目次
火垂《ほた》るの墓
アメリカひじき
焼土層
死児を育てる
ラ・クンパルシータ
プアボーイ
解説(尾崎秀樹)
火垂《ほた》るの墓
省線三宮駅《さんのみやえき》構内浜側の、化粧タイル剥《は》げ落ちコンクリートむき出しの柱に、背中まるめてもたれかかり、床に尻《しり》をつき、両脚まっすぐ投げ出して、さんざ陽《ひ》に灼《や》かれ、一月近く体を洗わぬのに、清太の痩《や》せこけた頬《ほお》の色は、ただ青白く沈んでいて、夜になれば昂《たか》ぶる心のおごりか、山賊の如《ごと》くかがり火焚《た》き声高にののしる男のシルエットをながめ、朝には何事もなかったように学校へ向かうカーキ色に白い風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みは神戸一中ランドセル背負ったは市立中学、県一親和松蔭《しょういん》山手ともんぺ姿ながら上はセーラー服のその襟《えり》の形を見分け、そしてひっきりなしにかたわら通り過ぎる脚の群れの、気づかねばよしふと異臭に眼《め》をおとした者は、あわててとび跳ね清太をさける、清太には眼と鼻の便所へ這《は》いずる力も、すでになかった。
三尺四方の太い柱をまるで母とたのむように、その一柱ずつに浮浪児がすわりこんでいて、彼《かれ》等《ら》が駅へ集まるのは、入ることを許される只《ただ》一つの場所だからか、常に人込みのあるなつかしさからか、水が飲めるからか気まぐれなおもらいを期待してのことか、九月に入るとすぐに、まず焼けた砂糖水にとかしてドラム缶《かん》に入れ、コップいっぱい五十銭にはじまった三宮ガード下の闇市《やみいち》、たちまち蒸し芋芋の粉団子握り飯大福焼飯ぜんざい饅頭《まんじゅう》うどん天どんライスカレーから、ケーキ米麦砂糖てんぷら牛肉ミルク缶詰魚焼酎《しょうちゅう》ウイスキー梨《なし》夏みかん、ゴム長自転車チューブマッチ煙《たば》草《こ》地下足袋おしめカバー軍隊毛布軍《ぐん》靴《か》軍服半《はん》長靴《ちょうか》、今朝 女房《にょうぼう》につめさせた麦シャリアルマイトの弁当箱ごとさし出して「ええ十円、ええ十円」かと思えば、はいている短靴《たんぐつ》くたびれたのを、片手の指にひっかけてささげ持ち「二十円どや、二十円」ひたすら食物の臭《にお》いにひかれてあてもなく迷いこんだ清太、防《ぼう》空壕《くうごう》の中で水につかり色の流れあせた母の遺《かた》身《み》の長じゅばん帯半襟腰ひもを、ゴザ一枚ひろげただけの古着商に売りなんとか半月食いつなぎ、つづいてスフの中学制服ゲートル靴が失《う》せ、さすがズボンまではとためらううち、いつしか構内で夜を過ごす習慣となり、疎開から引き揚げて来たらしくまだ頭《ず》巾《きん》をきちんとたたんでズックの袋にかけ、背負ったリュックサックには飯ごうやかん鉄かぶと満艦飾の少年と家族連れ、さだめし列車中の非常食に用意したのだろう、糠《ぬか》のむし団子糸ひいたのを、ここまで来れば安心とお荷物捨てるようにくれたり、あるいは復員兵士のお情け、同じ年頃《としごろ》の孫をもつ老《ろう》婆《ば》のあわれみ、いずれも仏様に供えるようにややはなれた所にそっとおく食べ残しのパンおひねりのいり大豆、ありがたく頂戴《ちょうだい》し、時には駅員に追い立てられたが、改札に立番の補助憲兵逆にこれを張りとばし守ってくれ、水だけはいくらもあるから、居つくと根が生え、半月後に腰が抜けた。
ひどい下痢がつづいて、駅の便所を往復し、一度しゃがむと立ち上るにも脚がよろめき、把《とっ》手《て》のもげたドアに体押しつけるようにして立ち、歩くには片手で壁をたよる、こうなると風船のしぼむようなもので、やがて柱に背をもたせかけたまま腰を浮かすこともできなくなり、だが下痢はようしゃなく襲いかかって、みるみる尻の周囲を黄色く染め、あわてた清太はむしょうに恥かしくて、逃げ出すにも体はうごかず、せめてその色をかくそうと、床の上のわずかな砂や埃《ほこり》を掌《て》でかきよせ、上におおい、だが手のとどく範囲はしれたもので、人が見れば飢に気のふれた浮浪児の、みずから垂れ流した糞《くそ》とたわむれる姿と思ったかも知れぬ。
もはや飢はなく、渇きもない、重たげに首を胸におとしこみ、「わあ、きたない」「死んどんのやろか」「アメリカ軍がもうすぐ来るいうのに恥やで、駅にこんなんおったら」耳だけが生きていて、さまざまな物音を聞き分け、そのふいに静まる時が夜、構内を歩く下駄《げた》のひびきと、頭上を過ぎる列車の騒音、急に駈《か》け出す靴音、「お母ちゃーん」幼児の声、すぐ近くでぼそぼそしゃべる男の声、駅員の乱暴にバケツをほうり出した音、「今、何日なんやろ」何日なんや、どれくらいたってんやろ、気づくと眼の前にコンクリートの床があって、だが自分がすわってる時のままの姿でくの字なりに横倒しになったとは気づかず、床のかすかなほこりの、清太の弱い呼吸につれてふるえるのをひたとみつめつつ、何日なんやろな、何日やろかとそれのみ考えつつ、清太は死んだ。
その前日、「戦災孤児等保護対策要綱」の決定された、昭和二十年九月二十一日の深夜で、おっかなびっくり虱《しらみ》だらけの清太の着衣調べた駅員は、腹巻きの中にちいさなドロップの缶をみつけ出し、ふたをあけようとしたが、錆《さ》びついているのか動かず「なんやこれ」「ほっとけほっとけ捨てとったらええねん」「こっちの奴《やつ》も、もうじきいてまいよるで、眼えポカッとあけてるようなったらあかんわ」むしろもかけられず、区役所から引きとりにくるまでそのままの清太の死体の横の、清太よりさらに幼い浮浪児のうつむいた顔をのぞきこんで一人がいい、ドロップの缶もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモーションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、落ちた拍子にそのふたがとれて、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた蛍《ほたる》おどろいて二、三十あわただしく点滅しながらとびかい、やがて静まる。
白い骨は清太の妹、節子、八月二十二日西《にし》宮満地谷《のみやまんちたに》横穴防空壕の中で死に、死病の名は急性腸炎とされたが、実は四歳にして足腰立たぬまま、眠るようにみまかったので、兄と同じ栄養失調症による衰弱死。
六月五日神戸はB二九、三百五十機の編隊による空襲を受け、葺合《ふきあい》、生《いく》田《た》、灘《なだ》、須磨《すま》及び東神戸五カ町村ことごとく焼き払われ、中学三年の清太は勤労動員で神戸製鋼所へ通っていたのだが、この日は節電日、御《み》影《かげ》の浜に近い自宅で待機中を警報発令されたから、裏庭の家庭菜園トマト茄子《なす》胡瓜《きゅうり》つまみ菜の中に掘った穴に、瀬戸火《ひ》鉢《ばち》を埋め、かねての手《て》筈《はず》に従い台所の米卵大豆鰹節《かつおぶし》バター干鰊《ほしにしん》梅干サッカリン乾燥卵をおさめて土をかけ、病身の母にかわって節子を背負い、父は海軍大《たい》尉《い》で巡洋艦に乗組んだまま音信《たより》なく、その第一種正装の姿写真立てからはずして胸に入れ、三月十七日、五月十一日二度にわたる空襲で、とても女子供連れでは焼夷弾《しょういだん》消しとめるのは無理、家の床下に掘った壕も頼りにならぬと、まず母を町内会で設置した消防署裏の、コンクリートで固めたそれへ避難させ、洋服箪《だん》笥《す》の中の父の私服、リュックにつめはじめると妙にはなやかな感じでカンカンキンキンと防《ぼう》空監視哨《くうかんししょう》の鐘が交錯して鳴り、玄関にとび出る間もなく落下音に包まれ、第一波がすぎると、その落下音のすさまじさに、ふと静寂がおとずれたような錯覚があったが、ウォンウォンと押えつけるようなB二九の轟音《ごうおん》切れ目がなく、ふりあおげば、これまではあるかなきほどの点からもくもくと飛行機雲ひいて、東へとぶ姿か、つい五日前大阪空襲の際、大阪湾上空を雲のあいまぬって進む魚のような群れを、工場の防空壕でながめただけ、今は、両手にあまる低空飛行で胴体下部にえがかれた太い線まで識別できる、海から山へむかいつと翼かたむけて西へ消え、ふたたび落下音、急に空気の密度がたかまったように、体が金しばりとなって立ちすくんでいると、ガラガラと物音がして屋根からころげた青色の、径五糎《センチ》長さ六十糎ばかりの焼夷弾、尺取虫のように道をとびはねつつ油脂をまきちらし、清太はあわてていったん玄関へとびこんだが、家の中からすでに黒煙がゆっくりと流れ出し、ふたたび表へ出て、しかし何事もなかったような家並み、人影はなく前の家の塀《へい》に防火はたきとはしごが立てかけられ、とにかく母のいる壕へと、背中の節子しゃくり上げ歩きはじめたら、角の家の二階の窓から黒煙が噴き出し、申し合せたように、それまで天井屋根裏でくすぶっていたらしい焼夷弾、いっせいに火の手上げて庭木のバチバチはぜる音、軒《のき》端《ば》を走る火やら燃えながらはずれておちる雨戸、視界は暗くなりみるみる大気は熱せられ、清太は突きとばされたように走り出し、かねて手はずは、石屋川の堤防へ逃げるさだめだから阪神電車の高架に沿って東へ走ったが、すでに避難の人でごったがえし、大八車ひいた人や布《ふ》団《とん》包みかついだ男、金切声上げて人を呼ぶ老婆、じれったくなって海へむかい、その間にも火の粉が流れる、落下音に包まれる、三十石入りの酒樽《さかだる》の防水桶《ぼうすいおけ》がこわされて水びたしになっていたり、病人を担架で運び出そうとしていたり、ある一画にまったく人がいないと思うと、通り一つ隔てて畳まで持ち出し大掃除のようなさわぎ、旧国道を抜け、せまい道を走りつづけ、すでに逃げた後なのか人っ子一人いない町のはずれに、見なれた灘五郷の黒い酒蔵、夏ならばここまで来ると、潮の香ただよい、幅五尺ばかりの蔵と蔵の間から夏の陽に輝く砂浜と、思いがけぬ高さに紺青《こんじょう》の海がのぞく、今はそれどころでなく、海岸へ出たところで壕一つあるわけでなし只火からのがれるには水と、反射的に逃げて来たので、同じ思いの避難民、幅五十米《メートル》ばかりの砂浜の、漁船や網を捲《ま》き上げる轤《ろ》のかげに身を寄せ、清太は西へ歩いて、石屋川の川床の、昭和十三年の水害以後二段になったその上段のところどころにあるくぼみに身をかくした、おおいはないが、とにかく穴にひそんでいれば心強く、腰を下すと激しい動《どう》悸《き》、喉《のど》がかわき、ほとんどかえりみるゆとりもなかった節子を、おぶい紐《ひも》から解いて抱きおろそうとすると、それだけのことで膝《ひざ》がガクガクとくずれそうになり、だが節子は泣きもせず、ちいさなかすりの防空頭巾かぶり白いシャツに頭巾と同じもんぺ赤いネルの足袋片方だけ黒塗りの大事にしていた下駄はいて、手に人形と母の古い大きな蟇口《がまぐち》をしっかりと抱える。きな臭いにおいと、風に乗ってすぐそこのようにきこえる火事の物音、はるか西の方に移って俄《にわ》か雨《あめ》の如き落下音、時に怯《おび》えながら兄《きょう》妹《だい》体を寄せあい、思いついて防空袋から、昨夜、母がもう残しといてもしかたないからと思い切って白米だけの飯を炊《た》き、その残りと今朝の大豆入り玄米の、白黒半々にまじった弁当ひろげれば、うっすらとすでに汗をかいていて、その白い部分を節子に食べさせる、見上げる空はオレンジ色に染まり、かつて母が、関東大震災の朝、雲が黄色くなったといったことを思い出す。
「お母ちゃんどこにいった?」「防空壕にいてるよ、消防裏の壕は二百五十キロの直撃かて大丈夫いうとったもん、心配ないわ」自分にいいきかせるようにいったが、時折り堤防の松並木ごしに見すかす阪神浜側の一帯、ただ真赤にゆれうごいていて、「きっと石屋川二本松のねきに来てるわ、もうちょっと休んでからいこ」あの焔《ほのお》の中からは逃げのびたはずと、考えをかえ、「体なんともないか節子」「下駄一つあらんようになった」「兄ちゃん買《こ》うたるよ、もっとええのん」「うちもお金もってるねん」蟇口をみせ、「これあけて」頑丈《がんじょう》な口金をはずすと一銭五銭玉が三つ四つあって、他《ほか》に鹿《か》の子《こ》のおジャミ、赤黄青のおはじき、一年前、節子はおはじきをのみこみ、その日から庭に新聞敷いてウンコをさせ、翌日夕方首尾よくあらわれたそれと同じもの。「お家《うち》焼けてしもたん?」「そうらしいわ」「どないするのん?」「お父ちゃん仇《かたき》とってくれるて」見当ちがいの答えだったが清太にもこの先どうなるかわからず、ただようやく爆音遠ざかり、やがて五分ほど夕立ちのように雨が降って、その黒いしみをみると、「ああこれが空襲の後で降るいう奴か」恐怖感ようやくうすらぎ、立ち上って海をながめると、束《つか》の間《ま》に一面黒く汚れおびただしい浮遊物が浮き沈みしている、山はそのままで、一王山の左に山火事らしく、むしろのんびり紫の煙がたなびき、「よっしゃ、おんぶし」節子を堤防にすわらせ、清太が背をむけるとのしかかってきて、逃げる時はまるで覚えなかったのにズシリと重く、草の根たよりに堤防を這いずり上る。
上ってみると御《み》影《かげ》第一第二国民学校御影公会堂がこっちへ歩いてきたみたいに近くみえ、酒蔵も兵隊のいたバラックも、さらに消防署松林すべて失せて阪神電車の土手がすぐそこ、国道に電車三台つながって往生しとるし、上り坂のまま焼跡は六甲山《ろっこうさん》の麓《ふもと》まで続くようにみえ、その果ては煙にかすむ、十五、六カ所でまだ炎々と煙が噴き出し、ズシーンと不発の発火か時限爆弾か、かと思えば木枯しのような音立ててつむじ風がトタン板を宙にまき上げ、節子の背中にひしとしがみつくのがわかったから、「えらいきれいさっぱりしてもたなあ、みてみい、あれ公会堂や、兄ちゃんと雑炊食べにいったろ」話しかけても返事がない。ちょっとまってなとゲートルまき直し、堤防の上を歩き進むと、右手に三軒の焼け残り、阪神石屋川の駅は屋根の骨組だけ、その先のお宮もまっ平らになって御手洗《みたらし》の鉢だけある、次第に人の数が増え、皆家族連れ道ばたにへたりこんで、口ばかりいそがしくしゃべり合い、やかんを木の先にひっかけ、くすぶる石炭で湯をわかし、干藷《ほしいも》を焼いたり、二本松は国道をさらに山へ向かった右側にあり、たどりついたものの母の姿なく、みな川床をのぞきこんでいるからみると、うつむいたり大の字になってたり窒息の死体が五つ水の涸《か》れた砂の上にいて、清太はすでにそれが母ではないかとたしかめる気持がある。
母は節子を産んで後、心臓を患《わずら》い夜中に発作を起しては、清太に水で胸を冷やさせ、苦しいと上半身起し座布団つみかさねて体をもたせる、その左の乳房は寝巻きの上からでも、鼓動につれてブル、ブルンと震えるのが見えて、もっぱら薬は漢方薬、赤い粉を朝夕のんで、手首など掌《てのひら》が二まわりするほどに細い。走れないから先に壕へ入れたのだが、いったん壕が火にとりかこまれたら、多分そこが母の終焉《しゅうえん》の場所となろう、わかっていながらただ壕への近道を火にさえぎられただけで、母の安《あん》否《ぴ》念頭から失せ、一散に逃げ出した自分を、清太は責めたが、しかしかりにたどりついていてもどうなろうか、「節子と一緒に逃げて頂戴、お母ちゃんは自分一人なんとでもします、あんたら二人無事に生きてもらわな、お父ちゃんに申しわけない、わかったね」冗談のように母はいっていた。
国道を海軍のトラックが西へ向かって二台走る、自転車に乗った警防団の男がメガフォンでなにか怒鳴っている、「直撃二発おちよってん、むしろかぶせてほったろか思うたって油脂こぼれよってからになあ」同じ年頃の少年が友人と話をしている、「御影国民学校へ集合して下さい、上西、上中、一《いち》里《り》塚《づか》の皆さん」清太の住む町名を呼ばれ、とたんにそや学校に避難しとるかも知れん、堤防降りかけると、またも爆発音がする、まだ瓦《が》礫《れき》の中の火はおさまらずよほど広い道でないと熱気にあおられて歩けず、「もうちょっとここにおろ」節子にいうと、声かけられるのを待っていたように「兄ちゃんおしっこ」よっしゃとおろし、くさむらにむけて節子の脚をかかえる、思いがけず勢いよく小水ほとばしり、手ぬぐいでふき、「もう頭巾とってええわ」みるとすすけた顔だから、水筒の水で「こっちはきれいやからな」手ぬぐいの一方の端しめらせて清める、「眼エいたいねん」煙のせいか赤く充血していて、「学校へいったら洗《あろ》うてくれるよ」「お母ちゃんどないしたん?」「学校におるわ」「ほな学校へいこ」「いこいうたかてまだ熱うて歩かれへん」学校いこと節子は泣き出し、それは甘えているのでも、痛がっているのでもない、妙に大人びた声だった。「清太さん、お母さんに会いはった?」向いの家の嫁ぎおくれた娘に声かけられ、清太は学校の校庭で衛生兵に節子の眼を洗ってもらい、一度ではまだ痛がるのでまた行列のしりにならんだところで「ううん」「はよいったげな、怪我《けが》しはったのよ」すいませんけど節子を頼むというより先に娘は「うちみてたげる、怖かったねえ節ちゃん、泣かんかった?」日頃特に親しくもしてなかったのに、いやに優しいのは母の状態のよほどわるいと知ってのことか、清太は行列をはなれ、六年間学んだ校舎、勝手知った医務室へ行くと血の色をみたした洗面器、ほうたいの切れはし床看護婦の白衣すべて血潮ににじみ、うつぶせになりびくとも動かぬ国民服の男もんぺの片脚むき出してほうたい巻かれた女、なんとたずねていいかわからずだまって立っていると、町会長の大林さんが「ああ清太くん探してたんや、元気やった?」肩に手をかけ「こっちや」廊下に連れ出し、大林さんはもう一度医務室へもどると、膿盆《のうぼん》のガーゼの中からリング切られたヒスイの指輪をとり出し「これお母さんのや」たしかに見覚えがある。
一階のはずれの工作室、ここに重傷者が収容されていて、そのさらに危《き》篤《とく》に近い者は奥の教師の部屋にねかされ、母は上半身をほうたいでくるみ、両手はバットの如《ごと》く顔もぐるぐるまきに巻いて眼《め》と鼻、口の部分だけ黒い穴があけられ、鼻の先は天《てん》婦《ぷ》羅《ら》の衣そっくり、わずかに見覚えのあるもんぺのいたるところ焼《や》け焦《こ》げできていて、その下のラクダ色のパッチがのぞく、「今ようやく寝はったんや、どっか病院あったら入れた方がええねんけどな、きいてもろてんねん、西宮の回生病院は焼けんかったらしいけどな」寝入るというよりは昏睡《こんすい》状態なので、呼吸は不規則だし「あの、お母ちゃん心臓わるいんですけど、その薬もらえませんか」「ああきいてみような」うなずきながら、しかしとてもそれは無理と清太にもわかる。母の隣に横たわる男は呼吸のたび鼻口から血《ち》泡《あわ》を吹き、気持わるいのかいたたまれないのか、あたり見まわしてはセーラー服の女学生てぬぐいでふきとり、その向うの中年の女は下半身あらわにしわずかに局部にガーゼ置いただけ、左脚が膝からなく、「お母ちゃん」低く呼んでみたが実感がわかず、とにかく節子のことが気になって校庭へ出ると、鉄棒のある砂場に娘といて、「わかった?」「はあ」「お気の毒やねえ、なにかできることあったらいうて頂戴、そや乾パンもうもろた?」首をふると、ではとってきてあげると去り、節子は砂の中から拾い出したアイスクリームしゃくる道具を玩具《おもちゃ》にしている。「この指輪、財布へなおしとき、失《な》くしたらあかんで」蟇口におさめ「お母ちゃんちょっとキイキわるいねん、じきようなるよってな」「どこにおるのん?」「病院や、西宮のな。そやから今日は学校へ兄ちゃんと泊って、明日西宮のおばちゃん知ってるやろ、池のそばの、あしこへ行こ」節子はだまって砂のかたまりをいくつもつくり、「うちら二階の教室やねん、みんないてるからきいへん?」茶色い袋の乾パン二つ持って娘がもどってきた。後でいきますと、両親そろっている家族に立ちまじれば、節子がかわいそうで、というより清太自身泣き出すかも知れず「食べるか」「お母ちゃんとこいきたい」「明日ならな、もうおそいやろ」砂場のふちにすわりこみ、そやと「みてみ、兄ちゃんうまいで」清太は鉄棒にとびつくと、大ぶりで体を乗せ、くるくると果てしなく前まわりをはじめ、国民学校三年十二月八日戦争のはじまった朝、同じ鉄棒で清太は四十六回の前まわり記録をつくったことがある。二日目、病院へ運ぶといっても背負ってはいけずようやく焼け残った六甲道駅《ろっこうみちえき》近くの人力車を頼み、「ほな、あんた学校まで乗りなはれ」生れて始めて人力に乗り、焼跡の道を走って、着くとすでに危篤で、動かすことなどかなわず、車夫は手をふって車代を断り帰り、その夕刻、母は火傷《やけど》による衰弱のため息をひきとった、「ほうたいとって顔みせてもらえませんか」清太の頼みに、白衣を脱ぐと軍医の服装の医者は「みない方がいいよ、その方がいい」びくとも動かぬほうたいだらけの母の、そのほうたいに血がにじみ、おびただしいハエがむらがって、血泡の男も片脚切断の女もすべて死に、警官が一言二言遺族にたずねては、何ごとか記録し「六甲の火葬場の庭に穴掘って焼くよりしゃあない、今日からでもトラックで運ばな、なんせこの陽気ではなあ」誰《だれ》にともなくいい、敬礼して出ていく、香《こう》華《げ》もなく枕団子《まくらだんご》も読経《どきょう》もなく、泣くものさえいなくて、遺族の女の一人、眼をつぶったまま年寄りに髪をとかさせ、一人は胸はだけて赤ん坊に乳ふくませ、また少年はすでにしわくちゃのタブロイド版の号外片手に、「すごいなあ三百五十機来襲の六割撃墜やてえ」感歎《かんたん》していい、清太もまた三百五十機の六割は二百十機かと、母の死とは縁遠い暗算をする。
節子は西宮の、遠い親戚《しんせき》にとりあえず預け、ここはお互いに焼けたら身を寄せあう約束の家で、未亡人と商船学校在学中の息子と娘、それに神戸税関へ勤める下宿人。六月七日昼から一王山の下で荼毘《だび》に付すという母親の死体、手首のほうたいをとって針金で標識を結び、ようやくみる母の皮膚は黒く変色していて人のものとも思われず、担架にのせたとたんころころと蛆虫《うじむし》がころげおち、気がつくと幾百、千という蛆虫が工作室をはいずり、委細かまわず踏みつぶしながら死体搬出され、焼け焦げた丸太棒《まるたんぼう》状はむしろにくるんでトラックに積み、窒息死傷害致死などは座席はずしたバスにそのまま一列にならべて運ぶ。
一王山下の広場に径十米ほどの穴、そこへ建物疎《そ》開《かい》の棟《むな》木《ぎ》柱障子襖《ふすま》が乱雑に積まれていて、その上に死体を置き、警防団員が重油の入ったバケツを、防火訓練のようにたたきつけ、ぼろに火をつけて投ずるとたちまち黒煙上げて燃えさかり、火のついたままころげおちる死体は、鳶口《とびぐち》でひっかけて火中にもどし、かたわらの白布をかけた机の上に、粗末な木箱が数百あって、これに骨を収めるのだった。
遺族がいては邪魔と追い立てられ、乞《こ》食《じき》坊《ぼう》主《ず》すらいない火葬の果ては、夜になって配給うけとるように消炭で名前しるした木箱の骨渡され、標識がどれほど役に立ったものやら、黒煙のわりには真白な指の骨が入っていた。
夜ふけて西宮《にしのみや》の家へたどりつき「お母ちゃんまだキイキ痛いのん?」「うん空襲で怪我しはってん」「指輪もうせえへんのかな、節子にくれはったんやろか」骨箱は、違い棚《だな》の上の戸袋にかくしたが、ひょっとあの白い骨に指輪をはめたさま思い浮べあわてて打ち消し、「それ大事なんやからしもうとき」敷布団の上にちょこんと坐《すわ》り、おはじきと指輪であそぶ節子にいう。清太は知らなかったが、母はこの西宮の親戚に着物夜具蚊帳《かや》を疎開させてあって、未亡人は「海軍さんはええわ、トラック使《つこ》うてはこぶんやから」いや味ともつかずいいながら廊下の隅《すみ》に、唐草の風《ふ》呂《ろ》敷《しき》でおおわれた荷物をしめし、中の行《こう》李《り》をあけると節子、清太の下着類から、母のふだん着があらわれ、洋服箱にはよそいきの、袖《そで》の長い着物もあり、ナフタリンの臭《にお》いがなつかしい。
玄関わきの三畳をあてがわれ、罹《り》災《さい》証明があれば、米鮭《さけ》牛肉煮豆の缶詰《かんづめ》が特配になったし、ほとぼりのさめた焼跡の、これがまあ我が住んでいたところかとあきれるほど狭い敷地の、心当りを掘ると瀬戸火《ひ》鉢《ばち》におさめた食料は無事で、大八車を借り石屋、住吉《すみよし》、芦《あし》屋《や》、夙川《しゅくがわ》と四つの川をわたって一日がかりで運び、玄関につみ上げれば、ここでも未亡人「軍人さんの家族ばっかりぜいたくして」文句いいつつ、うれしそうに我物顔で近所にまで梅干しのおすそ分けをし、断水が続いていたから清太の男手は、三百米はなれた井戸の水《みず》汲《く》みにもありがたいはず、しばらくは女学校四年で中島飛行機へ動員の娘も休んで節子をあやす。
水汲みには、近くの出征兵士の妻と、同志社大学の、半裸体に角帽かぶった学生が大胆にも手をつないであらわれ、近隣の噂《うわさ》の的となり、また清太と節子も、海軍大《たい》尉《い》の家族で、空襲により母を失った気の毒な子供と、これは恩着せがましい未亡人の吹聴《ふいちょう》したためで同情をひいた。
夜に入ると、すぐそばの貯水池の食用蛙《しょくようがえる》が、ブオンブオンと鳴き、そこから流れ出る豊かな流れの、両側に生い繁《しげ》る草の、葉末に一つずつ平家蛍《へいけぼたる》が点滅し、手をさしのべればそのまま指の中に光が移り、「ほら、つかまえてみ」節子の掌《て》に与えると、節子は力いっぱいにぎるから、たちまちつぶれて、掌に鼻をさすような生臭いにおいが残る、ぬめるような六月の闇《やみ》で、西宮とはいっても山の際《きわ》、空襲はまだ他人《ひと》ごとのようだった。
呉鎮守《くれちんじゅ》府《ふ》気付で父に手紙を出したが、返事はなく、そのかえり母にねだったので覚えている神戸銀行六甲支店、住友銀行元町《もとまち》支店をたずね預金を確認し、その七千円ばかりの額をつげると未亡人は、「私の主人が亡《な》くなった時は退職手当七万円やった」胸を張り、「幸彦《ゆきひこ》は中学三年やったけど、社長さんに立派にあいさつして賞《ほ》められたもんです、しっかりしとったわ、あのこは」息子の自慢、夜なかなか寝つかず、時おり怯えたように泣きさけび、そのつど目覚めて、つい朝おそくなる清太へのあてこすりときこえ、十日ばかりのうちに広口瓶《ひろくちびん》の梅も乾燥卵バターたちまちなくなり、罹災者特配も消えて二合三勺《じゃく》も半分は大豆麦唐きびとなっては、食べ盛りの二人だけに未亡人、おのが分まで食われるのではないかと疑い、三食の雑炊もやがてぐいと下までしゃくって飯のあたりを娘によそい、清太節子にはすいとつまみ菜ばかりの汁《しる》を茶《ちゃ》碗《わん》にもり、時に気がとがめるのか「こいさんお国のための勤労動員やもん、ようけ食べて力つけてもらわんと」台所ではいつも、焦げた雑炊の底をお玉でがりがりけずる音がし、さぞかし味がしみて香ばしく歯ごたえのあるそのお焦げ、未亡人のむさぼる姿思うと腹が立つよりつばきがにじむ。税関に勤める下宿人は闇のルートにくわしく、牛肉水あめ鮭缶を未亡人におくって、ごきげんとり結び、娘に気があった。
「海行ってみよか」梅雨の晴れ間に、清太はひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、ただもう兄にすがりついて、「うん、うれしいな」去年の夏までは、須磨《すま》に部屋を借りて、夏を過ごし、節子を浜に置去りにして、沖に浮かぶ漁師の網の硝子《ガラス》玉《だま》まで往復し、浜茶屋といっても一軒、甘酒をのます店があって、二人でしょうがのにおいのそれを、フウフウと飲み、かえれば母のつくったハッタイコ、節子は口いっぱいほおばってむせかえり顔中粉だらけ、節子覚えてるやろかと、口に出しかけて、いやうっかり想《おも》い出させてはあかん。
小川に沿って浜へむかうと、一直線に走るアスファルト道路の、ところどころに馬力がとまっていて、疎開荷物を運び出している、神戸一中の帽子かぶり眼鏡かけた小《こ》肥《ぶと》りの男が、むつかしそうな本を両手いっぱいにかかえて荷台に置き、馬はただものうげに尻尾《しっぽ》をはねかしている、右へ曲ると夙川の堤防に出て、その途中に「パボニー」という喫茶店、サッカリンで味をつけた寒天を売っていたから買い喰《ぐ》いし、最後までケーキを出していたのは三宮《さんのみや》のユーハイム、半年前にこれで店閉まいだからと、デコレーションケーキをつくり、母が一つ買って来た、あすこの主人はユダヤ人で、ユダヤ人といえば昭和十五年頃《ごろ》、清太が算術なろうとった篠原《しのはら》の近くの赤屋敷に、ようけユダヤの難民が来て、みな若いのに鬚《ひげ》を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やいうのに厚いオーバー着て、靴《くつ》かて両方左のんをはいて、びっこひいとんのがおった、あれどないしてんやろ、やっぱり捕虜で工場へ入っとんやろか、捕虜はよう働く、一捕虜二セイガク三徴用四本工いうて、本職はジュラルミンで煙草《たばこ》ケース作ったり合成樹脂でさしつくったり、いったいこれで勝てるのやろか、夙川の堤防はすべて菜園になっていて、南瓜《かぼちゃ》や胡瓜《きゅうり》の花が咲き、国道まで人影ほとんどなく、国道に沿う木立ちの中には、本土決戦のため温存の中級練習機が、申しわけばかりの擬装網まとって、ひっそりといる。海岸には、海水を一升瓶に汲む子供や老《ろう》婆《ば》の姿があり、「節子、裸になり」清太はてぬぐいを水に浸して肩やふとももの、すでに女の子らしくふくよかな肌《はだ》の、びっしり赤い斑点《はんてん》のできたあたりを、「ちょっと冷たいかも知れん」いく度も洗い、満《まん》池《ち》谷《たに》での風呂は、一軒置いた隣へもらいにいくのだが、常に最後ではあるし灯火管制の昏《くら》い中で洗った気がせず、あらためてみる節子の裸、父に似て色が白い、「あれどないしたん、寝てはるわ」みると低い護岸堤防のそばに、ゴザをかけられた死体があり、突き出た二本の脚だけ体にくらべてやけに大きくみえ、「あんなんみんでもええよ、もうちょっと暑なったら泳げるわ、教えたる」
「泳いだらお腹《なか》減るやん」空腹は、清太にとっても近頃耐えがたく、気まぐれにできた面《にき》疱《び》つぶしてその白いアブラを思わず口に入れるほど、金はあったが闇で買う知恵はない、「魚《うお》釣《つ》りしてみよか」ベラ、テンコチがたしか釣れたはず、せめて海草でもと探したが、腐ったホンダワラのたよりなく波にゆれるのみ。
警報がでたから戻《もど》りかけると、回生病院の入口でふいに「いや、お母さん」と若い女の声がひびき、みると信玄袋かついだ中年の女に看護婦が抱きついていて、田舎から母親が出てきたものらしい、清太はそのありさまぼんやりながめ、うらやましさと、看護婦の表情きれいなんやと半々にながめ、「待避」の声にふと海をみると、機雷投下のB二九が、大阪湾の沖を低空飛行していて、もはや目標を焼きつくしたのか、大規模な空襲はこのところ遠ざかっていた。
「お母さんの着物な、いうてはわるいがもう用もないのやし、お米に替えたらどう? 小《お》母《ば》さんも前から少しずつ物々交換して、足し前してたんよ」その方が死んだお母さんも喜びはると未亡人はいい、清太の返事きかぬ先から、洋服箱あけて、不在中にさんざん調べたのであろう、なれた手つきで二、三枚とり出すと畳にどさっと置き、「これで一斗にはなる思うよ、清太さんも栄養つけな、体丈夫にして兵隊さんいくねんやろ」
母の若い頃の着物で、清太は父兄会の授業参観の時、ふりむいて母のいちばん美しいことをたしかめ、誇らしく眺《なが》めたこと、呉まで父に会いにいった時、母が思いがけず若造りになって、一緒に汽車に乗りながらうれしくさわってばかりいたことを思い出し、だが今は米一斗、一斗の言葉をきいただけで、なにやら体のふるえるほど喜びがこみ上げる、たまの米の配給は、節子と二人分で、ざるに半分足らず、それで五日を喰いつながねばならぬのだ。
満池谷は周囲のほとんどが農家で、やがて未亡人米袋をかかえてかえり、清太の、梅干の入っていた広口瓶にいっぱい満たすと、残りは自分宅用の木の米びつにざあっとあけ、二、三日はたらふく喰ったが、すぐ雑炊にもどり不平をもらすと、「清太さんもう大きいねんから、助け合いいうこと考えてくれな、あんたはお米ちっとも出さんと、それで御飯食べたいいうても、そらいけませんよ、通りません」通るも通らんも母の着物で物々交換して、娘の弁当下宿人の握り飯うれしそうにつくっときながら、こっちには昼飯に脱脂大豆のいった飯で、いったんよみがえった米の味に節子は食べたがらず、「そんなこというたって、あれうちのお米やのに」「なんや、そんなら小母さんが、ずるいことしてるいうの、えらいこというねえ、みなし児《ご》二人あずかったってそういわれたら世話ないわ、よろし、御飯別々にしましょ、それやったら文句ないでしょ、それでな清太さん、あんたとこ東京にも親戚いてるんでしょ、お母さんの実家でなんやらいう人おってやないの、手紙出したらどう? 西宮かていつ空襲されるかわからんよ」さすがすぐに出ろとはいわなかったが、いいたい放題いいはなち、それもまた無理ではない、ずるずるべったりにいついたけれど、もともと父の従弟《いとこ》の嫁の実家なので、さらに近い縁戚は神戸にいたが、すべて焼け出されていて連絡とれぬのだ。荒物屋で貝に柄《え》をつけたしゃもじ、土《ど》鍋《なべ》、醤油さし、それに黄楊《つげ》の櫛《くし》十円で売ってたから節子に買ってやり、朝夕七輪借りて飯を炊《た》き、お菜はタコ草南瓜の茎のおひたし、池のたにしのつくだ煮やするめをもどして煮たり、「ええよ、そんなにきちんとすわらんでも」節子は貧しい、お膳《ぜん》もなくて畳にじかにおいた茶碗に向かうと、以前のしつけのままに正座し、うっかり食後、清太がねころぶと「牛になるよ」注意した。台所を別にすれば、気は楽だが万事いきとどかず、どこでうつったのか、黄楊の櫛ですけば節子の髪から虱《しらみ》やその卵がころげおち、うっかり干すと「敵機にみつかりまっせ」未亡人にいやがらせいわれる洗濯《せんたく》も、必死に心がけているのだが、なにやら垢《あか》じみて来て、なによりも風呂を断たれ、銭湯は三日に一度、燃料持参でようやく入れてくれ、これもついおっくうになり勝ち、昼間は夙川駅前の古本屋で母のとっていた婦人雑誌の古本を買って、ねころんで読み、警報がなると、それが大編隊とラジオが報ずれば、とてもなまなかな壕《ごう》に入る気はせず、節子ひっちょって、池の先にある深い横穴へ逃げこみ、これがまた未亡人はじめ、戦災孤児にあきた近隣の悪評をかう、清太の年なら市民防火活動の中心たるべしというのだが、一度あの落下音と火足の速さを肌で知れば、一機二機はともかく、編隊に立ち向かう気は毛頭ない。
七月六日、梅雨の名残りの雨の中を、B二九が明《あか》石《し》を襲い、清太と節子横穴の中で、雨足の池にえがく波紋をぼんやりながめ、節子は常にはなさぬ人形抱いて、「お家《うち》かえりたいわあ、小母さんとこもういやや」およそ不平をこれまでいわなかったのに、泣きべそかいていい、「お家焼けてしもたもん、あれへん」しかし、未亡人の家にこれ以上長くはいられないだろう、夜、節子が夢に怯《おび》えて泣き声立てると、待ちかまえたように未亡人やって来て、「こいさんも兄さんも、御国のために働いてるんでっさかい、せめてあんた泣かせんようにしたらどないやの、うるそうて寝られへん」ピシャリと襖をしめ、その剣幕にますます泣きじゃくる節子を連れ、夜道にでると、あいかわらずの蛍で、いっそ節子さえおらなんだら、一瞬考えるが、すぐに背中で寝つくその姿、気のせいか目方もぐんと軽くなり、額や腕、蚊にくわれ放題、ひっかけば必ず膿《う》む。少し前未亡人が外出したから、娘の古いオルガンをあけ、「ヘトイロハロイロトロイ、ヘトイロイヘニ」国民学校になってから、ドレミはハニホヘトイロハにかわり、そのいちばん初めにならった鯉《こい》のぼりの唄《うた》を、おぼつかなくひき、節子と唄っていると、「よしなさい、この戦時中になんですか、怒られるのは小母さんですよ、非常識な」いつの間にかえったのか怒鳴り立て、「ほんまにえらい疫病神《やくびょうがみ》がまいこんで来たもんや、空襲いうたって役にも立たんし、そんなに命惜しいねんやったら、横穴で住んどったらええのに」
「あんなあ、ここお家にしようか。この横穴やったら誰もけえへんし、節子と二人だけで好きにできるよ」コの字型に掘られていて、支柱も太い、ここに農家から藁《わら》を買《こ》うてきて敷いて、蚊帳吊《つ》ったら、別に困ることはないやろ、半分は、年相応の冒険ごっこのようなはずみもあって、警報解除になると、何もいわずに荷物をまとめ、「えらい長いことお邪魔しました、ぼくらよそへ移ります」「よそて、どこへ行くの」「まだはっきりしてませんけど」「はあ、まあ、気イつけてな、節ちゃんさいなら」とってつけたような笑顔うかべ、さっさと奥へひっこむ。
行李布《ふ》団《とん》蚊帳台所道具に洋服箱母の骨箱どうにか運びこんで、あらためてみれば只《ただ》の洞《ほら》穴《あな》、ここへ住むかと思うと気が滅入《めい》ったが、当てずっぽうにとびこんだ農家は藁をわけてくれたし、お金でわけぎ大根も売ってくれ、なにより節子がはしゃぎまわり、「ここがお台所、こっちが玄関」ふっと困ったように「はばかりはどこにするのん?」「ええやんかどこでも、兄ちゃんついてったるさかい」藁の上にちょこんとすわって、父が「このこは、きっとろうたけたシャンになるぞ」そのろうたけたの意味がわからずたずねると、「そうだなあ、品のいいってことかな」たしかに品よくさらにあわれだった。
灯火管制にはなれていたが、夜の壕の闇はまさにぬりこめたようで、支柱に蚊帳の吊《つり》手《て》をかけ、中に入ると、外のわんわんとむらがる蚊の羽音だけがたより、思わず二人体を寄せあって、節子のむき出しの脚を下腹部にだきしめ、ふとうずくような昂《たか》まりを清太は覚えて、さらにつよく抱くと「苦しいやん、兄ちゃん」節子が怯えていう。
散歩しようかと、寝苦しいままに表へでて二人連《つ》れ小便《しょんべん》して、その上を赤と青の標識灯点滅させた日本機が西へ向う、「あれ特攻やで」ふーんと意味わからぬながら節子うなずき、「蛍みたいやね」「そうやなあ」そして、そや、蛍つかまえて蚊帳の中に入れたら、少し明るなるのとちゃうか、車胤《しゃいん》を真似《まね》たわけではないが、手当り次第につかまえて、蚊帳の中にはなつと、五つ六つゆらゆらと光が走り、蚊帳にとまって息づき、よしと、およそ百余り、とうていお互いの顔はみえないが、心がおちつき、そのゆるやかな動き追ううち、夢にひきこまれ、蛍の光の列は、やがて昭和十年十月の観艦式、六甲山《ろっこうさん》の中腹に船の形をした大イルミネーションが飾られ、そこからながめる大阪港の聯合《れんごう》艦隊、航空母艦はまるで棒を浮かべたようで、戦艦の艦首には白い天幕が張られ、父は当時、巡洋艦摩耶《まや》にのりくみ、清太は必死にその艦影をさがしたが、摩耶特有の崖《がけ》のように切り立った艦橋の艦は見当らず、商大のブラスバンドか、切れ切れに軍艦マーチがひびく、守るも攻むるもくろがねの、浮かべる城ぞたのみなる、お父ちゃんどこで戦争してはんねんやろ、写真汗のしみだらけになってしもたけど。敵機来襲バババババ、蛍の光を敵の曳光弾《えいこうだん》になぞらえ、そや、三月十七日の夜の空襲の時みた高射機関砲の曳光弾は、蛍みたいにふわっと空に吸われていって、あれで当るのやろか。
朝になると、蛍の半分は死んで落ち、節子はその死《し》骸《がい》を壕の入口に埋めた、「何しとんねん」「蛍のお墓つくってんねん」うつむいたまま、お母ちゃんもお墓に入ってんやろ、こたえかねていると、「うち小母ちゃんにきいてん、お母ちゃんもう死にはって、お墓の中にいてるねんて」はじめて清太、涙がにじみ、「いつかお墓へいこな、節子覚えてえへんか、布引《ぬのびき》の近くの春日《かすが》野《の》墓地いったことあるやろ、あしこにいてはるわ、お母ちゃん」樟《くす》の木の下の、ちいさい墓で、そや、このお骨もあすこ入れなお母ちゃん浮ばれへん。
母の着物を農家で米に替え、水汲みの姿を近所の人にみられたから、二人壕で暮すとたちまちわかったが、誰《だれ》もあらわれず、枯木を拾って米を炊き、塩気が足りぬと海水を汲み、道すがらP五一に狙《ねら》われたりしたが、平穏な日々、夜は蛍に見守られ、壕の明け暮れにはなれたが、清太両手の指の間に湿疹《しっしん》ができ、節子また次第におとろえた。夜をえらんで貯水池に入り、たにし拾いつつ体を洗ってやる節子の貝殻骨《かいがらぼね》、肋骨《ろっこつ》日《ひ》毎《ごと》に浮き出し、「ようけ食べなあかんで」食用蛙とれんものかと鳴きさわぐあたりをにらみすえたが、すべはなく、食べなあかんといっても、母の着物ももはや底をつき、タマゴ一箇《こ》三円油一升百円牛肉百匁二十円米一升二十五円の闇は、ルートつかまねば高《たか》嶺《ね》の花。都会に近いから、農家もずるく、金では米を売らず、たちまち大豆入り雑炊に逆もどりして、七月末になると節子は疥癬《かいせん》にかかり、蚤《のみ》虱はいかにとりつくしたつもりでも翌朝またびっしりと縫目にはびこり、その灰色の虱のポツンと赤い血の色は、節子のものかと思うと腹が立って、こまかい足の一本一本むしりなぶり殺してみたが、せんないことで、蛍さえも食べられぬかと考え、やがて体がだるいのか海へいく時も、「待ってるわ」人形抱いて寝ころび、清太は外へ出ると、必ず家庭菜園の小指ほどの胡瓜青いトマトを盗みもいで、節子に食べさせ、ある時は、五つ六つの男の子、まるで宝物のような林《りん》檎《ご》をかじっているから、これをかっぱらって駈《か》けもどり、「節子、リンゴやでさ食べ」さすがに節子、眼《め》をかがやかしてかぶりついたが、すぐにこれちがうといい、清太が歯を当ててみると、皮をむいた生の甘藷《かんしょ》で、なまじ糠《ぬか》よろこびさせられたからか、節子涙をうかべ「芋かてええやないか、はよ食べ、食べんねんやったら兄ちゃんもらうで」強い口調でいったが、清太も鼻声となる。
配給がどうなってるのか、米にマッチ岩塩はもらえたが、時おり新聞でみる配給だよりの品は、隣組に入ってないからまるで縁がなく、清太は夜になると、家庭菜園で足りずに農家の芋畠《いもばたけ》を荒らし、砂糖きびひっこ抜いて、その汁を節子に飲ませる。
七月三十一日の夜、野荒しのうちに警報が鳴り、かまわず芋を掘りつづけると、すぐそばに露天の壕があって、待避していた農夫に発見され、さんざなぐりつけられ、解除と共に横穴へひったてられて、煮物にするつもり残しておいた芋の葉が懐中電灯に照らされて、動かぬ証拠、「すいません、堪忍《かんにん》して下さい」怯える節子の前で、手をついて農夫に詫《わ》びたがゆるされず、「妹、病気なんです、ぼくおらな、どないもなりません」「なにぬかす、戦時下の野荒しは重罪やねんど」足払いかけて倒され、背筋つかまれて「さっさと歩かんかい、ブタ箱入りじゃ」だが交番のお巡《まわ》りはのんびりと、「今夜の空襲福井らしいなあ」いきり立つ農夫をなだめ、説教はしたがすぐ許して、表へ出るとどうやってついて来たのか節子がいた。壕へもどって泣きつづける清太を、節子は背中さすりながら、「どこ痛いのん、いかんねえ、お医者さんよんで注射してもらわな」母の口調でいう。
八月に入ると、連日艦載機が来襲し、清太は空襲警報発令を待って、盗みに出かけた、夏空にキラキラと光り彼方《かなた》とみるうち、不意に頭上に殺到する機銃掃射の恐怖に、家人すべて壕へ首をすくめるそのすきをねらい、あけっぱなしの門から台所へ忍び手当り次第にかっぱらう、八月五日夜には西宮《にしのみや》中心部が焼かれ、さすがにのんびりした満池谷の連中もふるえ上ったが、清太にとっては稼《かせ》ぎ時《どき》、爆弾もまじるらしくすさまじい音響の交錯する中を、六月五日見受けたような、人っ子一人いない町の一画に忍び入り、米とかえるための着物、置き去られたリュック、持ちきれぬのは火の粉払いつつどぶの石ぶたの下にかくし、なだれうって逃げて来る人の波を避けうずくまり、夜空見上げると、炎上の煙をかすめてB二九が山へ飛び、海へむかいもはや恐怖はなく、ワーイと手でも振りたい気持さえある。
どさくさにまぎれても、交換に有利な派手な着物をえらんだのか、翌日眼のさめるような色の振袖《ふりそで》、包むものもなくてシャツとズボンの下に押しかくし、歩くうちずり落ちて、下腹蛙《かえる》のようにふくれ上るのを両手でかかえて、農家へ運び、だがこの年、稲作不良のけはいに、いちはやく百姓は売惜しみをはじめ、さすが近所ははばかられたから、水田のいたるところ爆弾孔《ばくだんあな》のある西宮北口、仁《に》川《かわ》まで探し求めて、せいぜいトマト枝豆さやいんげん。
節子は下痢がとまらず、右半身すき通るよう色白で、左は疥癬にただれきり、海水で洗えば、しみて泣くだけ。夙川《しゅくがわ》駅前の医者を訪れても、「滋養つけることですな」申しわけに聴診器胸にあて、薬もよこさず、滋養といえば魚の白身卵の黄身バター、それにドリコノか、学校からかえると父から送られた上海《シャンハイ》製のチョコレートが郵便受けにあったり、少しお腹こわせば林檎をすってガーゼでしぼって飲み、えらい昔のように思うけど、おととしまではなんでもあった、いや二月前かて、お母ちゃん桃を砂糖で煮たり、カニ缶《かん》を開けたりしとったのに、甘いもんいらんいうて食べんかったヨーカン、臭いいうて捨てた興亜奉公日の南豆米《ナンキンまい》の弁当、黄檗山万福《おうばくさんまんぷく》寺《じ》のまずい精進料理、はじめて食べたスイトンの喉《のど》を通らんかったこと、夢みたいや。
抱きかかえて、歩くたび首がぐらぐら動き、どこへ行くにも放さぬ人形すら、もう抱く力なく、いや人形の真黒に汚れたその手足の方が、節子よりふくよかで、夙川の堤防に清太すわりこみ、そのそばで、リヤカーに氷積んだ男、シャッシャッと氷を鋸《のこぎり》でひき、その削りカス拾って、節子の唇《くちびる》にふくませる。「腹減ったなあ」「うん」「なに食べたい?」「てんぷらにな、おつくりにな、ところ天」ずい分以前、ベルという犬を飼っていて、天ぷらのきらいな清太、ひそかに残してほうり投げてやったことがあった、「もうないか」食べたいもんいえ、味思い出すだけでもましやんか、道頓堀《どうとんぼり》へ芝居みにいって帰りに食べた丸万の魚すき、卵一コずつやいうのんで、お母ちゃんが自分のくれた、南京町の闇《やみ》の支《し》那《な》料理、お父ちゃんと一緒にいって、飴《あめ》煮《に》の芋糸ひいてんのを、「腐ってんのんちゃう?」いうて笑われた、慰問袋へ入れるくろんぼ飴、一つくすねて、節子の粉ミルクもようくすねた、お菓子屋でニッキもくすねたった、遠足の時のラムネ菓子、グリコしかもってえへん貧乏な子に林檎わけたった、考えるうち、そや節子に滋養つけさせんならん、たまらなく苛《いら》立《だ》ち、ふたたび抱き上げて壕へもどる。
