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松岡洋右――悲劇の外交官――(上)
豊田 穣
目 次
序章 ジュネーブ空港へ
一章 スイスの湖畔
二章 郷土の人々
三章 アメリカ時代
四章 若手外交官
五章 満鉄時代
六章 満鉄副総裁
七章 政治家となる
八章 満州事変
九章 沸騰する国際聯盟
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松岡洋右 悲劇の外交官 上巻
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序章 ジュネーブ空港へ
昭和四十九年九月十四日午後、私はパリからジュネーブに向う飛行機のなかにいた。
午後一時オルリー空港発のジェット機は、約一時間でジュネーブのコワントラン空港に着く。
機窓から南フランスの沃野《よくや》を眺め下しながら、私は一人の人間の生涯について考えていた。最も日本を愛していると考えて行動しながら、結果としては日本を絶望的な戦争に追いこむ役割を果し、人類の敵である戦争犯罪人の汚名を着せられた、熱血的な外交官の思想と行動について考えていた。
松岡|洋右《ようすけ》がジュネーブの国際|聯盟《れんめい》会議場で、日本全権として、国際聯盟脱退につながる演説を行ったのは、昭和八年(一九三三)二月二十四日のことである。
あれからもう四十一年が経過している。
日本は大きな戦争を経験し、力のすべてを出し切って降服し、松岡が考えていたものとは違った形で繁栄し、その繁栄も今は曲り角に来ている。
私は長い間、松岡洋右の思想と行動について考えて来た。
彼は本当に日本を愛していたのか?
日本を愛する彼がなぜ、アメリカとの戦争を誘発するおそれのある日独伊三国同盟を締結したのか?
アメリカで少年時代を過した彼は、本当にアメリカの国民性というものを理解していたのか?
呈したい疑問はいくつかある。
戦前一種の国家的英雄であった松岡は、敗戦国日本では戦争責任者として激しく非難された。敗戦による価値観の転換は珍しいことではないが、松岡の場合は、首相の東条英機と並んで、その褒貶《ほうへん》がはなはだしい。
東条は、昭和十六年十二月八日、開戦時の首相であるが、松岡が近衛内閣で外相を勤めたのは、十六年七月までで、彼は開戦内閣には入閣していない。
にもかかわらず、彼が戦争の責任をとらされた原因は、昭和八年の国際聯盟脱退と、昭和十五年九月の三国同盟締結が大きな訴因であったろうと思われる。
松岡洋右の名前を私が耳にしたのは、かなり以前のことである。
大正九年(一九二〇)三月十四日、私は満州の奉天(瀋陽《しんよう》)と長春(新京)の中間にある四平街という町で生れた。父賢次郎は満鉄(南満州鉄道株式会社)の職員で、四平街駅の助役を勤めていた。
当時、松岡は一等書記官で、外相(本野一郎)秘書官、総理(原|敬《たかし》)秘書官を歴任し、ベルサイユ講和会議随員として、全権、西園寺|公望《きんもち》に随行し、九年三月、外務省政務局勤務を命ぜられたところであった。
この翌年、松岡は満鉄理事を命ぜられて、大連の満鉄本社に赴任する。
大正十五年四月、私は長春に近い公主嶺《こうしゆれい》の小学校に入学した。父は公主嶺駅の助役であった。
松岡が満鉄副社長になったのは昭和二年七月のことで、これ以後、彼は満鉄経営に積極的な歩みを示すことになる。
この年、私は父に連れられ奉天の北にある鉄嶺に移動し、鉄嶺小学校の二年生であった。
この頃、『満鉄二十周年』というアルバムが作られ、鉄嶺駅の助役であった父のチョビ髭《ひげ》を生やした写真も巻末の方にのった。明治の遺風で、この頃の官吏や勤め人は、山高帽もしくは中折帽をかぶり、チョビ髭を生やして、ステッキをついている男が多かったように思う。私が生れて間のない頃母に抱かれた写真が残っているが、この時も若い父はステッキをついていた。
父は満鉄二十周年アルバムの巻頭を指さして母に示し、
「社長の山本条太郎、こいつは政友会の大立者でな」
と言った。
続いて彼はその隣のチョビ髭で坊主刈りの男を指さし、
「この副社長の松岡……。こいつは切れ者でなあ。何よりも弁論の雄じゃな」
と言った。
弁論の雄≠ニいう父の評語は長く私の脳裡《のうり》に残った。
当時は「雄弁」などという雑誌がよく読まれ、青年が弁舌をもって世に立ち、大政治家になるという明治の壮士風の夢はまだ消えてはいなかった。
口数が少なく、口下手な私には、弁論の雄≠ニいう父の言葉が、遠い人のことのようであり、一種の憧《あこが》れを感じさせるに十分であった。
松岡の副総裁(昭和四年六月二十二日以降副総裁と呼称が変る)は、昭和四年八月まで続いた。
昭和五年五月、私の父は平頂堡《へいちようほ》という鉄嶺に近い駅の駅長を最後に満鉄をやめ、岐阜市に近い穂積という駅の北に家を建てた。満鉄の退職金は現金で一万余円(現在の三千万円以上)のほか、かなりの株券があった。父は退職金のなかから千五百円を割いて二階建ての文化住宅を建てた。この家は今も残っている。
この年二月、松岡は山口県第二区から衆議院議員に選出された。いよいよ政治家への第一歩を踏み出したのである。
翌昭和六年九月、奉天の南郊、柳条湖に一発の銃声が響き、満州事変が始まった。
松岡がジュネーブで開かれる国際聯盟臨時会議における全権を仰せつかったのは、昭和七年十月のことである。この年九月、日本は満州国を承認していた。
私は岐阜市に近い北方という町にある本巣中学校の一年生であった。この年五月、犬養首相が青年将校に暗殺されていたので、一年坊主の私も興味をもって新聞のみだしをみるようになっていた。
ジュネーブにおける国際聯盟臨時会議の大きな議題は、満州国問題と満州からの撤兵であった。昭和八年二月二十四日、総会は十九カ国委員会報告書を四十二対一(日本)、棄権一(タイ)で採択した。日本代表団は退場し、松岡は有名なサヨナラ(誤説・後述)で結ばれる訣別《けつべつ》の演説を行った(となっている)。
日本が正式に国際聯盟を脱退したのは、三月二十七日のことである。
第二次世界大戦の史家によると、これ以後日本は孤立の道を歩み、やがて軍縮条約を廃棄し、独・伊と結び、大戦への道を歩んだことになっている。松岡の真意は果して、日本を大戦に突入させることにあったのであろうか。
私は飛行機のなかで考え続けていた。
ジェット機はジュネーブのコワントラン空港に近づきつつあった。晴天ならば、機窓からはアルプスの山々が見えるはずであったが、そのあたりはミストに蔽《おお》われ、峰らしいものは見えなかった。
戦後第九回目の外国旅行であるこの旅行に、私は妻を同伴していた。妻と旅行するのはこれで三回目である。一回目はヨーロッパ、北アフリカで、二回目は南米、今回は、ロンドン、パリ、ジュネーブのあと、イタリア、ユーゴスラビア、ギリシャ、ドイツとなっていた。
空港に降りた私たちは、インフォメーションでホテルを予約した。
スイスの通用語は、東の方はドイツ語、西はフランス語、南の一部がイタリア語と聞いていた。ジュネーブはフランス語圏に入るはずであった。インフォメーションの女性は若くフランス系のようであった。フランス人は英語を知っていてもしゃべりたがらないので、私は念のため、「英語を話すか?」と訊《き》いてみた。
「Sure !(もちろん)」
