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松岡洋右――悲劇の外交官――(下)
豊田 穣
目 次
十章 孤立する日本
十一章 故国の土
十二章 政党解消運動に奔走
十三章 満鉄総裁となる
十四章 近衛文麿への接近
十五章 外相就任と三国同盟
十六章 日ソ中立条約前夜
十七章 ベルリンとモスクワ
十八章 奇怪! 「日米了解案」
十九章 近衛首相との反目対立
二十章 松岡の退陣と日米開戦
二十一章 敗戦と松岡の最期
あとがき
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松岡洋右 悲劇の外交官 下巻
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十章 孤立する日本
アメリカ合衆国第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトは通常、日露戦争時代の米大統領セオドル・ルーズベルトの甥《おい》であるとされているが、肉親の甥ではない。
セオドルの姪《めい》、エリノアと結婚したため、セオドルの甥と称されるに至ったのである。但し、フランクリンとエリノアは、元来遠縁関係であった。ということは、フランクリンとセオドルも遠い縁戚《えんせき》関係にあったといえる。
一九三三年、日本の国際|聯盟《れんめい》脱退の年に大統領に就任し、一九四五年、日本の敗戦の年に六十三歳で死亡するまで、十三年間にわたって大統領を勤めた。ルーズベルトの生涯は、日本の運命にある種の暗い啓示的なものを与える。
ニューディール政策の成功、第二次太平洋戦争の勝利などの栄光に包まれたフランクリン・ルーズベルトは、一八八二年、ニューヨーク州ハイドパークの裕福な家庭に生れた。松岡より二歳年下である。
名門、グロトン・カレッジからエリートの養成所であるハーバード大学に進み、法律を学んだが、在学時代に当時の大統領セオドル・ルーズベルトの姪であるエリノアと恋愛に陥った。大学卒業の翌年、二人は結婚した。ルーズベルトは弁護士となったが、政治家志願であった。
第一次大戦の直前、一九一〇年、フランクリンは、ニューヨーク州の上院議員に民主党から立候補し、共和党の堅い地盤であるにもかかわらず、見事に当選した。
一九一二年、ウィルソンが大統領に当選するときは、その参謀としてめざましい働きをなし、民主党内で重きをなすに至った。
翌一三年、ウィルソンが大統領に就任すると同時に、海軍次官補に任命され、一九二〇年まで、つまり、第一次大戦中からその後まで、米海軍の要職にあった。
彼はこの時期に、朝夕ウィルソンに接し、その革新主義的政策を学んだ。一九三三年に強行したニューディール政策の背後にはこのときの経験が大きな力となっているといわれる。
一九二〇年、民主党の副大統領候補に指名されたが、選挙で敗れた。
翌年夏、保養先で小児|麻痺《まひ》にかかった。麻痺は重症で、これ以後、生涯彼は車椅子の世話になることになった。車椅子に乗った大統領といわれ、福祉事業に力を入れる所以《ゆえん》である。
しかし、麻痺が発病した当時、彼は苦境に陥っていた。数年間は公的な政治活動が出来なかった。この時、よき看護婦として彼の心の支えとなったのが、後にファースト・レディとして、世界的に有名になる夫人エリノアであった。
やがて、体力も回復し、彼は二九年ニューヨーク州の知事に当選し、三二年まで勤めて、大統領選挙への地盤固めをした。
当時のアメリカは二九年(昭和四)から有名な大恐慌に見舞われ、株は暴落し、銀行は倒産し、国民は不景気のどん底に喘《あえ》いでいた。チャーリー・チャップリンの名作「街の灯」や、「モダン・タイムス」などは、この時代を背景として作られたものである。
三二年、パニックはその頂点に達した。そしてこの年、民主党大統領候補に指名された彼は、ニューディール(新規まき直し)政策を提唱し、五十歳の若さを売りものに、全国を遊説して歩いた。
パニックに喘ぐ国民は、ルーズベルトの新鮮さに期待し、この秋、彼はフーバーのあとを襲って三十二代大統領に当選したのである。
三三年(昭和八)三月、大統領に就任するやいなや、彼は「われわれが恐れなければならないのは、恐怖そのものだけである。他の何ものをも我々は恐れてはならない」という有名な演説を発表して、国民を勇気づけた。
この後、直ちに「百日議会」とよばれる特別議会を召集して、経済復興と社会救済の政策を次々に立法化し、景気立て直しと福祉政策に効果をあげた。
その後彼は記録破りの四選を重ね、第二次大戦の勝利者として、アメリカ歴代大統領中最も輝かしい大統領として、国民の尊敬を集め、妻エリノアは夫の死後も世界中をとび回って外交的手腕を発揮したことは周知の通りである。
彼が勝利者であることは確かであるが、果して、平和愛好主義者であったかどうか、筆者は疑問を持っている。
彼は山本五十六の真珠湾奇襲をうまくとらえて、リメンバー・パールハーバー≠フキャッチフレーズで米国民を団結させて戦時体制を強化し、勝利をもたらしたが、彼は果して、日本側の攻撃を知っていなかったのか。第二次大戦後アメリカで開かれた真珠湾攻撃査問委員会では、ホワイトハウスは、日本軍が進攻していることを知っていたという証言がなされている。
ルーズベルトは、日本への石油と鉄の輸出を止め、日本が苦しまぎれに反撃して来ることを知っていた。
では、なぜ、日本軍が攻撃して来ることを知っていて反撃態勢を固めておかなかったのか?
ルーズベルトの側近は、「大統領は、いずれ日本との戦いが始まることを知っていた。その際、こちらから手を出してはならぬ。あくまでも日本に第一手を打たせよ。それから反撃しないと戦争の名分が立たぬ。アメリカ国民を動かすには、それしかない、と語っていた」と証言している。
恐るべき自信と深い策謀である。
彼は第一次大戦以後|勃興《ぼつこう》して来た日本の勢力をまのあたりに見て来た。太平洋に覇《は》を唱え、東アジアのマーケットを確保するには、満州や支那《シナ》に支配権を有する日本を、いずれは叩かねばならぬ、と考えていた。
ヨーロッパではドイツを、極東では日本を叩いて、アングロサクソンの政治力とユダヤ財閥の金融資本力によって、世界を支配しなければならぬ、というのが彼の信条であった、と筆者は考えている。その見解は章を追って明らかにしたい。
何が彼を日本打倒に傾かせたかと言えば、それは日本が支那を武力占領したからである。英、独、仏にくらべて中国進出の遅かったアメリカは、門戸開放、機会均等を唱えて支那の各地に進出した。人口四億五千万、アジア最大のマーケットを日本に占領されてアメリカが黙っているわけにはゆかない。
支那事変(日中戦争)以後、アメリカは事ごとに日本の中国政策に圧力を加えて来た。そして、日本に三国同盟を結ばしめ、戦争に追いこんだのである。
しかし、戦争の原因は日本軍の支那侵略であり、その基因は満州事変以来の関東軍の膨脹政策であった。先にも述べた関東軍令によって、天皇に直属し、参謀本部の支配を受けない関東軍は、思うがままに満州に事変を拡大し、満州国を作ってしまった。その勢いに乗って、彼らは、支那をも、新生中国の南京《ナンキン》政府というカイライ政権による日本の保護国としようと試みたのである。
これは日本陸軍と国家主義者の思い上りであるが、第二次大戦の遠因は満州国成立と国際聯盟脱退にあると筆者は見ている。
その脱退の月に、ルーズベルトが大統領に就任し、松岡がジュネーブでそのニュースを聞いたということは、あまりにも不思議な偶然であった。ライバルとしての二人の政治家の世界的な歩みは、この一九三三年(昭和八)三月に始まったといっても過言ではなかろう。
要するに満州を日本の勢力範囲におくべく国際聯盟を脱退した松岡と、日本の中国侵略に制裁を加え、ついに日本帝国を滅ぼしたルーズベルトとは、一九三三年以来、宿命的なライバルとなっていたと言えるのである。
太平洋戦争直前、松岡がハワイもしくは太平洋の洋上でルーズベルトとの和平会談を企図していたことは、側近の人々の証言するところで、後に詳述するが、その会談が実現していたならば、戦争の様相は大きく変っていたであろう。
大分筆が横にすべったが、新大統領ルーズベルトの満州国不承認を宣言した国務長官スチムソンにもちょっとだけ触れておこう。
ヘンリー・ルイス・スチムソンも、松岡と無縁ではない。
一八六七年生れの彼は松岡より十三歳年長であった。
彼はルーズベルトと同じく、弁護士をふり出しにして政界に入り、二十七代大統領タフト(ウィルソンの前任)の下で陸軍長官を勤めているから、むろんルーズベルトよりは先輩である。
第一次世界大戦には大佐として出征、クーリッジ大統領時代にはニカラグア問題の解決に成功、一九二七年(昭和二)フィリピン総督に任命された。二九年、フーバー大統領のもとで国務長官となり、ロンドン軍縮会議には全権として活躍し、強腰の外交官として日本代表に印象づけられた。日本の大陸進出には極めて批判的で、昭和六年満州事変が勃発すると、「侵略によって作られたいかなる事態をも承認せず」というスチムソン・ドクトリン≠発表して、日本の出方に圧力を加えた。
第二次大戦中は再び陸軍長官として、戦争を指導したので、日本にも名前を知られている。後述する文献では、ホワイトハウスで、スチムソンが、日本軍の進攻に気づいてルーズベルトに、真珠湾のキンメル司令官に警戒の電報を打った方がよいのではないか、と進言し、ルーズベルトがそれを黙殺する場面が描かれている。
スチムソンはルーズベルトに重用され、日本の帝国主義打倒に一役かった人物といえるであろう。
さて、話を元に戻して、スチムソンが、新大統領ルーズベルトが就任しても、満州国不承認政策については方針の変化がないであろう、と声明を発したとき、出淵駐米大使はこれを、「十九カ国委員会開催に対し、聯盟を側面より援助する米国のジェスチュアであろう」と推測した。
しかし、一月十六日開催の委員会では、中国側の抗議及び、小国側からの過激な議論が続出し、議事は混乱した。
その混乱の理由は、「ドラモンド・杉村試案」である。中国と小国群は、これを私的交渉として非難した。
このためドラモンド事務総長のみならず、イーマンス議長もしばしば窮地に陥った。二人は、どうにか小国側の過激派をなだめ、十八日に予想される日本側の回答を待つこととした。しかし、ドラモンド・杉村試案は、一種のヤミ取引き≠ニして、不評のうちに葬り去られようとしていた。そして、ドラモンドの善意を信じていた日本側も、聯盟の不信行為として憤慨した。
これに対して聯盟幹部は二つの方法を考えた。一つは、米国の参加を認めて中国及び小国側を宥和《ゆうわ》しようという妥協案であり、いま一つは、もし日本が根本的な問題に関して修正案を提議するならば、次回委員会では全く無関係な新案を考え出すか、あるいは勢いのままに、規約第十五条(聯盟機関による調停及び審査)を適用するに至る……ということは、日本の聯盟脱退を意味し得る……。と軟、硬両案を考えた。
そして、委員会終了後、イーマンスが発表したコミュニケでは、なお妥協の余地を残していたが、ムードとしては、一路、十五条第四項適用に向って急進すべしという含みを蔽《おお》うことは出来なかった。
十五条が日本に適用されるならば、その後に来るものは、十六条すなわち、「紛争の平和的処理に関する聯盟の制裁」であることが予想された。そして、日本は十五条の段階で脱退が確実とみられていたのである。
さて、十九カ国委員会が紛糾している間に、ドラモンド・杉村試案に対する日本外務省の回訓が到着した。
内田外相はまだ脱退は早い、と見ていた。強気の彼は、今一押しして、日本が委員会のイニシアティブを握れると、考えていた。
しかし、現地の松岡にとってみれば、その考え方は楽観的であった。
回訓の内容は次の通りである。
「目下はなお、脱退引き揚げ等を軽々に問題とすべき時期ではなく、あくまで修正要求の貫徹につき極力努力せられたい。修正要求中最も重視さるべきは、非聯盟国招請問題で、とくに日本に圧力のかかって来得る米国の参加問題であるが、この阻止は周囲の情勢からみて、不可能ではない」
一月十八日の十九カ国委員会で、右の回訓をもととした日本側修正案が松岡の手によって披露されたが、委員会は十二月十五日に起草委員会が提出した解決案と差があるとして反対の空気が強かった。
この起草委員会はサイモンら五名の起草委員によって成っていたが、この委員会による解決案は、リットン報告書を重視し、すでに述べた第九章の「解決の原則及び条件」を基礎とするものである。
イーマンスは、日本側の最も大きな反対の原因は、非聯盟国すなわち米国の招請であるとみて、この点が除去されれば、十二月十五日案を呑む可能性があるか、と松岡に打診して来た。
これに対し、松岡は十二月十五日案に、理由書第九項が残存する以上は受諾し難い、と回答した。
理由書第九項とは、「満州の原状回復は不可、そして、満州国は承認せず」という常に問題になる条項である。
さらに、松岡は、ドラモンド・杉村試案のうち、非聯盟国招請の部分を削除し、不戦条約、及び九カ国条約を尊重する条項を挿入《そうにゆう》した案を代表部案として提示することとした。
この代表部案に本国の内田外相は不満であった。内田の考えはこうである。すなわち、彼の重視する米ソ招請問題について聯盟が固執しないならば、この転向は日本の前途に光明を与えるものである。従って、今後は十九カ国委員会原案から、米ソ招請に関する部分を除去して、強腰で話し合えば、相当のところに落ち着くであろう、と彼は東京で考えていた。しかし、これも現地の松岡にしてみれば、楽観的であるといえた。
さて、一月二十一日、再び十九カ国委員会が開かれたが、会議が長びいたため、各国代表は、打開策に苦しみ、イーマンスは松岡に対して当委員会では日本案を受諾することは困難である、と通告して来た。
十九カ国委員会議長イーマンスは、妥協が失敗に帰した際を予想して、報告書を準備することになったと伝えて来た。
つまり、この委員会によって、満州問題を総会に提案する努力は失敗に帰したことを認め、次回総会も同一結論に至るであろうと推察し、前述の十五条に定める報告書案の作成にかかることとなったのである。
ドラモンド聯盟事務総長は委員会の命を受けて、報告書の作成に着手し、日本から派遣されている杉村陽太郎事務局次長もそれを支援することとなった。豪胆細心の彼は松岡と計って、何とか脱退を避ける方向に努力を重ねたが、外相内田康哉の強気政策を抑えることが出来ぬ以上、如何《いかん》ともすることは出来なかった。
かくして、日本と聯盟の激突は、ようやく明白となりつつあった。
折柄、日本では議会が開催中であったが、一月二十五日、衆議院は満場一致で全権団に感謝の決議を行った。また聯盟の決議が日本の権益を侵害するものであるならば、断乎《だんこ》脱退すべしとの声も高かった。
日本の敗戦後、松岡洋右が戦犯容疑に問われたとき、日本人の多くは、松岡の国際聯盟脱退、三国同盟締結を戦争開始へのルートとして指摘し、松岡を戦争誘致の重大な責任者として非難したが、当時の国内世論を勘案してみる必要はないであろうか。
『松岡洋右』の著者三輪公忠氏は、松岡をパブリシティを好む大衆政治家である≠ニ規定している。
アメリカで民主政治の実態に触れた松岡は、政治家は常に大衆の世論を重んじ、これを代表する人物でなければならない、と考えていた。悪くいえば大衆への迎合である。しかし、先の衆議院の決議をとおしてみるように、国民のかなりの部分が国際聯盟脱退、即、満州国保全に向って動いているため、大衆政治家である松岡が、大衆の代表として、脱退の方向にマスコミを指導し、自分もまたひきずられたとしても不思議はないであろう。
『松岡洋右』には次のような記述が見える。
「満州国の独立、そして日本の正式承認が発せられてしまった後で、松岡の外交手腕に残された選択には何ほどのものがあったであろうか。松岡がもし、自分の大衆政治家としての生命を熟慮するのであったならば、その最後のわずかばかりの選択において、大衆うけをねらった行動を選びとるのではなかったろうか。聯盟脱退ということが避けられないものならば、松岡はその際に大衆の敵としてではなく大衆の英雄として現われるべきであった。そのためには世論が聯盟の横暴をいきどおり、日本の正義に酔うという状況になっていなければならなかったというふうには考えられないであろうか」
ある意味において、松岡は僅かに残されたその幅の狭い選択を、サヨナラ演説≠ニいう華麗な演出によって装飾し、自己のパブリシティを高めたともいえる。
ここで筆者が回想するのは、松岡が尊敬してやまなかった外相小村寿太郎のポーツマス会議における活躍ぶりである。
彼は、日本国中の世論が樺太《からふと》全島の割譲、多額の償金の要求を叫んで沸いているときに、日露の国勢を勘案し、断乎、樺太は南半のみ、償金はなし、という条件で条約を結んで帰国した。国民は憤り、国賊と罵《ののし》られた小村は死を覚悟していた。
そして、日比谷の焼き打ち事件が起った。
小村と松岡の違いはここである、ということが一応は言える。
松岡は真に聯盟脱退を防ぐことが日本を救う道であると考えたならば、なぜ、死を覚悟しても、リットン報告その他聯盟側の提出した重要案件、すなわち、満州国を白紙に戻して、国際聯盟管理のもとに自治を認める、というメーンテーマを呑まなかったのか?
ここに、筆者は小村と松岡の全権としての立場の相違をみる。小村は現職の外相であり、総理桂太郎も彼の意見を傾聴せねばならぬほどの力量ある全権である。
一方、松岡の背後には、内田外相が糸を引いていた。
小村は暗殺されることをいとわず、自己の信念を貫きとおした。
松岡は大衆政治家として、日本大衆の意向を読みとり、全権としてこれをリプレゼントしたと言える。
また、ポーツマスにおける樺太南半と、償金の要求は、これから生じる問題であるのにくらべて、満州国の成立及び承認は、前年すでに終結している問題である。
松岡に満州国承認をひっくり返して、聯盟脱退を防ぐ力があったであろうか?
技術的にも、また世論から考えても、なかった、と筆者は断定せざるを得ない。
話が少々先にとぶが、二月七日、日比谷公会堂に約三千名が集り、「帝国は即時聯盟を脱退すべし」という決議を可決、代表頭山満の名前で、ジュネーブの全権団に打電、首相、外相、陸相、海相に宣言決議文を手交し、激励した。
この会の主催者は、東亜聯盟議会を初め、十四団体からなる「満州問題挙国一致各派連合会」で、開会の辞は右翼の巨頭内田良平、座長は土方寧《ひじかたやすし》であった。
土方は英法学者、経済学者で、東大法学部卒業後東大教授となり、また中央大学の創立に関係し、同大学の教授にもなった。教育界の元老で、この当時は勅選貴族院議員であった。
国内のこのような動きが、松岡をどのように動かしたかは、想像に難くない。
『松岡洋右』はこの間にあった、全権団情報部長の白鳥敏夫の動きに触れている。白鳥は日独伊三国同盟当時の駐伊大使で、後に松岡外相のもとで外務顧問となる男であるが、外務省では極右に近い存在として知られていた。
内山正熊慶大教授の研究によれば「白鳥情報部長は、リットン報告書が、全面的に日本に不利ではないのに、到底受けいれ難いものである、という印象を与えるようにレポートの内容に手を加えて、調子を変えた上で発表し、国民の反対熱を盛り上らせた」となっている。
一月二十三日、十九カ国委員会は、十五条四項に基づく報告書及び勧告の起草に着手した。繰り返し述べるが、十五条四項とは、「紛争解決に至らざるときは、聯盟理事会は、全会一致または過半数の表決に基づき、当該紛争の事実を述べ、公正かつ妥当と認めたる報告書を作成しこれを公表すべし」で、このあとには当然、十六条の経済制裁が待っているわけである。
十九カ国委員会は、まず委員会の和協努力がいかにして失敗したかの経過から始めたが、十九人では大規模にすぎるので、ベルギー以下九カ国代表で、九人委員会を作り、起草にかかった。
一月三十日、松岡は内田外相|宛《あて》大至急極秘電で次の意味の請訓をした。
「先に述べたる如く米露招請と、理由書第九項(満州の原状回復不可及び満州国不承認)の双方を叩き落すことは不可能なりと信じ、意見を具申したるところ採用なかりしにつき、訓令に基づき努力を続けたり。
第九項に関しては帝国として忍び得る限りの譲歩を為《な》すべきは勿論《もちろん》なり。
また議長宣言(満州国不承認)については、我方のみの反対宣言を行う形式にて、我が立場を明確に保存するものと信ず。
十五条第三項(ある程度の妥協を含む)の下における努力を続けんとするも、止《や》むを得ざる場合は、十五条四項に移り、脱退は必至の事と思考す。
然《しか》るに、拙者離京の際における了解及びその後随時の御電訓に顧るに、我政府の御趣旨の存するところは、『要は時をして解決せしむるにあり、聯盟の顔は出来るだけこれを立て、而《しか》も満州国に関する限り我が行わんとする所に大体故障を生ぜざらしむるよう落ちつかしむれば可なり』と言うにあり、と承知す。而して、今日までに、収め得たる結果にても、この御趣旨にいささかそい得たるものと見て、差し支えなきに存ぜらる。
申し上げるまでもなく、物は八分目にてこらゆるがよし。いささかのひきかかりを残さず、きれいさっぱり聯盟をして手を引かしむるというが如き望み得ざることは、我が政府部内におかれても最初より御承知の筈なり。
日本人の通弊は潔癖にあり。日本精神の徹底と満州問題の解決という如き大問題が、一曲折、もしくは十九カ国委員会議長宣言の内容くらいにいたくこだわる如きことにて遂行し得るものに非ず。
もっとも、真に我国民更生のためこの際決然聯盟を去り、形の上においても全然孤立の環境に我が国民を陥れること然るべし、との御考えにてもあらば、是《これ》確かに一の大見識なり。
かかる大見識により、御行動相成るものならば、拙者必ずしも不賛成を唱うるものに非ず。然れども一曲折に引きかかり、遂に脱退のやむなきに至るが如きは、遺憾ながら、敢てこれを取らず。国家の前途を思い、此《この》際率直に卑見申進す」
内田に、決然聯盟を去る大見識≠りや、と皮肉るところに、松岡の苦衷と焦燥が見える。そして、この電報の末尾には、彼の愛国心と苦心が脈打っている。松岡を単なる脱退論者と決めつけるのは、いかがなものであろうか。
これに対し、外務省は、大譲歩せり、という前提で、次の案を打電してきた。
この案は二月一日の閣議で決定をみたものである。
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一、理由書第九項については、日本の対満政策を正面より誹謗《ひぼう》し、国民の自尊心を傷つけることなきよう辞句の修正を行う。漠然としたる記載ぶりとするならば、受諾を考慮する。
二、和協委員会権限については、現実の事態に留意し、和協を計るべし。なお、米ソ両国の招請は、すでに否認されたるものと本国では思考す。
三、以上は最終的、かつ最小限度の要求であるので、これ以上譲歩の余地なく、その結果、十五条四項の適用を見るもやむを得ず。
四、なお、聯盟脱退の措置に出るか否かは、同条四項に基づく報告及び、勧告の内容を慎重検討してから行う。
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いよいよ、本国は、第四項適用を想定した決断の意図を示したのである。
二月四日、十九カ国委員会は、右の日本側新提案を審議したが、依然十二月十五日案(満州国不承認を主体とする)とは大きなへだたりがあり、和協の基礎とは成り得ない、という結論に達した。
この委員会では、先に盟友と思われるアメリカの招請が望みなしとみたイギリスが、積極的に日本に反対の側に回ったので、妥協の余地はなかった。
この後、しばらくの間、十九カ国委員会では、提案や修正が繰り返されたが、本家本元の満州では、陸軍が都合の悪い進撃を押し進めていた。
かねて、「熱河《ねつか》作戦は天皇の御了解ずみ」と称して、西南方進出を狙っていた陸軍は、二月四日、閑院宮参謀総長をして、天皇に次の作戦の裁可を奏上せしめるに至った。
「満州・熱河省の張学良軍討伐作戦とそのための関東軍配置転換について御裁可を仰ぎます」
すると、それまで陸軍の進出が国際聯盟の動向に影響することを懸念しておられた天皇は、
「熱河作戦ハ万里ノ長城ヲ越エテ関内ニ進入スルコトナキ条件ニテ認可スル」
と、明確に言い渡した。(『天皇(二)』)
しかし、陸軍の総意は、さらに南下することにあった模様である。
その頃、聯盟では、ドラモンド書簡が話題を呼んでいた。九日、ドラモンドは次の内容の書簡を松岡に手交した。
「日本はリットン報告書第九章の原則を和協の基礎として受諾するように見えるが、『起り得べき誤解を除く為《ため》』果して同章第七原則に基づき、満州における中国の主権を認めるかどうか、書面による回答を要求する。もしこれを認めるならば、委員会は日本側修正通り受諾する意思がある」
松岡はこれに対し、次のように反駁《はんばく》した。
「満州国承認については、すでに数回にわたり明確に声明した通り、日本は一歩も譲り得ない。聯盟は日本を強要して妥協を失敗に終らせようとしていると評されても致し方ない。これは聯盟の内政干渉である」
すると、ドラモンドは、
「聯盟は熱河における軍事行動の拡大を懸念し、それが継続中は妥協努力は無益である」
とする委員会の意向を伝えて来た。
松岡は、苦々しげな表情になったが、
「熱河は満州国領土の一部であり、日本は日満議定書によってこれを防衛する義務あり。むしろ、この方面における張学良軍の集中について、聯盟より勧告ありたい」
と応酬した。
肝心なときに熱河で兵を動かし、聯盟当局を刺激する関東軍の動きには、松岡は苦い思いを禁じ得なかった。
松岡はドラモンド書簡を含めて、諸般の状況に対し、回答をすべく、本国に請訓した。
この頃、ジュネーブと東京の電報往復量は大変なもので、七年十二月聯盟総会開始から、二月九日までの無線電信料は、四百四十六万円、二百十六万語に達し、うち、外務省と日本全権部の交信料は二百四十万円に上っている。(『天皇(二)』)
少なく見積って、昭和五十一年の物価は八年当時の千倍以上と思われる。すなわち、四カ月そこらの間に、現時価二十四億円以上が電報料として支払われていたのである。
さて、この頃、内田外相は、ようやく和協に熱意を失っていた。
従って、二月十四日、松岡からドラモンドに手渡された本国回訓は、破壊的とは言えないまでも、明確な進展はなく、結論は否定的であった。
これに対し、十九カ国委員会は、第二次ドラモンド書簡≠松岡に手交した。
すなわち、「右の日本側回答はそのまま了承することを得ず、なお、総会最終会合まで貴国の行ういかなる提案も慎重審査するが、現在熱河省における事態悪化は、これをさらに困難ならしめる」というものである。
この第二次書簡に対して、日本代表部は何らの回答をもなさぬこととした。回答の仕様がなかったとも言える。
松岡の胸中には、熱河省方面で胸を張って作戦計画を指導している関東軍参謀たちの気負った姿があった。
満州、熱河で陸軍が後退する意思がない限り、ジュネーブの代表部が、単なる意見を述べても、無効であることはわかっていた。
この間に、先に組織された九人委員会は、報告書三部と勧告書一部、計四部を完成した。これらは、日本に対し十五条四項を適用する前提のもとになされた作業である。
これらの報告書四部作は二月十五日に日本側に内示されたが、その内容は一万五千語に上る厖大《ぼうだい》なもので、内容は第一部、極東における諸事件ほか、第二部、聯盟における紛争の経過、第三部、紛争の主たる要因、そして、第四部は、近く開かれる聯盟総会が採択すべき勧告、すなわち、満州国を否認し、日本の撤兵と、同地における聯盟指導による自治を含んでいた。
すなわち、日本側の主張は、全面的に否定されることが、総会を待たずして明らかとなったわけである。
二月十五日、松岡、長岡、佐藤の三全権は、次の意味の電文を本国あて打電した。
「従来報告してきたる聯盟の方針は、十九カ国委員会で多少の修正を見たるも、我が方においては、受託し得ざるものなり。この点に関し、政府は十分討議し、態度を決定しおかれたし。いよいよ総会において、右報告案採択せられんとするとき、単に代表部引き揚げの如き姑息《こそく》の手段は、この際断じてとるべきにあらずと確信す」
すなわち、早目に断乎脱退かどうかの本国の態度を決めておけ、ということである。
そして、九人委員会提案の内示があった翌二月十六日、松岡(あるいは松岡ら三全権)は内田外相宛に、次の電報を前日の補足電として打った。
「情報によれば帝国政府のとるべき態度について、種々取り沙汰せられおり、事態は憂慮に堪えざるものあり。従来我が方の採り来たれる態度に鑑《かんが》み、事ここに至りたる以上何ら遅疑するところなく、断然脱退の処置をとるに非ずんば、徒《いたずら》に外国の嘲笑《ちようしよう》を招くべきものと確信す。右前電補足かたがた申進す」
ここに日本代表部の脱退の決意が固まったとみるべきであるが、この電文については、いろいろな意見がある。
そして、その見方によって、松岡の評価も異って来るのである。
『松岡洋右』には、聯盟脱退研究家の内山正熊慶大教授の意見がのっている。
彼は、この脱退決定の電文の発信者を松岡個人として、次のように松岡を非難している。
「松岡全権その人が聯盟脱退を導くようにマスコミに働きかけ、最終段階に至って、『聯盟脱退のほか途《みち》なし』という重大意見具申を他の全権の反対を押し切って発して、国内に脱退に決定的契機を与えることをした責任は頗《すこぶ》る重大であったといわねばならない」(日本国際政治学会編『満州事変』のうち「満州事変と国際聯盟脱退」)
これによると、長岡、佐藤の両全権が反対したのに、松岡が脱退に押し切ったということになる。戦後長く民衆に知らされていたのは、このような松岡独走、松岡のスタンドプレイである。
しかし、『人と生涯』にはこれに対する強い反論が出ている。
沢田節蔵帝国聯盟事務局長は、『人と生涯』の著者荻原氏に次のように回想している。
「三月の某日(注、実際は二月十六日)デッドロックにのりあげた。松本俊一書記官が朝、三行くらいの電報案を持って来た。『日本は聯盟脱退のほかなし』という。これはちょっと待て、というので、三代表に集ってもらって討議してもらった。これはいかん、このような問題は中央でやるべきだ。いや、中央も迷っているから、こちらで考えをまとめるべきだ、と朝食から昼食までの間討議し、結局、三代表の意見が脱退具申に一致してしまった。私は反対であったが、かぶとをぬいで、前記の補足電を打った」
これによると、長岡、佐藤も、松岡と意見が一致し、三人の連名で打電したことになる。
長岡は以前に「国際聯盟脱退の権限を現代表部に与えられたし」と強硬意見をはいた人物であるし、佐藤も、「この際脱退を強行すべし」(『日本外交史』)と主張したことになっている。
内山教授は「この重大な意見具申について、松岡全権に当時強く異論を唱えた沢田事務局長は今日でもその重大性を強調している」と前記論文に書いているので、荻原氏は昭和四十七年十月、内山氏に意見を述べた。これに対して、内山教授は、
「国際聯盟脱退推進の電報を本国に打電したことに関して、沢田節蔵氏から『三下り半の電報を出したのは松岡代表で、これについて私も皆から驚かれるほど反対した』ということを聞いたことがあるのですが、入手した外交文書には、その明確な裏付はみられませんでした」
と回答している。
この点、前記の沢田事務局長の回想とは喰い違っている。
なぜ、松岡が悪者の代表にされたのか?
内山教授は、右の書翰《しよかん》で、
「松岡洋右氏については、私は何も愛憎の念をもつものではありませんが、三国同盟締結の第一の責任者である以上、右のように思考されるのは、当然の帰結であります」
とつけ加えている。
三国同盟をリードしたから、国際聯盟脱退も、松岡の独断で強行されたとみられても止むを得まい、というのである。
筆者も、松岡洋右に対して、とくに愛憎を感じていないが、事実関係を明らかにして、松岡の人間像を描き上げるのが、この作品の一つの目的である以上、一つの事績をもって他の事績を類推することは、事実誤認の危険を伴うのではないか、と考える。
十七日、脱退必至となったとき、松岡は満鉄時代の部下の矢島専平に手紙を出しているが、そのなかには、
「当方は誠に不首尾、申し訳これなく候、日本政府の意向、小生には頓《とん》と了解出来申さず候。然し、脱退が結局国民精神作興と政治、経済、社会各方面の大変革を促す天与の動機かとも想われ申し候。小生は運命と感じ、極めて平静に感じ居り候」
という文章が見える。
煮え切らない本国の態度に対して、彼が焦燥を示したのは、今回が初めてではない。
また、同じ頃、彼は山口県三田尻に住む母のゆう(当時九十一歳、昭和十一年没)に手紙を出している。
これは、平仮名が多く松岡の古風ともいえる孝心を示すものなので、ほぼ全文を収録しておく。
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もう二月のなかばすぎですから三田尻は少しおさむさがへりましたことと御さっし致しますが、おかぜはこの冬入りませんでしたか。こちらはこないだからてんきつづきであたたかです。ビーズとここでは言いますが、山おろしが時々ふいていますが、さほどもはやさむいかぜではありませぬ。私は元気です。時にふきんのよいけしきの町や村にでかけます。
こちらのおしごとはよくゆかずまことに天子様へも国民へもすまぬことと存じますが、あるいはこんなことになるのはうんめいで、又お国のためにけっくよいことになるのかも知れませぬ。こんなになります以上これから私どもも、ますますお国のためにはたらかねばなりませぬ。国民も皆まっくろになって一しょうけんめいたたかわねばなりませぬ。のん気にしては居られませぬ。然し我国のしょうらいはあかるい、けっして心ぱいはいりませぬ。唯しんぱいなのは国民のせいしんです。けっしんです。がしかし日本と言うくには必ずそういう人がいざとなるとでてくるし又青年がきっとふんきします。(後略)
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さて、松岡に、「頓と了解出来申さず候」といわれていた政府の態度も、ようやく決定されざるを得なくなって来た。
ジュネーブの代表部は、「単なる代表部引き揚げでは生ぬるい。断乎脱退すべきだ」という意見を具申している。
これに対し、内田外相を中心とする外務省も、ついに脱退の決意を固めた。
但し、本当に脱退を実行し、効果を発揮するには、憲法上所定の手続きをとる必要があった。(枢密院に計る等の手続きを指す)
従って、総会においては、報告案の採決において、反対投票を行った後、代表部引き揚げを行うべし。但し、この引き揚げが、総会終了に伴う自然な引き揚げとみなされては政治的効果からみてよくないので、反対投票を行うにあたって、単純な引き揚げでない旨の声明を行うべきこと。また、この際の陳述書には、満州国の発展ぶりなどを示す資料を勘案し、宣伝的効果のあるものを、代表部で作成されたい、と訓令を発したのであった。
そして、二月二十日閣議はついに「聯盟脱退」を決議した。
戦後、一般の通説では、松岡が一人で聯盟脱退を主張し、押し切ったようにいわれているが、いかに全権といえども、一人の決断で聯盟脱退というような大事が決行出来るものではない。当然の話ではあるが、松岡は閣議の決定によって、脱退を実行したのである。
そして、松岡が脱退に関して、閣議や世論やマスコミを指導した跡があるかといえば、これは全然ないとはいえない。しかし、積極的に脱退を説いて回ったという資料は、筆者の手元にはない。
決定的な「聯盟脱退」の訓令が外務省からジュネーブの代表部に到着したのは、二月二十日のことである。
松岡は一瞬落胆を感じたが、肩の荷がおりたようにも感じた。
この上は翌日の総会を待つばかりである。
夕刻、彼は陸軍側随員の石原莞爾大佐と土橋勇逸中佐を誘って、シシリーに日本料理を食べに行った。
鮪《まぐろ》の刺身で、久方ぶりの日本酒を傾けながら、松岡は、陸軍武官らの方を向いて、
「脱退と決って君らは喜んでいるね」
と言った。
これは陸軍武官たちにとっては、一種の皮肉とうつった。
当時熱河省の軍事行動で、日本陸軍が世界の注視と批判の的となっていたのは周知の通りである。統帥権をタテにとって、軍事行動を拡張しようという陸軍にとって、リットン報告書や国際聯盟の制約は眼の上のこぶであったのかも知れない。
しかし、聯盟脱退となれば、だれはばかることなく日本軍の威力を発揮することが出来る、と腕を撫《ぶ》していたのは、陸軍の中堅将校だけではない。
日本国民の間にも、国際聯盟何するものぞ、日本が東洋の盟主として東亜を安定させ君臨するには、聯盟脱退が必要であると考えている国民も多かったのである。
三月二十一日、日本政府が、聯盟代表部を引き揚げることに決意したことが発表された日、午後一時から東京日比谷公会堂で国民決起大会≠ェ開かれた。一月十五日に続いて二度目である。
午前十一時、すでに会場は満員となった。参会者は必ずしも右翼思想の持主ばかりではなく、一般市民も多かったといわれる。
弁士は右翼の巨頭、頭山満を初め、徳富蘇峰、中野正剛、床次《とこなみ》竹二郎らであった。
弁士は熱弁をふるい、会場のナショナリズムをいやが上にも盛り上らせた。
午後四時半、閉会にあたって、次の大会決議文を採択した。
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天地神明に誓い、世界平和のため、烈々たる国民の総意を宣揚し、帝国の国是を堅持し、満州国の大業を翊成《よくせい》し即時国際聯盟の脱退を期す
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この全文は直ちにジュネーブの松岡のもとに打電された。
『松岡洋右』は、このときの脱退推進を示す二つの現象をあげている。
この日朝、国会議員の最長老であるリベラリストの尾崎行雄が外国から帰って来た。彼は、陸軍の前進に反対であり、従って、聯盟脱退にも賛成ではなかった。このため、この日の決起大会は、尾崎に対するデモンストレーションともみられるのである。
また、この日、尾崎に日本上陸反対決議文が突きつけられた。日本急進同盟本部の書記長という南灘四郎という男である。
これらの激昂《げつこう》した空気を考えると、ジュネーブの松岡を英雄に祭りあげようとするのは、これらの人々の仕業であり、また、松岡がそのような大衆政治家として人気者となることに不満を抱かないところに、彼の悲劇の大きな要素があった。
このとき、ポーツマス条約の小村寿太郎のひそみにならって、あえて、脱退回避にもちこむ意思と能力が、松岡にあっただろうか。残念ながら、意思に関しては既述のとおりであるが、能力は彼に全面的な権限が与えられていない以上、小村の真似はしたくても出来なかったであろう。
さて、聯盟問題もいよいよ終局を迎えることとなった。
二月二十一日、注目のうちに聯盟総会は開会された。
出席国は四十二カ国、中国は顧維鈞の代りに、顔恵慶を首席に据え、日本代表団をにらんでいた。
議長イーマンスはこの日はさして進行すべき議事のないことを知っていた。
この総会は、昭和七年三月三日以来満州関係に関する十六回目の総会であるが、今回の目標は、十九カ国委員会(実質的には九人委員会)が作成した報告書の採択を行う以外にはなかった。
イーマンスは、昨年十二月九日の総会以来、妥協の道を求めたが、二月十四日の日本側回答により、十九カ国委員会の妥協手段は尽きたこと、この上は、報告書案に対する各国政府の訓令発送の時間を与えるため、二十四日より、具体的に報告書案の討議を開始することを計って、満場一致の議決をみた。
この日夕刻、松岡はドラモンド事務総長に、「日本はもはや何らの解決のためのカードを有せず、日本の脱退を防ぐには、聯盟側の反省を切望する以外に方法がない」と訴えたが、ドラモンドは「もはやその余地は認められない」と冷たくつっぱねた。
昭和八年二月の聯盟総会はようやくその大詰を迎えた。
二十一日、ドラモンドが松岡の最終的訴えを斥《しりぞ》けた後、聯盟幹部は、十九カ国委員会も主要任務を終了したものとみなした。
二十三日再開の同委員会は、歴史的な翌二十四日総会の議事順序を儀礼的に定め、さらに、本総会終了後とるべき措置につき討議した。
総会は規約第三条(聯盟総会の組織、職能)にもとづき、今後満州に関する事件の動きを監視することを考えた。
このため、特別委員会を設置し、その内容は十九カ国にカナダ、オランダを加え、非聯盟国たる米ソをも招請することとした。
聯盟総会は当初秘匿されていた方針通り、日本をボイコットし、米ソの招請によってその権力を強化し、中国における日本の勢力追放の道を歩もうとしたのである。
かくして、二月二十四日の松岡の歴史的大演説を待たずして、新聞は日本の聯盟脱退を必至と認めるに至った。
二月二十三日夜、代表部書記官補の河崎一郎は、用事があって、ホテル・メトロポール三階にある松岡の部屋を訪れた。
ノックしても返事がなかったが、河崎はドアをあけてみた。なかで話し声がしていたからである。話し声というよりも、それは独白のようであった。
内部に入ってみると、小さなシャンデリアにあかりがともっていたが、松岡は部屋にはいなかった。
湖をのぞむベランダで、人の話し声が聞えた。松岡はベランダを往《ゆ》きつ戻りつしながら、独白を続けていた。
河崎が耳をすませてみると、それは明日の聯盟総会における脱退表明演説のようであった。チャイナという言葉が何度も出て来た。
松岡はアメリカ在住が長くオレゴン大学卒業なので、英語が非常に達者だということになっているが、筆者が四十九年秋ジュネーブの宿舎で河崎氏に確めたところでは、とくに発音のうまいという英語ではない、という。しかし少年時代からアメリカで育ち、アメリカの大学も出ているので、なれた[#「なれた」に傍点]英語であるということであった。
そのとき河崎は、松岡に声をかけることも忘れて、部屋の入口にたたずんだまま、松岡の英語の演説に聞き入っていた。
松岡は言い回しが気に入らぬと、何度も発音を繰り返していた。聯盟脱退が必至なことは河崎にもわかっていたが、松岡が最後まで、満州の実情と日本の真意を明日の総会で訴えようという熱意には打たれた。
松岡らしい……と彼は思った。
評判のような単なるはったり屋ではなく、慎重細心で、周到な人だという感じを受けた。
ようやく河崎が声をかけると、松岡は長文の草稿を手にして入って来た。
「おう、君か……」
彼は少しテレたような表情で草稿を中央の丸テーブルの上においた。
「明日のリハーサルですか?」
河崎がそう尋ねると、松岡は苦笑して、
「うむ、まあ、最後まで、いうべきことはいうておかにゃいかん。とくに満州に関する誤解は何とかして解いておかないと、今後の日本の行方に差しさわりが出来る恐れがある」
松岡は太い眉を動かしてそう言った。満鉄の飯を食ったものでないとわからない情熱が、そこに波打っていた。
松岡は愛国者だ、と感じながら、河崎は用件をすませるとその部屋を辞した。
翌二月二十四日、松岡のサヨナラ演説≠ナ有名な歴史的な総会は、午前十時半開会した。
問題の総会であるから、傍聴者は多かった。新聞記者の数だけでも百名を越した。一九二六年、ドイツの聯盟加入以来の活況を呈した。
議長イーマンスは、いよいよ十九カ国委員会による報告書を採決するときが来たことを告げた。
最初に中国代表顔恵慶が指名されて壇上に上った。
顔は、右の報告書が九・一八事件を日本の自衛行為と認めず、かつ中国の満州に対する主権を再確認したものであることに満足を感じていると、賛意を表した。
続いて壇上に上った松岡は、まず、
「日本代表部としては、慎重に討議した結果、右報告書を受諾し得ずという悲しむべき結論に達した」
とまず日本側の最終態度を表明した後、重要な説明を重ねて補足した。
まず彼は、報告書が極東の現状、日本の立場、目的等を十分認識していないと主張し、中国内の無秩序、満州問題に対し日本がとった立場と目的及び、リットン報告を含めての聯盟側の認識不足を衝いた。
続いて彼はリットン報告の重大要項である満州国際管理案に対して、これは不可能であると、言葉を強めて訴えた。
彼は後にも、「私をして聯盟脱退を決意せしめたものは、聯盟の対支管理という意図である。聯盟が満州を管理するということは、とりも直さず聯盟内の大国、英、仏、及び、招請された非聯盟大国米、ソが管理するということである。そして、その内容は十九世紀以来彼らがとって来た対支侵略の延長となるであろうことが明らかである」と述べている。
このときも、彼は次のように主張した。
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報告書草案は、満州にある程度の国際的管理を設定せんと試みている。満州は従前にも現在にもかかる機関を持っていない。さきに余は支那の国際管理問題に言及した。しかし、今回は満州における同問題を批判してみたい。いったい聯盟は何を根拠としてかかる企図を敢えてなさんとするのであろうか? 余は解釈に苦しむ。
もし、パナマ運河に同様の管理を設定せんとすれば、アメリカはこれに同意するであろうか?
同様にエジプトを例にとれば、イギリス人は果してこれを許容するであろうか?
いずれにせよ、諸卿はいかなる方法でこれを実行せんとするのであるか? 諸卿のうちいずれの政府が莫大な犠牲を伴うこと確実な重大責任を負って、この大任に当らんとするのであろうか?
この点に関し、余は日本国民が一切のかかる企図に断然反対であろうことをここに明言しておく。その理由は余には明白であるから、とくに説明の必要は感じない。断然我々は反対である。といって、我々は世界に挑むつもりはない。我々の当然の権利として主張するだけである。
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そして、さらに松岡は、満州に対する日本の権利について重ねて主張した。
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日本が満蒙《まんもう》に進出したのは、日本の生存権を確保するためにロシアと戦い、勝って、ロシアが中国から得た利権を条約によって継承したもので、爾来《じらい》、日本は満蒙開発に努力した。しかし、中国及び中国民衆は日本の進出を喜ばず、排日侮日政策をとっているが、元来日露戦争は前にも述べた通り、露支密約によるものであり、この密約を当時日本が承知していたならば、当然日本が満蒙を占領していてよかったのである。
満州国の成立は、民族自決の原則によるものである。元来、満蒙は清朝のクラウン・ランドであって、漢民族による支那自体の領土ではない。日本の歩んで来た道は、国の存続と発展に関し、かつて西欧帝国主義諸国の歩んだ道を模倣するものであって、彼らには日本を非難する資格はない。従って、日本の主張を承認するのは当然である。
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さらに「満州国の独立を助ける日本の努力は、中国をも支援することとなり、これがひいては極東全局の平和を確立することとなる。従って、報告案の不採択を切に希望する」と述べて、松岡は一時間にあまるその熱のこもった演説を終った。
傍聴の列国新聞記者たちは、松岡が明らかに、これが最後の演説と考えてオクターブをあげていることを意識していた。
続いて、ベネズエラ、カナダ、リトアニアの三代表が、日支紛争に関する意見を述べたが、三者とも報告案採択による平和回復を希望する意見を表明した。
そして、ついに採決のときが来た。
指名投票の結果、前記報告案に対し、投票国四十四、賛成四十二、反対日本、棄権シャム(タイ)という結果となり、イーマンス議長は、聯盟規約十五条に従い、報告案は圧倒的多数によって採択された旨を宣言した。
イーマンスはさらに、本裁決が極めて重大な意味をもつことを強調し、その政治的効果は大きく、日支両当事国とも、本報告の線に沿って紛争解決に進むよう希望する、と述べた。
議長の宣言が終ると、会場に緊張した空気が流れた。列国代表ならびに記者たち傍聴人らは、一斉に日本代表の席を注視した。
満場の視線を浴びながら、松岡は宣言書の草案を手にすると、発言を求め登壇した。
彼は前夜、河崎がそのリハーサルを洩れ聞いた最後通告ともいうべき宣言書を力強い英語で、次の通り堂々と朗読した。
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報告書草案が只今この総会において採択されたことは日本代表部、ならびに日本政府にとり深く遺憾とするところである。
日本は国際聯盟創立以来その一員である。一九一九年パリ会議において我が代表は聯盟規約の起草に参加した。我々は聯盟の一員として人類共同の一大目的のために世界の指導的国家と相協力して来たことを誇りとするものである。
日本は他の同僚聯盟国とともに人類共同の永い間抱懐されたる一大目的、すなわち恒久的平和の確立を見んとする希望が、すでに我々の審議ならびに行動に際して、我々のすべてを動かしていることを疑わぬものであるが故に、今我々が当面しつつある状態を深く遺憾とするものである。
日本の政策が、極東における平和を保障し、かくして全世界を通じて平和の維持に貢献せんとする純真なる希望によって、根本的に鼓吹されているものであることは周知の事実である。
しかしながら、総会によって採択された報告書を受諾することは為し能《あた》わざるところであり、とくに右報告書に包含された勧告が世界のこの部分――極東――に於《お》ける平和を確保するものと思惟《しい》し得ないものであることを指摘せざるを得ない。これは日本の苦痛とするところである。
日本政府は今や極東に於て平和を達成する様式に関し、日本と他の聯盟国とが別個の見解を抱いているとの結論に達せざるを得ず、しかして、日本政府は日支紛争に関し、国際聯盟と協力せんとする、その努力の限界に達したることを感ぜざるを得ない。
しかしながら、日本政府は極東における親善友好関係の維持ならびに強化のためには、依然最善の努力を尽すであろう。余は日本政府があくまで人類の福祉に貢献せんとするその希望を固持し、世界平和に捧《ささ》げられる事業に誠心誠意協力せんとする政策を持続すべきことを、ここに付言する必要はあるまいと信ずる。
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元来、声の大きい松岡は、情熱と憤懣《ふんまん》をこめて、この脱退宣言書を読みあげた。彼は世界の耳目がこの瞬間自分の一身に集中していることを十分意識していた。大衆的政治家としては、得意の絶頂であるべきはずである。しかし、彼は同時にさまざまな憤懣をも感じていた。そのために声が余計に大きくなった。
何のための憤懣か? それについては後述することにしよう。松岡はこの演説を有名な「サヨナラ」という日本語で結んだことになっている。筆者もそう書いて来た。しかし最近、長谷川進一氏や当時の記録にあたったところ、サヨナラといった証拠はない。このあと、アメリカに渡り、サンフランシスコを出るときはサヨナラといっている。松岡のサヨナラ演説は当時のジャーナリズムが脚色したものではないかと筆者は考えている。
どういうわけか、松岡が降壇するとき、満場から拍手が湧《わ》いた。それは日本の態度を肯定するという意味のものではなく、最前の松岡の熱弁と、今度の最終的退場の宣言書の堂々たる朗読に対して、去りゆく者にはなむけの拍手を惜しまなかったのであろう。この日を最後に、もう二度と松岡があの特色ある髭《ひげ》を貯えた戦闘的な風貌《ふうぼう》を、このレマン湖畔の聯盟会議場に現わすことはないのであるから……。
松岡は、演説を終ると自席にも帰らず出口を目ざして退場し、佐藤、長岡両全権ら約二十名の日本代表団はそのあとに続いた。通訳のフレデリック・ムーアは、日本人ではないので、少々ためらっていたが、やがて代表団のあとを追った。
ホテル・メトロポールへ帰る車中で、松岡がむっつりとしているのを、随員の河崎一郎は認めた。
松岡はやりどころのない憤懣を感じていたのである。松岡はジュネーブに乗りこむとき、決して脱退強行を企図してはいなかった。そこへ追いこんだのは、一つには英仏など支那に野心をもつ大国と、背後で糸を引くアメリカの動きである。そして、いま一つは、陸軍の行動と本国政府の無統一、無策と西園寺公の弱腰である。政府の無策は、この後、松岡を政党解消運動に追いこんでゆく。
そして、西園寺公の弱腰は、彼に重臣への不信をうえつけたのである。後に彼が自ら三国同盟を主張し、体を張って対米和平条約締結のため太平洋上でルーズベルトに会おうと決意したのは、重臣頼むに足らず、という彼の考えが根強かったからではあるまいか。
松岡は二月十六日、脱退必至という電報を佐藤、長岡と合議の上、外務省に打電したが、閣議における同じ決定を西園寺が事前に抑えてくれると頼みにしていた。日本を発《た》つ前、西園寺を訪ねたとき、老公は、「決して脱退に持ちこむようなことはさせない」と固く約束してくれたのである。
しかし、二月二十日の閣議の前に、斎藤実首相が内閣の聯盟脱退表明の決意をもって老公を訪れると、西園寺は「到底脱退はまぬがれそうにもありませんな」と同意した。(この項『天皇(二)』による)
そして、斎藤首相と内田外相が閣議の決定をもって参内した。
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十一章 故国の土
斎藤首相が国際聯盟脱退という閣議の決定を上奏して裁可を仰ぐと、天皇は苦渋の表情のうちに承認された。
昭和六年九月十八日満州事変|勃発《ぼつぱつ》以来、常に恐れていた事態がついに到来したのである。
天皇裕仁が即位して以来心にかけていたことが二つあった。一つは国民の福祉であり、一つは国際的協調で、二つとも尊敬する明治天皇の遺志によるものと彼は確信していた。
そして、そのうち国際協調の項目はここに大きく破綻《はたん》を来してしまった。もし、このため日本が孤立して、世界を相手とする戦争を招来し、そのために祖父明治大帝が多くの功臣とともに営々と築き上げられた大日本帝国にひびが入らねばよいが……。天皇の憂いはそれであった。しかし、憲法に定められてある通り、補弼《ほひつ》機関の決定であれば、それを嘉納《かのう》するのが天皇の任務であった。天皇は絶対とはいわれながら、その意思は国政には必ずしも反映されていなかったのである。
松岡が演説の最後にサヨナラ≠ニ日本語で別れを告げたことについて、森清人『松岡洋右を語る』(東方文化学会発行、平凡社発売)には次のような記述がある。
「今この部屋を去るにあたり、日支問題解決のため、理事会の諸卿、並びに議長および総会の全諸卿が数カ月の長きにわたり、快く提供されたる労力に対して、余は日本代表部に代って、厚くお礼を申し上げる。サヨナラ[#「サヨナラ」に傍点]」
これが松岡の演説のラストであって、トーキーがその発音を明瞭に録音していると森は主張する。そして、「この映画には、颯爽《さつそう》として退場してゆく松岡全権の後姿を茫然《ぼうぜん》として見送っている各国代表の気ぬけした顔がキャッチされていたことを、私は記憶している」と森は書いている。
当時、岐阜県の田舎の中学一年生であった私は、このニュース映画を見る機会がなかった。機会があれば、そのサヨナラという肉声を聞いてみたいと考えている。
『松岡洋右』は松岡が二月二十四日の演説のなかで、「脱退」という言葉を一度も使わなかったと指摘している。脱退を実行するには手続きが要る。松岡は脱退を前提として退場したのである。
本国政府も、松岡もこの退場の効果と反響を見守っていた。アメリカ仕込みのブラッフ(威嚇《いかく》)の好きな松岡は最後までどんでん返しの望みを捨てなかった。
英、仏など聯盟の主要大国が、聯盟の存続のためには日本の残留が必要であると考え、日本を慰留する場面を彼は想像していた。
真っ直ぐ日本に帰って凱旋《がいせん》将軍≠ノ祭り上げられることを避けて、アメリカで時間をつぶしてから太平洋を渡って帰国したのは、時をかせいでいたためともみられる。
日本の脱退が正式に公表されるのは、三月八日の閣議において脱退を決意し、同二十七日に、聯盟事務総長に脱退通告文が伝達され、さらに、脱退に関する天皇の詔書が渙発《かんぱつ》されてからである。
脱退表明のため聯盟会場を引き揚げると、松岡の一行は、直ちにジュネーブからパリに引き揚げた。ローマへ行ってムッソリーニに会ったという説もある。パリのホテルはマジェスティック・ホテルである。
アルプスの国スイスを抜けて、フランスの田園地帯に向う列車のコンパートメントのなかで、松岡は、聯盟規約第十六条のことを考えていた。
聯盟規約第十六条は、「紛争の平和的処理に関する聯盟の制裁」である。
それは、「他のすべての聯盟国はこの国(違反した)に対し直ちに一切の通商または金融上の関係を断絶し、自国民と違約国国民との間に一切の金融上、通商上、又は個人的交通を防遏《ぼうあつ》すべきことを約す」となっている。
つまり、経済封鎖である。
聯盟を脱退した場合、実質的にそのような行為に出られるかも知れない。その際は、列国の圧力をはねかえすために、日本は聯盟の中心にない強国、大国と同盟を結んでこれに対抗してゆかなければならない。
松岡の脳裡《のうり》には往路、モスクワに立ち寄った際、しきりに日ソ不可侵条約を説いたリトビノフ外相の顔があった。そして、ムッソリーニの顔や、会ったことはないが、トルコのケマル・パシャの風貌も浮んでいた。そして最も強く意識されたのは、アメリカであった。ルーズベルトと会って、日本の立場を説明して、これを味方に引き入れれば、世界の世論や、日本に対する圧力も随分変ったものとなるに違いない、彼はそう考えていた。
ところで、当時、実際の話として日本に対して、聯盟諸国の経済封鎖は可能であったのか? 『人間松岡の全貌』は次のように観測している。
「第十六条の適用が実現したとしても、日本はすでに欧米金融市場において、それらの国々の経済恐慌によって極度の不便を受けて来ているため、金融上これ以上悪化のしようがなく、貿易によっても英国のオッタワ会議をはじめ、仏国の為替関税等すでに関税障壁で極度の障碍《しようがい》下にあり、海運においても自国貨自国船主義は徹底し、この上運賃安の日本船を強いて排斥するとも思えず、まして米国が自国の絹業の没落、失業者の続出を忍んでまで日本生糸のボイコットをなし得るとも思えない。更に米国、インドの棉花《めんか》、豪州の羊毛を日本が買いつけない場合は、日本よりむしろこれら諸国の打撃の方が大で、日本はすでに鉄鋼において、非常時対策に進んでいる事実は、列国といえども認めるところであるから、この上平和機関たる聯盟が、進んで最悪の事態を誘発するような行為をなすとも思えず、今なお英米市場において日本公債相場が安定し、外国為替の動揺少なき事実をみれば、聯盟の決意も自ら想像し得るものと思う」
この文意に続いて、森は、さらに次のように日本の財界の現況を一|瞥《べつ》している。
「殊にこの際一言せねばならぬことは、わが財界一般の空気である。国際聯盟の情勢悪化に対し、財界の態度として注目すべきは、一昨年秋の満州事変から昨年春の上海《シヤンハイ》事変に拡大した当時に比し、世論が統一され、対支貿易の喪失ももはや止《や》むを得ないとし、欧米市場に対する最悪の場合の準備も進み、国際情勢を達観して、財界が一致して強硬なる態度をもって国策を支持していることである。
すなわち、十九カ国委員会や九カ国委員会等がこぞって日本反対の決議をしても少しも動揺せず、進んで認識不足の列国をして東洋における真正の事態を了解せしめるためには、この際第十六条の経済封鎖の規定をもって脅迫するもいささかの恐るるところではなく、必要とあらば、この際決然として代表の退去はもちろん、聯盟脱退をもって進むべしとして、ほとんど財界をあげて強硬なる態度をとっていることは注目すべきことである」
満州の開発と、支那貿易は、当時の資本家のドル箱であったから、財界がこれらを守るためならば、聯盟脱退をも辞せず、と決意したのは、本当かも知れない。しかし、民衆はどう考えていたのであろうか。この点については、別項で触れたい。
森はさらに、脱退に関連する重大問題として南洋委任統治地域返還問題について言及している。
「だが、この問題は法理的にみて、日本は南洋委任区を返還せねばならぬ義務もいわれもない。聯盟がこの解決を承認せず、委任統治区の返還を強要するときは、もはや議論の余地なく、力が解決する[#「力が解決する」に傍点]のみである。聯盟はわが委任統治地域の返還を要求する権利はない。その理由は次の通りである。
[#ここから1字下げ]
一、委任統治地域の決定は、パリ講和会議における最高会議の決定であって、聯盟はその決議をそのまま承認したにすぎないものである。すなわち同講和会議第百十九条『ドイツ国はその海外属地に関する一切の権利および権限を主たる同盟及び連合国のため抛棄《ほうき》す』の条文によってドイツが抛棄したるものを、大戦中の一九一七年日、英、仏、伊等の間に締結せる秘密協定にもとづき、一九一八年五月七日のパリ講和会議の第一決議により、右秘密協定加入国が分割取得せるものを、翌年十二月七日の聯盟理事会において承認せるものであるから、右委任統治の最高会議は明らかにパリ講和会議であり、聯盟はその決定を承認せるものにすぎないのである。
二、委任統治国は聯盟支配下にあるものに非ず。このことについては、聯盟規約の立案者の一人であるバルフォア卿(元外相)が一九二二年五月の聯盟理事会で次の如く委任統治に関する決定的意見を述べている。
[#ここで字下げ終わり]
『委任というも、征服者が被征服者領土に対して主権を行使するに当り、自制的に設定した制限に外ならぬ。主に同盟および連合国が人類の共同権利擁護のため自ら制限を設けたにすぎない。聯盟は単に共同利益確保の政策がよく遂行されるよう同盟および連合国を助くればよい。委任統治は聯盟の創設ではなく、従って委任統治は聯盟によって改変せられ得るものではない。聯盟の義務は委任協定の特殊的及び細目的条件が、主なる同盟および連合国によって採択せられた決定に適応しているかどうかを注視しておればよいのである』(後略)
これらの理由によって、日本は聯盟脱退後も、カロリン、マリアナ、マーシャル等南洋群島を保有した。太平洋戦争当時、これらの島は要塞《ようさい》化され、不沈空母としての役目を果し、そのいくつかにおいては、凄惨《せいさん》な争奪戦が演じられたことは、周知のところである」
さて、パリに着いた松岡は、斎藤博と親しく話し合った。斎藤は当時オランダ公使であったが、ワシントン大使館、パリ講和会議で松岡とともに勤務した。斎藤の縁談には松岡も関係している。斎藤は太平洋戦争の直前アメリカ大使として、客死し、その遺体は米巡洋艦アストリア号で、日本に運ばれた。非常な親米家かつ知米家であり、彼が存命しておれば、日米関係ももっと異ったものになったであろうといわれる逸材であった。
この頃、アメリカの新聞王ロイ・ハワードから松岡に招待が来ていた。ハワードは松岡とは旧知の仲であった。
ハワードは一八八八年生れで松岡より八歳下。新聞記者出身で一九一二年UP社長となり、二一年スクリップス・マレ(後にスクリップス・ハワード)系諸新聞の取締役会長に就任した男である。センセーショナルな経営で知られる新聞王ハーストと間違われることがあるが、別人で、ハーストよりは筋の通った新聞人である。
ハワードはこう言って来た。
「アメリカにおける旅行の費用等一切の面倒はこちらでみる。君に日本の立場を米国民に了解させる場を与える。アメリカ人は決して偏見は持っていない。必ず素直に君の主張に耳を傾けるであろう。是非来てもらいたい」
当時、アメリカにおける日本の評判はよくなかった。日本陸軍はチチハルや熱河には出ないと言っていて進出したので、在ワシントンの出淵大使は、日本人のウソつき≠ニいって罵《ののし》られることもあったほどである。
吉沢清次郎書記官や、斎藤は、「よい機会だから行きなさいよ」と松岡にすすめた。
しかし松岡は、
「おれは敗軍の将だ。マルセーユからこっそり帰国して、おふくろのいる三田尻で隠居し、魚でも釣って余生をすごしたいんだ」
と悲観的な見解を述べていた。
この段階で、松岡は日本における熱狂的な歓迎は予想していなかったように思われる。日本大衆があのように英雄視しなければ、大外交官・松岡≠烽り得ず、従って、日独伊三国同盟も別の形になったかも知れない。
後の話になるが、松岡は山口県に帰郷した夜、自宅で郷里の人々に、
「私は明らかに失敗して帰ったのだ。あのような歓迎をうけることは夢にも予期していなかった。口では非常時を唱えながら、私如き者をこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか。私の場合は全くの虚名である」(萩原新生著『世紀の英雄・松岡洋右』)
と語っている。これがこのときの本音である。しかし、『興亜の大業』(昭和十六年五月、第一公論社刊)を書く頃の松岡は、完全な神がかり的国粋主義者である。合理主義的な愛国者というイメージからは程遠い。三国同盟締結の成功者という名声が彼を英雄にし、その後、日本を何とか大国として存続せしめようという願望がそうさせたのであろうか。この松岡の精神構造的変貌については、後にじっくりと検討してみたい。
松岡はアメリカ行きを渋っていたが、佐藤や長岡の「この際アメリカに好意をもたせておく必要がある」という説得もあって腰をあげることとなった。
このとき、彼の脳裡には、一人の女性の面影があった。イザベル・ダンバー・ベバリッジ夫人である。彼が少年時代、ポートランドで世話になった敬虔《けいけん》なキリスト教徒であった。第二の母≠ニして慕っていたベバリッジ夫人の墓に、もうでてみたいと松岡は考えていた。
もっとも、松岡は一月十六日、内田外相にアメリカへ行くかも知れぬ、ということを通報しており、母ゆうあての手紙にもこの旨があるので、前からアメリカ行きは一応考えていたものであろう。
前にもふれたが、『松岡洋右』によると、松岡はローマに立ち寄ってムッソリーニに会い、それからロンドンに渡ったとなっている。
ロンドンでは散々な人気で群衆に「日本は賊の国だ」と罵られたという。イギリスは何の国であろう。地球の三分の二近くを領する大英帝国の領土と富は、そのほとんどが海賊的侵略によって得たものではなかったのか。
松岡は三月中旬イギリスのサザンプトンからアメリカ汽船ユナイテッド・ステーツ号でニューヨークに向った。この汽船は第一次大戦後、アメリカがドイツからとったレビアザン号という当時の巨船であるが、そのときは二流船として老朽化しかかっていた。
松岡がニューヨークに着いたのは、昭和八年三月二十四日の朝であった。
ニューヨーク市民は待ち構えていた。彼らはトーキーで見た、太い髭を生やした小男で、しかも無類に押しの強いプレニポテンシャル(全権)が、アメリカに対してどう振舞うかに興味を抱いていた。
ユナイテッド・ステーツ号が、自由の女神像の近くを通って、マンハッタン島の桟橋に近づくころ、松岡は船内の病室に随員の堀口瑞典を見舞っていた。
瑞典は詩人堀口大學の弟である。彼は船がサザンプトンを出港して間もなく腹痛を訴え、盲腸炎とわかったので、船医の手によって手術を行ったものである。
せっかく、アメリカに入国するというのに、外国語に堪能な堀口が病室暮しでは淋しかろうと、松岡は慰めたのである。
ユナイテッド・ステーツ号がマンハッタンの埠頭《ふとう》に繋留《けいりゆう》されると、数十人の米人記者が松岡のケビンに押しよせた。この船には、アメリカの元財務長官メロンも乗っていたのであるが、メロンの部屋にはだれも来なかったので、憤慨したメロンはそそくさと下船してしまった。
記者会見は後部の一等サロンで行われた。
米人記者たちの第一問は、
「ミスター・マツオカ。あなたは、ジュネーブの国際聯盟の最後の演説で、I will never come backと言ったそうですが、本当ですか」
というものであった。
松岡は、
「私は日本語でサヨナラと言ったのだ。サヨナラは、good - byeに当る。決してもう帰らないとは言っていない。聯盟が日本の主張を認めてくれるならば、いつでもジュネーブを再訪するつもりだ」
と答えた。
以上がアメリカの新聞にのり、日本に伝えられたサヨナラ演説≠フ報道なのであるが、その真偽を確かめることは難かしい。
続いて記者団は満州問題についてしつこく質問した。
「日本は満州を属国にするつもりか、それとも領土にするつもりか」
というふうなものが多かった。アメリカ市民が最も関心を抱いているのはこの点であったろう。
松岡は巧みに質問をいなしていた。日本はジュネーブの聯盟から代表団を引き揚げはしたが、まだ公式に脱退するとは言っていない。自分が余計なことを言って、本国から叱られる必要はない、と考えていたのである。
無論、記者団はそれでは納得しなかった。
彼らは何とかして松岡の言質をとろうとして、挑発的な言辞をも弄《ろう》した。
松岡はやおら立ち上ると、こう言った。
「日本は米国の属国ではないから、何も諸君の同情に訴える必要はない。しかし、旧友に会い、親友と話す場合には時に応じて日本の立場を説明する」
言い終ると、松岡は桟橋《ピア》に面した窓の方に近より、下を見おろした。群衆が騒いでいた。問題の人物を一目見ようというのか、それともこの際、生意気なジャップに悪罵《あくば》を放とうというのであろうか。
在米の中国人や共産党員は、この際、日本の野心について暴露戦術を行うというデマがとんでいた。その数は二千名で、数千のビラを用意しているという。
また、松岡の一行には新満州国の代表丁士源も入っていた。彼は中国人から暗殺されるという噂《うわさ》があった。
ニューヨーク警視総監マルーニーは、数百名を動員して波止場の警戒に当らせた。
松岡は、左手の親指をチョッキの裏にさしこみ、胸をそらすようにして、右手に持った葉巻の煙を大きく吸いこんだ。
――故国の土――
という感懐が彼を訪れた。
もちろん、アメリカは彼の故国ではない。しかし、少年時代、十三歳から二十二歳まで、十年間にわたってすごしたアメリカには、母国と同じような匂いがした。喧噪《けんそう》で、しかもあけっぴろげな国民……。そして、この国で大切なことは、かつてセオドル・ルーズベルトが残した「相手に弱気を見せることは最大の悪徳だ」という言葉を忘れないことである。
アメリカ人を相手に交渉するときは、初めから辞を低くしては駄目なのだ。東洋流の慇懃《いんぎん》は、彼らのさげすみをかうだけである。
まず、意表を衝く一撃を相手にくらわせる……。そして、次に腹をわって話し合う。ポートランドやサンフランシスコで苦学時代をすごした松岡が身につけた対米交渉法は、この最初一撃法である。
そして、そのセオリーによって、彼はまず、上陸を前にして、第一撃を新聞記者団に加えたのである。
意表を衝かれた記者団は、早速松岡の発言を本社に送り、翌日朝刊の大みだしは、
「Matsuoka stand on Japan is not American vassal state(松岡は、日本はアメリカの属国ではない、と主張した)」
であった。
しかし、アメリカの記者団はそれだけで引き下ったわけではない。
松岡が予想した通り、彼らはマーシャル、カロリン、マリアナなど南洋群島の委任統治についても、しつこく喰ってかかって来た。
松岡はこれに対しても一喝をもって応じた。
「僕は諸君の立場を知っているから何とも思わないが、かりに、日本人の多くが『一体、アメリカは南洋群島を欲しいのか』と反問したら、君たちは何と答えるかね。これはあまりよい質問ではないと思うがね。たとえば君はどうかね?」
と松岡は手近にいた若い記者の顔に指を向けた。すると、それまでしつこく質問を繰り返していたその記者は渋面を作って、No, Noを繰り返した。
このようにして、松岡は彼一流のやり方で、第一日の質問をかわした。
ニューヨークでの松岡の宿舎が何ホテルかは、名前が残っていないが、一行をのせた車数台は、警察のサイドカーがサイレンを鳴らしながら先導し、マンハッタンの大通りを全速力で突っ走ったことは事実である。ニューヨーク警察は、中国人や、反日アメリカ人のテロを警戒していたのである。
両側に居並んで複雑な表情で見守る群衆を、全速力で走る車のなかから、葉巻をふかしながら眺めた松岡は、ひとこと、
「ほう、大変な歓迎ぶりだね。ニューヨークのアメリカ人がこんなに親日的になっていたとは知らなかったよ」
と毒舌を吐いた。
その夜、満鉄ニューヨーク事務所長郷敏は、ホテルに松岡を訪れた。郷は昼の記者会見に立ち会っていたので、松岡にアドバイスに来たのである。
「全権、アメリカの新聞記者に対する返答は、いま少し穏当にしておかれた方がよいのではありませんか。今、かなりの部分のアメリカの新聞は日本の満州政策を非難していますが、いつも過激なハースト系はわりに慎重ですし、国家主義系、保守系の新聞も穏当な論調を示しています。今日のようにけんか腰で相手を刺激しない方が、対米政策上得策と思われますが……」
郷がそう言うと、松岡は例によって一喝した。
「君らはアメリカにいてアメリカを知らないのか。日本人は、何でも頭を下げればすむと考えるapologist(弁解主義者)だ。アメリカではそれは通らぬ。いいか、おれは国を代表する全権だと思うから、あのように紳士的に応対したのだ。もし、おれが一個人の立場だったなら、彼らに『君らの国は君らの国のビジネスをやっておればよろしい』と大声で警告してやるところだったのだ」
松岡は、相変らず強気であった。この話は、郷が晩年に書いた回想録『落穂』に出ている。
昭和八年(一九三三)三月二十七日、日本は国際聯盟に脱退を通告し、天皇の詔書も渙発された。
『天皇(二)』によると、この詔書は意味深長であるという。
この詔書は、外務省アジア局長谷正之が起案した。谷は後に、有田八郎外相の下で次官を勤め、松岡が外相になると同時に免官となる人物である。
詔書は天皇の声明書であるが、大体において儀礼的なものが多い。結構ではあるが難解な文字が連ねてある。
しかし、この「国際聯盟脱退に関する詔書」は従来のものとかなりおもむきを異にしていた。この詔書は、内田外相によって天皇に内奏されたが、天皇は一読して応諾することをせず、かなり長い時間をかけて、文章を修正した。
たとえば、天皇は次の章句を補足している。
「(日本は聯盟を脱退することになったが)然《シカ》リトイエドモ、国際平和ノ確立ハ朕常ニ之《コレ》ヲ冀求《キキユウ》シテ止マズ……愈《イヨイヨ》信ヲ国際ニ篤《アツ》クシ大義ヲ宇内ニ顕揚スルハ、夙夜《シユクヤ》朕ガ念トスル所ナリ」
明治天皇の遺志を継ぐという国際平和協調主義の現われである。
天皇は、陸軍の強引な進撃がこの脱退をもたらしたことを知っていた。そこで、詔書のなかに、
「爾《ナンジ》臣民|克《ヨ》ク朕ガ意ヲ体シ、文武互ニ其《ソ》ノ職分ニ恪循《カクジユン》シ、衆庶各其ノ業務ニ淬礪《サイレイ》シ、嚮《ムカ》ウ所正ヲ履《フ》ミ、行ウ所中ヲ執リ……」
と訓戒している。「文武互ニ其ノ職分ニ」と陸軍を戒め、「其ノ職分ニ恪循シ……正ヲ履ミ……中ヲ執リ」
と苦言を呈している。
この詔書が渙発されると、斎藤首相と大角海相はいずれも詔書の内容を引用して、聖旨に沿うべきことを国民及び部下に強調した。
天皇はそれを翌朝の新聞で知ってうなずいた。しかし、荒木陸相の訓示を見ると、眉をしかめた。
荒木の訓示は、詔書渙発に際し「全軍将兵の一層の団結」をうたってあるだけで、詔書の内容には一言もふれていないのである。
天皇は直ちに奈良侍従武官長を呼んで、荒木訓示の内容に不満を示した。奈良武官長は、「荒木陸相の訓示は陸軍将兵に対するものであって、一般国民に対するものではない」等の言辞を述べて天皇に説明したが、天皇は納得しなかった。
「国際聯盟脱退ハ世論ナリトイウモ、現今ノ如ク軍人ガ個人ノ意見ヲ圧迫スルガ如キコトアリテハ、真ノ世論ハ分ラズ」
と、奈良武官長に、注文をつけた。
続いて天皇は、軍においては陸海軍青年将校を甘やかす傾向があり、現在|聯隊《れんたい》勤務についている秩父宮、賀陽《かや》宮の言動も、ややもすると、過激にわたるおそれがあるが……という意味のことを、奈良武官長に下問した。奈良武官長は、早速、教育総監の林銑十郎大将に天皇の下問を伝えた。奈良のもとにも、そのような傾向の情報は入っていたが、確証のないことを答申するわけにはゆかない、とこの生真面目な武官長は考えたのである。
かつて、九・一八事件のとき、切腹を覚悟で、独断で、朝鮮軍を満州に派遣した林銑十郎は、天皇の下問に対して、ただ「恐懼《キヨウク》ニ堪エズ」と奉答したにとどまった。秩父宮や賀陽宮が、中堅将校にかつがれて、軍の長老の弱腰を批判し、陸軍がもっと大陸に進出すべきことを主唱しているらしいことは、林の耳にも入っていたが、それをそのまま天皇に奉答するわけにもゆかなかったのであろう。
陸軍の高官は、荒木、真崎(甚三郎)などのように、ジンゴイズム(やらんかな主義)の者もいたが、林は誠実|一途《いちず》の人物というのが定評である。余談であるが、筆者の妻は、女学校時代、林大将の息女と同窓であった。実に当時でいう婦徳を万全に備え、終始級長を勤めて、全校生徒の尊敬の的であったという。
奈良武次大将も、林に劣らず、慎重生真面目な人柄であったが、昭和八年四月六日、前関東軍司令官本庄繁中将に侍従武官長の職を譲ることとなった。
大正九年七月に東宮武官長になって以来、十三年間にわたって、若き天皇を補弼《ほひつ》して来たのである。
奈良は、新しく着任した本庄に、皇居における勤務を見習わせるため、四月十三日まで、皇居に出仕した。
天皇は、新しい武官長が、満州事変の責任者で、満州建国の推進者であることを知ると、複雑な表情を示した。
平和主義に徹して、自分を補佐してくれた奈良が懐しく、別れ難い気持を抑えがたかった。
奈良は、四月十三日「本日ヲ以《モツ》テ御暇申シ上グル」と奏上して、天皇に別れを告げ宮中を去った。天皇の顔には、一|抹《まつ》の憂愁があった。
奈良は和田倉門から退出すると、何度もお文庫の方をふり返ってみた。
本国政府が、正式に脱退を声明し、天皇の大詔も渙発されたので、アメリカにいた松岡は、そろそろ一喝ブラッフ政策をやめて、まともな話をすべきだと考えていた。
三月二十八日、彼はニューヨーク市の州商業会議所で訪米初講演を行った。
商業会議所会頭ブラウンと、前駐日大使ローランド・モリスのあいさつのあと、彼は千五百人の聴衆を相手に一時間にわたる講演を行った。
この講演はCBS=コロンビア放送によって全米に放送されたが、内容は決して戦闘的なものではなく、平和友好を主体としたものである。
前年冬、彼は聯盟休会の時間をかりて、オーストリア、トルコに旅行したが、その折、同行の吉沢清次郎書記官にキプリングの話をしたことがある。キプリングに「東は東、西は西」という詩があるが、そんなことはない、と松岡は主張した。西も東も人間だ、人情に変りはない、ワン・ヒューマニティだとおれは思う。しかし、聯盟に来て討論してみると、差別観を含んだキプリングの考えもわかるような気がする。西と東とではなかなか理解し合えないのではないか……とそのとき、彼は感想を述べていた。
ニューヨークでは、彼はキプリングの詩を逆手に用いた。
「有名な詩人キプリングは、東は東、西は西といっていますが、本当に腹をわって話し合えば、東も西も互いに理解し合える。私はそう信じている。そして、その私の気持を最もよく理解してくれるのが、東と西の中間にある大国アメリカの国民であることを私は信ずるものであります」
松岡はユナイテッド・ステーツ号船内でのつっけんどんな応答ぶりとは、打って変って紳士的に、ユーモアや比喩《ひゆ》などをまじえて、聴衆に好感を与えた。ラジオでこの演説を聞いた米国民は、松岡のオレゴン仕込みの達者な英語と、そのジェントルな話しぶりに感心し、彼を見直すものが多かった。
松岡はこのほか、外事協会でも講演を行ったが、これは各方面の代表者とのディスカッションであって、内容は秘密であり、記録も残っていない。
また、松岡は前出の新聞王ロイ・ハワード主催の午餐《ごさん》会に招かれて、食事のあと主催者側代表と一問一答を行った。これは新聞に公表されたが、きわめてフランクな意見で、日米の諒解《りようかい》を促進するものとして好評であった。
その要点を『人と生涯』から摘記してみよう。
問 貴下は、米国の極東における利害関係とワシントン条約との間に重大な関係があると言うが如何《いかん》?
松岡 日本人全体としては重要視していない。
過去二十五年以上にわたって米国のジャーナリズムは、日本は列国の間で米国に対して最大の危険物であると米国民に説明して来た。
米国は、極東における利害関係を維持するため、日本と対抗せねばならぬという見地から大海軍論を唱えてきた。しかし、日本は米国の利害関係に脅威を与えるほど強くもなければ、金持でもない。しかるに、米国は一年ほど前、国会でフィリピンの独立(実現は太平洋戦争後の一九四六年)を討論し始めたころから、この群島を守るために厖大《ぼうだい》な海軍予算を必要とするということになっていた。
また、米国は支那人四億五千万の購買力が門戸開放政策≠ノよって保護されねばならぬ、米国の貿易発展の好市場であるというドクトリンにそって極東で行動してきた。
しかし、これは大きな誤りである。
かりに支那人が、鉄道建設、資源の開発とともに、名ばかりでない立派な国民政府、文盲者の教育等によって、その名に値する近代国家を作りあげ、本当に購買力が生じたら、その際、あの質素で勤勉で生産的な支那人が、どうして、八千マイルも離れたアメリカから商品を買うだろうか。彼らには特定の製品を除いては、自給自足する能力が生ずるのである。(注、それからわずか十五年後の中華人民共和国の状態を思い合せると興味深い。もっとも、中国の近代化とその自給自足体制は、松岡が恐れていた共産化によって実現したものであるが)
また、米国はこう考えている。日本が支那を支配し、その巨大な人口を軍隊化すると、米国はやむを得ず太平洋の港湾を東洋人の自由な移民のために開放せざるを得なくなるだろう、と。
しかし、これもおかしい。日米両国が相互的に持っている疑いは両面的である。われわれ日本人は、世界で一番富んでいて、一番地位のしっかりしている国と戦って勝ち味のないことをよく知っている。(注、松岡のアメリカの国力認識を示して興味深い)なぜ、米国が日本に対して防衛の思想を持たねばならないのか、私にはわからない。
一八九八年(明治三十一)、西欧の強国が手を携え東洋に侵入して来た。ロシアが満州に、ドイツが山東半島と南洋に、フランスが南支那に、英国が威海衛に、そして、米国もフィリピン(一九〇一年米領となる)に乗りこんで来た。いまや、米国はフィリピンから手を引こうとしているが、過去二十五年間、米国は決して「条約の神聖」ばかりを論じてはいなかった。米国が論じていたのは、東洋における権益と、この権益を脅かす日本≠ニいうドグマであった。
そのため、米国は太平洋に大艦隊を浮べ、日本に脅威を与えようとして来た。しかし、米国にも多くの誤解がある。
支那には四億五千万の購買力があるといわれるが、これはデタラメである。支那人の大部分はその日の衣食に窮している。こんなに貧乏で無秩序な国民が、どうして上等な米国製品を買えるのか?
逆に、日本は世界でもきわめて多量に米国から原材料や製品を輸入している国である。どうして、日本が米国に対して支那を封鎖しているなどと言えるのか?
日本が支那人を強力な軍隊としてアメリカを脅かすというが、それは不可能に近い。かりに、出来たとしても、どうやってこの軍隊を太平洋を横断して米国に上陸せしめることが出来るのかね。さらに言えば、支那人を強力な軍隊とするとき、それはむしろ米国軍よりも、日本にとって大きな脅威となるであろう。
日本人にわからないのは、米国がどうしてあの侵略好きな欧州諸国よりも、日本に対して条約の文句に忠実であれと強調するか、ということである。なぜギャングで有名なシカゴの道徳性よりも、満州国の道徳性の方を問題にするのか私には不思議に思えてならない。
問 日本人は、米国が真に欲しているのは世界平和機関の維持で、これに比較すれば米国の極東政策など極めて意義の少ないことだと考えている事実を認識しているのか?
松岡 残念ながら日本人は認識していない。その証拠を示してもらいたい。そうすれば心理的にも楽になるし、海軍の予算も少なくてすむ。
問 日本は九カ国条約のうち、「支那の領土及び行政上の保全を尊重する」という条項を破った。その代り、米国がコレヒドール島(マニラ沖)の要塞化、マニラにおける乾ドックの建設、グアムの海軍根拠地整備等を認める用意があるか?
松岡 これは初めて受ける質問である。アメリカが太平洋に防備強化を行わないという条項は、ワシントン条約で定められているはずだ。日本は米国の西岸に要塞も艦隊もおいてはいない。しかし、米国は西部太平洋に東洋艦隊をおいている。日本は米国に危害を加えることは出来ないが、米国は日本を脅かすことが出来る。なぜ、米国は日本が危険な国であるとして宣伝するのか?
問 支那は決して満州を支配したことがない。従ってマンチュリアは、我々がいうチャイナの古来固有の領土ではなかったという貴君の主張についてご説明願いたい。
松岡 諸君は万里の長城をご存知であろう。いわゆる支那人、漢民族は、長城以北の住民を蛮族、もしくは化外の民として扱って来た。現在の満州国は、三百年ばかり前、満州人が支那を征服したとき、清《しん》帝国の発祥の地として、同帝国の一部となった。はじめ清朝は、満州を自分たちのクラウン・ランドとして、二十世紀の初めまでは、漢民族の長城以北への移住を認めなかった。ところが、十九世紀末|李鴻章《りこうしよう》という不思議な政治家が出て来て、露支条約を結びクラウン・ランドである満州を、ロシアに売ったのである。清朝はすでに力を失っており、一九一二年没落した。そこで、馬賊出身の張作霖《ちようさくりん》が満州の実権を握り、二度も満州の独立を宣言した。一九二八年彼が暗殺されてからは、息子の張学良が、父の参謀総長であった楊宇霆《よううてい》を暗殺して満州の総統となった。彼はその後国民政府の蒋介石と結びつき、奉天の政庁に青天白日旗をあげたことがあるが、満州をチャイナ古来の領土と見なす理由にはならない。
かくて、松岡は自分の論理をわかりやすく、しかもかなり積極的に米国民に語りかけた後、ニューヨークを後にして三月三十日ワシントンに着いた。ホテル・カールトンに落ち着いた彼は、翌日ホワイトハウスにフランクリン・デラノ・ルーズベルトを訪問した。全権としての公式訪問ではなく、非公式のあいさつのためであった。
松岡はルーズベルトと初対面ではなかった。
大正二年、松岡が二等書記官としてアメリカの日本大使館に勤務していたとき、ルーズベルトは海軍次官であった。そのころから二人は妙にウマが合った。旧知の間柄であったが、無論今回の聯盟脱退で、ルーズベルトは、松岡のことを再認識していた。
ルーズベルトは、アメリカ経済建て直しのニューディール推進で忙しかったが、喜んで松岡のために時間を割いた。
松岡は、彼がいわゆるサヨナラ演説≠行ったときの宣言書の写しを提供し、
「ミスター・プレジデントは多忙であろうが、ご一読して、日本の立場を理解していただきたい。この最後の文章だけは、自分が涙をもって、真情を吐露したものです」
というと、ルーズベルトは、
「ユー、ウェルカム」
と言った後、
「一行一字もゆるがせにせず、注意して読みましょう。ついては、この書面に肉筆のサインをいただきたい」
と松岡のサインを求めた。
二人は、出来るだけ政治には関係のない思い出話に時間をつぶしたが、最後に、松岡が、
「私は、日本とアメリカが不仲になることを望んではいない。もし、そういう事態が起ることになったら、是非友好的解決に力を貸して欲しい」
というと、ルーズベルトは喜んで協力を約束した。これから八年後の昭和十六年、日米和平交渉のため、アメリカの神父が来日したとき、松岡は、
「もし、ルーズベルト大統領と一時間会えれば、日米関係を友好的に改善する自信がある」
と断言した。
松岡はルーズベルトの友情に信頼を寄せていた。しかし、アングロサクソンであるルーズベルトは、はらのなかで松岡をどう考えていたかわからない。松岡の希望通り、太平洋上でルーズベルトと頂上会談が出来たとしても、日米戦争が避けられたかどうか、それはより多くアメリカ側の、そしてルーズベルトという個性の精神構造の問題ではなかろうか?
このとき、ルーズベルトは車椅子に乗っていたが、エネルギッシュな大統領として、気品と威厳を持っていたと見え、会見後、松岡は、小雨の降る並木道を、近くのホテル・カールトンまで、新聞記者の海口守三と肩を並べて歩きながら、
「どうも、ルーズベルトというのは相当なやつだね。こちらのいうことをうけとめるような態度を示すが、実は何を考えているのかよくわからない。最初はただプレジデントと呼ぶつもりだったが、やはり貫禄に押されたのか、とうとうミスターをつけてしまった」
と苦笑した。
しかし、彼はさらに、
「おれも言いたいことは言ったよ。何と言っても、日本が脱退後、大きな相手となるのはアメリカだ。アメリカとどう交渉するかが、今後の課題だ。その点、おれは日本の意図を十分に伝えておいたはずだ」
と彼らしい強気な自信を述べることを忘れなかった。
さらに彼は、出淵駐米大使の弱腰外交を批判して、
「アメリカの大統領は、歴代大物がそろっている。ワシントン、ジェファーソン、フランクリン、クーリッジ、リンカーン、みなそうだ。それを相手にする外交官はこちらも腹をすえて、決然として自国の立場を主張する必要がある」
と、自分の強腰外交を自賛するポーズを示した。
松岡はこの調子で、ワシントンにおける三日間を、アメリカ官僚や各国記者を相手にしゃべりまくった。――松岡という奴は押しの強い奴だ――という印象をアメリカ大衆は受けた。これはもちろん、アメリカのような強者と戦うには、最初に強打を一撃加えておいてから、交渉にはいるべきだという青年時代からの宿志によるものである。
このため、親中国派とみられていた国務省の極東部長ホーンベックまでが、松岡との会見を欲し、四月一日、松岡がシカゴへ出発するときは、駅まで見送りに来て、駅長室で松岡と長い極東経営論議を戦わせたほどである。
四月一日、シカゴに着いた松岡は、超一流のドレーク・ホテルに宿をとり、NBC(ナショナル・ブロードキャスティング・カンパニー)から、全米に放送をした。NBCは、CBS(コロンビア・ブロードキャスティング・システム)と並ぶ米国の二大放送会社である。
「日本は現在、極東において大問題に直面している。そして、日本がこの問題に関して、もっとも理解を望んでいる国はアメリカである。日本は決して、中国と仲たがいをすることを望んではいない。しかし、この解決には時間を要する。どうか、アメリカ国民が根気よく東洋の状態を眺めて、よき理解を得られんことを、心より希望致します」
松岡は相も変らずこの主張を全米に訴えた。
ここで、『松岡洋右』に出ている三輪氏の興味ある意見を紹介しておきたい。
氏は、松岡と中国代表|顧維鈞《こいきん》との出身大学の比較をしている。松岡が西部の田舎大学オレゴン大学を卒業しているのにくらべて、顧は、ハーバード、プリンストン、エールと並ぶ四大大学の一つであるコロンビア大学を出ている。このことは、アメリカの上層部とネゴシエーションを行うとき、また、アメリカ大衆にアピールするとき、相当なハンディとなる、というのである。
この意見は、三輪氏がプリンストン大学の卒業生であることを思い合せると興味深い意見である。
シカゴに着いた翌日、松岡は自動車王ヘンリー・フォードからの迎えの車で、デトロイトを訪問し、フォードと会った。
貧困より身を起して、世界の自動車王となったフォードは、松岡にとって極めて関心の深い人物であった。
フォードは、一八六三年生れで、松岡より十七歳年長であるから、このとき数え七十一歳であった。
フォードはミシガン州の片田舎に生れ、十六歳のとき、デトロイトで機械工となった。一八九一年(日清戦争の直前)、発明王エジソンの下で照明技師を勤め、大いに啓発されるところがあった。
しかし、エジソンが電気方面に力を入れたのにくらべて、フォードは、蒸気に代るガソリンの熱エネルギーに興味を持っていた。
馬のいらない馬車≠ェ、フォードにとって当面の目標であった。
そして彼は、日清戦争の直後の一八九六年に、ガソリンエンジンで走る自動車第一号を作り上げることに成功した。
一九〇三年、彼はフォード自動車会社≠設立した。日露戦争|勃発《ぼつぱつ》の前年のことである。最初は経営が困難であったが、やがて社会は馬のいらない馬車≠フ便利さを認めてくれた。
大衆のなかから生れたフォードはあくまでも、安くて丈夫な大衆車の量産を目ざした。一九一三年、第一次大戦勃発直前、フォード会社は年産二十五万台に達した。量産の結果、一台五百ドルという低廉な大衆車を生産するに至った。中級サラリーマンの半年以下の給料で買える値段にしたのである。
そして、翌一四年、職工の最低賃金一日五ドルという驚異的な高給制度を実施し、話題をまいた。
自動車メーカーとしての成功者であるフォードは、その一面、社会事業家でもあった。第一次大戦が始まると、彼は平和の船というものを仕立て、アメリカの平和主義者たちをヨーロッパに送って、列国の指導者たちを説かせたが、これは自動車を作るよりは難しく、成功しなかった。
その反動でもあるまいが、彼はアメリカが参戦すると、猛然と兵器の製作に協力し、巨富をかせいだ。
それは第二次大戦でも同じで、彼は軍事生産に拍車をかけた。根は実利主義者であったのであろう。
従って、労働組合には理解が少なく、組合を認めたのは、一九四一年太平洋戦争開戦の年である。
彼はロックフェラーやカーネギーに比せられる大財閥であるが、その慈善事業ははなやかではない。一九三六年にフォード財団が発足し、科学、教育の振興に活躍している程度である。
戦争が終った二年後、一九四七年、彼は八十五歳でデトロイトで死去した。
英雄、大物好きの松岡にとって、自動車王フォードはよき話し相手であった。
二人は昼食をともにして歓談した。
残念なことに、フォードは、自動車のマーケット以外にはあまり興味がなく、松岡が必死になって説く満蒙問題には関心を示さなかった。
「満州ではどの程度自動車が普及しているか?」
とフォードが訊《き》いた。
「さあ、上流階級の者しか乗っていませんな」
と松岡は答えた。
「支那人がアメリカの自動車を買う可能性はどうか?」
という質問にも、松岡は、
「支那人の大部分は貧しい。日本がよほど援助して経済を建て直さない限り、大衆が自動車を乗り回すなどということは、遠い夢でしょう」
と答えた。
フォードは索然とした表情を示したが、
「では、日本のよき指導によって、支那の大衆が自動車を買えるようになるまで待たねばなりますまい。しかし、その前に日本が自動車の技術を向上させて、支那に自動車を売りつけるようになりはすまいか?」
と訊いた。
「日本の自動車製造技術はやっと緒についたところです。御社と競争するようになるまでには、二十年はかかるでしょう」
と松岡が答えると、自動車王は安堵《あんど》の表情を示した。
予想に反して、フォードが自動車のことにしか興味を示さないので、松岡は明らかに落胆していた。
彼はむしろ、本館正面に掲げられた文章の方に関心をもち、自分でメモをとった。
それは、
「人類は三つの主要なる技術、すなわち、農、工、運輸にたずさわる人々によって作られた橋の上を古きより新しきに渡った」
というもので、その上には、ダーウィン、エジソンなどの二十一人の天才の名前が刻んであった。
松岡には彼らしくないデリケートな好みがあって、スプーンを集めていた。それを聞いた自動車王は、昼食に使った銀のスプーンにナイフでHenry Fordと彫ると、松岡に贈って喜ばせた。
シカゴを発《た》った松岡は、いよいよ懐しの第二の母<Cザベル・ダンバー・ベバリッジ夫人の旧居のあるオレゴン州ポートランドに向うことになった。
ノーザン・パシフィック・レイルウェイ(北太平洋鉄道)は、シカゴから北上するとウィスコンシンのミルウォーキー、ミネソタのミネアポリス等の都市を通って西進した。
ウィスコンシンは酪農の州、ミネソタは農業の州であり、田園の風景が松岡を慰めてくれたが、その西サウスダコタに入ると、プレイリーと呼ばれる荒涼たる草原であり、ミシシッピー河の支流、ミズーリ河の長い鉄橋を渡るのが唯一の慰めという程度である。
四月の初めで、ミズーリは雪解けには早く、水かさもさして増してはいなかった。
偶然のことではあるが、筆者も昭和二十年十二月中旬、この同じ道を汽車で走った経験がある。
終戦時、筆者はテキサスのサンアントニオの南方にあるキャンプ・ケネディ収容所にいたが、十二月中旬、汽車でシアトルに送られることになった。
八百名ほどの日本人捕虜をのせた列車は、テキサスからのろのろと北上し、カンザスシティ、オマハを通って、ミネアポリスから北太平洋鉄道に入った。カンザスシティの引き込み線ではほとんど一日放置され、車内で退屈する日本兵たちを、近くの線路上に立った黒人の女があきずに眺めていたのを覚えている。彼女は、日本の力士ほどの大きな体格で、ラグビーのボールほどもありそうな乳房の上に、赤児をのせて、捕虜たちを注視していた。
列車はモンタナ州にはいり、イエローストーン河の鉄橋を渡ると、ロッキー山脈の登りにかかる。
ビリングスの町を過ぎると、石炭をたく汽車はあえぎながらロッキーを登ってゆく。
頂上の峠のトンネルを出ると、すぐビュートの町に着く。近くに世界有数の銅山であるアナコンダがある。まだまだロッキーの山中ですでに雪が深かった。
松岡が通った四月上旬も雪が相当残っていたと思われる。
列車は山中をうねうねとカーブしながら下降し、ワシントン州の町スポーケンにはいる。コロンビア盆地の入口である。筆者が行ったときは、山地から突然、近代的なビル街の町にはいったので驚いたものだが、松岡が通ったときはいかがなものであったろうか?
この町で、二十数年後世界万国博が催されようとは、到底予想も出来ない山中の静かな町であった。
スポーケンからシアトルに向うと、左側に富士山に似た休火山が見える。海抜四千三百七十メートルのレーニヤ山である。このあたりは日本人の移民が多く、この山もタコマ富士と呼ばれるが、富士山よりは六百メートル近く高い。少しとがりすぎているが、冬期は頂上に雪をいただいて、姿が美しい。
筆者たちも、この山の姿にしばし故郷をしのんだが、松岡も思いは同じであったであろう。
筆者たちはシアトルから船で日本に送還されたが、松岡を乗せた列車はシアトルで少憩をとると、南下し、タコマ市を経て、オレゴン州にはいり、懐しのポートランド駅で松岡をおろした。
松岡にとっては、明治三十五年以来、三十一年ぶりの帰郷≠ナある。
ポートランドは、田舎町で、駅のあたりも昔とはあまり変っておらず、松岡は懐しさに胸が迫って来るのを覚えた。
シアトルからポートランドまで長い馬車の旅で一緒になったベバリッジ夫人親子はどうしたであろうか?
当時の松岡少年は教会の斡旋《あつせん》で、ある家に住みこんだが、学僕とは名ばかり、薪割りをやらされるので、屈辱に泣いたこともあった。
それを救ってハイスクールに行かせてくれたのがベバリッジ夫人であった。
懐しい夫人の旧居は健在であろうか?
