豊田 穣
革命家・北一輝
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目 次
[#小見出し] 第一章 二・二六事件勃発と北一輝
雪の朝
正義軍決起す!
北一輝と正義軍
戒厳令と正義軍
人無し、勇将真崎あり
カリスマと志士たち
西郷と北一輝
秩父宮と二・二六事件
ついに反乱部隊≠ニなる
秩父宮の令旨と北一輝の逮捕
落日の反乱軍
[#小見出し] 第二章 北一輝の故郷をゆく
[#小見出し] 第三章 『日本改造法案大綱』
『日本改造法案大綱』と北一輝
巻二 私有財産制度
巻三 土地処分三則
巻四 大資本の国家統一
巻一 国民の天皇
[#小見出し] 第四章 北一輝の誕生
北一輝の生い立ち
北一輝とニーチェ
北一輝と坂本龍馬
『国体論』と『純正社会主義』
失恋・上京・『国体論』
北一輝思考のルーツ
中国革命への参加
嵐の中の北一輝
新しい中華民国の発足
北一輝の結婚
宋教仁の暗殺
弟・ヤ吉の見た北一輝
宋教仁の亡霊・北一輝の中国追放と再訪
北一輝の変身
『支那革命外史』の発想と意図
[#小見出し] 第五章 戦争の予兆と予見
転換期の北一輝
『日本改造法案大綱』執筆の頃
孫文と日本外務省の秘密契約
法華経と北一輝
宮中某重大事件と北一輝
朝日平吾の遺書
西田税の出現
北一輝の風貌、西田を魅了する
カリスマと相続く怪文書事件
軍部ファッシズムの胎動
動き出した軍部ファッシスト
統帥権干犯事件と一夕会
不発! 三月事件と十月事件
満洲事変と十月事件
西田税の経歴
秩父宮の同期生として陸士本科へ
再び北朝鮮へ
西田税、北一輝に革命断行の意思表示す
浪人と国家改造
北一輝と大川周明の訣別
海軍のオルグ・藤井斉の登場
ロンドン会議と国家改造派
[#小見出し] 第六章 五・一五事件勃発!
西田狙撃さる
犬養邸襲撃
五・一五事件と昭和維新
五・一五事件と北一輝
五・一五事件から二・二六事件まで
陸軍士官学校事件と磯部浅一の登場
永田軍務局長斬殺さる
磯部浅一という男
決起近し
そして雪が……
嵐のあと……
獄中の北一輝とその最期
[#小見出し] 第七章 北一輝小論
(1)北一輝の心境
(2)坂本龍馬と磯部浅一
(3)北一輝に国家改造革命の意志ありや?
(4)明治維新と昭和維新
(5)北一輝と『日本改造法案大綱』の運命
[#改ページ]
[#見出し] 第一章 二・二六事件勃発と北一輝
[#小見出し]   雪の朝
軍靴の音が聞こえていた。
――サク、サク、……サク、サク……サク、サク……。
雪を踏む音である。
――もう三時を回ったのか……雪は止んだらしいが……。
北|一輝《いつき》は半睡半覚の中にいた。……彼の好きな時間である。とくに冬の寒い夜は……雪も佐渡の港町に育った一輝には、身近なものであった。……天空を白一色に染めて、日本海の離島を覆う雪……幼いとき、加茂湖のほとりに立って、空を仰いでいると、雪は金北山《きんぽくさん》(海抜一一七三メートル、佐渡一の高山)の頂きから、自分に向かって降ってくるように見えた。――シベリアから降って来るロシアの雪だ……どんな国だろう? ……行ってみたい気がした。まだ日清戦争の前で、日本では大日本帝国憲法が制定されたばかりで、藩閥政府と自由民権の志士が、政権をめぐって、争っていた。佐渡では父の慶太郎が、親類や友人と、湊《みなと》町(両津《りようつ》町)と新潟を結ぶ汽船会社の創立に熱中していた。慶太郎は資金を出したが、計画はつぶれ父の会社の船は新潟へ向かうことはなかった。そのようなとき、輝次《てるじ》(一輝の幼名)は両津湾の浜に出て、日本海を眺めていた。
この年(昭和十一年、一九三六年)二月の雪は深かった。
雪は東京中野区|桃園《ももぞの》町の豪邸の奥の臥床《ふしど》にいる一輝に、背反する二つの思い出をもたらした。
一輝は佐渡の雪景色を愛した。それは上海で食を断ちながら、『日本改造法案大綱』を執筆しているときも、彼の脳裏にあった。執筆につかれると、彼は佐渡の雪を想起して、空腹に堪えた。……雪はいい……子供の時のように、白い雪を口の中に含んでみたい……。暑熱の上海の一室で、彼は故郷の雪に憧れた。
一輝は雪を愛する一方、雪を憎むこともあった。雪の朝、幼い一輝は、祖母のロクと争うことがあった。
「はよう起きて御飯食べて、学校へ行かんかい? ……」
布団をはがしにくるのは、祖母の役目であった。右眼を患っていた輝次は、朝の強い光線が苦手であった。しかし、ロクは容赦しない。輝次は彼女の自慢の孫であった。記憶力がよく、数学もできる輝次は、神童と呼ばれた。その頃、小学校に上がる子供は、満六歳(数え七歳か八歳)で入学した。
早熟で学問の出来る輝次は、数え六歳で入学した。
――この子はものになる……そう考えてロクは、朝早くから漢文の本を輝次に読ませた。数学は苦手なので、習字をやらせた。字もうまかったが、輝次は絵が好きで、図画が得意であった。加茂湖のほとりから、金北山が湖面に映る姿を描き、天気のよい日には金北山に登り、両津湾と真野湾にはさまれた、佐渡の風景を描いたりしたが、子供の絵とは思えぬ出来であった。
「この子は画家になるのが一番いいかもしれんが、学者でも政治家でもなれる」
「佐渡一の出世頭になるかもしれんぞ」
学校の教師はそういいあった。
――佐渡一の出世頭か……。
一輝は布団を顎《あご》の上まで引き上げて、薄く笑った。――今では日本一のカリスマ(予言や奇蹟を行なって、信仰者を得る教祖的存在)と呼ばれ、中野の怪物≠ニ呼ばれたりしている。
――カリスマでも予言が出来ないことはある……そして奇蹟を行なっても成功はせず、自滅することもあるのだ、やがて時間がそれを示してくれるだろう……。
また一輝の耳に軍靴の音が聞こえてきた。
サク、サク……サク、サク……。
安藤や野中、それに栗原たちは、もう連隊を出発しただろうか? ……麻布の第三連隊は大丈夫だろうが、皇居に近い第一連隊のほうはどうか? ……。
そう考えながら、北一輝は浅い眠りについた。――おれの『日本改造法案大綱』が実際に具体化できるかどうかという瀬戸際なのだ。それなのにおれはこうも冷静……というよりは冷淡でおられる。やはりカリスマなのかもしれない……目蓋《まぶた》の裏で彼はそう考えていた。
一輝の夢の領域を侵すものがあった。白いものが風にたなびくように、入ってきた。
「なんだ? ……」
一輝は薄目をあけると、その白いものを視界の中に入れた。
「御前……」
白い布の塊は音もなく布団の傍に座った。その言葉を告げる時、妻のすず子は一輝をそう呼んだ。北は日蓮宗を信じ、有名になった頃から、法華経を唱えながら、霊告≠ニいう仏のお告げを授けられることがあり、そういうことも彼を神秘的なカリスマとして、『日本改造法案大綱』の信者を信用させることに役立ってきた。
「どうした? ……霊告があったか? ……」
すず子はそれには答えず、
「弓ハ矢ヲ放テリ」
と霊告を告げた。二人が同棲という形で夫婦になったのは、明治の終わりで、中国革命の最中、上海においてであった。その頃、すでに北は霊界と交信することを考え、大正二年三月、革命派の要人・宋教仁が暗殺された後、一輝は、その亡霊が自分を殺した人物について語るのを聞いた。その人物を探し、宋の死の真因を追究しようとした北は、三年間中国を追放された。
その後、北は青山ですず子と貧しい生活を送っていたが、すず子も霊告を受けるようになり、それを北の名前で財閥、政治家、軍閥の要人に知らせた。霊告は意味深長で、彼等に国家の前途に予言を与えるものとして、珍重され、北の懐も豊かになっていった。
『北日記』(『北一輝の人間像』宮本盛太郎編・有斐閣)によると、最初の霊告が日記に記入されたのは、昭和四年四月二十七日付で、
「巨大ナル掌ノ中ニ文字
売国奴」
となっている。
巨大なる掌は、仏陀の掌かとも思われるが、売国奴とはどういう意味か? ……この年、四月十六日共産党員の全国的大検挙があり、鍋山貞親、市川正一らも検挙され、三百三十九人が起訴された。これは前年の三・一五事件(四百八十八人起訴)に次ぐ大検挙で、共産党は大打撃を受けた。
しかし、共産主義、社会主義に大きな関心をもつ北の霊告に、共産党員が売国奴として顕現されるとは限らない。
政治よりは経済のほうに関係が深いのかもしれない。北はすでに大正十五年一月、十五銀行から五万円の寄付を受けており、財閥との一種の癒着が始まっていた。もちろん、彼としてはこれは『日本改造法案大綱』を実現させるための運動費及び生活費であり、収賄とは無縁のものと考えていたであろうが、片方では『日本改造法案大綱』で財閥の富を制限することを規定し、片方では不浄の大金を懐にするところが、北の二律背反の幅の広さ?を示す所以《ゆえん》であったかもしれない。
前年の十四年十一月には、北の最大のオルグとなる西田|税《みつぐ》(秩父宮|雍仁《やすひと》親王と陸士の同期生)が、大川周明と手を切って、北の門下となった。そしてこの年十二月、十五銀行怪文書事件(後述)が起こり、翌年一月、北は十五銀行から五万円を受け取り、五月、西田の手で『日本改造法案大綱』が発行されている。この十五銀行怪文書事件と、北の五万円受領との間にどういう関係があったのか、不明であるが、案外北の心のどこかにこれが巣くっていて、霊告に現れたのかもしれない。
しかし、カリスマらしい予言が現れたのもこの頃で、六月十日の夢には、
「民政党内閣ノ如キ夢」
とあり、七月二日、田中内閣から浜口|雄幸《おさち》の民政党に政権が移ると、翌三日には、
「差別直ニ破壊
平等則建設」
という極めて尤《もつと》もな言葉が、霊告として記録されている。
但し、社会主義者でもある北が、差別を排し平等を目的としたことは、彼の建設的な面を示すので、自分の心が俗化した時には、自戒の意味で普段の信念の如きものを、日記に書いたものであろう。
「弓ハ矢ヲ放テリ……か、矢ハ弓ヲ放レタリ、ではないのだな……」
北がそういうと、うなずいた後、すず子はまた仏間に戻った。
「弓ハ矢ヲ放テリ……か……」
北はしばらく天井を仰いでいた。十二畳の部屋の天井は、いくつもの格子で仕切られた総檜《そうひのき》の格天井《ごうてんじよう》で、
「これで格子の間に芳崖か琳派の絵でもあれば、日光の東照宮ですな」
と引っ越し祝いに訪れた、財閥の番頭が笑った。
隣接する四つの部屋をぶちぬくと、五十畳の大座敷になり、
「『日本改造法案大綱』が実現したら、ここで赤坂の芸者を総揚げして、祝賀会をやるんですな」
と西田税が笑ったが、それもこの雪の朝の青年将校たちの決起如何によることとなった。
果たして霊告はいかに降《くだ》るのか……。
すず子に霊告が降るようになったのは、昭和二年、北が出獄して貧困の果てにいた時のことである。北は昭和元年八月宮内省怪文書事件で入獄し、翌二年二月保釈出所したが、翌三年には、十五銀行と宮内省の両事件で公判にかけられた。その結果は執行猶予であったが、家計は火の車であった。すず子に霊告が降るようになるのは、その翌年頃からである。女は生活に困ると必死になるものらしい……そう考えて北は心中で苦笑していた。しかし、その後、すず子の霊告は段々当たるようになってきた。
すず子の霊告が当たるようになると、肝心の北には霊告が降らなくなることも多くなってきた。
妙な女だ……始めは平凡な女だと思っていたが……北は昨夜……といっても、もう二十六日の夜半にかかってからだと思うが、しばらくぶりに霊告が降るのを感じた。
「革命軍、
正義軍」
の六文字である。安藤たちの決起軍が、革命軍でかつ正義軍である……という意味かと考えていると、仏間から白装束のすず子が入ってきて、北が半紙の上に書いた二行の文字のうち、革命軍の上に鉛筆で二本の棒を引いた。
「正義軍が正しいというのか? ……」
北がそう聞くと、すず子はうなずいた。霊媒の役目を背負っているとき、彼女は無口であった。
白い風のようにすず子が室外に去った後、北は考えこんだ。――正義軍ではあるが、革命軍ではないという意味か……つまり正義の挙兵ではあるが、革命は成功しないということなのか……微笑すると北はまた床の中に入った。この頃はまだ外で雪の降っている気配があった。北は床から出ると、一間のけやきの一枚板の廊下をまたぎ、雨戸の無双(小さな開き扉)を開けて、庭を見た。五葉の松の枝に雪が積もり、重そうに垂れている。
――これは雪の中の戦《いくさ》になるかもしれんな……軍人でない北には、戦術のことはよくわからない。中国革命の嵐の中を潜ってきたが、戦略については、日本の陸軍士官学校を卒業して、訓練を受けている蒋介石のほうが詳しいようであった。
北が中野の邸《やしき》で夜明けを迎えた頃、事件はすでに始まっていた。「弓ハ矢ヲ放ッタ」のである。
[#小見出し]   正義軍決起す!
麻布の第三連隊(六本木交差点の西〇・八キロ)の、第六、第七中隊で非常呼集が発令されたのは、昭和十一年二月二十六日午前三時、中野の家で北がまだ床の半睡半覚の快適な眠りをむさぼっている頃であった。
あらかじめ主だった下士官には、非常呼集のことは話してあったので、兵士たちは敏速に軍服を身につけ、小銃を持ち、剣帯《けんたい》を腰に巻くと営庭に急いだ。
週番司令室にいた安藤|輝三《てるぞう》歩兵大尉は、駆け足で営庭に出て、整列する部下たちを眺めていた。雪はもう止んでいた。五寸ほど積もった雪の上に、兵士たちの軍靴が跡をつけた。その足跡を安藤は美しいと思った。これが決起軍が原隊に残す最後の足跡かもしれない。月が残っており、植え込みの松の葉に積もった雪が、月光を浴びて、静かな光を放っている。月は無心……雪も無心だ……安藤はこの計画を磯部浅一・一等主計(陸軍大尉相当)から聞かされた時から、無心≠ニいう言葉が脳裏に芽生え、それが徐々にふくらんでくるのを覚えていた。
熱発《ねつぱつ》で前の日から休んでいた前島一等兵(安藤大尉の当番兵)は、週番司令からの呼出しで、軍装を整えると、司令室に急いだ。部屋に入った前島は眼を見張った。三人の将校が武装して密談をしていた。第六中隊長で今週の週番司令である安藤大尉と第七中隊長の野中(四郎)大尉、それに最近よく安藤や野中を訪ねてくる、第一連隊の栗原(安秀)中尉で、いずれも両肩には十文字に白だすきをかけている。その白布には、「尊皇討奸」「昭和維新」という文字が、墨書されていた。かねがね安藤中隊長から、「我々は一身を大君に捧げて、国を守るのだ」という訓育を受けていた前島は、いよいよ何かが始まるのか……と思い緊張した。
「前島、お前は機関銃隊の柳下中尉、炊事班長の田中曹長、兵器委員助手の新軍曹を呼んでこい」
安藤中隊長はややあおざめた顔で、そう命令した。前島は復唱すると、直ぐに各部署を回り、それらの人々に連絡した。司令室に戻ってそれを中隊長に告げると、清原少尉、鈴木少尉らも集まっていた。
田中曹長がくると、安藤は次のように命令した。声に張りがあり、田中はなにかに打たれる思いがした。
「命令! 連隊は只今より帝都に起こった暴動鎮圧のために出動する。田中曹長は二食分の携帯食及び間食一食分を直ちに配給すべし」
前島は当番兵から安藤中隊の部下となり、中隊長直率の指揮班に入った。
午前三時半、第六中隊は兵舎前に整列、安藤中隊長は軍刀を抜くと、次のように下令した。
「我が中隊は只今より靖国神社に参拝する。第一、第二小隊の順序、指揮班は中隊長に続け!」
中隊長の様子はいつもより真剣で、その頬を照らす月光も蒼みを帯びて見えた。
第六中隊は粛々と前進を始めた。安藤は先頭の第一小隊長・永田曹長の横に並ぶと、衛兵の敬礼を受けて、三連隊の営門を出た。
この時、安藤は三連隊の兵舎を振り返って見たい……という思いに駆られた。再びこの兵舎に帰ってくることがあるだろうか? ……しかし、昭和維新の第一歩はすでに、自分の軍靴によって踏みだされ、後退は許されないのである。
もう道は二つしかない。尊皇討奸、国家改造のクーデターから、革命、救国への道か、それとも天皇の軍隊を私兵として、乱用したための反逆者への道か……歴史は新しい歯車を回し、そのきしむ音が、財閥、重臣らのために虐げられている国民のうめき声のように、安藤には思えた。
麻布の三連隊の門を出て、東に向かうと、六本木から青山一丁目に向かう広い道路に出る。道の向かい側が歩兵第一連隊のある兵舎で、青年将校の中でも、最も積極的な栗原中尉は、ここの所属である。
栗原中尉の役割は、歩兵第一連隊の兵士を率いて、首相官邸を襲撃、岡田総理を射殺する。
安藤大尉の中隊の一部は安藤に率いられて、麹町の鈴木侍従長邸を襲撃、鈴木侍従長を殺害する。
歩三(歩兵三連隊)の坂井中尉、高橋少尉の隊は、斎藤内大臣邸を襲撃。その後、高橋と安田少尉の隊は、渡辺(錠太郎・大将)教育総監邸を襲撃。
近歩(近衛歩兵)三連隊の中橋中尉の隊は高橋蔵相邸を襲撃。
三連隊の鈴木少尉の隊は、後藤内相官邸を襲撃。
歩一の丹生《にう》中尉隊は陸相官邸を占拠、香田大尉(歩兵第一旅団副官)、磯部、村中、山本らとともに、川島陸相と交渉する。
歩三の野中大尉、常盤少尉、鈴木少尉、清原少尉の隊は、警視庁を占拠。
というのが主な役割である。
安藤が直率する第六中隊は、乃木坂から赤坂の町の中を通って、山王に出、間もなく左折して麹町の通りに出て右折、半蔵門前で三宅坂の陸軍省を右にみて左折し皇居のお堀端を北に進んだ。お堀が大きくふくれあがる千鳥ケ淵の近くに、鈴木侍従長邸があった。
あたりはまだ闇で街灯のほかに雪の道を照らすものとてない。乃木坂を降る頃、また雪が降り出した。雪は霏々《ひひ》として降り、兵士たちの背嚢《はいのう》の上にも、薄く積もり始めた。
鈴木侍従長邸まであと五百メートルほどの英国大使館の近くで、安藤は小休止を命じて、部下を休ませた。いざ突入となれば、いかなる事態が待っているかもしれない。案外この決起が上のほうから、当局に洩《も》れているかもしれない。
安藤は空を仰ぐと大きく息を吸った。今となっては祈る相手は天しかない……天はわれらの義挙を正義とみそなわすであろうか?
安藤の時計は午前四時五十分を指している。決起の予定時刻は各隊、午前五時一斉に、ということになっていた。
安藤は部下に集合を命じると、鈴木邸に向かった。安藤は海軍の古参の提督である鈴木貫太郎について、多くを知らなかった。連合艦隊司令長官や軍令部長を歴任し、侍従長としても長い経歴をもっている。唯一、彼が少年雑誌で読んだ鈴木のエピソードといえば、日清戦争の時、威海衛の軍港内にいる清国の戦艦を襲撃するため、自分が魚雷を抱いて突撃したいと申し出たということぐらいである。
鈴木は慶応三年(一八六七)生まれでこの年七十歳、昭和四年から侍従長を務め、枢密顧問官を兼ねた重臣の一人で、毎日、天皇の側近として奉仕し、内大臣の斎藤|実《まこと》とともに、青年将校らのいう君側の奸≠フうち大物のひとりであった。
目指す鈴木邸が視界の中に入ると、兵士たちは背嚢を地面に下ろし、武器だけをもって、昭和維新≠フ実際行動に移った。
「今から我が隊は日頃中隊長が話している君側の奸≠討つ。これがお上に対する我々の忠節である。突撃前進!」
安藤の命令一下、兵士たちは襲撃にかかった。この時、安藤中隊が携行した武器弾薬は次の通りである。
機関銃 四挺、同 実包(実弾) 二千発、
軽機関銃 五挺、同 実包 千五百発、
小銃 百三十挺、同 実包 九千発、
拳銃 十数挺、同 実包、五百発。
表門は第二小隊の担当で、小隊長は堂込《どうごめ》曹長である。安藤と指揮班もこれに同行し、鈴木邸内に押し入った。警護の警官と衝突したが、これを取り押さえた。
堂込隊が邸内に入ると間もなく、奥のほうで銃声が聞こえた。安藤はその音のほうに進んだ。
裏門の担当は永田曹長の第一小隊である。その第三分隊が奥の一間にいた鈴木侍従長を発見した。鈴木侍従長は、白い寝間着で立っていた。分隊長の奥山軍曹が、
「中隊長殿!」
と安藤を呼んだ。安藤がその声のほうに向かった時、鈴木は銃剣を前にして、恐れる様子もなく突然現れた陸軍の兵士を見つめていた。
「お前たちはどこの兵隊か?」
海軍大将でもある鈴木は、落ち着いた調子でそう聞いた。
「麻布歩兵第三連隊」
と奥山はこたえた。
「何の為に来たのか?」
「自分ではわかりません。中隊長殿に聞いて下さい」
その老人になんとなく威圧されながら、奥山は小隊長の永田曹長とともに、安藤を待った。その時、突然、
「撃て!」
という声が後ろから聞こえた。永田とそこにきていた堂込が、ほぼ同時に発砲した。
侍従長は左胸、左|臀部《でんぶ》、左耳に三発を受けて倒れた。
そこへ鈴木夫人のたか子が現れて、夫を抱き起こし、駆けつけた安藤のほうに向いて聞いた。
「どういう理由で主人を撃ったのですか?」
たか子は宮中の奉仕が長く、落ち着いていた。海軍軍人の妻として、若い時からこういう場合に処せるよう己を鍛えていたのであろう。
「奥様にご了解願いたいことがあります。閣下のお流しになった血が、昭和維新の尊い動力となり、国民に明るい世界が開けるのです。そのための犠牲になられたと思って、我等の行動をお許し下さい」
安藤はやや苦しげにそう説明した。
「では鈴木に間違った考えがあって、こういう手段に出たのですか? 鈴木が陛下に親しくお仕えしていることでも、間違いはないと思いますが……」
夫人は強い口調でいった。態度は堂々として、威厳さえ認められた。
「奥様、我々の考えはいずれおわかりのことと思います」
「あなたのお名前を伺いましょう」
夫人は安藤を見つめながらそういった。安藤の眼鏡が光った。
「歩兵三連隊第六中隊長、安藤輝三」
安藤がそう名乗った時、下士官のひとりが、鈴木の喉に指を当て、
「中隊長殿、まだ脈があります」
といった。
「失礼致します。武士道の掟により、止《とど》めを刺させて頂きます」
安藤はそういうと、軍刀を抜き、鈴木に近付いた。
「ああ、それだけは……」
落ち着いていた夫人の声が叫ぶように響いた。その時、安藤の脳裏に三つの顔が浮かんだ。妻の房子と長男の輝雄、次男の日出雄である。昨日の朝、家を出るとき、日出雄はまだ部屋で寝ていた。東に面した部屋で陽があたっていた。
「これ、陽のあたるところで寝ていると、眼が悪くなるぞ」
近眼で眼鏡をかけている安藤は、日出雄の布団を奥のほうに引き摺《ず》っていった。
三歳になる輝雄はもう起きていた。
「おい、輝雄、お父さんはちょっと遠くへゆくからな」
そういうと、安藤は息子にほおずりをした。週番司令でしばらく帰宅しないので、そういったのか……と房子は思った。房子は静岡の紙問屋の娘で、安藤とは見合い結婚で七歳年下であった……。
「では止めは致しません」
喉を切るべきか心臓を刺すべきか、迷っていた安藤は、ほっとしたように、刀を鞘《さや》に収めた。
「捧げ……銃《つつ》!」
安藤の号令で全員が銃を両手で前に捧げて、敬意を表した。(生きのびた鈴木は終戦時の総理を務めることになる)
襲撃が終わると、安藤は部下を集合させ、三宅坂の陸軍省に向かった。ここを決起軍の本拠とする予定であった。
兵士たちは『昭和維新の歌』を合唱しながら行軍した。足取りは軽かった。鈴木を射撃した現場にいた者以外は、演習が順調にいったような満足にひたっていた。
汨羅《べきら》の淵に波騒ぎ
巫山《ふざん》の雲は乱れ飛ぶ
溷濁《こんだく》の世に我立てば
義憤に燃えて血潮湧く
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫《ますらお》が
胸裡百万兵足りて
散るや万朶《ばんだ》の桜花……
しばらく行くと、千鳥ケ淵が左側に見えてきた。午前五時半を回ったが、雪は断続して降り、あたりはまだ薄暗い。
――これが昭和維新なのか? ……安藤は磯部の緊張した顔を思い浮かべ、自分も唇を引きしめた。……革命は成功させたいが、部下は無事であって欲しい……と彼は思った。彼はふと汨羅の淵というものはどこにあるのか? ……この千鳥ケ淵のようなものであろうか……と考えた。
安藤の第六中隊が三宅坂の陸軍省に着いたのは、午前五時四十分頃である。
安藤は陸軍省を占拠し正門、裏門などの要所に歩哨線をしき、皇道派以外の将校は、中に入れないようにした。この段階で抵抗はなかった。
各中隊の状況が電話で安藤のもとに届いてくる。
一、歩兵一連隊の栗原中尉の隊は、首相官邸を襲撃、岡田総理を射殺。(義弟の松尾伝蔵大佐が身代わりとなり、岡田は生きのびた)
二、歩三の坂井中尉、高橋少尉の隊は斎藤内大臣邸を襲い、内大臣を射殺。その後、高橋と安田少尉の隊は、渡辺教育総監邸を襲撃、総監は拳銃で応戦したが、銃剣で刺殺された。
三、近衛歩三の中橋中尉の隊は、高橋是清蔵相邸を襲い、高橋を軍刀と拳銃で殺害した。
歩三の鈴木少尉の隊は、後藤文夫内相邸を襲撃したが、内相は不在のため官邸を占拠。
歩一の丹生中尉の隊は、陸相官邸を占拠、香田大尉、磯部、村中らのオルグや山本もここで、川島陸相と、「決起軍を陛下に認めてもらうための」交渉をする。
歩三の野中大尉、常盤少尉、鈴木少尉、清原少尉の隊は警視庁を占拠。
以上のような状況が午前七時頃までに、安藤のもとに届いた。
「よし! ……栗原は総理をやったか! 歩三も鈴木侍従長のほか斎藤内府、渡辺教育総監を倒したか……いよいよ昭和維新の到来成るか……」
安藤は陸軍省の庭に出ると、腰に両手をあて、天を仰いだ後大きく深呼吸をした。部下の一部には、その姿が勝利の充足感というよりも、孤独な感じに受けとられた。
間もなく安藤は部下たちに決起の趣意書を読み聞かせ、兵士たちはやっと出動の目的がわかり、その後も陸軍省の警備についた。
陸軍省とともに重要な拠点は、すぐ西にある陸相官邸である。こちらの占拠は歩一の丹生中尉の十一中隊の担当である。先述のようにこちらには香田大尉とオルグの磯部、村中、山本が同行している。丹生の十一中隊は午前四時二十分、連隊を出発して、陸相官邸に向かった。中隊長の丹生中尉は前年十二月一日の発令で、それまでは香田大尉が中隊長であったので、兵士たちは香田のほうに馴染みが深かった。事件当日も香田が指揮をとる形になることが多かった。
十一中隊は栗原隊の後から前進したが、首相官邸の近くで銃声が聞こえた。
「や、もう突入したぞ!」
磯部が逸《はや》った声を出した。勇ましいことの好きな磯部は、回想にこう書いている。
「いよいよ始まった。秋季演習の連隊対抗の第一遭遇戦のトッ始めの感じだ。勇躍する、歓喜する、感慨|例《たと》えんにものなしだ。同志諸君、余の筆ではとても表しえない。とにかく言うにいえぬほど面白い。余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであろう」
磯部には動乱や戦闘を好む癖があった。彼は二・二六事件筆頭ともいうべきオルグで、西田と違って、少年的な格闘を好んだらしい。
西田が秩父宮を動かそうとしている間に、磯部は事件を触発することに力を注いだ。彼にとっては壮大なパフォーマンスであったのかもしれない。
磯部は、ドイツ大使館の近くの交番で、巡査が電話をかけているのを見て、威嚇と試射のために、拳銃を発射したりしていたので、少し遅れて陸相官邸に到着した。
陸相官邸に着いた香田は、正門にいた憲兵を脅して、門を開けさせ中に入り、玄関で叫んだ。
「陸軍大臣閣下! 国家の一大事でありますぞ! 早く起きて下さい。早く起きなければ、それだけ人を余計に殺さなければならないのですぞ!」
しかし、肝心の川島陸相はなかなか姿を現さない。しばらく前、青年将校たちが訪問した時、雄叫《おたけ》び≠ニいう酒をくれたにしては、対応が遅い。
夫人が出てきて、
「主人は今、風邪で寝ていますから……」
といったが、香田は容赦せず、
「風邪なら厚着して出てきて下さい」
と粘る。私服の憲兵がそばにきて、
「大臣に危害を与えるならば、私を殺してからにして下さい」
というと、
「いや、大臣に危害を加えるのではない。国家の一大事だから、早く出てきて我々と会うようにいってくれ」
と香田がいったので、憲兵もほっとした様子である。武装した一個小隊がきたのであるから、殺気が官邸の庭に満ちている。一触即発≠ニいう切迫感を憲兵が受けたとしても、不思議はなかろう。
着替えに手間取っているのか陸相はなかなか現われない。その間に各邸の様子が磯部に伝わってくる。高橋蔵相襲撃の指揮官・中橋中尉がきて、蔵相を殺したという。首相官邸からも栗原隊が岡田を仕留めた、といってくる。東の空が白んでくる。坂井連隊から麦屋少尉がきて、斎藤をやったという。
鈴木侍従長邸に向かった安藤が部下を率いてさっそうという形でやってきた。
「やったか?」
と磯部が問うと、
「ああ、やった……」
と安藤は無表情でこたえた。彼の脳裏には夫への止めを拒否した時の夫人の表情と、家で父の帰りを待っている子供の姿とが、ダブってゆらめいていた。
午前六時過ぎ、川島義之陸相(愛媛県出身、陸士十期、昭和九年大将、東条英機より七期先輩、この日射殺された渡辺大将より二期後輩、第三師団長、朝鮮軍司令官の経歴あり)が、軍服姿で第四応接室に入り、香田、磯田、村中の会見に応じた。
渋面を作っている陸相の前で、香田(川島より二十七期後輩、村中と同期)が決起趣意書を読み上げた。その間に高橋少尉の連隊から渡辺総監を仕留めたという連絡が入り、川島はますます眉をひそめ、決起将校たちは意気が上がった。この頃、陸軍内部では皇道派と統制派が争っていたが、川島はその点では中立とみられ、皇道派の内部の動きには、詳しくはなかった。また立ち入ろうともしなかった。渡辺の暗殺を知った川島は、
「皇軍同士撃ち合ってはいかん!」
と苦い顔をしてみせた。川島にとってみれば、これらの将校は一期上の真崎《まざき》甚三郎(皇道派の大幹部、大将、陸士九期、軍事参議官)が、陸士の校長であった頃の生徒で、年からいっても親と子供ぐらいの差があったので、まだ先輩の指導力が利くと考えていたが、香田が、
「渡辺大将は皇軍ではない」
と厳しい態度でいうと、
「うむ、皇軍には入らないか……」
川島は渡辺が統制派の幹部と見られていたのか、と反省し肩が落ちてきた。この段階で川島は、事態の重大性に気づき始めた。
決起趣意書に続いて、香田が事件に関する「要望書」を読み上げた。
一、現下は対外的に勇断を要する秋《とき》なりと認めらる。
二、三、四、(略)
五、南(次郎)大将、宇垣(一成)大将、小磯(国昭)、建川(美次)両中将を保護検束すべし。(これらの将軍はみな統制派の幹部とされていた)
六、すみやかに陛下に上奏し御裁断を仰ぐべし。
七、(略)
八、林(銑十郎)大将、橋本(虎之助)中将を即時罷免すべし。
九、荒木(貞夫)大将を関東軍司令官に任命すべし。
(この要望によると、統制派の幹部をすべて粛清し、皇道派の真崎あたりを指導者にしようという意図が、ありありと見えていた)
川島はしばらく考えた。うかつな返事は出来ない。統制派のシンパであると決めつけられると、処分される恐れがある。代わりの陸相は真崎か、あるいは古荘《ふるしよう》(幹郎《もとお》、陸士十四期)陸軍次官の昇格か? ……小畑(敏四郎、陸士十六期、少将、陸大校長、皇道派の幹部)か、それとも山下(奉文、陸士十八期、少将、陸軍省軍事調査部長)らを進級させて、陸相にするつもりなのか? ……。
川島は事の重大さに全身が引き締まるのを覚えた。――慌ててはいかぬ、落ち着くことだ……。
「まぁ、待て、この中には自分でやれるものと、やれないものとがある。勅許を得なければならないものは、自分の一存ではどうにもならないのだ」
これを聞いた香田は、――川島頼むに足らず……と落胆した。人事を扱う最高の職務にある陸相が、こんな腰の弱いことでは、おれたちがよほどしっかりしなければならないのだ……そう考えながら、香田は、
「とにかくやれるものをやってもらいたい」
と希望を出した。
川島は額の汗を拭うと、次々に皇道派の将軍や将校を呼び出した。
間もなく、斎藤|瀏《きよし》少将(予備役、陸士十二期)、杉山|元《はじめ》前参謀次長、畑俊六(中将、航空本部長、小磯中将らと同期生)を始めとして、小藤恵大佐(歩兵第一連隊長)、歩一の山口大尉(この週の週番士官)そして、古荘陸軍次官、山下少将、さらに八時半には真崎大将が陸相官邸に顔を見せた。
山下がきた時、磯部が、
「ついにやりました、どうぞご善処して下さい」
というと、山下は大きくうなずいた。以前に青年将校と会った時、山下は、
「あんな奴らはぶった斬ってしまえばいいんだ」
と統制派の将軍たちを罵《ののし》って気勢を揚げたことがある。それで青年将校たちは山下は心強い味方だと頼みにしていた。こうして青年将校たちは多くの将軍たちをシンパだと考えていたが、決起の時は必ず支援するといって、確約した将軍はひとりもいなかった。真崎さえも段々正体を現わしてゆき、裏切られたと覚った時は、手遅れとなり、彼等は軍の上層部を恨みながら、死刑台上に昇っていくのである。その点、『日本改造法案大綱』の作者・北一輝と青年将校の間の了解も、仲介者である西田税の話を、青年将校らが自分たちに都合のよいように解釈し、いつのまにか将軍も北一輝も自分たちの味方で、真崎かその代理が天皇に、決起の真意を上奏して大御心にかなう昭和維新が成功すると、彼等は思いこむようになっていくのである。
磯部は山下の表情を見た時、やや不安に駆られた。剛毅といわれた山下の表情が冴えないので、疑問を感じたのであるが、陸士の生徒時代から信頼している真崎大将の顔を見ると、ほっとして敬礼し、いった。
「閣下、我々は日頃のお教えに従って、統帥権干犯の賊を討つために決起しました。この上は決起の趣旨を貫徹するために、御処分をお願いします」
真崎はウムウムというようにうなずくと、表情を引き締めて、
「やったのう、お前たちの気持は、ヨォッわかっとる。ヨォッわかっとるぞ」
と佐賀弁でいった。
葉隠武士≠ナ知られる佐賀には、誠忠の精神を重んじる気風が強く、政治的に日本を改造しようというような思想をもつ将校が多かった。五・一五事件の指導者・藤井|斉《ひとし》(海兵五十三期、王師会の指導者、事件の年二月五日上海で戦死)を始め、決起の時の指導者・三上卓(五十四期)、古賀清志(五十六期、事件の参謀格)、黒岩勇(五十四期、事件の時、犬養首相を撃ったといわれる)らはみな佐賀中学の出身で、真崎の後輩で、海兵生徒時代に「尽忠報国」「武士道とは死ぬことと見つけたり」というような教育を受け、真崎を崇拝してきた士官たちであった。
将軍たちは陸相官邸の広間に集合した。
中に入った磯部は、この日、久方ぶりに軍服を着けており、まず斎藤に向かって、
「我々の目的は率直です。我々のしたことが、昭和維新に沿った行動で、これを義軍であるということを、陛下にお認めになって頂ければよろしいのです。どうか閣下から大臣や次官に十分に申し上げて下さい」
と懇願した。磯部の言葉は懇願の形であるが、自称・革命家の磯部は、すでに革命は半ば成功せり、という自信を抱いていたので、態度はやや高圧的であった。(磯部は陸士で安藤と同期生であったが、勤王の志士に憧れ、政治的浪人の風格を持ち、策謀の好きな人物であったといわれる)
磯部の頼みに、かねて意思の疎通のあった斎藤瀏は、
「そうだ! 義軍だ、義軍の義挙だ。よし、おれが引き受けてやる」
と強い調子でいって、磯部たちを安堵させた。この場合義軍というのは、正義のため……国家改造を実行して、天皇親政の誠心あふれる清新な国政を実施できる革命を行なう軍隊のことで、すでに青年将校たちが意思の疎通を図ってきた将軍たちによって、天皇もその正義を了解している決起軍……というような意味であろう。この段階で皇道派の将軍たちの中には、青年将校の決起が天皇に通じることを、祈っていた者も多かったと推測される。
磯部も一安心して座を見回すと、皇道派が多い中で、統制派の実力者で、満洲事変の立案、実施で戦争の天才≠ニいわれた石原|莞爾《かんじ》大佐(参謀本部作戦課長)が、広間の中央に傲然とした態度で座っている。かねて石原の天才≠ヤりに不愉快な感じを抱いていた、栗原中尉がその前にゆき、
「石原大佐殿は、我々とは考えが違うように思いますが、昭和維新について、どのような考えをおもちでしょうか?」
と詰《なじ》るように聞いた。
石原はその態度を崩さず、表情も変えずに、
「昭和維新か……僕のは軍備を充実すれば、そのまま昭和維新になるというのだ」
とこたえた。
栗原は磯部や村中のほうを向いて、
「如何いたしましょうか?」
と聞いた。栗原の手には拳銃があった。磯部の答え一つでは、弾が石原の体に撃ち込まれるかもしれない。
磯部はしばらく沈黙を守った。この頃、参謀総長は閑院宮《かんいんのみや》で、実質的には次長の西尾寿造(統制派寄り)中将が握っていた。ここで石原を撃っては、さらに統制派を敵にすることになり、まずい……と磯部は考えていた。
石原はなぜ早くもこの場所に姿を現したのか? ……皇道派の青年将校が決起したのに、その拠点に出てきたのは危険を承知ということなのか? ……恐らく情報網を持っている石原は、早期にこの事件をキャッチし、次長の西尾と相談の上、参謀本部の代表として、やってきたと思われる。決起軍を討つために、討伐軍を組織するとなると、陸軍省ではその編制は出来まい。軍制は陸軍省の仕事でも、実戦部隊を動かすには、天皇の指示を受けた、参謀総長の命令が要る。そこで参謀総長の代理として、現地にやってきたという訳らしい。もちろん、危険ではあるが、戦争の天才≠ニもなれば、そんなこともいってはおれまい。
栗原が構えていた拳銃を下ろすと、斎藤が石原になにかいった。
「いうことを聞かないならば、軍旗をもってきて討つ」
石原が強い調子でいったので、斎藤も、
「なにをいうか!」
とやりかえした。
この頃、川島陸相と真崎大将は、奥の部屋で陸軍省の出方について相談していた。真崎としては決起軍を反乱軍と決めつけることなく、無事におさめて、皇道派に組閣させたい、という気持がある。しかし、はたしてそう簡単に事が収まるか、川島は疑問に思っていた。真崎は盛んに陸相の参内を勧めた。もちろんこの事件の最終的な処遇は、天皇の意思如何にかかる。青年将校が期待しているように、彼等の誠心が天皇に通じておれば、重臣たちを討ったことは、救国のための天皇親政、昭和維新として、陛下もお認めになるかもしれない。しかし、そういう意思の疎通がなかったとすれば、決起軍の運命は明るいものとは保証できない。
この時、真崎の胸の中には、両様の計算があった。もし陛下が青年将校たちの誠心を、ご嘉納になれば、当然、自分が総理として組閣しなければならない。しかし、陛下に青年将校らの真意が通じていないとすれば、彼等は不幸にして反乱軍となり、討伐されることになるかもしれない。そうなると自分は支援、指導もしくは教唆したとして、ただではすむまい。ここは慎重な態度を保ち、陸相を使って成り行きを見守ることだ。――とにかく陸相の参内によって、天皇の意思を確かめ、その返答によって、自分も態度を決めなければならないのだ。この真崎の胸算用は、決起軍が反乱軍とされた時から、大勢に流されることになり、青年将校たちからは、恨まれることになっていくのである。
反体制派の決起には、こういう日和見をする人物は珍しくはないが、その末路は栄光のあるものとは限らないのが普通である。
一方、奥の一室で陸相対真崎が密談している間に、磯部が軍務局員の片倉|衷《ただし》少佐を狙撃するという事件が起きていた。距離十三メートル、磯部が発した弾は、片倉の左頭部に命中し、かなりの出血が庭の雪を赤く染めた。
磯部は昭和九年の十一月二十日に予定された陸軍士官学校事件以来、片倉と辻政信を恨んでいた。この時、磯部らの皇道派青年将校は、二・二六事件の予兆ともいうべきクーデターを計画していた。これには陸士の士官候補生数名も加わっていた。磯部たちのクーデター計画では、村中や栗原を含む軍人に、西田税も参加させて、まず次の重臣たちを粛清することにした。
第一次 斎藤前首相、牧野内大臣、岡田首相、鈴木侍従長、西園寺公望。
第二次 一木枢密院議長、高橋前蔵相、清浦元首相、湯浅宮内大臣、財部《たからべ》元海相、幣原《しではら》元外相。
クーデター成功後は、真崎、荒木、林の三大将を首班とする軍政府を樹立して、(『日本改造法案大綱』に基づく)改革を行なう。
ところがこれが憲兵隊に洩れたのである。それは陸士の中隊長であった辻大尉が、参謀本部員であった片倉と組んで、佐藤勝郎という候補生をスパイとして、この行動に加担していた候補生の周辺から、クーデターの情報を得て、その結果、憲兵隊司令部では、関係者を逮捕し、事件を未然に防いだ。
この事件で磯部や村中らは、停職となり、辻や片倉を憎んでいたのである。
狙撃された片倉の回想では、「大臣への面会を次官に要求していた時、間一髪、左頭部に強打されたような衝撃を受け、続いて鼻に異臭を感じた。これは撃たれたな、と思い左手で傷を抑え左方を見ると、白面の大尉が抜刀して構えていた。私との間には拳銃が落ちている。私が大喝して、『刀を収めろ』と叫ぶと、その大尉は刀を収めたが、私の進む気配を感じると、再び抜刀した。私は『刀を抜く必要はない。話せばわかる』と言い、『貴様は香田大尉だろう。兵力を動かすのは、天皇陛下の御命令でなければいけない!』と一喝すると、大尉は刀を収めた」となっている。
磯部側の記録によると、「狙撃すると片倉が四、五歩転身するのと、自分が軍刀を抜くのとが同時だった。片倉の顔面に血が垂れて、悪魔相の彼が『撃たんでもわかる』といいながら傍の大尉に支えられている。やがて彼は大尉に付き添われて、『やるなら天皇陛下の命令でやれ!』と怒号しつつ去った。降雪|霏々《ひひ》としてくる。滴血雪を染めて……」となっている。(磯部はこの年七月刑死するが、片倉はこの後、関東軍参謀となり、昭和十九年三月陸軍少将、第二〇二師団長として、終戦を迎えることになる。筆者は昭和五十年頃、『松岡洋右・人と生涯』〔荻原極・講談社〕の出版記念会で片倉氏に会った。骨太で大きなごつい老人であった)
この狙撃事件が午前九時頃、そして午前九時半頃、川島陸相が苦渋の表情で、参内すべく自動車に乗った。
北一輝がこの事件を知ったのは、彼の軍法会議における陳述によると、この磯部による片倉の狙撃事件が起こった、午前九時頃、薩摩からの電話によってである、となっているが、実は磯部や安藤と連絡をとっていた西田税からの通報でもっと早く知っていたと思われる。北には中野から二十キロ近く離れた麻布三連隊で、安藤の中隊が雪を踏む軍靴の音が聞こえたという霊能があったので、すでに決起は知っていたとみるべきであろう。
皇居に入った川島陸相は、取敢えず侍従武官長の本庄繁大将と面談、現在の情報を交換し、拝謁するとまず青年将校たちの「決起趣意書」(後述)を読み上げた。天皇は明らかに機嫌を損じているようである。
この朝、天皇が事件を知ったのは、北が妻のすず子の霊告によって、事件を推測した時間と、さほど変わらない時間であった。
斎藤内大臣邸が襲われたのは、午前五時五分であるが、その少し前、歩一の山口大尉(本庄の女婿)の使いだといって、伊藤少尉が本庄の邸を訪れ、
「第一連隊の兵約五百、制し切れず、いよいよ直接行動に移る。猶引き続き増加の傾向あり」
というメモを渡した。本庄は直ちに宿直の侍従武官・中島鉄蔵(少将)に電話で連絡した後、参内の用意をした。中島は直ぐ侍従の甘露寺受長《かんろじおさなが》に知らせ、甘露寺が天皇に報告したので、午前五時四十分には、決起の知らせは天皇のもとに届いていたのである。
その頃、北は中野の自宅の奥の十二畳の部屋で、半睡半覚の彼が愛好する時間を過ごしていた。
本庄が参内したのは、午前六時過ぎで、川島が皇居に到着したのは、午前十時近くであったから、その間に天皇のほうには、ある程度の情報は入っていたと思われる。
本庄が改めて歩一、歩三、近衛歩三の部隊が独自に指導して、岡田、斎藤、鈴木、高橋、渡辺らの重臣邸を襲撃し、重臣の生死は未だに不明である……ということを報告すると、三十六歳の天皇は眉を寄せて、
「これは我が帝国の軍隊としては、未曾有の不祥事である。国民への影響を考えれば、非常に憂慮すべき事柄である。速やかに事件の実態を調べ、出動した軍隊を旧に復せしめよ」
と命令した。
川島陸相のほうは天皇の機嫌を憂いながら、趣意書を読み終わった。
天皇は顔をしかめたまま、
「何故、そのようなものを読むのか?」
と極めて不興の態である。
川島が、
「この度の事件は、趣意書にもありました通り、殉忠報国の深い意識に基づくものであります。兵力乱用、大官暗殺の不祥事ではありますが、何卒御理解頂きたく存じます」
というと、天皇は異な事を聞くという表情で、
「陸軍大臣のいうことは、私には理解出来ない。精神の如何を問わず、かくのごとき事件を起こすとは、甚だ不本意である。国体の精華を傷つけたものである。我が股肱の老臣を殺害して、何のための殉忠であるのか? このような凶暴な将校などその精神において、何の許すべきものやあらん。陸軍大臣は速やかにこの暴徒を鎮圧せよ」
と強い調子でいった。
天皇自らが決起軍を暴徒と決めつけたので、川島は全身が硬直するのを覚えた。
陸相官邸で磯部や栗原の話を聞いていると、今度の決起はあるていど宮中に近い線から、天皇のお耳に入っていて、あるいはご了解の点もあろうか……と思われる節があったが、今、天皇のお怒りに触れてみると、決起は突然で天皇の側には、なんの連絡もなく皇軍を動かしたもので、事後の処理は極めて困難と思われた。
この段階で川島はなにものかの不可思議な動きに気づき始めた。――容易ならぬなにかが、後ろで糸を引いて、青年将校らを操っているらしい。ここは慎重にやらなければ、取り返しのつかぬことになるかもしれないぞ……。
天皇の指示によって、川島は軍事参議官……皇族・梨本宮《なしもとのみや》大将、荒木貞夫、真崎、林銑十郎、阿部信行(大将、軍事参議官、陸士九期、真崎、荒木、本庄らと同期生)らを皇居へ召集した。
元来、陸軍の大事なことを決定するには、三長官(参謀総長、陸相、教育総監)の合意が必要であるが、参謀総長の閑院宮は老齢で、熱海で静養中、渡辺総監は襲撃され、生死不明なので、荒木が、
「軍の長老としてご奉公したい」
といいだした。
といってもこれらの軍事参議官のメンバーをみると、真崎、荒木はまさに皇道派に担がれており、林もその同調者なので、軍事参議官会議の方向は、本庄にもほぼ想定された。
とにかく、このメンバーで二十八日までは、決起部隊の説得にあたることになった。
まず荒木と真崎の指示で決起部隊説得の陸軍大臣告示を作成することにした。
この頃、憲兵司令部にも、次の幹部が集まっていた。
杉山参謀次長、今井軍務局長、山脇整備局長、参謀本部各課長、石原作戦課長、憲兵司令部総務部長・矢野少将。
矢野から決起の様子を聞いた杉山は、参内して事件の概要を上奏し、かつ人心安定のために第一師団の甲府、及び佐倉の部隊を上京させることをも上奏した。
この頃には、次の幹部が宮中に入り、軍事参議官室の隣室に待機することになっていた。
杉山次長、岡村(寧次)参謀本部第二部長、山下(陸軍省軍事調査部長)、石原作戦課長、村上(啓作、大佐)軍事課長、それに香椎《かしい》(浩平、中将)東京警備司令官。
軍事参議官会議で討論の上、陸軍大臣告示を決起軍将校に示すことになり、山下と村上が、次のように告示を作成して、陸相官邸に持参した。
大臣告示
一、決起の趣旨については天聴に達せられあり。
二、諸子の真意は国体顕現の至情にもとづくものと認む。
三、国体の真姿顕現の現況(弊風をも含む)については恐懼《きようく》に堪えず。
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨により邁進することを申し合わせたり。
五、之以上は一に大御心《おおみこころ》にまつ。
陸相官邸に着いた山下は、香田、磯部、村上、野中、対馬らの将校を集めて、この大臣告示を朗読した。この時、「諸子の真意は」というところが、「諸子の行動は」と変わっていた。山下が決起将校たちに有利に、変更したものであろうか? ……。
読み終わった山下は、
「わかったか?」
と将校たちを見回した。彼は後ろめたいものを感じていた。皇居で軍事参議官の様子を聴くと、陛下のお怒りはこのような生易しいものではないようである。しかし、今、ここで天皇が決起将校を暴徒とし、その鎮圧を下令したことが、決起軍にわかると、正に皇軍相討つ……という不祥の事態が発生する恐れがあった。
青年将校のほうも、こういう文章では、果たして自分たちの国家改造の意図が、どの程度天皇の御心にかなっているのか不明である。まず対馬中尉が質問した。
「軍当局は我々の行動を正当と認めたのですか?」
これに対し山下は、
「ではもう一度読むからよく聴いておけ」
と再度朗読した。
今度は磯部が聞いた。
「それでは我々の行動が義軍の義挙であることを、認めたのですか? 少なくともそう解釈してよいのですか?」
しかし、山下は、
「ではもう一度読む」
といって朗読を繰り返すと、黙って引き揚げてしまった。
磯部たちは窓のそばに立って、皇居のほうを眺めていた。雪はまた降り出している。お堀の水面に水鳥の姿がぼんやりと見えた。
――これ以上は大御心にまつ……一体陛下の真意はどこにあるのか? ……陽は西に傾き、あたりは暗くなってきたようである。――今は時間が重要である。貴重な時間が……それによって、革命が成立するか否かが決まるのだ……。
磯部が苦慮していると、村上大佐が姿を現して、
「只今、維新の大詔が作成されつつある。内閣が辞表を出しているが、大臣の副署が出来ないので、遅れているのだ」
と告げたので、決起将校たちは歓声を挙げた。
――これでおれたちの決起は昭和維新の大業として、歴史に残っていくのだ……早くも感慨が磯部の胸に湧きつつあった。
間もなく先の大臣告示とともに第一師団の「戦時警備令」に伴う「軍隊に対する告示」が陸相官邸に届けられた。
後者は、決起部隊を「本朝来行動しつつある部隊」と呼び、「戦時警備部隊の一部に編入する」としているので、磯部や安藤もほっとした。
午後四時、戦時警備令に基づく第一師団命令が通達され、その中には、「本朝来行動しつつある部隊」を歩兵第三連隊(長・渋谷三郎大佐)の指揮下に入れる、と指定してあり、軍事参議官会議の達示「この部隊を敵と見ず友軍となし、共に警戒に任じ、軍相互の衝突を絶対に避けること」という通知も届いたので将校たちの表情も明るくなってきた。
しかし、問題はこれらの通知の文書にあったのだ。これらの文書はすべて決起将校たちを懐柔するための方便であったかもしれないが、命令、告示の形をとれば、決起を義挙と認めたことになる。従って事件後にこれらの通達は反乱|幇助《ほうじよ》ではないかと指摘され、また決起将校からは上層部の欺瞞であり、裏切りだと、不信と憤慨を招くことになるのである。
しかし、それは後の問題で、少なくとも事件第一日は、決起将校側に有利に事が進展していくように思われた。
「よし、この調子だぞ、これなら昭和維新も成功するかもしれないぞ!」
そういって磯部は村中や安藤の顔を見たが、磯部ほど熱血的になれないこの二人はまだ、楽観するには早い……というような表情を示していた。
軍関係はそのように磯部の願望に沿って動いているように見えたが、政府でも騒ぎはあった。
岡田首相が暗殺されたというので、まず代理の首相を決めなければならない。午後七時、後藤(文夫)内相が、臨時首相代理に任じられ、八時から宮中で閣議が開かれ、取敢えず内閣は「戒厳令」の発令を可決した。(戒厳令は枢密院の承認が必要で、これが可決されるのは、二十七日午前三時となる)
一方、陸相官邸では閣議の様子を聞いた将軍たちが、強気になってきた。
午後九時、陸相官邸で、決起将校と軍事参議官たちが会見、香田が決起の趣意と陸相への要望を述べた。
すると太い髭を生やした荒木大将が、
「君たちが天皇大権を私議するようなことをいうならば、我が輩は断然意見を異にする。お上がどのくらい御軫念《ごしんねん》になっておられるか、考えて見よ!」
と叱るようにいったので、将校たちはショックを受け、騒然となった。
さすがに磯部は政治将校といわれるだけあって、立ち直り、
「荒木閣下、なにが大権私議ですか? ……国家重大の時に国家の為に人物(真崎の如き)の出馬を要請するというのが、何が大権私議ですか? 皇族内閣の案が幕僚の間に出ている時、もし一歩を誤るならば、国体を傷つける大問題となるのではないか?」
と反撃した。
その権幕に押されて荒木もしばし沈黙し、林、真崎、阿部、西らの将軍も、荒木と磯部を半々に眺めていた。
しかし、これで決起将校側が有利になったとは言い難い。彼等は荒木が真崎ほど決起に同調しているとは考えていなかったが、ここへきて皇道派の信頼できるシンパである筈の荒木が、天皇大権≠持ち出すと考えてはいなかった。皇道派の原動力だと自らを信じて、決起した青年将校としては、天皇の大権を犯しているといわれるのは、非常な自家撞着となる可能性があった。
これがはしなくも決起軍の崩壊の一角となっていくので、強気の磯部も首筋が寒い気持を禁じ得なかった。安藤や栗原も両肩に、重いものがのしかかってくるのを感じていた。
[#小見出し]   北一輝と正義軍
一方、北一輝のほうでも、警察から眼をつけられていた。先述の通り、薩摩が事件の発生を知らせてくれたのが午前九時だが、その後、すず子にはいくつか霊告があったが、決起事件に直接関係のあるものはない。
西田は陸相官邸の決起将校と軍事参議官、真崎、斎藤(瀏)らと連絡をとり、北一輝に状況の変化を知らせてきていた。そのほか右翼の幹部……中野正剛らからも連絡があった。やまと新聞社長の岩田富美夫(右翼の幹部)から、各重臣邸が襲われたことと、決起軍が首相官邸、陸相官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部などを占拠している……という報告があり、正午頃には岩田が護衛の為といって、若い者三、四名を中野の北一輝邸に派遣してきた。
午後には中野署の特高主任がきて、情報を話し、午後四時頃には西田がやってきて、集まっただけの情報を伝えた。
西田の話では大体決起の目的は果たしたということであったが、北は心配していた。決起軍が第一師団の第三連隊の指揮下に入れられたということが、皇軍の一部として認められたようなことをいって、喜んでいるが、
「それは却って不十分だ。大きな兵力のもとに組みこまれるのは、早すぎる。問題はどちらが玉《ぎよく》を手中に握るかということだ。五・一五事件では全然そういう考えがなかった。今度はそれを最初に達成しなければ、将軍たちに抑えつけられる恐れがある」
と北は西田と薩摩を戒めた。
西田もそれはもっともだと思ったが、陸相官邸における荒木と磯部の大権問答≠まだ聴いていない西田としては、当座打つべき手もないように思われた。
「それでは、やはり決起軍で宮城を占拠しますか」
「市民に決起の趣旨を知ってもらうように、ビラを撒くべきでしょうか?」
というような意見が西田と薩摩の間で出たが、北は超然として仏間に入り、日蓮上人の画像の前でお経をあげていた。
西田の話の中で、政府、陸軍省は戒厳令を考慮している、という話が出ている、ということを北は心配していた。戒厳令が布《し》かれれば、決起軍も当然その重要な任務に当たるだろう……と彼等は考えているらしいが、軍上層部の謀略では、戒厳令を布いておいて、東京以外の部隊を上京させ、天皇の勅許を賜り、決起軍の鎮圧を図るということが、考えられる。――一時的でも真崎を首班とする軍事内閣が出来れば、その程度で収まるのかもしれない……と北は醒めた考えをしていた。元々彼は思想家で、レーニンのような革命の実際家として、武力を振るう気持はなかった。決起軍の青年将校たちは、北の『日本改造法案大綱』を国家改造の聖典のように考えているらしいが、それはいつのまにか北一輝をカリスマに祭りあげた人々の仕業《しわざ》であって、北は革命の指導をする気持はなかった。
北はしばらく西田を自宅に留めておくことにした。四年前の五・一五事件の時、西田は時期尚早≠ニして、三上卓ら青年将校にブレーキをかけたというので、川崎長光に狙撃され、重傷を負っている。
午後七時頃、薩摩は帰った。
「五・一五事件の時もそうであったが、重臣や軍の上層部とよく打ち合わせをしておかないと、失敗する。今回は真崎、荒木、石原課長、小畑少将、鈴木貞一大佐(歩兵第四連隊長)には事前に十分な打ち合わせをしていたのか?」
と北が聞くと、西田は、
「ひとりにも話してはありません」
といったので、北は青年将校たちの過信を心配した。
西田は割に楽天的で、
「今回は陸相官邸に軍事参議官全員が集合し、『我々軍事参議官は決起軍の諸君とともに、昭和維新の推進に努力する』といいましたので、みな安心していました」
といい、続けて、
「青年将校側は台湾軍司令官の柳川平助中将(陸士十二期、杉山、畑、小磯らと同期、皇道派で真崎と並ぶ青年将校の期待する人物)を総理とすることを希望しておりました」
といったので、北は落胆した。青年将校たちは北の『日本改造法案大綱』に心酔して、今回の決起に踏み切ったらしいが、北には決起のなんの相談もなく、西田を通じて彼等が策を練っている……ということを聞いて心配していただけである。上層部に意図を通じておかなければ、革命行動は成功しない。どうして青年将校たちは早飲み込みの独断で、大事件を起こすのか? ……北自身も『日本改造法案大綱』はいずれ実現されるべき新しい救国の政策であると考えているが、それには覚醒した上層部を味方に引き入れ、特に天皇がこれをご嘉納にならなければ、実現は難しいと考えていた。(明治維新が成功したのは、天皇、公家を仰ぎ、列強雄藩が味方についたからであった)
しかし、青年将校らにいわせれば、かつての三月事件、十月事件(いずれも昭和六年)の失敗は、なまじクーデター以後の政権担当者(宇垣の如き)と目される上層部に連絡したために、裏切られたのが原因であり、五・一五事件は下級将校だけで決起したので、一応の成功を見たのである。(その後の政権奪取はならなかったが)
北は思想家であるから、上層部を自分の信者にして、上からの改革を考えていた。青年将校たちは決起に成功したならば、自分たちで自由に首班を選べると、簡単に考えている。――革命というものはそれほど生易しいものではないのだ。明治末期の中国革命に介入して、苦盃をなめた北は、その点慎重であった。重臣を何人か殺したといって、陸海軍の総帥である天皇に、その意図を通じておかなければ、結局は皇軍を独断で動かした、ということで、逆賊、反乱軍になりかねない。その段階になってから、北のところに支援を頼んできても、大勢を変えることは不可能である。
五・一五事件では犬養総理を射殺したが、その後の青写真≠ェなく、なんら建設的な方策は立っていなかった。これには昭和七年二月の藤井斉の戦死によって、残された三上たちが早急に挙兵したことも原因であるが、上層部に根回しをする大物のオルグを欠いていたことも、進展を欠いたことの原因であった。どうも青年将校たちは自分たちでやりたがる。老人は腐敗し無気力の事勿《ことなか》れ主義が多すぎる……と若い者の手柄にしたがる客気は自分でも経験があるが、天皇の軍隊を動かす以上は、天皇の了解を取りつけることが必要であったのではないか? ……。
この点、政友会の重鎮である久原《くはら》(房之助)は、乱世に活躍する型の怪物であり、この混乱に乗じて、あわよくば政権の座につこうと考え、配下の亀川哲也を使って、各界の情報を集めていた。
この日朝、亀川は午前四時半に真崎邸を訪問している。すでに三連隊あたりが非常呼集を行なったことを知って、クーデター発生の時は、真崎を首班と仰ごうという青年将校たちの希望を伝えにいったのである。彼はまた鵜沢総明《うざわふさあき》(明大総長、弁護士として日比谷焼き打ち事件、大逆事件の弁護を手掛ける。政友会代議士、貴族院議員)宅にも行って、親しくしている西園寺と連絡をとるよう(後継総理推薦の時の仲介を頼むため)依頼している。この後、林大将に電話、そして自宅で山口一太郎大尉の書生と面談(このため山口は逸早く本庄侍従武官長に決起のことを知らせることになる)、このあと西田に決起のことを連絡、次いで海軍の有力者・山本英輔大将(山本権兵衛の甥、海兵二十四期、元連合艦隊司令長官、議定官)に電話で事件を知らせ、後継総理について相談する。この時、久原案の宮様内閣の話も出た。この後も亀川の活躍は続くが、鵜沢の話では、西園寺との調停は不可能、山本大将は「陸軍に任せたい」というので、多くの実りはなかったが、情報は多く集まった。
またこの夜、十一時頃、やまと新聞の岩田富美夫がきたので、北は前に霊告で聞いておいた正義軍≠フ話をした。岩田は、
「新聞の号外では革命軍といっておりますが……」
といったが、北が、
「本朝未明の霊告では、革命軍の上に二本棒を引いて、正義軍となっていた」
と話すと岩田も了解した。
一方、陸相官邸の青年将校たちは、不安に駆られていた。
この日、午後四時には、彼等も第一師団歩兵三連隊長の渋谷三郎大佐の指揮下に入ることになり、一応は革命軍たることを認められたのか……とほっとしたが、午後九時になって、荒木大将から「大権を私議するのは怪《け》しからん。お上が心配しておられる」という意味の叱責があり、なおも将軍たちと青年将校の間に、激論が戦わされている間に、長い一日が終わって、二月二十七日の朝に入った。
[#小見出し]   戒厳令と正義軍
決起の翌日、二月二十七日の最初の登場人物は、皇道派の闘将ともいうべき橋本欣五郎大佐(三島野戦重砲第二連隊長)で、彼は午前一時、帝国ホテルに部屋をとると、石原と満井佐吉中佐(皇道派、陸大教官、前年八月、軍務局長・永田鉄山少将を斬殺した相沢三郎中佐の特別弁護人となる)を呼んで事態収拾のための協議を行なった。
まず橋本が、
「天皇に大権の行使を仰いで維新を断行する。決起部隊は原隊に撤退する」
という案を出したが、後継首班について意見が分れた。橋本は建川中将(陸士十三期、大阪の第四師団長、日露戦争当時、特別挺身隊を率いて、奉天北方のロシア軍の状況を偵察し、その功績が『敵中横断三百里』〈山中峯太郎著〉という少年読物となった)を推し、石原は東久邇宮《ひがしくにのみや》(稔彦《なるひこ》王、軍事参議官)、満井は初め真崎であったが、可能性が薄いとして、海軍の山本英輔大将を推した。
宮様を持ち出すのは、皇室に傷がつく恐れがあり、建川では青年将校たちに抑えがよく利かない……というので、ここは海軍にバトンを渡したほうがよかろうと、結論は山本ということになり、亀川にその連絡を頼み、村中をホテルに呼び、右の条件で決起部隊の撤退を勧告した。
しかし、村中が陸相官邸に戻って、これを一同に図ると、磯部が反対した。
「皇軍相撃つ訳にはいかないから、歩一に引き揚げよう」
というと、磯部は、
「皇軍相撃がなんだ。これは革命の原則ではないか? 貴様たち同志が引き揚げるなら、おれひとりでも留まって斬り死にするぞ!」
と血相を変えた。安藤や野中は引き揚げる原隊があるが、民間人である磯部には、それがない。逮捕されるのがいやなら、変装でもして逃げ回らなければならないのだ。この男は骨の髄まで革命家なのか……と村中らは当惑した。
磯部の案は、
「田中(勝)砲兵中尉と栗原中尉の隊で出撃し、戒厳司令部のある参謀本部を潰滅させることだ」
というので、これは成功の確率が低く(すでにかなりの部隊が上京していた)、成功してもあとは自滅するより外はなかった。
すでに午前三時、枢密院は戒厳令を可決し、戒厳司令官は香椎浩平中将、参謀長は安井(藤治、十八期、東京警備参謀長)少将、作戦課長は石原莞爾と決まっていた。
石原はホテルから戒厳司令部に戻ると、杉山参謀次長に、
「この際、臨時総理より天皇に『維新を断行する。そのために建国の精神を明徴にし国防を充実し国民生活を安定せしめよ』というお言葉を賜るよう上奏してもらう」
という意見を出したが、杉山は、
「今の段階で陸軍から陛下に強要するようなことはできない」
とこれを拒否した。
その直後、杉山は参内して、反乱(決起)部隊鎮圧の奉勅の允裁《いんさい》を仰いだが、天皇は機嫌よく直ちに裁可があった。戒厳司令部に戻った杉山は戒厳司令官の香椎中将にこの旨を伝え、実施時刻は二十八日午前五時と指定した。
この段階で安藤や栗原たちの決起軍は、ひそかに反乱部隊とされていたのであるが、青年将校たちはまだその事実を知らなかった。
[#小見出し]   人無し、勇将真崎あり
一方、中野の北一輝の家でも、苦悶している人間はいた。カリスマの北も、この先、決起部隊をどう扱うのか、悩んでいた。第一師団に組み入れられた以上、彼等は師団長、連隊長の命令に服従しなければならない。しかし、その前に内閣が総辞職して、皇道派の将軍に首班が回れば、まだ道は開けるかもしれない。
北が苦悶しているとすず子が、霊告を持ってきた。「マサキ」と書いてある。
「そうか、やはり真崎か……」
愁眉を開いた北は、机に向かうと、紙に筆を走らせた。時刻は午前十時半頃、杉山が天皇のご裁可をもらって、戒厳司令部に向かった頃である。
午前十一時頃、陸相官邸の決起将校たちに、北の代理として、西田から電話が入った。出たのは村中である。
「おうい、北先生からお告げがあったぞ!」
そういうと彼はメモを読み上げた。
「人無し、勇将真崎あり、国家正義軍の為号令し、正義軍速やかに一任せよ」
これを聞いた将校たちの一部から、歓声が上がった。もちろん、この時点で皇居で杉山が、天皇に反乱部隊鎮圧の裁可を得たことを、彼等は知らない。
「やはり真崎閣下か、この上は是非ともお願いするのみだ」
陸士で真崎校長の勇姿に接したことのある将校たちは、意気が挙がった。
ひとり沈黙しているのは磯部である。この二十七日朝、午前三時頃、戒厳司令部が設置され、戒厳令は実施の段階に入っている。相当な大部隊が各方面から、上京していることが想定される。今になって真崎大将が決起部隊の指揮と、彼等の趣旨を実施すべく、天皇に上奏し、内閣を組織できるであろうか? ……。
「時間がない……」
とつぶやきながら、磯部は時計を見た。――もっと早く決定的な手を打つべきだった、陸相や軍事参議官などを相手にせず、皇居を取り巻いて直訴に及ぶべきだった……磯部は徐々に絶望と脱落感に苛《さいな》まれていった。(『本庄日記』によると、この日の朝、天皇は、「朕の股肱の重臣を殺戮《さつりく》するような将校は、朕自ら近衛師団を率いて、鎮圧に当たらん」という強い決意を側近に洩らしていたのである。決起部隊はあまりにも真崎や柳川らの将軍に期待して、時を浪費したのではないか? ……)
そして北もやがて、――玉《ぎよく》を手中に入れることが出来なかったということでは、駄目だ……とうめくようになっていくのである。
[#小見出し]   カリスマと志士たち
しかし、決起軍の将校たちは、まだ北のカリスマ的魅力に取りつかれていた。『日本改造法案大綱』の壮大な国民救済の論理と日本民族発展の大理想とは、彼等の心情を捉えて放さないし、五・一五事件において、海軍が西田の「時期尚早」(北の霊告による?)という抑止に抵抗して発動し、その後の組閣、政治指導に殆ど形を為さなかったことなども、北のカリスマ的威力を示すものとして、高く評価されていた。
洋の東西を問わず、動乱の時期にはカリスマが現われやすいが、救いの手が延べられない時、民衆は救世主の形で、あるいはその代用として、カリスマを求める。
ローマに虐げられたユダヤ人の前には、キリストが現われた。キリストも最初は新興宗教の教祖と見られたかもしれない。
カリスマも多くの試練を経て広い地域に定着すれば、既成宗教と肩を並べ、またはこれらを凌駕することもできる。途中で弾圧のために倒れても、殉教者として名が残ることもある。
カリスマを教祖にまで押し上げるものは、民衆の渇きで、その度合によって、カリスマと教祖の差が出てくる。
吉田松陰は長州において、幕末、尊皇攘夷派のカリスマであったが、明治維新成功の後は、長く維新成功の礎石として、尊崇を集め、それは敗戦によって明治以降の天皇制が更新されるまで続いた。
こういう精神構造は、幕末の勤皇の志士たちによく見られるところである。
そして彼等の多くは論理的にそのカリスマに心服するというよりも、宗教的に帰依するというタイプが多く、特に尊皇攘夷のために暗殺を業とする下級武士に、そのタイプが多く見られるようだ。
幕末、文久年間、土佐・勤皇党を率いる武市半平太は、岡田以蔵らの刺客を使って、幕府の役人、その手下、尊皇攘夷に反する武士や公家らを多く暗殺した。この場合、武市は一種のカリスマで、土佐の藩論が前藩主の山内容堂によって、公武合体に転じると、武市らは逮捕処刑された。
カリスマは歴史的にみて興味ある存在であるが、超現実的もしくは超論理的であるために、危険な存在であることが多い。松陰の門下には優秀な人物も多かったが、元治元年の夏には、京都に放火して、天皇を琵琶湖の東に移し、尊皇攘夷を実現しようとして、池田屋で新撰組に暗殺された志士たちもいる。
ほぼ同じ時期に薩摩では、西郷隆盛が松陰に似た扱いを受けている。
松陰はその学問から導いた思想と、指導の論理が下級武士の尊敬を集めたのであるが、西郷の場合はそれほど学問的でも論理的でもない。その魅力は専らその人柄……人徳によるもので、無私、無欲が桐野利秋の如き過激な薩摩っぽの心情を強く捉えたのである。
但しここで間違わないようにしたいことは、西郷が銅像の如くただ屹立していて、無言のうちに薩摩武士たちを感化していった、という説である。
明治元年までは多くの革命家に見られるように、西郷も優れた思想家であり、武将としても有能であった。幕末の彼の動きを見ると、東奔西走して、若々しい活動ぶりを示している。
彼が「敬天愛人」を旨として、多くの部下たちから神の如くに仰がれるようになるのは、明治維新後に著しくなる特徴である。
なぜ桐野や篠原|国幹《くにもと》は、西郷を神の如くに崇拝し、母の如くに慕ったのか?
それは明治維新後、薩摩武士が、大久保利通の指導する中央と拮抗するため、超人的な指導者を必要としたからに外ならない。
桐野たちは自分たちの決起に十分な成算を抱いていた訳ではない。
只、薩摩が立てば全国の不平武士が挙《こぞ》ってその旗のもとに集まるであろう……という願望があり、それを実現するためには、その旗の如き人物を必要とした。それが西郷どんであったのだ。西郷がいなければ、西南戦争は起こり得なかったであろう。
桐野らにとって西郷はカリスマというよりも、宗教的な神に近い存在であった。彼等はこの神をかついで挙兵した。
古来多くのカリスマが歴史に登場しているが、誰でもカリスマになれる訳ではない。
カリスマにはそれらしい非凡な風貌が要求される。(その点、北一輝が一眼であったことなども、ある程度の影響力をもっていたのかもしれない)西郷どんには、いかにも巨人らしい風貌があり、無言にして人を感化、心服せしめる力があった。西郷が異常なほど頭のよかった人物かどうかは、今もって疑問がある。しかし、無欲、無私の性格は、無言にして、多くの人の尊敬を集め得た。
カリスマにも要求される属性がある。それは予言と奇蹟である。予言という意味では勝海舟が、幕末の代表的なものといってよかろう。
奇蹟によってカリスマ扱いをされたのは、東郷元帥であろう。日本海海戦で彼は奇蹟といわれるグランドスラム的大勝を勝ち取って、一躍英雄となり、広く海外にその名を知られた。但し、この国民的英雄も予言者としては、僚友・山本権兵衛のあとを継いで、大艦巨砲主義を推進したとされ、戦後は学者やマスコミから格下げされた感がある。
筆者は東郷元帥が英国のネルソンらに比べて、実戦の提督として劣らぬ名将である、と考えている。なるほど作戦参謀の秋山真之は頭脳明晰な天才的な戦術家であり、参謀長の加藤友三郎も、戦後に二度も海相を務め、日本海軍の大艦巨砲主義を転換させ、ワシントン軍縮会議を成功させた、優れた軍政家である。しかし、三笠艦上においてこれらの秀才に十分その力と才能を発揮させ、批判を受けるところがなかったのは、やはり東郷に人を心服させる力があったと見るべきであろう。
東郷は自分と部下の全力を史上最大の海戦において、十分発揮させ、国民の尊崇のうちに、その生涯を終わることのできた、幸運な提督というべきであろう。
[#小見出し]   西郷と北一輝――カリスマたちとその最期――
西郷と北一輝には、タイプが全然異なるにも拘わらず、そのカリスマとしての最期には、共通するところがある。
まずこの二人は、彼等を崇め、そして頼りにしている部下や信者たちに担がれて、事件の首謀者とされる。
西郷は篠原たちが鹿児島にある政府の弾薬庫を襲撃するまで、挙兵する気持はなかった。ただ、薩摩や大隅の山野で、狩猟にあけくれしておれば、それでよかったのである。しかし、ついに彼は桐野らに、
「よか、おいどんの命、おはんたちにくれもそう」
と結局、政府詰問の為、上京する道を選んで、熊本から鹿児島に逃げ帰り、城山で果てる運命にあった。
北の場合も今までに述べた通り、青年将校たちは五・一五事件の時の西田の行動にこりた形で、北一輝には無断で挙兵している。それにも拘わらず、北は逮捕された時、
「青年将校たちは自分の『日本改造法案大綱』を読んで民衆のため国家改造に踏み切った。もし自分が死刑にならなくても、自決して彼等のあとを追うつもりだ」
と責任感の強いところを表わしている。
実際には度々青年将校に檄をとばし、あとは引き受けたようなことをいっておいて、いざ喚問されると、なにもいってはいない、と逃げ、無罪となった、青年将校たちの頼みの綱の真崎に比べれば、北一輝の態度はカリスマらしく俗事には淡々としたもので、さすがだと思われる。
しかし、真崎がいかなる人物であったのかは、まだわかっていない。
決起部隊の将校たちが、まだ真崎を頼っていることを見た磯部は、取敢えず真崎と会見したいと、陸相に申し出た。
午後四時、真崎は陸相官邸に姿を現わし、西、阿部の両軍事参議官とともに、決起部隊将校十八名と会見した。果たして北の霊告通り、勇将・真崎は決起部隊を正義軍として、正当化してくれるであろうか? ……。
野中が、真崎に、
「我々の微衷のほどはご存じの筈です。どうか志を遂げさせて下さい。軍事参議官の話し合いで我々の本当の志を、上聞《じようぶん》に達してもらいたいのです」
と嘆願したが、その返答は誠につれないものであった。真崎は顔色をあらためて、厳しい調子でいった。
「軍事参議官というものは、陛下の御諮詢《ごしじゆん》なくしては、行動はできない。今、収拾の道は、君たちが原隊に復帰することだ。これだけいっても、戒厳令に背く行動にでるならば、錦の御旗に弓を引くものとして、老いたりといえども、この真崎が陣頭に立って、可愛いお前たちを討つぞ! 連隊長の命令に従って、勅命のままに行動せよ!」
真崎の話を聞いているうちに、磯部は背中が熱くなっていくのを感じた。
かつて我等青年将校の集まりに顔を出しては、
「統制派の今のやり方は、ご聖旨にかなうものではない。諸君らの皇道派の革命的行動以外には、この国を救う道はないのだ」
と激励してきた、尊敬の的の真崎陸士校長の面影はどこにもないではないか? ……。
第一師団命令も決起部隊を義軍とみなしている。義軍がどうして錦の御旗に反抗するのか? ……青年将校たちは頭の中が灼熱し、それが冷えていくのを感じた。
時間は容赦なく過ぎてゆく。
午後五時少し前、決起部隊は、農相官邸、鉄相官邸、文相官邸、赤坂の山王ホテル、料亭・幸楽を宿舎にすると指定されたので、やはりおれたちは義軍だ、そのことは第一師団長(堀丈夫中将)もご承知なのだ……と磯部らもやや安心した。
[#小見出し]   秩父宮と二・二六事件
こうして折角の北一輝の霊告による勇将・真崎担ぎ出しも、無効となり、青年将校たちの胸中に重いものが沈澱し始めた頃、吉報が届いて、彼等をほっとさせた。
それは弘前の第八師団で歩兵第三十一連隊の第二大隊長を務めていた、秩父宮雍仁親王の上京である。秩父宮は昭和十年八月一日付で陸軍歩兵少佐となり、弘前に赴任していた。
この人事については、陸軍部隊内で憶測が流れていた。それは皇道派の中に、秩父宮を擁立して軍隊と政治の革新をやろうという、動きがあるということである。裕仁天皇と弟の秩父宮は不仲であり、秩父宮は革新将校と親しく、現天皇を退位させて秩父宮が摂政となり、革新を実行するだろう……という噂である。
秩父宮はスポーツの宮様といわれ、活発な性格で、革新には向いている……という噂を立てる者もいた。
陸軍省内で白昼永田鉄山軍務局長が、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されたのが、事件の前年の八月十二日で、その原因は、真崎大将の教育総監から軍事参議官への更迭(十年七月六日)で、この人事の責任者が、永田軍務局長であった。
この頃、すでに皇道派と統制派の争いは激化しており、いずれ皇道派の暴発は必至と見られていた。その場合、決起部隊が秩父宮をかつぐおそれが大であるとみて、軍の上層部は宮を弘前に移したのである。
実のところ秩父宮は、武力クーデターによる革新運動に加担する気持はなかったといわれる。そういうムードを醸成したのは、宮と同じ陸士三十四期の元少尉・西田税で、彼は宮が陸大の学生や参謀本部付の頃、宮に接近して北一輝の『日本改造法案大綱』をひそかに渡したりして、宮の革新への傾斜を図っていた。また宮は大尉の時麻布の三連隊で中隊長を務め、今回の決起部隊・三連隊の兵士たちとは、顔馴染みでもあった。
それで宮が皇道派の青年将校たちと親しいらしい……という噂が流れ、陸軍省は宮を弘前に転勤させたのであった。
さて二・二六事件を弘前で最初に知ったのは秩父宮で、東京にいた弟の高松宮(当時海大学生)からの電話によってであった。
秩父宮はこの大事件を早速連隊長に知らせ、さらに師団長の下元熊弥中将にも伝えられた。この時、皇道派寄りの下元師団長は、秩父宮の上京を考えていた。事態収拾という理由で宮を上京させ、決起部隊優勢の時は、宮をその総司令官として仰がせ、昭和維新を断行できるかもしれない……という期待が師団長の胸にはあった。
しかし、秩父宮には皇道派と行動をともにする気持はないらしく、連隊長の倉茂周蔵大佐が、宮に上京について質問した時、宮は「私には大隊長としての任務がありますから、上京はしません」という返事であったので、師団長が宮に上京を勧めたが、宮は行かない、という。なおも望みを捨てない師団長は、東京の陸軍省、宮内省と連絡して、宮に二週間の休暇が出るよう手配をしたので、宮も上京を決意した。このような状況をみると、宮には自ら決起部隊を率いて、軍や政治を革新させようという意図は薄かったのではないか? ……と思われる。寧《むし》ろ青年将校たちが反乱でも起こしていたのなら、これを説得しなければならない……のではないか? ……という気持が宮には強かったと思う。
宮の上京は秘密事項で、この日午後十一時二十二分弘前発の奥羽本線(東北本線を使うと、青森や仙台の皇道派将校が乗り込んでくるおそれがあった)に宮の特別列車を連結して、御付武官の寺垣忠雄中佐ほか二名の将校が、同行することになった。
宮の一行を乗せた特別列車は、秋田、新津、長岡などで、路線を変え、二十七日の午後一時、上越線の水上駅に着いた。するとホームで人待ち顔をしていた老紳士が、特別列車に入って、寺垣武官に宮への拝謁を願い出た。この紳士は東大教授で皇国史観学説で知られる平泉|澄《きよし》で、『国史学の骨髄』『伝統』『父祖の足跡』などの著書をもつ右翼学者として、代表的な人物とみられていた。
どこから聞いたのか、平泉は列車の一室で宮と対談した。後に彼は、
「私の訪問の理由は、今回の事件の真相を殿下に伝え、宮が上京して、事件の解決に尽力されるのが、国にとっても決起部隊にもよかろうと考え、水上までお迎えにいった。上野着まで待っていると、列車から降りた段階で顔見知りの青年将校に、どこかへ連れてゆかれる心配があったので、前もって事態の実情をお知らせするために、行ったのである」
と述べている。
この平泉の水上行は、当時、内密事項であったが、彼がなにかを宮に吹き込んだのではないか? ……とカンぐる向きもあったらしい。しかし、いかに平泉が万世一系の大日本帝国を、神の国とし、また天皇を現人神《あらひとがみ》とする歴史観を抱く学者であっても、宮に決起部隊を率いて、現天皇を退位させて、自分が摂政となって、昭和維新を達成させようというような考えを吹き込むことは、この時はなかったと思われる。
すでにこの日(二十七日朝)には、東京では戒厳令が布かれており、第一師団長の指揮下に入ってしまった決起部隊としては、秩父宮をかついで、なおもクーデターを続けるという余力はなかったのではないか? ……と思われる。
秩父宮を乗せた特別列車が、上野駅に着いたのは、二十七日午後五時で、大勢はすでに決まっており、上野駅には宮を拉致《らち》するような兵力がくるといけないというので、護衛の為一個小隊が待機していた。
宮は参内して高松宮と懇談して、重臣の最期などを聞き、事の重大さに驚いた。
次いで高松宮と一緒に天皇に拝謁し、「自分は事態収拾の為に上京したのです」と秩父宮がいうと陛下は大変喜ばれたという。(芹沢紀之『秩父宮と二・二六』による)
秩父宮が邸《やしき》に帰ると杉山参謀次長、香椎戒厳司令官らが参上して、状況を報告したので、宮はすでにこの日、午前五時、戒厳令が布かれ、「決起部隊は原隊に復帰せよ」という奉勅命令(実施は二十八日午前五時)が午前九時には杉山次長が天皇の允裁《いんさい》を得ていることを知り、以後は事件の収拾に努力することになった。
しかし、決起部隊はそのような宮をめぐる裏面の動きは知らない。秩父宮が上京したと聞くと、磯部や栗原らは、「もうこれで大丈夫だ。宮がなんとかして下さるだろう」と活気づいた。安藤は暗い顔をしていた。
自分たち決起部隊は、いつのまにか第一師団の統帥のもとに入れられ、農相官邸、文相官邸、山王ホテル、料亭・幸楽などに、分散させられるらしい。戒厳令も布かれ、真崎総理も実現せず、閑院宮参謀総長は病臥中で、実権を握る杉山次長は、決起を許しそうにもない。とにかく陸相官邸における、荒木大将の、
「大権を私議することは許されない」
という大喝が空気を重いものにしたといえる。第一師団長の統制下におかれ、それぞれの連絡もできないで、一斉に決起することは不可能である。
それでは戒厳令のもとで、漠然と上層部の処置を待つのであろうか? ……川島陸相が頼みにならないことは、すでに実見している。真崎総理が難航で、荒木大将が叱りつける……一体、誰がこの事態を収拾してくれるというのだ? 秩父宮は皇居にゆかれた後、自邸で休息されている。元々、宮に迷惑をかけるつもりはなかったが、同期生の西田の説では、秩父宮は絶対に決起部隊を支持してくれる筈だ……ということであった。真崎とともに頼りにしていた台湾の柳川軍司令官もこちらに向かったという知らせはない。
このままゆくと鎮圧部隊に入れられたということで、磯部などは安心しているらしいが、急転直下、反乱部隊と見なされて、折角の志は無に帰するのではないか? ……。
不安を感じていたのは、安藤だけではなかったが、二十七日夕刻、安藤の中隊が幸楽に入ると、その不安を吹き飛ばすような民衆の歓迎が待っていた。尊皇討奸ののぼりが玄関には、誇らしげに翻り、やはり昭和維新は可能なのか……という安堵感を将兵に与えた。
かくして混沌の中に二月二十八日は明けた。重臣襲撃から三日目である。安藤は眼が冴えてなかなか眠れなかったが、兵士たちは大部屋などで久方ぶりに、熟睡した者も多かったようである。
まだ薄暗い幸楽の庭に出て、安藤が尊皇討奸ののぼりを仰いでいたとき、三宅坂の参謀本部にある戒厳司令部では、午前五時八分、杉山参謀次長から香椎戒厳司令官に、奉勅命令が交付された。
[#小見出し]   ついに反乱部隊≠ニなる
決起部隊は義軍か反乱軍か? ……。
二十七日、中野の広大な北一輝の邸は、緊迫した空気に包まれていた。
決起部隊の駐屯地の将校たちとは、西田が電話で逐一連絡をとっている。前述の通り、この朝、北は霊告を発している。
「人無し、勇将真崎あり、正義軍一任せよ」であったが、これによって、決起部隊が真崎を呼んで話をしたところ、先述のごとく掌《たなごころ》を返したように、原隊に復帰することを強調した。これが午後四時のことである。
午後五時頃、陸相官邸の村中から、北邸の西田に電話があり、右の真崎のつれない返事が、通達された。カリスマもそろそろ霊能力を失ってきたのか? と疑う将校も出てきていた。
西田も朝のお告げには疑問を感じていたので、北に「直接、村中と話をして下さい」と受話器を渡した。
「北先生、ご霊告によって、真崎閣下と直接相談をしましたが、真崎閣下は『とにかく君らは兵を引くことだ』と言われるのです」
村中は少しむっとした口調でそういった。磯部と違って村中は北の『日本改造法案大綱』には敬服していたが、所謂《いわゆる》このカリスマの霊告を、磯部ほどは信頼していなかった。
「そうか、その結果を知らせたまえ」
といって、北は電話を切った。
この日の段階で事件のヤマは見えた……と『増補版・北一輝』の著者田中惣五郎氏は、その状況を次のように四つの流れに分類している。
一、ブルジョワ・ファッショの久原的なもの。
二、はだかのファッショの北、西田的なもの。
三、軍事的ファッショなものの解決を急ぐ統制派と、ムキになっている皇道派的なもの。
四、民間的なもの。
この日の段階では、皇道派の将校たちは、北の霊告で真崎を呼ぶなど時間を費やしており、統制派とブルジョワは、帝国ホテルで、いかにお上の思召しを利用して、事件を自分たちに有利に解決するかを、討議していた。
この分れ道の二十七日、北一輝は朝の「人無し、勇将真崎あり……」の後、霊告を青年将校たちに送っていない。あまり当たらないのでお告げを聞くことを、休止したのかもしれない。
安藤が不安とともに幸楽の庭で夜明けを迎えた頃、そこから徒歩十分あまりの参謀本部では、日本の歴史がまた別の音をたてながら、回り始めていた。
この二十八日午前五時八分、戒厳司令部では、杉山参謀次長から戒厳司令官の香椎中将に「奉勅命令」が手交された。
「戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しつつある将校以下を以て速やかに、現姿勢を撤し各所属部隊長の隷下に復帰せしむべし。
奉勅     参謀総長 載仁親王」
これによって第一(近衛も)師団長は次の命令を発した。
第一師団命令(午前六時三十分)
一、第一師団は三宅坂占拠部隊をまず師団司令部南側空き地に集結せしめんとす。
二、小藤大佐(第一連隊長)は速やかに奉勅命令を占拠部隊に伝達したる後、之を師団司令部南側に集結せしむべし。
(「杉山メモ」によれば、反乱部隊が命令通り実行しない時は、午後一時を期して攻撃を開始する予定であったという)
渋谷第三連隊長のもとにあった反乱部隊は、二十八日には小藤大佐のもとについていた。
小藤大佐は皇道派寄りであったので、陸相官邸でこの奉勅命令と師団命令を受けとったが、磯部らが暴発するおそれありとして、この伝達を夕方に延ばした。
[#小見出し]   秩父宮の令旨と北一輝の逮捕
一方、秩父宮のほうにも収拾の動きが出はじめた。
二十八日朝、麻布の三連隊、第三中隊長・森田大尉のところに、秩父宮から状況の報告にくるよう電話があった。
森田が赤坂表町の秩父宮邸にゆくと、
「安藤、野中、坂井も反乱部隊にいたのか……」
残念そうに腕を組んだ。かつて宮が三連隊時代に教育した青年将校たちであった。
宮は森田と相談の結果次のような解決案を作った。
一、事件の首謀者は自決すべし。
二、皇軍への信頼を回復し国威を保持するため、事件は早期に解決する。
三、部下を有せざる指揮官あるは遺憾なり。
(すでに予備役にある磯部と村中が軍服を着けて反乱部隊の指揮に関与していたことは、正規の軍の統帥を乱すものと宮は考えていた。この事件の首謀者は磯部、村中の免官組で、軍事参議官たちが磯部らに会った段階で、この二人を拘束しておけば、事件はもっと早期に解決したのではないか? と宮は考えていた)
森田が第一師団司令部にいって、宮との会談の結果を報告すると、下元師団長と舞《まい》参謀長は、
「この結論を秩父宮の令旨としよう」
と決断し森田の反対を押し切って、幸楽にいた安藤のところにその旨を届けさせた。
二十八日午後五時、舞参謀長からこれを受けとった安藤の心理は混沌の中にあった。
昭和維新成功か反乱部隊となるか? ……。決起を迫られている安藤のもとに、カリスマの霊告が届けられた。
この日朝、北一輝は仏壇の前で読経と祈りを続けたが、なかなかよいお告げはなかった。そのうちに昼過ぎに神仏は集まり、霊告が降《くだ》り始めた。
第一 おおいに嬉しさのあまり涙
込み上げしか
大山(第二)義軍勝って兜の緒を締めよ
仙人(第三)義軍先発八幡大菩薩飯綱大権現道光す
第四 大海の波打つ如し
(午後一時、祈願)
この霊告の少し前、正午頃、栗原中尉から、
「万事休す、自決のやむなきに至る」
という電話が入ると、北は電話口で、
「軍事参議官の回答あるまでは自決するな」
と諭した。
一方、参謀本部では奉勅命令を受け取り、第一師団長にこれを伝えた後、戒厳司令部では、川島陸相、杉山参謀次長、香椎戒厳司令官らが集まり、反乱部隊を無事に原隊に復帰させるべく、論議を続けた。閑院宮が病気なので、統帥の実権は杉山にあり、彼は統制派である。香椎戒厳司令官は皇道派、川島は中立……と三者三様に分れて、議論が衝突する。
「奉勅命令では、決起部隊は所属部隊の隷下に復帰すべし、となっているから、これに従うべきではないか」
と杉山がいうと、
「いや、ここは改めて御聖断を仰ぐべきである。決起部隊の将校たちは、奉勅命令が出ていても、あえて撤兵はしない。あくまでも昭和維新を断行する、という覚悟は堅い。この際、皇軍相撃を避けるには、陛下の御聖断によって、昭和維新を実現すべきである」
と香椎は反乱軍に有利な方法を主張する。
杉山と香椎は共に陸士十二期、中将進級は杉山が昭和五年八月で、香椎より一年早い。しかし、反乱部隊の鎮圧に関しては、戒厳司令官のほうに直接処理の権限があると、香椎は考えている。一方、川島は真崎、荒木らと同期の陸士九期の大将で、三人の中では一番の先任者であるが、どちらにも態度は決めかねている。軍令に関しては参謀総長に統帥権があると、川島も考えているが、もし昭和維新が実現すると、統制派の一部は粛清されるかもしれない……といって陛下の裁断によって、昭和維新を実施するとなると、協力しなかった者はまた粛清されるかもしれない。ここは陸相として去就に迷うところであった。それに兵を動かす戦闘行動は、参謀本部の統帥権を抜きにしては考えられない。
結局、杉山の強い意見で、
「我々は流血を防ぐために、二日間努力してきたが、ここへきて万策尽きた。今更、御聖断を仰ぐのは穏当を欠く。原所属に復帰すべき大命を拝しながら、之に従わない将校たちは、断固、涙を呑んで鎮圧の外はない」
という線で一致することとなり、午前十時十分、香椎も討伐に賛成、武力衝突をあえて辞せず、ということに決定した。
一方、磯部のほうはまだ諦めてはいなかった。御聖断が決起部隊に不利なように降《くだ》るのなら、自分ひとりでも斬り死にして果てよう……と彼は幕末の志士のような考えでいた。大体、革命の志士というものは、幕末もロシア革命も中国革命も、その心情ではみな死を賭《と》して信念に殉じるという点で、共通している。いわば若くして自分の理想、信念、世界観を持ち、そのために命を賭けるのが、人間の生き甲斐である……という精神構造の持主なのである。そういう精神の持主でない者は、いかに論理的に説得しても、その一挙に死を賭することが出来ないのは、幕末の尊皇攘夷派の浪士たちの、向背を見てもよくわかる。
香椎と杉山が論争していた頃、決起部隊最後のオルグである磯部は、戒厳司令部にいって、別室で待っていた。聖断が降るまで待とうというデモンストレーションであったかもしれない。そこへ石原大佐がやってきて、
「俺は香椎司令官に強硬な意見を具申したが、聞き入れられない。司令官は奉勅命令を実施しないわけにはいかない。その決意は今や断固たるものになってしまった。どうだ? 君らは引いてはくれないか? この上は男と男の腹の問題ではないか?」
石原はそういうと落涙しながら、磯部の掌を握った。この男のいうことは当てにはならない……と思いながら、磯部はその掌を握り返しながらいった。
「私は総指揮官ではないから、引けとはいえないが、努力はする。しかし、外の将校が引くといっても、磯部個人は絶対に引きません。一人でもやります」
と覚悟のほどを示した。昭和維新のための捨石になろう、というのである。
石原は微笑しながら、それを聞いていた。元々彼はムキにはならない人物である。満洲事変なら満洲事変という方針が決まったら、精密な計画をねりあげ、一気にケリをつけるというのが、彼の成功の秘訣なのである。やたらに決起を急いで、後でもめるというのは、高度の頭脳をもつ人間のやることではない……特にいかなる種類のイデオロギーであれ、そのために先のことも考えずに、要人の多数を暗殺するというのは、知性的ではない……と彼は考えていた。当然のことだが、情報網をもつ石原は、今回の昭和維新を掲げる決起の原因が、統制派に対する皇道派の将軍……特に真崎の巻き返しのための暴発であることを知っていた。また統制派のほうも、そういう空気を感じていながら、あえて暴発させたという点があった。
先見の明を誇る石原は、彼等に決起させて、その黒幕を確かめ、処分することを考えながら、事件の成り行きを眺めていた。彼の洞察するところ、今回の事件について、真崎らがいうような天皇の事前の承認などはない、いずれ反乱部隊の処理は行なわれ、その際、決起将校に対する天皇の優渥《ゆうあく》なる勅語などはない……と石原は踏んでいた。事件が自分の予想通りに解決しそうなので、石原は自足していた。(統制派と皇道派の違いについては、多くの見方があるが、石原の場合は、まず彼が造ったといわれる満洲国を十分整備開発して、力を貯えたところで、大陸進出を考えていた、といわれる)……不思議なことにこの知性的なカリスマは、その日蓮宗の信仰において、北一輝と共通していた。この二人が討論したという記録はないが、皇道派と統制派の枠をはずして、二人が昭和維新について討論したら非常に興味のある結果が出たのではないか? と思われる。
それはそれとして、御聖断を仰ぐことなく、決起部隊は反乱部隊とされ、原隊に戻らなければ、討伐される……ということになったらしいので、磯部は一応陸相官邸に戻って、同志にそれを報告することになった。その途中、磯部は自動車で陸軍省、陸相官邸の周囲を回って見た。自動車の窓から鎮圧部隊の戦車多数が見えた。――いよいよ本格的にやるつもりなのか……磯部は純真で殉国の熱情に燃えている若い同志たちが、可愛そうになってきた。
磯部が陸相官邸にもどると間もなく、山下少将がきて、奉勅命令の話をした後、将校たちを説得した。奉勅のことを聞くと、将校たちは気落ちした。奉勅命令が降るのでは、最早《もはや》、昭和維新は成立しない。一体おれたちはどうすればいいのか? ……その沈黙を破るように、栗原中尉が発言した。
「統帥系統を通じて、(陸軍省や政治家では話にならないので)もう一度お上にお伺いしようではないか。奉勅命令が出るとか出ないとかいうが、一向にわからん。もし我々に死を賜るということならば、将校だけは自決しよう。自決する時は勅使の御差遣《おさしつかい》を仰ぐようになれば、もって瞑すべしではないか!」
これを聞いた山口大尉が、
「栗原、貴様えらいぞ!」
といって、栗原と抱き合って泣きだした。磯部もそれに賛成したので、第一師団にそれが連絡され、堀第一師団長がきて、将校たちの帰順の誓約をとって、戒厳司令部に報告にいくことになった。
ついに昭和維新は統制派上層部の巧妙な根回しによって、崩壊することになった。正に北一輝のいう通り、玉《ぎよく》≠握らないほうが、負けたのである。
これが昼頃で、磯部は天下の計遂に成らず、と知って別室で号泣した。――決起部隊は帰順してもおれは降伏はしないぞ、この昭和維新こそは、この磯部浅一が全生命を賭けた大博打だったのだ。泣きはしても挫折は認めない。一人でも戦ってみせるぞ! ……。
磯部の天地も裂けよ、とばかりの号泣をよそに、青年将校たちが自決するための、勅使差遣の希望は午後一時頃、川島陸相から本庄侍従武官長に取り次がれたが、天皇は非常に怒り、
「自決するならば、勝手に為すべし。この如き者に勅使などは以ての外なり」
「直ちに鎮定すべく堀師団長に伝達せよ」
と激しい口調で沙汰を下された。
皇道派に同情的であった本庄もこの天皇の言葉では、反乱将校に情のある指示は得られないと諦め、午後二時半、山口が再度勅使の差遣を願い出たが、本庄は「もう、不可能である」といって拒絶し、ここに大勢は反乱軍将校にとって、絶望的になっていった。
こうして昭和の大乱……皇軍相撃となるかと懸念された皇道派青年将校の決起も、三日目の二十八日午後には、責任ある将校らの自決によって、解決させられることになった。
しかし、永年の夢を破られた磯部や村中が、簡単に奉勅命令に従うかどうか、まだわかってはいなかった。
もう一人、徹底抗戦を決意した将校が、部下とともに幸楽にいた。
この二十八日午後、幸楽に駐屯していた安藤大尉の部隊は、戦闘態勢をとり、近くの近衛師団の部隊に対抗する姿勢を示していた。近衛のほうでも斥候を放って、安藤隊の動向を偵察する。まさに一触即発の危機である。
こうなると反乱軍の中のまた反乱軍という複雑な戦闘態勢となり、外の将校たちも迷い始めた。まず陸相官邸から幸楽に連絡にいった村中から安藤の決意を聞いた磯部は、
「さすがに安藤だ。よしこうなったら一緒にやろう!」
と眉を上げた。顧みれば、この計画を安藤に話した時、彼は部下の行く末を心配して、なかなか同意してはくれなかった。しかし、ついに同意してからは、よく協力してくれ、今また一緒に死のう……といってくれているのだ。それでこそ同期生ではないか……磯部は張り切って栗原、田中に話をして、その部下たちは閑院宮邸に陣を布くことになった。
一方、奉勅命令(まだ下達はされていなかった)に背いて、徹底抗戦を覚悟した安藤のところには、二十八日午後五時頃、第一師団の舞参謀長、渋谷三連隊長、森田大尉が説得に訪れたが、安藤中隊長は不在(陸相官邸に連絡にいっていた?)というので文相官邸に野中大尉を訪ねた。
森田が秩父宮の令旨を伝え、
「軍人らしく自決せよ。骨はおれが必ず拾ってやる。貴様が将校の中では最先任だぞ。既に奉勅命令は下達されているのだぞ」
と説得した。野中は無言で森田の顔を見つめていたが、
「森田、世話になったなぁ……」
といってくびすを返した。それが二人の別れであった。
一方、中野の北一輝は、西田が集めてくる情報によって、反乱軍のほうが有利に展開していると判断していた。妻のすず子とともに白衣で日蓮像の前で祈っていると、次々に霊告が降り(その内容はすでに述べた)、北も元気づいていた。
しかし、昼頃、栗原中尉から、「責任を負って自決する」という西田への電話に接し、北自ら電話口に出て、「軍事参議官の回答あるまでは自決すべからず」と諭《さと》したことにもすでに触れた。
午後三時頃、村中より、「奉勅命令によって反乱軍を討伐するという話が出ているが、その真偽は不明である」という電話が入ったので、カリスマも混乱してきた。北は電話口に出ると、
「奉勅命令が降ったというのは、脅かしであろう。一旦決起したる上は、徹底的に上層部工作を行なうべし。諸君が死ぬならば、私も生きてはいない」
と諭した。
さらに午後五時頃、いよいよ奉勅命令によって、断固反乱軍を討伐するという風評が入ってきたので、西田が栗原に電話でそれを確かめると、それは聞いている、まことならば自分も覚悟を決める、というので、北は栗原に、
「万事、今一息という状態だ。各自一致結束して、自重し自決は最後の問題たるべし」
と訓戒した。栗原が最も熱血的なので、人におくれじと自決を急ぐことを、北は心配していたのである。
結局、この二十八日午後五、六時頃、北邸にやってきた憲兵によって、北一輝は憲兵に逮捕という形で、同行を求められ、憲兵隊に留置されることになる。
これまでの北一輝の動きは、多くの資料の内容を総合、判断したものであるが、従来、北はこの決起を知らず、また事件の当時反乱軍の将校たちを指導したこともない……それを当局は思想的な指導者、かつ実際的な指導者として、処刑したものだが、二・二六事件には無関係とするものが多かった。
しかし、今まで記述したところによると、実際に兵の指揮に関与してはいないが、霊告だけでなく、現実的にその動きについて、かなりの示唆を与えていたことになる。
その途中の連絡はオルグの西田がやっているが、北一輝にもカリスマとしての責任はある……なによりも、こういう『日本改造法案大綱』のような著作で青年将校に武力革命を指導するような思想家は、天皇制国家にとっては、危険であるから、その根を切っておこうと当局は判断したのであろう。
このあたりの北と政界、財界の内幕について、田中惣五郎氏著『増補版・北一輝』は、次のように分析している。
ファッシズム化した代表的ブルジョワジー・久原(房之助)の行動はまずファッシストの首領・北一輝に「金」を提供することで一応のヒモをつけている。もし皇道派的なものが天下をとればそれでもよいが、そこまで荒っぽくしないですめばそれにこしたことはない。むしろ統制派的な大陸進出戦争第一主義を好むのだ。その代理人亀川哲也は、北、西田と連絡をとりつつ形勢を見る。重臣暗殺の破壊的行動を、一応しとげた皇道派が、次の建設面にとりかかる段階で、政策をもたぬために、いたずらに真崎内閣とか山本(英輔)内閣とかいう眼前の小康を求めている間に、上層部は皇道派と対立する統制派と妥協して反乱部隊に降伏と帰順をすすめる。その段階に入るや亀川は猛然とこれに同調し、そして「依頼者」久原の宅へ、身を隠してしまう。昨日の同志からねらわれるほどの転身である。つまり、北一輝らの反乱を食ってしまうのが、ブルジョワジーと帝国主義的軍人なのである。そこまでもっていくために、皇道派的軍人と在野の革新派の人々が「捨石」になるというのが歴史的事実なのであろう。
この論理では、二・二六事件をうまく活用したのは、ブルジョワジーと帝国主義的軍人(統制派)で、皇道派が鎮圧された後には、(満洲建国に次ぐ)日本軍を背景とする財閥の大陸進出(昭和十二年七月のシナ事変を初動とする)が計画され、そのオルグの代表が久原であった、ということになる。
磯部、村中らの反乱軍のオルグは、結果としては財閥の大陸進出の先払いを務めたことになり、安藤、栗原、野中らは、「天皇親政」「尊皇討奸」の旗を掲げ、「昭和維新」を目指したのであるが、田中流に考えれば、彼等青年将校の死は、その翌年から始まる日本軍と財閥の大陸進出の尖兵もしくはいけにえ……ということになるのかもしれない。
歴史は非情なマジシャンで、「天皇親政」「尊皇討奸」という愛国的な志士たちの美的な旗印を、結果的には財界と統制派の相乗りによる大陸侵略にすり替え、これを「八紘一宇」の大理想と、「大東亜共栄圏」の実現へと、目まぐるしく変転させていくのである。
[#小見出し]   落日の反乱軍
さてカリスマの北一輝は、二十八日夕刻、憲兵に逮捕されてしまうが、皇道派青年将校の反乱はなおも続いていく。
この夜、反乱軍は陸軍省、参謀本部に坂井、清原の部隊、陸相官邸に磯部、首相官邸に栗原、中橋、安藤は幸楽、丹生が山王ホテル、野中は予備隊として新議事堂に陣地を構えることになり、三宅坂から永田町にかけて、銃剣をつけた哨戒の反乱軍兵士が警備し、殺気の中で住民の一部は立ち退きを始めた。山王ホテル、幸楽、首相官邸あたりからは、万歳の叫びと軍歌の合唱が、皇居付近の森をどよめかせていた。
この状況を知った麻布三連隊では、野中と安藤を射殺したほうがいい……という意見が出てきた。森田は渋谷三連隊長とともに安藤の説得に幸楽に出掛けた。すでに一切の交通は遮断され、食糧もない。兵士たちも疲れている。安藤は憔悴した表情で二人を迎えた。二人が奉勅命令が出ているのだから、兵士を原隊に帰すようにいったが、安藤は首を横に振った。
「私は奉勅命令は絶対に出てはいないと思います。私は千早城に立て籠った楠正成になります。今は逆賊、反乱軍といわれても、私が殺されてから、何百年かたって、後世の国民や歴史家が、正しく評価してくれるでしょう。秩父宮、連隊長にもすみませんが、今度だけは安藤の信念通りに行動させて下さい」
そう必死に訴える安藤の両眼に光るものがあり、二人のほうも同じ思いであった。
一方、参謀本部のほうは、いよいよ奉勅命令による討伐を実施する必要に迫られてきた。
午後三時、杉山次長は参内して、第二師団(仙台)、第十四師団(宇都宮)の一部を上京させる案を上奏して天皇の裁可を受けた。
この日の夕刻、第一師団長は、小藤第一連隊長に「以後、占拠部隊の指揮を取るに及ばず」と命令した。これで反乱軍は明確に帝国陸軍の統帥からは切り離され、国軍以外の兵力として鎮圧されることになった。
午後十一時、香椎戒厳司令官は、「明午前五時以後攻撃を開始できるよう準備を完了すべし」という命令を各部隊に降した。
二十九日朝、香椎司令官の指揮下には、近衛、第一師団のほか第二、第十四師団の兵力を加えて二万四千名に近い部隊が集結していた。総計千六百名に足りない反乱軍に対しては、過大ともいえる兵力であるが、まだ反乱軍に同調する部隊が出てくるかもしれないというので、大事をとったものであろう。
この日は飛行機から、有名な「下士官兵に告ぐ」というビラが撒かれた。
「勅命が発せられたのである。(中略)お前たちの父兄は逆賊の汚名を着ることを聞いて泣いておるぞ。今からでも遅くはない。直ちに抵抗を止めて軍旗のもとに復帰せよ」
またアドバルーンによる呼び掛けもなされた。
この頃には宮中で奉勅命令が出されたことも、反乱軍に伝わり、ぽつり、ぽつりと兵士たちを原隊に復帰させる部隊も出てきた。
元来、反乱軍には組織も司令官もない。主として磯部が案を練り、一同合意の上で決起したので、野中、安藤あるいは磯部、村中も全体の指揮を取ってはいなかった。この時点で反乱軍は崩壊したといえる。ひとりでもやる、といっていた栗原も、ついに磯部に、
「奉勅命令が下ったようです。兵士が勝手に復帰している部隊も出てきました。下士官兵は帰したらどうですか?我々が死んでも、彼等によって維新が貫徹される可能性もあります……」
と言っている間に飛行機がきて、帰順を勧めるビラを撒いていく。
「こんな手を使っているのか? ……」
磯部は唇を噛んだ。――最後の一戦ぐらいはやれないものか……と文相官邸に行ったが、すでに戒厳部隊の戦車が中に入っている。歩三の大隊長がきて、常盤少尉、鈴木少尉を説得していったという。
――ついに駄目か……磯部は最後に安藤のいる山王ホテル(幸楽からこちらへ移動した?)に向かった。その途中、仕掛け人の磯部は自分たち決起部隊の敗因を分析してみた。
一、編制が不完全で統一した指揮官がいなかった。
二、武器弾薬等の補給、給与の不十分。
三、戒厳側の宣伝説得の為闘志を失ったこと。
などが頭の中で現れたり、消えたりしていたが、根本的には北の言った通り、玉《ぎよく》≠手中に入れることが出来なかったこと、頼みとした皇道派上層部の将軍たちに、裏切られたこと、などが重要な敗因であったと思われる。
頭を垂れ前こごみになりながら、磯部が山王ホテルにいくと、安藤は、
「最後まで頑張る!」
といって部下たちに「昭和維新の歌」を歌わせている。空腹に堪えて歌う兵士たちの声が、虚ろに響いている。
ここで磯部は組織的な抗戦を諦めた。
「おい、安藤、下士官兵は帰そう。――貴様、これだけのよい部下をもっているのだ。犠牲にするのには忍びない」
磯部がそういっても、安藤はまだ諦めなかった。
「おい、磯部、俺は今度の決起部隊には、最後まで反対だった。それが決起部隊に同意したのは、やりとおす決心がついたからだ。俺は今何人も信用することが出来ない。俺は俺自身の決心を貫徹する」
そう主張する安藤の眼鏡の奥に、磯部は光るものを認めた。
しばらくして安藤は興奮も収まり、
「戒厳司令部にいって、包囲を解いてもらおう。それでなければ、兵士は帰せぬ」
と部下を帰順させることに賛成した。
そこで磯部が本部の石原に連絡したところ、
「今となっては、安藤が自決するか、部隊を率いて脱出するか、二つに一つしか道はない」
という冷たい返事であった。
安藤は突然、
「俺は自決する」
といって自分の拳銃を右手に握った。磯部が制止したが、安藤は聞かない。
「死なせてくれ。俺は今でないと死ねなくなるから死なせてくれ」
と安藤は磯部の手を振りほどこうとする。昭和維新最後の悲壮なドラマが、展開されようとしていた。
「おい、安藤、俺は負けても自決はしないぞ。そんなことをしたら、将軍たちの思うツボだ。俺は軍法会議で俺たちが、いかに愛国の熱情に燃えて、尊皇討奸、君側の奸を討つ為に決起したのか、そして将軍たちがいかに卑劣に逃げ回って、責任を逃れようとしたか……それを堂々と主張してやろうと思うんだ。それまでは死ねぬぞ!」
と磯部は自説を述べたが、安藤の決意は変わらないらしい。安藤は部下の下士官兵たちに、別れの言葉を述べ始めた。兵士たちも日頃慕っていた中隊長が自決するというので、
「中隊長殿、死なないで下さい」
「死ぬのなら全員一緒に自決しましょう」
と口々に叫ぶ。
磯部も安藤を羽交締めにしていたが、安藤が「自決はしない」というので手を緩めた。
そして二十九日、午後三時、司令部参謀の指示によって、安藤の第六中隊は、山王ホテル前の広場に整列した。
そこで安藤は中隊長として最後の訓示をした。
「よく陛下の為に頑張ってくれた。お前たちは連隊に帰っても、堂々としておれ。近く満洲に行くことになるだろうが、しっかり働いてくれ」
そこで第六中隊の歌が始まると、安藤は静かに後退して、拳銃を顎の下に当てて引金を引いた。轟音とともに安藤は顔面を赤く染めながら、その場に倒れた。兵士たちは口々に中隊長の名前を呼びながら、そのそばに駆け寄った。銃弾は左顎下から同上部に入った盲管銃創で、弾が皮膚と骨の間を通ったようであった。安藤は衛戍《えいじゆ》病院に護送され、この時は一命をとりとめた。
残った第六中隊は永田曹長が引率して、三連隊に帰り、ここに四日間にわたる安藤部隊の決起と反乱は終わった。
午後二時過ぎ、陸相官邸では三十余名の反乱軍将校が自決することになり、その数の棺桶が用意された。そこへ先任将校の野中大尉がやってきて、
「われわれは自決はしない。あくまで法廷闘争で真実を暴くのだ」
といったので、自決は見送りとなった。
しかし、そこへ参謀本部演習課長の前三連隊長・井手宣時大佐がきて、野中を説得すると、野中は別室で拳銃自殺を遂げた。(参謀に撃たれたという説もある)
こうして昭和史の中でも特筆される二・二六事件は、反乱軍の無残な敗北のうちに終わった。
反乱軍に参加した将兵は千三百六十名、このうち三月十八日には千三百二十余名が、各連隊の留置場から解放された。従って刑を宣告された者は、安藤以下十三名の元将校が死刑、常人では磯部、村中ら四人が死刑、ほかに将校六名が禁固、下士官兵、常人多数が禁固となった。(以上、七月五日の第一次宣告、第二次は省略する)
また北一輝と西田税の判決は、久原との資金関係の調査で遅れて、翌十二年八月十四日共に死刑宣告、十九日執行されている。
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[#見出し] 第二章 北一輝の故郷をゆく
平成三年五月二十一日朝の上越新幹線「とき」号で、新潟に向かう。
台風が東に去って好天である。国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国ではなくて、リゾート・マンションが林立する異国的な温泉場である。湯沢も大きく変貌して、戦後、『雪国』で初めて川端文学に接した私を悲しませる。
九時四十分新潟着。タクシーで佐渡汽船の桟橋に向かう。佐渡の玄関口|両津《りようつ》港までは、汽船で二時間半の船旅であるが、ジェット・フォイルで一時間、最近就航した「すいせい号」は時速八十キロで、穏やかな海面を疾走する。一眠りすると、左側に佐渡の島影が見えてきた。
カッキリ正午、両津港着。――まず昼飯を……と桟橋の近くに並ぶ飲食店を物色するが、お目当ての手打ちそばの店が見つからない。両津は北が夷《えびす》町、南が北一輝の生家の残る湊《みなと》町で、その間に運河があり、両津橋を中心に両津大橋、加茂湖橋が、南北の古い町並みを結んでいる。
桟橋のあるのは湊町で、すぐ目の前の食堂のある通りを東の端まで歩いたが、それらしい店はない。ラーメン屋のおばさんに聞いて、北の夷町のカモコアンというのが、「店は古いが手打ちなら一番だ」というので、引き返して両津橋を渡った。
橋を渡ると天領時代の運上所という税関の跡に、樹齢五百年という老松が、わだかまっている。この先を両津湾の方にまがると左側にそのカモコアンがあった。カモコというのは加茂湖のことかと考えていたが、店の前にいくと、「鴨湖庵」という暖簾《のれん》がかかっている。両津の西に広がる景色のよい加茂湖はカキの養殖で知られるが、かつては鴨猟が盛んであったのだろうか?