と彼女は怒ったような顔で答えた。観光客相手のインフォメーションが、英語が出来なくて役に立つものか、という調子であった。ここは世界有数の観光地、スイスであったのだ。
私たちは、一泊十五ドルの安い部屋を二晩契約した。パリのモンマルトルで泊った宿が、一晩三十五ドルであったので、私たちはドルを節約する必要に迫られていた。
いつもの外国旅行――たとえば南米などでは、移動はすべて運賃前払いの飛行機によるので、現金は宿泊費と食事、タクシー代、土産物代などに足りればよかった。今回の旅行は、地域がヨーロッパに限られているので、私たちは出来るだけ汽車を使おうと打ち合せていた。そしてロンドンからパリへはドーバー海峡を船で渡るため汽車旅行を選んだ。しかし、カレーに上陸してからは何の変哲もない北仏の田野の風景に飽きた私たちは、時間を節約するためパリからジュネーブまでは飛行機に変更し、二人分の航空券代六十ドルをエール・フランスに払っていた。このほか、私たちは、日本で買えないユーゴ関係の航空運賃、ローマ―ドーブロブニク―アテネ間二百五十ドルにも手持の貧しいドルのなかから支払う必要があった。従ってジュネーブでは、ホテル代を倹約する必要があったのである。
空港バスでスイス国鉄のカルナバン駅裏に着いた私たちはタクシーで、湖畔に近いホテル・アドリスに向った。今、私は湖畔に近いと書いたが、湖に面しているというわけではない。湖に面したところにはホテル・プレジデントという一泊五十ドル以上の最高級ホテルがある。
私たちのホテルは、湖畔からかなり駅前通りの方に入りこんだデブレイ通りという横町に面した古いビルの二階と三階を占める安宿である。タクシーのドライバーは少し探した後、ホテル・アドリスという小さな看板を探し出した。このビルの一階はモーター関係のショールームになっている。二階への階段を登るとき、私は楽観していた。この年の春、私はイスタンブールのシシリー地区という外国人の居住地区で朝食つき一泊五ドルという部屋に泊ったことがあった。窓の向うにすぐとなりのアパートで老婆が編み物をしているのが見えるような、古びた安宿であったが、ちゃんとお湯の出るバスタブもあったし、トイレも電話もあった。スイスはホテル王国という評判が高いので、十五ドルでもかなりの部屋であろう、と私はタカをくくっていたのである。
しかし、このホテルはイスタンブールのシシリー地区にくらべても大分お粗末であった。二階にはフロントらしいものもなく、カウンターの近くで、若い母親が赤児に乳房をふくませており、彼女の呼び声で、となりの食堂で飯を食っていた青年がこちらにやって来て、鍵《かぎ》を渡してくれた。二人ともフランス系のようであった。
私は手帳を出すと、時事通信の寺崎進特派員を呼び出してくれるように頼んだ。その青年――実はホテルの若主人――は、「ちょっと待て」と英語で言い、ダイヤルを回してくれた。私たちの部屋には、電話はないのであった。寺崎特派員は丁度自宅にいた。彼は無論ホテル・アドリスを知らなかったが間もなく、ホテルを探してやってくるというので、私たちは二階の部屋に入った。ベッドが二つと洗面所があるだけのがらんとした部屋だった。どういうわけか、赤児用の小さなベッドが入口近くにおいてあった。
バスが別室なのは致し方ないとして、トイレも室外というのは、血圧が高くて夜中にトイレに行く癖がある私には少し困ると考えた。しかし、陽気のよい頃なので、何とかこれでしのげそうであった。
間もなく寺崎君がやって来た。スマートで元気のよい、特派員や商社マンらしい歯切れのよさを身につけた男性である。若いと思ったが、早稲田の文科にいた頃、後藤明生氏らと同人誌をやったことがあるというから、もう四十年配であろうか。
彼は真っ先に、私の取材旅行の核心に触れてこう言った。
「松岡洋右がサヨナラ演説≠したところは、パレ・デ・ナシオンではないのですね。パレ・デ・ナシオンが国際聯盟の本部になったのは一九三七年(昭和十二)で、松岡が演説したのは、一九三三年ですからね」
「では、やはりウィルソン記念館ですか」
私は前から抱いていた疑念を口にのぼせた。
パレ・デ・ナシオンは、ジュネーブの北部にある壮麗な宮殿風の近代建築で、ジュネーブ案内書の多くはその写真をのせている。現在は国連ヨーロッパ総本部があり、ジュネーブの顔ともいうべき大きな国際的会館である。しかし、どの本をみてもこの建物で松岡がサヨナラ演説をやったとは書いてない。そして、ある本には、「松岡はホテル・メトロポールに泊り、パレ・ウィルソンの国際聯盟会議場で有名な脱退演説をした」となっている。ジュネーブの地図を見ると、パレ・デ・ナシオンのかなり南にウィルソン記念館というのが見える。しかし、こちらは小さいようだ。ここに果して国際聯盟の大会議場があったのであろうか。単に国際聯盟の起案者ウッドロー・ウィルソンを記念するために、彼の宿舎になっていた建物に名を冠したのではないか? 私はそう疑っていたのである。
それに対して、寺崎君はこう言った。
「松岡が演説をしたのは、ケ・ウィルソン(Quai Wilson)にあるパレ・ウィルソンだということになっています。Quaiは河岸あるいは湖岸です。今からパレ・デ・ナシオンに寄ってパレ・ウィルソンに行きましょう」
私たちは彼の車でパレ・デ・ナシオンに向った。
壮大なコの字型を湖の方に向って展開しているパレ・デ・ナシオンは、日本の国会議事堂を思わせた。永田町の国会議事堂も建設の年代は略々《ほぼ》同じようなものである。そう言えば、上野の国立博物館や、名古屋駅も同様に重厚な建物である。あの頃はこのような建築様式が流行したのであろうか。
パレ・デ・ナシオンでは、大会議場と記者室を見た。国連ヨーロッパ総本部は休会中で、靴音だけが廊下の高い天井にこだました。
ケ・ウィルソン通りのウィルソン記念館は、正しくレマン湖畔にある。ここからは対岸が見えるが、遠くはもやっていた。
「晴れた日にはアメリカン・モンブランが見えるんです」
と寺崎君が言った。
「アメリカン・モンブラン?」
「そうです。モンブランの手前の山で雪をかぶった山があるのです。アメリカの観光客にあれがモンブランだというと納得するんです」
と彼は説明した。
笑いながら、私は頭のなかで、松岡の演説会場のことを考えていた。
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一章 スイスの湖畔
ケ・ウィルソンにあるパレ・ウィルソンは、レマン湖に向って両腕をひろげた形を示している。しかし、両腕の間は庭で、正面玄関は裏通りについているらしい。
庭の中央に立って湖の方を眺めると、すぐ右どなりが一泊五十ドルといわれるホテル・プレジデントである。日本の観光客が時々泊るというから、観光客は私などよりは金持なのであろう。
湖の右の方、つまり、南の方に大きな噴水が見える。この噴水と周辺のネオンは、夜は照明に映えて、ジュネーブの夜の首飾りとして有名なのだそうである。
両腕をひろげた左腕の方がユネスコの展示場になっている。私たちは中に入ってみた。ソ連、アメリカをはじめ、各国小学生の図画を展示している。寺崎君が係の女性に、松岡の演説の場所を訊いたが要領を得ない。今は全部がユネスコの建物になっているが、昔のことはわからない、という。
私たちは裏へ回って、正面玄関の扉を押してみたが、もう閉館時間であかない。こちらからみると、このルネッサンス式四階建て木造洋館は、今の東京駅を小さくしたような建物で、明治時代のホテルのような感じであった。