松岡はまず駅前から夫人の旧居に馬車を走らせた。
大正二年、松岡がアメリカ在勤となったとき、彼は慈母のようなベバリッジ夫人との再会を楽しみにしていた。しかし、夫人は胸を病んで、松岡がアメリカに着く直前に世を去っていたことがわかった。従って、そのときは、松岡はついにポートランドを訪れずに終ってしまったのである。
そして、今回も大きな落胆が彼を待っていた。
ダンバー家はちりぢりになっていた。
ベバリッジ夫人は夫に先立たれ、二人の子供とともに、弟のウィリアム・ダンバーと暮していたが、ダンバーは中国人|苦力《クーリー》を密輸したかどで有罪判決を受けたりして、もうポートランドにはいなかった。
ベバリッジ夫人の二人の子供の行方もわからない。健在であれば二人とも五十歳を越しているはずである。
肝心のダンバー家はとり壊されてあとかたもない。
気落ちした松岡は、しばらくダンバー家の旧居あとにたたずんでいたが、やがて一つのことを思いついた。
――碑を建てよう――
と彼は考えついた。
彼はポートランド市の当局と相談して、ダンバー家からほど遠からぬ墓地にいくばくかの土地を購入し、ベバリッジ夫人の碑を建てることにした。
オレゴン大学の卒業生である松岡を迎えたポートランドは、一応この世界的名士を歓迎するポーズをみせていた。先にも書いたが、オレゴン大学の同窓会雑誌「オールド・オレゴン」は、松岡について「本大学におけるもっとも著名な卒業生、もっとも偉大な同窓生である」という記事を掲載しているほどである。
『松岡洋右』によると、松岡はベバリッジ夫人の墓碑を訪ねたが、はっきりしなかったらしい。
松岡は新たに夫人の墓碑(記念碑)を建て、そのかたわらに桜の木を一本植樹した。松岡の感謝の気持を現わしたものであるが、松岡を悪くいう人は、これも、松岡の対米|宥和《ゆうわ》政策のためで、宣伝のポーズの一つだという。
墓碑の碑銘は前にも紹介したが、訳文を再記すると次の通りである。
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イザベル・ダンバー・ベバリッジを記念し、深き愛の手をもって松岡洋右これを建立す。母と並んで私の精神と人格を形成してくれた一人の女性に対する変らぬ感謝のしるしとして。
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一九三三年四月九日
この墓碑は八十センチ四角の花崗岩《かこうがん》の石碑に銅板をはめこんだものであるから、松岡がポートランド滞在中に完成したかどうかは、明らかでない。恐らく松岡がポートランド滞在中に完成は無理であったろうと想像されるが、吉沢清次郎書記官の回想によると、「ポートランドでは、ベバリッジ夫人の追善碑を建立、その除幕式が予定されていた」となっている。
しかし、松岡は初めから追善碑を建てるつもりで、ポートランド入りをしたのであろうか。
筆者は、『松岡洋右』の記述にあるように、ベ夫人の墓碑に詣《もう》でるためポートランドの墓地を訪ねた松岡が、今は墓碑すらもはっきりしないベ夫人の薄倖《はつこう》を偲《しの》んで、追善碑建立を思い立ったものと考えたい。してみると、桜の植樹はしたかも知れないが、墓碑の完成はみないで、ポートランドをあとにしたものと想像される。(注、後に書くが、実際は松岡がポートランド滞在中に墓碑は出来ていた)
松岡がシカゴをあとにしたのが四月三日ないし四日で、車中二泊したとあるからポートランドに着いたのは五日ないし六日である。そして、十日にはすでにサンフランシスコにはいっている。松岡はポートランドではオレゴン大学で講演をしているし、学位贈呈の話もあった。
『松岡洋右』の著者三輪氏は、昭和三十九年秋、この墓碑を訪ねている。碑は静かな森の一角に古びて残っていたが、かたわらの桜は三十年の歳月をけみしたにしては、小さく見えた。戦争中に、松岡に対する敵意のため、故意に伐《き》り倒されて、戦後再び植樹されたものかも知れない。
三輪氏はそのときの、松岡の精神構造について、興味ある観察をしている。その部分を借用してみよう。
「私はこの墓碑を見つけ文章を読んだとき、松岡の真意を直感したように思った。あたかもそのとき、亭々たる北国特有の針葉樹の梢《こずえ》を洩れてさしかかった秋の陽光が、啓示ででもあったかのように。――松岡は生みの母の国なる文化と、自分の青春を育《はぐく》んだ国への愛情に引き裂かれていたのではなかったのかと。その青春の国をたった今敵に回すような言動をしてきたばかりの彼が、まるで傷つきやすい少年のような優しい思いやりの心で、今は亡き恩人のために墓参をし、記念碑を建てようとは。これは彼がアメリカに対してもっていた愛と憎しみの振幅の大きさ、そして烈しさをそのまま反映していたのではなかろうか。(中略)私としては、松岡という一人の人格の愛の極限的な真実がここにはあったと思うのである」
一九二九年(昭和四)生れの三輪氏から、これほど理解ある評価を受けるとは、松岡としては望外のことかも知れない。「百年の後に知己を得る」という言葉があるが、松岡の死後十数年後に、早くもこのような若い知己が現われようとは、彼も予想しなかったであろう。
太平洋戦争末期、特攻隊を創始した大西滝治郎中将は、「百年の後に知己なかるべし」と遺書にしたため、敗戦決定の翌日割腹自殺をとげたが、特攻隊の影響はあまりにも大きかった。
ちょうど、筆者がこの原稿を書いているのは三月の終りで、家では白木蓮《はくもんれん》の花が盛りである。
新聞は二月初旬からのロッキード事件でまだにぎわっており、二日前、前野光保なる青年がパイパー機で児玉誉士夫邸に突入し、特攻攻撃≠行い話題をまいたところである。戦争の後遺症がまだ消えていないのか、それとも、日本人には先天的にそのように、直行的な短絡精神が備わっているのであろうか。
松岡の母校オレゴン大学では、松岡に名誉学位を贈呈する予定であった。
それがドクトル・オブ・フィロソフィー程度であるのか、バチェラー・オブ・アーツ程度であるのかはわからなかったが、とにかく、学位を贈ることに話が決っていた。
しかし、ポートランドに着いた松岡は、その話を断った。
「学位というものは、一定の学問をした後、自分で論文を書き、審査を受けてからうけるべきものだ。国際聯盟脱退という失敗をやらかして、有名にはなったが、自分は敗残の将だ。学位などというものは、虚名であってはならない。絶対に辞退する」
と吉沢書記官に言い、吉沢がどうすすめても、気持は変らなかった。
そのかわり、松岡は大学における講演をひきうけることにした。
この方は、うまくゆけば全米の新聞に出るだろうというもくろみがあった。
松岡の講演はオレゴン州以外では、少なくともサンフランシスコの新聞には載った。
見出しは、「松岡全権が母校で講演、アメリカも東洋に野心があったと述べ、満州問題をくわしく説明した」となっている。
松岡は次のように講演した。
「一八九五年の日本とチャイナの戦争の後、ロシア、ドイツ、フランスの三国が日本にインターフェア(干渉)して、下関条約で日本領と決った遼東《りようとう》半島を支那に返却させた三国干渉は有名な事実でありますが、その後間もなく、アメリカは米西戦争でフィリピンを獲得し、東洋における戦備を行った。
支那の政治家李鴻章は、かつて、ロシアを日本と戦わせ、もし、ロシアが勝ったならば、満州をロシアにくれてもよいという密約をエサとした。そして、最近の支那の政治家は、アメリカを日本と戦わせようとしている。アメリカが日本を叩き伏せた場合は、支那はどの地域をエサとしてアメリカに提供しようとしているのであろうか。
私はアメリカの大衆諸君に、支那人外交官の謀略に乗らないよう警告したい。混乱衰亡に近い支那が、強国と強国とを争わせて自国の存立を計ろうとするのは、三千年来の伝統的な策略であります。極東全局の和平については何卒《なにとぞ》、日本にお任せを願いたい」
この講演が、どのようにアメリカ市民に受けとられたかはよくわからないが、当時、松岡に対するアメリカ人の受けとめ方は非常に複雑であったことは間違いない。
『人と生涯』には奇怪なエピソードが出ている。
サンフランシスコでは、親松岡派の在留邦人が大歓迎会と講演会を計画していた。ところが、ポートランドにいた松岡のもとに、サンフランシスコの日本総領事から「講演会はとりやめ」という電報が入った。
「どうもおかしいな」
電文を見ていた松岡は首をひねった。
「このSORYOJIというのは、おかしいんじゃないか?」
と彼は吉沢に訊いた。
アメリカでは、電報を打つ際、総領事であっても、RYOJIと打電することになっていた。
「そうですな、これは偽電のようですな」
吉沢もそう答え、一応汽車でサンフランシスコに向うことになった。
列車は、カスケード山脈を左側に見て南下した。サレムという町を過ぎてしばらくすると、左側にスコット山という三千メートルに近い山が見えた。海岸に育って、平野の多い満州勤務が長い松岡は、アメリカ西海岸の荒涼たる山形に見入っていた。
オレゴン州からカリフォルニア州に入るころから、列車はシエラネバダ山脈の山中に入った。シエラはスペイン語で、鋸《のこぎり》または山脈という意味である。ネバダはどういう意味かわからないが、スペインの南部にシエラネバダという山脈があるところを見ると、このあたりがスペイン領になったころにつけた名前らしい。
サンフランシスコなどの名前が示す通り、カリフォルニアはその初期、スペイン人が入植していた。
カリフォルニアがアメリカ合衆国の領土となったのは、一八四六年に起った米墨戦争の結果である。
これに先立って、一八二一年メキシコがスペイン軍を破って独立すると、カリフォルニアやニューメキシコ(後のアリゾナ州やニューメキシコ州)はメキシコ国の領土となった。
筆者は、昭和四十九年八月号の「中央公論」に「実感的太平洋戦争論」という小文を発表しているが、それを引用しながら、シエラネバダ山脈の山中を汽車旅行した松岡の感懐にふれてゆきたいと思う。
列車がカリフォルニア州に入り、シエラネバダ山脈に入ると間もなく、左側に雪をいただいた紡錘《ぼうすい》形の美しい高山が見えてくる。
海抜四千三百八十六メートルのシャスタ火山である。タコマ富士のレーニヤ山より十六メートル高い。
「おお、ここにも富士があるな……」
松岡はまたしても望郷の念に駆られながら、シャスタ山に眺め入った。
やがて、汽車は山中を出て、サクラメント河に沿って南下し始めた。
左側には依然として、シエラネバダ山脈が悠然と連なり、列車はカリフォルニアの広大な原野にゆっくり脚を踏み入れてゆく。
――この雄大な平原を耕作する権利が日本人にもっと公然と許されていたならばなあ――そういう感懐が松岡の胸を占めていた。
四十万六千平方キロあるカリフォルニア州は、この一州だけで、日本本土の二倍に近い。平野は多く、気候は温和で穀物、果物の生産に最適である。
――日本も、ペルリの来る前に太平洋を渡ってこの地区に進出しておくべきではなかったのか。そうすれば、満州経営に血眼になって、列国の指弾を受けなくともすんだのだ――
歴史に関心の深い松岡の胸中に、そのような苦い感慨が流れていた。
一八四六年、アメリカとメキシコの間に米墨戦争が起り、一八四七年、アメリカ軍は首都メキシコシティを占領、メキシコは降服した。メキシコは、アメリカによるテキサスの合併を認め、さらに、ニューメキシコとカリフォルニアを僅か千五百万ドルでアメリカに売り渡している。
一八四七年といえば、弘化四年、明治維新より僅か二十一年前のことである。当時のニューメキシコは、現在のアリゾナ州(二十九万二千平方キロ)とニューメキシコ(三十一万五千平方キロ)で、これにカリフォルニアを足すと百一万三千平方キロとなる。
当時の一ドルは、今の一ドルよりは値打があったには違いないが、百一万三千平方キロ、すなわち、日本本土の三倍近い土地を千五百万ドルとは、いかにも安すぎる。(一平方キロがざっと十五ドルという計算になる)
アメリカも戦勝の結果、タダで百万平方キロもある土地をメキシコからむしりとったのでは、ヨーロッパ列国への聞えもあるので、一応、代金を払って恰好をつけたものであろう。(ちなみに当時の大統領は領土拡張政策で有名なジェームス・ノックス・ポークである)
もし、現在、メキシコがこれだけの土地を買い戻すとすれば、何兆ドルになるのか、おそらく天文学的な数字になるであろう。
松岡がアメリカのやり方に対してさらに無念に思うのは、米墨戦争の原因である。
それは、テキサスとメキシコとの境界線をリオグランデ河まで下げて欲しいというアメリカの要求に、メキシコが怒ったものであった。
現代の日本人は、テキサスといえば、アメリカ南部の代表的な州で、もともとアメリカ合衆国の所領という印象が強い。しかし、テキサスがアメリカ領になったのは、米墨戦争の結果である。それまでには複雑ないきさつがあった。
一八二一年、メキシコが独立したとき、それまでスペイン領であったテキサスはメキシコ領となった。しかし、このころから合衆国の白人の移住が激増し、一八三六年にはテキサス共和国として独立した。
もちろん、メキシコはこの独立を認めなかった。
このころ、テキサス共和国の白人たちは、合衆国の一州たることを希望し始めた。合衆国側からの誘いがあったことはもちろんである。
このテキサス共和国の成立に松岡は非常な興味を持っていた。満州国の独立に似ているからである。異るところは、満州国が日本陸軍のバックアップによるとはいえ、一応、ツングース族である満人の王国となっているのにくらべ、テキサスは入植した白人たちの共和国である点である。
そして、一八四五年、テキサス共和国議会は、合衆国の一州たることを議決した。テキサス州≠ヘ面積六十九万二千平方キロでアメリカ第一の州となった。(満州国は百十九万平方キロで、テキサスの二倍弱である)
メキシコは、テキサスの独立ならびに、アメリカの併合という勝手な行為に怒った。(このあたり、松岡はアメリカが満州に対する日本人の行為を怒るのはおかしい、と疑問を感じている)
そして、前述の通り、アメリカ側から、テキサス州の南境をリオグランデ河まで下げたいという強い要求があり、ついに一八四六年、米墨戦争が勃発するのである。
ジョン・ウェイン主演の映画で知られるアラモの砦《とりで》(サンアントニオ市郊外)の戦いはこのころである。ここでは玉砕するアメリカ人たちが英雄で、押しよせるメキシコ軍は悪玉に描かれているが、非は白人側にあったのである。
このように事件の推移をたどってみると、これはあきらかに合衆国の白人たちのテキサスに対する領土的野心にもとづくものとしか言いようがない。
メキシコは、独立戦争という血を流した戦いの代償として得たテキサスを、テキサス共和国という一種の詐術≠ノよってまんまと削りとられ、続いて起った米墨戦争では、貴重なカリフォルニアとニューメキシコまでもむしりとられたのである。
今日、アメリカ合衆国は南北アメリカ州でカナダに次ぐ大領土を誇り、文字通りこの新大陸で最強の大国であるが、この国からカリフォルニアやテキサスの鉱物資源(金、石油等)、農業資源(小麦、綿、果物等)を除いたなら、果して、現代の富強を誇り得たかどうか疑問である、と松岡は考えていた。
アメリカ人のフロンティア精神とは、よくいえば、開拓精神¢≠ュいえば侵略を美化した言葉ではないか、と松岡は若いときから疑問に思っていた。
いま、満州問題に関して、ヨーロッパ系の白人から日本が侵略国呼ばわりされているが、実際に侵略のお手本を示してくれたのはどちらが先なのか……。
アメリカがカリフォルニアを領有したのは弘化四年(一八四七)であるが、それからわずか六年後の嘉永六年(一八五三)にはペルリの艦隊が浦賀に入港している。
アメリカには、日本を近代化させた功労者はアメリカ合衆国で、その警鐘を鳴らしたのがペルリの来航であるという説が強い。
しかし、ペルリ来航を可能ならしめたのは、アメリカが米墨戦争に勝って、西太平洋にサンフランシスコ等の基地を持ち得たからではないのか。
もし、日本が鎖国をせずに、戦国時代初期から太平洋を横断してアメリカ西海岸に着いていたならば、メイフラワー号がボストンの近くに着いた一六二〇年ころには、日本の勢力はとっくにロッキーを越えてミシシッピーを渡っていたであろう。
フロンティア・スピリットなるものが、陣取り競争ならば、日本にもこの程度の行動の自由はあったのである。
もし、それが可能であったのならば、このカリフォルニアには、日の丸の旗がひるがえり、何も排日運動や、移民法案改悪などにおどおどすることはなかったのである。
そして、満州における満人の原主権が尊重されると同様に、アメリカ大陸におけるインディアンの原主権も認められるべきだ、と松岡は考えた。
そして、彼は愕然《がくぜん》とした。このように、歴史の筋道を立てて、世界の地図の区分けに疑問を持つ日本人が増加するにつれて、日米激突の危機は深まるに違いない、と彼は考えたのである。
むろん、合衆国の白人が今となってインディアンに土地を返す気づかいはない。それにもかかわらず、彼らは日本の満州侵略≠フ非を鳴らすであろう。
行きつく先は見当がつきそうであった。
松岡はひらけゆくカリフォルニアの沃野《よくや》に眼をやりながら、今一つの危険な国のことを考えていた。
それは、アメリカに有色人種侵略のお手本を教えた海賊の国<Cギリスである。
筆者の手元に昭和八年一月二十三日刊行の『最近世界地図』(三省堂刊)がある。筆者が中学二年生のときに使った教科書で、奇《く》しくも松岡洋右が南欧旅行を終ってジュネーブに帰り、脱退か否かを賭《か》けて、本国と秘密電を交わしているころ刊行された世界地図である。
この地図は現在では貴重な本と言える図書で、日本は赤く、満州国は濃いピンク色に塗ってある。
世界中にうすいピンクの領土が各所にあり、これがイギリス帝国領である。
主なものをあげると、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、東ニューギニア、インド、ベルチスタン、アラビア、そしてアフリカではエジプト南部、スーダン、ケニア、ソマリランド、タンガニカ、ローデシア、ベチュアナランド、南アフリカ連邦、ナイジェリア、黄金海岸(ガーナ)、シエラレオネ等である。ヨーロッパには、マルタ島、ジブラルタル以外にイギリスの植民地らしいものは見当らないが、反対にアフリカにはエチオピアのほかに独立国は見当らない。
この地図の第一図は世界現勢図となっており、前述の政治的色分けの下に、列国の領土と人口がグラフで示されている。
国の大きさは四角形で示され、人口は横に長い棒グラフで示されている。
面積ではイギリスがもちろん首位、人口面からみると、イギリスは二位になっている。
面積では、イギリス、ソ連、フランス、支那、アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチン、イタリア、ベルギー、ポルトガル、メキシコとなっており、日本はトルコ、チリなどについで二十四位、後年の盟邦<hイツは二十七位である。
イギリスは三千百八十一万平方キロを領し、九百六十八万平方キロのアメリカ合衆国の三倍強、六十七万平方キロの当時の日本の五十倍に近い。
人口からいっても、イギリスは支那の四億五千万に次いで第二位で、続いてソ連、アメリカ、フランス、日本、オランダ、ドイツ、イタリア、ブラジル、満州国となっている。
ここで注目すべきは、この前年独立した満州国が面積で十七位、人口で十一位にランクされていることである。
また、本国と植民地の比較がなされていることも興味深い。このグラフでは、面積は四角形で示されているが、植民地のある国は左下すみに本国の大きさが別の四角形で図示してある。これによると、極端に本国の小さな国、つまり植民地の大きな国は、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダ等すべてヨーロッパの国で、そのなかでも本国と植民地の比率が一番大きいのがイギリスである。
昔から英国型紳士という言葉が使われているが、イギリス人が紳士であるためには、世界一の植民地支配が必要であったのである。そして、イギリスは世界の各地に植民地を持っているが、日本にとって重要なのは、そのインド経営と、対中国政策である。
東インド会社の社員である英人クライブが、カルカッタの北方にあるプラッシーで、インド、フランスの連合軍を破ったのは、アメリカの独立より二十年ほど前の一七五七年のことである。この勝利によって、イギリスのインドにおけるイニシアティブは確立された。
十九世紀にはいると、イギリスはシンガポール(一八一九年)、マレー半島(一八二四年)と侵略を続け、いよいよ中国の本格的経営に乗り出した。その代表的なものが阿片戦争である。
筆者は戦争中に市川猿之助が欽差《きんさ》大臣林則徐に扮《ふん》した「阿片戦争」という映画を見たことがある。中国の民衆にむりやりにアヘンを売りつけ、暴利を貪《むさぼ》ろうとするイギリスを、林則徐が追い返そうとする。
林則徐の軍が広東《カントン》沖でアヘンを積んだイギリス船を爆発させ、英軍を撃破する。猿之助の林則徐が、「不法な外敵を撃退して祖国を守れ」と絶叫したクローズアップが、今も印象に残っている。
しかし、阿片戦争で清国は勝ってはいない。結局、イギリスの近代的装備の前に屈服して、一八四二年、清国は屈辱的な南京条約を結んで、イギリスの侵略を認めた。奇しくも米墨戦争の四年前のことである。
阿片戦争といえば、一般にはイギリスがアヘンを売りこんだためと考えられているが、その原因はいま少しく複雑である。
阿片戦争の原因は、イギリス人の極端なお茶好きにあると筆者は考えている。インドを侵略した東インド会社は、中国侵略の手始めとして、広東を窓口として交易を始めた。鎖国政策をとっていた清国は、広東一港のみを西方に対する窓口として開いていた。日本の長崎に似ている。
当時、イギリスはインドの綿花やイギリスのマンチェスターで紡がれた綿製品などを清国に輸出し、清国からは茶と絹を輸入していた。ところが、イングリッシュ・ティー≠ニいわれるくらい、三時のお茶の好きなイギリス人は、清国から大量の茶を輸入して、貿易の収支が大幅な赤字となった。
このため、悪徳と知りながら、ベンガル地方のアヘンを清国人に売りつけ、麻薬貿易によって巨利を博して、赤字を償おうとしたのである。
満州事変が起きると、イギリス人リットン卿は国際聯盟の特使として満州を調査し、日本の侵略を非難するリットン報告を作成して、松岡らを悩ませたが、紳士の国イギリスのやり方も決して紳士的ではない。
北京《ペキン》の清国政府は一八四〇年林則徐にアヘン追放を命じた。林則徐は前述のように広東では奮闘して英軍を撃退したが、英軍は北進して、上海、鎮江を奪い、南京及び天津《てんしん》に迫った。このため、清国は屈服して南京条約を結んだのである。
南京条約の主な条項は次の通りである。
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一、広東のほか廈門《アモイ》、福州、寧波《ニンポウ》、上海の四港をひらき、開港場を五港とする。
二、香港《ホンコン》島をイギリスに割譲する。
三、清国は林則徐が焼いたアヘンの代金六百万ドルを支払い、イギリスのつかった戦費千二百万ドルを賠償し、アヘンその他の貿易勘定三百万ドルを支払う。
四、イギリス、清国両国官吏は対等に交渉する。
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これによると、今日観光客でにぎわっている香港はイギリスに奪いとられてから、昭和五十四年ですでに百三十九年になるのである。
また、第三項の無法な収奪ぶりを見れば、イギリス人のジェントルマンシップはいずくにありや、と言いたい。ここでは、パイレートシップ(海賊根性)が全面的に発揮されている。
この南京条約はさらに追加条約によって、協定関税率、治外法権、一方的最恵国条項などが追加され、清国はイギリスの植民地的色彩を強めていった。第二のインドたらんとしつつあったのである。
そして、この条約締結後、イギリスは天下晴れて堂々とアヘンを清国民衆に売りつけた。あの紳士の国イギリスがである。
清国の至るところ、都会の片すみにはアヘン窟《くつ》が軒を並べ、清国人の知能的|麻痺《まひ》が促進された。
清国はイギリスが武力を背景にして強引に輸入せしめたアヘンによって無力化されていった。筆者はこの小論文(「中央公論」)で、太平洋戦争は、中国がヨーロッパの侵略勢力を受けて立つべきところを、日本が肩代りして代理戦争を行ったのではないかという問題提起をしているのであるが、十九世紀の中国は確かに弱体化していて、ヨーロッパの白人の侵略を独力で防ぐ力はなかった。瀕死《ひんし》の老大国であったのである。
このあと、イギリスはなおも清国侵略の手をひろげ、一八五六年にはアロー戦争を起している。
イギリス国旗を掲げた清国船アロー号が、海賊の疑いで広東の官憲から臨検を受けたことに言いがかりをつけたイギリスは、再び軍隊を派遣して広東と天津を攻めた。
野心家ナポレオン三世の治世下にあったフランスを誘ったイギリスの軍隊は、ついに北京に入城した。
このため、清国は、天津条約(一八五八年)、北京条約(一八六〇年)を相次いで結ばされ、植民地化は深刻となっていった。明治維新の十年ほど前の話である。天津条約の結ばれた安政五年は、井伊大老が勅許を待たず日米通商条約を結んだ年で、この五年前にペルリが浦賀に来航している。
このように並べてみると、英米というアングロサクソンの支配する国が、ひしひしと東洋に歩を進めているのを感ぜざるを得ない。
さて、天津条約、北京条約の主な点は次の通りである。
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一、清国は九竜半島をイギリスに割譲する。
二、清国は英仏に戦費各八百万|両《テール》を支払う。
三、新たに牛荘(営口)、登州、漢口、九江、鎮江、台南、淡水、汕頭《スワトー》、瓊州《けいしゆう》、南京、天津の十一港を開く。(これで南京条約による五港をあわせて十六港が開港されて、清国の主要港はほとんど開港したことになり、イギリスからのアヘン輸入はますます便利となるのである)
四、外国人の内地旅行と内川航行の自由。
五、キリスト教の伝道、アヘンの輸入販売、苦力《クーリー》の輸出≠認める。
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この第五項も、アメリカの奴隷制度とあわせてイギリスの有色人種支配を露骨に示したものと考えざるを得ない。
なお、このとき、帝政ロシアは、清朝の衰退につけこんで、沿海州を取得している。
日本はといえば、尊皇だ攘夷《じようい》だといって国内が二つに割れ、私闘が繰り返され、江戸幕府が滅亡のときを待っていた。
なお、この天津、北京二つの条約は、十四年間続いた「太平天国の乱」の最中に結ばれたもので、英仏両国は、この乱に対して清国政府を支援するのかしないのか、あいまいな態度をとっていたが、両条約が締結されて償金を得ると、直ちに清国政府に援軍を送り、反乱軍を撃破し太平天国の乱の指導者、洪秀全を自殺に追いこんでいる。
太平天国はキリスト教の影響を受けた洪秀全が、地上に労働者の天国をつくりだそうと試みた実験的な革新社会である。清朝からは長髪賊、髪匪《はつひ》などと反乱軍扱いされているが、現在の中国では革命運動の先駆として高く評価されているものである。
以上、筆者の小論を中心に、英米の東洋への歩んだ道を紹介してみたが、ポートランドからサンフランシスコに向う松岡の胸中を去来するものには、このような歴史的事実があったに違いない。
四月十日、松岡はサンフランシスコにはいった。宿所はフェアモント・ホテル(現存)である。
サンフランシスコには前大統領ハーバート・フーバーがいた。
松岡は講演会の前にフーバーを訪れ敬意を表した。ルーズベルトに敗れたとはいえ、フーバーの影響力を知っていた松岡は、今後の極東情勢について、フーバーのよき理解を得ておくべきであると考えたのである。
フーバーは一八七四年生れで、松岡より六年、ルーズベルトより八年年長である。
アイオワ州出身、スタンフォード大学卒。第一次大戦当時はロンドンにあって、アメリカの救済委員会委員長、フランス、ベルギーで食糧供給事業に従事、アメリカ参戦後は本国で食糧管理官、商務長官となった。従って食糧関係のスペシャリストである。
一九二九年(昭和四)共和党から出馬して第三十一代大統領となったが、折柄の世界恐慌にはさすがの食糧スペシャリストも手の施しようがなく、次期選挙ではルーズベルトに敗れた。
午後八時、松岡はドリームランド会館で講演を行った。日本人の多い土地であり、会場は五千の聴衆で満員となった。
しかし、松岡は必ずしも絶対的な人気を持っていたわけではなかった。
桑日《そうじつ》会会長塚本松之助の紹介で松岡が演壇に立つと、聴衆のなかから、
「松岡はアジア民衆の敵だ!」
「侵略者の手先松岡を許すな!」
などの罵声《ばせい》が起った。
これは左傾したグループの仕業で、あらかじめ混乱を予想していた当局は、二名の警官を松岡の身辺につけて護衛していた。
妨害にもかかわらず、松岡は熱弁をふるった。内容は従来と変らず、満州問題に関する理解を要請するとともに、国際聯盟脱退後の祖国に対する支援を要請するものであった。
アメリカ(本土)では、ここが最後の語りかけの土地なので、松岡の声音にも熱がこもり、演説は成功であった。
『人と生涯』によると、このときの松岡の演説の様子は、サンフランシスコに在住する桃中軒浪右衛門という人物が、全部シネマに撮影したとなっているが、そのフィルムは残念ながら見つからないようである。
松岡は四月十三日午後サンフランシスコを出港して日本に向うことになっていたので、この地における日程は多忙を極めた。
四月十一日午前、ホテルにはオレゴン大学の同級生で、南カリフォルニア有数の富豪といわれるパーカーが来訪した。
正午からは、同ホテルでアメリカ商業会議所、日米関係委員会主催の午餐《ごさん》会があり、ここでも講演をした。
折柄、サンフランシスコには、日本の少尉候補生をのせた練習艦隊が入港していた。
この日の夜は、若杉総領事主催の同艦隊司令部員招待晩餐会があり、松岡も招待されて、司令官や幕僚と懇談した。海軍の軍人たちは、国際聯盟脱退を深刻に受けとめており、やがてワシントン、ロンドン両条約も廃棄になれば、建艦競争となる。そうなればアメリカに勝つことは難しい、と慎重論をぶつものもいた。
松岡は急にはアメリカと戦争にはなるまい、と言った。そして、アメリカと戦争にならないよう、外交官としての力を十分発揮せねばならない、と所感を述べた。
翌十二日、疲れた松岡は金門湾で釣りをやって、一日の休養をとった。しかし、夜はNBC放送からサヨナラ・スピーチ≠ニして有名なラジオ放送を行った。
その大意は次の通りである。
「私は、アメリカと日本との国交については楽観している。その理由は、アメリカが太平洋の対岸すなわち極東の事態に関して、軍事的政治的に不安を抱いていない、という証拠が三つあるからである。
その第一は、アメリカがフィリピンに独立を与えようという動きがあることである。もし、不安があったならば、フィリピンは軍事基地としてしっかり抱きこんでおく必要があるのではないか。
第二はアメリカ海軍が、大海軍建設のための予算を要求していないことである。これはいわゆる仮想敵%本に対して、決して疑いを抱いていないことを示すものと言えよう。
第三は、アメリカの新聞界が、万里の長城で、日本軍と支那軍閥とが戦っていることに多くのページを割いていないことである。
世界各方面の煽動者《せんどうしや》は、日本の侵略的意図なるものについて、多くの宣伝を行って来たが、賢明なるアメリカの新聞記者諸君は、これらの宣伝の多くが事実無根であるということを知っておられたのである。
私は、日本もアメリカも、それぞれ自国の使命に邁進《まいしん》することを聡明なる道と信ずるものである。
我々両国はともに国内に多くの問題をかかえている。もし、アメリカが極東諸国に助力しようというならば、日本と支那を握手せしむることに力を尽すのが最善の道ではないか。
もしも、アメリカ国民諸君の欲するところが真の平和であるならば、諸君は日本を支持すべきである。
手段や形式は無意味である。スピリットで支持して欲しい。
それでないと、極東は一層の混乱に陥る。
それは、支那と日本の両国に対して有利ではないし、また、貴国の軍艦製造業者、武器、軍需品製造業者以外の国民すべてに対しても利益をもたらさないであろう。
ここの点を注意深く観察していただきたい。
難局は太平洋をこえて遠くまで拡がり、諸君はその影響から脱《のが》れることが出来なくなるかも知れない。
日本は、ある意味において、アメリカ、ヨーロッパ等の国々が支那の内戦に巻きこまれないよう、交通整理の意味で戦っていることをアメリカ人も知っていてもらいたい。
いうまでもないが、我々は何より熱心に平和を求めている。平和は東洋における日本のすべての行動の目的である。ある人々は日本の海軍についていろいろ臆測し、日本の仮想敵を米国と規定したがる。しかし、これは人間心理における誤った傾向であり、すこぶる危険な傾向である。なぜとなれば、往々にして仮想敵を真の敵と信じこむ人々がいるからである。
我々は、日米両国の海軍が、我々両国民を対立せしめ、互いに疑惑を抱かしめ、ついには戦争に導くような役割をすることをおそれる。太平洋の平和の護りたらしめたい、というのが私の願いである。
私は叫ぶ。
日章旗と星条旗とをして、永久に太平洋平和の象徴たらしめよ、と。
両国民をして、信頼と友愛のなかで、平和と人類の幸福の目的地に向ってともに前進せしめよ。
さて、親愛なるアメリカを去るに当り、諸君に対するお別れの言葉を日本語で発音することを許していただきたい。
このことばは、我々がいつも親しい友に別れを告げるときに使うもので、日本語のうちで、最も美しいものの一つです。それを今諸君に贈りましょう。
『サヨナラ』」
この演説は、アメリカで多くの反響を呼んだ。これもサヨナラ演説である。後世、松岡はジュネーブにおいて脱退声明のサヨナラ演説≠やったことで有名となり、これが戦犯に指定される一つの要因とされたフシがあるが、この稿をまとめるに当り、松岡がジュネーブでラストにサヨナラを発したという根拠は必ずしも明確ではない。少なくとも文献的にははっきりしないのである。
しかし、アメリカを去るに当って「サヨナラ」をラジオの電波にのせたことは、『人と生涯』にある記述からみて、まず間違いがないと考えられる。
あるいは、アメリカでのサヨナラ演説≠ェジュネーブにおけるサヨナラとすりかわっているのかも知れない。
さて、いよいよ第二の祖国ともいうべきアメリカに別れを告げるべきときが来た。松岡ら一行は四月十三日午後四時、サンフランシスコを出港した。
随行者は、吉沢書記官のほかに岡野俊吉海軍中佐、ほか外務省関係四人、このなかには手術の疲れから癒《い》えかけた堀口瑞典もいた。ほかに、ジャーナリストとして竹内克巳と聯合通信社の加藤万寿男がいた。
十八日、松岡の一行をのせた船は盛大な邦人団体の歓迎のうちにホノルルに入港した。
松岡は、総領事館の庭で、集った在留邦人のために一時間ほど演説した。
この演説の趣旨は、従来述べて来た「満蒙と東亜全局の安定」であったが、パブリシティに関心のある大衆政治家¥シ岡は、この島でとくに二世に訴える演説をつけ加えた。
その趣旨は次の通りである。
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私は終りにのぞんで、第二世の諸君に告げたい。
満州問題は日本にとって大きな問題であるが、世界全体からみれば小さいかも知れない。私は元来、日本精神を徹底さす第一歩を踏み出すためにジュネーブに行ったのである。誤解しないでいただきたい。聯盟を脱退して日本を孤立させるために行ったのではない。諸君、大きく眼を見ひらいて、世界を眺めていただきたい。隆盛を誇った欧州文明はすでに崩壊しつつある。しからば、破壊されつつある世界文明を救うものはだれか? そして、次の時代の文化は何処に起るべきであるか。
敢えて言おう。それは太平洋を中心にした文化でなければならない。
炯眼《けいがん》の士は知っている。
いまや世界は太平洋時代にはいりつつあるのである。ヨーロッパ中心時代は、これを支持する人々が認めると認めないとにかかわらず、過ぎさりつつある。
かつて、エーゲ海や地中海をとり巻いていた文明圏は、やがて、北海、ドーバー海峡を経て、大西洋に移った。
そして、二十世紀は太平洋の時代なのである。
この太平洋時代の夜明けに当って、環太平洋の文化はだれの手によって建設されるべきであるかといえば、むろん、日本とアメリカ以外にはない。
いまや夜明けを迎えつつある太平洋時代の文化を隆盛なるものにすることは日米両国の責任である。いや天から与えられた使命なのである。
この問題は日米両国にになわされた神の摂理なのである。
実は私が太平洋問題を重要視するようになったのは、諸君よりもっと若い時代からである。私が十五、六歳のころ、オレゴン州で学僕をやらされ、オレゴン大学の学生となったころにこの考えは始まっている。順序から言っても太平洋文明は、大西洋沿岸の文明より高いものでなければならない。
はっきり言おう。東西文化の融合こそ日米両国に課せられた使命であり、命題でなければならない。東西文化の融合を計って一つのヒューマニティに統一するのは、雄大にして愉快な理想ではないか。
諸君はかつてアジア大陸を横断したシルクロードという名前を聞いたことがあるであろう。ギリシャ、ローマの学術工芸の文明が、このシルクロードを経由して大唐の国に伝わり、ひいては日本に伝わった。日本はシルクロードの東の端に位置する。よく言えば、シルクロードを渡って来た文明の粋が終点の日本に集っているのである。
一方、ギリシャ、ローマの文明は、フランス、イギリスを経て、新大陸に渡った。そしてアメリカ合衆国は大陸を横断して、いまや太平洋に直面している。
東回りの文明と、西回りの文明とが、太平洋をはさんで、いまや握手しようとしている。世界は一つであるという神の摂理を感ぜざるを得ない。この文明の握手を阻む者は、処罰されるべきである。
さて、あらためて、二世の同胞諸君に申しあげたい。
諸君は光輝ある大和民族の血をうけついで米国市民としてハワイに生れた。米国領ハワイに、諸君は大和民族としての血を誇っているのである。私としては、大和民族発展の足跡を太平洋上のハワイに発見し得ることは、きわめて愉快なことである。これも神の一つの摂理である。
ある意味で私が興味をもっているイギリスの南アフリカ植民地開発者セシル・ジョン・ローズは、開拓の戦いの途中で、「この世に神は五割ぐらいしかない」ということを言っているが、私は百パーセント神は存在すると信じているがゆえに、あえて神の摂理というのである。
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(注 先に日本が満州を植民地的に開発しようと考えたとき、児玉源太郎大将がイギリスの東インド会社について研究せしめたことを書いたが、松岡は満鉄の理事になったとき、主として、イギリスの植民地開拓者について調べてみた。
多くの開拓者〔早く言えば侵略者であるが〕のなかで、松岡の興味をひいたのは、シンガポールを開いたラッフルズと、南アフリカの開発を進めた、典型的な帝国主義者、セシル・ジョン・ローズである。
ラッフルズはシンガポール港に銅像が建っており、別の機会に解説するが、セシル・ローズは現代からみても興味ある人物なのでここで簡単に紹介しておこう。
ローズは、一八五三年イギリスの牧師の子に生れた。その彼が後年南アフリカの原住民を征服するに当って、神様は半分しかいない、という言葉を吐くに至ったのは、イギリス式帝国主義の業の深さを思わせる。
しかし、ローズは地主の子でもあった。若いとき健康を害してロンドンでの出世をあきらめた彼は、新天地を求めて一八七〇年南アフリカにわたり、ダイヤモンドの採掘に従事し、財閥ロスチャイルド家と結んでダイヤモンドのトラストを作り、ダイヤモンドの独占を図った。このため、彼の会社は世界のダイヤモンドの九〇パーセントを支配するに至った。
さらに、キンバーリー方面で産金業に進出し、たちまちその手を各地に拡げ、世界最大の産金業者となった。
この財力をもって彼は南アフリカを経済的に支配し、鉄道、電信、新聞などの各企業をも支配するに至った。
東インド会社にならって、南アフリカ会社を作り、中央アフリカに近い東部の広い土地を征服し英領とすることに成功した。このイギリス本国の四倍に相当する土地には、ローズの名前をとって、ローデシアと名づけられた。
今日ローデシアが黒人圧迫でオリンピックでも問題になり、また内戦が続いていることは、実はセシル・ローズの遺産なのである。
彼はロンドンと手を結んで南アフリカ政界に進出し、一八九〇年には首相となっている。
また彼は3C政策を提唱し、インド洋をイギリス勢力の池とすることを考えた。3Cとは、カイロ、ケープタウン、カルカッタであり、いずれも従来は他民族の原主権のある町である。この三つを結べば、インド洋を制することが出来る、と考えたのである。
これは、当時カイゼルのドイツが3B政策を唱えているのに対抗したもので、スケールにおいて上回るものであった。
3B政策とは、ベルリン、ビザンチン〔イスタンブール〕、バグダッドで、カイゼルはこの三つを結ぶ直通鉄道を実現し、これによって、バルカンを制し、中近東にくさびを打ちこもうと企図したのである。
カイゼルの3B政策の夢は第一次大戦で打ち破られるまで続くが、ローズの3C政策は、シンガポールの経営と相まって、第二次大戦までは有効であった。
ローズは、イギリスの南アフリカ侵略に大いに貢献したが、その露骨な帝国主義は、英本国においても批判をうけるようになった。一八九五年ごろ、ヨハネスブルグを中心とするトランスブール地方を軍事的に征服する計画を実行に移したが、強烈な反対に会い、ついに彼は失敗を認め、首相の地位を去り、数々の要職からも去った。
一八九九年、イギリス植民地政策に反対するボーア戦争が起きたが、ローズは、その結果をもみることなく、一九〇二年、ケープタウン郊外の別荘で失意のうちに世を去った。
昭和四十八年秋、ケープタウンを訪れた筆者は、ローズの広大な別荘を訪れた。今ここはケープタウン開発博物館になり、またワインの醸造会社があって、観光客は極上のワインを免税で買うことが出来る。ローズは、悪徳帝国主義者として評判が悪かったが、彼の遺産六百万ポンド〔戦前の金で六十億円?〕は母校オックスフォード大学に寄付され、ローズ奨学資金となっている。現在、この基金の恩恵にあずかる学生は多いが、ローズがどのような足跡をたどったかに興味を持つ学生は少ないであろう)
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松岡が二世に与えた演説は興味深く示唆に富んでいるので、今少し採録してみよう。
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将来、世界を指導するものは、日米両国民である、と私は信じている。私はアメリカのある会合で、どちらが先に世界のリーダーシップを取るか競争しましょうと言ったことがある。むろん、よい意味でである。アメリカ国籍を持つ諸君も、高遠な理想を掲げて、これに向って突進してもらいたい。
太平洋の中心にあるハワイ、この地に今後百年、二百年の将来に大和民族の血をうけた偉大なるアメリカ民族が繁栄することを想像すると、愉快にたえない。
諸君は大和民族の血をうけた世界に誇るべき米国市民であることを忘れてはならない。
いまや、日本は内治外交ともに困難な局面に直面している。しかし、二世諸君、日本のことは決して心配することはない。日本のことは日本にいる吾々に任してもらいたい。諸君は一意専心、善良なる米国市民としてアメリカ文明、ひいては太平洋文明の建設に努力してもらいたい。
私は太平洋沿岸を歩いてみて、そこに人種問題があることを発見した。しかし、諸君は何も卑屈に感ずることはない。白人を毛嫌いする必要もない。自分は他の民族よりも偉大な民族であるという自覚を持ってもらいたい。といって、他民族を軽蔑《けいべつ》する必要もない。総合的な大和民族史が編まれるとすれば、諸君の繁栄は一に大和民族史の光輝ある一ページでなければならぬ。
ご存知のことと思うが、私はアメリカの大学を卒業している。正直にいって、在学中、幾度も自分は人種的偏見を持たれたことがある。そのときは腹も立った。しかし、歳をとってみると、世の中の見方も違って来た。冷静に見れば、人種問題何ものぞ、ということである。
諸君は大和民族ではあるが、同時に米国市民であることを忘れずに、大いに精進し、米国文明を百年二百年の後に、諸君の手によって光輝あらしめねばならない。これこそ人類のための尊き使命というべきであろう。(大久保源一編『松岡全権の演説』より)
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松岡がはしなくも、ハワイで打ち出した、米国市民としての二世の問題は、太平洋戦争|勃発《ぼつぱつ》とともに大きな問題となった。
米国に忠誠を誓った二世兵士の四四二部隊は、イタリア戦線に派遣され、ドイツ軍の歩兵と機甲部隊を散々に悩ませた。私は捕虜になって、ハワイの邦人抑留所に送られたとき、四四二部隊の話を聞いた。それは、「ハワイ報知」その他に大きく連載された。
そのなかで興味があったのは、彼らが勇敢であったのは「日本人は弱いと言われては恥だという思想にもとづくものだ」という話であった。
さて、いよいよ、松岡は四月二十日ハワイを発《た》って、二十七日、国をあげての歓迎のなかで、懐しの日本に帰るのであるが、その前に、興味ある現地取材のエピソードをお伝えしておこう。
筆者は、昭和五十一年四月十六日羽田を発って、サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク、サンアントニオ(テキサス)などを巡遊し、五月十五日羽田に帰投した。
途中、サンフランシスコとシカゴでは、松岡洋右の泊ったフェアモント・ホテルと、ドレーク・ホテルを見た。
いずれも現地超一流の高級ホテルであり、ガイドブックのランクによると、五つ星である。
ニューヨークでは、日程がつまっていて、松岡が泊ったというアストリア・ホテルを見に行くことは出来なかった。
しかし、とくにサンフランシスコのフェアモント・ホテルの、バロック風の豪壮な表構えを印象に残した私は、当時日本の全権として世界の注目の的であった松岡が、いかに堂々と門戸を張って、その向う意気の強い松岡外交を展開していたかを想像できたので、当時ニューヨーク随一といわれるアストリア・ホテルの華麗さも、想像に難くはなかった。
さて、ニューヨークをあとにした筆者は独立二百年で、インディペンデンス・ホール(独立記念館)に多くの観光客を迎えているフィラデルフィアを訪れ、さらに、ワシントンでは、東京新聞特派員の吉村信亮氏から現地の事情を聞き、南下して、アトランタで一泊した。ここでは、主として、世界的ベストセラー『風と共に去りぬ』の著者、マーガレット・ミッチェルに関する取材を行った。
ミッチェルは、一九〇〇年(明治三十三)、アトランタに生れ、アトランタ・ジャーナル紙の婦人記者として、才筆をふるった。主としてインタビュー記事が多く、世界的な美男俳優バレンチノとのインタビュー記事などが残っている。
一九三六年(昭和十一)、三十六歳のとき、唯一の長編『風と共に去りぬ』を書きあげ、一躍ベストセラー作家となった。
作品は、クラーク・ゲーブル、ヴィヴィアン・リーなどによって映画化され、一九三九年十二月彼女の郷里アトランタの映画館で、プレミアムショーがひらかれ、クラーク・ゲーブル、ヴィヴィアン・リーも、前夜祭に出席した。彼女の最良の作であり、ゲーブルと踊るミッチェルの写真が残っている。
彼女は第二作を期待されながら一九四九年(昭和二十四)アトランタのピーチトリー・ストリートで、交通事故のため死去している。四十九歳であった。
現在その辺には、マーガレット・ミッチェル・スクエアという交差点が残っている。
さて、アトランタで『風と共に去りぬ』の著者を偲《しの》んだ筆者は、ニューオルリーンズに二泊。フランス統治時代からの旧市街フレンチクォーターを見学した後、五月三日、西部劇で有名な南テキサスのサンアントニオに飛んだ。
ここでは、南東九十キロにあるケネディという小さな町を訪れる仕事があった。
ケネディは、昭和二十年六月から、十二月まで、私が捕虜として生活した収容所があったところである。北方のウィスコンシン州マッコイと共に、二つの旧収容所を訪れ、回想録を書くのが私の主な仕事であった。
サンアントニオでは、私はいま一つ重要な仕事を抱えていた。
それは、松岡洋右の甥《おい》、松岡五郎と会見し、洋右の回想を取材することである。
松岡五郎は、洋右の兄、賢亮の長男で、その弟の三雄は、山口県光市の市長を勤めていたが、五年ほど前死亡し、現在はその長男満寿男が光市長を勤めている。
松岡五郎の父賢亮は、洋右と前後して渡米し、サンフランシスコでレストランを経営していた。
その後、サンアントニオに移り、ここでもレストランを経営していたが、一九一五年(大正四)四十一歳の若さで急死した。
当時、洋右はワシントンの日本大使館駐在の書記官であった。
ちょうど、二人は久方ぶりに会う約束をしていたので、松岡は三百マイルを汽車に揺られて、サンアントニオに急行した。
『人と生涯』には、松岡三雄の話として、次のような回想をのせている。
「父がなくなったその秋には、たまたま兄弟は久方ぶりにサンアントニオで会う約束をしていた。そこで、洋右は、『ケンスケ、キトク』の電報を受けとると、さっそくワシントンからサンアントニオ行きの列車に乗った。
しかし、洋右が到着したとき、賢亮は息をひきとった直後であった。洋右が、『兄さん、おれだよ』とすがりつくと、まだ足にぬくもりが残っていたという」
洋右はこの五歳年長の兄から、精神的にも経済的にもいろいろと世話になっていた。洋右がオレゴン大学で苦学していたとき、賢亮はサンフランシスコでレストランを経営して成功し、何くれとなく弟の面倒を見たのである。賢亮は、移民の先がけをしただけあって、気性のしっかりした快男子であったらしく、現存する彼の写真は、八の字|髭《ひげ》を生やし、意志の強そうな顔立ちを示している。
松岡三雄の回想は、まだ次のように続く。
「叔父はまことに口惜《くや》しかったのであろう。帰りの汽車のなかで、三百マイルの間、ウイスキーを飲み続けたため、もとから弱っていた胃をすっかりいためてしまったそうです。亡父賢亮の遺骨は当時ワシントン日本大使館員であった斎藤博さんが、太陽丸で帰国するとき、日本に持ち帰って下さいました」
その斎藤博も、それから二十五年後には、駐米大使として、アメリカで客死し、遺体は巡洋艦アストリア号によって、太平洋を越え日本に運ばれる運命にあった。
亡くなる前の松岡賢亮は、サンアントニオの目抜き通り、ヒューストン街に店を構え、日本人のつくるヨーロッパ料理として大いに繁盛し、母のゆう、姉の松枝、妹の藤枝などに生活費を送金していたので、当時山口県三田尻に住んでいた松岡家は、賢亮の死によって大いに困窮することになった。
そこで、松岡家の経済は、その後、在米中の二等書記官洋右に大きく依存することになるのである。
筆者は五月三日、午後三時ごろ、サンアントニオのブロードウェー・ストリートにある、アラモ・トラベロッジ・ホテルに投宿した。一泊十三ドルのモーテルである。アメリカではよくこのトラベロッジ・チェーンを利用した。
すぐ近くには西部劇で有名なアラモの砦《とりで》がある。有名な西部の開拓者兼ガイドであるデイビイ・クロケットをはじめ、百八十八人のアメリカ義勇軍がサンタアナ将軍のひきいる二千五百のメキシコ軍に攻められ、一八三六年三月六日全滅した悲劇の場所である。
映画「アラモ」では、ジョン・ウェインがデイビイ・クロケットを演じている。テキサスの白人たちは、この後、サミュエル・ヒューストン将軍の軍隊がサンタアナの軍隊を撃破するに及んで、ようやくテキサス州の独立を獲得するのである。
現代のアメリカ人にとっては、アラモの砦は、テキサス独立、そして、アメリカ合衆国への併合の悲劇的な一里塚と考えられている。
しかし、前にも述べたが、筆者の見解は違う。
テキサスは、もともとメキシコ人が住んでいたところで、百三十年間、侵略者スペインが武力によって統治していたのを、一八二一年(文政四年、十一代将軍|家斉《いえなり》の治世)メキシコが独立戦争に勝って独立するや、メキシコ領となり、東部の白人が入植して、テキサス州の独立を計るのである。これは、白人たちの一種の謀略であって、独立の名のもとに、肥沃《ひよく》なテキサスをメキシコから分離し、やがて、アメリカ合衆国に合併しようと計ったものと筆者は見ている。少なくとも、白人社会の上層部はそう考えていた。(この点、関東軍の満州国経営と似ている)
従って、アラモの陥落は、USAのテキサス併合の一里塚であって、ここで勇敢に戦った人々は、USAのテキサス侵略の尖兵《せんぺい》となって命を落した犠牲者とみるべきである。
一八三六年、テキサスが独立してテキサス共和国をつくった年は、日本では天保七年、依然として家斉の治世で老中は水野|越前守《えちぜんのかみ》忠邦。遠山の金さんが活躍していたころである。
この後、一八四五年(弘化二)USAはテキサスを併合し、メキシコは直ちに宣戦を布告し、前述のようにメキシコは負けた。この結果、ニューメキシコとカリフォルニア百一万三千平方キロを千五百万ドルでUSAに売り渡すことになるのである。
話が少し先にとぶが、筆者はサンアントニオを訪れた後、メキシコとの国境の町エルパソに飛んだ。ここで台湾から来ている王君という中国人のテキサス大学生と知り合い、彼の案内で、郊外二十キロにある日本料理店、タチバナ(立花家)を訪れた。ここの主人の立花氏は、明治時代に渡航した日本の一世であるが、種々の話の途中、彼はこう述懐した。
「アメリカは広いのう。前はカリフォルニアにいたが、戦争で収容所に入れられた後、このテキサスに移って来た。テキサスも広い。日本は惜しいことをしたのう。せっかく、台湾や樺太や満州を手に入れながら、大東亜戦争で何もかも失ってしもうた。やはり、軍隊でというのは、無理があるんかいのう。そこへゆくと、アメリカは合理的じゃな。ニューメキシコでも、カリフォルニアでも、ちゃんと銭を払うて買いとるんじゃからのう」
筆者は、彼の話を聞きながら、こう考えた。――アメリカでは、テキサスの併合や、ニューメキシコ、カリフォルニアの買収について、このように教えているらしい。すなわち、テキサスは、メキシコの圧政に堪えかねていたのを、東部から移住した白人たちが独立させて、共和国とした。そして、その共和国の意図に従って、USAに併合されたのである。また、ニューメキシコ(アリゾナを含む)とカリフォルニアは、メキシコから金を払って合法的に買ったのであって、武力によって占領したのではない――
しかし、米墨戦争におけるメキシコの敗戦の直後、タダのような安い値で百一万平方キロを買いとったことが、平和的合法的な手段によるものかどうかは、後世歴史を学び、そして、ベトナム戦争等に介入するアメリカの政策を見たものには、自明の理であると筆者は信ずる。
さて、話をサンアントニオにおける筆者と、松岡五郎氏の会合に戻そう。
ホテルの一室に落ち着いた筆者は、電話帳でGORO・MATSUOKAの名前を繰ってみた。意外に簡単にその名前はみつかった。市の北西、ブエナ・ヴィスタ(眺めがよろしい、という意味か?)という地区に、松岡五郎氏はすんでいた。
「ハロー、モシモシ」
と、不安と期待とがいりまじった気分で呼びかけると、
「ハロー、コチラ、マツオカ」
という返事が戻って来た。
私はその声に、何となく懐しさを感じた。五郎氏とは、前に会ったこともないのに……。
「こちら、東京から来た豊田というものです。松岡謙一郎さんのお世話で、松岡洋右氏の伝記を書いております」
というと、
「ほう、ケンイチローののう……。東京から、わざわざ、それはまた……」
と向うも、懐しそうな声が返ってきた。気のせいか、日本語がぎごちなさそうであった。
五郎氏は、ホテルの名前を聞くと、
「ああ、アラモ・フォートレスの近くじゃな。すぐゆくよ」
と言って、電話を切った。私はシャワーを浴びると、荷物をかたづけ、カメラを持って、フロントにおりた。
間もなく、松岡夫妻が現われた。夫人の輝子さんは、英語が達者であるが、日本語はほとんどしゃべらなかった。
五郎氏は、やせぎすであるが、眼が鋭く、声も大きく、どこか松岡洋右と通ずるものを連想させた。
初対面のあいさつをすませると、三人で飯を食いにゆくことになった。夫人がメキシコ料理がよかろう、というので、夫人の運転する車で、ヒューストン通りから東へ行ったところの、大きなメキシコ料理店に入った。
かつてメキシコ領であったために、今でもテキサスはメキシコ人が多い。レストランのマネージャーやボーイも、メキシコ語と英語と半々である。
この日は暑かったが、レストランのなかは冷房が利いていた。私の知っているタコスその他のメキシコ料理が注文された。料理が来る前のひととき、私は、夫妻に外に出て写真をとらせてもらった。太陽光線が強かった。(残念ながらこのとき撮した写真は巻き取りの故障で現像に至らなかった。私は、翌々朝、五郎氏のみをフィルムに収めることが出来た)
運ばれたメキシコ料理を前にして、私はビールを呑んだ。メキシコ料理ならば、左掌の親指の根元に塩をのせ、これをなめながら、テキーラを呑むべきであるが、五郎さんが、昔は随分呑んだが、今は全然やらないといわれるので、遠慮したのである。
五郎さんは一九〇〇年生れというから、数え七十七歳であるが、すこぶる元気であった。やはり父のあとをついで、レストランを経営していたが、今はリタイア(引退)して、二人で暮している、と語った。
「一九三三年(昭和八)の春にのう、ぼくは、シカゴまで、洋右叔父に会いに行ったよ。ちょうど、国際聯盟脱退宣言を行って、アメリカでも注目されていたところじゃったなあ。ぼくがゆくととても喜んでくれてドレーク・ホテルのバーで一緒に呑んだんじゃが、とにかく、『アメリカとは絶対に戦争はしたくない。アメリカと戦争してはいかん。わしの目の玉の黒いうちは、戦争に持ちこむことはさせん』といっていたから、近衛内閣の外務大臣をやめさせられ、日本が戦争に突入したのは、洋右にとっては、残念なことじゃったとわしは思うな」
五郎さんはそう述懐した。
「なに、酒? これはよう呑みよった。ウイスキー、ブランデーが強かったな。ぐいぐい呑みながら、やはり、絶対にアメリカと戦争には持ちこまんつもりじゃ、と大声で言っとった。よほどその件が気にかかっていたんじゃろうのう」
五郎さんは懐しそうに、そう回想した。
松岡五郎さんの証言によると、松岡洋右は、国際聯盟脱退を前提として、ジュネーブでの会場を退場して以来、常に日米間の親交を胸中においていたものと見える。
このころから彼はアメリカとの不戦を考えていた。独、伊との提携については、当然、ほとんど白紙であったが、ソ連との友好持続、アメリカとの不戦については、すでに構想を持っていたのである。
そして、アメリカに対する方法論として、このころ、松岡は二つのテクニックを考えていた。
一つは、最初に強気の一撃をくらわせて、アメリカの度肝を抜くこと。これはオレゴン大学在学中に学んだ方法で、伸びゆく盛りのエネルギッシュな国アメリカのフロンティア精神に対しては、初めから頭を下げると馬鹿にされる。初めは強気に出て、相手に「こいつも相当なものだな」と思わせておいて、やおら、「では仲よくしよう」と握手を求める方式を彼は若いときから考えていた。
いま一つは例の頂上会談である。
彼は一流の話術でルーズベルトと意気投合し、再会を期していた。そして、その再会のときこそ、松岡が日本の命運を背中にになって、ルーズベルトと頂上会談を行い、日米不戦条約をとりつける時期である筈であったのである。
しかし、不幸にして松岡構想は破れた。そして、日本は大戦に突入した。日本を大戦に導いた真因はどこにあるのか。回を追って追究してみたい。
さて、メキシコ料理店で遅い昼食をともにした筆者と松岡五郎夫妻は、ブエナ・ヴィスタにある松岡邸に同行した。
松岡邸は中級住宅街にある白塗りの平屋で応接間を広くとり、白い犬が一匹いるだけで、老人夫婦二人だけの暮しである。
能の写真や浮世絵に飾られた応接間で、私たちは、アメリカや日本の話をした。
「日本には、エクスポ'70のときに帰って、謙一郎や弟の三雄にも会った。日本も変ったのう。都会的になった。――もう帰れんじゃろうのう」
五郎氏は、感慨深げに壁の浮世絵に目をやった。
「日本とアメリカとどちらがいいですか?」
私はそう訊《き》いた。
「ぼくは何しろ、サンフランシスコ生れじゃからねえ。アメリカは広くて、どこででも商売ができる。どんな人種でも、けっこう仲よくやってゆける。ここでも、黒人もおれば、メキシコ人もいる。それぞれやっとるよ。日本人に対する偏見はいまはないねえ。黒人に対しても、テキサスでも昔のような、トイレを別にするとか、レストランを差別するちゅうようなことはないな。だがぼくはやはり日本人じゃからねえ。日本へは時々帰りたいと思うな。当然のことじゃが……。だが、日本では、今でも松岡洋右は、大戦を始めた張本人のように思われとるじゃろう。ぼくらとしては、気分がよくはないなあ……」
アメリカ国籍を持つ五郎氏は、複雑な表情でそう語った。
暗くなってから、私は松岡家を辞することにした。サマータイム(アメリカではデイライト・セービング・タイム)なので、八時近くまで明るかった。
夫人が車で、私をトラベロッジ・ホテルまで送ってくれた。車に乗る前に、夫人は、
「ここはサンアントニオ河が市中を流れていて、夜は舟遊びがとってもきれいだから、明日の晩は、そこへ行きましょう」
と英語で言った。
トラベロッジ・ホテルに帰った私は、車を降りて、夫人に謝意を表すると、近くを散歩した。
アラモの砦までは歩いて五分ほどである。もともと修道院であったこの建物は、いまもその形をとどめている。
盛り場ヒューストン通りの裏の方を歩いてゆくと、コンチネンタル・バスのターミナルの前に出た。
「ケネディへ行くバスはないか」
と訊くと、
「ケネディへは、グレイハウンドが出ている」
と事務員が答えた。
ケネディは、私がかつていた捕虜収容所のあったところである。
グレイハウンドのターミナルは、そこから徒歩五分くらいのところにあった。
私はホテルに帰り、シャワーを浴びるとベッドに入った。
翌朝、私はグレイハウンド・バスで、ケネディの旧収容所を訪れた。大変懐しかったが、この話は割愛する。
ケネディから、グレイハウンドのターミナルに戻ったのは、午後五時すぎであった。
私はアラモの砦の方に歩いた。砦の前には観光バスが二台ほど並び、観光客が門から出て来るところであった。門の横のプラク(掲示板)を見ると、砦は五時半でしまることになっていた。砦の内部は外からも見えた。広い庭があり、南国らしい赤い花が咲いていた。あとは修道院であるから、見ないでもわかるような気がした。
実をいうと、私はグレイハウンドのターミナルから、アラモにゆく道がわからなくて、中年のメキシコ人に道を訊いたのだった。背の高い、メキシコ人としては裕福そうな――というのは、懐中時計の金鎖を、チョッキのボタンにからませていたので――その男は、おれについて来い、といって私を案内してくれた。
やがて、砦の前に着くと、
「これがアラモだ」
と英語で言い、修道院の門を指さした。その表情には、複雑なものがあった。今はアメリカ領であるが、かつてこの土地はメキシコ領であった。そして、アラモのころは、メキシコ軍の精鋭が、テキサス独立を叫ぶアメリカ兵を全滅せしめた、誇らしい戦跡なのである。
しかし、今日、観光バスでここを見物に来る旅行者のほとんどは、いわゆるアメリカ人、すなわち占領者である白人である。彼らにとっては、アラモは、テキサス共和国独立の一里塚であり、尊い犠牲者の血を流した聖地でもあるのだ。メキシコ人の表情が複雑になるのは止《や》むを得まい。私はアメリカに占領されていた当時の沖縄の人々の心情を思いやった。沖縄は日本に復帰したが、テキサスが再びメキシコ領となる可能性はない。
複雑な気持を抱いてホテルに帰った私は、松岡家に電話して、ケネディから帰って来た旨を告げた。
五郎さんが出て、
「あ、そうかね」
と簡単に答えた。サンアントニオ河の舟遊びに連れて行くとは言ってくれないので、私もそれで電話を切った。
陽はまだ高かった。
私はヒューストンの通りに出て、一軒のバーに入った。カウンターの前で、白人と、ソンブレロをかたわらにおいたメキシコ人たちが酒を呑んでいた。
私はテキーラを注文した。
掌の甲に卓上の塩をふりかけると、周囲のメキシコ人たちは好奇の眼をもってこの日本人を眺めていた。
塩をなめながら、テキーラをすすると、メキシコ人たちは、
「オー、ベリー、ナイス」
と叫び声をあげた。
「ムイ、ビエン(大変よろしい)」
と私はスペインや南米で覚えたスペイン語で答えた。
メキシコ人たちは、私に親しみを持ったようであった。
バーは三分の一がカウンターで、三分の二が玉つき場になっていた。ホールを使うビリヤードである。
白人とメキシコ人が玉を突くのを横眼で眺めながら、私はテキーラをあおった。異国の味がした。日本を遠く離れた味であった。
カウンターのなかのバーテンダーは、白人の男とメキシコ人の女であった。彼女は日本の旅行者に興味をもって、話しかけて来た。私は、四年前メキシコシティへ行き、テオティワカンのピラミッドや、ユカタン半島へ飛んで、マヤ文明の遺跡を見た話をした。彼女は羨《うらやま》しがって、
「自分はまだメキシコに行ったことがない」
と言った。メキシコ人の大半は黒人と同じく貧しいのである。そして、現在の彼女は、祖先の地であるメキシコよりも、海の向うのハポン(日本)やハポネス(日本人)に興味を持っているようであった。有色人種でありながら、アメリカをしのぐラジオや、カメラや時計を生産するハポネスは、彼女にとって興味の対象であったのである。
私はバーでかなりの時間を費し、日没のかなり後にホテルに戻った。もう、松岡五郎氏とも会うこともあるまい、と考えながらベッドに入った。
翌朝、九時ごろ、五郎氏から電話がかかって来た。
「今からそちらへゆくよ。昨夜は、何度も電話したが、いなかった。ワイフが、川遊びに行こうというとったのじゃが……」
と五郎氏は言った。早くにそう言ってくれたなら、ホテルで待っていたのに、と私は思った。
間もなく、五郎氏は一人でホテルにやって来た。小雨が降り出していた。夫人は学校の先生なので、授業に行ったそうである。
一昨日の記念写真を巻き取りの故障から失敗したので、私はホテルの廊下で、五郎氏だけの写真をとった。
オフィスの話では空港行きのバスが十時にホテルの前を通るというので、私はスーツケースを提げ、片手に傘をさして、通りでバスを待った。なかなか来なかった。
「おかしいのう」
傘を持たない五郎氏が、「エアポート・バス」というプラクの前に行って時刻表を見ると、バスは九時四十七分にこのストップを通過し、次は十時四十七分までなかった。オフィスは偽りの情報を提供したのであるが、アメリカでは、あるいは外国では、このような粗雑なインフォーメーションは珍しくなかった。
「ワイフがおれば、車で送ってあげるのじゃが……。バス、イズ、ゴーンじゃ」
と、五郎さんが呟《つぶや》くように言った。
私はオフィスに戻ってタクシーを呼んだ。
「まあ、五円(ドル)か六円くらいはとられるじゃろうな」
と五郎さんは言った。戦前の円タクの感覚を私は思い出した。
タクシーはすぐ来た。私はタクシーに乗りこみ、五郎さんとはそこで別れた。
「謙一郎や、三雄の息子の満寿男(光市長)によろしくな」
五郎さんは小雨に濡れながら、道路に立って、手を振りながらそう言った。一期一会《いちごいちえ》という言葉が私の胸にきた。七十七歳の五郎さんはまだ元気である。肥満型の私よりも長く生きるかも知れない。そして、私はもうサンアントニオを訪れることはないであろう。
さて、サンアントニオの松岡家訪問のレポートはそのくらいにして、話をハワイにおける松岡の演説に関連する後日談に戻そう。
先に、第二次大戦勃発後、ハワイの二世兵士がイタリア戦線で奮戦した話を書いたが、この九年前に、松岡はアメリカから帰国後、山口県の郷里に帰り、旧師重岡文之進と会ったときに、次のような話をしている。
「アメリカでは、人種差別の問題とともに、日系二世の国籍問題についても語り合って来たが、ホノルルでは、日系市民に次のような話をして来た。すなわち、『日系市民は精神的には百パーセント米国人でなければならない。万一、日米戦争という不幸な事態が突発したときには、米国籍を持つ日系市民は、ことごとく銃をとって立ち、米国のために、一命をなげうって第一線に立って日本軍と戦わねばならない。つまり、大和民族の血を有する日系市民が、最も優秀な戦闘力を発揮して、さすがは大和民族の血を受けた日系市民は強い、という観念を白人に抱かれてこそ、日系市民の名誉であり、これが大和民族の武士道である。もし、不幸にして、日系市民のなかで、米国に弓を引く者が出たならば、これは獅子《しし》身中の虫であり、大和民族の武士道から見れば、許すべからざる裏切者となるのである』と」
一般に、松岡は国粋主義者であるといわれている。しかし、神がかり的なファシストとなって、「和《あまない》」というような神道的な言葉を用いるようになるのは、三国同盟締結に成功して、ソ、米との和平を確かめ、世界の平和の推進者としての使命を確信して興奮状態になってからのことで、昭和八年、国際聯盟脱退当時の松岡は、日本の武士道というものを、なかなか合理的に解釈していたと言えよう。
松岡の話はまだ続いている。
「たとえば、幕末の長州征伐のころに、私が長州藩から芸州藩に養子にやられ、両藩の間で戦いが起きた場合には、私は芸州藩のために親兄弟のいる長州藩と戦うべきなのである。これが、大和民族の武士道精神で、大義親を滅すとはこのことである。
よく、日本からハワイや加州にゆくヘボ政治家≠竍ヘボ教育者≠ェ、『日系市民は日米親善の楔《くさび》だ』などというが、そんなバカげたことはあり得ない。これは日系市民を誤らせるもとである。日本の事情や日本精神は、日本で生れて、日本で育った者でなくては、真髄が把握《はあく》できない。
最後に日系市民に告げたい。諸君は決して日本や東洋のことを心配するな。日本や東洋のことは日本に生れた日本人が心配するから大丈夫だ。加州やハワイから日本や満州の方に出かけて来るようなおせっかいはするな。米国人につまらぬ疑いを起さすようなことはするな。日系市民諸君は故郷の米国にふみとどまり、医学、科学、文芸、芸術、法曹界、または運動の世界に刻苦精励して、白人をして頭を下げしむるに足る偉人を輩出せしめよ。これが日系市民の進むべき道なのだ」
ここまで読んでみると、松岡の考えはかなりはっきりして来る。彼は、日系米国市民を、日本人の血を引いているが故にあくまでも日本に忠誠なる日本人として拘束することはせず、むしろ、米国人として活躍することにおいて、大和民族の優秀性を誇示しようというのである。これは一種の汎《はん》大和民族主義≠ニもいえようか。松岡らしい構想である。
松岡は四月二十日、浅間丸でホノルルを出帆、同二十七日横浜港に入港し、祖国の土を踏んだ。横浜港では空前の歓迎を受けた。
森清人『松岡洋右を語る』は「涙の凱旋《がいせん》」の章で、かなりの美文調で、松岡帰国の状況を描写している。
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皇紀二千五百九十三年四月二十七日!
全日本の視聴をこの一角に集めた横浜港は、万里|一碧《いつぺき》、拭うが如く晴れて、今日ぞ帰るわれらの全権松岡洋右氏をのせた郵船「浅間丸」の入港を待っていた。
岸壁から眺めると、何という壮観であろう。埠頭《ふとう》は歓迎の大群衆で埋められ、空には数台の歓迎機が、爆音も勇ましく乱舞している。わけもなく目がしらが熱くなる。
午後一時半、わきかえる空・陸・水|三位《さんみ》一体の渾然《こんぜん》たる大歓迎|裡《り》に、巨船は静々と岸壁に近づく。愛好のパイプをくわえ、日章旗を打ちふっている元気な松岡全権の姿をボートデッキに発見したとき、群衆は怒濤《どとう》のような万歳の叫びをあげた。皆の眼に涙が光っている。小旗がハラハラと高鳴る。
右手に山高を、左手にパイプをもった、にこやかな松岡氏の笑顔がクローズ・アップして来る。船内からは祝福のバンドの音がわくように起る。船はついに岸壁についた。万歳があとからあとからと爆発する。映画の撮影班が右往左往する。形容の言葉もない、ただ感激そのものの光景である。
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何故の大歓迎であろうか?
現在の時点から考えると、国際聯盟脱退は、世界における孤立を意味し、アメリカとの戦争の危険を内包している。しかし、国民は満州を再び、聯盟の委員会が指示した形で返却することを好まず、あえて脱退に踏み切り、満州を確保した松岡を英雄として迎えたのである。もっとも、聯盟脱退の意図は政府、とくに強硬な意見をもつ内田外相によって松岡に伝えられたもので、松岡自身は聯盟会議場を退出するまでには、大いにためらっているのである。
しかし、国民は松岡を英雄として迎えた。このことは、当時の日本の世論と無関係ではあるまい。
浅間丸が横浜に入港する直前、松岡は船上から日本国民に対して次のようなメッセージを送っている。
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欧米を一周してようやく無事日本の土を踏む余は、数日来|頻々《ひんぴん》として日本各地から帰朝に対する熱烈なる歓迎電報を受け感謝しているが、実はかかる熱烈なる歓迎を受くる資格なく、かかる歓迎を受ければ受けるほど、自分の微力を痛感するのみである。国のことは国内にいると割合その真理がわからぬもので、遠くから見るとパースペクティブが見えるものだ。今回遠くから日本の姿を見て、余は心中深く憂いを抱きつつ、故国日本の土を踏まんとしつつある。幾度か繰り返した如く、聯盟から脱退することは、世界から脱退することではない。これから益々《ますます》自主的国民外交に精進せねばならぬが、外交というも、畢竟《ひつきよう》その国の実体の反映にすぎないのであるから、内を充実せずしてその国威を発揚することは出来ない。
非常時日本という言葉は、すでに数年来聞かされていることだが、果してわが朝野を通じて、真に非常時にめざめているのであろうか。
真にめざめているなら、到底見ることの出来ぬ現象が、今なお盛んに現われているではないか。世界の大国中、日本の如く因襲形式病にとらわれ、不徹底を極めている国がどこにあるか。イタリアはどうか。ドイツはどうか。英国ですら真の意味の政党政治はない。あれはアングロサクソンの生み出した一種のファシズムである。太平洋のかなた、あの米大統領の行動を何とわが国民は見るか。政党政派の別なく、米国民の九割は大統領を支持し、十二分に力をふるわせんとしているではないか。しかも米国の内政外交を通じて、わが国のそれと比較すれば、困難は何分の一かにすぎぬ。
フランスにおいても平時気分ではない。余は祖国の現状と比較して考えざらんとするも考えざるを得ぬ。余は微力、国民の期待に十分|副《そ》わざりしを恥ずるのみならず、せんずるところ、日本国民として、陛下及び国家に負うその本分を最善を尽して、果そうとしたのにすぎず、別に国民の感謝に値することでもないと思う。余を歓迎する趣旨は感謝に堪えぬが、非常時日本には、ただその分を尽さんとした余を歓迎する余裕はないはずと思う。日本の悩みは外にあらずして、内にある。外患にあらずして内患である。これを救う道は、日本精神に立ち返り、国民精神を作興するにあるのみ。
今、故国の土を踏まんとするに際し、万感こもごも至り、余はこれ以上口を開きたくない。かかる感じを抱いて帰る余の胸中をお察し願いたい。余はしばらく田舎に引きこもって、静かに思索したいと思っている。
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これによると、熱狂する国民よりも、松岡の方が冷静である。彼は聯盟脱退が、日本外交(というよりは、国策そのもの)の失敗であり、これが今後国民に大きな負担を課することを予感していたのである。
浅間丸から下船して、故国の土を踏んだ松岡は、山本条太郎、谷アジア局長、真崎参謀次長らの出迎えを受けた後、鉄道省特別仕立ての全権列車に乗って、横浜港駅を出発、東京駅に向った。線路の両側では、小、中学校の生徒、青年団員、婦人団員らが、日の丸を振り、万歳を叫んだ。
松岡が一方の窓からばかり応答しているので、だれかが、「こちらへも顔をみせて下さい」というと、松岡は「ああ、そうか」とそちら側に移動したが、そのとき、頬につたわった涙を拳《こぶし》でふくのを、取材のため同乗した森清人は見た、と書いている。
東京駅で下車した松岡は、歓迎の大群衆に手をふりながら、自動車で皇居前に進んだ。二重橋前で、最敬礼をすると、自動車で、靖国神社、外相官邸、首相官邸等にあいさつ回りをし、夕刻、麹町下《こうじまちした》六番町の自邸に帰った。
そのころ、皇居内の天皇はどのような心境であったのか?
国際聯盟脱退に関しては、当時熱河作戦が進行していたので、天皇が極力陸軍の自重をうながしたことについては、前にふれた。
内閣が聯盟脱退の決議を奏上すると、承認されたが、聯盟脱退の詔書については二つの注文をつけた。
一、脱退の止むを得ざるに至りしは誠に遺憾であること。
二、脱退をなすといえども、益々国際間の親交をあつくし、協調を保つこと。
『天皇(二)』によると、天皇は、孤独な抵抗≠試みておられたのである。
しかし、詔書|渙発《かんぱつ》にともなって発表された荒木陸相の訓示には、大切な詔書の解説紹介は見られなかった。天皇は陸軍から無視されていたと言えよう。
松岡をのせた船がサンフランシスコを出帆した四月十三日、十三年間天皇を補佐して来た奈良侍従武官長が退官した。奈良大将は、ときに天皇に対して吾が子に対するような愛情を抱きながら、よく補佐の大任を果した。後任は、満州事変の責任者、前関東軍司令官本庄繁中将であった。
天皇は寂寥《せきりよう》を感じておられた。
四月二十七日、松岡洋右が帰国し東京に帰ったことを、天皇はおそらく本庄武官長から聞かれたであろう。本庄は満州国建国の推進者であるから、英雄松岡≠フ帰国を力をこめて奏上したであろう。そして、三十一歳の天皇の額には憂愁の影が宿っていたのではなかろうか。
一方、松岡は自宅で開かれた歓迎会の席上、左のような話をしている。
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私は明らかに失敗をして帰って来た。今日のような歓迎をうけることなどは、夢にも予期していなかった。これはみな虚名である。私もまた国民もいたずらに感傷にひたっている場合ではない。日本はいまや未曽有《みぞう》の非常時に直面しているのだ。私は日本の前途に深い憂いを抱いて帰って来たのであるが、帰ってみると、一般にうわついた気分のみなぎっていることを感ぜざるを得ない。こんな調子では果して聯盟脱退の資格があったかどうかをさえ、疑わざるを得ない。本当に非常時意識にめざめていないのではないかと心配する。私はしばらく何も言わずに考えたい。ゆっくり田舎に帰って考えをまとめた上、非常時日本の進むべき道をはっきりつかみたい。
どうかしばらく松岡を忘れていただきたい。これが私の唯一のお願いである。
[#ここで字下げ終わり]
日ごろ鼻柱の強い松岡としては、何としてもしおらしい謙虚な言葉である。そして、これはポーズではなく、彼の率直な心境であったとみるべきであろう。
松岡は後年、日米開戦の元兇《げんきよう》のようにいわれたが、この当時、国民は彼に対して一般的にどのような考え方を抱いていたか? 世論≠代表する三つの大新聞の歓迎の辞(四月二十七日付)を摘記しておきたい。
朝日新聞
[#ここから1字下げ]
わが国の脱退が成功であったか、失敗であったかは別問題として、脱退はすでに断行された事実であり、日本として結局これ以上方法がなかったものである以上、過去のいきさつを、とやかく言ってみたところで始まらない。
松岡全権自ら、聯盟総会の結果について、目的を果さずして帰るのだから、敗れて帰るのだ、国民に対してごまかしはいわぬ、と極めて謙抑の態度を表しているが、問題は最早《もはや》聯盟を脱退したことの如何《いかん》ではない。松岡全権の強調しているように、聯盟脱退後の日本が行くべき道は真に自主外交に目ざめることで、自主外交とは孤立無援の外交に自己満足の馬力をかけることでは無い。真の自主的外交こそ真に国際協調の前提たり得べきものである。
国際聯盟を通じてのわが松岡全権の悪戦苦闘は、不幸にして酬いられなかったけれども、日本の立場、日本の東洋における使命と国民的確信については、国民の言わんとするところを、極めて率直に言い尽して遺憾なきものがあった。日本は聯盟に敗れたといえども、この点は過去において言いたいことも言わず、虚偽と追随を事とした無気力外交の型を破って、国民のために気を吐いたものである。聯盟会議がうまくゆかなかっただけ、その間の苦衷も多かったであろう。無事の帰朝を迎うるに当り、全権の労苦を心から多とするものである。
[#ここで字下げ終わり]
三紙のなかでは、朝日が一番短いが、ここで注目すべきは、「真の自主的外交こそ真に国際協調の前提たり得べきものである」という言葉である。
確かに、国際聯盟脱退後の日本は、国際的に孤立し、対英米政策として、独、伊と結ぶことになった。このためアメリカを刺激し、ついに太平洋戦争を誘発してしまったのである。
では、それなら日本はどうしたらよかったのか? 筆者は、二年ほど前の「中央公論」に「実感的太平洋戦争論」という小文を寄せたが、「太平洋戦争は避け得た」というのが、論文の趣旨である。
日本はアメリカの圧力に対処するために、独伊と結び、中国と事を構えた。これは、中国の戦国時代によくいわれた遠交近攻の策に類似する。つまり、近い国と戦い、その代り、遠い国と親しくして、この遠国に近国を牽制《けんせい》させるのである。
しかし、日中戦争から、太平洋戦争に関して、この戦略は誤っていた。ついに日本は両面作戦に追いこまれたのである。
以前に、松岡がオレゴン州ポートランドからサンフランシスコに向う途中の回想で、筆者の史観を述べたので、くわしくは繰り返さないが、日本は中国と結ぶべきであったのだ。中世以来、インドと並ぶ、あるいはそれ以上の世界の宝庫≠ニ目された中国に対し、ヨーロッパの白人の国が手を伸ばしたとき、日本は老大国清国を助けて、白人国の侵略に抗すべきであったのだ。
ところが、日本は明治から大正にかけて日英同盟を結んだことはあるが、一度も日清同盟や日中同盟は考えられたことがない。考えて見ればこれは不思議なことである。
イギリスの例をとってみよう。
イギリスはナポレオン戦争のときは、ロシア、ドイツと結んでフランスを抑えているが、カイゼルが頭角を現わした第一次大戦以降は、フランスを支持してドイツを抑えている。外交というものは、このように行われてこそ、自主的、かつ国際的と呼ばれるにふさわしいであろう。
松岡が聯盟を脱退したとき、日本国内では、朝日新聞が論じた如く、「自主的かつ国際的外交」を唱える声が高かった。
しかし、結局は、自主的ではあったかも知れないが、国際的には失敗し、大戦にもちこんだのである。
松岡自身は、中国と手を握ることを考えていた。満州国だけは、独立すると否とにかかわらず、日本の利権を開拓する土地として、中国人の了解をとりつけようと考えていたが、中国本土、いわゆる支那本部に関しては、彼は侵略、占領すべきではない、と考えていた。しかし、陸軍の仮借ない侵入に文句をつけるひまもなく、結局は三国同盟を結ぶの止むなきに至るのである。
この点、松岡外交は、陸軍のゴリ押しに押されて、必ずしも望んでいなかった三国同盟に追いこまれた、と見るべきであろう。
次に、もっとも長い論文をのせた、「東京日日新聞」の論旨をのぞいてみよう。
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国際会議に特派された代表者が、既定の案を携行し、その案を成立させて帰って来ることが使命であるとすれば、松岡全権は完全に失敗したのだ。いうまでもなく、日本政府の意見は――そしてそれは国民の意思でもある――聯盟をしてわが国の満州国に対する政策を承認せしめることであった。それが根本的な対聯盟方針であったのである。
しかるに、聯盟はついにわが国の満州国承認といえる重大なる政策を完全に否認して、口の酸くなるまで、わが国の政策を釈明擁護し来った松岡全権の努力を徒労に帰せしめてしまった。そしてわが国は聯盟を脱退し、今日は聯盟と睨《にら》み合いのまま、対立状態に立つに至った。この経過から言えば、松岡全権の使命は、確かに不成功に終ったのである。
それにも拘《かかわ》らず松岡氏の人気は高騰の一方であった。それはいうまでもなく、彼が英語に堪能であって、自由に意思表示が出来るという個人的修養の得のあったことも閑却することを得ないが、同時に彼が従来のわが国の外交官のように歯に衣《きぬ》を着せることに過ぎて兎角《とかく》遠慮勝ちであった型を破って、いうべきことを率直放胆に堂々と言ってのけたところに、まずわが国民の溜飲《りゆういん》を下げさせたことを忘れてはならない。
わが国の外交官は、外に出ると猫のようだという説は、長い間それが真実であるか否かは別として、一般に信ぜられていた。現に聯盟の会議においても、松岡氏が行くまでは、その心持でジュネーブ電報を見ればそうも思われたのである。
かくして松岡全権は凱旋将軍になったのであるが、我等は彼が凱旋将軍になったのは、ひとり彼自らの功ではないと思う。かくいえばとて、我等は彼の花々しき働きぶりに対してけちをつけるなどの考えは毛頭ない。ただかくいうことによって、我等はわが国の外交が、ここに一転機を描かねばならぬほど、わが国の立場が真剣になったことと、わが国の実力が充実して来たことについて、改めて、一般の注意を喚起したいからである。
松岡全権といえども、帝国政府が聯盟脱退の方針を決定しなければ、かりに自ら所決して自分だけを潔くし得るとしても、今日のように人気の揚がるはずはない。即《すなわ》ち彼が日本帝国の全権として言うだけのことを言い、わが主張の容《い》れられなかった時に、最後の切札として脱退を通告して、会議地を引き揚げたのは、実は、わが政府の方針を忠実に遂行したまでである。
そしてわが政府の方針は、実に国民の情操にぴったり合っていたのだ。否、国民の意思が政府をしてこの方針を決せしめたとも言える。故に松岡全権の功労は、国民的使命を鮮かに、そして手際よく遂行したということに帰着する。そしてこの功労に対して、彼は国民的歓迎に百パーセント値する。
我等は自主的外交を希《ねが》うこと久しかった。
けれども、今までは国力の未《いま》だ至らなかったのと、国力のなお多く足らなかった時代の因襲のためでもあったろう、わが外交はとかく追随の弊を免れなかった。
だから、外交官卑屈の攻撃は少し無理であったのだ。しかし、今やわが国は、わが国の生命線を守るためには、自主的外交を敢行し得る国力を備うるに至ったと同時に、世界の情況がわが国に有利になって来たのである。即ち環境もまた好転して来たのだ。
かくてわが国は、外国と交際を開いて以来、はじめて我は我なり、という独自の外交を打ち建て得るに至ったのだ。聯盟脱退、決して世界を敵とするわけではないが、形式的に言えば、五十余国と絶縁するのであるから、余程の決心と覚悟がなければ出来ないことである。わが国はそれをしたのである。
そしてその役割の主な大部分を松岡氏が演じたのである。だから彼はまた、わが国民の自主的外交の記念標の一となる特権をさえ持つ。その意味で我等は、彼の帰朝を歓迎し、その労に対して満腔《まんこう》の謝意を表する。
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東京日日の論旨も、自主的外交の時代が来たことを強調し、その招来の功が松岡に帰せられるべきことを強調しているが、松岡の使命が失敗に終ったことを認めている点では、朝日と同列である。
最後に、「読売新聞」の論説を紹介しておこう。
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国際聯盟の晴れの舞台に華々しき活動を続けて、文字通り孤軍奮闘、最後までよく戦い抜いた帝国代表松岡洋右氏は、その歴史的重大任務を終って、本日|以《もつ》て帰国する。
昨年十月二十一日故国を離れてから正に半歳、その間精魂をすり減らして折衝の任に当り、身命を捧《ささ》げて国威宣揚に努めた懸命の努力に至っては、恐らく筆舌に尽し得ないものがあったろう。その労苦に対して深甚なる謝意を表すると共に、今日の無事帰朝をまず祝福するものである。
不幸にして帝国政府は、その信ずるところに従って、国際聯盟の圏外に立たざるを得なくなったが、日支問題に関する限り、この事のあるべきは不可避であり、勢いの赴くところ真に止むを得なかったのである。
この点についても松岡代表のみを責むべき理由はどこにも見出《みいだ》し得ない。否、氏の不抜の信念と達識とがあったからこそ、案外急速にこの多年の因襲の絆《きずな》を断ち得たとも称し得るのである。氏の率直にして大胆な態度は、今回の役目には打ってつけのものであって、何人を派遣しても恐らくこれ以上の働きは出来なかったであろう。
日支問題が聯盟の俎上《そじよう》におかれてからの日本の立場は、ことごとく不利であった。満州事変に次ぐ、上海事変を以てするという一昨年から昨年へかけて紛擾《ふんじよう》の続出は、世界の世論を硬化せしめて、聯盟の空気は極度に険悪になったのである。
この空気の延長がスチムソン・ドクトリンの声明となり、リットン報告書の偏見となったのであるが、こうなっては最早救うに道がない。リットン報告書に対する帝国政府の意見書は、ほとんど顧るところとならず、国際聯盟の先入偏見を基礎とする理事会から総会へと持ってゆかれ、ここにおいて日本は条約侵犯者の最後の烙印《らくいん》をおされんとしたのである。
松岡氏が初めて聯盟の舞台に立ったのは、十一月二十一日の理事会の席上であるが、氏は起《た》って偽国家支那の全貌《ぜんぼう》を白日の下にあばいて余すところがなかった。これ氏の第一の巨弾であって、聯盟の蒙《もう》を啓《ひら》くに効果の少なくなかったものである。
続いて二十三日、二十四日の理事会において、かの顧維鈞の虚妄《きよもう》を叩きつけ、あくまでも和協手段による解決を主張し、寸歩たりとも譲らなかったのである。
十二月六日の総会においては、氏は正面切って堂々と帝国政府の立場を宣明し、歴史的大演説を試み、満州国の独立の必然を説明し、日支問題の聯盟による解決不可能を強調している。
不幸にして帝国政府の主張は、列国の認むるところとならず、ついに十九カ国委員会に付せられ、紛議を重ねた結果、遂に聯盟はその態度を改めず、本年に持ち越されて、二月二十四日の大団円となったのである。
同日、十九カ国委員会報告書の採決に当って、氏は最後の熱弁を揮《ふる》い、敢然として報告書反対の意見を述べ、例の四十二対一となって、翌日代表部引き揚げとなったのである。帝国政府は不幸にして聯盟脱退ということになったが、しかし脱退せざるを得ない事情は、わが松岡代表の数次の反覆説明によって、次第に明らかになったのである。聯盟の認識是正の上に、極めて効果的であった一点のみに見ても、松岡氏の功績は、没し得ざるものがあろう。
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三紙のなかでは、読売が最も字句の使い方が過激と思われる。
聯盟脱退を「多年の因襲の絆を断ち」と断定し、松岡の演説を「偽国家支那の全貌を白日の下にあばいて余すところがなかった」としている。しかし、新聞が世論を代表しようとする意図をもつものとすれば、読売の過激な文章も、大衆へのアピールをねらったものと受けとるべきであろうか。
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十二章 政党解消運動に奔走
松岡は、浅間丸から国民にあてたメッセージのなかでも、自宅における歓迎会のあいさつでも、「田舎に帰ってゆっくりと考えをまとめたい」「沈思黙考するために故郷へ帰るのだ」という意味のことを言っている。
しからば、その非常時日本の進むべき道とはなにか?
松岡の次の課題は、政党解消運動であった。
松岡はジュネーブから、矢島専平あての手紙に、「我が国はもはや政党政治は駄目に候」という意味の手紙を書き送っている。
聯盟脱退前後、彼はヨーロッパ、アメリカの政治体制について多くの観察を行ってきた。そして、「日本の政治家は、非常時を認識せず、あたかも平常時のように、政治遊戯にふけり、敵の小股《こまた》をすくう形式論に終始している」と批判している。
ソ連の共産一党体制、イタリアの黒シャツ党などが彼に影響を与えたのであろうか。
ヒトラーのナチスはこの年一月組閣し、同じ月、ソ連は第一次五カ年計画の遂行を確認し、第二次五カ年計画に関する指令を採択している。
日本も、単なる政党の権力争いに明け暮れしている時期ではない。ヨーロッパからアメリカへ渡る船のなかで、またアメリカから日本へ帰る浅間丸のなかで、彼は真剣にこの問題について模索を続けていた。
英米の歴史をみるまでもなく、議会政治は政党政治がよく、政党政治は、二つの政党が国民の投票によって交互に政権を担当する方式がよいことはアメリカに育った彼はよく知っていた。
しかし、彼の見るところ、あまりにも日本の政党政治は腐敗していた。明らかに金権政治であり、疑獄の生ずる温床が醸成されていた。
――これではいかん。是非既成政党をねり直して、国家を打って一丸とする組織を作り上げなければならぬ――
これが松岡の聯盟脱退後の課題であった。
松岡は知らず知らずのうちに、ファッショ化の道を走り出していたが、その原因はいうまでもなく、聯盟脱退による日本の孤立感であった。
そして、海の向うの若い大国アメリカが、灰色のスクリーンとなって、彼の前に立ちふさがっていた。この国を敵に回してはならぬ。戦ってはならぬ相手だ。そして、それには、相手がつけ入るすきのない強力な国家を作るべきだ……この発想から、彼は自然に全体主義国家の構想へと傾斜してゆき、やがて、神がかり的な「和《あまない》」を希求するようになるのである。
帰国して五日目の五月一日、松岡は日本放送協会のラジオを通じて、「ジュネーブより帰りて」と題して、全国放送を行った。論旨は、全権としての至らなかったことを国民に詫《わ》び、今後は一層非常時としての認識を強めるよう国民に要望したものである。
六日、松岡は郷里の三田尻へ旅立った。持参したものは、皇太后陛下(貞明皇后)よりの御下賜品「雪の梅」「千歳《ちとせ》の色」「菊慈童」の三種の菓子折りで、これらは、三田尻でむすこの帰りを待つ九十一歳の母ゆうのために、皇太后が下賜されたものであった。
さて、松岡の政党解消運動≠ヘ具体的にはどのような原因によって発想されたものであろうか。
『人と生涯』によれば、松岡がまず政党抗争の醜さに不信を感じたのは、昭和三年、満州某重大事件により、田中義一の政友会内閣が倒れたときのことである、となっている。
某重大事件とは先に詳説した張作霖爆殺事件である。
野党の民政党は、この事件を田中内閣の責任として――田中総理の指令による関東軍の策謀とみなして――きびしく追及、ついに田中義一は、天皇の怒りにふれ「もう顔をみたくない」とまで言われ、総辞職の止《や》むなきに至った。
田中義一は、大陸進出論者で、支那侵略にも野心を持っていたが、松岡にとっては郷党の先輩で、気のおけない性格であり、おらが総理≠ニして民衆にも親しまれていた。
張作霖爆殺事件は、戦後河本大作大佐の策謀であったことが発表されたが、当時満鉄副社長であった松岡は、ほぼその真相を知っていた。田中義一は事実上この事件には無関係であった。しかし、民政党はこの事件を政争の具に利用し、田中を失脚せしめたのである。
逆に政友会も、満州事変を利用して第二次若槻内閣の倒閣を計画したことがあった。
昭和六年十二月、政友会幹部の山本悌二郎は、数名の党幹部を連れて参謀本部を訪れ、第二課長と会い、軍部の力によって若槻内閣を倒すよう依頼した、と『太平洋戦争への道』(日本国際政治学会、太平洋戦争原因研究会編、朝日新聞社刊)には出ている。それによると、山本は、民政党内閣の倒閣をほのめかしたが、第二課長は、「国内的に軍隊が使用されるのは非常の時に限る」といって断った。残念ながら、この課長の名前は出ていない。
当時政友会の代議士であった松岡は党籍にこだわらず、この際、軍部に追従するよりも、若槻内閣を支持した方がアメリカや国際聯盟に対して日本の心証をよくする、と説いたが、結局失敗した。
既述の通り、安達内相が、「この際政友会と力を併せ協力内閣を作るべきだ。自分は職を辞してもこれを主張する」と主張したので、若槻内閣は十二月十一日辞職し、バトンを犬養毅に渡したのである。
おりから政党の腐敗≠ヘ、さまざまの要因から青年将校の憤激の的となり、昭和維新≠叫ぶ海軍の青年将校に犬養が射殺されたのは周知の通りである。
筆者が父賢次郎に聞いたところによると、この当時の政権争い、それに関連する猟官運動は極限に達していたという。内閣が変ると、県の警察部長はもちろん、村の駐在巡査まで変った、という話を聞いたことがある。
筆者は数年以前に、「小野田元少尉の母」という伝記を書いたことがあるが、そのとき、小野田寛郎少尉の父種次郎氏が、「昭和六年ころ、あまりにも政友会の横暴が激しいので、私は反政友会の旗印をかかげて県会議員に立候補し、当選したことがある」と語っていたことを記憶している。
犬養毅はあるとき「現在の日本の政党は、政権争奪団の集りである」と公言したことがある。
松岡は昭和五年二月から八年十二月まで、三年十カ月政友会の代議士を勤めたが、みせかけの多数決による日本の政党政治に絶望を感じていた。これが彼を政党解消運動に走らせた大きな原因であった。
五十三歳の松岡の胸に青年に似た愛国の想いが兆しつつあった。
しかし、この当時、政党の腐敗を嘆き、政党解消あるいは、一党統一論を唱えていたのは、松岡だけではない。
財界の巨頭久原房之助は、早くから一国一党論を唱えていた。
久原は政友会の代議士でもあり、幹事長を勤めたこともある。一八六九年(明治二)山口県生れで、この年(昭和八)六十四歳であった。慶大卒で実業界に入って成功し、日立鉱山会社を買収して久原鉱業を設立し久原商事、日立製作所などを経営した。有名な大煙突は、彼の発案によるものだという説もある。第一次大戦で巨富を得ると、義兄の鮎川義介に事業を委《ゆだ》ね、自分は政界に転じた。
久原は常に周囲に霧のようなものを張りめぐらせた不思議な人物で、日本の政財界に大きな影響を及ぼしたが、直接表面に出ることは少なかった。
右翼か左翼かわからぬようなところもある。辛亥革命のときには日本に亡命して来た孫文をかくまったこともあった。
現在、宴会場になっている目黒駅に近い芝白金の八芳園はかつて久原房之助の邸であった。(その昔は天下の御意見番、大久保彦左衛門の下屋敷があったと伝えられる)久原は誰に頼まれたのかわからぬが、孫文をこの広大な邸の一室にかくまっていた。
後年、二・二六事件に資金を提供し、黒幕とみなされる久原が、中国の社会主義革命に同情的であったとは考えられないが、太っ腹?な彼のことであるから、何か計算があったのであろう。
たとえば、支那はいずれは孫文一派の天下になると見通して、孫文に恩を売っておけば、後日なにがしかのためになる、というようなことを考えていたのかも知れない。
しかし、結局は久原も軍国主義日本の侵略政策推進の責任者とみなされ、第二次大戦後は追放になっている。
久原は長命で、戦後も追放解除後は日中、日ソ国交調整に活躍し、東京オリンピックの翌年(一九六五)、数え九十七歳で世を去っている。日本の近代史におけるビッグ・フィギュア(大物)の一人であるが、筆者にとっては、よく正体のわからない人物の一人である。一度その思考内容を調べてみたいものである。
久原のほかにも政党抗争に疑問を持つ政治家はいた。やはり政友会代議士で、松岡の先輩である山本条太郎である。
山本は政友、民政の両政党の連合による連立内閣の実現を主張していた。政党内の腐敗を知る彼は、徒《いたず》らに両党が抗争していると、結局軍部に圧倒され、軍部独裁の内閣が日本を牛耳ることを恐れていたのである。満鉄社長を勤めたことのある山本は、陸軍の強引な侵略政策の圧力を身をもって感じていたのであろう。
ただし、山本の政党連合が漸進的であるのにくらべて、松岡の政党解消挙国一致国難に当る、という構想は、かなり急進的であった。
松岡は伝記『山本条太郎伝』のなかで次のように山本条太郎と自分の意見の相違を説いている。
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実は、山本翁の眼中には、政友会も何もなかった。一政党のみを眼中におくべく、翁の考え方は、あまりにも国家的であり、また大きな人であったのだ。政党解消論の如き、とっくの昔からその根本において、私と同意見であった。
ただ、翁と私との意見の差は、翁がまだなかなか躍進的革新の時機が来ない、と考えておられていたのに反し、私はすでに革新の気運は迫りつつあると感じていた点である。
翁は、一応現在あるがままの機構のなかにいて、即ち政友会の中に我慢していて、内から政党解消の精神を貫くより外に方法はないと考えておられた。
しかし、私はevolution(発展)ではもはや追いつかぬ、革新でなければ駄目だ、と論じたのであるが、遺憾ながら、この点では翁の同意が得られなかった。
しかし、翁はその死に至るまで、政党解消の精神をもって現存機構の中にありながら、これを貫こうと懸命に、真剣に努力してやまなかった。
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ちなみに、山本条太郎は、昭和十一年三月、広田弘毅が内閣を組織した年に没している。彼は政党解消論の成果?である大政翼賛会の成立を見ずに没し、そして、日本の敗戦をも知ることなく世を去った。松岡よりは幸運であったというべきか。
松岡は山本に対して、常に先輩の礼をとっていた。上海で領事官補をしていた若き日の松岡をいち早く認めてくれたのが当時三井物産上海支店長であった山本であったからである。
しかし、昭和八年ともなると、ようやく老いた山本にくらべて、壮年の松岡はある意味で前衛的であったといえる。
国際聯盟の舞台を踏み、退場劇を演出して、脱退の圧力を身をもってひしひしと感じた松岡がここに日本に帰るやいなや挙国一致の必要を感じ、行動的になったとしても不思議ではあるまい。
『人と生涯』には昭和八年六月三十日、松岡が三田尻から友人窪井義道に送った手紙が載っているが、そのなかに、久原と、山本に対する批判がのっているから抜粋してみよう。
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現下政界の醜悪、小生には何の交渉もこれなく、唯苦々しく感じ候。久原氏一国一党論の如き、先夜御列座にて申し述べ候通り、小生の持論格別に異論は唱えざるも、唯不成功だけは明言致し候。それは久原氏のは、常に工夫に堕し、精神と実質を閑却せらるる傾きあるのみならず、久原氏御自身民衆などを知らざるが為《ため》に候。天一坊が信を天下に説きたりとて、何人が聴従致すべきか。石田三成ですら関ヶ原の敗を覚《さと》りたるに非ずや。松陰(吉田)自らは何の為《な》すところなくして武蔵野の露と消えられ候得共《そうらえども》、その後幾歳ならずして維新行われ候。是《これ》松陰の工夫に非ずして、其《そ》の精神に留めおかれし、大和魂の賜《たまもの》に外ならず候。
山本翁の連立説も工夫に失し候。小生の最も親しきこれら二老の説、小生一顧もあずからず、唯一笑に付して離京致し候心中御|憐憫《れんびん》下されたく。小生は目下釣りと老母への万分の一の報恩と、古聖先賢を偲《しの》ぶに余念なき境涯、当分田舎に静養を期し候。(中略)小生の心中は、頭山満翁のみ承知致しおられ候。(後略)
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ここで初めて松岡の文章に右翼の巨頭、頭山満の名前が出て来る。この年十二月八日に発表した声明書(後述)にも「和《あまない》」の精神という言葉が登場する。
昭和八年、国際聯盟脱退の年は、松岡の右傾化をある程度明確にした年と言える。
ここで、頭山満について、ちょっとふれておこう。
頭山は一八五五年(安政二)福岡県に生れた。松岡よりは二十五歳年長である。明治維新後は福岡藩の新政府に反対する不平士族のグループと交わり、前原一誠の萩の乱(明治八年)に関係している。この年、武部小四郎らとともに、反政府的な結社矯志社の創立に参加した。武部は過激な反政府論者で、西南の役に呼応して福岡の乱を起したが敗れた。慎重な頭山は箱田六輔らと結んで、明治十一年向陽社をおこし、さらに十三年、平岡浩太郎らと結んで有名な玄洋社を組織した。玄洋社は日本の大陸進出を社是として大アジア主義を唱え、その後、日清日露の戦争、日韓併合などに際しては、軍部と結んで、明治日本の擡頭《たいとう》にサイドから力を貸した。このため多くの志士が、玄洋社と大なり小なり関係をもつこととなり、彼らは大陸浪人と呼ばれた。
大陸浪人のなかには私利私欲を計る一旗組的ないかがわしい人物もおり、このため、頭山は大陸侵略を計った戦前右翼の教祖的存在として、戦後批判を受けるに到るのである。
余談であるが、昭和六年秋、満州事変が始まったころ、岐阜市に近い筆者の家に一人の客があった。当時筆者は小学校六年生であったが、朝起きると、子供部屋に立派な口髭《くちひげ》を生やした一人の壮漢が高いびきで寝ていたので驚いたことがある。彼は起きあがると、枕元のステッキをとって、ギラリとなかの刀を抜いてみせた。仕込み杖《づえ》である。
「いいか、おじさんはなあ、この刀で何人も日本に敵対する人間を斬って来たんだ。坊やも大きくなったら、お国のために働くんだぞ」
彼は大きな声でそう言った。彼の顔には傷があり、眼鏡も割れていた。
彼の名前は山田卯平といって、私の母の弟であった。母の兄山田祥吉は、青森県|野辺地《のへじ》町の出身で、東京の読売新聞の記者で小説なども書いていたが、若くして満州に渡り、満州日日新聞などの記者をしていた。山田祥吉は後に張作霖の伝記を書いたりするが、どのような思想内容の男であったかはよくわからない。
ただ、山田が長春(新京)にいるとき、満鉄職員であった豊田賢次郎と知りあい、その縁で祥吉の妹いとしが賢次郎と結婚し、四平街という町で長男の筆者が生れたことは事実である。
山田祥吉は文筆業者として終始し、満州事変以後は、満州に住んでかなりな健筆?をふるったはずであるから、ご存知の方もあるかも知れない。
弟の卯平は若いときから壮士を気取り、徒食していたようである。満州でも、大陸浪人として、活躍?していたらしい。
母の話によると、このときは、満州を食いつめて、日本に帰ろうと、神戸へ渡り、そこで酒を呑んでならず者とけんかをし、眼鏡を奪われて、散々に殴られ、仕込み杖を抜いてふり回し、やっと危地を免れて、岐阜県の姉の婚家を訪ねて来たものらしい。
翌朝、卯平は家を出るとき、母に無心を言って、眼鏡代として数枚の紙幣を受けとっていた。
「そのかわりこれをおいてゆく。これは清朝に伝わった貴重なヒスイの獅子《しし》を割って作り直したもんだよ。姉さん、帯止めにでもするといいよ」
山田卯平は、ステッキの頭についていたかなり大きな緑色の獅子の彫刻をねじ回してとりはずすと、母に渡した。
山田卯平が、玄洋社とどのような関係を持っていたか、彼が頭山満の思想をどの程度研究していたかは不明である。
彼が残したヒスイの獅子も昭和二十年春筆者がアメリカの捕虜収容所にいたとき、母が死んだので、どこへ行ったかわからない。当時は家計が苦しかったので、生計費に変ったものであろう。
山田卯平はその後二度と岐阜の家に姿を現わさなかった。
山田祥吉は、終戦時のどさくさで、満州で死んだといわれるが、その最後は不明である。
頭山満は大きな影響力を持った人物で、国内においても右翼の源流として重きをなし、後には政財界にも隠然たる勢力を持つようになった。満州事変、二・二六事件などで動いた軍人たちは、直接頭山の指揮は受けていないが、思想的には影響を受けており、日本の近代史を動かした一人であるということができる。
但し、頭山本人は表面に出ることをきらい、肩書もほとんど持たず、玄洋社の社長にもならなかった。一見東洋の豪傑風で、とらえどころのない風格を備え、それが当時の英雄崇拝の日本人の好みに合ったものであろう。そして、彼は常に清貧をモットーとして、私腹を肥やすことを慎んでいたといわれるから、事実とすれば、フィクサーとしてヤミ金を仕込み、豪邸に住む現代の右翼とは、品格が違っていたといえるであろうか。
頭山は、幸か不幸か、敗戦の年の前年、一九四四年十月五日、フィリピンに敵が来攻する直前、九十歳で死去している。戦後まで生きのびておれば、松岡、広田、大川周明などとともにA級戦犯に指定されていたかも知れない。
さて、話を松岡の政党解消運動にもどそう。
『人と生涯』にはこの時期、昭和八年ごろの雑誌の抜粋が出ている。
まず、近衛文麿「当代の人物を語る」(「日の出」七月号)からひろってみよう。
「松岡洋右君に対しては、悪口もあるようだが、とにかく一方の雄であり、国民的英雄である。人間は九十パーセントぐらいまで偉かったら、百パーセント偉いとした方がいい。(中略)松岡君にしても、外務大臣として適材であるかどうかは別として、あれだけの人材がまたとあるかどうかはわからない」
この時期に、早くも松岡を外務大臣にという声が出ていたのであろうか。近衛はまさか自分が総理のときに、松岡が外相として入閣して来ようとは考えていなかったであろう。
実際に、松岡が近衛内閣に外相として入閣するのは、これから七年後の昭和十五年七月のことである。
また「新潮」十月号のジャーナリストの時局座談会で、千葉亀雄が、松岡洋右のラジオ演説(満州事変記念日に際し国民に愬《うつた》う)の人気に対し、
「松岡などは、寵児《ちようじ》の価値は今はなくなってしまった」
と言ったのに対し、清沢|洌《れつ》が、
「それは違う。松岡はやはり寵児だ。最近の日本では、インテリ階級とマッス(大衆)の階級の考え方がはっきり分れてきた。インテリは西洋から来た学問を土台にしている。一方、マッスは日本主義を根柢《こんてい》としている。従って、松岡はインテリからは人気がないかも知れないが、マッスには非常に人気がある、と僕は考えている」
と言っているのは、印象的である。
清沢は昭和前期における秀抜なジャーナリストで後に昭和十五年「中央公論」に軍国主義批判の文章を書いたため、軍部から睨まれ、中央公論社長の嶋中雄作とともに取調べを受けることになるが、その史眼は常に透徹していたといわれる。
清沢は、松岡が自ら大衆政治家≠ニ称していたその本質を見抜いていた一人と言えよう。
このころ、松岡はひんぴんとして講演会に呼び出されていたが、その多くを断り、三田尻沖で釣りに専念していた。
『松岡洋右を語る』の筆者、森清人は、八月十五日付で、次のような書簡を松岡から受けとっている。
「唯、天地の気に合し、天意|那辺《なへん》に存するかを感得せんと努めおり候。時に大海に釣糸を垂るるも、一はこれがために御座候」
松岡は実は困惑していたのである。講演会では挙国一致を力説していたが、国際的に果して日本丸は世界の荒波を乗り切れるであろうか?
