだりには行うべからず」とあり、労咳病みがこれに取っつかれると必ず生命を失うと注意書きがある。これだけならどうということもないが、この著者はしごく気のつく人で、夢精と夢糞の関係についても言及し、「精洩れるの時、尻の穴またつれて開閉するなり、閉まりわろき穴ならば、ゆるみしまま粗相する故に心がけるべし」というのだ。
夢精の際、珍宝は雄々しくなっているのか、そうでないのかわからないが、ふつう射精の際は、一射ごとに、肛門はキュッと閉まるのが当然で、夢精の場合は、少ししかけがちがうのだろうか。全体的に緊張がゆるんで、よくいわれるように、あふれ出すが如くに放たれるのなら、あるいはユルウンの時、少々失礼があるのかも知れない。
そして、ぼくは一度、他人の夢精している姿をみたいと思うのだ、布団などにかじりついて、ひいひいいいながらするものなのか、それともしずかな寝息立てつつ、ふと、にたありと笑って、済ませるものなのか、その時間とか、表情とかこまかく観察してみたい、こういう研究は古今東西あまりないのではないか。また、催眠術で夢精は可能なのかしら、もしそうなら、トルコ風呂などと、いちいち手をわずらわせることはない、夢精会館をつくれば、これにまさる若い男性性欲コントロールはないだろう。
女性にも、この現象はあるのだが、男とちがう点は、必ずその性感帯に指なりなんなりが触れていることで、未経験の女性は、男性を想像しようがないから、下半身を正体不明の重くやわらかいものに圧迫されている感じ、あるいは、フェラチオしている自分を思いえがき、ある境地に達するそうな。そしてベテランになると、はっきり誰と明確にわかるという。
男性の場合しごくあやふやな女性像しかたよれず、ただ女陰そのものははっきりみるのに対し、女性は、どこの誰と抱かれる相手がわかり、しかし、性器をみることはなく、夢精の過程においては、ふつうのセックスと同じく前戯からはじまって、珍宝の体内侵入感覚から、抽送、放出まで、まこと克明に感じるという。ただ女性も、自分の好みの相手を、夢に出現させることはできなくて、まったく思いがけぬ男に抱かれ、その戦慄が、こよなく甘美であるらしい。女人夢精中の姿は、これはあんまりみたくありませんなあ、かなり気持わるいでありましょう、一人で鼻息荒らげているなんてさ。
[#改ページ]
水泡に帰す勿れ
千人斬りとかなんとか、男が偉そうにいったって、所詮たかの知れたものである。ぼくが偶然手に入れた、北支某所における慰安所つまり、兵士を相手の娼家経営者の覚え書によると、娼婦一人が一日平均二十人の客をとっていて、これはあくまで平均であり、明日から討伐に出かけるという前日など、最高八十四人の男を往生させた例もみえるのだが、慰安婦の休暇は年二回だから、まず、一年間で七千二百六十人、そして、五、六年勤めたとすれば、四万人を相手にしたことになる。
四万人というと大したこともないようだが、精液の量でいえば、ほぼ十二万ccであって、百二十リットル、一升瓶に詰めると、約六十七本、六斗七升になるのだ。これがさらに、明治中頃から、昭和初期にかけて、シンガポールやマニラ、香港、ペナンなどで稼いでいた、いわゆる「からゆきさん」になると、十七、八歳で売られて、一日に三、四十人をこなし、ほぼ五十近くまで勤めたのであって、ぼくのきいたその生き残りの方は、まあ五十万人じゃきかないだろうと、おっしゃっていた。
すると百五十万cc、千五百リットル、精液の比重はほぼ水と同じくらいらしいから、重さでいって一トン半、これをずっと貯めておいたら、湯あみくらい楽にできる。ぼくは、その今年八十九歳になるおばあさんが、男の付け文燃やして精液風呂に入り、ひっひっひと笑っている姿を、つい思いうかべたのであるが、この方はついに子供を産まず、すなわち一ccに三億の精子がいるとして、四百五十兆匹の精子を浪費させたわけ、実に豪奢なことではないか。
いったい人類は、これまでに何ccくらいの精子を放出してきたのであろうか。現在地球上に三十六億の人類が棲息しているとして、十八億が男、うち三分の二が可能であるとすれば、十二億が夜毎営んでいることになる。まあ、中には糖尿病もいれば、膝小僧寒きひとり寝もあるにしろ、一方で、夜毎二度三度のあてがきなさねば気のすまぬ血気さかんな若者もいることだし、一晩に三十六億ccのザーメンが噴出しているとみて当たらずといえども遠からず、これは、三百六十万リットルで、三千六百トンになり、これをあるいれものに入れたとすれば、横二十四米、縦五十米、深さ三米と丁度オリンピックプールくらいの容器にいっぱいになるのである。現在、さまざまな美容方法がいわれているけれど、精液美容だけはなくて、だが、こういうプールにドボン、というかペチャッと音立てるか知らないが、裸女が一糸まとわずとびこみ、抜手を切って泳ぐならば、なんとなく肌艶よろしくなるような気がする。
どうせ、美容術なんて一種のデマに支えられているものだから、誰かがしたり気に、「なんといってもザーメンは男の生命のしるしであり、これをむざむざ捨ててしまうのは勿体ない。これを粘膜から吸収することで、女体は成熟の度合い一歩すすめるのだから、さらにザーメンパック、ザーメン含有クリームを使用すれば、永遠の青春を保ちうる」てなことをいう。きっと貪欲なる女性は、とびついてくるであろうし、女房なんてものは、事後ルーデサック逆さにふって、にたにた笑いつつ、顔にぬたくるかも知れず、若者は趣味と実益が一致して、おおいにたすかるであろう。
それはともかく、一夜にして三千六百トン、一年で約百三十万トン、マンモスタンカーで十ぱい分であり、現在これをなしくずしに流しているからいいようなものの、たとえばはるかに小さいタンカーが沈没しても、流れ出す重油によって、えらい災害をもたらすのだから、百三十万トンの精液がひとかたまりとなって、ゆらゆらくらげの如くに漂ったりすれば、さぞかし壮観であり、これがどこぞの海岸に、しぶきをあげうち寄せれば、あたりいったいの女性すべてはらんでしまったりするかも知れぬ。
人類の数はここへ来て、急激にふえたのだから、この数字を単純に当てはめることはできないが、かりに人類誕生以来の平均を、現在の量の十分の一、つまり年間射精量十三万トンとして、まあ十万年つづいたとすると、百三十億トンということになり、これは多分、石油の埋蔵量と同じような単位ではあるまいか。そしてこの中に何匹の精子が含まれているかといえば、もはや、天文学的数字であって、実は計算してみようとしたのだけれど、零がいっぱいくっついて、眼がくらんでしまった。地球なんてものは、結局、精子の残骸によって成立っているような気さえしてくるのだ。
そこへいくと、女性のころりととりおとす卵の数なんてものは知れていて、十歳から五十歳までの四十年間に、五百個くらいでしかなく、まあ、けちけちした飲み屋でつき出しにつかう、子持ちわかめの粒々にも足りず、人類発生以来の卵の数を計算したって、丸ビルいっぱいに入りきってしまうのではないか。実に男というものは無駄使いしているのであって、逆にいえば、能率がわるいのだ。
これからは、生殖とセックスがますます切りはなされるだろうから、男だっていつまでも一回ごとに三億匹なんて無駄は自然となくなり、一生のうちに五、六十匹がせいぜいになるかも知れない。
すると、この精子だって細胞の一部にはちがいなく、余計な浪費をしなくて済むし、寿命は女性なみに近づくかも知れぬ。また、そうでなければ、ザーメン公害というか、人類がこのままふえつづけ、せっせと夜毎三cc放出しつづけたならば、精子の死骸がつもりつもって、これはまあ、海へ流れるのだろうから、やがては、海水一ccあたりの大腸菌ではなくて、精子何匹という表現で、汚染度があらわされるかも知れないのだ。それにしても、現在は一面において廃物利用の面も開発され、女性の小便や、さらにいかがわしいものからも、薬をつくったりしているのに、精液だけいたずらに捨てられるのは、勿体ないような気がする。
チリンチリンと鈴をならして、「御主人御子息のザーメン、トイレットペーパーと交換いたします」なんて商売が、あらわれたっていいだろうに。
[#改ページ]
限りなき女族性感開発
男の自慰を男《オ》ナニーといい、女性のそれは女《メ》ナニーと称するのが正しい、てなことをいったのは、誰だったか忘れたが、とにかく、女もこのことはなさる。小学生の頃、耳にした噂話で、女学校の便所には、ナスがいっぱいうかんでいるというものがあり、「そやから秋ナスを嫁にみせるないうねん」中学生がしたり気に教えてくれ、さっぱり意味わからぬながら、これはしごく冒涜的な言葉に思えた。
さらに、県下でいちばん美女の集るといわれた女学校の便所で、女学生が下腹部血まみれとなってうずくまっているのを発見され、それは、六十ワットの電球をもてあそび、中で破裂したためだと、伝えられて、これも鮮烈な記憶として残っているが、破裂はともかく、女学生とナスや電球の取合わせは、ほとんど全国的にいわれているようで、実際にこんなことがあるのだろうか。
以前、ブルーフィルムの一つに、性的妄想のきわめてゆたかな女性を主人公としたものがあって、世の中のあらゆる細長いものを、取りこんでしまうそのプロットを紹介したことがあるけど、男性に較べると、女性の方がやり易いことはたしかで、今、ぼくが室内みわたしても、万年筆鉛筆サイダー瓶電気カミソリミニチュアウィスキー瓶、いや、なにより指があるし、カカトだってどうにか使えるのではないか、これに較べると、穴のあいたものなど、まったく少いのである。
女性の性感なんてものは、さっぱり見当のつかぬもので、どこが鋭敏とやら、また、神経の分布がまったくないといわれても、取りあえず、どこに触れても、五体のけぞらせる如くだから、なにもいちいち亭主責め立てずとも、自分のことは、ちったあ自分でしてはどうなのか。女給の、ベテランにきいた話だけれども、人間の手というものは、ごく自然に力を抜いた時、下腹部のあたりに指先きが触れるものであって、だから、よほどの奇形でないかぎり、あらゆる女性は、ねむりに入る前、そのポーズをおとりになるのだそうだ。
そして触れれば、つい指先きが鉤《かぎ》型にまがり、少々内へ折れこむのも、これは生理の当然であるという。そんなものかと、小生、今横になってみたのだが、ぼくの場合は、われとわが胸を抱くように寝るらしく、いわば胎児の形をとり、もし、女性の中にこのポーズがいるとすれば、これもヤバイ、そこには巨大な乳房があるのだから、やはり刺戟を受けるのであろう。
こう考えると、男よりも、はるかに女ナニーのチャンスは多いはずで、しかも、男は、排泄するものがあるから、ばれるけれども、女ナニーは、沖の石の人こそ知らねかわく暇なしでも、ちょいと気づかれにくい。
もっと考えると、あのパンティなるもの、なんとなくくいこんじまっているような印象だけど、歩く時に、冷静でいられるのだろうか。また、田舎へいけば、未だに自転車通学が多いけれど、あれこそ、ぴったりと刺戟しつづけるのではないか。乗馬において、馬からおちる割合いは、圧倒的に女性が多く、それは、ふとももで馬の胴をしめつけつつ、ギャロップなどで波うちつつ走る時、まったく唐突にエクスタシーがおとずれ、一瞬忘我の境に入って、おっこちてしまうのだという。
しかも、ぼくが、小学生の頃から、春情にめざめていたというと、女性は眉しかめるけれど、小学生の女児で、机の角に、さりげなく下腹部を軽く押しあて、またひきはなすなどして、一人上気しているケースは、ごく当たり前に観察されることだというし、教師の背中にとびつきいかにもおっことされまいと手足からみつけてくるのも、あながち無邪気のためばかりではないし、よくある父親の肩車、これによって、特別な感触にめざめた例も珍しくはない。せがまれるままうれしがって、娘を肩にのせ、実は、パパは女ナニーの道具にされているのかも知れないのだ。
また、女性も、腹ばいになり、快感追求にふけることがあって、この場合は、片脚ずつ膝から屈伸させると、なお昂まりを得易いという。娘が畳に腹ばいになり、漫画などを読んでる姿をみて、まだ無邪気なものだと、まなこほそめていては、それは無知というものであろう。坐れば、これが正座の時、足のカカトのところが、微妙なあたりに触れる、膝をくずせば、どっちかの足の裏が同じくタッチするし、胡坐《あぐら》かけば、まあためしてみるとよろしい。古えの女は、この態位によって、自らをなぐさめたものだし、椅子に坐っても、ヒップごと左右にゆすることで、恍惚となり得る、よく喫茶店で、恋人と向きあい、なんとなくもぞもぞうごいている女性の姿をみるのは、この最中とみてよろしい。
要するに常住坐臥、女というものは女ナニーをたのしみ得るのであって、無理なのは逆立ちしている時くらいのものではないだろうか。しかも、男は、昂まりを経れば、がっくりするのに、女はいっこう疲れもせず、そして男が、精神的に罪悪感をもつのに反し、女性は、せいぜいが肥大したとか、色がかわったなど、しごく即物的な面でのみ心配する。生理用品の形態がかわったのも、考えてみれば、あれによって、さらにあらたな刺戟を与えられると、女性に期待の心があったからこそ、普及したのではないか。ゴーゴーも同じことで、これまでの踊りは、男と接触こそすれ、肝心の部分については、刺戟が少かった、ゴーゴーならば、自分の好きなように、ふとももすり合わせ、ヒップくねらせて、しかも、忘我の境に入れば、すなわちソールのある踊りなどと評価される。車の震動に身をゆだねたがるのも、男より女の方に、スカイダイバー志望者の多いのも、みなこれ、女ナニーのあたらしい手段方法だからではないのかしら。
どう考えても、女性に有利な世の中である、この世のすべて、女性の性感開発のために用意されたとさえ考えられるのだ。女性快感抑止剤とでもいうものを発明して、種痘の時に、いやそれではおそいかも知れぬ、ジフテリヤのワクチンと一緒に投与するべきではないだろうか。性的快感の点だけみれば、女性はプロで、男性はしがないアマチュア、草角力といわなければならぬ。
[#改ページ]
老衰の果てに
養老院などへいけば、まことによくわかることだが、お婆さんは、お爺さんよりはるかに元気であるし、色艶もよく、なにより生きることに張りをもっている。これは生殖能力こそ失っていても、女性は性的快楽をその気になれば、幾歳になっても味わい得るからではないのか。不遇の死を遂げた、横浜本牧チャブ屋のメリケンお浜は、七十二歳、乳房を癌に犯されていながら、死の二日前まで、女としては現役であった。つまりフェラチオを行うことで、自らもある昂まりに到達し、場合が場合だから、女《メ》たけびあげることはかなわず、滝田ゆうの漫画の主人公ではないけれど、ムグッーと果てたそうな。そして、彼女は殺されたのだが、どうやら理由は痴情らしいというのだから、まことにすばらしき女の一生ではあるまいか。
お婆さんたちは、しごく具体的な猥談をなさるけれど、それはそのあけすけな表現故に、応対に困る態のものでもなければ、またよくある老人の、これみよがしな色ざんげの如くいやらしくもない。また、いわゆる洗練された猥談風に、上品ぶってもいなくて、あるべきものを、あるがままに物語り、たとえば七十八歳の方に、いったい於芽弧はそのお年になると、どうなってしまうのか、たずねてみたところ、しばらく首をひねって、「まあ、とにかくガワだけはちゃんとしてるけどもねぇ」、奥まったあたり、いかが相成っているかわからず、多分、埋まってしまったのではないかとおっしゃった。
