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太宰治 生涯と文学
野原一夫
目 次[#「目 次」はゴシック体]
第一章 故郷と生家
一 衣錦還郷
二 家郷追放
三 津島家素描
四 「思い出」の世界
五 弘前高校の三年間
六 津軽気質
第二章 蹉跌と彷徨
一 分家除籍と心中未遂
二 非合法運動と自首
三 作家への出発
四 虚偽の地獄
第三章 人間失格
一 パビナール中毒
二 『晩年』と『虚構の彷徨』
三 精神病院と聖書
第四章 絶望と再生
一 水上心中と破婚
二 虚無と絶望の底で
三 転機
第五章 安定と反俗
一 婚約
二 「火の鳥」と「富嶽百景」
三 甲府御崎町時代
第六章 ロマンの世界
一 三鷹転居
二 「駈込み訴え」と「走れメロス」
三 若い世代への愛
四 「女の決闘」と「風の便り」
五 旅について
六 「新ハムレット」
第七章 文学への沈潜
一 苛烈な戦時下で
二 「正義と微笑」
三 「右大臣実朝」
四 『新釈諸国噺』
五 「津軽」
六 「惜別」
七 『お伽草紙』
第八章 希望と絶望
一 「パンドラの匣」
二 保守派宣言
三 「冬の花火」と「春の枯葉」
第九章 恋と革命
一 律儀な無頼派《リベルタン》
二 「斜陽」
三 炉辺の幸福
第十章 死への傾斜
一 「人間失格」
二 「如是我聞」と「グッド・バイ」
三 その死
略年譜
あとがき
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第一章 故郷と生家
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一 衣錦還郷
私が太宰治の生れ故郷の青森県|金木《かなぎ》町にはじめて行ったのは、昭和四十年の五月三日である。町の郊外の芦野《あしの》公園に太宰の文学碑が建立され、その日が除幕式に当っていた。
それよりほぼ十年前の三十一年八月に蟹田町の観瀾《かんらん》山に文学碑が建てられ、その除幕式に参列したのが私の津軽行の最初だったのだが、そのときは、同行した檀一雄に誘われて十和田に遊び、金木町には行かなかった。そのときのことは、檀の小説「火宅の人」の第一章に書かれている。
芦野公園は金木町の中心から北に一キロメートルほどのところにあり、八百本ほどの桜が植えられていて春は花見で賑わい、また芦野湖という溜池があり夏には若い男女がボート遊びに打ち興じる。太宰は幼い頃に子守のたけに連れられてこの公園に遊びに来ていたし、また十四、五歳のときに一年間通学した明治高等小学校はこの公園の松林のなかにあった。戦後、太宰は金木で一年半ほどの疎開生活を送るが、遠来の客があると酒食を調えて公園の池畔に案内し、小宴を張って歓談していたという。太宰にとっては、なかなかに思い出の深い場所だったのである。
公園のなかの登仙岬というところに文学碑が建てられたのだが、この碑の制作者は洋画家の阿部合成である。阿部は太宰の青森中学校時代の友人で、その少年の頃は文学を愛好し、中学三年のときに二人の発案で『星座』という同人雑誌を作っている。太宰の処女作「思い出」のなかに、太宰が教師に両頬をつよくなぐられ、それが仁侠的な行為のために受けた処罰だったので友人たちが怒り、その教師の追放について協議したとき、ストライキ、ストライキと声高くさけぶ生徒があったと書いてあるが、その声高くさけんだ生徒が阿部である。そのことを太宰は昭和十四年に発表した「酒ぎらい」という随筆のなかでも書いている。「酒ぎらい」のなかの訪客のA君がつまり阿部である。
中学を卒業すると阿部は京都の絵画専門学校に進んで洋画家への道を歩きはじめる。ふたりが九年ぶりに東京で再会したのは昭和十二年で、それ以後、十六年八月に阿部が応召されるまで、太宰と阿部は山岸外史をまじえて、芸術家としてのパッションをぶつけ合いながら濃密な交友を結んでいる。阿部が応召されたその壮行会の夜半、風呂場で太宰は阿部の足の指を一本一本洗いながら、生きて還ってこいよ、と泣いたという。シベリアの抑留生活から舞鶴に還ってきた阿部は、家族の疎開していた故郷の青森に向う前に混み合った列車を乗り継いで東京に向った。太宰が疎開先の金木から東京に帰ってきていることを知ったからである。昭和二十二年の一月で、そのときのことを阿部は次のように書いている。
「黙ってどてら姿で迎えてくれた彼は、寝床の炬燵《こたつ》の枕元からサントリイをとり出して、実はヒミツなんだが俺、また甚い喀血したんだ∞だが、君は還ってきてくれたんだナァ≠ニ私の顔をしげしげと覗き込み、ポロポロ泣き、乾杯!≠ニ呑み始めた。ヨセ! という間もあればこそ、心配すんな、どうせ俺は小者《こもの》だよ!≠ニメタボリンをガリガリ噛み、凄まじい勢いでウイスキイを喉にあけ込む彼は、最早友情だの祈りだのという生っちょろいものでは止めることもできない死の形相だった。
夜が明け、帰郷する私を、三鷹の駅に見送ってくれた二重マントの彼は、まるで嵐に翼折られた大鴉に似ていた――それが私のみた最後の太宰の姿だった。バカヤロ。」
おそらくはその最後に見た太宰の面影を偲びながら、阿部は渾身の力をふりしぼって亡き親友への鎮魂の碑を制作したのである。制作の趣意書に阿部は書いている。
「幾年振りかという吹雪の芦野公園で、雪に覆われた湖上遥かにサイの河原(「イタコ」で有名な川倉地蔵の賽の河原)を望見しながら、私は金色の不死鳥(フェニックス)の飛ぶ姿を想い描いた。(彼は自己の肉体を燃焼して、その作品を不死のものとした)碑の言葉は、彼がつねに愛誦していたヴェルレエヌの(撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり)とする事に、檀一雄や伊馬春部たちと、それこそ期せずして一致した。」
「撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり」――このヴェルレエヌの詩句が、太宰治の第一創作集『晩年』の最初の短篇「葉」の冒頭に誌されていることは、よく知られている。
その除幕式にどのような人が参列していたのか、今ははっきり憶えていないが、東京からは美知子未亡人、次女の里子さん(現在の作家津島佑子)をはじめ、井伏鱒二、檀一雄、伊馬春部、木山捷平、桂英澄、奥野健男、それにもちろん制作者の阿部合成ら、多数の友人知己が、ゴールデンウィークのため切符の入手に苦労しながら遠い津軽路を訪れていた。そのほかに、長兄の文治氏、次兄の英治氏、それに津島家の縁戚の人たちも数多く見えており、また、金木町長をはじめ地元の有力者もほとんど顔を揃えていたようだった。町ぐるみ、町をあげての盛大な祭儀だったと言ってよく、除幕式がおわったあと、金木中学校で行なわれた祝宴には金木の町の人がこぞって列席していた。広いホールも満員になり、酒食の饗応もあり、舞台では金木の荒馬踊と嘉瀬の奴踊と、二つの郷土芸能が披露され、やんやの喝采を浴びていた。
かつては、数々の不行跡≠重ねて家名を汚し、故郷に帰ることを許されなかった放蕩息子は、今では国際的名声さえ勝ち得た人気の高い作家として、家門の誉れ、郷土の誇りに成り代ったのである。
次兄の英治氏とは蟹田観瀾山の除幕式の折にお目にかかっていたが、長兄の文治氏にお会いしたのはこのときが初めてだった。もう七十歳に近いお年だったはずだが、そのわりにはとてもお元気そうで、中学校での祝宴場ではあちらこちら動きまわり、来客たちに愛想をふりまいていた。温顔に微笑をたたえて、柔和なお人柄のように見受けられ、私は意外な気がした。
早くに父を亡くした津島家では長兄の文治が若くして一家の家長となり、十歳以上も年下の修治(太宰)にとってはいわば親代りともいうべき存在で、頭があがらず、まして不行跡を重ねていた若い頃の太宰にとってはそれこそ畏怖の対象だったようで、たとえば「一燈」という小品には次のような一節がある。
「八年前の話である。神田の宿の薄暗い一室で、私は兄に、ひどく叱られていた。昭和八年十二月二十三日の夕暮の事である。私は、その翌年の春、大学を卒業する筈になっていたのだが、試験には一つも出席せず、卒業論文も提出せず、てんで卒業の見込みの無い事が、田舎の長兄に見破られ、神田の、兄の定宿に呼びつけられて、それこそ目の玉が飛び出る程に激しく叱られていたのである。癇癖の強い兄である。こんな場合は、目前の、間抜けた弟の一挙手一投足、ことごとくが気にいらなくなってしまうのである。私が両膝をそろえて、きちんと坐り、火鉢から余程はなれて震えていると、
『なんだ。おまえは、大臣の前にでも坐っているつもりなのか。』と言って、機嫌が悪い。
あまり卑下していても、いけないのである。それでは、と膝を崩して、やや顔を上げ、少し笑って見せると、こんどは、横着な奴だと言って叱られる。これはならぬと、あわてて膝を固くして、うなだれると、意気地が無いと言って叱られる。どんなにしても、だめであった。私は、私自身を持て余した。兄の怒りは、募る一方である。」
謹厳で、潔癖で、いつも不機嫌そうな顔をしている人のように思っていたのだが、まるでちがった印象で、私は実に意外だった。若い頃の親友で太宰といっしょに雁首《がんくび》ならべてお叱言を聞いたことのある檀一雄に、私は訊ねてみた。
「いや、あの頃は、こわかったよ。俺まで震えたものねえ。」
と檀は笑い、
「まるで好々爺《こうこうや》といった感じだね。きょうは、よほど嬉しいんだろうね。天の上から、いや、地の底からか知らないが、太宰はどんな顔をしてきょうのお祭りを見ているんだろう。くすぐったそうな薄笑いをうかべて、いや、満更でもない気持でにやついているかもしれない。衣錦還郷《いきんかんきよう》は、太宰のひそかな願いだったのだろうから。」
衣錦還郷――おそらく、そうだったんだろうな。太宰は、胸の奥底に、そのひそかな願いを、持ちつづけていたのだろうなと、私は檀の言葉にうなずいた。
衣錦還郷。この言葉を、太宰治は、昭和十五年の四月に発表した「善蔵を思う」のなかで使っている。
この小説は、十四年の九月二十日の夜に『月刊東奥』主催の青森県出身在京芸術家座談会が日比谷の松本楼で行なわれ、それに出席したときの話である。出席した理由を太宰は三つあげているが、第三にあげている理由が太宰に決意を促したことは間違いない。
「その三つは、招待状の文章に在った。――黄金色の稲田と真紅の苹果《りんご》に四年連続の豊作を迎えようとしています、と言われて、私もやはり津軽の子である。ふらふら、出席、と書いてしまった。眼のまえに浮ぶのである。ふるさとの山河が浮ぶのである。私は、もう十年も故郷を見ない。」
しかし、出席、と返事してしまってから、太宰は日ましに不安になる。
「それは、『出世』という想念に就いてであった。故郷の新聞社から、郷土出身の芸術家として、招待を受けるということは、これは、衣錦還郷の一種なのではあるまいか。ずいぶん、名誉なことなのでは無いか。名士、というわけのことになるのかも知れぬ、と思えば卒然、狼狽せずには居られなかったのである。沢山の汚名を持つ私を、たちの悪い、いたずら心から、わざと鄭重に名士扱いにして、そうして、陰で舌を出して互いに目まぜ袖引き、くすくす笑っている者たちが、確かに襖のかげに、うようよ居るように思われ、私は頗る落ちつかなかったのである。」
あれこれと思い惑った末、太宰はやはり出席しようと決意する。ふるさとへの郷愁を、捨て切れなかったのである。
「ふるさとを、私をあんなに嘲ったふるさとを、私は捨て切れないで居るのである。病気がなおって、四年このかた、私の思いは一つであって、いよいよ熾烈になるばかりであったのである。私も、所詮は心の隅で、衣錦還郷というものを思っていたのだ。私は、ふるさとを愛している。私は、ふるさとの人、すべてを愛している!」
紺絣の着物にセルの袴をはき、精いっぱい身なりをつくろって、鼻じろむほどに緊張して太宰はその会に出席する。故郷における十年来の不名誉を今こそ恢復できるのではないか。はきはきした口調で挨拶して、末席につつましく控えていたら、きっといい評判が立つだろう、その評判がそれからそれへと伝わって肉親たちの耳にも入るだろう。名誉挽回の絶好のチャンスではないか。
しかし、その切ない願いは、無惨にも打ち破られる。故郷への甘えの気持から意志のブレーキが溶けて消えてしまい、酒ばかりがぶがぶ呑み、酔いがぐるぐる駈けめぐって、次第に取り乱してきて、そのうち自己紹介の順番が近づいてきた。こんな状態でなんと挨拶したらいいのか、酔漢の放言として嘲笑されるのではないか。急に、いやになる。永久に故郷に理解されないでもかまわない、衣錦還郷はあきらめた、挨拶をしないで引きさがろうか、あれこれ考え悩むうちに、太宰の番がきてしまう。立ち上った太宰は、太宰という自分の名前は出したくないと咄嗟に考える。太宰ってなんだいと馬耳東風、軽蔑されるにちがいない。金木町の津島の末弟、と言おうとしたのだが、声が喉にひっからまり、殆ど誰にも聞きとれない。
「『もう、いっぺん!』というだみ声が、上席のほうから発せられて、私は自分の行きどころの無い思いを一時にその上席のだみ声に向けて爆発させた。
『うるせえ、だまっとれ!』と、確かに小声で言った筈なのだが、坐ってから、あたりを見廻すと、ひどく座が白けている。もう、駄目なのである。私は、救い難き、ごろつきとして故郷に喧伝されるに違いない。」
「その後の私の汚行に就いては、もはや言わない。」と太宰は書いているが、その会に出席した同郷の友人今官一、阿部合成と共に深夜の町を彷徨しながら浴びるほどに酒を呑み、どしゃぶりの雨のなかを人力車に乗って家に帰った。そして、
「私は、その夜、やっとわかった。私は、出世する型では無いのである。諦めなければならぬ。衣錦還郷のあこがれを、此の際はっきり思い切らなければならぬ。人間到るところに青山《せいざん》、と気をゆったり持って落ちつかなければならぬ。私は一生、路傍の辻音楽師で終るのかも知れぬ。馬鹿な、頑迷のこの音楽を、聞きたい人だけは聞くがよい。芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する。」
衣錦還郷のあこがれを、此の際はっきり思い切らなければならぬ。――しかしそのあこがれを、おそらく太宰は思い切ることができなかったのだろうと私は思う。消えては熾《おこ》り、消えては熾りしながら、太宰の胸のなかにくすぶりつづけていたのだろうと思う。
昭和二十三年の四月二十日、すなわち死の二か月前に、決定版≠ニ銘うった『太宰治全集』が八雲書店から刊行され始めた。自分の全業績をこの全集によって完結させようとした太宰の胸底には、すでに死への決意が固められつつあったのだと思うのだが、その全集の白地の表紙には津島家の鶴の定紋が金で箔押ししてあった。自分の家の定紋で表紙を飾った個人全集など、ほかには例がないと思うが、これは太宰の強い希望によったものである。また各巻の巻頭の口絵写真には、肉親、生家、津軽平野などの写真を使うべく準備が進められたが、これにも太宰の希望が入っていた。
家郷への愛慕の念は、ついに太宰から離れなかったのだろうと思う。そしてまた、衣錦還郷の願いも……。
除幕式が行なわれた五月三日の夜、太宰の生家で祝宴が張られた。昭和二十四年に人手に渡って斜陽館という旅館になっており、内部の造作も、たとえば階下の奥にスタンドバアが新設されているなど、多少の手直しがされていたが、太宰が生れ育った津島家のかつての姿をほぼそのままに残しているといっていい。
祝宴は、階下の各十五畳の四部屋の襖をとりはらった大広間で催されたのだが、いちばん奥の床の間のある部屋はもとは家長の居間で、次兄の英治は入ることを許されていたようだが、その下の弟たちは、末から二番めの修治(太宰)はもちろんのことだが、入ってはならない部屋だったという。しかしそれは、津島家だけが封建的な格式を重んじていたわけではないので、むかしの大地主の家では長兄―家長の権力は絶対のものであり、次弟以下とははっきり差別されていた。作品「津軽」のなかで太宰は書いている。「私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(オズカスというのは叔父糟という漢字でもあてはめたらいいのであろうか、三男坊や四男坊をいやしめて言う時に、この地方ではその言葉を使うのである。)」そのオズカスなどが入ることを許されなかった奥の間の、床柱を背負って、美知子未亡人と里子がいちばんの上座に坐り、その次に長兄の文治が坐った。地下の太宰は、どんな思いでそれを見ていただろう。
その晩、東京からまた遠方から来た人たちは、その二階に泊まった。二階だけでも建坪が百坪、和室、洋間、合わせて八つの部屋がある。私の泊まった和室の襖には極彩色の花鳥画が描かれ、欄間には桃山調の透《すか》し彫《ぼ》りがほどこされていた。贅をつくした豪華な和室で、来客用に設計された部屋なのだが、実は、二階のどの部屋も、来客用に設計されているのである。この家が新築されたのは明治四十年で、その頃の津島家は二百五十町歩の田畑を持つ県内屈指の大地主であり、また太宰の父源右衛門は有力な県会議員で五年後の四十五年には衆議院議員に当選する大物政治家だったのだから、来客も多かったのだろうが、それにしても、二階の各室がすべて来客向きに設計されているのにはさすがに驚いた。
階下は十一室百五十四坪。しかしこれだけ大きな家のなかで、オズカス太宰は自分の個室を持っていなかったという。檀さんにはそれが不思議に思えたらしく、「どこで勉強したり本を読んだりしていたんだろうねえ。」と首をかしげていた。
太宰が終生持っていた余計者意識と、そのような生育の環境が、無縁であったはずはない。
二 家郷追放
もっとも、太宰がこの家で毎日をすごしたのは明治高等小学校を卒業する大正十二年十五歳のときまでで、それ以後の青森中学校時代、弘前高校時代には休暇を利用して帰ってきていただけだった。そして昭和五年に上京して東京帝国大学に入学し、その年の十一月に分家除籍されてからは、この広壮な邸宅は太宰の前に固く門を閉ざしていたのである。
くわしいことは後の章で述べるが、東大に入った年の秋、太宰は、青森の芸者|小山《おやま》初代との結婚を条件に、津島家から分家し、除籍された。その直後の鎌倉における心中未遂、非合法な政治運動への参加、再度の自殺未遂、パビナール中毒、水上における心中未遂と初代との離別と、世間の顰蹙《ひんしゆく》を買い、津島家の家名を汚すような不行跡≠太宰は重ねてきた。そのため、故郷の土を踏み、津島家の門をくぐることが許されなかったのである。
『愛と美について』(昭和十四年五月、竹村書房刊)という書下し短篇集に収められた「花燭」という小説は、昭和十三年の夏に脱稿したと思われるが、男爵という綽名《あだな》の北国の地主のせがれが主人公である。学生時代にある種の政治運動で牢屋にいれられたことがあり、自殺を三度も企てて三度とも失敗し、多人数の大家族の間に育った子供にありがちな、自分ひとりを余計者と思い込んでもっぱら自分を軽んじ、甲斐ない命の捨てどころを捜しまわっているような男で、つまり一時期の太宰自身の戯画化といっていいであろう。
男爵はある夜、自分の故郷のことを思い出し、床の中で輾転《てんてん》する。
「私は、やっぱり、私の育ちを誇っている。なんとか言いながらも、私は、私の家を自慢している。厳粛な家庭である。もし、いま、私の手許に全家族の記念写真でもあったなら、私はこの部屋の床の間に、その写真を飾って置きたいくらいである。人々は、それを見て、きっと、私を羨むだろう。私は、瞬時どんなに得意だろう。私は、その大家族の一人一人に就いて多少の誇張をさえまぜて、その偉さ、美しさ、誠実、恭倹を、聞き手があくびを殺して浮べた涙を感激のそれと思いちがいしながらも飽くことなくそれからそれと語りつづけるに違いない。」
しかしその記念写真には男爵は入っていない。不行跡を重ねた男爵にはそこに入る資格がないのである。男爵はその写真の一隅に立たせてもらいたいと思っている。そのために、死にたくなる思いをこらえながら、どうにか生き延び、努力している。けれども、その写真に入れてもらえるときがくるのは、三年、いやいや、五年十年あとのことになるかもしれない。ふと、もし母が死んだら自分は知らせてもらえるのだろうかと男爵は考える。知らせてもらえなくても、我慢しなければいけない。それは、覚悟している。恨みには思わない。けれども、あるいは、知らせてもらえるかもしれない。
電報がくる。まず旅費の算段をしなければならない。しかしお金がない。動きがつかない。懊悩煩悶する。しかしそのとき、あによめから三十円の電報為替がくる。その三十円の為替をきっと拝むにちがいない。服装のことでも思い悩む。自分の持っている衣服は、だぶだぶのズボンと鼠いろのジャンパーだけである。そこで奇妙な決心をする。借衣《かりぎ》。自分のからだに合う洋服を持っている貧乏な友人のところに駈けつけて、質屋に入れてある服を十円で請け出してもらう。お土産。それは買わないことにしよう。故郷の甥や姪はぜいたくなお土産に馴れているだろうし、またその母たちがある種の義理から、この品物は受けとれないと突きかえすかもしれない。
故郷に着いて、ほとんど十年ぶりで田舎の風物を見て、歩きながら泣くかもしれない。母の病室。これは、考えてはならぬ。ここは、避けよう。
「私が母の病室から、そっとすべり出たとき、よそに嫁いでいる私のすぐの姉も、忍び足でついて出て来て、
『よく来たねえ。』低く低くそう言う。
私は、てもなく、嗚咽《おえつ》してしまうだろう。
この姉だけは、私を恐れず、私の泣きやむのを廊下に立ったままで、しずかに待っていて呉れそうである。
『姉さん、僕は親不孝だろうか。』
――男爵は、そこまで考えて来て、頭から蒲団をかぶってしまった。久しぶりで、涙を流した。」
太宰が津島家の門をくぐったのは、昭和十六年の八月で、実に十一年ぶりの帰宅だった。「花燭」で太宰は病弱な母の死を考えていたが、死去のためではなかったにせよ、母タネの衰弱が甚だしく、その病気見舞という名目で帰宅を許されたのである。そういう特別の理由がなければ、太宰は津島家の敷居をまたぐことができなかった。いや、このときも、公然と帰宅を許されたわけではなく、津島家と親しい仲にあって、なにくれと太宰の世話をやいていた北芳四郎と中畑慶吉のふたりの肝煎りで、長兄の文治にはいわば内緒で故郷に帰ったのである。そのときのことを太宰は「帰去来」という小説に書いている。
兄さんから許しがでたわけではない、兄さんの立場としてはまだ許すわけにはいかない、しかしお母さんはもう七十でめっきり衰弱している、いつどんな事になるか分らない、だから自分の一存で連れて行くのだという北の親切に、しかし太宰は躊躇する。玄関払いでも食わされるのではないか、と不安がる。この十年来、東京に於いて実にさまざまの醜態をやってきたのだ、とても許されるはずはない、と思う。
北に押し切られた形で太宰は金木に帰る。長兄の文治は出京していて不在だったが、母、祖母、叔母、次兄などと久しぶりに会うことができた。しかし生家に長居することははばかられ、その夜は五所川原の叔母の家に母を伴って行き、泊めてもらっている。
その翌年の十月下旬に母のタネが重態になり、このときも北、中畑の斡旋で、美知子夫人、長女の園子を連れて太宰は生家に赴いた。しかしこのときは、行きちがいにはなったが、次兄の英治が怱々《そうそう》に帰宅せよという速達を出しているから、いわば公然の帰宅と言っていいであろう。長兄の文治とも顔を合わせ、病床の母の手も握ったが、しかしその晩生家に泊っていいのかどうか、太宰は思い惑う。すべて北の指図どおりに振舞わなければならないと思っている太宰は、その夜、北が家を去ってしまったあと、
「もうこれからは北さんにたよらず、私が直接、兄たちと話し合わなければならぬのだ、と思ったら、うれしさよりも恐怖を感じた。きっとまた、へまな不作法などを演じて、兄たちを怒らせるのではあるまいかという卑屈な不安で一ぱいだった。」
と、そのときのことを素材にした「故郷」のなかで太宰は書いている。
このとき太宰は妻子と共に五、六日生家に滞在して母を看病しているし、その年の十二月に母が危篤におちいったときは急遽、単身帰郷し、母の死を見とり、二週間ほど滞在して野辺送りをすませている。
つまりは、母の病いとその死が、固くとざされていた津島家の重い門を、太宰の前に開けてくれたのである。
その翌々十九年、作品「津軽」の取材のため津軽地方を旅行した太宰は、今度はもうなんのこだわりも逡巡もなく金木の生家を訪れている。また二十年の夏に甲府で罹災したあと一家をあげて金木に疎開し、終戦直後の一年半を故郷ですごしている。
三 津島家素描
さて、それでは、太宰の生家である津島家とは、どんな家柄だったのだろうか。
「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違いない。
私は、無智の、食うや食わずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られはじめたのは、曾祖父惣助の時代からであった。その頃、れいの多額納税の貴族院議員有資格者は、一県に四五人くらいのものであったらしい。曾祖父は、そのひとりであった。」
と太宰は「苦悩の年鑑」のなかで書いているが、津軽藩が金木に新田を開発したのは元禄から宝永の頃、つまり、十七世紀の末から十八世紀の始め頃で、津島家の初代が入植したのもほぼこの時期であったと思われる。しかし姓を名乗るほどの由緒ある家柄ではなく、たんに金木村の惣助さんであったようで、代々惣助を襲名して曾祖父惣助に至っている。明治になってから平民も姓を名乗るようになり、天保四年生れの曾祖父が金木村の惣助から津島惣助となったのは三十を越してからのことである。
その明治初年に惣助が所有していた田畑は十三町歩だったようで、豪農とは言えないがもちろん貧農ではなく、まずは中位の小地主といったところだろうか。ところが明治四年に津軽藩は、十町歩以上の田畑所有者に、十町歩を残して残余を献田または強制買上げを命じた。惣助の田畑は十三町歩から十町歩に減ったわけである。
その津島惣助が、二十数年後の明治三十年には、二百五十町歩の田畑を持つ大地主にのしあがり、多額納税による貴族院議員有資格者にまでなった。まさに典型的な成金物語である。惣助が田畑をひろげていった最初の機会は、帰農した士族が農耕を嫌って土地を放売しはじめたときだった。その土地を、おそらくは二束三文で買いしめていったのではあるまいか。また、津軽地方は明治になってからも何度か凶作に見舞われており、零細な自作農家は生活に困窮し、田畑を抵当にして高利の金を借り、借金が返せぬため田畑を失う例が多かったのだが、一方で金貸業も営んでいた惣助は、抵当流れの田畑を面白いように自分のものにしていった。ひとの不幸につけ込んで財産をふやし、その結果が二百五十町歩の大地主、貴族院議員有資格者なのだから、けっして名門でもなければ、由緒ある旧家でもなかったのである。
惣助の長男惣五郎、つまり太宰の祖父は病弱のため夭逝したので、明治三十三年に太宰の父源右衛門が隠居した惣助に代って家督を相続した。源右衛門は県内の木造《きづくり》村の薬種問屋松木家から津島家に婿養子にきたのだが、惣助とちがって派手好みの政治好きで、三十四年には三十一歳で県会議員に当選した。三十八年に惣助が死ぬと、その一周忌を機に自邸の新築に着手した。それが今は斜陽館と名を変えている太宰の生家で、階下十一室百五十四坪、二階八室百坪の建物は弘前市の名棟梁堀江佐吉の設計に成り、泉水と見事な庭石を配した庭園や附属建築物を合わせて宅地約六百坪、四囲は高さ四メートル余の赤煉瓦塀をめぐらし、総工費は当時の金で約四万円というからいかに贅をつくしたかが分る。十数キロメートルの遠方から望見できる赤い大屋根をいただいたこの豪邸が落成したのは明治四十年六月二十一日、太宰が生れるちょうど二年前である。
やがて邸宅の周辺には村役場、郵便局、銀行、警察署、小学校、医院などが次々と配置され、あたかも津島家を中心に小城下町が作られていった案配で、特に筋向いの警察署の屋根には望楼が作られ、小作争議に備えていたということである。
津島修治、すなわち太宰治が、父源右衛門、母タネの第十子六男として生れたのは明治四十二年六月十九日である。もっとも、六男といっても、長兄、次兄は夭逝していたので、兄は文治、英治、圭治の三人、それに姉が四人、ほかに曾祖母、祖母、叔母、叔母の四人の娘など、親族が合わせて十七人の大家族で、さらに使用人を加えると三十数名がこの家に生活していた。
このような大地主の資産家の家に生れたことが、太宰治の人間形成に、その生き方に、つまりはその文学にどのような影響を及ぼしたかは、これからその生涯と文学を辿りながら追々に見ていきたいと思うが、ここでは、昭和二十二年の暮、つまりその死の半年前に語った太宰自身の言葉を書きしるしておこう。
「私は田舎のいわゆる金持ちと云われる家に生れました。たくさんの兄や姉がありまして、その末ッ子として、まず何不自由なく育ちました。その為に世間知らずの非常なはにかみやになって終いました。この私のはにかみが何か他人《ひと》からみると自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています。
私は殆ど他人には満足に口もきけないほどの弱い性格で、従って生活力も零に近いと自覚して、幼少より今迄すごして来ました。ですから私はむしろ厭世主義といってもいいようなもので、余り生きることに張合いを感じない。ただもう一刻も早くこの生活の恐怖から逃げ出したい。この世の中からおさらばしたいというようなことばかり、子供の頃から考えている質《たち》でした。
こういう私の性格が私を文学に志さしめた動機となったと云えるでしょう。育った家庭とか肉親とか或いは故郷という概念、そういうものがひどく抜き難く根ざしているような気がします。」(「わが半生を語る」)
四 「思い出」の世界
「遺書を綴った。『思い出』百枚である。今では、この『思い出』が私の処女作という事になっている。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。」(「東京八景」)
「思い出」には、太宰の幼時、小学生時代、中学生時代のことが、淡彩画のように平明で素直な文体で書かれているが、ここに書かれている環境と生活と、また心情は、ごく部分的な虚構をのぞけば、ほとんど事実そのとおりであったと考えていい。太宰の私小説のなかでも、最も虚構性の少い作品と言えるであろう。
生母のタネが病弱であったためもあって、太宰は生後一年たらずの時から叔母のキヱに育てられる。二人の夫に生死別したのち、キヱは四人の娘とともに実家の津島家で暮していたのである。
「叔母についての追憶はいろいろとあるが、その頃の父母の思い出は生憎と一つも持ち合せない。曾祖母、祖母、父、母、兄三人、姉四人、弟一人、それに叔母と叔母の娘四人の大家族だった筈であるが、叔母を除いて他のひとたちの事は私も五六歳になるまでは殆ど知らずにいたと言ってよい。」
父の源右衛門が衆議院議員に当選したのは太宰の四歳のときだが、その年に源右衛門は東京の東大久保に別宅を作りタネと共にそちらで暮すことが多くなる。政治家として多忙だった父とはもちろんだが、生母のタネともほとんどなじむことなく太宰は幼少時をすごしている。
「母に対しても私は親しめなかった。乳母の乳で育って叔母の懐で大きくなった私は、小学校の二三年のときまで母を知らなかったのである。(中略)母への追憶はわびしいものが多い。」
母の愛情にはぐくまれることなく育った幼少時の体験が、後の太宰の生き方なり心情なりにどのような影を投げたかは、軽々には言えないことだと思うが、たとえば「HUMAN LOST」の一節、「私は、享楽のために売春婦かったこと一夜もなし、母を求めに行ったのだ。乳房を求めに行ったのだ。」こんな言葉からは、母性的なもの≠慕い求めていた太宰のかなしさが窺い知れるように思われる。
太宰が三歳のとき、津島家の小作人の娘の近村たけ(当時十四歳)が女中として年季奉公に住み込み、太宰の子守役になった。「たけは私の教育に夢中であった。」と書かれているが、太宰に本を読むことを教えたり、近くの雲祥寺に連れていって地獄極楽の御絵掛地《おえかけじ》を見せたりして道徳教育≠烽オていた。
三歳から九歳までの幼時期を太宰はたけから教育されながら過すのだが、「二人で様々の本を読み合った」ことが太宰に物語りの面白さを教え、空想力をふくらませるのに役立ったことは確かだろう。「朝、眼がさめてから、夜、眠るまで、私の傍に本の無かった事は無いと言っても、少しも誇張でないような気がする。手当り次第、実によく読んだ。」と「苦悩の年鑑」に書かれているが、この幼時の読書体験が作家太宰治を生んだ一つの素因であったと言えるのではあるまいか。
たけはまた、太宰を戸外に連れだし、たけ自身が子供のころ遊んでいた場所で太宰を遊ばしていた。躾《しつけ》のきびしい祖母のイシの目が光っていて、大家《たいか》津島家の子弟が小作人風情の子どもたちと自由に往来することは許されず、めぐらされた高い煉瓦塀で外の庶民の世界と隔絶されていたのだが、太宰はたけのおかげで気儘にその世界に入りこみ、その空気を吸っていたのだろう。
後年、太宰は、「津軽」のなかで、次のように書いている。
「私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持の子供らしくないところがあった。」
太宰が終生持ちつづけていた庶民的な心情は、たけに負うところが多かったのだろうと思う。
大正五年に太宰は金木第一尋常小学校に入学する。この小学校には津島家からの多大の財政的援助があったようで、そのためもあって津島家の子弟は特別待遇を受け、男の子は実際の成績に関係なく全甲を与えられていたそうで、太宰もまた全甲、首席で通していたのだが、しかし太宰の場合は、情実には関係なく、事実、成績も抜群で、開校以来の秀才とさえ言われていたという。特に作文=綴方には独自の才能を示していたと言われているが、太宰は「思い出」のなかで、「嘘は私もしじゅう吐いていた。(中略)学校で作る私の綴方も、ことごとく出鱈目であったと言ってよい。私は私自身を神妙ないい子にして綴るよう努力した。そうすれば、いつも皆にかっさいされるのである。(中略)しかし私が綴方へ真実を書き込むと必ずよくない結果が起ったのである。父母が私を愛して呉れないという不平を書き綴ったときには、受持訓導に教員室へ呼ばれて叱られた。『もし戦争が起ったなら。』という題を与えられて、地震雷火事親爺、それ以上に怖い戦争が起ったなら先ず山の中へでも逃げ込もう。逃げるついでに先生をも誘おう、先生も人間、僕も人間、いくさの怖いのは同じであろう、と書いた。此の時には校長と次席訓導とが二人がかりで私を調べた。どういう気持で之を書いたか、と聞かれたので、私はただ面白半分に書きました、といい加減なごまかしを言った。次席訓導は手帖へ、『好奇心』と書き込んだ。」と書いている。
しじゅう嘘を吐いていて、その嘘がまたなかなか巧みで、綴方はことごとく出鱈目で自分を神妙ないい子に見せようとした。――「東京八景」によれば、それは「幼時からの悪」ということになるのかもしれないが、しかし私たちはそこに、作家太宰治の天性の資質を見出すことができるのではあるまいか。巧みに嘘≠吐けることは、作家にとって、あるいは最も大切な才能であるかもしれないのだから。
小学校を卒業した太宰は、芦野公園の松林のなかにあった明治高等小学校に一年間通学する。直接中学に進まなかったのはからだが弱かったからだと太宰は「思い出」に書いているが、実際には太宰は、小学校時代無遅刻無欠席で通しており、そのころは決して病弱ではなかった。理由は、同じく小学校時代を全甲で通した次兄と三兄が弘前中学校へ進んでから成績不振のため二年で中退した、その轍《てつ》を踏まないため、慎重を期して学力を補充させようとしたのである。
「その学校は男と女の共学であったが、それでも私は自分から女生徒に近づいたことなどなかった。私は欲情がはげしいから、懸命にそれをおさえ、女にもたいへん臆病になっていた。」
この小説によると、太宰を性に目覚めさせたのは、使用人の子守娘と下男だった。小学校に入ってすぐの八つくらいのころ、弟の礼治の子守であった十四、五の娘から、息苦しいことを教えられ、蔵の中だの押入れの中だのに隠れて遊んだという。具体的にどういうことをして遊んだのかは書かれていないが、想像はつく。やはり小学生のころ、下男がふたりがかりで太宰にあんま(オナニー)を教えるが、これは事実そのとおりだったのであろう。高校時代に書いた「長篇小説 無間奈落《むげんならく》」という小説でも、太宰自身を戯画化したと思われる大村乾治は、六、七歳のころからもう女中や下男から淫らな露骨な性教育を受けている。そのため太宰は、性については人一倍早熟な少年だったのだが、しかし早熟であることが、ひとよりも性欲が強いことには必ずしもならない。しかし少年太宰はいちずにそう思い込み、たとえば顔に吹出物ができたりすると、それを欲情の象徴と考えて眼の先が暗くなるほど恥かしく思う。一種の妄想癖といってよく、いかにも太宰治らしいではないか。
明治高等小学校の卒業を間近にした大正十二年の三月四日に、父の源右衛門は東京の病院で肺癌のため死亡した。「ちかくの新聞社は父の訃を号外で報じた。私は父の死よりも、こういうセンセイションの方に興奮を感じた。」そしてまた、「棺の蓋が取りはらわれるとみんな声をたてて泣いた。父は眠っているようであった。高い鼻筋がすっと青白くなっていた。私は皆の泣声を聞き、さそわれて涙を流した。」少年太宰にとっては、あまり顔を合わせることのなかった父はただ恐ろしいだけの人だったようで、その死も太宰を悲しませることはなかったのであろう。
その翌月の四月、太宰は青森中学校に入学し、遠縁に当る呉服店豊田太左衛門方に止宿する。
太宰治には、糞真面目といっていいほどの律儀さと根気のよさがあったと思うが、青森中学時代の太宰にはその面が強く出ているように私には思われる。すこしも面白くないと思いながらも、中学生津島修治は勉学に励んだ。自分のいちかばちかの潔癖から来ているのだろうが、博物でも地理でも修身でも教科書の一字一句をそのまま暗記してしまうように努力して試験にのぞんだと、「思い出」で太宰は書いている。
また高い自矜の心を持ち、秀才意識の強かった太宰は、ひとに遅れをとることが我慢ならず、まして落第留級などは耐えがたい屈辱と感じたにちがいない。入学早々から太宰は生意気だといっていろいろな教師に殴られ、友人から、あんなに殴られてばかりいると落第するにちがいないと忠告されて、愕然とする。
「私は散りかけている花弁であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。私は、自分を今にきっとえらくなるものと思っていたし、英雄としての名誉をまもって、たとい大人の侮りにでも容赦できなかったのであるから、この落第という不名誉も、それだけ致命的であったのである。」
「衆にすぐれていなければいけないのだ、という脅迫めいた考え」から、太宰は勉学に励んだ。その結果、学業成績は優秀で、第一学年の第二学期からは級長に任ぜられ、以後在学中ずっと級長をつとめている。第四学年を修了したときの成績は及第百四十八名中の第四席であり、四年修了で弘前高等学校の入学試験に合格したのだから、まずは天晴れの秀才ぶりと言えよう。
しかし、よく勉強し、よい成績をおさめながらも、少年太宰の心は満たされない。三年生になった春の頃から、太宰はあせりを感じはじめる。
「その前後から、私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて満足し切れなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。私には十重二十重の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのである。そしてとうとう私は或るわびしいはけ口を見つけたのだ。創作であった。ここにはたくさんの同類がいて、みんな私と同じように此のわけのわからぬおののきを見つめているように思われたのである。作家になろう、作家になろう、と私はひそかに願望した。」
すでに青森中学に入った早々の五月頃、太宰は「花子サン」というユーモア小説を書いている。その小説を、赴任してきたばかりのひどく熱情的な国語の教師が最大級の讃辞を前置にして生徒たちに読んできかせ、チンピラ中学生どもを涙の出るほど笑い転げさせたとは、同学年生であった阿部合成の追憶である。自分の文才に対する自信を、すでに小学生のころから太宰はひそかに持っていたと思われるが、作家になろうと願望しはじめたのは、「思い出」にあるごとく、十七歳の春からだと考えてよいだろう。
三月、青森中学校の校友会誌に「最後の太閤」を発表し、八月には阿部合成らと同人雑誌『星座』を創刊し、戯曲「虚勢」を発表する。『星座』は一号だけで廃刊になるが、その秋の十一月、自分が中心になり、青森中学の一年生だった弟の礼治や止宿先の若夫婦、中村貞次郎ら級友十人と共に同人雑誌『蜃気楼』を創刊する。原則として同人費を納めることになっていたが、実際には太宰自身の小遣いでほとんどの経費をまかなっていたようで、毎号の装幀も太宰自身がやり、編集も引き受け、そして毎号作品を発表している。『蜃気楼』は太宰が弘前高校の受験勉強を本格的に始めるようになった昭和二年の二月まで発行をつづけ、通巻十二号で自然廃刊となったのだが、中学生の同人雑誌が一年以上も続いたのは珍しいことで、ひとえに太宰自身の熱心さ、作家になりたいとの願望によるものだったのだろう。
太宰はこの同人雑誌に、「温泉」「犠牲」「負けぎらいト敗北ト」「地図」「私のシゴト」「針医の圭樹」「瘤」「将軍」「哄笑に至る」「モナコ小景」「怪談」などの小説、戯曲「名君」、エッセイ「侏儒楽」「傴僂」を毎月次々と発表している。
その一方、中学四年の夏には、夏休みで帰省していた三兄圭治の提唱によって、圭治、修治の兄弟が中心になって『青んぼ』という同人雑誌を企画し、長兄文治に出資してもらって二号まで発行している。この『青んぼ』のことを、また当時東京美術学校彫塑科に在籍していて太宰と最も気持が通じ合い、しかし二十八歳で夭逝してしまった三兄圭治のことを、後に太宰は「兄たち」という小説のなかで、なつかしさを籠めながら追想している。『青んぼ』に太宰は、「口紅」「埋め合せ」「再び埋め合せ」という小品を書いている。出資者である長兄文治も「めし」という随筆を寄稿しているが、津島家の兄弟のあいだには文学愛好の気分がその当時はあって、それが太宰の作家志望とあながち無縁ではなかったかもしれない。
また太宰は、「私は、そんな淋しい場合には、本屋へ行くことにしていた。そのときも私は近くの本屋へ走った。そこに並べられたかずかずの刊行物の背を見ただけでも、私の憂愁は不思議に消えるのだ。」と書いているが、中学時代の太宰は文学書を数多く読んでいた。中学時代の親友であった中村貞次郎(「津軽」に登場する蟹田のN君)の回想によると、中学一年生のときから『文藝春秋』を毎月とっていたし、単行本はその都度随時買って読んでいて、四年修了で下宿をひきあげたときにはリンゴ箱で十五箱くらいの本があったということである。特に愛読していた作家は芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などだったようだが、中学一年十四歳のときに井伏鱒二の「幽閉」(のち「山椒魚」と改題)を読んで坐っていられないくらいに興奮し、それ以後、さまざまの文芸雑誌のなかから井伏の作品を捜し出して読んでいたことも、看過することはできない。
さて、「思い出」の第三章には、小間使の「みよ」に対する恋心とひそかに抱く結婚の決意が語られている。
夏休みで金木の生家に帰省した中学三年生の「私」は、あたらしく来た「みよ」という小柄な小間使に心を惹かれ、赤い糸といえば「みよ」の姿が胸に浮ぶようになる。
赤い糸とは、国語の教師からきいた話で、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれていて、それがするすると長く伸びて一方の端がきっとある女の子のおなじ足指にむすびつけられている。ふたりがどんなに離れていてもその糸は切れない、どんなに近づいてもその糸はこんぐらかることはない、そして私たちはその女の子を嫁にもらうことにきまっているというのである。
四年生になってからのある日、「私」はトルストイの「復活」を読み、青年貴族ネフリュードフと、主人の甥にあたるその青年貴族に誘惑されるカチューシャが、自分と「みよ」とに似ているような気がする。
「私には、そのふたりがみよと私とに似ているような気がしてならなかった。私がいま少しすべてにあつかましかったら、いよいよ此の貴族とそっくりになれるのだ、と思った。そう思うと私の臆病さがはかなく感じられもするのである。こんな気のせせこましさが私の過去をあまりに平坦にしてしまったのだと考えた。私自身が人生のかがやかしい受難者になりたく思われたのである。」
「私」はこのことを同じ部屋に下宿している弟に、寝てから打ち明ける。弟は、結婚するのか、と言いにくそうにして尋ねる。「私」は、なぜだかぎょっとして、できるかどうか、とわざとしおれて答える。
「弟は、恐らくできないのではないかという意味のことを案外なおとなびた口調でまわりくどく言った。それを聞いて、私は自分のほんとうの態度をはっきり見つけた。私はむっとして、たけりたったのである。蒲団から半身を出して、だからたたかうのだ、たたかうのだ、と声をひそめて強く言い張った。」
その年の秋、生家に帰った「私」は、夜、寝てから、凡俗という観念に苦しめられる。
「その夜、二階の一間に寝てから、私は非常に淋しいことを考えた。凡俗という観念に苦しめられたのである。みよのことが起ってからは、私もとうとう莫迦になって了ったのではないか。女を思うなど、誰にでもできることである。しかし私のはちがう、ひとくちには言えぬがちがう。私の場合は、あらゆる意味で下等でない。しかし、女を思うほどの者は誰でもそう考えているのではないか。しかし、と私は自身のたばこの煙にむせびながら強情を張った。私の場合には思想がある!
私はその夜、みよと結婚するに就いて、必ずさけられないうちの人たちとの論争を思い、寒いほどの勇気を得た。私のすべての行為は凡俗でない。やはり私はこの世のかなりの単位にちがいないのだ、と確信した。それでもひどく淋しかった。淋しさが、どこから来るのか判らなかった。どうしても寝つかれないので、あのあんまをした。みよの事をすっかり頭から抜いてした。みよをよごす気にはなれなかったのである。」
「私の場合には思想がある!」それは、どんな思想だったのだろうか。
名門意識の強い津島家の子弟が小間使と結婚するなど、許されることではない。敢て行なえば、おそらくは家から義絶され、受難者の道を歩くことになる。思想とは、その道に踏み出し、「人生のかがやかしい受難者」になろうとする決意と結びつくものだったのだろう。
後に太宰は青森の芸者小山初代と結婚し津島家から除籍され、以後、苦難の道を歩むようになるのだが、そのとき太宰は、中学生のときに抱いた思想≠、思いうかべていたかもしれない。
「みよ」には実在のモデルがいる。宮越トキという、太宰よりも三歳年少の遠縁の娘で、太宰が中学三年だった大正十四年の春、行儀見習を兼ねた長兄夫妻の小間使として、十四歳で津島家に住み込んだ。ほかの女中たちとはちがって、花嫁修業のため週に二度は裁縫と料理の塾に通わせてもらっていた。
トキも、いつとはなく太宰に好意を寄せるようになっていたのだが、次の年の秋、週末を利用して帰省した太宰から、一緒に家出をして東京で生活しないかと誘われたときには、さすがに動転したという。東京に遊学したい気持があるのだが、いっしょに上京しないか、なんなら東京の女学校にも入れてやると、太宰は真顔で話をもちかけたという。
十五歳の少女にも、それはあまりにも突飛な、現実離れのした話のように思えた。それに、遠縁に当るとはいえ、自分の家と津島家とでは格が違いすぎる。「冬休みまでに考えておいてくれ」と言い残して太宰は青森に帰った。トキは長兄文治に奉公をやめたいと申し出た。薄々事情を察していた文治はそれをとめなかった。冬休みに太宰が帰省するより前にトキは津島家を去り、再び戻ってこなかった。
ところでもしトキが家出の誘いに乗り、上京していっしょに暮すことを望んだとしたら、太宰はどうしただろうか。その頃太宰は、難関中の難関とされていた第一高等学校への進学を強く望んでいたのだから、東京遊学はあながち夢想ではなかったのだが、トキとの同棲生活については、なんら具体的な計画を持っていなかっただろう。
十八歳の太宰を衝き動かしていたのは、「思い出」の「私」と同じように、「人生のかがやかしい受難者になりたい」という思いだっただろう。臆病さゆえの平坦な道のそろそろ歩きをやめ、冒険のロマンチシズムのなかに身を投じるのだ!
トキへの恋は、ありきたりの凡俗なものとはちがう。なぜなら、「私の場合には思想がある!」
トキが津島家を去った事情について「思い出」では、「婆様と喧嘩して里さ戻った」とか、「ある下男にたったいちどよごされたのを、ほかの女中たちに知られて、私のうちにいたたまらなくなった」となっているが、これは「思い出」のなかの数少い虚構の一つである。
そしてその翌年の三月、太宰は青森中学校四年修了で弘前高等学校の文科甲類(第一外国語を英語とする級)第一学級に優秀な成績で入学する。
五年で中学校を卒業してから入学するのさえ容易でなく、浪人二年、三年の者も珍しくなかった旧制高等学校の難関を四年修了で突破したのは、太宰が並はずれた秀才であり、またいかに勉学に励んだかの証《あかし》である。
五 弘前高校の三年間
弘前高校に入学した太宰は、遠縁にあたる藤田豊三郎方に止宿し、そこから通学した。当時弘高では、市内通学者以外の新入生はすべて寮生活をする規則になっていたのだが、母のタネの考えもあって、病弱と偽って入寮しなかったのである。
死の直前に書かれた「人間失格」では、主人公の大庭葉蔵は東京の高等学校に入学して寮に入るが、その不潔と粗暴に辟易《へきえき》して、肺浸潤と偽って寮を出てしまう。
「自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。」
これに似た気持を、太宰自身も持っていたのだろう。
弊衣破帽《へいいはぼう》、朴歯《ほおば》の高下駄に腰には手拭いという蛮カラ風が、旧制高校生の好んだ服装で、超俗の気概をこめた一種のおしゃれだったのだが、それがかえって紋切り型の凡俗と見えたのだろうか、太宰は次々と奇妙なおしゃれを考案する。「おしゃれ童子」にそのことはくわしく書いてあるが、これは太宰一流の反俗精神の現われと見てよいだろう。
入学当初の太宰は生活も規則正しく、学業にも励み、津島家自慢の子≠ニして勤勉な秀才ぶりを発揮していたと思われる。『晩年』に収められた「猿面冠者」のなかに、高校入学早々に英語の自由作文でブルウルという英人の教師から激賞されたことが書いてあるが、これは実際にあったことで、「若いころの名誉心は飽くことを知らぬものである。そのとしの暑中休暇には、彼は見込みある男としての誇りを肩に示して帰郷した。」のである。
その暑中休暇で金木の生家に帰っていた七月二十四日の未明、芥川龍之介が自殺した。
太宰が少年の頃から芥川の作品を愛読していたことはまちがいない。中学生のときの同人雑誌『蜃気楼』に太宰は「侏儒楽」というエッセイを三号に分けて書いているが、太宰が定期購読していた『文藝春秋』に芥川が連載していた「侏儒の言葉」からヒントを得たことは明らかである。
その年の五月二十一日に芥川は改造社主催の文芸講演会で青森市を訪れ、市の公会堂で講演しているが、かねてから魅了されていたこの作家の風貌に接したさに、太宰は弘前から青森に出向いている。
芥川龍之介の死が太宰に大きな衝撃を与えたであろうことは想像に難くない。しかし太宰自身は、その受けた衝撃については、エッセイを含めた彼の全作品において直接には触れていない。ただ我々は、高校時代のノートに芥川の辞世の句「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れのこる」が何か所にも落書きされており、その時期の蔵書の一冊の表紙裏に「自嘲 大川端道化に窶れ幇間の」という句を記していたこと、朱麟堂と号して俳句に凝っていた二十三歳のころの句に「幇間の道化窶れやみづつぱな」があること、そして、二十七歳のときのエッセイ「In a word」(「もの思う葦」の一篇)のなかの次のような文章――
「久保田万太郎か小島政二郎か、誰かの文章の中でたしかに読んだことがあるような気がするのだけれども、あるいは、これは私の思いちがいかも知れない。芥川龍之介が、論戦中によく『つまり?』という問を連発して論敵をなやましたものだ、という懐古談なのだ。久保万か、小島氏か、一切忘れてしまったけれども、とにかく、ひどくのんびり語っていた。これには、わたくしたち、ほとほと閉口いたしましたもので、というような口調であった。いずくんぞ知らん、芥川はこの『つまり』を掴みたくて血まなこになって追いかけ追いかけ、はては、看護婦、子守娘にさえ易々とできる毒薬自殺をしてしまった。かつての私もまた、この『つまり』を追及するに急であった。」
また、死の直前に書かれた「如是我聞」の一節――
「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
日蔭者の苦悶。
弱さ。
聖書。
生活の恐怖。
敗者の祈り。」
などから、太宰が芥川に対して持っていた並々ならぬ親近感を窺い知ることはできる。その突然の自殺は、十九歳の太宰の胸に消し難い傷痕を残したにちがいない。芥川の自殺を知った直後、太宰は休暇中にもかかわらず弘前に帰り、下宿の二階に閉じこもりつづけていたということである。
そして、八月上旬、芸妓あがりの竹本|咲栄《しようえい》という女師匠のもとに通いはじめ、義太夫を習いはじめる。太宰の弘高時代の級友である三浦正次の回想によると、そのころ太宰は近松その他の浄瑠璃本を耽読していたようで、浄瑠璃は読んだだけではピンとこない、だから義太夫を習おうかと思っていると、三浦に語っていたそうで、それ故の義太夫稽古かと思われるが、芥川の死から受けた衝撃と内心の暗鬱が太宰を遊芸の世界にいざなったと考えられないこともない。
それにまた、家庭環境の影響もあったのだろう。長兄の文治も次兄の英治も歌舞伎が好きで、酒に酔うとふたりで掛合いの声色をはじめることも屡々だった。「歌舞伎十八番」などのレコードも家には揃っていた。
それに当時の弘前は異常なほどに義太夫が盛んな町だったから、高校生が義太夫に凝るのも、それほど目立つことではなかった。
目立ったのは、義太夫を習いに通うときの太宰の、結城紬《ゆうきつむぎ》のぞろりとした着流しに角帯をしめ、雪駄《せつた》をはき、ハンチングをかぶった服装で、弊衣破帽の蛮カラ風に反撥を覚えていたとはいえ、十九歳の高校生としてはかなり異様なものであった。
やがて太宰は、ひとかどの通人を気取るかのように、花柳界に足を伸ばすようになる。止宿先の藤田家から五円か十円をもらって青森に行き、青森にいる中学時代の友人たちを誘ったりして、芸者遊びを始めるようになる。
そのうち太宰は、青森市浜町の小料理屋「おもたか」で遊ぶことが多くなった。呼ばれてくる芸者は近くの置屋「玉屋《たまや》」のお抱えの女たちで、そのなかの、半玉から芸者になったばかりの紅子《べにこ》が特に気に入り、名差しで呼ぶようになった。昭和三年の初秋のことである。紅子、本名は小山《おやま》初代。温泉で有名な南津軽の大鰐の出の女性で、父が蒸発したあと母とふたりで青森に出て、母のキミは置屋に裁縫師として住み込み、初代は芸者になり、なった直後に太宰と識り合ったのである。時に初代、十七歳。
旧制高校生の芸者遊びはべつに珍しいことではなく、置屋から通学する豪の者さえいたほどで、だから太宰の芸者遊びも特別のことではなく、金持ちのお坊ちゃんのありきたりの道楽と考えてよいのだが、勤勉な秀才の突然の変身ぶりには、なにか異常なものが感じられることもたしかである。
また太宰はこの頃、近松などの浄瑠璃本のほか、泉鏡花、永井荷風、里見ク、久保田万太郎など、江戸文人趣味の濃厚な文学を好んで読みはじめるようになる。これは、「東京の下町に育ちながら、更に江戸趣味なるものに興味がない」(「あの頃の自分の事」)と言っている芥川への追慕の念から出たことではないにしろ、なにかの変化が太宰のなかに起きていたと考えられる。
そして、高校入学後の一年間はまったく創作活動をしていなかった太宰は、昭和三年二十歳の五月、同学年の三浦正次、富田弘宗に働きかけて同人雑誌『細胞文芸』を創刊し、創刊号に「長篇小説 無間奈落《むげんならく》」の「序編 父の妾宅」約百枚を辻島衆二の筆名で発表した。三月二十一日脱稿とあるから、おそくも三月のはじめには執筆にかかっていたものと思われる。創刊号発刊の前夜には、町を駈けめぐって電柱や板塀のいたるところにポスターを貼ってまわり、その細長い黄色いポスターには、細胞文芸を読まざる者は近代人にあらずと書いてあったという。「猿面冠者」の主人公は、「鶴」という長篇小説を自費出版し、「鶴を読め、鶴を読めと激しい語句をいっぱい刷り込んだ五寸平方ほどのビラを、糊のたっぷりはいったバケツと一緒に両手で抱え、わかい天才は街の隅々まで駈けずり廻」ったが、どうやら話が似ている。
『細胞文芸』の第二号に太宰は「無間奈落」の第一章を書いているのだが、残念ながらこの号は散佚《さんいつ》してしまっており、我々はそれを目にすることができない。第三号には「股をくぐる」を、第四号には「彼等とそのいとしき母」を発表し、第四号でこの雑誌は売れ行き不振とそれに伴う経済的事情のため、廃刊になった。
「無間奈落」はその序編しか残されていないが、その主人公大村乾治はあざとく隈取《くまど》りをした太宰自身の戯画であると見てよく、生れ育った生活環境といい、家族構成といい、津島家のそれと酷似している。父の周太郎はM町一番の素封家大村家に養子にきて、気の弱い妻とその妹を味方にして気丈な姑に反抗し、姑の反対を押し切って大邸宅を新築し、政界で身を立てることを願って県会議員を振り出しに明治四十五年には衆議院議員に当選する。周太郎は大正三年の十月に東京の病院で喀血して死ぬが、太宰の父源右衛門が死亡したのは大正十二年で、その年代の違いこそあれ、周太郎が源右衛門をモデルにしていることは明らかである。また、周太郎は義妹の婿養子として実弟を迎え、二人の女の子が生れ、しかしこの弟が酒乱だったため離縁し、こんどは大村家の遠い親類筋から養子を迎えるがその新しい夫も若死し、以後義妹は独身を通そうと決意するのだが、これはほぼそのまま太宰の叔母キヱの人生といってよく、そのほか、多少の虚構はあるにせよ、大村家を津島家と重ね合わせることは容易である。
周太郎の四男として生れた乾治は、想像力が異常なほどに発達した少年で、兄弟じゅうでただひとりの醜男《ぶおとこ》でそのため日増しにいじけた子供になってゆき、人の顔色を読むことを習得し、また女中や下男から露骨な性教育を受けて性的にも早熟な少年である。
序編では、「彼の表面の態度のみは成る程道徳的な田舎の県会議員たるに恥じなかったが、裏面はもはや放蕩極まる好色漢に堕して居た」周太郎がM町の近くのK市にかまえた妾宅に筆はもっぱら費されており、周太郎の急死の翌春にK市の中学校に乾治が入学するところで序編は終っているのだが、そして前述したように書かれたはずの本編の第一章を我々は見ることができないのだが、おそらくは、乾治の性意識に焦点を合わせながら、中学から高校時代へと、自分自身の戯画化を試みようとしたのだろうと思われる。その意味ではこの小説は、「思い出」、いや、「人間失格」の類縁と見ることもできよう。
しかし、かなりの抱負をもって書きはじめたと思われるこの小説には、江戸後期の三流の浮世絵師が粗悪な絵具を使って極彩色で塗りたくったような猥雑さがあって、あくまでも習作の域を出ていない。なお、この小説は、ある意外な障礙に出会い、これから先を書くのを躊躇しなければならなくなったという理由で、本編第一章で中絶している。津島家から、なんらかの掣肘《せいちゆう》が加えられたのだろうと思われる。
同じ習作でも、「彼等とそのいとしき母」には、二十歳の太宰の憂鬱と寂寥の翳が素直に滲み出ていて、かなりの出来栄えのものと言えよう。『晩年』の最初の小説「葉」には、この作品から四か所が断片として収められているが、太宰にとっても愛着の深かった作品だろうと思われる。
なお、『細胞文芸』に太宰は、吉屋信子、北村小松、井伏鱒二、舟橋聖一など既に文壇に出ている作家たちからの寄稿を仰ぎ、相応の原稿料を支払っている。なかでも、中学生のときから愛読していた井伏鱒二の原稿がどうしても欲しく、手紙で依頼して断わられると、夏休みを利用して上京し訪問している。そのときは会えずにおわったが、帰郷した直後に井伏から「薬局室挿話」という原稿が送られてきて、欣喜した太宰は折返し三円の稿料を送付したという。高校生が出している同人誌を既成作家の寄稿で飾るとはまことに妙なことをしたもので、なんとかして中央文壇との繋がりを持ちたいという太宰の焦燥と野心の現われと見てよいのではなかろうか。作家になりたいという思いは、いよいよ太宰のなかに熾烈になってきていたのだろう。
『細胞文芸』が廃刊になったあと、太宰は青森市から発行されていた文芸同人誌『猟騎兵』の同人となり、またその十二月には、上田重彦(石上玄一郎)を委員長とする弘前高校の新聞雑誌部委員に任命される。その年の六月に『弘前高校新聞』が創刊され、従来からあった『弘前高校校友会誌』の編集部と合流して出来たのが弘高新聞雑誌部だが、その中心になっていたのは、いわゆる三・一五事件の直後に解散させられた旧社会科学研究会のメンバーだった。だから、全国の高校のなかで最も左翼的色彩が強かったといわれた弘前高校のなかの、尖鋭分子の拠点だったのである。
ここで、当時の社会状勢を概観してみると、第一次世界大戦後の世界的なデモクラシーの風潮と、特にロシア革命の成功とコミンテルンの結成に刺激され、また日本資本主義の急激な発達を基盤にして、大正十二年頃から社会主義の運動が活溌になり、労働組合や農民組合が全国的に組織され、その下部組織の上に立つ中央組織もしだいに整備されてきていた。なかでも画期的な意味をもっていたのは、大正十一年七月の日本共産党の秘密裡の結成だった。多少の曲折を経たのち、昭和二年のコミンテルンの批判によって、日本共産党はインテリ中心主義から労農大衆との積極的な結合へと方向転換をし、三年二月には『赤旗』を創刊して大衆路線を踏み出した。ほかに労働者農民を基盤とした合法政党の労農党があったが、事実上それは日本共産党の党員組織に握られていた。
このような社会主義運動の勃興に対して、政府は大正十四年に治安維持法を成立させて対策を練っていたが、昭和三年三月十五日、時の田中義一内閣は、「国体もしくは政体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者」を十年以下の懲役にするとする治安維持法第一条を適用して、峻烈な大弾圧を行なった。小林多喜二が「一九二八・三・一五」で作品化した三・一五事件で、全国の検挙者は千六百名にのぼったが、大打撃を受けながらも日本共産党は再建をはかり、組織の立て直しに努めた。
その一方、文学の世界では、プロレタリア文学運動がめざましい擡頭をみせていた。大正十三年の『文芸戦線』の発刊、十四年の日本プロレタリア文芸連盟の結成、そして昭和三年三月にはナップ(全日本無産者芸術連盟)が形成され、機関誌『戦旗』が創刊された。『戦旗』に掲載された小林多喜二の「蟹工船」や徳永直の「太陽のない街」は、多くの読者の熱狂的な支持を受けていた。三年三月といえば太宰が「無間奈落」の執筆に打ち込んでいた頃だが、この頃がプロレタリア文学の最盛期といってよく、商業雑誌もその誌面の多くをこの新興の文学に割いていた。太宰が私淑していた井伏鱒二の「|※[#「奚+隹」、unicode96de]肋《けいろく》集」には次のような文章がある。
「そのころ私は同人雑誌『陣痛時代』の同人であった。早稲田の級友十数名が同人として集まって、八箇月ばかり刊行した後に私をのぞくほか全同人が左傾して、雑誌の名前も『戦闘文学』と改題した。同人諸君は私にも左傾するように極力うながして、たびたび最後の談判だといって私の下宿に直接談判に来た。しかし私は言を左右にして左傾することを拒み、『戦闘文学』が発刊される前に脱退した。この雑誌の同人諸君は後になって一同『戦旗』に合流した。」
「話が前後混同したが、富沢(富沢有為男)が外国に行っている間に『文芸都市』は一九二九年七月号をもって廃刊になった。左翼でなくては同人も謂わゆる同人雑誌疲れがするというような有様で、それに同人の大多数が脱退して紀伊国屋書店主の提議で廃刊になったのである。そのころの紀伊国屋の小売部で、左翼文学雑誌の『戦旗』は一日に百部も売れていた。『文芸戦線』は一週間に八十部ぐらい売れていた。『文芸都市』は一箇月に七十部ぐらいしか売れなかった。店さきでこの成行きを目のあたりに見た私は、左翼文学には充分に市価があるということを痛感させられた。『戦旗』にかぎらず左翼思想のパンフレットや単行本なども呆れるほど売れていた。」
このような時代の空気のなかで太宰は新聞雑誌部の委員になったのだが、太宰がどの程度に左翼思想に関心を持ち、またどの程度に左翼的な文献を勉強していたかは明らかでない。
しかし太宰が時代の動きを痛いほど身に感じていたことはたしかで、昭和四年に入ってからの作品「虎徹宵話」「花火」「学生群」「地主一代」などからそれを明瞭に読みとることができるのである。
「虎徹宵話」は、昭和四年の三月に脱稿され八月に『猟騎兵』に発表されたが、太宰はこれに手を加え、その改稿したものを十二月に『弘高校友会誌』に発表している。鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に帰ってきた新選組の隊士が、向島のお茶屋で酒をくみかわしながらその情婦に言う。
「俺達は今に身動きが出来なくなるだろう。どんでん返しには妥協がない。俺達が殺されるか、奴等同志が殺されるかだ。殺されるのは無論俺達さ。きまって居る。(中略)……時勢だな……俺にして見た所で、時の流れというものは、こんなに速く流れて居るとは思いも及ばなかった。今更この流れが恐ろしい。……」
「俺は今こそ薩長の同志に負けたと思うて居るぞ。奴等には強味がある。……奴等の思想は、奴等の方針は、統一されて居る。その強味が……いかにも未来は、奴等の同志のものだ。」
「お前には、どぶんどぶんと不断の恐ろしい力で俺に押し寄せて来るあのもの凄い時勢という海嘯《つなみ》の音が聞えないのか?」
この不安に脅え絶望にうちひしがれている新選組隊士の台詞から、「狂言の神」の次の一節を連想する読者も多いかと思われる。
「私は大地主の子である。地主に例外は無い。等しく君の仇敵である。裏切者としての厳酷なる刑罰を待っていた。撃ちころされる日を待っていたのである。」
もの凄い時勢という海嘯の音が、太宰には聞えていたのである。その音は、太宰を脅えさせる。自分は滅亡する側の人間だ。未来は奴等のものだ!