古びた店であるが、出てきたのは正しく佐渡の手打ちそばで、佐渡は数回目になる私の郷愁を満たしてくれた。
ここでタクシーを呼んでもらい、夷町の北西のはずれにある花月ホテルに荷物を預けて、いよいよ北一輝の取材にかかる。この旅館は、二十数年前、子供たちが中学生の時に、泊まった宿で、「雪が見たい」というので、年末に連れてきたのである。新潟を出る時から雪で、佐渡に渡ると両津の町は、雪に覆われていた。子供たちは「うわぁ、雪だ……」と喜んだが、旅館の玄関に雪に塗《まみ》れた長靴が並んでいるのをみると、短靴をはいてきた彼等はひるんだ。これから雪の中を歩くのでは大変だ……と考えたらしい。
翌日も雪なので、吹雪の中をタクシーを雇って、相川金山跡から、尖閣湾、外海府《そとかいふ》の断崖のあたりを回ったが、景色はよく見えず、すでに「君の名は」で有名になっていた真知子橋のあたりにも、観光客の姿は見えなかった。
夕食の蟹料理で、子供たちはやっと機嫌を直した……そんなことを回想している間に、タクシーは加茂湖の北を回り、佐渡空港に近い秋津の両津市郷土博物館に着いた。
モダンな二階建てで、ここからはホテルの反対側から加茂湖の風光が眺められる。
一、二階に佐渡の伝統工芸品や民具などが展示され、二階の特別展示室に、北一輝のコーナーがあった。隻眼が異様に光るお馴染みの大きな写真の外に、全六冊の『北日記』の原本が展示されている。
昭和四年四月二十七日から、二・二六事件の最中の昭和十一年二月二十八日までの日記と霊告が収録されている。内容は門外不出≠ナあるが、その一部はすでに本編の冒頭に出たような霊告のコピーが、見られるようになっている。
有名な「人無し、勇将真崎あり、国家正義軍の為号令し、正義軍速やかに一任せよ、二、二七、朝祈」やその前に霊告として決起軍に伝えられたという、
「二、二六、夜半一時半、寝室に入り
眠らんとする前に 革命軍正
義軍の文字並び現われ革
命軍の上に二本棒を引き
消し
革命軍、
正義軍 と示さる」
というような霊告のコピーが、展示してある。思ったより大きな字で、筆で肉太に書かれている。簡潔、率直で力強い文字で、非凡な感じがするようだ。
これらの霊告集を含む『北日記』は、事件当時、東京憲兵隊特高課長・福本亀治氏が北家から押収したもので、その後転々として、一時は終戦時、朝鮮にあり、これを梶屋総一という人が、リュックに入れて、日本に持ち帰ったものだという。梶屋氏は島根県出身、戦前は土木建築の会社に勤め、戦後は島根県の県庁秘書室係長の後、大田市(島根県)商工業協同組合参事などを務めた人であるが、どうして『北日記』がこの人の手に入ったかは、まだ極秘ということらしい。北一輝には未だに「極秘」のマークがつきまとっているようだ。
私はなにか別世界にきたような気持になって、大きな窓際に立って、西の空を仰いだ。太陽は金北山《きんぽくさん》の左肩に近付いているが、まだ十分明るい。北一輝も少年の頃はこうして、加茂湖に映る金北山の姿を眺めたのであろうか? ……。
郷土博物館を出た私は、北一輝の墓に詣でることにした。北一輝の墓は東京の目黒不動尊にもあり、撰文は大川周明の筆による。
また湊町の近くの若宮神社にも北一輝と弟のヤ吉が並んだ大理石のレリーフがある。
北家の菩提寺は湊町にある法勝寺であるが、墓地は南東二キロの越戸の近くの畠の中にある。高台ではあるが、広い墓地ではない。まばらに立っている新旧の墓の奥に、北家代々の墓という墓碑があり、その横に北一輝の墓があった。
終戦前までは、反乱軍の指導者ということで、詣でることも禁じられていたそうであるが、今は時々旧軍人や右翼?の人々も参詣にくるらしく、香華が上がっていた。高さは一メートル半もあろうか、かつて大日本帝国を震撼させた天才の眠るところとしては、わびしいが、北一輝は十分満足して、隻眼を光らせながら、自分の『日本改造法案大綱』が、奇しくもマッカーサーの占領政策によって、ある程度実現したことを知って、眼を細めて微笑しているかもしれない。
次は湊町六十一番地に今も残る北一輝の生家を訪れるのだが、その途中、若宮神社で北一輝と弟ヤ吉のレリーフを見ることにした。鳥居をくぐると、直ぐ右側に高さ二メートル、幅二メートル半ほどの、大理石のレリーフがある。
この兄弟は、性格も生きかたも対照的といってよかろうか。北一輝は二歳ほど年長でどちらも少年時代には秀才であった。
しかし、兄のほうは天才的、分裂的で、弟は調和的で世間並の人間である。
ヤ吉は佐渡中学校卒業後、上京して早稲田大学に通い、一輝と同居した。ところが兄のほうは、一向に金になるような仕事はせず、高い本を買っては読み耽《ふけ》る。佐渡の郷里からの送金は殆どが兄の本代や、あるいは得体の知れない大陸浪人らへの小遣いに消えてしまうので、弟は自分で学費を稼ぐ手段を考えなければならなかった。
この後、ヤ吉は早稲田卒業後、教師、新聞記者などをやり、戦前は民政党の代議士となり、多摩美術学校を創立、戦後は日本自由党に入り、後、民主党総務、自民党顧問などを務め、六〇年安保(昭和三十五年)の翌年死去した。
兄の面倒をよく見、人に迷惑をかけるようなこともなく、『哲学行脚』『戦争の哲学』などの著書もあるが、『日本改造法案大綱』のような日本中を震撼させるような著作は残さなかった。
私は二人のレリーフを眺めながら、どちらが人間として幸せだったのか? ……いや、男としてどちらがやり甲斐のある仕事をしたのか? ……と考えあぐんでいた。――そしてこの伝記が終わる頃には、結論を出したいものだと考えた。
この後、タクシーは湊町に入り、かつての砂嘴《さし》の中程、六十一番地の北一輝の生家の前で停まった。
間口は六間ほどもあろうか? ……明治時代としては、大きなほうであろう。かつての北酒造店は、今、斎藤蒲鉾店となっている。一階は改装されて、小型トラックなどが入っているが、二階は昔のままで、窓は目の細かい連子格子である。中に入ると、欅《けやき》か檜《ひのき》か、一尺四方くらいの頑丈そうな柱が、二階の天井まで突き抜けているのが、目に入った。これが大黒柱であろう。よく磨き抜かれている。代々の北家の主婦たちの丹念な手入れの跡が見られる。
北家は造り酒屋であったというが、天井は吹き抜けで、差し渡し一尺五寸もあろうか……という大きな梁《はり》が、縦横に走っている。これを見ても頑丈な家であったことがわかる。
店や住居の奥には、工場があり、今は蒲鉾を製造しているという。
北一輝兄弟の勉強部屋なども見たいと思ったが、今は昔の面影はないというので、想像するに留めて、斎藤家を辞することにした。
車は湊町の古びた通りを夷町のほうに走っていく。金北山の左肩に沈みつつある夕陽がまぶしい。タクシーは湊四の丁《ちよう》、湊三の丁と北上して、一の丁の先、北家の菩提寺である法勝寺の前を通って、両津橋を渡り、ホテルに私を導いた。
翌日は昼過ぎの便で新潟に戻ることになっていたので、八時の朝食が終わると早々に車を駆って、北一輝が通った佐渡中学校……今の佐渡高校を訪問することにした。
佐渡高校は両津湾の反対側、真野《まの》湾に面した佐和田町《さわたまち》石田の海岸に近い高台にあり、かつての島の支配者で守護代を務めた本間家の居城……獅子ケ城と呼ばれた……があったところだという。
両津から佐和田に通じる国道三五〇号線は、昭和四十年代に、時の宰相・田中角栄が造らせたものだという。この二車線の道路は、佐和田で左折して、佐渡おけさ≠竄ィ光と吾作の悲恋で知られる小木《おぎ》港まで、通じている。小木は平安の昔から本土の直江津から佐渡に渡った交通の要地であり、これで両津から国仲平野を横断し佐渡の中央を縦貫する道路が出来たことになる。
この道路を造る時、佐渡の人々は「佐渡は田中総理の選挙区外だから、金は出ないだろう……」と諦めていた。しかし、陳情にいくと、「自分の郷里の県のことだから、なんとかしよう。――それに私の理想は日本中の市町村を国道でつなぐことだ。佐渡は新潟と連絡船で結ばれているのだから、両津から佐渡の島内にも国道を造って、小木から直江津に渡るようにしたいものだ」というので、国会で予算をとってくれたそうである。その時、佐渡の人々は大いに感謝したそうであるが、今は如何であろう? ……車は無心にかつての「日本列島改造論」の立案者が、造ったという坦々とした道を、南下していく。列島改造≠ヘ即ち自然の破壊と洪水の増加、工場、ゴルフ場やリゾート・マンションの異常な増加によって、国土を破壊し公害の増加を招いた。――北一輝の『日本改造法案大綱』は、彼の望まざるところで、青年将校の国家革新というクーデターを引き起こし、やがてそれが軍部の独裁から太平洋戦争を招いた。――国家改造というものは、いかなる形においてでも難しいものらしい……私が、複雑な思いに捉えられている間に、車は佐渡高校の門をくぐった。
明治三十年佐渡で最初の中学校として創立され、北一輝を第一回の入校生として迎えた、佐渡中学校はかつての寄宿舎の食堂の一部を残して、新しい校舎と変わっていたが、校門あたりの高台から、真野湾を遠望する風景は、北一輝が入校した頃と、さほど変わっていないように思える。
佐渡高校は最近、創立八十年を祝った。その記念に出版された『佐渡高等学校八十年史』の中に、第二代校長で名校長と言われた八田三喜氏(金沢生まれ、四高卒、東京帝国大学哲学科卒、二十五歳で佐渡中学校校長となる。後、東京府立第三中学校校長)の『遥かなりわが教え子の肖像』という回想があり、北一輝のことが出てくるので、引用してみたい。
(前略)赴任当時はまだ上越線どころか、信越線も汽車は直江津まで。それから人力車で米山をこえて長岡へ出、そこから北越鉄道というのに乗って新潟の沼垂《ぬつたり》へ着いたのである。一面の水田地帯、えらいところにやってきたなと思った。四百三十間という木橋の万代橋を渡って新潟の市内に入った。橋賃が一銭か二銭だったと思う。
新潟と佐渡の間は渡津《としん》丸という百トン足らずの木造汽船が往復していたが、天候が悪ければ、欠航するか途中で引き返してくる。私が新潟に着いた時も|しけ《ヽヽ》で、一週間ほど凪《なぎ》になるのを待たなければならなかった。
その間、友人の家に泊まっていたが、十一月二日の夜、「ぶらぶらしているのもつまらん。今夜は河岸をかえて」と対岸の沼垂で友人と杯を傾けていると、夜半近く佐渡の郡長から使いがあり、今晩急に船が出るという。その郡長は、これから私の赴任する中学校の御真影(天皇の写真)を受け取りにきており、明日の天長節には是非とも間に合わせるべく、その晩無理に船を出させたのであった。
十一月三日の朝、両津の夷という港に着いた。そこから郡長が人力車に御真影を捧げて乗り、私はその後の車にフロックコートに威儀を正して続き、佐渡を横切って中学校のある河原田(現在は合併して佐和田町)へ乗り込んだ。校門に近付くと職員以下生徒全員が整然と並んで待ち受けている。これはえらい出迎え方だと面くらったが、気がつくと私の出迎えではなく、全校あげて御真影をお出迎えしていたのであった。
落成したばかりの中学校に入った私は、今度は新任校長として、郡長から御真影を受け取り、講堂の奉置所にお収めした。そして生まれて初めて、「朕|惟《おも》うに……」と教育勅語を読んで私の教育の歴史が始まった。
この日から三十三年間の学校長生活で、その後東京府立第三中学校、旧制新潟高等学校とそれぞれ初代校長として、五千人ほどの教え子を送りだした。(中略)
▽落伍した北一輝の尻を叩く。
着任した時の生徒は全校で五学級百余名。最上級が三年生の一クラス十余名。二年生と一年生がそれぞれ二十名内外の二クラスずつ。その三年生の中に、二・二六事件で刑死した北一輝君がいた。
当時の佐渡にはまだ明治十年代の自由民権の思想がゆきわたっており、政党も国権党と称する保守党と自由党とが主流をなし、改進党は早稲田出身の若い党員がひとりいただけであったが、生徒の思想は家庭の政治思想の影響を受け、学友会も自治組織で自由民権的な議論が横行していた。そして北一輝はその自由民権の雄なる論客であった。
その頃、新潟県の方針として、中学校長が郡内で通俗講演をすることになっていたので、私も郡視学の案内で、赴任後二、三年の間に郡内の町村を一巡した。そのときの私の講演の内容は「社会共棲」ということで、「社会共棲」ということが人類の生活様式であり、それの政治機構が国家で、経済機構が社会なのだ、従って両方相互に進歩発達しなければ、国家は成り立ってゆかない、という意味のことを説いた訳だが、それを中学校の上級生修身科の講義にも用いた。この考えが北一輝君の思想に幾分の影響があったのではないかと思う。
ところがこの北君はなかなかの反抗児で何かいうとすぐに反抗する。それでよくとっちめてやったが、いまでも思い出すのは、団体駆け足の際の北君のことである。
当時、一般の訓育上の企画として、一学期のうちに二、三回、全校生徒の野外行軍を行い、途中目にした事物の説明などをした上で、帰路の最後の一里ばかりは駆け足で帰校した。先頭には若い体操教官を走らせ、後尾には、大学出の教官をおき、落伍者は私が督励して尻をたたくというわけである。
ところがこの落伍者の中に必ず北一輝君が入っている。私は「おい、ふだんの元気はどうした?」と尻をぴしゃぴしゃやったが、私の尻押しがよほど北君の気にいらなかったとみえて、後には一日行軍には欠席するようになり、ついには五年生の半ばで退学して上京して早稲田に入学した。
この私の遣りかたを北君は官学風とでも解したのであろうか、心からの官学嫌いとなり、やがて弟の北ヤ吉君が高等学校に入ろうとすると断固としてこれに反対したものであった。
私が東京の府立三中に転じて間もなく、明治三十五年の春ごろだったであろうか? 本郷郵便局のはすかいにある近藤薬局の前を通ると、中から薬瓶を抱えて出てきたのが北君であった。しかも首巻きをして杖をついている。
「おい、病気か?」と聞くと、
「神経衰弱で大学病院に通っています」という。
「神経衰弱で医者に通う奴があるか。おれも大学一年のときに神経衰弱だといわれ、大学病院に通ったが、三浦謹之助(医学博士、東大教授、明治天皇の治療に当たる。昭和二十年文化勲章)さんに激励されてから、毎朝冷水浴をして、適度の運動をしたら快くなったよ」
「ええ、――」
北君にしては珍しく率直に答えていた。
その後、北君は私の「社会共棲」論の影響か、社会主義の書物を読むことになった。彼の語学力は、ザットのイットのとやっていたころであるから、原書を読む力はなかったはずで、翻訳書を読み漁って書いたのが、『国体論及び純正社会主義』である。
ところがこの原稿を印刷屋に渡すと、一と折十六ページ印刷するごとに、印刷屋がきて、「印刷代は結構ですから、次の部分からは別の印刷屋にして下さい」と断わっていくので、さすがの北君も困っていた。発禁の書物を印刷すると、その印刷屋まで罰せられた時代だから、十六ページ一と折を印刷して読んでみた印刷屋の主人が、その内容にびっくりして、ていよく断りにくる訳だ。こうして次々に印刷屋に逃げられたが、一冊の本になったところをみると、ひょっとすると、『国体論及び純正社会主義』は、印刷費がただで出来あがったのかもしれない。
「文字を取り扱うだけの印刷屋にもわかるような書き方をしていたんでは駄目だよ。これは面白いと、ついつられて読みおわるころに『なるほど』とうなずかせるように書かねばいかん」
というと、
「先生、ズルイや」と笑っていた。
この本が機縁となって北君は中国湖南の革命党と親しくなっていったのであるが、当時、私が月二十円ほどの家賃で暮らしていたころに、北君は牛込若宮町に月三十五円もする家に住んで湖南の志士をゴロゴロ止宿させていた。
ある時、北君がやってきて、
「今の天皇さんの時代にはまだまだ日本では革命なんて思いもよらないから、まず支那の革命を助けて、他日その力を利用したい」
というので、
「支那の歴史を知っているか。古来支那は外国に干渉はしても援助はしたことのない国だよ」といったこともある。
その後北君は上海に渡り、革命党を助けていたが、旗色が悪くなると残党を率いて上海を引き揚げ、赤坂に居を構えた。そして私を訪ねてきたのである。玄関先で、
「この悪太郎|奴《め》! 日本で足りなくて支那でもやってきたな」
と叱りつけると、
「先生、お声が高い」
と、手で私の口をおさえる格好をした。
昭和十一年、二・二六事件に連座し、北君は死刑になった。北君の直接指導を受けていた人たちはむしろ陸軍の一部の軽挙をいましめていたが、十把ひとからげに北君も検挙されたのである。私はその遺骸を弟のヤ吉君とともに北邸において葬送した。(『八田三喜先生遺稿集』より)
またこの八十年史には、北一輝の弟・ヤ吉(佐渡中学校、第七回卒業生)の『在学中の思い出』という短文が出ているので、当時の中学校の状況を知る意味で、引用しておきたい。
私が佐渡中学校へ入学したのは、明治三十三年の春でありました。そうして二年生に入学して、一年飛ばされて最上級に入った兄輝次の寄宿舎の室に入れられました。北と同級の相川の藤井完治君と唯二人で小さな一室を与えられました。ところが私が友人と一緒に休みの時間にいたずらをして、友人を出口の所に押しつけていた時に、国語の先生であった、矢田求先生が授業の始まる時間がきたので戸口から入ろうとしていた時に、戸があかないので、力一杯押し開けたところで見つかって、私は捕らえられてしまった。そして校長の八田先生が私を校長室へ呼んで叱り、かつ寄宿舎から退場させるという処置を、言い渡されました。
肉親は不平でありましたけど、校長の命令で如何ともすることが出来ず、寄宿舎を出て親戚の浦本金次郎宅に宿を取ることにしました。
浦本の宅には北原多作という将来有名な勅任技師になった教頭がいたので、実に厳格な躾《しつけ》を受けました。
私は勉強と運動に精を出しましたから、学術優等、運動優秀の模範生となりました。第一学期の終わりには首席でありました。第二学期になって、新町の本郷長太郎君と、相川から佐々木高之助君が編入されました。
本郷君は一橋大学の予科に入り優秀な成績であったが、中学時代から勉強が過ぎた為に肺を病んで、療養し学生生活を途中で止め、新町の自宅に帰って療養に努めましたが、遂に不帰の客となりました。
私は本人に頼まれて「病床日記」を出版してやりました。
佐々木君は卒業の年一高を受けたが、入れず翌年再び試験を受け好成績で入学し、その後に三菱鉱業部の重役となりましたが、今は東京で余生を送っている。
本郷君と佐々木君は運動もせず勉強ばかりやっていたので、第二学期から本郷君が首席になり、佐々木君が二番で、私は三番でありました。
浦本さん宅に一年もいて、河原田の下駄屋に下宿しました。同宿者として、駒沢大学を出て帰郷後佐渡の農学校の教頭を長くやって、後に羽茂《はもち》農学校の創立と共に初代校長を長くやった西田長治君と一緒にいました。後になって両津の河崎村の北見君と舎弟が同居するようになりました。西田君は私が剣道を教えたので、卒業の時には私の次席になったくらいに上達しました。
僕らが三年生になった時に上級生との間に仲違いを生ずるようになりました。上級の五年生と四年生は、単独では僕らの組にかなわなかったが、二学年固まれば三年生への比重は強くなります。そこで僕らは上級生に講和を申し込みました。
ところが謝罪をする以上は、誰かが制裁を受けるという難題を申し込んできました。それで私は三年生を代表して、胴上げの制裁を受ける約束で申し出ました。ところが五年生の舟崎君(汽船会社会長の実兄)と安田鶴造君は私と懇意なので、私が制裁を受けると名乗り出た時、あまりひどい待遇はやらなかった。
私はチョッキを夏冬二枚着ていたが、別に痛くも感じなかった。五年生は卒業間際であったので、卒業式に四年生を襲撃する企てがあったが、私の反対で思い留まった。
五年生の時、学校の校庭を造る企てがあったが、当時の森田校長が私に相談したので、学生が勤労奉仕をすることになり、私と新穂《にいぼ》村の池野寛吉君が総監督として事に当たった。森田校長は非常に感激して、私を真の優等生であったと感心して、友人に語ったそうである。奉仕といっても砂を海岸から河原田に運ぶ程度のことであった。
ところが私らの五年生の時にまた一騒動が持ち上がった。それは国語の先生の排斥運動であった。その運動の首領に担がれたので、先頭に立って運動した。学校当局は首領株数人を処罰したが、僕だけは修学試験中二週間の停学を命じられて、成績は十八番に落ちた。しかし、卒業試験には勉強した為に三番になることが出来た。
私は学校では剣道で有名であった。
三学年の時最優秀の銀メダルを獲得した。又器械体操も四年の時には全校随一であった。大車輪や大和魂なども平気でやった。三学年と五学年の時、県下の連合大運動会の時にも選手として出場して、四等の優秀メダルを獲得した。現に日本体操協会では僕を顧問に命じている。
剣道は僕が東京府立第三中学校教諭の時の先生が、有名な山田一得先生であったが、先生は武徳会の創立者と仲が悪く、弟子は一人も武徳会に入れなかったので、僕も武徳会には入らなかった。
中学校卒業後は学校にすっかり御無沙汰しております。早稲田大学卒業の時、中学校に乞われて二日ばかり哲学の講演をやったことがあり、数年後有名な文学者小山内薫を連れて、夏期大学をやったことがある。恩師八田三喜先生が、新潟高校の校長の時であり、令息元夫君も小山内君に伴をしていたが、小山内君の築地小劇場を経営するようになり、遂に共産党に入党してロシアへも行ったほどである。小山内君は共産党には死するまで入党しなかった。
私の卒業の年は明治三十七年三月であった。この春、日露戦争が起こった。学校の体操の教官市橋先生(当時陸軍少尉殿)、甲斐先生及び一年志願の陸軍少尉の石塚敬一先生の軍籍にある三人と玄関番の軍人が、一網打尽に召集されることになり、遂に小生が第一小隊長兼全校指揮官に命じられ、早朝雪を踏んで両津の船場まで送ったこともあった。(『獅子ケ城』創立六十年記念特集号)
またこの八十年史には、佐渡中学校の前身佐渡尋常中学校の同窓会誌創刊号に掲載された北一輝の『彦成王の墓を訪う記』(当時、北輝次は中学校二年生)が転載されている。この一文は後に北一輝研究家の間で、少年北一輝の愛国尊皇の思想を、表明したものとして、有名になっていく。その冒頭のあたりと、当時の北一輝の思想――後に『国体論及び純正社会主義』の基礎となる――を表している文を、引用してみよう。
ああ暴なる哉北条氏ああ逆なる哉北条氏、北条以前に北条なく北条以後に北条なし。いやしくも一天万乗の皇帝を洋々たる碧海の孤島に竄《ざん》し、恨みを呑んで九京の人たらしむ。(中略)
高山彦九郎正之は維新前の偉人なり、かつて行いて尊氏の墳墓を過ぐ。正之満身の熱血は双眼に注ぎ怒髪天を衝き、胸中の憤り制すべからず。乃ち大眼目を怒らし、大音声を発し、その罪悪を責め大に罵りて、鞭うつこと三百、寺僧為に戦慄せりと。余|固《もと》より正之に及ばずといえども、自ら任ずるに偉人傑士を以てす。豈《あに》北条義時の墳塚を鞭打たずして過ごさん。只惜しむらくは未だ逆賊の墓に会せざるを。
表題の彦成王は、北条氏の為に佐渡に流された順徳天皇(後、上皇)の皇子で、帝が佐渡で惨めな暮らしを強いられていると聞き、京都からこの離島に父君を訪ねて、看護にやってきた皇子である。しかし、北条氏は無情にもこの皇子を帝に会わせる事に同意せず、やっと許可が降りた時、帝はもうこの世の人ではなかった。帝は宮廷の悲運を嘆きながら、この島で生涯を閉じた。皇子は父・帝の菩提を弔いながら、この島で没した。その墓は佐渡中学校の南東三キロほどの若宮にあり、北輝次は同級生が行軍の途中、この皇子の墓に詣でたことがあったが、病気中で参加することが出来なかった。彼は次のように、その時の無念さを書き残している。
我が校、五月中旬を以て前浜に行軍す。途次王の故蹟を訪う。矢田先生|喃々《なんなん》としてその由来を説く。一軍声なくて涙に咽《むせ》ばざる者なかりきとぞ。余|天稟《てんぴん》多病の故を以てこの行の一人たること能わず。垂涎三丈、路傍の石地蔵たるなきを得ず、六月六日この題を課せらる。余輩固より是事に暗し、徒《いたず》らに筆を呵にし茫然たらんよりはと筆を可うし書簡を記す。先生閣下、愚が志を憐れみ閲読を給えば幸甚。
話がとぶが、北一輝が連座した二・二六事件の時、生徒はどう感じたか? ……この八十年史によると、事件発生のニュースがこの離島にも流れてくると、北一輝がそのイデオローグとされていることはまだわからなかったが、血の気の多い三年生の田村宣明は、急遽下駄ばきのまま上京して、首相官邸や陸相官邸、斎藤内大臣邸など、新聞に出ていた現場を回ってみたという。事件を自分の眼で確かめたかったというが、相当の好奇心で北一輝の後輩にふさわしい。この田村は憂国の志があったのか、東大法科卒業後警察畑に入ったという。
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[#見出し] 第三章 『日本改造法案大綱』
[#小見出し]   『日本改造法案大綱』と北一輝
五・一五事件で政党政治は窒息し、二・二六事件で軍部の独裁が始まり、やがて三国同盟を経て太平洋戦争につながっていくことは、歴史が証明しているところであるが、『松岡洋右』『西園寺公望』などの作品で、すでにふれたので、ここでは省略し、次に二・二六事件の青年将校に大きな影響を与えたといわれる北一輝の最大の論文である『日本改造法案大綱』について、述べたいと思う。
北一輝には『国体論及び純正社会主義』(明治三十八年〜三十九年)を始め、『哲学論』『経済論』(明治三十九年)『支那革命外史』(大正四年)など多くの著作があるが、その中で最も有名なのが『日本改造法案大綱』で、事実この本が五・一五事件や二・二六事件を引き起こしたといってもいいほど、事件の主役の青年将校たちに、大きな影響を与えた。
「北一輝の『日本改造法案大綱』は昭和維新の聖典である」というのが、決起した青年将校の合い言葉であったといわれるほど、この思想原理は愛国的青年将校の心情を捉え、昭和初期、日本のファッシズムの新しい原点となってゆき、この思想と現実のギャップが、いくつかの悲劇を醸し出し、それが太平洋戦争という亡国のカタストロフィにまで及んだということは、重要視されるべきであろう。
北一輝が『日本改造法案大綱』(始めは『国家改造案原理大綱』といっていた)を書いたのは上海の下宿で、大正八年八月、ヨーロッパの第一次大戦が終わったその翌年で、一月にはパリで講和会議が開催されていた。
北一輝といえば、日本的ファッシズムの初期の思想家で、日本で最初にマルクスの『資本論』を翻訳した高畠素之と並ぶファッシストと言われているが、彼等が国家社会主義者となるのは、いずれもその中年頃で、始めは二人とも社会主義者として、文筆活動に従事し、北一輝は中国革命の志士たちと親しくつきあい、革命運動の応援もやっている。
それが『支那革命外史』の仕事につながっていく。そして孫文らの中国革命の成功をみて、日本の現状を顧み、革命の必要を痛感するようになっていくのである。
従って北一輝の革命思想は、ファッショのように見えて、その根底には民衆のための社会主義が土台となっていることは、忘れられてはならない。その点ムッソリーニのような単純なナショナリズム――原始的なファッシズムとは、一線を画すべきであろう。
ところで日本における「国家社会主義」は、ある点で極めてあいまいなものを含んでいる。大体、国家主義というものは、国家に主権があり、その国家を繁栄させるためには、民衆は奉仕を強制されるのみで、議会などで民意を討論しその議決で国策を決めるということはないのが普通である。
一方社会主義のほうも、多くの解釈や活動、実施が行なわれ、いちがいに定義することはできない。日本人の常識では、単に資本主義に対して、生産手段を社会の所有とする……初期的な考えから、富を民衆に平等に分配する……あるいは最大多数の最大幸福というような言い方、更に共産主義の普及に伴って、銀行を始め資本家が持っていた企業の国有化、あるいは労働組合の推進などと、かなりラディカル?になる説も有力となっていく。
こう考えていくと、「国家社会主義」というものは、実に多くの解釈があり、その点、プロレタリア独裁を本筋の目的とする共産主義とは、かなりの違いがあるが、特に日本ではこの二者の識別があいまいで、たとえば戦後日本の社会党では、共産党寄りの左派と、保守派に近い右派とが、常に衝突しついに左右両派の社会党に分裂してしまった。
従って、北一輝の場合も若い時は社会主義者であったが、段々右翼に近付き、晩年には高畠のように国家社会主義者と呼ばれるようになっていく。それでいて国家改造の為に書いた『日本改造法案大綱』が、青年将校の聖典のようにもてはやされると、当局からファッシスト――国家主義者……二・二六事件の黒幕……と規定されるようになっていく。
北一輝の思想的あるいは文筆活動における遍歴は、奇怪といえば奇怪、先見の明ある卓見……といえば、そうも思われる。
戦後の日本社会及び経済界の動きを見ると、北一輝の『日本改造法案大綱』の予言が適中しているような面が、非常に多い。財閥の解体、労働組合の隆盛、社会福祉による貧困家庭の救済など、戦後の日本人のかなりの部分は、貧富の差の少ない中流=Hの生活を享受しているともいえる。
もっともこの革新は主として連合国の武力による日本社会の強制的変革によるものであるが、北一輝の独特の国家社会主義が、日本の軍国主義の膨張が引き起こした戦争の敗北によって、偶発的?に実現したものといえるのかもしれない。
社会主義者として中国革命にかかわるまでの経歴を、まず見ておきたい。
そもそも北が国家、社会に関心を持ち始めたのは、佐渡中学校在学中で、三年生の時に、社会主義思想に触れ、共鳴している。
中学校を退学した年(十八歳)、佐渡新聞に投書して高く評価されたが、国体論にふれて問題となった。
その後、二十歳の時、社会主義の勉強に入る。翌年、幸徳秋水らの「平民新聞」が発行され、北の社会主義熱は益々高まる。
明治三十七年(一九〇四)、日露戦争開戦の年、社会主義を宣伝、反戦主張の演説会を聞く。
明治三十八年八月、『国体論及び純正社会主義』の執筆にかかる。
明治三十九年五月、『国体論』を自費出版、反響が大であった。この年、『哲学論』『経済論』を出したが売れず。十一月、中国革命同盟会に入り社会主義者との交遊が続く。
こうして見ると、北はファッシストというよりも社会主義者の面が濃い。
明治四十年二月孫文が日本へ追放された時から、北流の民族的革命主義が、有力となっていく。
宋教仁(湖南省出身の革命家、華興会を組織し、日本に亡命し早稲田大学に学ぶ。中国革命同盟会の結成に参加、再三蜂起したが失敗する。辛亥革命〈一九一一〉後、南京政府の法制院総裁となる。国民党を組織して選挙に大勝したが、袁世凱によって上海駅で暗殺された)らと知り合い、中国革命の資金集めに奔走する。
明治四十一年、弟・ヤ吉早稲田を卒業、北は浪人的革命家となる。二十六歳。
明治四十二年、社会主義者として身辺の警戒厳重になる。
さて上海で『日本改造法案大綱』を書くまで、北一輝は何をしていたのか? その生い立ちなど詳しいことは後述するが、北は明治四十二年から、中国革命同盟会の為に資金集めをやりだした。
明治四十三年、黒龍会の編纂部に入る。
この頃、大逆事件の関係で拘引され、釈放される。当局は北を社会主義者と見ていた。
中国革命の推進者・宋教仁と益々《ますます》親しくなり、十二月、宋教仁が革命の為帰国するのを、送別会で送る。
明治四十四年十月、中国革命支援の為上海に渡る。
十月、漢口、南京等で革命の為に奔走、危険を冒す。
十二月、孫文大総統に選ばれる。
同月、北一輝、すず子と結婚。
明治四十五年〜大正元年、中国革命の支援に奔走、三月、宋教仁農林総長となる。
八月、国民党成立、理事長・孫文、理事・宋教仁。
大正二年(一九一三)三月、宋教仁暗殺される。
四月、宋教仁の死の真相を暴こうとして、三年間、中国退去の命令を受ける。
五月、東京青山で貧困の中で一人暮らしを始める。
大正三年、秋、譚弐式の子(後の北大輝)長崎で生まれる。
大正四年、北は国家社会主義者兼支那革命顧問として、有名となる。
十二月、『支那革命外史』執筆開始。
大正五年、法華経を通じて呪的傾向に入る。
四月、大隈重信を通じて永井柳太郎らと交遊。妻すず子、北の中国における運動の資金集めのため、三度北京に渡る。
六月、上海に渡り長田病院に夫妻で住む。
第三革命の対策考慮、法華経読経を続ける。
大正六年、中国は対独断交の理由なしと譚人鳳らに叫ばせる。
清国皇帝の復辟《ふくへき》反対運動を展開す。
大正七年、自派のために武器購入運動を行なう。
大輝の父・譚弐式、湖南の獄を逃れようとして銃殺される。北夫妻が大輝の親代わりとなる。
十月、老壮会成立、猶存会結成される。(中心は満川亀太郎、大川周明)
大正八年、中国革命運動の前途に希望を失う。
七月、断食開始。
八月、『日本改造法案大綱』執筆開始。
九月、自治学会成立(中心は権藤成卿)
この年末、大川周明、上海に密航、北と語り、『日本改造法案大綱』を日本に持ち帰る。
十二月、中国出発、帰国する。
(注、この年表は田中惣五郎氏の『増補版・北一輝』を参照しました)
こうして、北一輝の有名な昭和史を震動させた『日本改造法案大綱』は、断食の後に執筆され、大川の手で日本に持ち帰られた。
続いて、大正九年一月、北一輝は妻と大輝を連れて帰国し、牛込南町の老壮会に入り、謄写版刷の『日本改造法案大綱』を刊行したが、出版法違反で、罰金三十円を科せられる。但し金三百円を内相の床次《とこなみ》竹二郎より受け取る。(首相は原敬)
さて履歴はそのくらいにして、北の主著である『日本改造法案大綱』について、昭和維新との関係を検索してみるべきであろう。果たして『日本改造法案大綱』は日本国の政治あるいは政治の形態を大きく変更する意図をもったものであるのか? ……。
また青年将校が『昭和維新の歌』で絶唱したような君側の奸≠処分一掃して、天皇親政を日本改造の伝家の宝刀≠ニする思想であったのか? ……。
それを探究する前に、北一輝の若い時からの著作を振り返ってみる必要があるが、それは後回しとして、取敢えず、『日本改造法案大綱』(以下、『改造法案』と略記する)と昭和維新の接点を探るため、『改造法案』の主な部分を読んでみたい。
まず雄渾ともいうべき『改造法案』の緒言にふれておこう。
今や大日本帝国は内憂外患並び至らんとする有史未曾有の国難に臨めり。国民の大多数は生活の不安に襲われて一に欧州諸国破壊の跡を学ばんとし、政権、軍権、財権を私せる者は只竜袖に隠れて、惶々《こうこう》その不義を維持せんとす。しかして外、英、米、独、露|悉《ことごと》く信を傷つけざるものなく、日露戦争を以て漸《ようや》く保全を与えたる隣邦支那すら酬《むく》ゆるに却って排侮を以てす。真に東海粟島の孤立。一歩を誤らば宗祖の建国を一空せしめ、危機誠に幕末維新の内憂外患を再現し来れり。
只、天佑六千万同胞の上に炳《へい》たり。日本国民は須《すべか》らく国家存立の大義と国民平等の人権とに深甚なる理解を把握し、内外思想の清濁を判別採捨するに一点の過誤なかるべし。欧州諸国の大戦は天その驕侈《きようし》乱倫を罰するに「ノア」の洪水を以てしたるもの。大破壊の後に狂乱狼狽する者に完備せる建築図を求むべからざるは勿論の事。之と相反して我が日本は彼において破壊の五ケ年を充実の五ケ年として恵まれたり。彼は再建を言うべく我は改造に進むべし。全日本国民は心を冷やかにして天の賞罰かくの如く異なる所以《ゆえん》の根本より考察して、如何に大日本帝国を改造すべきかの大本を確立し、挙国一人の非議なき国論を定め、全日本国民の大同団結を以て終《つい》に天皇大権の発動を奏請し、天皇を奉じて国家改造の根基を完うせざるべからず。
支那、印度七億の同胞は実に我が扶導擁護を外にして自立の途なし。我が日本また五十年間に二倍せし人口増加率によりて、百年後少なくも二億四、五千万人を養うべき大領土を余儀なくせらる。国家の百年は一人の百日に等し。この余儀なき明日を憂いかの凄惨たる隣邦を悲しむ者、如何ぞ直訳社会主義者流の巾幗《きんかく》的平和論に安んずるを得べき。階級闘争による社会進化はあえて之を否まず。而も人類歴史ありて以来の民族競争、国家競争ここに眼を蔽いて何の所謂《いわゆる》科学的ぞ。欧米革命論の権威等悉くその浅薄皮相の哲学に立脚してついに『剣の福音』を悟得する能《あた》わざる時、高遠なるアジア文明のギリシャは率先それ自らの精神に築かれたる国家改造を終わるとともに、アジア連盟の義旗を翻してその真に到来すべき世界連邦の牛耳をとり、以て四海同胞皆是仏子の天道を宣布して、東西にその範を垂るべし。国家の武装を忌む者の如きその智見|終《つい》に幼童の類のみ。
この緒言を読んだ限りでは、若い時から文学青年であったという北一輝らしい的確明敏な調子は、きらめいてはいない。但し、彼の願望、警告が国家改造にあることは、確かに読み取ることができる。
さて次はその内容であるが、『改造法案』を最も簡明に解説したのは、『世界大百科大事典』(平凡社)で、
「昭和期の軍部や右翼の国家改造運動に大きな影響を与えた北一輝の著作。一九一九年上海で執筆されたもので、右翼革命のプログラムが説かれている。内容は天皇の大権による戒厳令の施行、憲法の停止、議会の解散を行ない、在郷軍人団会議を基礎とする改造内閣によって、
一、私有財産の制限、
二、銀行、貿易、工業などの国家管理、
三、皇室財産の国家への下付、
四、華族制、貴族院廃止、
などを実現しようというもので、国家社会主義的な改革を目標としている。
一見急進的な主張を含み、日本の右翼の中では、最もヨーロッパのファッシズムに近い思想が盛られている。」
と定義されている。
以上の命題のうち最もショッキングなのは、「天皇の大権による『戒厳令の施行』と『憲法の停止』『議会の解散』」であろう。
元々天皇の大権は、明治二十二年公布の大日本帝国憲法によって、確立されたもので、その大権によって、憲法を停止するというのは、自らの喉に刃を擬する……という感がなきにしも非ず、ではなかろうか? ……。
次に在郷軍人団会議を基礎とする改造内閣によって、改革を行なう……とあるが、何故、在郷軍人なのか? 右翼革命ならば、それにふさわしい民間人や政治家、思想家などもいたのではないか? 在郷軍人というものは、現役を退いた予備役の軍人のことであるが、普通、この呼びかたは将軍や提督ではなくて、主に下士官兵の予備役軍人をさすことが多い。
何故そういう人たちによって、重大な私有財産の制限、銀行、工業、貿易の国家管理などという共産主義に似た改革を行なおうというのか? ……北は日本や中国における帝国軍人の横暴ぶりに嫌気がさして、在郷軍人に望みを託したのかもしれないが、見方によっては在郷軍人のほうがファッショ的で、現役軍人よりも思想的にファナティックな場合が多いと思われるが……。
以下、北一輝の意図を探索してみたい。
最初に『改造法案』の主な目次を見ておきたい。
巻一、国民の天皇
巻二、私有財産制度
巻三、土地処分三則
巻四、大資本の国家統一
巻五、労働者の権利
巻六、国民の生活権利
巻七、朝鮮その他現在及び将来の領土の改造方針
巻八、国家の権利・徴兵制の維持、開戦の積極的権利
[#小見出し]   巻二 私有財産制度
まず北一輝の国家観、天皇観であるが、これらは先に書かれた『国体論及び純正社会主義』などにその萌芽をみることが出来るので、一応これをおいて、民衆に関係の深い「私有財産」の項から検討してみたい。(これから検討される『日本改造法案大綱』の条目は、最初の『国家改造案原理大綱』を修正したものであるが、双方を合わせた『日本改造法案大綱』ということで探究していきたい)
北一輝の私有財産に関する考えは、すでに明治三十九年に自費出版された『国体論』にその萌芽が出ているが、『改造法案』ではさらに具体化されている。
北は十三年前に書いた『国体論』で、私有財産を、
「個人の自由なる活動又は享楽《ヽヽ》は之を私有財産に求めざるべからず」(傍点筆者)
として享楽≠ニいう文字を用いて、周囲の人々を驚かせた。一般にファッシズムで私有財産に言及する時は、これを国家に有用なる方策に寄与せしめるべきもの……などと規定することが多い。こうなると社会主義や共産主義に似てくるが、北は自由なる活動の外に、享楽≠ニいう言葉を用いて、この法案を「国家への奉仕専用」(かつてシナ事変から太平洋戦争にかけて、軍部や政府が国民に国家への献身を強いて、戦後、多くの批判を浴びた)としないで、個人の享楽……即ち欲望の充足による国民の生活の意義と楽しみ……を認めようとしたのは、この『改造法案』の柔軟な姿勢を示したものといってよかろう。
北の特色は、私有財産を否定するのではなくて、これを全国民に保障し享受させるところにあるといってよい。後にカリスマとなる思想の持主は、多くの国家論、社会論を読破した後、この思考法に到達したものと思われる。彼はこう言っている。
「この国家『改造法案』を一貫する原理は、国民の財産所有権を否定するものに非ずして、全国民にその所有を保障し享楽せしめんとするにあり」
では北一輝は日本人の私有財産をどの程度に制限するのが適当と考えていたのか?
上海で執筆した『日本改造法案大綱』のオリジナル(原本)では、
「日本国民一家の所有し得べき財産限度を壱百万円とす」
となっているが、大正十二年改造社から刊行された『日本改造法案大綱』では、上限をもっと高く規定している。(後述)
この百万円という数字の根拠について、北は理論的な理由を示してはいない。この項・註の二(原文は文語体であるが、適宜口語体で示す)では、
「限度を設けて壱百万円以下(後の改造社版では、三百万円、二百万円、百万円とその限度に幅を持たせている)の私有財産を認めるのは、一切私有財産を許さない諸種の社会革命説と比較して社会及び人間性の理解を根本的に区別する為である。貧富を無視した画一的平等を考えることは、社会万能説に出発するもので、ある人は個人の名誉的不平等を認める制度をもって、財産の平等を正当化しようというが、これは価値のない別問題である。人は物質的享楽又は物質活動そのものについて画一的であることは出来ないからである。自由の物質的基本をここに示すものである」
また北は、註の四で、社会主義は私有財産の確立した近代革命の個人主義、民主主義の進化を継承したものである、と主張している。
「民主的個人を以て組織されない社会は奴隷的社会万能の中世時代である。そして民主的個人の人格的基礎は則ちその私有財産である。私有財産を尊重しない社会主義は、いかなる議論を本や論文に書いても、要するに原始的共産主義時代の回顧にすぎない」
さらに『改造法案』で規定された私有財産限度を超過した者に対する罰則を設けている。
「私有財産限度を超過した資産は、無償で国家に納付させる。
(註一)経済的組織より見た時、今の国家は統一国家ではなくて、経済的戦国時代かつ封建制度である。(北はそれぞれの巻あるいは章、節に「註」をつけた)
米国の如きは確実に経済的諸侯政治を築き終わったものである。国家はかつて家の子郎党などの私兵を養って、戦った時代から現代の統一に至った。国家は経済的統一をするためには、経済私兵を養って互いに殺傷しつつある今の経済的封建制を廃止することができよう。
(註二)限度超過額を無償で徴収する訳は、現時、大資本家、及び大地主等の富はその実社会共同の進歩と共同の生産による富が悪制度のため、彼等少数者に停滞し蓄積されたものだからである。
また公債をもって悉くこれらを賠償する時は、彼等は公債に変形した依然たる巨富をもって国家の経済的統一を毀損《きそん》し得る力を保有するからである。
(註三)違反者に対して死刑に処するというのは、必ずしも希望するところではない。
又、もとより無産階級の復讐的騒乱を論議するものでもない。実に貴族の土地徴収を決行するには、大西郷が王政復古の時、異義を唱える諸藩あらば、一挙討伐すべき準備をした先哲の深慮に学ぶべし、とするものである。二、三十人の死刑を見れば、天下は悉くこの法案に従うであろう」
「国家はこの合理的勤労に対してその納付金を国家に対する献金として受け、明らかにその功労を表彰すべきである。
この納付を避ける目的をもって血族その他に分有又は贈与することはできない。
(註二)最小限度の生活基準に立脚した諸々の社会改造説に対して最高限度の活動権域を規定した根本精神を了解すべし。ここに深甚な理論がある。
(註三)前世紀的社会主義は、各員平等の分配のために勤勉の動機を喪失すべし、というような非難をこの私有財産制度に加えることはできない。第一、私有財産権を確認したために少しも平等的共産主義に偏向せず。しかして私有財産に限度があっても、いささかも勤勉を妨げず。百万円以上の富は国有たるべきであるから、工夫は多くの賃金を必要とせず。商家は広く客を集める必要はない。(筆者注、大正八年〔一九一九年〕当時、市民で百万円の財産を保有していたのは、華族、大地主、財閥、大会社の社長等一握りの特権者に限られていたと思われる。当時の百万円は現在〔平成三年〕のどの程度の価格に該当するのであろうか?)」
『値段の風俗史』(『週刊朝日』調べ)によると、大正八年当時、巡査の初任給は二十円、もりそば一杯は七銭であった。現在は、巡査のほうは十万円、そばは三百五十円とすれば、巡査のほうは五千倍、そばも同様である。
この比率でいくと、大正八年、北一輝が『日本改造法案大綱』を書いた頃の百万円は、五千倍すると、五十億円に相当する。現在は土地の異常な値上がりで、大都会に土地を所有する市民で五十億、百億円の土地即ち財産を持つ人も珍しくはないが、最近(平成三年三月現在)は土地やマンションも値下がりの傾向があるというから、土地成金を別とすれば、五十億円以上の財産を個人あるいは一家族で保有している例は、かなり希少であると、見るべきであろう。
北一輝は後に三井や十五銀行などから、献金を受けて豪華な暮らしをするようになるが、上海では貧困のどん底にいた筈である。私財五十億円以上を財産の上限とみなして、これ以上の財産は国庫に納入させようという、北の感覚はこのように計算してみると、どこか民衆の感覚にそぐわないものがありそうだ。
たとえば東京、大阪などの大都会を除いて、一家族で五十億円以上の財産を持っている家は、暁の星の如く希ではないのか? ……というのは、明治から大正にかけては、一般の家庭は借家住まいが普通であって、(文豪・夏目漱石も終生借家住まいであった)大部分のサラリーマンは自分の持家(土地、庭付の)を持たず、それが太平洋戦争後も続いたので、貯蓄も五千万円を超すものは、少ないのではないか? 戦後の日本人が持家のために狂奔し始めるのは、国土が四つの島に限定され、土地が非常に狭小で急激な値上がりが予想されたからである。
また大正八年当時と現在の産業特に工業などの発展ぶりは、雲泥の差があり、女はもちろん、地方の男も働き口が少なく、益々貧富の差は激しかったと思われる。
これで筆者が『日本改造法案大綱』の経済感覚に疑問を抱くようになったとしても、不思議ではあるまい。
例えば筆者は大正九年生まれで、当時二十五歳の父は満鉄の職員をしていたが、本土より高給だと言われる満鉄職員の月給は、五十五円ぐらい、貯蓄に至っては百円から三百円程度で、その後、妹、弟が生まれるに従って、我が家の家計は非常に苦しくなっていった、というのが母の回想である。
北の国家社会主義では、日本人の財産を百万円に制限するとなっているが、この上限はかなり時勢に比べてハイクラスといえるのではないか?
そして大正十二年市販された改造社版の『日本改造法案大綱』では、これが百万円、二百万円、三百万円にカサ上げされていく。三百万円は庶民にとって、今でも大金である。これ以上は国庫に没収すべきだと北はいっているが、ちょっと目安が甘いのではないか? ……。
また財産といってもそれを貯蓄する手段、方法が問題であろう。乏しい月給の一部を割いてもとても百万円の預金はできない。先祖代々の土地、山林を相続するとか、銀行から金を借りて会社を造り、その事業が大あたりでもしなければ、個人で百万円の貯金をすることは、不可能に近かったのではないか?
筆者の感じでは北一輝が純正社会主義を参考にした国家社会主義を、有効に機能させようと考えるならば、私有財産の上限は五十万円か三十万円にして、それから上は特殊な国立金融機関に納入して、この余剰金の使途は特別委員会で公正に考慮し、かたや貧民の救済に当て、別途には国民の雇用のため、民衆のための生産機関を運営するなどを、考慮しては如何であったろうか?
三十万円が上限では、低すぎる……と不平をいう者も出てくるかもしれない。しかし、当時、総理大臣の年俸は一万二千円ほどであるから、その三十倍近い年収があれば、少ないとはいえない筈である。また当時の金利は、年五分から七分が普通であったから、三十万なら一年で一万五千円、月にして千二百五十円の利息がつく訳で、中堅サラリーマンの月給の十倍に近い収入は見込めたはずである。
どうも北一輝は貧民のために立ち上がった革命家ではなくて、理論は理論、生活は享楽主義……という詩人、画家、作家、音楽家などの自由業に多いタイプではなかったか? ……と疑われるフシがある。
さて金額の件はそのへんにして、肝心の問題は、どうやって国民に平均百万円という資産を所有せしめ得るか? ということである。
第一次大戦で漁夫の利を占めた日本は、船会社、造船、製鉄などの産業は大いに潤ったが、その反面、米は暴騰して、有名な米騒動(大正七年八月、寺内内閣の時発生)が勃発、九月には原敬内閣に交替、軍部主導(長州の山県らを背景とする)型からブルジョワ隆盛なタイプとして、民衆の期待を裏切っていく……。この間にヨーロッパでは第一次大戦が終わり(十二月)、翌八年一月西園寺らが出席して、パリで講和会議開催。(一方、左翼運動も盛んで七年末には東大で新人会が発足、続いて早稲田でも民人同盟、建設者同盟が発足、吉野作造、福田徳三、大山郁夫、麻生久らが活躍し始め、早稲田の学生であった浅沼稲次郎らも民人同盟、建設者同盟などで、活動し始めていた)
大正八年春頃からは、労働運動が日本全国で盛んになり、中国の五・四運動に呼応するように、足尾銅山、岐阜県山県村農民運動などが、続発した。北一輝が『日本改造法案大綱』を書いたのは、このような年の八月で、正《まさ》しく彼は労働者と財閥の戦いの谷間で、この不滅の国家社会主義的著作を、上海の茅屋で書き綴っていたということになる。
それはそれとして、狂奔する第一次大戦後のインフレ時代に、北一輝は、土地問題の処理に関して、どのような構想を抱いていたのか? ……。
[#小見出し]   巻三 土地処分三則
一、北一輝は日本国民の土地私有限度を時価十万円と規定した。さらにこの限度を超えるため、余分の土地を血族等に贈与せしめることを禁じた。
ここで当然つきあたるのは、時価十万円という土地の内容である。先に筆者は現代の価格を北が『日本改造法案大綱』を書いた大正八年の五千倍と仮定した。この比率が適用出来るならば、当時の十万円は現在の五億円に相当する。現在の日本で五億円でどれだけの土地が買えるのか? ……東京では銀座と新宿の価格競争が続いてきたが、最近の土地公示価格によると、一平方メートル三、四千万円即ち一坪一億円というのが、最も繁華な土地の時価(実勢)と思われる。では大正八年当時の地価はどのくらいであったのか? ……先に引用した『値段の風俗史』によると、銀座四丁目、三愛の角で昭和五十五年一坪二千五百万円となっている。大正二年には五百円で十年には千円である。今千円と仮定して二千五百万円はその何倍に当たるのか? ……二万五千倍という数字が出た。巡査の月給やそばの値段から算出したさきの五千倍のそのまた五倍が、土地の時価の想定値上がり率である。
しからば大正八年には銀座の角が坪時価八百円として、北一輝の規定した十万円でどのくらい買えるのか? ……百二十五坪という数字が出た。現在、銀座で百二十五坪を買うとすれば、さきの計算によって、坪二千五百万円かける百二十五であるから、三百十二億五千万円という数字が出た。これは相当な数字である。先に私は北の私有財産を百万円に限定するという項目で、この百万円を今の五十億円と想定した。しかし、地価に関する限り、北のいう五十億円は銀座の土地六坪余に過ぎない。また大正八年の十万円は、今の物価が当時の五千倍として、五億円に過ぎない。
銀座の地価の値上がりは、当世はやりのバブル価格として、現在の五億円では豪華マンション一軒か二軒分で、土地も東京の都心に近いところでは、二、三十坪というところである。北一輝も七十年近くの間に、日本の地価がこんなに暴騰しようとは、考えていなかったであろう。
もっとも北が考慮の対象としたのは、繁華街に土地を持つひとたちの投機相場ではなく、地方に住む一般市民が対象であったかもしれない。それならば、十万円では坪千円の土地が百坪買えるから、このへんを目安としたのかもしれない。
また日本国家改造を目指す北一輝としては、大地主の小作に対する搾取を制限するためにも、土地の私有を制限する必要があったのは当然であろう。
(註一)国民の自由を保護する国家は、同時に国民の自由を制限し得る。外国の侵略及びその他の暴力より安全にその土地を私有し得る所以はすべて国家の保護による。資本的経済組織の中で、不法な土地の収奪が行なわれ、国民の大多数がその生活基礎である土地を奪われつつある現在、国家は当然土地を奪う行為を制限すべきである。
(註二)制限を時価十万円として、小地主、小作人の存立を認めるのは、一切の地主を廃止しようという社会主義的思想とは根拠が違う。又土地は神が人類に与えたる人権であるというような愚論は価値がない。個人はすべてに平等には出来ない。その経済的能力及び経済的運命も画一ではない。故に小地主と小作人が存在することは神意で、社会の存立及び発達のために必然的に経由する過程である。
二、私有限度を超えた土地は国に収める。これに対し国は賠償として三分利付公債を交付するが、先の私有財産の限度を超えることはできない。
(註一)現在の日本の大地主はその経済的諸侯たる形において中世貴族の土地を所有したのに似ているが、所有権の本質において全く近代的《ヽヽヽ》なものである。中世の所有権思想は、その所有権が奪取であると否とに関わらず、強者の権利の上に立つものである。(傍点筆者)
明治維新革命は所有権の思想が強力による占有ではなくて、労働に基づく所有に一変するとともに、強者がその強力を失って、その所有権を喪失した者。之に反して限度超過を徴収することは、近代的所有権思想の変更ではない。単に国家の統一と国民大多数の自由の為に少数者の所有権を制限したに過ぎない。故に私有財産限度以下において所有権に伴う権利として、賠償を得るものである。
この註一には、よくわからない点も多い。当時の大地主が近代的だと書いてあるが、維新後も日本には、酒田(山形県)の本間家を始め各地に大地主が散在していた。浅沼稲次郎は早稲田の学生時代から、各地の農民運動に参加し、大正十三年、新潟県北蒲原郡木崎村の大争議で、日本有数の大地主・真島桂次郎を相手に必死の大運動を展開したことで知られている。明治以降の大地主が、近代的であったとは思えない。
また北一輝は明治以降の土地は、所有権の思想が強力によるものではなく、労働に基づく所有に一変したものである、といっているが、昭和の太平洋戦争の敗戦で、やっと日本にも大地主がいなくなったので、それまでは庄屋、名主の末裔《まつえい》など広汎な土地を所有し、小作から高い年貢を搾取し、貴族院の多額納税議員となっていた者は少なくはなかった。
アイルランドでは、中世貴族の土地所有の問題を今日においても解決することができず、ついに独立問題となって破裂したが、この問題と北が唱える私有地限度制とは、その思想においても進歩の程度においても、雲泥の差がある。明治維新において各地の大名は単なる華族とはなったが、まだ多くの土地を所有しており、敗戦後、マッカーサーによる農地解放までは、華族が大地主であった例は少なくはなかった。
三、ロシアの土地没収の如きは明らかに明治維新革命を五十年後の現在において、拙劣に試みつつあるものに過ぎず。彼が多くの点すなわち軍事、政治、学術その他において、遥かに後進国であることは論を待たない。土地問題において英語文書の直訳やレーニンの崇拝は、佳人の醜婦を羨《うらや》むのたぐいである。
将来の私有地限度超過者。将来その所有地が私有限度を超過した者は、その超過した土地を国家に納付して、賠償公債の交付を求めることが出来る。
徴収地の民有制……国家は皇室下付の土地及び私有地限度超過者より納付した土地を分割して、土地を持たない農業者に年賦金をもってその所有とさせ得る。
(註一)ロシアの革命思想家の多くは、国民平等の土地分配を主張して、又別個の理論を土地民有制に築くものが多い。しかし、物質的生活の問題は画一的な原則を想定すべきではない。もし原則というものがあるとすれば、只国家の保護によりてのみ、各人の土地所有権を享受せしめるので、最高の所有者である国家が国有とも民有とも決めることが出来る。ロシアで民有論が起こるのは当然であるとともに、アイルランドの貴族領が国有であることも可能である。
日本が大地主の土地を徴収することは、最高の所有者である国家の権利として国有となる。
また日本が小農法の国情であることを考えて、之を自作農の所有権に移し、以て土地民有制をとることも、日本として物質生活から築くべき幾多の理論がある。
只、動かすことの出来ないのは、日本の農業者の土地は資本と等しくその経済生活の基本なので、資本がある程度、その限度内において、各人の所有権を認められる如く、土地もまたその限度内で確実な所有権を設定されることは国民的人権である。
(註二)この国家改造案を一貫する原理は国民の財産所有権を否定するものではなく、全国民にその所有を保障し享楽せしめようとするものである。
熱心な音楽家が借用の楽器で満足しないと同様に、勤勉な農夫は借用地を耕してその勤勉を持続することは出来ない。人類を公共的動物とのみ考える革命論が偏向していることは、私利的欲望を経済生活の動機だと立論する旧派経済学と同じ。共に両極の誤謬《ごびゆう》である。人類は公共的と私利的との欲望を混有している。従って改造されるべき社会組織や人間性を無視したこれら両極の学究的憶説を容認することは出来ない。
四、都市の土地所有
都市の土地はすべて之を市有とする。市はその賠償として三分利公債を交付する。賠償額の限度及び私有財産との加算で私有財産限度を超える時は、前に述べた通りの処置となる。
(註一)対象を市と限定したのは、町村、住宅地では、公有とすべき理由が甚だしくないためである。
(註二)都市の地価の騰貴は、農業地の如く所有者の努力に原因するものでなく、大部分都市の発達による。都市はその発達の結果となった利益を単なる占有者に奪われぬため市有とするのである。
(註三)都市はその借地料の莫大なる収入をもって市の経済を遺憾なく運営させることができる。従って都市の積極的発達はこの財源によって自由となるとともに、その発達よりする借地料の騰貴はまた循環的に市の財源を豊かにする。
(註四)家屋は衣服と等しく各人の趣味必要に基づくもので、三坪の邸宅に甘んじるものもいれば、百万円の高楼を建てるものもいるであろう。ある社会主義者の如く市立の家屋を考えるのは、市民の全部に日常かつ終生画一的な兵隊服を着用させるようなもので、愚論である。
五、国有地たるべき土地――大森林又は大資本を要すべき未開墾地又は大農法を利とする土地は、之を国有とし国家自らその経営に当たるべきである。
(註一)(略)
(註二)日本においては国民生活の基礎たる土地の国際的分配において、将来、大領土(北一輝の大陸戦略?)を取得しなければならない運命にあり。(ここで想起されるのは、北と石原莞爾の関係である。二人とも日蓮宗を信仰するカリスマで、その総合的な日本並びに東洋の経営戦略で知られた。といっても北一輝は明治十六年生まれ、石原莞爾は明治二十二年生まれで、北が『日本改造法案大綱』を書いた大正八年、山形県出身の石原は陸軍大尉で歩兵六十五連隊の中隊長、その前年に陸大卒、九年四月中支那派遣隊司令部付となって、大陸に渡る。北一輝の表看板は『日本改造法案大綱』であるが、石原のほうにも『東亜連盟』という雄大な構想が湧いてくる。この二人のカリスマが討論したらさぞ面白かっただろうと思われるが、北一輝が刑死した昭和十二年夏、石原は参謀本部第一部長心得、陸軍少将で、二人が会談する機会はなかったかもしれない)
従って国有として国家の経営すべき土地の莫大なることを考えるべきである。要するにすべてを通じて公的所有と私的所有の並立を根本原則とする。
(註三)日本の土地問題は単に国内の地主対小作人のみを解決すればよいというものではない。土地の国際的分配において、不法過多の所有者がいることまで、革命的理論を拡張しなければ、言論行動に価値がない。
[#小見出し]   巻四 大資本の国家統一
国家社会主義者と言われる北一輝は、資本家や資本主義について、どのような政策を考えていたのか? ……。
一、私人生産業限度を資本金一千万円とする。
筆者の調べ(『財閥』による)によると、三井の大番頭と呼ばれた益田孝は、明治四十年、三井各社を株式会社とし、さらにこれの統合参謀本部ともいうべき、総司令部を造るべく、三井三郎助を同道して、ヨーロッパの財界を視察旅行した。これは日露戦争の勝利によって、益々資本主義的に発展しつつある日本企業の代表である三井(物産、鉱山、製糸、紡績等)を、欧米のコンツェルン(ロスチャイルド家の如き)の如き総合的企業として統一する下調べの為である。
この後、三井は明治四十二年、すべての部門を株式会社とし、これらを統帥する機関として、三井合名を設立した。初代社長は三井八郎右衛門で、三井各社から選抜された理事で作られた理事会(初代筆頭理事は益田、後に理事長となる)が、全体の運営を指揮することになった。この時の三井合名の資本金は五千万円、これが大正十五年には資本金を二億円に増資して日本一の会社となった。
三井合名の全利益は、大正四年、日本が第一次大戦に参戦した頃には、二百万円弱であったが、翌五年五百万円を超過、そして大戦景気の絶頂と言われる大正六年には、五千五百万円と前年の十一倍に達している。資本金も大正四年の五千万円から九年にはその四倍の二億円になっている。
この三井の繁栄の尖兵が物産と鉱山で、物産は大正八年には、取扱額が二十一億三千万円に達している。
北一輝の『日本改造法案大綱』は、このような日本の資本主義産業が、急激な膨張を示した時代に執筆されたもので、財閥に対しては厳しい態度を打ち出している。
当時、日本の財閥といえば、三井、三菱、住友、安田、古河……それに日露戦争で儲けた大倉などが、有名であった。そしてこれらの財閥の資本金は、当然、一千万円を超過していると思われる。
これに対して、北一輝は次のように資本金を一千万円に制限した理由を述べている。
(註一)(略)
(註二)限度を設けて私人の生産業を認めるのは、
一、人の経済的活動の動機の一つが私欲にある。
二、新たな試みが公共的認識を待つことが出来ず、常に個人の創造的活動による。
三、如何に公共的方面が発達しても、国民生活の全部をカバーすることが出来ず、現実的将来は依然として小資本による私人経済が大部分を占める。
四、国民自由の人権は、生産的活動の自由において現れた者につき特に保護助長すべし。
というような理由による……と北一輝はいう。そしてこれらの理由は社会主義がその建設的理論において、未だ全く世間の承認を得ていない欠陥を示すものである。マルクスとクロポトキンはまだ未開の前世紀時代の先哲として尊重すれば宜しい。
これによると北の意図は、資本主義を大幅に認めるものではないが、共産主義とは大きく一線を画するものである。
二、私人生産業限度を超過した生産業は国有とし、国家の統一的経営とする。
賠償金は三分利付公債をもってする。賠償の限度及び私有財産との関係は、すべて私有財産限度の規定による。
(註一)大資本が社会的生産の蓄積だということは、社会主義の原理として明白である。然らば社会すなわち国家が自己の蓄積したものを、自己に収得するのは、当然のことである。
(註二)現今の大資本が私人の利益のために私人の経営に委任されることは、人命を活殺し得べき軍隊が、大名の利益のために大名に私用されることと同じである。
現代の支那は国内に私兵を養い、私利私欲のために攻伐しつつあり、これを政治的に統一したものということはできない。
また鉄道、電信の如き明白なる社会的機関をすら私人の私有に甘んずる米国は、金権督軍の内乱時代である。
国民の安寧秩序を保持することが、国家の唯一の任務であるとすれば、国民の死活栄辱を日夜にわたり脅威しつつあるこれら資本家を処分しないと、国家はないに等しい。無政府党は恐れるに足らず、国家が国家自らの義務と権能とを無視することを恐れるべきである。
(註三)積極的に見る時大資本の国家的統一による国家経営は米国のトラスト、ドイツのカルテルを更に合理的にして国家がその主体となるものである。トラスト、カルテルが分立的競争より遥かに有理なる理論と実証によって、国家的生産の将来を推定すべし。
(註四)大生産の徴集においてそれらを有し、更に土地徴集においても各所にそれらを有する大富豪等は、要するに只、壱百万円を所有するのみ。之と同時に壱百万円以下の株券を所有し合資を有するとは、その関係する会社の徴集される時、一の傷害なき賠償を受ける。即ち所謂上流階級なるものを除けば、中産以下の全国民には一分の動揺を与えず。
三、国家の生産的組織
以上の制度による余剰の資金によって、国家は次のように各省を運営する。
その一、銀行省
私人生産業以上の各種大銀行より徴集せる資本及び私有財産限度超過者より徴集せる資本、及び私有財産限度超過者より徴集したる財産をもって資本とする。
その業務は次の通りである。
海外投資において豊富なる資本と統一的活動を行なう。
他の生産各省への貸付。私人銀行への貸付。通貨と物価との合理的調整。絶対的安全を保障する国民預金。
(註一)現在の分立している既成銀行とこの銀行省との対外能力を比較する時、その差は殆ど支那の私兵と日本の統一軍隊ほどの落差がある。
(註二)貿易が順調で外国より貨幣の流入が盛んでインフレの恐れある時、銀行省はその金塊を貯蔵して国家非常の用に備えるとともに、物価を合理的に調整することが出来る。
経済界の好況を却って国民生活の悩みとする現在の大矛盾は、一に国家が金権を持たないことによる。
(註三)国民の血のにじむ貯金又は事業の運命を決すべき預金が、銀行の破産等によって、消滅することは国民生活の一大不安である。如何に岩下清周(三井の幹部、北浜銀行頭取。大正三年、同銀行の取り付け騒ぎで辞任、預金者は大損をした。岩下は背任横領罪で大正十三年まで入獄した)に重刑を科しても幾万人の被害者には、何の補償ともならない。その点、銀行省は大日本帝国が国民とともに滅びない限り銀行省の預金には不安がない。
その二、航海省
私人国民生活限度以上の航海業者より徴集した船舶資本を以て、遠洋航路を主として、海上の優勝を争うべし。造船、造艦業の経営等も行なう。これは海上の鉄道国有と同様である。
その三、鉱業省
資本又は私人生産業限度以上の各種大鉱山を徴集して経営する。
銀行省の投資に伴う海外鉱業の経営、新領土取得の時、私人鉱業と並行して国有鉱山の積極的開発等。
(註一)(略)
(註二)国民の屍山血河によって獲得した鉱山……例えば撫順炭鉱の如き……を少数者が壟断《ろうだん》しつつある現在の状態は、実に最悪なる政治というべきである。愛国心の低下も無政府党の出現も、国家自らが招くものである。
その四、農業省
国有地の経営。台湾製糖業並びに森林の経営。台湾、北海道、樺太、朝鮮の開墾。南北満洲、将来の新領土の開墾、又は大農法の耕地を継承した時の経営。
(註)台湾における砂糖業及び森林に対する富豪らの罪悪が、国家の不仁、不義とされる如きは、国家及び国民の忍びなきところである。
将来、台湾の幾十倍の大領土を南北満洲及び極東シベリアに取得すべき運命において、(北一輝は満洲事変、満洲国の出現を予知していた? また北樺太及び沿海州なども、我が手中に入れ、人口問題を解決しようと考えていた? ……)同一なる罪悪を国家国民の責任とされることは、日本の国際的威厳信用を汚辱し、土地の国際的分配の公正のために、特に日本の享有せる領土拡張の生活権利を損傷し、いかなる大帝国建設も百年の寿を全うすることは出来まい。
その五、工業省
徴集した各種大工業を調整し、統一して真の大工業組織となして、各種の工業を悉《ことごと》く外国と比肩することが出来る。私人の企てざる国家的欠陥である工業の経営、海軍製鉄所、陸軍兵器廠の移管経営等。
(註)工業のトラスト、カルテル的組織は資本に乏しく列強より遅れている日本には特に急務である。又今回の大戦にて暴露された如く、日本には自営自給することができない幾多の工業がある。自己の私利を目的とする資本制度に依頼して、無関心であることは、今日及び今後日本の国際的危機の大事となる。
その六、商業省
国家生産又は私人生産による一切の農業的工業的貨物を案配し、国内物価の調節をなし、海外貿易における積極的活動を行なう。
この目的のため関税はすべてこの省の計算によって内閣に提出しうる。
(註一)(前略)国家の物価調節は整然として行なわるべきである。大地主と投機商人が、米穀の買い占め、売り惜しみを自由ならしめて、昨今の米価騰貴を現出しつつあるを見るがよい。
すべての物価の問題は悉くここに発する。彼等の大資本を奪わずして、物価調節を論じるは抱腹すべき空想政治である。
(註二)国内の物価が世界的原因、即ち世界大戦中の如き世界的物価騰貴のために騰貴する時は、国家は一般国民の購買能力と世界市価との差額を輸出税として課税すべし。公私生産品一律に課税されるのはいうまでもない。
こうして国内物価の暴騰を防ぐとともに、貿易上の利益を国庫に収得することができる。
但し、これらは非常変態の経済状態であって、輸出税を課することは原則ではない。
而も非常に則した時の国民の不安騒乱を招くが如き国家組織をもってして、如何にして大日本帝国の世界的使命を全うすることができようぞ。
将来、一大戦争を覚悟するならば、特に非常時に安泰なるべき改造を要する。
その七、鉄道省
今の鉄道院(大正九年五月、それまで逓信省に属していた鉄道院を独立させて鉄道省とする)に代えて、朝鮮鉄道、満鉄等の統一。将来新領土の鉄道を継承し、更に敷設、経営の積極的活動等。
私人生産限度以下の支線鉄道は之を私人経営に任せるべし。
以上のほか、資本に関して、北一輝が国家社会主義の方法論として、追加しているのは、
一、各省からの莫大な国庫収入の一部を国民の生活保障に当てること。
二、生産各省は個人と同様に課税される。
三、塩、煙草の専売は廃止し、国家生産と個人生産の並立とする。
四、遺産相続税は親子の権利を犯すものであるから、単に手数料に留める。
[#小見出し]   巻一 国民の天皇
ここで『改造法案』の最も重要で青年将校に大きな影響を与えたという、北一輝の天皇論と国家論にふれなければならない。
この『国民の天皇』という章は、先に書かれた『国家改造案原理大綱』にも同じ章が巻一となっており、『日本改造法案大綱』でも巻一には、『国民の天皇』という重要な章がある。そしてその原点は北一輝が日露戦争中の明治三十八年から三十九年にかけて書いた『国体論』にその萌芽が出ている。
また『日本改造法案大綱』の『国民の天皇』の章は、註のかなりの部分が削除になっているが、『原理大綱』(以下、このように略記する)の方は削除や伏せ字がない。
まずこの章の前に、緒言があり、これは『日本改造法案大綱』と同様である。
次に『国民の天皇』の章に入るが、まず「憲法の停止」と「天皇の原義」という項目にぶつかる。
一、憲法の停止
天皇は全国民とともに国家改造の根基を定めるため、天皇大権の発動によって、三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く。
(註一)権力が非常の場合有害な言論や投票を無視し得るのは当然である。いかなる憲法をも議会をも絶対視するのは、米英の教権的デモクラシーの直訳である。これはデモクラシーの本面目を覆う保守頑迷の者。その笑うべき程度において、日本の国体を説明するに、高天《たかま》ケ原《はら》的論法をもってする者がいるのと同じである。
海軍拡張案の討議において、東郷大将の一票が醜悪代議士の三票より価値がなく、社会政策の採決において、カルル・マルクスの一票が大倉喜八郎らの七票より不義だということはできない。由来投票政治は数に絶対価値を付して、質がそれ以上に価値を認められるべきことを無視した旧時代の制度を、伝統的に維持しているに過ぎない。
(註二)クーデターを保守専制のための権力乱用と速断するのは歴史を無視するものである。ナポレオンが保守的分子と妥協しなかった純革命時代においてやったクーデターは、議会と新聞の大多数が王朝政治を復活しようとする分子に満ちたので、革命遂行の唯一道程として行なったもので、最近のロシア革命においてレーニンが機関銃を向けて妨害的勢力の充満する議会を解散した例を見ても、保守的権力者のせいとみるのは甚だしい俗見である。
(註三)クーデターは社会権力即ち社会意志の直接的発動と見るべきである。その進歩的なものについて見ても、国民の集団そのものに現われることもある。ナポレオン、レーニンの如き政権者によって現れることあり。日本の改造においては必ず国民の集団と元首の合体による権力発動となるべきである。
(註四)両院を解散する必要は、それによる貴族と富豪階級がこの改造決行において、天皇及び国民と両立しないからである。憲法を停止する必要は、彼等がその保護をまさに一掃しようとする現行法律に求めるからである。戒厳令を布く必要は彼等の反抗的行動を弾圧するのに、最も拘束されない国家の自由を要するからである。そして無知半解の革命論を直訳して、この改造を妨げる言動をなす者の弾圧をも含む。
二、天皇の原義
天皇は国民の総代表である。国家の根柱たるの原理主義を明らかにしたい。
この理義を明らかにする為には、神武国祖の創業、明治大帝の革命に則《のつと》って宮中の一新を図り、今の枢密顧問官その他を罷免し、以て天皇を補佐し得るべき器を広く天下に求める。
天皇を補佐すべき顧問院を設ける。顧問院議員は天皇より任命せられ、その人員を五十名とする。
顧問院議員は内閣会議の決議及び議会の不信任決議に対して、天皇に辞表を奉呈すべし。
(註一)日本の国体は三段の進化をしてきたので、天皇の意義も又三段の進化をしてきた。
第一期は藤原氏より平氏の過渡期の専制君主国時代である。この間は理論上天皇はすべての土地と人民を私有財産として所有し、生殺与奪の権を握っていた。
第二期は源氏より徳川氏に至る貴族国家時代である。この間は各地に群雄割拠して、その範囲において土地と人民を私有し、その上に君臨した幾多小国家、小君主として交戦し連盟したものである。
従って天皇は第一期の意義に代えてこれら小君主の盟主である幕府に光栄を加冠する羅馬《ローマ》法王として、国民信仰の伝統的中心としての意義を有していた。
この進化は欧州中世史の諸侯国、神聖皇帝らと似たところがある。
第三期は武士と人民の人格的覚醒によって、各々その君主たる将軍、又は諸侯の私有より解放されようとした明治維新革命に始まる民主主義国時代である。
この時よりの天皇は純然たる政治的中心の意義を有し、この国民運動の指揮者であり、それ以来現代民主国の総代表として国家を代表する者である。
即ち維新革命以来の日本は天皇を政治的中心とした近代的民主国である。どうして我が国に不足があるものの如くに、かのデモクラシーの直訳輸入の必要があるのか?