翌日はシャモニーへ行って、エギーユ・デュ・ミディという高所からモンブランを見る予定になっていたので、私たちは明後日再びパレ・ウィルソンを訪ねることにした。
寺崎特派員の車は、私たちをモンブラン通りのホテル・メトロポールに導いた。
レマン湖はその西南端からローヌ河となって流れ出している。ローヌ河はマルセーユの近くで地中海に流れこんでいる。
ローヌ河にかかる橋をモンブラン橋といい、カルナバン駅からこの橋に向う広い通りはモンブラン通りと呼ばれ、ジュネーブのメーンストリートである。橋を渡ると右側にイギリス公園があり、四季折々の花が飾られる花時計が時を刻んでいる。花時計のあたりもショッピングセンターで、このあたりに、イギリス公園に面してホテル・メトロポールがある。四階建てのくすんだ頑丈な建物である。
私たちは中へ入ってみた。内部もくすんでいるが、どことなくどっしりとしている。四十一年前にはジュネーブ一の高級ホテルであったのであろう。変ったことに、正面玄関を入るとすぐに部屋があり、フロントは二階である。
私たちは三階の東北端にあったという松岡全権の部屋の前に立ってみた。なかには客が泊っているので、あけてみるわけにはゆかない。しかし、三階への階段を昇り切ったところにある窓から外をのぞいたところでは、松岡の部屋からもレマン湖とパレ・ウィルソンが見えるはずである。
この部屋は東と北に窓を持っているので、松岡が滞在した晩秋から初春にかけては、朝日に輝くレマン湖や、夕陽に映えるモンブラン橋が見えたはずである。降雪の翌日、よく晴れた日には、モンブランの前山である、いわゆるアメリカン・モンブランが、白銀色の積雪に陽光を反射し、まばゆい光景を現出していたかも知れない。
サヨナラ演説≠フ翌日、昭和八年二月二十五日の朝は晴天であったであろうか。山の積雪は白銀色に輝いていたであろうか。そして、松岡は自分の決断が、やがてアメリカとの戦争に導かれる孤立化への第一歩であることを予知していたであろうか……。
私は重い想いに胸を押されながら、ホテル・メトロポールの階段を降りた。
メトロポールのすぐとなりにバー・ババリアがある。バーといっても、表通りと裏通りをぶち抜いた広い店で、酒を呑んでいる客よりも飯を食っている客の方が多いから、実体はレストランと言った方がよかろう。
テーブルも壁のパネルも褐色のマホガニーをふんだんに使っており、大正時代のような年輪を感じさせるレストランである。私と寺崎君はここでスイスのビールを呑んだ。スイスは、高原で空気が乾燥しているから、当然ビールはうまい。
ビールのジョッキを唇元《くちもと》に運びながら、寺崎君が、
「ここの壁に張ってある漫画は古いもので、ここに松岡のものもあるというのですがねえ」
と言う。
このバー・ババリアの周囲の壁には、二段三段に古い漫画が押しピンでとめてある。国際聯盟会議のとき、ここに泊っていたイギリスの新聞記者が、各国代表の顔を片っぱしから漫画に描いたもので、黒インキの線描きに水彩の淡彩であるが、なかなかうまく描けている。
ビールを呑み終ると、私たちはその百余枚にわたる漫画のなかから知っている顔を探した。戦前の外交官であるから、意外に知っている顔は少なく、日本の駐仏大使であった佐藤尚武と、フランスの外相を勤めたブリアンと、ソ連のモロトフらしい鬚《ひげ》の男が見つかったぐらいで、松岡の馴染《なじ》み深いいがぐり頭は発見できなかった。突然、寺崎君が、
「ああ、松岡の漫画なら、パレ・デ・ナシオンの記者室にありました。しかし、記者室の修理のとき、どこかへしまいこんだままです」
と言った。
何でも雪の日に松岡が洋傘をさして湖畔を歩いている漫画だそうである。きっと孤独な姿をしていたのであろう。
なぜ寺崎君が、今頃松岡の漫画のことを想い出したのだろう? と私は考えていた。
昼頃、彼はパレ・デ・ナシオンの記者室に私を案内したはずである。そのときなぜ松岡の漫画のことを想い出さなかったのであろうか……。
多分、年齢の相違であろう、と私は考えることにした。彼と私とは十歳以上年がひらいている。サヨナラ演説≠フとき、私は中学校二年生であった。その頃、寺崎君の世代は生れたばかりではなかったのか。松岡の名前も足跡も、段々忘れられてゆく。彼の真意も歴史の堆積の下積みとして埋没してゆくのであろうか。
バー・ババリアを出るとき、私はもう一度壁面を埋めている漫画の列を眺め回した。ホテル・メトロポールに泊った日本の随員はよくここで酒を呑んだという。時には酒豪の松岡も若い随員と共にこの店を訪れたかも知れない。自主独往の意気にあふれていた代表団の酒席は活気に満ちていたであろう。随員には陸軍の教祖≠ニいわれた石原|莞爾《かんじ》もいたというから、彼の説教めいた声音も聞かれたかも知れない。
しかし、いまみるバー・ババリアの内部は、モーグ(屍体置場)に似ていた。去った人は帰らず、これらの人々が回したはずの歴史の歯車の軌跡も、今は錆《さ》び、朽ちかかっている。漫画のペンのタッチが空《むな》しくも生々としているのみである。
バー・ババリアを出ると、私たちは南の旧市街の方向に歩いた。
サン・ピエール寺院の高い尖塔《せんとう》が、丘の上にあって、夕陽を浴びながら天を指していた。十世紀に着工されて十六世紀に完工したこの寺院は、宗教改革で知られるジャン・カルヴィンが説教をした場所である。カルヴィンは十六世紀中葉に活躍した宗教家で、ジュネーブを基地として宗教改革運動を推進し、キリスト教の理念的指導者であり、ピュリタン(清教徒)の強力な指導者でもあった。サン・ピエール寺院の近くのヌーブ広場には、宗教改革記念碑があり、また、カルヴィンが創始したジュネーブ大学もこの近くである。林に囲まれたジュネーブ大学は、スイス一の総合大学で、日本人の留学生も少なくない。
『エミール』『社会契約論』などを残し、フランス革命を触発したといわれるジャン・ジャック・ルソーも、ジュネーブの時計職人の子に生れている。モンブラン橋に近いルソー島には、ルソーの像も立っている。
カルヴィン、ルソーと並べてみると、ジュネーブは自由と言論の場であるということが言えるであろうか。松岡の場合、言論の場であったことは確かであるが、その言論の当為によって導き出されたものは、果して自由への道であったろうか。聯盟加盟国との訣別は、日本を自由に導く最良の道であったのかどうか……。
私はサン・ピエール寺院への坂を登りながら、間もなく始まる私の貧しい作品が、言論人松岡の真意を解明し得ることを祈った。
坂の途中で寺崎君が、
「このへんにイタリア人がやっているシシリーという飯屋があったそうです。日本の全権団は、シシリーの主人に金を渡してイタリアから米を買わせ、毎日日本料理を作らせたそうです。この主人が器用な男でたちまち日本料理を覚え、スペインから鮪《まぐろ》やイカをとりよせて刺身や寿司を作り、レマン湖の鱒《ます》を塩焼きにし、スイスの牛肉ですきやきを作ったので、全権団は日本食に不自由しなかった、ということです」
と語った。
性欲もそうであるが人間の食欲も、時として不可能と思われることを可能にさせてしまうものである。全権松岡はサヨナラ演説≠フ前夜、何を食べたのであろうか。レマン湖の鱒の塩焼きで日本酒の浅酌を試みたであろうか。そして、脱退の演説をやってのけた彼は、随員たちとシシリーですきやきをやって気勢をあげたのであろうか。