しかしその一方、不安に脅えながらも、二十一歳の太宰は、その新しい時代の動きのなかに清新な曙光を見出してもいたのだろうと思う。すでに「無間奈落」でブルジョアジーの澱んだ頽廃にメスを入れた太宰は、「花火」でも、遊興のあげくに脳梅毒にかかり、病的な獣慾で小間使を犯し病毒を感染させ、死に至らしめ、その供養のため花火を打ち上げる家兄を登場させる。その弟は今は工場労働者になっていて、メーデーの蒼空に打ち上がる花火から、その昔のことを思い出し、なんともいえず不愉快になる。「有閑階級の人々の遊戯的なナンセンスを鳥渡《ちよつと》でもしみじみした気で眺めて居た、その僕自身のプチブル的なロマンチシズムに気附いて」不愉快になるのである。しかし、今、蒼空に鳴っている花火は、すばらしく活気のある音である。「おや、もう労働歌なんか呶鳴りやがってる奴があるぜ。さあ大進軍だ。僕達も早く行こう。」これが「花火」の最終句である。
「学生群」が青森県下の同人雑誌を統合した文芸綜合誌『座標』に連載されたのは、太宰が東大に入学した後の昭和五年の七月から十一月にかけてだが、石上玄一郎の追憶によると、その第一稿が書かれたのは昭和四年の春先だったという。
その直前の二月、弘前高校校長鈴木信太郎の、校友会費、同窓会費などの公金約一万五千円の無断流用が発覚した。新聞雑誌部は委員長上田重彦(石上玄一郎)を中心に学校当局を追及し学生に働きかけ、十九日から二十三日までの五日間、在籍約六百名中四百余名の生徒の参加を得てストライキを決行した。結局、鈴木校長は休職となって弘高を去ったのだが、「学生群」はこのストライキに題材をとった、太宰としては最初の傾向小説≠ナある。脱稿した直後に太宰はこの小説を石上玄一郎に読ませている。ストライキのリーダーであった石上はすでに『弘高校友会誌』に「予言者」「新しき軌道」などのプロレタリア文学風の作品を発表して注目を浴びていた。弘高内における、新興文学の輝けるホープだったのである。はじめて書いた傾向小説≠、おそらくはひそかにライバル意識を持っていたであろう石上に、太宰は最初に読ませたのである。石上はそのときのことを次のように回想している。
「津島は何かひどく意気込んでいて、今ちょうど百二十枚ぐらいの小説を書き終えた許《ばか》りだが、今ここでそれを君に読んで聞かすから聴いてくれという。如何《どう》いう小説かと思うと、それは『学生群』という題で、例の学校騒動に取材したものだったが、そうした題材は彼の性格から言っても傾向から言っても津島の柄ではなかった。だが何分にもそうした時勢だったので、苦労して、そうしたものに跋《ばつ》を合わせようとする苦心が却って、作品をぎごち無く、ちぐはぐなものにしていた。彼はそれを根気よく朝方までかかって読み終ると私に批評を求めた。私は別に賞めもせず、二三箇所、気にかかる点を注意するにとどめたが、津島は私が彼の予期したほど感銘しないのが頗る物足りないような面様だった。その小説は当時、『改造』で募集していたアンデパンダンへ応募するために書かれたものとの事で、彼としては大分自信があったらしいが、結局落選だった。」
後に『座標』に連載した「学生群」は、未完におわっているが約百六十枚ほどの分量であり、かなりの部分を改稿しまた書き足したものと思われる。それがどの部分かは明確でないが、現在我々の前に残されている「学生群」を読んでみても、時勢に苦労して跋を合わせようとして、かえって作品がぎごちなくちぐはぐなものになってしまっているという印象は拭い切れない。
太宰はこの小説で『改造』の新人懸賞小説に応募したようだが、その当時、無名の新人が文壇に出ていくには左傾した小説を書くのが近道だったのである。そのへんの事情は前述の井伏鱒二の回想からも窺い知れるが、さきに『細胞文芸』では中央文壇の既成作家に接触しようとし、今は傾向小説を書いて雑誌の懸賞小説に応募しようとする、その太宰の心底には、一日も早く文壇に出たいという焦燥が渦巻いていたのではあるまいか。
不安に脅えながらも新しい時代の動きのなかに太宰は清新な曙光を見出してもいたのではないか、と私は書いた。それはたしかにそうだったのだろうと思うのだが、太宰がこの時期にプロ文学ふうの小説を書いたのは、文壇に出るための便法と考えていたこともまた事実だと思われる。
太宰の年少の友で金木町に在住している鳴海和夫は、高校三年の夏休みに帰郷したときに太宰を訪問し、床には厚い絨毯を敷きつめ、肱掛椅子には白い覆いがかかっており、片隅の長椅子には豹の毛皮が敷いてある純洋室風の応接間で、近作のプロレタリア小説(「学生群」)の朗読を聞かされている。そういえば、石上の場合もそうだったのだが、若い頃の太宰は自作の朗読を好んでしていたようである。豹の毛皮に寝そべって、女中の運んできたブッ欠き入りの冷しサイダーをがぶ飲みしながら太宰は朗読し、そして、
「読み終るや私に感想を求め、私の言も待ち切れないように『勿論これ位非芸術的な作品はない。最も芸術的でないと信ずる文学を創作する芸術家――豹の毛皮に寝ころんでプロレタリア小説を読む、ああ切ない、切ない』そう言い終るや、本当に腹でも痛むかのように、その長椅子の上で身をもだえるのでした。」(「金木町にて」)
戦後の作品である「苦悩の年鑑」のなかで太宰は次のように書いている。
「プロレタリヤ文学というものがあった。私はそれを読むと、鳥肌立って、眼がしらが熱くなった。無理な、ひどい文章に接すると、私はどういうわけか、鳥肌立って、そうして眼がしらが熱くなるのである。」
後年の太宰が「学生群」や「地主一代」を読みかえしてみれば、鳥肌立って、眼がしらが熱くなり、赤面狼狽、羞恥に身悶えしたことはまちがいないであろう。二十一歳の太宰もまた、これ位非芸術的な作品はないと思いながら「学生群」や「地主一代」を書き、身悶えしていたのだろうが、しかし奇妙なことに、その年の十月の『弘高新聞』の「文芸時評」で太宰は、徳永直の「能率委員会」や岩藤雪夫の「闘いを襲ぐもの」「賃銀奴隷宣言」といったプロレタリア小説に共感を示し、推賞し、久米正雄の「モン・アミ」や野上弥生子の「燃ゆる薔薇」をけなしているのである。矛盾、分裂も極まれりというところだが、聡明な太宰がその矛盾に気付かないはずはなく、それこそ「ああ切ない、切ない」という気持だったのであろう。
矛盾といえば、豹の毛皮に寝ころんでプロレタリア小説を朗読する太宰は、色街通いのデカダンスな生活をすこしも改めようとしていない。それどころか、これ迄以上に足繁く紅子(小山初代)のもとに通っていたのである。色街通いに消費する小遣いは相当な額にのぼっていたはずで、津島家から送られてくるその金が貧窮のどん底に喘いでいる小作人から取り立てた年貢《ねんぐ》や貸した金の利子から出ていることを、太宰が知らなかったはずはない。
さらにまた、初代を含めて、花柳の巷で太宰の相手をする女たちが、そうしなければ生きていけない貧しい階級の出であることも、太宰にはわかっていた。
その自覚は、太宰をやりきれない思いにさせただろう。そしてそのやりきれなさは、さらにかえって、太宰をますます遊興の世界にのめり込ませた。
その遊びは、痛さとにがみを伴った遊びだっただろう。
その年の十二月九日にその序章「花火供養」を脱稿した「地主一代」は、昭和の初頭に実際に起った秋田県下の小作争議に素材をとっている。地主と小作人の関係は君主と奴隷のようなものだと考え苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》をほしいままにする悪逆非道な地主と、闘争に立ちあがった小作人たちを応援するその弟とを対比させながら話は展開していくのだが、この小説は、『座標』に三回連載されたところで中絶し、未完のままにおわっている。長兄の文治が人を介して発表中止を申入れたということだが、地主階級への弾劾と告発をライトモチーフにしている作品を文治が喜ばなかったのは当然であろう。
『座標』発刊の首唱者であった竹内俊吉に脱稿したばかりの「地主一代 序章」を手渡した十二月十日の深夜、太宰は多量のカルモチンを下宿の自室で嚥下して昏睡状態におちいった。知らせを受けた津島家からは次兄の英治が吹雪のなかを急行し、到着した十一日の午後四時ごろから次第に意識をとりもどした。
石上玄一郎の回想によると、それより以前の十一月頃、弘前の街でよろめきながら歩いている太宰に行き合い、聞くと、女の子と心中するつもりで郊外の草原で一緒にカルモチンを嚥んだが死に切れず街を彷徨しているのだと答えたそうだが、もしこれが事実とすれば、第二回めの自殺未遂ということになる。しかしこの草原での心中未遂は太宰の出まかせの冗談だったのではないかと思われる。
この十二月十日の自殺未遂について、後に太宰は「苦悩の年鑑」のなかで次のように書いている。
「プロレタリア独裁。
それには、たしかに、新しい感覚があった。協調ではないのである。独裁である。相手を例外なくたたきつけるのである。金持は皆わるい。貴族は皆わるい。金の無い一賤民だけが正しい。私は武装蜂起に賛成した。ギロチンの無い革命は意味が無い。
しかし、私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。私は十九歳の、高等学校の生徒であった。クラスでは私ひとり、目立って華美な服装をしていた。いよいよこれは死ぬより他は無いと思った。
私はカルモチンをたくさん嚥下したが、死ななかった。」
文中に「十九歳の高校生」とあるが、そのとき太宰は数え年で二十一歳、満年齢でも二十歳だった。
「苦悩の年鑑」は、それから十七年後に書かれた回想の文章であり、しかも、戦後、保守派宣言をした時期の作品であるから、そのまま鵜呑みにすることはできないかもしれないが、二十一歳の太宰が思想的苦悶にさいなまれ、死を考えていたことは、たしかだと思われる。
「学生群」の第五章の「(c)敗惨者」には次のような文章がある。この「敗惨者」の部分は、太宰が東大に進んだのちに加筆されたものと推定されているが、当時の太宰の思想的苦悶を窺い知ることができよう。
ブルジョアの父祖を持ちながらも、悪い事は嫌だという人並はずれて強い潔癖さを持っている高校生青井は、ストライキのリーダーである友人の小早川に言う。
「僕の客観的な眼が開け、広く社会の一成員として見た時に、小早川、僕は君達のようにプチ・ブルでさえ無いんだぜ。直接搾取行為に携って居るブルジョアなんだぜ。地方の大地主の息子なんだぜ。革命はまさに僕達を倒さんが為のものなのだ……」
「僕には君達の持って居ない色々な血が流れて居る。一番手っ取り早い話が、僕には父の頽廃的な放蕩の血がぬらぬらと流れて居る。今こそ言うが、僕は一晩の放蕩に百円も使った経験を持って居る。高等学校三年を通じて、僕は此の放蕩の為に二三千円は確かに使った。そして此のように身体を目茶苦茶にやられた。僕だって過去の罪劫を徒に悔む愚は知って居る。僕の言いたいのは、こんな狂態が将来に及ぼす精神的並びに肉体的の惰性なんだ……」
「死ねば一番いいのだ。いや、僕だけじゃない。少くとも社会の進歩にマイナスの働きをなして居る奴等は全部死ねばいいのだ。それとも君、マイナスの者でも何でも人はすべて死んじゃならんという科学的な理由があるのかね。」
この青井の告白のなかに、当時の太宰の心の傾斜を見ることは容易であろう。
ともあれ、太宰は自殺を図り、未遂におわったのだが、その直接の動機が何であったにせよ、太宰は自殺を異常なこととも、また罪悪とも思わず、むしろ死へのひそかな願望を抱きつづけていたのではあるまいか。「人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。」と「斜陽」の直治はその遺書に書いたが、弘高生津島修治もまたそのように考えていたのではなかろうか。
「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」
『晩年』の最初の作品「葉」の冒頭にあるこの文章がいつごろ書かれたかは明らかでないが、二十代の初めのものであろうと推測される。
同じ「葉」のなかに収められている「また兄は、自殺をいい気なものとして嫌った。けれど私は、自殺を処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先であったから、兄のこの言葉を意外に感じた。」という文章は、二十歳の小説「彼等とそのいとしき母」の一節「又兄は自殺を感傷的なものとして嫌った。だが龍二は、自殺をもっと打算的なものとして考えて居た矢先だったから兄の此の言葉を意外に感じた。」を多少改変したものであることは明瞭である。
すでにして太宰は死と隣り合わせに生きていたと思うのだが、太宰のこの死への傾斜には、芥川龍之介の自殺が影を投げかけていたのだろうと思う。特に、新聞に発表された久米正雄への遺書「或旧友へ送る手記」のなかの、「自殺者は大抵レニエの描いたように何の為に自殺するかを知らないであろう。それは我々の行為するように複雑な動機を含んでいる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」あるいは、「僕の今住んでいるのは氷のように透《す》み渡った、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しょに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ『生きる為に生きている』我々人間の哀れさを感じた。若しみずから甘んじて永久の眠りにはいることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違いない。」といった章句は、太宰の胸を鋭く突き刺したのではなかろうか。
さいわいにも太宰は一命をとりとめ、母タネに付き添われて大鰐温泉に行き、一月七日の冬休み最後の日まで静養した。太宰が弘前に帰ってまもなくの一月十六、七日に、石上玄一郎など弘高内の尖鋭左翼分子十名が弘前警察署によって一斉検挙され、厳重な取調べを受け、その結果、新聞雑誌部委員を含む十六名が、放校、退学、停学、戒飭《かいちよく》の処分を受けている。しかしその十六名のなかに太宰は含まれていない。政友会の若き県会議員である長兄文治が裏から手を回したものと推定されるが、あるいは、警察も学校当局も、津島修治をさしたる危険人物とは見ていなかったのかもしれない。
三月十五日、太宰は文科生七十一名中第四十六席の成績で弘前高校を卒業した。そして翌四月、上京して東京帝国大学の門をくぐるのだが、その年の十一月以降、十一年間にわたって、碇《いかり》が関《せき》温泉における初代との仮祝言と、青森警察署と青森検事局に出頭した時をのぞいては、故郷津軽の土を踏むことはなかったのである。
六 津軽気質
昭和十九年の五月に太宰は故郷の津軽を旅行し、その紀行文を書いた。名作「津軽」がそれである。その旅行の動機を太宰は次のように書いている。
「こんどの旅に依って、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようという企画も、私に無いわけではなかったのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかもうとする念願である。言いかたを変えれば、津軽人とは、どんなものであったか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。」
そして、その旅行によって、
「結局、私がこの旅行で見つけたものは『津軽のつたなさ』というものであった。拙劣さである。不器用さである。文化の表現方法の無い戸惑いである。私はまた、自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。ここには、何かしら全然あたらしい文化(私は、文化という言葉に、ぞっとする。むかしは文花と書いたようである)そんなものが、生れるのではなかろうか。愛情のあたらしい表現が生れるのではなかろうか。私は、自分の血の中の純粋の津軽気質に、自信に似たものを感じて帰京したのである。」(「十五年間」)
太宰治は、津軽の風土と人情のなかから生れた純粋の津軽人である。太宰が自分の血の中に感じた純粋の津軽気質は、太宰文学の底を色濃く流れている。それを忘れて太宰文学は理解できないと思うのだが、では、太宰が自覚したその津軽気質とは、どういうものなのだろうか。
まずは作品「津軽」に即してそれを見てみよう。
その序編で太宰は高校の三年間をすごした弘前市のことを書き、弘前の人には馬鹿意地があって、強者にお辞儀をすることを知らず、自矜の孤高を固守する傾向があると言っている。
「弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるようだ。何を隠そう、実は、私にもそんな始末のわるい骨が一本あって、そのためばかりでもなかろうが、まあ、おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにいるのだ。」
ここで早くも太宰は、自分のなかにある津軽気質を私たちに見せてくれる。反骨と、剛情と、佶屈《きつくつ》と、そしてそこから生れる悲しい孤独の宿命とを。
太宰はまず蟹田に中学以来の親友中村貞次郎を訪ねるが、その蟹田で病院の事務長をしているSさんから、疾風怒濤の如き接待を受ける。そして、その熱狂的な接待こそ、生粋《きつすい》の津軽人の愛情の表現なのだと書き、自分にも全く同様な事がしばしばあると言う。
「ちぎっては投げ、むしっては投げ、取っては投げ、果ては自分の命までも、という愛情の表現は、関東、関西の人たちにはかえって無礼な暴力的なもののように思われ、ついには敬遠という事になるのではあるまいか、と私はSさんに依って私自身の宿命を知らされたような気がして、帰る途々、Sさんがなつかしく気の毒でならなかった。津軽人の愛情の表現は、少し水で薄めて服用しなければ、他国の人には無理なところがあるかも知れない。」
そして、
「(Sさんは)ふだんは人一倍はにかみやの、神経の繊細な人らしい。これもまた津軽人の特徴である。生粋の津軽人というものは、ふだんは、決して粗野な野蛮人ではない。なまなかの都会人よりも、はるかに優雅な、こまかい思いやりを持っている。その抑制が、事情に依って、どっと堰を破って奔騰する時、どうしたらいいかわからなくなって、『ぶえんの平茸ここにあり、とうとう』といそがす形になってしまって、軽薄の都会人に顰蹙《ひんしゆく》せられるくやしい結果になるのである。」
Sさんのなかに、太宰は自分自身を見出す。津軽人としての自分自身を見出す。ここに描かれているSさんは、合せ鏡に映った自分自身の姿なのである。
なお、「ぶえんの平茸ここにあり、とうとう」とは、「平家物語 巻八」にある木曾義仲の逸話である。
「ぶえん(無塩)」とは、塩気がなくて新鮮なことで、転じて、生《なま》の魚鳥肉のことを言うのだが、木曾生れの田舎者の義仲はそれを知らず、なんでも新しいものは「ぶえん」と言うのだと誤解していた。平茸《ひらたけ》は、木曾山中に多く産する美味な茸である。
都を占領している義仲のもとに猫間《ねこま》中納言という公卿が相談事があって訪ねてきた。精一杯の饗応をしようと義仲は、「ちょうどぶえん平茸がある。とうとう持って参れ」と家来を急がせ、大きな田舎|合子《ごうし》に平茸の汁をなみなみと入れて中納言にすすめた。合子とは、蓋のある漆塗りの椀である。しかしその椀がふちが欠けていてうすぎたなく、辟易した中納言は食べる気がしない。義仲はしきりにすすめる。しかたなく中納言は、箸を取り食べるふりだけする。「猫は少食で食い残しをする癖があると聞いているが、猫間殿も少食であられる」と義仲は大笑いする。
粗野で不作法な田舎者よとお公卿さんは腹を立て、相談事を一言も口に出さずに匆々に帰ってしまうという逸話である。
N君(中村貞次郎)から太宰は津軽凶作の年表とでもいうべき不吉な一覧表と凶作の悲惨な実情が記載されている古書を見せられ、溜息をつき、ついにはわけのわからぬ憤怒さえ感じる。津軽では、実に五年に一度ずつ凶作に見舞われているのである。
しかし太宰は、
「生れ落ちるとすぐに凶作にたたかれ、雨露をすすって育った私たちの祖先の血が、いまの私たちに伝わっていないわけは無い。春風駘蕩の美徳もうらやましいものには違いないが、私はやはり祖先のかなしい血に、出来るだけ見事な花を咲かせるように努力するより他には仕方がないようだ。いたずらに過去の悲惨に歎息せず、N君みたいにその櫛風沐雨《しつぷうもくう》の伝統を鷹揚に誇っているほうがいいのかも知れない。」
と考える。
悲惨な凶作をくりかえしている津軽の風土が津軽人の固有な気質にどう影響しているかについて、太宰の青森中学、弘前高校の親しい後輩であり、『青い花』の同人でもあった小野正文は、『太宰治をどう読むか』という本のなかで次のように書いている。津軽人には酒飲みが多く、それも、前後不覚になるまで飲まなければ飲んだ気がしないと小野は言い、
「戦前は、冷害水害で凶作がつづき、生活の設計のたてようもない窮迫状態の中でも、目の前の酒の魅力に麻痺されて明日はどうでもいい、明日は明日の風が吹くという無計画な、むしろ虚無的な気持にまでおちこませる救いの無さが、準環境としての身辺をかたちづくっていた。水害からくる不作は人間の努力のはかなさを教え、かえってデカダンな、なげやりの捨て鉢な生活態度を生んだといえる。」
これは津軽人に関する一般論であって、だから太宰もデカダンな、なげやりの捨て鉢な生活態度をとっていたのだとは小野正文は決して言っていないのだが、太宰のなかにあった生活への無計画さと虚無的な心情は、津軽の風土とあながち無関係ではなかったのではないかと、そんな気もするのである。
小野は太宰の文学と人間のなかに「暗き鬱《ふさ》ぎ」を見出し、その暗鬱が、さい涯ての土地の荒涼と酷薄と無縁でなかったはずだと言っているが、その反面、それと矛盾する明るさを太宰のなかに感じとっている。明朗と暗鬱の同居に、津軽の風土が太宰に及ぼした影響の根深さがあると小野は言う。
凶作に苦しめられ、長い冬の期間を吹雪に閉じこめられている、その生活と自然のきびしさが、かえって津軽人の明るさの根源になっているとは、津軽に住む多くの人の言うところである。きびしさに押しひしがれないためには、それをはねのけるためには、渋面のかわりに破顔が、沈思のかわりに哄笑と諧謔が必要で、そこから津軽人の明るさが生れてくるというわけである。太宰もまた実によく哄笑し、実によく諧謔を弄していた。
津軽ゴタクという言葉がある。即興的に作りあげる法螺噺《ほらばなし》、作り噺をさすらしいが、雪に閉じこめられた炉端で濁酒《どぶろく》でも呑みながら津軽ゴタクに笑い興じ合うのであろう。津軽人はみなこの津軽ゴタクの名人で、なかでもわが太宰治氏は津軽ゴタクの有数な語り手であったと、鳴海和夫は前記の「金木町にて」のなかで書いている。
津軽ゴタクの有数な語り手であった太宰治は、日本の近代文学史上で有数の、いや、最も卓越したユーモアセンスを持っていた作家であった。二十六歳で書いた「ロマネスク」から絶筆「グッド・バイ」に至る多くの作品がそれを証明しているが、そこにも私たちは津軽気質を見てよいのかもしれない。
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第二章 蹉跌と彷徨
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一 分家除籍と心中未遂
昭和五年四月に太宰は東京帝国大学仏蘭西文学科に入学し、三兄圭治の住居に近い府下戸塚町の常盤館《ときわかん》という学生下宿に入居する。圭治はまもなくの六月二十一日に結核性膀胱カタルで夭逝するのだが、芸術家肌で気持の通い合った、東京におけるただひとりの肉親を失ったことは、太宰にとって大きな痛手だったろうと思われる。
そしてその秋、太宰の指示による初代の出奔という出来事が起る。
昭和四年の秋、太宰は弘前高校の最終学年になっていて、半年もすると東京の大学に進学する時期になっていたが、「玉家」を贔屓にしている土地の有力者菊池某からの初代を身請《みう》けしたいという話が起った。女将《おかみ》からも強くすすめられ、せっぱ詰った初代は、事情を太宰に打ち明けた。
あるいは逃げ腰になるかと思ったが、それまで見せたことのないきびしい顔付きで太宰は言った。
「囲い者になんか、なってはいけない。人のめかけになるなんて、ばかだ。俺が大学に入って東京で暮すようになったら、きっと呼ぶ。それまで待っていてくれ。」
恋愛、といってよい感情も、もちろん太宰にはあっただろうが、しかし、と共に、下積みの境涯にいる女性を救い上げたいという、一種ヒロイックな気持も、太宰を動かしていたのではなかろうか。さらにはまた、中学生のころ小間使の宮越トキに家出をそそのかしたときのような、「人生のかがやかしい受難者になりたい」という思いも、おそらく太宰のなかにあっただろう。
太宰が上京したのち、初代の身辺では菊池某による身請け話が再燃した。女将は、再三初代に返事を迫った。
上京する直前、「かならずあとで連絡するから、それまで待つように」という伝言が、小館保《おだてたもつ》を介して太宰からあった。青森中学で二年後輩の小館保は、太宰のすぐ上の姉きやうが嫁いだ小館貞一の弟で、年の近い親戚の青年同士という以上の深い親愛感を太宰に持っていた。太宰が初代と小料理屋「おもたか」で会うとき、ほとんどいつもといってよいほど小館を同伴していたから、小館も初代と親しい仲になっていた。
胸を焦がしながら初代は連絡を待っていたが、春が過ぎ、夏を迎えても、なんの音沙汰もなかった。太宰の東京の住所を初代は知らなかったから、こちらから連絡のとりようもなかった。
東京での新しい生活のなかで心変りを起したのではなかろうか、見棄てられてしまったのではあるまいかと、初代は疑心暗鬼にとらわれはじめた。まるでそれを見透かしたかのように、女将は強硬に返事を迫った。
追いつめられた初代は、太宰がどういう気持でいるのか、問いただしてくれるよう、小館保にたのんだ。
「かならず上京を実現させるから、いましばらく待つように」という返事が太宰から届いた。その返事は信用してよかった。なぜなら、着物類をどう送り出すかについての指示まで、太宰はしてきたからである。
「玉家」に置いてある初代の着物類は、箪笥の中からすこしずつ持ち出し、「おもたか」の方に移すこと。着物類が減った分量だけ新聞紙を底にいれて厚く見せること。「おもたか」に移した着物類は何度かに分けて荷造りし、浅草の葛西信造の下宿先に送りつけること――。青森中学で太宰の同級だった葛西信造は、東京美術学校漆工科に進学していたが、畏敬に近い親愛感を太宰に抱いていた。
(小館保と葛西信造、この二人の共犯者≠ヘ、約二か月後に起きた鎌倉海岸での心中事件に題材を得た「道化の華」で、主人公大庭葉蔵の二人の親友、小菅と飛騨として登場する)
そして上京するときは、買物にでも出かけるようなふりをして普段着のまま「玉家」を出ること。決行日は、追って小館に連絡する。
九月下旬、「初代を上京させよ」という指示が太宰から小館のもとに届いた。決行日は九月三十日。青森発の夜行列車で上京せよ。ただし、出奔に気付けば「玉家」ではすぐに東京の知人に連絡し、上野駅で待ち受けさせるだろうから、一つ手前の赤羽駅で下車すること。
九月三十日の夜、「玉家」の裏木戸から、普段着のままの姿で初代はこっそり抜け出した。近くの暗がりで待っていた小館が初代に寄り添い、人目を避けながらふたりは夜道を青森駅へと急いだ。
脱出は成功した。赤羽駅には、葛西信造と連れ立って太宰が出迎えに出ていた。
その日、十月一日は、たまたま国勢調査日に当っていた。戸別調査によって人口の動きを調べる日である。初代がそれに引っかかるのを避けるため、タクシーを乗り継ぎながらあちらこちらと街なかで時をすごし、深夜の午前一時頃に葛西の下宿に着いた。
その夜はゆっくり初代を静養させ、次の日、太宰は、葛西たちが苦労して探しておいてくれた、本所区東駒形の大工の棟梁の家の二階に初代を移した。
一方、初代の出奔に気付いた「玉家」では大騒ぎになった。女将はすぐに東京の知人に連絡をとり、初代が乗ったと思われる列車を上野駅で待ち受けさせたが、初代の姿を見出すことはできなかった。
初代が津島家の子息と親しくしていたことは女将もうすうす知っていたし、朋輩の芸者たちから聞き出したところから推しても、太宰をたよって出奔したにちがいないと判断した女将は、「玉家」を贔屓にしてくれている長兄の文治に事情を話し、協力を求めた。
多少のいきさつがあった後、十一月上旬、文治は上京し、常盤館で太宰と会談した。
「故郷から、長兄がその女の事でやって来た。七年前に父を喪った兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い部屋で相会うた。兄は、急激に変化している弟の兇暴な態度に接して、涙を流した。必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を手渡す事にした。手渡す驕慢の弟より、受け取る兄のほうが、数層倍苦しかったに違いない。手渡すその前夜、私は、はじめて女を抱いた。兄は、女を連れて、ひとまず田舎へ帰った。」(「東京八景」)
しかし文治は無条件で初代との結婚を承諾したのではない。結婚を許すかわりに、津島家からの分家除籍が条件として文治から出されたのである。分家に際しては、財産分与の形をとらず、大学卒業まで毎月百二十円の生活費を支給すると決められ、文治と太宰は仮証文をとりかわした。財産分与の形をとって太宰に纏まった金を渡さなかったのは、太宰の浪費癖をおもんぱかった上での処置であり、特に母のタネにその配慮が強かったということだが、そしてそれはまことにもっともな配慮ではあるが、またひとつ、日本共産党への資金カンパへの警戒心を文治が持ったこともまちがいなかろう。
太宰と共産党とのつながりについては次節に書くが、上京直後の五月頃から太宰は党のシンパになり、各月十円ずつ資金カンパをしている。圭治が危篤におちいって急遽上京したとき、文治の耳に、知人からの内報で太宰のシンパ活動が入った。共産党撲滅を旗幟としてかかげている政友会の有力県会議員であった文治にとっては、これは政治生命にも関わる重大事であった。十一月九日の常盤館での会談でそれに関する話が出たかどうかは明らかでないが、翌年の一月下旬に文治と太宰との間に交された本格的な証文の文面から察すると、おそらく文治はそれに言及したのではないかと思われる。資金カンパへの警戒心が文治に強く働いたのは、異とするに足りない。
あろうことか、芸者風情などとの同棲結婚は家名を汚すも甚だしいと最もいきり立ったのは祖母のイシだったようだが、同じ思いは、母のタネにも叔母のキヱにも、また長兄次兄にも、津島家全体にあっただろう。その結婚を敢て文治が承認したのは、結婚承認の代償として太宰を分家除籍―義絶し、弟の非合法運動の累《るい》が自分に及ぶのを事前に防ごうとしたからであろう。
十一月十九日、太宰の分家除籍が金木町役場で受け付けられた。この義絶は、太宰には大きな衝撃だった。「無間奈落」で父源右衛門をモデルにしてブルジョアの頽廃堕落をあばき、「地主一代」で地主階級を告発弾劾しながらも、大金持ちの一員であるという安心感と、ひそかな誇りと、そして津島家の肉親たちへのしなだれかかるような甘えが、太宰のなかにはあったと思えるからである。それが、義絶とは!
分家除籍になった十日後の十一月二十八日の夜半、太宰は銀座のバア・ホリウッドの女給田辺あつみと鎌倉で心中をはかり、女は死に、太宰は生き残る。
なぜ死のうとしたかその原因について、太宰は「東京八景」では次のように書いている。
「ただいま無事に家に着きました、という事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかった。女は、ひどく安心してしまっているらしかった。私には、それが不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみを嘗めさせて迄、戦っているのに、おまえ一人、無智な自信でぐったりしているのは、みっとも無い事である、と思った。毎日でも私に手紙を寄こすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれてもいい、と思った。けれども女は、手紙を書きたがらないひとであった。私は、絶望した。朝早くから、夜おそく迄、れいの仕事の手助けに奔走した。人から頼まれて、拒否した事は無かった。自分の其の方面に於ける能力の限度が、少しずつ見えて来た。私は、二重に絶望した。銀座裏のバアの女が、私を好いた。好かれる時期が、誰にだって一度ある。不潔な時期だ。私は、この女を誘って一緒に鎌倉の海へはいった。破れた時は、死ぬ時だと思っていたのである。れいの反神的な仕事にも破れかけた。肉体的にさえ、とても不可能なほどの仕事を、私は卑怯と言われたくないばかりに、引受けてしまっていたのである。Hは、自分ひとりの幸福の事しか考えていない。おまえだけが、女じゃ無いんだ。おまえは、私の苦しみを知ってくれなかったから、こういう報いを受けるのだ。ざまを見ろ。私には、すべての肉親と離れてしまった事が一ばん、つらかった。Hとの事で、母にも、兄にも、叔母にも呆れられてしまったという自覚が、私の投身の最も直接な一因であった。」
まず第一に、幾分の憎しみを籠めながら、初代に対する不平と憤りを太宰は原因としてあげている。自分の苦しみが分ってくれているなら毎日でも手紙を寄こすべきではないか。おまえは自分ひとりの幸福しか考えていない。だから、こういう報いを受けるのだ。ざまを見ろ。
しかしこれは、いささか八つ当り気味の不平憤懣ではあるまいか。初代は太宰ひとりを頼りにして出奔してきたのである。しかも芸者あがりの身の上である。それが結婚の許しを大地主津島家の長兄から得たのだから、ひどく安心するのは当り前のことである。手紙を書きたがらない人だった、と太宰は書いているが、初代は初等教育しか受けていない、しかも十九歳の若さである。文章を綴ることなど大の苦手で、そのことは太宰もよく知っていたはずである。だいいち、毎日の手紙に、なにを書いてよこせというのか。
初代はその後、太宰が可愛がっていた親類筋の洋画家と過ちを犯し、それが原因で太宰と離別する。初代の過失は太宰の胸に癒しがたい傷を残した。昭和十五年七月にこの「東京八景」を書いたときもその傷はまだ疼いていたと思われる。ひとつには、それが初代への厳酷さとなって現われたのではなかろうか。
れいの反神的な仕事に破れかけたことを、太宰は第二の原因としてあげている。れいの反神的な仕事とは、言うまでもなく、共産党のシンパとしての活動のことである。「狂言の神」では、そのことを太宰は次のように書いている。
「七年まえには、若き兵士であったそうな。ああ。恥かしくて死にそうだ。或る月のない夜に、私ひとりが逃げたのである。とり残された五人の仲間は、すべて命を失った。私は大地主の子である。地主に例外は無い。等しく君の仇敵である。裏切者としての厳酷なる刑罰を待っていた。撃ちころされる日を待っていたのである。けれども私はあわて者。ころされる日を待ち切れず、われからすすんで命を断とうと企てた。衰亡のクラスにふさわしき破廉恥、頽廃の法をえらんだ。ひとりでも多くのものに審判させ嘲笑させ悪罵させたい心からであった。有夫の婦人と情死を図ったのである。私、二十二歳。女、十九歳。」
また、「虚構の春」では、
「私はいま、徹頭徹尾、死なねばならぬ。きのう、きょう、二日あそんで、それがため、すでに、かの穴蔵の仕事の十指にあまる連絡の線を切断。組織は、ふたたび収拾し能わぬほどの大混乱、火事よりも雷よりも、くらべものにならぬほどの一種凄烈のごったがえし。それらの光景は、私にとって、手にのせて見るよりも確実であった。キャップの裏切。逃走。」
或る月のない夜に自分ひとりが逃げ、そのため五人の仲間がすべて命を失ったなどということは、事実としてはなかったことである。太宰がすでにそのとき地区のキャップになっていて、その裏切のため、組織が収拾できないほどの大混乱におちいったなどということも、事実としてはなかったことである。「狂言の神」も、「虚構の春」も小説であり、小説としての効果を狙って、このようなドラマチックな潤色をしたのであろう。半自伝的ともいえる「東京八景」もまた、作品であることに変りはなく、フィクションであることに変りはない。
昭和五年十一月のこの時点においては、太宰はまだ積極的な党活動をやってはおらず、シンパとしての仕事は資金カンパだけで、あとは学内の読書会に入ってマルクス・レーニン主義を学習することと、青森県出身の進歩的学生が組織している日曜会に参加するくらいだった。「朝早くから、夜おそく迄、れいの仕事の手助けに奔走した」とか、「肉体的にさえ、とても不可能なほどの仕事を、私は卑怯と言われたくないばかりに、引受けてしまっていた」といったようなことは、その当時の太宰にはなかった。
初代のことで絶望し、党活動への能力の限度に二重に絶望したと太宰は書いているが、それをそのまま信じることは、出来そうにない。
「道化の華」はこの鎌倉海岸での心中を素材にした小説であるが、そのなかで、太宰の自画像といえる大庭葉蔵は、友人の飛騨と小菅に呟く。
「ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような気がして。」
そして、
「葉蔵がおのれの自殺の原因をたずねられて当惑するのも無理がないのである。――なにもかもである。」
「なにもかも」――この呟きには、たしかに素直なひびきが感じられる。自殺の心理を分析し、その原因を解明し、論理的に説明するのは、無理な、愚かな仕業《しわざ》にちがいない。自殺の原因をたずねられて葉蔵が当惑したのも無理がないのである。
「なにもかも」――しかし「東京八景」で太宰は書いた。「私には、すべての肉親と離れてしまった事が一ばん、つらかった。Hとの事で、母にも、兄にも、叔母にも呆れられてしまったという自覚が、私の投身の最も直接な一因であった。」たしかにそれが、最も直接な一因ではあったのだろう。それも、呆れられてしまったという自覚だけではなく。現実に、津島家から義絶されてしまったのである。思いもかけなかったことで、太宰の受けた衝撃はさぞ大きかっただろう。
「女は死んで、私は生きた。死んだひとの事に就いては、以前に何度も書いた。私の生涯の、黒点である。」(「東京八景」)
田辺あつみは本名|田部《たなべ》シメ子、広島の人で、広島市立第一高女を中退後市内の喫茶店につとめ、通ってくる客の高面《こうめん》順三と懇意になり、同棲し、新劇俳優を志望していた順三と共に上京して、生活のため銀座のバア・ホリウッドの女給になった。昭和五年の八月下旬で、時にあつみ十九歳。
たまたま銀座に出た太宰が「ホリウッド」のドアを押したのは、そのほぼ二か月後の十一月中旬であるが、ふたりが心中を図った十一月二十八日までのそれからの約十日間については、友人たちを誘って一度呑みに行ったことの他は、格別のことはなにも判っていない。
小館保の回想によると、三日前の二十五日の雨の強い晩、常盤館に集まった友人たちに音楽家、画家、芸人、医学生、そして太宰自身は文士とそれぞれに役柄を割り振り、戸塚からタクシーを走らせて「ホリウッド」へ乗り付けた。役柄に従ってそれらしく演技し、女給たちをだまして太宰は大満悦、一同大いに痛飲した。
「理知的で、健康そうで、応答が妙にあざやかな、原節子によく似た顔だちの園≠ノ吾々は始めて会ったのである。誰でも好感のもてるような明るい気質の女性であった。
その夜この酒場で店じまいの時刻まで飲み続け、園も交えてみんなで帰途のタクシーをひろったが、太宰は園と二人本所で降りてしまった。」(「鎌倉恵風園の思い出」)
ここで小館があつみを園≠ニしたのは、「道化の華」で太宰が、死んだ女性の名を「園」としたからである。
太宰はあつみと二人で本所で降りてしまったと書かれているが、初代を匿うために借りていた東駒形の大工の家の二階に泊ったのだろう。
翌々日の二十七日、当時築地小劇場の照明係をしていた中村貞次郎を太宰は浅草に呼び出し、あつみを引き合わせている。断髪で、緑色のベレー帽がよく似合う小柄な女性という印象を中村は持ったそうだが、「虚構の春」では、小柄でマネキン嬢にもなれそうな、「全部が一まわり小さいので、写真ひきのばせば、ほとんど完璧の調和を表現し得るでしょう。両脚がしなやかに伸びて草花の茎のようで、皮膚が、ほどよく冷い。」と描写されている。
私には、この田辺あつみとの出会いが、太宰の死への決意を促したように思われる。いわば、死へのスプリング・ボオドになったように思われる。「なにもかも」――そのなかに、田辺あつみとの出会いがあったように思われる。
「虚構の春」では、太宰は海野三千雄の仮名を使って毎夜帝国ホテルに泊っていて、そこへ女が遊びにきて、その晩宿泊したとなっている。実際には太宰は毎夜帝国ホテルになど泊ってはいなかったのだが、その日、中村貞次郎と別れてからふたりが帝国ホテルに宿泊したことはおそらく事実であろう。
「そうして、その夜ふけに、私は、死ぬるよりほかに行くところがない、と何かの拍子に、ふと口から滑り出て、その一言が、とても女の心にきいたらしく、あたしも死ぬる、と申しました。」(「虚構の春」)
小説のなかの一節であるが、事実このような会話が交わされたのではあるまいか。もしそうだとすれば、女の同意をひそかに期待しながら、「死ぬるよりほかに行くところがない」という一言を、太宰は口にしたのだろう。
「人間失格」のツネ子が田辺あつみを原型にしていることは明らかだが、この作品では、本所の大工の二階にふたりが泊り、
「夜明けがた、女の口から『死』という言葉がはじめて出て、女も人間としての営みに疲れ切っていたようでしたし、また、自分も、世の中への恐怖、わずらわしさ、金、れいの運動、女、学業、考えると、とてもこの上こらえて生きて行けそうもなく、そのひとの提案に気軽に同意しました。」
ツネ子が死を願い、葉蔵がそれに同意したという形になっている。そしてツネ子は、「無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸《いつすん》くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、『水底の岩に落ち附く枯葉』のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れる事が出来る」女性として描かれている。
ツネ子は葉蔵よりも二つ年上であり、夫は詐欺罪の犯人で刑務所に入っている。浮世の辛酸をなめており、人間としての営みに疲れ切っていて、その点ではまだ十九歳のあつみとはちがう。しかし、ツネ子の持っていた侘びしさを、あつみもまた持っていたのではあるまいか。
「この女は、なかなかの知識人で、似顔絵がたいへん巧かった。心が高潔だったので、実物よりも何層倍となく美しい顔を画き、しかもその画には秋風のような断腸のわびしさがにじみ出て居りました。」(「虚構の春」)
あつみのなかにも、ツネ子が持っていたような死への願いが潜在していて、だから太宰のふと口から滑り出た一言が、とても心にきいたのではあるまいか。
太宰とあつみは、帝国ホテルを出て鎌倉に向い、十一月二十八日の夜半、腰越町の小動崎《こゆるぎがさき》突端の畳岩《たたみいわ》の上でカルモチンを嚥《の》み、心中を図る。くすりがきいてきてから、ふたりは折りかさなって岩から転落し浪をかぶった、と「虚構の春」ではなっている。「道化の華」では、一緒に投身し、男は帰帆の漁船に引きあげられ、女の死体は翌朝袂ヶ浦の浪打際で発見されたとなっているが、実際には、翌朝の八時ごろ、出漁しようとした漁夫が畳岩の上で苦悶している男女を発見したのであって、事実としては二人は投身も入水もしていない。
「僕はこの手もて、園を水にしずめた。僕は悪魔の傲慢さもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ。」――「道化の華」冒頭のこの文章は、虚構ということになる。
あつみは絶命し、太宰は七里が浜の恵風園療養所に収容された。青森の新聞『東奥日報』は、「津島県議の令弟修治氏 鎌倉で心中を図る 女は遂に絶命 修治氏も目下重態」と大々的に報道した。もちろん津島家の受けた衝撃は大きく、次兄の英治がすぐに鎌倉に急行した。一方、長兄文治の依頼で五所川原在住の中畑慶吉も上京し、品川で洋服仕立業をいとなむ北芳四郎と連絡をとって戸塚の太宰の下宿に赴き、どれが左翼関係の書物か判らぬままに手当り次第に行李に詰めて焼却し、それから鎌倉に向ったという。文治にしてみれば、弟のシンパ活動が警察に知られることが、まず第一の懸念だったのであろう。
一週間以上恵風園に入院していたと思われるが、恢復後、太宰は自殺幇助罪容疑で警察の取調べを受けた。鎌倉署の担当刑事であった村田義道が金木町の出身で三兄圭治の小学校時代の友人であり、また管轄の横浜地方裁判所長の宇野要三郎が黒石市の出身で父源右衛門の実家松木家と姻戚であったことも有利に働いて、胸部を患っていたことからの厭世自殺と判断され、起訴猶予になり、ひとまず品川の北芳四郎方に身を寄せた。
「女は、死んだ。告白する。私は世の中でこの人間だけを、この小柄の女性だけを尊敬している。」(「狂言の神」)
「私の生涯の、黒点である。」(「東京八景」)
女を死なせ、自分だけが生き残ったことが、終生の悔恨として、終生の罪の意識として、太宰治のなかに沈澱していたことは間違いない。
戦後のある日、話のなかで、太宰治はそのことを私に言った。しかし太宰はそのとき、罪の意識という言葉は使わなかった。やり切れないほど辛いね、たしかそんな言い方をした。
その思いが、「人間失格」でツネ子を造形させたのだと私は思う。
太宰の心中未遂は、初代にとってはそれこそ青天の霹靂だった。豊田太左衛門を名代として、長兄文治は十一月二十四日に津島修治名義で小山家と結納を交している。その直後の出来事だっただけに、まっこうから眉間を割られたような気持だったのではなかろうか。
太宰は英治に伴われて東京を離れ、南津軽郡碇が関温泉の柴田旅館に逗留した。金木から駈けつけてきた母のタネに太宰を委ねた英治は長兄文治に事の顛末を報告し、文治は初代との仮祝言を指示した。身を固めさせ、生活の責任を持たせようと文治は考えたのだろう。
タネと豊田太左衛門の立合いのもとに、柴田旅館の奥の一室で太宰は初代と仮祝言をあげた。
「私たちは山の温泉場であてのない祝言をした。母はしじゅうくっくっと笑っていた。宿の女中の髪のかたちが奇妙であるから笑うのだと母は弁明した。嬉しかったのであろう。無学の母は、私たちを炉ばたに呼びよせ、教訓した。お前は十六|魂《たまし》(津軽方言。常に気持が揺れ動いていること)だから、と言いかけて、自信を失ったのであろう、もっと無学の花嫁の顔を覗き、のう、そうでせんか、と同意を求めた。母の言葉は、あたっていたのに。」(「葉」)
そのあと太宰は単身上京して北芳四郎宅に身を寄せるのだが、翌昭和六年一月二十七日、上京中の文治に呼び出され、前年十一月にとりかわした仮証文を破棄し、新たに本格的な証文が「覚」としてとりかわされた。その全文は左のとおりである。
覚
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津島文治と津島修治トノ間ニ左記条項ヲ約スルモノトス 以下津島文治ヲ甲トシ津島修治ヲ乙ト称ス
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第一条 昭和五年十一月九日甲乙間ニ於テ協定シタル覚ハ爾今無効トス
第二条 乙ハ原籍ヲ他ヘ転ゼントスルトキハ甲ノ同意ヲ得ルコト
第三条 乙ト小山初代ト結婚同居生活ヲ営ム限リ昭和八年四月迄其ノ生活費用トシテ毎月壱百弐拾円ヅツ甲ハ乙ヘ支給スルコト
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但シ乙ノミ単独生活ヲ行フトキハ支給生活費ハ月額八拾円也トス
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第四条 昭和八年四月限リ年額四百弐拾円ノ割ヲ以テ乙ノ生活予備費トシテ甲之ヲ保管シ(利息ヲ附セズ)乙ノ生活上支出ノ止ムヲ得ザルモノト甲認メタルトキハ随時乙ニ支給スルモノニシテ不支出残額ハ昭和八年四月卅日ニ乙ニ之ヲ給与スルモノトス
第五条 帝国大学在学中ハ授業料ハ左記ニヨリ甲ハ乙ニ支給スルコト
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昭和六年五月 六拾円也
昭和六年十一月 八拾円也
昭和七年五月 六拾円也
昭和七年十一月 八拾円也
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第六条 乙ニ於テ左記項ニ当ル行為ヲナストキハ甲津島忠次郎、津島季四郎、津島英治ノ同意ヲ経テ三、四、五条ニ定ムル額ヲ減ジ或ハ停止及ビ廃止ヲスルモノトス
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一、帝国大学ヨリ処罰ヲ受ケタルトキ
一、刑事上ニ付キ検事ノ起訴ヲ受ケタルトキ
一、理由ナク帝国大学ヲ退キタルトキ
一、妄リニ学業ヲ怠リ卒業ノ見込ナキトキ
一、濫リニ金銭ヲ浪費セルトキ
一、社会主義運動ニ参加シ或ハ社会主義者又ハ社会主義運動ヘ金銭或ハ其ノ他物質的援助ヲナシタルトキ
一、操行乱レタルトキ
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第七条 乙ノ帝国大学卒業後ノ生活補助費ニ就テハ津島忠次郎、津島季四郎、津島英治ノ意見ヲ参酌シテ甲ニ於テ相当ノ考慮ヲ払フコト
第八条 本覚書ノ効力発生ハ昭和六年二月一日ヲ以テス
第九条 本覚書ハ二通ヲ作成シ甲乙各々一通ヲ所持スルモノトス
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昭和六年一月二十七日
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]右 津島文治(印)
[#地付き]津島修治(印)
この「覚書」が文治から一方的に太宰に押しつけられたものであることは言うまでもない。昭和八年四月とは、太宰が当然東京帝大を卒業すべき年月である。しかし、卒業はおろか、太宰は在学中に一単位も取得していない。妄りに学業を怠って、卒業の見込は全くなかったのである。文治が最も恐れたのが社会主義運動への参加だったことは明らかだが、太宰のシンパ活動はこの「覚書」がかわされた後にかえって積極的になる。署名捺印こそしたものの、太宰のその後の行動はこの「覚書」をほとんど無視していたといってよい。
それが義絶されたことへの憤懣からきたものか、あるいは心底にある肉親への甘え根性からきたものか、よくは判らないが、幸運にも蘇生したが一度は死んだ身であるという自覚が、一種のふてぶてしさを太宰のなかに芽生えさせてもいたのだろう。
二 非合法運動と自首
太宰治が日本共産党のシンパになったのは、青森中学、弘前高校の先輩に当る工藤永蔵の粘り強い説得によるものだった。
昭和三年三月十五日のいわゆる三・一五事件で大打撃を受けた日本共産党は、再建をはかり組織の立て直しに努めていたが、翌四年四月十六日のいわゆる四・一六事件で、市川正一、鍋山貞親、佐野学らの幹部を含む七百余名が検挙され、党中央部は潰滅状態に陥った。その年七月、二十四歳の若い田中清玄を委員長として再建がはかられたが、組織活動を地道に行なう力はすでに失われ、極左冒険主義に走りはじめていた。
田中清玄は、弘前高校で太宰の三年先輩に当り、在校中に社会科学研究会を組織してそのリーダーになっていた。東京帝大理学部の学生だった工藤永蔵は田中と弘前高校の同期生で、田中の下で党の再建に当り、昭和五年一月に共産青年同盟(日本共産党の指導下にあった大衆的青年組織)の中央委員になっていた。
党の支持者、すなわちシンパを広く組織して党勢の回復をはかり、また資金面での援助を求めたいと考えていた田中は、その年四月に東京帝大に入学するか、または予備校に入るため上京する弘高卒業生二十余名のなかから、できるだけ多くをシンパとして組織するよう工藤に指示した。
五月上旬、工藤が戸塚の常盤館に太宰治を訪ねたのは、その指示によったのである。
なによりも太宰は大金持の津島家の子弟であり、小遣いも十分に貰っているであろうから、資金カンパを頼みやすい。相次ぐ弾圧で党の財政は逼迫しており、一銭でも多くの資金カンパが欲しかったのである。
太宰は最初、難色を示した。工藤は、毎週のように太宰を訪ね、説得を重ねた。
今の時代を誠実に生きようとする青年は、歴史や社会の進展のために、一人一人がそのおかれている条件や能力に応じて寄与すべきではないかと工藤は説いた。
ついに太宰は、実際運動に携わらないこと、津島家の一族には内密にすることを条件に、毎月十円の資金カンパを工藤に約束した。
言われるまでもなく、それは外部には秘密にしなければならぬ事柄であり、まして、共産党撲滅を旗幟として掲げている政友会の少壮県会議員の耳に入れるわけにはいかぬ。太宰の非常識もさることながら、それほど津島家のことが気になるのかと工藤は苦笑した。
実際運動には太宰を参加させてはなるまい、と工藤も思っていた。過激な、また危険を伴う仕事には太宰は不向きであろう。気が弱く、神経が細く鋭く、図太さや逞しさがまるで欠けているように思えたからである。
特高に逮捕され、きびしい取調べを受けたとき、粘り強く耐えつづけることができないのではないか。そうなったら、太宰に対しても気の毒だし、党にとっても望ましいことではない。
工藤は太宰に、学内の読書会に入り、マルクス・レーニン主義を学習することと、青森県出身の進歩的学生が組織している日曜会に参加することをすすめた。日曜会は、進歩的な思想を持つ文化人を講師として招き、新宿あたりの喫茶店で話を聴くのが主な目的だった。
七月十四日、委員長田中清玄はアジトを急襲され、他の十数名の指導的党員も検挙された。党中央部は潰滅的な打撃を受けた。
難をのがれた工藤永蔵は世田谷の経堂に潜伏し、外出もせず、息をひそめていた。
官憲の追及もそろそろゆるんだと思われた十月中旬頃から、工藤は周囲に気を配りながら同志や知合いを訪ねはじめた。
太宰に逢うことができたのは十一月の十日すぎで、一緒に軽く呑んだが、太宰はなにか憂鬱そうで、まったく元気がなかったという。文治から分家除籍を言い渡された直後のことになる。
太宰が心中事件を起し警察沙汰になったあと、しばらく敬遠していた工藤が、消息を掴んで再び太宰を訪ねたのは、翌六年の二月初旬である。
仮祝言をすませたあと青森に帰っていた初代が中畑慶吉に伴われて上京したのは、そのすこし前で、新婚の夫婦は神田区岩本町のアパートに部屋を借りて住んだ。
太宰がすっかり元気になり、新婚生活を楽しんでいるらしいのに工藤は安心した。
近いうちにこのアパートの狭い部屋を出て、一戸建ての家に移ると太宰は言った。その家をアジトとして使わせてもらおうと、工藤は咄嗟に考えた。そのことが太宰を党の実際運動に近づけ、危険にさらすおそれが多分にあるとは思ったが、状勢がここまで逼迫してしまったからには、それもやむをえまい。
相次ぐ弾圧でアジトはしらみつぶしにされ、党員の隠れ家や秘密の会合場所に事欠く有様だった。それに新婚家庭は、当局の目をくらますのに格好である。
しかしそのことには触れず、工藤は、今までもそう言ってきたように、実際運動からは遠ざかり、特高の目につくような目立った行動は慎むようにと忠告した。特に、「全協」の連中とは接触しないように注意したという。
「全協」とは、日本労働組合全国協議会の略称で、工藤がそれを特に注意したのは、太宰が「全協」と関わりを持ちはじめたのを耳にしたからかと思われる。
その後まもなく、太宰夫妻は、五反田の島津家分譲地に新築されたばかりの二階建ての一軒家に引っ越した。階下二部屋、二階二部屋の、広い空き地のなかにぽつんと建っている家で、太宰夫妻は階下二部屋で暮し、二階二部屋は納戸《なんど》がわりの空き部屋だった。アジトとして利用するには絶好の家だった。
二月中旬、工藤は党の中央部から、その名も党内での地位も明かせないが、重要な人物をひとり、預かってもらえまいかと言われた。工藤はそれを太宰に頼んだ。すこしのたじろいだふうも見せず、二つ返事で太宰は引き受けた。
以前の太宰には見られなかったものを感じ、なにかがこの男のなかで変ったのかと、工藤は思った。
その人物は、転々と他のアジトも利用しながら、週に一度か二度は太宰の家の二階に泊り、一か月ほどすると姿を消した。
のちに日本共産党の全国大会に出席したとき、その男が前年暮にモスクワから帰国した、党の四人の中央委員の一人である紺野与次郎であることを、工藤は知った。
アジトとして利用するほかに、太宰の家の二階を使わせてもらったことが、工藤永蔵にはある。
三月十日頃、党の印刷局で働いていた工藤は、『赤旗』の「三・一五記念特輯号」の原稿を受け取り、三・一五カンパに間に合うよう印刷することを命じられた。しかし印刷所が普通号の印刷で手一杯で、やむなく、一緒に仕事をしていた渡辺惣助と二人で、謄写版を抱えて太宰の家に駈け込んだ。
太宰はこころよく承知してくれ、二階の一部屋を借り、徹夜で仕上げて期日に間に合わせた。
もちろん、秘密の危険な仕事である。
藤野|敬止《けいし》が太宰の家の二階で三か月ほど世話になったのも、工藤永蔵のすすめによるものだった。弘前高校で工藤と同期で、東京帝大文学部に進学していた藤野は、東大新人会弘高班の一員として積極的なシンパ活動をつづけ、特高に目をつけられて転々と居所を代えていた。そんな折の三月下旬、太宰治のところなら新婚家庭だし安全だろうと工藤に言われたのである。
のちになって紺野与次郎と判明した人物はすでに姿を消しており、二階の二部屋は空いていた。その一部屋を藤野は借りたが、工藤は隣りの空き部屋にしばしば宿泊し、時には特高に追いつめられている党関係者のためにその部屋を利用することもあった。
藤野の記憶によると、二階に誰が泊ろうと太宰は無関心で、家にいるときはたいてい小説を書いていたという。そして書き上げると、かならず読んで聞かせたという。後になって思い出してみると、処女創作集『晩年』に収められている、幾つかの断章で構成されている「葉」の、その下書きではなかったかと思われる短篇で、左翼的な色合いのある作品は一度も聞かされたことがなかったという。
太宰治のいわゆる「純粋な政治家」の季節のなかで、非合法運動に関わりを持ちながら、しかしその一方で、太宰は文学への精進をすこしも怠ってはいなかった。プロレタリア文学ふうの小説にはもはや手を染めず、自分の本然の資質に根ざした文学に、静かな情熱を燃やしていた。このことは十分に注目しなければならないのだが、それについては、節をあらためて述べることにしよう。
藤野や工藤の、また出入りする党関係者の寝具をととのえたり、食事の世話をしたりする役目を、初代は引き受けねばならなかった。その役目を、初代はすこしも苦にしなかった。むしろ、喜んでいそいそと立ち働いているふうがあった。
芸者時代に身につけた客あしらいのよさもあったろうが、初代には生来の人なつっこさがあり、あっけらかんとした無邪気さがあった。世間からアカと呼ばれて毛嫌いされ、恐れられてさえいた党関係者にも、好奇心を伴った親愛感を抱いているように見えた。
「あねご気取りが好きなようであった。私が警察に連れて行かれても、そんなに取り乱すような事は無かった。れいの思想を、任侠的なものと解して愉快がっていた日さえあった。」と「東京八景」には書かれている。
やがて初代は、工藤や藤野の口真似の、片言の左翼用語を口にするようになった。そしてある日、自慢だった豊かな日本髪を切り落し、断髪にした。さすがに太宰は腹を立て、叱りつけたが、初代はひるまず、服装も洋装に変えた。青森の田舎芸者から、進歩的なインテリ学生の妻にふさわしい近代女性への、一大変身である。
結婚した当初から、太宰は初代を、伴侶としてふさわしい女性に教育しようと心がけていた。この時期、マルキシズムの初歩的な解説書を読ませようとしたが、ちんぷんかんぷんでさっぱり分らない、頭が痛くなるばかりだと泣きそうな顔をした。
工藤永蔵は太宰に、川崎市にあるマツダ・ランプ本社の読書会に初代を参加させたらどうかとすすめた。マツダ・ランプ本社の細胞(工場などに設けられる共産党の基礎組織)は工藤が働きかけて組織したもので、当時は慈恵医大の学生が読書会を主宰していた。
太宰は承知した。初代の成長を願う気持がよほど強かったからでもあろう。
初代はテキストを購入し、断髪洋装のモダンな姿でいそいそと読書会に出向いた。太宰はそのつど、途中まで連れ立って見送ったという。
さてところで、この時期、資金カンパやアジトの提供のほかに、太宰治は非合法運動にどのような関わり方をしていたのだろうか。
正確なことは判らないのであるが、「全協」すなわち日本労働組合全国協議会となんらかの繋がりを持ち、工藤永蔵の忠告を無視して、その線でかなり積極的に動いていたのではなかろうか。
太宰と共に弘前高校で新聞雑誌部の委員をしていた津久井信也が一年おくれて東京帝大文学部に入ったのは、昭和六年四月で、五反田の太宰の家を訪ね、旧交を温めた。その折、太宰からすすめられて東京帝大の学生全協支持団に加入したという。
学生全協支持団は、「全協」の運動に協力する学生組織で、前年の十二月から結成の動きが始まり、この年三月、第一回中央委員会が開かれた。
太宰はまた津久井に、下宿している本郷台町の厚生閣の部屋を、秘密の会合に利用させてくれるよう頼んだ。津久井は承知し、時には頼まれて人を匿ったこともあったという。
太宰治は、のちに作品のなかで、分身と考えてよい大庭葉蔵が、「行動隊のキャップ」(「道化の華」)、「マルクス学生の行動隊隊長」(「人間失格」)をしていたと書いている。
「中央地区と言ったか、何地区と言ったか、とにかく本郷、小石川、下谷、神田、あの辺の学校全部の、マルクス学生の行動隊隊長というものに、自分はなっていたのでした。武装蜂起、と聞き、小さいナイフを買い(いま思えば、それは鉛筆をけずるにも足りない、きゃしゃなナイフでした)それを、レインコオトのポケットにいれ、あちこち飛び廻って、所謂『聯絡』をつけるのでした。」(「人間失格」)
もしそれが太宰治自身の実際の体験だったとすれば、この時期、学生全協支持団において、「行動隊隊長」のような役割をになっていたのではあるまいか。
支持団の中央委員会は四地区の代表で構成され、A地区は本郷方面(東京帝大・一高・東京美術・東京女高師その他)、B地区は神田方面(法政・明治・中央・日大その他)であり、「人間失格」に書かれている地区は、A・B両地区を合わせたものと考えられる。
支持団では、その行動方針に、行動隊への参加がうたわれていたという。
その年の五月一日、芝浦を出発したメーデー行進は、銀座に出ようとする途中、新橋のあたりで多数の検束者を出した。その行進に太宰もおそらく参加していて、検束は免かれたのかと思われるが、その日の午後、安田講堂の近くにあった「帝国大学新聞」の事務室に、太宰が姿を現わした。事務室には、弘前高校時代、新聞雑誌部委員として一年先輩だった平岡敏男、同学年だった南部農夫治がいた。
疲れ果てた、蒼白い太宰の顔には、思いつめたような表情があった。「彼の不安と共に、時世の不安が身に沁みる思いであった」と、南部農夫治は回想している。またこの時、平岡敏男は、太宰が短刀(ナイフ?)を持っているのに気付いたという。
太宰のそういう行動に工藤永蔵がどの程度気付いていたのかは分らないが、六月下旬、安全を保つためにという工藤のすすめにより、太宰夫妻は神田同朋町の、神田明神崖下の格子戸の家に移った。同居していた藤野敬止は東中野に下宿を見付けて移っていった。
同朋町に移ってからは、『赤旗』の「三・一五記念特輯号」を太宰の家の二階で刷りあげたときが初対面だった渡辺惣助が、よく訪ねてくるようになった。渡辺は工藤と青森中学が同期で、前年の三月に早稲田大学英文科を中退していた。
街頭連絡に使う場所が太宰の家の近くだったので、工藤は以前にもまして頻繁に立ち寄るようになり、渡辺とふたりで訪ねてくることも多かった。
工藤永蔵の回想によると、「郷里のこと、文学のことなど雑談に花を咲かせ、初代さんの手料理で津軽の味をなつかしみ、家庭的な空気に浸ることが出来たので、私達には砂漠の中のオアシスのようなものであった」という。
会話はおそらく津軽弁で交わされたことだろう。津軽の味をなつかしみながら、幼いときから使い馴れた津軽弁で気儘に喋り合うそのひとときは、遠く故郷を離れて上京し、危険で困難な仕事に心身をすりへらしていた津軽衆≠ノとって、まさしく「砂漠の中のオアシスのようなものであった」だろう。
九月十三日、会合場所を急襲され、ほかの三人の党員と共に工藤永蔵が検挙された。
その五日後の九月十八日、満洲事変、勃発。大日本帝国は軍国主義への道を急ピッチで歩みはじめる。左翼運動への弾圧はさらに激しさを増し、特高警察は捜査の網をひろげ、彼等からすれば国賊であるアカの逮捕に血眼になった。
ついに、太宰治の身辺にも特高の手が伸びることになる。
十月下旬か十一月上旬、太宰は西神田署に出頭を命じられ、一晩留置されて取調べを受けた。
はっきりしたことは判らないのだが、同朋町の太宰の家が青森一般労働組合と「全協」との連絡場所になっていたことを特高に探知され、そのための取調べではなかったかと思われる。
その後、時々刑事が訪ねてくるようになり、太宰が留守のときには行き先を初代にたずねて手帖にメモするようになった。
検挙された工藤永蔵に代って党と太宰との連絡に当っていた渡辺惣助は、このままでは危険だからと転居を太宰にすすめた。太宰夫妻は神田和泉町に移り住んだ。
あちらこちらの警察署をたらい回しされたあと工藤永蔵は、十一月ごろ中野刑務所に送られ、さらに豊多摩刑務所に移された。
それを知った太宰は、初代に津軽料理を作らせ、それを持って面会に行かせた。工藤から礼状がきて、そのなかに、家から金の仕送りがないので困っていると書かれてあった。太宰はそれまでの党への資金カンパを打ち切り、毎月五円ずつを工藤に差し入れることにした。また初代に着物を仕立てさせて送り、喜びそうな本を送るなど、工藤への慰問と激励に労を惜しまなかった。
翌昭和七年三月、太宰夫妻はまたまた淀橋区柏木に移転した。今度もおそらく、渡辺惣助の忠告に従ったのではないかと思われる。
その渡辺惣助も次第に身辺が危うくなり、太宰から遠ざかるようになった。
さきに工藤を失い、いままた渡辺と離れ、党中央部との連絡が切れた。そのためもあろうが、シンパ活動への情熱を、この頃から太宰は失いかけてきていたと思われる。
やがて六月に入ると、青森警察署の特高課刑事が金木の生家を訪ねてきた。応対に出た留守居役の次兄英治は太宰の身辺について執拗な尋問を受けた。太宰が頻繁に住居を変更している理由は何か。生活費の一部が左翼運動に資金カンパされているらしいが、仕送り金額はどのくらいか。また生活費はどのようなルートを経て太宰の手許に届けられるのか。
そのとき、刑事の口から、「全協」と青森一般労働組合の連絡係を太宰が務めていること、西神田署に留置され取調べを受けたことが、明らかにされた。
青森市で英治からの報告を受けた長兄文治は激怒した。これはあきらかに、前年一月に取り交した「覚書」の第六条にある、「社会主義運動ニ参加シ或ハ社会主義者又ハ社会主義運動ヘ金銭或ハ其ノ他物質的援助ヲナシタルトキ」に該当する行為ではないか。
直ちに太宰への仕送りを停止するよう、文治は英治に厳命した。
仕送りの停止が、太宰にこたえなかったはずはない。豊多摩刑務所内の工藤永蔵にあてた六月七日付書簡で太宰は、「うちから送金をとめられ、弱りました」と書いている。しかしまた、「うちでもまさか、このままにして、私達を放たらかしにしはしないだろうと存じます。あなたへの送金は、必ずつづけて行きますから、御心配しないで元気でいて下さい」とも書いている。
太宰のなかには、津島家が自分を見殺しにし、路頭に迷わせるようなことはまさかするまいという、楽観と甘えが、まだ残っていたのだろう。
六月下旬、太宰の留守中、柏木の家に刑事が二人、訪ねてきた。帰宅して初代からそれを聞くと、すぐに引っ越さねばならぬと太宰はうろたえた。翌日、暗くなってからトラックを頼み、京橋区新富町の吉沢祐のアパートに移った。グラフィック・デザイナーで、のちに処女創作集『晩年』の題字を書いている吉沢は、初代の母キミの弟で、太宰とも気心が通じていた。
吉沢のアパートが手狭なので、そこから電車で二停留所くらいの、八丁堀の材木屋の二階に、北海道生れの落合一雄という偽名で八畳間を借りた。
八丁堀に移ったことを太宰は、党の関係者にも、親しい友人や親戚の者にも知らせなかった。訪ねてくる者はなく、夜が更けると初代とふたり、鉄砲洲の縁日をぶらついた。
結婚して以来、左翼の活動家がたえず出入りし、同居し、また特高の目を避けながら転々と居所を変えねばならなかった太宰夫妻にとって、はじめて味わう束の間の解放であり、平安だっただろう。
太宰治の所謂自首事件≠ェ起ったのは、その約二十日後ということになる。
自首の動機について、「東京八景」では、処女だと思い込んでいた初代がそうでなかったことを偶然の機会に知り、やり切れなくなったからだとなっている。
「私は女を、無垢のままで救ったとばかり思っていたのである。Hの言うままを、勇者の如く単純に合点していたのである。友人達にも、私は、それを誇って語っていた。Hは、このように気象が強いから、僕の所へ来る迄は、守りとおす事が出来たのだと。目出度いとも、何とも、形容の言葉が無かった。馬鹿息子である。女とは、どんなものだか知らなかった。私はHの欺瞞を憎む気は、少しも起らなかった。告白するHを可愛いとさえ思った。背中を、さすってやりたく思った。私は、ただ、残念であったのである。私は、いやになった。自分の生活の姿を、棍棒で粉砕したく思った。要するに、やり切れなくなってしまったのである。私は、自首して出た。」
初代の過去を知って太宰が痛手を受けたのは事実であろう。それは「陰火」の一章「紙の鶴」を読んでも十分に推察できる。しかし、それを自首の動機にしたのは、明らかに太宰の創作であろう。
ではなぜ「東京八景」では、それを関連づけたのか。
長兄との間に「覚書」が取り交わされていた事実を、太宰は全作品のなかで一言半句も触れなかった。「侮辱を受けたと思いこむやいなや、死なん哉ともだえる」ような「細くとぎすまされた自尊心」(「道化の華」)の持主には、「覚書」が存在すること自体が恥かしくてたまらなかったのだろうが、また一つには、これを素材として作品化すれば長兄の高圧的な姿勢を暴露することになる。そのため長兄を怒らせることになるのは得策でないと考えたからではあるまいか。
左翼運動から離脱した理由を、「覚書」にすこしも触れることなく説明するのはむずかしい。ならば、初代の告白から受けた衝撃に、自首の動機をすり変えてしまったらよい。
鎌倉海岸での心中事件についても、長兄から一方的に分家除籍を言い渡され、それによって衝撃を受けたことについては、まったく触れていない。
二つの事件の背景に、いわば仕掛人のような形で存在していた長兄文治の姿は、作品のなかからはきれいに消されてしまっている。代って初代が事件の中央に登場させられ、スケープゴートさながらの役割を担わされているのである。
さて、太宰が忽然として特高の監視網から姿を消し、足どりがつかめなかったため、警察は金木の生家に協力を要請した。
生家でも太宰の行方が分らなかった。七月上旬、相談したいことがあって小館善四郎が柏木の家を訪ねたが、数日前から空き家になっていて、どこに移ったのか分らなかった。善四郎は小館保の弟で、この年三月、青森中学校を卒業、帝国美術学校に進学していた。
文治は、最後の肚を固めた。太宰あての書状を、文治はみずから認めた。
その書状は、もはや太宰の甘えを許してはいなかった。身の処し方の決定を、否応なく太宰に迫る厳しい内容だった。
お前の行為は、「覚書」の第六条に抵触する。よって、送金を停止する。ただし、内密に青森に赴き、警察署に出頭して左翼運動からの離脱を誓約すれば、大学卒業まで送金を継続する。さもないときは、今後、一切の縁を絶つ。
小館兄弟の母セイが上京する用事があり、文治はセイに書状を託し、かならず太宰の居所を突きとめて渡してほしいとたのんだ。
太宰夫妻と新富町のアパートに遊びに行ったことのある善四郎は、もしやと思って吉沢祐にたずね、八丁堀の太宰と連絡がついた。
太宰は四谷区北伊賀町の善四郎の借家に行き、セイと会い、書状を受け取った。
警察に自首して運動から離脱することは、獄中にいる工藤永蔵や潜伏している渡辺惣助らへの裏切りである。そもそも自分の積極的な意志でシンパになろうとしたのではない日本共産党に対してはともかく、工藤や渡辺ら、同志≠ニ呼ぶのは適当でないかもしれないが、ある期間、同じ目的で結ばれ苦労を共にした仲間への、背信行為である。
逡巡もし、懊悩もあったろうが、長兄からの書状を受け取った一日か二日の後には、早くも太宰は単身でこっそり、長兄の指示した青森市の豊田太左衛門の家に赴いている。
逸早く態度を決めたのは、津島家から絶縁されることへの恐れが、第一にあったのだろう。自分の生活力の弱さを、いやになるほど太宰は自覚していたにちがいないのだから。そしてまた、太宰が決してコミュニズムの信奉者ではなく、共産主義革命の到来を望んでもいなかったことも、理由として挙げることができるだろう。
豊田家では、文治と母のタネが太宰を待ち受けていた。二階の一室が会談の場所として提供された。
文治は太宰をはげしく叱責した。お前は取り交わした約束にそむいた。それも許しがたいが、治安維持法に違反し、国事犯として懲役刑にあたいするようなことをしているのだ――。
太宰はうつむいて正座したまま、一言の弁明もしなかった。
タネは畳の上に泣き伏し、親孝行のつもりで兄さんの言うとおりにしておくれと、太宰にとりすがらんばかりだったという。
翌日、文治に付き添われて青森警察署の特高課に出頭、二、三日留置されて取調べを受けたのち、左翼運動との絶縁を誓約した。
起訴され、書類送検となったが、一応の形式上の手続きにすぎなかったという。おそらく文治は、あらかじめ警察に話をつけておいたのだろう。
なお、生活費は、月額百二十円から九十円に減額された。
三 作家への出発
共産党との絶縁を誓約して東京に帰ってきた太宰は、七月三十一日、静岡県静浦で酒造業をいとなむ坂部啓次郎の家に初代と共に赴いた。
坂部啓次郎は北芳四郎の甥である。長兄文治には、共産党の活動家が帰京した太宰にまた接触するかもしれないという危惧があり、さし当り太宰を東京から遠ざけようと、北に相談した。その結果の静浦行きとなったのである。
そして太宰は、身心の疲労を癒しながら、「思い出」の執筆にとりかかる。政治の季節はおわり、作家太宰治がその新しい一歩を踏み出したのである。
東大入学後の太宰は、『座標』昭和五年五月号に「地主一代」の第三回(これにて中絶)を、また、高校時代に書いた原稿に手を入れ補筆した改稿「学生群」を同誌の七、八、九、十一月号に発表したがこれも未完のままにおわった。しかしこの二つの未完の小説は、理由はともあれプロレタリア文学を志向していた高校時代の作風の余燼であるが、以後太宰は、現実の非合法運動に関わりながらも、その種の傾向小説に筆を染めることはなかった。
かねてから敬慕していた井伏鱒二に太宰がはじめて会ったのは昭和五年の五月中旬で、そのとき短篇を二つ持参しているが、井伏の回想によると、その頃一時的に流行していたナンセンス文学ふうの作品だったという。その後太宰は時折井伏宛に原稿を郵送し、三、四篇たまった頃を見はからって井伏宅を訪問した。井伏は批評がましいことは一切言わず、西欧文学や東洋の古典を読むことを太宰にすすめたという。
前節で述べたごとく、五反田に居を移してからも、家にいるときは小説を書いており、書きあがると同居していた藤野敬止に読んで聞かせていた。
『晩年』所収の「列車」の初稿を今官一や小館善四郎に読んで聞かせたのは昭和七年の六月頃だったようだが、もしその時期に脱稿したものとすれば、非合法運動の渦のなかで身心をすりへらしながらも、文学への志は太宰から離れることはなかったのである。
左翼運動から絶縁した太宰が、その直後に、心を集中して「思い出」百枚の執筆にとりかかったのは、自然すぎるほどのことだったのである。
静浦から東京に帰って芝区白金三光町に移り住んでからも、太宰は「思い出」の執筆に専念した。三光町の家は明治の重臣大鳥圭介の旧邸で、その宏壮な邸宅の離れの八畳間と次の間の四畳半を太宰夫婦が使い、やがて同居するようになった「東京日日新聞」社会部記者飛島定城(三兄圭治の学友)の一家が母屋の広間と洋間を使用した。庭は木や草が茂り放題で、離れの濡れ縁の前の瓢箪池は水が淀んで青みどろが生じていたという。その草蓬々の広い廃園を眺めながら、太宰は「思い出」の筆をすすめた。
第二章まで書きあげた原稿を太宰は手紙を添えて井伏に送り、井伏は次のような読後感を太宰に書き送ってくれた。
「お手紙拝見。今度の原稿はたいへんよかったと思います。この前のものとくらべて格段の相異です。一本気に書かれてもいるし表現や手法にも骨法がそなわっているし、しかも客観的なる批判の目をもって書かれていると思います。まずもって、『思い出』一篇は、甲上の出来であると信じます。(後略)」
九月十五日付のこの書簡を、のちに太宰は井伏に無断で『晩年』の帯に印刷しているが、井伏から受けた最初の讃辞であっただろう。太宰のただならぬ喜びようが察しられるが、と共に、作家としての資質に対する自信に似たものを太宰が持ったことも、また確かであろう。なお、井伏の回想によると、「思い出」の第三章は翌八年二月に天沼三丁目に移ってから一部分を書き、残りはその年五月に天沼一丁目に移転してから書きあげたのだという。
小館保の回想によると、白金三光町時代の太宰は月に二篇か三篇の割で短篇の習作を書いており、一つ出来上るたびに友人たちを呼び、酒をふるまいながら朗読会をひらいていたという。そして、気に入らない作品は「倉庫」と称していた柳行李に入れ、気に入ったものはハトロンの大袋に入れて、その袋はいつも床の間に置いてあったという。「魚服記」の初稿を脱稿したのはその年の十一月頃で、もちろんこの草稿はハトロンの大袋に入れられたはずである。
「魚服記」は翌八年三月に創刊された同人雑誌『海豹』に発表された。
「昭和八年、私が二十五歳の時に、その『海豹』という同人雑誌の創刊号に発表した『魚服記』という十八枚の短篇小説は、私の作家生活の出発になったのであるが、それが意外の反響を呼んだので、それまで私の津軽訛りの泥臭い文章をていねいに直して下さっていた井伏さんは驚き、
『そんな、評判なんかになる筈は無いんだがね。いい気になっちゃいけないよ。何かの間違いかもわからない。』
と実に不安そうな顔をしておっしゃった。」(「十五年間」)
作家生活の出発になった「魚服記」が掲載された『海豹』は、大鹿卓、神戸雄一、古谷綱武、木山捷平、新庄嘉章、今官一、藤原定、塩月赳らが発刊を企画していた同人雑誌で、太宰をその同人に推薦したのは同郷の友人今官一である。古谷綱武の回想によると、同人の誰もが津島修治の名を知らず、とにかく作品をひとつ見せてもらったうえで決定しようということになり、今官一は「魚服記」の原稿を古谷にとどけた。そのときのことを、古谷は次のように回想している。
「一枚|梳《す》きの日本紙の半ペラの原稿用紙に、すこしかすれるような墨づかいで、きれいな筆の字であった。しかも筆をペンのように自由に使っているというのが、私の主観的な印象であった。(中略)私は一読して、すっかり感激してしまった。これは、すばらしい無名の新人があらわれてきたとおもった。(中略)『魚服記』は、仲間にも、そとにも、そうとうな反響をよんで、たちまち、『海豹』といえば、太宰治のいる雑誌というほど、太宰は仲間を抜いて光った。」
なお、「魚服記」は太宰治の筆名で『海豹』に掲載されたのだが、太宰治の筆名がはじめて使われたのは、それより半月前の二月十五日刊『海豹通信』第四便の「故郷の話V 田舎者」という短文からである。『海豹通信』は、半紙一枚か二枚の週刊のガリ版刷りで、同人間の親しみを緊密にするために作られたものである。その直後の二月十九日発行の『サンデー東奥』に、「列車」がやはり太宰治の筆名で発表されているが、小説にこの筆名が使われたのは、「列車」が最初ということになり、「魚服記」がそれに次ぐ。
ところで、「太宰治」という筆名には、どのような由来があったのだろうか。
戦後、「パンドラの匣」が「看護婦の日記」という題名で映画化され、主演女優の関千恵子が二十三年二月九日、PR雑誌に載せるインタビューのため三鷹の太宰の家を訪ねた。
そのとき、太宰治という筆名の由来についての関千恵子の質問に対し、太宰は次のように答えている。
「格別に由来だなんて、ないんですよ。小説を書くと家の者に叱られるので、雑誌に発表するとき本名の津島修治ではまずい。それで友達が考えてくれたんですが、万葉集をめくってみて、まず柿本人麻呂、柿本修治はどうかというんだけど、柿本修治はどうもねえ。そのうち、太宰|権帥《ごんのそち》大伴の何とかっていう人が、酒の歌を詠《うた》っていた。酒が好きだから、これがいいっていうわけで、太宰。修治は、どちらも、おさめるで、二つはいらない。それで、太宰治としたんです」
太宰権帥大伴の何とかの酒の歌とは、「万葉集」巻三の「太宰帥《だざいのそち》大伴|旅人《たびと》卿が酒をほめたたえた歌十三首」のことであろう。
太宰帥は太宰府の長官のことで、この官名からは、罪なくして九州の僻地に遠島流罪になり、配所の月を眺めていた菅原道真の名が、まず思い浮ぶ。
太宰治は、「配所の月」という言葉が好きであった。
船橋に住んでいた頃に佐藤春夫にあてた手紙のなかでも太宰は、「むかしの人、『罪なくして配所の月を見むことのゆかしく云々』と書きのこせし文よみ、ははあ、これが日本人のロマンチシズムか、と、首肯するもの二、三ならずございました」と書いている。
家郷追放の身の太宰は、「罪なくして配所の月」の侘しさを、常に感じていたのだろう。「太宰」という筆名のなかには、その思いが籠められていたのではあるまいか。
「魚服記」につづいて太宰は『海豹』の四、六、七月号に「思い出」を連載する。すでにその二月、太宰は白金三光町の家を出て飛島家と共に杉並区天沼三丁目に移り、さらに五月には飛島定城の通勤の便のため荻窪駅に近い天沼一丁目に移るが、「魚服記」「思い出」の二篇を古谷からすすめられて檀一雄が読んだのは、その七月頃だったと思われる。「此家の性格」で注目を浴びた新進作家檀一雄は、「作為された肉感が明滅するふうのやるせない抒情人生だ。文体に肉感がのめりこんでしまっている」(『小説太宰治』)と太宰の二作に強く心を惹かれ、古谷を介して太宰に接近し、以後の親密な交友がひらかれる。
『海豹』はその年の十一月号で廃刊になるが、翌九年四月、檀一雄と古谷綱武が中心になって季刊文芸誌『鷭《ばん》』が発刊され、太宰はその第一輯に「葉」を、第二輯(七月刊)に「猿面冠者」を発表した。「葉」は、高校時代に書いた「哀蚊《あわれが》」の全文、「彼等とそのいとしき母」の断片、「学生群」の一部分、白金三光町時代に書いた小品「ねこ」や短篇「花」その他の作品を、あるいは手を加えあるいは気に入った部分だけを抜きとりながら配列した断章集ふうの小説であるが、三光町にいたときに一篇としてまとめたのかと思われる。「猿面冠者」は昭和九年の一月に脱稿されたのだが、「十五年間」のなかで太宰は、『晩年』の諸作品を書いたのはおもに昭和七、八の両年で、ほとんど二十四歳と二十五歳の間の作品だと言っている。
「死ぬるばかりの猛省と自嘲と恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一聯の作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命を懸けていた。私は書き上げた作品を、大きい紙袋に、三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数も殖えて来た。私は、その紙袋に毛筆で、『晩年』と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。」(「東京八景」)
「枚数を制限しないで書きたいだけ書いた太宰の作品を、毎号つづけてもらうのが、檀と私とのたのしみであった。」と古谷綱武は回想しているが、しかし『鷭』は第二輯を出しただけで廃刊になってしまった。
『海豹』『鷭』においては太宰はいわば客分だったが、この九年九月頃から発刊の準備に入った『青い花』では、太宰は最も熱心な首唱者であった。たとえば、九月十三日付の久保隆一郎宛書簡をみると、「この秋から、歴史的な文学運動をしたいと思っているのですが、貴兄にもぜひ参加していただきたく、大至急御帰京下さい。まだ秘密にしているのです。雑誌の名は『青い花』。ぜひとも文学史にのこる運動をします。のるかそるかやってみるつもりであります。地平(中村地平)、今官(今官一)ともに大熱狂です。くわしくは御面談。下手なことはしないつもり。」とその意気込みがうかがわれる。また同人のひとりであった檀一雄も、「太宰は『青い花』には大変な熱の入れ方で、連日私の処に泊り込み、何処で見つけてきたのか石鹸の包み紙を大切に持ってきたりして、『奥附は、これがいいんだ。随分洒落たもんだろう』などとすこぶる得意顔だった。」(『小説太宰治』)と当時のことを語っている。
「東京八景」には、「そのころ、或る学友から、同人雑誌を出さぬかという相談を受けた。私は、半ばは、いい加減であった。『青い花』という名前だったら、やってもいいと答えた。」と書かれているが、中村地平から話を聞き同人に参加したく太宰を訪ねた山岸外史も、この「東京八景」の表現は事実とはちがうと回想している。