横になって人形を抱き、うとうと寝入る節子をながめ、指切って血イ飲ましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさしたろか、「節子、髪うるさいやろ」髪の毛だけは生命に満ちてのびしげり、起して三つ編みにあむと、かきわける指に虱がふれ、「兄ちゃん、おおきに」髪をまとめると、あらためて眼《がん》窩《か》のくぼみが目立つ。節子はなに思ったか、手近かの石ころ二つ拾い、「兄ちゃん、どうぞ」「なんや」「御飯や、お茶もほしい?」急に元気よく「それからおからたいたんもあげましょうね」ままごとのように、土くれ石をならべ、「どうぞ、お上り、食べへんのん?」
八月二十二日昼、貯水池で泳いで壕へもどると、節子は死んでいた。骨と皮にやせ衰え、その前二、三日は声も立てず、大きな蟻《あり》が顔にはいのぼっても払いおとすこともせず、ただ夜の、蛍《ほたる》の光を眼《め》でおうらしく、「上いった下いったあっとまった」低くつぶやき、清太は一週間前、敗戦ときまった時、思わず「聯合艦隊どないしたんや」と怒鳴り、それをかたわらの老人、「そんなもんとうの昔に沈んでしもて一隻《せき》も残っとらんわい」自信たっぷりにいいきって、では、お父ちゃんの巡洋艦も沈んでしもたんか、歩きながら肌《はだ》身《み》はなさぬ父の、すっかりしわになった写真をながめ、「お父ちゃんも死んだ、お父ちゃんも死んだ」と母の死よりはるかに実感があり、いよいよ節子と二人、生きつづけていかんならん心の張りはまったく失《う》せて、もうどうでもええような気持。それでも、節子には近郷近在歩きまわり、ポケットには預金おろした十円札を何枚も入れ、時にはかしわ百五十円、米はたちまち上って一升四十円食べさせたがすでにうけつけぬ。
夜になると嵐《あらし》、清太は壕の暗闇にうずくまり、節子の亡骸膝《なきがらひざ》にのせ、うとうとねむっても、すぐ眼覚めて、その髪の毛をなでつづけ、すでに冷えきった額に自分の頬《ほお》おしつけ、涙は出ぬ。ゴウと吠《ほ》え、木の葉激しく揺りうごかし、荒れ狂う嵐の中に、ふと節子の泣き声がきこえるように思い、さらに軍艦マーチのわき起る錯覚におそわれた。
翌日、台風過ぎてにわかに秋の色深めた空の、一点雲なき陽《ひ》ざしを浴び、清太は節子を抱いて山に登る、市役所へ頼むと、火葬場は満員で、一週間前のがまだ始末できんといわれ、木炭一俵の特配だけうけ、「子供さんやったら、お寺のすみなど借りて焼かせてもらい、裸にしてな、大豆の殻で火イつけるとうまいこと燃えるわ」なれているらしく、配給所の男おしえてくれた。
満池谷見下す丘に穴を掘り、行《こう》李《り》に節子をおさめて、人形蟇口《がまぐち》下着一切をまわりにつめ、いわれた通り大豆の殻を敷き枯木をならべ、木炭ぶちまけた上に行李をのせ、硫黄の付け木に火をうつしほうりこむと、大豆殻パチパチとはぜつつ燃え上り煙たゆとうとみるうち一筋いきおいよく空に向い、清太、便意をもよおして、その焔《ほのお》ながめつつしゃがむ、清太にも慢性の下痢が襲いかかっていた。
暮れるにしたがって、風のたび低くうなりながら木炭は赤い色をゆらめかせ、夕空には星、そして見下せば、二日前から灯火管制のとけた谷あいの家並み、ちらほらなつかしい明りがみえて、四年前、父の従弟《いとこ》の結婚について、候補者の身もと調べるためこのあたりを母と歩き、遠くあの未亡人の家をながめた記憶と、いささかもかわるところはない。
夜更《よふ》けに火が燃えつき、骨を拾うにもくらがりで見当つかず、そのまま穴のかたわらに横たわり、周囲はおびただしい蛍のむれ、だがもう清太は手にとることもせず、これやったら節子さびしないやろ、蛍がついてるもんなあ、上ったり下ったりついと横へ走ったり、もうじき蛍もおらんようになるけど、蛍と一緒に天国へいき。暁に眼ざめ、白い骨、それはローセキのかけらの如《ごと》く細かくくだけていたが、集めて山を降り、未亡人の家の裏の露天の防空壕《ぼうくうごう》の中に、多分、清太の忘れたのを捨てたのだろう、水につかって母の長じゅばん腰ひもがまるまっていたから、拾い上げ、ひっかついで、そのまま壕にはもどらなかった。
昭和二十年九月二十二日午後、三宮《さんのみや》駅構内で野垂れ死にした清太は、他《ほか》に二、三十はあった浮浪児の死体と共に、布引の上の寺で荼《だ》毘《び》に付され、骨は無縁仏として納骨堂へおさめられた。
アメリカひじき
炎天に、一点の白がわきいで、あれよと見守るうち、それは円となり、円のまんなか、振子のようにかすかに揺れうごく核がみえ、一直線にわが頭上をめざし、まごう方なきあれは落《らっ》下《か》傘《さん》、にしてもそのわきいでた空に、飛行機の姿も音もなく、はて面妖《めんよう》なと疑うより先きに、落下傘は優雅な物腰で、枇杷《びわ》、白《しら》樺《かば》、柿《かき》、椎《しい》、百日紅《さるすべり》、紫陽花《あじさい》と気まぐれなとり合せの、びっしり植えこまれた庭先きへ、枝にかからず葉も散らさず、ふわりと降り立ち、「ハロー・ハウアーユー」痩《や》せた外人、そうパーシバル将軍に似た毛唐が、にこやかにいった。純白の落下傘は、ケープのように毛唐の肩をおおい、なだれ落ちては庭土白妙《しろたえ》の雪と変じ、さてハローとあいさつされたのだから、応《こた》えねばならぬ、アイアムベリーグラッドトゥシーユーか、この突然の来客に、いや来客かどうかもうたがわしい毛唐にこれはおかしい、フーアーユーは、いかにも詰問《きつもん》調、貴様は誰《だれ》だ、誰だ、誰だ三度尋ねて答えがなければズドンと射殺、なにを考えてる、とにかくあいさつが先き、ハウ、ハウ、ハウと、下腹からげじげじはいのぼり、しかも口中ねばついてままならず、以前にもたしかこういう風に、せっぱつまった記憶がある、あれは何時《いつ》だったか、考えこんだところでようやく俊《とし》夫《お》は夢から覚め、かたわらに妻の京子、海老《えび》のように体まるめ、その尻《しり》に押されて、俊夫は、ぺったり壁と向き合い窮屈な寝相、邪慳《じゃけん》に押しもどすと、パサッ、ベッドから何かが落ちた。
落ちたのは、寝つく前に京子のブツブツと拾い読みしていた日常英会話の本と、すぐにわかり、わかったとたん、今見た妙な夢も、腑《ふ》におちる。
今日の夕方、俊夫のまるで知らないアメリカ人老夫婦が、遊びにやってくるのだ。一月ばかり前「パパ、ヒギンズさんが日本にいらっしゃるんですって、家に泊っていただきましょうよ」エアメールの、赤白紺だんだらにかこまれた封筒をひらひらさせながら京子は、興奮していい、ヒギンズ夫妻と京子は、この春、ハワイで知り合った仲。
ちいさいながらも、TVCMフィルム制作のプロダクションを俊夫は主宰し、スポンサーとの打合せ、撮影の立ち会い、時間不規則な明け暮れの、その埋め合せのつもり、なにより航空会社につてがあって、割安で利用できたから、京子と、三歳になる一人っ子の啓一を、いささか分不相応のうしろめたさ感じつつも、小商い丼《どんぶり》勘定のありがたさ、旅行のかかりは経費でおとせばよいと、ハワイへやり、短大で英会話を習ったとはいうものの、子供連れでどうなることかと案ずるよりは、女の一得か図々《ずうずう》しく羽根のばし、彼《か》の地で沢山友人をつくり、その中にヒギンズがいた。なんでも国務省を退いて恩給暮し、三人の娘それぞれ嫁いでいて、現職の頃《ころ》はどのような地位にいたものか、夫婦睦《むつ》まじく世界を旅行して歩くいい身分。
「あっちの人ってつめたいのね、親子だって結婚した後は、他人みたいらしいのよ」自分の親への仕打ちは棚《たな》に上げ「私はまあ、親切にしておけば損はないと思って、面倒みてあげたら、もう感激しちゃってさ、実の子供よりかわいいって」そしてけっこう、五百ドルの旅費では手の出ない高級ホテルの食事やら、飛行機チャーターしての島めぐりの相伴にあずかり、帰国の後も、七月の啓一の誕生日には、チョコレートを送ってくれたし、そのお返しにこちらからは民芸風花ござをプレゼント、週に一度はエアメール太平洋を越えてとびかい、そのあげくの果ての来日の通知。
「とってもいい人なのよ、パパだって、やがてアメリカへ行くことがあるでしょ、知ってる人がいれば心強いじゃないの、啓一にもね、是非、アメリカの大学へ入るようにっていってくれてるのよ」どこまでが打算なのか、三つの啓一がかりに大学へ入るとして、後十五年、それまで退職官吏の寿命がつづくものかと、茶化したかったが、京子の胸算用めかした台詞《せりふ》はあくまで夫妻むかえれば金もかかろうその弁解。ひたすらアメリカ人を我が家の客とする、その晴れがましさに有頂天、「あなたの家庭をみたいって、前からいってたのよ、旦《だん》那《な》さまにも会いたいって」俊夫のなにもいわぬ先きに、すでに承諾したものと決めこみ、「啓ちゃん、ヒギンズのおじいちゃまとおばあちゃまがいらっしゃるんですって、覚えてるでしょ、おじいちゃまが啓ちゃんにハローっていったら、啓ちゃんバハハーイって手をふったじゃない」ころころと笑い出す。
ハローバハハーイ日米親善か、二十二年前の今頃は、キューキューと日米親善だった。
「アメリカは紳士の国や、レディファーストいうて淑女をうやまい、礼儀を重んじよる、レディファーストの方はさしあたって関係ないが、この礼儀な、ぼくは君らが無礼なことして、それで日本は野蛮国やと、アメリカ人に思われへんかと心配しとるんや」それまでは心ならずも敵性語を教える、そのひけめおぎなわんためか、ねずみのようにこまめに生徒どやしつけた英語教師、こいつはまた臆病《おくびょう》で、空襲やいうと壕《ごう》の中で般若心経《はんにゃしんぎょう》をふるえながら誦《よ》みよったが、ケロッと敗戦後はじめての授業でこういい、黒板に「THANKYOU」「EXCUSEME」大書し、ついで軽べつした顔で「と書いてもよう発音でけんやろ」教室見まわし、ふり仮名をつけると「サンキュー、エクスキューズミイ、ええな、このキューにアクセントつける、キュー」キューの上にぎりぎりと力こめて線をひき、勢余って白墨が折れとび、みんなは、ああまたやっとると薄笑い、二月前まで、漢文の教師が授業そっちのけで、本土決戦天佑《てんゆう》我れにありと説き、鬼畜米英と書くとき、常に憎しみあふれて、黒板キイッときしみ、白墨が折れるならわしだった。
極端にいえば、キューッだけいうてニコッと笑《わろ》うたら、アメリカさんに通じる、ええなと教わり、キュウキュウで一時間終ると、校庭の周囲にぐるりと掘られた防空壕の埋め立て、石が当ったといえばキュー、太い支柱の片方持ってくれと頼む時もキュー、これはたちまち流行語となった。
俺達《おれたち》が、英語できんのも当り前や、中学入って三年目で、綴《つづ》りの書けるのはBLACKとLOVEくらい、なんや英語らしい英語と覚えとったんがアンブレラ、人称代名詞のアイマイミイも区別がつかん、昭和十八年に入学して、たしかに一学期はローマ字の読み方をまず教わり、家へ帰ってバターの容器にホッカイドーコーノーコーシャとあるのを読んだのが横文字解いた最初、ディスイズアペンに毛も生えぬうち、英語の授業すべて教練と入れ替り、雨の日だけはそれでも英語教師が教室に来たが、「なんせアメリカの大学では、週末になるとダンスパーティなんかやってあそんでばかりおる、そこへいくと日本の大学生は」と学徒出陣を讃《さん》美《び》し、「お前ら、イエスかノウだけ知っとったらええねん、シンガポール攻略に際し、山下将軍は敵将パーシバルに」ここでドンと机たたき「イエスかノウかな、この気《き》魄《はく》や」顔面神経痛の、頬《ほお》ひきつらせ眼玉《めんたま》むいていう。試験はあったけど、その和文英訳の問題が「彼女の家」これシーイズハウスと書いても、点がもらえた。
毛唐の代表はパーシバル、ユニオンジャックの旗と白旗ひとまとめ重そうにかつぎ、半ズボンから細い脛《すね》みせて、「毛唐は、背はでかいが腰が弱い、これはつまり椅子《いす》にすわっとるからや、われわれ日本人は、畳で生活しておる、正座というのは、腰を強くするんだなあ」柔道教師が、「脚下照顧」とある額の下でさけび、「そやから毛唐なんか、がっと腰にくいついて、腰投げ、内股《うちまた》、大外刈り、いっぱつで決まる、わかったなあ、立てぇ!」乱取りの時も、仮想敵はパーシバルで、あのうつむいてたよりなさそうなオッサンを、エイと投げとばしすかさず押えこんで首しめ上げて、イエスかノウか、イエスかノウか。
二年になると、農村へ勤労奉仕、サイパン陥落後は家屋疎《そ》開《かい》、畳、襖《ふすま》、障子、雨戸などの建具を大八車で近くの国民学校へ運び、がらんどうになったところで、消防が大黒柱に綱かけてひき倒す、いかにもあわただしく去った住人の名残りは、風呂《ふろ》の水はそのままやし、便所の軒下にボロのおしめなんか干してある、ほていさんの掛軸、加藤清正みたいな三つまたの槍《やり》、空の貯金箱、これは鹵《ろ》獲品《かくひん》やいうて生垣《いけがき》の間にかくし後で持ってかえり、一冊、分厚い本があって、英語ばっかり書いてある、「スパイおったんちゃうか」「暗号かも知れんで」いいつつパラパラめくり、一同、自分の知ってる単語ないかと宝探しするように眼をみはり、ようやく級長が「SILKHAT」を見つけ出し「つまり絹帽子いうことやなあ」絹帽子とつぶやいたとたんにむき出しの床板、古いカレンダー柱のお守りはがした跡すべて消え失《う》せ、絹帽子かぶった夜会の風景が現われ、一人がつくづくと「そうか、シルクハットは絹帽子のことやったんか」といい、俺はいまでもシルクハットときくと反射的に絹帽子が浮かぶ。
卓袱《ちゃぶ》台《だい》の上に、京子の心のはなやぎそのまま、麗々しく置かれたヒギンズの、最初の手紙をみた時、俊夫はそのけばけばしいエアメールの縁とりに、胸騒ぎを覚え、それは英語に自信まるでなく、もし京子にたずねられて首ふらねばならぬ体裁のわるさよりも、アメリカ人から手紙をうけとることの、当惑感、だが京子は、嬉々《きき》として、どうやら読めたらしいその内容を説明し、「返事出さなきゃならないんだけど、会社に訳してくれる人いない?」「そりゃまあ、いるだろうけど」「おねがい、もう書いてあるのよ」受けとって読むと、女学生の如《ごと》き美辞麗句がつらねられていて、その場は、将来の渡米を既定のこととして疑わず、英語に精出す若い社員の一人二人思い浮かべ、頼む気になったのだが、いざあらためて読みかえし、「主人もたまわりました御厚意に、心から感謝しております」とあるのがひっかかり、破り捨て、しかし追っかけるように第二便がとどいて、近くの日本人が、訳してくれるから、気楽にお国の言葉で楽しいおたよりを下さいとあり、京子はその心づかいに感じ入り、長文の手紙を、俊夫の京都土産、大事の便箋《びんせん》にしたため送り、その内容は俊夫たずねなかったが、なにもかもあけすけに、やや見栄《みえ》張って報告しているようで、「TVフィルムの仕事はアメリカでも、もっとも有望な職業だってヒギンズさんいってくれてるわ、忙しいだろうから体をこわさないようにってさ、聞いてるの? あなたによ」ハリウッドの映画会社買いとるようなTV映画プロダクションもあれば、せいぜい五秒十五秒単位のCM、ただもう薄利多売の俊夫のなりわいも、電話帳ならば同じ欄、その差説明する気にもなれず、上の空でいると、京子はじれ「パパもアメリカへ行ってくればいいのに、箔《はく》がつくわよ」「今更おそいよ、いやかえって、猫《ねこ》も杓《しゃく》子《し》も海外旅行なんだから、いっそ一度も行かなきゃ稀少《きしょう》価値を生ずるかも知れない、生半可な外国に毒されてないって」「負け惜しみよそんなの、言葉なんか行けばなんとかなるのよ」京子は、ハワイ旅行が決まると、英会話のレコードを買い、税関でのうけこたえ、買物の言葉などを練習し、あげくの果て「パパ、ママなんていわないそうね、ダディにマミーですって、ママっていうのは、下品な女の人を意味するそうよ」啓一に、その通り教えこみ、まさか当今お父ちゃんでもあるまいと、パパと呼ぶのを許していた俊夫も、ダディには我慢ならず、いい争った末、ハワイではいざ知らず、日本にてはパパと呼べ、珍しく強くいった。
敗《ま》けるまでは、ろくすっぽ教わらないまでも、とにかく書く英語、敗戦後はしゃべる英語で、その象徴がカムカムエブリボディ、中学四年になると、ESSができて、これが校内のエリート、柔道場変じてレスリング部となった建物の前の陽《ひ》だまりで「ウァッツマライズユー」と問いかけられ、ツマラはトゥモローのことか、とすると、「明日は何をするか」やろか考えるうち、その上級生はせせら笑い「ホワットイズマターウィズユーなんかいうても通じへんで、ウァッツマライズユー」さては「ハバグッタイム」いい捨てて仲間と高笑い。四年修了で俺は学校を辞め、親《おや》父《じ》は戦死、お袋は病身、女学校二年の妹が家をとりしきり、俺はまず靴下《くつした》工場から、乾電池の工場、京阪日々新聞の広告とりと三人の食いぶち支え、ある時、さぼって中《なか》之《の》島《しま》公園ぶらぶらするうち、「あんた学生さん? 学生さんやったら、頼みたいことあんねん」
予科練の七つボタンの下二つつぶし、ズボンは脛から下細うなった綿の乗馬ズボン、当時としてはまともな風態《ふうてい》に心ゆるしたか女に声かけられ、アメリカ兵とつきあいたいねんけど、橋わたししてくれんか、なるほどその視線の先きに所在なげな兵士一人、川に浮かぶボートながめていて、「お礼しますやん、明日ここで待っててくれたら」しかし、ハウアーユーがあいさつと知ってはいても、毛唐にむけてこころみたことなく、ぐだぐだするうち、兵士は気配さとったのか近寄って来て、「スクイーズ」いいつつ厚ぼったい掌《て》をさし出す、スクイーズが一瞬わからぬ、だが英語の教師が野球部の監督もかねていて、「このスクイーズというのは、しぼるにぎりしめるいう意味や、雪をスクイーズするとスノーボールになるて習《なろ》たやろ」キョトンとした部員に説明していたのを思い出し、おずおずにぎりしめると、兵士は力はそれだけかという風に俺をみると、紙屑《かみくず》まるめるような気楽さで逆にスクイーズし、とび上るほど痛かった。女の前でええかっこしたかったんやろか、顔しかめた俺に、女が笑い出し、そこをすかさず兵士しゃべりかけ、女は当惑して俺をみるが、そのきれぎれにネーム、フレンドなど、単語はわかっても見当つかん、四年になってから、ようやく本格的に授業が行われ、だが英語教師の数が足らんから、臨時雇いで、「日本ではチンチンと、電車のベルをいうけど、アメリカではディンドンや」ニャオがミュウ、コケコッコがクックドゥドルドゥ、擬音の説明ばかりして、それをまたクソ真面目《まじめ》な奴《やつ》は、単語カードの表にチンチン、裏がえすとディンドンと書いたり、かと思えば、「ヒイキャノットビイコーナード」これすなわち、彼はなかなか隅《すみ》におけんという意味と、わからんながらもどうも眉《まゆ》に唾《つば》つけたくなる英語ばかり教える爺《じい》さん。この連中に習うたんやから、兵士の言葉は唐人の寝言そのまま。
なにかいわんならんと、ようやく兵士と女交互に指で示し「ダブル・ダブル」思いがけぬ絶叫がほとばしり、兵士はOKOK満足そうにそのまま女の肩を抱き、俺に「タクシー」と命令する、そらたしかに、背中に鞄《かばん》しょったみたいなタクシーはぼちぼち走っとったが、どんな風にとめるのかも知らん、当惑していると兵士は手帳を破ってボールペンで「TAXI」と一字一字大きく書き、俺につきつけ鼻ならして催促し、らちあかんとわかったか、女うながして歩き出す。俺はTAXIと、ほんまもんの英語で書かれた字をながめ、なんとなく、映画スターにもろたサインのように大切に胸のポケットへ収め、小声で兵士の発音を真似《まね》てもみた。翌日、期待するつもりはなく同じ場所へ行くと、女がいてMJB半《はん》封《ポ》度《ンド》缶《かん》とハーシーのココアの缶を、やや誇らし気にかかえ「これ、買《こ》うてくれるとこ知らん?」中之島公園の喫茶店が、アメパンの溜《たま》りになっとって、そこへ行くと兵士が金のかわりに渡す珈琲《コーヒー》、チョコレート、チーズ、煙草《たばこ》など、一手引き受けの三国人がおるから教えてやると、「手数料出すから、あんた頼むわ」拝むようにいい、寒天あんこ巻きクリームパン一箇《こ》十円コーヒー五円のその店へ顔出すと、三国人はおらず、だがこちらの品物みるなり、これも仲買人らしい肥《ふと》った女「うちもろとこか」バスの車掌の持っとるようなでかい黒い蟇口《がまぐち》から札束ひき出し、計四百円無造作によこし、「煙草ないか、カートン千二百円出すわ」店にはもう一人、みるからにパンパンとわかるのがいて、「オンリーファイブミニッツモー、ギブミイファイブミニッツモー」思いがけずきれいな声で唄《うた》っていた。
唄ならば、俺も英語の唄を知っていた、討論会とストとバンドと野球が中学教育のすべてみたいで、討論会はクラスのしゃべりが代表となり、「制服は是か非か」是も非も学生服着るゆとりのあるのは半分に満たず、ただ女学生は感心にセーラー服で、終戦翌年の暮やったか、焼けおちた大阪城の堀《ほり》ばたを、大《おお》手《て》前《まえ》の生徒が、まったく不意に眼の前をスカートのひだをひるがえして五、六人、舞うようにあらわれ呆然《ぼうぜん》とながめたことがある、もっとも俺の妹は、この時まだもんぺで、高等小学校昇格してなった中学は、女でも戦時中そのままの服が当り前。バンドは、その裕福な学生服組がいいはじめ、楽譜もないのに楽器だけはとりそろえて、「ユーアーマイサンシャイン」「谷間の灯《ともしび》」「イタリーの庭」「コロラドの月」そして大物は「ラ・クンパルシータ」発表会の時、もう橋本遊廓《ゆうかく》で女買うたという噂《うわさ》の五年生、近くの地主の息子が「ロドリゲス作曲の」とこのタンゴを紹介し、ロドリゲスという重々しいひびきに俺達は感じ入ったもんや、「トゥインクルトゥインクルリットルスター」皇太子も唄うと新聞が報じていた。
中之島の記念写真屋が、外専の選科に通っていて、英会話うまかったから、俺は、その暇な時に、シケモクなんかダシに、英会話を習い、なんせ兵士に女とりもち、とりもついうても、日に一人や二人、いずれも顔色わるく肩の痩《や》せたパンスケ志願、ここへ来たらアメリカさんと知り合える、チョコレートもらえると聞き伝えてあらわれ、そして、中之島を特にガールハントの場とは心得ず、この頃は流れも速く水も澄んだ堂島川《どうじまがわ》に、あるいは故郷しのぶのか若い兵士が、いずれも憂《うれ》い顔《がお》でたたずみ、このお互いを引きあわせ、女は素人《しろうと》だけに、首尾よくせしめた獲物、金に替えるすべを知らず、三国人に売ったると口銭にありつけ、百円くらいにはなって、広告とりの片手間の写真画報、新聞ホルダーのセールスよりはよほど割りがよく、となると必死で「アイホープユーハブアグッドタイム」のお世辞やら「ワットカインドオブポジション、ドゥユーライク」にやにや笑いながら、その正確な意味もつかめぬまま口にして、兵士を笑わせ、京子のいうように、言葉はすぐになんとかなった、偶然会ったかつての級友が、俊《とし》夫《お》のみすぼらしいなりよりも、英語を兵士とかわすその姿に驚歎《きょうたん》し、「あいつ、通訳やりよるわ、ごっつい英語できよんねん」学校でいいふらしたらしく、通訳ぶり拝見の連中が、よくあらわれもした。
ヒギンズの来日が決まると、京子ふたたび熱心に会話を勉強し、啓一にも「グッモーニン、朝起きたらグッモーニンよ、いってごらんなさい」教えこみ、「パパも少しお勉強したら?」ヒギンズさんがいらしたら、歌舞伎《かぶき》や東京タワーやら、案内してさし上げなければ、なにしろハワイではよくしてもらったんだし、「俺は忙しくてとても無理だよ」「二、三日はなんとかなるでしょうに、アメリカじゃ夫婦で一つの単位なのよ、ハワイでだってよく訊《き》かれたわ、旦那さんどうしたって、私、後から来るっていってごま化したのよ」なにをいうか、こっちが働いてるからこそ、遊びにもいけたんじゃないか、むかっ腹立ったが、それより実際に彼《かれ》等《ら》がやって来て、東京を案内する、右にみえますのが日本一の高層ビル、ルックアットザライトビルディング、ザットイズザハイエスト、身も世もなく心が滅入《めい》り、なんでまた俺があの中之島のポンビキめいたことをせんならんねん、いや、アメリカ人と、そうにこやかになんのためらいもなく、ようつきあえるな、銀座歩いてると、若者うれしそうにアメリカ人と談笑している姿が眼《め》につく、中には図々《ずうずう》しくもアメリカ娘と腕組んで、都大路《みやこおおじ》をさも当然といった風で歩いとる、俺達の頃《ころ》も、そらたしかに、兵士に声をかけた。混み合う電車の中で、大学生が「ホワットドゥユーシンクオブジャパン」かたわらの兵士に緊張しきって話かけ、一人は肩をすくめ、一人は見すえるような眼つきで「ハーフグッド、ハーフバッド」大学生は深遠な哲学説明された如く、真面目にうなずき、肩すくめた方の兵士のさし出したチューインガムをうけとると、指で、煙草でも巻くようにクルクルッとひとまとめにし、口に入れ、それを車中全員、うらやましく眺《なが》めて、あの頃、なんで兵士は人の顔さえみれば、チューインガム、煙草をくれたがったのか、つい最前までの敵地に身を置く怯《おび》えなんか、それとも腹ぺこをあわれんでか、しかしチューインガムでは腹はふくれんで。昭和二十一年の夏、大阪のはずれ大宮町に住んどった俺の家は、近くに農家のあるせいか、遅配欠配、一手ひき受けみたいで、妹は日に何度となく米屋の前へ行っては黒板ながめ、いっこうに書き出されぬ配給の通知に落胆してはもどり、家さがししても岩塩とふくらし粉しかない、思い余ってこれを水に溶き、二人で飲んだが、いくら空腹《すきっぱら》でもこれは不味《まず》い。丁度そこへ「配給でっせ、七日分やて」床屋の女房《にょうぼう》が牝《め》牛《うし》のような乳房あらわに知らせに来て、それとばかり味噌《みそ》こしかかえ、いや七日分いうたらこれには入りきらん、袋もっていこと、これまではたいてい二三日分の細切れ配給、一家三人の量は、ほんのひとにぎりででかい袋が気はずかしく、ついくせとなった味噌こし打ち捨て、米屋へかけつけると、店の前に積まれたのは米軍の草色のボール箱、「うちの亭主《ていしゅ》なあ、満州から帰ってからとんとあかんようなって」「よろしやないか、うっとこなんか、この暑いのに、風呂入ってさっぱりしたとこへかかってこられたりしたらもううっとうして」淫《みだ》らに笑い合いながら女房共は待ち、俺《おれ》はその会話の意味理解できたから、ついて来た妹に「かえって待っとれ」といい、妹は少し出べそで、かつて着るものもないまま上半身裸でおったら、眼ざとくみつけた看護婦上りの女房「いやあ、ポチッとかわいらしやんか、そやけどムコさんの前で裸になる時、ちょと恥かしいな」あけすけにいったことがある。
チーズやろか、アンズやろか、草色の箱にはなれっこで、これは米ではなく、アメリカの給与物資、砂糖漬《づ》けのアンズは食べでがなかったが、チーズはさすがに滋養がつく感じで、味噌汁《しる》にまぜるとえらいうまい、一同見守るうち米屋のおっさん出刃で箱を切り裂き、あらわれいでたのは眼もあやな赤と緑の包装紙のちいさいケース、なんやろと不審がるのを制するように、「米の代替配給、チューインガム七日分や、この箱」と、宝石箱のようにみえるそれを一つ抜き出し、これで三日分。
箱の中には五枚入りチューインガムの包みが五十入っていて、俺は一家三人七日分で九つをかかえ、どっしりと重いそれはいかにも豊かな感じではあったが、そして「やあ、それなんやの」妹がとびつき、チューインガムときくと歓声上げ、母は、近所の大工に、疎開しとった晴着と交換でつくらせた、いかにも無器用な白木の仏壇《ぶつだん》の、戦死した父の遺影に箱一つそなえてチンと鉦《かね》をならし、さて、楽しかるべき水入らずの晩さんは、チューインガムの皮むいては、クチャクチャとだまりこくって噛《か》み、一食がほぼ二十五枚の見当、とても一枚一枚はかったるい、口に噛みしめるガムの、やがてかすかに消えるその甘さ追っかけてあたらしくほうりこみ、さらに一枚追加し、口もとだけみとったらアンパンか大福まんじゅうでもいっぱいにほおばるようやが、「これ、出さなあかんねんやろ」妹が噛みつぶした褐色《かっしょく》のガムのかたまり指に支えていい「そうや」いったとたん、このガムで七日を過ごす、なんの腹の足しにもならんこのガムでと気づき茶腹ならぬ唾《だ》液腹《えきばら》も一時のしのぎどころか、あらためてさしこむような空腹感におそわれ、情けなさ腹立たしさに涙が出た。結局、閉鎖まぎわの闇市《やみいち》にこれを売り、その金で唐もろこしの粉を買い、飢えをしのいだから恨む筋合いはないけれど、断じて、ガムでは腹はふくれん。
ギブミーシガレット、チョコレートサンキュウ、兵士にたとえ一度でもねだった経験あれば、とてもアメリカ人と、ああ気軽に話はできんのとちゃうか、いや、あいつ等、おのが猿《さる》みたいな面《つら》を、アメリカ人の高い鼻梁《びりょう》、くぼんだ眼《め》、いくら今になって日本の誰《だれ》かが、日本人の顔には味があるの、肌《はだ》がきれいのいうても、いやそれは本気でいうとんのか、俺はようビヤホールで、近くのテーブルにすわった水兵やら、あるいは服装だけみたら見すぼらしい外人の、しかし顔立ちはいかにも文明人らしく、立体的なその造作に、つい見とれてまうことがある。周囲の日本人とくらべてみ、きわだってるやんか。体つきかてそうや、あの太い腕とたくましい胸をみてみい、あの横にならんで、恥かしい気持は湧《わ》かんのか。
「ヒギンズさん、イギリス系なんですって、白い鬚《ひげ》を生やして、舞台の名優みたいよ」京子に説明されるまでもなく、ブラックサンドビーチやらダイヤモンドヘッドを背景に、さすが胸の肉はたるんでいるが、下腹のしまった裸のヒギンズ氏をカラー写真でみて、かたわらのミセスは年《とし》甲斐《がい》もなくビキニまがいをまとい、「色が白いからすぐ真っ赤になるのよ、毛深いったって日本人とは、毛質がちがうのね、柔らかで金色にかがやいて、とってもきれいなの」やはり食物がちがうせいだろうと、帰ってからしばらくは、啓一に肉ばかり食べさせていたが、さすがに長くは続かず、しかし、このところまた「アメリカ人てビフテキが好きなのよね、日本の肉はおいしいから、きっと気に入ってもらえると思う」その予行練習のつもりか、アメリカ風に牛肉のかたまり冷蔵庫に入れ、毎晩テキを焼き、レアのミディアムのと、ホテルのおせっかいなボーイの如《ごと》く説明する。
ハワイでみたから、それが礼儀と心得たか、洋式トイレットの枠《わく》に、ピンクのタオルで出来たカバーをかぶせ、風呂《ふろ》がバススタイルではないからと心配し、油虫をまめに殺し、寝室を夫妻にあけ渡すことにして、こちら用のマットレス買いこみ、洋間にビニールの花飾りはまだしも、ハワイで写した自分と啓一の写真、それに結婚写真ひきのばして飾り、これはどうやらアメリカTVホームドラマにヒントを得たらしく、はじめは文句つけていた俊夫、こう一切合切京子がとりしきるならいっそ気楽、自分は高みの見物をきめこめばいいのだと、日一日と安手の模様替え進行するのを傍観。
中之島でポンビキのまねごとするうち、学校時代の同級生で、心斎橋《しんさいばし》の肉屋の息子が「あんた、アメリカ人知ってるんやったらな、一人、家連れて来てくれへんか、招待して御《ご》馳《ち》走《そう》したいねん」そらまたなんでやとたずねると、肉でもうけた親父、あまり金が入って心配の余り、新築した家の入口は電気じかけであけたてするくらいやが、その使い方に困っとる、にぎやかなこと好きで、よう宴会やるねんけど、いっぺんアメリカさんよびたいいうてな、「わざわざ日本まで来てもろて、御苦労かけとるお礼やわ」紹介すれば、俺もお裾《すそ》分《わ》けで肉の一貫目もくれるか知れん、よっしゃと引きうけ、ケニスいうテキサス出身二十一歳の男、懸命に説明して同行し、香《こう》里《り》園《えん》の宏壮《こうそう》な別宅訪ねると床の間の前に虎《とら》の皮敷いてケニスをすわらせ、仕出し屋からとり寄せたらしい二の膳《ぜん》つきの日本料理、ケニス長い脚もて余し、鯉《こい》こくやら鯛《たい》のおつくり、口にあうわけもなく、麦酒とレッテル貼《は》られたビールばっかり飲んで、やがて当家の子供の、「影か柳か勘太郎さんか」にあわせてあてぶりのやくざ踊り、俺は恥かしゅうてたまらんかったが、肉屋のおっさん、煙管《きせる》できざみ吸うては、「ジャパンパイプ、ジャパンパイプ」一つ覚えをくりかえし、至極満足そうであった。
まさかあの二の舞いはするまいが、万一、ヒギンズが京子の手料理を、顔しかめて拒否したり、近頃、TVの歌をすぐ覚えて、「困っちゃうな」など、思い入れたっぷりに真似《まね》る啓一をそそのかし、「さあ、おじいちゃまに唄《うた》ってさしあげなさい、レッツシング」京子がいったりしたら、俊夫は想像するだけで、頭に血がのぼる。
「ガウンこれで大丈夫かしら」京子はデパートの包装紙を破って、えんじ色のそれをとり出し、「特大のサイズなんだけど、ちょっとパパはおってみて」うむいわせず着せかけ、日本人にしては大柄《おおがら》な五尺八寸の俊夫、ぴったり体に合ったが「パパよりこれくらい高いかな」掌《て》のばして指でヒギンズとの差をしめし、まあ我慢してもらいましょ、ヒギンズの女房には浴衣《ゆかた》を着せるのだという。
「アメリカ人の平均身長は一米《メートル》八十、日本人は一米六十、二十糎《センチ》もちがう、万事この差やな、これが敗因やとわしゃ考える、根本的な体力の差というものは、必ず国力にあらわれるもんなんや」歴史変じて社会の教師がいった、この教師、放言というかホラというか、どこまで本当かわからぬ話が得意で、それはいたるところ黒く塗りつぶした教科書で、神国日本たちまち民主日本を説くばつのわるさかくすためかも知れぬが、戦後第一回目のアメリカの、エニウェトック環礁《かんしょう》原爆実験のさい、「連鎖反応がもし無限に起ったら、地球はたちまち粉々になる」と脅《おび》やかし、また、「焼跡の水道の鉛管をアメリカ軍が強制的に供出させている、これは放射能を防ぐ物質として本土へ送っているのだ、つまり第三次大戦近し、米ソ必ずたたかう」など予言者めき、だが、身長の差すなわち国力の差は、いわれずとも身にしみてわかる。
昭和二十年九月二十五日午後、えらい晴れた日で、あの年の夏から秋にいたる間は雲一つない炎天の日ばかりのような、いやもちろんそうではなく、早目の台風もたしかにあり、田圃《たんぼ》の稲が風の足跡そのままに、渦《うず》をまいて倒れ、それがそのまま凶作の予想につながって、心なえた記憶もあるが、とにかく八月十五日にしろ九月二十五日にしろ、アメリカ晴れとでもいいたいようなええ天気、アメリカ軍がいよいよやって来るいうて、その日は学校休み、もっとも授業は殆《ほと》んどなく、焼跡整理ばかりだったが、俺はなんとなく奴《やつ》等《ら》、飛行機か船で来るように考え、当時住んどった神戸新在《しんざい》家《け》の焼跡の壕舎《ごうしゃ》から、海の方へ歩いていくと、国道をサイドカーつけたオートバイがけたたましくやって来て、顎紐《あごひも》かけたお巡《まわ》りひきつった顔して乗っとる、その百米ほど後から、後で思えばジープと、幌《ほろ》つけたトラック、オートバイにくらべてしゅくしゅくいう感じで蜿蜒《えんえん》とつらなり、俺はぼうっとその次ぎ次ぎ、眼の前に来ればえらいスピードの隊列をみとった。
その六年前、夜やったが同じような日本の兵士のトラック部隊を、国道で送ったことがあり、二十日近くも神戸港の船待ちで、一般民家に泊っとった兵隊、俺の家にも二人来て、俺のええ遊び相手やった。不意の出発は夜の九時近く、お袋と一緒に歩道で仰山のトラックに、もくもく乗りこむ兵士、時おり怪鳥《けちょう》のようにひびく号令の声、家におった兵隊の姿、闇にまぎれてわからず、やがて「勝って来るぞと勇ましく」歌声が沸き上ったように思うねんが、これは錯覚やろ、なんせ涙が出て涙が出てしゃあない、トラックは国道を西にむけて発進し、夜空にサーチライトが二本びくともうごかず、雲を写しだしとった。
その国道を、同じく東から西へ、アメリカ軍が走り、はじめ貨物列車の数かぞえるように、目で追っとったがきりなく、「あ、アメリカ、釣竿《つりざお》持って来よった」いつの間にか国道には、まだゲートル戦闘帽の人垣《ひとがき》が出来、才槌頭《さいづちあたま》むき出しの子供がさけんだ。いわれるとなるほどジープの後にはすべて釣竿のようなしなやかな棒が、車の震動につれてゆれうごき、「チャンコロは雨傘《あまがさ》もって戦争しよったが、アメリカは釣竿か、さすがちゃうなあ」老人がいい、なにがちゃうのかわからんが、アメリカ兵が俺等《おれたち》と同じに、東明の浜でベラやテンコチ釣るんか思うと、不思議な気がして、だがすぐ、はやくも復員したらしい若者が「あれアンテナですがな、ラジオの」といい、へーえラジオ持って戦争しよるかと、これには素直に感心する。
突然、隊列は掛声も号令もなくぴたりと停止し、それまで車の部品のようにみとった、車と同色の服着たアメリカ兵が、はじかれたように銃持ってとび出し、道路に降りると、今度はのんびり車にもたれて、こちらをながめ、その頬《ほお》の色鬼の如くに赤く、「白人いうの嘘《うそ》やな、あら赤鬼や」同じ思いか、俺と同年輩の一人がおびえていう、二百米ほど東の人垣で歓声とも悲鳴ともつかぬさわぎが起り、みると、頭一ついや肩より上だけみせて、アメリカ兵二人が人にかこまれ、何やっとるのかとさらに国道へ出てたしかめようとしたら、いつの間に近づいたか大男が三人、二米ほどはなれたところに立って、口許《くちもと》をムニャムニャうごかしながら、チューインガムを一つ一つほぐし、ポイとほうり投げ、その無造作な態度に辺り一同あっけにとられているとアメリカ兵は道におちたガムを、拾え拾えいうように指示し、最初に拾った奴は、乞食根性《こじきこんじょう》よりも拾わな叱《しか》られる思うたんちゃうか、ガムもろてうれしいいう表情はなく、おずおずと白いちぢみのシャツにステテコ、靴下《くつした》をガーターでとめて茶の短靴はいたおっさんがまず手にし、後は豆にむらがる鳩《はと》。
俺は、その時までその気なかったんやが、アメリカ兵を近くでみたとたん、柔道教師の「毛唐なんかガァッと腰にくいついて、腰投げ内股《うちまた》大外刈り」講談みたいに調子つけた言葉を思い出し、本気ではないが、どんなもんやろと値踏みするようにながめ、そしてがっかりした。パーシバル将軍は、あれは例外やったんか、今見るアメリカ兵は、腕丸太ん棒腰は臼《うす》みたいで、なんやしらんがこっちの国民服とは段ちがいの、艶《つや》やかに光るズボンに包まれた尻《しり》のたくましさ、俺は武徳会のお情け初段で、うどの大木足一本であしらうこともできたが、このアメリカ兵にはかなわんと、むしろ讃歎《さんたん》して、そのええ体格をながめた。そして、ああ、日本は負けたんや、こらまったく無理もない、なんでまたこんなでかいのと戦争してんやろ、銃剣術で突いても、木銃の方がポキン折れそうやないか、やがて兵士は豆《まめ》撒《ま》きにあきたか車にもどり、二、三人未練がましく後を追うと、兵士は不意にしなやかな動きで銃をかまえ、追うた連中、腰ぬかさんばかりにおどろき、兵士も笑ったが、こちらの人垣からもせせら笑いが起る。
翌日、税関へ勤労奉仕で、税関のビル中の書類を窓から投げ落し、これは大掃除の名目、これを焼き捨てる、占領軍にみつかって具合わるいものは、とっくに処分したはずで、これは臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれた余りの気違い沙汰《ざた》、なんせ表には罫《けい》が入っとっても、裏はまっしろ、こっちはノートいうたら、文房具屋で出金入金伝票の裏を使《つこ》うとったから、こらええわと、どうせ焼くならもろてかえろ、腹に巻きつけたが、さすが税関だけあってこの密輸はすぐにばれ、みな灰となり、しかし、つい三月前は、この税関の前で集合し、辺りの三井三菱《みつびし》倉庫びっしり建ちならぶ間を抜けて、小野《おの》浜《はま》の砂浜で、日本最新鋭、一万五千米の高度で鋼帯ぶちぬくいう一二五ミリ高射砲の防壁つくり「電探と連動により、迎え射《う》ち、真上射ち、送り射ちの三発射が可能である」小隊長が説明してくれ、かくて神戸の守りは鉄壁というが、たったの六門、双眼鏡ものぞかせてくれて、昼間やのに木星がはっきりとみえた。
六月一日、大阪湾を一直線に大阪へ侵入するB二九を迎え、この一二五ミリ猛然と火を噴いたが、ついに一機もおとせず、しかし兵隊達はケロッとしたもので、俺がお世辞に「ものすごいですねぇ、射った時火い噴きますねぇ」いうと、「故《ゆえ》に火砲と称する」すまして答えた。
三月前はアメリカ迎え撃つ手伝いして、今度はもてなすための大掃除、ちがうのは陣地造りの時はパン一箇《こ》特配になったが、敗《ま》けてからの勤労奉仕は何時《いつ》もお金で、一日一円五十銭、税関で働く昼休みに、眼と鼻の小野浜へいってみたら、高射砲も魚焼く網みたいな電探もきれいになくなって、砂浜にセメントの土管だけが二、三十もあり、海には自分で撒いた機雷を、自分で掃海するアメリカのちいさい軍艦が列をつくって走っとった。
「ヒギンズ氏は、いくつになる」ふと俊《とし》夫《お》思いついてたずねると、京子たしかなことは知らず、「六十二、三じゃない? どうして」「戦争にいった話はしなかった?」「しないわよ、ハワイへ遊びに来て、そんないやなこという人もいないでしょうに」そして一言「あなたじゃあるまいし」とつけ加え、あわててさらに「いやよ、いらしたからって戦争のことなんかしゃべっちゃ、そりゃあなたのお父さま戦死なさったって聞いたら、やっぱりいい気持はしないでしょ」俊夫は、同年輩の友人を客とすると、酔った果ては必ず軍歌やら、動員の話題で、京子は自分が仲間はずれにされるひがみもあるのか「バカみたい、同じ話ばかり」不服そうにいい、だから釘《くぎ》をさしたのかも知れぬが、その心配は無用、とてもアメリカ人と戦争語り合う語学力はなく、「いやなことは思い出さないのがいちばんよ、毎年、夏になると戦記ものとか、やれ終戦の思い出とかって出るでしょ、いやな気がするわ、そりゃ私だって母におぶわれて防空壕へ入ったこと覚えてるし、スイトン食べた経験もあるわよ、だけどいつまでたっても、昔の戦争ほじくり出して、八月十五日の記憶をあらたになんて、いやね。苦しかったことを自慢してるみたいで」京子はむきになっていいつのり、そういわれれば俊夫はだまるより手がない、会社で若い連中に、ふと口がすべり空襲、闇市のあれこれしゃべると、連中はいかにもまた十八番《おはこ》がはじまったという風に薄笑いうかべ、とたんに俊夫は、大久保彦左衛門は鳶《とび》の巣《す》文珠山一番槍《もんじゅやまいちばんやり》の手柄話を語っているような、あるいはしゃべるたびに話が大《おお》袈《げ》裟《さ》となり、それを相手にみすかされているのではないかと不安に襲われ、感慨こめてあわてて打ち切る、八月十五日に、ことさら二十二年目かといえば、老人のくりごとととられかねないのだ。
八月十五日、俺は新在家の焼跡の壕に、お袋と妹をかかえ、十四歳の子供がかかえもおかしいけど、内地で十四歳の男いうたら、もっとも頼り甲斐《がい》ある存在、雨降ったら水びたしの壕かい出すのも、断水で井戸まで水汲《く》みに行くのも俺がおらなできへん、お袋は神経痛と喘息《ぜんそく》で半病人やねんから。今おもうと、重大ニュースの発表あるいうしらせが、前日とどいたんか、当日の朝やったかわからん、焼けても町会はあったし、焼け残った塀《へい》のねきにトタンで囲うた家、防空壕の上に三尺ほどの高さの屋根つくって住む人、隣近所けっこうおって、その誰《だれ》からきいたんやろ、焼け残った青年団の前に三十人くらい集って、「こら戒厳令ですわ」「陛下自ら陣頭指揮されるのとちがいますか」いい合って、十四日は大阪に大空襲あったし、神戸でも艦載機が機銃掃射しよった、まさかその翌日戦争終るとは露おもわず「ゴタイタメニサク」「シノビガタキヲシノビタエガタキヲタエ」人間ばなれした声をきいても、一同狐《きつね》につままれたようなもん、ラジオはその後もう一度アナウンサーが詔勅を重々しくくりかえしたところで切ってしもて、誰も漠然《ばくぜん》とは、ははあ戦争終ってんなと気づいたやろけど、うっかり先きに口出しては後の崇《たた》りが怖《おそ》ろしい「和《わ》睦《ぼく》でんな、これは」丸坊《ぼう》主《ず》がのびかけて、白《しら》髪《が》の目立つ町会長がいい、「和睦」の言葉に、俺は大阪城夏の陣か冬の陣、家康《いえやす》と秀頼《ひでより》の和睦を連想し、敗けた実感はなく、炎天の下たちすくんで、しばらくは流れる汗にも気づかなかったんやから、興奮はしてたんやろけど、そのまま壕にもどり「お母ちゃん、戦争ないようなったらしいわ」「ほな、お父ちゃん帰ってくる?」髪にたかった虱《しらみ》を、櫛《くし》でこそいでた妹がまずいい、お袋はだまったまま天《てん》花《か》粉《ふん》で、細い膝《ひざ》小《こ》僧《ぞう》をマッサージし、「気いつけなあかんよ」しばらくして、一言だけいった。
「お兄ちゃん、なにか落してるわ、B二九」妹が、さけび、俺はむし暑い壕の中で自分の胸にフウフウ息吹きかけ、せめてもの涼を求めとったが、また爆弾かと「アホ、はよ入れ」「ちがうわ、落《らっ》下《か》傘《さん》よ」おそるおそる首を出すと、すでに暮れなずみ、六甲山《ろっこうさん》に夕焼けがかかり、それと対照的に深い青の、海の上の空を三機編隊のB二九、すでに空に溶け入るほどに遠くなっていて、ふり仰ぐとほぼ真上から西にかけて、数えきれぬ落下傘が、見事にひらき重なり合い、自ら意志を持つかの如く、やや傾いて西に流れていき、やはり怯《おび》えたのか、俺にしがみつく妹を抱き寄せ、万一を考えて姿勢を低くしながら、「なにおとしよったんやろ」声がふるえ、広島に落ちた新型爆弾は原子爆弾で、やっぱし落下傘ついてたいうけど、まさかこんなにようけ落とすわけないやろ、まして見渡すかぎりの焼跡に、落下傘は、地上近くなるとスピードをゆるめ、滑りこむみたいに、横倒しに着陸し、夕《ゆう》凪《な》ぎで地表はまったく風ないから、そのままびくとも動かぬ。