このころの松岡の念願は、終日瀬戸内海に釣り糸を垂れながら、これからの日本を、どうするかを思索することであった。
幕末の志士のように国家の経綸《けいりん》に心を悩ませていたのである。彼のなかに流れている長州の血がそうさせたのであろう。
しかし、彼の平安は長くは続かなかった。
公私多様の用件を携えて、三田尻の邸を訪問する客があとを絶たない。もちろん、重大な要件をもって訪れる要人もいたが、その多くはあやかり族≠ナあった。
国際聯盟脱退の英雄の顔を一目見ようというもの、今後の日本を背負う人物として、激励に来るもの、あるいは松岡が鯛《たい》が好きと聞いて、大きな鯛を桶《おけ》に入れて持参するもの、はては支那大陸で奔走中の同志のために献金してもらいたい、といって門前で頑張る大陸浪人くずれなど、母のゆうと、妻の竜子らはこれらの応対には手をやいたのであった。
松岡はそのころ、森清人にこう語っている。
「訪れて来る人々の深い心には全く申し訳がないと思ったが、全部断ることにしていた。一人に会えば他の一人にも会わなければならず、いちいち会っていたのでは、自分の時間がなくなってしまう。それでは何のために田舎に引っこんだのかわけがわからなくなってしまう。そこで沖に舟を出して釣りに専念していたのだが、なかには船を仕立て、沖まで会いに来て、何かを言わせようという人まで現われたので、これには全く閉口した」
当時の松岡に対する国民の熱狂ぶりが想像出来よう。
そのような騒ぎのなかにあって、沖の釣り舟のなかの松岡は茫洋として釣り糸を垂れていた。彼を乗せている舟のように、日本丸は茫漠として波間に漂っている。行方もさだかではない。ということは、松岡の思考も方向が定まり兼ねているということである。
彼は茫洋としたまなざしをあげて、水平線を眺めた。そして大洋のなかに揺られる小舟に似た小国日本の孤独を思った。
彼は立つ時期を待っていた。
そして、彼が上京し、ついに立ったのは、昭和八年十二月八日、くしくも、前年「十字架上の日本」という大演説を国際聯盟会議で行ってから丁度一年後のことであった。
この日、彼はまず明治神宮及び世田谷の松陰神社に参拝して、素志を奉告した後、自ら政友会本部に鈴木喜三郎総裁を訪問し、脱党声明書を朗読した。
内容は次の通り簡潔なものである。
政友会脱党声明書 松岡洋右
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国家滅亡の岐路に立つ今日の重大時機において、何よりもまず肝要なる一事は、国民のあらゆる能力を綜合《そうごう》統一し、真に一国一体となって、内外に国策を断行し、もって国難を打開すること、これである。故に国民の和衷協同を阻害するおそれあるものは、すべてこれを清算することが至当である、と信ずる。
この意味において私は国内における一切の党派的政争、階級的闘争を速やかに解消することの当然なるを認むる。
惟《おも》うに、現在の政党にあっても、敢て人材に乏しとしない。しかし、政党という固定的機構に掣肘《せいちゆう》されて、せっかくの人材が国家本位に活用されざるの憾《うら》みもまた尠《すくな》しとしない。
党は対立を招き抗争を生ずる。即ち党は国家の和を害し、国民の一致を破る。ここにおいて、私は独り政党人のみならず、国家各方面の練達堪能の士が、従来の固定的|繋縛《けいばく》を脱却して、純乎《じゆんこ》たる超党派的立場に立ち帰り、無私の精神をもって国家奉公の赤誠を尽さんことを衷心より切望するものである。
私はこの見地に立って、政党解消を要望する。本来、西洋流の政党政治はわが国情および国民性に適合せざるものであって、すでに一党一派が現下の非常時局を担当し能《あた》わざることは、如実に立証されている。また政党改善問題の如きもほとんど、百年河清を待つの感がある。少なくとも急迫せる現下の非常時局を担当するに足るだけの改善を速やかに行い得る見込みなきことは明瞭である。しかれども政党の解消は決して立憲政治の否認を意味しない。むしろ、何らの党派的対立抗争なく、一国一体の形においてこそわが国独特の立憲政治は行われるのである。
今やわが民族が世界の平和と、人類の文化に対し、一大使命を遂行すべき秋《とき》に際し、これに処する国民的用意をして、国家は全面的革新の要に迫られつつあるが、私はこの第一段の工作として、政党解消を主張するものである。この際、一切過去の行きがかりに囚わるることなく、まずもって政党解消をあっさり断行することすら困難なる状態にては、国家革新の如き、思いもよらざることであると考える。
すでにかくの如き確信を抱懐する以上、私自身政党にとどまることは矛盾を感じるが故に、ここに政友会を離脱し、虚心坦懐、政党人に対しては勿論《もちろん》、広く全国民に対して所信を問わんとするものである。
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松岡の行動から、かねてこの動きのあることは予知していたが、総裁鈴木喜三郎は、顔の筋肉をけいれんさせながら、松岡の声明を聞いていた。
鈴木は昭和七年五月、暗殺された犬養毅のあとをうけて政友会総裁の座についたが、どことなく悲劇の匂いのつきまとう政治家であった。
鈴木は神奈川県出身、東大法科卒。鳩山和夫(東大教授、早大総長、進歩党、政友会幹部)の女婿で鳩山一郎の義兄にあたる、というから、当時としては毛並みのよい方であったろう。司法畑の官僚として出世し、刑事局長、司法次官、検事総長を歴任した後、清浦内閣の司法大臣を勤めた後政友会に入り、田中義一内閣の内相、犬養内閣の法相などを勤めた。
当時天下の秀才一家といわれた鳩山一族のなかにあって、一種の風格をもち、腕の喜三郎≠ニいうニックネームをもっていた。しかし、彼が総裁となってからは、いわゆる挙国一致内閣の時代となり、政友会は政権を担当することなく、党内は内紛を続けた。加うるに昭和十一年の総選挙では、総裁自らが落選し、政友会の前途に暗雲を投げかけたが、翌十二年、鈴木の引退とともに政友会は分裂した。
昭和十一年、筆者は中学五年生であったが、政治に関心をもっていた父賢次郎は、鈴木の落選を新聞で知るや、「ううむ、腕の喜三郎が落選するようでは、政友会もまさに落ち目か」と暗い表情を示していた。
松岡は脱党声明の直後にかねて草案を練っていた「政党解消聯盟趣旨書」を公表するのであるが、これについて、石原莞爾は後年、「松岡の決起は遅きに失した。国際聯盟から帰った直後、大衆が沸きかえっているときに意見を公表した方が、世論を獲得し、成功の確率が高かったであろう」と批判している。
しかし、松岡としては、勉強による理論固めと、世論獲得への布石が必要であった。
その主な動きは全国遊説で、九月十八日、日比谷公会堂で「満州事変記念日に際し国民に愬う」を講演、続いて十月十八日岡山で、「世界の変局と帝国の地位」を講演。この月は、ナチス・ドイツが国際聯盟及び軍縮会議からの脱退を声明し、全世界に衝撃を与えた月であった。
十一月十一日富山高校で「青年と語る」を講演。また講談社発行の雑誌「キング」(昭和九年新年号)に「沈黙を破りて全国同胞に訴う」という長い論文を執筆した。
ここで、松岡の唱える政党解消の是非について考えてみたいが、その前に、彼の創立した政党解消聯盟趣旨書を掲げておきたい。
政党解消聯盟趣旨書
一、本聯盟の創立精神
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混沌《こんとん》たる世界の変局と急迫せる皇国の現状に鑑《かんが》み、私の最も念願してやまない所は、速かに国民の全能力を綜合統一し、真に一国一体となって、内外に国策を断行し、もって大和民族の世界的雄飛を期することである。
この意味において、国内における一切の党派的政争、階級的闘争、その他各方面における対立抗争を即時解消することの当然なるを認める。即《すなわ》ち国家の和を害し、国民の一致協力を破るおそれある一切の障害を除去清算し、国家各方面の人材が、従来の固定的機構を脱却して純乎たる超党派的立場に立ち帰り、公正無私の精神をもって奉公の赤誠を致さんこと、これ私の衷心より切望に堪えざる所である。
私はこの見地に立って、既成政党の解消を要望する。本来|覇道《はどう》に出発し、個人主義にもとづき、対立抗争を予定せる西洋流の政党政治は、我が国民性に適合せざるものであって、既に西洋諸国においてさえ、その破産を示し、これに対する批判修正が行われつつある有様である。いわんや我が国にあって一党一派が現下の非常時局を担当し得るものにあらざることは如実に立証されている。
また、世には政党の改善を主張する論者もあるが、少なくとも急迫せる現下の非常時局を担当するに足るだけの改善を速かに行い得る見込みなきことは明瞭である。仮りに五年十年の歳月を待って改善され得るとしても、それでは到底間に合わない。政党改善問題の如き、日暮れて途《みち》遠しの感がある。
政党の解消をもって、往々立憲政治の否認の如く考える論者もあるが、我が国情に対する認識不足の甚《はなは》だしきものである。一国一家を建国の大本とする我が国において、党派的対立抗争を常習とする政党政治こそは、翻訳的な借りものである。立憲政治は即政党政治ではない。我が国においては、天皇統治の下、一国一体の形において独特の立憲政治が行われるものであり、又行わるべきであると信ずる。
今や我が民族が、世界の平和と人類の文化に対し、一大使命を遂行すべき秋に際し、これに処する国民的用意として、私は一国一体主義による昭和維新の断行を全国民に提唱する。而《しか》して一国一体主義の基礎工作として、まず既成政党の解消を主張する。もしそれ政党解消の工作すら行い得ないようであれば、よく幾多の革新案が示されようとも、これを実行して、もって昭和維新を完成するが如きは、思いもよらざることであると信ずる。かの明治維新に際して、若《も》し徳川慶喜公の大政奉還と諸侯の版籍奉還がなかったならば、明治の聖代も今日の日本も生れなかったであろう。明治維新における諸先輩の英断を憶《おも》えば、今日において政党解消の如きは、さしたる難事ではないと考える。
右の主張にもとづき、今回私は政友会を離脱し、政友会公認として当選したる代議士を辞するに至ったが、更に私の主張と信念とを全国民に徹底化するため、政党解消聯盟なるものを組織し、この組織的国民運動を通じて所信を天下に問わんとするものである。
私は、いやしくも主義主張を同じくし、真面目に皇国の現状を憂うるの士とは、あらゆる階級層を通じ、提携協力して進みたいと念願している。ここに政党解消聯盟の創立を宣して広く天下同憂の士にうったえる次第である。
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このあとに、「二」として八カ条よりなる聯盟規約が記してあるが、昭和五十一年六月二十四日現在、この松岡の政党解消聯盟趣旨書は、筆者に多くのことを考えさせる。
まず、松岡は政党解消は立憲政治の否認ではない、と強調している。これは忠君愛国の志の厚い松岡としては当然の論理であるかも知れないが、日本の立憲政治が、議会政治を随伴する限り、松岡の主張は欧米流のデモクラシーとは合致し得ない。
むろん、日本は立憲君主国であって共和制体ではないので、松岡のいう立憲政治かつ議会政治であっても、天皇親政もしくはそれに近い天皇直属内閣(無党派)による政治は特殊形態として認められなくはない。
しかし、それはあくまでも非常の要請による特殊な形態でなければならない。
試みに百科事典(平凡社)の「政党政治」の項をみると、次のように定義している。
「政党政治は議会政治から切り離して考えることのできない政治の形態であって、政党が政治的実権をもつ政治である。それは複数政党の存在を前提とするのが普通である。一党独裁の政治形態も形式的には政党の政治には違いないが、この場合には通常、政党政治といわない。議会政治は多数決制を前提としているので、政権をとるためにも、一つの法案を通すためにも、多数の同志を必要とする。このため、政党の存在が欠くことの出来ないものとなる」(中村哲)
ここまで読むと、松岡の政党解消運動は、議会政治の根本原則と相容《あいい》れないものといえる。但し、彼は政党が政権をとるための陰湿な手段、また政権をとってからの政党の腐敗に絶望したため非常手段に訴えたものであって、非はむしろ疑獄等によって腐敗した政党の側にあったかも知れない。
このころ、既成政党にあきたらず、新党結成の動きはすでにあった。安達謙蔵、中野正剛らは民政党を脱して一九三二年(昭和七)国民同盟を組織している。中野正剛はつねに現状にあきたらぬ性格の人物で、このほかにも東方会を指導し、また第二次大戦末期には東条英機の政策を批判して自決している。
このほかにも、社会民衆党、全国大衆党などがこの時期に新しく組織されている。
しかし、私には、松岡が当面の敵を間違えたような気がしてならない。日本に非常時をもたらし、やがて窮地へと追いこんでゆくのは、軍部の国粋主義であり、超国家主義である。統帥権と、現役軍人大臣制を利用した軍部が、日本を大陸侵略と大戦突入に追いこんでゆくのである。これについて松岡はどう考えていたのであろうか。
前記の百科事典の「政党政治」の項には、さらに次のような定義がのっている。
「政党政治は、政党内閣の成立を必要とする。政党政治に対立する概念は官僚政治であり、軍部政治である。……官僚内閣や軍部内閣のもとでは政党政治は成立しえない。政党政治は複数政党の存在を前提とするので、一党の支配を主張する場合の社会主義の政治とは対立する」
松岡は果して、政党解消が成功した暁に、擡頭しつつある軍部独裁に対して、どのように対抗しようとしていたのであろうか。
ここで『人と生涯』から一つのエピソードを紹介しておこう。
戦後松岡を評する人は、松岡は軍部と手を組んで、日本を戦争に引きずりこんだ張本人であると、単純に考えている人が多いが、松岡は決して軍部にお辞儀をしていたわけではなかった。
『人と生涯』は、角田時雄が「民主公論」(昭和三十三年一月号)にのせた小文をのせている。
角田は昭和八年当時、九州日日新聞社社長で、松岡とは親しくしていた間柄であった。
松岡が政党解消運動のため各地を遊説していたころのことである。
ある地方都市での歓迎会の席上、陸軍の某師団長が立って、
「松岡全権の聯盟脱退は、わが陸軍の毅然《きぜん》たる方針であった。松岡全権は脱退によってわが国威を海外に輝かしたのである」
と、まるで松岡が陸軍の走狗《そうく》であるような言辞を弄《ろう》した。
突然、むっとした表情で立ち上った松岡は、
「師団長閣下、貴兄は軍人ならば戦場のかけひきというものを御存知であろう。敵の大軍のなかに孤立して、味方の小勢を擁してその事態すらも分らず、ただ得意になっていて国家の安全が期せられると思われるのか!? 聯盟脱退が愉快な壮挙ならば、内田外相は癈人《はいじん》同様になるまでの苦労はされなかったのだ!」
ときめつけた。
当の師団長は蒼白《そうはく》になって下唇を噛《か》みしめ、一座はしゅんと静まり返ってしまった。
陸軍が松岡を利用しようとしたことはあるが、松岡が陸軍の大陸侵略政策に同調し、その走狗たらんとしたことは、この段階ではなかったと言える。
また、松岡の趣旨書をみて目につくのは、「昭和維新」という言葉を強調していることである。
たまたまこの原稿を書いている昭和五十一年六月二十四日夜、NHKでシーメンス事件を扱ったドラマが放映された。これは現在捜査が進行中のロッキード事件と関連して企画されたものであるが、大正三年に生起した海軍の収賄事件を扱った小原直検事の言葉のなかに「時あたかも大正維新のときに当り、不審の点は断乎糾明する」という意味の発言があったのが印象的であった。
大正維新とは聞きなれない言葉であるが、長かった明治時代の悪弊に怒りを感じていた人々の間には、大正維新の名のもとに綱紀の粛正を考える人がいたのかも知れない。「昭和維新」は松岡の造語ではない。
海軍に籍をおいた筆者が、この言葉を聞いてすぐにピンと来るのは、五・一五事件の首謀者、三上卓の「昭和維新の歌」である。これは「青年日本の歌」とも呼ばれるらしい。そう言えば、「妻をめとらば才たけて……」という歌い出しで有名な「人を恋うる歌」は、原題「朝鮮独立の歌」である、という説もある。
三上卓作詞作曲の「昭和維新の歌」の一部を抜粋してみよう。
一、汨羅《べきら》の淵《ふち》に波騒ぎ
巫山《ふざん》の雲は乱れ飛ぶ
溷濁《こんだく》の世に我立てば
義憤に燃えて血潮|湧《わ》く
有名な歌であるが、古典を引用しているので簡単な解説をつけ加えておこう。
汨羅の淵は中国湖南省|長沙《ちようさ》府にある川の一部で、ここに、戦国時代(紀元前三、四世紀)楚《そ》の国の愛国者屈原が国を憂えるあまり身を投じて死んだことで知られている。
屈原は楚の王族の一人で政治家であり憂国の詩人であった。
懐王に信任されて、重職についたが、讒言《ざんげん》されて、左遷され、「離騒」という有名な憂国の詩をつくった。離は会う、騒は憂いの意味である。
懐王は当時の大国秦に対抗するため、合従《がつしよう》の策を用いて、斉、燕《えん》、韓、魏《ぎ》、趙《ちよう》と楚を結んで対抗する戦略を採用したが、これは誤りであり、楚は秦と戦って大敗した。当時の秦の王は始皇帝の父|荘襄《そうじよう》王である。
失敗した懐王は、屈原を呼び戻して再び重職につけるが、秦王に計られて、屈原の諫言《かんげん》をも聞かず、秦に赴き、かの地に抑留され死んでしまう。
その子|傾襄《けいじよう》王が即位したが、暗愚で、再び屈原を長江(揚子江)の南に追放した。そこで屈原は絶望し、自己の不遇と国の前途を憂えつつ「懐沙の賦」を作り、世人に訴えるべく汨羅の淵に身を投じて死んだのである。
作者の三上卓は、この屈原の憂国の心事に共鳴したと思える。
巫山は、中国四川省巫山県にある有名な山である。このあたりは、山が揚子江の両岸に険しく迫り、巫峡、または巫山峡といって、有名な奇勝である。宋玉の高唐賦という詩によると、楚の傾襄王がある日昼寝しているときに、巫山の神女と会って情を交わす夢を見たとなっている。ここから巫山の雲という言葉は、男女がこまやかに情を交わすことの形容に用いられるようになった。
三上卓は、屈原が世を憂えて汨羅の淵に身を投ずるほどなのに、一方、傾襄王は、巫山で女と戯れる夢に酔い痴《し》れている、と憂えているのである。
二、権門上に奢《おご》れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷《しやしよく》を思う心なし
三、ああ人栄え国滅ぶ
盲《めし》いたる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
四、昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫《ますらお》が
胸裡《きようり》百万兵足りて
散るや万朶《ばんだ》の桜花
あと十番まであるが省略する。
海軍で昭和維新を大きな声で唱えたのは、藤井斉(三上卓の一期先輩)を中心とする王師会で、これが昭和十一年の二・二六事件につながってゆくのである。
しかし、昭和維新の発想はこれらの人々の専売特許ではなく、松岡も彼なりに昭和八年にはこの言葉を用いているし、また陸軍部内の思想的指導者と目された石原莞爾もこれについて考えていたらしい。
たまたま手元に届いた『石原莞爾全集』第二巻(同全集刊行会編)には、石原の昭和維新論が収録されている。
これは皇紀二千六百年(昭和十五)二月十一日に着手されたものらしいが、同日付の「宣言」が巻頭にあるから引用しておこう。
宣言
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人類歴史ノ最大関節タル世界最後ノ大戦争ハ数十年後ニ近迫シ来レリ、昭和維新トハ東亜諸民族ノ全能力ヲ綜合運用シテ、コノ決勝戦ニ必勝ヲ期スルコトニ外ナラズ
即チ昭和維新ノ方針次ノ如シ
一、白人ノ圧迫ヲ排除シ得ル範囲内ニ於《オ》ケル諸国家ヲ以《モツ》テ東亜聯盟ヲ結成ス
二、聯盟内ニ於ケル積極|且《カ》ツ革新的建設ニヨリ、実力ヲ飛躍的ニ増進シ、以テ決勝戦ニ於ケル必勝ノ態勢ヲ整ウ
三、右建設途上ニ於テ建国ノ大義ニ基ヅキ新時代ノ指導原理ヲ確立ス
皇紀二千六百年二月十一日 東亜聯盟協会
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石原の昭和維新は、
第一章 人類の前史終らんとす
第二章 昭和維新大綱
一、根本方針
二、外政
三、内政
というように分れており、日中戦争(支那事変)進行中にどのようにして中華民国を東亜聯盟に加入させるかについてくわしく方針を述べている。
第一章の「人類の前史終らんとす」は、巨視的な思想家たらんとした石原の大構想を示して興味が深い。
すなわち、世界はアジア、ヨーロッパ、アメリカ等、それぞれに戦争を重ねつつ、大きなグループにまとまりつつあるが、最後には、太平洋を挟《はさ》む東西の文明を代表する二個の国家群に分れ、最終戦争を行うこととなる。これが、石原の最終戦争論である。
この人類最後の大戦争の終了によって、人類の前史は終了し、世界は初めてその統一実現の第一歩に入る。これが人類の求めてやまなかった絶対平和の境地である、と石原は説く。
さて、その最終戦争はいつ起るのであろうか。
中世は約一千年、火器の使用より仏国革命まで約二百ないし四百年、仏国革命より欧州戦争まで百二十五年である。これにより推断するに、欧州戦争より次の決勝戦争までの年限は大体五十年とみられる。すると、欧州大戦戦後すでに二十余年を経過しているのであるから、世界決戦は三十年内外に起るものと考えられる。そして、決戦は約二十年続くから、今日以後五十年にして世界の統一は実現する、と石原は説く。
彼はこの翌年|勃発《ぼつぱつ》する太平洋戦争については何も書いていない。しかし、太平洋戦争、ならびに、すでにヒトラーによって欧州で始まっていた戦争は、世界大戦ではあるが、石原の説く最終戦争ではない。野球でいうならば準決勝というところであろうか。
石原は、昭和十五年に、あと三十年で最終戦争が起ると予言している。すなわち昭和四十五年、70年安保の年である。世界の情勢は緊張を続けてはいるが、いまのところ最終戦争の起る気配はない。
石原(昭和二十四年没)は日蓮宗の信者で非合理的な戦争論者といわれるが、最終戦争論は、その時期に関しては当っていない。また、中華人民共和国の擡頭についても、彼がどのような予想をもっていたかは、明らかでない。
我々は最終戦争が実現しないことを祈るが、彼の予告は、最終審判の到来に似て、無気味な感じが漂う。
次に、石原が「昭和維新」に関してどのような考えを抱いているかをのぞいてみよう。
まず、「根本方針」である。
「前章の推断を正しいとするならば、近迫する世界決戦に於て必勝を期することが、国家における最大重要事と言わねばならぬ。即ち東亜諸民族の全能力の綜合運用を可能ならしめるために東亜聯盟を結成すると共に、これと対応するところの国内諸革新の断行、換言すれば東亜全域を単位とする内外一途の革新政策によって、東亜諸民族の有する力を最大限度に発揮させ、以て世界最後の決戦に必勝の準備を完了することが、『昭和維新』の根本方針である。しかもこの間常に欧米帝国主義者の実力圧迫を予期せねばならぬ。今日は正しく準決勝の時代であり、その建設工作は敵前作業の性質を帯びている」
これによると、大日本帝国は正に準決勝において敗れたわけである。
このあとに、外政、内政に関する彼の考え方が展開されるのであるが、二つばかり気がついた点があるのであげておこう。
一つは、彼が中華民国の東亜聯盟加入を強調していることである。この時点における中華民国は、もちろん汪精衛による、後にカイライといわれた中国である。彼は中国とともに白人の勢力と戦おうという意図を表明している。この点、筆者が前に述べた、日本は中国を友として、ヨーロッパの侵略攻勢と戦うべきであった、という説と共通している。
いま一つは、満州国に関する彼の考え方である。
石原は、満州国の統治権は満州人に返せと主張している。満州国成立の歴史的事情によって関東軍司令官が後見役をしているが、関東軍は国防に専念し、政治機能は満州帝国協和会に主権を持たせるべきである。また、満鉄を満州国の法人とし、関東州は満州国に譲与すべきである、それでなければ、満州国の独立を完成することは出来ない、と主張している。
日本国民の感情よりすれば、関東州、満鉄には絶大なる愛着を覚えるものが多く、これらは明治天皇の御遺業であって、簡単には譲与出来ぬとする論者もいるが、満州国の発展はそれ自体明治大帝の御遺業の大発展であって、本建築が完成したならば、足場はとりはずすのが当然である。また、こういう処置が、将来、英領香港の返却等にもつながるのである。これすなわち、八紘一宇《はつこういちう》の大理想に基づくものである。
以上のように、石原は昭和維新と八紘一宇との必然的関連を展開している。
そのくわしい方策については、いずれ必要があれば紹介するとして、筆を松岡の政党解消運動に戻すとしよう。
松岡は昭和九年三月六日、政党解消聯盟の機関誌である「昭和維新」を発刊、昭和十二年七月までに五十四号を出している。その間二回発禁処分を受けている。
一回は、政党を狐、その背後にいる財閥を狼《おおかみ》とする論文で、いずれ世間の秩序を維持している軍人や警官など貧乏人の子弟が決起して、政党人と財閥を征伐するであろう、という城良明寿の論文が原因である。
二回目は寺田稲次郎の論文である。
これは松岡にも関係がある「八十万元事件」というので、少しくわしく説明しておこう。
昭和十年二月十八日、東京日日新聞は、張学良が日本の要人との友好?を計るため八十万元の金を流したというデマ記事を掲載した。受けとったといわれる人物のなかには、松岡洋右、山本条太郎、中野正剛らの名前があった。山本条太郎は、大正三年のシーメンス事件のときに、一万五千円をドイツ人の代理人から受けとり、懲役一年半(執行猶予四年)になった前歴があったので、痛くもない腹を探られたのであろう。
デマの出所は、岡本正巳で、そのバックは政友会代議士の津雲国利であった。デマを流された松岡らは直ちに告訴し、岡本は逮捕、処罰され、津雲も取調べを受けた。
東日は記事を取消し、関係者に陳謝した。
しかし、聯盟の盟主松岡を誣告《ぶこく》された「昭和維新」は黙っていなかった。
「古語に君辱しめらるれば、臣死す、というのがある。我々は決意をもって立ち上るべきである。しかし、決意具現の際、盟主に迷惑を及ぼしてはならない。決起者は独断行動をもって立つべきである。もし、判断と行動が悪かった場合には、腹を切ってお詫《わ》びをすべきである……」
という意味の記事を掲げ発禁となっている。半ばははったりかも知れぬが、大いに意気上っていたことは確かである。「昭和維新」には多くの人士が筆をとっているが、そのなかには次のような名前も見える。
北※[#「日+令」、unicode6624]吉、長田幹彦、本多熊太郎(大使)、徳富猪一郎、後藤文夫(内相)、津久井竜雄、末次信正(連合艦隊司令長官)、倉田百三、白柳秀湖(作家、史学家)。
このリストのなかでは、『出家とその弟子』の作者倉田百三が異色といえよう。連合艦隊司令長官末次信正や、現在ロッキード事件で騒がれている児玉誉士夫の旧師といわれる津久井竜雄も顔を出している。
政党解消聯盟の盟主となった松岡は、昭和八年広島市での小学生千名に対する講演を皮切りに、約一年間に百回以上の講演会のため全国行脚を続けている。
そのうち異色なものは、昭和九年一月十四日福岡市のグラウンドで行った全九州在郷軍人大会におけるもので、聴衆は五万名である。当時の拡声器で果して声が通ったかどうか疑問である。
また筆者に関係のある項をひろうならば、九年二月十三日、江田島海軍兵学校記念講堂、聴衆生徒六百名、将士三百名、というのがある。当時の校長は、後年海軍大臣となる及川古志郎中将で、聴講した生徒のなかには、伏見、朝香両若宮殿下がいたことになっている。
筆者は昭和十二年海軍兵学校入校の六十八期生であるから、昭和九年二月に江田島に在校したのは、昭和五年から八年までに入校した六十一期から六十四期生だったと推定される。
伏見、朝香、両宮殿下は、おそらく六十二期生であろう。六十二期には、このほかに臣籍降下した小松侯爵?もいたはずで、海兵開校以来最高に殴ったクラスである。その六十二期にさんざん殴られたのが六十五期で、六十五期に殴られたのが、筆者らの六十八期である。従って我々六十八期生も開校以来?に近いほど殴られ、その分だけ七十一期生を殴って卒業したわけである。
筆がすべったが、全国講演行脚に出発するに先立って、松岡がもっとも頭を痛めたのは資金の問題であった。
政党とその背後にある財閥を粉砕するのが目的であるから、スポンサーがつかない。止《や》むを得ず彼は講演会のほとんどを有料とし、一人五十銭の入場料をとった。これは当時一流映画館の入場料に匹敵した。
そのほか、講演地での旅費、宿泊料、会場費等は現地負担とした。それでも各地平均二千人から五千人の聴衆を集めたのであるから、いかに国際聯盟脱退の英雄≠フ人気がものすごかったかが知れよう。
しかし、強気の松岡も、全国行脚出発の際は、さすがに心配だったとみえる。何しろ、長い間世話になった政友会をはじめ、すべての政党を敵に回し、ということは、すべての財閥に背を向けて、舌先三寸で演説会をぶって回ろうというのである。
彼は森清人に次のように語っている。
「僕は、先輩知友の涙の出るような親切な忠言をしりぞけて、縦にも横にも連絡のない全くの孤立無援で、一銭の運動金ももたず、いまからこの運動のために、一笠一鉢《いちりゆういちはつ》の行脚に出る。そして舌の根の続く限り、精根の続く限り、既成政党の解消を叫ぶ。僕は一人だ。しかし、神を持つ一人は大多数だ。クリストは『何も持たざるに似たれども、すべての物を持てり』と言った。信ずるものは強い。斃《たお》れて後やむの決心をもって、この信念のために、あくまでも戦う」
森は、松岡の心酔者に近かったらしく、後年、松岡が大いに唱えた「和《あまない》」の精神について力説している。
あまない[#「あまない」に傍点]とは何か?
広辞苑によれば、「和《あまな》う」には自動詞と他動詞とあり、自動詞の「あまなう」は、1、意見がまとまる、同意する、2、和解する、仲よくする、3、人の心を迎え、気に入ろうとする、4、甘んじて受ける、好む、となっており、他動詞では、承知させる、なごませる、となっている。
あまない[#「あまない」に傍点]はいうまでもなく、あまなう[#「あまなう」に傍点]の名詞形であるが、松岡の説いたあまない[#「あまない」に傍点]は、他動詞的な「承知させる」というような強い意味ではなく、自動詞の「和解する、仲よくする」という程度の意味であったと思う。
それならば、率直に平和共存と言えばよさそうなものであるが、たとえば対中国問題にしても、陸軍が満州を侵略し、満州国を作ってしまった以上、簡単には和平を結ぶわけにはゆかないので、何となく呪術《じゆじゆつ》的要素のある「和い」という言葉をもって来て、一種の観念的願望を籠《こ》めたのではなかろうか。
戦局が敗色を濃くしたころ、禊《みそぎ》という行為が流行し、文学の神様≠ニいう定評のあった横光利一までがみそぎ[#「みそぎ」に傍点]に没頭したという。横光はこのため、戦後すっかり評判を落し、失意不遇のうちに世を去った。この点、特攻隊の生態を書くため鹿屋《かのや》航空隊に報道班員として派遣されながら、戦争が終るまで一行も書かなかった川端康成と好対照であろう。
森清人は、国学、神道の影響を受けていたと見えて、松岡がキリスト教の神を意識しながら、「神をもつ一人は大多数だ」と言ったのをとらえて、祭政一致論を展開し、
「かしこくも天皇は、神と共に大八洲《おおやしま》の国をしろしめしたまい、国民も亦《また》神と共に生活をする。これが日本の正しい姿である。およそ世の中で一番強い人は、神と共にある人である。貧富の如き問題ではない、松岡氏の『神を持つ一人は大多数である』との言葉もその謂《いい》であろう」
と述べている。
長州に生れアメリカに育った松岡の精神構造は複雑で、一九三〇年代後半には、かなり神道的な表現を用いるようになるが、死の前には洗礼を受けて、ヨゼフ・松岡として死んでいる。
政党解消論の段階で「神をもつ一人は大多数だ」と言ったのは当然、キリスト教の神である。
しかし、森清人にかかると、それも「あきつ御神《みかみ》」に変貌《へんぼう》してしまう。これがこの時代の風潮であり、やがて松岡も正面切って「和い」を説くようになるのである。
森は「まつろい(祭り)には我がない。我がないから大和《おおあまな》いが生れる。故にこの国を古来、大和の国というのである。やまととは大いなる和いの義である」と一見国学的な言葉のあやのような論理を展開する。
しかし、松岡も後年三国同盟のころにはしきりとこの大和い≠説いていた。緊迫した国際情勢は、三国同盟や日ソ不可侵条約のみでは溶解しそうにない。函数《かんすう》が多すぎて式が解けないのである。世界情勢は難解な高次方程式である。強気の彼の手に余った。といって、軍部の強力な押しがあっては引き下るわけにはゆかない。しかし、いかに彼が「大和い」を説いても、ルーズベルトやチャーチルや蒋介石には通じなかった。もっとも「和い」を無視したのはスターリンであろう。
松岡が苦しまぎれに「和い」を説いた気持はわかるが、その精神構造は、この政党解消運動時代から徐々に特色を現わしつつあったとみてよかろう。
森の計算によると、松岡は政党解消講演のため全国行脚を行い、講演会数百八十四、聴衆の延べ人員は七十万人を越え、全国に結成された政党解消聯盟支部は百七十に上ったという。
松岡が、同じ言論表現のなかでも、文筆によらず、演説によったのは、弁舌に長《た》けていたことも一つの理由であるが、明治以来の弁論をふるって人を説得する、という風習が、一つの流行として残っていたことを物語るものであろう。
『人と生涯』によると、松岡の弁論は、鶴見祐輔や永井柳太郎のような美文調ではなく、日常的、座談的で、平易な言葉を使う点で社会大衆党の麻生久(麻生良方の父)と同じタイプであったという。
また、今日では決して珍しいことではないが、会場のステージの中央に日の丸を掲げ、左右にスローガンと演題を掲げた。これは松岡の全国講演会が創始だといわれ、君が代の斉唱とともに、大衆にアピールするのに役立ったといわれる。
また講演終了時、帰ってゆく客に賛同者の署名を呼びかけたのも新しい試みであったといわれる。
題名とスローガンの一例をあげると、「非常時局に国民に愬《うつた》う」と題し、一、即時政党を解消せよ、一、一国一体を確立せよ、一、昭和維新を断行せよ、というようなものである。
政党解消聯盟の本部は、三菱村、あるいは一丁ロンドンといわれた丸ノ内三菱仲十二号館というレンガ造りのなかにおかれた。この費用は藤田勇(藤田組の一員?)が出したといわれる。
このころの松岡は素寒貧であったと見え、筆者の手元にも一つのエピソードが届いている。この作品の連載が始まったとき、埼玉県に住むある人から手紙があった。「昭和九年ころ、松岡洋右に一万円貸したが、それきりになってしまった。現在の時価で返してもらいたいが、どうしたらよいのか」という内容である。これには筆者も困った。当時の一万円といえば、豪邸が一軒建つ金であるから、現今の五千万円から一億円くらいの金額に当るであろうか。処置なし、ということで思案しているうちに、その手紙がどこかへ行ってしまった。その人は、松岡の借用証を持っているというので、せめて証文の写真でも撮らせてもらえばよかった、と考えている。
ところで、前後百回以上に上った政党解消全国遊説の内容はどのようなものであったのか?
昭和八年十二月十七日、日本青年会館における講演の速記録から要旨をひろってみよう。
このときは、政党解消運動聯盟発足後、東京における最初の演説会であったので、非常な盛況であった。「昭和維新」誌によると、
「入場し得ざるもの万を越え、警視庁騎馬巡査出動群衆の整理に当る。講演終了後感激せる群衆一団となって明治神宮参拝祈願の後、有志二百名、盟主(松岡)邸往訪激励」
となっている。
さて、講演の要旨は次の通りである。
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一、政党解消は昭和維新断行の第一工作である。
一、今は国家重大の非常時である。
一、非常時解消論が横行しつつあるが、これはおかしい。五・一五事件が近く公判に付せられるからといって、非常時が解消するとは言えない。また、非常時が解消すれば、憲政の常道に戻って政党政治が復帰すると説く人もいるが、これもおかしい。私は政党政治をもって憲政の常道とは考えていない。帝国憲法にはそのようなことは書いてない。政党政治は、憲法政治運用の一つの工夫に過ぎない。畢竟《ひつきよう》非常時解消即政党政治復活を叫ぶ人々は、要するに、政権がとりたいという欲望を現わしているに過ぎないと思われる。
一、若槻民政党総裁への疑問
同総裁が仙台において、「一九三五、六年が危機であると唱える人があるが、何も心配はないじゃないか」と演説されたそうであるが、私は若槻総裁が正気であるか否やを疑う。国際聯盟を脱した日本にとって、昭和十、十一年は大いなる危機といわねばならない。
一、日本人の欠点、それは気が短い、ものに飽きやすい、ということである。二、三年非常時が続くともうあきてしまう。これでは危い。
一、現代文明は自殺しつつある。行きづまっており、数千年来かつてない破局に直面している。これが非常時の一つの正体である。
一、ソビエト批判
まずロシアがゆきづまっている。今のままでゆけるはずがない。私はソビエト共産主義には反対である。ソビエト主義とは何ぞやといえば、これは個人の意志なり、欲望なり、創造力なり、そういうものを一切認めない。つまり人間を機械化し、同じレベルに平ったくして支配しようというのである。
個人のうちにあるところの創造力が刻々休まず働いて、自己の運命を開拓するという信念を古代神道のころから伝統的に持っておるわが大和民族は、断じて機械化されないということを私は確信しておる。
故にソビエト主義の如きものを絶滅する使命を持っておるものは、この古代神道の伝統を受けておる大和民族であることを私は確信しておる。
しかし、ある意味においてロシアは人類のために一億六千万の人口をあげて、あの広大な領土のなかで、人類史上かつて例をみない大試験を行っている。私は一億六千万のロシア人に対して深甚なる同情を抱いている。まことに民衆には気の毒であるが、この未曽有《みぞう》の大試験を断々乎《だんだんこ》として行いつつあるロシアの領袖《りようしゆう》たちの、決心と勇気に敬意を払うものである。
一、スターリンの五カ年計画
ロシアはいま産業五カ年計画遂行で懸命になっている。ところが、農業がうまくゆかなくて、今年の夏は南部ウクライナの饑饉《ききん》で数百万人餓死したと伝えられている。ところが、スターリンはびくともしないで、重工業五カ年計画を推進している。これは、よいか悪いかは別にして、驚嘆せざるを得ない。日本人にはちょっと真似が出来ない。
そういう点では、ロシアは人類の為《ため》に一大実験をやっているので、やがて全人類の為に一大教訓を垂れてくれるかも知れない。
一、ムッソリーニの政治
ムッソリーニは、最初社会主義者であったが、イタリアの混乱をみるにしのびず、黒シャツ党を組織してイタリアを混乱から秩序へと導いた。その理論はソビエトとは異るが、やり方は似ている。ただ、ムッソリーニは、人間の個々の意志、欲望、創造力を出来るだけ傷つけまいとしている。ここがロシアと違う。
また彼は、アングロサクソン流の国家社会が個人個人の利益のために存在している、という考え方をあらため、個人は国家または社会の利益のために存在している、一国一社会は有機体なのだ。過去、現在、未来にわたって継続される有機体として存在しておるものであるという理論を徹底させつつある。
一、今日のイタリア
以上のムッソリーニの指導に従ってイタリア国民、とくに青年は祖国愛に燃えて、国家至上主義を掲げ、国家に対する義務あるを知って権利を主張しないという精神に徹している。国をあげての協力一致ということで、乞食《こじき》もいなくなり、街もきれいになり、汽車も時間通りに発着するようになった。
しかし、これでこのまま生き延びてゆけるかというと、それはまだ断定出来ない。
一、ドイツの現状
ドイツはヒトラーがムッソリーニの真似をして政権をとり、ファッショ政策で国の復興に真っ黒になって努力をしている。
第一次大戦で敗戦国ドイツがこうむった傷手は大変なものであり、ドイツはこれに反撥して、あのような一種脱線的な努力を続けている。
今後どうなるか予断を許さないが、たとえヒトラーが成功しなくとも、第二、第三のヒトラーが出現して、あくまで光明を求めてもがき続けることと思われる。
ドイツは去る十月十四日、国際聯盟を脱退し、軍縮会議からも退いた。ドイツはいまや危険な立場に立っている。日本はどうか? これは安全である。私がジュネーブの国際聯盟会場から退場したとき、聯盟脱退尚早論をふりまわした人たちがいた。経済封鎖をやられる、というので心配をしたのである。しかし、日本との貿易によって自国の経済を維持している国が多いことは周知の通りである。日本との交易を打ち切ろうと考えている愚かな国は少ないであろう。
何しろ、日本は東洋の端にいて、地理的に有利な位置にある。
しかし、ドイツは事情が異る。ドイツはヨーロッパの真ん中に位置し、となりには仇敵《きゆうてき》フランスが多くの軍隊を待機させて東を睨《にら》んでいる。ここで面白いことは、ドイツが聯盟と軍縮条約を脱退しても、フランスはとくに何らの動きも示していないことである。今まではベルサイユ条約によって、きびしい軍備制限のもとにおかれていたが、今後はどのような厖大《ぼうだい》な軍備拡張を行うかわからない。当然、英仏としては何らかの牽制《けんせい》を加えるべきと想像されるが、その動きがない。それは決然たるドイツの態度に気圧《けお》されたとみるべきであろう。
人間は本当に素っ裸になったら、誰も斬りつけることは出来ない。またドイツはドイツで異常な決心をし、いざとなったら、全人類を戦慄《せんりつ》せしめるような働きをする気構えを示している。
今やドイツは一大事の関頭に立たされている。生きるか死ぬかの大問題を抱えて悩んでいる。すなわち、ドイツもまた非常時に悩んでいる、といえるのである。
一、フランスの苦悩
フランスもまた悩んでいる。
経済が割りに豊かではあるが、現代文明が大きな変局にさしかかっている以上、フランスといえどもその波をかぶらざるを得ない。さらにドイツの動きが大きくのしかかっている。
今や、フランスは第二のポアンカレー、第二のジャンヌ・ダルクの出現を必要としている。(注、レイモンド・ポアンカレーはフランス第三共和国九代目の大統領、一九一三年から二〇年まで在位し、第一次大戦でフランスに勝利をもたらした。有名な数学者アンリ・ポアンカレーの弟で、進歩派政治家の代表であり、露仏同盟を強化してドイツに当り、第一次大戦勝利後は、内政に留意して、フランス貨幣の暴落をくいとめ、経済界の安定を計った。文学的才能もあり、この方面の著述も多い。フランスの名大統領として、高く評価されている)
まさしく、フランスは国難に直面している。現在のフランスの国際政策は優柔不断である。もし、対独開戦となった場合、一国だけでヒトラーのドイツに対抗出来るであろうか? フランスもまた大きな非常時に直面している、と考えるべきであろう。
一、大英帝国の前途
大男総身に知恵が回りかね、という言葉があるが、イギリスという国にはそういうところがある。
あちらにもこちらにも植民地を拡げたが、各地で自治問題が起きて困っている。
しかし、イギリス人には不思議な長所がある。彼らは妙な余裕を持っている。矛盾だらけのことを頭に一杯つめこんでおいて、御本人は矛盾に気がつかない。そういう不得要領のなかに要領を得る、というのがこの国民の長所である。
しかし、今やその大英帝国も前途は暗い。世界の四分の一の領地を占めて、陽の没することがない、七つの海を制覇《せいは》したと自慢していたが、日本やアメリカ合衆国の擡頭《たいとう》で、その制海権は怪しくなって来た。それは海軍力の比率を見ればわかる。
制海権は大英帝国の命の綱であるから、その命の綱が半分以下に短くなったということは、大英帝国が早くも解体作用を起しているという一つの原因となっているわけである。
すでにご承知の如く、英国領のうち、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカらは、自治領であり、半ば独立国としての機能を備え、親元であるイギリスから離れようとしている。現に、東京にはカナダから公使が来ており、オーストラリアも日本との公使交換を考えている。
これは、日本にひきくらべれば、台湾や朝鮮が、外国と公使を交換しようというのに似ている。
一、アイルランドの問題
しかし、本国から遠いところならば、まだ気分的には楽である。しかし、日本でいえば九州、四国というところに、イギリスは発火点を抱えている。それはアイルランドである。国際聯盟総会でも、アイルランド首相のデ・ヴァレラが、理事会の議長を勤めている。アイルランドの代表は、事ごとにイギリスに楯《たて》ついていた。たとえば、イギリスが大植民地を有する国として、満州問題で少しでも日本に同情的な発言をしようものなら、アイルランドはすぐにイギリスの反対側に回る。このため、日本側はアイルランドの反対に、しばしば苦い思いをしている。
一、インド、エジプトはどうか?
ひるがえって、インド、エジプトにおけるイギリスの政策はどうか?
インドはガンジーが断食を続けては、独立解放運動を続けている。ところが、イギリスはインドだけには自治権を与えない。インドは、カナダやオーストラリアと異って、大英帝国を維持してゆくための宝庫なのである。オーストラリアのような無人に近い砂漠の大陸を開拓したものではなく、古い歴史を持つアジア民族の国を奪って領土としたものである。それにもかかわらず、イギリスはインド人に自由を与えようとはしない。この上インドを手放したら大英帝国は瓦解してしまう。それで、いくら抵抗があっても、イギリスは手放そうとはしないのである。
エジプトはどうか。エジプトは長い間イギリスの勢力下にあったが、一九二三年独立して立憲王国となった。従って、イギリスは未《いま》だにスエズ運河の実権を握るなど、影響力はもっているが、昔日ほどの支配力は持っていない。
このように、イギリスは国内外において経済生活、思想問題、社会問題などに関して行きづまりつつある。
一、イギリスの政党政治
では、そのイギリスの政党政治の実態はいかがであるか?
政党政治、議会政治の本家本元であるイギリスではあるが、今や政党政治が本当に残存しているとは言い難い。
今の総理大臣マクドナルドは、所属していた労働党から離れてしまって、マクドナルド党ともいうべき形になっている。そのマクドナルドが、大命を拝して内閣を組織するということは、イギリスの憲政史、政党史の許すべからざるところである。ところが実際に政権はマクドナルドが担当している。そして、絶対多数党のユニオニストが、その尻について、これを支持している。
現在イギリスで最も力をもっているものは、経済委員会であって、議会もこの委員会に押されている。イギリスには正確な意味の政党政治は行われていないと言える。
一、アメリカの実状
私は少年時代をアメリカで過したので、アメリカのことは知っているつもりである。しかし、今年春、ニューヨークに上陸して驚いた。想像もつかぬ不況である。乞食で有名なイタリアに乞食がいなくて、世界一富んでいるはずのアメリカのニューヨークのメーンストリートに乞食がいるのには驚いた。
アメリカは世界の三割以上の金《きん》を握っている。天然資源も日本とはくらべものにならない。人口は一億三千万だが、国土は日本とは比較にならぬほど大きい。(注、日本六十七万平方キロ、アメリカ九百六十八万平方キロ)ところが、今は不景気のどん底である。金は世界一持っているが、国民が食ってゆけない。
アメリカ国民は実はフーバー大統領に大きな期待をかけていた。しかし、フーバーの不景気対策はことごとくはずれて、バトンはルーズベルトに渡った。
民衆はルーズベルトに期待するあまり、彼を独裁者にした。ムッソリーニは自分の力でイタリアの独裁者となったが、アメリカでは、民衆が不景気に耐えかねて、ルーズベルトに全権を渡したのである。
今や、大西洋をはさんで片やムッソリーニ、片やルーズベルトの二大独裁者が、自国を救おうとして奮闘している。
さて、ルーズベルトの方策をのぞいてみると、彼は産業復興法というものを基礎としている。ムッソリーニが十年もかかって築きあげたコーポレート・ステート(一体国家)というものの真似をルーズベルトはしようとしている。果してアメリカ人がどの程度このルーズベルト方式について来るか?
三月四日大統領に就任して以来ルーズベルトの政策をみると、おかしなところがある。まず、労働時間の短縮、これは怠けろということである。八時間労働の必要はない。五時間働けばよろしい、という。
その一方、賃銀は増してやろう、というので、最低賃銀制を制定した。ところが、その賃銀の内容たるや、インフレで貨幣価値を低くしたものを、数字上余計にやろうというのである。そして、インフレの結果、労働者のあがなう生活必需品は高くなっている。これは一種のゴマ化しで、それを仕事を怠けろというようなことで応急処置をとっているような気がする。国民に怠けろ、というのは、健全な政治ではない。しかし、日本にも、怠けろという政治はないが、インフレによる数字の魔術を利用する政治は少なくないのである。
一、隣国支那の混乱
次に、目の前にある大国支那、これは混乱から混沌《こんとん》に陥っている。
東方民族として、我々は何とかして同胞ともいうべき支那の大衆を救わなければならない。
ところが、この国は各種の政権が乱立して互いに結んだり戦ったりしている。支那とヨーロッパはほぼ等しいが、ヨーロッパに三十何カ国かあるように、支那にも事実上は三十何カ国かがある。
私はあるヨーロッパの政治家に言った。「貴君はひと口に支那といわれるが、一体誰が支那の代表者なのかご存知か?」支那は全くの混沌状態で、全部を代表し得る人物はいない。まったく厄介な隣人で、日本がどこかに移動出来るものならば、よそに持ってゆきたい位だ。しかし、同文同種、この五億の同胞に我々は出来るだけのことはしなければならぬ、といっていきなり全部を改善する力は日本にはない。そこで、とりあえず、満州国を立派に造りあげることに努力しておるわけであるが、これが欧米各国のお気に入らぬとあって、ついに聯盟脱退という望まざる結果となったのである。
一、欧米文明のたそがれ
只今、世界の状勢を一覧したわけであるが、世界は今や未曽有の一大変局に遭遇しているというのが、私の感想である。
世界は混迷のなかにもがいている。現代文明の中堅であるべき欧米文明は、物質に偏重して、人類を滅亡の淵《ふち》に導いている。
欧米の人間は、私にいわせれば、日本人の美徳である忠孝の二字のわからない人間である。極端な個人主義に走りつつある。
また男女ともに貞操観念がなくなって来ている。要するに人間の社会に「信」という文字が失せつつあるのである。
そして、日本がそうなるときは、大和民族が滅亡するときなのである。
一、日本の農村
日本を考えるとき大切なのは農村の問題である。
私は日本の青年には感心し、また期待している。農村では今でも天道様を拝んでいる。さして得ではなくとも天職として田畑を耕している。日本の農村の青年諸君は、この精神を忘れないでもらいたい。この精神が衰えるとき、日本も下り坂に向うのである。
一、資本主義について
資本主義のアメリカが行きづまっているのは、あまりにも利潤追求に走りすぎるからである。個人主義が進みすぎている。日本はこの真似をしてはいけない。とくに、農村はそうである。工業関係の収入がよいからといって、農村の青年が次々に都会に出て行ったら豊葦原《とよあしはら》の瑞穂《みずほ》の国は干上ってしまう。
しかし、有難いことに日本精神というものがあって、日本は干ぼしにならずにすんでいる。
また日本の産業の中堅は農産物をもととした家庭工業であり、家庭工業の延長である中小工業である。紡績と人絹を除いたら、近代式の資本主義機構で動かされている会社が、日本の貿易にどれだけ貢献しているであろうか。中小工業こそは日本産業の中堅であろう、また軍事力を維持する銃後の護りとも言えるのである。
一、農、山、漁村の対策(略)
一、現代文明の機械化
現代文明の特色は機械化である。これは便利のようであるが、世界不況の一因をなしている。千人でやっていたものが、五十人で出来るようになれば、残りの九百五十人は失業してしまう。失業者は天から降って湧《わ》いたものではない。産業自らがこれを生産していることを忘れてはならぬ。
一、失業手当と青年の赤化
といって、失業者は単に救済すれば、それで問題が終るかというと、そう単純にはゆかない。イギリスでは社会保障といって、失業者には失業保険、失業手当という対策をとっている。しかし小人閑居して不善を為《な》す、という聖人の言葉もある。近頃新聞をにぎわせている有閑マダムというのもこのたぐいである。
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続いて松岡は青年の変化を警告している。「貧乏人の子が学校で苦学しているうちにアカになるということを聞くが、現状は必ずしもそうとは思えない。アカになる学生は、大部分が有閑階級に属する子弟である。親から金をもらって学校へ行って、何の不自由もない人間は、働かなければ食えない、ということがわからない。ヒマがありすぎて西洋の本を読んでアカになる。人間は不思議なもので、ヒマがあると、有閑階級すなわち富裕な階級を倒そうという共産主義思想にかぶれてしまう。あまりヒマがあるのも考えものであろう」
松岡は明治四十五年、二等書記官としてロシアの日本大使館に赴任し、その後、ジュネーブ会議の直前にもモスクワに寄ってリトビノフ外相と会っている。ロシアの事情にはある程度くわしいはずであるが、共産主義に理解をもっていたとは思えない。
彼の目に映るソビエト・ロシアは、広大な隣国であり、仮想敵であり、また可能性のある同盟国である。スターリンは、ソ連共産党の書記長ではなく、大国ロシアの統領として松岡の目に映っていた。すなわち彼の得意とする頂上会談のよき交渉相手として映っていたのである。
この講演は松岡の思考法を吐露して興味があるが、非常に長いので、あとは項目を簡単に説明して、結論である彼の政党解消理論を紹介しておこう。
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▽現代文明の矛盾と苦悶《くもん》
現代文明は機械化しすぎ、遊ぶ人間が増えたが、人間の性情は三千年前孔子が説いたものと変ってはいない。人間は自分が作った機械に食われてしまう。
▽今日の戦争と人類の自殺
戦争の方法は科学的になると同時に非人間的大量|殺戮《さつりく》に向いつつある。
次期戦争には、毒ガス、バクテリア戦を空から行うことは想像に難くない。
また、戦闘員、非戦闘員の区別もなくなると思う。次期戦争は国家総動員の戦争となるであろうから。(注、松岡は大東亜戦争を予見していた)
このようにして、殺人の方法が拡大化されてゆくと、最後には殺人光線を研究し、今にスイッチ一つ、フラッシュ一つで相手国民を皆殺しにするようになる。(注、原水爆、ボタン戦争の予言)こうなれば、人類の自殺である。
ではどうしたらよいか。
▽日本精神を取り返せ
吾々大和民族は、幸いなことに、まだまだ日本精神を全部失ってはいない。孝行、忠義、貞操という美徳に関する言葉が十分に理解されている。
そこで、私は日本人よ、日本精神を取り返せ、と叫びたい。大和民族は天から与えられた使命を持っている。戦争の科学化で、人類が自殺へと追いたてられているとき、これを救い得るものは、わが大和民族しかいない。(注、松岡の使命感と宗教観)
▽二千六百年の歴史と非常時局
日本人は今まで西洋の真似をし過ぎた。この際、足元をみて、二千六百年史の再検討をやれ。そして日本精神を取り返して皇道日本を再検討せよ、と叫びたい。(注、松岡の国粋主義)日本はいま日本特有の非常時局に足を踏み入れている、ということをよく認識してもらいたい。
▽人口増加問題と道徳的共産主義
幕末の開国以来八十年、世界と国際関係を持つようになってから六十年あまり、この間、領土もいくらか広がったが、人口の方は三倍になった。
ところが世界文明をとりこんだ結果、個人個人の物欲も増大して、実質的には人口が十五倍くらいになった、という感じを受ける。
なぜ、これで爆発せぬか、というと、日本には家族制度が残っており、親の物は子の物、兄の物は弟の物、というような「道徳的共産主義」(松岡の造語であろうか? 松岡は昭和十六年春、モスクワでスターリンにこれを説いている)ともいうべきものが残っているからである。
今のソビエト・ロシアがやろうとしている政治的または、社会的の共産主義などというものは、成功はしない。私は考える。日本人は一万年くらい前に、現代ソビエトのような共産主義を実験してみて失敗した結果、日本的な道徳的共産主義に落ちついたのではないか?
▽外交国難
外交国難ということが叫ばれている。これはどういうことであるか、というと、日本国民があまりにも有能であるから、世界が今や悲鳴をあげつつある、ということである。
「喬木《キヨウボク》ニ風強シ」という言葉があるが、一民族が非常な発展途上にある運命を担ったとき、何人といえどもこれを阻止することは出来ない。
▽過去の日本と最近の日本
日本という存在は欧米人にとっては、まだ新しい存在である。
日清戦争のときヨーロッパのある国際公法学者の著述に、日清戦争とは、支那の一省である日本という省が、中央政府に反旗をひるがえしたのだ、と書いてある。
現在でさえ、トロツキーはアメリカの雑誌に、日本は今まで後進国としか戦いをやっていない。支那や帝政ロシアに勝ったくらいで何がえらいか、と言っている。
その半面、世界一の陸軍国であるロシアを倒したのであるから、日本は軍国として強い、日本人は好戦国民である、という声も高まって来た。
しかし、それだけならば、外交国難というには当らぬ。いまのところ日本と戦争をしなければならぬ、という国は見当らない。しかし、このところ日本は軍事力だけでなく、他の面でも世界の注目を浴びるようになって来た。
商工業はもちろんのこと、西洋の歌をうたう女が世界を股《また》にかけて歩く(三浦|環《たまき》)。西洋流の音楽隊を作って本場のヨーロッパまで練り歩く(藤原歌劇団)。水泳では日本の少年が世界記録を作る(ロサンゼルス・オリンピック)。こういうことで頭角をもたげ、貿易の面でもイギリスと紛争をひきおこすようになった。アメリカの太平洋沿岸にゆくと、日本人移民の子が小学校で一番、二番を占めている。
そこで、アメリカ人の日本移民排斥がおこるようになった。昔は、彼らは日本人を劣等民族として排斥していた。しかし、今では、日本人が優秀なるが故に排斥されつつある。これも外交国難の一つである。
▽大和民族の使命と昭和維新
優秀な大和民族は世界的な大使命を担っている。吾々は世界の人類を救ってやろうという大理想を持っている。
この大目的を持っているが故に我々は外交国難につき当っている。とくに隣人支那に対してはその誤解を解くように努力しなければならない。
そして、この際、大理想を担った日本人としては、大革新を行う必要がある。これすなわち昭和維新である。明治維新以上の人材の輩出を今の日本は要求されているのである。
昔は寺子屋教育であれだけの人材が出た。今の帝大の如きは大改革が出来ないのならつぶしてしまった方がいい。誤った教育をして、アカの子弟を育てるのみである。
▽今日の教育(略)
▽政党解消論
日本の政党は西洋の借着である。だから五・一五事件の一撃でダメになってしまった。私は政友会における四年の経験を不愉快な記憶であったと断言する。今や、この借着をぬぎすてるときが来たと申しあげたい。
▽国家か政党か(略)
▽なぜ政党を固執するか(略)
▽議会の本質、政党なき議会、議会の機構(略)
▽政党の実状
帝国議会で演説をする議員は大バカである。採決は初めから決っている。議案を配って、書記官長が電話一つで政友会幹事長に賛否を問えば、それで三百何名の賛否がわかってしまうのである。国難が目の前に迫っているのに、こんな滑稽劇を演じていてよいのか?
▽既成政党の堕落
今日、二千万円、三千万円の事業を起そうとする経営者は両方の政党にある程度のものを出さなければ、事業は出来ない。これは事実である。
政府が下付する補助金すら政党内閣の場合は、与党の幹事長に耳打ちをしなければもらえない。これは国民の血税である。
▽張作霖怪死事件
田中総理は何の関係もないのに、民政党はこの責任を押しまくって政友会の田中内閣を倒した。
▽政党根性
満州事変が勃発《ぼつぱつ》した当時、私は日本に帰って来た。これから外交戦が大変なことになる。どうか「内政についての争いをしばらくやめてくれ。そうすれば、政友会も若槻内閣(民政党)を支持する」という声明を出してくれ、と政友会の幹部を説いて回った。しかし、ついに賛成は得られなかった。
▽制度の悪
悪い制度は更《あらた》めよ。外国の借着を捨て、国家本位に立ち戻り、党争をやめて、手を握り、国をあげて一致協力し、軍部のいうところも肯《うなず》くべきは肯き、肯けないところは肯かないという態度で、この大国難を突破したい。
▽和の一字
大改革を行うには全国民が協力する必要がある。そのためには階級闘争をやめ、資本、労働の争いもやめ、「和《あまない》」の一字で昭和十、十一年の国難に備えねばならない。
(注、三輪公忠『松岡洋右』によれば、松岡は「和」の考え方を新渡戸稲造に学んだのではないか、という。
新渡戸は、上級学校に進学出来なかった青年層への教養書『修養』を書いたが、明治四十四年初版刊行後、昭和十一年までに百四十版を越えた。
新渡戸の啓蒙《けいもう》運動は、地方農村の青年にアピールし、松岡の政党解消、挙国一致運動の支持層もそのような層であったと思われる。
三輪氏は、この点について、新渡戸が一種の英雄崇拝論を唱えて、農村を耕し、そこに松岡が登場する下地を造成しておいたと説いている)
▽国家に寄与せざる政党
満蒙問題、そして満州事変、国際聯盟脱退、これら日本の重大な問題に際し、日本の政党は何を寄与したか。徒《いたず》らに徒党の争いに没頭していたにすぎない。
▽憲法上はどうか?
伊藤博文公の『憲法|義解《ぎげ》』を読むと、政党の発生を全然予想しなかった憲法であったことが明らかである。
▽興廃は五年間
昭和十、十一年の国難を挙国一致「和」の精神で乗り越えた場合、それから二年くらい後には実にえらいことになると思う。(太平洋戦争の予見?)従って、わが国民の奮励すべきときは、まずいまから五年で、その間に、祖国の興廃は決ると思う。
▽男一匹街頭に出る
私は無一文で演説して回る。もし、この運動のために、百万、二百万という金を用意するならば、それは既成政党の行き方に堕してしまう。
▽政党政治は覇道である
私に政党をひきいる野心があれば、五百万円くらいあれば、政党の一つくらいはリード出来る。しかし、国民は金で動く政党というものにいや気がさしている。
日本は元来天子様のご政治である。政治は神聖なるべきはずなのに、金さえあれば政党内で出世出来るというのは畏《おそ》れ多いことである。故に青年将校らは政党といえば泥棒か詐欺師のように考えている。
しかし、一概にそう断ずるのは、政党の本質を知らざるものである。
元来、政党政治とは、覇道であって、有徳の王者の王道ではない。多数で圧迫することである。そこで金が物をいう。政友、民政両党でも、自己を空《むな》しくして党本位に尽すという人が何人いるか? 多くは自己自身の栄達を図るに汲々《きゆうきゆう》としている。党本位にすら考えられないものが、どうして国家本位になれるか。
アメリカの如き、拝金宗といわれる国ですら、政党政治は日本ほど堕落してはいない。この国難に当り、覇道である政党を解散し、皇道日本の再建設のために精進しようではないか?
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三輪公忠『松岡洋右』によれば、この当時もし、総理大臣直接選挙制という制度があれば、松岡政権誕生の可能性があったという。しかも、その形は、松岡総統という呼び名になったかも知れないという。一国一体の独裁政治である。
この翌年(昭和九年)八月、ヒトラーが総統になっているので、三輪氏の説はそれをとり入れているのかも知れない。
なお、この年三月には満州国が帝制を実施し、執政|溥儀《ふぎ》が皇帝に即位した。
四月には「東亜の秩序回復は日本の単独責任であり、日支関係を悪化させる列国の対華軍事経済援助に反対する」という天羽声明が出された。
同じ四月、有名な帝人疑獄事件が発生し、松岡の政治腐敗説を裏づけている。
五月、近衛文麿が親善使として渡米、政府は聯盟脱退後の米国の意向を瀬踏みした。
七月、岡田啓介大将首班の岡田内閣が成立し、松岡の二期後輩の広田弘毅が外相となった。蔵相は財政通の高橋是清、陸相兼対満事務局総裁は、満州事変当時の朝鮮軍司令官林銑十郎大将である。
九月、ソ連が国際聯盟加入。日独の脱退にかわって、聯盟は新勢力を加えるとともに、その内容にも影響を受けることとなった。
十月、ロンドン海軍軍縮予備会議開催。海軍少将山本五十六も随員としてロンドンに赴いたが、会議の結果は不調であった。
同じ十月、松岡のふるさと*椏Sには異変が起きていた。
在満機構改革案が決定し、関東庁の各課長がこれに反対し、総辞職を決議した。満州帝国の出発とともに、関東州は満州国の領内に入り、関東庁の職員は満州国政府の指揮下に入ることとなったのである。
この説は以前から松岡が唱えていたものであるが、いざ実施となると、満人の下に入ることには抵抗があった。一方、満鉄自体においても改組すべきだ、という説が再燃していた。
松岡の約一年間にわたる日本遊説は、とくに地方青年の間で圧倒的な共鳴を得た。しかし、松岡の政党解消の理論と、この日本主義、皇道主義は、まだ成熟していなかった。
石原莞爾は松岡のスタートを遅きに失したといっているが、松岡が政権の重要ポストにすわるには、未だ時機尚早ということが言えた。
松岡は昭和九年十一月、九州地方の講演を終って、下関に戻ったとき、同行の松田有弘に、この運動を打ち切る意図を洩らしている。
若いときからの親友、南次郎大将が、十二月十日付で、関東軍司令官兼駐満全権大使に親補されることが内定していた。南は旅順時代からの親友である松岡に誘いをかけた。松岡も、政党解消運動に見切りをつける時期が来たと察し、古巣の満州へ帰りたい、という気持がわいていた。
政党解消運動は、国際聯盟脱退という望まざる業績≠ノ対する後遺症であり、また一種の骨休みでもあった。彼の本領は、いつまでも野にあって、ただ弁論をふるうところにはなかった。強い権力を握り、頂点に立って国を動かすのが、彼の念願であったとみてよかろう。
十二月十日、南が駐満全権大使に親補されると、松岡はふっつりと講演行脚をやめてしまった。あとは「昭和維新」に時々筆をとるだけで、ひとり三田尻の自宅で思索に専念するように見えた。
昭和十年になると、松岡が運動から手を引いて満鉄総裁になるという噂《うわさ》が聯盟員のなかに広まりつつあった。
最も不満を感じたのは、この運動によって、松岡が政界の有力者となり(あわよくば政権を握り)、そのあかつきには、運動員たちもそれぞれ政権内の幹部になれると期待していた人たちである。
聯盟員は動揺し始めた。栄達が夢であると知ると、去ってゆく者も出て来た。
松岡も隠していることができず、あるとき、聯盟員の一部が彼の挫折《ざせつ》をなじったところ、彼は、
「運動は一応の成果を収め得た。今は満蒙の重大問題が私を呼んでいる。諸君が私の満鉄入りに反対ならば、この松岡を一刀両断にせよ」
と例の向う意気の荒い決然たる態度で一同を説得した。
松岡は元陸相荒木貞夫を訪ねて相談した。その結果、彼は「もうあの運動の趣旨はすっかり徹底したと思う。もうこのへんで満鉄へ行こうと思う」と、意図を明らかにした。
松岡は昭和十年八月二日付をもって第十三代満鉄総裁兼関東軍顧問に任ぜられたが、この直前、八月一日、「聯盟各員に告ぐ」という訣別《けつべつ》の辞を発表した。
その大意を次に紹介しておこう。
聯盟各員に告ぐ
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私は今般意を決して満鉄総裁たることを諾し、大陸に乗り出すこととなった。これは一種の宿命である。二十五歳のときから支那問題に関係し、満蒙に深い関係を持ち、満州問題のためジュネーブの国際聯盟までゆくことになった。私の五十歳までの生涯は、ジュネーブへ行くための準備であったように思われる。
ジュネーブから帰って私は世界未曽有の大変局と、皇国の危機を感じ、じっとしてはおれなくなった。このためついに一切の過去を清算して既成政党の解消と昭和維新への突進を叫んで全国行脚の途に上ったのである。
実をいうと、ジュネーブから帰ったとき、私はある人々から満蒙問題解決のため、満州へ行くべきだ、とすすめられた。しかし、私はまず現下日本の政党問題の乱れを解決せずして、満蒙問題の解決はあり得ない、と考えて、既成政党の解消を叫び、人々の懐疑と嘲笑《ちようしよう》のうちにこの一年半を過した。
そして、その間の世相を観ずるに、政党は事実上解散したと見てよいようになった。
先年、私は「満蒙はわが国の生命線である」と強調したが、反応は少なかった。
私の帝国議会における第一声は、「重要なのはわが大和民族の生存権と満蒙問題である。この二本のレールの上に、わが国の外交列車を走らせるべきである」ということであった。
これもほとんど人々の関心を惹《ひ》かなかった。しかし、昭和六年夏、各種の雑文をかき集め、『動く満蒙』(先進社刊)と題して出版したところ、これがよく売れた。そして「生命線」という言葉が至るところで叫ばれ始めたのである。
政党解消運動はまだ一年半しかたっていないが、今やその反響は昔日の比ではない。
『由来、精神運動は静かに、しかし力強く下を流れるのがその本質である。静かだから力の弱い流れだ、と見るのは皮相的だ。しばらく地下にもぐっているからと言って、それが消えた、と速断することは出来ない。今の人たちの多くは鳴物入りでないとそこに何も存在していないと考えるのである。カラ騒ぎの物音はかえって空である。今日までの経過を検して政党解消運動の効果とその将来への重要性について、私はむしろ楽観を禁じ得ない』一昨年の暮、私の起《た》った時の主要目的は、国民の潜在意識を揺り動かし、目覚めさせて昭和維新への突進の原動力となるある物を造ろうとするにあったのだ。そしてそれはすでに造られた、と信ずる。あたかも「生命線」というスローガンが国民の潜在意識を呼び起した如く、必ず近い将来に「政党解消」という言葉が我が国民の潜在意識を呼び起すであろう。そしておそらくそれが昭和維新への突進の指導的・基礎的精神の雄叫《おたけ》びとなるであろう。
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三輪公忠氏は、この論文中の『 』内の部分を評して、「何と深い洞察と的確な予見に満ちていることか」と言っている。
この「聯盟各員に告ぐ」が「昭和維新」第三十号付録に発表されたのは、昭和十年八月のことであるが、それから半年後には二・二六事件が勃発した。正しく昭和維新≠フ旗の下にクーデターは実行されたのである。
政党解消運動は昭和十二年七月、第一次近衛内閣成立後、「相手がなくなった」という理由で、七月二十八日、正式に解散した。
しかし、それから三年後、昭和十五年七月、松岡が第二次近衛内閣の外相として入閣した直後、近衛文麿を総裁とする大日本大政翼賛会が結成され、既存政党は解散し、議会の大部分は翼賛議員となったのである。
いわゆる昭和維新は、ここにその体制を整えたかに見えた。松岡の予言は数年ならずして的中したのである。
三輪氏はこの松岡の予言を「深い洞察と的確な予見に満ちている」と評している。
三輪氏は米国ジョージタウン大学卒業、プリンストン大学においても学位をとった少壮学者で、国際関係史の専門家であるが、このような言い方が、松岡を礼賛するムードを帯びていることに、筆者は複雑な感じを禁じ得ない。
大政翼賛会の成立によって、日本が一国一党となり、間もなく三国同盟締結、日米開戦の路線が敷かれたことを想うと、松岡の洞察と予見を手ばなしで喜ぶわけにはゆかないのである。
序《ついで》ながら、三輪氏は松岡が一国一党(大政翼賛会)を実現した暁には、いずれ自分もその指導者になりたい、と考えていたらしいと書いている。
森清人によれば、大政翼賛会が出来たとき、松岡は「総裁は近衛公とし、次期総裁は公の指名によることにしたい」と発言している。
このとき、松岡は近衛の片腕であり、もし近衛が引退するとすれば、次期総理と翼賛会総裁は松岡のもとにころがりこむ可能性があった。後に詳述するが、この翌年昭和十六年四月、松岡がモスクワで日ソ中立条約に調印して、立川まで帰ったとき、近衛がすでに日米了解案を推しすすめていることを知り、二人の仲は急速に悪化したが、第二次近衛内閣組閣のときは、近衛も松岡の外交手腕を高くかっていた、というよりも、もう松岡ぐらいしか陸軍を相手にして難局を収拾出来る外交官はいなかったのである。
従って、松岡は、もし近衛が引退するならば、次期バトンは自分に渡ることを大いに期待していた。(これには異説もあるが後章に譲る)本編の冒頭で触れたように、松岡の本来の願いは、大政治家になって、日本の政治を牛耳ることであった。
彼の政党解消運動は、最初は非常時局に対処するため、腐敗した政党の清算を考えたものであろうが、そのなかに、いずれ一国一党制が確立された暁には、自分がタクトを振ろう、という野望が潜在していたことは、想像出来る。
それは彼の側近の運動員の言動からも察知出来るし、また、大政翼賛会成立後の彼の言説からも逆算出来るのである。
さて、松岡の「聯盟各員に告ぐ」は長々と続くが、その趣旨はすでに書いたところから想像されると思われるので省略する。
要するに松岡は、「政党解消」は昭和維新≠ノとって重要なエレメントであるが、今や、満蒙に重大事態が発生しつつあるので、発展しつつある政党解消運動はその成り行きに任せて、後事を青壮年に託し、自分は満州に行って腕を振いたい、というのである。
また、松岡は昭和十二年七月、政党聯盟の正式解散に際し、大連から「政党聯盟解散に際し聯盟員に寄す」という謝辞を電報で打っているが、その内容も形式的なものなので、省略する。
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十三章 満鉄総裁となる
松岡は昭和十年八月第十三代満鉄総裁に任命された。
しかし、これも、政党解消聯盟から縁を切ると同様、初めはなかなか簡単にはゆかなかった。
話はさかのぼるが、松岡を満鉄総裁に推す話は、昭和九年の秋から出ていた。
一つには、もちろん国際聯盟脱退後の満鉄を経営してゆく大物として、彼が最適とみなされ、先輩山本条太郎や、僚友南次郎などの推挽《すいばん》があったこと、今一つには定かではないが、彼が政党解消聯盟を推進しているのをみて、これはどうも具合が悪いと考えた政党の幹部が動いたのかも知れぬ。
そこで多くの人が松岡の説得に動いた。
南次郎はもちろんのこと、陸軍少将佐藤安之助(ジュネーブ会議随員)、石原莞爾、床次《とこなみ》竹二郎、小日山|直登《なおと》らである。
そこで、政府は最後の切札を出した。
すなわち、「天皇の御意」である。これは松岡の泣き所であった。長州に育ち、ジュネーブにあっても皇居の遥拝《ようはい》を続けていた松岡として、これには頭を下げるよりほかなかった。
使いには牧野伸顕伯が出た。「北支が危い。満州の青年将校たちは何をしでかすかわからぬ。また国際関係からも満州は注目の的である。ここは貴公の出馬を仰がねばならぬ」
老伯爵は、熱心に説いた。
松岡は「天皇の御意」と聞いて、頭を垂れた。しかし、彼は多分にあて馬にされた可能性があった。鼻息の荒い陸軍が充満している満州国に出かけて行って、一満鉄総裁にどれだけのことが出来るというのか。現に陸軍が予定通り北支にふくれ出し、支那事変(日中戦争)を起したのは、彼が総裁を勤めていた昭和十二年七月のことだったのである。
しかし、老獪《ろうかい》な牧野伸顕はそれを逆手にとった。
「そこだよ。松岡君。満州では幕末の浪人に似たような青年将校がうようよしている。これを抑えるにはよほどの大物を必要としている。そこで、畏《かしこ》きあたりでは、貴君に白羽の矢を立てられた。もし、うそだと思うなら、今からわしについて来たまえ。お上は葉山の御用邸で答えを待っておられるんだ」
この牧野の演出は利いた。
「そうですか。お上の御意とあれば……この松岡、粉骨砕身せねばなりますまい」
こうして松岡は満州国成立後の困難な満鉄の経営を引き受けることになったのである。
辞令は昭和十年八月一日付の予定であった。
この頃、日本の上層部では、一つの怪物?が舞い狂っていた。もっとも、それは、否定しようとする側からすれば怪物であり、西洋かぶれの亡霊であるが、説き出した人の側からすれば、何の不思議もない合理的な理論であったのである。
その怪物の名は、「天皇機関説」。
「天皇機関説」の主張者美濃部達吉博士は、東京都知事美濃部亮吉氏の父としても知られているが、法律学者で東大教授、貴族院議員の美濃部博士が「天皇機関説」を発表したのは、決して最近ではない。
もともとは、この頃枢密院議長であった一木喜徳郎が明治三十二年に出版した『国法学説』に端を発し、明治四十五年、美濃部はすでにドイツの法律学者イェリテクの『一般国家学』にもとづき「国家法人説」を唱え、天皇を、統治する一つの機関であると主張し、「天皇主権説」を唱える国粋主義者の上杉慎吉博士と論争を行ったことがある。上杉は有名な日露開戦説を主張した七人の博士の筆頭で、国家主義団体、桐花会、経綸《けいりん》学盟の創設者である。
美濃部が国家法人説もしくは国家主体説を説くのに対し、上杉は天皇主権説もしくは天皇主体説を主張して来た。日本国の主権は国家ではなく、天皇そのものにあるとするのであり、天皇を神として崇《あが》める一部のナショナリスト、国粋主義者にアピールした。西洋の王権神授説に似たところがあるが、当時の日本は、そのようにして日本を神国として、宗教的愛国心を揮《ふる》い起さねば、日清日露の大役《たいえき》に勝利を掴《つか》むことが出来ない、という小国の切羽つまった国内事情もあったのである。
この天皇機関説論争は大正時代は鳴りをひそめ、底流としてよどんでいた。さしたる国難もないように、表面上は見えたからであろう。
しかし、一九三五年(昭和十)ともなると、非常時の色合いはきわめて濃くなって来た。聯盟脱退、ワシントン条約期限切れともなれば、やがて来るものは軍備拡張、そして戦争である。
ナショナリストの一部は、この際、明治時代のある時期にならって、天皇の神権≠強化しようと試みた、のである。
昭和十年一月二十八日の貴族院本会議で、菊池武夫男爵が、最近の政情民情の低下を慨嘆した後、あらためて、美濃部の「天皇機関説」を非難した。
「かかる天皇の大権を批判し、統合の主体が、国家及び国民にあるなどと主張する本が公然と出ているから、国が混乱するのだ。国体に関する考えが乱れている」
と彼は発言した。
さらに、菊池は、この「天皇機関説」の著者美濃部を学匪《がくひ》と罵《ののし》り、また反逆者ときめつけた。
菊池の意図は、「天皇機関説」批判という一つの石を国民という池のなかに投げかけ、その波紋の出方によっては、天皇主権説すなわち、天皇即神、皇位神授説を打ち出し、日本国を神のしろしめす神国として一致団結せしめ、国難≠ノ当らしめんとするところにあったようである。
菊池は国家主義団体「勤王聯盟」の主宰者で、国家主義団体グループ「国体擁護聯合会」にも参加して、美濃部批判を試みていた。
美濃部も、雑誌「改造」等によって、菊池の論法を粗雑なりとして反論を試みていた。
この時代、すなわち、国際聯盟脱退後二年、そして、二・二六事件の前年において、美濃部の天皇機関説は、一般民衆に、天皇を現人神《あらひとがみ》≠フ位置からひきおろす思想だ、と受けとられがちであった。
筆者は、この年(昭和十年)岐阜県の中学校の四年生であったが、田舎の中学校にも右翼かぶれの学生はいて、美濃部の天皇機関説を激しく批判する者もいた。ある日、控室(雨天体操場)の壁に一枚のビラが張られた。そのビラには「檄《げき》」という題?がつけられていた。私も人だかりを押し分けて、その檄文を読んだ。「覚醒《カクセイ》セヨ、日本ノ青少年諸君!」という書き出しで、その檄文は、始まっていた。
そして、その文章は、満州事変以来、東亜は非常事態である。このときにあたり、美濃部博士の天皇機関説は、日本の国体をないがしろにするものであり、断乎《だんこ》排撃しなければならない。我々青年は、この際、大いに覚醒し、祖国の非常事態を認識し、国体を明らかにして、天皇のもと、挙国一致団結して国難に当り、非常時を乗り切らねばならない、と結んであった。末尾にはある五年生の名前が書いてあった。血書であるらしく、その署名だけは、色が黒褐色に変色していた。
この生徒は陸士を受けて失敗し、満州の学校に入ったと聞いているが、その最後は明らかでない。
天皇機関説を読んだこともない私は、この檄文を読んで美濃部博士はそんなに悪い人なのかな? と思った。満州事変が始まったのは私の小学校六年生のときであり、中学校に入ってからは、事ある度に配属将校が、満州権益の擁護と、共産主義ソ連の脅威を生徒に説いていた。当時、本巣《もとす》中学校という岐阜市の西方四キロにあった中学校においては、若干の右翼少年がいたが、コミュニズムに関心をもっている少年はほとんどいなかったように思う。
「共産主義は悪である。それは天皇をないがしろにするからである」と少佐の配属将校は、口を尖《とが》らして力説した。当時、海軍兵学校志願を決めていた私は、漠然と共産主義者は悪人である、という話をナイーブに受け入れていた。
私が、「天皇機関説」がいかなるものであるかを知ったのは、それから八年後である。
昭和十八年四月、私はイ号作戦というソロモン方面の空襲作戦に参加して、乗機を撃墜され、ガダルカナル島の周辺で一週間漂流して捕虜になった。ガ島の収容所を経て、南方のニューカレドニア島ヌーメアの収容所に送られた。この島には世界一のニッケル鉱山があり、二千人に近い日本人の移民がいた。その当時私たち捕虜は、そのような事実を知らなかったが、日本兵の収容所に、古めかしい日本語の雑誌や書籍が差し入れられたことで、この島に若干の日本人が住んでいることを推測した。
それらの図書のなかには、世界外交時報?というような厖大《ぼうだい》なファイルがあり、私はこのとじこみによって、第一次大戦前後の各国外交について知るところがあった。有名なロイド・ジョージ、マクドナルドをはじめ、「バルフォア宣言」を出したイギリスの政治家アーサー・バルフォアについても知るところがあった。バルフォアは、一九〇二年から一九〇六年まで、イギリスの首相を勤めた男である。
私がとくに興味をもって読んだのは、「中央公論」「改造」などのバックナンバーであった。そこには、私が中学校、海軍兵学校を通じてタブーとして触れることを禁じられていた左翼思想、自由主義、国際協調主義などに関する多くの文章が盛られていた。そして、その中に、私は美濃部博士の「天皇機関説批判に対する反論」というような題の長い論文を発見し貪《むさぼ》り読んだ。そして、天皇機関説のいかなるものであるかについて、若干の知識を得た。ソロモンの海で、天皇陛下のために死ぬことの出来なかった私は、天皇機関説という論理的なメカニズムは、さして抵抗感のあるものではなくなっていた。
児島襄『天皇』を通読すると、天皇は自ら神として絶対君主として君臨したのではなく、統治の一機関として、内閣の補弼《ほひつ》によって、日頃大権を遂行していたに過ぎないことがわかる。
さて、昭和十年二月二十五日、再燃した天皇機関説批判に対し、美濃部は「弁明」という名目で、貴族院で、菊池一派に対する反駁《はんばく》を行った。
美濃部は講義調で諄々《じゆんじゆん》と法理論を説いた。
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国家に主権があり、国家が法人であるという私の説を排して天皇主権説をとるならば、統治権は、天皇個人の利益のために存在するということになります。なぜならば、現代の法律学では、権利とは利益のために保有される法律上の力を意味するからであります。これではかえって、天皇の尊厳性を侵すことになりはしないでしょうか。天皇個人の利益のために、天皇主権説が存在するとすれば、これはかえって、菊池君の望む、天皇を尊ぶ国体と相反するのではないでしょうか。元来、日本の歴史では、天皇は仁徳天皇の詔勅に「君ハ百姓ヲ以《モツ》テ本トス」とあるように、国家、国民を私有視したことがありません。これこそ、日本の国体の精華なのであります。統治権を天皇の私権とみなすならば、租税は国税ではなくて、天皇個人の収入となり、国際条約は天皇個人と外国との契約にすぎなくなるでありましょう。また菊池君は天皇の大権を万能無制限のように主張し、私が、議会は天皇の命令に服しないと述べているのは怪《け》しからぬと言われるが、憲法第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬《ソウラン》シ此《コ》ノ憲法ノ条規ニ依リ之《コレ》ヲ行ウ」と明記してあるので、私も、天皇が憲法の条規によらずして議会に命令することはない、と述べたにすぎないのであります。
もし、菊池君がいう如く、統治権が天皇の私権であり、天皇が明治天皇がお決めになった憲法に則《のつと》らずして議会に命令を出されるとすれば、そういう見解が果して我が尊貴なる国体に適合するでありましょうか?
天皇機関説は、決して奇矯の説ではなく、極く平凡な真理であって、日本の国体に適合した所論なのであります。
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美濃部は明快な論旨をおだやかに説いたが、その菊池に対する論駁は根底にかなり強烈なものをもっており、これを報道した二月十六日の東京朝日新聞は一面トップでこれを扱い、みだしに、「片言隻句を捉《とら》えて、反逆者とは何事」「美濃部博士諄々憲法を説き、貴院で一身上の弁明」「機関説を説明。万能説は西洋思想」等の大きな活字が見える。
美濃部の説明は穏当とみられ、貴族院では納得する空気が強かった。かつて大正初年、検事としてシーメンス事件を扱った小原直は、このとき法務大臣であったが、美濃部の発言にうなずきながら自らこまかくノートをとった。
ライバルの菊池も、ここは法律学の知識の不足から、己の不利を認め、
「申しあげたいこともありますが、討論のしかけあいでは意味なきことに思われますので、今回は発言を致しません」
と、一見おとなしく引きさがった。
しかし、天皇機関説に対する反論は、決してこれで終熄《しゆうそく》したのではなかった。
天皇親政を叫び、君側の奸《かん》を除き、天皇絶対主義体制の確立をめざすファッショ的革新派にとっては、天皇機関説は、押しつぶすべき当面の敵であった。筆者の感じでは、天皇を機関とみなすというこの機関≠ニいう言葉が、余計に右派の神経をたかぶらせたものと考えられる。機関から来る連想は、蒸気機関等のエンジンであり、神聖であるべき天皇を、機関車の一部品であるエンジンのようにたとえるとは何事か、という右派の憤激が感情的にあったと思われる。
非常時に当って、このような欧米かぶれのメカニズムを認めるならば、天皇の名による革新、すなわち錦旗革命は成り立たない。日本はどこへ行けばよいのか?