この歴史と現代を理解しない頑迷国体論者と欧米崇拝者との闘争は、実に非常な不祥を天皇と国民の間に爆発させるものである。国体を理解せずに国体を誇るのは決して国民的自尊心ではない。
(註二)国民の総代者が投票当選者である制度の国家が、ある特異な制度の国より優越すると考えるデモクラシーは、全く根拠がない。
国家は各々その国民精神と建国の歴史をことにする。
中華民国八年までの支那が前者の理由によって、後者たるベルギーより合理的であるとは言えない。
アメリカ人のデモクラシーとは、社会は個人の自由意志による自由契約で成る……という幼稚極まる時代思想によって、各欧州本国より離脱した個人個人が村落的結合をなして、国を建てたものである。
その投票神権説は当時の帝王神権説を反対方面より表現した低能哲学である。日本はかかる建国にも非ず、又かかる低能哲学に支配された時代もない。
国家の元首が売名的多弁を弄し、下級俳優の如き身振りを晒して当選を争う制度は、沈黙は金なりを信条とし、謙遜は美徳なりと教養されたる日本民族にとっては、一に奇異なる風俗として傍観すれば足りる。
(註三)現在の宮中は中世的弊習を復活した上に、欧州の皇室に残存した別個のそれを加えて、実に国祖建国の精神たる平等の国民の上の総司令者を遠ざけること甚だしい。明治大帝の革命はこの精神を再現して、近代化したものである。
従って同時に宮中の廓清を決行した。之を再びする必要は、国家組織を根本的に改造する時、ひとり宮中の建築をのみ崩壊に瀕したままにしておくことができないからである。
(註四)枢密顧問院議員が内閣又は議会の決議によって弾劾される制度の必要は、天皇の補佐を任とする理由によって、専断を働く者が多い現状を見てのことである。
枢密院諸氏の頑迷と専横は革命前のロシア宮廷と大差なし。天皇を累する者はこの徒である。
三、華族制廃止
華族制を廃止し天皇と国民とを阻隔してきた藩屏《はんぺい》を撤去して、明治維新の精神を明らかにする。
貴族院を廃止して審議院をおき、衆議院の決議を審議させる。
審議院は一回を限りとして、衆議院の決議を拒否することができる。
審議院議員は各種の勲功者間の互選及び勅選による。
(註一)貴族政治を覆滅した明治維新革命は徹底的に遂行され、仏国をのぞいて欧州の各国が依然として中世的領土を処分することが出来なかったことより、一歩を進めたものである。
然るに大西郷ら、革命精神の体現者世を去るとともに、単に付随的に行動した伊藤博文らは、進んだ我が国を理解せず、遅れた欧州各国の貴族的特権の残存したものを、模倣して輸入した。
華族制を廃止するのは、欧州の直訳制度を捨てて維新革命の本来に返るものである。我の短所だと考えて、新なる長所を学ぶものと速断してはいけない。我が国は既に彼等のある者より進んだ民主国である。
(註二)二院制が一院制より過誤が少ないのは、世論が甚だ多くの場合において、付和雷同的瞬間的だからである。上院が中世的遺物をもってせず、各方面の勲功者を以て組織される所以《ゆえん》である。
四、普通選挙
二十五歳以上の男子は大日本国民たる権利において、平等普通に衆議院議員の被選挙権及び選挙権を有する。
地方自治会も之に同じ。
女子は参政権を有せず。
(註一)納税資格が選挙権の有無を決する各国の制度は、議会の始まりが、皇室の徴税に対して、その費用の使途を監視した英国にあるというが、日本現在の原則としては、国民の権利の上に立てざるを得ない。
即ちいかなる国民も間接税の負担者でない者はない……というような納税義務の拡張された普通選挙の意味ではない。「徴兵が国民の義務である」という意味において選挙は「国民の権利である」。
(註二)女子の参政権を認めないのは、日本現在の女子が覚醒していないという意味ではない。
欧州の中世史において騎士が婦人を崇拝するのを士の礼とするのに反し、日本中世の武士は婦人の人格をかの国と同一程度に尊重しつつ、婦人の側より男子を崇拝して、男子の好意を得ることを、婦道とする礼が発達してきた。
この全然異なる発達は社会生活のすべてにおける文化的発達となって、近代史に連なり、欧州では婦人参政権となり、我が国においては良妻賢母主義となってきた。
政治は人生の活動における一小部分である。国民の母、国民の妻たる権利を擁護し得る制度の改造をやると、日本の婦人問題のすべては解決される。婦人を口舌の闘争に慣れさせるのは、その天性を損なうこと、之を戦場に用いるよりも甚だしい。
欧米婦人の愚昧《ぐまい》なる多弁、支那婦人間の強奸なる口論を見た者は、日本婦人の正道に発展しつつあることに感謝すべきである。(後略)
五、国民自由の回復
従来国民の自由を拘束して、憲法の精神を毀損した諸法律を廃止する。
文官任用令。治安警察法。新聞紙条例、出版法等。
六、国家改造内閣
戒厳令施行中現在の各省の外に次のような生産的各省(既述)を設け、更に無任所大臣数名をおいて、国家改造内閣を組織する。
改造内閣員は従来の軍閥、吏閥、財閥、党閥の人々を斥けて、全国民よりひろく偉器を選んでこの任に当たらせる。
各地方長官を一律に罷免し国家改造知事を任命する。その方針は右に同じ。
(註一)徳川の君臣をもって維新革命を行なうことができないのと同じ理由による。
但し、革命は必ずしも流血の多少によって価値を決するものではない。外科手術において出血の多量なものが、少量のものより、徹底しているといえないものの如し。
要は手術者の力量と手術される患者の体質如何にある。現在の日本は強健な若者である。ロシア、支那の如きは全身腐肉、朽骨の老廃患者である。古今を達観し東西に卓越した手術者があれば、日本の国家改造は談笑の間に成るであろう。
七、国家改造議会
戒厳令施行中普通選挙による国家改造議会を召集し改造を協議させる。
天皇は第三期改造議会までに憲法改正案を提出して、改正憲法の発布と同時に改造議会を解散する。
(註)これは国民が本体で天皇が号令者である所以。権力乱用のクーデターに非ずして国民とともに国家の意志を発動する所以である。
八、皇室財産の国家下付
天皇は自ら範を示して皇室所有の土地、山林、株券等を国家に下付する。
皇室費を年額三千万円とし国庫より支出させる。但し時勢の必要に応じて議会の協賛を経て増額することができる。
(註)現在の皇室財産は徳川氏のそれを継承したことに始まり、天皇の原義に照らしても、かかる中世的財政を続けることは矛盾である。
国民の天皇はその経済また悉く国家の負担であることは自明の理である。
以上をもって『日本改造法案大綱』(一部『国家改造案原理大綱』を含む)の巻一から巻四、「大資本の国家統一」までの解説を終わった。
このあと巻五、労働者の権利、巻六、国民の生活権利、巻七、朝鮮その他現在及び将来の領土の改造方針、巻八、国家の権利、などの章が残っているが、それは後に回すとして、北一輝の生い立ちから、上海における『日本改造法案大綱』執筆までの足跡を辿っておきたい。
[#改ページ]
[#見出し] 第四章 北一輝の誕生
[#小見出し]   北一輝の生い立ち
昭和維新の聖典となった『日本改造法案大綱』の筆者・北一輝は、明治十六年(一八八三)四月十五日、新潟県佐渡郡湊町六十一番地に生まれた。
政友会代議士から戦後、自民党総裁となった鳩山一郎は同年一月一日の生まれ、また北と深い関わりをもつ大川周明は六歳年下、「勇将真崎あり……」として、二・二六事件の青年将校たちが、担ごうとした真崎甚三郎は一輝より七歳年長、そしてこの年は公家の勢力者・岩倉具視が没し、一方、明治五年に岩倉を正使とする遣欧使節団に同行した伊藤博文が、憲法取り調べに、西園寺らを連れてドイツなどを回って、帰国した年でもあった。
この二年前の明治十四年には、伊藤らの謀略によって、佐賀閥の参議・大隈重信が失脚し、土佐の板垣退助が自由党を作り、翌十五年には大隈を党首とする立憲改進党も発足、藩閥政府と自由民権の戦いが、ようやく本格的となりつつある頃であった。
伝記を書く時、筆者は必ずといってよいくらい、その生誕の地を訪問し、その地理、歴史、風土などを調べることにしている。
たとえば大西郷の雄大な気風は、桜島の噴煙を仰ぐことなしに、理解することは不可能である。
また石川啄木の詩は、岩手山や北上川、そして北海道の釧路、函館などと切り離しては、考えることは出来ない。
私は最近、浅沼稲次郎(昭和三十五年十月十二日、日比谷公会堂で右翼の少年に暗殺される)の生地・三宅島を訪ねた。そして厳しい離島の風土や貧しさに、この社会主義者の大物を生んだ背景を理解した。
佐渡には何度も行ったことがあるが、三宅島よりはずっと開けており、歴史的人物も多い。日蓮上人もここに三年間流罪となったことがあり、ここで亡くなった上皇もいる。
私は春夏秋冬の佐渡を旅してきた。最も印象的なのは、冬の佐渡である。
連絡船が新潟を出てしばらくすると、行く手にぼんやりと雪をかぶった佐渡の島影が見えてくる。なんとなくロマンを思わせる島のたたずまいで、荒涼たる火山島である三宅島とは対照的である。
佐渡には北の大佐渡、南の小佐渡という北東から南西に走る山脈があり、その中央の平野が国仲平野である。この平野の東の海岸にあるのがかつての湊町で、明治三十四年に北の夷町と南の湊町が合併してできたのが、今の両津市の前身両津町で、昭和二十九年近隣の町村を合併して、両津市が発足、人口はまだ二万五千人くらいであった。
私が初めて佐渡を訪問したのは、昭和三十二年の初夏で、東京中日新聞文化部記者として、佐渡の観光特集を作るため、カメラマンと同行した。丁度、新潟―佐渡間に定期航空路が開設されるところで、その試験飛行をやっているというので、カメラマンと二人でこれに乗せてもらい、上空から島を一周、日本海にぽっかりと浮かぶムール貝を二つ重ねたようなその全景を取材させてもらった。この日佐渡ケ島は凪《な》いだ日本海で寛《くつろ》いでいるように見えた。
この時は佐渡汽船という連絡船の会社の世話になり、祝と書いてホウリと読む珍しい苗字の課長に相川鉱山から映画「君の名は」で有名になった尖閣湾、二つ亀など大佐渡海岸・外海府などを案内してもらった。
冬の佐渡には子供たちと一緒にいった。両津の旅館に入ると、玄関に雪にまみれた長靴が並んでいるのが印象的であった。
両津は両津湾と西の加茂湖に挟まれた細長い町である。かつては加茂湖は独立した淡水湖であったが、北の夷町と南の湊町の間に運河を作ったので、加茂湖も海の水が入るようになりカキの養殖が盛んになったという。
北一輝の生家は南の湊町の海岸にある旧家であったが、その時はそれほど『日本改造法案大綱』に関心がなかったので、その家には行かなかった。その次の佐渡行は友人とともにであったが、この時、タクシーの運転手が、真野《まの》の国分寺からの帰りに、
「北一輝の墓がありますが……」
といったので、見にいった。その頃、私はすでに昭和史に関連する一連の作品を書いていたので、参詣する気になったのである。
北の墓は国仲平野の中央に近い平地に、一群の墓が無造作に並んでいる中に黙然と立っていた。私はふと、『これでよし百万年の昼寝かな』という大西滝治郎の辞世を思い出した。大西中将はフィリピンからの特攻の出撃の責任者として、特攻の搭乗員との約束通り、終戦の翌日、割腹自殺を遂げている。
その夜、加茂湖に近い旅館の一室で、私は外海府の荒々しい海岸を思い出していた。
するとこの島から出て、中国革命を支援し、その後は五・一五事件や二・二六事件の青年将校たちに大きな影響を与えた北一輝という人物が、突兀《とつこつ》とした外海府の岩と結びついた。――いずれ自分は昭和維新を動かしたカリスマといわれる北一輝のことを書くことになるだろう……私はそう考えた。
北一輝は二回名前を変えている。
生まれた時は輝次で二十歳頃に輝次郎と改名し、さらに大陸で革命にかかわるようになってから、一輝と名乗るようになったという。
日本には東西南北を苗字にした家が多いが、東、西、南に比べて北という苗字は珍しいほうかもしれない。
『増補版・北一輝』(田中惣五郎)によると、北の家系は元来尾張徳川家の家臣で、北川という苗字で三百石の禄を食んでいたという。それが北川伝兵衛、同九郎兵衛の兄弟の代に、事件を起こして佐渡へ逃れた時、川の字を抜いて、北と名乗ったという。
余所《よそ》者として佐渡へ渡った北家は、最初は島人から疎《うと》んじられたらしいが、一輝の曾祖父・六郎治が商才があり、魚の加工、酒造業そして肥料をも扱うようになり、家業は繁盛して、六郎治は名主にもなったというから、相当な遣手であったらしい。
但し、この曾祖父にもままにならないものはあった。それは子宝である。ロク(輝次の祖母)という娘はいたが、男の子が生まれない。そこで六郎治はロクに隣村から六太郎という青年を婿養子に迎えた。この家付娘のロクは、大変な気丈な女で、万事負けず嫌いの夫六太郎も、このロクには頭が上がらなかった。六太郎は大酒飲みで癇癪持ちで、酔うと暴れたが、妻のロクが来ると、大人しくなった。それで酒場で六太郎が暴れ出すと、女将はロクを呼びにいったらしい。
この気性の激しい祖父母の血から、北一輝の一刻《いつこく》でのめりこむ性格を引き出すのは、それほど困難なことではない。但し、この祖父母のどちらにもカリスマとなるようなキャラクターの話は、残っていないようである。
この二人が湊町の名士であったのは、幕末のことで、幕府を始め、日本全国が黒船騒動に巻き込まれていた頃の話らしい。佐渡の近くに黒船がきたというので、六太郎が指揮をして、これを追い払おうとしたことがあったという。
佐渡はかつて鎌倉時代に日蓮が三年間流罪になったところでもあり、日蓮宗が盛んであったが、鎌倉の初期には、親鸞が越後の国府に流されたこともあり、浄土真宗の信者も多かった。輝次の祖母ロクと曾祖母のクラは、共に真宗の信仰が厚く、親鸞上人の命日(弘長二年・一二六二・十一月八日)に死にたいといっていた。それでロクはその日に相当する旧暦の十一月二十八日に死ぬことを希望していたが、やや遅れて明治三十八年八月二十九日に七十五歳で世を去ることになる。
嘉永六年六月、浦賀に黒船がきて、大騒ぎになったその翌年(安政元年・一八五四)、六太郎とロクの夫婦に待望の男子が生まれた。この慶太郎は頑健で、後に村相撲の大関となり、両津の町長となった。これが北一輝の父である。輝次の母はリクといって、両津の南三キロの新穂《にいぼ》村(日蓮にゆかりの根本寺がある)にある資産家の本間家から嫁した。本間家は、地主兼質屋で、リクの父は蓄財に才があり、北、本間両家の婚礼は盛大であった。
それよりも北一輝の伝記作者としては、この一輝の母リクの母の実家の土屋家(国仲平野の河原田にあり)の家族に興味をひかれる。ここから出た高橋元吉は、政治家として有名であり、佐渡の自由民権の旗頭で、佐渡随一の高峰・金北山の頂きに、自由民権の旗を翻《ひるがえ》して、薩長藩閥の中央政府に抵抗したといわれる。新潟県でも一方の論客で県会副議長も務めた。
リクの弟で本間家を次いだ本間一松も郡会、県会で活躍した。この本間と高橋は共に自由民権の戦いに参加し、板垣の自由党にも共鳴していた。
戦前、佐渡出身で最も著名な政治家は、政友会代議士で、田中義一内閣(昭和二年)、犬養毅内閣(昭和六年)で農相を務めた山本悌二郎で、この高橋、本間の二人は、山本が国会選挙に出る時は、その選挙事務長を務めた。
山本は弟・有田八郎(広田弘毅内閣〈昭和十一年〉の外相)とともに佐渡が生んだ数少ない大臣の一人で、その思想は北一輝と無縁ではないようだ。山本は明治三年(一八七〇)佐渡生まれ、上京して独逸学協会学校卒業後、宮内省官吏となり、給費生としてドイツに留学、帰国後、二高教授を経て実業界に移り、日本勧業銀行から台湾製糖常務、同社長などを務め、この間明治三十七年から衆議院議員に当選、以後十一回当選、田中内閣の農相などとして入閣したほか、大東文化協会副会長として、国体明徴運動を推進した。右翼とも関係があり、大陸進出の思想もあったといわれる。
北一輝が成人していく頃、すでに山本は郷土出身の有名人であり、一輝が『国体論』を書いていた日露戦争の頃、山本はすでに代議士で、台湾製糖の社長であった。
しかし、佐渡の人々は必ずしも山本の政友会に心服していた訳ではないらしい。
北一輝の弟・北ヤ吉の話によると、佐渡は江戸時代から相川の金山に冷酷な悪奉行がきて、流人を酷使し村人にも専横な振舞いが多かったので、佐渡人には権力に抵抗する気風があったという。それが明治になって自由民権の旗を翻すことになったので、伊藤博文らの政友会には抵抗を示し、むしろ改進党を支援する者が多かったという。この二者の拮抗の中に、北一輝のような突出したキャラクターが出現したことも、筆者の「環境が異色ある人物を育てる」という説からいくと面白い。
また一輝の祖母ロクの妹は佐渡の儒学者・円山溟北の甥・星野和三治の妻である。
円山は相川の学問所の頭取を務め、門下生からは萩野良之、山本悌二郎らが出ており、北一輝とヤ吉兄弟は、円山の門下生の弟子であった。
幕末期、円山は勤皇の思想をもつ儒学者で、それも北一輝になんらかの影響があったかもしれない。
そのせいか北一輝には中学生の時から尊皇の志があり、幕府の横暴に悲憤を洩らすことが多かったという。
今では佐渡観光地の一つとなっているが、順徳天皇の御陵に、若き日の北一輝はよく詣でたという。順徳天皇は後鳥羽上皇の第三皇子で、北条氏の専横に怒って、父上皇が承久の変(承久三年・一二二一)を起こした時、仲恭天皇に譲位して上皇となり、幕府軍と戦い敗れて佐渡に流された。上皇は佐渡にいること二十年余、ここで崩御されて真野御陵に祠られている。
少年北一輝はこの御陵に参拝した時の作文に、次のように書いている。
「ああ暴なる哉、北条氏、ああ逆なる哉北条氏。北条以前に北条なく北条以後に北条なし」
以上を総合すると、北一輝は佐渡の海岸のある程度裕福な家庭に生まれ、父の慶太郎は田舎の旦那衆の一人で、一種の豪傑肌の持主、祖母のロクは厳しい人柄、その縁戚には多くの地方の政治家もしくはその志望者がおり、その中からは山本悌二郎という政友会の有力者も出ているということになる。
ここで注目すべきは、一輝の母リクの実家から出た高橋元吉(先述)という人物である。離島を故郷とする自由民権の闘士が、どういう運命をたどったか、今の筆者には資料もないが、そのような血が、北一輝にもつながっていたかもしれない。
話を明治の初期に戻して、明治十一年、一輝の母リクが慶太郎のもとに嫁いできて、十六年四月輝次が生まれる。時に慶太郎三十一歳、リク二十九歳。二年後の十八年七月、弟のヤ吉生まれる。この年、北家は葬祭が続き、豪傑といわれた輝次の祖父・六太郎が同じ月五十歳で死去。この後を追うように、九月、北家中興の遣手、曾祖父六郎治が七十六歳で死んで、北家もいっぺんに寂しくなり、慶太郎が一家を背負っていくことになった。
十八年十二月、伊藤博文が初めて新しい形式の内閣を発足せしめ、自分が初代総理となり、閣僚は外相・井上馨(長州)、内相・山県有朋(同)、蔵相・松方正義(薩摩)、陸相・大山巌(同)、海相・西郷従道(同)……と薩長藩閥で固めた顔触れで、内外多事の日本丸の舵をとることになった。
越後は中央から遠く、佐渡はさらに辺境の地で、中央の政権闘争の嵐は、まだここまでは響かず、むしろ板垣、大隈らの自由民権の動きが、離島の人々になんらかの期待を抱かせる程度であった。
当時、伊藤、井上、山県らの薩長藩閥の幹部たちは、澎湃《ほうはい》と湧き起こる自由民権の声に脅え、明治二十二年開設の国会の準備に追われていた。
明治二十年、次弟の晶作が生まれ、その翌年、すなわち国会開設の前年四月、六歳(数え、以下同じ)の北輝次は普通より一年早く湊町の尋常小学校に入った。
当時の小学校は尋常科が五年、高等科は四年であった。
輝次は体格もよく頭が非常に大きかったせいか、勉強もよくできた。
明治二十二年二月、憲法発布……しかし、藩閥政府に馴染まない佐渡の湊町では、さほどの祝意は表されなかった。
そして北家にとっても、輝次にとっても、厄年である明治二十四年がやってきた。
この年九歳であった輝次は右眼を患い、母の実家である新穂で一年間治療に専念することになる。
一方、新潟と佐渡を結ぶ連絡船会社の競争から、北家もその波に翻弄されることになる。
すでにこの航路には、越佐汽船が就航しており、繁盛していたが、独占企業のため、運賃を勝手に上げ、サービスはひどかった。これに着眼したのが、輝次の祖母ロクの妹の夫の星野和三治で、彼は六太郎時代の番頭で函館で海産問屋として成功していた服部半左衛門を仲間に引き入れ、越佐汽船に対抗する新会社を創立、六十二トンの両津丸を就航させて、競争することになった。
この競争の激しさ、愚かしさは、明治十五年に始まった、維新後間もなく創立の岩崎弥太郎の三菱商会汽船会社と新設の品川弥次郎の共同運輸会社の競争を再現するものといわれた。岩崎対品川の競争の時は、東京―神戸間の運賃が無料になり、船客には景品として手拭をくれるところまで競争がエスカレートした。当時、山陰の松江から上京しようとした若槻礼次郎(後、総理大臣)は、この時たまたま神戸から東京へ向かい、無料乗船の扱いに与《あずか》り、感心するとともに不思議に思ったという。(この二つの会社が合併して日本郵船となるのである)
この競争の激しさは、莫大な資金を必要とし、縁戚である北家も本間家も星野らの借金の保証人にされ、結局、星野側が負けて、かなりの損害をこうむった。
この頃は、佐渡の人々の間に、新潟の白山詣でをするのが流行していたが、彼等は無料でこれらの汽船で新潟に渡り、景品の手拭までもらって、大満悦であったという。
この連絡船の会社の競争は、その後、大資本を背景とする中央の日本郵船が介入して、星野らの会社や勝った筈の越佐汽船もそちらに吸収された。
この頃、北一輝はまだ九歳であったが、この時もまた後になっても、父たちの会社が大資本に乗っ取られた話を聞き、資本家というものの強大な力を印象づけられたという。九歳の彼に――いずれ資本家というものに復讐してやろう……という気持があったかどうかはわからない。しかし、自分の縁戚の星野の会社が大きな会社との競争に負けて取られてしまったということは、早熟な少年の心の奥に何物かを残さずにはおかなかったに違いない。後年の『日本改造法案大綱』の筆者の、幕末から明治という時代への関心の芽生えが、この明治二十四年、星野の汽船会社の没落に始まった、といったら早すぎるであろうか?
そうこうしているうちに明治二十六年四月、眼病もいくらか好転したので、輝次は新穂の母の実家から湊町の家に戻り、一年ばかりの欠席も、成績優秀であったという理由で、高等小学校に進学した。
頭がよく、やる気のある輝次は、高等小学校の四年間を優等で過ごしたが、そのほか、円山溟北の門下生の儒学者の塾に通って、四書五経などの漢籍を勉強させられた。
この中でも北は孟子に興味を持ち、その大部分を暗記するほどになった。後年、彼の著した『日本改造法案大綱』を読むと、かなり難解な漢文が引用され、また文字も難しい字が使われ、古文に慣れていない者を戸惑わせるが、その教養は早くもこの高等小学校時代に培《つちか》われたものと見てよかろう。
この翌年……明治二十七年八月、かねて朝鮮をめぐって支配権を争っていた日本と清国の間で、日清戦争が勃発した。西南戦争以来久方ぶりの戦争で、日本国中が沸き返った。藩閥政府と自由民権が争っていたが、戦争中は自由党の代議士も、伊藤博文の内閣に協力することになり、膨大な戦争のための臨時予算も議会を通過した。
この頃、輝次は漢籍のほかに絵を描くことに興味をもち始めていた。その絵は当時の日清戦争で、日本兵が清国兵を斬り倒すようなものが多かったが、これが上手だと近隣の客が酒を買いにきたついでに、一枚五銭ぐらいで買っていったという。佐渡では今でも北一輝が少年時代に描いた日清戦争の絵を、保存している人がいるという。
この日清戦争の勝利は、十三歳の輝次少年の精神形成に大きな影響を与えた。
先に連絡船の競争で中央資本の強大さを知った少年は、今度はナショナリズムの洗礼を受ける。戦勝国の誇りを経験するが、間もなくロシアが首謀する「三国干渉」でゆえなく遼東半島を清国に返還することになり、少年は悲憤慷慨した。それはほかの少年も国民も同じで、東進してくる北方の熊≠フ暴虐には、国民を挙げて、
「東洋を独占しようとする侵略国ロシアを撃て!」
という合い言葉とともに、臥薪嘗胆≠フ十年が始まるのである。
この船会社の競争の件と、日清戦争直後の三国干渉は、北一輝の思想遍歴の芽生えとして、興味をひく。
輝次少年は大資本への批判を胸に秘めるが、日清戦争でナショナリズムを煽られ、戦勝の直後の三国干渉で、大国の横暴に国防と軍備の充実の必要性を痛感して、後日の国家主義育成の基盤を固めていくのである。
明治三十年八月四日、佐渡で初めての中学校が開校した。佐渡中学校で場所は国仲平野が両津と反対の真野湾に面する河原田(昭和二十九年、沢根、二宮、八幡らの町村と合併して佐和田町となる)で、かつては島の豪族が築いた獅子ケ城の跡だという。
この中学校は六月には授業を開始していたので、中学校に興味を抱く輝次は早速入学して、授業を受けた。
輝次はこの年三月加茂高等小学校を優等で卒業していたが、年齢が十五歳なので、一年生に編入されて不満を感じていた。このあたりはかつての自由党系の政治家の多いところで、輝次も友人に連れられて、そのような家に遊びにゆき、自由民権の話や藩閥政府を批判する様子を見聞した。
この年、自由民権派では、板垣の自由党と大隈の改進党が内輪もめをしていたが、翌三十一年、両派は合同して、憲政党を創立、当時の松方正義内閣を議会で攻撃することになった。
一方藩閥のほうも度々野党に議案を否決されるので、智恵袋の伊藤博文(枢密院議長)が、三十三年、立憲政友会を創立、自由党の議員らを懐柔して、新しい保守党を発足させ、国会対策とした。
このような中央の動きは、政治の関心の深い佐渡人には、直ぐに伝わり、益々中央政府に造反する者もいたが、やがて政友会の勢力も広まり、山本悌二郎のような政友会幹部も出てきて、かつての自由党のメンバーも、こちらに入るようになっていく。
輝次は三十一年四月、一応二年生に進級するが、成績優秀につき選抜試験を受けて、この年十月、三年生に進級する。
こういう輝次少年の経歴を追っていきながら、筆者は一つのことにこだわっている。それは北一輝は世にいう天才≠ナあったかどうかということである。
天才といえば西欧には有名な人物が、大勢出ている。筆者が直ぐに思い浮かべるのは、シェークスピアとレオナルド・ダ・ヴィンチである。どちらも不滅の業績を残した正《まさ》しく天才である。
天才は若死しなければならない……という法則?を主張する評論家や歴史家もいるが、シェークスピアは五十二歳、ダ・ヴィンチは六十七歳で、当時としては長命のほうである。このほか、科学のほうではガリレオ(七十八歳)、ニュートン(八十四歳)、コペルニクス(七十歳)で、若死はひとりもいない。
むしろ日本の文壇のほうが夭折した作家、詩人が多いようである。(外国人は満年齢)
筆者が正しく天才だと評価しているのは、二十五歳で死んだ樋口一葉(北一輝より十一歳年長)で、一般に天才的とされているのは、石川啄木(北一輝より二年年下、二十七歳)のようだ。このほか明治では北村透谷、昭和に入ってからは、芥川龍之介、戦後ではやや長生きしたが、三島由紀夫を天才とする人もいるであろう。
三島は天才は長生きしてはいかぬ……と自殺的行為に及んだが、天才の今一つの条件……若くして才能を現す、という条件は満たしているようだ。
その点、五十五歳で刑死した北一輝は若死ではないが、若くして秀才の片鱗を示していた。
また天才は若くして画然とした業績を残すべきだ……という説があれば、二十四歳で『国体論』『哲学論』『純正社会主義』などを書いた北一輝は、その条件を満たしているといえようか。
さらに天才は病的≠ナなければならない……という説を立てる人もいる。常識円満な天才というものは少ないらしい。また病的≠ナあれば、天才といえるかどうかも疑わしい。筆者の知人にも、詩人と称して借金をしては、酒に溺れ、凡人には天才の心理はわからない≠ニうそぶいていた人物が、何人かいたが、彼等は六十歳を越えても、これという業績も残していないようである。
若死、若くして才能発揮、病的……と書いていると、思い浮かぶのは、四十歳で自殺?した太宰治のことである。
太宰のことを破滅型、分裂型と呼ぶ人もいるらしいが、筆者は彼の自殺は、芸術家によくある仕事の行き詰まりからではないか……と考えている。その点、本物の芸術家は仕事がすべてで、仕事の質が落ちても平然として名利に執着するのは、天才的な芸術家とはいえまい。三島の自殺を軍国主義への回帰であるとか、時代に対する憤死であるとか、天才であるために死を急いだとかいう論議が、彼の死後に噴出したが、仕事に行き詰まった芸術家の一つの針路だと考えれば、謎は簡単に解ける。
それは彼の遺作である『豊饒の海』が、明らかにある限界を示していることを見ればわかるであろう。(注・北一輝の生い立ちと少年時代については、北の研究家である田中惣五郎氏の『増補版・北一輝』によりました)
[#小見出し]   北一輝とニーチェ――その超人の思想≠フ共通点は? ――
さて北一輝は病的であったか? ……もしくはニーチェのような末期的なジフィリス(梅毒)の症状を内蔵していて、進行性麻痺と錯乱状態を起こしていたのか?
またはドストエフスキーのような癲癇性ヒステリーのような持病があったのか?
あるいはヘミングウェーら多くの芸術家がそういわれるところの、躁鬱病に取りつかれていたのか? ……。
精神分析は私の役目ではないが、多くの天才といわれる芸術家の伝記を読んでいて、一つだけ思い当たるのは、ニーチェが晩年に書いた『ツァラトゥストラはこう語りき』に出てくる超人の思想≠ナある。
ニーチェは俗物の大衆を軽蔑し、凡俗の平均的意見を政策等の決定とするデモクラシーを軽蔑し、旧道徳を打破して、宇宙の力そのままに生きる超人の思想≠最高と考えていた。
『ツァラトゥストラはこう語りき』には、次のような一節が見える。
「逃れてゆけ、わが友よ、汝が孤独の中へ。私は知った。君が世間の有力者といわれる人々の引き起こす喧噪によって、聴覚は奪われ、小人たちの手にしている針に刺されて責《せ》め苛《さいな》まれていることを……」
このニーチェの超人の思想≠アそ、北一輝に共通している最も顕著なリビドー(衝動を発せしむる力、または本能のエネルギーの本体)ではなかったのか?
国体論を書き純正社会主義を書いた頃はそうでもなかったであろうが、中国革命に関わりを持ち、『日本改造法案大綱』を書く頃には、北一輝の底面に超人の思想≠ェあっても、不思議ではない。この大綱は愛国……ナショナリズムのもたらすところではあるが、――おれは並の人間ではない……という考えが、彼をカリスマへの志向に駆り立てていったのではないか?
それともう一つ考えられるのは、『ツァラトゥストラはこう語りき』の最終章で、ニーチェが示している永劫回帰≠フ思想である。この章でニーチェは音楽的なリズムをもつ詩的表現を用い、聖書に対抗して書かれたものだという説もある、という。
ニーチェの出現は割りに新しく、彼は一八四四年(弘化元年)に生まれて、一九〇〇年(明治三十三年)に死去している。その著作は明治から大正にかけて、かなりの部分が日本人に読まれており、北一輝も読んだかもしれない。
もし北がこのニーチェの著作を読んでいたとすれば、北の胸の奥に内蔵されていた超人の思想≠ヘ、強く燃焼させられ、『日本改造法案大綱』は、明治二十二年発布の『大日本帝国憲法』に対抗する……あるいはこれを修正するアンチテーゼとして、書かれたという説も考えられる。
すなわち北一輝流の国家社会主義は、そのナショナリズムにおいて、『大日本帝国憲法』の天皇の統帥権を重んじ、社会主義において新しい大衆の為の施策を考慮したものといえなくもない。
北は平均的な大衆の意見を重んじる投票形式のデモクラシーを絶対とは見なかった点において、ニーチェと共通する点があるが、自分の超人の思想≠最高と考え、その超人の思想≠ゥらくる『日本改造法案大綱』を、日本政治の新しいバイブルとしたかったのであろうか?
またニーチェの最終の仕事に現れる永劫回帰≠フ思想と、北一輝の法華経の信仰とは、どういうつながりがあるのか? まだ研究を要するところであるが、とにかく超人への志向……という点において、両者には共通点がありそうだ。
[#小見出し]   北一輝と坂本龍馬――思索者と行動家――
天才論で北一輝とニーチェを比較していると、懐かしい顔が浮かんできた。
『船中八策』のアイデアを出した明治維新の革命家・坂本龍馬である。龍馬が土佐の高知で生まれたのは、弘化元年(一八四四)であるから、ニーチェと同年である。ニーチェを芸術家もしくは思想家とすれば、龍馬は行動家のように見える。しかし、勝海舟に会ってからの龍馬は、その尊皇開国、海への進出、外国との貿易など、視野を広げ、幕末最大の仕掛け人として、薩長連合をやり遂げている。行動家としてだけでなく、その発想が行動力と結びついている点、幕末随一の人物といってもよい。
龍馬が『船中八策』を発想したのは、慶応三年(一八六七)六月、下関から大坂へ向かう船の中である。彼はこの船の中で次のように『船中八策』を部下に記録せしめた。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出ずべき事。
二、上下議政局を設け、議員をおき、万機を参賛せしめ、万機宜しく公儀に決すべきこと。
三、有材の公家、諸侯及び天下の人材を顧問に備え、官爵を賜い、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
四、外国の交際広く公儀に採り、新に至当の規約を立つべき事。
五、古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を撰定すべき事。
六、海軍宜しく拡張すべき事。
七、御親兵をおき帝都を守衛せしむべき事。
八、金銀物価宜しく外国との平均の法を設くべき事。
これは天皇親政の名による立憲政治であり、議会政治である。龍馬は勝海舟らから学んだ欧米諸国の新しい政策を、この八ヵ条に盛り込んだ。フランス革命のような流血の惨事を避けるため、人民独裁による革命でなく、王政とし、広く公論による政治を行なう。
そして海軍の軍備、貿易、近衛兵の部隊、為替法なども、彼は実現を予想していた。
ここでこの八策を、実際に新政府が慶応四年(明治元年・一八六八)三月十四日に公布した「五箇条の誓文」と比べてみよう。
一、広く会議を興し万機公論に決すべし。
二、上下心を一にし盛んに経綸を行なうべし。
三、官武一途庶民に至るまでその志を遂げしめ人心をして倦まざらしめんことを要す。
四、旧来の陋習《ろうしゆう》を破り天地の公道に基づくべし。
五、知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし。
このほか、幕末の賢侯の一人といわれた松平春嶽(越前藩主)の家臣であった由利公正(三岡八郎)も、肥後の横井小楠や龍馬の影響を受け、諸侯に五箇条の盟約を交わすことを提案しているが、その内容は、
一、庶民その志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す。
など五箇条の誓文に酷似している。
さて天才論を展開しているうちに、ニーチェが出て、龍馬が出てきた。
ニーチェの超人の思想=c…龍馬の共和国的、そして海へ飛躍せよ、という発想……いずれも凡俗の目先の私利私欲を追う愚劣をあざ笑う痛快さ、爽やかさがある。
龍馬は慶応三年(一八六七)十一月十五日、明治維新を目前にして、京都で暗殺された。時に三十三歳。
北一輝は三十三歳の時、何をしていたか? ……すでに日露戦争の頃、二十三歳で『国体論及び純正社会主義』を書いていた一輝は、その後大陸浪人的に中国革命にのめりこみ、三十三歳の時(大正四年)には、国家社会主義者として評価され、孫文とも会見をすませ、中国革命の顧問として活躍する一方、『支那革命外史』を執筆していた。『日本改造法案大綱』執筆はこの四年後である。
北一輝は天才であったか? ……を論じている間に、樋口一葉からニーチェ、三島由紀夫、坂本龍馬まで、話が広がっていったが、彼がいかなる天才であったのか? ……その足跡をたどってゆきたい。
[#小見出し]   『国体論』と『純正社会主義』
一時は天才か? といわれた輝次にも、逆境が訪れる。
明治三十一年十月、佐渡中学校の一年から三年生に飛び級した北は、文学に興味をもって、小説や思想的な本を耽読していたが、右眼の病気が再発して、新潟の阿部病院に入院した。
この入院間にも輝次は読書を続け、特に社会主義の思想に興味をもった。始めは尾崎紅葉、幸田露伴などを愛読していたが、そのうちに「平民叢書」(国民之友社)の『十九世紀の大勢』『現時の社会主義』『世界経済上の変動』など、後の国家社会主義者・北一輝を育てる本に引き込まれていった。
しかし、プテレギウムという眼病(目尻から肉が出て白目を覆う)は、このため益々悪くなり、輝次は上京して東大病院で治療を受けることになった。
東京で特に親友ができた訳ではないが、輝次の社会主義の勉強には、こちらのほうが刺激があった。
折柄、松方内閣は自由民権の圧力に苦しんでいた。自由党と改進党が合同した憲政党は、議会で与党を圧迫し、この年(明治三十一年)六月、松方内閣は倒れ、日本で初めての自由民権の内閣(総理・大隈、内相・板垣)が発足した。(この斬新なるべき進歩的内閣も、四ヵ月そこそこで、内紛のために崩壊し、山県の元老内閣に逆戻りしていくが……)
この明治三十一年は、北京で北清事変が勃発する二年前であるが、内外ともに慌ただしい動きが見られた。
その中でも輝次の関心を引いたのは、日本鉄道、山陽鉄道などで待遇改善の運動が起こり、また群馬県三井富岡や福島県白河の製糸工場で、女工が待遇改善のストライキを決行、早くも資本家と労働者の対立が顕著になっていったことである。この年十月には社会主義研究会が創立されている。
国内の労使対立に劣らず注目されたのは、東洋の情勢である。
この年、まずロシアは清国に満洲の大連、旅順の二港の租借を承認させ、南満鉄道の敷設権をも獲得、着々と極東経営を前進させていた。またフランスは広州湾を、ドイツは青島のある膠州湾を清国から租借。
一方、アメリカはスペインとの間に戦争(米西戦争)を開始し、やがて戦勝によって、フィリピンを支配下におくことになる。
このような国際状況は、早熟な輝次少年に、老大国・清国を蚕食する欧米のあくなき帝国主義の醜さと、その危険性を感じさせずにはおかなかった。
病気のほうははかばかしくないので、輝次は退院して佐渡に戻ることになったが、この東京体験は、将来の輝次の針路を決めるため、重要な役割を果たすことになる。
そして帰郷した輝次には、また別のショックが待っていた。三年生の年度末試験で、彼は平均点七十・九点で、十三名中十三番……つまりビリという成績で、両親を落胆させた。これはもちろん眼病のためもあるが、すでに社会主義を勉強し、一方、列強の清国侵略を見て、帝国主義の貪欲さに、憤慨して、ろくに学校の教科書を勉強しなかったことも原因である。こういう内情を知らない教師や縁戚の間では、早くも北輝次天才論が冷却しつつあった。
それでもこの時は四年生に進級できたが、すでに社会主義とナショナリズムの洗礼を受けた輝次にとって、中学校の学科はあまりにも形式的にすぎた。後年一流の芸術家になる人物が、公式的な学業をおろそかにすることは、洋の東西を問わずよくあることで、輝次は四年から五年に進級する時、化学と体操の点が不足していたというのが理由で落第した。それでなくても輝次はもう中学校の学業には見切りをつけていた。(発明家として有名なトーマス・エジソンは、小学校に入学した時、非常に出来が悪く、三ヵ月で低能扱いを受け、退学し、これ以後学校の教育は受けていなかったという)
――こんなことをやっているよりは、おれにはもっとおれに天が与えた仕事が東京で待っている筈だ……。
勝手にそう決めた輝次は、父に上京を乞うた。上京の理由は文学の勉強である。この頃、『金色夜叉』などで人気のあった作家・尾崎紅葉は、佐渡の南西端小木港に腰を据えて、仕事をしていた。小木は静かで古い歴史のある港町で、紅葉はここのごんざやという旅館を常宿として土地の芸者を愛人としていたという。輝次の父慶太郎は紅葉のファンで、紅葉がくると芸者を揚げて歓待をしたという。
しかし、この頃、北家の酒造業は危機に瀕していた。酒造に使う水に海水が入っており、それで大損害をこうむったのである。慶太郎は家業を諦め、両津町の町長代理となったが、体が衰え、明治三十六年、日露戦争を目前にして五十歳の若さで世を去ることになる。
話を元に戻して、学業を諦めた輝次は、しきりに上京を願いながら、与謝野晶子、鉄幹夫妻がやっている『明星』を愛読し、投稿して掲載された時には、驚くとともに得意でもあった。
また地元の佐渡新聞にもよく投稿した。明治三十三年には国体に関する文章を投稿し、編集長を感心させた。これが北一輝が国家を論じた始めで、やがてこれが五年後には『国体論』として結実していく。
『増補版・北一輝』(田中惣五郎)にはこういう話が載っている。輝次の国体に関する文章が掲載される少し前、夜、同じ部屋で寝ていた次弟の晶作は、兄の輝次が布団の中で文章のようなものを低い声でしゃべっているのを聞いた。――何事か? ……と思って聞いていると、それがそのまま二、三日後の佐渡新聞に掲載されたので驚いたという。こういう話を聞くと北一輝ファンは、やはり一輝は天才であったのではないか? ……と考えるであろう。
この論文を新潟の新聞が未曾有の怪説≠ニ評し不穏思想であると非難し始めたが、佐渡新聞では構わずに北に連載を頼んでいた。新潟の新聞のほうが大きいので、ついに県の警察部長までが動き始めた。しかし、部長が佐渡へきて、探ってみるとこの筆者はまだ十八歳の少年で、別に危険思想の持主でもなく、父親は地元の有力者だとわかり、おとがめはなしということになったが、連載は中止となった。
――なんであの原稿がいけないのか? 明治維新の時公布された五箇条の誓文にも、「広く会議を興し万機公論に決すべし」と書いてあるではないか……怒った輝次は、次の歌を佐渡新聞に掲載して憂さを晴らした。
こざかしきそしり懲らさんと抜きし剣
たもと捉えし加古川のなくば
加古川というのは仮名手本忠臣蔵で、師直を斬ろうとする判官を抱きとめた加古川本蔵のことだという。
それはともかく輝次の上京熱はさかるばかりだが、父の慶太郎が輝次の浪費癖を警戒して、許可をしない。そのうちに明治三十六年五月、父慶太郎は五十歳の若さで病死してしまった。
そこで、輝次はかねて自分を理解してくれている祖母のロクに上京の願いを打ち明けた。ロクはこれという教育もなかったが、一種の女傑タイプで、ひそかに旅費を調達して、こっそりと輝次を新潟行きの船に乗せてくれた。明治三十八年春、すでに日露戦争は前年二月に始まっていた。
今度こそは大いに勉強して、よき師よき友にめぐりあい、文明評論家になろうと、上京した輝次であったが、天は未だ輝次にチャンスを与えず、眼病が再発して右眼はすでに失明し、隻眼となっていた。
この前年、弟のヤ吉が早稲田に入学して、二人は一緒の下宿で暮らしていた。
ヤ吉のほうは正規の学生なので、普通に講義を聴いていたが、輝次は入学していないので、聴講生という形で講義を聴いていた。
そして運命はまた北一輝に悲運をもたらした。
この年八月、日露戦争における日本の勝利を聴いて間もなく、輝次を愛してくれた女傑の祖母ロクは、七十五歳で湊町の家で世を去った。
「おばば様が死んでは葬式に出ないわけにもいくまい……」
すでに慶太郎は亡く、祖父(明治十八年没)もあの世の人である。北家の長男である輝次には、葬儀の喪主を務める役があった。世俗を軽蔑している輝次も、懐かしい祖母ロクのためには、帰郷してその遺体に対面、葬儀の名義人となり、遺骨を抱いて墓地に向かった。
しばらく輝次は佐渡の実家にいた。
東京から送られてきた平民新聞を読むと、マルクスが『共産党宣言』を発表したと出ている。平民新聞は明治三十六年創刊、記者の幸徳秋水、堺利彦らは、やがて日露戦争が近付くと、反戦の論陣を張った。
この平民新聞は、黒岩涙香が主宰していた万朝報が非戦論から主戦論に転じたため、退社した幸徳らが発行し始めたものである。
[#小見出し]   失恋・上京・『国体論』
帰郷した北一輝は二十三歳になっていた。隣村の娘がまぶしく見え始めたが、彼女は別に男がいたので、北はまた上京した。
すでに実家は没落し、弟のヤ吉と一緒の貧しい生活であったが、不屈の北一輝は、日露戦争の最中、最初の有名な著作『国体論及び純正社会主義』を書いた。
これは日露戦争の翌年、明治三十九年五月に自費出版され、各方面の学者、ジャーナリストから、多くの賛辞を与えられたが、その立論が皇室への不敬にあたるとして、官憲からにらまれ翌六月発禁に処せられ、北は一層困窮した。
しからば北の処女出版である『国体論及び純正社会主義』とはいかなる内容、主張を盛ったものであるのか? とくにその『国体論』は有名なので、まず北の国体観から見てゆきたい。
北一輝の『国体論』は社会主義との比較……というよりも共存の可能性を論じながら、展開されていく。
まず北は、
一、社会主義の経済的正義
二、社会主義の倫理的理想
三、生物進化論と社会哲学
の三編によって、社会主義を論じた後、第四編の「所謂《いわゆる》『国体論』の復古的革命主義」で、後に彼の主著となる『日本改造法案大綱』へ至る論理を展開している。つまり日本の天皇制を支えながら、いかにして社会主義を大衆のために応用するか? がその方法論で、その真髄はすでに『日本改造法案大綱』の項で圧縮した形で説明したつもりである。
北はまず社会主義について論じるが、もっとも簡単な定義としては、筆者が戦前中学五年生であった頃(昭和十一年)の校長の『公民』という時間における講義を思い出す。戦前の中学校では共産主義は当然のように黙殺していたが、すでにムッソリーニやヒトラーのファッシズムが、ヨーロッパを覆い、国家社会主義というあいまいで物々しい思想が大手を振って歩いていた頃のことであるから、頭の堅い文部省も教科として社会主義を取り入れる必要を感じたのであろう。その時、校長は個人主義、利己主義などと比較しながら、ややはにかむような表情を示しつつ、社会主義に言及した。
まず校長は利己主義について、我々生徒に質問した。手を挙げたある生徒が、
「自分だけよければ、他人のことはどうでもいい、という身勝手な考え方……」
と返事をすると、
「まぁ、そんなところかな?」
と校長は微笑した。利己主義について当時の私たちはいけない考え方だと教育されていた。この年の二月、二・二六事件が起こり、どういう理由からかわからないが、多くの重臣が暗殺された。柔道部にいた少年が、「昭和維新」君側の奸を撃つ=u天皇親政」という言葉を聴いてきて、さも大層なもののように私に聴かせたこともあった。私はすでに目標を海軍兵学校受験に決めていたので、主義といえば忠君愛国、一死報国主義……当然、天皇絶対……という考え方であった。
次に校長は個人主義について聞いた。私たちは夏目漱石の文章を副読本で学んでいたので、個人主義という言葉も知ってはいた。
手を挙げた私は、
「自分だけの考え方を守っていく主義」
とこたえた。校長は、
「では日本という国や社会の人々はどうでもいいのかね?」
と反問した。
「国民は日本という国家……即ち天皇のしろしめす大和の国の人柱になればいいのです。それが大和魂というものです」
と私が答えると、校長はウムウムというようにうなずき、
「これからの日本の若者は、国家の為に尽くすことが第一だな……なにしろ我が日本は、世界に誇る万世一系の国じゃからな」
といい、次いで、
「では社会主義とはどういう主義か?」
と生徒に問うた。ひとりの生徒が手を挙げた。
「一般的に社会をよくするという主義です」
「一般的とは、どういう意味だ?」
「世間の人々みんなが、幸福に暮らせるような世の中にするということです」
「ふむ、それではどういう方法がよいのかな?」
校長はなおも問い続けた。……戦争で捕虜になって、社会主義や共産主義の本を読んだ私の考えでは、この校長はある程度デモクラシーや社会主義の洗礼を受けた教師ではなかったのか? ……と疑われるフシがあった。しかし、二・二六事件が勃発した年に、生徒の前で社会主義やデモクラシーのメリットについて講義することは、校長にとってある程度の危険を冒す仕業であったのかもしれない。
「社会主義というのは、世間の生活で困っている人々を救済する主義です」
ある生徒がそうこたえた。校長は黙って生徒たちの顔を眺めていた。私が手を挙げた。
「社会をよくするということは、貧富の差を少なくすることです。日本には多くの財閥があります。こういうお金持はできるだけ社会にお金を寄付して、生活に困っている人々を助けるのです。そして生活程度の低い人や病気で困っている人々には、日本の政府が救済の方法を考えるべきです。――そうでないと金持は益々金を儲けて財閥が大きくなり、貧乏人や病気で治療の費用もない人々は、不幸になるばかりです」
「うむ、上のほうを削って下のほうに恵むというのだな」
校長はじっと私の顔を見つめた。私は少し恥ずかしくなってきた。当時、私の理想の人物は日本海海戦の勝利を祖国にもたらした東郷元帥で、貧民の救済などは考えていなかったのである。
「富めるものがその富を吐き出して、貧しきものに与える……いうは易くして行なうは難し、じゃ。西洋では最大多数の最大幸福≠実現するのが一番よい社会政策だという説もあるが、キリスト教が盛んな国ではともかく、日本では難しいだろうな」
校長がそういった時、私はまた手を挙げた。
「先生、世界には大きな国が沢山あります。今、一番領土を持っているのは、英国です。これに次いでソ連、シナ、アメリカ、そしてカナダ、オーストラリアなども大きな国です。また本国は小さくても、フランスやオランダなどは、多くの植民地を持っています。それに比べて日本は八千万の人口を持ちながら、国土は僅かに六十八万平方キロです。大きな国がその国土の一部を日本に貸してくれるか、移民を許してくれれば、日本人の生活も大分楽になると思います」
すると別の生徒がいった。
「日本は満洲事変で満洲を占領し、満洲国を造りました。これで大分人口の捌《は》け口ができたと思います。次はシナの広い国土の一部に移民を許してもらうことです」
すると柔道部の生徒がいった。
「日本の国土を大きくするには、戦争で勝つほかにはありません。満洲国ができたのも、日本が日露戦争に勝ったからです。この次はシナの本土を分けてもらうのです。また英国のように東洋まで植民地を広げている国には、少し東洋人に戻してもらうことです。とにかく戦争に勝つためには、軍事力を高めることです。国防が第一です。今の日本には社会主義を考慮している暇はないはずです」
彼がそう熱弁を振るうと、
「まぁ、よく考えてみることだな。この問題は諸君にはちょっと難しかったかな? ……」
と微笑しながら、校長は教科書を閉じた。
要するにこの段階では、日本の一般大衆には、社会主義というものがよくわかっていなかったといえる。社会主義を共産主義と同様に考えて危険思想扱いにするのが、官憲の普通の考え方で、親のほうでも、東京で勉強している息子が社会主義などにかぶれないよう心配していたのであった。
この校長と生徒の社会主義問答から五年後に太平洋戦争が始まり、私はソロモン群島の戦闘で乗機を撃墜されて捕虜となり、同級生の多くが、南方の島や大陸で戦死した。
そして敗戦国日本では、ある程度社会主義的政策がとられ、財閥は解体され、資産家は多額の財産税で資産が低下し、高額所得者は累進的に重税を課せられ、福祉法で貧しい者や老人、病人への援護が実施され、高齢者には年金が支給されるようになってきた。
それはそれとして私(筆者)は今でも社会主義というものがよくわからない。たとえば共産主義国の社会主義である。私はソ連に六回行ったが、この国は確かに共産主義を実行するために、革命を行なった筈であるが、国の名前はUSSR(ソビエト社会主義共和国連邦)となっているので、共産主義という文字は入っていない。
そしてポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリアなどの衛星国家も、それぞれ社会主義共和国と名乗っている。
では共産主義と社会主義はどう違うのか? ……。
まず手元の辞書(『広辞苑』)を引いてみると、
「〔社会主義〕
一、生産手段の社会的所有を土台としている社会体制、及びその実現を目指す思想、運動。
二、狭義には、資本主義に続いてくる共産主義社会の第一段階を指す。
三、非マルクス主義的社会主義の運動及び思想。マルクス主義の社会主義運動が共産主義と呼ばれているのと区別するため、今日の社会民主主義を特にこの名称で呼ぶ。」
これによると社会主義を分かり易くいえば、
一、まず資本主義から共産主義へ移行する第一段階である。
二、マルクスの社会主義が共産主義と呼ばれるので、それと区別するためにこの言い方をする。
というようなことになるらしい。いずれにしても、社会主義と共産主義とは、共に王制を否定し、プロレタリア独裁によって、国民が平等の経済生活を送れる制度を目指していることが分かる。
筆者は戦争中、まだソ連旅行の経験がない頃、捕虜収容所の中で、当時の日本では発禁になっている社会主義の本や雑誌『改造』『中央公論』などのバックナンバーを読んで、共産主義に興味を持った。そして天皇制を持続することの是非はさておき、国民が平等に働き平等の賃金を得るという一種の理想主義の実現に、強い疑問を抱いた。
どのような国民にしろ、人より余計に働いて、人より余分の所得を稼ぎたい……というのが人間の強い欲望ではないのか? ……それではこの共産主義体制を実施した場合、その産業の進行や内容、出来ぐあいは誰がチェックするのか? 悪しき内容の官僚独裁主義が、のさばるのではないか? ……。
今日、ノーメンクラツーラと呼ばれるソ連の官僚支配体制が、共産主義下では必ずやってくるということを、レーニンはどう考えていたのか? 彼は確かに帝政ロシアから農民を解放した。しかし、その後、七十年にわたってロシアを支配してきたのは、プロレタリア独裁ではなく、官僚独裁の政治形態で、このため、ソ連は経済的に徐々に破綻を来し、ゴルバチョフのペレストロイカによって、衛星国家のすべてが解放されると、これらの国からの搾取によって、かろうじて保たれていた食糧供給を中心とする国内経済は、市民の憶測によるパニックを引き起こし、今や国民の一部は難民化しつつあるという。
かつて昭和二十二年二月の二・一ストの時、当時の共産党書記長・徳田球一は、「この闘争に勝てば、労働者独裁のユートピアが実現する……」といって労組の役員や青年行動隊員をはげましたというが、マッカーサーの総司令部が上部にある限り、ゼネストは不可能であり、また共産主義革命が当時の日本で断行されたとしても、ユートピアは実現出来なかったと思われる。
さて北一輝の社会主義とはいかなるものであったのか? ……『国体論及び純正社会主義』によって、検証していきたい。
まず、『国体論』である。
明治三十八年秋、北一輝は東京・牛込・喜久井町の下宿に弟のヤ吉と一緒に住みながら、この『国体論』に取り組んだ。
北の仕事には波の起伏のように論理の転換が行なわれるが、『国体論』もその一つである。
前述のように中学生の頃の北一輝は、尊皇の思想が強く、順徳上皇を佐渡に流した北条氏を罵倒したりした。
しかし、上京して多くの本を読み、西欧の新しい思想に触れ、社会主義に深い関心を抱くようになっていた。そしてそれまで多くの学者や日本大衆が誇りとしていた万世一系の日本の国体に疑問を呈し、天皇の解釈についても、新しい意義、位置の定義を行なうべく研究を続けた。彼の『国体論及び純正社会主義』はその第一歩である。
してみると北一輝を二・二六事件の黒幕となったファッシストと単純に決めつけるのは、異論があると思われる。
以下、『北一輝著作集』第一巻(みすず書房)によって、彼の天皇観及び社会主義の解釈を検証してゆきたい。
北一輝は、この本の『緒言』で彼の意図を簡潔に述べている。文語体であるが、口語体で要約してみたい。
現代に最も待望せられつつあるのは、精細な分科的研究でも材料の羅列、事実の豊富でもなく、全般の問題を見る統一的頭脳である。
筆者(北)の目的はすべての社会的諸科学……経済、倫理、社会、歴史、法理、政治、生物、哲学等の統一的知識(北はこれらの殆どを独学で勉強した)の上に社会民主主義を樹立したものである。
筆者は古代中世の偏局的社会主義(田中惣五郎氏によれば、専制国家主義の意味)と革命(英国あるいはフランスの?)前後の偏局的個人主義(同じく中世の専制主義を批判した近代的民主主義)とが対立してきた思想であることを認めるが、これらの進化を受けて今日に至った社会民主主義が、国家主義の要求を無視するものではないとともに、また自由主義の理想と相反するものではないと思う。
その故に筆者は一貫して国家というものの存在を否定する、今の社会党諸氏の妄動を排するとともに、個人主義の学説をも批判するものである。
私の試みの一つは所謂講壇社会主義あるいは国家社会主義と言われる鵺《ぬえ》的思想の駆逐である。
筆者は第一編『社会主義の経済的正義』において個人主義の旧派経済学について語るところは少なく、金井、田島氏らの打撃に多くの紙面を割いた。
第二編では『社会国家社会主義の倫理的理想』として個人主義の刑法学を攻撃して、樋口氏らの犯罪論を論破することに努めた。
欧米のように個人主義の理論と革命を経験していない日本では、まず社会民主主義の前提として、個人主義の十分な発展を必要とする。
第三編『生物進化論と社会哲学』は社会哲学を進化論の見地より考察したものである。
これは社会哲学の研究に、進化論を援用した独自の研究である。
第四編『所謂〈国体論〉の復古的革命主義』は日本のキリスト教に高等批評を加えたものである。すなわち国家社会主義が我が国体に抵触するか否かの理論ではなく、日本の国家そのものの科学的研究である。欧米の国体論がダーウィンらの進化論によって、長い努力の末に知識分子より掃討された如く、日本のキリスト教もまた冷静な科学的研究者の社会進化論によって、これを否定すべきである。この編は最も心血を注いだところである。
筆者は今のすべての君主主権論者と国家主権論者との法理学を悉《ことごと》く斥け、現時の国体と政体とを国家学及び憲法の解釈によって明らかにし、歴史学の上から説明を与えた。
この編は独立の憲法論であるとともに、初めて書かれた歴史哲学の日本史として社会主義と関わりなく読まれるべきである。
第五編『社会主義の啓蒙運動』は善悪の批判が全く進化的過程にあることを論じ、第二編『社会主義の倫理的理想』で説いた階級的良心の説明と相まって、階級闘争の心的説明をしたものである。
さらに国家の基礎に論及し、帝国主義がまた生活主義の前提であることを論じたものである。
権威のない個人の基礎の上に築かれた社会は、奴隷の集合で社会民主主義ではないと同様に、社会主義の生活連邦は、連合すべき国家の倫理的独立を単位として考えるべきである。
社会民主主義はすべての進化を継承して初めて可能である。
個人主義の進化なくして、社会主義はなく、帝国主義の進化なくして世界主義はなく、私有財産制度の進化なくして共産社会はない。
その故に社会民主主義はすべてを包含しすべての進化の到達点の上に建てられる。(中略)
故に著者の社会主義はもとより『マルクスの社会主義』というものに非ず、又その民主主義はもとよりルッソーの『民主主義』というものに非ず。
著者は当然に著者自身の社会主義を有する。著者は彼等より平凡であることはもちろんであるが、社会の進化として見る時は、彼等より五十歳……百歳の年長の祖父母、曾祖父母である。(中略)
著者は現在の学者階級に対する征服を目的としている。
絶大の権力に圧迫されつつある日本現時の社会党に多くの同情を傾けつつあるが、その議論に敬意を表するか否かは別問題である。
彼等の多くは実に独断と感情によって行動し、そのいうところも純然たる直訳のもので、特に根本思想はフランス革命時代の個人主義である。著者は社会民主主義の忠僕たらんがために、同情と反する議論を余儀なくされたことを遺憾に思うものである。
本書を、征服するのが目的という、学者階級に至っては可憐というべきであろう。
率直の美徳を極度に発揮して告白すれば、いたずらに議論の筆を汚すだけであるが、今の日本の大学教授輩より一言の弁解がくる余地を残しておくことは、著者の義務の怠慢となる。(以下、しばらく学者の個人的批判続く)(中略)
社会民主主義を讒言《ざんげん》し、『国体論』の妄想を伝播しつつある日本の代表的学者として指名したのは、次の諸氏である。
故に本書は社会民主主義の論究以外、一は日本現代の思潮評論として見られるべきである。
金井 延・『社会経済学』
田島錦治・『最新経済論』
樋口勘次郎・『国家社会主義新教育学』及び『国家社会主義教育学本論』
丘浅次郎・『進化論講話』
有賀長雄・『国法学』
穂積八束・『憲法大意』及び帝国大学講義筆記
井上 密・京都法政学校憲法講義録
一木喜徳郎・帝国大学講義筆記
井上哲次郎・諸著
山路愛山及び国家社会党諸氏
安部磯雄及び社会党諸氏
日露戦争の翌年春        著者
以下この本……『国体論及び純正社会主義』の要点について、考えてみたい。この著作はこういうテーマで北一輝によって刊行されたが、一般には『国体論』のほうが有名で、『国体論』と略称する読者が多いようである。北一輝をファッシストとして、あるいは国家社会主義者として、「天皇親政」「忠君愛国」の権化として、そのクーデターによる「君側の奸」一掃を、国家改造の絶対的な手段として旗印とした青年将校たちには、純正社会主義よりも国体論のほうが、掲げ易かった為であろうか?
しかし、実際にこの本を読んでみると、北一輝の真意はむしろ純正社会主義研究のほうにウェイトが置かれており、『国体論』のほうは意外なほどファッシズムやファナティックな論調が少ないのに驚く。
[#小見出し]   北一輝思考のルーツ
第一編『社会主義の経済的正義』の第一章で、北一輝は各編全般の狙いを簡潔に説明している。
ここにも北の世界観ともいうべき前書がある。
社会主義の深遠な根本義は直ちに宇宙人生に対する一派の哲学宗教にして、厳粛な科学的基礎の上に立ち、貧困と犯罪とに理性を攪乱され、いたずらに感情と独断とによって盲動するものではない。しかし、貧困と犯罪とをもって蔽われた現社会より生まれて、新社会の実現に努力しつつある実際問題の点において、論究の順序がまず貧困と犯罪の絶滅でなければならない。
この故に吾人は第一編『社会主義の経済的正義』においては、社会主義の物質的幸福を説き、第二編『社会主義の倫理的理想』においては社会主義の精神的満足を論じ、第三編『生物進化論と社会哲学』では、社会進化の理法と理想を説き、社会主義の精神的満足を説き、社会的諸科学の根本思想なるものを述べ、第四編『所謂〈国体論〉の復古的革命主義』においては、古来の妄想を排して、国家の本質及び憲法の法理と歴史哲学の日本史を論じ、第五編『社会主義の啓蒙運動』で実現の手段を論じようとしたものである。
ここまで書いてきた時、筆者はやはり『国体論』を先に紹介すべきではないか? と考え始めた。
手元にある『北一輝著作集』(第一巻)A5判三七五ページの中で、一六五ページを占めているのがこの第四編『所謂〈国体論〉の復古的革命主義』で、このために北は病気(呼吸器)が重くなり、またこの本が発禁となった大きな理由がこの編であったのだ。
折柄、東京では日露戦争勝利後のロシアに対する賠償問題で、ポーツマス講和条約における小村寿太郎外相の交渉が不十分で、期待していた樺太全部と沿海州の領土割譲はならず、賠償金もロシア皇帝の強い反対で、一文も取れなくなっていた。
そこで九月六日、東京日比谷では、政府を批判する焼き打ち事件が発生し、国内も騒然としてきた。
北一輝がその大著『国体論及び純正社会主義』に取り組んだのは、こういう日露戦後の動揺する東洋の一角、東京、下谷の茅屋《ぼうおく》の一室においてであった。
一輝は粗食を続け、時には断食と読経で自らの精神統一を行ないながら、この大著と取り組んできたが、第四編の『所謂〈国体論〉の復古的革命主義』にかかる頃には、かなり健康を害し、全身に悪寒を感じ、骨を抜かれるような無力感が、彼の気力を奪おうとしていた。
体力の限界を感じた北は、さすがに断食は中止したが、収入が殆どない為、焼き芋をかじって飢えを満たす毎日が続いた。
――しかし、おれはこの『国体論』だけはなんとしても完成させなければならない……不死身のカリスマは、痩せ衰えた体に鞭打ち片方の眼だけを異常に光らせながら、粗末な机に向かった。たまに訪れてくる客は、そこに幽鬼を見たであろう。北は城壁のような本の壁の中で、必死の執筆を続けていた。
この時、早稲田の学生であった弟のヤ吉は、兄と同居し佐渡の実家や叔父の本間一松(往年の自由民権の闘士)からの送金で生活費や学資を捻出していたのであるが、この浪費好きの兄は、金がくるとすぐに書店にいって、高価な邦訳書などを買いこんでくるので、弟のほうは別に金策をしなければならない……というのが実情であった。
それでも弟は兄の頭脳と信念に期待を抱いていた。幼い時から兄は並の人間とは違っていた。――きっとこの兄は独学でも大学の教授をびっくりさせるような大著をものするにちがいない……そう考えながらヤ吉は、イデオロギーの亡霊のような兄の姿を期待と恐怖の中で眺めていた。
もし北が後にいわれるようなカリスマであるのならば、その一つの原因はこの『国体論』執筆時の過労と衰弱による錯乱……一種の幻想状態……に原因を求めてもよいかもしれない。
――このように疲労|困憊《こんぱい》して、畳の上に倒れた時、北の唇のはしに上ってくるのが、佐渡から持ってきた法華経であった。北の家には日蓮が佐渡で書いたという自筆の法華経が伝わっていた。上京する時、彼はそれを携えて下谷の家に入り、行者のような風貌で、『国体論及び純正社会主義』を書き始めた。執筆に疲れると、彼は後ろ向きに倒れ、法華経を誦《ず》した。そのうちに恍惚とした境地が彼を訪れてきた。夢幻の中に上人の姿が現れた。そして彼に何事かを告げ、一椀の水を与えてまた消えていった。――霊告だ……醒めた北はしばらく天井を仰いでいた。彼が霊告なるものを感じ始めたのは、この『国体論及び純正社会主義』を書いていた時のことであった。著作が進むに連れて、霊告は頻度を増し、ますます深重なものになっていった。
それはさておき、『国体論』の内容に戻ろう。
後には二・二六事件の思想的支柱といわれた『日本改造法案大綱』の基礎をなしたといわれる北の『国体論』であるが、これが意外とも思えるほど、天皇崇拝や忠君愛国、殉国の精神などからは縁遠く科学的で、先にも述べた進化論などを考慮した……後年のカリスマからは、想像も出来ないほど、異色な立論に基づくものであった。
なによりも読者を驚かせたのは、北がこの本で展開したのが、ダーウィンの生物進化論を、文化や政治に応用しようとしたことである。
当時の日本人が『国体論』という言葉を耳にした時、直ぐに連想するのは、先に第一巻の緒言の末尾に挙げたような学者先生の説……「万世一系の国体」「王政復古」「天皇親政」「八紘一宇」「天皇は現人神《あらひとがみ》」「日本人は大家族で天皇はその中心」というような皇国史観等であろう。
従って佐渡から出てきたばかりの白面無名の一青年が、宿舎の一室で独学で書いた『国体論』と聞けば、恐らく皇国史観の諸先生の説を祖述して、驥尾《きび》に付そうというものであろうと考え、これの内容が「逆に外国の思想を生かじりして、明治維新以来の皇国史観的『国体論』を批判して、一旗揚げようとするものだ……」というようなことは、一般の市民はもちろん、『国体論』に関心の深い専門の学者先生たちも、夢想だにしていなかったであろう。
特に北一輝が国体を論じるのに、科学……中でも生物学……ダーウィンの進化論を応用するような珍奇?な方法論を展開するとは、誰も想像してはいなかった。
ここに北一輝のユニークな発想があり、もし彼が天才に値する思想家だとするならば、このあたりからその片鱗が現れてきたと見てよかろう。
ここで一つ問題を提起しておきたい。
それは北一輝の大正時代におけるコペルニクス的転回である。
『国体論及び純正社会主義』で、堂々と科学的『国体論』批判を展開した北一輝が、どうしてクーデターと戒厳令によって、憲法を一時停止し革命を行なう『日本改造法案大綱』を執筆するに至ったのか? ……という謎である。
これから議論を進めるに従って、その謎も解明されていくであろうが、ここで筆者がはたと困惑したことがある。それは膨大な『国体論及び純正社会主義』の解説をいかにするかということである。
本書の使命の一つは、当然北の思想の解説もしくは解明……そして批判……さらになぜ『日本改造法案大綱』の一部が青年将校によって、決行されるに至ったのか? ……ということであるが、この本の予定のキャパシティでは、とても北一輝の全著作の解説をして意見を述べることは不可能である。
無数ともいえる内外の北一輝論を通読しながら、筆者は格好なテキストを発見した。
それはジョージ・マックリン・ウィルソン氏の『北一輝と日本の近代』(岡本幸治訳・勁草書房)である。
ウィルソン氏は、一九三七年、オハイオ州生まれ、プリンストン大学で政治学を学び、一九六〇年ハーバード大学で、修士課程修了。一九六五年、ハーバード大学で歴史、極東言語部門で博士号を取得した気鋭の東洋学者である。ミシガン大学、イリノイ大学、ハーバード大学で教師を務めた後、一九七一年現在では、インディアナ大学歴史学担当準教授で、近代日本史の研究に力を入れ、特に北一輝をその中心に据えて、佐渡の郷里まで行って、取材をしたという熱の入れかただという。
筆者は多くの文献とともに、ウィルソン博士の、アメリカの学者らしいユニークな意見をも紹介しながら、北一輝の精神分析を行なっていきたいと思う。
この『国体論』では先述の進化論の応用などのほか、この日露戦争の段階では、北一輝の思想は社会民主主義であって、後にいわれるような国家社会主義ではなかったということになっている。
一体、どこで科学的政治研究家の一輝が、国家社会主義者に転向したのか? ……私にはまだ謎であるが、恐らく大正四年(この頃すでに北一輝は国家社会主義者兼支那革命顧問とされていた)十二月に『支那革命外史』を執筆し始めた頃から、彼の胸中にコペルニクス的転回が起こったものではないか? ……と推察される。
ダーウィンの進化論を応用した『国体論』は確かにユニークな理論展開であったが、中国革命にのめりこんで、貧しい東洋の民衆の生活を知った一輝は、論理を弄び学者先生を嘲弄するだけでは、事態の解決にはならないということを痛感し、大正八年には国家社会主義者の立場から、『日本改造法案大綱』の執筆にかかったものと思われる。
そして貧民の救世主を求めるために書いた『日本改造法案大綱』のクーデターと戒厳令の章が、青年将校によって決行され、その結果は(北はもう知らなかったが)軍部の独裁を招き、日中戦争を経て三国同盟、そして太平洋戦争に突入して、祖国を焦土と化した後、北一輝が予想した国家改造が、皮肉にもマッカーサーの総司令部によって実施されていくことになるのである。
結果からいえば、北の『日本改造法案大綱』の実現は青年将校たちが考えていたほど容易なものではなくて、これを実現する(させられる)為には、数百万の人命と、祖国を焦土と化する大戦争が必要であったのである。
それはそれとして『国体論及び純正社会主義』のうちの『所謂〈国体論〉の復古的革命主義』について、一応の考察をしてみよう。
最初に「社会主義と羅馬《ローマ》法王」という項を読んでみよう。
北一輝はまずこういっている。
以上三編(一、社会主義の経済的正義、二、社会主義の倫理的理想、三、生物進化論と社会哲学)で、社会主義に関する重要な讒言を排除してその根本の理論の大要を述べた。社会主義の論究はこれで略《ほぼ》足りると思うが、この日本と名付けられた国土において社会主義が唱えられる為には、特別に解釈しなければならない奇怪なあるものが残る。それが所謂『国体論』といわれるものであって、――社会主義は国体に抵触するや否や? ……というおそるべき問題である。
これは社会主義のみならず、いかなる新思想でも入りくる時には、必ず常に審問されるもので、この『国体論』という羅馬法王の忌諱《きい》に触れることは、即ちその思想が絞殺される宣告である。
一般の政治評論家もこの為にその自由な言論を縛られること専制時代の奴隷の如く、またこの為に新聞記者は醜怪極まる便宜的|阿諛《あゆ》の幇間的文字を羅列して恥じず、これあるが為に大学教授より小学校教師に至るまですべての倫理学説と道徳論を毀傷汚辱し排撃する。このようであるから、キリスト教も仏教も各々堕落して偶像教となり、互いに他を国体に危険だと誹謗し排撃する。
また今日、社会主義が学者と政府から国体に抵触するとして迫害されるのは当然のことというべきである。
また嘆かわしいのは、社会主義者ともあろう者が、この羅馬法王の面前で厳格な答弁をしないことである。
少なくとも国体に抵触すると考えるならば、公言が危ういというならば、沈黙の道もある。然るに弁を巧みに抵触せずといい、甚だしいのは、「国体と社会主義は一致する」といって逃れるが如きは、日本においてのみ見られる不面目である。
特にかの国家社会主義を唱えるという者の如きは、却ってこの『国体論』の上に社会主義を築こうというような醜態、誠に社会主義の暗殺者というべきである。吾人は純正社会主義の名において、永久にこう主張するものである。
社会主義の唯物的方面よりも、良心の独立の急務。
肉体が造られるよりも先に精神が吹き込まれるべきである。欧米の社会主義者にとっては、第一革命を終えて経済的隔たりの打破が当面の任務である。
未だ工業革命を歩みつつある日本の社会主義にとっては、経済的方面よりも妄想の駆逐によって良心を独立させることが焦眉の急務である。
現時の国体と政体とを明らかに了解することは、社会主義を実際問題として唱える時特に重大事である。
『国体論』という脅迫のもとに犬の如くにひれ伏して、如何に土地資本の公有を怒号しても、このような唯物的妄動だけでは社会主義は霊魂の去った骸骨である。
『国体論』の中の「天皇」は迷信の捏造による土偶であって、まことの天皇ではない。神輿を奉じる南都の僧兵らの迷信によって造られた土偶のようなものである。
すなわち今日の憲法国の大日本帝国の天皇陛下ではなくて、国家の本質及び法理に対する無知と、神道的迷信と奴隷道徳と、転倒した虚妄の歴史解釈とをもって捏造せる土人部落《〈原文ママ〉》の土偶だからである。
土人部落《〈原文ママ〉》の土偶はたとえ社会主義の前に敵として横たわっても、又陣営の後ろに転がってきても、社会主義の世界と運動には不用で天皇は外にある。(若き日の北一輝の文章に現れた毒舌は、その研究家の間では有名で、松本清張氏もその文章を――爽快に切り捨てる……として痛快がっている。しかし、たとえ学者先生たちの所論に出てきたとはいえ天皇を土偶∴オいした点は、当時の官憲としては、許すべからざるものであって、『天皇機関説』とともに、この『国体論』が発禁になる大きな理由であったであろう)
▽思想の独立の前に羅馬法王はない。
重ねていう。世の所謂『国体論』とは決して今日の国体ではなくまた過去の日本民族の歴史でもない。明らかに今日の国体を破壊する『復古的革命主義』と命名しておく。
日本民族の歴史と現今の国体とは、一歩も所謂『国体論』の存在を許さない。
ああ明治維新の国家大革命以後三十九年、今日、微力な自分のようなものに、所謂『国体論』を打破せしめるに至ったのは、そも何が理由であるのか?
吾人は一社会主義者としていうのではない。世界のどこにもこの国のように、学術の神聖を汚辱すること甚だしいものはないからである。実に学術の神聖の為で、社会主義の為ではない。国体の為なり! 日本歴史の為なり!
▽まず現今の国体を論ず。
主権の所在によって国体を分かつという一般の学者に従って、国家が主権の本体なのか、天皇が主権の本体なのか? という国家学及び憲法法理の説明をしなければならない。
真理はすべてのものの上に真理である。社会主義は単に経済学、倫理学、社会学、歴史学、哲学の上に真理であるのみならず、法律学の上においても真理である。地理的に限定された社会、即ち国家に主権の存することを主張するものである。――故に社会主義の法理学は国家主義である。故に個人主義時代の法理学に基づいて君主主義といい民主主義ということは明らかに誤謬である。従来の如き意味において君主主義といえば、利益の帰属するところが君主であるのを原則とし、民主主義といえば国民が終局目的であることを論拠としている。
この後、北はその膨大な各種イデオロギーに関する知識をもてあますほどに、多くの学説
等を引用しているが、要点は「国家と進化論」「国体」「社会主義」「天皇の意義と権限」などの意義づけと位置づけである。
北は神話時代は別として、奈良、平安時代の貴族政治、鎌倉時代以降の武家政治、そして室町から江戸時代に至る武士のヘゲモニーが、明治維新で崩壊してからの日本の政界及び政治意識を、ダーウィンの進化論に当てはめようとしている。
いかなる人間の集合体でも、知識と文明の影響があれば、進化することは当然であって、動物の進化を応用した進化論は結構であるが、それだけでは明治維新の日本の政治、経済、教育、軍事……そして庶民の貧困という問題は、何一つとして整理され、向上していかないのではないか?
そこで北が考えたのが、「社会民主主義」である。安直な言い方を許してもらうならば、北が提起した古風な『国体論』に対する批判と『純正社会主義』をアウフヘーベンするとき、そこに社会民主主義が浮かび上がってくるのではないか? ……。
また忘れないうちに私見を挟んでおくが、北の発見ともいえる文化、文明が、動物の進化論の如きものによって進化していくという説は、北一輝の思想、行動にも当てはめることが出来るのではないか? ……と筆者は考えている。(その航跡が果たして進化≠ニいえるものであったかは、未だに評価の定まらないところではあるが……)
詳しい分析は、後に回すが、北の思想的遍歴は、一応次のように分析し、段階的に考えることが出来るのではないか? ……と今まで調査してきたところで、仮説を立ててみたが如何であろうか? ……。
一、漢学を学び絵画に才能を発揮していた努力家の少年時代。
二、『明星』に投稿し与謝野晶子夫妻に傾倒していた文学少年の中学校時代。
三、中学校退学後、上京して社会主義に関心を抱き始めた時代。
四、そして早稲田の聴講生となり、多くの社会主義関係の本を買い集め、日露戦争の終わり頃に、『|国体論及び純正社会主義《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》』を書いた時代。
五、中国革命に入りこみ、宋教仁らと交遊を深める。このあたりで社会民主主義を是とする思想家から、中国革命に関与する行動的革命家を志向するようになる。
六、大正四年頃、北一輝は国家社会主義者、兼中国革命顧問として知られるようになる。
七、同じ頃、『|支那革命外史《ヽヽヽヽヽヽ》』を執筆。
八、この『外史』の執筆で、革命の本質を知る。革命は理論だけでは駄目だ……フランス革命を見ても、最近の中国革命、ロシア革命を見ても、民衆の蜂起なしに革命は実現してはいない。そしてこれらの革命はすべて王(帝)制を倒して民主主義あるいは共産主義によって、新しい政治体制を創始確立させたものであった。では日本にこれらの方式がそのまま応用出来るのかどうか? ……。
九、思想か行動か? ……悩んだ北一輝は、法華経にその答えを求めるようになっていく。同時にカリスマとして霊告を行なうようになり、いよいよその超人の思想≠深めていき、やがては、青年将校や西田税らの心酔者を増やすことになっていく。
十、|中国革命の挫折に失望する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そして日本に適合した天皇制を残した社会民主主義革命を実施する具体策を模索し、『|日本改造法案大綱《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》』を書き始める。
十一、大正九年以降『日本改造法案大綱』の出版で、国家社会主義者としてその派の思想家兼革命家として高名となり、右翼活動家及び青年将校の間に、心酔者が増えていく。その中でも北一輝教の信奉者ともいうべきは、西田税、磯部浅一、大岸頼好、村中孝次、岩田富美夫ら多数で、彼等はひそかに武力によって『日本改造法案大綱』の実現を企図するようになっていく。
十二、『日本改造法案大綱』出版以降、北はカリスマになりすまし、若い時の貧困に堪えて大著をものした頃の反動か、財閥、銀行などから大金を得て、豪奢な生活をするようになる。
十三、これ以降、北は「日本の赤化を防ぐ」という名目で財閥などから大金を得て、新しい思想による著作を構想することなく、ブルジョワ的生活に埋没し、五・一五事件、二・二六事件でも、直接関与することなく、黒幕と呼ばれるに留まる……これが思想家・北一輝の進化の終点であったのであろうか? ……。
北一輝は堕落したのか? それとも思想家からカリスマに成りおおせたのであろうか? ……。
ここで重要なことは、北一輝の思想が、ダーウィンの進化論に基づいて、それなりの形で進化していったものが、なぜ『日本改造法案大綱』以降、進化というよりは退化ともいえるコースに変針していったのか?