坂の上から眺めおろすと、レマン湖は早くも夕景で、水面が薄紫色に変化しつつあり、噴水に近いネオンが数珠玉を連ねたように波を打ち、ジュネーブの夜の首飾り≠ノふさわしい様相を呈しつつあった。
うす闇のなかでジュネーブ大学の林と、宗教改革記念碑の四人の像を見た私たちは、再び宵の海岸通りにおり、「北海」という日本料理店で晩飯を食った。ここはパリの日本レストランと同じで、天ぷら、刺身、すきやきなど一通りのものが出来るが、例によってお値段は高く、天ぷら、刺身、すきやきのフルコースで五千円というメニューになっていた。
夕食を終った後、妻はホテルで洗濯をすることになり、私は寺崎君と共にジュネーブ在住の河崎一郎氏を訪れることになった。河崎一郎といってもわからない人は、元アルゼンチン大使で、「日本人はホッテントットに似ている……」という日本人卑小論を本にして話題になった外交官といえばおわかりであろうか。
河崎氏は、現在大きな商社Mの顧問としてジュネーブに在住し、かたわら、日本の娯楽雑誌にポルノまがいの読みものを書いて、やはり小さな話題を提供している人物である。
実は、私はもちろん、寺崎君も、河崎元大使がジュネーブに住んでいることは知らなかった。
私が着いてから、寺崎君はジュネーブ駐在のMという領事が松岡全権の随員であったということを想い出し、パレ・デ・ナシオンの記者室からM領事に電話を入れた。ところがM領事はそうではなく、その代りに河崎元大使の所在を教えてくれたのである。河崎元大使は昭和八年ジュネーブ滞在当時、松岡の若い秘書官として、親しく側近に仕えた人物だというのである。
河崎氏は、午後八時からの面会を応諾してくれていた。
河崎氏のアパートはジュネーブの東郊、オーヴィヴ駅から公園や野外ステージなどのある高級住宅地に入るあたりにあり、総ガラスばりの玄関は閑散として人気《ひとけ》がなかった。
「凄《すご》いですね、このアパートは月二十万円ぐらいの家賃をとりますね」
と感嘆した後、寺崎君はインターホンで河崎氏を呼び出し、来意を告げた。ここで初めてガラス扉の鍵があくようになるのである。
「盗難やテロ予防のため、ヨーロッパの高級アパートはみなこの形式ですね」
と寺崎君は説明してくれた。
日本人をホッテントット呼ばわりするので、大きな人かと考えていたが、実際の河崎元大使は、一メートル六十三センチ位のむしろ小柄な人であった。
自分でウイスキーを出してくれたりするので、
「奥様はいらっしゃらないのですか?」
と訊くと、
「いや、奥におります」
ということであった。
接待に主婦を煩わせるほどの客ではないという意味か、それとも夫の客は夫が応対するのが河崎家の流儀なのであろうか。
十五畳ほどありそうな広い応接間に、グランドピアノと大きな冷蔵庫がおいてあった。
私と元大使との問答が始まった。
「松岡全権の秘書官としてジュネーブに来られたそうですが……」
「いやあ、秘書官といっても若くて、鞄持《かばんも》ちの程度です。その代りどこへゆくのも一緒でした」
「鞄持ちからみた松岡洋右観を……」
「気さくで、部下に親切で、よく気のつく人でしたね」
「酒はどうですか?」
「強かったですね。ウイスキー半分位は平気でしたね。但し、ここでは大切な任務があるので、慎重に構えていました」
「例のサヨナラ演説≠フ晩はどんな様子でしたか?」
「前の晩、部屋へ行ったら、演説の草稿を手にして、一生懸命練習をしてました。世間では、松岡さんを豪傑のように言うけれど、私は、むしろ気の小さな人だったんじゃないか、と思いますね。気の強い人だったら、草稿なんか持たないで、自分で考えたとおり、その場でやるんじゃないんですか」
「草稿は自分で考えて書いたものですか?」
「無論です。人に草稿を書かせて満足するような人じゃないですよ」
「自己顕示症は相当でしたか」
「相当でしたね。サヨナラ演説≠フ件も、こういうふうに演出すれば、日本本国でどっと沸く、ということを計算していたようですね」
三輪公忠著『松岡洋右――その人間と外交――』(中公新書)にも、松岡はパブリシティを好んだ、と書いてある。
「全権の英語はどの程度ですか?」
「うーん、決して下手じゃないが、世間で言われるほど流暢《りゆうちよう》な名調子じゃあないですね。まあ、オレゴン大学卒ですから、一通りはしゃべれたわけですけれどもね」
「日本代表団が退場するという決定は、松岡全権の個人的決定ですか、それとも本国からの訓令によるものですか?」
「うーむ、もちろん、訓令は仰いでいましたがね。サヨナラ演説に関しては、松岡さんの決定じゃないですか。日本出国前に総理や外相とは、すでに相当程度打ち合せて来ていたと思いますが……」
「当時のジュネーブの雰囲気《ふんいき》は?」
「そりゃあ、四十二対一というところに、日の丸の旗を立てて、町中を乗り回すんだから、目立ちましたな。とに角、あのときは世界中を相手にして奮闘しなければならんというので、全権をはじめとして、気概というか、意気に燃えていましたな」
「アメリカは聯盟のメンバーではないけれどオブザーバーとして総会場にいたはずですが、どんなムードでしたか」
「サヨナラ演説≠フときは、私は総会場に入れなかったんですが、アメリカの代表はいつもの陽気なアメリカ人らしくなく、重苦しい雰囲気だったようですね」
「各国代表は、日本を弾劾するという意気込みだったんですか」
「いや、日本の満州問題に対して否定的ではありましたけれどね、むしろ日本の気合いに押されていたというのが本当じゃあないんですか」
「聯盟脱退と三国同盟締結が太平洋戦争への導入路となったという説が今は一般的になっていますが、河崎さんはどう思われますか」
「結果としてはそうなりましたね。しかし、松岡さんの構想としては、戦争挑発ではなくてむしろ平和裡に日本の勢力を伸ばすことが出来ると考えていたんじゃないんですか。但し、松岡構想は常に松岡洋右がイニシアティブをとらなければ推進出来ないものなので、途中で松岡さんをはずしたら挫折《ざせつ》してしまうのですね。松岡さんは、当時の外交官として華やかに活躍しましたが、必ずしも全力を出し切ったとは言えないと思いますね」
私はこのあたりで一応問答を打ち切り、松岡洋右サヨナラ演説≠フ場所を訊いた。
「ケ・ウィルソンの記念館の一室です。天井に金塗りのデザインがあり、豪華なシャンデリアが下っていました」
「あの建物は元は何だったんですか」
「ジュネーブで当時最高のホテルだったと言います。それを、国際聯盟が買いとったのですね」
ここで会見を終り、私たちは元大使に謝意を表し、総ガラス張りの厚い扉を押して外へ出た。夜の高級住宅街は森閑としていた。
「大使ともなれば、やめても何とか食えるものなのですね」
寺崎君がズボンのポケットに掌をつっこんで、パーキングの方に歩きながらそう言った。
私はあいまいな応じ方をした。五里霧中という言葉があるが、まだ何もわかってはいない。松岡のサヨナラ演説≠フ部屋すら確かめられていない。四十一年の歳月は、黒く厚いカーテンとなって、私の前に垂れ下っていた。
翌朝、私と妻は、午前九時駅前ターミナル発のバスでシャモニーに向った。日本を出るときの懸案であった海抜四八〇七メートルの巨峰モンブランをすぐ近くで眺めるコースを回ってみようというのである。
シャモニーに着いたのは昼近くであった。途中からバス道路は切り立った山に囲まれるが、シャモニーの町に入るまでは雪をかむった高峰も、氷河も見えない。道路と平行する川は、氷河の解けたものらしくうすいミルク色に濁っているが、温度が低いため川面《かわも》から水蒸気がもうもうと上っていた。