『青い花』同人の初顔合せは十月六日に銀座の山の小舎で開かれたが、その時点での同人は太宰治、今官一、中村地平、檀一雄、久保隆一郎、森敦、津村信夫、北村謙次郎、伊馬鵜平、小山祐士、山岸外史、岩田九一の十二人で、同人費は毎月五円(最初だけ六円)、創刊号原稿〆切十一月二十日、発行十二月十五日、その他の細目が決められ、太宰、今、久保、檀の四人が創刊号の編集に当ることになり、編輯所は今官一宅と決定した。十月二十日には四人の創刊号編集委員が檀一雄宅で相談会をひらき、十一月十日には山の小舎で同人会が持たれたが、会合通知を出して出席を要請するなど、太宰は事務の面でもこまめに働いている。檀一雄の言うように、大変な熱の入れ方だったのである。
『青い花』の創刊号は十二月中旬に発行されたが、中原中也、太田克巳、木山捷平、斧稜(本名小野正文)、安原喜弘、雪山俊之、宮川義逸が新たに同人に加わっている。太宰はこの創刊号に「ロマネスク」を発表した。「ロマネスク」はその夏、三島で小さな酒屋を始めていた坂部啓次郎の弟の坂部武郎の家の二階の一室を借りて書いた作品だが、「思い出」に匹敵する力作で、詩情が底光りを発しているという井伏鱒二の批評を待つまでもなく、太宰にとって非常な自信作だったにちがいない。井伏は、「もしかしたら太宰君は、特に『ロマネスク』を発表したいために、『青い花』の発行を企てたのかもわからない。雑誌を出す前の意気込みかたに、常でないものが見えていた。三島から力作一篇を持ち帰って、何か旗あげでもする前のような意気込みであった。」と書いている。
しかし、太宰の意気込みにもかかわらず、『青い花』は、創刊号を出しただけで休刊になり、ついにそのままにおわった。山岸外史の回想によると、「(同人の)初顔合せから喧々囂々で、たいへんな騒ぎになった。『そんなことで文学ができるか』『贋ものとはつきあわん』『おれは即時脱会を声明する』『君のような男は不快そのものだ』『青い花解散せよ』というような混乱になった。太宰も中村地平も司会にはほとほと手を焼いたのである。」(『人間太宰治』)という有様で、個性の強い新進気鋭の作家たちの急激な寄り合い世帯だったため内部分裂を起したのと、第二号の編集委員だった山岸が熱意を失ったのが、休刊になった理由だったという。
しかし太宰は、みずからが命名者であった『青い花』の続刊を熱望していた。
「どんなことがあっても、『青い花』をつづけて行く覚悟であります。二号の原稿〆切は、十二月三十一日であります。ケッサクを書いて送って下さい。(中略)兎に角、日本一の雑誌であることを疑いません。」(昭和九年十二月十八日付 木山捷平宛書簡)
「お伺いしてもよいのだが、このごろ、ひとに逢うのが、こわく(?)(決心がつかず)なかなか行けない。
そろそろ二号の編輯たのみます。原稿と同人全部に、同人費のサイソク、『若いひと』にさせたら、どうか。」(昭和九年十二月二十四日付 山岸外史宛書簡)
翌十年の二月に『青い花』は廃刊と決まるのだが、太宰としてはさぞ残念だったことだろう。
なぜ太宰は『青い花』にこれほどの情熱を燃やしたのだろうか。これはあくまで臆測だが、普通なら三か年で卒業するはずの東京帝大の五学年めに太宰は入っており、しかも卒業の見込みはまったくなかった。文治に泣訴しながら送金をつづけてもらっていたのだが、それももう限界にきたと太宰は思ったにちがいない。大学卒業、就職、の道が閉ざされている以上、あとは文筆で身を立てるほかに道はない。『青い花』を足掛りにして一日も早く文壇に出たいという焦燥が、すくなくともその証《あかし》を立てたいという願いが、太宰のなかにあったのではあるまいか。それが叶わなければ、死を選ぶよりほかはない。「私は謂わば青春の最後の情熱を、そこで燃やした。死ぬる前夜の乱舞である。」と「東京八景」には書かれているが、あながち虚飾の表現でもないと思われる。
なお、『青い花』創刊のすこし前、昭和九年の晩秋には、『晩年』所収の十五篇のうち、「めくら草紙」をのぞく十四篇が完成していた。「列車」(『サンデー東奥』)「魚服記」「思い出」(『海豹』)「葉」「猿面冠者」(『鷭』)のほかに、尾崎一雄、中谷孝雄、外村繁らが創刊した文芸同人誌『世紀』に「彼は昔の彼ならず」がすでに発表されていたが、「地球図」「猿ヶ島」「雀こ」「道化の華」「逆行」「玩具」「陰火」そして「ロマネスク」を手許に持っていたのである。
後のことになるが、『青い花』同人のうち太宰、山岸、檀、木山など八名は、亀井勝一郎、保田與重郎らによって創刊された『日本浪曼派』に、十年五月一日発行の第三号から合流した。
四 虚偽の地獄
「私は二十五歳になっていた。昭和八年である。私は、このとしの三月に大学を卒業しなければならなかった。けれども私は、卒業どころか、てんで試験にさえ出ていない。故郷の兄たちは、それを知らない。ばかな事ばかり、やらかしたがそのお詫びに、学校だけは卒業して見せてくれるだろう。それくらいの誠実は持っている奴だと、ひそかに期待していた様子であった。私は見事に裏切った。卒業する気は無いのである。信頼している者を欺くことは、狂せんばかりの地獄である。それからの二年間、私は、その地獄の中に住んでいた。来年は、必ず卒業します、どうか、もう一年、おゆるし下さい、と長兄に泣訴しては裏切る。そのとしも、そうであった。その翌るとしも、そうであった。」(「東京八景」)
昭和六年一月二十七日に長兄文治とのあいだにとりかわされた「覚」にもあるとおり、太宰が昭和八年三月に東京帝大を卒業するのは自明のこととされていた。支給される生活費も、保管される生活予備費も、毎年の授業料も、その当然の見込みの上にとり決められていたのである。
故郷の兄たちを欺いていただけでなく、太宰は初代にも、また同居していた飛島定城にも、来年は卒業できるという一時のがれの嘘をついていた。
「一週間に一度くらいは、ちゃんと制服を着て家を出た。学校の図書館で、いい加減にあれこれ本を借り出して読み散らし、やがて居眠りしたり、また作品の下書をつくったりして、夕方には図書館を出て、天沼へ帰った。Hも、またその知人も、私を少しも疑わなかった。」(「東京八景」)
制服制帽で家を出て、しかし行った先が学校の図書館とはかぎらない。そのころ東大経済学部の学生だった檀一雄は書いている。
「太宰は大抵制服、制帽でやってきた。家が出やすい為でもあり、私の処に入りやすい為でもある。私も亦、制服制帽で太宰の家に迎えに出た。」(『小説太宰治』)
太宰は制服の上に短い褐色のオーバーを着込み、編上靴をはいていたそうだが、制服制帽姿のふたりの東大生は、玉の井遊廓に自動車を駆るのである。
「あくる年、三月、そろそろまた卒業の季節である。私は、某新聞社の入社試験を受けたりしていた。同居の知人にも、またHにも、私は近づく卒業にいそいそしているように見せ掛けたかった。新聞記者になって、一生平凡に暮すのだ、と言って一家を明るく笑わせていた。どうせ露見する事なのに、一日でも一刻でも永く平和を持続させたくて、人を驚愕させるのが何としても恐ろしくて、私は懸命に其の場かぎりの嘘をつくのである。私は、いつでも、そうであった。そうして、せっぱつまって、死ぬ事を考える。結局は露見して、人を幾層倍も強く驚愕させ、激怒させるばかりであるのに、どうしても、その興覚めの現実を言い出し得ず、もう一刻、もう一刻と自ら虚偽の地獄を深めている。もちろん新聞社などへ、はいるつもりも無かったし、また試験にパスする筈も無かった。完璧の瞞着の陣地も、今は破れかけた。死ぬ時が来た、と思った。私は、三月中旬、ひとりで鎌倉へ行った。昭和十年である。私は鎌倉の山で縊死を企てた。」(「東京八景」)
某新聞社とは都新聞社(今の東京新聞)のことで、友人の中村地平がその学芸部に勤めており、また学芸部長は井伏鱒二と知り合いの上泉秀信で、つまりコネがあったのである。「もちろん新聞社などへ、はいるつもりも無かったし、また試験にパスする筈も無かった。」と書かれているが、檀一雄の追想によると、なんとかはいりたいという可憐なまでの悲願を持ち、また、ひょっとするとという妄想に大きな望みをかけていたようである。卒業を前に檀が新調した六十円の青色の背広を借りて、
「全く甲斐々々しく、太宰は大|喧噪《はしやぎ》で、
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青い背広で心も軽く
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などと、流行歌を妹の前で口|遊《ずさ》んで見せたりしながら、私の家から、その青い背広を着込んでいった。口頭試問の時であったろう。
しかし、見事に落第した。
太宰の悄気かたはひどかった。」(『小説太宰治』)
そして、鎌倉の鶴岡八幡宮の裏山で縊死を企てるということになるのだが、「どうせ露見する事なのに、」にはじまる「東京八景」の文章から、「人間失格」の次の一節を連想する読者も多いと思われる。
「どうせ、ばれるにきまっているのに、そのとおりに言うのが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、自分の哀しい性癖の一つで、それは世間の人が『嘘つき』と呼んで卑しめている性格に似ていながら、しかし、自分は自分に利益をもたらそうとしてその飾りつけを行った事はほとんど無く、ただ雰囲気の興覚めた一変が、窒息するくらいにおそろしくて、後で自分に不利益になるという事がわかっていても、れいの自分の『必死の奉仕』、それはたといゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであろうと、その奉仕の気持から、つい一言の飾りつけをしてしまうという場合が多かったような気もするのですが、しかし、この習性もまた、世間の所謂『正直者』たちから、大いに乗ぜられるところとなりました。」
「人間失格」の大庭葉蔵はその習性のため世間の所謂「正直者」たちから大いに乗ぜられるところとなったのだが、現実の太宰治はその哀しい性癖によって自分をがんじがらめにし、せっぱつまって、死ぬ事を考える。昭和十年三月の鎌倉の山での縊死未遂のときもそうであった、そして、二十三年六月の玉川上水への投身のときも、自らが深めた虚偽の地獄のなかで太宰はあがいていたのである。
しかし、この鎌倉の山での縊死の企てについていえば、生活への不安が太宰を死に駆ったこともまた確かであろう。おそらく生家からの送金は停止されるだろう、そのあと、どうやって生きていったらいいのか。『青い花』に発表した「ロマネスク」は『早稲田文学』誌上で尾崎一雄に絶讃され、太宰は文壇的にも注目を浴びはじめた。十年二月には、「逆行」のうちの「蝶蝶」「決闘」「くろんぼ」の三篇がはじめて商業雑誌『文藝』に発表された。作家への道は、太宰治の前にひらかれはじめたのである。もちろんその道は険しく、文筆によって身を立てるまでにはなお何年かの忍耐を必要とするであろう。しかし、かりに生家からの送金をとめられたとしても、たとえば初代が外に出て働き、太宰自身もなんらかの働き口を見つけて、なんとか自活していくことはできなかったのだろうか。
しかし太宰には、その気持も、またその意志も、まったく無かったのである。翌十一年の六月号の『文藝』に発表した「悶悶日記」のなかで太宰は次のように書いている。
「百五十万の遺産があったという。いまは、いくらあるか、かいもく、知れず。八年前、除籍された。実兄の情に依り、きょうまで生きて来た。これから、どうする? 自分で生活費を稼ごうなど、ゆめにも思うたことなし。このままなら、死ぬるよりほかに路がない。」
その遺産の分配に自分もあずかれるはずではないかという忿懣が、この文章の行間にひそんでいるように思われるが、額に汗して生活費を稼ぐなど、太宰はゆめにも考えたことがなかったのであろう。
三月十五日の朝、生家からの仕送り九十円の小切手を持ち、「自殺する」という意味の書置のようなものを残して太宰は家を出た。そのあとのことは、ほぼ「狂言の神」に書かれてある通りであったのだろう。銀座、歌舞伎座、浅草の「ひさご」、横浜本牧。違っているのは、その間、小館善四郎を伴っていたことで、善四郎とは十六日の朝、横浜駅で別れている。出札口を出た小館善四郎を構内から呼びとめて、「ひょっとしたら、僕は死ぬかもしれぬ」と言って、人混みのなかに姿を消したという。鎌倉で作家の深田久弥をたずねたのは、「かれの、はっきりすぐれたる或る一篇の小説に依り、私はかれと話し合いたく願っていた」のと、深田久弥夫人の北畠八穂が青森市の出身で四姉きょうと親しかったためもあったのだろう。なお、「深田久弥は、日本に於いては、全くはじめての、『精神の女性』を創った一等の作家である」と太宰を感心させた或る一篇の小説とは、「あすなろう」のことである。
失踪を知った太宰の家には、井伏鱒二、檀一雄、中村地平、伊馬鵜平などが駈けつけ、手分けして捜索に出た。しかし何処に行ったのか見当もつかず、井伏は盲滅法に方角をきめて三浦三崎から油壺をまわり、檀一雄は熱海から三島を捜し歩いた。杉並署には捜索願いが出され、長兄の文治も打電によって郷里から駈けつけてきた。行方が知れず、みんなが沈痛な顔をしているところへ、
「夜十時ごろ突然表手の格子戸が開いた。今晩はとも何とも言わず黒い影がさっと現われたかと思うと、なみ居る一同には目もくれずさっと二階に駈け上った男がある。見ると、
『あっ太宰だ』
瞬間、一同は何をなすべきかを知らなかった。誰やらの発議でともかくも僕だけがまず太宰に会うことになった。二階に上って見ると、これはまた意外太宰はまるで何もなかったように平然としていた。僕は問うべき言葉に迷った。しばらく経って書置きの一件から大騒ぎをした顛末を物語ると、こんどは彼ははげしく泣き出した。」(飛島定城「作家以前の太宰治」)
その頸には、赤く太い蚯蚓《みみず》ばれの跡が痛々しく残っていたという。
「東京八景」にはそのときのことが次のように書かれているが、多少の潤色があるようである。
「ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋をそっと撫でた。他の人も皆、よかった、よかったと言って、私を、いたわってくれた。人生の優しさに私は呆然とした。長兄も、田舎から駈けつけて来ていた。私は長兄に厳しく罵倒されたけれども、その兄が懐かしくて、慕わしくて、ならなかった。私は、生れてはじめてと言っていいくらいの不思議な感情ばかりを味わった。」
そのあと、井伏、檀、中村の三人は、神田の定宿関根屋に文治を訪ね、もう一か年の送金を依頼した。檀一雄と中村地平は口を極めて太宰治の天稟の文才を称揚したという。
文治は承知し、向う一年間、月額五十円の仕送りを約束した。
左翼運動離脱のときに九十円に減らされた仕送りが、今また五十円に減額されたのである。
なお、余談めくが、この時の首筋の傷痕は、戦後にもなお、かすかにその痕を残していた。二十三年六月に太宰が入水し、遺体が発見されたとき、私は検視の立合いをしたのだが、目を凝らせばやっと分るほどのかすかさで、残っていた。検視医はそれを問題にしなかったが、その場にいた警察関係の人がそれを見つけ、一週間前につけられたなまなましい傷痕でないのは瞭然としているのに、絞殺された痕だなどと、とんでもないデマを、後日とばしたのかもしれない。太宰治他殺説、つまり太宰は山崎富栄によって絞殺されたという乱暴きわまる風評は、そこから出たのかもしれない。
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第三章 人間失格
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一 パビナール中毒
鎌倉の山での縊死に失敗してまもなくの四月四日、太宰は急性盲腸炎にかかり、阿佐ヶ谷の篠原病院に入院して手術を受けたが、腹膜炎を併発して重態におちいった。その入院中に、患部の苦痛を太宰がしきりに訴え、それを鎮静するためにパビナール(モルヒネの一種。鎮痛剤)が打たれたのだが、これがきっかけになって、その中毒のため、「地獄の大動乱」を味わうことになるのである。
四月十一日頃、血痰が出た。以前から悪かったにちがいない肺結核が、徴候となって現われたのである。その治療のためもあって、五月一日、長兄文治の友人の沢田医師が病院長をしている世田区谷経堂町の経堂病院という内科の病院に移るが、
「内科病院に移ってからも、私は院長に執拗にたのんだ。院長は三度に一度くらいは渋々応じた。もはや、肉体の為では無くて、自分の慚愧、焦躁を消す為に、医者に求めるようになっていたのである。私には侘びしさを怺える力が無かった。」(「東京八景」)
七月一日、転地保養のため、千葉県船橋町の町はずれの、新築早々の家に転居した。八畳、六畳、四畳半、それに台所のついたかなり大きな家で、家の周辺には松林や野原が多く、海辺にも近く、保養には絶好の環境だったようだが、しかしこの船橋で、「地獄の大動乱がはじまった」のである。
「船橋に移ってからは町の医院に行き、自分の不眠と中毒症状を訴えて、その薬品を強要した。のちには、その気の弱い町医者に無理矢理、証明書を書かせて、町の薬屋から直接に薬品を購入した。気が附くと、私は陰惨な中毒患者になっていた。」(「東京八景」)
ここにある気の弱い町医者とは、長《ちよう》直登という医師である。長医師が気の弱い人だったかどうかは分らないが、太宰の執拗な懇願に負けて処方箋を渡した。町の薬屋とは、長医院の近くにあった川奈部薬局である。
パビナールを打っていることを、太宰は友人たちに巧みに隠していた。そのころ月に少くとも二、三度は船橋に太宰を訪ねていた山岸外史もまったく気が付かなかったようで、ただ、雑談をしていると太宰が三十分か一時間おきに便所に行くのを妙だと思ったという。便所にかくれてパビナールを打っていたわけで、檀一雄も『小説太宰治』のなかに、「二三時間に一度ずつは、厠にたって、その行きと帰りの、太宰の心身の状況が全く違ってみえた。」と書いている。
なお、船橋に移って三か月後の九月三十日、授業料未納の廉《かど》により、太宰治は東京帝国大学を除籍された。卒業できないことがバレてしまった以上、授業料を納めつづける理由は全くなくなったのである。
バビナール中毒がいつごろ友人知己のあいだに知れ渡るようになったのか、その時期ははっきりしないが、翌十一年の二月十日、太宰は芝区赤羽町の済生会芝病院にパビナール中毒治療のため入院した。前年の八月に太宰は山岸外史に伴われて佐藤春夫を訪問し以後師事するようになるのだが、山岸や井伏鱒二から太宰のパビナール中毒について相談を受けた佐藤が、弟の勤めている済生会芝医院への入院を強くすすめたのである。十日間の約束で仕方なく太宰は入院したのだが、本気で治療する気持はなかったようで、たとえば十四日には佐藤春夫宛に「ぼくはやっぱり退院いたします。建設の道は虚偽《きよぎ》の道です。いまこの世の青年にとっては、デスペラの路こそ正統派的のものと信じます。お情は忘れません。」といった奇妙な文面の葉書を出し、また、見舞いにきた檀一雄、浅見淵、緑川貢を誘って病院を抜け出し、浅草で大酒を呑み、車を走らせて隅田川を渡り、玉の井遊廓に行っている。
太宰はパビナール中毒をそれほどこわがっていなかったのかもしれない。山岸外史の『人間太宰治』によると、頭脳が明晰になるから君もパビナールを打ってみたらどうかと山岸にすすめたそうであるが、事の真偽はともかくとして、むしろ太宰を脅えさせていたのは胸部疾患だったと思われる。父の源右衛門もそうだったのだが、弟の礼治が昭和四年に十八歳の若さで、翌五年には三兄圭治が二十八歳で、いずれも結核性の病気で死んでいるし、また太宰自身も胸部に疾患を持っていた。船橋への転地保養も、胸の病気を直すためだったのである。どの程度進行していたのかは分らないが、強い不安を持っていたことはたしかで、十一年三月二日付の浅見淵宛の書簡には、「このごろ、また、血たんが出て、不安です。どうか、早く本を出して下さい。」と懇請している。本とは、処女創作集『晩年』のことで、刊行の準備が進められていたのだが、その経緯については次の節で書く。
それほどこわがってはいなかったかもしれないが、注射をする量がふえるにつれて、薬を入手する金に太宰は窮しはじめた。
「たちまち、金につまった。私は、その頃、毎月九十円の生活費を、長兄から貰っていた。それ以上の臨時の入費に就いては、長兄も流石に拒否した。当然の事であった。」(「東京八景」)(九十円となっているが、実際には五十円に減額されていた。)
ついに太宰は、思いつくままの先輩、知友に借銭を嘆願するようになった。
「唐突で、冷汗したたる思いでございますが、二十円、今月中にお貸し下さいまし。
多くは語りません。生きて行くために、是非とも必要なので、ございます。
五月中には、必ず必ず、お返し申します。五月には、かなり、お金がはいるのです。
私を信じて下さい。
拒絶しないで下さい。
一日はやければ、はやいほど、助かります。心からおねがい申します。」(昭和十一年四月十七日付 淀野隆三宛書簡)
「私の、いのちのために、おねがいしたので、ございます。
誓います。生涯に、いちどのおねがいです。
幾夜懊悩のあげくの果、おねがいしたのです。
来月は、新潮と文藝春秋に書きます。
苦しさも、今月だけと存じます。他の友人も、くるしく、貴兄もらくではないことを存じて居りますが、何卒、一命たすけて下さい。
多くを申しあげません。
一日も早く、たのみます。来月必ず、お返しできます。
切迫した事情があるので、ございます。
拒否しないで、お助け下さい。
一日も早く、伏して懇願申します。」(同月二十三日付 淀野隆三宛書簡)
誇りも見栄も捨てた、髪ふり乱しての必死の形相といった感じである。
「私は厳しい保守的な家に育った。借銭は、最悪の罪であった。借銭から、のがれようとして、更に大きい借銭を作った。あの薬品の中毒をも、借銭の慙愧を消すために、もっともっと、と自ら強くした。薬屋への支払いは、増大する一方である。私は白昼の銀座をめそめそ泣きながら歩いた事もある。金が欲しかった。私は二十人ちかくの人から、まるで奪い取るように金を借りてしまった。死ねなかった。その借銭を、きれいに返してしまってから、死にたく思っていた。」(「東京八景」)
「狂言の神」事件≠ニいうのがある。太宰の生涯における黒点の一つだが、これも借銭を返したさのあまりに起したことである。
鎌倉での縊死未遂を主題にした「狂言の神」四十二枚を太宰が脱稿したのは十一年五月十日で、早速文藝春秋社の鷲尾洋三に送ったが、採否はそう早くは決定できないとの返事を得た。落胆した太宰は佐藤春夫宛に手紙を書いた。
「どんなに苦しくとも、この小説ひとつにたよって、生きていました。採否のほども、絶望の様子で、私は死のうとさえ思いました。(中略)
佐藤さん、このさい、どうすればよいか。知らせて下さい。別の雑誌社へ持って行くべきでしょうか。お金のほうも、この小説一筋にたよって、さまざまと無理して来ました。たしかに、私の小説買うて呉れるという正式の話ではなかったけれども、五、六人の嘘やお世辞の言わぬひとから聞いたのです。生きて居れないほどに恥かしく存じます。」
前出の淀野隆三宛書簡に、五月にはかなりお金がはいるとあるのは、「狂言の神」の稿料を当てにしていたのであろう。その後、二、三度、文藝春秋社へ採否の返事を聞きに行ったが、結局採用してもらえず、返された原稿を懐中に太宰は佐藤を訪ねた。一読して推賞するに足る出来栄えと思った佐藤は、美術雑誌『東陽』の編集主宰者富沢有為男にその原稿をまわし、富沢も作品の良さを認め、『東陽』十月号への掲載が決まった。佐藤からその知らせを受けた太宰は歓喜し、「待テバ海路ノ日和。千羽鶴。簑着タ亀」と大仰な礼状を認めた。六月末日のことである。
その一方で太宰は『新潮』九月号に三十枚の小説を依頼され、「白猿狂乱」と題する作品にとりかかったのだが、難渋して筆がすすまず、七月二十七日の午後八時に至ってもやっと八枚しか出来ず、七月末日の〆切には到底まにあわぬと悟り、さてここで太宰は、窮余の一策、まことに奇妙なことをしたのである。二十七日の夜、佐藤邸に行き、「今イチド、ダケ、サイゴノ非礼、オユルシ下サイ、先生怒ッタラ 私、死ニマス『白猿狂乱』三十枚、先生ノオ顔ヨゴスコトナキ作品ト信ジマス。必ズ八月十日マデニオ送リ申シマス。」云々の裏表二枚に書いた葉書をその郵便受けに投入した。「狂言の神」の原稿を返してもらってそれを『新潮』にまわし、かわりに『東陽』には八月十日までに「白猿狂乱」を送るつもりだが、それを諒解して欲しいということである。
翌二十八日、太宰は巣林書房(『東陽』発行所)に行き、名刺と交換で「狂言の神」の原稿を持ち去り、翌二十九日、『新潮』編集部の楢崎勤のもとにそれを持参した。怒った佐藤は八月一日、「ハナシアルスグコイ」との電報で太宰を呼びつけ、違約不信をなじり、ただちに『新潮』から原稿をとりもどして富沢に陳謝せよと命じた。太宰は富沢からもはげしく難詰された。『新潮』から原稿を返してもらった太宰は、四日の午前十時に佐藤邸にそれを持参し、同席した富沢にあらためて『東陽』への掲載をたのんだ。
なぜ太宰がこんな不徳義なことをしたかといえば、七月の末までに五十円の金がどうしても欲しかったからである。八月三日付で太宰は『新潮』楢崎勤と『東陽』編輯同人に同文の「誓言手記」八枚を書いて詫びているが、そのなかに、「盗人ナラヌ三分ノ理、七月末日マデ、家郷ノ兄ヨメアテ、五十円、返送スレバ、二百円マタ、アラタメテ、拝借可能ノ黙契有之、ワレ、日頃ノ安逸、五、六人ノ友人、先輩、師ヨリ、少カラザル、借銭アリ」とある。『東陽』からは原稿料の前借ができにくく、五十円を七月末日までに兄嫁に送るためには『新潮』からの稿料にたよるほかなく、その「白猿狂乱」が〆切日に間に合わなくなったため、白猿ならぬ太宰狂乱≠演じてしまったのである。
「カクノ如キ振舞イ、二、三ニ及ベバ、ワレ、九天直下、一夜ニシテ、ルンペン、見事ニ社会的破産者、タラム、コト、火を指スヨリモ的確、今カラデモオソクナイ、ワガ非、誰ヨリモ深ク悔イ、誰ヨリモ酷烈ニ鞭ウチ、先夜ノ罪、一生カカッテモ、ツグナイ申シマス。」
「誓言手記」のなかの文章である。
楢崎勤宛の「誓言手記」に太宰は、「『白猿ノ狂乱』三十枚。八月中旬マデニハオ送リデキマスユエ、御一読ノ上、正当ノ御配慮オ願イ申シアゲマス。コンドコソナンニモ我儘申シマセヌ。オ金モイツデモ又ヨロシウゴザイマス。」と反省の色を見せて附記しているのだが、八月中旬に『新潮』に送られた三十枚の小説は題名が「創生記」となっていた。八枚しか書けていなかった「白猿狂乱」がどのように「創生記」に変貌していったのかは明らかにできないが、その「創生記」に太宰は「山上通信」四枚を付け加えた。
八月七日から太宰は、パビナール中毒と肺病を療そうとして群馬県谷川温泉に行き、ひとりで滞在していたのだが、同地で、第三回芥川賞の有力候補になっていながら、落選したことを知り、強い衝撃を受けた。「山上通信」はその衝撃から書かれたもので、佐藤春夫から「ハナシアルスグコイ」と電報で呼び出され、『晩年』が芥川賞の候補になっているが欲しいかと聞かれ、不自然の恰好でなかったら貰って下さいと頼んだことなどを、「芥川賞|楽屋噺《がくやばなし》」として書いたのである。芥川賞を貰えなかった怨みつらみが前後の思慮分別を失わせてしまったのであろう。
太宰は芥川賞の受賞を切望していた。その切望の度合いは、第一回のときより第二回、第二回のときより第三回と、いよいよ強くなっていた。
第一回芥川賞は、石川達三「蒼氓《そうぼう》」、外村繁「草筏」、高見順「故旧忘れ得べき」、衣巻省三「けしかけられた男」、それに太宰治の「逆行」の五作品が候補作と決定、昭和十年八月十日に発表された。それを知った太宰は興奮の色を示したようだが、結局、石川達三「蒼氓」が受賞作となった。一日も早く文壇に出たいと願っていた太宰はもちろん落胆しただろうが、八月十三日付小館善四郎宛書簡では「芥川賞はずれたのは残念であった。『全然無名』という方針らしい。ぼくは有名だから芥川賞などこれからも全然ダメ。へんな二流三流の薄汚い候補者と並べられたのだけが、たまらなく不愉快だ。」などと強がりを言っている。
その時期、石川達三と較べて太宰が特に有名だったわけではなく、外村、高見、衣巻らの先輩作家を二流三流と貶《おとし》めるほどの業績を太宰はまだ挙げていなかった。口惜しまぎれの強がりというほかはないのだが、まだこの時期には、それでもいくらかの気持の余裕があった。
それが第二回のときには、銓衡委員の一人である佐藤春夫宛に、十一年二月五日付で次のような手紙を書いている。
「一言のいつわりもすこしの誇張も申しあげません。
物質の苦しみがかさなり、かさなり、死ぬことばかりを考えて居ります。
佐藤さん一人がたのみでございます。私は恩を知って居ります。私はすぐれたる作品を書きました。これから、もっともっと、すぐれたる小説を書くことができます。私はもう十年くらい生きていたくてなりません。私は、よい人間です。しっかりして居りますが、いままで運がわるくて、死ぬ一歩手前まで来てしまいました。芥川賞をもらえば、私は人の情に泣くでしょう。そうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。元気が出ます。お笑いにならずに、私を助けて下さい。佐藤さんは私を助けることができます。」
佐藤から折り返しすぐ来るようにとの連絡があり、期待して駈け付けた太宰を待っていたのは、パビナール中毒治療のためただちに済生会芝病院に入院せよとの強い忠告だった。落胆のほどが偲ばれるが、もうこの頃にはパビナール入手のために「物質の苦しみがかさなり、かさなり」していたのだろう。
第二回芥川賞は受賞者なしでおわった。そして、第三回芥川賞の季節がめぐってきた。なんとしても太宰は受賞したかった。
芥川賞を貰いたいという切望のなかには、家郷の人たち、特に長兄文治に身の証《あか》しを立てたいという願いもあったと思われる。それは、たとえば、八月四日付の五所川原の中畑慶吉宛書簡には「『晩年』アクタガワショウ(五〇〇)八分ドオリ確実。ヒミツ故ソノ日マデ言ワヌヨウ。」とあり、また七日付の文治宛書簡には「芥川賞ほとんど確定の模様にて、おそくとも九月上旬に公表のことと存じます。」と誇らしげに書いていることからも察知できる。
しかし、より切実に、太宰は副賞の五百円が欲しかったのだろう。その五百円によって、借銭をきれいに返したい、その思いに、胸を焦がしていたのだろう。
この時期の太宰の借銭の額を推定する一つの資料がある。前出の二通の書簡の宛先である淀野隆三が太宰の死後、年下の友人から珍しい本を見せてもらった。『晩年』の初版本なのだが、その本の見返しに「借銭一覧表」なるものが貼ってあり、十八名の人名と金額が書いてあった。津村信夫二一円、鳴海和夫三〇円、菊谷栄五〇円、小山祐士五〇円、林房雄五〇円、菅原敏夫二〇円、菅原英夫一〇円、上田重彦二〇円、田村文雄三〇円、佐藤春夫三〇円、大鹿卓一〇円、砂子屋書房三五円、中村地平一〇円、吉沢祐二〇円、淀野隆三二〇円、河上徹太郎二〇円、伊馬鵜平五円、芳賀檀二〇円、合計四五一円。そして見返しの左下隅には太宰の自筆で自家用と書かれてあったが、その三字のうちの家[#「家」に傍点]の一字は、消した字の左側にあとから書き直されたもので、墨で消された字を透かしてみると、そこに殺[#「殺」に傍点]という字が読みとれた。つまり、自殺用である。そして裏の見返しには、上越線水上駅のスタンプが押してあった。水上と自殺――となると、昭和十二年三月の水上における初代との心中未遂が頭にうかぶし、淀野もそのときに携行したものと推定している。しかし心中をしに行くのに『晩年』を携行したとは妙なはなしで、本の見返しに自殺用と書いた真意は忖度しかねるが、『晩年』刊行の一か月半後の十一年八月に谷川温泉に携行し、水上駅でスタンプを押したと考えるほうが自然ではあるまいか。十八名、合計四百五十一円。副賞の五百円を貰えれば、この借銭をきれいに返すことができる――。そして芥川賞はほぼ間違いなく自分が受賞できるだろう――。期待に胸をふくらませながら、太宰は谷川温泉に行ったにちがいないのである。
なぜ太宰はそう思い込んでしまったのだろうか。生来の妄想癖がパビナール中毒によってさらに亢進した、そのための一途の思い込みだったのだろうか。そこのところは、よくは判らないのだが、芥川賞に関するなんらかの情報を得たとすれば、佐藤春夫を通して以外には考えられない。
「山上通信」では、「ハナシアルスグコイ」の電報で呼び出され、そのとき有力候補になっていることを佐藤から聞いたとあるが、前述したように、この電報は太宰を叱りつけるために打たれたものである。叱りつけられたあとで、あるいはその直後の四日、『新潮』から返してもらった「狂言の神」の原稿を佐藤邸に持参したとき、『晩年』が有力候補になっていることを、佐藤から聞かされでもしたのだろうか。だから軽挙妄動せず、作家として身を正しく持さねばならぬと、佐藤は訓戒をたれでもしたのだろうか。
「芥川賞」(『改造』十一年十一月号)という文章で、佐藤春夫はそのような事実を否定している。そして、「山上通信」は、身勝手で出鱈目な、妄想を事実の如く報告したものだとしている。しかし、いかに妄想癖の強い太宰でも、はっきりそうとは聞かされなかったにせよ、なんらかの暗示でも与えられないかぎり、受賞は「八分ドオリ確実」とか「確定の模様」とまでは家郷に書き送らなかったのではあるまいか。それでもし受賞できなかったら、不信感をますます深めることになるのだから。
ともあれ、太宰の夢は無惨にうちくだかれた。
「今から、また、二十人に余るご迷惑おかけして居る恩人たちへお詫びのお手紙、一方、あらたに借銭たのむ誠実吐露の長い文、もう、いやだ。勝手にしろ。誰でもよい、ここへお金を送って下さい。私は、肺病をなおしたいのだ。」(「創生記・山上通信」)
「創生記」を読んだ中条(改姓宮本)百合子は、九月二十七日の「東京日日新聞」の「文芸時評」で、「文学に、何ぞこの封建風な徒弟気質ぞ」と痛烈な批判を加えた。佐藤春夫の「芥川賞」はそれに触発されて書かれたものだが、太宰の作品はすべて妄想的に出来ており、妄想を事実と思い込ませるような仕組みで書き上げている、書かれていることをすべて事実と見るのは幼稚で愚劣な錯覚だと、佐藤は逆に中条百合子を揶揄している。
パビナールの中毒症状はますます進行し、ついに太宰はその年十月、東京武蔵野病院に入院するのだが、そのことについては第三節で述べることにしよう。
二 『晩年』と『虚構の彷徨』
太宰治の処女創作集『晩年』が砂子屋書房から刊行されたのは、昭和十一年の六月二十五日である。
前述したように、『晩年』の十五篇の作品のうち、「めくら草紙」(『新潮』昭和十一年一月号)を除く十四篇は、すでに昭和九年の秋に完成されていた。大きなハトロンの袋に入れられたその原稿は檀一雄が預かっていたのだが、翌十年の秋、創業まもない砂子屋書房から新進作家の第一創作集を叢書として刊行する計画があることを檀が知った。砂子屋書房は山崎剛平が創業した出版社で、檀の旧知である浅見淵が企画に参加し、また一時期間借りさせるほどに親しかった尾崎一雄も顧問格になっていた。檀は早速浅見淵のところへ駈けつけ、その叢書に『晩年』を加えてくれるよう頼んだ。浅見に異論はなく、書房主の山崎も快諾した。自費出版でも『晩年』を上梓したいと考えていた太宰はそれを知って大いに喜び、砂子屋書房から創刊された『文芸雑誌』に、本の広告文のつもりで、原稿料なしでエッセイを三篇寄稿している。そのうちの「『晩年』に就いて」と題するエッセイで太宰は次のように書いている。
「私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを見失い、たえず自尊心を傷つけられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。数万円の金銭を浪費した。長兄の苦労のほどに頭さがる。舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい恢復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り棄てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙、六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。
けれども、私は、信じて居る。この短篇集、『晩年』は、年々歳々、いよいよ色濃く、きみの眼に、きみの胸に滲透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。(後略)」
十箇年を棒に振ったとか、浪費した金銭が数万円とか、書いた原稿が五万枚とか、いくら広告のための文とはいえ針小棒大にすぎると思うが、「私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。」という言葉には実感がある。
「私は、その紙袋に毛筆で、『晩年』と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。」(「東京八景」)
たしかに太宰は、一聯の遺書の執筆に命を懸けていたのにちがいない。
当初の予定では十一年三月頃に刊行されるはずだったのだが、その年二月に二・二六事件が勃発し、そのため書房主の山崎が投資していた株が大暴落し、金繰りに追われて、刊行の時期が延び延びになってしまった。やきもきした太宰は浅見淵宛に、「このごろ、また、血たんが出て、不安です。どうか、早く本を出して下さい。実は、昨年の暮から、落ちつかなく、閉口しているのです。」(三月二日付)とか、「このごろ少し心細いことがあって、早く私の本を見たい、生きているうちに、私の本を見たい、としきりに思われますゆえ、来月中にできれば、うれしく存じます。懸命でございます。おねがい申します。たのみます。」(三月二十四日付)とか、催促をくりかえしている。一日千秋の思いだったのである。
六月二十五日付で『晩年』は刊行された。菊判、アンカット、本文には薄手の木炭紙を、表紙には白の局紙を使った贅沢な本だが、これは武蔵野書院から刊行された淀野隆三他訳の限定版プルースト『失いし時を索めて』の造本を太宰はいたく気にいっていて、その通りに造ってくれるよう強く希望したのである。初版の印刷部数は五百くらいだったようで、新人の処女出版としても、当時でも制限された部数だったのではなかろうか。
『晩年』は、「葉」「思い出」「魚服記」「列車」「地球図」「猿ヶ島」「雀こ」「道化の華」「猿面冠者」「逆行」「彼は昔の彼ならず」「ロマネスク」「玩具」「陰火」「めくら草紙」の十五篇の小説から成っているが、ここでは、そのうちの「道化の華」「彼は昔の彼ならず」「ロマネスク」の三篇について、多少の註釈を加えながら、私自身の勝手な読後感を書いてみることにする。
「道化の華」について太宰は「川端康成へ」というエッセイのなかで次のように書いている。
「『道化の華』は、三年前、私、二十四歳の夏に書いたものである。『海』という題であった。友人の今官一、伊馬鵜平に読んでもらったが、それは、現在のものに比べて、たいへん素朴な形式で、作中の『僕』という男の独白なぞは全くなかったのである。物語だけをきちんとまとめあげたものであった。そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった『海』という作品をずたずたに切りきざんで、『僕』という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわった。友人の中村地平、久保隆一郎、それから御近所の井伏さんにも読んでもらって、評判がよい。元気を得て、さらに手を入れ、消し去り書き加え、五回ほど清書し直して、それから大事に押入の紙袋の中にしまって置いた。」
二十四歳の夏というと、鎌倉海岸での心中未遂から一年八か月か九か月あとで、「思い出」の執筆にとりかかる直前か、あるいは「思い出」と並行して書き進めたかということになる。
「満月の宵。光っては崩れ、うねっては崩れ、逆巻き、のた打つ浪のなかで互いに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意と振り切ったとき女は忽ち浪に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった。」――「葉」に収められている断章だが、「海」の一部分ではなかろうかと推定される。
素朴な形式の、原始的な端正でさえあったその「海」という小説が「道化の華」に変貌するについては、ジッドのドストエフスキイ論からの示唆があったと太宰は書いているが、作者自身が作品のなかに出没する「道化の華」の形式に、ジッドの「贋金つかい」の影響を見ることは容易である。一風変った、新奇なスタイルの小説を創ることを太宰が一時期好んだことはたしかで、「玩具」「虚構の春」「創生記」「二十世紀旗手」「懶惰の歌留多」などその数は多く、なかには、スタイルを作る遊びだけに意慾を燃やしたのではないかと思われる作品もある。「道化の華」の場合も、日本にまだない小説だと友人間に威張ってまわったとき、形式の新しさを太宰はまず得意がっていたのだろう。
しかし太宰が、物語だけをきちんとまとめあげた素朴な形式の「海」をこのように手の込んだ形式の小説に仕立て直したのには、それなりの内的な必然性があったはずである。一人称の私小説でも、また三人称の客観小説でも表現し切れない混沌、その混沌のなかにある真実を、太宰は掴まえたかったのであろう。そのためには「僕」が、作品のなかに出没し、作者自身の自画像である大庭葉蔵を見詰め、その心の襞《ひだ》をさぐらねばならない。
「『ここを過ぎて悲しみの市《まち》。』
友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑え。ああ、友はむなしく顔をそむける。友よ、僕に問え。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は悪魔の傲慢さもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ。もっと言おうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。
大庭葉蔵はベッドのうえに坐って、沖を見ていた。沖は雨でけむっていた。」
冒頭の数行だが、これは葉蔵の内心の独白であり、この僕は葉蔵である。そこへ突然、作者が、「僕」が、登場してくるのである。
「夢より醒め、僕はこの数行を読みかえし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思いをする。やれやれ、大仰きわまったり。」
葉蔵の友人の小菅と飛騨が見舞いに来ているのだが、心中の原因をふたりがあれこれと臆測し、議論をする。しかし、
「青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交しているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!」
小菅と飛騨は心中の原因を知りたくてたまらない。しかし、相手の神経へふれまいふれまいと最大限の注意をする彼等は、あからさまにはそれを口に出せない。
「『僕たちは、女じゃ失敗するよ。葉ちゃんだってそうじゃないか。』
葉蔵は、まだ笑いながら、首を傾《かし》げた。
『そうかなあ。』
『そうさ。死ぬてはないよ。』
『失敗かなあ。』
飛騨は、うれしくてうれしくて、胸がときめきした。いちばん困難な石垣を微笑のうちに崩したのだ。」
こんな具合に会話が進む。いちばん困難な石垣を崩せたので、小菅はさらに中に入りこんでいく。
「『飛騨と大議論をしたんだ。僕は思想の行きづまりからだと思うよ。飛騨は、こいつ、もったいぶってね、他にある、なんて言うんだ。』間髪をいれず飛騨は応じた。『それもあるだろうが、それだけじゃないよ。つまり惚れていたのさ。いやな女と死ぬ筈がない。』
葉蔵になにも臆測されたくない心から、言葉をえらばずにいそいで言ったのであるが、それはかえっておのれの耳にさえ無邪気にひびいた。大出来だ、とひそかにほっとした。
葉蔵は長い睫を伏せた。虚傲。懶惰。阿諛。狡猾。悪徳の巣。疲労。忿怒。殺意。我利我利。脆弱。欺瞞。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶった。言ってしまおうかと思った。わざとしょげかえって呟いた。
『ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような気がして。』」
こうなると、「僕」が顔を出さないわけにいかない。
「彼等の議論は、お互いの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのうるためになされる。なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには、思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。不用意にもらす言葉こそ、ほんとうらしいものをふくんでいるのだ。葉蔵はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうっかり吐いてしまった本音ではなかろうか。彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある。或いは、自尊心だけ、と言ってよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのような微風にでもふるえおののく。侮辱を受けたと思いこむやいなや、死なん哉ともだえる。葉蔵がおのれの自殺の原因をたずねられて当惑するのも無理がないのである。――なにもかもである。」
「僕」はまた、書き進めている「僕」自身に対しても問いかける。
「僕はなぜ小説を書くのだろう。新進作家としての栄光がほしいのか。もしくは金がほしいのか。芝居気を抜きにして答えろ。どっちもほしいと。ほしくてならぬと。ああ、僕はまだしらじらしい嘘を吐いている。このような嘘には、ひとはうっかりひっかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言いだしたものだ。仕方がない。思わせぶりみたいでいやではあるが、仮に一言こたえて置こう。『復讐。』」
おや、太宰治は「復讐」のために小説を書いていたのかなどと、早合点してはいけない。なるほど太宰は、この思わせぶりな「復讐」という言葉のなかに、ある思いを籠めたのだろう。自分を義絶した津島家をその典型とする世間というものへの、その自信たっぷりな秩序意識と道徳観への、報復。あるいはそんな思いを籠めていたのかもしれない。しかしこれはあくまで作中に出没する「僕」の言葉である。「僕」はこの小説の作り手にはちがいないが、イコール太宰治ではないのである。太宰治は「僕」の背後にかくれ、「僕」をあやつり、素顔を見せようとはしない。
「ほんとうは、僕はこの小説の一齣一齣《ひとこまひとこま》の描写の間に、僕という男の顔を出させて、言わでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考えがあってのことなのだ。僕は、それを読者に気づかせずに、あの僕でもって、こっそり特異なニュアンスを作品にもりたかったのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚れていた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞえていた筈である。」
二重三重の構造を持ったややっこしい小説なのだが、そのややっこしさは、太宰治自身が持っていたややっこしさなのである。
中学三年生の「思い出」の主人公は、次のように言っている。
「私には十重二十重の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのである。」
「彼は昔の彼ならず」――。この小説の主人公木下青扇もまた、十重二十重の仮面がへばりついている男である。
四十二歳の一白水星などと自分では言っているが、実際は三十前の若さらしい。出鱈目ばかり言っているのである。自由天才流書道教授と名刺に刷ってあるのだがそれは嘘で、家を借りるための方便なのである。敷金を払わず家賃も払わず、なんで生活しているのか一向に判らない。この小説の語り手の、親の遺産で徒食している若い家主は、ひそかに天才に憧れている。出鱈目は天才の特質のひとつ、ひょっとすると青扇は天才ではないのかなどと考える。
細君、いや同棲する女も、季節が変るように次々と変る。大柄のマダムふうの女、水兵服を着た健康そうな文学少女、下町の粋筋と思われる女性。それにつれて、床の間には、はじめは北斗七星の四文字の掛軸、つぎには一尺くらいの石膏の胸像、そしてつぎには牡丹の花模様の袋にはいった三味線。
文学少女と同棲すると、青扇は俄かに文学書生に変る。森鴎外に師事したことがある、「青年」の主人公は実は自分だなどと出鱈目を言いながら、小説を書きはじめようとする。
「渡り鳥というのは悲しい鳥ですな。旅が生活なのですからねえ。ひとところにじっとしておれない宿命を負うているのです。わたくし、これを一元描写でやろうと思うのさ。私という若い渡り鳥が、ただ南から北、北から南とうろうろしているうちに老いてしまうという主題なのです。」
若い家主は、青扇の正体がさっぱりつかめないながらも、家賃を払ってもらえないことをなじりながらも、青扇に奇妙な親近感を持つようになっていく。He is not what he was. 中学生のとき英文法の教科書のなかに見つけて心をさわがせたこの文句が青扇と結びつき、異常な期待を持つようにさえなっていく。家主は渡り鳥の話を聞いて、突然自分と青扇との相似を感じる。
「どこというのではない。なにかしら同じ体臭が感ぜられた。君も僕も渡り鳥だ、そう言っているようにも思われ、それが僕を不安にしてしまった。彼が僕に影響を与えているのか、僕が彼に影響を与えているのか、どちらかがヴァンピイルだ。どちらかが、知らぬうちに相手の気持ちにそろそろ食いいっているのではあるまいか。僕が彼の豹変ぶりを期待して訪れる気持ちを彼が察して、その僕の期待が彼をしばりつけ、ことさらに彼は変化をして行かなければいけないように努めているのではあるまいか。あれこれと考えれば考えるほど青扇と僕との体臭がからまり、反射し合っているようで、加速度的に僕は彼にこだわりはじめたのであった。青扇はいまに傑作を書くだろうか。僕は彼の渡り鳥の小説にたいへんな興味を持ちはじめたのである。」
しかし、その渡り鳥の小説は十枚ほどで中絶してしまった。青扇はそう言うのだが、なに、一枚も書かなかったかもしれない。
そして青扇は、戻ってきた最初のマダムとまた同棲し、こんどは手相をはじめたなどと言いながら、自分のてのひらの太陽線とかいう手筋をほれぼれ眺めたりするのである。
この小説は次の数行で結ばれている。
「おい、見給え。青扇の御散歩である。あの紙凧のあがっている空地だ。横縞のどてらを着て、ゆっくりゆっくり歩いている。なぜ、君はそうとめどもなく笑うのだ。そうかい。似ているというのか。――よし、それなら君に聞こうよ。空を見あげたり肩をゆすったりうなだれたり木の葉をちぎりとったりしながらのろのろさまよい歩いているあの男と、それから、ここにいる僕と、ちがったところが、一点でも、あるか。」
青扇は、合せ鏡にうつし出されたある時期の太宰治の姿と、どこやら似ているようである。ある時期――。この小説は昭和九年の五、六月頃に脱稿されたのだが、実人生への希望を失い、実生活への意慾を抛棄し、遊民の虚無のなかに沈潜し、自己喪失者としての自覚を持ちながら、ただ小説を書くことだけに、つまり虚構の世界、嘘の物語を創り上げることだけに、熱中していた時期である。
「ロマネスク」――これこそは、太宰の奔放な空想力が自在に力強くはばたいた見事な虚構世界である。仙術太郎、喧嘩次郎兵衛、嘘の三郎、この三人の主人公を考えついたところがまず奇抜ではないか。
かるがるしきからだの仕草をきらう精神を持っている太郎は、生れるとすぐ大きいあくびをし、「母者人の乳房にもみずからすすんでしゃぶりつくようなことはなく、母者人のふところの中にいて口をたいぎそうにあけたまま乳房の口への接触をいつまでも待っていた。」人の意表に出るこういう描写が、また奇抜で、独特で、それに語り口が実に巧みである。
太郎は毎日のように蔵の中にはいって父の蔵書を手当り次第に読み、そのうち仙術の本を見つけ、熱心に読みふけり、一年ほども修業して鼠と鷲と蛇になる法を覚えこむ。やがて、十六歳になった太郎は、隣の油屋の娘に恋をし、
「あわれ、あの娘に惚れられたいものじゃ。津軽いちばんのよい男になりたいものじゃ。太郎はおのれの仙術でもって、よい男になるようになるように念じはじめた。十日目にその念願を成就することができたのである。
太郎は鏡の中をおそるおそる覗いてみて、おどろいた。色が抜けるように白く、頬はしもぶくれでもち肌であった。眼はあくまでも細く、口髭がたらりと生えていた。天平時代の仏像の顔であって、しかも股間の逸物まで古風にだらりとふやけていたのである。太郎は落胆した。仙術の本が古すぎたのであった。天平のころの本であったのである。」
思わず吹き出してしまうではないか。太宰治の諧謔精神というか、ユーモアセンスというか、これはもう抜群のもので、おそらく日本の近代文学史上に比肩し得る者はいないのではあるまいか。
たとえば、喧嘩次郎兵衛が喧嘩の修行をするところ。
「喧嘩は度胸である。次郎兵衛は度胸を酒でこしらえた。次郎兵衛の酒はいよいよ量がふえて、眼はだんだんと死魚の眼のように冷くかすみ、額には三本の油ぎった横皺が生じ、どうやらふてぶてしい面貌になってしまった。煙管を口元へ持って行くのにも、腕をうしろから大廻しに廻して持っていって、やがてすぱりと一服すうのである。度胸のすわった男に見えた。
つぎにはものの言いようである。奥のしれぬようなぼそぼそ声で言おうと思った。喧嘩のまえには何かしら気のきいた台詞を言わないといけないことになっているが、次郎兵衛はその台詞の選択に苦労をした。型でものを言っては実際の感じがこもらぬ。こういう型はずれの台詞をえらんだ。おまえ、間違ってはいませんか。冗談じゃないかしら。おまえのその鼻の先が紫いろに腫れあがるとおかしく見えますよ。なおすのに百日もかかる。なんだか間違っていると思います。これをいつでもすらすら言い出せるように、毎夜、寝てから三十ぺんずつひくく誦した。またこれを言っているあいだ口をまげたり、必要以上に眼をぎらぎらさせたりせずにほとんど微笑むようにしていたいものだと、その練習をも怠らなかった。」
いかさま、見事なものではないか。それから次郎兵衛はこぶしの作り方を研究し、殴りかたを研究し、次には相手が動いていることも考えにいれて、三島の町の水車をひとつひとつ征伐して歩くのだが、その描写がまたとてつもなく面白い。
「ロマネスク」は、理窟なしに面白い小説である。この諧謔の裏にどんな意味がひそんでいるのかなどと、しかつめらしい顔をして坐り直すことはない。寝ころんで読み、腹を抱えて笑えばそれでいいのである。
この小説を、昭和九年の夏、三島の坂部武郎の家の二階で書いたときの太宰の苦吟ぶりはたいへんなもので、丸めては捨て破っては捨てる原稿紙の反古《ほご》で毎日部屋がいっぱいになったと武郎は回想している。この作品にかけた太宰の意気込みのほどが察しられるが、私はこの諧謔小説を、『晩年』十五篇中の第一の出来栄えと思っている。
ここでは三篇だけについて書いたが、「思い出」「魚服記」は言わずもがな、「猿ヶ島」「猿面冠者」「逆行」「玩具」「陰火」など、『晩年』収録の諸短篇は、ありきたりの表現を使えば、いずれも珠玉のごとき名短篇である。二十五歳前後の若さでこれだけの仕事を成し遂げたことには一驚を禁じえない。それはもちろん太宰治の天稟のなせる業にはちがいないのだが、またひとつには、「私はこの本一冊を創るためにのみ生れた」という捨身の気魄が作品の隅々に行きわたっているからでもあるだろう。
『晩年』諸作品のなかの大半は、当初から発表を意図して書かれたものではない。発表へのおぼろげな期待はもちろんあっただろうが、まず書きたいから、書かずにいられなかったから、太宰は書いたのである。高校時代の「無間奈落」「学生群」「地主一代」その他の作品は、一日も早く世の中から認められたい、文壇に打って出たいという野望と焦燥のなかから生れた。文体は借りもので、表現は大袈裟で、ここをこう書いたら喝采を浴びるのではないかという、大向う相手のスタンドプレイに満ちている。それから二年の中断の後に、遺書のつもりで書き綴った「思い出」と読み比べると、これが同じ作者の筆になったものとはとても思えない。「思い出」の清澄な文体と、ものを正確に見つめていく曇りのないまなざしは、へんな野心を捨てた恬淡の心境から生れたと考えてよいのではあるまいか。
『虚構の彷徨』は、「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」の三部作から成っている。そのうち「道化の華」は『晩年』に収録された作品だが、特に引き抜いて、三部作の一篇としたのである。「虚構の春」ははじめは題名を「虚構の塔」とするつもりだったようで、佐藤春夫宛書簡(昭和十一年五月十八日付)には、「道化の華。狂言の神。虚構の塔。それぞれ、真、善、美のサンボルにて、三部曲のつもりでございます。三部ひとまとめにして、之に大きな題を附して、日本文学にはじめてのキャラクターを編み出すつもりでございます。」と書かれている。「虚構の塔」は『文學界』に発表するときに「虚構の春」と題名を変えたのだが、この三部作を『虚構の彷徨』と命名してくれたのは佐藤春夫である。
「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」、この三作がそれぞれ真、善、美のサンボルであるとはどういうことなのか、理解に苦しむが、この三作に共通していることは、鎌倉海岸と鶴岡八幡宮の裏山での自殺未遂を中心の素材にしていることである。「虚構の春」は三十人以上の知友、編集者、読者などからの手紙を寄せ集めるという形式をとっており、自殺未遂に触れているのはそのなかの一通にすぎないが、その一通がこの作品の最も重要な部分になっている。そして、厳粛であるべき自殺の体験を語るのに、太宰は素朴なリアリズムを棄て、道化≠ニ狂言≠ニ虚構≠フなかに韜晦《とうかい》したのである。
「なんじら断食するとき、かの偽善者のごとき悲しき面容《おももち》をすな。」(マタイ伝六章十六)このイエス・キリストの言葉は、後に書かれた「創生記」「正義と微笑」にも引用されており、太宰の倫理と美意識の根幹を形造っていたといってもいいのだが、「狂言の神」のエピグラフに、また「虚構の春」の文中に、太宰はこの聖句を引用している。笑いながら厳粛のことを語ろう。悲壮ぶった、深刻めいた顔付きで自殺について語るなど、照れくさくてかなわないのである。
「狂言の神」は、「今は亡き、畏友、笠井一について書きしるす。」という一行からはじまっている。二、三の評論家に嘘の神様、あるいは道化の達人と呼ばれていた風がわりな作家|笠井一《かさいはじめ》は、みやこ新聞社の就職試験に落第したばかりに縊死してしまったのだが、その友人笠井一に仮託して自分、太宰治を語らせようとしたというのである。しかし、物語をすすめるうちに、
「今は亡き、畏友、笠井一もへったくれもなし。ことごとく、私、太宰治ひとりの身のうえである。いまにいたって、よけいの道具だてはせぬことだ。私は、あした死ぬるのである。はじめに意図して置いたところだけは、それでも、言って知らせてあげよう。私は、日本の或る老大家の文体をそっくりそのまま借りて来て、私、太宰治を語らせてやろうと企てた。自己喪失症とやらの私には、他人の口を借りなければ、われに就いて、一言半句も語れなかった。たち寄らば大樹の蔭、たとえば鴎外、森林太郎、かれの年少の友、笠井一なる夭折の作家の人となりを語り、そうして、その縊死のあとさきに就いて書きしるす。その老大家の手記こそは、この『狂言の神』という一篇の小説に仕上るしくみになっていたのに、ああ、もはやどうでもよくなった。文章に一種異様の調子が出て来て、私はこのまま順風を一ぱい帆にはらんで疾駆する。これぞ、まことのロマン調。すすまん哉。」
この文章を鵜呑みにすることは勿論できない。老大家の手記の形で「狂言の神」一篇を書こうなどと、太宰が意図していたはずはない。これは太宰一流のレトリックであり、含羞と自己韜晦のポーズなのである。そのようなポーズをとらなければ、自殺という厳粛な人生体験を、太宰は語ることができないのである。
「虚構の春」においては、「突然のおたよりお許し下さい。私はあなたと瓜二つだ。いや、私とあなた、この二人のみに非ず、青年の没個性、自己喪失は、いまの世紀の特徴と見受けられます。以下必ず一読せられよ。」ではじまる、清水忠治という架空の人物からの手紙で、鎌倉海岸での心中が語られている。瓜二つにちがいないので、清水忠治は太宰治になり変って、その代役となって、有夫の女との情死を語っているのである。
「私は、しばらく、かの偽善者の面容《おももち》を真似ぶ。(一行あき)百千の迷の果、私は私の態度をきめた。いまとなっては、私は、おのが苦悩の歴史を、つとめて厳粛に物語るよりほかはなかろう。てれないように。てれないように。」
そういいながらも清水忠治は、つとめて厳粛に物語ることはできない。ある一先輩から、早く書かなければ、子供が雪兎を綿でくるんでしまっておくように溶けてしまう、パッションを失わぬうちに書け、鉄は赤いうちに打つべきだと言われても、聞こえぬふりをし、自分のふるさとの雪女の伝説などを語りはじめる。そのうち、サロンの空気がたいへんパッショネートになってきて、いつしか、自分の秘めに秘めたる雪女、つまり心中した相手の女性のことを、問われるがままに語りはじめてしまうという仕組みになっている。
そして清水忠治は、その手紙の末尾に、
「――太宰さん、白ばくれちゃいけない。私のこの話を、どう結んでくれるのです。これは勿論、あなたの身の上じゃない。みんな私の身の上だ。けれども、私がこれを発表するときに、雑誌社だって考えます。どこの鰯の頭か知れない男の告白よりは、ぱっとしないが、とにかく新進の小説家、太宰さんの、ざんげ話として広告したいところです。この私の苦心の創作を買って下さい。同文の予備役、なお、こちらに三冊ございます。その三冊とも、五十円は、安い。太宰さん。おどろいたでしょう? みんなウソ。おどかしてみたのさ。おどろいた? ずっとまえに、君が私とお酒をのみながら、この話、教えて呉れたじゃないか。きょう、日曜の雨、たいくつでたまらぬが、お金はなし、君のとこへも行けず、天候の不満を君に向けて爆破、どうだ、すこしは、ぎょっとしたか。このぶんでは、僕も小説家になれそうだね。」
一種の悪《わる》巫山戯《ふざけ》といっていいであろう。「てれないように。てれないように。」と言いながら、やはり太宰治はてれてしまう。重ねていえば、含羞と自己韜晦のポーズである。かの偽善者の面容《おももち》を真似ぶことが、やはり太宰にはできないのである。
道化≠ニ狂言≠ニ虚構=\―『虚構の彷徨』三部曲の底に奏でられている調べは、太宰治の全文芸と、またその全人生から、時に強く時に弱く、さまざまに変容しながら、我々の耳に聞こえてくるのである。
なお、「虚構の春」は、三十余名の知友、編集者、読者などからの手紙を寄せ集めた形をとっている。清水忠治のように架空の人物を作りあげ、したがってその文面も太宰の創作なわけだが、ほかに、実在の人物から実際に貰った手紙を、そのまま、あるいは多少手を加えて転用しているケースと、実在の人物を借りながらその文面は太宰が勝手に作りあげているケースがある。当初『文學界』に発表されたときは、何人かの人については実名をそのまま使っているが、『虚構の彷徨』に収録した際にすべて仮名に変えた。雑誌発表の際に実名を出した人は、佐藤春夫→深沼太郎、井伏鱒二→早川俊二、飛島定城→小泉邦録、伊馬鵜平→萱野鉄平、東奥日報社整理部竹内俊吉→北奥日報社整理部辻田吉太郎などである。自分の名前と手紙が無断で借用されていることを『文學界』で知った井伏鱒二は、早速、葉書を書いて太宰を難詰した。それに対して太宰は次のような返事の手紙を出している。(昭和十一年七月六日付)
「井伏さんからは、お手紙の不許可掲載については、どのような御叱正をも、かえってありがたく、私、内心うれしくお受けするつもりでございました。けれども他の四、五人の審判の被告にはなりたくございませぬ。
『文學界』の小説の中の、さまざまの手簡、四分の三ほどは私の虚構、あと三十枚ほどは事実、それも、その御当人に傷つけること万々なきこと確信、その御当人の誠実、胸あたたかに友情うれしく思われたるお手紙だけを載せさせてもらいました。御当人一点のごめいわくなしと確信して居ります。真実にまで切迫し、その言々尊く、生き行かん意慾、懸命の叫びこもれるお手紙だけを載せさせてもらいました。」
この太宰の言に偽りはなかったと思うが、なにせ、私信を無断で借用し公表してしまったのだから、怒った人もかなりおり、抗議非難が集中したようである。単行本収録の際にすべて仮名にしたのはそのためであろう。
仮名で出されてはいるが明らかにその人と推定できるのは、吉田潔→山岸外史、林彪太郎→今官一、永野喜美代→保田與重郎、長沢伝六→中村地平、黒田重治→檀一雄、斎藤武夫→小野正文、小館敬四郎→小館善四郎、それから差出人の名は書いてないが『春服』(『非望』)の同人でW大学ボート部員のときオリンピックに行ったという男は、まぎれもなく田中英光であろう。
実際に貰った手紙に手を加えた例としては、深沼太郎(佐藤春夫)からの「拝復。君ガ自重ト自愛トヲ祈ル。」ではじまる第二の書簡のなかの「八拾円ニテ、マント新調、二百円ニテ衣服ト袴ト白足袋ト一揃イ御新調ノ由、二百八拾円ノ豪華版ノ御慶客。早朝、門ニ立チテオ待チ申シテイマス。」は、原文ではただ「二百八拾円ノ豪華版ノ御慶客ナキヲ悲シム。」だったという。大先輩であり、また師事していた佐藤春夫に対してまことに大胆なことをしたものである。また、斎藤武夫(小野正文)からの書簡に、「私は、その夜の五円を、極めて有効に、一点濁らず、使用いたしました。」としてその使い途がきわめて克明に書かれているが、これは太宰が挿入した文章であり、また同じ書簡のなかの「中学校一の秀才というささやき」も太宰が書き加えたものだという。「私には、そういう『ささやき』を聞いた記憶は全然ないから、それを手紙に書くわけもなかった。その、いたずらっ気と自己顕示性のあらわれなのであろう。」と小野正文は、『太宰治をどう読むか』のなかで書いている。
また、黒田重治(檀一雄)からの手紙が二通収められているが、そのうち、「拝啓。その後、失礼して居ります。先週の火曜日(?)にそちらの様子見たく思い、船橋に出かけようと立ち上った処に君からの葉書来り、中止。」にはじまるほうは檀一雄が実際に書いたものだそうだが、「ちかごろ、毎夜の如く、太宰兄についての、薄気味わるい夢ばかり見る。」にはじまる一通は全くの太宰の創作で、このような手紙を自分から貰うことを太宰は希望していたのだろうと檀一雄は言っている。
それにしても、当初は七十枚と予定していたこの小説が百五十枚と倍以上に延びてしまったのは、どういうわけだったのだろうか。それも、執筆に着手したのは「狂言の神」を脱稿した五月十日以降であり、五月の末には百五十枚を完成しているのである。しかもその間、「狂言の神」の採否問合せに二、三度文藝春秋社に足を運んでいる。太宰の創作ペースとしては異常な早さと言わねばならない。枚数の長さといい、執筆速度の早さといい、臆測すれば、当時の太宰は、一円でも多くの稿料を、それも一日も早く手にしたかったのではあるまいか。
人からの手紙だけで一篇の小説を構成するという試みには新奇さがあり、また光彩を放つディテールも随所に見受けられるのだが、なくもがなの部分も多く、全体としては冗漫の譏《そし》りをまぬがれないであろう。
『虚構の彷徨』三部作は、「ダス・ゲマイネ」と合わせて一巻となり、『新選純文学叢書』の一冊として十二年六月に新潮社から刊行された。
「ダス・ゲマイネ」――。『文藝春秋』の十年十月号に発表されたこの作品こそは、『晩年』の世界をひとつ抜け出して新生面をひらいた、太宰治初期の代表作である。
第一回芥川賞の候補になった外村繁、高見順、衣巻省三と共に太宰に対して『文藝春秋』から原稿の依頼があり、それに応じて同誌の十月号に寄せた作品だが、太宰はこの作品にたいへんな自信をもっていたようで、山岸外史宛書簡(昭和十年九月二十二日付)で「ぼくのいまの言葉をそのままに信じておくれ。ぼくは客観的に冷静にさえ言うことができる。(文藝春秋十月号)衣巻、高見両氏には気の毒である。コンデションがわるかったらしい。外村氏のは面白く読める。このひとの作品には量感がある。けれども僕の作品をゆっくりゆっくり読んでみたまえ。歴史的にさえずば抜けた作品である。自分からこんなことを言うのは、生れてはじめてだ。僕はひとりで感激している。これだけは一歩もゆずらぬ。」とその自信のほどを披瀝している。また同日付の三浦正次宛書簡でも、「形式は前人未踏の道をとったつもりです。私自身でさえ、他の作家に気の毒なくらいに、(絶対に皮肉[#「皮肉」に傍点]ではなしに)ずば抜けていると思っています。客観的に冷静に見て、そうなのです。」と書いている。
ダス・ゲマイネとは通俗を意味する独逸語だが、それについて太宰は、十年十二月に発表した「ダス・ゲマイネに就いて」というエッセイのなかで次のように述べている。
「いまより、まる二年ほどまえ、ケエベル先生の『シルレル論』を読み、否、読まされ、シレルレはその作品に於いて、人の性よりしてダス・ゲマイネ(卑俗)を駆逐し、ウール・シュタンド(本然の状態)に帰らせた、そこにこそ、まことの自由が生れた。そんな所論を見つけたわけだ。ケエベル先生は、かの、きよらかなる顔をして、『私たち、なかなかにこのダス・ゲマイネという泥地から足を抜けないもので――』と嘆じていた。私もまた、かるい溜息をもらした。『ダス・ゲマイネ』『ダス・ゲマイネ』この想念のかなしさが私の頭の一隅にこびりついて離れなかった。」
小説「ダス・ゲマイネ」は、佐野次郎と呼ばれる東大仏文科の学生を語り手とし、音楽家の馬場数馬、画家の佐竹六郎、小説家の太宰治の三人の一風変った自由人たちを登場人物とする、一種の道化芝居と言っていいであろう。この三人は、道化芝居にふさわしい奇妙な容貌をしている。
馬場は、「シューベルトに化け損ねた狐である。不思議なくらいに顕著なおでこと、鉄縁の小さな眼鏡とたいへんなちじれ毛と、尖った顎と、無精鬚。皮膚は、大仰な言いかたをすれば、鶯の羽のような汚い青さで、まったく光沢がなかった。」そして佐竹は、「肌理《きめ》も毛穴も全然ないてかてかに磨きあげられた乳白色の能面の感じであった。瞳の焦点がさだかでなく、硝子製の眼玉のようで、鼻は象牙細工のように冷く、鼻筋が剣のようにするどかった。眉は柳の葉のように細長く、うすい唇は苺のように赤かった。」いちばんひどいのは太宰治で、「蒼黒くでらでらした大きい油顔で、鼻が、――君、レニエの小説で僕はあんな鼻を読んだことがあるぞ。危険きわまる鼻。危機一髪、団子鼻に堕そうとするのを鼻のわきの深い皺がそれを助けた。まったくねえ。レニエはうまいことを言う。眉毛は太く短くまっ黒で、おどおどした両の小さい眼を被いかくすほどもじゃもじゃ繁茂していやがる。額はあくまでもせまく皺が横に二筋はっきりきざまれていて、もう、なっちゃいない。」
この若き芸術家たちは、傲慢で虚栄心が強く、ヴァイオリンよりケエスが大事。スタイルとポーズばかりを気にしている。そして、自意識過剰を、知性の極にあるものとして高尚がり、もてあそんでいる。からだのぐるりを趣味でかざり、なにからなにまで見せかけで、ひとからの借り物で、自分自身の楯を持っていない。単純で自然な素朴さを失っているのである。超俗をてらいながら、実はかえってダス・ゲマイネ(卑俗)なのである。ウール・シュタンド(本然の状態)を失っているのである。
「『ダス・ゲマイネ』『ダス・ゲマイネ』この想念のかなしさが私の頭の一隅にこびりついて離れなかった。」――「ダス・ゲマイネ」の泥地のなかにいる馬場も佐竹も太宰も、太宰治の分身であり、戯画であるといっていいだろう。馬場や佐竹や太宰をウール・シュタンドから遠ざけ、ダス・ゲマイネの泥地に追い込んだのは、もちろん書き手である太宰治をふくめて、当時の青年たちの心の奥底に巣食っていた自意識過剰≠ニいっていいのではなかろうか。
「たとえば、帽子をあみだにかぶっても気になるし、まぶかにかぶっても落ちつかないし、ひと思いに脱いでみてもいよいよ変だという」自意識過剰。「たとえば、道の両側に何百人かの女学生が長い列をつくってならんでいて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあいだをひとりで、のこのこ通って行くときの一挙手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやりば首の位置すべてに困じ果てきりきり舞いをはじめるような、そんな工合いの気持ち。」
その当時太宰は、小館善四郎宛書簡(十年八月二十二日付)で次のように言っている。
「われわれのあいだでは、もはや自意識過剰が凝然《ぎようぜん》と冷えかたまり、厳粛の形態をとりつつあるようだ。自らの厳粛(立派さ)に一夜声たてて泣いた。」
だから馬場は佐野次郎に言うのである。
「僕は君の瞳のなかにフレキシビリティの極致を見たような気がする。そうだ、知性の井戸の底を覗いたのは、僕でもない太宰でもない佐竹でもない、君だ! 意外にも君であった。」
そして、佐野次郎が電車にはねられて死んだのち、馬場は、以前に佐野次郎に連れて行かれた幻燈のまちへ、玉の井遊廓へ、「日本でいちばん好いところだ。」と佐竹を誘う。
「ああ、いつもながらこの大川を越す瞬間のときめき。幻燈のまち。そのまちには、よく似た路地が蜘蛛の巣のように四通八達していて、路地の両側の家々の、一尺に二尺くらいの小窓小窓でわかい女の顔が花やかに笑っているのであって、このまちへ一歩踏みこむと肩の重みがすっと抜け、ひとはおのれの一切の姿勢を忘却し、逃げ了せた罪人のように美しく落ちつきはらって一夜をすごす。」おのれの一切の姿勢を忘却するとは、ダス・ゲマイネの泥地から抜け出すことである。
三 精神病院と聖書
太宰治がパビナール中毒を根治するために板橋区江古田の東京武蔵野病院に入院したのは、昭和十一年十月十三日である。
中毒症状はこの頃もうかなり進んでいたにちがいないが、また薬品を手に入れるために借銭を重ね、その慚愧の念にさいなまれていたのだが、しかし太宰が自分の健康を考えるときにむしろ気に病んでいたのは胸部疾患だった。正木不如丘の経営する信州富士見の高原療養所でのサナトリウム生活を計画していたようで、十月四日付今官一宛書簡でも、
「十一月末までに、借銭と仕事すこし整理して、それから、満二ケ年の予定で、サナトリウム生活はじめる。
山上垂訓の、ツァラツストラ気取ってまた血を吐いた。
船橋も、あとひとつき。
入院出発の前夜、自殺しそうで、かなわぬ。その夜、すこしでも、にぎやかにしていただきたく、佐藤先生、井伏先生はじめ、ほんの内輪《うちわ》で、お茶の一夜、私の家で行いたく、(後略)」
と、なかなか悲痛な決意を述べている。
しかし、注射する量は、一日に三十本から四十本とふえていった。食事らしい食事をとらず、ビールを飲み、生卵を啜るほかは、オートミルとメロンしか口にしなかった。
目に見えて衰弱していく太宰に、身の細るような不安を感じつづけていたのが、常に身辺にいた初代であることは言うまでもない。
薬の注射をやめてくれと、何度もたのんだが、「俺のからだは俺がいちばんよく知っている」と、まるで取り合ってくれなかった。
思いあまった初代は、それまで書いたことのなかった長兄文治あての手紙をしたため、中毒の実状を報告した。長兄の言うことには逆らえまいと、せいぜい頭を働かしたのである。
文治はすぐに北芳四郎に、善後策を講ずるよう依頼した。北はただちに板橋区にある精神医学研究所附属東京武蔵野病院に手をまわした。この病院を選んだのは、この年九月、警視庁麻薬中毒救護所が同病院内に併設されたのを、警視庁出入りの御用商人である北が逸早く聞き知っていたからである。
この年二月に済生会芝病院に入院した折には、病院を抜け出すなど気儘に振る舞って治療に不熱心だったことを知っていた北は、警視庁管轄の救護所に強制収監し、有無をいわせず徹底的に治療してもらおうと考えたのである。
太宰がまったく知らないところでひそかに進められていたこの精神病院への入院の話は、九月の末には決定され、初代にも告げられた。
まさか精神病院に監禁するとまでは思っていなかった初代は、その知らせにさすがにショックを受けた。
十月四日、つまりサナトリウム生活への悲痛な決意を今官一に書き送ったその当日、伊馬鵜平が船橋に太宰を訪ねているが、その日付の伊馬の日記には、「当人は富士見に入院するのだといっていたが、初代さんのこっそりの話によれば、注射をやめさせるため、きちがい病院にいれるのだと。かんきんするのは可哀そうだと初代女すっかり心を疲らせ、身体はもう気の毒なほどの疲れよう。ろくろく夜も眠れないとのこと。注射を日に五十本もこっそりやるという。その費用は諸々方々へめいわくかけているのらしいのだがと泪声である。しかし当人はわりあい元気にて、語ることすべてよし。」とある。
初代が井伏鱒二のもとに相談に行ったのは十月七日である。初代からの話によって井伏は太宰の中毒についての実相を知り、入院に賛成した。当時井伏は「太宰治に関する日記」という備忘録を書きとめていたが、これは後に「十年前頃」という随筆に挿入されている。引用させてもらうと、
「十月七日(昭和十一年)
太宰のところの初代さん来訪。太宰君パビナール中毒にて一日に三十本乃至四十本注射する由、郷里の家兄津島文治氏に報告し至急入院させたき意向なりと云う。太宰の注射数は、多量のときは一日に五十数本にも及ぶ由、一回に一本にては反応なく、すくなくも一回五本の注射の必要ありと云う。今日までその事実を秘密にせし所以、解し難しと小生反問す。初代さん答えて曰く、太宰は、もう三四日待て、もう三四日待て、俺のからだの始末は俺がするとて今日に及び、この始末なりと。小生、入院の件に賛成す。」
電報で津軽から至急上京した中畑慶吉と北芳四郎が初代を同道して井伏家を訪れたのは十二日で、太宰を入院させる説得役を井伏に依頼した。固辞した井伏も三人の懇請に負けて船橋に太宰を訪ねたが、その日はとうとう言い出しかね、一晩泊った翌朝、
「十月十三日
太宰と共に朝食を終り雑談中のところへ、中畑慶吉、北芳四郎の両氏来着す。北氏、目顔にて、もうあのことは云ったかと小生に目くばせす。小生、まだ云わぬと目顔にて答える。
中畑氏、がっかりしたような顔をする。
中畑氏、太宰と時候の話を交したる後、眉宇に決意の色を見せ、『修治さん、お頼みしますが、入院したらどうです』と話をきり出す。太宰、見る見る顔色を変え、入院どころか急いで小説を書く必要ありと云う。今月八日締切であった原稿、文藝春秋の小説三十枚を急いで書かなくてはいけないと云う。稿料もすでに前借し、それがすめば胸の病気をなおすため、正木不如丘氏経営の高原病院に行く予定なりと云う。かれこれ二時間ばかし押問答の末、太宰、別室に行きて啼泣す。」
初代も太宰のところに行っていっしょに泣き出し、北と中畑は無言のままうなだれていた。
太宰が泣きやむのをまって井伏は、「どうか入院してくれ。これが一生一度の僕の願いだ。入院するのがいやなら、診察だけでも受けてくれ。」と頼んだ。「文学を止すか止さないか、いまその瀬戸際だ。」とも言った。太宰は頷き、無言のまま毛布を抱え取ると、玄関に出て行き、待たせてあった自動車に乗り込んだ。
このときのことを太宰は、「Iさん、一生にいちどのたのみだ、はいって呉れ、と手をつかぬばかりにたのんで下さって、ありがとう。」と「HUMAN LOST」のなかで書いている。
太宰が東京武蔵野病院に入院していたのは、十月十三日から十一月十二日までの一か月間である。最初は本館開放病棟二階の見晴らしのよい明るい病室に入れられ、太宰もほっとしたようだが、中一日おいた十五日、自殺または逃亡のおそれがあるとして、鍵のかかる西側第一病棟一階の監禁室に強制的に移され、看視人をつけられた。押入れ付きの六畳の個室であるが、「鉄格子と、金網と、それから、重い扉、開閉のたびごとに、がちん、がちん、と鍵の音。寝ずの番の看守、うろ、うろ。」(「HUMAN LOST」)という、重症患者の病棟である。一応の覚悟を決めての入院とはいえ、このような、狂人としての扱いを受けようとは、さすがに太宰も予想していなかっただろう。太宰の主治医であった中野嘉一医師の回想によると、監禁室に移されてからの一週間くらいは、禁断症状による苦しみもあって、「不法監禁、インチキ病院、虐待、命保たず、救助タノム、詐欺、裏切り者等と壁紙や硝子戸に色鉛筆で書きなぐっていた。回診に行くと、『内証でここから出して下さい』と平身低頭したり、私や看護人が廊下を通ると、動物園の猿のように鉄格子につかまって出してくれ、出してくれとどなったりするので、可哀想に思ったこともある」(「精神科入院時代の太宰」)ということである。
それでも、慢性麻薬中毒の治療剤であるスパミドール注射の薬効が顕著で、禁断症状も次第におさまり、中野医師の計らいで「朝日新聞」と「聖書」を読みはじめるようになり、十月二十日には「中毒次第に薄らぎ全快保証す」という院長の診断が下された。面会謝絶が解かれたのは十一月八日で、上京した長兄文治が初代を同道して太宰を見舞っている。「亡父に会いたるごとしとて、太宰、涙をながし泣き伏したり。初代さんの語る報告なり。」と井伏は備忘録に書きつけている。翌九日、文治の定宿の神田の関根屋で文治、文治の友人沢田医師、井伏、北の四人が、また十一日には同じ関根屋で文治、井伏、北、中畑、初代の五人が、退院後の太宰の身の振り方について相談した。文治は太宰を郷里に連れ帰り、食用羊の牧場をまかせて健康な生活をさせたかったようであるが、東京で小説を書かせるべきだという井伏の主張が結局通り、十一日の夕方、病院において、井伏、北、中畑三者立会いのもとに文治は太宰にその承諾を与えた。ただし、生活費は九十円に戻してやるが、それは以後三回に分けて送る、それも直接太宰宛にではなく井伏氏宛に送金する、と文治は言い渡した。期限も今後三年という約束だったが、その九十円の送金は戦争末期に金木に太宰が疎開するまでつづけられていた。
なお、入院後しばらくして船橋の住居は引き払われることになり、借銭を清算するため家具は競売され、残った家財道具は井伏家に預けられ、初代は井伏家に寄寓していた。
翌十二日の十一時半、井伏は初代と共に病院に赴き、まもなく文治も来着し、午後一時半、退院した太宰は初代と共に自動車で荻窪の井伏宅に向い、井伏は文治と共に電車で荻窪に帰った。夕刻、帰郷する文治を荻窪駅に送ったのち、井伏夫人と初代がさがしておいた天沼の白山神社裏の照山荘アパートに太宰はひとまず落ち着いた。パビナール中毒は根治され、以後、いかなる種類の麻薬からも太宰は遠ざかっている。
余談めくが、戦後、死を前にした一時期、太宰が再び麻薬の注射をしているのではないかという風聞があり、そして太宰の死をそれと結びつけるひともいたようだが、そのころ三日にあげず太宰治と会っていた私は、断じてそのようなことがなかったことを確言できる。
照山荘アパートが太宰は気に入らず、初代は井伏夫人と共にふたたび貸間さがしに出かけ、十五日、天沼一丁目の碧雲荘の二階の八畳間に移る。そしてその夜から、東京武蔵野病院での体験を素材にした「HUMAN LOST」の執筆にかかる。
なぜ太宰は、これほど性急にこの小説を書こうとしたのだろうか。『虚構の彷徨』三部作も自殺未遂という異常な体験を素材にしているが、体験とその作品化のあいだに、ある時間を太宰は置いている。その時間の距離が、レンズの焦点が合っていくように体験を鮮明にし、自分自身を客観視し作中人物として定着させるゆとりを与えてくれたのだが、「HUMAN LOST」の場合は、退院直後に筆を起し、鰭崎潤宛の書簡(十一年十一月二十六日付)によれば、「一面の焼野原に十日間さまよう」思いで書き進めたのである。自分のなかに渦巻いている憤怒のはげしさが、傷心の深さが、そしてまた必死の抗議の念が、芸術家としてのゆとりを太宰から失わせてしまったと考えてよいのではあるまいか。
十月二十三日。「妻をののしる文。」
「人を、いのちも心も君に一任したひとりの人間を、あざむき、脳病院にぶちこみ、しかも完全に十日間、一葉の消息だに無く、一輪の花、一箇の梨の投入をさえ試みない。君は、いったい、誰の嫁さんなんだい。武士の妻、よしやがれ! ただ、ただ、T家よりの金銭の仕送りに小心よくよく、或いは左、或いは右。真実、なんの権威もない。信じないのか、妻の特権を。」
「投げ捨てよ、私を。とわに遠のけ! 『テニスコートがあって、看護婦さんとあそんで、ゆっくり御静養できますわよ。』と悪婆の囁き。われは、君のそのいたわりの胸を、ありがたく思っていました。見よ、あくる日、運動場に出ずれば、蒼き鬼、黒い熊、さながら地獄、ここは、かの、どんぞこの、脳病院に非ずや。我もまた、一囚人。『ひとり!』と鍵の束持てるポマアドの悪臭たかき一看守に背押されて、昨夜あこがれ見しテニスコートに降り立ちぬ。」
しかし、ここに吐露されている心情を、太宰が現実の初代に抱いていた気持そのままと考えるわけにはいかない。
作品では、太宰をあざむいて脳病院にぶちこむ画策を、まるで「妻」ひとりがやったように書かれているが、企んだ発頭人が北芳四郎であることを太宰は見抜いていたはずである。それにまた、外部との通信が一切禁止されていることを太宰は知っていたし、初代が毎日のように病院に足を運びながら受付で面会を謝絶されていたことも、作品を書いていた時点では太宰は知っていたはずである。
それでもなお、「妻」ひとりを悪者≠ノ仕立てあげ、見当ちがいの怨み言を「妻」ひとりに投げつけたのは、なぜだったのか。
おそらく太宰は、たとえ発頭人ではないにせよ、自分を入院させるのに初代が一役買ったことが、たまらなく腹立たしかったにちがいない。へたに才覚を働かして、なんという差し出がましいことをしたことか! ただひたすらに自分を信頼し、すがり切っていれば、それでいいのだ!