スコップを銃持つみたいに構えてみるおっさん、くそ暑いのに頭《ず》巾《きん》かぶった婆《ばあ》さん、トタンのバラックを出たり入ったりしながら、落下傘を指さし、へんにシーンとした中で、まず駈《か》け出したのは中学一年くらいの、上半身裸の子供、俺もこわいものみたさ、なんせそばへ行ってみよと歩き出し、最初の一つは、芋畠《いもばたけ》になっとるテニスコートの中、落下傘の白い布の中心がもこっと盛り上って、それが爆弾かなにか、本体とわかるが誰《だれ》も近づかん、「近寄ったらあかんど、どけ、どいとれ」メガフォンでお巡《まわ》りが自転車から怒鳴り歩き、俺は焼け残った青桐《あおぎり》にのぼって、もっとようたしかめようとし、ひょいと西の方ながめると、国道に沿って、白いかたまりが、丁度、爆弾孔《ばくだんあな》にできた水溜《みずたま》りみたい、「わあ、ようけ落ちとるわ」発見をすぐに知らせ、白いかたまりには人垣のできたんもあるし、国道より海側におちたのは、気づかれぬまま、「家の壕のねきに落ちよりましてん」老《ろう》婆《ば》がすくい求めてあらわれ「落ちたてどんなもんや」落下傘を着陸まで見とどけながら、誰も、どんな色形のものを落したのか、見定めてなく、「なんや大きな四斗《しと》樽《だる》みたいなもんですわ、壕に卵置いてますねんわ、取りに行ったら危いでっしゃろか」不発弾、時限爆弾の恐怖こびりついとるから、誰も安うけあいせず、ときおり、あるかない風はらんでふっと息づく白い化物を、おっかなびっくりながめるだけ。
ザッザッザ、靴音響かせて兵隊が駈足でやって来て、やれうれしや不発処理の工作隊かとみると、銃も短剣もない上半身裸の十人ばかり、散開してなんのためらいもなく、落下傘にとりつき、思わずどやどやと人垣が輪をちぢめ、白い布とり払うとそこに、草色のドラム缶《かん》、焼けたドラム缶はようけみたが、これは新品のつやつやで、表面にこまかい英語やら数字が書いてあり、兵隊は三人がかりで、横倒しにし、ゴロゴロと、芋の葉のびっしり繁《しげ》ったうねを、委細かまわず押しころがし、「なんですか、爆弾ちゃいますのん?」思い切って一人がたずねると、「捕虜に落としよってんな、手まわしええこっちゃ」
脇浜《わきはま》に捕虜収容所があって、捕虜は突堤の荷物運びなどようやっとったもんやが、ほなこれは捕虜のもん? 「今日からこっちが捕虜になってしもてんからなあ」くだけた口調で一人がいい、煙草《たばこ》をとり出し「うまいで、ルーズベルト、いやトルーマン給与や」警防団のおっさんに一本やる、「なんでも入っとるわ」ようやく道ばたに出たドラム缶脚で蹴《け》とばし、大八車に押し上げ、ガラガラと引き去った後、たちまち人垣はてんでんばらばらに散って、なんでも入っとる宝の缶、捕虜にやるくらいやったら、ガメてまえと、敵愾心《てきがいしん》よりは食い気がさきに立ち、俺は見定めといた国道浜側の白いかたまりにむかって突進し、すでに昏《く》れて、焼跡は闇《やみ》の一歩前、六月五日空襲の際、同じように黒煙におおわれ、夕闇の如《ごと》くなった中を、防空壕求めて走りまわったように、白い落下傘が目当て、空から降ってくるのを昨日までは逃げたのに、今日は追い求めて、だがいずれもすでに蟻《あり》のように大人がドラム缶にたかっていて、トンカチ金てこ持ち出しあけるのに四苦八苦、遠まきにみとるだけでも怒鳴りつけられ、壕へもどる途中、闇の中にさきほどの、卵心配しとった老婆の金切声「うちの地所内におちてんから、うちとこのもんやで、なにいうたって渡しまへんでえ、あっちいけ、あっちいけえ」
軍隊が仲に入って、捕虜にやるいうても多すぎる量やから、各町会が責任持って、公平に分配すること、そして、いつアメリカ軍が来るかも知れず、早急に処分し、もしドラム缶の中に食料品以外のものがあったら、すぐ届け出る、そんなん所持してるところ見つかったら、たちまち死刑になるかも知れん、おどしもきかせ、町内会あたり二箇ずつ割り当て、もちろんそれまでに開けた連中は、もらい得で、翌日の午後、青年会の広場で、なにもかもグリーンに包装されて、いったい何が入っとるか見当つかんドラム缶の中身が、配給になり、「英語わかる人おらんかいな」うす笑いしながら町会長がいったが、そんな気の利《き》いたインテリは疎《そ》開《かい》しとる、残っとるのは地つきの、ぶりき屋大工洋服屋煙草屋乾物屋金光教《こんこうきょう》のおっさん小学校訓導、俺も防空訓練のリーダーになって、大人の前でええかっこするのはなれとるが、英語はあかん、「ほな、不公平ないように一つ一つあけてみますか」ドラム缶の中には、靴なら靴、煙草は煙草と同じもんが入っとって、町内会お互いに平均させたそうな、まず細長い箱開けると、チーズ、豆の缶詰、グリーンのちり紙、煙草三本、チューインガム、チョコレート、固パン、石鹸《せっけん》、マッチ、ジャム、マーマレード、白い錠剤三つ、お子様弁当みたいにつまっとる、これを一戸あたりまず二箱、丸い缶をあけるとびっしりチーズが入っとる、ベーコンがある、ハムがある、豆やら砂糖やら、俺はそこにおる奴《やつ》、皆殺ししてでも一人じめしたかった、あたりの人間かて同じ気持やろ、砂糖が、どっとボール箱にあけられると、溜息《ためいき》がわく、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」の標語みるたび、これは砂糖のこというとるのかと思うたもんや、ぜいたくは砂糖、勝ったら存分に砂糖なめられる、それが敗けた日に空から降って来て、他《ほか》にも宝物いっぱいもろて、その中に両の掌《て》山盛りほど、黒いちぢれたこまかい糸屑《いとくず》のようなものが配られ、これだけは見当つかんが、誰もその正体詮索《せんさく》するゆとりはない、グリーンの箱からあらわれるもの、たとえ砂でも他人の量と見くらべつつ、大事にしまいこんだやろ。なんせ脱脂綿まで出て来て、眼鏡のおばはん、それ女の方にまわしてくれいうたら、警防団の男血相かえて「不公平はあかん」一言のもとにはねつけた、脱脂綿をなんで女が欲しがるのかはうすうす見当つく、母が焼けてしばらくしてから薬局へ行き、「月経がえらいおくれてるんですけど」相談したら、「うちもそうですねん」同年輩の客がいい、薬局の主人まじえて、気恥かしい話して、最後は、「メンカないこっちゃし、気イ楽でっけどな」戦災後、月経のとまった人がふえたそうな。
「いつアメリカが来るかわかりません、この特配は、捕虜の分くすねたわけやから、なるべく早く処分するようにして下さい、万一いうことありまっさかい」町会長が注意し、俺は壕《ごう》にもどり、まずそのことを強くいった、喰《く》いのばしが習慣になっとるから、今日は豆さんだけなんかいわれたら、俺じっと分配をながめて、長いお預けくわされとるようなもん、泣いてまう。それでも途中で砂糖なめたりせえへんかったんは、興奮してしもて、ただもうはよ壕へ戻《もど》り、自分の手《て》柄《がら》のようにみせびらかしたかったからやろ。
母は俺の意見に従い、壕舎のすみの父の写真に固パンと煙草そなえ、俺は一通りアメリカ特配を味見してから気イついたんやが、もしお父ちゃん魂あったら、これどない思うたか、父を殺した鬼畜米英のピンはねて、仏前にそなえるいうのもへんな話。
「これなんやろか」落着いたところで、黒い糸屑、これだけは料理せんとあかんらしいが、匂《にお》いかいでも口になめてもようわからん、「俺きいてくる」なんせもう食いたい一心、とび出して近くの洗濯《せんたく》屋のおばはんにたずねると、ここでも首ひねっとる、「なんせ水にもどして、炊《た》くのとちゃうやろうかねえ、ひじきによう似とるわ」そうか、そういうたら前にひじきに油揚げいうおかずあった、大阪商人の丁稚《でっち》好物てきいたことある。すぐに俺《おれ》は割れた七輪、針金で巻いたんに、火イ起して、焼残りの鍋《なべ》をかけ、いわれた通り煮ると、どんどん水が赤茶にかわり、「ひじきいうんはこないなるのん?」母にきくと、不自由な脚ひきずってそばにきて「アクでたんやな、アメリカのひじきアクつよいんやわ」水をそっとほかし、あたらしくしても、なかなか赤茶はとれん、四度目にようよう澄んで来たから岩塩で味つけて、煮つまったところで味見したら、これはねちねち歯ごたえあるばっかりで、ものすごいまずい、まずいいうたらまず黒いうどんみたいな海宝麺《かいほうめん》やが、あれより味ないし、噛《か》んでも口の中ひっつくみたいでのみこめん、「なんやこれおかしいで、煮すぎたんやろか」妹も母も食べてみて、変な顔しとる、「アメリカもまずいもん食うとってんなあ」母がつぶやき、しかし捨てることはとてもでけん、火イ通しとったらもつやろと、鍋ごとそれなりにして、チューインガムで口直しし、このアメリカひじきにはどこでも、どない料理してええんかわからずじまい。三日後兵隊からきいてきたいうて町会長が、「あれ、ブラックテーいうて、アメリカの紅茶の葉アでしたんやて」教えてくれた時には、もうどの壕舎にも、ひとっかけらも残ってなかった。
そして焼跡と焼跡の間の、細い道には、チューインガムの銀紙がいっぱい捨てられ、なんせ先きにくすねた奴《やつ》のドラム缶の中にはガムばっかりいうのがあって、さすがにいくら噛んでも始末できん、アメリカもし来たら危いし、顎《あご》もくたびれるし、子供にじゃんじゃんばらまいて、子供はまたそれをニッキ噛《か》むみたいに、ちょっとクチャクチャやって甘さがなくなったらすぐほかし、その銀紙はじめは折紙のようにしわのばして大事にしとったが、こうようけあると、ありがた味ない、ほかしたんが道一面に散らばって、それはもう雪つもったみたい、夏の太陽にキラキラ光り、頭かくして尻《しり》かくさず、これをアメリカみたら、すぐくすねたんばれるやろに、それは誰も心配せず、たちまち特配の品なくなり、砂糖だけは、ちびりちびりなめて最後まで残ったが、また雑炊、すいとんにもどってからも、お祭りの後の、神社の境内の色とりどりのゴミのように、チューインガムの銀紙だけは、一面の茶褐色《ちゃかっしょく》の風景の中に、アメリカ特配の夢を、とどめた。
俊夫にとってアメリカといえば、それはアメリカひじき、焼跡に降った夏の雪、つややかなギャバジンに包まれもり上ったヒップ、スクイーズとさし出された分厚い掌、米七日分のチューインガム、ハブアグッドタイム、肩までしかない天皇とならんだマッカーサー、キューキューと日米親善、MJBの半《はん》封度《ポンド》缶、駅で黒人兵にまぶされたDDT、焼跡整理の孤独なブルドーザー、釣竿《つりざお》かついだジープ、アメリカ民間人ハウスの、点滅するランプだけをデコレーションにした静かなクリスマストリー。
ヒギンズ夫妻をむかえるため、京子のたってのねがいで会社の車を羽田にまわし、「パパも一緒に来て下さるでしょ」念押すようにいわれ、忙しいからと断るのもそらぞらしく、いや断れば、どうしてそうこわがるのかしらと心底みすかされる懸《け》念《ねん》があり、同行してあわただしい空港の、いかにも一度海外旅行した経験をほこらしげに、国際線のあたり、悠《ゆう》然《ぜん》と京子は歩いて、「ねえ、啓ちゃん、あすこから飛行機に乗ったでしょ、あの向うに税関があるのよね」「俺、ちょっと、バアにいる」到着時刻には間があったから俊《とし》夫《お》、エスカレーターで二階へ上り「ウイスキー、ストレートでダブル」アルコール中毒者のように、ぐいと飲み干す。「絶対に英語はつかうまい」これが、今朝眼覚《めざ》めてまず心に決めたこと、つかうといっても出来やしないが、ひょいとあの中之島の頃《ころ》の、断片的な会話がよみがえって、苦しまぎれに口走るかも知れず、のっけから「やあ、いらっしゃい」あるいは「今日は」ヒギンズがきょとんとしようが、どうしようが、日本へ来たら日本語をつかえ、断じてグッナイトすらいわないぞ、飲むうち、昼からつづいていた胸騒ぎおさまり、逆に敵迎え撃つような昂《たか》ぶりを感じる。
鬚《ひげ》を生やし木綿のズボンにゴム草履、隣りの町へ遊びに来たようなアメリカ青年、おっそろしく背の高い二人連れ、せかせかと馴《な》れた足取りで急ぐみるからにやりての中年男、外人にまじると、なるほど眼吊《つ》り上り濁った肌《はだ》、満面笑み浮かべた日本人旅行客、いちように下ぶくれで髪の量の多いハワイ二世、どやどやとゲートからあらわれ「ハイ、ヒギンズさん」京子が金切声でさけんで、みると紺のブレザーコートグレイのズボン、皮のネクタイしめた見覚えある白い鬚の男と、写真でみるより小柄で、真赤に唇《くちびる》塗った老女、わかったわかったという風に首をふりふり近づいて、京子と抱き合い、啓一の頭をなで、さすがに京子もすぐ英語が出ないのか「ハウアーユー」くらいでまごつき、そのばつのわるさごま化すように俊夫をしめして「マイハズバンド」俊夫、胸を張り、手をさしのべ、「やあ、いらっしゃい」ややかすれ気味にいうと「コンニチワ、ハジメマシテ」たどたどしいがヒギンズ日本語であいさつし、まるで予想しないことだから、おどろきあわて、俊夫そのおかえしになにか英語でしゃべらねばならぬと、あれこれ単語かき集めウェルカム、ベリーグッド、てんでんばらばらでつながらず、ヒギンズはにこにこ笑って「トテモウレシイデス、ニッポンコラレテ」はあ、いやどうもと口ごもり、京子は夫人と、身ぶり手ぶりまじえどうにか英語をあやつる。夫人はハウアーユーとふつうに俊夫にいいかけ、同じくかえし、すでに固い決意などどこへやら。
レディファーストを口実に、夫妻と京子は後のシート、俊夫は啓一と助手席に乗り「いじわるねえ、ヒギンズさん日本語おできになるのね、ハワイではちっとも」「いえ、あの時は自信ないでした、でも、日本来ることになって一生懸命思い出しました」戦時中、ミシガン大学日本語学校にいて、日常会話を習い、昭和二十一年には進駐軍として半年ばかり来日したという。そういえば、うわべ日本語わからぬふりをして街歩き、アメリカの悪口をいう者をみつけると、たちまち沖縄へ送り重労働させると、噂《うわさ》のとんだことがある。日本では仕事たずねると新聞関係といい、俊夫は、昭和二十一年といえば焼跡そのままの頃、羽田からの高速道路をつっぱしりながら、幾度となく「どうです、日本はかわったでしょう」誇りたく思ったが、本来ならヒギンズがまずおどろいてしかるべきで、だが、夫人は京子の、イルミネーションまとった東京タワー、高層ビルの遠景説明するごとに「ワンダフル」と相槌《あいづち》うつが、ヒギンズはだまったまま「ヒギンズさん、お酒は飲むんですか?」「ハイ」いかにもうれしそうにうなずき、ふりむいた俊夫に、葉巻きをさし出す、「サンキュウ」もはや英語つかうことにためらいなく、しかし、葉巻きはたしか一方をはさみで切って吸うはず、アメリカ将校は歯で噛みきり、ペッと吐き捨てたが、さてと、もてあまし、ヒギンズをみると、大きな舌で葉巻きを入念になめまわし、もはや、葉巻きだけしか念頭にないように、それは動物めいて見え、マッチをさがす風だから、すかさず俊夫、ライターをさし出す。
「ここが銀座」四谷の家へ向かって、高速道路をはなれ、銀座四丁目へさしかかると、ついにたまりかねて俊夫はガイド役をつとめはじめ、ニューヨーク、ハリウッドより豪華といわれるネオンの氾濫《はんらん》を、今度こそおどろくかと思ったが「銀座、知ってます、PXありましたね」PXはこの和光と指さすひまなく通りすぎ「もしよかったら、銀座で食事していかないか」思いついていうと家にその用意整えていたが、京子も素直に同意し、ヒギンズはすべてまかせきった如く、嬉々《きき》として車を降りる。
さて「L」「K」といった外人コックのいるレストランがいいのか、すきやき天《てん》麩《ぷ》羅《ら》か、思い惑ううち「お寿司《すし》ありますか」「へーえ、お寿司食べるんですか」「はい、アメリカにも寿司屋あります、亀《かめ》寿司清《きよ》寿司おいしいです」夫人はさすがにおびただしい人波におどろいたようで、しきりにヒギンズに問いかけ「お祭りかと奥さんいってます」笑いながら俊夫にいい、なにか気の利いた台詞《せりふ》いいたいが、英語ではままならず、「オールウェイズラッシュね」つい、パングリッシュ風に説明し、これが通じたか、夫人うなずいてペラペラしゃべりかける、通じないまま、俊夫ジャパニーズスマイルでうなずくばかり。
箸《はし》を上からにぎって器用に夫妻は寿司をつまみ、「アメリカでもトロ、コハダ、カッパ巻きいいます」日本茶を飲み、まるで何年も日本にいるような落着き方。「ヒギンズさんと、少し飲んでかえるから、先きに帰っててくれよ」ねえ、いいでしょと、ヒギンズにも問いかけると「ハーイ」笑いながらうなずき、「だって疲れてらっしゃるし、わるいわよ奥さまに」京子不服をいったが、夫人はヒギンズに説明されると、諒解《りょうかい》したようで俊夫「スタッグパーティ」いわずもがなの念を押す。「じゃ、こっちはお買物でもしようかな」ぎごちなくその旨《むね》を京子、夫人にいい、あまりおそくならないでと、常の如き釘《くぎ》をさして啓一と三人歩き出す、ヒギンズは「坊や、おそくまで起きているんですねえ、いいですか?」やや注意するようにいい、そうか、アメリカでは夫妻で外出する時、子供は留守番のならわし、たしかブロンディの漫画ではそうだったと、俊夫ふと恥かしい。
会社でも、特に上客のスポンサー接待に利用するクラブへ入り、「あらどうしたの、外人さんと、お仕事?」あわてて「いや、昔日本にいらしたことがあるんだ、だから日本語がお上手でね」失礼のないよう釘をさし、しかし、外人とみてマネージャー気を利かせ、英語のはなせるホステス二名をつけ、俊夫は馴染《なじ》みがないから、やや手持無沙汰《ぶさた》でいると、ヒギンズ、使いなれぬ日本語から解放された風で、生き生きとしゃべり、時に「オジョウサンたちとてもすばらしい英語ですね」俊夫にお世辞いうが、やがて肩を抱き手をにぎり「あー、このおっさん、女好きなんやな」とわかると、やみくもに女をとりもたなければ、サービスに欠ける気持がして、それならば、明日はコールガール一人世話したろかと、これも商売柄いくらかはつきあいのあるその道の業者思い浮かべ、「ヒギンズさん、明日は予定があるんですか?」すると手帳とり出し、俊夫にも見せて「二時にプレスクラブ、五時にCBSの友人に会って、食事します。どうして?」俊夫は、ヒギンズが思ったより日本に知己の多いのを、なんとなく不愉快に思い「いや夜でもいいんだけど、ナイスガールを紹介しようと思って」「アリガト」たいしてうれしがりもせず、「CBSの人と食事の後どうですか」「何時頃」「多分八時大丈夫」「OK」なにか重要なビジネスでも進行させるように、すっくと席を立ち、コールガール業者に電話して、「外人なんだけどな、もう年寄りでね、なるべく若い女がいいと思うけど」外人なら五割増し、その代りぐんとボリュームのあるのをと、業者うけあい、俊夫の敵娼《あいかた》も頼み、巣《す》鴨《がも》のホテルでおち合う手《て》筈《はず》を決める。
ヒギンズはウイスキーのストレート、ファッショングラスに中程まで注がせ、ぐいと一息に飲んで、いっこうに酔いもせず、荷物車で運ばせるというのに、これだけは放さなかった鞄《かばん》から、ボール紙で裏打ちした袋とり出し「ヌード写真、私、撮りました」みると、両脚ぐいとふんばったあからさまな姿態、オードブルフルーツのならんだテーブルに堂々とならべ、ホステス、キャアキャアさわぐのを楽しそうにながめながら、「私、カメラ上手ね、日本にいる時も沢山撮りました」ガム、チョコレート、ストッキングを与えて、強引に娘達《むすめたち》の裸を写したのかと、ふとからみたい気持になったが、すぐ忘れ、金髪女の猥写真《わいしゃしん》に近いそれに、興味が湧《わ》く。俊夫の前に、ちいさなゴミがとび、ひょいとみるとヒギンズ、ゴムの細い紐《ひも》を歯のすき間にさし入れ、しごくようにしてはさまったものを、いさいかまわずはじきとばしているので、そのつど唾《つば》とも歯くそともつかぬものがとび散り、ホステス気にして拭《ふ》くが、別にその無礼をとがめだてはしない。
その後二軒まわり、ヒギンズはまったく酔わず、無邪気にウイスキーをあおりつづけ、車の中では二人ユアマイサンシャインを合唱し、家へたどりついたのが午前三時、ヒギンズを二階へ案内し、すでに寝入った京子と啓一の横にもぐりこむと、枕《まくら》もとにお土産らしいチューインガムとクッキー、香水の箱、ブランデー、ハワイ土人の着るような安手のムウムウが、乱雑に散らかっていた。
ひどい二日酔いで、会社にはおくれて出ると連絡し、鎮痛剤がりがり噛みながら、すでに起きているヒギンズ夫妻にあいさつし、ヒギンズは昨夜の酔いかげもとどめず、庭の芝生をながめ「少し、刈った方がいいですね」家の中は、京子懸命に整備したのだが、庭まで手がまわらず、いわれるまでもなく乱雑においしげっていて、そこかしこ犬の糞《くそ》がひからびた姿をみせる。気を利《き》かしたつもりの冷たいコーヒーを、はっきり拒否して日本茶所望し、パン一枚食べただけ、サラダ、目玉焼きに手をつけず「この近くに英字新聞売ってませんか」たしか販売所へいけばあったはず、といってわざわざ買いに行くには体がだるい。「今日は奥さまと歌舞伎観《かぶきみ》に行くわ、御主人は用がおありなんですって、さっきうかがったら」表で食事するけど、あなたはどうなさるかと京子がたずね、まさかヒギンズと女買いに行くともいえず、この会話きこえてるはずなのに、ヒギンズ葉巻きをまた舌でペロペロなめながらだまっているから、彼と一緒とはあかさず、「適当にやるからいい」夫人は啓一をつかまえて、しつこく「グッドモーニング、ハウアーユー」英語の発音を教えこみ、啓一ふてくされたように、でたらめを復唱しているのに、夫人はいっこうあきらめぬ。「啓一、お母さんとこへ預けたらどうだ」台所でひそかにいうと、「お母さん、体の具合がわるいのよ、どうして?」「どうせ、夜おそくなるんだろ、大人のつき合いさせちゃつかれるし、夜更《よふ》かしの癖がついて」「大丈夫よ、奥様と仲良しだし、少しでも英語覚えられるでしょ」それとも、あなた早くかえって啓一と留守番して下さる? 自分の、ヒギンズ夫人との外出をとがめ立てされたと思ってか、つんけんいい、「夜更かしっていうけど、ふだんでも、あなたのおそい時、なかなか寝ないのよ、パパ待ってるって」風向きがかわったから、そのままひっこみ、庭で啓一のはしゃぐ声がするからみると、芝生を植えた時に買って、そのまま物置きにほうりこんで置いた芝刈り器をヒギンズ持ち出し、葉巻きくわえながら、ゆっくりと操作し、その姿いかにもポスターの図《ず》柄《がら》のように形がきまっていて、「あらあら、ほっといて下さい、ヒギンズさん」そして俊夫に「だから、刈って下さいっていったでしょ、あれ重くて私じゃだめなのよ、恥かしいわ」ふきげんそうに京子がいう。
美容院に寄ってから歌舞伎へ行くと、三人が昼過ぎに出かけ、さてヒギンズ一人おいて、二日酔いはさめたものの出かけもならず、場つなぎに「ビールでも飲みますか」芝刈りの汗を風呂《ふろ》で流したヒギンズにいうと、「ウイスキーないか?」ついお相伴して昼日中から本格的酒盛りとなり、三時の約束にヒギンズ出かけた後も、もう休む他《ほか》なく一人水割りを飲みつづけ、所在なさに二階の寝室のぞいてみると、部屋中、夫人の衣裳《いしょう》がちらかり放題、鞄の中を調べると、色あざやかなパンティが十数枚あって、とてもあの老《ろう》婆《ば》のものとは信じられぬ。
午後七時、Nホテルで待ち合せ、俊夫はもう酔っぱらっていて、一人はしゃぎながら、「なんならヒギンズさん、二人相手にしてもいいですよ、ぼくは遠慮するから、なにしろナンバーワンガールね、えーと、キャビア、ユーノウ? キャビア天井、キャビア天井なんだから」ヒギンズわからず、「つまりお×××、ユーノウ? その天井が、イッツライクスキャビア」それにタコツボ、かつてよほど遊んだらしく、通じたとみえ高笑いし、「キンチャク知ってます」巣鴨のホテルには、業者だけがいて、昨夜の安請け合いとはうって変り「外人さんというと数がきまってましてね、どうも日がないもので、とにかく用意はしましたが、少し年をとってるんですよ、テクニックはもう保証つきですが」三十二歳の女で、もと立川基地にいたのだという。「俺《おれ》の分は?」「ええそれは、まだ素人《しろうと》同様のいいこなんですが」それに金を倍増し、なんとかならんか、商売上の大事なお客なんだ、俊夫もし、ここでその三十二の女をヒギンズがきらったら、いや、ナンバーワンと宣言した手前、変な女あてがうわけにはいかぬ、必死に頼みこみ「無理矢理というわけにもいきませんので、話だけはしてみますが」勿体《もったい》ぶるのを、金に糸目つけぬと頼み、座敷へ通るとヒギンズ、部屋いっぱいにしかれた布団《ふとん》をさけて床の間に腰をかけ、カメラをいじっている、「おじょうさん、写真とってもいいですか」顔ならともかく、昨夜の猥写真まがいとなると、これは見当つかず、「OK、交渉してみましょ」すっかりポンビキ風、二十分後に女二人あらわれ、業者手招きして、「なんとか話はつけました、いちおう二倍ということで」「写真はどうだろう」「写真といいますと」「ヌードの、すぐアメリカへかえるんだし、絶対にあぶなくはない」いや、それは本人次第で、そちらから話してくれと、駄《だ》目《め》なのをみこしたようにいい、さて若い女はファッションモデルとしても通用しそうな痩《や》せ形《がた》の美人、洋パン上りは顎の張ったきつい顔、ふてくされたように横ずわり、女同士初対面らしい、ヒギンズもだまってすわったまま、さてこうなるといよいよ妓夫《ぎゆう》同然「えーと、君なんていうの?」「みゆき」若い女がいい、「こちらは」別に偽名をつかうこともあるまいと「ミスター・ヒギンズさん」この隣りの部屋だからと二人を案内し、ヒギンズを先きに入れ、「あの外人、カメラが好きでね、君の写真とりたいっていうんだ、すぐ帰国するし、まあ日本女性の代表としてアルバムに飾られるだけなんだけど、もちろん金は」みなまでいわせず、「いやよ、冗談じゃないわ」まるで俊夫が申し出たように、きつくにらんで断わり、すごすごもどると、洋パン上り黒いスリップ姿でいる、酔いにまかせ気はすすまぬが服を脱ぎ、体横たえると、どういうつもりか猫《ねこ》なで声「私、未亡人なのよ」鼻ならして体のしかけ、テクニックはただひたすら自分の満足のためのもの、これが外人仕込みなのか、いたるところに唇をつけ、爪《つめ》を立て、俊夫は肌に浮《うわ》気《き》のうごかぬ刻印うたれてはたまらぬと、さけるのに精いっぱい、そして隣りの部屋の、美少女といってもいいみゆきと、ヒギンズの、さだめしこちらとは正反対であろう情景まざまざと浮かび、その刺《し》戟《げき》的なイメージだけをたよりに、やがて果て、風呂へ入ると腋《わき》の下二の腕、乳のあたり、毒々しいキッスマークがはりついていて、酒の酔いもさめる思い。
洋パン上りをかえし、冷蔵庫のビール飲みつつ待ったが、いっこうにヒギンズはあらわれず、横になってついうとうとし、はっと気づいてとび起きると、二人が部屋へ入って来たところで、みゆきヒギンズにぴったり寄りそい、先程のとげとげしさはまるでない。
「ヒギンズさん日本語お上手」みゆきあらためていい「どもありがと」いいつつ、カメラのフィルムをまきもどし、どうやら写真もとった様子、業者から電話かかって、ことの成り行ききくからまずまずと答え、すると「実は、シロクロのたいへん上等なのがいるんですが、外人さんにどうでしょうか、ああいうショウは他にないと思うんですがねえ」ブルーフィルムこみで三万円、このクロは、かつて浅草で鳴らした男で、しばらく休んでいたのが近頃《ちかごろ》カムバック、なにしろ逸物《いちもつ》がまことに立派で、これはもう一見の価値がある、「ヒギンズさん、ユーノウシロクロ?」「ノウ、しりません」「えー、オブシーンショウね、ファッキングショウ」でたらめにいうとのみこめたらしく「わかります」にやりと笑ったから「じゃ、明日頼む、六時頃」業者にいい、「トゥモロウ、ここでやります、ジャパニーズナンバーワンペニス」ははんとヒギンズうなずく。
ふたたび銀座をはしごし、ヒギンズはおごられることをなんとも思ってないらしく、だがもし彼が、財布をとりだしたら、俊《とし》夫《お》むきになってとめたにちがいない。六本木の寿司屋を最後にもどると、京子まだ起きていて「ヒギンズさんと一緒なら、そういってくれりゃいいのに」うらみがましくいい「おそいから心配したら、奥さん、男同士一緒にまた飲んでるって教えてくれて、恥かいちゃった」そして、そんなに毎晩おそくまで遊んで、会社の方はいいんですか、なんだか電話がよくかかってきましたよ、いや味にいうから、「いいもわるいも、お前がつれて来たお客じゃないか、だからこっちはサービスしてるのに、文句いわれる筋合いはないだろ」「サービスったってなにも毎晩三時、四時まで飲むことはないでしょ、あちらはお年寄りなんだからまいっちゃうわよ」なにがお年寄りなもんかといいたかったが、それもならず、「あのお婆《ばあ》ちゃんも失礼しちゃうわ、冷蔵庫の中までのぞいてみるのよ」アメリカにも姑 根《しゅうとめこん》 性《じょう》ってあるのかしらといい、さすがに身から出た錆《さび》の来客で俊夫にからむこともできかねて、そのまま身を寄せてくるのを、俊夫は昼間の一件があり、そい伏しとなれば、この暑さに下着をつけているのも不自然、裸になればキッスマークあらわれるし、さり気なく押しもどし、「風呂へ入ってくる」「だめよ」ヒギンズ夫人、湯槽《ゆぶね》をバスのように使って、後、流してしまったのだという、「面倒だから私も啓一も入っていないの、我慢してよ」つっけんどんにいい、くるりと背をむけたのを幸い、布団に横たわる。
闇《やみ》にひきこまれるような、酔ったあげくの疲労を感じながら、一方では覚めていて、思えばなんでまた俺は、あの爺《じい》さんにこんなサービスせんならんねん、なんやヒギンズのそばにおると、一生懸命よろこばせたらなあかんみたいな気持になるのはどういうわけや、俺の親父《おやじ》殺した国の人間やのに、そんな恨みはまったくない、かえってなつかしいみたいな気さえする、十四歳の時の、あのでっかい体の占領軍に怯《おび》えた心を、今ヒギンズに酒おごり女抱かせて、帳消しにするつもりなんか、それとも、落《らっ》下《か》傘《さん》の特別配給にしろ、アメリカでは家畜の肥料いわれた大《だい》豆《ず》粕《かす》の配給にしろ、腹減ってしゃあない時に恵まれた恩がえしなんか、余剰農産物押しつけたいうけど、あの時アメリカがトウモロコシなと送ってくれなんだら、何万人飢死したか知れんで。にしてもヒギンズをなつかしい思うのはなんやろ、ヒギンズもひょっとしたら進駐軍で来た時のことなつかしがっとんちゃうか、あの悠《ゆう》然《ぜん》と人におごらしとる態度、なんやしらん図《ずう》々《ずう》しいそぶり、そらヒギンズにしてみたら、占領軍として日本へ来た頃が年からいうてもいちばん充実しとった人生で、そやからあるいはなつかしく、日本へ来たとたん占領軍の頃にもどるのはわからんでもないけど、こっちがそれにあわせて、当時の大人みたいにポンビキの真似《まね》までついしてしまうのはなんや、それがうれしいのはどういうわけや、別にアメ公と酒飲んで何の御利《ごり》益《やく》あるわけやなし、俺もまたあの頃をなつかしがっとんのか、いやそんなはずはない、腹減って牛みたいに食べたもん反芻《はんすう》する癖がつき、二度も三度も口の中にもどして味わうようなみじめな時代、香《こう》櫨《ろ》園《えん》泳ぎにいって、アメリカのボートに沖合いで追いかけられ、溺《おぼ》れそうなったり、中《なか》之《の》島《しま》で女に逃げられたいうて、腹立てた兵士になぐられたり、どうみてもええ記憶はない。お袋かて、結局は戦災がもとで、とうとう体衰弱して死んだし、妹かかえてえらい目に合《お》うて、考えようによってはアメリカのせいや、そやのに、ヒギンズの顔みるとサービスしたなるのは何故《なぜ》や、いやな男に犯された処女が、その男ついに忘れられんようなものか。
一夜明けると京子のきげん直り、今日は観光バスで東京一周、たっての夫人の希望といい「こういうことでもなきゃ、啓一に泉岳寺見物させることもないものね」京子もけっこうはしゃいで、「今日はどうなさるの? ヒギンズさんとまた御一緒?」「ああ」「早く帰ってらしてよ、今夜は家で御飯召し上っていただきたいわ」ヒギンズは朝早く起きて、地理もわからぬだろうに散歩に出かけ、「きれいな教会ありますね」満足そうにいいウイスキーを飲み、酒量に自信ある俊夫もつきあいきれぬ。会社もほっておけぬから、一緒に出ようかというと、ヒギンズは「私はもう少しゆっくりする、どうぞ」ケロッといい、やむなく鍵《かぎ》を渡し、出る時はかけてくれと頼み、ヒギンズまるで長年の居候《いそうろう》のように屈託がない。
アメリカの客が来てと、社員にやや弁解がましくいうと、これまでまったく外人とのつきあいなど気配すらなかっただけに皆おどろいて「アメリカに進出ですか? 日本のアニメーション技術は、向うでも高く買ってますからねえ」見当ちがいな質問が出て、説明する気にもなれず、「通訳ならひきうけますよ」一人が眼《め》をかがやかしていう、「アメリカの金持でね、遊びに来てるんだ」「へーえ、すごいですねえ、古いおつきあいですか」「ああ、進駐軍当時からのね」半ばこれは実感であった、アメリカ人といえば、俊夫には子供ですら、進駐軍のかたわれにみえる、この若者にはわかるまい、若者にとって、アメリカは一度訪れるべき、いわば善光寺、御利益たまわり箔《はく》つけるところ、コネをたよりにちゃっかり無銭旅行する天国。
約束通り巣鴨のホテルふたたび訪れ、道すがら昨日の首尾をたずねると、ウインクしてみせ「とてもきれいな体していましたね、でもアメリカの、私のモデルの方が、ボリュームあります」わかりきった自慢をしたから、よっしゃみとれ、日本がほこるシロクロショウ、ナンバーワンペニスの偉容におどろくな、いきおいこんで待つうち、業者につれられて男女あらわれ、男はむしろ小柄で俊夫と同年輩、女は二十五、六、鹿《しか》爪《つめ》らしく一礼して「着物着かえる間お待ち下さい」と引き下り、業者は「外人さんの前では初めてなんだそうですが、なにしろ大したものです、私なんかみてても、あまり偉大なのでコンプレックス感じますねえ」前説をのべ立て、やがて浴衣《ゆかた》はおった二人、布団に横たわる、ヒギンズ見にくいとみえて、指で二人の枕《まくら》もとをしめし、席移ってもよいかという風に合図するから業者は「どうぞどうぞ、もっと近くでとっくりごらん下さい、ジャパンの四十八手」うけて俊夫「フォティエイトポジション」ヒギンズうなずく。
男はまず女の唇《くちびる》からうなじ、乳房にかけてくちづけを入念に行い、たちまち女息を荒くし、少しずつその浴衣をはいで肌《はだ》あらわにし、ドシンと音がしたからみると、枕もとに座布団重ねてすわり、見入っていたヒギンズ熱中のあまりか、横倒しにころげ、照れもせずすわり直す、俊夫、ふとざまあみろという気持が起って、つまり俺がサービスしとるのは、ヒギンズをなにかの方法でまいらせたい、酔いつぶすでもええ、女に惚《ほ》れさせるでもええ、日本のなにかに、あのにたにた笑ってくそ落着きにおちついとるヒギンズを、熱中させ、屈服させたい、それを願うとるのではないかと気づく、やがて女は全身裸となり、しつこいほどの前戯に、もはや女は演技ではなく、心底男待ちわびる風《ふ》情《ぜい》、そして男は女の脚を割って中に膝《ひざ》で立ち、浴衣の前をはだけて逸物あらわにする。なるほどベテランらしく、ここにいたっていまだ雄々しくはないが、その色あくまで黒く、とぐろまいて風雲を待ちのぞむ風格、男は掌《て》に唾《つば》して、ゆるやかにまさぐり、ヒギンズも首さしのべ、凝視している、女は苛《いら》立《だ》つように両脚で、男の腰ひきつけるようにし、だが男の祈念するようなしぐさはつづけられて、いささか隆起はしたが、まだ事に臨むにはほど遠く、男は右手でつづけながら、左で女体まさぐり、さらに俊夫にも覚えのある、深酒のあげくの意の如《ごと》くならぬ際のためしを、あれこれ行ったあげく、ついにそのまま体を重ね、女はうめいたが、明らかに結合はなされていない、これも芸のうちかとみると、男の表情に焦躁《しょうそう》がみえ、ふたたび体おこして、みずからをまさぐるが、先程よりさらにちぢこまっていて、ナンバーワンにはほど遠く、ようやく事態に気づいた女、立場かえて口に含んだがさらにきざし見えぬ。
業者をうかがうと、苦笑しながら首をかしげ、ヒギンズのすわった足のすぐ近くに男の顔があり、汗を浮かべ、なにを念ずるか眉《まゆ》をしかめて瞑目《めいもく》し、時折、女のように脚をぐっとひらき、また伸ばし、女はまた男の胸やら内もも、指先きはわせて、必死の気《き》魄《はく》よくわかり、俊夫は自分が、不能となった如く、思わず力が入って、どないしてん、ナンバーワンやないか、しっかりせんかい、アメリカ人にみせたってくれ、日本の誇る偉大なる逸物、ギャフンいわしたってくれ、怯えさしたってくれ、こうなるとオチンチンナショナリズムとでもいうべく、ここで男が立たなきゃ民族の名折れ、出来ることならかわってやりたいほどで、俊夫のそれは、さきほどから張り切ったまま、気づいてヒギンズの股《こ》間《かん》うかがったが、変化はみえぬ。
「どうも、申しわけありません、こんなことははじめてなんですけど」三十分近くも苦闘のあげく、たまりかねて業者が「吉ちゃん、どうしたの」声かけたのに、男はあおむけのまま、もう起き上る気力もなくかすれ声でいい、女も「疲れてるのかしら、こんなことないのに」途方にくれていう。
「じゃまあ、少し休憩して、ビールでも飲んだら」俊夫、ヒギンズに対する体裁よりも、ただ雄々しくさせるために精魂つきはてたような男がかわいそうになって、コップさし出したが、うけとらず「おはずかしいことです、お金はお返しします、そして機会があれば、今度はサービスで是非、ごらんいただきたいと思います」あらたまった口調でいい、いや、そんな心配しなくても、男にはよくあることだから、ま、おのみなさい、俊夫いたわったが逃げるように姿を消し、ヒギンズはだまって、葉巻きなめまわす。
「前代《ぜんだい》未《み》聞《もん》のことですねえ、吉ちゃんが不覚をとるとは、なんせ」いろいろとその逸物たるゆえんをあげた末、「まさか外人さんがいらしたからでもないんでしょうが」ヒギンズに笑いかける。
吉ちゃんと呼ばれる男、たしか三十半ば、とすると吉ちゃんのインポになったんは、たしかにヒギンズのせいかも知れぬ、吉ちゃんが俺と同じような経験、占領時代にもってたら、いや持ってるはずや、東京と神戸大阪ちごうても、ギブミイチューインガムの記憶があれば、あまりにでかすぎる兵士の体格におびえた思い出があれば、そらたたんのも無理はない、どっかとすわったヒギンズの足の下で、いくら吉ちゃん無念無想になったかて、頭の中にジープが走り、カムカムエブリボディがよみがえり、連合艦隊も零戦《ゼロせん》もなくなったたよりなさ、焼跡の上にギラギラと灼《や》きつく炎天のむなしさ、いっぺんに昨日のことのように思い出して、それでインポになってしもたんや、それはヒギンズにわかるまい、日本人かて俺と同じ年頃やないと理解できへんやろ、アメリカ人と平気で話できる奴《やつ》、アメリカへ行って、まわり近所全部アメリカ人のとこでべつに気も狂わん奴、アメリカ人が視野の中に入っても身がまえんですむ奴、英語しゃべって恥かしない奴、アメリカ人けなす奴、賞《ほ》める奴、そんな奴に吉ちゃんの、いや俺の中のアメリカはわかるわけない。
俊夫もがっくり疲れて、「今日は家ですきやきパーティをやるそうだから」いうと、「私、ちょっと失礼して、大使館の友達と会って来ます」どうもありがと、皮肉にもきこえる言葉を業者にいい、二十年ぶりの日本とも思えぬなれた足取りでスタスタ歩き去る。一人家へもどれば、京子かんかんに怒っていて「失礼しちゃうわ、折角人が用意してるの知ってて、奥さん急に横浜の知ってる人のところで今日は泊るっていい出して」さぞかしアメリカ人は沢山食べるだろうと、大皿《おおざら》に盛り上げた松阪肉と豆腐こんにゃくねぎ卵、「とにかくいただきましょ、沢山食べてくれなきゃ、困っちゃうわ」いくらこっちが一生懸命やったげたって、まるで感じないみたい、観光バスに乗っても、私が一生懸命説明してるのに英語のガイドブックばかりみてるし、あの奥さんそれにけちよ、買物みてたって、安いものばっかりえらぶし、啓一に買ってくれる玩具《おもちゃ》だって、まるで夜店で売ってるみたいなものよ、そのくせ、うるさいことばかりいうの、母親の私をさしおいて啓一に怒ったりして、大体図々しいわよね、ふらっとやって来てさ、全部こっちにおんぶしちゃって、そりゃハワイではお世話になったし、その御礼の意味でお泊り下さいっていったんだけど、いったい何時《いつ》までいるつもりなのかしら、「ねえ、聞いてるの? 何時までいるつもりなのかしら、ヒギンズさん達《たち》」「さあ、ひょっとすると一月ぐらい居るかな」「冗談じゃないわよ、そうしたら、はっきりいうわ、出ていってくれって」京子ふんぜんとさけぶ。
ヒギンズはやがてかえるだろう、だがヒギンズはかえっても、アメリカ人は一生俺《おれ》の中に、どっかと居《い》坐《すわ》りつづけるにちがいない、そして俺の中の、俺のアメリカ人は折りにふれ、俺の鼻面《はなづら》ひきずりまわし、ギブミイチューインガム、キュウキュウと悲鳴あげさせる、これはこれ不治の病いのめりけんアレルギーやろ。「あなた、明日はどうするの、もうほっとけばいいのよ」それにはこたえず、ただ頭の中では、どうせ今度は趣きかえて芸者でも世話することになるのやろ、ジャパニーズゲイシャガールとポンビキよろしくふるまうにちがいないと考え、いくらいそがしく箸《はし》うごかしても、いっこう減らぬ松阪肉、もういい加減腹いっぱいやのに、胃袋へ押しこんで、あのアメリカひじきの如く、味も香りもあったものではなく、俊夫はやけくそで食べつづける。
焼土層
そのいかにも風化寸前といった態《てい》の、壁土は破れて細い竹の交錯むき出しとなり、硝子《ガラス》窓《まど》の一つ一つ、円弧に沿って花片《はなびら》の形の紙が列を作り、「徳井アパート」の看板がなければ、まさか人の住まうとは想像もできぬ建物を、善《よし》衛《え》はしばし立ちつくして眺《なが》め、眺めるうちなるほど注目することは、別れの挨拶《あいさつ》、儀式なのだとわかる。
そのつもりで眺めれば、なおのこと建物自体、白布におおわれた骨箱の印象で、もう二度とこの姿眼《め》にすることはあるまい、しっかと眼底に灼《や》きつけておかねばと焦《あせ》る気持が生れ、まず玄関は花《か》崗岩《こうがん》の粉吹きつけた二本の柱、左側の部屋はクリーニング屋の仕事場で、旧式のスチームアイロンあやつる白いYシャツの小男、そのいかにも糊《のり》きかせた心意気がかえって寒々しく、右は空室《あきしつ》。玄関のたたきにはサンダル子供の靴《くつ》砂あそびの道具さえ赤く錆《さ》びついて、おまけに犬だか赤ん坊だかの糞《くそ》、消火器の色のみ毒々しい。奥は日中というのに洞穴《ほらあな》の如《ごと》く、表からみてさだかではないが、廊下をはさみ左右それぞれに六畳の部屋三つ、突当りが炊事場、右に曲れば便所、左は二階への階段、その下に二畳半の部屋。あらためて外部に眼をうつすと、壁は灰色の木筋モルタル屋根《やね》 瓦《がわら》はグリーンで、二階の部屋の表にタオル一本風にはためき、張り出した手すりに植《うえ》木《き》鉢《ばち》三つ。
アパートは四《よ》つ辻《つじ》の角地にあって、他の三つの角はコンクリートの塀《へい》もいかめしい新築の文化住宅、海へのびる道の果てには石油コンビナートめいた造り酒屋の塔しらじらと輝き、六甲山側《ろっこうさんがわ》は省線の土手にさえぎられ、山腹にうすく紫のたなびくのは山火事か。
徳井アパートは、戦前、神戸市市営バス従業員の寮で、昭和二十年初夏の空襲まで、このつい眼と鼻に住んでいた善衛、たしかに見覚えがある。あたり一面焼野原となったはずで目ぼしい焼け残りといえば、小学校と公会堂くらいと感じたのは、錯覚だったのか、そしてこの、多分老い朽ちた末、民間に払い下げられ、ミもフタもなく徳井と町名そのまま冠《かぶ》せたアパートに、なぜ舎利万きぬが住みついたのか。
善衛は、かつての母、十二年間育ててくれた養母のきぬに月々一万円を送金し、六十九歳の身寄りなき老《ろう》婆《ば》であれば生活保護法の適用も当然で、あわせて二万数千円、なにも廃屋同然の徳井アパートの、しかも便所に向きあった階段の下で暮すことはない、四千円も出せば陽《ひ》の当る部屋に住めるのだ。送金は、善衛の勤め先き、芸能プロダクション経理課から神戸銀行六甲道《ろっこうみち》支店へ送り、受けとったしるしにきぬからは「毎月心にかけていただいてありがとうございます。たすかります、相変らずの品郵送いたしましたから御笑納下さい、くれぐれも御身大切に」と決まり文句の葉書がとどき、それより二日おくれて安物の味つけ海苔《のり》がくる、子供時分の善衛の好物で、だが家へ土産にするのも気が重く、事務所に来あわせた誰《だれ》かれに手渡すならわし。
「部長、電話です」昨日の午後、受話機をさし出され、芸能プロの作曲家担当マネージャーであれば日に二十や三十の電話がかかり、その一つかと気軽に返事すると、耳なれた業界の人種の声とことなり、いかにもおずおずためらった末「こつまきぬさん、知ってはりますでしょうか」こつまといわれて、かつての苗字《みょうじ》であったのに、善衛は一瞬、舎利万と結びつかず、というのもこの苗字で呼ばれたのは二十年も昔、きぬからの葉書を、裏をかえして常の如き文句のならぶのをみただけで、その他大勢のダイレクトメールと一緒に屑籠《くずかご》に捨て、字としてはあらためて読もうとしなかったからで、思わず「こつま?」ききかえすと「へえ、ちょっとむつかしい字イですねんけど、シャリマンと書きますねん」シャリマンといわれて、善衛はびくっとし、たしかに二十年前、舎利万を誰もこつまとはいわず、学校の教師までがこう呼び、そのつどなんでこんな名前なんやろうとうらめしく、当時生きていた祖母の説明では、江戸時代から福井に続く家柄《いえがら》で、代々「仏舎利万頭《ぶっしゃりまんじゅう》」なる菓子の製造元、御一新で苗字を許された際、因《ちな》んで舎利万としたのだそうな。