ぼくは、男性にインポテンツの現象があって、女性にみられないのは不公平だから、丁度年古りたダムが、砂に埋まってその用をなさなくなる如く、二十歳過ぎたら、じわじわとたとえば精子の残骸が堆積し、閉経期にはひらべったくなればよろしいのにと、考えたことがあり、この埋まってしまうという怖れは、女性にいくらかあるようで、老婆のほとんどが、こんな風な表現で自分のものについておっしゃっていた。いわゆるオサラというのは、あまり品良くない場合の表現だから、丁度、心なき女性が、経験浅き男に対し、不当な侮蔑を与え、抜きがたい劣等感与える如く、こっちも少しやってやればどうだろう。只今の女性騎乗位時代というものも、つきつめたところ、性的優越感に支えられているものであろうから、ちったあ、こらしめた方がよろしい。
お婆さんに、いったいいくつの年齢が最後の営みであったかをうかがうと、すべて忘れたとおっしゃり、お爺さんは逆に半分くらいが、およその見当ながら、覚えていて、むしろ最初の記憶があいまいなのだ。ぼく自身、死ぬのはいいとして、ああもう一度とくやむ気持があるのは困るから、なるべく今日のことを明日にのばさないよう心がけているけれど、現在の心境たずねると、もはやとっくにお爺さんと幽明|界《さかい》を別にし、あきらめてはいるが、しかし、時にその気のおきぬでもなく、「だけど、油の五合も使わなければ無理だろうねぇ」けっけと笑い、すると別のお婆さんは、「なんの、ありゃ神さんの泉みたいなもので、いつまでたっても涸《か》れる気づかいはない」いかにも自信あり気に強調して、その口ぶりだと、十分にいまでも現役で通用しそうに思える。
同じような質問を、お爺さんにしたら、こちらは、まるで生れてからそんな営みいたしたことないように、けろっとして、忘れた忘れたと強調し、みようによっては、思い出すさえいやな悪夢の如く、そしてごく少数の方だが、八十歳を過ぎてなお、夢精なさる例さえある。もっともこれは、ホルモンの異常だが、そういった欲望を抑止する力のおとろえた場合が多く、こちらは少年のように眼を輝かせ、「誰かいい嫁はいないもんかねぇ、やっぱりカカァがなければ、男は半人前だもんなあ」溜息をつき、贅沢なことに、同じ養老院のお婆さんでは駄目で、せいぜい六十までだという。そして、六十過ぎた場合、どこがどう駄目なのかうかがうと、やはり粘稠度に欠けることがいちばんで、つぎに先様の感受性ががっくりおちるという。
老人医学の開発は、近頃めざましいようだが、これから老人がふえ、そしてある程度の社会福祉が整備されたならば、暇もてあました老人のセックスは、丁度、近頃の年少者の早熟ぶりに、いちいち大の大人がおどろく如く、今後、老いてますます旺《さか》んなることにびっくり仰天し、筒井康隆ではないが、プレイ爺いが、若輩を圧倒するかもしれぬ。六十過ぎれば、もはや抜きがたく老人と見なす風潮は、至急に是正されなければならず、また、我々の未来、生きながらえたらの話だが、たのしみのために、今のうちから老人にふさわしい態位、また、老人の性感帯の調査、老人食の如く消極的なものではなく、精力増強に結びつき、しかも心臓や血圧に影響の少い食物を研究するべきであり、また、男性は、六十、七十というとてんからお婆さんときめてかかる偏見を打破する必要があるのではないか。
老女の美を、審美眼の座標軸ほんの少々ずらすだけて、おおいに讃美できるはずであり、このことを今から心がけておいて、決しておそくはない。事実、お婆さんにかこまれ、十日間も過ごしていると、かなりこちらの好みが生れるものだし、美婆さんもけっこういらっしゃるのだ、「ガワだけ」と突き放しては、気の毒であろう。
そしてあるいは、心臓麻痺とか、中気という不粋な原因による腹上死ではなくて、老衰の果てに、最後の力をふりしぼって愛撫しあい、みまかるならば、これぞ蓮華往生みたいなものであるし、また、うまくいってお互い果てれば、これぞ比類なく美しい心中ではないか、誰がこれをとがめ得ようぞ。生殖をまったく本来的にはなれてしまった老人のセックスから、あるいは、フリーセックス、性の全人格的解放が生れるかもしれず、お爺さんがお婆さんを強姦すれば、かのミスターオールドパーのように、その矍鑠《かくしやく》ぶりをたたえられるだろう。またその入り乱れての乱交を、警察は取締まり得るか、もうじき死ぬんだからと、多分、放置するだろうし、そしてこの死と隣り合わせのセックスこそが、性の極北なのである。生と結びつき、生を志向するセックスなど、どうもいやしい印象が強い。
[#改ページ]
不能克服の悲願
性的な知識のあれこれ、ずい分普及しているようだけれど、それは避妊とか態位についてであって、さらに高級な、何故インポテンツになるか、また、それをふるい立たしめるにはどうすればよろしいかなど、わかっているようで、よくわからぬ。
まず男は見栄っ張りであるからして、自分が不能となった場合の、赤裸々な報告をしないものだし、また、不能には一種の予感があって、なりそうだなと潜在的に気がつき、なにやかや口実もうけ、戦いに臨むことをさけたりもする。「私はこうしてインポテンツを克服した」というような、本誌独占衝撃の告白があってもいいと思うけれど、これまで浅学にして知らず、男も亦《また》、ずい分同性の陰口きくものだが、「あいつはインポだよ」というそしりはない。どうも、男性はこの症状について、みるのもきくのもいやがっているようだけど、この分野における相互研究が開発されてしかるべきではないのか。「不能医学」「インポ友の会」というようなものをつくって、その実体究明する必要があろう。
小生の考えるところでは、まず全身的な衰えによるもの、ひどい糖尿病やら、癌の末期においては、立つ能わざるのが当然であろう。朝魔羅は、健康のしるしといわれたり、あるいは、単に尿が溜って刺戟するからと、そっけなくあしらわれたりするが、女性における基礎体温と同じく、あまり環境の刺戟や、情緒変化の少い起床時の、この現象はやはり、一種の基礎体力をあらわすものではないのか。朝魔羅のみられるうちは、まず安心していいけれど、これですら、深酒をしたり、あるいは、過度の感情的昂まり、あるいは自分でも、まったく思い当たるふしのないまま不能となることがあって、こういう現象を、あまり男性について御存知ない女性に、御納得いただくのは、至難のことである。
酒だって、いかにも酔い痴れましたという時はいいが、また、それなら女性とのチャンスも少いけれど、うわべほんの生酔いにみえて、がっくり能力のおちている時、「どうものみ過ぎたらしくて」など、宝の山に入りながら、必死になって好色的イメージ思いえがく苦しみといったらない。決して、快楽をまさに棒にふりつつあるという感じではなく、ひたすら女性にわるいと自己をさいなみ、きりきりまいしてしまう。
また、積年の想いがかなって、ようやく添寝の新床に、うんともすんともこたえのなくなることがあり、これは、たとえ先様がかなりの高嶺の花であっても、一定の加速度に従って進行したのならまずない。ところが、とてもまだ駄目だろうと思っていたのが、どういう風の吹きまわしか、とんとん拍子にことが運んだりすると、この状態になる。この場合は、ひたすらわれとわが身が情けない。いろいろと小手先きをあやつって、これぞわが伝家の技巧という風に動作し、先方もはじめは気がつかぬ、この方は前の戯れに時間をかけるタチなのかと、次第に息荒らげつつ、だがいっこうラチあかぬから、やがて不審の色がきざし、「あの、バースコントロールのなにを用意してないから」など、こっちはあくまで紳士ぶったって、「あら、私、お友達にもらって、こんなのもってるのよ」リング状の錠剤バッグから取出す。
ままよと、なえたままで取りかかるが、先方は、どうも自分に対する愛情が、不足故にこのことになったと思うらしくて、たいていはきわめて不機嫌になる。「いやあ、あまり好きなもんだから、男って惚れすぎると、どういうのかな、尊いものを涜すような気がしちゃって駄目なんだ」歯のうく台辞口にしつつ、なお心では叱咤激励獅子奮迅、こんな口惜しいこともない。また、相手が、先輩の女房であるとか、たちの悪いヒモのいる怖れ、また、わが娘と同じ年頃なんて時にも、これはまあ、ベッドに入る前に抑制の働くのがふつうだが、ままよ三度笠で突撃しても、壮途空しいことが多い。ぼくの場合は、同年生れの女がまるっきり駄目であって、何気なくねやの痴れ言交すうち、「へえ、じゃあなた午歳なの、じゃ昭和十二年小学校入学?」なんてやられると、なにやら近親相姦といった感じになる。
空襲はどこで遭ったか、腹の減り具合はいかがなりしかと野暮な話に花が咲き、とても枕を交すにいたらぬ。温泉マークの饅頭が、しごく貴重な物にみえてきて、「そう、お父上は戦死なさったの」と、しんみりしてしまうのだ。この場合、そい寝したってまったく反応はなく、女性の方だって、※[#歌記号]マーシローキフージノ、スーガタァコソ、など低く口ずさみ、まっこと御きょうだいの如く朝を迎えるのだ。
まあ、いろいろインポテンツとなる要因は多いだろうけれど、この具体的な報告を、もっと公表し、一方においては、ああ自分だけではなかったのかと、同性を安堵せしめ、またかたわら、女性にも万止むを得ざるこの間の事情を理解いただいた方がいいのではないか。
花柳界においては、もともと老人の客が多いためか、この状態から脱出するための知恵がかなり伝わっているらしく、しかし、これも、老妓と共に消滅しつつあるそうな。たとえば、おしぼりでむす方法、現在のおしぼりブームは、何のことはない、これからはじまったという説もある。だいたい四、五十本のおしぼりで、儒夫《だふ》も立ち得るといい、他に、爪を用いる手段もよくきく。これも、現在の長くのばしたままでいる流行の基といわれ、爪を長くのばすのは、水仕事をせず針を持たない階級の誇示の意味もあるけれど、それはすなわち、男性の性的愛玩物を意味し、長くのばせばやわらかい感触となる、その先端であれこれ奉仕するらしい。そして、不能をして立たしめる薬は、不老長寿の悲願と同じく、さまざまに探し求められ、実際に発見されているけれど、丁度麻薬を用いれば、その後に、禁断症状の苦しみがある如く、さらにインポテンツはひどくなって、過ぎれば完全な廃人となる。インポテンツとはっきり思いさだめてしまえば、それはそれで明鏡止水の境地だろうけど、ふりみふらずみどっちつかずの時が、いちばんお互いさま困るだろう。
そして、この救済には、なにより女性の協力が必要なのだ。こっちだってあれこれ努めてるんだから、そっちもちったあ勉強してくれ。
[#改ページ]
もはや本能に非ず
中世ヨーロッパの王様で、奇妙な実験をした奴がいる。それは、乳ばなれしたばかりの男と女を一室に閉じこめ、すっ裸のまま、もちろん世話をする者も、二日に一度部屋の掃除をし、食事を与えるだけなのだが、同じく裸で、子供とはいっさい口をきかず、十数年間放置した。王様の意図が何であったのか、よくわからないのだが、かわいそうな二人は、常に身を寄せ合ってねむり、二人だけに通じる言葉で、お互いの意を通い合わせたそうだが、ついにセックス営むことはなかったという。
人間も、こう動物的本能が退化してくると、犬や猫の如く、お互いの発する分泌液やら色合いの変化に触発され、いわず語らず、子孫繁栄の営みを行うことは、すでにかなわぬらしくて、なんらかの形で学ぶ必要がある。そしてこの学習が、いかに影響するかというと、女郎屋に育った子供は、たいてい早熟だし、また、ぼくの小学校の頃、アパート住いの少年が、男女の躯の相違について、しごく詳細に説明してくれて、これは、部屋がせまいから、両親の裸をみるチャンスに恵まれていたためであった。
アメリカにおいて、黒人の子供が性的にませているのは、その住宅事情がわるくて、両親のみならず、年頃に成長した数多い兄弟姉妹の、肉体的変化まのあたりにするからといわれ、これは、丁度、日本の団地アパートにも当てはまる。たいていの団地アパートに、風呂はあっても脱衣場がないから、視覚による学習のチャンスはいくらもあり、これが戦前であれば、まあ、両親の秘所など、まず、拝見することはなかった。
このようにして考えると、現代は、セックスについての、懇切丁寧な解説がいきわたっているから、童貞も処女もいわば眼年増になっちまって、この両者における営みも、かなりスムーズに運ばれるらしいが、せいぜいが、「生命の起源」「神秘の扉」などいうあやしげな性解説書にたより、さては、しごく抽象的な性教育しか受けられなかった時代、無知による悲劇がいくらもあった。
奈良の女高師を出た才媛と、京都帝大出身の秀才が、めでたく華燭の典を挙げ、熱海へ新婚旅行にいった。そしてまあ、翠帳紅閨枕をならべたのはいいが、さっぱりラチがあかぬうちに、秀才は当然のことであるが、才媛の花園に至る前に、空しく放ち終える。するってぇとこの才媛、とび上って便所に入り、出るなり荷物まとめて、うろたえる秀才をそのまま、実家へかえってしまったのである。
事情たずねる両親に、ようやくうち明けていわく、「神聖なる処女に尿をひっかけた」と。仰天し、かつ怒り狂った親は、仲人を通じて抗議し、すぐ事情がわかったが、今度は秀才がおさまらず、結局破談になり、半年後に才媛自殺してしまったのだが、これは昭和初期のことで、新聞にも出た。
また、おどろくべし、前にも触れたが尿道をてっきりそうだと思いこみ、岩に立つ矢のためしありと、青の洞門よろしくこれに挑戦し、見事一年かけて貫通、ことなれりと御満悦の亭主が、昭和二十一年にいる。これは、まるっきり子供の出来る気配もないから、女房の医者に相談してわかったことで、尿道に異物挿入されることは、かなり痛いが、よく我慢したものであります。
近接する孔に、まちがって入ることはよくあったらしいが、そしてこの場合、侵入された方としては、気がついても、すぐにはそうと申し上げにくい。そのうちしごくスムーズになり、そういうものかと半信半疑納得して、たいてい痔を患うから、この治療の際に発見される。この他、いわゆる素股でもって、わがこと成れりとほくそ笑み、何年もそのままでいる例も、珍しくなかったという。
ぼくの年代では、いちおう解剖学的知識を、書物によって学び得たのだが、そのものはわかっても、位置関係がさだかならず、幼女などたしかに、あらわなのに、成長するにつれてみえなくなってしまうから、あれこれ推量したもので、たいていは、もっと上の方にあると考えていた。だから、赤線へいった時、「なにそんなとこごちゃごちゃやってんのよ」よく怒られたものだ。
ましてや、うごかさなければならないとは、自涜を考えればわかりそうなものなのに、てんから思わぬ。自涜はつまり、いやしいことだから、必死になって指使いしなければならないが、真物の女体ならば、ただもう入りこんだだけで、たちまち放出できるのではないか。そう考えただけで、いても立ってもいられなくなるほど興奮し、このあたりの心ざまについては、石堂淑朗、長部日出雄両氏が、小説に書いている。