そこで、美濃部博士の弁明は、かえって、政界、軍部内の右翼、革新派、民間右翼団体の反感をあおり立てる結果となった。
彼らは、一般民衆に対して、「天皇を機関の一つと決めつけるのは、不敬である」という素朴な言い方をして、その愛国心にアピールした。当時中学生であった筆者のように、一般大衆は、素直に天皇機関説は不敬である、という非難を受け入れたのである。
まず、軍部が動き、三月十六日の衆議院本会議で、陸相林銑十郎は、
「陸相としては、このような学説のために、国民思想の動揺を来すことは面白からぬと考え、このような説は消滅するよう努力したいと考えている」
と述べた。
続いて、三月二十三日、政友会総裁鈴木喜三郎は「天皇があってはじめて国家があるのであって、国家があって天皇があるとは考えられない」という理由のもとに、各党に呼びかけて、「国体明徴決議案」を提案し、これを可決した。
その本文は次の通りである。
「国体の本義を明徴にし、人心の帰趨《きすう》を明らかにするは、刻下最大の要務なり。政府は崇高無比なる我が国体と相容《あいい》れざる言説に対し、直ちに断乎たる措置を取るべし」
鈴木は、これを説明し、具体的に美濃部とその学説について法的制裁を加えるべし、と主張した。
首相岡田啓介は初め静観主義をとり、「学説に対しては、学者間で学説をもって討論すべきだ」と言っていたが、やがて、「不敬罪を適用するほどではないが、国権|冒涜《ぼうとく》をあてはめねばなるまいか」と言うようになって来た。
このとき、天皇自身はどう考えていたか。
『天皇(二)』には、天皇が機関説を支持していることが述べられている。
三月初旬、天皇は「自分の地位のことは別として、肉体的には武官長らと何ら変るところはない(すなわち神様ではない)。従って、機関説を排撃するため、自分を身動きのとれない存在(神)とすることは、精神的にも身体的にも迷惑なことである」と本庄繁侍従武官長に述べている。
しかし、機関説に対する反撥は折柄の世相を反映せる如く、ますます燃え盛り、三月二十九日、林陸相と大角海相が「陸海軍は共に天皇機関説に反対である、政府は速やかに善処されたい」と閣議で岡田首相に申し入れた。
軍隊としては、天皇は現人神でなければ困るのである。明治十四年公布された「軍人に賜りたる勅諭」の冒頭に「我が国の軍隊は世々天皇の統率したまうところにぞある」と書かれてある。天皇が神様であるとは書いてないが、軍隊内部では、天皇は神であり、その神のために戦うのであるから、我々も死して護国の鬼となり、靖国神社に神として祭られるのだ、という宗教的な思想を強く叩きこんでいる。
この神国の統率者である神のために身を捨てる忠誠があってこそ、日清、日露の大役に勝利を得て、今日の繁栄を得ているのである。これひとえに、天皇の大|御稜威《みいつ》によるものである、という宗教的な献身の思想が当時の軍隊の支柱となっていた。従って天皇は国家の一機関にすぎない、すなわち、会社の社長のように事務を遂行する一種のエイジェントであると規制するような学者を野放しにしておくことは軍隊の教育上、甚《はなは》だ思わしくないのである。
この閣議の様子を聞いて、天皇はさらに本庄武官長に言った。
「憲法第四条の、天皇は国家の元首にして、以下の文章は、機関説と同じ意味である。機関説がいけないならば、憲法を改正しなければなるまい」
本庄武官長は恐縮しながらも、軍隊における天皇観と、その教育について説明し、
「陛下を一機関であり、単なる人間にすぎないと公言することは、軍隊教育及び、統帥上、きわめて思わしくないことであります」
と奉答した。
四月六日、教育総監真崎甚三郎大将は、「天皇機関説はわが国体観念上許すことの出来ない誤った言説である。帝国軍人は、このような学者の妄説《もうせつ》に迷わされてはならない」と全陸軍に訓示した。
天皇はこの訓示についても異論があり、本庄武官長に更に問い質《ただ》すところがあった。
しかし、天皇は機関説の審議ばかりもしてはおれなかった。
昭和十年四月六日は、満州国皇帝溥儀が来日した日である。
昭和七年三月誕生した満州国は、九年三月帝制を実施、それまで執政であった溥儀は、初代皇帝となった。そこで、日本の皇室は秩父宮を天皇名代として差遣、祝賀の辞を贈った。今回の溥儀訪日は、その答礼であった。
日本は自分がつくり出した満州国の皇帝の初来日を大歓迎した。
戦艦|比叡《ひえい》が皇帝の乗艦として満州に派遣され、皇帝は神戸に上陸、東京湾では連合艦隊と、飛行機二百機が出迎えた。天皇は東京駅まで皇帝を出迎えた。
溥儀は四月二十四日まで日本に滞在し、各地で歓迎を受けた。日本国民は、満州国の発展に、日本の輝かしい未来を期待した。
一九〇六年生れの溥儀はこの年二十九歳で、天皇より五歳年少であった。三歳で清国皇帝として即位し、一九一二年、六歳のとき、辛亥革命によって帝位を追われた。その後一九三一年(昭和六)満州事変によって土肥原大佐らにかつぎ出されるまでは、暗く悲しい流浪と幽閉の生活であった。それで、溥儀の眼には日本国民の歓迎は特別暖かいものに映った。
第二次大戦後、溥儀は、極東軍事裁判の証人として、ソ連から東京に出頭し、「自分は日本軍のカイライとして踊らされた。当時日本の政策を良しとして、満州国民に、日本と友好を保つよう訓示したのは、皆日本軍部の圧力によるへつらいであった」と証言し、一部の人々を驚かせたが、昭和十年四月日本を訪れたとき、側近は日本の歓迎を喜ぶ溥儀の両眼に喜びの涙を見たというから、人間の物の考え方は、時代と共に大きく変るものらしい。
それはともかく、皇帝溥儀が日本滞在中は、天皇機関説批判、すなわち、国体明徴問題は、一応は姿をひそめたかに見えたが、溥儀の神戸出帆の前日、四月二十三日、早くも第何弾目かの美濃部攻撃が行われた。
この日、帝国在郷軍人会本部は、「大日本帝国憲法の解釈に関する見解」と題するパンフレット十五万部を全国に配布する旨を発表した。内容は、皇国日本を護る日本軍人は日本人独特の憲法意識を持つべきであるとして、機関説を排撃したものである。
天皇は侍従武官に命じてこのパンフレットを取りよせしめ、全部を通読し、「この筆者は、外国憲法の勉強が足りない」と指摘して、本庄武官長を恐縮せしめた。
天皇は、満州事変の責任者である本庄武官長ばかりを相手にしていても致し方ないと考え、比較的リベラルな海軍の意見を聞いてみようと試み、侍従武官の出光万兵衛海軍少将を呼んだ。出光少将は、昭和十二年筆者が海軍兵学校に入校する直前まで兵学校長の職にあった人で、謹直な教育者タイプの人であった。出光少将は、天皇の懸念はもっともであると考えたが、陸軍との摩擦を避けるため、天皇に局外に立つように進言した。
「天皇自ら、天皇主権や国体問題に言及されるのは望ましいことではありません。陛下としては臣下の論議は高処より静視大観あらせられんことをお願い申し上げます」
天皇は、この出光武官の進言にも不満であったが、論議の焦点である自分が、あまりに強く意見を主張することは、反対派の強い抵抗を招き、混乱をひきおこすおそれがあるかも知れぬと考え、しばらく静観すべきか、と考えた。
ところが、国体明徴問題は、天皇の心労をよそに意外な方向に発展して行った。すなわち、陸軍部内に皇道派と統制派の激しい抗争をひき起し、やがて翌年の二・二六事件の大乱につながっていくのである。
この年(昭和十年)八月一日、国体明徴問題の闘将である真崎甚三郎大将が更迭され軍事参議官となった。
林銑十郎陸相は、かねてから陸軍部内において、真崎がファッショ的立場から思想統制を試み、人事行政に口を出すのを不当だと考えていた。林は謹厳なる忠君愛国主義者であるが、陸軍省内の有力者である軍務局長永田鉄山陸軍少将は、統制派の中心人物であった。彼は、真崎、荒木らが、皇道派の中堅幹部、青年将校をあおりたて、過激なる錦旗革命によって、革新を行おうと意図しているのを危険である、と考えたのである。
永田は、真崎たちが、国体明徴問題を好機として、皇道主義を高揚しようと企画しているのを抑える必要があると考えて、真崎の更迭を強く林陸相に進言した。
八月一日これが実現し、このため永田軍務局長は、八月十二日、真崎大将の派に属する相沢三郎中佐に斬殺されるに至るのである。
ここで、陸軍部内の皇道派と統制派について簡単に説明しておこう。
一般に、皇道派は天皇絶対、天皇親政を唱える宗教的な軍人集団であり、統制派は、官僚的なシステムにより、軍部内に指揮権の統一を計るもの、と感覚的には解せられている。しかし、その発生と行動を見ると、一種の勢力争いによって生じた派閥と解釈してよさそうである。
そもそもの根源は、宇垣一成の陸相時代に端を発する。
元来、日本陸軍は大村益次郎による建軍以来、長州閥が有力で、山県有朋を長老として独走体制を固めて来た。しかし一九二二年(大正十一)山県が死ぬと、その勢力が弱まり、岡山県出身の大物といわれる宇垣一成が力を握り、清浦、加藤高明、若槻の三内閣にわたって、大正末期から昭和初期にかけ、七年間、陸相の椅子にすわり、陸軍を牛耳った。宇垣は一種の統制派であり、軍政系統を固め、四個師団軍縮を断行して、軍部内のナショナリストの反感をかったりした。
この間、軍令系統を中心とする反宇垣派は、元帥上原勇作をかつぎ、武藤信義、荒木貞夫、真崎甚三郎らが中心となって、宇垣批判を行い、皇道高揚、国防力増強を旗印に気勢をあげ、とくに昭和の革新を叫ぶ青年将校の人気を得ていた。
一九三一年(昭和六)三月事件で宇垣が退陣し、満州事変後のナショナリズム高揚時に荒木が陸相となると、皇道派は急速に力を得て、宇垣派を一掃し、荒木、真崎によるファッショ的体制を確立しようと懸命になった。
これに対して、陸軍部内切っての切れ者といわれる永田鉄山少将を中心とする統制派は、荒木、真崎路線を危険視し、その一方的な人事を快からず思っていた。
昭和九年、荒木が病気のため退陣し、林銑十郎が陸相となると、統制派は、軍務局長となった永田を根幹とし、林と渡辺錠太郎大将をかついで、皇道派を抑えようとした。折柄、国体明徴問題が起ったので、ここで、しきりに度を過ぎた動きを示す真崎を更迭するほか、皇道派を要職から追うことを永田が林に進言したものである。
皇道派が、天皇絶対主義の宗教的傾向を示し、統帥権を表看板とする軍令系統の出身者が多いのにくらべて、統制派は軍政系統の陸軍省の幹部が多く、また当時の独占資本との結びつきも強かった。これも、財閥を倒して君側の奸を一掃しようとする皇道派の憎むところとなる一つの要因である。
真崎追放の大きな反応の一つは、相沢中佐の永田軍務局長斬殺事件となって現われた。
真崎の辞任は、七月十五日、すでに天皇の勅裁を得て内定し、その噂《うわさ》は陸軍内部にも広まっていた。
七月十九日、福山の歩兵第四十一聯隊から上京した相沢三郎中佐は陸軍省に永田鉄山軍務局長を訪ね、辞職を勧告した。
相沢は福島県白河の産、父は旧仙台藩士で、維新後は裁判官を勤めた。相沢はいわゆる旧幕軍派の息子に生れたわけであるが、陸士に入ったころから、勤王の志に燃え、佐官になる頃までには、二・二六事件の思想的支柱となった西田|税《みつぐ》とつきあったり、真崎甚三郎の知遇を得たりして、皇道派のなかでも硬派の代表となっていた。
八月一日付で台湾軍への転勤が発令されたが、相沢中佐は赴任せず、東京千駄ヶ谷の西田税の家に泊ってひとり策を練っていた。
八月十二日朝、相沢は陸軍省を訪問した。そして、午前十時近く、彼は軍務局長室で来客と対談中の永田少将の背中に軍刀で一撃を与え、なおも逃げようとする少将の背中を深く突き刺すと、倒れた少将のこめかみにも重傷を負わせた。
相沢は軍帽を部屋に残したまま外へ出、たまたま通りかかった顔見知りの山下奉文少将と出会い、
「今から台湾に赴任致します」
とあいさつし、山下もうなずいた。
その頃、軍務局長室にとびこんだ武藤章中佐は鮮血にまみれた永田を抱き起したが、すでに絶命していた。
相沢は間もなく憲兵隊に逮捕された。
相沢事件は皇道派からは、昭和維新£f行の第一歩として賞讃《しようさん》されたが、陸軍部内はこのために混乱し、皇道派の過激な行動に対する批判が高まった。
林陸相は八月二十六日、陸軍省に軍の幹部を集め、「建軍の本義」に徹し、統帥を守ることが、天皇の大御心《おおみこころ》にかなうものであることを力説し、粛軍の意図を明らかにした。
一方、相沢事件を契機として、再び天皇機関説批判は再燃し、八月二十七日、東京で在郷軍人会全国大会がひらかれ、出席者は、天皇機関説排撃を更《あらた》めて決議した。
林陸相は、混乱を収拾するため九月三日、辞意を表明し、後任に川島義之大将を推薦した。川島は、皇道、統制の両派にもとくにかかわりがなく、無色透明に近い、とみられていた。
九月十七日、検事局で取調べを受けていた美濃部博士は起訴猶予処分となった。しかし、彼の著作『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本憲法の基本主義』の三冊はすでに発禁処分となっていた。
翌十八日、美濃部は「自分の学説が誤っているとは思えないが、現在の貴族院においては、議員としての職分を尽すことが困難である」との見解を発表し、貴族院議員を辞職した。
美濃部はこの後、学界の表面に立つことはなかったが、第二次大戦終了後公職に復帰し、昭和二十三年世を去った。彼の唱えた天皇機関説は、多くの論議を呼び、多くの事件の間接的な誘因ともなったが、戦後の民主主義体制のもとでは、常識として吸収されている。
さて、話を本論に戻そう。
松岡洋右は、昭和十年八月二日、第十三代満鉄総裁を仰せつけられ、関東軍最高顧問に任ぜられた。
この日は真崎の更迭人事が発表された翌日であり、相沢中佐が永田鉄山軍務局長を斬殺する十日前である。
松岡は辞令を受けとると総理の岡田啓介にあいさつし、外相広田弘毅の送別の宴に招かれた。松岡より二期あとに外務省に入った広田は、玄洋社、黒竜会など右翼団体の有力者とつながりがあり、軍部のある方面からは支持を得ていた。
広田は駐ソ大使の後、斎藤実内閣に外相として入閣し、岡田内閣でも引き続きその任にあった。松岡と広田は、性格が違う。松岡が常に自分の主張を持ち、それを実現させようと行動的に出るのに対して、広田はいつも受け身で、運命に逆わないのを人生訓としていた。松岡はその企画性、行動力のために太平洋戦争開始の責任者となり、広田はその受身性の故に、支那事変における民衆虐殺の責任者にされた。
二人がどの程度仲がよかったかは、よくわからない。松岡は、自分より二期後輩でありながら、東大卒の経歴と右翼のバックで早くも外務大臣となっている広田の出世≠ノ対して愉快に感じていなかったかも知れない。茫洋としたところのある広田は、この強気の松岡が満鉄総裁となるので、今度は何をしでかすのやら、というかすかな不安と共に盃《さかずき》をかわしていたのであろう。
いずれにしても、この盛夏の一夜、二人は、後年たった二人だけの文官のA級戦犯死刑候補者として、共に巣鴨の獄につながれる運命になろうとは、予想していなかったに違いない。
松岡は前総裁林博太郎と事務引き継ぎを行った。場所は虎の門に近い満鉄東京支社で、第二次大戦後アメリカ大使館の一部となったビルである。
この頃、満鉄は大きな問題をかかえていた。満鉄改組すなわち機構の縮小と権限の削限である。満州国が成立し、日本の政治家、官僚を中心とする政治機構がフル活動するにつれて、かつて満州総督的な役割を果して来た満鉄総裁の権限も大幅に縮小を目論《もくろ》まれるに至っていた。すでに昭和八年七月、関東軍の沼田中佐は「沼田満鉄改組案」(後述)を関係筋に提示していた。
膨脹した関東軍は満鉄を満州国の国有鉄道的なものとして、これを牛耳ることを考え、満鉄社員はこれに反対していた。松岡は大正十年から十五年まで理事、昭和二年から四年まで副総裁として満鉄に在任していたが、満鉄の権力もその時代とは異って来ていた。時代は移りつつある。満鉄社員は、松岡の総裁就任により、関東軍司令官の南と手をとりあって昔日の満鉄の隆盛を挽回《ばんかい》することを期待していたのである。
松岡は林前総裁との事務引き継ぎのほか、対満事務局総裁を兼務している林銑十郎陸相とも、満鉄の今後の経営について協議したが、この主なものは次の通りである。
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一、満鉄は関東軍との協同歩調を挽回すべし。「満鉄改組」問題以降、満鉄社員は、関東軍に対して批判的である。これを友好的なものにすべきである。
二、満州国が成立し、その行政が軌道に乗り始めたので、満鉄はその政治活動を縮小すべきこと。交通業を中心とした経済活動に重点を絞り、重工業部門を分離して別会社(満州重工業等)に譲り、付属地の行政を満州国政府に返すこと。
三、日満支経済提携の基本路線に沿って、進行中の興中|公司《コンス》の設立促進に努力すること。
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以上のようであるが、簡単にいえば松岡は、満鉄を縮小するための整理係として選ばれたのである。
一九〇六年(明治三十九)日露戦勝の翌年誕生した満鉄は、ようやくその隆盛期を過ぎようとしていた。
一、交通(鉄道、自動車運輸、水運、港湾)二、鉱工業(撫順《ぶじゆん》炭鉱、鞍山《あんざん》鉄山、オイルシェール発掘等)三、調査 四、拓植 五、関係会社経営 と五部門に手を拡げ、日本有数の大会社であったが、創立後二十九年にして、ようやくその大鵬《たいほう》の如き翼を休めようとしつつあった。
松岡は天皇に拝謁、東京で総裁就任披露宴をすませた後、二十九日大連到着、即日、協和会館において大連在住の満鉄社員に次の如き就任あいさつを行った。
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一、六年ぶりで古巣の満鉄に立ち戻り、非常に懐しく感じています。着任に先立って、葉山に参上しましたところ、天皇陛下より特に拝謁を賜りました。これは私ひとりの光栄ではなく、満鉄全社員の光栄である、と考えていただきたい。
二、私は今回はすべての問題に白紙でのぞむ決心でやって来ました。私は二十七歳のとき(明治三十九年)関東都督府外事課長として初めて大連に着任して以来、満鉄の理事、副総裁と勤務し、今回で四回目である。満蒙及び満鉄に関しては、いささかの知識を持っているつもりである。しかし、満州国が出来て大きな変革が行われつつある今、私の知識は過去のものとなりつつあるかも知れない。従って、私は白紙ですべての新しい問題と取り組むべく満州にやって来た。
三、そのためには、大いに社員諸君の意見を聞きたいと思う。私の気性は諸君の知っている通りで、気に入らなければ怒鳴るが、道理のあることならば、一|傭員《よういん》の話でも喜んで耳を傾けます。
私は大正十年七月、初代社長早川千吉郎氏について、理事として満鉄に赴任した。その後、満鉄の社長、総裁等幹部の去来をながめていると、着任以前にさまざまなことをふきこまれて来る幹部が多い。いったん、ふきこまれた先入観は、是正することが難しい。このために、新しい幹部と社員の間に溝《みぞ》が出来た例も少なくはない。ところが、今回私が総裁として赴任するにあたっては、そのような偏見の材料をふきこむ人が少ない。それは私が以前に満鉄にいたことがあるので、言うべきことがないのかも知れない。いずれにしても私はそのような先入観や偏見を持たず、久方ぶりに家族に会うという気持で着任したのであります。
四、先にも言ったように、私は社員諸君から忌憚《きたん》のない意見を聞きたいと思う。何でも言っていただきたい。ただ、直接外部に向って意見を言ってもらっては困る。外部に対する意見は、総裁の私が代表して言います。総裁をさしおいて、社員が直接外部に発言することは、差し控えてもらいたい。
五、満鉄が改組されると言って心配している社員も多いと思われるが、心配はしなくてもよろしい。私は満鉄創立の使命を傷つける改組には絶対反対である。満鉄は同胞十万の犠牲の上にかちとられた明治大帝のご遺産である。満州国が出来て、北支那工作が始まっている現在、満鉄も機構を革新する必要が生ずるかと思われる。しかし、その出発点において担っていた使命のうち、経済的使命だけは、満鉄の最も重大な使命として、これからも担ってゆかねばならない。大和民族の東北アジアにおける経済的進展を助け、あるいは指導してゆく、という国家的使命は、創立当初より重要な使命であり、今もますます重要性を加えつつあるものである。
六、次に問題なのは、満州国が出来て、ここに、満州国に属する日本人官吏、関東軍、満鉄と三つの要素が並び立つことになった。私はこれが三位《さんみ》一体となることを願っている。進んでは満州国と一体になることを望んでいる。しかし、満鉄は決して関東軍に盲従したりはしない。私は今回、関東軍最高顧問に任ぜられたが、これは名目上だけでなく、私は顧問としての役目を十分に果したいと考えている。
七、最後に、非常時であることを認識し、東亜全局の安定のためという大目的を忘れずに努力していただきたい。世界は人類史上|未《いま》だかつてない大変局に直面している。わが満鉄も大変革を前にしている。この情勢を正視して奮闘していただきたい。
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例によって松岡は、着任早々からエネルギッシュに活動を始めた。
着任の翌月、九月には懸案の特急「あじあ」号が大連、ハルピン間を走った。日本本土を走る「つばめ」「富士」「さくら」などの特急より豪華でスピードの早い特急が満州に誕生した。
松岡は、その第一号の展望車に、大連からハルピンまで試乗してみた。満鉄は、日本のような狭軌と違って幅の広い標準軌道であり、線路がほぼ直線で急カーブが少ないので、非常にスピードが出る。客車も、幅が広く、乗り心地は上々である。車窓をかすめて飛び去ってゆく南満州の平原をながめやりながら、松岡は側近にこう語った。
「こりゃあ、内地よりも豪華で早いものが出来たなあ。いずれ、鉄道に関しては何でも満州の方がいいという時代が来るな」
松岡はその生涯のかなりの部分を満鉄の育成に注いでいる。日本の敗戦後も、満鉄は中国の東北における重要な大動脈となっている。これはヒトラーの残したアウトバーン(自動車道路)が、戦後、ドイツの重要な交通網を形成しているのとひきくらべて興味深い。
続いて十月、支那の経済開発の拠点となる興中公司が発足した。
興中公司は、満鉄がその全株式をひきうける国策会社で、満鉄の子会社的色彩を帯びるもので、松岡が総裁になる前から話が進められていたものである。
公司は本店を上海におき、大連、東京、大阪、広東の四カ所に支店をおく。その業務は大まかに言えば、
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一、対支輸出入貿易並びにその代理及び仲介。
二、支那における経済諸事業の直営、斡旋《あつせん》、仲介、投資。
となっており、具体的にいえば、
一、満州で生産される銑鉄、石炭等の支那における販売、その他対支輸出入貿易及びその代理仲介。
二、満州開発に関連する支那における事業の直営、斡旋、投資等。
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となる。
資本金は一千万円(二十万株)で、全株満鉄の払い込みであるが、適当な機会に一般資本の参加を認める、となっていた。
松岡は最初、この興中公司設立にあまり気乗りがしなかった。
その大きな原因は、公司の社長に十河《そごう》信二(戦後国鉄総裁)が予定されていたからである。十河は軍部と親しく満州事変勃発のときは満鉄理事として、満鉄を総動員して軍事輸送に努力し、軍部に感謝されていた。また十河は東方会議を起した右翼政治家森恪と非常に親しかった。森は昭和七年十二月、四十九歳で急死していたが、松岡はその急進的な大陸進出(侵略)論に批判的であった。また現在、関東軍参謀副長となっている板垣征四郎は、満州事変の起爆剤となった参謀で、十河と親しい。土肥原賢二や石原莞爾と親しい板垣が、今や満州国成立と同時に、支那に対していかなる野心を抱いているかは松岡にも想像出来た。
松岡は、興中公司が、右寄りの野心家に支持された国策会社として、支那の経済的侵略の尖兵《せんぺい》となることをおそれていたのである。
しかし、川島陸相や参謀本部からは、設立促進に矢のような催促である。
これに反して、総理岡田啓介は、松岡が赴任する直前の会見で、「満鉄は以前は政党の食いものになったことがあり、今度の興中公司設立では、陸軍の食いものになろうとしているから、よく注意してくれ」と警告を発していた。
結局、松岡もいつまでもほっておくわけにはゆかず、十月ついに発足に同意し、十一月一日、大連の満鉄総裁邸に十河を呼び、ある程度の修正を行うことを条件に、興中公司の発足を認めたのである。
しかし、国策会社興中公司は、軍部が期待したわりには不評で、目立った働きを残さなかった。これは増資に対して、松岡がよい顔をせず、一般の投資家も時機尚早とみて、手を出すのを控えたからであろう。
公司発足後間もなくの仕事としては、天津電業公司、塘沽《タンクウ》運輸公司設立ぐらいのものである。
軍部は、満鉄を橋頭堡《きようとうほ》として満州に勢力を植えつけ、やがて満州国が成立したごとく、支那においても、直接武力侵略を行わず、興中公司を満鉄の代りにして、まず経済的に支那を支配し、やがて全面的に支配権を確立しようと考えたが、それにしては、公司の規模は小さく、松岡をはじめ有力者の賛成を得られなかったので、野望は挫折《ざせつ》した。
これにこりた板垣は、やがて土肥原と組んで支那事変を起し、北支を武力的に制圧しようと試みるのである。
支那事変が始まると、北支開発、中支那開発などが出来て、公司の意味はうすれ、昭和十六年十月解散した。北支の初代総裁は大谷|尊由《そんゆう》、中支那の総裁は元横浜正金銀行頭取の児玉謙次であった。
さて、昭和十一年に入ると、二・二六事件が勃発し、時代は急転直下、陸軍統制派の天下となり、軍部にひきずられて、坂道をころがり落ちるごとく大戦に歩を進めてゆくのであるが、いましばらく松岡が苦心した満鉄改組問題をながめておこう。
満鉄改組が具体化するのは、昭和十二年の満州重工業発足後であるが、満鉄改組案はそのはるか以前から提示されていた。
満鉄が、経済政治面において、予想外に発展膨脹したので、これを分割した方がよいという案は、昭和二年、東方会議の席上、森恪から提示されていた。
続いて、満州事変後、関東軍特務部総務課長、沼田|多稼蔵《たけぞう》中佐から、昭和八年十月、「沼田満鉄改組案」が提示され、満鉄社員は大きな衝撃を受けた。
沼田改組案の要項は次の通りである。
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一、産業統制に関しては、全満州産業指導の最高機関として、関東軍が満鉄の監督権を持つ。
二、満鉄を国策会社から、一般的な持株会社とする。
三、満鉄が行政権を持つ鉄道付属地は、漸次満州国に返す。
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しかし、この案に対する反対は部外にも多く、拓務大臣永井柳太郎をはじめ、政府要人や陸軍省内部にもあった。
三万人の社員から形成される満鉄社員会は、同年十月二十八日、次のような内容の改組案反対宣言文を作成決議して、十一月一日、菱刈隆関東軍司令官にこれを手交し、改組問題は一応下火になったかに見えた。
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一、満鉄は明治天皇の御遺産であって、国民血肉の結晶である。国策遂行の使命を帯びて、その任務はますます重大である。
二、満鉄は満州開発の根幹である。この改変は、白日の下に、国民と共に討議すべきである。みだりに策を弄《ろう》して、大事を誤ってもらいたくない。
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しかし、満鉄改組問題は依然としてくすぶり続けていた。
松岡が満鉄総裁に就任するときにも、対満事務局総裁を兼任する林陸相は、満鉄の方針を変更すべしとして次のような希望を述べている。この内容の主な部分は前章に出ているが、補足的に繰り返しておく。
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一、満州国との協調に関し、一段の改善を加えること。
二、事業の堅実化を図り、以て国民の信頼にこたえること。
三、既営の諸鉄道、港湾の経営を一層合理的ならしむること。
四、内地産業との連繋《れんけい》を図ると共に、一般邦人企業家に対し対満発展の機会を与うること。
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また、昭和十年十月三十一日、次のような意見を陸軍次官が述べたことが現代史資料に見えている。
「満鉄改組については、必ずしも先の関東軍沼田案には拘泥しない。現在の急務は、満鉄社員並びに関係者の満州新事態認識の思想改造である」
松岡は外部からのさまざまな意見を聞き、改組の構想を練っていた。改組は遅い方がいい、という声が彼の耳元にあった。創立以来三十年に近い満鉄も、今や彼の総裁時代をもって、その最盛期を終ろうとしているのである。大げさにいえば、葬送の弔鐘が遠くから鳴り響きながら近づきつつあった。
日露戦争直後、智将児玉源太郎が、イギリスの東インド会社を研究させて設立するに至った満鉄は、その軍事的意図が達成されるや、勢力の分割を関東軍から強制されていた。
葬送はなるべく遅い方がよい、と松岡は考えていた。
大正十年、彼が初めて理事となって赴任すると間もなく鉄嶺《てつれい》、奉天間の複線が完成した。満鉄はまだまだ伸びる盛りの青年期にあった。(鉄嶺は奉天の北方百キロに位置し、筆者が小学生時代を送ったところである)
この年、ワシントン会議が開かれ、首相原敬が暗殺された。
翌十一年、知遇を受けた二人の先輩が死んだ。山県有朋と松岡を引き立てた満鉄社長早川千吉郎である。
十二年九月関東大震災があり、十二月虎の門事件で、山本内閣が総辞職した。
十三年、孫文が中国国民党主席となり、翌十四年孫文は死に、日本では松岡の先輩田中義一が政友会総裁となった。
十五年三月、満鉄理事を免ぜられた。この年、大正天皇崩御。
翌、昭和二年七月、松岡は満鉄副社長を命ぜられた。この年の三月、松岡は南昌で蒋介石と会見していた。四十七歳でまだ若かった。
翌三年六月、張作霖が奉天で爆殺された。満鉄の事業は順調に発展していた。
翌四年七月、満州某重大事件(張作霖爆殺)の責任をとり田中内閣は総辞職、そして九月、田中義一は急逝した。
この年八月松岡は副総裁を免ぜられ、代議士立候補の準備にかかった。満鉄の事業は依然として発展を続けていた。
そして、六年ぶりに総裁として古巣に戻ったときは、葬送の準備をしなければならぬ時期が迫っていた。
松岡は星ヶ浦の総裁別邸の自室で、時々改組案の原稿から目をあげ、額に手をあてて考えこむことがあった。満鉄とは長い縁である。その草創の年、明治三十九年に関東都督府外事課長として交渉をもち、会社の青年期に理事副総裁を勤め、その初老を迎えた時期には、後始末にとりかからねばならない。
しかも、松岡生涯の大任であった国際聯盟脱退は、もとはと言えば、満州問題が原因であった。
おれは満鉄と共に歩いて来た。いつも満州がおれの脳裡《のうり》にあった。おれは満鉄と運命を共にするのかも知れない……。そう思いに沈む松岡の耳に、大連湾の波の音が聞えていた。
松岡が満鉄のフューネラル・マーチのメロディについて腐心している間にも時代は激しく動きつつあった。
昭和十一年を迎えると間もなく、二・二六事件が勃発した。とうとうやったか――松岡は大連の総裁室で、東京支社からの電報を受けとると、嘆息した。天皇を崇《あが》めることで彼は人後に落ちるものではなかったが、天皇機関説以来の陸軍皇道派のあり方は、あまりにも過激であった。蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎のほか、内大臣斎藤実が銃殺されたと聞いて、松岡は感慨を催した。斎藤は彼がジュネーブへ出かけたときの総理である。スローモー居士と呼ばれ、何を考えているかわからぬ人であったが、東京駅頭で見送りのとき、「松岡君、あとは引き受けた。しっかり頼む」と握ってくれた掌は暖かかった。
何を考えているのかわからぬ人だったが、いい人だった。大切な時代に、惜しい人を死なせた、と松岡はひそかに冥福《めいふく》を祈った。
二・二六事件は昭和の大乱であり、太平洋戦争の大きな遠因の一つとみられているが、この大乱は、松岡の周辺にも影響を及ぼした。
事件が一旦おさまったとき、粛軍の声が高く叫ばれた。陸軍大将阿部信行は、この際、陸軍の幹部が責任をとるべきだと提唱し、結局、皇道派の中枢である真崎甚三郎、荒木貞夫のほか、前陸相の林銑十郎、寺内寿一、西義一、植田謙吉、阿部の七人の大将が予備役編入を願い出ることになった。そこで関東軍司令官南次郎も同調し、三月七日、辞任することとなった。
南は満州国駐在特命全権大使も兼ねており、松岡は南と二人三脚で満鉄を経営してゆこうと考えていた矢先だったので、ショックは大きかった。
帰国に先立って、南は松岡を大連に訪ねた。
「どうもひょんなことから、早々にやめることになってしまった。貴公と一緒に満州に骨を埋めるつもりだったのに残念だな」
南は総裁邸の一室で、松岡の注ぐ盃を受けながらそう言った。
明治三十九年、松岡が関東都督府外事課長として大連に赴任したとき、南は駐在武官であった。松岡二十六歳、南三十二歳、お互いに若かった。二人は意気投合して、徹宵で呑むことも珍しくはなかった。南は陸大卒業後、昭和六年若槻内閣の陸相を勤めた。この間、折があると、三田尻や東京の松岡の邸、あるいは大連の副総裁の邸を訪れ、呑みあかすことが多かった。二人で呑むと必ず満州時代の話が出た。「おい、松岡。満州のことは貴公にまかせる。しっかり頼んだぞ」南はそう言って松岡の肩を叩いた。
その南と組んで満州で働けるというので、松岡は力強く感じていた。着任早々の九月、二人は手をとりあって、満州の産業視察に出かけたりした。
「まったく残念だな。この間は二人で鞍山の製鉄所を見に行ったばかりというのにな」
松岡も感慨が深かった。
「おい、松岡。いよいよ貴様に満州をまかせなければならなくなった。しっかり頼むぞ。これからが大変なところだからな」
南は急に真剣な顔つきになると、松岡の顔をのぞきこんだ。松岡はうむうむと大きくうなずき返していた。(二人の仲はなかなか切れず、南はこの年朝鮮総督となり、松岡と緊密な連絡を保つこととなった)
南を送り出して、松岡は寂寥《せきりよう》を感じていたが、一層松岡の心をわびしくさせる知らせが続いた。三月二十五日、山本条太郎が死んだのである。明治三十七年、初めて外交官として上海に赴任したとき、松岡は三井物産上海支店長であった山本に可愛がられた。満鉄に入ったのも、この人のひきであり、政友会でも大物である山本に教えられた。恩人の死に、松岡は憮然《ぶぜん》とした面持で、こう呟《つぶや》いた。
「しきりに人が去ってゆくな」
松岡は不息と号して俳句をひねった。我流なので、句になっているものは少ない。昭和十年の新春に作ったのは、
猪突《ちよとつ》せよ唯猪突せよこの年のみ
という句である。この年は、政党解消運動の最後の年であるが、彼は運動に猪突するかわりに、満鉄総裁就任の方に猪突してしまった。ジュネーブから帰るとき、船中からはるかに富士を眺めて、
帰り路や何というても不二の山
という句を作っている。一説によると、松岡は高浜虚子に師事しており、虚子は松岡の句を「言いたいことをずばりと言っている」とほめたそうである。虚子は心の広い人というべきか。
人しきりに去る、というので、松岡は句をひねろうと思ったが、急にはよい句も出て来なかった。
句を作るかわりに、彼は『山本条太郎伝』編纂《へんさん》の発起人となり、ついでに編纂委員長も引き受けた。
人事多忙の間を縫って、松岡は満鉄改組案を練っていた。
昭和十一年十二月号の「文藝春秋」に、松岡は「わが抱負」を次のように語っている。
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一、現在の満鉄には人材が多い。たとえば撫順の炭鉱長は理事でなくただの社員だが、あの大事業を経営し、工学博士を何人も使っている。東京支社長には理事をおいたらどうか、という説もあるが、私はおかない。現在の支社長伊沢道雄君は津島寿一君と同級で、参事であるが、理事以上の働きをしている。満鉄には理事でなくとも、次官ぐらい勤まる人間は大勢いる。
二、最近満鉄の機構改革について三つの訓諭と談話を発表した。私はこういう大事なものは全部自分で考え、自分で書く。今度も、軍部の意見をいれただろうという人もあるが、私は軍部の意見に押されるようなことはしない。
三、人は改組について委員会制度をつくれというようなことをいう。しかし、私は大勢の人間が集ったからといってよい案が出来るとは考えていない。日本には本当のオピニオンというものがない。黙って聞いていると、日本人だか支那人だか西洋人だかわからぬものが多い。一面は現実に即し、常識と目分量で断をくだすほかはない。
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松岡はこれに先立って、九月二十六日の満鉄社報で、満鉄機構案を「訓諭」として発表していた。その内容は次の通りである。
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一、鉄道の一元的運営
従来の社線、国線、北鮮線の多元的経営を改め、奉天に鉄道業務を総括する鉄道総局を新設し、一元的運営を計る。
二、産業部の新設
鉄道の国策的使命達成のためには、産業を振興する必要がある。よって産業本部を新設して、これに当らしめる。
三、参与の新設
総裁直属の参与を設け、重役団のスタッフとし、ブレーンとする。
四、監察役の新設
五、用度部、商事会社の新設
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また同日、松岡は満鉄改組に関する総裁談話を発表した。
松岡は満鉄経営には確固たるイデオロギーを持っているといい、次の二つをあげた。
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一、満鉄の主要使命は満蒙の経済開発なり
二、満鉄は一元的たるべし
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この年秋、関東軍は、陸軍省と連絡、産業資本家の満州視察を呼びかけ、森コンツェルンの森|矗昶《のぶてる》、三井鉱山の松方幸次郎、日産コンツェルンの鮎川義介らが渡満した。松岡は鮎川に注目していた。
松岡は、軍部が「国防産業の推進の必要」という看板を掲げて押して来る以上、今まで満鉄が握っていた産業部門の切り離しは、いずれは止《や》むを得まい、と考えていた。
その際、松岡は産業部門を任せ得る人として王子製紙社長藤原銀次郎を考えていた。しかし、リベラリストの藤原は軍部と仲が悪かった。そこへ急激に登場して来たのが鮎川義介であった。
鮎川は松岡と同じ一八八〇年(明治十三)同じく長州の生れで、久原房之助の義兄に当る。東大工学部卒業後、芝浦製作所に入社、政治家となった義弟久原に代って昭和二年、久原鉱業の経営を引き受け日本産業と改称した。日産コンツェルンの旗上げである。鮎川は、芝浦製作所にいたころ、一職工として働き、また渡米してアメリカの鋳物工場でも職工として働くなど、現場の経験を積み、藤吉郎秀吉的な現場主義と徳川家康的な産業管理力を養ったユニークな存在であった。
その後彼は、日本鉱業をはじめ日立製作所、日立電力、日産自動車、日本化学、日本油脂、日本水産、南米水産、日本コロムビア、日本ビクター、日産ゴム等二十に近い会社を傘下《さんか》におさめ、昭和十一年の段階では日産コンツェルンは、三井、三菱、住友などの旧財閥に迫る一大産業となっていた。
松岡は、満鉄の産業部門が切り離される場合、鮎川が、強力な候補者であることを知っていた。
その上、鮎川は、満州で一大産業を起すには、日産が内地に本社をおいてはだめだ、奉天に本社を移す決意を持つべきだ、と軍部にとっておいしいことを言っていた。
その裏には、日産の苦しい台所の事情があった。昭和十年春から株式界は軍需インフレ景気の反動安に襲われ、日産株は急落した。鮎川は社債を発行して急場をしのごうとしたが、銀行から断られた。その上、親会社と子会社でそれぞれ税金を払う二重課税問題が鮎川を悩ませていた。そこへ、関東軍の参謀が来て、満州で仕事をすれば課税はしない、と約束したので、鮎川は満州進出に乗り気になった。
そこで、石原莞爾、岸信介、星野直樹(満州国総務長官)、賀屋興宣(蔵相)らが働いて日産の満州移転が決り、昭和十二年十二月、満州重工業(満業)が発足し、満鉄を大きく割ってしまうのである。
しかし、それは後の話で、初めは松岡は鮎川に好意的であった。鮎川の渡満には、松岡は満鉄総裁の特別専用機を出している。
昭和十一年夏から秋にかけて、松岡は次のような内容の演説を行っている。これはあきらかに鮎川を意中においての発言である。
「一般に秀吉は好きで、家康は嫌いだという人が多い。しかしこれからは、家康のように強い信念をもって、百年、二百年の大計を立てる人が必要である。それには自分は不適当であると考えている。またこれからは、人すなわちブレーンだけではだめだ。キャピタル(資本)を持ってきてくれる人でなければだめだ」
鮎川が果して松岡の期待したほどのキャピタルを持っていたかどうかは疑わしい。しかし、鮎川はこの視察の後、帰国して「満州の産業開発のためには、全日産の満州移駐が必要である」と例によって人の意表に出るプランを打ち出した。実際は課税のがれと、社業再興が目的であったが、この声明だけで、日産株は反騰に転じたという。
そうこうしている間に、総理は岡田啓介から広田弘毅、林銑十郎と移り変って行った。
松岡が満鉄改組問題で大連であくせくとしていたころ、日本では二期後輩の広田が総理となって、茫洋として難局に対処していた。
広田は二・二六事件のあとを受けて、西園寺公の「今度は背広を着た人間がよい」という意見により、また玄洋社と近いという理由から、辞退した近衛文麿に代って総理として政局を担当することになった。軍部や右翼のうけがよいということも一つの条件であった。
昭和十一年七月、粛軍の実を示す軍事裁判の結果が出た。永田軍務局長を斬った相沢中佐、及び、二・二六事件の首謀者十七人が死刑になった。
私はこのときの新聞一面トップのみだしを今でも覚えている。
「首魁《しゆかい》」として、安藤輝三大尉をはじめ、栗原安秀、竹島継夫、対島勝雄、それに以前に退官した磯部浅一、村中孝次らの名前が並んでいた。
私はこのとき、中学の四年生であったが、同級生のなかには、二・二六事件を、「尊皇|討奸《とうかん》」の義挙として高く評価する右翼少年もいたので、彼は、「首魁」とは山賊あつかいだ、これはひどい、と残念そうな顔をしていた。
広田首相は八月、五相会議を発足させた。首相、蔵相、外相、陸相、海相の五人で重要案件を迅速に処理しようというものである。これに伴い、「庶政一新」を目標とする「七大国策、十四項目」が発表された。
ここまではよかったのであるが、陸海軍の要求により、「国策の基準」を発表したところ、これが軍国主義的な国策決定として、後に極東軍事裁判の大きな訴因となった。
これは、縄張り争いのうるさい陸海軍に、その担当を決める役割をも果すもので陸軍は北方で満州国の健全な発展を目ざし、ソ連の脅威に対し、在満兵力を貯える、と北進論を推し、海軍は、南方に民族的発展を策する、と南進論になっている。しかし、仮想敵として米、ソ、支那のほかに英国も加えるという条項などもあったので、後に広田内閣は侵略を謀議したと非難されるに至るのである。
またこの年十一月には日独防共協定が調印されている。
はじめ、あるドイツの武器商人の仲介で、話はドイツから日本に持ちこまれた。ベルリンの日本武官府にいた大使館付武官大島浩少将のところに、無任所全権大使リッベントロップから話があった。リッベントロップはヒトラーの腹心で、後にドイツ外相となり、第二次世界大戦を推進し、戦後ニュールンベルグ裁判で死刑になった人物である。
リッベントロップの申し入れは、「日本とドイツは共にソ連の脅威を感じている。そこで友好関係を結び、ソ連の圧力に対抗したい」というものである。
大島少将はかつて陸相であった実父が、ドイツに長い間駐在したこともあって、若いときからドイツびいきであった。しかし、彼もはじめは、この協定は、ヨーロッパに野望を抱くドイツにとっては有利であるが、極東でソ連を刺激しないように努力している日本にとっては、さほど有利とは思えない、と判断した。ナチスが政権をとったのは、昭和八年のことであるが、その後国際聯盟、軍縮会議を脱退、ベルサイユ条約を破棄(昭和十年三月)して軍備を拡張するなど、世界の注目を浴びていた。ドイツと協定を結ぶことは、やがて同盟を結ぶことであり、その暁には、ドイツに巻きこまれて世界のどこかの国と戦わなければならなくなる、と大島は懸念した。ベルリンにいてヒトラーの日常を知っている彼は、この国民英雄の躍進ぶりに頼もしさと同時に危惧《きぐ》を抱いていた。そのためはじめは気が進まなかったが、これは軍事同盟ではなく、コミンテルンの活動に対して、相互に通報する情報活動的なものというドイツ側の意向なので、大島は本国にこれをとりつぎ、日本の本国も慎重に討議を始めた。はじめこの交渉は、大島が参謀本部に連絡をし、陸軍サイドで話が進められたので、外務省に正式に話が持ちこまれたのは、リッベントロップと大島の交渉があってから半年もたってからのことであった。
外務省の東郷茂徳欧亜局長は、また陸軍が独走するといって怒ったが、有田八郎外相はドイツの利用価置を認め、漠然とした約束をする程度ならば、という態度で、これを認めた。
総理の広田は、防共ということならば、英国も入れよ、という意見であったが、陸軍は反対であった。駐英大使の吉田茂も「ベルリンの日本武官はドイツかぶれしている」といって、ヒトラーのドイツを高く買ってはいなかった。
日本政府はイギリスのほかオランダ、ベルギー、ギリシャなどにこの防共協定参加を勧誘したが、いずれも断られた。
結局、日本だけが、この年十一月二十五日、ドイツと日独防共協定を結んだ。この協定には後にイタリア、ハンガリー、満州国、スペインが加盟している。
大連にいてこの協定成立を聞いた松岡は、「広田もなかなか苦心しとるな」と思いながら顎《あご》をなでていた。彼はまだヒトラーと会ったことはないし、最近のドイツの実力を見たことはないが、例の英雄好みで、この新しい総統ヒトラーに興味を抱いていた。
かつてジュネーブ会議の途中、イタリアで会ったムッソリーニよりも若くエネルギッシュでそれだけ過激でもある。――一度会ってみたいな――と彼は考えていた。頂上会談の好きな彼は、共産ソ連の牽制《けんせい》に、この若き総統がどのような意見を持っているのか直接会って叩いてみたいという気がしていた。この年、松岡五十六歳、ヒトラー四十七歳であった。
昭和十二年が明けて一月二十一日から第七十議会が開かれた。この議会は広田にとって思い出深いドラマチックなものとなった。
政友会所属の硬骨漢、浜田国松(三重県選出)代議士は、陸軍は横暴であるとして、これを攻撃する痛烈な演説を行った。
これは前年末、陸軍省佐藤賢了政策班長が起草した「行政機構改革共同意見書」が原因であった。この改革案は、国策統合機関の設置等をうたっているが、とくに「議会法、選挙法を改正せよ」という条項が、立法機関への干渉であり、ひいては憲法への干渉であるとして、古い代議士たちの反感を買った。浜田はその急先鋒《きゆうせんぽう》であった。
浜田の攻撃に対して、陸相寺内寿一は、
「ただいまの発言は軍人に対する侮辱を含んでいる」
と非難した。
これに対して浜田は、
「どの言葉が軍人を侮辱しているか。速記録を調べて私が本当に軍隊を侮辱していたら、腹を切っておわびをする。もしなかったら、陸軍大臣が腹を切って謝罪してもらいたい」
と顔色を変えて迫った。
これが有名なハラキリ問答である。
憤激した寺内は、国会の解散を要求、いれられなければ、陸軍大臣を辞職する、と居直り、広田を窮地に追いこんだ。寺内が辞職すれば、陸軍は徒党を組んで、あとの陸相を出さないに決っている。陸相が空席のままでは内閣は成り立たない。思いあまった広田は一月二十三日、先手を打って閣内不統一を理由に内閣の総辞職を行った。
後任の総理には近衛文麿が推されたが、断った。代りに宇垣一成が推されたが、陸軍の一部に強い反対があった。宇垣はかつて陸相時代、大正十四年、軍縮の実をあげるため、四個師団を縮小した責任者であった。海軍でいえば条約派である。幅は広いがリベラルなところがあり、陸軍の高度国防国家建設を唱える人々には不評であった。
宇垣は天皇の命をうけて組閣工作にとりかかったが、陸軍は結束して大臣を出さなかった。宇垣内閣は流産するほかはなかった。
後継者として二月二日、林銑十郎が首相となり、組閣した。林は国会を解散し、総選挙で世論に問うたが、軍部内閣に協力的な昭和会はふるわず、かえって社会大衆党が躍進した。そこで、林は議会運営の自信を失い、五月三十一日総辞職してしまった。
お鉢はいよいよ近衛に回って来た。二・二六事件以来、二度も首相就任を辞して来たが、今度はのっぴきならないところであった。陸軍は、近衛を若いときからの国家革新主義者として歓迎していたが、近衛が出ないなら、杉山陸相を首相に、と望んでいた。しかし、西園寺をはじめ元老重臣は、再び背広を着た男≠フ登場を望んでいた。軍人が首相では、軍部独裁のイメージを与え、国際的にも不利であるという考え方があった。
近衛は重臣たちに説かれ、ついに総理をうけることになった。こうして近衛は六月一日、大命を拝受した。栄光と自滅の悲劇への第一歩であった。前にも述べたが、近衛は貴公子然としたリベラリストのように見えるが、彼は天皇の側近であり、若いときからのナショナリストであった。ベルサイユ会議の項でふれたが、近衛は大正七年十二月十五日号の「日本及日本人」に「英米本位の平和主義を排す」という一文をのせている。近衛はこの文章で、英米が民主主義、人道主義のかげにかくれて利己主義を満足させている、と指摘し、敗戦ドイツに同情的な立場を示し、日本は英米等の経済的帝国主義を排し、自己生存のため現状打破を目ざし、人種的差別の撤廃を正義人道の立場から要求すべきである、と主張している。
『近衛文麿』の著者、岡義武氏は、近衛が二十七歳のときに書いたこの文章に示された考えは、後年まで彼の持論となり、変ることはなかったと述べている。
近衛は五摂家の筆頭であり、準皇族ともいわれるべき天皇家の側近であった。彼が天皇至上主義を胸に抱き、日本を世界列強に伍してひけをとらぬよう強国大国にしようと望み、そのためには、支那をはじめ、東亜の諸民族を統合して、欧米の勢力に拮抗《きつこう》しようと考えるに至ったのは、自然の成り行きであった。
その反面、彼は非常にプライドの強い男であった。そのために、一応は松岡を外相に迎えながら、やがて心理的に離反し、松岡を追い出すため内閣総辞職(昭和十六年七月)を行い、軍部に政権を渡す役割を果すことになる。このため、東条内閣は大戦に突入する。敗戦後、近衛は、某新聞記者に筆記させたといわれる「近衛手記」を残して自決する。このため、松岡は開戦の多くの責任を負わされることになるのであるが、その顛末《てんまつ》は、順を追って述べたい。
相次ぐ本土の政変を聞きながら、松岡が満鉄改組案練り直しに腐心していたころ、七月七日、七夕の夜、蘆溝橋《ろこうきよう》事件が勃発した。いわゆる支那事変――日中戦争――の始まりである。この戦争が、太平洋戦争の近因となったことは、ここに説くまでもないが、当時、海軍兵学校の一年生であった私には、ほとんどこの事変≠フもつ意味がわからなかった。
要するに、「今や戦時態勢であるというのに、貴様らは何をぼやぼやしているか!」というので、上級生に一層激しく殴り倒され、毎年一カ月と定められている夏休暇が一週間に短縮され、白の軍服姿に短剣姿であわただしく岐阜県の郷里に帰郷して両親の下で数日を過し、あわただしく帰校して、「貴様らは、裟婆《しやば》に数日いたら、もう裟婆っ気満々となって帰って来た。今からその裟婆っ気を抜いてやる」と炎熱のなかで大いに殴られたことを記憶しているのみであった。
ただ、これはえらいことになりそうだ、という予感はあり、同級生のなかには、「いずれアメリカと一戦交えることになる。早く卒業させてくれんと、日米決戦に間に合わん」と腕を撫《ぶ》する好戦的な男もおり、私はそのような男にも共感を抱いていた。
蘆溝橋事件は、昭和三年の張作霖爆殺事件、昭和六年の満州事変などと異り、共産軍の謀略としての発砲によって交戦が始まったとみてよいようである。
昭和十二年七月、北支には北平《ペイピン》(北京)を中心として、田代皖一郎中将指揮の二個連隊(五千五百名)が駐屯していた。これは明治三十四年の「北清事変最終議定書」によるものであるというから、三十六年前の古いとりきめによるものである。
一般に欧米では、支那事変は日本軍が北支に侵略したために起ったと考えられているが、実際は古い議定書によって北平付近に駐屯していた日本軍と、宋哲元のひきいる第二十九軍の一部とが激突したものである。
七月七日、日本派遣軍の第一連隊(連隊長は牟田口廉也大佐)の第七中隊と第八中隊は北平郊外西南にある蘆溝橋付近で演習を行っていた。蘆溝橋はマルコポーロ橋とも呼ばれ、古い石橋で、全長三百五十メートル、永定河という河にかかっており、古来月の名所として知られていた。燕京(北京)八景の一つにも、蘆溝の名月が入っている。
この日午後十時半ごろ、演習を終った第八中隊長清水節郎大尉は、三十発ほどの銃声を聞いた。空砲のようである。続いて、数発の銃声が聞えた。これは実弾であった。ピュンと弾丸が空気を裂く音が聞える。
「実弾だぞ!」
清水大尉は闇のなかであたりを見回した。近くの堤防では、宋哲元の部下が夕方まで陣地構築をやっていた。銃声はそちらの方から聞えた。清水大尉は、直ちに部下を集めた。第七中隊はすでに東方の豊台の兵営に戻っていた。
目の前で演習をやられたので、支那兵が憤激して発砲したものであろう、と清水大尉は考えた。(これを日本兵が、戦闘を開始させるため、謀略として発砲したという説や、単なる爆竹の音にすぎないという説もあるが、そうなると闇のことゆえ、判定は困難である)
しかし、清水大尉にはすぐに戦端をひらく気持はなく、部下を一応後退させて、伝令をもって第三大隊長一木清直少佐に連絡、一木少佐が牟田口連隊長の指示を仰ぐと、牟田口大佐は、第三大隊に蘆溝橋への進撃を命じた。牟田口は後にビルマ軍司令官として、苛酷な進撃を命じて悪評をかった男であるが、このときも、猪突的、好戦的であった。
一木少佐は第三大隊をひきいると蘆溝橋に向った。八日午前三時。蘆溝橋城に近い一文字山を占領した。この城は宋哲元軍の兵営となっていた。午前三時すぎ、一木大隊は堤防上から数発の射撃を受けた。
一木少佐は牟田口連隊長に状況を連絡した。
「何を言っとるか! 撃たれたら撃て! そんなことは決っとるじゃないか!」
この勇猛≠ネ連隊長は、電話口でそう怒鳴った。
一木少佐は部下の火砲に発砲準備を整えさせ、午前五時半堤防上の支那兵に対して射撃を命じ、続いて部下に前進を命じた。支那兵も応戦し、日本軍に戦死者が出た。
蘆溝橋城を守る金少佐は、本格的に日本軍と交戦する意図はなく、間もなく銃声はやんだ。
蘆溝橋事件といっても、発端はこの程度で、これが支那全土に及ぶ大兵乱となることを予測したものは少なかった。
ただし、この事件を拡大して、この際北支を制圧しようと考えている人間が二人いた。一人は牟田口大佐で、彼は八日午後、蘆溝橋内の支那軍指揮官に午後六時を切って城をあけ渡すことを勧告、返事が来ないので、砲撃を行っている。
いま一人は関東軍参謀部付の辻政信大尉で、彼は七月九日、豊台に牟田口大佐を訪れ、
「十分にやって下さい。関東軍が全面的に援助します」
と激励している。
後に、太平洋戦争の問題人物となるこの二人は、このころから頭角≠現わしていたのである。
さて、北平の東方六百キロの大連にいた松岡はこのとき何をしていたのか。
松岡が事件を知らされたのは、七月八日のことである。
八日の昼、松岡は中央試験所の鉄研究の主任、日下《くさか》和治と昼飯を食っていた。場所は大連の日陰町にある「油屋」という天ぷら屋である。
この当時の日本はどこへ行っても鉄と油が大切であったから、松岡はこの方面の勉強には熱心であった。当時、鉄と油は主としてアメリカから来ていたから、アメリカと戦うことになると、満州の鉄と油は重要な資源となるはずであった。
「油屋」の主人は、松岡と同郷の長州人で、山口県の近海物を運ばせて天ぷらダネにしている変りものであった。厚手のステンレス鍋《なべ》を使い、このため揚がり具合がうまい、という評判であった。
天ぷらで飯を食っていると、文書課長の佐藤晴雄が急ぎ足で入って来た。佐藤氏は現在の品川パシフィック・ホテルの社長で、満鉄会の会長でもある。
「総裁! 北支で事件が起きました。北平に近い蘆溝橋というところで、日支軍の交戦が始まりました」
佐藤が北平からの電話の要旨を報告すると、松岡はしばらく耳を傾けた後、大きく息をついて、
「そうか、まず、上海にいる川越大使に松岡が極力事変不拡大を堅持するように希望している、と連絡しておいてくれ」
といって、また天ぷらを食い始めた。佐藤が心得て去ると、日下は、当時の日本人の気風で、
「この際、思い切ってやらせてしまったらどうですか」
と訊《き》いた。
松岡は箸《はし》をおくと、
「何をいっとるか。北支で戦争が起きれば、当然中支、南支に戦火が及ぶ。だから今上海に電話を入れさせたのだ。支那と戦争になれば、日本は当然英米と戦わねばならぬ。そうなれば、日本も満州も一様に飛行機の空襲を受ける。そうなってからでは遅いのだ」
とあらたまった調子で言った。松岡の予言は四年後、事実となって現われ、終戦時撫順製鉄所の所長であった日下は、松岡の予言が実現したのに驚いた。
当時、川越茂大使は上海にはいなかった。彼は所用で東京に戻り、帰任の途中青島に寄ったところであった。事件の突発を聞くと、すぐに天津に飛んだ。彼はそこで南京政府外交部の亜細亜《アジア》局長高宗武と会い、時局収拾について協議し、ある程度の案を作った。そこで川越は松岡の意見を聞こうと思って大連に飛んだが、松岡は関東軍と打ち合せのため、奉天に出張していた。それから奉天に電話をかけ二時間話した。川越が船で上海に帰るというと、まだ話し足りぬといって、大連に急行し、船内で出帆ぎりぎりまでしゃべっていたというから、よほど北支の動きが気になっていたのであろう。
松岡は以前に張作霖爆殺や満州事変で軍部の策謀には辛い目にあわされたことがあるので、今度は慎重に構えたのであろう。
北支の衝突を聞いた天皇は事件の不拡大を望み、直ちに参謀総長閑院宮|載仁《ことひと》親王にその意向を伝えた。
閑院宮は直ちに支那駐屯軍司令官に向って事件の不拡大を指令することにした。ちょうど、田代中将が病気のため、新しく香月清司《かづききよし》中将が支那駐屯軍司令官に任命されて七月十一日、立川飛行場から任地に向うことになっていた。閑院宮は、出発前の香月中将を呼び、天皇の意図を伝えた。香月中将は、謹んで承った後、離陸した。
事変当初、参謀本部の大部分は関東軍と違って、不拡大・平和的解決を考えていた。いわゆるハト派の中心は参謀本部第一部長の石原莞爾少将であった。満州事変を起したタカ派の彼が今度はハト派というのは奇異に聞えるが、石原には石原なりの戦略があった。つまり、満州事変の結果、やっと独立させた満州国を安全に守るには、対ソ戦略を練るべきだというのが彼の策である。北支には手を出すべきではない。北支で事を構えると、満州の背後からソ連が手を伸ばすおそれがある、と彼は警告を発していた。
香月支那駐屯軍司令官が出発した十一日、閣議は差し当り、三個師団の派遣を内定していた。名目は「支那軍の謝罪を要求し、将来の保障を確かめ、威力を顕示する」ためとなっていた。
しかし同じ十一日、現地では停戦協定が結ばれていた。支那側は蘆溝橋一帯を日本軍に引き渡し、代表者が陳謝し、責任者を処罰し、抗日団体を取り締る、と下手に出て日本側の要求を全面的に受け入れた。このとき、第二十九軍司令官宋哲元の心中は複雑であった。彼は部下が先に発砲したとは思っていない。しかし、ここは一応日本軍の要求を入れておく方が賢明であると考えた。
宋の二十九軍は、支那軍といっても、蒋介石とは反対の立場をとる北方軍閥である。彼が何を考えているかは、その経歴をみればわかる。宋は山東省に生れ、北方軍閥の一つ、馮玉祥《ひようぎよくしよう》の国民軍に入り、出世して第九師団長となり、馮や閻錫山《えんしやくざん》らの反蒋軍に加わった。その後は張学良の部下として北支の有力者となり、一九三五年(昭和十)冀察《きさつ》政務委員会委員長となった。
昭和十一年末の西安事件によって、蒋介石は張学良に監禁された。蒋が共産軍を撃とうとしたのに対し、張はこの際、支那は諸派一致して外敵に当るべきことを説いたのである。この結果、蒋と張は一応和解し、協力することになったが、依然として両者の間には溝《みぞ》があった。従って、張の子分である宋哲元は、いつも南方の蒋の動向をうかがっていた。彼としては、日本軍と下手に衝突をすると、蒋介石がどのように動くかもわからず、せっかく得た北支の地盤を失うことを警戒していた。実をいうと彼が委員長を勤めている冀察政務委員会も、日本の後押しで成り立っている事実もあったのである。
一方、これに対する香月中将は強気であった。十二日赴任途中の京城で、「支那軍の暴戻《ぼうれい》を断乎膺懲《だんこようちよう》するため、すでに作戦を定めてある」と声明したかと思うと、十三日天津到着後、「七月二十日までに二十九軍を制圧するための兵力配備を完成する」と報告して来た。当時陸軍部内でタカ派の代表は陸相杉山元大将であった。しかし、杉山もこの段階では、香月軍司令官の行きすぎに眉をひそめていた。石原少将の発案で、参謀本部から総務部長の中島鉄蔵少将、陸軍省から軍務課長の柴山兼四郎大佐が天津に赴いて、天皇の事件不拡大の意思を伝える宇佐美侍従武官長の信書を香月中将に手渡した。
香月も恐縮して、事件の現地解決を図ることを考え始めた。しかし、七月十五日、中国共産党は、国共合作による全面抗戦の呼びかけを発表した。
七月十八日、宋哲元は天津に香月中将を訪ねて遺憾の意を表明し、現地の調定はほぼ妥結に達したと考えられた。
しかし、七月十九日には、蒋介石が「たとえ我らは弱国であっても、最後の関頭に立ち至れば、わが全国民は最後の一滴まで傾倒し、国家存立のため抗争するのみ」と有名な関頭演説≠発表した。
これは、蒋と現地の宋との間に緊密なコミュニケーションが欠けていることを示す。蒋の眼は北支よりもむしろ東京の近衛内閣の方に向いていた。近衛内閣は三個師団派兵が内定した十一日、今回の事件を「北支事変」と称すると発表し、北支派兵の重大決意を示す声明を出した。そして、近衛首相は、政界、財界、言論界の代表を集めて、政府の決意に対する全面的協力を依頼した。
遠山茂樹ほか著『昭和史』(岩波新書)では、「近衛ははじめから現地解決以上の気構えをもって臨んだことは明らかである。あのような大戦争になることは望んでいなかったにせよ、この機会に一撃を加えておくべきだと考えたのである」としている。
このような近衛の態度が、現地解決の実情とは別に、蒋介石を刺激したものであろう。
日本側は蒋の声明を挑発と受けとった。
七月二十日午前の閣議で、杉山陸相は、北支に三個師団を派遣することを主張したが、米内海相らの反対で一応見合せとなった。それを聞いた石原は杉山のもとに駆けつけて、事件早期解決の必要を説いた。
「一旦内地より派兵するときは全面戦争化する危険があります。この解決策はただ一つ、北支の日本軍を山海関の満支国境まで後退させ、近衛首相が南京まで飛んで、蒋介石と直接交渉することです」
あくまでも対ソ戦略優先を信ずる石原は、熱心に説いた。しかしそのとき、かたわらにいた梅津陸軍次官は冷静にこう反問した。
「石原君、それは私も希望するところだが、その場合北支の邦人の権益財産は保証出来るのかね。そして、満州国はそれでも安泰と言い得るのかね?」
これには石原もぐっとつまった。
しかし、同日午後、北支でまた支那軍が日本軍を射撃したという情報が入ったので、午後八時近く閣議はついに北支派兵を決定した。ここに足かけ九年にわたる大乱、広義の太平洋戦争の幕は切って落されたのである。
この閣議のくわしい状況はわからないが、米内海相が強く反対したのに、広田外相は強く反対しなかった、というので、外務省の硬骨漢として定評のある東亜局長石射猪太郎と同局第一課長上村伸一が辞表を提出した。石射は支那通で、常に軍の横暴に反撥を感じており、吉林総領事や上海総領事時代にも軍と衝突したことがあった。広田は「自ら計らわぬ」ことを生活の信条とした男であるが、こういう大事に至ると、その信条は優柔不断とみられがちであった。日ごろ、腹心と頼む石射に辞表を提出された広田は顔色を変えたが、
「この動員は、事態が好転すれば復員させる、と陸軍大臣が言っているのだ。君たちに騒がれては困る」
と言って説得し、石射らの辞表を撤回させた。
広田の事態好転は必ずしも空頼みではなく、二十二日、「状況が好転した」と支那派遣軍司令部からの連絡が入ったので、杉山陸相は、三個師団の動員を一旦見合せた。
ところが、このころ、中国共産党はしきりに対日抗戦を叫び、二十三日、宋哲元の現地交渉を生ぬるいと非難し、「米英仏ソと協力すると共に、北支において、正規戦とゲリラ戦を併用し、持久抗戦すべし」という宣言を発表した。
北平周辺での宋軍の動きがあわただしくなって来た。そして七月二十五日、北平と天津の中間の廊坊にあって、電線修理中の日本軍が支那軍の射撃を受けた。翌二十六日夜、居留民保護のため、北平に入ろうとした日本軍のトラックが、広安門の楼上から射撃を受けた。
このため、同日支那駐屯軍は、再び宋軍と交戦状態に入った。
七月二十七日、三個師団の動員が閣議で本決りとなり、着手された。二十八日、支那駐屯軍は、関東軍の第一、第十一旅団と共に総攻撃を開始、二十九日、北平から永定河左岸までを占領した。
同じ二十九日、有名な通州事件が起った。北平東方五十キロの通州には日本人居留民が四百人ほど住んでいた。ここには、支那の保安隊と日本の守備隊約百人が駐屯していた。関東軍の飛行機が誤って支那の保安隊兵舎を爆撃したため、保安隊は日本人を襲い、居留民百二十人、守備隊十八人が殺された。この事件は、日本国民の戦意≠あおるのに十分であった。
「暴支膺懲」という声はこれで一気に高まったように思われる。私はこのころ、巷《ちまた》に流れた悲壮な歌の一節を覚えている。「故郷《ふるさと》遠き通州を、我安住の地と定め……」というような出だしであったと思う。新聞は「第二の尼港(ニコライエフスク)事件」として、これを大きく報道した。
意外にも、八月九日までは、北支の情勢は小康を保った。広田外相は停戦協定案と国交調整案を作り、上海の川越大使をして、南京の外交部と交渉させていた。しかし、戦火はその上海に飛び火し、ここが本格的戦争への発火点となるのである。
八月八日、蒋介石は、「全将兵に告ぐ」という演説を行った。
「九・一八(満州事変)以来、我々は忍耐を続けて来たが、日本は侵略をやめようとはしない。今や我々は全国一致して立ち上り、日本と戦わねばならぬ」
これは「抗日宣言」であった。
支那の世論は、排日から大きく抗日に傾いた。そして、翌八月九日、上海の虹橋飛行場付近で、上海特別陸戦隊西部派遣隊長大山勇夫海軍中尉と、斎藤一等水兵が支那保安隊に射殺された。
これまで不拡大を主張し続けて来た米内海相は、上海で大山中尉が射殺されると俄然《がぜん》その態度を硬化させた。上海の黄浦江《こうほこう》上に繋留《けいりゆう》されている第三艦隊旗艦|出雲《いずも》の長谷川清長官は「上海周辺ノ警戒ヲ特ニ厳ニセヨ」と警告を発した。十三日の閣議で、居留民保護のため二個師団を上海に派兵することが決議された。出兵の決議に裁可を願い出た近衛首相を前に、天皇は「コウナッテハ止ムヲ得マイ。外交デ収メルコトハ難シイ」と嘆息した(『天皇(三)』)。
十四日、南昌飛行場の支那空軍は、上海の第三艦隊を爆撃した。この時使用した爆撃機はノースロップはじめ、ほとんどがアメリカ製であった。十五日、日本海軍航空隊は鹿児島県鹿屋基地を発進、海を越えて南京を空襲した。使用機は双発の九六式陸攻で、これが有名な渡洋爆撃の第一回である。そして、以後八年間にわたる広義の太平洋戦争の火ぶたが切られ日本国民をひきずりこむ悲劇の序曲は、飛行機の爆音と共に高らかに奏でられていたのである。
十五日、近衛首相は「帝国としては隠忍その極に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、以《もつ》て南京政府の反省を促す為《ため》、断乎たる措置をとるの止むなきに至れり」という決戦声明を発し、蒋介石は陸海空三軍の総司令官に就任し、総動員を下令した。また中国共産党は、「抗日救国十大綱領」を宣言した。
この間松岡は何をしていたか。
松岡は七月十九日、社員に訓諭し、今回の事件については、全面的に政府を支援するよう指示を与えていた。日本軍が北平を占領すると、松岡は中央試験所長丸沢常哉を北平に派遣し、北平、天津の科学研究施設を視察せしめた。丸沢は北平から帰って来ると、「残念ながら両市共、科学研究施設は無惨に破壊されております」と報告した。
「そうか、新京の大陸科学院、上海の自然科学研究所、これに北平、天津の研究施設を参考にして、大連に一大科学センターを建設しようと考えていたのだが、どうも夢になったようだな」
彼はしばし瞑目《めいもく》すると、総裁室に入り、明治天皇の肖像の前で祈るように長考を続けた。この段階での松岡はまだ一方的な大東亜主義者でも八紘一宇《はつこういちう》の信奉者でもなかった。彼は満鉄を近代化するには、科学の力が必要であると考えていた。満鉄だけの研究施設ではまだまだ非力である。各地の力を総合すべきだと彼なりの大風呂敷的構想を抱いていたのであるが、陸軍の快進撃≠フために北平、天津が破壊されたことは、惜しまれた。
後に小日山直登が総裁になったとき、松岡の志を継いで星ヶ浦ゴルフリンクをつぶして、一大科学研究所を建設しようと試みるが、時すでに遅く、間もなく満鉄は崩壊するのである。
この間にも、満鉄改組、日産コンツェルン満州乗りこみは、秘密|裡《り》に進められていた。満州重工業の実際の発足はこの年昭和十二年十二月一日であるが、十月十五日、松岡が内閣参議を仰せつけられるとほぼ時を同じくして満業新設が公表されている。従って、支那事変勃発当時は、鮎川義介が、関東軍、満州国幹部の間を隠密裡に往復して、満業発足の具体案を推し進めていたころであった。当の松岡には何も知らされていなかったが、彼は情報網によって、鮎川の動きをつかんでいた。
上海で大山中尉が殺された日の翌日、八月十日、南京にある満鉄事務所駐在の西|義顕《よしあき》が松岡を訪ねて来た。西は日本軍が北平を占領した日の二日後、七月三十一日南京の呉震修に呼ばれたという。
この日南京では蒋介石、汪兆銘《おうちようめい》、高宗武の三者会談が行われていた。呉は東大付属東京陸地測量部修技所を卒業、中国銀行経理、後南京支店長で日本人の知己を多く持っており、松岡とも親交があった。
当時南京は慌しい雲行きの下にあった。西が呉の邸に行くと高宗武がいて、当日の三者会談の内容を知らされた。蒋介石は、「日支間の紛争が拡大すると、東亜は壊滅する。これを防ぐには、近衛首相に影響力を持つ松岡総裁の助力によって、日本の最後にして最終的なる政治力を動員してもらいたい」という意向を洩らしたという。
「総裁いかがですか? 日支和平のためにひと肌おぬぎになっては?」
と西がいうと、松岡は初めは不機嫌になり、
「君は余計なことを言いに来るな!」
と怒鳴りつけた。
西によると、「松岡さんは人の心理に物理的反動を試みる人で、右せしめんとするときは、まず左へ持ってゆき、大いなる肯定を与えようとするときはまず強くこれを否定する。そして、彼一流の圧倒的熱弁をもってこれを補足した」という。
松岡は呉震修を高く評価していた。「もし、私が天下をとる日が来たら、呉を東京へ呼んで最高顧問にしたい」と西に語っていたという。
続いて松岡はこう言った。
「この事変は日支両民族の背負った宿業である。しかし、誰かが両国和平のいとぐちを開く必要がある。いまから満鉄総裁として君の勤務をフリーにする。君はこのために働け」
そして松岡は、時の内閣書記官長風見章あてに長い紹介状を書いた。西は八月十三日、大連から東京に飛んだ。東京で風見に会った西は、近衛総理に対し、呉や高の意向を伝えるべく努力した。これが後に汪兆銘重慶脱出工作の発端となるのである。
この年、十月、政府は満州重工業の新設を発表した。実際の発足は十二月一日である。満鉄の運命は旦夕《たんせき》に迫っていた。
松岡は満鉄の運命についてはあきらめ気味であった。それよりも彼は日本の運命について考えていた。とくにアメリカの日本に対する世論とその圧力について憂えていた。十月八日、彼はAP通信社を通じて、「日本の為に弁ず」という英文七百語のメッセージを発表、その内容はニューヨークタイムズをはじめ、世界の有力紙に報ぜられた。
その概要は次の通りである。
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一、支那における軍閥とコミンテルンは、日支両国共通の敵である。前者は泥酔者的乱舞をみせ、後者は支那の心臓部に食いこみつつある。
二、日本なくして支那は存在する能《あた》わず。ロシアをはじめ、列強が支那を侵食し、「支那共同管理説」までとび出すに至った。これを防いで来たのが日本である。
三、国家膨脹の過程において日本とアメリカは似ている。成長期の国家というものは、隣人にとって迷惑な存在とみられることがある。若年のアメリカ合衆国が、インディアンや、メキシコにどのようなことをして来たか反省してみるとよい。小児の成長を停止せしめるものは、「死」しかない。国際聯盟は日本に死刑の宣告を下そうと努力した。しかし、日本はそれを受け入れるほどお人好しではない。
四、日本は利益のために戦いつつあるのではない。日本はすでに数億円を費し、帝国議会はきたる数カ月のために二十億円の支出を認めた。事変を収拾するまでには五百億円はかかるだろうといわれる。これは計算的に引き合う仕事ではない。
五、日本はアジアを第二のアフリカたらしめることから救うために戦っている。とくに現在は、コミンテルンの手から支那を救出するために戦っている。これは極東に国を持つ日本に背負わされる十字架である。最大の問題は、日本がこの重い十字架を背負い通せるか、ということにかかっている。
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ナチス・ドイツは、パウル・ジョセフ・ゲッベルス宣伝大臣という不世出?の宣伝マンを閣僚に持っていた。日本はそのような宣伝の専門家を養成しようとはしなかった。松岡はその雄弁と宣伝的行動においてゲッベルス的要素を持っていたと言ってよかろう。彼の「日本の為に弁ず」は、英文の原文を見なければわからないが、かなりのエンファシス(強調)があったものとみてよかろう。松岡は支那事変が軍部の支那侵略であることを知っていた。しかし、軍部の動きを抑止できぬ以上、アメリカの動きをコントロールしなければならない。「日本の為に弁ず」は、アメリカ育ちの外交官が、苦心の策としてひねり出した軍国日本擁護論とも言えるのである。
この年十二月一日、予定通り、鮎川義介の満州重工業が発足し、満鉄の産業部門は、満業に移り、満鉄はついに「改組」された。
十二月十三日、日本軍は南京を占領し、有名な南京大虐殺が報道された。この虐殺の被害者は、二万人、数万人、あるいは四十万人ともいわれ、未《いま》だに明らかではない。
また、この事件から三十六年たって、『南京大虐殺のまぼろし』(鈴木明著、文藝春秋刊、昭和四十八年、第四回大宅壮一ノンフィクション賞受賞)という本が刊行されて、虐殺の事実を否定する動きをみせるなど正確な判定は困難のようである。
日本政府には、中華民国の首都南京が陥落すれば、一応事変は勝利のうちに終結するものと思われた。普仏戦争ではプロシャ軍のパリ占領でフランスは降服し、日清戦争では日本軍の北京占領で戦争は終結している。しかし、支那事変(日中戦争)はそのような古典的な戦争ではなかった。十一月二十日、蒋介石は漢口遷都を宣言し、十二月三日南京をはなれている。戦火は拡大せざるを得なくなった。
その前日十二月二日、蒋介石は、先に日本が提示した日本の和平条件を基礎にした日中和平会談を開きたいと、駐支ドイツ大使トラウトマンを通じて呼びかけて来た。いわゆるトラウトマン工作の始まりである。日本の和平条件は去る十一月提示されたもので、一、満州国の承認、二、日支防共協定の締結、三、排日行為の停止、を骨子とするものである。
トラウトマン工作の後押しははじめは石原莞爾第一部長(十二年九月関東軍参謀副長に転出)を中心とする参謀本部であったが、これはやがて杉山陸相を中心とするタカ派の圧力によって挫折《ざせつ》してしまう。松岡と直接関係がないので、その詳細は省略するが、昭和四十九年七月号「歴史と人物」所載「近衛内閣と参謀本部――トラウトマン工作をめぐって――」(三宅正樹=神奈川大教授=国際政治史)には次のような記述が見える。
「この時点では第一次近衛内閣の外交担当者として、ハト派に協力して和平工作が実を結ぶよう努力するものと期待できそうな外相広田弘毅は、逆にタカ派の杉山陸相にくみして、和平工作に熱意を示さず、トラウトマンの和平工作がむなしく葬られるのにまかせてしまったのである」
昭和十三年があけた。一月十五日、トラウトマン工作の挫折が明確となった。
一月十六日、近衛総理は次の声明を発した。
「国民政府はみだりに抗戦を策し、内、人民塗炭の苦しみを察せず、外、東亜全局の和平を顧るところなし。よって帝国政府は爾今《じこん》国民政府を相手とせず」
これが有名な「蒋介石を相手にせず」と巷に喧伝《けんでん》された近衛声明で、この一声と共に日本は全中国を舞台とする泥沼にはまりこんでゆくのである。
大連にいた松岡は、「難しいことになったな」と眉をしかめていた。彼の視線はもう満鉄の方を向いてはいなかった。左の眼で東京を、右の眼では南京をとびこえて、ベルリンを睨《にら》んでいた。昭和九年総統となったヒトラーは、しきりに国力を伸張させていた。松岡はこの男に注目していた。そして、世界の情勢が自分の出番を要請しているような予感に、ひそかに胸をふくらませていた。
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十四章 近衛文麿への接近
昭和十三年一月十六日、近衛総理が日支国交断絶宣言≠行ったとき、近衛内閣総辞職説が流れた。新しい事態には新しい内閣をという声が一部にあったのである。
次期首班に擬せられたのは、松岡の盟友南次郎であった。南は大命降下したならば外相には松岡を、と考えていた。しかし南内閣は流産した。五月、広田外相が宇垣一成にバトンを渡した。七月、満鮮国境に近いソ満国境の張鼓峰で、日ソの衝突が起った。九月三十日宇垣外相が辞任、このときも松岡の名前が呼び声に上った。西園寺公の秘書原田熊雄は、この段階では松岡外相説に反対であった。彼は松岡を外相に据えないように、と近衛に警告した。西園寺の意向であったのであろう。
外相が空席のままで、後任の銓衡《せんこう》に手間どっている間に、十月十七日、蒋介石は臨時首都の漢口を抛棄《ほうき》して重慶に向った。十月二十七日漢口を含めた武漢三鎮が陥落した。その二日後の十月二十九日、有田八郎が外相に就任した。後年、東京都知事選挙に出馬して落選し、三島由紀夫の小説『宴のあと』のモデルにされ、告訴した人物である。
漢口は陥ちたが、戦線は拡大するばかりで、和平の見通しはつかない。苦悶《くもん》した近衛は十一月三日、次の声明を発して、一月に発した「蒋介石を相手にせず」の訂正≠行った。
「帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんとするにあり。国民政府といえども、新秩序の建設に来り参ずるにおいては、あえてこれを拒否するものにあらず」
このころ、裏面では参謀本部を中心とする汪兆銘(国民党副総裁)代理政府の工作が進められていた。
近衛内閣の余命はいくばくもない。落日の満鉄を担う松岡は、自分の運命にひきくらべて、近衛の立場に同情していた。
彼は十月十八日、新聞記者の竹内克巳に手紙を書き、「まだ乃公出《だいこうい》でずんば、蒼生《そうせい》を如何《いか》にせん、などとは考えていない。少壮時代より与えられたる地位と職務に忠実最善の努力を傾け来れるのみ」と述べ、小村寿太郎の銅像完成に言及し「時|艱《かん》にして偉人忠誠の人を想うの情、真に切也」しかし「近衛公その他一切の人には、この際予の出るべき幕には非ずと言っている」と出馬要請のあることをほのめかし、「皇国内外の情勢と世界の将来深憂に堪えず……恐らく明後年(昭和十五年)が皇国と大東亜危機の絶頂となるであろう。只今はその序幕に過ぎず」と書き送っている。彼の期待通り、松岡は昭和十五年七月、第二次近衛内閣の外相となるのである。
松岡は大正八年ベルサイユ会議のためヨーロッパへ向う船のなかで近衛に会って以来、この貴公子に不思議な魅力を感じていた。それは、没落した今五の四男に生れ、アメリカに学僕として移民した経歴を持つ男が、生れながらの堂上人に抱く憧《あこが》れに似ていたかも知れない。松岡はかつて一党の総裁になる気力を持ちながら政党解消運動に熱中し、いま、非常時外交の切望されるときに満州に逼塞《ひつそく》していた。「乃公出でずんば……」彼には政局を担当し、国際外交に大鉈《おおなた》をふるう自信があった。彼に不足しているものは、家柄と声望であった。己に不足しているものを彼は近衛に求めたのである。
内外多難のうちに昭和十四年(一九三九)が明けた。一月四日近衛内閣は総辞職し、代って平沼騏一郎が組閣した。平沼は岡山県津山の産。検事総長、大審院長を歴任して司法畑の元老となると共に、右翼団体「国本社」の総裁の椅子にあり、国家主義者の間に重きをなし、枢密院議長を勤めていた。騏一郎の兄は早大総長として有名な平沼淑郎である。
この年三月、松岡は満鉄総裁を辞任した。予定の行動とて、四月一日付満鉄社報にのった退任挨拶も平凡なものであった。その要点は、一、辞意を決意したのは、満業問題による。二、在任中は初代社長後藤新平伯が残された満鉄の伝統である「調査と人の養成」に力を入れた。三、石炭の液化、油母頁岩《ゆぼけつがん》の研究にも進歩があったと思う。四、副総裁に天下りではなく生えぬきの社員をあてようと宿願していたが、それを実現し得た。五、満鉄の新進路を模索し、北支進出を試み、北支交通会社の設立を見た。六、満鉄は明治大帝のご遺産であるので、諸氏の満鉄魂を忘れずに今後に処していただきたい。
そして彼は、「二十七歳にして初めて満州の土を踏んで以来三十三年、満蒙問題は私の生命でありましたが、今、現地を去らんとして、感慨無量のものがあります」としめくくった。「満蒙は日本の生命線」という流行語の作者といわれる松岡は、今、その生命線を去った。これから十五年七月の外務大臣就任まで浪人が続くのであるが、ここで、満鉄総裁時代のエピソードを二つあげておこう。
一つは関東軍参謀副長として赴任してきた英才$ホ原莞爾との交友である。両雄&タび立たずというのか、警世家肌の石原と、雄弁家の松岡は仲が悪かった。官位は松岡の方が上であった。(松岡は内閣参議で、これは宮中席次が関東軍司令官より上であった)しかし、大陸経営のビジョンにおいて、石原は「ただ猪突《ちよとつ》のみ」というような俳句を作る松岡より、一枚上であったようである。
支那派遣軍が武漢三鎮攻略にかかろうとしたとき、松岡は石原との会談で、ここまでやったなら三鎮までは占領すべきではないか、と言った。石原は、それは深追いである。南進よりも北守が先決問題である、ソ連に備えよ、と説いた。当時満州の要職にあった大蔵官僚の星野直樹、賀屋興宣らは、石原に猛然と反対したが、松岡一人のみはうなずいていた。やがて、十四年夏、「北守」を軽くみた関東軍は、ノモンハンでソ連戦車隊の痛撃を受ける。松岡はこの時、アメリカとの国交調整を望むならば、まずソ連と手を組む必要がある、と考えた。この構想が昭和十六年四月の日ソ中立条約締結となるのである。
第二は、昭和十三年二月、東京で勃発した防共護国団事件である。千名近くの右翼青年が棍棒《こんぼう》などを携えて政友会、民政党本部などを襲い、直ちに解散せよ、と迫り、市内をデモして、皇道精神|昂揚《こうよう》と防共を叫んだ。松岡は林銑十郎と共にこのデモ団のスポンサーである、と目された。しかし、このデモ団の背後には百五十余名の代議士の連判状があったという説や、近衛総理の了解のもとに社会大衆党の麻生久が指導したものである、という説があり、真相はよくわからない。
松岡は関係がなかったが、右翼と親しいとみられていたことは事実である。側近の語る所によると、松岡は「満鉄総裁時代には、よく頭山(満)のおやじの紹介状をもった男が、ピストルなどを持って金の無心に来たが、私はおどし文句で金をもらいに来た奴にはビタ一文やったことがない。『ピストルはタマが出るといけないから机の上におきなさい』とマドロスパイプをくゆらしながら言うと、大抵帰ってゆく。金を与えて帰す方が安全で利口なんだが、私にはそれができない。アメリカ西部の本場で撃ち合いなどを見て来ているので、あまり驚かないということはあった」などと語っていたらしい。
松岡の浪人中にも、国際情勢は刻々として動いていた。十三年十二月、重慶を脱出してハノイに潜伏した汪兆銘は十四年五月五日上海に到着、和平工作の新政府樹立のため参謀本部の参謀と合議していた。
五月十一日、ノモンハン事件が勃発した。この戦いについては、詳細な記録が出ているので省略するが、九月の停戦協定までに、約二万人の被害を出して日本軍は敗退した。この戦いは、日中戦争の行きづまりを北方の戦闘開始によって転換打開しようという意図が加わっていたが、機械化装備や航空兵力の圧倒的な格差によって惨敗を喫したのである。
昭和二十年八月、日本の敗戦後、ある関東軍参謀はこう言ったそうである。「関東軍は、ソ連に対して万全の備えをしていたが、南方の苦戦が続くので多くの精鋭を醵出《きよしゆつ》し、骨抜きになっていた。全盛時代の関東軍であったなら、八月九日ソ連軍が侵入して来ても、ああ簡単には敗れはしなかった」陸軍の戦力についてはくわしく勉強していないので、断定的なことは言えないが、関東軍全盛時においても、日本軍はソ連の敵ではなかったと考えざるを得ない。日本陸軍は精神力を過度に重視し、日清日露の大捷《たいしよう》の夢を見続け、必勝の精神と天佑《てんゆう》に頼りすぎていた。
ノモンハンにおいても陸軍の指導者は、皇軍≠フ常勝を信じすぎ、ソ連の機械化兵団を軽視しすぎた。関東軍作戦参謀辻政信少佐が起案したといわれる「満ソ国境紛争処理要綱」には、その基本となる要旨として、「軍ハ侵サズ侵サシメザルヲ以テ満州防衛ノ根本基調トス」と書いてある。概して参謀の起案した作戦命令は、作文としては格調を持しているが、必ずしも実戦に役立たないのは、乃木将軍の漢詩と共通するところあり、と言うべきか。
ノモンハンは陸軍に衝撃を与えたが、陸軍幹部は、遅ればせながら機械化を促進する代りに、ドイツと手を結ぶことを考え、これを推進していた。ドイツが西から圧力を加えれば、ソ連は大兵力を西部戦線に割くの止《や》むなきに至り、日ソ国境の圧力は緩和されるであろうという他力本願である。
板垣陸相を中心とする陸軍の上層部は、中堅将校の突き上げもあって、しきりに日独伊軍事同盟を提案し、強力に推進して来た。海軍は反対であった。軍事同盟を結べば、ドイツの交戦相手国と日本は戦わねばならない。ドイツの交戦予想国は英、米、ソであり、このうち米国と戦うことになれば、海軍が主体である。米内光政海相、山本五十六次官共に、アメリカに勝つ自信はなかった。これに軍務局長井上成美少将が加わり、海軍条約派のトリオで、三国同盟に反対した。このため、山本五十六は、その戦術的手腕はともかく、軍政家として高く評価されるのである。このトリオの同盟阻止運動も有名なので省略するが、一、二のエピソードを紹介しておこう。
十四年七月十五日、親英米派とみられる要人の暗殺計画が発覚し、右翼の幹部である本間憲一郎らが逮捕された。本間たちは、陸軍にそそのかされて、三国同盟に反対する人たちを除こうと試みたのであるが、不思議なことに、その第一目標は米内海相ではなく、山本次官であった。米内は茫洋とした風貌《ふうぼう》をしているところから、同盟に反対しているのは、シャープで強腰の山本五十六の差し金とみられたらしい。他の目標は湯浅倉平内大臣、松平恒雄宮内大臣、財界の結城豊太郎、池田|成彬《しげあき》らであった。湯浅は内務官僚の出身であるが、筋を通す点においては硬骨漢の定評があり、陸軍の国家主義、全体主義に対する一つの防波堤であった。松平は戊辰《ぼしん》戦争時の会津藩主松平|容保《かたもり》の四男で、駐英、駐米大使を歴任、秩父宮妃勢津子の実父で、リベラリストとして知られていた。
三国同盟を希求する陸軍をバックにした右翼は、十四年夏、ノモンハンの敗戦が歴然として来ると、ひっきりなしに海軍省におしかけ、山本五十六に面会を強要した。むろん山本が一々会うわけはない。このようなとき、応対して追い払うのは、大臣秘書官の実松《さねまつ》譲中佐の役目である。
右翼のなかでも一番しつこいのは「聖戦貫徹同盟」であった。七月十四日、彼らは「天に代って奸賊《かんぞく》山本を誅《ちゆう》す」という斬奸状を持って霞ヶ関の海軍省に押しかけた。実松が応対に出て、山本次官は多用のため会えない、というと、海軍の弱虫、腰抜け、税金泥棒と罵倒《ばとう》した。彼らの言い分は世界新秩序のためドイツと結んで英国を撃て、というのである。しかし、ドイツはまだ英仏と戦端を開いておらず、その点からも時機尚早であった。実松が斬奸状を手にしてみると、「今次戦争ガ日英戦争ヲ通ジテナサルベキ、皇道的世界新秩序建設ノ聖戦タルコトノ真義ヨリシテ、対英国交断絶ト日独伊軍事同盟締結ハ現前日本必須緊急ノ国策タルニ拘《カカワ》ラズ、英国ニ依存スル現代幕府的支配勢力ハ彼等ニ利益ナル現状維持ノタメ之《コレ》ヲ頑強ニ阻止シツツアリ。貴官ハソノ親英派勢力ノ前衛トシテ米内海軍大臣ト相結ビ、事毎ニ皇国体ノ維新的国策ノ遂行ヲ阻害シ、赫々《カツカク》タル皇国海軍ヲシテ重臣財閥ノ私兵タラシムルノ危険ニ導キツツアリ」というようなことが書いてある。
その次に五月十七日山本次官がクレーギー英国大使に招かれて英国大使館の晩餐《ばんさん》会に出たのは怪《け》しからん、直ちに辞職せよ、と書いてある。この日は英大使館で映画の会があり、高松宮も出席していた。それで、実松が貫徹同盟が帰った後の報告に、「あのイギリス大使館の会には高松宮も出席されていたはずですが」というと、山本は顔色を変えて、「そんなことに皇室のことを持ち出して、私のことを弁護しようとしなくてもよろしい」と怒鳴りつけた。(実松譲『米内光政』光人社刊より)
刺客にねらわれる山本の身辺を心配したのは米内である。あくまでも海軍省に残るという山本を説いて海上に転出せしめることになった。八月三十日、山本はGF(連合艦隊)司令長官に補せられることになった。
山本が海軍省を去ると聞いて、板垣陸相を中心とする陸軍の三国同盟派は喜んだ。これでどうにか三国同盟締結に持ってゆける……。しかし、国際情勢は転々として予断を許さない。日本の態度がはっきりしないとみて、八月二十三日、ドイツは突如独ソ不可侵条約を締結してしまった。このころからヒトラーのドイツの電撃的な動きは加速度を加えて来る。この豹変《ひようへん》には陸軍も驚き、三国同盟論も空中分解してしまったが、それよりも驚いたのは、総理平沼騏一郎である。折柄ノモンハンでは日本の敗戦が決定的であった。平沼内閣は、次の声明を発して、八月二十八日、総辞職をした。
「今回締結せられたる独ソ不可侵条約により、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑《かんが》み、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」
このため、海軍省に残って孤軍奮闘するはずの米内も思い出多き海軍省を去り、八月三十日付をもって軍事参議官に補せられることとなった。
さて、三国同盟といえば松岡洋右といわれるが、この段階で、松岡はドイツとの同盟をどのように考えていたのか。松岡が満鉄総裁に任ぜられた翌年、昭和十一年十一月、日独防共協定が成立した。翌十二月の二十三日、松岡は大連の満鉄協和会館で、次の趣旨の賛成演説をした。
「明治三十五年、日英同盟締結以来二十年間、我が外交の基調は、この同盟であり、これによって、日米親善、日露協約、日仏協約も締結された。しかし、大正十一年のワシントン会議でこの外交の中軸は砕かれ、日本丸は舵《かじ》を破損し漂流し始めた。そして満州事変という疾風に吹きまくられて、ジュネーブにおける国際聯盟脱退という暗礁に乗りあげた。代表であった私は帰朝後、何とか日本丸の舵を作らなければいけないと考えていた。今回の日独防共協定は、久方ぶりに日本丸の舵が出来たことを示すものである」
松岡は、聯盟脱退による日本の国際的孤独に責任を感じドイツとの協同歩調に望みをつないでいた。その背後には無論英米ソによる圧力があった。
松岡はさらに、「協定と同盟は同じようなもので、男女の結婚≠ノ似ている。男女が半分だけ結婚することは出来まい」と論じ、「現在の日本にとって最も重大なる問題はコミンテルンに対する戦いである」という。
そして、「大和民族は場合によっては愛するものとの心中にまでゆく民族である。ドイツと提携する以上はそれだけの覚悟がなければならない。日独が固く提携してゆくならば、英国その他の国もおいおい分って来ると思う」と、ドイツと手を結ぶことによって欧米諸国を牽制《けんせい》する方策を表明し、次のような心中論≠展開する。
「真の大国民というものは気品ということを考えなくてはならぬ。得にさえなれば、誰とでもくっつくという女郎のような真似は大和民族のとるべき道ではない。日本人は世界でもまれな心中ということを知っている。日本人はドイツと結婚したばかりである。他国に色目を使わず、心中にまでゆく覚悟を示してもらいたい」
この時代の松岡は心情的親独論者であった。国際聯盟脱退による日本の国際的孤立を自分の責任と考え、その孤立を救うため、日本丸の舵を日独協定に発見しようと模索していた。英雄好きの彼はまだ見ぬヒトラーに憧れに似た親しみを感じていた。この年、松岡五十六歳、ヒトラーは九歳年下の四十七歳、ヒトラーはこの二年前の昭和九年、総統となり、ベルサイユ条約を破棄し、軍備を拡張して失地回復を叫んでいた。彼の反共と反英仏政策は、日本人の多くの共感を呼んでいた。
松岡はヒトラーのヒステリックな性格を天才≠フ属性と受けとり、彼の失地回復政策と、ナチス・ドイツの急激な擡頭《たいとう》のなかに、秦の始皇帝や、シーザーや、ジンギスカンなどの英雄的建設を期待していた。この憧れと期待のために、松岡は三国同盟を結んで、国際聯盟脱退以来再び英雄となり、そして、戦争挑発者の汚名と共に世を去ることになるのである。
ところが昭和十四年八月、ドイツが日本の苦心≠よそに突如独ソ不可侵条約を締結すると、松岡はあっけにとられた。ドイツを信頼していただけに、その落胆は大きかった。彼は浪人中で、東京千駄ヶ谷の自宅でこの報を聞いたが、後にこの当時を回想して「どうもドイツという国は他国をほしいままに利用してはばからぬ国だ。間違っても他国に利用されるようなことはしない国民だから、これと手を握った国はほとんど例外なしに火中のクリをひろわされることになるのだ」と回想している。
このとき、一時的にヒトラーに対する松岡の親近感はうすらいだかにみえたが、その彼が、どうしてまた三国同盟を結ぶに至るのか?
この作品の最終的な重要項目である三国同盟締結に入る前に、最近の取材報告をしておきたい。
私は昭和五十一年九月、春に続いて二回目のアメリカ取材旅行を行った。八月三十一日羽田からロサンゼルスに飛び、バンクーバー、シアトルを経て、ポートランドの空港に降りたのは九月八日午後一時のことであった。ポートランドは、アメリカ西岸オレゴン州の主要都市で人口四十万、流長千八百五十キロのコロンビア河の河口から百十五キロ上流にあり、支流ウィラメット川とコロンビア河の合流点近くにひろがっている町である。
私は、アメリカへ出発する直前、イリノイ大学の研究員マーク・マイケルソン氏と東京で会っていた。マイケルソン氏は、現在東大法学部研究生兼上智大学国際関係研究所客員研究員として滞日中で、その主題は「松岡洋右研究」である。氏によると、最近のアメリカでは松岡洋右研究が盛んであり、氏もこの研究を持って帰国し、博士論文として提出する予定であるという。マイケルソン氏の意見は、逐次本稿にも反映してゆくが、氏によると、アメリカにおける松岡研究が盛んな大きな原因の一つは、松岡がアメリカで育ち、アメリカの大学を卒業して外交官になったことにあるという。後年、国際聯盟を脱退し、ドイツと結んでアメリカと日本が戦う素因を作った著名な政治家が、アメリカで教育をうけていた点に、多くの学者が興味を抱いて、その精神内容を研究しているのだという。
マイケルソン氏は、ポートランドに友人を持ち、まだ松岡研究に入る前に、ポートランドを訪れ、松岡がベバリッジ夫人のために建てた墓碑を見に行ったことがあるという。なぜ松岡の建てた碑を見に行ったのか? という筆者の問いに対して、氏は、アメリカでは、松岡はアメリカで教育されたというので、一般的に興味を持たれている、という前記の理由を答えた。
私は、その碑のある墓地のアドレスを氏に尋ねたが、かなり以前のことなので、忘失したと答え、その代りに、ポートランドは、コロンビア河とウィラメット川の合流点にある古くて美しい町だ、と答えた。
ポートランドに降りた私は、ウィラメット川にかかるバーンサイド橋に近い、バーンサイド・イースト通り九丁目のトラベロッジ・ホテルに宿をとった。このホテルは全国チェーン組織で、一泊十五ドルから二十ドル位の手ごろなホテルである。
部屋に入ると、私はすぐに日本総領事館に電話をかけた。領事の樋口氏が出た。「松岡が碑を建てた墓地の名前を知りたい」というと、くわしい人を紹介する、といって、領事は一旦、電話を切った。間もなく、西本芳松という日系一世の人から電話があった。西本さんは大正七年広島からポートランドに移民し、長い間保険会社に勤め、昭和八年四月、松岡がポートランドを訪れたときは、当時の領事であった中村氏と共に、終始、松岡と行をともにした人である。
西本さんは、もちろん、松岡が建碑した墓地のことを知っており、間もなく車で私を迎えに現われた。七十五歳の西本さんは、まだ眼がよくて、運転が可能であった。
「私がポートランドへ移民したのは、大正七年で、ドイツが負けた年、アメリカが参戦した年の翌年じゃった。あれから、もう五十八年になるけんね……」
西本さんは、運転しながら広島弁でそう語った。西本さんがポートランドへ来たのは、筆者が生れる二年前で、彼が十七歳のときである。
松岡が建碑したローンファー墓地は、ホテルからさほど遠からぬところにあった。バーンサイド・イーストの通りを東にゆき、二十番街を南に入り、スターク通りに突き当ったところで、左に折れると、もうローンファー墓地のうっそうとした森の茂みに入る。
松岡が第二の母と敬慕したイザベル・ダンバー・ベバリッジ夫人の墓標は、墓地の入り口からさほど遠からぬところにあった。
「えーと、どのへんじゃったかな? 赤い石じゃと思ったが……」
西本さんは、車を降りると巨木の間を歩いた。陽は西に傾き芝生の多くは針葉樹の影に蔽《おお》われており、北国の初秋の木洩れ陽を浴びながら、古びた墓石が点在していた。どれも高さ五十センチから一メートル位で、黙した獣がうずくまっているように無表情であった。ベバリッジ夫人の赤い石碑はなかなか見つからず、私は出発前に、以前にここに来たことがある三輪公忠氏に事情を聞いて来なかったことを後悔し始めていた。
赤い御影石《みかげいし》の墓標を発見したのは、私であった。かなり大きな桜の木の枝の陰に高さ八十センチほどの墓石が、ひっそりと建っていた。表には大きな字で、
ISABELL DUMBAR BEVERIDGE. BORN 1843. DIED OCT 5. 1906. BORN IN SCOTLAND.
と彫ってある。幼い松岡をいつくしんでくれたベバリッジ夫人は、一八四三年スコットランドに生れ、一九〇六年、日露戦争終結の翌年、この地で世を去っている。松岡が日本に帰ったのは、明治三十五年(一九〇二)であるから、その僅か四年後には、ベバリッジ夫人は故人となっているのである。
西本さんの話では、多分、この石碑の下には夫人の遺体が埋められ、貧しかったために、石碑が建てられず、木の墓標ぐらいが建てられていたのではないか、という。
碑の裏には、小さな文字で次のように銅板のレリーフが記されている。
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TO THE MEMORY OF ISABELL DUMBAR BEVERIDGE RAISED BY THE LOVING HANDS OF Yosuke Matsuoka IN TOKEN OF THE LASTING GRATITUDE FOR THE SYMPATHY AND GENTLE KINDNESS OF A WOMAN WHO, NEXT TO HIS MOTHER, SHAPED HIS MIND AND CHARACTER. APRIL 9. 1933.
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筆者の訳では、「イザベル・ダンバー・ベバリッジ夫人を記念するため、愛情に満てる手を以って、松岡洋右これを建立する。母に次いで、私の心と人格を育成してくれた一人の女性への変らざる感謝のしるしとして……」ということになる。この文章のうち、松岡洋右のローマ字は、彼の手になるサインが浮き彫りにされている。従って、私と西本さんは、松岡がこの地に来てからこの碑を建てていたのではとても間に合うまいから、手配だけしてあとで建てたのではないか、と語り合った。碑の表面の日付によると、松岡がこの墓地を訪れたのは、昭和八年四月九日である。四月十日にはサンフランシスコ入りをしているから、ポートランド滞在は三日ほどであろうと思われる。しかし、われわれの計算が間違っていたことが、間もなくわかった。
私は、桜の木の陰になっている碑の表と裏の文字を撮影した。松岡が苗木を植えたといわれる桜の木は、幹の直径が二十センチ以上あり、このローンファー墓地では唯一の桜樹であろうと思われる。松岡がこの地を再訪してから、四十三年が経過している。その年月に比して、桜樹の成長は意外に早いように私の眼に映った。その程度に桜樹は広々と北国の墓地に枝葉をひろげていたのである。
碑の近くを歩きながら、西本さんは回想を語った。
「松岡さんがこの碑を建てたことが翌日のオレゴニアンという新聞のトップに大きく出ましてな。いやもう大変な人気でした。日本人は三十年たっても恩を忘れない、というわけでのう。当時は国際聯盟脱退ということで、日本はいろいろと物議をかもしていましたけんね。結果としては、これはよい宣伝になったわけですな。ポートランドの人間は日本人を見直しよりました。松岡さんは恩返しをすると同時にそれが宣伝となることも忘れない人のようでしたな」
私は一つの疑問を抱いていた。松岡がこの墓地に来たとき、碑はすでに建っていたのか、それとも、古い墓碑に詣《もう》でて、彼の献碑は後に行われたのであろうか?
私はそのオレゴニアンという新聞のバックナンバーを見たくなった。日本を去るとき話し合ったマイケルソン氏も、一九三三年四月十一日付のオレゴニアン紙を見れば記事が出ているはずだ、と語っていた。
西本さんは、私の頼みをいれて、オレゴニアン社に私を案内してくれることになった。
車はすぐ南のモリソン通りを西に走り、ウィラメット川にかかるモリソン橋を渡って、ダウンタウンと呼ばれるポートランドの中心街に向うことになった。西本さんは語り続けた。
「松岡さんはオレゴン大学の出身ということになっているが、ポートランドにはオレゴン大学の支部があって、本部は百五十キロ南のユージンにあり、今もそうですけん。松岡さんは、ポートランドへ来ると、ユージンの大学へ行って自分の少年時代のことや脱退後の日本の立場について演説をした後、その夜は中村領事の家ですきやきで会食し、オルダー街のベンソン・ホテルに泊った。ベンソンは当時町で第一級のホテルじゃったね。私はベンソンで松岡さんの話を聞いた。六階のスーツルーム三室を借り切り、新聞記者も随行して大人数じゃったな。松岡さんは、聯盟を脱退してもアメリカとうまくやれば日本は大丈夫じゃということを盛んにぶっていた。いやもう聞きしにまさる雄弁というのか、熱弁で、聞いている相手がいつの間にかひきずりこまれ、何を反問するひまもなく納得させられてしまう、という形のもんでしたな。弁舌家というか弁論家というのは、あのようなものですかな……」
車はウィラメット川を渡りつつあった。時刻は五時少し前で、たそがれ近い陽光が、川面に銀色の光を反射させていた。水面をながめながら、私は西本さんが墓地で洩らした言葉を反芻《はんすう》していた。
西本さんは、松岡がベバリッジ夫人に献碑したのがよい宣伝になったという。果して松岡は宣伝になることを見越して献碑をしたのであろうか。直情径行の彼の性格からゆけば、単に少年時代の恩を忘れないための行いと思われる。しかし、聯盟脱退の直後であれば、いかなる行為も、日米親善ということを外交官らしく計算して行っていたのであろうか。
橋を渡ると、西本さんは、
「オレゴニアンの会社も何度も移って、最近も新しいビルディングが出来て二つに分れとるけん、新しい方に行ってみようかのう」
と車を西の方に走らせた。
ポートランドの中心街を西へ行くと小高い丘に突きあたる。市のはずれに近いところに、白亜の新しいビルがあった。窓のほとんどないそのビルを見て、私はひと目でこの建物が印刷工場と発送部門のために作られた新しい社屋であることをさとった。日本の新聞社も最近は、そのように編集部門と印刷発送部門を分けているところが多いが、アメリカでも同様であろう。
ビルのなかに入り、受付の女性に訊《き》くとやはりそうであった。通りかかった中年の社員が、メーンビルディングに行ってマッケナー夫人に訊けばわかるだろう、彼女がライブラリーの責任者だ、と私の名刺に、その名前を書いてくれた。私はアメリカの映画で、新聞記者が資料室のことをモーグ(屍体《したい》置場)というように俗称で呼んでいるのを聞いたことがあるので、マッケナー夫人はモーグのチーフかと訊くと、その男はイエスと言って、鼻の頭にしわをよせて笑った。
オレゴニアンの本社はブロードウェーというメーンストリートを南西に下ったところにある。こちらも白い建物であるが、窓がたくさんあいている。私はアメリカの新聞社のなかに入るのは初めてなので、多少の興味を抱きながらなかに入り、三階のライブラリーの受付でマッケナー夫人を呼んでもらった。夫人は五時で退社したそうであるが、代りに太い髭《ひげ》を生やした青年が用件を聞いてくれた。用紙に用件を記入して渡すと、青年はしばらく待て、と言って奥へ消えた。四十三年前の資料が何分位で出て来るか? アメリカのモーグのお手並拝見というわけで、私は興味を深めていた。
五分そこそこで青年は二枚の紙片をさげて再び姿を現わした。一つは一九三三年四月十日のオレゴニアン紙一面トップの記事で、かなり長いものであった。記事の上に値段がついていて一部五セントとなっている。そのタイトルは「MATSUOKA HONORS BOYHOOD FRIEND」となっている。松岡、少年時代の友に賛辞を送る、とでも訳するのであろうか。
長い記事の途中に二枚の写真があり、一枚はオーバーを着けた松岡が墓地のなかで随行者と話をしているところ、一枚は、松岡が墓碑の前で上体をかがめて花束を捧《ささ》げるところである。
墓碑の表には鮮かに先ほど私が見たばかりの、イザベル・ダンバー・ベバリッジ夫人、一八四三年生れ……という大きな文字が読みとれた。
「ほう、松岡さんが来たときは、もう墓碑はでけとったんですなあ」
写真を見ると、西本さんは小さな叫び声をあげた。
「そう言えば、松岡さんはポートランドに来るかなり前に、中村領事に電話をして、ベバリッジ夫人の墓に詣でたいが、墓標はどうなっているのか調べておいてくれ、と言って来たそうですがな。それから、墓碑がないと聞いて、碑を建てるから石を用意しておいてくれ、という連絡もあったようですな、思い出しました」
そういうと、西本さんは軽く手を拍《う》った。してみると、松岡は自分がポートランド滞在中に、新しい墓碑に献花ができるよう、墓碑の製作を急がせておいたものであろう。それには、碑面の文字の体裁や、裏面の撰文《せんぶん》の文章もあらかじめ連絡しておく必要があったはずである。やはり松岡は新聞に出る効果を予期して、準備をすすめていたのであろうか。
私は写真の松岡をながめた。この写真がアメリカの新聞に出た最初にして最後の松岡献碑献花の写真である。随行者と語っている松岡は、感慨にふけるようないくらか硬い表情であり、ややうつむき加減に献花する彼の顔は、泣き出さんばかりの哀愁を表に現わしていた。それが彼の心情を現わすものか、それとも演技なのか、私には前者のようにうけとれた。西本さんのいうように結果としては宣伝となったであろうが、献碑するときの松岡の心情は、純粋にベ夫人を追憶し、涙に濡れていたとみてよいのではないか。
髭の青年は二つの記事のコピイをとって私にくれた。最初の記事には六種類のみだしがついている。前述の大みだしのほか「ベ夫人の墓に墓標おかる」「愛の手向け捧げられる」「有名な全権ベ夫人の家にありし日を想起す」「ポートランド訪問終る」「墓地における儀式の後、会食、そして南に向う」等である。
デビッド・ハーゼン記者による記事は非常に長いものであるが、要約すると次のようになる。
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「それは一種の宿命であった。彼女がどのように私の世話をし、私をかわいがってくれたのか、私は今でも言葉を知らないほどである。彼女は彼女の子供同様に私を愛してくれたのだ」
ベ夫人の墓のそばに立って、松岡洋右は低い声で、ゆっくりした調子でこう語った。
彼は少年時代の親しき人の最後の眠りの場所に、彼が建てた墓石の上に美しい花束をおいた。
「彼女の親切の想い出は、未《いま》だに胸のなかに新鮮である」
当代の最も著名な日本の外交官はこう続けた。
「そして、今も日本で私を待っている九十歳の母親に次いで、ベ夫人はどの人よりも私の胸のなかに親しみを感じさせる人である。彼女とその弟ウィリアム・ダンバー氏が私を彼らの家庭に引きとってくれたとき、私は小さな山出しの少年であった。
この家はオルダー通りと十四番街のまじわるあたりにあり、私は昨日そのあたりを訪れたが、私の通ったポートランド・ハイスクールがすでにこわされていたのを知って、驚きかつ悲しんだ。私はよくその建物がとても大きくて美しいものだと考えていた。そうだよ、ダンバー氏の息子のランバートは私より一つ年上で、二人は仲よしだったが、よくけんかもしたね。子供ってそんなものさ。
ランバートの母は、彼が生れると同時になくなったので、その伯母つまりベ夫人が母親代りとなり、私ともども二人はやさしく面倒をみてもらったものだ。ランバート君は香港に住んでいるが、今アメリカに向っている。われわれは太平洋上ですれ違うことになるのだろう」
松岡氏がポートランドに着いた日の朝、最初にしたことは、彼の第二の母のため、墓標にする御影石を選ぶことであった。
この石を彼は昨日の朝献碑した。表敬のためこの墓地に来た彼は、墓石に向って深々と頭を下げ、短い祈りの言葉をささやき、そして美しい花束が、孤独で貧しい十三歳の少年としてポートランドに来た、この政治家によって墓石の上に捧げられた。
午前十時、松岡氏とその一行が墓地を訪れたとき、大勢のアメリカ人と日本人がそこに集った。献花を終って群衆に視線をやった松岡氏は、一人の旧友を発見して、急いで近より、声をかけた。
「ジェームズ・ダンバー君、君に会えてうれしい。今日会いたいと思っていたんだよ」
氏は旧友と握手しながらそう言った。
「私は親しい恩人のためにこの墓標を建てることができてとてもうれしい。これで私の子供たちがアメリカへ来たとき、私が自分の故郷のように思っていた土地が、どこであったかを知ることができるだろう。彼女は私の母を除いては他のだれよりも、私の心と人格を育成してくれた。
十三歳でこちらへ来たとき、私はメソジスト教会で孤独な生活を送っていた。それを聞いたダンバー氏とその姉のベ夫人が浮浪児同様の私を引きとってくれたとき、私は走り使いや家事の手伝い位しかできなかったが、ベ夫人は私を家族同様に扱ってくれた。私はいくら感謝してもこの恩に報いることはむずかしいと考えている」
松岡氏はなお、幾人かの旧友を群衆のなかに発見して懐しそうに語りあった。
墓地を去る前に、松岡氏は、ポートランド日本人会が育てた桜の苗木を一本、墓石のかたわらに植えた。氏は長い間ベ夫人の墓石のことを気にかけており、東京でダンバー家にゆかりの人に会うと、ちゃんとベ夫人の墓標は整っているかどうかを訊き、正式な墓石はないということを聞いて、早く献碑をしなければならぬ、と長い間考えていたそうである。
ジュネーブから帰国の途中、アメリカを通ることになったとき、氏は中村領事に電報を打って、ベ夫人の墓石の件を確かめた。
そして、正式な墓石はないという返事を聞くと、この政治家は直ちに、彼のポートランド滞在中に墓標がおかれ得るよう材料を準備しておくようにと領事に依頼した。すべてはととのい、そして昨日の朝、北アメリカの春の陽光は、この祭典を優雅な美しいものとして静かに照らし出していた。
やがて別れの時が近づいた。松岡洋右氏は、去来するものを胸にかみしめながら、数十年前彼が異郷ともいうべきアメリカの町で過した幼かった時代に思いを馳《は》せているかのようだった。
再び墓標のそばに立った彼は、頭を低く垂れ、別れの祈りの言葉を口のなかで呟《つぶや》いていた。
中村領事の家で昼食をすませた彼は、午後再び市中をドライブし、ポートランド在住の日本人と語り合った。
彼の一行は夜、サンフランシスコに向った。ここから彼らは桜花の国とよばれる故郷へ出帆するのである。
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いま一つの記事は新しいもので、一九七五年八月二十九日付のものである。「建国二百年を眺める」というサブタイトルがついているように、今年(一九七六年)の建国二百年に関連した特集記事の一環である。
ジャック・ペメント記者のこの記事には、「ポートランドの旭日《きよくじつ》」という大みだしがついており、すぐ下にモローという画家の手になる漫画がついている。漫画は、ローンファー墓地のベ夫人の墓石の前で、松岡が頭を垂れて、黙祷《もくとう》している場面を描いている。
この記事には、とくに目新しいことは書かれていないが、あれから四十余年たった今、アメリカで松岡がどのような評価をうけているかを知るよすがになろうと思うので、大意を次にあげてみる。
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一九三〇年代における日本の最も著名なリーダーの一人であり、そして一九四〇年代には戦争犯罪者としてアメリカからいやしめられたこの男、松岡洋右はかつて少年時代ポートランドにいたことがある。
彼はアトキンソン小学校の生徒であり、ある時期にはオレゴン大学の最も光栄ある卒業生として誇りとされたこともあった。
松岡は一九四六年極東裁判中、病院で死んだ。彼はがっしりした小男で、粘り強い人生を送ったが、肺結核と腎臓《じんぞう》病を患っていた。かつてジュネーブの帰りに彼がポートランドを訪れたとき、新聞は大みだしでそのことを報道したが、彼のアメリカにおける幼少年時代については多くが語られていない。
松岡は武士の血統を引く家に生れた。彼は一八九三年十三歳のとき、山口県からポートランドにやってきた。彼の目的はアメリカにおける教育で、アトキンソン小学校に学んだ後、カリフォルニアに移ってハイスクール生活を送り、再びオレゴン州に戻ってユージンの大学法科に入学、一九〇一年優等の成績で大学を卒業した。
松岡は一九三〇年代の初めに、ジュネーブにおける国際聯盟の全権として、国際的に有名になった。一九三三年三月、彼が日本の聯盟脱退を意味する会場からの退場を行ったとき、彼は一大センセーションをまき起した。
後に起る大破壊事件の点火はここに行われたのである。
退場のとき、「私は二度と帰って来ない」と彼は約束した。彼は「日本は満州を国際的管理のもとにおこうというどのような試みにも反対する」と警告し、そして予言者的にこうつけ加えた。
「我々の将来は陰鬱であり、希望の曙光《しよこう》を見出《みいだ》すことはむずかしいだろう」
松岡は戦闘的な人間として成長し、満鉄総裁、外務大臣となり、また過激な天皇主義者による昭和維新のリーダーとなった。この昭和維新の動きが日本の世界侵略を助長するのである。
一九四一年、彼の同郷人が真珠湾を攻撃したとき、彼は枢軸国の最も著名なリーダーであった。松岡は世界の檜《ひのき》舞台で成功するかに見えた。彼は弁舌を好み、そして弁舌をふるっているとき、劇的な盛り上げに対する天性の才能を発揮していた。
彼は太い髭を生やし、縦縞のズボンをはき、西欧ふうの燕尾服《えんびふく》を好み、重々しい角ぶちの眼鏡の奥からのぞく眼はふくろうに似ていた。時に謎《なぞ》のように見える彼の身ぶりは、鏡の前で長い間練習したもののように思われるのであった。
ところで、彼はまた別のイメージをわれわれに与えることができる。それは、ポートランドにおける幼年時代と、そこへの再訪である。
一九三三年四月、世界をゆるがせた国際聯盟からの退場の直後、一人の女性に記念の手向けを行うべく彼はポートランドに戻って来た。彼女は学童であった彼に「立派な人間になるように」と教えた人であった。
国際問題的な関心からしばらく遠ざかって、この気性の激しい小柄な戦闘的な貴族は、かつての恩人ベバリッジ夫人の墓石を建て、献花を行った。
「なぜあのように夫人が私に親切にしてくれたのか、私にはよくわからない」
松岡はベ夫人の墓の前で頭を垂れ、こう呟いた。
「私が誰よりも愛した母についで、私はベ夫人を愛し、その言いつけをよく聞いたものです……」
ベ夫人は、松岡がアメリカにおける教育を終って間のない一九〇六年に世を去った。彼が敬虔《けいけん》な態度でローンファー墓地に立ったとき、彼は腕白でけんか早かった自分の少年時代を回想し、それに対してベ夫人がいかに忍耐と寛容をもってのぞんだかに思いをめぐらしていた。
そして、松岡は再び予言者的にこう語った。「多忙ななかを割いて、私は哀《かな》しみに満ちた義務を果すべくポートランドに戻ることを決意した。もう私の生涯に次のチャンスがあろうとは考えられなかったからである。第二の母であるベ夫人の墓碑を建てることは、私の人生でもっとも希求していたことである」
松岡は、この市の十四番街とオルダー・ストリートの交差点近くに、ベ夫人の家族と共に住んでいた。思い出深い再訪に際して、彼はその旧居をさがしたが、すでになかった。
短い滞在の後、松岡は、ポートランドを去ってサンフランシスコに向った。ここから彼は浅間丸で旭日の国に帰って行った。彼の宿命≠ニ出会うために……。
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多くの外国人のジャーナリストがそうであるように、このペメント記者も松岡の政治活動について肝心な点で錯誤を犯している。松岡は確かに「昭和維新」という雑誌を出して、政党解消を叫んだ。しかし、その趣旨は、腐敗した政党の革新を唱えたものであって、こと昭和維新と日本の世界侵略は直接つながらない。ペメント記者は、五・一五事件や、二・二六事件の主謀者たちが唱えた暗殺による昭和維新、日本を天皇親政のもとに超国家たらしめんとする思想と、松岡のそれとを混同している。
また、真珠湾攻撃のとき、松岡はもはや枢軸諸国のリーダーではなかった。彼は近衛総理と意見が合わぬため、昭和十六年七月内閣総辞職によって外相をやめ、以後政権の座についたことはない。真珠湾攻撃は彼の辞職から五カ月後のことである。
松岡はその風采《ふうさい》や弁舌から、出しゃばりで向う意気が強いという印象を与えているらしい。とくに、外国人は、松岡を国際聯盟脱退の主謀者であり、三国同盟を結んで、ドイツと手を組んでアメリカを攻撃することを企画した張本人である、という通説を信じがちである。
私は第二次大戦の後半、アメリカの捕虜収容所にいたが、アメリカの新聞の論調も以上のような通説によって松岡を非難していた。アメリカ人はヒトラーを憎んでおり、ヒトラーと手を組んでアメリカを攻撃した松岡を憎んでいた。戦犯容疑者のなかで、文官としてもっとも強く非難されていたのは松岡であり、もし松岡が病死せず絞首刑になっていたら、広田弘毅は死刑を免れていたかも知れない。松岡が病死したため、軍事法廷は、憎悪の刃《やいば》を広田に向けたものと思われる。
さて、オレゴニアン新聞社を辞した後、私は西本さんの車でオルダー街とブロードウェー通りの交差点に近いベンソン・ホテルの前を通った。松岡がポートランド滞在中宿泊したホテルで、レンガ造り十階建てのクラシックなこのホテルは四百室あり、今でもポートランドの高級ホテルである。
車はオルダー街を西に向った。
「このあたりが十四番街との交差点です。松岡さんは、この近くに住んでいたらしいですな」
西本さんの声に、私はそのあたりをながめ回した。ここはまだダウンタウンのなかで、ビルが多い。松岡少年がベ夫人と住んでいたころは、住宅街であったのであろう。
西本さんは車をUターンさせると、ウィラメット川の川岸に向けた。
「このへんがオールドタウンです。ポートランド発祥の地ですな。私がポートランドに来たころは、このへんがにぎやかでした」
西本さんは、一番大きいバーンサイド橋と、すぐ北のスチール橋の中間の川岸で車をとめた。ここは一番街と言い、四、五階建ての古いビルが並んでいた。なかには取り壊し中のものもある。
「古いし、さびれとるので、新しいビルに代えようというわけじゃ。日本人にも金持ちがいて内藤さんという貿易商は、すでに十軒以上も古いビルを買い占めている。古いビル街を残して、土産物屋やレストランをつくり、オールドストリートにして観光地にしようというわけじゃな」
西本さんの説明に、私はニューオルリーンズのフレンチクォーターや、バンクーバーのガスタウンを想い起した。高層ビル街にあきたアメリカ人は十九世紀の町並を復活させ、古きよき時代を偲《しの》んでいる。ポートランドのオールドタウンが、日本人移民の手で復活させられたら面白い話題になるだろう、と私は考えた。ポートランドは一般にはなじみのない名前だが、日本人が多いため日本との交流が盛んで、パンナム航空は週一便ポートランド始発サンフランシスコ経由東京行きを運航しているほどである。
あたりはもう暗くなっていた。私は西本さんに日本料亭で夕食をご馳走することにした。オルダー街の南のサーモン・ストリートに「膳」、四番街に「武士ガーデン」「ベニハナ」があり、「膳」が安いというので、ここに入ることにした。
「うちでは毎日夕食に米の飯を食うとるが、ポートランドで日本レストランに入ることはめったにないのう」
西本さんは、運ばれて来た海老《えび》の天ぷらを口に運びながらそう言い、松岡の回想をつけたした。
「松岡さんの少年時代、この町に森永という男が来ていて、製菓会社で働いていたが、これが非常な頑張り屋で評判じゃったそうな。あいつはものになると思っていたら、今は日本で菓子の会社をやって結構盛大にやっとるらしい。それなら選挙資金ぐらい出させてもいいなあ、と松岡さんは冗談をいうとったな」
森永太一郎は、慶応元年(一八六五)生れであるから松岡より十五歳年長である。若いときアメリカにわたり菓子製造所の職工となって技術を学んだ。帰国後赤坂で日本最初の洋菓子店をひらいた。明治四十三年森永製菓会社を創業。製菓界の草分けといわれた彼は昭和十二年七十三歳で没している。
「松岡さんは話好きでこんな話もしとったな。オレゴン大学を卒業した頃、ポートランドに日本人の女郎で手のつけられないだらしのない女がいた。日本の恥だというので邦人仲間で金をつくって日本に送り返すことになり、若い松岡さんがサンフランシスコまで同行して船に乗せることになった。ところが、シスコの領事館にわけのわからない事務官がいて、どうにも話がすすまず、大いに苦労をした、と笑っておったな」
食事が終ると、私と西本さんはブロードウェーの通りを歩いた。白大理石の大きなビルの前に出た。
「このデパートが売りに出たが、白人は誰も買おうといわん、そこでさっきの内藤が百万ドルに叩いて買いおった。土地つきで、三億円というところかな。安いかどうかね」
そのビルは古びてはいるが、八階建てで、面積もかなりある。東京の盛り場にあれば、土地だけで数十億円はするだろうと思われる。ポートランドでも日本人はけっこう活躍しているな、と考えながら、私はホテルに帰るため、西本さんの車に乗った。
さて、話を本筋に戻そう。
昭和十四年八月二十三日、突如独ソ不可侵条約を結んで、日本の政界や陸軍、右翼を驚倒せしめ、平沼内閣を総辞職に追いやったヒトラーは、翌九月一日、ポーランドに侵入した。ヒトラーはすでに十三年三月オーストリアを併合、十四年三月チェコスロバキアを併合して、その第三帝国建設の野望を明らかにしているが、このポーランド侵入によって、九月三日英仏はドイツに宣戦を布告し、ここに第二次世界大戦の幕は切って落された。
日本では八月三十日阿部信行陸軍大将が内閣を組織したが、弱体な臨時内閣とみられていた。
このめまぐるしい動きを、日本の支配層はどう考えていたか? 『昭和史』(遠山茂樹ほか著)には次の記述がある。
「天津事件ではイギリスと、日米通商条約破棄ではアメリカと、そしてノモンハン事件ではソ連と対立した日本は、今や独ソ不可侵条約締結の事態に直面して、まったく孤立無援の状態に陥った感があった。
外交方針は出直しを余儀なくされた。とくにイデオロギーで相容《あいい》れぬはずのドイツとソ連が手をむすんだという事実は、『防共』とか『東亜新秩序』のイデオロギーで自縄《じじよう》自縛の硬化状態にあった従来の外交方針を反省する気分を呼び起した。親英米派は一時的に政界の表面にうかびあがった。あたかもこの時おこったヨーロッパでの戦争によって、従来の外交路線(「不動の国策」)を検討し直すきっかけと余裕があたえられた。支配階級は大戦|勃発《ぼつぱつ》を『天佑《てんゆう》』とよろこんだ」
天津事件は、十四年六月日本軍が天津の英仏租界を封鎖した事件である。日本軍が国民軍の法幣の通用する英仏租界をその経済支配下におこうと企てたもので、怒ったイギリスの抗議に対し、同月、有田外相はクレーギー駐日英大使と会談をひらいた。しかし、翌七月、アメリカが日本に圧力を加えるため日米通商条約を破棄したので、イギリスも強腰となり、日英会談も決裂した。
日本の指導層が聡明であるならば、このあたりで、アメリカのアジア政策について多くのことに気づいているべきである。
日米通商条約は、一八五八年(安政五)井伊直弼によって調印されたもので、開港場、貿易などについて規定されているが、そのなかには、「日本人に対して不法行為を犯したアメリカ人は、アメリカ領事が本国の法律にもとづいて裁判する」などの治外法権的な条項を多くふくみ、その後修正されて、一部は死文に近いが、通商条約を破棄するということは、二年後の経済制裁を予知せしめるものであったはずである。
阿部内閣は九月四日、「今次欧州戦争勃発に際して帝国は之《これ》に介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進《まいしん》せんとす」という声明を発した。事変は泥沼に入り、日本経済は行きづまり、打開を要求されていた。そして、その突破口が、軍事よりも外交面であったところに、松岡登場の大きな誘因があったとみるべきであろう。
日本の支配階級は、大戦勃発を国策検討の機会を与える天佑と感じとったらしいが、果してこの大戦は天佑であったかどうか。
少なくとも次のことは言える。ノモンハンを戦っていた日本にとって、独ソ不可侵条約締結はドイツの裏切りと映ったが、ドイツの電撃作戦とその無敵の進撃ぶりは、日本の陸軍を中心とする指導層にとって大きな魅力となり、再びアメリカの圧力に対抗するため、日独伊三国同盟説が息をふきかえしてくるのである。
支那事変収拾を企図する日本陸軍は、九月十五日ノモンハン停戦協定を結んだ。それでなくても連敗続きである。ソ連がドイツと不可侵条約を結べば、西部戦線に備えた大軍を東部に回すことが可能となって来る。そもそもは、支那事変の泥沼入りを糊塗《こと》するために始めたノモンハンの争乱という意向が強かったが、今となっては、旗を巻いて退くよりほかに妙策はない。日清日露の役以来、不敗を誇る帝国陸軍もここに明瞭な一敗を記録した。しかし、軍部は敗戦の実態を国民の目から隠し、またノモンハンで得た機械化兵団の威力という教訓を素直に汲《く》みとろうとはしなかった。前にも述べた通り、軍の指導部は、軍の機械化、近代化を図るかわりに、まずドイツと同盟を結んで、ソ連に圧力を加え、ついでドイツの斡旋《あつせん》によって、ソ連と同盟を結び、日独伊ソ四国同盟を結成して、英米の勢力に拮抗《きつこう》しようと企図した。ここに松岡の登場が要求される必然的な理由があったのである。
ドイツの空軍と機甲部隊は、予想以上の快進撃ぶりを示し、九月二十七日ワルシャワは陥落、ポーランドは降伏して、独ソは約束通り、ポーランドを分割した。ポーランドは一七七二年オーストリア、ロシア、プロシャによる第一次分割以来、これで第四回目の国土分割をこうむり、地球上から再びその国家が消滅した。
このころ、肝心の外務大臣は阿部首相の兼任であった。阿部大将が組閣するにあたり、陸軍から、外務省出身者を外相にするな、という制約を受けていた。陸軍は、幣原喜重郎系統の親英米派が登場するのを警戒していたのである。
しかし、新しい国際の局面に対処するには専任の外相が不可欠である。苦心の末、海軍大将野村吉三郎が外相に選ばれた。野村は海軍の長老で、海兵では米内光政より三期、山本五十六より六期先輩である。長くアメリカの駐在武官であり、人格も重厚であるとみられていた。
野村は十一月四日からグルー駐日米国大使と主として経済問題について会談に入った。支那事変開始以来早くも二年四カ月が経過し、日本の戦時経済は破綻《はたん》をみせ始めていた。日本は満州国及び支那の占領地域を利用して、生産拡充を図ろうとしたが、それにもアメリカ及び東南アジアからの資源輸入を必要としていた。
その後ヨーロッパの戦線は無気味な沈黙を守っていた。年内に起った主な戦闘は、ドイツの豆戦艦グラフ・シュペー号が、南米ウルグアイのモンテヴィデオ港外で自沈した事件である。通商破壊のため大西洋に行動中のシュペー号は、英重巡エクゼターらを相手に奮戦したが、自艦も中破した。艦長ラングスドルフ大佐は、シュペー号を一旦出港させて港外で自沈せしめた後、自分は港に戻り拳銃で自殺した。艦長は艦と運命を共にすべきだ、という古典的な船乗りのドクトリンを守ったラ大佐の最期は、英国海軍の賞讃《しようさん》と共に日本の一般国民の感銘をもかち得た。
年末、阿部内閣退陣の噂《うわさ》が巷《ちまた》に流れた。外戦は泥沼状態、国際外交はヒトラーにかきまわされる、そして、なによりも国内経済の疲弊が、国民の内閣不信を招いていた。
阿部内閣は九月、九・一八物価停止令を下したが、表面だけ抑えてもインフレの抑制はむずかしかった。国民は第一次大戦以後、久方ぶりの物資不足によるインフレにあえぎ、買いだめ売り惜しみは常識となっていた。
この年は台湾が大雨、朝鮮が大|旱魃《かんばつ》で、米作が三、四割減収となり、玄米一石の丸公(公定)価格が三十八円から四十三円にひきあげられた。
経済の沈滞は国民の不安を呼び、流言が飛ぶようになった。大阪、名古屋、福岡で米騒動が起きた、朝鮮で暴動が起きた、というたぐいである。筆者はこのころ、海軍兵学校の四年生であったが、冬休みに岐阜県の郷里に帰ると、母が「このごろは何でも物が高くなってね。景気のいいのは軍需産業ばかりね」と襟《えり》に顎《あご》を埋めるようにして憂い顔を示していたのを覚えている。
食糧と同時に衣料も不足していた。海軍兵学校では、この前年採用された六十九期生徒からスフ入りの毛布を採用している。
年末、国会議員の大部分の意見を結集したといわれる内閣不信任案が首相に手渡された。もともと、独ソ不可侵条約によってひき起された複雑怪奇≠ネる国際情勢に対応する時間をかせぐための臨時内閣である。阿部首相は総辞職を決意した。
年が明けた。昭和十五年、すなわち、宿命の開戦の年の前年である。
一月十四日、阿部内閣は総辞職した。
さて、後継内閣組織の大命は誰に降下するのか?