筆者はそこに二つの理由を挙げておきたい。
一つは時代の影響もしくは要請である。
北が著作に熱中した日露戦争から第一次大戦後までは、大日本帝国はその国家の興隆期から資本主義の爛熟期に入っていく。国民も懸命に祖国の発展に協力した。
しかし、第一次大戦後の反動的な不況で、日本経済は不況に陥り、民衆は貧困にあえぎ、この救済には、大陸(特に日露戦争で権益を得た満洲)に、新天地を開拓(侵略)する必要があった。
この時、北一輝には大きな針路の変更が行なわれた。即ち日本国内において、『日本改造法案大綱』のような革命を起すよりも、大陸に領土や利権を求めるほうが、天皇制にも抵触せず、成功率も高いのではないか? ……この方策に興味を示したのが、彼に心服していた青年将校たちである。
実をいうと北は、彼の苦心の革命政策である『日本改造法案大綱』の実現に、さしたる夢を抱いてはいなかったのかもしれない。
むしろ彼に縁の深い大陸に発展の場所を求めるほうが、大日本帝国にはふさわしいのかもしれない……そこで北は軍部の大陸進出に夢を抱くようになっていく。
昭和三年六月の満洲・奉天における関東軍の大元帥・張作霖の爆殺に始まる満洲国建国の動きに、北は裏で支援している。
北は昭和五年四月、ロンドン海軍軍縮会議に関連して海軍省と軍令部の内紛が起きた時、霊告によって「統帥権干犯」という文字を告げられ、これを軍令部系の海軍士官に知らせ、艦隊増強に反対する軍縮派を抑えさせようとした。
昭和六年三月と十月に未遂に終わったクーデター事件で、北と西田税は黒幕的に動いた。
このように北一輝は第一次大戦以降、観念的右翼であることを止め、行動的になっていった。
第二の理由としては、北一輝の精神状態が挙げられる。
前に天才論を述べた時、筆者はニーチェなどを引き合いに出して、北は天才の中に入るかどうかを、設問しておいた。
そして『国体論及び純正社会主義』執筆当時の北一輝の読書と執筆ぶりを見て、ある点では北は天才であったのではないか? ……と考えるようになってきた。
この天才ぶりが後に彼の霊告をあぶり出しのように、浮かび上がらせ、またカリスマらしく、豪華な家と生活を手に入れようとし三井らの財閥と手を組む。
これで革命思想家及び理論家としての北一輝は、水面下に沈んだと見てよかろう。
さて二十三歳で『国体論及び純正社会主義』を書いて天才ぶりを示した北の論旨について、本編に必要な重点は論じたが、そのすべてについて論及することは出来ないので、後の北一輝の動きに関係のある小見出しを列記するに留めたい。
▽天皇と国民とは権利義務の契約対立に非ず。
▽中世の階級国家と近代の公民国家。
▽君主が国家を所有せる家長国家と、君主が国家に包含される公民国家。
▽日本国民は万世一系の言葉に頭蓋骨を殴打されて悉く白痴となる。
▽国の元首とは比喩的国家有機体説の痕跡にして、国家学説の性質を有する。
▽天皇は統治権を総攬《そうらん》するものに非ず。
▽天皇は国の元首に非ず。
▽天皇と議会とは立法機関の要素なり。
▽立憲君主政体とは、平等の多数と一人の特権者とを以て統治者とする民主的政体なり。
(注、この元首論のあたりが、発禁の主な原因と思われる)
▽吾人は国家人格実在論の上に国家主権論を唱える。
▽法律の進化とは実在の人格が法上の人格を認識せらるるにあり。
▽君主主権論者と国家主権論者との憶説の戦い。
▽今日の国家は実在の人格が法上の人格に認識されたるものなり。
▽「君の為に」という君主主権の時代と「国家の為に」という国家主権時代。
▽社会民主主義派というは、社会が主権の本体にして、民主的政体を以てこれを行使するを意味す。
▽日本今日の国体と政体とは社会民主主義《ヽヽヽヽヽヽ》である。(傍点筆者)
▽社会主義は国家主権の擁護者である。
▽政体今後の進化は国家の目的と利益とによる。
▽社会主義の法理学は国家主義なりという理由。
[#小見出し]   中国革命への参加――中国革命同盟会――
北一輝が焼き芋をかじりながらものした苦心の処女作『国体論及び純正社会主義』は日露戦争の翌年、明治三十九年五月自費出版され、たちまち大きな反響を呼んだ。
初版五百部(定価二円八十銭)のこの本は、北が意外なほどの評判で、当時、若手の論客であった福田徳三(東京商大卒、母校の教授となり、経済理論、経済史などで欧米の理論をも紹介した日本経済学の先達)、河上肇、矢野龍渓、田川大吉郎らが、新聞などで絶賛した。
しかし、一方では北を政治評論のアマチュアとみなし、手厳しい批評を下すものもあった。雑誌『太陽』は次のように、真向から切りつけた。
「千ページの大冊なり。著者の意見は日本の国体を本として新社会主義を建てんとするものの如くなるも、そのいかなる主義なるやは不明也。著者はまた所謂社会主義または国家主義の偏狭なるを攻撃すといえども、概して平凡なる論駁なり。文章は甚だしく生硬|蕪雑《ぶざつ》、論述に秩序段落なく、紛乱滅裂、容易に主旨を捕らえ難し」
田中惣五郎氏の『増補版・北一輝』は、この『太陽』の評を、――北にとって手厳しいかつ第三者的批評であろう、「そのいかなる主義なるやは不明也」の一語は、北にとっても痛いところであるはずである――と評価しているが、筆者(私)は必ずしも、北の『国体論及び純正社会主義』がいかなる主義なるやは不明也≠ニ酷評されるほど、国籍不明のあいまい、旗幟《きし》不鮮明な雑文であるとは思えない。あいまいであったのは、『国体論及び純正社会主義』の中の『国体論』という言葉で、筆者のように初めてこの本に接した人は、恐らくこの『国体論』は、前述の如く、大日本帝国を礼讃し、天皇を崇拝する賛辞に満ちたものであろう……と誤認して、読み始め、途中で北の真意に気づいて、コペルニクス的転回を迫られ、混乱して、北の新奇なる方法論に戸惑うということはあったであろう。
「そのいかなる主義なるやは不明也」と『太陽』は決めつけているが、北はちゃんと彼なりの国家主義と社会主義を提示し、これを総合する形で、「社会民主主義」というものを最良とするという発想を明らかにしている。この発想は天才的というほどではないにしても、少しも難解なものではない。『太陽』の筆者が、この北の立論を理解しないとすれば、余程頭の悪い評論家だといわれても、致し方あるまい。
またこの筆者は北の文章を乱雑で滅裂と悪罵を放っているが、難解であるかもしれないが、悪文という感じではない。明治時代に政治を論じる者の文章は、小説家に比して、概してこの程度ではなかったのか? ……私は北一輝を弁護する立場にはないが、『太陽』の酷評は、悪口のための悪口という感じが強い。
さらにこの社会主義的な本をにらむ官憲もいて、また加藤高明(西園寺内閣の外相)を社長とする東京日日新聞も、この本を不敬罪に当たるとして、猛烈に攻撃した。
六月に入ると早稲田署から警官がやってきて、発禁の書類を北に示し、残った僅かな『国体論及び純正社会主義』を、持ち去った。だがその間にも北の名声は上がるばかりで、ついに北を天才と讃える者も出てきた。
まずそれは福田徳三で、彼はこの本を天才の著作≠ニいい、
「この書はマルクスの資本論には及ばずといえども、その他の平凡者流を抜くこと一頭地のみならず、これを日本語に葬りたることいささか勿体なきを感じざるを得ず」
と絶賛している。
また日本の社会主義運動、労働運動のパイオニアであった片山潜も次のように賛辞を送っている。
「(前略)北氏の社会主義は社会主義に関するすべての議論学説よりも、広大である。(中略)本著者の如き人が多年の研究と資力を投じて、社会主義の忠僕たらんことを社会に表白せらるるに至る。また吾人の主張する社会主義の感化なりと言わざるべからず。(後略)」
折柄、日露戦勝の翌年で、日清戦争の時と違って他国の干渉もなく、予想よりも戦利は少なかったが、樺太南半と満鉄(南満洲鉄道)及びその周辺の利権などを手に入れ、満洲はもはや北京の清国政府の手から日本の手に入ったような気分で、日本人は沸いていた。
さらにナショナリズムは高揚され、続いてファッシズムも高潮に達し、すべては天皇の大御《おおみ》稜威《いつ》のしからしむるところである……と天皇崇拝の気分は日本中を灼熱させんばかりであった。つまり元首としての天皇神格化≠ェエスカレートしてきたのである。
従って『大日本帝国憲法』の「天皇は神聖にして侵すべからず」というような条項をクローズアップさせて、
「日本は神国である。なぜとなれば、万世一系、神の子孫で、一天万乗の天皇が、世々この国を統治したまうからである」
という論調が右翼的もしくは皇国史観の学者たちによって声高に叫ばれ、古代の神話が蘇ってきた。
大和島根は正しくその昔、大空の雲の上(天の浮橋)から、伊邪那岐《いざなぎ》、伊邪那美命《いざなみのみこと》という神々が天《あま》の瓊矛《ぬほこ》≠ナ海を掻き回したところ、八つの島々が浮かび上がった。これを大八洲《おおやしま》(その最初の島を|※[#「石+殷」、unicode78e4]馭盧《おのころ》島という)といい、その後、先の二神の間に、天照大神という女神が生まれ、この孫(天孫)の邇邇藝命《ににぎのみこと》が、高天《たかま》ケ原《はら》に降りてこられた。これを天孫降臨≠ニいって、これが大日本帝国の始まりであるという。
その子孫が第一代天皇の神武天皇で、その後この子孫が代々日本の皇統を継ぎ、これが万世一系で、世界でただ一つ日本だけにある名誉の皇室の血統で、このため、歴代の天皇はこの世に現れた神様である……というのが神国日本説の根拠で、反論する側は、一体伊勢神宮にお祭りしてある伊邪那岐、伊邪那美の二神は一体どこからきたのか? ……また万世一系というが、途中でかなり朝鮮国からの影響があったのではないか? ……南北朝時代に南朝の後醍醐天皇を助けた楠正成は、忠臣の典型とされているが、その後吉野の南朝と京都の北朝は、後醍醐天皇から五代目の後小松天皇の時、南北朝が合一して、北朝の天皇がその後は日本の天皇となっていった。従って南朝の忠臣といわれる正成は、正統の日本の天皇に忠義を尽くした訳ではないのではないか? ……などという疑問が出て、歴史学者の間で議論を呼ぶこともあった。
しかし、そのような論議も英明な明治天皇の時代に清国、ロシアの二大強国を撃破して、極東における日本の地位が固まると、要するに天皇の大御稜威による戦勝である、ということになり、元首である天皇は神の子孫である……従って我々日本人はその神を家長とする大家族の一員である……と八紘一宇≠フ思想も、いやが上にも高まっていくということになった。
そこへ唯物的ともいえる北一輝の国家主権説、従って日本の元首は国家であって、天皇ではない……というような一種の唯物論ともいえる「天皇機関説」に近い説が発表されると、従来の「皇国史観」にあきたらず、と考えていた学者や評論家らは、諸手を挙げて北の所説を歓迎した。
しかし、ここで早くも北は、二律背反の困難な思考にぶつかっていることを、見逃してはならない。
それは彼一流の国家主義と社会民主主義とを、どう両立させるか? である。
もともと北は輝次といった小学校の頃から、愛国少年であった。それが読書に熱中するとともに、封建主義、家族主義、藩閥の専権主義などに反発して、社会主義に関心を深めるようになってきた。
そして上京して上野の図書館に通いながら『国体論及び純正社会主義』を書くに至って、従来の『国体論』を排撃するとともに、新しい国家主権論を打ち出し、これと社会主義をアウフヘーベンする形で、社会民主主義≠ニいう考えを強く打ち出してみた。
しかし、天皇を大日本帝国の元首とする思想に反論する北ではあるが、どうも、
天皇―日本国家―日本国民……。
という線を破壊するのが、彼の気質上好ましくないと考え始めた。
今、日露戦勝で日本国民は近代化の中を突進している。これというのも英明な天皇を戴いているからだ……と国民は天皇を敬愛している。そこへ理論一点張りの新しい『国体論』をぶつけるのは、如何なものか? ……また彼が理想とする社会民主主義が、今の天皇の勢威のもとで、簡単に実現することが出来るのであろうか? ……革命が必要となれば、多くの血が流れるのではないか? ……。
そして考え抜いた北の胸の中に、強烈な思いを打ち込んだのが、隣国・中国の革命運動であった。
思想的にはやれるだけのことはやった。今度は行動でこれを試すほかはない……社会民主主義は実際に既成の国家で、実験、実現出来るものであろうか……北はひそかに中国革命に参加することを考えていた。
明治三十九年一月、日露戦争当時の政局を担当した山県の子分・桂太郎は、伊藤博文が庇護者となっている西園寺公望に首相の座を譲った。
西園寺は藩閥出身総理の多い中では、公家出身でリベラルな政治家と見られていた。
そこで二月二十四日、堺利彦、幸徳秋水らの手で、日本社会党が結成された。(翌四十年二月結社禁止となる)
この年、十一月南満洲鉄道株式会社創立、初代総裁は後藤新平。
そして大日本帝国の大陸への干渉はなおも続いて、四十年七月韓国皇帝譲位。続いて日韓協約の調印が行なわれ、四十一年七月、第二次桂内閣成立。日韓併合は目前に迫り、前朝鮮総督・伊藤博文は四十二年十月二十六日、ハルビン駅頭で韓国愛国派のために暗殺される。
そして日本社会党が結社禁止となり、『平民新聞』が発行停止(四十年四月)され、社会主義者たちの一部はひそかに天皇を爆殺すべく、爆弾の製造などを始めていた。
幸徳秋水、管野すが夫妻らが、大逆事件の容疑で逮捕され始めたのは、四十三年五月のことである。(実際には幸徳秋水は無実であった)
続いてこの年八月二十二日、韓国併合に関する条約調印。
翌四十四年一月大審院は、大逆事件の判決を下し、二十四日幸徳ら十二名は処刑されたが、無実の者が多かったという批判が残った。そして大陸では十月十日、孫文らの辛亥革命が勃発し、清朝は滅亡することになる。
翌四十五年、七月二十九日、明治天皇崩御、年号は大正と改まり、日本も大陸も新しい時代に入っていく。
同年(大正元年)八月三十日、第二次西園寺内閣成立。
このように内外多事の時に、針路転換?を図る北一輝は、何をしていたか? ……。
『国体論及び純正社会主義』を発行した明治三十九年秋、北一輝は『革命評論』第一号の寄贈を受けて、大いなる興味とともに読みふけった。
すでに北一輝は革新勢力の中では、知名の士となり、やがて『革命評論』を出している革命評論社から、来訪を求める案内が届いた。
北が顔を出してみると、中心人物は大陸浪人の代表格で中国革命と縁の深い宮崎|滔天《とうてん》で、ほかに菅野長知、孫文の秘書格の池享吉ら、日本社会党とも縁のある革命派の人々のアジトであった。
この革命を愛する志士たちと、北一輝は忽ち意気投合した。彼等の狙いは、中国とロシアを中心に世界中の革命を支援しようというもので、すでに中国の孫文とロシアのゲルショニとを、牛込で対面させているという。
北はまずこの革命評論社の同人になったが、続いてこの社の背後にある中国革命同盟会(秘密結社・以後、「同盟会」と略称する)にも入った。
北のみるところ、革命評論社は熱烈なる改革の意図は持っているが、未だに自由民権当時の意気込みに燃えている壮士ふうなところがあり、同盟会のほうが、中国革命に直接関与しようという姿勢が顕著に思われた。
後に北は「支那革命顧問・北一輝」という名刺を持つようになっていく。
北はその貴族的な風貌と、天才的な文章の冴え、犀利《さいり》な思想、状況分析の才能などで、忽ち行動的革命家の会の中でも重きをなしていく。
処刑前の幸徳秋水も北の親しい同志であった。北はこの頃、幸徳に手紙を送っている。その大意は、
「お見舞いを感謝致します。今度はどういうわけか癇癪も起きず、『国体論』の未練がさっぱりと切れた為、近来にない光風|霽月《せいげつ》の心地です。何が自己に適するか。自己の任務がなんであるのかの如きは考えず、只、自由の感が著るしく湧いてモウなんでもするぞ、といったような元気です。まず病気を征服して真に奮闘します」(『増補版・北一輝』〈田中惣五郎〉より引用)
このお見舞いは北の『国体論及び純正社会主義』の発禁へのお見舞いであろう。(この頃、北は牛込矢来町に住んでいた)
次に北が参加した中国革命同盟会は秘密結社で、かねて中国革命に参加したいと考えていた北にとっては、長年の思いがかなったというべきであろう。
同盟会は、日露戦争中一九〇五年に結成され、東京に本部をおき、当時は清国官憲に追われる革命志士たちの隠れ家でもあり、康有為、次に「光復会」の蔡元培ら、第三に湖南革命運動の伝統を継ぐ黄興、華興会の宋教仁らが同志であり、彼等は雑誌『二十世紀之支那』を発刊して民族主義の宣伝に力を入れていた。
さらに第四には孫文の「興中会」で、後に一輝は孫文と親しくなったり、別れたりする。この同盟会は国家主義者の有力者・頭山満、内山良平ら右翼の巨頭が、主宰かつ援助していた。
この頃、革命前夜の中国から日本に亡命あるいは留学してきた青年、留学生の数は三千名を越え、気勢は上がっていたが、実際に革命を決行するには、強力な指導者が必要であった。
そこへこの年(明治三十九年)八月、ヨーロッパから青年たちの尊敬の的である孫逸仙(孫文)が、東京にやってきた。
留学生たちは大いに喜んで、革命の志士たちとともに、八月十三日、東京麹町の富士見楼で歓迎会をひらいた。「中国革命同盟会」が組織的に結成されたのは、この時のことである。
また北一輝はこの同盟会でも名士となり、この年十二月二日に同盟会の機関雑誌『民報』の創刊一周年記念会(神田において)で大勢の中国留学生たちを前に演説を行なった。
ここで北一輝と縁の深い孫文について、語っておく必要があろう。
孫文は、一八六六年広東省香山(中山)県生まれ(北一輝より十八歳年長)。字《あざな》は逸仙、号は中山。兄孫眉がハワイに大農場を持って成功していたので、ハワイで最高といわれるオアウ・カレッジで学び、英語を学んだほか、欧米の近代思想や文化、キリスト教にふれた。
帰国後は香港大学医学部を首席で卒業、当時は欧米各国が中国を蚕食しつつある時なので、常に革命によって中国を近代化することを考えていた。
一八九二年(日清戦争の二年前)マカオで医師を開業、かねての念願である政治改革案を、時の権力者・李鴻章に提出した。
しかし、この提案は認められなかったのみならず、逆に危険思想家として、弾圧が激しくなったので、しばらくハワイに逃れた。
一八九四年、日清戦争が始まった年、華僑を中心とした革命団体・興中会を発足させた。清国が日本に負けると、中国に帰り香港に興中会の総本部を設け、翌年十月、第一回の蜂起をしたが、失敗、日本に亡命、宮崎滔天らの世話になった。
次いでアメリカからロンドンに渡ったが、ロンドン駐在の清国大使から、危険人物として監禁された。
間もなく解放されると、二年間にわたってヨーロッパを旅行し革命理論を勉強した。
一九〇四年、今度は満洲朝鮮の利権をめぐって、日露戦争が勃発、翌年、日本が東洋の侵略者ロシアを叩きつけたことに触発され、中国革命同盟会をつくり、これに各革命団体を統合した。この時、孫文が唱えたのが、有名な民族自立のモットー・三民主義で、その内容は次のようなものである。
一、民族主義――異民族である満洲族に、漢民族の国土を奪われているので、これの回復。
二、民権主義――政治革命の根本で、君主専制を倒し平民革命による民国政府を建てること。
三、民生主義――孫文が英国で見てきた、資本主義における社会問題を予防するための方策。欧米で社会問題が解決されないのは、土地問題が解決されないからであり、交通の発達などにより、土地が値上がりするような場合は、地価の値上がり分は国家に収めるという案で、進歩的な施策といえた。
帰国した孫文らは辛亥革命前に十回も蜂起したが、一九一一年四月、十回目の蜂起が失敗すると、孫文は四回目の外国旅行に出掛けたが、その留守の間に十月十日、武昌で辛亥革命が勃発、これに触発されて、湖南、広東、四川、江蘇などで、人民が革命のために決起し、事実上清朝は崩壊してしまった。
アメリカでこれを知った孫文は急いで帰国し、まず臨時大統領に選ばれた。
この後、中国革命同盟会は中国国民党≠ニなり、中華民国を統治するが、北京で袁世凱の率いる北洋軍閥が強く、孫文は大統領を袁に譲らなければならなくなった。袁はヨーロッパ列強や日本からの援助もあり、国民党は政治資金で苦しんでいた。
これ以降の孫文と中国の動きは、後にふれることにしよう。
一方、北のほうは華興会の幹部で、在日中国人の中でも有力な宋教仁と、親しくなっていた。宋教仁は早稲田で学んだこともあり、湖南出身の遣手であった。十二歳で父を失った彼は、中国の革命に献身し、広く認められていく。革命以後、彼は南京政府の副総裁となるが、やがて上海で暗殺され、北がその亡霊と対話することになり、北の霊媒ぶりを示すことになる。
それは後のことで、同盟会に入ったばかりの北は、この分裂騒ぎに巻き込まれて、革命運動の難しさを知る。
一九〇七年(明治四十年)二月、日本政府は袁との関係もあって、日本にきていた孫文に、退去命令を出した。
当時、日本政府や右翼の要人の間では、孫文は利用価値のある人物であると見られていた。中国革命が成功の暁には、孫文を利用して中国に進出し様々な利権にありつこう……という政治家や実業家……そしてこれらに絡まる大陸浪人の数は多かった。
それで日本の外務省は孫文の要求を呑んで、革命活動を支援する意味で、六万円を孫文に渡し、孫文のシンパである株屋も一万円をくれた。孫文の同志たちは、この七万円のうち、いくらかを残して孫文がアメリカにゆくと見ていた。
しかし、孫文はこのうち二千円だけを同盟会と機関誌『民報』に回しただけで、アメリカに行ってしまった。
残された東京の同志たちは、――孫文は寄付金の大部分を自分の運動の為に遣うつもりなのか? ……と憤慨し、光復会の切れ者・章炳麟(『民報』で宣伝活動に従事し、孫文、黄興とともに革命三尊≠ニいわれる)や同盟会の若手活動家・張継(後、国民政府立法院長)らも憤慨して、章は『民報』の事務所から孫文の写真を外してしまった。北もこの一件で、孫文に好意が持てなくなった。
そしてこの一件がもとで、同盟会では分裂が進んでいった。
孫文の去った後、東京では幾つかの事件があり、北もそれに巻き込まれることがあった。
孫文がアメリカに去って間もなく、黄興、宋教仁、張継らは、神田の錦輝館で中国革命党の大演説会を開いた。日本側からは、北のほか、宮崎滔天らが出席、来賓として犬養毅らも顔を見せた。
北はここで生まれて初めて、演説なるものをぶった。中国留学生ら多くの中国人が集まり、盛況でこれが北一輝が中国革命にのめりこむ一つの切っ掛けとなった。
この後、張継、章炳麟らが北の家に出入りするようになり、北は彼等を幸徳秋水に紹介したりしている。
清国政府の在日中国革命派に対する干渉は激しく、四十一年一月十七日には、屋上演説事件≠ェ起こっている。
これは幸徳らの金曜会の第二十回講演会(本郷・平民書房において)の時のことで、この会は突然官憲によって中止させられ、解散を命じられたが、聴衆はなおも会場を去らないので、堺利彦、山川均、大杉栄らは、書店の二階から演説し、逮捕された。この時、張継は現場から脱出し、フランスに渡り、ヨーロッパから中国革命を支援することになった。
明治四十一年には、弟のヤ吉が早稲田を卒業して働くようになったので、北は本物の革命浪人となり、やがて大陸浪人として、中国革命に深く関わっていくことになる。
この頃の中国革命党の動きを、北は『支那革命外史』に次のように書いている。
「四十年夏、黄興君憂いを抱いて南に去り、宋教仁は北の運動より帰る。張君の案内で(北の家に)来訪した宋教仁はその組織的頭脳と蘇張的才幹(中国の戦国時代、蘇秦は六つの国を縦に結んで秦国に対抗せよ〈合縦の策〉と説いて回り、張儀は衡〈横に連合すべき〉だと説いた。このような術策を、合縦連衡≠フ策といい、蘇秦、張儀は謀略家と呼ばれた)の誠に嘆賞すべきものを具備したり。宋教仁は冷頭不惑の国家主義者で、生来の立法的素質は集団を組織する任に当たった。
革命指導者の最もよく覚醒した当時の一、二年間において、彼の完璧な国家主義は、章の国粋文学、張継の雷霆《らいてい》的情熱と相並んで、如何に遺憾なく革命党の理論と情熱と組織を作りあげしことか。しかも不幸は革命に伴う影なり。黄興君は鎮南関で再起する能わざるべく敗れたり。汪兆銘君らは摂政王暗殺の成らずして、終身の獄に捕らえられたり。革命党の幹部の一人が、裏切って彼等の飯の釜に毒を投じて世を驚かしたるあり。隣国政府の委嘱により唯一の鼓吹機関たりし『民報』の日本官憲より永久に発行を禁止さるるあり」
四十一年頃の北一輝は、苦心の作品である『国体論及び純正社会主義』は発禁となり、貧困を極めていた。母のリクも上京して一緒に上野で貧しい暮らしをともにしていたが、間もなく母は佐渡の家に帰った。
それでも弟のヤ吉が優等で早稲田の哲学科を卒業して、土浦中学校の教師となり、四十五円の月給の中から、佐渡の母に送金し始めたので、北もいささか安心した。
しかし、北の中国革命に関する状況は、かなり切迫したものがあった。
それは中国革命同盟会の分裂である。
孫文は自分の郷里である広東省で蜂起して、革命を成功させたいと企図している。
それで宋教仁とその同志・譚人鳳は、一九一〇年(明治四十三年)帰国して上海に新しい同盟会の本部(中部同盟会)を設立し、湖北、湖南を地盤として、機関紙『民報』で、情報宣伝活動を始めた。
彼等は武力の必要を感じ、揚子江流域軍閥から離反した部隊に協力を求めた。
その遣りかたは上級将校は清国の保守的で旧式な思想に染まっているとみて、若手の下級将校に革命の思想を吹き込んでいった。これを知った北は、後に日本でその方法を国家改造に応用しようと考えるのである。
そうこうするうちに明治四十四年十月十日、揚子江上流の武昌で革命が勃発した。このあたりには、漢口、漢陽、武昌という三大都市が河の両側にあり、武漢三鎮≠ニ呼ばれる要衝であった。
そもそもこの地で革命蜂起を企図していたのは、中部同盟会の宋教仁や譚人鳳らであったが、彼等は上海にいて黎元洪らが武昌で蜂起したので、宋教仁らも至急武昌へ急行して、革命軍を支援した。
この黎元洪らの蜂起が辛亥革命となり、中華民国を造ることになるので、黎元洪の経歴にふれておこう。
黎元洪は湖北出身の軍人でドイツに留学、辛亥革命の時、中部同盟会とともに蜂起し、革命軍人の首領となったが、間もなく北京にいって袁の下で副総統となり、大正七年、袁の死によって、中華民国第二代の大総統となり、一旦辞職したが、十一年再び大総統となる。
辛亥革命が起こると、宋教仁は東京の北に電報で応援を頼んだ。北は黒龍会の内田良平から金をもらい、上海に向かった。社会民主主義を唱える北が、右翼の巨頭の内田から金をもらって、中国革命の支援にいくというのは、矛盾しているが、当時、中国革命に関わっていた大陸浪人の中には、右翼、左翼、政友会、民政党など……様々なところから金をもらって、中国革命の為に献身した者も多かった。この大陸浪人の中にも、二種類あって、院外団くずれのような男から、右翼や政党の幹部の家にいって、大法螺《おおぼら》をふいて金をたかる者、実際に一身をなげうって、革命に殉じる者……などであるが、北の場合は、特に革命の為に戦うというような任務はなく、単なるオブザーバーとして、大陸に向かったのであった。
海を渡った北は、日本政府を助けることもせず、また利権を得ようとする日本の商社の応援もせず、専ら宋教仁を援助していた。
北は宋教仁の人間性に惚れ込み、自力で清朝を倒して、新しい共和国を造ろうという、熱意に敬意と親しみを感じていた。
かたや孫文は外国の援助を受け、外国の革命の遣りかたを真似しようとしているので、北は苦々しく思っていた。
北のみるところ、宋教仁こそは真に中国を愛するナショナリストで、そうでなければ、革命に力を借りた外国にある程度の利権を見返りとして、渡さなければならない。それではいつまでたっても、中国は欧米の植民地から脱皮することは出来ない……北はそう観察していた。この点特に外国人の書いた中国革命史では、孫文が革命の大立者で宋教仁はその子分に過ぎないような記述が多い。北が前途有望と見ていた宋教仁は、惜しくも大正二年(一九一三)三月、袁の配下によって暗殺されてしまうが、中華民国の繁栄を見るたびに、北を悩ましたのは、この宋教仁の悲惨な最期であった。北一輝が『支那革命外史』を書いた大きな目的の一つには、宋教仁を正当な位置において、中国革命を書き残したい……という意向があったと思われる。しからば北一輝は中国革命でどのような形でこれに参加し、また宋教仁に協力したのか? ……『支那革命外史』には、度々二人が協力する姿が出てくる。
[#小見出し]   嵐の中の北一輝――武昌・漢口・南京・上海――
北一輝が上海に着いた時、武漢はすでに革命軍に支配されていた。
宋教仁は漢口にいるというので、北もそのあとを追った。譚人鳳も黄興も漢口にきていた。漢口で合流した北はまず譚人鳳に、
「中部同盟会長として黎元洪の上に立って革命軍の総統になるべきだ」
と強く進言した。
しかし、旧道徳から抜け切れない譚人鳳は、
「中国には古来禅譲(無血で皇帝の位を譲る)という道徳がある」
といって応じるのをためらっている。
ここにおいて北は苛々した。――機は転瞬にして去る……北京の清朝を倒して念願の共和政府を建て、四億民衆を貧困と飢餓から救うのは、今をおいてない。急がなければ、機会は去って袁がまた権力を悪用して、革命運動を弾圧するのは、目に見えているではないか? ……。
頼みとする宋教仁にも、「まず武昌に臨時軍政府を樹立するのだ」と主張したが、黄興は、「一戦して勝利を収めてからだ……」という。
そしてその黄興も漢陽の戦いで政府軍に敗れてしまった。
――どうもこいつらは革命を知って戦争を知らない。これではいつまでたっても新しい共和国は出来ないぞ……。
北は揚子江の濁流を眺めながら、腕を組んで思案していた。(これから二十数年後に起きるのが二・二六事件で、この時も決起軍はクーデターに一応成功しながら、結局、玉《ぎよく》を手に入れることが出来ず、失敗して刑場の露と消えてしまうのである)
――宋教仁たちの情熱はわかる。しかし、革命と戦争は別物なのだ。革命に成功しても、その後にくる皇帝派の政府軍との戦争に勝たないと、革命は本当の成功を収め得ないのだ……。
この後も北一輝は武漢方面にいて、革命軍の参謀のような役割を果たしていたが、彼も軍人としての教育を受けている訳ではなく、必死の介入も空しく、革命軍は政府軍に押され、彼も弾雨の中、船で南京に向かうことになった。
しかし、南京に着いてみると、すでに市街には政府軍が侵入し、弾も盛んに飛んでくる。
このあたりの南京方面の革命闘争の戦況を、北が若い時から学んだという漢文調の文章の、『支那革命外史』より拾って見よう。
「而も一たび捉えざりし機会は再びつかむ能わず。南京は黄興と彼(宋教仁)が武昌に遡らざりし以前の南京に非ざりき。革命党の用いんとせし新軍は、携帯せし弾丸を奪われて城外に逐われ、闘志満々たる張勲の城門を閉じて堅守せる南京なりき。(中略)
実に行く行く聞けるに違わず埠頭に着きて眺めたる南京は全く黄龍旗(革命軍)の領域なりき。見渡す限りの山丘、蜿々《えんえん》たる城壁は遺憾なく戦闘を準備し、城の老幼を携え家財負荷して逃れる騒擾は世に比すべきものあらざりき。一行は船室に鳩首《きゆうしゆ》して一昨夜より昨夜にわたりて行なわれたりという革命党嫌疑者大虐殺の結果如何を考え、城に入りて事を成すの緒の絶えたるに当惑せり。」
「南京同志の機関部はすでに覆えされ、散髪せる青年は只弁髪を垂れざることによって殺され、一千の学生を虐殺せる後の都城は、外人といえども暮夜一歩外出する能わざる腥風《せいふう》満目の戒厳なりき。領事館の楼上楼下は婦女老幼を上海に避難せしめて引き揚げたる強壮居留民にて充満し、殆ど義勇軍の軍営に等しかりき。
領事館の一室はもとより陰謀の巣窟として借さるべきに非ず。倪鉄僧(南京の代表者)君は殆ど手のつく一端緒だに見出さずして、すでに得べかりし南京城の空しく敵手に委せらるるに切歯したり。
不肖は某少佐(本庄繁・参謀本部員)等により日本軍がすでに此処を遠からざる地点に進撃しきたれるを知り、翌、直に城を出て下江せんことを勧めたり。」
北一輝の『支那革命外史』は北の経験した中国革命を記録したものとして、歴史的価値のある文献であるが、彼の政治的ロマンチストぶりや、詩人革命家の心情は、慌ただしい中にもよく歴史への回顧と、戦争の中の詩情を、歌い上げている。
「何たる皮相なる眺めなりしぞ。楼上より見渡せる歴史多き金陵の山河は雨に烟《けぶ》りて、清朝三百年の亡びゆくを咽《むせ》ぶ者の如く、古今の興亡一夢の如しといえる古人の涙は、今一実見者の双頬に滂沱《ぼうだ》として流れたり。昔は羅馬の将軍シピオネ、カルセージ(カルタゴ)城に火挙がるを眺めて、誰か百年の後我羅馬の亦斯くの如くならざるを知らんやといえり。興の道を踏んで興あり、亡の跡を追いて亡あり。日本亦いずくんぞカルセージの火に泣き、金陵の雨に咽ばしむる日の来るなきを保するものぞ……」
山路愛山か高山|樗牛《ちよぎゆう》を思わせる詠歎調の美文というべきか……。詠嘆の中にも、日本の運命を占っているではないか。
北は様々な形で中国革命に興味を抱き、関わったが、実際の弾雨の中に身を挺したのは、この時だけで、南京では実に危険な経験をした訳であるが、やっと宋教仁と出会い、「大人、生きていたのか」と抱き合い、豪雨の中を外国船に便乗して、揚子江を上海に向けて下ったのであった。
辛亥革命の戦闘は、まず中国中部……湖南、江西、陝西《せんせい》、山西、雲南で、革命軍が政府軍を圧倒し、十一月三日、陳其美が上海を攻略すると、大勢は決した。
さらに革命の波は広がり、十二月二日、革命軍の南京入城当時は、清朝の勢力下にある地域は僅かに直隷、河南、東三省(満洲)を残すのみとなった。
十二月十四日、南京における各省代表会議では、黎元洪を大元帥(日本の天皇が兵馬の権を手にしていたことによって、北一輝がこの制度を勧めたという)に、黄興を副元帥に推挙した。北は始め黄興を総理にしたいと考えていたが、成らず、それで大元帥の称号を提案したのだが、彼の意中にあった黄興は選ばれず、また章炳麟は東京から南京に帰ると、黄興の大元帥に反対し結局黄は副元帥に留まった。
そしてこの頃ヨーロッパにいた孫文が帰国したのは、十二月二十五日で、彼はすでに欧米はもとより日本でも多くの同志を獲得してきた。北は孫文の凱旋?に反対であったが、孫文にはかつての同盟会の幹部で、大陸浪人のボスである宮崎滔天以下多くの浪人たち、それに日本軍部の大陸進出組もついており、黄興の力では太刀打ちは難しかった。結局、北もこの孫文の人気には、抵抗する力がなかった。(この時、彼はすでに革命には、武力とともに大衆を糾合する人気が必要だと感じていた)
北は「革命の真理は婦人が街頭に叫ぶが如く、全然ヒステリックにして馬を鹿と信じ、鹿ならずといわば殺さる」と憤慨したが、元々革命党の首領は孫文であり、革命の最先輩で国際的な点でも、群を抜いているので、十二月二十九日の南京に於ける各省代表者会議で、臨時大総統の選挙が行なわれると、十七票中十六票が孫文に集まり、譚人鳳だけが黄興に投票した。
こうして孫文は大総統となり、副総統は黎元洪、黄興は南京臨時政府の陸軍総長に留まった。
北の親友の宋教仁は支持者が少なく、なんの役にも就かなかった。
またパリから慌ただしく帰国した張継はかつての説を歪め、孫文の大総統に歓呼するのを見て、北は革命党の分裂について、考えざるを得なかった。
そこで上海にいた北一輝は南京にまだ相当の軍隊を保持している宋教仁を訪れたが、宋教仁は、
「かつては君の大元帥説に誤られ、次に黄興の優柔不断に誤られ、さらに孫文の空夢に誤らしめて、この革命をどうするのか? 私はなお軍隊を有している。孫文輩のこの城門を入ることを許さず」
と北の勧める中央進出を堅い表情で断わった。この時北は思った。――宋教仁は誠実で熱血的な革命家である。友人としても信頼出来る。しかし、革命家というものは、勇敢に戦うとともに、時代の趨勢を見抜くことも必要である。時代に逆行すると、折角革命には成功しても、分裂によって自滅するものも出てくるのではないか? ……。
さらに辛亥革命の裏の仕掛け人としての北には、まだ心配の種があった。それは清朝を倒した後の中国の政治体制である。
共和国にすることは当然であるが、宋教仁は大総統の権限についてヨーロッパ型の国家を代表する元首という形式をとり、孫文は大総統が政治の全般を統轄し、最高権力を有するアメリカ型を実現しようとしていた。
これには両者とも譲らず、一時は宋教仁の引退説も出たが、結局、張継の巧妙な調停で、宋教仁と孫文は握手し、新共和国の大総統は、アメリカ型の強力な権力をもつものと決められた。
この後、北と宋教仁が上海に帰ってから、宋教仁は北の室を訪れ、「今、孫文君と握手をしてきた」といい、続いて、
「孫文君は大総統として革命の中心に立ち、黎元洪と黄興は武昌と南京から、それぞれ戦闘任務に出発する。我は内務総長即ち国務卿として、国内治安、革命推進を統帥することになった」
と堅く北の手を握った。北はその若々しい手を握り返しながら、
「自分は汽車の中で、今回の大総統選挙に伴う人事で、国家至上主義者(宋教仁)と無政府主義者(張継)の握手を見、今またアメリカ的夢想家とフランス的実際家の握手を聞き、実に旧友歓会(喜びの再会)の涙が一切を溶解するものだ」
と皮肉って宋教仁を怒らせている。つまり始めは孫文の大総統を喜ばなかったのに、内務総長の役をもらうと、すぐに孫文に尻尾を振る……と北一輝一流のソフィスティケイトされた一言を呈したのである。――このままでは孫文は新中国建国の父≠ニ仰がれ、宋教仁は顎で使われて、必要のなくなった時は、犬みたいに惨めに消されてしまうのではないか? ……そう考えて北は不吉な予感に捕らえられたのであった。(案の定、大正二年三月、宋教仁は上海で暗殺される。狡兎《こうと》死して走狗《そうく》煮らる……の類かと、北は苦笑いした)
[#小見出し]   新しい中華民国の発足――革命の志士・北一輝――
大正元年(明治四十五年)一月一日、孫文は南京で大総統に就任、ここにアメリカ方式?の共和国・中華民国は発足した。宋教仁の予想によれば、彼はこの大会の席で孫文から内務総長に推薦される筈であった。しかし、実際に孫文がそれを議題に出すと、馬君武らの参議院議員は、テーブルの上に拳銃をおくような切迫した状況の中で、
「宋教仁を内務総長にするのは反対だ。宋教仁は専制家で漢奸である」
と攻撃し、宋教仁の代わりに程徳全を選んだ。この時北は上海にいたが、宋教仁の失脚の話が届くと、急ぎ列車で南京に向かった。重い絶望感が目の前を覆っていた。――この勝負は、前の大会で孫文に負けた時、いや黄興を立てようとした時、すでについていたのだ……北は宋教仁の無念さを思いやって、瞑目した。宋教仁は確かに熱烈な愛国者であるが、好漢惜しむらくは兵法を知らず、惜しいかな……北は中華民国の将来とともに、宋教仁の今後の運命を憂慮していた。
戦い敗れた宋教仁は、やっと法制院総裁の椅子にありついた。しかし、残念なことに、宋教仁は情熱はあるが、憲法の新しい解釈に疎《うと》かった。つまり社会主義の実際について、新しい知識がなかったのである。
その点、張継は過激なまでにマルクス的で、中国の土地を国民に平等に分配すること、農民には今まで耕してきた土地を、解放、所有せしめること……などについて語ると、宋教仁は急激に過ぎるとして、反対した。彼には社会主義と革命の実際が、わかっていなかったのである。クーデターで政権を握ることに熱中し、その後の青写真については、旧同志間に衝突が起きるのは、よくあることで、日本の軍人による革命も、その例外ではなかった。
また革命は成功後も資金が必要であった。孫文の革命政府は、その財源を鉄道の国有に求めた。漢冶萍煤鉄公司という大きな鉄鋼会社を経営していた盛宣懐は、自分の会社を政府に取られるのを防ぐため、日本の資本家と合弁にし出資額を千五百万元とし、そのうち日本側は五百万元を盛の公司に貸付けこれをまた南京臨時政府に又貸しするという案を出し、孫文と黄興が秘密裡にこれを承認した。
しかし、これが洩れると大問題となった。元々この革命は、盛が自分の資産の温存を図ったことも原因となっているので、参議院は憤慨した。
怒った章炳麟は革命党を脱退して統一党を造った。追い詰められた孫文は止むを得ずこの案を撤回し、清朝派の袁の協力を仰ぐことにした。
これについて、北の『支那革命外史』は、「外国に生まれて中国に愛着を感ぜず、現在の革命運動にも局外者的な考えの孫文は、日本からの借款を革命の為の一時的な手段と考えていたようであるが、実は臨時政府の政治費の為に、革命勃発の大目的を蹂躪《じゆうりん》したものではないか?」
と疑問を呈している。
ここで北一輝は一策を案じて、宋教仁を遣日全権代表として、日本に送りこんで、宋教仁が有利になる方策をたてようとこころみた。
しかし、これは頭山、犬養らの中国支援派の巨頭らによって拒絶された。黒龍会の内田良平も、大日本帝国の隣に社会主義的な共和国が成立することに、日本の国政への危険を感じていたし、それは無根の話ではなかった。
そのへんの奥行きの深さが、まだ若い(三十歳)北一輝には、十分わかっていなかった。古来、中国は幾つもの国に分れて、常に内外の戦乱の中にあり、その混乱と集結……一極集中の困難さは、日本の十倍以上であったといってもよい。
満洲から出てきた清朝の大帝国を一夕にして、民主主義と社会主義のミックスした、欧米風の新しいデモクラティックな社会にするには、まだこれから大きな試練が待っていると考えなければならない。
確かに北一輝の『国体論及び純正社会主義』は苦心の作で、その中には、旧悪を除いて真実を追求するという真面目で新しい方策が盛ってあった。
しかし、まだ実際に国家、社会で実験したことはなかった。北の中国行きは、中国革命同盟会に入った為の成り行き的なものに見えたが、北はひそかにこの大国で、自分が勉強した社会主義や革命がどのように実施されていくのか……その推移を凝視しようという魂胆があったのではないか? ……。
田中惣五郎氏の『増補版・北一輝』は、このへんの事態を、
「北の怒りは帝国主義日本の人々の立場と、半植民地中国の関係に対して正しい認識をもち得なかった為であり、その為に愛国的民族革命が半植民地的な中国にいかに行なわれるべきかの研究が不十分となった結果であろう。北の行き詰まりは、それの表面化した一例に過ぎない」
とうがった見方をしている。
確かに北一輝は革命の理論家であり、その理論を実現しようというリアリストではない。思索は深いかもしれないが、戦闘行動的には叩き上げの一軍曹にも劣るところがあっても、致し方なかろう。
革命にはクーデターすなわち武力の行使が必要である。しかし、クーデターが成功して、新しいイデオロギーによる政府が出来ても、それで革命が成功するとは限らない。フランス革命の例を見ても、ルイ十六世を断頭台に送ってもまだ革命は成功したとはいえなかった。国内には内戦が頻発し、外国の干渉は激しい。
そのあげくに出来あがったものは、ナポレオンによる帝政という、革命派の予想もしなかった代物であった。
革命には幾つかのエレメントが、時には次々に、また時には一緒に国民にその是非の判断を迫り、内外が大波によって動揺している間に、祖国という船はまた元の港に舞い戻り、あるいは難破し、不運な時には、沈没してしまうこともあり得る。
北一輝の『国体論及び純正社会主義』には、観念的な総論はあったが、現実的な各論が欠落していた。この苦い経験が、十五年後に革命実施のマニュアルとして、『日本改造法案大綱』を北一輝に書かせるのである。
その意味で『支那革命外史』は革命思想家の進化≠も示して興味は尽きない。
このように期待の革命軍は、その蜂起に一応成功したが、内部の政治的財政的混乱と負担、国際的な融和の欠如などで、革命の成功は極めて困難となってきた。
一方、北京にいた大総統の袁も、このまま内戦が続くのは好ましくないと考えていた。彼は日本政府の援助を当てにしていたが、この頃、桂内閣は燃え上がるデモクラシーの炎の中にあった。
大正元年(一九一二)十二月二日、西園寺内閣の陸相・上原勇作大将は、二個師団の拡張意見が通らず、政治的な辞職を行なった。陸軍が後任の陸相を出さなければ、内閣は成立しない。
それで十二月五日第二次西園寺内閣は総辞職、二十一日バトンは山県の狙い通り三度目の桂内閣に渡り、桂は二十一日組閣したが、民衆はこの陰険な西園寺下ろし、非立憲的な政権の移行に、ひどく怒り大正二年が明ける早々暴動が勃発、それが全国に広がっていった。
一月二十日、桂は新党創立を発表したが、二月十日護憲運動の激しいデモが国会を取り巻き、全国が騒擾状態となり、桂の退陣を迫った。官庁も新聞社も焼き払われ、収拾は困難となった。これが世にいう(狭義の)大正デモクラシー≠ナ、中国革命の波が日本にも押し寄せてきたことを示す。
すでに病気であった桂首相は、この圧力にたえかねて、二月十一日、組閣後|僅《わず》か二十日で総辞職してしまう。(嘆きの桂はこの年十月、癌で死去する運命にあった)
革命まではゆかなかったが、藩閥のあまりにも露骨な政権奪取には、民衆の恨みと不満も絶頂に達していたといえよう。
中国革命も行き詰まっていた。それには南軍だけではなく、北京の袁も安穏な気持ではいられなかった。彼は南北の妥協を考え、英国公使ジョルダンの調停によって、十二月五日革命軍に休戦を提議した。
先に孫文が中華民国初代の臨時大総統に就任したことを述べたが、南北の争いが激しくなると、インテリタイプの孫文は、内戦と革命党内部の内紛に危険を感じて、北京の袁世凱に大総統の地位を譲ることを考えた。
大正元年二月袁世凱は清朝皇帝を退位させ、孫文に代わって正式の中華民国大総統に就任した。
ここで清朝最後の独裁者・袁世凱の経歴に触れておこう。
袁世凱は河南省項城県生まれ。清朝最後の大物・李鴻章の子分で、朝鮮の内乱に武力介入を行ない、その後駐韓使節として、清国の指導権を保持することに努めた。
一八九七年(明治三十年)直隷省の按察使となり、天津付近で新軍という洋式の軍隊を組織訓練して、北洋軍閥の基礎を築いた。これには段祺瑞や馮国璋も協力した。
一八九八年の政変では、西太后の味方となり、クーデターを行なって、新政権を倒した。一九〇〇年、義和団事件のとき、清朝が義和団を支援したのに対し、袁世凱は李鴻章とともにこれを弾圧する側に回り、外国人を保護する立場をとったので、欧米の評判がよくなった。
一九〇四年(明治三十七年)日露戦争の年、李鴻章が死ぬと直隷省総督、北洋大臣となり、一時は北京周辺に強大な軍隊をもって、独立政権のような勢力を示した。
しかし、西太后が死ぬと、一時失脚。明治四十四年辛亥革命が勃発すると、清朝政府から軍事兵力を任され、革命軍と戦う一方、清朝皇帝を退位させ、革命軍と妥協し、大正二年には正式な初代大総統となった。
その後、議会が創設されると、袁世凱は国民党(中国革命同盟会の後身)を弾圧、その中心である宋教仁を暗殺。国内は再び混乱、袁世凱は国民党を解散させ、議会の機能を停止させて、孫文、黄興らの国民党幹部を海外に追放した。
大正三年五月には修正約法、大元帥府組織令を公布して、中国全土の政権と軍事権を一手に握った。しかし、第一次大戦が始まると、日本は漁夫の利を狙い、大正四年一月「対支那二十一箇条要求」を袁世凱につきつけて、山東、南満洲、内蒙古などの特殊権益の譲渡を迫った。五月、日本政府から最後通牒を突きつけられ、袁はついに承認して、国民党の反感を呼んだ。
時代の流れを読むことを知らない彼は、仲間を集めて帝政を復活し自分が皇帝になることを企図した。大正四年九月、彼は全国帝政請願連合会を組織し、国民党大会を開いて十二月十二日、ついに皇帝となった。
しかし、同じ頃、雲南に第三革命が勃発したのを始めに、各地で帝政反対、袁世凱の追放運動が盛んになり、大正五年五月帝政取消の布告を出した。同じ時、革命軍は軍務院に集合、袁世凱追放の気勢を上げた。
帝位を降りた袁世凱は、同年六月六日鬱々たる中に世を去った。
袁世凱亡き後は、黎元洪が大総統を継いだが、中国の国内はまだ収まらず、日本・大隈内閣の圧迫は続き、北一輝も社会民主主義的革命の難しさを味わいながら、一旦帰国して『支那革命外史』の執筆に取りかかるのであるが、その前に彼の結婚について報告しておこう。
[#小見出し]   北一輝の結婚――妻の見た夫・北一輝――
元々北は革命運動と恋愛、結婚は両立しがたい……と考えていた。革命に限らず男が仕事に打ち込む時、女手は必要の時もあれば、妻子が足手まといになることもあり得る。
その一輝が動乱の上海で見つけたのが、間淵すず子である。
すず子は長崎県生まれ。父は請け負い師で、すず子も活発な性格の女であった。十六歳の時結婚したが、夫の死で二人の子供と一緒に実家に帰っていたが、女ながらじっとしておられない性分で、知人の多い上海に活躍?の場を求めて船に乗った。
始めすず子は松崎洋行というホテルの近くの家に住み、旅館で働いたり、日本から売られてきた若い女たちに、裁縫を教えたりしていた。
上海と南京を往復していた北にとって、松崎洋行ですず子の顔を見ることが、僅かな慰安となっていった。天才の決意は早い。北はすず子に自分の想いを打ち明け、すず子のほうも憎からず思っていたので、長崎の父のもとに手紙でそれを知らせた。
北一輝が大陸浪人であることを知っていた父親は、娘の将来に不安を抱き、上海まで北に会いにきた。
こうしてすず子の父は、海を渡って上海にきたが、やはりその不安は解決出来なかった。
確かに北一輝は評判通りの美男で、鋭い目付きも隻眼ではあるが、頭脳の明快と時代への先見の明を示し、娘にはもったいないほどの名士といえた。――だが余りにも役者が違う。この北という男は、やがて日本を動かすようなとんでもない思想を胸の中に秘めているのではないか? ……。
しかし、話しあってみると、北はその丁寧な物言いに育ちのよさを示し、娘が惚れるような男性的な魅力があった。
――この男なら間違いはあるまい……そう考えていた父親は承諾を与えて、上海から長崎に帰っていった。
あにはからんや……このすず子が霊告の能力に恵まれた北の薫陶宜しきを得て、間もなく夫に劣らぬ霊媒となって、北も驚くほどのお告げを下すようになっていくのである。
二・二六事件の青年将校たちは、北のお告げによって、真崎擁立を考慮したりしているが、実際には北夫婦のどちらがその霊告を発したのか、知っていただろうか? ……。
とにかく運命の引き合わせにより、二人はそれが宿命であったように、結婚した。辛亥革命が勃発した年の十月、革命軍が上海を占領して間もなくのことであった。弾の音を聞きながら、二人は結婚生活を始めた。一輝二十九歳、すず子二十八歳。
希代の革命思想家……北一輝の新婚生活は、いかなるものであったのか? ……。
妻すず子の手記があるので、のぞいてみたい。(以下大意・『ありし日の夫・北一輝』〈『女性改造』昭和二十五年二月号〉より引用)
私たちが結婚したのは、武昌の革命が行なわれた直後のことです。国民軍の威勢は全く破竹の如しというべきだったのです。
私は当時、松崎洋行というホテルにいましたが、そこに止宿していた北を始め、国民党革命の元勲たる宋教仁、黄興、居正、陳其美ら同志の方々――蒋介石さんら――の重大秘密会合の席にはべっていたためか、日本領事館警察に引致され「上海はいつ攻略する予定になっているのか。お前はその機密を知っているだろう」と繰り返し詰問されるのみか、鞭で驚かされたものですが、「女の妾《わたくし》にどうしてそんな機密がわかりましょうか、存じません」と抗弁したところ、警官は「管野すが(幸徳秋水の妻)みたいな女だ」と吐くようにいいました。
ところが私は管野すがという人がどんな方であったのかわかりませんでしたので、そのことのみが気にかかり釈放されると、すぐ北に尋ねました。けれどその時、北は笑ってばかりいて何も教えてくれませんでした。(中略)
あのころのこと、今は亡き夫輝次郎のこと、そして同志の人たち、いいえ、私自身、はるばる、北からいわれるままに北京まで命を標的《まと》にしてまでも使いしたことを思い出すと、お互いに戦争なんかしないで、昔のように、東洋平和のため、東洋のためといって手を握り合うということは出来ないものでしょうかと考えさせられることが屡々《しばしば》です。私の如きは全く物の数にもならぬ一女性に過ぎませんが、北が中国革命にうちこんだあの情熱、あの純粋な気持を察すると、人の世の情なさに身も心も掻きちぎりたい衝動にかられることさえあります。
皆さんはご存じないでしょうが、北と私の間には、私たち夫婦にとって思い出多き上海で、こんどの戦争のために客死した大輝という一人息子がおりましたが、この大輝こそは、当時、いわゆる大陸の典型的英豪として、江北一体の哥老会匪を率いるのみか、革命の志士のことごとくが深くその人物に傾倒し、まるで革命党の元老でもあるかのように思われていた譚人鳳の孫、すなわち弐式氏の長男として生まれた永生でした。けれど不幸にしてその母は産褥熱で倒れて不帰の人となってしまったことは申すまでもありません。
ところがある時のことです。譚人鳳老人は形を改め語を正しくして北にいうには、
「中国革命もようやく成るといえども、前途はなお容易ではない。遠き将来のことを考えると、日華両国は必ず相援《あいたす》くる共存共栄の道を歩む以外に道はない。しかもこの一事はかかって貴下と私との責任にある。だから貴下と私は二人であって二人ではない。一体のものである」
と前提し、
「もしこの前提に誤りなくんば」
と語を継ぎ、
「どうか孫永生(後の大輝)をもらってくれ、永生を貴下に託す。その理由は故なきではない。このことはどうにも私事のように聞こえるかもしれないが、自分としては貴下がこれを鞠育《きくいく》し、他日有用の材としてくれるならば、われ、没後百年の後といえどもわれわれは彼に我が志を継がしむることが出来るであろう。だから、日華両国のため、東洋、東亜の和平のために彼を鞠育してもらいたい」
言々句々《げんげんくく》誠意を披瀝《ひれき》されて述べられたので、北もまたそれに感激快諾したとのことですが、その時永生僅かに一年二ヵ月、しかも病弱のため骨と皮ばかりに痩せ衰えこの世のものとも思えませんでした。
私は永生を見るや思わず、帯を解き肌を広げて走りよって譚人鳳の手より奪いとるようにして、私の肌に抱きしめたことを覚えていますが、あんな衝動に駆られるというのも、私が北と全くの同心一体となっていたからではないでしょうか?
日華両国の改造、共存共栄による東洋の平和という北の理想に打ち込んでいたからではないでしょうか。今にして考えれば、北は偉い人だ、私はこの夫に仕え、夫の仕事を達成せしむることに私の天職があるとの信念を保持していたように思われます。
私の父も申しました。「輝さんは偉い人だ」「輝さんのために死ね」と。
私は哀しい時でも、辛い時でも、いつもこの父の言葉が私の道を指示するものだと信じています。私は本当に北を立派な人物だと思っています。否、むしろ気の毒な人だとさえ思っています。女中や運転手に対する親切な心遣い、どんな人にもその人格を尊重するその態度、そして自分は御苦労しても人さまのことであれば、決してそれを言外にあらわさないあの偉大さ。到底私たちは追いつくことも出来ません。猶存社当時(大正九年頃のことです)生活上の収入はほとんどない。それでいて家では毎日お客さんばかり。もちろん、その頃は女中ひとりいるのではございません。ですから、私はこの御客様のためにも来る日も来る日も御飯たきばかり。御飯たきはいいとしても、お米を買うお金がありません。それでいて北は、「食事を用意せよ」というのですから、私もとうとう我慢ができなくて、今からすれば恥ずかしいことですが、満川(亀太郎)さんや大川周明さんや、安岡(正篤)さんらがおいでになるにもかまわず、
「私はここにおさんどんに来ているのではございません。今日かぎり、お暇を頂きたい」と申したてたことがございます。
もとより安岡さんや満川さんにとめられて事なきを得ましたけれども、北のやり方は万事このようでした。
お客様に食事を出すのと、人さまの御世話をするのとは意味が違いますけれども、このような人でしたから、人さまの御世話をすることは日課のような人でした。それでいていわれるには、「世話した人が他日立派になったからといって、恩を返して貰うようなことは絶対ならん」という事でした。それと告げ口とは禁戒の最大のものでした。
歌舞伎でも、北が好むものは決まっていました。舟弁慶、勧進帳でなければ、承知しません。舟弁慶を一ヵ月一日も欠かさず観劇したこともありました。俗にいう凝り性と申すのでしょうか、そんな性格がありました。であればこそ、あの人は自己の生命も財産までも中国革命のために捧げつくすことが出来たのだと私は考えています。
『日本改造法案大綱』執筆の時の状態等はそれを実証するものではないでしょうか。
この時は大輝養生のために、私は大輝を懐に抱いて半年も長崎に帰っていました。その間、送金は一銭もありません。送金どころか葉書一本もくれません。しかたなしに私は人さまの着物を縫う針仕事をして二人の生活費を稼いでいたのですが、大輝の健康もよくなってきたので、大輝を連れて再び上海までの旅費、金七円也を都合して海を渡ることにしました。
北がどこにいるのかわからないので、長田さんのところに行けば……と思い、上海へ到着するや否や長田病院を尋ねたのでした。
すると長田さんは、
「怒ってはいけない。怒らなければすぐあわしてやる」
と仰るのです。「なに怒りましょう」とこたえると、長田さんは指差して「この上にいるよ」「この上で断食して『改造法案』(『日本改造法案大綱』)を書いていたんだ。書きあげたばかりだ。ちょうどよい時だった」と申され、そして「北《ポー》先生を呼べ」と呼ばわりますと、北がやって参りました。
私はその時、その姿を発見するや否や、内職の苦労も何もかも忘れ、ただ見つけ出した喜びのみで一杯になってしまいました。
暫くしてからの事です。北がいうには、
「お前にはまことに申し訳ないが、譚人鳳じいさんに会ったら礼をいってくれ。じつはおまえにやってくれ、といって大枚五百ドルもらったんだが、俺がみんな使ってしまったんだ」とのことでした。
米一升六十銭の時代のことです。五百ドルの大金があったら……と想うと唖然たらざるを得ないではありませんか。しかし、この気性あればこそ、あれだけのものが書きあげられたのだということを了解すれば、不満一つ列《なら》べることは出来ませんでした。
けれども、
「おまえを貰ったためにこの『改造法案』が書けたのだ」
といわれたことは、それとどんな関係があるのか、今なおわかりません。
老い朽ちてこんなアバラ屋に、しかもまた昔にかえり賃仕事までして暮らしていても、私は北と一緒になって以来の過去三十年の生活を振り返り少しも悔やむところがありません。北と結婚したことは幸福であったと思っています。
結論的にいえば、妻から見た北は、その純情さにおいて子供のような純粋さ、素直さがありますが、彼は結局、革命家でもなければ、政治家でもない。学者でももちろんない。自分自身の生涯――言行、態度のすべて――を一枚の絵のように綺麗に画きあげようと努力した芸術家ではなかったでしょうか。
ですから、世俗的な幸福はこの人にとっては問題ではなかったでしょう。あの人の幸福は、あの劇的な多彩の生涯の中に見出されるのではないでしょうか。
先年のことであります。文理大の竹田博士(竹田復、中国文学者。東大支那文学科卒、一高教授を経て戦後、東京文理大教授、東京教育大教授、日大教授、大東文化大教授)や古賀武氏の御世話で、来朝された張群さんにお会い申した時に私はつくづくそんな気持がしました。
処刑の前日でした。妻たる私に対してさえ威儀を正しくしていうのに、
「長い間、よく仕えてくれた。今こそあらためて礼をいうぞ、これこの通りだ」
と手をつかえるではありませんか。妾《わたし》は「もったいない」と申し上げましただけ、今でも、あの当時のことを想い出すと泣けて泣けて止処《とめど》が御座いません。
[#小見出し]   宋教仁の暗殺
北が結婚して間もなく、親友の宋教仁は北とともに袁世凱(大正元年三月大総統となる)の独裁を抑えるべく活動していたが、三月宋教仁は南京政府の農林総長になった。この年は財政のたてなおしをめぐって、南京政府は苦悶し、国務総理・唐紹儀は、袁世凱の意図にそって英・米・独・仏の四国から借款の契約をとったが、日本とロシアをも含めて、六国借款とした。
北はこの融資を中国の独立と革命成功の為に妨げとなると思い、「不肖満腹の怒気を彼(宋教仁)に注いでいわく『ああ中華民国、清を滅ぼして更に六強清を迎えんとするか』」と罵った。
この借款を処理する為に、黄興は「国民|捐《えん》」(国家公債)を募集した。北は「不肖は猛虎一声して四山響を返すの壮観を看て微笑を禁ぜざりき」とせせら笑っているが、この起債は失敗した。
国務総理の唐は辞職し、代わって陸徴祥が組閣したが、彼も北京の袁世凱派・共和党と南方の国民党の間に挟まれて、九月には趙秉鈞がこれに代わった。この一ヵ月前、宋教仁らは国民党を結成していたが、これは近付く議会の総選挙において、袁世凱派を蹴落とす為で、この為宋教仁は統一共和党、国民共進会、共和実進会、国民公党、全国連合会などを国民党に糾合していた。
こうして国民党は旧中国革命同盟会を中核とし、袁世凱側は共和党として、これに対抗した。国民党の理事長は孫文、理事は黄興、宋教仁、王寵恵らで、大正二年二月、中華民国の総選挙が施行された。その結果は次の通りである。
衆議院議員 国民党 二六九名
共和党 一二〇
統一党 一八(以下略)
総計 五九六名
参議院議員 国民党 一二三
共和党 五五
統一党 六(以下略)
総計 二七四名
両院総計 八七〇名
こうして国民党は過半数を確保して、議会を制しようとした。
この危機に際して、袁世凱は暗殺による国民党幹部の除去を考えた。
総選挙後一ヵ月ほど後の三月二十日、宋教仁は袁世凱から北京に招かれた。――恐らく自分を首相に任命するつもりなのだろう……。
宋教仁は胸をふくらませながら、上海|滬寧《こねい》鉄道の停車場に降り立ったが、そこで拳銃による狙撃を受け、二十二日の朝、三十二歳の多彩な生涯を閉じた。(宋教仁の暗殺について北は、主犯は陳其美、従犯は袁世凱と孫文だという独自の判断を抱いていた)
宋教仁の死を知った北一輝は次のように、親友を悼んでいる。
「遮莫《さもあらばあれ》、第二革命の因をなせる故宋教仁の横死は誠に悼むべく瞋《いか》るべきものなりき。――ああ天人倶に許さざるこの大悪業よ。(中略)彼は滝の如く滴る血潮を抑えて干右仁君の首を抱き遺言していわく、南北統一は余の素志なり。諸友必ず小故をもって争い国家を誤ること勿れと。一宋教仁の死は革命党の脳髄を砕きたるものなりき。黄興は棺を抱き腸《はらわた》を絞りて泣けり。譚人鳳は後れ来たりて獅子吼したり。天下騒然。」
宋教仁の不慮の死は、天下の同情をかった。葬儀は国民党葬で盛大に執行された。北一輝は譚人鳳とともに棺をかついだ。
宋教仁暗殺の犯人については、始めは諸説があったが、結局、袁世凱大総統と総理の趙秉鈞が元凶で、実行は、国務院秘書の洪述祖が応桂馨と武士英に命じてやらせたものというのが定説となっている。暗殺の翌日、応から洪に次の電報が打たれていたという。
「匪魁既に滅せり。我軍一人の死傷なし。欣慰に堪えず」
これら犯人を袁世凱の一派とする説に、北一輝は異説を立てた。先述の如く北は南方の反宋教仁派……孫文と陳其美を主犯だと固執している。北は『支那革命外史』の中でこう主張している。
「袁世凱は主犯に非ず、一個の従犯なり。暗殺計画の首謀者は彼とともに轡《くつわ》を並べて革命に従いし陳其美にして、更に一人の従犯は驚く勿れ世人の最も敬すべしとせる孫文なるぞ。――ああ、人権勢に幻惑する時、万悪為さざるなき一にここに至るか」
北一輝のこの異様とも思える推理は、霊告によるものらしいが、それなりの論理を備えていた。『支那革命外史』には彼の推理が出ている。
「宋教仁は五国からの借款を断わり、日本の対支那二十一箇条要求にも怒り、このまま内戦を続ければ、中国は滅亡するとして、国民党を強力にし、表面上は黎元洪を大総統とし、実質的には彼自身が大総統になり、袁世凱、孫文の二人を排除して、おもいきった改革を断行しようと試みたのである。
これにまず危険を感じたのは、袁世凱、孫文であるが、特に宋教仁と不仲であった孫文、陳其美の手下が、宋教仁を上海駅頭で襲撃したものである」
一見論理的にみえるが、事件が勃発した時、探偵はその被害者が消されることによって、誰が一番得をするかを考えるのが常識である。この段階で最もその条件に該当するのは、やはり北京の袁世凱であろう。次いで孫文であるが、いやしくも同盟会以来の同志であり、また孫文は袁世凱の北方の武力に押されて、一応は大総統の座を退陣した人物である。筆者は若い時の孫文がその崇拝者がいうほど偉大な人物であったのか、疑問を感じている。そのアメリカ式デモクラシーによる革命の現実的な詰めの甘さ、革命とその成功の後にくる武力闘争に対する認識の浅さ……要するに彼は生まれは貧農の家だというが、兄はアメリカで大農場を経営する成功者で、外国の教育を受け、外国にいて祖国の変転を遠望していたインテリ・タイプの貴族的革命家で、いざ革命党が総選挙に勝って、自分が帰国した後、宋教仁が中国のトップに立つことに我慢が出来なかった……北一輝のいうように、貴族趣味の孫文が、実際行動で宋教仁を襲撃させたかどうかは疑問があるが、少なくとも宋教仁の勃興に孫文が穏やかではなかったということは想像される。
北一輝―宋教仁―孫文の関係について、まだ言えることが多いようであるが、ここは専門家の意見を聞いてみたい。
判沢弘氏(日本近代思想史家。早稲田大学史学科卒、東京工大教授)の『北一輝と宋教仁』は、北の『支那革命外史』を深読みして、中国革命における宋教仁と孫文の力関係にメスを入れようと試みたもので、その中から興味をひく『支那革命外史』の部分と判沢氏の意見とを拾ってみた。
まず冒頭において判沢氏は、北一輝の鋭い予言を摘出している。
「(前略)更に支那大陸は白人の侵略より覚醒せる意味において、日本従来の凌辱を理解せり。しかるに日本人は支那の革命を統一するものは、ついに日本なりとし、好機一閃直ちに兵を進めて強圧すべしとなす。日本は彼に対してかかる不仁の兵を用いるの時は、米の正義を求めるに対して不義の戦を挑むの時。しかして日米開戦に至らば、白人の対日同盟軍と支那の恐怖的死力によって日本の滅亡は朞年《きねん》を出ず。」
筆者は宋教仁の暗殺の首謀者を孫文とするなど、北一輝の推理には、いささか疑問を感じるものであるが、右の文章が第一次大戦開始直後の大正四年に『支那革命外史』に書かれたことを考察すると、この鬼才の霊感ならぬ、合理的もしくは時勢を洞察する眼力の確かさに、舌を巻く思いに打たれる。北一輝の予言は三十年後にぴたりと的中しているではないか? 北のカリスマ性は二・二六事件の挫折によって、いささかあいまいなものと見られるようになっていったが、その十七年前の予言は、見事に北一輝の、予言者というよりは、先覚者としての面目を示しているではないか? ……。
続いて判沢氏は北一輝の孫文批判について、次のように考察している。
『支那革命外史』のいくつかの重要な論点のうちの一つが孫文批判であることは、いうまでもないが、なぜあのように執拗に孫文批判に終始したのかを考えるとき、私は両者における革命観≠フ相違が、根底にあったのではないか? ……と考えるに至った。
北は孫文を批判してアメリカ流共和主義者≠ニか外国依存派≠セとか批判しているが、孫文の革命観≠正面から取り上げて問題にはしていない。中国人同志間においてもそうであった。(ただし、民国元年〈大正元年〉当時、中国革命同盟会解体前後に、革命は終わったか否かとの論議が、かなり浅いレベルの問題として論ぜられたことはある)
ではなぜ問題にならなかったのだろうか?
歴史が一応経過してしまったあとのわれわれからすれば、そのような視座に立って振り返るのもさして困難ではないが、動乱の渦中に生きている当事者たちにすれば、そのような根本的な問題は提起し得なかっただろうと思われる。今回『外史』を読んでいて、私が特に注目したのは左の如き文章である。
「康有為らによって変法|自彊《じきよう》能く君主立憲政を得んとしたる支那の革新的進行が、ついに『十月十日』の民主的革命に到達したる所以の者、亦実にこの国家と国民とを経済的物件として取り扱える、中世的代官政治の根本的一掃を要するが為なりとす。
如何ぞ天下の大勢、一孫文輩の米国的模倣によりて動くものならんや。すべての鍵は支那の中世的組織にあり。しかして袁世凱や実に代官級の代表者。段祺瑞然り、馮国璋然り、黎元洪然り、唐紹儀然り、各省都督、各州縉紳悉く然り。ああ国家組織の大綱細綱悉く腐朽した今日、革命に非ずんば鬼神といえども之を整理すべからず。バスチーユは覚醒の警鐘のみ、武漢は革命の入相《いりあい》(日没)に非ず。」
北はその鋭い筆で、革命後といえども袁世凱はもちろん孫文も、その他の革命功労者といわれる人々が、中世の代官的で新しい立憲的革新の国を造るのには、不満があると強調しているのである。
では北一輝の本当の革命とはなにか? ……判沢氏は『支那革命外史』の中の「東洋的共和制」という文章が重要であると指摘している。
「……革命とは、地震によって地下層の金鉱を地上に掘り出すものなり。支那の地下層に統一的英豪の潜むことは、天と国民の渇望とが証明すべし。之を人目に触れしむるは地震の後のことなり。今の革命が山を崩し地を裂くの震動に至りて、始めて光輝ある人のあらば、即ちそれなりとす。議会は或いは選挙すべし。或いはせざるべし。天の使命は必ずしも言論の機関を借りて降るものに非ず。救済の仏心と折伏《しやくぶく》の利剣とを以て、内各省の乱離を統一し、外英露の侵迫を撃攘し、以て天を畏れ民を安んずるの心を失わざる者あらば、是れ天の命じ、四億万民の推戴するオゴタイ汗に非ずしてなんぞ……。
中華民国の大総統は刃にちぬりて得べく、またちぬれる刃を提げて保たざるべからず。(後略)」
北のいうオゴタイ汗の意味はわかりにくいかもしれない。北は今の辛亥革命は単なる序幕に過ぎない……やがて生起する本格地震の中から真の意味の革命者が多く出現するであろう。そしてそのような人物こそ元帝国を指導したオゴタイ汗に似た人物であろう……またしても北一輝は予言者の姿勢を見せている。そしてこれを中共の毛沢東の登場と思い併せる時、必ずしも北の予言が当たっていなかったとはいえない。たとえ毛の晩年が様々な雑音に混乱させられようとも……。
次は孫文の革命観である。
孫文は『革命方略』という文書を残している。彼は革命の経過を次の三段階と考えていた。すなわち、
一、軍法の治、
二、約法の治、
三、憲法の治、
である。
一、は軍事力によって反革命の勢力が一掃され、旧体制が徹底的に破壊される段階で、三ヵ年を必要とする。
二、は地方自治を実現していくことによって、人民の憲政能力を養成していく段階で、これは六ヵ年を要する。
三、は最後の段階で憲政の治である。ここでは人民自らの力によって大統領や議会を選出することが可能となり、この段階で政治革命は初めて完成したことになる。
一読すれば、もっともな説で、インテリの答案のようであるが、問題は実現の方法論である。
古来幾人の革命思想家が、その理論において過激派を心酔、興奮せしめて、不可能なる革命を推進して悲劇を残したか? ……その例は枚挙にいとまがない。
孫文の『革命方略』では、中国の革命は十年ほどで完成することになるが、辛亥革命以降、毛沢東らによる中共の制覇に至るまでの起伏ある山河を思えば、あまりにも見通しが甘かったのではないか? ……。
北が孫文を批判するのは、こういう観念的な青写真で、実際経験なしで革命党を指導していこうという、孫文のインテレクチュアルな論調の非現実という点であろう。辛亥革命の時、南京から上海まで弾の中を潜った北としては、革命に必要なのは武器と資金で、富裕に育ったインテリのロマンではないということであろう。
あまり適切な例えではないが、孫文の辛亥革命における動きは、建武の中興における後醍醐帝に似たところがある。英明、剛毅といわれた後醍醐帝は、一旦は隠岐の島に流されるが、都に復帰しついに鎌倉の北条氏を倒して、天皇親政の世とするが、その後の武将の扱いに手腕の発揮がなく、再び都を後にして、吉野に籠らなければならなかった。
後醍醐帝に不足していたものは何か? ……辛亥革命における孫文の失敗と共通するところがあったのではないか? ……。
さて宋教仁である。宋が批判される所以《ゆえん》はどこにあるのか? ……。
その第一は初期の秘密結社・中国革命同盟会が、中国同盟会(中部同盟会)に進展?し、それが国民党へと幅は広くなったが、革命としては肝心の民生主義や男女平等などのメーンテーマが磨滅していったということが指摘される。
次に宋は大総統の地位が北京の袁世凱に移っても袁世凱に対する北伐に力を入れず、袁世凱のもとに責任内閣制度を樹立し、議会内に自分の勢力を植え付け、首相になろうと画策したというやり方が、問題となっていた。宋教仁はその最後の舞台で凶弾に倒れたといえる。
しかし、以上の理由で宋を批判するのは、少し厳しすぎるような気もする。
ここで孫文の退場の時点で、宋の考えていた路線をおさらいしてみる必要がありそうだ。
民衆を奴隷化していた満洲族の清朝は倒したが、その後を継ぐ軍閥・袁世凱の武力に対して国民党は抵抗出来なかった。そこで国民党としてはいたずらに北伐を呼号するだけではなく、中国の侵略を企図する外国(ロシア、日本、英国、フランス)の帝国主義勢力に対抗して祖国の地を守るのが、第一の道ではなかったのか? ……。
また北京の袁世凱に対してはあえて戦いを挑むことなく、袁を実力なき大総統に祭り上げ、責任内閣制政府によって、中央集権国家を造り上げ、地方の豪族、小軍閥などを逐次傘下に収めていくのが現実的な方策ではなかったのか? ……。
要するに辛亥革命≠ヘ建武の中興≠ニ同じく聞こえは美しいが、内実はまだ熟していなかった。つまり武力の不足もさることながら、民衆への情報宣伝が十分ではなかったといえよう。
判沢氏はこのほか、『支那革命外史』によって窺い知ることのできる、多くの興味ある北と宋教仁の思想の交錯に触れているが、ここでは北の次の一言に留めておく。
「日本は愚人島≠ナある」
これは日本政府が中国に侵入する手掛りをつかもうとして、袁世凱を支援し、辛亥革命の実りを少なくしたことへの罵言である。このため中国の近代化は十年は遅れ、日本もそのディメリットの煽りをくらった……と北は言いたかったのであろう。
(この原稿を書いた数日後、NHKが特別番組で、『孫文の日本外務省との極秘契約書』を放送した。その内容は、大正三年来日中の孫文が、日本外務省の代表・小池張造との間に、中国の利権を日本に譲渡し、その代わりに亡命している自分や陳其美らを保護し、かつ、中国革命を援助する極秘契約を取り交したというもので、その内容は十一箇条で、満洲、満鉄に関する日本の利権拡張、青島を含む山東半島の利権のドイツよりの継承等重要なもので、これが翌大正四年一月、当時の大隈内閣が北京の袁世凱につきつけた『対支二十一箇条要求』と酷似していることがわかった。
この番組の詳細は、後述するが、要するに、孫文は自分の安全も保証してもらい、革命成功後は大総統になれるよう、利権提供の密約を結んだもので、北一輝がこれを聞いたら、孫文を売国奴≠ニ罵ったかもしれない。北はこの孫文の裏面工作を知らなかったが、孫文を欧米かぶれのインテリ理論家で、行動力に劣る……と批判していたので、霊告はなくても、孫文の本質は見抜いていたと見るべきであろう)
[#小見出し]   弟・ヤ吉の見た北一輝
北の弟・ヤ吉は多くの北一輝の回想を書いている。特に二・二六事件の直後、昭和十一年七月号の『中央公論』に書いた『兄一輝を語る』には、生々しいものがある。
事件直後であるからこの文章には伏せ字が多いが、その中から中国革命当時の北一輝の動きをたどってみよう。
――僕ら一家は牛込の矢来町に家を移した。兄(一輝)は革命評論社に通っていた。そうして自分の思想は孔孟の教えと同様であると考えて、孔孟社という看板を掲げて『国体論及び純正社会主義』を分冊にして自費出版することにした。
第一は『純正社会主義の経済学』で第二は『純正社会主義の哲学』である。この二冊は発売を許され数年間世に出ていたが、幸徳秋水事件の後、従来発売されていたすべての社会主義の著述が発禁になった時に、発禁の運命になったのも自費出版であったから、相当の損害を受けた。
僕は評論社に関係していたとはいうものの、社へ顔をださなかった。そうして亡父の教えを思い出した。僕の町は漁師町であるが、親子兄弟はなるべく一艘の舟に乗らないことになっている。難破の時には全滅するからである。父は兄弟は同じ仕事はやるな、といっていた。之を思い出して僕は突然兄に評論社と関係を断つといいだした。兄は大憤慨したが、結局喧嘩分れになった。僕は兄、弟と母と別れて、早稲田の付近に下宿した。兄は自活の道を講ずることになった。兄は評論社以外に、黒龍会の出版部にも関係するようになり、盟主・内田良平氏と相識るに至った。
この兄の矢来町在住時代、孫逸仙、黄興の提携により、大演説会を神田錦輝館で開いた。犬養毅、杉田定一らも来賓として臨み、孫は出席したか記憶がないが、黄興、宋教仁、張継ら中国革命党の名士も出演し、日本人としては池、宮崎滔天らのほか、若年の兄も出演し、兄の通訳には田桐が当たった筈である。中国人の陸士留学生らも官費留学生ながら奮って義援金の募集に応じ、将来の支那革命を予想せしめるものがあった。
その後、評論社は牛込、新小川町に移ったが、兄の家には宋教仁、章炳麟(太炎)、張継らがよく遊びに来た。僕はこの時以後、早稲田で読書三昧の生活を営んでいたから、兄の事は知らないが、読書人兼空想家の兄は次第に行動の世界へと導かれ、大陸浪人の波瀾重畳の生活に入ったようである。
章炳麟と張継とは兄に乞うて幸徳秋水に紹介され、幸徳が社会主義より無政府主義に転向していた為に、一時、張継も無政府主義にかぶれ渡仏して無政府主義者の群に入ったこともある。僕は張継からクロポトキンの『パンの略取』の英文書をもらい、明治四十年二十三歳の時これを読了した。
兄が板垣(退助)伯の知遇を得たのも和田三郎の紹介によるもので、この頃らしい。
支那革命に参加するようになってから、兄は空想家としての面目を発揮した。それは亡父が生前試掘権を持っていた佐渡の黄金山という金山を発掘して大金をつかみ、之を支那革命の資金としようとの企てである。相談相手は板垣伯であった。二人とも金に縁故のないほうであり、結局詐欺師にかかり佐渡の遊び場小木町で、詐欺師に遊蕩費を貢いだだけで、骨折り損となった。
当時在京の中国革命党幹部は思想的傾向の相違から、かなり深刻な内部抗争があったらしい。章は単なる倒満興漢論者で、一種の民族主義者であったし、孫文は米国流のデモクラットであり、宋教仁は今日でいう武断的統一による強権政治の信奉者であった。
兄は張継とも仲がよかったが、最も宋教仁と相許した間柄であった。孫派と宋派との抗争で、兄も宋も時には、毒殺の危険に晒されたこともあったとのことである。
僕はこの当時、兄の家に出入りする宋教仁や張継の浴衣姿を見て、この白面の書生らがどうして革命などという、大芝居が出来ようかと冷やかに見送っていた。そうして殆ど兄の家にも出入りせず、ヴントやカントにかじりついていた。
そのうち家の貯えも少なくなるし、母と弟は兄から離れて上野に一家を持ち、僕は帰郷して、親戚の寺院内で読書生活を送り、叔父の本間と相談して、母に送金していた。
従って僕の早稲田の卒業年度は在京僅か二ヵ月であった。
僕は卒業と同時に弟を田川大吉郎氏(代議士、東京市助役、司法省参事官)に託し、母とともに帰郷した。そうして、弟は田川氏の下で東京市に勤め、僕は四十一年九月、茨城県立土浦中学校に奉職し、月給四十五円が初任給で、独立の生活に入った。そうした悠々読書生活の傍ら子弟の教育に当たった。母へは小遣いとして月々少額を送って、長男並の義務を果たし、この義務は一月と怠ったことがなかった。母も子供から金を送ったのはヤ吉が初めてであったといった。
兄は僕がいるので、母の為に後顧の憂いがなく、浪人生活を続けていた。
僕は明治四十二年に妻を迎え、四十四年東京府立中学校に転任した。この年武漢に革命の狼煙が上がり、兄は急遽上海に向かった。宋教仁の招電によるものらしい。
兄は渡航前内田良平氏と熟議したらしく、その在支活動の後方連絡は、主として内田氏が引き受けたらしい。昨年二月僕が内田氏の病床を箱根強羅に訪問した時、翁は、
「自分は支那革命は必然の大勢であり、清朝を維持せんとすることは、狂瀾を既倒《きとう》に回《めぐ》らさんとするようなものであると考えたが、何分要路の大官が理解しない。それで支那と貿易関係にある三井の大御所・益田孝男爵……男爵は佐渡出身で、僕の祖父が名主時代に僕の町に勤めていたことがある……を説いたら彼はさすがに大三井の総帥だけあって、大勢を達観し、自分の活動に了解を与えることとなり、男爵から井上馨に説き、井上が桂、寺内を動かしたから、万事が好都合に運び、日本の軍部が支那革命を阻止するようなことをやらなかった。益田さんはやはりえらかった」
と述懐された。
在支当時の兄の活動や、その支那革命観は大正四年に執筆、翌五年の四、五月に書き上げた『支那革命外史』に現われている。この書は一部分ずつ製本せざるままに有志に配布せられた。後、大鐙閣から菊判で出版され、更に四六判で平凡社から出版せられた。故吉野作造は『支那革命史』の中の白眉と推奨した。満川亀太郎(早大、東京外語卒。大正七年世話人となって老壮会創立。大川周明とともに北一輝を中国から迎えて猶存社を結成、更に行地社にも参加)はこの書に共鳴し、過日(大正十一年五月十二日)死去するまで生涯兄の共鳴者となった。大川周明がわざわざ六尺豊かの長身を上海に現して兄を……(伏せ字)に必要だと迎えにきたのもこの書のためである。
『支那革命外史』は、支那革命は明治維新に影響されながら、不徹底に終わったことを指摘し、孫文の米国流共和主義が支那に不適当で、支那の共和国制は、武断的統一の軍功者が、諸将領に推戴せられる形式であらねばならぬことを説いている。之はジンギスカンが陣中で諸将から推された古事を思わすものがある。
また著者は日本の外交方針が、日米経済同盟よって、米国の資本と日本の武力とによって、支那の開発を図るべきであると説き、日英は断じて協調すべからずとなして、排英思想を鮮明にしている。親米、排英は著者の一貫した信念である。
ロシアに対しても、親露主義を排し、ロシアの勢力を東洋より後退せしめることを、外交方針としている。
この対外政策を実現する為にも、日本の……(伏せ字)すべしと力説している。
この書においては、日本の真の……(伏せ字)を要求するもので、兄の三個の思想的傾向のうち国権思想が最も強烈に表示されている。兄は自分の思想を国家社会主義と称せられることを嫌い、……(伏せ字・社会民主主義?)と称せらるべきものと解している。オリエンタリズムを実現する為の……(伏せ字)、『……(伏せ字)』として世に問うている。
僕は大正二年母校へ帰って早稲田で教鞭をとることになったが、哲学史の翻訳に三年間も没頭していたので、兄の活動などは対岸の火災視していた。
兄は袁世凱、孫文の妥協による支那革命の不徹底を憤慨し宋教仁と相計り、討袁軍を組織していたが、日本政府の方針と犬養(毅)氏らの策動によって妥協は成立し、革命は中途に挫折し、宋教仁は袁世凱の回し者の手で暗殺された。
かくて兄は一先ず上海から、あらたにもらった妻女とともに帰朝した。
本書(『支那革命外史』)の中に山座(円次郎、外交官。日露戦争講和会議に全権随員となり、その後、大正二年六月清国駐在公使となり、三年五月死去)公使と水野参事官とが袁世凱の為に毒殺された如く暗示してある。之は何等外的証拠もなく、一般に無稽の言と認められるが、兄は真面目に之を信じている。之は兄の神秘的性質によるのである。
兄にはよくいえば霊感があり、悪くいえば憑拠《ひようきよ》的性格である。恐らく俗にいう天狗のようなものがついているのではないか? と思われる。昼でも度々幻覚を認め、夜になると、支那の友人、故宋教仁、範鴻仙、譚人鳳らと自由に相見し、談論し得るといっている。法華経の篤信者というよりも、狂信者であるが、理論に優れた人物としては、珍らしい傾向である。山座、水野の変死論も、兄の霊感によって生じたことは疑われない。
本人はヴェルサイユ(会議)で日本に仇をなしたウィルソン(米大統領)を、自分が呪った為に脳梅毒のようになって死んだのだと確信している。
常に予言めいたことをいうので、兄に接近する人々は兄を魔王≠ニ称している。奇想天外より落ちる計画を立て、人の意表に出る言説をなすからである。
兄がどうして霊感的人格となったかというと、すでに幼少の時から、その萌芽があった。妙な夢を見て怖れたり、夜分何者かの幻覚を生じて、気味悪がっていた。
僕は身体が強く夢すら見たことがないので、兄を臆病虫だと思っていた。この変態生理的傾向は、永年の眼病の為、コカインかなにかに影響されたのではないか、と思う。
頭が変則的に鋭敏になっていることは争われない。従って気がむずかしく、僕は兄と同室では落ち着いて勉強出来なかった。
兄の変態的傾向が強くなり、法華経を熱心に信奉するに至ったのは、永福という行者に接してからではないかと思う。少なくとも永福さんから法華経を読む技術を習ったことは事実である。兄の読経は有名である。一人で読経していても、十人以上の合唱と聞こえるほどである。
この永福さんというのは、僕も早稲田の教師時代に知り合った。大正六、七年頃である。彼は若い時は有名な催眠術者・古屋鉄石の試験台だったということで、毎朝生しぼりのタオルを頭にのせて、旭の上るのを凝視して、精神統一を図ったということである。
僕が催眠術の研究をやっていた時、時折来てもらった中村古峡、柳田国男らが、幾回も僕の家にきた。僕が永福さんを座せしめて、南無妙法蓮華経と数回唱えると、玉川稲荷というのが出て、盛んに食事をなし、更に僕が暗示をすると、幾回も人格転換をやった。或いは日蓮が出たり、白隠《はくいん》が出たり、芸者になったり、浪花節語りになったりした。
実に奇妙不思議であった。中村古峡も「こんな霊媒は見たことがない」とまで驚いた。
兄夫妻はこの永福さんを大いに尊重した。兄が霊力を備えるに至ったのも、彼に接したのが縁であろう。兄は霊力を得るようになってから、永福さんは単なる乗り台であるというようになった。
兄の霊力は異常で、かつて出口王仁三郎《でぐちおにさぶろう》が東京に片目の偉人がいるという筆の先が出たというので、大川周明を尋ね、次いで兄を尋ねたらしい。出口が兄に対面したら、先方がガタガタ震えたとのことである。兄は自身についているものが偉いからだといった。僕は出口に狐狸がつき、兄に天狗がついているのではないか? と真面目に考えている。
とにかく兄は人並みに優れたところと、ひとなみ以下のところがある。山から掘り出した鉱石の如く、金分もあれば、鉛もあり、また砒素などもあるかもしれない。母は『輝次は利口なとこと馬鹿なとこが混じっているから、差引すると、あまり残らぬ』といったが、子を知るには親に如かずか、贅沢で我儘で、傲慢であるかと思えば、親切で、慈悲深いところもある。親兄弟としてはかなりに困った。(後略)
[#小見出し]   宋教仁の亡霊・北一輝の中国追放と再訪
弟・北ヤ吉の回想の通り、北は中国革命の頃から霊能者としての特技?(病像?)を示すようになってきた。
そして宋教仁の暗殺について、袁世凱と孫文の責任を追及するので、袁は北を中国から追い出すことを考え始めた。
北のほうはこの頃、宋教仁の亡霊が枕許に立ったのと対話した……宋は自分を暗殺した真犯人について、その秘密を北に語ったという。それが袁と孫文であったというので、北の犯人追及は益々厳しくなっていった。
袁のほうも、もう容赦はならじ……と日本政府に働きかけ、北は大正二年四月八日、上海領事・吉忠一を通じて、日本政府からの「退清命令」を受け取り、帰国することになった。この日がたまたま釈尊の誕生日であったので、北は「畏くも釈尊の降誕し給いし日」に出されたということになる。
かつて北は『国体論及び純正社会主義』において、釈迦にもキリストにも否定的な見方を示し、
「大釈迦をして婆羅門の哲学と衣食に不自由のないインドに生まれさせず、終生をエスキモーのように氷雪の下で哲学の芽もない村に生まれさせたなら、小さな偶像教の開祖たるに過ぎず」
といい、またキリストについても、
「吾人は母の腹中を出てキリストの腹中に入り釈尊の腹中に入れり。否! 依然として社会の腹中にあり。しかしてキリストも釈尊も全社会も吾人の腹中にあり」
と個人主義的な解放論をぶっていた。
それが、革命運動の末には、自分の解放ならぬ追放の日に、釈迦の生まれた日を縁づけるようになってきた。大体、法華経の信者である彼と、釈迦の誕生日とを、なぜ革命家である彼が結びつけなければならないのか? ……このあたりに近代化を強調する北一輝の、近代精神の衰弱を見ることが出来る。
そして不屈の霊能者は再び革命的政治学者兼論理学者に立ちもどり、『日本改造法案大綱』の歴史的大作に取り掛かるのである。
北一輝にはまだ超人の思想≠フ霊魂?が取りついていた。
中国追放の命令に従いながら、彼はまだ打ちのめされてはいなかった。
大正二年四月、国家社会主義者兼霊能者の革命家・北一輝は、敗北を噛みしめながら、上海の埠頭から長崎行の船に乗った。傍らには夫を助け、やがて霊能者となる妻すず子の姿があった。
しかし、船が長崎に着くと北はすず子を父の元に預けて、自分は東京に舞いもどった。
――まだやることがある。東京にいても中国革命の支援は出来る筈だ……青山の母や弟ヤ吉の住む家に落ち着いた一輝は、支那服を着た息子に、奇異の眼をみはる母に、今や革命家として弾の下を潜った、貫禄のできた態度で帰国の挨拶をした。時に北一輝三十二歳。
しかし、やがてすず子が上京してくると、母のリクはいい顔をしなかった。長男のくせに親や家を放置して、大陸を放浪していた一輝に対する、母の眼は冷たかった。おまけにすず子は得体の知れない女で、礼儀作法の教育も受けたかどうかわからず、佐渡の名門北家の嫁としては、ふさわしくないように、リクには思われ、仲はよくなかった。弟夫婦と母は青山の家を去って別居したが、北夫婦はそれを気にかけるでもなかった。
その上、渡支以前に親しくしていた社会主義の同志……堺利彦、片山潜らも、今や第二中国革命にまで、足を突っ込んできた北とは、話が合わないところがあった。但しスケールの大きい大杉栄だけは、北と話が合った。
家族にも友にも疎外された北は、もっぱら霊界に遊ぶことが多くなってきた。宋教仁は昼でも出てきて、北に中国の様子を語り、第三革命について、希望を述べた。そのような北を怪しみもせずに、すず子は凝視していた。そして霊能者として、北に迫っていった。
北が帰国した大正二年、日本は薩閥の山本権兵衛が内閣を握っていた。
中国の第二革命が失敗に終わると、袁ににらまれた連中が日本に亡命し、北の広い家にも逃げこんできた。そのうちに大物の張群までくるようになり、青山の家は梁山泊のように、自称、革命の英雄が大言壮語する場所となった。
家は広いが金はない。北はまたも貧乏神と親しくなった。そのような時、すず子は不屈な女であった。上海で革命を経験した彼女は、いつのまにか大陸帰りのたくましさを身につけていた。彼女は自分が持参した僅かな衣類などを質屋に運んだり、また針仕事をしたりして、家計を助け大陸浪人たちの飲み代を稼いだりした。北も母親が佐渡から持ってきた絵画を金に換えたりした。
また北がその孫を養子とする譚人鳳も息子夫婦とともに来日、親交を深めた。
そのうちに大正三年春、シーメンス事件が起きて、山本内閣は総辞職、大隈重信が後継となった。この頃には北のシンパも増えて、金になる仕事も入るようになってきた。
この年四月十三日、大隈内閣が発足すると間もなく、八月、第一次大戦が勃発、日本も同二十六日、ドイツに宣戦布告することになった。大隈内閣……特に外相の加藤高明は、大陸進出の野心を抱いており、先述のように「対支二十一箇条要求」(大正四年一月)を出して、袁世凱を苦しめることになる。
こういう情勢の変化で北一輝の存在もまたクローズアップされることになり、金も入るようになってきた。当時は孫文も来日して、中華革命党を作り(後にこれが中国国民党となる)、第三次革命のムードを煽り始めた。こういう点では、武断的な宋教仁と違って国際的感覚の豊かな孫文は、またもや世界主義≠ぶちあげ、日米を始め列強の支援を得ようと、自ら大元帥を名乗り、そのやり方は専制的なものがあり、北一輝には気に入らないものがあった。
そこで北は孫文以外の有志の大同団結を図り、欧事研究会が活躍を始めた。メンバーは気鋭の李根源、章士サ、張孝準らで、後には李烈鈞も参加した。
第一次大戦の拡大に連れて、ヨーロッパの列強は戦争に巻き込まれ、日本は漁夫の利を占めることになった。当然のように欧事研究会のような革命党は活気を帯びてきた。
北はこの加藤外相が出した「二十一箇条要求」には大反対で、後に『支那革命外史』の中で次のように批判している。
まず北は日本が大戦中日英同盟に引き摺られたことを遺憾とし、こう書いている。
「今にして明らかに見るのは、当時の執権者全部より不肖の正当であったことだ。英国に引き摺られて鼻糞大の三十五個の島嶼《とうしよ》(南洋群島)と山東の一角のために、ヴェルサイユの暗礁に乗りあげたのは誰だ? これを仕出かした加藤外相が首括りをするだけの良心もなくて、今更日英同盟の無用を陳述するから凄まじい。既に日露戦争の大事実によって決定されている満洲の主権を、九十九ヵ年に猿まねをして、二十一箇条に盛り込んだ汚らわしい小細工。反対に九十九年にして返還されることのない青島を、『支那に還付する目的を以て』自ら世界に約束したベラボー至極の転倒事。――大戦参加の発足より地獄の港に向けた船である。すること為すこと悉《ことごと》く国家を残害するものであったのは勿論のことだ」(『支那革命外史』より)
この頃(大正四年)北は日本に来ていた譚人鳳を大隈に会わせている。中国革命の支援を頼んだのか内容ははっきりしないが、大杉栄が伊藤野枝と神近市子の間に挟まれて、神近に刺殺された(重傷の程度)≠ニいう号外が出て、北を慌てさせたのも、この頃であった。
北はこの頃、国家社会主義者兼支那革命顧問という肩書を持っていたが、様々な大陸浪人が転がりこんできた。その中にはエスペラント語を学ぶ青年もいた。後年北が『日本改造法案大綱』を書いた時、「英語を排して国際語(エスペラント)を課し第二国語となす」と書いたのは、この影響であろう。
また親友・譚人鳳の息子弐式夫妻も来日していたが、大正三年秋には、長男が生まれている。これが北の養子となる大輝で、第二次大戦中に死亡して、北一輝の家系は絶えることになる。
一方、中国では依然として袁世凱(大正二年十月、大総統に就任)の独裁が続いて、革命を阻んでいた。
しかし、加藤外相の二十一箇条要求を呑んだ袁世凱は、反対派から強く批判された。
それにもめげず袁世凱は、大総統から中華民国の皇帝になろうとして、革命派から強く反対された。しかし、大正四年十二月、国民代表大会は「君主立憲制、袁世凱の皇帝推戴」を可決。袁世凱はこれを受諾したが、日本政府はこれに反対、英、露も帝制延期の勧告を行なった。
袁世凱はこれらの勧告を拒絶したので、中国全土に反袁運動が起こり、この年末には、唐継尭らが、雲南で反袁世凱の第一声を上げ、これが第三革命の始まりとなった。
大正五年に入ると、雲南の外貴州、広西が独立を宣言、一月二十日、日、英、露、仏は再度袁世凱に皇帝制延期を勧告、袁も三月には帝制を取り消し、四月下旬、段祺瑞が第三革命の波の中で、責任内閣を発足せしめた。
しかし、第三革命の嵐は静まることなく、懊悩した袁世凱は、六月六日急死してしまう。
急遽これに代わって大総統に就任した黎元洪は、止むを得ず旧約法の回復、旧国会の召集、内閣改造、帝制派の処罰などを行なったが、情勢は急激に革命に動いていった。
時到れり≠ニばかりに、北は暗躍した。大隈の秘書であった永井柳太郎と緊密な連絡を取り、大隈を中国の改革に動かした。
また『支那革命外史』も五年四月には完成して、各方面に配布販売を始め、大きな反響を得た。
『国体論及び純正社会主義』に比べて、『支那革命外史』の特色は、前者が学究的でマルクスやダーウィンに学ぶことが多かったのに比べて、後者は実際に中国革命を経験した革命家として、また帝国主義をも考慮しながら、執筆されたことである。『支那革命外史』には実弾の硝煙の臭いがする……といってよかろうか?
[#小見出し]   北一輝の変身
大正五年(一九一六)四月、三十四歳の北一輝は『支那革命外史』を完成、広く反響を呼び、多くの知人、同志を得ることになった。大川周明、満川亀太郎らとも親しくなった。
吉野作造が、デモクラシーを唱えたのもこの頃であるが、中国革命の現場を踏んだ、革命家の現実的なレポートを踏台とした革命理論史家として、様々な主義者が、北を訪ねてくるようになってきた。その中には無政府主義者、社会主義者、北の真似をする国家社会主義者、大陸浪人はもちろん、右翼、左翼……そして政治家、院外団など、北をめぐる人々はバラエティに富み、いつのまにか北は、壮士―論客―志士―国家社会主義者―革命家―国士……の道を歩ませられ始めていた。
そして北の周囲に群がる人々が、多様であるように、北の思想も二十三歳の時に書いた『国体論及び純正社会主義』のような純粋かつヒューマニズムの筋の通ったものではあり得なかった。
そこに日中を中心とする東亜の時局が流動的であるように、北の心情にも、二十三歳から三十四歳への成長(俗化をも含む)と、論理の幅広い展開が認められた。
この年六月、大総統・袁世凱は死去し、十月大隈内閣は、二十一箇条要求への批判、大浦内相の収賄、選挙への干渉、政友会からの攻撃、そして山県ら元老たちの反感(山県は長州派の寺内〔正毅大将、元陸相〕に政権を譲らせ、大正政変で急死した桂首相の後継としたい意向であった)に圧迫されて、総辞職、予定通り寺内が組閣した。
ヨーロッパの大戦は、いよいよヴェルダン要塞の攻防戦が始まり、仏軍の守将・ペタンは必死にこれを守った。
ロシアではレーニンが革命の最後の詰めとして、『帝国主義論』を書き、また宮廷ではアレクサンドラ皇后のお気に入りの怪人・ラスプーチンが、勢力を振るっていた。
一方、アメリカは英国の要請で対独宣戦を意図し始めていた。
要するにヨーロッパの大戦という大きな竜巻を中心にして、世界中が暴風の中で、なにものかにしがみついている……というような不安定な状況にあったといってよかろう。
そしてこの状況の不安定は、革命家兼思想家北一輝の感じ易い神経の繊毛を震動させずにはおかなかった。
『支那革命外史』を完成することによって、往年の社会主義者・北一輝青年は、国家社会主義者という肩書の、現地へ乗り込む革命家という、得体の知れない存在と化しつつあった。
それがいいすぎだというならば、志士・北一輝は変身しつつあったのである。
若くして『国体論及び純正社会主義』を書いて、学者先生の偶像崇拝的な『国体論』を排斥し、多くの支持者を得た青年は、今や実際革命に興味を抱き、中国革命実現の為に、生身を劫火の中に投げ打ち、一方では『支那革命外史』という大著を世に問い、そうかと思えば法華経に心酔し、また霊能者として宋教仁の亡霊と語り合う……という一種の呪術者的思想家として、神秘的人物視されつつもあった。
それはやがてはカリスマへの道であり、ある点ではロシア宮廷を裏で操った怪物・ラスプーチンと似通うところを、発見する人もあった。
早くも北一輝を反革命家と規定して、この暗殺を図る山鹿泰治(アナーキスト、エスペランティスト)のような人物に、狙われることになってきた。
大正四年十二月、袁世凱が皇帝を名乗り、第三革命が勃発すると、北はまたしても血が騒ぎ、五年四月には革命資金を得る為、妻すず子を天津に派遣し、六月には三度上海に渡って、第三革命の構想を練ることになった。
北はこの頃、革命の方法論として、次のように考えていた。
一、(中国において)革命は軍事革命であり、軍事革命の主体は下級士官におくべきである。(二・二六事件で決起したのは、野中、安藤らの下級士官であった)
二、革命の特異性は少数選民主義である。――北は革命は上層階級からは生まれない……と主張していたが、この頃には優れた大総統のもとに、優秀な上流階級の政治家が、上院議員として、国家の方針を決めるべきだといっている。このところ、北は変身を図ったためか、言説に矛盾が多いようだ。本人は別に気にしていないようであるが……。
三、北は独自の革命遂行の為に、同類を集め、その頭領の下につくことを喜ばなかった。第一、第二革命で孫文らの下につくことを嫌ったのもこの性向による。
また北は孫文らのみならず、同志である筈の譚人鳳や黄興、宋教仁らをも、『支那革命外史』の中では激しく論難している。
これは誰の下にもつきたくない、大事業は自分が指図して遂行しなければならない……という唯我独尊≠フ思想が、波の間の巌《いわお》のように頭を出してきたもので、精神病理学の分類を借りるならば、一種の皇帝妄想≠ニもいうべき病像かもしれない。
かにかくに一九一六年(大正五年)春、北一輝が三度目の革命運動の為の訪中を行なった頃、世界は……特にアジアは西も東も新旧の政治体制が、激突して混沌とした中で、今一つの騒擾……ロシア革命(一九一七年・大正六年三月〔ロシア暦二月〕二月革命、同時にロシア皇帝・ニコライ退位、ロマノフ王朝崩壊)の中に突入しようとし、中国でも依然として政府を倒そうという革命闘争は続いていた。
またもや上海に渡った北一輝は、すず子とともに文路の太陽館を宿として、譚人鳳や医師の長田実と久方ぶりの対面を喜んだ。長田は上海に医院を開き、北を始め日本人の面倒を見ていた。
丁度、一輝が上海に向かった頃、北京では権勢を振るっていた袁世凱が死に、その後は黎元洪、馮国璋、徐世昌と大総統が代わったが、とてもこの大国を統治する力はなく、大小の軍隊を擁する地方の軍閥が、領土や利権を争う戦国時代を再現していた。
やがて北京では段祺瑞が総理となったが、南方の革新派はこれを喜ばず、また張勲(安徽都督)が康有為と提携して、清朝皇帝の復辟《ふくへき》を図るなど、時局は依然として混沌としていた。
段はこの張勲らの運動を喜ばず、中華民国の対独参戦を機に、張勲派を追放して、第二次段内閣を組織した。日本の寺内内閣はこの段内閣を支持して、中国での利権の獲得を企んでいた。これに対して南方では段に反対する広東軍事政府が樹立され、孫文を大元帥とし唐継尭らを副元帥として、影響力を広めていた。
このような情勢を眺めた北は、段も気に入らず、孫文も好きにはなれなかった。
要するに北一輝は一種の袋小路に、自分を閉じ込めていたといえる。北京も広東も嫌い、意気投合していた宋教仁は死ぬ……一方、巨悪の元凶と目していた袁世凱も、簡単に死んでしまった。
折角第三革命の実現を見ようと考えて、上海へきた一輝であったが、段は小型の袁世凱であり、孫文は一番人望があったそうであるが、欧米型、貴族型……そしてインテリ・タイプの人柄が、北に反感を抱かせていた。
八方塞がりの上海で、北は法華経に頼った。論理的な北一輝が経典に頼るのは、合点のいかないところもあるが、現実に行き詰まった時、神仏を念じるのは、庶民も北のような天才も似たようなものかもしれない。
もっとも北の法華経読経は、教義を学ぶというよりも、――念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊……というように他の宗派を罵倒する日蓮の気概に学ぶところあらんとしているのが、本音であったかもしれない。
法華経の読経の間に、北は『支那革命外史』を反芻《はんすう》していた。――あれでよかったのか? ……少し書くのが早過ぎたのではないか? ……そういう疑問があった。一応、書き終わってから第三革命が勃発したのであるから、あの『支那革命外史』は完結してはいない……そう反省することも、北の胸を傷ませた。
[#小見出し]   『支那革命外史』の発想と意図
ややおそまきながら、ここで『支那革命外史』を書いた北一輝の思考の内容に触れてみたい。
北は『支那革命外史』の「緒言」で、支那革命についての彼の意向を述べている。まずその最初の文を読んでみよう。
支那革命党及び革命の支那に関する真の理解は、日本の政府と国民にとりて、誠に切迫せる必要となれるが如し。(中略)不肖が常に感ずるところの遺憾は、諸公の聡明を以てして、実に根本より支那革命党の実態と革命を要求する支那の激変とにつきて、明確なる概念を持たざることなり。
支那革命党の抱負とする各種の理想、その結合及び覚醒。輿論と軍隊の間に行なわれたる運動の経過、革命勃発の真相と各勢力の離合。人物観及びそれと事件の交渉。日本人の援助なるものの価値。日本及び列強の態度の影響せる程度。今後の革命遂行中の驚くべき恐怖。物質的社会的原因の探究。東洋的共和政体の将来。破産せる財政に対する彼等の覚悟。堅確なる有機的大統一の能否。経済的分割力を抹除すべき大策。それと日本の対支外交策の結合。日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何。将来幾多の動乱に会して日本の取り得べき又取らざるべからざる責務。支那の経済的覚醒と政治的覚醒の関係。欧米の資本的侵略と将来の葛藤。日本及びフランスと同様なる愛国的統一的要求の考察。日支両国の将来に対する合理的了解。
――これらに関して正当なる解釈を渇望しながら、未だ一の価値ある論究に接せざることは、東洋の盟主を自任し、支那の指導者をもっておらんとする日本人の誇りと矛盾する甚だしきものに非ずや。少なくも当面の必要として、隣国の治乱が日本に及ぼす政治的経済的影響の深甚なるを考えれば……というのは日本の朝野の無理解を傍観することは、一国民たる憂いにおいて不肖の堪える能わざるところなり。
よくも並べたりというべきか……天才・北一輝の異様なる頭脳に湧いた言葉のすべてを開陳、羅列したのではないか? ……と疑われるほど、そのヴォキャブラリーは豊富であり、その並べ方は何物かにつかれたものの如くで、やはり北一輝は天才と狂人の間≠さまよいながら、観念的な思考を繰り返していたのではないか? ……と思われる。
次の第二節では、北はもっと具体的に話を進めていく。(以下、口語体に訳する)
固《もと》より諸公の机上には幾多の調査報告がうずたかいであろう。また日夕多くの所謂《いわゆる》支那通諸氏より劇的色彩を加えた功名談を聴いて、すでに各人各様の形成した見解を持っている者もあろう。しかし、それらの調査、または報告を行なう在支官僚、派遣軍人そして支那通の言説とが、果たしてよく諸公の見解を正当に導くものであるかどうか? が問題である。(中略)
今日、支那に一動乱の起こり、彼の政府と一交渉の生ずる度に、朝野が争って我が日本の真意がどこにあるのかを理解させるに苦しむものあり……要するに革命の支那に対する日本の当局と国論が、全然理解されていないからではないのか?