入りこんだだけで感謝感激、うたた呆然という境地こそ至福のものだろうと思うが、さて、性的情報過剰の現代においてはいかなる塩梅であるか。小生のきいた範囲では、まず女性においては、破瓜すなわち痛みという頑固な先入観念があり、そして、いかなる相思相愛であっても、処女は男性に貢物の如く「捧げる」ものらしく、また、痛みされば、たちまちに失神するのが、当然と信じているらしい。こういうのも、一種の偏見であって、まして処女を恩着せがましく「あげる」のなんのと戦前はいわなかったものだ。結婚したばかりの女性が、うかぬ顔していれば、たいてい不感症ではないかとの心配故だし、また、亭主を病気にあらざるかと、気をまわすのは、それまでやみくもにせまっていたのに、いったん一緒になってしまうと、しごくあっさりしているため、憂慮なさるのだ。
男においては、なんでもかんでもフランス風愛撫を加え、躯中なめまわしたり、前、後の戯れ入念に行うものと信じきっていて、いったん経験してしまえば、面倒でやりはしないが、そのはじめの際、必死に頑張るし、また、相手にもそれにみ合うサービスを要求する。そして、以前あって、今ないことは、事後の処置における心づかいで、かつて男は、芸者や娼婦と接する機会が容易だったから、そこで勉学した成果、すなわち女のなすべき後のたしなみを、妻に教えたが、今は、かなりくわしく学習できるとはいえ、そこまでは至ってない。故に、シーツを汚し、手近かのもので、自分のことは自分でせよとばかり始末し、洗濯屋ばかりもうけさせる。
必要にして十分なる性知識は、どの程度までをいうのか知らないが、初夜にして、お定さんもびっくりみたいな、技巧弄するのは、生兵法怪我のもとで、尿道亭主を笑うことはできない。最近は、枕絵どころではなく、両親がまず営んで、範を垂れることもあるとか、親心といえばそうかも知れないけれど、あるいは回春効果狙ってるのかもわからないぜ。
[#改ページ]
情事の裏方ども
ホテル・コンサルタントという職業がある。そもそもコンサルタントと名がつけば小生などてんからいかがわしいと、思いこむ妙な偏見があるのだが、ホテルにおけるこれは、決してアチラ渡りの屁理くつこじつけに惑わされることなく、実際にホテルを数多利用なさっている方が、無料で、といってもそれでは商売にならないけれど、まあ有無あい通じ合わせて、世渡りなさるらしい。
あわててつけ加えておくけれど、この場合のホテルは温泉マークのことであって、結婚披露パーティの行われるようなものでは絶対にないのだが、なにしろ形かわり色ことなるこれをみると、しかるべき伴侶なくとも、のこのこ入りこみ、御休憩料なにがしかを支払い、とくと見聞なさるマニヤがいて、その説によると、さかさくらげなるものの出現したのは、大正年間、日暮里、大森がその嚆矢《こうし》であるそうな。その特徴は、入るなり二つ枕ならべた布団が、すでに準備されていることにあり、ふつうの旅館では、特に申しつけなければ、このことはなかったという。
戦後は、まず進駐軍とその恋人出あいの場として、これが栄えたのだけれども、これが単に寝るだけではなくて、さまざまな趣向をこらし、贅《ぜい》をつくした現在の形になるについては、やはりかなりの年月を必要とした。
まず、鏡張りの部屋とか、あるいは女人の入浴姿を、観賞し得る設備は、マルセイユあたりの直輸入、横浜、神戸に、やや猟奇的な興味でもって、あるともないともわからず語り継がれたらしい。また、上海にもこの種の設備は万全のものがあり、男女相睦み合うかたわらに少女が、おしぼりを捧げて待つというような仕組み、またのぞきやら、マゾ、サドの趣向をみたす道具も用意されていたそうな。しかし、それはあくまで一部であって、ほとんどの出あい茶屋はミもフタもなく、がらんどうの部屋にベッド一つとトイレットだけなのに、現今、み受けるホテルなるものは、これぞ日本の精華というべく、よく観察すれば、いささか安手だけれども、こんなによく考えられている設備が、これほど行きとどいている例は、古今東西に例がない。
世界に冠たる日本の特産物といえば、これはもう全共闘諸氏のゲバスタイルと、温泉マークの諸設備であって、これもすべてホテル・コンサルタントの尽力によるものなのだ。このホテル・コンサルタントは、主に関西の遊び人、たいこ持ちあげての果てのたいこ持ち、といった人生の達人がこの任に当たる。たとえば、昭和三十二年において、すでに十三《じゆうそう》近辺の温泉マークは、ホテル側の使用人といっさい顔を合わさずに利用者の部屋へまかり通れるように工夫し、つまり、ランプのついている下足箱へ靴を入れ、その鍵がそのまま部屋のキイとなっていた。そして、もどる時、靴を出そうとすると、こつぜんとして「螢の光」のメロディが鳴りひびき、年老いた婆さんが、勘定受け取るのであって、大晦日の、卒業式のといっても、この時の、※[#歌記号]ホタールノヒカーリ、ほど心にしみ入るものはない。
鏡張りは、戦前から、待合にみられたけれども、これを天井から床にまで張ったのはやはり十三が先きで、冷蔵庫のそなえつけは、銀橋ホテル街が先鞭をつけた。ただし、ベッドやらお風呂の奇妙奇天烈なしかけは神戸であるらしく、室内のライトを消すと、風呂場に灯がともり、さらにそれを消せば、今度は湯槽の側面から煌々《こうこう》と照らし出されるなんていう、今では珍しくもないけれど、工夫は神戸山の手のホテルの考えついたもので、円型ベッドやら、ゆれうごくそれも布引ふもとの賢人がまずこころみたといっていい。
鏡にはじまり、冷蔵庫、風呂の工夫ときて、少し前は、自動販売機にいろいろアイデアがこらされ、本来ならば各自用意するべき品の、それはどうということないが、神戸には、生のニンニク、生卵、とろろの自動販売機がある、前二者はコロッと出るだけだけれど、とろろはビニールの袋に人っていて、なんとなくいやな感じがする。これを三者混合して、あらたなる精気養う方も多いそうな。また、おおっぴらには販売できない写真やら器具を、これで売ることもあって、この場合は、ボタンのところに「?」マークがついている。
白黒で十秒、カラーで一分という、すぐに現像できるカメラをそなえつけ、テープレコーダーを置き、近頃では、TVカメラとビデオコーダーのセットを用意したところもある。ビデオテープでもう一度と、あらためてながめるのが、いったいどんな風なものか、ぼくは経験がなくてわからないけれども、いかに係員に説明されても、それがビデオに録画されるだけとは信じ難く、ひょっとして全国に中継されちまうのではないかと、TVカメラににらまれれば怯えてしまう。
しかし、けっこう利用者は多いらしくて、テープレコーダーもそうだけれど、消し忘れてかえる人もいるらしい。一度、録音の方をきいたことがあったが、男女双方はじめはマイクを意識しつつ、やがて忘我の境に入りこむあたりがなんともおもしろかった。梶井基次郎の小説ではないけれど、重なり合った二人が、じっとカメラをみながらうごめいたりすれば、今度それを、ビデオでながめる者、かなり照れくさいと思うのだが。
とにかく、日本の寝室文化は世界に冠たるものがあって、戦前は、人生の三分の一を過ごすベッドルームについて、あまりに大和民族はなおざりにし過ぎると、非難されたものだけれど、エレベーターベッド、回転ベッド、ローリングベッド、リクライニングベッド、シンギングベッドと、いかなるこれまでの王侯貴族でさえ考えつかなかった設備を発明し、そして、まあ安い料金で利用し得る。このかげには、ホテル・コンサルタント諸氏の尽力があるわけで、こういうしかけは、やはり年をとって、インポテンツに近くならないと駄目なものらしい。
最近、あらゆる風俗は若者がまず手がけて、大人の世界に波及させるけれども、寝室、べッドだけはちがう。小生なども、早くコンサルタントになってみたい。そして、うっかりのっかったら、双方ともに筋ちがえしてしまうようなベッドを、考案してやりたい。
[#改ページ]
手すさび党に声あり
女性との行為よりも、オナニーの方がよろしいのではないかと、仮説を申し上げたのは、いや、内々自分ではそう信じているのだが、こういうことについて、自分の確信を、さも古今東西に照らしてあやまたず式に断言するべきではない、ただ、女性といたすことだけが本筋と考えるならば、それは間違ってやしないかと、いわば幾何学証明問題における補助線のつもりで提唱したのです。
すると、世の中には親切な方がいらして、このような妄説を弄するのは、よき女体に恵まれていないからだと、手紙やら、電話をくださり、さすが実験台になるとまではおっしゃらないが、あれこれ説明していただいた。
まず、オナニーにおいては、おどろきがないだろうというもの、つまり、手の行うことは常に意識しているわけだから、女体突然の収縮に、仰天するようなことがない。これは道理でありまして、中気にでもならないかぎり、右手のなすことは先刻承知の上である、しかし、そんな仰天するほどのことであろうか。大体において、結合しているかぎり、そちら様のひだのゆれ具合やら、また、おちょぼ口となる予感、わかるものであって、突如、狭心症の発作で胸しめつけられるような、激しい塩梅じゃないように思う、膣痙攣ならばともかく。
話はそれるけれど、このヴァキニスムスの実写フィルムを小生みたことがあるが、異物が触れるか触れぬうちに、貝の如く閉じてしまうのを真性といい、ものの拍子でこむらがえり起すのを、仮性と称する。真性の場合も、精神面における治療で治るらしいけど、異物二度三度くりかえした後は、神経過敏になっちまって、掌で風をおくっただけでピタリと閉じる。閉じた以上、婦人科の器具もちいても開くことは困難で、本当に貝殻のように固い印象だった。
オナニーインチキ説の第二は、真物の吸引力についてであって、そのクライマックスにおいて、女体は真空状態になり、その放射をたすける如く吸いこむのだという。タコのキンチャクのとうかがったことはあるけれど、ヴァキュームカーの如くでもあるとは浅学にして存じ上げず、もしそうならばけっこうな話だが、放出した以上、男性の感覚とは別個の存在であって、べつだん吸い上げようと、攪拌《かくはん》しようと知ったことではない。それよりも、短小ならともかく向こう側に壁のあるヴァギナよりも、どこまでも無限にひろがる蒼穹《そうきゆう》に向け放った方が、はるかによろしいと思う。
第三の説は、小生のケチについて言及なさっておられる、すなわち、ぼくは他人の快楽を好まない狭量の人間であって、たしかに、女性は男性よりも七十倍ほどにもいいものであろう、だからといってオナニーにおもむくのは、七十分の一よりさらに少いよろこびしか味わえぬ、女体のよろこびをおのがものとなす、おおらかな心境となり、男女のまぐわいなしたまえというもの。そういわれるとケチなのかも知れない。ハァフウと息づかい荒い先方をみておるうち、「あんた、なにやってはるの」てな心境になり、うんざりするけど、また、女体さまざまにまさぐって、マッサージやら、もみほぐしやらいたすことが、きらいなわけではない。よくおごってもやるし、これでサービス精神は旺盛な方である。オナニーをケチという観点からながめることこそ、勿体ないから、取りあえず果てたふりをして、残りを別口になど考えるのではないか、オナニーこそ、そんな風にいうなら大乱費なのである。
第四は、全身的な感触がないという説、しかしこれこそは、オナニーのオナニーたるゆえんのものであって、たしかに具体的な皮膚の接触という点では事欠くけれど、さらにゆたかにしてみのり多い観念の世界で、いかようにもたのしみ得る。そもそも考えるに、なまじ生身であれば、やれサメ肌とやら、ザラメ風など、当たりはずれが多いけれど、思いえがく分にはしごく気ずい気まま、眼を閉じればすなわち自らを傾国の美女の手にゆだね、またゆたかにして滑らかなししおきに触れ得るのである。手触りがなければ満足せぬなど空想力の貧困以外の何物でもない。
第五は、小生の劣等感を指摘されるもの。第六は、幼児性愛期を抜けきっていないというもの、まあ、これはしごくありきたりの説であって、あるいはそうなのかも知れないが、なにも大人の性愛だけがまともというわけでもあるまい。それに、今が幼児性愛期なら、これからしだいに成長していくわけで、むしろたのしみは大きい。
いろいろあった中で、おもしろかったのは十八、九歳と思われる女性の手紙であって、どうすればよろしいのかを、克明に質問なさり、その理由は自分の恋人があまり強靭であって、いろいろ困るから、自分のことは自分でしろと、教えたいとおっしゃる。また、年齢不詳だけれど、感歎符などやたらについた文章から察すると、年は若いのだろうが、一度その現場をみせてくれという申し出。ぼくも見物客を置いて、こういうのは単にクロとでもいうのか、そのショウ演じてみせたことはない。なんとなく茶の湯の席で、正面に小生が坐り、わきに正装の女性居ならんで、われはしかるべく動作して放ち終え、女どもいっせいに、「けっこうなお指加減」とお辞儀する姿など考えてしまう。
若者向けの雑誌みていると、「オナ・パト」という言葉が紹介されていて、これはあてがきのあてをいうらしいが、こんなのは、空想力の貧しいオナニーであり、その気になればかきいだくこともできる対象を相手にしてもはじまらぬ。小生などは、もはや女性とかぎったことではなく、なんでだって果たし得るのであり、やがては射精も必要としなくなるのではあるまいか。つまり、無念無想でいれば、やがて醍醐味が到来し、ふっと夢うつつの中で、至福の境をさまよい、さめれば手を汚さず、くたびれもせず、これなら一日に何十回でも可能だろう。
これをまあ名人の域とするならば、ぼくの現在は初段といったところであろうか。やがて同好の士がふえたら、褥《しとね》合戦の向こうを張ってオナニー合戦をやってみたい。あるいはオナニー教を創設して、教祖におさまり、わが念力観応によって迷える羊救いたきもの、「念彼《ねんぴ》オナニーカ」であろうか。
[#改ページ]
福の神と貧乏神
福母々、貧乏於曾々というものがあるらしく、これは江戸時代すでに観察されていて、「大尽《だいじん》つび」「ころびほと」という言葉が、当時の書物にみえている。しかも、各遊廓や、宿場にこう呼びならわされる娼妓がいて、この場合、「大尽つび」の方は、いずれも醜女であり床あしらいもわるいそうだから、あるいは営業のための宣伝だったかも知れず、「ころびほと」は美形にして名器の所有者、そねみからかくいわれたか、また、通いつめて「身代限り」するものもいたのであろう。
もっとも有名なのは、品川の宿に存在した「おかね」という「大尽つび」、この女の肌に触れて旅立ちすれば、道中に怪我がなく、災難にも遭わぬと伝えられ、おかねを指名する客は列をなすほどで、やがて、いちいち床入りの暇がなく、じっと坐っているだけ、男は、あたかも、おびんずる様をなでるように、その躯のあちこちに触れ、旅路の平穏無事を祈ったという。「ころびほと」で名のひびいているのは、吉原にいた「妹尾太夫」。一時はお職を張っていたのだが、登楼する客のいずれもほどなく災厄に遭って、誰いうとなくこの名がさだまり、妹尾太夫は、身の業の深さを恥じて、後に仏門に帰依《きえ》し、ところが身を寄せた尼寺が類焼ではあったが、火事で焼け、ついに入水自殺したのだそうだ。べつに太夫自身何の罪とがあるわけではないから、粋人があわれに思って塚を建立し、妹尾塚、縁結びに効き目があると伝えられ、死して後、ようやく功徳《くどく》をほどこした。