近衛の呼び声が高かったが、近衛は拒否した。時局収拾は極めて困難である。彼は自分が発した「蒋介石を相手にせず」という声明のもたらした混沌《こんとん》に暗い運命を予感していた。
重臣は止《や》むを得ず陸軍から総理を出させるべく、原田男爵が杉山元に交渉したが、杉山大将も、陸軍からは出したくない、と断った。林銑十郎、阿部信行と二人の陸軍大将が総理となったが、いずれもさしたる業績もなく退陣している。陸軍は強硬な主張を押し通すことはするが、行政の責任をとることは避けたかった。この上、杉山が政権の座について失敗することがあれば、陸軍の威信にかかわる。
それならば、と重臣連はここで親英米派系を推すことにした。一月十六日、半年前日独伊三国同盟を拒否した米内光政に大命が降下したが、この時点では陸軍の反対もなかった。陸相は元侍従武官長で天皇の親任を得ている畑俊六大将が留任した。しかし、この畑陸相にはこれから半年後には単独辞職を行い、米内内閣を瓦解せしめる役柄が待っていた。
年があらたまると、欧州の戦局は動き始めた。四月、ドイツはデンマーク、ノルウェーに侵入した。北の背後を固めたヒトラーの企図は今や明白であった。
五月、ドイツはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの中立を侵して西部戦線に攻撃をかけ、フランス軍が難攻不落と頼んだマジノラインを一気に突破してフランスになだれこんだ。フランス防衛線の弱点を衝くため、他国の中立を侵すヒトラーのやり方は、第一次大戦におけるカイゼルと同様であった。
英仏軍は必死の抵抗を試みたが、勢いにのったナチスの機甲部隊をくいとめることはむずかしい。六月三日、ドイツ軍は三十万の英軍をダンケルクに追いつめた。英軍は奇跡的にドーバー海峡を渡って本国に逃げ帰った。
ドイツ軍は六月十四日パリに入城した。六月十七日、フランスは降伏し、第一次大戦でドイツを降した老将ペタンが内閣を組織した。
六月二十一日、ヒトラーはゲーリング空軍司令官らを従えてパリに姿を現わした。同二十二日パリ郊外コンピエーニュの森に保存してある客車のなかで、ヒトラーはフランス降伏の休戦協定にサインした。第一次大戦の敗戦によって、一九一八年十一月ドイツ代表がこの客車内で降伏の調印をしてから、二十二年が経過していた。
ドイツに対するオランダ、フランスの降伏は、日本の指導層に一つの焦燥を与えた。蘭領東印度、仏領インドシナに対する両国の主権があいまいとなり、ドイツの支配力が強化される可能性が出て来たのである。
前者はジャワ、スマトラ、セレベス、そしてボルネオの大部分とニューギニアの半分、後者はベトナム(安南)、ラオス、カンボジアを含んでいた。
当時ヒトラーのバス≠ニいう言葉がヨーロッパで言われていた。昭和十四年(一九三九)の秋、ドイツ軍が沈滞を示したころ、イギリス首相チェンバレンは、「ヒトラーのバスは止った」と揶揄《やゆ》した。結局、ポーランドを分割しただけでとどまると軽く見ていたのであろう。
しかし、再びヒトラーのバス≠ェ動き始めると、そのスピードと破壊力はとどまるところを知らぬものと思わせた。
チェンバレンと同じくヒトラーのバス″ト進撃の次の決定的ポイントに心理的恐怖感を感じていたのは、日本軍部を中心とする指導層であった。
次のポイントとは何か? いうまでもなくヒトラーの英本土上陸とイギリスの降伏である。その暁には、アジアの宝庫である広大なインドのほかビルマ、マレー、そして支那大陸の玄関口である香港も支配者を失うことになる。
――もし、イギリスが降伏して、ドイツが東南アジアのほかにインドその他の地の領有を宣言したらどうなるか?
ヨーロッパ全土のほかに、南アジアを包含するヒトラーの一大帝国が出来上ってしまうのである。そうなれば、満州国を含む支那大陸に対する日本の指導権は脅かされ八紘一宇《はつこういちう》≠フ大理想も縮小をやむなくされ、聖戦≠フ美名もその永遠に近い拡大性を失うことになる。
かつて、第一次大戦の前、カイゼル・ウィルヘルム二世が3B政策というのを唱えたことがあった。ベルリン、ビザンチン(イスタンブール)、バグダッドを結ぼうというのである。その意図するところは何か? いうまでもなく、アジア、アフリカにおける大英帝国の領土にクサビを打ちこむことである。世界地図の塗り替えを主張したカイゼルは、実際に三つのBを結ぶ線路をつくった。そのトルコ側は現在イスタンブール国際特急として利用され、007などの映画にもなっている。イラク側はあまりふるわないようである。昭和四十六年春、バグダッドを訪れた筆者は、車でバグダッドから北へ四百キロのモスルまで旅をした。途中カイゼルがしいたといわれる鉄道の近くを走った。狭くみえる軌道は砂をかぶっており、遠くを軽便鉄道のような列車がのろのろと走っていた。
「カイゼルの夢」は「ヒトラーの夢」と思われるふしが多々ある。挫折《ざせつ》したカイゼルがやり通せなかったところを、ヒトラーがナチスを軸としてやりぬこうとしている気配が濃厚である。
ヒトラーは実際にインドや東南アジアをとって、第三帝国を実現してしまうかも知れない。現実の問題として、イラクとインドの間には、イラン、アフガニスタン、パキスタンがあり、無条件でヒトラーがこれらの地区に対する指導権を握ろうとするならば、北側から南方進出をねらっているソ連が黙ってはいまいが、そのためには、独ソ不可侵条約という手がすでに打ってある。
この年春以来のヒトラーの電撃作戦ぶりに、陸軍を中心とする親独派は目をみはっていた。そして、東南アジアの主権がぐらつきかけるとみるや、「ヒトラーのバスに乗り遅れるな」という声が高まりつつあった。うっかりしていると、ドイツがインドや東南アジアに出て来る。仏印やインドは米がとれるし、蘭印、ビルマは石油が出る。食糧と石油に悩んでいる日本の指導層にとって、これらはのどから手が出るほど欲しい資源である。ビルマを抑えることは援蒋ルートをとめることでもあるし、また香港も支那作戦の邪魔になる台風の眼であった。今までは英米がにらんでいたから手が出なかった。しかし、今度は蘭、仏、英がドイツに降伏したならば、日本がドイツと手を結べば、これらの宝庫に足を踏み入れることは大いに可能性がある。食糧と石油を手に入れ、かつ、東南アジアににらみをきかせてアジアにおける戦略体制を強化しておけば、アメリカも強いことはいわないであろう。そのためには、ドイツが英国を屈伏させる前に、手を結んでおく必要があった。
陸軍を中心とする軍部は、再びナチスの後光に幻惑され、ノモンハンの痛手を忘れて対外的に積極的進出を図ることを考え始めた。沈滞していた右翼も活発に動き始めた。まずドイツと手を組まねばならない。それには米内総理は邪魔である。彼らは国内にはナチスのような強力な一元的政治体制をしき、国外ではドイツと手を結び積極的な侵略をあえて辞せぬ進出のため、米内内閣の倒閣を図り始めた。
六月、フランスの降服と併行して、日本は英仏両国に対支援助の停止を要求し、北部仏印に軍事監視団を送った。すると、アメリカはそのお返しとして日本に対し、武器、軍需品、工作機械、航空機用ガソリンの輸出を許可制としてブレーキをかけた。この上、日本が絶対必要としている石油と屑鉄《くずてつ》の輸出を制限するならば、日本は他方面、すなわち東南アジアに重要資源を仰がなければならない。
果然、陸軍は公然と倒閣運動に乗り出して来た。七月十六日、畑陸相は「国防国家建設のため、人心一新の要あり」と称して、単独辞職した。米内総理は陸軍の三長官会議に次期陸相の推薦を依頼したが、陸軍は予定の行動として陸相推挙を断った。従来の例に従って、米内首相は総辞職した。
こうして、大命はただ一人の有力候補者、近衛文麿に降下し、松岡洋右は、七月二十二日発足した第二次近衛内閣の外相に就任、これからちょうど一年間、三国同盟、日ソ中立条約と世界の耳目を集める活躍ぶりを示すのであるが、ここで就任までの近衛とのいきさつをふり返っておこう。
前にも書いたとおり松岡と近衛は、大正八年春、ベルサイユ講和会議のため、パリに赴く船のなかで知り合い、その民族主義的な愛国観において互いに共感するところがあった。
それから二十年近くたった昭和十二年秋、近衛は外交関係とくに支那、満州関係の顧問として満鉄総裁の松岡を内閣参議に要請することにした。当時、外務大臣は元総理の広田弘毅であったが、「風車風の吹くまで昼寝かな」という、よくいえば悠然とした、早くいえば消極的で非活動的な広田に近衛は物足りぬものを感じていた。
初め松岡は断った。内閣参議は国務大臣待遇である。外務省で自分より二期後輩の広田が、すでに総理を勤め、そして外務大臣となっているのに、なんで今さら自分が内閣参議などの肩書に頭を下げなければならないのか?
このころの松岡の政権に対する考え方は分裂していた。彼の青年時代からの望みは、総理になって、世界を相手にして日本の国策を遂行し、大日本帝国を世界に冠たる皇国≠ニすることにあった。
山県有朋、田中義一らの長州閥の血をひく彼に、そのような権力意識があったとしても不思議ではない。従って、総理の印綬《いんじゆ》を帯びて、国際競争場|裡《り》に(国内政争ではなく)活躍したいという願望は、満鉄の幹部になってからも、意識の底に潜在していた。
しかし、彼はなるべくそれを表面に出さぬようにしていた。後述の外相就任あいさつにも出て来るように、彼が「大正十年外務省をはなれるとき、二度と外務省に帰って来ようとは思っていなかった。今度帰るときは外務大臣になって帰って来る、と見えを切ったというのは虚説である」と釈明したのは、彼の本音であったと思われる。
それは、彼が政党解消運動で示したように利権|漁《あさ》り亡者や大臣病患者を排した彼の精神構造の一露出であると共に、彼が一外交官に終始することにあきたらなかったことをも示すものである。
何度も説いたように、松岡は無類の英雄好きであり、従って対人関係ひいては外交交渉においても頂上会談を好んだ。彼の雄弁や強心臓は、そのような性癖の属性であり、自己顕示性の単純素朴な発露である。
三国同盟締結にあたり、近衛首相が天皇との問答(後述)を松岡に伝えると、松岡は大声をあげて泣き出した(「近衛手記」)。松岡にはそのように小児的なところがあり、それがこの時代には飾らざる野人≠ニして人を惹《ひ》きつける魅力の一要素となっていた。
一方で松岡は宰相として世界を相手にする大業に腕を揮《ふる》いたいと希求していた。そのためには、内閣参議などに尻尾《しつぽ》をふるべきでない。
他方では大臣病の政治屋を軽蔑《けいべつ》していた。自分の愛する満蒙の経営に骨を埋めるべきだ……。松岡の情念は、そのような潜在する願望と彼独自の正義感との間で揺曳《ようえい》していた。
しかし、事態は移りつつあった。
満州国発足に伴って、陸軍は満鉄が満州における輸送、経済の全権を握っていることにあきたらず、経済開発部門を鮎川義介の主宰する日産に委託することとし、この年(昭和十二年)十二月一日満州重工業が発足することとなっていた。鮎川は松岡と同郷の長州人で、同じ明治十三年生れ、山口中学を経て、東大工学部から実業界に進んでいた。
結局、松岡は近衛の要請を容れて十二年十月、内閣参議に就任した。同月、満州重工業新設が発表された。
当然、松岡と近衛は旧交を暖め、月二回東京で行われる内閣参議の政策審議会に松岡が出席する度に、近衛と顔を合わせ、気脈が通じるようになった。
昭和十三年十月、宇垣外相が辞職したとき、近衛が有力候補者として松岡の名前を出したことがある。火性水性≠ニいう言葉があるが、水性の近衛が火性の松岡に惹かれたのはあり得ることである。
結局、「松岡外相」は西園寺公の反対で立ち消えになり、有田八郎が外相になったが、このころから、松岡が意中の人≠ニして近衛の胸中にひそむことになったのは事実である。二人の交遊は、十二年秋の松岡参議就任のころから熱し始め、十五年七月、松岡外相就任、三国同盟締結で燃え熾《さか》り、やがて十六年春、松岡の訪独、日ソ中立条約締結に対する近衛の嫉妬《しつと》、そしてひそかな日米交渉によって急激に冷却してゆくのである。松岡、近衛の蜜月《みつげつ》旅行は、四年弱とみるのが妥当のようである。
参議としての松岡の業績はとくになかった。それは他の参議も同じで、要するにこの参議制は、若手による枢密院のようなものであり、松岡のような遠隔の地にある者にとっては、たまの上京が、情報に接するパイプとなるほかは、さしたる用もなかったものと思われる。
十五年一月、阿部内閣が総辞職し、十六日米内光政が組閣すると、同日松岡は参議を辞任し、その足で荻外荘《てきがいそう》に近衛を訪れた。
「自分が参議を辞任したのは、米内内閣の外交方針があまりにも八方美人的すぎるからだ。これでは協力する気がしない」
と松岡は言い、暗に独伊と結ぶ強硬外交によって、支那事変を収拾し、対米対ソ関係においても新段階を招来すべきことを示唆した。
二十日、松岡は再び近衛を訪問、次のように意見を述べた。
「今度の内閣が、政党人を入閣させたことは、政党解消運動に打ちこんだ自分としては賛成できない。また、外交問題は、もし、支那事変以前に戻さねば、対支和平には賛成できないと米国が主張するならば、日米の衝突という事態も考慮の上で、方針を考えねばならない。万事まるく収まるという具合にはゆかないと思う」
松岡は米内内閣には不賛成で、やはり貴公が出なければ、と近衛をうながしたおもむきがある。
察するに、松岡には昭和十一年十二月二十三日満鉄協和会館における日独防共協定賛成演説(ドイツと心中せよという……)以来、ヒトラーとの同盟以外、支那事変収拾の道はない、と考えていたもののごとく、その点で海相時代三国同盟を流産させた米内、山本ラインには反感をもち、近衛と手を組んでヒトラーとの二人三脚を夢みていたものと思われる。
松岡は参議の椅子を投げ出す時点において、自分の国際外交に関する意見を、裏返しにして近衛に述べた……ということは政権に意欲があったわけであるが、この時点ではまだ総理ということは考えていなかった。室積の没落商家の息子に生れた彼が、政権の座に近づくには、とりあえず、名門中の名門である近衛家の血統を必要としたのであろう。彼が明確に日本の為政者をめざし、日本を代表して蒋介石、ルーズベルトと渡り合い、支那事変を解決し、日米中立条約を締結して、皇国を泰山の安きにおき、真の意味の英雄たらんと志し始めたのは、ベルリンでヒトラーと握手し、モスクワの駅頭でスターリンと抱擁し、世界のマツオカ≠ニ呼ばれるようになってからのことであろう、と推測される。
松岡は近衛に対しては、直接具体的な外交方針は述べなかったが、この年(昭和十五年)五月、雑誌「太平洋」(太平洋協会発行)にのせた「世界の大変局に直面して」という談話では、明確に彼の外交方針をうたっている。
『人と生涯』に掲載してあるその全文から要旨をひろうと、次のようになる。
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一、支那事変は欧州戦争の一環である。単独解決は困難。
二、今のところ日米の衝突は不可避とみられている。しかし、両国の和協に対する努力が尽されるならば、それは避けられ得る。
三、日米通商条約破棄は、わが国に対する圧力であり、侮辱である。
四、日本人は脅迫には屈せず。これは欧米諸国民も知っておいてもらいたい。
五、米国がアジアで利権のために戦いをしかけるとすれば、それは邪道である。たとえば満鉄は、日露戦争において十万の生霊に対する代償として得たものである。それをアメリカの実業家ハリマンが一旦買収に成功したものを、ポーツマスの日露講和条約から帰って来た小村寿太郎侯が、強硬手段で破棄して、日本の権益となったものである。清教徒の血が流れているアメリカ人ならば、その点を認識すべきである。
六、現実外交とは戦争のようなものである。戦略を必要とする。たとえば、わが国がある国と提携せねばならぬと目標を定めても、これに到達する途中、相手国といがみあうことも、時には戦うこともあり得る。しかし、窮極のところ提携への道であればよい。また、どうしても倒さねばならぬ相手であっても、国際関係の現実に立脚して、あるいはやむなく一時|媚態《びたい》を呈せねばならぬこともある。こういう場合は、戦争の一変形とみるべきである。これがマキャベリズムであっても、現実に処するにはいたし方ない。
(注、この項は松岡の考え方を示す重要な文章であるが、このなかで、いずれ提携せねばならぬ国であっても、一時的に戦わねばならぬ相手とはどこであろうか? 中国を指しているとみるべきであろう。松岡は単純なる大陸征服論者ではなく、この老大国と手を組むことが、東アジアを白人の手から守る道であることを知っていた。孫文の大アジア主義を学んだことがあったのである。
では、いずれ倒さねばならぬ相手でも、一時は仲よくせねばならぬ相手とはどの国であろうか? ドイツか、ソ連か、あるいはアメリカであろうか?)
このあと彼はこう述べている。
私といえども、国際的行動の根本に道義の念を確立すべし、というような深遠高潔な理想を持つことに決して反対するものではない。しかし、現実に世界の外交を見るに、日本だけが道義外交≠実行しようとしても、それは通用しない。外交とは戦争である。武力戦ではないが、知能戦であることに間違いはない。われわれは人類五千年の歴史上|未曽有《みぞう》の大変局にのぞんでおり、今やそのクライマックスに達せんとしている。
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松岡の外交は幣原のような協調外交でもなく、また広田のような「自ら計らわぬ」受動的外交でもない。戦術を用い、積極的に状況を動かしてゆく戦闘的な外交であり、今や自分の登場の近いのを覚えて、かなりの興奮を示しているようである。
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七、第二次世界大戦がおこるかも知れない。私は、この二、三年で世界全人類(ある一定以上の現代文明の総合を指す)の運命が決せられるのではないか、と考えている。
日本国のまた東亜の運命もこの一般世界の運命によって決せられることは免れない。日本国は果してこの大変局に善処することができるか。私は運命論的、信仰的に然《しか》りと答える。しかし、だからと言って泰然自若として昼寝をしていてはいけない。事に先立ってまず憂えるということが必要である。このことについては日本国民、とくに青壮年層が覚醒《かくせい》せられんことを切望する。
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かくして、松岡は近衛の信任を得て、外相となるのであるが、その間の近衛側の松岡起用の意向に関しては、第二次近衛内閣書記官長、富田健治(元長野県知事)の回想録『敗戦日本の内側』に次の三つの理由が述べられている。
「第一に松岡は最近度々近衛公に会ってお互いに意見を交換した。それによれば、外部では松岡を米英との戦争論者と見ている者が多いが、実は米英との戦争を避けることを深く意中に抱いていたこと。
第二に、当時、陸軍部内では独伊枢軸派が勢力をふるっていたので、親英米派の外交官では絶対に外相になり得ないこと。
第三に、陸軍を相手にしてこれを抑えてゆくには、松岡の心臓と気力と驚嘆すべき詭弁《きべん》と、端倪《たんげい》すべからざる権謀術数をもってする以外に道なし、と考えられた」
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十五章 外相就任と三国同盟
十五年七月十六日、畑陸相の辞意表明によって、米内内閣は総辞職した。
閣僚全員の辞表をまとめて米内が葉山御用邸を訪れたのは午後六時四十分のことである。当時陛下は葉山におられ、内大臣木戸幸一が、米内に会い、総辞職の件を聴いた。
翌十七日、宮中で重臣会議が開かれ、次期首班が決められることとなった。
米内内閣総辞職の報を軽井沢の別荘にいた近衛が電話で聞いたのは、十六日午後七時半である。近衛は直ちに上京の準備をし、八時半自家用車のクライスラーで別荘を出た。クライスラーは夜の中仙道を時速百キロで東南に向った。近衛の胸中には多くの考えが渦巻いていた。上京の名目は重臣会議出席であるが、今度こそは総理就任を避けることはできない、と彼は考えていた。今までになく彼はやる気でいた。一月、阿部内閣が倒れたとき、彼は政権を担うことに尻ごみしていた。「蒋介石を相手にせず」という大失言を犯し、そのために支那事変が泥沼に陥ったというエラーの傷みがまだ胸のなかにあった。
しかし、三国同盟反対の米内内閣が倒れた今、彼は再びやる気を起していた。ドイツと提携することによって、アメリカを圧し、ソ連と手を握り、かつ、南方資源に足をふみ入れ、英米の援蒋ルートを断つという、セオリーが彼の気に入っていた。ドイツを嫌う米内ではこの方策は不可能であるが、ヒトラーと手を握ろうという松岡を外相に据えれば、この方策は成功しそうに思えた。
敗戦後、近衛は三国同盟に反対であったが、松岡に強引に引っ張りこまれた、という説が流れ、今や一般化しつつあるが、それは近衛が自己弁護として残した「近衛手記」を盲信するものの考え方である。
第二次近衛内閣が、三国同盟によって、国際政局を切り抜けようとしたことは、後述の「荻外荘会談」によっても明らかである。
近衛のクライスラーは十七日午前零時半荻窪の自邸荻外荘に入り、重臣会議は同日午後一時から宮中で開かれ、予想通り、首班は近衛に決定、大命が降下した。
七月十九日朝、二回目の総理となった近衛文麿は、荻外荘に三人の大臣を招いて、新内閣の政策について会議を開いた。
これが世にいう荻外荘会談(または荻窪《おぎくぼ》会談)で、出席者は、近衛のほかに、外相松岡洋右、陸相東条英機、海相吉田善吾である。松岡と並んで日米開戦の責任者としてノートリアス(悪名高い)な東条は、一八八四年(明治十七)生れで、松岡より四歳年少。統制派の中心人物として関東軍参謀長、憲兵司令官、航空総監の道を歩き、陸軍の大陸政策、対英米強硬政策を強行するため、内閣に送られた人物であった。
吉田善吾は、山本五十六と同じ海兵三十二期で、東条と同年、連合艦隊司令長官を経て海相となったが、このときすでに健康を害していた。彼は米内、山本とも親しく、三国同盟には反対の意向であったが、健康上の理由で、九月五日、一期先輩の及川古志郎にバトンをわたす運命にあった。
及川は東北の生れで、斎藤実に似たスローモー居士的なところがあり、三国同盟に反対の意を強くは示さず、結局、松岡と陸軍に押し切られ、海軍の腰砕け、と不評をかうことになるのである。
さて、荻窪会談の大きなテーマは、もちろん、日独伊三国同盟締結の時機と方法であった。議事は速やかに進み、後述のような共同方針(「松岡原案」)が成文化された。
この会議で松岡は一つの提案をした。
「私は今回、この重大な時機に外相をひきうけるにあたって、総理にとくにお願いをしたい。三国同盟はむろん新しい政策として肝要であるが、現下の重要問題としては、支那事変の解決という喫緊の問題があります。これを早期に終結しようという動きがあったにもかかわらず、今まで延引して来たのは、出先と中央との一本化が不十分であったからであると思います。現地が中央の意図通りに行動しておれば、早期に片づく問題を、出先で単独に処理したために、事変が拡大したといううらみがあります。従って、三国軍事同盟という重大な時機に突入するに当り、外交においては、中央においてすべてを一本化[#「一本化」に傍点]し、統制をとるという条件のもとに入閣したいと考えます。いかがですかな」
彼はそういうと、一座を見回した。
現存する写真によると、荻外荘の応接間での会談は、マントルピースを背にして、中央に松岡洋右、その向って左側に近衛、右側に吉田、東条という順序に席を占めていた。
細い丸ぶち(松岡は若いときは太い角ぶちを使ったこともある)の眼鏡の奥から、松岡が鋭い視線で一座をながめまわすと、近衛はしきりにうなずき、東条は同じ丸ぶちの眼鏡の底から射るような視線で、松岡の顔を凝視していた。彼には松岡のいう意味がよくわかっていた。蘆溝橋の銃声によって支那事変が勃発したとき、参謀本部次長多田|駿《はやお》少将や、石原作戦部長が、北のソ連に備えるべきだ、北支では不拡大方針をとるべし、という意見を出したのに、現地では、どしどし事件を拡大して既成事実を作ってしまった。これは統制権干犯として、当時参謀本部では問題となったものである。
このほか松岡は、関東軍が天皇直属であるという機構をよいことにして、満州事変でも参謀本部の意向を無視したことを知っていた。関東軍参謀長を勤めた東条も、当然その内幕を知っていた。松岡の一元化宣言を聞いた東条は、来たな、と思い、また生意気な、という考えを捨て切れなかった。陸軍統制派のエリートである東条は、軍こそ現下の日本を救い、日本を強大ならしめる陛下の股肱《ここう》であると考えていた。アメリカ留学生あがりの鉄道屋が何をいうか、と東条は冷やかな眼で松岡を見返していたが、一元化に対しては反対はしなかった。陸軍がたびたび統制を乱したことは事実であり、彼自身も自ら陸軍を強力に統制することによって、中央集権の実をあげたいと考えていたのであるから。
海相吉田善吾はおだやかな表情で松岡の視線をうけとめていた。彼は健康の点もあって、長くはこの内閣にいられないことを知っていた。松岡が外相となった以上、米内や山本が体を張って反対した三国同盟は間もなく締結されるであろう。
米内内閣が倒れた今となっては吉田一人の力では三国同盟を回避することは不可能に近かった。ドイツがヨーロッパで勝利をおさめつつある今、客観情勢は大きく変化していた。時の流れはせきとめるべくもない。
一同が自分に不賛成ではないということを見届けた後、松岡は外交に関する「松岡原案」を説明し、各大臣の了解を得た。
原案の要点は次の通りである。
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一、支那事変処理と世界新情勢に対応すべきわが方の施策
戦時経済の確立強化をもって内外政策の根幹とする。このため、軍において絶対必要な事項を除き、一切を政府において一元的[#「一元的」に傍点]に掌握する。
二、対世界政策
(一)世界情勢の急変に対応し速やかに東亜新秩序を建設するため日独伊枢軸の強化を図り、東西互いに策応して、重要政策を遂行する。右枢軸強化の方法及びこれが実現の時機については、世界情勢に即応して機先を失せざることを期す。
(二)対ソ関係はソ連と日満蒙間国境不可侵協定(有効期間五年ないし十年)を締結し、この有効期間内に対ソ不敗の軍備を充実す。
(三)東亜における英仏蘭植民地を東亜新秩序のなかに包含せしむる処理を行う。
(四)米国に対しては無用の衝突を避けるも、東亜新秩序の建設にあたっては断乎《だんこ》その実力干渉をも排すべし。
三、支那事変処理
(一)援蒋諸勢力の遮断《しやだん》に重点をおく。
(二)南京政府を支援し、重慶政府が和平を求め来るときは、次の点に関し、わが方の要求を受諾せしむべし。
イ、東亜共同防衛の実現
ロ、東亜経済圏の確立
ハ、不再戦保証
ニ、共産主義排撃
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(以下略)
このうち重要なものは、第二条の一、二項であろう。日独伊三国同盟と、これに伴いドイツの斡旋《あつせん》によって、日ソ不可侵条約を結ぶのが、当面の外交目標であった。また、この文案中しばしば出て来る「東亜新秩序」は昭和十三年十一月、近衛声明によって提唱されたもので、「日満支三国の善隣友好、共同防共、経済提携」を唱えたものである。
これは戦後の研究では、中国侵略の粉飾、欧米帝国主義ならびに共産主義を排撃するという名のもとに抗戦中国の切り崩しと、戦時経済統制の強化をめざすものとされている。また、この東亜新秩序から発生したものが松岡の主唱した大東亜共栄圏であり、ここから大東亜戦争の呼称も生れて来るのである。
七月二十二日、近衛内閣は発足、大いなる抱負を抱き、期待をになった松岡は二十三日二十年ぶりに霞ヶ関の外務省に登庁。職員の前で就任あいさつを行った。
その要点は次の通りである。
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一、二十年ぶりに外務省に帰って来ました。大正十年に外務省をやめるとき、また外務省に入ろうとは思っていなかった。そのへんのことは、有田八郎、広田弘毅らの前外相がよくご存知のはずである。
二、世界は未曽有の国際危機というクライマックスを迎えつつある。このときにあたって重要なことは、一致結束していただきたいということである。内に対してはどのような討論も結構、しかし、外に向ってみだりに意見を出さないでもらいたい。言うべきことは私に言っていただきたい。
三、首脳者として最も重要なことは人事であります。私は六万数千人の社員を有する満鉄の総裁を勤めて来たのでありますが、当時最も力を入れたのは、人事であります。今回外相に就任しましても人事とくに高等官の人事は自分で研究してみたいと思います。御協力をお願い致します。
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松岡のあいさつは、型破り≠ニ評された。今から思えば、とくにどうということもないが、当時儀礼を重んじた外務省では、このように自分の言いたいことを言う外相は、官僚制打破の急先鋒《きゆうせんぽう》とみられ、野人的ともみられたのである。
野人的といえば、松岡は外国使臣を招いての外相就任式にも白麻の詰襟服《つめえりふく》で英語であいさつをし、外国使臣たちの度肝を抜いた。
松岡はかつて、昭和八年アメリカ経由で帰国したとき、郷里の三田尻で次のように語ったことがあるが、虚礼を排して裸でつきあうというのが、松岡外交の骨頂であることは、そのころから変りはなかった。
「今まで、日本の外交官は西洋人に気兼ねをして、お世辞を言いすぎた。だから西洋人は日本の外交官をなめている。舞踏とお世辞に憂き身をやつしている外交官は、芸者外交官というのだ。機会があれば、そのような徒輩は一掃してやりたい」
それから七年、松岡は芸者外交官∴齣|の全権を手中に入れた。そして、七月二十五日その人事権を発動し、一カ月余りの間に、海外駐在の大使七名を含む、四十余名の外交官に帰朝命令を発し、一大更迭を行った。(そのかなりの部分は退職となっている)外相の人事としては空前のことであり、これも型破り≠ナあった。召還された大使のなかには、堀内謙介(駐米)、沢田廉三(駐フランス、戦後国連大使)らがおり、果して召還された全員が芸者外交官かどうかは断定の限りではない。
また、駐ソ大使の東郷茂徳は、「自分は職責を果しているから召還される覚えはない」と頑張り、骨っぽいところを見せたが、九月十四日陸軍中将|建川美次《たてかわよしつぐ》が駐ソ大使に任ぜられ、東郷はいるところがなくなり、帰国した。この後彼には東条内閣の外相として日米開戦の、そして鈴木内閣の外相として終戦の御前会議に参加する数奇な運命が待っていた。
また、建川美次は日ソ中立条約成立時のモスクワ駐在大使であるが、彼は私たちが少年時代愛読した『敵中横断三百里』(山中峯太郎作)の主人公である。日露戦争末期、陸軍騎兵中尉で、挺身《ていしん》の将校斥候としてロシア軍の奥深く潜入して、偵察の任を果した建川は、その後参謀本部に入り、今回は日ソ交渉の尖兵《せんぺい》を勤めることとなった。
そして、建川の活躍を描いた小説を読んで軍人をめざした少年、すなわち筆者は、この頃ようやく海軍士官の卵から巣立とうとしていた。海軍兵学校六十八期生は、この年八月七日江田島の海軍兵学校を卒業、海軍少尉候補生として練習艦鹿島、香取に配属され、一カ月の遠洋航海(但し、内地、朝鮮、満州、上海、南京のみ)の後、九月中旬横須賀入港、霞ヶ浦航空隊で航空適性検査の後、十月一日連合艦隊配乗。筆者は戦艦伊勢に乗り組むことになっていた。
三国同盟がベルリンで調印された九月二十七日は、霞ヶ浦から瀬戸内海柱島沖に向う汽車のなかにあった。私は三国同盟が調印されて、日本がドイツと同盟を結んだことを、戦艦伊勢に乗り組んでから聞かされたが、すぐ上級の士官たちには誰一人としてこのために日本がアメリカと戦うことになるとして警戒する表情を示す者はいなかった。日独同盟に反対したのは、米内、山本、井上など軍政に関心の深い上層部だけで、下部の将校の間では、さして問題にはされていなかったのであろうか。
松岡人事は以上のほか、外務次官を谷正之から、中華民国大使館参事官、大橋忠一にすげかえた。大橋は戦後『大東亜戦争由来記・松岡外交の真相』(要書房刊、一九五二年)を著して、松岡のために弁ずることになる。
また、外務省内の右翼として、日独同盟を推進していた駐伊大使白鳥敏夫は外務省顧問となり、松岡人事の右傾をささやかれた。
同じく右派で情報部長を勤めたことのある須磨弥吉郎(戦後衆議院議員。随筆家、美術愛好家としても知られ、「須磨コレクション」は有名)はスペイン公使となった。
そのほかでは、ジュネーブ会議のとき時事新報記者として同行し国際聯盟脱退の記事を書いた長谷川進一(現東海大教授)が外務省調査官(秘書官勤務)となり、また大使館二等書記官の加瀬俊一が外務大臣秘書官となったことは注目しておいてよかろう。この二人は、翌年春、松岡のソ連ヨーロッパ行に同行し、ただ一人の新聞記者・岡村二一(同盟通信、戦後東京タイムズ社長)と共に、戦後松岡の行動に関して文章を書き残す役目を担うこととなる。
松岡の人事は、省内でも過激であるという評をうけたが、これは明らかに日ソ、日独伊の提携をめざす人事であった。(ドイツ大使は、同盟締結当時は来栖三郎であるが、後に親独派の大島浩に替えられている)
白鳥と共に外務省顧問となった斎藤良衛(外務省局長)は『欺かれた歴史』のなかで松岡人事の目的について次のように述べている。
一、破天荒な荒っぽい人事によって日本の決心のただならぬことを米英側に示し、その対日態度を改めしめる。
二、陸軍に対する謀略。陸軍は外務省人事にもくちばしを入れ、軍人、右翼指導者等を大公使や本省局長に任命を迫っていた。松岡はこれに対して機先を制しようとした。
三、消極的と思われた外務陣営に広く省外の人材を導入し、省内に活気を入れ、外務省の人気を回復する。
またここで松岡の金の使い方の一面が現われているのも面白い。松岡は新次官の大橋に「自分は気が弱いから、首切りの宣告は出来ない。君がやってくれ。そのかわり退職金は出来る限りのことを工面する」としおらしいことを言っている。大橋は松岡と相談の上、機密費の大部分を使って十分な退職金を支払った。
このとき退職となった大使館参事官の守島伍郎は「あのときの退職金は三万円で望外な大金でしたよ」と述べている。当時は一万円あれば東京の市内で立派な家が買えた。三万円は現代の一億円以上に当るであろうか。参事官でその位であるから、全権大使ともなれば、豪邸二軒分位の退職金をもらったのではなかろうか。松岡の過激人事≠ヘ大盤振舞いでもあったわけである。なお、守島はその大金で田舎に広い田地を買っておいたが、戦後マッカーサーの命令による農地解放で没収されてしまった由である。
八月一日は松岡にとってあわただしい一日であった。昼、彼は記者会見で重大な発表を行い、夜は、独ソ不可侵条約以後、日本と疎遠になっていたドイツ大使オットーを千駄ヶ谷の私邸に招いて会談した。
八月一日昼の外相記者会見で、松岡は左記の演説を行った。
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私は年来、皇道を世界に宣布することが皇国の使命であると主張して来た。国際関係から皇道をみれば、それは要するに各民族をして各々《おのおの》その処を得せしむることにある。わが国現前の外交方針としては、この皇道の大精神に則《のつと》り、まず日満支を一環とする「大東亜共栄圏」の確立を図る事が必要である。わが国民は、我に同調する友邦と手を結び、天より課せられたわが民族の理想と使命の達成を期すべきものと堅く信ずる。
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この公式声明で、松岡は二つ新語?を使っている。
陸軍はかなり前に「皇軍」という言葉を使っていた。筆者が中学一年生の正月(昭和八年)帰省した先輩の陸士生徒が、「皇軍の歌」というのを聞かしてくれた。「明治の帝《みかど》の教えを守り……」というような詩句であった。日本軍は天皇の軍隊、すなわち皇軍という思想は、かなり以前からあったと考えられる。万葉集にも「霰《あられ》降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍《すめらみくさ》にわれは来にしを」という歌が見えている。
同様に皇御国《すめらみくに》という呼び方も古いと思われる。酒は呑め呑め、の黒田節にも、※[#歌記号、unicode303d]皇御国の武士《もののふ》はいかなることをか努むべき、ただ身に持てる誠心《まごころ》を君と親とに尽すまで、という詩句が見える。
しかし「皇国」の進むべき道ともいうべき「皇道」を公式会見で使用したのは松岡が最初であろうと思われる。(陸軍部内には皇道派という派閥があったが)また、さらに注目すべきは、「大東亜共栄圏」の公式使用である。『人と生涯』では、この言葉は松岡の新造語であるとなっている。松岡はこれで、満鉄時代に唱えた「満蒙は日本の生命線」であるというときの「生命線」と共に国際的な新造語を二つ創始したことになる。
大東亜共栄圏は、松岡が英、米、オランダ等欧米の圧力に抗して、東亜にアジア民族の聯合同盟圏を作り、天皇を仰ぐ日本がその上に立ち、東亜の盟主たらんとした発想法であるが、その後、太平洋戦争が大東亜戦争と呼称されるに至り、戦争中は聖戦≠フ基盤とされ、敗戦後は日本の侵略のスローガンとみなされるに至った。
この新造語は、あきらかに松岡の民族主義、東アジア主義、ひいては彼の天皇中心の超国家思想を示すものであるが、大国の圧力に対抗せんとするこの種のナショナリズムあるいは集合体志向は決して珍しいことではない。古くは中国の合従連衡の策、戦後ではナセルが提唱した「アラブ連合」の発想である。筆者は、かつての文明国であり強国であったサラセン帝国を再現するため、一億余のアラブ民族の団結を呼びかけた「アラブ連合」の発想を興味深く思うものである。これは「アラブ諸国連合」あるいは「アラブ連盟」思想の一環であり、西アフリカからインドネシアまで幅広い帯状地帯にアジアを仕切って存在するアラブ系諸種族を一団として、産業、外交、軍事を統一し、地球上の第三勢力としようとする雄大な構想である。これが軌道にのっておれば、その後の産油国の経済的進出とあいまって、国際場裡に大きな発言権をもつものと予想されたのであるが、残念ながら、このような集合体は、各個の利害、宗教宗派の相違等によって分裂し易い。アラブ連合も、エジプトとシリアが連合して一九五八年成立したが、六一年には早くもシリアが脱退、アラブ連合はエジプト一国となってしまった。このほか、エジプト、イラク、シリア、レバノンら十数カ国が加盟したアラブ連盟がイスラエルに対抗する形で存続しているが、一九七〇年(昭和四十五)アラブ統一のリーダー、ナセルの死によって、団結は弱体化したとみられている。
さて、松岡は「大東亜共栄圏」なる新造語によって、戦後、ファシスト、超国家主義者とみられるに至り、極東軍事裁判訴因の大きな思想的要因の一つとなったと思われる。これは、「生命線」という新造語が、彼を満州国支持者、大陸論者と決めつけるのに役立ったことと対比出来るであろう。
松岡は若いとき、孫文に共鳴していた。しかし、松岡の大東亜共栄圏は、プロレタリアート国家中国が、プロレタリアート国家日本と提携して欧米の帝国主義国家から東亜の独立存続を守ろうという孫文の大アジア主義とは、根本の一点において異る。それは、松岡が天皇の支配によるアジア人の共栄圏という考えを打ち出しているからである。
似たような構想に、石原莞爾の「東亜聯盟」運動があるが、これが王道による日満提携であり、アジア連帯主義であるところに、松岡イズムとの相違があった。松岡は王道というものは、中国の「有徳の者が天命を受けて帝王となる」思想であるから、日本のように万世一系の天皇すなわち現人神《あらひとがみ》をいただく国とは根本的に異るというのである。アメリカに育った松岡は、いつの間にか神がかり的な愛国者になっていた。世界中で一番よい国は日本であるという国粋主義である。これをもって東亜全域に及ぼそうというのであるから、一種の汎《はん》皇道主義であり、汎大和主義である。そして、これが戦争中日本を風靡《ふうび》した「八紘一宇《はつこういちう》」の大理想≠ニ同腹の兄弟であることは論をまたないであろう。
「八紘一宇」とは何か? 日本書紀によれば、神武天皇が大和|橿原《かしはら》に都を定めたときの詔勅に「六合《くにのうち》を兼ねてもって都を開き、八紘《あめのした》をおおいて宇《いえ》とせんことまたよからずや」とある。すなわち、天下すべてを一家となし、その全地球的な一大家族の長を天皇とする「皇道」の思想である。これは神道によるスメロギの道であり、この思想を合法化するには、万世一系の天皇はアメノシタ、すなわち、地球上唯一の神でなければならない。明治初期の長州に生を享《う》けた松岡は、この皇道思想の影響をもろに受けた。その彼がアメリカでダンバー・ベバリッジ夫人の影響をうけたとはいえ、キリスト教に関心をもち、昭和二十一年六月、死の直前に洗礼を受けて、ヨゼフ・松岡として昇天したことは、不思議といえば不思議であるが、何事もその時々に自分の信念というか超論理的な情熱をもってアウフヘーベンしてしまう彼の弁証法を知る人にとっては、さして不思議とは思われないかも知れない。
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(「八紘一宇」の精神は、国学者もしくは神道家が唱えたと考えられそうであるが、この創始者は明治の日蓮派宗教家田中智学であるといわれる。田中は文久元年〔一八六一〕江戸に生れ、最初強烈に日蓮主義を布教したが、やがて熱血的な国家主義者となり、国柱会を創始し、日本国体学を提唱し、明治三十六年、四十二歳のとき、日本的世界統一の原理≠ニして、「八紘一宇」という言葉を造り、これを主唱した。田中は、松岡の大東亜共栄圏宣言の前年昭和十四年まで生きて、七十八歳で没している。田中と松岡が交友があったかどうかは明らかではないが、田中が提唱したとき、さして問題にならなかった八紘一宇の思想が、その没後一年にして次に述べる松岡原案による要綱によって、世界史に残ることになったのは、不思議なめぐりあわせというべきであろうか)
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筆者のみるところでは、松岡の強烈な皇道思想は、当時の困難な国際事情に処して、満州国を解体せず、支那からの撤兵にも陸軍の要望を入れながら、アメリカと和平を保たねばならぬという、絶対的な矛盾に処するための、筋金としての信念、すなわち気合のようなものではなかったか、と思われる。その証拠に、十六年十二月八日、日米が開戦するや、彼は率直に自分の外交の挫折《ざせつ》を認めているのである。
ちなみに、この「八紘一宇」なる言葉が、政府の公文書に初めて現われたのはいつであるかというと、十五年七月二十六日、閣議が決定した「基本国策要綱」の根本方針に次の声明が見える。
「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国《ちようこく》の大精神に基づき、世界平和の確立を招来することを以《もつ》て根本とし、まず皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り」(後略)
この国策要綱の内容は、前述の荻窪会談における松岡原案に基づくものなので、再記しないが、この根本方針の原文を新たに松岡が起草したかどうかは、明らかでない。
さて、八月一日昼、記者会見で、後からみると重大な発表をした松岡は、ここに皇道外交≠宣言したわけである。
そして、その夜、返す刀で、対外的実際行動に出た。彼は千駄ヶ谷鳩ノ森神社裏の私邸に駐日ドイツ大使オットーを招いた。表面上はお茶の会である。
この時、松岡はまずドイツと手を組む三国同盟の構想を明らかにし、これに対し、オットーは、早速ベルリンに連絡して回答しようと約束した。続いて、松岡は日、満、支、南洋を一体とする大東亜新秩序運動について説明したところ、オットーは、「日本の考える南洋という概念とは何か?」と問うた。松岡は旧南洋にシャム(タイ)を含むが、もっと拡大されるかも知れぬ、と答えた。オットーは、東洋よりもドイツの対英戦争を強調し、将来は大英帝国全体との戦争になる。日本は支那事変にこだわらず、この戦争の方に関心をもってもらいたい、と要望した。
正直なところ、日独の間は、昨十四年八月、電撃的な独ソ不可侵条約によって、平沼内閣が総辞職してから冷却していた。反共国日本は、ドイツの裏切りをあげ、ドイツは、日独軍事同盟に対する日本の煮え切らぬ態度を、その免罪符としてほのめかしていた。
しかし、その後、ドイツの快進撃ぶりに日本の指導層は目をみはり、また、支那事変解決、アメリカの圧力緩和にはドイツのあっせんによってソ連と手を結ぶ必要が出て来た。一方、ドイツは、ヨーロッパ大陸の覇権《はけん》成立とみて、今や英本土上陸を企図していた。例によって電撃的に英本土を制圧して、ロンドンでチャーチルに城下の盟《ちか》いをなさしめるならば、アメリカは機を失して手を出さず、南北米大陸に閉じこもるであろう。ドイツはヨーロッパの大部分と北アフリカ、イタリアは中部アフリカという分けどりの色分けが完成するはずである。しかし、英本土作戦が長びくとアメリカが出て来る、となると事は面倒である。戦争が長びくと、ドイツが不利になる。早急にイギリスを降服せしめる唯一最強の決め手は何か? ヒトラーはそれを日本軍によるシンガポール攻略であると読んでいた。これによって、イギリスは、戦力の分断を強いられるし、西太平洋の戦略物資をヨーロッパ戦線に運ぶことも困難となるのである。そこで、オットーは、英帝国に対する戦いを強調し、暗にシンガポール攻略を匂わせた。松岡はオットーの態度を必ずしも好意的であるとはみてとらなかったが、時間をかければ、可能性はあると考えていた。
しかし、陸軍の急進派は焦っていた。軍務局長、武藤章少将(極東裁判で死刑)らは、「三国同盟がやれないならば、近衛も松岡も必要ではない。この内閣ももうこれまでだ」と外務省顧問斎藤良衛に暴言を吐いた。皇軍≠フ指導者である彼らの眼前には、内閣など眼中にはなかった。しかし、皇国≠フ推進係をもって自任している松岡は、陸軍の圧力に屈しなかった。しゃべり合いのケンカなら自信があったし、尊敬する小村寿太郎侯のように、死を賭《と》して外交の衝に当る覚悟は出来ていた。
当時ドイツ上層部には、対日同盟不要論もあった。フランス降服、ダンケルクの大勝に酔った一部の高官は、日本の海軍力によってシンガポールを含むイギリスの東洋軍事力を牽制《けんせい》する必要を認めない向きもあった。
松岡は粘ることにした。外相に就任して間もない日、彼は有田前外相時代に成立した「日独伊提携強化案」を、安東義良欧亜一課長から見せられたが、これを生ぬるいとして、「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」と書きこんで、課長に突っ返したことがある。「三国同盟と日ソ中立条約」(『太平洋戦争への道』第五巻、朝日新聞社刊)の著者、細谷千博氏(一橋大教授、国際政治学会理事長)にいわせると、このような言い方は松岡一流の「瀬戸際政策」の発露する一句≠ナあるという。瀬戸際政策とは面白い言い方で、松岡の政策は、戦闘力を匂わせる緊張感によって、力のバランスによる平和を列国間に保たせようとするものであり、一種の綱渡り政策と言えないこともなかった。右へ陥《お》ちれば戦争であり、左へ落ちても紛争は免れない。ピンと張られた一本の綱……その名は平和政策で、彼はその上を利害関係を餌《えさ》とする「国際条約」という竹竿《たけざお》を手にして釣り合いを保ちながら、そろりそろりと、しかし大見得を切りながら渡って行った。サーカスの観衆はそのようなヒーローに拍手を惜しまなかった。しかし、松岡の秘書官であった加瀬俊一氏(後、国連大使)がいみじくも喝破したように、「松岡外交は、松岡一人の外交。あの稀代《きたい》の弁舌と実行力、対人的同和力そして気合をもって押し切るのが、その取柄で、他の人で代行は極めて危険」(筆者への直話)であったのである。松岡が退場し、綱の渡り手が近衛から東条に代った途端、日本は綱から落ちて、虎狼《ころう》の猛《たけ》る戦場という陥穽《かんせい》へ落ちこんだのである。
さて、虎穴に入って虎子を得ようとする松岡は、八月十三日、再度オットー大使を招いた。松岡は「ダンケルクにおけるドイツの大勝以来、アメリカは日本をドイツから引きはなそうとしている。アメリカは一方で大きな借款を日本に認めるというエサをぶらさげ、一方では、石油、屑鉄《くずてつ》の輸出許可制を宣言して、日本をおどかしている。日本はあくまでも、独伊枢軸との接近を保ち、そのためにはアメリカからの借款をも見送るつもりである」と、アメリカが好意的でもあると、ほのめかし、ドイツ政府の対日提携を請求するかけひきを行った。このような肚芸《はらげい》は必ずしも松岡の得意とするところではないが、やむを得ないときもあった。
この一方、松岡は駐日フランス大使、アンリと交渉して北部仏印進駐に関する認可をとった。このとき、松岡は、軍部の要求で北までは通すようにするが、南へ出るのは危い。南へ出たらアメリカが出て来るに違いない、と膚で感じていた。
八月二十三日、ドイツ政府は来栖駐ベルリン大使を通して、ハインリッヒ・スターマーを公使の資格で日本へ派遣する旨を連絡して来た。三国同盟瀬踏みの特使である。ヒトラーは、日独同盟に対して色気を感じ始めていた。その第一は、挙国一致のイギリスの戦意が固く容易に降服しそうにないこと。ヒトラーは七月十六日英本土上陸のオットセイ作戦準備を命じた。それには大英帝国海軍の妨害を押し切らねばならぬが、ドイツ海軍にドーバー海峡の制海権を握るだけの力がなかったことが一般には指摘されている。
しかし十六年四月、松岡の訪欧に随行した加瀬俊一秘書官は、海軍力よりも空軍力の方が問題で、ゲーリング元帥のひきいるドイツ空軍が、スピットファイアー、ホーカー、ハリケーン等の英空軍戦闘機の善戦に抑えられ、英仏国境の制空権確保に自信を失っていたことを主因にあげている。ドーバー海峡の制空権が確保出来ていれば、ネルソン、ロドネー等四十サンチ砲を積んだ戦艦といえども、飛行機には手向えないからである。
次にアメリカの欧州参戦熱が高まり、それまでのドイツの楽観論がぐらついて来たことである。
ドイツはアメリカの参戦阻止のため、宣伝相ゲッベルスが力を尽してPRを行って来た。しかし、カナダのキング首相がドイツの脅威をルーズベルトに説き、またチャーチルが、駆逐艦五十隻と交換にアメリカへの基地貸与を発表するなど、ドイツに不利な条件が重なって来た。そこへ松岡がオットーを通じて、日米和解もあり得ると匂わせたので、ヒトラーもじっとしてはおれなくなったのである。
また、松岡は、東南アジアの現状維持を保障する条約を英、米、オランダと結ぶ用意があるという噂《うわさ》を流してオットーを通じてベルリンの耳に入るよう工作した。
ハインリッヒ・スターマーの来日は九月七日と決り、松岡は忙しくなった。スターマーは独外相リッベントロップの腹心で、この年春、二度にわたって来日しているが、松岡は面識がない。そこで彼は八月二十七日、前駐独大使大島浩元中将を呼んで、スターマーの人柄やリッベントロップの外交方針、政治観などを聴取した。本当は自分がベルリンに行ってヒトラーとじか談判したかったのであるが、現役外相の外国出張は、明治三十八年の小村寿太郎以来前例がないので、我慢していた。(注、ドイツ外相Ribbentropの発音について、実際にベルリンで彼と話をした加瀬俊一氏の話では、bbをpの半濁発音とし、リッペントロップと発音するのが正しいそうであるが、日本における研究書のほとんどが、リッベントロップと表記しているので、濁る音に統一しておく)
三国同盟締結を前にして、松岡が憂慮していたのは、海軍の動向であった。昨年夏にも、海軍は米内、山本、井上のラインで同盟に反対している。同盟を結べば、アメリカとの戦いになる。ワシントン、ロンドンの条約で、五・五・三あるいは十・十・七の比率に押えられている海軍としては、アメリカと正面衝突した場合、窮極の勝ち目はない。ポテンシャル・エナージイ(潜在勢力)として、戦わずしてその戦力の睨《にら》みをきかせるところに、サイレント・ネービー≠フ真骨頂がある、というのが米内たちの発想法であった。
松岡の考えは、再々述べている通り、ドイツと手を結び、その斡旋によってソ連と不可侵条約を結び、日独伊ソ四国協商を作ってアメリカに対抗し、ルーズベルトの斡旋によって蒋介石と和平にもちこみ、支那事変の収拾を計ろうというのである。この時点ではまだ歴史はサイコロの出目をサジェストしてはおらず、国民の支持は、圧倒的にジュネーブの英雄¥シ岡のサイドにあったとみられる。
ところで、歴史の動きは、この時点では松岡の側に味方していた。九月三日、海相吉田善吾は病気で入院し、代理として海軍次官住山徳太郎中将が四日の四相会議に出席した。住山中将は、筆者が昭和十二年四月海軍兵学校に入校したときの校長である。侍従武官の経験が長く、温厚な人柄であった。
吉田海相の病因は心臓病、結核、神経衰弱の諸説がある。山本五十六と同期の吉田は米内、岡田(啓介)らの条約派長老に、三国同盟反対の責任を負わされ、政府の方針との板ばさみに会い、孤立の状態から苦悩を深めていた。
五日、海軍は吉田に代って及川古志郎大将を海軍大臣に送った。次官は豊田貞次郎と更迭。及川は吉田や山本五十六より一期先輩の海兵三十一期、文人肌の秀才であったが、戦闘的な人柄ではなかった。この及川が海軍を代表して三国同盟にOKを与えたことが、歴史を大きく変えるのであるが、この時点でその結末の重大さに気づいていた日本人が何人いたであろうか。
松岡は吉田の病気を「政略的なものではないか」と言い、見舞いに出かけたが、吉田がかなり憔悴《しようすい》しているのを認め、本物の病気だということがわかった。
斎藤良衛によれば、及川をかつぎ出したのは、海軍の若手将校(三国同盟に賛成の)であり、それをバックアップしたのが、右寄りの白鳥敏夫外務省顧問であったという。海軍に三国同盟賛成の若手将校がいたとは奇異の感があるかも知れぬが、海軍にも五・一五事件以来の右翼があり、また、加藤寛治、末次信正の伝統をひく艦隊決戦派もいた。艦隊参謀を勤めた寺崎隆治氏(大佐)の説によると、「当時の軍令部、海軍省の佐官連中には、三国同盟賛成派がけっこういた。陸軍ばかりを責めるには当らない」ということである。
このころ、アメリカは、日本に対して意識的に経済的圧迫を加えていた。マジックと称する暗号解読によって、日独の接近に気づいていたのか、七月二十五日には屑鉄、石油を輸出許可品目に追加、七月三十一日、航空機用ガソリン輸出禁止、八月下旬対日全面禁輸の近いことを示唆する秘密電報の往復等の措置等が、暗に明に進められつつあった。
蛇足ではあるが、アメリカの圧力に対する松岡の考え方は、ドイツと手を結び「毅然《きぜん》たる態度」をとることがこの圧力をはねかえす最良の道である、と信じていた。冒頭に述べた通り、松岡は、アメリカ人には西部魂があり、弱味を見せてはならぬ、強いところを見せれば、かえって相手を高く買い、打ちとけてくるものだ、というセオリーを信じていた。三国同盟締結の裏には、そのような少年時代の在米体験が、潜在意識としてわだかまっていたことが推察される。
九月六日、四相会議が開かれた。東条陸相が東京裁判で供述したところによると、「突然、松岡外相より日独伊枢軸強化に関する件が議題として出され、四相会議はこれに同意を与えた」となっている。
してみると、この段階では、三国同盟の推進者は陸軍ではなくてむしろ松岡であり、松岡は政局の鼻面をとって引き回していたとも言えるのである。
翌七日、ヒトラーよりの特使、ハインリッヒ・ゲオルク・スターマーが来日した。
第一次、松岡・スターマー会談は九月九日から十二日まで、千駄ヶ谷の松岡の自邸で行われた。オットー駐日大使が同席した。第一日、当然のように松岡は四日の四相会議で承諾をうけた「日独伊枢軸強化に関する件」を切り出した。
前年夏にはドイツが積極的であったが、今回は日本が、とくに松岡が積極的であった。彼はこの同盟を結ぶことが、日米衝突を避ける最良の道であることを信じて疑わなかった。
この会見の内容は、松岡がメモをとり、スターマーの確認をうけた公式記録がそれを示している。
第一日の要旨は次の通りである。
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一、ドイツは、ヨーロッパにおける戦争が世界戦争に発展することを望まず、速やかに終結せしめんと欲し、とくに米国が参戦しないように希望する。
二、ドイツは対英本国戦争に関し、日本の軍事的援助を求めず。
三、ドイツは日本があらゆる方法によって米国を牽制し、その参戦を防止することを希望する。
四、ドイツは近い将来に独米間に衝突が起るとは考えていないが、日米の衝突あるいは戦争は不可避であろう。
五、ドイツは日独間の了解、協力が米国の参戦を防止し得るものと考える。
六、日独伊三国側の決意せる「毅然たる態度」を米国並びに世界に知らしめることによって、強力かつ有効に米国を抑制し得る。この趣旨により、スターマーは、日独が微温的な態度をとり、声明などを発することを不可としている。
七、ドイツは日本が西半球より来る危険の重大性を自覚し、日独伊三国間の協定を結ぶことにより、米国ほか列国の臆測の余地をなからしめることを望む。
八、ドイツは米国を大西洋において牽制するため全力を尽す。また日本に対して、軍事的装備、たとえば飛行機、戦車、兵器等をも供給すべし。これに対して松岡は、その場合は枢軸陸海混合委員会のごときものをつくる必要あり、と述べた。
九、ドイツは日本の大東亜における政治的指導者たることを認める。この地域においてドイツの欲するものは経済的なものである。
十、まず日独伊三国間の約定を成立せしめ、しかる後ソ連に接近するを可とす。日ソ親善に関しドイツは「正直なる仲介人」たる用意あり。日ソ親善は容易なりと考える。
十一、枢軸三国は最悪の危険に対する用意あるも、一方ドイツは日米間の衝突回避に努力を惜しまず。
十二、ドイツは、日本が対英戦争終結前に枢軸に参加せんことを望む。米をも含むアングロサクソン王国、実は全大英帝国≠ノ対し、一大闘争を行いつつありという遠大なる観点に立つものなり。現戦争は間もなく終結するとも、この一大闘争は今後十年も続くべし。(松岡はこれに大いに同調す)
十三、今回の相談にイタリアの参加する時期は、独外相において考慮し、日本外相に通知するものとする。
十四、スターマーの発言はリッベントロップ外相の発言と考えられたし。
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以上の会談で、松岡は、「日独はアメリカを対象として同盟を結ぶが、アメリカを攻撃するためではなく、アメリカを欧州戦に参加させないためである。ドイツは日米間の衝突回避にあらゆる努力を惜しまず、日米両国の関係改善に努力する」という点に同意したが、まだ、軍事同盟にまではゆかなかった。
そこで、第二日の十日、松岡から四カ条の私案(甲)がスターマーに渡された。
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一、日本は欧州における新秩序建設に関し、ドイツ及びイタリアの指導的地位を認め、かつこれを尊重す。
二、ドイツ及びイタリアは大東亜≠ノおける新秩序建設に関し日本の指導的地位を認め、かつこれを尊重す。
三、日本、ドイツ及びイタリアは、前述の趣旨に基づける努力につき、相互に協力し、かつ各自の目的達成に対するすべての障害を除去克服せんがため、適切有効なる方法につき、相互に協議すべきことを約す。
四、日本、ドイツ、イタリアは相互に相より現に変化しつつある世界情勢に適応すべき世界新秩序建設によってのみ、平和の公正にして恒久的なる基礎を造り得るものなることを信じ、その実現に関する各自の努力を整合せんことを約す。
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この日、松岡は海軍からの希望で太平洋上の旧ドイツ領委任統治諸島問題をとりあげ、日本の統治地域は無償で日本の領土として認め、その他の諸島は有償で日本に譲渡して欲しいと申し入れた。海軍の一部では、すでに太平洋における戦闘を予測し、その際これらの諸島が戦略上不可欠である、と考えていた。また松岡は大東亜共栄圏≠フ範囲について、「オーストラリアおよびニュージーランド以北の東亜の全地域をさすが、今後拡大され得る」と説明した。この領域は実際に太平洋戦争が開始されたときの日本の最大占領領域に近かった。
この段階では、まだ会談には日独軍事同盟の具体的な条項は現われていない。しかし、翌十一日、会議は俄然《がぜん》白熱化して来た。
スターマーとオットーは、この日も千駄ヶ谷の茶室に松岡を訪ね、前日の松岡私案の第三条に対する前進的な修正案を提示した。すなわち、
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三、日本、ドイツ、イタリアは、前述の趣旨にもとづく努力について相互に協力し、かつ協議すること、並びに「右三国のうち一国が現在のヨーロッパ戦争または日支紛争に参入していない一国によって攻撃された場合には、あらゆる政治的、経済的、および軍事的方法によって相互に援助すべきことを約束する」
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松岡はうーむと唸《うな》った。果然ドイツ側から鎧《よろい》の袖を見せたのである。これは完全な軍事同盟の意思表示である。
松岡は思うツボにはまって来た、と内心ほくそ笑みながら、個人的にはその代案に同意すると言い、最高会議に諮《はか》って正式決定をする、と言って一応スターマーを帰した。思うにスターマーは、ベルリンを離れるときから、この第三条に関しては、リッベントロップ外相から強くふきこまれて来たものであろう。ということはそれがとりもなおさずヒトラーの意志であるということである。
松岡はこのスターマーの対案をもってその夜近衛を訪れ、了承を得た。さらに十二日の四相会議に提出したが、東条陸相は賛成したが、及川海相は今少しく考えさせてくれ、と言い、妥結には至らなかった。
松岡は海軍の粘りに対し努力を続けねばならなかった。十三日彼は私邸の茶室に海軍次官豊田貞次郎中将と軍令部第三部長岡敬純少将を招き、海軍側の了解を得るよう説得した。豊田は、松岡とスターマーが軽井沢で密談していたものと考えていたので、松岡のただならぬ顔色をみて、軍事同盟要項討議のため軽井沢から急ぎ帰京したものだと判断した。
豊田が第三条を見ると、独米が戦争になった場合、日本が自動的に参戦するように書いてあるので、これは具合が悪いと考え、米独戦が始まっても、日本は自主的≠ネ考えによって参戦するというように手直しをした。松岡もその方が弾力性があってよいと考え賛成した。豊田はその修正案の写しを持って及川の邸にゆき「この程度ならば、海軍も呑むよりいたし方あるまい」と及川に進言した。
実をいうと、及川は諸般の事情から、今回は日独同盟に賛成のほかやむなし、と覚悟を固めていた。昨年夏とは異って、今や蘭印(インドネシア)、仏印(ベトナム)はドイツの主権下にある。アメリカが石油を止めた場合、どうしても欲しいのがボルネオとスマトラの石油である。石油がなくては軍艦が動かない。それにいま一つ、海軍に三国同盟を呑むに踏み切らせた要因があった。
アメリカの学者ビュトーの『Tojo and the coming of the War』という本によると、松岡は東条陸相を説得して、それまで陸軍に多くとられがちであった軍事予算を海軍に有利とし、陸軍向けの軍需資材の一部を海軍にふり向けるという約束をとりつけたという。
九月十四日朝、総理官邸で大本営・政府連絡会議準備会が開かれた。近衛、松岡のほか、陸、海相、各次官、次長、軍務局長らが参集した。根回しが出来ているので、松岡は安心していた。席上、まず軍令部次長近藤信竹中将(後の第二艦隊司令長官)が立って「海軍は来年四月にならないと、対米開戦準備が出来ない。しかし、長期戦になるとこちらが不利だから、今が戦争としては一番有利といえる」と賛成論をぶった。
ついで、松岡が立った。昂然《こうぜん》として一座を見回し、丸ぶちの眼鏡の奥から鋭い眼光をみせながら、次のように軍事同盟必至を説いた。
「今や日独伊と結ぶか、日独伊を蹴《け》って、英米の側に立つか、日本としてはっきり態度を決めなければならない時期に来ている。ドイツの提案を蹴った場合、ドイツは英を降し、欧州連邦を作り、米と妥協し、英仏蘭等の植民地をして、日本に一指をも染めさせぬであろう。このため日米戦争という最悪の場合を招来すれば、国民生活上非常な困難を来す。しかし、英米と結ぶとなれば、支那事変は英米のいうとおり撤兵、満州国は解体して蒋介石に返す、それで国民は納得するか。日露戦争に満州の土を血で染めて今も眠る十万の英霊は諒《りよう》としてくれるであろうか。そして、少なくとも今後半世紀は英米の前に頭を下げなければならないのだ」
これに対し、及川海相は海軍を代表し「それ以外に道はない。ただし、海軍の軍備充実については政府、とくに陸軍が考えて欲しい」と賛意を表した。ここに、日独伊三国同盟に対する日本最高指導層の意見は事実上一致をみたのである。そして、大東亜共栄圏をめざす汽車は翌昭和十六年十二月八日対米開戦への軌道を走り始めたのである。
外務省が三国同盟の正式議定書を作成している間に、九月十六日、近衛は閣議で承認された要項を携えて参内し、陛下に上奏した。天皇は軍事同盟には不賛成であったが、前年とは異って、政府、国内事情共に大きく日独同盟路線に傾いている趨勢《すうせい》を無視することは出来なかった。天皇は力のない声で、
「もう少し、独ソの関係を見きわめた上で締結してはどうか。海軍大学校の図上演習では、日米海戦は思わしい成績が出ないと聞いているが大丈夫か」
と下問した。
近衛はかねて金子堅太郎伯から聞いていた伊藤博文の話を申し上げた。
「日露戦争開戦が御前会議で決定されると、明治天皇は枢密院議長の伊藤博文公を別室に呼び、『もし敗《ま》けたときはどうするつもりか?』と尋ねられた。伊藤公は『万一、日本が敗れました場合には、臣は爵位勲等すべてを拝辞致し、単身戦場に赴いて討ち死に致す覚悟にございます』と奏上されました。近衛も同じ覚悟でございます」
「そうか、日本がもし敗戦国となった場合、総理も自分と労苦を共にしてくれるか」
天皇はそういうとうなずいた。
近衛は日本の敗戦後間もなく毒をあおいで自決したが、この奏上の日にどのような覚悟を抱いていたのであろうか。
近衛は首相官邸に帰ると待っていた閣僚ら幹部に天皇の言葉を伝えた。すると、松岡が大きな声をあげて泣き出した。直情径行の彼は、大粒の涙をぼろぼろ流して泣いた。これをみて、前田米蔵、中野正剛、永井柳太郎、金光庸夫らもハンカチを眼にあててもらい泣きをした。冷静な近衛がよく見ると、泣いているのは、旧政党人ばかりで、元内相後藤文夫のような官僚出身者は平然としているように見えた。これをみて、近衛は、政党人は海千山千で、悪いこともするけれど情の深いところもある。しかし、官僚というものは、礼儀正しいというのか冷淡なものだ、と考えた。松岡はなぜ泣いたのか。一つには自分が企画した三国同盟のため、あまりにも宸襟《しんきん》を悩まし奉ったのが恐れ多かったのと、いま一つは苦心を重ねた同盟案がやっと裁可をとりつけた安心感からとみるべきであろう。
三国同盟条約締結のための公式行事である御前会議は、九月十九日午後三時から宮中で開かれた。出席者は、首相、外相、陸相、海相、河田|烈《いさお》蔵相、星野直樹企画院総裁、閑院宮参謀総長、沢田同次長、伏見宮軍令部総長、近藤同次長、原嘉道枢密院議長である。
会議は松岡の説明によって始まり、松岡のリーダーシップによって進行した。条約案の主体は四カ条より成っており、松岡私案にスターマーの代案を第三条に盛りこみ、さらにソ連に対する国交調整についても記述がされてあった。これは、近い将来の日ソ交渉を顧慮しての措置である。会議では、参謀総長、軍令部総長より、それぞれ、この条約が支那事変処理にどう働くか、また日ソ国交への影響|如何《いかん》という質問があった。松岡は、ドイツを利用することによって支那事変収拾にプラスを生じ得る、日ソ国交調整にはドイツを利用し得る、と返答した。また、軍令部総長から重ねて石油問題について、海軍は蘭印の石油を平和|裡《り》に取得したい意向である旨の意見が出され、松岡は、ドイツとの折衝により、蘭印の石油使用については、オットー、スターマー共に努力を確約していると返答した。
ついで、原枢密院議長から「対米関係が悪化するおそれはないか」という質問があった。松岡は「対日包囲陣などを形成せしめぬよう『毅然』たる態度を示すことが必要である」と返答し、重ねて原が「米国は自負心が強い。わが毅然たる態度がかえって反対の結果を促進することはないか」との問いに対して「日本はスペインに非ず。極東に強大なる海軍力を持つ強国なり。一時は硬化するも、米国は冷静なる計算をして冷静なる態度をとるに至るべし。ただし、彼が硬化して危険な状態となるか、あるいは冷静に反省するかの公算は半々なり」と答弁している。松岡も自分の外交が瀬戸際外交≠ナあることは自認していたらしい。
松岡が、日本はスペインではない、と言ったのは、彼がアメリカ留学中に起った一八九八年の米西戦争のことを指している。このとき、アメリカはスペインのキューバにおける植民地政策に反対し、強硬な要求をつきつけた。そして、スペインがその要求に屈したとき、あえてスペインを攻撃し、カリブ海からスペインの勢力を駆逐し、フィリピンをも占領してしまったのである。日本がアメリカに妥協し、卑屈な態度をとっても、力がなければよい結果にはならない、と松岡は言いたかったのである。
三時間にわたる御前会議は松岡の予定通りに可決、天皇の裁可をもって終り、出席者一同が条文に花押を行い、三国同盟は九月二十七日の発足を待つばかりとなった。
このとき、松岡以上に、ひそかに手を打って喜んだ軍人が三宅坂の一角にいた。陸軍省軍務局長の武藤章少将である。彼はこの年七月三日、陸軍の中心人物として、「世界情勢ノ推移ニ伴ウ時局処理要綱」という秘密政策を起案していた。七月十七日近衛が組閣の大命をうけて荻外荘に帰って来ると、待っていたのが武藤少将である。彼は前記の秘策「処理要綱」を近衛に示し「この案を政策の基本としていただけるならば、陸軍は万全の協力を致します」と鋭い眼付きで近衛をみつめた。了承出来なければ、例によって陸軍大臣は出さない。従って内閣は成立しないぞというおどしであった。一読した近衛は「よろしい、承知した」とあっさり了承し、武藤に気抜けを感じさせたほどである。近衛はもう首の座にすわった覚悟であり、その気魄《きはく》は武藤にも伝わった。「時局処理要綱」の要点は、一、総動員法の強化、二、重慶政権の屈伏による支那事変の解決、三、独伊との結束強化、四、戦時経済の確立、五、国内世論の統一、六、南方進出、そして、七、新世界情勢に基づく高度国防国家の建設である。これらはすべてその後の軍部を中心とする日本帝国の進路を示しており、『天皇』の著者児島襄氏によれば、近衛のこの「要綱」承認は、大日本帝国崩壊の承認ということにも通じるわけである。
七月二十六日、近衛政府が発表した「基本国策要綱」は、軍事機密扱いの「時局処理要綱」の国内向け版であり、これは荻外荘会談における松岡の外交原案とよく似ていたので、ここでは省略する。
武藤は、御前会議で日独同盟が裁可されたので、わがこと成れりと喜んだ。時局処理要綱中最大の難関である日独同盟が成立すれば、陸軍が企図していた対米、対ソ、そして対アジア政策も軌道に乗るというものである。
ところが、三国同盟はまだ完全に成立していたわけではなかった。御前会議に先立つこと五日の九月十四日、リッベントロップ外相は、二つの重要なポイントで、松岡・スターマー協定案に対して修正を申し入れて来ていた。一つは、第三条の「三つの国が他の一国によって『攻撃』されたる場合」という条項の「攻撃」の前に「公然または隠密の」という字句を挿入《そうにゆう》すること、いま一つは「この条約は三国とソ連との現在の政治的関係にいかなる影響も及ぼさないこと」という条項を第五条として新しく追加することである。
松岡は「公然または隠密なる攻撃」というふうにすることは、日本が欧州戦への介入を増大する危険ありとして拒否し、対ソ条項は認めることとし、第五条に追加することとなった。しかし、御前会議の決定がベルリンに打電されると、折り返し二十一日、リッベントロップは「公然または……」の字句挿入を撤回し、侵略行動をうけた場合に「宣戦し相互援助」する義務ありという形に修正したいと希望して、日本の自動的参戦を招来する形にしようとした。二十一日夜松岡はスターマーと会い、この「宣戦し……」という新しい修正の申し入れを断った。当時ローマにいてスターマーからこの入電を聞いたリッベントロップは、ムッソリーニやチアノ外相と会談中であったが、「マツオカという男は子供じみている」と苦笑した。
しかし、松岡はこの自主的参戦を自動的参戦に変質せしめる用語の挿入については頑として首をたてにふらない。ついにスターマーは独断で松岡の希望を入れ、原文通りということで、同盟成立を承認した。これが九月二十四日のことであるが、日本の自主的参戦に関する見解は、最初からベルリン(ローマ)と東京の間で食い違っていた。そして十月上旬ベルリンに帰ったスターマーは、この点について何らの説明をリッベントロップに行わなかった。従って、リッベントロップは、自分の意見が通ったものと考えていた。三国同盟は、初めからこのような欠陥条約≠フ上に成り立ったものであった。
また松岡は条約調印地を是非東京にしたいと考えていた。多年苦心して生み出したこのわが子≠ノ、自分の手でうぶ湯をつかわせてやりたいと念願していた。しかし、ドイツ側は頑として譲らず、ついに三国条約は、九月二十七日ベルリンで調印と決定した。
その前日、枢密院本会議でもこの問題がとりあげられたが、ここでも外交界の先達である石井菊次郎枢密顧問官らから、自動参戦の義務、対ソ問題などの質問があったが、松岡は延々七時間の答弁の後、ついにこの老重臣たちの質問に明快な回答を与え、午後十時十分、全顧問官起立のうちに、この条約案を満場一致で可決した。
この日の松岡の快答≠ヤりは、まさに快刀乱麻を断つがごとく冴《さ》えていたらしい。同席していた近衛は、松岡が終始、その博覧強記と強心臓ぶりを発揮して、重臣連をなで斬りにするので、唖然《あぜん》とし、帰りの車中で秘書官の細川護貞に「あの松岡という男は、とても並みの人間ではない」と嘆息しながら語った。彼の胸中には、えらい[#「えらい」に傍点]人間と組んだという危惧《きぐ》があった。斬れる刀ほど危険なのは、妖刀《ようとう》村正の例をひくまでもあるまい。
ただこの会議で、石井菊次郎(仏、米大使、大隈内閣の外相、石井・ランシング協定成立、ジュネーブ軍縮会議全権)が次のように苦言を呈したことは記憶されてよいであろう。
「古来、ドイツは最も悪《あ》しき同盟国である。ドイツと結んだ国はすべて不慮の災難をこうむっている。(第一次大戦その他)しかし、今日ほど日独伊三国の利害が共通していることは古今を通じて稀《まれ》なのでこの三国が結合することは自然の勢いで、本条約は国策として当を得たものと思う。ただし、この運用には十分注意する必要がある」
さて、昭和十五年九月二十七日、世界史を大きく変える運命を担った日独伊三国条約は、ベルリンのヒトラー総統官邸閣議室で、午後一時(ドイツ時間)調印された。調印者は来栖三郎駐独日本大使、リッベントロップ、チアノ各外相で、調印は十五分間で終り、署名が終ると制服の式部官が銀の棒を三度鳴らし、それを合図にヒトラーがにこやかな表情で現われ、三人と握手を交わし、正面の椅子にすわり、腕を組み、脚を組んで天井のシャンデリアを眺めあげたまま、リッベントロップの調印完了の報告を聞いた。ついで、三人の代表は、ヒトラーにあいさつを述べた。独伊の外相はこれで持たざる国というコンプレックスがなくなったことを強調した。来栖は条約の持つ画期的な意義と、正義を核心とする普遍的永続的世界平和の樹立というその目標設定を強調した。ヒトラーは平然とした表情でそれを聞き、終ると、ぼそぼそと何事かをつぶやき、室外に消えた。
これに反して、東京永田町の外相官邸の祝賀会は熱狂的なものであった。ベルリンの午後一時は、東京の午後九時にあたる。調印が無事終った、という国際電話がヒトラーの官邸から入ると、一斉にシャンペンが注がれ、松岡がその旨を一同に告げた。
真っ先に叫んだのはオットー大使であった。
「テノヘーカ、パンサイ!」
彼はこういうとシャンペングラスを高くあげて松岡と乾盃《かんぱい》した。筆者はこのニュース映画を、しばらく後に東京で見た。筆者はこのころ、霞ヶ浦航空隊で飛行機の適性検査を受けているところであった。日独伊三国条約がどのような意味をもつものか、二十一歳の少尉候補生にはよく分らなかった。ただ、支那を占領しているとアメリカは機嫌が悪いが、ドイツがヨーロッパで勝っているから、ドイツと組んでおけば、アメリカも手を出すまい。しかし、アメリカと戦争になれば、若い士官は真っ先に出動せねばならぬ、覚悟だけは固めておくべきだ、と素朴に考えていた。
外相官邸では、「ニッポン・バンザイ」の連呼に続いて、「ヒトラー総統万歳」「イタリア皇帝万歳」「ムッソリーニ首相万歳」の連呼が続いた。
そのうちに、ドイツ人が大声で「ハイル・ヒトラー」を連呼し始めた。日本人は「天皇陛下万歳」を絶叫するが、ドイツ人の大声に押されそうである。そのような光景を眺めながら、松岡は自分がわりに冷静なのを不思議に思っていた。彼にはこの条約の危険性がわかっていた。成功率は五〇パーセントである。成功させるにはソ連を入れた「四国協商」に持ってゆかねばならぬ。まだ見ぬヒトラーという男に是非会ってみたいと考えながら、彼はよく冷えたシャンペンのグラスに唇を触れていた。
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十六章 日ソ中立条約前夜
松岡は毅然たる態度≠示すことによって、アメリカを威圧し、その援蒋と参戦を防止するため、三国同盟を結んだ。アメリカはそして、ルーズベルトは、これをどううけとめたか? 興味ある問題である。
ルーズベルトは三選を賭《か》けた選挙戦の渦中にあった。(投票は十一月)
アメリカはすでに同盟発表の直前、日本の北部仏印進駐に関する日・仏印調停へのプレッシャーとして、日本に対する屑鉄の全面輸出停止を行い、蒋介石政府に対する二千五百万ドルの借款を許可していた。
しかし、三国同盟に対するアメリカの予知は早かったとは言えない。太平洋戦争当時、アメリカは、マジックと称する暗号解読技術によって、日本軍の暗号を解読し、山本五十六連合艦隊司令長官を撃殺したりして、日本軍を悩ませたが、三国同盟当時の諜報《ちようほう》活動は、決して敏速であったとは言えない。
駐日アメリカ大使グルー(『滞日十年』の著者)がこの交渉について本国に打電したのは、条約調印の一週間前である。
しかし、三国同盟が発表されたとき、ハル国務長官は一見平静を装っていた。
「この条約は、国際情勢に本質的な変化を加えるものではない。アメリカ政府は、外交政策決定にあたり、この同盟成立を十分考慮しており、驚いてはいない」
彼は九月二十七日(アメリカ時間)こう声明した。
これに対して、近衛総理は、十月四日の記者会見で、かなり威嚇《いかく》的な声明を発した。
「私はアメリカが、日本の真意を理解し、積極的に世界の新秩序[#「新秩序」に傍点]建設に協力した方が賢明ではないか、と考える。しかし、アメリカが日独伊の真意を故意に見誤り、三国に対して条約を敵対行為を表わすものと考え、さらに挑発行為を続けるならば、我々にとって戦争以外の道は残されないであろう」
これを聞いて、アメリカ国務省は、十月八日、かなり神経質とみられる声明を行った。同省は日本支配下の極東地域に居住するアメリカ市民に対し、「継続的な異常な状態に直面して、これらの地域を立ち去るように」と勧告している。これは国交断絶直前の措置に似ている。
続いて十月十二日、多忙な選挙戦の合間を縫って、ルーズベルトはコロンブスのアメリカ大陸発見四百四十八年目の記念日にあたり、次のように声明した。
「米州諸国は、われわれのとるべき道について、独裁者たちの脅迫的指示におびやかされることはないであろう。欧州とアジアの独裁国がいかに連合しようとも、我々は依然として民主主義のため、目標追求途上で足ぶみすることはないであろう。今や彼らと戦闘を考えている最後のものともいうべき自由諸国国民に対する我々の援助を停止することは出来ないであろう」
この日十月十二日、日本では近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が発足していた。一国一党式の政治統制体制で、昭和八年松岡が叫んだ政党解消運動は、ここに一つの形で実現をみたが、彼はこれを喜ぶひまがないほど多忙であった。
同じ頃、チャーチルも次のような注目すべき声明を発した。
「いやしくも英語使用種族ならば、その枝葉に至るまで力の威嚇に対し、屈従で酬いる習慣は持ち合せていない」
そして、十月十七日、イギリスは援蒋のビルマ・ルートを再開すると発表した。
ドイツ人のテオ・ゾンマー(哲学博士、西独週刊新聞「ツァイト」政治部長)は、「ナチス・ドイツと軍国日本」のなかで、次のように結論している。
「日独伊条約が結ばれたことによって、太平洋、大西洋の両舞台は、アメリカにとって、不気味に相互に結びつくこととなった。従って、日米戦争は、日本側の東南アジアにおける勢力拡充政策によるだけでなく、アメリカの対英援助にもとづくドイツとの武力対決が行われる場合にも生起し得ることとなった。それにもかかわらず、アメリカ国民の多くは、三国による国際的なおどし≠ノはおどかされなかった。本来アメリカを威嚇すべき条約そのものこそ、危険な孤立に対するアメリカ国民の眼をひらかせ、彼らを一層イギリス側に近づけさせたのである」
事実上、アメリカはショックを受けていた。日独を相手に戦えるかといわれれば、ルーズベルトも即答は出来なかったであろう。しかし、翌十六年十二月、開戦のときには、彼は日本軍に先に手を出させ、アメリカ国民の敵意をそそり立てた後開戦する余裕をもっていた。この一年余りの間に、アメリカがある程度の軍備拡張を行い、対日開戦の自信を強めたことは想像される。
三国同盟は、松岡の予想通り、アメリカを威嚇する一役を果した。しかし、これを刺激し、軍事的態度を硬化せしむる効果をももたらしたのである。
彼はやはり、既定の四国協商構想を実現に移さざるを得なかった。
日ソ不可侵条約の構想は、前任の駐ソ大使東郷茂徳の頃から瀬踏みされていた。
八月の松岡人事によって東郷が呼び返され、陸軍中将建川美次が駐ソ大使として十月二十三日モスクワに着任した。建川は右寄りの東亜建設聯盟の指導者の一員である。しかし右翼とみられるこの聯盟にも親ソ主義の流れは強くなっていた。同聯盟員で、右翼の指導者である橋本欣五郎(元大佐)も、「大乗的見地からソ連と握手し、日独伊ソが協同して世界新秩序の建設に邁進《まいしん》すべきである。我々の敵は一に英、二に米である。ソ連が援蒋政策を放棄するならば、日ソ不可侵条約を結ぶべきである。外交はイデオロギーではない[#「外交はイデオロギーではない」に傍点]」と説いている。カチカチの天皇崇拝論者とみられる橋本でさえも、共産主義のソ連と手を結ぶべきだ、と主張しているのであるから、いかに四国協商による対米戦回避、支那事変解決の期待が大きかったかがわかるであろう。
十月三十日、建川はモロトフと会見、日ソ不可侵条約を提案するのであるが、その直前に日本で松岡暗殺計画が発覚したので、それにふれておこう。
十月二十七日、元大東塾の第一期生、横堀謹一という男が松岡暗殺を企図し、新潟県三条の自宅を出て上京の途中、列車内で新潟県警察部に逮捕された。
横堀は当時二十六歳。右翼の集団である大東塾頭影山正治に師事し、共産主義国ソ連打倒の教育を受けていた。松岡が日ソ不可侵条約を企図していると聞き、これを倒そうと考えた。十月二十九日が帝国議会開設五十周年式典の日であると聞き、多分出席するであろう松岡を刺殺するべく短刀を懐ろにして三条を出発した。彼の自供によれば、松岡の自動車にとび移り、松岡の腹を刺すつもりであったという。一九一四年六月二十八日、ユーゴスラビアのサラエボで、セルビアの青年ガワリーロ・プリンシプが、オーストリア皇太子フランツ・フェルジナンドとその妃ゾフィー・ショテクの乗った自動車にとび乗り、両人を射殺した事件があり、これが第一次大戦の発火点となったが、横堀青年はこの真似をしようと試みたのかも知れない。
横堀は懲役二年の刑を受け、その後出征し、昭和二十年マレー半島沖において戦死した。
さて、十月三十日モロトフと会見した建川新大使は次の通り日ソ不可侵条約の提案を行った。
第一条 両締約国ハ相互ニソノ領土権ヲ尊重シ、他ノ一方ニ単独ニテマタハ一|若《モ》シクハ二以上ノ第三国ト協同シテ一切ノ侵略行為ヲナサザルコトヲ約ス
第二条 締約国ノ一方ガ一マタハ二以上ノ第三国ヨリ軍事行動ノ対象トナル場合ニハ、他ノ一方ハ如何《イカ》ナル形式ニオイテモ右第三国ヲ支持セザルベシ
第三条 両締約国政府ハ両国政府ニ共通ナル利害ニ関スル問題ニツキ情報ヲ交換シ、マタハ協議スルタメ将来相互ニ緊密ナル接触ヲ推持スベシ
第四条 両締約国ノイズレノ一方モ、他ノ一方ニ直接マタハ間接ニ対抗スル如何ナル国家群ニモ参加セザルベシ
外交文書的に見れば、この条文は、十四年八月に締結された独ソ不可侵条約の条文と酷似しているといわれる。
その一方、松岡は先に親しくなったスターマーを仲介として、独外相リッベントロップに、日ソ国交調整について斡旋《あつせん》を依頼していた。リッベントロップも、アメリカの参戦に対する脅威を解消するため、ソ連をふくむ四国協商という松岡の構想に賛成し、スターリンに長文の書簡を送った。
これに対し、ソ連外相モロトフは、十一月十一日ベルリンを訪問し、リッベントロップの四国協商案を聞いた。この日はたまたま東京で紀元二千六百年記念式典≠フ行われた日である。
戦前の日本に西暦のほかに皇紀という年代の数え方があったことを今の若い人はご存知であろうか。皇紀とは、神武天皇即位の年を皇紀元年とする暦年法で、昭和十五年は丁度皇紀二千六百年に当っていた。
十一月十日の宮中での祝典に引き続き、十一日は日本中で祝典が繰り拡げられた。これに先立って当時二十一歳の海軍少尉候補生であった筆者は、戦艦伊勢乗組として横浜沖の観艦式(十月十一日)に参加した。天皇はお召艦比叡に乗って連合艦隊を観閲した。
同じ日、モロトフは、リッベントロップの世界分割案に聞き入っていた。リ外相は、日本に南洋、ドイツに中央アフリカ、イタリアに北アフリカ、そしてソ連にはイラン、インドを新勢力範囲として割り当てる構想を説いた。この日、モロトフは聞き役であったが、第二、三回目の会談でヒトラーが出席すると、フィンランド問題、バルカン問題を中心として、両者の間に激論が戦わされた。
続いて、リ外相は、松岡の意を体した次のような趣意の四国協商案を示した。
「三国同盟締結によって、日独伊三国は、現在の大戦が世界大戦に拡大されるのを防止しようとする意志を持つ。ソ連邦もこれに協力する。
三国とソ連邦は相互の勢力範囲を尊重し、この点に摩擦の生じた場合は友好的に協議する。
四国は経済的にも協力し、四国のうち一国に敵対する国家的結合には参加しない」
しかし、リ外相の斡旋にもかかわらず、モロトフの態度は冷たかった。
ソ連がこだわっているのは、日本が行使している北樺太における石炭と石油に関する利権であった。
モロトフは、日本が北樺太における利権を解消しなければ、日ソ不可侵条約は前進しないと回答した。
かつて、松岡が外相に就任したとき、近衛を中心とする内閣の首脳は、ドイツと提携すれば、独ソ不可侵条約を結んでいるドイツが日ソ間のよき仲介人≠ニして斡旋することを期待し、松岡もそれを主張したが、ここに仲介人としてのドイツの斡旋力≠フ限界は見え始めていた。
十一月二十四日公爵西園寺公望が薨去《こうきよ》した。西園寺は紀元二千六百年式典の十一月十一日|腎盂炎《じんうえん》を発病、主治医の名古屋帝大教授勝沼精蔵が治療にあたったが、二十四日女中頭の綾《あや》女に最後のひげ剃《そ》りを行わせ午後九時絶命した。公卿《くげ》の元老らしい最期であった。
二日後の十一月二十六日ソ連政府は、モスクワ駐在のドイツ大使シューレンブルグに対し、原則的には四国協商に同意するが、それには次の条件が必要であると四カ条をつきつけた。
一、ソ連の勢力範囲にあるフィンランドからドイツ軍は直ちに撤退する。
二、黒海からの出口であるボスポラス、ダーダネルス海峡地域にソ連の陸海軍基地を設けることを認め、これによってソ連艦船の黒海から地中海への航行を安全保障する。
三、バツーム(黒海東部)、バクー(カスピ海西部)を結ぶ線以南からペルシャ湾に至る領域はソ連の将来の領土として認められる。
四、日本は北樺太における石油石炭の利権を放棄する。
この回答を手にしたヒトラーは激怒した。
北樺太の日本の利権は知ったことではないが、一、二、三項は、総統たるヒトラーの権威を踏みにじるものであった。
面子《メンツ》をつぶされたヒトラーは、ここに対ソ戦の決意を固めた。この年六月以来、独ソはバルト海沿岸とバルカン半島をめぐって領土的野心による冷戦状態に入っていた。
十二月十八日ヒトラーは対ソ攻撃の「バルバロッサ作戦」を秘密裡に発動、対ソ戦準備は四一年(昭和十六)五月十五日までに完了することが命令された。(バルバロッサとはフレデリック一世の異名赤髭《あかひげ》帝≠ゥらとったもの)
こうして松岡の四国協商の大構想は、独ソ二強の相反する利害関係からはしなくも独ソ戦を招来することとなったが、この頃の松岡は、その実態に気づかず、仏印方面の南方進出を狙う軍部にブレーキをかけることに懸命になっていた。
四国協商に対米コントロールを期待する松岡は、軍部の南方進出には批判的であった。
支那事変初期に、出先の部隊が中央の指示を無視して次々に既成事実を作りあげ、事変を拡大して行ったのを満鉄総裁として大連でまのあたりに見ていた松岡は、今回は軍部の中央集権を強調し、かつまた一流の弁舌によって外交大権を行使し、仏印進駐を北部だけにとどめ、アメリカに対する刺激を少なくすることに成功した。
この間、十六年一月三十日大本営政府連絡会議で、杉山元参謀総長と、東条陸相が松岡から怒鳴りつけられるという珍しい一幕があった。
この時の議題は、タイが仏印に対して以前の失地回復要求をしたのに対する日本の調停であったが、陸海軍共この機会に乗じて、南方に進出しようとする野望を露骨に現わしていた。
軍部が、三月までに(進出策を)まとめろというのに対して、松岡は六月末なら出来るかも知れぬ、と逃げた。
すると、杉山参謀総長が、
「外務大臣、仏印国境には馬もたくさん待機している。暑さで馬が死んだり兵が病気になったらどうしてくれるのだ!」
とつめよって来た。東条陸相も同様の気構えを示した。陸軍は何としても早く進軍して占領地をふやし、対英戦への基地を早目に建設したいのであった。
すると、立ち上った松岡は、眼鏡の奥から鋭い目付で杉山と東条を睨《にら》みつけ、
「この仏印とタイの紛争は、是非とも平和的に解決したいというのが外務大臣の念願である。武力を用いると外国を刺激するし、第一長引く。陸軍の貴公らは、早くやれといってつめよるが、陸軍! 君たちはだ、支那事変が始まったとき、陛下に何と申し上げたんだ!? 二、三カ月で片付けると奏上したはずではないか。それがあれから三年半もかかって一向に解決しない。それでいて、今度の紛争解決に大きな顔をして自信のあることがどうして言えるのか!」
と言って、拳《こぶし》で発止と卓を叩いた。杉山と東条はうつむいたきり、寂として声がなかった。(斎藤音次外務省南洋局長の回想)
この当時陸軍を相手にこのような強硬な言辞を弄《ろう》すれば、たちまち右翼の刺客につきまとわれるところであるが、松岡は右翼と親しいということになっているので、刺客も手を出さなかった。
会議に出かける前、松岡は斎藤に「軍部は満州事変が始まってから支那事変に入り、三年半もかかってよう目鼻をつけよらん。陸海軍のぐうたらべえが何を言うか」と毒づいていたという。当時軍部を抑える発言の出来る外交官、というよりも政治家は松岡一人であった。彼の怪弁?と強心臓は、片方で結局は戦争の原因となる三国同盟を推進しながら、片方では直接原因となる南方進出にブレーキをかけていた。
果然、十六年七月十八日、近衛と衝突した松岡が退陣すると、軍部は七月二十八日南部仏印に進駐した。アメリカはこれを日本の対米戦争準備であるとみてとり、日本人資産を凍結し、八月一日石油をはじめとする重要物資の対日輸出を禁止し、やがて十一月二十六日のハル・ノート、開戦とつながってゆくのである。
とに角、松岡は軍部が期待した「対仏印・泰施策要綱」という進出案を骨抜き≠ノしてしまったが、その半面、彼は蒋介石の重慶政権に対する和平工作にも頭を突っこんでいた。
『人と生涯』によると、宇垣一成のところに「日本の陸軍はだめだ。満州国を返すなら支那事変解決の交渉に応じてもよい。但し、その代表には松岡をよこせ」という連絡が重慶の蒋介石から来たそうである。昭和十五年頃のことらしい。
「満鉄総裁」の項で述べたように、昭和十二年七月、蒋介石、汪兆銘、高宗武の三者会談が行われた頃、満鉄南京事務所長、西義顕は呉震修に招かれ、近衛説得のため松岡満鉄総裁に助力してくれと依頼された。これがもとになって、汪兆銘の引き出し、南京政府樹立となるが、支那事変は依然として解決されなかった。その後、宋子良工作、桐工作などが試みられたが、効果をあげ得なかった。
昭和十五年一月、西義顕は上海で張競立と接触を試みた。張は東京高商卒、日本女性と結婚し、蒋介石の下で国民政府交通部財務司長を勤めた男である。
松岡は満鉄副総裁の頃、張とある鉄道敷設交渉で面識があった。
十五年七月、東京にいる西のところに張の甥《おい》盛沛東が使者としてひそかにやって来た。「重慶からある重要人物が香港に来ているから会って欲しい」というのである。
重要人物の名は銭永銘と言い浙江《せつこう》財閥と蒋介石をとりもった男で、国民政府財政部次長を勤めた人物であった。
銭は松岡が外相になると聞いて重慶との和平斡旋に乗り出して来たのである。出来れば伝えられるところの日独同盟が出来る前に目鼻をつけたいと考えていた。
西は香港で銭に会った。西は銭から日支和平の仲介条件を聞きとり、九月十七日夜、東京に帰ると千駄ヶ谷の私邸に松岡を訪ねて銭の仲介案を勢いこんで松岡に報告した。その大要は次の通りである。
[#ここから1字下げ]
一、重慶、南京両政府は合併合一して実のある中国の統一政府を作ること
二、日本政府は中国の新統一政府を相手に日華事変遂行に派遣した全兵力を中国から全面的に撤兵すること
三、日本政府と新中国政府は防守同盟を締結すべきこと
[#ここで字下げ終わり]
西はこのとき、張と盛を同道していたので、翌十八日松岡に引き合せた。松岡はこの日の閣議で近衛が天皇に三国同盟の件を上奏したときのお言葉を聞いて、泣いたあとであった。彼は神妙な顔で銭の提案を天皇に上奏する、と言って二人を感激せしめた。上奏したかどうかはわからぬが、同年十月一日、陸、海、外三相は「対重慶和平の件」という重要案件について意見の同意をみた。その内容は「帝国政府は汪蒋合作により重慶政権との間に和平交渉を行う」そして、次の三項を日本側要求試案とした。
[#ここから1字下げ]
一、支那は満州国を承認すること。
二、支那は抗日政策を放棄し、日支善隣友好関係を樹立する。
三、東亜共同防衛の見地より、必要と認める期間、蒙疆《もうきよう》、北支三省に駐兵し、海南島、南支那海の基地に軍艦をおく。(以下略)
[#ここで字下げ終わり]
松岡は独自の見解からこの和平交渉条件が銭の仲介条件と大きくは矛盾せぬと考え、十月十二日、銭の条件にサインし、西に「二週間でまとめて来い」と命じた。しかし、東条陸相の了解をとりつけてあるとは言え、銭の仲介条件は全面的撤兵に近く、妥結は困難と予想された。
西は参事官の田尻と共に銭を同道して十月中旬、南京に向った。この間、閣議においても松岡の提案で、この「銭和平工作」を推進することに決り、十一月三十日を期限として努力することとなった。
西は十月十六日上海に着き、松岡の旧友である船津辰一郎に会い、松岡の銭工作に関する親書を手交した。
続いて松本重治(当時同盟通信編集局長)も船津を訪れ、近衛、松岡からの伝言を伝えた。
銭永銘は船津の斡旋で張、盛らとエンプレス・オブ・エシア号で香港に向い、九竜のフェリー桟橋に近いペニンシュラ・ホテルに入り、西、田尻と合流した。
銭永銘は重慶から密使のK(重慶の銀行の支店長)を呼びよせ蒋介石あての日本側の条件を書いた書面を持たせ、十一月二日、九竜の啓徳飛行場から出発せしめた。銭は自分が行くつもりであったが、病気になったので、信頼出来るKにすべてを託したのである。
西と田尻は香港にいて重慶からの返事を待っていた。返事を持った密使はなかなか現われなかった。
この間、十一月三日の御前会議で日華基本条約と支那事変処理要綱が可決された。前者は汪兆銘政府を国民政府として承認するもので、かねて軍部の基本路線に乗っていたものであるが、撤兵問題で意外に汪兆銘が強硬なので、参謀本部第一部ともめていたものである。
後者は先に述べた「対重慶和平交渉の件」とほぼ同じ内容のもので、長期持久戦を行いつつ重慶に対する和平工作を行うというものである。
表面的に言えば、日華基本条約の承認は重慶と手を切ることを示すものであるが、瀬戸際外交≠フ得意な松岡は、ここでも重慶に対する工作の道を残して香港の空を睨んでいた。彼は重慶の背後に米英がついている限り、重慶を無視することは出来ない、と考えていた。アメリカの圧力を緩和するには、重慶と和平し、蒋介石の顔を立てる必要を感じていたのである。
従って、この銭永銘工作は、日独伊三国同盟を結んだ後、うまくアメリカとの緊張感を処理し得るかどうか、一つの試金石であったのである。
さて、南京における日華基本条約の正式の調印は十一月三十日であるが、その二週間前、十一月十七日、西たちが待ちに待った重慶からの密使が香港に到着した。
西と船津は九竜城に近い某アパートの二階でその密使と会った。驚いたことに、密使と称するその男は、黒服で黒い覆面をしていた。(この男は後に蒋介石の腹心張季鸞と判明した)密使は蒋介石の直筆の返書のコピイと称する文書を西に手渡した。その蒋介石の返書は思ったより激越なもので、とても和平交渉に対する返書とは思われなかった。日本人と和平を論ずるものは漢奸《かんかん》≠ナあるとさえ書かれてある。しかし、一つの救いは、今夜別送する二カ条を日本が呑むならば和平交渉に応じてもよいという一カ条である。その二カ条とは何か? 西がペニンシュラ・ホテルで待っていると、夜半張競立から電話がかかったので、至急連絡用のアパートに赴いた。張が受けとった条件はあまりにも簡単な次の二カ条である。
一、中国にある日本軍の全面撤兵の原則的承認
二、南京|傀儡《かいらい》政権の承認取消し
この二カ条は、直ちに香港の日本総領事から外務省へ暗号で打電された。
十一月二十二日、なおも努力を続ける松岡は、先の二カ条を四相会議に提出し、会議はこの線に沿って努力することを承認した。(汪の南京政府を押し出すことに懸命な陸軍は、この段階では重慶の申し出に重きをおいてはいなかった)
しかし、松岡はまだ望みを捨てず、日本政府は、蒋介石の二カ条について考慮討議する意図を持っている旨を十一月二十四日香港総領事館に打電せしめた。
この頃、ペニンシュラ・ホテルでは船津が旧友銭永銘と首をひねりながら語り合っていた。
「船津先生、西君は松岡外相なら、重慶の条件を考慮するだろうと言っているが、重慶からの密使は、蒋介石の第一秘書なので、一週間以上は待てない、今朝の飛行機で重慶へ帰ると言っている。東京からの返事はまだですか?」
「いや、正直言って、御前会議で汪の南京政府を認めると決議した以上、正式発足は時間の問題だね。撤兵はともかくこの第二条項は難しかろうね」
船津は本当の気持を率直に述べた。
「そうですか、やはりよい返事は期待出来ませんか」
二人が落莫とした気持で部屋で昼飯をつついていると、総領事館から返電があったという電話がかかって来た。あたふたと駆けつけると、松岡外相名で、先の二カ条について交渉の用意があるという。
急いで連絡事務所に電話をすると、例の覆面の密使は、待ち切れなくて今朝の飛行機で重慶に発《た》ったという。
「しまった。この松岡さんの返事を蒋総統に伝えないと、歴史の動きが変るぞ」
船津が歯がみをすると、銭は「いい方法があります。私の友人に杜月笙《とげつしよう》という|青※[#「邦+巾」、unicode5E2E]《チンパン》(秘密結社)のボスがいます。こいつなら中国官憲に顔が利きますから、重慶へ手紙を届けてくれるでしょう」と言い出した。
そこで、西と船津は親分の杜に会って手紙を渡し、アメリカ系のチャイナ・クリッパー機で香港から重慶に飛ばそうと考え、三人で、啓徳飛行場へやって来た。
ところが、パスポート・コントロールの出国ゲイトから内部の税関をのぞいた杜は、
「これはだめだ」
と首をふり、ベンチにすわりこんでしまった。この日は香港のイギリス官憲が乗客の荷物や所持品を厳重に検査していた。何かあったらしい。
「いつもは中国人の役人が検査するので、おれなら顔があるからフリーパスだ。しかし、イギリス人には顔が利かない。今日はダメだ」
と大親分の杜月笙も沈痛な表情でいう。
落胆している三人をあとに、チャイナ・クリッパー機は、轟々《ごうごう》たる爆音を残して離陸し、山並みの向うに姿を消してしまった。
西は、歴史の歯車が、ここでポロリと一個欠け落ちたのを感じた。
しかし、銭永銘は粘り強く十一月二十七日の飛行機に杜月笙をもぐりこませて重慶に飛ばせた。
一方、日本政府は翌二十八日、新しく発足した第一回大本営政府連絡懇談会(以下連絡会議とも略称する)で、「南京の国民政府承認」を議決した。このメンバーには無論外相松岡も入っていた。公式承認は十一月三十日とし、これを世界に公表する。そして、調印後は対重慶工作をしばらく中止するが、「対蒋和平を中止することなし」という不思議な条文も入っていた。しかし、それまで続いていた和知陸軍少将らの松岡工作援助(銭永銘に対する)を取り止《や》める、という一条も入っていたので、松岡は複雑な表情で会議に列していた。鈴木貞一陸軍中将(興亜院政務部長)の、「メドの立たぬ重慶工作を続けているうちに、汪兆銘の気が変っては困る。この際南京政府を認めるべきだ」という発言に対し、松岡はなぜか対重慶交渉の継続を主張しなかった。弁舌家の彼としては珍しいことであった。半ばあきらめたのか、それともほかに秘策があったのであろうか。孫文の大アジア主義に共鳴する彼が、簡単に蒋介石との和解を断念するとは考えられなかった。彼は蒋介石とも若い時に会っており、互いに相手を認め合った仲であった。
予期された松岡の反論がなかったので、蒋介石嫌いの近衛は、手早く、
「では、御意見がないようですから、国民政府承認の日華基本条約に調印することと致します」
と決をとった。
後に側近の証言によると、この頃松岡は胸部の疾患が高じ、高熱に悩んでいたという。
二十八日夜、松岡は連絡懇談会が、南京政府承認に踏み切ったという電報を香港の総領事館あてに打たせた。
一方、二十七日重慶に飛んだ杜月笙は、銭の密書を、蒋介石の側近に手渡すことに成功した。蒋介石は喜んで、銭の希望通り、前駐日大使許世英と張競立を重慶の代表として、日本と和平交渉を開始してもよいという電報を香港の銭のもとに打たせた。しかし、惜しむべし、この電報が香港に届いたのは、十一月二十九日夜で、その前夜に、松岡から、国民政府承認決定の電報が入電していた。西はここでも、歴史の歯車が一個欠け落ちたのを感じた。