「無智の洗濯女よ。妻は、職業でない。妻は、義務でない。ただ、すがれよ、頼れよ。わが腕の枕の細きが故か、猫の子一匹、いのち委《ゆだ》ねて眠っては呉れぬ。まことの愛の有様は、たとえば、みゆき、朝顔日記、めくらめっぽう雨の中、ふしつ、まろびつ、あと追うてゆく狂乱の姿である。君ひとりの、ごていしゅだ。自信を以て、愛して下さい。
一豊《かずとよ》の妻など、いやなこった。だまって、百円のへそくり出されたとて、こちらは、いやな気がするだけだ。なんにも要らない。はい、と素直な返事だけでも、してお呉れ。すみません、と軽い口調で一言そっと、おわびをなさい。」
「朝顔日記」は、太宰が弘前高校時代に最初に習い覚えた浄瑠璃である。心ならずも夫の宮城阿曾次郎と別れたのち、辛苦を重ねた末に盲目となった深雪《みゆき》は、瞽女《ごぜ》となって諸国を放浪するうち、大井川のほとりの島田宿で、今は別名を名乗っている阿曾次郎の座敷に呼ばれる。その朝顔という名の瞽女が実は深雪と知って阿曾次郎は驚くが、故あってその場では本名を明かすことができず、宿を出立する。阿曾次郎の託した扇から尋ねる夫と気付いた深雪は、はげしく降りしきる雨の中を、杖をたよりに、倒《こ》けつ転《まろ》びつ、半狂乱の姿であとを追う。
みゆきの「ふしつ、まろびつ、あと追うてゆく狂乱の姿」に較べれば、自分に無断であちこちに手を回して入院させようとした初代のなかに、へそくりを貯めた金で夫に名馬を買ってやったという山内一豊の妻の小ざかしさに似たものを感じ、それが太宰には不快でたまらなかったのだろう。
度重なる不行跡のために親兄弟、すべての肉親からの信頼を失ってしまっていた太宰は、せめて初代からはひたすらにすがられ、頼られることを、切に願っていたにちがいない。
ところで、鰭崎潤宛の書簡(十一年十一月二十六日付)で太宰は、「入院中はバイブルだけ読んでいた。」と書いている。
禁断症状がなくなってからは、太宰は毎日、むさぼるように聖書を読みつづけたことだろう。おそらくは四つの福音書を、繰り返し読んだことだろう。
イエス・キリストの語る言葉の一つ一つが、うちひしがれた太宰の心に、ちょうど乾いた荒地に水が滲み込むように、滲み込んでいったにちがいない。
聖書一巻が太宰治の思想の根幹を形造っていたことはまちがいないのだが、東京武蔵野病院における屈辱と絶望の一か月は、その意味では太宰にとって貴重な日々であったと言えるかもしれない。
ところで太宰は、いつごろから聖書に親しむようになっていたのだろうか。
「HUMAN LOST」には、「マタイ伝二十八章。読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か。」という章句がある。となると、おそくとも昭和八年の秋ごろから太宰は「マタイ伝」を読みはじめていたことになるが、十一年十月の入院時から逆算して三年と太宰は書いているわけではなく、しかし、七年夏に左翼の非合法運動から離れて以後と考えてまずはまちがいあるまい。
その後、『青い花』の創刊以来親交を結んだ山岸外史とは、檀一雄の表現を借りれば、愛とか苦悩とか信じるとか二人で怪気焔をあげていたとのことで、のちに『人間キリスト記』を著した山岸からはすくなからぬ影響を受けたものと思われる。また、船橋に移ってまもなくの十年八月下旬、小館善四郎に伴われて友人でクリスチャンの鰭崎潤が来訪し、やがて鰭崎は無教会的聖書研究雑誌『聖書知識』(塚本虎二主宰)を持参して毎月来訪するようになり、そのたびキリスト教について二人は長時間話し合ったという。なお太宰は昭和十五年頃から三、四年、『聖書知識』をみずから購読しており、内村鑑三の高弟である塚本虎二を「日本に於ける唯一の信ずべき神学者」(「誰」)と考えていた。
十年の十二月十九日から二十二日まで、太宰は甥の津島逸朗と共に湯河原、箱根を歩きまわっている。「いたたまらぬ事が、三つも重なって起り、字義どおり尻に火がついた思いで家を飛び出し」、碧眼《へきがん》の托鉢《たくはつ》僧のつもりで旅に出たのだが、その旅から帰ったあとの一か月間、持っている本を片っぱしから読み直し、しかしどの本も十頁と読めず、だが、
「内村鑑三の随筆集だけは、一週間くらい私の枕もとから消えずにいた。私は、その随筆集から二三の言葉を引用しようと思ったが、だめであった。全部を引用しなければいけないような気がするのだ。これは、『自然。』と同じくらいに、おそろしき本である。
私はこの本にひきずり廻されたことを告白する。ひとつには、『トルストイの聖書。』への反感も手伝って、いよいよ、この内村鑑三の信仰の書にまいってしまった。いまの私には、虫のような沈黙があるだけだ。私は信仰の世界に一歩、足を踏みいれているようだ。」(「Confiteor」)
信仰の世界≠ノ一歩足を踏みいれたかどうかはともかく、この内的体験がさらに一歩太宰を聖書に近付けたことはたしかであろう。そしてそのあとに、パビナール中毒の亢進による慚愧と苦悩があり、そして、バイブルだけを読んでいたという東京武蔵野病院への入院がくるのである。
太宰治と聖書――。この重要なテーマについては、太宰の人生と文学を追いながらそのつど考えていくことにして、「HUMAN LOST」とほぼ時期を同じくして書かれた「二十世紀旗手」にいささか触れてこの章を終ることにする。
「二十世紀旗手」の第一稿約六十枚を脱稿したのは九月十七日で、太宰はこれを『文藝春秋』に持ち込んでいる。しかし掲載されぬまま入院し、入院中に『新潮』『改造』から新年号への原稿依頼があり、退院直後に書いた「HUMAN LOST」を『新潮』に送った(ただし掲載されたのは四月号)。『改造』には『文藝春秋』に持ち込んであった「二十世紀旗手」を改稿して当てることにし、十一月二十五日、熱海温泉に赴き、二十九日に改稿「二十世紀旗手」三十九枚を脱稿、『改造』に送っている。
「HUMAN LOST」とは異なり、計算された構成をこの作品は持っている。標題「二十世紀旗手」、副題「生れて、すみません。」――二十世紀旗手と自矜に満ちた眼差しで昂然と頭《こうべ》をあげながら、生れて、すみません、とすぐさま首うなだれる、すでにそこから効果の計算がはじまっているのである。序章、一章とせず、序唱、壱唱と唱の字を使い、また文体もそれにふさわしく、たとえば、「苦悩たかきが故に尊からず。これでもか、これでもか、と生垣へだてたる立葵の二株、おたがい、高い、高い、ときそって伸びて、ひょろひょろ、いじけた花の二、三輪、あかき色の華美を誇りし昔わすれ顔、黒くしなびた花弁の皺もかなしく、」といった調子の、たたみかけるような独特のリズムを持っている。
小説としてのストオリイをこの作品は持っていない。自分の内面を、荒涼たる心象風景を、太宰はこの作品で表現したかったのである。「序唱 神の焔の苛烈を知れ」から「終唱 そうして、このごろ」にいたる十二の唱は、右に左に揺れ動きながら、よろめきながら、いや、よろめいているような構成をとりながら、その心象風景を見事に定着させている。
「百千の思念の小蟹、あるじあわてふためき、あれを追い、これを追い、一行書いては破り、一語書きかけては破り、しだいに悲しく、たそがれの部屋の隅にてペン握りしめたまんま、めそめそ泣いていたという。」
この結びの数行が、実によく利いているではないか。
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第四章 絶望と再生
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一 水上心中と破婚
「二十世紀旗手」を脱稿したのち、太宰は熱海にさらに一か月滞在している。『文藝春秋』二月号に三十枚の小説を書き、借銭をすこしでも返そうと考えていたようだが、
「小説を書くどころか、私は自分の周囲の荒涼に堪えかねて、ただ、酒を飲んでばかりいた。つくづく自分を、駄目な男だと思った。熱海では、かえって私は、さらに借銭を、ふやしてしまった。何をしても、だめである。私は、完全に敗れた様子であった。
私は天沼のアパート(碧雲荘)に帰り、あらゆる望みを放棄した薄よごれた肉体を、ごろりと横たえた。私は、はや二十九歳であった。何も無かった。私には、どてら一枚。Hも、着たきりであった。もう、この辺が、どん底というものであろうと思った。長兄からの月々の仕送りに縋って、虫のように黙って暮した。
けれども、まだまだ、それは、どん底ではなかった。そのとしの早春に、私は或る洋画家から思いも設けなかった意外の相談を受けたのである。ごく親しい友人であった。私は話を聞いて、窒息しそうになった。Hが既に哀しい間違いを、していたのである。」(「東京八景」)
或る洋画家、親しい友人とは、小館善四郎である。四姉きやうの義弟にあたる五歳年少の善四郎を太宰は実の弟のように可愛がっていた。当時善四郎は帝国美術学校に在学中だったのだが、その前年の十月十日、つまり太宰が東京武蔵野病院に入院する直前に、自殺をはかり、阿佐ヶ谷の篠原病院に運びこまれた。知らせを受けた太宰は初代を伴って善四郎を見舞っている。
太宰の入院後、井伏家に寄寓していた初代は東京武蔵野病院にしばしば太宰を見舞ったが、面会謝絶で会えず、その帰途、篠原病院に善四郎を見舞い、そして、十月十六日から二十四日までのあいだのことと推定されるが、「哀しい間違い」を犯したのである。二十五日前後に善四郎は退院し、帰郷するが、そのとき初代とのあいだに、二人だけの秘密にしておこうと密約を交したという。
ふとした偶然からその秘密が露顕する。熱海滞在中に太宰は浅虫の別荘で卒業作品の制作にとりくんでいた善四郎にあてて、「寝間の窓から、羅馬の燃上を凝視して、ネロは、黙した。一切の表情の放棄である。美妓の巧笑に接して、だまっていた。緑酒を捧持されて、ぼんやりしていた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙の胸を思うよ。/一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)/『傷心。』/川沿いの路をのぼれば/赤き橋、また ゆきゆけば/人の家かな。」という葉書を朱麟堂の署名で出した。「傷心。」以下の短歌を除いてこれは「HUMAN LOST」のなかの断章そのままであり、周囲の荒涼に堪えかねていた太宰は、その心境をこの一文に託したのであろう。しかし善四郎は、この一文から、初代が二人だけの秘密を太宰に洩らしてしまったのだろうと早合点した。翌十二年の三月上旬、卒業作品を提出するために上京した善四郎は、碧雲荘に立ち寄り、その便所で太宰と並んで小用を足していたとき、ごく軽い気持で初代との過失の真相を太宰に打ち明けたという。太宰は、「話を聞いて、窒息しそうになった。」
「東京八景」では、「相談を受けても、私には、どうする事も出来なかった。私は、誰にも傷をつけたく無いと思った。三人の中では、私が一番の年長者であった。私だけでも落ちついて、立派な指図をしたいと思ったのだが、やはり私は、あまりの事に顛倒し、狼狽し、おろおろしてしまって、かえってHたちに軽蔑されたくらいであった。何も出来なかった。そのうちに洋画家は、だんだん逃げ腰になった。」と、初代と善四郎から相談を受けたかのように書かれている。しかし実際にはそのようなことはなかった。「洋画家は、だんだん逃げ腰になった」のではなく、もののはずみでのかりそめの情事、若気のあやまち、としか考えていなかった善四郎は、卒業作品を提出するとさっさと帰郷してしまったという。
善四郎が帰郷した直後の三月下旬、太宰は初代と共に水上駅からほど近い谷川温泉に行き、前年の八月に滞在していた素人下宿川久保屋に一泊し、翌日、谷川岳の山麓でカルモチンによる心中をはかった。
「Hは、もう、死ぬるつもりでいるらしかった。どうにも、やり切れなくなった時に、私も死ぬ事を考える。二人で一緒に死のう。神さまだって、ゆるしてくれる。私たちは、仲の良い兄妹のように、旅に出た。水上温泉。その夜、二人は山で自殺を行った。Hを、死なせては、ならぬと思った。私は、その事に努力した。Hは、生きた。私も見事に失敗した。薬品を用いたのである。」(「東京八景」)
「二人で一緒に死のう」と初代に言って、旅に出たのだが、しかし太宰は、初代を道連れにするつもりはなかった。この心中未遂を素材にして翌年の夏に書かれた「姥捨」の一節。
「この女は死なぬ。死なせては、いけないひとだ。おれみたいに生活に圧し潰されていない。まだまだ生活する力を残している。死ぬひとではない。死ぬことを企てたというだけで、このひとの世間への申しわけが立つ筈だ。それだけで、いい。この人は、ゆるされるだろう。それでいい。おれだけ、ひとり死のう。」
「世間への申しわけが立つ」――旧刑法での、夫からの告訴による姦通罪が存在していた時代である。夫が告訴しなければ法によって処罰されることはないが、世間からのきびしい指弾は覚悟しなければならぬ。
「世の中のひとが、もし、あの人を指弾するなら、おれは、どんなにでもして、あのひとをかばわなければならぬ。」
罪を悔い、自殺をはかったとなれば、世間への申しわけが立つだろう。世間の風当りも、弱まるだろう。
主人公を嘉七とかず枝としてある「姥捨」では、水上の町が眼下に見える杉林のなかで揃ってカルモチンを嚥んだとき、はじめての人はこれで十分だと偽り、少量しかかず枝に渡さなかったと書かれている。
「姥捨」は太宰の私小説のなかで比較的虚構性の強い作品で、明らかに事実とちがった作り話と思われる箇所もいくつかある。例えば、心中に失敗したのち、かず枝は自動車で谷川温泉に帰り、嘉七は東京に戻って着換えの着物と金を用意し、叔父にたのんでかず枝を迎えに行ってもらうことになっているが、実際には、汚れた服装のまま二人はその日のうちに別々に東京に帰ってきている。太宰は碧雲荘に戻ったのだろうが、初代は井伏家の玄関をたたいている。憔悴しきった初代の姿に、井伏夫人は思わず玄関先で手をとり合って泣いたという。
杉林のなかで二人で薬品を嚥むくだりにも、あるいは虚構がほどこされているかもしれないが、いわば偽装心中を企てることによって世間の指弾から初代を庇ってやろうと思った太宰の心情に、偽りはなかっただろう。
我々はこの作品のなかから、太宰治の心の真実を読みとればよいのである。
「こんどのことは? ああ、いけない、いけない。おれは、笑ってすませぬのだ。だめなのだ。あのことだけは、おれは平気で居られぬ。たまらないのだ。
ゆるせ。これは、おれの最後のエゴイズムだ。倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんができぬのだ。」
この嘉七の独白にも、くるしいほどの真実感がある。
戦後、二十一年の十一月に太宰は坂口安吾、織田作之助、平野謙と座談会をしているが、その席で太宰は坂口安吾に執拗にくいさがっている。
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「太宰 女房を寝取られるというのは深刻だよ。坂口さんには経験がないかも知らんが……。ああいう、煮湯を呑まされるという感じはひどいものですよ。
[#ここから1字下げ]
坂口 女房を寝取られることだってそんなに深刻じゃないと思う。
太宰 そんなことはない。へんな肉体的な妙なものがありますよ。それを対岸の火災みたいな気持で……それで深刻でないなどというのは駄目ですよ。
坂口 僕はそういう所有感を持っておらんのだよ。
太宰 いや、所有欲じゃないのだ。倫理だとか、そういう内面的なものじゃない。肉体的に苦しむ。
(中略)
[#ここから1字下げ]
坂口 肉体ということにやはり一応徹しなければ文学というものは駄目だね。気取り過ぎるよ。
太宰 だけど女房を寝取られたときの苦しさというのは気取った苦しさじゃない。つまりあの型でまたやったか……それだよ。煮湯を呑むというのはそれなんだ。」
[#ここで字下げ終わり]
十年前に味わった肉体的な苦しさが、太宰のなかにまだなまなましく残っていたのであろう。
「ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが、おれの手にあまる。おれは、無力の人間だ。おれは一生、このひとのために、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。わかれよう。おれは、おれのちからで、尽せるところまで尽した。
そのとき、はっきり決心がついた。
この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとから、なんと言われたっていい。おれは、この女とわかれる。」
この女は、おれには重すぎる、おれの手にあまる、おれにだけ、無際限にたよっている、いやだ、わかれよう、というこの嘉七の、自殺に失敗したあとの独白にも、真実感がある。
太宰治は、人からたよられることを、人一倍願望していたと私は思う。「妻は、職業でない。妻は、事務でない。ただ、すがれよ、頼れよ。」(「HUMAN LOST」)「私の欲していたもの、全世界ではなかった。百年の名声でもなかった。タンポポの花一輪の信頼が欲しくて、チサの葉いちまいのなぐさめが欲しくて、一生を棒に振った。」(「二十世紀旗手」)しかし、矛盾するようだが、いや、矛盾しているとはっきり言っていいと思うが、たよられることは太宰治にとって、人一倍の心の重荷、気持の負担だったことも、また確かだろう。
適度に、程よく、ということが、太宰治にはできにくいのである。
「Alles oder Nichts」という独逸語の標題のエッセイがある。英訳すれば「All or Nothing」、一切か然らずんば無、である。「私の思念の底の一すじのせんかんたる渓流もまた、この言葉であった」と太宰はそのエッセイで書いている。
中途半端なたよられ方は、太宰治には不満なのである。「ふしつ、まろびつ、あと追うてゆく狂乱の姿。」無際限にたよられることを、太宰治は欲していた。しかし、無際限にたよられることは、太宰治の神経には堪えられない。重すぎて、やりきれなくなってくるのである。
死を共にした山崎富栄との場合にも、似たような気持の矛盾が太宰治のなかにあったことを、後に私たちは見ることになる。
水上から帰ったのち、初代は井伏家に身を寄せた。太宰のいる碧雲荘とは、歩いてすぐの近さである。しかし二人は、たぶん顔を合わせたことはなかったのではないかと思われる。その時期のことを井伏鱒二は「琴の記」という随筆のなかで次のように書いている。
「太宰君は初代さんが私のうちにいる間にも、たびたび私のうちへ将棋を指しに来た。そのつど初代さんは茶の間か台所にかくれたが、書斎と居間を兼ねた私の部屋は台所と壁一重で隣である。私のうちは建坪が少くて、茶の間から便所へ行くには私の居間につづく廊下を通らなければならないので、初代さんは便所へ行きたくても我慢しなければならないことになる。だから私は将棋は一番だけにして太宰を誘って外出する。外出してから一緒に飲むようなことがあると、太宰の上機嫌になっているところを見はからって、どうだ君、初代さんとよりを戻す気はないかと云う。すると太宰は、居直ったかのように、きっとして、その話だけは絶対にお断りしたいと、きっぱりした口をきく。そんなことが二度か三度かあったと思う。そのくせ彼は、別れた女房が万一にも短気を起しはせぬかと、はらはらしているようなところがあった。」
初代の叔父の吉沢祐を仲にして初代との離別が決められたのは、六月十日前後と思われる。七月中旬に初代は郷里の青森に帰り、その後、北海道に渡り、さらに中国を転々とし、十九年七月二十三日に青島《チンタオ》で病歿した。享年三十三。
二 虚無と絶望の底で
「私たちは、とうとう別れた。Hを此の上ひきとめる勇気が私に無かった。捨てたと言われてもよい。人道主義とやらの虚勢で、我慢を装ってみても、その後の日々の醜悪な地獄が明確に見えているような気がした。Hは、ひとりで田舎の母親の許へ帰って行った。洋画家の消息は、わからなかった。私は、ひとりアパートに残って自炊の生活をはじめた。焼酎を飲む事を覚えた。歯がぼろぼろに欠けて来た。私は、いやしい顔になった。私は、アパートの近くの下宿に移った。最下等の下宿屋であった。私は、それが自分に、ふさわしいと思った。これが、この世の見おさめと、門辺《かどべ》に立てば月かげや、枯野は走り、松は佇む。私は、下宿の四畳半で、ひとりで酒を飲み、酔っては下宿を出て、下宿の門柱に寄りかかり、そんな出鱈目な歌を、小声で呟いている事が多かった。二、三の共に離れがたい親友の他には、誰も私を相手にしなかった。私が世の中から、どんなに見られているのか、少しずつ私にも、わかって来た。私は無智驕慢の無頼漢、または白痴、または下等狡猾の好色漢、にせ天才の詐欺師、ぜいたく三昧の暮しをして、金につまると狂言自殺をして田舎の親たちを、おどかす。貞淑の妻を、犬か猫のように虐待して、とうとう之を追い出した。その他、様々の伝説が嘲笑、嫌悪、憤怒を以て世人に語られ、私は全く葬り去られ、廃人の待遇を受けていたのである。私は、それに気が附き、下宿から一歩も外に出たくなくなった。酒の無い夜は、塩せんべいを齧《かじ》りながら探偵小説を読むのが、幽かに楽しかった。雑誌社からも新聞社からも、原稿の注文は何も無い。また何も書きたくなかった。書けなかった。けれども、あの病気中の借銭に就いては、誰もそれを催促する人は無かったが、私は夜の夢の中でさえ苦しんだ。私は、もう三十歳になっていた。」(「東京八景」)
その時期のことを、太宰は「鴎」(『知性』十五年一月号)では次のように書いている。
「私は、五年まえに、半狂乱の一期間を持ったことがある。病気がなおって病院を出たら、私は焼野原にひとりぽつんと立っていた。何も無いのだ。文字どおり着のみ着のままである。在るものは、不義理な借財だけである。かみなりに家を焼かれて瓜《うり》の花。そんな古人の句の酸鼻が、胸に焦げつくほどわかるのだ。私は、人間の資格をさえ、剥奪されていたのである。
私は、いま、事実を誇張して書いてはいけない。充分に気をつけて書いているのであるから、読者も私を信用していいと思う。れいのひとりよがりの誇張法か、と鼻であしらわれるのが、何より、いやだ。当時、私は、人から全然、相手にされなかった。何を言っても、人は、へんな眼つきをして、私の顔をそっと盗み見て、そうして相手にしないのだ。私についての様々の伝説が、ポンチ画が、さかしげな軽侮の笑いを以て、それからそれと語り継がれていたようであるが、私は当時は何も知らず、ただ、街頭をうろうろしていた。一年、二年経つうちに、愚鈍の私にも、少しずつ事の真相が、わかって来た。人の噂に依れば、私は完全に狂人だったのである。しかも、生れたときからの狂人だったのである。それを知って、私は爾来、唖になった。人と逢いたくなくなった。何も言いたくなくなった。何を人から言われても、外面ただ、にこにこ笑っていることにしたのである。」
碧雲荘から移った「最下等の下宿屋」というのは、同じ天沼一丁目の鎌滝という下宿屋である。しばしばそこを訪れていた山岸外史の追想によると、「鎌滝下宿は、なぜ、こんな下宿に転居したのかと思われるくらいひどい下宿だった。廊下の板もきしむし、襖のあけたてもガタガタしていた。隙間だらけであった。年数がひどく経っている家だった。」(「人間太宰治」)ということである。その下宿の二階の、西日のあたる四畳半で、太宰は独り暮しの生活をはじめた。
この鎌滝で太宰は一年三か月をすごした。廃人≠フ待遇を受け、狂人≠ニ見られていたと太宰は書いているが、虚無と絶望の底で、灰色の毎日をただ送り迎えしていたのだろう。
しかし、ひとりで酒を飲み、酔っては下宿の門柱に寄りかかって出鱈目な歌を小声で呟いていたという「東京八景」の記述は、事実とはすこし違うようである。井伏鱒二の「亡友―鎌滝のころ―」という文章によると、「彼は山に籠る前に荻窪の鎌滝という下宿屋にいたが、いつも二人か三人の食客を泊めていた。昼間はその食客の友人がやって来て、いつ行ってみても四人五人の客がいなかったことがない。酒は平野屋という酒屋から帳面で取寄せていた。食事は下宿でつくる客膳というのを持って来させ、酒の肴にはタラコだとかウニだとか花ラッキョウだとか、そんなものを近所の漬物屋から取寄せていた。」という。
「花燭」の主人公の男爵は、東京の郊外に四畳半と六畳と八畳のひとり者としては大きすぎるくらいの家を借りて住んでおり、四畳半一間の鎌滝の太宰の部屋とはちがうのだが、男爵の家はいつも訪問客でにぎわっている。
「なんらかの素因で等しく世に敗れ、廃人よ、背徳者よとゆび指され、そうしてかれより貧しい人たちは、水の低きにつくが如く、大挙してかれの身のまわりにへばりついた。そうして、この男に、男爵という軽蔑を含めた愛称を与えて、この男の住家をかれらの唯一の慰安所と為した。男爵はぼんやり、これら訪問客たちのために、台所でごはんをたき、わびしげに芋《いも》の皮をむいていた。」
男爵は、それを廃人としての唯一のつとめかと考え、「私の身のうちに、まだ、どこか食えるところがあるならば、どうか勝手に食って下さい、と寝ころんでいた」のだが、鎌滝における太宰の身辺と、またその心境と、相通じていたのではあるまいか。
雑誌社、新聞社から原稿の注文がまるでなかったわけでもないので、小説としては『新潮』に「サタンの愛」、『若草』に「燈籠」を書き、『日本浪曼派』『文藝』『日本学藝新聞』『新潮』その他に、「思案の敗北」「一日の労苦」などのエッセイを発表している。その点では「東京八景」の記述は多少の誇張がある。
「サタンの愛」は『新潮』の十三年一月号に掲載される予定だったのだが、内務省の事前検閲にひっかかり、「風俗上こまる」という理由で掲載とりやめとなった。姉と弟の「妖しい青の愛の世界」を内容としていたようであるが、姉を二つ年上の女性Kにおきかえ、多少の手を加えて、書下し短篇集『愛と美について』のなかに「秋風記」と題して収められている。Kに連れられて伊豆の温泉への旅に出た私は、Kに言う。「僕は、人間でないのかも知れない。僕はこのごろ、ほんとうに、そう思うよ。僕は、あの、サタンではないのか。殺生石。毒きのこ。」「たいてい、わかるだろう? 僕がサタンだということ。僕に愛された人は、みんな、だいなしになってしまうということ。」「死ぬる刹那の純粋だけは、信じられる。けれども、この世のよろこびの刹那は、――」「美しい極光を見た刹那に、肉体も、ともに燃えてあとかたもなく焼失してしまえば、たすかるのだが、そうもいかない。」これらの言葉には、その当時の太宰の気持が色濃く投影されているように思われる。
「僕に愛された人は、みんな、だいなしになってしまう」という言葉の背後には、甥の津島逸朗の突然の自殺から受けた衝撃があったのだろう。ことし、二十五で死んだと「秋風記」に書かれている甥が津島逸朗で、太宰の次姉トシの長男である。太宰は四歳年少のこの甥を深く愛し、逸朗も太宰にただならぬ敬愛の念を寄せていた。太宰の影響を受けて、中学時代に逸朗は社会主義運動に走っている。青森中学卒業後、岩手医専に進学し、のち東京医専に転学したのだが、十二年の十月、突然の服毒自殺をとげた。しかも、太宰の名を利用して薬品を入手したことを知り、痛烈な衝撃を太宰は受けた。逸朗の死の直後に執筆したと思われる「思案の敗北」で太宰は、「私の一友人が四五日まえに急に死亡したのであるが、そのことに就いて、ほんの少し書いてみる。私は、この友人を大事に、大事にしていた。気がひけて、これは言い難い言葉であるが、『風にもあてず』いたわって育てた。それが、私への一言の言葉もなく、急死した。私は恥ずかしく思う。私の愛情の貧しさを恥ずかしく思うのである。おのれの愛への自惚れを恥ずかしく思うのである。」と痛恨の念を吐露している。
「言えば言うほど、人は私を信じて呉れません。逢うひと、逢うひと、みんな私を警戒いたします。ただ、なつかしく、顔を見たくて訪ねていっても、なにしに来たというような目つきでもって迎えて呉れます。たまらない思いでございます。」――十二年十月号の『若草』に発表された「燈籠」の書き出しである。当時の太宰の心情の表白であろう。しかし、この十七枚の短篇のなかに、虚無と絶望の底にともった幽かな燈火《ともしび》を、我々は見出すことができる。貧しい下駄屋の娘のさき子は、思いを寄せている年下の学生に人並の仕度をさせてやりたく、海水着を一枚万引する。見付かって交番に連行されたさき子は、必死になって抗弁する。私を牢へいれてはいけない、私は悪くないのだ、人をだましてもみんなからほめられている人だっているじゃないか、私は強盗にだって同情できる、あの人たちは弱い正直な性質で、他人をだましていい生活をするほど悪がしこくないから、だんだん追いつめられて、ばかなことをして、牢へいれられてしまうのだ……。このさき子の必死の抗弁は、太宰自身の世間≠ヨの抗議と考えていいだろう。
「私は爾来、唖になった。」(「鴎」)。唖が、言葉を持ちはじめたのである。
この小説は、さき子たち貧しい親子三人が、とりかえた明るい電球の下で夕食をとるところで終る。
「私たちのしあわせは、所詮こんな、お部屋の電球を変えることくらいのものなのだ、とこっそり自分に言い聞かせてみましたが、そんなにわびしい気も起らず、かえってこのつつましい電燈をともした私たち一家が、ずいぶん綺麗な走馬燈のような気がして来て、ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ、と庭に鳴く虫にまでも知らせてあげたい静かなよろこびが、胸にこみあげて来たのでございます。」
「HUMAN LOST」「二十世紀旗手」の脱稿以来ほぼ十か月ぶりに書かれたこの小説は、文体の点でも、大きく変っている。平明な、物語り調の文体である。また、「女生徒」「葉桜と魔笛」「皮膚と心」以下「斜陽」に至るまでの、太宰の得意とした女性の独白体の小説のこれは嚆矢《こうし》をなすもので、その意味でも、いわゆる転機∴ネ後の太宰の文学との架橋となった作品と言えよう。
すこしずつ、すこしずつ、太宰の心のなかに変化が起ってくる。
「このごろだんだん、自分の苦悩について自惚れを持って来た。自嘲し切れないものを感じて来た。生れて、はじめてのことである。自分の才能について、明確な客観的把握を得た。自分の知識を粗末にしすぎていたということにも気づいた。こんな男を、いつまでも、ごろごろさせて置いては、もったいない、と冗談でなく、思いはじめた。生れて、はじめて、自愛という言葉の真意を知った。エゴイズムは、雲散霧消している。」(「一日の労苦」十三年一月二十二日執筆)
そして、やがて、いわゆる転機≠ェおとずれる。
三 転機
「何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。故郷の家の不幸が、私にその当然の力を与えたのか。長兄が代議士に当選して、その直後に選挙違反で起訴された。私は、長兄の厳しい人格を畏敬している。周囲に悪い者がいたのに違いない。姉が死んだ。甥が死んだ。従弟が死んだ。私は、それらを風聞に依って知った。早くから、故郷の人たちとは、すべて音信不通になっていたのである。相続く故郷の不幸が、寝そべっている私の上半身を、少しずつ起してくれた。私は、故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。金持の子というハンデキャップに、やけくそを起していたのだ。不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、厭世的にしていた。金持の子供は金持の子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。逃げるのは卑怯だ。立派に、悪業の子として死にたいと努めた。けれども、一夜、気が附いてみると、私は金持の子供どころか、着て出る着物さえ無い賤民であった。故郷からの仕送りの金も、ことし一年で切れる筈だ。既に戸籍は、分けられて在る。しかも私の生れ育った故郷の家も、いまは不仕合せの底にある。もはや、私には人に恐縮しなければならぬような生得の特権が、何も無い。かえって、マイナスだけである。その自覚と、もう一つ。下宿の一室に、死ぬる気魄も失って寝ころんでいる間に、私のからだが不思議にめきめき頑健になって来たという事実をも、大いに重要な一因として挙げなければならぬ。なお又、年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げる事も出来るであろうが、人の転機の説明は、どうも何だか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙が匂っているものだ。人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものでは無いからでもあろう。多くの場合、人は、いつのまにか、ちがう野原を歩いている。
私は、その三十歳の初夏、はじめて本気に、文筆生活を志願した。思えば、晩い志願であった。私は下宿の、何一つ道具らしい物の無い四畳半の部屋で、懸命に書いた。下宿の夕飯がお櫃に残れば、それでこっそり握りめしを作って置いて深夜の仕事の空腹に備えた。こんどは、遺書として書くのではなかった。生きて行く為に、書いたのだ。一先輩は、私を励ましてくれた。世人がこぞって私を憎み嘲笑していても、その先輩作家だけは、始終かわらず私の人間をひそかに支持して下さった。私は、その貴い信頼にも報いなければならぬ。やがて、『姥捨』という作品が出来た。Hと水上温泉へ死にに行った時の事を、正直に書いた。之は、すぐに売れた。忘れずに、私の作品を待っていてくれた編輯者が一人あったのである。私はその原稿料を、むだに使わず、まず質屋から、よそ行きの着物を一まい受け出し、着飾って旅に出た。甲州の山である。さらに思いをあらたにして、長い小説にとりかかるつもりであった。」(「東京八景」)
多少の註釈を加えると、長兄文治が第二十回衆議院議員の総選挙に四十歳の若さで当選したのは、十二年の四月三十日である。しかし五月、買収供応による選挙違反に問われ、当選を辞退した。公判の結果、罰金二千円を課せられ、十年間の公民権停止処分を受けた。
「戦争」――十二年七月七日に蘆溝橋事件が勃発し、八月十三日には上海事変が起り、日中の全面戦争が開始された。十一月五日の杭州湾上陸、十二月十三日の南京攻略と戦火は拡大し、翌十三年三月には国家総動員法が可決され、日本は戦時体制に入った。
「歴史観の動揺」――これについては、『あらくれ』十三年五月号に発表した「多頭蛇哲学」というエッセイを引用する。「事態がたいへん複雑になっている。ゲシュタルト心理学が持ち出され、全体主義という合言葉も生れて、新しい世界観が、そろそろ登場の身仕度を始めた。(中略)自己のかねて隠し持ったる唯物論的弁証法の切れ味も、なんだか心細くなり、狼狽して右往左往している一群の知識人のためにも、この全体主義哲学は、その世界観、その認識論を、ためらわず活溌に展開させなければなるまい。」
太宰を励ましてくれた一先輩とは井伏鱒二であり、作品を待っていてくれた編輯者とは『新潮』の楢崎勤である。太宰は『新潮』に、十年十二月号への「地球図」を最初として、「めくら草紙」「創生記」「HUMAN LOST」「一日の労苦」を発表してきた。楢崎勤は太宰の才能を認め、また人柄に好意を寄せていた。たとえば「狂言の神」事件≠フときなど太宰は楢崎にたいへんな迷惑をかけたのだが、楢崎は太宰のよき理解者としてまた庇護者として終始していた。その時期、楢崎勤のような理解ある編集者を持ったことは、太宰にとって大きな幸運であったと言わねばならない。
「私は、その三十歳の初夏、はじめて本気に、文筆生活を志願した。」その三十歳の初夏に発表したエッセイに「答案落第」がある。そのなかで太宰は書いている。
「おととしあたり、私は私の生涯にプンクトを打った。死ぬと思っていた。信じていた。そうなければかなわぬ宿命を信じていた。自分の生涯を自分で予言した。神を冒したのである。
死ぬと思っていたのは、私だけではなかった。医者も、そう思っていた。家人も、そう思っていた。友人も、そう思っていた。
けれども、私は、死ななかった。私は神のよほどの寵児にちがいない。望んだ死は与えられず、そのかわり現世の厳粛な苦しみを与えられた。私は、めきめき太った。愛嬌もそっけもない、ただずんぐり大きい醜貌の三十男にすぎなくなった。この男を神は、世の嘲笑と指弾と軽蔑と警戒と非難と蹂躙と黙殺の炎の中に投げ込んだ。男はその炎の中で、しばらくもそもそしていた。苦痛の叫びは、いよいよ世の嘲笑の声を大にするだけであろうから、男は、あらゆる表情と言葉を殺して、そうして、ただ、いも虫のように、もそもそしていた。おそろしいことには、男は、いよいよ丈夫になり、みじんも愛くるしさがなくなった。
まじめ。へんに、まじめになってしまった。そうして、ふたたび出発点に立った。この選手には、見込みがある。競争は、マラソンである。百米二百米、の短距離レースでは、もう、この選手、全然見込みがない。足が重すぎる。見よ、かの鈍重、牛の如き風貌を。
変れば変るものである。五十米レエスならば、まず今世紀、かれの記録を破るものはあるまい、とファン囁き、選手自身もひそかにそれを許していた、かの俊敏はやぶさの如き太宰治とやらいう若い作家の、これが再生の姿であろうか。頭はわるし、文章は下手、学問は無し、すべてに無器用、熊の手さながら、おまけに醜貌、たった一つの取り柄は、からだの丈夫なところだけであった。
案外、長生きするのではないか。」
人生は短距離レエスではない、マラソンである。文学もまた、旗取り競争第一着、駿足を誇り合う短距離レエスではない。俊敏はやぶさの如しと言われた二十世紀旗手の自矜を、太宰治は捨てる。「鈍重、牛の如き風貌」で、ゆっくりと再生の途を歩きはじめる。
「ながいことである。大マラソンである。いますぐいちどに、すべて問題を解決しようと思うな。ゆっくりかまえて、一日一日を、せめて悔いなく送りたまえ。幸福は、三年おくれて来る、とか。」(「答案落第」)
「一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。『思い煩うな。空飛ぶ鳥を見よ。播かず。刈らず。蔵に収めず。』」(「一日の労苦」)
「思い煩うな。空飛ぶ鳥を見よ。播かず。刈らず。蔵に収めず。」とは、「マタイ伝第六章」にあるイエス・キリストの言葉である。「何を食《くら》い、何を飲まんと生命《いのち》のことを思い煩い、何を着んと体《からだ》のことを思い煩うな。生命《いのち》は糧《かて》にまさり、体は衣にまさるならずや。空飛ぶ鳥を見よ、播《ま》かず、刈らず、倉に収めず。然るに汝らの父は、これを養いたまう。汝らは之よりも遥かに優《すぐ》るる者ならずや。野の百合は如何にして育つかを思え、労せず、紡《つむ》がざるなり。されど我なんじらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装《よそおい》この花の一つにも及《し》かざりき。今日《きよう》ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装《よそお》い給えば、まして汝らをや。この故に明日《あす》のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。一日《いちにち》の労苦は一日にて足れり。」
のちに太宰は、「鴎」のなかにこのイエス・キリストの言葉を引用し、「キリストの慰めが、私に、『ポオズでなく』生きる力を与えてくれたことが、あったのだ。」と書いている。
「汝らは之よりも遥かに優《すぐ》るる者ならずや。」自分を粗末にしてはならぬ。自分みずからをいつくしみ、自愛の心を持たねばならぬ。
明日のことを思い煩うな。焦らず、ゆっくりとかまえて、その日その日を、悔いなく送るがよい。一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。
ところで、再生の出発点となった作品は、「姥捨」よりも半月ほど前の七月下旬に脱稿された「満願」である。わずか五枚の掌篇だが、短篇小説の名手太宰治の代表作の一つに数えてよい名作である。出来栄えの見事さもさることながら、作風においても、また籠められた心情においても、太宰は新しい境地をこの作品によってひらいたと言っていい。
毎朝、散歩の途中に立ち寄るお医者さんの家に、薬をとりにくる若い女性がいる。小学校の先生の奥さんで、御主人が三年まえに肺を悪くし、かなり恢復に向ってはいるのだが、お医者は心を鬼にして、いまがだいじのところと、固く禁じている。
「八月のおわり、私は美しいものを見た。朝、お医者の家の縁側で新聞を読んでいると、私の傍に横坐りに坐っていた奥さんが、
『ああ、うれしそうね。』と小声でそっと囁いた。
ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるとまわした。
『けさ、おゆるしが出たのよ。』奥さんは、また、囁く。
三年、と一口にいっても、――胸が一ぱいになった。年つき経つほど、私には、あの女性の姿が美しく思われる。あれは、お医者の奥さんのさしがねかも知れない。」
くるくるっとまわる白いパラソルが眼前に彷彿《ほうふつ》としてくるではないか。飾り気のない素直な文体の、その行間から、生きてゆくことのよろこびと美しさが、ごく自然にあふれ出ている。
太宰治は、明るい微笑をうかべながら、「ちがう野原」を、ゆっくりと歩きはじめたのである。
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第五章 安定と反俗
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一 婚約
太宰が鎌滝を引きはらい、思いをあらたにして長い小説にとりかかるため、井伏鱒二が滞在していた御坂峠の天下茶屋に赴いたのは、十三年の九月十三日である。十一月十六日までを、河口湖を見おろし富士を真向いに望む茶店の二階ですごすのだが、その二か月余のことは、ほぼ事実そのままに「富嶽百景」に書かれている。思いをあらたにしてとりかかろうとした長い小説とは「火の鳥」のことだが、未完におわったこの小説については後に述べることにしよう。
御坂峠に来て六日めの九月十八日、甲府市水門町の石原家で、太宰は石原美知子と見合いをするのだが、そこに至るまでのいきさつは、井伏鱒二の随筆「亡友」によると、大略つぎのようなことである。
鎌滝で食客たちにとりまかれながら自堕落とも頽廃的とも見える生活を送っていた太宰に、ぜひ妻帯させねばならないと考えたのは北芳四郎と中畑慶吉である。こんな生活をつづけていると、またパビナールの注射をはじめはしないかと懸念したふたりは、井伏に太宰の再婚について相談した。不行跡を重ねて評判の悪い太宰の嫁を郷里で捜すわけにはいかない、誰か適当な心当りはないだろうか。
「嫁さんを郷里以外のところで捜そうとするのだが、私は適当な女性を知らないと答えた。そのころ私の知っている若い女は、カフェーの女給以外には一人もいなかった。
『いや、女給さん結構です』と中畑さんが云った。北さんも『連れ子さえなければ、誰だって結構です』と言った。」
嫁捜しのためのカフェー通いを太宰は始めたが、結果は捗々しくなかった。その後、多少のいきさつがあった後、井伏の知人で甲府のバス会社の営業課長をしている斎藤文二郎の夫人から、女学校時代の友人の娘の写真が井伏あてに送られてきた。斎藤夫人は井伏から太宰の嫁捜しの話を聞いていたのである。井伏はその写真を太宰に渡し、太宰は何も言わないでそれを持ち帰った。それから一週間たち二週間しても、太宰は写真について何も言わず、井伏も聞こうとしなかった。
やがて井伏は、八月上旬、仕事をするため御坂峠の天下茶屋に行き、自分と入れ代りにこちらに来て仕事をするよう鎌滝の太宰に再三手紙を出した。そのすすめによって太宰も御坂峠に行ったのだが、着いて五日めの十七日に斎藤文二郎が甲府から訪ねてきた。バスの女車掌から太宰が来ていることを聞き、夫人にそれを話すと、写真のぬしに何かの気持があるからこんな山宿に滞在しているのだろうと斎藤夫人は解釈した。その打診のために文二郎は天下茶屋に来たのである。そして翌十八日の見合いの運びとなった。
「翌日、太宰の見合に私は附添人としてついて行った。私の家内は山に残っていた。
斎藤さんは会社の会議があるので留守であった。奥さんの案内で、私たちは写真の本人の宅に伺ったが、奥さんと私は応接間にはいると直ぐ席をはずした。奥さんがそうするように私に囁いたからである。太宰とこの家の主婦が、玄関まで私たちを見送りに立って来た。
『バスの都合で、僕は急ぐからね』と私は太宰に云った。『決して置いてけぼりにするわけじゃないが、バスがなくなるからね。でも、君はゆっくり話して行くんだよ。いいかね、気を落ちつけることだよ。』
『はア。』
と微かに太宰は答えた。目のたまが吊りあがって、両手をだらんと垂れていた。緊張のあまり、からだの力が抜けていたのかもわからない。
『まあ、なんて子供っぽいかたなんでしょう。』
と斎藤さんの奥さんは、外に出てからつくづく驚いたように言った。」(「亡友」)
それが「富嶽百景」では次のようになっている。
「母堂に迎えられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、『おや、富士。』と呟いて、私の背後の長押《なげし》を見あげた。私も、からだを捻《ね》じ曲げて、うしろの長押《なげし》を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻《ね》じ戻すとき、娘さんを、ちらりと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。」
応接間にはいるとすぐ席をはずし、そのまま太宰を残して帰ってしまった井伏が、母堂とおとな同士のよもやま話をしたり、「おや、富士。」と呟いたりするはずはない。これは太宰の作り話とみるべきであろう。「富嶽百景」はほぼ事実そのままに書かれてはいるのだが、ディテールにおいてはかなりの潤色があると思われる。小説である以上あたりまえのことである。
石原美知子は当時二十七歳で、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)を卒業し、山梨県立|都留《つる》高等女学校に在職していた。結婚を決意した太宰は、すぐにその気持を井伏鱒二、北芳四郎、中畑慶吉に書き送っている。中畑慶吉宛書簡には、「お嫁の話、先方の娘さんは、私の創作集を読んで、私のことをみんな知って、そうして考えた末、縁あらばとつぎたいと申して居るのだそうで、私としても、別に私の一身上のことについてはかくしだてする必要もなく、それならばと井伏さんと二人で見に行ったわけなのです。」とあり、また「斎藤氏も、私の今までの経歴、素行を充分しらべられた筈で、私のうちのことなども知って居る様子でございます。」と書かれている。非合法運動、三度の自殺未遂、パビナール中毒、破婚、――良家の子女としては、あまり望ましくない結婚相手である。その経歴、素行を承知の上で、なお嫁ぎたいという美知子の気持は、太宰には有難かっただろうし、また安心感もあったのだろう。
しかし、金がなく、生家からの援助も期待できず、結婚費用を捻出できないことに太宰は心を痛めていた。十月十九日付井伏鱒二宛書簡には次のように書かれている。
「私は、あれから斎藤さんとこに行って、私の貧乏なことを、どもりながら告白いたしました。うちでも何もかまって呉れないのだから、石原さんのほうでも、それが覚悟なら、いただきたいと申しました。斎藤さんでは、それは、まえから石原氏のほうへも言ってあり、石原氏のほうでも、それは承知の上である、とのことで、その夜は甲府に一泊し、翌る日、私は石原氏のほうへお寄り致しましたところ、ちょうど娘さんも大月から来て居りまして、私は石原のお母さんには、ただ『ゆうべ、斎藤さんのところでお話いたしました。のちほど、その話を斎藤さんの奥さんが申上げにお伺いする筈です。』とだけ言って、それから私と娘さんと二人きりになったときに、私は、うちでは何も、かまって呉れないこと、また、別段よせということもないらしく、僕ひとりでなんでもやらなければいけなくなったということを、言いました。娘さんは、式や形式など、どうでもいい、結婚を早くさっさとしてもらいたい、くるしくてかなわない、いま無理に小説あせって書かなくていい、とまるで私を養ってでも呉れるような勢だったので、かえって私は落ちついて、やっぱり、でも、斎藤さんのお顔も、できるなら、立てたほうがいいのだし、僕は、いままで世の中の仕来《しきた》りを破るような、非常識な行為ばかりして、ずいぶんくやしい思いもあったし、できることなら、常識的な順序を踏んで行きたく、努力している、と申しました。それから、お母さんやおねえさんと、ずいぶん永いこと話をして、私は、話の途中で、私の分家させられていること、財産は、一文もないこと、もう八年も故郷へ帰っていないことなど、ありのままに言いました。お母さんも、おやおや、と言って笑っていました。そんなに、失望の色も、ないようでした。これから十年も経ったら、どうにかひとりまえになれるでしょうとも私言いました。お母さんは、そうだ、そうだ、なんでもこれからだ、自分の仕事に精出して行くのがいちばんだ、というようなことを繰りかえして言っていました。」
そのときのことが、「富嶽百景」では次のようになっている。
「そのころ、私の結婚の話も、一頓挫のかたちであった。私のふるさとからは、全然、助力が来ないということが、はっきり判ってきたので、私は困って了った。せめて百円くらいは、助力してもらえるだろうと、虫のいい、ひとりぎめをして、それでもって、ささやかでも、厳粛な結婚式を挙げ、あとの、世帯を持つに当っての費用は、私の仕事でかせいで、しようと思っていた。けれども、二、三の手紙の往復に依り、うちから助力は、全く無いということが明らかになって、私は、途方《とほう》にくれていたのである。このうえは、縁談ことわられても仕方が無い、と覚悟をきめ、とにかく先方へ、事の次第を洗いざらい言って見よう、と私は単身、峠を下り、甲府の娘さんのお家へお伺いした。さいわい娘さんも、家にいた。私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉皆《しつかい》の事情を告白した。ときどき演説口調になって、閉口した。けれども、割に素直に語りつくしたように思われた。娘さんは、落ちついて、
『それで、おうちでは、反対なのでございましょうか。』と、首をかしげて私にたずねた。
『いいえ、反対というのではなく、』私は右の手のひらを、そっと卓の上に押し当て、『おまえひとりで、やれ、という工合いらしく思われます。』
『結構でございます。』母堂は、品よく笑いながら、『私たちも、ごらんのとおりお金持ではございませぬし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。』
私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めていた。眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思った。」
しかし、厄介なことがひとつあった。甲府地方では、結婚式を挙げる前に「酒入れ」という儀式を行なう習慣があり、「酒入れ」をしないで結婚すると近所じゅうの物笑いになるのである。婿側から代理人が酒を持って嫁の家に行く、嫁側では一族が集まって神前に酒を供えて待っている、双方の酒を神前で混ぜ合わせ、その酒をつかって三々九度をするという約婚成立の儀式である。その婿側の代理人になってほしいと太宰は井伏に懇願した。そのような煩らわしいことを井伏にたのむのは辛かったのだが、斎藤文二郎夫妻、とくにその夫人に強い希望があったのである。「もう井伏さんには、わずらわしさおかけできない、と固く心に誓ったのですが、……ただ、この『酒入れ』だけは、斎藤さんのお顔も立てねばならず、……もう、ほんとうに、それだけで、あとは、もう、わずらわしさおかけいたしませぬゆえ、お願い申します。」と懇願している。
井伏は太宰の懇願に負けたが、そのとき井伏は、誓約書を書くことを太宰に求めた。中畑慶吉宛の太宰の書簡にはこう書かれている。
「井伏様も、こんどのことは、ずいぶんお考えの上らしく、約婚成立の式には、井伏様わざわざ甲府へおいで下さるよう、斎藤氏も私も、お願いしましたところ、私に、今後いかなることあっても再び破婚の何のと言うことないという誓約の一札入れなければ、甲府へ行って、その式に立ち会うのは、いやだ、とおっしゃり、私も、厳粛の気持ちで、今後そのようなことがあったら、私を完全の狂人として、あつかって下さい、と一札いれました。」
その井伏宛の誓約書は、次のような文面である。
「このたび、石原氏と約婚するに当り、一札申し上げます。私は、私自身を、家庭的の男と思っています。よい意味でも、悪い意味でも、私は放浪に堪えられません。誇っているのでは、ございませぬ。ただ、私の迂愚な、交際下手の性格が、宿命として、それを決定して居るように思います。小山初代との破婚は、私としても平気で行ったことではございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生というものを知りました。結婚というものの本義を知りました。結婚は、家庭は、努力であると思います。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。貧しくとも、一生大事に努めます。ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい。以上は、平凡の言葉でございますが、私が、こののち、どんな人の前でも、はっきり言えることでございますし、また、神様のまえでも、少しの含羞もなしに誓言できます。何卒、御信頼下さい。
昭和十三年十月二十四日
[#地付き]津島修治(印)」
誓約書を書かされるについて、なにほどかの屈辱感が太宰になかったはずはあるまい。しかしおそらく、太宰は真剣な気持でこれを書いたのだろう。
なによりも、ともすれば放縦無頼に流れがちだったそれまでの生活を清算し、安定した家庭環境のなかに身を置き、文学一筋に精進しようという決意を、太宰が強く持っていたからであろう。
それに、ひとり身での生活に耐える強さが、太宰にはなかった。身辺にいて、なにくれと身の回りの世話を焼いてくれる伴侶が、太宰には必要だった。そしてまた、安心して甘えられ、我儘を通してくれ、時に泣き言や繰り言を聞いてくれるお守役《もりやく》が、太宰には必要だった。
その意味では、「家庭的の男」と言えなくもないのである。
十一月六日、石原家において、「酒入れ」の儀式と婚約披露が行なわれた。井伏は新年号の原稿に忙殺されているなかを、二、三註文を断って甲府に赴いた。「お情に、私、泣いてしまいました。このごろ、人の情が身にしみます。」と太宰は中畑慶吉宛に書き送っている。
十一月十六日、きびしい寒さに閉口した太宰は御坂峠を下り、甲府市|西竪《にしたつ》町の素人下宿寿館に止宿した。「東京へ帰ったら、また、ぶらぶら遊んでしまって、仕事のできないのが判っているから、とにかく、この小説の目鼻のつくまでは、と一先ず、峠の下の甲府のまちに降りて来た。工合がよかったら甲府で、ずっと仕事をつづけるつもりなのである。」と、「九月十月十一月」という随筆に書いているが、婚約者の近くですごしたいという気持も強かったのであろう。
美知子夫人の回想によると、太宰は毎日のように石原家にきて、手料理を肴にお銚子を三本ほどあけていたという。山岸外史がその年の暮に甲府に太宰を訪ねたときも太宰は石原家に行っていて、まるでわが家のように自由に振舞い、この家の主人らしくさえ見えたという。太宰の信用を落してはいけないと山岸はつとめて慎重な態度をとり、酒も殺して飲み、太宰を将来ある男と賞揚し、大切にしてくれるよう頼んだ。太宰はそれがよほど嬉しかったとみえ、山岸の帰途を送ってくる道すがら、感謝の言葉を繰りかえした。「おそらく太宰は、石原家のお美知さんと結婚して、失敗だったと思っていたそれまでのすべての過去を振り捨てて、新しい生活に決死の覚悟ではいってゆくつもりでいたのである。そんな自分を石原家に証明できる味方も欲しかったのにちがいない。」(「人間太宰治」)と山岸外史は書いている。
二 「火の鳥」と「富嶽百景」
御坂峠の天下茶屋に籠って、思いをあらたにして書きはじめた「火の鳥」は、寿館に移ってからも毎日二、三枚ずつ書きつがれた。寿館から井伏鱒二宛十二月十六日付書簡でも、「長篇のほうも百枚突破して、いろいろ難航ですが、掻きわけ掻きわけ、書きすすめて居ります。来年の三月ごろまでには完成させたく思います。たしか、いいものの筈でございますから、本にでもなったときには、どうか御一読下さい。」と苦心のほどを述べている。しかし、ついに筆が進まなくなり、百三枚のまま中絶し、未完におわった。この未完の小説はのちに書下し短篇集『愛と美について』(昭和十四年五月、竹村書房刊)に収録されることになるが、その短篇集の自序で、「『火の鳥』は、書きかけて、一時ていとんの形である。なかなか、むずかしいのである。これに就いては、もうすこし考えさせてもらいたい。」と太宰は書いている。よほど心残りだったのだろうと思うが、その後、稿を継ぐことはついになかった。
「火の鳥」は、太宰治の全文芸のなかでただひとつの、本格的構成を持たそうとした三人称長篇小説である。「序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。」その序編が五十三枚。「本編には、女優高野幸代の女優としての生涯を記す。」その本編が五十枚まで進んだところで中絶したのだが、簡単にストオリイを追ってみることにしよう。
銀座のバアの女給高野|幸代《さちよ》は、はじめての客須々木乙彦と帝国ホテルで心中を図り、乙彦は死に、幸代は生き残る。乙彦は右翼青年で銀行を襲撃し警察から追われている男である。右翼と左翼の違い、男が死に女が生き残った違いはあるが、太宰の田辺あつみとの心中となにやら似通っている。幸代は留置場に入れられ取調べを受けるが、乙彦の親戚の青年で或る大学の医学部の研究室につとめている高須隆哉が身柄を引き受けてくれる。隆哉にとって乙彦は「いのちの糧《かて》」のような存在であった。
隆哉に送られて帰った間借りの部屋には、新聞記者の善光寺助七が待っていた。助七はさちよに特別な感情を持っている。ふたりでさちよの部屋を出てから、助七は隆哉に打ち明ける。おれはあの女に勝ちたい、あの人の肉体を完全に欲しい、おれはあの人に軽蔑されてきたが、あの人におれの子供を生ませてみせる、おれを軽蔑するあの虚傲の女を、おれはたまらなく好きなんだ……。
帰郷したさちよは、伯父にたのんで山のなかの温泉に身をかくすが、その温泉宿で、仕事にきていた旧知の劇作家三木朝太郎に偶然に邂逅する。朝太郎に金を借りてさちよは東京に舞い戻るのだが、温泉宿で朝太郎に身をまかせる。
三木と助七はかねて顔見知りの間柄なのだが、銀座のバアで一緒に飲んでいるとき、山の宿でのことを三木が口を滑らせ、激昂した助七は三木に決闘を申し込み、ふたりの戸山ガ原での殴り合いというところで序編はおわる。
上京したさちよは、もと銀座の同じバアにつとめていた八重田数枝のアパートにころがりこみ、厄介になる。居所を捜し当てた三木は、さちよに女優になることをすすめ、ときどき立ち寄ってはチェーホフやストリンドベリイの戯曲集などを置いていく。
ある晩、突然、さちよは数枝のアパートから姿を消し、三木の家を訪ねる。三木は不在だったが、その老母にやさしく迎え入れられ、老母は朝太郎のよさをさちよに語って聞かせる。
朝太郎の父が相場で大失敗し、すっからかんになり、それでも父は見栄を張って、内緒でかくしている山がある、金《きん》の出る山ひとつ持っていると、とんでもない嘘を言い出した。嘘とわかっているだけに、聞いているほうが、情ないやら、あさましいやら、いじらしいやら、涙が出てきて困ったが、父はいよいよむきになって、地図やら何やらたくさん出してきて、みんなで山に行こうとまで言い出す。困ってしまって、東京の大学に入ったばかりの朝太郎に手紙で事情を知らせると、朝太郎はすぐに東京から駈けつけ、大喜びのふりして、お父さん、そんないい山を持っていながら、なぜ僕に今までかくしていたのです、そんないい事があるんだったら、僕は学校をよします、この家も売りとばして、すぐにその山の金鉱をしらべに行こうと、父の手をひっぱるようにしてせきたて、それからわたくしをものかげに呼んで、お父さんはさきが長くないのだ、おちぶれた人に、恥をかかせちゃいけないと、きつくわたくしを叱った。それから親子三人、汽車に乗り、馬車に乗り、雪道歩いて、信濃の山奥に行き、温泉宿に泊って、まる一年間、朝太郎は降っても照っても父のお伴して山を歩きまわり、ほうぼう引っぱりまわされ、出鱈目の説明を聞かされてもいちいちうなずき、毎日へとへとになって帰り、そして一年後、父は女房、子供にも立派に体面保って、恥を見せずに、その信濃の山宿で安楽な死に方をした。
あの子はみどころがあります。私はあの子を信じています。たとえあれが人殺ししたって、わたくしはあれを信じている。あれは、情の深い子です、と老母はさちよに語る。
酔って帰ってきた三木に、仕事の相談に来たとさちよは言うが、三木は不機嫌にさちよを突き放す。君には手のつけられない横着なところがある、僕は君を買いかぶりすぎていたようだ、山の宿を出て上京してから数枝のところにころがりこんだまま何もしないじゃないか、たしかな目的と具体的な計画があっての出京だと思っていたのになんたることだ、帰れ。しかし三木はさちよを突き放しきれず、その日からふたりは同棲する。
やがてさちよは鴎座に入って女優となり、三木の奔走でいきなり大役をふられる。チェーホフの「三人姉妹」の長女オリガ。築地小劇場での初舞台で、さちよはオリガを見事に演じ、天才女優の出現と騒がれるが、公演の三日目、見にきていた高須隆哉のはげしい舌打ちによって、つまずく。あの女はナルシッサスだ、なぜ女優なんかになったのだ、あの様子では、須々木乙彦のことなんか、ちっとも、なんとも、思っていないのだろう、悪魔、でなければ、白痴だ、と高須は舌打ちして廊下に出てしまうのだが、その舌打ちが舞台のさちよの胸を刺す。あなたの態度が一ばん正しい、あなたの感じかたが一ばん正しい、あたしは舞台で自分の身の程をはっきり知った、しかし自分も精いっぱいなのだ、ぜひ会ってくれと伝言し、隆哉は楽屋に行くのだが、楽屋にきていた八重田数枝が素早く見とがめ、いまはあの子をそっとしておいてほしいと、隆哉を押しかえす。
その夜、数枝は隆哉を、銀座のバアに連れて行く。そして、心中を図ったその日に乙彦とさちよが坐った同じソファに腰をおろす。隆哉は、女優なんかやめさせてさちよを国に帰すべきだと言い、いや、それは残酷だ、国に帰ればさちよは座敷牢だ、一生涯村の笑われ者だ、と数枝はゆずらず、バアにおけるそのふたりのやりとりで、この小説は中絶する。
三百枚くらいにはなると予定されていたこの長篇小説が、なぜ三分の一ほどのところで停頓してしまったのだろうか。よくは判らないが、登場人物がそれぞれの個性を持ち、それぞれの人生観を持ち、作者と離れて一人歩きをしていくような、本格的な客観小説、三人称小説は、所詮、太宰治の資質に合わなかったのではなかろうか。
「姥捨」を書き進めていたころに、御坂峠にいた井伏鱒二宛に送った書簡で、「リアルな私小説は、もうとうぶん書きたくなくなりました。フィクションの、あかるい題材をのみ選ぶつもりでございます。」と太宰は書いている。題材があかるいかどうかはともかく、「火の鳥」がまったくのフィクションであることにちがいはないのだが、まったくのフィクションを作ることは、太宰には、「なかなか、むずかしいのである。」ということだったのだろう。
この小説は、ストオリイの展開はむしろ単純で、アクションも少い。目立つことは、三木朝太郎の母が語る物語などはその一例だが、登場人物の会話や独白がたいへんに多いことである。なお、太宰は、朝太郎の母の語る話を、戦後の作品「十五年間」にそのまま引用し、「このような思想を、古い人情主義さ、とか言って、ヘヘンと笑って片づける、自称『科学精神の持主』とは、私は永遠に仕事を一緒にやって行けない。」と言っているが、それはともかく、会話、独白の多い小説である。そして、それぞれの登場人物の語る言葉が、その多くが、太宰治自身の思念の表白のように思えてならないのである。
たとえば、数枝のアパートにころがりこんださちよが、みぞれの降る夜に、電気を消したまっくらい部屋で、寝ながら数枝に言う言葉。
「あたし、お役に立ちたいの。なんでもいい、人の役に立って、死にたい。男のひとに、立派なよそおいをさせて、行く路々に薔薇の花を、いいえ、すみれくらいの小さい貧しい花でもがまんするわ、一ぱいに敷いてやって、その上を堂々と歩かせてみたい。」
また、
「それを、男ったら、ひとがいいのねえ。だれもかれも、みんなお坊ちゃんよ。お金と、肉体だけが、女のよろこびだと、どこから聞いて来たのか、ひとりできめてしまって、おかげで自分が、ずいぶんあくせく無理をして、女のほうでは、男のそんなひとりぎめを、ぶちこわすのが気の毒で、いじらしさに負けてしまうのね。だまって虚栄と、肉体の本能と二つだけのような顔をしてあげてやっているのに、そうすると、いよいよ男は悟り顔してそれにきめてしまうもんだから、すこし、おかしいわ。」
三木朝太郎の家を訪ねたさちよに、酔って帰ってきた朝太郎が言う言葉。
「いいかい、真実というものは、心で思っているだけでは、どんなに深く思っていたって、どんなに固い覚悟を持っていたって、ただ、それだけでは、虚偽だ。いんちきだ。胸を割ってみせたいくらい、まっとうな愛情持っていたって、ただ、それだけで、だまっていたんじゃ、それは傲慢だ、いい気なもんだ、ひとりよがりだ。真実は、行為だ。愛情も、行為だ。表現のない真実なんて、ありやしない。愛情は胸のうち、言葉以前、というのは、あれも結局、修辞じゃないか。」
銀座のバアで、数枝が高須隆哉に言う言葉。
「だけど、あたしたちは、ちがうの。そんなんじゃない。一日一日、食って生きてゆくことに追われて、借銭かえすことに追われて、正しいことを横目で見ながら、それに気がついていながら、どんどん押し流されてしまって、いつのまにか、もう、世の中から、ひどい焼印《やきいん》、頂戴してしまっているの。さちよなんか、もっとひどい。あの子は、もう世の中を、いちど失脚しちゃったのよ。屑《くず》よ。親孝行なんて、そんな立派なこと、とても、とても、できなくなってしまったの。したくても、ゆるされない。名誉恢復。そんな言葉おかしい? あわれな言葉ね。だけど、あたしたち、いちど、あやまち犯した人たち、どんなに、それに憧《あこ》がれているか。そのためには、いのちも要らない。どんなことでも、する。」
それに対する隆哉の言葉。
「いまは人間、誰にもめいわくかけずに、自分ひとりを制御することだけでも、それだけでも、大事業なんだ。それだけでも、できたら、そいつは新しい英雄だ。立派なものだ。ほんとうの自信というものは、自分ひとりの明確な社会的な責任感ができて、はじめて生れて来るものじゃないのか。まず自分を、自分の周囲を、不安ないように育成して、自分の小さいふるさとの、自分の貧しい身内《みうち》の、堅実な一兵卒になって、努めて、それからでなければ、どんな、ささやかな野望でも、現実は、絶対に、ゆるさない。」
この数枝と隆哉とのやりとりなどは、過去の暗い影をひきずっている太宰治の心情と、それを振り捨てて新しく生きていこうとする太宰治の決意との、内面の葛藤さながらのように思われる。
登場人物が、それぞれの個性と人生観によって、一人歩きしていないのである。登場人物と作者との距離が、あまりにも近すぎるのである。
戦後、坂口安吾・織田作之助との座談会で太宰は次のように言っている。
「ぼくはね、今までひとの事を書けなかったんですよ。この頃すこうしね、他人を書けるようになったんですよ。ぼくと同じ位に慈しんで――慈しんでというのは口幅ったい。一生懸命やって書けるようになって、とても嬉しいんですよ。何か枠がすこうしね、また大きくなったなァなんて思って、すこうし他人を書けるようになったのですよ。」
たしかに「火の鳥」では、他人の事が書けていない。登場人物それぞれが、あまりにも太宰の身近にいすぎるのである。「なかなか、むずかしく」、掻きわけ掻きわけ書きすすめようとしても、ついに壁に突き当ってしまったのである。しかしこれは、太宰治にとって不名誉なことではない。作家は、自分の資質に合った作品しか創ることはできないのであるから。
「富嶽百景」――これこそ、太宰の資質が見事に開花した名品である。
この作品の前半分は寿館で書かれ、「ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。」以後の後半分は、結婚したのち、美知子夫人に口述筆記させたという。前半分を脱稿したのは十二月二十日過ぎだから、「火の鳥」が停頓してしまった直後に筆を起し、かなりの速度で一気に書いてしまったのではあるまいか。苦吟した作品が必ずしも良いとはかぎらず、楽に書きすすめた作品にかえって作者の天分が花ひらくという事情は、これは文学にかぎらず、芸術一般において往々に起きることであろう。
ことごとしい解説などまったく不要な作品だと思うが、次の一節は、太宰治の文学を考える上で大事であろう。
「仕事が、――純粋に運筆することの、その苦しさよりも、いや、運筆はかえって私の楽しみでさえあるのだが、そのことではなく、私の世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、謂わば、新しさというもの、私はそれらに就いて、未だ愚図愚図《ぐずぐず》、思い悩み、誇張ではなしに、身悶えしていた。
素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動で掴まえて、そのままに紙にうつしとること、それより他には無いと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもって目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考えている『単一表現』の美しさなのかも知れない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物《おきもの》だっていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢《がまん》できない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、この富士の姿も、やはりどこか間違っている、これは違う、と再び思いまどうのである。」
「単一表現」の美しさ――その美しさを最初に持った作品は、「満願」であろう。そして「富嶽百景」は、その美しさの結晶体のような作品である。『晩年』『虚構の彷徨』から「創生記」「HUMAN LOST」「二十世紀旗手」と歩いてきた道に太宰治の文学は別れを告げ、「ちがう野原」を歩きはじめたのである。
三 甲府御崎町時代
昭和十四年一月八日、杉並区清水町の井伏鱒二宅において、井伏夫妻の媒酌により、太宰治は石原美知子と結婚式を挙げた。列席者は、美知子の三姉宇多子とその夫山田貞一(石原家名代)、斎藤文二郎夫人、中畑慶吉(津島家名代)、北芳四郎である。普段着のままで井伏宅に来た太宰は、黒羽二重の紋服一かさね、袴、別に絹の縞の着物が一かさね届いているのを知って、感激した。その着物も袴も、中畑慶吉が津島家の親戚を駈けまわり寄附を集めて調達したものである。料理も、鯛などもついている本式の会席膳で、中畑と北芳四郎がまかなったのである。
その夜おそく、美知子を伴って甲府に帰り、その二日前から移っていた御崎町の新居に落ち着いた。その新居は、美知子夫人の『回想の太宰治』によると、「間取りは八畳、三畳の二間、八畳の西側は床の間と押入で、東側は全部ガラス窓、隅に炉が切ってある。三畳は障子で、二畳の茶の間と、一畳の取次とにしきってあった。ぬれ縁が窓の下と小庭に面した南側についていた。家の前には庚申バラなどの植込があり、奥は桑畑で、しおり戸や葡萄棚がしつらえてあって、隠居所か庵のおもむきであった。古びてはいるが洗いさらしたようにきれいで、太宰は何よりも六円五十銭という安い家賃を喜んだ。」ということである。
新居に落ち着いてすぐの一月十日、太宰は井伏鱒二宛に礼状を書き、「仕事します。遊びませぬ。うんと永生きして、世の人たちからも、立派な男と言われるよう、忍んで忍んで努力いたします。けっして、巧言では、ございませぬ。もう十年、くるしさ、制御し、少しでも明るい世の中つくることに、努力するつもりで、ございます。このごろ何か、芸術に就いて、動かせぬ信仰、持ちはじめて来ました。たいてい、大丈夫と思います。自愛いたします。」と再出発の決意を述べている。
その年の九月に東京の三鷹に移転するまでの八か月を、太宰は甲府御崎町ですごした。それは太宰の全生涯を通じて、最も平安な、最も健康な一時期であった。
「私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々と飲んでいたあの頃である。誰に気がねも要らなかった。」(「十五年間」)
この一時期に書かれた作品は、「黄金風景」「富嶽百景」「女生徒」「懶惰の歌留多」「葉桜と魔笛」「八十八夜」「美少女」「畜犬談」「春の盗賊」、それに書下し短篇集『愛と美について』に収録された「新樹の言葉」「愛と美について」などで、同短篇集に収められた「秋風記」「花燭」もこの時期に書き直されたものである。訪問客に煩わされることもなく、朝から午後の三時頃まで毎日机に向い、創作一途に打ち込んでいたのである。
これらの作品のなかから、まず「新樹の言葉」をとりあげてみよう。この時期の最初のころに書かれた作品であり、新しい人生を生きようとする太宰の心情がはっきりと読みとれるからである。
甲府に来て小説を書いている私は、乳母のつるの子の幸吉にめぐり会う。つるが甲州の甲斐絹問屋の番頭に嫁ぎ、十二年前に死んだことは知っていたのだが、独立して大きな呉服屋を経営していた幸吉の父も、つるが死んだ五年後に狂《くる》い死《じに》したことを私はきかされる。わるびれる様子もなく、かといって露悪症みたいな荒《すさ》んだ言いかたでもなく、無心に簡潔に事実を述べる幸吉の態度に、私は爽快なものを感じる。幸吉は私を夕食に誘うのだが、案内されたのは間口《まぐち》五間ほどもある古風な料亭で、よすぎる、高いんじゃないかと私は逡巡する。その料亭は、幸吉の昔の家で、人手に渡ってからは幸吉も来たことがなかった。通された座敷で、盛大に呉服屋をしていた頃の昔話をきかされて、私は辛くなってくる。
「私は、先刻から、たまらなかった。
『ね、かえろうよ。いけないよ。ここでは酒も呑めないよ。もうわかったから、かえりましょう。』不機嫌にさえなっていた。『わるい計画だったね。』
『いいえ、感傷なんか無いんです。』障子を閉めて、卓の傍へ来て横坐りに坐って、『もう、どうせ、他人の家です。でも、久しぶりに来て見ると、何でもかんでも珍しく、僕は、うれしいのです。』嘘でなく、しんから楽しそうに微笑しているのである。
ちっとも、こだわっていないその態度に、私は唸るほど感心した。」
それから二日目、深夜まで仕事をしていた私は、けたたましく鳴る半鐘に硝子障子をあけると、火事、先夜の料亭の方角に、火の手があがっている。どてらに羽織をひっかけて表に飛び出し、夢中で走り、舞鶴城址の石段を駈けのぼり、見ると、すぐ真下で、先夜の料亭が燃えさかっている。
とんと肩をたたかれて振りむくと、幸吉とその妹が微笑して立っている。
「『あ、焼けたね。』私は、舌がもつれて、はっきり、うまく言えなかった。
『ええ、焼ける家だったのですね。父も、母も、仕合せでしたね。』焔の光を受けて並んで立っている幸吉兄妹の姿は、どこか凜として美しかった。『あ、裏二階のほうにも火がまわっちゃったらしいな。全焼ですね。』幸吉は、ひとりでそう呟いて、微笑した。たしかに、単純に、『微笑』であった。つくづく私は、この十年来、感傷に焼けただれてしまっている私自身の腹綿の愚かさを、恥ずかしく思った。叡智を忘れた私のきょうまでの盲目の激情を、醜悪にさえ感じた。」
「新樹の言葉」――新樹とは、幸吉を指しているのかもしれないが、その単純な「微笑」に感動する太宰治自身もまた、新しい樹として、再生しようとしているのである。
「花燭」の旧稿は昭和十三年の初秋に書かれたと推定されるが、「新樹の言葉」執筆と前後して書き直されたと思われる新稿では、ある青年が男爵に次のように言う。
「むかし、ばらばらに取り壊し、渾沌の淵に沈めた自意識を、単純に素朴に強く育て直すことが、僕たちの一ばん新しい理想になりました。いまごろ、まだ、自意識の過剰だの、ニヒルだのを高尚なことみたいに言っている人は、たしかに無智です。」
ダス・ゲマイネ(卑俗)の泥地から抜け出して、単純な自然な素朴さをとり戻すこと、ウール・シュタンド(本然の状態)に立ち返ること、それが新しい理想になったと青年は言うのである。青年の言葉に男爵は胸がいっぱいになり、涙がこぼれ落ちそうになるほど感動する。幸吉の単純な「微笑」に感動する「新樹の言葉」の作者と同じように……。
「富嶽百景」にある「単一表現」の美しさと、この新しい人生観、人間観が無縁であるはずはない。
「女生徒」は、「富嶽百景」とならぶこの時期の代表作である。有明淑子という愛読者から送られてきた日記をもとにして書かれた作品だが、淑子十九歳の昭和十三年四月三十日から八月八日までの日記で、伊東屋の大判ノートにびっしりと書き込まれていた。百日におよぶその日記をもとに、朝、眼をさましてから、夜、眠りに落ちるまでの、少女の一日の生活と心理を、太宰流に料理した作品である。なお、ひとの日記をもとにして作った小説としては、このあとに、「正義と微笑」「パンドラの匣」「斜陽」がある。
「女生徒」は、いかにも若い女性に特有の、みずみずしい情感と、するどい感受性にあふれた作品だが、女性の感覚と心理を書くことにかけては達人だった太宰治の、その達人芸が最高に発揮された名作である。
二匹の犬のうち、真白い毛並みのジャピイを可愛がり、きたなくて片輪のカアにわざと意地悪くする。「私は、カアだけでなく、人にもいけないことをする子なんだ。人を困らせて、刺激する。ほんとうに厭な子なんだ。縁側に腰かけて、ジャピイの頭を撫でてやりながら、目に浸みる青葉を見ていると、情なくなって、土《つち》の上に坐りたいような気持になった。」――学校からの帰りのバスのなかで、襟のよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪を櫛一本に巻きつけている、手も足もきたない女を見る。その女のおなかが大きいのに、胸がむかむかする。「けさ、電車で隣り合せた厚化粧のおばさんをも思い出す。ああ、汚い、汚い。女は、いやだ。自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、厭だ。金魚をいじったあとの、あのたまらない生臭さが、自分のからだ一ぱいにしみついているようで、洗っても洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。」
しかし、少女のままで死ぬことはできない。いやでも、大人《おとな》になっていかねばならない。家に帰ってきた少女を、大人の世界が待っている。にぎやかな笑い声。お客がきているのである。「お母さんは、私と二人きりのときには、顔がどんなに笑っていても、声をたてない。けれども、お客様とお話しているときには、顔は、ちっとも笑ってなくて、声ばかり、かん高く笑っている。」
客は、大森の今井田さん御夫婦に、ことし七つの良夫さんである。今井田さんは、もう四十ちかいのに、好男子みたいに色が白くていやらしく、敷島という口付きの煙草を吸い、いちいち天井を向いて煙を吐いて、はあ、はあ、なるほど、なんて言っている。奥さんは、つまらないことにでも、顔を畳にくっつけるようにして、からだをくねらせて、笑いむせぶ。「可笑しいことなんてあるものか。そうして大袈裟に笑い伏すのが、何か上品なことだろうと、思いちがいしているのだ。いまのこの世の中で、こんな階級の人たちが、一ばん悪いのではないかしら。一ばん汚い。プチ・ブルというのかしら。小役人というのかしら。」
夜、お風呂にはいって、自分のからだのほの白さが、小さいときの白さと違うように思われてきて、いたたまれなくなる。「肉体が、自分の気持と関係なく、ひとりでに成長して行くのが、たまらなく、困惑する。めきめきと、おとなになってしまう自分を、どうすることもできなく、悲しい。なりゆきにまかせて、じっとして、自分の大人になって行くのを見ているより仕方がないのだろうか。」
「女生徒」の少女は、プチ・ブルのいやらしさを憎み、大人になっていくことに悲しさを感じるのだが、太宰治もまた、家庭人として、一般市井人として、営々と小市民生活を修養している自分に、腹立ちと苛立たしさを感じはじめてくる。
「私は、私自身を、家庭的の男と思っています。よい意味でも、悪い意味でも、私は放浪に堪えられません。」――「世の人たちからも、立派な男と言われるよう、忍んで忍んで努力いたします。」――その太宰の言葉に偽りはなかった。太宰は懸命に努めるのだが、しかし、太宰のなかにひそんでいる一匹の虫が、それはロマンチシズムと呼んでいいかと思うが、体内でうごめきはじめる。「これまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期」にも、安穏のなかに身を沈め、ゆったりと休養をたのしむことを、さまたげる。
「八十八夜」の笠井|一《はじめ》さんは、あり金さらって、旅に出る。「この脱走が、間違っていたら、殺してくれ。殺されても、私は、微笑んでいるだろう。いま、ここで忍従の鎖を断ち切り、それがために、どんな悲惨の地獄に落ちても、私は後悔しないだろう。だめなのだ。もう、これ以上、私は自身を卑屈にできない。自由!」
「めちゃなことをしたい。思い切って、めちゃなことを、やってみたい。私にだって、まだまだロマンチシズムは、残って在る筈だ。」
行い正しい紳士と、笠井さんは作家仲間から見られている。事実、良い夫、良い父であり、生活人としての日々の営みに、まじめに努力してきた。しかし、そのうちに、芋虫のように一寸ずつ、手さぐりで進むのにうんじ果てた。自分ながら結構でないと思われる小説をどんどん書いているうちに、文学を忘れてしまった。
「どうにでもなれ! 笠井さんは、それまでの不断の地味な努力を、泣きべそかいて放擲し、もの狂おしく家を飛び出し、いのちを賭して旅に出た。もう、いやだ。忍ぶことにも限度が在る。とても、この上、忍べなかった。」
笠井さんは信州の上諏訪温泉に行く。そこの滝の屋という宿屋で、知り合いのゆきさんという女性が女中頭をしており、前にも仕事をしにきたことがあるのである。お酒を呑み、ビールを呑み、しかし、なんということもなく、その翌朝、ゆうべの自身の不甲斐なさ、無気力さを笠井さんは死ぬほど恥ずかしく思う。なにが、ロマンチシズムだ! 一風呂浴びて部屋にかえると、十七、八の女中が拭き掃除をしていて、その女中と、笠井さんはへんなことになってしまう。すらと襖があいて、ゆきさんは、はっと言葉を呑む。
「見られた。地球の果の、汚いくさい、まっ黒い馬小屋へ、一瞬どしんと落ちこんでしまった。ただ、もやもや黒煙万丈で、羞恥、後悔など、そんな生ぬるいものではなかった。笠井さんは、このまま死んだふりをしていたかった。」
逃げるようにして笠井さんは宿を発ち、わあ、わあ大声あげて、わめき散らして、雷神の如く走り廻りたい気持で駅に急ぎ、二等の切符を買い、すこし救われる。
「ほとんど十年ぶりで、二等車に乗るのである。作品を。――唐突にそれを思った。作品だけが。――世界の果に、蹴込まれて、こんどこそは、謂わば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。
まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかも知れぬ。」
この年の八十八夜のころ、太宰は美知子夫人を連れて信州に二泊の旅をしており、最初の日に上諏訪の布半という旅館に泊っている。時期をおくらした新婚旅行といっていいのだろうが、『回想の太宰治』によると、「太宰はこの夜、思いきりハメをはずしたい気持であったらしく、ひっきりなしに帳場へ電話して酒をとりよせて大酔」したという。「八十八夜」はその新婚旅行≠フ体験がヒントになっているのだろうが、笠井さんは、忍従の鎖を断ち切り、自由を求めて、もの狂おしく家を飛び出し、いのちを賭してひとり旅に出たのである。
「春の盗賊」はどろぼうに入られた話だが、もちろんフィクションである。フィクションであることを、太宰はわざわざ文中で断っている。
「いったい、小説の中に、『私』と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。フィクションを、この国には、いっそうその傾向が強いのではないかと思われるのであるが、どこの国の人でも、昔から、それを作者の醜聞として信じ込み、上品ぶって非難、憫笑する悪癖がある。」
「私は、実はこの物語、自身お金に困って、どろぼうを致したときの体験談を、まことしやかに告白しようつもりでいた。それは、たしかに写実的にて、興深い一篇の物語になったであろう。私のフィクションには念がいりすぎて、いつでも人は、それは余程の人でも、あるいは? などと疑い、私自身でさえ、あるいは? などと不安になって来るくらいであって、そんなことから、私は今までにも、近親の信用をめちゃめちゃにして来ている。」