現代にもいるもので、ただし、御当人は気づいていないだけ。銀座のホステス嬢の、身の上話をきくと、どう考えても、貧乏於曾々としか考えられぬむきがずい分いる。たとえば、はじめの男は交通事故で死に、次なる恋人が自殺、三番目のパトロンが倒産して、これとずるずる同棲するうち、水商売に入り、できた男が横領犯などという具合。御当人は気がよく、「私はこういうめぐり合わせなのよ」とあきらめているけれど、決して偶然ではないのだ。ぼくなどはたで観察していると、ホステス稼業ならば、やはり浮き寝の枕交す相手が、ムチウチになったり、胃の手術受けたり、喧嘩して怪我をするという具合に、みなそのたたりを受け、それを知らずに口説く姿みると、危うしダレソレと心中つぶやかざるを得ぬ。
福母々の方になると、これはもう本人はっきり自覚していて、「私と寝ると、みな出世するのよ」などのたまい、それくらいだから適当に搾取して、マダムにおさまっているのだが、十指にあまるその縁戚関係をうかがってみれば、たしかに枕交したとたんに出世していて、こうなるとおかしなもので、今度はマダムの方で、寝る相手をえらびはじめる。つまり輝かしい経歴に傷をつけたくないのであろう。これとみこんだ男しか受けつけなくなって、これはいささかルール違反のような気もする。今は引退してしまったけど、北国の街に、「当選屁っ塀」といわれる女性がいて、この方と情交せば、選挙に必ず勝つといわれ、主に保守党が愛用なさっていた。また、競馬につく女性やら、航路安全、といってもこれは漁師が海難除けに珍重していた干葉県I町の娼婦など、伝説めいた人物がずい分いる。
娼婦の場合は話題になり易いけど、人妻となるとあらわれにくくて、しかし、あきらかにこの二つのものはある。つまり、内助の功いちじるしいわけでもなく、といって、強度のヒステリー的性格が、亭主を叱咤激励し、ことを成就させるわけでもない。しかし、その女と結婚してからトントン拍子に運が向き、別れたとたん、あるいは少しその肌に触れずにいれば、必ず凶事の起るという例の、心当たりはありませんか。逆にまた、しごく賢い女であるのに一緒になったとたん男が駄目になる、これも、あれこれと納得のいく理由ないまま、ただもう不運としかいいようのない、気の毒な結果の櫛《くし》の歯ひく如き亭主が、身近かにいるでしょう。
相性なんてものではなく、これはその女の背負っている業に負けるのであって、もとより女に福母々、貧乏於曾々あらば、男にも金魔羅、屑へのこが存在し、お互いの力を競い合い、金魔羅見事に貧乏をうち負かしたなら、以後、貧乏は変じて福となり、また、屑へのこによって折角の福を失うことがみられるのだ。この場合も、金魔羅だからといって、決して御当人にしあわせがつきまとうのではない、あくまで女性に好運をさずけるのであり、たとえば今をときめく女優とか、歌手などの、最初の男は、これに該当しないだろうか。また、原因不明の失脚をした女優と、その男関係をしらべれば、かげに特定の屑へのこの存在がうかび上ってくるようで、誰と名指しはしないけど、思い当たりませんか。
こうやって考えると、あの香具耶《かぐや》姫なんてものは、思いをかけただけで、五人の男みなひどいめにあったのだから、貧乏於曾々のナンバーワンであろうし、例の元第三夫人などいくらかその気味があるのではありますまいか。そして、総理大臣殿の女房は、逆の例であろう。私の「今日あるはみな家内のおかげ」なんて、功なり名をとげた出世頭がよくいうけれど、正確には福母々のおかげといった方がよろしい。ぼく自身、一度、貧乏於曾々の被害を受けたことがあって、その御当人は金沢にいらっしゃるらしい。らしいというのは、なにも枕を交したわけでなく、その地に住まう方が、「いちど、黒メガネとかけあわせて、実験してみるか」とたくらみ、ただそれだけで、まさにそう考えた時刻に、ぼくは交通事故に遭ったのだ。
金沢では、有名な女性なんだそうだけれど、自分の貧乏於曾々を治してくれる金魔羅を必死に求めているという。そして、それがかなったならば、なにしろこれまで六人の旦那をもち、いずれも非業の死をとげているから、なにやかやといただいた財産が二億近くある、その半分を提供なさるおつもり。
小生など、噂だけで肋骨二本折るのだから、とうてい資格はないのだが、もし、かえりみて、自分と情交した女性の、みな、思いがけぬ好運にめぐまれている確信があるなら、プロポーズなさると、これぞ世のため人のためでありましょう。
[#改ページ]
生の支えとぞ……
あてがきについて御教示いただいた今年四十三歳の方は、小生のそれなどまだ習練が浅いとおっしゃって、つまり、あてがきのあてを特定の一人に限定するのは、愚かしいときめつけなさる。この方もあてがきに性の真髄を発見してらっしゃるのだが、一度のことに、十数人が登場し、情況も十二、三はかわるのだそうだ。
まず、春未だ浅い頃の川の堤防などを思いうかべ、そこヘセーラー服の女学生、さしずめかのニンフェットのモデルの如き少女登場させよ。つづいて、舟が川上からゆらりゆらり、その屋形舟には、浅丘ルリ子風の芸妓が、年老いた旦那とぼんやりさし向かいでいる、すると、たちまちジェット機飛来し、パラシュートがぽっかり青空にういて、バンドを躯にくいこませた吉永小百合なんだそうだ。こういった情景を頭の中でくるくると回転させるうち、欝勃《うつぼつ》たる気運が熟してくる。ここで、エイヤッと、尼僧スタイルの渥美マリを押しころがし、ふとももあらわにあらがうのを無理無態に動作して、次ぎなる瞬間、あてはお姫さまとなった松原智恵子で、これは初夜の床入り、恥じ入るのをなだめすかして、なにやかやとふるまう。
前段階をオードブルとするならば、まあ、これがスープでもあろうか、品をかえ形をことなえてまさに干変万化の組合わせを思いえがきつつ放ち終えるのであって、これの味を覚えたらば、たった一人をたよりに行うなど児戯にひとしいという。へーえ、さよでございますかと、感じ入り、ぼくもならってみたが、この道においては、小生貞淑であるらしく、とても一人乱交には没入し得ず、ほとほとくたびれただけであったが、あるいはこのむきもいらっしゃるのかも知れぬ、おためし下さい。
また、女性からは、小生が、あれこれ変態をあげつらった末に、屍姦だけは男の特権であるといったのを、なんとなく柳眉さかだてる風にたしなめなさり、すなわち実際に屍姦こそはできない、まあ、男が息引きとれば、すなわち血圧がなくなって、海綿体のあたりはあたかも紐の如く情けなくなるためだが、そのかわり屍姦される願望を追いつつたのしむことができて、しかも、これはまったく小生のいう、生殖を切りはなされた、至上の境地ではないかとおっしゃるのだ。くどいようだけれど説明いたしますと、女性は屍姦をできないけれど、される幻影を抱き得て、これは逆に男に不可能なことであり、愛する人が、自分の死後になお愛情を抱きつづけ、自分の皮膚が黒ずみ、肉のとけ流れるまでも、生きてある如くにいとおしんでくれる、そういった空想をえがきつつ、つまり、われとわが姿の醜くかわり果て、屍臭のただよい、蛆虫《うじむし》のわき出たる具合をあれこれ考えつつ、そこにとっかかる恋人や愛人の形を追い求めるのだという。
こういうのは、かのイザナミコンプレックスとでもいうのだろうか、ぼくもずい分妙なことを考えるけれど、これほど凄絶なイメージはえがかぬ。
だが、よく考えれば、女性のナルシシズムやらエゴイズムなんてもの、さらにサディズムの色合いさえもうかがえて、なるほど、これは女性特有の、あるいは根源的な願望かも知れない。死して後残す執念は、まあ、女性に多いし、空怖ろしいことである。書面はまさに水茎の跡うるわしい筆蹟で認《したた》められていたが、これがもし七十歳ぐらいの品のいいお婆さんでもあるのなら、なおのこと生きた心地もないではないか。
まあ、人間にはいろいろまちがいのあることだし、何分にも浅学鈍才、これからも御指摘いただければしあわせに存じまする。そして、小生いささか考えたのだけれど、あてがきのことばかりあげつらううちに、時おり、「オナニー教の教祖」やら、「生身の女よりオナニーをよしとする」なんて肩書きというか、注釈づきで、からかわれたりしはじめ、なにやら具合がわるい。また、教育上の配慮などする柄ではないけれど、小生は自分の偏見を強制する気など実はありませんので、女体がよければ、それにこしたことはないとも思うが、年端もいかぬ男性が、未だ生身のすみずみまで体験しないうちに、あてがきこそ本筋と信じこんでしまっても気の毒に思える。
そこで、あるいは自分がまちがっているのかも知れぬと、一九七〇年代は、ふたたび女体の探求にいそしもうかとも考えている。なにしろ、すぐにころっと説を変じてしまうのが、わりに得意であるから、あと三ヵ月もすりゃ「なんたって女性はよろしい」となるかも知れず、まあ、この面での御教示御指導もふしておねがいする次第であります。
霊長類の中で、ヒトの雄の性器が、躯との比率においてもっとも大きいのだという。みればみるほど、不思議なしろもので、原稿の書けない時など、じっとペニスにながめ入っている自分を、しばしば発見するのだが、これはぼくだけのことではなく、たいていの男に共通するものらしい。
あるいは啄木のみていたのも、掌ではなかったかも知れないし、身近かの物書きにたずねてみると、みな、その経験があるという。物書きのみならず、サラリーマンが軽いボーナスに失望したり、仕事上の失敗で鬱屈した時、やはり行うというし、タクシーの運転手もくたびれ果てた時、道ばたに車を駐めて、おのがものに触れ、そしてさらに眼でたしかめるのだそうだ。男なんてものは結局のところ、生きる支えとしておのがペニスしかないのではないか、このものと対面し、ひそかな会話を交すことで、どうにか正気保っていられる、といえやしないか。さらに苛烈なる社会の準備されているらしく、男らしく、あるいは人間らしく生きるための、いや、心を雄々しく保つための手段としては、一日三回ペニスとの会話しかないように思えるのだ。
女性は、屍体となってもまだ男に愛される自分を思いえがきへらへらと笑っているのに、男は深夜一人でわがものにぎりしめ、その脈うって雄々しい姿となり、またしばらくすれば、息ひきとる如くにしぼみかえるそのくりかえしに、ようやく生きている実感を得る。かなりさびしい姿だけれど、これが人生であるなら、いたし方ない。あてがきも、やがて近い将来には、自己の内部でまったく完結する、自閉的なものとなるかも知れない。もはや放出などを求めず、性欲の充足とかかわりあいのない、いわば幼児の遊戯に似てくる。白昼都大路を歩く男のすべて、うっそりとペニスにぎりしめて、外界の何も意に介さない風景がみられるかも知れない。
[#改ページ]
天と地の隔りを知れ
あてがきについて妄語弄するうち、これはまた「あてつけがき」ではないかという気がしはじめた。つまり、女性のセックスが抜きがたく生殖と結びついているのであれば、何としてでも「御種《おたね》」を頂戴したい、ところが男の方は、とにかく放出すればいいのであって、あてがきにより空しく浪費される精液を、勿体ないと切実に考えるのは、当然のことながら女性である。
そこで、力弱き男としては、いわば肉を切らせて骨を断つと申しますか、あてがきを最上のこととは必ずしも考えぬむきですら、いわばいやがらせにこのことを行う。「ヤーイ、欲しいだろう」と、自分もたべたいのだが、みせびらかした末にお菓子を溝へ捨ててしまう子供のような心理である。いかにもみみっちいことだけれども、女性をやっつける手段としては、これにまさる、いや、このこと以外にはないのではないかと、ぼくも考えるのである。
有名なスポーツ選手で、ヒステリー女房に悩まされたあげく、そのようやく寝ついた枕もとに胡坐をかき、もはや、美女のイメージを追うなどいたさぬ。ただもう、女房憎さにこりかたまって、物音立てぬよう、声音洩らさぬよう、忍びがきを行い、その快感はたとえようもないと告白した例がある。女房の方は御多分に洩れず、近頃御無沙汰を難詰して火に油をそそぎ、たけり狂ったのだから、もし、わが白河夜船の間に行われた亭主の行いを知れば、あるいは発狂するかも知れぬ。いったいどんな夢をみているのだろうか、一面において、いつ眼を覚ますかもしれないから心怯えつつ、これはマゾヒズムとサディズムの合致した境地であって、いわゆるあてがきなど到底及ばぬそうだ。
またべつの例では、女房が外出したとたんに欲情する作曲家がいて、彼は、自分の周辺に妻がいるとなると、まるでその気が起きない。その声や足音、姿形に触れたとたんいかなる意馬心猿も吹きとんでしまうという、まあ因果な状態に追いこまれてしまい、だから、不在をひたすら待ちかねている。「いってまいります、何か買ってくるものない?」「いいや」「早く帰ってきますからね」「ああ」と、上の空で受け答えし、足音遠ざかると、一足とびにピアノの前に座し、左でポロンポロンとでたらめなメロディかき鳴らしつつ、右でもかく。
音楽家だから今日は何小節で放出したとわかり、時には、無念無想のうちに弾じたメロディが、ある曲のモチーフとして使われることもある。こういうのは何唄といえばよろしかろう。ひょっとして、女房が忘れものなど思い出し、もどることがあり、あわてて右手も鍵盤に置くのだが、「しっかり頑張ってね」、仕事に精出す夫にやさしく声をかけたりし、夫は、元気いっぱい「おう」と答えるのだそうだ。「だから、俺のピアノは鍵盤の下が白く変色していてねぇ、精液が大袈裟にいえば何百層にも積み重なっておるわけだなあ」。堆朱《ついしゆ》と同じ、堆精であろう。
大阪の金貸しにも似たような話をきいたことがあって、彼は、いっこうに離婚に応じない妻に焦れて、その眼の前であてがきを演じてみせる。はじめは、いかにも汚らわしいという風に眼をそむけていた妻、やがて、夫が股間あからさまにすると、応じてスカートたくし上げ、ひきつけ起したようにひっくりかえって、夫婦ともがきの一場、「ほんま図々しいやっちゃわ、あんまりミバよろしいもんちゃいまっせ」、鬼の如き男なのだが、ほとほと意気なえた風にいっていた。
こういった女房もちの、あてつけがきは、近頃とみにふえているようだが、あてつけとはっきり意識しないまでも、風呂場や、書斎で行うことはよくあるので、これは、近頃の女性のいだく性知識が偏っているせいでもあろう。
女性は、営みといえば、ベッドの中において、やれ前の戯れ、後のいたわり、四十八手の裏表を、すべてなすことであり、時は夜ときめこんでいる。しかし、いつどこでどう思い立つかわからず、立ったが吉日その場で果たさなければ、男の一分通らない場合もあるのだ。そんないちいちわずらわしいしきたりや、時分どき待ってはいられない。「あら、どうなさったの、いやだわ、ねえ、坊やちゃん、夜までおあずけ」など、いやらしいこといって、夫にかくまで愛されている自分を認識し、しかもこれを拒否することで、優越感にひたり、さらにつつしみ深い自分をたしかめ得て、キョトキョトよろこぶなんざ、浅墓きわまるといえましょう。「てやんでえスベタめ、そっちがそうなら、なにもたのむことはないよ」と、手なれた業におもむき、そして、あてがきの、女性からみればしごく悲しい業が身についてしまうのです。