「ええ、知ってますけど」善衛はうろたえたのと、相手の口調につられて神《こう》戸《べ》訛《なま》りでこたえ、「ああ知ってはりますか、いや、他《ほか》に誰というて身寄りの方も心当りないし、あの水屋の紙の下から、おたくさんのお名前と所番地でてきたものですから、一〇四で調べてもらいましてん」ほっとしたように相手はなめらかにしゃべり出し、「で、あの、舎利万きぬさんがなにか」「へえ、お気の毒に今朝がた亡《な》くなりましてん。いえ、亡くなったんはゆんべのうちらしいて、先生いうてんのですけど、わかったんが今朝がたで」なんせどこへ連絡してよろしいのか見当つかんし、往生してまんねんけど、おたくさん誰ぞ親戚《しんせき》の方知ってはったら報《し》らせてあげてくれませんか、まあうちでお通夜《つや》くらいさせてもらいますけど。親切になおもいいつづけるのを善衛は上の空できき、ふと事務員のいぶかし気な視線感じると、「そらどうも申しわけありません、あらためてこちらから電話させていただきます。遠いところかけてもろて申しわけないですし」いや会社やからそれはかまいませんと先方のいうのを、とにかく番号教えてもらい、委細ききただすには事務所では具合わるいし、いや、なにより少々心鎮《しず》める時間が欲しかったのだ。
舎利万きぬのことは、善衛の心にすっかり整理できているはずだった、もとより高齢であれば万一のことも、いやその前に老いの一人暮しで病床にふせった時の処置、自分が責任もって出来るかぎりのことをするつもりで、しかしいざ実際に起ればわずらわしいにちがいなく、だからきぬからの葉書、決まり文句だけあるのをチラッとみてほっと安心し、なるたけ考えないようにしていたのだが、こう突然に死をつげられては、思いがけずに心乱れ、すぐ駈《か》けつけねばと決めたもののさてその住所がわからぬ。
昭和二十二年暮までは善衛と篠原《しのはら》南町の二階を間借りし、きぬ一人となってからは八幡神社の近くの下宿屋に移り、そこまでは場所もはっきり心得ていたのだが、以後、なまじきぬの住む場所知れば、あれこれとその暮しぶりを想像するだろうと、いくら考え心なやませたところで、どうにもならぬことと、居所心にとめぬようつとめ、葉書は捨ててしまったからめどがたたない。
「出張で、二、三日かえらない。関西へ行ってくる」とりあえず家へ電話をかけ、妻の玲《れい》子《こ》は不服そうなうけこたえながら「さあ、パパまたお出かけですって、お土産忘れないでねっておねがいしなさい」当年三つの俊《とし》衛《え》とかわり、「アノネアイスクリームトネ、ソレカラヒコーキ」くどくどとねだるのを、生返事で聞きながし、すぐ神戸へつないで先きほどの男呼び出し、「きぬさんは、どちらにお住いだったのでしょう」たずねると、「石屋川の停留所のそばで、徳井アパートいうてもろたらわかりますわ」「亡くなったといいますと、もう長く患《わずら》っていらしたのですか」「いや、家の者の話ではそういうこともなかったようなねえ、えらい急なことで」では只《ただ》一人病床に苦しんだわけではない、善衛はふと救われたように思い、今夜そちらへうかがう旨《むね》をつげて、そのまま新幹線に乗り、作曲家へ仮り払いの形で十万円を用意したものの、果してこれで足りるかどうか。
二十年前、同じ東海道をきぬと二人、おそろしく混み合って十四時間余り立ちづめのまま善衛は上京し、それは生家へもどるためであった。糠《ぬか》をまるめてふかしたのを弁当とし、車中、きぬにもたれかかって居眠りする大男を肘《ひじ》でついて、逆に頭をこづかれ、鈍行だから長い停車の間に飲む駅の水がなによりのたより、それすら女のきぬには、びっしりすし詰めの車内からまぎれ出ることは無理で、スフのタオルに水をひたし口に含む。「あちらの家へ行ったら、そこの子オになって、いいつけきかなあきませんよ」お父さんは血がつながってるけど、お母さんは継母《ままはは》やし、兄弟もいてはる、みんなにかわいがってもらわんといかんよ、神戸駅を出る時から、いや、とても舎利万家にいてはきぬも善衛もとも倒れ、なんせ終戦直後の世の中に財産もなく母とほうり出され、善衛は十二歳、きぬは空襲の際、両手に火傷《やけど》していて水仕事もままならず、善衛を生家にひきとってもらう、せめて人並みの勉強だけでもできるようにときぬの方から頼みこみ、生家は中野で果物屋の店を張り、金、食料にも困っていなかったからとんとん拍子にまとまって、それからは同じ言葉を朝に夕に、善衛へ吹きこみ、それはまた十二年間手塩にかけた子供手ばなす、わが未練を断つためでもあったろう。
東京へ着いた時はすでに暮れていて、地理不案内のまま、出迎えているはずの実父と逢《あ》えず、たずねたずねて中野の家へ十二時近くに着き、玄関開けると、きぬにくらべて親娘《おやこ》ほどにも若い女が、「あらあらいらっしゃい、さあ疲れたでしょ、心配してたのよ」出迎えて、それがあたらしい母であった。
やがて父ももどり、兄弟に引きあわされ、空襲以後、罹《り》災者《さいしゃ》特配でしか口にしなかった米の飯出されて、むさぼり食いながら善衛は、ことごとに遠慮し、なによりこの二年間の苦労身にしみついたのか、団欒《だんらん》の中にあってなんともみすぼらしいきぬを、半ばくやしく、そしてまた恥かしくながめ、すでに他人をみる眼であった。
「当分お別れなんだから、お母さんといっしょにお休みなさい」床の間に鯉《こい》の滝登りの軸のかかった客間に寝かされ、善衛は、はらんばいのままそれをみて、「うまいこと描《か》きよるもんやなあ」つぶやくと、きぬは、あしたから、あちらをお母さんと呼びなさい、かわいがってもらうんですよ」善衛の洋服をたたみながらいい、「ここのお家《うち》では、あんたが勉強したい気持さえあれば、どんな上の学校にも入れてもらえるのやから」その方がお母さんかてうれしい、ぶつぶつ呟《つぶや》くのをききつつ善衛はたわいもなく寝入り、なによりも久しぶりの満腹感がうれしくて、果してこの家になじめるのか、あたらしい母とうまくいくかどうか、まるで念頭にない。
三日後、きぬは不自由な手に林《りん》檎《ご》の籠《かご》と鮭《さけ》をぶるさげ、善衛は東京駅まで送りにいったが、来る時と同じように混む車内にきぬを押しこめ、手をふるも涙ながすもあったものではなく、汽車の動くと同時に、体を押しつけられて起る悲鳴が別れの合図、あっけらかんとテールランプをながめて、すぐに心は焼け落ちた駅ごしにながめられる丸ビル、国鉄ビル、中央郵便局のたたずまいに惹《ひ》かれ、悲しいでも名残りおしいでもなく、あたらしい母には、もうこだわりなくお母さんと呼ぶことができた。
新大阪駅から地下鉄阪神と乗りついで、石屋川に着いたのが午後九時で、勝手知ったつもりではあったが、空襲直後にこのあたりうろついただけ、二十二年経《た》っても人家はまばらで少々たじろいだが、ともあれ川をさかのぼれば阪神国道に出るはず、歩くうち右手に覚えのある天神様、その境内に立木一本もなく、神社だけごく最近に新築されたらしい、さらに進むと公会堂が夜眼に浮かんでみえ、その地下食堂、焼けぬ前に雑炊求めて幾度かならんだ入口を入ると、客の姿はなく、年老いたボーイがいる。ビールを頼み、もしやと電話帳で徳井アパートを探したがなくて、とにかくお通夜ならば寿司《すし》くらいとどけずばなるまい、国道を見渡してそれらしき灯《あかり》もみえなかったからボーイにたずねると、「もうここらはやってませんでしょ」酒屋も暮れると同時に店じまいという。
東京の生家にもどり、高校へ入学した年に善衛は神戸のきぬをたずねた。三年目の逢《お》う瀬《せ》で、昭和二十五年当時の学生としては、ごく贅沢《ぜいたく》な学生服に身を固め、どういう話し合いか、もどって半年は舎利万の姓を名乗っていたのが、生家の苗字にかわり、すっかりその水に馴染《なじ》んで、兄弟よりもさらに屈託のない毎日、「きぬさんの方には、お父さんがきちんと困らないように心がけてるんですから、心配しなくてもいいのよ」母が折にふれていい、善衛はまたそういう母に、なお自分が心やさしい子供であることをみせたくて、甘える気持から、きぬの生活を案じてみせもしたのだが、とり立てて気にもかからず、だから、むしろ三年前の身すぼらしい自分とはうってかわった晴姿をほこりたく、服を新しくねだってきぬをたずねた。
麻雀屋《マージャンや》の二階、四畳半に下宿するきぬを、ようやく探し当てたが留守、女主人の話では保険の外交をやっているとかで、それまでまさか働いているとは毛頭考えなかったのだが、女一人で暮らすとなれば、これも当然と納得いき、しばらくは焼け残った六甲駅前、空襲前になじんだままの家並みをほっつき歩き、麻雀屋へもどると、えらい勢いで二階からの階段かけ降りたきぬと不意に顔をあわせ、それまでああもいおうこう挨拶しようと用意していた言葉宙にとんで、「まあまあ、善衛ちゃんやないの、えらいまあ大きいなって」頭から子供扱いされて、不満感じつつさすがになつかしくて、部屋へ通るとなに一つ道具のない殺風景なたたずまいで、いや、よくみれば、たった三年の間にきぬはなおさら老《ふ》けこみ、やたらと長く、脛《すね》の半ばまでおおうスカートも、男のような上衣《うわぎ》も野暮ったく、東京の母にくらべると雲泥《うんでい》の差で、おぞましい気持が起り、「お腹《なか》減ったでしょ、お寿司でもたのんでこよか」押入れの米袋から米一合分はかって紙袋に入れ、「東京でおいしいお寿司食べてるのやろけど」あたふたと表へ出て、残された善衛、こっそり押入れをあけると薄い布《ふ》団《とん》が二枚、下段に猫《ねこ》の食器ほどに粗末な茶碗《ちゃわん》と小《こ》皿《ざら》があるだけ、二人で篠原に暮していた時の行《こう》李《り》、洋服箱の姿もない、まさか着替えの服を持たぬはずはないのだが、見当らず、かわりあって粗末な仏壇が棚《たな》の上に置かれていた。
「お茶入れるから待っててな」注文した寿司を自分で運び、すぐまた姿を消して、どうやら麻雀屋の女主人に急須《きゅうす》をかりる様子、うすぐらい室内で、色のわるい寿司をながめながら善衛は、暗澹《あんたん》とした気持で、その後もお手ふきの、醤油《しょうゆ》の、とあたふたと腰おちつかぬをながめ、「あの」お母さんと口に出しかけて素直に出ず「食べませんか」ことさら東京弁めかしていったが、「いらんいらん、善衛ちゃん遠慮せんとたべなさい、いうてもここらへんの口にあわんかもしれんけど」また同じことを卑屈にいい、「あちらのお宅はみなお元気で?」「ええ」「そらよろしいな、お母ちゃんもおかげと体だけは丈夫やわ」こだわりなく自分をお母ちゃんといい、だがその皮膚の色、年のせいかもしれぬが濁っていた。顔あわせればおのずと口はほぐれると考えていたのに、まるっきりちぐはぐで、そのうちふと、きぬが泊っていけといい出さないか心配になり、「ちょっとぼく、親《おや》父《じ》にたのまれた用あるもんですから、また来ますわ」とってつけたような口をきき、きぬはむしろそれを待っていたように、「そうか、そらちゃんと先にすまさなあかんよ、お母ちゃん、昼間は外へ出てるけど、善衛ちゃん来る時わかってたら家におるけど」「ほな、明日の夕方来ますわ」いくらなんでもそれっきりというわけにもいかず、出まかせいってそこをとび出し、焼跡の近くへ行けば、小学校の時の友達にあえるかも知れんと、ええ服着とるとこみせたりたい気持がうごいたが、焼跡はほとんど焼けたまま、ただ雨に流された土をかぶり草が生えただけ、見渡すかぎり壕舎《ごうしゃ》の残骸《ざんがい》の他、人の住む気配はなかった。
ビール一本飲んで地下の食堂を出ると、同じような暗闇《くらやみ》がつづき、右手の赤帽喫茶店は、これは戦前からのもの、後の家並みに見覚えなく、煙草《たばこ》屋《や》で徳井アパートたずねれば、国道から山側に入ってすぐ、てっきり文化アパート、今風の建物とふんで二度三度その前を素通りしたあげく、ようやく探しあて、開けっぱなしの玄関のぞきこんでみても、まるで人の気配はない。
「ごめん下さい」怒鳴るようにいうと右手の部屋の戸がガタピシと鳴って、十歳くらいの子供があらわれ、善《よし》衛《え》の顔みると、右手を頭のところまであげ、にぎった指を上にむけてひらいて「パッ」というなりひっこみ、「誰が来はってん」男の太い声が、子供にたずねる。「ごめん下さい」もう一度さけぶと、今度は左の部屋から斜視の、小人に近い体つきの女が姿をみせ、寝巻きかきあわせつつ「どなたさん?」「実は、舎利万きぬさんの身寄りの者ですが」「やあ、来はった」女は頓狂《とんきょう》にさけんで、「シャリマンのお婆《ばあ》ちゃん知ってる人きはったよ」その声につれて、両側五つの部屋から人があらわれ、善衛はたじたじとなって、「どうもおそくなりまして」誰にともなく一礼し、昼間の電話の男をたずねるが、見当つかぬ。
「さっきまでおもりしてましてんけど、もうおそいよってな」さあどうぞと案内され、廊下に踏みこむなり便所の臭気が鼻をさし、足もとは根太《ねだ》が抜けたか上下にゆれ、「頭気イつけなっしゃ」いわれるまでもなく、体を思いきりかがめねば入れぬ階段の下、もともと昏《くら》い電球一つ階段の登り口にあるだけで、身をかがめたままうごきとれず、ひょいと灯がつくと、善衛のすぐ足下に、白い布をかぶせられたきぬがいた。
なんせ狭いからどうもこうもならん、二畳半の部屋の中空を階段が斜めにさえぎって、窓すらもなく、「先生の話やと、老衰いうことですわ、いちばん極楽往生なんやそうですなあ」肥《ふと》った男が背後でいう。気がつくと、まわりの男女は、いずれも綿のはみ出た半纏《はんてん》やら、粗末なジャンパーで、善衛の商売柄派手な背広は勝手ちがいというより、死者を冒《ぼう》涜《とく》しているような感じさえして、「どないします、葬式の方は。あんたさん、シャリマンさんの親戚の方ですか」またシャリマンといわれて、胸つかれたように思い、「親戚というわけでもないんですけど、後のことは私やらせていただきます、いろいろ御世話になりました」
せめてビールでも持参していれば心強いのに、あまりのきぬのあわれな死にざまに、老衰死なら苦しみはなかったろうけど、何気ない隣人の言葉が、いちいち身を責めたてている如《ごと》くきこえ、中に入っていた一人と入れちがいに、北枕《きたまくら》にすると、これ以外安置しようがないらしく、仏の頭またいで体を奥に入れ、さて通夜といっても香炉も線香もなく、欠けた小《こ》皿《ざら》にろうの固まっているのは、つまり先刻のおもりの名残りか。
さすがに善衛、深刻な顔つきとなっていたか、「さあ、子供はひっこんで、見世物ちゃうで」一人の言葉を合図に一同が去り、思い切って白布をめくると、ねずみというより黒に近い、きぬの死顔があらわれ、ふっと異臭が立ちのぼり、眼《め》は閉じられていたが、唇《くちびる》は半ばあき、歯ぐきに残る五本の歯のみ白く光る。さらに薄い布団はげば、きっちりと胸に両《りょう》掌《て》をくみ、その甲に黄色い筋が走るのをたしかめると、空襲の際の火傷のケロイドで、生前は血の色そのままに赤かったのが、今はどすぐろい皮膚の上で、別の生物のようにぬめぬめと光っている。合わせた指は、合掌というよりも、死して尚《なお》、ケロイドの痛みをかばっているようにみえた。
昭和二十年六月五日の空襲を、善衛は北《きた》河《かわ》内《ち》の疎《そ》開先《かいさき》叔父の家で知り、その五日前のすさまじい大阪の噴煙からみれば、はなれているから当然ながら、神戸のそれは雲をかすかに染めた程度で、大阪の時も安《あん》否《ぴ》を気づこうてすぐに来てくれた、そやからきっとお母ちゃんかお父ちゃん、リュックしょって来てくれると心待ちにしたのにいっこうあらわれず、叔父が空襲三日目、様子を見にいって夜おそく帰宅し、善衛は寝入ったものと思って、あけすけにしゃべり「健三の奴《やつ》、やられたらしいわ」「やられたて、そんなにひどいの」「そらもう滅《め》茶《ちゃ》苦《く》茶《ちゃ》や、おきぬさん、火傷して病院入ってるしな、全滅も同じやで、舎利万の家は」
養父の健三は貿易会社の課長で、油に関係があるとしか、善衛は知らぬ、なんせ配給になっても食用油だけはようけあって、小学校の先生にも分け、ひいきやとそしられたことがあったし、この叔父の家にも善衛預り料とし一《いっ》斗《と》缶《かん》が二つ運ばれていた。やられたという言葉が死んだとは結びつかず、なにか角力《すもう》で投げとばされたような印象で、それよりお母ちゃんの火傷が悲しく、しかし、今起きてることを覚《さと》られたら、はっきりやられた人も火傷も現実のものとなってしまう、寝てよ、寝て覚めたらお父ちゃんもお母ちゃんもきっと迎えに来てくれてる、ひそかに鼻水すすり上げ、そのまま寝入ったのだが、夢どころではなく、父は死体さえ見つからず、母も上半身に火傷を負って、渡辺病院に入院。
「あんたももう五年生やろ、お母ちゃんのそばについて世話したり、看護婦さんおらへんし、かわいそうやで」叔母の言葉に嘘《うそ》はなかったが、それよりも保護者のいなくなった子供を、うっかり手もとにおけば先ゆきどうなるか気がかりだったのだろう。
渡辺病院は芦《あし》屋《や》の浜に面していて、叔母に連れられて阪神電鉄芦屋川から川沿いに歩くと、そのあたりはまったく空襲のかけらもみえず、ただ疎開の大八車がしきりに行きかう、「びっくりしたらあかんよ、ぐるぐる繃帯《ほうたい》で巻かれてるけど、じきに直るねんからね」叔母は土手の家庭菜園の、小指ほどの胡瓜《きゅうり》もいでは口に入れつついい、さて病院につくとすでに空襲後一週間たっているのに火事場さわぎで、頭腕脚思い思いに繃帯をし、そのいずれにも血がにじんでいて、腕にしきりに顔押しつけているのは、その繃帯からわき出た蛆《うじ》を、口で吹きおとしているのだし、手さぐりでおぼつかないのは煙にやられた俄《にわ》か盲《めくら》。建物は鉄筋でたのもしく二階へ上ると、廊下いっぱいに七輪やら炭がならべられ、病室のドアは暑いせいかいずれも開けっぱなしで、その十一号室にきぬがいた。きぬの姿にくらべれば待合室のおぞましい姿はまだ序の口、きぬは上半身のすべて繃帯にまかれ、わずかに鼻と口、眼だけ黒い穴があき、そのガーゼのほつれのかすかにゆれうごくのをみれば、ようやく息があるとわかる。「防空壕から出た時に、家がくずれてきたんやて」防空壕は庭に面した六畳の地下にあり、そのひんやりした空気を善衛は思い出したが、とたんに家が焼けてなくなったという実感が生れ、眼前の繃帯のお化けがお母ちゃんとは信じられず、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいると、きぬは宙に支えた腕を左右にふり、なにやらつぶやく。「なんやおしっこしたいんか」叔母はベッドの下の便器をとり出し無造作に、母の体をおおう白い衣をまくると、シーツが真紅にいろどられていて、あ、いよいよお母ちゃん死んでまう、前に同じ組の子供の母親が血イ吐いてそのまま死にはったときいたけど、それと同じや、後じさりするのを、叔母は真面目《まじめ》な顔で、「心配せんでもええ、月経やわ、よりによってこんな時にならんでも」手近のボロっきれで血を吸いとり、善衛は上半身とは別物のような母の下半身、いささかの傷もみえぬのを不思議な感じでながめ、その間、母はなお繃帯の手をいやいやするように左右にゆりうごかしていた。
喉《のど》がかわいて、水をのもうにも茶碗のありかわからず、三尺の押し入れあけるには、きぬの遺体うごかさねばならぬ、なにかあるだろうと炊事場に出ると、斜視のちいさな女が、ガス焜《こん》炉《ろ》に釜《かま》をかけていて、噴きこぼれるたびそのふたをとり「うどん煮てますねん、後で御馳《ごち》走《そう》しますわ」唄《うた》うようにいい、みるとこの共用の台所には、冷蔵庫はもちろん電気釜もトースターもない、時代のついた鍋釜《なべかま》まないたが乱雑に積まれているだけで、いやどうも静かだと思ったら、TVもないのではないか、ベニヤの戸一枚で仕切られているだけ、TVを観《み》ていれば当然その音がひびくはず、無気味になってきぬのそばへもどる。
「葡萄状球菌《ぶどうじょうきゅうきん》に効く薬、買《こ》うてきてくれへん」芦屋の病院ではじめてお母ちゃんのいうたのはこの言葉で、叔母はそれでも同じ入院患者の家族の、もてあまされ気味の老《ろう》婆《ば》を付添人に世話してくれ、廊下での煮炊《にた》き洗濯《せんたく》はまかせられたが、下《しも》の世話だけはいやがり、善衛の役目で、母のその間老婆は部屋を出る、部屋に立ちこめる異臭から顔をそむけて、庭のごみ焼き場をながめていると、思いがけずしっかりした声で、ついで「すまんな、すんません」と泣くようにいった。ブドージョーキューキンと紙に書き、母がかかえて出た銀行預金通帳の間の十円札一枚抜き出し、ようやく復旧した阪神電車に乗ってはじめて焼跡をながめ、残った八幡筋の薬局で買い求めたのだが、とてもわが家の跡を調べる勇気はなく、ただ小学校と公会堂の場所から判断して、あのあたりと見当つけるだけ。半月すると、ものものしい繃帯のわりに治りは早く、まず顔があらわれ、額と鼻と頬《ほお》の一部赤むけてだんだらになっていたが、つづいて肩の繃帯がとれ、両手は、それでおおいかぶさる火のかたまりかきわけただけに痛みが残って、蛆もいつまでもしがみつき、この間にも爆弾やら機銃掃射で怪我《けが》人《にん》がふえるばかり、峠を越せば病院でもいい顔せず、「あとは油を塗って気長に治療するんやな」追い出しにかかって、七月二日、両手の指先だけうごかせるようになったところで退院。舎利万家の本家は福井にあったが、きぬとうまがあわず、だが他にたよる先きもないまま、きぬと同い年の女のいる分家をたよって、春《はる》江《え》へおちのび、女とはそれまで文通かわしていたのだが、子供連れでしかも体の自由きかぬきぬをむかえて、露骨にいやがり、機《はた》おりの工場の一隅《ひとすみ》を世話しただけで、しかし着いた夜くらい、夕食の用意してくれるかと思えば、子供が弁当箱を持参し、やれうれしやとふたとれば、中に塩づけの胡瓜が丸のままごろんとあり、飲まず喰《く》わずの道中で、しかも炊くべく米もなく、水を飲みつつ、やたら塩辛い胡瓜を親子半分ずつかじって泣寝入り。
もっとも春江は田舎だから、登録さえすませれば小刻みながら米にありつけ、その最初の配給を善衛は、川っぷちの米屋へとりに行き、袋にどっしり重味のかかったのをやれうれしやとかついだとたん、袋の尻《しり》がほつれて、さらさらの米は澄んだ川の水におち入り、その川《かわ》藻《も》にまぎれて沈んで行く白い米のむれに、穴を押えるより先に仰天して、ぼんやりしばし眺《なが》めていた。七月いっぱいはまず平穏で、きぬの指も少しはうごくようになり、八月へ入るとすでに空は秋の色を帯び、「去年から今年にかけて、三米《メートル》も雪つもったんですわ、あの硝子《ガラス》破《わ》れてるのも、雪の重味のためや」土地の人が指さす窓は、はるか高みにあって、特配の毛布だけではどうしのぐすべもなく、寒さにそなえ近くの川へ流木拾いにいくといっても、ほんの小枝をかき集めるだけ。きぬは足もとみすかす近隣から、高い布団を求め、この時は預金がまだ三万円近くあったから、どうにか二、三年は食いつなぐつもりが、敗戦となり、神戸へかえれる、別にあてはないが雪国よりは住みなれた街がなにより恋しく、となると布団は邪魔となったが、曲らぬ指に血をにじませつつ、制限三十キロのチッキにまとめ、六甲山の麓《ふもと》、篠原《しのはら》南町に部屋を借りたのが、八月三十一日。北河内の叔父をたずねると、福井へおちのびる前、たよったのだが、近くに高射砲陣地があるからもっと安全なところがええと断りの口実が本当となって、一家爆死。その帰途、はじめて善衛ときぬは、わが家の焼跡をながめた。すっかり鼻になじんだ焼跡の臭《にお》いはいまだうすれず、夏草たくましくおいしげって、雨水が気ままに流れ、道をふかくえぐり、どこがそれやらしばらくは見当もつかなかったが、やっと見覚えのある塀《へい》を探し出し、「ここがお家《うち》やわ」きぬはまるで、焼けずに残っていたかのようにはしゃいでいい、二本突っ立った石の門柱の間に、鉄の太い筒がころがっていて、「お父ちゃん、きっとこの辺りにいてはるねんわ、お母ちゃん逃げるちょっと前に、大丈夫かあいうてさけびはったもん」それまで善衛は来る日迎える日ただ目まぐるしいだけで、きぬにぴったり寄りそっているのが精いっぱい、不思議に父親のことは頭にのぼらず、このあたりにいてはるときいてむしろ無気味な気持さえした。
「舎利万きぬさんは、御《ご》亭主《ていしゅ》のそばで死にたかったんやろか」徳井アパートと、舎利万の焼跡は距離にして二百米もはなれていない。「うどん、おひとつどうです」斜視の女が、死体ごしに丼《どんぶり》をさし出し、断りもならず受けとって、畳におき、みると狐《きつね》うどんで、枕団《まくらだん》子《ご》がわりきぬの頭もとへ置く。うどんにも恨みがあった。健三の勤めていた会社の社長が京都にいて、きぬと善衛連れ立ってたずね、退職金を願い出たら、すでに行方不明半年に近く、今更生きているわけないのに、社長は「健三さんが死んだとは考えられんなあ、どっかにおられる気イしますわ」とくりかえし、とどのつまり二十年近く勤めて三千円、この時米の値段は一升百二十円で一俵分にも足りぬ。いかにも供待ちといった粗末な部屋で、素うどんをふるまわれ、食べはじめると気まぐれな空から雨降りかかり、きぬは「たとえうごけんでもええ、お父ちゃんおってくれたら、こんな目エあわんでもええのに」寒さにむかってたちまちひび割れた手の甲を眼にあてた。
二十一年三学期から六甲小学校五年に編入し、善衛の生活は旧に復したが、きぬはまずミシン買い入れて更生服の仕立てひきうけ、これは指が自由にならぬからはかがいかず、続いて六甲道駅前に、乾物の露店を出し、きれいさっぱり焼けてかつての隣組はみな四散したから気が楽、だが雨にあててくさらせ、満員電車にのりこみ加古《かこ》川《がわ》、河内への買い出しから闇米の運び屋、常に手の甲かばって胸の前にあて、そのすさまじい姿を友達の手前恥かしがるより善衛、気《き》魄《はく》にうたれて焼ける前より勉強したから、六年の一学期三学期と級長をつづけ、この成績なら一流中学へ入れると太鼓判押された時、きぬの気力がつきた。というよりかつぎ屋の仲間の一人に、受験の塾《じゅく》をやれば安定した収入を得られる、封鎖された預金を八がけで現金にかえ、共同経営ということにしないかともちかけられ、これがインチキでまんまとだましとられ、いくら封鎖でも月五百円は引き出せたのがフイとなり、善衛の生家にたよる気持となった。
中学入学準備に追われる二十二年の二月、きぬは「善衛ちゃん、勉強好きか」あらたまってたずね、なにを今更という気で「うん」とこたえたのだが、その少し後から軍隊の更《こう》生靴《せいぐつ》やら、軍の払い下げのシャツが小包となってとどきはじめ、頼るにも頼られるにも知己一人なく、手紙もとどかなかったのに何事と善衛は不審に思ったが、きぬは「しっかり勉強しなさいよ、勉強して学校へ入ったら、なんとでもお金出してくれる人はいてはるのやからね」まさか生家で、中学に入ることができたらと条件出したわけではなく、せめてきぬは、養子の善衛をその年なりの一人前に仕上げてから、もどしたかったのだろう。
気がつくと明けていて、善衛は枕もとにおかれた死亡診断書を胸に入れ、表には出勤の人がみえるのに誰《だれ》も起き出さぬアパートを出ると、区役所に死亡届を出し、火葬許可証うけとり、道すがらみておいた葬儀屋に棺と自動車を頼んで、一時間後というからかつての焼跡をながめ歩くと、さすがに家は立ち並んでいるが、そのままの空《あき》地《ち》も目立ち、さて舎利万家のあったあたりとなると、道がかわっていておおよその見当しかつかず、そのあたりには社宅らしい鉄筋アパートが三《み》棟《むね》ならんでいる、あの建物ならば、基礎工事で地下深く掘ったろうけど、健三の骨は出なかったのか、あの太い鉄筒の爆薬で五体四散してしまったのか、とりとめなく考え、徳井アパートへ入ると、子供が廊下をかけまわり、どうやらきぬの死体をながめては、キャッといって駈《か》け出しているらしい、叱《しか》りもならず手で制止して、玄関にたたずみ、葬儀屋は来たが、せまい入口から棺が入りにくく、廊下においてきぬの体を、善衛、脚の方かかえて運び入れ、すでに硬直はとけていて、皮膚は一層くろずんでみえる。
「すぐ火葬場へいきまんのんか」いくら密葬にしても乞《こ》食坊《じきぼう》主《ず》の読経《どきょう》くらいあるのがふつうで、けげんな表情の葬儀屋に、「葬式は後でちゃんとするさかい、ええねん」運び出した後で押入れをあけると、ちいさい茶箪《ちゃだん》笥《す》が一つ、衣裳箱《いしょうばこ》の片方だけに風呂《ふろ》敷《しき》包み。
生家の父は、善衛を引きとった後、きぬと文通かわしていたようで、善衛を養子にやったのは実母が産後の肥立ちわるくすぐなくなったため、「きぬさんも苦労してるようだな、女一人じゃ大変だろう」なに気なく洩《も》らす言葉に、身を刺される思いだったが、「君は気にすることはない、ぼくがきちんと面倒みるから」といい、かえってすぐは、夜中にケロイドのひびにうめき上げているかも知れぬきぬを想《おも》い、涙ながしたりしたが、それとて後はかえって気が楽になり、平均以上にぜい沢な学生生活送って、芸能プロへ就職、はじめてもらった月給を父にわたして、「これ、舎利万さんにあげて下さい」殊勝なふるまいは、あまり自分一人恵まれすぎている後めたさであった。「預かっておこう、そういうことはないだろうけど、もし君をあてにするようなことになるといけないから」父は思慮深げにいい、一年はそのまま渡さず、就職三年目になるとマネージャーの才能認められ、固定給の他《ほか》に歩合がつき、独り身にはあり余る月給で、「舎利万さんは、保険をやめて、飲み屋のつけの取り立てをやってるそうだ、結構いい金になるらしい」父の言葉に善《よし》衛《え》はがく然とした。商売柄《しょうばいがら》、プロダクションに月末さまざまなとり立てがやって来て、酒場などではわざと身体不自由な老人をよこす、相手が体面上、いくらかでも払わざるを得ないよう考えた手で、あの舎利万きぬが、ケロイドの手と、今でも寒くなれば顔の色がだんだらとなる体で、飲み屋のつけを回収している、プロダクションにあらわれる手合いをみるたびにその姿が頭に浮かび、「ぼくも一人前になったし、なんといっても十二年間育ててもらった恩は忘れられません。ぼくの月給から送金して、あまりひどい仕事しなくてもすむように」頼みこむようにして、金を送り、そのむね父は書き送ったらしく、第一回目のきぬの手紙は、一人前になってくれてうれしいと簡単にあり、以後はきまり文句。生家へもどってからも一切手紙よこさず、継母《ままはは》は気にして善衛にたより出すようすすめ、その返事もこなくて、「よほど強い人なんだな、いったんかえしたからは、君がくじけないようにと我慢してるんだ、君も頑《がん》張《ば》らなきゃいけないよ」父がいい、頑張るにもなにも、一年近く飢餓状態にあったのが、いっぺんに満たされて、何一つ不足はないのだが、いわれてみれば、石女《うまずめ》のせいか、たしかに気が強いところもあった。舎利万本家と喧《けん》嘩《か》したのもそうだし、隣組でも何かことあれば一歩もひかず、相手をあやまらせたりして、神戸へもどってからの阿《あ》修《しゅ》羅《ら》の働きぶりもそのあらわれであろう、しかし、その気強さはどうしたのか、二十五年、下宿屋へ善衛がおとずれた時の、荒涼たる部屋のさま、焼けぬ前は、障子の桟猫板《さんねこいた》見事に磨《みが》き上げて、芝居の舞台のようだといわれたものだのに。
午前中だから順を待たずにすぐ骨があがって、素焼の壺《つぼ》に拾い集め、そのいずれも細かく砕けていて、いかにも老衰をあらわしていたが、この骨どこへ納めればいいのか、妻には婚約時代、説明するのが面倒で死んだことにしてあり、生家の墓は青山にあるがそこへ入れることも不都合で、健三さえも骨があれば福井の墓に入るのだろうけど、骨も写真も残らず、いまだ宙に浮いたままの有様。
壺をかかえて徳井アパートへかえると、またぞろぞろと一同老若男女《ろうにゃくなんにょ》あらわれて、いったいどうやって喰《く》ってるのだろうと不審に思いつつ、うやうやしく二畳半の一隅に安置し、のぞきこむのを無視して、押入れの中を調べると、茶箪笥の中に敷いた紙の下から、神戸銀行通帳と、善衛の名前会社名をしるした紙、通帳の帳尻《ちょうじり》は千円で、毎月決まった日に一万円すべてをおろしている。洋服函《ようふくばこ》の片方には雑巾《ぞうきん》の役にも立たぬボロ、風呂敷の中から数《じゅ》珠経文《ずきょうもん》と舎利万健三と俗名を書いた粗末な位《い》牌《はい》、米の袋、それだけで、いかになんでも月々二万数千円はあったはずの生活費にしては貧しすぎる、このアパートの得体知れぬ連中がくいものにしたのではないか、疑念がわいたが、今更何の役にも立たず、位牌だけはうっちゃりもならず壺と共に包んで、後は適当に処分してくれるだろう、にしても一応の挨《あい》拶《さつ》はと一万円札を紙に包み、クリーニング屋に渡して、「これで忌払いして下さい」いいおき、あらためてながめる徳井アパート、ここできぬは何を考え、生きていたのだろう、考えにふけっていると、「あの」と善衛の姓を呼びかけられ、自転車に乗った男、「私、昨日お電話した者ですが」人なつっこそうにいい、「みなもうすまされたそうで、なにかお手伝いしようと思うとって、ちょっと手エはなれんかったもんで」「いや、どうもいろいろありがとうございました」一礼すると、「シャリマンのお婆《ばあ》さん死にはったいうて、このアパートの者さわいでますので、さし出がましいおもたけど」「じゃ、ここの方ではいらっしゃらない?」男は大仰に手をふり、「ちゃいますがな、ここはもともと戦災の人に貸してたんやけど、その後いろんな連中が入りこんで、なんせこのありさまでしょ、もうすぐこわすからいうんで、立《たち》退《の》き料《りょう》せしめる魂胆なんですわ」うんざりしたようにいい、あわてて「いや、シャリマンのお婆さんはちがいますよ、あの方は、いうてはなんですけど、生活に困っておいでやったのに、立派でしたわ」立派といわれても、あの見る影もない姿、見当つかずにいると、「なんせ、私ら、しつこいくらいに生活保護すすめたんですけどな、うちはちゃんと自分の食い扶持《ぶち》くらいもろてますいいはって」
生活保護もろてない、父はたしかに自分で働かなければもらえるし、それに善衛の送り分で十分といっていたはずで、「ひょいとしたら小金もってはって、もし死んだというのでアパートの連中に横取りされたらあかんおもてね、医者と家探しして、おたくさんの電話わかったいうわけですねん」いつしか二人山へ向けて歩き出し、だが善衛はまるで男の言葉耳に入らず、「もらってなければ、月に自分のおくった一万円だけ、一万円だけではいかに老婆の一人暮しでも無理」しかしなぜ断わったのか、「ここらへんは、ずっと地主が値上り待って売らんから、いつまでたっても焼けたなりでしてんけど、ぼつぼつ建ちかけてきましたわ」彼方《かなた》に轟々《ごうごう》と巨大なショベルが土をかえしていて、「あの、シャリマンさんは、元気な時はどないしてはったんですか」善衛の問いに、「そうですな、丁度ここらへん、杖《つえ》ついてよう歩いてはった、気品のあるお婆さんでしたなあ」
きぬは、巡礼のようにかつての焼跡をあかずめぐり歩いたにちがいない、健三のあるいは粉とくだけたあたりをながめては、在りし日をしのんだのだろう、「あの失礼ですけどおたくさん、シャリマンさんにお金送ってはった方とちがうんですか」男は、無邪気にたずね、思わず善衛首をふると、「そうですか、ほな、どうも失礼しました」そのまま自転車押して横へまがり、善衛はいつしかショベルの掘った深さ二米ほどの穴のそばに来て、「お母ちゃん、やっぱりぼくを息子やと思うてたんや、息子に送金してもらう楽しみだけを生《いき》甲斐《がい》にしてはったんや、生活保護もろたら暮しは楽なるけど、息子からもらうよろこびはうすまってしまう。
お母ちゃんは、あの二畳半のせまいとこで、ぼくの金、息子の金だけをたよりに、いや、それとお父ちゃんの死場所の近くにおることをたよりに生きてはったんや」そやのになんや、おれは一万円しか送らんと、そのつもりになったら二万でも三万でもおくれたのに、生活保護かなんかたよってから、お母ちゃんはついに焼け出された時のままで死んでしもたやないか、今頃《いまごろ》気イついてもおそいわい、みるみる涙あふれ、その場にしゃがみこみ、そしてふと顔をあげると、掘られた穴の表面から六十糎《センチ》ほど下に、赤茶けた瓦《が》礫《れき》焼土の層が凸凹《でこぼこ》ながら続いているのに気づき、なにやら覚えのある臭いまでして、そや、土に砂かぶってかくされとったあれは、焼跡や、ふらふらっと穴におりると、丁度、眼《め》の前に瓦煉《かわられん》瓦《が》くされトタン板腐った板きれ針金折り重なっていて、善衛はしばらく顔を押し当てていたが、やがて風呂敷包みをひらき、瓦と瓦の間、指で掘りかえし健三の粗末な位牌と壺の中からきぬの骨片とり出して、丁寧に押しこめ、「お父ちゃんとお母ちゃんの、ここが墓場や、ようやっと一緒になれたやんか」土くれすくって穴をおおい、おおううち善衛は自分の胸のなかに、あの荒涼たる焼跡の、生々しくよみがえり押し広がるのを感じ、またしゃがみこんだ。
死児を育てる
急な傾斜の坂道、ねずみがかけのぼり、つづいて脚のみじかい犬が後を追い、ねずみの走るにつれて雫《しずく》がしたたったのは、それまで水に漬《つ》けられていたのか、たちまち犬がおさえくわえこんで、肉屋のお使いのかえりのような小ざかしげな表情で、コックの身なりした少年のもとへもどる、少年はねずみ取りをぶらさげていて、それをバシッと大地にたたきつけ雫をきった。街路樹の根元に、火だるまのねずみが走りこみ、樹《き》のまわりをくるくると駈《か》けまわって、老《ろう》婆《ば》のようにふいにうずくまり、その、まだほのかに煙をあげているねずみを、青い腹巻きしたバーテンが笑いながら下駄《げた》でけとばし、あおむけとなったそれは、四肢《しし》をこまかくふるわせていた。日曜日の昼下り、閉めた煙草《たばこ》屋《や》の店先きにあたらしいバケツがおかれ、ねずみとりが漬けられていて、中のねずみは水棲《すいせい》動物のように別段苦しそうでもなく、籠《かご》の網目から鼻先き突き出し水の中から空をながめ、周囲には誰《だれ》もいない。火攻め水攻めねずみ殺しの現場をみる時、私はいつも立ちすくんで、ながめつづけ、いつか自分もあのようになる、きっとねずみと同じ殺され方をするにちがいないと確信があって、長い尻《しっ》尾《ぽ》やひげのふるえ、まばたきしない眼《め》に見入ったものだ。そしてようやく私は、今、ねずみになった、ねずみになれた安らぎの中にいる。
「どうしてこんなむごいことをしたんだ、ええ? かわいい盛りじゃないか。だまってないで何かいったらどうだ」刑事は、厚い写真の束の中から、一枚一枚より出して、五、六枚になると、机の上を久子に向けてすべらせ、「もう一度みてみろ、なんの罪もない子供を。いいか、ねむってるんじゃないんだぞ、死んでるんだぞ、お前が殺したんだぞ」
久子はだまりこくったまま、写真に眼をおとし、だが動ずる色はみえぬ。「どうしてなんだ、旦《だん》那《な》が浮《うわ》気《き》でもして、その面《つら》当《あ》てにやったのか、お前に好きな男でもできて、邪魔になったのか、手を出してみろ」いわれた通り久子がすると、刑事は手相をみるように、その親指をがっしりにぎり、「この手で殺したんだぞ、どうしてだ、自分の腹をいためた子供を、なぜ絞め殺したんだよ、だまってちゃわからん、いっちまえよ、なぜこの指で、かわいい盛りの自分の子供の、喉笛《のどぶえ》をくだいたんだ、あざのつくほど絞めたんだ」
久子はふっと溜息《ためいき》をつき、刑事の顔をながめ、しばしだんまりのまま見合っていたが、刑事は閉口して、まだ手にしていた写真の束を机にたたきつけると、戸をあけて廊下に待機していたらしい婦人警官を呼びこむ。
「伸《のぶ》子《こ》ちゃん、今頃《いまごろ》、天国にいってるわよ。あなたも罪は罪として、みんなおっしゃいな、伸子ちゃんのためよ。あなた、とってもかわいがってたんですってね、御近所の方がいってたわよ。どうしてなの? 育てる自信がなかったの? そうじゃないわね。丈夫だったそうだし」婦人警官は、これも手《て》管《くだ》の一つか鼻すすり上げて、伸子の死顔の写真とり上げ、「苦しかったでしょうね、まさか、世の中でいちばん頼りにしていたママに、殺されるなんて、あなた、どんな顔してたの? その時」ふいに鋭くいい、久子はしかし無表情のまま。
どんな顔してたかって、それはごくふつうの顔だった、伸子を殺してから、気がつくと私は三面鏡の前にすわりこんで、ぼんやり自分の顔をながめていた、鏡の中に伸子の寝台の端が写っていたのを覚えている。なにしろ二年三カ月の子供だもの、殺すといったって別に息もはずまなければ、汗もかかない、少しは蒼《あお》ざめていたかしら。私は、櫛《くし》で髪をとき、しだいに暮れなずむ部屋の中にすわって、取り乱すわけはない、これが約束事なんだもの、私は伸子を殺すために、これまで育ててきたんだもの。私はねずみにならなければならなかった、ねずみになって、火攻め水攻めなぶり殺しにされなければならないんだもの。
「メンスは何時《いつ》だったの? だまってないでなにかいいなさいよ、伸子ちゃんかわいそうだとは思わないの、あんた鬼なの? 御主人いらしてるわ、気が狂ったようになって、あんたを殺してやるっていってたわ、かわいがってたんですってね、伸子ちゃんを。よくお土産を買ってらしたそうね、パパと一緒に寝るって、朝になると、パパのベッドにもぐりこんだんでしょ、まさかあなた、伸子ちゃんにやきもちやいたんじゃないわね、ね、どうして伸子ちゃん殺したの? あんた、血筋におかしい人でもいたんじゃない? ふつうじゃ考えられないわよ」
久子は、手近かの、伸子の顔大写しにした写真を手にとると、まるで我が娘七五三の晴れ姿ながめるように見入って、ふっと笑い、「なにがおかしいのよ、うれしいのよ、それはあんたが」婦人警官は立ち上るなり写真をひったくり、その見幕にまた一人刑事が入って来て、「じゃ、あなたから事情をきいてみて下さいな、どうも我々では始末におえませんので」低声《こごえ》でいい、夫の貞三《ていぞう》が前にいた。
婦人警官は伸子の写真まとめて去り、「本当にお前がやったのか、ええ?」思ったより落着いた声で貞三がいう、「そう」「そうってお前」がたぴしと殺気立った物音がひびき、貞三は久子につかみかかろうとして、刑事に抱きとめられ、久子は貞三を、これはいったい誰なのか、今朝、会社へ送り出すまではたしかにわが夫、しかし眼の前で、低い電気スタンドの光に下から照らし出され、身勝手に声あららげじたばた騒いでいるこの男は、まるで他人、そう私がねずみになった今では、誰一人親も夫もありゃしない、「理由をいえ、理由を、何故《なぜ》殺した、伸子をかえせ、この女」貞三は刑事をふり切ってつかみかかり、机ごしにその髪をにぎって引き倒そうとし、制止と怒号入りまじって、すぐにしずまり、久子の頭に髪の毛つかまれた熱気だけが、ヒリヒリと残る。
誰にもわかりはしない、産院の分娩室《ぶんべんしつ》に私がぐったりとつかれ果てて横たわり、陣痛がはじまってから十四時間というもの無我夢中で、そのままぼんやり夢うつつのさなか、「はい、お嬢ちゃんですよ」ふいにどすんと重いものが私の腹の上にのせられ、眼の前に看護婦に支えられた伸子が、とても人間の赤ん坊とは思えぬ声で泣きさけんでいて、一瞬、「あ、貞三によく似ている」と考え、だがすぐに恐怖感が襲いかかり、その時はまだその正体に気づかなかったけれども、すくなくとも妊娠とわかってから日増しにつのる不安感の、さらにその形はっきりしたように思えて、そのぐにゃぐにゃとたよりない肉のかたまりから眼をそらした。
結婚三年目、久子二十四歳の妊娠で、貞三は放送局に勤め、六畳二間のアパート暮しながら当世風子供禁制ではなく、出産になんの支障はなく、貞三もさすがTVホームドラマのよきパパ候補生の如《ごと》く、おろおろうろたえはしなかったが、向き合って水入らずの時にふっと、「育児書という奴《やつ》は、本によってまるで正反対のことが書いてある」などいい、多分、局に資料として備えるそれを、たまに拾い読みしているのだろう。「本当に産んでもいいの?」妊娠ときまった時、久子は何度も貞三にたずね、「そろそろいい時期だよ、それに初産の中絶はわるいっていうし」妙に実感のない返事だったが、これは男親なら当然のこと、「でも、怖くって」久子の言葉を甘えと受けとり、「誰だってそうさ、そんなに子供産むことが一大事なら、人類はこうも増えやしない」この限りでは、はじめて子供を産む夫婦の変哲もないやりとり。久子はつわりを過ぎ、妊婦服あつらえ、やがてまごう方なき胎動の、風呂《ふろ》へ入ると赤ん坊も気持がいいのか、波打つように眼にみえて張りつめた下腹がゆらぎ、そのつど不安を覚えたが、貞三の母に訴えても、「誰だってそうですよ、でもさ、案ずるより産むは易《やす》しっていうでしょ、本当にそうですよ」
はじめてのことだから日増しにつのる脅《おび》えも、妊婦に共通のものなのかと、むりやり納得させ、「男ならぼくが名をつける、女なら君にまかせるよ」貞三がいえば、臨月近くなって泊りこむ姑《しゅうとめ》は、「久子さんの顔がきつくなったから、こりゃ坊やにちがいありません」めでたい会話を耳にしても、だが他人《ひと》ごとの如く、思い余って、友人のうちの経験者にきけば、「そんなものよ、人のことだと思って、男がいいの女がいいのって、私も癪《しゃく》にさわってヒステリー起したわよ」いっそヒステリーとなって爆発すればと思い、これまで商売柄《がら》、貞三のおそい帰宅が二、三日つづくと、酒臭い息やら、生返事の癖につっかかり、人並みのことはあったのだが、妊娠以後はただ沈みこむばかり。眼覚めて後、急速にうすれていく夢の記憶の如く、とりとめのない脅えの正体を、ふと手ざわりしたように感じることもあったが、「よせよ、妊娠ノイローゼなんて久子らしくもない」貞三にいわれると、たしかにこれは単なるノイローゼかとむりやり納得して、これまで並よりはしっかり者で通って来た実績にすがりつき、脅えを払う。