バスはシャモニー駅前の広場で私たちをおろした。
小学校の横のガーデル広場から標高三八四三メートルのエギーユ・デュ・ミディまで、六十人乗りのロープウエーが出ている。十数分で頂上に着くが、昇るにつれて巨峰モンブランが迫るように近づいて来る。頂上は気温が零下五度、風が強いので、九月とはいえ、レーンコートなしでは寒い。日本の観光客が多く、学校の教師らしい数名は、日本酒の瓶《びん》を持参し、モンブランを眺めながら乾盃《かんぱい》していた。
マンモスがうずくまった形のモンブランは一面銀雪に蔽われ、秋の陽光をうけて輝いていた。新雪かとも思われるその鮮かな白さを眺めながら、私は二人の人物の最期を思い浮べていた。一人は尾崎士郎であり、一人は松岡洋右である。
私が敬愛する尾崎士郎は、昭和三十九年二月十九日|腸癌《ちようがん》のため六十六歳で世を去った。尾崎の遺言を当時中学三年生であった長男俵士君が書きとめているが、そのなかには、解読し難い文言もある。
「ざんむきえつくしていちまつののこるところなし 人生のこうようここにことごとく終る。ただ人情を知つてこれに及ばず。ただむくいるあたはざるを悲しむのみ」
最初の一行は「残夢消え尽して、一|抹《まつ》の残るところなし」と読むのであろうが、次の「人生のこうよう」というところを、尾崎の知人たちは読みあぐんだ。「人生の紅葉」か「人生の高揚」かはたまた「人生の効用」か……。尾崎のファンであった高橋義孝氏は、「こうようはこうぎょうの聞き間違いで、絶対に『人生の興業』だ。尾崎は『人生劇場』の作者だ。自分の人生も一種の興業とみなしていたのだ。これは興業と解しなくてはならぬ」と主張した。
私は「人生の功業ここにことごとく終る」と読むべきだと思う。功業は、手柄、いさおし、ととられるが、単に業績、努力、足跡とみてもよかろう。尾崎士郎個人のえらい業績がついに終った、という意味ではなく、尾崎が参加したところの人生≠ノおける仕事、割前が、ことごとく終り、あの世に戻ってゆく、という意味にとりたい。末期における尾崎は、多分に宗教的になっていたと考えられる。
さて、本編の主人公松岡洋右における、「人生」と「功業」の関係はどうであったか。
松岡は、昭和二十一年六月二十七日、尾崎と同じく六十六歳で肺結核のため世を去った。戦犯容疑者に指名され、裁判進行中であった。
残念ながら、松岡の場合、「人生の功業」はことごとく終ったとは言えない。彼は志半ばにして倒れたのである。彼の志が奈辺にあったか……。戦後三十年近くそれを顧る人は少なかった。いま私は、それを解明すべき扉を叩こうとしている……。
エギーユ・デュ・ミディの頂上から、モンブランの輝く峰を眺めながら、私はそのような想いにとらわれていた。
エギーユ・デュ・ミディを降りた私たちは、シャモニーの町の中心でスパゲッティで昼食をしたため、シャモニー駅からアプト式のガソリンカーで、メール・ド・グラスに向った。メールは海、グラスは氷、つまり、メール・ド・グラスは、大きな氷河の名前なのである。
列車は二十分ほどで終点のモンタンヴェル駅に着く。ここからは凍った大河のようなメール・ド・グラス氷河が、うねうねと曲りくねって見える。
駅から階段を降りると、氷河の内部に掘った洞窟《どうくつ》に入る入口が蒼《あお》く口をあけている。料金を払うと氷河のなかへ入れる。内部はかなり広く、食堂、居間、寝室、台所などに分れ、氷の宮殿をかたどったらしく、広い居間には王様と女王様の玉座があった。
入口は屋根から融水が滴っていたが、内部の氷は融けていない。五万年前か、十万年前か、そのときのままの氷の内部が電灯の光を蒼白く反射しているのみである。
氷河には百万年前のものもあるそうであるが、百万年前でも、五万年前でも、私たちには同じように見える。ここでは時間が停止しているのである。まして、三十年や五十年の栄枯盛衰は物の数ではない。しかし、氷河は一日に二十センチ位は川下に流れるのだそうで、今の洞窟の入口も、数年前はもっと上流にあったのだという。
氷河の動きと時の流れに興味をそそられながら、私はまたしても松岡洋右のことを考えさせられていた。
氷河はなかを掘ると内臓を見せてくれる。人間の内臓のように生臭いものは何もなく、ただ蒼白い氷塊の反射光があるだけであるが、そこに神秘的な時の流れを感じさせてくれる。
――歴史も氷河のように内臓をさらけ出してはくれないだろうか――
尾崎士郎は、いつも自分をさらけ出すポーズで作品を書き続けていた。
松岡洋右が歩んだ歴史の内臓を氷河の内部のようにえぐって確認することは出来ないであろうか……。メール・ド・グラスの氷河の洞窟を探訪しながら、私はそう考えていた。
翌日の午後、私たちはT・E・E(ヨーロッパ国際特急)でミラノへ出発せねばならなかった。
午前中、私は寺崎君と今一度ウィルソン記念館を訪ねてみることにした。
妻は寺崎夫人の案内でモンブラン通りにショッピングに出かけ、私は寺崎君とウィルソン記念館に向った。
この日九月十六日は月曜日であった。
一昨日、土曜日の夕方私たちは湖に面したユネスコの展示室の方から入ったが、この日は、反対側の正面玄関から入った。扉はあいていた。内部にはユネスコの事務室があり、閑散としていた。時刻は午前九時をすぎたところであり受付に人影はなかった。
ウィルソン記念館は、玄関を入ったすぐのホールが、四階まで吹き抜けになっており、階段のかたわらに、古めかしい鉄の手すりがあり、その上にマホガニーらしい板がかぶせてあった。
「この吹き抜けの設計がホテルの感じですな」
と寺崎君は言った。私もうなずいた。
私は一階正面の低い階段を登った向うの部屋が会議場であったのではないか、と推量していた。ヨーロッパの古い邸やホテルでは、正面玄関を入るとすぐ舞踏の出来るホールがあり、その向うにバンクェット(宴会)・ルームがあるのが普通である。
この元ホテルが、国際聯盟の建物であったとするならば、玄関を入った真正面の広い部屋が宴会場であり、そこが松岡が演説をした総会議場でなければならない……。私の推理はそれであった。
真正面の部屋には、扉が二つあり、いずれもしまっていた。向って右はキャフェテリアとなっていた。扉を押してみると、いくつかのテーブルが見えた。左側はオフィスになっていた。統計を行う部屋らしい。人がいたので私たちはキャフェテリアに戻り、天井を眺めた。
「見なさい。あそこについたてで仕切ったあとが見える。この部屋は大きな部屋だったのだ。それを今は二つに割ってキャフェテリアと事務室に使っているのだ」
そう言って私は天井を指さした。
「そうですね。確かに二つに仕切ってありますね」
寺崎君もうなずいたが、私は自信がなかった。河崎元大使が言ったような金の文様が天井にはなく、また豪華なチェコガラスのシャンデリアも見えなかった。
私たちが外へ出ると、受付にかなりの老人が来てすわっていた。寺崎君がフランス語で質問をした。老人は、「演説のあったのは、この建物の北にあるホールだと聞いている」と答えた。私たちは外に出ると、北側にある建物を探した。そこには、大きなガラス窓のついた比較的新しい建物があった。中に入ってみると、椅子が並んでおり、明らかに会議場か催し物を行うホールの感じであった。しかし、その新しさは、とても四十一年前のものとは思われなかった。寺崎君がそこにいた中年の男性に質問を発した。