いちいち満足したい、性的な充足感こそ女性の人間的解放と、切口上に考えるからいけないので、二コスり半の短小であったって、皆無よりはよろしいではないか、夫が思い立ったら、台所だろうが便所だろうが、あっさり観念し、果てた後は、また、前掛けで手をふきふき家事に専念するのが当然である。
大体、近頃の女房、いっこうに働かなくなったのも、夫をして、げんなりさせるのであって、TVのモーニングショウの出演者につき、馬鹿面で批評する女房にゃまったく意気なえるけど、ミニスカートあるいはスラックスでもよろしい、帆立てケツでふき掃除するなり、庭に花を植えるなり、さらにミシンふむでもいい、凛々しくいれば、その気がうごくものであって、大体、女性は男の玩具になりたくないなどいいながら、男をさそう時は、ネグリジェやらなにやら、娼婦風に装うのはどういうわけであるか。
年に一度、あてがきの日というのをつくって、この日には老いも若きも、男性すべてこれを行うとよろしい。そして、決して男は女なんてしろものを、心底から必要とはしていない、なんならこっちを主力にし、女性との営みをこそ代償行為に置きかえていいのだぞと、オナニーデモンストレーションをするべきであろう。
自らの欲情をかえりみて男もきっと同じ気持なのだろうときめこみ、天と地ほどにも隔たるその差に気づいてないから、現在のように愚かな女性がふえたのである。女性はやはり「どうかオタネいただかせてチョーダイ」と男の足下にひれふしこいねがうべきなのだ。そしてその日のために、男は、もっとあてつけがきにいそしむべきなのだ。
いかに、女性が一種の圧力団体であろうと「オナ防法」を国会に通すことはできないし、かりにできたって、具体的に取締まる術《すべ》はない。そのうち悪書追放友の会の婆さん連中が、街頭で「オナニー反対オタネ頂戴!」と怒鳴りはじめるかも知れぬ。
[#改ページ]
愚かな亭主あわれ
亭主と女房の浮気、いずれがばれ易いかといえば、それはもう亭主にきまっているが、また、女房の亭主のあれこれにくばる眼の鋭いこと、まさにホームズも顔負けであって、たとえばここにある小説家、マンション住いなのだが、深夜帰宅する時、女房にみられてまずい品々を、ドアの上の、電気のメーター置いたくぼみに隠すならわし。何くわぬ顔していたのだが、ある朝、出がけに手をのべるともぬけの殻で、こはいかに、たしか昨夜と、あれこれ考え、あるいはうっかりして、本箱の上にでも置いたのではないか、なにしろ酔っていたから記憶さだかならぬのだ。
不吉な予感に五体こわばらせて立ちつくしていたら、「あなた、これ何よ」玄関まで送りに出た女房、そのまま亭主のあわてふためく気配をうかがっていたらしい、掌にうごかぬしるしの、ゴム製品三ケと、香港渡りとか称するあやしげなしろもの。別に、浮気のアテがあって、このようなる品をもち歩いているのではないのだ。もてないというより、つまりは女より酒が好きなので、常にしとど酔って正体を失い、むざむざチャンス失することがよくあって、素面《しらふ》の時はやはり口惜しい。一種のお守りのように、ポケットに入れて置くだけなのだが、こういったデリケートな心ざまについて、女はまったく理解しない。
弁解するよりも、何故発見されたのか不思議で呆然としていたら、「あんたって、本当に抜けてるわね。帰ってくる足音が、ドアの前でほんの二秒ばかり立ち止まるじゃないの、耳をすませてりゃ、ハハァ、何かしてるなと、すぐわかるわよ」女房鼻うごめかせていい、彼も、マンションに足ふみ入れたとたん、ポケットを歩きながら探って、しごく自然に装ったつもりなのだ、ドァの前でいちいちあわてふためいたわけではないのだが、それにしても女房の眼力の前に、いやこの場合は耳力であろうか、すべて空しい。
そして、ゴム製品、かりに洋服のポケットから出てきたなら、なんとでもいいわけ可能だろう。「なんだか、あたらしい製品なんだそうだ、バアで隣りに坐った男がくれてね」とかなんとかいい抜け得る。しかし、隠しているとなれば、天地神明に誓って何でもなくても、都合がわるい。あわれな小説家は、その三ケ分を一度に使わされて、しばし腑抜けの状態でいたのだが、このことをきいたべつの物書き、せせら笑って、「立ち止まるからいけない、俺なんか、手練の早業、歩きつつさっと放りこむ」、つまりスリの逆を、やはりメーターボックスに対して行うのだそうだけれども、この男も、年中、本の間から、女の手紙あるいは飲み屋のツケを、女房に探し出されて、とっちめられている。
どうして男というものは、鴉みたいに、女にまつらうくさぐさの物を、後生大事としまいこむのであろうか。たとえば、たまにホステスをつれて、高級レストランヘ行く。するとそこに専属カメラマンがいて、即席写真などとってくれる、こんなもの捨てちまえばよろしいのだ。べつだん何様と御一緒したわけじゃあるまいし、しかし、どうも未練が残ってもちかえり、必死に隠し場所を探す。ポーの故智にならって、さり気なく状差しに入れてみるけれど、どうも心もとない。本箱の、なるべく女房読みそうもない書籍、まあ、黒田寛一「現代における平和と革命」とか、百科事典の「補遺」あるいは、参謀本部所蔵「敗戦の記録」、「ブレヒト戯曲集」なんてのに秘匿する。まちがっても、五木や薫ちゃん、北杜夫の著作には入れてならぬのだが、これでもしかし、バレることが多いのである。
あるシナリオライターの話では、「なんや知らんけど、本箱をぐっとにらむと、そのあたりに妖気が漂っているというんやな、とにかくすぐに探し当てよるわ」まあ、注意深い妻ならば、本を出し入れた痕跡、それも、なるべくわからぬようにと、ふだん手をつけないあたりのそれをひき出すから、わずかにそのたたずまいことなるのかも知れないけれど、なんにしても怖ろしいような能力である。
女房はつまり、亭主の行動について、いちいち気をくばっているから、デカとホシのようなもので、すぐバレてしまうというけれど、これが過ぎると、ある俳優の奥方の如く、いちいち事後にルーデサックの量をはかって、多いの、少いのと邪推するようになる。俳優は困って、ザーメンの中の、少々寒天状のあるのをしめし、「つまり、まだよくとけてないんだ、とけりゃちゃんといつもの量になる」と説明し、それで妻は納得したそうだが、人とあうごとに、「はじめが肝心だよ、はじめに、まずマスかいてから行うのがいい。すると当然、量が少いから、ああ、こんなものなのかと以後怪しまれなくてすむ」と忠告するけれど、未婚の男には、女房のこれほど徹底した詮索癖など、到底わかりゃしない。
匂いだって、うっかり付けてもどるとえらいことで、しかも口臭と同じく、すぐ鼻がバカになるから、自分ではわからない。はじめ女にあった時、ああ強い香水だな、これはこっちにうつるだろうから気をつけなければと、注意していても、いざきぬぎぬの後では、いったい手前の躯が匂いを発しているのかしからざるか、さっぱりわかりゃしない。そこで、サウナなどへいって洗ってくる、すると、ここ二、三日風呂へ入ってないのが、妙にこざっぱりした顔付きでもどるとこれまた怪しまれよう。といって、急速に垢じみるというのも至難の業であって、こういう時にかぎり、スモッグも晴れわたっていれば、砂埃も立たないものなのだ。道路工事現場にたたずんだり、熱いそばをたべて汗にじませたりして、しかもまだ怯えを残しつつ、家へもどると、なんのこったい、女房は実家へあそびにいって留守、「ごめんなさい、お食事の支度は、冷蔵庫にできてますから」なんて書き置きがあって、自分の似顔かなんか書きそえてある。思わずバカヤローといって、こういう時、妙に性欲の昂まるのはどういうわけであろうか。
こういった亭主の愚かしさに較べると、実になんとも女房というしろものは図々しいことで、現在、人妻の浮気など、日常茶飯であるらしいのに、これがバレてどうのこうのという話を耳にしない。亭主の浮気は、開闢《かいびやく》以来のまあ当然だけれども、女房のそれは、なんといっても、特殊なことのように男たち錯覚しているから、バレりゃ大事になるだろう。決して、大目にみているのではないと思え。つまりはごま化されているのだ。あのしれっとしらばっくれている太々しさの十分の一でもあれば、亭主もやり易いのだが、そしてまた、女房の方は、何ccとはかるわけにいかないしねえ。
[#改ページ]
不潔であるということは
女性においてはいざ知らず、いや男性でもこれは特殊な例なのだろうが、ぼくののみ友達は、きわめて不潔であって、しかもお互い切磋琢磨して、お互いのバッチさを、競い合うというか、水の低きにつく如くとでも申しましょうか、ある個人の特殊な不潔さに、全員が心をそろえてレベルダウンしてしまう。たとえば、ぼくは絶対に歯を磨かない。
何故磨かぬかといわれたって、理由はことさらなく、たしかに戦前は朝起きるとこの習慣に身をまかせていたと思うが、あのなにもかも物資のなくなった時、歯磨きにまつらう品が不足して困った経験もなし、闇市でことさらこの物を扱っていたようにも思えない。
まあ、武士はくわねどではないが、あの時代虫歯のできようもなくて、いかに、現在、乙にすまし、「よく気持がわるくないねえ」などのたまう奴も、戦後しばらくは歯を磨かなかったはずだ。その癖が抜けず、しかも近頃は、歯を磨くのに上下でなければならぬという、そういった小ざかしい姿みるとなお腹が立ち、この二十数年歯刷子を手にしていないのだが、そういうわれと、たとえば浦山桐郎という当代の酒乱が、互いにのんだくれて二、三日過ごしたとする。
浦山は、まったく下着をかえるなどという小市民的悪習を超越したところで生きていて、ぼくは、なにしろ痔で、いったんパンツをはけば、たちまち尻にまじわれば黄色くなる道理、やはり二日に一度くらい使い捨てがふつうだが、「そんなあんたね、無駄なことするもんやないで、そら、帽子に雲古ついてたら具合わるいかも知れんけど、パンツに雲古の付着するのは、バラの木にバラの花咲くみたいなもんやないか、不思議ないがな」姫路弁でいい、そういわれるとそんなものかも知れぬ。それまで浦山は、時に思い出したように歯も磨き、顔を洗っていたのだが、お互い補い合って、ぼくは下着を取りかえず、彼はわが美習にならって、歯を磨かない。
そこへ石堂淑朗という巨漢が加わったとする、石堂はあまり風呂が好きではないのだ。ぼくはどちらかというと、風呂好きであって、ただし、石鹸で洗うことはしない。つげ義春作品集など片手に、ぬるめのお湯にぼやっと小一時間入っているのがよろしいので、頭を洗ったり、鬚《ひげ》をそったりは特別のことがないかぎりやらぬ。だから、旅館に泊っても、いちおう風呂に湯を入れるくらいこまめにやるのだが、石堂はそういうぼくをみて、「あなたお風呂に入るの、へえ、私は入らないね、私はプールで泳いでるしね、お風呂なんて、つまらないよ」。そういわれると、人間はなぜ風呂へ入るのか疑問に思えてきて、まったくこれまでくだらぬことをしていたような気がしてくる。
浦山もだまってきき入り、さて顔を洗わず、歯を磨かず、下着をかえず、風呂に入らず、何をするかといえば、ただ助平な話にうち興じ、朝から酒をのんで、畳をたたきつつ笑いころげ、果ては反吐《へど》まみれとなるのだが、浦山は、この反吐の大家であって、たいていこれを発する時、やはり顔をそむけるとか、また、及ばずながら窓辺へにじりよるなど抵抗するものなのに、彼の反吐は天真爛漫と申しますか、人と話をしていると、まさにそのまま、先方へ吹きつけるのだ。
上を向いて寝てる時は、天井へ吹き上げ、引力の法則によりそのままひっかぶってしまうし、しかも、いっさい照れたり恥じたりしない。他人の衣服汚そうが、自分の顔にキュウリのはしくれへばりつこうが、平然と語りつづけるのであって、我々もこれをみるうち反吐にまじれば反吐まみれ、浦山にばかりまかせるのも口惜しいから、大いに吐くことにした。つまり、浦が、ゲッと吐けば、石が受けて、ブオッとまきちらし、小生ささやかに、ガフッと吹きとばす、これは実に爽快なものであって、まあ、世の中のうさすべて忘れてしまうのである。
そして、もう一つの美徳は、浦山桐郎に待てしばしのない糞癖があって、車になど乗る時、かなり気をつけるのだが、やはり車中で矢も楯もたまらなくなってしまう。まあ、日本は文明国だから、たいてい小学校が眼に入りここで果たすけれど、近頃は警戒厳重で、不審な者を入れてくれぬ。すると大慌てで探しまわり、しばしばタッチの差で間に合わぬこともある。反吐においてあれほど無心になれるのだから、糞も同じこと、いっそやっちまえばいいじゃないかと、ぼくはすすめているのだが、もし、その具合をみて調子よさそうなら、この癖もきっとわがものになるにちがいなく、そして石堂も習うであろう。
となるとこの三人、いやもう一人、早坂暁というこれも稀代の汚れ男がいて、どこででも着たままころっと寝てしまい、もとより人の世のあらゆるカセを屁とも思ってない人物なのだが、こういった四人が、かりに麻雀を、何日もぶっつづけにやったらどういうことになるだろうか。反吐は吐き放題、糞はその場で、ふと腰うかした時が正念場、ひたすら垢にまみれて、うじうじと根の生えた如くにいるのであろう。これは、我々に特にその傾向が強いのではない。ぼくは外国へ行く時も、こういった具合だから紙袋一つしかもたないのだが、この気楽さを身近かに知ると、たいていの人は見習って、まあ、一週間くらいの旅行なら、何ももたなくなる。
そもそも、歯を磨き、石鹸で躯を洗う、便所で糞をするなんてならわしは、どうってことないもののようで、いったん、それ等から解放されると、しごく気楽になり、ベッドの中でも同じことで、事後にいちいち処置をするなんて面倒なこと、また、女性も小便に際し、ふき清めるなど止めてしまったらどうであろうか。汗をかいても、もとはこれ五体からにじみ出たものだし、垢が溜って、毛穴を埋めつくし、皮膚呼吸がかなわなくなり窒息したという話もきかない。ふけにまみれ、爪はある程度までのびりゃ、自然に折れるものだし、鼻糞耳糞も放っておけば、ぽろりと自然におちてしまうものなのだ。
どうも現代人は、よけいなことに手間暇かけすぎるような印象で、あのメンスなんてものも、いまでは不浄ではないことがあきらかなのだから、堂々とたれ流して歩いてもよろしかろうし、水洗にて処理することが、どうして文明国風なのか。糞なんてすぐ風化するものであるし、反吐は一雨ふればきれいに流れてしまう。こういった人間の営み必然の産物を、ひとつところに集めようと努力し、また、どのみちわれわれの躯なんてものは、上体反吐袋下半身糞袋とみるのが当然であって、皮一枚下しゃれこうべと思うのは、まだまだロマンティック過ぎる。コンピューターの支配する世の中となれば、不潔こそが人間らしさを保ち、また誇示する方便かも知れぬ、せいぜい坐反吐寝糞の練習をしておくべきだろう。
[#改ページ]
汁液べったりの名作?