所謂、第二革命失敗後大隈伯が、日本の支那に対する知識と英国の資本とを以て日英経済同盟とすべしと公言して、在支英国人の哄笑をかった如きは、国民の代表的地位に立って遺憾なく国民の無理解を代弁したものではないか?
さて革命の理由と革命されるべき原因とは、それに働きかける革命党とそれを要求する国民とに説明を求めるべきである。
明治維新革命において高輪の英国公使館を焼き打ちした伊藤(博文)、井上(馨)らの元勲が回顧談で無我夢中≠ナあったと告白したのは、革命の実働性より革命の意義を理解しなかったものである。後藤象二郎が五万石に封じられるという秘密のお墨付を握っていたのは、廃藩置県の統一的理想を理解しなかった為である。
またフランス革命において、ミラボーがブルボン王家に代えるにオルレアン公を当てようとしたのは、両家とも革命されるべき貴族階級の代表であったことを理解しなかったものである。
ダントンとロベスピエールと二人の空論的系統の自由主義者を処刑するのに、矛盾したる自由の名を以てしたのは、愛国的要求を理解しなかったものである。
実に革命渦中の彼等に革命の説明を期待することが出来ないのは、火中の人に向かって出火の原因を尋ね、消火夫に新建築の図案を描くことを求められないのと同じである。
即ち支那の革命が孫文の根拠なき空想、譚人鳳の頑固な国粋主義、黄興の混沌たる思想、故宋教仁の偏局的頭脳によって、世に真の了解を望むことが出来ないのは、古今を通じて革命期中の原則である。
特にフランス革命が百年を経た今日、ようやく真理に近い論究を得て、明治維新革命が五十年後の今日、未だ一研究を得ないことを比べれば、辛うじて革命の第一歩をふみだしたばかりの支那への結論を論じるのは、超人的偉人といえども、早計というべきであろう。
従って不肖の言が後年の卓越した研究者に点検される時、亦等しく無理解な渦中の人の言い分として、取り扱われることを予想して恥入るものである。
――要するに北一輝のいいたいことは、革命の理論と実際ということで、フランス革命は百年たってようやく真実に近い結論を得ているのに比べて、明治維新は五十年後の今日、未だ満足な研究もない……まして革命の渦の中にある自分の書いたものなど、数十年後の優秀な研究家に検証される時は、渦中の人の無理解な言であるとされるであろう……と予想して恥じるものである……ということになりそうである。
その実、北は自分が体験し、また多くの人材と出会ったこの革命に対し、自分なりの独自の見方を堅持していることを、言外に匂わせていることはもちろんであるが……。
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[#見出し] 第五章 戦争の予兆と予見
[#小見出し]   転換期の北一輝
前にも触れたが、北はカリスマ兼霊能者としてだけではなく、中国革命の現場を踏むことによって、近くアジアに中国の混乱が原因となって、日本を囲む欧米勢力との大きな戦争が発生することを予見していた。
平成の今日からなら常識といえよう。明治維新ではやっと封建主義から脱した一後進国に過ぎなかった日本が、日清、日露戦争で大国を撃破し、その精強を世界に示したことで、いずれ欧米列強の監視と弾圧を免れ得ないことは、現今の経済摩擦からでも容易に想像されることである。
しかし、一九一〇年代……ヨーロッパの大戦中に書かれた『支那革命外史』の中で、北一輝が近く勃発し得べき列強と日本の戦争あるいは確執について最後の章を割いていることは、さすがに天才の予見性を示したものといってよかろう。
『支那革命外史』の第十七章は、『武断的統一と日英戦争』となっている。
その大意は、英国の東洋侵略(進出という名目の征服)によって、結局は日本が中国を含む東洋の守護神となり、日英戦争を戦わなければならないということである。
まず北は「支那はビスマルクの鉄血的統一を要す」と題して、中国の統一には武力による制圧が必要であると説く。
予言者≠ヘいう。
「馬上(武力)をもって取らざる天下は孫文の如し、馬上をもって治めざる天下は袁世凱の如し……」
そしてかつては純正社会主義を唱えた北一輝は、ここでは、
「支那の革命において、今の生ける日本人より何等指導さるるところなし」
と日本の気負っている大陸浪人たちの動きが無効であることを警告している。
また軍隊にそれほどの信頼をおいていなかった北も、
「革命支那は軍国主義下に築かれたる一大陸軍国たるべし」
と軍事力の必要性を強調している。
たとえば次のような言葉も彼の変針(変身に非ず)を示している。
「支那軍隊よりも怯懦《きようだ》なりし仏国軍隊が、自由的覚醒の市民農民の烏合《うごう》の衆を以て同盟侵入軍に対抗せし理論を、革命支那の陸軍に推論せよ」
「自由的覚醒なかりし幕府軍《ヽヽヽ》また支那の如し」(傍点筆者)
「今の支那をもって革命支那の陸軍を推想する重大なる論理的錯誤」
そして北は次のように英国の東洋に対する野心について警告する。
「仏領安南(ヴェトナム)の介在によって、揚子江流域がインドの接壌的(土地が隣接していること)英領たることをまぬかれし天祐」
「インドより安南、ビルマに通じ、揚子江流域に至る英国の南アジア併呑《へいどん》策」
この政策はいみじくも日中戦争時に始まる援蒋ビルマ・ルートで実現する。
「香港は支那本部計略の策源地」
「第一革命の天意は、支那が英国のインドたることあたわずという深奥なる根底より出づ」
「前後の虎狼たる英露に対する日本の以夷・制夷″時代(夷=他国をもって別の異国を制する政策)」
「香港は英国のみならず、すべての白人の東洋計略の足溜なり」
以上の北の東洋及び中国に関する方策は、次の三つに分類してよかろう。
一、革命には武力(ゲバルト)が必要である。現在の中国には禅譲≠ネどという無血革命はあり得ない。従って孫文らのアメリカかぶれした理論では、革命は遂行出来ない。
二、この際、最も注目すべきは英国の東洋政策である。もしヴェトナムがなかったら、インド―ビルマ―ヴェトナムを結ぶ英国の南アジア征服計略は、もっと早く進展していたであろう。
その代用として、英国は香港を中国への門戸として、混沌たる中国から利権や領土を獲得しようと試みた。
三、この英国の野心を砕くには、ドイツが(その反英的歴史と感情において)中国と同盟を結ぶのが、最も適任であるが、ヨーロッパの大戦の経過を見ると、ビスマルクがフランスを圧倒したようには、楽勝しがたいようである。そこで日本が立たなければならない。(それには日本の政治、経済はもちろん国民の国際的関心とその民度を高める必要がある)
そしてこの日英戦争論から、日本人覚醒を促す為に、具体的な日本革新の方策として、『日本改造法案大綱』が起草されていくのである。
ここでちょっと石原莞爾(明治二十二年生まれ、北より六歳年下)に触れておきたい。前にも触れたが、陸軍部内では戦争の天才≠ニ呼ばれる石原莞爾は、北が『日本改造法案大綱』を書いていた頃陸軍大尉で、すでに陸大を卒業して、歩兵第六十五連隊中隊長を経て、大正九年には中支那派遣隊付となって、中国に渡るところであった。
石原は後に、「東亜連盟」を唱え、日本を中心に中国、東南アジア、インド、ビルマなどを打って一丸とする経済、国防圏を造り、これを以て欧米白人の帝国主義に抵抗することを主張することになる。
石原と北のもう一つの共通点は、熱烈な法華経の信者であったということである。石原は霊能者ではなく、霊告などはやらなかったし、霊媒になったという話も聴かない。しかし、この二人の天才には、「憂国の志士」的な点と、東洋に絶対的国防圏内を造ろうとした点で、見過ごすことの出来ないものがある。
[#小見出し]   『日本改造法案大綱』執筆の頃――ロシア革命の影響――
前述の通り、北は大正八年八月、上海の安宿の一室で、断食同様にしながら、『日本改造法案大綱』を執筆するが、その前に幾つかの公私に関係のある動きがあった。
まず大正六年三月十二日、ロシアで二月革命が起きてニコライ皇帝が退位、ロマノフ王朝は十七世紀初頭以来三百年にわたる独裁政治に終止符を打った。
すでにこの前からロシア西部戦線は総崩れとなっており、ペトログラードでは暴動が起きていた。
皇帝退位とともにソビエト労農政府が成立、ケレンスキーが政権を握った。しかし、帰国したレーニンは、ケレンスキー内閣を倒すと、十一月六日(ロシア暦十月十日)ソビエト政府を組織し、史上初めての共産主義国家を実現して、マルクスの思想の実現にかかった。
これが「十月革命」で、世界中に大きなインパクトを与えたが、とりわけ革命が進行中の中国と隣国の日本では、左右両派の人々に影響と動揺を与えた。すでに辛亥革命で造反の実情を見せられた左翼の人々は、――日本にも革命近し……と勇躍したが、第三次革命までの困難な状況を見ているので、一層の団結と積極的な行動を必要と感じ始めた。
一方、右翼のほうは大日本帝国を揺すぶるものとして、ロシアの共産主義を危険信号と認めた。すでに大正元年(一九一二)、隣の中国で清朝が倒れているのをまのあたりに見せられ、続いて僅か五年後には世界最大の陸軍国として猛威を振るったロシア帝国のロマノフ家が倒れて、共産主義の脅威が隣まで迫ってきたので、日本に危険思想がはびこり、さては神代から続いた日本の国体にもひびが入りはせぬか……と社会主義はもちろんデモクラシーにも、警戒と弾圧を強めることになった。
また右翼の一部には、ソビエト・ロシアと日本の中間にある中国の共産主義化を防ぐため、満洲や革命の原動力である揚子江上流、広東あたりを監視し、また列強の秘密工作の基地である上海に軍隊を送る案も出てきた。
右翼のほかにソビエト・ロシアの出現に帝国の危機を感じたのは、軍人特に青年将校たちであった。彼等は日本が日露戦争の大勝以来、第一次大戦でも漁夫の利を得、名実ともに世界の三大強国の中に入ると、帝国陸海軍というプライドを高めていたが、大国ロシアが共産主義国家として、衣替えして東亜にその思想を蔓延させてくるかと思うと、こちらも益々愛国の精神を涵養して、軍備を増強する必要を感じ、老衰した将軍たちよりも、若い自分たちが国防の第一線に立つことを身近な問題として、重視することになった。
ロシア革命の一年後、大正七年十一月、ドイツは降伏し、第一次大戦は終わり、翌八年一月、パリで講和会議が開催され、六月二十八日には、ヴェルサイユ条約が締結され、負けたドイツ、オーストリア、トルコなどの膨大な占領地帯は、米大統領ウィルソンの提唱による民族自決≠フ方式に従って、多くの小国に分裂することになった。
北一輝が『日本改造法案大綱』の案を練り始めたのはこの頃である。彼は中国革命の前途に不安を抱き、中国をよくするには、日本の政府と国情をもっと民衆に幸福をあたえるものにすべきだ……という信念のもとに、この大作の執筆に取り掛かったのであるが、その底には自分が関わり現実を見てきた、中国革命に対する挫折と不安感があった。
またこの前年、大正七年には右翼にとって新しい動きが起こっていた。
この年十月、東京で二つの会が発足した。
その一つは九日に出来た「老壮会」で、世話人は満川亀太郎(東京外語卒、拓大教授。後に猶存社を創立、行地社主事となり、大正十五年一新社を創立、早稲田大学の潮の会を指導、敬天学寮、興亜学塾を設立。昭和六年下中弥三郎の国民主義運動に参加、新日本国民同盟を結成、中央常任委員となり、理論的指導者として重きをなす。昭和十年同盟革正会の組織に関係し、昭和十一年五月死去。戦前右翼の理論的指導者として知られていた)で、多くの国家社会主義者らが関係し、古くは明治初期の自由民権運動家で東洋自由党を創設した社会主義運動の長老・大井憲太郎、大川周明、中野正剛、高畠素之(国家社会主義者。大正七年大衆社を創立、岩田富美夫、津久井龍雄らを門下として、尾崎士郎も入っていた。マルクスの資本論の最初の全訳者として著名。大正期国家社会主義、ファッシズムの宗家。『国家社会主義大義』『マルクス主義と国家』などの著書がある)、このほか、顔触れは多彩で嶋中雄三(雄作の兄)、下中弥三郎、伊達順之介(満洲で馬賊の頭目?として、軍部と提携する)、上泉徳弥(海軍中将)、権藤成卿(農民自治を唱え、『皇民自治本義』『自治民範』などの著書があり、弟子も多かった。堺利彦ら社会主義の先達もいた)。
顔触れを見ると、国家社会主義者のほかマルクス主義者、海軍提督ら多勢であるが、定期的に会合をして、議論するのではなく、その日、その日に集まったメンバーが、憂国の精神を吐露していたものと見るべきであろう。
すでに軍部の若手では新しいデモクラシーを考え、共産主義に対抗することを考えていた者もいたが、要するに既成の玄洋社、黒龍会らの右翼運動にあきたらぬ人々の集まりと見るべきであろう。
当時の内務省の記録によっても、大正六年のロシア革命、七年の米騒動などによって、老壮会、猶存社などが出来て、軍部と右翼の連絡が密となり、日本精神の高揚と日本主義の普及に努めたとなっている。
北一輝も参加して、本格的な国家改造を目指す団体として「猶存社」が発足したのも、この年の八月である。
先に老壮会を創始した満川亀太郎は、この会が明白な目的をもたないことに不満を感じ、もっと組織的な国家社会主義運動を展開することを考え、大川に北一輝を加えてこの運動をもっと実効的なものとして、盛り上げることを相談した。
大川は当時満鉄の東京支局員であったが、大陸進出関係の要人とも関係があり、北の仕事のことも知っていた。大川は満川の紹介状を持って上海に行き北の帰国をうながした。当時、北は懸案の『国家改造案原理大綱』をやっと書き上げた時で、上海で北に会った大川は、猶存社のことで了解を得ると、これを日本に持ち帰った。これが後に『日本改造法案大綱』として、世に出るのである。
間もなく九年一月、北も帰国して、満川が牛込南町に借りた猶存社に顔を出した。これ以降、北、大川のコンビで安岡正篤、鹿子木員信、笠木良明ら強力なメンバーを集め、国家社会主義に熱を入れた。
発足に当たって、猶存社同人は、次のような綱領を決めた。
一、革命大帝国の建設
一、国民精神の創造的革命
一、道義的対外政策の提唱
一、アジア解放のための大軍団的組織
一、各国改造状態の報道批評研究
一、国柱的同志の魂の鍛練
いずれも愛国者たちの組織的運動として、もっともなテーマであるが、観念的、紋切り型の感じが強く、具体的にはどういう政策があったのかはっきりしない。
こうして、満川らの最初の意気込みにも拘わらず、猶存社はこれというまとまった仕事や著述を残さず、当時の戦争成金山本唯三郎の千駄ケ谷の邸に社を移し、北もここに住むようになった。北が豪邸を好むようになるのは、これからである。
[#小見出し]   孫文と日本外務省の秘密契約
[#地付き]――二十一箇条要求の原案は孫文の懇請による――
ここまで書いた時(平成三年四月二十五日夜十時)、NHKが孫文と日本外務省の秘約について、非常に興味あるスペシャル番組を放送した。
前述の通り、孫文は武漢で第一革命が勃発すると英国から帰国して、臨時大総統に就任した。しかし、武力において劣る革命軍は、北京の袁世凱が力を得ると敗退し、大正二年夏の第二革命失敗の後、孫文は日本に亡命して、玄洋社の頭山満や黒龍会の内田良平らの保護を受けていた。
しかし、孫文の悲願は、再度中国に渡り北京の袁世凱を倒して、国民大衆の為の共和国を造ることであった。だが、袁世凱の北方勢力と戦うには、南方の革命軍はあまりにも無力で、その兵器なども古い。
そこで孫文は日本政府から革命資金のほかに武器弾薬を援助してもらうために、革命成功の暁には多くの利権を日本に供与することを契約することにした。
日本側では当時、外務省の政務局長をしていた小池張造(大正二年十月十三日から五年十一月三十日まで在職)が秘密交渉の担当者となり、加藤(高明)外相の代理として、孫文に会った。
孫文はこの頃、赤坂霊南坂の頭山満の邸の裏にある秘密の隠れ家におり、頭山家の庭を抜けなければ、孫文の家の裏口(表玄関は閉鎖)に近付くことは出来なかった。それで孫文は袁世凱の刺客から逃れていた。孫文の行動やかかってきた電話の内容などは、警視庁から詰めていた刑事が、分刻みで細大洩らさず記録して内務省に報告していた。
孫文の隠れ家には腹心の陳其美、黄興らが、密かに訪ね、身の回りを世話する若い女性もいた。これが宋慶齢(蒋介石夫人・宋美齢の姉、孫文の秘書をしていたが、日本で孫文と結婚する。孫文の死後は国民党左派の指導者として、蒋介石と対立、戦後、中華人民共和国成立の時は副主席となる)で、ほかにも中国革命で有名となる人物が、暮夜《ぼや》、人目を忍んでこの隠れ家を訪れていた。
そうかと思うと、この観察記録には、孫文が歯の治療のため医院にいったとか、動物園に見物にいったなどという事実も記載してある。
そうこうしているうちに、ヨーロッパの民族紛争がもつれて、帝国主義と汎スラブ主義が衝突し、大正三年七月第一次大戦が勃発、孫文はこの頃、日本の援助によって、資金、武力を貯え、袁世凱を追って、中国革命を達成しようと考えた。
問題の孫文と小池張造政務局長(後、久原工業取締役)の会見は、大戦勃発の直前、大正三年三月十四日、外務省で行なわれた。そこで孫文が切り出したのが、十一箇条に及ぶ権益供与の条件である。
その内容を述べる前に、一年後の大正四年一月十八日、大隈内閣の加藤外相が北京駐在の駐支公使・日置益を通じて、次のような権益の要求を袁世凱大総統に突きつけて、欧米の強い批判と中国民衆の激しい反感をかった二十一箇条について説明すべきであろう。
通称、二十一箇条というが、大きく分けて第一号から第五号まであり、それぞれに項目がついていて、全部で二十一箇条という形式になっている。
第一号 山東省を日本の勢力範囲に収めるための要求・四項、
第二号 南満、東蒙古における日本の排他的地位を強化するため旅順、大連租借期限、満鉄権益期限の九十九ヵ年への延長など七項、
第三号 漢冶泙煤公司に関する二項、
第四号 中国福建省の外国への不割譲、不貸与要求一項、
第五号 中国政府に日本の軍事、警察、財政顧問をおき、日本兵器の供給を受ける、など七項。
このうち加藤外相が最も重要視したのが第二号の旅順、大連、満鉄の租借権の期限の延長であったが、ロシアや英国、アメリカの反対は目に見えていた。このほか日本の軍部、財界から多くの要求が出たが、日置公使は最初の二十一箇条……特に第二号を眼目として、中国側と交渉を続けた。
袁政府は頑強に抵抗したが、彼等が頼みとするヨーロッパの列強は、今や地元の大戦に追われて、中国までは眼が届かない。
日本政府は、この年二月二日から四月二十六日まで強硬な姿勢で交渉を続行したが、相手が、第二号の旅順、大連、満鉄、安奉鉄道の期限延長しか認めず、ほかはどうしても折れないので、ついに五月七日、同九日を期限とする最後通牒を発したので、袁世凱の政府は止むを得ずこれらを承認した。
このため中国民衆……特に青年、学生の怒りは激しく、中国では五月七日と九日を国辱記念日として、排日運動を推進することになった。
さてここで孫文が大正三年に小池局長に見せた十一箇条の内容を見ると、これが不思議なほど類似しており、特に加藤外相が力を入れることになる第二号の旅順、大連、満鉄の租借期限の延期なども、写したように明白に記載されている。
また、これらを容れるならば、中国は日本の属国同様となるといって、後に国民大衆が悲憤の涙にくれる第五号の「中央政府の政治、財政、軍事の顧問は日本人とする。鉱山、鉄道の経営にはまず日本を優先する。中国の兵器は日本から入れ、その兵器は日本式に統一する」というような項目も、この孫文と小池の『日中盟約』の中に入っている。
そしてこの秘密文書の末尾には、孫文と陳其美の署名と孫文の捺印がしてある。
またその後には犬塚信太郎(前満鉄理事)と山田純三郎(満鉄上海駐在員)の署名が続いている。
この孫文の署名は、孫文研究家である電気通信大学の藤井教授や、中国の学者も本物に間違いない、と認めており、孫文は対支二十一箇条要求の出る前に、すでにこれとほぼ同様の十一箇条の秘密盟約を、日本外務省と結んでいたことになる。
これは一体どういうことなのか? ……。
当時の大隈内閣は表面上、北京の袁世凱政府を認め、これを支援していた。しかし、袁世凱はむしろ欧米の援助によって、中国の領土、権益の保全を図っていた。
そこで日本政府は裏面では、頭山を指導者とする宮崎滔天らの大陸浪人たちを中国に送り、第一、第二革命を起こさせ、袁を倒して親日政権を樹立し、さらに中国の利権を得ようと考えていた。
それを知っていた孫文は、革命資金や武器を入手するために、日本政府が喜びそうな条項の盟約文を作って、外務省と交渉したのである。また袁は孫文の逮捕を指令していたので、孫文としては日本への亡命の延期を認め、身辺の保護を日本政府に依頼する為に、この十一箇条を提案したものと思われる。
従って第一次大戦の始まる前には、日本外務省は、孫文が政権を取り大総統に就任した暁には、この盟約書に盛ってある条項が実現されると期待していた。
ところが袁政権はなかなか倒れず、第三革命も実現が期待できない……そのうちに欧州で大戦が始まった。こうなると日本政府は、孫文のことはおいておき、直接、北京の袁政府と領土、利権問題を交渉することにした。そして前述の通り最後通牒によって、日本政府の要求は通ったのである。
この事実を知った孫文は、赤坂の隠れ家から遠く故国の空を眺めながら、どう考えていたのか? ……もし自分が大戦の前に革命と自分の保全の為に、日本政府に有利な条件を提案していたことがわかると、売国奴と罵られるかもしれない。その時は自決するほかに道はない……なにもかも新生中国の革命の為だ……こう考えたのか? ……あるいは、すべての革命には裏表があり、指導者は権謀の秘策を用いるべきで、これも日本の協力を引き出す一つの謀略に過ぎないのだ……と柔軟に考えることにしたかもしれない。
テレビの画面は壮大な南京郊外の中山陵(孫文の墓地)を映し出している。(筆者は昭和十五年夏海軍兵学校を卒業、遠洋航海の途中、上海に上陸、南京でこの中山陵を見学にいったことがあり、その白亜の壮麗な陵墓が、いかにも中華民国建国の父≠フ眠る場所にふさわしい……と考えていた。――しかし、その栄光の裏には何があったのか? ……私が南京にいってから、すでに五十一年が経過している。人の評価は棺を覆ってなお定まらないのだろうか? ……)
大総統・袁世凱は孫文と日本政府の秘密盟約の翌年、大正五年六月、世を去りその後は黎元洪が継ぎ、さらに親日的な段祺瑞が政権の座につくと、日本政府は段を支持するようになり、革命派には冷淡になっていった。
孫文はこの年四月下旬に帰国、中国革命党の本部を上海に移し、翌六年には南西軍閥と結んで、北方の段軍閥と戦ったが、軍閥の勢力争いと革命は無縁と考え、七月、広東で広東軍政府大元帥に就任した。
この後、毛沢東らと結んで国共合作で革命を推進することに努力したが、――志未だ成らず……大正十四年三月十二日、五十九歳で癌の為に死去する。
話を本筋に戻そう。
大正八年八月、東京で五大理想を掲げて猶存社が発足した時、北一輝はまだ上海で『日本改造法案大綱』を執筆中であった。これの原案である『国家改造案原理大綱』を猶存社の関係で来訪した大川周明が、帰国の時日本に持ち帰ったことにも触れた。
そして北も同年十二月、妻とともに帰国し、始めは牛込の老壮会事務所に住み、やがて千駄ケ谷にある成金・山本唯三郎の家に移ることも述べた。
[#小見出し]   法華経と北一輝――日蓮の国家改造案――
やつれた顔で帰国した北を、猶存社の同人は歓迎したが、北がまずやったことは、帰国して間もない大正九年三月、時の皇太子・裕仁殿下に法華経を献上することであった。
恐らく北としては、自分が上海で心血を注いで書き終わった『日本改造法案大綱』の原稿を殿下に献上したいほどの思いであったろうが、そうもいかず、この執筆中常に口ずさんでいた法華経を、献上することで、自分の気持の一部でも皇室に通じれば……という果敢《はか》ない思いをこめた行為と見るべきであろう。
一体、北の『日本改造法案大綱』と法華経にはどういう関係があるのだろうか?
その前に日蓮宗と法華経について、勉強しておく必要がある。
法華経は仏教の多数ある経典の中でも、最も古いものに属し、その始まりはインドに伝わる古典的な哲学で、それらを釈迦の没後、優れた弟子たちが、妙法蓮華経として追々に纏《まと》めたもので、大乗仏教の経典としては、代表的なものといわれる。
日本では法華経といえば、日蓮が連想される。日蓮宗の原点が法華経であることは有名であるが、筆者はこの経典について直接知るところは少ない。筆者はアメリカの捕虜収容所で、生死の問題にぶつかった時、元僧侶の兵士について、仏教の講義を聞いたことがあった。
日本敗戦の直前から、帰国の船に乗るまでそれは続いた。真宗、禅宗……などの講義は、生死の問題に悩んでいた私には、非常に興味があった。この時、法華経の一部を別の僧侶にならったが、ただ読経を聞いただけで、親鸞の『歎異抄』や禅の『碧巌録』のように考えさせられるところまでは行かなかった。
キリスト教の牧師は捕虜の中にはいなかったが、その関係の日本語の小説、随筆などが多くあったので、いささか勉強をし、その真宗……阿弥陀仏との関係に興味を持った。キリスト教では「愛と智恵」といい、真宗では「慈悲と智恵」という。その意義は同じである。残念ながら法華経の教義を教えてもらうことが出来ないうちに、日本に帰り、飢餓に瀕する国民の生活に自分も押し流され、仏教の勉強も実世界で役立たなかった。
しかし、この時、頭に叩きこまれた「一則一切」「一切空」「生死一如」「一切平等」「色即是空」「不増不減」「不生不滅」……さては「人間本来無一物」「随所に主となる」「平常心是道」「日々是好日」……「他力易行」「自力成道」……などという言葉は常に頭の奥にこびりつき、一朝事ある時には、私を励ましてくれる。もちろんその中には、二年九ヵ月、生死の問題で悩んだ捕虜収容所の苦い記憶が、常にともなっているのだが……私はあの収容所を今でも捕虜大学≠ニ呼ぶことにしている。
さて法華経であるが、とても私などがその教義を説く任ではなく、ここでは北一輝と法華経……そして石原莞爾との関係を一言述べておくに留める。
一体、北は法華経のどこに魅力を感じたのであろうか? ……むしろ日蓮の行動力に深い関心を抱いたと思われるが、その点、石原莞爾も似たようなものであろう、と思われる。
日蓮が生きていたのは、鎌倉時代の末期、蒙古襲来の前である。国内は乱れ、外敵による侵入の危機は迫っていた。
この時に当たり、日蓮が鎌倉の安国寺で執筆し唱えたのが『立正安国論』で、これが日本を亡国の危機から救うものだと彼は確信していた。
北一輝が意識していたのは、日蓮のこの『立正安国論』ではなかったのか? ……。
「救国の英雄出よ」
日蓮はこの国難に当たって英雄を待望した。それに応えてくれたのが北条時宗であるが、それに至るまでには、幕府や他の宗派から非常な弾圧を受けた。日蓮は佐渡にも流されており、そういう歴史が、幼い頃から北一輝の頭にも記憶されていたものと思われる。
北一輝は佐渡中学校時代から、日本が内外共に危険な状態にあることを直感し、憂国の文章を発表するようになっていった。その第一期の纏めであり、中央論壇への挑戦が『国体論及び純正社会主義』であったことはいうまでもない。
そして北一輝は教えを日蓮の戦いに求め、法華経にのめりこんでいった。
国内に敵は多く、日蓮の場合と同じくこの場合にも北一輝の前に大きく立ちはだかったのが、蒙古襲来ならぬ清国の革命という、世界的な大転換であった。
――『国体論及び純正社会主義』の行く末を自分の眼で確かめるべく、北一輝は中国の革命家と同志になり、ついに揚子江の上流までいって、砲煙の中で革命軍が袁世凱のかきあつめの軍閥連合軍と戦い、劣勢の為に敗退し、孫文も日本に亡命するのを見届け、自分も一旦は帰国したが、その体験を活かして、中国と日本が提携してアジアを活かす道を模索したのが、『支那革命外史』であった。
これは体験録であると同時に、新しいアジアを造って、列強のアジア蚕食を防衛しようという北一輝東亜協商論≠フ基盤でなければならなかった。
そしてアジアを革新するには、中国に革命が必要である……それにはお手本となる日本の政治に、まず革新が必要不可欠である……こういう信念の元に、暑熱の上海で書き上げたのが、「大正維新」……ひいては、昭和維新のマニュアルともいうべき『日本改造法案大綱』で、断食、精進する北が自らを励ましたのが、法華経の読経にほかならない。前にもふれたが、二・二六事件の後、北は陸軍監獄に捕らえられたが、常時彼が読む法華経は、十人ぐらいが読むように、獄舎の廊下に朗々と鳴り響いたという。
[#小見出し]   宮中某重大事件と北一輝
中国から帰国(大正九年三月二日)すると間もなく、法華経全七巻を皇太子殿下に献上した北は、今度は国内での革命の準備を含む活動に入った。
この頃から北は宮中に接近し始めていた。大きく分けて革命には、二種類ある。上層部を覚醒させてその支配力を利用するもの……と下層の生命力と生活力とを盛り上げて、所謂《いわゆる》プロレタリア独裁の形式で行なうもの……の二つである。フランス革命やロシア革命は下からの革命に入るが、建武の中興は上からの革命と見てよかろうか? ……明治維新は、下から盛り上がった下級武士の原動力が上層部を動かしたと見られる。
別の言い方をすれば、革命は宮廷革命≠ニ民衆革命≠ノ分けられるといってよいが、これのミックスも多く、またインテリの介入もあって、インテリと民衆が結びつく場合(中国革命はこの部類に入ると見てよかろうか?)もあるし、ロシア革命も元をただせばマルクスの理論がレーニンらを動かし、これらオルグが圧政に苦しんでいた大衆の覚醒と蜂起を促したものと見られよう。
ここで当然革命に必須の条件が、軍隊の協力または軍事力を持つことであるということである。
マルクス・レーニン主義では、インテリは最初、プロレタリアとブルジョワの中間に位置するプチ・ブルと同列で、革命の原動力にはほど遠いとみられていたようであるが、トロツキーらのイデオローグのように、民衆のアジテートに貢献するものも出てきた……と見なおされてきたらしい。
昭和維新のイデオローグとして多くの影響を与えた北一輝の方法は、孫文(インテリ派)や宋教仁(行動派)の中国革命に学ぶところが多かったが、これに深く影響された青年将校らの決起の主な理由は、彼等が見聞した日本民衆の貧しさと、ブルジョワ……財閥、軍閥、藩閥、官僚閥……そして元老、重臣らの腐敗した政治を革新しようというもので、始めは下からの革命を考えていたようであるが、労組以外は未だに資本家や地主の圧力に抵抗する気力が弱いとして、結局、重臣を倒して、天皇の意図による上層部からの革命を目標とするに至った。
中国革命を実見して、日本にも革命の必要を感じた北一輝は、日本のプロレタリアが一斉に決起できるとは、考えていなかった。それを期待するのは、「百年|河清《かせい》を待つ」ようなもので、日本の学生、労働者、農民に革命の意識を持たせるには、相当強力なイデオローグによる大衆の覚醒が必要で、それまでに中国では革命派と北京政府との内戦がエスカレートし、ヨーロッパの大戦の終了とともに、再び白人帝国主義≠フアジアへの進出という名の侵入が、前よりも露骨に行なわれるだろう……と彼は考えていた。
従って、第一次大戦後の北一輝は、その『日本改造法案大綱』を最高の方法論として、上からの革命を考えていた。皇太子に法華経を献上したのも、彼の意図する宮廷革命の一つの段階であったと見るべきであろう。この献上の時、彼は東宮大夫・浜尾新から東宮御学問所幹事の小笠原|長生《ながなり》に伝《つて》を求めている。
浜尾新は東大総長を長く務め、東宮大夫の後は子爵となり枢密院議長を務める。
小笠原長生は、後には海軍中将で、東郷元帥の秘書長のような役目を長く務め、統帥権干犯事件の時も東郷のスポークスマンのような役目を務めることになる。大正三年四月、東宮御学問所幹事(当時の総裁は東郷大将)で、同月海軍少将となり、七年十二月中将、十年四月予備役となり、宮中顧問官を務めた。海軍士官の中では文才があり、日本海海戦を描いた『撃滅』で知られ、『東郷元帥詳伝』も書いている。
こうして宮廷へのコネクションを北が作っている間に発生したのが、宮中や元老、政府を揺るがせた宮中某重大事件である。
これは当時の皇太子(後の昭和天皇)の結婚相手・久邇宮良子《くにのみやながこ》女王殿下(後の皇后)の視力遺伝の問題で、長州閥の総帥・山県有朋が良子女王に色盲≠フ遺伝?あり……として異議をさしはさんだところから、久邇宮家と山県元老の激烈な戦いとなったものである。
この年大正九年五月七日、皇太子は成年式を迎え、六月十日、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王と婚約を結んだ。
元来大正天皇は病身で、天皇としての重責に堪えることは難しく、十年十一月には裕仁親王が、摂政となられるほどであったので、宮中は皇太子のめでたいご成婚を、心待ちにしていた。
ところがここに横槍が入った。首席元老の山県がこの縁談に反対をしたのである。
元来、薩長は仲が悪い。調和力≠フ豊かな伊藤博文が生きていた間は、薩長藩閥が協力して、野党との戦いを進め、ついに板垣らの自由党を懐柔して、政友会を与党とする薩長政権の交替を見ることができた。
しかし、武人としては優れていた山県には、伊藤ほどの幅の広さが欠けていた。
彼は日露戦争以後は桂太郎を自分の後継者として、長州閥の温存を図ったが、伊藤がハルビンで暗殺され、政友会の総裁・西園寺が政治に意欲を失うと、再び長州閥の政権維持を図り、大正デモクラシーの騒乱を生じ、そのあげく桂も死に、政権は薩摩の山本権兵衛から、佐賀閥の大隈に移り、やっと寺内正毅で長州に戻ったが、これが米騒動とシベリア出兵でつまずき、政権は政友会の強力な総裁・原敬の手に移った。
これが大正七年九月のことで、原は政府と枢密院を縦断するといわれるくらいの剛腕を発揮し、さすがの山県も意地悪じいさんの手腕を振るう余地がなく、原の政府と協力せざるを得なくなっていった。
その失意にあった山県を奮起せしめたのが、この皇太子の結婚問題である。
それは良子女王の生母|倶子《ちかこ》が公爵島津忠義(久光の嗣子)の第七女で、島津本家の血を濃く引いていたからである。
山県をボスとする長州閥は色めいた。皇太子妃ということは、いずれは皇后となり、その生んだ男子は天皇になる可能性がある。
残念ながら長州閥からは天皇の血統につながる女性を、宮中に入れたことがない。昭憲皇太后は公家・一条家の出身、大正天皇の生母は柳沢家の出身である。
ここで皇太子妃に薩摩が入ると、その王子が天皇になる……ということは山県がもっとも自分のバックとして頼みにしている皇室で、薩摩派が優勢になるということなのである。
保守反動の元祖のように言われる山県は、「わしの嫌いなものは、社会主義と早稲田大学だ」といっていたが、薩摩閥はもっと嫌いであったかもしれない。加えるに良子女王を推薦したのは、薩摩閥の長老・内大臣松方正義であったのだ。
一方、久邇宮のほうも元老・山県らの専横に不快な気分を抱いていた。
ある日、皇族会議の時、久邇宮は山県ら元老の専断を批判する説を述べた。当時、久邇宮は陸軍中将で、近衛師団長を経て軍事参議官で、宮様の中でも強気の人とされていた。
問題は山県の子分石黒|忠悳《ただのり》という貴族院議員が、山県に告げ口をしたことである。それは島津家に色盲の遺伝があるということであった。石黒は軍医総監出身の医学者で、日本赤十字社の社長を務めていた。
この島津家に軽度の色盲の遺伝があることは、久邇宮家でも気づいていた。自分の妃である倶子の生母・寿満(島津忠義の側室)が軽度の色盲であり、その弟である忠義も色弱、良子の兄朝融も軽度の色弱であった。
そこで久邇宮は宮家担当の角田医師に調査を頼んだ。医師はメンデルの法則により、
「色盲因子保有の女子が健全なる男子と結婚する時は、その出生の男子の半数は色盲となるが、その女子は健全にして子孫に色盲を遺伝することなし」
という報告をしたので、久邇宮は非常に喜び、大正七年一月良子女王は皇太子妃に内定したのである。
しかし、石黒からこの秘密を聴かされた山県は、穏やかではなかった。
「良子女王のお生みになる皇子はいずれは皇統を継ぐ。その天子が桜花も松の緑も一色と見えるようでは畏《おそれ》多い」
というので、五月十五日、彼は松方、西園寺の両元老と会談したが、二人とも一応山県に同意した。
六月十八日、山県は宮相・波多野敬直の代わりに長州閥の中村雄次郎(陸軍中将)を送りこみ、内大臣の松方と対抗させ、久邇宮に迫って良子女王と皇太子の結婚を、宮の方から辞退するように警告した。今の天皇が病弱であるのに、劣性遺伝子をもつ女性を未来の皇后とすることは、大いに問題があるというわけである。
そこで宮中では池辺侍医頭ら三博士と、眼科の専門家・保利真直博士の意見を聴くことになった。
十月十一日、博士は色盲の遺伝についての報告書を作成し、中村宮相に提出した。それによると、
一、本人には全然色盲がなくとも、色盲男子と結婚した場合、その子は、女子は皆健全であるが、男子は半数が色盲となる。
二、皇族の男子は陸海軍いずれかの軍人になることになっているが、現行の徴兵令では色盲は軍人にはなれない。もし良子女王を皇太子妃とするならば、徴兵令を改正する必要がある。
という結果が出た。
この報告書を受けとった中村宮相は、これを三元老に見せた。元老は皇族の筆頭である伏見宮博恭王に見せ、久邇宮説得をお願いすることにした。伏見宮は十一月上旬、久邇宮に会って婚約辞退の勧告を行なった。
この窮状に際して強気の久邇宮は考えた。
大体、宮は山県が宮中においても、専横の振舞いがあるのを許し難いと日頃痛憤していた。――この際、増長している山県に一矢を酬《むく》いずにおくべきか……。
宮は久邇宮家の執事役・栗田直八郎陸軍中将(元久邇宮邦彦王付武官)を伏見宮家に派遣して、「お上(天皇)の婚約認可というお言葉は元に戻すことは出来ない」という意味の抗議をすると同時に、西園寺にも相談したが、いい返事がない。
彼は山県が長州に親しい公家・一条家(昭憲皇太后の実家)の娘を皇太子の相手に擬していることを知っていた。西園寺はどちらにも賛成ではなかった。
久邇宮はここまではこれという味方もなく孤独な戦いを続けていたが、やがて杉浦重剛(東宮御学問所御用掛)が動き、頭山満を始め右翼や大陸浪人たちが山県弾劾に乗り出し、山県も屈伏するのであるが、いましばらくこの動きを眺めておきたい。
十一月二十六日、久邇宮は良子女王びいきの皇后(後の貞明皇太后)に上奏書を出し、この写しを角田医師の調査書とともに、十二月六日、山県、松方の両元老に送付した。
たった一人の反乱≠フために宮中は騒然としてきた。明治維新以来、これだけ宮中が混乱したことも珍しかろう。
新聞も「宮中某重大事件」という見出しで、内容はよくわからないまでも、報道合戦が始まった。
この反響の大きさに驚いた山県は、十二月七日、内大臣の松方に枢密院議長を辞任する旨を伝えた後、十二月十六日久邇宮に返事を書いた。しかし、その内容は久邇宮を激怒させるものであった。山県は「自分も辞めるから、宮家も良子女王の結婚の件は辞退して頂きたい」というもので、
「おのれ! ……山県……明治維新の功臣として、位人臣を極めたからといって、久邇宮家と刺し違えようというのか? ……」と宮はこの成り上がり者の傲慢に、怒り心頭に発した。
一方、中村宮相はなんとか科学的な方法に活路を見出そうと試みた。東大の佐藤三吉医学部長をはじめ五人の博士(三浦博士らを含む)に色盲遺伝に関する再調査を依頼した。
その結果は、意外に早く大正九年も押し詰まった十二月二十一日、宮相に提出された。その結果は十月の調査とはやや異なり、良子女王が皇太子妃となった場合、その子は半数が色盲となるが、その半数のうち男子が五十パーセントとなる可能性がある、ということであった。とすれば皇太孫が色盲となる可能性は二十五パーセントということになる。そして現在は健眼である良子女王が色盲の因子をもつという可能性は二十五パーセントであるから、皇太孫が色盲の可能性は十二・五パーセントということになる。
これを見せられた山県は、「良子女王の子が色盲である可能性は、五十パーセント」とあるところを強調すべきだと考え、久邇宮に善処を要求するとともに、自分も同罪として「待罪書」を宮内省に提出し、小田原の古稀庵に引き籠った。
山県は庭の梅の古木を眺めながら、いささかの感慨に耽っていた。――自分の尊皇の志もこれがご奉公のおしまいだろう。先帝がおわしましたらなんといわれるだろう……先帝ならばこの山県の幕末以来の微衷を汲んで下さるのではないか? ……太陽が西の箱根連山に沈んでいくのを視界の隅に感じながら、山県は庭に立ち尽くしていた。
大正十年が明けると、杉浦のほかに右翼の頭山満や内田良平も動き出した。
国粋主義の教育者をもって任じている杉浦は、次の請願書を作って、浜尾東宮大夫、東郷元帥(御学問所総裁)らに請願を始めた。
一、婚約の破棄は市井の平民としても、不道徳とするところである。皇室自らその不徳を犯すということは、皇道による統治上一大|瑕瑾《かきん》となるおそれがある。
二、折角成立した両殿下の御婚約に対し、無理にこれを引き裂くということは、心身にいかなる故障を生じるやも知れぬ。
杉浦はさらに頭山や国民党代議士・古島一雄らにも相談をした。また山県と対決するために、杉浦は御学問所に辞表を出し、裸になって、この長州閥の巨頭と勝負に及ぼうとした。
宮廷周辺は渦中に投げこまれたようになる……こうなると北一輝の出番である。
すでに北は、この事件の勃発当時から、宮中の内情に探りを入れ、猶存社をバックとする暗躍に入り、いよいよ久邇宮家と山県らの対決近しと知るや、本格的に介入する覚悟を決めた。すでに前年から怪文書が乱れとんでいたが、この仕掛け人は大部分が北であるという。その後、桐の箱に入った山県攻撃の勧告文の写しが、久邇宮邸に送られた。宮はその筆者が北一輝だと知って、大いに喜んだが、その内容は新聞などにも掲載され、かつてない名文だと賞賛された。
一方、北の子分の岩田富美夫(日大中退、大正七年頃から国家主義運動に活躍、老壮会、経綸学盟から猶存社に入る。その後、大化会を結成、後に会長となる。戦争中「やまと新聞」社長となる)は、得意の直接行動に出ようと山県有朋暗殺団≠結成し、鎌倉に立て籠ったという噂も乱れとぶようになってきた。そこで武装警官数百名が、これを取り囲んだという話も、小田原の古稀庵に聞こえてきた。
――おのれ! 大陸浪人どもまでが、維新の元勲たるこの山県をばかにするか……。
八十四歳の山県は、怒りに燃えたが、大陸浪人の暗殺団は実績があるだけに、ばかには出来ない。山県はついに皇太子妃問題から手を引いて、謹慎することを考え始めた。
大勢は俄然久邇宮家側に有利となり、また一月十七日には、かねて立案されていた皇太子の外遊に対しご裁可があり、二十日、中村宮相は内定の旨を発表した。
二月一日、押川方義ら反山県派の代議士たちの、山県弾劾の文書が山県邸のポストに投げこまれた。山県は自分なりに筋を通す手紙を書いて押川への返事とした。
二日、原総理は中村宮相に問題の解決を催促した。こういう問題で宮中がもめるのは、先の大戦で世界三大強国の仲間入りをしたばかりの、大日本帝国としての体面にかかわる。しかし、宮中行事決定の最高機関である枢密院はまだもたついていた。
二月八日、皇太子の渡欧が正式に決定した。ところがこれがまた大きな問題となっていく。久邇宮派につく内田良平らの右翼は、これにも反対した。
「天皇が御不例のときに、皇太子が外遊するのは、人の道にもとる」
として、この機会に山県派が良子女王を疎外し、別の候補者を立てるつもりではないのか? ……また欧州では不逞朝鮮人がいて、日本人とは区別がつかないので、皇太子の身の上に異変が起こるかもしれない……というのである。
二月九日、内田や北の後押しで、大陸浪人会は、山県、松方、西園寺、原宛に、皇太子の外遊反対の意見書を送った。
同じ頃、中村宮相は、川村竹治警保局長から、意外な報告を受けとった。
「右翼の壮士たちは、皇太子の外遊を山県一派の陰謀だとして、山県、中村の暗殺を計画していますぞ」
「いや、私なら一死奉公の覚悟は出来ているが……」
口ごもる中村に次の報告が知らされた。
「宮中では、女性もこの山県排斥運動に加わっておられます。良子女王付の女官・後閑菊野女史はもちろん、母堂の倶子妃(久邇宮夫人)までが、宮家や宮中で、山県の非を鳴らしておられます。壮士たちはこの時とばかり、原首相や一部の(久邇宮に反対する)宮家に対して、実力行使を企図しているという情報も入っています」
「宮家をも巻き込もうというのか? ……」
中村は慌てて小田原の古稀庵に急いだ。宮家に異変があれば、宮相としては切腹ものである。
中村の報告を腕組みをして聴いていた八十四歳の元勲は、徐々に瞑目し、その頭は自然に垂れていった。
――伊藤(博文)、井上(馨・大正四年没)、大山(巌・大正五年没)らの元老が世を去ってから、もうおれに歯向かう奴もいないと思っていたが、この期《ご》に及んで、大陸浪人どもに振り回されようとは……。
無念ではあったが、実は山県本人の不徳のなせる業であるとは、気づいていなかった。
「事ここに至っては、万、止むを得ず。純血論ばかり押し通すわけにもいくまい。おれや原はともかく宮家に万一のことがあっては、先帝に対して申し訳が立たぬ。直ちに熱海の松方の所にいって、ご婚約の内定に変更のない旨を記者団に発表すべきだ、というおれの意向を伝えてくれんか……」
そういって中村を送り出すと、山県は庭の梅を眺めながら、落涙した。
「おれは勤皇に出て、勤皇に討ち死にしたんじゃ」
熱海で松方に報告をすると、中村は、翌二月十日午後二時帰京すると、原総理と相談した。原も、意外な成り行きに顔面を緊張させたが、政府と政友会に責任がくるのを恐れ、中村がこれは政府から発表してもらいたい、というのを、
「元来この事は宮中のことであるから、宮内省で発表すべきであろう」
と逃げをうった。
中村も辞職を覚悟して、十日午後八時、次のように記者団に発表した。
「良子女王殿下、東宮妃御内定の事に関し、世上に種々の噂あるやに聴くも、右御決定は何等変更なし」
翌十一日の各新聞は、事件以来初めての記事解禁ということで、「宮中某重大事件」に関する記事を一斉に載せた。といっても色盲の遺伝など、良子女王の健康の詳しいことはわからないので、中村宮相を始め、宮内省幹部が辞表を提出したということ、及び山県が枢密院議長、元老ら一切の職を辞するであろう、という観測記事を載せたに留まった。
この日、十一日は誰の涙か氷雨《ひさめ》模様の天候で、明治神宮では久邇宮派の代議士らが、「国民祈願式」を挙行したが、午後は内田良平ら右翼浪人会が、良子女王殿下の御成婚に異常なきこと、皇太子の御外遊の延期を祈願した。右翼を代表して、頭山満が、
「今回の事件に関しては、宮内省関係はもちろん、山県、松方、西園寺の三元老、及び原首相は責任をとって辞め、今後一切宮中と関係を断って国民に謝罪すべきである」
と声明した。(これらのニュースを聴きながら、山本家の離れにいた北一輝は、ひとりほくそ笑んでいた。表に出るのは頭山や内田に任せ、自分は怪文書戦に達筆を振るっていたのである)
同じ日、小田原の古稀庵に、
「山県よ、しわ腹掻き切って天下に詫びよ!」と叫びながら乱入しようとしたひとりの男がいた。小田原の一市民と称する吉羽藤次郎である。この男が逮捕される騒ぎをよそに、山県は奥の部屋で黙々と、机に向かっていた。
十三日、松方から西園寺とともに、事件の責任について相談したいといってきたので、十四日、山県は古稀庵に二人を迎えた。
午後一時、重苦しい空気の中で三人の元老は相会した。まず松方が口を開いた。
「中村が辞めた以上、おいも内大臣を辞することに致しもそう」
というと、山県も、
「わしは自分の考えが間違っとるとは思っちょらん。皇室の弥栄《いやさか》を思えばこその諫言《かんげん》じゃった。しかし、時代は変わったのう。わしらはもう今の時代には御用がないんじゃ。志は正しくとも世間から疑惑を招いた以上、一切の栄爵官職を辞任して、一個の山県狂介として平民の生活を送りたいと思うのみじゃ。おもえば伊藤はええ時に死んだと思うのう」
打ち沈んだ山県の声に、松方も明治維新の頃を思い出していた。薩長藩閥というが、この二者は肝心の時に、最も必要な人材を欠いていた。西郷が死んだ明治十年五月、一足先に木戸が病死して、伊藤、井上、山県らが後を継ぐことになった。西郷の後にも人物が不足で、自分が酒乱の黒田(清隆)と一緒に薩閥を背負って薩摩人を率いていかなければならなかった。――今にして、松方は西郷や大久保の偉大さを噛みしめていた。松方と山県は同じようなことを考えていた。――西郷が生きていてくれたら、こんな仕儀にはならなかったであろう。――調和を得意とする周旋人の伊藤が、ハルビンで撃たれなければ、こういう時に得意の手腕を発揮して、こんな惨めさを元老に味わわせることもなかっただろう……。
この日、箱根に近い古稀庵の寒さは一入《ひとしお》で、二人は火鉢に手をかざすことも忘れて、握り拳を膝の上においていた。
唯ひとり、明治維新の時、二十歳であった西園寺は、二人ほどの思い入れはなかった。彼は西郷、大久保との縁は薄く、伊藤は彼を二代目政友会の総裁にしてくれたが、伊藤が死んでもう十二年が経過している。宮中に問題を起こしたのは、すべて薩摩に宮廷に深入りしてもらいたくない……という山県の策謀に出たところで、伊藤がいたらこんな謀略は用いなかったであろう。
宮中某重大事件は策士、策に溺る……≠ニいう山県の陰謀の手違いであった。なんにしろ宮家を相手にして、右翼を敵に回したのは、山県の長州閥を意識し過ぎた老耄《ろうもう》の現れといわれても、致し方あるまい。
幼い時、明治天皇の遊び相手をした西園寺は、宮中というものをそんな神秘的な権力を持つものとは、考えていなかった。従って皇室に不祥事があっても、大騒ぎをすることもあるまい……とフランス留学中、パリ・コンミューンを体験した彼は、デモクラティックな考えを抱いていたが、今は唯沈黙を守っていた。
結局、山県はすべての栄爵を辞退したが、天皇の名前で慰留され、松方は二月十八日、内大臣の辞表を提出したが、松方が平田東助にバトンを渡すのは、翌大正十一年九月のことで、山県は同年二月一日の死の日まで枢密院議長の要職から離れず、最後は元老として国葬を賜った。(中村宮相は十年二月十九日、薩摩系で大久保利通の次男である牧野伸顕と交替している。山県の後継は、山県、桂の内閣で法相などを務めた司法官僚の清浦奎吾である)
こうして宮中某重大事件は山県派の敗北に終わり、頭山、内田ら浪人派が応援した久邇宮派の勝利に終わった。明治の日本を支配した元老の院政に一応の終止符を打った点で、浪人派の奮闘は、大正史に一ページを画したというべきであろうか? ……。
この一幕で北一輝は終始表には出ず、怪文書の作成など、かつて中国革命で知り合った大陸浪人たちを、激励する役割りを果たしたが、彼はここでフィクサーの味を知った。
日本及び中国を含むアジアの発展には、日本の革命が必要である、それには自ら上層部に食い込み、これを『日本改造法案大綱』による革命に活用すべきだ、と考えている北にとって、右翼の巨頭や大陸浪人を活用して、資金を集め、武力を手に入れる……という構想は、魅力があった。
[#小見出し]   朝日平吾の遺書
明治維新後、日本の金融王≠ニ言われた安田財閥の当主・安田善次郎を暗殺した朝日平吾が、安田を刺した時の短刀と自決した時の血染めの下着を、北一輝に贈ったのも、宮中某重大事件の決着後間もなくのことである。
朝日平吾は佐賀県出身。早大中退。満洲通信社勤務、大正九年、平民青年党結成に奔走。労働ホーム建設を企画したが、挫折。大正十年神州義団長となり、この年九月二十八日、安田善次郎(八十四歳)を大磯天王山の別荘で刺殺、その場で自刃した。この時、朝日は「斬奸状」と「死の叫び声」という遺書を残しており、これらは北に深い感銘を与えた。
朝日の安田暗殺は、財閥に反省を促す為、あるいは労働ホーム建設の為の金を借りにいったが、安田が断わったので刺したという諸説がある。
朝日は数人の人物にそれぞれ遺書を送っているが、北一輝にもそれは届いた。その内容は、かねて北の『日本改造法案大綱』に共鳴していたが、その一歩として、財閥の中で儲けるばかりで善意の寄付を渋る安田を血祭りに上げた。今後の国家改造を宜しく頼む……というようなことである。
これに対し北は、読売新聞によると、千駄ケ谷九〇二の猶存社で、次のように感想を述べている。
「朝日などという男は先程からしきりに考えているが、私の記憶にはない。只、昨年八代(六郎)海軍大将から、先程朝日という男を貴君の処へ紹介してやったが、あれは紹介違いだから……という電話があったが、その男が訪ねて来なかったことがある。
それとこれと同一人かどうかはわからないが、朝日という名については、それだけの記憶だ。どうして私に遺書したのか理由もわからない。もちろんその遺書もまだその筋の手にあって当方へは来ない。しかし、第三者として見て彼は実に立派な殺し方であり、かつ立派な死に方であった。
しかも夢にも知らない僕の名などを出して遺書するなどは、死後事件を迷宮に入らしむる落ち着いた謀事で大いに感心している。これはよく革命者などが問題を逸らす為にやる手段だ」
[#小見出し]   西田税の出現
朝日平吾が安田善次郎を刺殺した二ヵ月後(大正十年十一月)、北に多くの経験を積ませた『支那革命外史』が出版され、北は益々国家社会主義の大物としての評価を高め、大川周明の嫉妬をかうようになっていった。
北にもそういうところはあるが、大川には二律背反のようなところがあり、片方では皇国史観の解説を試み、一方では国家社会主義を唱えてみたりする。千変万化で鰻《うなぎ》のように捕えどころがない。北やその同志のほうから見ると、どこか女性的で性の合わないところがある。
思想とキャラクターの違いから、二人は離反していく運命にあった。
北一輝の前に無類のオルグ兼イデオローグとして、西田税が現われたのは、そういう頃……つまり大正十一年始めの頃で、西田はまだ陸士の士官候補生であった。
西田は、明治三十四年十月三日生まれ、北一輝より十八歳年下である。陸士三十四期で秩父宮|雍仁《やすひと》親王と同期生で、北一輝の『日本改造法案大綱』に心酔し、秩父宮にこの写しを献上することになる。
西田は広島の幼年学校を経て、陸士に進んだもので、その点、戦闘的、積極的なオルグであり、二・二六事件の名士でもある磯部浅一(陸軍大尉、後、一等主計)の先輩である。
初めて西田が北一輝を訪問したのは、大正十一年四月二十三日、山県有朋の死後、三ヵ月あまりの日のことである。
この年の二月、西田は突然高熱に倒れた。病名は肺尖炎だという。二十日ばかり床についていたが、その暇をみて、『無眼私論』という手記を書いた。無眼は彼の号である。須山幸雄氏の『二・二六事件と青春群像』によると、この本の内容は、大正の哲学青年らしい感傷過多の随想に過ぎないが、後年の西田の思想や行動を示唆する幾つかの語録が散見される、という。
「見よ、明治維新以来の祖国における事象の推移を、当時の理想は恐らく今日その片鱗をも認めることが出来まい」
「天皇の民族である。国民の天皇である」
「クーデター、我等はこれを断行しなければ、無効だと思うのである。爆弾である。剣である」
「宰相原(敬)は十九歳の青年中岡|艮一《こんいち》に刺された。富豪安田善次郎は朝日平吾に刺された」
「大正維新の国家改革、革命の第一弾はすでに投ぜられた。そして第二弾も今や投ぜられたのである」
「大正維新である、余はこの不浄を清めんがために自らこの血を注ぎかけんと希《ねが》うものである」(『現代史資料』五による)
郷里の鳥取県米子で二ヵ月間療養した西田は、六月下旬、市ケ谷の陸士に帰校し、一つの仕事に熱中した。それは同期の秩父宮に『日本改造法案大綱』の複写本を献上することであった。
間もなく西田たちの三十四期生は卒業である。西田は焦った。生来健康に恵まれない彼は、長生きしないと考え、自分の短い人生を日本国家革命に捧げることにしていた。それには絶好の教典『日本改造法案大綱』を北一輝が書いてくれたことが、西田の運命を決めた。西田の写本は同志の福永憲が清書して、七月二十一日、秩父宮の手に渡った。卒業式の一週間前のことである。
元々陸軍将校や陸士生徒の間では、天皇はご病気、摂政の裕仁親王は温厚な君子……そして次男の雍仁親王は明朗活発なスポーツマンで、国事、国政をも熟考するスケールの大きい行動的な宮様である……というような評価が行なわれていた。
従って、この年四月に北一輝に会った西田は、七月末には念願の秩父宮への『日本改造法案大綱』献上に成功したので、生来革命家肌の彼は狂喜した。
後に登場する二・二六事件の仕掛け人・磯部浅一が炎の男≠ニするならば、西田は激流の人≠ニいうべきか。
これで段々役者がそろってくるのであるが、問題は革命に必要な資金と兵力……即ち軍隊である。少数の同志の集まりでは、とても国家改造は達成出来ない。
北一輝の革命論はまず上層部に理解を求め、出来れば天皇を味方に引きいれる……つまり彼の言い方をすれば、玉《ぎよく》≠手中に入れる必要がある、というのが方法論である。
この点、西田のいう秩父宮が『日本改造法案大綱』の理解者になってくれれば、宮中と軍隊の両方に太いパイプが繋がるわけで、あるいは大正維新が成功するかもしれない……北はそう考えたが、まだ革命の時に至っていない……と考えていたので、西田に革命の実施計画を練るようなことは、示唆しなかった。
『支那革命外史』を書いた頃から、北の頭の中には、大正維新の構想はあったが、思うようには人手と金が集まらない。しかし、猶存社ができて、大正十年秋には、朝日平吾が、ブルジョワの代表である安田善次郎を刺殺したので、思わぬところから、大正維新の糸口が開けてきた……と北は微笑を浮かべたが、問題はその後にどういうふうに革新の気風を高めていくか……ということである。
時しも安田が暗殺される少し前、大正十年の夏、アメリカのハーディング大統領から、
「今年末、ワシントンで日本に英、仏、伊を入れて、軍縮会議を開きたい」
という意味の親書が原首相のもとに届いた。これを受けた原は直ちに二人の閣僚を首相官邸に呼んだ。加藤(友三郎)海相と高橋是清蔵相である。
高橋はこの軍縮に大賛成である。彼の財政理論としては、軍備になるべく金を使わないのが国家財政の最大の問題だというのである。列強が合意の上で軍縮を行なうことは、財政緊縮の点からも、また国際平和維持の立場からも望ましい、と高橋は強調した。
こうなると問題は海軍の出方である。
日本海海戦に大勝利を得た海軍は、益々大艦巨砲主義が高揚して、おりしもこの夏、待望の八八艦隊(戦艦八隻、巡洋戦艦八隻)の大艦隊を造る予算案が議会を通過したところで、ここで軍縮を持ち出すのは、海軍の提督はもちろん、若手士官の反対が眼に見えていた。
しかし、日本海海戦の時の連合艦隊参謀長として、東郷司令長官を助けた加藤は、軍政家としても一流であった。軍拡とともに、国家財政をも考えることの出来る近代的な頭脳を持つ加藤は、あえてこの軍縮に賛成した。
この頃、帝国海軍の仮想敵はアメリカであったが、八八艦隊はともかく、アメリカは十十艦隊……さらに十二十二艦隊をも考えているという。それでは経済力の弱い日本では、到底ついていけない。
海軍部内でも反対は多かったが、幸い最も強硬である筈の軍令部が、素直に賛成してくれた。それは軍令部長が、加藤と同期生の島村(速雄)大将であったからだ。二人は海軍兵学校第七期生で、卒業成績は土佐出身の島村が首席、広島出身の加藤が次席、そして日露戦争では、最初、島村が連合艦隊参謀長で、日本海海戦の時には、加藤が参謀長を引き継いだ、という親密な関係にあった。
それで分別のある島村が軍令部を抑えて、軍縮会議に賛成したので、日本もワシントン軍縮会議(大正十年十一月十三日開会)に参加することになった。
しかし、その直前、十一月三日、原総理は東京駅頭で中岡艮一という青年に、刺殺されてしまう。この暗殺は右翼団体とは関係なく、憂国の志士たらんとする中岡が、勤め先の駅の助役に、「最近の官僚の腐敗は原首相の責任だ」と教唆され、有名になるために決行したものであるが、原が極めて強力な総理であり、またこの暗殺が安田暗殺の翌年であったので、第一次大戦の勝利と好景気で浮かれていた国民に水をかける結果となった。
この原暗殺を知って、翌年春、訪れてきた西田に対し、北は「これで大正維新は難しくなった」といって、西田を当惑させた。
「どうしてですか? 安田はともかく原は政友会という政党閥で、貴族院や枢密院を壟断《ろうだん》して、専横の行ないが多かった。原を消したことは、大正維新の前触れとして、よい前兆ではありませんか?」
と西田が聞くと、
「いや、こう小出しにやられては、却って当局の警戒が厳重になって、クーデターはやりにくくなる。やるなら団結して有名な宮家を仲間に引き入れ、一挙に決行したほうがいいんだ」
そういって、北は山本邸の豪壮な庭を眺めていた。
――不思議な魅力のある人だ……。
そう考えながら、西田は北の横顔に見入った。
[#小見出し]   北一輝の風貌、西田を魅了する
北一輝の肖像は、多くの伝記や研究書に出ている中国服を着ている写真が多いが、正面を向いたものと、斜め右を向いたものとがある。正面を向いたものでは、右眼が失明している様子がうかがわれる。面長で額は広く頭は大きい。鼻の下に八の字髭を生やして、どことなく貴族的な風貌ともいえる。
左眼は炯々《けいけい》と光るというほどではなく、静かで奥行きの深そうな淡い光線を発しており、非凡ではあるが、病的とはいえない。要するに会う人を圧倒するのではなく、湖の底に引きずりこむような神秘さを、感じさせるものがあったのであろう。
『二・二六事件と青春群像』の著者須山幸雄氏は、
「西田税が生涯を革新運動に捧げようと決意したのは、北一輝に会ってからだ。西田は北の人間性と思想のとりこになってしまった。それほど北は人をひきつける魔力があった。北一輝に一度でも会った人は一種異様な人間的な威圧感を感じたと、みな述懐している」
として、西田の同志・福永憲の受けた印象を次のように伝えている。
「彼(北)は説き終わると、特有の澄んだ眼を交々《こもごも》三人の若者の顔に向けながら、優しく微笑《ほほえ》んだ。実際、北一輝の魅力は、この瞳の清澄さと、優しい静かな微笑とにあったのである。
彼はどんな時でも決して激しい言葉を吐かない。いつも淡々として静かである。而も、その静けさの中に、脈々と燃えたぎる革命への情熱と、鉄のような信念と、あたたかい人間性を持っていて、その話を聞いている中に、すっかり傾倒してしまい、師事したくなってしまう。
この会見で、最も北一輝に傾倒してしまったのは西田であった。恐らく天才的で、革命的な彼の性格が北一輝のそれと相似た為であろう」
北一輝は赫々《かつかく》と下界を照らす太陽ではなく、月の夜空に静かに瞬く巨星であったのだ。この巨星は他の星を灼き尽くすことはないが、静かで澄んだその光で、他の星を自分のほうに吸引し、自分の中に溶かしこんでしまう……そういうところにも、北一輝の天才的なものが働いて、多くの信者を増やしていったものと思われる。
当時、西田と交遊のあった狩野敏も、
「西田君は北さんの壮大な気迫に打たれたのだ。いわば男惚れしていた」
と語ったという。
また革新将校の中堅であった大蔵栄一も、
「男惚れというのは、実に適切な表現だ。相手の人格、人間的魅力に心から傾倒してゆく。これが男惚れだ。
西田さんは北さんに男惚れしていた。これは真実だ。西田さんは北さんの人間と思想に打ち込んだ。全生涯を賭けた。それほど北一輝という人は人を引きつける魅力があった」
と語っていたという。
こういうと北一輝は、いつも超然とした教祖的カリスマのように思われるかもしれないが、案外人なつこい優しさの持主でもあったらしい。
北一輝には、人になにか話すと、あとで必ず、
「ね、君、そうでしょう」
と、たたみこむ癖があったという。
「日本の国は今のままではつぶれますよ。ね、君、そうでしょう」
といって、じっと相手の眼を見る。鋭さと優しさの入りまじった隻眼で、じっと見つめられると、相手は魔術にかかったように、その隻眼の奥に引き込まれてしまう……こういうところに、大魔王≠ニいう仇名を奉られる不思議なテレパシーのようなものを、このカリスマは備えていた。それが多くの信者ともいうべき門下生や支援のスポンサーを集め、ついにその熱気が暴騰して爆発したのであろう。
といって、西田らは北一輝の風貌だけに魅せられていたわけではない。
まず第一に斬新で論理的なその思想と主張である。
「今や大日本帝国は内憂外患並び至らんとする有史未曾有の国難に臨めり。国民の大多数は生活の不安に襲われて、一に欧州諸国破壊の跡を学ばんとし、政権、軍権、財権を私有せる者は只龍袖に隠れて惶々《こうこう》その不義を維持せんとす。しかして外、英、米、独、露|悉《ことごと》く信を傷つけざるものなく、日露戦争を以て漸く保全を与えたる隣邦支那すら酬《むく》いるに却って排侮を以てす。真に東海粟島の孤立。一歩を誤らば、宗祖の建国を一空せしめ、危機誠に幕末維新の内憂外患を再現し来れり。」
これは『日本改造法案大綱』の緒言の一部であるが、愛国青年を奮起せしめる雄渾な文章で、この後に革命の思想が続くのである。
これで多くの青年や若手将校が、北一輝のもとに集まり、ついに五・一五事件から二・二六事件の爆発に至るのである。(この項、須山幸雄氏『二・二六事件と青春群像』を参照しました)
[#小見出し]   カリスマと相続く怪文書事件
大正十一年春、西田税が北一輝と初の対面をした後、昭和の始めにかけて、北一輝の周辺には多くの怪奇な事件が続発し、その度に陰に陽に北の名前とその地下に潜んでいるような威力は、増幅し宣伝されていった。
まず大正十二年、関東大震災の年の春、かねて不仲の大川の退会で猶存社も衰退して、ついに解散ということになった。
そしてこの年の春、共産主義国家を推進するのに懸命であったソ連から、一人の使者が日本にやってきた。当時のソ連革命家・トロツキーの同志アドルフ・ヨッフェが、東京市長・後藤新平に招かれて、来日したのである。
この時、北一輝と大川周明は、反対の反応を示した。
まず北は、『ヨッフェ君に訓《おし》ゆる公開状』という文書を印刷して、三万部を全国に配布した。当時、ヨッフェはすでに上海で孫文と交渉して、中国共産党との合作を企図しているといわれていた。前述のように孫文を嫌う北一輝にとって、ヨッフェは愉快な友人ではあり得なかった。
ヨッフェは大正十二年二月一日、夫人とともに来日、持病療養を理由として東京には入らず、熱海で八十日ほど宿泊している。
後藤がヨッフェを招待した主な理由は、新しいソ連にたいして、中国における日本の既得権益を認めさせ、ソ連との友好関係を樹立し、この新生共産主義大国と国交回復をして、東洋の安定を図ることであった。(中国の孫文も、この翌年末には、広東政府を回復し、翌十三年一月の全国代表大会では、連ソ容共をテーゼに加え、ソ連の人民独裁を評価するようになる。孫文は、翌大正十四年三月十二日死去することになる)
大川や満川らは、この際ソ連と親密な関係を保ったほうがいい、という考えであったが、北一輝は異存があった。その表われが、先の『ヨッフェ君に訓ゆる公開状』で、北はこの中で、おもいきりヨッフェを揶揄《やゆ》している。その文章は、
「敬重すべきヨッフェ君……」
で始まる。そしてヨッフェはライオンにされたり、猫にされたり、戯文で散々罵られる。最後には、
「敬重から侮笑すべきヨッフェ君……喝」
と一喝されるに至る。
これは国家社会主義者であり社会民主主義者である北が、三民主義から容共の方針に転向した孫文を信頼せず、新生の共産主義国にも反感を持っていた為で、その点視野の広い後藤はなんとかして、この赤い大国と和解協力し、東洋においてアメリカとソ連の間に挟まれて、日本が生き残る道を模索しようと粘った。ソ連、中国は東洋を代表する二大国で、この点、日本は第一次大戦の戦勝国とはいっても、国土は小さく、経済的生産も大きな問題を抱えている。
結局、大風呂敷といわれた後藤の説得も、ヨッフェを承認させることは出来なかった。
六月二十八日、後藤はヨッフェと正式に会談したが、この際、ソ連が日本にその新生国家を認めさせるだけでなく、中国と同様に、共産主義をもこの国に蔓延させようとしていることがわかり、八月になっても、会談は纏《まと》まりを見せなかった。
この間、日本の反共右翼は、後藤とヨッフェの野合? を攻撃したが、理論的にはヨッフェを利用しようと考えている大川派と太刀打ち出来るものがいない。只ひとり、北一輝のみが文書によってヨッフェを攻撃し、国内の世論も、ソ連と手を結ぶことに異論を唱える者が増えてきた。
そして八月、ヨッフェが苦い顔をして日本を去った直後、九月一日、関東大震災が京浜方面を襲った。丁度、第一次大戦の漁夫の利で成金ムードで惚《ほう》けている日本人に、警告を与えるように……。
関東大震災以降、北一輝は怪事件に連座することが多くなっていった。
このしばらく前、大川らは、猶存社を脱退して、行地社を創立、「維新日本の建設」等の綱領を掲げて、多くの人材を集め、大川が統務委員長、満川が主事で、西田税も参加して、部長となっていた。
一方、北一輝の取り巻きは、腕力の強い岩田富美夫が、大正九年四月に大化会を結成、北グループの武力闘争?方面を担当していた。
岩田は日大卒業後、中国で馬賊仲間に入っていたこともあり、大化会のメンバーもそのような類が多く、気風は荒っぽかった。但し、その綱領は、次のように立派なところもあれば、所謂《いわゆる》右翼的なところもあった。
「大化会は日本の対世界的使命を全国に理解せしめ、以て日本の合理的改造を断行する根源的勢力を目的とす」
「大化会は地上の小事、非常の大事に際しては、原始的武人の典型たるべし」
「大化会は天下何物も恐れざるべし。只正義の審判最も峻厳なることを誓明す」
この大化会は大正から昭和にかけて、次のような事件に介入して、社会面を賑わすことになる。
下田歌子事件、飯野吉三郎事件、神楽坂血闘事件、野田争議、不戦条約、議会中心政治事件、やまと新聞事件。
このほか、次のような右翼団体が、思想的にあるいは直接、間接に北一輝の子分として、大正から昭和への過渡期の日本に騒動をもたらし、北一輝の名も益々有名になっていった。
大行社は清水行之助によって、大正十三年六月創立。所謂暴力右翼で、銀座にモガ、モボが闊歩し、帝国ホテルでは外国、日本の上流階級が、舞踏会に酔いしれている時、侍姿で、日本刀を引っ提げ、舞踏会に切り込んだり、銀座のモガの頬に傷をつけたりした……所謂ファッショ的な事件が多かった。
その中でも大倉喜八郎の米寿祝賀会の時は、無産大衆に悪影響を及ぼすから止めろ、と決議文を突きつけ、一方、大倉側では対外硬同盟(強硬外交を主張する人々の同盟)などを頼んで、にらみ合いとなり、あわや血の雨の降る一歩手前までいった。等々……。
白狼会は北とともに上海から帰国した辰川静夫が創立。宮内省怪文書事件、十五銀行事件に関係。
東海連盟は大正十四年創立、統領の大杉清市は侠客で親分である。しかし、大杉は思想的には北一輝の影響を多分に受け、北を中心に集まる人々と親しくしていた。田中大将三百万円事件、安田共済生命事件、徳川義親侯爵不敬ダンス事件等に関係。
さらに北一輝自身が関係した主な事件では、次のようなものが挙げられる。
一、大杉栄遺骨事件
関東大震災の時、社会主義者の大杉栄夫妻が、憲兵大尉の甘粕正彦に殺害されたことは有名であるが、この葬儀は社会葬として、大正十二年十二月六日、労働団体、思想団体ら主催のもとに、下谷谷中斎場で執行される予定であったが、大杉の遺骨が安置してあった駒込の労働運動社に弔問客を装って来訪した大化会の会員によって、遺骨が奪われた事件である。北は生前の大杉とは同志であり、その暗殺に憤っていた。
しかし、妙なもつれから、大杉の遺骨が大化会の岩田らによって奪取されるという怪事件が発生した。元はといえば、この事件は本来警察が担当すべきなのに、憲兵隊が介入したというので、警察はこの社会葬にもノータッチという方針を示していた。
この時、右翼団体は警察側、憲兵側と二つに割れ、岩田の大化会は憲兵側の勧めで、大杉の遺骨を奪取して、葬儀をぶちこわそうとした。これに対して警察側も応戦し、拳銃が乱射されるという騒ぎとなった。結局、遺骨は元に戻り、葬儀も無事に終了したが、こういう騒ぎも背後には北一輝という凄い男がついているということで、北一輝の名は益々有名になっていった。
二、安田共済生命事件
これは珍しく右翼の分裂を招いた労働争議である。大正十四年八月、安田共済生命は、ここに勤めていた行地社の幹部・千倉武夫ら四十余名を不当解雇した。そこで行地社と安田の争いとなり、行地社の統務委員長である大川はもちろん、千倉側を支持し、大川と仲の悪かった北も介入して、安田側につき、右翼の大物がらみの大きな争議となった。
結局、大川の支持した行地社が勝ったが、この争議中に同社内でも、意見の相違から内紛を生じ、本部主事の満川亀太郎ら多くの幹部が脱退し、西田税、安岡正篤らも脱退するに至った。
これは右翼からも造反を受ける日本資本主義の、大震災以後における後退を示すものともいわれた。面白いのはここにも旧右翼型の戦いが見られ、北一輝がついた大行社の清水行之助は、かつて安田善次郎を暗殺した朝日平吾が北一輝に贈った血染めの着物を着て、安田生命に現われ、威嚇運動を行なった。
この争議では大川・北両派に、介入によって報酬を得ようという意向があり、北も金をたかるというようにいわれるようになった。
また西田はこれを機会に旧右翼よりも、軍人内の国家社会主義者とつきあい、北一輝と彼等との連絡掛を本務とするようになっていく。
三、十五銀行事件
この銀行は元々明治十年華族の禄券を資本として、東京第十五国立銀行として発足した。後には皇室の預金をも扱うことになるが、創立の時すでに資本金千七百八十二万円の大銀行であった。紙幣発行の特権を有し、西南戦争の軍費調達などで、政府の為に働いた。
その後、明治三十年には、一般の国立銀行と同列になったが、依然として宮内省の金庫事務を取り扱う大銀行であった。ところが大正十五年末に至り、北一輝らの怪文書「パンフレット」によって攻撃されるに至った。その理由は、大正九年以来、松方幸次郎(松方正義の子息、経営は下手であったが、美術の松方コレクションで名を残す)が、川崎造船所を経営するに至り、浪速銀行らと合併してその機関銀行となってから、業績が悪化し、その内幕を北一輝一派に暴露されるに至った。
このパンフレットのタイトルは、「皇室金庫を薩派の盗賊より防護せよ・十五銀行の乱脈破綻」で、本文は次の通りである。
「十五銀行は華族、富豪の大資産を預託さるるのみならず、実に恐れ多くも皇室の莫大至重の御金庫を保管するの光栄と大利得とを負荷さるる者なるは、今更言を要せざるところなり。吾人は現代すべての大銀行大会社が、法網を潜って市民の資本を奪い、農夫の貯蓄を掠《かす》めるを怒り憎まざるに非ず。今の財界不振、社会不安また実にこの事に一因す。
而も皇室の御財産を預託さるる特権を倖なりとして、傲慢狼藉なる放資をしてまさに破綻を暴露せんとし、不逞の横溢するところに、ついに薩派の一豚児に政権を取らしめんが為に、行内公盗を働きて、而も法律だに問うことを蔽わんとするが如き、これらの銀行は次の通りである」
として、各銀行名、その投資した金額を暴露列挙し、十五銀行は薩摩の巨頭・牧野伸顕氏が内大臣なるをよいことに、政権と結託して利欲、私利に濫用しつつあり。本年六月の政変の時、床次内閣樹立の運動費として金二百万円の引き受け先承諾書を作成せしめたりと、財界における十五銀行の放漫な投資ぶりを攻撃して、
「現代富豪大官のなすところ言行|悉《ことごと》く相反し、口に公をさえずりて行動心事悉く乱臣賊子なり……」と決めつけたものである。
これには十五銀行も困ったが、もっと当惑したのは皇室の財産に関係のある宮内省で、宮相・一木喜徳郎が、北を料亭に招いて善処を依頼したが、よい返事はなかったという。
北としてはこれによって、銀行関係からフィクサー料を取ることは考えていたが、皇室になにかをしようとは考えてはいなかった。
結局、内田良平が登場して、やっと収めたが、この頃には北も内田と対等に話が出来るほど、顔が売れていた。そして十五銀行はこの後、一年半で倒産してしまうのである。経営が怪しいという北の情報は偽ではなかったといえよう。
四、宮内省怪文書事件
これは北海道が舞台で、北海道の御料地で小作争議が生じた時、社会主義者だと称する杉木弥助がこの世話をしたが、北の子分がこれをかぎつけ、調査したところ御料林払い下げに関して宮内省の高官らが、収賄していたことがわかった。
そこで北の出番が回ってきて、北は「宮内省上層部の涜職事件」というパンフレットを作って配布した。関屋宮内次官らが矢面に立たされ攻撃された。同次官は右翼と連絡をとり、この解決に努めたが、うまくゆかず、また警視総監・赤池濃も金を出して解決するよう努力したが、北はそれを返し、事態は紛糾した。結局、法廷にまで持ち出されたが、明確な責任問題は出なかった。
五、朴烈文子怪写真事件
この事件もやや複雑である。朴烈は、大正八年朝鮮から日本に渡り、主義者と共鳴して、天皇の爆殺を企図して、爆弾を入手しようとしている間に、大震災が起こり、検束され、その陰謀が暴露して、十五年三月、裁判で妻の文子とともに死刑を宣告された。
しかし、大正十五年四月五日早くも恩赦に与《あずか》り死一等を減じて、有期懲役となった。ところがどういうわけか、刑務所にいる筈のこの夫婦の抱き合って?いる写真が、北らの手に入り、またしても北がパンフレットを書くことになった。念入りなことに、このパンフレットには、二人の睦まじい写真が貼りつけてあるので、効果はてきめん、結局、国会にまで問題が波及したが、若槻内閣の成立とともに、与党と野党との話し合いで、これを抹殺することになった。当時、田中義一政友会総裁の陸軍機密費問題が追及されていたが、これと朴烈文子怪写真問題は、お互いにキャンセルという奇妙な政治的取引となった。
[#小見出し]   軍部ファッシズムの胎動――真崎校長と陸軍ファッシストたち――
以上のように北一輝が、政府、財閥を攻撃し、出所のあいまいな金を稼ぎ、いつもの癖でこれを門下生らに散じている間に、右翼らの専門であったファッシズムが陸海軍の中に浸透し、それが北一輝、大川周明などをイデオローグとして、また西田税(陸士三十四期、秩父宮と同期生)などが小イデオローグ兼オルグとして天剣党(昭和二年七月運動開始)を組織し、また海軍でも藤井斉中尉(海兵五十三期、高松宮の一期後輩、但し、思想的に高松宮とは無縁)が、右翼思想団体・王師会を企図していく。実際行動は昭和六年頃からで、陸軍の橋本欣五郎や長勇らと連絡をとり、クーデターを実行しようとするが、昭和七年二月五日、第一次上海事変で飛行機操縦員の藤井は戦死して、五・一五事件の指揮は、三上卓中尉(海兵五十四期)がとり、三上は『昭和維新の歌』の作詞者として有名になる。
ここで筆者は陸海軍のイデオローグやオルグの関係について、彼等が共同歩調をとっていることに気づかざるを得ない。
たとえば藤井の海兵卒業は大正十四年七月で、安藤輝三(二・二六事件の時、第三連隊中隊長)、磯部浅一らの陸士卒業は大正十五年七月、一期先輩の村中孝次(磯部と並ぶオルグ)は、海軍の藤井とほぼ卒業が同時である。
してみると、五・一五事件と二・二六事件の指導者は、ほぼ同じ時期に、市ケ谷(陸士)と江田島(海兵)で生徒として学んでいたことがわかる。といって生徒時代から、彼等が具体的に昭和維新の計画を練っていたという根拠は希薄である。但し、ここに陸海軍の勤皇派の突出組としての、佐賀閥というものに注目すべきであろう。
佐賀・鍋島藩には、昔から山本常朝の『葉隠』を武士道の模範とする『葉隠論語』という言葉があった。その最も有名な言葉は、
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」「物事、一つ一つになりたる時は、死の方につくべし」
などで、筆者が海軍兵学校在学中は、九州出身の同期生で、佐賀、熊本、福岡、鹿児島出身の生徒の中には、この葉隠論語を愛読し、そこに行動の原点を見出そうと努力している者もいた。
「葉隠精神」という言葉が彼等の口から洩れる時、彼等の眼や態度には、畏れの雰囲気が漂っていた。「葉隠精神」とは何か? ……これは昭和前期を鮮血で彩る、死を賛美する精神構造をいう。多くのテロの背後にこの葉隠精神が潜んでいたのではないか? ……と筆者は考えてみることがある。
葉隠精神とは何か? ……それは武士道を重んじる侍の間で絶対的なルールとして、尊重された死の哲学≠ナある。
すなわち武士道では、なにかあった時には死ぬことが先決問題で、いざという時に迷わぬように、日頃の心構えが大切で、その為日々その場で即座に死ねる修行を積んでおくべきだというのである。
では何の為に死ぬのか? ……それは君公の為である。この君という概念は、必ずしも天子ではなく、身近な藩主のことで、時に江戸の将軍が対象のこともあったらしい。元々山本常朝(享保元年、一七一六年、葉隠聞き書きが完成)は佐賀の人で、藩士ではないが、学問と信念の人で、若い藩士にこの葉隠の講義をしたという。それを田代又左衛門が筆記したものだという。
武士となったからには、君の馬前に戦死することは当然のことで、日常の振舞いにおいても、常に事あれば直ちに死す……という覚悟が必要だというのである。その時、迷うのは武士の恥である。たとえば自分に対して君公に不忠である……あるいは忠義が足りない、武士として卑怯の振舞いがあった……などという批判があった場合には、弁解は無用で、その場を去らず切腹して果てるべきだ、というのが、まず「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という箇条で強調される。次に「物事一つ一つになりたる時は、死ぬ方につくべし」というのは、自分に生と死の二つの道があり、選択に迷った時には、真直ぐに死を選ぶべきだという……「死」を絶対の善だという確信を植えつける教えである。
この侍の思考法は、明治維新以降も陸海軍人の間に浸透し、多くの軍人がこの信念の為に、人を殺しまた自決をした。
たとえば五・一五事件に参加した青年将校のうち、指導者の藤井斉(五十三期)を始め、三上卓(五十四期)、黒岩勇(同)、古賀清志(五十六期)らは、皆佐賀中学校の卒業生である。同志の山岸宏も新潟高田中学校出身ではあるが、古賀と同期生で、生徒時代から、藤井に昭和維新の精神を叩きこまれた革新将校である。筆者が江田島の生徒時代は、五十期から五十五期あたりが教官であったので、五・一五事件の参加者は、教官のクラスに縁が深い。
先輩の話によると、五・一五事件の直後には、江田島でも昭和維新の実行者として、三上らを崇拝する気風があったが、海軍の上層部は青年将校が政治に走るのを危険に感じ、特に二・二六事件以降は生徒の政治活動を厳しく規制したので、昭和十二年四月、筆者が海軍兵学校に入校した頃には、五・一五事件の余燼は殆ど見られなかった。それでも筆者に配付された航海表というデータ・リストの裏面に以前の持主の名前が列記され、その中に三上卓の名前があることが知れると、福岡県田川中学校出身の太田という男が、
「おっ、これは三上先輩が使っていたものではないか、貴様などには勿体《もつたい》ない、おれに寄越せ」
と無理やりに交換させられたことを覚えている。太田は卒業後、潜水艦乗組となり、昭和十九年六月、ドイツに連絡に行く途中、敵航空部隊と交戦、八月二日戦死認定となっている。
しかし、これは一種の例外であって、三上より十四期後輩の私たち六十八期生は、入校後間もなく(昭和十二年七月七日)日中戦争が始まったので、昭和維新どころではなく、修業年限も四年間から三年四ヵ月に短縮され、卒業の翌年には太平洋戦争が始まったので、専ら軍事訓練に追われ、昭和維新については、伝説として聞くだけに終わったのであった。
話を佐賀閥に戻そう。元々佐賀藩は幕末の名君・鍋島|閑叟《かんそう》が、国防に力を入れ、反射炉を造り、軍艦を買い、佐賀の海軍≠造った大名だけに、海軍の人材は少なくない。
その中でも幕末に長崎の海軍伝習所で修行して、佐賀に勤皇派の海軍を造ることに努力した、中牟田《なかむた》倉之助の名前は落とすことは出来ない。
彼は初代兵学頭で初代海軍兵学校長となり、また海軍中将に昇り、初代軍令部長となっている。正《まさ》に日本海軍の草分け的人物で、佐賀の海軍≠フ誇りである。
同じ頃、佐賀からは参議になった大隈重信、大木喬任、副島種臣らが、薩長や土佐とは別に、政治の要路に立ち、明治維新推進の原動力となった。
また佐賀の海軍の後継としては、清浦内閣の海相となった村上格一(海兵十一期)、海兵十九期をトップで卒業して、佐世保鎮守府長官となった百武三郎、その弟で海兵三十期を恩賜で卒業して、佐世保鎮守府長官となった百武源吾ら三人の海軍大将を輩出している。
しかし、昭和維新と佐賀の関係になると、陸軍の将軍連を見逃す訳にはいかない。
軍閥という点では、陸軍のほうに佐賀軍閥というものがあるという。
その総帥は士候(士官候補生)三期の武藤信義である。彼は優秀な下士官を集めた教導団出身で、元帥となった出世頭である。
日露戦争時は陸軍少佐で鴨緑江軍参謀を務め、大正五年陸軍少将、八年七月中将、参謀本部第一部長、十年五月第三師団長、十一年十一月参謀次長、と出世街道を歩み、十五年三月大将、昭和二年関東軍司令官、教育総監、七年関東軍司令官兼満洲国駐在全権大使を務め、八年五月元帥となり、同年七月死去。
これに継ぐ佐賀閥の代表格で昭和維新に大きく関わるのが、九期の真崎甚三郎である。
彼は佐賀中の出身で三上や古賀の先輩である。この陸士九期生からは、陸軍大将が六人出ている。陸大恩賜組の阿部信行、同じく真崎甚三郎、続いて満洲事変の時の関東軍司令官で、二・二六事件の時の侍従武官長・本庄繁(終戦時自決)、南京攻略時の中支派遣軍司令官・松井|石根《いわね》(戦犯刑死)、お髭の大将として知られる荒木貞夫(陸相の後、軍事参議官、予備役となって文相を務めた)、陸士校長、第一師団長を務めた林仙之……の六人であるが、本編としては、真崎に注目しよう。それは二・二六事件を決行した青年将校たちの大部分が、なんらかの形で、真崎の薫陶を受け、その忠君愛国の精神を叩きこまれたと考えられるからである。
真崎は佐賀武人らしい豪傑肌の将軍で、誠に国家の干城≠ニいう印象を、青年将校に与え最も信頼するに足る献身的な将軍として、信頼を集めていた。
今一度、真崎の軍歴を見ると、大正十二年八月陸士本科長、十四年五月陸士教授部長兼幹事(教頭に相当)、十五年三月陸士校長となり、昭和二年八月第八師団長に転出するまで、彼は通算四年間にわたって、陸士の教官や校長を務めている。これは二・二六事件に参加した青年将校たちとの深い関係を示している。
例えば安藤輝三(三十八期)は、大正十一年陸士に入り、十五年七月卒業している。これを真崎の経歴に照らし合わせると、安藤が陸士に入った時、真崎は歩兵第一旅団長で東京におり、翌十二年八月には陸士本科長となっている。
葉隠精神の体得者として、真崎は佐賀閥のみならず、当時の国家を憂える青年将校の尊敬の的であった。
当時の陸軍にはまだ皇道派と統制派の区別はなかったが、例えば宇垣一成(陸士一期)は、大正十三年一月、陸相となり、四個師団の軍縮を行ない、青年将校の批判を浴びていた。折柄、海軍でも大正十一年調印のワシントン軍縮条約で、大幅な艦船と人員の削減が行なわれることになり、特に青年将校の批判が激しかった。
宇垣は青年将校の反対を押し切って、軍縮を実行し、その統制力を高く評価された。彼を統制派の元祖と呼ぶ人もいる。
一方、皇道派という派閥が出来ていくと、その代表は、九期生の荒木と真崎ということになっていく。特に、真崎は大正十二年から昭和二年まで四年間にわたって陸士の本科長、幹事(教頭)、校長を務めたので、この間彼は陸士生徒間の尊敬措く能わざる教育者として、各学年の敬愛を集めた。そしてそれらの生徒の中から、二・二六事件の主な指導者が出たことは、前述の通りである。
ここで国家改造を叫ぶ陸軍の皇道派が、なぜ決起に遅れ、海軍の佐賀中学校卒業生を中心とする青年将校たちが、二・二六事件の四年前に決起して五・一五事件を起こしたのか……について一言触れておこう。それは橋本欣五郎らを中心とする桜会の将校たちが、昭和六年三月には「三月事件」、十月には「十月事件」で決起を計画したが、後述するように、これが上層部に洩れて、中止になった。それで橋本らが海軍の革新派に決起を要請したのである。海軍のほうも決起を考えていたが、肝心のリーダーである藤井が上海事変で戦死したので、却って決起を焦り、策未だ全きに非ず……という五月に三上を首領として、犬養総理を襲ったのである。
昭和維新を代表するこの二つの事件について、経過を追う前に、北一輝や西田税の動きを追ってみるべきであろう。
大正の末期から昭和の初期にかけて、多くの事件の裏で西田を行動隊長として、暗躍を続けていた北一輝は、昭和に入ると、フィクサーのほうは一時休憩で、毎夜、霊能者として、多くの霊と会話をしていた。もちろん、妻のすず子も、霊告を得ては北にそれを報告していた。かつて上海駅頭で非業の死を遂げた宋教仁はもちろん、最近朝日に刺殺された安田の霊も現われた。宋教仁は徐々に複雑化してゆく日中関係を憂い、北の主張する国家改造の急を説いた。安田は別に無念そうな顔もせずに、――わしは自分の道を進んだ。朝日君も自分の信念でわしを刺したのだ……と淡々としていたという。
また宮中某重大事件で北に攻撃された山県は、――あれも皇室の安泰を願う山県の微衷の表われだ、そこを了解してくれ……と、夜な夜な弁明に現われたという。
もちろん日蓮も現われたが、必ずしも北の前途を暗示するようなお告げをくれる訳ではない。
この希代のカリスマも、監獄に入ることになった。宮中某重大事件で怪文書を散布した行為が不敬罪に該当するものかどうか、調査という名目で、北は大正十五年七月から、翌昭和二年一月まで、市ケ谷刑務所に収監された。その間に大正天皇は崩御され、北一輝は獄中で、昭和という新しい、そして彼の刑死の年号を迎えることになった。
北はこの収監中も臆することなく、昼は法華経の読経にいそしんで、その朗々たる声を、刑務所の廊下の奥にまで響かせ、夜は霊能によって、いろいろな人物と会話をして、時間をつぶした。その人物の中には、乃木将軍や北条時宗もいたという。最後には北も、あまりいろいろな人物が現われるので、眠る時間がなくなり、しばらくは休憩をとりたくなって、それらの人物との会話を中休みにしたという。しかし、北条時宗とは、親しくなった。
前述の通り、北が『日本改造法案大綱』を書いたのは、大正維新によって、日本の政治の姿勢を正し、それによってシナの混乱を正常化し、欧米列強に包囲される日本の国難を救い、アジアの更生を祈念する為であった。それで彼は日蓮の『立正安国論』のひそみに倣って、『日本改造法案大綱』を書いたのであるが、折角のマニュアルを提供したのに、これの実現を図る人物は今のところ西田と彼を理解する陸士の生徒(彼等は名校長・真崎甚三郎少将の心酔者であった)や、その系列の若手の将校ぐらいで、大正維新の期限はすでに切れてしまった。
――いよいよ昭和維新だな、やる気のある若手は出ないものか……そう期待する北一輝は、獄内で日蓮の次の言葉を反芻《はんすう》するようになっていった。
「吾、日本の柱とならむ」
「吾、日本の大船とならむ」
「吾、日本の眼目とならむ」
霊能者としての北一輝夫妻のお告げには、信じにくいという異論もあるが、実際に北一輝の霊能者としての、実態を知った真崎は、北のことを「魔王だ」といって、畏怖を示したという。
――国家社会主義者……社会民主主義者……霊能者……これを繋ぐものはなにか? ……恐らくこれは北一輝の知的、理論的な面と、宗教的、ロマンチックな面とをつなぐ神秘的(異常神経的?な)なテレパシーの如きものの仕業ではなかろうか? ……。
[#小見出し]   動き出した軍部ファッシスト
北一輝が獄に入る前に発足した西田の天剣党も活躍を始め、昭和二年に入ると、その勢いは海軍にも波及し、三年夏には藤井斉らの王師会も、三上、黒岩、古賀、山岸らの同志を糾合し始めた。
同じ夏、北一輝は長く住み慣れた千駄ケ谷の山本邸を出て、牛込納戸町の家に転居した。
一方、大陸でも日本軍のファッシズムが実際行動に出始めた。
日露戦争の戦果として、満鉄の利権を手に入れた日本政府は、この地域の鉄道及び在留邦人の生命財産を護るという名目のもとに、関東軍を増強し、満洲全土を支配することを考え始めていた。
これに抵抗したのが、日露戦争の時、馬賊の頭目として日本軍に協力した為満洲の軍閥を統合し、大元帥を名乗る張作霖である。
彼は兵力を貯えると満洲から南下して、北支に勢力を伸ばそうと野心を膨らませ始めた。大正の末期から張作霖は北支に勢力を広め、南京を本拠とする蒋介石の国民党軍と衝突を始めた。
この為、田中義一内閣は、山東省に出兵し、列強の批判を浴びていた。
そして昭和三年に入ると、北京で大元帥を呼号していた張作霖は、蒋介石軍に押されて、万里の長城の線を越えて、本拠地である奉天(現、瀋陽)に戻ろうと企図し始めた。
この時、関東軍の中で、この際張作霖を倒そうという秘密作戦が練られた。その立案者は作戦参謀・河本大作大佐(陸士十五期、終戦時参謀総長、梅津美治郎と同期生)で、彼はこの年六月四日、奉天に帰ろうとした張作霖の列車を同駅の近くで爆破し、張作霖を死亡せしめた。
河本参謀らは、これを蒋介石のスパイの仕業だとして、現場に三人の中国人の死体(犯罪者の死体)を遺棄した。
当時、奉天城の近くの兵営には、十万以上の奉天軍(張作霖の部下)がいた。関東軍は総勢二万にたりない。
張作霖の長男の張学良は、北京にいて急いで奉天に帰り、関東軍と一戦をまじえて父の仇をとろうとしたが、張作霖爆殺の犯人もはっきりしないし、精鋭を誇る関東軍に対し、馬賊の寄せあつめのような奉天軍に勝味は薄いという側近の意見によって、日本軍との決戦をあきらめた。日本軍と戦っている間に、蒋介石軍が長城線を越えて、奉天に迫るならば、奉天ははさみ打ちになるおそれがあった。
この張作霖爆殺は、やがて関東軍に満洲を支配させることになったが、中央の参謀本部などでは、この犯行について、下手人の真相を確かめようという動きがあった。総理の田中義一大将は、日露戦争の時、満洲軍参謀として、張作霖をスパイとして利用していたので、張の爆殺については、真相を知っていたが、表面上は、「日本軍には関係なし」として、天皇にもそう上奏していた。
しかし、天皇は元老・西園寺らのすすめによって、真相の追及を命じた。そして爆殺の真相が漸《ようや》く明らかになっていった。
天皇は田中を呼ぶと、犯人及び関東軍司令部の処分を命じた。田中総理は恐懼して、その処置を天皇に確約したが、陸軍部内では、白川陸相らの反対もあって、結局、関東軍司令官・村岡長太郎中将は予備役編入、実際に指揮をとった河本参謀は停職という軽い処分にとどまった。
田中がこれを上奏すると、天皇は激しく機嫌を損ね、
「田中のいうことは前回と違うではないか。もうお前の顔は見たくない」
と叱責された。
天皇の信頼を失った田中内閣は総辞職、後継は民政党の浜口雄幸が組閣した。浜口は内外多事の時に首相の印綬を帯びたのであるが、これが三年後の右翼による暗殺の元になるとは考えてはいなかったであろう。
浜口を狙撃したのは、井上日召の率いる血盟団の佐郷屋留雄で、北一輝とは直接関係はない。この頃から軍部内青年将校らのファッシストが、グループを作り始め、彼等の信奉する信条……イデオロギーが、北一輝の『日本改造法案大綱』であったために、北一輝は自分の知らないところで、カリスマ扱いをされ、やがて五・一五事件や二・二六事件の青年将校たちのイデオローグ(観念的指導者)として教祖扱いされ、結局は処刑への道を歩んでゆくことになるのである。
軍部内で『昭和維新』と呼ばれるようになる革新運動が盛んになっていったのには、多くの原因があるが、大きなものは次の通りである。
一、陸海軍の軍縮に対する反発
海軍では大正十一年一月、当時の海相・加藤友三郎が全権となって、ワシントン会議で、主力艦の比率を英・米・日――五・五・三として、軍縮を行なう条約に調印した。
これで主力艦の一部と、多くの海軍将兵が整理されることになる。先に藤井斉の主導する海軍青年将校の王師会が昭和三年に発足したことに触れたが、この藤井は海軍兵学校五十三期生、これに兄事する三上が五十四期、古賀、山岸らは五十六期生である。
ここで海軍兵学校生徒卒業生名簿を見ると、五十、五十一、五十二期生までは、一クラス三百名だが、五十三期から一気に五十名と、六分の一に減っている。これは五十期から五十二期までが、八八艦隊に備えた軍拡の準備であるのに比べて、軍縮条約が調印された後の五十三期からは、もう大勢の士官は不要とばかりに、減員されたものである。
筆者が昭和十二年に海軍兵学校に入った時には、五十期前後から五十五期までの教官がいたが、その中で五十期生は、「日本海軍初めての三百人クラスだった」と鼻息が荒かったが、五十三期の教官は、
「我々のクラスは軍縮で先輩の六分の一で、どこへいっても先輩がいて、それまでのクラスよりも余計に殴られたよ」
と苦笑していた。筆者は海軍兵学校六十八期で、久方ぶりの三百人クラスで、五十期の指導官からは、
「我々三百人クラスの後を継ぐように……」
と激励された。
今から考えてみると、藤井斉は五十三期で軍縮のあおりをくらった方である。彼の中に憂国の志があり、それが国家革新……『昭和維新』の方向に向いていくのも、自然のことであったろうと、推察されるのである。
二、同じように、陸軍も大正末期、加藤高明内閣の時、財政的な理由から、宇垣陸相が四個師団の削減を行ない、多くの将兵が陸軍の現役から予備役に編入させられた。この為陸軍の一部では、政党内閣では財政的見地から軍縮が続行され、これでは国防が保証出来ないとして、政治革新の声が青年将校から上がり始めていた。
この『昭和維新』を旗印とする「桜会」が正式に結成されるのは昭和五年十月であるが、その胎動はもっと早く、同年五月、橋本欣五郎少佐(陸士二十三期、海兵三十八期の山本五十六より五期後輩)が帰国して、それまで志を同じくしていた同志を糾合してから、事態は海軍や大川、西田、北らと連繋して、急速に発展していった。もちろん、そのメンバーや目的は秘密で地下運動が主体であったが、軍縮や経済不況などで動揺している軍の上層部に、密かに働きかけ、それが陸軍では昭和六年の三月事件、十月事件などのクーデター(いずれも失敗)につながり、これらの不発が海軍の五・一五事件を誘発していくのである。
三、これは陸海軍共通であるが、『昭和維新』の歌にもあるように、彼等は国を憂えていた。
北一輝が参加した中国革命に続いて、ロシア革命があり、大正デモクラシーに続いて、共産主義が蔓延し、昭和三年三月には、共産党の大検挙があった。赤色革命が日本の青年の間に拡がりつつある。これに対抗するには、大日本帝国がその建国以来の皇道を高揚し、外敵を駆除すると共に、四周のアジア諸国に天皇の大御《おおみ》稜威《いつ》を浸透させ、八紘一宇の建国の理想を実現しなければならない……それには大日本帝国自身が、自らの姿勢を正し、君側の奸を一掃して、天皇親政の御代を実現しなければならない……これが青年将校たちの憂国の精神で、このうちファッシズムを高揚させ、天皇親政の実現を図る急進的な派が、後に「皇道派」と呼ばれ、大陸進出によって、日本の人口問題解決、資源の獲得を図る実務的官僚派が、「統制派」と呼ばれるようになっていく。
先に北一輝が関係した多くの事件に触れたが、これらは氷山の一角で、明治以来、薩長藩閥の独裁と、これらと財閥の癒着、汚職の続発、官僚の腐敗などは、軍縮で兵力を削られた軍人……特に青年将校としては、悲憤に堪えないものがあった。
第一次大戦では、漁夫の利を得たが、その後、大戦景気の反動で不況が到来し、昭和四年秋頃からアメリカが不景気となり、続いて日本もその後を追い、特に昭和五年に入ると、東北の冷害などで娘を売る農家なども増えてきた。しかるに政治家、財閥にはなんの反省もなく、財閥はドル買いなどで巨利を博し、豪邸に住み、子息は欧米に留学、政治家と組んで汚職が多かったが、労働者、農民は貧しかった。
このような歪められた祖国の不潔な上層部を眺めていた青年将校の中には、国家改造の責任感が、火山のマグマのように灼熱し始めていた。
この場合、前述のように、青年将校にも二つの思考、対策の選択肢があった。
一つは腐敗のもとである政治家、財閥、そして元老たちの重臣を一掃し、天皇親政の御代を復活させるという皇道派、いま一つは統制派の系譜につながる将校たちである。
このうち、まず皇道派に属する一派が、まず同志的結合を行ない、国家改造を討議し始めたのが、桜会である。
話を桜会に戻そう。
まずその中心的なオルグとなった橋本欣五郎の略歴に触れておこう。
橋本は海軍の藤井よりは十五期ほど先輩で、玄洋社の勢力の強い福岡県出身、回船問屋の四男に生まれ、少年時代から愛国の志高く、熊本幼年学校、陸士をへて大正九年陸大卒、十年七月参謀本部付(ロシア班)となり、ロシアのスペシャリストとしての道を歩み、十一年四月関東軍司令部付(ハルビン勤務)、同十一月参謀本部付、続いて十二年五月参謀本部員、同八月関東軍司令部付(マンチュリ特務機関長)、十四年三月参謀本部員、十五年八月砲兵少佐、昭和二年トルコ大使館付武官で、これが長く、昭和五年一月参謀本部付に補せられ、同六月帰国、同七月参謀本部員(ロシア班長)、同八月陸軍砲兵中佐、昭和六年十二月野砲十連隊付(姫路)で、五・一五事件の時はここにおり、二・二六事件の時は、大佐で三島の野戦重砲兵連隊長で、東京に駆け付けている。この事件後、予備役となる。
話を昭和五年に戻して、桜会の地下運動は、この年六月、橋本がトルコから帰国して、本格化したもので、最初の同志は、坂田義朗(二十一期〔首席は石原莞爾〕、陸軍省調査班長)、樋口季一郎(同、東京警備司令部参謀)、田中清大尉(陸軍省調査部)らであった。
このうち田中が書いた『昭和七年一月〇〇少佐の手記』が、当時の桜会の発生状況にくわしく、これには桜会の目的は「陸軍省、参謀本部の少壮将校が中心となり、国家改造を目論み建設されたもの」で、桜会という名称は後年付けられたものである、となっている。
従って桜会の実態は、その名称が出る以前、昭和五年六月、橋本がトルコから帰国して、前記、坂田、樋口らと会合、同年十月一日、有志数十名と九段の偕行社で発会式をあげた時に、すでに実際運動に踏み出したとみてよかろう。
クラスとしては、橋本は坂田らより後輩であるが、その熱血的なキャラクターは、イデオローグというよりは、大陸浪人か尊皇攘夷の志士のような行動的な面で突出しており、間もなく桜会のみならず、海軍をも含めた革新派将校団の中でも、指導者格となっていく。
桜会の設立第一回の会合で、橋本は、
「今や我々が立たなければ、将軍連では、この国防的危機を乗りこえて、国家を救うことはできない」
と激烈な国家改造必要の弁をぶった。
この時、桜会は次の発会宣言を決議した。
一、目的、本会は国家改造を終局の目的とし、之がため要すれば、武力の行使をも辞せず。
二、会員、現役陸軍将校中、階級は中佐以下、国家改造に関心を有し、私心なきものに限る。
目的達成のための準備行動
一、一切の手段を尽して、国軍将校に国家改造の必要なる意識を注入する。
二、会員の拡大強化。
三、国家改造のための具体案作成。
これに続いて『趣意書』が作成されたが、その文章は雄渾、かつ激烈なもので、憂国の情あふれ、片やアジアの赤化を憂い、片や軍縮による国防の危機を叫ぶもので、その責任は政党、官僚、財閥らにありとし、ここに「天皇親政」のもと、国家改造の必要を絶叫するものであるが、その具体的な方法については、明らかにしてはいない。
恐らく橋本ら佐官級は、海軍の藤井らと違って、北一輝の『日本改造法案大綱』の写しを入手する時期が遅れたのではないか? ……と推察されるが、あるいはトルコに長く駐在していた橋本は、北の国家改造案をマニュアルとすべく、研究中でここではあえて触れなかったのかもしれない。
それよりも橋本が力説したのは、この年(昭和五年)一月ロンドンで開催され、四月調印された補助艦の軍縮条約で、これが革新派将校の国防に対する危機感をあおるようになっていた。
従って、この趣意書において、橋本は、単に、
「国民は吾人と共にその真実大衆に根幹をおき、真に天皇を中心とする活気ある明らかなるべき国政の現出を渇望しつつあり。吾人|固《もと》より軍人にして直接国政に参画すべきに非ずといえども、一片|皎々《こうこう》たる報公の至誠は折に触れ、時に臨み、其の精神を現わし、為政者の革正、国政の伸張に資するを得べし」
と概念的な思想を述べるに留まっている。