「しまった、遅かったか。折角向うから応じると言って来たのに……」
田尻参事官は、泣かんばかりに口惜《くや》しがり、東京へ承認延期嘆願の電報を打った。これが最後の電報であろうと思われた。
この頃、松岡は高熱のため、千駄ヶ谷の私邸の奥の一室に臥《ふせ》っていた。
田尻からの電報を受けとると、彼は太田一郎書記官を呼んだ。香港からの電報には、許世英が十二月五日香港に行くから、南京政府承認はそれまで待ってくれ、と書いてあった。
「太田君、歴史の歯車は逆には回らないよ。南京政府承認は、もう決定事項だ」
病床の松岡は、いつになく神妙な口調でそう言った。
彼は高熱の体をおこすと、太田にこう告げた。
「香港を通じて、蒋主席にこう打電してくれたまえ。『尊敬する蒋介石先生、今回は多くの手違いがあり、時機を失して、親しく和平を商議することが出来なかったことを、誠に残念に思います。何卒《なにとぞ》お許し下さい。しかし、次回は重慶に於《おい》て必ず膝《ひざ》を交えて、日華百年の大計をご相談する機会があると存じます。何卒、その機会をお待ち下さい……』」
語り終ったとき、瞑目《めいもく》していた松岡の眼尻から白いものが糸を引いているのを太田は認めた。(注、この項、次の資料を参照。西義顕『悲劇の証人』船津辰一郎『南華交渉失敗日記』法務省資料『田尻愛義調書』種村佐孝『大本営機密日誌』田尻愛義『消えた重慶和平への道』上村伸一『日華事変』)
ところで、いつも奇弁快弁を弄する松岡が、この会議の決定に対してなぜ沈黙を守っていたのか。近頃、ロッキード事件で、黒幕として名高くなった児玉誉士夫の『悪政、銃声、乱世』には、次のような内容の記述がある。
当時、児玉は外務省の嘱託(月給五百円)で南京にいた。この銭和平工作について南京の支那派遣軍は電報を傍受して全貌《ぜんぼう》を知っていた。派遣軍の参謀たちは、この和平工作が成立すると、汪兆銘をかつぎ出した自分たちの面子がつぶれると考えた。そこで、直接松岡を脅すのはまずいので、特務機関で事件屋の児玉を呼んで、「松岡に和平工作をやめろ、と言え。やめなければ、今までの電文による重慶側との秘密工作を日本国中にバラす、と脅かせ。日本中の右翼が裏切者¥シ岡のもとに押しかけるだろう。但し、これは軍の意見として伝えられては困る。あくまでも、国を憂える愛国の壮士児玉誉士夫個人の意見として伝えて欲しい」と頼んだ。
二つ返事で引き受けた児玉は(恐らく多額の旅費をもらって)東京に飛んだ。会議の前日、松岡と密会した児玉は、凄味《すごみ》を利かせて松岡を脅かした。
「松岡さん。あなたが、支那を愛し、蒋介石と和平|裡《り》に手を結ぼうという気持は、支那浪人の私にはよくわかります。しかし、南京の陸軍は全部のやりとりを知っています。私の手元にもその写しがある。もし、どうしても和平工作を続けるとなれば、私はこの電文を新聞社に持ちこまなければならない。そうなれば、松岡さん、あなたの身柄も保証は出来ませんぞ」
松岡は黙念として腕組みをして聞いていたが、やがて、
「この和平がうまく行って、アメリカとの戦争が防止出来るならば、おれの命などどうなってもよいと考えている。しかし、陸軍がそれほど反対ならば、強行しても周囲の人に迷惑をかけるばかりだ。私にも力の限界というものはわかっている積りだ。残念ながら手を引こう。しかし、君は外交官でないからわからんだろうが、ここで汪政権を認めれば、もう二度と蒋介石と手を握るチャンスはなくなる。頼みの糸は切れるのだ。その結果は泥沼でやがて世界を相手にする戦争に陥るかも知れん。おれはこの工作が日本を救う一つの道だと考えているが、軍のわからずやにも困ったものだ」
と言ったきり瞑目した。
さすがの児玉も返す言葉がなかった。聞きしにまさる松岡の憂国の志と、スケールの大きいビジョンに感心した形で、妙な役を引き受けたものだ、と悔まれたのであった。
それから六年後、児玉が戦犯容疑者として巣鴨の拘置所に入ると、たまたま散歩の時間に、となりの庭に松岡がいた。
「やあ、松岡さん!」
児玉が金網越しに懐しそうに声をかけると、
「このバカめ! お前も来たのか」
と松岡は拳骨で殴る真似をしてみせた後、言った。
「あのとき、おれが言っただろう。蒋介石と手を切ると、世界戦争になるぞと。そうれ見ろ。おれの言うことを聞かんから、陸軍が国を滅ぼしてしまったじゃあないか」
「いや、どうも……」
児玉は、返事が出来なくて、頭をかくばかりであった。
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十七章 ベルリンとモスクワ
昭和十五年十一月六日、ルーズベルトは選挙に勝って第三十二代大統領として三選された。
その二日後、松岡は海軍大将野村吉三郎を駐米大使に起用、同月二十七日親任式を挙行した。
松岡は日米国交調整のためかねて野村を駐米大使にと望んでいたが、野村は松岡の国際政策に同調し兼ねるとして就任を拒んで来た。しかし、及川海相、豊田貞次郎次官らの説得でついに腰をあげたものである。
『昭和史の天皇30』(読売新聞社)は松岡が野村を説得した話を野村の「米国に使して」から引用している。
「十月二日、豊田海軍次官がアメリカ行きを説得に来たが、野村はまだ前途の見通しつかずとして就任を渋っていた。十月二十四日になると、松岡が自分でやって来た。そして、『野村さん、もう湊川《みなとがわ》に行っていただいてもよいときじゃありませんか』と大楠公《だいなんこう》の故事をひいて説得した。つまり、交渉は決裂するかも知れないが、他に人がいない以上最善を尽してもらいたい、という意味である。これは海軍軍人である野村の泣きどころを押えた殺し文句であったに違いない。しかし、野村が外相時代の秘書官で、アメリカにも書記官として同行した奥村勝蔵の話では、豊田貞次郎は野村より七期後輩で同じ和歌山県の後輩。つまり同郷の後輩の説得に屈した。また、野村がワシントンの大使館付武官当時(大正三年頃)ルーズベルトは海軍次官であったので、二人は旧知の仲であった」となっている。
野村は海兵二十六期で、主戦派の末次信正よりは一期、軍令部総長永野修身よりは二期、前海相米内光政より三期、そして連合艦隊司令長官山本五十六よりは六期上という海軍の長老であった。
野村は、欧米の駐在武官が長く、昭和十四年阿部内閣の外相を勤め、中国問題では、駐日アメリカ大使グルーと会談した経験をもち、慎重な良識派としてアメリカ側のうけもよいと見られていた。
野村は十一月二十七日、日米協会主催の壮行会で松岡の激励を受けて近く渡米することになった。彼はこのとき、自分が翌十六年十二月八日、暗号の解読遅延のため、真珠湾スネーク・アタック(だまし討ち)の責任者として、ハル国務長官から面詰される運命になろうとは、予期していなかったに違いない。
先にも述べたとおり、十一月二十四日には元老西園寺が逝去している。
そして、翌二十五日朝、横浜港に入港した日本郵船の客船新田丸(一万七千トン)には二人の注目すべき乗客が乗っていた。この二人は、後に日米和平交渉の立役者≠ニなる米人神父で、その名をジェームズ・E・ウォルシュとジェームス・M・ドラウトと言った。二人はニューヨーク市郊外メリノールに本山をもつメリノール派「米国カトリック外国伝道教会」に所属する神父であり、ウォルシュの方は厳密に言えば司教であった。
この二人が松岡にとって宿命的≠ネ役割を演じ、やがて明年七月、松岡を退陣に追いこむことになろうとは、誰も予期してはいなかった。
当の松岡も無論、この密僧≠フ役割について何の予備知識も持ってはいなかった。
松岡ははじめ知らなかったが、二人はアメリカ出国に先立って、元外交官の沢田節蔵と連絡をとっていた。沢田はニューヨーク総領事、ブラジル大使を勤め、松岡人事によってクビになった男である。この年十月下旬、沢田のもとに、ニューヨークのロバート・クッデヒーという旧知の出版人から電報が来た。それによると、貴兄もご存知のウォルシュ司教が部下のドラウト神父を同行して日本へ向って出発したから、日本へ着いたら政府要人にひきあわせてもらいたい、ということである。クッデヒーはニューヨーク総領事官邸のすぐそばに住んでいたので、パーティによばれるなど、沢田は親しくしていた。メリノール修道院というのはハドソン川の上流にあり、大きな刑務所の向い側一帯に位置を占めており、修道院内に郵便局を持つほどの大きさであった。沢田はクッデヒー家のパーティで、何度もウォルシュ司教とは会ったことがあった。しかし、はじめ沢田は不審に思った。アメリカは十五年一月日米通商航海条約を破棄して以来、日本側の希望する人物にはビザを出していなかったからである。
疑問を感じながら、沢田はまず同郷(鳥取県)の橋田邦彦文相に相談したところ会ってもよいという。沢田は当時天皇制の問題から在日の宣教師へ圧力がかかっているように考えていた。朝鮮の平壌《へいじよう》で宣教師が問題を起したことがある。こちらは軍関係なので、東条陸相に相談すると、会ってもよい、という返事である。あまり好きな相手ではないが、外相にも話を通すべきだと考え、十一月一日松岡に会って二人の来訪を告げると「どうぞ来て下さい」と歓迎的である。
十一月下旬、来日した二人は帝国ホテルに宿をとるとそのまま渋谷・穏田《おんでん》の沢田邸を訪れた。
二人の神父は熱心な口調で、意外な用件≠切り出した。それは宗教問題ではなく、外交問題で、「日米間の国交調整に関するもの」であった。二人は、
「このままでは日米国交は悪化する一方である。そこで自分たちは一つの解決案を持参して来た。何卒この案の実現に力をかしてもらいたい」
と熱心に説く。そして、その案というのは、「太平洋を二分割して、日本に近い方は日本に、アメリカに近い方はアメリカに所属させ、極東モンロー主義を共同声明させ、平和の均衡を計画する」という単純といえば単純、幼稚といえば幼稚なものであった。沢田は松岡外相がこのような密使≠相手にするかどうか首をひねった。
しかし、日米関係を重視する松岡は、二人がフーバー元大統領の秘書を勤めた有力財界人ルイス・シュトラウスから井川忠雄(産業組合中央金庫理事)宛《あて》の紹介状をもっていたので、十二月五日、二人を私邸のお茶の会に招待した。同席した加瀬俊一秘書官の回想によると、ドラウトの方はいかにもやり手[#「やり手」に傍点]という感じで積極的で、「もし自分が一時間でもルーズベルト大統領と会談出来れば、日米関係を改善する自信がある」と滔々《とうとう》とぶつので、松岡は苦笑していた。――そんなに自信があるのならば、日本などでうろうろせずに直接ルーズベルトに会えばよいではないか。このおれがヒトラーと手を結んでまでアメリカの圧力を封じようと努力しているのに、一人や二人の坊主がじたばたしたところで、どうなるものか――早くも松岡はこの神父たちをまじめには相手にしていなかった。
しかし、日米和平達成の使命感≠ノ燃えるドラウトは大まじめで十二月十四日、長文の「日米和平ドラウト覚書」を近衛総理に届けた。その要点は次の通りである。
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一、英独戦争に関連してアメリカの世論は激情的となっているので、対日戦争の危険がある。そこで、公式ルート以外の折衝によって日米関係を一発によって急転せねばならぬ。
二、日米共同して極東モンロー主義を宣言し、欧州帝国主義と共産主義を排除する。
三、こうなれば既成事実に即して日中戦争処理も可能となり、仏印、蘭印に関しても了解が容易となり、満州は別扱いに出来よう。
四、協定が可能となれば、日米首脳会談をホノルルもしくは東京で開く。十二月二十日頃がクリスマス精神がゆきわたっていて和平交渉に都合がよかろう。
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近衛はこの覚書を松岡に見せた。松岡はふふん、と鼻先で笑った。ホノルルあたりでルーズベルトと直接和平会談をもちたいというのは、かねてから彼も考えていたプランであった。何も神父などの手を借りなくとも、自分でプロポーズ出来る。しかし、それには四国協商をまとめて、日本の立場を有利にしてからでないと具合が悪いのである。察するにこのドラウトという男は、タチの悪いアメリカの密使か、あるいは売名の徒で、そのいうところは、現実を忘れて理想に走った空理空論の作文にすぎない、と彼は考えていた。幼少の頃、ポートランドで、敬虔《けいけん》なるキリスト教徒ダンバー・ベバリッジ夫人の愛育を受けた彼は、キリスト教を理解しようという点では人後に落ちない自信があったが、外交となると宗教一本では参らないので、もっと現実的な瀬踏みが必要であった。
しかし、やり手[#「やり手」に傍点]を自任?するドラウトの方は、すっかり日本政界の信頼をかち得たつもりで、十二月十九日、野村大使の壮行会で松岡が演説することを聞くと、是非この際「日本が西太平洋を、アメリカが東太平洋を分割支配するという共同声明」を提案しなさい、という演説草稿を作って松岡のもとに持参し、松岡を苦笑せしめた。
この日、松岡は、次の意味の「対米基本方針」を発表した。
「日米間の緊張は、日本の目的と抱負に対するアメリカの誤解にもとづいている。政治的活動というものは、地域に局限して考え、各地域に平和が確立されれば、集成的に世界は平和となる。支那の運命に関する米国民の態度は感傷的であるが、日本にとっては国家死活の大問題である。我々の建設的な事業にはさわらないで欲しい。支那における紛争と欧州における紛争がアメリカのような強大な国家の参加を見ることなく迅速に終ることを望む」
これを聞いたドラウトらは、これこそ自分が日本の首脳を説いた成果であるとして、これを手みやげに十二月二十八日帰国の途についた。たまたまこの松岡演説の前日十八日には、ドイツでヒトラーが「バルバロッサ作戦」の発動を指令していたが、松岡もドラウトもそれには気づいていなかった。
三国同盟締結以後アメリカの出方に注目していた近衛総理は、この二人の神父の提案に注目していた。彼は四国協商を自信あり気に推進しようとする松岡ほど強腰になれなかったので、溺《おぼ》れる者はワラをも掴《つか》むの心境で、この神父たちの情報に耳を傾けていた。神父たちの世話役となっていた井川忠雄に近衛が会ったのは、年があけて十六年一月十一日のことであるが、このとき、井川は近衛に興味ある密約?の話を伝えた。二人の神父はアメリカに帰るとすぐにルーズベルト大統領に面接して、和平交渉の日本高官の意図を伝えるが、その結果を暗号で知らせることになっている。difficult(交渉見込みなし)、good(各方面順調に進行中)、satisfactory(大統領考慮中)、complete(準備全くよし)の四種類である。近衛は大いに興味を持ち井川を信頼し始めた。
井川が近衛に会った九日後、一月二十日に、ドラウトからgood、翌二十一日にsatisfactoryの電報が入り、二十五日には平文電報で「ル大統領を訪問したが有望で、展開が期待される」、ついで二十八日「昨夜再びルーズベルトと懇談、きわめて有望」という知らせが届いた。近衛は大いに喜び、井川を信頼するに至った。実際はこの両神父は、ル大統領に直接会ったことは一度もなく、両国に都合のよいことを言っていたのであるが、近衛は不信を抱く松岡を抜きにして、直接この両神父をパイプにして、日米和平のいとぐちを掴もうと希求し始めた。たった二人の僧侶《そうりよ》の口車で、世界の難局が打開されるわけはないのであるが、そろそろ松岡を煙たく思っていた近衛は、松岡をさしおいて日米和平を達成し、それを自分の手柄にしたいという子供じみた考えも抱いていた。松岡をもちあげる軍部や右翼の間に、近衛は松岡抜きでは何も出来ないではないか、という声があったからかも知れない。
十六年三月十一日、昨年より懸案の泰仏印国境紛争調停は、松岡の努力により、日本軍の武力進出を用いることなく調印の運びとなった。後世「南方進出」を論ずる史家は、この松岡の和平的ネゴシエーションを高く評価するが、四国協商――日米和平のラインに熱中している松岡としては、南方進出でアメリカを刺激したくないというのが本音であったろう。
翌三月十二日、待ちかねたように松岡とその随員一行の訪欧が発表され、松岡は随員十二名を連れて、十二日夜東京駅を出発した。
随員のなかには外務省欧亜局長の坂本|瑞男《たまお》、外相秘書官加瀬俊一、外務省調査官(秘書官相当)長谷川進一、同嘱託西園寺公一、同盟通信編集局次長岡村二一(唯一人のジャーナリスト、後東京タイムズ社長)らの顔も見える。このうち、加瀬氏(戦後国連大使)は今も健在で松岡の動きを中心とする昭和前史を執筆しておられ、ジュネーブ当時時事新報記者として松岡に同行した長谷川氏も東海大教授として健在で、共に本編のため多くの貴重な資料の提供を仰いでいる。
文学ファンにとって注目すべきは、首席随員の坂本瑞男の存在であろう。坂本は作家高見順の異母兄にあたる。高見は本名高間芳雄といって、明治四十年、当時の福井県知事坂本|※[#「金+彡」、unicode91E4]之助《さんのすけ》の庶子として福井県三国町に生れた。高見の母は三国の旧家覚前屋の一人娘で名を高間古代といった。県知事の坂本が三国町を視察するに当り、鉄道建設を陳情する必要を感じた三国町長は、家財の傾いた高間家に経済的援助を与えることを条件に、三国小町と名の高い古代を県知事の夜伽《よとぎ》に差出すことを提案し、古代の母コトを説得した。普通夜伽といえば芸者が通り相場であるが、素人娘を提供せしめたところに、当時の県知事の権勢というものが推察出来るであろう。
坂本※[#「金+彡」、unicode91E4]之助には、当時長男瑞男、次男越郎(詩人)がいた。
また※[#「金+彡」、unicode91E4]之助は旧尾張藩士永井|匡威《まさたけ》の三男で、匡威の長兄久一郎の長男壮吉が作家、永井荷風なので、荷風と高見順、そして坂本瑞男は血のつながる従兄弟《いとこ》である。
高間古代は、芳雄(順)を生むと終生結婚せず、独身で生涯を終った。彼女は坂本家にコンプレックスをもち、麻布の坂本家に近いところに小さな家を借りて順を育てた。※[#「金+彡」、unicode91E4]之助は出世して貴族院議員となり、枢密顧問官にもなった。
古代は坂本家の長男瑞男が一高東大を出て外交官になると、息子の順にも一高東大を出させて、官吏にしようと考えていた。しかし、順は一高東大を出たが、作家になってしまったので、古代を随分落胆させた、と伝えられている。
さて、三月十二日早朝、松岡が起床すると間もなく、鮎川義介と豊田貞次郎が激励にやって来た。その後、松岡は外務省顧問の斎藤良衛を伴って明治神宮に参拝。昼は次官、顧問らと会食、ついで外務省部課長、ドイツ記者団、ソ連大使と会見後、貞明皇太后に謁見、午後四時川越茂外務省顧問、田尻参事官と会談した。松岡は川越と田尻に、「対重慶工作はまだ糸が切れたわけではない。おれの訪欧中に何とか工作してみてくれ」と頼んだが、両人は困難を感じた。しかし、松岡はヨーロッパがすんだら重慶、その次はホノルルか、巡洋艦の艦上でルーズベルトと会うことを考えていた。(長谷川進一、岡村二一両氏の談話と手記による)
十二日夜、東京駅は近衛総理をはじめ、松岡見送りの人の山であった。こういうとき、松岡は発車直前に姿を現わすことになっていた。近衛は、「まだ外相は来ないのか」と黒田秘書官に電話をかけさせたりした。その近くには参謀総長の杉山元が立っていた。多くの本には「杉山メモ」が引用されており、このとき松岡が杉山のそばに近より「どうしてもシンガポールはやらないかね」とささやいたのに対し、杉山は「そんなことは言えない」と返答した、となっている。
これはどうもおかしい。松岡は仏印への武力行使に反対し、南部仏印進駐にもブレーキをかけたはずである。その人間がシンガポール攻撃をうながすような言辞を吐くとすればこれは分裂的症状である。
松岡訪欧の大目的はソ連を含む四国協商を作ることで、これにドイツを仲介人として協力せしめる必要があった。ドイツを釣る最大のエサは日本軍のシンガポール攻略である。松岡はヒトラーと会えば彼がシンガポール攻略を持ち出すに決っていると推察していた。そこで、杉山に「シンガポールの話が出たら、どう答えればよいか」位の質問はあったに違いない。それも、真面目に尋ねるならば、陸相官邸あたりで内密に協議すべき問題である。東京駅頭で、「どうしてもやらないのか」とせめつけるように訊《き》いたとすれば、酒に酔っていたとしか思われない。その論拠はおって説明しよう。
一行は翌日伊勢神宮、伏見桃山御陵(明治天皇を祀る)に参詣《さんけい》、朝鮮の大邱《たいきゆう》から満州の新京(長春)までは軍用機を利用した。このあとソ満国境からシベリア鉄道の特別展望車におさまり、モスクワに向うのであるが、不息庵《ふそくあん》宗匠こと松岡は途中数々の名句?をものしている。
出発(三月十二日)
椰子《やし》の主去りて大鵬《たいほう》北へ飛ぶ
椰子の主とは、南方問題の担当者という意味であろう。
伊勢|大廟《たいびよう》に詣《もう》でて(三月十三日)
春の旅日本晴や神詣で
大和女《やまとめ》の星辰《せいしん》仰ぐ門出かな
郷土通過(三月十四日)
柳条や古里の人我送る
三田尻のあたりで、彼は五年前九十四歳で世を去った母ゆうのことを偲《しの》んだ。
鮮満の空を飛ぶ(三月十五日)
春風や六竜に駕《が》して使《つかい》する
松岡の一行は三月十七日未明、満州里に着いた。ソ満国境は雪であった。ソ連の官憲が出迎えるうち午後二時、松岡たちは特別列車「赤い矢」号に乗り込んだ。出迎えのソ連官憲は松岡はドイツに行くものだと考えていた。無論彼が四国協商問題を胸中に秘めて、モスクワで日ソ中立条約を結ぼうなどとは予期していなかった。世界でもこの点に気づいていた人間は少なかった。
『太陽はまた昇る――公爵近衛文麿――』(立野信之、講談社刊)には、一月中旬発熱して病臥《びようが》中の近衛が、書記官長の富田に、松岡の訪欧の理由について語る場面がある。
「あの同盟成立祝賀会のとき、東京、ベルリン直通電話で松岡がリッベントロップと話をしたね。そのとき、ドイツに行くという約束をしたというんだな。三国同盟が出来た以上友邦の実情を知らなければいけないとか、途中でモスクワに寄って懸案の日ソ不可侵条約を結んで来るとか、盛り沢山に並べ立てていたが、要するにスターリンやヒトラーやムッソリーニと、やあやあと握手して大きな顔がしたいだけですよ」
この談話が事実とすれば、近衛は松岡の四国協商に大きな期待をかけていなかったとみられるが、松岡の構想を知らなかったはずはない。すでに述べたように、前年十月建川新大使からモロトフに日ソ不可侵条約の提案があり、十一月モロトフがベルリンを訪問した際にもリッベントロップは三カ条の四国協商案を提示している。この動きは日本政府にわかっていたはずであり、近衛も承知していたはずである。それでもなお近衛が書記官長の富田に、松岡は何をしにゆくのかわからない、とぼやいていたとしたら、近衛はろくに実情を知らなかったのか、あるいはおとぼけなのか、いずれにしてもこの段階では松岡に好意を持っていなかったとみなければなるまい。前年七月荻外荘の四者会談で、三国同盟を提案し、松岡の協力を求めたのは近衛の方であったが、三国同盟が出来る頃には、貴公子近衛としては松岡のアクの強い性格に尻ごみをし始めたのか、あるいは総理の影をうすくするほどの活躍ぶりに嫉妬《しつと》を感じたのか、いずれにしても、松岡渡欧の頃には近衛の松岡に対する信頼感と友情はうすれて来ていたとみてよかろう。松岡の四国協商案をよそに、近衛は二人の神父や、井川忠雄を頼りに日米交渉を続けていた。松岡が神父たちにそっぽを向いているのをよいことに、こちらで日米交渉を妥結させ、自分の点数をかせごうとしたのかも知れない。結局神父を通ずる日米交渉は実りのないものに終り、最近の研究では、神父たちの動きは、ルーズベルトやハルが時をかせぐための謀略であったという説が強い。当時、アメリカでは、ヒトラーのオットセイ作戦による英本土上陸作戦が接近しているという見方をしている政治家が多く、そうなればアメリカの対独戦参加は必至であり、この場合日本から背後を衝かれぬため、日米和平を談じて日本の参戦を引きのばしておく必要がある。日本が対米戦を予想して背後を固めるためソ連との不可侵条約を考えていたように、アメリカも太平洋の西側から日本の脅威を感じていた、というのである。
この見方は興味深いものがある。というのは、十六年六月二十二日、ドイツがソ連に侵入し、英本土上陸の可能性がなくなったとみるや、アメリカは露骨に日本に対して敵意を燃やして来るのである。そして、十一月二十六日のハル・ノートとなって日米戦に突入するのである。このあたりのアメリカの動き、とくに、ワシントンに密封されているというルーズベルトの動きについては、新しい資料の公開が待たれる。
さて、三月十七日、満州里で松岡の一行がロシアの特別|車輛《しやりよう》に乗り移ったとき、不息庵宗匠・松岡は、上機嫌で一句をものした。
暇《いとま》乞う満洲野《ますの》の山に雪光る
車内には機密、普通をとりまぜて、情報やら激励やら山のように電報が持ちこまれた。そのなかに、大橋外務次官の次のような短歌があった。
願わくばヒトムソスタをこきまぜし薬一服国の土産に
「これはどういう意味だ?」
不息庵宗匠も首をひねった。
すると、シャープな加瀬秘書官が、
「これはですね、大臣。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンを丸めこんだ妙薬を持ち帰っていただきたい、という意味でしょう」
と言ったので、松岡も「なるほど」と合点が行って次のような返電を打った。
「貴電|拝誦《はいしよう》、満州里出発に際して『雪の上に東の空を拝みけり』」(注、訪欧中の松岡の行動は主として長谷川進一調査官(現東海大教授)の『松岡外相訪欧日記』と岡村二一同盟特派員の談話及び立野信之の『太陽はまた昇る』による)
松岡一行のシベリア鉄道の特別列車は「赤い矢」号の後尾二輛で、木部は樺《かば》の木を使った新造車である。最後尾の展望車は松岡の専用車で、居間兼サロンのほかに大きな食堂と浴室がついている。この食堂車にはモスクワから派遣された一流のロシア人コックと太い髭《ひげ》を生やした堂々たる体格の給仕人が三人ついていた。
他の一台は随員用で、坂本首席随員のほか、秘書官、特派員、それに外務省嘱託の西園寺公一、陸軍大佐永井八津次、海軍中佐藤井茂、日赤看護婦後藤シズエ、日本食調理師橋口四郎などの寝室があった。
前年十一月に亡くなった西園寺公望の孫公一が一行に加えられたのは、二十二年前の大正八年、ベルサイユ講和会議のとき、首席全権の西園寺公望が、勉強のため若い近衛文麿を同行した故智にならったものであるという。看護婦の後藤シズエは毎日松岡に灸《きゆう》をすえるのが役目であった。松岡は肺結核が持病であったが、そのほかにも健康を害していた。気概でもたして、意気|軒昂《けんこう》を装っていたが、彼はこの訪欧の五年後には世を去るのである。
列車は三月十七日午後二時、白皚々《はくがいがい》のシベリア平野を西北に走った。これからチタを経てバイカル湖の南を回りイルクーツク、ノボシビルスクを経てモスクワまで一週間の旅が続くのである。
発車すると間もなく、一同は大食堂に集った。料理は豊富で、アルコールもウオトカ、ビール、コニャックなど上物である。
食堂の最上席が松岡の席であるが、その後ろに大きな電蓄がおいてあった。松岡はじろりとその電蓄に視線をやると、それを背にして腰をおろし、カスピ海産のキャビアを肴《さかな》にコニャックを呑み始めた。
調理人の橋口は、日本食をつくる材料がないので、自ら料理の毒見役をかって出た。彼は英雄¥シ岡の心酔者で、松岡のためなら身命をなげうっても悔いないという郎党の一人であった。
松岡がキャビアやイクラ、ザクースカという前菜の数々、タバカという鶏の丸焼きなどに手をつけようとすると、橋口が素早くそれをとりあげて、自分が少量を食べてみせる。
「ああ、閣下、このキャビアは大丈夫でございます。毒は入ってはおりません」
と橋口は忠義顔して報告する。
「いいからお前は黙っておれ」
面倒臭くなった松岡は、そう言って橋口を制する。松岡には一つのおもんぱかりがあった。それは背後の電蓄である。
しばらくすると、松岡は、「今日は日本内地では話せない話をしよう」と前置きして、大きな声で、次のような話を始めた。
「まず、大正七年のシベリア出兵のことだ。日本は二千人ほどの朝鮮人を救うという名目のために、シベリアに出兵して過激派と戦い、ロシア人に恨まれた。しかし、ロシア人は日本のシベリア出兵の真意を知らない……」
そこまで来ると、海軍の藤井中佐が、
「大臣、その話はそのへんでおやめ下さい」
と注意した。
実をいうと、列車が満州里に着く前、関東軍の中佐参謀がやって来て、「ロシアの汽車には秘密録音装置があるから注意していただきたい。時計、ラジオ、電蓄の類があったら、余計なことは話されない方がよろしい」と注意をして行ったのである。藤井のみるところこの大きな電蓄はまことに意味あり気で、録音機としては絶好である。それで松岡を制したのであるが、松岡には松岡の魂胆があった。松岡は大声で続けた。
「しかし、日本もまたあの出兵の真相を知らなかった。日本はアメリカとイギリスにおだてられて、零下何十度という極寒のシベリアをさまよったのだ。三国共同出兵といっても、米英は軍隊を少しだけ出して中止してしまった。日本だけが馬鹿正直に軍隊を残して、戦死者よりも多くの凍死者を出してしまった。シベリア出兵は日本の政治家が米英にだまされたのだ。日本は長い間米英にだまされて来たが、このへんで目をさまして、同じアジアのロシアと手を結ばねばいかん。元来、ロシアの大部分はアジアにあり、東洋と深い関係をもっている。スラブの本質は東洋人だとわしは見ておる。われわれ日本人も東洋人、中国も東洋人、東洋人同士は仲よくやんけりゃあいかんのだ。わかるかね、諸君……」
そう言われても、一同のなかには、なぜ松岡がシベリア出兵の話を始めたのか、わからない人物もいた。しかし、藤井中佐と永井大佐には松岡の意図が読めていた。松岡は、録音機である電蓄を背後にして、親ソ論をぶち、四国協商の小手調べをクレムリンに伝えようと試みたのである。
部屋へ戻った藤井中佐(長州出身)は、外相は早くも対クレムリン外交を始めたな、と苦笑した。
西へ向う松岡一行の旅は続き、不息庵宗匠の句作も盛んになる。
三月二十日
白樺の林つづくや雪の旅
三月二十一日
青空と雪に暮れゆくシブの旅
シブとはシベリア在住のシブ族のことで、十六世紀頃このあたりにはシビール汗国があった。また、ロシア語では北のことをシェビールという。(ちなみに南はユーゴで、ユーゴスラビアは、南のスラブ人の国という意味である)
松岡は一万語就寝居士≠ニいわれ、その雄弁ぶりは何度も述べたところであるが、児島襄氏(『天皇』の著者)のように、その雄弁の内容を認めている人もいる。
「松岡外相の雄弁≠ヘ単なる発声練習でもなければ、無意味な饒舌《じようぜつ》でもない。昭和史をふりかえるとき、松岡外相は最も強烈な個性を発揮した政治家の一人である。その構想はときに乱調気味であったり、突然変転したりしたが、常に卓抜で新鮮であった。その姿勢はしばしば『強引』『独善』『頑固』といわれたが、当時政治家も官吏もおしなべて遠慮を示した軍部に対しても、彼は文字どおりに遠慮なくこれらの特性を顕示した。
『松岡時代には松岡自ら案を突然連絡会議に出して、強引に押しつけるやり口であった。見上げたものであった』
とは陸軍省軍務局高級課員石井秋穂中佐の回想であるが、該博な知識と鋭敏な着想、そしてときには軍人を圧伏する気魄《きはく》に裏打ちされた松岡外相の弁舌は、一般的な能弁の水準をこえていたと言える。
その政治構想もグローバル(世界的)な雄大性を具備していて、その点でも当時の政治家のなかでは抜群の視野の広さが目立つ。
ただ、そういう頭脳の回転速度が早く奔放な発想力に富む人物に共通する特質として、松岡の発言もとかく飛躍性と誇張性に富み、その能弁はしばしば怪弁≠るいは奇弁≠フ印象を与えた。
しかし、そのような印象やはた[#「はた」に傍点]目とは別に、松岡は小心または細心な性格であり、しゃべる場合にはいつも緻密《ちみつ》な計算が働いていた」
長々と引用したが、このなかには雄弁家松岡の本質を衝いている部分があると見られよう。
長いシベリアの旅の途中、松岡は対クレムリン外交的宣伝ばかりやっていたわけではない。
かくしマイクがないとみられるサロンの一角では、藤井中佐を相手に重大な構想を洩らした。
「なあ、藤井。今度のヨーロッパ旅行はな、松岡一座の旗あげ興行の顔見世だぞ、わかるか。これが終ってからいよいよ千両役者が檜《ひのき》舞台を踏むことになるのだ。つまり、三国同盟や日ソ中立条約はまだ序幕だ。本舞台はアメリカだよ。おれはすでにスタインハート(駐ソ、アメリカ大使)を通じてあたりはつけてある。本舞台で千両役者が大芝居を打って、世界の恒久平和をとりつけるのだ。わかるか(松岡はルーズベルトとの会談を考えていた)。そのためには陸海軍がおれの言い分を呑んでくれるようにまとめてもらわねばならんな。なあ、藤井、おれは今日こんな川柳を作った。『馬の脚かくれていてこそ芝居なり』いいか、陸海軍は馬の脚だ。それが縫いぐるみの下からやたらと顔を出すから困るのだ。馬の脚は千両役者(自分のこと)のケツの下でばたばたしておればよいのだ。ヨーロッパが終ったら、いよいよ松岡大一座が大幟《おおのぼり》を押し立てて一世一代の大芝居を打って世界を驚かすのだ。いいか、その千両役者はおれだぞ。軍部には口を出さんようによく言っておけ」
松岡は軍部を抑えて支那からの撤兵を行い、ルーズベルトとの日米和平条約締結を行う自信を持っていた。しかし、それには今度の訪欧を実りあるものにしなければならない。松岡は大事を前にして、藤井と永井に軍部の自重を説くことを忘れなかった。その一方で不息庵宗匠の句作はとぎれなく続いた。
三月二十二日
ウラル山|何時《いつ》越えけるか雪つづき
三月二十三日
杉松と樺の森ゆく橇《そり》の人
九とせ経《た》ちまた露都入りや雪の中
この頃、藤井中佐はロシア人の給仕人のなかに日本語を解する男がいることに気づいていた。将軍かとも見まがうその大男は、松岡の近くに立っていて、松岡が世界の政局やロシアやスターリンに言及すると、びくりと眉を動かすのである。藤井はそのことを松岡に告げたが、松岡は「なあに構わんさ。電蓄と同じで、こちらは承知ずみさ。せいぜいメモをとっておくがよかろう」と気にもとめないようであった。
三月二十三日午後二時十三分、「赤い矢」号はモスクワのカザン駅に着いた。前日までは雪でこの日の朝は晴れていたが、松岡の一行が到着する頃はまた雪となっていた。
雪のカザン駅は寒かった。松岡はシューバ(ロシア式の厚い毛皮|外套《がいとう》)を着込み、アストラカンのトルコ帽をかぶり、ブライアのパイプをくわえ、ステッキをついてプラットホームに降りた。
モスクワの駅に降り立った松岡はすっかり落ちついていた。初めて彼が二等書記官としてペテルブルグに赴任したのは、明治四十五年のことで、それから約三十年が経過していた。ジュネーブへ赴く途中モスクワに立ちよって、当時の外相リトビノフと会い、日ソ提携の瀬踏みをしたのが昭和七年の秋のことであるから、そのときからも早くも九年が経過していた。
「赤い矢」号がカザン駅に着く前、キーロフ駅に停車したとき、早くも朝日新聞のモスクワ特派員が乗りこんで来た。松岡は一緒にヨーグルトとロシア紅茶の朝食をとりながら、インタビューに応じた。内容は得意の日ソ協力論である。
「私は後藤新平伯の後輩である。日本とロシアは協調してアジアの平和に任ずべきであるという持論は三十年前二等書記官としてロシアに駐在した頃から変ってはいない。スラブ民族は半分はアジア人種なのであるから、ロシア人と日本人とは感情精神共に大いに共通するところがあるわけだ。両国共現在は発展の途上にある。九年前来たときにくらべるとシベリア鉄道の料理や沿道のロシア人の服装などには進歩の点が見られる。今後もこの国は進歩を続けてゆくであろう……」
松岡が長広舌をふるっている間に、「赤い矢」号はカザン駅に着いた。
ここでモスクワの駅についてちょっと説明しておこう。モスクワには十近くの鉄道の駅があるがモスクワ駅というものはない。レニングラードへ行く駅はレニングラード駅、キエフへ行く、あるいはキエフから到着する駅はキエフ駅という。シベリア鉄道はカザンを通ってゆくので、カザン駅に到着する。(レニングラードにはモスクワ駅がある)
この日カザン駅では建川大使を初めロゾフスキー外務次官、バルコフ儀典部長、ツアラブキン極東部長、それに枢軸の独伊大公使らが出迎えた。
カザン駅のプラットホームには屋根がないので、松岡は雪のなかを歩いてソ連外務省の車で宿舎に向った。宿舎はオストロフスキー・ペレウーロク八番地の迎賓館である。
松岡は車のなかから九年前とはうって変ってにぎやかになったモスクワの中心街を興味深く眺めた。革命直前モスクワの人口は百二十万であったが、この頃は四百五十万に膨脹していた。九年前よりは大型タクシーの数もぐっと増え、バスやトロリーバスも忙しげに走っている。松岡はこの国の発展を認め、なに東京だって、九年前にくらべればぐっと賑《にぎ》やかになっている、と考えたが、支那事変の出費で、国内の普通の場所では、シベリア鉄道でサービスされたような豪勢な料理は望まれなくなっていた。
モスクワでは一泊しかしない。
迎賓館に入ると、松岡はすぐに建川大使を呼んでモロトフとスターリンに会いたいと申し入れた。会談は翌日の予定で、この日の夜一行は芝居を見物した。
松岡・モロトフ会談は翌二十四日午後四時クレムリン宮殿の首相官邸三階の首相執務室で行われた。モロトフはみかけは無骨であるが、話をしてみると外交官だけにソフトな感じで、松岡とはすぐに打解けた。松岡は日本語で、三国同盟以後の日本の考えを説明し、ソ連との友好を心から切望している旨を述べた。ロシア大使館の宮本参事官が通訳した。
松岡がスターリンに会いたいというと、モロトフは気軽に卓上電話をとりあげると、スターリンを呼び出した。
「書記長はすぐにここへ来ます」
とモロトフが言った。
間もなく扉の向うに重々しい足音がして、太い髭を貯えたスターリンが姿を現わした。
松岡は九年前のモスクワ訪問のとき、スターリンとは顔を合わせているが、正式に会談するのは今回が初めてである。
スターリンは農民のようにがっしりした体を灰色の詰襟《つめえり》の服に包んでいた。スターリンは、コーカサスのグルジア共和国のゴリの生れである。筆者は二回グルジアの首都トビリシを訪れたが、グルジア人は体格ががっしりとしており、成年の男はみな太い髭を生やし、熱血的である。彼らは郷土愛に燃え、どこの町へ行っても、仲間同士で集り、ワインを呑んでは郷土の歌を絶叫する。戦闘的であり、排他的でもある。スターリンの郷里ゴリでは、いまもスターリンは英雄であり、スターリンの銅像がここだけには残っている。スターリンが批判されて以来グルジアは反モスクワ的であると言われる。グルジアにおけるスターリンは鹿児島における西郷さんを思わせる。旅行者の私には、グルジアは、キリスト教の遺跡に富み、コニャックとワインと紅茶のうまい国としか映らなかった。
松岡は宿願のスターリンとの会談に入ることを得て感激していた。これが日ソ、日米不戦、恒久平和の礎となるならば、はるばるシベリアを越えて来た甲斐《かい》がある、というものだ。
彼はシベリア鉄道におけるソ連政府の厚遇に礼をいうと、この男らしい率直さで四国協商の瀬踏みに入った。
まず、彼は先にリッベントロップがモロトフを通じて申し入れた四国協商の条項を読みあげた。そのなかには重要な第三条「日独伊オヨビソ連ハオノオノ他方ヲ敵トスル国家ヲ援助シ、マタハカクノ如キ国家群ニ加ワラザルコトヲ約ス」も入っていた。
スターリンはうなずきながら聞いていた。この時点で彼には大体日ソ不可侵条約締結に対する腹案が出来ていた。前年末ヒトラーがバルバロッサ作戦を発動したことを彼は知らなかったが、独ソ間は悪化しており、この際、東方のフロントである日本と不可侵条約を結んでおくことは望ましいことであった。
独ソ間の悪化について日本は乏しい情報しか持ち合せていなかった。松岡もベルリンに着くまでは、バルカン工作の不調以外にくわしい情報を入手していなかった。ただ一人、前年夏、松岡によって解任された東郷茂徳駐ソ大使は、十一月五日、近衛首相に「独ソ関係は最近とみに変調を来している。ドイツをブローカーとして日ソ間を調整せしめることは困難であろう」と正確な情報を送って来ている。重厚で剛直な東郷大使を解任したことは、松岡のマイナスの一つであろう。
さて、松岡はリッベントロップ案を読み上げただけでは来た甲斐がないと考えて、独自の飛躍した日ソ提携論をぶち上げた。
「日本人は昔から道義的共産主義[#「道義的共産主義」に傍点]者である。この理念は遠い昔から子々孫々受けつがれて来た。しかし私は政治的[#「政治的」に傍点]共産主義はうけ入れない。日本人の道義的共産主義という美点は西洋から輸入された自由主義、個人主義、利己主義などのために打ちこわされてしまった。この新しい思想を輸入したのがアングロサクソンであります。日本人は資本主義の国アングロサクソンに対して古い自我を回復し、新秩序建設への努力を続けております。ソ連に対しても、資本主義の大国アングロサクソンは敵であります。ここは歩調をそろえてアングロサクソンに対抗すべきと考えますが、スターリン書記長はいかがでしょうか?」
松岡はここぞとばかり、熱弁をふるった。このなかで日本人は道義的共産主義であったという言葉は、よほど日本の歴史を説明せねばロシア人にはわかるまい。八紘一宇《はつこういちう》の建国精神を指さしているのか、天皇のもと万民は一視同仁といわれた理念をさしているのか、あるいはもっと具体的に大宝律令下の班田収授の法や、明治天皇の五箇条の御誓文にある「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という条項をさしているのか? とに角、日本が鎌倉期以降武家政治のもとで封建制度を続けたことは歴史的事実であるから、道義的共産主義という言い方は、よほど説明しないと、怪弁とうけとられかねないであろう。
しかし、グルジアの靴職人の子である書記長スターリンは、素朴にそれをソビエトへの好意とうけとめ、
「ソ連も貴兄の趣旨には賛成です。三日ほど御滞在出来るならば、貴提案に対する回答を差上げましょう」
と丁重なものごしで答えた。
松岡が、
「有難う。しかし、往《ゆ》きは日程がつまっているので、御回答は帰りにゆっくりうかがいましょう。何しろ、ベルリンとローマがうるさいもので……」
と少しユーモラスなポーズで答えた。スターリンは片眼をつむって気軽にそれに応じたが、松岡を送り出すとき、モロトフとめくばせした後、「ソ連とイギリスの間は今までもうまくはゆかなかった。今後もうまくはゆくまい……」
と呟《つぶや》くように言った。
松岡は大きな期待を胸に抱いてクレムリンを辞した。万事は順調で、彼の方寸通りに進行していると思われた。ところが小さな異変が彼を悩ませた。
この前日の夜、松岡の一行は芸術座に招待されてゴリキーの「どん底」を見せられた。松岡は休憩時間にアメリカの駐ソ大使スタインハートと会い、「日ソ関係はうまくゆきそうだ。次はルーズベルト大統領と会見しアメリカとの国交をうまく調節したいから、よろしく頼む」と依頼した。一説にはトイレを出た廊下で立ち話をしたとも伝えられる。
たまたま廊下を散歩していたUPの記者がそれを目撃して「松岡、スタインハートと日米交渉を打診か?」という推測記事を各地に打電した。東京の同盟通信本社でもこれをキャッチした。二十四日朝編集局長松本重治は、直ちに電話でモスクワの岡村二一特派員を呼び出して怒鳴りつけた。
「おい、岡村、君は何のために松岡外相にくっついているのだ。昨夜は女でも買っていたのか!?」
岡村はびっくりして松岡のもとにかけつけた。松岡はクレムリンでスターリンと会談中であった。前夜岡村は同盟のモスクワ支局を訪れ、ウオトカを飲んでいて劇場には行っていなかった。
松岡がクレムリンから帰って来ると、部屋にとびこんだ岡村は顔を真っ赤にして噛《か》みついた。
「松岡さん、ひどいじゃあないですか。日本の新聞界を代表して随行している私に黙ってスタインハートに会うなんて……。私の面子《メンツ》をどうしてくれますか。場合によっては、私はこのまま帰国しますよ」
すると、松岡は苦笑しながら岡村をなだめた。
「まあ、そう怒るな。スタインハートには、どこの国の新聞記者にも話すな、と言っておいたのに、どこからバレたのかな?」
そういうと、松岡は声をひそめ、
「岡村君、君には話しておくが、ぼくはソ連と不可侵条約を結んだら、次はアメリカへ飛んでルーズベルトと中立和平条約のじか談判をやるつもりだよ。それでスタインハートにルーズベルトが今度の訪欧について誤解しないように伝言を頼んでおいたんだよ。但し、君、このルーズベルトとのことはまだ極秘だから、記事にはしないでくれ、頼む」
「…………」
岡村は――書かれざる特ダネか――と苦い顔をした。松岡、ルーズベルトとの会談を目論《もくろ》む……これは対スターリン、ヒトラー会談のあとに来る大きな話題である。これが成功すれば歴史は変るかも知れない。しかし、今ここで無理をしてスクープを発表すれば、どのような妨害が入って会談が立ち消えになるかも知れない……。難しい顔をしている岡村に、
「君、これからは何でも君にはかくさんで話すから怒らんでついて来てくれんか」
と松岡は慰め顔で肩を叩いた。
岡村が報道陣ただ一人の新聞記者として一行の仲間に加わったとき、松岡はご機嫌斜めであった。松岡にはもっと親しい記者が朝日、東日、読売などの大新聞にいた。しかし岡村とは面識がなかった。それで松岡はあまり岡村に声をかけず、岡村の方も親しもうとはしなかった。しかし、このスタインハート事件で、怒った岡村を見て松岡は本音を吐いた。これ以降二人は急速に接近し男と男のつき合い≠ニなるのである。
松岡がルーズベルトとの和平会談を考えていたという岡村の話は、戦後二十年近くたった昭和三十九年の「中央公論」八月号「日ソ不可侵条約と松岡洋右」で明らかにされ、また筆者が杉森久英氏から借りた岡村談のテープのなかでも明らかにされている。また加瀬俊一氏も筆者への談話で、「松岡さんはホノルルでルーズベルトと会談して、中国からの撤兵などを条件に和平会談を持つことを企画していた。これについて旧知の通信社社長のロイ・ハワードに斡旋《あつせん》を依頼し、ハワードからOKの返事をとっていた」と証言している。
松岡の日本人は道義的共産主義である、という発言は日本にも流され、問題となった。枢密顧問官深井英五(元日銀総裁)は松岡の帰国後、「用語上不適当である」として論難した。松岡は「余のいう意味は天皇即国家という意味で、ソ連人ならば道義的共産主義という言い方をするであろうと考えて言ったのだ」とよくわけのわからないことを言って謹厳なる深井を煙に巻いた。
松岡はカチカチの天皇崇拝者のくせに時に過激な表現を用いた。同行の西園寺公一をスターリンに紹介するとき、
「この青年は日本の貴族のなかのボリシェビキ(ロシア革命時のレーニン派=右派に反対する過激派)ですよ」
と言って、スターリンを苦笑せしめた。スターリンこそはレーニンの側近NO1で、ボリシェビキの巨頭であったのである。この日本の外相は、ボリシェビキの本当の意味を知っているのだろうか、と髭の書記長は心のなかで首をひねった。
また、これは帰路の話であるが、クレムリン内に入るには、いかなる外国の軍人も平服で入ることになっていたが、松岡は永井陸軍大佐と藤井海軍中佐に軍服で同行することを命じた。慣例を無視されたスターリンが異様な表情を示していると、松岡は、
「この二人の軍人はいつもいかにしてロシアをやっつけるかを考えている連中ですよ」
と二人を紹介した。
スターリンは呵々《かか》大笑して、
「それはそうだ。ロシアの軍人もいかにして日本をやっつけるかに苦心しているんだ。軍人はそうでなければいかんよ」
と大いに打ちとけた顔色になった。怪物、怪物を知るというところであろうか。
スターリンに対して一応の瀬踏みを果した松岡の一行は、わずか一泊しただけで三月二十四日夜、十一時、モスクワの白ロシア駅からあわただしくドイツへ向けて出発した。
列車は再び「赤い矢」号で、白皚々たるヨーロッパロシアの草原を西へとひた走る。
翌二十五日は雪もやんで、よい日和であった。汽車に乗ると、不息庵宗匠の句作が再開される。
モスクワよりベルリンへ
小春日にミンスクの駅を通りけり
旧ポーランド占領地帯にて
白妙《しろたえ》の海にあちこち島のかげ
白妙の海は雪原、島は山のことであろう。不息庵宗匠のせい一杯のしゃれ[#「しゃれ」に傍点]とみるべきか。
旧ポーランド領といえば、このとき、ポーランドはドイツとソ連に分割されており、独ソ国境は旧ポーランド領のマルキナ駅で、ここでドイツの列車が待ちうけているはずであった。
岡村二一と永井大佐は将棋|仇《がたき》で、コンパートメントのなかで盛んに勝負を争っていた。夜半、列車がとまり、楽隊の音が聞えた。
「おかしいな、マルキナは明日の朝のはずだがな……」
岡村が駒《こま》を手にしたまま廊下に出てみると、随員はもう誰もいない。
「しまった! マルキナだ。ドイツの汽車に乗り換えないと、またモスクワに連れ戻されてしまうぞ」
二人はあわててトランクをさげて「赤い矢」号から雪の上にとびおりた。
マルキナは寒村の小駅であるが、松岡一行歓迎の人だかりであたりは明るい灯の海である。気がついてみると、楽隊は「君が代」を奏していた。
岡村は松岡の一行を探したが見つからない。そのうちに、新聞社の通信用バスのようなものをみつけてなかをのぞくと、同盟通信ベルリン支局長の江田がいたので、彼の案内でパーティ会場のドイツの食堂車に走った。
松岡はすでに主賓席で、リッベントロップ外相代理のスターマー大使と並んでシャンペンで乾盃《かんぱい》していた。
席へ着いた岡村は、その料理の貧しさに一驚した。チーズも肉も驚くほど薄い。盛り沢山なロシアの食堂車で飽食してきた身にはみすぼらしく見えた。
ビールは有名なミュンヘンだというのでゴクリとやってみたが、どうもうすい。
「おい、ドイツは戦争のおかげで、物資が欠乏しているようだな」
岡村は眉をしかめてとなりの西園寺公一にささやいた。貴公子の西園寺は、あたりに気をつかって、黙ってうなずき返した。卓上の花束が豊満であっただけに一層食卓が貧しいものに見えた。
新聞記者の嬉野満洲雄はマルキナ駅まで松岡を出迎えた一人であるが、彼は、
「松岡さんは国民服でやって来て共同記者会見に臨んだ。とくに変った発表はなかったが、『これからの政治家はビジョンを持たねばならぬ』と強調したのが印象に残っている。この初めて聞いたビジョンという言葉はきわめて新鮮で印象的であった。戦後でこそビジョンという言葉は定着しているけれども……」
と回想している。
「ハイル・マツオカ!」
の歓声に迎えられて、松岡の一行は、二十六日午後六時、ベルリンのアンハルター駅に到着した。
盟《ちか》いにし国の都に春や来ぬ
駅頭にはリッベントロップ外相をはじめ高官多数が出迎え、駅前広場にはSS(親衛隊)、SA(突撃隊)が整列していた。軍楽隊が君が代を吹奏するなかで、松岡は黒の山高帽を胸にあてて閲兵を行った。
この後、松岡はリッベントロップとオープンカーに乗り、沿道で日の丸の小旗を打ち振って歓迎するドイツ国民の歓呼のなかを、宿舎である郊外のシュロッス・ベルビューに向った。この日の人出は三十万と伝えられ、松岡の得意や思うべしであるが、運命は早くも彼に灰色のまなざしをなげかけ、この日の夜バルカンでは反独革命が企画されていた。
シュロッス・ベルビューは、白亜の由緒ある国賓館であるが、ここでも食卓は貧しかった。岡村が同盟通信ベルリン特派員の江尻進に、「どうもロシアにくらべると、物資が乏しいようだね」と感想を洩らすと、江尻は、卓上の黒くなったバナナを指さして、「でも、今日はせい一杯のご馳走ですよ。われわれは、ここ二、三年バナナなどというものにはお目にかかったことがありませんからね」と言った。
松岡とドイツ政府との公式会談は、三月二十七日正午のリ外相との会談に始まるのであるが、その前に、この朝十時、松岡はウンテル・デン・リンデンの無名戦士の墓地に花輪を捧《ささ》げることになっていた。松岡が大きな花輪の方に進もうとすると、大島駐独大使が、今入ったという情報を伝えた。ユーゴスラビアで反独クーデターが起ったのである。首都ベオグラードでは、反独派の国王ペテ二世と、陸軍参謀総長兼空軍司令官のシモヴィッチ将軍がクーデターを起して、政府機関を接収した。ヒトラーの息のかかった親独派のパウル摂政は国外に逃亡、ツベトコヴィッチ首相以下の閣僚は逮捕された。国内各地で枢軸参加反対のデモが起り、軍部は新政府を支持しているという。
――これは初日から多難だな――
松岡は大きな花輪をかかえて、墓標の前に進みながら、そう考えていた。
彼が敬虔《けいけん》な態度で花輪を捧げて、戻って来ると、大島浩中将は、「どうもユーゴの革命は、英国が後押ししているらしいですな」とささやいた。しかし実際の後ろ楯《だて》はソ連であった。ソ連は四月五日ユーゴと不可侵条約を結ぶこととなる。
「そうだな、昼からのリッベントロップとの会見でどういう話が出るかみものだな」
松岡はうなずいた。
そのリ外相との会談は、この日正午からドイツ外務省の外務大臣執務室で行われた。リッベントロップは一八九三年生れであるからこの年四十八歳、松岡より十三歳年少であった。細面の優男で、シャンペン商人から成り上ってヒトラーの側近となっただけあって万事抜け目なく、色男を自任しているふうがあった。会談には大島大使とオットー駐日大使が同席した。
この日は珍しく松岡は聞き役に回った。彼にして思えば、今回の訪欧の主目的は日ソ中立条約の締結にあるので、ベルリン、ローマは、ヒトラー、ムッソリーニと握手したい、というだけの、つけたりに過ぎない。リッベントロップなどという小物≠ニの会談は、手続きに過ぎないのである。
リ外相は、まずバルカンの新情勢について簡単に説明した。
「今朝ベオグラードで革命が起って新政府が組織されたそうですが、間もなくヒトラー総統の指導のもとに入るでしょう。バルカンの政局は、ほとんどが三国同盟に従属していると言えましょう」
彼はそう説明すると、バルカンの話題を打ち切り、列国の情勢を説明した。
「スペイン、スウェーデン、トルコは三国同盟に深い関心を寄せ、同調的です。しかし、最近のソ連は親独的とは言えません。モロトフはベルリンを訪問しましたが、私の提案した三国同盟に接近する案に対し、バルカンへの支配力を強めるなど、勝手な要求を出して、協力を拒みました。ドイツはバルカンを必要としています。最近イギリスのスタッフォード・クリップス卿がモスクワ駐在大使となって以来、英ソの接近は目にあまるものがあります。クリップス卿は、最近イーデン英外相とトルコのアンカラで会談しました。もし、ソ連がドイツにとって脅威となる行動をとるならば、ヒ総統は、直ちにソ連を粉砕するでしょう。東部に配備されているドイツ軍はいかなる事態にも応じる準備を完了しております。対ソ戦はドイツ軍の圧倒的勝利に終り、ソ連軍及びソ連は壊滅してしまうであろう」
そこまで聞くと、松岡は、バルカン問題をめぐり、独ソ関係が意外に悪化しているのを悟った。第一次世界大戦でもバルカンは世界の火薬庫であったが、今回もユーゴから火をふこうとしている。ドイツはアジアへの進出路としてバルカンを支配下におくことを欲し、ソ連は黒海の艦船を地中海に出すため、二つの海峡の航行権を必要とする。また、ユーゴやブルガリアはスラブ系の民族であり、独ソが共に目をつけているのはルーマニアの油田であった。アラブの石油開発が進んでいないこの段階において、ルーマニアの石油は、ヨーロッパ列強の垂涎《すいぜん》の的であった。
リ外相は、続いて懸案のシンガポール攻撃を持ち出した。
「総統は日本がシンガポールを攻撃することを強く希望しておられます、この攻撃によってイギリスの崩壊は早まる。また、日本が早目に対英戦争に参加することは条件を有利にするであろう。アメリカがイギリスとのよしみによって日本に宣戦すれば、日本は直ちにフィリピンを占領するであろう。これはアメリカの威信にかかわるので、アメリカは日本近海に艦隊を送るような危険は冒さないであろう。日本はシンガポール占領によって東アジアで有利な地位を占めることが出来る。そして、三国同盟の目的であるアメリカを畏怖《いふ》せしめて、参戦をあきらめさせることが出来るのです」
リッベントロップは、ヒトラーの意のあるところを熱心に説き、松岡はふむふむと聞いていた。時々扉があいて、隣室に控えている加瀬秘書官にもなかの話声が聞えたが、松岡の声はほとんど聞かれなかった。珍しいことだ、と加瀬は考えていた。
話が終りに近づいた頃、ヒトラーから電話がかかり、リ外相は急いで総統官邸に出かけてしまった。午餐《ごさん》会の席に案内されながら、――ユーゴ問題はもめているらしい――と松岡は考えていた。
さて、注目のヒトラー・松岡会談はこの日午後四時から総統官邸で行われた。
通説では、この会談でヒトラーの要請に対して松岡はシンガポール攻撃を確約したとされており、今日でもそう信じている人は多い。しかし、ヒトラー・松岡会談の内容は、今日では、ドイツの敗戦後に米軍がドイツ外務省の隠匿書類のなかから押収した「ナチ=ソ連関係文書、一九三九―四一年」によって明らかである。最新刊の『昭和史の天皇30』(読売新聞社刊)の「シンガポールを撃て!」の項にその紹介が出ている。
このとき、ヒトラーとリッベントロップは実によくしゃべっている。二人は口をそろえて、日本が速やかにシンガポールを攻略して英国の崩壊を促進することが日本のためであり、米国の参戦を防ぐ唯一の道であると力説した。これに対して松岡は「決定的な言質は何一つ与えなかった」し「帰国後要請されれば天皇、首相、陸海相にはシンガポール問題が検討されたことを話すつもりである。しかし、これは単に一つの仮想として検討されたに過ぎない旨を申し述べるつもりである」と慎重の上にも慎重であった。従って、「杉山メモ」にあるような、東京駅出発にあたって、松岡が杉山の耳元に口をよせて「どうしてもシンガポールはやらないかね」と催促するようなことはあり得ない。松岡は軍事大権と外交大権の使い分けを心得た男であった。
この世紀の会見≠フとき、松岡六十一歳ヒトラー五十二歳。当時得意の絶頂でやる気十分であったヒトラーは、加瀬秘書官の眼には、実に堂々として、世界の有力な指導者としての自信にあふれている、というように映った。人間の姿というものは、長い生涯のどの時点を捉《とら》えて評価するかという点に問題があり、少なくともこの時のヒトラーは立派な政治家として恥ずかしくない風采《ふうさい》を備えていた、という。
会議中、ヒトラーはしばしば副官に呼び出されて会場から姿を消し、ユーゴのクーデター処理の困難さを思わせたが、次のように松岡をおだてることを忘れなかった。
「今次戦争はヨーロッパで進展し、イギリスはこの方面にクギづけされている。アメリカはまだ戦争準備態勢に入ったばかりであるから、日本は東亜で最強の地位を保っている。一方、ソ連はその西部国境を百五十個師団のドイツ軍に抑えられているので、他人のことに口出しする余裕はない。このような瞬間は二度とあるものではない。シンガポール攻撃の唯一無二の歴史的瞬間であると信ずる」
これに対して松岡はどう答えたか?
当時の外務次官大橋忠一の『大東亜戦争由来記』には次のように出ている。
「松岡はヒトラーらとの会談について滞欧中全然本省に報告を打電して来なかった。これは、日本の電信暗号を信用していなかったのと、会談の内容が日本の政治上層部を刺激することを恐れたためであろう。帰ってからも軍、政、上層に対しても、会談の内容をくわしく報告した形跡はないが、私に次のような話を打ち明けたことがある。
『訪欧に関し一番気をつかったのは、ドイツに行ったらヒトラーがシンガポール攻撃問題を持ち出すだろうが、これに対して何と受け答えするか、ということであった。シベリア鉄道旅行中も絶えずこの事を考えて行ったが、ヒトラーと会うと果してその問題を持ち出して来た。そこで自分は、〈シンガポール攻撃は賛成どころではなく、私の意見としてはまずシンガポールを占領してから三国同盟を結びたかった位だ〉と言ったところ、ヒトラーは機先を制せられてそれきり何も言わなかった』」
不思議なことに、松岡がドイツを訪れた最初の目的は、ドイツを仲介人として、その斡旋によって、ソ連と中立条約を結び、四国協商に持ちこみ、アメリカを畏怖せしめて日米和平条約を結ぶことにあった。少なくとも、ベルリンでドイツに日ソ条約の斡旋を依頼するという主目的≠ヘ、東京を出るとき、近衛をはじめ上層部に説明してあったはずである。
ところが、いざベルリンに着いてみると、松岡が日ソ問題について、ヒトラー、リッベントロップと話し合った痕跡《こんせき》は少ない。これは松岡のベルリン行きが、スターリンとの会談の一つのカムフラージュであったことを示すものであるが、ベルリン到着早々ユーゴのクーデターを聞き、独ソ間の国交がまず決定的に悪化していることを知り、ヒトラーへの斡旋依頼をあきらめたためであろうと思われる。裏返して言えば、彼は日ソ交渉は乃公《だいこう》自らがやらねばならぬと考え、またモスクワにおけるスターリンの態度からみて、単独でも日ソ交渉をまとめあげる自信を固めたのである。独ソが不仲であれば、スターリンは日ソ中立条約に乗って来やすい。但し、独ソが決定的に決裂した場合どちらに着くべきか、次の大きな課題が早くも松岡の前に立ちはだかっていた。
ベルリン滞在中松岡はヒトラーと一回、リ外相とは三回会談しているが、では全然日ソ問題に触れなかったかというと、そうでもないが、その結果はひどいものであった。
さきの独ソ会談で通訳官を勤めたシュミットという男が今回も通訳を勤め、会談の記録を残しているが、第二日目(二十八日)の対リッベントロップ会談で、松岡は、
「日独ソ条約の可能性について総統はかつて考慮したことがあるか」
と尋ねた。リ外相は、
「それはニヒト(NO)である。ナチス国軍の精神的基礎は他の国民全部と同様、ソビエトとのより緊密な協力に反対であるため、それは絶対に不可能である。日独は国家的に考えるのに、ソビエトは国際的である。ソビエトは近隣を傷つけるのに反してドイツはそれを擁護する。ドイツはソビエトを挑発はしないが、スターリンの政策が総統の是とするところと一致しなければ、総統はソビエトを粉砕するであろう」
松岡「日本は現在ソビエトを怒らせることを避けている。日本はドイツがバルカンで戦勝するのを待っている。ドイツの尽力とその力なくしては、日本は日ソ関係を完全に改善する機会を持たないであろう。自分は帰途モスクワに少々長く滞在し、ソビエトと不可侵条約もしくは中立条約について交渉すべきであろうか。ソビエトが三国同盟に即時参加することは、日本国民は決して承知しない。それはむしろ日本全国に憤激の叫びをもたらすであろう」
リ外相「ソビエトの三国同盟加入は問題外である。またこの問題は現在の時局と完全にそぐわないかも知れないから、できることならモスクワでこの問題にふれるべきではない」(細川千博『太平洋戦争への道5』から)
三月二十九日、松岡はリッベントロップとの第三回会談で、「個人的にはシンガポール攻撃に賛成であるが……」と前置きして、ドイツのこれに対する軍事的意見を聞き出そうと試みた。
松岡「シンガポール攻撃の場合、日本軍は英国艦隊より堅固な要塞《ようさい》の方が心配であるが、ドイツは何らかの援助をするあてがあるのか?」
リ外相「ドイツには極秘の新戦法がある。本当にシンガポールをやると決れば、それを説明しよう」
この時点では、ドイツにロケット爆弾V1、V2の考案がなされていたであろうと思われる。
松岡「日本のシンガポール攻略は日本軍将校の説によると、三カ月はかかるだろうということだが、自分は六カ月までならアメリカの圧力をもちこたえ得ると考える。しかし、一年以上長びくと、日米関係はきわめて逼迫《ひつぱく》するであろう。それと、自分は蘭領東|印度《インド》(ジャワ、スマトラ、ボルネオ)には手をつけたくない。ここを攻めると、油田が焼かれ、再生産までに一、二年を要することになるからだ」
リ外相「日本がシンガポールを攻略すれば、蘭領東印度は自ら日本の手中に帰するであろう」
ここで松岡は南部仏印進駐反対の意見を述べている。
「南部仏印とシャム(タイ)に航空基地を設定したいというのが、日本軍の意向である。しかし、自分はシンガポールに対する日本の意図を敵に知らせることは決してしたくないという論旨でこれには反対している」
松岡がなぜ仏印進駐に反対したか、その方策は、二カ月後の独ソ戦勃発時の態度にも現われて来る。
北部仏印までは止《や》むを得ないが、南部仏印すなわちインドシナ半島の要地(ベトナム)を抑えるならば、必ずアメリカは出て来る、と松岡は睨《にら》んでいた。古来イタリア、バルカン、アラビア、マレー、朝鮮を問わず、半島は世界の歴史に重要な役割を示して来た。半島を制するものはその地域を制することが出来る、というのが軍事的経済的な常識である。
アジアの中央部に拳骨をつき出した形のインドシナ半島がアジア経営に際して、また西太平洋の制圧に関連して、いかに枢要な位置にあったのか、それは一九六〇年代に、アメリカがベトナム奪還に、いかに多大な労力を支払ったかによって実証されているとみてよかろう。
アメリカに育ち、ジュネーブで日本がバックした満州国成立に対して、列強がいかに根強く反対したかを経験した松岡には、仏印が、世界地図のなかのほぼ中央に位置を占める価値ある半島として映っていたのである。
結局、松岡のベルリン会談は、彼の予想通り?日ソ協約に対するヒトラーの援助は得られず、ヒトラーとリッベントロップのシンガポール攻略の執拗《しつよう》な要求に終ってしまった。ただ一つの収穫は、英雄好みの松岡にとって、ヒトラーと握手し、かねて定評あるその弁説に接し得たことであろう。
松岡のみた個人・ヒトラーは決してさほどの雄弁家ではなかった。その話し方にはババリアの訛《なま》りが強く、上手な話しぶりとは言えない。ただ芸術家か哲人に見るような澄んだ瞳《ひとみ》が印象的であった。そして、話が熱気を帯びると、その瞳が異様に輝いた。ヒトラーには自己陶酔的なところがあり、興奮して来ると忘我の境に陥る。椅子から体を乗り出し、両腕をふり回し、眼をつむったり、かっと見ひらいたり、相手が一人でいても、数十万の大衆を前にしているように熱狂的な態度になる。松岡はヒトラーに神憑《かみがか》り的なものを発見し、それが自分とも共通しているので興味深く思った。『太陽はまた昇る』によれば、この神憑り的なところが、ヒトラーを電撃作戦の世紀の英雄に仕立てたのであろう。神憑りということは、論理を飛躍して、即断的に行動する能力をも示す。従って電撃的に当れば、相手の意表を衝くので、成果は大きい。しかし、一旦、目算がはずれて、長期戦になると、呪縛《じゆばく》は解けて、並の人間以下、つまり単なる精神異常者になる場合が多い。ヒトラーが、北アフリカとスターリングラードの挫折《ざせつ》以降、何らの天才的軍略≠示し得ずして崩壊したのは、この特性によるものであろう。
ヒトラーは二十七日、松岡との会談の途中、総統官邸の広場に面したバルコニーに出て、五万の市民に松岡と共に手をふって答礼した。群集は、
「ハイル・マツオカ!」
「ハイル・ヒトラー!」
と大変な歓迎ぶりであった。
多くの場合、民衆はその時点で何も真実を知らされてはいない。
『太陽はまた昇る』によると、このとき、松岡はヒトラーの人気に感激し、「自分も近い将来、断乎《だんこ》として国民の指導者(総理)となります」と約束した、となっている。
しかし、同行した長谷川進一調査官は論理的にそれを打ち消す。
松岡の日本史論に「平民貴族協力説」というのがある。たとえば大化の改新は中大兄皇子という皇族と平民出身の藤原鎌足が協力したからうまく行った。貴族だけではブルジョア独裁となり、平民だけではプロレタリア独裁となる。そこをうまくミックスするのが政治の秘訣《ひけつ》なのだ。明治維新がうまくいったのも、岩倉、三条という貴族と西郷、木戸、大久保、伊藤博文といった平民出身が協力したからだ。今自分が日本のために労をいとわず働いているのは、近衛公という貴族の筆頭と平民出のおれが協力すれば、この難局を乗り切れると信じているからだ……。
松岡は常々この持論を長谷川に説いていた。従って、松岡に総理になろうという野心はなかった、と長谷川氏は推断する。
しかし、筆者は、総理は別として、実質的に日本の指導者として、国際政局を牛耳ろうという気持は強かったろうと考える。事実すでに自分の構想によって、日本の外交を牛耳り、日本の運命を双肩にになっているのである。それというのも、片方で近衛という貴族と手を握っておれば、それが国内的にもうまくゆくと信じていたからである。信じていればこそ、彼は日本へ帰って近衛が外務大臣である自分に無断で二神父らのもって来た日米了解案を手がけていると聞いて、烈火の如くに憤ったのである。
松岡は三月二十九日、リッベントロップと最後の会談を行った後、空相ゲーリングの自慢の別邸ベルリン郊外のカリン・ホールに招待された。大きな湖を前にし、深い森林を背景にした幽邃《ゆうすい》な山荘である。カリンとは亡くなったゲーリングの愛妻の名前である。ゲーリングはこう回想した。
「第一次大戦のとき、私はもっとスマートでまあ美青年≠フ方でした。リヒトホーフェン飛行中隊の中堅として活躍していました。ナチスが決起したとき、これに参加し、負傷してスウェーデンに亡命、旅客機の操縦をしているうちに、カリンという美しい女性と恋に落ち、結婚しましたが、彼女は若くして死にました。この山荘は彼女の想い出のためのものです」
そのとき、ゲーリングのかたわらには同盟通信の岡村二一と西園寺公一がいた。
岡村はゲーリングがフランスやオランダから集めて来たといわれる絵画のコレクションを前にして、
「これだけの邸でこれだけのコレクションを集めた邸は東京にもちょっとないだろうね」
と小さな溜息《ためいき》をついた。すると、かたわらに立っていた体格のよい日本の陸軍将校が岡村の肩を叩いて言った。
「おい、新聞記者さんよ。日本人がこんなものに感心していてはいかんよ。日本にもこの程度のものはあるよ」
「それはどこですか」
「君、目黒の雅叙園《がじよえん》を知らんのかね、あれは大したものだよ」
かたわらに立っていた西園寺公一はふき出しそうになるのをこらえた。
その将校は独伊の戦線視察に来ていた山下奉文中将であった。彼はこれから九カ月後には山下兵団を率いてマレー半島を占領し、それから五年後にはマニラで戦犯として処刑される運命にあった。
ベルリン滞在中に松岡はイタリアのほかにさらに三つの国を訪問することを考えていた。一つはフランスである。仏印進駐問題があるので、ヴィシーのフランス政府に会って懇談し、かつ、英国の様子を知りたい、と考えたのである。これに対しヒトラーは度量の広いところを見せて応諾したが、リッベントロップは、困ると言ってOKを与えなかった。松岡がヴィシー政府のペタン主席やレイノー首相とヤミ取引をしてもらっては困ると考えたのであろう。松岡はリッベンは尻の穴の小さい奴だと随員に悪たれをついた。
いま一つは英国である。駐英大使の重光葵は日本が欧州における戦乱にまきこまれないために、欧州の情勢を松岡に説明しておこうと考えた。ドイツには単独で英本土上陸の能力がないこと、しかし日本がシンガポールを攻略すれば英国の力が減殺されるので英本土上陸を果すかも知れぬが、そうなるとアメリカが出て来るおそれがあること。日本がシンガポールを撃たぬとなれば、ドイツは東部戦線に集結した百五十個師団のやり先に困り、対ソ攻撃をしかける可能性のあること……。これらの基礎知識を松岡にふきこむべく、重光は松岡の訪英を東京を通じて申し込んでおいた。日本と英国はまだ戦争をしていない。しかし、ベルリンからロンドンに飛ぶことは不可能である。フランスへ入ればスペインかポルトガルを通じてロンドンへ飛べるが、リッベントロップにそれを阻止されたのである。
いま一つ松岡を待っている国は当のアメリカであった。仲介人はかつて昭和八年、国際聯盟脱退の年、松岡をアメリカに招待してくれたハワード系の新聞王ロイ・ハワードである。松岡を理解していると考えているハワードは、ヨーロッパに来た松岡をルーズベルトにひきあわせようとし、「ポルトガルのリスボンまで来てくれ。そこにニューヨーク行きの四発クリッパー機を待たせておくから、それで飛んで来てくれ。ルーズベルトには私がひきあわせる」と打電してきた。松岡は二度目のアメリカ行きとルーズベルトとの会談に魅力を感じたが、それには日ソ不可侵条約を先に結んでおいた方が、ブラッフ(威圧)が利くと計算した。このとき松岡がアメリカに飛んでルーズベルトと会って日米中立条約について話しあっておれば、歴史は変ったかも知れない。松岡ならば個人的なアビリティとキャラクターによってかなりのアプローチをルーズベルトに対して成し得たかも知れない。しかし、そのかわりに日ソ中立条約の成立は遅れ、極東の情勢はどう変化したか見当がつきにくい。
松岡は予定になかった三つの国への重要な訪問を断念して、予定通り、三月三十一日午後四時小雨のベルリン駅を出発してローマに向った。列車はプロシャの平原を南下すると雪のババリアの山地に入り、ミュンヘンを経てブレンネル峠でアルプスを越えた。ブレンネル峠はオーストリアとイタリアの国境にあり、第二次大戦|勃発《ぼつぱつ》早々ヒトラーとムッソリーニが握手して欧州の経綸《けいりん》を語った場所である。再び不息庵宗匠の句作が始まった。
ブレンネル峠にて(四月一日)
両雄の握手せし地や雪深し
イタリアに入る(同)
花の園花の顔《かんばせ》花曇
ローマでは松岡はくつろいでいた。宿舎はヴィラ・マダマという優雅な古城であった。ムッソリーニもチアノ外相も旧知の間柄であった。ここではベルリンと異って難しい外交の交渉はなかった。食いものもベルリンよりはましで、時計、靴、帽子など物資も豊富なので、随員の一部はショッピングに忙しかった。
花のローマは小雨だった。四月二日、松岡は加瀬秘書官と西園寺公一を同道してバチカン宮殿にローマ法王ピオ(ピウス)十二世を訪問した。ピオ十二世は一八七六年生れでこのとき松岡より四歳年長の六十五歳。一九三九年(昭和十四)から一九五九年まで二十年の長きにわたって在位し、第二次大戦中は中立的立場をとっていたが、戦後はカトリック宗団を率いて反共反ソ的立場をとった。
当時のピオ十二世の心理的内容を知るや知らずや、松岡は彼一流の平和論を展開した。法王は初め松岡よりも彼が同道したプリンス・西園寺に興味を示した。法王が日本の高位にある貴族に興味を示すのは当然のことであるが、これも松岡の策略で、若きプリンスを小僧扱いにするマツオカも、相当なものであろうと法王は考えた。
松岡はまず、アメリカ時代にベバリッジ夫人から聞きかじったキリスト教論をぶち始めた。彼はモスクワではスターリンに道義的共産主義について講義し、スターリンを当惑せしめたが、ローマでは「日本人のなかで、もっともキリスト教を理解しているのは私をおいてほかにありません」とキリスト教論を始めた。白服をまとい、紫の刺繍《ししゆう》を施した赤い靴をはいた法王は、聖職者らしく、寛容を示す微笑を頬に浮べながら、松岡の長広舌に耳を傾けた。
「私はキリスト教に対する理解と愛情において世界の政治家のなかでも人後に落ちるものではありません。政治家として私が信奉する平和主義の精神はキリスト教と相通ずるものがあります」
松岡はこう概論を述べておいて各論に入った。
「現在世界のある国、とくにアメリカが欧州と中国における戦争を長びかせようとしている事実にご注目下さい。彼らはイギリスと支那に武器を売りつけているのです。日本は中国で戦っていますが、これは単なる侵略のためではありません。中国と全東亜に拡がっているボルシェビズムと戦っているのです。しかるに、アメリカとイギリスがボルシェビズムの味方をしている……」
松岡はコーヒーをひと口すすると続けた。
「日本は先ごろ三国同盟を結びました。これは同盟を結んで他国を制圧しようというのではなく、同盟によってボルシェビズムを防止し、アメリカの圧力をはねかえし、世界に平和をもたらそうというものです。この同盟の平和的意図を了解願えましょうか」
松岡がこう言って法王の顔を凝視すると法王は大きくうなずいた。会見は一時間十五分の長きにわたった。
法王庁からホテルへ帰ると、松岡は、随員たちに、
「今日はローマ法王にキリスト教の講義をしてきた。ローマ法王に支那事変と三国同盟の意義を説明したら『ミスター・マツオカほどキリスト教を理解する政治家は少ない。閣下のような宗教心にあふれた政治家が多く現われて世界の平和を押し進めてくれることを希望する』と感心していたな」
と得意になって説明した。
岡村二一が、
「大臣、なぜそんなに大風呂敷を拡げたんですか。ローマ法王にキリスト教を講義するとはどういう意図ですか」
と尋ねると、松岡は、
「まあみておれよ。ピオ十二世にあの位ふきこんでおけば、中国問題や三国同盟に関する意見が、カトリックの上層部を通じてきっと太平洋の向うに伝わってゆくさ」
と自信あり気であった。
岡村の見たところ、ムッソリーニは西郷さんの銅像のようにのっそりしていたという。ムッソリーニは、外相チアノ伯や他の高官にも尊大にふるまっていたが、松岡はこの独裁者に向っても遠慮はしなかった。四月二日の午餐会では、松岡はムッソリーニの胸元を指さして盛んに日伊親善を説き、最後には銅像の如く立っているムッソリーニの腕をつかんで大きくゆすぶり始めた。これには口数少ない独裁者もついに苦笑してしまった。これを眺めていた同盟通信のローマ支局の記者は、
「松岡さんは今日実に日本の国威を発揚してくれました」
と喜んだ。
岡村が「なぜか?」と訊《き》くと、
「今まで日本から来た人は、みな銅像のようなムッソリーニの前で卑下してしまうのだが、松岡さんは対等もしくはそれ以上の態度でムッソリーニを扱ってくれた」
と支局員は語った。
表敬訪問に終始したあわただしいローマ訪問を終った一行は、四月三日再びベルリンに向った。この古都での日程は終始雨のなかであった。
春雨に濡れつつ就くや帰り路に
万歳の唇紅し花の人
四月四日ベルリンに着いた松岡はヒトラー、リッベントロップと最後の会談を行ったが、とくに新しい議案はなかった。ヒトラーはシンガポール攻撃について激しくつめよったが、松岡は最後まで言質を与えなかった。通訳官のシュミットは、加瀬秘書官に「以前にモロトフとのやりとりのときも激しかったが、今度は本当に汗をかいた。このようにヒトラー総統と五分五分にわたり合い、気魄《きはく》に満ちた応酬をした人を私は今までに知らない」と告白した。
四日午後、松岡はホテルに各国駐在の日本大使を招いて協議をした。栗原(トルコ)、三谷(スイス)、原田(ヴィシー)、筒井(ルーマニア)などが参集したが、時々英軍機の空襲があるので、会議は灯火管制の下で行われた。
五日はナチス幹部の案内で軍需工場や労働者の住宅を見学、近衛文麿の弟で指揮者としてベルリンに滞在している秀麿ら在留邦人とも懇談した。
四月五日、松岡の一行は思い出深いベルリンを後にした。もう二度とこの都へ来て異色ある英雄<qトラーに会うこともあるまいと考え、松岡はいくらか感傷的になっていた。この日も雨であった。
ベルリンをあとに春雨むせぶなり
列車は夜半独ソ国境のマルキナに着いた。再び「赤い矢」号の客となると随員の一部は一目散に食堂に赴いた。ドイツ旅行中夢にまでみたキャビアやチーズや肉の厚切りが待っていた。物も言わずにパンにキャビアを塗り、ほおばる随員もいた。それだけドイツは食糧事情が悪かった。
「ドイツは道路は立派だが、飯は悪かったな」
岡村はキャビアを片手にウオトカのグラスを傾けながらそう西園寺に語りかけた。
「そうですね、イタリアは勲章をくれましたしね」
と西園寺は応じた。イタリアでは松岡のほか正式随員全員に勲章をくれた。それぞれの位階に合わせたものであるが、西園寺と岡村は無官の大夫なので、最低の少佐待遇であった。
翌、四月六日、松岡が後藤看護婦に灸《きゆう》をすえさせていると、電信掛りが重要無電を受信した。ドイツ軍がユーゴに進撃を開始したのである。ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアの四方からベオグラード包囲の態勢をとっているというのである。
坂本欧亜局長からその説明を聞いた松岡は別に驚く様子もみせなかった。
「やはりヒトラーはやったか」
松岡は窓外にひらけてゆく白ロシアの雪原とエゾ松の林を眺めていた。この松林が後にドイツ軍侵入のとき、ソ連ゲリラの強力な拠点となるのである。
――ヒトラーのユーゴ進撃で、スターリンはどのようなサイの目を振ってみせてくれるかな――
松岡は看護婦の入れてくれた日本茶をすすりながら、なおも窓外の雪原にみとれていた。
翌四月七日午前十一時「赤い矢」号はモスクワの白ロシア駅に着いた。ここで一句。
南欧のつばめつれ立ち露都に入る
宿舎の迎賓館に向う車のなかで、加瀬秘書官は、車中で松岡が洩らした一言を耳元に甦《よみがえ》らせていた。ドイツがユーゴに進撃したニュースを聞いたとき、あわただしく顔をみせた秘書官に、松岡は、
「君、これで日ソ条約は出来たも同然だよ」
と破顔した。
その意味は加瀬にもわかった。かつてはドイツの仲介によって成立すると考えられた日ソ中立条約が、今度は独ソの不仲によって出来る可能性が強くなって来たのである。まことに国際関係というものは虚々実々、楽観を許さぬものであることを加瀬は実感したのであった。(注、加瀬俊一「知られざる松岡洋右」〈「文藝春秋」昭和四十・二〉によると、松岡の一行が独軍ユーゴ進撃をかすかに知ったのは、国境のマルキナ駅を通過するときで、ドイツのラジオは軍楽吹奏|裡《り》にゾンダーメルドゥング〈特別放送〉をやっていたという)
さて、懸案の日ソ中立条約は簡単に成立したかどうか。
エネルギッシュな松岡は、到着した日の午後四時から早速クレムリンでモロトフとの第一回折衝に入った。
しかし、予想に反してモロトフは意外に難物であった。彼は松岡の希望する不可侵条約を中立条約とし、その条件として日本が大正十四年に獲得した北樺太の利権、すなわちオハ、ヌイボ等の油田の採掘権とドウエ等の石炭の利権を放棄することを要求した。
これは松岡には意外であった。独軍はユーゴに進撃し、いつソ連を攻撃するかわからない。この期《ご》に至って、数十万の関東軍を擁する日本と条約を結ぶのに、大正時代の旧権益を持ち出すとは……。
松岡は田舎の百姓のような風貌《ふうぼう》のモロトフの馬鹿正直さと粘りに驚きながら、こちらも粘った。時をかせぐ必要がある、と彼は考えた。ベルリンで何回もヒトラーやリッベントロップとやりあったので、彼にも国際外交の手練手管はマスター出来ていた。
翌八日松岡はぶらりぶらりとしてみせた。午前はクレムリン宮の宝物殿やレーニン博物館などを見学。午後二時、先に問題となったアメリカ大使スタインハートの昼食会にのぞみ、夜は日本大使館にモロトフをはじめ独伊ら枢軸国の大公使を招いて晩餐会を催した。ソ連側は松岡がモスクワの休日≠楽しんでいるのか、と首をひねった。
翌九日、午後四時から、クレムリンでモロトフとの第二次会談が行われた。モロトフは相変らず手強《てごわ》かった。この日松岡は、不可侵条約案をとりさげ、中立条約でよいから即時締結してもらいたい、と下手に出た。しかしモロトフは、あくまで樺太の利権返還を主張して止まなかった。松岡はひそかにスターリンと会いたいと思った。モロトフの石頭では松岡の弁舌をもってしても説得は不可能であると思われた。
松岡は四月十日までに条約を締結モスクワを発《た》つ予定であったが、こうなっては日程を延期するより仕方がない。松岡は一策を案じた。彼はホテルに記者団を集めると、今夜の夜行でレニングラードへ行って来る。従って滞在日程を、二、三日延期する、と発表した。
「何のためにレニングラードへ行くのですか?」
という記者団の問いに対し、松岡はやや照れ臭そうに、
「実は二十九年前、二等書記官としてペテルブルグ(レニングラード)に駐在したとき、下宿の美しい娘と恋に落ちたことがある。これが私の初恋なのだ。その娘がどうしているかはわからないが、あの懐しい四匹の馬の像のあるアニチコフ橋のあたりを歩いてみたいんだよ。察してくれよ、君たち……」
と訴えるように言った。
記者団は驚いた。
世界の運命がかかっていると思われる重要な条約の締結が進行しているときに、初恋の女に会いにゆくとは……。松岡という男は聞きしにまさる大ものか、それとも頭がどうかしてしまったのか……。
かたわらで聞いて岡村二一は、これはきっと裏があるに違いない、と考えた。彼にも大体松岡という人間のやり方がわかりかけていた。その日夜行の「赤い矢」号で松岡と岡村の二人は記者団と共にレニングラードに発った。途中列車のコンパートメントで松岡と差し向いになりながら岡村は、列車がドイツ領からソ連領に入ったとき、長谷川進一と松岡がかわした会話を想いうかべていた。長谷川が、
「ドイツ側はとても道路がよく整備されていましたが、ロシア側はごろた道で舗装もされず、ひどい道ですね」
と言ったことがあった。
松岡は言下に、
「きみ、いずれドイツ軍の戦車がロシア側に入って来るよ。敵が来るとわかっていて、道をよく直しておくやつがあるもんか。スターリンだってそれほどバカではないよ」
と答えた。
岡村はそのとき、松岡の直観に感心した。その松岡も、モスクワではモロトフを扱いかねている。このレニングラード行きは、一体何を意味するものなのか?
四月十日朝、列車がレニングラードに着くと、ドイツ軍の機械化部隊が早くもユーゴの首都ベオグラードを占領したというニュースが入っていた。
「ふむ、ヒトラーの奴め、やっとるな」
松岡は電文をみてしきりにうなずいていた。
レニングラードは一七〇三年にピョートル大帝が造ったヨーロッパ風の美しい町である。市街はネバ河の西岸に拡がり、左岸にはエカテリナ女帝の壮麗な冬宮、右岸にはピョートル大帝を葬った百メートルの尖塔《せんとう》をもつペトロパウロフスク寺院がそびえていた。ドストエフスキーやトルストイが散歩したというネフスキー大通りは、冬宮前広場から松岡らが下車したモスクワ駅まで真っすぐのびているメーンストリートである。通りのほぼ中央でフォンタンカという古く狭い運河を渡っており、ここにかかっているのが有名なアニチコフ橋である。橋のたもとには名工ピョートル・クロットが一八五〇年に鋳造した四匹のブロンズの馬が、それぞれの形で跳躍している。橋の上から岸の柳が垂れ下るフォンタンカ運河の静かな川面《かわも》を見おろしながら、
「君たち、この橋の近くにぼくの初恋のナスターシャという若い娘が住んでいたんだよ。二人はよく運河のほとりを散歩したものだよ。ぼくは三十二歳だった。遅い初恋だったんだなあ……」
松岡は柄にもなく感傷的な表情を示し、ステッキで柳が影を落している川面をさしてみせた。記者団も、雄弁外相≠フ意外な面を発見した感じでセンチメンタルな想いに沈んだ。
「さあ、ぼくの初恋の人の家を探してみよう……」
松岡は先頭に立って町のなかに歩み入った。しかし、いくら探し回っても、松岡の初恋の人が住んでいたという家は見つからなかった。この付近にはドストエフスキーが下宿していて『罪と罰』を書いた建物が残っており、日本人の多くはそれを見に来るので、その家を教えてくれるロシア人もいたが、松岡は、
「君、『罪と罰』じゃないよ。ツルゲーネフだよ、『初恋』だよ」
と意外な文学青年ぶりを発揮して、随行の記者団を煙に巻き、案内のロシア人官憲を当惑せしめた。
一行はその夜アストリア・ホテルに宿をとり、市内のキーロフ劇場で、名バレリーナ、ガリーナ・ウラーノワ主演のバレー「ロメオとジュリエット」を見物した。不世出といわれるプリマ・バレリーナ、ウラーノワはこのとき三十一歳、柳腰月眉《りゆうようげつび》とも形容すべき艶姿には、一種の清純さが残っており、一同は彼女の世界一といわれるジュリエットの舞うような踊りに、心を奪われていた。
幕間《まくあい》の廊下で、松岡と二人きりになった岡村は心配気に訊いた。
「大臣、こんなことをしていていいんですか? 第一レニングラードの初恋の彼女の家なんか見つからなかったじゃあないですか」
すると松岡はパイプをふかしながら答えた。
「君、ありゃあウソだよ」
「ウソ?」
「左様、初恋の女なんかありゃあせんのだよ。ありゃあ、時間かせぎだよ。いいかね、前回モスクワに寄ったとき、ぼくとスターリンの間では基本的な了解は出来ている。しかし、モロトフはあくまでも最初の要求を押し出して来る。こういうときは時をかせぐより仕方がない。見ていたまえ、ドイツはばりばりバルカンで暴れる。スターリンは気が気ではない。しかし、とれるものだけはとっておきたい。そう考えてモロトフに押させているんだよ。モスクワに帰る頃には一挙に片づくさ……」
松岡はそう言ってうすく笑った。そのとき、岡村は、松岡がアニチコフ橋からフォンタンカ運河の柳を眺めていたときの表情を想い起した。あのときいかつい外相の頬に、渋い憂愁の影が鳥影のようによぎったのを岡村は不審に思ったのであった。ナスターシャとかいうその初恋の女が本当にいたのかどうか岡村にはわからない。しかし、二十九年後に外相兼全権として再びペテルブルグを訪れようとは松岡も予想していなかったに違いない。彼にも多感な青年時代はあったのである。
一瞬の回想におもいを沈めている岡村に、松岡は声をひそめて、
「しかし、君、書くなよ」
と釘《くぎ》をさすことを忘れなかった。
謎《なぞ》を秘めたレニングラードの休日≠終った松岡の一行が「赤い矢」号の夜行でモスクワに帰り着いたのは四月十一日の朝である。宿舎で少憩をとった松岡は午後四時からクレムリンで第三回のモロトフとの会談に入った。しかし、モロトフは松岡の予想に反し、依然として北樺太の利権返還を要求するので、松岡はついに「残念ながら今回の交渉はこれまでです。明後日はいよいよお暇《いとま》を告げねばなりません。ブリッツ・クリーグ(電撃戦法)式に交渉を議決しようと試みたのですが、うまくゆかなくて誠に残念です。しかし、十三日の出発までには、一度スターリン書記長にお目にかかりたい」
そう言って辞意を表明した。
モロトフは、貴意にそえなくて残念だ、と言ったが、握手するとき、モロトフの眼の奥に大きく動くものがあったのを松岡は見のがさなかった。
クレムリンから帰って来た松岡の表情をみて、岡村二一ら随員は、やはりダメか、初恋の人を探すレニングラードの休日もむだだったか、とがっかりした。
苦り切った表情の松岡はロシア語の出来る宮川参事官(モスクワ大使館勤務)を自室に呼ぶと、スターリンへの個人的書簡を口述筆記せしめた。手紙の内容は、北樺太の利権については、日本へ帰着後自分が努力するから今回は無条件で中立条約を結んでいただきたい、というものであった。
手紙の口述を終り、それをスターリンに届けさせると、松岡はかたわらの加瀬秘書官を顧みて、
「どうも気分が晴れんな、今夜は一杯飲もう」
と言い出した。そして、
「いつものメンバーでは面白くない、護衛のジャイアント(巨人)を慰労してやろう」
と言った。
ジャイアントとは、満州里以来行を共にしている大男のコスマコフ大佐のことである。そこで、三人でキャバレーに行って酒を飲み始めた。コスマコフは七フィート近い大男で、ウオトカを水のようにがぶがぶ呑んだ。すると、ボーイが電話だ、と言って呼びに来た。加瀬が出てみると、大使館の宮川参事官である。大分興奮している。
「君、こんな大切なときに何をしているんだ?」
「何かあったんですか?」
「何かじゃあないよ。君、スターリンが大臣に会うと言って来たんだよ。一体どこへ行っていたんだ、随分探したぞ」
「はあ、すぐ帰ります」
ということで、受話器はそのままで加瀬が席に帰って松岡にそれを話すと、松岡は、
「そうか、やはり来たか」
と今までとは打って変って笑顔となり、
「よし、これで交渉は出来た。君、あらためて乾盃《かんぱい》とゆこう」
とウオトカの盃《さかずき》をあげた。同席のコスマコフ大佐も、何が何やらわからずウオトカをぐいぐい呑んだ。
「大臣、こんなところで呑んではいられませんよ。すぐお帰りにならなくては……」
加瀬の方は気が気ではない。
「いいよ、今夜はあわてることはない。ぼくはここで呑むことにする、ああ、実に愉快だ」
松岡はまた盃をあげた。
「だめですよ、大臣。宮川参事官が電話口で待っていますよ」
「いいんだよ、ほっときたまえ。会見はあすだろう、急ぐことはないよ」
松岡は悠然として腰をすえてしまった。
止むを得ず加瀬が電話口に戻ると、宮川参事官はおかんむりである。
「何を言っとるか君は……。スターリンの方は今夜会いたいのかもわからんじゃあないか。君、スターリン自身が会うと言って来たんだよ。すぐに返事をしなければならん。大臣を大使館に連れて来たまえ」
宮川の方はこの機会をのがしては大変と、気が気ではない。加瀬が再び松岡のもとに戻ってそう伝言すると、松岡は、
「今夜は大使館に行く必要はない。ぼくは呑んだら寝るよ。明日は忙しくなるからね」
とみこしをあげようともしない。再び電話口へ出た加瀬が、
「大臣は今夜は休養だと言っておられます」
というと、宮川は、
「君はそばについていながら何をとりついでいるのかね。相手はスターリンだよ。いやもうこうしてはおれん!」
そう叫ぶと、ガチャンと電話を切ってしまった。モロトフ対松岡の交渉通訳にあたっていた宮川参事官としては心配するのが当然である。
一方、松岡の方はすっかり御機嫌になり、ジャイアントと盛んに盃をかわしている。何が何かはわからんが巨人の方もかなり上機嫌になって来た。そこへ、小柄で丸々太った宮川が、風に吹かれたゴムまりのようにとびこんで来た。
「大臣、至急お戻り下さい、スターリンが……」
彼は息をはずませながら言う。
「まあ、あわてるなよ。おれは明日会って話を決める。君も落ち着いて一杯やれい」
松岡はとろんとした目付きで、宮川にグラスを持たせるとウオトカを注いだ。(宮川参事官は終戦後間もなくロシアで死んだ)
松岡・スターリン会談は翌十二日、午後五時から、クレムリンで行われた。
松岡は、
「この際、電撃外交をやり、ヒトラーをはじめ全世界を驚かしてやろうではないか」
とスターリンを説き、スターリンも心の用意があったと見え、主な会談は十数分で妥結をみた。すなわち、北樺太の利権については、松岡の帰国後、モロトフとの書簡によって交渉することとし、無条件で日ソ中立条約を締結することとなったのである。これは松岡外交の一つの勝利で、レニングラードの初恋もここに大きく実を結んだのである。
この席上、松岡は壁面の世界地図を指さし、
「どうですかスターリン書記長、ロシアの領土は地球の半分近くもある。北樺太を日本に売って下さい。そのかわり、ソ連はインド、イランに進出して、アラビア海やインド洋に不凍港を求めたらどうですか」
とスターリンに強くすすめた。スターリンはびっくりして、
「北樺太を売ったりしたら、私は人民裁判で絞首刑です。それよりも南樺太をロシアに売って下さい」
と自分の首を両手で絞める真似をしながら応酬し、
「あなたは仲々のやり手の外交官だ。私たちはすっかりやられましたよ」
とかたわらのモロトフをかえりみ、松岡に握手を求めた。
正式の日ソ中立条約調印は明四月十三日午後三時クレムリンに於《おい》て行うことに相談がまとまった。
坂本欧亜局長をはじめ、随員、大使館員は俄然《がぜん》忙しくなって来た。松岡は一応外相兼全権の形で来ているが、正式に条約を結ぶとなれば、日本の政府にあらためて全権委任状を要請しなければならない。条約文についても吟味しなければならない。発表の形式はどうするか……大使館員たちは徹夜を覚悟であわただしく動き始めた。
松岡はそんなことはそしらぬ顔で、スターリンとの乾盃で微醺《びくん》を帯びて宿舎に帰って来た。
「大臣、どうでした?」
「中立条約はまとまりそうですか」
日本人記者団が松岡をとりまいた。
「いや、どうにもね、まいったね」
松岡はいつもの饒舌《じようぜつ》にも似ず言葉を濁した。彼は自分の能弁を警戒していた。ここで余計なことをしゃべって世界中に打電されると、神経質なスターリンが臍《へそ》を曲げるかも知れぬ。また日本の皇道派と称する連中が、共産主義国と提携するとは何事かと騒ぎ立てるかも知れぬ。ここは狸寝入《たぬきねい》りに限る、と彼は自室に入って毛布をかむってしまった。
一方、加瀬秘書官の方は別の意味で忙しかった。アメリカの駐ソ大使スタインハートは、今日も松岡と接触しており、すでに互いに午餐会に招待しあっている。その間の会談は松岡が、「たとえ三国同盟が出来ても日米は相戦うことを欲しない。今回の自分の訪独も三国同盟を強化しようというものではない。ただし、欧州戦争の勝敗は明らかだから、アメリカは参戦せぬ方が賢明である。アメリカが参戦すれば、日本も同盟によって参戦しなければならなくなる。この際ルーズベルト大統領は大ばくちを打って、世界平和のために蒋介石に戦争をやめるよう提議してはどうか」などと語ったのに対し、スタインハートは一応了承の意思を示し、松岡の意図をアメリカ政府に打電していた。
また松岡は、
「ソ連は日米戦争を誘発させるよう画策している気配が見える。そうなれば東部戦線は安泰だからだ。しかし、日米はその手にのってはならない。かりにアメリカが日本を負かしたとしても、シナ大陸が共産主義の支配下に帰するだけであろう。しかも、日本は三十年もすれば、立派に回復して、従来よりもはるかに強大になるに違いない」
と例によって先見性のあるグローバルな意見を開陳して、スタインハートを傾聴せしめた。
しかし、今度、日ソ中立条約が成立すると、形の上では四国協商に近くなるので、どのようにアメリカを刺激するかも知れない。ここは是非、四国協商の後では松岡が訪米してルーズベルトと直接和平会談を持つ希望があることを伝えねばならない。加瀬とスタインハートはハーバード大学の同窓生であったので、二人はとくに親密であった。中立条約成立直後にモスクワで松岡・スタインハートの会談を持たねばならないがと加瀬は思案していたが、松岡は一向に起きる様子がない。この夜はモスクワ芸術座でチエホフの「三人姉妹」を見物する予定になっていた。
加瀬がやきもきしていると、スタインハートの方から電話で緊急の用事があるから至急アメリカ大使館に来てくれと言って来た。急いで加瀬がアメリカ大使館に駆けつけると、彼らは何事かを感づいたらしく「英国大使スタッフォード・クリップスが松岡外相に会いたい、というからよろしく頼む」ということである。クリップスはチャーチルの信任の厚い男で、先にトルコのアンカラで駐独ソ連大使と密会し、ヒトラーをやきもきさせたことがあった。(クリップスは労働党に属し、戦後は労働党内閣の商相、経済相兼蔵相を勤め、経済復興に尽力した)クリップスはチャーチルの密書を持参していた。松岡親展の極秘文書で、直接手渡したいという。
「ダイレクトリイ?(直接ですか)」
加瀬は首をひねった。今や松岡は世界中が注視している人物である。極秘行動は難しい。
ゴリキー公園の一角でクリップスの自動車が故障してエンコしているところに、偶然という形で松岡の車がさしかかる。というような案も出たが、松岡を追いかける新聞記者団の目をかすめることは難しい。そのうちに、加瀬が、今夜モロトフの招待で松岡が芸術座へ行くと洩らすと、スタインハートは、それはグッドチャンス≠セ、と手を拍《う》った。スタインハートは早速クリップスを呼び出し、「今夜夫人同伴で芸術座に来てくれんか、夫人の毛皮は白にしてくれ」と電話した。加瀬が電話のわきのカレンダーをみると、この日は土曜日であった。土曜日の夜は外交官たちが家族同伴で芝居を見にゆくことが多いので、目立たない。しかしそれだけによい席の切符を手に入れることが難しい。加瀬が、
「大使、今から四人分の切符が手に入るかね」
と訊くと、スタインハートは片目をつむって笑い、
「アイ、アム、アメリカン、アンバサダー(私はアメリカ大使だ)」
と答えた。
松岡外相の席は二階の特別席ボックスなので、クリップス夫妻は一階オーケストラ前の中央前から十列目に、開幕のベルが鳴り暗くなってからこっそり着席することになった。
両者が席を立つ時間の合図も決った。宿舎の迎賓館に帰ると、加瀬は松岡を起し、クリップスとの密会について報告した。
「そうか、チャーチルが相談したいというのか、会おう」
むっくり起きあがると、松岡は服を着始めた。芝居の開幕まで、時間はいくらもなかった。
やがて、松岡は加瀬を伴って芸術座のボックスに入った。困ったことに建川大使が同席である。『敵中横断三百里』という少年向けの戦争物語の主人公として名高いこの陸軍中将は、親ソ団体の幹部ということで駐ソ大使に選ばれたが、武骨一点張りで、外交手腕においては松岡の足元にも及ばなかった。反英、反米でこり固まっているこの軍人に、チャーチルの密書受取の一件を話せば強硬に反対するに決っている。それに、ホスト側のモロトフ夫妻も同室で、例によって豊富な酒肴《しゆこう》で接待これ努める。明日は世界史に残る中立条約の締結なので、日頃無愛想なモロトフも笑顔を浮べ、最上のサービスである。松岡は悠然とコニャックを呑んでいる。加瀬は一人でやきもきしていた。密会の合図は、第一幕の終りで、ナターシャが広間から客間へ走り出したときである。そして、その時が来た。舞台の広間では高笑いが起きている。ナターシャが走り出してアンドレイと接吻をした。これが合図のシーンである。一階中央では、白い毛皮のコートを着た二人の夫人が立ち上った。
「今ですぞ、大臣……」
加瀬は松岡の腰を強くつついた。
「ああ、ぼくはちょっとトイレに行って来るよ」
松岡はモロトフに会釈し、不審がる建川を目で制し、加瀬を連れて廊下に出、後部の特別喫煙室に入り、クリップスを待った。やがてクリップスが入って来て、握手と共に小さな紙片を手渡した。チャーチルの密書である。(一説には本当にトイレへ行き、その出口で、手をふいた後やあやあと握手をしながら紙片を手渡したとも言われる)
チャーチルの密書は、英国の実力を示して日本の自重をうながす内容のものであった。日本が枢軸側に加わることの危険を示唆し、暗にシンガポール攻撃を牽制《けんせい》する意味を持っていた。この密書は本来ならば重光駐英大使がチャーチルの特別機に乗ってリスボンに赴き、ここで松岡に手渡す予定のものであった。しかし、前述のようにリッベントロップの反対によって松岡のリスボン行きは流れ、英大使は劇場のなかでスパイ映画もどきの早業を用いることとなったのである。チャーチルの密書は、英国の危機と同時に日本の立場を考えさせるものをもっており、松岡が日本に帰ってから、ある時はわざとシンガポール攻撃を主張し、あるときは南進を抑えるために、北進すなわちソ連攻撃を主張する一つの原因ともなるのである。
翌朝食堂におりた松岡は上機嫌で記者団を見回した。
「いやあ、昨日は失敬、今日はグッドニュースを提供しよう。今日午後三時からクレムリンにおいて日ソ中立条約の調印式が行われるんだ」
そういうと、松岡は得意のポーズでパイプをふかした。
記者団はあっと驚いた。
「大臣、おかしいじゃありませんか? 昨日の様子では、条約は不成立という様子でしたが……」
A社の記者がくってかかった。彼はそのような見通しの記事を打電してしまったのであった。
「君、わからんかね、これが電撃外交というもんだよ。昨日は不成立、今日は成立……。米英側の新聞記者諸君はマツオカのモスクワ訪問は完全に失敗に終ったと昨日打電しただろう。しかし、今日は条約成立を報道せざるを得ない。わかるかね、彼らにショックを与えたこの電撃外交の意味が……」
すると記者の一人が問題の点について問うた。
「北樺太の権益返還の問題はどうなったんですか?」
「あれか、あれは白紙さ。中立条約の交換条件は何もない。これによってソ連が日本の満州における優位性を認めたということが言えるわけだな。よく聞いてくれ。スターリン君は、おれの肩を叩いてマツオカには負けたと言ったよ。あいつは話のわかる大物だよ」
松岡は生涯の得意の絶頂にあった。これ以後、彼がこれを越える得意の場面に遭遇することはもうない。彼はそれに気がついていなかった。そして、四年後の夏、スターリンの軍隊が中立条約を破棄して、満州に侵入して来ようとは、夢想だにしていなかった。
この日も加瀬秘書官はあわただしい思いに駆られていた。調印式はモスクワ時間の午後二時で、松岡一行をのせる国際列車は午後五時にカザン駅を出る。一般乗客も乗せる国際列車であるからみだりに遅延は許されない。調印式の後には祝宴があり、そのあと日本大使館でも乾盃をしたいと言って来ている。
果して順調に帰国の途につけるであろうか?