自身、どろぼうをしたときの体験談などを語ると、それがフィクションであっても、どうせあいつのことだ、どろぼうくらいはやったかもしれぬと、またまたとんだ汚名を着せられることになるかもしれない。
太宰は世評を警戒している。あのめちゃ苦茶な悪評は、もう、ごめんだ。
「私は私自身の、謂わば骨の髄にまで滲み込んでいるロマンチシズムを、ある程度まで、save しなければならぬ。すべて、ものの限度を、知らなければいけない。」
「私は、いまは、何よりも先ず、自身の言葉に、権威を持ちたい。何を言っても気ちがい扱いで、相手にされないのでは、私は、いっそ沈黙を守る。激情の果の、無表情。あの、微笑の、能面《のうめん》になりましょう。この世の中で、その発言に権威を持つためには、まず、つつましい一般市井人の家を営み、その日常生活の形式に於いて、無慾。人から、うしろ指一本さされない態《てい》の、意志に拠るチャッカリ性。あたりまえの、世間の戒律を、叡智に拠って厳守し、そうして、そのときこそは、見ていろ、殺人小説でも、それから、もっと恐ろしい小説を、論文を、思うがままに書きまくる。痛快だ。鴎外は、かしこいな。ちゃんとそいつを、知らぬふりして実行していた。私は、あの半分でもよい、やってみたい。凡俗への復帰ではない。凡俗へのしんからの、圧倒的の復讐だ。」
いまは、まず少しずつ生活を建て直し、つつましい市井人の家をつくる。それが第一だ、と考える。一路、生活の改善に努力し、すこしでも一般市民の生活態度にあゆみ寄りたい悲壮な心から、早寝早起を励行している。しかし、早起はさほど苦痛ではないが、早寝には閉口する。なかなか寝つけないのである。
「そろそろ寝なければならぬ。寝る。けれども、すぐには眠れない。絶対に眠れない。からだが不快に、ほてって、頬の皮がつっぱって熱い。輾転する。くるしい。閉口し切って、ナンマンダ、ナンマンダ、と大声挙げて、百遍以上となえたこともある。そんなときに、たまらず起きて、ひやざけを茶碗で二杯、いや三杯も呑むことがある。模範的市民生活も、ここに於いて、少し怪しくなるのである。」
ある晩、寝つかれぬままに小説の筋を考え、ますます眼が冴えてきて、煙草でも吸おうかと蒲団に腹這いになりかけたとき、足もとで、ガリガリ鼠が材木を噛るような音がして、ひょいとそのほうに眼をやると、雨戸の端が小さく破られ、そこから、女のような円い白い手がすっと出て、雨戸の内桟をはずそうとしている。「極度の恐怖感は、たしかに、突風の如き情慾を巻き起させる。それに、ちがいない。恐怖感と、情慾とは、もともと姉妹の間柄であるらしい。どうも、そうらしい。私は、そいつにやられた。ふらふら立ち上って、雨戸に近寄り、矢庭にその手を、私の両手でひたと包み、しかも、心をこめて握りしめちゃった。」そして私は、雨戸をあけて、どろぼうを家に入れてしまう。
それから私は電燈を消す。顔も姿も見えないのだから警察にとどけようがないとどろぼうを安心させ、しかしどろぼうは机のひき出しをかき廻して今月の生活費の二十円を捜し当て、それがどうにもいまいましく、暗闇のなかで、逆上気味のお喋りをはじめる。
君は女だ。君はきょうの夕方、家を偵察にきて、その窓の外で、バリバリ低い音たてて傘をひらいた。あの、しのぶような音は、絶対に女性特有のものだ。年は三十一。御亭主は、年下の二十六だ。年下の亭主って、可愛いものさ。食べてしまいたいだろう。君の亭主は街頭であやしげな口上を述べながらいんちき万年筆を売っている。しかし気が弱いものだから、こないだも、泉法寺の縁日で、この万年筆、会社の宣伝のため、今回にかぎり無代進呈します、と言って、それから、数にも限りがあり、皆さん全部におわけすることもできず、先着順におしるしだけ金十銭也をいただいて、と急いで言い続けなければいけないのに、客のなかに刑事らしい赤らがおの親爺がにやっと笑ったのが目にはいり、とたんに君の亭主はかっとのぼせちゃって、ほんとうに無代進呈いたします、おれは嘘なんかつかない、こんな商売していてもお客をだますことなんかきらいなんだ、無代進呈します、さあみんな持っていってくれ、信じない奴はばかだ、露天商人にも意地はあるんだ、みんな、ただで差しあげます……刑事もあきれたね。君の亭主は、そんなへまな男だから、君は夜、かせぎに出なくちゃならなくなってしまった。どうだ、あたっているだろう。
あたるも、あたらぬもない。二十円をとられたいまいましさに、口から出まかせ、さんざん威張りちらして、自分の小説の筋書を勝手に喋っているだけなのである。
それからも、新家庭の若夫婦の寝室を覗き見したかったんだろうとか、子供の財布を盗んで、女の子の財布には、その子供が自分で針金ねじ曲げてこしらえた不手際な指輪がはいっていて、それを見て、君は泣いたろうとか、動顛逆上のあまり、舌端火を吐く勢いで喋りまくる。
隣室にぱっと電燈がともって、部屋も薄暗くなって、見ると、どろぼうは、影も形もない。襖をあけて、妻がよろめくように入ってきて、ぺたりと坐りこむ。
妻は、言う。
「『あんな、どろぼうなんかに、文学を説いたりなさること、およしになったら、いかがでしょうか。私は、あなたのところへお嫁に来るとき、親戚の婦人雑誌の記者をしている者が、私の母のところに、あなたのとても悪い評判を、手紙で知らせて寄こして、そのときは、私たち、あなたともお逢いしたあとのことで、母は、あなたを信じて居りましたし、その親戚の記者も、あなたと直接お逢いしたことは無く、ただ噂だけを信じて、私たちに忠告して寄こしたのですし、本人に逢った印象が第一だ、と私も思いまして、私は、いまは、ちっともあなたのことを疑っていないのですけれども、あんな、どろぼうなんかに、小説みたいなことおっしゃったりなんかして、――』
『わかった。やっぱり、変質者か。』結婚して、はじめて、このとき、家内をぶん殴ろうかと思った。どろぼうに見舞われたときにも、やはり一般市民を真似て、どろぼう、どろぼうと絶叫して、ふんどしひとつで外へ飛び出し、かなだらいたたいて近所近辺を駈けまわり、町内の大騒ぎにしたほうが、いいのか。それが、いいのか。私は、いやになった。それならば、現実というものは、いやだ! 愛し、切れないものがある。あの悪徳の、どろぼうにしても、この世のものは、なんと、白々しく、興覚めのものか。ぬっとはいって来て、お金さらって、ぬっとかえった。それだけのものでは、ないか。この世に、ロマンチックは、無い。私ひとりが、変質者だ。そうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめている。いやだ。私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい! できないことか。いけないことか。この大動揺は、昨夜の盗賊来襲を契機として、けさも、否、これを書きとばしながら、いまのいままで、なお止まず烈しく継続しているのである。」
「あの野望と献身の、ロマンスの地獄」――辛苦を嘗めた非合法運動の時期をさすのか、死ぬるばかりの猛省と自嘲と恐怖の中で遺書と称する一聯の作品に凝っていた時期をさすのか、それはよくは判らないが、つつましい生活人たらんとする努力を諦め、健全な小市民たらんとする修養を抛棄し、自己の真実にいのちを賭けていたあの八方破れの青春をとり戻したいと、思う。骨の髄にまで滲み込んでいるロマンチシズムを save しないで、ものの限度を踏み越えて生きる、生き切る、生き切ってくたばっても後悔はしない。たとえ家庭を破壊するようなことになろうとも、ふたたび悪徳者の焼印を額に打たれることになろうとも、それを恐れてはいられない。
しかし、現実の太宰治が、それを強く希求していたと単純に考えるわけにはいかない。「春の盗賊」は、あくまでフィクションである。どろぼうに入られたこともフィクションなら、盗賊来襲を契機としての大動揺も、フィクションである。「小説の中に、『私』と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。」「春の盗賊」の「私」を、そのまま生身の太宰治と置き換えられては困ると、作者自身が言っているのである。
しかし、フィクションにはちがいないのだが、「現実というものは、いやだ! 愛し、切れないものがある。……私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい!」その「私」の言葉のなかには、太宰治の心の奥底の真情がひそんでいるのにちがいないのである。
しかし太宰は、「ロマンスの地獄」に飛び込むことはしなかった。なによりもまず、時代がそれを許さなかった。その年の九月、第二次世界大戦が勃発し、日本も、大きな戦争の渦のなかに巻き込まれていく。太宰治も、一国民として、その渦のなかに巻き込まれないわけにはいかない。自己の真実の旗だけを、守っているわけにはいかないのである。
「野望と献身の、ロマンスの地獄」と言えるかどうかは判らないが、太宰がロマンチシズムを save することなく、ものの限度を踏み越えて生きるには、戦争の終結を待たねばならなかった。
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第六章 ロマンの世界
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一 三鷹転居
昭和十四年の九月一日、太宰治は甲府市御崎町から東京府北多摩郡三鷹村下連雀百十三番地に移転した。現在の三鷹市下連雀である。
甲府の新居は、あくまで、一時の仮住いのつもりだった。東京に家を持ちたかったのだが、ままならぬ事情があったのである。
「私は、ことしのお正月に、甲府の人と平凡な見合い結婚をして、けれども私には一銭の貯金も無し、すぐに東京で家を持つわけに行かなかった。家の敷金として、百円くらい用意しなければならぬし、その他家財道具一切を買わなければならぬし、そのためには、どうしても、もう百円は必要であろうし、とにかく、結婚当時の私には、着ている着物と、机と夜具、それだけしかなかったのであるから、ずいぶん心苦しいことが多かった。はじめ私たちは、どこか山奥の安い宿でも見つけてそこにかくれて、私はとにかく仕事に努め、家を持てるだけのお金を得ようと、そんなことも相談していたのであったが、さいわい、甲府の実家ちかくに六円五十銭の、八畳、三畳、一畳の小さい家が見つかり、当分ここでもいいではないか、山の宿より安あがりかも知れんと、しちりんや、箒やバケツを買って、その家に収まった。敷金もここは要らないのである。」(「当選の日」)
多少の経済的余裕もできたので、六月二日の早朝に美知子夫人と共に甲府を発ち、貸家を捜すために上京、国分寺、三鷹、吉祥寺、西荻窪、荻窪とたっぷり六里も歩きまわったのだが、貸家は一軒も見付からず、ただ、三鷹と吉祥寺のあいだの井の頭公園の裏の麦畑のなかに、新築中の家が六軒あった。しかし家賃がみな二十七円で、すこし高すぎると家主と交渉したところ、六月末にその六軒の前方にさらに三軒、二十三、四円の家を建てるつもりだとの話を聞き、それが建ちかけたころまた上京して交渉しようと、甲府に帰った。
七月十五日、再度上京し、建ちかけた三軒のいちばん奥の家を借りることにした。家賃は二十四円。しかし完成が予定より遅れ、甲府の焼きつけるような暑さのなかでイライラ仕事も手につかず、やっと九月一日、甲府を引払い、三鷹に移転したのである。
まさに三鷹村の名のごとく、武蔵野の面影をとどめた新開地だった。国電三鷹駅の南口を出て、貧弱な店構えの商店街を五十メートルほど行くと小さな川が流れており、川に沿って左に折れ、すこし行くと、家並みが切れ、川とわかれて道は左にまがる。両側に畑のひろがっている埃っぽい道をしばらく歩くと、新開の住宅地で、道を右折してすぐのところの右側に、細い路地があり、同じ造りの平屋が三軒ならんでいて、そのいちばん奥が太宰の新居だった。
北向きの玄関の格子戸をあけると、すぐとっつきの六畳間が太宰の書斎兼客間で、その右の襖で仕切られた四畳半が居間、その横の三畳の茶の間に台所がついていた。十二坪半の小さな借家だが、新築なのと、日当りのよいことが取柄だった。
南側には三尺幅の縁側があり、小さな庭があり、庭につづいて畑地がひろびろと拡がり、はるかかなたに大家《おおや》の家を囲む木立が見えた。
三鷹に移ってまもなくの九月二十日に、日比谷の松本楼で、『月刊東奥』主催の青森県出身在京芸術家座談会が行なわれ、太宰はそれに出席した。「善蔵を思う」にそのときのことが書かれているが、すでに第一章で触れたから、ここでは省く。ただ、「人間到るところに青山、と気をゆったり持って落ちつかなければならぬ。私は一生、路傍の辻音楽師で終るのかも知れぬ。馬鹿な、頑迷のこの音楽を、聞きたい人だけは聞くがよい。芸術は、命令することが、できぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する。」この文中の言葉は、自矜をうちに秘めながら、作家としての道を一途に生きようとした太宰の心情の表白として、重要である。
「鴎」はこの年の十一月に脱稿した作品だが、そのなかでも太宰は次のように書いている。「歯が、ぼろぼろに欠け、背中は曲り、ぜんそくに苦しみながらも、小暗い露地で、一生懸命ヴァイオリンを奏している、かの見るかげもない老爺の辻音楽師を、諸君は、笑うことができるであろうか。私は、自身を、それに近いと思っている。社会的には、もう最初から私は敗残しているのである。けれども、芸術。それを言うのも亦、実に、てれくさくて、かなわぬのだが、私は痴《こけ》の一念で、そいつを究明しようと思う。男子一生の業として、足りる、と私は思っている。辻音楽師には、辻音楽師の王国が在るのだ。」
名士になることを諦め、衣錦還郷のあこがれをはっきり思い切り、社会的な敗残者としての自覚を持ちながら、しかし、辻音楽師の王国を打ち立てようとする痴《こけ》の一念に、太宰治は生きようとする。
「私は、いまは人では無い。芸術家という、一種奇妙な動物である。この死んだ屍《むくろ》を、六十歳まで支え持ってやって、大作家というものをお目にかけて上げようと思っている。」(「鴎」)
だから太宰は、翌十五年の十月に発表した「一燈」という小品では、次のように書くのである。
「芸術家というものは、つくづく困った種族である。鳥籠一つを、必死にかかえて、うろうろしている。その鳥籠を取りあげられたら、彼は舌を噛んで死ぬだろう。なるべくなら、取りあげないで、ほしいのである。
誰だって、それは、考えている。何とかして、明るく生きたいと精一ぱいに努めている。昔から、芸術の一等品というものは、つねに世の人に希望を与え、怺えて生きて行く力を貸してくれるものに、きまっていた。私たちの、すべての努力は、その一等品を創る事にのみ向けられていた筈だ。至難の事業である。けれども、何とかして、そこに、到達したい。右往も左往も出来ない窮極の場所に坐って、私たちは、その事に努めていた筈である。それを続けて行くより他は無い。持物は、神から貰った鳥籠一つだけである。つねに、それだけである。」
六畳の書斎の縁近くに桜材の机を据えて、太宰は執筆に打ち込む。小説を書くことだけが、太宰の生活なのである。からだも健康で、次々と作品を発表する。そのなかから、まず、「駈込み訴え」(「中央公論」十五年二月号)と「走れメロス」(「新潮」十五年五月号)、この時期を代表する二つの名作をとりあげることにしよう。
二 「駈込み訴え」と「走れメロス」
「HUMAN LOST」のなかで太宰は、東京武蔵野病院退院後の生活プランを立てている。それによると、退院後の半年間はサナトリアム生活、そのあとの一年四か月は、東京から四、五時間以上かかって行き得る保養地に家を借りて静養し、左肺全快、大丈夫と、しんから自信つきしのち、東京近郊に定住、となっている。その静養中の仕事としては、
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「一、『朝の歌留多。』
(昭和いろは歌留多。『日本イソップ集』の様な小説。)
一、『猶太《ゆだ》の王。』
(キリスト伝。)
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右の二作、プランまとまっていますから、ゆっくり書いてゆくつもりです。他の雑文は、たいてい断るつもりです。」
すでに見てきたように、この生活プランは空中楼閣となってしまうのだが、この二作のうち、「朝の歌留多」は、「悖徳の歌留多」から「懶惰の歌留多」と題名を変え、十四年四月号の『文藝』に発表された。しかし、プランがまとまっていたはずの「猶太の王」(キリスト伝)は、作品として完成されることはついになかった。どのような構想のもとにキリスト伝を書こうとしたのかは明らかでないが、おそらくは一行も書くことなくおわったのではないかと思われる。
「HUMAN LOST」を書いた時点において、太宰は「マタイ伝二十八章」を読み終え、そのあと、「マルコ伝十六章」「ルカ伝二十四章」「ヨハネ伝二十一章」を読み進めていたのだろうが、キリストのなかに深く入り込んで行けば行くほど、キリストを小説化することの至難さを、感じたにちがいない。
(キリスト伝)とはあるが、まさか太宰は、歴史上の人物であるナザレのイエスの伝記を書こうと企図したわけではないだろう。
四つの福音書から導き出されたイエスのイメージだけにたよって、太宰はキリスト伝を書こうとした。それは間違いあるまい。
そしておそらくは、小説の形をとって――。つまり、空想力を大いに働かせ、いわば創造の遊戯≠大いに試みながら、「太宰治のイエス・キリスト」を創り上げようとしたのではあるまいか。
なぜならそれが、小説家太宰治の流儀なのだから――。
しかし、「猶太の王(キリスト伝)」はついに書かれずにおわった。おそらくその理由の最大のものは、福音書から導き出されたイエス・キリストのイメージはあまりにも重く、あまりにも大きく、それを恣意的に、自己流に変改し、虚構化することに、太宰は一種の畏《おそ》れを感じたのではあるまいか。
退院後の、虚無と絶望の底にいた自分を救い、生きる力を与えてくれたのは、キリストの慰めであったと、「鴎」のなかで太宰は書いた。そのキリストを小説の主人公に仕立て、創造の遊戯≠試みることに、太宰は躊躇《ためら》いを感じたのではあるまいか。
キリスト伝は、もう書けない。しかし、福音書については、なんらかの形で、書いてみたい。しかし、さて、どのような形で――。太宰はいろいろと考えつづけていたにちがいない。「猶太の王(キリスト伝)」を発想してからほぼ三年の後に脱稿された「駈込み訴え」は、その思案の末に生れた作品であると考えてよかろう。
ではなぜ太宰は、その主人公に、銀三十枚で主のイエスを売ったイスカリオテのユダを選んだのか。
たぶん太宰は、裏切者の汚名を着せられ、悪徳者の刻印を打たれているユダに対し、自分自身の身上と相い通ずるものを感じていたのではあるまいか。
「おれは悪い事を、いつかやらかした、おれは、汚ねえ奴《やつ》だという意識ですね、その意識を、どうしても消すことができないので、僕は、いつでも卑屈なんです。」(「鴎」)
だから太宰は、ユダの卑屈さに、僻み深さに、自分自身に引き付けての一種の哀憐を感じていたのではあるまいか。
ユダの独白から成るこの小説では、ユダがキリストを売ったのは、ひたむきの純粋な愛の行為だとなっている。
「あの人は、どうせ死ぬのだ。ほかの人の手で、下役《したやく》たちに引き渡すよりは、私が、それを為そう。きょうまで私の、あの人に捧げた一すじなる愛情の、これが最後の挨拶だ。私の義務です。私があの人を売ってやる。つらい立場だ。誰がこの私のひたむきの愛の行為を、正当に理解してくれることか。いや、誰に理解されなくてもいいのだ。私の愛は純粋の愛だ。人に理解してもらう為の愛では無い。そんなさもしい愛では無いのだ。私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋の愛の貪慾のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない。」
十二使徒のひとりであるユダは、いわば財務係のような仕事をしている。金のやりくりや出し入れがユダの役目である。
この仕事で、「駈込み訴え」のユダはたいへんな苦労をする。
「その日のパンにも困っていて、私がやりくりしてあげないことには、みんな飢え死してしまうだけじゃないのか。私はあの人に説教させ、群集からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。お礼を言わぬどころか、あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢を言い、五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることが出来るのです。謂わば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。」
この、五つのパンと魚が二つ云々の話は、「マタイ伝」「マルコ伝」「ルカ伝」に出てくる有名な奇蹟譚である。イエスが、集まってきた群集に食物を与えよと言う。しかし、五つのパンと二つの魚しか手許にない。イエスは、五つのパンと二つの魚を手にとり、天を仰いで祈り、パンを裂いて群集に与え、また二つの魚も人ごとに分け与える。五千人以上の群集みんなが飽食して、なおその残りを集めると、十二の筐《かご》に満ちたという奇蹟譚である。なあに、奇蹟なんか起りはしなかったのだ、それは自分が陰で苦しいやり繰りをしたのだ、とユダは言うのである。
そのようなユダの苦労に対して、イエスは一言の礼も言わぬばかりか、金銭のやりくりに頭を悩まし、忙しく動き回るユダを、賤しみ、軽蔑しているように、ユダには思えてならない。
ユダはキリストその人を純粋に愛している。無報酬の愛である。キリストを神の子だなどと思っていない。キリストに付き従っていれば天国への道がひらけるなどと思っていない。
「私は天国を信じない。神も信じない。あの人の復活も信じない。なんであの人が、イスラエルの王なものか。馬鹿な弟子どもは、あの人を神の御子だと信じていて、そうして神の国の福音とかいうものを、あの人から伝え聞いては、浅間しくも、欣喜雀躍している。今にがっかりするのが、私にはわかっています。おのれを高うする者は卑《ひく》うせられ、おのれを卑《ひく》うする者は高うせられると、あの人は約束なさったが、世の中、そんなに甘くいってたまるものか。あの人は嘘つきだ。言うこと言うこと、一から十まで出鱈目だ。私はてんで信じていない。けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。あんな美しい人はこの世に無い。私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。私は、なんの報酬も考えていない。あの人について歩いて、やがて天国が近づき、その時こそは、あっぱれ右大臣、左大臣になってやろうなどと、そんなさもしい根性は持っていない。」
ユダは、天国も、神も信じない。この現世の喜びだけを信じている。だからユダは、キリストが弟子たち全部から離れ、天の父の教えを説くこともやめて、母のマリヤとふたり、自分と一緒に暮してくれることを望んでいる。自分には家もあり、広い桃畠もある。
「春、いまごろは、桃の花が咲いて見事であります。一生、安楽にお暮しできます。私がいつでもお傍について、御奉公申し上げたく思います。」
ユダは、生身《なまみ》の、人間としてのキリストを愛している。あの人が死ねば、自分も一緒に死ぬ、とまでに深く愛している。だからこそ、ユダはキリストを売るのである。
「いずれは殺されるお方にちがいない。またあの人だって、無理に自分を殺させるように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。他人の手で殺させたくはない。あの人を殺して私も死ぬ。」
「駈込み訴え」は、ユダが訴え出たところで終っており、その後のことについては何も書かれていないのだが、「マタイ伝」によると、イエスを売ったあと、ユダは自殺する。
「ここにイエスを売りしユダ、その死に定められ給いしを見て悔い、祭司長・長老らに、かの三十の銀をかえして言う『われ罪なきの血を売りて罪を犯したり』彼らいう『われらなんぞ干《あずか》らん、汝みずから当るべし』彼その銀を聖所に投げすてて去り、ゆきて自《みずか》ら縊《くび》れたり。」
「駈込み訴え」が聖書に題材をとっているのに対して、「走れメロス」は、文末に括弧して、(古伝説と、シルレルの詩から。)となっている。
小野正文に「『走れメロス』の素材について」という論考があるが、それによると、古伝説の原典はギリシャの「ダーモンとフインテヤス」であり、シルレルの詩は「人質」("Die Burgschaft")であろうという。
太宰は明治高等小学校に一年間通っていたが、その国語の教科書に「真の知己」という文章が載っていた。「一時の朋友を得ることは易く、真の知己を得ることは難しい。平素歓楽を共にする間は、肩を打ち、手を執って、互に談笑するが、一旦利害相反すれば、忽ち仇敵となるような者は真の知己ではない。真の知己は死生の境に臨んでも、相信じて疑わないものでなければならぬ。」と冒頭に教訓があって、それからダモンとピチウスの友情と信義の物語に入っていくのだが、その物語の骨子は「走れメロス」とよく似ている。
イタリーのシシリー島の男ピチウスがある罪によって死刑を言い渡される。ピチウスは今生の思い出に老父母の顔が見たく、死刑執行の日には必ず帰ってくるからと国王に歎願する。王は一言のもとにはねつけるが、ピチウスの無二の親友のダモンが、彼は決して約をたがえるような男ではない、彼の願いを聞きいれてもらいたい、その代り、自分が獄に入る、万一期日までに彼が帰ってこなかったら、自分を仕置してくれと、王に言う。友情に感じた王は、ピチウスの願いを容れる。光陰は矢の如く、約束の日限は迫ったが、ピチウスは帰らない。しかしダモンは平然としてすこしも不安の色を示さない。もしピチウスが期日までに帰ってこなかったとしても、それは彼の本心から出たことではなく、なにか不慮の事故が起ったのだと、友の信義をつゆ疑わない。いよいよ約束の期日になり、約束の時間がせまったが、ピチウスは帰ってこない。死ぬ覚悟を固めたダモンは、今ここで殺されるのは最も信愛する友人のためである、すこしもうらむことはないと、平然としている。獄卒はダモンを刑場に引き出し、一命が寸刻の間にせまったとき、息も絶え絶えになってピチウスが駆けこんでくる。王は二人の信義と愛情に感激してピチウスの罪を許す。そういう物語なのであるが、ダモン(「走れメロス」のセリヌンティウス)が主役でピチウス(メロス)が脇役になっている。
少年太宰はおそらく、友を信頼しきって待ちつづけるダモンの心情に感動したにちがいない、しかし、ダモンを主人公として、いささかもゆるがぬ鉄の信頼心を書くことは、太宰には苦手だったのではないか、信頼される側の苦悩に焦点を絞って美談を書くことのほうが自分にふさわしいと思いつづけていたのではないか、そしてある日、シルレルの詩とめぐり合うことによって、「走れメロス」の構想と焦点が定まったのではないかと小野正文は推論しているが、首肯し得る推論であろう。
シルレルの詩「人質―ダーモンとピンチアース」は、二十節百四十行に及ぶ長篇の詩である。この詩では、「真の知己」に引用されている古伝説とは異なり、人質になるのはピンチアースで、それを救うためひた走りに走るのはダーモンであり、ダーモンが主役でピンチアースが脇役になっているのは「走れメロス」と同じである。
「暴君ディオニュースのもとへ/ダーモンは忍びよった。短剣をふところにして。/彼は捕吏たちの手に落ちた。」にはじまるこの詩のストオリイは、その発端の部分を別にすれば、ほとんど「走れメロス」そのままと言ってよい。捕えられたダーモンは、妹を嫁《とつ》がせたいから三日間の猶予をあたえてほしい、友を人質に残しておく、と王に言う。王はよこしまなたくらみを胸にもって微笑し、しばらく思案してからそれを許す。村に帰ったダーモンは急いで妹の婚礼をあげると、踵をかえして王城に向う。突然、果てしない豪雨が襲ってきて、川はみなぎり溢れ、とどろく波は橋げたを打ち砕き、川岸をあちこち走り回っても舟はなく渡し守の影も見えない。ダーモンは岸に身を伏せて、泣きながらゼウスに祈るが、流れはますます激しさを加え、時間は容赦なく過ぎていく。ダーモンは勇気をふるって泡立つ奔湍《ほんたん》に身を躍らせ満身の力をこめて泳ぐ。神はダーモンに情《なさけ》をかけてくれ、向う岸に泳ぎつく。神に感謝して先を急ぐと、俄かに盗賊の一隊が森の闇から現れて行く手をさえぎり、命をとるぞとわめき立てる。この命、捨てるわけにいかぬ、この命は王にくれてやらねばならぬのだとダーモンは棍棒を奪い取って三人を打ち倒し、他の者たちは逃げ去る。やがて太陽は灼熱の光を送り、あまりの労苦に、さしものダーモンも疲れ果て膝を折る。「ああ あなたは慈悲深く 盗賊の手から 激流から 私を救ってくださった、/それなのに私はここで力つき/あのやさしい友は私のために死なねばならないのですか」すると、銀の音色《ねいろ》をたててほとばしる水音がまぢかにきこえる。岩のあいだから、こんこんといのちの水が湧き出ているのである。その水で燃える手足をよみがえらしたダーモンは、さらに先を急ぐのだが、すれちがった二人の旅人の、もうあの男は磔《はりつけ》にかかるころだという会話が耳にはいる。不安とくるしい予感に、宙を飛ぶようにしてダーモンは走り、遠方にシュラークスの城門が見えてきて、そのとき、忠実な家僕のピロストラートスがやって来るのに行き会う。ピロストラートスは主人の姿に驚愕の声をあげ、引き返してください、もうあの方は救えません、せめてご自身の命を救ってください、あの方はお帰りになることを信じながら今か今かと待っておられました、堅く信ずるそのお気持を、暴君のあざけりも奪い取ることはできませんでした、と言う。もし間に合わなかったら、わたしは彼と枕をならべる、友が友に誓いを破ったと残忍な暴君に言わせはせぬ、あの暴君は二人をともに殺して、愛と誠がこの世にあることを知るがいい、そう言うとダーモンは、最後の力をふりしぼって走り、太陽が沈もうとするとき、城門にとりつく。もう十字架は立てられており、綱にかけられて友は引き上げられていく。ダーモンは力のかぎり密集の群を分け、刑吏よ、わたしを殺してくれ、彼が人質となってくれたわたしはここにいる、と叫ぶ。驚きが群集をとらえる。二人は抱き合って、喜びと悲しみに泣く。だれひとりそれを見て泣かぬものはなく、世にも稀なこの話はすぐに王に報告され、王も人間らしい感動にかられて二人を王座の前に呼び出し、「見事お前らは/わしの心を負かしたのだ。/友の信義とはむなしい言葉ではなかった。/わしも仲間に加えてくれ、/わしの願いだ、おんみらの盟約に/わしも新たな一人となりたい」この王の言葉で、長篇詩「人質」は終っている。
ストオリイだけを追ってみれば、「走れメロス」はほぼ「人質」そのままと言ってよい。しかし、太宰があらたに付け足した部分も何か所かある。「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」にはじまる冒頭の部分は、シルレルの詩にはない。「暴君ディオニュースのもとへ/ダーモンは忍びよった。短剣をふところにして。」シルレルの詩の発端であるが、ダーモンが何をして暮している男か、どんな性格の持ち主か、また、ディオニュースがどんな種類の暴君なのかについての説明は、「人質」にはない。「走れメロス」では、その説明がなされている。「メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。」「走れメロス」の暴君ディオニスは、人を信じることができない。疑心暗鬼から、近親者や臣下を次々と殺す。人民に苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》をくわえるといったふうの、世の普通の暴君とはちがう。だから王はメロスに言う。
「おまえなどには、わしの孤独の心がわからぬ。」
メロスは、いきり立って反駁する。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。」
王は呟く。「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
この王とメロスとのやりとりが、あの最後の場面への伏線になっているのである。
「人質」では、ダーモンは妹の婚礼をあげると、踵をかえして王城に向うが、「走れメロス」では、メロスは羊小屋にもぐりこんで死んだように深く眠る。「少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。」「人質」のダーモンは、未練の情など、すこしも持っていないようにみえる。
荒れ狂う川を泳ぎ渡り、山賊を打ち倒し、疲労困憊、折からの午後の灼熱の太陽にまともに照りつけられて、メロスはついに、がくりと膝を折る。「人質」のダーモンも膝を折り、神に訴えるが、メロスは、悪魔の囁きを、聞くのである。
「全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。」
「どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は王の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。」
勇者メロスの心の奥底にも、人間としての弱さが、人間としてのかなしさが、ひそんでいる。この点において、メロスははっきりとダーモンと別れる。太宰治は、十九世紀初頭の理想主義者シルレルと、別れる。
セリヌンティウスもまた、悪魔の囁きを聞いている。
「『セリヌンティウス。』メロスは眼に涙を浮べて言った。『私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。』
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
『メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。』
メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
『ありがとう、友よ。』二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。」
当然のことながら、シルレルの詩「人質」にはこの殴り合いはない。「二人は抱き合って/喜びと悲しみに泣いた。」ただ、この二行だけである。そして、言うまでもないことながら、もしこの部分がなかったならば、「走れメロス」はまことにつまらない、平凡な美談におわったであろう。それこそ、「富嶽百景」にある「この富士の、あまりにも棒状の素朴」「ほていさまの置物《おきもの》」におわったことであろう。太宰治が、そんな小説を書くはずはない。
ひとりの少女が、緋《ひ》のマントを裸のメロスに捧げるところで「走れメロス」は終っている。「勇者は、ひどく赤面した。」心憎いほどに見事な結末である。
ところで、古伝説でもシルレルの詩でも、主人公の名はメロスではない。「真の知己」に引用されていた古伝説では、メロスはピチウスであり、シルレルの詩ではダーモンである。では、メロスという名を太宰が勝手に作ってしまったのかというと、そうではない。シルレルの長篇詩「人質」には原典がある。ローマの著述家ヒューギンの寓話がそれで、その寓話では、主人公はメロス、友人はセリヌンティウスとなっているのである。その事実を太宰がどうして知ったのかは明らかにできないが、ダーモンよりもメロスのほうが語感として気に入ったのだろう。たしかに、「走れダーモン」では、なにか、しまらない。この小説の大きな特色は、たたみかけるようなリズミカルな文体であるが、その文体には、メロスこそふさわしい。
この時期、太宰はシルレルを愛読していたと思われる。「走れメロス」発表のすこし前に、『三田新聞』と『月刊文化学院』に「心の王者」「諸君の位置」というエッセイを寄稿しているが、そのなかで次のように言っている。
「シルレルはもっと読まれなければいけない。今のこの時局に於いては尚更、大いに読まれなければいけない。おおらかな、強い意志と、努めて明るい高い希望を持ち続ける為にも、諸君は今こそシルレルを思い出し、これを愛読するがよい。」(「心の王者」)
「諸君は、今こそ、シルレルを読まなければなるまい。素朴の叡智が、どれほど強力に諸君の進路を指定してくれるものであるかを知るであろう。」(「諸君の位置」)
またこの年、昭和十五年の十一月に新潟高等学校で講演をしているが、そのとき太宰は「走れメロス」を朗読し、素朴の信頼ということについて語り、シルレルの詩を一つ読んでいる。
なお、太宰の親友であった檀一雄に、「『走れメロス』と熱海事件」という文章がある。その全文を引用させてもらう。
「あらゆる芸術作品が成立する根本の事情は、その作家の内奥にかくれている動かしがたい長年月の忍苦に近い肉感があって、それが激発し流露してゆくものに相違なく、それらの作品成立の動機や原因を、卑近な出来事に結えつけて考えてみるのは決していいことではない。
いや、しばしば間違いですらあるだろう。だから、今から語る『熱海事件』を、『走れメロス』という作品が生れた原因であったなどと、私は強弁するような、そんな身勝手な妄想も意志も持っていない。
ただ、私は『走れメロス』という作品を読む度に、何となく『熱海事件』が思い合わされて、その時間に耐えた太宰の切ない祈りのような苦渋の表情がさながら目のあたり見えてくるような心地がするというだけのことである。
昭和十一年の暮であったか。
何しろ寒い時節の事であった。おそらく太宰が碧雲荘に間借してくらしていた頃であったろう。本郷の私の下宿に太宰の先夫人の初代さんがやってきたのである。用向は太宰が今熱海に仕事をしに行っているから、呼び戻して来てくれというのであった。
その時預った金は、太宰が兄さんから月三回に分けて送ってもらっている三十円。三十円全部はなかったかもしれないが、二十八九円はあった。
熱海のその太宰の宿はすぐわかった。今の糸川べりから海岸にそって袖ヶ浦へぬけて行く途中であったような記憶がある。
太宰はひどく喜んで、三十円を受け取ってから、天婦羅を喰いに行こうと、私を誘った。袖ヶ浦に抜けるトンネルの少し手前の、断崖の上に立っている見晴しのいい、イケスの天婦羅屋であった。途々女郎屋町のまん中のノミ屋のオヤジも誘い出していって、太宰はこのオヤジに金を渡し支払わせていたが、たしか十何円というあらかた持参金の半分近くがけし飛ぶような勘定だったことを覚えている。
それからはもう無茶苦茶だ。女郎屋の方に流連荒亡。目がさめれば例のノミ屋のオヤジの店で飲みつづける。
或朝太宰が、菊池寛のところに借金歎願に行ってくると云って、さすがに辛そうに振りきるようにして熱海をあとにして出ていった。成算あるのかどうか心許ないが、しかし、私は待つより外にない。
五日待ったか、十日待ったか、もう忘れた。私は宿に軟禁の態である。この時私が自分の汽車賃だけをでも持っていたならば、必ず脱出しただろう。
が、それさえ出来ず、ノミ屋のオヤジに連れられて、井伏さんの家へノコノコと出かけていった汚辱の一瞬の思い出だけは忘れられるものではない。太宰は井伏さんと将棋をさしていた。私は多分太宰を怒鳴ったろう。そうするよりほかに恰好がつかなかった。
この時、太宰が泣くような顔で、
『待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね』
暗くつぶやいた言葉が今でも耳の底に消えにくい。」
三 若い世代への愛
「心の王者」「諸君の位置」を寄稿した『三田新聞』『月刊文化学院』は、慶応大学、文化学院の学生自身の編集になる、校内向けの新聞であり雑誌である。この二つのエッセイに、太宰はシルレルの「地球の分配」という詩の大意を載せている。
「『受け取れよ、世界を!』ゼウスは天上から人間に呼びかけた。『受け取れ、これはお前たちのものだ。お前たちにおれは之を遺産とし、永遠の領地として贈ってやる。さあ、仲好く分け合うのだ。』忽ち先を争って、手のある限りの者は四方八方から走り集まった。農民は、原野に縄を張り廻らし、貴公子は、狩猟のための森林を占領し、商人は物貨を集めて倉庫に満し、長老は貴重な古い葡萄酒を漁り、市長は市街に城壁を廻らし、王者は山上に大国旗を打ち樹てた。それぞれ分割が、残る隈なくすんだあとで、詩人がのっそりやって来た。彼は、遥か遠方からやって来た。ああ、その時は、地球の表面に存在するもの悉くに其の持主の名札が貼られ、一坪の青草原さえ残っていなかった。『ええ情ない! なんで私一人だけがみんなから、かまって貰えないのだ。この私が、あなたの一番忠実な息子が?』と大声に苦情を叫びながら、彼はゼウスの王座の前に身を投げた。『勝手に夢の国でぐずぐずして居て、』と神はさえぎった。『何もおれを怨むわけが無い。お前は一体どこに居たのだ。みんなが地球を分け合って居るとき。』詩人は泣きながらそれに答えて、『私はあなたのお傍に。目はあなたの顔にそそがれて、耳は天上の音楽に聞きほれて居ました。この心をお許し下さい。あなたの光に陶然と酔って、地上のことを忘れて居たのを!』『どうすればいい?』とゼウスは言った。『地球はみんな呉れてしまった。秋も、狩猟も、市場も、もうおれの物でない。お前がこの天上におれと一緒に居たいなら、時々やって来い。此所はお前の為に空けて置く!』」
この、詩の大意のあとに、「心の王者」では、「いかがです。学生本来の姿とは、即ち此の神の寵児此の詩人の姿に違いないのであります。地上の営みに於いては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧れによって時々は神と共にさえ住めるのです。」と書いている。また、「諸君の位置」では、「詩は、それでおしまいであるが、此の詩人の幸福こそ、また学生諸君の特権でもあるのだ。これを自覚し、いじけず、颯爽と生きなければならぬ。実生活に於ける、つまらぬ位置や、けちくさい資格など、一時、潔く抛棄してみるがよい。諸君の位置は、天上に於いて発見される。雲が、諸君の友人だ。」と熱っぽい口調で語りかけている。
この「地球の分配」という詩がよほど気に入っていたようで、新潟高校で読んだのもおそらくこの詩だと思うが、学生本来の姿とは神の寵児である詩人の姿に違いないのだと語るとき、学生は実生活におけるつまらぬ位置やけちくさい資格などを潔く抛棄しろと語るとき、太宰治は、自分の精神のあり方や人生に対する姿勢を、それと重ね合せて考えていたのではあるまいか。詩人には世俗の倖せはない、世俗の富にも栄誉にも詩人はあずかれない、しかし、詩人は神と共に天上にいることができる――、この詩人の幸福こそ、学生諸君の特権でもあるのだ――、そして自分もまた、その幸福だけを、それだけを享受して生きている――。自分の位置もまた、天上に於いて発見される――。
太宰治の、若い世代への、特に学生たちへの愛情の根底には、この心情が強くあったのではないかと私には思われる。その心情が最も濃厚に溢れ出ている作品は太平洋戦争の初期に書かれた「正義と微笑」であるが、この作品については次章で触れることにして、ここでは「乞食学生」に目をやってみよう。
『若草』の昭和十五年七月号から十二月号まで連載された「乞食学生」には、十五世紀のフランスの詩人フランソワ・ヴィヨンの詩が引用されている。
「若き頃、世にも興ある驕児たり/いまごろは、人喜ばす片言隻句だも言えず/さながら、老猿/愛らしさ一つも無し/人の気に逆らうまじと黙し居れば/老いぼれの敗北者よと指さされ/もの言えば/黙れ、これ、恥を知れよと袖をひかれる。」
さながら老猿――この小説の作者である私(太宰)も三十二歳の中年男で、いささか人生に倦み疲れている。「仕事でもない限りは、一日いっぱい毛布にくるまって縁側に寝ころんでいて、読書にも疲れて、あくびばかりを連発し、新聞を取り上げ、こども欄の考えもの、亀、鯨、兎、蛙、あざらし、蟻、ペリカン、この七つの中で、卵から生まれるものは何々でしょう、という問題に就いて、ちょっと頭をひねってみたり、それもつまらなくなり、あくびの涙がつつと頬を走って流れても、それにかまわず、ぼんやり庭の向うの麦畑を眺めて、やがて日が暮れるというような、半病人みたいな生活」をしている。
その私が玉川上水の土堤で苦学生の佐伯五一郎と知り合い、佐伯を通してその学友の熊本と知り合う。「乞食学生」は三十二歳の中年男と若いふたりの学生との奇妙な交歓物語なのであるが、私(太宰)の心づくしとやさしさは、高慢でいささか不良性を持っている佐伯を感動させる。「君は、偉い人だね。君みたいに、何も気取らないで、僕たちと一緒に心配したり、しょげたりしてくれると、僕たちには、何だか勇気が出て来るのだ。こうしては居られないと思うんだ。勉強しようと、しんから思うようになるんだ。僕は、心の弱さを隠さない人を信頼する。」
私と佐伯、熊本の三人はビイルで乾杯し、私はふたりの学生に素直な気持で言う。「佐伯君にも熊本君にも、欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思います。」それから私は、ふたりの学生と宵の渋谷の街を酔って歩く。「失った青春を再び、現実に取り戻し得たと思った。私の高揚には、限りが無かった。」そして私は、「ああ消えはてし青春の/愉楽の行衛 今いずこ/心のままに 興じたる/黄金《こがね》の時よ 玉の日よ/汝《いまし》帰らず その影を/求めて我は 歎くのみ/ああ移り行く世の姿/ああ移り行く世の姿 されど正しき 若人の/心は永久《とわ》に 冷《さ》むるなし/勉《つと》めの日にも 嬉戯《たわむれ》の/つどいの日にも 輝きつ/古《ふ》りたる殻《から》は 消《き》ゆるとも/実《み》こそは残れ 我が胸に/その実《み》を犇《ひし》と護らなん/その実《み》を犇《ひし》と護らなん」「アルト・ハイデルベルヒ」の一節を、調子はずれの胴間声で、臆することなく怒鳴り散らす。
「乞食学生」に我々は、太宰治の青春への郷愁を看て取ることができる。また、若い世代への共感と愛情を看て取ることができる。そしてまた、青春を失った太宰の哀しさを看て取ることができる。
実はふたりの学生との交歓は、玉川上水の土堤に寝ころんでまどろんでいたあいだの白日夢だったのだが、夢からさめて私(太宰)は井の頭公園の茶店に行き、カルピスを飲む。おおいに若々しいものを飲んでみたくなったのである。
「茶店の床几にあぐらをかいて、ゆっくりカルピスを啜ってみても、私は、やはり三十二歳の下手な小説家に過ぎなかった。少しも、若い情熱が湧いて来ない。その実を犇と護らなん、その歌の一句を、私は深刻な苦笑でもって、再び三度《みたび》、反芻しているばかりであった。」
「みみずく通信」という小説がある。新潟高等学校に講演に行ったときのことを書いた小説だが、講演が終ったあと、イタリヤ軒という洋食屋で生徒たちと晩ごはんを食べ、晩ごはんが済んで学生たちと別れるとき、太宰は言う。
「大学へはいって、くるしい事が起ったら相談に来給え。作家は、無用の長物かも知れんが、そんな時には、ほんの少しだろうが、有りがたいところもあるものだよ。勉強し給え。おわかれに当って言いたいのは、それだけだ。諸君、勉強し給え、だ。」
この時期、太宰のもとに、若い学生たちが、学生ではないにしても若い世代の人たちが、頻々と来訪するようになった。私もそのひとりで、私が太宰をはじめて三鷹に訪問したのは十六年の十月であるが、そのときのことは『回想 太宰治』という本に書いたから、ここでは省略する。
この時期に三鷹に太宰を訪ね、その後も長く太宰に師事≠オた人には、田中英光(十五年三月初訪問)、小山清(十五年十一月初訪問)、戸石泰一、堤重久(十五年十二月初訪問)、菊田義孝(十六年七月初訪問)などがいる。
東京帝国大学の国文科の学生だった戸石泰一は、同じ学部で一級上の三田循司と共に太宰を訪問している。旧制高校時代から、とりつかれたように太宰の作品に熱中していた戸石は、おたずねしたいと太宰に手紙を書いた。その返事には、文学を勉強することでおたがいにはげましあってゆくのは歓迎するが、しかし、好奇心からの作家訪問ならお断りします、とあった。戸石は、熱にうかされたような気持で思いのたけを述べた手紙をすぐに書き、そして太宰を三鷹に訪ねた。
「太宰は細かな絣木綿の着物で、こっちをむくなり堅くなっている私たちに、髪を一にぎりにぎりあげるようにしながら、ややあわただしくお辞儀を返した。思っていたよりも、端正で若々しい風貌である。ぎこちなく固くなっていたのも、まもなく、ほぐれた。三田は、もともと寡黙であった。大きな眼を、ぎょろりとむいて坐っている。私は、会話のとぎれるのがこわくて、むやみに質問したりしゃべったりした。ずいぶんおろかしいことも聞いた。たとえば私は、そのころの近衛新体制というものをほんとうに、『新しい』体制をつくりだすことのように信じて、そのことを論じ聞いたりもした。しかし、太宰は、みんなまともにうけとめてまじめに答えてくれた。その答えは、的確で私たちをわくわくさせるような魅力のある新鮮さにみちていた。」(「別離―わたしの太宰治」)
なお、三田循司は、十七年の二月に盛岡の歩兵連隊に入営し、十八年五月、アッツ島において玉砕した。三田はアッツ島から太宰に便りを寄せたが、「お元気ですか。遠い空から御伺いします。無事、任地に着きました。大いなる文学のために、死んで下さい。自分も死にます。この戦争のために。」というその文面は太宰を感動させた。「散華」(「新若人」十九年三月号)はその感動から生れた小説である。
十七年十月に仙台の歩兵連隊に入営し翌十八年十二月に見習士官になった戸石泰一は、南方の戦場に送られることになり、その途中、わずかな自由時間を利用して上野で太宰と会っている。十九年の一月上旬のことだが、アス五ジ ウエノツクという戸石からの電報を受けとった太宰は、暗いうちに起き、一番電車に乗って上野へ向った。戸石たちの乗っていた汽車は三時間以上も遅れ、その間太宰は、寒い上野駅の改札口のところで、トンビの両袖を重ねてしゃがみ戸石の到着を待った。ふたりは上野の山の茶店で別れを惜しんだが、そのときのことは「未帰還の友に」(「潮流」二十一年五月号)に書かれている。この小説は、次のような文章で結ばれている。
「君は未だに帰還した様子も無い。帰還したら、きっと僕のところに、その知らせの手紙が君から来るだろうと思って待っているのだが、なんの音沙汰も無い。君たち全部が元気で帰還しないうちは、僕は酒を飲んでも、まるで酔えない気持である。自分だけ生き残って、酒を飲んでいたって、ばからしい。ひょっとしたら、僕はもう、酒をよす事になるかも知れぬ。」
堤重久も東京帝国大学の独文科の学生だった。旧制高校の三年のときに『晩年』を読み強烈なショックを受けた堤は、太宰の作品を次々と読みあさり、そして四年目に「走れメロス」「盲人独笑」を読むころに至って、なんとかして太宰に会いたいという願望を押さえることができなくなった。「このときの心の高ぶりは、かの大ユーゴーに面接を求めたときのゴーチエ少年さながらであった。」と堤は『太宰治との七年間』で書いている。堤が三鷹に太宰を訪ねたのは、太宰が「新ハムレット」の構想を練っていた頃で、シェイクスピヤについてふたりは語り合い、それから家を出て吉祥寺の小料理屋「コスモス」と、それからもう一軒の酒場で太宰は大いに文学論を開陳し、十一時過ぎ、三鷹駅に堤を送ってきてくれた。別れぎわに太宰は、「苦しいことがあったら、三鷹の奥で、下手な作家が、下手な小説を、うんうん苦しんでかいていることを思い出してくれたまえ。ひどい失敗ばかりしている、罪の兄貴がいると思えば、気持のなぐさまることもあるだろう。」と言った。
下谷の竜泉寺町で新聞配達をしていた小山清は、初訪問のときに小説の原稿を持参し、置いてきた。太宰はていねいにその原稿を読み、「原稿を、さまざま興味深く拝読いたしました。生活を荒さず、静かに御勉強をおつづけ下さい。いますぐ大傑作を書こうと思わず、気永に周囲を愛して[#「周囲を愛して」に傍点]御生活下さい。それだけが、いまの君に対しての、私の精一ぱいのお願いであります。」とはげましの言葉を書き送った。その後小山は、小説を書きあげるとすぐに太宰のもとにそれを送り、太宰はそれに対して、「一、二箇所、貴重な描写がありました。恥じる事はありません。後半、そまつ也。目茶だ。次作を期待しています。雰囲気や匂いを意識せず、的確という事だけを心掛けるといいと思います。」(十六年六月十八日付)「こんどのは前作にくらべて、その出来栄《できばえ》は、たいへんよいと思います。ところどころに於いて感心し、涙ぐんだ箇所も一箇所ありました。御自重ねがいます。」(十六年六月三十日付)「貴作を読んだ。ゆるめず、このまま絞《しぼ》って、くるしいだろうが、少しずつ書きすすめて下さい。いい調子だ。全部出来てから、また、作品の細部《さいぶ》にわたって相談しましょう。とにかく、この調子。」(十六年九月八日付)「こんどの作品も、いいものでした。ジャーナリズムは、どたばたいそがしい中で君の作品を静かに観賞できないのは無理もないとも思いますが、けれども、必ずいつかは、正当に評価されると思います。」(十七年八月九日付)といった、批評と激励の手紙を出している。そして、いいと思った作品を、『文學界』や『新潮』に持ち込んでやっている。小山清の作品がはじめて文芸雑誌に発表されたのは、戦後の二十二年九月号の『東北文学』に載った「離合」であるが、太宰の強い推輓《すいばん》によるものである。
田中英光が三鷹にはじめて太宰を訪ねたのは十五年の三月下旬であるが、田中が太宰に師事≠キるようになったのは、それより五年前の昭和十年である。同人誌『非望』に掲載されていた出方目英光(田中英光)の「空吹く風」を読んだ太宰は、当時京城の横浜|護謨《ゴム》製造株式会社朝鮮出張所に赴任していた田中宛に、「君の小説を読んで泣いた男がいる。嘗てなきことだ。君の薄汚れた竹藪の中には、カグヤ姫がひとり住んでいる。御自重をいのる。わたしは、いま、配所に月を見ております。君、その不精髭を剃りたまえ。」といった文面の手紙を送った。こんな便りを自分に送ったことは、太宰の数多い人生の重荷の一つになってしまったのだろう、なぜなら、自分はそれから十四年、ずっと太宰だけを頼って文学をやってきたからだと、田中は「生命の果実」という文章に書いている。それからふたりのあいだに文通がはじまるのだが、やがて支那事変が勃発し、田中は召集されて中国戦線に赴いた。暇を見つけては田中は小説を書き、太宰のもとに送った。
「Tという友人があります。この人は、いま北支に居ります。兵隊さんなのです。私とは未だ一度も逢ったことが無いのですが、五、六年まえから手紙の往復して居ります。五、六年まえにその人は小さい同人雑誌にいい小説を一篇発表しました。私はその小説に就いて或る雑誌に少し書きました。それから手紙の往復がはじまったのです。T君は、朝鮮のある会社に勤めていたのです。一昨年応召して、あちこち転戦して、小閑を得る度毎に、戦争を題材にした小説を書いては、私のところに送って来ました。拝見してみると、いずれも、上出来では無いのです。T君ともあろうものが、こんな投げやりな文章では仕様がないと思いましたので、『実に下手だ。いい加減な文章だ』と馬鹿正直に、その都度私の感想を書いて送ったのであります。T君も、ちゃんと出来た人でありますから、私の罵言の蔭の小さい誠実を察知してくれて『しばらく小説を書かず、ゆっくり心境を練るつもりだ』という手紙を寄こしてそれから数回の激戦に参加なされた様子で、二月ほど経ってから、送って寄こした小説は、ぐんと張り切って居りましたので、私は早速、或る雑誌社にたのみ、掲載させてもらいました。」(エッセイ「このごろ」)
このことを太宰は、「鴎」のなかでも書いている。掲載させてもらった雑誌は『若草』の十四年五月号で、作品は「鍋鶴」である。
十五年一月に召集解除になった田中は、京城に帰り、まもなく臨時本社販売部勤務となった。中国戦線に赴く前から田中は、ロスアンゼルス・オリンピックのボート選手当時の思い出を小説に書き綴っていたが、召集解除になってからその小説を完成し、その処女長篇を携えて、三鷹に太宰を訪ねた。「杏の実」というその小説の題名に太宰は苦笑し、『ギリシャ神話』の頁を繰って「オリンポスの果実」という題名を選んでやった。丹念に読んだうえで太宰は悪い箇所を指摘し、二度にわたって書き直しをさせ、『文學界』に持ち込んだ。「オリンポスの果実」は『文學界』の九月号に発表され、好評を得て、その年十二月に池谷信三郎賞を受賞、田中英光の出世作となった。
太宰治が死んだ翌二十四年の十一月、田中英光は三鷹禅林寺の太宰の墓の前で自殺した。その遺書のなかには、「太宰先生の墓に埋めて下さい」とあった。
四 「女の決闘」と「風の便り」
「女の決闘」は昭和十五年一月号から六月号までの『月刊文章』に六回に分けて連載された。『森鴎外全集』の翻訳篇で十九世紀後半のドイツの作家ヘルベルト・オイレンベルグの「女の決闘」というわずか十三頁の短篇小説を読み、その短篇を手掛りにして、文学に対する、また芸術家というものに対する、自分の考えを述べた小説であるが、オイレンベルグの原作と、そこから喚起される私(DAZAI)の「ばかな空想」を交互に並べながら、物語を作っていくという特異な形式をとっている。
ロシアの医科大学の女学生がある男と関係を持ち、その男の女房から決闘を申し込まれ、ふたりの女は白樺の森を背後にした草原で拳銃を撃ち合い、女学生が撃ち殺される、勝った女房は村役場に自分の殺人を自首して出て、未決檻に入れられ、絶食して自殺する――原作「女の決闘」はこのようなストオリイの小説であるが、十九世紀写実小説の見本のような作品と言っていいであろう。
「原作者が、目前に遂行されつつある怪事実を、新聞記者みたいな冷い心でそのまま書き写しているとしか思われなくなって来る」という感想を私(DAZAI)はまず持つ。この小説の描写には、どこかしら異様なものがある。それは、「一口で言えば、『冷淡さ』であります。失敬なくらいの、『そっけなさ』であります。何に対して失敬なのであるか、と言えば、それは、『目前の事実』に対してであります。目前の事実に対して、あまりにも的確の描写は、読むものにとっては、かえって、いやなものであります。」
そして描写に対する不愉快さは、やがて、直接に、その原作者に対する不快感となる。原作者は、この作品を書くとき、特別に悪い心境にあったのではないか。「悪い心境ということについては二つの仮説を設けることが出来ます。一つは原作者がこの小説を書くとき、たいへん疲れて居られたのではないかという臆測であります。人間は肉体の疲れたときには、人生に対して、また現実生活に対して、非常に不機嫌に、ぶあいそになるものであります。(中略)作者が肉体的に疲労しているときの描写は必ず人を叱りつけるような、場合によっては、怒鳴りつけるような趣きを呈するものでありますが、それと同時に実に辛辣無残の形相をも、ふいと表白してしまうものであります。人間の本性というものは或いはもともと冷酷無残のものなのかも知れません。肉体が疲れて意志を失ってしまったときには、鎧袖一触、修辞も何もぬきにして、袈裟がけに人を抜打ちにしてしまう場合が多いように思われます。悲しいことですね。」
この小説の不思議なほどに的確な描写の拠って来るところは、おそらくこの第一の仮説に尽くされているのではないかと太宰は言う。しかし、敢て太宰は、第二の仮説を立てる。「この小説は、徹底的に事実そのままの資料に拠ったもので、しかも原作者はその事実発生したスキャンダルに決して他人ではなかった、という興味ある仮説」である。つまり、原作者オイレンベルグは作中の女房コンスタンチエの実の亭主ではなかったのか……。もちろんこれは、太宰の勝手な空想だが、その空想の飛躍するままに、太宰の小説「女の決闘」は展開していくのである。原作は、女房コンスタンチエの、「無残で冷い」描写にのみ終始しているのだが、太宰はそこに、女学生と、そして亭主(原作者)を登場させ、こまかい描写をほどこし、自分の小説世界を作っていくのである。
たとえば、
「私にはわかっている。あの人は、私に、自分の女房を殺して貰いたいのだ。けれども、それを、すこしも口に出して言いたくないし、また私の口からも聞いたことがないというようにして置きたかった。それは、あとあと迄、あの人の名誉を守るよすがともなろう。女二人に争われて、自分は全く知らぬ間に、女房は殺され、情婦は生きた。ああ、そのことは、どんなに芸術家の白痴の虚栄を満足させる事件であろう。あの人は、生き残った私に、そうして罪人の私に、こんどは憐憫をもって、いたわりの手をさしのべるという形にしたいのだ。見え透いている。あんな意気地無しの卑屈な怠けものには、そのような醜聞が何よりの御自慢なのだ。そうして顔をしかめ、髪をかきむしって、友人の前に告白のポオズ。ああ、おれは苦しい、と。」
女房と女学生が拳銃を撃ち合おうとしている決闘の場の、白樺の幹の蔭に、太宰は亭主(原作者)をうずくまらせる。原作者は、その眼でじかに見た一部始終を、あやまたず的確に描写する。冷淡に、そっけなく、写実する。その原作を書き写しながら、しかし太宰は、亭主の心理のなかに入っていかないわけにはいかない。
「ああ、けさは女房も美しい。ふびんな奴だ。あいつは、私を信じすぎていたのだ。私も悪い。女房を、だましすぎていた。だますより他はなかったのだ。家庭の幸福なんて、お互い嘘の上ででも無けりゃぁ成り立たない。いままで私は、それを信じていた。女房なんて、謂わば、家の道具だと信じていた。いちいち真実を吐露し合っていたんじゃ、やり切れない。私は、いつもだましていた。それだから女房は、いつも私を好いてくれた。真実は、家庭の敵。嘘こそ家庭の幸福の花だ、と私は信じていた。この確信に間違い無いか。私は、なんだか、ひどい思いちがいをしていたのでは無いか。このとしになるまで、知らずにいた厳粛な事実が在ったのでは無いか。女房は、あれは、道具にちがいないけれども、でも、女房にとって、私は道具でなかったのかも知れぬ。もっと、いじらしい、懸命な思いで私の傍にいてくれたのかも知れない。」
決闘なんか、やめろ! 亭主は白樺の蔭から一歩踏み出して叫ぼうとしたのだが、二人の女は拳銃を持つ手を徐々に挙げて発砲一瞬まえの姿勢に移りつつあり、はっと声を呑んでしまう。
未決檻で餓死した女房は牧師に当てた書きかけの短い手紙をのこしていた。その遺書によって原作「女の決闘」は終っているのだが、太宰の小説では、女房の遺書を書き写しているうちに、原作者は筆を投ぜざるを得なくなったとなっている。
「ここまで書いて来て、かの罪深き芸術家は、筆を投じてしまいました。女房の遺書の、強烈な言葉を、ひとつひとつ書き写している間に、異様な恐怖に襲われた。背骨を雷に撃たれたような気が致しました。実人生の、暴力的な真剣さを、興覚めする程に明確に見せつけられたのであります。たかが女、と多少は軽蔑を以て接して来た、あの女房が、こんなにも恐ろしい、無茶なくらいの燃える祈念で生きていたとは、思いも及ばぬ事でした。女性にとって、現世の恋情が、こんなにも燃え焦げる程ひとすじなものとは、とても考えられぬ事でした。命も要らぬ、神も要らぬ、ただ、ひとりの男に対する恋情の完成だけを祈って、半狂乱で生きている女の姿を、彼は、いまはじめて明瞭に知る事が出来たのでした。」
このような具合に、原作の合間に自分の創った物語を挿入しながら、十九世紀文学の写実的な作風に対する疑問を太宰は提出しているのである。
「二十世紀の写実とは、あるいは概念の肉化にあるのかも知れない」と太宰は考える。そして、「この原作は、第二回に於いて、くわしく申して置きましたように、原作者の肉体疲労のせいか、たいへん投げやりの点が多く、単に素材をほうり出したという感じで、私の考えている『小説』というものとは、甚だ遠いのであります。もっとも、このごろ日本でも、素材そのままの作品が『小説』として大いに流行している様子でありますが、私は時たま、そんな作品を読み、いつも、ああ惜しい、と思うのであります。口はばったい言い方でありますが、私に、こんな素材を与えたら、いい小説が書けるのに、と思う事があります。素材は、小説でありません。素材は、空想を支えてくれるだけであります。私が、今まで六回、たいへん下手で赤面しながらも努めて来たのは、私のその愚かな思念の実証を、読者にお目にかけたかったが為でもあります。私は、間違っているでしょうか。」
この言葉は、太宰治の文学を考える上で、たいへん重要である。太宰を私小説家だと考えている読者、批評家は意外に多い。なるほど太宰は、いわゆる私小説≠かなりの数書いたが、身辺の出来事を素材として、単に素材をほうり出したような私小説を書いたことはついになかった。もちろん、事は私小説にのみかかわることではない。素材はあくまで空想を支えてくれるだけのものにすぎないという思念を、太宰は持ちつづけていた作家なのである。
「女の決闘」にはまた、芸術家というものに対する太宰の考えが述べられている。
芸術家には、殆ど例外なく、二つの哀れな悪徳が具わっている、と太宰は言う。その一つは、好色の念である。芸術家というものは、例外なしに生れつきの好色人である。原作者オイレンベルグ氏は、年はすでに四十を越していながら、熾烈な好色の念を持っていて、若い女学生にうつつをぬかし、また、二人の女のうしろについて決闘の場にやってくる。そして、白樺の幹の蔭に身をかくし、息を殺して、二人の女の決闘のなりゆきを見つめるのだが、
「もう一つ、この男の、芸術家の通弊として避けられぬ弱点、すなわち好奇心、言葉を換えて言えば、誰も知らぬものを知ろうという虚栄、その珍らしいものを見事に表現してやろうという功名心、そんなものが、この男を、ふらふら此の決闘の現場まで引きずり込んで来たものと思われます。どうしても一匹、死なない虫がある。自身、愛慾に狂乱していながら、その狂乱の様をさえ描写しようと努めているのが、これら芸術家の宿命であります。本能であります。諸君は、藤十郎の恋、というお話をご存じでしょうか。あれは、坂田藤十郎が、芸の工夫のため、いつわって人妻に恋を仕掛けた、ということになっていますが、果して全部が偽りの口説《くぜつ》であったかどうか、それは、わかったものじゃ無いと私は思って居ります。本当の恋を囁いている間に自身の芸術家の虫が、そろそろ頭をもたげて来て、次第にその虫の喜びのほうが増大して、満場の喝采が眼のまえにちらつき、はては、愛慾も興覚めた、という解釈も成立し得ると思います。まことに芸術家の、表現に対する貪婪、虚栄、喝采への渇望は、始末に困って、あわれなものであります。今、この白樺の幹の蔭に、雀を狙う黒い猫みたいに全身緊張させて構えている男の心境も、所詮は、初老の甘ったるい割り切れない『恋情』と、身中の虫、芸術家としての『虚栄』との葛藤である、と私には考えられるのであります。」
「誰も見た事の無いものを私はいま見ている、このプライド。やがてこれを如実に描写できる、この仕合せ。ああ、この男は、恐怖よりも歓喜を、五体しびれる程の強烈な歓喜を感じている様子であります。神を恐れぬこの傲慢、痴夢、我執、人間侮辱。芸術とは、そんなに狂気じみた冷酷を必要とするものであったでしょうか。男は、冷静な写真師になりました。芸術家は、やっぱり人ではありません。その胸に、奇妙な、臭い一匹の虫がいます。その虫を、サタン、と人は呼んでいます。」
この男、「女の決闘」の原作者の胸のなかに棲《す》んでいる奇妙な臭い一匹の虫は、もちろん、天稟の芸術家である太宰治の胸のなかにも棲んでいる。どうしても死なぬ一匹の虫を、サタンと人に呼ばれる一匹の虫を、太宰治も持っている。もちろん太宰治は、それをはっきりと自覚していたはずである。
しかし、
「芸術家には、人で無い部分が在る、芸術家の本性は、サタンである、という私の以前の仮説に対して、私は、もう一つの反立法を持ち合せているのであります。それを、いま、お知らせ致します。
――リュシエンヌよ、私は或る声楽家を知っていた。彼が許嫁の死の床に侍して、その臨終に立ち会った時、傍らに、彼の許嫁の妹が身を慄わせ、声をあげて泣きむせぶのを聴きつつ、彼は心から許嫁の死を悲しみながらも、許嫁の妹の涕泣に発声法上の欠陥のある事に気づいて、その涕泣に迫力を添えるには適度の訓練を必要とするのではなかろうか、と不図考えたのであった。而もこの声楽家は、許嫁との死別の悲しみに堪えずしてその後間もなく死んでしまったが、許嫁の妹は、世間の掟に従って、忌の果てには、心置きなく喪服を脱いだのであった。
これは、私の文章ではありません。辰野隆先生訳、仏人リイル・アダン氏の小話であります。この短い実話を、もう一度繰りかえして読んでみて下さい。ゆっくり読んでみて下さい。薄情なのは、世間の涙もろい人たちの間にかえって多いのであります。芸術家は、めったに泣かないけれども、ひそかに心臓を破って居ります。人の悲劇を目前にして、目が、耳が、手が冷いけれども、胸中の血は、再び旧にかえらぬ程に激しく騒いでいます。芸術家は、決してサタンではありません。」
「女の決闘」は、太宰の文学観と、また芸術家観を知る上に重要な作品であるが、この作品と並んで、昭和十六年十一月号の『文學界』と『文藝』、十二月号の『新潮』に分載された「風の便り」もまた注目されねばならない。
三十八歳の、自然主義的な私小説家とされている、無名に近い貧しい作家木戸一郎と、高踏派といわれている高名な老大家井原退蔵との往復書簡の形をとっているこの小説も、太宰の文学観と芸術家観を窺う上で見のがすわけにいかない。文中から、特に重要と思われる箇所を拾いあげてみることにする。
まず、文学観について――。
井原退蔵から木戸一郎へ。
「『芸術的』という、あやふやな装飾の観念を捨てたらよい。生きる事は、芸術ではありません。自然も、芸術でありません。さらに極言すれば、小説も芸術でありません。小説を芸術として考えようとしたところに、小説の堕落が胚胎していたという説を耳にした事がありますが、自分もそれを支持して居ります。創作に於いて最も当然に努めなければならぬ事は、『正確を期する事』であります。その他には、何もありません。風車が悪魔に見えた時には、ためらわず悪魔の描写をなすべきであります。また風車が、やはり風車以外のものには見えなかった時は、そのまま風車の描写をするがよい。風車が、実は、風車そのものに見えているのだけれども、それを悪魔のように描写しなければ『芸術的』でないかと思って、さまざま見え透いた工夫をして、ロマンチックを気取っている馬鹿な作家もありますが、あんなのは、一生かかったって何一つ掴めない。小説に於いては、決して芸術的雰囲気をねらっては、いけません。(中略)ただ実直に、印象の正確を期する事一つに努力してみて下さい。君には未だ、君自身の印象というものが無いようにさえ見える。それでは、いつまで経っても何一つ正確に描写する事が出来ない筈です。主観的たれ! 強い一つの主観を持ってすすめ。単純な眼を持て。複雑という事は、かえって無思想の人の表情なのです。」
木戸一郎から井原退蔵へ。
「あなたに限らず、あなたの時代の人たちに於いては、思惟とその表示とが、ほとんど間髪をいれず同時に展開するので、私たちは呆然とするばかりです。思った事と、それを言葉で表現する事との間に、些少の逡巡、駈引きの跡も見えないのです。あなた達は、言葉だけで思想して来たのではないでしょうか。思想の訓練と言葉の訓練とぴったり並走させて勉強して来たのではないでしょうか。(中略)私たちは、何と言ってよいのか、『思想を感覚する』とでも言ったらいいのだろうか、思惟が言葉を置きざりにして走ります。そうして言葉は、いつでも戸惑いをして居ります。(中略)思惟と言葉との間に、小さい歯車が、三つも四つもあるのです。けれども、この歯車は微妙で正確な事も信じていて下さい。私たちの言葉は、ちょっと聞くとすべて出鱈目の放言のように聞えるでしょうが、しさいにお調べになったら、いつでもちゃんと歯車が連結されている筈です。」
芸術家観について――。井原退蔵から木戸一郎へ。
「作品を発表するという事は、恥を掻く事であります。神に告白する事であります。そうして、もっと重大なことは、その告白に依って神からゆるされるのでは無くて、神の罰を受ける事であります。自分には、いつも作品だけが問題です。作家の人間的魅力などというものは、てんで信じて居りません。人間は、誰でも、くだらなくて卑しいものだと思っています。作品だけが救いであります。仕事をするより他はありません。(中略)君は、自身の善良性に行きづまっているのです。だらしの無い話だ。作家は例外なく、小さい悪魔を一匹ずつ持っているものです。いまさら善人づらをしようたって追いつかぬ。」
「自分は君に、『作家は仕事をしなければならぬ。』と再三、忠告した筈でありました。それは決して、一篇の傑作を書け、という意味ではなかったのです。それさえ一つ書いたら死んでもいいなんて、そんな傑作は、あるもんじゃない。作家は、歩くように[#「歩くように」に傍点]、いつでも仕事をしていなければならぬという事を私は言ったつもりです。生活と同じ速度で、呼吸と同じ調子で、絶えず歩いていなければならぬ。」
五 旅について
この時期、太宰は何回か小旅行をしている。十五年四月三十日、井伏鱒二、伊馬鵜平、および井伏宅に出入りしていた三人の早大の学生と上州四万温泉。同年七月三日、「東京八景」執筆のため伊豆湯ヶ野に出掛け、八日、井伏鱒二、伊馬鵜平、小山祐士と熱川温泉で落合い、九日、谷津温泉、十日、再び湯ヶ野に帰り、十二日、迎えにきた美知子夫人と帰京の途中に谷津温泉に井伏鱒二、亀井勝一郎を訪ね、その夜、豪雨のための水害に遭う。同年十月十四日、佐藤春夫、井伏鱒二、山岸外史と甲州に葡萄狩。十一月十六日、新潟高校に講演に赴き、十七、十八日、佐渡に遊ぶ。十六年一月十五日、美知子夫人と伊東温泉。同年二月十九日、「新ハムレット」執筆のため静岡県三保松原に。同年八月十七日、故郷の金木に母タネを見舞う。といった具合だが、母の病気見舞いのための帰郷を別にすれば、先輩、友人、夫人との同行の小旅行と、作品執筆のための滞在と、そして佐渡への単身旅行ということになる。
さてしかし、太宰が旅を好んでいたとは、どうも思えない。船橋にいたころ、友人の檀一雄は、旅が太宰の心身に新しい平衡をもたらすにちがいないと考え、故郷の九州への旅に太宰を誘った。櫨《はぜ》の紅葉の美しさを語り、九州の海のよさを語っても、太宰は一向に気乗りしなかった。太宰には、自然や風景に対する興味が、稀薄だったのであろう。二十八歳のときのエッセイ「絵はがき」で太宰は書いている。
「私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰、白砂に這いひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫滝、そのような絵葉書よりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。人ごみ。喧騒。他生の縁あってここに集《つど》い、折も折、写真にうつされ、背負って生れた宿命にあやつられながら、しかも、おのれの運命開拓の手段を、あれこれと考えて歩いている。私には、この千に余る人々、誰ひとりをも笑うことが許されぬ。それぞれ、努めて居るにちがいないのだ。かれら一人一人の家庭。ちち、はは。妻と子供ら。私は一人一人の表情と骨格とをしらべて、二時間くらいの時を忘却する。」
また、「東京八景」執筆のため伊豆の湯ヶ野に滞在していたとき、その福田屋という宿で「貪婪禍」という随筆を書いているが、そのなかでは、
「私が旅に出て風景にも人情にも、あまり動かされたことのないのは、その土地の人間の生活が、すぐに、わかってしまうからであろう。皆、興覚めなほど、一生懸命である。渓流のほとりの一軒の茶店にも、父祖数代の暗闘があるだろう。茶店の腰掛一つ新調するに当っても、一家の並々ならぬ算段があったのだろう。一日の売上げが、どのように一家の人々に分配され、一喜一憂が繰り返されることか。風景などは、問題でない。その村の人たちにとっては、山の木一本渓流の石一つすべて生活と直接に結びついている筈だ。そこには、風景はない。日々の糧が見えるだけだ。素直に、風景を指さし、驚嘆できる人は幸いなる哉。」
太宰の関心は、ひたすらに、人間と、人間の生活にあった。風景などは、問題でなかったのである。
結婚五か月後の八十八夜のころに太宰は妻の美知子と信州に二泊の旅をし、上諏訪から蓼科にまわっているが、そのときのことを、美知子未亡人は『回想の太宰治』のなかで次のように書いている。
「翌日蓼科に向かった。ここは私にとっては曾遊の地で、前にきたときは蓼科山に登り明治温泉から増富鉱泉へ歩いて、左千夫を偲び、高原の自然を満喫したのだが、こんどは太宰を散歩に誘っても蛇がこわいといって、着いたきり宿に籠って酒、酒である。これでは蓼科に来た甲斐がない。
この人にとって自然は何なのだろう。花鳥風月はどんな意味をもつのだろう。おのれの心象風景の中にのみ生きているのではないか――こんなことを思う一方、盲目の人と連れ立って旅しているような寂しさを感じた。」
上州四万温泉に行ったときの写真があるが、宿のどてらを着て林のなかに立っている太宰は、なんとも浮かない顔をしている。しかし伊馬春部(鵜平)の追憶によれば、その夜、深夜の台所に忍びこんだりしながら宿泊した四万館のビールをぜんぶ飲み干し、大いに気勢を挙げたようだが、ビールを飲むためなら、なにも四万温泉にまで遠出する必要はない。
日常の生活環境を離れ、温泉につかって一ぱいやるのも旅の大きな楽しみにはちがいないのだが、太宰が旅に求めた楽しみは、どうやらそれに尽きていたのではなかろうか。
また太宰は、みずから旅行下手であることを自認していた。戦後に書かれた『井伏鱒二選集第四巻』の「後記」には、井伏の旅行上手と比較しながら、次のように述べている。
「旅行下手というものは、旅行の第一日に於いて、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の殆んど全部を失っていることに気がつき、旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這うようにして女房の許に帰り、そうして女房に怒られて居るものである。」
「旅行に於いて、旅行下手の人の最も閉口するのは、目的地へ着くまでの乗物に於ける時間であろう。すなわちそれは、数時間、人生から『降《お》りて』居るのである。それに耐え切れず、車中でウイスキーを呑み、それでもこらえ切れず途中下車して、自身の力で動き廻ろうともがくのである。」
ともあれ太宰は、静岡県の三保から以西にはついに行ったことがなかったのである。九州はおろか、奈良、京都に行ったこともなかったのである。時代がちがうとはいえ、やはり珍しいことと言わねばなるまい。
その太宰が、なぜ佐渡に行ったのか。
「何しに佐渡へなど行くのだろう。自分にも、わからなかった。十六日に、新潟の高等学校で下手な講演をした。その翌日、この船に乗った。佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。前から、気がかりになっていたのである。私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。関西の豊麗、瀬戸内海の明媚は、人から聞いて一応はあこがれてもみるのだが、なぜだか直ぐに行く気はしない。相模、駿河までは行ったが、それから先は、私は未だ一度も行って見たことが無い。もっと、としとってから行ってみたいと思っている。心に遊びの余裕が出来てから、ゆっくり関西を廻ってみたいと思っている。いまはまだ、地獄の方角ばかりが、気にかかる。新潟まで行くのならば、佐渡へも立ち寄ろう。立ち寄らなければならぬ。謂わば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由も無く、佐渡にひかれた。私は、たいへんおセンチなのかも知れない。死ぬほど淋しいところ。それが、よかった。お恥ずかしい事である。」(「佐渡」)
「新潟まで行くのならば、佐渡へも立ち寄ろう。」とここにはあるが、「佐渡へは前から行ってみたいと思っていました。こんど新潟高校から招待せられ、出かけて来たのも、実は、佐渡へ、ついでに立ち寄ってみたい下心があったからでした。」(「みみずく通信」)苦手としていた講演を敢て引き受けたのも、佐渡へ渡ってみたい気持が強くあったからなのである。
「夜半、ふと眼がさめた。ああ、佐渡だ、と思った。波の音が、どぶんどぶんと聞える。遠い孤島の宿屋に、いま寝ているのだという感じがはっきり来た。眼が冴えてしまって、なかなか眠られなかった。謂わば、『死ぬほど淋しいところ』の酷烈な孤独感をやっと捕えた。おいしいものではなかった。やりきれないものであった。けれども、これが欲しくて佐渡までやって来たのではないか。うんと味わえ。もっと味わえ。床の中で、眼をはっきり開いて、さまざまの事を考えた。自分の醜さを、捨てずに育てて行くより他は、無いと思った。障子が薄蒼くなって来る頃まで、眠らずにいた。」(「佐渡」)
この佐渡旅行が、遠い見知らぬ土地への、ただ一度のひとり旅であった。
六 「新ハムレット」
「新ハムレット」は、太宰治の最初の書下し長篇小説である。執筆にかかったのは十六年二月一日で、同日付山岸外史宛書簡で、「きょうから、懸案の長編小説にとりかかります。三百枚くらいの予定です。当分、他の仕事は断って、没頭しようと思います。」と書いている。二月十九日、「しばらく勇猛精進してみるつもり」(山岸外史宛書簡)で、静岡県三保松原の三保園に赴いて稿を継ぎ、三月二日帰京、さらに四月上旬には甲府市錦町の東洋館に行って執筆に打ちこんだ。二百四十七枚を脱稿したのは五月の末で、同年七月二日、文藝春秋社から刊行された。
その「はしがき」で、太宰は次のように言っている。
「こんなものが出来ました、というより他に仕様が無い。ただ、読者にお断りして置きたいのは、この作品が、沙翁の『ハムレット』の註釈書でもなし、または、新解釈の書でも決してないという事である。これは、やはり作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎないのである。人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の『ハムレット』から拝借して、一つの不幸な家庭を書いた、それ以上の、学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。狭い、心理の実験である。
過去の或る時代に於ける、一群の青年の、典型を書いた、とは言えるかも知れない。その、始末に困る青年をめぐって、一家庭の、(厳密に言えば、二家庭の、)たった三日間の出来事を書いたのである。
(中略)
此の作品の形式は、やや戯曲にも似ているが、作者は、決して戯曲のつもりで書いたのではないという事を、お断りして置きたい。作者は、もとより小説家である。戯曲作法に就いては、ほとんど知るところが無い。これは、謂わば LESEDRAMA ふうの、小説だと思っていただきたい。」
また、八月二日付井伏鱒二宛書簡では、「私の過去の生活感情を、すっかり整理して書き残して置きたい気持がありました。その意味では、私小説かも知れません。」と言っている。
主人公の、始末に困る青年ハムレットには、過去の或る時代に於ける太宰治自身の、気質と心情が投影されているのだが、過去の或る時代とは、漠然と、昭和十年前後と考えてよいだろう。
原作「ハムレット」のオフィリヤは、慎み深く、貞節を美徳と考えている女性だが、「新ハムレット」のオフィリヤは、なかなかに才気煥発な、思ったことをこだわらずに口にする、いわば現代風な女性である。ハムレットの子をみごもるのだが、べつにそれを悪いこととも思っていない。ハムレットに捨てられることがあっても、子供と二人で毎日たのしく暮していけると、明るい顔付きなのである。そのオフィリヤが、ハムレットについて王妃に言う台詞。
「あたしは、なんでも存じて居ります。ハムレットさまに、ただわくわく夢中になって、あのおかたこそ、世界中で一ばん美しい、完璧な勇士だ等とは、決して思って居りません。失礼ながら、お鼻が長過ぎます。お眼が小さく、眉も、太すぎます。お歯も、ひどく悪いようですし、ちっともお綺麗なおかたではございません。脚だって、少し曲って居りますし、それに、お可哀そうなほどのひどい猫背です。」
眉が太すぎたり、脚が少し曲っていたりはしなかったが、太宰治もまた、鼻が長く、歯が悪く、それにいくらか猫背だった。
「お性格だって、決して御立派ではございません。めめしいとでも申しましょうか、ひとの陰口ばかりを気にして、いつも、いらいらなさって居ります。いつかの夜など、信じられるのはお前だけだ、僕は人にだまされ利用されてばかりいる、僕は可哀想な子なのだからお前だけでも僕を捨てないでおくれ、と聞いていて浅間しくなるほど気弱い事をおっしゃって、両手で顔を覆い、泣く真似をなさいました。どうして、あんな、気障なお芝居をなさるのでしょう。そうしてちょっとでもあたしが慰めの言葉を躊躇している時には、たちまち声を荒くして、ああ僕は不幸だ、誰も僕のくるしみをわかってくれない、僕は世界中で一ばん不幸だ、孤独だ等とおっしゃって、髪の毛をむしり、せつなそうに呻くのでございます。ご自分を、むりやり悲劇の主人公になさらなければ、気がすまないらしい御様子でありました。突然立ち上って、壁にはっしとコーヒー茶碗をぶっつけて、みじんにしてしまう事もございます。そうかと思うと、たいへんな御機嫌で、世の中に僕以上に頭脳の鋭敏な男は無いのだ、僕は稲妻のような男だ、僕には、なんでもわかっているのだ、悪魔だって僕を欺く事ができない、僕がその気にさえなれば、どんな事だって出来る、どんな恐ろしい冒険にでも僕は必ず成功する、僕は天才だ等とおっしゃって、あたしが微笑んで首肯くと、いやお前は僕を馬鹿にしている、お前は僕を法螺吹きだと思っているのに違いない、お前は僕を信じないからだめだ、お前なんかにはわからない、と急に不機嫌におなりになって、あたしがどんなに誓言しても、こんどは、ひどく調子づいて御自分の事を滅茶苦茶に悪くおっしゃいます。」