軍事史研究家の秦郁彦氏(東大、コロンビア大卒、現拓大教授)の『軍ファシズム運動史』によると、橋本らはもともと性格的に破壊以外に関心が薄かったが、国家改造の具体案を作成する場合には、破壊計画だけではなく、昭和六年一月から改造案にも着手することになり、坂田、橋本、根本博中佐(橋本と同期、福島県出身、昭和五年八月中佐、支那班長、後、中将、第三軍司令官となる)、長勇大尉(二十八期、熊幼、陸士を経て、昭和三年陸大卒、四年十二月参謀本部付、太平洋戦争末期、沖縄戦終結時、牛島司令官と共に自決。豪傑肌で橋本と並ぶ急進過激派と呼ばれた)、田中清大尉(二十九期、北海道出身、昭和三年八月兵器本部付)、田中|弥《わたる》大尉(二十八期、東京出身、昭和四年十二月参謀本部付、十年十一月自殺)の六人が研究委員に選ばれ、東大西洋哲学科に学んだ田中清大尉が、その立案の中心となった。
田中はこれ以前から参謀本部作戦課長の鈴木貞一少佐を中心とする(時局)研究会に属して、岩畔豪雄《いわぐろひでお》(三十期、昭和三年十二月整備局員、後に太平洋戦争直前、『日米和平了解案』の連絡に暗躍する)、山岡道武(三十期、昭和三年十二月参謀本部員〔ロシア班〕、五年八月ソ連大使館補佐官)らと、満蒙問題及び国家改造案の研究を行なっていたが、それぞれメンバーも散っていったので、田中はこの桜会によって、急進派を抑え、理論及び具体案の必要並びにその作成の困難なることを知らしめようと考えていた。
その為に、第一回の会合の後、大川周明を呼んで、会の為の論理的討論を行なったという。
ここで筆者には一つの疑問がある……というのは、桜会結成準備の段階で、幹部の橋本や坂田、樋口、ブレーンの田中清、或いは熱血的な長勇あたりは、北一輝の『日本改造法案大綱』をどの程度読んでいたのか? ……ということである。
北一輝の『日本改造法案大綱』は、大正八年八月、上海で執筆され、翌九年謄写版で印刷されたものが出版されたが、出版法違反となり、その後、大正十二年に改造社から一部削除の上出版されている。
また西田税は、大正十五年天剣党を結成し、翌昭和二年には、陸海軍にひろくその組織の拡大を図っている。陸士の生徒や見習士官であった安藤輝三らが、『日本改造法案大綱』を読んで、国家改造を思い立ったのもこの頃で、三年夏には、海軍で藤井斉を中心に王師会が結成されるが、その思想的支柱は、この北一輝の『日本改造法案大綱』であった。
ところが昭和五年秋にいたって、、橋本や田中らが桜会結成の準備を進める時、はたして理論的な根拠を『日本改造法案大綱』に求めていたのかどうか? ……北の国家改造案を根拠とするならば、これには現実的なマニュアルが示されており、田中が特に悩む必要はなかった筈である。
今一度おさらいをするならば、西田が天剣党を発足せしめた時、その「戦闘指令要綱」には、「天剣党は軍人を根幹として、普《あまね》く全国の戦闘的同志を連絡結盟する会議の秘密結社にして、『日本改造法案大綱』を教典とする実行の剣なりとす」と規定してある。そしてこの同志録には、海軍の藤井のほかに陸軍の末松太平(陸士三十九期、見習士官、安藤らと同期)、大岸頼好(三十五期、陸軍中尉)、渋川善助(三十九期、中退)、村中孝次(三十七期、少尉)、菅波三郎(同上)らの名前も見えている。
橋本や田中が桜会結成の準備にかかった昭和五年は、ロンドン軍縮会議で、ひときわ陸海軍の青年将校たちが上層部を批判した年で、この翌年にまず陸軍が、三月事件、十月事件を起こして、国家革新の火ぶたを切るのである。
従って、それ以前に西田が結成した天剣党の陸軍の青年将校たちは、橋本や田中らに、『日本改造法案大綱』の存在を知らせてはいなかったのか? ……。
陸士、海兵の生徒や陸海軍の青年将校たちが心酔していた北の『日本改造法案大綱』について、桜会の幹部たちが、その発足に際してどの程度の知識と理解を抱いていたのか? ……筆者はここにあるくいちがいを感じるものである。
なぜ、桜会の幹部は『日本改造法案大綱』に縁が薄かったのか? ……その一つの原因は、幹部の橋本らの最初のイデオローグが、大川であったことではなかったのか? ……ということである。大川は橋本と親しく橋本に自分の考えを吹き込んだ。
独学に近い北一輝と違って、東大出の大川は、同じ国家改造、国家革新でも、複雑な思考と行動に特徴があった。
その一つは彼が政党の上部と共に、無産派とも提携しようとしていたことである。
満鉄の調査部にいたことのある大川は、日本政界、経済界の上層部に食い込むと同時に、社会民衆党や全農の幹部とも連絡をとり、彼等と軍部の青年将校らの連絡のパイプ役を務め、軍部ファッシストとプロレタリア政党との結合によって、政治家、財閥の横暴を抑えようという姿勢を示し、双方に隠然たる勢力を植えつけ始めていた。
[#小見出し]   統帥権干犯事件と一夕会
桜会は秘密結社であったが、国民にはともかく、軍部や警察の内部に知られずに、運動を推進することは難しかった。
この場合、軍上層部はこの結社に比較的寛大であった。それは自分たちが、一夕会という秘密の会を作り、政治家らと接触していたからである。
明治天皇の『軍人に賜りたる勅諭』にも、軍人は政治に関わらず……と示されているが、国民の過剰人口の捌け口を求める、軍部上級将校としては、満洲を含む中国大陸への進出に関して、政界の実力者と接触しておく必要を感じていた。また彼等は軍部内における派閥の打破にも打開策を模索していた。
この一夕会の発祥は、ドイツのウィスバーデンという保養地で、大正十三年、陸士十六期生の三羽烏≠ニいわれた、永田鉄山(後、統制派の中心人物として、昭和十年夏、軍務局長室で皇道派の相沢中佐に斬殺される)、小畑敏四郎(皇道派の中心人物として、青年将校に期待される。昭和十一年三月中将、陸大校長、八月、二・二六事件の関係で予備役となる)、岡村寧次(終戦時支那派遣軍総司令官)の三人が会合して、派閥の打破について討論した。これが一夕会の始まりである。
従ってこの一夕会は、桜会よりもずっと歴史は古く、その目的も派閥の打破というよりは、軍縮を乗りこえて、いかにして大陸進出を果たすかという軍部の発展のために、中堅以上の将校の意見の調整を行ない、団結を図るかということにあったといってよかろう。
彼等の帰国後、その意図は国際情勢の変化と相まって、進展してゆき、それがやがて桜会の運動と並行して、軍部ファシズムの台頭を顕著にしていくのである。
一夕会の形式的な発足は、昭和三年十一月三日であるが、それ以前にいわゆる志ある上級将校は、これに参入してきた。
十五期、河本大作(張作霖爆殺の責任者)、山岡重厚(後、中将、第九師団長)
十六期、前記三人のほかに板垣征四郎(満洲事変当時関東軍参謀、後、大将、第七軍司令官、戦犯として処刑)、磯谷廉介(後、中将、関東軍参謀長)
十七期、東条英機(後、陸相、首相、戦犯として処刑)、渡久雄(後、中将、第十一師団長)
十八期、山下奉文(後、大将、第十四軍司令官、戦犯として処刑)、岡部直三郎(後、大将、北支方面軍司令官)
二十期、橋本群(後、中将、参謀本部第一部長)、吉田|悳《しん》(後、中将、関東防衛軍司令官)
二十一期、石原莞爾(満洲事変の立案者、後、中将、第十六師団長)、横山勇(後、中将、西部軍管区司令官)
二十二期、鈴木|率道《よりみち》(後、中将、第二航空軍司令官)、鈴木貞一(後、中将、予備役後、企画院総裁)、本多|政材《まさき》(後、中将、第三十三軍司令官)、村上啓作(後、中将、第三十九師団長)
二十三期、根本博(後、中将、第三軍司令官)
二十四期、土橋勇逸《つちばしゆういち》(後、中将、第三十八軍司令官)、沼田|多稼蔵《たかぞう》(後、中将、南方軍参謀長)
二十五期、武藤章(後、第十四方面軍参謀長、戦犯として処刑)、田中新一(後、中将、参謀本部第一部長)、富永恭次(後、中将、第四航空軍司令官)
このメンバーを通覧すると、昭和三年の張作霖爆殺以降、日本軍の満洲、大陸工作、果ては日中戦争から太平洋戦争に至るまで、この中の誰かが仕掛け人もしくは中心人物となっていることがわかる。もっともこの中でも、皇道派の将校は処分されて、それ以後要路に立つことはなかったが、統制派の幹部はその後に日本軍の各方面への進出に、大きな役割を果たしていることがわかる。従って、この一夕会(昭和六年閉会)は、陸軍ファッシズムの温床であったともいえよう。
田中惣五郎氏の『増補版・北一輝』には、これについて巧妙な比喩が用いられている。
すなわち軍部ファッシストの頭部は宇垣一成、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らで、胸部はこの一夕会のメンバー、腹部は桜会、そして脚部は尉官級の青年将校らであった。
そして磯部、安藤らの脚部――青年将校は、国家改造を主目的とし、佐官級の腹部は、国内改革と戦争を半々に推進し、胸部は戦争を主目的として国内改革を企図し、頭部はこれらが引き起こす混乱に乗じて、戦争を通じて軍部による政治的ヘゲモニーを狙ったとみられる。
そして年がたつにつれて、胸部は頭部に腹部は胸部にと昇進していったという。
更にいくらかの悲しみとともに推測させてもらうならば、脚部として『日本改造法案大綱』をマニュアルとして、天皇親政、昭和維新を実現しようとした多くの青年将校は、事件後、退役、処刑などによって、早々と舞台の上からは姿を消していったということである。
もう一つ田中氏の『増補版・北一輝』には、『統帥権干犯』という言葉のルーツについて、興味ある説が出ている。
一般に知られているのは、あたかもこの桜会結成の年、三月末から四月にかけて、ロンドン軍縮条約の締結をめぐって、海軍の中で軍拡派の軍令部と海軍省が、激論をまじえたことがあり、海軍省に押し切られた形の軍令部長・加藤寛治大将が、政府、総理、海軍省など統帥権に直接関係のない部門が、兵力量(この場合は主力艦の比率)の決定に口をはさむのは、『統帥権干犯』であるといい出したのが、統帥権干犯論争の原因だということになっている。
しかし、田中氏によれば、この後に有名になる言葉は、元々北家において、妻のすず子が霊媒となって法華経に陶酔していた時、霊告によってこの言葉を称え、これを北が書いて、「艦隊派(軍拡派)の旗印とせよ」といったのが始まりだというのである。
さすがの北一輝も、この言葉が軍拡派……皇道派の旗印として、軍縮派、統制派を抑える合言葉となり、やがて五・一五事件から二・二六事件に至る動乱の引金の一つとなろうとは、予想していなかったであろう。
[#小見出し]   不発! 三月事件と十月事件――桜会の突出成らず――
桜会の中心人物として、多くのクーデター事件に関係して、生き残った橋本欣五郎のキャラクターについて、先にくわしく知っておく必要があろう。
前にも触れたが、橋本は同姓の橋本左内や梅田雲浜のような愛国者ではあったが、一途に国家に殉ずるというような単純な愛国者ではなかった。彼は一見、憂国の志士で豪傑肌に見えたが、仕掛け人であり、フィクサーの資質を持っていた。その点、彼は二・二六事件の磯部や、明治維新の時の桂(木戸)、大久保(利通)の立場に似た政治的、謀略的なやり方を好んだ。かと思うと急進的で突出することも好きで、桜会を結成すると早々に、翌昭和六年春の三月事件を企画した。
周到な彼はその前に、海軍にも同志を求めていた。前述のロンドン条約で軍拡派の総帥であった加藤寛治軍令部長や次長の末次信正中将らにもコネをつけ、その上で海軍の軍拡派といわれる岡敬純中佐(軍令部第二課、後、軍務局長、中将)、石川信吾少佐(後、少将、第二十三航空戦隊司令官)らにわたりをつけ、「星洋会」という革新結社を作り、時局を論じた。このうち石川は橋本と共通したファッシスト的なところがあり、昭和十三年頃からは、三国同盟結成に力を入れ、海軍の親ナチス派といわれる。
その結果、海軍の佐官級にはさして同調者は得られなかったが、間もなく若手の藤井斉らの王師会のメンバーと連絡が取れ、これが翌年の五・一五事件に結びついていくことになる。
そして昭和六年春、いよいよ軍部ファッシストの国家改造運動は始動し始めた。
この最初のクーデター実行の為、橋本らはこの年が明けた早々の一月十三日、宇垣陸相官邸において、クーデター計画を陸軍上層部に説明した。この会合には杉山元陸軍次官、小磯国昭軍務局長、建川美次参謀本部第二部長らも同席した。
陸士一期生の宇垣は、常に中央で参謀の道を歩み、陸相二回の経験をもつ、陸軍部内でも政治力のある将軍として、若手の期待を集めていた。但し彼には大正十四年加藤内閣の陸相の時に、四個師団の軍縮を行なったという暗い経歴があり、これがやがて出世のさまたげとなるのであるが、この段階ではバランスのとれた組織、事務能力で、上下の信望も厚く、統制派の祖といわれ、これが十五期後輩の永田鉄山(この時、軍事課長)に引き継がれていくのである。
橋本らが大川と相談して練りあげたクーデター計画、すなわち『昭和維新』のプランは、次の通りであった。
一、当日、労働法案上程の日(三月二十日頃)、日比谷公園で拳闘大会を開き、浪人多数を入場させ、試合終了後、警視庁に乱入させる。
二、大川が浪人、大衆約一万人を動員し、議会に向かってデモ行進を行ない、同時に第一師団の兵力で議会を包囲する。
三、先に大川が擬似爆弾三百発を用意し、これを議会に投下し、混乱のうちにクーデターを発動させる。
四、内閣を総辞職させ、閑院宮や西園寺を動かして参内させ、宇垣に大命降下を仰がせる。
五、かねての閣僚名簿により新内閣は憂国の志士を登用し、無能なる重臣を追放し、『昭和維新』の実を挙げる。
以上が主として大川が立案した『昭和維新』の具体案であるが、どこか子供の戦争ごっこ≠ノ似ている。
最大の問題は、後に北一輝のいう玉《ぎよく》≠どうして手中に入れるのか? 天皇に事前にこのクーデター『昭和維新』を上奏して、裁可を受けることが出来るのか? ……。
そして今一つの問題は、首領として担ぐべき宇垣が、どの程度この計画に同意するのか? である。
そこで二月下旬、橋本は大川を宇垣に面会させ、その真意を叩かせてみた。
しかし、曲者《くせもの》の宇垣は、中々本当の腹の中を打ち明けない。
「現在の政党政治では、日本は危機をむかえる……」
といってみたり、
「自分は軍人だから国家の為ならいつでも命を捨てる決意は出来ている」
と覚悟のほどを示したが、いざクーデターの首領となると、首を縦には振らない。
この時、宇垣の腹中には、一つの計算があった。浜口内閣は危機に瀕していた。前年の統帥権干犯問題で、内閣は窮地に陥り、浜口首相は右翼に狙撃されて、重傷を負い、病院から議会に出席している。
――この内閣、退陣は早い……と宇垣は踏んでいた。その場合陸海軍を抑える意味で、最も短距離にあるのが自分だ……ということを彼は十分に意識していた。――それを今、大川や橋本らの事件屋にかつがれて、クーデターの神輿《みこし》に乗せられ、下手をすると予備役に回され、法廷に立たされることになる。
――危ない橋を渡らないでも、いずれ政権はおれの手中に転がりこんでくる……今は民政党の内閣で、これが倒れると、順序としては政友会だが、陸海軍の軍拡派と大陸進出派を抑えるには、相当の統率力が必要だ……そうなればいずれおれの出番が回ってくる。急ぐこともあるまい……。
このような肚《はら》で宇垣は出馬をためらっていたが、決起派は大川の言葉を信じて、宇垣が立つものと決めてかかり、杉山、小磯、二宮(治重)参謀次長、建川らが、宇垣と夕食を共にして、クーデターの話をしたが、宇垣は政党の悪口はいったが、クーデターの首領になるとはいわない。
大川は小磯らと相談して、クーデターの計画書を作成し、これを宇垣に示し、翌日、小磯が、
「大川博士の建策を読みましたか?」
と聞いたが、宇垣は苦い顔をして、
「読んだが、あんな馬鹿げたものが実行出来るか……」
と黙殺した。
三月に入ると民間の国家改造派がデモを始めた。このデモが二回行なわれた後、杉山と小磯が宇垣に、
「このデモに軍隊を加担させて頂きたい」
といって宇垣に頼んだが、彼はそれを認めなかった。彼の観測では、大川如きの策でクーデターを行なって失敗すれば、かつがれた自分も失脚するし、陸軍の中枢も総退却ということに成りかねない。――もし政界、財閥などの腐敗を理由としてクーデターを行なうならば、その前に、立憲的に議会で陸軍の意見を堂々とのべ、それが通らない時に非常手段を講じなければならない。杜撰《ずさん》な計画でクーデターを発起するならば、陸軍の上層部は総退陣となってしまう。
といって、この際明確にクーデターを抑えるならば、宇垣は杉山、小磯らはもちろん、青年将校らの信望をも失う可能性がある……宇垣がそう逡巡している間に、統制派の永田(軍事課長)、岡村(補任課長)、鈴木(貞一、軍務局員)らは、大川の計画に不満で、二宮、杉山、小磯らも決心が鈍ってきた。宇垣が立てば自分たちもやれるし、若手もついてくるが、宇垣が腰砕けになると、その後を纏める後釜はいない。そうなると国家改造のクーデター派は、二階に上がって梯子を外されたようなものである。憂国も大事であるが、こういう粗末なクーデターで陸軍を追われるのは、ご奉公の道ではあるまい……と彼等も考えるようになっていった。
三月六日、大川は宇垣に最後通牒≠ニもいうべき催促の手紙を送ったが、宇垣はこれを拒否し、関係の将校たちに計画の中止を命じた。また大川が強調していた民間の一万人動員も危うくなってきた。
三月十日頃、小磯は大川に「オヤジは止めだ」と連絡したが、革新のドン≠以て任じている大川は、なおも初志を貫徹すべく、頭山満に会って意見を聞いたりしたが、最高のドンである頭山も賛成せず、デモの動員にも成功の見込がない、というような態度である。
一方、清水行之助(北門下、猶存社結成に参加、後、大行社会長を経て、大正四年、大川周明と行地社を結成)は二月下旬、大川と共に彼等のパトロンであった尾張の徳川義親侯爵に会い、クーデターの趣旨に賛同してもらって、二十万円の資金をもらい、三月二十日には決行するという大川の言を信じて、十八日、実施部隊たる陸軍の意向を確かめるため、大川と共に陸相官邸に宇垣を訪れたが、宇垣は面会を拒絶、小磯に会ったが、「上官の命令だから背く訳にはいかない」というだけである。
これで、後に「三月事件」と呼ばれるクーデター決起は不発に終わったが、この時、先に昭和三年六月の張作霖爆殺事件で予備役となっていた河本大佐が登場、彼はクーデターを教唆する側ではなく、これを鎮静させる側に回り、小磯の代理だといって徳川に会い、計画の断念について大川、清水を説得するように依頼した。
事態を察知した徳川は、河本と共に大川、清水を訪ね、強く説得し、大川らも断念し、結局、クーデター事件は外部に漏れることなくして収まった。
実害も実利もなく終わった三月事件であったが、そこには多くの人々の思惑が動いていて興味深い。
何よりも疑問に感じられるのは陸軍のドン♂F垣の言動である。彼は事件の計画の段階では、杉山や小磯らに、国を憂えるようなことをいい、いよいよ決起近しとみるや、態度をあいまいにして、雲隠れ%ッ様に舞台の上から姿を消してしまった。大根役者ではないが、名優ともいえまい。しかし、出世する人物は、誰でもこういう権謀術数を身につけているものらしい。
宇垣のこの時の動きは、二・二六事件の時の真崎甚三郎大将の言動に似ているともいえる。磯部、安藤らの革新派青年将校が、真崎を訪ねて『昭和維新』の気勢を揚げると、かつて校長である真崎は、大いにこれをアジった。彼の腹中には、青年将校を煽動して、統制派の将軍たちに圧力をかけ、再び皇道派の勢力を盛り返そうという意図があったに違いないが、いざ青年将校たちが岡田総理、斎藤内大臣、鈴木侍従長、高橋蔵相らを殺害したと知るや、まさかこんなに過激にはやるまいと考えていたので、天皇がクーデターに怒っておられることを知ると狼狽し、最後には、保身の為に、教唆の事実はない、無関係だと叫び、ついに無罪となってしまう。
その点、北一輝は事件の立案に与《あずか》らず、西田が決起派の支援をしたに留まるが、事件の途中で逮捕された北一輝は、取り調べに当たって、
「自分はこの計画には与っていないが、私の『日本改造法案大綱』の影響で青年将校たちが決起したというならば、私も刑に服しましょう」
といって死刑の判決を受け、従容《しようよう》として刑場に向かった。北一輝には今も心酔者が多く、その研究も益々盛んで、外国人にも研究家がいるほどである。
宇垣もうまく政界を泳ぎ、二・二六事件の後には、広田内閣の外相にもなったが、いよいよ待望の大命降下となり、組閣にかかった時、陸軍は彼の内閣に陸相を出すことを拒否した。その原因は一つには陸相時代の四個師団削減にあるが、この三月事件で総帥としての器量を疑われたことも、根の深いしこりとなっていたと思われる。
秦郁彦氏の『軍ファシズム運動史』では、三月革命不発の原因を次のように分析している。
一、大川ら民間組の計画の過小にすぎたこと。三月二十日の動員も不十分で、クーデターの計画も実現性に欠ける幼稚なものであった。
二、桜会内部及びそのシンパである二宮、杉山、小磯ら上層部の意見の分裂。
三、真崎第一師団長、山岡重厚大佐(教育総監部第二課長)、小畑敏四郎大佐(陸大教官)らの皇道派グループが参加を拒否したこと。
この点、真崎はその手記に「三月十五日に磯谷参謀長から十八日にやるという話があったが、自分は反対して、司令官の命令があっても、不純の目的の為には、責任を持って兵力を配置せず、直ちに永田に伝えよ」と記し、決起に反対であったことを主張しているという。
四、既述のようにこの頃、政党、財閥から宇垣抱きこみ工作が進展し、合法的に政治の舞台に進出する見通しが生まれてきたこと。
この結果、国家改造派は多くの教訓を得た。軍首脳部もある程度は国家改造の為のクーデターを必要と感じているということ、また桜会のように浪人の謀叛的行動ではなく、合法的手段によって軍部政権ないしは、これに近い革新体制を実現しようという佐官級グループが前進し始め、革新派も皇道派、統制派に分れ、十月事件の失敗と共に、佐官級も後退、海軍の五・一五事件の後には、陸軍でも下級青年将校の断固たる決起に、舞台は回っていくのである。
ではこの危急の時に、北一輝は何を考えていたのか? 単なる決起を無意味とし、やるならば、上層部を抱きこんでやらなければ意味がない……というのが、北の考え方である。しかし、彼は今回の決起計画について、直接意見を述べることはなかったが、組織脆弱、時期尚早、特に上層部との意思の疎通に欠けるという意見であった。
[#小見出し]   満洲事変と十月事件
三月事件に挫折した桜会の橋本らは、懲りることなく、次の計画にかかった。
この事件で組織の弱さを知らされた彼等は、今度は陸海軍協同の上、民間の井上日召、橘孝三郎(愛郷塾長)らと結ぶことにした。
彼等の拡大闘争委員会は、三月事件から五ヵ月後の八月二十六日、神宮外苑の日本青年会館で、次のようなオルグたちを集めて、密かに行なわれた。その出席者は次の通りである。
陸軍 菅波三郎、大岸頼好ら
海軍 藤井斉、三上、古賀ら王師会のメンバーのほか、村上功、伊藤亀城ら
民間 西田、井上、橘、小沼正(井上準之助を暗殺)、菱沼五郎(団琢磨を暗殺)ら
西田が司会者として、まず中央本部を西田方におき、次のように地方の連絡支部をおくことを決めた。
海軍 全般及び九州責任者 藤井斉
横須賀地方 山岸宏
第一艦隊 村上功
第二艦隊 古賀清志
陸軍
関東地方 菅波三郎
東北地方 大岸頼好
九州地方 東昇
四国中国地方 小川三郎
朝鮮地方 片岡太郎
民間 愛郷塾責任者 橘孝三郎
大洗責任者 古内栄司
しかし、この総合的、寄せ集め的結社はなかなか足並がそろわず、クーデターの計画、実行は急には無理であった。
一方、満洲では後に戦争の天才≠ニ呼ばれる石原莞爾中佐を作戦参謀とし、板垣征四郎大佐を高級参謀とする関東軍司令部が、今度こそは満洲全土を日本の支配下において、日本の人口の捌け口を見出すと共に、中国経営の北方の枢要基地とすべく、綿密な計画を練り、中央の参謀本部、陸軍省の要所とも連絡を取っていた。
後に東亜連盟を提唱する石原は、この満洲の事件を国内改造の外部からの圧力とするコンセプトを抱いていたが、それは国内のオルグたちに優れた指導者がいないので、満洲で事件を起こし、こちらから圧力をかけるという、ヨーロッパにおけるモルトケ(彼は滞欧中、フリードリッヒ大王の軍師として、ヨーロッパを震撼せしめたモルトケやナポレオンの研究をしていた)的な総合戦争の将来を見越して、旅順や遼陽の関東軍司令部で、策を練っていた。
河本らの張作霖爆殺事件と違って、今度は十分な計画と連絡を考慮し、九月末、まず奉天で張学良の奉天軍を撃破するため、再び満鉄を爆破して、奉天軍のせいとすることにした。
九月十八日未明、北の鉄嶺方面からやってきた満鉄の列車を爆破すべく、奉天駅北方の柳条湖地点に爆薬を仕掛けたが、タイミングが悪く、爆薬は線路の一部を破壊しただけで、列車を転覆させるには至らなかった。
しかし、やる気のある石原はそれでも構わず、爆音と共に満洲占領作戦を開始し、奉天城に大砲をうちこみ、忽ち満鉄沿線からハルビン、チチハルまで、関東軍と独立守備隊で制圧してしまった。
これで怒ったのが、ジュネーブに本部をおく国際連盟加盟の中国(蒋介石の国民党政府)はもちろん、英国、フランス、それに加盟国ではないが、オブザーバーとして、顧問的な名目で介入していたアメリカである。
彼等は激しく日本政府に抗議し、やがて国際連盟は日本の満洲占領にブレーキをかけるべくリットン調査団を送り、日本も、昭和七年秋には、満鉄副総裁の経験があり遣手の松岡洋右を全権に送り、ジュネーブで激しい論戦を展開し、結局、翌八年三月ついに国際連盟を脱退することになり、これが日本の孤立と独、伊への接近、三国同盟の成立、そして太平洋戦争への道となっていくのである。
話を元にもどして、三月事件の決起に失敗した桜会の橋本らは、満洲事変の勃発を知ると、(橋本は事前に知っていて、勃発後、石原に激励の電報を打ったといわれる)早速、三月事件の失敗を取り返すために、十月事件を起こすことにした。
リーダーは橋本であるが、参謀は田中清で、彼の手記によってその計画の大要を眺めてみよう。
一、決行の時期 十月二十一日(同志の田中信男少佐が宮城衛兵司令の日)
二、参加将校 加盟せる将校、在京者のみにて約二百名。
三、参加兵力 近衛各歩兵連隊より歩兵十個中隊、機関銃中隊二、歩三より一中隊。
四、外部からの参加者 大川周明、北一輝、西田税らの一派、海軍抜刀隊(約十名)、海軍爆撃機十三機、陸軍機三ないし四機。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
五、1、攻撃目標 首相官邸の閣議の席を急襲、首相以下の閣僚を斬撃する。指揮官は長少佐。
[#ここから2字下げ]
2、警視庁の占領。
3、陸軍省の占領、参謀本部を包囲、幹部に同調を強要し、軍の行動に対し命令を下す。
4、報道、通信機関の占領。不良人物、将校の制裁、捕縛。
[#ここで字下げ終わり]
六、クーデター成功後の新内閣の名簿(東郷元帥に参内を要請し、新総理・荒木貞夫〔中将、教育総監部本部長を予定〕に大命降下を上奏する)
首相兼陸相 荒木貞夫
内相 橋本欣五郎中佐
外相 建川美次少将(参謀本部第二部長)
蔵相 大川周明
警視総監 長少佐
海相 小林省三郎大佐(霞ケ浦航空隊司令、藤井ら王師会の理解者)
七、決起資金、二十万円を準備する。
この計画を見ると、『昭和維新』の名の如く、彼等が自分たちを明治維新の志士たち……西郷、大久保、桂、山県、あるいは坂本龍馬などに擬していることが想像される。
彼等は実施の作戦を密にする前に、遊興の面で、まず明治維新の志士たちの行動を真似した。
……酔うては伏す美人の膝、醒めては議す天下の計……長勇の手記によると、「毎晩の如く金龍亭などの料亭で芸者を侍らせて、酔うては早くもクーデター成功のような気分で豪遊を続けていた」という。
今回は将官以上は抜きにしたというので、成功後の論功行賞を予定し、「大川博士が天皇からの詔勅の文案を作成している」などと大言壮語していた。
北一輝はこのクーデターにも直接加担、或いは指揮をすることはしなかったが、西田税をオルグとして裏面で陸軍と連絡をとって、活躍した。動員可能の兵力としては、中隊長が北一輝に心酔しているもの四個中隊に対して、大川に心服している中隊長は一の割合であった。
三月事件よりは計画が大掛りであったが、料亭で豪遊し、大言壮語するなど、機密保持の点では、尊皇の志士などに及ぶべくもなく、十月五日頃には政府の上層部や宮中にも、この決起の情報は流れていた。ただこの計画には、秩父宮や賀陽宮も相談に与《あずか》っているという情報もあったので、警察も憲兵隊も慎重を期した。宮中では三年前の張作霖爆殺事件以来、軍のファッシズム運動には密かに注目しており、十月五日頃には、橋本一派の不穏な噂が伝わり、橋本は憲兵や警察の尾行を受けるようになった。
ところが陸軍省では、これに気づかない幹部もいた。木戸内大臣秘書官長が、陸軍省の井上三郎大佐(整備局動員課長)に、この件で注意したところ、井上は何も知らずに驚くというような状況であった。
それでもこのクーデター計画は、橋本らの志士気取りの豪遊や大言壮語によって、上層部の知るところとなり、十月十六日には、参謀本部から中止命令が出ることになった。
その原因は、前回オルグとして働いた田中清大尉が、橋本や長らの独善的な振舞いに反感と危機感を抱き、池田純久少佐と相談の上、今村均大佐・参謀本部作戦課長(後、ジャワ方面、ラバウル方面の第八方面軍司令官、仁将として人望あり)に直訴したことにある。
今村はこの計画には薄々気づいており、参謀本部第一部長の建川美次少将が了解をしていると聞いたので、まず建川に相談した。建川は日露戦争時代、奉天後方の敵情挺身偵察で殊勲を立て、その後少年少説の『敵中横断三百里』の主人公となるなど、部内でも有名で、満洲事変でも石原莞爾らに同情的であったといわれる大陸進出派の積極派であった。
今村は橋本らのクーデター計画について建川に質《ただ》した。建川は、
「桜会については『時局の研究の集まりだ』というので、費用の援助もしたことがあるが、そんなことをする時期ではない。あすの朝、橋本に会って止めさせよう」
と答えた。
ここで奇態なのは橋本の行動である。彼は建川の勧告を受けると、中止を承諾し、その足で杉山次官の元にゆくと、「計画中止」の報告をしたが、その次にはクーデター内閣の首班に擬せられていた荒木貞夫中将(教育総監部本部長)に会って、決起のことを話し、首領となってくれるよう要請した。
三月事件の時の宇垣と違って、何も聞いていなかった荒木は、驚いて橋本の軽挙を戒め(ほかの将校たちが遊興していた旅館へ抑止にいったという説もある)、橋本もこれを了解した。――橋本の肚《はら》では、今更中止ということも出来ないので、白紙であった荒木に計画を洩らし、この止め役をやらせたのであろう。
ところが午後四時頃になると、別の動きが現われた。三人の少佐(根本、影佐禎昭《かげささだあき》、藤塚|止戈夫《しかお》)が今村のもとに現われ、
「先日、橋本中佐が、建川部長、杉山次官のところに計画の中止を報告に行きましたが、あれはウソです。急進派は断行するといって、明十七日午前四時を期して非常手段に訴える予定で、今夜、築地の金龍亭で打ち合わせを行なうといっております。断固たるご処置をお願い致したい」
と述べた。
そこで今村は陸軍の各関係責任者に、陸軍省に集合してもらい、対策を練ることにし、特に荒木中将の参加を要請した。憲兵司令官外山豊造中将も出席、クーデター計画中の将校たちを検束する説、橋本らに同情してそれに反対する者ら……意見は一致せず、結局、荒木が説得にゆくことになり、金龍亭に出掛けた。橋本はいなかったが、代わりに大川と海軍の小林省三郎少将(霞ケ浦航空隊司令、海軍側革新派の首領)がいた。
荒木は長少佐(八月、北京駐在の命令を受けていたが、無断で在京していた)から、計画の内容を聞き、中止を説得したが、長らははっきりした返事をしない。
ただ決行は今夜ではない、と聞いたので、午後十一時過ぎ陸軍省に引き揚げた。
荒木は青年将校らに同情的であったが、間もなく彼等が予定通りクーデターを実行するという情報が陸軍省に入ったので、十七日午前一時頃、南次郎陸相は、憲兵司令官に加担の将校全員の検束を命じ、夜明けとともに参内して、天皇に事件の内容を報告した。
待ち構えていた憲兵隊では、早々に行動を起こし、金龍亭で十二名の幹部将校を検束した。この時、決起派将校の態度は、正に幕末の志士の如く、「待合の床の間を背にして、美妓を左右に侍らせ、傲然と構え、軍服の胸には天保銭(陸大卒業徽章)と参謀|飾緒《しよくちよ》を輝かせていたという。逮捕に向かった憲兵たちは、平身低頭、御機嫌を奉伺して自動車に乗って頂き、料亭に着くと、『酒よ肴よ』と美妓ならぬ無骨者の我々がお酌して、歓待に努めた」(小坂慶助『特高』による)というような状態であったという。
これらはみな荒木ら同調した上層部の差金によるもので、いかに革新派と称する将校連が優遇されていたかがわかる。それというのも、彼等は何時暴発するかわからず、その時、冷淡であった将官は真先に血祭りに上げられるという噂が流れていたからだという。どことなく状況は幕末の勤皇の志士と幕府の要人の関係に似てきたが、この時、決起と称して上層部を脅かした将校たちの中で、果たして何人が、後に革新、国家改造の実を上げたのか? 少なくとも彼等佐官の中には、二・二六事件の時、安藤、磯部らの青年将校とともに、処刑台に登ったものが、幾人いたのであろうか? ……。
彼等は次のように分宿という形で、軟禁された。
橋本、根本 千葉県吾妻町梅松屋
長、馬奈木 市川市市柳旅館
和知、天野、野田 宇都宮市伝馬町白木屋旅館
藤塚、田中弥 静岡県田方郡函南村二屋旅館
影佐、小原、田中信男 横浜市港屋旅館
彼等はこの軟禁個所でも、芸者付で豪遊していたというが、今村の発案で彼等の生活費(遊興費を含む)は、陸軍の機密費から支出することになったという。
これが国民の知らないところで行なわれた、革新将校らの国家改造≠フ十月事件の顛末《てんまつ》であった。
また彼等が検束された後、歩兵三連隊の青年将校多数が、憲兵隊への切り込みを計画したという話もある。「憂国の志士を検束するのは怪《け》しからん」というので、抜刀隊を組織するという騒ぎであったが、三連隊長・山下奉文大佐(皇道派の中堅)が説得して、解散せしめたという。
更に面倒なのは、軟禁した彼等将校たちの説得であった。本来ならば軍法会議にかけるところ、当局はどこまでも革新の二字に甘く(テロを恐れた?)一ヵ月近い説得で、やっと橋本から、「今後は不穏な行動はとらない」という誓約書を取り付け、それで謹慎を解き、橋本は二十日、長、田中弥らは十日などの謹慎処分とし、十二月の異動で、橋本が姫路の砲兵十連隊付になるなど、各地に散り散りにされたが、その辞令が出ても、まだ任地に赴任せず、次の決起を画策するというような将校もいたというから、中央の威令の効果なきことこの上なしという下克上も極まったのが十月事件で、これで今度は海軍の革新将校たちが、五・一五事件を起こす原因の一つといわれることになる。
また陸軍中央は橋本が立案したこの事件の「計画書」(血盟連判状、中央幹部将校たちの思想傾向及び行動計画などを含む)は、参謀本部ロシア班の金庫から出され、軍幹部が回覧した後焼却されたので、十月事件の詳しい真相は闇に葬られたという。
こうして十月事件は、三月事件とは別の形で不発に終わったが、それなりに軍中央はもちろん、政界、財界に密やかではあるが、大きなショックを与えて消える結果となった。
大体、持てるものが大きいほど、革新の声に脅え、革命や内乱を恐れる。それは財閥も将軍、提督も変わりはない。後の二・二六事件に見るまでもなく、中国革命やロシア革命では、多くの軍閥、財閥の血が流されている。
日本の軍閥や財閥、高級官僚、宮廷の重臣たちが、革新の将校を恐れるのは、それだけ彼等が蔭で不正を働き、国民を搾取しているからだと革新将校らは考えている。
自分たちが権力を握って、国家革新を行なうまで待てないから、クーデターの形をとるのである。
そしてこのクーデターの方法論に関して、北一輝の『日本改造法案大綱』をテーゼとする組と、大川周明の時局便乗的な国家主義にリードされる組とが、ほぼ同じ時期に決起することになったので、事態は紛糾し、結局、彼等が軍中央を脅して、幕末の志士然として、美妓を侍らせて豪遊するというだけに終わってしまった。
では『日本改造法案大綱』のご本尊である北一輝は、十月事件の時、何をしていたか? ……北はこの年二月牛込納戸町から、すず子とともに大久保に転居して、相変わらず日蓮や宋教仁の霊と会話を続け、時々霊告を受けては、西田を通じて指令を仲間に与えていた。
この年八月、日本青年将校会館で陸、海、民間のファッシスト大会が開かれ、北は出なかったが、西田は北の意向を受けて出席し、北の霊告が出ると、それを橋本ら決起を予定している将校らに、お告げ≠ニして、通報していた。
この大会では北、西田のグループがリードした。
しかし、実際に橋本らが決起を準備して、クーデターの用意にかかると、北一輝の霊告は、彼等を阻むものとなっていった。
西田が金龍亭のアジトで橋本らの協議に加わっていると、北から電話がかかってくる。
「今、霊告があった。『玉《ぎよく》を手中に入れよ。玉手中にあらざれば、決起軍砕けん』」
というような調子である。
西田はそれを橋本らに分かり易い形で伝えるが、橋本は必ずしも北の霊告なるものを信頼してはいない。それは、実際に北の霊告によって利するところがなかったのか、『日本改造法案大綱』を革命、クーデターのマニュアルとして認めてはいたが、急進的な大川の方のクーデター論の方が景気がよくて、豪勢なことの好きな橋本の好みに合ったからであろう。
また大正八年夏、北一輝が断食して書き上げた『日本改造法案大綱』の草稿を日本に持ち帰ったのは大川で、北の苦心の作に対して、大川が自分が指導したような口ぶりをファッシストたちに洩らしていたのかもしれない。
北一輝の霊告や日記には、宮本盛太郎氏編の『北一輝の人間像』があり、昭和四年七月以降の日記と霊告を集めているが、その大部分は昨今話題になっている『ノストラダムスの大予言』とどこか共通していて、深読みしなければわからないものが多い。
例えば十月事件の前後を読むと、八月二十六日浜口前首相が死去するが、その翌日、
『人の顔の上に文字
是見よ敗に非ず勝なり』
という霊告が出ている。これは前年十一月、東京駅で浜口を狙撃して、逮捕された井上日召の門下、佐郷屋留雄の事を心配した霊告が前に出ていて、浜口が死んだので、佐郷屋のテロが成功したものとして、こういうお告げが出たものと見るべきであろうか?
そして昭和六年、三月事件の直前には、
『戦場|勝鬨《かちどき》目前』二・二四、卜伝(塚原卜伝か?)
とあり、続いて、三月八日には、
『悪運|将《まさ》に尽きんとす』
三月十二日には、
『あせるな吾は天の命を
受けて見参す』卜伝
同十八日、
『戦場の常何に取る
に足らぬ』卜伝
そして事件終末の三月二十日には、
『敵もさる者
風前の灯
敗に非ず勝鬨目前』卜伝
そして同年九月の満洲事変勃発の時には、
九月十八日、
『往年国策の誤事|茲《ここ》に
至る能く自覚せよ』種臣(副島種臣のことか?)
事変発生後の九月十八日には、
『海の上に城現わ
る、一城ずつ現われては後虹現わる、
其処動くな』鉄舟
と今度は山岡鉄舟が現われている。
翌十九日には、
『何に自由変化を見よ』でまた卜伝が現われるが、事変発生が報道された翌二十日には、
『恐怖不安現状戦略秘報の一つ』でまた卜伝が現われる。
次に十月事件の前後に、どういう霊告が北一輝に降《くだ》っていたのか知りたいところであるが、これが意外に少なく、十月十七日の項に、
『身辺御注意
大事の上大事を取られたし』
で今度は大塩(平八郎のことか? 大塩は天保の大飢饉の時、大坂で義軍を挙げ、民衆の為蜂起したが、敗れて自殺している)が出てくる。
十月二十日には、やはり大塩の苗字で、
『我不覚を取りしは悪《にく》む
べき裏切り者出し故
特にこの点御注意あり
たし』
となっている。
どの程度までこの霊告が当たっているかは、推測するほかはないが、鉄舟や卜伝が出たり、大塩が出たりして、読み方によっては、的中しているところもあるようである。
ここで思い出すのは、前に紹介した北一輝の弟・北ヤ吉の回想である。ヤ吉はこう書いている。「兄がどうして霊感的人物になったかといえば、既に幼少からその萌芽があった。妙な夢を見て恐れたり、夜分何者かの幻覚を生じて、気味悪がっていた。(佐渡で筆者が面談した縁戚の本間節子さんは、晩年の北一輝が若い彼女に、「便所に行きたいが、怖いからついてきてくれんかね」と真顔で言ったので、驚いた――と回想している)
僕は身体が強く夢すら見たことがないので、兄を臆病虫だと思っていた。この変態心理的傾向は、永年の眼病の為、コカインか何かに影響されたのではないか、と思う」
北一輝は独学ではあったが、へたな大学の教授も及ばないほどの博覧強記で、その学の広さと深さは、多くの学者も感嘆するほどであった。それがコカインの如き薬物の多年にわたる刺激によって、一層異常なものに研ぎ澄まされていったのではないか? 北を知らない人は、北の霊能者としての実態とその霊告なるものを笑うだけであるが、一旦、面談すると、その異様な隻眼から発する電磁気を帯びたような光線に、全身がしびれたようになり、大川周明はいみじくもこれを大魔王≠ニ名付けた。
北一輝には一種の催眠術師のような心霊の力があったのかもしれない。
[#小見出し]   西田税の経歴
ところで北、西田と十月事件の関係であるが、須山幸雄氏の『西田税 二・二六への軌跡』(芙蓉書房)によると、北一輝は始め、この十月事件に反対ではなかったという。北の『日本改造法案大綱』に盛られたクーデターの実行案は、大日本帝国憲法を停止し、天皇の命令で革新内閣を造り、改造法案を実施するというもので、天皇あるいは皇室を上に仰がずしてクーデターを行なえば、最後の段階で天皇が反対した場合、失敗する可能性が多いというものであった。その点、十月事件では、天皇はおろか皇族も十分に把握出来てはいない。それで北はこのクーデターに成功の期待は寄せていなかった。しかし、参謀たちがどの程度やれるのかお手並み拝見、という訳で西田にも後の五・一五事件の時のような中止の指示は与えていなかった。
従って西田税はこの事件の始めから、同志という形で関わりあっていたが、将校たちの間には西田を邪魔もの扱いする者もいた。
参謀たちの中には、『日本改造法案大綱』の著者として北一輝を信奉している者もおり、北の代理として西田を頼みとする者もいたが、若手の隊付将校の中には、浪人である西田と組むことに不賛成の者もいた。
情報担当の田中清大尉は、この決起は団結が不足だとして、最後まで反対し、次のように西田の参加を嫌った。
「自分は最後まで決行に反対だ。百歩を譲るとしても、軍部以外の者と提携するのはいかん。なかんずく西田の如き徒において然り。手を切れないか」
結局、決起は失敗して、将校たちは、前記の如く軟禁されたが、ここで誰がこの秘密計画を洩らしたのかが問題となった。一番疑われたのは、浪人の西田である。実際は前記のように、失敗を予期した橋本が、杉山次官に会ったりして、計画を洩らすことによって、これを不発にしたのであるが、将校らの間では、クーデター計画を上部に洩らしたのは、橋本か西田かというのが問題となった。
田中清は十月事件発覚の動機として、次の四点をあげている。
一、将校たちの維新の志士たちのような酒に溺れる不謹慎な態度。
二、十月十六日に橋本中佐が杉山次官に加盟を強いたこと。
三、西田税、北一輝らはこの事件の内容を政友会に売れりという。本件は確実にして一点疑う余地なし。事件落着後における彼等二人の行動は明らかにこれを立証しあり。
四、大川周明が宮内省高官に売れり。
当時、日本国民党の委員長であった寺田稲次郎は、この事件には加担しなかったが、内容は知っていた。彼は西田について、次のように述べている。
「西田というのはいかにも軍人上がりらしい硬い男で、無口で陰気臭い男だが、口は堅い。警察でもてこずっていたほどだ。その西田が計画を外部に洩らすということは考えられない。案外北一輝のほうが洩らしていたのかもしれない。北一輝というのは、よくいえば革命家だが、むしろ謀叛人といったほうがふさわしい人だ。平地に波乱を起こす、平気で味方を裏切る人だ。私は十五年も北一輝の家に出入りしていて、北一輝の表裏を知り尽くしているのだ」
寺田はさらに次のように重要な観察を残している。
「今の若い人は文献だけで北一輝を研究している。文献では、思想はわかっても人物そのものはわからない。大川周明が北一輝を大魔王≠ニ呼んだのは、けだし名言だ。北一輝はいかにも魔王、何をするかわからん、心底のつかめない人だった。西田君が対決の場に出なかったのは、恐らく北一輝に止められたのだろう。そんな次元の低い連中を相手にするな、という気持からなんだ。北一輝はあけっぴろげの人で、憲兵や警官を皮肉ったり、からかったりして喜んでいた。西田君はおよそ反対で万事秘密主義で、容易に腹の中を見せない。その上、人を見下すという態度がある。橋本などとも対等に接していたと思うね。そんな所が省部の佐官連中の反感をかった、というのが真相じゃないかな」
とにもかくにも十月事件は社会的には、不発に終わった。
ここで須山氏の『西田税 二・二六への軌跡』を参考として、西田税の経歴をおさらいしておこう。いよいよ彼が革新運動の表舞台に登場するからである。
西田税は明治三十四年十月三日、鳥取県米子市博労町で生まれた。北一輝より十八歳下、二・二六事件で同志となるオルグ・磯部浅一より四歳年長である。この年は昭和の日本人に縁の深い年である。昭和天皇がこの四月二十九日に誕生されたからである。西田税は後の天皇より六ヵ月遅く生まれたことになる。また二・二六事件の前に、陸士の同期生として関わりを持ち、未だに謎を残す秩父宮は、この翌年六月二十五日の誕生である。
西田税の父・久米造は仏具商であったが、気性の激しい人物であった。税は四人兄弟の末っ子だが、父に似て気の強い少年となった。父・久米造が税と命名したのは、税金とは関係なく、貢ぐ……国家に貢献する男子として、捧げる意味であったという。
山陰の古い町で税は育ったが、ここで一つ気がつくことがある。それは二・二六事件の代表的な人物が、みな寒い日本海側や北海道で生まれていることである。
北一輝は佐渡、西田税は山陰の米子、磯部は山口県大津郡菱海村河原(現在の油谷町)で、日本海に面したあたりの産。村中孝次は北海道旭川で生まれている。
筆者は以前、伊藤博文伝を書いた時、薩摩人は豪放、長州人は陰謀好きという傾向を指摘したことがあった。それは薩摩人が鎌倉時代以来の名門の面目を損なわず、秀吉にも家康にも屈伏せず、旧領を保ったのに対して、長州は関が原の戦後、安芸を中心とする百二十万石から、日本海側の萩三十二万石に減領され、寒冷と積雪に耐えて江戸時代の忍従生活を送ってきたからではないか? ……と疑問を呈したことがある。確かに山県や桂太郎の遣りかたには、策謀家らしさがみえる。しかし、その中にあって伊藤が常に調和力に富み明るいのは、彼が瀬戸内海に近い温暖な熊毛郡|束荷《つかり》村で育ったからで、そのヨーロッパでいえば地中海的な性格は、萩に移った少年時代にも、暗く変化することはなかった。
――環境が人間の性格を造る……というのは筆者の一つの人物研究の方法であって、西郷隆盛は桜島を仰ぐ鹿児島、石川啄木は雪の岩手山を仰ぐ渋民村であの性格を育てる、というようなことを例としたことがあった。二・二六事件の主役たち、特にカリスマやオルグたちが、寒冷な日本海側で育ったということは、彼等の革命、変革の思想になんらかの意味で、影響を与えているのかもしれない。
西田税に話を戻して、明治四十一年四月、彼は米子の啓成小学校に入学した。磯部と同じく一年生の時から抜群の成績で、卒業するまで殆ど満点の成績であったという。体も大きく負けず嫌いで喧嘩も強かったが、必ずしも餓鬼大将ではなく、性格は直線的で容易に人を容れないところがあり、北一輝と違って一匹狼的なところもあって、秀才らしく自負心は強く、また傲岸で人を見下すようなところもあったという。北はカリスマとなり、西田が孤高でオルグに留まったのは、学識にもよるが、その性格によるところも大きいであろう。
税の兄英文も秀才で、米子でも有名で、将来を嘱望されたが、市内の角盤小学校の教師をしている時、耳の病気で早世した。
この病気のため、英文は軍人志望であったが、それが成らず、弟の税に望みを託し、
「国家の大事を双肩に担うのは軍人である。大西郷のようになれ」
と税を激励した。
父の久米造も国士ふうの気概のある人物で、税に「国家の役にたつ人物になれ」と口癖のようにいった。税は二十四歳の時に書いた自伝『戦雲を麾《さしまね》く』の中で、父のことを、「大塩中斎」のように民衆の為に、幕府に楯をつくような人間だと、敬意を表している。税の反骨は父親譲りであろう。
小学校六年生の時の教師・友松文雄は、後に鳥取県の教育界を牛耳る大物になる人物であるが、西田の同級生や友松の長男康雄の話では、「教師としても人間としても、完璧に近い人物であった。生徒を心から愛し、指導は寛厳宜しきを得て、家庭の生活も質素であった。その反面、酒豪でさっぱりした気性と呑みっぷりで、米子の花柳界でも芸者にもてた」という。
また友松は憂国の志厚く、西田税らの教え子にも、忠君愛国の思想を強く吹き込んだ。
大正三年三月、西田は啓成小学校を首席で卒業、四月五日、県立米子中学校(現米子東高等学校)に入学した。よく勉強し運動もやったが、この中学校には、二年生の一学期まで在学して、広島の陸軍幼年学校に入った。それでも一年生の時は雄弁大会で大いにぶち、また野球も好きであった。
しかし、西田の狷介《けんかい》な性格はこの頃から顕著で、親友は出来ず、古い仏壇の積んである蔵の中で、読書に熱中していたという。
大正四年七月、西田は広島の陸軍幼年学校に合格した。同級生ではただ一人角田光治が合格し、三年間、広島で勉学をともにすることになる。翌八月末、西田税少年は、親戚らの盛大な見送りの中に、米子駅を出発した。まさに胸中青雲の志満つ≠ニいう意気込みであったであろう。反乱軍の使嗾《しそう》者として、陸軍の手で処刑されることになろうとは、この十三歳の少年の夢想だにしないところであったろう。(この頃、すでに北一輝は、中国革命への協力に失敗、帰国して、『支那革命外史』の執筆にかかっているところであった)
当時はまだ伯備線が開通していなかったので、山陰本線で豊岡へ出、播但《ばんたん》線で姫路経由山陽本線で戻る形で広島に向かった。一緒に合格した角田光治が同行した。
九月一日、西田税ら第十九期生五十名の入学式挙行。折柄、ヨーロッパでは第一次大戦がたけなわで、独仏が国境を挟んで死闘を繰り返していた。西田税らはこの状況を校長の生島駿中佐から聞かされ、任務の重大さを訓示された。生徒監は安田勝治大尉で、厳しい中にも人情味のある将校であった。
税たちは陸軍幼年学校に入れば、直ぐに軍事教練が始まると期待していたが、始めは軍事教練は少なく、中学校二年生程度の普通学科――倫理、英、数、国漢、地理、歴史に図画、音楽、そして、柔剣道などがあり、三年間で一般の中学校卒業と同等の学歴を修得出来るようになっていた。
教授は相当な人物を当てていたが、異色は幕末の著名な勤皇の学者頼山陽の孫・頼弥次郎で、文人気質の人物で、生徒の人気があった。
当時の幼年学校の日課は、
午前六時起床、体操、洗面。
七時朝食、八時半、教室で生徒監の注意、伝達事項の達示。
九時〜午後四時まで授業。この後、軍事教練、雨天の時などは道場で柔剣道。
午後六時の夕食までは、自由時間で好きな学科の勉強、入浴など。
その後、自習があり午後十時消灯、就寝、となっていた。
ざっとこれを見ると、筆者などが昭和十二年に海軍兵学校に入校した時の日課によく似ている。違うのは入校早々から、カッター(大型ボート)の橈漕《とうそう》訓練があり、自由時間でも手旗や無電(トンツー)の訓練があった程度である。
私たちのクラスは三年上の上級生に大いに殴られたが、西田税の頃の陸軍幼年学校では、私的制裁(海兵ではこれを修正≠ニいった)はなく、ただ規律だけは厳しかったという。
広島陸軍幼年学校のモットーは、「尽忠報国」「質実剛健」で、私たち海兵六十八期のモットーは、「明朗」「元気」「実行」であった。
この幼年学校も江田島の海兵と同じく全寮制で、上級生と同室であるが、日露戦争から十年ほどたっており、寮の共同生活でも、上級生が特に下級生に辛く当たるようなこともなく、割りに自由な雰囲気の中で、生徒たちは伸び伸びとした青春を迎えていった。
学科もそう難しくはなかったが、小学校では優等生であった西田も、全国から優秀な少年の集まった幼年学校では、初めは上から三分の一に入るのも難しかったようである。
それよりも血の気の多い西田らを憤激させたのは、広幼における長州閥の横暴であった。
王政復古、明治維新の功労者を以て任じている長州の生徒たちは、海兵における薩摩閥(広幼ほどではなかったが)の如く、肩で風を切って校内を闊歩し、数を頼んで他県の出身者に暴力を振るった。
西田はその自伝に書いている。
「喬木に風が当たる――『陸軍は乃公の専有』と自負する長州出身者は、烈しい迫害を加えた。不法、醜怪なる圧迫、嘲罵、排斥の言動は、三年間絶えることはなかった。夜など自習の休憩に、心身を慰め思索に耽るべく、或いは月光を慕い、或いは星光を追って校庭を漫歩する時、忽如《こつじよ》暗中に躍る鉄拳に、頬を打たれ頭を殴られしことも一再ではなかった。運動時間に、或いは棒倒しに、或いは土俵占領に、故《ことさら》なる暴行を受けしことも屈指に暇がない。殊に居常言動の悉《ことごと》くが、皆余に対する讒罵《ざんば》なりしことは、余をして限りなき憤情とともに憐憫、哀愁を抱かしめた。」
西田は体力があり成績も向上してきたので、長州族のターゲットとされたらしいが、黙っているような男ではない。ある夏、広島沖の似島《にのしま》で、遊泳演習の途中、長州派五十余名の中に単身乗りこもうとして、友人に止められ、男泣きに泣いたという。
そしていよいよ卒業の時は首席で、恩賜の銀時計拝受者の一人となったが、これが発表されると、七月八日の夕刻、長州派数名が、西田を生意気だと面罵したという。
しかし、何事も過大に受け取る傾向のある西田のことであるから、このような長州閥の横暴も、全部がその記述通りかというと、反論もある。広島出身の同級生・平木武は、次のように語っている。
「幼年学校では長州閥などというものはなかったと思う。五十人の同級生のうち半分は山口県人で、広島が八人、四国から十二、三人、山陰から西田ら二人。しかし、山口県人の中には、派閥を組むなどという気骨のある奴はいなかったと思う。みんなおとなしい連中だった。まぁ、強いて探せば中央幼年学校を中退した岸本信威……こいつは気性の荒い奴で、あるいはこいつが二、三人の気の弱い同級生をつれて喧嘩をふっかけたかもしれない。学校では私的制裁は厳重に取り締まっていたから、暗闇の中から殴りかかるなんて考えられない。
それに西田はそんな喧嘩に負けるような男じゃない。運動会では赤組の大将で、棒倒しなどの荒っぽい競技でも、なかなか勇敢で、それに統率力もあったから、西田の威力にはみなよく従っていた。あの自伝はちょっと西田らしくないと思う。
大体、西田という男はあまり無駄口はきかず、口を開けば理路整然と自分の意見をいった。よく考えて行動するたちで、どっしり落ち着いていた。だから同級生の間にも一目おかれていた。」
行動的でありながら、自意識過剰の西田のキャラクターの一部を描いたものとして、興味深い。
因《ちなみ》に西田が威張っていたと批判している長州閥の同級生から、どういう人物が出ているのか? 将官名簿を見ると、陸士第三十四期では、西田と親しかった秩父宮だけが、陸軍少将で、外は大佐停まりである。その中で長州の出世頭は、陸大を恩賜で出た山本新の参謀本部欧米課長で、これに次いで石毛省三兵政本部付、河村弁治の仙台地区鉄道司令官、斎藤二郎の第八十一師団参謀長といったところで、先に平木が述べたように、長州から特に異色の人物は出ていないようである。
西田税が幼年学校で最初に認められたのは、文才と能筆であった。将校にとって戦闘の場合、命令と報告は欠かすことは出来ない。
当時、幼年学校では毎年、作文の選奨(コンクール)があったが、一年生の時の西田は、『月山城』で一等となった。山中鹿之介の悲運の最期を描いたもので、漢文調の名文であったという。この点、彼も北一輝と同じロマン派≠フ革命家といえようか。二年生の時は、開校二十周年記念日の感想文が一等となり、三年生の時は『世界大戦を論ず』で二等となった。
西田の文才はつとに教師の認めるところで、一年生の時の『校後の丘に登りて』では、「希にみる文才也。多作せよ。多作せよ」と激励の朱筆が入っている。
生徒監の安田勝治大尉も、西田の才能を高く評価し、提出された日記にも、細密な指示が記録されていた。
しかし、好き嫌いの激しい西田は、安田大尉が鳥取の連隊に転任して、新しく着任した森本八十三大尉とは、ウマが合わなかったという。
安田生徒監の時は、日記に批判の筆はなかったが、森本大尉になってからは、しばしば「この考え穏やかならず、熟考せよ」というような批判の朱筆が入るようになり、西田も「校長の注意いささか気にいらぬ」などと反抗的な態度を示し、森本大尉から、「訓戒を思い浮かべて、気に入らぬ、とは何たる言ぞ」と叱責されている。早熟な西田は早くも反抗期で、好悪が激しく、自我の強い彼は教官の注意に素直に従わなかったので、三年生の時には成績が下がってきた。
十月二十四日、西田が休暇で帰省すると、仲の悪い森本から「家庭通信」が送られてきて、成績が悪い、と酷評が記載され、優等生だと思っていた家族を驚かせた。森本は定評のある西田の名文も気に入らなかった。
「かかる風体の文章は正式の場合用うべからず。軍人の文章は徹底的、剛健的、明瞭なるを要す」
と酷評している。
この冷戦に似た戦いは、卒業時には、熱戦となって火花を散らした。大正五年五月、卒業試験前の行軍演習中、森本大尉から訓示があり、翌二十三日には、「一、訓示中、記憶に存するもの」「二、今後の処し方」の二問が出された。これに対し、ひねくれた西田は、一に対しては何の応答もなく、二に対しては、「1、過去におけると同様何等変わることなし。2、成り行きに任せてゆかんのみ」と書いただけで提出した。森本生徒監は激怒して、「成り行きに任すとは、意気地なき考えなり。順行か逆行か、反行か、畢竟《ひつきよう》世の落伍者ならん」と怒りに任せて朱書した評が送られて、また家族を驚かせた。
大正六年十一月、西田が幼年学校三年生の時、ロシアで革命が起こった。直ぐ隣の国で共産主義革命が起こり、皇帝夫妻がウラルの近くで、パルチザンに射殺された。これは日本国民に大きな影響を与えた。共産主義は帝政を否定し、プロレタリア独裁を叫ぶ思想で、赤色ロシアは、皇帝とその家族を処刑して、その実を示した。
中国で辛亥革命が勃発したのが、六年前の明治四十四年十月で、日本の社会や政党、学界、民衆に大きな影響を与えた。大正デモクラシーがエスカレートして、ロシア革命で更に拍車が掛けられた。(ついに加藤〔高明〕内閣の時に、普通選挙法が成立し、民主化したかと思われたが、昭和三年三月の共産党大検挙で、左翼は大きな打撃を被ることになる)
大正七年、ヨーロッパの大戦はまだ続いていたが、日本は平和で、西田税も思い直して勉学に励んだ。七月十日の卒業式では、首席で恩賜の銀時計を拝受することになった。
皇居に近い市ケ谷の旧尾張藩屋敷跡に、陸軍将校揺籃の地であった陸軍士官学校が出来たのは、明治七年十二月のことで、生徒は始め士官生徒と呼ばれ、第一回の卒業生(明治十年)からは、木越安綱、石本新六という二人の陸相を出している。
そして第二期には、将来の参謀総長と目されながら、次長で早世した戦術家・田村怡与造、旅順攻撃の乃木第三軍の参謀長・伊地知幸介、日露戦争当時の参謀本部次長で、太い髭で知られる長岡外史などという名士も出ている。
この士官生徒の制度は、明治二十年の十一期まで続き、その後は士官候補生と名称が変わり、この第一期からは、統制派の首領となる宇垣一成、鈴木荘六、白川義則ら三人の大将を出している。
冒頭に述べたように、第九期からは、荒木、真崎、本庄、松井、林ら五人の大将を輩出させ、そのうち荒木と真崎は皇道派の中心人物として、青年将校に担がれることになる。十期には、二・二六事件当時の陸相で、決起軍と困難な交渉に当たる川島義之大将、十一期には、寺内正毅首相の長男で南方軍総司令官となる寺内寿一大将、十二期からは、参謀総長となる杉山元、陸相となる畑俊六、首相となる小磯国昭らの大将が並び、十三期には『敵中横断三百里』の建川美次中将、十五期には、終戦時の参謀総長で降伏の使者として調印した梅津美治郎大将、十六期には、板垣征四郎、土肥原賢二と二人の大将が戦犯で処刑されているほか、相沢中佐に刺殺された永田鉄山もこのクラスである。十七期には、首相、陸相、参謀総長を兼ねた東条英機大将、十八期には、マレーの虎≠ニいう異名をとった山下奉文大将がいる。
一般に市ケ谷は陸士ということになっているが、校内の西北隅には、陸軍中央幼年学校があり、地方の幼年学校からきた生徒は、ここで中央幼年学校本科生徒としての教育を受ける。これが後に陸士の予科となるのである。西田税がこの中央幼年学校本科生徒として、将校への第二段階をふみだしたのは、ロシア革命の翌年、第一次大戦の終る大正七年九月一日である。
この頃、寺内内閣は、内には米騒動、外にはシベリア出兵で苦悶し、間もなく原敬の内閣に代わる。ヨーロッパの大戦では、ドイツの敗北が近く、日本は戦勝国の一つとなるはずであったが、国内はインフレと出兵とで、重苦しかった。ただ西田らの中央幼年学校第十九期生は、同期生に秩父宮を仰いだので、意気盛んであった。
ここは、全国から、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、熊本の六つの地方幼年学校から集まった生徒たちに、やや高級な将校としての基礎教育をするところで、今度こそ、大部隊を指揮したり、参謀本部の任務を経験することが出来ると期待してきた生徒たちを、またしても落胆させた。
学問も訓練も非常に厳しいものであったが、全国から選抜されただけあって、落伍者は非常に少なかった。
ここでは西田の嫌いだったはずの山口県出身の来島《きじま》新一中尉という区隊(教育上の一つの単位。隊員の生徒は親しみをこめて、この区隊長をクスケ≠ニ呼ぶ)長の訓育があった。
「来島中尉は厳しい中にも、潔い爽やかな将校で、隊員に深い感銘を与えた。明治維新の高杉晋作のような豪放明快な人物だった」
と同期生のひとりは回想している。
個性の強い西田が、この率先垂範の模範である青年将校から深い感銘を受けたことは、容易に想像出来る。
すべては天皇と国家の為という国家主義の思想が、ここで強く芽吹いてきたと見てよかろう。
また西田はここで、無二の友を見出した。福永憲という大阪幼年学校からきた男である。(興味あることに、後の詩人・三好達治も大阪の幼年学校から中央にきて、本科に進んだ軍人志望の少年であった。次いで彼は陸士本科に入ったが、「軍人として出世する希望なし」として、大正十年二十一歳で退学し、三高を経て東大仏文科を卒業。三高時代から桑原武夫を知り、東大では小林秀雄、堀辰雄、中島健蔵らを知り、文学の道に入った)
大阪は商人の町で、大阪の兵隊は弱いと悪口をいうものもいたが、西田の頃、大阪からきた生徒には、豪快な気風があり、大陸進出に関心の深い者が多かった。最も西田を感動させたのは、明治二十一年、単騎シベリアを西から東に横断して、その地形、産物、交通、風俗を探究した福島安正中佐の壮挙であった。この話は軍歌にも取り入れられて、陸士、陸幼の少年たちに、愛唱された。西田や福永が在校した当時は、シベリア出兵で陸軍将兵が寒気に苦難をなめた頃であったので、余計に福島中佐の難儀が偲ばれたのであった。
西田の親友となる福永は彦根の産で、父作十郎は予備役の陸軍中尉で彦根中学校の体育教師をしていた。明治三十七年、日露戦争が勃発すると、作十郎は妻のすみ子に、「この度の戦は大変な戦だから、生きては帰れないと覚悟している。私が戦死したら、二人の男児は軍人にして、自分の志を継いで君国に奉公させるように」といい残して出征した。乃木将軍の第三軍に属した彼は、南山の戦で壮烈な戦死を遂げた。この時、憲と兄の康夫は小学生であったが、母のすみ子は小学校の教師となって、二人を養育した。
兄の康夫は頑健であったが、憲は虚弱で、母は二人を町の剣術の道場に通わせた。山にも登らせたので、憲もたくましい少年に成長し、大阪幼年学校に入学したが、ここには剛健な気風があり、福島大将の壮挙に感激した連中が、豪傑党≠組織して気勢を揚げていた。憲もこれに入ったが、先輩に西岡元三郎という豪傑がいた。彼は大正三年少尉に任官したが、大陸進出への野望止みがたく、蒙古に渡り、バブチャップ将軍の蒙古独立運動を支援して独立義勇軍を組織して、北京の袁世凱の軍と戦い、しばしばこれを破った。しかし、大正五年バブチャップが戦死すると、蒙古軍は独立を諦め、西岡も帰国して、大アジア運動に専念するようになった。
福永はこの先輩にいたく私淑し、市ケ谷にきて天下国家に志を抱く西田と共鳴すると、西岡の話をして、大アジア主義をぶった。
この二人は後に、国家改造の決起の方法で意見を違えて離反するが、福永は「西田は実によき友であった。彼の頭脳は明晰、詞藻は豊富、情熱的で正義感強く、実行力、組織力、企画性、いずれも抜群で同志の頭領であった」と回想している。参謀と師団長を一緒にしたような人物で、西田は生まれる時期を間違ったのかもしれない。明治維新か日露戦争か、或いは戦国時代か……なんにしても乱世の英雄の観があり、計りしれない。
福永のいうところが事実とすれば、西田税は、真田幸村、坂本龍馬、その上に織田信長をのせたような人物で、彼に足りなかった素質としては勝海舟や豊臣秀吉、徳川家康的なグローバルな視野と展望、そしてこれを総合して参謀や武将を駆使することの出来る、総帥的な才能であったといえるかもしれない。
北一輝は西田税にとって、果たして海舟であったのか? それとも秀吉や家康であったのか? 残念ながら北一輝はイデオローグ兼カリスマ、というような観念的な存在であって、戦国時代を統一出来るような武将としての素質は、北にはなかった。その代わり彼には、昔の武将が備えていなかった哲学、宗教などの学問があり、その上よくもあしくも、霊告という神秘的な武器を授かっていた。何にしても西田税と北一輝は、青年将校との関わり合いによって、滅びるべくして滅びていった、と考えざるを得なくなっていく。その点は五・一五事件、二・二六事件という二つのエベント(ハプニング?)によって、検証されるであろうが、まずは西田税の足跡を辿ってみたい。
二年生になった西田は、一年生の取り締まり生徒に任命された。二年生のうち優秀な生徒を選んで、一年生の日常生活の指導に当たらせるもので、下級生はこの生徒を護民さん=iローマ時代の護民官をもじったもの)と呼んで信頼した。
当時の中央幼年学校は荒れていて、男色の風があり、上級生が美貌の下級生を、稚児さん≠ニいって、その相手とする弊風が一部にあり、西田の同期生では、岸本信威という広島で一緒だった生徒が、この一派の首領で、自分のいうことを聞かない一年生を、短刀で脅迫するという事件が起きた。これに怒った西田は、数人の同志とともに、この一派を圧迫してついに解散させ、岸本を退校に追い込んで、その政治的手腕を示した。この同志の中には、先に紹介した後の詩人三好達治や後に西田の回想を語る平木武もおり、彼等は憂国の志士をもって任ずる一つのグループを形成することになっていく。
大正九年三月、西田のクラスは卒業を迎えるが、陸士の本科はまず隊付勤務で、実務の訓練を受けるので、希望を出すことになった。
普通であれば、近衛騎兵がよいとか、砲兵がよいとか、華々しい兵科を希望するものが多いが、この頃の流行は、大陸進出が合い言葉であったので、西田は北朝鮮・羅南(ソ連との国境に近い)の騎兵第二十七連隊、福永は平壌の歩兵第七十七連隊を志願した。(詩人となる三好は同じく朝鮮・会寧の工兵第十九大隊を志願した)
いよいよ卒業式が近付いた二月初旬、西田は風邪をひいて、三週間病室に入ってしまった。この入室が西田の将来に響いた。というのはこの為卒業試験は二百五十人中十二番で、広幼を首席、また全国六幼年学校の首席という好成績で入学した西田には、非常な屈辱であった。自我の強い彼は風邪さえひかなかったら、首席卒業という自信があった。それが病気のために、宿願が達せられなかったということは、彼に暗い将来を感じさせた。
とにかく卒業すると任地に赴かなければならない。神戸まで東海道本線でゆき、神戸からは宮島丸で朝鮮東岸の清津に向かうことになった。ここで彼は、同じく日本海側で最北の会寧に向かう三好と一緒になった。三好は大阪船場に近い印刷業の店に生まれたが、府立市岡中学校に入った頃、家業が傾き、官費の幼年学校を受験、市ケ谷で西田と親しくなったものである。
三好は商家に生まれたにしては、気性の激しい豪快な男で、幼年学校を志願したのは、単に家計を助ける為だけではなかった。詩人になってから、日中戦争の時、『改造』の特派員として上海にゆき、兵士たちの戦死に感ずるところあり、『英霊《おんたま》を故山の秋風裡に迎う』という詩を書いて、高い評価を得ることになる。豆満江に近い清津港は、当時、日本政府が満洲開発の為、大きな築港工事を行なっているところであった。
西田はここでなお北上する三好と別れ、羅南までの二十キロほどを、軽便鉄道で旅をした。
四月九日午前十時に清津港に上陸した西田は、その日の午後二時、羅南の騎兵第二十七連隊に着任、連隊長の飯島昌蔵大佐に申告して、第一中隊に配属された。士官候補生ながら騎兵上等兵の階級を与えられた。
国境警備の重任を自覚した西田は、生気を取り戻して大いに訓練に励んだ。悪天候の中、連日の猛訓練にいそしんだが、時には実戦に遭遇することもあった。五月末、国境警備に出ていた第一中隊第一小隊の兵士が、匪賊に狙撃され、一名が腹部に貫通銃創を受けて戦死したのである。当時は朝鮮人の反日感情が悪化し、大正八年三月には、「万歳事件」という民族運動も起きたほどで、人家の少ない国境の警備は、非常に危険であった。
明治四十三年、日本は韓国を併合したが、反日感情は悪く、解体された朝鮮軍の兵士の中には、徒党を組んで日本軍に反抗する者も多かった。当時の北朝鮮駐屯軍は、満洲の独立守備隊、関東軍とともに、最も実戦の可能性が高かったといえる。山が起伏し、冬は寒冷な気候に閉ざされる豆満江付近の警備に最も適合しているのが騎兵隊で、その任務は重くまた危険でもあった。毎日が戦闘状態で、ここでは内地の部隊で行なわれるような、初年兵に対する古参兵の私的制裁もなかった。明日をも知れぬ運命共同体で、彼等は家族的な雰囲気の中に、訓練と警備に励んだ。万一の場合には、弾は敵の方からだけではなく、後ろから飛んでくることもあるのである。
実戦の洗礼を受けたいと願う西田にとっては、もってこいの部隊で、彼は勇躍して、訓練にいそしんだ。
七月三日、騎兵伍長に進級、いよいよ中隊の幹部で彼は分隊長を命じられた。七月二十日から五日間の演習で朱乙温場(後に温泉として有名になる)の朝鮮人の家に宿泊した。日本人の多くは、朝鮮人の民家は不潔だ、などといって苦情をたれる者もいたが、西田の日記には、「誠に結構、申し分なし。何等不平なし。福島大将閣下は、蒙古族と寝食を共にせられたり。朝鮮人家屋に舎営して、愉快なる気分に打たる」と彼は日記に記録している。大アジア主義者として、大アジア人の共存に努力していた跡が見える。
ところが二十三日帰投すると、砲兵の同期生が急逝していて、西田たちを驚かせた。この異郷における親友の死は、西田に国境の厳しさを教えた。七月というのに、病名は急性肺炎で、幼年学校で四年近くも訓練したのに、よほど北朝鮮の寒さは厳しいのだ……と西田は感じた。気象の研究によれば、羅南の四月から五月は最も気候の悪い時で、それはシベリア海岸から南流してきた寒流と、対馬暖流が、このへんで合流して、連日霧を生じ、気温が急に下がるからだという。
間もなく西田も発熱して、中隊長から休養を命じられ、それが意外に重く、結局、彼は陸軍を辞めることになる。しかし、それは少し後の話で、この頃の西田は、まだ意気軒昂たるものがあり、龍山(京城の近く)に赴任した福永に、大アジア主義について、将来大いに為すところあらん、と書き送ったりしている。北朝鮮にきて敵の出没や親友の死に出遭って、彼もいよいよ国士たるの気概に燃えてきたものとみえる。
病気もようやく峠を越した頃、八月末西田は軍曹に進級、九月十六日羅南における訓練を終了、飯島連隊長に挨拶して、十七日、思い出の多い連隊の門を出て、清津から本土への航海に出ることになった。
[#小見出し]   秩父宮の同期生として陸士本科へ
大正九年十月一日、西田税は陸士本科生として、再び市ケ谷の陸士に戻ってきた。前述の通り、この陸士第三十四期生には、秩父宮が在籍、三百三十六名の同期生の誇りであり、西田にとっては後に頼みの綱となり、又この為に秩父宮が二・二六事件との関わりについて疑問を残すことになるのである。
当時、市ケ谷には、二学級約八百名が在籍、上級生は曹長で、卒業とともに見習士官として、再び原隊(普通、予科時代に在籍訓練を受けた連隊)に戻ることになっていた。
予科と違って今度は軍事学の訓練が多い。
秩父宮は第一中隊第一区隊、西田税は第二区隊に配属になった。
第一区隊には、後の南方軍事作戦課長・堀場一雄がおり、このほか、このクラスには、大本営作戦課長となる服部卓四郎、東条陸相の秘書官となる赤松貞雄、参謀本部欧米課長となる山本新などの恩賜組がひしめいていた。
陸士は陸軍の模範となる青年将校を養成するところであるから、当然、優秀な将校生徒としての教育をさせるが、そのほか、区隊の訓育も優れていた。江田島の海軍兵学校で生徒館生活を送った筆者には、陸士の精神教育、特にクラスの連帯精神はよくわかる。
『西田税 二・二六への軌跡』には、陸士の一生徒が銃剣の止金を紛失したところ、区隊員全員が総出で数時間も共同で探し、やっとこれを発見するエピソードが出ているが、これは江田島でも同じで、よくなくなるのは、銃口の先を覆う銃口|蓋《がい》という小さな金物であった。一年生の一人がこれを紛失すると、その部隊の同期生全部が、連帯責任ということで、横隊を組んで、夜の練兵場を何度も往復して、捜索する。全ての武器は陛下からご下賜されたものであるから、無くしたら、出るまで探せ……というのが上級生の教えであった。不思議に皆で探していると、疲れた頃に光るものが見つかってほっとしたものであった。こうして叩きこまれた連帯精神が、強いクラスの団結に結びついていくのである。
大正十年が明けて、西田も二十一歳となり、卒業も近くなった。
二月二日から教育総監・秋山|好古《よしふる》大将の学校巡視が行なわれ、騎兵科の生徒たちは日露戦争の時、秋山騎兵旅団を率いて奮戦したこの騎兵出身の将軍を仰ぎ見た。
それから間もない二月七日、後の詩人・三好達治(工兵第十九大隊)士官候補生が、突然脱走して、西田を驚かせ、市ケ谷全校が大騒ぎとなった。三好は豪快な性格で、「日米戦争が勃発したら、おれはパナマ運河を爆破する」という決意のもとに幼年学校を志願したという愛国者で、西田の同志でもあった。
捕らえられた三好は、三月四日の軍法会議で逃亡罪で懲役三ヵ月に処せられた。三好は出獄の後、西田を訪ね、「陸軍はおれの性に合わぬから、辞めるつもりで脱走した。監獄の中は精神修養に最適だ」と謎のような言葉を残して、大阪に去った。彼が昭和期の日本詩壇を代表する壮大な詩人となったのは、よく知られるところである。
七月二十七日、第三十三期生卒業。このクラスには、後に二・二六事件で西田と関わりを持つ山口一太郎がいた。事件当時の侍従武官長本庄大将の女婿で、西田は、この山口に上層部への工作を依頼、協力した山口は無期禁固に処せられた。
この年の夏から、西田の革命活動は動き出した。彼は黒龍会の長崎武を通じて、「青年アジア同盟」の意向を頭山満や内田良平に伝えてもらったところ、二人とも大賛成ということであった。
いよいよ憂国の志士となった西田は、「青年アジア同盟」の規約等を作り、同志を募った。十二月には「青年アジア同盟」第一回の会合を牛込の寺で開いた。長崎武が黒龍会の大陸浪人・永瀬鳳輔を連れて現れ、長崎は支那革命の実際を話した。
そこまでは順調であったが、正月休みが明けて、米子から市ケ谷に戻った西田は、胸部に痛みを訴えるようになり、一月十日、軍医から胸膜炎と診断されたが、不屈の彼は、頑張って十日間の寒稽古で剣道をやった。
どうにか病が治まったので、西田は二月の例会を、清水谷公園の清香園という料亭で開いた。今度は長崎は国家主義者として知名の満川亀太郎を連れてきた。満川はすでに国家社会主義者としても、かなりの者で猶存社結成にも参加、北一輝、大川らとも親交があった。
この第二回目の会合も成功であったが、ここで病魔は再び西田を捉えた。二月二十二日、西田は高熱を発して倒れた。二十八日、赤坂の陸軍|衛戍《えいじゆ》病院に入院、高熱で三月上旬まで胸膜炎で重態、三月十一日から『無眼私論』『第二病中手録』などの手記を書き始めた。
無眼というのは亡兄英文の号で、三月三十日、西田はこれを天心に変えている。
西田の退院は四月二十三日であるが、彼の入院中も「青年アジア同盟」の会は続けられ、三月十八日には、インド独立の志士ボースや、清朝の貴族・粛親王の遺児憲原王も出席。そして西田がまだ入院の間に、満川は「青年アジア同盟」の幹部・宮本たちを招いて、猶存社の目的や、国家改造の必要を力説し、北一輝に会うことを勧めた。
次の日曜日に宮本たちは千駄ケ谷の北一輝邸を訪問、宮本や福永たちは、一遍に北の風貌とその弁舌に魅了されてしまった。
北は悠々と日本と世界の大勢を説き、国家改造、日本の革命の必要を説いた。青年士官候補生たちは、今までにない感動を味わった。
北は宮本に『支那革命外史』を進呈し、宮本はこれを病院の西田に届けた。自分も熱望してきた北一輝との面談の話を聞いて喜んだ西田は、その『支那革命外史』を懸命に読んだ。『日本改造法案大綱』とは別の感動と北の情熱が、その本から感じられた。
四月二十三日退院した西田は、二十五日、宮本、片山らとともに千駄ケ谷の北一輝邸を訪問、北は青年たちを歓迎して、三時間あまり国家改造とアジアの運命について語った。懇々と語る北一輝に、西田は宿命的な結びつきを感じた。北は『支那革命外史』を西田に贈り、西田は再度の訪問を約束したが、療養の為、その夜の汽車で米子に向かった。
さもあらばあれ、これで両巨頭というべきか、希代のイデオローグ兼カリスマと強力なオルグが握手して、昭和維新の前進が始まるのである。
西田は米子の生家に五十日間滞在して、久方ぶりに日本海の初夏の空気を満喫した。中の海の海岸を歩き、宍道《しんじ》湖の湖畔では、静かに浮かぶ嫁ケ島を眺めながら、湖畔にたたずんでいた。――大正維新だ! ……彼はそう心の中で叫んだ。この大正維新という言葉は、大正の始め、第三次桂内閣が出来た時、その成立の理由が、西園寺内閣を陰謀で倒したというので、暴動が起こり、ついに数ヵ月にして、総辞職に追い込まれた時、大正デモクラシー……大正維新……ということで、新しい日本の為に叫ばれたものであるが、間もなく始まったヨーロッパの大戦やシベリア出兵のために、声が低くなってしまったものである。しかし、ここに北一輝という有力な頭領を戴くことになった以上、大正維新の為の革命は必至である……湖面を眺めながら、西田はそう決意した。あとはどういう味方を得て、いかなる方法を用いるか、である。
――まず宮にご同意を願うことだ。北一輝の『日本改造法案大綱』にも、宮廷の協力が必要だと書いてある。といっていきなり摂政宮に直訴する訳にもいかない。ここは同期生としてお近付きを願っている宮に『日本改造法案大綱』を読んで頂いて、ご協力を願うほかはない……卒業まであと一ヵ月ほどしかない。卒業すると隊付将校となって、全国に散ってしまう……事は急がなければならない……まだ体力は十分回復してはいないが、西田は力を絞って山陰本線に乗り、六月十八日上京の途につき、十九日、東京についた。
六月十九日、市ケ谷の陸士に復帰した西田を、福永らの同志は心配しながらも歓迎して、まず秩父宮に『日本改造法案大綱』を贈呈することを考えた。福永が満川から借りたものを筆写し、これをガリ版で印刷した。
「これだけでは物足りない」
というので、安田善次郎を暗殺した朝日平吾の遺言状と斬奸状の写しも揃えた。
六月二十五日は秩父宮の二十回目の誕生日である。陸士ではお祝いの宴が開かれ、各中隊食堂で酒も出た。西田の中隊に姿を現した宮は、親しく西田のそばにより、見舞いの言葉を下され、杯を賜った。この時、西田は、いよいよ近く宮に『日本改造法案大綱』を贈呈することを決心した。
一方、海軍の方では、日本陸海軍の針路を大きく変える大事件が、アメリカで進行していた。それはこの年大正十一年(一九二二)二月六日、ワシントンで海軍軍縮条約が締結されたことである。この軍縮会議は、前年夏アメリカのハーディング大統領から、日本、英国、イタリア、フランスに申し入れがあり、十一月十一日から、ワシントンで開かれていた。この間、日本では十一月四日、総理の原敬が、中岡艮一という少年に暗殺されるという大事件があったが、日本海軍有数の軍政家である加藤友三郎海相は、首席全権として、よく会議をリードし、或いは譲歩すべきところは譲り、ついに米、英、日の主力艦の比率を、五・五・三で、会議を妥結に持ち込んだ。この為、太平洋の波はやや穏やかとなり、ネーバル・ホリデー≠ニいって、昭和十一年の条約期限切れまで十五年近い建艦競争の休憩期間を保ち、日米戦争も延期されることになったのである。
これは外交上の成功であったが、この為、海軍では多くの将校が予備役に回り、海軍工廠でも多くの失業者を出し、これに追い討ちをかけるように、翌十二年九月一日には、関東大震災が勃発し、第一次大戦景気も、一遍に冷却してしまうのである。
更にこれに次ぐ大正十四年の宇垣陸相の軍縮があり、巷には革新派の青年将校が、日本の将来と経済、国民の生活の苦しみに、慨嘆する声が満ちるようになっていった。
西田が病気の為帰郷し、市ケ谷に帰ってから、秩父宮に『日本改造法案大綱』を渡して、革新将校たちの苦衷を察してもらおうと心を砕いていたのは、このような世相で、日本が軍事的にも経済的にも、動揺、困窮している時代であった。革新将校の心理を洞察するには、このような内外の緊急状況を、頭に入れておく必要があろう。
話を大正十一年夏に戻す。
西田が同志と打ち合わせをしている間に、七月一日から卒業試験、十四日は一旦これが終了したが、西田は更に欠席期間を補う為、追試として、二十一日から現地戦術として、八王子方面の演習に参加した。
午後六時過ぎ帰校すると、待っていた宮本が、
「今から殿下がお会いになるそうだ」
という。西田は宮に贈呈する予定の『日本改造法案大綱』等を手にして、その場所……兜松のちかくに出掛けた。すでに宮本がきて、宮に何事かを申し上げている。宮本のほかに福永、平野、牛尾らも集まっている。
宮本の合図で西田が宮に会い「青年アジア同盟」の意図を説明し始めた。
彼は内外の情勢から説き起こして、日本国民の経済状態、政治の腐敗等を熱を入れて説明した。
「今こそ我が日本が北一輝氏の『日本改造法案大綱』に従って、抜本的な国家改造を行ない、アジア諸国に模範となる清廉なる国家を建設しなければ、大正維新は成らず、中国を始めアジア諸国は、次々に欧米の白人諸国の植民地となり、民衆はインド人の如く、白人の奴隷と化してしまいますぞ」
西田の言葉には次第に熱気が高まっていった。
それに対して、宮は熱心に聞いておられたが、
「西田のいう日本の無産階級の貧しさは分かったが、彼等はどういう思想状態にあるのか?」
というご下問があった。
西田はここぞとばかり、
「無産労働者たちは、国民の大多数を占めておりますが、残念ながら彼等は天皇陛下の有り難いご恩情に浴することが出来ません。それというのも一部特権階級が陛下と国民の間にあって、陛下のおぼしめしを遮断しているからであります」
と力説した。
宮はうなずきながら聞いておられたが、
「自分の境遇としては、直接、無産労働者にしてやれることは難しい。しかし、下層社会の事情については、適時報告してもらいたい」
と仰せられて、西田らを感激させた。
そして卒業式の前日である七月二十七日の夜、西田たちが同志とともに雄健神社に集まっていると、宮本がやってきて、
「今日の夕食後、宮が突然我等の自習室に来られ、校庭の隅で、『君たちの気持はよくわかった。一部特権階級の専断については、自分も不満に思っている。一度、同志諸君とゆっくり話したいが、多忙にしてその機会がないのが残念である。何か自分に連絡することがあったら、この人に郵送せよ』とこれを渡された」
と興奮したおももちで語った。その紙片には宮付の事務官で曾根田泰治という名前が書いてあった。その事務官は福永の父親が彦根中学校で体育を教えていた時の教え子であった。
『西田税 二・二六への軌跡』にある福永憲の談話によると、この時、秩父宮は、
「君たち皇族の在りかたをどう思うか? 上流が澄めば、下流も澄むように、僕は皇族の革新をやる。君らは僕のやることを、刮目《かつもく》して待て、僕も国家改造の信念でやる」と仰せられたという。これが事実とすれば、秩父宮は革新派の青年将校の願に応じて、国家改造の思想に深く触れられたことになる。そして十五年後の二・二六事件の時、秩父宮が決起将校たちに担がれている……というような風評が流れ、あるいは将校たちの間にも、それを心頼みにする気持が湧いてくる……という心理が潜在していたのかもしれない。――人の心理は時とともに移っていくから、秩父宮がこの時、市ケ谷台の暗い庭で話されたことが、十五年後まで持続していったかどうかは、推測に困難なところではあるが……。
[#小見出し]   再び北朝鮮へ
こうして西田らは念願であった秩父宮との面談、そして『日本改造法案大綱』等の献呈を果たしたが、卒業を前にしてなお知名の士に会っておきたい、という望みが強かった。その中で特に希望したのは、右翼の大物・頭山満である。六月末、彼等は頭山に会う機会をつかんだ。
気鋭に満ちた青年将校の憂国の志を、うなずきながら聞いていた頭山は、最後にただ一言、
「あんた方、若い将校が国家の為に立とうということは、結構じゃ。但し、決行する時は、軍服を脱いでやる……それだけの覚悟が必要じゃな」
といった。この頭山の言葉は、西田たちには重く響いた。
インド独立の志士、ラス・ビハリ・ボースに会った時は、祖国を遠く離れて、英国の圧力からのインド四億の民衆の解放に命を賭けている志士の言葉に、深い感銘を受けた。
このほか、安南(ベトナム)独立の志士・陳文安、清国の王族・粛親王の遺児や、蒙古独立運動のバブチャップ将軍の遺児たちとも、アジアの将来について、大いに語ることが出来た。
大正十一年七月二十八日、陸士第三十四期生三百四十四名は、陸士本科を卒業。西田の成績は百五十三番で、病気の為止むを得なかったとはいいながら、広島の幼年学校を首席で卒業した西田の胸中には、うそ寒いものが吹いていた。
西田が懐かしい羅南の駅に降りたのは、卒業の翌月八月十九日だが、国境警備の要地であり、満洲経営と対ソ連戦略の北端の基地でもある羅南は、二年見ない間に、軍都として目覚ましい発展を遂げ、西田の眼を見張らせた。軍事基地は拡張され、兵力も増加し、町も繁華になっていた。
西田の原隊である騎兵第二十七連隊の連隊長は、前と同じく飯島昌蔵大佐で、西田の卒業と復帰を祝って乾杯してくれたが、現地の戦時並の猛訓練を見せられた西田は、病弱のわが身を顧みて、果たしてついていけるか……という疑問に捉えられていた。この不安を消す為、彼は北一輝にならって法華経を読むことにした。
この年十一月、西田は騎兵少尉に任官、初年兵教育係を命じられた。病気の体験者である西田は、部下にも優しかった。部下の親の命日まで記憶していて、その日はその兵士に、親の為に祈る時間を与えてくれたので、部下はみな彼に心服していた。
部下の教育に励む一方、西田は、大アジア主義を実現する「青年アジア同盟」の仕事も忘れてはいなかった。その一つの現れが、翌十二年一月、自宅療養の為一時帰省することになった時、自室の壁に大書した次の詩である。
「憂国慨世回天の志、
辺境の夜々愁夢多し、
遥かに聞く、諸友吾を待つ事頻なりと、
病に託して寒濤、東に向かって帰る。」
正に憂国の志を表現したものであるが、この内最後の「病に託して……」が問題となった。つまり上京して国事に奔走する為、病気を理由とした……というふうにとられたのである。この為、西田は同じ連隊や中央からも、白い眼で見られるようになっていく。いずれにしても、枠の中におとなしく入っているような人物ではなかった。
二月一日、米子着。家に着くと、秩父宮の事務官・曾根田から宮の手紙が転送されてきていた。「宮様が病気のことで心配しておられます。是非上京をお待ちしています」という付記で、西田は早速上京することにし、二月十日、東京に着いた。
[#小見出し]   西田税、北一輝に革命断行の意思表示す
しかし、運悪く宮は発熱して面会が出来ないので、北一輝や満川亀太郎に会って時局を論じ、革命断行の意思を表示して、帰郷した。
三月四日、羅南に戻った西田は、深い決意とともに、革命断固実現の意図を秘めた密書を秩父宮のもとに送った。
今や病は病として、西田の胸は国家改造革命の希望に燃えていた。
そしてその意気込みの分だけ、彼の将校団における評判は落ちていった。軍務に忠実でない……というのである。
自分の思想を隠す為、という理由で彼は羅南の町にある三輪山の遊里に足を運ぶようになっていった。流連荒亡の荒れた日々が続き、二十三歳の青年の魂は、北朝鮮の巷をさまようようになった。ひどい時には、郭《くるわ》の妓《おんな》の部屋から部下に教練の開始を命じたこともある、という。そういう時、――段々、幕末勤皇の志士の遊蕩に似てきたなぁ……と不精髭をなでながら、西田は痩せた頬を女の鏡に映して、寂しく笑っていた。
――維新の志士たちも、大事決定の時は、このように荒涼とした心情であったのか? ……と考え、苦笑することもしばしばであった。
五月末、満川亀太郎が羅南にやってきて、中央の様子を語った。西田は早速秩父宮への手紙を書いた。
八月、事故が起きた。無二の同志であった宮本進が埼玉県入間川の近くで、飛行訓練中に墜落して殉職したのである。
八月末、猶存社の同志であった清水行之助が、羅南にやってきた。清水は北一輝の門下であるが、この時は西田が経文から受けた霊告を清水に伝えた。
「日本近く災禍あるべし。その洪水か地震かは知らざるも、近時、頻々として地震を聞く。経文に大地震裂の句あり。革命は地震の如し」
清水はこれに疑問を抱いた。革命はまだその状況に到達していない。西田が秩父宮に必死に接触して、同志の意図を理解してもらうことに懸命の努力を続けているところである。しかし、天変地異ということになると、北一輝以外にもわかる者がいても不思議ではあるまい。西田はそれだけの修行を積んできたと自任していた。そして、清水が帰国して間もなく起こったのが、関東大震災であったので、西田の霊告ということをよく知らない者は、その霊告の正確さよりも、恐ろしさに打たれた。北の妻のすず子は霊能者であるが、ついに弟子の西田税までが霊告を行なうようになったのか? ……と清水は空恐ろしさを感じた。
大正十二年九月一日午前十一時五十八分、未曾有の大震災が帝都周辺を襲った。この地方の死者約七万人、全壊家屋十三万八千余戸、損害総額は五十五億円で年間国民所得百三十二億の半分近く、国の一般会計の歳出総額十五億の三倍以上に及んだ。羅南にいてこの大災害を聞いた西田税は、自分の予言の当たった事を喜ぶよりも、更に甚大な被害をもたらす天災が祖国を襲うのではないか? ……とそれを恐れた。更に彼が気にしたのは、この動乱に乗じて、北一輝を頭領と仰ぐ一派が決起して、クーデターを起こし、帝都の要所を占領し、秩父宮、更に天皇の裁可を得て、『日本改造法案大綱』を実行に移すのではないか? ……という予感である。
――よし、それならば、乃公《だいこう》、決起に遅れてはならじ……と彼は身辺を整理し、必要なものを行李に詰めて、東京の同志からの連絡を待った。
しかし、北朝鮮で待っていても、東京クーデターの知らせは届かない。軍務を放棄して上京する訳にもゆかない。一方、北一輝の方は千駄ケ谷の家にいて、様々な事件に巻き込まれていた。
まず憲兵隊は甘粕正彦大尉が、どさくさに紛れてアナーキストの大杉栄と伊藤野枝の夫婦を大杉の甥とともに殺したが、その一方、東京周辺の主義者には、厳しい警戒網を敷いた。須藤憲兵中佐は、北一輝の周辺を見張る一方、大化会などを厳重に見張った。これに対して大化会の方は、大杉の遺骨奪取という非常手段を以て応じた。十二月六日、労働団体、思想団体は大杉の社会葬を行なおうとしたが、大化会の霜鳥繁蔵という男が、拳銃を乱射しながら、大杉の遺骨を奪って自動車で逃走しようとした。しかし、自動車の中で待っていた岩田富美夫に襲われ、霜鳥は逮捕され、遺骨は戻った。これを憤った霜鳥は翌年三月十六日の深夜岩田の家に白刃を持って乱入し、岩田の拳銃で撃たれ、霜鳥は逃走し大化会を脱会した。
この時、千駄ケ谷の北一輝の家は何者かに襲撃され、壁には弾痕が残った。
こういう騒動の中で、前に天皇襲撃を計画して、官憲から追われていた朝鮮人の朴烈が北の家に逃げこんできて、北はこれを匿《かくま》い、二十円の金をもらって、朴は北家を出た。
このように慌ただしい中に、北一輝を担いでクーデターを起こそうとしたグループも、もちろんいたが、未だその状況に非ずとして、北は動かなかった。須藤中佐らは北家及び彼の行動を厳重にチェックしていた。徒党を組んで事を起こすような徴候があったならば、北は逮捕されるか、或いは大杉のように暗殺されていたかもしれない。
それにクーデターといっても、彼には『日本改造法案大綱』に述べたような上からの革新に必要な、皇室や上層部との了解はまだ取れていなかった。
九月十八日、北一輝は以上のような東京の情報を西田に送って、自重を求めた。
「大地震裂して、湧出せんとする地湧菩薩等の群に、難なきは論なし。同志一人といえども、その同志の所縁公私を問わず、悉《ことごと》くを挙げて万死に落ちし者といえども、生を全う致し候。旧日本の死、しかして新日本、誕生の屋床を浄むるに此の血、此の火を持ってせむか。
九月十日 [#地付き]敬白
[#地付き]一輝」
この手紙を受けとった西田税は、感激して、同志への檄文を次のように書いて送っている。彼はこの天災を天罰と受け取って、すべての日本人はその魂を革命すべきだというのである。
「ああ、巷の不義は潰滅すといえども、独り神聖限りなく、高く尊きは明治大帝を祭る代々木の宮に非ずや。天意はかくと見よ、天帝の責罰と正義は滅びず、罰せられず、正義に立脚するもの亦等しく滅びず(後略)」
これから間もなく、北と大川が喧嘩して解散していた猶存社が発行していた『猶存』という雑誌を復刊した。
病気は病気として、西田はやる気であった。北一輝の許可を得て、雑誌『猶存』をやめ「青年アジア同盟」の機関雑誌としたが、三号でつぶれた。
不幸は重なり、この震災の年、十二月下旬、西田は「チチキトク」の電報で、二十六日米子の病院に急行した。父久米造は肝臓病で、翌十三年二月十一日死去した。享年六十一歳。久米造は西田が羅南に戻る時、「わしが死んでも帰郷するにはおよばぬ。天皇陛下にご奉公を忘れるな」と遺言した。これに従って西田は「チチシス」の電報を受けても、帰郷しなかった。彼は大きな問題で連隊長と争っていた。いよいよ国家改造、革新の時期近し、とみた西田は、東京への転勤を願い出たが、彼が「要注意」人物だという情報があったのか、平素は穏和な飯島連隊長も、断固として許さず、結果として彼は広島の騎兵第五連隊に転任することになった。彼を慕っていた部下たちは、泣いて西田を見送った。これが西田と大陸の別れかと思われた。
しかし、広島では意外な人物が西田を待っていた。それは日露戦争の時、奉天後方の偵察挺身隊を指揮して、有名になった建川美次中尉(後、中将、二・二六事件の時は統制派と見なされる)こと今は騎兵第五連隊長の建川大佐であった。
ここには西田の同期生が九名おり、その中には「青年アジア同盟」の同志である平木武もいて、西田を懐かしがらせた。
結社の好きな西田は、ここでも「暁の会」を造って数人の同志を集め、中央の北一輝らに連絡をとった。八月三十一日は当時の天長節である。西田はこの日を卜《ぼく》して剣の会の宣言を、全国の同志に送った。これが昭和二年に勢力を得る「天剣党」の発祥である。すなわち陸士時代に造った「青年アジア同盟」は今や天剣党に発展して、決起の日を待つことになるのである。
話を前に戻して、大正十三年秋、西田はまた病状が悪化し、郷里で自宅療養を命じられた。――もう軍服を着る日も長くはなかろう……西田はそう覚悟していた。
翌大正十四年三月、秩父宮が九州、山陰視察の途次、五日出雲大社、六日は宍道湖畔を通った後、松江の皆美館に宿泊されることになり、狂喜して松江で待機していた西田は、騎兵少尉の軍服で旅館に参上、一時間ほど話しこみ、さらに翌七日は、宮が米子へ移動されるので、同車をお願いし、一時間ほど二人だけで、密談をした。
この時、西田が何を宮に申し上げたかは、日記で推測される。病気が重いことを自覚した西田は、「今や国家改造運動を実現する秋《とき》です。私は軍籍を退き、革命に邁進致します。殿下のご協力をお願い致します」というようなことを申し上げたようで、宮の方も「皇族としての規範を考えながら、出来るだけのことはしよう」というような事を仰せられたようである。
秩父宮は米子では、後醍醐天皇の皇女|瓊子《たまこ》内親王の墓のある安養寺に参詣、南朝の忠臣・名和長年を祭った名和神社に参拝。標高六百八十メートルの船上山に登り、後醍醐帝の昔を偲び、山頂からは得意のスキーで、麓まで下られ、西田たちを感激させた。
宮の一行は赤崎駅から鳥取に向かい、発車の時、宮は西田に、「くれぐれも体を大切にしたまえ」と声をかけられた。
[#小見出し]   浪人と国家改造
大正十四年春、病気がやや快方に向かうと、予《かね》ての悲願である国家改造運動の為、陸軍を辞めた西田税は、上京すると、皇居に近い大学寮に入って、革命の闘士たるべく勉強をする為に、四月十三日上京した。
大学寮はもと社会教育研究所といい、赤化防止の為の国家主義的教育を主体としており、全国の青年の中から、選抜した学生を入校させ、大川周明、満川亀太郎らが教えていた。
この学校の教科の主なものは、
人生哲学 大川周明
孔老学 安岡正篤
二十世紀史、国際事情 満川亀太郎
国防学 西田税
馬術師範 同右
というようなメンバーで、インテリ右翼青年の養成所というところである。
この大学寮は、後の昭和維新運動の揺籃の地となるのだが、西田はここで『日本改造法案大綱』を複写印刷し、訪問してきた菅波三郎(元陸軍大尉)や末松太平(同上)、及び陸士の有志生徒、そして海軍で革新運動の草分けとなった藤井斉(当時、海軍兵学校四年生、大正十五年十二月海軍少尉任官。生徒の頃から『日本改造法案大綱』に心酔し、任官後王師会をつくったことは前述した)らに渡して、運動の高まりを推進していた。
西田の担当は、馬術は別として、国防学であったが、折りを見て『日本改造法案大綱』の要点を学生に解説することもあった。
こうして大学寮は、幕末の吉田松陰の松下村塾の傾向を帯びてきたが、僅か九ヵ月で閉鎖されてしまった。その理由はこの建物の持主である宮内省が、図書館を造るという理由で、取り壊したからである。
前述のように、この頃、西田は北一輝の命令で宮内省の汚職をかぎつけ、怪文書事件を進行させていたので、宮内省の方では、理由をつけてこの学校を閉鎖に追い込んだのであった。
このほか、上京してからの西田税は、大川の主宰する行地社の同人となって、その機関誌『日本』に『朝鮮問題と日本の改造』という論文を寄せて高い評価を受けた。
[#小見出し]   北一輝と大川周明の訣別
北一輝と大川の間が決裂したのもこの頃で、その原因は、安田共済生命事件であるが、詳しいことは省略する。とにかくこの頃、大川は満鉄の東亜経済調査局の調査課長で拓殖大学の教授を兼ね、金に困ってはいなかったが、北の方は金がない。それで安田を叩いたのであるが、それで受け取った金を、北が勝手に自分の懐に入れたので、大川が怒ったものだという。
両雄並び立たず……というが、満川の「大川は志士にしては学がありすぎ、学者にしては情熱がありすぎた」という批評が当たっていよう。
西田も一時は大川と行動を共にしていたが、『日本改造法案大綱』に惚れこんだ彼は、結局、北一輝と運命をともにすることになった。
西田税が佐藤はつという女性と出会い結婚したのは、大正十五年二月のことである。はつの祖先は水戸藩の下級武士で本所に住んでいた。はつは神田の洋食店で働いていたが、客にきた西田と気が合い、西田もこの娘が気に入って、結婚に踏み切った。西田税二十六歳、はつ二十一歳。
年号が昭和と変わって、翌二年、北一輝と西田税は怪文書戦術で、金をかせぐ慌ただしい日々を過ごしていた。宮内省事件、十五銀行事件、朴烈文子怪写真事件などについては、すでに述べた。
そして天剣党事件で、西田税の名前はますます有名となって、同志も増えてゆく。
西田税が天剣党を結成したのは、大正十五年四月であるが、浪人となった西田はいよいよ『日本改造法案大綱』を実行に移すべく、昭和二年七月「天剣党規約」を作成して、全国の同志(当時、七十一名という)に配布した。そもそも西田のオルグとしての活動は、陸士時代の「青年アジア同盟」に始まり、これが広島の騎兵第五連隊では、剣の会となり、陸軍を去るこの頃に天剣党結成、そして今度は具体的な国家改造、革命の実行を考えた。この「規約」には、北一輝の『日本改造法案大綱』を模した「天剣党大綱」、実戦のマニュアルを示した「天剣党戦闘指導綱領」などという物騒な項目も入り、西田の覚悟を示していた。
西田にはアジ的な文才があり、この「規約」にも過激な檄文がついていた。
「我等が天剣は時運の奔流とともに、今や最も近く鮮血の戦場に臨んで、鏘々《しようしよう》掌中に鳴る……降天の神剣が鳴躍する、果してなんの啓示ぞ……戦場へ! 戦場へ!」
正に実戦に赴く将兵への激励の言葉であるが、どこか中学校の応援歌に似ているところがなくもない。その点、今も広く酒場などで愛唱されている三上卓作といわれる『昭和維新の歌』と共通したところがある。
まず天剣党の目的は、「日本の合理的改造を断行する根源的勢力」となることで、「広く指導的戦士の結合を計り、以て全国に号令する」となっている。
西田はこの「戦闘指導綱領」の中で、明確に北一輝の『日本改造法案大綱』の示す革命を志す秘密結社であると宣言し、さらに秩父宮の存在を暗示して、「同志の一部が天子近親の某殿下と秘約ありというが如きを根拠として、天皇の自発的大権発動、大命降下等を夢想するは、混迷甚だしき沙汰なりとす」と表面は宮の支援を否定するような書き方をしているが、西田に同調する同志には、宮の支援を期待させるものがあったことは否めない。
この過激かつ尚早と思われる革命宣言≠ノ対して、同志の一部からは、秘密行動としては、漏洩の危険あり、として批判が出たが、西田は得意の分かるような、意味のはっきりしない、応援歌ふうの名文?で弁明し、次のように陸軍の中枢の密かな支援があるようなことを書いている。
「陸軍(幹部)が表面上公然とこういう行動に出ることは不可能なり。主義、行動には賛成なるも陰に擁護するのみ」と軍の内部を見透かしたようなことを書いている。
この頃、内閣は若槻から田中義一にバトンが渡り、陸相は統制派の宇垣ではなく、大陸進出派に寛大な白川義則に代わっており、前述の如く相次ぐ軍縮で、中央においても経済的不振、大陸問題の行き詰まりなどから、過激な対策を強行すべきだという意見が強く、西田等の革新運動にも強い圧力はかかってこなかった。
こういう雰囲気が、翌昭和三年六月四日の奉天における張作霖爆殺(関東軍河本大佐首謀)を惹起し、昭和五年統帥権干犯事件の後、前述の桜会が結成され、三月事件、十月事件等を招き、更に満洲事変へと発展していくのである。
正に日本丸の針路が大きく転換される時に、西田や青年将校たちは、北一輝や大川周明らのイデオローグをバックにして、追い風にのったような気分で、意気ますます軒昂……として、気勢を揚げている時代であった。そして陸軍の十月事件の挫折に続いて、海軍の三上らが立つ頃には、どこからとなく「昭和維新」が叫ばれ、時代は五・一五事件から満洲事変、そしてついに二・二六事件で、国家改造を実現すべき決戦となり、闘士たちは誰に計られたのか、この世から恨みを呑みつつ昇天していくのである。
世界の政治家、学者、軍人から賞賛され、孫文が中国革命の模範としたという明治維新と昭和維新はどこが違っていたのか?