「この建物は、第二次大戦後に建てられたユネスコの会議場で、ユネスコ関係の映画やスライド上映に用いられている」と男は答えた。
私たちは落胆して外に出ると、再びウィルソン記念館に入った。私たちは二階、三階、四階と、主として正面の部屋を探した。しかし、目ざすバンクェット・ルームのような広い部屋は見当らなかった。湖に面した四階の中央には、かなり大きい客室があり、ここにウィルソンの写真が飾ってあった。
「ウィルソンがこの部屋に泊ったのかも知れない」
と私は臆測《おくそく》を述べた。
この部屋からは、レマン湖がよく見えた。
初秋の湖面は凪《な》いでおり、小波《さざなみ》が立って、うらうらとして見えた。
私たちは反対側の小部屋も探した。冬は寒いところらしく、どの部屋にも実用的なマントルピースがつけてあった。ダルマストーブのおいてある部屋もあった。
私たちは一応あきらめて一階に降りた。あきらめ切れなかった。私の作品が、松岡の演説を第一のピークとし、これを一つのドラマの出発点とするのならば、この際、その部屋を確かめ、部屋のもつアトモスフェアを肌で感じておく必要があった。
一人の女性が玄関のそばのホールを通りかかった。手に数冊の本を抱えていた。ふちなしの眼鏡をかけ、いかにもインテリらしく見える中年の女性であった。
寺崎君は、この日何回目かの同じ質問を発した。女性の眉が動き、手答えがあった。
「マツオカの名前は知っています。私の専攻は近代国際政治史でした」
「マツオカが、サヨナラの演説をした場所を探しているのです」
「それは私が働いている図書館です。私の部屋においで下さい」
彼女は、今きた道を逆戻りして、自分の部屋に私たちを導いた。それは正面に向って左側にあるかなり広い部屋であるが、入口を入るとすぐいくつかの高い本棚で蔽《おお》われていたので、私たちはそれ以上内部に立ち入ることを控えたのであった。どういうわけか、私たちは、見通しのよい広い部屋を予期していたのである。
図書館の入口の机に抱えていた本をおくと、彼女は、本棚の間を抜けてその向うに私たちを案内してくれた。奥は読書室になっており、こちらはかなり広かった。学生らしい数人の男女が読書や研究にふけっていた。
私は天井を仰いだ。河崎元大使の言った、金の唐草模様が一面に天井を這《は》っていた。
天井からは二個のシャンデリアが下がり、チェコガラスが静かにゆれながら、朝の室内光線を鈍く反射していたが、古びてところどころ破損しており、豪華なものとは言えなかった。
「以前は五つあったのです。今は二つが残っています」
とその女性も天井を仰いだ。確かにシャンデリアを吊《つ》った跡を示す円形のレリーフが三個余分に認められた。
――ここで松岡が最後の演説をしたのだ――
私は彼が立ったと思われる室の中央付近に歩みよってみた。中央の壁には、緑と白の大理石を使った、大きなマントルピースがはめこまれ、その上に、金唐草のふちどりをした畳一畳敷ほどの鏡があった。鏡の表面は曇り、そこに映った私の顔もぼやけ、それが四十一年の歳月を示していた。
鏡とマントルピースに背を向けると、私はしばらく、そこに立っていた。
あのときから日本の新しい時代が始まったのだ。そして、この場合新しいということは破滅へ突入することを意味していた。松岡がそれを意図していたと否とにかかわらず……。
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二章 郷土の人々
ウィルソン記念館の図書館で、ある種の感慨にふけった後、私と寺崎君は駅の方に歩いた。駅の南にある喫茶店の前で、寺崎夫人と私の妻に会い、お別れに中華料理を御馳走になることになっていた。
ジュネーブでただ一軒の中華料理店は、駅前広場の北東にあった。これもかなり古いレストランであるが、松岡たちの一行が、ここに中華料理を食いに来たかどうかはわからない。
外国の中華料理ではしばしばひどい目に会っているので、私は少し警戒していた。ワルシャワの上海《シヤンハイ》飯店では、パサパサの米飯に豚肉入りの汁をかけたチャプスイ一品しか出来なかった。モロッコのカサブランカでは、ホテルのフロントが、チャイニーズ・レストランがあると教えてくれたので行ってみると、ベトナム料理で、小さな茶碗に麺《めん》を盛って出されたきりである。
今回の旅でも、ロンドンのピカデリー・サーカスの中心街にある中華料理店に入ってみたが、高いばかりでうまいものは出なかった。そのようなわけで、ジュネーブの海南酒家で、寺崎君が推薦するタンメンも、実は少し警戒していたのであるが、これは量も多く、汁も、麺もなかなかうまかった。それに、追加で出された春巻も大きくて上々の味であった。私たちは、松岡の演説会場をつきとめ得た収穫と、うまい中華料理の味をお土産にして、午後一時半カルナバン駅発のT・E・Eでミラノに向った。
このあと、ミラノ、ベニス、フローレンス、ドーブロブニク(ユーゴ)、ギリシャ、フランクフルトと回り、日本に帰ったのは、十月二日であった。
帰ると間もなく、「松岡洋右伝記刊行会」というところから、出版記念会の招待状が来ていた。松岡家で書生をしていたことのある荻原|極《きわむ》という人が書いた『松岡洋右――その人と生涯』(講談社刊)という本が出来たので、会を開くから出席されたしというのである。
実をいうと私は、四十九年の夏、松岡洋右を書こうと決意したとき、このような企画が進行していることを知らなかった。その後間もなく、講談社文芸第二部の小杉仙生氏から、この企画の進行を知らされ、本の購入を申しこんだところ、元時事新報記者で松岡洋右の秘書官を勤めたことのある長谷川進一氏から、本を寄贈する、出版記念会にも招待する、という懇切な配慮をいただいたのである。
何にしても、私のように松岡洋右に関心のある者にとって、A5判千二百余ページという大冊の伝記が出ることは有難い。
荻原氏はこの伝記執筆に十二年間をかけたという。既刊の有名人の伝記のなかでも、最も年月と努力のかかった伝記であろう。
私は十一月九日、午後五時から品川駅前のホテル・パシフィック一階藤波の間で開かれた出版記念会に出席した。
この会の発起人には、岸信介、佐藤栄作の、元、前両総理をはじめ、政財界の大物が顔をそろえていた。
私は会場で、長谷川氏から、松岡夫人の竜子さん、松岡洋右の嗣子であるNET副社長松岡謙一郎氏や、ホテル・パシフィックの社長で、満鉄会と「松岡洋右伝記刊行会」の理事長である佐藤晴雄氏らに紹介してもらった。
岸元総理はゴルフ焼けした艶《つや》のよい顔を見せ、佐藤前総理は所用で欠席であったが、佐藤夫人であり、松岡の姪《めい》にあたる寛子さんは顔をみせ、松岡の復権≠ノ興奮気味であった。
復権といえば、この日の東京新聞朝刊の見ひらき特報面には、大きくこの本の刊行の紹介がのっていた。その記事には、「松岡洋右元外相三十年目の復権=vという特号のみだしがつけてあった。なるほど、国際聯盟脱退から四十一年、戦後二十九年たつと、こういう言い方も成り立つものか、と私は考えていた。
会が始まると、日本化薬社長の原安三郎氏があいさつをした。「松岡洋右は誤解されたまま死んで行った。この本が松岡の誤解を解く意味で役立つことを祈る」というような内容であった。ついで、松岡が外相時代の秘書官であった加瀬俊一氏(元国連大使)が立ち、松岡外相について想い出を語った。