久子の母は、五月二十五日、東京山の手の空襲でなくなり、戦争終ってからは、女学校一年の身ながら、主婦がわり。父は生命保険会社の嘱託医で、ほとんどサラリーマンと同じ勤め、敗戦直後は、朝早くに起き出して、すいとん雑炊をつくり、学校退《ひ》けると、あるかない配給ものを受け取りに甲斐甲斐《かいがい》しく、父が会社から特配の物資を運んだから、買出し闇《やみ》の苦労はないにしろ、同じ年頃、母のある家庭の娘より年早く一家のとりしきりに長じ、高校でれば出版社につとめて、気も利《き》けば、酒席のつきあいそつなく、男のような字を書き、通称はチャコ。あるラジオタレントをインタビューしたら、「君、いくら月給もらってる?」帰りぎわたずねられ、ありのままいうと、「よし、五割増しで買った」てきぱきした応答ぶり気に入られて職を移り、タレントの鞄《かばん》持《も》ちして放送局に出入りするうち貞三を知った。貞三は美男子で女の噂《うわさ》絶えず、はじめはにやけた男とながめていたのだが、局のリハーサル室でさしむかいの打合せ、まるでさりげなく、背後から抱かれて唇《くちびる》をうばわれ、酔ってでもいるように「結婚しないか」ずばりと切り出されて、半信半疑のまま、手が早いという評判とは逆に、その後、食事映画にさそわれて、いっこうみだらな振舞いに出ず、やがて四角四面にかしこまり、父に結婚の許可をねがう。自分の結婚がまさか、こんな風になしくずしに、ひきずられるままにすすむとは、これまで露おもわず、だから一人娘、後に残った父の気持を真剣に考えることもなかったのがむしろ好都合、「まあ、君が片づいてくれりゃ、お父さんもあらためていい人でも探すか」すっかり貞三を気に入ったらしいその言葉で、はじめて実感がわき、タレントはそのまま勤めを続けるよう、むしろ頼みこんだし、給料二人分あわせれば、昭和三十一年、はしりのTV受像機、新家庭にそなえるゆとりもある。
結婚衣裳《いしょう》、嫁入り道具すべて自分で気をくばり、ハニムーンは京都、駅の階段でつまずいて恥をかいた他《ほか》はつつがなく、初めて体を与える時、「今まで我慢してたんでしょ、ありがとう」頬《ほお》染めてつぶやき、後で貞三は、あまり女っぽいこというんでおどろいたと、時おりむしかえして、久子を当惑させた。
結婚三年目、都内のアパートから、建売住宅に移り、それを機会に久子は勤めをやめ、父とは、ままごとめいた誕生日、クリスマスカードのやりとり程度で、便りのないのは無事のしるし、妻になりきって、しかもめでたい妊娠のしるし、何一つとっても不足ない若《わか》女房《にょうぼう》の明け暮れ。
陣痛は朝にはじまって、いよいよそれときまると、貞三姑につきそわれて入院し、貞三はかねて手《て》筈《はず》の通り、夕方から自宅で友人と麻雀《マージャン》しながら待ち、午後九時に産れるとすぐ、ダークスーツに身を固めてあらわれ、「はじめて会うんだからな、第一種正装にして来た」だが夜おそくて、伸子には会えず、この時、久子は夫の心づかいがうれしいより、なにやら空々しく、あのぬめっとしてどっしり腹の上に置かれた感触を、思い出すまいとしてしきりに闇の中で首をふりつづける。
マッサージ受けると、天井にとどくほども乳がほとばしるのだが、伸子の吸い方が下手なのか、ふくませると、ただ泣くばかりで、自らの乳を哺乳瓶《ほにゅうびん》に入れ、あらためて与え、日一日と提灯《ちょうちん》のしわのびるように形ととのえる姿みれば、心なごんで、やはりあの脅えは、妊婦に共通のものなのかと納得し、七日過ぎて家へもどり、粉ミルクをといてその温度はかるため、柔らかい乳首を唇にあてると、思いがけず多量のミルクが流れこんで、うっとむせ、その味と温《ぬく》味《み》に覚えがあった。
粉ミルクの缶《かん》は、いつも母の鏡台の横に置かれていて、私は小学校五年生、いくらかお洒落《しゃれ》が気にかかり、もとより戦争中、女の児《こ》らしいリボンも色どりも許されていなかったが、でも運動会の時のユニフォーム、旗日におろした白い靴下《くつした》、鏡に写してあかずながめ、ついでに粉ミルクを、中に入ってるちいさなスプーンでなめる。「久子ちゃん、ちいさい赤ちゃんがかわいそうでしょ、赤ちゃん、他になんにも食べるものがないんだから、久子ちゃんはパンでも御飯でも食べられるんだから」なめるところをみつかったわけではないけど、減り方をみてれば、つまみぐいはすぐにばれる。もう甘いものといったら、黒砂糖のかたまりか、慰問袋へ入れるくろん坊アメの横流しくらい、粉ミルクのやさしい味は、この上ないもので、だから食べ盛り甘いものに飢えきった私に、そうきつくはしからず、減るとわかっていて缶をかくしもせず、母がいい、あの時、赤ちゃんは生後半年くらいだったかしら。お腹《なか》の大きい母の姿、病院へいっしょについていってかえりに、ふと気づくと防空演習の最中で、警防団の人が、もんぺはいていない母を、妊婦とわかっていてとがめ、ずい分恥かしく、「四十過ぎての恥かきっ子で」親戚《しんせき》の人としゃべるのをきいて、いやな気持もしたけど、産れてしまえば、かわいい妹で、昭和十八年の春、学級の組みかえがあって早くかえって来たら、母が床についていて、産婆さんがいる、私は四《よつ》谷《や》の親戚の家に連れていかれ、なんだかこのまま母は死んでしまうような恐怖感があり、表へ出て、人眼につかないよう涙をふいていたら、ちいさな子がうれしそうに泣きべそかく私をながめていた。翌日、そのまま学校へ行って、高《たか》樹町《ぎちょう》へもどると、夕方だったのだろう、暗がりの中に母と赤ちゃんが寝ていて、そのふくませる乳房が、おそろしいほどふくらんでいてびっくりした。父が「文子」と紙に書き「あや子」とよむんだって、妹の名前を教えた。
今考えても、私は文子をかわいがったと思う、買物の行列にならぶ時、お人形をはなさない幼児のように、いつも背負っていたし、茶の間の箪《たん》笥《す》の、ラジオとお仏壇ののっかってる少しのすき間に、文子をすわらせ、私は背を向けて紐《ひも》を胸にとめる、母が「うまいことするわね」と賞《ほ》め、かわいがったけれども、粉ミルクをなめることはやめなかった、配給がどうなっていたのか知らないけれど、床下に掘った防空壕《ぼうくうごう》の中にはミルクの缶が沢山あって、私がなめたからって、文子の分が足りなくなったはずはない。なめただけではない、ハトロン紙の封筒に包んで、友達の持っている南京豆《ナンキンまめ》と交換したりもした、粉ミルクは口にふくむと顎《あご》や頬のうら側にくっついて、ねばつき、鏡にアーンすると、口の中が真白になっていて、ジフテリヤで死んだ子供の話をふと思い出す、白い膜が喉をふさいで、犬みたいな声で咳《せき》をしながら死んじゃったってきかされていた。
貞三は、まずまずの子《こ》煩悩《ぼんのう》ぶり、伸子がいるからといって、これまでの生活のペースかわらず、また新設のTV局へ移ったから、子供にかこつけての早《はや》退《び》けなどゆるされず、ただ夜更《よふ》けて帰ると、籐《とう》のベビーベッドの寝顔をあかずながめ、深夜、泣きわめいても怒らず、たまに夕方まで家にいれば、入浴を手伝って、力があるだけに要領がいい。「赤ちゃん体操だ、脚が長くなるように」どうせ育児書で仕入れた知識、さかさまにぶるさげて、久子をはらはらさせたが、八カ月目に風邪をひき、熱さましをのませると、今度は下痢がつづいて、伸子はみた目にはっきり痩《や》せおとろえ、となると貞三も姑もすっかりあわてて、医者をかえるやら、当りちらすやら、驚天動地の大さわぎをしたが、久子はさわがず、どうにかもち直してから「いや、母親の自信というものはえらいもんだなあ。ぼくはもう駄《だ》目《め》なんじゃないかと思って、局にいても電話がなりゃビクッとするし、かえると、とんでもないことになってやしないかと、家に近づくのが怖いくらいだったのに、お前はまったくあわてないんだから」貞三がいい、「そう簡単に死にはしませんよ、子供の生命力って強いんだから」「そりゃそうだけど、こんなにちいさいんだろ、生きてるのが不思議みたいな気さえする」「いやあね」末は笑い合ったが、久子は、自分が何故心配しなかったのか、もちろん息づかいやら、熱の上下に、てきぱきと水枕《みずまくら》をかえ、薬をのませ、しかし、あんなに下痢がつづいて、最後には米のとぎ汁《じる》のような便にさえなって、姑さえ、あの時はもう覚悟しちゃったといったほどなのに、おちついていて、これは自分の腹いためた母親の、動物的な自信なのか。
それまで予感のように、時おり心をふっとかすめ、霧の晴れるように、はっきり姿見せはじめるのを、むりやり眼《め》をそむけていた、ある脅えがいっそう明らかになって来て、私は、心のすみでたしかに伸子の死ぬのを、ねがっていたのだ。母親である自分がまさか我が子の死を、期待するなどあるわけがないといいきかせつつ、たしかにこのまま、八カ月をかぎりに生を絶ってくれと、ねがう気持があった。伸子は発育がよく、八カ月で障子につかまり立ちして、もう今にも歩き出しそうだった、病気以後、少しおくれたけれど、おくれて私はほっとしたのだけれど。妹の文子も、丸々と肥《ふと》っていた、近所の人が健康優良児のコンクールに出せばいいとすすめるほどで、お正月の夜、やっぱり八カ月目くらいではなかったかしら、炬《こ》燵《たつ》の横から、文子の好きなカタカタを私がもっていたら、ふいにのめるように歩いてきて、すぐに、ころんだが、文子の歩くのをいちばんはじめにみたのは私だった。伸《のぶ》子《こ》がいかにも大冒険をこころみるように障子につかまって、畳と私を交互にみつめ、夫は応援して、さあおいで、いらっしゃいなどさけんでいたが、私は眼をつぶり耳をふさぎたかった。今のままでいてほしい、何気なくこのことをいうと、「そりゃそうさ、いつまでもこれくらいでいてくれりゃ、いや、やっぱり二つかな、かわいいさかりというから。どんどん大きくなって、やがてお嫁さんになっちゃう、どんな奴と結婚するのかなあ」貞三は、商売柄テープレコーダーを用意して、ハブビー、バブーなど伸子の片言を録音し、もとより私の脅えに気づくわけもない。
昭和十九年暮、集団疎《そ》開《かい》を父がきらって、久子は新潟《にいがた》へ個人疎開し、たよったのは父の部下の実家で、織物問屋を営み、京都風に間口はせまいが奥行き深く中庭などあって、その二階の一間あてがわれ、両親いずれか十日に一度たずねて来たし、同じ年頃《としごろ》の女の子もいたから気もまぎれて、四月過ごして、また女学校へ入るため東京へもどり、上野駅へ着くと、たった四月のうちに、あたりのたたずまいがらっとかわっていて、駅の構内学生が円陣つくって放歌高吟するかと思えば、泣きさけんでいる中年の女、憲兵がものものしくにらみきかせ、まるでちがう国へ来たよう。高樹町のあたりも建物疎開の跡が目立ち、さすがに家の中は、新潟よりはるかにきびしい灯火管制ながらなつかしい臭《にお》いにみち、文子がとびついて来た。
あの年の冬は、たいへんな雪だった。野菜や魚が入荷しないといってみんながあわてて、私は東京の配給になれていたから、かえっておかしく、新潟は時おり、港に機雷をおとすとかいうB二九があらわれたけど、しごく平穏で、戦争が嘘《うそ》みたいだった。私もけっこう雪になじんで、屋根の雪おろしを手伝ったり、なにより息子を父にたよっているから、家の人も親切で、同じ年の女の子も私には一目おき、もっともそれは、しこたまもちこんだ本やお人形のせいだったかも知れない。東京へもどってからも手紙をかわして、あのこはローマ字で名前を書いてきた、私はそれをみてふんがいしたのだから軍国少女。
伸子はその後、順調に育って、お誕生日過ぎれば、なにやかやと家事に追われ、またしばらく久子は脅えを忘れていたが、酔っぱらった貞三が、スポンサーからもらったといって、大きなクッキーの缶を伸子に与え、せがまれるままにふたを開けると、あまりの量の多さに、伸子はクッキーを食べるよりも玩具《おもちゃ》にし、ポキポキと折っては、片はしから屑籠《くずかご》に捨てる、「駄目よ、そんなことしちゃ、もったいない」ふつうにしかったつもりだが、一人娘でわがままだけに、ひきつけるほど泣き出し、「いいじゃないか、まだわからないんだから」貞三のとりなしを「駄目ですよ、もったいない、食べものを粗末にするなんて」「そりゃまあそうだけど、そうヒステリックに怒鳴ったって」「あなたはだまってて下さい、私の子供なんですから」「よせよ、伸子がおびえるじゃないか」「じゃ、口出ししないでよ、たまに家にいて、猫《ねこ》っかわいがりにかわいがるだけじゃ、伸子のためにもなりませんからね」さすがにむっと貞三《ていぞう》はだまりこみ、伸子は部屋のすみで、事態の推移のみこめぬままベソかきつづけ、「伸子、捨てたお菓子をきちんと元にもどしなさい」「そんなこといってもわかりゃしないよ」「だまっててよ」涙ぐんで久子はいいつのり、貞三は伸子を抱くと、あきらめたように自分がまず屑篭のクッキーを拾い、伸子もやがてそれを真《ま》似《ね》る。
「あんまり贅沢《ぜいたく》よ、御飯だって気に入らなきゃ途中でやめちゃうし、水はいやだっていってジュースしか飲まないし」おちついてから久子がいい「そりゃまあ、今の子供は仕方ないさ、ぼくらの頃は、米粒一つだって粗末にすりゃ怒られたものだけど」だけど、男はとてもああムキになって子供を怒鳴れないね、やっぱり自分で産んだっていう自信なのかな、貞三冗談めかしていう。
ちがう、私が伸子の、贅沢なお菓子の食べっぷりや、気まぐれな偏食に怒るのは、そんなものではない。帰京してすぐ三月十日の空襲があり、高樹町は赤十字病院が近いから大丈夫と、お互い信じてもいないのにたしかめあって、だが、いざという時の避難場所は、震災の経験をもつ父が、なまじ広場はあぶないからと、近くの美術館にきめ、五月二十五日、夜十時、空襲警報発令と同時に、ミシンやら食糧やら、庭の防空壕に投げ入れ、畳でふたをして父が土をかぶせる暇もなく、渋《しぶ》谷《や》方面がぱっと明るくなって、風が吹きつのり、轟々《ごうごう》と頭を押さえつけるような爆音に、ひょいと空をみたら、夜空に無数のたいまつが浮んでいて、少しずつ北へ流れていく、母は文子を背負い、父はバケツを持って、ぼんやり見上げていたが、防空壕へ入ったままむし焼きにされた話がざらにあったから、壕に待避して落下と同時に消しとめる気力など、あのおびただしい焼夷弾《しょういだん》をみれば、誰《だれ》にもありはしない、奇妙にしずかで、すぐカンカラカンと瓦《かわら》になにか当る音と、ポンポンはぜるひびき、家にも近所にも異状はないとみえたが、「手をはなすんじゃないぞ」私を真ん中にして歩き出し、電車通りにでると右往左往する人の流れがぶつかり合っては、ののしり悲鳴をあげ、通りに面した家の二階には人の顔が鈴なり、他人事のように火の手を指さし、はやくも神宮《じんぐう》の方向をのぞいて、夜空はすべて赤く染まり、間断なく落下音と爆音がつづき、南町《みなみちょう》に出ると、火の粉がみえ、その流れに当った家屋は、はじけるように突然、火を吹き出す。霞町《かすみちょう》にもどって広《ひろ》尾《お》へ抜け、左手の高台はひっそり静まっているから、細い道を登ると、横穴防空壕があり、住民は避難したらしく誰もいない。私の友達のピアノの先生がこのあたりにいて、いくらか勝手しっていたから落着き、母は文子を背中からおろして、私にあずけ、父と二人壕の前に立ち、木立の間から火の海をながめていた。文子は脅《おび》えもせずに下におりたがって、火の照りかえしであかるい壕をながめわたし、そこへ、こちらの油断みすましたかのように、また落下音がひびいて、はじめて私はいわれた通り、眼と鼻を指で押さえ、文子をかかえこんでふせたのだが、父の方に顔上げると、母が壕の入口に倒れていて、「繃帯《ほうたい》、繃帯」あわてきった父の様子に近寄ろうとしたら押しもどされ、びくとも母はうごかなかった。
焼夷弾か、あるいは小型爆弾のちいさな破片が胸にくいこんだので、私はじかにはみなかったけど、五粍《ミリ》ほどの傷口、でも即死だった。四《よつ》谷《や》の親戚も焼け、中野の、陸軍中尉《ちゅうい》で応召した、父の同僚の家へ身を寄せ、母のとむらいは、線香一本そなえるゆとりもないまま、父が二十七日の午《ひる》、粗末な箱に骨をおさめて持ちかえり、だまって私の髪をいつまでもなでてくれた。そして私は、文子を背負ってふたたび新潟へ移った。新潟もかわっていた、大都市を焼きつくしたB二九の、今後の目標が地方都市であると、誰にもわかり、半年前の、のんびりしたたたずまいはまるで失《う》せて、防空壕が掘りめぐらされ、橋を渡って東へ逃げるか、海へ出るか寄るとさわると命ながらえる算段、しかも食糧事情がわるくなっていて、いや、東京を見限って新潟へかえった父の部下は、もうこれで日本もおしまい、となったらこちらで百姓でもすると覚悟きめていたから、たよるべき家の雰《ふん》囲気《いき》がまるでちがっていた、私は幼児をかかえた焼け出されにすぎなくて、「お人形も本もみんな焼けたんけ、ほんにまあねえ」うわべは同情のふりをみせていたが、同年の女の子は、あきらかにざまあみろと、こちらを見下す。
久子は、誰の眼からも子供好きにみえた、伸子はもとより、近くの家で赤ん坊の泣き声を耳にすれば、その母をさしおいてあやし、時には「赤ちゃんが泣くのは、運動になるんですってよ」ややさし出がましい久子に、あてつけいう者もいたが、泣きわめく声をきけばとたんにそわそわしはじめ、他の家の子供なら逃げ出せばいいけれど、伸子が、貞三をしたって、そのおそい帰宅にじれ、ねそびれてぐずり続けると、急に、今度はけたたましくさけびはじめる「やめてよ、いくらいったらわかるの、泣くのよしなさい、怒るわよ」血相かえてにらみ、ますますおびえて本気に泣き出すと、久子は耳を押さえ、別室に閉じこもってしまう。冷静になってから、帰宅した貞三に、少し早くかえれないかと頼んだが、TV局の本放送開始したばかりで、きき入れられず、貞三は「そんな、子供が少し夜泣くったって気にすることはないさ、ほっとけば泣寝入りしてしまう」理由をきいて笑い出し、だが、久子は次第に夜、伸子と二人っきりでいることに耐えられぬ、毎晩ではないが、ふと泣声が気になると、いてもたってもいられず、貞三のウイスキーを水でうすめて飲む。必死になって押しころして来た、脅えの正体が、伸子の成長と共にこらえようなく、形をあらわしはじめていた。
新潟の生活は苦しかった、父が送ってくれたものの、帰京すると掌《てのひら》かえしたように扱いがかわって、もう二階の一間は、息子が使うから、土蔵をあてがわれ、土蔵は二階になっていたが菅笠《すげがさ》ミノくわなど野良《のら》仕《し》事《ごと》の道具から木彫りの胸像肖像画本箱さまざまながらくたがほうりこまれ、その一画を仕切って、やがて夏へ向かうのに、窓一つない。「ここなら安全だすけに、防空壕より頑丈《がんじょう》だもの」老人がいったが、実は着いた夜の、文子の泣き声を考えてのことだった。私が母の死にくじけなかったのは、あまりに突然のことで、その実感がなかったためか、世の中すべて殺気立っていて、泣くことすらはばかる気持があったからか、父は、前の時のようになるべく来るようにするといったが、交通事情が許さないのは、避難民でごったがえした新潟までの道のり思えばわかり、「もうあれだけ焼けちゃえば空襲はないさ」だから自分のことは心配しないでいいと、また私の頭をなで、「文子をたのむよ、君はもうお姉さんなんだから」こっくりうなずいて、その時は気負いたったのだが、まず食物に困った。近くの百姓に顔のきく母《おも》屋《や》の家族は、すまして米を食べていたけど、二歳四カ月の文子と私は、脱脂大豆やら高粱《コーリャン》とうもろこし、土蔵前に七輪を置いて食事の仕度をし、水は井戸から汲《く》んで、少しおちつくと文子は、当然ながら母をしたう。朝になると、同年の女の子は学校へ通い、「全然寝られんかったてぇ、うるさいんだわぁ」きこえよがしにいいつけ、土蔵の中の文子の夜泣きがそれほどきこえるとも思えないけど身がすくむ。七月に入ると、土蔵はむれて、私ともども汗《あせ》疹《も》だらけになり、少し泣き声もれれば、暑いから開け放してある母屋の窓が音高く閉められ、仕方なく、文子を背負って東堀《ひがしぼ》りの川に沿って歩く。そよとの風もなくて、柳の葉末も垂れ下ったまま動かず、いくらゆすり上げても唄《うた》うたっても、文子は泣きやまぬ。近くに旋盤の工場があって、その金属の屑を俵につめ道ばたに積み、その上に文子を下して、ほっと汗をふいたりして、他《ほか》に人影はまったくなかった。泣くのも無理はない、二歳ちょっとで母と別れ、しかもひもじいし暑いし、私だって誰かにすがりつきたいのだから、でも、泣き声はにくかった。文子が泣くから私まで寝られず、「やめてよ、泣かないでよ」そればかりいいつづけ、最後に、私は文子をなぐった。俵の上に置き、はじめ平手で頭をたたき、それでも泣きやまないから、拳《こぶし》をかためて、なぐった。なぐると、さすがに文子はだまった、だまると抱き上げ土蔵へもどる、なぐれば泣きやむとはっきりわかってからは、夜中、文子がヒーッとおびえて、それが果てしない夜泣きの前兆、すぐに手がうごいて、これが子守唄だった。「ねんねんようおころりよって、母親が子供のおしりを軽くたたくだろ」新聞読みながら貞三がいい出し、育児の記事が目につくと切抜いたり、読んできかせたり、あるいは私の、伸子に対する態度をいくらか不審に思ってのことだったかも知れない、お尻《しり》をたたくのはよくない、背骨にひびいて脳震盪《のうしんとう》を起こさせると説明したから、まさかと私は笑い、するとむきになって、「赤ん坊は骨がやわらかいから、ちょっとしたショックですぐ失神する。親はねこんだと思ってるだけだけど、実は頭を軽くなにかにうちつけて脳震盪おこしてることが多いんだそうだ」その場はきき流したけど、いや、わかっていたのだ、線香花火の火の玉のように、胸の中でぐらぐらとわきかえり、やがて矢も楯《たて》もたまらぬ吐き気のように、脳震盪、じゃあの文子は、私が拳でなぐるたびに、弱いボクサーの如《ごと》く、失神してだからだまりこくったのか、私は、二つちょっとの赤ん坊を、毎晩なぐり倒していたのか、台所で、蛇口《じゃぐち》から激しく水をほとばしらせ、そのはねを浴びながら、考えまいとし、考えまいとしても、あの土蔵の暗がりが思い浮かび、なぐっただけではない、かつて粉ミルクを盗みなめたように、私は先き細りの配給を、文《あや》子《こ》のお腹《なか》こわしたのを幸い、ほとんど食べてしまって、文子には重湯しか与えず、干《ほ》し藷《いも》やら大根卵魚など、たまに配給があれば、相手はたった二つの子供なのに、ことさらかくれて一人だけでむさぼり食い、だから文子はたちまち痩《や》せおとろえて、父から手紙と、それに現金が送られてくれば、白《はく》山《さん》神社のそばの汁粉屋で、闇《やみ》のぜんざいを買いぐいし、私は、自分が生きるためには、文子などどうでもよかったのだ。
戦争が終って、父が迎えに来て、「これからはみんなよくなる、ずい分苦労かけてすまなかったな」なんでもなかったようにいい、事実、二人で部屋をかり、父の庇護《ひご》のもとで暮すうち、主婦がわりの忙がしさにとりまぎれたのか、新潟のことはたちまち遠去かり、夢にも想《おも》い出さなかったのに、さらに結婚して、いや、昭和三十年新潟大火の際、あの織物問屋も焼けたと知り、ただそれだけで特別な気持もなかったのに、伸子が産れて、私は不意に刃《やいば》をつきつけられたのだ。生れてすぐはまだいい、やがて伸子の一挙手一投足に文子の記憶がつきまとい、辛《かろ》うじて押し殺してきたのに、この貞三の新聞記事の話で、すべてがむき出しにされた。
泣き声に耳ふさいだのは、あの土蔵の記憶から逃げたかったからだ、お菓子食べちらかす伸子に腹が立ったのは、二月近く重湯ばかり食べさせた文子と、知らず知らず比較していたからだ、すっかり忘れ、いやあれは戦争中の特別な経験と、自分で納得したわけではないけれど、戦後の、まるであの二月は夢としか思えない、日常生活へのすさまじいよみがえりにとりまぎれ、しかし、私は忘れていなかった、私が私の手で、手を下さぬにしろそれにひとしいやり方で、妹の命を奪った、文子を殺したことを、私は鮮明に覚えていた。皮肉なことに、それは自分の産んだ伸子の成長と共に、文子の死んだ年に近づくにつれ、予感が次第に形をあきらかにし、伸子は、私の罪を、そのあどけない笑い顔や、たどたどしい言葉つきで、するどく指弾する、泣きわめく伸子をながめて、かつて私はこんな子供をなぐったのか、失神させたのか、ジュースねだる伸子をながめて、かつて私はこんな子供の食物をうばったのか。文子の分もかわいがってやろうと思う、タイムマシーンがあったらここにあるクッキーやあめやゴーフルや、あの土蔵で最後は泣くこともできずに寝たっきりだった文子にとどけてやりたいと、涙を流し、だがごま化せない。私の罪は消えない。
昭和二十年八月十三日、新潟市は知事命令によって、全市民の疎《そ》開《かい》が行われた。広島、長崎におとされた新型爆弾は原子爆弾とわかり、二粁《キロ》四方完全に吹っとばされたときいても、実感はわかない、これまでいちばん凄《すご》いのが一噸《トン》爆弾で、これでもせいぜい一丁四方が被害をうける程度。やれ死角があるの、白い服を着ていれば光を反射してたすかるの、いわれはしたが、日本で残る都市は京都奈良金沢新潟それに東京なら世田ヶ谷杉並《すぎなみ》、大阪は森の宮一帯、このどこかに第三回目の原爆が投下されると噂《うわさ》されていて、新潟は長岡《ながおか》を最近焼かれただけに神経とがらせ、とるものもとりあえず近郊の寺院やら、夏のこと故《ゆえ》、田んぼの畦道《あぜみち》、阿賀野《あがの》川《がわ》堤防に野宿、サイパンからの距離考えれば、東京も新潟《にいがた》も同じようなものだが、裏ではあるし、石油精製の工場以外市内にさしたる設備もなく、切《せっ》端《ぱ》つまった感じのうすかっただけに、その日のうちに逃げ出せ、原則として徒歩食糧以外の財物は持ち出し禁止といわれて、警防団狂ったようにせき立て、警官は自転車に乗って巡回し、暑い折から握り飯は焼いた方がいいの、それより水が大事だと、大掃除に火事場騒ぎが重なったような按配《あんばい》。「どうしなさるかねえ、私達《わたしたち》、木《き》崎村《ざきむら》へいくろも、あんたら一緒いうわけにもいかんし」老《ろう》婆《ば》が久子にいい「そりゃ駄目《だめ》だ、こっちだって無理いって押しかけんだから、なにまあ、少しはなれてりゃ大丈夫だすけ」父の部下だった男は、リュックザックに背広をつめ、ナフタリンまでそえて、「これ入らねろか」過去帳位《い》牌《はい》片手に老婆が頼むのを、「合財袋《がっさいぶくろ》に入るろ」すげなくいい、娘はまた教科書参考書を、ズックの鞄《かばん》に押しこみ、算盤《そろばん》と定規靴《くつ》を紐《ひも》でしばる。昼過ぎから大八車、馬力がらがらとまず逃げ出し、新潟へ入る車は、許可がなければ通行禁止、久子は表へ出て、万代橋《ばんだいばし》へむかう人混みをながめ、とり残される怖《おそ》ろしさよりも、母屋の人がいなくなる、もう気がねをしなくてもいいと、むしろ心はずんで、そこへ特別配給で、一人あて乾パン三食分がくばられたから、汗疹がくずれて膿《うみ》やらかさぶたの額に重なり、寝たっきりの文子に与え、だが文子は食べる気力もないのか、チュウチュウと吸いつくだけ。
旧《ふる》い家だけに天秤棒《てんびんぼう》まであって、主人はリュックを背負い、これに荷物振り分けてかつぎ、二時に警戒警報が発令されると、さあ来たぞと、道行く者も荷物まとめる者も浮足立ち、「お婆《ばあ》さん、早くしねかね」表で金切声あげるのに、婆さん一人二階の雨戸をガタビシと閉め桟《さん》をかける。消防自動車が走り、保安要員で残る警防団、町内会幹部、街角にたたずんでしゃべるでもなく、上半身裸となった兵隊百人ばかり駈脚《かけあし》で海岸へむかい、通りいっぱいに広がった避難民のむれは、しかし、逃げ出すという切迫感はなくて、女連れは子供の手をひいて語りながら、老人は杖《つえ》にすがってわき目もふらず、中学生は二人三人連れではしゃぎ、思いがけず病人が多く、戸板の上に布《ふ》団《とん》を重ねて横たわり、いずれも住みなれた街並みふりかえることはない。
陽《ひ》のあるうちは、人の流れが絶えず、昏《く》れると今度はいっせいに誰一人いなくなって、私は東堀りの、道路より二米《メートル》ばかり低い川《かわ》面《も》に降り、あるかない流れにゆれる水草ながめながら、もやっている肥舟に身をゆだね、どこか遠いところへ逃げられないかと、とりとめない考えにふけり、その頭の上を、ジーッジーッと音させて自転車が通りすぎる。爆音がきこえ、空は満天の星で、この時はまだ怖くはなかった。一人でいることにはなれていたし、誰もいなくなると、やはり文子との血のつながりが、なによりたよりに思えたのか、しばらく抱いてやらなかったのを、かかえ出し、痩《や》せおとろえて軽い体を背負って、闇をさまよい、遠くで金棒をひきずる音がした、泥棒《どろぼう》の用心に町会の人が見まわっているので、他に生きているものはなにもなく、いつまでも昼の余熱がさめない。文子に呼びかけても返事はなく、父は、医師だけに駆り出されて空襲による負傷者をまかされ、手がはなせないということだった。警防団の詰所で、四、五人が酒を飲んでいた、母と渋谷のデパートでざるそばを食べ、ざるの下にまだあるのかと、しらべてしかられたことを思い出した、倒れた母を壕《ごう》の中にひきずりこむ時、石のように重かった、「駄目だ」と一言父がいい、私は泣くこともできず、防空《ぼうくう》頭《ず》巾《きん》を脱いだ母の髪の毛を、櫛《くし》でとかし、文子はなにも知らずにそのまだ暖い手をいじっていた。
私は、新潟へ来てはじめて涙がにじみ、土蔵へもどると文子をほうり出すように置いて、泣きふした、じっとしていられず、表へとび出し、またもどって母屋にしのびこみ、いちおう見当のつくあの部屋この部屋、意味もなく歩いて、あるいは襖《ふすま》をあけ障子をひくと、そこに母がいるような、いや、ただじっとしていられなかったのだろう、戸外闇が急に怖ろしくなり、そこへカチカチといそがしく柝《き》をうつ音がきこえて、まだ誰かいる、いれば誰にでもすがりつきたく、耳をすますとそれは隣から聞こえていて、裏口へまわりのぞくと、くらい室内に老婆がすわっていて、左手をふりながら経をよみ、手のうごきにつれて音がひびく。木戸を押して、さらにみるとそこは仏間らしく一方の壁がすべて仏壇で、うごいているのは手首だけではなく、老婆の体全体小刻みにふるえていて、私に気づいているのかいないのか、とにかく声をかけるのはためらわれたが、人の姿がうれしくて木戸に背をもたせ、また乾パンをかじり、何時《いつ》までそうしてたのか、ふいにもんぺをはいた小母《おば》さんが眼《め》の前にあらわれ、向うもびっくりしたらしく、たじろいで、みると自転車をひいている。「お婆さん、強情はりなさらんと、いきましょて」老婆はみじろぎもせず、小母さんは、「さ、立ちなさって」声は丁重だが、後へまわると羽交《はが》いじめのように抱きおこし、「いかねえよ、わしゃ」なにか早口でいったがききとれない、ひきずるようにして老婆を連れ出すと、「みな、心配してなさるがね、本家に顔むけできないこってね」「わしゃここで死ぬがね、御先祖様と一緒にいくこってね」「さあ、のりなせえて」口であらがいつつ、素直に老婆は自転車の荷台にすわり、「あの、連れてって下さい」小母さんが、自転車を押していく後から、私はかすれ声でさけび、小母さんはきこえなかったのか、どんどん闇に溶け入り、私は駈け出して追ったが、表へ出ると、もう自転車の姿はなく、とたんにぞっと立ちすくむほどの恐怖感が生れて、私は走った。途中、人声がするから立どまると、つけっぱなしのラジオだし、橋のたもとの警察署にも人の姿はない。三《さん》叉路《さろ》を左にいけば踏切り、その道をまっすぐいけば新発田《しばた》、疎《そ》開《かい》で来た時、織物問屋の娘と歩いたことがある。私は夢中になって、誰《だれ》でもいい人の居るところへ行きたくて、暗闇を突っ走り、やがて左右果てしなく広がる水田に出て、道は一本月明りに白々とのびているのだが、人家をはなれるのが今度はこわい。「お父さん」さけび、その声を追いかけるように、思いきって脚をふみ出し、もう一声さけぶと思いがけず「誰探してるね」近くで答えがかえり、「この先でねぇか、先きでよばわれば」眼をこらしてみると、畦道に五、六人がうずくまっている、いくらか人心地ついて、カラカラの喉《のど》につばきをのみこみ、そこから五百米ばかりいくと、今度は畦道にびっしりと、わずかな家財道具を中心に人がうずくまっていて、うっかり声立てると狙《ねら》いうちされるかの如く、声をひそめて、私はなんとなく広場でお祭のように、人がにぎわう光景を想像していたのだが、昼間の喧騒《けんそう》さとはまるでかわったしずもりよう。私も少しはなれて坐《すわ》り、靴を脱いで田の水にひたし、そこでようやく文子に気づいた。
気づいたが、到底もどる気力はない、もともとわかっていたことだった、はずみをつけて何一つ持たず駈け出したのは、いかになんでも身のまわりをととのえ、しかも文子を放置していくやましさに身を責められたからだった。乾パンもあるし、一晩くらい大丈夫、明日夜があけたら戻《もど》って、連れてこよう、そしてもっと先きの阿賀野川の堤防、堤防に防空壕を掘って文子と二人かくれよう、いや、いっそ汽車に乗って東京へ行こう、原爆にねらわれてるのなら、むしろ東京の方が安全なわけで、文子を背負い、こんな畦道で乞《こ》食《じき》みたいにうずくまっている人を尻目に、さっさとお父さんのもとへかえろう、そうすれば、文子のおできや、下痢もお父さんがすぐ直してくれる。気がつくと朝で、灌漑《かんがい》用の小川に顔を洗う人やら、石でかこって火を起す女、稲架《はさ》のかげで女が用足しをし、夜みた時より数はすくなくて、五、六十人。近くの住民らしく、家へもどっては卵など運んで、一寸《ちょっと》見《み》には遠足気分。
私は、街へもどるらしい男の後について、昨夜かけ出した道をゆっくりもどり、朝になれば、文子のことはうすれて、一人東京へかえりたい気持のみ強く残り、昼間みれば普段とかわりない家並みで、すでに太陽はじりじりと私の背中をあぶり、東堀りまでくると、家財心配になったのか、あらためて戸口に板打ちつける人やら、風呂《ふろ》敷《しき》かついだ人、私は機械的に織物問屋の裏口から土蔵へ入った、いったいなにか考えていたのか、いたとしても思い出せない、土蔵に一歩ふみこむと、パッと黒いかげが十近くはじけて、なにか赤いものがある、赤いものが文子で、はじけたかげがねずみ、文子の体がねずみにかじられていたとわかるまで、どれくらいの時間がたったろう、気がつくと、白山《はくさん》神社の境内の防空壕に私はうずくまっていて、ラジオが、大阪地方の爆撃をけたたましくさけび、私はきこえるはずもないのに、ヅシンヅシンとその地ひびきを肌《はだ》でうけとり、わなわなとふるえていた。
十五日の朝、疎開は解除され、文子の遺体は警防団の手で、荼毘《だび》にふされた。織物問屋の男は、文子の死よりも、土蔵を血で汚されたことをきらって、杉の葉をもうもうとくべ、あぶり出され逃げおくれたちいさいねずみ一匹がふみつぶされ、ねずみは血を吐きながら、眼を空にむけ、雲一つなく晴れわたった空の色を、ちいさく写していた。十六日に父がやって来て、委細を織物問屋の家族にきき、泣きつづける久子の髪を、一晩中なにもいわずになでつづけた。
「育児に自信を失った母親のノイローゼか」調べ室はくらく、刑事は辛抱づよく久子の言葉を待って、時おり、独り言をつぶやく。「動物だって、子供のために母親は命を捨てるものな、気がくるってるということか」万年筆をコツコツと机にたたき、お茶をのみ、「どうだ、お腹《なか》減ったろう」久子はみじろぎもせず、ただ深い息を吐く。
父はふれなかった、私も弁解はしなかった、十五年近く、私はもう自分で忘れていたと思いこんでいた、でも忘れたわけではない、伸《のぶ》子《こ》が、文子の年に近づくにつれ、ねむっている伸子の体から、黒いかげがはじけて、その後にただ赤いかたまりがあるような、片時も伸子のそばをはなれられず、しかも、伸子をみていると、あの膿《うみ》とかさぶたにおおわれていた文子の、痩せた顔が二重写しになり、泣けば、それはひもじさの余り抑揚のない悲鳴のような、文子のあの夜泣きときこえ、ねずみにかさぶたをはがれながら、文子は誰を呼んだのか、置き去られて、泣きさけびねずみにおそわれて、誰にたすけを求めたのか、私だ、私は自分だけ逃げ出し、あの時いっしょに連れて出ていれば、二日後に戦争は終ったんだもの、文子を殺したのは私だ、ごめんなさい。伸子の顔は、そのまま文子にみえた、眼《がん》窩《か》のぽっかり空いた、血まみれの文子に重なって、私は布団で必死にかくし、ごめんなさいとあやまりつづけ、そして。
「伸ちゃんを布団むしにして、どんな気持だった、苦しがってあばれたろ、まだ、あんたのその手に残っているだろう、もがいたちいさな体の感触が、ええ? 自首するくらいなんだから、気持はしっかりしてたんだろ、何《な》故《ぜ》やったんだ」
「ねずみになりたかったんです」
「ねずみ?」
「ねずみになってふみ殺されたかった、ガソリンかけて焼いて下さい、そうすればきっと」
刑事はなにをいい出したかと、久子をみつめ、久子は片手で髪をなでつけながら、「殺して下さいね」念押すようにいう。
ラ・クンパルシータ
九尺二間すなわち三坪の板じき板がこい、その南に面して六尺の高さに幅一尺細長い窓がひらき、窓には二寸間隔で表へ張り出した鉄棒がならび、天井は窓の上辺よりさらに二尺上、中央に五燭《しょく》の電球が金網に守られ、木目くろく模様浮き出したのは、雨《あま》洩《も》りの跡。
北西のすみに径一尺五寸、高さ二尺の桶《おけ》と、ほつれ破れた茣蓙《ござ》半畳分、古雑誌一冊が調度のすべて、桶の横に扉《とびら》、二寸の厚さをなお信じかねたか斜めぶっちがいに板切れが打たれ、その眼《め》のあたりの小窓は、いずれもタンク、チンデブ、メンタ、異名と武術の段位あわせもつ教官の、足音忍ばせのぞきこむ通称「エンマ口」。
「エンマ口」を内側からのぞきみても、扉の厚さとせまい廊下にさえぎられ、向いの部屋の入口左右わずかの壁がせいいっぱいの視野、体力のあるうちは、窓の鉄棒にすがりつき、鉄棒は外へ向けて曲っているから、手首折れんばかりにきしむけれど、とにかく懸垂の要領で外界をながめれば、眼と鼻に農家の庭があり、その先き水田が続き、末は淀《よど》の流れのものうい光にかぎられ、しかしここへ収容されて二週間もたてば、そのながめにあきるより握力がまず失《う》せて、窓はただの明りとり。
三坪すなわち六畳に、起きて半畳寝るのも半畳、いやそれさえ重なり合う十六人、上は十七歳下が十一歳、収容されてから長いのは一年半、その牢《ろう》名《な》主《ぬし》の貫禄《かんろく》は、なによりすさまじい痩《や》せ方《かた》で、尻《しり》をうしろからみれば年老いた象の皮膚の如ごとくしわが寄り、脚は膝《ひざ》小《こ》僧《ぞう》を節にした竹の棒にことならず、ただ足の甲だけはぱんぱんに腫《は》れ上って、その表面になめくじのはいずったような、ぬめぬめとにぶく光る紋様が交錯し、しゃれこうべに支えられて、これよりはちぢみようなき頭異様にでかく、「ケツの穴見えてるか、ケツの穴見えるようなったら死んでまうねん」ときおり、よろよろっと立ち上ってはズボンをずり下し、後を向く。
尻の肉が落ちきって、肛門《こうもん》あらわにみえたならば、栄養失調も最後の段階、半月のうちに死ぬと、誰《だれ》がいい出したのかこの収容所のいい伝えで、少年は他人《ひと》事《ごと》のようにたずね、一同だまっていると、「すまんな汚ないケツみせて」立ち上るだけの動作にも息を荒《あら》げ、たちまちくずれ落ち横たわる。
いちばんの新参は三日前にやって来たノッポ、留置場から鑑別所を経て、この枚方《ひらかた》の少年院出張所へ少年を運ぶトラックは、何時《いつ》も深夜に到着し、そのいかにも息ひそめた足どり、昂《たか》ぶりはしゃぐ教師のバ声、先住者いずれも身に覚えがあるから、闇《やみ》の中に眼覚めて、思うことはひたすら新入りのこの部屋に来ませんように。というのも、秋の夕暮れ、空のわずかな青さの消えるや否《いな》や消灯就寝、起きていればまだしも、横になればいやおうなく重なり合いけとばしあい、新参をおどかしてシャリまき上げる楽しみもないではないが、今はこれ以上の寿司《すし》づめごめんこうむりたい気持がつよく、しかし、よりによって「よろしくねがいます」扉から突きとばされるように入って来たのはえらいノッポ、闇になれぬからか、元来がのろいのか、びっしりつまった少年の二つ三つふんづけ、声荒らげればたちまち教師がとんで来るから、低くドスのきいたうなりをノッポ周囲から浴びて身動きならず、ようやく桶、実は便所と気づかず、その横のわずかなすき間に両膝をかかえすわりこみ、「俺《おれ》、映画とられましてん、裁判所出る時、ニュース映画うつされてん、どないにうつってるやろか」気楽なことをいう。「なにしよってん」ニュースにとられるくらいなら、よほどの罪かと高《たか》志《し》がきくと「井戸のポンプ盗みましてん」ノッポは答え、「大八車にのせていったら、輪アの跡ついててな、いっぺんパクられてしもたわ」「あほんだら、ごちゃごちゃいうな」天六のちんぴらで最年長のサクライ怒鳴りつけ、「虱《しらみ》おるけど堪忍《かんにん》してや」十一歳で梅毒淋病《りんびょう》もちのボーズがおどける、堪忍もくそもないもので、三日たたぬうち腫れも痒《かゆ》みも免疫のならわし、蚤《のみ》虱南《ナン》京虫《キンむし》もぞもぞうごめく感触こそむしろここではなによりのなぐさめ。
高志がここへ来たのは一月近く前、幌《ほろ》のついたトラックに乗せられ、見覚えのある守口《もりぐち》警察署を通りすぎた後、三十分ほどもゆられて坂道へかかり、鑑別所から同行の六人いずれも無言のままだし、つきそいの二人のお巡《まわ》りもだまりこくって、いったいどこへ連れていかれるかと不安になりかけたら急停車、とび降りると、夜目にはいかにもいかめしい門がギイッと開いて、奥に木造の古い建物があり、「二列横隊に整列、ぐずぐずするな」みるとトラックは計四台、いずれからも少年があらわれ、整列といわれても見当つかぬままうろうろするうち、ただもうその教官のそばにいたのが身の不運、にぶい音がして一人が棒のようになぐり倒され、とたんに一同電気かけられた如く、われ先きに列をつくる。
「番号」「休め」「気をつけ」と、戦争終ってまる二年というのに号令も教練風なら、三人の教官、胸を張っていかめしく構えたところはそっくり配属将校、「お前等《ら》、当分ここで鍛えたるよって覚悟せいよ、根性たたき直したるねんから、ええなあ」
一人一人の顔をにらみつけるようにいったのがタンクで、「裸になれエ」甲高く怒鳴ったのがチンデブ、いずれも浮浪児宿なし同然、垢《あか》と汗にまみれたそのパンツまではぎとられ、さすがに気恥かしく前をかくすと、「女のくさったみたいな真似《まね》するなア」棒の先きに、脱ぎ捨てたシャツズボン下着ひっかけて調べ、「荷物もっとる奴《やつ》は、一歩前へ」いわれてズックのボストンが只《ただ》一つ財産の高志、前へ出ると「何が入っとんや」「下着の替えです」他《ほか》にも説明しかねるガラクタは入っとるけど、教官はじろっと高志ながめただけでそれ以上は問わず、さし出された風呂敷《ふろし》き包み、手提《てさ》げ鞄《かばん》など五つの荷物は、そのまま没収され、点呼の後は裸のまま正座。
いずれもチンピラ、ヤサグレ、ノビ、カツアゲと、焼跡闇市わがもの顔にのさばり歩いたにちがいない少年達《たち》も、すさまじい教官の気《き》魄《はく》にのまれたか私語一つかわさず、板の間神妙にすわりこんで、周囲おぼつかなく見まわすが、およそ見当つかぬ建物、電灯の暗いせいもあるが高い天井に壁は板張り、部屋らしきものもみえず、教官のスリッパのみものものしく反響し、そこへまるで場ちがいな感じで、十二、三の子供がバケツを運び、列の端に置くと、「飯やで」さすがに一同ざわめくのを、せせら笑って奥へもどりかけ、ひょいと気づいて、バケツを正座した少年の列の手のとどかぬ場所へ置き直し、ふたたび廊下の闇からまぎれ出てくると、両手にアルミの椀《わん》をかかえている。
「なんせ残りもんやからな、文句いわんといてほしいわ」バケツからじかに椀で汁《しる》、わずかに米粒のまじったのを汲《く》み、手渡し終えると、まだ四分の一残っているのを、そのまま運び去り、飯やでとは大仰な、留置場におる時は、コッペ一つか麦飯スイトン歯ごたえある弁当やったのにと、お互い顔見合せやけっぱちですすりこむ。
「規則に違反したものは、懲戒部屋へ入る」朝の起床が何時で、作業開始が何時でと、タンクがえらの張った顔でいい、最後のチョーカイベヤの意味がわからなかったか、あるいはひょいとその口調に学校を思い出し、甘える気持が起ったのか一人が、「入るて、どんなとこですか」たずねたとたん、タンクはその少年の、やや延びかけた頭髪をつかみ、だだだっと足音すさまじく廊下の奥へ連れこみ、「ここだ、ここが懲戒部屋や、よう覚えとけよ」ガタンと扉の開く音がして、よほど怯《おび》えたのか、十五、六になる少年、幼児の如く泣き出し、すぐにその声はかすかとなって、それは扉の閉められたためとわかり、ものものしさもわかり、「逃走、反抗、命令無視、シャリのカツアゲ、私闘つまり喧《けん》嘩《か》やな、すべて懲戒部屋や、どや、入りたいか」列の中で抜きんでて大きい少年にタンク問いかけ、そのひきつったように首振るのをたしかめ、にやりと笑った。
「立てえ、服をつけて番号」後は五名ずつ引率されて、高志は渡り廊下の先きの棟《むね》の二階のはずれ、十八号室の前にまず立たされ、鍵《かぎ》をあける前に教官はエンマ口から懐中電灯で中をたしかめ、扉半開きにすると、えらい勢いで背中突きとばし、思わずよろめく後で鍵閉める重い金属音がひびく。この時はまだ八名で、いくらか部屋にもゆとりがあり、高い窓からの月明りに眼がなれるのを待ち体を横たえると、「虱おるけど堪忍やで」ボーズが、うれしそうにまず声をかけて来た。
落ち着くと空腹がこたえ、この三日ばかりは水の流れに身をまかせてるような有様、留置場から裁判所、鑑別所、そして正体知れぬこの雑居房、めまぐるしく移り変って、そのいちいちにおどろくより、あれよあれよと引きずられているうちは、むしろ空《すき》っぱら忘れていたのだが、高志の入ったのにいっこう騒ぐ気配もなく、なれているのかあきらめているのか、深々と寝入る先住者のたたずまいに、先《ま》ずはこれで一段落、当分はここで過ごすのかと納得がいき、とたんに腹が減り、腹が減るともはやなれたもので、うっと横隔膜に力をこめ胃袋収縮させ、食道から喉《のど》をはいのぼり、口の中にひろがる先きほどの汁の、すでに飯粒はとろけてあるかなき舌ざわりなつかしみ、ふと大根の臭《にお》いがして、ようやくあれは大根汁に残飯ぶちこんだものと納得する。