加瀬が気をもんでいるうちに、調印式は昭和十六年四月十三日午後二時(日本時間午後十時)からクレムリンのモロトフ外務人民委員(外相)事務室で行われた。四カ条から成る日ソ中立条約の本文に調印署名した。内容は以前にリッベントロップがモロトフに提案したものを修正したものである。署名者は松岡と建川美次大使とヴヤチェスラウ・ミハイロヴィチ・モロトフである。
松岡がロシア文字の文書を横にして縦書きに日本文字でサインするのを、スターリンがパイプを片手に珍し気にのぞきこんでいた。
松岡は今回のモスクワ会談では日本語で押し通した。ドイツやイタリアでは英語であった。英語国民を敵と考えている独伊では達者な英語を示して、おれは英米にも知人が多いのだというプレッシャーをかけた。ロシアでは日本国を代表して条約を結びに来た、というので、日本語である。ここらにもアメリカ育ちの松岡らしいかけひきがみられた。
松岡の次に建川駐ソ大使が副署したが、彼が捺印《なついん》のときとり出した印鑑の頭には猪《いのしし》がついていた。
「あ、豚だ」
とスターリンがのぞきこみ、捺印を終った建川が差し出すと手にとって眺め入った。猪を豚だといわれたので建川は当惑気に松岡の方をふり返った。松岡は言った。
「そうです。建川は豚のようにおそい人間です」
日ソ不可侵条約はすでに前年夏から東郷前大使が進行せしめていたのを、日露戦争の英雄であるはずの建川は一向にまとめることが出来なかったのである。
宮川参事官に通訳されたスターリンとモロトフは苦笑したが、
「しかしこの国では豚は非常に貴重な動物ですよ」
とスターリンが含蓄のある言葉でその場をとりなした。
調印式が終ると立食の祝宴に移った。
この日スターリンは新しい灰色の詰襟服《つめえりふく》によく磨かれた黒の長靴をはき、勲章も徽章《きしよう》もつけていない。煙草をくゆらしながら壁のそばをゆっくり歩いていた。
やがてシャンペンで乾盃が行われても、彼だけは小さなグラスに桃色の酒を手酌で注いで呑んでいた。ポーランドで手に入れた特製のウオトカらしい。
しかし、松岡が、
「では日本国の天皇陛下のために乾盃!」
というと、スターリンは大急ぎで小さなグラスをシャンペングラスにとりかえ、一同と共に乾盃、加瀬がみていると、スターリンはひと息に呑み干した。スターリンは酒をあまりやらないというのはうそではないか、と加瀬は訝《いぶか》った。
続いてロシア式の乾盃が延々と続いた。
「日ソ中立条約成立のために」
「ロシア人民のために」
「日本国民の健康を祝して」
はては、
「ロシアのうまいウオトカのために」
「日本の美しいフジヤマのために」
という具合で、はてしなく続く。帝政ロシア時代には、一杯呑むたびにグラスを床に叩きつけて、新しいウオトカを注いだものであるが、さすがに労農ロシアではそんな無駄なことはしない。
一方、加瀬の方は気が気ではない、列車出発の午後五時が刻々に迫って来る。日本大使館でも館員たちが待っており、用意の料理も冷えてしまったに違いない。
他の随員たちも気が気ではない。ウオトカのグラスを片手に腕時計を睨《にら》んでいる。それに気づいたスターリンは、部屋のすみにあるテーブルの電話をとると早口に二言三言命じた。終ると一同を見まわして、
「皆さん、国際列車の出発を一時間延期しました。ゆっくり飲んで下さい」
と言った。一同は拍手でこれをむかえた。
加瀬は驚いた。シベリア鉄道の国際列車のうち松岡たちが使用するのは後尾の二|輛《りよう》だけで、残りは一般乗客用である。なるほど、独裁者というものは、凄《すご》いことをするものだ、と加瀬は感心した。そして、それだけスターリンは松岡を歓待していると考えた。ドイツとユーゴが戦いに入った日、ソ連はユーゴと不可侵条約を結んでいる。それだけに独ソ戦は必至とみているわけである。松岡の来訪によって、シベリア東部の安全が保障されたので、日独による挟《はさ》み討ちの心配が消えたのである。
やっと気持の落ち着いた松岡に、スターリンは肩を寄せるようにして話しかけた。
「私は三人の日本人を知っている。後藤新平伯、久原房之助、それにヨースケ・マツオカだ。後藤伯は非常に科学的な人、久原さんは事務的な人、そして、今度、松岡外相をモスクワに迎えてはじめてすぐれた日本の政治家を見たように思います」
さらに、彼は笑いながら、
「私はコーカサスのグルジアの生れで、もともとアジア人です。ヨーロッパ人ではありません。だから、私のやることはヨーロッパの人にはわかってもらえないかも知れない。しかし、日本人には理解してもらえるでしょう」
と言って、松岡の肩を叩いた。
「その通りです。お互いにアジア人です。日本とソ連が手を結べば、ヨーロッパも東洋の問題も解決しますよ」
そういうと、松岡はスターリンの手から専用の酒瓶《さかびん》をとって、ピンク色の酒をスターリンのグラスに注ぎ、自分のグラスと合わせて、
「アジアの繁栄のために……」
と乾盃した。
ようやくクレムリンを切り上げて日本大使館に帰ると、書記官たちが食卓を前にして待ちくたびれていた。
そこへ、酔歩|蹣跚《まんさん》とした松岡が入って来ると上機嫌で演説をぶち始めた。
「外交というものはかけひき[#「かけひき」に傍点]が普通とされている。しかし、今回我輩は皇道外交に徹した。そして成功した。皇道外交の勝利であり、大|御稜威《みいつ》のいたすところである。昨夜は嬉しくて夜通し起きていた。モスクワの空に春の美しい月が上っていた。そこで一句詠んだ。すなわち、『ただ拝む東の空や春の月』どうだ」
一同は拍手をもってこの不息庵宗匠の句を賞讃《しようさん》した。
午後五時、ラジオが日ソ中立条約の成立をアナウンスし始めた。最初はロシア語で、ついでたどたどしい日本語で報道した。
「珍しいですね、ソ連のラジオが日本語の放送をするとは……」
通訳を勤めた宮川参事官が感慨深げに言った。しかし、ゆっくりそれを最後まで聞いているひまはなかった。出発の時間が迫っていた。
松岡の一行がカザン駅へ着くと、待たされていた一般の乗客たちは、千鳥足の松岡を珍し気に眺めていた。携帯ラジオなどのない時代であるから、彼らはこの男が日ソ中立条約成立の立役者であることを知らなかった。
松岡がふらふらしながら外国の使臣たちと握手しているので、加瀬秘書官が耳元で、
「大臣、しっかりして下さい。写真班がおりますから」
とささやいた。
「不肖、松岡洋右は断じて酔っぱらってはおらん!」
松岡は大声で怒鳴った。
そのとき、
「あ、スターリンだ」
「書記長が来た……」
と人々がざわめき始めた。
みると、かなり酔ったスターリンがモロトフと肩を組んで、駅から列車のホームへ歩いて来るところであった。あの用心深いスターリンが、格別の警護もつけないでプラットホームに姿を現わしたのである。普段のスターリンは、自動車に乗るときも三方の窓にブラインドを降ろし、自分は前の補助椅子にすわって、外部からの狙撃《そげき》を警戒するという用心深さであったのだ。
外国使臣や記者団が驚いていると、さらに彼らが目をみはる事件が起きた。スターリンがいきなり松岡に抱きついたのである。熱烈に抱擁しながら、
「タワーリシチ、マツオカ。おれたちはアジア人だよ、な」
と繰り返した。
松岡も、同じことを叫びながら、スターリンを抱きしめた。日ソ中立条約成立に関する最も劇的なシーンがスターリンの側から演出されたのである。抱擁を繰り返すスターリンの真意は那辺にあるのか? すぐそばで眺めていた加瀬は、さきほど調印式の後でスターリンが、「私はアジア人だ」と述べたとき、「大英帝国の落日は再び昇らぬ。日ソが合作すれば、世界無敵だ」と述べ、「日本の南進に乾盃」と何度もグラスをあげたのを思い起した。
もう日本はソ満国境を越えてシベリアに北進して来ることはない。日本は南進しシンガポールを攻めるだろう……そういう意味をこめての固い抱擁であったのだ。加瀬がそのようなフラッシュに似た回想を脳裡《のうり》に甦《よみがえ》らせていたとき、松岡をはなしたスターリンは、いきなりかたわらにいた加瀬を抱きしめ、頬ずりした。剛《こわ》い髯《ひげ》が少しのびていて、ごりごりと頬に痛かった。日本の南進をうながすための痛い頬ずりだ、と加瀬は考えた。
スターリンは加瀬を解放すると、二、三の日本人随員と握手し、さらに近くに立っているドイツの駐ソ大使シューレンブルグの手を無理矢理引っ張って握りしめ、
「ロシアとドイツはいつまでも友人だ。お互いに努力しよう」
と言った。
シューレンブルグは、複雑な表情で少し握ると手をひっこめた。彼がリッベントロップから受けていた情報は、ドイツは日ソ条約の成立を望まず、従ってマツオカがモスクワに行っても条約はまとまるまい……であった。しかし、松岡の電撃外交によって条約は成立し、昨日クレムリンの帰りに松岡は極秘事項としてそれをドイツ大使に知らせて来たのである。リッベントロップはどんな表情をしているだろうか……とシューレンブルグは考えていた。去る一九三九年八月にはリッベントロップが独ソ不可侵条約を結んで、世界を驚かせ、日本の平沼内閣を「複雑怪奇」のすてぜりふと共に総辞職せしめたのである。しかし、いま日本はリッベントロップが二流と考えていたであろう松岡を用いて、日ソ中立条約を締結した。日本はドイツのお株を奪ってしまったのである。(シューレンブルグはこの翌日、あわただしく特別機でベルリンに飛んだ)
スターリンは最後尾の松岡の専用車に乗りこむと、調理場や食糧庫などを点検し、食堂車をものぞいた。スターリンは例の堂々たる体格の三人の給仕人に「粗漏のないように」と注意を与え、すでに乗りこんでいた二、三の随員に、「よい旅行でありますように」と言い残すと、意外にもホームとは反対側の線路のある方にぽんととび降りてしまった。みていた人たちは驚いた。スターリンは悠々と線路を越えて歩き、貨物列車の向う側に消えた。警備に当っていた大男の大佐があわててあとを追った。貨物列車の向うにスターリンの自動車がとめてあったのであろうか。
発車の時刻が来た。松岡はスターリンと最後のあいさつをのべたいと思ったが姿が見えない。ソ連の汽車は発車ベルも鳴らさなければ駅員のホイッスルもない。黙ってすーっと動き出す。ごっとんと列車が動き始めたので、松岡は随員にうながされて、高い階段を駆け登った。このとき彼は足をすべらせて、階段の上のデッキに右手をついた。酔っていたためか、体が斜めになり、右掌の甲をかなりすりむいた。松岡は専用車に入ると後藤看護婦にほうたいをしてもらった。この右掌のほうたいが、後に立川飛行場で近衛と会ったときに大きな意味を持つようになるのであるが、誰もそれには気づいていなかった。
右掌に白いものを巻いた松岡は、それでもじっとしていることが出来ず、食堂車に姿を現わした。
「おい、諸君! 見たか。さっきの光景をみたか! これが諸君、大御稜威というものだよ」
彼は白い右掌をふり上げながらこう叫んだ。列車は徐々にスピードをあげ、モスクワの市街からロシアの白樺林《しらかばばやし》へと入って行った。
帰りの汽車で松岡は上機嫌であった。後藤看護婦に灸《きゆう》をすえさせては、食堂車でビールを呑み続けた。彼はこの間、アメリカでウォルシュ、ドラウト両神父が斡旋《あつせん》した危険な=u日米了解案」(それはやがて松岡の命とりとなる)が作成されつつあることを知らなかった。(日米了解案については次章に詳述する)
四月十八日、その日「日米了解案」はアメリカから東京に到着した。同じ日松岡の一行はイルクーツクに着いた。バイカルはもう目の前である。日本ではもう晩春だというのにあたりはまだ雪の原が続いている。そこで不息庵が一句。
バイカルかああバイカルか春の雪
長谷川進一氏はシベリア出兵当時の感慨が含まれているのであろうと言い、『人と生涯』の著者は、まだバイカルか、というもどかしさが感じられるという。大使命を果してシベリアを横断しつつある松岡のセンチメンタリズムであろう。
この日は五年前九十四歳で世を去った母ゆうの命日の前日なので、松岡は夕食から精進料理をとることにした。翌十九日、松岡は自室に母の写真を飾り、白飯を供え供養をするかたわら、報告書作成、新聞発表、放送原稿の口授等随員を相手にエネルギッシュに仕事を続けた。
明日はいよいよ満州里着である。満州里では近衛の急遽《きゆうきよ》帰国を促す電報が待っていたが、松岡はそんなことは知らずに母の写真の前で手を合わせていた。その姿を見て加瀬秘書官の胸に一つの回想が甦った。四月十二日、日ソ中立条約成立が確定した日の夜、加瀬は文書の作成に追われて大使館で徹夜し、早朝雪を踏んで迎賓館に入った。靴音をひそめて自室に入ろうとすると、松岡の扉があいて、「御苦労だったな」とねぎらいの言葉がかかった。なかに入って報告をしながら室内を眺めると、テーブルの上には母ゆうの写真が飾ってある。松岡は礼拝すると、紙片に俳句を書きつけた。例によって不息庵宗匠は多作であるが、その句がすべて亡母を憶《おも》う句であったので、加瀬は感動した。気がついてみると線香の香が鼻を衝いた。日ソ中立条約成立を亡母に報告するため香を焚《た》いて祈り、俳句を通じてかつての慈母と語る外相松岡……これは人に知られぬ松岡の一面であった。
しかし、新聞記者の岡村二一は別の面の松岡を知っていた。
列車がカリムスカヤでシベリア本線と分れ、北満鉄道を満州里へ向って走っているとき、松岡は夜おそくまで食堂でビールを呑んでいた。相手は岡村一人となった。
「おい、岡村君、君にはスタインハートの件で迷惑をかけたな。そのほかにも書きたいことも書かせなくて……」
松岡はしんみりとした調子でそう話しかけた。
「まったくですよ。書けざる特ダネばかりよくもたくさんくれたものですよ」
すっかり松岡とうちとけた岡村はそう相槌《あいづち》を打った。すると松岡は意外なことを言い始めた。
「よろしい。では、今度は本当の特ダネを提供しよう。君、手帳を出して、六月二十二日のところに大きな丸をつけておきたまえ」
「また何かあるんですか?」
岡村は半信半疑で手帳を出し、いわれたところに大きな丸をつけた。
「よろしい。この日はね、ぼくが重慶に行く日だよ」
「重慶へ?」
「左様、蒋介石に会いに行くんだ。南京まで青天白日旗(中華民国の国旗)のマークをつけた飛行機が迎えに来る。それに乗って重慶へ行き、蒋介石と和平交渉をして条約を結ぶ運びとし、今度は香港からチャイナ・クリッパー機(四発大型)で蒋介石を連れてハワイに飛んでそこでルーズベルトに会って、日中和平の斡旋をしてもらうんだ。これで支那事変は解決。ついでにルーズベルトと日米中立条約も結ぶ。これで東洋では当分戦争は起きなくなるというわけだ」
松岡は得意そうであった。ヒトラーに会い、スターリンに会って、国際政局をひき回して来た彼にとって、最終の目的はこれであったのだ。
「どうだ、面白いだろう。そのときは君を連れてゆく。どしどし特ダネを書いてくれたまえ。考えるだけでも愉快ではないか」
松岡はそう言って岡村を喜ばせたが、
「但し、本決りになってぼくがよいというまでは書くなよ。陸軍あたりが妨害に入って、青天白日旗をつけた飛行機を撃墜されてはかなわんからな」
と注文をつけることを忘れなかった。
――これが松岡のいう四国協商に次ぐ東洋和平の大構想か――と岡村は思い当った。松岡の考えている日中和平の条件は、万里の長城以北を中立地帯とし、日本は全大陸に派遣した軍隊を撤兵する。そのかわり、アメリカも中国も満州国を承認する。そして、日米、日中不可侵条約を締結しようというのである。これが松岡の東洋和平の最終的青写真であったのだ。
「陸軍が簡単に撤兵しますかね?」
岡村の問いに松岡は、
「君、陸軍も支那事変の泥沼に足をつっこんで弱っているのだよ。面子《メンツ》さえ立てれば撤兵に応じるよ。但し、そのとき右翼の気の早い奴がいて、政治家の一人や二人が暗殺されるかも知れんがね。なあに、殺されるのを恐れていては、真の外交は出来ないよ。日露戦争のときの小村寿太郎侯だって随分危かったんだ」
と自信あり気に答えた。
しかし、このときすでに運命は松岡を見はなしていた。日本に帰った松岡は日米了解案にふり回されて近衛と不仲になり、やがて七月十八日内閣総辞職と共に解任されてしまうのである。そして、皮肉なことに、松岡が岡村の手帳にマークをつけさせた六月二十二日は独ソ開戦の日となるのであった。
松岡の一行をのせた列車が満州里に着いたのは、四月二十日の早暁午前三時であった。プラットホームに降りた随員の一人は、当時流行していた東海林太郎の「国境の町」という歌を想い出していた。※[#歌記号、unicode303d]橇《そり》の鈴さえ淋しく響く、雪の曠野《こうや》よ街の灯よ……という文句である。この朝の満州里は寒気がことのほかきびしく暗夜には星屑《ほしくず》の一つも認められなかった。
しかし、駅構内の貴賓室では煌々《こうこう》と電灯が輝き、満鉄のコーラス団がブラスバンドの伴奏で「光は東方より」という社歌をうたってこの世紀の英雄≠歓迎した。
列車をおりた松岡はいつもの濃紺色のオーバーに身を包み、鼠色の手袋をはめた手に唐竹のステッキをもち、山高帽を片手に悠揚迫らずという態度を保持しながら、出迎えの人々に会釈した。
やがて、満鉄社歌が君が代にかわり、駅頭は、
「日ソ中立条約万歳!」
「松岡外相万歳!」
の歓声と拍手で騒然となって行った。
松岡は記者団と会見し、ソ連旅行と日ソ中立条約についてのステートメントを発表し、続いてマイクの前に立ち、日本国内放送用の録音を行った。その内容は独伊ソ連の歓迎ぶりと、日ソ中立条約成立の意義、とくにこの条約によって事実上ソ連が満州国を認めたことを強調し、満州国の建設史上大きな一歩を前進せしめたものであると信ずる、と結んだものである。
この録音は日本時間でこの日午後零時半から放送され、家族たちは久方ぶりに元気のよいパパの声に聞き入った。
岡村二一「日ソ不可侵条約と松岡洋右」(「中央公論」昭和三十九年八月号)によると、松岡が満州里に着いたとき、外務省からの使者によって、近衛首相が外相には無断でルーズベルトあてに書簡を送り、太平洋上で会見する話を進めていたことを知らされ非常に怒り、「こんな疲れ切った顔をして天皇陛下に御報告申し上げるのは失礼に当るから、二、三日静養してから日本へ帰りたい」と称して、東京へ直行の予定を変更して、ハイラルから大連へ飛び、星ヶ浦の満鉄総裁邸で二日間|不貞寝《ふてね》をきめこんでしまった、と書いてある。他の資料には、満州里で外務省の使者から日米交渉(了解案)について聞かされたと書いたものは見当らないので、松岡が日米交渉についてその進行を知るのはもっと後のことと思われる。
但し、『太陽はまた昇る』には、近衛が満州里駅あてで松岡に「至急帰京されたし」と打電したのに、松岡が大連を回って帰って来るのでいらいらして東京から大連に電話したという記述がある。松岡が大連でのんびりしたのは、故旧の地満州でゆっくり歓迎攻めを楽しみたいと考えたという説もある。『人と生涯』によると、松岡は帰路シベリアから大橋外務次官にあて、「タシロノゴトキモノヲダイレンニハケンセラレタシ」と打電している。そこで大橋は田代重徳参事官を大連に出張せしめた。田代は星ヶ浦の満鉄総裁公邸で松岡と会ったが、その報告にはアメリカから松岡の訪問を要請するようなものがなかったので、くどくどと国内事情を説明する田代に松岡はひどく怒った、となっている。四月十五日頃、松岡はシベリア鉄道のスベルドロフスク駅(エカテリンブルグ)で、独軍がベオグラードを陥落せしめたというニュースを聞き、同時に駐ソ米大使スタインハートから「反響よろしい」という密電を受けとっていた。松岡はこれを、ルーズベルトが松岡の最終構想を理解し、両者の会談を企図しているものと受けとり、大いに松岡・ルーズベルト会談の期待に胸をふくらませて満州に入った。その期待は無残に打ち砕かれるのであるが、松岡の大連行きは、シベリア鉄道内での構想であり、満州里で何らかの情報を聞いて日本直行の予定を変更したものではないらしい。松岡は田代の耳に当然ルーズベルトの意向が入っているものと想像し、大連で世紀の♂談の下準備を整え、意気揚々と帰国し、歓迎の上にも歓迎してもらうことを期待していたのかも知れない。『昭和史の天皇30』には近衛が大連の松岡にかけた電話の内容についてそれを聞いた同盟通信編集局長松本重治の回想が出ている。
「近衛が単にアメリカから重要な提案が来ている、というと松岡は非常に喜んだ。例のスタインハートに頼んでおいたルーズベルトとの会談の一件だと思いこんだのである。そして、近衛が、訪欧の労をねぎらうと、松岡は羽田飛行場に着いたときの歓迎のやり方について近衛に注文をつけた。『大げさなことはしてもらわぬ方がよい。しかし、あまり貧弱でも日本の権威にかかわるから……』と言って近衛を苦笑させた」
松岡にはそのような大衆うけのするパブリシティに気をつかうところがあった。この性格が、彼を出しゃばりのはったり屋というふうに誤解せしめたことは否めない。
さて松岡の一行は、汽車でハイラルまで二百キロあまりを走り、ここから陸軍機で大連へ飛んだ。不息庵宗匠は機中で一句をものしている。
春の空を甘露の味や日本晴
機上永井大佐ビールを饗《きよう》しければ(四月二十日)
大連に着いた一行のうち松岡と加瀬は星ヶ浦の満鉄総裁公邸に入った。入ると間もなく近衛首相から松岡に電話があった。その内容は前記の通り、アメリカから重大提案があった、というだけで、それが二人の神父による日米了解案であるということを近衛は言わなかった。主務大臣である松岡に何の了解もとっていない近衛の独走であり、電話で話すと誤解を招くおそれがあるので、松岡の東京帰着を待ってじっくり説明しようというはらであった。
松岡は単純に自分に都合のよい方にそれをうけとり、かたわらの加瀬をかえりみると、
「さあ、次はいよいよアメリカへ飛ぶぞ」
と晴れ晴れとした笑顔を見せた。歴史の歯車は松岡の前で早くも狂い始め、きいきいと軋《きし》む音を発し始めていたが、「日ソ中立条約成立の成功」に酔う松岡には、その音すらも進軍ラッパのように聞えていたのである。
この夜、松岡は満鉄総裁主催の歓迎会に出かけたが、加瀬は訪欧旅行の内容を天皇に報告する内奏書の原案作成に忙しかった。外は豪雨で、日本内地よりは遅い春雷が時々ガラス窓をふるわせていた。深夜加瀬の部屋をノックする者がいるのであけてみると若い美人の芸者であった。
「あの大臣からこれを……」
彼女の持参したのは、結構な弁当であった。料亭で痛飲しているはずの松岡は、一人報告書作成にペンを走らせている加瀬のために、特製の弁当を届けさせたのである。加瀬はしばらくペンをおいて、弁当の牛肉を噛《か》みしめながら、大臣も時々シャレたことをするな、と考えていた。
この夜、招宴の開かれた「星の家」で、参事官の田代が松岡を廊下へ呼び出し、いろいろ国内事情を報告したが、肝心のことが入っていないので、松岡が怒った話は前に述べた。序《ついで》にエピソードを紹介するならば、田代が席へ戻り、永井大佐に献盃《けんぱい》にゆくと、「君は何をしに大連に来たのだ?」と訊《き》かれた。田代はわけのわからぬ使者で少しむしゃくしゃしていたので、「松岡大臣が途中で余計なことをしゃべらないように釘《くぎ》をさしに来たのです」と言ったところ、これが少しはなれたところにいた松岡の耳に入った。
「田代、貴様、何をぬかすか!」
松岡は怒りに身をふるわせながら田代にとびかかろうとした。田代は大兵で柔道五段の猛者である。身構える田代とまなじりを決している松岡を、永井はやっとのことで引き分けたが、永井は松岡洋右十回忌で「あのときの松岡さんの気魄《きはく》はまったく素晴らしく、青年外相健在なり、の感がありました」と述懐している(『人と生涯』より)。
二十一日朝、夜来の雨はあがったが、まだ風は強く総裁公館の窓から見渡す星ヶ浦の沖には白い波頭がはねていた。
「君、靺鞨颪《まつかつおろし》だよ、懐しいねえ」
ベランダに身を寄せた松岡は、酔いの残っている頬をなでながら満鉄総裁時代を偲《しの》ぶかのように随員にそう言った。靺鞨については以前にも説明したが、七世紀頃満州に渤海《ぼつかい》国を興したツングースの一部族で、その子孫が女真を興し、やがて奉天に清国の王朝を建てるのである。そこで、満州では西満州の強風を興安颪と呼び、北満から南満にかけての強風を靺鞨颪と呼んだ。清朝のクラウン・ランドである満州の原住民であるツングースを愛する松岡は、靺鞨という言葉が気に入っていた。
この日松岡の一行は大連・周水子の飛行場から東京へ飛ぶ予定であったが、中継地となるべき京城、福岡、大阪の各飛行場が風速十五メートル前後の悪天候なので、出発がのびのびとなった。
出発予定は午前八時半であったが、九時すぎても気象通報は回復の兆をみせない。とにかく飛行場へ行って待とうと、一行は周水子の飛行場へ出向き、貴賓室でウイスキーなどをやり出した。松岡がパイプをくゆらせながら、見送りの人々とあいさつを交わしていると、一人の男が駆けつけた。満鉄中央試験所で石炭液化の研究を続けている岡部理学博士である。彼は内地へ出張していたのであるが、この日朝大連へ帰ってみると松岡の「是非会いたし」という伝言があったので、飛行場に駆けつけて来たのである。
「ああ、大臣。まだお発《た》ちではなかったのですか、間に合ってよかった……」
岡部は息を切らせんばかりであった。
「おう、岡部君か。いや君にね、ドイツで見て来た石炭液化の研究状況を話しておきたいと思ってね……」
松岡は飛行機が出ないのをよいことに、岡部を相手に石炭液化の話を始めた。彼は前日も、かつての部下であった大村満鉄総裁をはじめ、満鉄の幹部たちに、ドイツの人造石油について語り、日本も石炭液化をすすめて人造石油を作る研究を大いに推進すべきだ、と強調して幹部たちを驚かせていた。人造石油は動物性油脂、テレビン油などが原料であるが、石炭、油母頁岩《ゆぼけつがん》、天然ガスなども原料となり得た。満州はこれらの資源に富んでいた。松岡がヒトラーから聞いたところによると、ドイツの天然石油生産高は資源をルーマニア、ポーランドなどに仰いで年間二百五十万トン、これに人造石油四百五十万トンを加えて、年間七百万トンの石油生産高を目ざしているという。
松岡は岡部に対して石炭液化の推進を促した。
「君、ドイツの石炭液化はね、現在は約四百万トン、今年中にはさらに百五十万トンの増産を見こんでいる。ヒトラーはイタリアを抱きこんで、『大陸石油会社』をつくり、全欧州、中近東の石油権利を獲得しようとしている。ルーマニアもイランもイラクもだ。そしてここで大がかりの石炭液化をすすめておる。またドイツでは『エンジン研究で石油不足を追い抜け』ということも言われている。ここは岡部君、是非君に満州における石炭液化事業を本格化してもらわねばならぬ……」
アメリカと不仲になった場合、蘭印の石油を頼れば、日米戦を促進するかも知れぬ。それよりも満州の人造石油産業を軌道にのせれば、アメリカの経済制裁も痛くはない……。松岡の大風呂敷は、国際条約締結による平和維持だけにとどまらず、経済生産の面にまで及んでいた。
松岡の長広舌が続いても各地の天候は一向に良化しようとはしない。東京の近衛は日米了解案の回答を急ぐべくいらいらしながら松岡の帰京を待っていたが、悪天候には勝てない。結局、この日は出発をとりやめ、午後は協和会館に、満鉄社員を集め、訪欧旅行の話をすることとなった。富田健治(近衛内閣書記官長)の『敗戦日本の内側』や矢部貞治(政治学者、拓大総長)の『近衛文麿』上・下には「近衛が一日も早く(二十日に)帰京して欲しい、と頼みこんだが、松岡は、明日は満鉄社員を集めて講演することになっているので帰れない、と断った」と松岡が予定の行動として帰国を延引させ、日米了解案に抵抗したという意味の記述をのせているが、松岡はこの段階ではまだ日米了解案の内容を知らず、従ってわざと帰国をのばす理由はない。この点、「長谷川進一手記」や『太陽はまた昇る』などは、四月二十一日松岡が飛行場まで赴いたが、悪天候のため出発を断念したことを認めている。松岡はスタインハートを通じて打った手が奏功して、ルーズベルトのよい返事が東京で待っていると考えていたはずで、ここで無理に帰国をのばす必要はなかった、と『昭和史の天皇30』は推測している。不息庵宗匠・松岡は二十一日「涙して留むる心か星ヶ浦」と詠んで、遅延を恨んでいる。
四月二十二日は好天となった。
松岡の一行をのせたMC機は午前八時四十五分周水子飛行場離陸、午前十一時福岡空港着、少憩の後、午後零時半福岡発、途中箱根上空の悪気流に悩まされ、羽田も風が強いため午後三時すぎ、立川飛行場に着陸した。
いよいよ自分の手でルーズベルト会談が実現すると思いこんでいた松岡不息庵宗匠は、機上でも上機嫌で、矢つぎ早に三十八句をものしている。
大君へ翔《か》ける心や春の空
松岡注、気のせいたる心を詠む
この気のせいたる、というのは、早く帰京して、重慶に飛んで蒋介石と会談し、蒋を帯同してハワイへ飛んでルーズベルトと会談し、東洋の平和を確立、松岡の大構想を実現せんとする野心によるものか、あるいは単に早く帰国して陛下に日ソ中立条約のいきさつを報告して御安心を乞いたい、という忠誠心からなのであろうか。
狂句
旅かせぎすませて帰る松岡座
機上偶感
馬の脚かくれて居てこそ主役なり
馬脚をばあらわす芝居客も去り
(馬脚は軍部のこと)
午後零時すぎ郷里室積を右手に望みつつ航行す。遥《はる》かに祖先の墓を拝む
亡き母の守《も》る航空や春がすみ
機上に富士山を望む
帰り路や何と言うても不二の山
皇都帰着
旅|了《お》えて皇都に入るや涙なり
注、涙なりとは飛行場着の頃、小雨のあった意を含む
松岡の着陸した立川空港では、小雨の飛行場に近衛総理と富田内閣書記官長、大橋外務次官、斎藤南洋局長ら少数が出迎えた。大橋忠一『大東亜戦争由来記』によると、「松岡帰着の際閣僚は友人である秋田清拓相以外は誰も出迎えぬ方針であった。秋田が松岡の労苦をねぎらうため全閣僚の出迎え(出発当時と同じく)を主張したのに対し柳川法相や国本社の総裁である平沼騏一郎内相らは『ソ連と中立条約が出来て喜ぶ風を見せては国民教育上面白くない』と主張し、秋田以外は誰もゆかぬことになった。この松岡に対するボイコットは巷《ちまた》にうわさされていた松岡首班内閣陰謀説が松岡に対する反感を閣内に高めさせたのかも知れない。(松岡がヒトラーに対し、自分は日本の指導者になる、と強調したという説があるが、その秘密会談が、早くも日本に洩れているとは考えられない。松岡の訪欧で松岡の人気が高まると、その取巻きが、近衛退陣、次は松岡だという説を流したのかも知れない)私(大橋)はその経緯を知らなかったので、外務大臣代理であった総理だけは行くべきだと思って出発間際に総理に進言すると、『それでは行こう』と急いで車に乗った」
これによると、近衛は立川に出迎えに行く気はなかった。しかし、「近衛手記」によると、
「余は自ら外相を出迎えに立川飛行場に赴いた。感情の人一倍繊細な外相には米国案を最初に見せるときが特に重要なりとし、余自ら帰路の自動車の中でこれを説明する心組みだったのである。ところが外相には宮城二重橋参拝の予定があったので余の代りに大橋次官が同乗、このデリケートな役を仰せつかったのである。果して松岡外相は非常に不機嫌でほとんど興味がないような態度であったということである」
この松岡二重橋参拝説というのは問題がある。というのは松岡はこの日天皇に拝謁、欧州出張の結果を復命上奏する予定になっていたので、二重橋などから遥拝《ようはい》≠する必要はなかったのである。
松岡は大連から近衛に「出迎えはあまり大げさにせぬように」と謙虚な依頼をして来たが、事実は誠に淋しい出迎え風景となってしまった。『太陽はまた昇る』では、英雄松岡立川に帰ると聞いて、近所の小中学生が急遽かり出されて日の丸の小旗をもって飛行場に集ったと書いてある。
大橋『由来記』は「松岡外相は写真班の一斉射撃を受けて飛行機から降り立ち、まず近衛総理に会釈し、ついで出迎えの人々にあいさつを終る。どうも浮かぬ顔色である。健康が悪いのか、あるいは連絡のため、大連に出迎えた田代参事官から米国の提案に関する経緯を聞いて不快に思っているのかと思った」(筆者注、田代が大連で日米了解案についてしゃべったかどうかは謎《なぞ》が残る)
「近衛手記」では、近衛は松岡が宮城二重橋参拝の予定があったので、自分は同乗せず従って車内で日米了解案を説明する機会がなかった、となっている。
ここで、二つのシーンをはさんでおこう。まず、松岡は飛行機から降りて、近衛と握手するとき、左掌で握手している。これはモスクワを出発するとき、列車の階段ですべり右掌に負傷したためで、岡村二一の話によると、右掌に大きなほうたいをしていて、左掌をさし出したので、近衛は苦い顔をしながらやはり渋々と左掌をさし出したという。西洋では左掌で握手することはタブーであって、このため貴公子・近衛はいたく機嫌をそこねたかも知れない。案外このような瑣末《さまつ》な一事が、近衛が松岡と同乗を忌避する一因となったのかも知れない。
いま一つ、「加瀬手記」(戦史室資料)によれば、「外相は(着陸後)直ちに近衛公と密議するところあり」となっている。そして、『人と生涯』八八三ページには、立川飛行場でオーバーを着た松岡の耳に近衛が唇をよせて何事かをささやく写真がのっている。双方共唇を半開にしており、松岡は微笑しかけ、近衛はおどおどしているように見える。おそらく、日米了解案がすでに到着しているので、これに対して至急「オーケー・プリンシプル(主義の上から同意する)」を出さねばならぬ、というようなことをささやいたのではなかろうか。
このあと、松岡の「宮城参拝」を理由とした近衛との乗車拒否が起った、と近衛側の記録は説明しているように思われる。
果して近衛は帰って来た松岡と同車して、首相官邸に向う途中日米了解案を説明する腹案があったのかどうか?
『太陽はまた昇る』では、外務省案では出迎えはなるべく地味にするということになったので、近衛自身は行かないつもりであった。しかし、富田書記官長が、松岡の性格を考慮して出迎えた方がよいとアドバイスしたので「そうしよう。感情家だからちょっとしたことで話がもつれる危険がある。ぼくが出迎えて、帰りの自動車の中で、日米交渉が今日に至った顛末《てんまつ》を誤解のないように話そう。都合によったら今夜直ちに臨時閣議にまで持ってゆくことにしよう」と出迎えにゆくことに決したという。
しかし、大橋『由来記』によれば、「私の記憶では近衛公が外相と同乗を希望した話を聞いたこともなければ、日米交渉の話を外相にするよう仰せつかった覚えもない。二重橋参拝は自動車が進行を始めてから外相が命令したように思っている。かようなことは下らぬことであるが、歴史的な『近衛手記』というものが実際誰の手に成ったものか知らないが、相当事実に相違していることを私の経験によって指摘するため、かくいうのである」となっている。
「長谷川進一日記」では「(松岡の)車は直ちに総理官邸に向った。そして総理官邸に入る瞬間最後のブリッツ・クリーグ(電撃戦)で方向を転じて宮城前に向い……」となっている。
「近衛手記」は、松岡には宮城参拝の予定があった、としているが、これは事実であろうか。松岡が近衛との同車を拒否して大橋と同乗してある程度たってから突発的に命令したのではないか? ではなぜ近衛は手記に松岡の宮城参拝≠創作≠オたのか? 一つの推測は、近衛は日米了解案を松岡に適当な時期に説明しておくことが出来なかったので、主務大臣に無断で重大な日米交渉を始めたと、松岡から非難され、最後には当の日米交渉も開戦という悲惨な事実によって潰《つい》えてしまったので、自分の立場を弁護する必要を感じたのではないか、ということである。松岡の方から同車を断ったとすれば、近衛の説明不足もある程度弁護出来るのである。
問題は、松岡の着陸直後近衛が松岡の耳に唇をよせて何をささやいたか、ということである。近衛が日米了解案のことを洩らし、不愉快になった松岡は、近衛の弁解を聞く前に腹心の大橋から実情を聞く必要を感じて近衛との同車を拒否したのか、あるいは初めから近衛は松岡と同車する気持はなく、また松岡も近衛と同車する気持はなかったのか……いずれにしても、この立川飛行場の後味の悪い出会いと別れが、両者の間に溝《みぞ》を作り、松岡を結構な=u日米交渉案」の破壊者に仕立て上げる役割を果したことは間違いあるまい。
しかし、松岡宮城参拝説を唱える矢部貞治『近衛文麿』は、この参拝説を近衛の松岡に対する嫌悪感の大きな原因となった、と説明している。近衛はそういう形式的なことは「考えただけでも悪寒を覚える人であった」と矢部は書いている。五摂家のうち天皇家に最も近いと思われる近衛家の当主である文麿は、二重橋から遥拝するということに生理的な嫌悪を感じたのであろうか。なぜならば、公卿《くげ》の筆頭である彼は、日夜天皇のかたわらで相談相手となることの出来る身分であり、遥拝などする必要はなかったので、愛国者・松岡≠フ天皇への至情≠熕ャり上った平民のジェスチュアとして宣伝臭の強いものに感じられたのであろう。
これから三、四年後、太平洋戦争の敗色が濃くなると、近衛は富田に対して、「惜しいことをした。自分があのとき、松岡君と同車して日米了解案をよく説明しておけば、日米交渉もうまく行って、日米開戦には至らなかったであろうに」と繰返し語ったという。近衛としては、松岡の宮城遥拝を理由とする同車拒否が、日米開戦を招いた、と言いたかったのであろう。(これに対して、松岡は戦後「近衛手記に対する説明」という口述筆記のなかで、「近衛公はどこから宮城遥拝などという話を聞いて来たのだろう?」と疑問を呈している)
富田はその回想録『敗戦日本の内側』に「近衛公と外相が同車しないことになった瞬間こそ、日本の歴史的運命の瞬間であった」と書いている。しかし、主題となっている日米了解案は、それほど外交的に権威があり日本にとって結構なものであったのかどうか、実は支那事変の泥沼に溺《おぼ》れそうになった近衛と周辺の人間が、片方で松岡のヨーロッパにおける立役者ぶりとその人気を横目で睨《にら》みながら、やみくもに掴《つか》んだ一本の藁《わら》に過ぎなかったのではないか。詳細は次章に譲ろう。
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十八章 奇怪! 「日米了解案」
松岡の車には大橋、加瀬、長谷川らが同車した。
大橋は発車するとすぐに四月十八日到着した「日米了解案」(「交渉案」とも呼ばれる)とこれに関連する近衛首相らの日米交渉に対する熱意について説明した。はじめ松岡は近衛のいう日米交渉とは、自分がモスクワでスタインハートを通じて種をまいておいた松岡・ルーズベルト会談において日米和平を決するものと期待していたのであるが、大橋の説明によって、近衛がウォルシュ、ドラウト二神父の発案により、その後渡米した井川忠雄や岩畔豪雄大佐(陸軍省軍務局軍事課長=後述)が画策した日米交渉に大いに乗り気で、松岡に内密に交渉を進め、ついに留守中に「日米了解案」まで来ていたと知ると、みるみる表情を硬張《こわば》らせた。大橋がかいつまんで説明する日米了解案によると、三国同盟は骨抜きにされ、南方進出はしない、中国から撤兵する、などという重大事項が、外交担当者である外務大臣をぬきにして討議され、野村大使とハル国務長官の間で公式に¥、議した結果この案になったというのである。しかも、近衛とルーズベルトがハワイで会談するという一項目も入っていた。(『太陽はまた昇る』によると松岡は大橋の説明によってはじめてウォルシュ、ドラウト二神父や井川、岩畔の動きを知ったということになっているが、そんなことはない。松岡は二神父を再び十二月二十三日千駄ヶ谷私邸のお茶の会に招いて意見を聞いているが、やはり相手にしようとは考えていない。井川は二月十三日、岩畔は三月九日渡米するがこれは松岡の訪欧出発前であり、松岡の耳には入っていたはずであり、岩畔の手記には出発前松岡を訪ねた、とある)
何にしても松岡は激怒し、宮城遥拝をすませると、首相官邸へ行くという予定を変更して外相官邸に直行した。これが松岡の近衛に対するレジスタンスの第一歩である。(そして、近衛が松岡に無断で日米交渉に手をつけたことが、松岡の人気に対する近衛のジェラシーの公卿的表現とみてよかろう)
外相官邸では、予想通り部下の職員たちが歓声をあげて松岡を歓迎した。一方、首相官邸では近衛をはじめ閣僚が料理と盃《さかずき》を前にして待っていたが、一向に髭《ひげ》と眼鏡の外相は現われない。そのうちに、松岡外相は外相官邸で盛大に乾盃をしているというニュースが入った。
「それは順序が違うではないか。こちらが先だよ」
元総理の平沼内相が難しい顔で言った。彼は一年八カ月前独ソ不可侵条約締結の際、複雑怪奇という声を残して内閣を投げ出した人物であるが、その後松岡が手際よく波に乗って℃O国同盟を締結したので快からず思っていた。その上、松岡が共産主義国ソ連と手を結んだので、ファシストとしては心中穏かでなかったのである。『太陽はまた昇る』によれば、平沼は松岡が首相官邸に先に姿をみせなかったのは、立川飛行場における歓迎が足りなかったせいだと考えた、とある。そして平沼は、松岡の歓迎について、「立川で到着早々大歓迎をするのはよろしくない。現在緊急を要する日米交渉の重大な案件を控えているので、これが終ってから日比谷あたりで国民歓迎大会を開いて、外相に好きなだけしゃべってもらおう」と言ったことになっている。それが本当ならば、平沼も松岡の留守の間に手をつけた日米交渉が、松岡の怒りによって挫折《ざせつ》することを恐れていたのであろうか?
近衛は待ちくたびれた閣僚の顔を見て、富田に迎えを出させた。電話に続いて使者を出した後、松岡はやっと首相官邸に顔を出し、形式的に近衛をはじめ閣僚と乾盃をした。愛情のこもらぬ白けたパーティであった。皮肉な言い方をすれば、「予言者は郷里に容《い》れられず」という箴言《しんげん》はここにも生きていたのである。
午後七時、松岡は参内して天皇に帰朝報告をした。天皇は松岡の労をねぎらったが、なぜか松岡は心楽しまなかった。三国同盟、日ソ中立条約と四国協商の大構想を一人でコツコツと努力して築き上げ、あと、重慶とハワイの会談で総仕上げという段階になって、近衛の裏切りとも言える奇怪な独走によって、松岡構想は裏側から強風に吹き倒されようとしているのである。松岡は四年ぶりに孤独を味わった。四年前の孤独は、彼が営々として築き上げた満鉄の企業部門を日産の鮎川義介にさらわれたときのものである。――しかし、おれには国民がついている。たとえ総理をはじめ閣僚がおれに背を向けようとも、国民はこの松岡の非常時外交を支持してくれるであろう――松岡はそう考えながら自分より二十一歳若い天皇の白い顔を見上げていた。そこには世界を股《また》にかける辣腕《らつわん》な外交官の姿はなく、ひとり内部の混乱に悩む忠実な郎党の後姿があった。
宮中から帰って来ると、松岡は車を首相官邸に回した。九時半から大本営と政府の緊急連絡会議が開かれた。問題は野村大使が送って来た「日米了解案」に対して一刻も早くオーケーを出して、支那事変を収拾することにあった。かつて「蒋介石を相手にせず」と声明して、支那事変を泥沼に追いこんだ近衛はその後打ち出した新体制≠煖体化せぬまま、アメリカの力に頼って、事変の尻ぬぐいをしてもらおうと考えていた。近衛の苦衷はわかるが、果して「日米了解案」はルーズベルトの真意であり、公式の交渉として和平条約にまで発展する効力をもつものであろうか。日米交渉については後に詳述するが、ルーズベルトはこの案について直接タッチせず、もっぱらハル国務長官が窓口を受けもった。二人の神父は日米双方に顔を出し、どちらにもよいことを言い、その要点はどちらの最上層部も諒《りよう》としてはいなかった。ハルは神父たちと日米了解案を操り、何のためか時間をかせいだ。そして、六月二十二日独ソが開戦すると、ヨーロッパ戦線での英国の負担、従ってアメリカの援助も減少し、やがて十一月末の強硬なハル・ノート、日米開戦となるのである。(先日、当時新聞記者をしていた某氏と会談したとき、氏は、近衛が折角まとめかけていた日米交渉を松岡がソ連から帰って来てぶちこわしたので、日米開戦になった、と松岡を非難していたが、これは近衛を平和論者、松岡を主戦論者として割り切る近衛側の執筆者の論旨のみを信じた考え方で、昭和二十年代ならばそれで通るが、最近の研究では、事態はもっと入り組んでいる)
連絡会議の出席者は近衛、松岡のほか、平沼内相、東条陸相、及川海相、杉山参謀総長、永野軍令部総長、富田書記官長、武藤章陸軍、岡敬純海軍両軍務局長である。
会議が始まると予定通り近衛が立って「日米了解案」を緊急審議して、オーケー・プリンシプル(主義上同意)を打電したい、と述べた。閣僚たちは一斉に松岡の方を見た。予想通り松岡は立ち上って、「まず帰朝のあいさつを致したい」と言い、ベルリン、モスクワにおける巨頭たちとの会談とその成果を語り、「ベルリンではシンガポール攻撃のような言質をとられはしなかったし、モスクワでも代償として北樺太の利権を譲るような密約はして来なかった」と証言。ついで日米了解案への反対意見を述べた。
「この米国案に軽率にオーケーを出すことには不賛成である。第一にこのような闇取引をすることは、友邦ドイツとの信義にもとる。第二に、この米国案は悪意七分、善意三分とみられる。想い起す大正六年、第一次大戦中、米国は中国における日本の立場を有利ならしむるものとして石井(菊次郎)・ランシング協定を結んだが、これはアメリカが欧州に参戦するに当り、背後の太平洋の守りを安全ならしむる策略であった。そして、アメリカは日本にも対独戦を行わせておいて、戦争が終ったらこの協定を一方的に破棄してしまった。今回の了解案にも裏があると私は疑念を持ちます。この問題は重大であるから二週間位考えさせてもらいたい」
松岡は言いたいことだけ言うと、疲れているからという理由でさっさと退出してしまった。
松岡が車のなかで大橋から了解案の報告を受けたとき、外交官としての彼の触角にピンと来たのは、一、陸軍の謀略、二、平沼一派の松岡失脚陰謀、三、神父を手先とするアメリカの謀略、であった。松岡は早速、ドラウト神父の身元調査、中心人物岩畔大佐の任命事情調査などを命ずる一方、了解案を研究し始めた。(以下主として『昭和史の天皇30』による)
松岡が宮城遥拝をして外相官邸に着いたとき、加瀬秘書官は松岡から「これを読んでおいてくれ」と厚い書類を渡された。これが問題の「日米了解案」である。加瀬は早速別室でこれを読んだが、ひどい翻訳の悪文である。そこで外務省電信課長に電話して英語の原文をくれと言ったところがない、と言う。そこで、政府大本営の連絡会議に出席する直前の松岡に、「この案は翻訳だが、原文がついていないのはおかしい。ひどく複雑な案だがこれは三国同盟を骨抜きにしようということを目的としている」と大意を説明した。松岡はすぐに原文を取り寄せろ、と言いおいて会議に出かけた。加瀬は手を尽して原文を取り寄せて日本文とつき合せてみた。ハーバード大学卒業の加瀬がしさいに調べてみると、英語のニュアンスをかなり日本に都合のよいように翻訳している。たとえば「両国政府は各国並びに各人種は相拠りて八紘一宇[#「八紘一宇」に傍点]を為《な》し……」と訳してある。原文は「国と人種は一軒の家庭のメンバーとして構成される」という程度である。八紘一宇というのは、日本の神代説話にもとづく国家主義のスローガンである。これでは意訳も甚《はなはだ》しい。一体誰が翻訳したのか、と加瀬は首をひねった。軍、外務当局はこの結構ずくめの日米了解案の日本文を見せられたとき、「すぐ受諾しよう」と頭に血を上せたらしいが、軍務課長の佐藤賢了は「それは困惑したというよりは、若い娘が豪華なファッション・ショーを見せられたときのような、そして眉毛にツバをつけたいような変に交錯した感情であった」(『大東亜戦争回顧録』)と述懐している。黙れ! の賢了≠ノして然《しか》りである。陸軍省タカ派の筆頭で後に極東裁判で刑死する軍務局長武藤章は、先に要注意人物岩畔大佐を厄介払いの形でアメリカに追い出した責任者であるが、三国同盟のとき、岩畔が、「同盟が出来ぬなら、近衛も松岡もない。すぐにやめさせてしまえ」と豪語した中堅将校の一人であることを知っていたので、「岩畔はどういう積りでこんなことをするのか。三国同盟締結のときはどなり回って推進し、今度はアメリカへ出されると掌をかえしたように日米和平と来る、この了解案は明らかに岩畔の作文だよ」と嘆息した。
さて、問題の怪文書?「日米了解案」がどのような演出によって作成されたかについて概要を語ろう。これに関する文献は昭和二十年代にはほとんど出なかったようで、日本国民にも知らされていなかったようであるが、昭和三十五年の日米安保の後は文献も出始め、最近ではかなりのまとまった資料が出ている。日米開戦への大きなポイントとなった日米交渉の全貌《ぜんぼう》は専門書に待つとして、ここでは、その中心人物となった小ラスプーチン≠フ如き謀略型の軍人、岩畔豪雄陸軍大佐(軍事課長)の手記「平和への戦い」(「文藝春秋」昭和四十一年八月号)を中心に、これに批判を加える加瀬俊一「日米交渉」(『日本外交史23』、鹿島出版会)、角田順「日米開戦」(『太平洋戦争への道7』朝日新聞社)、『昭和史の天皇30』、義井博『昭和外交史』(南窓社)、及び『人と生涯』の記述をまじえてその歩みを辿《たど》ってみよう。
陸軍大佐岩畔豪雄が東条陸相から渡米を命じられたのは昭和十六年二月五日のことである。辞令は「陸軍省御用掛、米国出張を命ずる」となっていた。彼はそれ以前からウォルシュ、ドラウト二神父の斡旋《あつせん》役となっていた井川忠雄(前述)と親しかったのでいよいよわが腕を揮《ふる》うときが来たと勇躍した。(井川は二月十三日、近衛が彼の努力に好意的であるという自信のもとに、日本政府代表のようなつもりで渡米していた。岩畔はその渡航のために旅費を斡旋したりしている)
岩畔の渡米は三月六日であるが、アメリカ出張の辞令を受けとった岩畔は、出発までに精力的に多くの有力者を歴訪している。興味深いのは、彼が訪欧出発前の松岡外相を訪問している点である。「岩畔手記」によれば、その問答の内容は次の通りである。
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岩畔 対米外交について外相はどう考えるか?
松岡 日米外交は是非共正常に復さねばならない。けれども三国同盟を締結した今日、この方の地固めをまず何よりも先にし、それが出来た後で、私が出て日米国交の回復に努力するつもりである。
(そこで岩畔はあてずっぽうに突っこんだ)
岩畔 これは推測に過ぎないが、外相は近く独伊を訪問して三国の結合を強化し、その帰途モスクワに立寄って、日ソ不戦条約を結ぼうとしているのではないか?
(松岡は岩畔の手を握って自信たっぷりに言った)
松岡 よくぞ言い当てた。日米交渉はその後にする。ついては君は渡米後そのつもりで準備工作を進めておいてくれ。
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この回答をみると、岩畔が松岡の胸中の意図を言いあてたように書いてあるが、日ソ不可侵条約を結べという意見は十五年九月の三国同盟締結以前から出ており、東郷駐ソ大使もそれに努力している。十月三日外務省はその目的で「日ソ国交調整案」を作成している。十二月十九日松岡はオットー大使に訪欧計画を伝え、十六年が明ける早々「対独伊ソ交渉案要綱」を作成し、二月三日の連絡懇談会にかけて説明している。この会議には、岩畔の親分≠ナある武藤章軍務局長も出席している。岩畔の渡米発令は二月五日である。軍事課長の要職にある岩畔が、以上のいきさつから松岡の訪欧と日ソ中立条約締結の腹案を知らぬはずがない。岩畔はしたり顔に言い当てたように書いているが、知っているのが当り前なのである。
また、松岡が岩畔に渡米後日米交渉の準備を進めてくれ、と依頼した件も怪しい。本当に岩畔を信頼して、日米交渉の下ごしらえを頼んでおいたのなら、松岡がソビエトから帰って来て、見も知らぬ日米了解案に激怒するような事態は起らなかったはずである。また、岩畔の方も、松岡が日ソ中立条約の後自分で日米交渉をやる意図を知っていたのならば、二神父と交渉の途中で、何らかの方法で松岡に経過を報告すべきではなかったのか?
大体、岩畔は武藤章が軍務局長になるより半年以上も前に軍事課長の職にあったが、彼の渡米の目的は、日米和平交渉の推進などという大それたものではなかった。野村大使が渡米するに当り、「誰か支那事変にくわしい武官をよこしてくれ」と言ったので、武藤が、岩畔を出したのである。岩畔は策謀家という定評があり、時に支那事変拡大を叫び、時に三国同盟早期締結を叫ぶタカ派の中心人物であった。私行の上でも批判があり、大谷敬二郎『昭和憲兵史』のなかに出て来る「軍中央部将校の非行」「特権階級然と軍服のまま待合に出入りする将校」などの項に、岩畔も該当しているのではないか、と『人と生涯』は述べている。また、当時軍務課高級課員政策立案主任者石井秋穂大佐は、「東条陸相も岩畔の素行上の点から憲兵隊に報告があり、また公務上越権の傾向もあったので、野村大使の希望を幸いに渡りに舟≠ニ厄介者を海の向うに放出したものである」と証言している(荻原極氏への書簡)。陸軍のこのような無責任な人事が、野村大使に岩畔を陸軍の総意を代表して日米和平交渉の下準備をやりに来た人間であると誤解させ、後に大問題を引き起すことになろうことを、東条陸相は予想したであろうか。
岩畔は竜田丸が出帆するとさっそく在米中の盟友∴苣に「案ずる勿《なか》れ、枢軸同盟の方式につき詳細なる訓令を携行しあり」と打電しているが、彼はそんなものは持っていなかった。彼は出発前多くの人間と会い、日米和平について討議したが、肝心の所属である陸軍省の上官から「日米和平交渉をやれ」という何らの命令も文書も訓令も受けてはいなかった。(佐藤賢了・手記)彼は全くの独断で、自分が日米和平の大任を背負ったものと自任し、これを成功させて自分の手柄にしようという野心と共に渡米したのである。陸軍省も危険な人物を非常時のアメリカに送ったもので、その小ラスプーチン≠ヤりは、時を追って明らかになってゆくであろう。
岩畔は戦後極東裁判で「私は実際には日米交渉をやった責任者であります。私は日米了解案の実際の起案者であります」と胸を張って証言している。自分が日米和平を画策したのに、誰かがぶちこわしたので、日米開戦に追いこまれたと言いたかったのであろう。しかし、彼の任務は野村大使の補佐官であるに過ぎない。実際の責任者は天皇の親任状を持つ野村であることは当然である。その野村が岩畔の謀略に乗ったのは不甲斐《ふがい》ない話であるが、何らの命令も受けず、権限もない岩畔が独断で、日本陸軍代表のような顔をして日米了解案などを作り上げ、野村に押しつけた≠アとは、やはり国をあやまったことになりはしないのであろうか。
参考までに、岩畔は、出国前に前外相有田八郎、満州重工業総裁鮎川義介と会い、永野護(後、富士製鉄社長)、賀屋興宣(後、蔵相)、青木一男(後、大東亜相)らからは築地の料亭に招かれている。おそらく日米和平の重責を荷《にな》ってゆくことを強調したものであろう。このうち青木は、岩畔が井川を通訳に使うことに反対した。「井川は人にとり入ることがうまい。かつて蔵相高橋是清に取入って傍若無人の振舞いをしたので大蔵省を去ることになったのだ。その通訳ぶりは、自分の私見を加え、言いにくいことは改変、省略するおそれがある」大蔵省出身の青木はこう忠告した。しかし、岩畔は「短い滞米期間に日米国交打開という大問題を解決するためには、米国政界の要人に渡りをつける技術を身につけた人が必要である」とあくまでも井川を用いる意思を表明した。
後に岩畔は井川がいかに要人に取り入ることがうまいかを知らされた。たとえば、フーバー元大統領と会うときは、プレゼントの赤銅のシガレットケースにあらかじめフーバーの手紙のサインを写しとった金文字のサインをはめこんでおいた。また、渡米の際岩畔が持参した京人形をハル国務長官に贈る際、「この娘の日本名はハルと言います。ハルは日本語で最も平和な季節名であります。私はこの平和を象徴する美女を日米間の平和確立に努力しつつある国務長官の養女として差し上げます」という手紙を付してハルの機嫌をとった。岩畔はこのような井川の技術が日米国交打開工作に好影響≠与えたと書いている。
アングロサクソンらしい深謀遠慮(岩畔らを上回る)で、日米交渉を対日緊張緩和の一時的長談議として利用していたハルは、心中苦笑していたであろう。この時期、ハルには、日本の圧力を緩和する必要があった。ハルの深謀とは何か? その一例として当時ワシントン日本大使館駐在海軍武官横山一郎大佐の「コンボイ」の話(『昭和史の天皇30』)を紹介しておこう。
「日米了解案が野村大使から東京に打電されたとき、東京からはすぐにOKの返事が来るだろうと皆期待していた。私が一番心配したのは、あのなかの『独米戦への日本の態度』でした。あの了解案によれば、三国同盟があっても日本は自動参戦の義務はないことになる。つまり、独米戦争が始まっても日本はすぐには参戦しないのだと言外ににおわせてある。当時アメリカの新聞は、アメリカ海軍がイギリス商船団のコンボイ(海上護送)をやるべきだ、ということを盛んに主張していた。もし、コンボイが実施されれば、ドイツの潜水艦を米艦が発見すれば攻撃する。そうなれば、独米戦開始です……」
ハルが睨んでいたのは、一つはこのコンボイの時期であった。コンボイをつけて独米戦が開始されても、日本が背後からアメリカを衝かぬようにするためには、三国同盟の自動参戦を緩和させておく必要がある。といって、本気で正式に日本と和平条約を結ぶ必要はない。ルーズベルトが考えているように(後述)日本はいずれ叩かねばならぬ相手である、しかし、日独を同時に敵に回すのは具合が悪い。この際、うまい手は、非公式な日米了解案を公式の如くみせかけて、和平交渉を延引させる手である。日本は一応乗って来るが、異論が出るであろう。もし、完全に乗って来たらこちらで断ればよい。それまでにコンボイその他対独関係を整理しておくことだ……。こう考えていたハルは、六月の独ソ開戦以後は、日本に対してぐっと強気に出て来るのである。岩畔らが日米和平の手柄を立てて歴史上の立役者になろうなどという空疎な野望の実現に汲々《きゆうきゆう》とする小ラスプーチンとすれば、これらを操ったウォーカー郵政長官(後述)とハルは大ラスプーチンと言ってもよいかも知れない。この推測が当っているとすれば、ドラウトらの背後には何人かのラスプーチン(ルーズベルトをも含む?)の糸が動いていたと見るべきであろう。
なお、横山大佐は先の話の続きとして、「アメリカがイギリス商船隊のコンボイをやる時までが日本が対米交渉の可能性の時機です。私は岩畔大佐に『アメリカ側と話をするとき、いつからコンボイを始めるのか聞き出してくれ』と頼んだことがあります。間もなく岩畔大佐から電話があって『狐の子供はまだ生れません』という隠語の連絡が来ました。コン(狐の啼《な》き声)ボーイ(子供)というシャレでした」と語っている。シャレも結構であるが、狐以上に悪質な相手に操られていたことに気づいていたのかどうか……。
岩畔大佐は出国前政財界の要人のほか、井上日召、天野辰夫ら右翼の指導者十数名と銀座の小料理屋で会っている。彼らは主戦論者で、
「ABCDラインの強化を進めつつある米英に対しては、戦争をもって応ずるほかはない。君の任務は開戦の時機を判断するにある」
と言って、岩畔を激励≠オてくれた。岩畔は少々困ったが、
「あるいはそうなるかも知れないが、私としては和解のために最後の努力をしてみたい」
と答えた。
彼は出発間際に陸海軍、外務各省の事務当局者と会ったが、彼らのすべてが日米和平を唱え、結局、主戦論者はひとにぎりの右翼にすぎなかった、と書いている。
岩畔を乗せた郵船竜田丸は三月二十日サンフランシスコに着いた。ワシントンから駆けつけた井川が桟橋で待っていた。井川は日本政府の非公式代表≠ニ自称し、二人の神父と会って日中戦争処理、三国同盟手直しなどの協定案を勝手に作成していたが、岩畔が到着すると、「両神父はその後も熱心に国交打開工作を推進している」「両神父の工作はルーズベルト大統領も了解[#「了解」に傍点]している」「両神父とルーズベルト大統領との連絡に当っているのは、郵政長官フランク・ウォーカー氏である」などと報告した。ウォーカーはルーズベルトの選挙事務長で民主党内でのやり手[#「やり手」に傍点]として知られた男であった。一方、井川はアメリカの関係者に、「今度来る岩畔大佐は、日本の特命を受けて来る有力な使者である。日本の外交関係者はこういう重大な和平交渉をやる意欲と能力がないので、有能な岩畔大佐が特派されて来たのだ」と吹きこむことを忘れてはいなかった。
岩畔は日本を発《た》つとき鮎川義介から、「アメリカに行ったら来栖《くるす》大使に会うとよい。来栖は駐独大使を解かれてアメリカ経由で帰国の途中にあるから、サンフランシスコで会えるよう手配をしておこう」と言われていたので、サンフランシスコのフェアモント・ホテルに来栖三郎を訪問した。「来栖は日米国交調整は刻下の急務であり、ワシントンで野村大使から聞いたところでは、両神父によって提案されている日米国交打開策は極めて有望であると私に語った」(「岩畔手記」)
そこで岩畔は「井川君から聞くところによれば、ワシントンの若杉公使以下の外務官僚は、井川君の活動に対して非協力的で妨害を加える傾向がある。今は大切なときであるから、ワシントンに引き返し、我々と一体になって難局の打開に協力してもらいたい」と要望したが、来栖は「このままアメリカにとどまることは難しい。出来れば一度日本に帰って、またアメリカに引き返して諸君に協力してもよい」と答えて竜田丸で日本に帰った。来栖はその回想録『泡沫《ほうまつ》の三十五年』に「あるいはそのままアメリカに残った方がよかったかも知れぬ」と書いているところをみると、井川や岩畔を信用していたものであろう。奇《く》しくも彼は松岡退陣の後東郷外相の依頼によって渡米して、最終的日米交渉に携わり、十二月八日の開戦に直面している。
岩畔は、もしこのとき、来栖氏が官僚的立場にとらわれず、米国滞留の申請をして我々と協力することが出来ていたら、日米国交打開策はもっと明朗に、もっと強力に推進されたに違いない、と述懐しているが、それはいずれは日本を叩こうというルーズベルトの胸中を知らぬものの仮説に過ぎない。
ついで岩畔は井川と共に三月三十日ニューヨークに飛んだ。丁度松岡がベルリンやローマで歓迎を受けている頃である。
二人の神父は、五番街にある教会で井川と岩畔を出迎えた。岩畔の観察ではウォルシュは落ち着いた気高い人格者、ドラウトは達識敏腕の仕事師[#「仕事師」に傍点]という感じであった。会見は三時間に渡り、岩畔は先の協定案について「日本は三国同盟を裏切ることは出来ない。ユダがキリストを裏切った行為はすべてのキリスト教徒の憎むところであろう。貴君たちが日本の三国同盟脱退を条件とするならば、打開の可能性はない」と強調した。二神父は井川からもっとアメリカに都合のよい協定のように聞いていたので意外に思ったが、岩畔が日本陸軍を代表するような態度を示すので、これに同意した。
井川はドラウト、ウォーカーと共に三月十七日日米和平協定原案をとり決め、その内容を近衛に送付していた。そのなかに「日独提携を解消する」とあったが、三月二十日、岩畔がサンフランシスコに着くとすぐ、それは無理だと言ったので、三月二十二日「大きな修正があるかも知れぬ」と近衛に書き送っている。このあたりから近衛は井川に丸めこまれかかっているのであるが、参考のために、三月十七日井川が起草した第一案ともいうべき協定原案の内容(アメリカも喜びそうな)をつぎにあげておく。
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一、日独提携の解消、日独貿易の完全停止
二、日本船腹をアメリカがチャーターする
三、向う三年間アメリカが日本海軍の協力を要請し得るような方式を案出する
四、ルーズベルト大統領の日中和平斡旋
五、東南アジアに自治政府を樹立する
六、フィリピン独立の保障
七、極東モンロー主義を声明し、日本に武力侵略を行わぬ旨を誓約させる
八、日米通商条約締結と対日金借款設定
九、ホノルルで日米首脳会議(ルーズベルトと近衛が出席)――これで枢軸同盟は消滅する! ハレルヤ!
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最後のハレルヤはドラウトの要請によるものかも知れぬ。三月十七日といえば松岡の一行が満州里に着いた頃である。松岡がこれからヒトラーやスターリンと会って四国協商をまとめようとしていたとき、ワシントンでは、何らの外交代表たる資格なき井川が、勝手に日米協定案をつくり、ハレルヤなどと気焔《きえん》をあげていたことを知ったら、松岡のはらわたは煮えくり返ったことであろう。
「井川手記」によるとウォーカー郵政長官はこの覚書(原案)についてハル長官に次のように申し入れた。
「この覚書は日本国策の革命的転換を意味するので、一体として一気に成就させねばならぬ。遅延すると日本の指導者(近衛、木戸、有馬ら?)は暗殺を免れまい。天皇陛下は賛成である(何の理由によってそう断じたのか?)。大統領と国務長官がこの案を、プライベートではあっても有効なものと承認すれば、東京政府が二週間以内にこの原則的協定案を野村大使を通じてハル長官あてに提案するよう手配しよう。もし日本側が期待されるような反応を示さぬときは、日本側に誠意がないことが立証されよう」
これが本当とすれば、ウォーカーの熱の入れようも相当なものである。
しかし、ハルの反応は実際には冷たかった。『ハル回想録』によると「問題は日本が現在の諸条約を履行すればよいのだから、このような協定の必要はない。日本政府がこのような政策転換を行うとは考えられない、百分の一の成功率もないと考えたが、少量のチャンスでも残っている限りは、(今のところは)太平洋戦争を避けねばならないので、大統領と共にウォーカーや両神父の工作を容認したのである」となっている。アメリカはかねて懸案となっていたLL(Lend Lease=武器貸与法案)が成立したので、全力を挙げてイギリスを援助することとなり、太平洋方面では衝突を避けたかった(加瀬俊一『日米交渉』)。このあたりにも、大西洋に力を入れるため、日米交渉をシノギに利用した形跡が見える。
両神父と会談した岩畔と井川は、三月三十一日ワシントンに飛びウォードマン・パーク・ホテルに宿泊した。
翌四月一日、岩畔は日本大使館で野村大使に会いあいさつした。野村は次のように語った。
「日米国交打開は、刻下の急務であるから、自分としては渾身《こんしん》の努力をはらうつもりである。しかし多年にわたって積み重ねられた両国間の懸案を、一朝一夕のうちに解決することは困難であるから、気長に米国側要人との交際を深めつつ、好機を作成するつもりである」
井川を嫌っていた若杉公使も同席していたが、「本格的な日米交渉は今後五、六カ月間の推移をみた上で開始するのがよろしい」と言い、そんな悠長なことではいかん、と岩畔は思った。岩畔の感じでは、井川を信用しているのは野村大使だけで、他の大使館員は井川を邪魔物扱いにしているように見えた。
翌四月二日、ドラウトがワシントンに到着、この日から岩畔、井川と三人がウォードマン・パーク・ホテルの一室で、有名な[#「有名な」に傍点]「日米了解案」の試案起草に当った。論議は主として岩畔とドラウトの間で交わされ、井川は通訳に当った。井川は今まで正式のクォリフィケイション(資格)なきものと疑われていたが、大物≠ニみられる岩畔の到着によってアメリカ側も腰をあげていよいよ本番に入って来たので、張り切って彼流の通訳を勤めた。
彼らは三日間ほとんど徹夜で四月五日試案をまとめた。「岩畔手記」によれば、ドラウトは試案をもってウォーカーを訪れ、同氏を通じて大統領の内覧[#「内覧」に傍点]に供し、また岩畔自身は試案を野村に提出した。この間四月三日松岡はローマからベルリンに帰り、リッベントロップと再度の会談を行っていた。リッベントロップは重ねて日本のシンガポール攻撃を要請し、松岡はこれに言質を与えることなく終った。
野村は事重大であるとみて、四月六日、普段は使わない大使館の地下室に若杉公使、井口参事官、横山一郎海軍武官、磯田三郎陸軍武官らを集めて試案を前にして密議に入った。横山海軍武官の回想(『昭和史の天皇30』)によれば、
「地下室は十二、三人も入ればいっぱいになる狭い部屋であった。椅子も間に合わせのもので、一人がけや長椅子などまちまちであった。会議は夜で大使館に勤めている人たちが帰ったあとに我々は集った。野村大使の机におかれた書類はタイプ用紙に英文で打ってあり、『アメリカ側が書いて来たんだ』という説明であった。一読した私は、だれとだれがどこで作ったのかは知らないが、これはこれで一つのチャンスをつかむきっかけになりそうだ、と判断した。もちろん岩畔大佐がどこまで参画したかもよくわからないが、アメリカ側が作って来た、というからには交渉のきっかけになるだろう、と判断したわけです」
となっている。
この地下室の密議には、岩畔、井川も参加したことになっている。「岩畔手記」によれば、「大使司会のもとに、若杉、磯田、横山、松平(条約担当書記官)それに私と井川君が大使館で逐条審議に入った。試案の大綱に異議をさしはさむ者はなかったが、字句の修正はかなり多かった」となっている。
やがて米国側からも修正事項が出されて来たので、再び岩畔、井川、ドラウトの三人は四月七日から日米双方の意見を参酌しつつ、第二試案の起草にかかった。そして四月九日に一応の成案を得た。(この頃、松岡はモスクワでモロトフと会談したり、レニングラードに出かけたりしていた)
さらにいくつかの修正案が出て最終の「日米了解案」がまとまったのは、四月十六日(松岡はモスクワから満州里へ向うシベリア鉄道のなかにあった)のことである。岩畔は「『日米了解案』は第二次大戦の前夜を彩る歴史的文書の一つになったが、この重要文書がわずか二週間内外の短期間にまとめ上げられたという事実は、当事者の一人として驚くほかはない」と自讃《じさん》している。
松岡を怒らせた「日米了解案」の全文は厖大《ぼうだい》なので、省略するが、そのなかには、三国同盟を骨抜きにする条文のほか、あれ? と思うほど日本に有利に見える条項も並んでいた。その気味が悪いほどおいしい[#「おいしい」に傍点]条項を次にあげておこう。
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一、各国並びに各人種は相拠りて八紘一宇《はつこういちう》をなし……(前述)
二、日本政府は枢軸同盟の目的は防禦《ぼうぎよ》的にして――同同盟の軍事上の義務は、ドイツが現に欧州戦争に参入しおらざる国により積極的[#「積極的」に傍点]に攻撃せられたる場合においてのみ発動することを声明。(ドイツが先に手を出して攻撃した場合には発動しない)米政府は欧州戦争に対する態度はもっぱら自国の福祉と安全の防衛の考慮から決せられることを声明。(傍点筆者)
三、支那事変に対して米大統領が蒋政権に和平を勧告する条件、A、支那の独立、B、日支間に成立すべき協定に基づく日本軍の支那領土撤退、C、支那領土の非併合、D、非賠償、E、蒋汪政権の合流、F、満州国の承認。
四、日米了解成立後は日米通商条約有効期間中の如き通商関係に復帰。日本は南西太平洋において日本の欲する石油、ゴム、錫《すず》、ニッケル等の物資の獲得について米側の協力を得る。
五、日米両国代表者によるホノルル会談を開催。
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この了解案審議の途中、四月十四日野村はハルと会談している。野村はその回想でこの会談のときこの了解案試案について何かあったことを書いていないが、『ハル回想録』には次のように出ている。
「両神父、ウォーカー長官、野村大使も含めた日本側の代表との間に進めていた非公式[#「非公式」に傍点]の話し合いは四月九日まとまった。それから三日間、国務省の極東問題専門家と一緒に私はこれを検討してみたが、研究を進めるにつれて我々は失望[#「失望」に傍点]した。それは我々が考えていたものよりもはるかにくみしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者の望むようなものばかりであった。私は一部には全然承諾出来ない点もあるけれども、そのまま受け入れることの出来る点もあり、また修正を加えて同意出来る点もある、という結論を下した。私は日本との間に幅の広い交渉を開始する緒口《いとぐち》になるような機会を見のがしてはならないと思った」
それから二日後の十六日、前述のメリット[#「メリット」に傍点]を持った了解案最終条文が出来上るのである。
さて、いよいよ四月十六日、「日米了解案」は日本政府に向けて送り出されることになる。そのときの野村大使の感激ぶりを手記によってみてみよう。
「四月十六日、ウォードマン・パーク・ホテルに於《おい》て、ハル国務長官と会談した。そのとき長官から日本人及び日本の友人たる米人の作成したいわゆる『日米了解案』によって交渉を進めて可なり、という日本政府の訓令を得たい旨が申し出され、なお長官は『この話が進んだ後東京側からこわされる(TURN DOWN)ならば、米国政府の立場は困難になる』と言った。
その『日米了解案』なるものについては、かねてから内面工作をやり、米国側の真意を探っておった次第であるが、長官においても大体異存がないように確め得たので、余は右に関し更に大使館の幹部、陸海武官及び岩畔大佐らとしばしば会議を催し、入念に検討を重ねた上、種々折衝せしめた結果、ようやく成案を得たものである。
大体、余としては大使出馬の際の外相の訓令により、この了解案が成立した場合においても、三国同盟成立の際の御詔勅にもとるところはないであろうし、これは太平洋平和維持の第一歩をなすものであり、更に他日日米協力して欧州平和再建の礎石となると信じて、直ちにその旨発電回訓を仰いだのである。
(備考=国務長官は極めて用心深く自分の意見として言うことばを警戒しておったが、この日の会談の間に次のような意見を持っているような印象を得た。
ソ連は依然として戦争に介入せず、他国をして戦わしむる方針を採るものと認めており、また日ソ新条約についてもこの観点から見ているもののように思われた。日米戦争は欧州戦争を拡大せしめ、ついには現代文明の破滅となるという点では松岡外相と同様の意見を持っている。ヒトラーの武力征服は一時成功しても、やがて各国民は離反するに至るべく、また大陸は征服し得ても七つの海は征服出来ぬとみているようである。ただいまのところ米国は対英援助と国防充実に力を注いでいるが、米国政府は戦後の世界再建の対策を練りつつあることは確実であると思われる)」
野村大使は世紀の日米和平交渉≠自分の手でアレンジ出来ることに素朴な気負いを感じているが、肝心のことを忘れている。彼は松岡から駐米大使を依頼されたときの松岡の意向によってこの了解案が成立した場合においても……と言っているが、松岡は、外務大臣をさしおいて、大使の一存で日米交渉を行えとは一言も言っていないのである。松岡は一月二十二日、野村に対する初の訓令で次のようなことを言っている。
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一、我国策を相当思い切って変更するに非ざれば、米と了解をつけ、以《もつ》て太平洋上の和平を確保し、進んで世界平和克服のため提携策動する事|所詮《しよせん》不可能也。
二、このまま推移すれば米の欧州参戦、対日開戦をみるに至る、そこでその防止のため、日独伊三国同盟を結ぶに至ったのである。
三、かつての日英同盟の如くこの三国同盟は守られるべく、第三国による攻撃が発生した場合、日本は当然同盟に忠実なるべし。(以下略)
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要するに松岡は日米和平にはよほどの状況修正が必要であり、第三国が日独伊を攻撃した場合、日本が同盟に忠実であるべきことを強調している。野村が勝手に三国同盟を骨抜きにするような了解案を基盤にして、松岡に無断で日米交渉を開始することを、外相松岡は全然容認していないのである。野村が日米了解案によって、松岡抜きで、外相代理の近衛と手を組み、日米和平を達成しようと考えたのは、甘かったといわれても致し方あるまい。
しかし、野村グループとしても、岩畔ら三人が起草したいわば私案ともいうべき日米了解案を公式外交ルートにのせることには手続き上、難点があった。しかし、この難問はどういうわけかハル国務長官の提言によって簡単に解決し、了解案は「公式外交文書」候補として陽の目をみることとなった。
「岩畔手記」は次のように語っている。
「日米了解案は条約案ではなくて、日米首脳会談に先だち両国間にわだかまる懸案事項の見解を統一しようとするものであるが、これをいかに取扱うかは極めて重要な問題である。というわけは日米了解案が正常ルートによってまとめられた外交文書でなくて、ドラウト師、井川君及び私の三人がデッチ[#「デッチ」に傍点]上げたものであるから、この文書を正常な外交ルートに乗せる技術は容易なものではないからである。しかし、国務長官ハル氏はこの難問をいとも手軽に解決した。
四月十六日午前、ハル長官の要請に基づき、ハル・野村会談が行われた。この会見でハル長官は野村大使に対し、『今日のような険悪な状態において、日米両国のいずれかが国交調整のイニシアティブをとることは適当ではない。ところが幸いにも三人の愛国者[#「愛国者」に傍点]によって作成された試案があるから、日米両国はこの試案を基礎として交渉をはじめてはどうか』と提案し、野村大使も同意し、これを本国政府に通達する旨答えた。
すると、ハル長官は『然らばなるべく早くこの試案に対する日本政府の正式意見を承りたい』旨を付け加えた。
大使館に帰って来た野村大使の顔は晴れやかであったが、翻訳係は徹夜で暗号作業に取り組まねばならなかった。外務省あての暗号電報は、若杉公使によって起草されたが、重要な一点が故意に改変[#「改変」に傍点]された。それは『日米了解案』が米国政府の起案にかかるかのようにした[#「米国政府の起案にかかるかのようにした」に傍点]点である。これは『真実のことを述べるよりもこのように改めるのが本国政府の意見をまとめるのに好都合であろう』との判断に基づいたものであった」(傍点筆者)誰の判断によったかは書いてないが、この改変が日本政府に大きな誤解を生ぜしめたのであった。
これが日本政府に打電されて、大きな論議をかもし、ついに近衛、松岡の決裂に到る端緒についてはすでに述べたが、この四月十六日、ハルはいま一つの重要声明(実はこれの方が重要なのであったが)「ハル・四原則」を野村に手交した。
前文、私は米国政府が関心を持っている一つの重要な準備的な問題は、日本政府が力による征服の現在の主義を放棄し、米国政府が国家間の関係の基礎として考える次の四原則を採用する用意と力を持っていることをまずもって明らかにすることであると考える。
一、各国の領土保全と主権の尊重
二、他国の国内問題に対する不干渉の原則を支持すること
三、通商上の機会均等を含む平等の原則を支持すること
四、平和的手段による変更の場合のほか、太平洋の現状維持を妨害しないこと
このハル・四原則は、日米交渉にとって極めて重要な提案であるにもかかわらず、野村の回想にも岩畔の手記にも出て来ない。ハルは、日米了解案を一つの交渉の緒口として認めようとしてはいるが、その前にこの四原則を認めよと主張しているのである。ここがアマチュア外交官の野村と、法律家出身のハルの「詰め」の差である。
四原則は一見抽象的に見えるが、これを具体的に欧亜の国際情勢にあてはめれば、日独伊三国同盟にも、支那事変による駐兵にも、日本の行動の多くにブレーキをかけていることがわかる。
後述するが、日米開戦の決定的な引き金となった十一月二十六日の「ハル・ノート」の冒頭に再びこの四原則が登場する。ハルはこの四原則を日本が認めない限り、本心から日米和平交渉を具体化する気持はなく、それを見抜けなかったのは、岩畔たちに躍らされていた野村や近衛の眼の曇りと「詰め」の甘さというべきであろう。
後にわかったことであるが、日米了解案を知らされた米国務省の判断は次の通りであった。
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一、岩畔の訪米が失敗に終るまでは、日本は次の行動には出まい。
二、太平洋の日米共同支配、すなわち日本の中国支配と極東特殊権益承認を構想の基礎とする日米了解案ならば絶対に受諾は出来ない。
三、しかし、日本は会談の不成功が明白になるまでは、行動に出ないから、それを材料として、日本を会談にまきこんでおけ。
四、会談に先立って、日米了解案とは根本的に矛盾するアメリカの国際政策原則、日中戦争|勃発《ぼつぱつ》以来一貫して堅持、表明し続けて来た国際政策原則を再び明確に表示しておき、後になって、もともと日米了解案などというものは受け入れ難いものだった、と証明出来るように明らかにしておくべきである。
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この第四項に相当するのが、ハル・四原則である。米国務省は、もともと日米了解案を一つの遷延策として利用したのであり、これが結実しないときの用意のためにハル・四原則を打ち出していたのである。つまり、日本政府が「日米了解案」にOKを出したときは、これにブレーキをかける必要があった。そのためになにげなく直前にハル・四原則を打ち出しておくというテクニックを用いたのである。
アメリカには外交の技術があった。日本はセンチメンタルに棚ぼたにとびついたものと見られても致し方あるまい。
さて、送付された日米了解案に対する政府の反応は先に一応述べたが、軍の反応についてさらに述べておこう。
先に、邪魔者を追い出す形で岩畔をアメリカに転任させた東条陸相は、この了解案を眉唾ものとして警戒したが、要するに軍務局長の武藤章と共に半信半疑であり、東条は四月二十五日近衛に「米の提案も支那事変処理が根本的第一義であり、この機会を外してはならぬ」と進言したりしている。岩畔は支那事変収拾に疲れた陸相の泣き所を衝いて来たのである。
海軍はどうか?