前回にひきつづきエロならぬクソトピアを御覧に供しまする。純文学の方ではいざ知らず、小生など物書き売文の徒においては、明窓浄机斎戒沐浴して一行三拝うやうやしく筆をすすめるてなことは、金輪際ないので、まあそのバッチい有様といったら、実はこの文章読んだとたんに、わが原稿用紙手にとるのも、皆様いやがるのではないかと、心配なのだが、まず垢まみれ糞まみれといって過言ではない。
なにも小生だけではなく、深夜ひそかに同業寄り合い、互いにうち明けた話のあげく、いずれも大同小異の、その執筆態度がわかったのだが、そして、またそれなりに癖もあっておもしろかったけれど、ここでは、すべて自分のことにしておこう、それぞれ営業方針もあるだろうから。
まず、にぎりへのこということがある。これはいかに机に向かっても、一行半句書けない時に、まさか神仏を念ずるわけにもいかず、どこかに人の良い天才でもいて、代作してくれないか、あるいは、いっそ盗作をなど考えつつ、結局、最後のたのみは、おのがへのこなのである。女流作家の場合、どんな風になるのか知らないが、実に、へのこはたのもしい相棒であって、これをぞろりとひき出し、べつだん快楽追い求めるつもりも、ことあらためてしらべ直すわけでもない。あるべきところに黒子があり、またいぼの奇怪に群生する、そのみなれたるたたずまいを、じっくりとながめ、包茎にしてみたり、空立ちさせたり、一つ目のあたり指でつまみ、イーッとさせ中の二つに分けたような塩梅を検分し、ふと思いつき、万年筆でポンポン打擲《ちようちやく》して、その強化をはかってみたり。
そのうち、毛をひきむしる。すると五、六本は必ず抜けるから、ちぢれたのをならべて長さをしらべ、なんでこんなにちぢれているのかと、しげしげみれば、毛の太さが一様でなく、しかもよじれているとわかる。爪でぐいとしごくと、今度はカールした如くまるまって、だが色は艶やかに黒味を増してみえるのだが、さらにひき抜いて三本、また一本と数を減ずればいいが、そのつど同じだけ抜けると、なにやら不安になり、とにかく、抜毛を灰皿に捨てて、これを女房がみつければ、またとやかくいうやも知れぬ。マッチにて焼き払うと、異臭が漂って、なんとなくつまった鼻のスーッと通るような気がする。
次ぎは鼻糞であり、物書きの鼻孔で、西洋人風に、すっきり、縦長なのが少いのは、あるいはこれをあまりほじくるせいではあるまいか。すくなくとも小生においては、これまでまるめた鼻糞取集めれば、小学生が運動会でころがす赤や白の球、十五、六ケ分にはなると思う。この鼻糞なるものも、よくしらべればおもしろいもので、鼻糞とまでいかず、汁とのあいのこの如き状態のそれを、紙幣のはしになどなすりつけて置くと、実に早く乾燥するものであって、即乾性の特質がわかるし、また、薬用人参のように、根の入りくんだ鼻糞もあって、これは鼻汁腺の奥にまで糞化がすすんだためであろうか。
これに較べると、いっこうたよりないのが耳糞で、ずい分溜っているような感触なのに、マッチの軸などでほじくり、指先きにつまめるほどの収穫がなかなか得られぬ。時には、ころっとこぼれおちることがあり、すると、実に物事よくきき分けられるような錯覚を生じ、この垢をしさいにみると、鉛筆でほじくった時にしるされた黒い痕や、風呂上りにマッチを用い、しめっていたために溶けた燐の赤い色などあって、いかにも百戦練磨の耳糞といった印象。「汀濘水」とかいう液体で鼓膜の近くを洗い流すと、あらゆる耳糞が除《と》れてしまうそうで、また、以前は、清国人耳掃除という職人がいて、掌いっぱいのそれを発掘してくれたものだ。この原稿書き終えたら、思い切って耳鼻科へいき、洗いざらい垢を取ってやろうなど思うのは、年中のこと、一度も実行しないけれど。
さらにすすむと、常にじめじめと気持のわるい肛門のあたりを、爪先きでひっかきまわす。この部分を、鋭利な刃物でぐいとえぐりとって、プレスにかけ、圧縮したならば、さまざまな汁液を分泌するのではないか、あるいはえぐりとった跡に蟻の穴の如き開孔部があり、そこからなお分泌液がにじみ出る、いっそ焼ゴテでジュッとつぶしてしまいたい、など考えつつ、痛いようなかゆいが如き、一種の性的快感を味わいつつ、もとより指は黄色に染まり、センイ質などもひっかかったりする。
これでうっかり原稿用紙に触れると、染まってしまうから、その時は消しゴムで清め、なにも鉛筆だけではない、糞痕もきれいになるものです。
このあと、なにしろ近くをもぞもぞいじくっているし、同じない袖ふるならば、文章ひねり出すよりは、精液の方が楽だから、あてがきなど行うこともあって、やはり精と名がつくだけあり、原稿用紙二、三枚を通して、しみがついたりする。これは消しゴムでかなわず、なんとなく蛙のイボのようにふくれた紙のあたり、拳でドンドン叩いて、ごま化してしまう。
いわば、原稿用紙には、わが五体九穴から吹き出たあらゆる汁液へばりついているのであって、ただし、涙と汗だけはない。よくメロドラマなどものになさる方は、おのが筆致に感動し、おいおい泣きながら書かれるというけれど、まだその経験はないし、「汗と脂の結晶」とか「血涙を流しつつ」などいえばカッコいいのだが、ぼくの執筆態度などなんと形容すればよろしいのであろうか。「糞垢にまみれて」あらわした名作なんてのがあってもよかろうし、浦山はじっくり考えたあげく、「抜毛とふけいっぱいちらばすねんから、いっそケフケとペンネームつけるか」といった。とにかく、この世でかなり汚ない部類に属するのが、人はいざ知らずぼくの原稿であって、かつて生田長江の原稿受け取った者は、太陽にさらして後、拝読したというけれど、少しはあらためないと、いやがられるかも知れない。
よく、写真などで、額にしわを寄せ、万年筆をわしづかみに、深刻な表情の大家執筆風景が紹介されるがあれは本当なのであろうか。案外、カメラマンひき下った後は、にたりにたりと陰毛しごき立て、ちぢれ具合をながめて、「少し近頃ヨードの摂取がたりないようだ」など、考えるのではないのかなあ。
[#改ページ]
胎内願望のなせる業
不潔大明神たちを観察していると、なにもバッチイだけではなくて、他の方面にもいちじるしい特徴をみせ、たとえば、みな女好きの如くではあるけれど、最後の一歩を確実にする迫力がまったく欠けている。つまりトルコ風呂の権威を自称し、また小生のようにオナニーが最高などというのも、考えてみれば、とどかぬブドウの実は酸っぱいときめこむ、浅墓な狐の心情なのだ。
この連中は、たいてい土曜日になると不機嫌になって、というのは、土曜日に恋人たちが数多く巷をうろつきまわるからで、かりにこの日座談会などあったとする、「大体やな、みんなええめしてるこんな時に、なんでわたしたちだけが、野暮なことせんならんねんな」会場にたどりつくまでに、眼にしたアベックの姿を克明に物語りつつ大ぼやきにぼやき、といって、では座談会がなければ自分もええめでき得るのかといえば、そのような当ては皆無なのだ。
また、新宿あたりでのんでいて、酔歩|蹣跚《まんさん》当てもなくさまよい、大久保方面に密集する連れこみ宿のネオンなどふと眼にする、すると不潔者たち「そらもうかってしゃあないそうや、こればっかりは日銭現金で入ってくるし、回転率もええし」「税金はどうなってるんだ」「さあ、領収書もろっていく奴もおらんやろうからな」みなその部屋で行われているだろう、あやしいシーンを思いうかべ、あわてて追い払い、しかし、ピンクのカーテン気のせいか、かすかにゆれる如く思えるから、低くうなりつつ、また関係ないことをさりげなく口にする。
「いったい何軒くらいあるねんやろ」「そりゃ三百軒じゃきかないだろう」「平均十室として三千室、一日に三組が利用すれば、一日に九千於芽弧」「中には処女もおるやろな」「そりゃいるさ」「阿呆な女やな、だまされるのもわからんで、こんなとこにのこのこついて入るなんて」「そうだよ、馬鹿女さ」ぶつぶつつぶやき、ネオンから眼をそらしても、いたるところに十五、六の女と、二十歳前の男、蛇の如くからみあって歩くから、「いったいこれでいいのか、補導連盟を復活させようじゃないか」「そや、男女七歳にして、席を同じゅうせずや」眼血走らせ、おもむくところは、トルコ風呂なので、不潔者はいずれも、かなりひがみっぽく、森羅万象何をみても、男女のいかがわしい交情に結びついてしまう。
そして赤線をなつかしみ、往古の記憶よみがえらせては、いかにもてたかと大久保彦左衛門は鳶の巣文珠山一番槍風に、しつこくくりかえす。だが、仮に復活したって駄目だろう。かつて不潔な神々と、それに近い場所ほっつき歩いたのだが、なにせ十年以上はなれていると、みな怯えが先きに立ち、まず酒を入れてと、たしかに以前も、焼酎の酔いをかりて登楼したものだが、いったんウィスキーにおもむくともはや一直線にのめりこんで、本来の目的を忘れてしまうのだ。
そしてさすがに、自分たちの情けなさをお互い自覚した後は、むっつり押しだまり「俺やっぱり、馴染みの女のとこへいこう」「わたしは、二年前に別れたスケのアパートがこの近くだから、ちょっと寄ってみます」それぞれせいいっぱい強がり、別れるのだが、ぼくが止むなくいきつけのバアでとぐろまいていると、すぐにいずれもしたたか酔ってあらわれ、やがて、反吐まみれ、糞まじりとなってしまう。
「気助平」という言葉があるが、これは不能になると、気持ばかり好色になり、言語動作がことさら猥雑になることを意味するらしいけれど、不潔者たちのこれは何といえばいいのか。たまにすっきりした表情の時は、あたらしいオナニーの方法を発見したと説明するのだし、また、プールで、半ば強制的にさせられる柔軟体操の相手に、運好く人妻がぶち当たったという程度のこと。やりたいやりたいでこりかたまりながら、ふられ性が骨身にからんで、もはやまともな女性には手も足も出ず、それならそれであきらめてよかりそうなものを、朝起きると、運勢判断をたより、「清気堂に満つ、災いおのずと退いて、万事めでたし」などいう文句に意気軒昂、今日こそは、欲求不満に悶える人妻と知り合い、ビフテキなど御馳走になってと、あれこれ妄想を追う。追ううち興奮してそそくさとオナニーに果たし、あるいはウィスキーのんで、つぶれてしまうので、実になんともかわいそうなものなのだ。それにしても、週刊誌に報ぜられる現代の性の乱れぶり、片鱗もこちらにとどかないのは、どういう運命のいたずらか。
不潔愛好という性癖は、あるいは幼児性愛というより、さらにさかのぼって胎内願望のあらわれなのかもしれない。胎児が反吐を吐くかどうか知らないけれど、あれはべつだん垢を気にしないし、多分、糞も関係ないのだろう、あなたまかせでほのあたたかい子宮の中にうずくまり、ぼやっとしている。その心中、推察する術もないが、口では「やりたあい」「キャンキャン」と悲鳴あげつつ、しかしまったく具体的な行動に結びつかず、酒のんでは、じくじくと垢をこすり、鼻糞まるめてるのは、まことに胎児をほうふつさせるのである。
この世の中には、もてる奴ともてない奴の区別が厳然としてあり、そして、もてない奴は、結局のところ胎児願望が強過ぎるのではないだろうか。いっさいの外界に反応することを拒否しているから、あのように不潔の中にいて気にならず、羊水の中に漂う錯覚求めて、酔による浮遊感覚を迫いかけるのではないか。
この他に不潔者は、賭けごとをおよそ好まず、ストリップをみるといっても、決して穴のあくほどながめ入ることはなく、盲腸の傷跡とか、妊娠線に注目して、直視をことさらさけている。トルコにおいても、せめて胎児はかなわぬから、嬰児《えいじ》の頃にもどりたいと、あたかもおしめかえてもらう如くふるまって、男女の営みからはほど遠いのである。
世の中には、いろんな変態があって、それぞれにたのしんでいるらしいのに、不潔者だけは、そのどれにも入りきれぬ。げに情けないことで、中の一人など真剣になって、小便をする以外に、ペニスが何に使用されるのであったかと、考えこんだりする、「ほんまに、こんなもんでこすったりしておもろいのやろか」など。
我等を救う神はないものだろうか。
[#改ページ]
めざめよ錯覚居士
ぼくはストリップなるしろものの、どこがおもしろいのか、さっぱりわからない。たしかに昭和二十二年秋、新宿のどこかでこれをはじめてみた時、へえと興味はそそられた記憶があるが、空気座による「肉体の門」は、はっきり帝都座五階と覚えているのに、ストリップのそれはさだかでなく、この後、昭和二十六年の春頃から、ムーランルージュにストリップが加わり、X・小夜の裸や、新宿セントラル、日劇ミュージックホールで、吾妻京子、メリー松原、広瀬元美などを観賞したし、池袋西口の小屋がけ舞台で、※[#歌記号]太鼓をうて、拍子をとれ、たのしき今宵、というすり切れたレコードに乗った、いわゆる全スト拝観の栄にも浴したけれど、どうも、ぴんとこないのだ。
昭和三十二年の暮近くから、しばしば浅草へ出没して、秘密映画、花電車を知り、花電車の演技は、半紙に逆さ馬を書くこと、卵をはじきとばすこと、及び、焼酎グラスといった感じのずんぐりしたコップを挿入して、水中のぞき眼鏡の如くに、内部構造を見学させてくれるのであって、はじめてしげしげとながめたのだが、これもどうってことはない。
松戸がすごいの、笹塚がどうした、伊丹ミュージック、温劇ストリップと、先達はよくさそって下さるのだけれど、いっこうに食指うごかず、温泉地へ行き、他にすることもないから、ヌードスタジオひやかすことはあっても、あらわなポーズされると、決してカマトトぶるのではなくて、恥かしいというか、照れてしまう。
性器をながめたいという顔望は幼児性を意味するのだそうで、すると、ぼくは実に完璧な成人であるわけだけれど、それもにわかに信じがたい。中学生の頃は、まず寝ても覚めても於芽弧のことばかり頭にあって、一度みることができたら死んでもいい、アメリカがエニウェトック環礁やビキニ島で原爆の実験するたびに、ぼくはこの世の終末遠からじと考えて、強姦してでも、また、お婆さんのそれでもいいから、せめてこの世の名残りにながめたいと、ねがったものだ。道歩くもんぺ姿のお姉さんや、またセーラー服の女学生、その脚の間に、それがあるのかと考えれば、胸が苦しくなり、歩く時にそれは、どうなるか、掌を合わせて、かくあらんか、しかくなりはべるのとちゃうか、指先きをずらせたり、輪をつくったり、ああ、女の人は、毎日自分のものをみることができていいなあと、筋ちがいなひがみを覚えたし、風呂屋のボイラー室にはのぞき穴があって、そこから時に客をながめ、湯加減調節するときかされ、絶対に銭湯経営者になろうと決心した。番台に坐る気はない、あんなところにいたら、とても恥かしくて女湯などみられるわけがないのだ。
このように憧れていたのに、いつ熱がさめてしまったのだろうか、そしてまた、現在もまだ熱心にながめたがる同輩よ、於芽弧をみると、どんな気分になるのか、五、六百円払っても得したと実感があるのですか、みることによってゆりうごかされた感覚を大事にしまいこみ、女房なりなんなりに果たそうとするのか、それとも、科学者のように比較検討なさるのか。旅に出て、ストリップの看板みうけるとよだれ流さんばかりの男がよくいて、好位置をしめるため、なりふりかまわず突進したりするけど、終了後、べつだん満足した風もなし、受けた刺戟に悶々の態というわけでもない。
ストリップとまでいかなくても、CMフィルムに下着がちらりとすれば、えらいセンセーションをまき起す。ミニスカートが世界的な話題となって、あんな脚がより大きくのぞけてもどうってことないのではないか。実をいうと、小生も、電車に乗って向かいに坐った女性の、ふとももの奥がのぞけると、前にも書いたように、暇つぶしに入ったパチンコ屋で思いがけずピース一個ほど得したような、気分にはなる。だが、いったい女性のパンティを眼にすることが、どういうたぐいの満足感を男性に与えているのか、よくわからないのだ。
トップレスなんていうけれど、冷静にみりゃ、変なものであるし、プールサイドで、水着姿の女性の、股間やら、くいこんだような尻のたたずまい拝見して、いったい自分は何をみているのか、胸に手を当て考えてみると馬鹿馬鹿しくなる。男性は、一種の錯覚、あるいは女性のしくんだ催眠術にかかっているのではないか。「どう、みたいでしょ、みせたげようか、おっとそうはいかないわよ、みたいんなら、ちゃんとお代を払って下さらなきゃ」と、これは地面に輪をえがき、「さあ、この円から外にいて下さいよ、押さないで押さないで、よろしいですか、そこにもあるここにもあるという気合術とは、ちょいと素姓がちがう」などいって、客寄せする香具師の手口に似ているではないか。