高志は牛のように、食べたものを反芻《はんすう》できた。空腹というよりは、現在、眼の前に食べるものがない、いや、口の中に食物があって、もぐもぐと咀嚼《そしゃく》し、その喉元過ぎる感触のあるうちは心おちつくが、しかしいくら食べても満腹感にはいたらず、山ほどのコッペを一人で平らげて、その最後の一つのみこんだとたん、たちまち身も世もない不安、脅《おび》えを感じる。その脅えをやわらげる働きなのか、午《うま》どしが牛のならい身につけ、そのはじまりは一年半ばかり以前、昭和二十一年初夏のことだった。
高志の通う大阪郊外の中学の、校庭のはずれの土手にねそべり、それというのも昼休み、百姓の子弟の多い同級生は、卵焼きタラコ塩《しお》昆《こん》布《ぶ》梅干し、なつかしい昼弁当を当り前のようにひろげ、高志のみはなくて、学校の購買部で売る一皿《ひとさら》十円の芋パンを買うそぶり、だがその金もなく、ひたすらにじみ上る唾《つば》をのみこみながら、空の雲をながめ、空の下には見渡すかぎりの水田、四角に区切られたそのところどころ白く光るのは、水を引き入れて田植えの準備なのか、旱《かん》ばつやら台風やら、稲作に関係あるニュースが、いちいち貧しい小作農のように気にかかり、ながめていると弁当喰《く》い終った連中の、中でも裕福なグループの、新学期から結成した楽団の練習、ぎごちないアコーディオンが、ザッツァッツァッツァと、耳なれぬメロディを奏《かな》で、トランペットがやや調子っぱずれな音を風に乗せて運び出し、聴くうちうっと胃袋がちぢみ上って、口の中魔法のように大豆のかけらが三つ四つ舌にふれ、これは、朝家を出る時、母がハトロンの封筒に入れて、飯がわりにはならぬが気休めにと渡してくれ、授業の間に一粒一粒あめ玉しゃぶる如く、それは一つに、大豆噛《か》みくだく音はばかってのことだが、それよりも口の中に食物のある感触をいとおしむ気持がつよく、大事に胃袋へおさめたもの。
半ばふやけた大豆をあらためて歯でくだき、香ばしい臭いを楽しみ、呑《の》み下《くだ》すと、ふたたびうっと、今度はさらに多量に逆流してきて、それは食道の形がそうなのか、流線型のかまぼこの型に、くだかれた大豆が固まっていて、これならばはっきりものを食べる実感が生れ、呑みこんでからは、二度の経験を生かして、あやふやな反芻をためし、もはや、唾《だ》液《えき》と胃液に消化されつくしたのか、その時はそれ以上なく、すぐに襲いかかる空腹感にまた身も心もなえ、あざわらう如く、アコーディオンは、ザッツァッツァッツァをくりかえし、後できくと、これは「ラ・クンパルシータ」タンゴの名曲ということで、それからは昼休みといえば、校舎の北のはずれ生物学教室で練習する楽団を、廊下からながめ、「アコーディオン弾いとる奴の指、えらい細うて女みたいやんけ」「太鼓たたいとる男な、闇成金の息子やねん、あいつが金だして楽器そろえよってんて」ねたみ半分に同じくのぞきこむ同輩の噂《うわさ》より、ラ・クンパルシータが待ち遠しく、見物を意識してか、たしかに男には珍らしくしなやかな指を、アコーディオンの鍵盤《けんばん》にあてがい、いやらしく気どった男の、その指がザッツァッツァッツァうごくとたんに、胃壁がひょいとちぢんで、脱脂大豆、芋の葉のひたし、干し芋と、せめてもの母の心づかい、ありがたく授業中たいらげたものが、口中にもどってくる。「どや、あんたも入らんか、ヴァイオリン足らんねん」まさか牛の真似するためとは気づかず、やがて闇成金の息子が、おうように声かけたが、高志にその気はない。ヴァイオリン弾くと松脂《まつやに》の粉吸いこんで、肺病になると、以前父に教わったことがあった。
父は船医で、南洋諸島へ通う貨客船に乗り組み、月に一度、阪神間魚崎の家へもどったが、そのつどパパイヤ、マンゴ、あるいは船員の釣り上げた鱸《すずき》を土産とし、たまにしか顔を合さず、父は肥《ふと》っていて無口だから面と向ってはなつきにくく、ようやく風呂《ふろ》へ入った時だけ、人がちがったように高志は父としゃべり、うんうんと父のうなずくだけでも、それがうれしくて、あることないことでまかせを口にし、国民学校の対校角力《すもう》試合で五人抜いたこと、三宮《さんのみや》へ映画観《み》に行って不良にからまれ逆に投げとばしたこと、喧嘩の弱い高志の夢物語りをつゆ疑わず、いつもはなさぬ黒い鞄の中の、外国のホテルの名前の入ったルーズリーフの日記に、克明に記していた。
甘味食品が姿を消してからも、上海製《シャンハイせい》、舟に乗った青年を波止場で女の手をさしのべ迎える画のついたチョコレートやら、飛行士のしゃぶるという航空あめ帰国のたびに持ちかえり、他の子供よりは恵まれていて、昭和十五年、紀元二千六百年記念祭の時には、はじめて父は一月余りの休暇をとり、町内の人と共にめでためでたの若松様よと、揃《そろ》いの浴《ゆか》衣《た》に巨体包んで、思いがけず器用に踊り歩き、高志は眼をみはったが、しかし他の子供のように父にものをねだることは妙にためらい、ひたすら母にのみ甘ったれ、昭和十八年の暮、「しばらくお父さん帰りはらへんねんから、なにか買《こ》うてもらいなさい」あるいは母は、激しくなる一方の戦いに、一枚下は地獄の輸送船勤務、父の殉職を予想していたのかも知れず、高志をそそのかし、おずおずとねだって買ってもらったのが二円の電気モーター、その翌年春、父はトラック島近海で、船と共に沈んだ。
「お父ちゃんは戦死なさったのも同じことです、高志は一生懸命勉強せなあきませんよ」黒いリボンかけられた父の遺影の前で母にいわれ、しかし高志は大して悲しみも感じなくて、肥った父ちゃんは狸《たぬき》に似とる、眉《まゆ》毛《げ》がうすくていつも墨で描く母ちゃんは狐《きつね》に似とると考え、いつぞや省線本山駅《もとやまえき》の近くに蝉《せみ》をとりに行き、駅から降り立った男の肥った後姿を、父かと思い、しかし、父がいるわけはなく、半信半疑で後からついていって、その男の家へ入るまで見とどけ、よくみればたしかに別人で、このことを冗談のように母にいったら、「お父ちゃんをみまちがえる子オがどこにある」えらい怒ったが、高志にとって父親はそばにいれば頼もしく、そのかえりはさまざまな土産物の期待もあってうれしいにちがいなくても、いざ南洋の海の藻《も》屑《くず》と消えたときかされ、この時、高志は中学一年、校長が朝礼で、高志の父の殉職を生徒一同に紹介しても、気恥かしいだけ、年にふさわしい気負いも悲しみもまるでなかった。
母も長年の、半ば寡婦《かふ》ぐらしが身についているのか、隣組の世話係防空班長と、家事の手すきなだけに引き受け、また魚屋八百屋乾物屋にちゃっかり手をまわして、人より先きに配給の品を確保し、「ほんまにみんな欲どしい、私が買物にでかけると、隣近所ぞろぞろついてくるねんから」高志にぼやいたが、夜は灯火管制のくらい明りの下で、隣組のたれかれに頼まれたもんぺやら婦人会のうわっぱり、内職の手を休めず気丈な性格。
高志がはじめて空腹をしみじみ悲しく思ったのは、いや、学校から帰るなり「お母ちゃんなんか」とわめき立て、これまでは眼《め》くらむほどのすきっぱらであっても、コッペやら塩むすびが必ずあり、家へもどれば何か食べられると信じきっていたのに、石炭は買《かい》溜《だ》めで半噸《はんトン》近く縁の下にあったが、まさかこれで飯を炊《た》きもならず、炊事用の燃料補給に、六《ろっ》甲山《こうさん》へ出かけ、立木の伐採はならぬが枯木は拾ってもいいと、二宮金次郎よろしく背中にしょってもどり、とにかく家の手助けしたのだから、さぞやたらふく食べられるはず、「お母ちゃん、なんか」さけんだのだが、出されたのはどんぶり鉢《ばち》の底に少量の、いった脱脂大豆。「お腹《なか》減ってんねん、御飯ほしい」高志の抗議に、「そんなこというても、配給おくれてんねんもん、明日、あんたお弁当もっていくでしょ、そのお米しか今ないのよ」無表情に母がいい、住吉川《すみよしがわ》の堤防、次第に肩にくいこむ重みに耐えつつ、ひたすら思いえがいた食物の夢が瞬時に消えて、無性に情けなくなり、涙がにじみ、「なんやの、男がお腹減ったくらいで泣くもんやない」母がしかったが、こらえようなく鼻水流れ出《い》で、表へ出ると、同じ町内の中学生が「サイパン玉砕やて」雲一つない七月の空であった。
その年の師《し》走《わす》、ほんの一片の鮭《さけ》の配給に、母はいそがしいからと高志を市場の、長蛇《ちょうだ》の列にならばせ、いつはじまるとも終るとも知れぬ買物に、はじめは読みかけの講談本が気になったが、やがて寒さと飢えにまた涙にじみ、ある時隣りの町内で雑炊売ってるときいて、鍋《なべ》もってとび出したら、一足ちがいで売り切れ、国民学校当時同年の女学生が、誇らしげにどすぐろい反吐《へど》のような雑炊ささげてもどる姿ながめて涙が浮かび、もともと気が弱くて泣虫の高志だったが、すでに十三といえば少年通信兵戦車兵、さては陸軍幼年学校へ入る者もいるというのに、異常なほど空腹にたわいなく泣き出す。
「お父ちゃん、ちゃんと貯金しててくれはってんから、あんた学校にはいけるとこまでいきなさい、心配せんとね」母はいい、たしかに銀行には住友神戸三井八千三百円、六千二百円などの残額があり、他に保険やら戦時死亡手当て、殉職見舞金で、銭はあったし、母は大黒柱失って後家のふんばり、ますます気丈に防空訓練など先頭に立って梯《はし》子《ご》にのぼり、火はたき振りまわし、買出しの先頭に立ったが、なんせ敗色濃厚となって、闇《やみ》も次第にままならぬ。しかし高志は逆に、建物疎《そ》開《かい》で勤労奉仕すれば、昼には色の黒いコッペ特配となり、三時には人工甘味の寒天がもらえる、農村の、出征兵士留守宅手伝いに出動すれば、農家によって差はあるけどわるくてむし芋、当ればおはぎにありつける、戦局非になればなるほど、思いがけぬ食い物に恵まれ、同じ学年の中には、コッペ特配をあてにして弁当を持たず、兄弟にまわすものもいたが、高志は一人っ子の気楽さ、まさか雑炊持たすわけにいかずに、自分の昼を、母が節約しての弁当と知りつつ、特に後めたさはない。
小学校の時から、まず上にのせられた海苔《のり》やつくだ煮で飯を食べ、卵焼き蓮《はす》の煮つけ塩じゃけなどのお菜を、昼休み中ちびりちびりと食べる習慣だったが、コッペも一度には腹におさめず、ポケットからひそかにむしりとって作業中も口を動かし、常に食べていなければ口さみしい癖は、この頃《ころ》から高志にあった。
空腹が、さらに激しくなったのは昭和二十年三月に入って、空襲が昼夜わかたず、ついにその十七日、西神戸が焼かれ、神戸駅前に駄菓子《だがし》屋営む親戚《しんせき》が、魚崎の家にころげこみ、最初の戦災だったから、罹《り》災者《さいしゃ》特配も豊富で家族五人に米八升乾パン二十食分鮭牛野菜の缶《かん》詰《づ》め調味料、他に毛布キャラコ下着もあったが、これは高《たか》志《し》の気をひかず、見なれたゴミ入り玄米とちがってまっ白な純綿の米、広《ひろ》口瓶《くちびん》に入れて、駄菓子屋一家は、それが罹災者の特権であるように、客用布団《きゃくようぶとん》を勝手にひき出し、母の着物を無心し、しかも食事は、庭に七輪もち出して自分達《たち》だけの飯を炊く、高志の朝は代用食の馬《ば》鈴薯《れいしょ》で、それも日の経《た》っているせいか、一つ二つ口のひん曲りそうにえごえご《・・・・》したのがあり、そのすぐかたわらでフツフツと煮こぼれる米の匂《にお》い、「缶切り貸してくれへん」焼けてさばさばしたという風の、元市バス車掌の娘、母が渡すとキイキイ音立てて牛缶を開け、お愛《あい》想《そ》にも一口いかがとはいわず、一家睦《むつ》まじく純綿の飯をほおばる。
この時にも涙がこぼれ、母はさすがに必死に怒りおさえつつ「オバサンの家《うち》焼けてしもてん、気の毒やねんから我慢し、オバサンあんたに前親切にしてくれたやろ、あそびにいったら、あんたの好きな玉葱《たまねぎ》のバターいためつくってくれたいうてたやん、わるう思うたらあかんで」それにしても子供の前でみせつけんでもええのにと、腹にすえかねたか夜はとっときの油で天《てん》婦羅《ぷら》をあげ、となると親戚はいささかのこだわりもなく「こらごちそうやな、一ついただきまっせ、みんなよばれなさい」図々《ずうずう》しくつまんで、あまりの口惜《くや》しさに高志は「ぼくいらんこんなもん」必死の抗議だったが、通じる相手ではない。
焼跡整理にかり出され、昼は所轄《しょかつ》警察署の講堂、殉職警官の白く焼けて色のかわった鉄かぶとや折れ曲ったサーベルの飾られた中で、もはや特配はなく、白湯《さゆ》だけもらって干し大根大豆芋のまじる弁当、夜間空襲にそなえて前夜炊いた飯は、春の陽気にはやくも糸をひき、「米の腐ったのでは腹こわさん」と、母の気やすめは余計なお世話、いさいかまわずむさぼりくって、三時の寒天を待ちかね、石屋川そばの公会堂で、真黒な海宝麺《かいほうめん》、箸《はし》にもフォークにもかからず、ただ青臭いだけのそれを隔日に売るときけば、ドロップの缶の貯金箱から五十銭玉くすねて、ずるずるとすすりこみ、六甲山ケーブル降りたとこの茶屋で汁粉売っとると耳にすれば、半日がかりでえっちらおっちら登って、茶っぽい色の甘くもないそれに舌つづみうち、山登りとひきかえのこの汁粉ではかえって腹減るだけだが、とにかく口の中に何かを入れていたいと、それだけがのぞみ。三寸ほどの砂糖きび太さは万年筆くらいで十本五十銭、噛みしめるうち、かすかな甘さが口にひろがり、また沈没した船から引きあげた干しバナナ一本二十銭、これは半ばくさっていたが舌に腹かえられず、母の眼《め》を盗んで、釜《かま》の飯、わからぬようにしゃもじですくうつもりでも、麦粟《むぎあわ》まじりがこらえきれぬうまさで、気がつくともともと二人の二食分、半分以上食べてしまったり、道ばたの家庭菜園のトマト、胡瓜《きゅうり》まだ指の先きほどのを盗んだり。母は食べ盛りの高志のよこしまな行いをいっさいとがめず、げっそり減った釜の飯ならば、「お母ちゃんは、昔もう食べたいだけ食べてんから、あんたおあがり」自分はひかえて、盗みぐいばれている、自分のために母が食事をぬくと知りつつ、罪悪感は高志にまるでない。
五月に入ると、川西航空機の工場に爆撃があると噂が流れ、それは撃墜されたB二九飛行士の所持する書類に、書いてあったそうで、なにより証拠に、阪神国道西へむけておびただしいトラックがジュラルミンやら、生ゴムの固まりを満載して疾走つまり避難、川西といえばすぐそばだから、母はその三日前から加古《かこ》川《がわ》に着のみ着のままで疎開、高志は学校があったから、その頃、篠原《しのはら》の空家に住みついた駄菓子屋の親戚に身を寄せたが、修学旅行以外に、他人の家に泊ったのはこれがはじめてで、寝つかれぬせいもあったが、寝られぬままに考えることは、魚崎の家の床下防空《ぼうくう》壕《ごう》に、母の隠していた乾燥卵、干《ほ》し藷《いも》、梅酒、メリケン粉、どうせやられるくらいなら食べてしまえと、まだ本格的空襲を知らぬから、盲蛇《めくらへび》に怖《お》じずで、翌日はまた強制疎開の勤労奉仕その帰り我が家へもどり、ひんやりと冷たい壕におりて、これまでかずかずつまみ喰いはしたけれど、火を必要とするものには手が出ず、今日はおおっぴらに新聞紙に硫黄の付け木で火を移し、渋《しぶ》団扇《うちわ》で炭をおこし、みようみまねのスイトンやら卵焼き、流しの下のカメに塩は沢山あって、ただもう質より量の大盤振舞い。
夜、さすがに気味わるく、隣近所も女子供はすべて親戚縁者をたより、ひっそりと表を閉じて物音一つせず、懐中電灯たよりに箪《たん》笥《す》、違《ちが》い棚《だな》の戸袋、押し入れ、鏡台を暇つぶしにのぞきまわると、廊下の半間の押し入れから非常用なのか米二升あらわれ、たまらず飯ごうでかしぎ、半煮えのその六合入るというのを息もつかずに食べ終え、この時はさすがに天下とったような満足感で、進路はるかに波また波の、西は夕焼け東は夜明けと、座敷の中を踊り狂った。
五月十一日は朝早くに警戒警報、気にもとめず上筒井の中学へ登校し、朝礼の始まる前に空襲となり、裏の運動場にある横穴へとびこむ暇なくB二九空をうめつくして、講堂の前の壕へ入り、ここも寿司《すし》詰めでキャッキャッとふざけるうち、爆弾の落下音と爆発音絶え間なく空気引き裂き、それまで遠くに落ちる焼夷弾《しょういだん》の音にはなれていたが、まるで桁《けた》はずれ、壕は今にも崩れるかと思うばかり激しく揺れ、教わった通り、眼耳鼻を指でふたぎ、口を大きくあけて、どじょうのように各自少しでも下へもぐろうと頭をねじこみあい、その上にバラバラと土くれ小石が落ちて、揺れが止《や》むと、お互い顔見合せ、口をきくものまして表の様子たしかめる勇者なく、「奉安殿の御真影大丈夫やろか」ようやくしゃべったのは、三月十七日の空襲で湊川《みなとがわ》神社の焼失を知った時、泣いて口惜しがった級長で憂国の志士風に重々しくいう。
「空襲は東神戸や、灘《なだ》、住吉《すみよし》、御《み》影《かげ》、西宮《にしのみや》がやられとる」配属将校の甲高い声がひびき「三年生、いつまでかくれとるつもりや、出て来《こ》い」まだドスンドスンと遠去かったとはいえ、無気味に爆発音のつづくのに、四、五年生は工場へ動員されて、節電日しか登校せず、高志達《たち》が最上級、しぶしぶ壕を出ると、校庭のヒマラヤ杉《すぎ》のてっぺんに、電探妨害用錫《すず》の細長いテープ、からみあったまま落ちたらしく、クリスマストリーの雪にまがうばかり。
大空襲につきものの、入道雲のような炎上の煙はなく、まず校舎を巡回して、不発弾でもおちてないか調べ、在校生全員点呼すれば、横穴のくらがりで寝こんでしまった一年生一人の他《ほか》はつつがなく、東神戸に家のある生徒は即時下校を命ぜられ、他は予定通りの勤労奉仕。
東へ東へあわただしくトラックは走るが、阪急、省線、阪神いずれも不通で、同じ方向の友人と、大して心配するでもなく、通りすがりの電柱にはられた号外の文字拾い読んで「二百五十キロ、おとしよってんて」「二百五十キロいうたら、どれくらいの穴あくねんやろ」「五十ポンド爆弾いうのはみたことあるけどな」五十ポンドは昭和十九年暮、元町一丁目のお菓子屋におち、家屋半壊、二人を殺し、その弾の破片が宝物のように珍しがられ、それは鮒《ふな》をつる時の、鉛の重りに似ていた。
国道を石屋川に近づくと、はっきり地表をはう黒煙がみえ、川の手前一町ほどの、山と浜側は材木の山、強い酢の臭《にお》いがするからみると看板だけ残った酒店だし、ごうごうと一軒だけ炎吹き出しているのは、木炭に火のついた薪《まき》屋《や》、爆弾で、積木こわしたようなあんばいでは、火の移りもおそいらしく、周囲には移らぬもよう。
「みてみいあれ、なんや」なんやといわずとも、人間の死体で、血《ち》溜《だま》りの中に腸か胃袋かごちゃごちゃぶちまけて倒れとるオッサン、子供と手をつなぎ、その子供は人形しっかりにぎったまま、どこといって怪我《けが》もみえず、ならんでねころんどるオバハン、さらにすすむと、山より浜側が一面の材木、よくみればいびつに曲ったまま家の面影《おもかげ》とどめるのもあるが、屋根庇《ひさし》柱門口満足なのはまず見当らず、ところどころ怒り狂ったように音たてて焔《ほのお》が吹き上がり、靴《くつ》がころがっているから蹴《け》とばすと手ごたえあって、つまり中身がつまっていたり、なにをどうこすったのか、大きな刷《は》毛《け》で描いたようなはや黒ずんだ血の痕《あと》、道路一面にたたずむ大人は、呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいて、国道の街路樹の根方にうずくまる老《ろう》婆《ば》、へたりこんで「もうあかん、全部あかんて」誰《だれ》かにいいきかすようにくりかえす老人、子供は元気で、材木の中から赤いねんねこ引きずり出し、それだけ持って出たのか教科書を、道ばたにならべ、ある一画にはナワが張られ、不発弾が井戸に落ちて、立入禁止、ある町内では生埋めの発掘に警防団がスコップふりまわし、どこまでいっても、焼夷弾とはまるでおもむき変った戦災のながめ。「こら、やられとるで」高志は気楽にいったが、友人二人、一人は薬局一人は国道に面した煙草《たばこ》屋《や》で、いずれも家族が残っている、歩むにつれて沈痛な表情となったが高志だけは、「戦災なったら特配の米もらえるし、乾パンかてくれよる」と胸算用。
そうなったら、あの駄菓子屋の家で、みせびらかしたろか、二日前泊った時は、つまみ菜ばっかりの雑炊食べとったが、そのわきでまっ白な純綿のにぎり飯、なんぼでも食ったろうか、家がつぶれた心配より食物の期待が大きく、だが魚崎の近辺、爆弾は二町内に一つのわりで、高《たか》志《し》の家もやや傾き、便所の朝顔、台所の流しすべてはずれ割れ、もちろん硝子《ガラス》は破《わ》れ、家中、どこから出たと思うほどの埃《ほこり》がつもっていたが、他は無事。
そのあたり二百五十キロどころではなく、工場を狙《ねら》った一噸《トン》爆弾のそれだま落ちて、不運な一画は五十米《メートル》四方が跡形なく崩れて、その中央に直径二十米ほどの穴があき、地下水がたまっていた。電気も水道も途絶し、母はすぐ戻《もど》ったが、加古川の、父の友人である医者、当人は出征中だがその妻の実家に、家族引き揚げていて、母にも是非来るように、せめて布団衣類の疎開をとすすめられ、魚崎の家を直すにも資材人手はなし、雨《あま》洩《も》りはまだしも戸のあけたてさえ女手にままならぬ有様、五百円に酒代百円つけてようやく馬力を頼み二日がかりで家財道具、加古川へ運んだが、箪笥の母の着物父の洋服三分の一近く抜きとられ、それに文句もいえず、高志も加古川へ移って、一時間半の道のりを神戸へ通う。
加古川はさすがに田舎で、その堤防に本土決戦のため温存の飛行機五、六機ならんでいたが、懐中電灯の電池、写真のフィルムも売っていて、川を渡ればまったくの農村、母はこまめに買出しにいき、どういう手づるか三食純綿の飯にありつけ、あてがわれた中庭の土蔵の中で、もう明日よりも今日の食べる楽しみを考えてか、高志のひっきりなしのつまみ喰《ぐ》いに文句はいわず、やがて神戸二回目の空襲は、のんびり射《う》ち上げる高射機関砲の煙、入道雲のような炎上のしるし、対岸の火事とながめ、この時、魚崎の家も焼けたが、残した家財焼けても転出していたから罹災証明はもらえず、借家だったからいっそさっぱりした思い。
学校も焼けて授業も勤労奉仕もなく、毎日、加古川の川原へ出ては草の中に寝ころび、気まぐれに艦載機は飛来したが、偽装網に欺《あざむ》かれるのかバカにしたか、ずんぐり不《ぶ》恰好《かっこう》な温存機には手をふれぬ。
八月十五日になんの感慨もなかったが、敗戦はまず、お国のために戦死同様の、父の評価下落にあらわれ、父の友人の妻はなにもいわぬが、その実家の者が「うちの娘の主人も、まるで音《おと》沙汰《さた》ありませんのや、こんまい子オ二人もかかえて出戻りされては、なんし働きのない老人でっさかい、どないもなりまへん」からはじまって、近くにひしめきあう焼け出されの図々しさをいい、闇《やみ》値《ね》釣《つり》上《あ》げたの、野荒しをするの、町の方でも制限してもらわな元から住んどるものが迷惑やと、実の娘にまずあてつけがましく、なれあいの悪口をはき、「焼け出されはかえってもらおか、ふん」こぼしつつ、母をじろりとながめ、これはきかぬふりもできたが、農家の態度ががらりとかわって、その理由はたしかに都会から逃げ出した罹災者の、見さかいない買出しにあり、米はおろか腐った芋さえ売り惜しみ、となると農村地帯をひかえ自給自足を県で見こしたのか、たちまち遅配となり、たちまちふすままじりのすいとんに逆もどり、その七輪にくべるわずかな木片にも困って、加古川へ流木を探すしまつ。
「守口《もりぐち》の叔父さんとこいこか」灯火管制は解除されたが、土蔵のくらい電気の下で、いちどたらふく飽食の味知っただけに、涙こそ出ないが、空《すき》っぱらが四六時中骨身にしみ、母の言葉に、どこかへ場所かわったら、なにか食物にありつけるようなのぞみもあり、「守口いうたらどこらへん?」すっかりその気になってたずねると、「戦争前やったかな、人殺しあって、きいたことあるねんけど、お母ちゃんもよう知らん」もはや眉《まゆ》に墨をひかず、すっかりふけこんだ表情で、心細そうにいう。「大丈夫やて、ぼくついてるやん」高志ははしゃいでいい、「ほんなら、明日、お母ちゃん、たずねてみるから、あんた、荷物造ってくれへんか」
復員で山陽線は寿司詰め、高志は一度ふりおとされそうになり、それを大《おお》袈裟《げさ》に話したら、母はひどく心配して中学はまた焼跡整理だからしばらく休むようにいい、大阪まではどのみち二日がかり。また荷物整理すればなにか食物がでてくるかも知れず、母の朝早い出発見送るや否《いな》や、行《こう》李《り》布団洋服箱茶箱をかきまわし、銀行の通帳株券、それに父の秘蔵の掛軸あらわれたが、食物はかけらもなく、ぐったりして、どうせ荷造りするなら、がらくたばかりの蔵の中、探せばなにかあるか、あれば盗んでやれと調べたが、木像と菅笠《すげがさ》、それに娘の読んだらしいリンゴ箱いっぱいの古雑誌、中の家庭医学宝典拾い読んで子宮やらラッパ管の文字に胸おどらせ、習字の手本のような一冊は、大きな字で、「宮様童謡集」ひろげると、「秋の夜空を雁《がん》が飛ぶ、宮君御殿でそれみてる」と、七五調の歌。
少年院出張所の朝は、タンクの甲高い「起床」の声にはじまり、いわれずとも宵《よい》のうち早々に寝かされ、うっかり上半身起したところエンマ口から発見されたりしたら、たたきのめされる、仕方なし毛布一枚敷いただけの板敷き、骨のきしみに耐えつつ横になっているのだから、一同たちまちはね起きる、「便器出せえ」号令がかかり、新参の二人が、四分通り入った桶《おけ》を、ひしと抱きついてかかえ上げ、扉《とびら》の前に立ち、その他は四列縦隊、エンマ口から教官まずのぞきこみ、異常の気配ないのをたしかめて鍵《かぎ》を開け、「はようせんかい」たちまちドタドタと桶の二人駈《か》け出して、その前後を、廊下はさんで二十の同じ部屋のいずれからも二人とび出し、廊下の端の流し口へどっと捨て、また一散に駈けもどる、その時だけ、少年の年齢にふさわしい活気がうかがえるので、点呼すめば、また一同のろのろと壁にもたれてすわりこみ、いかなる気まぐれか時間不規則な食事待ち。
カチャカチャガラガラと食器のふれあう音が近づき、担当は入所の夜に配った少年で、お供のように教官二人従え部屋をまわり、翌日からは雑炊ではなく、ヒエ八分麦二分の飯かるく湯呑《ゆの》みに一膳《ぜん》それに塩汁《しおじる》、週に一度、ドブイタと称する昆《こん》布《ぶ》の煮たのが一枚。新参のシャリは、まずサクライが半分ピンハネときまっていて、それ以上は横車押せぬ。いかにサクライが天六の出入りで、三国人の背中をたたき斬《き》り、はずみの余り自分の足もざっくり割って、いまだにビッコひく古強者《ふるつわもの》とはいえ、最年少のボーズにしろ、ぎりぎり決着命の綱のシャリをそうそうまき上げられては、いつ寝首かかれるかも知れず、いや教官に告げ口されたら、たちまち懲戒部屋、気候よろしい時分はまだしも、冬、ここへ裸でほうりこまれると、たいてい肺炎を起して死ぬと、これも言い伝えであった。
シャリの後は小荷物につけるエフの、その札の穴に細い針金を通し、十枚一組にまとめる作業、高志は十六歳だったが一つ下に年齢をいつわって、これはサクライを刺《し》戟《げき》せぬため、サクライは同じ年頃《としごろ》の高志を迎えると、腕力であからさまに屈服させることは教官の手前かなわぬから、「お前、メンタやったことあるか」「ショージョのあしこ指つっこんだことあるか」女の体験くらべることで優越をたしかめにかかり、高《たか》志《し》はその意をむかえるつもり、中学時代の軟派が、そこには指二本入ると話していたのを思い出し、答えると、「あほんだら、ショージョはな、一本もようやっとしか入らへんねんで、二本入ったらショージョちゃうがな」安心したようにいい、松島飛《とび》田《た》であそんだ話、兄貴がバシタ持てとすすめた話、兄貴はライト級の拳闘《けんとう》選手で、白鳥というごっつう強いのと試合をし、逆転KOした話、その兄貴に拳闘習《なろ》うた話、まず左で相手の顔を狙い、向うが防ぐすきに右を土手っ腹へ打ちこむ話、ここでは自分が頭であると示威するようにしゃべりまくり、高志の後、続々と増えた新入りのつど、同じくくりかえしたが、そして誰も異をとなえなかったが、この九尺二間の檻《おり》の中では、いくらサクライが肩いからせても通用せず、むしろ教官も寝たままをゆるす一年半の年期つとめるイマイチの一言一言が一同を支配する。
サクライも用便の際は、神経質に尻《しり》を茣蓙《ござ》でおおい「おれのんはちょいと臭いけど、堪《かん》忍《にん》せえや」わざと豪放にいっても、この上なく恥かしがっていると誰にもわかり、それにくらべるとイマイチはなにもかくさず、水のような便を二度三度日にくりかえし、そのつど一同に尻をむけ「ケツの穴見えてるか、見えたらもうじき死ぬねんわ」一面赤く湿疹《しっしん》がくずれただれ、糸の如《ごと》きものはいまつわらせ、たしかにそれとおぼしき形もみえたが、誰もそれを指摘はせぬ。もともと枚方《ひらかた》出張所は未決監に当るところで、ここに収容するうちに、少年の罪状と適性にふさわしい施設をえらび、送るための中継所、だがみかえりの塔にしろ他の少年院にしろ定員をいいたて引きとらず出張所にたまりたまって、増員は月ごとに申請されるから、その間に収容者が増えれば、一人頭の飯の量は減る道理、イマイチが来たころは一部屋二、三人で、食いきれぬほどの飯の量だったといい、「でもよう、ようけおるほうがさびしのうてええわ」サクライが新参を迎えて、また飯が減ると文句つけると、こういってとりなした。
イマイチが栄養失調末期なら、サクライは刀創《かたなきず》、ボーズは淋病《りんびょう》梅毒二つながら街娼《がいしょう》にいたずらされて患《わずら》い、ちいさなチンポにぎりしめては、膿《うみ》を押し出し「痛いよう、痛いよう」妙に力のない声でべそをかき、サクライがわけ知りぶって「そら、とれてまうど」ひやかすと、「ほっといてんか」くってかかるようにいい、壁に向いてチンポをいとしげにかばう、高志は蕁《じん》麻《ま》疹《しん》で、日に一度、思わず体二つ折りになるさしこみが訪れ、その後、全身に赤い斑点《はんてん》を生じ、これは去年の秋から起ったもの。エフの針金で、器用に草履やら自転車を造るベンジンは、南の麻雀屋《マージャンや》でゲソをかっぱらいとっつかまり彼は蓄膿症《ちくのうしょう》、ノッポは頭が白癬《はくせん》、いずれもどこかを病む手合いばかり、昼日中は千束エフをつくらんと、出来るまで飯をのばされ、しかも消灯にいたれば、そのまま抜きとなるから、必死で針金ととりくみ、あまりの単調さに「秋の夜空を雁がとぶ」高志がつぶやいたら、「お砂糖は白く甘くておいしくて、お口の中でとけるものなり」いつもは無口、高志より少し早くここへ入った同じ年頃の少年がいい、たしかにその唄《うた》も、童謡の宮様の本にあった、おどろいて、というのも他の少年はせいぜい高小卒、高志はまがりなりにも中学四年修了し、童謡の宮の歌を知っているからといってどういうわけでもないが、ふとなつかしく、「あんたなにしてん」新入りは古参にむけて裟《しゃ》婆《ば》の罪状を報告するが、古参ははったりかます時の他はパクられた理由をいわず、またたずねても無視されるのがおちだったが、つい高志たずねると、「南のホテルでな、ビールの横流しばれてん」気軽にいい、進駐軍専用ホテルのボーイつとめるうち、バーテンにそそのかされて、ビールを持ち出し、半年はつつがなかったが、仲間に密告されたそうな。
「親《おや》父《じ》、競馬気違いで、箪《たん》笥《す》にいっぱい、はずれた馬券あったわ」
「お父さんおんねんやったら、迎えに来てもろたらええのに」
「メチル飲んでいてしもた、お袋、働いてるけど、こら厄介《やっかい》払いした思うとんのちゃうか」
収容される少年は増えるばかり、ノビ、カッパライ程度なら、保護者が引きとりに来れば出所でき、補導も感化もここではまず考えられぬから、教官の中では比較的やさしいメンタが「どや、遠い親戚《しんせき》でもおらんのか、ここへ来てさえくれたら、出したるで」十八号は比較的微罪の者を集めたらしく、一同の顔ながめるたびにいった。
「気イつけよ、ほんまやったら作業中の私語あかんねんで」高志と、強い近眼の眼鏡かけた少年、タアボウと呼ばれていたが、二人したしげに語るのをサクライ見とがめていい、高志口をとじたとたんに、自然と反芻《はんすう》が起り、針金を白い紙の孔《あな》に通しながら、ついもぐもぐ頬《ほお》をうごかすと、「なんや、お前、なに食うとんねん」食うときいて、一座びくっと高志をみやり、「別に食うてないよ」「うそつけ、なんや知らんうまそうに食べとったやないか」とはいうものの、サクライにも、三食一粒も残さぬ高志のくいっぷりはわかるし、入って二日三日ならまだしも、こう長くなっては、表から持ち込んだわけもなく、見当つかずに、それがお得意の、下からのぞき上げるようなガンヅケをし、高志うす気味わるくなって「俺《おれ》、いっぺん食うたもんが、またここまで出て来よんねん」喉仏《のどぼとけ》を指《さ》した。
「出て来るて、どないなるねんな」しつこくサクライたずねるから、実験してみせ、もはやドロドロに溶けたヒエと麦の反吐《へど》を舌の先きにのせて、口を開き、サクライのぞきこんで「汚ない奴《やつ》やな」顔をしかめたが、誰にもこの二度三度味わう口唇《こうしん》の楽しみはわかるから、「どないするんやて」ボーズが、腹押さえながらたずねる。
どうするときかれても、ノッポが耳うごかしたり、サクライが肩の骨ポキポキならすようなコツはなく、ただあのザッツァッツァッツァと、ラ・クンパルシータ耳にしたとたん、ぐっと胃から口へこみあげて来ただけで、「そやなあ、腹にこう力入れて、ウッと」入所してはじめて、人より優位に立ち、調子にのって、何度もゲッと口にもどす、「ラ・クンパルシータという唄知ってるか、あれきいたらこないなってんけどな」それと反芻に因果関係ないとわかってはいるけれど、ちょいと神秘めかしていう。するとタアボウ、元ボーイだけあってきれいなハミングで、ラ・クンパルシータのメロディを奏《かな》で、サクライもボーズもノッポも、魔法の呪文《じゅもん》きくように、タアボウの口もとながめ、興にのったかタアボウは、両手を、楽団の指揮者みたいに拍子をとり「タラララーラータララ、タララララーラ、タララッタッタッタッ」浮かれ出し、高志はアコーディオン弾いていた男の、白く細い指、闇成金《やみなりきん》の息子のあたらしい金ボタンついた学生服、ハトロンの封筒にほんの少しやけど入れてくれた大豆、一日過ぎるごとに、田に水が入って、鏡のように白く光る部分が広がり、それをながめていた時の、空《すき》っぱらにしみこむ草いきれ、ツァツァツァツァッツァー。
敗戦の年、九月半ばに、守口で古本屋いとなむ叔父をたより、その近くに六畳三畳以前は飯場の事務所だった小屋を借り、高志は神戸の中学へ通ったが、片道二時間近くかかるから京阪沿線の中学に転校して、母は叔父の世話でまず近くの靴下《くつした》工場へ勤めたが、ここはすぐにつぶれ、松下電器乾電池工場の寮母となり、この年は、たちまち近くの千林《せんばやし》に闇市が生れて、戦時中夢にもみることのなかったチョコレート砂糖チューインガム牛肉から、米メリケン粉うどん素麺《そうめん》、どこからあらわれたかと思うほどで、値段は高いが金でいくらも買えたから、三食また米の飯がよみがえり、その正月には、昭和十五年当時と同じく、栗《くり》のきんとん、かまぼこ卵焼きごまめお煮〆《にし》め千枚《せんまい》漬《づ》け、もちは五升ほど叔父の家の臼《うす》をかりて、高志がつき上げ、とそ《・・》こそなかったが父在世の頃、この叔父も駄菓子屋の親戚も、正月にはあいさつに来て、にぎやかだった三ガ日の料理と変ることなく、また冬の日和《ひより》に、母が疎《そ》開《かい》の着物を、道端の物干しにかかげれば、近所のオバハン達《たち》、そのきらびやかな訪問着江戸《えど》褄友禅西陣《づまゆうぜんにしじん》の色どりに眼《め》を見張り「こんなん進駐さんに売ったったら、一財産できるのとちゃうか」感歎《かんたん》し、寮母とはいえ、後指一本さされぬ暮しぶりで、祭礼の寄附も人なみ以上のつきあい。
年がかわって二月に新円の封鎖、寮母としてもらう給料は二百二十円で、戸主あたり許される預金引き出しが五百円、闇市では掌《てのひら》に満たぬクリームパン一つ十円、薄く切った焼芋三切れで十円、配給さえとどこおりなければなんとか食いつなげたが、守口も加古《かこ》川《がわ》と同じく都会と農村の境界にあたって、すぐ隣りの旭区《あさひく》ではそれでも月に十三日の米、残りがメリケン粉唐もろこしの配給なのに、道一本へだてた守口町は、米が月に七日、大豆粉と唐もろこしそれに腹の足しにはならぬ米軍放出のアンズにチーズ。せき立てられるような空腹の毎日で、北《きた》河内《かわち》に多い蓮池《はすいけ》の、芹《せり》をつみタコ草引き抜き、二坪ばかり割り当ての土地に大根ちしゃ菜広島菜をうえ、鶏を飼って卵をとり、しかし主食を補うにはいたらず、寮に病人が出ると母は泊り込みだから、高志一人、もはや探すといっても水屋の中に残るのは、醤油《しょうゆ》と岩塩、それに大豆、唐もろこしの粉、七輪に鍋《なべ》をかけ沸とうさせて、さてこの粉を水でとき、いくら固くまるめても、つなぎのメリケン粉がなければみるみるくずれ溶けて、結局はどろどろの粥状《かゆじょう》となり、いかに醤油で味つけしたところで、まず食えたものではない。
週に二度、母の工場で弁当箱いっぱいの飯が特配となり、高志はひたすらこれを待ちかねて、ただもうその白い飯が、デコレーションケーキの如《ごと》く輝かしく、沢庵《たくあん》も塩をふることもいらぬ、口にふくめば甘くやわらかく、こんなうまいものが世の中にあったのかと、感じ入り、感じ入るが、この頃から飢餓恐怖症が芽生えて、たしかに弁当二合近くの飯を、見守る母には一粒もやらずまたたくまに平らげ、空腹はいやされた筈《はず》なのに、箸《はし》をおいたとたん、ほとんど食べる前と同様の飢えを覚える。
夜になると千林駅前広場の闇市は店を閉めるが、粉と引き替えでパンを造る店の明り、煌々《こうこう》と輝き、カマドから出された渦《うず》巻《ま》き状のパンに、職人は筆で卵の白身をぬりつけふたたびカマドへ入れ、今度あらわれた時は、てらてらと茶褐色《ちゃかっしょく》の光沢をはなつ、停電のあいまぬって作業する製米所は、夜更《よふ》けまで農家の自家用米を、豊富な流れのダム放水の如く吐き出し、三年の三学期ともなればそろそろ上級学校入学の準備で、さそわれて友人の家に机ならべれば、両親そろった家族は、乏しいながら団欒《だんらん》の気配に満ち、ひきかえ守口の小屋では、せめて母が現金収入を心がけての、夜なべ仕事、徹夜の勉強に白湯《さゆ》さえも出ぬ。思い余って、同じような白い粉、しかも人畜無害というから、これを食べられんもんかと、町内で割り当てられたDDTをとうもろこしの粉にまぜたが、ただ石灰臭いだけで、もとよりつなぎにはならなかった。
父のフラノのズボンに兵隊服で、服装は並より上だが、初夏となれば、白いシャツの持合せなく、守口駅前に、むしろひいて下駄屋《げたや》傘《かさ》屋《や》古本屋それに古着屋が並んで、そこにセロファンで包まれた安手なYシャツが五十円とあるのをみつけ、高志十五歳でいくらか女学生の姿も気になり、どうせ買えぬと知りつつ未練がましくみていると、「安くしときまっせ、物々交換も大歓迎」四十五、六のオッサンがいい、「物々交換て何やったらええの」たまにデパートへ行くと、外食券専門の大食堂の近くが物々交換所、岩波新書万葉秀歌が、みのり二箱、ミノルタカメラがこの二月に出たばかりのピース十コと交換、男女同権できざみ煙草《たばこ》が母に配給されたが、これは叔父にやって、かわりに風呂《ふろ》をもらう、Yシャツと何を替えればよいのか、井上の英和辞典岩切の代数学など参考書はあるが、他《ほか》に心当りない。
「女の人の長襦袢半襟《ながじゅばんはんえり》帯なんかあったら、いちばんええけどな、派手なんな」とたんに高志は、物干しに高々と掲げた母の衣類を思い出し、すっとんでかえると、茶箱の中のたとうに包まれきちんとそろった着物、なるべく下の方から一枚前後のわきまえなく引き出して、駅前へかけつけ、日暮れがすなわち店閉い、つぎだらけの風呂敷きに品物包みかけたオッサンの前へさし出し、「これでどないやろか、ちょっとYシャツどないしてもいるねん」オッサンの手もとにひろげられた着物は、たしかに見覚えのある柄《がら》、生地《きじ》の種類など皆目わからず、「そやねえ、もう一つ派手なんやったら、よろしねんけどねえ」考えこんでつけた値段が百八十円、Yシャツ買《こ》うてまだ百三十円余り、雀躍《こおどり》して喫茶店へとびこみ、人工甘味ながら松葉の模様などうかした生菓子一つ十円を五つほおばり、大阪新聞、屋根裏3ちゃんに見入る。
「これ、学校で配給なってん、お金三円五十銭や」母をごまかし、母の朝早くから、夜七時八時までの勤務を幸いに、なるべくわからぬよう下のものに手をつけていたのは束《つか》の間《ま》、父の合服は、昭和十六年に上下六十円ときいた覚えあるのが、千林の市場で三百八十円、オーバー二百五十円、絹の替えカラーのYシャツ四十円、母の着物はなるべく派手なのをえらび、値の高いせいでもあるが、一方「こんな派手なんは、もうお母ちゃん着られへんやろ」と弁解しつつ古着商へ運び、雨で休みならば、城東公園そばの家へまで持っていき、夜おそくで、お巡《まわ》りに調べられたこともあったが、運よく辞書を一緒に包んでいたから、「お母ちゃんに頼まれた」とみえすいた嘘《うそ》が通用し、古着屋は三日にあげぬ売物に、ドラ息子の家から持ち出しとにらんだか、次第に思い切って買いたたく。母は戦時中からのもんぺ姿、日曜日も寮に休みはないから、晴着しらべることもなく、そのまま夏を過ぎ、すでに着物は三分の一に減り、となると次ぎの売《うり》喰《ぐ》いは掛軸、古道具屋へ持参すると、「なんや、文晁《ぶんちょう》かいな、こらあかんわ」偽物《にせもの》ときめつけられ、魚崎の家では床の間に飾られていた時代物が三十五円、メノウの鯉《こい》の置物は疎開の途中で尾がかけて二十円、達《だる》磨《ま》大師の焼もの八十円、これでも足りずに、淀川《よどがわ》堤防横に、「封鎖預金現金交換」とある看板みつけて、水屋の棚《たな》に敷いた新聞紙の下にかくした定期預金の証書持参すると、七割でひきとってくれ五百円二通で七百円、北浜の株屋で株券も売りにかかったが、これは相手にされず、この金すべてが買い喰い、ラ・クンパルシータの御利《ごり》益《やく》反芻のおかげで、消化がすすむのか、なまじ口の中にいつもあって、刺《し》戟《げき》されるのか、飢餓感は昂《たか》まるばかりで、クリームパン玄米パン甘藷《かんしょ》大福ようかん汁粉カレーライストンカツシチューにぎり飯、ふつうの長屋の一軒が、突如玄関に床几《しょうぎ》を置いて、芋屋にかわり、また門がまえの一家総出で麦を挽《ひ》きイースト菌まぜてふきんをかぶせ一晩ねかし、箱の両端に金属板置きこれを電極とし、自家製のパン屋はじめたり、そのあたらしく眼につくと必ずごめんと入って、試食をする、友人と歩いて、森小路《もりしょうじ》千林土居滝井守《もり》口《ぐち》と五つの駅の近くの食物屋すべての品定め、もちろん、一緒に入れば必ずおごり、自由になる金だけをみれば、闇成金をはるか上まわる、煙草にも手を出して、三角のスピードくじ、当てるよりは空くじ三枚きんし十本が目当て、転校生のひけ目かくすためか貧しい本性おおうためか、食い気につられた子分ひきつれて、夏の盛りは浜寺《はまでら》琵琶湖《びわこ》、一切合切食うことに費《つか》ったから、みなれぬものを身につけて、母にばれる危険もすくなく、だが秋に入って、母はもはやもんぺでもないと、父の背広仕立て直して洋服をつくるつもり、いくらほって置いたとはいえ女の生命の衣裳箱《いしょうばこ》だから、たちまち異状に気づき、寮を休んで無くなった着物に眼血走らせ、「ええやんか、ぼく勤めるようなったら、買うたるわ」高志は、見ちがえるようにひきつった母の表情に怯《おび》え、高志にはしかし平静なそぶり、ただガタンバシンとおそろしく乱暴なふたのあけたて、急に小娘のように声上げて「ない、みんなあらへん」、泣き出し、すぐしずまると、表へとび出し、また駈《か》けこみ、噂《うわさ》が伝わったのか、玄関に人だかりがし、叔父もやって来て、「そら、すぐ警察へいわなあかんて」「いや、警察なんか、アテにならへんて、なんしこの近所の手くせわるい奴にきまっとる」中の一人が、娘を京都の芸者に売り、左団扇《ひだりうちわ》でしかも野荒し鶏泥棒《どろぼう》の常習と目される男を、暗にしめし、「うち、生《い》駒《こま》にな、失《う》せものぴたりとあてる占い師知ってるねん、そこへきいてみたらどないだ」たたき大工の女房《にょうぼう》もしゃしゃり出る。
母はおおきにおおきにと誰《だれ》かれなく礼をいって、すぐには決めず、六畳の間にすわりこんで、「高ちゃんどないしょ、お母ちゃんの着物みなあらへんようなった、それもええのんばっかり」はらはらと涙をこぼし、「戦災で焼いた思うたらええやん」「よほどなれた泥棒やな」と嫌《けん》疑《ぎ》を他処《よそ》へ向ける言葉、喉まで出かかったが、さすがに空々しくて口にはのぼらず、「明日、学校早いねんから先き寝なさい」ほっとして高《たか》志《し》横になると、ぐったり疲れていて「お母ちゃん、ぼく盗《と》ってん、盗ったんぼくや」と布《ふ》団《とん》の中でこっそりつぶやいてみるが、とてもいい出せたものではない。
夜中、ふと眼覚めると叔父が土間にいて、「守口の巡査部長知っとるから相談してみてんけどな、そらもう絶対に外部やないいうねんなあ、表から入ったんやったら全部もっていくやろし、というていっぺんにそんな六十四点もの品をやな、運ばれるもんやないで」「ほな、やっぱし高志なんやろか」また泣き声で母がいい、とたんに高志はキリキリと腹が痛んで海老《えび》のように体を曲げ、どうにかうなり声を耐え抜くと、今度はカーッと体が火《ほ》照《て》り、めったやたらかゆくなり、蕁《じん》麻《ま》疹《しん》であった。
母はついに一言もいわず、ただ、あらゆる箱に麻紐《あさひも》をかけ、以前と同じく寮へ通ったが、喉元すぎれば、高志はまた空《すき》っ腹《ぱら》かかえて矢も楯《たて》もたまらず、トランクは鍵《かぎ》をかけただけだから、後の蝶《ちょう》つがいの心棒はずして、わずかのすきまから、母の帯羽織反物をひきずり出し、近隣の女房老人もうさん臭くながめる中を学校の鞄《かばん》に入れて闇市へ運び相変らず買いぐいをつづけ、日曜日、母が家庭菜園の手入れに出かけた留守を狙《ねら》って、洋服箱のすみをカミソリで破り、中になにがあるかわからぬが、手当り次第ひっぱり出して、服の下へかくしたところを、「高ちゃん、あんた――」母はそれ以上絶句したまま、手近かのほうきで、高志の手首を打ち、立ったまま泣き出す。「あんた、もうわかってる思うたのに」