最後に、筆者の荻原極氏があいさつをした。「近衛文麿が死んだ後、近衛手記というものが世に出た。これには開戦にもちこんだ多くの責任は松岡にあり、近衛は平和維持のために辛苦をなめたとなっている。しかし、この手記は当時A新聞記者で、現在政治家となっているKという人物が書いたもので、あまりにも近衛の御都合主義によるものである。日本を戦争に追いこんだものは、陸軍の強硬政策に対する近衛の優柔不断な態度であり、もう一つ言えば、近衛のなかにあるエリート意識、ナショナリズムではなかったかと私は考えている」というような内容であった。
原安三郎氏は九十歳であり、いま一人あいさつをした元外交官は九十一歳であった。私は時代の年輪を感じながら出席者の話を聞いていた。松岡の足跡をまとめた大きな本が出てよかった、と考えた。こういう企画がないと、故人の業績は歪《ゆが》められたまま伝わってしまう。遅きに失した憾《うら》みはあるかも知れないが、しかし、このような知己を後世に持つことの出来た松岡は幸せであったかも知れない。この点、文士は全集が残れば、これが全業績であるから、明快でまぎれが少ない。
いま一つ、私は自分なりに一つの危惧《きぐ》を感じていた。このような浩瀚《こうかん》な松岡伝が出た後に、作家として小説・「松岡洋右」を書く以上、なにがしかのレーゾン・デートルがなければならないが、私の貧しい筆がその重責に堪え得るであろうか。私は不安であったが、これをやり甲斐《がい》のある仕事であると自分に言い聞かせていた。
松岡洋右取材の第一歩として私は松岡の郷里を尋ねることを自分に課した。
松岡洋右は、明治十三年(一八八〇)三月四日、現在の山口県光市|室積《むろづみ》町で生れた。当時の表記によれば、山口県|周防《すおう》国熊毛郡室積浦二百三十一番地である。
松岡の家は代々今津屋五郎左衛門と名乗る大きな回漕《かいそう》問屋で、江戸初期から「今五」という通称で、日本中の海運業界に名前を知られていた。
私はまず、この「今五」の旧宅を訪ねることから、日本における取材を始めることにした。
四十九年も押しつまった十二月一日、日曜日、朝九時三十九分新横浜発のこだま号に私は乗った。
名古屋でひかり号に乗り換え、岡山で十四時四十分発の特急つばめ五号に乗り換えた。しかし、列車が発車してから、私は作戦を誤っていたことに気づいた。つばめ五号は目的地の光市に停らない。光に停るのは、つばめ七号かそのあとの普通急行玄海三号である。それならば、私は何も九時三十九分新横浜発のこだま号に乗る必要はなかったので、つばめ七号に間に合う新幹線に乗ればよかったのである。
私はどこでつばめ七号に乗り換えるべきか迷った。そのうちに福山の手前で列車がとまってしまった。尾道三原間で架線事故があったという。私は手元の時刻表をひねくり回した。つばめ五号が順調に広島に着くと、広島始発の急行はやとも号に乗り換えが出来る。この列車は光に十八時十四分に着く。つばめ七号や玄海三号よりは一時間近く早い。但し、つばめ五号が八分以上延着すると広島での接続がきかない。しかし、列車はとまったきりである。私はいらいらしながら腕時計を見ていた。列車の遅延は簡単に八分間のタイムリミットをオーバーしてしまった。もうはやとも号には間に合わない。とすれば早い方のつばめ七号にどこで乗り換えるかである。広島か岩国が候補地であるが、私は目的地に近い岩国を選んだ。輸送が混乱したとき、出来るだけ目的地に近い所に進んで、次の輸送を待つというのがロスを少なくするための私の鉄則である。
しかし、この鉄則は裏目に出た。岩国でおりて、時刻表の黒板を見ると、肝心のつばめ七号がついていない。時刻表を精細に調べると、つばめ七号に限って岩国を通過するのである。それならば一つ手前の広島で乗り換えるべきであった。あまりにももろく破れた鉄則≠フはかなさに、茫然としている私の前に、三十分遅れのつばめ六号が入線して来てとまった。しかし、この列車は光にはとまらない。私はこの列車で徳山まで行って普通列車で光まで戻る手を考えたが、よい列車が見当らない。つばめ六号が発車すると、私は手持無沙汰になって来た。光にとまるはずのつばめ七号の通過を見送らなければならない。私は救いを求めるように周辺を眺めた。岩国は淋しい駅である。江田島の海軍兵学校生徒のとき、錦帯橋見学のためこの駅に降りたが、その頃とさして変っていないようである。
上りのホームに駅そばの看板が出ているのを発見して、私は陸橋を渡った。百二十円也の天ぷらそばを食って、下りのホームに戻ると間もなく、つばめ七号が轟々《ごうごう》と音をたてて通過した。私がそのあとに来た玄海三号で、光駅に降りたのは、午後七時半すぎであった。
駅では光市長秘書室の鈴木さんが待っていてくれた。列車も連絡してなく、また、ダイヤが混乱したにもかかわらず、辛抱強く待っていてくれた鈴木氏に感謝しながら、私は車で室積の金久別館に向った。光市は東西に細長い町で、駅は西の方、虹《にじ》ヶ浜(虹の松原)という海水浴場の近くにあり、東のはずれの室積にある金久別館にゆくには、光市の中心街を抜け、旧海軍|工廠《こうしよう》を右に見て東進しなければならない。旧海軍工廠は昭和十二年頃、呉《くれ》海軍工廠の補助として造られたもので、戦後は新日鉄と武田薬品の工場となっており、ここで働く人々が、光市の代表的な給料生活者層となっているのである。
金久別館は、峨嵋《がび》山という樹木の多い丘をいただく象ヶ鼻という岬をはさんで、室積浦とは反対側の海岸に面している。室積浦の近くには、金久の本館が残っており、ここには甘酸っぱい想い出がある。昭和十六年一月、二十一歳の私は海軍少尉候補生で戦艦伊勢に乗っていた。この月、山本五十六を司令長官とする聯合《れんごう》艦隊は、山口県の室積沖に集結した。一夜、暴風が吹き荒れ、副長の坂田中佐は、若い士官に避難チャージを命じた。避難チャージとは、艦側に舫《もや》ってある小舟艇、主として内火艇や水雷艇を、暴風避難のため近くの港に避退させるものである。まだ半人前の少尉候補生である私は、老練な兵曹長とペアになり、はだしでズボンの裾をまくりあげ、水雷艇を操縦して、荒天のなかを室積港に艇を導いた。艇を舫って陸上で宿泊することとなり、私と兵曹長は金久旅館に部屋をとった。旅館は避難チャージの士官たちでごったがえしていた。私と兵曹長は、やっと一室を与えられ、夕飯を食うことになった。魚どころであるから、膳には鰤《ぶり》の刺身や鮹《たこ》の酢のものなどがついていた。
「おっ、これはいける」
兵曹長は、早速女中を呼んで酒を注文した。酒をもって来ると、女中は兵曹長に「おひとつ」とつごうとした。兵曹長は、「候補生、先にどうぞ」と遠慮した。海軍の序列では、少尉候補生は、少尉の下、兵曹長の上である。
「候補生さん、どうぞおひとつ……」
中年増《ちゆうどしま》の女中は、シナをつくりながら酌をした。このような部屋で女に酌をしてもらったことのない私は、テレながら盃《さかずき》の酒を干した。ほろ苦く、そしてどことなく甘味の残る舌ざわりであった。しばらく応酬が続いた頃、
「豊田候補生、一緒に入れてもらうぞ」
と一人の少尉が部屋の襖《ふすま》をあけた。あとから避難チャージで来た一期先輩のS少尉であった。S少尉は、日露戦争当時、『肉弾』という小説を書いたS少将の甥《おい》にあたる。彼は酒席を見ると、眉をひそめ、私を廊下に呼び出した。
「豊田候補生、避難チャージが酒を呑むとは何事か。大切な陛下の艇をあずかり、重要な勤務中である。あのようなスペさん(特務士官)にさそわれて、酒に酔って急遽《きゆうきよ》帰艦の命令が出たら何とするか」