これは、太宰治の自意識がとらえた、自分自身の性情である。強い自意識の持主である太宰は、自分自身のことを「なんでも存じて」いるのである。おそらく太宰は、なかば苦笑をうかべながら、この台詞を書いていたのにちがいない。しかしオフィリヤはまたこうも言う。
「けれども、あたしは、あのお方を好きです。あんなお方は、世界中に居りません。どこやら、とても、すぐれたところがあるように、あたしには思われます。いろいろな可笑しな欠点があるにしても、どこやらに、神の御子のような匂いが致します。(中略)ハムレットさまは、此の世で一ばんお情の深いおかたです。お情が深いから、御自分を、もてあましてしまって、お心もお言葉も乱れるのです。」
「神の御子のような匂いが致します。」――このオフィリヤの台詞から、「人間失格」の末尾の、京橋のバアのマダムの言葉を思い出す読者も多いかと思う。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも……神様みたいないい子でした。」
大庭葉蔵もまた、虚構化された太宰治の自画像と考えていいであろう。「神の御子のような匂い」「神様みたいないい子」……これは、太宰の自己認識というよりは、そうありたいというひそかな願いを、胸の奥底に太宰が持っていたと考えたほうがよいのではなかろうか。
ハムレット自身の台詞。
「僕の空想の胃袋は、他のひとの五倍も広くて、十倍も貪慾だ。満腹という事を知らぬ。もっと、もっとと強い刺戟を求めるのだ。けれども僕は臆病で、なまけものだから、たいていは刺戟へのあこがれだけで終るのだ。形而上の山師。心の内だけの冒険家。書斎の中の航海者。つまり、僕は、とるにも足らぬ夢想家だ。」
「ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打つほどによくわかる情緒は、おう可哀想という思いだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。」
「僕は、つまらない男なのだ。だらしのない男なのだ。僕は、それが恥ずかしくて、てんてこ舞いをしているのだ。自分のいたらなさ、悪徳を、いやになるほど自分で知っているので、身の置きどころが無いのだ。僕は、絶対に詭弁家ではない。僕は、リアリストだ。なんでも、みな、正確に知っている。自分の馬鹿さ加減も、見っともなさも、全部、正確に知っている。そればかりでは無い。僕は、ひとのうしろ暗さに対しても敏感だ。ひとの秘密を嗅ぎつけるのが早いのだ。これは下劣な習性だ。悪徳が悪徳を発見するという諺もあるけれど、まさしくそのとおり、ひとの悪徳を素早く指摘できるのは、その悪徳と同じ悪徳を自分も持っているからだ。(中略)僕には高邁なところが何も無い。のらくらの、臆病者の、そうして過度の感覚の氾濫だけだ。こんな子は、これから一体、どうして生きて行ったらいいのだ。」
これは、謂わば LESEDRAMA ふうの小説である、と太宰は本の「はしがき」で書いた。たしかにそうにはちがいないのだが、この戯曲ふうの小説を上演したいという気持を芥川比呂志が持ち、戦後の二十一年五月、上演の許可を得るため疎開先の金木に太宰を訪ねている。もうだいぶ前のことになるが、「新ハムレット」は、比呂志の演出によって、小石川の三百人劇場で上演された。私もそれを観たが、比呂志の演出の巧さのせいかなかなかに面白く、戯曲として考えてもいいのではないかと、思いをあらたにした。
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第七章 文学への沈潜
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一 苛烈な戦時下で
昭和十六年十二月八日、太平洋戦争が開始された。
そのすこし前の十一月十七日、文士徴用令書を受けた太宰は本郷区役所に出頭し、身体検査を受けた。検査に合格すれば、軍に徴用され、報道班員として戦地に赴かなければならなかったのだが、肺浸潤の病名で徴用免除となった。多くの文学者が徴用され、その月の二十一日、井伏鱒二、小田嶽夫、中村地平、高見順、寺崎浩らを太宰は東京駅に見送っている。
軍からの徴用を免かれたことは、太宰にとってはやはり好運であったと言わねばなるまい。戦局が進むにつれて、病弱などの理由で軍隊に入らぬ者を集めて軍事教練をほどこす点呼召集や、在郷軍人会による暁天動員をしばしば受け、近くの小学校の校庭で突撃訓練などをさせられたりはしたが、時間の大半を創作一筋についやすことができたのである。
太平洋戦争下の三年九か月の間に太宰は、「正義と微笑」「右大臣実朝」「雲雀の声」(戦後「パンドラの匣」に改作)「新釈諸国噺」「津軽」「惜別」「お伽草紙」を書き、ほかに「水仙」「日の出前」「黄村先生言行録」「佳日」「竹青」などの十九の短篇小説を書いている。あの苛烈な戦時下で、量的にも、いやそれよりも質的にみて、これだけの仕事をした作家はほかにいない。
「昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。私は三度も点呼を受けさせられ、そのたんびに竹槍突撃の猛訓練などがあり、暁天動員だの何だの、そのひまひまに小説を書いて発表すると、それが情報局に、にらまれているとかいうデマが飛んで、昭和十八年に『右大臣実朝』という三百枚の小説を発表したら、『右大臣《ユダヤジン》実朝』というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取り扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている愚劣な『忠臣』もあった。私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終りまで全文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説は出版不許可になった事もあった。しかし、私は小説を書く事は、やめなかった。もうこうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。それはもう理屈ではなかった。百姓の糞意地である。」
戦後に書かれた「十五年間」の一節である。「右大臣《ユダヤジン》実朝」事件≠ニいうのは、十八年の八月にあったことで、檀一雄の『小説太宰治』によると、大陸の戦場から帰還した朝倉某の歓迎会が中谷孝雄、芳賀檀、保田與重郎、檀一雄など旧日本浪曼派の同人たちで行なわれ、その席上、「たしか芳賀檀氏であったろう、『太宰君が、ユダヤ人実朝という長篇を書いたそうで』とそう云ったので、その場はどっと笑い崩れた。しかし敬愛する同志のことだ。誰も他意があったわけではない。全く他愛なく腹を抱えて笑ったばかりである。」しかしそのことを人伝てにきいた太宰は激昂した。会があった十日ほどあとで檀一雄が中谷孝雄に会ったとき、太宰からきた部厚い手紙を見せられ、それには、自分は忠良な日本臣民として実朝という忠節に厚い一詩人を描こうとしたのに、これを故意にユダヤ人実朝と誹謗した男がいる、発言者が誰であったかを是が非でも究明する、自分は妻子を背負ってその日の米銭にも窮しながら小説を書いている、その自分の小説を誹謗し、情報局や大政翼賛会あたりへ告口をして、作家の一生を屠る者があるのは、生かしておけない、といった激しい調子で、懊悩と激昂がこもごも交り合っていたという。中谷宛のその手紙を懐にして檀は太宰を訪ね、ユダヤ人実朝というその言葉は、その場の座興として、むしろ太宰への親愛感から出たものだと実相を話し、太宰も一応納得した。そのあと太宰は中谷孝雄に詫びの手紙(八月十七日付)を書き、「私は単純な男です。それこそユダヤ人のように、いつまでもねちねちしては居りません。」と言っている。しかし戦後発表した文章になおこのことを書いているところをみると、このとき受けた心の痛みはしこりとして太宰のなかに残っていたのであろう。檀一雄は、書いている。「この事件はこれだけのことである。私は太宰が一体どんなことを考え、どんな悲哀を味わったか知らない。繰り返しユダヤ人実朝事件と書いているから、この出来ごとの心理的な打撃は大きかったに相違ない。しかし、私はおそらく太宰の陰鬱な時期にくる強迫観念が主題だったろうと思っている。」
檀一雄の言うように、情報局あたりからにらまれているという強迫観念が、その頃の太宰にはあったのかもしれない。「十五年間」にも書いてあるが、その前年の十七年の『文藝』十月号に発表した「花火」という四十枚の小説は、発表直後、全文削除を命じられた。この小説は、戦後、「日の出前」と改題されて単行本『薄明』に収録されたが、「日大生殺し」として新聞にも大きく報道された実際の事件からヒントを得た作品で、手がつけられないほどに不良の長男を父親の洋画家が殺す話である。実際に起った事件から題材をとった太宰の唯一の作品だが、この小説を太宰に書かせたのは、末尾にある妹の言葉だったろうと思う。悪い兄さんでも、あんな死にかたをしたとなると、やっぱり肉親の情だ、君も悲しいだろうが、元気を出して、と検事から言われて、
「少女は眼を挙げて答えた。その言葉は、エホバをさえ沈思させたにちがいない。もちろん世界の文学にも、未だかつて出現したことがなかった程の新しい言葉であった。
『いいえ、』少女は眼を挙げて答えた。『兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました。』」
新聞紙上に掲載されたこの少女の言葉が太宰に衝撃を与え、それが作品のモチーフになったのだろうと思うのだが、戦時下に不良のことを題材にするのは好ましくないという理由で、全文削除となった。
そのへんの事情について太宰は、十七年十月十七日付高梨一男宛書簡で、「『花火』は、戦時下に不良の事を書いたものを発表するのはどうか、というので削除になったのだそうです。もちろんあの一作に限られた事で、作家の今後の活動は一向さしつかえないという事だそうで、まあ、私も悠然と仕事をつづけて行きます。」と書いている。さしたるショックも受けていないような文面であるが、この出来事は太宰のなかに一種の強迫観念を生み、それが「右大臣《ユダヤジン》実朝」事件≠フ伏線になったのではなかろうか。
或る二百枚以上の新作の小説とは、十八年十月末に脱稿した「雲雀の声」である。結核患者の療養生活を題材にした小説で、小山書店から刊行する予定だったのだが、戦時下にふさわしい題材とはいえず、検閲不許可のおそれがあり、書店と相談した結果、出版を見合わすことにしたのである。出版不許可になったわけではなく、げんにその後出版の許可が下り、刊行の準備をすすめていたのだが、発行間際の十九年十二月上旬に神田の印刷工場が空襲で全焼し、そのため刊行が不可能になったのである。その点、「十五年間」の記述は、正確とは言えない。きびしい条件のもとで小説を書いていくことがいかに困難であったかを、太宰は強調したかったのであろう。しかし太宰は、小説を書くことをやめなかった。小説を書くことだけが、太宰にとって、生きる≠アとだったのである。
十九年の晩秋、『新釈諸国噺』の「凡例」に太宰は書いている。
「この仕事も、書きはじめてからもう、ほとんど一箇年になる。その期間、日本に於いては、実にいろいろな事があった。私の一身上に於いても、いついかなる事が起るか予測出来ない。この際、読者に日本の作家精神の伝統とでもいうべきものを、はっきり知っていただく事は、かなり重要な事のように思われて、私はこれを警戒警報の日にも書きつづけた。出来栄えはもとより大いに不満であるが、この仕事を、昭和聖代の日本の作家に与えられた義務と信じ、むきになって書いた、とは言える。」
当時の太宰の心魂を窺い得る言葉である。
二 「正義と微笑」
「正義と微笑」は、東京帝大の独文科の学生だった堤重久の弟康久の日記を素材にして書かれた小説である。
当時前進座の俳優(俳優名中村文吾)であった康久は、十五歳の中学生のときから克明に日記をつけていて、簿記帖のようなノートに書かれたその日記は、十六年暮、康久が十九歳のときには、七冊ほどになっていた。そこには、「学校や教師に対する罵言、友人に対する侮弄、自己嫌悪の慨嘆、切々たる未来への憧憬が、激しい口調で、それでいてユーモラスに綴られていた。十六歳前後の、少年にしかかけない、どろどろした、切ない何物かがあった。まだ岩にならない前の岩漿《がんしよう》が、赤く、熱く、火花を散らして、行間に流れていた。」(堤重久『太宰治との七年間』)
なにかの話のついでに堤重久はその弟の日記のことを太宰に話した。興味を持った太宰は堤から日記を借り受け、それを素材にして小説の構想を練りはじめた。そして十七年一月に稿を起し、二月中旬には、すでに百枚になっていた原稿と七冊の日記、聖書、辞典を持って甲府市外の湯村温泉明治屋に赴き、稿を継ぎ、一旦帰京したあと、奥多摩御岳駅前の和歌松旅館に滞在し、三月二十日、小説三百枚を完成、六月十日に錦城出版社から刊行された。
「正義と微笑」は、素材になった康久の日記とでは、まるで違った作品になっていた。
「作中の私らしき人物は、実は私自身と私の兄を混淆して、そこに世にも稀な一善人を創造していること、私は大学を卒業したのに、私らしき人物は太宰と同じく中途退学していること、実際に康久が師事したのは秋田雨雀氏であったが、それが斎藤市蔵という傲慢不遜の大劇作家と化して、そこには佐藤春夫氏の雰囲気がただよっていること、当時康久をとらえていたマルキシズムが、そっくり聖書をめぐる信仰精神に入れ替っていること、その他さまざまの創作的換骨奪胎がほどこされていることは勿論である。その詳細は省くとして、ここにいっておきたいことは、そのもとの日記そのものには、いまだ混沌未分の、少年期の生な情熱が煮えたぎっていたものが『正義と微笑』では精緻に整理され、清麗なカットグラスみたいに彫琢されて、まったく別種の芸術品に昇華していることである。いいかえれば、太宰は『かるみ』の手法によって、重く熱くたぎる激情を洗い落して、そこに軽やかな、陰影の深い、清潔な少年像を創造したのであった。」(堤重久『恋と革命』)
この堤重久の指摘のなかで特に重要なことは、マルキシズムが、聖書をめぐる信仰精神に入れ替ったことだろう。「正義と微笑」の主人公芹川進の精神と行動の支えになっているのは「聖書」であるが、それが太宰治自身の心情に裏打ちされていることは言うまでもない。
「正義と微笑」という題名は、「マタイ伝第六章」のキリストの言葉からとられている。
「なんじら断食《だんじき》するとき、偽善者のごとく、悲しき面容《おももち》をすな。彼らは断食《だんじき》することを人に顕《あらわ》さんとて、その顔色を害《そこな》うなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報《むくい》を得たり。なんじは断食するとき、頭《かしら》に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕《あらわ》れずして、隠れたるに在《いま》す汝の父にあらわれん為なり。さらば隠れたるに見たまう汝の父は報《むく》い給わん。」
「なんじら断食《だんじき》するとき、かの偽善者のごとく、悲しき面容をすな。」――この聖書の一句を太宰は「狂言の神」のエピグラフに、また「虚構の春」の文中に使っていたが、太宰の倫理と美意識の根幹を形造っていた思想といってよいだろう。中学三年の芹川進少年は日記の開巻第一頁にこのキリストの言葉を書き写す。「微笑もて正義を為せ!」これを、生きていく上のモットオにしようと考える。
中学四年で一高の入学試験を受け、受験に失敗した進は、その日の日記に、「富める者の神の国に入《い》るよりは、駱駝《らくだ》の針の孔《あな》を通るかた反《かえ》って易《やす》し。」という「マタイ伝第十九章」の言葉を書きつける。芹川家はなかなかの財産家なのだが、その有閑階級にべったり寄食していることに疑問を持ちはじめ、映画俳優になって自活したいと考える。映画俳優をあこがれているわけではない。くるしい、また一面みじめな職業だとさえ考えている。しかし、この職業以外には、自分が出来そうなものは考えつかない。
ひとまずR大学に入った進は、入学して三日もすると早くも大学に幻滅する。クラスには七十人くらいの学生がいるのだが、「智能の点に於いては、ヨダレクリ坊主のようである。ただもう、きゃあきゃあ騒いでいる。白痴ではないかと疑われるくらいである。」もうこんな奴等とは口もきくまいと思うようになる。「ああ、ロマンチックな学生諸君! 青春は、たのしいものらしいねえ。馬鹿野郎。君等は、なんのために生きているのか。君等の理想は、なんですか。なるたけ、あたり触りの無いように、ほどよく遊んでいい気持になって、つつがなく大学を卒業し、背広を新調して会社につとめ、可愛いお嫁さんをもらって月給のあがるのをたのしみにして、一生平和に暮すつもりで居るんでしょうが、お生憎さま、そうは行かないかも知れませんよ。思いもかけない事が起りますよ。覚悟は出来ていますか。可哀想に、なんにも知らない。無智だ。」
将来映画のほうにすすむかどうかはともかく、学校をよして、どこかの劇団に入って、演技の基本的な技術をみっちり仕込んでもらおうと進は思う。兄さんが師事している作家の津田さんからの紹介状をもらって進は劇作家の斎藤市蔵氏を訪ね、新劇の劇団である鴎座で研究生を募集していることを知り、試験を受け、合格はするのだが、受験時に鴎座の幹部たちから受けたエリートを鼻にかけているような不愉快な印象のため、気がすすまない。
その翌日、大学で寺内神父の旧約聖書申命記の講義をきき、モーゼが民衆のたべ物の事にまで世話を焼いているのに深い興味を感じる。先覚者というものは、ただ口で立派な教えを説いているばかりではない、直接、民衆の生活を助けてやっている。いや、ほとんど民衆の生活の現実的な手助けばかりだと言っていいかもしれない。キリストだって、そうではなかったか……。進は、胸中にひらめくものを感じる。
「ああ、そうだ。人間には、はじめから理想なんて、ないんだ。あってもそれは、日常生活に即した理想だ。生活を離れた理想は、――ああ、それは、十字架へ行く路なんだ。そうして、それは神の子の路である。僕は民衆のひとりに過ぎない。たべものの事ばかり気にしている。僕はこのごろ、一個の生活人になって来たのだ。地を匍《は》う鳥になったのだ。天使の翼が、いつのまにやら無くなっていたのだ。じたばたしたって、はじまらぬ。これが、現実なのだ。ごまかし様《よう》がない。『人間の悲惨を知らずに、神をのみ知ることは、傲慢を惹き起す。』これは、たしか、パスカルの言葉だったと思うが、僕は今まで、自分の悲惨を知らなかった。ただ神の星だけを知っていた。あの星を、ほしいと思っていた。それでは、いつか必ず、幻滅の苦杯を嘗めるわけだ。」
人間はみな生活のしっぽをぶらさげて生きている。その現実から目をそむけることはできない。みじめな生活のしっぽをひきずりながらも、それでも救いはあるはずだ。――芹川進のこの自覚は、ある時期の、いわゆる転機∴ネ後の、太宰治の自覚に通じる。太宰治もまた、十字架への路を捨て、神の星を諦めて、一個の生活人として、地を匍《は》う鳥になったのである。
進は、鴎座に入ろうかとふと思うが、しかし、鴎座には、理想の高い匂いがないばかりか、生活の影さえ稀薄だ、演劇を生活している根強さがない、ディレッタントの集団だ、どうしても物足りないと考え、意見を求めにまた斎藤氏のところへ行こうと決意する。
「そう決意した時、僕のからだは、ぬくぬくと神の恩寵に包まれたような気がした。人間のみじめさ、自分の醜さに絶望せず、『凡《すべ》て汝の手に堪《た》うる事は力をつくしてこれを為《な》せ。』
努めなければならぬ。十字架から、のがれようとしているのではない。自分の醜いしっぽをごまかさず、これを引きずって、歩一歩よろめきながら坂路をのぼるのだ。この坂路の果にあるものは、十字架か、天国か、それは知らない。かならず十字架ときめてしまうのは、神を知らぬ人の言葉だ。ただ、『御意《みこころ》のままになし給え。』」
これもまた、当時の太宰治の、生きていく上の心構えと考えていいであろう。
斎藤氏からの示唆によって春秋座の試験を受け、難関を突破して、芹川進は役者としての第一歩を踏み出す。「演技道場は、地獄の谷だ!」稽古のあまりのきびしさ、修業のあまりの苦しさに、進は何度か自殺を考える。十月一日、歌舞伎座で初舞台。役は、「助六」の提灯持ち、「坊ちゃん」の中学生。
「役を全部すまして、楽屋風呂へはいって、あすから毎日、と思ったら発狂しそうな、たまらぬ嫌悪を覚えた。役者は、いやだ! ほんの一瞬間の事であったが、のた打ち廻るほど苦しかった。いっそ発狂したい、と思っているうちに、その苦しみが、ふうと消えて、淋しさだけが残った。なんじら断食《だんじき》するとき、――あの、十六歳の春の日記の巻頭に大きく書きつけて置いたキリストの言葉が、その時、あざやかに蘇って来た。なんじら断食《だんじき》するとき、頭《かしら》に油《あぶら》をぬり顔《かお》を洗《あら》え。くるしみは誰にだってあるのだ。ああ、断食は微笑と共に行え。せめてもう十年、努力してから、その時には真に怒れ。僕はまだ一つの、創造をさえしていないじゃないか。いや、創造の技術さえ、僕には未だおぼつかない。」
やがて十八歳をむかえようとする十二月二十九日の日記で、この青春小説はおわっている。その日の日記の文末に、進は「さんびか第三百十三」を書き写す。
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「わがゆくみちに はなさきかおり
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のどかなれとは ねがいまつらじ」
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「正義と微笑」は、太宰の若い世代への愛情が、また青春へのみずみずしい共感が、最も濃厚に溢れ出ている作品である。これを書いたとき、太宰治、三十四歳。三十四歳の太宰は、十代の少年芹川進と共に生き、共に思索し、共に苦悩しているのである。
太宰がこの青春小説を完成してまもなくの十七年五月、「日本文学報国会」が結成された。全文学者を国策の実践に協力させようとするこの会が旗印として掲げたのは、日本文化の顕揚であり、日本的世界観の確立であった。
西欧的なものを否定する風潮は、すでにそれ以前から強まっていたのだが、そのような時代の空気のなかで太宰は、キリストの教えを尊ぶ少年を主人公とする小説を書いた。この事は、特筆されてよい。
三 「右大臣実朝」
太宰が「右大臣実朝」の稿を起したのは、十七年の晩秋である。十月十七日付高梨一男宛書簡には、「今月の二十日頃までに、短篇などの仕事を全部片づけて、それから、いよいよ『実朝《サネトモ》』にとりかかるつもり。ナイテ血ヲハクホトトギス という気持です。」とある。しかし、稿を起してまもなく、母タネが危篤におちいったため急遽金木に帰郷した。十二月十日、タネは逝去し、太宰は二週間ほど生家に滞在して野辺送りをすませ、翌年一月中旬にも亡母三十五日法要のため帰郷している。そのためもあって執筆はなかなか捗らず、三百三枚を脱稿したのは三月末だった。
その間の二月末、百五十一枚まで漕ぎつけたあと、『文學界』の同人だった舟橋聖一との約束を果すため、短篇小説を一つ書いている。しかし、「胸の思いが、どうしても『右大臣実朝』から離れることが出来ず、きれいに気分を転換させて別の事を書くなんて鮮やかな芸当はおぼつかなく」、「右大臣実朝」をめぐる話を三十枚ほどにまとめているのだが、十八年四月号の『文學界』に発表された「鉄面皮」と題するその小説に、「HUMAN LOST」のなかの、
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「実朝《さねとも》をわすれず。
伊豆の海の白く立ち立つ浪がしら。
塩の花ちる。
うごくすすき。
蜜柑畑。」
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という章句を引用し、そして、
「くるしい時には、かならず実朝を思い出す様子であった。いのちあらば、あの実朝を書いてみたいと思っていた。私は生きのびて、ことし三十五になった。そろそろいい時分だ、なんて書くと甚だ気障な空漠たる美辞麗句みたいになってつまらないが、実朝を書きたいというのは、たしかに私の少年の頃からの念願であったようで、その日頃の願いが、いまどうやら叶いそうになって来たのだから、私もなかなか仕合せな男だ。」と書いている。
実朝のどういうところに惹かれたのかについては、なにも書いていない。当り前のことで、小説を書くというのは、それを自分自身に明らかにしていこうとする作業なのであるから。私たちもまた書かれた作品を読みすすめながら、太宰の実朝への想いを探っていくより仕方がない。
ところで、「その日頃の願いが、いまどうやら叶いそうになって来た」事情は、美知子未亡人が「『右大臣実朝』と『鶴岡』」(『回想の太宰治』所収)という論考で明らかにしている。それによると、昭和十七年八月九日に鶴岡八幡宮社務所から『鶴岡 源実朝号』という百二十六頁の冊子が発行され、実朝の年譜や関係主要文献などが収載されており、太宰の実朝研究に大いに役立ったということ、また、龍粛《りようすすむ》訳注の、鎌倉時代を扱った史書の『吾妻鏡』が岩波文庫本ですでに刊行されていて、昭和十四年に巻一、十五年に巻二、巻三、そして三代将軍実朝に関する記述の主要部を含む巻四が十六年十一月末に刊行されたこと、この二つの根本資料を入手し得たことによって実朝に関する史実がかなり明らかになり、多年の念願であった「右大臣実朝」の執筆にとりかかれたということである。「私もなかなか仕合せな男だ。」とは、そのことを指しているのであろう。
といっても、「実朝の近習が、実朝の死と共に出家して山奥に隠れ住んでいるのを訪ねて行って、いろいろと実朝に就いての思い出話を聞くという趣向」のこの小説を、歴史小説≠ニ考えてよいかどうかは問題である。
「史実はおもに吾妻鏡に拠った。でたらめばかり書いているんじゃないかと思われてもいけないから、吾妻鏡の本文を少し抜萃しては作品の要所要所に挿入して置いた。物語は必ずしも吾妻鏡の本文のとおりではない。」
史実はおもに『吾妻鏡』に拠り、史実からの制約を受けながらも、太宰はかなり自由に物語を創作している。ここに描かれている人物像は、実朝はもとよりだが、「相州さま」と呼ばれている執権北条義時にしても、公暁にしても、空想力を駆使して太宰が造形した人物といってよい。太宰が書きたかったのは、実朝をめぐる時代の動きでもなく、源家滅亡の歴史でもなく、実朝に託したみずからの精神の理想像である。
「あのお方の御環境から推測して、厭世だの自暴自棄だの或いは深い諦観だのとしたり顔して囁いていたひともございましたが、私の眼には、あのお方はいつもゆったりして居られて、のんきそうに見えました。大声あげてお笑いになる事もございました。その環境から推して、さぞお苦しいだろうと同情しても、その御当人は案外あかるい気持で生きているのを見て驚く事はこの世にままある例だと思います。」
「どうしたって私たちとは天地の違いがございます。全然、別種のお生れつきなのでございます。わが貧しい凡俗の胸を尺度にして、あのお方のお事をあれこれ推し測ってみたりするのは、とんでもない間違いのもとでございます。人間はみな同じものだなんて、なんという浅はかなひとりよがりの考え方か、本当に腹が立ちます。」
「なんという秀でたお方でございましょう。融通無碍とでもいうのでございましょうか。お心に一点のわだかまりも無い。」
「 ハルサメノ露ノヤドリヲ吹ク風ニコボレテ匂フヤマブキノ花
天真爛漫とでも申しましょうか。心に少しでも屈託があったなら、こんな和歌などはとても作れるものではございませぬ。」
「将軍家の御胸中はいつも初夏の青空の如く爽やかに晴れ渡り、人を憎むとか怨むとか、怒るとかいう事はどんなものだか、全くご存じないような御様子で、右は右、左は左と、無理なくお裁きになり、なんのこだわる所もなく皆を愛しなされて、しかも深く執着するというわけでもなく水の流れるようにさらさらと自然に御挙止なさって居られたのでございますから、その日、相州さまに仰せられた事も、ほかの意味など少しもなく、ただ、あの御霊感のままにきっぱりおっしゃっただけのことと私は固く信じて居ります。」
融通無碍、天真爛漫、天衣無縫、そして無邪気な霊感の持主として実朝は描かれている。「みじんも理窟らしいものが無く、本当に、よろずに、さらりとして」いるのである。だから、酒宴がひらかれ、なみいる者大いに酔い、座が乱れ、それを苦々しく思った大江広元が、酒は士気を旺盛にするためのものとばかり聞いていたが、ほかにも功徳があるものらしいと厭味を言ったとき、実朝は、静かに独り言のように言うのである。
「酒ハ酔ウタメノモノデス。ホカニ功徳ハアリマセヌ。」
実朝の身近には不思議なあかるさがただよっている。「あかるさをお求めになるお心だけは非常なもので」、都のあかるさに憧れ、また、軍《いくさ》物語を音読させ平家琵琶をききながら「平家ハ、アカルイ。」と微笑をもらす。そして、
「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」
と誰にともなくひとりごとのように呟く。
この呟きをもらしたときの十七歳の実朝が、後年の横死を予感していたかどうかは判らない。兄の頼家が修善寺で北条氏の刺客たちにより殺害されたのは、実朝が将軍職についた翌年である。同じ悲運に自分が見舞われることを予感しても不思議はないのだが、そのことについて太宰は何も語っていない。十七歳の実朝は、「いつもゆったりして居られて、のんきそうに見え」たのである。
実朝の心境に重大な転機が見えたのは、和田合戦の前後からだと、語り手の近習は追想している。実朝二十二歳の建暦三年五月、宿老和田義盛が、主として北条義時への反感から挙兵し、事破れて討死する。さきに誠忠廉直の畠山重忠が北条時政の奸策によって無実の罪を着せられ、悲壮の最期をとげ、いままた、鎌倉一の大武骨者で忠義一徹の、大の贔屓にしていた老臣を失い、その夜、実朝は三首の歌を詠む。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
焔ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ
カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀トハ云ハン
神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ
[#ここで字下げ終わり]
この頃から、実朝は政務の決裁にもほとんど興味を失い、和歌管絃に耽溺するようになり、わけもない酒宴をひらいては婦女子にたわむれるようになった。
「いつかお傍の者が、このごろめっきりお太りになられたように拝せられますが、と申し上げたら、
男ハ苦悩ニヨッテ太リマス。ヤツレルノハ、女性ノ苦悩デス。
と御冗談めかしておっしゃいましたけれども、或いは、御陽気に見えながらその御胸中には深い御憂悶を人知れず蔵して居られたのでもございましょうか。」
そして実朝は、しきりに官位の昇進を望むようになる。義時や広元らの重臣がそれを諫めても聞きいれず、死の前年の建保六年には、正月、権大納言、三月、左近大将、十月、内大臣、十二月、右大臣、と異常な栄転で、また渡宋の計画を思いつき陳和卿に唐船の修造を言いつけたりする。
「将軍家の御驕奢はつのるばかり、和歌管絃の御宴は以前よりさらに頻繁になったくらいで、夜を徹しての御遊宴もめずらしくは無く、またその頃から鶴岳宮の行事やもろもろの御仏事に当ってさえ、ほとんど御謙虚の敬神崇仏の念をお忘れになっていらっしゃるのではないかと疑われるほど、その御儀式の外観のみをいたずらに華美に装い、結構を尽して盛大に取り行わせられ」るようになる。
すでに実朝は、みずからの横死を予感しているように見える。微笑さえうかべながら、平然と死を待ち受けているように見える。
建保七年正月二十七日、右大臣拝賀のための鶴岡八幡宮参詣の華やかな儀式が行なわれようとしたその直前、
「鎌倉中は異様に物騒がしくなり、しかもこのたびの御拝賀の御式は、六月の左近大将拝賀の式よりも、はるかに数層倍大規模のものになる様子で、ただごとではない、と御ところの人たちも目を見合せ、ともしびの、まさに消えなんとする折、一際はなやかに明るさを増すが如く、将軍家の御運もここ一両年のうちに尽きるのではあるまいかという悲しい予感にさえ襲われ、思えば十年むかし、私が十二歳で御ところへ御奉公にあがって、そのとき将軍家は御十七歳、あの頃しばしば御ところへ琵琶法師を召されて法師の語る壇浦合戦などに無心にお耳を傾けられ、平家ハ、アカルイ、とおっしゃって、アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ、と御自身に問いかけて居られた時の御様子が、ありありと私の眼前に蘇ってまいりまして、人知れず涙に咽ぶ夜もございました。」
その正月二十七日、鶴岡八幡宮において実朝を殺害した頼家の遺児公暁を、太宰は次のように描いている。京都から帰ってきて鶴岡八幡宮の別当になった十二歳の公暁が、祖母の政子につれられて実朝のところへ挨拶にきたときの印象であるが、
「一口に申せば、たいへん愛嬌のいいお方でございました。幼い頃から世の辛酸を嘗めて来た人に特有の、磊落のように見えながらも、その笑顔には、どこか卑屈な気弱い影のある、あの、はにかむような笑顔でもって、お傍の私たちにまでいちいち叮嚀にお辞儀をお返しなさるのでした。無理に明るく、無邪気に振舞おうと努めているようなところが、そのたった十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたわしく思い、また暗い気持にもなりました。」
あきらかに太宰は、実朝の天真爛漫、天衣無縫さの対極に公暁を置いている。
由比浦のなぎさで、公暁は言う。
「あの人たちには、私のように小さい時からあちこち移り住んで世の中の苦労をして来た男というものが薄汚く見えて仕様が無いものらしい。私はあの人に底知れずさげすまれているような気がする。あんな、生れてから一度も世間の苦労を知らずに育って来た人たちには、へんな強さがある。」
そして、海へはいって蟹をとってきて、それを焼いてむしゃむしゃ食べながら、「死のうと思っているのです。死んでしまうんだ。」と口走ったりする。
その生涯を通して太宰の心の一隅にわだかまっていた暗鬱の翳《かげ》が、公暁のなかにはある。現実の太宰治は、より公暁に近かったと言えるかもしれない。だからこそ太宰は、実朝のなかに精神の理想像を見出していたと言えるかも知れない。
その公暁がなぜ実朝を殺害したか、その裏になにかの政治的陰謀があったのかについては、太宰はなにも語ろうとしない。鶴岡八幡宮における事件については、『吾妻鏡』『承久軍物語』『増鏡』の原文を列記するにとどめている。事件の真相をさぐる歴史家的興味は、太宰にはなかったのであろう。
四 『新釈諸国噺』
「わたしのさいかく、とでも振仮名を附けたい気持で、新釈諸国噺という題にしたのであるが、これは西鶴の現代訳というようなものでは決してない。古典の現代訳なんて、およそ、意味の無いものである。作家の為すべき業ではない。三年ほど前に、私は聊斎志異の中の一つの物語を骨子として、大いに私の勝手な空想を按配し、『清貧譚』という短篇小説に仕上げて、この『新潮』の新年号に載せさせてもらった事があるけれども、だいたいあのような流儀で、いささか読者に珍味異香を進上しようと努めてみるつもりなのである。西鶴は、世界で一ばん偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ。私のこのような仕事に依って、西鶴のその偉さが、さらに深く皆に信用されるようになったら、私のまずしい仕事も無意義ではないと思われる。私は西鶴の全著作の中から、私の気にいりの小品を二十篇ほど選んで、それにまつわる私の空想を自由に書き綴り、『新釈諸国噺』という題で一本にまとめて上梓しようと計画しているのだが、まず手はじめに、武家義理物語の中の『我が物ゆえに裸川』の題材を拝借して、私の小説を書き綴ってみたい。原文は、四百字詰の原稿用紙で二、三枚くらいの小品であるが、私が書くとその十倍の二、三十枚になるのである。私はこの武家義理、それから、永代蔵、諸国噺、胸算用などが好きである。所謂、好色物は、好きでない。そんなにいいものだとも思えない。着想が陳腐だとさえ思われる。」
昭和十九年一月号の『新潮』に「新釈諸国噺」(後「裸川」と改題)を発表したときに「はしがき」として書いた文章である。こののち太宰は、同年五月号の『文藝』に「義理」、九月号の『文芸世紀』に「貧の意地」、十月号の『新潮』に「人魚の海」、十一月号の『月刊東北』に「女賊」を発表し、それ以外の「大力」「猿塚」「破産」「赤い太鼓」「粋人」「遊興戒」「吉野山」の七篇は雑誌に発表せずに書下しとし、十月中旬に十二篇計二百五十枚を脱稿、『新釈諸国噺』として二十年一月に生活社から刊行した。
戦時下のこの時期には、文芸雑誌が次々と廃刊、統合され、また用紙不足のため頁数も減少し、全十二篇のうちの七篇は雑誌への発表が無理だったのだろうと思われる。この本の「凡例」で太宰は言っている。「短篇十二は、長篇一つよりも、はるかに骨が折れる。」まして書下しで短篇小説を書くことは、骨も折れるであろうし、また割りに合わない仕事のはずなのだが、太宰は、「この仕事を、昭和聖代の日本の作家に与えられた義務と信じ、むきになって書いた」のである。しかし、はじめは二十篇くらいの予定だったのだが、十二篇書いたらさすがにへたばってしまったのだろう。
ここでは、そのなかから三つの短篇をとりあげ、西鶴の原文と対比しながら、太宰の勝手な空想がどのように按配されているかをみてみよう。ただし、原文は、麻生磯次氏訳の現代語訳に拠ることにする。
「裸川」
「武家義理物語 巻一の一 我が物ゆえに裸川」を下敷きにしたこの小説は、十二の短篇の最初の作品と考えてよい。
青砥左衛門尉藤綱が駒をあゆませて滑川《なめりがわ》を渡ったとき、あやまって銭十文ばかりを川のなかへ落し、銭は国の重宝、このまま捨てておけばいたずらに川底に朽ちるばかり、もったいなし、あくまで探し出さねばならぬと決意し、三両を人足に与えてその僅かばかりの銭を探させる。一人の狡智にたけた人足が自分の腹掛けからまず銭三文をつかみ出し、青砥が落した銭をさぐり当てたように見せかけ、同じ手で一文二文と拾いあげ、まんまと一杯食わせ、しかし青砥は大喜びでその人足にさらに褒美を与える。下賤の者たちには青砥の深慮が解しかね、一文惜しみの百知らず、と笑う。手間賃の三両、思いがけない儲けと、人足たちは酒盛りをはじめ、くだんの人足は一杯食わせたからくりを自慢げに喋り、一座はあっと驚き、感心し、そのとき一人の男が、お前は青砥の高潔な志を無にした、とんでもない悪人だ、と怒りを発してその場を立ち去る。しかしこの詐術は露顕し、不正をした人足は捕えられ、厳重な監視のもとで銭が一文のこらず見つかるまで丸裸で川底を捜すよう言い渡され、やっと九十七日目、冬の川水が枯れて川底の砂があらわれたころ、銭をのこらず捜し出すことができた、というのが、この話の大筋のストオリイである。この大筋のストオリイにおいては、太宰の小説「裸川」は西鶴の原作をほとんどそのまま追っている。
しかし、何か所か、太宰は改変を加えている。勝手な空想を按配して話をふくらまし、またある部分は削りとっている。
西鶴の原作は、冒頭が次のようになっている。
「口というものは、虎のように恐ろしいもので、口の利《き》き方ひとつで身をほろぼすことがあり、舌は剣《つるぎ》のように、その使い方で命を断つことがあるが、それは人の本意とするところではない。」つまり、狡智にたけた人足、「裸川」では浅田小五郎という名になっているが、その人足が、よせばよいのに、自分の利巧さを仲間に自慢した、それがいつしか青砥の耳に入ってひどいめに会わされた。「これというのも口が禍《わざわい》して、自分の不正をさらけ出したようなものであった。」というわけである。これは一種の教訓だが、太宰はその部分を削りとっている。「鎌倉山の秋の夕ぐれをいそぎ、青砥左衛門尉藤綱、駒をあゆませて滑川《なめりがわ》を渡り、」と冒頭から物語に入っている。
酒盛りの席で怒りを発した男は、原作では、「その後、正道《まとも》なことを云った人足のことを、内々調べて見たところ、千葉介《ちばのすけ》の血筋を引く、れっき[#「れっき」に傍点]とした武士で、千葉孫九郎という者であった。仔細があって、親の代から身を隠し、民家に紛れて住んでいたのであった。さすがに武士の志は格別であると深く感じて、青砥はこのことを時頼公に言上した。男は首尾よく召し出されて、再び武家の名誉をあげ、千歳《ちとせ》を祝う鶴が岡に住むことになった。」ここで西鶴の原作は終っている。この千葉孫九郎なるれっきとした武士が青砥藤綱とならぶ主人公格になっていて、さすが、武士は天晴れ、ということになるのだが、太宰の小説では、この男はただの人足、真面目な人だから浅田の自慢話に胸くそが悪くなり、馬鹿野郎とどなりつけ、「おれは、これから親孝行をするんだ。笑っちゃいけねえ。おれは、こんな世の中のあさましい実相を見ると、なぜだか、ふっと親孝行をしたくなって来るのだ。これまでも、ちょいちょいそんな事はあったが、もうもう、きょうというきょうは、あいそが尽きた。さっぱりと足を洗って、親孝行をするんだ。人間は、親に孝行しなければ、犬畜生と同じわけのものになるんだ。笑っちゃいけねえ。父上、母上、きょうまでの不孝の罪はゆるして下さい。」と奇妙なことを口走り、声を放って泣き、泣きながら家へ帰り、それからは親に孝養をつくし、あっぱれ孝子の誉れを得て、時頼公に召し出されてめでたく家運隆昌に向ったということになる。だいぶ違うのである。
西鶴が「武家義理物語」を書いた意図は、道義的な誠意のある武士を描こうとする点にあったのだから、千葉孫九郎が主人公格になるのは自然なのだが、太宰の「裸川」にはそのような意図はない。青砥とならぶこの小説の主人公は、浅田小五郎である。
浅田は三十四、五歳のばくち打ちということになっている。「傲岸不遜にして長上をあなどり、仕事をなまけ、いささかの奇智を弄して悪銭を得ては、若年の者どもに酒をふるまい、兄貴は気前がよいと言われて、そうでもないが、と答えてまんざらでもないような大馬鹿者のひとりであった。」もちろん西鶴はこんなことは書いていない。
浅田は、銭をさぐり当てる秘伝をもっともらしい顔をして人足たちに教える。
「『なあに、秘伝というほどの事でもないが、問題は足の指だよ。』
『足の指?』
『そうさ。おまえたちは、手でさぐるからいけない。おれのように、ほうら、こんな工合に足の指先でさぐると見つかる。』と言いながら妙な腰つきで川底の砂利を踏みにじり、皆がその足元を見つめているすきを狙ってまたも自分の腰掛けから二文ばかり取り出して、
『おや?』と呟き、その銭を握った片手を水中に入れて、
『あった!』と叫んだ。」
原作では、「俺が頭を働かせて、自分の銭をやりくりしたのだ。」となっているだけである。どうやりくりしたのかと、読者は首をひねらざるを得ない。
この不正を青砥が知るのだが、西鶴は、「このことは自然に青砥左衛門尉の耳にはいった。」と至極あっさり片付けている。しかし太宰は面白い話を考え出した。たいへんな御機嫌で帰宅した青砥は女房子供を一室に集めて、たった十一文の銭を捜すために、手間賃三両、褒美一両、四両もの金を使ったこの父の心底がわかるか、と莞爾と笑って一座を見渡し、
「『わかるであろう。』と青砥は得意満面、『川底に朽ちたる銭は国のまる損。人の手に渡りし金は、世のまわり持ち。』とさっき河原で人足どもに言い聞かせた教訓を、再びいい気持で繰り返して説いた。
『お父さま、』と悧発そうな八つの娘が、眼をぱちくりさせて尋ねた。『落したお金が十一文だという事がどうしてわかりました。』
『おお、その事か。お律は、ませた子だの。よい事をたずねる。父は毎朝小銭を四十文ずつ火打袋にいれてお役所に行くのです。きょうはお役所で三文使い、火打袋には三十七文残っていなければならぬ筈のところ、二十六文しか残っていませんでしたから、それ、落したのは、いくらになるであろうか。』
『でも、お父さまは、けさ、お役所へいらっしゃる途中、お寺の前でわたしと逢い、非人に施せといって二文あたしに下さいました。』
『うん、そうであった。忘れていた。』
青砥は愕然とした。落した銭は九文でなければならぬ筈であった。九文落して、十一文川底から出て来るとは、奇怪である。青砥だって馬鹿ではない。ひょっとしたら、これはあの浅田とやらいうのっぺりした顔の人足が、何かたくらんだのかも知れぬ、と感附いた。考えてみると、手でさぐるよりも足でさぐったほうが早く見つかるなどというのもふざけた話だ。」
かくして浅田の不正は露顕し、浅田は下役人の厳重な監視のもとに丸裸となって川を捜し、冬になって川の水は枯れ、そして九十七日目、川筋三百間、鍬打ち込まぬ方寸の土も無くものの見事に掘り返し、やっと銭九文を拾い集めて、浅田は再び青砥と対面する。この対面の場で太宰の小説は終っている。
「『下郎、思い知ったか。』
と言われて浅田は、おそるるところなく、こうべを挙げて、
『せんだって、あなたに差し上げた銭十一文は、私の腹掛けから取り出したものでございますから、あれは私に返して下さい。』と言ったとやら、ひかれ者の小唄とはこれであろうかと、のちのち人の笑い話の種になった。」
まことに見事な落ちである。檀一雄は、「太宰の初期から最後に至る全文学に落語の決定的な影響を見逃したら、これは批評にならないから、後日の批評家諸君はよくよく注意してほしいことである。太宰の文章の根幹が、主として落語の転位法によって運営されている事を忘れてはならない。」(『小説太宰治』)と言っているが、うなずける言葉である。『新釈諸国噺』の諸短篇は、その典型的な見本と言っていいであろう。
「粋人」
この小説は、「世間胸算用 巻二の二 訛言《うそ》も只は聞かぬ宿」を下敷きにしている。
借金取りに追われている男が、大晦日、家を抜け出して、まだ一度も行ったことのない茶屋に行って大尽風をふかせ、きょうは朝から女房が産気づき、取揚婆が三人も四人も来るやら、山伏が祈祷に来るやら、かかりつけの医者が早め薬を煮るやら、たいへんな騒ぎ、旦那様はこんなときには家にいぬものだと言われて、これさいわいと逃げてきた、まるでこれでは、借金取りに追われて逃げてきたような形だ、大晦日の現金払い、子供が生れるまで遊ばせてくれないか、と大嘘をつくが、ここまでは、「粋人」は西鶴の原作とほぼ同じである。
西鶴の原作では、茶屋の嚊《かか》がその話を信用しているのかどうか、はっきりしないが、「粋人」の婆は見え透いた嘘を素早く見抜き、
「毎年、大晦日になると、こんなお客が二、三人あるんだ。世間には、似たものがたくさんある。玉虫色のお羽織に白柄の脇差、知らぬ人が見たらお歴々と思うかも知れないが、この婆の目から見ると無用の小細工。おおかた十五も年上の老い女房をわずかの持参金を目当てにもらい、その金もすぐ使い果し、ぶよぶよ太って白髪頭の女房が横坐りに坐って鼻の頭に汗を掻きながら晩酌の相手もすさまじく、稼ぎに身がはいらず質八置いて、もったいなくも母親には、黒米の碓《からうす》をふませて、弟には煮豆売りに歩かせ、売れ残りの酸くなった煮豆は一家の御惣菜、それも母御の婆さまが食べすぎると言って夫婦でじろりと睨むやつさ。それにしても、お産の騒ぎとは考えた。取揚婆が四人もつめかけ、医者は次の間で早め薬とは、よく出来た。お互いに、そんな身分になりたいものさね。大阿呆め。」
十五も年上の老い女房とは、茶屋の婆もまことに勝手な空想を働かせるものである。
「『御馳走もふつうの人と変った好みだが、承知か』という。景気よく樽から酒をくみ出して燗をするのもおもしろい。」原作はこうなっているが、「粋人」の婆は、景気よく樽から酒をくみ出したりなどしない。有合せの卵二つを銅壺《どうこ》に投げ入れ、一ばん手数のかからぬ料理、ゆで卵にして塩を添え、酒と一緒に差し出すのである。
「男は流石に手をつけかね、腕組みして渋面つくり、
『この辺は卵の産地か。何か由緒があらば、聞きたい。』」
芸者が座敷に呼ばれ、実は三十九なのに十九といつわり、女についての記憶だけは馬鹿強い男が、二十年前にその芸者と会って、そのときも十九と言っていたことを思い出し、高飛車に昔のことをすっぱぬき、女が伏目になって手を合わせるのは、原作もそうなっている。しかしそのあとがだいぶ違う。原作では、うち解けて枕をかわし、そのうち、女の母親らしい者がきて、借金で首がまわらぬから身を投げると言い、女は涙ぐんで、着ていた小袖を風呂敷に包んで親に手渡し、見かねた客は金一歩をくれてその包をとりもどしてやるという人情噺になるのだが、太宰の小説では、枕をかわすどころか、どうもすさまじいことになる。
「旦那は、いよいよ、むずかしい顔をして、
『いまあの婆は、つぼみさん、と言ったが、お前さんの名は、つぼみか。』
『ええ、そうよ。』女は、やぶれかぶれである。つんとして答える。
『あの、花の蕾の、つぼみか。』
『くどいわねえ。何度言ったって同じじゃないの。あなただって、頭の毛が薄いくせに何を言ってるの。ひどいわ、ひどいわ。』と言って泣き出した。泣きながら、『あなた、お金ある?』と露骨なことを口走った。」
上の娘が、亭主に捨てられて、乞食のような身なりで赤子をかかえて帰ってきた、ことしの暮ほど困ったことはない、お金が欲しいのだと芸者は言う。
「『それでは、お前さんに孫もあるのだね。』
『あります。』とにこりともせず言い切って、ぐいと振り挙げた顔は、凄かった。『馬鹿にしないで下さい。あたしだって、人間のはしくれです。子も出来れば、孫も出来ます。なんの不思議も無いじゃないか。お金を下さいよ。あなた、たいへんなお金持だっていうじゃありませんか。』と言って、頬をひきつらせて妙に笑った。」
借金取りに見つけ出され、有り金ぜんぶと羽織、脇差、着物までとりあげられ、馬鹿というのは、まだすこし脈のある人のことと笑い話にされるのは、ほぼ原作と同じである。
「吉野山」
この書簡体の小説は「万《よろず》の文反古 巻五の四 桜の吉野山難儀の冬」を下敷にしている。書簡体の小説は太宰の得意としたところで、そのためもあり、この「吉野山」が全十二篇のなかでいちばん出来栄えがいいのではないかと私は思う。
出家遁世の動機が、原作では、「一度持った妻子に死なれてしまい、遊女や野郎のたわぶれをし尽くし、もはや浮世に思い残すこともなく、無常を観じて出家した。」となっているが、太宰の小説では、
「あなた様たちのお仲間にいれてもらって一緒にお茶屋などに遊びにまいりましても、ついに一度も、もてた事はなく、そのくせ遊びは好きで、あなた様たちの楽しそうな様子を見るにつけても、よし今夜こそはと店の金をごまかし血の出るような無理算段して、私のほうからあなた様たちをお誘い申し、そうしてやっぱり、私だけもてず、お勘定はいつも私が払い、その面白くない事、或る夜やぶれかぶれになって、女に向い、『男は女にふられるくらいでなくちゃ駄目なものだ』と言ったら、その女は素直に首肯き、『本当に、そのお心掛けが大事ですわね』と真面目に感心したような口調で申しますので、立つ瀬が無く、『無礼者!』と大喝して女を力まかせに殴り、諸行無常を観じ、出家にならねばならぬと覚悟を極めた次第で、」なんとも馬鹿馬鹿しい動機から、出家遁世ということになるのである。
この小説は、眼夢と名を変えて出家し、吉野の山奥に庵をかまえた男が、京の都の友人に宛てた書簡の形をとっているのだが、原作でも眼夢は出家したことを後悔している。明け暮れ住みにくいと愚痴をこぼしている。「夏は蚊というものに苦しめられ、冬は夜嵐が袖に吹き込みまして、この難儀は素湯《さゆ》などではとても凌げるものではありません。そこで飲酒戒を破って、寝酒を少しずつ飲んでおります。決して決して魚鳥などは匂いをかぐのもいやになりました。食物の方は我慢いたしますが、なんとしても寝覚《ねざめ》が淋しくてたまりません。年頃は十五六七までの少年を一人お雇いになって、こちらによこしていただきとうございます。髪を結った姿がよく、少々肥えたのが望みでございます。」原作の眼夢はなかなかの色好みで、男色も嫌いではないようである。「ずいぶん浮世の執着は捨ててしまいましたが、離れがたいものは色欲にきわまるということを、今の身になって思い当りました。」しかしそれでも、「せめてなお四五年もこの身を苦しめてみたいと思っております。」となかなか殊勝なことを言っている。
太宰の「吉野山」の眼夢は、色欲に悩むことはない。その点が西鶴と太宰の違いであるが、明け暮れの住みにくさでは、原作の眼夢よりもはるかにひどいことになっているし、なおこの身を苦しめてみたいなどという殊勝な心構えはつゆほども持っていない。
冬の吉野の庵室は、なにしろ寒くてかなわない。「立ち上って吉野山の冬景色を見渡しても、都の人たちが、花と見るまで雪ぞ降りけるだの、春に知られぬ花ぞ咲きけるだの、いい気持で歌っているのとは事違い、雪はやっぱり雪、ただ寒いばかりで、あの嘘つきの歌人めが、とむらむら腹が立って来ます。このように寒くては、墨染の衣一枚ではとてもしのぎ難く、墨染の衣の上にどてらをひっかけ、犬の毛皮を首に巻き、坊主頭もひやひやしますので寝ても起きても頬被りして居ります。この犬の毛皮は、この山の下に住む里人から熊の皮だとだまされて、馬鹿高い値段で買わされたのですが、尻尾がへんに長くてその辺に白い毛もまじっていますので、これは、白と黒のぶちの犬の皮ではないか、と後で里人に申しますと、その白いところは熊の月の輪という部分で、熊に依っては月の輪がお尻のほうについている、との返事で、あまりの事に私も何とも言葉が出ませんでした。」
たちの悪い里人たちは、なにかと眼夢をだまし、お金を捲き上げようとする。持ってくる米や味噌がとても高いのだが、泣く泣くそれを買わねば餓死するほかはなく、「山には木の実、草の実が一ぱいあって、それを気ままにとって食べてのんきに暮すのが山居の楽しみと心得ていましたが、聞いて極楽、見て地獄とはこの事、この辺の山野にはいずれも歴とした持主がありまして、ことしの秋に私がうっかり松茸を二、三本取って、山の番人からもう少しで殴り殺されるようなひどい目に遭いました。」
ここへ来てにわかに浮世の辛酸を嘗め、何のための遁世やら、さっぱりわけがわからなくなる。何度か下山を思い立つのだが、いますぐ下山できないつらい理由があるのである。京の家にいる八十八歳のばばさまが、茶壺に入れて奥庭に埋めておいた大事なへそくり百両を、こっそり盗んだのである。まだ露顕していないとは思うのだが、ばばさまが生きているかぎりおそろしくて家へ帰ることが出来ない。この話は、同じ「万の文反古」の「巻四の三 人の知らぬ祖母《ばば》の埋《うず》み金」からとっている。
酒をのんで気をまぎらわしたいと思っても、この辺の地酒はへんにすっぱくて胸にもたれ、その上たいへん高価で、鮎をとって食べたいと思っても、「鮎もやはり生類、なかなかすばしこく、不器用な私にはとても捕獲出来ず、そのような私のむだな努力の姿を里人に見つけられ、里人は私のなまぐさ坊主たる事を看破致し、それにつけ込んで、にやにや笑いながら鮎の串焼など持って来て、おどろくほど高いお金を請求いたします。私は、もうここの里人から、すっかり馬鹿にされて、どしどしお金を捲き上げられ、犬の毛皮を熊の毛皮だと言って買わされたり、また先日は、すりばちをさかさにして持って来て、これは富士山の置き物で、御出家の床の間にふさわしい、安くします、と言い、あまりに人をなめた仕打ち故、私はくやし涙にむせかえりました。」
ただもうお金が欲しくてたまらず、富籤を床柱の根もとの節穴に隠してあるのだが当っているかどうか調べてくれだの、質屋へ行って一両であずけておいた観音像を受け出し道具屋の佐兵衛に二十両で売ってくれだの、都の友人に哀願し、
「何もかも面白くなく、既に出家していながら、更にまた出家遁世したくなって何が何やらわからず、ただもう死ぬるばかり退屈で、
歎きわび世をそむくべき方知らず、吉野の奥も住み憂しと言へり
という歌の心、お察しねがいたく、実はこれとて私の作った歌ではなく、人の物もわが物もこの頃は差別がつかず、出家遁世して以来、ひどく私はすれました。」
「裸川」「粋人」についても言えることだが、特にこの「吉野山」では太宰の空想は自在にはばたき、太宰治の独自の小説世界を作っている。西鶴はコメディとパロディの名人だとされているが、どうやら太宰のほうが一枚|上手《うわて》ではなかろうか。前にも書いたことだが、太宰ほどに豊かなユーモアセンスと諧謔精神の持主は、日本の文学史上にかつて無かったのではなかろうか。『新釈諸国噺』は、その見事な例証である。
五 「津軽」
太宰が小山書店から『新風土記叢書』の一冊として「津軽」の執筆を依頼されたのは、十九年の五月のはじめである。取材のため五月十二日に東京を出発し、およそ三週間ほどかかって津軽半島を一周した。「津軽」はその紀行文で、小説≠ナはないのだが、しかし経験した事実をそのまま書いているわけでもない。たとえば、「津軽」一篇のなかの最大の圧巻は小泊《こどまり》で育ての親ともいうべきたけに会うところだが、竜神様《りゆうじんさま》の桜をふたりで見に行ったのではなく、何人かの人たちと連れ立って行ったのが事実のようであるし、だから、「たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取って、歩きながらその枝の花をむしって地べたに投げ捨て、それから立ちどまって、勢いよく私のほうに向き直り、にわかに、堰を切ったみたいに能弁になった。」というあの感動的な場面も、いわば作り話ということになる。そのような、小説的な潤色を加えた箇所もほかにいくつかあると思われるし、広い意味で小説と考えても、まあ、よいのではなかろうか、虚実ないまぜて面白く話を作っていくのが、太宰治の本領なのである。
この作品については、殊更めいた解説などまったく不必要であろうし、それに第一章「故郷と生家」でも触れたから、ここではただ、N君と同行しての竜飛行の部分だけをとりあげることにする。この部分は、小泊でたけと会う箇所に匹敵する、「津軽」一篇中の圧巻だと思うからである。
N君とは、青森中学以来の親友中村貞次郎だが、その中村に「津軽余談」という文章がある。それによると、竜飛に近づくにつれて風景が変ってきて、「この辺の風景は坐って眺める風景ではない。歩いて見るところによさがある。展開していく美だ。野性的美である。」と中村は太宰に説明し、太宰は、すごい風景だ、すごい、すごいと、すごい、を連発したそうである。「津軽」本文で太宰はそこを次のように書いている。
「二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなって来た。凄愴とでもいう感じである。それは、もはや、風景でなかった。風景というものは、永い年月、いろんな人から眺められ形容せられ、謂わば、人間の眼で舐められて軟化し、人間に飼われてなついてしまって、高さ三十五丈の華厳の滝にでも、やっぱり檻の中の猛獣のような、人くさい匂いが幽かに感ぜられる。昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なってやしない。点景人物の存在もゆるさない。強いて、点景人物を置こうとすれば、白いアツシを着たアイヌの老人でも借りて来なければならない。」
宿に着き、酒を飲み、急に酔ってきた中村が、牧水の「幾山河越え去り行かば淋しさの果てなん国ぞ今日も旅行く」という歌を吟じる。
「いくう、山河あ、と、れいの牧水の旅の歌を、N君は眼をつぶって低く吟じはじめた。想像していたほどは、ひどくない。黙って聞いていると、身にしみるものがあった。
『どう? へんかね。』
『いや、ちょっと、ほろりとした。』
『それじゃ、もう一つ。』
こんどは、ひどかった。彼も本州の北端の宿へ来て、気宇が広大になったのか、仰天するほどのおそろしい蛮声を張り上げた。」
中村の文によると、牧水の歌をききながら、太宰は眼に涙をうかべていたそうである。「本州の最北端に来た彼は何を感じたのだろう。あの敏感な彼のアンテナにどのような電波が伝わったのであろうか。私は、『こりゃあ、いけない』と思い、やたら声を張りあげて別の歌を唄った。」と中村は書いている。気宇が広大になったために蛮声を張り上げたのではなかったのである。しかしその蛮声のため、「さ、歌コも出たようだし、そろそろ、お休みになりせえ。」と宿のお婆さんにお膳をさげられ蒲団をしかれてしまったのは、「津軽」本文にあるとおりだったそうである。
六 「惜別」
昭和十九年一月三十日付山下良三宛書簡で太宰は、「新年早々、文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ、これもお国のためと思い、他の仕事をあとまわしにして、いささか心胆をくだいています。」と書いている。この大東亜五大宣言とは、十八年十一月五、六両日に帝国議事堂でひらかれた大東亜会議で採択されたもので、「共存共栄」「独立親和」「文化昂揚」「経済発展」「世界進運貢献」の五原則から成っている。日本文学報国会は宣言実現のための部門別幹事会をひらき、小説部会では、五原則の小説化について五人の作家を指定することに決めたが、執筆希望者は約五十名に達した。内閣情報局から資料蒐集や取材について便宜が与えられ、また印税支払や用紙の割当てでも好条件が約束されたため、希望者が多数にのぼったものと思われる。そのため、全執筆希望者から小説の梗概と意図を短い枚数で書いてもらって銓衡することになり、その結果、高見順、太宰治、豊田三郎、北町一郎、大下宇陀児の五人が選ばれ、太宰は、第二項「独立親和」の原則を小説化することになった。すなわち、「惜別」がそれである。
「『惜別』の意図」と題する五枚半の文章を太宰は内閣情報局と日本文学報国会に提出しているが、「明治三十五年、当時二十二歳の周樹人(後の世界的文豪、魯迅)が、日本国に於いて医学を修め、以て疾病者の瀰漫せる彼の祖国を明るく再建せんとの理想に燃え、清国留学生として、横浜に着いた、というところから書きはじめるつもりであります。」にはじまるその文章のなかで太宰は、明治三十七年九月からの仙台医学専門学校における二箇年間の生活は、彼の全生涯を決定するほどに重大な時期であったと述べ、恩師藤野先生から受けた恩愛の深さを語り、時あたかも日露大戦の最中で、仙台の人たちの愛国の至情に接して幾度となく瞠目し感奮させられ、眼前に見る日本の清潔にして溌溂たる姿に比べて自国の老憊の姿を思い、ほとんど絶望に近い気持になった、しかし希望を失ってはならぬ、日本のこの新鮮な生気はどこから来るのか、彼は周囲の日本人の生活を、異常の緊張をもって観察しはじめる、と書いている。そして、中国が独立国としての存立を危くしているのは、中国人の肉体の病気の故ではなくて精神の病いのせいである、この病患の精神を改善して中国維新の信仰にまで高めるためには、美しく崇高なる文芸に依るのが最も捷径ではなかろうかと考え、明治三十九年の夏、医専を中退し、文芸救国の希望に燃えて再び東京に行く、その彼の意気軒昂たる上京をもって擱筆《かくひつ》するつもりだ、と書いている。
しかしこれは銓衡にパスするための文章であって、「惜別」はかならずしもこの意図どおりに書かれてはいない。周樹人の横浜上陸から書きはじめるつもりとあるが、仙台医専時代の学友の手記の形をとった「惜別」では、周樹人はすでに仙台医専に入学している。周囲の日本人の生活を異常の緊張をもって観察したとも思えないし、文芸救国を志して仙台を離れはするが、意気軒昂として上京したとも見えない。
太宰が魯迅に関心を寄せはじめたのは、昭和十六年に友人小田嶽夫の「魯迅伝」を読んだ頃からかと推定される。「惜別」初版本の「あとがき」で、内閣情報局と文学報国会の依嘱を受けて書き下した長篇だが、「しかし、両者からの話が無くても、私は、いつかは書いてみたいと思って、その材料を集め、その構想を久しく案じていた小説である。」と言っている。いい機会が与えられたわけで、依嘱を受けたあとの二月二十八日、小田嶽夫宛に、「今日はまた、雑誌をわざわざお送り下され、大助かりいたしました。このごろ毎日、魯迅を読んで居ります。」と書き送っている。雑誌とは『日華学報』のことで、魯迅の著作を読むかたわら、実藤《さねとう》恵秀『中国学生の日本留学史』などにも目を通し、魯迅研究に本格的に取り組みはじめた。そしてその年の十二月、魯迅が仙台医専に在学していた当時のことを調べるため仙台に赴き、『河北新報』の明治三十七年前後の綴じ込みを閲覧して浩瀚《こうかん》なメモをとり、東北帝大医学部の加藤豊治郎博士に医学部の前身の仙台医専の話をきき、また仙台市中の魯迅ゆかりの場所をたずねるなどしている。執筆にかかったのは、依嘱を受けてから一年後の二十年一月だが、その一か年のあいだに、作品の構想も変り、太宰のなかの魯迅像もかなり変容したのではなかろうか。
松島の旅館で周樹人は、この小説の語り手である仙台医専の学友に、自分の生立ちやら、希望やら、清国の現状やらを、呆れるくらいの熱情をもって語る。少年のころ、父が病気になり、かかりつけの医者の処方が、蘆《あし》の根だの三年霜に打たれた甘蔗《かんしよ》だの、蟋蟀《こおろぎ》一つがいだの、破れた古太鼓の皮で作った敗鼓皮丸という神薬だの、甚だ奇怪なもので、そんな処方が効き目があるはずはなく、父は死ぬ。自分が医学を修めようと決意したのは、あの少年の頃の悲痛な体験からだ。あの時の憤怒が、自分に故郷を捨てさせたのだ。孫文を尊敬し、三民五憲の説に共感しているが、その三民主義の民族、民権、民生の説のなかで、自分には民生の箇条が最も理解しやすい。いますぐ直接の政治運動に身を投ずる必要はない。西洋医学を修めて、無智で哀れな支那の民衆を救いたい。日本の明治維新も、一群の蘭学者によって絶大の刺戟を受けたというではないか。自分は支那の杉田玄白になるつもりだ。支那の杉田玄白になって、維新の狼煙《のろし》を挙げるのだ――。
時あたかも日露大戦の最中だったのだが、旅順陥落、奉天の会戦、日本海海戦と日本の陸海軍の決定的大勝利となり、この日本の大勝利は周樹人に強い衝撃を与えた。日本の不思議な力に瞠若驚嘆し、
「『日本には国体の実力というものがある。』と周さんは溜息をついて言っていた。
これはいかにも平凡な発見のようではあるが、しかし、私はこの貧しい手記の中に最も力をこめて特筆大書して置きたいような、何だか、そんな気がしてならないのである。日露戦争に於ける日本の大勝利に依って刺戟されて得たこの周さんの発見は、あのひとの医学救国の思想に深い蹉跌《さてつ》を与え、やがて、その生涯の方針を一変せしめたそもそもの因由になったのではないか、と私は考えているのである。」
周樹人は、維新の思想の原流はやはり国学であり、蘭学はその路傍に咲いた珍花にすぎないと考えはじめる。「ひとたび国難到来すれば、雛の親鳥の周囲に馳せ集うが如く、一切を捨てて皇室に帰一し奉る。まさに、国体の精華である。御民の神聖な本能である。これの発露した時には、蘭学も何も、大暴風に遭った木の葉の如く、たわいなく吹き飛ばされてしまうのである。まことに、日本の国体の実力は、おそるべきものである」と述懐する。
太宰は、若き日の魯迅に、なぜこのような述懐をさせたのだろうか。情報局と文学報国会からの依嘱による小説であり、国策に協力しようと考えたのだろうか。これは次章において述べるが、太宰は戦後、戦争責任論などがジャーナリズムを賑わしていた時期に、自分はこの戦争において大いに日本に味方しようと思ったと作品にも書き、知友への書簡でもはっきりそう言い切っている。また、いまこそ天皇陛下万歳を叫ぶと言い、倫理の儀表を天皇に置くと書いている。周樹人の国体礼讃の述懐は、時局に迎合するための心にもない文章ではなかったと思われる。
しかしこの「惜別」で太宰がいちばん書きたかったのは、明治三十八年の夏休みに上京した周樹人が、仙台に帰ってきたあと、どこか人が変ったようになり、笑っても頬にひやりとする影があり、そして、雪のひどく降っている夜、美以《メソジスト》教会に行った帰りに立ち寄ったときの述懐と、それに対するこの手記の書き手の感懐ではあるまいか。
「僕はこのごろ、Kranke(病人)なんです。それで、みんなにごぶさたして、もう、全く Einsam(孤独)の鳥になってしまいました。」
そこでふと教会へ行ってみたくなり、「出エジプト記」の説教を聞き、モーゼにつれられてエジプトを脱出しながら、それからの四十年、荒野を迷い歩いていた間、口汚い無智な不平ばかりを並べ立てる民衆から、自国の民衆を思いうかべ、たまらなくなって教会を抜け出してきたのである。自国の民衆の救済について、周樹人は非常な不安を感じはじめる。魏の頃の竹林の名士たちのように、気持は竹藪のなかをさまよっているとも言う。孫文を尊敬し三民主義を信奉してはいるが、同胞の留学生たちの革命運動にもついていけない。「熱狂の身振りに、調子を合わせて行けないというのが僕の不幸な宿命かも知れない。」
そして、周樹人は言う。
「つまり、僕には政治がわからないのでしょう。僕には、党員の増減や、幹部の顔ぶれよりも、ひとりの人間の心の間隙のほうが気になるのです。はっきりと言えば、僕はいま、政治よりも教育のほうに関心を持っているのです。それも、高級な教育ではありません。民衆の初歩教育です。僕には独自な哲学も宗教もありません。僕の思想は貧弱です。僕は、ただ僕の一すじに信じている孫文の三民主義を、わかり易く民衆に教えて、民族の自覚をうながしてやりたい。」
この手記の書き手で、いまは東北地方の某村で開業している老医師は、四十年の昔を回想しながら言う。民衆の初歩教育に力をつくして、その精神をまず改造するに非ざれば一国の維新は成就し難いのではないかという周さんの疑問が、やがて周さんをして文章に関心を持たしめ、後に到って、文豪魯迅の誕生の因由になったのではなかろうか。しかし、所謂「幻燈事件」によって、その疑問が、突然、周さんの胸中に湧き起ったという説は、すこし違っているのではなかろうか。
「所謂『幻燈事件』というものも、その翌年の春、たしかにあった。しかし、それは彼の転機ではなく、むしろ彼がそれに依って、彼の体内のいつのまにやら変化している血液に気附く小さいきっかけに過ぎなかったように、私には見受けられたのである。彼は、あの幻燈を見て、急に文芸に志したのでは決してなく、一言でいえば、彼は、文芸を前から好きだった[#「好きだった」に傍点]のである。これは俗人の極めて凡庸な判断で、私自身さえ興覚めるくらいのものだが、しかし、私などには、どうも、そうとしか思われない。あの道は、好きでなければ、やって行けるものではないような気がする。」
「医学と文芸と革命と、言いかえれば、科学と芸術と政治と、彼はこの三者の混沌の渦に巻き込まれたのではあるまいか。私は彼の後年の厖大な著作物に就いては、ほとんど知るところが無い。それゆえ、所謂大魯迅の文芸の功績は、どんなものであったか何も知らない。しかし、ただ一つ確実に知っているのは、彼が、支那に於ける最初の文明の患者《クランケ》だったという事である。私の知っている仙台時代の周さんは、近代文明を病んで苦しみ、その病床《クランケンベツド》を求めて、教会の扉さえ叩いたのだ。しかし、そこにも救済は無かった。れいの身振りに辟易したのだ。懊悩の果には、あの気品の高い正直な青年が、奴隷の微笑をさえ頬に浮べるようになったのだ。混沌の特産物である自己嫌悪。彼はこの文明的感情に於いて、たしかに支那のいたましい先駆者のひとりであったと言えるのではあるまいか。そうしてこの苦しい内省の地獄が、いよいよ、人の百感の絵図ともいうべき文芸に接近させたのではあるまいか。もとより『好きな道』である。困憊の彼はこの病床に這い上り、少しく安堵を覚えたのではあるまいか。」
老医師に若き日の魯迅を語らせながら、太宰はそこに若き日の自分自身の影を見ているようにも思われる。
所謂「幻燈事件」については、魯迅は作品集「吶喊」の「自序」で次のように書いている。(竹内好氏の訳に拠る)
「私は、微生物学を教える方法がいまどんなに進歩したか、知るべくもないが、ともかくそのころは、幻燈をつかって、微生物の形態を映してみせた。そこで、講義がひとくぎりしてまだ時間にならないときなどには、教師は風景やニュースの画片を映して学生に見せ、それで余った時間をうめることもあった。時あたかも日露戦争の際なので、当然、戦争に関する画片が比較的多かった。私はこの教室の中で、いつも同級生たちの拍手と喝采とに調子を合わせなければならなかった。あるとき、私はとつぜん画面の中で、多くの中国人と絶えて久しい面会をした。一人が真中《まんなか》にしばられており、そのまわりにおおぜい立っている。どれも屈強な体格だが、表情は薄ぼんやりしている。説明によれば、しばられているのはロシア軍のスパイを働いたやつで、見せしめのために日本軍の手で首を斬られようとしているところであり、取りかこんでいるのは、その見せしめのお祭りさわぎを見物に来た連中とのことであった。
この学年がおわらぬうちに、私は東京へ出てしまった。あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことでない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。されば、われわれの最初になすべき任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動を提唱する気になった。」
「惜別」の「幻燈事件」も、おおむねこの「吶喊自序」の文に拠っている。ただ、この文によると、この出来事のため魯迅は医学救国の志を捨てたようであるが、それは小さなきっかけに過ぎなかったのではないかと太宰は考えたのである。太宰は周樹人にこう言わせている。
「僕は、しばらくあの茫然たる表情の民衆から離れて暮していたので、自分の心の焦点がきまらないで、それであれこれ迷っていたのですね。おかげで、きょうは焦点がきまった。あれを見て、いい事をしました。僕はすぐ医学をやめて帰国します。」
「惜別」は終戦後の九月五日に朝日新聞社から刊行され、二十二年四月に講談社から改訂再刊された。再刊に際しては、マッカーサー司令部の占領政策のため、四百字詰原稿紙にして三十枚以上の分量が削除されている。周樹人の国体礼讃の部分が削除されたことは言うまでもない。
七 『お伽草紙』
「惜別」が完成したのは二十年二月末であるが、太宰はひき続き「お伽草紙」の稿を起した。サイパンを基地とするB29の空襲が本格化しはじめた頃で、東京では連日のように空襲警報が発令され、三月十日夜半にはB29百五十機の無差別爆撃により下町一帯が灰燼に帰し八万四千人の死者を出している。すでに硫黄島にも米軍が上陸し、戦局は末期的な様相を呈していた。そのなかで太宰は、「百姓の糞意地で」、最後までねばって小説を書いていこうとする。
「いま魯迅の仙台時代を扱った長編を書いています。もう十日ほどで出来上りましょう。すると次に『お伽草紙』という変った仕事にとりかかります。それから、それから、と他に面白い事もないから、ただ仕事です。」(二月十一日付堤重久宛書簡)「どんな事があっても、とにかく仕事をするより他は無い。」(四月十七日付小山清宛書簡)
「『あっ、鳴った。』
と言って、父はペンを置いて立ち上る。警報くらいでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これを抱きかかえて防空壕にはいる。既に、母は二歳の男の子を背負って壕の奥にうずくまっている。
(中略)
母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ましょう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまずしく、容貌も愚なるに似ているが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ。
ムカシ ムカシノオ話ヨ
などと、間《ま》の抜けたような妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのずから別個の物語が※[#「酉+(囚/皿)」、unicode919e]醸せられているのである。」
『お伽草紙』の「前書き」だが、ひき続いて「瘤取り」の執筆にかかり、三月末には妻子を甲府の石原家に疎開させた。その直後の四月二日未明、三鷹に空襲があり、同居していた小山清とたまたま来合せていた田中英光と共に防空壕に避難、至近弾のため家が損壊した。そのあと四、五日、近くの亀井勝一郎宅に身を寄せ、それから甲府の妻子のもとに行った。石原家で、「瘤取り」につづいて「浦島さん」の稿を起したのは五月九日で、さらに「カチカチ山」「舌切雀」と書きつづけ、六月末、『お伽草紙』全四篇二百枚を完成した。沖縄の戦争が終結し、本土決戦が声高く叫ばれていた頃である。
『お伽草紙』は戦後の二十年十月二十五日に筑摩書房から刊行されたが、東京は焼土と化し印刷所もなく、筑摩書房社長古田晁の郷里の信州の伊那で印刷されている。
「瘤取り」
「このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みというものは、その家庭に於いて、たいてい孤独なものである。」四国は阿波の剣山のふもとに住んでいるこのお爺さんは、家庭においていつも浮かない顔をしている。お婆さんと息子が、あまりにもまじめで、お爺さんがはしゃいでも、にこりともしないのである。お婆さんはただ黙々と家事にいそしみ、息子は阿波聖人と言われるほどに品行方正で、「酒も飲まず煙草も吸わず、どころか、笑わず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事」をしているのである。お爺さんは、家庭において、まことに楽しくない。そこで腰に一瓢をさげて剣山にのぼり、よもの景色を眺めながらお酒を飲む。「実に、楽しそうな顔をしている。うちにいる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらいのものである。」
この瘤は二十年ほど前にできたのだが、
「『こりゃ、いい孫が出来た。』と言ったが、息子の聖人は頗るまじめに、
『頬から子供が生れる事はござりません。』と興覚めた事を言い、また、お婆さんも、
『いのちにかかわるものではないでしょうね。』と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。」
いまはこの瘤が、お爺さんの孤独を慰めてくれる唯一の相手である。山でひとりでお酒を飲み、御機嫌のときには、恰好の話相手で、「人間すべからく酔うべしじゃ。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。」などと瘤に囁きかける。
夕立がきて、木の虚《うろ》に潜り込んで、雨宿り。いつしか寝こんでしまって、気がつくと、夜。虚《うろ》から這い出ると、林の奥の草原に不思議な光景が展開されている。十数人の鬼たちが月下の酒宴のさいちゅうなのである。
「『気持よさそうに、酔っている。』とつぶやき、そうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みというものは、よそのものたちが酔っているのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであろう。つまり、隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるというような博愛心に似たものを持っているのかも知れない。」
お爺さんは酒宴に加わり、ご自慢の阿波踊りを踊り、鬼どもは大いに喜び、月夜にはかならず来て踊ってみせてくれと言い、てかてか光って宝物のように見える瘤をあずかっておいたら、きっとまたやって来るにちがいないと、お爺さんの瘤をむしり取る。
ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジャマッケな瘤を持っているお爺さんがいた。こちらのお爺さんは、この瘤のためにどんなに人からあなどられ嘲笑されてきたことかと、日夜鬱々として楽しまない。「人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。」近所の人たち皆から一目《いちもく》おかれている立派な人なのだが、近所の酒飲みのお爺さんの瘤が無くなった噂を小耳にはさみ、酒飲み爺さんから月下の不思議な酒宴の話を聞き、自分もこの瘤をぜひとも取ってもらおうと勇み立つ。出陣の武士の如く、眼光炯々、口をへの字型にぎゅっと引き結び、いかにしても今宵は、天晴れの舞いを一さし舞い、その鬼どもを感服させてやろうと、ひどい意気込みで鉄扇右手に、肩いからして剣山の奥深く踏み入る。
「このように、所謂『傑作意識』にこりかたまった人の行う芸事は、とかくまずく出来上るものである。このお爺さんの踊りも、あまりにどうも意気込みがひどすぎて、遂に完全の失敗に終った。」
その舞いのあまりの厳粛さに鬼どもは閉口し、ほうほうのていで逃げ出す。逃げられてはたまらぬと必死で追いすがり、この瘤をどうか取ってくれとたのむが、鬼どもはうろたえているので聞き違え、酒飲み爺さんからあずかっていた瘤を右の頬にもつけてしまう。
この物語は、次の一行で結ばれている。
「性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。」
「浦島さん」
自由奔放な空想をはばたかせながら、太宰はここに一つの理想郷を作ってみせた。海底一万|尋《ヒロ》、浦島さんが亀の背にのって連れて行かれる竜宮である。
丹波の国の旧家の長男で、風流の士の浦島は、「人は、なぜお互い批評し合わなければ、生きて行けないのだろう。」という素朴な疑問を持っている。「人おのおの、生きる流儀を持っている。その流儀を、お互い尊敬し合って行く事が出来ぬものか。」
亀は、あの国にはうるさい批評なんか無い、みんなのんびり暮している、遊ぶにはもってこいのところと浦島を竜宮に誘い、誘いに乗った浦島は亀の背にのって海中深くもぐっていく。「あたりは、あけぼのの如く薄明で、脚下にぼんやり白いものが見える。どうも、何だか、山のようだ。塔が連立しているようにも見えるが、塔にしては洪大すぎる。」それは、真珠の山なのである。それも、一山約三百億粒、それを約百万山くらい積み重ねて出来た峯である。その真珠の山の裾に、蛍光を発して、竜宮の小さな正門が立っている。あたりは薄明で、そして森閑としている。あまりの静かさに、地獄じゃあるまいね、と浦島は言い、亀は、
「王宮というものは皆このように静かなものだよ。丹後の浜の大漁踊りみたいな馬鹿騒ぎを年中やっているのが竜宮だなんて陳腐な空想をしていたんじゃねえのか。あわれなものだ。簡素幽邃というのが、あなたたちの風流の極致だろうじゃないか。地獄とは、あさましい。」
あなたの上品《じようぼん》もあてにならんね。伝統の教養とやらも、聞いて冷汗が出るよ。正統の風流人とはよくも言った――。毒舌を吐く。
屋根も、壁も柱も、なにもない。雨も雪も降らないから、作る必要がないのである。廊下は、魚の掛橋である。幾億という魚がひしとかたまって、廊下の床《ゆか》みたいな工合いになっている。魚たちは毎日ここに集まって、乙姫さまの琴の音《ね》に聞き惚れている。その琴の音は、「日本の琴の音によく似ているが、しかしあれほど強くはなく、もっと柔かで、はかなく、そうしてへんに嫋々たる余韻がある。菊の露。薄ごろも。夕空。きぬた。浮寝。きぎす。どれでもない。風流人の浦島にも、何だか見当のつかぬ可憐な、たよりない、けれども陸上では聞く事の出来ぬ気高い凄《さび》しさが、その底に流れている。
『不思議な曲ですね。あれは、何という曲ですか。』
亀もちょっと耳をすまして聞いて、
『聖諦。』と一言、答えた。
『せいてい?』
『神聖の聖の字に、あきらめ。』
『ああ、そう、聖諦。』と呟いて浦島は、はじめて海の底の竜宮の生活に、自分たちの趣味と段違いの崇高なものを感得した。」
乙姫は、青い薄布を身にまとった小柄な女性である。幽かな笑いをうかべながら浦島を出迎え、そのまま無言で背を向け、自分の部屋に帰っていく。あとは気の向くままに勝手に幾日でも遊んでいらっしゃいと、もう浦島のことを忘れている。浦島は感服する。
「つまり、こんなのが、真の貴人の接待法なのかも知れない。客を迎えて客を忘れる。しかも客の身辺には美酒珍味が全く無雑作に並べ置かれてある。歌舞音曲も別段客をもてなそうという露骨な意図でもって行われるのではない。乙姫は誰に聞かせようという心も無くて琴をひく。魚どもは誰に見せようという衒《てら》いも無く自由に嬉々として舞い遊ぶ。客の讃辞をあてにしない。客もまた、それにことさらに留意して感服したような顔つきをする必要も無い。寝ころんで知らん振りしていたって構わないわけです。主人はもう客の事なんか忘れているのだ。しかも、自由に振舞ってよいという許可は与えられているのだ。食いたければ食うし、食いたくなければ食わなくていいんだ。酔って夢うつつに琴の音を聞いていたって、敢えて失礼には当らぬわけだ。ああ、客を接待するには、すべからくこのようにありたい。何のかのと、ろくでも無い料理をうるさくすすめて、くだらないお世辞を交換し、おかしくもないのに、矢鱈におほほと笑い、まあ! なんて珍らしくもない話に大仰に驚いて見せたり、一から十まで嘘ばかりの社交を行い、天晴れ上流の客あしらいをしているつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎どもに、この竜宮の鷹揚なもてなし振りを見せてやりたい。」