四十二歳だが、五十近くにみえる母は、恨みこもった女の声でくりかえし、尚《なお》、ほうきふり上げ、壁や戸棚にぶつかるのもかまわず、丁々と打ちおろし、高志はその痛みより、今、自分のかかえているみれば父親の三《み》つ揃《ぞろ》いの上下すでに売り払って、残るチョッキ一枚、これでも二、三十円にはなろう、そうすればクリームパンを買ってと、唾《つば》をのみこむ。
その夜、母は胃けいれんを起し、高志が医者を呼び、鎮痛剤をうつと収まったが、布団の上に髪ふり乱して端座し、「お母さん、わるかったわ、あの荷物の紐ほどいて頂戴《ちょうだい》、あんたの好きなようにしてええねんわ、な」いわれると、たまらず高志せき上げ、「母ちゃんごめんなさい」号泣したのだが、二、三日経《た》つと、母が自分で解き放った茶箱、行《こう》李《り》が気にかかり、おそるおそるまず座布団の皮五枚一組を持ち出し、次ぎに、父の単衣《ひとえ》ものに手をつけ、さすがにかえりにくく、友人の家で無断外泊して、朝早く家をうかがうと、母は初冬の道路に七輪持ち出して火をおこしうすむらさきの煙立ちのぼる中で、時おり両掌《りょうて》を交互にふところへ入れるのは、ヒビ、アカギレの痛みであろう、ぼんやり高志が近づくと「おかえり、もうじきごはんよ」何事もなかったようにいう。
迎えた正月は、元旦《がんたん》から工場に盲腸の病人が出て、もはやもち一片もないスイトンの雑煮も早々に母は病院へかけつけ、叔父の家へ高志が寄ると、末の小学校二年の娘が留守番、壁に叔父の、甲種国民服がかかっているから胸の内ポケット探れば十円札の束があり、指ざわりで五、六枚のつもりが十枚、千林で巻き寿司《すし》を食べ映画を観《み》、野荒しは別にして他人の金品盗んだのはこれが皮切り。
味をしめて近所の女房の、配給品とりに外出するすき狙い、台所へ忍び釜《かま》の飯を両手ですくって呑《の》みこみ、友人の家では姉妹の晴着を洋服の下に抱えこみ、本の万引き、果物のかっ払い、盗みの愉《たの》しみも骨身にからむ。もはや家の中には足袋一足、風呂敷一枚金に替わるものはなく、母は、寮母の給料と残り少ない銀行預金の足し前で、配給を受けとり、特配の弁当は相変らず高志に食べさせたから、胃けいれんの発作以後、きわ立っておとろえが目立ち、四月のはじめ大量に血を吐き、寮母は職員でないからと会社の病院には入れず、自宅でただ安静だけがたより、高志は土気色した母の顔をながめ、家にあるのは大豆高粱《コーリャン》ばかりで、せめて半襟一つでも残っていれば金に替え、純綿の粥食べさせられるのに、こうなると盗みに入るめどもなくて、もうじき夏、去年闇市で八十円で買った学生服三十円で引きとらせ、この時闇米は一升二百円に近く、ようやく床屋の女房に頼んで米を一合余りわけてもらい、七輪の煙がしみるのか、思えば餓鬼にとりつかれての親不孝くゆるのか、涙こぼしつつ粥を煮て、母のかさかさに乾いた唇《くちびる》に運び、だがもはや重湯のみこむ力しかなく、翌日にとっておこうと心に決めた粥の残りも、眼の前にあればつい手が出て、たちまちむさぼり食べてしまい、ウッウッと反芻《はんすう》しつつ夜っぴて見守るうち、暁方《あけがた》息がかわって母は死んだ。
野辺の送りすませるとすぐに、春に守口は市に昇格、土地開けるとふんだ元飯場の持ち主、強硬にあけわたしを迫り、ひっこしするにもあてはないが、また荷物とて高志の身のまわりズックにつめれば、水屋も戸棚も叔父からの借り物、いわれるままに守口を離れ、神戸の将軍通りに移って、駄菓子屋《だがしや》からパン屋に昇格した親戚《しんせき》をたずね、これを手伝い、だが商売柄《がら》とはいえ、配給の粉あずかる身は信用第一、つまみ食いはきつい御《ご》法《はっ》度《と》であてがはずれ、夏にむかうのを幸い、焼けビル学校に野宿して、三宮《さんのみや》闇市に出入り、物資の運び屋を手伝っておこぼれ頂戴し、これもだが七月三十一日で閉鎖されいよいよ身のふり方に困り、また守口へ舞いもどり、叔父の家に一夜の宿を借り、家族は二階に寝て高志一人階下、なに気なく習性で押入れあけると、見覚えのある母の茶箱、中をあければモーニングやら裾《すそ》模《も》様《よう》の式服、ひっぱり出して夜道にずらかり、これを売って東京へ行こうかと考えるうち、お巡りにひっかかって、交番へ連行され、ものがものだけにいいわけならず、ただ口が裂けても本名だけはあかすまいと、配給通帳はパン屋に置きっぱなしだから、衣料切符を口にほおばり、噛《か》みくずして飲みこむ、守口署へ連行される間、その紙の反吐《へど》を反芻しつつ、しかし、叔父はすぐに届けたし、モーニングのネームもあったから身《み》許《もと》は割れ、これまでも札つきと冷たく証言されて、枚方《ひらかた》少年院出張所入り。
十月半ばに、各部屋ごとに知能テストがあり、サクライは、「これで脱走うまいかどうかみよるねん、あんまり頭ええとこみせたら、山の中の施設おくられるで」断言し、高志はタアボウにはりあう気持もあって、必死に解答したら一位となり、二位がタアボウ。学歴もほぼ同じ、これをきっかけにいっそう仲良くなって、やがてイマイチが衰弱死、サクライはさらに重い余罪発覚して留置場に逆もどり、忍び寄る冬の予感に、ボーズはイマイチの垢《あか》だらけの兵隊シャツをはぎとり、毛布の間にかくし、サクライは出て行く時「長らくお世話さんでござんした、皆さんお達者で」仁義切って、手ぬぐい一本を残し、これはイマイチの次ぎに古い少年の財産となり、次いでボーズの淋病《りんびょう》と梅毒、教官にはその苦痛が身近かに理解できるのか、珍らしく入院治療と決まったが、ボーズなんと考えたか、チョン切られると決めこんで泣きさけぶ、泣きさけぶといえば、秋深まるにつれ人恋うるのか、脱走くわだてるもの相つぎ、いずれも容赦なく懲戒部屋、壁に耳を押しつける板の割れ目から、夜通し泣きさけぶその声がきこえた。
三人減って、新入りは十八号室になく、飯の量は増えぬが、全員、高志仕込みの反芻ならい覚えてもぐもぐ口うごかしながら作業にはげみ、しかし、いずれもめっきり衰えて、月に一度の入浴、ただざぶりと十秒ばかりつかるのだが、湯船から上ると三分の一が貧血を起しぶっ倒れ、やがて高志もその仲間入り、まだ尻《しり》の肉は指でつまめるが、いきおいよく立つと動《どう》悸《き》が激しく、ずい分よく消化しているはずなのに、下痢がつづく。
「これなんや」一人が突拍子もない声でいい、みると一糎《センチ》ほどの糸くずのような虫で、板じきの合わせ目、壁にうようよとはい、「蛆《うじ》ちゃうか」蛆ならば、便所桶《べんじょおけ》かとみてもその気配なく、一同源を探して、しかしエンマ口気にしいしい中腰でながめまわし、つきとめると、それは死んだイマイチのジャンパー、最後はくそまみれだったから、そこへ蠅《はえ》が産みつけたにちがいなく、その細い体なりにせっせといずこかをめざす蛆の動きながめるうち、当初、イマイチの化身かと気味わるかったのが、すぐにつぶすのももったいなくて「これいったい何考えてんねんやろ」タアボウがいい「そやな、そら、早《はよ》う羽根生やして空をとびたい思うとんのちゃうか」「これ飼《こ》うたろか、餌《えさ》やったらなんぼでもあるやん」「飼うてどないするねん」
エフの紙でちいさい箱つくって、中に入れておく、蛆の餌いうたら、これは糞《くそ》に決まっとるから、毎朝あたらしいとこ、入れたったらよろしい、タアボウはすぐにこしらえにかかり、少年の一人は偶然二匹並んで同じ方向へ行く蛆を競走にみたて、「それ、早よいけ、こっちゃ曲ったらあかんが」「よっしゃ、競馬しようか、蛆虫競馬や、勝った方モグサ一コでどないや」モグサは日曜ごとに配られるビタミン剤。かつてエフの紙に尻ふき用の雑誌から数字を切りとり、はりつけて一から九までの札四組、これでオイチョカブをやったものだが、これはエンマ口からすぐにばれる、この蛆虫の競馬やったら、作業しとって楽しめるし、わからへんやろ。
「俺《おれ》のな、馬これにするわ」針金で一匹を大事そうに持ち上げ、「名前なんちゅうねん」「そやねえ、ウジや」蛆虫の名前をウジとつけたのは腕に女名前彫った十五歳の少年、「ほなぼくこれ、デカにするわ」ノッポもくわわり、四匹の蛆スタートラインについて、くねくねとうごめき、声援もならず、万一を考えて作業つづけながら、一着になればモグサが四コ、曲りくねるのを息で吹いてまっすぐさせようとしたり、犬呼ぶように「チョッチョッ」と舌打ちしたり。
「いったいこの蛆が蠅になるのんと、俺らここ出るのんと、どっち早いやろ」「そらまあ蛆の方やろ、すぐ蠅になって、あの窓からとんでいきよるわ」これまで保護者があらわれて、引きとられた例はなく、知能テストで適性きめるとサクライはいったが、その後なんの音《おと》沙汰《さた》なく、十一月になればすり切れた軍隊毛布一枚では暁方の寒さしのぎがたい。
「ドライバア一梃《ちょう》あったらなあ」ノッポが競馬に敗《ま》けて、もっさりという。窓の外は、さだめし一面の稲穂であろう、農家の庭にはさだめし綿入れに着ぶくれた子供が、干《ほ》し柿《がき》かじっているのだろう、淀川《よどがわ》のすすき風になびき、秋の夜空に雁《がん》がとぶ、宮君は今も御殿でそれみてはるのやろか。
「あんた、ここでたらどないするねん」タアボウがきく。「俺、船に乗るわ、親《おや》父《じ》船乗りやってん、トラック島で戦死したけどな、ようマンゴいう果物やチョコレート土産にもってきてくれたわ」「俺とこは競馬気違いやからあかん、当った時、宗右衛門《そうえもん》 町《ちょう》の料理屋連れてってもろたことはあるけどな、芸者ようけ来よってな。刺身、天《てん》婦《ぷ》羅《ら》、吸物、湯葉《ゆば》、田楽、カニ、枝豆もあったわ」「あんた、何になるつもりやねん」「電気屋勤めたいなあ、ラジオ直したりすんの好きやねん、おれおったホテルに八球の受信機あってな、ごっついよう入るねんで」「なんせ、俺、神戸の親戚頼んでみよか思うねん、グツわるいけどな、何時《いつ》までここおってもどないもならんし」しゃべるうち本気でそう思いはじめ、高志は「もし俺でられたらな、あんたのこと頼んだるわ、きっと保証人なってくれる思うわ」「そらすまんなあ」タアボウは、ちいさな箱の蛆の、はいずり出ようとするのを指で中へおとしこみ、いいきかせるように、「少しくらい辛抱せえや、そのうち羽根生えてどこへでもいけるやん」
二日後に、「兵頭《ひょうどう》おるかあ」メンタがタアボウを呼びに来て、「ちょっと来《こ》い」「なんですか」どうせろくでもないことと怯《おび》えるのを、「弁護士さん来てはるねん、はよせんかい」気の弱そうな眼《め》で一同をながめ、タアボウは階段を降りていったが、夕暮れ近くなっても戻《もど》らず「あら、きっと余罪ばれたんちゃうか」それにしても弁護士さんなんのために来てんやろ。
夕食済んでからタアボウようやく戻って、「どないしてん、腹減ったやろ」「うん、まあな」「なんや心配ごとあったんか」「心配ごというわけでもないねんけどな」「弁護士てなんやねん」「はじめて会《お》うてん、アメリカの煙草《たばこ》もって、タンクに一本やったら、タンクペコペコしよったわ」受けこたえさっぱり要領を得ず、高志は一人気をもんで、自分にできることなら、そや、朝の点呼の時に、神戸のパン屋のこと頼んで、タアボウ出したらなと、いきおいこみ、翌日そのむね申し出ると、住所氏名をメンタがメモし、「お前のなにに当るねん」「親父の兄貴ですねん」「こんなんもっとはよいわんかい」頭小突かれたのも心うれしく、タアボウだけちゃうノッポもイレズミもみんな頼んだるわ、そのかわり、一生懸命真面目《まじめ》にやらなあかんでと、相変らず蛆虫競馬に熱中する面々につげ、タアボウはだまって箱の蛆をながめつづける。
「六甲《ろっこう》登ろやないか、扇港いうてな、神戸港の防波堤扇の形になっとんねん、小学四年の時、俺、あすこの林間学校行ってなあ、よう写生したわ」
午後、チンデブが珍らしくおとなしく扉《とびら》を開け、「兵頭出え」いわれると待ち受けたようにタアボウは、Yシャツと手ぬぐいを脱いで高志に渡し、「この蛆虫、お守りにしたらええわ」恥かしそうな表情で、それだけいうと廊下に姿を消し、後に残ったものに身の廻《まわ》りの品置いていくのは、出所するもののならわし、まして蛆虫をお守りとは、タアボウは蛆虫が蠅になるより前に出て行きよったんか。
狐《きつね》につままれたみたいなもので、作業する気にもなれず、といって親父はメチルで死に、お袋はタアボウ入所して厄介《やっかい》払いしたつもりいうとった、何で急に保護者が出て来たんやろ、いかに想像たくましくしても見当がつかず、そこへ「兵頭からの差し入れや」メンタがびっしり詰った牡丹《ぼた》もちの折りを持ってあらわれ、「あの、タアボウどこへ引きとられたんですか」高志が尋ねると、「余計なこときくな、お前に関係ないわい」強くいい、ガタンと重い扉が閉まる。
パン屋に連絡したが、返事はついになく、師《し》走《わす》に入ると、半年近くのヒエ、麦飯に、高志をはじめ十二人、九尺二間の板じきにお互いの体ひたと寄せ合って、暖をとりつつ、もはや起き上る力も失《う》せ、ある時吹きこむ小雪まじりの木枯しに、はらはらと飛び散るのは、とっくの昔に羽化した蛆の抜け殻《がら》、そしてまたある時、雲一つなく晴れ渡った冬空に、アドバルーンが歳末大売り出しをつげ、風に乗ってはるかはなれた枚方《ひらかた》の町の、チンドン屋のクラリネット、悲しげに吹きならすはラ・クンパルシータ、パパパパッパッ、パーラーラーラ、ツァツァツァツァッツァッ、ツァラーラーラー。
プアボーイ
「あっきゃあ、どういうんだてえ」「おら知らねえすけ、わかんねえらろも」長岡《ながおか》過ぎて、車内に通勤通学の姿が増え、はしゃいでるような、その越《えち》後《ご》訛《なま》り騒がしく、ひきかえ上野からの客は、どうにか坐《すわ》ったものの、ベンチのような板張り三人がけ、雪のためにおくれて十一時間近く夜汽車の旅、新潟《にいがた》に近くなるにつれ、ますますむっつりと押しだまる。時おり風に押されて、機関車の吐く煙が窓の外を低く流れ、その他《ほか》は行けども走れども、果てしなき雪野原、一列に並んでこんもり雪をまとう稲架《はさ》のながめ。大阪から数えれば丸一日の余、満員列車に乗りづめで、石のようなふくらはぎを、辰郎《たつろう》はこむらがえり直す要領脚の親指そらせることで、なんとかゆるめようとし、その他は一切の思考を拒否していた。考えたところでどうにもならぬと、はっきり意識していたわけではない、夜汽車が高崎を過ぎ、この駅名に覚えはあったが、以後、人影さらに見えぬちいさな駅を丹念に拾いつつ山にむかい、その「ゆびそ」の「ごかん」のと、駅員ののんびりさけぶ名前が別の世界のものに聞こえ、ふときづくと窓の外一尺ばかりに、そそり立つ雪の壁、その頂きは闇《やみ》にまぎれて見えぬほどの高さ。除雪でかたよせたものと頭ではわかったが、わけもなく心なえ、越後湯《ゆ》沢《ざわ》で上りを待つために二十分の停車、水を飲もうとプラットフォームに降りれば、毛穴の一つ一つにしみこむ寒さ、はまだしも、あたりまったく臭《にお》いのないことにさらに脅《おび》えを感じる。
山は雪あかりに浮き上って眼《め》の前にせまり、麓《ふもと》に旅館らしい灯がならんで、一軒「いなもと」と読める。フォームの凍《い》てついた雪に足すべらせたかののしる声、すぐに消えて水道の蛇口《じゃぐち》のシュウシュウとせきこむ音。辰郎の心得る駅は、たとえどんなちいさな駅でも、夜っぴて喧騒《けんそう》に満ち、どんより生温《なまぬる》い空気におおわれ、そしてなにより人糞《じんぷん》と焼跡の臭いがこびりついていた。三宮駅《さんのみやえき》にしろ大阪駅、鶴橋《つるはし》京橋天王《てんのう》寺《じ》、焼けなかった京都奈良《なら》でさえそうで、ほんの通り過ぎただけの、東京駅上野駅も同じ、七年前の昭和十五年に東京へ来たことがあるだけ、まったく見ず知らずの都会へ夜降り立ち、つづいて上野からすぐまた汽車に乗って心臆《おく》さなかったのは、駅に特有の臭いのせいだった。わが皮膚にしみついたようなあの駅の臭いのあるところなら、辰郎はたとえどのような地の果てにあろうと、おちついていられたのだ。
越後湯沢の駅は蒸溜水《じょうりゅうすい》のように透明で、あらためて辰郎は、自分をとりまく環境の、急激に変りつつあることをしみじみと認め、となったらじたばたしてもはじまらぬ。これも半年近い放浪と、枚方《ひらかた》少年院の明け暮れの内身につけた処世術、すっぽり殻《から》をかぶり、じたばたと外界の刺《し》戟《げき》に反応しないでいるがなにより、さわぎ立てたところで、なるようにしかならぬと、これはせっぱつまってひらき直った処世術。
四日前、少年院の教師メンタに呼ばれて、階下の職員室にいくと、生木がまじるのかくすぶる火《ひ》鉢《ばち》に手をかざして、弁護士の上野がいた。上野は、辰郎が京都に住んでいた頃《ころ》の隣組、メチールで死んだ父と仲が良く、一緒に嵐山《あらしやま》へでかけた時、林の中で謡《うたい》の稽《けい》古《こ》をしたりして、恰幅《かっぷく》のいい男。辰郎一家が大阪へ移ってからも、父は上野とつきあい続けていたのだろうが、辰郎は三年ぶり、しかも再会の場所が場所だけに押しだまっていると、「君も苦労したね、お父さん死にはってから」やさしい言葉をかけられ、いったいこれはどないなってるのかと見当つかぬまま、ただ火鉢からの熱気を体にしみこませ、またもどされる九尺二間の板敷き板がこい、吹きっつぁらしで十一月も末となっては、むしろ三坪に十三人の押しくらまんじゅう、お互い暖めあって救いとなったが、少しでもその足し前にする心づもりの暖まりだめ、「あいさつぐらいせんかい、わざわざ来てくれはったんやで」教師チンデブがいう。「君のお母さんから頼まれてね、ぼくはちっとも知らなかったもんやから」襟《えり》にビロードのついたオーバー着こみ、以前より少し痩《や》せた上野は両手もみながら少しやましそうにいい「出来るだけのことはするからね、もう心配せんでもよろし」
「お前、運ええやっちゃで、この少年院で弁護士さんに迎えに来てもらう奴《やつ》なんか、ほんまおらんで」すぐになぐり蹴《け》とばすタンクが、おべっかつかうようにしゃべり、上野はらくだのついた煙草《たばこ》をタンクにさし出す。迎えに来た、迎えというと俺《おれ》はでられるんか、そんなあほな、お母ちゃんが上野さんに頼んだやて、あんパンパン屋やっとるお母ちゃんが?「そうそう、これさし入れ、いやお土産なんやけど」どうすればよいかという風に上野は教師三人をながめ「ここでいただかせてもらえ」チンデブが辰郎に椅子《いす》をすすめる、さし入れは海苔巻《のりま》きだった。かんぴょうだけ巻いたナマコ色のそれを、ほとんど味などわからず、ただもうのみこんで、指についた海苔の細片を、未練たらしく歯でこそぎおとし、「ちょっと私、まだ用意がありますので、明《あ》後日《さって》まいります、なにしろ昨日ようやく連絡とれて」上野が立ち上り、とたんに辰郎はこのまま置き去られるのではないかと「あの、ぼく出られるんですか」はじめて口をきき、「心配せんでもええわ、ぼく身《み》許《もと》保証人なるから、もう少しの辛抱やからね」いかにもいたましそうな眼つきでいい、思わず顔に手を当てると、鬚《ひげ》がさわり、くらい廊下に面した硝子《ガラス》戸《ど》にうつったおのが姿は、さながら幽霊の如《ごと》くで、身の置きどころない恥しさが生れ、情けないやら解放されるうれしさやら、思わず鼻水すすり上げる。
房へもどり、教師から呼び出されるなどよほどの不都合ばれた時くらい、「どないしよってん」問いかける親しい高《たか》志《し》に、さてなんと説明するか。「俺でられるねんで」さけびたい気持があった、ざまあみろ、お前ら残って死んでまえ、けつぺたおちて肛門《こうもん》むき出しにしてイマイチみたいに死んでまえ、俺だけはちゃう、出られるねん、職員室を出て、またメンタにつれられて階段をのぼりながら、まず考えたのはこのことだった。しかし、上野の姿をみた後では、まるっきり同じ世の中に生きているとは思えぬ仲間の、痩せおとろえ枯葉のようにかわいた体、表情のまったくない十二の面《つら》ながめると、まず自分だけ脱出することのやましさと、そしてうっかり口にすれば、うらやましさのあまり一同よってたかって俺を殺すのではないかという計算がはたらき、「弁護士来よってん」「なんか余罪ばれたんちゃうんか」高志がたずね、同じ房で威勢よかったサクライ、二週間前にかくしとった殺しがばれてここをひったてられていったから当然の質問。「そうでもないねんけんどな」辰郎はそれ以上言葉をにごし、針金通してエフつくるべき白い札で、こしらえ上げたちいさな箱の中の、蛆虫《うじむし》をみつめる。死んだイマイチの衣類から湧《わ》いたもので、一時はこのちいさな虫を馬に見立て、競走させてはお互いの麦ひえ二分八分にまじった食事を賭《か》けたものだが、寒さにむかって蛆虫にも少年にも、もうその張りすら失《う》せた。
「蛆はええで、羽根生えてとんで行けるやろ」六尺の高みにあって、かすかな光房内にさしかけるちいさな窓をながめながらノッポがいい、とんで行ける奴は許さんという風に親指で糸屑《いとくず》のような蛆虫ひねりつぶし、お袋は死んじゃうし、親《おや》父《じ》はずらかるし、妹はやくざとくっついちゃうし、おらまでへまやったあ。牢《ろう》屋《や》の中で気がもめる、かわいあの娘《こ》を想《おも》えば、気がもめる、あーポーイポーイと唄《うた》う。「ポーイポーイちゃうが、ポーボーイや」一人が訂正し、これはしゃり上げ手《て》伝《つど》うとる十二、三の子供が、年中口ずさんどって、たとえ茶碗《ちゃわん》に半分でも三食の飯が生きることのすべて、遠くからかちゃかちゃと食器ふれあう音がきこえれば、不必要な物音は一切御《ご》法《はっ》度《と》の少年院だが、一種の殺気立ちこめ、そしてお袋は死んじゃうしが、対照的にのんびりひびく。「ポーボーイいうのは、プアボーイのことちゃうか」中学四年まで行って、辰郎と二人ここではインテリの高志が真面目《まじめ》な顔でいい、「かわいそうな少年いうこっちゃな」
辰郎は始めてこの唄を耳にした時、これは自分のこというとんのとちゃうかと思った、いや、ほとんどの少年は他人《ひと》事《ごと》ならずきいたはず。誰《だれ》一人《ひとり》、両親そろっている者、戦争以後、家族つつがなく暮した末の、この吹きだまりではない。一夜明くれば裸のまま大人でさえ渡りかねる浮世に投げ出され、生きるための盗みかっぱらいが運わるくとがめられただけで、わが身の上に櫛《くし》の歯ひく如くおそいかかる、突拍子もない出来ごと、悲しむもなげくもそのゆとりなく、流れに身をまかせて、その日ぐらしが骨にからんだ仲間ばかり。はじめ身につまされたポーボーイの旋律も歌詞も、やがてはリンゴの唄やユアマイサンシャインと同じ流行歌、特別な感情も生れぬ。
しかし、すぐに出られる、出た先きのことはどうであっても、今はただ飢え死凍死しかない見きわめのつくこの少年院から、脱出できるとのぞみを与えられて、辰郎は、あらためてポーボーイ、あるいはプアボーイに心ひかれた。
親父は、戦前、京都新京極《しんきょうごく》の裏で撞球屋《どうきゅうや》を経営し、母は同じあたりに「ソール」という喫茶店を持ち、辰郎は北白川《きたしらかわ》疏《そ》水《すい》のそばの家で、ほとんど祖母に育てられた。撞球屋は戦争激しくなると、体位向上のためと称して卓球場に衣替え、やがて「ソール」も珈琲《コーヒー》ケーキは姿消して、人工甘味の寒天蜜豆《みつまめ》など売っていたが、暮し向きはだからといって貧しくもならず、小学校では、祖母のつくる弁当のおかずも祭りの小遣いも、たいてい級友より豪勢だったし、商売柄《がら》か親父は国民服をきらって背広にソフト、丸坊《まるぼう》主《ず》にせず、痩せてはいたが身の丈《たけ》六尺に近く、辰郎は一緒に歩く時、いつも誇らしく感じたものだ。母は京城《けいじょう》の生れで、だから店の名をソールと名づけたのだが、特に生家が水商売でもないのに、通常の女房《にょうぼう》の座にあきたらず、年よりは若くみえるつくりでレジスターの前に陣取り、気の強い女。もとより親父方の祖母であるきよと肌《はだ》が合わず、ことあるごとに喧《けん》嘩《か》をして、辰郎にも、ふつうの母親としての心くばりよりは、なまじ収入のあるせいか、また母としての勤め果していない埋めあわせか、豪華な玩《おも》具《ちゃ》、不似合いな小遣いをやみくもに与えはするが、辰郎が風邪をひいて寝こんでも、むしろ同業の寄り合いが気にかかる。
昭和十五、六年頃、親父の撞球場へ、母は同志社大学の学生を連れてあらわれ、母はお客を紹介したつもりといったが、いや、それまでにも、その学生について親父の気持を乱すなにかがあったのか、撞球場で両親はつかみ合いの喧嘩をし、祖母は「いうてはわるいけど、あんたのお母さん尻軽《しりがる》や、なんせ植民地生れやさかいな、争われんもんや」辰郎につぶやいたことがあった。
卓球場にかわってからは、母の喫茶店からの収入が、家計を支えたらしく、親父は競馬場に通いつめ、家にいる時はもっぱら皇軍の武勲報ずる新聞の切り抜きに精を出し、母は平気で夜おそくかえって来て、そういうものかと、辰郎は不思議にも思わなかったが、時に友人の家をおとずれ、いかにも質素なもんぺに髪ふり乱したその母親の姿、そして祖母ならばせいぜいがラムネか、煎餅《せんべい》出すところを、粗末ながらあったかい手づくりのホットケーキ、レモンの入った紅茶などすすめられ、「なんや家《うち》はかわっとるなあ」と、考えはしたが羨《うらやま》しくはない。「紅茶でもケーキでも、店来たらなんぼなとあるがな、友達連れてきい」母は、家ではなにもせず、小学生の辰郎を、ソールへ出入りさせて平気だった。
京都二中へ入った年に祖母がなくなり、戦争激しくなると、いかに体位向上いいたてても、卓球場の客は減るばかり、ひきかえ母はますます勢いづいて、闇《やみ》に手をまわして、結構客を集めたから、配給もの常会防空演習すべて親父が受けもち、痩せた体でこの頃はさすがに国民服、青年会の前の広場で「気をつけ、宮城遥拝《ようはい》」など国民儀礼の音《おん》頭《ど》をとり、他はみな近所のおばはん連中男はただ一人で辰郎はなんとなく恥かしく、父親を他人のようにながめた。十九年の暮、空襲にそなえて新京極一帯も、間びかれることとなり、うもすもなく撞球場、ソール一蓮托生《いちれんたくしょう》でひき倒され、母は「京都なんか将来性ないわ、大阪へ出よ。闇で食物屋やったら、あほみたいに稼《かせ》げるんよ」疎《そ》開《かい》の補償金もとでに、この御時勢ふつうなら逃げ出す盛り場へのりこむたくましさは、これも植民地育ち故《ゆえ》か。親父は痩せるばかりで肌も抜けるように白く、弁護士の上野とたまに碁盤をかこんで、大声で生きたの殺したのと、この時だけ男らしい。
辰郎の転校問題てんから念頭にないとみえ、冬空にくっきり飛行機雲ひいてB二九が東へむかい、入れちがいにたいていは三機編隊で友軍機西へとび、見上げるたびに、「あれは特攻やで」と空にむかって敬礼、そのつど太陽に眼を射られてくしゃみが出るという、物情騒然とした内に大阪は谷町に家を借り、料《りょう》亭《てい》閉鎖で馘《くび》になった板前コックを、支那《しな》西洋日本の別なく集めて、たちまち軍人と軍需工場幹部相手の闇料理屋、素地は京都にいる時から準備していたらしい。
京都の学校へ通うのは遠すぎて、高《こう》津《づ》中学二年に移り、親父はまるで下宿人のような按《あん》配《ばい》、さすが絃《げん》歌《か》こそさんざめかぬが、客の喰《た》べちらかした跡片づけに精を出し、それというのも徳利ならまだしも、盃《さかずき》に残った酒を盗みのむのがお目当て、クラスメートが弁当がわりにパンやら芋持ってくる中で、辰郎だけは闇のおすそわけ、動員で工場へ働き、三時に出るコッペなど見向きもせず、そのうち空襲ですべて灰とかわり、この時も、自ら大阪へ進出しての、身から出た錆《さび》も残らぬ焼跡ながめ、母はいっこうに気落ちせず「こらもう日本もあかんわ、海軍さんいうてはったんまちがいない」豪奢《ごうしゃ》なお召にもんぺ姿でいいはなち、ひきかえ親父は愚痴っぽく焼跡掘りかえして、熱でレンズ歪《ゆが》んだカメラやら、がわだけ残ったガスストーブ大事に集める。
天《てん》下《が》茶《ぢゃ》屋《や》に部屋二つを借り、もの心ついてはじめて親子三人、ふつう一般の家族のように同じ屋根の下で暮したが、戦い敗れると、どこをどうたぐったのか、森小路《もりしょうじ》にミルクホールまがいの店を求め、すぐにもむしパン、芋ようかん置いて商売にかかり、親父はまた「アメリカ人来るねんてな、アメリカ人ビリヤード好きやねんで、あの京極の店さえあったらな、ほんまあほなことしよって」あきらめきれぬか、京極へ辰郎と出かけ、すでに京極には粗末ながらイルミネーションが輝き、疎開された一帯のみ、くらい穴のように置き去られて、恰好《かっこう》の小便の場所。
昭和二十一年、辰郎は中学四年となり、成績よかったから三高《さんこう》うけるつもり、大阪はやはり馴染《なじ》めず、京都へかえりたくての高のぞみだったが、停電の中を、占領軍宿舎の近くは電気点《つ》くときき、そのあたりの友人宅へ泊りこんで勉強に精出し、森小路の母の店へは顔も出さなかったが、はやるらしくて、また以前と同じように辰郎には過ぎた学生服、新円の大盤ぶるまい、「すまんけどタアボウ、ちょっと金貸してくれんか」親父は無視されて、不《ふ》如《にょ》意《い》らしく十円、二十円とわが子に金せびって、鶴橋京橋のバクダンに酔いを求め、この年の暮れ、メチールにぶち当って死んだ。それまでもぼちぼちやられていて、朝起きると、手さぐりでまず眼やにを水で洗わなければ、眼のあかない状態だったのだが、いっそあっけない最《さい》期《ご》で、もとより母は厄介《やっかい》払いのつもり、「お父ちゃんみたいになったら終《しま》いやで、あんたはしっかり勉強しいや、お金はお母ちゃんなんとでもするさかい」
教師はむつかしいといったが、強引に三高志望をかえず、京都なら母と暮さないですむ願いもあった。母は毎夜、酒くさい息を吐いてかえり、時にタクシーを乗りつけることもあって、送り手らしい男と、耳なじみのない言葉をかわし、いや耳なじみはある、あれは闇市を棍棒《こんぼう》もって我物顔にのし歩く、母の生れた国の言葉であった。しゃっくりするような笑い方で、まだぶつぶつとその言葉を口にしつつ、母は暗闇で鋭い音をたてながら帯を解き、辰郎が朝、目覚めると枕《まくら》もとに肉まんじゅう海苔巻き林《りん》檎《ご》それに百円札一枚のあるならわし。ありがたく頂戴《ちょうだい》するが、この母とこれ以上暮しつづける気持はうすれるばかりだった。
翌年の二月、京都へ願書をとりに行くと、思いがけぬ大雪で、膝《ひざ》までうまり、さらに牡《ぼ》丹雪《たんゆき》降りかかって、試験休みに入ったのか誰もいない三高の校庭を一人横切り、これが大雪をみたはじめといってもいい。そして新潟《にいがた》の、今、辰郎の前にひろがる雪は、それよりはるかに固く、別物の印象、明けるにつれて窓外に人影もみえたが、女は毛布の如きものを頭からかぶり、男は北満の兵士のような帽子いただき、いずれも長靴《ながぐつ》。スチームが冷えて来たのか、素足に下駄《げた》の辰郎《たつろう》、爪《つま》先《さ》きが痛む。京都二中一年の時、冬の琵琶湖《びわこ》畔《はん》耐寒強行軍の時と、同じ痛みだった。いかにも重苦しい雪雲に明けても夕暮れのようで、にしても雪を見つづけ、暗い車中に眼をもどせば、眼底にキラキラ光が残ってしばらく物が見にくい。汽車は新《にい》津《つ》に入り、学生服の姿ほとんどなくなり、かわりあって女学生がのりこみ、いずれももんぺをはいていて、ふと辰郎はいやになる。「新潟にデパートあるやろか」突拍子もない疑問がわいて自分でも不思議だった。デパートあるなしより、まるで見ず知らず、ふってわいたような養家先きへ、これからのりこむという瀬戸《せと》際《ぎわ》なのに。
願書をもらって三条の駅から旧京阪に乗りこみ、天満《てんま》までが三円。がらがらの電車の席にすわり、上衣《うわぎ》もズボンも雪どけにびしょぬれで、しばらく後、体温であたためられたかもうもうと白い蒸気が体から立ちのぼる、そこへスカートのひだひるがえして女学生三人、府立第一の生徒でドアの近くに立っていたが、ひょいと辰郎に気がつくと、なにしろふかし立てのまんじゅうみたいに湯気立てとるのやから、奇妙なものにちがいなく、くすくす笑いはじめるのを、なんとも恥かしく、かっと血がのぼれば体温上ってさらに煙のます理屈、にっちもさっちもならず弱り果て、辰郎おくての生れつきか、女学生をはっきり意識したのはこの時が最初。
母は、ウェイトレスの志望者なのか、若い女の写真をときおり紙入れから出して、「どう、タアボウどっちよろしい?」など問いかけ、酒の臭《にお》いに閉口しながらみると、二十歳より上にみえて、辰郎からみれば、まるで小《お》母《ば》さん、「しょもない女やん」答えると、「こっちの方今里《いまざと》で芸者しとったいうねんけど、垢《あか》抜《ぬ》けせんなあ」つぶやき、後から考えるとソールのかたわら千林《せんばやし》に母は料理屋を求め、密淫売《みついんばい》の計画をこの時すすめていたのだ。
三月十日に三高の試験があり、まず知能テストで辰郎は手も足もでず、隣りにすわったいかにも海兵の制服似合いそうな学生、すいすいと答案用紙を片づけ、すっかり気落ちして以後の学科試験を放棄、雪はすでになくて新京極へ出ると、かつての疎開跡も建物で埋まり、パチンコ屋、バッグの木《き》枠《わく》おぼん人形などならべた土産屋がならび、人出は戦前にもまさる。母から余分にもらった小遣いで、はじめてソール以外の喫茶店へ足ふみ入れ、クリームパンカステラ大福手当り次第に口に運びつつ、さて三高にも入れぬとなったら、後一年中学へ通ってもう一度受けるか、しかしいくら努力しても手のとどかぬ難関に思え、ふと便所の鏡に写ったおのが面をみれば、メチールで死んだ親《おや》父《じ》に生写し、母は得体知れんことやっとるし、こんな二人の間に生れた俺《おれ》に白線帽かぶれるわけない、隣りにおった奴《やつ》みたいにきりっとした顔でなければと、身も世もなく気が滅入《めい》り、大体、三高受けると母にいえば、「そらよろしな、三高の生徒さんよう女にもてはって、お母ちゃんの店かて昔来たもんや、三高から京都帝大いうたらどんなええしからも嫁さんもらえる」まるで見当ちがいな感想もらし、他《ほか》の家の母親はいかにも上品な黒っぽい着物きてるのに、うちのお母ちゃんは、娘みたいなちゃらちゃらしたもんに、厚化粧してから、わるいのはお母ちゃんや、あいつおるよって俺あかんねん、受験失敗のうっぷんをすべて母に押しつけ、母がなければ今日只今《こんにちただいま》から飯粒にありつけぬことは棚《たな》に上げ、親父がなつかしい。「ぼくどっか部屋借りたいねんけど」春休みの終りに母にいい、もっと落着いたところで勉強したい、来年こそは高等学校へ入るからと、思い切って口に出すと後は調子のいい言葉が続いて、「その方が勉強できるんやったら、好きなようにし、お母ちゃんもここ遠いからひっこしせな思うててんけど」なんの感情もなく受けて、学校近く焼け残った六畳間をすぐ探し出し、それからようやく気がついたように「洗濯《せんたく》もんなんか困らんか」困るにもなんにもここ二年近く家事一切とりしきって来た辰郎、月に二千円の生活費と闇米《やみごめ》その他は母がとどけるというから、なんの不自由もなく、母は千林の料理屋に住みこんで、これはまたこれで商売の好都合。すべて新規まき直しといきおいこんだのはしかし四月いっぱい、それまで喫茶店やら食物屋、いっさい足ふみ入れなかったのに、あの新京極の経験が後をひいて、友人連れては買いぐいに盛り場ほっつき歩き、たちまち二分も残らず、たずねたずねて母の店へ無心にあらわれ、二度三度はよかったが、「あんた勉強するいうて下宿したんとちゃうのん、なんでそんなにお金要るねんな」見るからにそれとわかる淫売婦の好奇の眼《め》を浴びながら、母は叱責《しっせき》し「ええやんか、要るものは要るねん」「あんた、お金いうもんはだまって出てくるもんちがうのよ、私がこないして汗水流して」恩着せがましくいうから、つい辰郎「なんやこんな淫売屋」「なにいうた、もういっぺんいうてみ」母は激しい見幕で、だが後へひけず「ぼく知ってるわ、なんの商売か、お母ちゃんかてやってんのちゃうのんか」ものもいわず手がとんで、頬《ほお》がしびれたが、こうなればかえって気楽で「淫売婦の子オが学校へ行くなんか無理やわ、勉強なんか誰がするかい」不貞《ふて》くされたところへ「お母さん」女の声がして、母は何事もなかったように立上り、後に眼鏡が忘れられていて、みると老眼鏡であった。なんの気なしにそれをポケットへ入れ、それが誘い水の如《ごと》く見覚えのある箪《たん》笥《す》の抽《ひき》出《だ》しから、ヒスイの指輪と金のカマボコにぎりしめ、「坊や、もうかえるのん?」丈けの高い瀬戸の火《ひ》鉢《ばち》、初夏というのにかっかじめた女の一人、股倉《またぐら》むき出しにしていい、辰郎は滝井の駅まで駈《か》け抜けて、眼鏡とり出して靴でふみにじった。
心斎橋《しんさいばし》の貴金属店に、お袋の形見といって指輪を売り五千八百円、これをもとでに自活するつもり、さし当ってはまた盛り場をほっつき歩き、下宿へもどる時、心の中で母が待ってやしないか、かすかな期待があったが、以後もその気配すらなく、やがて残金心細くなって天王《てんのう》寺《じ》近くの鉄板工場の求人に応じ、一人前に面接テストがあり、尊敬する人といわれ蜀山人《しょくさんじん》と答えたら相手はのみこめず、あわてて西郷隆盛《さいごうたかもり》とつづけてパス、だが身《み》許《もと》保証人の立てようなくて断られ、たちまち困って、今更、千林へたすけ求めるわけにもいかぬ。辞書からはじまって夏に向かうのを幸い、布《ふ》団《とん》洋服を古着屋に売り、七月のはじめ、暑苦しい下宿をさけて上六《うえろく》の構内にたたずんでいると、「どないしてん、やさ《・・》けったんちゃうの?」小柄な三十男が声をかけた。「こんなとこおったらろくなことあれへん、よかったらぼくとこ来なさい、布団くらいあるよ」別に悪だくみある風にもみえず、どうなとなれ、半ば自棄《やけ》でついていけば、阿倍野《あべの》の近くのこれも部屋借り、三畳の板の間にミシンがあり、六畳に寝起きするらしく、「晩飯にすき焼きしてんけど、まだ残ってるわ、食べはるか」このくそ暑いのに、むっとしめきったままで、しかもすき焼き、考えただけでも汗が出るが、腹にはかえられず、「あのな、この家の奥さん、夕方なると娘つれて阿倍野の辺にうろつきはるねん、なんの商売してはるんやろな」唇《くちびる》なめながらしゃべる。およその見当はついたが答えず、「おたく洋服屋さんですの」辺りみまわしてお世辞のつもり「引き揚げて来てん、戦争中、上海《シャンハイ》で店出したんやけど」にしては女房子供おってええのに、やもめ暮しらしく、「ほな、もう休みましょか」鍋《なべ》を隅《すみ》に片づけると、敷布団一枚だけ敷いて、「さあどうぞ」別に寝巻きもないようだから、ズボンを脱ぎ、横たわると男も寄りそって寝て、電灯消したとたん、辰郎は胯《こ》間《かん》まさぐられ、息をひそめるうち今度は、男の顔が同じ場所にうずまる。あっけにとられて、微妙な舌のうごきも、ただ恐怖感を呼び起すだけ、辰郎は寝たふりをしたまま体を堅くし、やがて男は、背後からのしかかって来た。男がやたらと唾《つば》をぬりたくるのはわかったし、鶏姦《けいかん》という言葉の意味も、おぼろげながら知っていたが、なにごとが行われつつあるのか見当つかず、ただ、ひとしきりの動きの後、押さえこむようにその重味がかかって、思わずうめく。
ふたたび電気を点けると、男は箪笥の中から、ガリ版ずりの猥本《わいぼん》を五冊とり出し、自分も読みつつ辰郎にすすめ、そのFUTON・NOTEを眼にするうち、ふたたび男の指が下腹部をはい、このたびは雄々しきそのしるしたしかめると、指を激しく動かし、辰郎果てれば、うふふとかすかに笑い、唇を寄せて来た。そのまま寝入ったのだが、翌朝目が覚めると、男はミシンを踏んでいて、洋服屋といっても闇の生地《きじ》求めては、ごく簡単なさい断で秋、冬用のジャンパーを仕立て、洋品屋へおろすなりわい、「起きたらすまんけど、ボタン屋へ行って買《こ》うて来てくれへんか」足をせわしく動かしながらいい、昨夜の息づかいは夢のようだった。
夜《よ》毎《ごと》抱かれて二週間目に、「あんたも勤めたらどないや、夜はここ泊ってええけど」男は只飯くわせるのが惜しくなったとみえ、辰郎はふと裏切られたような女めいた気が起り、留守を狙《ねら》い出来上ったジャンパー三着かっぱらって逃げ出す、阿倍野の古着屋で計四百五十円。そのすぐ横に、進駐軍専用ホテルのボーイ、クローク募集広告があり、ものはためしとたずねれば、保証人もなにもいらぬ。焼け残った建物を接収し、パン助との出会いの場所にしつらえたので、日本人使用人は隣接する掘立小屋へ住み込み。二十畳ほどの土間に蚕棚そっくりの二段ベッドが、人一人歩くだけの空間を残して立ちならび「ボーイやったら三食ついて月四百円、クロークは五百円」クロークはなんですかときくと、荷物を預かり部屋の鍵《かぎ》をわたす役目、片言でも英語しゃべれなあかん。ではボーイと決めて、二階の食堂でビールおつまみの運び役、他に氷のかち割りコップのすすぎ、午後二時から午前零時まで立ちづめで、飯場にもどるとただねるだけの体、しかし、洋服屋に教えこまれた五本の指つかいは二日に一度、就眠儀式となる。
「すまんけど、これ表まで運んでくれんか」進駐軍の忘れていったでかいジャンパー手に持って、辰郎がかえろうとするとバーテンの一人、アメリカ製ビールのボール紙のケース二箱さし出し、気にもとめず「表てどこですの」「飯場の表で人待ってるから渡したってくれたらええねん」これも仕事のうちと引きうけたのだが、実は横流しで、夜道をガードにみつからんよう五分歩けば二百円のみ入りになる。ビールだけではなく煙草《たばこ》チョコレート香辛料、バーボンウイスキーは員数うるさいけれども、小物はいちいち帳面と照し合せることをせず、ジャンパーにかくし持って出るのは簡単で、「アメリカさんのもんかっぱらうのもお国のためやで」あやうく特攻をまぬかれたというバーテンがいい、たしかに罪悪感などてんからなかったのだが、卸していた露店商から手がまわって一網打尽、取調べの都合で曽根《そね》崎《ざき》へ市バスでおくられ、淀《よど》屋《や》橋《ばし》から歩く途中、行きかう人の姿まったく世にこともなしといった当り前の表情なのが不思議にみえ、いったいどこがどうくいちがって手錠うたれたのか、納得いかん。指紋をとられ写真うつされ、「住所どこや」「不定です」答えると「お前、なれとるな」お巡《まわ》りの眼が光り、勤める時、どうせ関係ないと下宿の番地をとどけたのを調べられて、翌日、母がやって来た。刑事とは顔見知りらしく、「やっぱり血は争えんな、お前の子供だけあるで」刑事部屋で一人が冗談をいい「へんなこといわんといて、うちはこれと」人差指をかぎ《・・》に曲げ、関係おまへんよってな。「お母ちゃんのさし入れやで、食べんかい」刑事に粗末な海苔巻《のりま》きわたされ、母の言葉、冷たく見すえる視線もさして気にはならず、すぐにほおばり、「どうせこんなことや思てたわ。うちの指輪どこへさばいてん、ついでに刑事さんに調べてもらおか」
一切口をきかず、房へ戻《もど》って「母親のもんとっても泥棒《どろぼう》ですか」詐欺《さぎ》の不動産屋にきくと、にべもなく「そらそうやで、親子かて法律では他人やがな」
お袋は死んじゃうし、親《おや》父《じ》はずらかるし、辰郎は汽車の震動にあわせて低く口ずさみ、俺は逆やったけど、まあ同じようなもんや、雪野原さらに続いたが、農家の数少しずつ増えて亀《かめ》田《だ》、沼垂《ぬったり》を過ぎ、ようやく密集した人家がならび、デパートの姿はみえぬが、考えたより大きな街、シューッとひとしきり蒸気の吹き出る音とともに、汽車は徐行しはじめ、チンチンと踏み切りの音、客はいっせいに立ち上って網棚のリュックザック、風呂《ふろ》敷《しき》包みをおろしはじめ、辰郎ものろのろ腰を上げる、あたらしい父と母が、フォームに待つはずなのだ。
「新潟にタアボウの叔父さんいるの、知ってるやろ」一日置いて上野弁護士があらわれ、思いがけぬことをいい出した。たしかにきいたことはあり、新潟でトラックの運転手をしていて「兵頭《ひょうどう》の家の者はろくな仕事をしてない」酔ったあげく親父をののしるついでに母のいった言葉を覚えていた。「今は、運送会社の社長でえらい立派にしてはるそうや」その叔父に、親父は死ぬ直前手紙を出し、終戦後の一家の状態をうったえたらしい、それも、まさかメチールで死ぬとは考えなかったろうが、先き行き長くはない衰弱した体を思い、自分が死んだ後の辰郎の身のふり方、勉強好きで頭もわるくないが、生みの母があれでは、まるっきり子供かまいつけず、男狂いのその性質考えると素直に成人できそうもない。できれば引きとって面倒見てもらえないか、叔父の家に子供はなく、わたりに舟で話はまとまりかけたのだが、突然、親父みまかって、母はもとより兵頭家の親族とはつきあいを絶ったから立ち消え。叔父はあきらめずに、親父の友人で京都にその後も住む上野弁護士に、その最後の手紙そえて消息の調べを依頼し、ようやく母を探し当てれば辰郎は少年院に入所中。「あんな根性曲りは、少したたき直した方がよろしいねんわ」いい放つのをなだめて、叔父の意を伝え、「そりゃこれまでの養育費というとおかしいけど、まあ、それ相応のお礼もしはるそうやし辰ちゃんの将来おもうても」皆はいわせず千林の一帯、密淫売の巣となって、店にも金かけねば客を呼べんから、お礼ときくなり母はすぐ乗り気を見せ、「まあ、昔馴染《なじ》みの上野はんのおっしゃることやし、顔つぶすのもなんやから」恩きせがましくいって、老眼鏡をずり上げた。「タアボウは、もう考えることないねん、新潟の家で勉強だけしたらええ」小学生の頃《ころ》、この上野弁護士に夏休みの宿題で、塵《ちり》取《と》りをつくってもろたこと思い出し、そういえばこの夫婦にも子供はなかった。「こんなこといわんでもええことかも知れんけど、あんたのお母さんな、あんた産む時に、体の具合いわるなって卵巣をとってしもたんやそうや、それから急に気が強うなって、困ったことやいうて、お父さんこぼしてはったことある。まあ、あんまり考えんとき、この前逢《お》うた時も口ではいろいろいうてはったけど、さし入れ、いやタアボウに土産やて、海苔巻きくれたんやしな」