一、人材が不足していたこと。……明治維新には強力な仕掛け人である坂本龍馬がいて、『船中八策』という新政府の青写真を示し、薩長連合を成し遂げ、一方、岩倉が宮廷と天皇を動かして、玉《ぎよく》≠尊皇派の中に取り入れた事等北一輝が『日本改造法案大綱』で示したような条項を満たしていた。
この点、五・一五事件や二・二六事件では、宮廷や天皇はこれらの計画を知らされることもなく、新しい革命について知っていたのは秩父宮だけという、根回しの不足が決定的となっていったと見てよかろう。
二、オルグたちがいかに奔走しても、時代はまだ軍隊のクーデターに同情的ではなかった。
青年将校たちはそれぞれに北一輝の『日本改造法案大綱』などを読んで、自分なりに国家改造の絶対必要性を認識して行動したのであるが、一般国民にとっては、総理や内大臣、侍従長、蔵相襲撃などは寝耳に水の出来事で、全然理由が分からず、満洲事変同様不意打ちを食らって、軍部の真意がいずこにあるのか、戸惑う次第であった。これでは協力のしようがない。ただ――軍部に逆らう政治家は殺される……という恐怖感が先に立ったと思われる。
三、具体的にいって、十月事件と同じく、志士気取りの青年将校の中には、大言壮語し「気に入らぬ将軍はぶった斬れ!」などと料亭で気勢を揚げ、情報が軍部内部や官憲に洩れていた。
四、軍内部が皇道派、統制派の二つに割れ、この抗争に昭和維新の理想をかぶせたのであるが、結局、上層部の分裂が、青年将校と宮廷との意志の疎通を困難とし、天皇の怒りをかうことになり、決起軍は間もなく反乱軍とされていったということである。
五、明治維新と違って宮廷の内外が、しっかりとした組織で守られ、強いて決起軍がこれを突破しようとすれば、禁門の変における長州軍の如く、朝敵≠ニされる懸念があった。要するに決起派と雲の上をつなぐ岩倉のような存在がいなかったことも大きな障害で、決起将校たちが、真崎などの将軍に乗せられ、暗殺を行なってからの責任ある受け皿がしっかり決まっていなかったこと。
六、軍内部に統一がなく、また陸海軍の連絡もよくなかった。
七、要するに北一輝の『日本改造法案大綱』のクーデターの件《くだり》までは熱心かつ果敢に実行したが、その後の青写真が、五・一五事件の時と同じく未定であったことが、途中から事件の拡大発展を阻害したものと見るべきであろう。
そして、その青写真を見えないところで蔽い隠すカーテンに、人はやがて気づいたであろう。外国人のいう菊のカーテン≠ニいうものである。明治維新ではこのカーテンが薄く、外部から中を見透かすことはそれほど困難ではなく、龍馬が構想していた日本を欧米並のデモクラシー国家(但し天皇制付の)とする方策は、彼の死後間もなく「五箇条の誓文」に始まる改革案によって、陽の目を見てゆき、勤皇の名のもとに倒れた多くの志士たちの、死を有意義たらしめ、明治日本の繁栄をもたらしたのである。
[#小見出し]   海軍のオルグ・藤井斉の登場
藤井についてはすでに一部を述べたが、菅波三郎とともに、西田税の心の友であった藤井について、短く語っておきたい。
前にも触れたが、二・二六事件の青年将校たちが担ごうとしたのは、佐賀出身の真崎甚三郎であるが、青年将校の中には佐賀出身は少なく、前述の通り決起将校の主力は、真崎が陸士の校長の時、その人格と革新の思想に心酔した生徒であった。
試みに主な決起将校の出身を調べるならば、
磯部浅一 山口県、広島陸軍幼年学校。
村中孝次 北海道・旭川、札幌一中。
野中四郎 青森県弘前市、東京府立四中卒。
安藤輝三 東京生まれ、宇都宮中、仙台幼年学校を経て陸士卒。父栄次郎は岐阜県揖斐郡、揖斐町出身。
香田清貞 佐賀県小城郡、小城中学校卒。
栗原安秀 島根県松江出身(父は陸軍大佐・栗原勇、佐賀県神崎郡出身)、東京の名教中学校から陸士入校。
対馬勝雄 青森市相馬町生まれ、青森中学校卒。
中橋基明 東京出身、父は陸軍少将・垂井明平(佐賀出身)、東京の名教中学校から幼年学校、陸士へ進む。
丹生誠忠 鹿児島市出身、鹿児島一中、麻布中学校から陸士へ。父猛彦は海軍大佐。
後は省略するが、見た通り佐賀県出身、あるいは佐賀中学校出身は希《まれ》である。
これに比べて、五・一五事件の主な青年将校が殆ど佐賀中学校出身であることは、前にも触れた。
そして彼等が王師会を造って、北一輝の『日本改造法案大綱』をバイブルとして、国家改造のための大クーデターを計画したことにも触れた。
王師会の創立者は、海兵五十三期の藤井で、その後に五十四期の三上、五十六期の古賀、山岸らが続く。これらの殆どが佐賀中学校の出身であることも、前に触れた。
古賀の話によると、藤井はすでに『日本改造法案大綱』の熱烈な心酔者であり、古賀が海兵に入校して間もなく、発熱して病室にいると、同じ中学校の先輩として見舞いにきた藤井は、古賀のベッドのそばにきて、「これからの日本はワシントン軍縮の結果、(藤井のクラスはワシントン軍縮会議の大正十一年八月の入校で、入校生が三百人から五十人に減ったクラスで、国防の危機を叫ぶ生徒も多かった)国防の危機に瀕する。どうしても革新の必要がある」と説いたという。
『西田税 二・二六への軌跡』にある藤井の経歴を見ると、藤井斉は明治三十七年八月三日(黄海海戦の七日前)長崎県平戸で生まれた。三歳の時、父荘次は炭鉱経営に失敗して、家は落ちぶれた。斉は両親の生まれ故郷である佐賀県の住ノ江港に帰り、祖父山口万兵衛の手元で育ったが、八歳の時、この祖父が死んだので、万兵衛の孫・半六に育てられることになった。この半六は東京の日比谷中学校卒業の後、三井物産に入り広東勤務となった。当時、この南方地区は中国革命のメッカであり、孫文も興中会を組織して、その中心となっていた。山口半六もこれら若い革命家とつきあって、大いに大アジア主義に共鳴した。
藤井の大アジア主義はこの従兄の影響が大きい。
郷里の住ノ江港に帰った半六は、石炭の輸出や大豆の輸入に携わり、事業は繁栄した。半六は国士ふうの気概があり、斉にも見所があるとみて、期待するところがあった。
小学校六年間を首席で通した斉は真崎の母校である県立佐賀中学校に進み、勉強と運動に精を出した。養父同様の半六の影響で、斉は海兵を志願するようになるが、同級生に碇《いかり》壮次という少年がいて、よく一緒に佐賀市の西北にある天山に登った。ここは見晴らしがよく玄界灘が望まれた。
須山氏の『西田税』によると、
「藤井の気宇広大な性格は、少年時代の天山登山で養われたのかもしれない」
と同期生の碇壮次は後年述懐したという。この碇壮次氏には、懐かしい思い出がある。私が海軍兵学校三年生と四年生の時の航海科の教官で、分隊監事をしていた士官である。分隊監事というのは、ある分隊……私の場合は第三十五分隊生徒の人事を始め、親代わりに面倒を見てくれる士官で、碇教官が私たちの親代わりで、オヤジ≠ニいって、一身上の相談にものってくれた。小柄ではあるが、海で鍛えた塩辛声で、二年間はこの分隊監事のもとで、訓練に励んだものである。一緒に宮島の海岸で天幕を張り、泳いだことも忘れられない。その頃は碇教官が佐賀中学校出身ということは全然知らなかったが、いかにも佐賀っぽらしい豪快な人柄で、仇名はイカリ・ソージ……航海科であるから、錨の掃除をする……であった。
この教官は海軍大佐で終戦を迎え、郷里の佐賀郡東与加町の町長をしておられた。
昭和五十年頃であったが、東京の水交会で六十八期のクラス会があり、廊下で肩を叩いた人があるので、振り返ると碇壮次教官であった。彼は私を片隅に連れてゆくと、肩や背中を叩きながら、
「おい、豊田、お前、戦争中は大層苦労しただろうな……悩んだだろう! ……苦しかっただろう……」
と私を労《ねぎら》ってくれた。私は返す言葉もなく、唯うなずいていた。捕虜となって生還する時、――いかなる屈辱にも耐えて生きよう……と私は考えていた。郷里の伯母は、「あんな戦争では死んだ者は浮かばれん。よう生きて帰ったなも……イトシ(母の名)さんはなくなったが、お前さんはその生まれ変わりや」といってくれたが、多くの人の眼……特に旧海軍の軍人の眼は冷たかった。戦争は負けたが、捕虜になって生きていた軍人は、恥ずべき存在である……彼等の眼はそういっているように感じられた。その中で碇壮次教官だけは、親身になって我が子のように、私をはげましてくれた。その時、私はやはりオヤジだけは、分かっていてくれたのだ……と考えながら、涙をこらえた。
それから三年ほど後に、私は山本五十六大将の後任として、連合艦隊司令長官になった古賀峯一大将の記念碑が、有田に出来るというので、除幕式に参列した。式後、私は一人の婦人に呼び止められた。碇壮次教官の夫人で、私たちは生徒の時に、よく教官の家に菓子などを御馳走にあがったものである。夫人は美人でその時も若々しかった。私はその時、碇教官がしばらく前に逝去されたことを知った。帰りの飛行機まで時間がなかったので、それで失礼したが、私は水交社の廊下で聞いた、分隊監事の温かい激励の言葉を思い出していた。
話を藤井斉に戻そう。
藤井は熱烈な海軍志願で、前述の通り、ワシントン軍縮会議の年の八月、海兵に入校、待望の訓練にいそしんだが、当時の海軍は軍縮の為意気が揚がらなかった。アメリカ海軍との決戦もありそうにない。藤井は海軍士官の前途に失望し、北海道で牧畜をやりたい……と養父に手紙を出したが、半六は、「十年辛抱してくれ」というだけである。止むを得ず、藤井は課業はほどほどにして、新しい世界観を求める読書に打ち込んだが、悩みは深くなるばかりである。藤井はその解決を座禅に求めた。海軍兵学校の二キロほど北に、品覚寺《ほんかくじ》という寺があり、日曜日にはここで座禅を組んだ。
藤井が卒業(大正十四年七月)の年の春、時の軍令部長・鈴木貫太郎大将が、検閲の為、海兵に来校し、藤井が四年生を代表して、意見の発表を行なった。これが非常に鈴木を感動せしめた。すなわち彼の大アジア主義の一環として、日本がアジアの中心となり、白人優越の世界を打破せよ、というものであった。
海兵を卒業した藤井は革新のオルグとして、名前を知っていた西田税を大学寮に訪ね、意気投合した。藤井の海兵五十三期は、陸士三十八期に相当し、西田税の方がやや先輩であったが、西田税はこの若い同志を歓迎した。ここに陸軍の強力なオルグと、海軍の若いがエネルギッシュなオルグが出会ったので、この会合がなかったら、五・一五事件も二・二六事件も、別の形をとったかもしれない。
当時、西田税は中国革命が行き詰まり、新しい結社(天剣党は昭和元年結成)による運動を考えており、藤井も大いに西田に啓発されるところがあった。(藤井が王師会を造るのは、昭和三年である)
しかし、憂国の志士、藤井もいきなり革命に持ち込むことは出来ないので、西田の勧告もあって、海軍に国家改造の為の結社を造ることにした。
この王師会には、三上、古賀、黒岩、山岸ら、後の五・一五事件関係者が続々入ってくる。王師会の綱領の要点は次の通りである。
一、道義を踏みて天下何ものをも恐れず、剛健、素朴、清浄、雄大なる古武士の風格あるべし。
二、日本海軍一切の弊風を打破し、将士を覚醒奮起せしめて、世界最強の王師会たらしむべし。
『宣言』
「政権の餓鬼政党者流と、吸血鬼の化身黄金大名と、無為遊惰の貴族大名とは政権を壟断《ろうだん》し、天皇の大御心をおおい奉り、建国の精神を冒涜し、私利私欲を中心として、闘争にうき身をやつせる醜状は、奇怪千万也。
雄渾壮大なる国民精神を以て、大陸を経営し、大洋を開拓し、暴虐なる白人を粉砕して、有色人種を解放独立せしむべし。」
昭和五年十二月、霞ケ浦の海軍飛行学生教程を卒業した藤井は、大村海軍航空隊に赴任する途中、鳥栖《とす》駅で陸軍のオルグ・菅波三郎と会合し、二時間ほど話しこんだ。
後年、菅波は藤井のことを次のように回想している。
「藤井君は天性の革命児である。勇敢で真剣、しかも精悍で闘志にあふれた人物、思慮緻密、本は広く読んでおり、思想も透徹している。彼が上海で戦死しなければ、西田税や陸軍の有志と組んで、真の昭和維新をやり遂げていたかもしれない」
[#小見出し]   ロンドン会議と国家改造派
そして彼等を触発すべき大事件がやってくる。昭和五年一月のロンドン軍縮会議がそれである。前回のワシントン会議が、主力艦の比率を決めたのに対し、今度は補助艦の比率を決めようというのであるが、その狙いは興隆しつつある日本海軍を抑えて、米英が太平洋の制海権を握り、東洋の植民地化を進めようというものである。日露戦争の時、日本に好意を示し、講和を斡旋したルーズベルト大統領も、その後の日本の大陸への急速な発展に警戒的となってきた。
こうして日本海軍の兵力に|たが《ヽヽ》をはめようというのが、ロンドン会議であったのだ。
日本の首席全権は元総理の若槻礼次郎で、外交に不慣れであるが、数学は得意という若槻は、問題の対米英比率は、軍令部の七割という要求に対して、どうにか六・九七五までこぎつけたが、軍令部長で軍拡主義者の加藤寛治大将は不満で、三月末には帷幄《いあく》上奏を企図するという騒ぎとなってきた。
この間のロンドン会議の様子は、筆者の近作『宰相・若槻礼次郎』に詳説したので、簡潔に話を進めるが、この際、軍令部の反対を押し切って、浜口首相が若槻の比率の電報を上奏し、天皇のご裁可を得た件で、加藤軍令部長らは、統帥権に対する政府の越権であると騒ぎ出した。この時、北一輝が霊告によって、『統帥権干犯』という文字をひねり出したということは、すでに触れた。
問題はこの軍縮会議に対する海軍の若手将校の反応である。彼等は浜口や山梨海軍次官らの早期妥結派を、統帥権干犯という文字で責め立て、ワシントン会議のもたらした海軍の大幅軍縮による将兵の整理、軍艦の処分による国防の不安定などを、憂慮して海軍を粛正し、政府、政治家などの要人の暗殺やクーデターによって、国家改造を実行しようと企画し始めた。
一方、西田税も時いたれり……とばかりに暗躍し始めた。
昭和四年には寺田稲次郎を委員長とする、「日本国民党」が発足、西田はこれと連絡を取り、その影響力を、民間に波及させるべく努力していた。
元々西田は孤独な性格で、人と妥協せず、孤高を尊しとするところがあったが、ロンドン会議で世間が騒ぎ出すと、民間人や海軍とも連絡をとり、国家改造運動に乗り出した。
すでに西田は昭和四年十一月二十五日、青山の日本青年会館で開かれた海軍軍縮国民同志会(内田良平主宰)にも参加しており、浜口の政府が統帥権干犯で、野党の政友会や国内の愛国派から非難されていることは、彼等の攻撃のよい目標となった。この時、実行委員として二十九歳の西田税も、菊池武夫男爵、内田良平や北一輝の弟・ヤ吉(早大教授)、大川周明、岩田愛之助と肩を並べている。
早くも国家改造を目的とする愛国運動の表舞台に立った感じで、その背後にカリスマの北一輝が鎮座しているということが、西田税に重みを加えていた。
一方、海軍のオルグ・藤井斉は軍務の関係もあって、国家改造に関する大衆運動の発起が非常に困難だという壁にぶつかっていた。
藤井は段々過激となり、この頃、次のような言葉を残している。
「大衆に革命は出来ない。出来るようなら革命の必要なし。暗殺は革命の大部を決す」
昭和五年が明けると前述のようにロンドン会議が始まる。
前述の通り、北一輝と西田税は、得意の一手……怪文書戦術を発動した。金解禁と関連して、安田保善社と官僚の関係を告発して、西田は十日間、警視庁に勾留される。不起訴にはなったが、頭山満からにらまれ、日本国民党から手を引くことになる。
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[#見出し] 第六章 五・一五事件勃発!
[#小見出し]   西田狙撃さる
統帥権干犯問題は、結局、軍令部の反対は通らず、平和愛好の天皇の意志に沿って、ロンドン条約は四月二十二日調印される。(この詳細は、筆者も『最後の元老・西園寺公望』等に書き、多くの研究書が出ているので、省略する)
この頃、霞ケ浦航空隊にいた藤井斉は、四月三日、『憂国概言』というパンフレットを全国の同志に配布した。その主な内容は、国民の貧困を嘆くものであるが、次の文章は、後の五・一五事件の激発を、予知させるものといえよう。
「ああ、財界を見よ。何処に社稷《しやしよく》体統の、天皇の道業は存する。皆是民衆の生血をすすり、骨をねぶる悪鬼|豺狼《さいろう》の畜生道ではないか。内かくの如し。外国国際場裡を見よ。剣をとらざるの戦は、今やロンドンにおいて戦われつつある。祖国日本の代表は、米英連合軍の高圧的威嚇に、屈辱的な城下の誓いを強《し》いられんとしている」
これに続いて藤井は、今や『日本改造法案大綱』の実施による革命以外に祖国を救う道なし……として、次のように続けている。
「天皇大権の発動によって、政権財権及び教権の統制を断行せんと欲する日本主義的維新運動の支持者たるを要する」
この藤井のパンフレットは、憲兵の取り調べを受け、七日間の謹慎を命じられる。
一方、民間では、条約調印に反対した右翼、愛国社社員は、統帥権干犯の理由で、十一月十四日、浜口首相を東京駅で狙撃して、重傷を負わせる。(浜口は翌六年四月若槻にバトンを渡し、八月二十六日死去)須山幸雄氏の『西田税』によると、統帥権干犯問題がエスカレートした時、民政党の永井柳太郎(外務政務次官)が北一輝の家にやってきた。
「北君、統帥権干犯問題で、あまり若い連中を煽動しないでもらいたい」
北はこたえた。よく使うベランメエ調である。
「統帥権干犯なんて大体、シナ料理の看板みたいで、面白くもねぇ。けれども永井君などは、モーニングなどを着込んで騒いでいりゃ金になるが、軍縮では食えなくなる将校や職工が沢山出るんだよ。この不景気の最中に若い失業者の気持がわかるかね」
永井も返す言葉がなく引き下がったらしい。
永井が帰った後、北一輝は吐きすてるようにこういったという。
「大体、クラゲばかりいじっている奴(天皇の生物学のことか? ……)が悪いんだ。ロンドン条約がこじれたのも、天皇がノロノロしているから、浜口に勝手にされるんだよ」(須山氏『西田税』より)
少年時代の北一輝には、勤皇の志があったが、『国体論及び純正社会主義』や『日本改造法案大綱』を書くに至って、彼は天皇が大権を発動して、軍縮などもてきぱき処理しないことに、焦燥を感じていたのかもしれない。
内外多事の中にロンドン条約は十月二日、批准され、一応のピリオドを打ったかに見えたが、これが二年後の五・一五事件にまで尾を引くとは、一般国民には予想出来なかった。
そして大陸に動乱を呼ぶ昭和六年が明ける。
すでに述べた通り、橋本欣五郎らの三月事件が画策され、これは未然に防がれたが、九月十八日満洲事変が勃発して、大陸に戦火が揚がると、またしても陸軍中堅将校は十月事件を計画し、これも事前に洩れたことは、既述の通りである。
十二月十一日、満洲事変処理の困難や閣内における安達内相の造反事件の為、若槻内閣は総辞職、バトンは政友会の犬養毅に回り、陸相には革新将校に人気のある荒木貞夫中将が就任したので、橋本や長らの革新将校も、しばし矛を納め、海軍の継投に望みを託することになった。
こうなると藤井たち王師会の出番である。
すでに藤井は事重大とみて、批准の近い八月、各方面の同志に檄《げき》をとばしていたが、翌七年一月二十八日満洲事変が上海に飛火して、上海事変(第一次)が勃発すると、空母加賀乗組の藤井(大尉)は、軍務が忙しくなってきた。三上も陸戦隊副官として、上海にゆくことになり、王師会も手薄となってきた。
この時、行動右翼の指導的立場をとったのが、血盟団の井上日召である。井上の血盟団は一人一殺のテロを方針として、この年二月九日、前蔵相・井上準之助、三月五日、三井合名理事長・団琢磨を暗殺することになる。
それは後の話で、前年の十月事件で、陸軍のオルグたちが、国家改造、革新運動からしばらく手を引くということになると、井上は兵力の過小に懸念を感じ、海軍と手を結ぶことになった。
年が明けて昭和七年に入るや早々、佐世保で加賀乗組の藤井、第一遣外艦隊司令部付の三上のほか、林正義、鈴木四郎らの同志が水交社に集まっていると、東京から井上日召の使いだという学生(四元義隆)がやってきて、井上の「決起近し、予定は二月十一日、海軍同志の協力を望む」という伝言を伝えた。
「よし、やるぞ!」
と藤井が立ち上がって、詩を吟じた。
しかし、海軍上層部ではこのような革新派の動きを察知したものか、海軍の革新派で、国家改造の意見を持つ小林省三郎少将は、満洲に転勤、ほかの同志たちもばらばらになってしまった。
一月二十八日、上海で事変が起こると、事態は急を告げてきた。
藤井を乗せた加賀の飛行機隊は、舟山列島近くで待機していたが、二月五日、上海方面の偵察、爆撃の命令をうけ出動した。
藤井は一番機を操縦して、午前十一時近く、上海北方の真如《しんによ》方面の偵察中、敵弾が命中、藤井機は火を噴いて敵の中に墜落、藤井は二人の搭乗員とともに戦死を遂げ、ここに国家改造の志を中断されることになった。
この頃、三上は陸戦隊副官として上海にきており、藤井の死をきいて、――結局、おれがやらなければならない……と唇を堅く噛みしめた。
一方、藤井の戦死を知った井上の血盟団のほうでは、単独で要人の暗殺を始めた。前述の如くまず二月九日、前蔵相井上準之助を小沼正が暗殺、続いて三月五日、三井の団琢磨が日本橋の三井銀行本店前で、菱沼五郎に射殺された。
また五・一五事件の作戦参謀といわれる古賀清志中尉は、この頃、霞ケ浦航空隊で訓練中(教官は戦闘機乗りとして知られる源田実大尉・海兵五十二期)であったが、藤井の戦死を聞くと、――いよいよ決行の時期至る……と上京した。
古賀は同志の中村義雄とともに、頭山満の三男で天行会を主宰している頭山秀三らに相談して、昭和維新決行のための武器集めを始めた。
三月十一日、井上日召が自首すると、古賀たちは余計に焦燥の念に駆られた。古賀たちは大川周明にもクーデターの武器集めに協力を頼んだ。大川は賛成して軍資金として、六千円をくれた。
古賀たちが集めた武器は、合計、手榴弾二十一発、拳銃十三挺、実弾数百発、短刀十数|口《ふり》で、同志は、陸軍の士官候補生十一名、中尉五名、少尉四名、民間の頭山秀三、橘孝三郎(愛郷塾頭)、本間憲一郎(柴山塾頭)、そして三上を首領とする海軍士官六名らであった。これで昭和維新を断行しようというのであるから、どこか計算違いがあったのではないか?
また例によって、この計画も当局の探知するところとなり、古賀たちは、五月十六日憲兵に逮捕されることになっていた。たまたまその一日前に古賀たちは決起したのである。
一方、北一輝と西田税の組も動いていた。北一輝は例によって、時期尚早説で、この決起を阻止すべきだと考え、西田が幹部に会って、中止を訴えていた。
ここに西田に対する疑念が生じた。十月事件の時も西田は止め役のほうに回っている。西田は重大な行動の時は、大体、北一輝か妻すず子の霊告による指示を、決起派に伝える役目をしていたのであるが、古賀の話によると、愛郷塾の方から、「西田は同志ではあるが、裏切り者だから、殺《や》ってくれ」という要望があったので、西田と旧知の血盟団の川崎長光が、西田の襲撃を引き受けることになった。
三上や古賀の犬養邸襲撃は、五月十五日の午後五時半頃で、川崎が代々木の西田の家を襲ったのは、午後七時頃であるが、話の都合上西田襲撃の方を先に見てみたい。
川崎は茨城県那珂郡前渡村の生まれ、商業学校を出て、上京して印刷所に勤めたが、不況の為帰郷して、井上日召の門に入り、北一輝の『日本改造法案大綱』を読んで、国家改造運動に打ち込むようになった。
四月下旬、古賀からの西田襲撃の要望がきたので、五月十五日の朝、川崎は水戸の愛郷塾で拳銃一挺を受け取り、汽車で上野に行き、乗り換えて新宿でタクシーに乗ると、代々木山谷の西田の家に向かった。
西田の動静を偵察もしないで、訪問したのであるが、西田は在宅で川崎はほっとしたが、これが西田の不幸につながった。
西田の家の前でタクシーを降りると、川崎は玄関の扉を叩いた。
「おう、君か……」
旧知の西田は二十歳の川崎を優しく迎え、川崎の殺意を削いだが、大義親をも滅す≠ニいう言葉で自分を元気づけ、西田について二階の書斎に入った。対座すると間もなく川崎は、懐中の拳銃の安全装置を外した。カチャッという音がしたが、西田は川崎の殺意には気づかず微笑している。
「西田さん、国家の為ですぞ!」
川崎が銃口を向けると、西田は意外な展開に驚いて、テーブルをはね上げると、立ち上がろうとした。若いに似合わず落ち着いている川崎は、和服を着た長身の西田税に向かって四発を連続発射した。弾は全部西田に命中し、
「この野郎! おれを殺《や》ろうというのか!」
場数を踏んでいる西田は、立ち上がると川崎に組みつこうとした。西田、五尺七寸、川崎は五尺そこそこの小兵である。西田は拳銃を奪おうとする。川崎はそれをかわして残りの二発を発射した。川崎は、プロ並の冷静さで全弾を打ち尽くすと、階段の方に逃げようとした。
「この野郎! 逃げるか!」
気丈な西田は川崎の足に抱きつき、二人は二匹の獣のようにもつれながら、階段をころげ落ちた。その物音に驚いて出てきた西田の妻はつの脅えた顔を尻目に、川崎は待たせてあったタクシーで逃走した。川崎は翌日逮捕された。
西田は重傷であった。右掌、右腕の貫通銃創、右腕、下腹部の貫通銃創であったが、不死身の革命家は、入院後命を取留めて、三上や古賀にその生命力の強さを示した。
[#小見出し]   犬養邸襲撃
川崎の西田襲撃は完全に成功はしなかったが、三上、黒岩らの犬養邸襲撃は成功した。
まず革命派の襲撃配備は次の通りである。
第一組(目標・首相官邸)集合場所、靖国神社境内。
第二組(目標・内大臣官邸)泉岳寺門前力亭。
第三組(立憲政友会本部)省線新橋駅前。
五月十五日の午後四時過ぎ、第一組担当の三上と第二組担当の古賀らの同期生は芝の水交社に集合、別れを告げた。
「おい、古賀、御苦労だったな」
三上がそう参謀の古賀をねぎらった。
「じゃぁ、三上さん行ってきます」
「うむ、武運を祈るよ」
「おい山岸、十分働いてくれよ」
「うむ、古賀、貴様も元気でな……今度会う時は冥土かもしれないな」
同期生の山岸と古賀は堅い握手を交わした。古賀はふと江田島の八方園神社を思い出した。大講堂に近い岡の上に、その神社はあった。生徒たちは事ある度に、この岡に登り神社に礼拝し、方角の彫ってある岩の前で、郷里の方に向かい、合掌して、国家への奉公と天皇への忠誠の誓いを新たにした。全校分隊競技の前には「必勝祈願」の為に、この神社に参拝にくる分隊もあった。
入校して間もない一年生が弱音をはいた時、四年生がこの神社の岩の前に連れてゆき、
「どうだ、この方角が貴様の郷里の方角だ。貴様のご両親や母校の先生は、貴様が立派な将校生徒になると、日夜祈っておられるのだ。貴様たちはどうあっても優れた生徒になり、国家有用の材として、ご奉公すべきではないか。これぐらいの訓練でへこたれてどうするのか」
と一年生を諭すこともあった。
今、古賀は十年近く前の江田島の神社の光景を胸中に蘇らせた。――藤井大尉のように前線で戦死することは出来なかったが、この日の一挙で北一輝の『日本改造法案大綱』を敢行し、国家改造が実現するならば、これもご奉公の一つで、江田島の誓いを証すことになるのだ……山岸との堅い握手を終わると、古賀は自分の受け持ちである第二組の牧野内大臣邸に向かった。
こうして三上に率いられた第一組の山岸、村山らが、靖国神社の大鳥居前に着いたのは、午後五時である。陸軍の後藤、八木ら五人の士官候補生はすでにきていた。この五人も同志であるが、三上は会うのは今日が初めてである。お互いに名乗って、拝殿の前で礼拝し、三上と古賀は三ヵ月前、上海で戦死した藤井斉の霊に祈った。
――先輩、いよいよ決行します。立派に君側の奸を誅して、日本国家改造の魁《さきがけ》となります。そして散ります……靖国神社の春の桜のように……江田島の校門付近の桜並木は、来年も見事に満開になるでしょう……そして我々は藤井先輩とともに、お花見をすることになるでしょう……古賀が空を仰ぐと、五月の空はまだ明るく、杉の梢のあたりに、白い雲が悠々と流れていた。
参拝が終わると、九人の同志は九段下からタクシーを二台拾った。タクシーの中で同志たちは、これから用いるべき武器の点検を行なった。日曜日で街は人に溢れていた。その人波を眺めながら、古賀はふと疑問に捕らえられた。――おれたちが今からやろうとしている事は、果たしてこの民衆の幸せを約束出来るものなのか……そして彼はすぐにそれを押しつぶした。矢はすでに弓から放たれたのだ……。
古賀の隣に席を占めた三上は、瞑目していた。胸の中に歌声があった。
昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて
散るや万朶《ばんだ》の桜花
古びしむくろ乗り越えて
雲|縹渺《ひようびよう》の身は一つ
国を憂いて起つ時に
丈夫の歌なからめや
功名何ぞ夢の跡
消えざるものは唯誠
人生意気に感じては
成否を誰か論《あげつら》う
三上作と言われる『昭和維新の歌』である。(この歌は戦後も愛唱されているが、三上卓が初めて作った歌……という説には異論がある。元々土井晩翠が作った勇壮な歌に加筆して、旅順工科大学の寮歌にしていた……という説を聞いた事がある)
危険な人物を乗せたタクシーは、首相官邸に近付いていたが、官邸には犬養総理が在宅で、平和そのものであった。
憲政の神様≠ニ呼ばれた尾崎行雄と並んで、犬養は立憲政治の擁護者といわれたが、満洲事変から満洲国建国に至る軍部主導型の日本政府の遣りかたには、極めて批判的であった。犬養にも憂国の志士的な発想はあり、大陸進出には必ずしも反対ではなかったが、武力による侵略は、列強の反感を呼び、世界を敵に回すことになるかもしれない……という危惧があった。
また犬養は、最近かまびすしい統帥権干犯問題にも批判的であった。浜口首相が天皇陛下に拝謁して、若槻全権が送ってきたロンドン条約案を裁可されたのなら、軍令部もそれに従うべきで、それが統帥権を重んじる軍人の在りかたではないのか? ……犬養はあくまでも立憲政治の筋を通そうと努力していた。しかし、彼の孤独な抵抗は、間もなく国家改造、軍部独裁の洪水の中に呑みこまれてしまう運命にあった。
犬養は安政二年(一八五五)岡山藩士の家に生まれ、福沢の慶応義塾を出て、新聞記者となり、大隈重信の知遇を得て、明治二十三年国会開設以来、毎回当選、憲政党を経て政友会に入り、尾崎とともに憲政擁護の為に藩閥政府と戦ってきた。
「大正政変」では国民党を率いて、政友会の尾崎と結んで、第三次桂内閣を倒した。その後、第一次加藤(高明)内閣の逓相となり、護憲三派連合の力で、普通選挙を成立せしめた。筋金入りの立憲派で政界に重きをなし、それだけ軍部独裁の色彩の強い昨今の政治……特に大陸進出の……には強い批判を抱き、国家改造派のターゲットとなったものである。
この運命の日、首相官邸には二人の来客があったが、二人とも午後四時過ぎには辞去し、夫人の千代子は知人宅の結婚披露宴に出掛けることになっていた。
午後五時過ぎ、耳鼻科の大野喜伊次が往診にやってきた。犬養には蓄膿症の持病があった。その頃、健(長男)の妻仲子が千代子を玄関まで送って、和室(首相官邸には洋館と日本館があった)の犬養の居間に戻ってきた。仲子はお手伝いに、
「今日は総理はお一人だから、夕食は早めにしてください」といった。
三上たちを乗せたタクシーが首相官邸の表門を通過したのは、その頃であった。表門は開いていた。
表門が見えると、三上が運転手に拳銃をつきつけ、
「このまま表門を通過して正面玄関につけろ!」
と命令した。低い声であった。驚いた運転手はかなりのスピードで門を通過して、日本館の玄関につけた。時に五月十五日午後五時二十七分、あたりはまだ明るかった。
三上以下五人の王師会首脳部らを迎えたのは、警備の巡査・村田嘉幸と日野藤市である。警官たちは不審そうに聞いた。
「なんの御用ですか?」
三上が、
「総理に緊急の用だ。面会したい」
というと、
「お約束はありますか?」
と巡査部長の村田が聞いた。
「約束はないが、至急会いたい」
と三上がいうと、
「お名刺を頂きましょう」
と村田が緊張しながらいった。
「名刺はない!」
三上が拳銃を突きつけると、カシャッと遊底を引いて弾を装填《そうてん》した。続いて黒岩もこれにならい、
「我々は海軍大学校の副官だ。早く首相の部屋に案内しろ!」
と叫んだ。驚いて日野が駆け出すと、後藤が威嚇の為、一発ぶっぱなした。
「これはいかん……」
村田は大事を知り、庭から総理のいる日本間のほうに急を告げに走った。
三上たち襲撃者は、官邸の二階に上がり、首相執務室、閣議室、内閣書記官長室などを開けて、犬養の姿を探した。建物は広く総理はなかなか見つからない。
麹町区(現在の千代田区)永田町二丁目の首相官邸は、元鍋島藩江戸屋敷跡に建てられている。
三千五百坪の敷地に官邸があり、北側が政務用の西洋建築で、南側が日本間(館)と呼ばれる住居用の公邸である。
犬養の鼻の治療を終えた大野医師が、迎えの車を待つ為書生部屋に入ったところへ、ザザーッ! と車が滑りこむ音が聞こえた。
これがこの日の悲劇のファンファーレで、巨視的に顧みれば、立憲の政党政治の終末を告げる序幕であった。
同じ頃、山岸らを乗せたタクシーも、首相官邸の裏玄関で四人の襲撃隊を吐き出していた。
表では三上たちが、首相の居間がある筈の日本間の入り口を捜していた。四十七士の討ち入りでは、事前に吉良邸の地図を入手していたといわれるが、五・一五事件の将校たちは、そういう機会がなかった。その為に時間がかかったが、襲撃を阻害するほどのものではなかった。
その間に日本間に入った村田巡査は、食堂にいた犬養に、
「総理、逃げて下さい。暴漢の襲撃です!」
と大声で告げた。
「ふむ、どういう人物か知らぬが逃げることはあるまい。会ってやろう」
明治初年以来の自由民権の志士であった犬養は、慌てることもなく、平然とこたえた。千軍万馬という感じであったが、相手はそういうヒロイズムとは無縁の暗殺集団であった。
その時、政務室に通じる廊下のほうで、大きな音が聞こえた。内側から鍵をかけたので、三上が日本間に通じる杉戸を蹴破った音であった。
破れた杉戸の隙間から将校が現れたので、中にいた田中五郎巡査は驚いてその前に立ちふさがった。警備の責任者として、総理の身の危険を防がなければならない……と彼は考えていた。
「おい、首相に用事があるのだ。犬養首相はどこだ?」
三上が拳銃を突きつけると、
「そんなことは知らないぞ!」
と田中はいきなり三上の拳銃を叩き落とそうとした。
「抵抗するか!」
三上の拳銃が火を吹いた。弾は田中の右胸部から左脇腹に抜けた。
「撃たれた! やられた!」
と叫びながら、田中は裏門のほうに走った。(田中は十一日後に死亡する)
死の訪問者は、長い廊下を総理を捜しながら気忙しく歩き回った。
右側が庭で、左側に洋式応接間と和風応接間が続いている。その先が居間で、右側が納戸、浴室、台所、左は庭をはさんで廊下、そして小食堂と居間がある。
次々に部屋を検《たしか》めながら、三上は赤穂浪士のことを思い出していた。彼等は苦心して吉良邸の見取り図を手に入れたという。自分たちは見取り図もないし、首相が在宅しているかどうかも、確かめてはいない……なんたる粗漏なことだ……彼は舌打ちをした。決起の意気込みばかりが先に立って、冷静に敵状を探索することを忘れていたのだ……こういう時に、冷静な藤井大尉がいたら、こういうエラーはなかっただろう……。
同じ頃、裏門担当の山岸組は官邸南の崖下でタクシーを降り、裏門への入り口を捜しているうちに、邸内から銃声が聞こえた。
「おい、あちららしいぞ……」
四人は入り口を破ると、邸内になだれこんだ。
同じ頃、食堂の前で三上は小柄な老人を発見した。犬養は健の妻と孫の康彦と一緒に食堂にいたが、銃声に不審を感じ、廊下に出てきたのである。
――いたぞ! ……これが総理か? ……三上は廊下の途中で立ち停まった。写真でよく見た犬養の年老いた、しかし、精悍な姿がそこにあった。頬骨が尖り、彫りが深く、白い顎鬚が、黄昏の薄暗い光線の中に浮いている。
――総理、日本とアジアの民衆の為です。お命を頂きます……胸の中でそういうと、三上は犬養の心臓に狙いを定めて、拳銃の引金を引いた。しかし、カチリと撃鉄が落ちる音がしただけで、弾は発射できない。三上の拳銃は故障があって、一発撃つ度に装填しないと、次発が出ないのである。
「しまった! 不発事故だ……」
三上は慌てて次発の装填にかかった。一座の緊張が弛《ゆる》んで、大気に裂け目ができたようである。その隙間《すきま》を利用して、犬養は将校たちに話しかけた。
「まぁ、待て! 話せばわかる。あちらへいって話を聴こう。撃つのはいつでも撃てるじゃないか」
そう言うと、犬養は、自分が先に立って廊下を応接間のほうに歩き始めた。
なんとなく毒気を抜かれたようで、三上たちはその後に続いた。――この老人についていってはいけない。結局、説得されてしまうのだ。相手は、明治初年から自由民権運動で弁論によって戦ってきた闘士なのだ……背中に冷たいものを感じながら、黒岩もその後に続いた。
その時、裏門のほうで銃声が聞こえた。
――山岸たちだな……と思った三上は、大声で、
「おーい、こちらだ! おったぞ!」
と叫んだ。後からこの光景を思い出して、吉良邸で上野介を発見した浪士たちのようだった……と三上は苦笑したことがある。
その声を聞いて、山岸、村山、篠原、野村らが、廊下を走ってきた。
その時、表門の担当ながら、少し遅れた石関は、応接室に向かう犬養と向かい合った。
これが総理か……石関はその悠々たる貫禄に押されて、思わず不動の姿勢で敬礼した。
犬養は微笑しながら、挙手の礼を返した。気さくな態度で、特に緊張した様子は見られなかった。これが石関が見た最初で最後の犬養の姿であった。
将校たちを引き連れる形で犬養が入ったのは、和風応接間で、十五畳敷の中央に座卓があり、その真上にシャンデリアが輝いていた。犬養について将校たちも中に入った。あとに続いてきた仲子は息子の康彦を抱いて部屋に入ろうとした。義父の様子が心配であった。政治家として長い経歴を持ちながら、いつも淡々として孫を可愛がってくれる義父に、彼女は親しみと尊敬を感じていた。
その時、これを静かに制した将校がいた。
「中に入ってはいけない。坊やはまだ小さい。あなた方には危害は加えない。向こうにいっていてもらいたい」
しかし、仲子は、
「この子が……」
といいながら、なおも義父のあとを追おうとした。康彦が非常に義父に懐《なつ》いていたので、このまま別れるのは忍びない……と思ったのである。
しかし、その将校は承知せず、
「この子がどうしたというのですか?」
と康彦の背中に拳銃を突きつけて、部屋から出るように、顎をしゃくった。この将校……黒岩勇は同志の中で唯一の妻子持ちであった。彼は国家の為とはいいながら、女子供に総理が射殺されるところを見せたくなかったのである。わが子の背中に突きつけられた拳銃を見て、仲子は将校たちの決定的な意志を感じとった。この男たちは断固たる殺意をもってこの官邸にやってきたのだ……仲子は悲しむ前に絶望を感じた。
廊下側で小さなドラマが演じられていることを知らない犬養は、応接間に入ると、床柱を後ろにして、座卓の前に坐った。
拳銃を構えた八人の将校と候補生は、立ったまま、半円形に犬養を取り巻くようにして、総理の口許を見守った。――この自由民権の闘士を撃たなければならないのか? ……まだほかに撃たれてもいい奴は沢山いるのではないか? ……そういう疑問が三上や黒岩の脳裡にあって、彼等の必然的な行動を鈍らせた。――この老人を撃たなければ、国家改造は成立たないのか? ……後藤、野村、篠原、村山らの士官や候補生の胸にも、そういう疑問はあり、それが彼等の引金を引く筋肉の収縮を抑止していた。
――誰かが撃たなければならぬ、それでなければ、ここまできた甲斐がないし、上海で戦死した先輩・藤井の遺志を継ぐことは出来ないのだ……撃つとすれば、首領の三上であるが、彼の拳銃は弾を籠め終わってはいたが、発射に自信がなかった。三上はためらい、同期生の黒岩はまだ仲子を制する為に、室外にいた。
犬養は卓上の煙草入れから敷島を一本とると、将校たちにも薦める仕種を示し、
「話を聞こう……まぁ、靴ぐらい脱いだらどうだ……」
と微笑しながらいった。
これで部屋の空気の緊張が解けたかに見えた。どう見ても役者は犬養の方が上であった。
「靴の心配などどうでもいい」
と三上がいった。――ここで負けてはならぬ……と彼は心の中で力んでいた。老獪な総理に懐柔されてはならない。標的は一メートル半ほど先にいるのだ……あとは引金を引くだけだ。それで昭和維新は発動するのだ……俺がなんとかしてこの飄々《ひようひよう》とした老人に敵意をかきたて、射殺にもちこまなければ、国家改造は成就しないのだ……彼は引金にかけた人差指を緊張させながら、自分を励ました。
「以前に張学良の倉庫から日本の高官に大金を贈った時の領収書が見つかった時、犬養総理宛のものも入っていたというニュースがあったが、それはどうか?」
しかし、老人は動じなかった。
「ああ、そのことか、それなら話せばわかる。まぁ靴を脱いで坐ったらどうだ?」
犬養は右手を上下させながら、坐るように、というような仕種をして見せた。張学良の件は新聞の誤報であり、彼には将校たちを説得する自信があった。
しかし、三上の方はそのような余裕はなかった。警察の増援隊が駆けつけるかもしれない。――この老いた鶴のような老人に話をさせてはいかん。話を聞くといいくるめられてしまう……。
「我々がなんのために来たのかはわかっているはずだ。いい残すことがあれば、早くいえ!」
三上が老人に最後の言葉を残させようとしているのを知った、山岸は焦った。最後の言葉などは不要だ。我々には実行あるのみだ。彼は大声で叫んだ。
「話を聞きにきたのではない。問答無用! 撃て! 撃て!」
山岸は手榴弾と短刀一本しか持っていなかったので、そう叱咤した。山岸の声に釣られるように、三上が拳銃を構えた時、遅れて室内に入ってきた黒岩がいきなり発砲した。彼は犬養の左側から頭部めがけて発射した。弾は犬養の左下顎骨角から頭蓋腔内に入る盲管銃創である。それに呼応するように、三上の拳銃が火を吹いた。懸念していた弾は発射され、犬養の右こめかみ耳殻前方から右眼外まなじり上方に貫通する銃創を負わせた。
犬養は山岸の第一弾で腹部を押えるように前のめりになり、第二弾でくずおれるように卓に伏した。左の頬と右のこめかみから血が流れ、顔面は血に塗《まみ》れ、卓の上にもみるみるうちに血の流れが広がっていった。
「ようし、引き揚げよう!」
山岸の声で、一同は暗殺劇の成功と終結を覚り、日本館の表玄関に向かった。
応接間には瀕死の老首相が残された。
「旦那様!」
女中のテルが室内に飛びこんだ。
仲子は夫と警察に急を告げる為、電話室に急いだ。
「旦那様! しっかりして下さい!」
そういってテルが犬養を抱き上げると、苦悶していた犬養は、うっすらと眼を開き、まだ右手に持っていた煙草を示し、
「火をつけてくれ」
と弱々しい声でいったが、その煙草を唇までもっていく余力はなかった。
「あの若いもんはどうした? ……青年たちを呼んでこい」
百五十センチ、四十キロの老首相はテルの胸に体をあずけながら、そういった。
日本館正面を出た三上たちは、裏門からの脱走を図った。まだ警視庁襲撃の任務が残っていた。
裏門の手前で平山八十松巡査が追い掛けてきた。
「来るか! 抵抗すると撃つぞ!」
篠原候補生が拳銃を向けると、平山はたじろいだ。それに黒岩と村山が一発ずつを発射し、平山は右太股と左腕に貫通銃創を負った。
首相官邸を出た三上たちの襲撃隊は、今度は警視庁に向かうことになった。
タクシーを捜して赤坂溜池の方に急ぎ、みどりタクシーの営業所に入ると、所長の千谷勝二を脅して、タクシーで警視庁に向かった。
時に午後五時五十分、ようやくあたりにも夕闇が訪れ、皇居の森にも、松の梢に夕陽が残るようになってきた。
三上たちが警視庁に到着してみると、意外に平穏なので、襲撃の必要もあるまい……という三上の判断でこのタクシーの将校たちは、東京憲兵隊に自首した。
もう一台のタクシーを捜した黒岩、村山、八木、野村の四人は、街路でタクシーを拾い、三上たちより少し早く警視庁に達したが、平穏なので、気が抜けたようになり、内部に入ってガラス戸を蹴破っただけで、再びタクシーに乗り、東京憲兵隊に着いたが、まだ三上たちが来ていないようなので、黒岩の発案で日銀を襲うこととし、日本橋区本両替町の日銀に向かった。
日銀前に着いた時、すでに夕刻であったが、野村が銀行本館目掛けて手榴弾を投げ、これが爆発して、玄関前の敷石、石段等を破壊。この後、四人はタクシーで東京憲兵隊に自首、これで首相官邸襲撃組の任務は終わった。
一方首相官邸の騒ぎは大きくなるばかりである。
大野医師は将校たちの不意打ちに驚いたが、まず犬養の顔面の傷口を、オキシドールで消毒し、鼻と口からの出血はようやく止まり、乾きかけてきた。この時、瀕死と思われていた総理が、突然声を出した。
「こめかみにガチンという音がしたが、傷があるのか?」
「小さな傷があります」
と大野はこたえた。
「深いのかね? 急所か?」
「いえ、お話が出来るくらいですから、急所ではありません」
大野が答えると、犬養は元気を取り戻して、お手伝いのテルを呼び、
「おい、もう一度さっきの若い者を呼んでこい。話せばわかるんだ」
といった。大野はこの自由民権の闘士の生命力に驚きながら、
「総理、お話はいつでも出来ます。今は治療が第一です」
といって座蒲団を並べて、犬養を横にならせた。(犬養はこの日午後十一時二十六分、出血による心臓及び呼吸器の麻痺で、死亡するに至る)
次は牧野内大臣襲撃担当の第二組、古賀と池松、坂元、菅、西川の候補生四人は、予定通り、午後四時半頃、芝区高輪泉岳寺の境内に集合した。門前の集合予定場所の力亭の二階に上がると、池松が三田の牧野邸を偵察にいった。かなりの時間をかけた後、池松が帰ってくると、
「牧野は在宅しています」
と報告した。
――すわ、内大臣邸の襲撃だ……と候補生たちは勇み立ったが、三上と電話で連絡をとった古賀はそれを制した。
「本日の襲撃は首相官邸が成功し、その後の警視庁との決戦を主眼とする。牧野は威嚇すれば十分だ」
そういうと彼は武器を分配し始めた。候補生たちはざわめいた。
「どうしてですか? ……牧野こそは薩摩の大久保(利通)の息子で、藩閥の巨魁ですぞ。内大臣こそは君側の奸の第一席ではありませんか?」
池松がいきり立った。彼には三上や古賀の思惑がわからなかった。――やるなら徹底的にやるんだ。それが昭和維新なのだ……。
そういって杯を挙げたのは、三上と古賀ではなかったのか? それが今になって、牧野は脅すだけというのは、徹底的とはいえないではないか? ……。
「いや、今三上さんとの連絡で、今回はこの方針でいくことに決まったんだ」
古賀が明確にいうと、候補生たちは黙ってしまった。彼等は後から王師会の海軍将校に加わったので、指導権はなかった。
不審そうな顔をしている候補生たちに、古賀は簡単に説明した。
「実はおれも迷っていたんだ。君側の奸を抹殺するというのが、三上さんやおれたちの最初の計画だった。しかし、途中で針路に迷った。君側の奸を一掃することはいいが、その後の内閣首班奏薦には、どうしても元老級が必要なのだ。それには西園寺と牧野を残しておく必要があるのではないか? ……まず西園寺は残すが、牧野については、決定が出来ていなかったのだよ」
以前に大川周明を訪問した時、大川は、
「同志が少ないから、犬養に全力を注ぐべきだな。牧野までやる必要はなかろう」
とアドバイスした。古賀は知らないが、大川から今回の襲撃の資金の一部が出ているが、その元は牧野だという説もあった。
――いかん、要するに、おれたちは陸軍の十月事件で下駄を預けられ、藤井先輩の戦死で興奮してしまったのだ。おれは参謀などといわれながら、なんら襲撃後の青写真≠ェ出来てはいなかったのだ。技術の海軍などといわれ、最新の航空術や写真偵察などを学びながら、なんたることだ……実際、重臣たちの襲撃に精一杯でその後の青写真までは、手が回らなかったのである。
(筆者は五・一五事件を取材する為に神奈川県綾瀬に住む古賀清志氏を訪問し、五・一五事件とその後の青写真について、具体的なことを聞いてみた。古賀氏はいった。「確かに青写真はなかった。我々は陸軍が自信ありげにいう十月事件が不発に終わった時、次は海軍に頼む、と下駄を預けられた。しかし、二月に藤井大尉が戦死すると、無性に気が急かれて、とにかく決起しなければ……とそれだけをまず考えていた。だから肝心のクーデターが成功した後、誰を総理に奏薦してもらうのか、殆ど人選ができていなかった。西園寺を外し、牧野にも決定的な判断が出来なかったのは、そういう理由からだ。とにかく五・一五事件というのは、まず破壊を……という事件だった」と回想していた)
腹の中で舌打ちした古賀は、
「ようし、牧野をやるぞ。但し、威嚇だけだぞ」
というと声をかけて階段を下った。
牧野伸顕……維新の元勲・大久保利通の次男で、十一歳で父に従ってアメリカに留学、オーストリア公使を経て第一次西園寺内閣の文相。藩閥の中心でありながら、公家とも親しく、第二次西園寺内閣でも農商務相となり、第一次山本内閣では、外相、第一次大戦後のパリ講和会議には、西園寺とともに全権として出席した。宮内大臣を経て、大正十四年内大臣となり、准元老的な存在となっていた。牧野は親米英派の巨頭で、加藤高明、幣原喜重郎らと親しく、国家主義者とは反対の立場と見られていた。
古賀たちは三田の牧野邸に着くと、古賀と池松が下車して、予定通り古賀が門内に手榴弾を投げた。この弾は玄関前で爆発して、周囲の窓や塀に多くの穴をあけた。
門の横に立っていた警備の巡査橋井亀一が、
「何をするか? 止めろ!」
と怒号した。
「黙れ! 君側の奸を撃つんだ。止めるな!」
そういいながら、池松がもう一発の手榴弾を門内に投げこんだが、これは不発であった。
「おうい、程度のいいやつはないか?」
古賀が後ろを向いてそう叫んだ時、橋井が両手を広げて制止に向かってきたが、古賀が拳銃を抜いたので、橋井は立ち止まった。その時、拳銃が火を吹き、橋井は左肩に貫通銃創を負った。
当の牧野伸顕はこの日、内大臣官邸にいた。いつもは鎌倉の本宅にいるのに、たまたま三田の邸にきていた。古賀たちの人数でも、襲撃すれば、暗殺することは可能であった。しかし、古賀の謎ともいえる躊躇によって、牧野は戦後まで生き延び、女婿の吉田茂が二回総理になるのを見ることができた。(昭和二十四年、八十九歳で死去)
これで謎の多い第二組の内大臣邸襲撃は、歯切れの悪い結末を迎え、古賀たちは再びタクシーで警視庁に着いたが、特に騒ぎもないようなので、襲撃というほどの必要もないと見て、坂元と菅が庁舎に向かって手榴弾を投げたが、いずれも不発に終わった。
――畜生、青写真がないだけでなく、手榴弾までが不発か……焦った古賀はタクシーの窓を開けて、池松とともに、表玄関に向かって拳銃を発射し、玄関にいた警視庁書記・長坂弘一の下顎と右膝に、また、たまたま取材にきていた読売新聞記者・高橋|巍《たかし》の右下肢に負傷せしめた。
古賀の組はこれで襲撃を終わり、東京憲兵隊に自首して出た。
三組の中村と士官候補生・中島、金清、吉原の四人が新橋駅前に集合したのは、午後四時半のことであった。目標は麹町の政友会本部であったが、まだ時間があった。
タクシーを拾うと中村は運転手に十円札を渡して、
「これで一時間ほどドライブしてくれんか」
と頼んだ。運転手は承知した。この不況でこんな気前のいい客は珍しかった。
走っているタクシーの中で、中村が武器を分配した。拳銃をもらったのは、中村のほかに中島、吉原で、金清は手榴弾と短刀であった。
麹町区内山下町(現在の内幸町一丁目)の立憲政友会本部は、日曜日なので閑散としていた。
「ようし、いくぞ!」
まず中村が手榴弾を投げたが、不発である。
「おかしいぞ」
中村はタクシーを前進させると、その手榴弾を拾ってまた投げたが、やはり不発である。これらの手榴弾は三上が上海で調達した陸軍のものだというが、古くて錆《さび》ついているものが多かった。
「ようし、これならどうだ!」
今度は候補生の中島が自分のを投げると、これは爆発して玄関のテラスを破壊した。
誰も歯向かう者もいないので、政友会はこれで終わり、中村たちは警視庁に向かった。到着したのは、午後五時四十分で、この組が一番早かった。まだ犬養邸の異変の報が入っていないので、警備の警官の姿もまばらであった。
まず金清が手榴弾を投げたが、これもまた不発。再び拾って、
「この野郎!」
と投げると、今度は爆発したが、道端の電柱に当たって、碍子《がいし》、電線等を破壊したに留まった。
不十分ではあったが、抵抗する警官もいないようなので、これで中村らの第三組は襲撃を終わり、憲兵隊に自首して出た。
第四組の奥田秀夫は、単独で手榴弾二個を携行して、麹町区丸ノ内の三菱銀行に向かった。一般の市民を傷つけることを恐れて、銀行着は午後七時半、まだ内部には、残業などをする人の姿が見えた。
彼等を傷つけるのはまずい……脅せばそれでよいだろう……そう考えた奥田は、銀行の裏に回って銀行と三菱道場の間に手榴弾一個を投げたが、この為に銀行と道場の壁を破壊。――この程度でいいだろう……爆発音に驚いて、裏門の守衛が出てくるのを尻目に、奥田は逃走した。
このほか、民間の別動隊もそれぞれに動いた。大貫明幹と高根沢与一は、午後七時、鬼怒川水力発電所にゆき、電動ポンプの運転を停止せしめた。
横須賀喜久雄は、東京電灯鳩ケ谷変電所にゆき、水圧計三個等を破壊。
塙五百枝は東京電灯田端変電所にゆき、ポンプの運転を停止せしめた。
このほかにも三名の民間人が、東京電灯の淀橋、亀戸の変電所にゆき、手榴弾によって冷却塔、ポンプなどを破壊したが、目白の変電所にいった男は爆破に恐怖を感じて逃走した。
前述の川崎が西田税を襲撃したのは、この頃である。
[#小見出し]   五・一五事件と昭和維新
こうして『日本改造法案大綱』を実現する為の五・一五事件は決行されたが、三上や古賀が考えていたよりも、その影響は大きかった。すなわち、後から考えてみると、この一挙が、政治家たちに大きなショックを与え、彼等や財閥の自粛もさることながら、暗殺の恐怖に曝《さら》され、身の危険を感じて、汚職や左翼との関係のある政治家は入閣を躊躇し、立憲的な政党人の内閣は成立が難しくなっていくのである。
後世の人々は、天皇の軍隊を私的に動かして、多くの重臣、元老を殺害したとして、二・二六事件が、立憲政治の息の根を止め、軍部独裁から、支那事変(日中戦争)を引き起こし、米英の批判をかわす為、三国同盟を締結し、ついに太平洋戦争の破局に至った……と順序づけている向きが多いが、実際には、五・一五事件にその大きな萌芽があったので、これでほぼ立憲政治、政党政治は窒息せしめられたのである。――なぜならば、青年将校によるテロの恐怖は、民主的、リベラル、そして明治の自由民権以来の立憲政治家たちを逡巡せしめ、政友会、民政党による二党交替の政権の授受は困難となり、今一つの理由によって、青年将校のクーデターを引き起こすからである。
その理由とはなにか? ……つまり五・一五事件という大事件で、一国の総理を暗殺した青年将校たちの処断が、あまりにも緩かったということである。
二・二六事件では、主な指導者は首魁と見なされて処刑されているが、五・一五事件では処刑された者はいない。一応の軍法会議で刑の宣告は受けているが、適当に出所して、満洲や中国で密かに軍事的、指導的な任務についていた。
これを知った陸軍の右翼青年将校群は、君側の奸を撃つならば、上層部は決してその志を無駄にはしない……という見通しを立て、また真崎、山下(奉文)らのような皇道派の将軍たちは、「統制派のやつらはぶった斬れ」などと気勢を挙げ、青年将校たちに支援の姿勢を示し、結果としては、煽動したことになる者も多く出てきたのである。皇道派、統制派の抗争に、国家改造、尊皇討奸の大義が厚い雲のように覆いかぶさるという状態で、二・二六事件は、青年将校たちが、明確な上層部の支援を取り付けることなく、またしても青写真を定着させることをせず決起したので、解決、処分は、極めて複雑かつ困難となったのである。
今、筆者の手元には南雲忠一中将(真珠湾攻撃時機動部隊指揮官、第一航空艦隊司令長官。昭和十九年七月八日、サイパン戦で戦死)の意見書の写しがある。これは五・一五事件の直後、『五・一五事件の解決策』と題して密《ひそ》かに上層部に提出されたもので、その内容は次の通りである。(当時、南雲は大佐で軍令部第二課長であった)
一、根本方針
海軍に関する限り、五・一五事件の一切を解決し、上下渾身一致外敵に備うるにあり。
二、要領
〔一〕判決の公正
イ、死刑又は無期は絶対に避けること。
ロ、被告の至誠報国の精神を高揚し、その動機を諒とすること。
〔二〕検察官の論告に対し、責任ある者に対しては、適当の処置をとること。
〔三〕ロンドン条約に関連し、軟弱にして、統帥権干犯の疑義を生ぜしむるに至った重要責任者に対して、適当なる処置をとること。
〔四〕右、〔二〕〔三〕の処置は、速やかにとるほど、効果大なり。しかしてその処置をとるとともに、軍紀を刷新するを要す。
付記、青年将校の念願は、要するに強力なる海軍を建設するにあり。
部内統制の見地においても、明年度大演習の施行、第四艦隊の編制、訓練等、術力錬磨に寄与する方策の実現は絶対に必要なり。
当時、海軍内部では、既述の通り、艦隊派と条約派とが争っていた。南雲は右翼ではないが、艦隊派の中堅将校で、これに対抗したのが、条約派の海軍省軍務局第一課長の井上成美大佐(後、大将)で、この二人が省部互渉規定の改定(兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移す)をめぐって激しく抗争する様子は、拙著『波まくらいくたびぞ』(講談社)に、詳しく書いた。
この南雲の建策が単なる腹案であったのかどうかは、爾後の過程を見れば、徐々に明らかになっていく。
五・一五事件の軍法会議では、首魁《しゆかい》といえども、死刑の判決を受けた者はいない。
またロンドン条約に賛成した条約派の提督たちは、その後次々に予備役に回っている。
部内統制の為と南雲が主張する大演習は、翌昭和八年六月施行され、南雲自身が、特別大演習審判官を仰せつかっている……等の事実を見ると、この意見書はかなり有効であったと見るべきであろう。
これ一つをもって、海軍上層部に国家革新あるいは国家改造の為のクーデターに賛成の気分があったとは断言出来ないが、少なくとも五・一五事件の青年将校たちには、同情的な空気が上層部にあり、寛大な処分とつながり、二・二六事件の首魁となる青年将校たちに、自分たちの決起は必ず上層部に是認され、いずれは正義の軍として、認められるであろう……という期待があったとしても、不思議ではない。
筆者が立憲政治、政党政治を窒息せしめたのは、五・一五事件であり、この事件への寛大な処置が、陸軍の革新派将校に、君側の奸を一掃して、昭和維新を決行させ、尊皇討奸≠フ旗を掲げさせたのではないか? ……と推測する所以《ゆえん》である。
[#小見出し]   五・一五事件と北一輝
ところで、青年将校たちの聖典である『日本改造法案大綱』の筆者であるカリスマだが、五・一五事件は時期尚早だとして、反対していた北一輝は、この頃、何をしていたのか? (北の意見を青年将校らに伝えた西田税は、計画を漏洩した疑いありとして、前述の通り同志の川崎長光に襲撃され、重傷を負っている)
まずこの年四月十七日(五・一五事件の直前)、北一輝は秘密裡に、『対外国策に関する建白書』を、謄写版で刷って、上層部や各関係方面に配布している。その内容の大意は次の通りである。
「前略、薄徳非才を顧みずあえて尊厳を冒す所以のもの、誠に対外国策の重大事黙過、傍観に堪えざるが故である。
直言すれば、近時、十数年間我が国帝国の対外策において、その根幹たり眼目たり精神たるものなく、為に歴代政府の対外策|悉《ことごと》く只その日暮らし、その時の風次第という状態の継続である。かの満洲事変以来、国際連盟の一顰《いつぴん》一笑をもって、いかに帝国の一喜一憂とせしか。一にこれ対外国策の皆無空虚の故に、政府自ら信ぜず、国民また安んぜざるより来る所と思う。」
「然らば如何にすべきや。是に対し多くは日米戦争あるのみとのみいっている。しかし、戦争というものは、日露戦争あるいは独仏戦争のように二国間に限定することは、今や在りえない。日米戦争を考える時は、日米二国を戦争開始国とした世界第二次大戦以外は考えられない。(昭和七年春、こういう発想を確信をもって行なう北一輝は、確かに何らかの霊告を受けていたのかもしれない)則ち米国及び米国側に参加すべき国家と、その国力を考慮せずに、開戦すべきではない。
私はかつてある海軍の責任者に問うた。対米七割の主張は結構だが、もし米海軍が英海軍を加えて相手になった時、提督らはよく帝国海軍をもって、米英二国の艦隊を撃破し得るか? ……と。彼答えていわく全く不可能なり。一死以て君国に殉じるのみと。私は独白した。君国は死をもって海軍に殉じることはできない……と。」
次いで北一輝は、ソ連の脅威に触れている。
「日米開戦と知るや、即座に日本を攻撃し世界第二次大戦を巻き起こし、アジアを攪乱するのが、ソ連の方針である。
また中国との関係も重大な認識を必要とする。則ち世界大戦終了後、突然起こった中国の排日熱、排日政策はなぜか? もちろん、日本が大戦参加の唯一の戦利品であった青島が、米国の脅しによって中国に返還せしめられたことへの軽侮からきたもので、この形勢を知って、ソ連は中国情勢に乗ずべしとして、近東及びインドに向けてきた世界攪乱の矛先を、排日の中国に向けてきたものである。その影響は中国の一党独裁にも現われている。」
「支那は米国の日本攻撃を期待して、皇軍の兵馬を自家の南北(満洲と上海)に迎えた。これにソ連が加われば、日米開戦とともに、支那の対日抗争を百倍せしめ、日本内地の共産党とともに、日本に攻撃を開始することは疑問がない。」
そして北一輝の日米戦争の見通しは次の通りである。
「要するに米露いずれが主たり、従たるとを問わず、日米戦争の場合においては、米英二国の海軍力と対抗するとともに、支那及びロシアとの大陸戦争を、同時にかつ最後まで戦わざるを得ず、と考えるものである。」
筆者は北一輝の『日本改造法案大綱』を読んだ時、これが大正七年の発想であることに、北の天才ぶりを示されたが、この昭和七年(一九三二)四月……太平洋戦争開戦の九年前に、これだけのアジア及び世界の軍事的展望をよくしていることには、驚嘆のほかはない。北一輝の霊告については、とかくの批判もあるが、この『対外国策に関する建白書』には、単なる小説的な想像よりは、遥かに現実的な見通しが盛られていることに驚く。そして明治三十八年に書かれた『国体論及び純正社会主義』の中にすでに、その萌芽があり、また『日本改造法案大綱』の「巻八 国家の権利」の中で、すでに次のような「国家の積極的権利」として、戦争の問題を極めて現実的な問題として取り上げ、適確な予言を行なっている。
一、国家は自己防衛のほかに、不義の強力に抑圧さるる他の国家又は民族の為に戦争を開始する権利を有す。(即ち当面の問題として、インドの独立及び支那の保全の為に、開戦するが如きは国家の権利なり)
二、「国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に戦いを挑むはよし」とし、当面の問題として「豪州又は極東シベリアを取得せんが為にその領有者に向かって開戦する権利あり」とした。
この頃の北一輝は、日米戦争よりも、むしろ英国とロシアの帝国主義に反撥する為の戦争を考え、彼なりの環太平洋チェーンを構想しており、もちろん片方ではシナの安定と大アジア主義の拡充を考えていた。単なる社会主義ではなく、国家社会主義と呼ばれる思想をエクスパンドさせようとしており、これは必ずしも陸軍の統制派や将軍連の大陸進出と衝突するものではなかったが、まず国内を天皇親政にもってゆこう、という『日本改造法案大綱』の中のクーデターによる君側の奸一掃……というマニュアルを、青年将校たちが突出させた為、北一輝は国政攪乱の反逆者として処刑されるに至るのである。
そして注目すべきは、この文章の後半で、北がアジアにおける平和を提唱していることである。これは前半の戦闘的な大アジア主義と矛盾するように見えるが、北一輝一流の和戦両様の構えともいうべきか……できれば、中国はもちろんソ連とも、共存共栄の道を模索すべきだ……と北一輝の中の平和主義者が顔をのぞかせた。
「平和を愛する者は米国貴婦人と米国務卿のみに非ず。日本国民の最も然るところである。……只、米国が今の強大に加えてその背後に英国の海軍力を恃む時は、何時も彼の側から平和を破ることができる。
日本対米国との限定された戦争ならば、日本の恐れるところに非ず。米国の側より平和を破ることはあるまい」
と平和を破るものは、米英の同盟如何にあることを強調。これも、ドイツの動きには触れていないが、一九四一年八月、ルーズベルトとチャーチルが、米南東岸のニュー・ファンドランド沖の軍艦上における『大西洋憲章』と呼ばれる「米英共同宣言」という事実上の同盟を結んで、まずドイツを叩き、次いで三国同盟を締結している日本を叩くことを議した大国の謀略を連想させる。
一方、この対外方策を建白する頃から、北一輝夫婦の霊告も盛んになってきた。
宮本盛太郎氏編の『北一輝の人間像――北一輝の日記を中心に』によると、建白の前日、四月十六日には、
「建白書是れ国宝なり。時は潮の流れに従い召され 鉄舟」とあり、建白の日の朝には、「道は一筋 善道  つゞき」及び、「秘策に万難を排し進みたし 種臣」という霊告が出ている。
続いて五・一五事件の朝には、
「時勢の進歩 但し君側の奸臣急務でござる。御気づかれしや 鉄舟」
また五月二十一日は、西田税の手術が成功したのを喜んだ次の霊告が降《くだ》っている。
「古言何時の世も由《ママ》断大敵、神仏の加護斯くの如し」
五・一五事件は、主な目標である犬養総理は倒したが、肝心の昭和維新内閣の組閣が出来ない。第一、後継総理を推薦するのを常道とする現総理を暗殺してしまったのであるから、次の首班を決めるのは困難である。
事件の翌日、陸相官邸では、革新派の菅波三郎、大蔵栄一、安藤輝三、村中孝次ら青年将校が、拳銃を手にし、荒木陸相に面会を求めていた。
「陸軍もこの際、戒厳令をしいて決起し、荒木首班のもとに昭和維新に持ち込むべきだ」
というのである。荒木が閣議に出ているので、真崎参謀次長が応対したが、いうとおりにはならない。後の皇道派の小畑敏四郎少将(参謀本部第三部長)が説得に当たって時をかせぐ間に、荒木が帰ってきたが、クーデターには反対だというので、菅波や大蔵らのオルグも諦めた。
老獪《ろうかい》な将軍たちは、この状況で自分たちの誰かが首班となり、大きな革新を行なう気持はなかった。第一、天皇の意志は、重臣の意図を重んじることで、クーデターによって日本の政治を転換させることにはなかった。将軍連としては、これで政治が軍部主導になればよいので、天皇の意志に背いて、クーデターを行なった場合、誰かが責任を取らなければならないが、そこまでの予測は出来ていなかったと見るべきであろう。
興津の西園寺も難しい顔をして、五月十九日、上京して拝謁したが、もちろん青年将校たちが期待したような小林少将を、満洲から呼び返して首班とするようなことを上奏する筈がない。天皇はいたく立腹して、次のような後継総理の条件を、鈴木侍従長から西園寺に伝えるよう指示した。
一、首相は人格の立派な者であるべし。
二、首相の人格によって、現在の政治の悪弊を正し、陸海軍の軍紀を粛正する必要がある。
三、協力内閣か単独内閣かという事は問題ではない。
四、ファッショに近き者は絶対に不可也。
五、憲法を護ることが出来なければ、明治天皇に相済まない。
六、外交は国際平和を基調として、国際関係の円滑に努めること。
七、事務官と政務官の区別を明らかにし、綱紀を粛正すべし。
駿河台の東京邸にきていた西園寺は、鈴木からこの勅命を承ると、早速後継首班の人選にかかったが、これが難航した。
立憲方式でゆけば、政友会内閣が倒れたのであるから、次は民政党の町田忠治にゆくべきであるが、これにも青年将校たちは反対するであろう。それで前からいわれていた挙国一致内閣≠ナゆくこととし、五月二十二日、斎藤実海軍大将に大命降下、二十六日、斎藤内閣が成立した。
その主な閣僚は次の通りである。
外相 斎藤実(兼務)、内相 山本達雄、蔵相 高橋是清、陸相 荒木貞夫、海相 岡田啓介、文相 鳩山一郎、法相 小山松吉、鉄相 三土忠造、拓相 永井柳太郎、農相 後藤文夫(以下略)
以上のうち政党の党員は、鳩山、三土(政友会)、永井(民政党)の三人だけで、ここに原敬の苦心の政友会内閣以来、立憲の火をともしてきた日本の政党内閣は窒息せしめられ、憲政の常道も終焉を迎えたのであった。
[#小見出し]   五・一五事件から二・二六事件まで
五・一五事件の青年将校たちの海軍側公判は、昭和八年七月二十四日から横須賀鎮守府軍法会議法廷で、高須四郎海軍大佐(後、大将、南西方面艦隊司令長官)を判士長として開かれた。判決は同年十一月九日で、高須判士長は、「被告たちの憂国の至情は諒とすべきものあり」としながらも、反乱、及び反乱予備罪で次の通り判決を下した。
首魁 古賀・禁固十五年(求刑は死刑)
首魁 三上・同右(ここで南雲大佐の意見書を思い出して頂きたい。死刑は絶対に不可、という箇条があった筈である)
首魁 黒岩・禁固十三年(求刑は死刑)
禁固十年 山岸、中村、村山(求刑は無期禁固)
禁固二年、林、伊東、大庭(禁固六年)
禁固一年、塚野(三年)
但し、林、伊東、大庭は五年、塚野は二年の執行猶予付。
陸軍側の判決 有罪・元士官候補生、後藤映範以下十一名。
民間側ではオルグのみならず、イデオローグも処罰された。
無期懲役 橘孝三郎、懲役十五年 大川周明、池松、後藤(国)、同十二年 川崎長光、奥田秀夫、林、同十年 本間憲一郎、同八年 頭山秀三、堀川、同七年 矢吹、横須賀、塙、大貫、小室(以下略)
海軍側の被告に対する判決が甘過ぎた……という批判の声が高かった。首魁三人は反乱と首相殺害の廉で死刑に処すべしという意見もあった。今一度南雲大佐の意見書が思い出される。また前述の通りこれらの処分が軽過ぎたので、二・二六事件が起こったのだ、という批判も後には出てくる。
しかし、青年将校の国家改造の大命降下の決起を壮挙として歓迎したのは、海軍の艦隊派や国粋主義者だけではない。国民の中にも今の政党は腐敗しており、財閥も庶民の貧困を無視して、ドル買いで儲ける国賊的な者がいる……というような反感を抱く者はおり、五・一五事件は上層部の腐敗に対する天誅である……という声も少なくはなかった。
事件後被告達の減刑運動が起こり、昭和八年末までに百十四万余通の減刑嘆願書が、当局に寄せられた。
一方、五・一五事件勃発を聞いた北一輝の霊告は、
「七月二十二日
汝の国家法案(『日本改造法案大綱』のこと。北はこの年この冊子を一千部増刷している)国の礎となる。広く国民に知らしめよ 善道、飢えたる人へ食を与えよ。
[#地付き]大山
至極御同感速やかに[#地付き] 鉄舟
八月三十日
出来た 出来た、出来た 国家に害なす蛆虫《うじむし》輩許すな。[#地付き]大山
八月三十日
汝の国家法案より外に道無し [#地付き]善道」
昭和八年三月、日本は国際連盟を脱退するが、これにも霊告は出ている。
「三月二十七日
御神風受けし尊さよ。[#地付き]仙人
同二十八日
汝の最大使命なり善道とともに進もう」
等の霊告が出ている。
五・一五事件参加将校のその後については、取り沙汰されているが、三上、古賀らは昭和十二年、僅か四年の服役で仮出獄し、ほかの被告も早く社会に出ている。三上、山岸らは国内で海軍に関係のある場所で働き、古賀は山東半島青島の海軍特務部にしばらくいた後、中村と一緒に海上輸送に従事した。昭和十九年三月、中村はパラオ諸島で米軍の銃撃によって死亡する。
古賀は戦後、大地塾を経営し、思想教育を行なっていたが引退し、昭和六十二年現在健在である。三上の同期の黒岩は、昭和六十年八月二十日死去している。
これで日本中を震撼させた『日本改造法案大綱』の中の特にクーデターの項をマニュアルとした大事件、五・一五事件の経過説明は終わった。
次に五・一五事件から二・二六事件までの内外の情勢の推移と、北一輝、西田税の動きを、追ってみたい。
まず年表によって、大日本帝国孤立化から、ドイツとの提携までを見よう。(『近代日本総合年表』〈岩波書店〉、『昭和史ハンドブック』〈平凡社編〉参照)
▽昭和七年
一月二十八日 上海で海軍陸戦隊、中国軍と交戦、第一次上海事変勃発。
三月一日 満洲国建国宣言。執政・溥儀。
五月十五日 五・一五事件起こる。
同 二十六日 斎藤実内閣成立。(挙国一致内閣)
九月十五日 満洲国承認。
十月一日 リットン調査団、報告書を日本政府に通達。満洲事変を自衛戦争と認めず。
この年の流行語 「非常時」「話せばわかる」「問答無用」「欠食児童」「青年将校」
▽昭和八年
一月一日 日中両軍、山海関で衝突、三日、日本軍山海関を占領。
一月三十日 ヒトラー、ドイツ首相に就任。(ナチス、政権獲得)
二月十七日 日本政府、国際連盟の満洲撤退勧告案を拒否。熱河進攻を決意。二十三日進攻開始。
二月二十四日 国際連盟の対日勧告案に抗議し日本代表・松岡洋右総会会場より退場。
三月二十七日 日本国際連盟脱退を通告。
四月二十二日 鳩山文相、京都帝大教授・滝川幸辰の辞職を、総長に要求、五月二十六日、休職発令。法学部教授ら全員辞表提出。七月に八教授京大を去る(滝川事件)
七月十一日 天野辰夫らと大日本生産党員とのクーデター発覚(神兵隊事件)
九月十九日 五・一五事件陸軍側判決、海軍側は十一月九日判決。
十月三日 国防、外交、財政調整の為の五相会議開催。
十月二十一日 五相会議、満洲国育成などの国策大綱を決定。
十二月二十三日 皇太子明仁親王(現天皇)誕生。
▽昭和九年
三月一日 満洲国帝政実施、溥儀皇帝となる。
同 五日 陸軍軍務局長に永田鉄山就任、統制派の進出と皇道派の緊張。
七月三日 斎藤内閣、帝人事件で総辞職。
同 八日 岡田啓介内閣成立。
外相 広田弘毅、内相 後藤文夫、蔵相 藤井真信、陸相 林銑十郎、海相 大角岑生、文相 松田源治、農相 山崎達之輔、商相 町田忠治、逓相 床次竹二郎、鉄相 内田信也、以上のうち松田、町田は民政党、床次、内田、山崎は政友会からで、政友会は入閣を拒否していたが、この三人が勝手に入閣したので、政友会を除名された。
八月二日 ドイツ大統領・ヒンデンブルク没。ヒトラー、首相と大統領を兼任、ナチス独裁の色を深める。
十月一日 陸軍省、『国防の本義とその強化の提唱』(いわゆる陸軍パンフレット)を配布。軍拡、大陸進出を強調する。
同 三日 政友会、この陸軍パンフレットに反対を声明。
十一月二十日 陸軍士官学校事件。
十二月三日 閣議でワシントン条約単独廃棄を決定。二十九日これを米国に通告、これで二年後には、無制限建艦競争が始まる可能性が出てくる。太平洋戦争の予兆なり。
▽昭和十年
二月十八日 菊池武夫、貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を攻撃。
同 二十五日 美濃部議員、貴族院で反論、九月十八日、美濃部、議員を辞任。「国体明徴」問題の原因となる。
三月十六日 ドイツ、ベルサイユ条約軍備制限条項廃棄、徴兵制度再実施を宣言。
四月六日 皇道派の中心・真崎甚三郎、教育総監となる。
七月十六日 真崎総監罷免、後任は渡辺錠太郎大将。これで皇道派、統制派の抗争激化、人事担当の永田軍務局長が、皇道派のターゲットとなる。
八月三日 政府、「国体明徴」に関する声明を発表。
八月十二日 永田軍務局長、陸軍省内で相沢三郎中佐(皇道派)に斬殺さる。
十月十五日 政府、第二次「国体明徴」声明を発する。
以上の年表にはくわしく出てはいないが、九年十一月二十日の陸軍士官学校事件は、二・二六事件の近因として重要なもので、これで強力なオルグの磯部浅一と村中孝次が登場する。
[#小見出し]   陸軍士官学校事件と磯部浅一の登場
一般にこの事件は、皇道派の陰謀に対して、統制派がこれを察知して、弾圧しようとしたものであるといわれるが、謎は残っている。
昭和九年十一月二十日、後に二・二六事件のオルグとして有名になる磯部と村中が、クーデター指導の容疑で逮捕される。
ここで当時の皇道派と統制派の幹部の名前を挙げておこう。
▽皇道派
小畑敏四郎少将(陸大幹事・昭和九年十月現在、以下同じ)を推進役として、真崎甚三郎(教育総監)、荒木貞夫(軍事参議官)を上にかつぎ、有力なメンバーとしては、柳川平助中将(第一師団長)、秦真次中将(第二師団長)、山岡重厚少将(整備局長)、香椎浩平中将(第六師団長)、山下奉文少将(兵器本部付)、土橋勇逸中佐(軍事課高級課員)、牟田口廉也《むたぐちれんや》大佐(参謀本部庶務課長)、鈴木貞一大佐(陸軍省新聞課長)、鈴木|率道《よりみち》大佐(参謀本部作戦課長)らがいる。
皇道派の思想的特徴は、幕末、勤皇の志士たちが唱えた尊皇攘夷の思想に似ており、志士たちの目標は、尊皇倒幕、打倒の目標は幕府で、これを倒して「天皇親政」の世に戻す……というのが彼等の願望で、明治維新の時は、それは一応達せられた。
昭和の皇道派の思考法は、ロマン的革命思想家といわれる北一輝の『日本改造法案大綱』を昭和維新のマニュアルとするだけであって、その天皇親政の思想も、多分にロマン的、あるいは詩人的、夢想的でさえある。
腐敗した指導者たちに、尊皇討奸≠フ天誅を加え、国民の貧困を救い、この世に浄土を現出しようという夢を抱いており、その思想の展開は壮大であるが、夢想的で現実味を欠いているところがある。重臣たちを倒して真崎を総理にかつぎ、昭和維新を実現しようというのは、どこかに短絡があり、天皇の怒りをかって崩壊するのである。孤忠≠ノ己を任せるグループといえようか。
皇道派青年将校のターゲットは、重臣、財閥、高級官僚、軍閥……一種の幕府で、青年将校たちは、彼等を君側の奸≠ニ呼んでいた……で、これらを斬って第二の明治維新、すなわち昭和維新を断行するというのが、皇道派将校の意向であった。
しかし、彼等の大部分は観念的に先走りして、具体的方策に乏しい。一死君恩に報いる……というような軍人精神……命を賭ければ、何事も成る……というような滅私報国の思考方法に、彼等の懐古的な夢の底流を、推察することができる。
彼等が聖典とした北一輝の『日本改造法案大綱』のうち、次のような点がマニュアルとなっていたと見てよかろうか。
一、武力クーデター成功の後に天皇の大権によって、戒厳令を施行し、憲法を停止、議会を解散する。
二、在郷軍人団会議を基礎とする改造内閣を造る。
三、この新内閣によって、私有財産の制限(富豪においても一人百万円以下とする等)、銀行、貿易、工業などの国家管理を実現する。(この二、三、が、現実に問題であって、なぜ在郷軍人団がそれほど信頼に値するのか? ……銀行、炭鉱、交通、漁業、農業等の国営は、社会主義というよりも、むしろ共産主義に近く、これらを軽々に実施するならば、国民を監督する官僚の無能と横暴に、経済的破綻を来すことは、ソ連共産党七十年の実験で、最近、証明されたところである。
国家社会主義者の北一輝が、この二、三、を提唱した本当の理由はどこにあったのか? ……どこの国でも官吏というものは、無気力で怠慢、無能で非能率的……仕事は遅くて国民に迷惑をかける……ということになっており、日本ではお役所仕事<AメリカではToo much red tape=k書類に挟む赤い札が多すぎる〕といい、ソ連でも威張って無能な役人の階層に、「ノーメン・クラトゥーラ」〔官僚主義〕という名称をつけているくらいである)
皇道派と紛らわしいものに、「清軍派」というのがあった。桜会の幹部である橋本欣五郎や長勇、重藤千秋、樋口季一郎などがこれに属し、同じくファッシズムを基盤としながら、皇道派とは相容れず、十月事件などを起こし、統制派寄りと見られていた。
▽統制派
統制派の中心はカミソリと仇名された切れ者の永田鉄山少将(軍務局長)で、ほかに長老の南次郎大将(軍事参議官、昭和九年十二月関東軍司令官となる)、渡辺錠太郎大将(軍事参議官、二・二六事件で暗殺される)、松井石根大将(軍事参議官、戦犯処刑)、杉山元中将(参謀次長兼陸大校長、終戦時自決)、小磯国昭中将(第五師団長、後、首相)、建川美次中将(第十師団長)、東条英機少将(歩兵第二十四旅団長)、今村均大佐(習志野学校幹事)らがおり、若手では、武藤章中佐(歩兵第一連隊付)、富永恭次中佐、影佐禎昭中佐、下山琢磨中佐、少佐クラスで池田純久、田中清、四方諒二(憲兵)、大尉クラスで片倉|衷《ただし》(二・二六事件の時、磯部に狙撃される)、辻政信(後、関東軍、大本営参謀)らもこれに入るという。広い見方(皇道派に批判的)をすれば、板垣征四郎少将(満洲国軍政部最高顧問、戦犯処刑)、土肥原賢二少将(奉天特務機関、戦犯処刑)、石原莞爾大佐(歩兵第四連隊長、満洲事変の仕掛け人)らもこれに入るという説もある。