エスカレーターや歩道橋をみ上げて、ことさら神妙な顔つきで、ちらりとみえ隠れした白い色に、三文の得したように思うのは、おかしいのではないかしら。下着の下には、ふつうは、於芽弧があるにきまっている、そしてそれは、なにやかやと形容詞のみ多いが、要するに穴であって、べつだんかわった形色合いなどありゃしません。誰だって、ぼくくらいの年齢になれば、一度や二度は眼にしたであろうそれと同じ形状のものが、くっついているのである。未知未見のものに情熱燃やすことは結構だが、夙《つと》に承知のことがらにつき、しつこくたしかめるのは、時間の無駄というものだろう。
もういい加減ストリップや、女性の下着に眼の色かえることは止めた方がいい。眼を覚ますべきであって、そうすればテキも、妙に隠してみたりあらわしたり、牛をさそう闘牛士のマントの如く、下着をもてあそびはしないだろう。そして、さらにつくづくながめてごらんなさい。女の裸なんて、あれ美しいものですか、中世の絵描きあたりが、ヴィナスの姿を美しいとかなんとかいったからって、これを何百年たった現在、拳々服膺《けんけんふくよう》していることはない。まるみを帯びているからって美しいわけではなく、乳房が張り、腰がゆたかであるからって魅力的とはいえぬだろう。男よりも、機能的にはかなりおとる躯つきを美しいと思わされているのも、女性のめぐらせた陰謀によるものであろう、なんだあんなもの。
[#改ページ]
隠したき心を探る
人間には、何故隠しどころがあるのだろうか、いや、性器を他人にみせたがらないのか。猿や類人猿など、比較的人間に近い動物に、この意識はないのに、人類となるとどのような種族も、必ず、隠したがる。
これは古今東西、文明度の高低を問わずにあることで、ニューギニア高地族なんてのも、隠すだけの目的ではないかもしれぬが大きなサックの如きものを着けているし、寒さを防ぐとか、外傷から守る以外に、人類おしなべてなにかしらこの部分をおおいたがるのはどういうわけか。
よく、生れのいい者は、あまり隠さないという。風呂へ人っても、姑息《こそく》な手段弄せず天衣無縫のまま濶歩するそうだが、ぼくは幸か不幸か、周辺にそういった高貴の血筋をもたないので、たしかめる術もなく、自分自身をいえば、これはもう根っからの下賤の出で、しっかと常にガードを固めている。子供の頃、親戚の者が家に泊って風呂に入り、脱衣場なんてしゃれたものはなく、流しから硝子一枚へだてて台所で、伯母さんと従妹が、すっ裸のまま、悠々と歩きまわる姿を眼にし、ひどくびっくりしたのだが、この連中が特に貴族的な生活していたわけでもない。
小学生の四、五年に、林間学校、海浜学校へ強制的に入れられ、また、相撲部にいたから、しばしば同年の男と風呂に入り、校庭で褌着けるため裸にもなった。こういう時に、むしろ|ええし《ヽヽヽ》のぼんぼんが、隠しどころあらわすことに、しごく気弱い表情をみせていた。これは、ぼんぼんに銭湯の経験がなくて、つい怯えたのだろうと思うが、ぼく自身かえりみて、父や母の、わが形状とことなる塩梅を眼にし、なにが質問した覚えはないし、また、入浴の際どんな風に隠していたか、いっこうに記憶がない。現在、娘とごくたまに風呂へ入るけれど、お互いあけっぴろげなもので、しかし、誰に教えられるのか、スカートなどはいている時、下着をあらわにする行為が恥かしいとは、三歳くらいの頃から心得ているようだった。
ぼくが、人前で裸か、あるいは下着姿にならないのは、性器露出を恥じるというより、痔のために汚れたそれを人にみせるのが具合わるいやら、また醜い中年の躯をさらしたくないからで、これを考えに入れぬ場合、さほどためらう気持はないように思える。物書きというなりわいは、かなり露出狂めいた心ざまを必要とし、そのいわば職業病として、性器隠蔽の気持が薄くなったのだろうか。包茎、あるいは短小の男が、これを隠したがるのは当然だが、これとて、小生くらいの年齢になってしまうと、むしろ、自分は包茎とはいうものの、仮性に過ぎないのだと、逆にデモンストレーションしたり、また、割箸二本くらいの粗チンを開陳し、他人の同情を求めるふるまいに出たり、むしろ正常者より露出的になっている。
男がなぜ珍宝を隠すのか、これは人類学者にもとけぬ謎だというが、雄々しい姿のそれを、他人にみせたくない理由は、さらにわからぬ。よく、銭湯の脱衣場で、ぼんやりと活動写真のポスターながめている若者がいるけれど、あれは、銭湯に至るまでに、ズボンとこすれちゃったか、あるいは女湯のたたずまいふと思いうかべたせいか、意馬心猿となり、必死に鎮めているのだ。銭湯において、臨戦の珍宝まずみたことがないけれど、この状態をことさら恥じ入るのはどうしてだろう。
ぼくだって、酔ったあげくに、やぶれかぶれの、その一里塚さだめる如く、年に一、二度開陳するくせがあるけれど、決して、たくましい姿ではなく、自分で、かなりどういたぶられてもビクともするものではないと、一種の確信があって、はじめて行うのだ。
「俺は欲情したぞ、みろこの張り切ったるさまを」とズボンはいたまま誇示するのは時にいるけれど、ぞろりとひき出すまでには至らず、これは、ふだんの形なら、よくいわれる膨脹係数の神話をたのみに、今はこうだがいざとなりゃと、まだしも救いがあるけれど、目いっぱいの時に、短小を指摘されたら、これは世をはかなみたくなる、その怖れのためだろうか。
およそ他人の怒張した珍宝みるチャンスがないから、較べることができず、各人各様にうぬぼれて、これで丁度いいのかも知れぬ。珍宝の長さ十四糎が標準というけれど、上辺ではかるのと、下辺では二糎差があって、下辺の方がみじかい。たいていの男は上辺に物指しを当て、エヘラエヘラ笑っているにちがいなく、性器を隠したがるいちばんの理由は、他人とみ較べられるのがいやだからではないか。
およそ男の劣等感を育成するに当たって、珍宝にまつらうさまざまな現象ほど強大なことはなく、ぼくの痔など、かなりマイナスのはずだが、だからといって、ひがんだりしない。小男が、その弱点をカバーするため、身だしなみを人以上に心くばりしたり、また、病気もちも、これを飼いならしてむしろ長所に仕立てたりするが、短小だけは、その故に当事者を奮起せしめ、大事業成しとげさせたとは、あまりきかない。たいていの立身出世物語の主人公は、巨根の所有者だし、小説家にだって、いろいろ流派があるようだけど、短小派はない。
つまりまったく役立たずの劣等意識の根源となるだけだから、よりよき世の中をつくり、たのしく生きるための知恵として、男は隠すのではないか。そして女性の同じふるまいについては、こりゃもう、いかにわが身のうちといったって、あまりにも、おぞましいから、人にみせたがらないのだ。あらゆる人間の考えだす妖怪変化の、基本的なパターンは女陰であって、女など、一つずつ化物をかかえて生きているようなものだ。まったく、TVのブラウン管にしゃしゃり出て来る中年女の表情をながめ、そして、それぞれが所有するであろうものの姿を、思いうかべると、心底、変化《へんげ》の棚ざらしといったおもむきで背筋がぞくぞくと寒くなってくる。
人間の躯は、それぞれの目的に従い、かなり機能的にもすぐれた形態を本来はそなえているものだが、あれだけは例外だろう。くどいようだが、女性は手鏡で一度じっくりと、みてみるといい。されば、もう少し、うしろめたく生きるようになるであろうよ。
[#改ページ]
父と子相睦むよし
ぼくが、しごくふやけたオナニー礼讃などをしているうちに、世の中はさらにさらにすすむものでありまして、ここにわが友人の一人、現実に、父と子が相睦み合いつつオナニーにふけるのだそうだ。つまり、わが友の眉目うるわしき妻女は、今をさる七年前に美人薄命の諺通りこの世をさって、蛆虫こそわかさね、わが友は中年にさしかかる年月を、独り身として過ごされる仕儀に相成った。
独り身といっても、未だ三十路にさしかかったばかりであって、もとより意馬心猿の妄執夜を日についで、さりとて、あらたなる伴侶求めるには、あまりにわが友、亡き妻を愛していた。
となると、仕方がないから手すさびにふける。深夜、わが子の寝しずまったのをみはからった上で、こっそり風呂場にいで立ち、夏ならまだしも冬などは腰を下せばしごくひんやりつめたい。腰かけに、おもむろにしゃがみ、一物しごき立てて、実になんともこれは情けないことであったという。情けないからといって、他の女と睦み合う、別に子供たちの母として迎える必要はなく、適当に処理することだってできたのだけれど、彼は、亡き妻に対する義理立ての他にまた、桎梏《しつこく》から解放されたよろこびもいくらかはあったらしく、つまり、妻を愛してはいたのだが、また夜の営みのわずらわしさを骨身にしみこまされてもいて、情けないとは思いつつ、オナニーにふけっていたらしい。
このあたりの機微は、まさに女房のうかがい知らぬことであって、亭主というものは実になんとも、女房の欲情に対し、怖れをいだいているのだ。すなわち、未婚の女性が、男性をいとおしく思いつつも、しかし、男性が眼血走らせ、猪の野荒し風に息を荒げてやってこられると、つい拒否してしまうようなもの、亭主は、妻をいとしくは感じてはいるけれど、妻の、夜毎きらびやかなネグリジェに身をまとい恨みがましい眼つきで、おねだりされるのが、なんとも空怖ろしい感じなので、この怖ろしさを一度味わってしまえば、かりに女房が早死したって、まず再婚の気は起きやしない。
つまり、配偶者に先き立たれた時、女よりも男の方が、操を立てていける理由はこれなのだけれど、わが友は、よほど骨身に徹していたらしく、トルコ風呂にすらおもむかず、丁度、男の子一人で、男手で育てても特別な支障ないまま、やっと、幼稚園に入れば、その送り迎えから、小学校に入学すると、その学校はたいへん知恵のある校長が存在し、給食なんていう愚劣なしきたりを行っていなかったから、自ら弁当をつくり、いわば男世帯は気ままなものよ、鬚も生えますと、明け暮れ過ごしていた。
そして二年前に、わが友は、わが子のオナニーにふける姿を眼にしたのである。女親ならば、びっくり仰天なげき悲しむだろうけれども、彼はまさにわが子というよりも、「おお、わが友よ」といった感じにうたれ、しかも、かなり不器用なそのさまをみて、一種の優越感を覚えたという。
そんな右手ばかりやみくもにしごき立ててもしかたがない、左手をそえろ、その下にぶら下っている袋は何のためにあると思うのか、まだるっこしい思いでわが息子のあてがきをながめ、後で、旧約聖書を買って与えたという。べつに旧約に意味はないのだが、何かプレゼントしたい気持が強く起って、やはり、息子の人生にとって、何か色合いをそえるものといったら、他に取りあえず考えつかなかったらしいのだ。
息子はキョトンとして部厚い、そして装幀も立派な聖書を手にし、かなり興味をもってこれを読んでいたそうだ、そのうち、今度は立場が逆になって、つい、わが友は自ら手すさび行う姿を息子にみられてしまった。これは、息子もしているなら、なにもことさら隠すことはないという、気のゆるみのせいであろう。風呂場にしゃがみこみ、後で思えばある気配を感じはしたのだが、もはや後にはひけぬ境地で、なすべきことをなし終え、ひょいとふりかえると、風呂場とダイニングキッチンのしきりに、わが子の顔がぽっかりあって、お互い視線を合わせて、同時にニタリと笑ったそうだ。
息子は十四歳なのだが、しごく思いやりのある男で、父の手すさびをいささかも軽蔑せず、また、そんなことをするならお嫁さんをもらえ、といった余計なお節介もやかず、「パパ、週に何度くらいなの?」と、しごく当たり前にたずねた。「そうだな、週に三回くらいかな」「ふーん」「君はどうだい」「ぼくは、日に二回の時もあるし、まあ、週十回はやるんじゃないかな」この答えをきいて、わが友はまず羨ましいと思い、つづいて、よせ、そんな勿体ないことは、とたしなめる気が起り、さらに、いや、こういうことをいうのは、俺のひがみかなと反省して、ついになにもいわぬまま、「しかし君のは、まだ未熟といえるな」いっぱしの先達ぶって、「へえ、どうやればいいの」きかれるままに、わが友は、一度果たしたわがものを、父の権威にかけてもと、再びふるい立て、あれこれと教えたそうな。
それからというもの、父と子はお互いに切磋琢磨して、さすが向き合ってこそやりはしないが、お互いの具合を報告し、「どうだったい? 昨日は」「うん、まだ左手がうまく使えないんだ」「ぼやっとあてがうだけではない、少しこうやって、円をえがくようにまわせばいい」「こんな風?」「そう」まるで茶の湯の秘伝|茶筅《ちやせん》さばきを伝授する如くに、わが友は自ら行ってみせ、息子もくい入るようにその手もとをみる。
ぼくはこの話をきいて、大体、近頃かまびすしい性教育がどうしたこうしたなんて、馬鹿馬鹿しく、大体、セックスについて何の叡知ももたず、したがって洞察もない連中の、かまびすしき売文、売舌が腹立たしくてならなかったのだが、こういう庭訓こそが、真の性教育、あるいは父が子に与えうる人間教育ではないのだろうかと、感心したのである。
男と男の話に女など入ってはいけないのだ、女親が、性教育についてごたごたいうのは、娘に対し、その生理の手当てのしかたとか、処女性の高価な売り方のみでいい。息子についての性教育は、男親が、まあ、自らやらぬまでも、オナニーとはどういうものであるか、自分の体験にもとづき自信をもって、開陳する必要があろう、いわばスパルタ教育というより、オナニー教育がよろしいのであります。
そして男親と息子のコミュニケーションのもっとも成立するのは、それぞれの事情こそことなれ、オナニー及びそれにおもむかしめる要因に関してが、いちばんなのではないのだろうか。
[#改ページ]
新婦のたしなみを説く
東北地方の旅館で、デフロラチオンのしるしのコレクションをみせられた。この宿のあるじどの、ワ印の収集に長い年月を費やし、だが浮世絵も春本にもあきて、当節はもっぱら自らシーツのしみをカラー写真におさめて、その数八百六十二枚、やはり新婚旅行者のものが多くて、あるじどのは近頃の若い方は思ったより純情であると力説なさる。
ぼくもかなり不思議な絵やら器具やら眼にしたけれど、出血の千変万化など珍妙で、なにしろあるじは、二人が部屋を出たとたんにカメラかかえてとびこみ、シャッターを切るのだから、一枚一枚がきわめて迫真力に富み、いやはや落花狼藉そのままに乱れたシーツ一面朱に染っていたり、あるいはまた、白地に紅く日の丸弁当みたいなのや、縦横にたたみじわのついているシーツは、つつしみ深い新婦が、こっそり押入れにしまったのを、わざわざ拡げて撮影したのだし、かと思えば、女性誌に入れ知恵されたのか、そなえつけのタオルあてがったしるし、じっくりみていると、なんとなく滑稽になってくる。
結婚シーズンに入ったとなると、大安吉日などの新幹線グリーン車は、いさんでいで立つ新郎新婦が九割がた席をしめ、一時さんざ茶化された新婦のシャッポこそ数が少くなったけれど、このての二人組はどうつくろっていてもまごうかたなきハニムーンにみえるもので、ぼく自身にその経験がないからそう勘ぐるのかも知れないが、あれはよく恥かしくないものですな。
だって、お二人がこれから何をしに出かけるのか、決して伊勢神宮で日本のなおいっそうなる隆盛を祈願なさるわけではない。要するに、セックス営むために手と手とり合っておるのだ。このカップルをながめる者はまた、ああしあわせそうだな、前途に光あれとは考えない。へえ、この男と女が熱海だか白浜だかでやりよるのか、女は処女だろうか、いや、かなりなれている感じだな、ひきかえ男はまあとろい面をしやがって、入れるところをまちがえるなよ、というような感想をいだく。いかにしあわせに酔ってたって、周囲のそういった視線に気がつくだろうに、みなまことに鈍感な表情で、すでにいち早く腕と腕からみ合わせ、中には、新婦の喉を手の甲でこちょぐったりしているのは、実になんともゆるし難い。これも公害の一種ではないだろうか。
そしてまた、同じ客車に何十組も新郎新婦が乗り合わせて、お互い比較検討しないものなのか。自分の女房よりもさらに美人を獲得した奴がかたわらにいれば、かなり癪にさわるだろうに、嫉妬に狂った新郎の表情のないことも不思議である。ぼくならば、このことを想像し、決して同類と顔合わせないようにスケジュールをくむだろうに。新婦のあっけらかんと花束に駅弁など抱いているのは、あるいは東北の宿のあるじが保証する如く、現在の女性は貞操堅固だが、あるいは商売上手で、挙式まで躯をゆるさず、だからその夜の修羅場がわからなくて、あのように平然としているのだろうか。
ぼくがかりに処女であったと仮定し、いざ男と宿に入ることを考えてみると、こりゃ怖ろしい。だって、必ず夜になれば、妙なものを妙なところにあてがわれ、なんだか知らないが、えらく痛いものらしい。あれこれ聞き齧ったところによると、両脚をおっぴろげて、もっともあられもないスタイルを強制され、男のものは、その時きわめて巨大に変化するという。想像すればするほど顔面蒼白となり、生きた心地もなくなって当然じゃないか。にもかかわらず新婦はみな血色がよく、いっこうに怯えていないのは、図々しいのか。それとも想像力が貧困なのであるか。