少年院の、粗末な応接間で上野弁護士は語りつづけ、「新潟《にいがた》の家では、もう物盗《と》ったりしたらあかんで」いわれたとたん、辰郎はわっと泣きふし、すぐそのまま車にのせられて南森町の旅館へ入り、「その恰好《かっこう》ではちょっと具合わるいなあ」女中にみつくろわせて予科練の上衣《うわぎ》と、鉄道員のズボンそれに下駄《げた》をそろえ、「これ持って来てんけど、かえってない方がええかな」みれば親父の写真、まだダンディを誇っていた頃のもの。「まあ、ぼく預っておくわ」ふたたびポケットへおさめた。東京までの汽車賃が十四円五十銭、新潟まで九円六十銭で鈍行の三等車、着けば迎えに来てくれてる養父となるべき人は四十二歳養母は三十五歳、戦時中に金もうけて、今はトラック三十台持つ運送屋。
新潟駅の、さすがフォームに雪はなく、だが陸橋を渡り改札を出ても、それらしき人影見えず、駅前は踏み荒されてはいるものの、溶ける気配もない一面の雪景色、広場の向うに平屋の貧相な家並みがあり、大阪京都にくらぶべくもない。素足の指がつめたく足踏みしていると、突然箱型の外車がとまり、皮の長靴《ながぐつ》をはき肥《ふと》った男があらわれて、はっと胸つかれたとたん向うも頭をひょいひょいと二つ三つふり「いやあ、タアボウさんか、汽車がおくれてね、いったん家へもどってたものだから、すまんすまん」肩をたたき、車に押しこむようにして、走り出すと耳なれぬ音、タイヤのスノウチェーンだった。三分たたずに長い橋を渡り、すぐ繁華街へ入り、立派なデパート二つを過ぎ、「あれが県庁、こっちが白山《はくさん》神社」きょときょとするうち坂の下に停《とま》り、「これからは車がのぼれない、歩きましょう」二百米《メートル》ばかりの左側に黒塗りの邸宅があった。「おかえりなさい、奥様」女中がひざまずいて迎えながら奥にむけていい、辰《たつ》郎《ろう》は「すいませんが雑巾《ぞうきん》を」うながす養父に汚れた脚を見せ、四日前まで蛆虫《うじむし》を唯《ただ》一つのなぐさめとしていたかけらもすでにない。
「まあまあ、あいさつはいいわよ、冷たかったでしょ、この雪にはだしじゃ、かわいそうに」とてつもなく大きく見える掘《ほ》り炬《ご》燵《たつ》に養母は招き、ひょいと思いついたように「おっと、その前にお風呂、お風呂」えらくはしゃいだものいいで、身軽に廊下を走り、「さあ、こっちよ、大阪から乗りづめでしょ、さっぱりしなさい」
辰郎、あれこれ初対面の言葉考えないでもなく、しかしこうとんとん拍子に運ばれてはただ従うのが精いっぱい。
若い女の笑う声が風呂場の表からきこえて、「燃えませんてえ、なかなか」「揮発かけたら危いかしら」「藁《わら》くべてみようけ」一人は養母で、そっと窓をあけてみると、広い庭の雪に穴を掘って、煙が上っている、女中が竹の先きでしきりとくすぶるのを突きくずし、見えかくれするのはたしかに、辰郎の着て来た予科練の服で、そこへ養母が紙屑籠《かみくずかご》を持ってあらわれ、くべると赤い火がチロっと上り、紫色の煙たなびき「そや、虱《しらみ》おるし、汚ないから俺《おれ》の下着もなにもかも、燃しよるんや」上野弁護士は下着まで気づかず、少年院三月近い着たきり雀《すずめ》、しかも洋服屋の男とのことがあってから脱肛《だっこう》気味《ぎみ》で、糞《くそ》がしみつき、あれをみられたと思うと身も世もなく気がくじけ、第一、風呂から上られへんとあわてあたらしいのが用意されてあると考えて当然なのに気がまわらず、人に世話してもらうのは、父の死後これがはじめてなのだ。
「どうしたの、いい加減で上ってらっしゃい、お腹《なか》減って浮いちゃったんじゃない?」養母に声かけられて、出ると丸首のあたらしい下着と、厚い生地の兵隊服上下、炬燵にもぐりこみ、飯を食べ、「お父さんがね、タアボウの頭、みっともないから短かくしなさいってよ」お父さんといわれてどぎまぎし、もとより異存はなくて、床屋へ行くのかと思ったら、縁側に踏台出してシーツを首にまかれ、養母みずからバリカンをにぎる。「戦争中、お父さんの頭いつも刈ってたのよ、だから心配しないでも虎《とら》刈《が》りにはしません、痛かったらいってね」バリカンが走ると、そこに風が吹きこむ如《ごと》く、ばさっとおちた髪の毛は女のように長い。養母の息がうなじにあたり、左で支えるその指のやわらかさが、うっとりするほどで、「これが卵巣のあるお母ちゃんなんやな」刈った後、輪になった櫛《くし》で皮垢《ふけ》をおとし「わあ、ひどい、もういっぺん洗わなきゃこれ」悲鳴をあげ、また風呂場へ連れていかれる、養母は着物の裾《すそ》をからげ、首根っ子つかまれてうつむいた眼《め》の前に、白い足の指がみえ、かたまった雪のような石鹸《せっけん》の泡《あわ》が、幾重にもその上におちては、流れていった。
養父の逸郎、養母の哲子それに哲子の母で五十八歳になる松江、松江は四国の金刀比羅《ことひら》宮《ぐう》へ参詣《さんけい》にでかけて留守、二十一歳の女中で、部屋数は十一あり、辰郎は応接間に続く洋間を与えられ、養父の商売柄《がら》、あらゆる物資に不自由なく、納《なん》戸《ど》には米俵が三つ缶詰《かんづめ》砂糖酒が山積みされていた。当然養家も兵頭を姓とはしていたが、辰郎の、天地とっちがえたような環境の変化にとまどわず、あたらしいこの家へすんなりとけこめたのは、哲子の人柄、辰郎の八方破れなひらき直り方もあったが、それよりこの豊富な食料と、食料に裏打ちされたこの家の、いかにも安定した家庭の形に理由がある。母のもとをとび出すまで、食いしろに困ることはなかったが、父の撞球場《どうきゅうじょう》閉鎖以後、変則的な家庭関係で、意識せぬにしろ、辰郎は父が稼《かせ》ぎ母が家を守る常識的なその姿に、憧《あこが》れつづけ、だからこそ朝早い逸郎を玄関に「いってらっしゃい」と送り、五十円ずつ週に一度小遣いを逸郎からもらう暮しぶり、いかにも水にあった。そして逸郎をすぐ「お父さん」と呼べたのは京都の生活で親父と子供の関係をある時期保っていたから、それをそのままなぞればよく、だが、哲子を母と呼ぶには恥しさが残った。あまりにも生母とちがいすぎて、単に顔の造作だけをくらべれば、あるいは中高の生母の方が美人系かも知れぬ。しかし最後にみた時は、まごう方なき淫売《いんばい》屋《や》のおかみで、瞼《まぶた》くろずませしみ浮き出し、ひきかえ哲子は、逸郎すでにトラックの運転手から、まがりなりにも運送業一国の主《ある》じとして歩み出してからの結婚だし、育ちもよくて、いかにも良家の夫人。
ましてや、二言目には苛《いら》立《だ》ち、親父に当り散らし、酒臭い息吐きかけた母と、常に薄化粧忘れず、立居振舞いおだやかで、声荒げることない哲子と、哲子が生活に満足しきっている以上当然のことながら、比較になったものでなく、いや、辰郎は母にやさしく世話してもらったことが皆無だから、哲子の心づかいにいちいちおろおろし、たとえば、この年の師《し》走《わす》、まだろくな品物はないからと、哲子は辰郎のパンツを自分で縫い、逸郎は日常ふんどしだったから勝手わからず、自分の下着を、哲子に縫ってもらうだけでも恥かしいのに、哲子ははいたところをみせろという、「いや、上等ですわ」照れるのを無理にズボンおろさせて、「いいじゃないの、お母さんだもの」そうか、お母さんになら、なにを甘えてもいいんだ、かつて、小学校の頃、母親つかまえてひどい言葉で玩具《おもちゃ》をねだる友達をみて、どうすればあんなに甘えられるのか、不思議に思ったことがあり、辰郎の母は、ねだられるより前に金で与え、一度それに不足をとなえると、鞭《むち》のようにきびしい声で怒鳴った、「甘ったれんとき、お父ちゃんにいうたらええやないの、穀《ごく》つぶしのお父ちゃんに」
折角の手製のパンツは脚を通すところがせまくて、いちいちおろさねば用を足せず、思い切って「お母さん」はじめていい、「これオシッコできへん」鬚《ひげ》も三日に一度はそらなければならぬ面《つら》を、ことさらもじもじ子供っぽくいうと、哲子は一瞬のみこめぬのを、ままよと「オチンチン出されへん」とたんにひっくりかえって哲子笑い出し、「ごめんなさいね、お父さんはおふんどしで、はみ出してばかり、みっともないったらありゃしないのよ、タアボウは逆ね」いまにも指でそのあたり触れそうになったからびっくりして腰をひき、「脱ぎなさいよ、直したげるから」辰郎は、古いパンツぶる下げて風呂場へ入る。自分の今まではいていた下着を、いかにあたらしいからとはいえ、哲子はそのままこだわりもなくほどきはじめ、母なら絶対にこういうことはしなかったはず、おさない頃、学校で大便をもらしてしまい、半ズボンの裾を両手でしぼってかけもどり、折《おり》悪《あ》しくきよは不在で母がみつけ、汚れたものはそのままはばかりに捨て、ものもいわず水道の水を下半身に浴びせ、ようしゃない声で「ああくさい」いい放った。
暮れも押しつまって祖母の松江がもどり、この交通難の中を四国くんだりまで出かけるのだから年に似合わぬ元気、その前日、「明日、おばあさんが帰ってくるけど、とにかく気が強い人だからね、まあ、おばあさんおばあさんておだててりゃ、気はいい人なんだが」逸郎はいい、「私のお母さんだけど、とても負けちゃいないんだから」「それはそうと、タアボウ学校の方はどうする」本来なら今が中学の五年で、上級学校にすすまないのなら、新制高校の三年に編入の計算、「ぼく、新潟《にいがた》高校受けてみます」白線への夢は捨てきれず、いい切ると逸郎は眼《め》をほそめて、「そうか、タアボウは頭がいいんだな、兄貴が自慢してたっけ」辰郎が小学校に入る前、京都の家へあそびに行った話をしたが、辰郎は生家の話題すでにわずらわしい。
翌朝、早くに着く祖母を迎えに駅へ行き、肥った男に紹介され、これは時計屋の吉川で祖母のお気に入り、とても六十近くとは思えぬ足どりで祖母は降り立つと、吉川に「荷物とっとくれ」あごで車内をしゃくり、かしこまりましたとすっとんで入る。「おかえんなさい、たいへんでしたでしょ。あの、辰郎さん」紹介されよろしくと口の中でつぶやき一礼すると「ああ、よく来たね」それっきりでとことこ杖《つえ》ついて歩きはじめる。復員兵士のような大包みを吉川かついで後を追う。
包みの中は金刀比羅名物のまんじゅうやら蒲鉾鰹節《かまぼこかつおぶし》小豆つくだ煮とかつぎ屋の如く、「さあ、辰郎さん食べて下さい、吉川も家にもってっておやり」哲子が、「タアボウ来年は高等学校受けるんですよ」報告すると、「へえ、受かったらお祝いしなくちゃね、小豆もって来てよかったじゃないか」思ったよりやさしい。
翌日からしかし家の中の空気がいっぺんし、祖母は台所いっさいとりしきって、哲子に指一本ふれさせず、女中を追い使って味噌《みそ》汁《しる》は辛いし、朝っぱらから熱い御飯にお茶《ちゃ》漬《づ》けをすすめ、ずっと東京下町に育ったとかで夕食は午後五時、逸郎の帰りを待って、炬燵で長話してようものなら、「とっととおやすみよ、いつまでしゃべってんだね」眼を三角にして怒鳴る。風呂へ入れば湯船の中で石鹸つかって汚すし、そのくせ女中が廊下ふきわすれると、あてつけにどたばたと自分で清め、「おおくたびれた、按《あん》摩《ま》さん呼んでおくれ」こめかみに膏薬《こうやく》をはってふてくされる。
「気にしないのよ、もう年寄りなんだから」哲子は辰郎にいい、しかし、どうして逸郎が、もっときびしくいわないのか不思議だった。辰郎が考えても、娘の嫁ぎ先きにいわば養われているのだから、もう少し肩身せまく生きて当然なのに、気が向かないと、おはようと挨拶《あいさつ》する逸郎にさえ、ふんと鼻を鳴らしてそっぽむく、「トランクの二十や三十持ったからっておえばりでないよ」哲子にいって、「あら、トランクじゃないわよ、トラックでしょ」「なんだい、トランクだってトラックだって同じこっちゃないか、引っ越し荷物運ぶ人足の親玉じゃないかね、生意気いうんじゃない、それとも年寄りだってんで馬鹿《ばか》にするのかい、おお、えらいね、たんとおしよ」一息にまくしたて、哲子はたちまち涙うかべてはばかりへかくれる、祖母はじろりと辰郎をながめ、「なにかいいたそうな顔してるね」
大《おお》晦日《みそか》の夜、映画「ブームタウン」を観《み》に行って、これが思わぬ長時間もので、家へもどったのが十時半、昼間は塗りの重箱やら、おとその容器出すのを手伝い、後は祖母がとりしきるものと考えて、気にしなかったのだが、吉川や他《ほか》に逸郎の会社の人間も来ていて、どたん場になってからの大掃除、ぼんやりながめていると「なに愚図愚図してるんだよ、ちったあ雑巾でもしぼったらどうだい」そして「横合いから入って来やがって、いけ図々《ずうずう》しい」大へんな見幕で、はじめは横合いを大掃除という意味にとったが、考えればこの家に、横合いから闖入《ちんにゅう》して来たことをいうらしく、怒るより情けなく、この言葉耳にしたのか、哲子は「ごめんなさいね、気が立ってるのよ、思いついたら待てしばしなくいっちゃうんだから」肩を抱かれて、それほどでもないのに、思いがけず涙があふれ、「みられるとへんだからね、こっちにいらっしゃい」二つあるはばかりの客用に二人ではいり、哲子は辰郎を抱くように手をまわして「ここでお母さんもいつも泣くのよ、へんね、よくお姑《しゅうとめ》さんにいじめられる話はあるけれど、私は、本当の母なのに」しばらくそのままでいて、「出て来る時、この水で顔洗ってらっしゃい、眼が赤いわよ」手洗いを指さし「汚なくないわ、私もやってるんだから」二人だけの秘密のようにいう、手洗いの水はうすく氷が張っていて、暗い表にまた雪が舞い、遠く井戸のポンプ押す音がきこえた。
哲子にとっても、辰郎を扱うのにはとまどっていて、はじめ夫の兄から手紙をうけとった時、もはや自らの子供のぞむことは無理とあきらめた矢先きだったから、夫と血のつながるしかも憐《あわ》れな境遇の少年ひきとることに否《いな》やはなく、だが少年院に入ったときいて、二の足をふんだ。逸郎は四年まで通った高《こう》津《づ》中学の教師に成績品行を問いあわせ、在学中は非のうちどころない学生だったからと太鼓判押され、すべては環境がわるい、兄貴の心残りをなんとか救いたい、もし引きとって具合わるければ、養子うんぬんは解消とし、勤め先きを世話してやるだけでもいいと、しぶる哲子を説きふせ、ところがいざ辰郎が玄関にあらわれ、その思ったよりはるかに背高く痩《や》せていて、たよりなげな姿に、少年院上がりの嫌《けん》悪《お》恐怖感たちまち失《う》せて、甲斐甲斐《かいがい》しく世話をし、うれしかったのだが、そしてはじめてお母さんと呼ばれた瞬間は、予想していたよりさらっと受け流し、これもお互いこだわりのないしるしと心はずみしかしなれるにしたがって、果してこれで母親なのだろうかと、心配する気持が強まる。「なにしろさんざ裏をみてきたんだから、ひがんでるだろう」「財布はなるべく眼につかないところへ置いた方がいい」「叱《しか》る時は、俺《おれ》がひき受けるから」と、逸郎はこまかく注意していたが、しごく素直で、紙入れこそ帯上げの中に背負いこんだけれど、特に気にする兆候はない。ただ、辰郎がなつけばなつくほど、自分が心をくばればくばるほど、なにやらもどかしく、ふと考えて、自分の周囲の、幾人ものわが腹いためた子供育てている母親を見くらべ考えてみても、それまで子宝めぐまれぬだけに、ある時はうらやましく、またある時はあんなうるさいものを相手にしてと、冷たくながめつづけたはずなのに、見当つかぬ。
母の松江は、哲子を猫《ねこ》っかわいがりにかわいがった、父親は仕出し料理の店を日本橋に張って、女好き、松江はすべてを哲子にかけ、「あんな浮《うわ》気《き》者《もの》はどうせ野垂《のた》れ死《じに》だよ、母さんと二人で暮そうね」ゆとりはあったから、小学校の頃《ころ》から最先端の洋服を着せ、稽《けい》古《こ》事《ごと》にかよわせ、降るように縁談はあったのだが、松江、片はしから断って昭和九年に父が亡《な》くなり、「こんな店うっちゃっちゃえばいいんだよ」惜し気もなく人手に渡し、魂胆は官吏か弁護士、医者まかりまちがってもくいっぱぐれのないむこを探すつもり、それがようやく軍需景気で運のむいた逸郎とできあって、それを知った時、気も狂わんばかりにののしったが、いざとなれば死にかねない覚悟の哲子に「手塩にかけた一人娘さし上げるについちゃおねがいがある、どうせ身寄りのない婆《ばば》あだもの、せめて老い先きぜいたくはいわないが、おまんまいただくだけのことはしておくれ」逸郎に談じこみ、その旨《むね》の一枚とって、大久保に借家ながら一軒女中つきで用意させ、「お前が惚《ほ》れたんだから勝手におしよ、式あげるなど大層なこたあできかねますね」憎々しげにいって、むしろこれは幸い、夫婦水入らず新潟でとんとん拍子、ただ一つ子供のないのがきずだったが、三月十日下町の空襲があると、表看板の気丈はたちまち店閉いして、哲子をたより、肌《はだ》身《み》はなさぬ老後の保証の証文一枚、ずるずるべったりにいついて我物顔に家内とりしきる。
「なんだいあの男は、仕事仕事で、ろくな遊びも知らないんだろ、野暮天だよありゃ」さんざ亭主《ていしゅ》の浮気に泣かされた筈《はず》なのに、逸郎の堅気をみると、けなしつけ、野垂れ死すればとののしったおのがつれあいの、下駄《げた》の好みや帯のしめ方、いちいちとりあげて比較し、逸郎はさすが荒くれ男とりしきる稼業《かぎょう》だけに、きこえよがしの悪態も、「あれだけ元気なら、まあ当分命に別条なかろう」とうけながし、涙のこぼれるほどそれはうれしかったが、もとより、松江の身のほどわきまえぬ思い上り、とてもわが親とも思えず、といって松江たしなめる気力はまるでない。
正月二月と過ぎて、辰郎《たつろう》は受験準備に忙がしく、洋間にこもりきりで、夜更《よふ》けにさぞやひもじいだろうと、お粥《かゆ》の一つもつくりたくても、これだけはどういうわけか女中部屋の隣りに、いかにも居候《いそうろう》らしく床をのべて、台所カタリとなれば、「誰《だれ》だい、ねずみかい」目ざとく金切声はりあげる。
仕方なく納《なん》戸《ど》の、牛の大和煮やら米軍のチーズ袖《そで》にかくして辰郎にはこび、「お腹《なか》減ったでしょ、これ食べなさいよ」閉めきった室内に、火《ひ》鉢《ばち》の煉炭《れんたん》がこもり、その臭《にお》いとそれよりはるかに強い男の体臭にうたれ、どぎまぎして、どうせ宴会で帰りおそい逸郎、かえるまでここでタアボウの世話をと、思い立って、懐炉を入れ、行《あん》火《か》を脚もとに置き、「まだなにかすることある?」口にして自分でおどろくほど声がうるんでいた。
「お母さん、ぼくが合格したら、お祝いくれる?」「もちろんよ、ちゃんと考えてある」「へーえ、なにかな」「当ててごらんなさい、とってもいいもの」「それは鉱物ですか」「ちがいます」
人気高いラジオ番組の口調になって、結局はお互い、母子《おやこ》ごっこと感じつつ、哲子は別にお祝いを考えていたわけでもなく、辰郎またあてにしてはいない、「ぼくはレコードが欲しいんだけどな」「あら、ぴったりよ」「ぼくの好きなレコードわかる?」「そうね、ショパンかな」問答つづけて今度、辰郎が御名答とこたえる番だったが、じらす気が起り、「ショパンでもいいけど」「じゃ、モツァルト?」「本当はベートーベンの第九」「第九、歓喜の歌ね」、四年の担任が「苦悩を通じて喜びへ、ベートーベンの第九こそ受験生の音楽だ」と、その三学期にアジったのを辰郎覚えていた、担任からは四年修了の証明書と、密封された成績証明書がとどけられ、便箋《びんせん》には「成績各課目とも優にしてありますから、そのつもりで」とあった。
「トアシニリノワハンボカンナ」とならんだ字を、置きかえて文意通じさせ、それに答える知能テストを、鶏の脚は何本かと判じたまではよかったが、脚と爪《つめ》をとりちがえ、さていくつあったか、たしか蹴《け》爪《づめ》というのがついてるはずで、それを入れると四本か五本か、この問題だけあやふやで、家へかえるなり「鶏の脚は何本?」さけぶと哲子おどろいて「脚って二本でしょ」とたんに気づいて、脚は二本にきまっとる、またあがってしもたと初日にしょげかえり、それがたたったのか不合格、あわせる顔もなかったが、新制高校へ編入試験は、ほとんど出席しなかった五年生の実績みとめられて最上級の三年、「頑《がん》張《ば》って東大狙《ねら》いなさいよ」哲子にはげまされ、「へっ、兵頭《ひょうどう》の血筋じゃ見込みはないね」祖母のいやがらせも気にならなかった。
一年間の有為転変を経て、ふたたび当り前の学生にもどり、旧制高校受験勉強の努力がものをいって、そのブランクもさしたることなく成績は十番以内、だが、洋服屋におそわった五本指の癖は、ますます盛んとなって、しかも対象ははっきりと哲子、哲子のそのしなやかな指に包まれたならば、ただそれだけで甘美なきわまりにいたるのではないか、また猥本《わいぼん》の描写の如《ごと》く、その体の上におおいかぶさるだけで同じ喜びを得るのではないか、放ちおえたものを、枕《まくら》カバーでぬぐいタオルでふきとり、やがては風呂場《ふろば》で行なって、点々と雲のように浮かぶそれの、哲子の体に吸いこまれる様を思い浮かべ、一方においては、哲子こそは母親、心底甘えているだけに、覚めてからのわが身さいなむ罪悪感も強く、逸郎の顔をまともには見られぬ。もちろん哲子と逸郎は同じ部屋にそいぶしで、ある朝、昨日の朝刊をとりにその寝室へ入り、箪《たん》笥《す》の上の新聞に手をのばすと、逸郎あわてておき出し、それより早く偶然ひらいた紙面に、押花のようにルーデサックが二つへばりついていて、逸郎はすぐ寝巻きの袖にこれをかくし、知らぬふりで辰郎、新聞を部屋にもちこみ、そのしみの跡をながめ、今度は哲子の顔がまぶしい。
「タアボウ、痔《じ》がわるいんじゃないの」哲子がいい、「だって、いつもパンツにうんちがくっついてるわよ」まさか、洋服屋のせいともいえずうつむいていると、「お父さんに似てるのよ、やっぱり痔でね、ヘモロスって塗り薬よくつけてたわ、ちょっと見せてごらんなさい」「見せる?」「いいじゃないの、お母さんなら」笑いながらいわれて、しかもさっと風呂場へむかい、覚悟きめて四つんばいになると、哲子はかるく辰郎の尻《しり》に手をあて「これは脱肛《だっこう》よ、ちょっと待ってね」ふいに冷たいものが、肛門にふれ「お風呂へ入ったあと、こうやってマッサージするといいのよ」周囲だけではなく、指先きが中に入りそのつど別の指が睾丸《こうがん》にふれる、たちまち辰郎のものは雄々しくなり、そのまますわりこみ、いかにもくすぐったいという風に背を向けてかくし、いそいでパンツをはく。「早く直しとかなきゃ、お嫁さんびっくりしちゃうわよ、あんなに汚しちゃ、お母さんはなれてるけど」
お嫁さん? お嫁さんなんかいらん、お母さんおってくれたら、それでええわ、お母さんのそばにおれたら、それでなにもいらん、心底思ったが、まさか口にもできず、「タアボウのお嫁さん、どんなんかしら、お母さんにまかしてくれる? とっても素敵な人さがしたげるわよ」哲子はあたらしい母子ごっこを考えつき、「そんなん、わからへん」「そうねえ、まだ十七ですものね、いいなあ、お母さんはもう三十六」二日に一度、金光教《こんこうきょう》の教会へ祖母のいった間鬼の洗濯《せんたく》、祖母は御利《ごり》益《やく》のあるものなら、委細かまわずなんでも信仰していた。
学校にも新潟弁にも慣れ、二十三年に入るとこの土地では食料事情もほとんど戦前とかわりなくなっていたが、甘味だけは乏しく、配給のキューバ糖はダニがいると逸郎は闇《やみ》の砂糖を各地から集めて、おやつくらいは哲子の自由になったから、汁粉ぜんざいをよくつくり、これが辰郎のクラスメートにうけた。常から、その持参する弁当の豪華さが連中注目の的で、辰郎、お世辞まじりに祖母にいえば、「当り前さね、こっちはこれが本職なんだもの」珍らしく屈託のない笑顔みせ、さらに腕ふるって、まるで歌舞伎《かぶき》見物の曲物《まげもの》の如き二重三重を持たせ、「兵頭は金持なんだねえ」いわれるままにお菜をわけてやり、そのまま家へともない、友情をくいもので固める。にしても、中で頓狂《とんきょう》なのが、二はい三ばいお代りをし、これもはじめての経験で女学生のようにはしゃいだ哲子、なんならどんぶりによそいましょうか、冗談いうのをみていると、矢も楯《たて》もたまらず嫉《しっ》妬《と》心《しん》がわいた。海へ泳ぎにいけば、大ぶりなお菓子の箱に、びっしりと海苔《のり》の握飯をつめ、生母のあの、遠足へ行く時もさし入れの時も、姿そのまま一本経木に包んだだけの、出来合いの海苔巻きとは、雲泥《うんでい》の差であった。眼《め》と鼻の寄《より》居《い》浜《はま》へ連日でかけて、北国とはいえ海にかわりなく、ただ水平線に湧《わ》く入道雲の形は、かつて父と泳ぎにいった須磨《すま》浜寺とことなっているように思い、痩《や》せていながら父は抜手をよくし、気がつくとはるか彼方《かなた》に、手ぬぐいを頭にまいた姿みえかくれし、ひどく心細く感じたことなど、ふとなつかしく、だが、それも夢のようで「タアボウ、写真とったげましょうか」いつの間にか哲子が、珍らしく洋装で傘《かさ》をさし、カメラを向ける。
五尺七寸十六貫の、すっかり赤銅色《しゃくどういろ》にやけた体、レンズを通してまぶしそうにながめ、浜茶屋の二階へ上ると、「ねえ、お母さんに皮むかせてくれる?」甘えるようにいい、背後にすわると、肩に一方の手をかけながら、皮膚をつまみ、辰郎はあるかなき皮のはがれる感触が、体の奥底にまでしみこみ、しみこむにしたがって背筋がしびれる如く、哲子はまた、火ぶくれしささくれたその端をソッとひくと、うるんだようなあたらしい皮膚が、まずピンクにあらわれすぐ他と同じ色にかわり、むけたのを、おのが手の甲に大事に張りつけ、やがて、辰郎の皮膚と同じく自分のうなじやらひたい、じっとり汗にぬれるのを感じる。極端に帆を傾けた、新潟《にいがた》医大ヨット部の舟が一隻《せき》、その向うに佐渡《さど》ヶ島《しま》がくっきりと浮かんでいた。
その佐渡へ、夏休みに級友とあそびに行く話になって、これまで服やら本やら、ねだれば右から左にととのえてくれた哲子が、はじめて即答しなかった、「そういうことは、やっぱりお父さんに相談してみなけりゃ」辰郎はうろたえて、「いいよ、それなら」ひがんだわけではなく、逸郎にいわれてもし断られでもしたら、身の置きどころないように思い「大丈夫よ、お母さんがうまく話すから、お母さんにまかしときなさい」あやすようにいい、哲子を全能と考えていたのが、そうではない、いや、やっぱり俺よりお父さんの方が大事なんやろかと妙にさびしく、佐渡行きはすぐ許されたが、逸郎と哲子の、寝室へこもってからのことが、生々しく頭に浮かぶ。
両津《りょうづ》から国仲平《くになかへい》野《や》を過ぎて相川にいたり、逸郎の紹介した宿屋に一行泊って、酒盛りとなり、辰郎おそるおそる口をつければ、いっこうに酔わず、中の一人「ここにゃ女郎屋があるすけ、いかねえか」提案し、この男すでに本町十四番町の赤線に足をふみ入れていて、これが先達《せんだつ》、四軒ばかりさびれた店のならぶ一画、わずかにのぞく女の顔をみるうち、哲子の面《おも》ざしを探していることに気づき、先達の命ずるまま、ふらふらとあがって、敵娼《あいかた》は三十過ぎた女、急に病気が怖くなり、洋服屋を思い出して、そのしぐさを頼んだがせせら笑われ、「馬鹿なこというでないよ、さあ」蛙《かえる》のように脚をひろげ、観光客用スピーカーが、相川音《おん》頭《ど》をがなりたてると、女はそのテンポにあわせて身をゆすり立てた。
三泊四日の旅に手紙もないものだが、哲子にしつこくいわれていて、便箋《びんせん》とり出し、他の者寝しずまった宿の枕元《まくらもと》にひろげたが、さて、小学校の作文の課題以外に手紙など書いたおぼえがない。はじめて女を知って心たかぶり、甘えたいままに、さすがそのままは書けず、TETSUKOローマ字でびっしりこれだけを埋《うず》め、手もとに置くのがこわい気持で、深夜ポストへ投函《とうかん》する。女を抱きつつ、呼んでいた名前でもあった。
「あそんでばかりいて、来年の試験はどうなるんだ、また落ちたらお父さんだって恥をかくぞ」新潟へもどると、川開きで早く家へかえっていた逸郎が、きつい口調でいった。「大丈夫です」きっぱりいいきった方が男らしいと考えたのだが、「口先きばかりでは仕方がない」そっけなくいってすぐ、県庁役人招待の、船に出かけ、哲子もそばにいながらたすけを出さない。
「手紙、みられちゃったのよ」茶の間で一言哲子がいい、辰郎立ちすくんでいると「別になにもいわなかったけど、お母さんにも、もう少し勉強させるようにって」眼《め》のくらむ想《おも》いで、手紙のことりとおちた時から、胸さわぎに似た後悔の念がわだかまっていたのだが、それも哲子に対してであり、まさか逸郎に読まれるとは、自室に閉じこもり、暮れなずむままあかり点《つ》けずにいると、突如、天地ゆるがす爆発音がし、ついでばらばらと中空でこまかく炸裂《さくれつ》するひびき、一瞬、空襲を思い浮かべ腰を上げたが、すぐ、前から二階の物干で見物しようといわれていた川開きの花火とわかる。つづけさま三つ四つと花火はつづき、「タアボウ、御飯だよ、早く食べちゃっとくれ」祖母がさけんだ。
手紙はしかし後をひかず、逸郎はすぐ以前の通り、夜おそくもどると、起きている辰郎の部屋に、宴会土産の折詰をとどけ、寝巻きに半纏《はんてん》ひっかけた哲子が、醤油《しょうゆ》調味料そえて、親子三人医学部がいいとか、やっぱり東大だとか、ひとしきり話がはずんだが、二人引き揚げると、辰郎は、なまじ相川のことがあるだけに、あの哲子も蛙のような脚で逸郎をむかえるのか、淫《みだ》らな光景がありありと浮かんで、別に酔いにまぎらす心づもりはないのだが、納《なん》戸《ど》の酒瓶《さかびん》を本箱にかくし、冷酒をあおる、あおるうち心がしずまり、今度は、奔放に哲子を自分が犯す空想をあれこれたのしみ、ある時は足音をしのばせて、その寝室の近くにうずくまり、なにか物音きこえぬかと耳そば立てたりもする。いつも末は五本指の儀にいたり、酔いと疲れに綿の如く寝入って、翌朝、登校の際思いかえせば、身の二つ折れになるような自己《じこ》嫌《けん》悪《お》にかられ、誰《だれ》かにすべてを告白してしまいたい衝動があった。
この気持陰に陽につきまとい、秋の中頃《なかごろ》、哲子の従姉《いとこ》にあたる女の、新潟見物にやって来て、その二日目の夜逸郎夫婦所用で外出し、祖母は早く寝るから、タアボウ、市内を案内してさし上げてといわれ、柾《まさ》谷《や》小《こう》路《じ》から鍋《なべ》茶《ぢゃ》屋《や》一帯の料理屋街、白山《はくさん》神社とお伴し、「少し休みましょうか」女は、喫茶店に入り、もともとお互いに共通の話題などないから、つまるところは、辰郎の養家についての印象、根掘り葉掘りたずねられ、四十近くでいかにも人の好《よ》さそうな、その表情に気をゆるし、辰郎うっかりしゃべった。
もとより身もふたもないあからさまな恋情ではなく、「なんせ、ぼくは少年院に入ったりしてまして、えらい気持もすさんどったんですわ、それが、どうにかまともになれたのは、お母さんのせいです」はじめ、哲子の血縁であるこの女に感激の気持のべれば、当然、哲子の耳に入る計算もあったが、「そうねえ、できないことよねえ、えらいわ哲子さんは」同感してうなずく女につられ「ぼく、今のお母さんではじめて、本当のお母さんにめぐり逢《お》うた気持します。大阪の母は、たしかに生みの母ですけど、なにかこう母性失格者いうみたいな」一方で大人ぶりまた少しはみじめな自分もうりこみ、「えらいきつい人でしたけど、自分だけよかったらええ女でしたけど、今のお母さんは、いつもぼくのこと考えてくれてるし、ぼくもお母さんのためやったら、なんでもしてあげたいみたいな、なんや、お母さんのこと考えるだけで涙でてくるほど、うれしいんです」「辰郎さんもやさしい人なのね。そりゃ哲子さんだって、そういう気持で辰郎さんがいるから、もう本当の子供みたいに思えてくるのよ」「そうやったらええんですけど、ぼく、よく考えますねん、学校でて、ちゃんとしたら、お母さんと、京都奈良へいきたい思うて、丁度今頃やったら、そらきれいですわ」手放しで哲子を礼讃《らいさん》し、辰郎はまだ物足りぬ気持、女はとっくに、惚《ほ》れた女の話題に陶然としている、若い男特有の表情をみてとり、さらに誘い水向け、帰るや否《いな》や、逸郎夫婦の留守を幸い、祖母に報告した。「叔母さん、気をつけた方がいいわよ、そりゃ哲子さんになつくのもいいけれど、なにしろ年頃《としごろ》でしょ、変な気起したら、いや、私のみたところもう少しおかしいんじゃない?」「じゃなにかい、もう乳繰りあってるのかね」「まあ、そういうことはないでしょうけど、哲子さんに注意しないと、只《ただ》ごとじゃないわよ、あの辰郎さんて」「ふん、横合いから入りこんで来やがって」
女のつげ口は、哲子の裕福な暮しぶりと、若い男に礼讃されていることへの嫉《しっ》妬《と》からだろうけれど、祖母は、そのまま輪をかけて、逸郎にこれをつげた。
その帰京してから「伯母さんになにかいったの?」顔こわばらせて哲子、辰郎に問いただし、「なにかって」まさか面と向って、女にいった言葉もいい出しかね、「お母さん、お父さんに怒られたわ」逸郎は、祖母の言葉など聞き流すならわしだったが、「できてる」「乳繰りあう」などむき出しないい方が我慢できず、「だまんなさい」はじめて祖母をしかり、養子と妻の間を勘ぐらねばならぬ身の情けなさやら、いくらかは、前の手紙のこともあって、辰郎を恩知らずと思い、いいようない腹立たしさをそのまま哲子にむけたのだ。眼を泣きはらし、ぼんやりすわりこんだ哲子をみて、辰郎は、「ぼくはただあの、お母さんのおかげでまともになれたいうて、伯母さんにいっただけやのに」哲子への愛を告白したい気持のたかぶるまましゃべった自覚があるから、一方的に女をけなしつける迫力に欠け、口ごもるうち涙あふれて、「ぼく、はじめてお母ちゃんにめぐりおうた思うて、これがほんまのお母ちゃんや思うて」あたりはばからず泣き出し、「ぼくのお母ちゃん卵巣ないねんて、卵巣のない女なんか、お母ちゃんやないわ」しどろもどろに突拍子もないこというと、哲子は「そう」しずかにいって、辰《たつ》郎《ろう》の背中をさすり、「そうかも知れないわね、本当いうと、うちのお婆《ばあ》さんはね、子宮とっちゃったのよ、お母さんの後で、葡萄状《ぶどうじょう》鬼っ子ができてね、全部摘出しちゃったんだって」「ほな、お婆さんも、女とちゃうんの?」「まあ、そうでしょ、その後だもの、父が浮《うわ》気《き》はじめたのは」だから、祖母は哲子がにくい、わが子であっても、五体そろった女体がにくい、いや、浮気もせず、稼《かせ》ぎのある亭主《ていしゅ》もって、ぬくぬく暮している娘がにくい、せめて哲子に子供のないことが救いだったのに、養子といえ、生みの子供以上になつかれ、慕われている姿をみれば、心がやける。もし、娘の行跡について、その亭主にあしざまなこといえば、とりも直さず、おのが首しめる道理、だがその先き行きはどうでもいい、娘もろとも、抱きかかえて無理心中のつもりなのだろう。
哲子はふと怖《おそ》ろしさに身が震え、思わず辰郎を抱きしめると、辰郎は母親そのものに触れた気持が生れながら、またようやく想《おも》いとげた男のように、その頬《ほお》に伝う涙を、唇《くちびる》でふきとり、乳吸うように肩にかかった手の指をしゃぶり、「タアボウはお母さんの子よ、お母さんなんだもの、なにしたっていいのよ、うんと甘えなさい、いいのよ」うるんだ声で哲子もいい、辰郎はわけわからず、襟《えり》のあわせ目から乳房さぐるように、顔こすりつけ、体を寄せていき、二人横たおしになった時、ふっと突きはなされ、みると、そばに祖母が、仁王立ちにいた。
お袋は死んじゃうし、親《おや》父《じ》はずらかるし、妹はやくざとくっついちゃうし、おらまでへまやったあ、牢《ろう》屋《や》の中で、気がもめる、かわいあの娘《こ》を想えば気がもめる。ああプアボーイ、プアボーイ、辰郎は低く口ずさみながら、海岸の砂浜を歩く、海はくろずみ、佐渡ヶ島の姿はみえず、辰郎はふたたび厚い殻《から》をかぶっていた、外界の刺《し》戟《げき》にいちいち反応することをやめ、砂浜のつづくかぎり、足を運ぶだけで、あの白く限りない雪野原をはじめて見た時、すでにこうなるとわかっていたような気が起る。ああプアボーイ、プアボーイ、唄《うた》うというよりつぶやくうち人糞《じんぷん》と焼跡のまざった臭《にお》いが、汐風《しおかぜ》の中によみがえり、その臭いをたよりに歩きつづける。
解説
尾《お》崎《ざき》 秀《ほっ》樹《き》
野坂昭如《あきゆき》の『アメリカひじき』と『火垂《ほた》るの墓』は、ともに昭和四十三年春第五十八回直木賞を受けた作品である。『アメリカひじき』は『別冊文芸春秋』一〇一号(昭和四十二年九月)に、『火垂るの墓』は『オール読物』の昭和四十二年十月号に、あい前後して発表され、話題をよんだ。
彼が『エロ事師たち』を書いて、一部の人々の関心をあつめたのは、たしか昭和三十七年だった。しかし彼の名前が雑文家としてでなく、レッキとした小説家として印象づけられたのは、やはりこの作品が単行本になり、出版された昭和四十一年以後のことであろう。しかし『受胎旅行』(『オール読物』昭和四十二年六月)が五十七回の直木賞候補作に選ばれたときは、まだ限られた委員の推薦をうけたにすぎなかった。だが『アメリカひじき』『火垂るの墓』に関しては、ほとんどの選者が一致して推している。
選者の一人、海音《かいおん》寺《じ》潮五郎《ちょうごろう》は、「不思議な才能である。大阪ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄《むだ》なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない。前者(アメリカひじき)に使われている材料はぼくの好みではないが、描写に少しもいやしさがなく、突飛な効果が笑いをさそう。感心した。後者(火垂るの墓)の結末は明治調すぎて、古めかしすぎて乗って行けなかったが、自伝的なものがありそうだから、こうせざるを得なかったのであろう」と評し、大佛《おさらぎ》次郎は「野坂昭如君のものは、手のこんだ文体が賑《にぎ》やかだが、よくこれが続いたものと粘り強いのに感心したし、この装飾の多い文体で、裸の現実を襞《ひだ》深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向《そむ》けていない」と選後評を書いた。
野坂昭如自身、受賞後の感想のなかで、「自信とはことなるけど、一種の安心感、はれがましい舞台に立たされることの、とまどい、身のすくむ思いはすくなく、当選の言葉にも、しごく素直によろこべた」と告白している。いずれも彼の焼跡闇市《やみいち》派としての体験にもとづくものであり、とくに『火垂るの墓』は原体験をしめすものだけに、彼としてはなにか書くべきものを書きおえたという感じがあったのではないか。
『アメリカひじき』では、テレビのCMフィルムをつくっているプロダクションの主宰者夫妻の住居へ、かつて妻がアメリカ旅行をしたおりに知りあった、恩給暮しのアメリカ人老夫妻がたずねてきて、そこでひきおこされる亭主《ていしゅ》の側の心理的モヤモヤのあれやこれやを書いているが、その意識の底に、敗戦直後の占領軍にたいする一種のコンプレックスとでもいったものがわだかまっており、米軍捕虜にたいする補給物資をくすね、ひもじい腹を一時的に満たしたことのおそれとはじらいが、ブラック・ティーを“アメリカひじき”と思って試食するなどの思い出にかさなり、敗戦直後と、二十二年後のその時とを象徴的にダブらせた作品だが、主人公の俊《とし》夫《お》の気持は、やはり戦後二十二年を経た時点での作者の意識とも、見あうものであったことが推測される。
『火垂るの墓』は、昭和二十年九月二十一日に、国鉄三宮《さんのみや》駅の構内で、栄養失調のために死んだ浮浪児の清太と、その妹節子の死までを、独特な文体で描いた好短編だ。清太は中学三年だったが、妹を背負って避難し、病身の母とはわかれわかれになる。そしてふたたびめぐりあったときには、空襲の焔《ほのお》に焼かれ、母は瀕《ひん》死《し》の重傷だった。母の死後、遠い親戚《しんせき》の家に厄介《やっかい》になるが、その家の人々から冷たくあしらわれ、近くの防空壕《ぼうくうごう》を住《すみ》処《か》とし、幼い妹と二人、その横穴で灯《あか》りがわりにほたるをつかまえて蚊帳《かや》の中に入れ、かろうじて生きていた。しかし節子は次第に痩《や》せおとろえ、やがて死んだ。清太は行《こう》李《り》に妹の屍《し》体《たい》をおさめ、大豆の殻《から》をしき、枯れ木を並べて焼いた。火が燃えつきたとき、まわりはおびただしいほたるの群れで、節子はこのほたると一緒に天国へゆくのだと清太は思う。
この作品は野坂昭如の仕事のなかでも、とりわけ印象に残るものであり、彼の文学の原点をなすといえよう。駅の構内で死んだ清太の腹巻のなかから小さなドロップの缶《かん》が発見され、それを駅員がほうりなげると、缶の中から小さい骨のかけらがころげだし、それが清太の妹の白い骨である説明から、話はカット・バックで、神戸の大空襲へもどり、そこまでの時間的経過をたどることになるのだが、その構成もきわめて自然であり、独特な関西弁をいかした饒舌体《じょうぜつたい》の文体が、その雰《ふん》囲気《いき》をもりあげている。
野坂昭如が神戸で空襲にあったのは、中学三年のときだった。神戸市立第一中学校に在学していた。六月五日に焼けだされ、西宮《にしのみや》市の満《まん》池《ち》谷《たに》にあった遠縁の家に身を寄せたのは三日後のことだ。大八車を借りて、焼跡から庭に埋めた食糧や酒、衣類などを掘りおこし、それを汗みずくとなって引いていったが、夙《しゅく》川《がわ》の堤防までたどりついたとき、すでに日が暮れ、かたわらを流れる小川のせせらぎと、おびただしいほたるの群れに、生きているという実感がつよく迫ったという。
彼は回想している。
「一年四カ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにできず、それはたしかに、蚊帳の中に蛍《ほたる》をはなち、他《ほか》に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶって表を歩き、夜風に当て、汗疹《あせも》と、虱《しらみ》で妹の肌《はだ》はまだらに色どられ、海で、水浴させたこともある」
その後、彼の妹は栄養失調で亡《な》くなるのだが、「ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想《おも》いを託したのだ、ぼくはあんなにやさしくはなかった」と述べており、いわば『火垂るの墓』が、亡き妹にたいするレクイエムの役割をはたしていることに気づくのだ。もちろん、彼には彼なりの幼いロマンスもあり、寄宿先の姉娘にたいするほのかな慕情などもあったようだが、それはともかく、『火垂るの墓』が彼の成長史のどの部分にふかく根ざしたものであるかが理解される。
昭和五年に生れた昭如は、生れて一年後にいわゆる満洲《まんしゅう》事変がおこり、小学校に入学した年に蘆溝橋《ろこうきょう》事件がはじまり、中学のときに太平洋戦争が終っている。もう少し早く生れていれば、特攻隊員として散《さん》華《げ》していたかもしれないし、もうすこしあとに生れれば、学童疎《そ》開《かい》で田舎へ行き、飢餓をとおして戦争を実感したかもしれない。しかし彼の世代は、戦争と戦後の陥没地帯に似て、そのどちらにもついてゆけず、既成の権威や秩序が音たててくずれるのを、その目で見、その肌で感じた世代ということになる。
それまで支配的であった八紘一《はっこういち》宇《う》や一億玉砕が消えると、今度は民主主義や平和憲法がたちあらわれ、この世代はその言葉のハンランのなかでとまどい、生き恥さらすわけである。虚妄《きょもう》に発し、虚妄に回帰するようなむなしさが、この世代をとりまくまがまがしさの実態だろう。野坂は神戸で罹《り》災《さい》し、養父母を失い、浮浪児生活をおくり、いわば焼跡闇市派としての体験をとっぷりと味わうことになる。そしてなりふりかまわずといった彼の生きかたは、大学時代の各種の職業の遍歴、さらにはCMソングの作詞家、黒眼鏡のプレイボーイ、さらには文壇出身の流行歌手、キック・ボクシングに熱をいれる姿まで、一貫して変らない。
野坂昭如はあるところで、荒神山《こうじんやま》の決闘で生き恥さらした神《かん》戸《べ》の長吉《ながきち》にしたしみを感じるということを書いていたが、こういった実感は、戦中戦後の谷間に生きた世代に、共通した思いではないだろうか。生き残ったということが、うしろめたさに通じるような、そういうおびえがそこにはある。しかし彼はそのことを定式化しようとはしない。むしろ彼の文学の魅力は、それを概念化することではなく、そのもの自体をそれとして描き、発見することにつとめていると思われる。あの独特な戯《げ》作《さく》的な文体も、饒舌的な語り口も、ふかく彼の体質にまつわるものだ。
受賞後の文章につぎのようにあった。
「――ぼくを規定すると、焼跡闇市逃亡派といった方がいいかも知れぬ。空襲をうけて肉親を、焼跡と、それにつづく混乱の中に失い、ぼくだけが生き残った。燃えさかる我家にむけて、たった一言、両親を呼んだだけで、ぼくは一目散に六甲山《ろっこうさん》へ走り逃げ、このうしろめたさが今もある。やがて少年院に入り、飢えと寒さのため、つぎつぎに死ぬ少年達《たち》の中でぼくだけ、まるでお伽噺《とぎばなし》の主人公のごとき幸運により、家庭生活に復帰し、ここでも、ぼくだけが逃げた、うしろも見ずに逃げこんだ。自分に対する甘えかも知れぬが、やはりうしろめたい。ぼくは、いつも逃げている」
これはいわゆる焼跡闇市派の宣言ともなったものだが、彼は小説を書くことによって、焼跡闇市への回帰をくり返してきた。死んだ肉親や過ぎ去った過去を悼《いた》むというよりも、内発的な声にしたがってそれをまとめたというところに、彼の文学の独自性があるのだろう。事柄《ことがら》を概念化したり、図式化したりするには、あまりにも大きな体験だった。したがって書くことだけが唯一《ゆいいつ》の方法だといった彼のありかたが、語り口の個々の言いまわしのなかにまでしみとおっている。枚数の都合でほかの収録作にふれられなかったが、そのいずれにもそのことはいえるようだ。
(昭和四十六年十二月、文芸評論家)