その美酒珍味は――。酒は、海の桜桃の花びらである。桜桃五、六粒と一緒に花びらを舌の上にのせると、しゅっと溶けて適当に爽涼の酒になる。珍味は、ところどころにころがっている黒い岩のようなもので、藻が何万年も経て岩みたいにかたまっているのだが、一つ一つがみな味わいが違う。竜宮では、この藻を食べて、花びらで酔い、のどが乾けば桜桃を含み、乙姫の琴の音に聞き惚れ、生きている花吹雪のような小魚たちの舞いを眺めて暮しているのである。
なんの遠慮もなく、自由に、勝手に振舞っていい。竜宮では、無限に許されているのである。
着想の奇抜さ。幻想の豊かさ。まことに太宰治は、「元来ただものでない」。「物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男」だと、舌を捲くほかはないが、この竜宮という理想郷が、また聖諦という観念が、地上の世俗の生き方に困難と反撥を感じ、人間関係に不信と恐怖を抱きつづけていた太宰治の、その心情から生れてきたものであることは言うまでもない。
しかし、無限に許されながら、幾日になるか見当もつかぬ日数をここで過して、
「そうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなった。お互い他人の批評を気にして、泣いたり怒ったり、ケチにこそこそ暮している陸上の人たちが、たまらなく可憐で、そうして、何だか美しいもののようにさえ思われて来た。」
これもまた、太宰治自身の心情にちがいない。
やはり戦争末期に書かれた小説に、「竹青」(『文藝』二十年四月号)がある。「聊斎志異」の一篇を換骨奪胎した作品だが、学に志している貧書生の魚容が、親戚一同から厄介者扱いされ、二つ年上の顔の醜い女房にも冷たくあしらわれ、発奮して受けた郷試(官吏登用試験)にも落第し、わが身の不幸を嘆き、つくづく人間界がいやになる。試験に落ちて故郷に帰る途中、洞庭湖畔の呉王廟に立ち寄り、王の使いとして敬愛されている烏たちが嬉々として大空を飛び廻っている様を見てうらやましくなり、烏は仕合せだなあと呟き、その呟きが呉王の耳に入って、神烏の一羽にさせてもらう。雄烏になった魚容は雌烏の竹青と愛し愛される仲になり、半生の不幸を一ぺんに吹き飛ばしたような幸福感にひたるのだが、それでも、心の底に、自分を冷たくあしらってきた醜い女房への思いが残っていて、それがふと口をついて出る。それを耳にした竹青は、奥さんのもとにすぐに帰るよう魚容に言い、自分は神女だ、あなたは郷試には落第したが神の試験には及第した、禽獣に化して真の幸福を感ずるような人間は神に最も倦厭される、その快楽に酔い痴れて人間の世界を忘却したならば神は恐ろしい刑罰を下す、ときびしい口調で言い、そして、言葉を継ぐ。
「人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。」
この竹青の言葉は、理想郷の竜宮に飽き、陸上の貧しい生活が恋しくなり、陸上の人たちが何だか美しいもののようにさえ思えてきた浦島の気持と、つながる。
まばゆい五彩の光を放っているきっちり合った二枚貝、所謂、お土産の玉手箱を貰って、また亀の背にのり、浦島は家に帰る。しかし、ドウシタンデショウ モトノサト/ドウシタンデショウ モトノイエ/ミワタスカギリ カレノハラ/ヒトノカゲナク ミチモナク/マツフクカゼノ オトバカリ。浦島がお土産の貝殻をあけてみると、中から白い煙が立ち昇り、タチマチ シラガノ オジイサンということになるのだが、三百歳になったのは、浦島にとって、決して不幸ではなかったのだと太宰は言う。曰く、
「年月は、人間の救いである。
忘却は、人間の救いである。」
小山清の回想によると、二十年の六月上旬に甲府に太宰をたずねたとき、「浦島さん」はすでに書きあげてあって、机上にあったその草稿に何気なく手をのばしかけたら、太宰は邪慳にその手をはらいのけて、この作品は一人か二人の人に理解してもらえばいいのだと、きびしい表情をして言ったそうである。
「カチカチ山」
童話の「カチカチ山」は、藤村作博士編纂の「日本文学大辞典」によると、次のようなお話である。
「翁《おきな》が山から悪戯する狸を生捕って来て、梁《はり》に吊し上げて置くと、佯《いつわ》って嫗《おうな》に憐れみを請い、縛を解かせて却《かえ》ってこれを食い殺し、己れは嫗に化けて翁の帰宅を待ち受け、狸汁と称して嫗の肉を食わせ、嘲り逃げたので、翁が怒り悲しむ折、訪れた兎はその復讐を約して慰め、狸を欺いて柴を負わせ、背後から燧《ひうち》で点火し、狸が燧の音を怪しみ問えば、此処はかちかち山と答え、柴へ燃える音を訝《いぶか》れば、此処はぼうぼう山と答えるうち、火は燃え拡がって狸は大火傷を負い、穴にうめき臥していると、兎は更に火傷の薬と偽って、唐辛子の膏薬を売り、一段の苦悩を与え、火傷癒えた後、今度は舟遊びに誘い、己れは木舟に乗り、狸を土舟に乗せて溺らせ、嫗の仇を復した。」
そして次のように解説されている。
「五大国民童話の一。勧懲の寓意と智力の勝利とが語られ、任侠義勇の国民性と復讐精神の近古時代意識が著しい。両獣は狡猾遅鈍と善良可憐の対比、又黒白の対照をもなしている。」
太宰の「カチカチ山」は、その荒筋はほぼこの童話と同じである。その点では、「浦島さん」のように自由奔放に空想力を駆使しているわけではないのだが、兎を十六歳の美少女とし、狸を三十七歳の醜男としている、その着想がなんとも面白い。
「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男。これはもう疑いを容れぬ儼然たる事実のように私には思われる。」
何故か? 「日本文学大辞典」では智力の勝利などと讃えられているが、太宰によればそれはあくまで詭計にすぎない。
「いかなる事情があろうと、詭計を用いて、しかもなぶり殺しにするなどという仇討物語は、日本に未だ無いようだ。それをこのカチカチ山ばかりは、どうも、その仇討ちの仕方が芳しくない。どだい、男らしくないじゃないか、と子供でも、また大人でも、いやしくも正義にあこがれている人間ならば、誰でもこれに就いてはいささか不快の情を覚えるのではあるまいか。
安心し給え。私もそれに就いて、考えた。そうして、兎のやり方が男らしくないのは、それは当然だという事がわかった。この兎は男じゃないんだ。それは、たしかだ。この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。そうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である。」
ギリシャ神話のアルテミスという処女神を見よ。小柄で、ほっそりとして、手足も華奢で可愛く、ぞっとするほどあやしく美しい顔をしているが、しかし、気にいらぬ者には平気で残酷な事をするではないか。
「こんな女に惚れたら、男は惨憺たる大恥辱を受けるにきまっている。けれども、男は、それも愚鈍の男ほど、こんな危険な女性に惚れ込み易いものである。そうして、その結果は、たいていきまっているのである。」
可哀想にも、三十七歳の醜男の狸は、アルテミス型の兎の少女に、かねてからひそかな思慕の情を寄せていたのである。
「狸仲間でも風采あがらず、ただ団々として、愚鈍大食の野暮天であったというに於いては、その悲惨のなり行きは推するに余りがある。」「処女の怒りは辛辣である。殊にも醜悪な魯鈍なものに対しては容赦がない。」遅鈍≠ナはあるが、狡猾≠ヌころかまるっきりお人好しの狸は、いやもうなんとも、手ひどい目にあわされるのである。兎は善良可憐≠ヌころか、「美しく高ぶった処女の残忍性には限りが無い。ほとんどそれは、悪魔に似ている」のである。
兎は木の舟に、狸は泥舟に、二艘の舟はするすると河口湖の岸を離れ、|※[#「盧+鳥」、unicode9e15]※[#「茲+鳥」、unicode9DC0]島《うがしま》の松林は夕陽を浴びて火事のようで、
「さて兎は、その※[#「盧+鳥」、unicode9e15]※[#「茲+鳥」、unicode9DC0]島の夕景をうっとり望見して、
『おお、いい景色』と呟く。これは如何にも奇怪である。どんな極悪人でも、自分がこれから残虐の犯罪を行おうというその直前に於いて、山水の美にうっとり見とれるほどの余裕なんか無いように思われるが、しかし、十六歳の美しい処女は、眼を細めて島の夕景を観賞している。まことに無邪気と悪魔とは紙一重である。苦労を知らぬわがままな処女の、へどが出るような気障ったらしい姿態に対して、ああ青春は純真だ、なんて言って垂涎している男たちは、気をつけるがよい。その人たちの所謂『青春の純真』とかいうものは、しばしばこの兎の例に於けるが如く、その胸中に殺意と陶酔が隣り合せて住んでいても平然たる、何が何やらわからぬ官能のごちゃまぜの乱舞である。」
てっきり好意を持たれていると気をゆるし、幸福感にあたたまりながら泥舟の底に寝そべっていた狸は、舟が沈んでいくのに気がついて悲鳴をあげ、その死の直前に到って、はじめて兎の悪計を見抜いたが、既におそかった。
「ぽかん、ぽかん、と無慈悲の櫂が頭上に降る。狸は夕陽にきらきら輝く湖面に浮きつ沈みつ、
『あいたたた、あいたたた、ひどいじゃないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。』と言って、ぐっと沈んでそれっきり。兎は顔を拭いて、
『おお、ひどい汗。』と言った。」
物語はこれでおわるのだが、この小説の末尾を太宰は次の文章で結んでいる。
「曰く、惚れたが悪いか。
古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかっていると言っても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでいるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかってあがいている。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であった。おそらくは、また、君に於いても。後略。」
「舌切雀」
この小説の主人公は、まだ四十歳にもならないのに、自分の事を翁と署名し、また自分の家の者にも「爺さん」と呼べと命令している。仙台の郊外の広瀬川の急流に臨んだ大竹藪のなかにささやかな草の庵を結んでいるのだが、からだが弱く、一日一ぱい机の傍で寝たり起きたりしているだけで、何もしない。本だけはずいぶんたくさん読んでいるようなのだが、その知識でもって著述などしようという気配も見えない。まあ、世捨人と言っていいような人である。そして、おそろしく無口である。もとは召使いだった無学の細君がいるのだが、ほとんど口をきかない。細君はそれが不満で、他の夫婦は、夕食の時などには楽しそうに世間話をして笑い合っているではないかとなじるのだが、お爺さんは言う。
「おれをこんな無口な男にさせたのは、お前です。夕食の時の世間話なんて、たいていは近所の人の品評じゃないか。悪口じゃないか。それも、れいの安易な気分本位で、やたらと人の陰口をきく。おれはいままで、お前が人をほめたのを聞いた事がない。おれだって、弱い心を持っている。お前にまきこまれて、つい人の品評をしたくなる。おれには、それがこわいのだ。だから、もう誰とも口をきくまいと思った。お前たちには、ひとの悪いところばかり眼について、自分自身のおそろしさにまるで気がついていないのだからな。おれは、ひとがこわい。」
人間に対する恐怖感を、このお爺さんは持っている。だから、世間との交わりをしたがらないのである。
草庵の周囲の大竹藪には無数の雀が住んでいて、秋の終りに、一匹の小雀が脚をくじいて庭の土の上であがいているのをお爺さんは見つけ、拾ってきて餌を与えてやり、その小雀はすっかりお爺さんになついて、飛んできてはお爺さんの頭の上にちょんと停ったり机の上をはねまわったりするようになるのだが、あるとき、その小雀が人語を発し、お爺さんと会話を交す。その会話のなかで、お爺さんはこう言う。
「おれだって、いま立派に実行している事が一つある。それは何かって言えば、無慾という事だ。言うは易くして、行うは難いものだよ。うちのお婆さんなど、おれみたいな者ともう十何年も連れ添うて来たのだから、いい加減に世間の慾を捨てているかと思っていたら、どうもそうでもないらしい。まだあれで、何か色気があるらしいんだね。」
お爺さんが小雀と楽しそうに喋っているのがお婆さんの耳にはいり、腹立ちまぎれにお婆さんは小雀の舌をむしりとる。小雀ははたはたと空高く飛び去り、そしてその日から、お爺さんの大竹藪探索がはじまる。
「お爺さんにとって、こんな、がむしゃらな情熱を以て行動するのは、その生涯に於いて、いちども無かったように見受けられた。お爺さんの胸中に眠らされていた何物かが、この時はじめて頭をもたげたようにも見えるが、しかし、それは何であるか、筆者(太宰)にもわからない。自分の家にいながら、他人の家にいるような浮かない気分になっているひとが、ふっと自分の一ばん気楽な性格に遭い、之を追い求める。恋、と言ってしまえば、それっきりであるが、しかし、一般にあっさり言われている心。恋、という言葉に依ってあらわされる心理よりは、このお爺さんの気持は、はるかに侘びしいものであるかも知れない。お爺さんは夢中で探した。生れてはじめての執拗な積極性である。」
ふと、「瘤取り」のお爺さんが思い出される。あのお爺さんは、べつに世捨人というわけではないし、また無口でもない。無口どころか、話相手が欲しいのだが、お婆さんと息子がたいへんに生真面目で無駄口をいっさいきかず、家にいても、なんだか浮かない気持で、山に上って酒を飲み、鬼どもの酒宴に加わって阿波踊りなどをやるのであるが、なにやら、相通ずるところがあるではないか。「瘤取り」のお爺さんにとって「自分の一ばん気楽な性格」は、気持よく酒に酔って月下の宴に打ち興じている鬼どもだっただろう。
「舌切雀」のお爺さんは、雀のお宿に案内され、舌を切られた小雀、お照さんの、枕元にあぐらをかいて坐り、何も言わず、庭を走り流れる清水を見ている。
「何も言わなくてもよかった。お爺さんは、幽かに溜息をついた。憂鬱の溜息ではなかった。お爺さんは、生れてはじめて心の平安を経験したのだ。そのよろこびが、幽かな溜息となってあらわれたのである。」
『お伽草紙』を完成してまもなくの七月六日深更から七日未明にかけて、甲府市はB29二百機による空襲を受け、市の七割が焼失し、石原家も全焼した。東京、大阪、名古屋、神戸、横浜などの大都市はすでに焼土と化し、B29の攻撃目標は六月中旬から地方の中小都市に移っていた。
「甲府も、もうすぐ焼き払われる事にきまった、という噂が全市に満ちた。市民はすべて浮足立ち、家財道具を車に積んで家族を引き連れ山の奥へ逃げて行き、その足音やら車の音が深夜でも絶える事なく耳についた。」(「薄明」)そのような情勢のなかで太宰は、軽妙でユーモアに満ちた『お伽草紙』二百枚を書き継ぎ、虚構の世界に沈潜していたのである。
空襲下に持ち出した『お伽草紙』の原稿は、見舞いに駈けつけた小山清に託され、小山は筑摩書房にそれを届けた。この小説が信州の伊那で印刷されたことは前述したとおりである。
着のみ着のままで焼け出された太宰は、甲府市新柳町の大内家に妻子と共に身を寄せ、二十日ほど厄介になったのち、金木の長兄宛に一通の電報を打っただけで押しかけ疎開をすることに決め、七月二十八日、甲府を発った。
「その途中の困難は、かなりのものであった。七月の二十八日朝に甲府を出発して、大月附近で警戒警報、午後二時半頃上野駅に着き、すぐ長い列の中にはいって、八時間待ち、午後十時十分発の奥羽線まわり青森行きに乗ろうとしたが、折あしく改札直前に警報が出て構内は一瞬のうちに真暗になり、もう列も順番もあったものでなく、異様な大叫喚と共に群集が改札口に殺到し、私たちはそれぞれ幼児をひとりずつ抱いているのでたちまち負けて、どうやら列車にたどり着いた時には既に満員で、窓からもどこからもはいり込むすきが無かった。プラットホームに呆然と立っているうちに、列車は溜息のような汽笛を鳴らして、たいぎそうにごとりと動いた。私たちはその夜は、上野駅の改札口の前にごろ寝をした。拡声機は夜明けちかくまで、青森方面の焼夷弾攻撃の模様を告げていた。しかし、とにかく私たちは青森方面へ行かなければならぬ。どんな列車でもいいから、少しでも北へ行く列車に乗ろうと考えて、翌朝五時十分、白河行きの列車に乗った。十時半、白河着。そこで降りて、二時間プラットホームで待って、午後一時半、さらに少し北の小牛田行きの汽車に乗った。窓から乗った。途中、郡山駅爆撃。午後九時半、小牛田駅着。また駅の改札口の前で一泊。三日分くらいの食料を持参して来たのだが、何せ夏の暑いさいちゅうなので、にぎりめしが皆くさりかけて、めし粒が納豆のように糸をひいて、口にいれてもにちゃにちゃしてとても嚥下することが出来ぬ。小牛田駅で夜を明し、お米は一升くらい持っていたので、そのお米をおむすびと交換してもらいに、女房は薄暗いうちから駅の附近の家をたたき起してまわった。やっと一軒かえてくれた。かなり大きいおむすびが四つである。私はおむすびに食らいついた。がりりと口中で音がした。吐き出して見ると、梅干である。私はその種を噛みくだいてしまっていた。歯の悪い私が、梅干のあの固い種を噛みくだいたのである。ぞっとした。
しかし、これでもまだ、故郷までの全旅程の三分の一くらいしか来ていないのである。読者も、うんざりするだろう。あとまたいろいろ悲惨な思いをしたのであるが、もう書かない。とにかく、そんな思いをして故郷にたどりついてみると、故郷はまた艦載機の爆撃で大騒動の最中であった。」(「十五年間」)
やっとの思いで太宰が金木の生家に辿り着いたのは、七月三十一日である。翌日から、芦野湖に近い原野に避難小屋を作る手伝いに出かけ、やがて出来上った小屋に女子供が移ったという。
八月十五日、終戦。美知子未亡人の回想によると、電蓄で聞いた終戦の玉音放送はよく聞きとれず、太宰はただ「ばかばかしい」を連発していたそうである。
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第八章 希望と絶望
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一 「パンドラの匣」
終戦後まもなくの九月二十日すぎに仙台の『河北新報』から新聞小説連載の依頼があり、太宰は即座にそれを承諾した。題名は「パンドラの匣」、連載予定百二十回。早くも同月三十日には「作者の言葉」と共に二十回分、八十枚近くを河北新報社村上辰雄に送り、ひきつづいて十月十八日には二十一回から四十回までを、十一月九日には四十一回から六十四回までを村上宛送付、当初の予定のほぼ半分の枚数で完結させている。はじめての新聞小説にしてはえらく簡単に引き受けたものだし、その執筆の速度も、新聞社の人たちや挿画担当画家を驚かせたほどの早さだったのだが、太宰には心づもりがあったのである。
前章で述べたごとく、太宰は十八年十月末に「雲雀の声」二百枚を脱稿したのだが、検閲不許可のおそれがあるため出版を見合わせ、その後出版の許可がおりたのだが印刷所が空襲で全焼したため刊行が不可能になった。しかし幸いなことに、映画化を企画した東宝のプロデューサー山下良三の手許にゲラ刷りが残っていて、二十年五月下旬に太宰はそれを入手している。「パンドラの匣」は、そのゲラ刷りをもとにして「雲雀の声」を改作した小説なのである。
その素材になったのは、昭和十五年八月から文通のあった愛読者木村庄助の療養日記である。木村庄助は十八年七月に自殺するが、故人の遺志によって十二冊におよぶ日記が太宰のもとに届けられた。その日記をもとにして「雲雀の声」が書かれ、改作されて「パンドラの匣」となったのである。うち三冊が美知子未亡人の手もとに残っているが、美知子未亡人は『回想の太宰治』で次のように書いている。
「その日記の大部分を占めるのは、二十歳にして不治の病のため廃人同様となった若者の心身の苦悩と、太宰を知って以来、太宰を思い、太宰に救いを求める熱情である。美しい字でびっしり書きこまれたその日記は、読む人の心をうつ。しかし太宰は、その『深刻』を避けて、明るい軽妙なタッチで、木村さんが、一時期を送った療養所での生活に焦点を当てて書いた。木村さんは数年に亙る療養生活中、その一風変った生駒山麓の療養所には四カ月いただけである。
療養所の日課や、療養者同志あだ名で呼び合うなど、そのまま『パンドラの匣』にとりいれてあるが、形をかりているだけで、『パンドラの匣』の主人公や、『竹さん』その他はヒントを得ているにせよ、太宰の作り上げた人物像である。」
「パンドラの匣」という題名は、ギリシャ神話からとられている。この小説は、主人公の「ひばり」が友人に宛てた書簡の形式をとっているが、終戦直後の八月二十五日の書簡のなかで「ひばり」は次のように書く。
「僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質の出帆であっても、必ず何かしら幽かな期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。君はギリシャ神話のパンドラの匣という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不幸の虫が這い出し、空を覆ってぶんぶん飛び廻り、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに『希望』という字が書かれていたという話。
それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また『絶望』という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依っても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物の蔓が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。」
八月十五日、敗戦の玉音放送を聞いて以来、主人公の「ひばり」は、新造の大きな船にでも乗せられているような気持になる。その船は、するすると岸を離れて、全く新しい処女航路を進んでいく。進んでいく先に何があるのか、それは判らない。明日のことを思い煩わず、楽観も悲観もなく、天の潮路のままに船は進んでいく。前途への、幽かな希望を持ちながら。
終戦直後に書かれた「パンドラの匣」において、昭和十八年戦時下に書かれた「雲雀の声」を太宰がどのように改作したかは判らないが、思うに、「雲雀の声」の「ひばり」も、病魔におかされながらも、明日のことを思い煩わず、楽観も悲観もなく、天に運命をゆだねながら、希望を失わずに生きていたのではなかろうか。戦中と戦後と、時代の大きな裂け目を越えて、二つの小説の主人公の心境には通じ合うものがあったにちがいない。鳴沢さんという女の患者が死に、その出棺を見送ったあとの「パンドラの匣」の「ひばり」の次のような言葉が、そのまま「雲雀の声」のなかにあったとしても、すこしもおかしくはないはずである。
「僕たちは結核患者だ。今夜にも急に喀血して、鳴沢さんのようになるかも知れない人たちばかりなのだ。僕たちの笑いは、あのパンドラの匣の片隅にころがっていた小さな石から発しているのだ。死と隣合せに生活している人には、生死の問題よりも、一輪の花の微笑が身に沁みる。僕たちはいま、謂わば幽かな花の香にさそわれて、何だかわからぬ大きな船に乗せられ、そうして天の潮路のまにまに身をゆだねて進んでいるのだ。この所謂天意の船が、どのような島に到達するのか、それは僕も知らない。けれども、僕たちはこの航海を信じなければならぬ。死ぬのか生きるのか、それはもう人間の幸不幸を決する鍵では無いような気さえして来たのだ。死者は完成せられ、生者は出帆の船のデッキに立ってそれに手を合せる。船はするする岩壁から離れる。」
天の潮路のまにまに身をゆだねる「ひばり」の心境は、国の運命と自分の運命を同化させねばならなかった戦争中の太宰の心境と、通じ合うものがあるのではなかろうか。つまりは、「パンドラの匣」のなかには、戦時下を生きていた太宰の心情が、余燼として残っていたのではなかろうか。
しかし、新しい時代は、たしかに来ている。
「君、あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽なものだ。芭蕉がその晩年に『かるみ』というものを称えて、それを『わび』『さび』『しおり』などのはるか上位に置いたとか、中学校の福田和尚先生から教わったが、芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲するも能わずというところだ。この『かるみ』は、断じて軽薄と違うのである。慾と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のそよ風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取り残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その『かるみ』だ。」
この「かるみ」という言葉を、戦後、日常の座談のなかでも、太宰はしきりに口にした。よほど気に入っていた言葉だったのだろう。「かるみ」、これが分らなくてはね、と、分らぬ者とは共に文学や人生を語りたくないような口吻だった。「かるみ」が最も見事に具象化された作品は「ヴィヨンの妻」であると私は思うが、それについては次章において述べることにする。
「パンドラの匣」は次の文章で結ばれている。
「あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
『私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。』
さようなら。」
「ひばり」と同じように、太宰治もまた、伸びて行く方向に陽が当るようだと考えていたのだろうか。それはよくは判らないが、終戦直後のこの時期においては、新しくひらけていく時代に対して、なんらかの期待と、また希望を、太宰は持っていたのではなかろうか。しかし、やがてまもなく、希望は絶望にとってかわられる。
二 保守派宣言
「パンドラの匣」を完結したあと太宰は、「庭」「やんぬる哉」「親という二字」「嘘」などの短篇小説を書いている。疎開先の金木町での見聞を素材にしたスケッチ風のコントであるが、戦争中、短篇小説発表の舞台を持ちにくかった太宰にとっては、楽しい仕事でもあったのだろう。日本には短篇小説の技術が昔から発達していて、明治以後でも森鴎外、志賀直哉、葛西善蔵、芥川龍之介、菊池寛など短篇小説の技法を知っている人が少くなかったが、昭和のはじめでは井伏鱒二が抜群のように思われたくらいのもので、最近に到ってはまるでもう駄目になった、そこで、すたれた技法を復活させてやろうと思って短篇小説を三つ四つ書いてみたのだと、「十五年間」のなかで言っている。しかしそのうちに、なんだかひどく憂鬱になってきた。
「またもや、八つ当りしてヤケ酒を飲みたくなって来たのである。日本の文化がさらにまた一つ堕落しそうな気配を見たのだ。このごろの所謂『文化人』の叫ぶ何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにおいがしてならない。何食わぬ顔をして、これに便乗すれば、私も或いは『成功者』になれるのかも知れないが、田舎者の私にはてれくさくて、だめである。私は、自分の感覚をいつわる事が出来ない。それらの主義が発明された当初の真実を失い、まるで、この世界の新現実と遊離して空転しているようにしか思われないのである。
新現実。
まったく新しい現実。ああ、これをもっともっと高く強く言いたい!
そこから逃げ出してはだめである。ごまかしてはいけない。容易ならぬ苦悩である。先日、ある青年が私を訪れて、食物の不足の憂鬱を語った。私は言った。
『嘘をつけ、君の憂鬱は食料不足よりも、道徳の煩悶だろう。』
青年は首肯した。
私たちのいま最も気がかりな事、最もうしろめたいもの、それをいまの日本の『新文化』は、素通りして走りそうな気がしてならない。」(「十五年間」)
マッカーサーを最高司令官とする連合軍総司令部(GHQ)からは、日本を民主化するための指令が次々と出されていた。二十年十月四日、治安維持法・特高警察の廃止と政治犯の即時釈放、十月十一日、民主化五大政策(婦人参政権・労働組合の結成奨励・学校教育の自由化・秘密訊問ならびに民権を制限する制度の撤廃・経済諸機関の民主化)、十一月六日、財閥の資産凍結・解体、十二月九日、農地改革。政治の仕組みと社会の体制が、一大変貌を遂げつつあったのである。しかし、「十五年間」と同じ頃の二十一年はじめに書いた「苦悩の年鑑」では、太宰は次のように言っている。
「時代は少しも変らないと思う。一種の、あほらしい感じである。こんなのを、馬の背中に狐が乗ってるみたいと言うのではなかろうか。」
軍閥が崩壊したら、かわって占領軍が、絶対の権力を持つ統治者となり、民主化政策を推し進めている。戦争中には軍部のお先棒をかついでいた所謂「文化人」やジャーナリズムが、舌の根もかわかぬうちに、日の丸の旗を赤旗に持ちかえて、民主主義礼讃をはじめている。
「このごろの雑誌の新型便乗ニガニガしき事かぎりなく、おおかたこんな事になるだろうと思っていましたが、あまりの事に、ヤケ酒でも飲みたくなります。私は無頼派《リベルタン》ですから、この気風に反抗し、保守党に加盟し、まっさきにギロチンにかかってやろうかと思っています。(中略)共産党なんかとは私は真正面から戦うつもりです。ニッポン万歳と今こそ本気に言ってやろうかと思っています。私は単純な町奴《まちやつこ》です。弱いほうに味方するんです。」(二十一年一月十五日付 井伏鱒二宛書簡)
無頼派《リベルタン》、町奴《まちやつこ》、二つの言葉にルビがふってあるが、この二つの言葉には、当時の太宰の思いのたけが色濃くこめられているように思われる。
「無頼派《リベルタン》」という言葉は、やはりその頃に書かれた「返事」という文章のなかでも使われている。貴司山治が編集していた『東西』という雑誌に太宰との往復書簡を連載する企画があり、しかしその企画は太宰の申し出によって一回だけで中絶されたのだが、その第一回として、太宰が貴司宛に出した返事の手紙が、『東西』二十一年五月号に掲載されたのである。
「またまた、イデオロギイ小説が、はやるのでしょうか。あれは大戦中の右翼小説ほどひどくは無いが、しかし、小うるさい点に於いては、どっちもどっちというところです。私は無頼派《リベルタン》です。束縛に反抗します。時を得顔のものを嘲笑します。
私はいま保守党に加盟しようと思っています。こんな事を思いつくのは私の宿命です。私はいささかでも便乗みたいな事はてれくさくて、とてもダメなのです。」
この「返事」という文章で、太宰はまた次のように書いている。
「私たちは程度の差はあっても、この戦争に於いて日本に味方をしました。馬鹿な親でも、とにかく血みどろになって喧嘩をして敗色が濃くていまにも死にそうになっているのを、黙って見ている息子らこそ異質的ではないでしょうか。『見ちゃ居られねえ』というのが、私の実感でした。
(中略)
はっきりいったっていいんじゃないかしら。私たちはこの大戦争に於いて、日本に味方した。私たちは日本を愛している、と。
そうして、日本は大敗北を喫しました。まったく、あんな有様でしかもなお日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国でしょう。あれでもし勝ったら、私は今ほど日本を愛する事が出来なかったかも知れません。
私はいまこの負けた日本の国を愛しています。曾つて無かったほど愛しています。早くあの『ポツダム宣言』の約束を全部果して、そうして小さくても美しい平和の独立国になるように、ああ、私は命でも何でもみんな捨てて祈っています。」
一億総懺悔などということが言われ、戦争責任の追及がジャーナリズムを賑わしていたその時代のなかで、このような発言をするにはかなりの勇気が要ったはずである。
「日本人は皆、戦争に協力したのです。その為にマ司令部から罰せられるならば、それこそ一億一心みんな牢屋へはいる事を希望するかも知れません。御心配御無用です。」(二十一年一月十五日付 井伏鱒二宛書簡)
二十一年一月一日、「新日本建設に関する詔書」において、所謂「天皇の人間宣言」が行なわれた。連合軍のあいだでも天皇の戦争責任を主張する声は強く、それは日本のジャーナリズムにも反映されていた。
「天皇の悪口を言うものが激増して来た。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。」(「苦悩の年鑑」)
「日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。……天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。」(「パンドラの匣」)
四月一日、新選挙法による戦後最初の衆議院議員総選挙が行なわれ、長兄文治が保守政党の進歩党から立候補した。保守派宣言をし、保守党に加盟しようと思っているとさえ言っていた太宰だが、しかし実際の政治運動においては、どれほど本気で長兄を支援したのだろうか。
「二十一年のはじめから春にかけて、太宰も選挙運動の一環として近くは嘉瀬、五所川原、乗り換えて木造、弘前、黒石、鰺ヶ沢等各地の会合に顔出しした。長兄お下がりのグレイの背広、紺のコートに長靴、リュックサックを背にした彼の姿を記憶している方もあると思うが、果してどの位役に立ったものやら、次兄英治は入院中であったから、その分まで働くべきところであったが、この愚弟はただ選挙に便乗して大酒をのんだだけだったかもしれない。」(津島美知子『回想の太宰治』)
保守派宣言をしながらも、現実の政治運動には太宰はほとんど関心を持たなかったのではなかろうか。「惜別」の魯迅のように、「僕には政治がわからないのでしょう。僕には、党員の増減や、幹部の顔ぶれよりも、ひとりの人間の心の間隙のほうが気に」なったのにちがいない。
「あなたの大好きな魯迅先生は、所謂『革命』に依る民衆の幸福の可能性を懐疑し、まず民衆の啓蒙に着眼しました。またかつて私たちの敬愛の的であった田舎親爺の大政治家レニンも、常に後輩に対し『勉強せよ、勉強せよ、そして勉強せよ』と教えていた筈であります。教養の無いところに、真の幸福は絶対に無いと私は信じています。」(「返事」)
「教養の無いところに幸福無し。教養とは、まず、ハニカミを知る事也。」(二十一年一月二十五日付 堤重久宛書簡)
ハニカミを忘れたジャーナリズムや文化人の厚顔無恥が、太宰には我慢がならない。そこで太宰は、こんなことを言う。
「私のいま夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。」(「苦悩の年鑑)」
アナキズム風の桃源――「冬の花火」の数枝も、それに憧れを持つ。
三 「冬の花火」と「春の枯葉」
「冬の花火」は、太宰治の最初の本格的な戯曲である。二十一年二月十日に稿を起し、三月十五日に脱稿した。その間、母校の青森中学校で講演をしたり、長兄文治の選挙運動の一環として各地の会合に顔出ししたり、なかなか身辺多忙ではあったのだが、それにしても、七十枚を書き上げるのに一か月以上を要している。苦心もしたのだろうが、「つまらぬ短篇四つ五つ書き、これから『冬の花火』という百枚の戯曲にとりかかる。これは問題作なり。」(二十一年二月十日付 小山清宛書簡)とその意気込みもかなりのものだったようである。
この戯曲は、主人公の数枝が突然、低い異様な笑声を発し、それから、ひとりごとのように、「負けた、負けたというけれども、あたしは、そうじゃないと思うわ。ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。」と言うところからはじまる。たんに、いくさに負けたのではない、日本は滅亡してしまったのだと数枝は言うのである。
この数枝の台詞のなかには、太宰の感懐がこめられている。「私は自身を『滅亡の民』だと思っています。まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学じゃないのかしらん。どうして人は、自分を『滅亡』だと言い切れないのかしらん。」(二十一年四月三十日付 河盛好蔵宛書簡)
東京で島田という小説家と結婚し、島田は出征したまま消息が知れず、娘の睦子と共に生きていくために数枝は年下の画家の鈴木と同棲し、しかし、日本国中が空襲を受けているまっさいちゅうに、鈴木たちがとめるのを振り切って故郷の津軽に帰ってくる。死ぬ前にいちど、継母のあさにどうしても逢いたかったからである。幼い時に生みの母をなくした数枝はずっとあさに育てられたのだが、心の優しいあさに数枝は可愛がられ、数枝も、「あたしはこの母を、あたしの命よりも愛しています。あたしの母は、立派な母です。そうして、それから、美しい母です。」と思っている。数枝の幼馴染みに金谷清蔵という男がいて、数枝への思慕の念を抱きつづけたまま独身を通しているのだが、雪が降っているある夜、数枝の居間に忍んできて、結婚を迫る。数枝はいい加減にあしらいながら、ふと畳の上に散らばっている線香花火に目をとどめ、その一本に火をつける。その線香花火は、睦子があさに玩具《おもちや》がわりに買ってもらったのである。
(数枝)この花火はね、二、三日前にあたしのお母さんが、睦子に買って下さったものなんですけど、あんな子供でも、ストーヴの傍でパチパチ燃える花火には、ちっとも興味が無いらしいのよ。つまらなそうに見ていたわ。やっぱり花火というものは、夏の夜にみんな浴衣を着て庭の涼台に集まって、西瓜なんかを食べながらパチパチやったら一ばん綺麗に見えるものなのでしょうね。でも、そんな時代は、もう、永遠に、(思わず溜息をつく)永遠に、来ないのかも知れないわ。冬の花火、冬の花火。ばからしくて間《ま》が抜けて、(片手にパチパチいう花火を持ったまま、もう一方の手で涙を拭く)清蔵さん、あなたもあたしも、いいえ、日本の人全部が、こんな、冬の花火みたいなものだわ。
(清蔵)(気抜けした態で)それは、どんな意味です。
(数枝)意味も何もありゃしないわ。見ればわかるじゃないの。日本は、もう、(突然、花火をやめて、袖で顔を覆う)何もかも、だめなのだわ。(袖から顔を半分出し、嗚咽しながら少し笑い)そうして、あたしも、もうだめなのだわ。どんなにあがいて努めても、だめになるだけなのだわ。
数枝は、日本にも、また自分自身にも、なんの希望も持てない。暗い絶望のなかにいる。しかしその数枝にも、小さな夢がある。
あさが胆嚢炎《たんのうえん》になって寝込み、その枕元で、数枝は東京の鈴木に宛てた手紙をあさに読んできかせる。あたしは、いまはこの母を少しでも仕合せにしてあげたい。母が傍にいてくれといったら、一生、母の傍にいるつもりだ。もう東京へは帰らないかもしれない。あなたがあたしをこいしく思ってくれるなら、この田舎へ来て、あたしと一緒にお百姓になって下さい。あたしは今の日本の、政治家にも思想家にも芸術家にも誰にもたよる気がしません。
「どうして日本のひとたちは、こんなに誰もかれも指導者になるのが好きなのでしょう。大戦中もへんな指導者ばかり多くて閉口だったけれど、こんどはまた日本再建とやらの指導者のインフレーションのようですね。おそろしい事だわ。日本はこれからきっと、もっともっと駄目になると思うわ。若い人たちは勉強しなければいけないし、あたしたちは働かなければいけないのは、それは当りまえの事なのに、それを避けるために、いろいろと、もっともらしい理窟がつくのね。そうしてだんだん落ちるところまで落ちて行ってしまうのだわ。ねえ、アナーキーってどんな事なの。あたしは、それは、支那の桃源境みたいなものを作ってみる事じゃないかと思うの。気の合った友だちばかりで田畑を耕して、桃や梨や林檎の木を植えて、ラジオも聞かず、新聞も読まず、手紙も来ないし、選挙も無いし、演説も無いし、みんなが自分の過去の罪を自覚して気が弱くて、それこそ、おのれを愛するが如く隣人を愛して、そうして疲れたら眠って、そんな部落を作れないものかしら。あたしはいまこそ、そんな部落が作れるような気がするわ。」
しかし、その決心も、その夢も、あさの告白によって打ち破られる。あさは、秘密を持っていたのである。六年前に、清蔵と、過ちをおかしていたのである。
それを聞いて数枝は、苦痛に堪えざるものの如く、荒い呼吸をして、やがて立ち上り、低い異様な笑声を発しながら、
「桃源境、ユートピア、お百姓、ばかばかしい。みんな、ばかばかしい。これが日本の現実なのだわ。(高くあははと笑う)さあ、日本の指導者たち、あたしたちを救って下さい。出来ますか、出来ますか。(と言いながら、手紙を拾い、二つに裂く、四つに裂く、八つに裂く、こまごまに裂き)えい、勝手になさいだ。あたし、東京の好きな男のところへ行くんだ。落ちるところまで、落ちて行くんだ。理想もへちまもあるもんか。」
手にしているたくさんの紙片を数枝は火鉢に投げこむ。あがる火焔を見ながら、
「ああ、これも花火。(狂ったように笑う)冬の花火さ。あたしのあこがれの桃源境も、いじらしいような決心も、みんなばかばかしい冬の花火だ。」
この作品について太宰は河盛好蔵宛書簡(二十一年八月二十二日付)で次のように言っている。
「『冬の花火』は、ひどく悪く言うひとがあるようで残念でした。お説の如く、数枝という女性に魅力を感じてもらえたら、それで大半私は満足なのです。それから、あのドラマの思想といっては、ルカ伝七章四七の『赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し』です。自身に罪の意識のない奴は薄情だ、罪深きものは愛情深し、というのがテーマで、だから、どうしても、あさは、あのような過去を持っていなければならないんです。いちどあやまちを犯した女は優しい、というのが私の確信なんです。」
「赦さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し」これがテーマだと太宰は言っているのだが、しかし、「ルカ伝第七章」のこのイエスの言葉が消化されて作品のなかに溶け込み、読者の胸をうつのは、次の戯曲「春の枯葉」においてであるだろう。
なお、「冬の花火」は、花柳章太郎、水谷八重子らの新生新派によって上演される予定だったが、GHQの意向で中止された。また、数枝の最初の台詞のなかの「日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜なのに、」という語句は、雑誌発表の際にGHQにより削除された。
「春の枯葉」の稿を起したのは五月の上旬で、五月一日付井伏鱒二宛書簡に「きょうから、また戯曲を書いてみたいと思っています。現実のどうにもならぬ憂鬱を書くつもりです。」とある。この戯曲には骨身を削るほどの苦心をしたようで、「次の戯曲も、きのうあたりからやっと目鼻がつき、さらに苦闘中です。好評も悪評も、作家の身をけずる精進には追いつきません。」(七月十三日付 葛西久二宛書簡)「戯曲も、私の作家道の修業の一つとして、たいへんな苦心で書いています。ただいま『春の枯葉』というものを書いています。ただし三日に一枚という速度でウンザリ、」(七月十八日付 伊馬春部宛書簡)などと苦心のほどを語っている。脱稿したのは八月上旬で、七十五枚の作品に三か月を要している。
「春の枯葉」という題名は、国民学校教師野中弥一が、東京から疎開してきて野中家に間借している奥田菊代に言う台詞からとられている。場所は津軽半島の海岸の僻村、時は二十一年四月。津軽の春はワンステップでやってくる。深く積っていた雪もあっというまに消えて、雪の下から、春の青草が姿を見せるが、しかし、去年の秋に散って落ちた枯葉も雪の下から現われてくる。
「僕たちだって、こんなナンセンスの春の枯葉かも知れないさ。十年間も、それ以上も、こらえて、辛抱して、どうやら虫のように、わずかに生きて来たような気がしているけれども、しかし、いつのまにやら、枯れて落ちて死んでしまっているのかも知れない。これからは、ただ腐って行くだけで、春が来ても夏が来ても、永遠によみがえる事がないのに、それに気がつかず、人並に春の来るのを待っていたりして、まるでもう意味の無い身の上になってしまっているんじゃないのかな。」
ただ腐って行くだけで、永遠によみがえる事がない、まるでもう意味のない身の上――敗戦後の日本も、またそこに生きている日本人も、春の枯葉と同じ運命にあるのではないのか――野中の台詞に、太宰は自分の感懐のなにほどかを託そうとしたのだろう。
野中弥一は、養子である。世間的な道徳家、常識家であり、生活第一主義のリアリストである家附《いえつ》き娘の妻の節子、義母のしづと、肌が合わない。暗い心理的な葛藤が両者のあいだにある。東京から疎開してきた若い菊代も、田舎者の持っているケチ臭さと生活への根強い自信が我慢がならず、節子としづに反感を持っている。
何でもうけたのか、千円もの大金を菊代は野中に差し出し、奥さんに渡してやってくれと言う。あんな気取った人こそお金をいちばん欲しがっているのだ、あたしは復讐したいのだ。
菊代から貰った金で野中は、闇景気の漁師から平目を二まいと、薬用アルコールを水で割ったあやしげな酒を買い、菊代の兄で間借している同僚の奥田義雄の部屋を訪ねる。節子を呼び、今夜は宴会だ、一まいは刺身、一まいは焼魚、お前もお母さんもイヤになるほど食べろ。奥田と呑みはじめ、節子が大皿二つを捧げて入ってきて、にこりともせず食卓の上に置き、これで全部だと言う。わたしどもは、もうごはんはすみましたからと言う。野中は憤然と食卓をひっくりかえす。
大酔した野中は、よろめきながら海浜に出て、一艘の漁船に倒れるように寄りかかる。頭が割れるように痛む。ついてきた節子に野中は言う。
「(野中)しかし、お前は、強いなあ。……負けた、負けた。僕は、負けたよ。お前たちのこんな強さは、いったい、何から来ているのだろうなあ。男女同権どころじゃない。これじゃ、あべこべに男のほうからお助けを乞わなくちゃいけねえ。いったい、なんだい? お前たちのその強さの本質は、さ。封建、といったってはじまらねえ。保守、といってみたってばかげている。どだいそんな、歴史的なものじゃあ無えような気がする。有史以前から、お前たちには、そんな強さがあったんだ。そうしてまた、これから、この地球に人類の存在するかぎり、いや、動物の存続する限り、お前たちは、永久に強いんだ。
(節子)(落ちついて)あなたは、はずかしくないのですか?
(野中)(呻く)ううむ、ちえっ、ちくしょう! (顔を挙げて)全人類を代表してお前に言う。お前は、悪魔だ!
(節子)(冷く)なぜですか?
(野中)わからんのか? 人が死ぬほど恥ずかしがっているその現場《げんば》に平気で乗り込んで来て、恥ずかしくありませんかと聞ける奴《やつ》あ悪魔だ。
(中略)
(野中)僕たちは、僕と菊代さんは、お前たちに叛逆をたくらんだが、お前たちは意外に強くて、僕たちは惨敗を喫したんだ。押せども、引けども、お前たちは、びくともしねえ。
(節子)だって、あなたたちは、間違った事をしているのですもの。
(野中)聖書にこれあり。赦《ゆる》さるる事《こと》の少《すくな》き者《もの》は、その愛《あい》する事《こと》もまた少《すくな》し。この意味がわかるか。間違いをした事がないという自信を持っている奴《やつ》に限って薄情だという事さ。罪多き者は、その愛深し。
(節子)詭弁ですわ。それでは、人間は、努めてたくさんの悪い事をしたほうがいいのですか?」
そしてまた野中は、こうも言う。
「(野中)ああ、あ。世の中は滔々として民主革命の行われつつあり、同胞ひとしく祖国再建のため、新しいスタートラインに並んで立って勇んでいるのに、僕ひとりは、なんという事だ。相も変らず酔いどれて、女房に焼きもちを焼いて、破廉恥の口争いをしたりして、まるで地獄だ。しかし、これもまた僕の現実。」
この作品の第一場で、菊代は言う。「田舎では人間の価値を、現金があるか無いかできめてしまうのね。それだけが標準なのだわ。もう冗談も何も無く、つめたく落ちついてそう信じ切ってしまっているのだから、おそろしいわ。ぞっとする事があるわ。」境遇こそ違うが、同じ疎開者として、太宰も似たような実感を持っていたのだろう。
酒にも食べものにも不自由はしなかったが、疎開者としての田舎暮しが快適なはずはない。「田舎は田舎で、また気苦労もあるものですね。早くまた東京荻窪あたりのヤキトリの屋台などで、大威張りで飲んで大声で文学談などわめきたいものです。私の念願はそればかり。」(二十年十月七日付 井伏鱒二宛書簡)しかし太宰の上京を躊躇させたのは、東京の食糧難だった。「『東京の人は親切だ』というお言葉、身にしみました。田舎暮しの私たちにでなければわからない意味深《イミシン》です。しかし、東京も、このごろ急にまた食料危機とやらになったとか、それも憂鬱で、上京の志を放棄しました。」(二十一年五月一日付 井伏鱒二宛書簡)しかし、二十一年の初秋には年内上京の決意を固め、十月二十七日に九十歳の長寿を全うした祖母イシの葬儀をすませた後、十一月十一日、金木を発ち、途中仙台に下車して一泊、十四日夜、三鷹の旧居に帰り着いた。
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第九章 恋と革命
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一 律儀な無頼派《リベルタン》
太宰が帰ってきた翌日の十一月十五日の朝、当時新潮社の社員だった私は三鷹の家を訪ねた。三年ぶりの再会であった。その二か月ほど前に私は津軽の太宰に手紙を書き、『新潮』への長篇小説連載を依頼し、考えてみるという返事をもらっていたのだが、その確認の用件もあったのである。その日、太宰は小説連載を約束してくれ、これは大傑作になる、疑ってはいけない、すごい傑作になるんだ、と笑いながら言った。二十日の夕刻、太宰は新潮社に来てくれ、編集顧問をしていた旧知の河盛好蔵などに会い、小説の大体の構想は出来ている、日本の「桜の園」を書くつもりだ、没落階級の悲劇、もう題名も決めてある、「斜陽」、斜めの陽、「斜陽」、いい題名でしょうと、たいへんな意気込みだった。
その日から、私は三日にあげず太宰を訪ねるようになるのだが、二十三年六月の死に至るまでのその間のことは、『回想 太宰治』ですでに書いたから、できるだけ重複を避けるようにする。
太宰治の文名が一躍高まり、広汎な読者層の支持を受けるようになったのは「斜陽」の発表以後と考えていいのだが、帰京した二十一年十一月頃には、すでに雑誌からの原稿依頼が殺到していた。坂口安吾、石川淳、織田作之助などと並んで、戦後文壇の寵児、流行作家だったのである。訪ねてくる編集者も数多く、それこそ「客と酒、客と酒」の毎日となり、やむなく、近くに秘密の仕事部屋を借りてそこに通い、執筆に打ち込むことにした。はじめに借りた仕事部屋は三鷹郵便局の近くだったようだが、私たち親しくしていた者にもその場所を明かさなかった。弁当持参で朝の九時すぎにそこに出勤≠オ、午後三時頃まで仕事をしていたが、律儀な勤め人が毎日定刻に会社に通うのと同じ几帳面さだった。小説を書くことだけに生甲斐を感じていた人だったから、毎日の通勤≠煦鼬に億劫ではなかったと思う。
それにしても、もっと家が大きく、二階の奥にでも書斎があったら、仕事部屋に通う面倒はなかったかもしれない。同じ流行作家の坂口安吾が戦前から住んでいた蒲田安方町の家はかなりの大きさで、安吾の書斎は二階にあり、階下の応接間でしか訪客と会わず、それに毎週の水曜日を面会日と決めていて、その日以外は人に会いたがらなかった。しかし、太宰の家は、玄関をあけるとすぐそのとっつきの六畳間が書斎兼客間で、いやでも訪客とまともに顔を合わせる破目になり、気の弱い太宰のこと、玄関先の立話で帰ってもらうことなどとても出来ず、いきおい、「客と酒、客と酒」という仕儀になるのである。それに長女の園子、長男の正樹、そして二十二年の三月には次女の里子(現在の作家津島佑子)が生れ、狭い家のなかは賑やかになりすぎ、仕事がしやすい環境ではなかったのである。
その当時、太宰の収入はどのくらいあったのだろう。原稿料収入もかなりの額にのぼったはずだが、それよりも、戦前、戦中の著作が次々と再刊され、『パンドラの匣』『創作集 冬の花火』『創作集 ヴィヨンの妻』『斜陽』などの新刊書もあり、その印税収入のほうがはるかに大きかったはずである。美知子未亡人の回想によると、税務署の査定した昭和二十二年度の所得は二十一万円だったという。インフレが急激に進行していた時代ではあるが、これは相当の年収と考えていいであろう。もしその気になったら、地代の安かった当時のことだから、かなりの家を新築できたはずである。げんに、二十一年に丹羽文雄が三鷹駅の北側の西窪に新築した家などは、豪邸といっていいほどの立派さで、私たちは目を見張ったものだった。はっきりしたことは判らないが、その当時、太宰の収入は、丹羽のそれをかなり上回っていたのではあるまいか。
しかし、太宰には、その気はなかった。
「キリスト主義といえば、私はいまそれこそ文字通りのあばら家に住んでいます。私だってそれは人並の家に住みたいとは思っています。子供も可哀そうだと思うこともあります。けれども私にはどうしてもいい家に住めないのです。それはプロレタリア意識とか、プロレタリアイデオロギーとか、そんなものから教えられたものでなく、キリストの汝等己を愛する如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思いこんでしまっているらしい。」(「わが半生を語る」)
当時の東京は極端な住宅難で、やっとさがしあてた六畳の貸間に親子五人が寝起きしているなど、珍しいことではなかった。そんな周囲の状況のなかで、自分だけがいい家に住むことを、太宰は自分に許せなかった。キリストの隣人愛の教えが、それを許さなかった。
小さな家ではあったが、「一部の読者、批評家の想像を裏切り、私の部屋の畳は新しく、机上は整頓せられ」(「桜桃」)ていた。「ヴィヨンの妻」に描写されているような、「腐りかけているような畳、破れほうだいの障子、落ちかけている壁、紙がはがれて中の骨が露出している襖、片隅に机と本箱、それもからっぽの本箱、そのような荒涼たる部屋の風景」などではけっしてなかった。
太宰は、収入の大半を酒食に浪費した。編集者や知友など訪客への接待、饗応に収入の大半を浪費した。たかが三鷹あたりの小料理屋で、書生の遊興みたいなものだと言っていたが、闇で仕入れる日本酒やビールの値段がべらぼうに高かったからである。カストリ焼酎全盛の時代だったが、異様な臭いを発するこの怪しげな飲物を、太宰は口にしようとしなかった。
しかしそれは、生活が荒れていたということではない。太宰治は天稟の作家である。太宰治にとって、生きるとは、創作することであった。おどろくほどの律儀さで、太宰は創作に打ち込んでいた。でなければ、三鷹に帰ってきてから死に至るまでの一年七か月の間に、「斜陽」「人間失格」の二つの力作長篇、「ヴィヨンの妻」「父」「桜桃」など十七の短篇、「グッド・バイ」十三回、それに、口述筆記ではあるが、「如是我聞」「井伏鱒二選集後記」などの秀れたエッセイを書き残せたはずはない。
生活は荒れてはいなかったが、生家の窮屈さから解放されて焼跡の東京に帰ってきてから、無頼派《リベルタン》としての自覚はますます太宰のなかに強まったように思われる。それは交友関係にも現れていて、日常的リアリズムのなかに安住し、戦後の「新現実」に体当りしようとする姿勢が見えない中央沿線の私小説作家たちから次第に気持が離れ、同じ無頼派《リベルタン》としての自覚を持っていた坂口安吾や織田作之助に親近感を持つようになった。
上京直後の十一月二十五日夜、太宰はこの二人と、実業之日本社、改造社主催の二つの座談会に出席している。酔っぱらっての座談なので内容はまことにとりとめないが、気持の通い合いは十分に読みとれる。二つの座談会を終えたあと、三人は銀座裏の酒場ルパンで気焔をあげ、さらに松屋裏の織田の定宿に行き、安吾はさきに寝てしまい、太宰と織田は徹宵語り明かした。そのころ織田は胸部疾患が悪化していたのだが、ヒロポンを打ちながらの奮迅の仕事振りで、そののめりこむような姿勢に太宰は共感を覚えたのに違いない。その日から一か月半後の一月十日、織田作之助は急逝した。翌十一日夜、愛宕山下天徳寺での通夜に駈けつけた太宰は、『東京新聞』に掲載予定の「織田君の死」と題する追悼文のゲラ刷りを、霊前にささげた。
「織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附合いがあったわけではない。
しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
はじめて彼と銀座で逢い、『なんてまあ哀しい男だろう』と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。
死ぬ気でものを書きとばしている男。それは、いまのこの時代に、もっともっとたくさんあって当然のように私には感じられるのだが、しかし、案外、見当らない。いよいよ、くだらない世の中である。
世のおとなたちは、織田君の死に就いて、自重が足りなかったとか何とか、したり顔の批判を与えるかも知れないが、そんな恥知らずの事はもう言うな!
きのう読んだ辰野氏のセナンクウルの紹介文の中に、次のようなセナンクウルの言葉が録されてあった。
『生を棄てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。しかし、僕に死を禁ずるその同じ詭弁家が時には僕を死の前にさらしたり、死に赴かせたりするのだ。彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。』
織田君を殺したのは、お前じゃないか。
彼のこのたびの急逝は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
織田君! 君は、よくやった。」
この追悼文はまた、太宰治自身の、世のなかのおとなたちへの、悲痛な抗議である。世俗の道徳家、常識家たちへの、はげしいプロテストである。そしてまた、自身を「滅亡の民」と思っていた太宰治の、自分自身への餞《はなむけ》の言葉と考えてもよい。この追悼文を書いてから一年半後に、太宰治はみずからの命を絶ったのである。
二 「斜陽」
金木疎開中の二十一年、太宰は、先輩や友人に宛てた書簡のなかで、生家津島家の没落を「桜の園」になぞらえ、チェホフに思いを寄せている。「金木の私の生家など、いまは『桜の園』です。あわれ深い日常です。」(一月十五日付 井伏鱒二宛)「保守派になれ。保守は反動に非ず、現実派なり。チェホフを思え。『桜の園』を思い出せ。」(一月二十五日付 堤重久宛)「『桜の園』を忘れる事が出来ません。いま最も勇気のある態度は保守だと思います。」(一月二十八日付 小田嶽夫宛)「また東北へおいでの折には、どうか足をのばして、津軽へもお立寄り下さい。没落寸前の『桜の園』を、ごらんにいれます。」(五月二十一日付 貴司山治宛)
日本の民主化政策を推し進めようとしたGHQが真先に着手したのは農地改革、すなわち地主制度の変革だった。第一次農地改革案が成立したのは二十年十一月で、五町歩をこえる地主の所有地を地主・小作の協議によって自作農地化しようとするものだった。しかしこの法律が公布されても地主階級が依然として勢力を持っていたため改革は順調に進まず、翌二十一年六月、GHQから「第二次農地改革に対する勧告」が出され、それを受けた吉田内閣によって第二次農地改革案が成立した。それによると、内地においては、在村耕作地主は三町歩を残し、非耕作地主は一町歩を残し、不在地主はその全所有地が、強制買上げの対象となったのである。二百五十町歩の大地主津島家も、その所有地のほとんどを失うに至った。まさに、「没落寸前の『桜の園』」となったのである。
チェホフは太宰がかねてから敬愛していた作家だが、特に「桜の園」を高く評価していた。気に入った作品はくり返し読むのが太宰の流儀で、それまでにも何度か精読していたのにちがいなく、だから、生家の没落からすぐ「桜の園」が連想されたのであろう。「冬の花火」を脱稿して「春の枯葉」にとりかかる間の二十一年四月、太宰はまたチェホフの戯曲全集を読み返している。地主階級の没落を、その「あわれ深い日常」を身近に目にしながら、日本の「桜の園」を書きたいという思いが、次第に太宰のなかに芽生えてきたのだろう。そして、いつごろからか、小説の構想を練りはじめたのであろう。
チェホフの「桜の園」は一九〇三年に書かれた。時にチェホフ四十三歳、その死の前年に当る。当時のロシアは、一八六一年の農奴解放令以後、新興ブルジョアジイが経済力を握ってきて、古い支配階級である地主層は没落を余儀なくされていた。「桜の園」は、没落していく地主層への挽歌である。主人公の女地主ラネーフスカヤは、純粋無垢、童女のような幼さを残している女性である。世間知らずで、経済観念が欠如していて、もうお金がないのに浪費癖が直らない。そして、古きよき時代への郷愁だけに生きている。
「斜陽」――日本の「桜の園」を書こうと思い立ったとき、太宰の脳裡に、日本のラネーフスカヤとして、太田静子の母親の像が浮んできたのではないかと思われる。太田静子と太宰治とのことは、『回想 太宰治』『太宰治 結婚と恋愛』などでかなりくわしく書いたからここでは省くが、終戦の年の十二月に母が死亡したのち、下曾我の山荘での一人暮しの淋しさのなかで静子は母の思い出を日記風に書き、書いていることを太宰に知らせている。その生前に太宰は静子の母に直接に会ったことはないが、子供たちから「ラネーフスカヤ夫人」と呼ばれていたその母についての、あるイメージを作り上げていたのではなかろうか。
二十二年一月六日、上京した静子に会ったとき、日記を見せて欲しいと太宰はたのんでいる。こんど書く小説のために、どうしても君の日記が必要なのだと。
二月二十一日、太宰は下曾我の山荘に静子を訪ね、大判ノートに書かれた日記風の回想文を借り受け、五日間滞在した。この時、太宰と静子ははじめて結ばれた。そのあと太宰は伊豆|三津《みと》浜に向い、安田屋旅館に止宿して「斜陽」の稿を起した。その一章、二章八十枚を脱稿したのが三月六日である。
太宰の死後まもなくの二十三年十月に、静子が母の思い出を書き綴った文章は、「斜陽日記」と題して公刊された。戦争中の十八年十月、叔父の世話で下曾我の山荘に疎開してから、二十年十二月に母と死別するまでの、母娘《おやこ》ふたりのあわれ深い日常の記録である。「斜陽」では戦後の二十年十二月にかず子と母が伊豆の山荘に移り住むことになっており、戦中と戦後と時代の違いがあるわけだが、山荘における母娘の暮しとその感情の動きは、かなりの部分が静子の回想文からとられている。具体的に言えば、一章、二章、五章の多くの部分と、三章、四章の一部である。
たとえば、一章における蛇の卵を焼く話は、ごく部分的に改変されているだけで、ほとんどそのまま静子の文章を引き写している。また二章の、火事を起しかけた話も、勤労奉仕に出て若い将校からいたわられた話も、ほぼ静子の回想文そのままである。ただし、「斜陽」のかず子は立川の奥の山へ通うが、静子は曾我山の陣地構築にかり出された。
母の病状が悪化し、ついに死を迎えるまでの五章の大半は、母を診察して結核《テーベ》と気付く兄の馨を三宅医師に変えたりはしているが、静子の回想文を下敷きにしている。うたた寝をしながら見る湖のほとりの HOTEL SWITZERLAND の夢も、風の強い夜にローザ・ルクセンブルグの「経済学入門」を読み、「この本の著者が、何の躊躇も無く、片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気」に奇妙な興奮を覚えるのも、静子の回想文に拠っている。
母の死顔の描写も、ほとんど回想文そのままである。ただ、「私は、ピエタのマリヤに似ていると思った。」という一句を太宰は付け加えた。そしてまた、「日本で最後の貴婦人だった美しいお母さま」という一句も。
日本における最後の貴婦人=\―この一点において、「斜陽」は静子の回想文から離れる。静子さんの生家は先祖代々の医者だが、「斜陽」のかず子は華族の生れである。小説の冒頭で、かず子の母は、所謂正式礼法を無視してスプウンをあつかい、月夜に萩のしげみの奥でおしっこをする。これはまったくの太宰の創作で、ほんものの貴婦人の姿を描きたかったのである。戦後の民主改革、新憲法の制定によって最も大きな打撃を受けたのは、その身分を失った華族階級だったはずで、だから、没落階級の悲劇「斜陽」の主人公には、華族が最もふさわしいと太宰は考えたのであろう。
さて、ところで、「斜陽」の主人公は、いったい誰なのだろうか。日本の「桜の園」を書こうとしたのならば、主人公は当然日本のラネーフスカヤ、かず子の母であらねばならない。当初、太宰は、そのような構想を持っていたのではなかろうか。かず子も、また弟の直治も、いわば脇役として構想されていたのではなかろうか。そして、かず子の上原二郎への恋が、受胎が、作品の中心に大きく浮びあがってくることもなかったのではなかろうか。
太宰が下曾我に静子を訪ね、懐妊を知らされたのは、三月の下旬である。この実人生のなまなましい体験が、「斜陽」の構想を大きく変えたことは、間違いあるまい。懐妊を知ったあとの四月上旬から太宰は三章の執筆にかかるが、六年前に小説家の上原二郎にキスされ、そのときから胸の奥に出来た「ひめごと」が、直治の復員を契機としてかず子を悩ましはじめる。そして続く四章で、かず子は上原に三通の手紙を書く。
母をなくしたのち、山荘での孤独の淋しさに堪えかねた静子は津軽の太宰に手紙を書き、太宰からも返事がきて、それからふたりのあいだに数回の文通があった。その静子からの手紙の内容が、かず子の三通の手紙の文面に部分的に織り込まれてはいるのだが、しかし、これはあくまで太宰治の創った文章であり、太宰治の思念の表白である。
「鳩《はと》のごとく素直《すなお》に、蛇《へび》のごとく慧《さと》く、私は、私の恋をしとげたいと思います。」
「このような手紙を、もし嘲笑するひとがあったら、そのひとは女の生きて行く努力を嘲笑するひとです。女のいのちを嘲笑するひとです。私は港の息づまるような澱んだ空気に堪え切れなくて、港の外は嵐であっても、帆をあげたいのです。憩える帆は、例外なく汚い。私を嘲笑する人たちは、きっとみな、憩える帆です。何も出来やしないんです。」
「世間でよいと言われ、尊敬されているひとたちは、みな嘘つきで、にせものなのを、私は知っているんです。私は、世間を信用していないんです。札つきの不良だけが、私の味方なんです。札つきの不良。私はその十字架にだけは、かかって死んでもいいと思っています。」
母が病歿したあと、上原二郎への恋を成就させようと、かず子は伊豆の山荘を出て東京に向う。
「戦闘、開始。」ではじまる六章でかず子は、思いのたけを述べる。
「いつまでも、悲しみに沈んでもおられなかった。私には、是非とも、戦いとらなければならぬものがあった。新しい倫理。いいえ、そう言っても偽善めく。恋。それだけだ。ローザが新しい経済学にたよらなければ生きておられなかったように、私はいま、恋一つにすがらなければ、生きて行けないのだ。」
「マタイ伝第十章」のイエスの言葉が、かず子のその覚悟の支えとなる。イスラエルの各地に十二人の弟子を派遣し、宣教させようとするに当って、イエスが教え諭した言葉である。
「……視《み》よ、我《われ》なんじらを遣《つかわ》すは、羊《ひつじ》を豺狼《おおかみ》のなかに入《い》るるが如《ごと》し。この故《ゆえ》に蛇《へび》のごとく慧《さと》く、鴿《はと》のごとく素直《すなお》なれ。……身《み》を殺《ころ》して霊魂《たましい》をころし得《え》ぬ者《もの》どもを懼《おそ》るな、身《み》と霊魂《たましい》とをゲヘナにて滅《ほろぼ》し得《う》る者《もの》をおそれよ。……われ地《ち》に平和《へいわ》を投《とう》ぜんために来《きた》れりと思《おも》うな。平和《へいわ》にあらず、反《かえ》って剣《つるぎ》を投《とう》ぜん為《ため》に来《きた》れり。……」
多くの貧しい人々からの厚い信望を受けながらも、古い権威を笠に着て宗教界を支配しているサドカイ派の貴族祭司たちやパリサイ派の律法学者らに、また地上の権力者たちにも、イエスは憎まれていた。古くからの権威への背叛者として、またこの世の安寧を乱すものとして、憎まれていた。十二人の弟子が受けねばならぬ迫害を、味わねばならぬ苦難を、イエスは知っていた。だからイエスは、「蛇のごとく慧《さと》く、鴿《はと》のごとく素直なれ」と諭したのである。
不倫の恋を果そうとするかず子も、世間からの指弾を受けるだろう。かず子もまた、蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直にならねばならぬ。
世間の良識家から不道徳と顰蹙《ひんしゆく》されるような行為も、敢て辞するな。「身と霊魂《たましい》とをゲヘナ(地獄)にて滅し得る者」、つまり「神」だけを、懼《おそ》れよ。
自分はこの世に平和をもたらそうと思って来たのではない。「平和にあらず、反って剣《つるぎ》を投ぜん為に来れり。」
心を強くもって、闘うがよい。
このイエスの教えが、かず子の覚悟を支え、勇気を与える。
東京に向ったかず子は、西荻窪の小料理屋で、編集者たちと酒盛りをしている上原二郎に逢う。そしてその晩、結ばれる。
上原の子をみごもったかず子は、「おそらくはこれが最後の手紙を、水のような気持」で書く。
「私には、はじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする気持はありませんでした。私のひとすじの恋の冒険の成就だけが問題でした。そうして、私のその思いが完成せられて、もういまでは私の胸のうちは、森の中の沼のように静かでございます。
私は、勝ったと思っています。
マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になるのでございます。
私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足があるのでございます。」
「こいしい人の子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。」
「私生児と、その母。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。」
かず子は、輝く誇りをもって、太陽のように生きていこうとする。しかしかず子の弟の直治は、自殺する。
直治こそは、太宰治の分身である。その夕顔日誌も、またその遺書も、太宰治の内面の独白と考えてよい。
「デカダン? しかし、こうでもしなけりゃ生きておれないんだよ。そんな事を言って、僕を非難する人よりは、死ね! と言ってくれる人のほうがありがたい。さっぱりする。けれども人は、めったに、死ね! とは言わないものだ。ケチくさく、用心深い偽善者どもよ。」
「人間は、嘘をつく時には、必ず、まじめな顔をしているものである。この頃の、指導者たちの、あの、まじめさ。ぷ!」
「結局、自殺するよりほか仕様がないのじゃないか。
このように苦しんでも、ただ、自殺で終るだけなのだ、と思ったら、声を放って泣いてしまった。」
「僕は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。
生きていたい人だけは、生きるがよい。
人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。」
「僕は、僕という草は、この世の空気と陽《ひ》の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。」
「人間は、みな、同じものだ。
なんという卑屈な言葉であろう。人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。」
「僕は、遊んでも少しも楽しくなかった[#「楽しくなかった」に傍点]のです。快楽のイムポテンツなのかも知れません。僕はただ、貴族という自身の影法師から離れたくて、狂い、遊び、荒んでいました。」
「僕の自殺を非難し、あくまでも生き伸びるべきであった、と僕になんの助力も与えず口先だけで、したり顔に批判するひとは、陛下に果物屋《くだものや》をおひらきなさるよう平気でおすすめ出来るほどの大偉人にちがいございませぬ。
姉さん。
僕は、死んだほうがいいんです。僕には、所謂、生活能力が無いんです。お金の事で、人と争う力が無いんです。」
「僕には、希望の地盤が無いんです。さようなら。
結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いんですから。」
直治の遺書を書いた一年後に、太宰治はみずから死を選んだ。
ところで、小説家の上原二郎については、どう考えたらよいのだろうか。かず子の恋の相手であり、生れてくる子の父親なのだから、モデルといえば太宰治自身にちがいないのだが、しかし上原二郎が太宰治のもうひとりの分身とはとても思えない。「蓬髪は昔のままだけれども哀れに赤茶けて薄くなっており、顔は黄色くむくんで、眼のふちが赤くただれて、前歯が抜け落ち、絶えず口をもぐもぐさせて、一匹の老猿が背中を丸くして部屋の片隅に坐っている感じ」の上原が、「何を書いても、ばかばかしくって、そうして、ただもう、悲しくって仕様が無いんだ。いのちの黄昏。芸術の黄昏。人類の黄昏。」などといかにも太宰治が言いそうな言葉を口にしても、その戯画、とも考えにくい。
直治はその遺書のなかで、中年の洋画家に擬しながら、上原を次のようにこきおろしている。
「その洋画家は、僕はいまこそ、感じたままをはっきり言いますが、ただ大酒飲みで遊び好きの、巧妙な商人なのです。遊ぶ金がほしさに、ただ出鱈目にカンヴァスに絵具をぬたくって、流行の勢いに乗り、もったい振って高く売っているのです。あのひとの持っているのは、田舎者の図々しさ、馬鹿な自信、ずるい商才、それだけなんです。」
「つまり、あのひとのデカダン生活は、口では何のかのと苦しそうな事を言っていますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身にも意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。」
「このひとの放埒には苦悩が無い。むしろ、馬鹿遊びを自慢にしている、ほんものの阿呆の快楽児。」
かず子と直治の純粋さと必死さ、その美しさと哀しさを際立たせるための役割を、太宰は上原にになわせたのではあるまいか。よしそこに、当時の太宰治の心情が幾分かは投影されているにしても。
三 炉辺の幸福
二十一年の十月二十四日付の金木から出された伊馬春部宛書簡に「もうしばらく劇は休んで、こんどは短篇小説を二つ三つ書きました。十二月頃から『展望』の百枚くらいの力作小説に取りかかるつもりです。」とある。三鷹に帰ってきた太宰はまず『中央公論』新年号のために、「メリイクリスマス」を書き、ついで、その力作小説にとりかかった。二十二年一月十五日に脱稿され、『展望』三月号に発表された「ヴィヨンの妻」である。
この小説はたいへんな自信作で、たとえば四月三十日付の伊馬春部宛書簡では、「『父』はそんなにほめていただける作品でないんです。『父』を読んで下さったら、ついでに、ぜひ、『ヴィヨンの妻』というのを読んで下さらなくてはいけません。『ヴィヨンの妻』は、『展望』三月号に載っています。『父』と一脈通じたところもありますが、本気に『小説』を書こうとして書いたものです。終戦後、私の小説のうちで一ばん長い小説です。展望はもう出ていますから、何とか入手して読んでみて下さい。」とその自信のほどを披瀝している。
滅びへの予感をその底にひそませながらも、「ヴィヨンの妻」は不思議な明るさを湛えた作品である。特に、大谷の妻、椿屋《つばきや》のさっちゃんの持っている不思議な明るさが、この作品の魅力と言っていいだろう。小料理屋の夫婦から夫についての愚痴をさんざんに聞かされて、「またもや、わけのわからぬ可笑しさがこみ上げて来まして、私は声を挙げて笑ってしまいました。おかみさんも、顔を赤くして少し笑いました。私は笑いがなかなかとまらず、ご亭主に悪いと思いましたが、なんだか奇妙に可笑しくて、いつまでも笑いつづけて涙が出て、夫の詩の中にある『文明の果の大笑い』というのは、こんな気持の事を言っているのかしらと、ふと考えました。」
夫の借金を返すためにその小料理屋で働くことになって、「その翌る日からの私の生活は、今までとはまるで違って、浮々した楽しいものになりました。さっそく電髪屋に行って、髪の手入れも致しましたし、お化粧品も取りそろえまして、着物を縫い直したり、また、おかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思いが、きれいに拭い去られた感じでした。」二日に一度くらいは夫も飲みにきて、一緒にたのしく家路をたどる事もしばしばあり、「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ。」とさっちゃんは言う。
ある雨の夜、泊めてやった店のお客にさっちゃんはけがされる。けがされたことによって受けた心の傷については、なにも書かれていない。
「その日も私は、うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出かけました。
中野のお店の土間では、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひとりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽《ひ》の光が当って、きれいだと思いました。」
夫は新聞に眼をそそぎながら、エピキュリアンのにせ貴族だと自分の悪口が書かれているが、こいつは当っていない。神におびえるエピキュリアンとでも言ったらいいのに。人非人と書いてあるが、それは違う。去年の暮にここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、久し振りにいいお正月をさせたかったからだ、人非人でないから、あんな事も仕出かすのだ、と言う。しかし、
「私は格別うれしくもなく、
『人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。』
と言いました。」
大谷の妻、椿屋のさっちゃんこそは、太宰の所謂「新現実。」のなかから生れ出た、まったく新しいタイプの女性像である。さっちゃんには、大袈裟な身振りも、深刻な表情もない。明日のことを思い煩わず、世間の道徳にもすこしもこだわらず、それこそ羽衣のように軽く、白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽に生きている。さっちゃんこそ、「かるみ」の見事な具象化と言えよう。
いつも恐怖と戦ってばかりいて、生れた時から死ぬ事ばかり考えていて、それでいて、へんな、こわい神様みたいなものに死ぬのを引きとめられている詩人の大谷が、神におびえるエピキュリアンと自分自身を言う大谷が、太宰治の影を曳きずっていることはたしかであろう。しかしこの小説の主人公は、あくまでヴィヨンの妻、椿屋のさっちゃんであり、この小説のよさは、さっちゃんという新しい女性像を創造したところにあると私は思う。
「ヴィヨンの妻」を書いた頃には、太宰治はまだ肉体的にも健康で、身辺のややっこしい事情に煩わされることもなく、一途に作品の芸術的完成に打ち込んでいたのだが、「斜陽」完成後、「おさん」を書いた時期には、太田静子の妊娠もさることながら、山崎富栄との仲がぬきさしならないところまできていたし、また身体もかなり衰弱していた。「ヴィヨンの妻」も「おさん」も、同じく妻の立場から夫婦間のことを書いた独白体の小説であるが、その発想も主題も、また味わいも、ずいぶん違ったものになっている。
「たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。」「おさん」の冒頭の一句であるが、「おさん」の夫は、ほかに愛人がいて、妊娠し、そのため、「いっそ発狂しちゃったら、気が楽だ。」と口に出すほどに深刻に苦しんでいる。妻に対して卑屈になり、おどおどした気弱な笑いをうかべたり、思いあまったような深い溜息をついたりする。恋のために平和な家庭を破壊しなければならない夫のつらさは、よくわかるのだが、「女房のふところには/鬼が棲むか/あああ/蛇《じや》が棲むか」、近松門左衛門の名作「心中天の網島」のおさんではないけれども、妻も、つらいのである。夫が苦しんでいるのを見ると、妻もまた苦しい。
あるとき、ふっと、妻は考える。
(そうなんだ、夫の気持を楽にしてあげたら、私の気持も楽になるんだ。道徳も何もありゃしない、気持が楽になれば、それでいいんだ。)
そして、胸のなかで呟く。
(私は、あなたに、いっそ思われていないほうが、あなたにきらわれ、憎まれていたほうが、かえって気持がさっぱりしてたすかるのです。私の事をそれほど思って下さりながら、他のひとを抱きしめているあなたの姿が、私を地獄につき落してしまうのです。
男のひとは、妻をいつも思っている事が道徳的だと感ちがいしているのではないでしょうか。他にすきなひとが出来ても、おのれの妻を忘れないというのは、いい事だ、良心的だ、男はつねにそのようでなければならない、とでも思い込んでいるのではないでしょうか。そうして、他のひとを愛しはじめると、妻の前で憂鬱な溜息などついて見せて、道徳の煩悶とかをはじめて、おかげで妻のほうも、その夫の陰気くささに感染して、こっちも溜息、もし夫が平気で快活にしていたら、妻だって、地獄の思いをせずにすむのです。ひとを愛するなら、妻を全く忘れて、あっさり無心に愛してやって下さい。)
しかし夫は、諏訪湖で愛人と心中する。恋のために死ぬのではない。自分は、ジャーナリストである。ジャーナリストは、現代の悪魔である。自分はその自己嫌悪に堪えかねて、みずから、革命家の十字架にのぼる決心をしたのである、などという、もったいぶった遺書を妻は受けとる。
「妊娠とか何とか、まあ、たったそれくらいの事で、革命だの何だのと大騒ぎして、そうして、死ぬなんて、私は夫をつくづく、だめな人だと思いました。
革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません。夫はどうしてその女のひとを、もっと公然とたのしく愛して、妻の私までたのしくなるように愛してやる事が出来なかったのでしょう。地獄の思いの恋などは、ご当人の苦しさも格別でしょうが、だいいち、はためいわくです。
気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。自分の妻に対する気持一つ変える事が出来ず、革命の十字架もすさまじいと、三人の子供を連れて、夫の死骸を引取りに諏訪へ行く汽車の中で、悲しみとか怒りとかいう思いよりも、呆れかえった馬鹿馬鹿しさに身悶えしました。」
太田静子の妊娠と山崎富栄との恋愛。それを妻に知られることへの怖れと罪の意識、どう処理していったらいいか分らない煩悶、そして破滅への予感が、あきらかにこの作品の背景にある。現実のなまなましい苦悩が背景になっているだけに、「おさん」には、「ヴィヨンの妻」の持っていた軽やかな味わいはない。へんに重苦しい。太宰流の表現をかりれば、「ヴィヨンの妻」はシャンペン、「おさん」はどぶろくということになるのであろう。
「ヴィヨンの妻」のさっちゃんもそうだが、「おさん」の妻は、太宰治の願望が生んだ理想の女房像と言えよう。いや、それは、すべての男性がひそかに希求している理想の女房像かもしれない。遊女と深い仲になっている亭主紙治の思いを遂げさせてやるため、有金と衣類のすべてをさしだして身請けさせようとする「心中天の網島」のおさんのなかに、近松門左衛門も理想の女房像を見出していたのかもしれない。しかしそれが、身勝手な願望であることを、いちばんよく知っていたのは太宰治だったはずである。
ところで太宰治は、現実の自分自身を、家庭の夫としての父としての自分自身を、見詰めねばならない。
「親が無くても子は育つ、という。私の場合、親が有るから子は育たぬのだ。親が、子供の貯金をさえ使い果している始末なのだ。
炉辺の幸福。どうして私には、それが出来ないのだろう。とても、いたたまらない気がするのである。炉辺が、こわくてならぬのである。」
「父はどこかで、義のために遊んでいる。地獄の思いで遊んでいる。いのちを賭けて遊んでいる。母は観念して、下の子を背負い、上の子の手を引き、古本屋に本を売りに出掛ける。父は母にお金を置いて行かないから。」
「地獄だ、地獄だ、と思いながら、私はいい加減のうけ応えをして酒を飲み、牛鍋をつつき散らし、お雑煮を食べ、こたつにもぐり込んで、寝て、帰ろうとはしないのである。
義。
義とは?