後世、皇道派対統制派の抗争というが、実際に統制派という閥が存在したかどうかは疑問で、統制派は国家改造を狙う皇道派を抑制するのが方策であったともいわれる。しかし、統制派の中にも国家改造を目指した者はおり、昭和八年十月には、林銑十郎大将を担ぎ、永田鉄山、武藤章、田中新一、池田純久、片倉衷、辻政信らが参画したが、皇道派の鈴木率道大佐(参謀本部作戦課長)に暗号電報を握られ、阻止されたという。
また色分けとしては、皇道派は急進的な国家改造の為のクーデター、革命を目指しており、統制派は軍中央権力の統制のもとに、統帥権を活かして、皇道派を抑えるようにいわれたが、永田のプランでは、皇道派に暴発をさせ、これを潰滅せしめるとともに、軍の威力を政財界、国民に示し、政権を軍の独裁とし、大陸進出によって、日本の人口、産業問題を解決(よくいえば近代化)しようとしたとも言われる。
もし統制派の狙いが、皇道派に暴発させるということであれば、皇道派は単純で、統制派の方が謀略的であったといえよう。
その一つの例証が、陸軍士官学校事件だと、皇道派は非難する。(これが因で、磯部は陸軍を辞めて、皇道派のオルグとなり、二・二六事件のクーデターを推進するに至る)
この奇怪なしかも重要な事件が秘密裡にそのヴェールを脱ぐのは、昭和九年十一月二十日のことである。
この日、陸士では士官候補生五人が逮捕され、続いて陸大学生・村中孝次大尉、陸軍士官学校区隊長・片岡太郎中尉、野砲第一連隊付・磯部浅一一等主計(大尉相当、安藤らと同期生)らが逮捕された。その容疑は彼等青年将校が、重臣を暗殺するクーデターを計画したものであるというが、決め手ははっきりしない。なぜならこの裏には、怪人物・辻政信が介入する陰謀……陥穽があったといわれるからである。
事件の発端は、陸士三十六期で辻と同期生の塚本誠(大尉・東京憲兵隊)が、私用で辻の自宅を訪れたところから始まる。
用談の後で辻は、自分の生徒の佐藤勝郎が聞き込んできた密談の話をした。というのは、第二中隊の候補生・武藤与一が、皇道派の村中大尉、磯部一等主計、西田税らと付き合っているが、なにか重大な密談をしており、佐藤もその話に参加を勧誘されているというのである。辻は、
「こいつは皇道派か何かの陰謀がある。おれは佐藤にその武藤の話をよく聞き、詳細を知らせるように命じておいた」
というと、塚本は大きくうなずいた。海軍の青年将校が、五・一五事件で突出した後、陸軍でも何らかの過激な行動が、計画される可能性はあった。
すでに佐藤は村中に接触しており、その後もその関係を維持して、スパイの役を務め、十一月十九日には、佐藤の報告等により、塚本大尉のところでは、次のような村中、磯部ら皇道派青年将校のクーデターによる国家改造計画が進行しているらしい……という情報がかたまってきた。
一、襲撃目標。
第一次 斎藤前首相、牧野内大臣、後藤内相、岡田首相、鈴木侍従長、西園寺公望、警視庁。
第二次 一木枢密院議長、高橋前蔵相、清浦元首相、伊沢多喜男(元警視総監、元東京市長、内務官僚の有力者)、湯浅宮内大臣、財部元海相、幣原元外相。
二、クーデターの決行は、臨時議会開会(十一月二十八日)前後とする。
三、首謀者及び参加者 村中、磯部、大蔵栄一、栗原安秀ほか十三名。歩兵学校準備教育中の将校七名。民間 西田税。
四、クーデター成功後の処理 真崎、荒木、林らの大将を首班とする軍政府を樹立して、改革を行なう。(但し、三大将の内諾はない)これが駄目なら石原莞爾大佐、鈴木貞一大佐を立てる。
これを察知した憲兵司令部では、司令官田代皖一郎中将が、調査するようにいったが、統制派寄りの塚本大尉は、辻、片倉と同道して、陸軍次官・橋本虎之助中将を訪問し、早急に検挙する必要あり、と進言した。
そこで二十日朝、佐藤候補生、村中、磯部、片岡らが検束され、軍法会議にかけられたが、翌十年三月二十九日、「証拠不十分」として、不起訴となった。但し、村中、磯部、片岡の三人は、四月二日付で停職、佐藤を含む候補生五人は退校となった。
辻政信(陸士三十六期)の名前は、戦後世間でも有名になるが、陸軍にいた時から、豪傑肌で自信過剰の将校として、知られていた。彼が真価を発揮するのは、二・二六事件の後で、大尉の時、関東軍参謀として、ノモンハン事件で強攻作戦をとり、多くの犠牲者を出し、「戦争は負けたと考える者が負けるのだ」などと彼一流の弁を弄し、ソ連軍の捕虜となった将校を自決させたりした。
太平洋戦争になると、まず第二十五軍参謀として、マレー作戦を指導し、次いで大本営作戦班長として、ソロモン群島方面の作戦指導を行なう。さらにビルマでも、第三十三軍参謀として活躍することになる。
陸軍で戦争の天才≠ニ呼ばれた石原莞爾は、緻密な戦術家タイプであったが、辻は自称豪傑で、話は大きく参謀ながらいつも部隊の先頭に立ち、若い兵士を激励したが、彼の指導する作戦は損害が大きいといわれた。
ところで陸軍部内を騒がせた士官学校事件の正体はなんであったのか? ……。
陸軍省は、磯部たちが停職処分となり釈放された十年四月二日の二日後、次のような談話を発表した。(大意)
「昨年十一月中旬、青年将校及び士官候補生若干が、不穏の企てありという疑いがあったが、軍法会議で調査の結果、彼等は我が国の現状につき、刷新改善の為、談合連絡したことあり。しかし、不穏な行動に出るという実際的な企図については、証拠不十分につき、軍法会議では不起訴処分となしたり。しかるにこれら青年将校及び士官候補生の言動において、軍紀上適当ならざるものありたるにより、それぞれ適当の処置を講じたり」
要するに談合はあったが、決起するほどの準備はなかったというのである。それなのに五ヵ月間の未決で監獄に入り、停職(八月二日には免官)とは何事か? ……磯部と村中はその前、獄中から辻と片倉を誣告《ぶこく》罪で告訴していたが、却下された。もっとも当局は薄々これを辻と片倉の作為と疑ってはおり、喧嘩両成敗というので、辻も重謹慎二十日の後、水戸の歩兵第二隊に左遷された。
怒り心頭に発した磯部と村中は、出獄後も度々陸相と第一師団軍法会議あてに上申書を出したが、取り上げてくれない。七月十一日、二人は『粛軍に関する意見書』を十三部刷って、陸軍三長官と全軍事参議官に送った。その内容は次の通りで(大意)、怒りに満ちた過激なもので、こうなると抗議というよりも、宣戦布告である。統制派の幹部から見れば、皇道派のヒステリーとしか見られなかったかもしれない。
「(前略)実に皇軍最近の乱脈は、所謂《いわゆる》三月事件、十月事件なる逆臣行動を、欺瞞、隠蔽せるを動因として、軍内外の攪乱その極に達したり。(中略)付録・証拠文献。――しかして上は陸相を首班として、中央幕僚群を網羅せるこの二大陰謀事件を、皇軍の威信保持の為と称して不問に付するは、上、御親率の至尊を欺瞞し奉る大不忠にして、(中略)大権無視の『天皇機関説』の現実というべく、断じて臣下の道を行なえるものに非ず。」
八月二日免官となった二人は、民間人として、深い恨みとともに、革命実現の決意を固めた。従って磯部と村中の民間からの決起指導という強烈な突き上げの底には、辻らに図られた……という思いが、マグマのように沸《たぎ》っていたと見るべきで、もちろん、彼等には彼等の皇道派としての大義があったには違いないが、事破れてからの磯部の執拗な怒りと上層部への激しい批判には、彼個人の憤懣……三月事件、十月事件では、放漫な処置にすませて、陸士の事件では、実際行動もないのに、免官に追い込まれたという……が、深く籠っていたと見るべきではないか? ……。
そして彼等が免官になった十日後には、相沢中佐の永田軍務局長斬殺事件が発生、両派の抗争はエスカレートすること、ところを知らず……という情勢になってきた。
[#小見出し]   永田軍務局長斬殺さる
こうして皇道派と統制派の抗争は地下の底流を激しくさせていったが、昭和十年に至って、一挙に表面化することになった。
その引金を引いたのは、皇道派にいわせれば、永田鉄山軍務局長の人事であろう。統制派の牽引者である永田(陸士十六期、土肥原賢二、板垣征四郎らと同期で、東条英機より一年先輩)は、皇道派の青年将校たちが、真崎を担ぐおそれありとして、この年、七月十六日、真崎(甚三郎、陸士九期)の教育総監を罷免し、同期生の荒木(元陸相)と同じく軍事参議官とした。後任は統制派の渡辺錠太郎である。
明らかに統制派寄りの人事であるが、真崎は陸軍三長官のうち、ほかの林陸相(陸士八期、真崎より一期先輩)や閑院宮参謀総長と意見が合わず、結局、閑院宮の意見もあって、永田は真崎罷免に踏み切った。
これで皇道派の総帥は軍政の表面から去ることになるが、もちろん只事ですむ訳がない。前述の通り、真崎は佐賀出身、葉隠精神旺盛で、彼が陸士校長の頃に薫陶を受けた将校の中には、磯部、村中を始め、磯部の同期生である安藤輝三(磯部の熱心な説得に、最後に三連隊第六中隊長として、決起に参加する)ら多くの革新派将校がいた。
現実の話、二・二六事件の頃の真崎が、国家改造の為には、一身を投げ打って、青年将校を指導するほどの誠忠無比の軍人であったかどうかは、事件後の取り調べにおける真崎の態度で、あいまいとなっているが、長い間、青年将校の偶像となっていた真崎の罷免は、青年将校たちの怒りを爆発させるに十分な起爆剤を敷設したと見てよかろう……そして真先にそれを証明したのが、青年将校ではなくて、陸士二十二期の相沢三郎中佐(宮城県出身、広島県福山、歩兵第四十一連隊付)であったところに、真崎の幅広い人気と皇道派の永田の露骨な人事に対する反発が見られよう。もちろん真崎の罷免は、永田の一存ではなく、林陸相や閑院宮の同意を得たものであるが、皇道派から見れば、その原動力は永田だということになる。
事が起きたのは、八月十二日(真崎罷免から一ヵ月足らず後)のことである。普通の人間でも頭がガンガンするような暑い日であった。免官後、村中の家に寄宿していた磯部は、西田税の来訪に驚いた。
「おい、相沢中佐が福山から上京してきたぞ……」
「相沢中佐が? ……」
磯部は腹の底にピンとくるものがあった。
「昨夜から我が家に泊まっていたんだが、今朝、陸軍省にいって、永田に会って来るといって出掛けた。あの人だから何かやるのではないか? ……」
西田のいうあの人≠ニいう言葉には、特別の意味があった。相沢は東北人らしい素朴な人柄で、吉田松陰を崇拝する勤皇の志士タイプで、軍人としての要領は悪く、地方回りが多く、出世も遅れていた。彼と同期生のトップである鈴木率道(後、第二航空軍司令官)は、陸大を首席で出て、二年前の八月には、すでに大佐に進級していた。無論相沢は陸大には入らず、台湾、青森、秋田などの連隊を転々としていた。しかし、今回彼が永田を斬ったのは、そのような出世の遅いことを恨んでの凶行ではないことは、平素の彼の純忠の精神を知る人ならば、理解出来るところであろう。
相沢が永田を襲った原因は、統制派で人事を独裁し、彼が崇拝していた真崎を罷免したことと同時に、彼個人の人事の問題もあった。彼は近く台湾に転勤することになっていた。それでその前に大事を決行しておきたいと、考えたのである。彼はすでに井伊大老を襲撃した尊皇攘夷の水戸浪士の心境であった。昭和維新の為の捨石になるのだ……こう自分にいって聞かせると、普段、愚直といわれるほどの真直ぐな性格の彼の行動は留める術《すべ》もなかった。
一方、相沢の突然の訪問に驚きながら、永田は微笑して、卓の前に坐ったまま、この出世の遅い田舎回りの将校を迎えた。
「何か用かね?」
永田の問いに相沢は、不動の姿勢をとるとこたえた。
「陸軍中佐相沢三郎、近く台湾に転勤を命じられましたので、ご挨拶に伺いました」
「御苦労……」
永田は書類をおいて眼鏡越しに、相沢を眺めた。突然、相沢は怒号した。
「皇国の為であります。お命を頂きます!」
相沢の軍刀が引き抜かれ、白刃が室内の大気を裂いた。
「何をするか?」
驚く永田に、相沢はまず袈裟《けさ》がけの一撃を浴びせた。
「天誅だ!」
続いて、首のあたりに第二撃を受けると、永田は床の上に倒れ、意識が遠のいていった。
「これでいい」
相沢は遺体に一礼すると、床の上においていたトランクを手にして、何事もなかったように、軍務局長室を出た。玄関に向かう途中、顔見知りの将校に出会ったが、
「これから台湾に赴任しますので、ご挨拶に伺いました」
と相沢は平然といって、廊下を歩いていった。永田を斬るのが上京の目的であったから、それが終わったら、転勤の準備をしようという考えであったというから、並の神経の持主ではない。省内は大騒ぎとなり、相沢は憲兵隊に逮捕された。彼の裁判で、弁護が始まる時期が、二・二六事件の頃に近いということも、この事件と二・二六事件の関係の複雑さを物語る。相沢中佐は死刑の判決を受け、翌十一年七月、処刑されるが、二・二六事件はそれ以前に激発しており、雲行きの慌ただしさを感じさせる。
[#小見出し]   磯部浅一という男
ある研究家はいう。――もし磯部という男がいなかったら、二・二六事件は発生しないか別の形をとったのではないか? ……と。それほど磯部の憂国の情と統制派を中心とする陸軍上層部への呪咀は激しかった。もちろん彼のオルグとしての決起の推進は、純忠の精神に燃え、北一輝の『日本改造法案大綱』によるクーデターの実現の為でもあるが、既述の通り、士官学校事件のように、辻政信らの陰謀に引っ掛かったり、実際行動がないのに免官にされたり、個人的な憤懣があったことも、統制派を恨むようになった大きな理由である。――しかし、男一匹……という感じの磯部は、私憤だけで事を起こすような浅はかな人物ではない。
前に二・二六事件に関係の深い人物には、日本海側の人間が多い……と筆者は書いたが、磯部浅一も日本海岸に近い山口県大津郡菱海村大字河原の貧しい農家の三男に生まれた。(明治三十八年四月一日生)
近くには蒲鉾の製造で有名な油谷湾があり、彼の生まれた村は現在油谷町に編入されている。
農家といっても耕す耕地は狭いので、耕作は母のハツがやり、父の仁三郎は左官で出稼ぎが多かった。従って浅一は学校から帰ると、野良着に着替えて母の手伝いをするのが日課であった。それでも頑健で頑張り屋の浅一は、勉強もよく出来たし、友人にも尊敬されていた。但し、大変な正義漢で曲がったことには、顔色を変えて突っ掛かっていった。
世の中には、曲がったこと≠ヘ許せない……という意地のようなものを堅持している男がいる。いわく弱い者を苛める奴、いわく悪いことをして金を溜める奴、いわく力もなく努力もしないのに、うまく立ち回って出世する奴、こういう奴は絶対に許せない……というような気概に満ちたキャラクターというものがある。五・一五事件や二・二六事件に参加した青年将校の大部分は、こういう一種、任侠的な性向を抱いていたと見たい。その中でも直進的かつ行動的な点で、磯部浅一はピカ一といえようか。多くのオルグの中でも西田税は、気性の激しさでは磯部に似ているが、瞬発的に燃え上がる点では、磯部はオルグというよりは、アジテーターとして突出している点が目立った。
貧しく育った磯部は、その周囲に多くいる正直な貧乏人を見ては、贅沢をする地主や商人、高級官吏などは、許せない存在で、彼は常にこういう連中の富を貧しい小作人や貧民に分配出来ないものか? ……と子供心に考えていた。
こうして磯部は金持を嫌うような気持を抱くようになっていったが、済美小学校で一年から首席で通したので、もっと勉強したいという気持も隠せなかった。幸いに磯部が成績優秀として山口県知事から表彰されたと聞いた、同じ県の厚狭《あさ》町出身で山口市に住む松岡喜二郎という裕福な官吏が、磯部の勉学の助けをしたいと申し出てきた。非常に熱心に磯部の両親を口説き落とした松岡は、磯部を山口市の大殿高等小学校に入れたが、ここでも優秀な成績で、体力、気力も抜群で、よく松岡の期待にこたえた。これに眼をつけた同裳会という退役軍人の会が作った「山口県武学生養成所」が、軍人志望の少年を養成していたので、磯部もこの塾に入り、高等小学校二年の時、広島陸軍幼年学校を受験、合格して入校した。大正八年九月一日、奇しくも北一輝が、上海の下宿で断食同様で『日本改造法案大綱』と取り組んでいた頃である。
やがて東京の陸士に入ると、早速北一輝の『日本改造法案大綱』を読み、ここに一人の革命児が誕生することになる。
陸士本科の時、磯部は朝鮮の連隊を志願し、大邱歩兵第八十連隊を原隊とすることになった。任官後はこの連隊の大田分遣隊付となり、ここに四年ほどいたが、その間に革命の必要を感じ、『日本改造法案大綱』に大いに触発され、北一輝という人に会ってみたいと考えるようになっていった。
まず磯部を開眼させたのは、大田で見た朝鮮人の貧しい生活であった。
「日本の植民地的収奪は間違っている」
磯部のこういう考えは、やがてそのフィールドを、アジア全域の白人と植民地の関係に及ぼすようになっていく。日本とタイのほかは、混沌とした中国を含んで、殆どが白人帝国主義の犠牲となっていた。
磯部の眼は、朝鮮にいた日本人の貧しい生活に向けられた。磯部は仲間と酒を呑むことが好きで、大田の荒川別荘で宴会をした時、酒の相手をした福丸という舞妓と結婚した。福丸は本名・富永登美子といって、父は郡山で土建業をやっていたが、第一次大戦後の不況で倒産し、大田に流れてきたものである。昭和四年、十五歳の福丸がある社長の二号になるという話があり、それを聞いて福丸を救出し、昭和六年秋の満洲事変の頃、夫婦になった。「軍人は何時何事が起こるかわからない」というので、磯部は登美子を入籍しなかったが、二・二六事件後、獄中で登美子を入籍している。
満洲事変の頃、磯部は急に国家改造運動の革新将校らと親しくなっていく。西田税とも親しくなり、西田が仲間に、「大田には『君側の奸、直ちに斬るべし』と叫ぶ気概のある青年将校がいるぞ」と語るほどになっていく。
満洲事変勃発の直後、十月事件、翌七年、五・一五事件……日本での憂国の志士たちの動静を聞くと、熱血漢・磯部浅一の血は燃えた。しかし、大田では同志と行動をともにすることもできない。そこで磯部は歩兵から経理部将校への転科を考えた。早く中央に出たいということもあるが、いざ革命となると金がいる。連隊の金庫の責任者は連隊長であるが、主計将校なら金庫の鍵を自由に出来る……という遠大な計画によるものである。
昭和七年六月、磯部の願書は受諾され、彼は東京の陸軍経理学校に入校し、麻布三連隊の安藤や菅波と会い、同志として会合するようになり、歩兵第一連隊機関銃隊付の熱血児・栗原安秀少尉、陸軍予科士官学校の区隊長・村中孝次中尉らの同志とも親しくなった。
早くも磯部は東京における指導的な立場になったが、経理学校を卒業して大田に戻ると、上京したくなり、糖尿病治療の為という口実で、東京へ転勤となり、五月、妻の登美子を大田に残して、近衛歩兵第四連隊に転勤となった。登美子を愛していた磯部は、自分が決起で入獄した時の備えに、登美子には、幼稚園の保母の資格をとらせることにした。磯部の刑死後、登美子は保母をして働いていたが、太平洋戦争中に病死した。
西田税と並ぶオルグ中のオルグ……磯部浅一の上京で、青年将校たちの国家改造、革新運動は一気に盛り上がることになった。
この頃、西田税の紹介で憧れの北一輝(牛込に住んでいた)に会い、興奮して、西田にこう語ったという。
「北先生の『日本改造法案大綱』は、一点一画|悉《ことごと》く真理だ。歴史哲学の真理だ。日本国体の真表現だ。これを一点一画も修正することなく、完全に実現するのが、自分の所信である」
ここに昭和維新最大のイデオローグ兼カリスマの北一輝と、クーデター実施の最強のオルグとが、肝胆相照らしたといえようか。昭和維新はもうそこまできていた……ともいえる。
西田に劣らず磯部も『日本改造法案大綱』に心酔し、特に冒頭のクーデターと君側の奸∴齣|の快挙に魅力を感じた。
――いよいよ革命近し……だ。磯部は張り切って同志と連絡をとり、三月事件、十月事件、そして海軍の五・一五事件のように大事決行の後の青写真に欠陥がないよう、爾後の進行についても、智恵を絞った。
三月、十月事件は未遂に終わったが、五・一五事件は犬養総理を倒すことには成功しながら、その後の青写真で後継総理を得ることに後れを取っている。それで磯部は菅波、安藤、大蔵……それに西田税などの同志と密談の末、クーデター成功の暁には、尊敬する真崎大将を後継に奏薦するよう、興津の老公・西園寺に頼む……というところまで、画策を詰めた。
そして国家改造の青写真がようやく現像されかかった時に、これを妨げたのが既述の陸軍士官学校事件(九年十一月)である。これで磯部は辻と片倉に深い恨みを抱いた。(二・二六事件の時、陸相官邸で磯部が片倉を狙撃した原因は、この事件の報復で、磯部は執念深い点でも、革命運動のオルグに向いていたかもしれない)
磯部が免官になってからの、青年将校らの決起に至る経過は、すでに説明した通りである。但し、同志たちの勤務場所や決心の様子を見ると、まだ時期尚早の感じで、西田を通じて北一輝もそう見ている……という情報が入っていた。
「よし、ほかの連中が早過ぎるというのなら、おれ一人でやってみせる」
磯部は十年十月、千駄ケ谷に居を構え、いよいよ革命決行の具体策を練り始めた。
近くの明治神宮に詣でながら、磯部は血盟団のような一人一殺を考えたりした。――ようし、一介の素浪人となったおれには部下も武器もないが、一人で岡田総理、後藤内相、林前陸相(相沢事件で川島義之が陸相となる)ぐらいは殺《や》ってみせるぞ……神前に額《ぬか》ずきながら、磯部はそう自分を激励した。
そのうちに、彼の祈りが明治天皇にも通じたのか、機会がやってきた。彼はまず中立の高官の意見を聞いてみることにして、昭和十年も押し詰まった十二月二十三日、村中とともに、陸軍次官の古荘幹郎《ふるしようもとお》中将(後、大将、台湾軍司令官)を訪れ、時局に関する話を聞いてみた。しかし、中立の立場にある古荘は、陸大首席の秀才らしく、理屈を並べるだけで、昭和維新には同調しそうにない。
――どうも秀才は駄目だ度胸がない……村中と顔を見合わせて次官の家を出た二人は、翌二十四日、同志の小川三郎大尉とともに、頭領の第一候補である真崎大将を訪問した。教育総監更迭と永田の死の話が出ると、磯部たちは興奮して、小川が、
「閣下、このままでは血を見ることになるかも知れませんぞ!」
というと、真崎も顔を赤くして、
「このままでは血を見るというのか? ……おれがそれをいうと、真崎がまた青年将校を煽動しているという奴がいるだろう。なにしろおれの周囲にはロシアのスパイが一杯ついているからな」
と杯を空けた。その口振りは、時局がいよいよ重大な時期に入るのを予期しているものの如くに、磯部には映った。
それから間もなく磯部と村中は皇道派の侍大将ともいうべき山下奉文少将(軍事調査部長、後、大将、マレー方面、第二十五軍司令官、フィリピン方面、第十四方面軍司令官、戦犯処刑)を訪問した。
体重百キロという山下は荒武者のようにどてらを着て、二人を迎え、その説くところを聞いた。二人が国家改造と革命のクーデターを説くと、山下は微笑して、
「おい、君たちは国家改造を盛んにぶつが、実際にやる案があるのか? ……つまり兵力と指揮官がいるのか? ……というのだ。大尉と中尉だけじゃ、五・一五事件のように総理一人を殺《や》るのが精一杯だぞ。もっとアカヌケした案があるなら、見せてみろよ」
と青年将校たちの客気をあざけるような態度であったが、磯部が落ち着いた調子で、
「閣下、やるのは若手でもやれます。問題は案を見るよりも、実際に事件が起こった時に、上の方でどうしてくれるか……ということのほうが先決事項ですよ」
というと、うろたえるかと思いのほか、
「ああ、今は何か起こった方がいいんだよ」
と山下が泰然と杯を傾けているので、二人は驚いた。――この男、ネコをかぶっているのか? それとも事の大事を知らないのではないか? ……磯部はあの時のことを思い出しながら、じっと山下の赤らんだ頬を眺めていた。あの時のことというのは、以前、山下と青年将校が呑んだ時、統制派の将軍連の名前が出ると、
「あんな奴らは、ぶった斬ってしまえばいいんだ!」
と山下が豪語したことである。――あの時、山下さんは本当に我々を支援するつもりであったのか? それとも単なるアジで、青年将校に統制派の幹部を殺らせて、その後に自分たちで主導権を握ろうと画策していたのか? ……改めて磯部は将軍たちの老獪《ろうかい》さに思い当たる気持であった。
こうして昭和十年一杯は、磯部たちは将軍たちを説得して、倒閣、政治の革新を考えていたが、可能性が少ないと思い当たり、昭和十一年に入ると、新年の誓いの為、明治神宮の神前に額《ぬか》ずいた。――今年こそは国家改造、君側の奸一掃、尊皇討奸の悲願を達成せしめたまえ……磯部はそう必死に祈った。機会は二月一杯しかない。頼みとする安藤たちがいる第一師団が満洲勤務に転出してしまっては、兵力が足りない。勤皇の志士といえども、下士官兵なしの将校だけでは、どれほどのこともやれない、ということは五・一五事件で実験済みである。その上、クーデターが成功して、重臣や統制派の幹部を倒したとしても、誰を誰に奏薦してもらうのか、まだトップが決まっていないのである。
仕掛け人である磯部と村中の苦悶は、中隊長の安藤や野中に劣らず深かった。――事件の進行はまだ霧の中だ……我々の『日本改造法案大綱』は、一体どうなるのか? ……なおも階段の下に額ずきながら、磯部は熱い涙に頬を濡らした。
一方、中野・桃園町の豪邸の奥深くに潜んでいる北一輝は、悠然と過ごしていた。年末に三井から五万円の差入れがあったので、西田を通じて憂国の志士たちに飲み代を渡しても、当座、金に困ることはない。久原房之助からも、金が来ることがあった。これらの一部が西田を通じて、青年将校のグループに渡っていたので、事件後、北一輝と西田税は、これら財閥、特に政権を狙っていた久原との関係を調べる為に、判決が遅れた。この二人と磯部、村中の二人も、民間人として、裁判が長引き、処刑も将校たちよりは、一年以上後になった。
財閥はなぜ北一輝に賄賂に似た金を贈っていたのか? ……大正の末から昭和の始めにかけて、北一輝と西田は多くの怪文書事件をメイク・アップして、銀行や会社から金を受け取った。そして北一輝は『日本改造法案大綱』の著者から、霊告で国家や人間の将来を占う霊能者ということになり、実際、彼とすず子の予言は当たることが多かった。
それで北も霊能者として金を得ることもあり、予言もやった。また財閥の中には、日本の赤化防止の為に右翼に金を出すという者もいた。労働組合対策として、右翼に資金を提供するという者もいたかもしれない。とにかく昭和初期以降の北一輝は、常に豪邸に住み、大金を得ては西田を通じるなどして、右翼の連中などに散じていた。
また西田は政治家や財閥から情報を得るパイプでもあった。北一輝が一番気にしていた青年将校らの動きも、西田からの情報が主体で、北自らが青年将校の幹部と会うことは少なかった。
この運命の年の一月二十三日、磯部は思案の末、政治浪人の森伝とともに、陸相官邸に川島陸相(陸士十期、陸大恩賜、元台湾軍司令官)を訪問した。いざという時には、当座の帝都の治安に、陸相が重要な役割を示すことは明らかである。それに決起部隊の本部として、この官邸を使う予定があったので、状況偵察にいったということもある。
磯部はまず大きく出た。
「永田人事による統制派の渡辺教育総監には、批判が多い。青年将校が渡辺大将を斬るような事件が起こる可能性がある。青年将校も今度やる時は、五・一五事件のような部分的なことではなく、大仕掛けな事件に持ち込むと見られるが、軍部はどうするつもりなのか?」
磯部の見込みでは、渡辺を更迭《こうてつ》して、皇道派の柳川平助(台湾軍司令官)あたりに替えるのがよい……と考えていたが、川島は、
「渡辺大将は自分から辞めるのがよいと思う。君らがそれを薦めたらどうかね?」
ととぼけたことをいう。――この男、頼むに足らず……と磯部は落胆した。事件が起きたら、保身の術で逃げ回るだけで、無責任な態度をとるのではないか? ……。
それでも二人は三時間ほど粘って、森が、
「磯部君は青年将校をなだめるのに、苦労しているのですよ。大臣が力を入れて頑張らなければ、いけませんよ」
と意味ありげにいったが、「仕方がないなぁ……」と川島は嘆息するだけである。――この男、味方にはならん、但し事を起こした時、強く弾圧はしないだろう……と磯部は考えた。
夜も更けた頃、二人が帰ろうとすると、陸相は一升瓶二本を入れた箱を玄関に持ち出し、二人に渡した。
「これを持ってゆきたまえ。この酒は『雄叫び』といって勇ましい名前だ。まぁ、自重したまえ」
磯部はこれを陸相が青年将校に好意を抱いているのだ……と推察したが、単なる懐柔策であったかもしれない。
陸相の態度がはっきりしないので、磯部は翌日、真崎を再訪した。真崎はあまり歓迎しなかったが、とにかく会ってくれた。真崎は緊張していた。
「磯部君、何事か起こるなら、何もいってくれるな」
と消極的である。しかし、磯部は引っ込まない。
「私は統帥権干犯問題(真崎は永田による教育総監からの罷免を、統帥権干犯として、非難していたことがあった)では、決死的な努力で、もう一度、閣下に復帰して頂きたい。相沢公判も始まることであるから、閣下も努力して頂きたい。ついては軍資金がいるので、都合して頂きたい」
と粘った。真崎が、
「おれは貧乏で金がない。いくらいるのだ?」
というと、
「千円ぐらい欲しいが、なければ、五百円でもいい」
と磯部は粘った。金の出しぐあいで、真崎の協力の度合を探ろうというのである。(当時の千円は昭和五十年代の二百万円ぐらいに換算されるが、地方では千円で家が建つという時代でもあった)
「そのぐらいなら物を売ってもこしらえてやろう。――君は森伝を知っているか? あれに話をして、造ってやろう」
と真崎が承諾してくれたので、――これは脈がある……と磯部は思った。二回会っただけなのに、これだけの好意を示して、金の面倒を見てくれるというのであるから、青年将校たちの思想、行動は理解していると、磯部は単純に信用した。また森を仲介にして、川島―真崎の間に緊密な連携が生まれ、決起の時には、決起軍の為に有利に動いてくれる……という確信も持つことができた。森は政治家や財閥にも顔がきくが、真崎、川島の両将軍が、磯部と村中の復職に努力している……という話もして、磯部を安心させた。(しかし、これは磯部の糠《ぬか》喜びで、事件の時、両将軍がどのような保身の術を用いたかは、すでに述べた通りである)
磯部と村中は浪人であるのを幸い、こうして軍人の上層部に渡りをつけて歩いた。特に自ら昭和の吉田松陰であり、坂本龍馬であろうとしている磯部にとって、昭和維新の名のもとに、上層部と交渉、説得することは、彼の志士的な自負心を満足させる効果があった。
惜しむらくは、この熱血漢は、その上層部の説得が、果たして決起行動の場合、どの程度の効果を現すのか現実的に考えることをせずに、自らの壮挙に酔っていたことである。
決起の当日も、この二人は陸相官邸で川島と交渉したり、反乱軍の参謀役を務めているが、免官になった民間人が軍服を着用して、天皇陛下の部隊を指揮したというので、強い批判をかうことになる。
一方、北一輝の命令によって、西田税は青年将校と接触して、その内面を探っていたが、彼が明らかに将校たちの決起の意図の現状を察知したのは、二月十一日のある出来事からである。この日、今や隠れてはいるが、天下の志士を気取っている磯部は、代々木山谷の西田税の家を訪れた。
西田は丁度、東京控訴院から呼出しを受けて、帰宅したところであった。彼は五・一五事件の時、裏切り者として、同志の川崎長光から撃たれた時の着物を受け取ってきたところであった。西田がどす黒い血のこびりついた着物を広げていると、
「西田さん、血が帰ってくるということは、縁起がいいといいますよ。今年はいい事がありますよ」
と磯部がいった。そのいい事というのが刑死につながるとは、西田も予想してはいなかった。しかし、なにかにこだわりがあり、西田は着物を畳む手を留めた。それを見た磯部は、西田の気持を透かしみたような気がした。磯部の来訪の目的は、近々に迫った決起に対して、『日本改造法案大綱』の作者・北一輝がどういう意見を抱いているのか? ……ということであったが、同志の状況について、西田に話すと、北一輝は政、財界の上層部と通じているので、これをヤバイと感じたのである。
西田と北について心配している人物は、獄中にもいた。永田軍務局長斬殺の被告・相沢中佐である。二月十四日、西田のところに相沢から来訪の希望が届いたので、西田が陸軍刑務所にゆくと、相沢は、
「若い大切な人達が、この際軽挙妄動することのないように、ことにお国が最も大事な時に臨んでいる際だから、くれぐれも自重するように貴方からいって下さい」
と頼んだ。これに対して西田は、
「間違いはありますまいが、この上とも気をつけますから、ご心配なさらないで下さい」
と答えている。
このほか、西田税は、多くの将校やオルグに会って、情報を集めたが、それを聞いた中野の北一輝は、――事態はかなり憂慮すべき状態にある……と判断して、西田に警戒を命じた。
[#小見出し]   決起近し――役割の分担――
この年、一月二十八日から、相沢中佐の軍法会議が、第一師団の法廷で行なわれていた。
この弁護に熱心だったのは西田税で、弁護士・鵜沢総明も、西田に頼まれた一人である。前陸相・林銑十郎や真崎大将も、証人として法廷に立った。
一方、磯部を参謀格とする決起将校側は、悲願『日本改造法案大綱』実現の為に、着々として具体策を決めていった。
西田が磯部と会ったのは、二月十一日のことであったが、将校たちの襲撃配置は、すでにかなり進行していた。
急進派の栗原中尉(歩兵第一連隊機関銃隊)は、歩兵第一連隊(丹生中尉、池田少尉、林少尉)、近衛歩兵第三連隊(中橋中尉)らの同志を固めることに必死になっていた。
また所沢航空隊の河野寿大尉も熱心で、彼は西園寺、牧野の二人は絶対に殺《や》らなければならない、と主張する。結局ターゲットは、前記の岡田、鈴木、斎藤、高橋、渡辺らに絞ることにして、牧野は河野が殺るといい、西園寺は後継総理奏薦の使者として残そうということになった。
こうして、歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第三連隊、田中部隊らの決起が固まっていく様子が、磯部の司令部≠ノ集まりつつあった。しかし、二月上旬になっても、天皇の軍隊を無断で動かす点で、決起を躊躇する将校は、まだいた。特に麻布三連隊で最も人望のある安藤第六中隊長が、迷っていた。――成功すれば救国の正義軍であるが、失敗すれば反乱軍……謀叛人として、部下たちは裁かれるのである。部下を愛する安藤にはそれが堪えられなかった。
焦った河野は、「決意の堅い者だけでも決行しよう」と二月十日夜、決行同志の会≠開くことを提唱した。そこでその日、歩三(歩兵三連隊)の週番司令室で、安藤、栗原、中橋、河野それに磯部の五人が集まって、決行準備の打ち合わせを行なった。今や意気高らか……といいたいが、肝心の安藤が燃えないので、磯部は苛々した。
「陛下の軍隊を動かすということだからなぁ……」
と安藤は腕を組んで考えこむ。磯部も無理もない、とその横顔のやつれに見入った。自分は天下の浪人だから、陛下の軍隊とは関係がない。部下もいないし、指揮権もない。しかし、安藤の場合は部下たちから、父か母のように慕われているので、苦悶は余計に深いのである。
結局、安藤も腹を決めて、「いよいよ準備にかかるか……」と洩らしたので、磯部も安心した。
二月十四日、気の短い河野は、軍刀と拳銃を持って磯部のところにきた。
「もう我慢が出来ない。おれは牧野を殺るぞ」
と河野がいうので、
「軽挙はいかん。東京の部隊と歩調を合わせるといっただろう」
と磯部はいったが、
「東京は東京でやって下さい。牧野は湯河原にいるから、影響はないでしょう」
と河野はいい、そのまま武器を持って、湯河原に向かった。しかし、牧野はその天野屋という旅館には来ていないというので、河野は一旦は諦めた。
二月十八日、栗原の家に磯部、安藤、村中が集まり、磯部の早期決行説に対し、安藤は時期尚早を唱え、とにかく来週中にやることにした。西園寺に関する処置が変わって、襲撃することになったので、十九日、磯部は豊橋に行き、ここの教導学校にいる対馬勝雄中尉に会って、決起当日興津にいる西園寺の襲撃を頼んだ。(西園寺は早期に襲撃のことを知り、静岡県知事の官舎に逃れて無事であった)
二十一日、磯部と村中は歩兵第一連隊の中隊長山口一太郎大尉(侍従武官長、本庄繁大将の女婿)を訪問して、決起直後の歩一の残留部隊の決起部隊への援護を依頼した。
こうして磯部が準備に忙殺されている間に、決起の日は迫っていった。この時点で磯部らが考えた青写真は、次の通りである。
一、亀川哲也(政治浪人)……鵜沢総明に西園寺を訪問させ、真崎への大命降下を依頼する。また山本英輔大将に協力を依頼する。
二、森伝(浪人、清浦奎吾の秘書)……清浦(元首相)に、参内して真崎を天皇に推薦してもらう。
三、山口一太郎大尉……本庄侍従武官長と連絡を取り、決起軍の国家改造案について、天皇に同意してもらう。
四、北一輝、西田税……加藤寛治大将―伏見宮軍令部総長の線で、決起軍の趣旨を天皇に上奏してもらう。
五、亀川―真崎―伏見宮―天皇のルートで、実情を報告する。
六、川島陸相の参内と上奏。
七、真崎大将への大命降下、国家改造内閣の成立。
これを聞いた安藤は、肝心の西園寺、本庄、伏見宮、そして川島陸相、真崎大将の内諾が取れていないことに不安を抱いたが、ここで引くということは出来なかった。
二十二日朝、磯部は安藤を訪ねた。安藤は晴々とした顔で、
「俺も決心したぞ! やるぞ!」
といったので、磯部もほっとした。安藤が肚《はら》を決めれば、事は半ば成就したも同然だ……続いて、磯部と村中は野中四郎大尉(三連隊第五中隊長、陸士三十五期)に会った。
野中は今回の決起将校の中では、一番の先任者で、安藤の決意も野中の説得によるものだという。
こうして決起部隊の方は大体陣営が整って磯部も革命の順調な進行を認め、次には革命成功後の最後の詰めを考えることにした。この頃になると、磯部は使い走りに近いオルグから、最終の纏め役のフィクサーに自分を擬するようになってきていた。
前述のように西田税が青年将校たちの切羽詰まった動きを、北一輝に報告したのもこの頃である。磯部や栗原中尉と連絡を取っていた西田は、二十日頃には、もう決起は近い……と感知した。(野中が決起の決意書を認《したた》めたのは、二月十九日のことである。その末尾に彼はこう記している。「我れ狂か愚か知らず一路遂に奔騰するのみ」)
西田は安藤と野中に会いたい……と考え磯部にそれを伝えた。二十日の夕刻、安藤は西田を訪ねてきた。西田の決起に対する問いに、安藤はこうこたえた。
「最近若い仲間にその事を聞かれ、自分にはまだやれない、と否認した。しかし、この事を野中大尉に話したところ、『何故断わったのか。自分たちが立って国家の犠牲にならなければ、我々に天誅が下るだろう。今週中にも決行したいと思っている』と叱られました」
この話を西田から聞いた北一輝は、仏間に籠って日蓮の霊告に耳を傾けていた。あえて中止を勧告しなかったのは、先述の通り、このクーデターが一応成功したならば、完全な昭和維新の革命にまでは至らなくとも、青年将校の決断は軍の上層部を揺るがし、国民も昭和維新の何物なるかを知り、自分の公私の活動にも活力が加わる可能性がある……と計算したからではなかったのか? ……。
ところで北一輝も、いよいよ将校たちが決起するということは了解したが、問題はその期日で、西田にそれを探索させた。そして栗原と磯部からの情報で、決起は二月二十六日の早朝であると察知した。それがはっきりしたのは、二十三日の夕刻である。外出から帰ってくると、磯部の置き手紙があり、「二十六日朝が好都合です」とあったので、正確な日時がわかり、これで北一輝も決起の実際のシナリオを知ったので、霊告が益々頻繁になったことは、冒頭に書いた通りである。
一方、二十二日夜、栗原の家で河野、野中、村中、磯部、栗原、中橋らが集まり、最終のシナリオを決定した。
一、岡田総理 首相官邸、歩一、栗原中尉、対馬中尉ほか、兵力、二百九十一名、
二、陸相官邸 三宅坂、歩一、丹生誠忠中尉、歩兵第一旅団副官・香田清貞大尉、民間人 磯部、村中、渋川善助、山本又、百七十名、
三、斎藤内大臣私邸 四谷、歩三、坂井直中尉、高橋中尉、百五十五名、
四、高橋蔵相私邸 赤坂区表町、近衛歩三、中橋基明中尉、百名、
五、鈴木侍従長官邸 麹町、近衛歩三、安藤大尉、百五十名、
六、渡辺教育総監私邸 上荻窪、砲工学校、安田優少尉、歩三、高橋太郎少尉、三十名、
七、後藤内相官邸 麹町、歩三、鈴木金次郎少尉、六十名、
八、警視庁 歩三、野中大尉、同 常盤少尉、四百名、
九、東京朝日新聞 栗原中尉、中橋中尉らの部隊が第二次目標として襲撃、
十、牧野元内大臣 湯河原・伊藤旅館、所沢航空隊 河野大尉、八名、
十一、東京日日新聞、報知新聞、国民新聞、時事新報、電報通信社、栗原部隊の担当。
以上が近代日本史最大の政府転覆、国家改造クーデターのシナリオの細目であるが、磯部も安藤もこの表を見て、緊張した。
――果たしてこれだけの兵力で、これだけの目標を襲撃できるのか? ……五・一五事件では、かなりの目標を立てながら、結局、犬養総理を殺《や》っただけではなかったのか? ……しかもあの時は、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生だけであったが、今回は天皇陛下の股肱である部下の下士官兵が兵力の主体である。失敗すれば、反乱、謀叛の誹《そし》りは免れないのだ……。
「うむ、参加総勢、千五百五十八名か……」
今やフィクサーの立場に立った磯部は、配置表を見て、腕を組んでうめいた。
彼の胸中には、今まで何度も繰り返されてきた疑問と危惧が、再燃していた。自分や村中は天下の浪人であるから、事が破れたら、腹を切るか、死刑になればいい……しかし、天皇陛下の股肱である兵士たちを預かる安藤や野中、栗原、中橋らはそうはいかない。
陛下の軍隊を無断で動かして、政府や陸軍省、宮内省らそして天皇陛下が、この趣旨を理解、承認してくれれば、決起軍も正義軍となり、磯部や安藤は新政府の幹部となって、『日本改造法案大綱』の実行を推進すればよいのであるが、これが認められず、統帥権干犯とされれば、一同は反乱罪に問われ、逆賊となるのである。
もっともこの点に関して、周到な安藤らは、この行動は中隊長らの命令によるだけではなく、参加兵士も国家改造の同志であるから、必ずしも命令を以て強行させるのではない……君側の奸≠討つのであるから、誠忠の行動であり、反乱ではない……というような思考方法を、訓育してきたが、参加全員にそれが徹底していたという自信は安藤にも磯部にもなかった。
結局、このクーデターに成功して、その悲願とするところを、天皇を始め上層部に訴え、特に国民の世論の喚起に力を注ぐよりほかはない……一身軽んずべし、国民の幸福は重し……磯部は自分にそう言い聞かせ、その思いは安藤も同じであった。
そのような悲壮な思いに胸を噛まれながら、磯部、安藤、野中、香田らの幹部は、二十三、四の両日、歩三、歩一の週番司令室に密会して、クーデター計画の実施細目について、打ち合わせを重ねた。
一方、西田の方は先の青写真に基づいて、陸海軍、政界、元老、重臣と関係のあるオルグと連絡して、決起の場合の支援について、協力を頼めるよう、画策していた。
しかし、事前に重臣本人に洩れると、クーデターにブレーキがかかる恐れがあったので、西田は亀川、森らのオルグとの交渉に、慎重を期した。その計画は当然、中野の北一輝のもとに報告され、北は妻のすず子とともに、霊告を待つ……という状態が続いた。
[#小見出し]   そして雪が……
北一輝が青年将校たちの正確な決起の時刻を知ったのは、二月二十五日の午後のことである。磯部が西田の家を訪ねて、妻のはつに書置きを残したのである。
すでに代々木練兵場の上空から、白いものがちらついていた。
――明日の決行は雪になるな……井伊大老の襲撃の時も、雪だった……自分を水戸浪士になぞらえながら、磯部は西田を訪ねて、最終的な決起の日時を告げた。この情報は当然、中野の北一輝のもとに届き、霊告を求める読経の声が高まり、庭には白いものがちらちらと降《お》りてきた。ガラス障子の向こうに、それを認めながら、北一輝は思案に耽《ふけ》った。
――雪か……吉兆か凶兆なのか……決起を止めるなら今だ……北一輝の胸中にそういう疑念が湧いて、また消えた。――早春の淡雪か……北はその疑念をふりはらった。雪を吹き飛ばす嵐のようなものが、彼の胸の中に渦を巻いていた。――今、陸相か警視総監に電話をすれば、クーデターは抑止されるであろう……しかし、それで『日本改造法案大綱』の実現は多分、永久に陽の目をみることはあるまい。自分は逮捕される前に、皇道派の将校に射殺されるかもしれない。逮捕された場合、死刑はともかく、当分の間、お天道《てんとう》様を仰ぐことはできまい。多年苦心の『日本改造法案大綱』は、禁断の書として、闇に葬られ、自分の革命家として、或いは国家社会主義者としての生命も終わりを告げるのだ……北一輝は雑念を払うように、読経の声を高めた。
元寇の時、時の執権・北条時宗は、『莫《まく》妄想』を座右の銘としていたという。莫は「勿《なか》れ」という意味で、事に当たって妄想すること勿れ……という意味である。
元からの降伏を薦める使節を龍の口で斬った時、時宗の胸にはこの言葉があったという。
『莫妄想……莫妄想……』
北一輝の唱える声が、白くなりつつある庭の木立にこだましていった。
妄想を払いながら、北一輝はやはり事の成否について考えていた。
――要は玉《ぎよく》(天皇)にあり、玉を手に入れれば、即ち成功、玉を逸すれば、即、地獄に入る……この方策は西田を通じて、磯部や村中にも伝えてあるはずである。しかし、彼等の力では、重臣たちの暗殺は出来ても、玉を味方に引き込むのは、難しいのではないか? ……大体、北一輝はこのクーデターの成功率は半々と見ていた。ということは玉を手に入れる可能性が、五十パーセントということになる。
――出来るかな? ……磯部や村中、安藤たちにそれが……玉を手にとれば、成……玉を逸すれば、否……。
そう考えながら、北一輝は読経を続けた。
この日の午後、西田税は政治浪人の亀川哲也を訪ねている。亀川は皇道派の将校たちと組んで、政界の実力者になろう……と企図していた久原と軍部のパイプ役で、大金を引き出していた。北、西田が、磯部や村中とともに、公判と判決が遅れたのは、その出所と渡した相手の追及の為でもあった。亀川は村中に千五百円(引っ越しをする、という理由で久原からもらった)を渡したことになっており、彼も事件後無期禁固の刑を受けることになる。
午後七時、一切の外部での用件を終わった磯部は、自宅を出た。妻の登美子が、
「お帰りは何時頃でしょうか?」
と訪ねたのに対し、磯部は、
「今夜は遅くなる。先に休め……」
と言葉少なにいった。大田で出会った登美子とも、これが今生の別れになるかもしれないが、事実を打ち明ける訳にもゆかない。西田や北一輝の妻と違って、何も知らない登美子をこのままおいていくのは、ふと哀れに思えたが、ここまできては引き返すことは出来なかった。
磯部はタクシーを拾うと歩三の近くにある歩兵一連隊に向かった。機関銃隊長室につくと、栗原、丹生、林八郎少尉、池田利彦少尉らが、準備にかかっている。磯部はここで用意してきた軍服に着替えた。久方ぶりに軍装をすると、全身が引き締まるような気がする……ようし、やるぞ……明日こそは重臣、軍閥の連中を道連れにして、戦死してやるぞ……そう心の中で叫ぶと、勇猛心が奮い立ってくるようである。
同じ連隊の十一中隊長室にいくと、香田、村中がきていて、最後の打ち合わせを行なっており、磯部もこれに加わった。
最後まで志士たちは忙しい。野中が書いた決意書に基づいて、『決起趣意書』を刷る。決行時、陸相の前で読む手筈のものである。斬殺すべき統制派の軍人、官邸への通過を許す軍人のリストを作成する。
主な要望事項は次の通りである。
一、事態容易ならざるを以て、速やかに善処すべきこと。
二、小磯、建川、宇垣(一成)、南(次郎)ら君側の奸≠フ将軍を逮捕すること。
三、同志の将校で、地方にいる大岸頼好大尉、菅波大尉らをここ(陸相官邸)に呼ぶこと。
四、行動部隊を現地より動かさぬこと。
五、我等は昭和維新の曙光を見るまでは、断じて引かず。死を期して目的を貫徹する。
また磯部の斬殺対象リストによると、敵は、林前陸相(真崎更迭の責任者)、石原莞爾(大佐、参謀本部作戦課長、皇道派を批判していた)、片倉衷(少佐、士官学校事件の時、辻政信大尉〔この時、水戸の歩兵第四連隊付〕と組んで、統制派のスパイとなり、皇道派にクーデター準備の罪を押しつけた。磯部の恨みの的である)、武藤章(中佐、軍事課高級課員、統制派若手の中心)、根本博(大佐、陸軍省新聞班長、統制派の中心)であった。
こうして二月二十五日の夜は深々と更けていく。庭の木々の上に雪が積もり始めていた。(この夜、西田税は中野の北一輝の家に泊まり、連絡係を務めていた)
間もなく二十六日に入るが、北一輝は読経の間に床を取らせて、一眠りした。
一方、安藤たちの歩兵三連隊に近い歩兵一連隊では、磯部が出動の準備に忙しい同志たちを背中にして、営庭に舞う雪を眺めていた。間もなく、二月二十六日になる。午前二時半には歩一、歩三、近衛歩三の各連隊で、非常呼集が行なわれる。そして午前五時を期して、千五百余名の決起部隊は、重臣ら君側の奸≠ノ天誅を加えるべく、正義の剣を振るうのである。――これぞ昭和維新の快挙といわずしてなんぞや! ……磯部の胸は躍ったが、雪はそれを鎮静させた。――あと十時間……それまでには、昭和維新の大業が成るか成らぬかが決定するのだ。新しい維新の号砲の射手となるか、逆賊の汚名を着て、十字架の上に昇るか……正に機は転瞬にして去るのだ……何卒《なにとぞ》、神のご加護を……この雪を吉兆たらしめたまえ……磯部の祈りの中に、時は過ぎて二月二十六日に入った。非常呼集まであと二時間余である。
磯部はなおも明治維新に倒れた愛国の志士たちの霊に祈り続けた。
しかし、磯部たちの昭和維新の企図はすでに、根本的に画餅《がべい》に帰しつつあった。
彼等が頼りにしていた将軍や提督たち……真崎、川島、山下、荒木、小畑……そして海軍の加藤、山本ら艦隊派の人々は、彼等が考えていたほど、この際命がけで、国家改造の為の祖国の革命を切望してはいなかった。特に陸軍の統制派の将軍たちの狙いは、この際青年将校の決起を利用して、皇道派を抑え、その反面、軍部のクーデターの脅威を国民に知らしめ、やがては軍部独裁に持ち込み、政界、財界の反対を押し切って、政権の座につき、その勢力を、満洲から華北、あるいは東南アジアに拡大し、北一輝が唱えていた大アジア主義に似た東洋軍事経済圏を確立して、米英に対抗し、ソ連の脅威を防衛しようというもので、この年、十一月には日・独・伊防共協定が締結されていくのである。
その大計画の為に、今、大きないけにえが捧げられようとしているのを、米英は気づいていただろうか? ……。
[#小見出し]   嵐のあと……
既述の通り、日本を震撼させた二・二六事件も、二十九日午後、決起部隊の先任将校・野中四郎大尉の自決に続いて、安藤輝三、香田清貞大尉ら在京の将校全員と、磯部、村中ら民間人の逮捕によって、一応実力行動に終止符を打った。意外に早い幕切れで、北一輝は二十八日午後、中野桃園町の自宅で、西田税は三月二日逮捕された。
野中のほかに湯河原の伊藤旅館(牧野は不在)を襲撃した河野寿大尉もその際負傷し、熱海の陸軍|衛戍《えいじゆ》病院に入院していたが、三月五日自決、これで将校の自決は二人で、残る十五人が代々木の陸軍刑務所に収監された。実際参加兵力一千三百六十名のうち、将校と下士官若干を除いた兵士たちは、上官の命令に服従したものとして、放免された。
軍法会議の結果、同年(昭和十一年)七月五日、まず次の判決が出た。(北一輝、西田税ら民間人の判決は、財界等の関係の調査の為、翌年に持ち越された)
〔元将校〕
死刑 首魁 元陸軍歩兵大尉・香田清貞
同  同  同       安藤輝三
同  同  元歩兵中尉・栗原安秀
死刑(謀議参与、又は群集指揮)元陸軍歩兵中尉・竹島継夫
同 (同) 元歩兵中尉・対馬勝雄
同  同  同     中橋基明
同  同  同     丹生誠忠
同  同  同     坂井 直
同  同  元砲兵中尉・田中 勝
同  同  元工兵少尉・中島莞爾
同  同  元砲兵少尉・安田 優
同  同  元歩兵少尉・林 八郎
〔常人〕
死刑 首魁 磯部浅一(処刑は翌年八月)
同  同  村中孝次(同)
同 (謀議参与、又は群集指揮) 渋川善助
同  同  水上源一
無期禁固(謀議参与、又は群集指揮)
元歩兵少尉、麦屋清済以下五名
〔元准士官、元下士官〕
禁固十五年 陸軍歩兵軍曹・宇治野時参以下十八名(禁固一年六月―禁固十五年までを含む)
〔兵士〕
禁固二年(三年間執行猶予) 元陸軍歩兵上等兵・中島与兵衛以下三名
〔常人〕(死刑以外)
禁固十五年 宮田 晃以下六名(刑務所は皆同じ)
同年七月三十一日第二次発表。
イ、反乱者を利す
無期禁固 元歩兵第一連隊大尉・山口一太郎
禁固四年 元歩兵第三連隊中尉・柳下良二
以下略、計六名
〔昭和十二年一月発表〕
イ、軍人関係(反乱者を利する罪)
禁固五年 元予備役陸軍少将・斎藤 瀏、
同 三年 元参謀本部陸軍歩兵中佐・満井佐吉
同 五年 元歩兵大尉・菅波三郎
同 四年 同     大蔵栄一
同 同  同     末松太平
同 三年 元歩兵中尉・志村陸城
同 一年六月 元歩兵中尉・志岐孝人
〔常人関係・反乱罪〕
禁固二年 後備陸軍少尉・越村捨次郎以下八名
以上のうち安藤らを含む青年将校十三名の死刑は、この年、昭和十一年七月十九日、代々木の陸軍刑務所に隣接する刑場で、十字架を背にして、銃殺という形で執行された。彼等の遺書には、憂国の志あふれるものがあり、残った人々の心を打つが、省略したい。
[#小見出し]   獄中の北一輝とその最期
そして翌昭和十二年八月、北一輝らの判決が出た。
死刑 首魁 北輝次郎
同  同  西田税
八月十九日、北一輝と西田税は代々木の刑場で、先に逝った青年将校と同じ形で、死刑を執行された。北一輝らの調査の参考人として、残されていた磯部と村中も、同じ日に処刑された。
ここに一世を風靡《ふうび》したかに見えた『日本改造法案大綱』の著者と、これに心酔し北一輝の信奉者となっていた革命の実行者たちも、雄図《ゆうと》空しく刑場の露と消え、『日本改造法案大綱』だけが、不滅の国家改造の聖典として、ひとり歩きをしていくことになった。
どのようにひとり歩きをしていったかについては、次章の『北一輝小論』で辿ってゆくとして、獄中の北一輝とその最期について、語っておきたい。
前にも触れたが、北一輝は警視庁でも陸軍刑務所でも、極めて温厚な様子で、日夜、法華経の読経に明け暮れていた。
訊問にも素直に答え、青年将校の決起については、前後で食い違う意思の表明を行なうこともあったが、結局、青年将校たちに愛情のある態度を示し、「自分の『日本改造法案大綱』を信頼して、決起したのであるから、もし死刑にならなくとも、自決して、彼等のあとを追うつもりだ……」と死を共にする決意を表明している。
田中惣五郎氏の『増補版・北一輝』には、法廷の様子とともに、北一輝と西田税を担当したYという判士(陸軍少将)の手記が載っているので、紹介してみたい。
裁判は一審制で弁護士はなし、非公開であった。
事変の前後における両氏の行動に対しては、証拠も明らかであり、被告もこれを認めていたが、その動機、目的、心情については、裁判官の一方的主観によって書かれているので被告らの納得しないところであった。
例えば北一輝の動機について、裁判官は、
「西田とともに青年将校に殉ずる覚悟を以てこれに参加し、極力その目的達成の為に、指導督励する事を決意するに至れり」
と述べているが、
「之は単なる裁判所側の主観であって、両氏はかくの如き決意をしたことは認めていないのである」
とY氏は反論している。
またY氏は北一輝の『日本改造法案大綱』にも共感を示している。
「四月十九日(十一年)、昨夜来今暁三時までに『日本改造法案大綱』を一気に読了す。青年将校がこの国家改造法案による改造を決意したのは無理もないと悟る。実行手段の非合法的なものを除いては、同感の点が少なくない。否、寧ろ大体において同意ということが出来る。只、本案の如き改造を矯激ならざる方法を以て、短時日に実現する手段如何が問題だ。
四月二十二日、北の調書来る。判士としては事件によって刺激された一切の感情を去り、公正な審判を下す為には、各判士を冷静ならしめる工作が必要であると思う。
六月二日、真崎大将の調書を見る。大将の意見同意の点少なからざるも、感情的に軍内に対抗者ある事を認める点は所謂《いわゆる》派閥抗争の源泉であって、国軍の為遺憾極まりなし。
七月七日、本朝、将校班被告処刑の件公表さる。死刑十六名。(内、常人、村中、磯部、渋川、水上を含む)
十月一日、北、西田第一回の公判。北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙《はくせき》。流石《さすが》に一方の大将たるの風格あり。西田は第一線の闘士らしく体躯堂々、言語明瞭にして検察官の所説を反駁するあたり略《ほぼ》予想したような人物。
十月五日、北一輝第二回の公判。『国体論及び純正社会主義』及び『日本改造法案大綱』執筆の動機その他自己の運動の過程を述ぶ。偉材たるを失なわず。広く世表に顕われざる所以《ゆえん》は、その学歴に禍せられて遂に浪士の域を脱し得ざる為か。あるいは本人の性格他人の頤使《いし》に甘んじ得ざる結果か。自分は前者と想像する。この如き現象は軍内天保銭(陸大卒業者の徽章)問題と同一なり。庶政一新の為の重大事項なり。
十月二十日、北、西田証拠調べ終わる。北は国家改造法案に対する意見を述べ、不逞思想に非ずと主張す。その点確かに同意せざるを得ぬ。
十月二十二日、北、西田論告。論告には殆ど価値を認め難し。本人又は周囲の陳述をかり、悉《ことごと》く之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に付して、民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きは、国民として断じて許し難きところであって、将来いよいよ全国民一致の支持を必要とする国軍の為、放任し得ざるものがある。国家の為に職を賭するも争わざるを得ない問題と思う。奉職三十年始めて逢着した問題である。
(この後、十二月十六日には「依然過重なるも一歩希望に近付く」と二人の刑量の低下した事を喜んでいるが、翌十二年に入ると、情勢は一変した)
一月十四日、陸相の注文にて各班毎に裁判の経過を報告する。北、西田責任問題に対する意見、全くかわらないのに驚く。あの分なら公判は無用の手数だ。我々の公判開始前の心境そのままである。裁判長の独断、判士交換は絶望に陥る。F判士罷免か、北、西田の判決延期の外に手段なく、全般の形勢は後者に傾く。
(F判士罷免は強硬論の為。そして結局延期となり、Y判士は軍上層部の反省を促す為、陸軍次官〈梅津美治郎中将〉に意見書を提出し、北、西田以外は一月十八日に判決が下り、八月十四日、北、西田に対する判決を下す。〈死刑〉)
好漢惜しみても余りあり。如何ともするなし。ああ。……宣告後、西田氏は裁判官に対し何事かを発言せんとする様子に見受けられたが、北氏は穏やかにこれを制し、両人とも裁判官に一礼して、静かに退出したのであった」
二人の処刑は昭和十二年八月十九日で、その前日、北一輝は養子の大輝に遺言を残している。(大輝は太平洋戦争中に死去した)
『子に与う』
大輝よ、この経典は汝の知る如く父の刑死する迄読誦せるものなり。
汝の生るるとより、父の臨終まで読誦せられたる至重、至尊の経典なり。父は只この法華経をのみ汝に残す。父の思い出さるる時、父の恋しき時、汝の行路において悲しき時、迷える時、怨み怒り悩む時、又楽しき時、嬉しき時、この経典を前にして南無妙法蓮華経と唱え、念ぜよ。然らば神霊の父直に汝の為に諸神仏に祈願して、汝の求むる所を満足せしむべし。
経典を読誦解脱するを得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、誦住三昧を以て生活の根本義とせよ。即ちその生活の如何を問わず汝の父を見、父とともに活き、しかして諸神諸仏の加護、指導の下に在るを得べし。父は汝に何物をも残さず、而もこの無比最尊の宝珠を留むる者なり。
昭和十二年八月十八日
[#地付き]父 一輝
(この遺書には北家に伝わるという法華経が添えられていた。日蓮の所持していたといわれるものである)
翌十九日、北一輝と西田税は、青年将校らと同じく銃殺刑に処せられた。すでに支那事変はエスカレートし、日本軍は南京方面に向かう作戦を計画していた。
処刑前に横に並んだ西田税が、
「最後に天皇陛下万歳を三唱しましょう」
といったが、北は、
「私は止める」
といい銃弾を受けて、五十五歳の生涯を終わった。
戒名は「経国院大光一輝居士」である。
[#改ページ]
[#見出し] 第七章 北一輝小論
[#小見出し]   (1)北一輝の心境
事件後、逮捕された北一輝は、司直の取り調べに対して、当時の心境を次のように語っている。
「私はいかなる国内の改造計画でも、国際間を静穏の状態におくことを基本に考えておりますので、陸軍の対ロシア方針が、昨年の前期の如く、ロシアと結んで北支那に殺到する如きは、国策の根本を覆すものと考え、寧ろ支那と手を握ってロシアに当たるべきものと考え、即ち陸軍の後半期の方針変更にはいささか微力を尽くしたつもりであります」
北一輝はこの年二月末、中国に渡って、対ロシア政策について、親友の国民政府外交部長・張群と、日中、日米間の絶対平和を図り、アジアの平和を持続せしめる交渉を考えていた。
そこへ二月二十日頃、西田税から青年将校決起のことを聞かされた。
意外な変事に遭遇した思いで驚いたが、しかし、第一師団の満洲派遣という特殊の事情から突発したのだから、「自分の微力では抑え切れない。西田の報告に対して承認を与えたのは、私の重大な責任である」と思ったという。
それでは、北一輝は二・二六事件をどう発展させ、どこまで国家改造を実現させる腹づもりであったかというと、
「これで私の『日本改造法案大綱』が実現するなどという安価(安易?)な楽観≠ヘ持っておらず、(このところ、北一輝が自分の『日本改造法案大綱』の実行がいかに難事であると考えていたかを察知させて、興味深い)ただ青年将校の攻撃目標が達成されれば幸いで、あとは真崎内閣ならば、むざむざ青年将校を犠牲にはしまい、と思ったからこの説を唱えたので、山口、亀川、西田らが、真崎内閣を考えたのとは、動機も目的も全然違っていると思います」
と述べている。
この陳述が本当だとすれば、北一輝は青年将校たちが、岡田総理、斎藤内大臣、鈴木侍従長、高橋蔵相、渡辺教育総監を襲ったのは許容出来ると、いっているので、二・二六事件には無関係という言い分は成立しないことになる。なおも北一輝の陳述は続く。
「私はその人々の軍人としての価値は尊敬致しておりますが、改造意見について、私同様又はそれに近い経綸を持っているということを、聞いたこともありませんし、又一昨年秋の有名な『陸軍パンフレット』を見ましても、私の改造意見の如きものであるかどうかは、一向に察知出来ませんので、私としてはそのような架空な期待を持つ道理もありません。要するに行動隊(反乱軍)の将校の一部に国家改造法案の信奉者がありましたとしても、この事件の発生原因は、相沢公判及び(第一師団の)満洲派遣という特殊な事情がありまして、急激に国内改造即ち昭和維新断行になったのであります」
ここで田中惣五郎氏は、重要な疑問を『増補版・北一輝』に記している。
それは――北一輝は果たして何時、自分のライフ・ワークを実現せしめようとしていたのか? ……ということである。
確かに大正八年(一九一九)夏執筆された『日本改造法案大綱』には多くの疑問点……例えば在郷軍人団会議に一時、立法や行政を任せるなど……はあるが、資本主義下で貧困にあえぐ農民、下層階級などの救済に、若かった北一輝は、真剣に取り組んだはずである。しからば何時の日にか、彼はこの青写真の現像、焼付、或いは引き伸ばしを、実現すべき義務があったと見るべきであろう。
しかし、年譜を追うと、彼はこの翌年の宮中某重大事件を手始めとして、国家の上層部の内幕に関わり、しばしば談合或いは手打ち金の如きものを手に入れ、豪邸に住むようになっていく。
一方、『日本改造法案大綱』に心酔した陸海軍の革新将校たちは、具体的な革命の為にクーデターを起こすが、北一輝は、「未だ時期尚早なり」として、西田税にブレーキをかけさせ、この為に西田は重傷を負ったりする。
一体北の本心はどこにあったのか? ……。
何時、いかなる方法で、自分のライフ・ワークである『日本改造法案大綱』を現実のものとし、中国を含むアジア諸国の模範となるような豊かな国家に更生させ、この世から貧困を一掃しようと考えていたのか? ……。
昭和に入ってからの北一輝の動きや霊告に打ち込む様子などには、多くの疑問がある。
この点、田中氏と同様、北一輝の心酔者ではない筆者には、北の精神構造の変幻が気にかかる。
筆者も若い時、海軍の青年将校であったので、五・一五事件の先輩たちの気持は、理解出来ないでもない。しかし、事件後の彼等は、それぞれに海軍関係の場所で働いている。改めて第二の国家改造を発起させようという意図は見当たらない。
北一輝の特色の一つに、『国体論及び純正社会主義』にあるように、論理を展開する時、ダーウィンの進化論を借りて展開するという方法論がある。
筆者は、この進化論は、北一輝自身にも、ある程度適用されるような気がしてならない。早くいえば、よくも悪くも北一輝は大人≠ノなっていくのである。これはひと頃の共産党員などによく見られた現象で、若い時は革命を叫ぶ闘士で、段々年をとると、会社側となり、経営者にもなった人物を私は見てきた。三十七歳で『日本改造法案大綱』を書くまでの北一輝は、天才的な国家社会主義的な国際政治学者で、国家改造に関して不滅の文献を残した。しかし、その後は一見俗化して、金を集め、豪邸に住むようになっていく。これを単に国家社会主義の革命家・北一輝の富豪志向への変貌と決めつけるのは易しい。
しかし、そのような疑惑の中でも、北一輝の心底には、一片|耿々《こうこう》たる新生日本を中心とする大アジア主義は呼吸していたはずである。
それは逮捕後の取り調べの時、
「自分は決起には指導者ではなかったが、自分の『日本改造法案大綱』を認めて決起した青年将校たちへの気持として、死刑にならなくても、自決するつもりだ……」
と述べ、これは本音だと思われる。
また田中氏は、
「北一輝は二・二六事件の頃、『対支投資における日米財団の提唱』を建白することで、日米間の絶対平和を図っている。そしてその秋には広田外相らと図ってその意味での中国との交渉を図る為、中国に渡る時期を相談している。当時は相沢事件と真崎罷免問題がこんがらがって大動揺を起こしているときである。その中で、予定通りに進めば北は二・二六事件の頃は中国に渡っていたかもしれないのである。北は何を考えていたのであろうか? ……一つの考え方は種を蒔いても、その結果がこうした形で成長しようとは思わずに、しかもその上にのっからざるを得なかった点では、西郷隆盛の西南戦争勃発当時と一脈の共通性があったともいえよう。だから万事に消極的であり、『責任だけは認める』結果になったと見られる。いま一つの考え方としては、かなりに上層部と馴れ合ってしまった五十四歳の北一輝は、この情勢の中で、対外調節≠フ名で海を渡ることで、事件から逃れようとしたとも考えられる。さらに考えられることは、この混乱も北のいう革命≠ヨの一つのコースとして、なるがままに見て、次の段階を待とうとしたのではあるまいか? ……ということである。そしておそらくは、このすべてが北の胸中に去来したのではあるまいか? ……」
とその間の北一輝の心理を推察している。
[#小見出し]   (2)坂本龍馬と磯部浅一
明治維新の仕掛け人である坂本龍馬と磯部浅一の違いは、
一、龍馬が西郷、大久保らと結んで朝廷に勢力を広げ、岩倉、三条らの公家を通じて、明治天皇(玉)を、固く握っていたのに比べ、青年将校側は、宮中サイドに殆どコネクションを持たなかったこと。(山口大尉は本庄侍従武官長の女婿であったが、本庄を通じて、昭和維新の為のクーデターを天皇に認めてもらう、という接触は考えていなかったようである。もし行なっていたら、その段階で昭和維新は崩壊していたであろう)
二、磯部や村中は他のオルグたちと、多くの将軍たちに接触し、彼等の同情的な態度に信頼を抱いた。(川島陸相が雄叫び≠ニいう酒をくれた類である)しかし、蓋を開けてみると、命を賭けて青年将校のクーデターを支持してやろうという将軍は一人もいなかった。磯部たちの見通しの甘さであるが、明治維新とは時代の流れが違うようだ。明治維新は徳川三百年の太平の歴史が、黒船という外国の兵力によって、大きく揺すぶられていた。大規模な改革が絶対に必要であったのである。それに比べて昭和維新は未だ機が熟していなかったといえよう。……外敵の圧力の強弱……これも革命のクーデターの成否に大きく影響するというべきであろう。
三、明治維新では薩長という当時、日本最大の軍事大国……装備も新しい……が、多くの下級武士や先見の明のある大名を結集して決起したものだが、昭和維新の兵力量はあまりにも微少であった。青年将校たちは単に政権を取り、総理を奏薦して内閣を組織すれば、国家改造が可能になると、北一輝の『日本改造法案大綱』を信用していたようであるが、中央だけを握っても、各地や外地にも、統制派の将軍が握っている兵力は多く、へたをすると皇軍相撃つという内戦状態を呈するかもしれない。
そのような巨視的なヴィジョンを展開するには、磯部はあまりにも熱血的、感情的に過ぎたといえようか……。
[#小見出し]   (3)北一輝に国家改造革命の意志ありや?
前にも触れたが、北一輝は二・二六事件における青年将校の決起には、時期尚早≠フ感を西田に洩らしていた。では何故、その決起を制止しなかったのか? 磯部、村中らのオルグと安藤、栗原中尉らの決起の真意を知ったのが遅過ぎたからであろうか? それとも先にも触れたように、将校たちが決起すれば、たとえ失敗しようとも、これで軍部、政界に青年将校の革命の信念の怖さを知らしめ、また自分の『日本改造法案大綱』の影響の大きさを示唆し、この次の革命を容易ならしめ、あるいは自分の事業……財閥、軍閥等上層部と結び、予《かね》ての持論である上からの革命を実現するのに、よい踏み石が出来るかもしれないと考えたのであろうか?
ここで筆者は重大な設問を呈したい。
それは昭和十年の段階で、北に『日本改造法案大綱』を実現する……その為の革命……その前提となるクーデターを実施する意志が残っていたか? ということである。
多くの北一輝研究家は、北一輝の革命家としての信念の不動を信じて、これを強調すると思われる。しかし、北が『日本改造法案大綱』を書いた大正八年(一九一九)から昭和十年(一九三五)までは十六年が経過している。その間、若い時の革命家としての情熱が、不変の持続を保つということは、北一輝本人にも保証は困難であろう。
北は自分の『日本改造法案大綱』によって、多くの若い後継者を得たことを喜んでいたであろう……しかし、昭和十一年に実際に自分の体を張って財閥、軍閥を倒して国家社会主義革命を実現しようと、どのくらい真剣に考えていたのであろうか?
前述のように、北一輝は二・二六事件が勃発してから、状況の変化を西田税を通じて、次々に耳に入れていた。そして陸相官邸に集まった磯部や村中、野中たちが、軍事参議官や陸相を脅して、天皇の認可を取りつけようとしていたことを知っていた。
そして事前になんの連絡もうけていなかった天皇は、重臣たちの暗殺に対して、怒っており、ついに青年将校たちの立場は決起軍から反乱軍へと転換させられていった。
この間、中野の自宅にいた北一輝は、
「玉を手に入れなければ、クーデターは成功しない……」
と『日本改造法案大綱』のつまずきを察知して、うめいていた、という。
しからばどうやって玉≠手に入れるのか? 昭和に入ってからの北は、様々な怪文書を作成配布しては、財閥、銀行などから、大金を脅し取っていたという。その金策は果たして上からの革命実現の為の軍資金であったのか?
一体、どうやったら上からの錦旗革命が成就されるのか? この点については、先に明治維新の坂本龍馬、西郷、岩倉らの名前を出して、一応の検証を行なったはずである。
昭和十年の段階で、誰が一体、龍馬であり、西郷、岩倉であったのか? ……。
これらを設定して、新しい体制の為の国家改造を天皇に了解してもらう為に、北一輝自らがフィクサーとして、宮中に出入りする権限を持たなければ、いうところの「上からの日本国家改造革命」は、無理であったのではないか?
また北一輝夫妻には、霊告≠ニいう不思議な武器があり、度々心酔者たちは、これに引き摺られてきた。
しかし、北一輝には、一国の革命には、国際的な干渉もしくは圧力が重要な要素となる……という思考方法があったはずである。
しかし、昭和十年の段階で霊告は、重要な地域についての予言を与えてはくれなかったようである。その地点とは、「北京」と「ベルリン」である。
北一輝が処刑される一ヵ月半前に、北京郊外で蘆溝橋事件が勃発、結局、これが支那事変から、太平洋戦争に繋がっていく。
また北一輝処刑の翌十三年夏には、板垣陸相と米内海相の間で、ドイツとの同盟を巡って激しい論争が開始される。この時は、十四年八月の第二次世界大戦勃発で、一時、日独同盟は中休みになるが、翌十五年九月には、三国同盟が締結され、アメリカとの戦争は決定的となっていく。
これらの重要な国際的動向について、北一輝はなんの霊告も残さなかったようである。
北一輝の『日本改造法案大綱』は、三十七歳の革命家が書いた、日本でも珍しい国家改造革命のマニュアルとして、不滅である。しかし、五・一五事件から二・二六事件にかけて、青年将校は救国の熱意に燃えて、クーデターを行なったが、北一輝はついに自分が先頭に立って、『日本改造法案大綱』を実現する機会はなかった。幻の革命論と言われる所以《ゆえん》であろう。
[#小見出し]   (4)明治維新と昭和維新
北一輝や西田税……そして五・一五事件や二・二六事件の青年将校の胸裡に、明治維新の志士たちの姿があったことは確かである。しかし、五・一五事件は犬養総理を殺害したに留まり、その後、磯部らのオルグが、青写真について立案や根回しに辛苦を重ねたにも拘わらず、斎藤実内大臣ら四人の重臣を殺害し、鈴木侍従長に重傷を負わせたに留まり、尊皇討奸の旗を翻した日本の近代で最大のクーデターも、四日間で鎮圧されてしまった。
ここでその総括として、明治維新と昭和維新の成功と失敗の原因を、人間関係を中心に検証してみたい。
まず今まで度々書いてきた「玉《ぎよく》」の問題である。
いうまでもなく明治維新では、勤皇倒幕側は、玉をしっかり握っていた。それは北一輝のようなイデオローグがいて、そういう指示を与えたのではなく、当時の宮中に、岩倉、三条、東久世のような、王政復古を企図する公家がいたので、西郷や大久保は仕事がやりやすかったのである。
薩長の勤皇倒幕派の当面の目標は、江戸の徳川幕府で、昭和維新の磯部や西田税のように、重臣を倒した上で総理を内定し、これを西園寺あたりに奏薦してもらって、組閣し新政を始める……というような困難かつ複雑な政治的処理を行なう状況ではなかった。
総体に青年将校側は、ひとり合点が多すぎて、真崎が威勢のいいようなことをいうと、直ぐに自分たちのクーデターを支持して、新政府の総理になって、『日本改造法案大綱』を実現してくれると、信じこんでしまう、という単純なところがあった。
この点、前述のように坂本龍馬は、もっと慎重かつ大胆で、史上最大のオルグ兼フィクサーとして、その功績は大きい。
筆者は北一輝を天才として扱ってきたが、龍馬は行動的思想的双方の天才で、その幅の広さと奥行きの深さが、年とともに磨かれ、練れてきて、オルグからフィクサー……そして最後には、師の勝海舟にも劣らぬイデオローグとして、明治維新の冒頭に告示される『五箇条の誓文』のシミュレーションといわれる『船中八策』という共和国的新政の青写真を作ってみせるなど、その才能と功績は、比類のないものがあった。恐らく三十三歳の若さで死んだにしては、世界史に比肩する者のない、政治家的才能のある革命家であったと思われる。この点、年齢的に大差のない磯部浅一(三十二歳で死去)とは比べものにならない。異常ともいえる革命への情熱では、磯部には、高山彦九郎的な過激な面があったが、そのほかでは劣る。
またいまひとりの強力なオルグ西田税も、その懐の深さと冷静さにおいては磯部に優るが、財界とのコネはともかく、宮中との連絡には、打つ手がなかった。
要するに、明治維新と昭和維新の成否の違いは、国内の上からも下からも革新の圧力が、地底のマグマのように高揚していたという、時代的状況の差はもちろんとして、その革命計画の構成人員の、力量と器の差であるとしかいいようがない。
このほか、欧米の勢力がひしひしと日本の周辺に注目していて、幕府の政策のままでは、国家の存亡も保証は出来なかった……というような国際的な状況もあった。
また二百五十年続いた徳川の封建政治が、自壊作用を起こしつつあったという、時代の流れと革命の時機が熟していたというような幸運も大きく作用した。その点、明治維新からまだ七十年ほどしかたっていなくて、別の革命的勢力……共産党が大弾圧をくった後では、錦旗革命≠フ時機到来には、まだ早かったといえるかもしれない。
[#小見出し]   (5)北一輝と『日本改造法案大綱』の運命
第一次大戦の砲煙未だ収まらぬときに天才・北一輝によって書かれた『日本改造法案大綱』は、大きな反響を呼び、青年将校革命家志望者の間でも、聖典として敬われた。
しかし、これを典拠として実施された五・一五事件、二・二六事件等は、すべて流血の中に不発に終わっている。
のみならず、すでに述べた如く、この二つの事件は、立憲政治を窒息せしめ、軍部独裁から太平洋戦争へと日本丸を前進せしめ、そして沈没させる役目を背負うことになっていく。
『日本改造法案大綱』は新政の青写真としては、確かに新機軸であり、独創的な着想に溢れている。
しかし、このユニークな著作も、結局は青年将校にクーデターのマニュアルを提供したに過ぎず、北一輝の得意とする霊告のように明快な将来を予見することは出来なかった。
長い間『日本改造法案大綱』は、北一輝の前によく現れる亡霊のように、アジアをさまよっていた。太平洋戦争が始まるとその傾向は、益々顕著になっていく。
では天才の名著『日本改造法案大綱』は空しく図書館の倉庫でほこりをかぶって眠っていたのであろうか?
運命は時に意外な展開を見せる。
北一輝の悲願の書『日本改造法案大綱』の骨子は、意外にも大日本帝国の敗戦後、占領軍のマッカーサーによって、民主主義とともに実施されることになる。
例えば天皇と一部の皇族は残るが、他の大部分の皇族や華族は廃止される。
経済的方面でも、財産税や相続税で、富は平均化されていく。社会主義のメリットが取り上げられて、農地は解放され、厚生年金や健康保険、生活保護、高齢者福祉の制度が導入される。
教育の制度も充実して、多くの大学が出来て、国民の収入に比して学費も戦前ほどはかからず、大学卒業者は普通の青年ということになった。今年(平成三年)は、その大学出の青年が、人手不足で、優遇されているという。
もちろん、この日本の財政、経済、教育、厚生等の制度は、必ずしも全面的にフェアーに運営されているとはいえず、国民にも不満は残るが、平成三年現在、日本人の国民所得は世界一で、日本人はどこへいっても、リッチな民族である……と認められるようになっている。
天才・北一輝の悲願『日本改造法案大綱』の骨子は、マッカーサーの占領政策によって、ある程度の改革として実施され、北の死後半世紀を経て、日本は経済大国としては、世界中で認められるようになってきた。
変らぬものは、政治家や財閥の腐敗で、金権政治や大企業のインモラルは、明治時代と大差はない。
私はひそかに思う。『日本改造法案大綱』の骨子を実現する為に、大日本帝国は三百万人の戦死傷者と一千万人の被災者を出し、近隣諸国に大損害を及ぼした。しかし未だに『大アジア主義』を達成する為には、日本がまず理想的な正義の国であるべきだとして、北一輝が残した法案の、日本国の姿勢は敗戦後、富裕になっても、一向に改善されていないようである。
私は祈願したい。『日本人・道義改造法案大綱』を著す天才出よ! と……。
問題はモラルの点であって、世界に通用するような立派なモラルを、経済力同様備えた日本人が、世界を旅する日は果たして来るのであろうか? ……地下にある北一輝の霊告に、聞かせてもらいたいものである。
本書は、一九九一年十二月十日小社より刊行されました。
本電子文庫版は、講談社文庫(一九九六年六月刊)を底本としました。
本作品中に今日では好ましくない用語が使用されていますが、過去の出版物の引用であり、また特定の事物を直接指し示す用語でもないため発表時のままといたしました。