海軍は岩畔の人物などは知らぬので、突然の日米了解案に驚いた。海軍の幹部は軍令部総長永野修身が四月九日伏見宮から代ったばかりであり、海軍次官も豊田貞次郎が大将進級を条件に商工大臣に転出したので、航空本部長のカミソリ∴苡辮ャ美が次官代理を勤めていた。海相は決断のはっきりしない及川古志郎で、読みのあまり深くない永野とよく似ていた。
軍務局長岡敬純は一応柴勝男軍務局員と共に次の電文を起草し、自重する方針を推した。
「本案は一見可なるが如きも、米国は教科書ふうな観念論に立つ故、三国条約、中国撤兵については困難なる問題ひそむかに思わる。うまく交渉まとまらざれば、米に引きこまれて戦争になる危険もあり、下手に触れるを避け、交渉には入るべからず、この旨大使に伝えよ」(『太平洋戦争への道7』、柴勝男談)
しかし、新任の永野軍令部総長は、単純に「野村は偉い奴だ、野村でなければ出来ないことだ。これに決めて早くやろう」と手放しに喜び、及川海相も井上に「米国と戦争になってよいかといえば、それはならぬ方がいいよ」(『太平洋戦争への道7』、井上成美談)と語った程度で了解案に対する積極的な反対は示さなかった。
十四年夏、米内、山本とトリオを組んで日独同盟に反対した井上次官代理は、前述の柴局員起草の電文に目を通し、これの発信は野村大使の日米不戦方針を害するものとし、及川を私邸に訪問してその考えを追究したが、及川が決定的判断を下さないため、柴案の電文を修正して骨抜きにしてしまった。岩畔らのことをよく知らぬ井上は、日米了解案に不審を抱きながらも、彼の持論である日米不戦を通すため、この了解案を頭から否定することは憚《はばか》られたのである。カミソリといわれた井上にも、このような盲点はあった。そこで、岡と柴の二人は骨抜きに修正されたワシントン宛《あて》の電文を前にして不満を示し、発信はついに中止されてしまった。
このように陸海軍の反応は実はあいまいであり、近衛総理もかなりの望みを託しながらも、独断で交渉に応じることに踏み切ることが出来ず、松岡の帰国を待っていたのである。
この混迷の間にあって、日米和平交渉すでに成れりとして、一人得々としている人物があった。『法衣の密使』の著者井川忠雄である。
四月十六日の野村・ハル会談の経過を聞いた後、井川はこう書いている。
「日米交渉の基盤はかくして建設され、両国和平の基盤はかくして建設され、両国和平の曙光《しよこう》は輝き始めた。かえりみれば、ウォルシュ、ドラウト両師の渡日に始まって以来約半歳、経緯|惨憺《さんたん》、波瀾重畳しつつ継続したわれら辛苦の幼芽は、盤根錯節を経て、ようやくここにさんたる陽光を浴びたのである。了解案成立前後における、ルーズベルト大統領の熱意は並々ならぬものがあった。ことに困難な日米交渉の端緒や基盤が、専門外交官ならぬ日米両国の有志たちによって創設されたことに興味があったと見える。そしてルーズベルト大統領は、とくに私たち四人をハイドパークの私邸に招待したい意向である旨がウォーカー長官を通じて伝えられた。私たちは日本政府の吉報を待って、この招待に応じるため、にわかに白のタキシードをあつらえるというあわて方であった」
事実、ルーズベルトが井川たち四人を和平の功労者≠ニしてハイドパークに招こうと言った資料はないし、井川たちが大統領に招待された記録もない。恐らくウォーカーの口車にのって、タキシードをあつらえたりしたのであろう。
同じ、四月十六日、井川は近衛総理にあてて次のような書簡を送っている。
「拝啓、いよいよご健勝の段、邦家のため大賀奉り候。
さて、小生|内《うち》外務属僚の小刀細工に苦しめられつつ、外《そと》世界の横綱を相手にして力戦数旬、途中で岩畔氏の来りて、真に百万の援兵に値する助力を受くるあり、大使また全幅の信頼をわれわれ両人に置かるるに至り、大使館幹部も、『余りに日本側によすぎる』と一笑に付しいたる私案を全面的に支持するに至り、他面ル大統領、ハル長官、ウォーカー郵政長官らの小生に対する絶対的信用と近衛公爵に対する絶大なる尊敬とのお蔭《かげ》にて、いよいよ今明日中に世界歴史上特筆大書に値すべき大事件[#「今明日中に世界歴史上特筆大書に値すべき大事件」に傍点]の礎石がおかるる運びと相成り申し候。(傍点筆者)昨夕大使と岩畔氏と三人してアナポリスまでドライブして感激の一夕を送り、陛下の御稜威《みいつ》、神明の加護を感謝し、ついで近衛公の声望をたたえて、三人して寄せ書きを差し出したる次第にこれあり候。
さて、いよいよ日米会談開催のこととなり、ルーズベルト大統領自らホノルルまで出馬のこと確定仕りおり、従って大統領の希望として日本側は是非閣下(近衛)のご出馬を得て、両人して開会式を歴史的出来事たらしめ、その際、太平洋モンロー主義とも申すべき、近衛・ルーズベルト声明を発して、太平洋今後の平和維持上必要なる一石を打たんとの心組みなるよう察せられ候間、ご多忙中恐縮ながら邦家のためまた世界平和のため、ご出馬の労を賜りたく願い奉り候(後略)」
夢想家の井川は、こうるさい大使館の外務官僚を出しぬいて、日米和平の大功をたてたというので、有頂天になっていたようである。しかし、井川に与えられた情報の大部分は、ウォーカーやドラウトの創作に近いもので、ルーズベルトは何ら関知していなかった。ルーズベルトはこの件に関してはハルに任せており、ハルはウォーカーらを使って井川や岩畔を、さらには海の向うの日本政府をリモート・コントロールしようと試みていたのである。
[#改ページ]
十九章 近衛首相との反目対立
四月二十二日帰国して思いもかけぬ「日米了解案」の話を聞かされた松岡は、憤慨して千駄ヶ谷の自宅にひきこもってしまった。一方、近衛の方も発熱して、荻外荘に病気療養ということになった。一種の痛み分けである。
もっとも、松岡の方は、けっこう自宅に来客を受け入れて、歓談していた。連絡会議には出なかったが、外相としての仕事はしていた。来客にお茶を出していたのは佐藤栄作夫人の佐藤寛子である。寛子は洋右の妹藤枝の娘で、洋右の姪《めい》にあたっていた。栄作は当時鉄道省の課長をしていた。
四月二十六日、松岡は沈黙を破って日比谷公会堂で帰朝報告演説会を行った。この席上彼は、「近衛内閣の対外政策の推進は微温弱体で、世界の大勢に伍して行き得ない」と熱弁をふるって物議をかもした。彼としては「日米了解案」などという得体の知れないものに頭を下げないで、三国同盟なり四国協商(まだ秘密であったが)なりを背景にして、強気にアメリカの頭をこづき、一応|威嚇《いかく》した後に和平を講ずべし、というのが持論であったから、止《や》むを得まい。(この演説のパンフレットは後に発禁処分を受けた)一方この演説会を契機として、近衛にあきたらない少壮軍人や右翼団体は松岡内閣の具体化を計ったので、荻外荘に静養中の近衛の神経をいたく刺激した。近衛は日ソ中立条約成立を聞いたときは、「松岡という人はエイブル(有能)な人だね」と側近に語っていたが、「欧州から帰った松岡はまるで人が変ったように見えた」と述懐するに至った。近衛と松岡の間には根本的に意思の疎通がなく、互いに相手を知らなさすぎたとも言えよう。接近すればするほど、二人は異質な存在であることを互いに意識しなければならなかった。
一方、アメリカにいる野村大使たちは焦っていた。すぐにも色よい返事が来ると期待していたのに、松岡が帰国してからは、歴史の歯車が回転を止めてしまったような感じで音沙汰がない。そこで、四月二十九日(天長節)、岩畔は野村大使の了解のもとに、井川を同道してニューヨークに赴き、松岡の私邸に催促の国際電話をかけた。その会話の様子が「岩畔手記」に出ている。
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岩畔 欧州での御成功まことにお芽出度うございます。次にはこちらから送った魚ですが、至急料理しないと腐敗するおそれがあります。野村大使以下一同首を長くして魚を召上った感想を一日千秋の思いで待っております。
松岡 ああ、わかっちょる、わかっちょる。野村にあまり腰を使わぬように伝えておけ。
岩畔 (憤慨しながら)独り合点は禁物です。あなたはそんなに呑気《のんき》でおられるなら、魚は腐るに違いありません。腐ったら最後、その全責任はあなたが背負わねばならないのですぞ。
松岡 わかっちょる、わかっちょる。
[#ここで字下げ終わり]
この会話は、松岡と岩畔の人柄を示して面白い。
五月三日、松岡は十三日ぶりに連絡懇談会に出席、彼の修正案を発表した。
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一、日中戦争処理に寄与すること、すなわち米国に中国から手を引かせること。
二、三国条約に抵触しないこと。
三、国際信義(とくに独への)を破らぬこと、すなわち、米の欧州参戦を阻止すること。
[#ここで字下げ終わり]
これが世にいう松岡・三原則である。ハル・四原則とくらべてみると面白い。楯《たて》の両面と形容出来るであろうか。
松岡の強硬な三原則には陸軍も驚いたが、結局、連絡会議は、この三原則を承認するに至った。「日米了解案」の前途は混沌《こんとん》として来た。五月三日、この会議のあと、松岡は帰朝報告として伊勢神宮参拝に出発してしまった。松岡はようやく、政府・統帥部と遊離しつつある自分を見出《みいだ》していたものであろうか。
なお、「杉山メモ」によるとこの三日の連絡会議で、松岡は日米中立条約の申し入れを提案して、全員の反対にあっている。それにもかかわらず、彼は野村大使あてに日米中立条約打診の電報を打たせている。このため、松岡修正案の打電は八日間遅れて五月十二日となった。
「杉山メモ」は松岡が伊勢神宮で、「米の不参戦、独米戦争せざること」を祈願した、と伝えている。
松岡に同行した同盟通信の岡村二一記者は松岡の参拝ぶりを次のように報じている。
「伊勢では新緑がしとどの雨に濡れていた。内拝殿の砂利石の上に傘をたたみ、フロックコートの身をぴたりと土下座して雨に打たれながら、二分、三分、頭をあげぬ松岡外相の祈りの姿は何とも言えぬ厳粛なものであった。
大前に土に下座して伏し拝む大臣《おとど》の上に雨降りそそぐ
私は『み民われ』といった日本臣民の本然の姿を言葉ではなく容《かたち》の上に見た」
しかし、これよりも興味があるのは、松岡が車中で田尻愛義駐華大使館参事官と交した時局についての話である。
松岡は熱を入れて次のように語る。(『人と生涯』より)
「いま日米交渉を始めるとか始めないとか言っておるが、これはやらねばならないのだ。しかし、交渉をするには準備が要る。外交体制が必要なのだ。オレがヨーロッパに行ったのも、出来ないこととは知りながら、川越と君に重慶工作をやれといったのも、すべてはアメリカと話をつけるための外交体制を作りたいというオレの念願なのだ。アメリカから了解案の提案があったが、あれは実にひどい。あれはヨコ(英文)のものをタテ(日本文)にしたのではない。タテのものをヨコにしたものだ。もとは日本人が書いたものだ。近衛公以下みんないい気になって、もうこれで出来たんだ。回答さえ出せばそれでええんじゃ、という気になっておる。バカな……。これから話し合いをやってみれば、必ずいろいろな問題がおきて来る。外交だけで進める体制が日本には出来ておらんではないか。支那事変を背負っていてアメリカとの交渉はでけん。ええか、こりゃあ、お前戦争だぞ。オレたちの手だけで外交をやっているうちはまだよいが、この策動をしたのは軍人じゃないか。何も彼《か》も軍が指導して、ちょっとでもつまずいてみい。軍は承知しなくなる。そうなったら戦争だ。日本は戦争をする用意ありや。ソビエトと条約は結んで来たが、これだけでは足りん。オレは何も日米交渉をダメにする考えはない。体制がでけとらん。軍が始めた交渉だ。失敗したら必ず戦争になる。オレの眼力に狂いはない。それが困るのだ」
松岡の大局観と、洞察の方法を示して興味深いものがある。
先述の通り、五月三日の松岡・三原則発表と同時に、彼は野村大使に日米中立条約の締結を打診せしめているが、それとは別に、野村あての訓電とハル長官あてのオーラル・ステートメント(口上書)を打電せしめている。訓電は大使の労をねぎらい、「『日米了解案』について意見を決定するには相当の時日を要するであろう。それよりも、貴大使限りの思い付きとして、日米中立条約をハル長官に軽く[#「軽く」に傍点]提案してはいかが? なお、中立条約を締結する場合といえども、別に『日米了解案』の線に沿い秘密了解を遂ぐるの可能性を断つものにはあらず。要はこの際何はさておき、まずもって公表し得るかかる条約に調印し、一種の外交的電撃戦を行わんとするの意なり……」という大意である。
ハルあてのオーラル・ステートメントは従来の松岡の主張を述べたもので、
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一、本「日米了解案」は慎重かつ徹底なる考慮を要すべく、本大臣の意見表明にはなお数日を要すべし。
二、独伊の指導者はヨーロッパの戦争は現段階においてすでに勝敗決したりとみなしおるものの如し。
三、本大臣の唯一かつ主要なる憂慮は、米国のヨーロッパ戦への干渉が戦争を長期化し、近代文明の没落をもたらし、ついには人類の悲劇に終る危険をはらむ点にあり。
四、本大臣は日本が三国同盟にもとづき独伊の地位を些少《さしよう》とも毀損《きそん》するごとき何事をも為《な》すことを得ず。
[#ここで字下げ終わり]
これらの電報を受けとった野村はさっそくハルに会ったが、オーラル・ステートメントについては、「これにはいろいろよくないことが書いてあるがお渡し致しますか」と前おきして飛ばし読みをした。ハルは「間違ったことが書いてあるのなら、受けとる必要はない」とちょっと手にとっただけで野村に返した。ハルは暗号解読(マジック)によって、すでに松岡のステートメントの全容を知っていたのである。日米外交はこのようなところにもハンディがあった。
この松岡のオーラル・ステートメントについて『昭和史の天皇30』は次のように評価している。
「松岡外相は『日米了解案』の本質を見抜いている。だからアメリカとの国交調整はオーソドックスな外交ルートで行おうとするが、アメリカに対するには三国同盟の力をもってしようとする。確かにこの方法論は論理的には正しいであろうが、ドイツの戦力については松岡は決定的な誤算をしていた。ヒトラーの神話≠絶対的なものとし、その上に松岡外交の戦略と戦術が組み立てられている。しかし、ヒトラーの神話≠ヘ崩れようとしていた。(独ソ戦が始まるのは、この五十日後である)それに気付かないところに松岡の外交の致命的な破綻《はたん》があったのである」
五月八日、対米国交調整に関する大本営政府連絡会議が午前十一時から開かれた。この日の朝九時、野村大使から返電があり、「オーラル・ステートメントはハル長官に読み上げた。中立条約は困難である」という回答があった。
「大本営機密日誌」によると、この日の連絡会議は松岡の一人舞台であったという。
「日米交渉に関する外相の真意はアメリカを参戦せしめないことにあった。そのためには日本は強気に出なければならないのに、陸海軍は簡単にとびつきすぎる。外相が米参戦の公算は大である、というのに対し、及川海相は必ずしもそうではないと述べた。米国が参戦すれば、世界文明は破壊され戦争は絶対長期戦となる。十年もすればドイツはソ連を撃ちアジアに出て来るが、そのとき日本はどのような態度をとるべきか? この外相の発言には席上皆呆然として言を発するものがなかった」
ここで、及川海相が米国は必ずしも参戦しない、といったのはおとぼけである。すでにこの年一月、山本五十六は、日米開戦のさいにはまず真珠湾を叩いてアメリカの出鼻をくじき、蘭印《らんいん》の石油を手に入れ、米西岸を脅かし早期講和に持ちこむべし、という意見書を及川海相に送っている。彼の意見にもとづいて、山本が第一航空艦隊(機動部隊)を編成し、南雲忠一中将を司令長官に任じたのは、この年四月十日のことである。海軍上層部内ではひそかに真珠湾奇襲の秘策が練られつつあったのである。
この五月八日の野村大使の電報には初めてハルの四原則が盛りこまれてあった。事態を重視した松岡は天皇に拝謁した。「近衛手記」によると、松岡は、
「米国参戦の場合は、日本は当然独伊側に立たざるべからず、然るときは日米国交調整もすべて画餅《がべい》に帰することとなり、いずれにせよ、米国問題に専念するあまり、独伊に対する信義にもとる如きことありては骸骨を乞い奉るのほかなし」
と奏上したという。
さらに五月十日、近衛が拝謁すると「陛下は、きわめて御憂慮の御面持にて前々日外相の奏上を次の如く余に話された。すなわち『米国が参戦すれば、シンガポールを撃たざるべからず。また、米国が参戦すれば長期戦となり、独ソ衝突の危険があるやも知れず、その場合は日本は日ソ中立条約を棄てドイツの側に立ち、イルクーツクくらいまでは行かざるべからず』と松岡は語った」これも「近衛手記」であるが、不思議にも、松岡が天皇に奏上した内容で好戦的なものは「近衛手記」にしか見当らない。六月二十二日独ソ開戦時の松岡対ソ宣戦布告説もそうである。これについては、後にいささか考察してみたい。(また近衛が木戸内府に会ったとき、「訪欧後の外相は余りにも議論が飛躍的になって陛下の御信任を失い、八日の拝謁後は、木戸内府に外相をとりかえてはいかが、とのお言葉すらあったほどである」という記述も「近衛手記」には見える)
余談ではあるが、近衛が拝謁した五月十日、ナチの副総統ルドルフ・ヘスは自ら戦闘機を操縦してスコットランドのグラスゴー付近に着陸、イギリスに亡命した。彼の意図は親友のロード・ハミルトンと会い、対ソ共同戦争を行うため、英独講和を策した、といわれる。ヘスは戦後ニュールンベルグ裁判で終身|禁錮《きんこ》の判決を受け、昭和五十二年現在、七十八歳でただ一人のA級戦犯として服役中である。
このヘスの亡命は世界中に話題を投げたが、昭和二十一年秋、病床にあった松岡は女医の井上泰代さんに次のように語った。
「あのとき、陛下や皇族の出られるお茶の会があった。ある皇族が『ヘスの気持がわからない』と言われた。私は『ヘスの心情はよく理解できます』と申し上げると、陛下が『どうしてか』と下問された。そこで、『ヘスと私は似ていると思われるからです。私も不意に自分で飛行機を飛ばして重慶に行って蒋介石に会いにゆこうかと考えたり、ワシントンにルーズベルトを説きに行こうかと考え、立ち上ることさえあります。人間は思いつめるとそういう状態に立ち至るので、ただ私がそれを実行しないのは、私が正気であるからです』と申し上げると、一同は大笑いされた」
松岡は正気[#「正気」に傍点]であったが彼の孤立はようやく深まって来た。
五月十二日には、松岡の意図を強く盛りこんだ日米了解修正案がアメリカ大使館に送られた。その主な点は左記の通りである。
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一、日独伊三国条約の第三条、「他の第三国より攻撃せられたるときは政治、経済、軍事的に相互援助を行う」を確認する。(これは一歩も譲れない)
二、日中戦争に関しては、新たに「米国政府は近衛声明によって示されたる三原則及び右に基づき南京政府と締結せられたる条約、及び日満支共同宣言に明示せられたる原則を了承し、日本政府の善隣友好の政策に信頼し、直ちに蒋政権に対し和平の勧告を為すべし。(注、昭和十三年一月「国民政府を相手にせず」という声明を発した近衛は同年十一月、東亜新秩序建設を声明、続いて十二月、日本帝国の要求は日満華三国が結合して「善隣友好」「共同防共」「経済提携」の三原則の実をあげるにあり、と声明した。この声明に応じて、汪兆銘は重慶を脱出してハノイに至り、南京政府樹立を画策した。従って、松岡の修正案はあくまでも南京政府の存立を支持するものである)
三、南方進出。日本の南西太平洋方面進出における発展は「武力に訴うることなく」のカッコ内を削除する。(『太平洋戦争への道7』によれば、松岡はシンガポール奇襲攻略の持論を抱いていたので、武力|云々《うんぬん》を削った、となっている。しかし、松岡は泰・仏印調停でもみられる如く、必ずしも軍の南進に賛成ではなかった。彼の南進、北進論は、その折々の外交におけるポテンシャル・コンディション〈潜在行使条件〉ともいうべきもので、これをポーズとして用い、相手に脅威を与えるのが、松岡外交の一戦術であった)
四、ホノルル会談の規定全部を削除。その代り、日米双方に於て必要と認める場合には、大統領と総理大臣もしくはこれにかわるべき代表者との間の会商につき考慮すべし。(既述の通り松岡はルーズベルトとの会談は自分が日本を代表してやるつもりであった。大物指導者との会談になれぬ近衛には不安を感じ、また、自ら国際的な大立者たらんと企図していたものであろう)
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『太平洋戦争への道7』は、「松岡の修正ぶりは周到にして冷厳、米国側に寸分の隙をも与えぬおもむきがある」と評しているが、ぶちこわすつもりなのであるから、当然のことであろう。
これを受けとったハルは、当然松岡の修正案ひいては日米了解案を否定するのであるが、重要なのはそのプロセスでありそれをみる前に、米艦隊の動きに目をとめておく必要がある。
松岡修正案がワシントンに届いた翌日、すなわち五月十三日、ルーズベルトとハルは太平洋艦隊の一部を大西洋に移動せしめることに最終的同意を与えた。このため戦艦三隻、空母一隻、巡洋艦四、駆逐艦九が太平洋から大西洋に移動しドイツに備えた。
ハルは松岡案について、「非公式、非正式に受けとり研究する」と野村に答えたが、彼にとって重要なのは、了解案の推進ではなくて、「この不成功が明白になるまでは日本軍は行動に出ない」という推測であった。野球のボールはハルというアンパイヤーの手に握られ、この球がピッチャーに渡されぬ限り、プレーボールは不可能であった。ルーズベルトとハルは、日米了解案を餌《えさ》として日本政府を釣り上げ、その間ヨーロッパ戦線を補強し、独ソ開戦を待った。チャーチルの『第二次大戦回顧録』は次のように述べている。
「勝ちほこったドイツとイタリアが我々に必然の攻撃を加え、ソ連は敵対的中立の立場で積極的にヒトラーを応援し、日本は計り難い脅威であった。我々は単独であった」
このとき、戦艦三、空母一、巡洋艦四、駆逐艦九を大西洋に回航せしめ、チャーチルを欣喜《きんき》せしめたあらたかなお守り札、その名は「日米了解案」なのであった。
さて、「日米了解案」交渉のプロセスを急いで追って行こう。
野村から松岡修正案を受けとったハルは、実のところさして驚いてはいなかった。例によって彼はマジック(暗号解読)によってその内容をすでに知っていたからである。しかし、表面上彼は意外そうな表情を示し、かつ怒った。
そして、ハルはある意図(すでに述べた)のために、野村と一カ月にあまる長談議に入った。その要点は次の通りである。
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一、日本が軍事征服のために南進せぬという保障が欲しい。
二、米国が戦争にまきこまれた場合、日本がドイツのためには戦わぬという保障(三国同盟の骨抜き)。
三、日中間の満足すべき解決(中国からの撤兵)。
四、松岡忌避。松岡らの措置と行動は、了解案の交渉開始当時の日本政府の意向に反する。松岡の声明により果して日本に太平洋平和維持の誠意ありやを疑う者が米国に多数あり。従ってハル自身も困難な立場にある。
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一方、この間、独ソの関係は切迫し、六月下旬には開戦必至という情報がハルのアンテナにかかっていた。それまでもたせればよかろう……。ハルは、五月十四、十六、二十、二十一、二十八日と五回に渡ってウォードマン・パーク・ホテルのハルの私室で野村と会い、五月三十一日、米側中間提案を正式対案として野村に渡した。
この特色は次の通りである。
まず、五月十二日送付の松岡修正案の骨子である三国同盟の参戦条件(第三条)を削除し、また「米国政府は欧州戦争において一方の国を援助し他方を攻撃せんとする攻撃的施策に出《い》でざること」という非戦の条項も削除された。
また、シナ問題の和平条件に列記されていた「満州国承認」は「満州国に対する友誼《ゆうぎ》的協議」と大幅に後退、防共駐兵についても「今後の討議により決定せらるべし」と切り離された。
要するに、近衛内閣が、三国同盟を基軸とする国策を放棄し、中国からの画期的な撤兵を行わない限り、交渉の進展は望めず、さらに満州国の承認さえも怪しくなって来たのである。ここにおいて、ハルはようやく衣の下の鎧《よろい》の袖をちらつかせ、井川や岩畔らが、ドラウトらと知恵を絞って練った秘策・日米了解案≠燻タは空文であって、ハル側は何らかの理由があって、これに甘い顔をみせていたことが、ようやく一般関係者にも明らかになって来たのである。
野村の回想によると、「六月七日午後八時半、ハル長官は、自分と岩畔大佐に、極めて慇懃《いんぎん》なる態度をもって、個人の関係、友情については将来何ら変る所はないが……と言って、日米会談の進行不可能を暗示した」となっている。
野村は六月にも三、七、十五、二十一日と四回にわたってハルと実りのない会談を続けている。
一方、ハルは、野村を通じて日本政府を操っておき、そのかたわら情報網を総動員して独ソ開戦の時期を探り、ほぼ六月二十二日頃という確信を得るに至った。
有名な「ハル口上書」をそえた米国の「ハル正式修正案」が野村に渡されたのは六月二十一日のことである。「近衛手記」には、「奇《く》しくも独ソ開戦の前日ハルの回答が来た」となっているが、奇しくもではなく、ハルは独ソ開戦の時期を狙って強気の回答を送ったのである。
この公式回答の本文は、何度も繰り返した如く、武力南進、三国条約、中国駐兵に関し、日本に強くブレーキをかけるもので、これを受容するならば、日本はほぼ日露戦争直後の状況に戻り、いくつかの島に多くの人口を抱えて激しい労働に忍耐強く堪えてゆくほかないという態のものであった。
かつ、ハル口上書には、松岡を痛烈に非難する数行が挿入《そうにゆう》されていた。
「国務長官は日米両国間に一層良好なる了解を招来し、且《かつ》、太平洋地域に於《おい》て平和を樹立するため、日本大使及びその同僚により為されたる真摯《しんし》なる努力を多とす。(中略)不幸にして政府の有力なる地位に在る日本の指導者のなかには国家社会主義のドイツ及びその征服政策の支持を要望する進路に対し、抜きさしならざる誓約を与え居るものあること、及びこれらの人が是認すべき合衆国との了解の唯一の種類は、合衆国が自衛に関する現在の政策を実行することにより、欧州の戦闘行為に巻きこまるるが如き場合には、日本がヒトラーの側において戦うことを予見するが如きものなるべしとの確証が、長年に亙《わた》り日本に対し真摯なる好意を表し来れる筋よりの報告を含む世界中のあらゆる筋よりますます本政府に達しつつあり。
日本国政府のスポークスマンにより、何等理由なきにも拘《かかわ》らず為されたる三国同盟の下に於ける日本の誓約及び意図を強調せる最近の公式声明の論調は看過し得ざるある態度を例証し居れり。かかる指導者たちが公けの地位においてかかる態度を維持し、且、公然と日本の世論を上述の方向に動かさんと努むる限り、現在考究中の如き提案の採択が希望せらるる方向に向い、実質的結果を収むるための基礎を提供すべしと期待するは、幻滅を感ぜしむることとなるに非ずや(後略)」
これは明らかに日本政府の人事に圧力を加えるもので、ハル自ら四原則の第二条、他国の国内問題に対する不干渉の原則、をふみにじるものと言われても致し方ないであろう。
ハル口上書を読んだ松岡は当然激怒した(と思われる)。しかし、彼はハルに反駁《はんばく》している暇はなかった。翌六月二十二日(日曜日)独ソ戦が勃発したからである。
この日午後、松岡は妻竜子、長女|周子《かねこ》と共に歌舞伎座で芝居を見ていた。来日中の汪兆銘を招待したのである。演《だ》しものは「与話情浮名横櫛《よわなさけうきなのよこぐし》・源氏店《げんやだな》の場」と「修禅寺物語」等で、「修禅寺」の終幕近く午後四時頃、加瀬俊一秘書官が歌舞伎座に走って独ソ開戦を伝えた。
来たか! いくばくかの興奮を静めつつ松岡は手渡された電報を黙読した。
「ヨーロッパよりの新聞電報によれば、本二十二日早暁、リッベントロップ独外相は、ラジオを通じて対ソ宣戦布告を放送し、ヒトラー総統は同時に独軍にソ連進撃を命じたり」
いよいよ始まったか……。多くのものが松岡の胸中に去来した。ヒトラーの顔と冷やかな掌、スターリンの厚い胸と太い髭《ひげ》……そして、彼の一大構想、四国協商がここに大きな壁にぶち当ったのを彼は感ぜざるを得なかった。
折から「修禅寺物語」が終り、幕がするすると降りてゆくところであった。
――おれの大芝居の幕も、どうやらこのへんで降ろさなくてはなるまい――
松岡は今一度電報を読み返すと、メモを書いて汪兆銘に渡した。芝居はまだ「伊勢音頭恋寝刃《いせおんどこいのねたば》」が二幕残っている。しかし、急変に顔色を変えている汪兆銘に軽くあいさつすると、松岡はさりげなく廊下に出て加瀬秘書官を呼び、
「直ちに参内する。手続きをしたまえ」
と告げた。
拝謁した松岡は陛下に何を申し上げたか? ここにも「近衛手記」が登場する。同手記によると松岡は次のように奏上した。
「独ソが開戦した以上は、日本もドイツと協力してソ連を撃つべきであります。三国同盟は日ソ中立条約に優先します。このため仏印等南方進駐は一応手控えなければなりませぬが、結局は日本はソ連、アメリカ、イギリスを同時に敵として戦うようになります」
これを聞いた陛下は非常に驚いて、
「直ちに総理のもとへ行って相談をせよ」
と命じられた、と「近衛手記」ではなっている。松岡の奏上の内容は加瀬秘書官も聞いていないので、「近衛手記」によるしかない。私(筆者)は最初松岡の拝謁上奏説に疑問を抱いた。いやしくも一国の外務大臣とあろうものが、独ソ開戦に際して、総理や統帥部である大本営をさしおいて、単独拝謁して、ソ連攻撃を進言するであろうか。先のベルリン訪問でも、ヒトラー、リッベントロップの猛攻を前にして、ついにシンガポール攻撃の言質を与えなかった松岡である。彼は外交大権と軍事大権の機能の違いを熟知している男である。大本営や軍部大臣をさしおいて対ソ宣戦を直接上奏すれば、必ず軍部との摩擦を生ずる。以上の理由で、私はまず松岡の拝謁上奏について疑問を抱いたが、最近加瀬俊一氏に直接聞いたところでは、急遽《きゆうきよ》拝謁したのは事実であるという。次はその内容である。『人と生涯』の著者荻原極氏は「この際ソ連を攻めれば有利という建言をした程度でしょう。しかし、実際にやれというのではなく、軍部が南部仏印進駐をうるさくせがむので、これに対する牽制《けんせい》策として、直接陛下に北進策を上奏したのではなかろうか」という意見である。私もそのへんではないか、と考える。「近衛手記」は松岡が天皇に上奏した内容については、極めて好戦的に記録しているので、ウラを考えて読む必要がある、と私は考えている。
加瀬俊一『日米交渉』は、松岡は大陸主義者で、「満州事変は日本精神の爆発である」「興国の大業は満州事変の延長でなければならぬ」などとその著書『興亜の大業』で説いており、独ソ開戦の報に接したとき、松岡は木戸内大臣に「もしドイツ軍がウラジオストックまで進撃して来たら、日本の将来にとって由々《ゆゆ》しい事態となるから、早目にシベリアに出撃する必要がある」と語った(木戸より加瀬氏への直話)と述べ、「松岡は陸海軍がソ連に進撃する用意のないことを知っていたから、北進を強調することで、南進とくに仏印武力進駐を抑えるはらだったように見受ける」と説明している。
ともあれ、松岡苦心の四国協商によって、アメリカの参戦を喰いとめ、ルーズベルトの斡旋《あつせん》によって蒋介石と和平を結び、中国問題を解決するという彼の大構想は、東ヨーロッパにおける戦車のキャタピラの響きや砲声と共に音を立てて崩壊したのである。無論、重慶に蒋介石を訪ね、共にホノルルに飛んでルーズベルトと和平を講ずるというような蜜月《みつげつ》?のような旅の企画もお流れである。モスクワからの帰り、シベリア鉄道のなかで、松岡は岡村二一の手帳の六月二十二日にマークをつけさせ、その日には重慶へ飛ぶのだと語ったが、それも、帰国直後の「日米了解案」出現で立ち消えとなり、今や新しい緊急事態と共に欧亜の情勢は新局面を迎え、松岡は外相としてこれに対処せねばならぬこととなった。そして、事態が進展すればするほど、彼は自己の孤立を認識せざるを得なくなってゆくのである。
六月二十六日の大本営政府連絡会議で松岡は「三国同盟に基づいて行動し、ドイツと策応して対ソ開戦すべきである」と発言した。
ついで六月三十日の連絡会議で、松岡は軍の南方進出中止を提議した。「南方に対する火遊びをやめて北進に専念すべし。わが輩の予言は的中しないことはない。南方をやれば必ず火は燃え対英米戦に追いこまれるだろう」と彼は強烈に主張した。なるほど、彼の予測通り、「日米了解案」は野たれ死に同然となった。そして、翌七月、軍は南部仏印進駐を行い、これが導火線となって日米開戦となるのであるが、独ソ開戦の時機だけは当らなかった。もっとも、松岡はベルリンを訪問したときからその臭いをかぎ、大島駐独大使から情報を得ていたので、自分はほぼその時機を知っていたが、公表出来なかっただけだ、と主張するかも知れぬが。
しかし、松岡の反対にもかかわらず、軍令部と参謀本部は近々に南方に進出する旨を決定した。
そして、七月二日、新局面に対する施策を決定する歴史的御前会議が開かれた。松岡は大いなる決意をもってこの御前会議に臨んだが、ついに彼の対ソ開戦、南方進出中止の論は容《い》れられなかった。彼に同調したのは原枢密院議長だけであった。
御前会議の主な決定事項は次の通りである。
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一、南方に対しては仏印及びタイに対する諸方策、南部仏印進駐を完遂、南方進出の態勢を強化す。これがため対英米戦をも辞せず[#「対英米戦をも辞せず」に傍点]。
二、北方に対してはひそかに対ソ武力的準備を整え、独ソ戦の推移帝国のため有利に進展せば、武力を行使して、北方問題を解決し、北辺の安定を確保す。
三、米国が対独戦に参加したる場合は帝国は三国条約に基づき行動す。但し、武力行使の時機及び方法は自主的に定む。
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ついに「対英米戦を辞せず」となってしまったか……。会議の後、松岡は肩を落して皇居を退出した。彼には軍の決定した南部仏印進駐が、かつての柳条湖事件や、蘆溝橋事件のように思えてならなかった。軍部は何らの決定的収拾策なくして、現地において侵略の事態を拡大し、それを既成事実としてしまうが、この後始末をする外交官の苦心を知らない。
車に揺られて千駄ヶ谷の私邸に向う松岡の胸に多くの感慨があった。独ソ開戦の翌日六月二十三日の朝、朝日の記者がインタビューに来た。居室で迎えた松岡は口を開くと、
「心境は空なり、虚なり」
と言った。
「君、あの軸の字が読めるかね」
指さす壁の軸には、
西吹けば東にたまる落ち葉かな
という蕪村の句が書いてあった。
「君、西風が吹いているときほうきを西に向って使ったら落葉は滅茶滅茶にちらかってしまう。この一句は人生の秘訣《ひけつ》、一切の鍵《かぎ》だ。さて、風はどう吹いているか……」
女中に朝飯の仕度を言いつけると彼は話を続けた。
「わしは運のよい男だ。小さいときから貧乏の味を思い切りなめて、その後も随分苦しかったが、何となく切り抜けて来たよ。ウン、やっぱり運がいいよ」
松岡は立ち上ると、下駄をはいて自宅の庭におり立った。
「物を考えるとき、わしは庭を歩くことにしている。それからうんとしゃべる。口を動かすのはわしの一番よい運動だ。しゃべっているうちに妙案がピカッとひらめく。頭の働きは電信よりも早い……」
塀《へい》の外では、外相の出勤を待つ自動車のエンジンの音が、いつもよりいら立たしく聞えた。
「どうも役所というところは、規則ずくめでいかんね。大臣が毎日出勤しなければならぬと決めこんでいる。大臣がうちでゆっくり物を考えていたっていいじゃないか。大臣がいなければ仕事が出来ぬような外務省ならやめてしまえ、といいたいね」
最後に松岡はしみじみとした調子で言った。
「今日は役所の帰りに山本条太郎さんとこの庭をぶらついて来ようかな? あのおじいさんが生涯骨を削るような悩みを抱きながら構想をめぐらした場所だからね、あの庭は……」(この項『人と生涯』より)
松岡の蕪村の句に対する解釈は一見矛盾しているようにも見える。風が西から吹けば、落ち葉は東にたまる、西に向ってほうきを使えば、落ち葉はちらかる。では、西に向ってソ連を撃て、というのは矛盾ではないのか。それとも、ソ連を撃てというのは前述のように一種の牽制策なのか。もっとも、陛下に対ソ宣戦を上奏したことは一般には秘密であるから、独ソ戦によって日ソ中立条約が御破算に近くなったら、そのように臨機応変に処するのが外交だという単なる順応策を述べて逃げを打っていたのかも知れない。
さて、御前会議の南進決定によって、ようやく外相松岡の命運も定まったとみてよかろう。御前会議の翌日、外務省顧問の斎藤良衛が所用で荻外荘を訪れたところ、東条、及川、武藤章が集って近衛と密談していた。内容は松岡追い出しである。帰って来ると斎藤は早速松岡にこの旨を伝えたが、松岡は腕を組んだまま無言であった。迫り来る命運をみつめていたのであろうか。
なぜ、近衛らは松岡を追い出そうとするのか。それは、独ソ戦開始によってしばらくタナあげされていた日米交渉を再開したいのであるが、それには松岡が邪魔なのである。また、一部に松岡内閣組織、対米強硬策推進の声もあるので、近衛グループとしては早目に松岡を追い出し、体制を固める必要があった。またハルを頼りにする野村、岩畔らの在米グループも、ハルの意図を汲《く》んで、松岡をはずすべくワシントンから圧力をかけていた。
一方、佐藤賢了らを中心とする陸軍の一部にも、「日米了解案」による交渉は打ち切るべきだ、という主張が高まっていた。ようやくアメリカの、とくにハルのはらがわかって来たのである。独ソ開戦によってドイツの力が弱まるまで、日本を日米了解案というエサによって抑えて来たこと、そのワナにはまった日本の代表と称する人々の愚かさが、佐藤らにもわかって来たのであろう。
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二十章 松岡の退陣と日米開戦
荻外荘で松岡追い出しの密議が交わされていることに感づいた斎藤は、松岡を千駄ヶ谷の私邸に訪ねたが、松岡がノーコメントであったため無気味なものを感じ、元ドイツ大使の本多熊太郎を訪ねた。本多はアンチ近衛、アンチ東条で、松岡と親しかった。斎藤は近衛らの動きを告げ、本多に、
「日米交渉再開のため松岡さんが追い出されるのは時間の問題らしい。クビを切られる前に、自分から辞めるよう勧告して欲しい」
と依頼した。
本多は斎藤の意を汲んで松岡を訪ね、辞職の勧告をしたが、松岡は黙然と聞きいるだけで、返事をしない。彼も自分の命運は悟っていたが、その前に一つだけやっておきたいことがあった。それはハルのあの無礼なオーラル・ステートメント(口上書)の撤回であった。「不幸にして……日本の指導者のなかには国家社会主義のドイツ及びその征服政策の支持を要望する……」という形容のもとに松岡の除去を要求したあの口上書に一矢を報いぬうちは、国の名誉にかけても外相をやめることは出来ぬ、と彼は考えていた。
松岡は本多の好意を謝し、本多は不得要領のうちに辞去した。
一方、斎藤の来訪で密会を知られた近衛は、これはまずいと考え、翌七月四日、次のような書簡を松岡のもとに送った。
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一、北方問題が解決するまでは南方に対して武力行使を為さず。すすんで米国との国交調整を為すべし。米ソを同時に敵とすることの困難にしてほとんど不可能なることは、海軍首脳部も言明するところなり。この見地より仏印進駐の如きも出来得ればこれを中止するを可とす。
二、米と国交調整を為す結果、独の要求に対して満足を与うる能《あた》わず。為《ため》に一時同盟国間の感情に面白からざる暗流を生ずることなきを保し難きもやむを得ず。
三、米との国交調整は@海軍物資獲得による国力増加A米ソの接近|遮断《しやだん》B重慶との和平工作の急速なる促進、の三点より見ること必要なり。
以上の見地より今回行われつつある米国との交渉はこれを継続する必要あるのみならず、国策遂行の高所より見て速やかにこれが妥結を図るべきものとす。閣下の達観よりすれば、日米の妥協は不可能なるやも知れざるも、補弼《ほひつ》の重責をになえる身として全力を尽さざるを得ず。いわんや聖上の御|軫念《しんねん》あるにおいてをや。この際最善を尽し多少の譲歩を為すともその成立を期待せざるを得ず。
[#ここで字下げ終わり]
近衛は松岡の譲歩を求めるべく二、三言葉のアヤを使った。北方問題が解決するまでは南方に対して武力行使をなさず、と言っているが、南部仏印進駐は軍部とすでに決定ずみであった。(松岡退陣後の七月二十三日、近衛第三次内閣は、ドイツを通じてヴィシー・フランス政府の認可をとりつけ、二十八日南部仏印に進駐している)
また近衛は松岡を牽制するため奥の手を用いた。松岡は大陸主義者であると共に天皇崇拝主義者であった。天皇絶対論者であったと言ってもよい。その彼に陛下が心配しておられると言えば、利き目がある、と考えたのである。
これに対する松岡の反応は如何であったか? 『太陽はまた昇る』には、その晩近衛のもとに松岡から電話がかかって来た、となっている。近衛は床のなかから受話器をとった。
「只今御書面を拝見しました。非常に感激しました。あとは明日官邸で申し上げることに致しますが、いや全く感激しました」
こう告げて松岡は電話を切った。
翌朝、近衛が首相官邸に着くと、間もなく松岡がやって来た。
「いや、昨夜は感激のあまり眠れませんでした」
という松岡の眼がはれぼったいのを近衛は認めた。
「総理のお考えと私の考えとは根本においては同様です。いや、私ほど日米問題を真剣に考えている者はいないとひそかにうぬぼれてさえいるのです。但し、三国同盟にヒビが入るようでは困ると考え、その点では反対しているのです。しかし、いずれにしても総理から御配慮をいただいたことですから、今日からもっと真剣に本腰を入れて日米問題を考えましょう」
さらに松岡はこう述べた。
「もし、私が日米問題解決の障害となっているということでしたら、自分はいつでも辞職を致します。少なくともそういう決心でおります……」
それに対して近衛は何も言わなかった。ただ心の中で、松岡の奴とうとう自分からやめることを言い出したな、と思っただけである……と『太陽はまた昇る』ではなっている。しかし、ハルの口上書撤回に執念を燃やしている松岡が、この段階で辞意を洩らすというのは、少々納得がゆかない。
さて、御前会議の後時勢は急迫し、時局は刻々に動いて行った。
七月七日、陸軍は対ソ作戦準備のためと称して八十万人の兵力動員を企画し、東条陸相はこの兵力を満州に送ることを上奏、裁可を仰いだ。もちろん陸軍にソ連と戦う意図はなく、これは南方進出の布石として、裏正面の北を固めるもので、一般に関東軍特別大演習(関特演)と称する大動員であった。このため動員された多くの将兵は、後にソロモン、サイパン等南方戦線に投下され、屍《しかばね》を南十字星や椰子《やし》の木の下にさらすことになるのである。
七月十日、十二日と大本営政府連絡会議が開かれたが、十日の会議で、松岡はハルがオーラル・ステートメントを撤回せざる限り、交渉再開は不可能だと強調した。このあと、近衛は東条、及川及び平沼内相を呼んで松岡の処断について協議した。要は松岡一人に退陣を迫るか、それとも内閣総辞職の形で一旦松岡を追い出し、他の外相(豊田貞次郎)を立てて第三次近衛内閣を再組閣するか、であった。近衛には松岡一人を切り難い事情があった。それは前年七月第二次近衛内閣成立の際、松岡を外相にすることを聞いた天皇が、「松岡でよいのか」と下問された際、「結構でございます」と松岡を信頼している旨を奏上しているので、今となって松岡は駄目だから、止《や》めさせたいとは言いにくいのであった。
ついで、七月十二日の連絡会議では一つの事件が起った。
この会議では、松岡の提案によってハルのオーラル・ステートメントを拒否することとなったが、それ以外に、松岡が東条陸相らを馬鹿呼ばわりして物議をかもすというハプニングが起きた。
十二日の会議に先立って、近衛は東条、及川、平沼の三大臣を呼んで陸海協同の三原則なるものの案を練った。
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一、欧州戦争に対する帝国の態度は条約上の義務と自衛とによって決せられる。
二、支那問題に関しては近衛三原則を基準とし、米国は休戦和平を勧告することはよいが、和平条件に対する介入は許さない。
三、太平洋において所要の場合は帝国の武力行使を留保する。
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この三点は後々のためにはっきりさせておくのであるが、それ以外は最終的には米国案の趣旨で差支えない。
松岡は内密に作成されたこの三原則を聞かされて、当然のように憤激した。外相ぬきでこのようなことを内定するのは、外交大権の侵害である。
「杉山メモ」より要点を引用すると、次の通りである。
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松岡 ハルのオーラル・ステートメントは受理出来ぬ。米国はあたかも日本を保護国もしくは属領と同一視しておる。米人には弱者には横暴の性質あり。このステートメントは、帝国を弱国属国扱いにしている。我輩はステートメントを拒否することと、対米交渉はこれ以上継続出来ぬことをここに提議する。
一同しばらく沈黙……。
参謀総長(杉山) 外相の意見には同感であるが、軍部としては近く仏印進駐と関東軍増強という重大事態あり。この際日米交渉の余地を残す必要あり。
松岡 日本がいかなる態度をとっても米国の態度は変らぬ。米国民の性格からみて弱く出るとつけ上る故、この際強く出るを可とす。
平沼内相 この際何としても米国を参戦せしめぬことが必要である。外交は外相の責任である事は当然であるから、これを一筋にする必要あり。
松岡 米大統領は国民をひきずって参戦にもってゆこうとしている。ただしそれに米国民がついてゆかぬかも知れぬという一|縷《る》の望みあり。ルーズベルトは非常なデマゴーグであり、おそらく米の参戦をとめることは出来ぬであろう。しかし最後まで努力は続けましょう。日米の提携は我輩が若いときからの持論なり。絶望とは思うが、最後まで努力致しましょう。しかし、日本の中にはわからず屋がいて、国家のために尽すつもりからか、私を誹謗《ひぼう》しておる。自分が若いときからそういうやつだと思っていたそいつらは、総理以下も俺のことを悪いやつと思っている、と想像しているに違いない。
東条 望みがなくても最後までやりたい。むずかしいことは知っているが、大東亜共栄圏建設、支那事変処理、これが出来なくとも、三国同盟の関係からも、米の参戦を表看板に掲げさせぬことだけでも出来ぬか。
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多分このあたりではないかと思うが、『太陽はまた昇る』によると、松岡は東条らを馬鹿者呼ばわりしている。
「軍部がそんな弱腰でどうなるか! それでなくてもアメリカになめられておるのに、そんな弱腰をみせれば、アメリカはますます図に乗って難題をふっかけて来るに決っている。それが君らにはわからんのか! 君たちは馬鹿者だ。大馬鹿三太郎だ。どだい軍人が外交問題に容喙《ようかい》するのからして間違っているのだ。君たちのような頭の固い人間には、生きた外交というものは分りゃせん。軍人は軍人らしく戦争のことだけを考えておればよいのだ」
すると口髭をふるわせて東条陸相が松岡につめよった。
「外務大臣! あなたは我々を馬鹿馬鹿といわれるが、一体どこがどういう風に馬鹿なのか、後学のために説明を承ろう!」
そこで、及川海相が「まあまあ」と割って入ることに同書ではなっている。
「杉山メモ」では、このほか及川海相と松岡の間に次のような問答があったとなっている。
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及川 海軍の情報によれば、ハル長官等は、太平洋の戦争にはまず持ってはゆくまいと考えているらしい。そこに当初の三原則を施行する余地がありはせぬか?
松岡 どういう余地がありますか。何を入れますか?
海相 まあ小さいことだ。
松岡 南に兵力を使用せぬということならアメリカも聞くだろうが、外に何がありますか?
海相 太平洋の保全、支那の門戸開放等で入れることがありはせぬか。
松岡 今度の米案は第一案より改悪であるからこれを引きもどすことは困難である。日本|与《くみ》しやすしと思うからこのような手紙をよこしたのである。原案(日米交渉)を堅持して交渉を続けるならば、蹴《け》って蹴って蹴りのめされてから止めるようになるであろう。
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以上の問答を表面的に聞くならば、松岡は日米交渉をやめて、軍が強力に出た方がよいと主張しているように見える部分もあり、これが後年松岡は平和的な[#「平和的な」に傍点]日米交渉を妨害して、戦争を主張したと評される一つの原因になるのであるが、彼の主張は、御都合主義の日米了解案にとびつくことをせず、屈辱的なハルのオーラル・ステートメントを甘受することなく、わが方の毅然たる[#「毅然たる」に傍点]態度を示して、米国の参戦を防止することが外交の本筋であるという点にあったとみるべきであろう。この点、彼は少年時代アメリカで感得した「米国人にはまず一撃を加えてこちらの強さを示した後、友好的態度に出るべきだ」というセオリーを六十一歳のこのときも遵守し続けたものというべきであろう。しかし、この段階で毅然《きぜん》たる態度とは何であろうか? 四国協商の大構想が独ソ戦によって瓦解した今となっては、米国を圧する手段としては、大上段にふりかぶってソ連を挟《はさ》み討ちにして戦勝の後ドイツと手を組んで米に当るか、それが不可能ならばせめてハルの無礼なる口上書を拒否して断乎《だんこ》たる態度を示す位しか、彼のとるべき外交政策はなくなって来ていたのである。彼は大きな挫折《ざせつ》を感じていた。独ソ開戦以来、持病の結核が悪化し、発熱があった。叫ぶだけ叫ぶと、彼は力のない咳《せき》を発しながら病気を理由に退出した。会議終了後、武藤、岡両軍務局長、寺崎アメリカ局長、富田書記官長、それに松岡の代理の形で、斎藤良衛顧問が加わり、米国に送るべき最終修正案が作り上げられた。
十四日、松岡は斎藤良衛を病床に呼び、最終修正案に更に修正を加えて、日本側公式修正案を次のように作り上げた。
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一、米国側に受け入れられ易いように「適当なる時機至る時は」との条件付きで、日米共同して欧州戦争の速やかなる終結に努力するという一項を復活させた。
二、三国条約関係については「もし不幸にして欧州戦争が拡大せらるる場合においては日本政府は条約上の義務を遂行し、かつ自国の福祉と安全を防衛する考慮によってのみその態度を決すべし」と修正。
三、支那問題の項においても近衛三原則を全体としてうたい、米国のきらう「南京政府」の名をあげることを避け、「蒋政権」に米国が和平を勧告するとした。
四、日支和平条件は再び削除。
五、日米経済協力を特に必要とするのは南西太平洋であるから、という理由の下に、再び太平洋全域を「南西」太平洋と改めた。
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近衛らはこの修正案を七月十五日駐米大使館の野村に打電すべく予定していたが、松岡は、非礼なるハルのオーラル・ステートメントを拒否する電報を先に打電し、二、三日してから修正案を打電することを強く主張し、ここに近衛と松岡の意見の喰い違いが生じた。
これについて、松岡は病床に斎藤良衛を呼び、いかにハルのオーラル・ステートメントが非礼なものであるかを、長々と口述筆記させた。
そのなかには次のような文章がみられる。
「日米了解に関する我が修正案は内容において、米国の主張、すなわち『我が国の三国同盟脱却と日支関係を満州事変以前の旧態に立ち返らしめんとする主張』とは、主義に於て全然相容れざるものにして、先方が万一にも我が案を容るるものに非ざるは賢明なる総理閣下の夙《つと》に熟知せらるる所なるべし。閣下は右オーラル・ステートメントを以《もつ》て本件交渉に関する限り、米国政府の絶縁状に均《ひと》しきものなりと思考せられざるや。我が国が三国同盟の誼《よしみ》を弊履の如く棄て、多数同胞の血と巨億の犠牲を顧ずして着々歩武を進め来りたる大陸政策を断念せざる限り、米国案に摘記したるが如き日米国交調整の到底望みなきは、本大臣の信じて疑わざるところなり」
「オーラル・ステートメントは用字巧妙、措辞周到なりといえども、我を属国又は保護国視せる非礼極まれる文字にして、その意図するところ、我が基本政策を変革せしめんがため、鬼面我を驚かすものなり。而《しか》も野村大使の交渉ぶりに徴するに、我態度の軟弱卑屈は、彼をして益々《ますます》我を侮らしめ、彼は眼中に帝国なく、大和民族なく、その非を押し通さんが為にこれに支障を来すが如き帝国の行動を抑制せんとす。その態度|恰《あたか》も応永年間、明の洪武帝の我に対する態度と酷似するものあり。この際帝国のとるべき措置は一あって二なし、懐良《かねなが》親王が、汝にして我を攻めんとも我何ぞ畏《おそ》れんやとて、明使を追い返し給いたる史実は帝国政府の厳鑑なり」
ここで明の洪武帝と日本の関係について説明しておこう。洪武帝は明の初代皇帝で名は朱元璋《しゆげんしよう》という。元を倒して明を建て、外征を行い、十四世紀の終り頃、日本にも朝貢せよと言って来た。当時日本は南北朝の初期で、後醍醐天皇の皇子懐良親王が九州|太宰府《だざいふ》にあって、征西将軍として総督の地位にあった。明の洪武帝の使節は太宰府に朝貢を求めたが、懐良親王は断乎としてこれを斥《しりぞ》けた。しかし、洪武帝が日本の北九州を牽制したのは、倭寇《わこう》に苦しんだためであり、懐良親王の征西府の勢力は倭寇の根拠地である松浦《まつら》地方には多くは及ばなかった。そして、征西府はいくらかの朝貢貿易に応じたという説が最近では行われている。
以上の松岡の意見は斎藤を通じて近衛に申し入れらるべきものであったが、近衛は考えるところあって斎藤の来訪を避けた。
その気配を察した松岡は、近衛に無断で、七月十四日午後十一時半、斎藤を通じ外務省に命じて、オーラル・ステートメント拒否(撤回要求)の電文のみをアメリカに打電させた。
更に翌七月十五日、松岡は坂本欧亜局長に命じて、未《いま》だアメリカに打電されていない最終修正案をドイツ側に極秘|裡《り》に内報せしめた。これはヒトラーの心証をよくしておこうという松岡最後の苦肉の策であったが、秘密はすぐにバレ、近衛の耳に入った。
驚愕《きようがく》した近衛は、今度は松岡に無断で、大橋次官までの決裁で急遽最終修正案を野村大使|宛《あて》に打電せしめた。かつての親友の泥仕合は来るところまで来た。
同じ日七月十五日、松岡欠席のまま閣議が開かれた後、近衛は首相官邸の別室で平沼、東条、及川らと松岡の処断について最終的討議を行った。
問題は松岡単独罷免か、内閣総辞職という形でとりあえず松岡も共倒れの形で退陣せしめるか、であったが、単独罷免は正にハルの内政干渉を呑んだ形になるし、独伊等に対する悪影響も考えられる。結局、平沼の「外相とか米国問題をはなれてただ戦時体制強化という見地から総辞職を決定したらよかろう」という言を容れて、総辞職の形をとることになった。
近衛は午後三時すぎ葉山の御用邸に赴き、拝謁し、閣内不統一の故をもって挂冠《けいかん》したい旨を奏上した。「近衛手記」によると、天皇は「総辞職ともなれば、内外に与える影響は大きい。松岡だけをやめさせて、時局を収拾する道はないか」と下問されたが、近衛は「なお研究しますが、このままでは内閣の存続は不可能であります」と答えたとなっている。
翌七月十六日朝、近衛は鎌倉山の別荘で眼をさました。秘書官の細川護貞が一緒に宿泊していた。
この年は梅雨がいつもより長く、鎌倉山の緑は前夜の雨に濡れて、しっとりとみずみずしかった。
――あれから丁度一年か――
近衛は感慨深げに、山の緑を眺めた。一年前の七月十六日、米内内閣の総辞職が決り、近衛は軽井沢からクライスラーで東京へ向った。その頃、近衛と松岡は蜜月の初期にあった。二人は互いに頼り合った。近衛は松岡の実行力を頼みとし、松岡は近衛の名門を必要とした。そして、丸一年後、二人は仇敵《きゆうてき》の如く憎み合い、裏切り合って袂《たもと》を別とうとしているのである。近衛の胸に感慨が湧《わ》かないわけはなかった。このとき、彼は日米了解案が、どのような野心家の手によって創作され、それをハルがどのように操ったのか、その手の内にまだ気づいていなかったのである。
この日の午前、近衛は富田書記官長と共に愛用のクライスラーで京浜国道を東京に急いだ。梅雨の名残りが時折フロントグラスに滴を落した。
午後六時、首相官邸で臨時閣議が開かれ、総辞職が議決せられた。松岡は欠席である。千駄ヶ谷の松岡邸に、松岡の辞表を受けとりに行く役目は、書記官長の富田が仰せつかった。このとき近衛は廊下で富田を呼びとめた。
「松岡が何と言ってもけんかをしたりしないで、とに角辞表を受けとって来て下さい。君は手が早いから、万一にも殴ったりして問題を起さないように……」
近衛は前長野県知事の富田にこう注意を与えた。いつの間にか彼は松岡恐怖症に陥っていた。自分が選んだ外相を自分の手でくび切るうしろめたさもあったのであろう。
富田は心得て永田町から千駄ヶ谷に向った。また雨が降り出していた。元鍋島侯の別邸であったという松岡の私邸も、夜の雨にしっとりと濡れて、静まり返っていた。
富田が案内を乞うと応接間に通され、間もなく、焦茶色の着物に袴《はかま》をつけた松岡が意外にフランクな表情で現われた。顔のむくみ具合で、それまで病床にあったことが富田にはわかった。
松岡は異様なほどの上機嫌で富田に着席をすすめると、時々咳入りながら、
「お使者のおもむき御苦労様です。こういうことはきちんとやりましょう」
と、威儀を正して、内閣総辞職の報告を聞いた。
「よくわかりました」
松岡は看護婦の平林小すずに印鑑を持って来させ、富田に渡した。富田が松岡の辞表にその印鑑を押すのを眺めながら松岡は言った。
「近衛公には是非残ってもらいたいですな。私は近衛公の為に外務大臣を引き受けた。今自分はやめるが、近衛公だけは残って時局を担当していただきたい。今の日本に近衛公をおいて総理を勤め得る人はいない。その意味で私はあなたに印鑑を渡したのだ。この私の意向を近衛公に伝えてもらいたい」
松岡は例によって熱っぽい調子でそう語った。オーラル・ステートメント拒否を独断で打電したときから、彼は罷免を覚悟していた。あれが最後の抵抗であった。今となっては策士松岡も万策尽きたというところであろう。
辞去する富田を玄関まで送った後、松岡はひとり奥の茶室に入った。窓外に萱《かや》ぶきの屋根を打つ雨の音が聞えた。彼は正座すると腕を組み瞑目《めいもく》した。多くの人々がこの茶室に出入りした。ドイツ大使オットーや特使スターマーを迎えて三国条約の腹案を練ったのもこの茶室である。軍人も来たし、右翼も来た。汪兆銘もここで日本の茶を味わった。そして日米了解案の張本人岩畔豪雄大佐と会ったのもこの茶室である。
しかし、今やすべては終った。松岡が近衛公の政権存続を強調したのは、軍部に政権を渡したくなかったからである。ルーズベルトやハルを相手にして、軍人が政権を握れば必ず戦争になる。支那事変をそのままにして日米戦争になれば、日本は両面作戦で危険な状態に陥る。この場合次善の策はソ連を叩いて、ドイツと手を結んでおくことであるが、ノモンハンの実績からみて、多くは期待出来なかった。
――我が事ついに終んぬ――
松岡は両眼を見ひらくと大きく息を吐いた。力のない咳がそれに続いた。
「あなた……」
背後から聞える声があった。ふりかえってみると、おぼろな灯火のかげに女の白い顔が浮んでいた。妻の竜子であった。
「あなた、長い間御苦労様でございました……」
それだけ言うと、竜子は絶句し、しゃくり上げた。彼女は表に立たぬ人柄であったが、とくに今回の日米交渉における夫の辛苦は、目《ま》のあたりに見て、その心労を察していた。夫の病状を一番よく知っているのも彼女であった。
「竜子か……。何も心配することはない。聡明な陛下がおわします限り、日本帝国は滅びるようなことはない……」
自分に言って聞かせるようにそう告げながら、洋右は自分と妻竜子との関係について考えてみた。
松岡が進竜子と結婚したのは、大正元年十一月、松岡三十二歳、竜子二十歳のときのことである。それから三十年近い歳月が流れていた。その間松岡はとくに竜子を女として意識したことは少なかった。竜子は貞淑で温厚な女性で、洋右の母ゆうにもよく仕えた。いつの間にか七人の子供が生れ、長男の謙一郎はすでに二十七歳であった。洋右は、人との会談のとき、妻の話が出ると、
「あれは丈夫で子供を育てるだけが取柄だよ。それだけの女だよ」
と一笑に付するのが常であった。明治維新の大業を遂げた長州の勤王の志士の後裔《こうえい》をもって任ずる松岡の脳裡には、国事のためには家庭を顧ずという明治の壮士ふうの思考法が常にあった。松岡は竜子を愛していなかったわけではない。彼は夭折《ようせつ》した次男洋二をふくめて七人の子供のすべてを愛していた。しかし、そのような愛情に溺《おぼ》れて家庭の幸福に閉じこもるべく、彼はあまりにも国事に追われていたというべきであろう。
そして、その国事が、彼に関する限りようやく終末を告げた今、彼はあらためて、妻の顔を見直し、妻の顔を通じて家庭を見直す気持になった。
「そうだな、これからは御殿場の別荘で、二人で静かに暮すことにしようか……」
松岡はそういうと、立ち上り、障子をあけて、庭の木立ちに見入った。見なれた庭の樹々が今日も遅い梅雨の滴に濡れて、闇の底に主人の心のように重苦しくわだかまり、静まり返っていた。
この夜八時半、近衛は全閣僚の辞表をとりまとめ、雨の中を自動車で葉山御用邸に伺候、辞表を捧呈《ほうてい》して十一時すぎ官邸に帰着、閣議に総辞職を報告した。第二次近衛内閣の幕切れである。
翌十七日の重臣会議で予定通り三度目の組閣の大命が近衛に降下した。外相には予想通り前商工大臣の豊田貞次郎大将があてられ、秋田清ら二、三の政党出身の大臣が消えただけで、さして変りばえのしない新内閣が発足した。政党出身の大臣をぬかしたのは、重大な情報を旧政党仲間に洩らすという噂《うわさ》があったからだということになっている。要するに松岡追い出しの総辞職劇であったが、松岡は悪びれずに事務引き継ぎのため病をおして外務大臣室に顔を出した。内情を知る新聞記者たちが、この人間臭い口八丁手八丁の外交官を取り囲んだ。国際聯盟脱退、三国同盟締結、日ソ中立条約成立の電撃外交、どれ一つをとっても世界有数の知名度をもつ大外交官[#「大外交官」に傍点]である。そして、今回の退陣は、その終焉《しゆうえん》を示していた。もう二度と松岡外交の時代は来ないであろうことを、記者たちは見ぬいていた。
記者たちを前に、いがぐり頭の松岡は咳の間にパイプをふかしながら、衰えぬ気焔《きえん》をあげた。
「今の心境かね。例によって不息庵宗匠の下手な句でもひねって聞かせようか。まず、
一年を無我夢中|梅雨《つゆ》あけず
どうかね。字数が足りぬ? ではこいつはどうだね?
坊主めが行倒れけり梅雨《つゆ》の旅
とうとうこの坊主め、倒れてしまった。何しろ、今年の梅雨は長かったからな。なに? これからどうするって? まあ、御殿場の山荘で野鳥の声でも聞いて昔通りの浪人生活さ。もう講演にも出ない。世俗とは縁を切って、仙人のような生活でゆきたいね」
松岡は四月下旬訪欧の旅から帰って以来、三カ月の間に十二キロ体重が減少していた。いかに彼が日米了解案と戦うのに精力をすり減らしたかがわかるであろう。
この日、ただ一つ松岡を慰めたプレゼントがあった。それは、松岡の要請に答えてアメリカから届いたハルのオーラル・ステートメント撤回の電報であった。
「そうか、ハルにも日本の士《さむらい》の志がわかったとみえるな」
松岡は伸びた顎鬚《あごひげ》をなでて侘《わび》しく微笑した。
松岡の辞任(罷免)は日本だけでなく世界的にもショッキングな事件であったので、これをめぐっていくつかのエピソードが伝わっている。
松岡が辞任直後に書いた二つの手紙が残っている。一つは東条陸相あてである。これは巻紙に墨書で全長十四メートルに及ぶ長尺物で、東条勝子夫人が保管し、松岡家に贈られたものである。その大意は、近衛公が総辞職と聞いて、またも近衛公の逃げ出しかと考えたが、実は松岡を追い出して例の日米交渉を続行しようというはら[#「はら」に傍点]だと知って非常に驚いた。アングロサクソンの手練手管にひっかかって、独伊との信義を破ってはならぬ……というようなことで、シベリア出兵やハルのオーラル・ステートメント撤回要求にも言及し、要するに今まで述べて来た松岡外交の集大成、総仕上げ、ともいうべきもので、日付は十六年七月十八日となっている。左にその一部をあげておこう。
「第一の点はこの総辞職は小官を放出したりとの感は、我が国民はもちろん、英米、独伊仏支を通じ拭うことが出来ぬことで、英米は大喜び、独は前記の如く真に重大なる影響を生むべし。しかもこの位のことにて日米了解案の成立は所詮《しよせん》出来るものに非ず。否小官放逐後の我政府に対し、米はますます不遜《ふそん》たるべきことは火をみるよりも明らかなり。強気に押さざれば米と了解つくものに非ず。野村はどうしたのか丸でオジ気切っているので、小官は多年の親友たる今日の彼、頭がどうにかしたのではあるまいかと心配しおれり。
恰も此《この》際の出来事、如何《いか》に陳弁するとも米国政府口上書にて要求したる所に叩頭《こうとう》して内閣改造を行いたるものとしか受けとれず。
小生は断言す。日本の史家のみならず、世界の史家をあげて必ず右様批判を下し長く皇国の一大恥辱として竹帛《ちくはく》に其《そ》の痕《あと》を残すべし。
又、聖上陛下に身外相の職に在りながら申訳なしと痛感、恐懼措《きようくお》く能わず、皇居の方を手を合せて拝み唯涙のみで心の中にてひたすら非を詫《わ》び居り候。
何故かく国際的に種々重大なる影響の予見さるる今日の挙に、小生には一言の相談もなく、又、聖上陛下に小生最後の卑見言上の機会も与えずして出《い》でられたるか、小官は頓《とん》と了解出来申さず。小生は自己については重荷ばかり、山間に去るを楽しみ居る程にて何等苦情を抱かず候得共《そうらえども》、右に述ぶるところは皇国の将来に重大関係を有する儀故、公私共に御誘援|蒙《こうむ》れる老兄にまず在官中最後の卑見として以上冗長を顧みず床中筆に任せなぐり書き候(後略)」
重複の多い文章であるが、松岡の憂国の情が行間にあふれ、義経の腰越状を思わせるものがある。先に松岡が会議の席で東条を馬鹿者呼ばわりした一幕を紹介したが、このような長尺の手紙を書くところをみると、やはり東条を頼りにしていたのか、それとも軍部の実力者である東条にいずれ政権が渡ることを予見し、日米開戦について慎重なるべきを忠告したものであろうか。
松岡追い出しの内幕を知った松岡派の過激派のなかには近衛を暗殺しようと計画した人々もいた。先に政党解消運動で松岡のもとに集り、今は無形運動という運動のために集っていた人たちである。しかし、この動きを察した松岡は、血の気の多い連中を集めて一喝した。
「お前らは何を企んでおるのか!?]
現下の日本にとって近衛公がいかに大切な人間であるかをよく考えてみい。断じて過激な行動を起すことはならん!」
松岡に心酔していた無形運動のグループはこの一喝でちぢみ上った。
松岡が罷免された直後に、近衛に署名入りの写真をもらいたいと依頼した手紙の写しが残っている。その書き出しは、「敬啓、陳者《のぶれば》今般罷免の恩命[#「恩命」に傍点]に浴し唯々感泣[#「感泣」に傍点]在罷候《まかりありそうろう》」というふるったものである。松岡は近衛の写真をもらってどうしようというのであろうか。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンらの写真と共に彼のコレクションのなかに加えようというのであろうか。英雄趣味の松岡の子供っぽい一面を示すものであろう。
第三次近衛内閣の組閣にあたり、近衛は松岡から会いたいと言って来たが会えなかった、と言っているが、『人と生涯』によると、竜子夫人は、「近衛夫人から近衛公が松岡にぜひ会いたいと言って来られたのですが、松岡が絶対に会わんというものですから女同士間にはさまって困りました」と述懐している。
松岡の退陣から、真珠湾攻撃、日米開戦までは、五カ月足らずである。
日米了解案は松岡が予想したとおり実を結ばず、十一月二十六日の挑戦的な最後通告ともいうべきハル・ノートによって宣戦布告となるのであるが、この間のくわしい事情は松岡と直接関係がないので、編を改めて勉強し私見を述べたいと考えているが、転石の如き開戦への経過を簡単に要記し、開戦の理由について私見を洩らしておくことにしたい。
第三次近衛内閣成立直後、「杉山メモ」は「軍人が多いせいか情報交換に明るい感じを得たり。今までと異り連絡会議の価値は増大せるものと認む」と、松岡という荒れまくる台風の眼が抜けたことを素直に喜んでいる。
果然、第三次近衛内閣は成立後一週間そこそこの七月二十三日、ヒトラーを通じて仏ヴィシー政府に圧力をかけ、南部仏印進駐を強行することとなった。世界の視線は、南西太平洋にずんぐりした拇指《おやゆび》の頭のように突き出した(ハルの形容)この半島に集った。古来、半島は事件の起き易いところで、世界の歴史で多くの戦いが半島の争奪から始まっている、というのが筆者の素朴な史観であるが、このインドシナ半島が争乱の要因であることは、後のベトナム戦争をみても了解出来ることと思う。
事の重大性に驚いた米国政府は抜き打ち的に七月二十五日在米日本資産凍結令を発令、二十六日には英国、二十七日にはオランダ(蘭印を含む)も日本資産を凍結した。二十八日蘭印は日蘭石油民間協定を停止し、八月一日に至ってアメリカは日本に対する発動機燃料、航空機用潤滑油の輸出を禁止した。これで対日石油は全面的に輸出停止となる。当時はまだアラブ系の石油は日本にとっては開発が遅れていたので、アメリカと蘭印が石油をとめれば、日本の軍艦も動かぬし、飛行機も飛ばなくなる。松岡が反対した南部仏印進駐は七月二十八日強行されたが、その結果は、戦争必至とみられる経済制裁としてはね返って来た。
では近衛が希望をつないだ日米了解案はどうなったか? 「ハル回想」によれば「日本の南部仏印侵略は、南西太平洋に全面的な攻撃を行う前の最後の布告だと思われる。日米交渉の最中にこういうことをしたのだから、交渉を継続する基礎はなくなったと思う。国務次官ウェルズは強い言葉で日本と米国の交渉はここに終りを告げたという私(ハル)の意志を野村大使に告げた」となっている。近衛が望みを託し、松岡がクビを賭《か》けて反対した「日米了解案」はここに南部仏印進駐によって簡単に流産してしまったのである。
さすがの岩畔大佐もここに於《おい》て謀略のふるいようがなくなり、井川と相談し、東条陸相に帰国を申請し、七月三十一日ワシントンを去って日本に向った。松岡を除けば「日米了解案」は成立し、自分も錦を飾れると彼は考えていたらしいが、その可能性は少なかった。ハルは日本に対する石油輸出禁止令の直後、その回想録にこう書いている。
「米国と日本との対話劇の第一幕は失敗に終ったのであるが、第二幕もいずれ失敗に終る運命にあった。しかしそれは我々に直面しなければならないものを示した。その時以後というものは、日本に関する米国側の主目的は、防衛準備のために少しでも時間を稼《かせ》ぐことであった」
松岡の言い方を借りれば、アングロサクソンは、いやが上にも冷静で功利的であり、それに対して、日本の岩畔らの代表団[#「代表団」に傍点]や近衛は他力本願のお人好しで、センチメンタルであったとも言えよう。
岩畔大佐は八月十五日日本に帰り、参謀本部等を歴訪し、日米交渉の必要を説いた。しかし、東条陸相は無反応であり、参謀本部ではある課長から「今や日米決戦は必至である。君も親米的なことを言って歩くと危いぞ」と注意される始末であった。岩畔はその後仏印駐在の近衛歩兵第五連隊長に任命され着任した。敗戦の年昭和二十年九月五日岩畔は内地に帰って東京の焼跡を目のあたりにし、おれの「日米了解案」さえパスしておれば、このようなことにはならなかったものを、と涙ぐんだ、という。岩畔は昭和四十五年十一月、井川はそのはるか前昭和二十二年二月世を去った。ドラウト神父は昭和十八年五月アメリカで死去、ウォルシュ神父は昭和三十三年中国でスパイ容疑で逮捕され、二十年の刑を宣告され、四十五年釈放されたという。ドラウトは最後まで「日米了解案」のため暗躍をあきらめず、岩畔の仏印転出を探り知って、東京の井川あてに「ロック(岩)サイド(畔)の仏印行を阻止されたし」という電報を打った。しかし、近衛が努力しても岩畔の転勤人事は阻止出来なかったというから、海の向うの一|僧侶《そうりよ》の暗号電報が効を奏する余地を、帝国陸軍省は保有しなかったのであろう。
話は仏印進駐直後に戻るが、米国の石油禁輸等の強硬措置を聞いて、近衛総理はあわてた。南部仏印に進駐するとアメリカと戦争になると警告していた松岡の言葉が、彼の脳裡に甦《よみがえ》った。ある時期、松岡はドイツが英本土上陸をして英国の属領を全部支配すると、シンガポールもドイツ領となる恐れがあるから、その前にシンガポールを撃つべきだ、と主張したことがあるが、独ソ戦が始まってからはもっぱら北進論であった。もはやドイツにイギリスを征服する余力はない、と松岡はみてとったのである。その松岡の意図を無視して軍部の意向に押されて南進を強行したところが、強烈なしっぺ返しを喰った。
あわてふためいた近衛は直接ルーズベルトに会って、仏印以外の所には進出しないから天然資源(石油)を回して欲しいと懇願することにし、ホノルルにおける日米首脳会談を企図し、陛下の裁可を仰いだ。八月七日、近衛は野村を通じてハルに日米首脳会談の実現を申し入れたが、ハルは大統領に取り次ぐことは困難だ、と言った。実はこのとき、ルーズベルトはアメリカ東岸のニューファンドランド島沖で英首相チャーチルと会い、大西洋憲章の起案中であった。首脳会談においては英米側に一歩を先んじられたのである。「日米了解案」に煩わされる前に、モスクワから帰った松岡が、その勢いを駆って、四国協商の構想を背景にしてルーズベルトと会談したならば、結果は面白いものになっていたかも知れぬ。加瀬俊一氏|曰《いわ》く、松岡外交は松岡洋右のみに可能であるところに特色あり、と。
大西洋憲章は八月十四日英米共同宣言として発表された。その主旨は、枢軸諸国の侵略行為を強く非難し、世界の人類の思想の自由と平和な生活を主張し、現在の戦争がファシズムに対する民主主義防衛の戦争であることを明らかにしたものである。
日本の石油のストックは二年分しかない。九月六日の御前会議において、ついに政府は「帝国国策要領」によって対米戦を決意した。「十月下旬を目途として戦争準備を完整し」「外交交渉により十月上旬頃に至るも尚《なお》我要求を貫徹し得る目途なきときは、直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す」というものである。
この御前会議のとき、陛下が次の明治天皇の御製を朗読され、平和愛好の意思を表明されたのは有名な話である。
よもの海みなはらからと思ふ世になど波風の立ち騒ぐらん
しかし陸海軍は、直ちに対米作戦準備にかかった。するとそれを察したかのように十月二日、アメリカ政府は先のハル・四原則の確認、中国及び仏印からの全面撤兵を要求する覚書をハルから野村大使に手交した。
この十・二案に対し、日本政府は、交渉継続か、決裂――開戦かでもめた。陸軍は中国からの撤兵は絶対に出来ないとして開戦を主張した。
十月十二日は近衛文麿の五十歳の誕生日であった。近衛は対米回答を練るため荻外荘に東条、及川、豊田の陸、海、外相及び鈴木企画院総裁を呼び、最終的会談を行った。交渉継続を主張する近衛と開戦を主張する東条陸相の間に激論が戦わされ、結局、十月十六日、近衛は内閣を投げ出した。第二次近衛内閣が総辞職してから丁度三カ月目であった。
後継内閣首班に東条は東久邇宮を仰ぎたいと希望したが、結局木戸内府の推薦で東条がこの重大時機に総理となることに決した。木戸は開戦論の東条に責任を持たせて陸軍の強硬派を抑えるつもりであった、といい、天皇も「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」とぎりぎり追いつめられた発言をされたが、木戸の見通しは甘かったようである。
十月十八日、東条は陸相内相を兼ねて組閣した。何も知らぬ国民は、この丸い眼鏡で、チョビ髭を生やし、左腕を後ろに回して甲高い声を出す軍人総理に何事かを期待した。外相は元ソ連大使の東郷茂徳、海相は嶋田繁太郎である。
東条内閣の仕事は開戦の準備であるが、その一方で戦争阻止の努力も続けられた。十一月二十日、野村大使は新しく補佐官として渡米した来栖三郎と共にハルを訪れ、日本の最終提案を手交した。その内容は日本が仏印以外の東南アジアにこれ以上武力進出を行わぬことを条件に、アメリカが資金凍結以前の状態に通商関係を戻し、蒋政権の援助をやめる等の項目であった。
これに対し、十一月二十六日、アメリカから最終回答として手交されたのが、有名な「ハル・ノート」である。その主な内容は次の通りである。
一、ハル・四原則の無条件承認
二、南京国民政府の否認、重慶政府以外は一切認めず
三、中国大陸からの全面的撤兵
四、満州国の否認
五、日本の三国同盟からの離脱要求
一読してわかるようにこの内容は、けんかの果し状である。昭和初年以来の日本の大陸政策を知る外交官ならば、このような破壊的な提案は出来ないはずである。
太平洋戦争は、真珠湾攻撃のスネーク・アタック(だまし討ち)によって始まったというのが長い間語られて来た神話≠ナあり、筆者もアメリカにおける捕虜収容所生活において、リメンバー・パールハーバー≠フ合い言葉をよく見聞した。討論のやかましいデモクラシーの国アメリカの世論を戦意高揚にひきずってゆくため、ルーズベルトはこのキャッチフレーズをうまく利用した。先述の岩畔大佐も「ルーズベルトはじめ政界の首脳者たちは早くから対日戦争突入の決意を固めていたように見うけられたが、一般の民衆にはまだ戦争気分が見うけられなかった。(中略)デモクラシー下における国論の統一は困難であるが、ルーズベルトはよくこの困難を排して、おもむろに戦争に対する国論統一の難業を進めつつあった。そしてその手腕は天才的でさえあった」と述べている。
ハル・ノートの意図は何であったか。加瀬俊一『日米交渉』には、十一月二十七日朝、ホワイトハウスにおいてスチムソン陸軍長官が、「日本との交渉はどうなったか」という意味の質問をしたのに対し、ハルが、「私はもう交渉から手をひいたから、問題は君とノックス(海軍長官)の手に移った」と答えた、となっている(「スチムソン日記」)。ハルがルーズベルトの意図を体して、日本に第一弾を発射させるように仕向けたことは明らかである。丁度この日、南雲忠一中将のひきいる機動部隊は、千島列島エトロフ島の単冠《ひとかつぷ》湾を出撃して、真珠湾に向っていた。
十二月一日最後の御前会議において「帝国は米英蘭に対し開戦す」と決定したシーンは映画などにも紹介されて有名である。
「日本に第一弾を発射させよ」というルーズベルトのセオリーは、戦後の真珠湾査問委員会報告等によって、今では太平洋戦史の常識となっているが、これについて、加瀬氏の『日米交渉』によってエピソード的に補足しておこう。
十一月二十五日、ルーズベルトはホワイトハウスにハル、スチムソン、ノックス、マーシャル(参謀総長)、スターク(軍令部長)を集め、「次の月曜日(十二月一日)あたりが最も危険だと思うが、日本は奇襲を得意とするから、遅滞なく対策を講ずる必要がある」と言って一同の意見を求めた(以下「スチムソン日記」による)。スチムソンは、「大統領が大西洋会談の直後に、日本に最終的警告を与えているのだから、日本がタイに侵入すればこの警告を無視したことになると声明すれば十分だ」と述べ、ハルがこの趣旨で検討することになった。この会議において一同は「アメリカに過大の危険を招かぬよう配慮しつつ、日本がまず攻撃せざるを得ぬよう仕向ける」ことに合意した。戦争の常道は先制攻撃にあるが、いまアメリカがそれをやると、反対党の抵抗もあって世論は分裂し、戦争遂行に必要な挙国体制が望めぬから、この際は不利を承知で日本に「第一弾を発射させる」よう術策を用いようという意味であった。
十二月七日(日本では八日)朝、ホワイトハウスにいたスチムソンは、日本の輸送船団がフィリピン方面に南下中であるという潜水艦からの電報を受けとった。スチムソンは日本軍攻撃開始の危険を感じ、直ちにルーズベルトにこれを報告し、フィリピンのマッカーサーにこれを転電することを主張した。またスターク軍令部長も真珠湾の危機を感じ、ハワイ基地司令官のキンメル提督に通報することを主張したが、ルーズベルトはいずれに対してもその必要はない、と言い、マーシャル参謀総長を探せ、と言った。マーシャルは朝から馬術の遠乗りに出て不在であった。
午前十時、ルーズベルトは、日本政府からアメリカの野村大使あてに打電された第十四番目の電報(暗号解読ずみ)を入手し、日本の開戦意図を完全に察知した。この電報は、東郷外相が六日から野村大使に打たせた覚書の最後の部分で、事実上の宣戦布告文書であった。日本側は長文を一度に送ると、攻撃の企図を察知される恐れありとして、全文を十四部に分けて送信したのであるが、アメリカ側のマジックは、刻々にその内容を解読、ルーズベルトが受けとった最終の第十四部には、この覚書は七日(ワシントン時間)午後一時に手交せよと付記してあった。いよいよ来るな、とルーズベルトはハルと顔を見合せて微笑した。何も知らぬ日本軍が、こちらの注文通り第一撃を加えにやって来るのである。
十二月八日(日本時間)未明、赤城ほか六隻の空母から飛び立った日本の爆撃隊は午前三時二十五分、オアフ島のフォード島飛行場に爆撃を加え、同二十七分、村田重治少佐らのひきいる攻撃機隊は米戦艦群に雷撃を加えた。第一弾投下の三時二十五分は、ワシントンでは午後一時二十五分である。真珠湾奇襲の第一報がホワイトハウスに入ったのは午後一時五十分である。日本からの通告はまだなかった。
ノックス海軍長官が電話でパールハーバーの奇襲を知らせたとき、ルーズベルトはホワイトハウスの一室で自慢の切手アルバムを側近に見せていた。大統領はOh No! と叫びしばらく沈黙していた。覚悟はしていたが、海軍次官を勤めた彼としては、戦艦部隊を日本軍の爆撃にさらすことが、身を切られるように痛かったのであろう。しかし、この後、大統領は落ち着きを取戻し、さっぱりした表情になった。エリノア夫人は、大統領はこの日、湖の表面のように静かな表情を保っていた、と日記に書き、スチムソンも、「これで救われた、と感じた」と書いている。何が救われたというのであろうか。
野村と来栖がハルの控え室に入ったのは二時五分すぎであった。ハルが両人を引見し、覚書を受けとったのは二時二十分で、真珠湾奇襲後一時間近くたっていた。ハルは、両大使を前に覚書を読むふりをした。マジックで内容を知っていたから読む必要はなかったのである。彼は全身をわななかせて、「五十年の公的な生涯を通じてこのような虚偽に満ちた文書は見たことがない」と叫んだというから、彼も相当な役者である。日本大使館の暗号解読と浄書が遅れたため、宣戦布告が攻撃より遅れた結果となったが、ルーズベルトやハルは、覚書の来る前から内容を知っていたのであるから、そのように驚いたり怒ったりする必要はなかったのである。
アメリカの歴史家ビアード教授は、ルーズベルトはイギリス救援のためヨーロッパにおける参戦を急いだがヒトラーが自重して手を出さなかったため、日本を挑発して第一弾を発射させ、やむを得ず受けて立つ態勢を作ったというポーズを示した、と説明している。このあたりが、真珠湾奇襲後三十数年後の歴史家の常識の線らしい。地下の山本五十六や南雲忠一が聞いたら、どのように感ずるであろうか。
松岡は夏から秋にかけて、軽井沢の山荘で結核の療養にあたっていたが、開戦当日は、千駄ヶ谷の私邸にいた。松岡は井上泰代医師の手当のもとに二階で病を養っていたので、家の者はお二階さん≠ニ呼んでいた。開戦のニュースをもたらしたのは青山二丁目の伊勢屋の小僧だった。家の者たちはこの大異変をお二階さんに伝えてよいものか迷っていた。松岡の病は重く安静が必要であった。そこへ元秘書官の長谷川進一が来て松岡に開戦を知らせた。この日松岡は容体がよく、階下に降りてラジオの前に腰を据えた。間もなく元秘書官で今は外務省アメリカ局長の加瀬俊一が来て、日米開戦を告げた。「戦争にだけはしたくなかった」と松岡は加瀬に語った。元外務省顧問の斎藤良衛もこの日松岡を見舞った。斎藤の回想によると松岡が開戦にショックを受けて、「三国同盟締結は小生一生の不覚、事ことごとく志と違い、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと死んでも死に切れない」と慟哭《どうこく》したことは、前にも触れた。松岡の四国協商によりアメリカを圧し、その斡旋《あつせん》により対重慶和平にもってゆくという構想は、セオリーとして一応見るべきものがあったはずであるが、独ソ戦が始まるにおいて、胸算用は大きく狂い、今度は日米が開戦してしまったのである。松岡はヒトラーにだまされていたのか、そして、近衛や東条はハルやルーズベルトにだまされていたのではなかったか。
十二月十二日、いくらか気分の落ちついた松岡は頭山満にナショナリストらしい一書を送っている。その要点は次の通りである。
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一、これでどうやら日本も神国らしい姿を顕わして来ました。本当に天賦の大使命の遂行に堪ゆる更生の途に登るのです。
二、しかし、対英米戦に先立つ日米交渉では醜状をさらしました。
三、ともかく向う半年は外交も何も不要、唯戦うのです。そして来年六月頃から外交の大手腕を施すのです。
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『人と生涯』は、この外交の大手腕というのは、終戦工作である、としている。松岡もアメリカに最後まで勝てるとは思っていなかったのであろう。一方、独ソ戦線では、ドイツがスターリングラードで、冬将軍をバックとしたソ連軍の執拗《しつよう》な抵抗に会い頓挫《とんざ》していた。松岡はまた、元満鉄社員の富永能雄にも「この勢いに乗じて一年間に勝てるだけ勝ち抜き、一年経ったところで終戦にもってゆかねばならぬ」と書き送っている。終戦の外交工作は自分でやるつもりでいたのであろうか。
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二十一章 敗戦と松岡の最期
昭和十八年二月のガダルカナル撤退以後、日本は守勢に立ち、十九年七月のサイパン失陥で東条内閣は退陣、敗色はようやく濃くなって来た。
九月十四日、元比島軍司令官本間雅晴中将が松岡を訪れた。問題は、松岡にソ連特使としてモスクワに赴き、スターリンに会って日米和平を斡旋してもらいたい、ということであった。本間はその頃、政界の裏で動く本間機関の長をしていた。健康状態は悪かったが、松岡は乗り気であった。彼は佐藤栄作に次のように語ったという。
「サイパンが陥ちた。これで戦争はおしまいだが、いま和平を言い出せばまあ、台湾位は残るかも知れぬ。しかし言い出した奴は命がないから、そんな勇気のある奴はいないだろう。ソ連への和平特使は、おれに白紙で全権を任せてくれればスターリンと会って話をまとめて来る。条件つきなら行かぬ」
彼はまだ自分の世界の指導者との親交度を頼りにしていた。英雄好きであると同時に根っからの外交好き、外交気違いと言うべきであろうか。しかし、この特使案は、結局モロトフの反対で流れてしまった。ソ連はすでに対独勝利に自信を持ち始めていた。そして、モロトフやスターリンが日本に対して何を考えていたか。それは敗戦の年、昭和二十年八月のソ連軍満州侵入で明らかとみてよいのではないか。
年が明けて昭和二十年になると、松岡新党結成の動きが活発になって来た。日米戦の勝敗の帰趨《きすう》はすでに明らかであった。松岡の長男謙一郎は海軍に、三男震三は陸軍で、それぞれ若い士官として軍務に服していた。
松岡新党結成の発起人は義理の甥《おい》にあたる岸信介で、藤山愛一郎、船田中、橋本欣五郎、笹川良一、赤城宗徳らが中心となり二月三日帝国ホテルで新党結成の準備会を開いた。しかし、先に政党解消運動を主宰した松岡は新党の総裁となることを承知せず、大日本政治会という新党の総裁は南次郎と野村吉三郎が最終候補に残り、結局、南次郎に落着いた。三月十日の大空襲で東京東半分が火の海と化した二十日ほど後のことである。この頃、松岡は伊豆長岡温泉のとなりの古奈温泉で療養していた。四月十二日ルーズベルトが死に、トルーマンが昇格して大統領となった。四月三十日、松岡の盟友[#「盟友」に傍点]であったヒトラーが、愛人エバ・ブラウンと共にベルリンで自殺した。いま一人の盟友ムッソリーニは十八年秋イタリア崩壊後、北イタリアへ逃げ、二十年四月二十八日ミラノで銃殺されていた。五月七日ドイツは降服した。松岡構想の完全な終焉である。
この頃、松岡がソ連へ特使にゆくという噂《うわさ》が流れ、松岡は暗殺されるというデマが飛んだ。一方、松岡は側近に日本の必勝を説いたり、日本が負けたら国体が絶滅するから、日本人はもう生きてゆく価値がなくなる、などと説いたりしていた。
五月、再び松岡のソ連特使案がもち上り、米内海相と軍務局長保科善四郎が乗り気になって、軍務局第二課長の末沢慶政が交渉に来たが、松岡は断った。自信が持てなかったのであろう。
五月二十五日の東京空襲で千駄ヶ谷の邸は土蔵一棟を残して全焼した。いくつかの歴史の跡を刻んだ茶室も灰と化した。
この頃、今度は陸軍参謀総長梅津美治郎の線から松岡にソ連特使を依頼する動きが再燃した。松岡は「日本はもう負けだよ。敗戦に外交なし」と言って使者の川越茂(外務省顧問)、永井八津次(松岡訪欧時の陸軍側随員)を追い返した。
七月になると、天皇は近衛文麿にソ連特使を下命された。しかし、ソ連政府はこの受け入れを拒絶した。
八月六日広島に原爆が投下され、九日ソ連軍は満州になだれこんだ。上層部ではポツダム宣言の受諾を決議した。阿南陸相は日本の降伏を憂えて、伊豆古奈にいる松岡に上京を要請した。松岡は病躯《びようく》に鞭打《むちう》って満員の列車に乗り十一日午後五時東京駅に着いた。満鉄以来の子分である小日山直登運輸相と内相の安倍源基が駅頭で松岡を出迎えた。松岡は千駄ヶ谷に焼け残った土蔵に入った。最近元毎日新聞記者の新名丈夫氏に会ったところ「土蔵のなかで松岡と会った。松岡は天皇陛下から特に御依頼(和平の特使について)があるかと思って出て来た、というので、頭がおかしくなっているのではないかと疑った」と新名氏は語っているが、阿南陸相の要請によって松岡は上京したものである。十一日夜、阿南から迎えの車が来て、松岡は三鷹町の阿南の私邸に運ばれた。阿南・松岡対談の内容は雄弁家の松岡も側近に洩らしていないのでわからない。その後の阿南の動きからして、ポツダム宣言受諾による終戦阻止のため、徹底抗戦、本土決戦内閣を作ることであったと思われる。
「日本の一番長い日」という映画で知られる戦争継続の抗命反乱グループの竹下、畑中、椎崎中佐ら参謀は、阿南内閣を樹立して抗戦を継続する計画をたてていたが、松岡は副総理兼外相位に擬せられていたのかも知れぬ。松岡は十日の御前会議でポツダム宣言受諾が決議されたことを知っていたので、陛下の御決断にそむくことは出来ぬ、と言って断ったものと見られる。松岡には思いつめた阿南の顔をみるのが辛かったのではないか。
十四日夜戦争継続に絶望を感じた阿南陸相は「一死|以《モツ》テ大罪ヲ謝シ奉ル。神州不滅ヲ確信シツツ」と書き残して自決した。
翌二十年八月十五日、日本は降伏した。阿南、松岡のコンビによる幻の決戦内閣≠ェ企図されたことを知る人も、今は残り少なくなった。
正午松岡は千駄ヶ谷の土蔵の二階に和服正装で端座し、玉音放送を聞いた。放送が終ると、彼は立ち上って土蔵の窓から近くの焼跡を感慨深げに眺め、「これで天皇さまともお目にかかることもあるまい」と呟《つぶや》いた。
終戦直後しばらく、松岡は信州の北|安曇《あずみ》郡池田町|花見《けみ》の知人の家に寄宿した。
米軍は進駐し、ポツダム宣言による戦犯裁判の準備をすすめた。
十一月十九日、松岡に逮捕令が出された。他に荒木貞夫、小磯国昭、南次郎、本庄繁、松井石根、久原房之助、真崎甚三郎らの名前があった。松岡は十一月二十二日、死を決して上京することにした。途中甲州の石和《いさわ》に住む元政党解消聯盟員関本伴良の家に一泊、
さみだれや針一本の命かな
という不息庵の句を書いて贈った。
松岡が千駄ヶ谷の土蔵に入ると外相吉田茂の秘書官が牛乳その他の貴重物資を差入れてくれた。吉田は戦争中東条とけんかをして入獄したことがメリットとなって、今や新政府の代表としてアメリカとの交渉に当り、日の出の勢いにあった。
元外務次官大橋忠一が訪ねて来ると、松岡は、「今の心境だよ」と言って、次の句を示した。
悔もなく怨《うらみ》もなくて行く黄泉《よみじ》 不息
ベッドに横たわった血の気のないかつての松岡全権の顔を眺めながら、松岡が死を決意していることを大橋は悟った。
十二月六日、近衛ほか九名に十六日までに大森収容所に入るよう米軍の指令が出た。入所の前日、近衛は荻外荘で服毒自殺を遂げた。松岡はこの報を聞いて斎藤良衛に次のように語った。
「私は自殺はしない。それは卑怯《ひきよう》だ。日本に関する限り三国同盟が決して侵略の目的で締結されたものでないことを、連合軍の納得するまで説明する。これが陛下に対する臣節であり、祖国に対する義務である」
長男謙一郎は、病身の父が米軍に捕われ、処刑されるのを見るにしのびず、ひそかに青酸加里を手渡したが、松岡は返してよこした。
いわゆる「近衛手記」が朝日新聞紙上に連載されたのは、暮れも押しつまった十二月二十日から三十日までである。つい最近自決した近衛公に対して国民は同情的であった。天皇はこの手記を見て「近衛は自分にだけ都合のよいことを言っているね」(「木戸日記」)と洩らされたそうであるが、松岡にとっては重大な記述がこの手記のなかにあった。それは、好条件の「日米了解案」が米側から提案されたのに好戦的な松岡外相が三国同盟をタテにとって反対してつぶしてしまったので、戦争になってしまった、というのである。ここにおいて侵略主義者、軍国主義者、松岡洋右の名前は決定的になった。松岡は口述筆記「近衛手記に対する説明」のなかで、「この手記は不正確で一貫性を欠く。これが全部近衛公の手記であるかどうか、私は疑う。手記の調子が低い。ある部分はかけ出し記者の如く、公を弁護するに急で他を非難している。特に余に関する部分は公に適するように、終戦後に書かれている。これは良心を欠き、事実に対する真実性を失っている」と述べている。
近衛内閣の書記官長を勤めた富田健治の『敗戦日本の内側』には、「昭和二十年十一月二十六日軽井沢で朝日の記者小坂徳三郎にそれまでの部分的な記録をもとにして口授したもの」となっている。
この「近衛手記」が戦犯裁判の有力な資料になることは明らかなので、病床の松岡は、長男の謙一郎を呼び、「近衛手記に対する説明」を英語で口授した。これが終ったのは二十一年一月二十一日のことである。この日の午後、米軍の軍医が千駄ヶ谷の土蔵を訪れ、「ここでは病気に悪いから米軍の病院に入れてやろう」と言った。翌日車が来て松岡は収容された。連れてゆかれたところは巣鴨の拘置所であった。松岡は米軍にだまされたのである。米軍は近衛に次ぐ大物松岡の自殺を恐れて収容したものである。三国同盟の立役者であり、連合軍の仇敵《きゆうてき》ヒトラーと握手をしたマツオカには、よくよく思い知らせてから死んでもらわねばならぬ。簡単に自決などされて、英雄視されることを連合軍は避けたのであろう。
松岡が入った巣鴨における状況については、ロッキード事件で話題をまいた児玉誉士夫の手記がくわしい。松岡はA級として二階に収容され、この階には他に木戸幸一、賀屋興宣、正力松太郎、永野修身、板垣征四郎、東郷茂徳ら十数名がいた。松岡は荒木貞夫と一緒になったとき「日本のやり方を十分に説明するために来たんだ」と言い、いつも痰壺《たんつぼ》をさげて歩いていたという。「児玉日記」一月二十七日の項には「朝食のとき東条内閣の岸信介氏と海軍大将の高橋三吉氏が配食の行列に並んでいた。岸信介氏が粋な丹前を着て煙草をくわえながら食器を洗っていたが、となりに松岡洋右氏の何となく老けた姿が痛々しく見られた。しかし、眼だけはさすがに人を人とも思わぬ負けん気の光をたたえていた」と出ている。
四月、獄中における松岡の取調べが始まった。担当官はシェイ中佐である。質問の要点は、一、大東亜戦争をずっと以前から準備していただろう、二、日ソ中立条約は西南太平洋に進出するための準備ではないか、三、満鉄は侵略戦争のために援助していたのではないか、等であったが、松岡は一つ一つこれを否定した。
この頃、松岡の隣室にいた有馬|頼寧《よりやす》は、「松岡君は大分病状が悪化しているが、相変らず談論風発で、ヒトラー、スターリンらと会談した頃の意気を失っていないように見えた。松岡君は日当りのよい三階にいたが、どういうわけか、一階の北側の悪い部屋に移された。このような人情味のない処置が、裁判途中でなくなる原因になったもとだと思う」と手記のなかに書いている。
なぜ、松岡の待遇が悪化したのか? 岸信介の回想によると、松岡はキーナン検察官にたんか[#「たんか」に傍点]を切ったということになっている。キーナンが「何か言い残しておくことはないか」と言ったのに対し、松岡は「アングロサクソンほどの大ウソつきはいない。外交官としてたった一度でよいからアングロサクソンのような大ウソをついてから死にたい」と言ったので、キーナンは苦い顔をしたという。これはキーナンへの遺言であるが、このために待遇が悪化したものと考えてよかろう。
二十一年五月三日松岡は極東軍事裁判法廷に最初の出廷を行った。
朝八時、巣鴨の被告たちは、目かくしバスで市ヶ谷の法廷(元陸軍士官学校)に向った。松岡は国民服を着て竹の杖《つえ》をつき痰壺をさげていた。控室で南次郎と顔を合わせた松岡は喜んで旧事を語り合った。四十年来の呑み仲間であった。南はまだ元気であったが、松岡はもう酒を呑む体力もなかった。
この日松岡は後列の中央B席に着席した。左から大川、平沼、東郷、松岡、重光の順に着席した。大川が前の列にいた東条の頭を叩き、精神異常の徴候をみせたのはこのときである。木製の椅子は堅く、疲れた松岡は時々となりの重光の方に体をもたせかけた。
五月六日、A級被告たちの罪状認否が行われた。形式的ではあるが、検事の述べた罪状に対し、無罪を主張するのである。松岡は英語で、
「Not guilty !」
と力強い声で言った。やせ衰えた体からは想像出来ぬ声で、これが公人としての松岡の最後の発言となった。
十日、松岡は病状悪化のため米軍の病院に入院した。レントゲンを撮ると、新しい病巣が進んでいた。病室は狭かったが、米軍のナースがいて痰や汚物の始末もしてくれるので、巣鴨よりははるかに待遇はよかった。松岡は得意の英語でナースやMPと冗談を言い合った。
六月十五日、松岡は東大病院に移された。
この頃、松岡はやせ衰えて骨と皮ばかりになってしまっていた。東大病院に移された九日後の六月二十四日、佐藤栄作と夫人寛子が最後のお見舞いに行った。松岡はもうほとんど口がきけず、「日本は、どうなるのだろうか」とだけ語ったという。
昏睡《こんすい》から醒《さ》めた松岡が唇を動かした。
傍らにいた長谷川進一が耳を澄ました。
「虹《にじ》が……」
というように聞きとれた。
室積から西の下松《くだまつ》へ向う途中、虹ヶ浜と呼ばれる海水浴場がある。幼い頃、松岡は借金の使いでよく下松の親戚《しんせき》へ行かされたが、帰りには虹ヶ浜の松林で休息したという。その虹が死をひかえた松岡の瞼《まぶた》の裏に現われたのであろうか。
長谷川にはそれが、日本の明るい将来を描く松岡の夢の上にかかった虹のように思えた。松岡は、日米が手を結ぶ東洋の和平という大きな虹をのぞみ、そうして虹は半ばにして砕けたのであった。
六月二十六日午後、松岡は危篤状態に陥った。最後に口にしたのは、少量の寿司と果物、ジュースであった。
女医井上泰代は危篤の知らせに東大病院に駆けつけた。死の直前にはカトリックによって洗礼をうけることについて、二人の間には暗黙の了解が出来ていた。松岡は少年時代在米中、ポートランドの美似花《メイフラワー》教会で中村・河辺両牧師から信仰について教えられていたが、ローマでピオ十二世に会って以来、とくにカトリックについて関心を深めていた。カトリック信者の井上医師は松岡の額に聖水をたらし、「父と子と聖霊の名により、汝《なんじ》に洗礼を授ける」と宣した。洗礼名はヨゼフである。
半ば昏睡状態で洗礼を終った松岡は、夜半ふと眼を開くと、
「はなび[#「はなび」に傍点]だ!」
と言った。
松岡の唇に耳をよせた長谷川には、それが「花火だ」と言ったように聞きとれた。
松岡の祖先である今五は、全盛時には御手洗《みたらい》湾と呼ばれた室積浦に船を浮べて、花火を揚げては酒宴を張ったと伝えられる。
臨終を迎えた松岡の脳裡《のうり》にその花火が甦ったのであろうか。しかし、そうではあるまいと長谷川は考えた。花火……すなわち戦争ではないのか。平和という虹が破れて、砲火の乱れ飛ぶ戦争になってしまった。松岡は死の床にあってやはりその責任というものを考えていたのであろう、と長谷川は考えていた。
六月二十七日午前二時四十分、松岡は東大病院のベッドで息をひきとった。享年六十六歳。入院に際して、ワーレン弁護人から、松岡の名前を戦犯起訴状から削除し、審理を延期することが申し立てられたが、ウエッブ裁判長はこれを却下した。従って、松岡は戦争犯罪人として、審議未了のうちに死亡したことになる。
ある日本人たちは、松岡が日本の国策について法廷で大いに雄弁をふるってくれることを期待していた。しかし、松岡はほとんど自己弁護を行わなかった。体力がなかったからでもあるが、それだけではない。児玉誉士夫がある人に語ったところによると、戦争責任が天皇に及ばないようにするため、すべての責任は東条と松岡に負わせることにしたのだそうである。その秘図を本人に伝達したのがほかならぬ児玉自身であったという。あり得る話であるが、事実であるかどうか児玉に訊《き》いても今は失見当識であるからわかるまい。
松岡の死因は肺結核兼慢性|腎臓《じんぞう》炎であった。
遺体は二十七日午前中に千駄ヶ谷の自宅に移され、二十九日|荼毘《だび》に付された。東条らの七戦犯が処刑後どこかで焼かれて、横浜の共同墓地に棄てられ、誰の骨がどれかわからなくなったのにくらべると、幸せな最期であったといえようか。
しかし、審議中に死んだことには不幸もつきまとう。残ったある被告や弁護人たちは、何でもよいから松岡に罪を着せようと計画した。これは米軍の裁判速記録にも出ている。松岡が侵略と開戦の極重悪人であるという印象を日本のみならず、世界中に与えてしまったのは、この早すぎた死によるものである、とも言える。彼が健康で腰を据え、日米了解案等に関する事実をあらいざらいぶちまけたならば、被害者も出たであろうが、松岡の印象が今日伝えられるほど悪質なものとはなっていなかったであろう。
松岡の葬儀は七月一日、神田三崎町に焼け残ったカトリック教会で行われた。この日は雨で、松岡を悼むにはふさわしい日和であった。祭壇には、今は首相となった吉田茂や、かつての好敵手|幣原《しではら》喜重郎(国務相)の花輪が飾られていた。天皇からの祭粢《さいし》料も霊前に供えられた。
祭壇は季節の花で飾られたが、会葬者の数は少なかった。
老いたフランス人神父フロジャックが聖書を読み、聖歌隊が讃美歌《さんびか》をうたった。オルガンの音が堂内をしめやかに流れた。そのメロディを破って号泣の声が聞えた。かつての秘書官長谷川進一(現東海大学教授)の慟哭であった。ベルリンやモスクワに供して、四国協商の松岡の大構想を知る彼は、日米了解案のためにそれが中断され、ついに望まざる日米開戦の責任者として囹圄《れいご》の人となり、中道に倒れた松岡外交の挫折と、大外交官[#「大外交官」に傍点]松岡洋右の無念さを偲《しの》んで、松岡のかわりに慟哭し、天に訴えたのであった。
堂内での慟哭をよそに外では、夏の雨が静かに樹々の青葉を濡らしていた。
松岡はカトリックによって葬儀を執行されたが、後に光市の菩提寺《ぼだいじ》光立寺から彰徳院釈卓誠洋右居士の戒名をうけている。墓は東京の青山墓地と郷里の光市光立寺の両方にある。
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あとがき
[#1段階大きい文字] 松岡との出会い
松岡洋右との出会いは、本文にも書いたとおり、小学生の頃父が語った「松岡という男は切れ者だ」という話による。
明治の男らしく父も英雄好きのところがあった。岐阜の船大工の息子に生れ、五人兄弟の末っ子であった為《ため》、養子にゆくか大阪へ奉公に行くかというところであったのを、それを嫌って出来たばかりの満鉄職員養成所に入ったのであるから、彼なりに海外雄飛≠フ志はあったのであろう。
当時小学生であった私は知らなかったが、松岡が、少年時代アメリカで苦学した後アメリカの大学を出て外交官になったという経歴を父は知っていたのであろう。
松岡は私が生れた翌年大正十年満鉄理事となり、十五年までこれを勤め、昭和二年七月から四年八月まで副総裁を勤めている。
私は昭和二年に小学校二年生であるから、私が奉天の北百キロの鉄嶺《てつれい》の小学校に通い、『敵中横断三百里』などの日露戦争の小説を愛読する少し前、松岡は満鉄の経営に腐心していたわけである。
私は満鉄の記念写真集で松岡の髭《ひげ》を生やした写真を見ただけであるが、満鉄の理事というものには時々出会ったことがある。
私の父は鉄嶺駅の助役を二年ほど勤めた後、すぐ北の平頂堡《へいちようほ》という小駅の駅長になった。満鉄の職員十数名の社宅と、少しはなれて中国人の小さな村落があるだけの淋しい村である。
満鉄は、年に数回、このような小駅の従業員慰労の為に慰安車というものを回送していた。特別製の客車二|輛《りよう》が引込線に入ると大人も子供も大騒ぎである。前の一輛は畳敷きで碁、将棋、麻雀《マージヤン》、トランプ、コリントゲームなどの遊戯が出来るようになっている。夜は映画の会がある。二輛目は売店で日用品から衣類、食料品が格安に買える。主婦はここに殺到し、子供もすかさずチョコレート、ロシアケーキ、あるいは珍品であるバナナなどを買ってもらうことを忘れなかった。
慰安車が到着した夜は、非番駅員と家族全員が一輛目に集まり、満鉄本社から来た理事の挨拶がある。他の職員がぺこぺこするので、理事というものは駅長よりはるかに偉いものだと考えていた。
理事が僻地《へきち》の従業員と家族の努力をねぎらい、あとは折詰で宴会になったように思う。
松岡も理事時代にはこうして慰安車に乗って僻地を回ったのであろうか。
慰安車は二泊位で次の小駅に行ってしまうが、子供たちはこれをやんしゃ≠ニ呼び、やんしゃの来る前の晩はなかなか眠れなかったのを覚えている。
満州時代についで松岡との出会いは、国際|聯盟《れんめい》脱退時よりもむしろ昭和十五年九月の三国同盟締結時のニュースによってであると思う。
当時私たちは海軍兵学校を卒業してGF(連合艦隊)に乗り組む直前であった。GF長官は前年三国同盟をめぐって板垣陸相と激しく対立した山本五十六である。GFのなかには松岡が締結した三国同盟を危ぶむ声と、いよいよアメリカとの戦争が近いから褌《ふんどし》をしめ直さねばならぬという暗黙の覚悟みたいなものが感じられた。
そして戦争が始まった。
その次のそして最後の出会いは戦争が終った翌年、昭和二十一年春のことである。
私はアメリカの捕虜収容所から荒廃した祖国に帰って来た。東京から岐阜県の郷里まで目ぼしい都市はみな焼けていた。
なぜこんなひどい目にあう戦争をやらなければならなかったのか。そして、一体誰がこの戦争の引金を引いたのか。
私の胸の中には東条英機と松岡洋右の二つの顔があった。戦争直後の出版物を読むと、戦争を始めたのは東条であるが、その大きな原因は三国同盟である、となっている。私はこの男が国を滅ぼす戦争を始めた張本人かと太い髭を生やした松岡の写真をみつめたことがある。
その松岡とニュース映画で対面した。
二十一年五月三日、松岡が東条らと共に極東軍事裁判に出廷し、そして最後の顔を見せたときの光景である。A級戦犯容疑者は次々に訴因に対して「無罪」を申し立て、松岡は英語で「Not guilty」と思ったより力強く叫んだ。
私は驚いた。日本を焼野原にするような戦争に引きずりこんでおきながら、「無罪」とは何事か。外交官なら少しは責任をとるという気持はないのか。新聞記者一年生であった私はそのように憤慨した。
この二カ月近く後松岡は病死したが、私の松岡に対する怪《け》しからん≠ニいう気持は長く消えなかった。世間の感情も同様であったと思う。
[#1段階大きい文字] 松岡の実像
私は作家を志し、戦記を書き始めた。そして戦場の惨状を調べれば調べるほど、なぜこんなに負けると決まっている戦争を始めたのか、その原因に疑問を抱いた。と同時に、アメリカが必ずしも正義の国ではなく、日本の真珠湾攻撃はルーズベルトやハルに誘発されたのではないかという疑いも深まって行った。ベトナム戦の進行と共にその気持は強まった。
私は戦争開始の真因を知りたいと考え、その重要な鍵《かぎ》を握っている人物、松岡洋右の足跡を追究してみることにした。
その結果、多くのことがわかった。松岡が少年時代アメリカで苦学したことは後に少年雑誌で知っていたが、国際聯盟脱退の真相、三国同盟締結に追いこまれるまでの支那《シナ》事変(日中戦争)の泥沼のあがき……。
取材の途中で私は何度も考えた。いやしくも愛国者を自任し一国の外交を預る外務大臣が、自分の国を滅ぼそうと考えて外交をやるはずはない。またアメリカをよく知っているはずの松岡がヒトラーと手を組んでアメリカに戦争をふっかけるようなことはしないであろう、と。
取材の途中で私は世間の俗説、通説がいかに当てにならぬものであるかを知った。
松岡はジュネーブの国際聯盟で、自ら脱退を主張し、最後にサヨナラ≠ニ日本語で大見得を切り、日本孤立化の第一歩を踏み出させて……と世人は信じている。しかし、いかに当事者の証言を聞き、文献を漁《あさ》っても、松岡がジュネーブで「サヨナラ」と言った痕跡《こんせき》はない。これは松岡を舞台の名優とすべく当時のジャーナリズムが仕掛けたトリックとしか思えない。サンフランシスコを発《た》つとき、在留邦人にサヨナラと言ったのをすり替えたのである。
また、松岡が脱退を希望していなかったことは多くの文献で明らかである。予期せざる脱退という結果の為、悄然《しようぜん》として横浜に帰って来たのが、国民の大歓迎で自らも英雄のように酔ってゆく過程は本編に書いた通りである。英雄にもち上げられると抵抗出来ないという点が、松岡のアキレス腱《けん》であろう。
三国同盟と日米交渉についても、誤れる俗説が根強く残っているので、筆者の調べたところをよく玩味《がんみ》していただきたいと思う。松岡はアメリカと戦う為にヒトラーと手を結んだのではない。対米戦を避けて支那事変を解決する為、三国同盟を結び、これをソ連をまじえた四国協商に拡大し、その上でルーズベルトの斡旋《あつせん》を得て、蒋介石《しようかいせき》と支那事変解決について直談判しようとした彼のビジョンは本編に詳説した通りである。
しかし、この松岡のあまりにも壮大な計画は壮大なるが故に、近衛の日米交渉推進によって蹉跌《さてつ》を来たし、独ソ開戦で四国協商も画餅《がべい》に帰する。日米交渉は秘密交渉であった為、未《いま》だに真相を知らぬ人が多い。最近出たある本にも、「近衛総理が日米交渉で平和に持ちこもうとしていたのを、ソ連から帰って来た松岡が嫉妬《しつと》からぶち壊したので戦争になった」ともっともらしく書いてあるのを見て、松岡に対する誤解はまだまだ解けていないなと感じた。
私が松岡の足跡を追究したのは、全く太平洋戦争の遠因と近因を確める為であって、松岡個人には何の恩怨《おんえん》もない。私も英雄に関心はもつが、「英雄のあるところ殺戮《さつりく》あり、庶民の犠牲の上にしか英雄は成り立たない」というのが私のセオリーの一つなので、松岡のような英雄マニアには、興味はもつが同調は出来ない。一つには私が至って口下手で、松岡のような弁舌の雄に、とてもついてゆけないものを感じているからであろう。
[#1段階大きい文字] 三部作完結について
先にも述べたが、私は太平洋戦争の実態を書き残すことの外にその原因を追究することを自分に課し、三つの本を書いた。
まず、真珠湾攻撃直前の列強の動きと、ホノルルに潜入した日本のスパイ、そしてルーズベルト、ハルらがマジックという暗号解読によって真珠湾攻撃以前に日本の最後通告全文を知っていたということなどを「燃える怒濤《どとう》」(三笠書房)に書き下ろした。その結果、日本が戦争を仕掛けたについては、かなりのアメリカの挑発があったことがわかった。
次に支那事変と三国同盟の真相を知る為『激流の孤舟――提督米内光政の生涯』(講談社)一千枚を書き下ろした。この勉強によって、いかに中国侵略が日本を危地に陥れ、その結果三国同盟締結が叫ばれ、陸海軍の抗争も激化したかがよくわかった。
三作目がこの二千枚の長編『松岡洋右』である。この作品は初め「週刊時事」に二年間連載し、さらに五百枚近く新稿を書き足したものである。
この構想は十年近く前からあり、あるとき杉森久英氏に「戦争の真因を探る為松岡洋右を調べてみたい」と洩らしたところ、「ぼくもちょっと調べたものがあるから、これを譲りましょう」と伝記等の資料と関係者の録音テープを快く譲っていただいた。あらためて感謝致す次第である。
また、松岡洋右の長男謙一郎氏から貴重な資料の提供を受けたほか、加瀬俊一、長谷川進一氏らかつての秘書官、ドイツに同行した岡村二一氏からも極めて有益な証言を頂いた。この人々の松岡洋右観は、従来の俗説をひっくり返すに十分なものがあった。
そして、文献的に松岡個人に関して最もお世話になったのは、松岡研究家、荻原極氏の『松岡洋右――その人と生涯』である。十二年にわたるこの労作の引用を快諾された荻原氏に深甚の謝意を表したい。
最後になったが、「週刊時事」連載中に取材に協力して下さった時事通信社の豊田幸雄、木村弘子の二氏に紙上を借りて厚く感謝の意を表する次第である。
昭和五十四年三月九日
横浜市戸塚区本郷台の寓居《ぐうきよ》にて
[#地付き]豊 田 穣
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[#1段階大きい文字] 参考文献・1[#「参考文献・1」はゴシック体]
▼松岡洋右の著書
「満鉄の真使命」(演説速記) 大14・6 北京週報
「動く満蒙」 昭6・10 先進社
「東亜全局の動揺」 昭6・10 先進社
「ジュネーヴ印象記」 昭8・1 毎日新聞
「松岡洋右縦横談」 昭8・9 文藝春秋
「青年よ起て」 昭8・12 日本思想研究会
「政党解消論」 昭9・1 中央公論
「日独防共協定の意義」 昭12・9 第一出版社
「昭和維新」 昭13・1 第一出版社
「興亜の大業」 昭16・5 第一公論社
「松岡外相演説集」 昭16・6 日本国際協会
「松岡全権大演説集」 竹内夏積編 講談社
「松岡全権の演説」 大久保源一編 非売品
▼松岡洋右の伝記
「松岡洋右――その人と生涯」 松岡洋右伝記刊行会編 講談社
「松岡洋右」 三輪公忠 中公新書
「人間松岡の全貌」 森 清人 実業之日本社
「松岡洋右を語る」 森 清人 平凡社
「巨豪・松岡洋右」 大川三郎 東洋堂
「世紀の英雄・松岡洋右」 萩原新生 牧書房
[#1段階大きい文字] 参考文献・2[#「参考文献・2」はゴシック体]
▼外交戦争関係
「太平洋戦争への道」全7巻及び別巻 朝日新聞社
「昭和史の天皇」全30巻 読売新聞社
「天皇」全5巻 児島 襄 文藝春秋
「日本外交史」 鹿島出版会
21『日独同盟・日ソ中立条約』 堀内謙介監修
22『南進問題』 松本俊一・安東義良監修
23『日米交渉』 加瀬俊一著
「日独伊三国同盟の研究」 三宅正樹 南窓社
「昭和外交史」 義井 博 南窓社
「ナチスドイツと軍国日本」 テオ・ゾンマー 金森誠也訳 時事通信社
「大東亜戦争由来記」 大橋忠一 要書房
「第二次大戦外交史」 芦田 均 時事通信社
「欺かれた歴史」 斎藤良衛 読売新聞社
「昭和の動乱」上・下 重光 葵 中央公論社
「大本営機密日誌」 種村佐孝 ダイヤモンド社
「第二次大戦の真因」 ピエール・ルヌーバン 鹿島守之助訳 鹿島出版会
「ハル回想録」 コールデル・ハル 朝日新聞社
「回想録」 エリノア・ルーズベルト ハーバー&ブラザース社
「第二次世界大戦論」 川上忠雄 風媒社
「海は甦える」 江藤 淳 文藝春秋
「日露戦争」 大久保利謙・寒川光太郎 集英社
「外務省の百年」上・下 原書房
「国際連盟と日本」 海野芳郎 原書房
「大世界史」 文藝春秋
20『眠れる獅子』 衛藤瀋吉
22『二つの大戦の谷間』 林健太郎
23『祖父と父の日本』 鳥海 靖
24『独裁者の道』 野田宣雄
「明治三十七、八年海戦史」上・下 軍令部編 内閣印刷局朝陽会
[#1段階大きい文字] 参考文献・3[#「参考文献・3」はゴシック体]
▼関係者の伝記、手記、その他
「近衛公終戦後の手記」 昭20・12・20〜31朝日新聞
「平和への努力」 近衛文麿 日本電報通信社
「失はれし政治」 近衛文麿 朝日新聞社
「近衛文麿」 岡 義武 岩波書店
「近衛文麿」上・下 矢部貞治 弘文堂
「宰相・近衛文麿の生涯」 有馬頼義 講談社
「太陽はまた昇る」上・下 立野信之 講談社
「広田弘毅」 広田弘毅伝刊行会 中央公論事業出版
「落日燃ゆ」 城山三郎 新潮社
「木戸日記」 東京大学出版会
「本庄日記」 原書房
「杉山元帥伝」 原書房
「杉山メモ」 原書房
「石原莞爾全集」全7巻 同全集刊行会
「秘録・石原莞爾」 芙蓉書房
「夕陽将軍・小説石原莞爾」 杉森久英 河出書房
「秘録・板垣征四郎」 芙蓉書房
「秘録・土肥原賢二」 芙蓉書房
「平和への戦い」 岩畔豪雄 昭41・8文藝春秋
「知られざる松岡洋右」 加瀬俊一 昭24・2文藝春秋
「思い出の名外交官」 松本俊一 昭32・4文藝春秋
「日ソ不可侵条約と松岡洋右」 岡村二一 昭39・8中央公論
「軍閥」 大谷敬二郎 図書出版社
「非常時男・マツオカの悲劇」 長谷川進一 文藝春秋「昭和メモ」
「松岡洋右とスターリン」 加瀬俊一 昭48・6文藝春秋
「米国に使して」 野村吉三郎 岩波書店
「時代の一面・大戦外交の手記」 東郷茂徳 改造社
「滞日十年」上・下 ジョセフ・C・グルー 石川欣一訳 毎日新聞社
この作品は昭和五十四年六月新潮社より刊行され、昭和五十八年十一月新潮文庫版が刊行された。