その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子別れの場を演じ、私は意地になって地獄にはまり込まなければならぬ。その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。」
二十二年四月号の『人間』に発表された「父」のなかの章句である。義とは? その解明はもちろん私にもできようはすがないが、「斜陽」六章に引用されている「マタイ伝第十章」の「われ地《ち》に平和《へいわ》を投《とう》ぜんために来《きた》れりと思《おも》うな、平和《へいわ》にあらず、反《かえ》って剣《つるぎ》を投《とう》ぜん為《ため》に来《きた》れり。それ我《わ》が来《きた》れるは、人《ひと》をその父《ちち》より、娘《むすめ》をその母《はは》より、嫁《よめ》をその|姑※[#「女+章」、unicode5ADC]《しゆうとめ》より分《わか》たん為《ため》なり。人《ひと》の仇《あだ》は、その家《いえ》の者《もの》なるべし。我《われ》よりも父《ちち》または母《はは》を愛《あい》する者《もの》は、我《われ》に相応《ふさわ》しからず。我《われ》よりも息子《むすこ》または娘《むすめ》を愛《あい》する者《もの》は、我《われ》に相応《ふさわ》しからず。」そのイエスの言葉と、無縁ではないはずである。
炉辺がこわくてならず、義のために地獄の思いで遊んでいるこの父は、しかし、妻や子を愛し、家庭を大事だとは思っている。
「おれだって、お前に負けず、子供の事は考えている。自分の家庭は大事だと思っている。子供が夜中に、へんな咳一つしても、きっと眼がさめて、たまらない気持になる。もう少し、ましな家に引越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が廻らないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだって、兇暴な魔物ではない。妻子を見殺しにして平然、というような『度胸』を持ってはいないのだ。配給や登録の事だって、知らないのではない、知るひま[#「ひま」に傍点]が無いのだ。」(「桜桃」)
そして、その父、太宰治は、胸のなかで呟く。「子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。」
家庭を大切にしたい、とは思う。「家庭の幸福。誰がそれを望まぬ人があろうか。私は、ふざけて言っているのでは無い。家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。最後の勝利かも知れない。」(「家庭の幸福」)
しかし、「家庭の幸福」の末尾で、太宰治は次のように書く。
「私にこの小説を思いつかせたものは、かの役人のヘラヘラ笑いである。あのヘラヘラ笑いの拠って来る根源は何か。所謂『官僚の悪』の地軸は何か。所謂『官僚的』という気風の風洞は何か。私は、それをたどって行き、家庭のエゴイズム、とでもいうべき陰鬱な観念に突き当り、そうして、とうとう、次のような、おそろしい結論を得たのである。
曰く、家庭の幸福は諸悪の本《もと》。」
「家庭の幸福は諸悪の本《もと》。」――これは、晩年の太宰治が抱懐していた思想であったと言ってよい。「桜桃」「家庭の幸福」を書いたとほぼ同じ時期に、太宰は「如是我聞」第一回の口述をしている。そのなかで、一群の「老大家」の自信の強さにあきれ、彼らのその確信がどこから出ているのかと考え、
「所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが終局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな云い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。」
「わびしさ、それは貴重な心の糧だ。しかし、そのわびしさが、ただ自分の家庭とだけつながっている時には、はたから見て、頗るみにくいものである。」
太宰治の、胸の奥底からの叫びである。
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第十章 死への傾斜
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一 「人間失格」
太宰治は、いつごろから、死への決意を固めつつあったのだろう。
死の前年の八月の十日頃、町なかで偶然逢った林富子に、太宰は、「僕はね、この十月には死ななくちゃならないんだよ」と、呟くように言った。
林富子は帰京後の第一作「メリイクリスマス」で、「私の身の上に敏感」なひとと書き、「唯一のひと」と呼んだ女性である。作品では広島の空襲で死んだことになっているが、これは作り話である。
太宰がそう呟いたと富子から聞いたとき、この人には太宰は嘘を言わないだろうと思い、私は不安になった。
「斜陽」を完成した六月の末頃から酒量が増え、その飲み方も異常に荒っぽく、なにか精神の均衡を崩しているように思えた。からだも衰弱しているように見えた。
八月十九日の夜、私は太宰の家に行き、養生してくれと頼んだ。太宰は無言で私の顔を見詰めていたが、つと顔をそむけた。唇のはしがかすかに歪んだ。いきなり太宰は立ちあがり、すりぬけるような身のこなしで部屋を出て、廊下にたたずんだ。圧し殺しているような、低い泣声を、私は聞いた。
その五日後の八月二十六日から太宰は自宅に引きこもり、胸の病気の療養につとめた。二十九日の夜、私は見舞いに行った。辞去しようとすると太宰は声をひそめて、「帰りにサッちゃんのところに寄ってくれないか。あと十日もすれば起きられるから心配しないようにと言ってくれないか」と言った。太宰は山崎富栄をサッちゃんと呼んでいた。
病状を訊かれて、頬がすこしこけたようだと言うと、富栄は泣きそうな顔をした。
私は富栄に、太宰がこの頃、死にたいなどと言ったことはないかと訊いてみた。富栄は眼を伏せてしばらく黙っていたが、「ええ、たびたび」と声をつまらせた。
それから富栄は、手箱から写真を一枚とり出し、私に見せた。和服姿の、正面を向いた上半身写真だった。そして富栄は、太宰が死んだら、自分は生きているつもりはない、そのとき、この写真を、もし許されたら、太宰のお棺のなかに入れてもらいたい、といくぶん口ごもりながら言った。
その頃、太宰と富栄のあいだでどのような会話が交されていたのかは知らないが、たぶん太宰は、死という言葉をしばしば口にしていたのだろう。
その夜、富栄は、両親に宛てた遺書を認めている。そのなかで、「骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れていただければ本望なのですけれど、それはむしのよい願いだと知っています。」と書いている。この遺書は、長く篋底《きようてい》に秘められていた。翌年六月十三日、ふたりが入水《じゆすい》したとき、その遺書は封筒に入れられて富栄の部屋の小机の上に置かれてあった。
からだの衰弱は、さらに目立ってきた。私が太宰の喀血を見たのは、たぶん十月頃だっただろう。富栄の部屋で、下に新聞紙をしいたバケツを両手でつかみ、背中をまるめ、かなり大量の血を吐いた。私は肝をつぶしたが、度々のことだったのだろう、富栄は表情ひとつ変えず、太宰の背中を静かにさすっていた。
決定版≠ニ銘うった『太宰治全集』を八雲書店から刊行することに決めたのも、十月頃だった。
著名の生存中に『全集』が出ることは今では珍しくなく、それは主として出版社の営業政策によるものだが、完結した全業績を集大成してこそ『全集』と呼べるので、生前の作家が『全集』を出すことは厳密にはあり得ないのである。その当時までの日本の出版界はその厳密さをかなり守ってきており、生前に『全集』を出した作家は数すくない。
まして、まだ四十前の、旺盛な文筆活動を続けている最中の太宰治のような作家が『全集』を出すのは、おかしなことだった。決定版≠ニ銘うつに至っては、尚更である。
今にして思えば、既に太宰は、死への決意を固めつつあったのだろう。しかし当時の私は、漠然と不安を感じながらも、太宰の胸底で強まりつつある決意を、察知することはできなかった。
また、これも今にして思えばであるが、『世界』の二十三年五月号に発表された(執筆は二月)「桜桃」は、さりげない筆致で書かれてはいるが、そのなかに死への予感を読みとることができたはずである。「客とわかれた後、私は疲労によろめき、お金の事、道徳の事、自殺の事を考える。」「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。」これらの章句からも死の匂いが嗅ぎとれるが、それよりも、家庭内の秘事をはじめて文字にしたことに、具体的にいえば、白痴の長男のことをはじめて文字にしたことに、死への傾斜を感じとれたはずである。「父も母も、この長男に就いて、深く話し合うことを避ける。白痴、唖。……それを一言でも口に出して言って、二人で肯定し合うのは、あまりに悲惨だからである。母は時々、この子を固く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込んで死んでしまいたく思う。」
しかし太宰は、「私は家庭に在っては、いつも冗談を言っている。それこそ『心には悩みわずらう』事の多いゆえに、『おもてには快楽《けらく》』をよそわざるを得ない、とでも言おうか。いや、家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気を創る事に努力する。」(「桜桃」)
たしかに太宰は、楽しい雰囲気を作ることに、必死で努力していた。人に接する時はまずまちがいなく酒食を饗応するわけだが、酒席において太宰は、たえず冗談を言い、軽口をたたき、時に流行歌などを口ずさみ、私たちを楽しませてくれた。これも、今にして思えば、「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。」(「右大臣実朝」)だったのであろう。しかし迂愚な私たちは、アカルサの底にあるホロビの姿を見てとることはできなかった。
その明るさの底にひそむ暗鬱を、死を予感させる危うさを、はっきり感じとっていたのは、当時、太宰の周辺にいた者のなかで、筑摩書房社長古田晁ひとりだったのではあるまいか。
古田晁と太宰治とのことについては『回想 太宰治』でかなり詳しく書いたからここでは省くが、井伏鱒二の表現をかりれば、古田と太宰は「莫逆の友」であり、出版者と著者との関係を超えた深い心の触れ合いが二人のあいだにはあった。
「人間失格」は、筑摩書房の雑誌『展望』に連載された。この一作に専念するため「渡り鳥」「家庭の幸福」「桜桃」などの雑誌原稿を二月末までにすべて書き上げ、三月八日に筆を起し、五月十二日に完結したのだが、死への傾斜のなかで、太宰は最後の力をふりしぼってこの作品にとり組み、最後のいのちをここで燃焼させたのである。莫逆の友古田晁への、最後の餞《はなむけ》として。
「人間失格」の主人公大庭葉蔵は、虚構化された太宰治の自画像と言っていいであろう。太宰治は、自分の過去の人生を、もちろん虚構化しながらではあるが、葉蔵の人生と重ね合わせている。また、折に触れて葉蔵の語る言葉は、ほとんどそのまま、太宰治の内面の告白であり、思想の表白であると考えてよい。
「第一の手記」で葉蔵は、人間に対して恐怖と不信感を持ち、また人間の営みが分らない自分を語っている。
「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」
「つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、輾転し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。」
「自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
そこで考え出したのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。」
「人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。」
「互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいう道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに[#「清く明るく朗らかに」に傍点]生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。」
その葉蔵に、心の安らぎを与えてくれたのは、淫売婦であり、非合法運動であり、また夫が詐欺罪で刑務所に入っている銀座の大カフエの女給だった。
「自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然の好意を示されました。何の打算も無い好意、押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意、自分には、その白痴か狂人の淫売婦たちに、マリヤの円光を現実に見た夜もあったのです。」
太宰治は、東京帝国大学の学生だったころ、友人の檀一雄などと連れ立って玉の井遊廓でしばしば遊んでいるが、淫売婦たちにマリヤの円光を見た夜もあったのかもしれない。「ああ、いつもながらこの大川を越す瞬間のときめき。幻燈のまち。(中略)このまちへ一歩踏みこむと肩の重みがすっと抜け、ひとはおのれの一切の姿勢を忘却し、逃げ了せた罪人のように美しく落ちつきはらって一夜をすごす。」(「ダス・ゲマイネ」)
葉蔵の非合法運動への参加が、太宰治自身の体験を踏まえていることは言うまでもない。
「非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
日蔭者、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者[#「生れた時からの日蔭者」に傍点]のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の『優しい心』は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。」
日蔭者意識を持ち、また犯人意識を持っていた葉蔵には、地下運動のグループの雰囲気がへんに安心で居心地がよかったのだが、その当時の太宰治も、あるいは同じような安心感を味わっていたのかもしれない。
銀座の大カフエの女給ツネ子と知り合い、「そのひとに安心しているので、かえってお道化など演じる気持も起らず、自分の地金《じがね》の無口で陰惨なところを隠さず見せて、黙ってお酒を飲み」、「幸福な(こんな大それた言葉を、なんの躊躇も無く、肯定して使用する事は、自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)解放せられた夜」をすごし、鎌倉の海に入水し、女は死に、葉蔵は助かるが、この出来事が、昭和五年の現実の体験をふまえていることは、これも言うまでもない。
起訴猶予になった葉蔵は、父の東京の別荘に出入りしていてたいこ持ちみたいな役目も勤めている、その目つきが似ていることからヒラメと呼ばれている男に身元引受人になってもらい、その家の二階で寝起きすることになるが、ヒラメのなかに葉蔵は、世間の大人《おとな》を見る。
「ヒラメの話し方には、いや、世の中の全部の人の話し方には、このようにややこしく、どこか朦朧として、逃げ腰とでもいったみたいな微妙な複雑さがあり、そのほとんど無益と思われるくらいの厳重な警戒と、無数といっていいくらいの小うるさい駈引きとには、いつも自分は当惑し、どうでもいいやという気分になって、お道化で茶化したり、または無言の首肯で一さいおまかせという、謂わば敗北の態度をとってしまうのでした。」
友人の堀木は、都会人のチャッカリ性を持っているエゴイストである。堀木は葉蔵に言う。「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな。」世間とはいったい何の事かと葉蔵は考え、(世間とは個人じゃないか)という思想めいたものを持つようになり、「世間の難解は、個人の難解、大洋《オーシヤン》は世間でなくて、個人なのだ、と世の中という大海の幻影におびえる事から、多少解放」されるようになるのだが、ヒラメと堀木、このふたりの男によって、世間人の俗物根性、そのケチ臭さ、卑しさ、ずるさを、太宰治は描きたかったのであろう。
大庭葉蔵はその対極にいる人間である。だから葉蔵は、(幸福なんだ、この人たちは。自分という馬鹿者が、この二人のあいだにはいって、いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。つつましい幸福。いい親子。幸福を、ああ、もし神様が、自分のような者の祈りでも聞いてくれるなら、いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、祈る。)と合掌したい気持でシヅ子、シゲ子の親子のもとを去るのである。だから京橋のバアのマダムの目には、「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」と映ったのである。
そしてまた、無垢の信頼心を持っているヨシ子も、その対極にいる人間である。よごれを知らぬヴァジニティの尊さに惹かれ、葉蔵はヨシ子と結婚するが、むし暑い夏の夜、ヨシ子は、ひとを疑う事を知らなかったがために犯される。
神に問う。信頼は罪なりや。
果して、無垢の信頼心は、罪の源泉なりや。
「唯一のたのみの美質にさえ、疑惑を抱き、自分は、もはや何もかも、わけがわからなくなり、おもむくところは、ただアルコールだけになりました。自分の顔の表情は極度にいやしくなり、朝から焼酎を飲み、歯がぼろぼろに欠けて、漫画もほとんど猥画に近いものを画くようになりました。」
葉蔵は喀血し、モルヒネ中毒になり、脳病院に入れられる。
「いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人という刻印を額に打たれる事でしょう。
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」
退院後、葉蔵は東北の温泉地で療養生活を送るが、精神病院を退院した太宰は荻窪のアパートに移る。そして、初代が既に哀しい間違いをしていたことを知る。初代の過失を知った太宰は、それこそ、「まっこうから眉間を割られ」たような気持になったことであろう。ヨシ子が犯されているのを見たときの葉蔵の、もの凄《すさ》まじい恐怖は、初代の過失を知ったときの「窒息しそうになった」太宰の気持と、通じ合うのではあるまいか。
「いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂『人間』の世界に於いて、たった一つ、真理[#「真理」に傍点]らしく思われたのは、それだけでした。
ただ、一さいは過ぎて行きます。」
太宰治もまた、死を前にして、このような思いを胸底に持っていたのだろうか。
二 「如是我聞」と「グッド・バイ」
「如是我聞」は、『新潮』の二十三年三、五、六、七月号に連載された。全文、『新潮』の編集者野平健一への口述によったもので、最後の第四回の口述筆記は六月四日の夜に行なわれた。夕刻の五時すぎに電報を打って野平を呼び、ほとんど徹夜で口述したのである。
連載をはじめるとき、これは俺の遺書のようなものだと、太宰は野平に言った。いかにも冗談めかして言った太宰の言葉を野平は真に受けなかったのだが、その言葉どおり、「如是我聞」は太宰治の絶筆となった。まさしくいのちを賭けて、太宰治はこのエッセイに打ち込んでいたのである。
「私がこの如是我聞という世間的に言って、明らかに愚挙らしい事を書いて発表しているのは、何も『個人』を攻撃するためではなくて、反キリスト的なものへの戦いなのである。
彼らは、キリストと言えば、すぐに軽蔑の笑いに似た苦笑をもらし、なんだ、ヤソか、というような、安堵に似たものを感ずるらしいが、私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。
一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於いても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。
おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。
重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。」
「反キリスト的なものへの戦い」――だから太宰治は、家庭生活の安楽だけを最後の念願としている一群の「老大家」に、家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んで、ボオドレエルの紹介文をしたためる外国文学者に、くってかかる。炉辺の幸福を捨てて、「義」のために、地獄の思いで、いのちを賭けて遊んでいる太宰治の、必死の抗議である。「我よりも父または母を愛する者は、我に相応《ふさわ》しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応《ふさわ》しからず。」キリストの言葉が、太宰の抗議を支える。
「彼らは言うのみにて行わぬなり。また重き荷を括《くく》りて人の肩にのせ、己は指にて之を動かさんともせず。禍害《わざわい》なるかな、偽善なる学者、なんじらは人の前に天国を閉じて、自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。禍害《わざわい》なるかな、偽善なる学者、外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つるなり。」太宰は、外国文学者がバイブルをいい加減にしか読んでいないことを責める。「古来、紅毛人の文学者で、バイブルに苦しめられなかったひとは、一人でもあったろうか。バイブルを主軸として回転している数万の星ではなかったのか。」バイブルをいい加減にしか読んでいないで、外国文学が理解できるはずはない。「君たちは、(覚えておくがよい)ただの語学の教師なのだ。」「所謂『思想家』にさえなれないのだ。啓蒙家? プッ! ヴォルテール、ルソオの受難を知るや。せいぜい親孝行するさ。身を以てボオドレエルの憂鬱を、プルウストのアニュイを浴びて、あらわれるのは少くとも君たちの周囲からではあるまい。」その外国文学者のある人たちが、したり顔して自分の作品をあげつらっているのが、太宰には腹立たしい。許せないのである。「何もわからないくせに、あれこれ尤もらしいことを言うので、つい私もこんなことを書きたくなる。翻訳だけしていりゃあいいんだ。」
「最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。」――太宰は、古いものを古いままに肯定し、権威の上に居据わっている「老大家」、文壇の先輩たちには、まるで苦悩がないではないかと言う。「まるで、あの人たちには、苦悩が無い。私が日本の諸先輩に対して、最も不満に思う点は、苦悩というものについて、全くチンプンカンプンであることである。」
「孤高とか、節操とか、潔癖とか、そういう讃辞を得ている作家」志賀直哉に、太宰はその典型を見る。「あの『立派さ』みたいなものは、つまり、あの人のうぬぼれに過ぎない。腕力の自信に過ぎない。本質的な『不良性』或いは、『道楽者』を私はその人の作品に感じるだけである。高貴性とは、弱いものである。へどもどまごつき、赤面しがちのものである。所詮あの人は、成金に過ぎない。」「この者は人間の弱さを軽蔑している。自分に金のあるのを誇っている。『小僧の神様』という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。」「もう少し弱くなれ。文学者ならば弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るように努力せよ。」「君たちの得たものは、(所謂文壇生活何年か知らぬが、)世間的信頼だけである。志賀直哉を愛読しています、と言えばそれは、おとなしく、よい趣味人の証拠ということになっているらしいが、恥ずかしくないか。その作家の生前に於いて、『良風俗』とマッチする作家とは、どんな種類の作家か知っているだろう。」「君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。」
「私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、『己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ』という難題一つにかかっていると言ってもいいのである。」――「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」この聖句を太宰は、「風の便り」「惜別」「苦悩の年鑑」「十五年間」「冬の花火」「返事」「わが半生を語る」などで引用しており、たとえば「返事」では、「これが私の最初のモットーであり、最後のモットーです。」と言い切っている。
このイエスの言葉は、「マタイ伝第二十二章」にある。「パリサイ人《びと》ら、イエスのサドカイ人《びと》らを黙《もだ》さしめ給いしことを聞きて相集《あいあつま》り、その中《うち》なる一人《ひとり》の教法師《きようほうし》、イエスを試《こころ》むる為に問う『師よ、律法《おきて》のうち孰《いずれ》の誡命《いましめ》か大《おおい》なる』イエス言い給う『なんじ心《こころ》を尽し、精神《せいしん》を尽し、思《おもい》を尽して主《しゆ》なる汝の神を愛すべし』これは大《おおい》にして第一の誡命《いましめ》なり。第二もまた之にひとし『おのれの如くなんじの隣《となり》を愛すべし』律法《おきて》全体《ぜんたい》と預言者《よげんしや》とは此の二つの誡命《いましめ》に拠《よ》るなり」
寺園司氏は「太宰治と聖書」(「国語と国文学」昭和三十九年二月号)という文のなかで、「この第一の誡命をおろそかにして、第二の方に己の力を尽くそうとしたのが太宰であったが、それではイエスの精神に沿わないことになると思う。自分で文字どおりこの第二の誡命を果そうとするなら、誰しも己の力の限界を思い知る外はない。心を尽くして神を愛することにより、人を愛する心が神の恵みとして強められ、行為となってゆくのがキリスト教の隣人愛であろう。」と言っている。たしかに太宰は第一の誡命をおろそかにして、第二の戒命に、限りある身の力をためそうとしたのである。神の恩寵に身をゆだねて救いを求めることをせず、みずからを苛みながら破滅への道を歩んだのである。太宰治は、ついに信仰者ではあり得なかった。この上もなくキリストを愛しながら、しかしキリストとのはげしい格闘の末に、自殺した。
「自分は神にさえ、おびえていました。神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。信仰。それは、ただ神の笞を受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。」(「人間失格」)
「グッド・バイ」もまた太宰治の絶筆といってよい。朝日新聞社から新聞小説連載の依頼があったのは二十三年の三月上旬で、「如是我聞」第一回が『新潮』に発表された直後、「人間失格」執筆の直前に当る。すでに死を決意していたと思われる太宰が、なぜ八十回連載予定の新聞小説を引き受けたのか、その真意は推しはかりかねるが、檀一雄が直感したようなイタズラ心が、あるいは太宰のなかにあったのかもしれない。太宰の死の直後、檀は坂口安吾に言ったそうである。
「『とびこんだ場所が自分のウチの近所だから、今度はほんとに死んだと思った』
檀仙人は神示をたれて、又、曰く、
『またイタズラしましたね。なにかしらイタズラするです。死んだ日が十三日、グッドバイが十三回目、なんとか、なんとかが、十三……』
檀仙人は十三をズラリと並べた。てんで気がついていなかったから、私は呆気にとられた。仙人の眼力である。」(「不良少年とキリスト」)
それはともあれ、五月十五日に稿を起し、十三回まで書いたところで中絶した「グッド・バイ」は、滑稽と諧謔に満ちた、読者の哄笑を誘わずにはおかないユーモア小説である。たとえば、田島がキヌ子をものにしようとし、しかし軽くあしらわれ、窮余の一策、いきなりキヌ子に抱きつこうとし、
「グヮンと、こぶしで頬を殴られ、田島は、ぎゃっという甚だ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然として、
『ゆるしてくれえ。どろぼう!』
とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。」
という件《くだり》などは、思わず抱腹絶倒してしまうではないか。
その筆致は軽快で、その笑いはあくまで明るい。死の直前にこのような軽妙な読物を書いた太宰治の、その強靱な作家魂に、私は舌を捲かざるを得ない。そしてまた、あの右大臣実朝の呟きが、耳にきこえてくる。
「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」
三 その死
「グッド・バイ」の第十三回(「コールド・ウォー 二」)を脱稿してすぐの六月四日夕刻、太宰は野平健一に宛てて、「スグ ジタクヘオイデコウ ダザイ」という電報を打った。
その日、野平が帰宅したのは夜の九時をまわっていた。電報で呼び寄せられるなど、それまでにないことだった。なにか、変事でも起ったのか? 不安が突き上げてきて、野平はすぐに家を飛び出した。三鷹駅からの夜道を走るようにして、息を切らしながら太宰の家の玄関をあけると、待ちかねていたような気配を全身に見せて太宰が姿を現わした。
「いますぐ、やりたいんだ。たのむ」
志賀直哉をはげしく弾劾した「如是我聞」第四章は、その晩、仕事部屋に使っていた小料理屋「千草」の二階の六畳間で、夜を徹して口述筆記された。
胸のなかに鬱積しているものをいっきに叩きつけねばおさまらぬような、切迫した激しさが語気にあった。ときどき肩で息をしながら、しかし太宰はほとんど言葉を途切らせなかった。
窓が白みはじめた頃、口述筆記は終った。
その日以後、遺書を除いては、太宰は一行の文章も書いていない。だから「如是我聞」第四章は、太宰治の絶筆ということになる。
一日おいて七日、野平は原稿料を届けに山崎富栄の部屋に行った。八雲書店の『太宰治全集』担当者亀島貞夫が、印税の一部を届けにきていた。
太宰は二人を連れて三鷹の街を飲み歩いた。太宰は、なにかはしゃいでいるように見えた。行き合った顔見知りの女性にしきりに冗談を言い、つと洋品店に入って装身具を買ってやり、ふざけながら頸をしめ、口説く真似をしたりした。
太宰は野平と亀島を三鷹駅まで送ってくれた。
それが二人の見た最後の太宰だったが、その日以後、太宰に逢った出版関係者や友人知己は、ひとりもいない。
だが、太宰が逢いたがり、訪ねていった男が、ひとりいる。筑摩書房社長古田晁である。
六月の八日か九日頃のことと思うが、古田は井伏鱒二を訪ね、今のままだと太宰さんは駄目になってしまう、肉体的にも駄目になってしまう、今が瀬戸際のような気がする、自分が太宰さんを説き伏せるから、一緒に御坂峠の茶店に行ってもらえまいか、米や肉や野菜は自分が郷里の信州からリュックサックに背負って御坂峠にもって行く、月に三回はもって行く、だから、すくなくとも一か月以上一緒に暮してもらえまいかと頼んだ。
食料調達のため、古田は信州に行った。
その時期、妻子を郷里の信州に疎開させた古田は、妻の姉の嫁ぎ先である大宮市宮町の宇治病院に寄寓していたのだが、六月十二日の昼をすこし過ぎた頃、院長の娘の、古田には姪に当る節子は、奥の離れの縁先で縫物をしていた。人の気配に目をあげると、庭先づたいに、いくぶん前こごみで歩いてくる太宰の姿が目に入った。グレイのズボンに白いワイシャツで、たしか下駄履きだったと節子の記憶に残っている。とすれば、太宰が玉川上水に入水したときと同じ服装である。
「人間失格」の「第三の手記」の後半と「あとがき」は、四月末から五月中旬にかけて、大宮市大門町の小野沢清澄の家で書かれた。大宮駅前の繁華街で天ぷら屋をやっていた小野沢は、古田とは同じ信州人でもあり、親しい仲だった。古田は小野沢にたのんで、町はずれの閑静な環境にあるその住居の奥の八畳と三畳を太宰のために借りたのである。
太宰は毎日、栄養剤の注射をしてもらいに宇治病院に通ってきていたし、それに節子は二、三度、下着を届けに小野沢家に行っている。太宰も古田も同じ背格好の長身であり、古田の下着が太宰のからだに合ったのである。顔見知りの節子と目が合うと、太宰は、
「古田さん、いる?」
「いま、信州に行っております。あしたあたり、帰ってくるはずなのですけど」
太宰は落胆の色を見せ、うつむいてしばらくたたずんでいた。
「よろしかったら、おあがりになって、お茶でも……」
太宰は視線を宙に迷わせていたが、
「いや、帰ります。古田さんに、くれぐれもよろしく」
立ち去って行く太宰のうしろ姿がひどくさびしげだったと、節子は回想している。
そのとき、太宰は富栄を同伴していない。衰弱し切ったからだで、単身、混み合った電車を乗り継ぎ、遠く大宮まで行ったのである。すでに太宰の胸底には、翌十三日の自殺の決意が固まっていたのだろうか。最も深く心を許していた親友古田晁に、それとなく最後の暇乞いに行ったのだろうか。それともあるいは、身の振り方について、相談したい気持があったのだろうか。
古田が大宮に帰ってきたのは、十四日の午後である。その日の夕刻、太宰が富栄と共に失踪したという知らせが入った。失踪という知らせだったが、古田は即座に太宰の死を直感したにちがいない。
「会えていたら、太宰さんは、死なんかったかもしれん」
沈痛な面持ちで節子に言ったという。
太宰と富栄が、それまでいた「千草」の二階から富栄の部屋に移ったのは、十三日の午後四時頃である。身辺の整理をし、遺書を認めるためである。
夜になってから、小さな瓶にウイスキーをわけてもらいに、富栄が三度か四度、「千草」に来たという。ボトルをもってゆけば、カラになるまで呷り飲んで泥酔する。太宰はそれを恐れたのだろう。
富栄が最後に姿を見せたのは十一時頃である。だから、太宰と富栄が入水したのが十三日の十一時過ぎであることはまちがいないのだが、十二時をまわって十四日に入っていたかどうかは定かでない。
入水した場所は、富栄が下宿していた家から歩いてほんの五分ほどのところである。
土手のその部分が、流れに向ってある幅で雑草が薙ぎ倒され、その両側にえぐったような跡があった。なにか重いものがそこをずり落ちていった形跡だった。
その近くの土手の上に、ビールの小瓶のような感じの茶色の瓶と、小さい青色の瓶と、ガラスの小皿が残されていた。入水する直前に、富栄が持っていた青酸カリを嚥んだのだろう。
富栄の部屋は、きちんと整理されていた。
本箱代りに使っていた竹行李の上に太宰と富栄の写真が並べて飾られてあり、その前に、水をいれた小さな茶碗と、燃えつきた線香の灰のつもっている皿が置かれてあった。
畳の上には、富栄が「千草」のおかみから借りていた縞柄の着物がきちんとたたんであり、その上に「千草」の夫婦宛の二人の連名の遺書が置かれていた。また、人からの預りものらしい原稿や本の類が、区分けされて紐でゆわえられ、宛名が書いてあった。
隅の小机の上には、美知子夫人宛の太宰の遺書、前年の八月二十九日に書かれた両親宛の富栄の遺書、「グッド・バイ」十回分の校正刷と十一回から十三回までの原稿、伊馬春部に宛てた色紙、それに数冊のノートが重ねてあった。色紙には「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」伊藤左千夫の歌が書かれてあった。ノートの上には紙が置かれ、「伊豆のおかたにお返し下さい」と伊馬春部宛に富栄の筆蹟で書かれていた。「斜陽」のために借りた太田静子の日記である。静子に会って日記を返す機会を、太宰はついに持てなかったのだろう。
また、三人の子供への小ぶりな蟹の玩具が、美知子夫人宛の遺書の横に、ひっそりと置かれてあった。大宮に古田を訪ねた帰りにでも、買い求めたのだろうか。
玉川上水は土地の人から人喰川と呼ばれていた。川のなかが両側に大きくえぐられていて、死体はそのなかに引き込まれる。おまけに水底には大木の切株などがごろごろしていて、それに引っかかる。絶対に揚がってこないと言われていた。たぶん太宰はそれを信じ込んでいたのだろう。そして、水底で静かに眠りながら、白骨になることを望んでいたのだろう。
遺体が発見されたのは、六月十九日の早朝である。入水した場所から二キロほど下流の杭にひっかかり、浮き揚がったのである。
二人の遺体は、腰のところで、赤い紐でしっかりと結ばれていた。
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略年譜
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明治四十二年[#「明治四十二年」はゴシック体](一九〇九) 一歳
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六月十九日、青森県北津軽郡|金木《かなぎ》村大字金木字朝日山四百十四番地に生まる。戸籍名、津島修治。父は源右衛門(三十九歳。西津軽郡|木造《きづくり》村の薬種問屋松木家の出。)母はタネ(三十七歳。先代惣助の長男惣五郎の長女。)修治はその第十子六男で、長男総一郎、次男勤三郎は夭逝し、兄姉には、タマ(二十一歳)、トシ(十六歳)、文治(十二歳)、英治(九歳)、圭治(七歳)、あい(六歳)、きやう(四歳)がいた。そのほか、曾祖母サヨ、祖母イシ、叔母キヱ(タネの妹)、キヱの四人の娘など、計十七人の大家族であった。津島家は二百五十町歩の田畑をもつ県内屈指の素封家で、当主源右衛門は明治三十四年に県会議員になっている。生母タネが病弱であったため、生まれてまもなく乳母につけられた。乳母が再婚のため一年たらずで去ったのちは、叔母キヱに育てられた。三歳のとき、津島家の小作人の娘近村たけ(十四歳)が女中として住み込んだが、修治の子守りを主な仕事とした。
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明治四十五・大正元年[#「明治四十五・大正元年」はゴシック体](一九一二) 四歳
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?一月、長姉タマ逝去。五月、父源右衛門が、第十一回衆議院議員総選挙に立憲政友会から立候補して当選した。この頃から「|∧源《ヤマゲン》」の屋号、および、鶴丸の定紋を使用するようになったという。七月、弟礼治誕生。秋頃、東京府下東大久保に一家を構え、父母は東京ですごすことが多くなった。
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大正五年[#「大正五年」はゴシック体](一九一六) 八歳
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一月、叔母キヱの一家が北津軽郡五所川原町に分家した。四月、金木第一尋常小学校に入学。たけは、翌大正六年、キヱの家の女中となって金木を去り、翌々七年、北津軽郡|小泊《こどまり》村の越野|正代《まさしろ》に嫁いだ。
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大正十一年[#「大正十一年」はゴシック体](一九二二) 十四歳
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三月、小学校を卒業。四月、学力補充のため、金木町(大正九年町制施行)郊外の明治高等小学校に入学し、一年間通学した。十二月、父源右衛門が青森県多額納税議員として貴族院議員となる。
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大正十二年[#「大正十二年」はゴシック体](一九二三) 十五歳
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三月四日、父源右衛門が東京市神田区小川町の佐野病院にて逝去。享年五十三。三月下旬、遠縁にあたる青森市寺町の呉服店豊田太左衛門方に止宿。四月、青森県立青森中学校に入学、豊田方から通学した。第一学年の第二学期からは級長に任ぜられ、以後在学中級長をつとめた。
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大正十四年[#「大正十四年」はゴシック体](一九二五) 十七歳
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三月、青森中学校『校友会誌』に「最後の太閤」を発表。この頃から、作家になることを熱望しはじめた。四月、弟礼治が青森中学校に進学し、豊田家に止宿。八月、阿部合成ら四、五人の級友と『星座』を創刊し、戯曲「虚勢」を発表。しかし『星座』は一号だけで廃刊となった。その頃、「思い出」の「みよ」のモデル宮越トキ(十四歳)が、行儀見習を兼ね、長兄夫妻の小間使として津島家に住み込んだ。十一月、弟礼治、級友中村貞次郎など十人を同人として『蜃気楼』を創刊、積極的に編輯の任に当り、同誌に、「温泉」「犠牲」「地図」「負けぎらいト敗北ト」「針医の圭樹」「将軍」「哄笑に至る」などの小説、「侏儒楽」などのエッセイを、翌十五年にかけて次々と発表した。
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大正十五年・昭和元年[#「大正十五年・昭和元年」はゴシック体](一九二六) 十八歳
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九月、当時上野の東京美術学校彫塑科に在学していた三兄圭治の提唱で、圭治、修治の兄弟が中心になって『青んぼ』を創刊、「口紅」「埋め合せ」などの小説、エッセイを発表した。
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昭和二年[#「昭和二年」はゴシック体](一九二七) 十九歳
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「(掌劇)名君」を『蜃気楼』一月号に発表。『蜃気楼』は、この通巻第十二号をもって、高等学校受験準備のために休刊し、そのまま廃刊となった。三月七日、青森中学校第四学年を、在籍百六十二名、及第百四十八名中第四席の成績で終了。四月、弘前高等学校文科甲類に入学。新入生は一応寮生活をする規則になっていたが入寮せず、遠縁にあたる弘前市冨田新町の藤田豊三郎方に止宿し、そこから通学した。夏休みのため金木に帰省中の七月二十四日未明、芥川龍之介、自殺。はげしい衝撃を受けたものと思われる。その直後、弘前に帰り、下宿の二階に閉じ籠りつづけたという。八月上旬、芸妓あがりの竹本|咲栄《しようえい》という女師匠のもとに通い、義太夫をならいはじめた。また一方服装にも凝りはじめ、やがて青森市に足をはこんで、花柳界に出入りするようになった。九月、長兄文治が三十歳の若さで県会議員選挙に政友会から立候補し、当選。
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昭和三年[#「昭和三年」はゴシック体](一九二八) 二十歳
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三月十五日、日本共産党の全国的大検挙が行なわれた。所謂三・一五事件である。五月、個人編輯の同人雑誌『細胞文芸』を創刊し、創刊号に「長篇小説 無間奈落《むげんならく》」の「序編 父の妾宅」を辻島衆二の署名で発表。六月、第二号に「無間奈落」の第一章を掲載、しかしこの小説は第二回をもって中絶、未完におわった。同誌に、七月、「股をくぐる」、九月、「彼等とそのいとしき母」を発表。『細胞文芸』はこの第一巻第四号をもって廃刊となった。十二月、上田重彦(石上玄一郎)を委員長とする弘前高等学校新聞雑誌部委員に任命され、『弘前高校校友会誌』第十三号に「此の夫婦」を本名で発表。この年の初秋、足繁く通っていた青森市浜町の小料理屋「おもたか」で近くの置屋「玉家《たまや》」お抱えの、半玉から芸者になったばかりの紅子《べにこ》(本名|小山《おやま》初代、十七歳)と識り合い、次第に親しい仲になっていった。
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昭和四年[#「昭和四年」はゴシック体](一九二九) 二十一歳
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一月五日、青森中学校在学中の弟礼治が敗血症のため突然逝去した。享年十八。二月、弘前高校校長鈴木信太郎の公金(校友会費・同窓会費・十和田湖畔弘高会館建設費・職員積立金等約一万五千円)無断流用が発覚、新聞雑誌部は委員長上田重彦を中心に煽動にかかり、十九日から二十三日までの五日間、同盟休校を行ない、校長排斥に成功した。この事件を素材にした「学生群」の初稿は、この年の春休みに執筆されたものと思われる。十二月十日深夜、多量のカルモチンを下宿で嚥下して昏睡状態に陥った。津島家からは次兄英治が急行、到着した十一日の午後四時頃から次第に意識をとりもどしたという。四、五日後、母タネに伴われて大鰐温泉に行き、冬休み最後の日まで静養す。この年の発表作品は、「鈴打《りんうち》」(二月、『弘高新聞』)、「哀蚊《あわれが》」(五月、『弘高新聞』)、「虎徹宵話」(八月、青森の文芸同人誌『猟騎兵』)、「花火」(九月、『弘高新聞』)、「改稿 虎徹宵話」(十二月、『弘前高校校友会誌』)などである。
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昭和五年[#「昭和五年」はゴシック体](一九三〇) 二十二歳
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青森県下の主な文芸同人誌を糾合した統一文芸誌『座標』が一月一日創刊され、「長篇地主一代(第一回)」として、「序章花火供養」を大熊藤太の署名で創刊号に発表。「地主一代」はその後、『座標』の三月号、五月号に連載されたが、そこで中絶、未完におわった。その間の三月、弘前高校を卒業。四月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科に入学。三兄圭治の住居に近い、府下戸塚町の学生下宿常盤館に下宿。まもなくの五月上旬、青森中学校、弘前高校双方の先輩である工藤永蔵の訪問を受けた。日本共産党再建のため活動中であった工藤は、シンパサイザアとして参加するよう勧誘、その後しばしば勧誘に訪れた。直接運動に携わらないこと、津島家の一族には内密にすることの二つを条件に、毎月十円の資金援助を承諾、非合法運動に関係しはじめた。五月中旬、井伏鱒二に神田須田町の作品社事務室で会い、以後永く師事した。六月二十一日、三兄圭治が結核性膀胱カタルで逝去。享年二十八。「長篇学生群」を『座標』の七、八、九、十一月号に発表したが、中絶、未完におわった。十月一日、小山初代が出奔、上京。本所区東駒形の大工の棟梁の家の二階の一室を借りて匿った。上京した長兄文治と十一月九日、常盤館で会談し、生家からの分家除籍を条件とし文治は初代との結婚を承諾、初代落籍のため、彼女を同伴して帰郷した。十一月二十四日、豊田太左衛門を名代として、小山家と結納を交したが、その四日後の二十八日夜半、神奈川県腰越町|小動崎《こゆるぎがさき》の畳岩の上で、銀座のバア・ホリウッドの女給田辺あつみとカルモチンによる心中をはかった。あつみは絶命し、ひとり七里が浜恵風園療養所に収容さる。十二月上旬の恢復後、自殺幇助罪容疑で警察の引致取調べを受けたが、起訴猶予となった。ひとまず、品川区下大崎の北芳四郎宅に身を寄せ、その後次兄英治に伴われて、南津軽郡の碇《いかり》が関温泉に身を避け、同地にて、母タネ、豊田太左衛門の立合いで、小山初代(十九歳)と仮祝言をあげた。
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昭和六年[#「昭和六年」はゴシック体](一九三一) 二十三歳
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一月二十七日、上京中の長兄に呼び出されて会談。前年十一月九日に取り交した仮証文を破棄し、新たに本格的な証文が「覚」として取り交され、両者署名捺印した。二月、中畑慶吉に伴われて小山初代が上京。神田区岩本町のアパートに住んだのち、品川区五反田の新築早々の二階建ての一軒家に移る。家にいる時は小説を書き、何篇か書きあげると、機を見て井伏鱒二を訪れた。また、この年から翌昭和七年にかけて「朱麟」と号して俳諧に凝っていた。六月下旬、工藤永蔵の「安全を保つため」というすすめによって神田同朋町に移転。九月十三日、工藤永蔵検挙さる。九月十八日、満洲事変勃発。十月下旬から十一月上旬の頃、西神田署に出頭を命じられ、一晩留置され取調べを受けた。十一月、神田和泉町に移転。
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昭和七年[#「昭和七年」はゴシック体](一九三二) 二十四歳
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三月、淀橋区柏木に移転。五月十五日、五・一五事件発生。六月下旬、京橋八丁堀に移転、北海道生れの落合一雄と偽名して部屋を借りたという。七月中旬、極秘裡に青森の豊田家に赴き、母タネ、長兄文治と会談。翌日、文治に伴われて青森警察署に出頭、留置されたまま取調べを受け、共産党活動との絶縁を誓約して帰京した。七月三十一日、静岡県静浦の坂部啓次郎方に赴き、約一か月滞在、「思い出」の稿を起した。九月、芝区白金三光町の、大鳥圭介の旧邸に離れの二室を借りて移り住み、「思い出」を書きつづけた。当時「東京日日新聞」社会部記者をしていた飛島定城(三兄圭治の友人、弘前高校の先輩)の一家が同居す。十一月頃、「魚服記」初稿を脱稿。十一月から十二月の頃、吉沢祐(初代の叔父)、小館善四郎(四姉きやうの義弟)らと絵入り限定番号入りの雑誌の発行を企画、黒虫俊平の筆名で「ねこ」と題する小品を書いたが、雑誌は発刊されずにおわり、「ねこ」は後、加筆して「葉」に挿入された。十二月下旬、青森検事局から出頭を命じられ、左翼運動との絶縁を誓約し、以後、左翼運動から完全に離脱した。
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昭和八年[#「昭和八年」はゴシック体](一九三三) 二十五歳
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一月、「花」と題する十六枚の短篇を脱稿。これは後、改稿されて「葉」に挿入された。古谷綱武、木山捷平、今官一、大鹿卓らが発刊を企図していた同人雑誌『海豹』に同人として参加。二月、飛島家と共に、杉並区天沼三丁目に移転。井伏鱒二宅が近くなってしばしば訪問、伊馬鵜平、中村地平、小山祐士、北村謙次郎らと識り合うようになった。二月十五日、『海豹通信』第四便の「故郷の話V」欄に、「田舎者」を発表。はじめて太宰治の筆名を使用し、爾後、終生この筆名で通した。二月十九日、『東奥日報』の日曜特輯版附録『サンデー東奥』に「列車」を発表。三月、『海豹』創刊号に「魚服記」を掲載し、識者の注目を受けた。次いで、同誌四、六、七月号に「思い出」を発表。七月頃、「魚服記」と「思い出」とを切り取って、手製の薄っぺらな本を三、四冊作ったが、その一冊を古谷綱武にすすめられて檀一雄が読み、心惹かれ、急速に親昵していった。この間の五月、飛島家と共に天沼一丁目に移転。二階二間に津島夫妻が、階下三間に飛島家家族が住んだ。七月末から八月上旬までの頃に『海豹』同人を脱退。この年の秋頃から、今官一、中村地平、伊馬鵜平、久保隆一郎、北村謙次郎らと「二十日会」と名付ける会合を持ち、自作を読み合い、文芸を論じ合ったが、この会が後に同人雑誌『青い花』に発展した。
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昭和九年[#「昭和九年」はゴシック体](一九三四) 二十六歳
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四月、檀一雄、古谷綱武が中心になって編輯する季刊文芸誌『鷭《ばん》』が発刊され、その第一輯に「葉」を、七月、第二輯に「猿面冠者」を発表。八月、静岡県三島の坂部武郎方に行き、その二階に約一か月滞在して「ロマネスク」を執筆。十月、尾崎一雄、中谷孝雄、外村繁らの同人雑誌『世紀』に「彼は昔の彼ならず」を発表。十一月、「めくら草紙」を除く『晩年』の十四篇が完成された。十二月、太宰治、山岸外史、檀一雄、今官一、木山捷平、伊馬鵜平、久保隆一郎、北村謙次郎、津村信夫、中原中也、森敦、斧稜(小野正文)らを同人とする文芸同人誌『青い花』創刊号が発行され、その巻頭に「ロマネスク」を発表した。『青い花』は創刊号だけで休刊となり、翌十年五月、保田與重郎、亀井勝一郎、神保光太郎、中谷孝雄らの『日本浪曼派』にその第三号から合流した。
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昭和十年[#「昭和十年」はゴシック体](一九三五) 二十七歳
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「逆行」のうちの「蝶蝶」「決闘」「くろんぼ」の三篇を『文藝』二月号に発表。これが同人雑誌以外に作品を発表した最初であった。三月、都新聞社の入社試験を受けたが失敗、十五日朝、書置きのようなものを残し、家郷からの仕送り九十円を日本橋の銀行に取りに行ったまま家を出、小館善四郎を誘って銀座、歌舞伎座、浅草、横浜本牧に遊び、十六日朝横浜駅で善四郎と別れて単身鎌倉に行き、深田久弥宅を訪問、その夜、鶴岡八幡宮の裏山で縊死をはかったが、未遂におわった。四月四日、急性盲腸炎を起し、阿佐ヶ谷の篠原病院に入院。入院中、患部の苦痛鎮静のためにパビナールを使用し、その後、中毒に苦しむ。五月一日、肺結核の治療のためもあって世田谷区経堂町の経堂病院に移り、七月一日、千葉県船橋町五日市本宿に転居す。その間、「道化の華」を『日本浪曼派』五月号に、「玩具」「雀こ」を『作品』七月号に発表。八月十日、第一回芥川賞の銓衡が行なわれ、「逆行」が候補作となったが、石川達三の「蒼氓」が受賞した。二十一日、山岸外史に伴われて佐藤春夫を訪問、以後師事す。八月下旬、小館善四郎の友人のクリスチャン鰭崎《ひれざき》潤が船橋を訪れ、その後鰭崎は、毎月、無教会的聖書研究誌『聖書知識』(塚本虎二主宰)を持参し、長時間キリスト教について話し合うようになった。「猿ヶ島」を『文學界』九月号に、「ダス・ゲマイネ」を『文藝春秋』十月号に発表。その原稿料で九月二十六日、山岸外史、檀一雄、小館善四郎と湯河原に遊ぶ。九月三十日付で、授業料未納の廉により東京帝国大学を除籍された。十月七日、「逆行」の一篇である「盗賊」を『東京帝国大学新聞』に発表。二十七日頃、「めくら草紙」を小館善四郎に口述筆記させて脱稿。十一月、檀一雄の尽力により、浅見淵が編輯を担当していた砂子屋書房からの『晩年』の刊行が決定された。「地球図」を『新潮』十二月号に発表。十二月十九日から二十二日まで、甥の津島逸朗と共に「碧眼托鉢」の旅に出、湯河原、箱根に遊ぶ。なおこの年、『日本浪曼派』八、十、十一、十二月号、および十二月十四、十五日付『東京日日新聞』に「もの思う葦(その一)」を発表す。
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昭和十一年[#「昭和十一年」はゴシック体](一九三六) 二十八歳
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「めくら草子」を『新潮』一月号に、「もの思う葦(その二)」を『作品』『文芸通信』『文芸汎論』『文芸雑誌』各一月号に、「碧眼托鉢」を『日本浪曼派』一―三月号に発表。佐藤春夫のすすめにより、実弟佐藤秋雄の勤める芝区赤羽町の済生会芝病院にパビナール中毒治療のため二月十日入院、全治せぬまま、二十日、退院。翌二十一日より「狂言の神」の執筆を開始す。二月二十六日、二・二六事件発生。「陰火」を『文芸雑誌』四月号に、「雌に就いて」を『若草』五月号に発表。五月十日、「狂言の神」四十二枚を脱稿。ひきつづき、「虚構の塔」の仮題で七十枚くらいの予定の小説を執筆しはじめ、十六、七日頃、『文學界』の編輯を担当していた河上徹太郎に同誌への掲載を依頼、その後昼夜完成に努めて、五月末頃、「虚構の春」百五十枚を脱稿す。六月二十二日、出来上ったばかりの『晩年』を持参して佐藤春夫を訪問、「道化の華」「狂言の神」「虚構の春」三部作に「虚構の彷徨」の命名をしてもらった。六月二十五日付で『晩年』が砂子屋書房から刊行され、七月十一日午後五時から上野精養軒において出版記念会が行なわれた。「虚構の春」を『文学界』七月号に発表。七月下旬、「狂言の神」事件=B八月七日、パビナール中毒と肺病を癒そうとして、単身群馬県谷川温泉に赴き、素人下宿川久保屋に滞在。同地にて、第三回芥川賞に落ちたことを知り、強い衝撃を受けた。その衝撃のなかで、すでに新潮社に届けてあった「創生記」に付加するため「山上通信」を執筆し、『新潮』に送付。八月末、下山。九月中旬、十一月末から満二か年の予定で、正木不如丘経営の信州富士見高原療養所でのサナトリウム生活を計画す。九月十七日、「二十世紀旗手」約六十枚を脱稿。「創生記」を『新潮』、「喝采」を『若草』、「狂言の神」を『東陽』各十月号に発表。十月十三日、井伏鱒二、北芳四郎、中畑慶吉のすすめにより、板橋区江古田の精神医学研究所附属東京武蔵野病院に入院、パビナール中毒を完治し、十一月十二日退院。病院から杉並区天沼の照山荘アパートに移ったが、そのアパートが気に入らず、同じ天沼の碧雲荘に十五日に移った。その夜から「HUMAN LOST」の執筆にかかり、二十四日、脱稿。翌二十五日、熱海温泉に赴き、馬場下の八百松に滞在し、「二十世紀旗手」の改稿に着手して二十九日、三十九枚を脱稿。十二月下旬、檀一雄の所謂熱海事件=Bこの年、「人物に就いて」「古典竜頭蛇尾」「悶悶日記」「走ラヌ名馬」などのエッセイを発表す。
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昭和十二年[#「昭和十二年」はゴシック体](一九三七) 二十九歳
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「二十世紀旗手」を『改造』一月号に、「あさましきもの」を『若草』三月号に発表。三月上旬、入院中の初代の過失を知り、窒息しそうなほどの衝撃を受けた。三月下旬、初1代と共に水上村谷川温泉に行き、カルモチンによる心中自殺をはかったが未遂におわる。帰京後、初代は井伏家に身を寄せ、別居生活に入った。「HUMAN LOST」を『新潮』四月号に発表。五月、井伏鱒二、浅見淵、川崎長太郎、秋沢三郎らと三宅島に行き、一週間滞在。六月一日、『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』を「新選純文学叢書」の一冊として新潮社から刊行。六月上旬から中旬にかけての頃、吉沢祐を仲にして初代との離別が決定した。六月二十一日、天沼一丁目の鎌滝方に単身移転、二階の四畳半で下宿独居生活をはじめた。七月一日、久留米独立山砲第三連隊に入隊する檀一雄を東京駅に見送る。七月七日、蘆溝橋事件勃発。七月中旬、初代は故郷の青森に帰ったが、やがて北海道に渡り、さらに中国に渡って転々とし、十九年七月二十三日、不遇のうちに青島《チンタオ》で病歿した。享年三十三。七月二十日、『二十世紀旗手』(収録―「雌に就いて」「二十世紀旗手」「喝采」)を版画荘から刊行。九月頃、「サタンの愛」と題する二十五枚の短篇を脱稿、『新潮』に送付したが、内務省の事前検閲に引っ掛って掲載とりやめとなった。十月、甥の津島逸朗自殺す。「燈籠」を『若草』十月号に発表。この年、「音に就いて」「檀君の近業に就いて」「思案の敗北」「創作余談」などのエッセイを発表す。
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昭和十三年[#「昭和十三年」はゴシック体](一九三八) 三十歳
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四月一日、国家総動員法が公布された。「満願」を『文筆』九月号に発表。九月十三日、井伏鱒二のすすめにより鎌滝方を引き払い、井伏の滞在していた山梨県河口村御坂峠の天下茶屋に行き、以後六十余日、この山中の一軒家の二階の端の部屋に滞在して中篇「火の鳥」を書き進めた。それ以前の七月上旬頃から甲府市の斎藤文二郎夫人の紹介で井伏鱒二を通して結婚話があり、九月十八日、井伏、斎藤夫人の付添で甲府市水門町の石原家を訪問、話の相手の石原美知子(理学士石原初太郎四女、二十七歳、東京女高師文科卒、当時県立都留高女在職)と見合いをした。『新潮』十月号に「姥捨」を発表。十月二十四日、井伏鱒二宛、誓約書を送付。十一月六日、石原家で婚約披露を行なう。十六日、御坂峠を下りて、甲府市|西竪《にしたつ》町の寿館に止宿す。十二月中旬、「火の鳥」は、ついに百三枚で未完のまま停頓した。十二月二十日過ぎ、「富嶽百景」の前半部を脱稿。この年、「一日の労苦」「多頭蛇哲学」「答案落第」「富士に就いて」「九月十月十一月」などのエッセイを発表す。
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昭和十四年[#「昭和十四年」はゴシック体](一九三九) 三十一歳
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一月六日、甲府市御崎町の新居に移転した。一月八日午後、杉並区清水町の井伏家で、井伏鱒二夫妻の媒酌、山田貞一夫妻(美知子の姉夫妻、石原家名代)、斎藤文二郎夫人、中畑慶吉(津島家名代)、北芳四郎が同席、計九人で、結婚式を挙げた。その夜遅く、美知子を連れて甲府に帰り、新居に落着いた。この年の正月、『国民新聞』が短篇小説コンクールを催した。結婚後の新居でまず執筆されたのは、この「短篇小説コンクール」参加作品の「黄金風景」で、一月中旬頃脱稿したと推定される。ついで「続、富嶽百景」の口述筆記に着手し、一月二十三日脱稿。一月末頃上京し、未知の愛読者有明淑子から送られてきていた日記を持ち帰り、これによって、二月、「女生徒」八十枚を執筆脱稿。『若草』二月号に「I can speak」を、『文体』二、三月号に「富嶽百景」を発表。この頃、書下し創作集『愛と美について』に収録を予定していた百枚の原稿が紛失する事件があった。またこの頃、出征して中国山西省にいた田中英光の「鍋鶴」を『若草』編集部に紹介、発表の労をとった。三月二日、三日、『国民新聞』に「黄金風景」を発表したが、この小説は四月、上林暁の「寒鮒」と共に当選し、賞金百円を上林と等分した。「女生徒」を『文學界』、「懶惰の歌留多」を『文藝』各四月号に発表。五月二十日、書下し短篇集『愛と美について』(収録―「秋風記」「新樹の言葉」「花燭」「愛と美について」「火の鳥」)を竹村書房から刊行。また、この月の八十八夜の頃、美知子と共に信州に旅し、上諏訪、蓼科に遊んだ。「葉桜と魔笛」を『若草』六月号に発表。六月二日、貸家を捜すために上京す。また六月、「短篇小説コンクール」の賞金を持って、美知子、美知子の母、妹と共に三保、修善寺、三島などに遊んだ。七月十五日、再び家捜しのために上京、三鷹に新築中の借家を契約。七月二十日、短篇集『女生徒』(収録―「満願」「女生徒」「I can speak」「富嶽百景」「懶惰の歌留多」「姥捨」「黄金風景」)を砂子屋書房から刊行。「八十八夜」を『新潮』八月号に発表。九月一日、甲府を引払い、東京府北多摩郡三鷹村下連雀一一三番地に移転した。九月三日、第二次世界大戦勃発。九月二十日、日比谷公園松本楼において青森県出身在京芸術家座談会が行なわれ、阿部合成、今官一らと出席。「美少女」を『月刊文章』、「畜犬談」を『文学者』、「ア、秋」を『若草』各十月号に、「デカダン抗議」を『文芸世紀』、「おしゃれ童子」を『婦人画報』、「皮膚と心」を『文學界』各十一月号に発表。十二月、「駈込み訴え」を口述筆記。この年、「当選の日」「正直ノオト」「困惑の弁」「市井喧騒」「酒ぎらい」などのエッセイを発表す。
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昭和十五年[#「昭和十五年」はゴシック体](一九四〇) 三十二歳
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「俗天使」を『新潮』、「美しい兄たち」(後、「兄たち」と改題)を『婦人画報』、「鴎」を『知性』、「春の盗賊」を『文芸日本』、「短片集」(後、「女人訓戒」「座興に非ず」と改題)を『作品倶楽部』各一月号に発表。『月刊文章』の一月号から「女の決闘」の連載を開始(六月号にて完結)。「駈込み訴え」を『中央公論』二月号に、「老《アルト》ハイデルベルヒ」を『婦人画報』三月号に発表。三月下旬、田中英光が小説「杏の実」(「オリンポスの果実」と改題)を持参して三鷹を訪れ、はじめて対面した。「善蔵を思う」を『文藝』、「誰も知らぬ」を『若草』各四月号に発表。四月二十日、短篇集『皮膚と心』(収録―「俗天使」「葉桜と魔笛」「美少女」「畜犬談」「兄たち」「おしゃれ童子」「八十八夜」「ア、秋」「女人訓戒」「座興に非ず」「デカダン抗議」「皮膚と心」「鴎」「老《アルト》ハイデルベルヒ」)を竹村書房から刊行。四月三十日、井伏鱒二、伊馬鵜平、および三人の早大生と群馬県四万温泉に遊ぶ。「走れメロス」を『新潮』五月号に、「古典風」を『知性』六月号に、「盲人独笑」を『新風』七月号に発表。六月十五日、『女の決闘』(収録―「女の決闘」「駈込み訴え」「古典風」「誰も知らぬ」「春の盗賊」「走れメロス」「善蔵を思う」)を河出書房から刊行。「乞食学生」を『若草』七月号から連載しはじめた(十二月号で完結)。七月三日、伊豆湯ヶ野の福田屋旅館に赴いて「東京八景」の執筆に着手し、八日、井伏鱒二、小山祐士、伊馬鵜平と熱川温泉熱川館で落合って小山祐士著『魚族』の出版を祝い、熱川館に一泊。九日、谷津温泉の南豆荘に行き、十日、再び湯ヶ野に帰り、十二日、「東京八景」を脱稿。同日、迎えにきた美知子と帰京の途中、鮎釣りのため南豆荘に滞在中の井伏鱒二、亀井勝一郎を訪ね、その夜半すぎ、水害に遭った。十月上旬、東京商大で「近代の病」と題して講演す。十月十四日、佐藤春夫、井伏鱒二、山岸外史と甲府に行き葡萄狩を楽しむ。「一燈」を『文芸世紀』、「きりぎりす」を『新潮』各十一月号に発表。十一月五日、短篇ラジオ小説「ある画家の母」がJOAKで放送されたが、この台本が後の「リイズ」である。十一月十六日、新潟高校に招かれて講演、翌十七日、佐渡に渡る。この頃、小山清が三鷹初訪問。十二月十三日、戸石泰一と三田循司が、同じ十二月、堤重久が、三鷹初訪問。十二月六日、阿佐ヶ谷駅北口のピノチオで中央沿線作家を主体とする第一回の阿佐ヶ谷会が催され、出席。以後、この会にはよく出席した。「ろまん燈籠」を『婦人画報』十二月号から連載しはじむ(翌十六年六月号にて完結)。十二月二十九日、単行本『女生徒』が透谷文学賞の副賞に選ばれた。この年、「このごろ」「心の王者」「鬱屈禍」「知らない人」「諸君の位置」「作家の像」「国技館」「貪婪禍」「パウロの混乱」「かなかな声」などのエッセイを発表す。
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昭和十六年[#「昭和十六年」はゴシック体](一九四一) 三十三歳
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「東京八景」を『文学界』、「みみずく通信」を『知性』、「佐渡」を『公論』、「清貧譚」を『新潮』各一月号に発表。一月十五日、美知子と共に伊豆伊東温泉に遊ぶ。「服装に就いて」を『文藝春秋』二月号に発表。二月一日、懸案の長篇小説「新ハムレット」の執筆にかかり、十九日、静岡県三保の三保園に赴き三月二日まで滞在して稿を継ぎ、さらに四月上旬に甲府市錦町の東洋館に行って執筆に打ち込むなど懸命の努力をつづけ、五月末、二百四十七枚を完成。その間の五月三日、『東京八景』(収録―「東京八景」「HUMAN LOST」「きりぎりす」「一燈」「失敗園」「リイズ」「盲人独笑」「ロマネスク」「乞食学生」)を実業之日本社から刊行。「令嬢アユ」を『新女苑』、「千代女」を『改造』各六月号に発表。六月七日、長女園子、生まる。七月二日、最初の書下し長篇『新ハムレット』を文藝春秋社から刊行。八月中旬、阿部合成の応召送別会に山岸外史らと出席す。八月十七日、北芳四郎のすすめにより、十年振りで故郷に帰り、母、祖母、次兄、叔母などと会う。八月二十五日、短篇集『千代女』(収録―「みみずく通信」「佐渡」「清貧譚」「服装に就いて」「令嬢アユ」「千代女」「ろまん燈籠」)を筑摩書房から刊行。九月上旬頃、太田静子がふたりの友人と共に三鷹の家を訪問。十一月十五日、文士徴用令書を受けたが、十七日の本郷区役所での身体検査の結果、胸部疾患の理由で徴用免除となった。十一月二十一日、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命じられた井伏鱒二、小田嶽夫、中村地平、高見順らを東京駅に見送った。「風の便り」を『文學界』『文藝』十一月号、『新潮』十二月号に分載。「誰」を『知性』十二月号に発表。十二月八日、太平洋戦争勃発。この年の暮頃、堤重久から弟康久の日記を借り受けた。またこの年の暮頃、満洲から上京した檀一雄と五年振りに再会す。この年、「男女川と羽左衛門」「弱者の糧」「容貌」「世界的」などのエッセイを発表す。
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昭和十七年[#「昭和十七年」はゴシック体](一九四二) 三十四歳
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「恥」を『婦人画報』、「新郎」を『新潮』各一月号に発表。この頃、『京都帝国大学新聞』の依頼で「待つ」を執筆したが、内容が時局にふさわしくないとの理由で掲載されず、十七年六月博文館刊の『女性』にはじめて収載された。「十二月八日」を『婦人公論』、「律子と貞子」を『若草』各二月号に発表。二月中旬、甲府市外の湯村温泉明治屋に行って、一月に稿を起しすでに百枚近くなっていた「正義と微笑」の稿を継ぎ、三月一日、一旦帰京し、三月十日から二十日まで奥多摩御岳駅前の和歌松旅館に滞在して三百枚を完成した。四月十六日、小説集『風の便り』(収録―「風の便り」「新郎」「誰」「畜犬談」「鴎」「猿面冠者」「律子と貞子」「地球図」)を利根書房から刊行。「水仙」を『改造』五月号に発表。六月十日、『正義と微笑』を錦城出版社から刊行。六月三十日、創作集『女性』(収録―「十二月八日」「女生徒」「葉桜と魔笛」「きりぎりす」「燈籠」「誰も知らぬ」「皮膚と心」「恥」「待つ」)を博文館から刊行。六月末頃からしばしば点呼召集を受け、突撃の練習、勅諭や軍人の心得の勉強などをしたという。「小さいアルバム」を『新潮』七月号に発表。八月中旬、箱根に行って箱根ホテルに滞在し、「花火」を執筆す。「花火」は『文藝』十月号に発表されたが、発行直後、全文削除を命じられ、戦後の二十一年、「日の出前」と改題して新紀元社刊の『薄明』に収載された。十月下旬、母タネ重態のため、美知子と園子とを伴って帰郷、五、六日滞在す。十一月十五日、文藻集『信天翁』を昭南書房から刊行。十二月八日、高梨一男、堤重久と共に熱海に赴き、同地にて母タネ危篤の電報を受け、急遽、単身帰郷した。十二月十日、タネ逝去。享年七十。二週間ほど生家に滞在し、野辺送りをすませて帰京。この年、「或る忠告」「一問一答」「炎天汗談」「小照」「天狗」などのエッセイを発表す。
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昭和十八年[#「昭和十八年」はゴシック体](一九四三) 三十五歳
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「禁酒の心」を『現代文学』、「故郷」を『新潮』、「黄村先生言行録」を『文學界』各一月号に発表。一月中旬、亡母三十五日法要のため、美知子、園子を伴って帰郷す。三月、甲府に行き、石原家と湯村温泉明治屋に滞在して、前年末から執筆していた「右大臣実朝」三百三枚を三月末完成す。「鉄面皮」を『文學界』四月号に発表。四月二十九日、塩月赳の結婚式が目黒雅叙園で行なわれたが、身内代りとなって結納を納めたり式の打合せに行ったり種々尽力した。十五年の八月頃から文通していた木村庄助(二十二歳)が、五月十三日、カルモチンによる自殺を遂げた。七月十一日、故人の遺志によってその日記全十二冊が父の木村重太郎から送られてきて、預かった。六月頃、『改造』に発表の予定で「花吹雪」を執筆したが、掲載されず、十九年、肇書房刊の『佳日』に収載された。六月十五日、『八雲』第二輯に「帰去来」を発表。八月、ユダヤ人実朝事件=B九月二十五日、『右大臣実朝』を錦城出版社から刊行。「不審庵」を『文芸世紀』、「作家の手帖」を『文庫』各十月号に発表。九月から十月にかけて、小山書店の慫慂で、木村庄助の病床日記をもとにして「雲雀の声」を執筆、十月末、書下し二百枚を完成したが、相談の結果、検閲不許可の虞れがあるため、出版を見合すことにした。この年、「わが愛好する言葉」「金銭の話」などのエッセイを発表す。
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昭和十九年[#「昭和十九年」はゴシック体](一九四四) 三十六歳
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「佳日」を『改造』、「新釈諸国噺」(後「裸川」と改題)を『新潮』各一月号に発表。一月三日、東宝プロデューサー山下良三から「佳日」映画化の申入れがあり、承諾。一月八日、南方の戦線に行く戸石泰一と上野で逢う。一月九日、熱海に行く途中、神奈川県下曾我村の大雄山荘に太田静子を訪ねた。その後、十三日まで、熱海の山王ホテルに滞在して、八木隆一郎、如月敏と共に「佳日」の脚色に当った。また、新年早々、「大東亜五大宣言」の第二項「独立親和」の原則の小説化を日本文学報国会から依嘱され、以前から久しく構を案じていた魯迅伝をこの機会に書こうと志した。「散華」を『新若人』三月号に、「雪の夜の話」を『少女の友』、「武家義理物語―新釈諸国噺」(後、「義理」と改題)を『文藝』各五月号に発表。この頃、小山書店から「新風土記叢書」の一冊として「津軽」の執筆を依頼され、五月十二日から六月四日にかけて津軽地方を旅行す。六月二十一日、第二子の出産を控えて、美知子と園子を甲府の石原家に送って行き、三十日まで滞在、単身帰京後、三鷹の家で自炊生活を始めた。七月二十一日から十日間甲府に滞在、七月末、「津軽」三百枚を完成す。八月十日、長男正樹、甲府にて生まる。八月二十日、短篇集『佳日』(収録―「帰去来」「故郷」「散華」「水仙」「禁酒の心」「作家の手帖」「佳日」「黄村先生言行録」「花吹雪」「不審庵」)を肇書房から刊行す。「貧の意地―新釈諸国噺」を『文芸世紀』、「東京だより」を『文学報国会誌』各九月号に発表。九月、映画化された「佳日」が、「四つの結婚」と題して封切られた。「人魚の海―新釈諸国噺」を『新潮』十月号に発表。十月十日から翌二十年三月末まで、順番制の隣組長、防火群長に就任し、また、十月一日、二十一日、十一月十日、郷軍暁天動員の召集を受けた。十月中旬、「新釈諸国噺」十二の短篇二百五十枚を脱稿。その一篇「仙台伝奇|髭候《ひげそうろう》の大尽《だいじん》」(後、「女賊」と改題)を『月刊東北』十一月号に発表。十一月十五日、『津軽』を小山書店から刊行。「雲雀の声」は、その後許可が下り、小山書店から刊行の運びとなったが、十二月上旬の発行間際に神田の印刷工場が空襲に遭い全焼した。十二月二十日、魯迅が仙台医専に在学していた当時のことを調査するために仙台に赴き、二十五日、帰京。この年、「革財布」「芸術ぎらい」「郷愁」「純真」「一つの約束」などのエッセイを発表す。
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昭和二十年[#「昭和二十年」はゴシック体](一九四五) 三十七歳
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一月二十七日、『新釈諸国噺』を生活社から刊行。二月末、「惜別」二百三十七枚を完成。三月上旬、連日の空襲警報のなかで、『お伽草紙』の稿を起した。三月十日、B29約百五十機の空襲により、東京下町地区は灰燼に帰す。同日、罹災した小山清が避難して身を寄せてきた。三月末、妻子を甲府の石原家に疎開させ、帰京した直後の四月二日未明、小山清、来訪中の田中英光と共に空襲に遭い、爆撃のため家が損壊した。四、五日の間、近くの亀井勝一郎方に身を寄せ、留守を小山清に託して自身も甲府の石原家に赴いた。「竹青―新曲聊斎志異―」を『文藝』四月号に発表。五月下旬、甲府市郊外の千代田村の遠戚の家にみずから荷車を曳いて書籍や衣類などを疎開させた。六月末、『お伽草紙』全四篇二百枚を完成。七月六日深更から七日未明にかけて甲府市も空襲を受け、七割が焼失、石原家も全焼した。一時、甲府市新柳町の山梨高等工業学校教授大内勇方に身を寄せた。見舞に駈けつけた小山清に『お伽草紙』の原稿を託し、筑摩書房に届けさせた。七月二十八日朝、甲府を発ち、東京経由津軽に向い、東北線、陸羽線、奥羽線、五能線と乗り継ぎ、たいへんな苦労の末に、三十一日、金木の生家に辿り着いた。八月十五日、終戦。生家では、長兄文治の結婚記念に建てた「新座敷」と呼ばれる静かな離れ座敷に起居した。九月五日、『惜別』を朝日新聞社から刊行。「雲雀の声」を改作した「パンドラの匣」を『河北新報』に連載することになり、九月二十六日、同社の村上辰雄が来訪した。十二月二十二日、連載を開始し、六十四回で完結させた。その間の十月二十五日、『お伽草紙』を筑摩書房から刊行。
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昭和二十一年[#「昭和二十一年」はゴシック体](一九四六) 三十八歳
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「庭」を『新小説』、「親という二字」を『新風』各一月号に、「嘘」を『新潮』、「貨幣」を『婦人朝日』各二月号に発表。二月十三日、母校青森中学校の生徒達に二時間余講演。また、弘前、鰺ヶ沢、木造、黒石、嘉瀬等を歩いて座談会に出席。「やんぬる哉」を『月刊読売』三月号に発表。三月三日、金木文化会発会式に出席、「文化とは何ぞや」と題して祝辞を述べた。三月十五日、二月十日に稿を起した「冬の花火」七十枚を脱稿。「十五年間」を『文化展望』四月号に発表。四月十日、戦後最初の衆議院議員選挙が行なわれ、長兄文治が当選した。この頃、「阿Q正伝」のような「インチキ文化人の活躍」を書くという構想の「大鴉」の執筆にかかったが、書き出し二枚半で中絶した。『東西』五月号に、貴司山治「太宰君への手紙」と共に「返事の手紙」(後、「返事」と改題)を発表。「未帰還の友に」を『潮流』五月号に発表。五月上旬、「春の枯葉」の稿を起した。この五月、芥川比呂志が思想座での「新ハムレット」の上演許可を得るために来訪。六月五日、『パンドラの匣』を河北新報社から刊行。「冬の花火」を『展望』、「苦悩の年鑑」(一月二十九日脱稿)を『新文芸』各六月号に発表。七月四日、「金木の淀君」と呼ばれていた祖母イシが、眠るように長寿を終えた。享年、九十。七月、「チャンス」を季刊誌『芸術』第一輯に発表。八月上旬、「春の枯葉」七十五枚を完成、『人間』九月号に発表。十月、「雀」を『思潮』第三号に発表。十月二十七日、祖母イシの葬儀が行なわれ、それを済ませて、十一月十二日、金木を出発、途中仙台にて一泊し、十四日夜、約一年半の疎開から小山清の留守している三鷹の家に帰った。翌十五日の朝、新潮社出版部員野原一夫来訪。同月二十日、新潮社訪問。「斜陽」の『新潮』への連載と新潮社からの刊行を約した。同日、『薄明』(収録―「小さいアルバム」「日の出前」「鉄面皮」「東京だより」「雪の夜の話」「竹青」「薄明」)を新紀元社から刊行。「薄明」はこの年の五月頃の執筆で、雑誌には発表されなかった。十一月二十五日夜、坂口安吾、織田作之助と実業之日本社主催の座談会に出席した。司会は平野謙。この座談会の記録は、翌年四月二十日、『文学季刊』第三輯に「現代小説を語る」と題して掲載された。同じ二十五日夜、坂口安吾、織田作之助と、改造社主催の座談会に出席。この記録は『改造』には不掲載のまま、二十四年一月一日、『読物春秋』創刊号に「歓楽極まりて哀情多し」と題して掲載された。「たずねびと」を『東北文学』十一月号に、「男女同権」を、『改造』、「親友交歓」を『新潮』各十二月号に発表。十二月上旬、花柳章太郎、水谷八重子らの新生新派によって上演される予定であった「冬の花火」が、GHQの意向で中止されることになった。この年、「政治家と家庭」「津軽地方とチェホフ」などのエッセイを発表す。
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昭和二十二年[#「昭和二十二年」はゴシック体](一九四七) 三十九歳
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「トカトントン」を『群像』、「メリイクリスマス」を『中央公論』各一月号に発表。一月六日、太田静子が三鷹来訪、母の想い出を書き綴った日記を見せてくれるよう頼む。十日、織田作之助急逝。十一日夜、愛宕山下天徳寺での通夜に行き、刷りあがったばかりの、「織田君の死」と題する追悼文のゲラ刷を霊前にささぐ。また、翌十二日の桐ヶ谷火葬場での荼毘にも参列して、骨を拾った。「織田君の死」は一月十三日の『東京新聞』に発表された。十五日頃、「ヴィヨンの妻」を脱稿。二十九日、それまで同居していた小山清が北海道の夕張炭坑に行く。二月二十一日、神奈川県下曾我に太田静子を訪ね、大判ノートに書かれた日記を借り受けた。五日間滞在したのち静岡県伊豆|三津《みと》浜に向い、田中英光の疎開宅前の安田屋旅館に止宿、「斜陽」の稿を起した。三月六日「斜陽」の第一回分、一、二章八十枚を脱稿、『新潮』編集部員野平健一と共に帰京す。「母」を『新潮』、「ヴィヨンの妻」を『展望』各三月号に発表。三月中旬、下曾我に太田静子を訪ね、静子の妊娠を知る。三月二十七日、三鷹駅前の屋台のうどん屋で山崎富栄とはじめて会う。三月三十日、次女里子生まる。「父」を『人間』四月号、「女神」を『日本小説』五月号、「フォスフォレッセンス」を『日本小説』六月号に発表。その間の五月二十四日、太田静子が弟|通《とおる》と共に三鷹に来た。静子、野原一夫を伴って女流画家桜井浜江の家に行き、そのアトリエに泊る。また、五月下旬、「春の枯葉」が、伊馬春部の脚色演出によってNHK第二放送からラジオ放送された。六月末、「斜陽」を完成す。「斜陽」は『新潮』七、八、九、十月号に連載された。七月五日、『冬の花火』(収録―「冬の花火」「春の枯葉」「苦悩の年鑑」「未帰還の友に」「チャンス」「庭」「やんぬる哉」「親という二字」「嘘」「雀」)を中央公論社から刊行。七月十日、第十四次『新思潮』創刊号に「朝」を発表。また七月、「パンドラの匣」が「看護婦の日記」と題して大映で映画化された。八月五日、『ヴィヨンの妻』(収録―「トカトントン」「男女同権」「親友交歓」「メリイクリスマス」「父」「母」「ヴィヨンの妻」)を筑摩書房から刊行。この夏、『井伏鱒二選集』全九巻の編纂打合せを、筑摩書房主古田晁、臼井吉見、井伏鱒二等と山崎富栄方で行ない、その全巻の解説を書くことになった。「おさん」を『改造』十月号に発表。十月頃、八雲書店と実業之日本社とから全集刊行の申入れがあり、二、三回話合いの上、八雲書店に決定し準備に入った。十一月十二日、太田静子に治子誕生。十五日、弟通が訪れ、認知の「証」を記して渡した。十二月十五日、『斜陽』を新潮社から刊行。この年、「新しい形の個人主義」「小志」「わが半生を語る」などのエッセイを発表す。
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昭和二十三年[#「昭和二十三年」はゴシック体](一九四八) 四十歳
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「犯人」を『中央公論』、「酒の追憶」を『地上』、「饗応夫人」を『光』各一月号に発表。二月四日から七日まで、俳優座創作劇研究会の第一回公演として、「春の枯葉」が千田是也の演出により毎日ホールで上演された。二月十日、織田作之助一周忌追悼会に出席。なお、「桜桃」「家庭の幸福」等は二月末までに脱稿、各編集者に渡された。「美男子と煙草」を『日本小説』、「眉山」を『小説新潮』各三月号に発表し、「如是我聞」を『新潮』三月号から連載しはじめた。(三、五、六、七月号に連載)「如是我聞」は『新潮』編集部員野平健一への口述筆記による。三月上旬、「朝日新聞」から小説連載の申し入れあり。筑摩書房主古田晁の計らいで、三月七日から熱海市咲見町の起雲閣別館に滞在、外部との交渉を断って、「人間失格」の執筆に専念した。三月二十八日、「第二の手記」までを脱稿し、三十一日帰京。その間の三月二十一日、『太宰治随想集』を若草書房から刊行。二十五日、『井伏鱒二選集第一巻』(筑摩書房刊)に「後記」を収載。この「後記」は筑摩書房出版部員石井立への口述筆記による。「女類」を『八雲』、「渡り鳥」を『群像』各四月号に発表。四月九日頃から三鷹下連雀の仕事部屋で「人間失格」の「第三の手記」の前半を書き、同月二十九日から古田晁の計らいで大宮市大門町の小野沢清澄方の二間に滞在、五月十二日、「第三の手記」の後半と「あとがき」を脱稿して「人間失格」を完成した。その間の四月二十日、第一回配本の『太宰治全集第二巻虚構の彷徨』を八雲書店から刊行。なお、この全十八巻の『全集』は、八雲書店倒産のため第十四回配本をもって中絶した。「桜桃」を『世界』五月号に発表。五月十五日、「朝日新聞」の六月二十日頃から八十回ほど連載予定の「グッド・バイ」の稿を起す。五月二十七日、「グッド・バイ」第十回分までの原稿を朝日新聞社学芸部に渡す。六月一日、『展望』六月号に「人間失格(第一回)」として「はしがき」「第一の手記」「第二の手記」までを発表。六月十二日、大宮市宮町の宇治病院に寄寓していた古田晁を訪ねたが、会えずにおわる。六月十三日深更、山崎富栄と共に玉川上水に入水す。十九日早朝、遺体発見。二十一日、自宅において、告別式が行なわれた。七月十八日、三鷹町下連雀の黄檗宗禅林寺に葬られ、三十五日の法要が営まれた。歿後、六月二十日、『井伏鱒二選集第二巻』に「後記」が収載され、「人間失格」の第二、三回が『展望』七、八月号、「如是我聞(四)」が『新潮』七月号、「グッド・バイ」の十三回分が『朝日評論』七月号、「家庭の幸福」が『中央公論』八月号に発表され、七月二十五日、『人間失格』が筑摩書房から、『桜桃』(収録―「おさん」「犯人」「饗応夫人」「酒の追憶」「美男子と煙草」「眉山」「女類」「渡り鳥」「家庭の幸福」「桜桃」)が実業之日本社から、十一月十日、『如是我聞』が新潮社から刊行さる。なお、この年、「小説の面白さ」「徒党について」などのエッセイを発表す。
[#改ページ]
あとがき
昭和五十六年の一月から三月まで、西武百貨店内の「池袋コミュニティ・カレッジ」において、「太宰治・生涯と文学」と題して九回ほどお喋りをした。その講義≠フ草稿をもとにして、その年の十二月、『太宰治 人と文学』上・下をリブロポートから上梓した。十七年前のことである。
それ以後、太宰治に関する本を三冊出し(『太宰治 結婚と恋愛』『生くることにも心せき 小説・太宰治』『太宰治と聖書』)、またそのほかにも、太宰治に就いてのエッセイを幾つか書いた。そのためもあって、太宰治の全作品を何度か読み返し、理解を深め、また、多くの参考文献に目を通したりして太宰治の実人生に就いての考察を重ねてきた。
この度、「ちくま文庫」の一冊としてこの本を出してもらうに際しては、その勉強≠フ成果を十分に盛り込み、十七年前の著作を大幅に改変した。
たとえば、若い頃の太宰治にとって重大な体験であった日本共産党のシンパとしての活動と、非合法運動からの脱落を扱った箇所(第二章二「非合法運動と自首」)は、その全体を新たに書き下した。
筑摩書房は、私が編集者として二十数年間勤めていた出版社だが、創業者である元社長古田晁は、太宰治の莫逆の友であった。その古田の意を体して『太宰治全集』を私がはじめて編集したのは昭和三十年であり、爾来、版を改めて数度、『太宰治全集』を手掛けてきた。
その筑摩書房からこの本を出してもらえることは、まことに嬉しい。
刊行に当っては、筑摩書房編集部の中川美智子さんにお世話をかけた。お礼を申し上げたい。
平成十年三月末日
[#地付き]野原 一夫
野原一夫(のはら・かずお)
一九二二年、東京に生まれる。東京大学独文科卒。新潮社、角川書店、月曜書房、筑摩書房にて編集者生活を三十年。一九八〇年より文筆活動に入る。一九九九年没。主要著書に『回想 太宰治』『含羞の人』『人間 坂口安吾』『人間 壇一雄』『太宰治と聖書』などがある。
本書は一九八九年一二月、リブロポートより『太宰治 人と文学』上・下として刊行され、一九九八年五月、加筆訂正の後、ちくま文庫に収録された。