宿のあるじの説では、翌朝けろっとしているのはむしろ新婦の方であって、新郎はやたらカメラをかまえたり、土産物えらんだりなんとなく落着きがないという。ぼくは、自分が使用したサックなどを人にみられると、きわめて恥かしい。シーツの出血などは、まさになまなましい営みの、のがれぬしるしであって、これが女中さんの眼に触れることを、そして触れればどういう衝撃を与えるかについて、新婦は考えないものだろうか。もっとも中国では以前、処女のしるしを、門口にかかげてほこったというが、現在の新婦も、自らの純潔のあらわれを、恥じるなどとんでもないと、むしろみせびらかすつもりがあるのかも知れない。
出血のパターンを分類すると、一点に大きくまとまったもの、刷毛でなすった如くにちらばったもの、点々と殺人現場のようなもの、ほんのおしるしほどにポツリとまとまったもの、水割りの如く色の薄いもの、事後処理の際に付着したと思われるものなどで、あるじの説明によると二日目にはもはやうかがえないという。そしてまた考えるのだが、こうやって血がちゃんと出てくれればよろしいけれども、いっさい男を近づけなかったのに、いとあっさり亭主を受け入れ、そして出血もなかった新婦なんてものは、ずいぶん具合がわるいだろう。
初日の翌日に、お互い口もきかずにむっつり押しだまっているのがこれまで四、五組あって、あるじは多分、どちらかの過去の異性関係が原因だろうといっていたが、あの新婚旅行のカップルで、そういったトラブルを心配している表情もまったくうかがえないのは、楽天家がそろっているのかしら。よく身の上相談なんか読むと、以前の異性とのつき合いをうち明けるべきかどうかなんてくだりがある。新婦の中には、果たして初夜をごま化しきれるかどうか、悩んでいるのがいて当然なのに、まったくその気配はうかがえない。
ぼくは、月に二、三度旅行して、新婚さんといやがおうでも面つき合わさねばならず、だから、ひがみを承知でいうのであります。もう少しひかえ目に恥かしそうにしていてくれませんか、昼間っから天下公認といちゃいちゃされては、まったく腹の中が煮えくりかえる。あなた方以外の世間は、すべてあなた方の夜のふるまいを想像し、春画の主人公に当てはめて考えているのですぞ。
最後につけ加えておくけれど、シーツにしるされたもろもろのしるしは、きちんと水洗いくらいしておきなさい。世の中そう善人ばかりいやしないのだ、わかったか。
[#改ページ]
「不惑」を過ぎたれば
齢四十歳ともなれば、精神面では、つまり自分の顔に責任をもつとかいって、それぞれ個性がきわ立つらしいけれど、肉体あるいは生理的な分野において、いずれをあやめかきつばた、いずれさまもきわめてよく似てくる。
たとえば小生、思い立って少々躯のトレーニングにいそしんでおりますのだが、このことを友人知己に告げると、みな一様にふるい立ち「いや、俺もかねがねやりたいと考えていたんだ、どうも最近膝がガクガクしはじめて」と、眼を輝かす。ぼくの世代は、丁度スポーツ的ロストジェネレーションに当たっていて、小学校でこそ、百米競走のチャンピオンやら、また相撲、鉄棒の選手であっても、その後がつづかず、せいぜい水泳ぎぐらいでお茶を濁したまま荏苒《じんぜん》日を送って、現在に至り、みなかつて万能選手たりし往年の夢を胸の奥深く秘めているものの、しかし、きっかけがなければトレーニングなどできやしない。階段かけ上って切れる息に胆をひやし、ちょいと小高い丘にのぼり膝がガタピシすれば暗然たる想いにかられ、そして、明日からは朝早く起きて町内を走ってみるか、いや、それは少々恥かしいから、まず腹筋運動などこころみてと、やがて鍛えたあかつきの隆々たる筋肉を脳裏にうかべつつ、ニタリニタリとほくそ笑み、ウィスキーに酔い痴れ、さて眼覚めれば二日酔い、まあ、肝臓薬放りこむのが関の山なのだ。
心の底では、みな今の若者の、妙にひょろひょろした躯つきをうさん臭くながめている。いかなる反戦の権化だって、ややホモ風にながめた海兵や予科練の連中の、きりっとしまった躯つきこそ、あらまほしき男の躯の如く考え、俺だってやりゃやれるんだといきり立ちながら、下っ腹は日増しに出っぱり、脚と腕は反比例して細るばかり。大体まあこんな気持でいるから、小生が実行しはじめたとなれば、おくれとるまじとみな様参加なさって、これが実になんとも同じ結果を生ずる。つまり、往年、相撲の選手だった方も、少し腹筋と、首筋の運動行えば、たちまち反吐を吐きちらし、かつて中距離の輝けるランナーだった者は、腕立てふせ、背面反りでもって同じ小間物量を開陳なさり、いずれも、終って後一時間くらいは、一言も口をきかす、表情もこわばってしまう。
実に四十歳という年は、残酷なものであって、常日頃、軽蔑しているゴルフ、ボウリング、あるいは散歩でもいいから欠かさなければ、こんなみじめな有様にはならないだろうに。かえりみれば、いずれもほぼ二十年ばかり、積極的に躯をうごかしたことがないのだから、いたし方ない。
虚弱体質も、スポーツマンも、いまや、反吐においては同じであるし、またセックスについても、ほとんど差はなくなったようにみえる。かつて特飲街のあった頃、一日触れざればすなわち鼻血が出ると称していた豪の者も、逆に、十日間ほどパンツ取りかえなくても、いっこう体臭のこもらなかった精力稀薄男児も、むさ苦しき四十男となると、ほとんど差はなくて、考えることといったら、なんとかして女房の責め苦から脱却したいという悲願、及び、女学生に対する憧れなのだ。
ある男は、一日に五度は必ず、女房が死んだ時の自ら味わうであろう解放感について思いをいたし、パトカーのサイレンが鳴れば、すわこそわが家に強盗でも入って、あわれやな女房くびり殺されたのではあるまいか、女房外出とわかれば、交通事故に遭いはしないか、森羅万象みな一事にしか結びつかぬ、てなことを酔ったあげくにつぶやくと、全員同調して、自分は殺害方法を考えたことがあると告白するもの、また、男をつくって逃げてくれないかと、ややおとなしい希望を洩らすもの、まず、五、六時間は酒席がはなやぐ。そして、もはや四十になると、具体的にどういう女体をかきいだきたいかなんて、生き生きとした願望はない、「俺は近頃好みがかわって、痩せた女がよくなったなあ」「いや、やっぱりグラマーなのがいいよ、そのゆたかな胸に顔を埋めてよよと泣きたい」など、当たり前のことをしゃべるうち「なんだってかまやしない、俺は女学生がいい」一人がさけぶと、全員一瞬だまりこくって、そのうち誰かが「当たり前じゃないか、女学生なんてそんな、できもしないことを」ぼそっと呟き、以後はつかれた如く、口々に各自の理想的女学生像を物語る。これがなんとも単純なことで、要するにひだのあるスカートと、体操の際のかなり猥褻な印象だったブルマーにかぎられている。
「ブルマーをスカートにはきかえるところみたら死んでもいい」「俺の友達に馬鹿な奴がいて、折角女子高校の教師に就職したのに、つまらないって辞めた奴がいる」「そりゃ稀代の馬鹿だな」「そうだよ」「あのスカートのひだは十六本あったんだろう」「俺の方は二十四本だった」「いや、ちょっと軟派の奴は、こっそり数を多くしてたんだ」「そう、それに胸を少し広く開けて、喉にガーゼを巻いていた」「女学生とすれちがう瞬間というものは、実に緊迫していたなあ」「テキも寸分のすきもみせなかった」こういうだらだらした会話が、七、八時間はつづく。そして結論は、「ラッシュアワーの国電に乗って、是非、セーラー服の近くに寄りそいたい」「女学校の便所の天井に忍びこみたい」「セーラー服のフレンチカンカンがみてみたいよう」四十男たちは絶叫して、酔いつぶれてしまう、しかし、これも思うだけで、トレーニングと同じくやりはしない。
女学生についての悲願も、まあ当然であって、こっちはセーラー服を身近かにしたことなど、これまで皆無なのだ。男女共学には間に合わなかったし、その以前はモンペの世の中で、どうやら中学生的心情が、いわば七つ下りの雨風に、よみがえったものらしい。この体力のおとろえ、女房恐怖症、女学生願望がどうやら四十男、少くとも小生たちの世代にほぼ共通するものであるらしく、後の二つはいかんともしがたいが、せめてトレーニングだけはつづけるつもりであります。
そして、なぜトレーニングをするかといえば、これが異口同音に、「せめてプールで胸を張って泳ぎたい」という理由、どこまでも情けなくなってしまったものです。
[#改ページ]
八百よろずの性教育を
一種の性教育ブームであって、BBCがこのことをTVで放映したとか、アメリカでどうしたとか、相もかわらぬ黒船騒動、あちらが風邪をひくと、日本が肺炎起すというたとえは、なにも経済界だけではないらしい。
小生なども、敗戦後すぐ性教育なるものを受けたけれども、教師のテレが、まことになまなましくこちらに伝わり、なんとも面も上げられずうつむいていたのだが、後にその教師同僚に告げていわく、「なんというても中学三年はまだ純情なもんですわ」だと。
昔の女学生だって、心得るべきことはちゃんととっくに知っておりましたので、中にいじわるなのが、モーゼの十戒などを教わる際、「先生、カンインてなんですの」と質問し、「それはやね、御夫婦ではない男女がやね、その愛し合うことなんかを意味します」教師のあわてふためくさまをたのしんだ。ましてや、この性的情報過多の時代において、稚拙な絵やら文章で、まわりくどく申し上げなくても、男女のことわりくらい小学校二、三年になりゃとっくに御存知でいらっしゃる。
性教育というならば、なにも生殖行為のミもフタもない説明ではなくて、むしろ性的快楽の、しかるべき準備を整えるべきではないのか。たとえばぼくなど、性的営みはすべて男女の正常なる行為、それも一夫一婦制の中においてのみゆるされると、教育されたものだから、まことにどうも貧しい世界しか開かれていなくて、同性愛も、肛門性愛、視姦症、節片愛好の気配、サドもマゾも、なんにもない。辛うじてオナニズムだけを、後生大事に抱きつづけているのだが、これはいかにもあわれなことではないか。
本来なら、何をどうしてもいいのに、四十年近く、正常位のみを強制されて、今更、別の性的快楽を求めようとしても、その能力は退化してしまっている。肛門性愛をなんとかわがものとしたく、幾度指さし入れてみたかわかりゃしない、たしかに、隔靴掻痒《かつかそうよう》といった感じの、あるもどかしい感覚はあるのだが、そのうち脱肛がはじまって、つづけられなくなる。もっとも、この行為は、肛門近くの弛緩し切った筋肉を刺戟し、脱肛の思わぬ治療にはなったけれども。のぞきということも、さだめしおもしろいのだろうと胸ときめかせて、幾度かこころみたが、とても辛抱しきれない。
フェティシズムはどうかと申しますに、第七話で触れたように、ある時、ホテルヘ泊ったら、先客の後始末が済んでなくて、外人女のものらしい古い靴が二足、それに下着が紙に包んで、屑籠に捨てられていた。ぼくは、これをじっくり点検し、こういったものを集めてよろこぶ連中の、心理状態をあたうかぎり思いえがき、自己暗示にかけようとしたのだが、能もなくでかい靴をどう扱ったところで、厭悪感すらもない。ヘヘぇ、と虚ろな気持だけなのだ。
さらにマゾとかサドになると、自分の正常さがいやになるほどで、ぼくには人をぶんなぐって、よろこぶという気持まさにない、むしろマゾの方がまだわからないでもないけれど、長靴はいた女性にふんづけられてヒイヒイと喜悦の声をあげる境地は、想像力貧しいせいもあるが、まったく見当つかぬ。
こういった一連の能力欠如は、いくら長生きをぼくがかりにしたところで、その内容は、十分に開発されている方の何十分の一しかないはず、げにこそさびしいことである。そして、こうなっちまったのは、すべて教育、社会的また家庭の環境までも含めた、わがしつけがいたらなかったからだろう。三十年前、男女七歳にして席を同じくしないという教えは、もはや生きていなかったし、また鸛《こうのとり》が赤ん坊を運んでくるとは、毛頭信じていないにしても、やはり、同性愛をおとしめてながめ、サディズム、マゾヒズムを変態とみる時代に成人したのだから、かくの如く貧しいまま、朽ち果てなければならぬのだ。
つまり性教育というなら、性的快楽の全人格的解放を、幼稚園くらいから行うべきなので、その年齢にふさわしく、ある時にはソドミアについて、また、フェティシズムに関してのレクチュアなり、実技なりをほどこすべきではないか。生殖行為に結びつく営みを、もっとも愛好するなら、もとよりそれはそれでいい。しかし、マゾヒズムにおもむくのも、まったく自由なのであって、そのためにもっともふさわしい教育的環境を、たとえば「家畜人ヤプー」の著者沼正三氏におねがいするとか、そのつもりで探せば、これまで虐げられたまま世にあらわれなかった先達はいくらもいらっしゃるはずである。かくの如き性教育は、年に一度、あるいは女性の初潮の時期に合わせて、うろたえつつ行うものではなく、週に少くとも二時間、しかるべき教科書を撰定して、どのような道にすすむのも自由であり、むしろスペシャリストよりも、何でも屋になるよう、トレーニングを行うとよろしい。
今頃になって、ようやく性的タブーはすべてまちがっていたといわれても、時すでにおそい。そして、常におくれてばかりいることに、ぼくはもうなれているから、あきらめるけれど、これからの人類を考える時、今うんぬんされている性教育など、完全に考え方がまちがっていると断定せざるを得ないのだ。
できれば、快楽大学、快楽塾といった施設をつくって、のぞむ者はここでじっくりと各専門の理論実技をきわめつくせばよろしい。多分この大学では、教える者が教わるというもっとも幸福な学問の場に身を置くこととなり、それこそ、学士様なら娘をやろか、がよみがえるにちがいないのだ。
しかし、まったく変態の片鱗も自らにないということは、悲しいもので、これで人知れず、実は小生、マゾヒストであり夜な夜な古い公衆便所の壺に身をひそめ、ふりかかるお小水を浴びて悶絶するなんてことがあるなら、ずい分とたのしいではないか。あるいは、自分で肛門に器物を挿入し、ギャッとさけんで失神できたら、これもよろしいように思える。金もかからず、年とともに衰退することもなく、なにより人様にそう迷惑をかける営みではないのだから。
考えれば考えるほど、小生は損をしている。性的プロレタリアートは、今こそ団結して、同じ悲しみを未来に伝えぬよう、闘うべきではないのか。
[#地付き]〈エロトピア@> 了〉
[#改ページ]
あ と が き
ポーノトピアという言葉はあっても、エロトピアはなく、ぼくの新造語である。
しかし、トピアとあるのだから、少しは理想郷のおもむきがあって当然なのに、内容は奇怪なるセックス、それも自らをかえりみて、思いつくよしなしごとをつづり、あまりエロスとも関係はない。
論理的に矛盾していたり、くいちがう見方もでて来るけれど、その時々では、かなり忠実に書いていたので、幾何学の補助線というのも大袈裟だが、そんな風に、自分で書きつづるうち、思いがけぬ納得があったり、また、管からながめるが如し、わが内なる性の種々相に思い当たって、むしろエロトピアを書くことで、自分も変化し、あるいは、あたらしい発見がもたらされたのだ。
はじめから、通常の男女の営みを書くつもりはなく、というのは、あまりにもその経験がとぼしいし、また、他人から取材するのも、つまりはモテた連中の話を聞くわけで、癪にさわる。そこで、オナニーやら、インポテンツが主要テーマとなり、「週刊文春」連載も二年以上となった現在、小生は、オナニストにして、インポ寸前の男と目されるようになってしまった。婦人なども、てんからそうきめこんで、相手にして下さらないのは、身から出た錆ながら、閉口頓首。
わが文章に、見事な画をそえて下さる山藤章二画伯には、ひたすら感謝する。楽屋噺になるが、小生、原稿を入れるのがいつもおくれて、迷惑ばかりおかけしたのだ。そして、あきらめずにつきあって下さっている「週刊文春」の稲田房子嬢、松坂博氏、藤沢隆志氏、重松卓氏、浅見雅男氏及び、小文をとりまとめ一本にして下さった出版部の茂木一男氏、箱根裕泰氏にも、お礼申し上げる。
昭和四十六年四月十日
[#地付き]野坂昭如
[#改ページ]
初出誌
週刊文春/昭和四十四年三月十七日号〜
昭和四十五年四月二十日号
単行本
昭和四十六年五月二十五日文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十二年七月二十五日刊