S少尉はそう言って私を訓戒した。私は一言もなく、早々に飯を食って寝た。
これが私の金久本館での想い出である。
金久別館には最近行ったことがある。
四十七年六月、私は文芸講演会で、光市に行った。このときの同行は柴田錬三郎、黒岩重吾の二氏であった。津山、呉、光、防府《ほうふ》と回ったが、光での宿が金久別館であった。宿に着くと、間もなく、市長の招宴があった。四十そこそこの若い市長は、「松岡満寿男」という名刺を出し、
「松岡洋右は、私の父の叔父に当ります」
と言った。
私は興味を持った。松岡市長の説明によると、松岡洋右は室積港に近い室積浦の町で生れたという。しからば、彼は私が少尉候補生時代に避難チャージとして、冷たいしぶきに濡れながら、艇を繋留《けいりゆう》した室積港の近くで生を享《う》けたのである。また、洋右と金久の主人とは小学校の同窓生で、洋右は金久本館でよく酒を呑んだという。とすれば、彼は私が嵐の夜、酒を呑んでS少尉にたしなめられた金久で、豪酒をたしなんだということになる。私は急に懐しさを感じた。満州を通じて、よく名前を知っていた松岡が室積と有縁の人であることを、私はその時初めて知った。
――松岡洋右を小説に書いてみたいものだ――と私は考え始めていた。
松岡洋右の甥の子息である光市長松岡満寿男氏と初の対面をしてから二年半ぶりに、私は金久別館に泊ったことになる。
その夜、私は室積松原海岸の波音を聞きながら床に入った。
翌朝、店の主人今本保男さんが私を呼びに来た。主人の父である今本鉄三さんに会って話を聞くよう、松岡市長が手筈を整えておいてくれたのである。
応接間で私は鉄三さんと面談した。
鉄三さんは明治二十三年生れ、数えの八十五歳、松岡洋右より十歳年下で、室積小学校の後輩であるというから、洋右が生きていたら、数え年九十五歳になっているはずである。あの自信家で暴れん坊の松岡が、九十五歳の白髯《はくぜん》の老人になっている姿を想像することは、ほほ笑ましい。
鉄三老人の話は、すでに『松岡洋右――その人と生涯』の著者荻原氏が聴取し、主なものは伝記のなかに収められているので、格別目新しいものはない。しかし、実際に長州弁(光は周防の国に属するが)で昔話を聞くのは興味が深かった。
この老人は、話の切れ目に「のんた」という接続詞を入れる。
「そりゃあ、洋右さんの酒というたら、のんた。当時、後に陸軍大臣になった南次郎という人が室積に来ていたけどのんた。どちらも強いと言ったら強い酒でのんた……」
という調子である。
「のんた」というのは、「のう、あんた」という意味らしいが、そのように言語学的に解釈しなくとも、意味は通ずる。
松岡洋右は出世してからもよく室積に帰り、大礼服を展示したりして出世頭としての栄誉を誇示したが、鉄三老人が懐しむのは、やはり、少年時代、郷土の神童としてもてはやされた頃の洋右であるらしい。
洋右少年時代最大の逸話は、「亥《い》の子《こ》祭における警察署長との争論」であるらしい。
「洋さんが十歳のころやったというが、のんた。十一月になると、亥の子祭というて、室積の子供たちが旗を押し立て町内を行進し、菓子や飯を食って騒いで気勢をあぐる祭がありましてのんた。秋にはこれを楽しみにしておりましたんじゃ。ところがその年に限って警察署長が亥の子祭の行事はまかりならぬ、というお達しでのんた。子供たちはがっかりじゃ。そこでのんた。洋さんが代表でかけあいに行ったんじゃ。十歳の洋さんよりは年かさの者もいたんじゃが、なにしろ、弁舌では洋さんじゃ、というのが定評になっておりますじゃろう。そこで洋さんが単身で警察に乗りこんで行った。時の署長は四境の戦い≠ノも出たというた強者《つわもの》でのんた。(四境の戦いとは、元治元年の第一次長州征伐のことで、芸州口、石州口、小倉口など四つの国境で幕軍と長州軍が戦ったために、長州ではこう呼んでいる)洋さんのような子供は相手にしなかったのじゃが、洋さんはしっかり喰い下ってのんた。なぜ亥の子祭がいけないか、と訊《き》く。署長は、町のなかに幟《のぼり》や旗を押し立てて混雑する、また子供がみだりに酒を呑んだりするので風紀が乱れるちゅうて中止の理由を説明したのですがのんた。洋さんは、そういうことがなけりゃあよかろう、ちゅうて、署長と取り引きし、署を出ると、専光寺ちゅう室積浦のなかにある大きなお寺へ行きましてな、和尚と相談して寺の境内を借りることを申し入れた。和尚は、神社でやるべき祭を寺でやるとは無茶な話じゃと思うたが、洋さんの勢いに押されてとうとう承知しましてのんた。盛大に子供たちが寺で祭をやるんで、さすが四境の戦いに出た豪の者の署長も、あっけにとられたという話ですわ」
鉄三老人の説話によると、専光寺亥の子祭の一件は、郷土色豊かなものである。
そして、老人は次のようにつけ加えた。
「この一件がありましてからのんた。室積では、天皇様の次に頭の賢いのは洋さんじゃ、ということになりましてのんた……」
弁舌、頭の回転の早さ、押しの強さは、十歳の頃から松岡の特質であったのである。
老人はこのほか、松岡対南次郎の酒の呑み方など、興味ある話を多くしてくれたが、それは関係のある章で、触れることとしたい。
朝十時、私は鉄三老人と別れて市役所に松岡満寿男市長を訪ねた。松岡市長は早大出身で新日鉄に勤めていたが、三年ほど前、市長であった父の三雄氏が急逝したため、急遽市長選に打って出《い》で、当選して父のあとを継いだ四十そこそこの少壮行政官である。この人が生れた時、洋右は満鉄総裁になる直前で仙台にいたが、満州の満をとって満寿男と命名してくれたのだそうである。はきはきとして活気にあふれているが、
「このへんはフグどころとして有名なので、冬になると、どうも日本酒をやりすぎまして、若いのに肥って血圧が上るので困ります」
と腹をなでながらこぼしていた。
酒の強いのは大叔父の松岡洋右譲りであろうか。それにしては、すぐ近くの田布施《たぶせ》町出身の岸、佐藤の両総理が酒をたしなまないのは、少々不思議ではある。
松岡市長は、洋右の兄|賢亮《けんすけ》の次男、三雄氏の長男である。後でふれるが、賢亮は幼少にして洋右より一足先にアメリカに渡り、三雄もアメリカ生れで、長男の五郎は今でもテキサス州サンアントニオ市に住んでいる。
私は光市を一望のもとに見おろす三階の市長室で、松岡家の家系について興味ある話を多数聞いたが、これらは関係ある各章で紹介することにしよう。
正午少し前、私は市長の案内で洋右の墓に詣《もう》でることにした。
洋右の墓は市役所から東に見える丘の中腹の光立寺《こうりゆうじ》にある。
このあたりは昔|光井《みつい》村と言ったところで、これが後に室積などを併せて一九四三年光市となったのである。
松岡は戦犯として指定されている間に病死したので、侘《わび》しい墓地かと懸念していたが、高さ一メートル余の自然石で、豪華なものではないがさっぱりとしたもので、私に安堵《あんど》の息を吐かせた。
塋域《えいいき》は十坪余で、竹林を背後に背負い、前面に二基の石灯籠《いしどうろう》を従えている。墓域のなかには二基の墓石があり、右側は角の御影石《みかげいし》に「松岡家累代之墓」左側はだるま型の自然石に「松岡洋右之墓」と彫ってある。松岡洋右の方は、先輩の外交官芳沢謙吉外相の筆蹟《ひつせき》である。
自然石は右側の中程が横にふくらみ、達磨《だるま》大師が懐手《ふところで》をしたような恰好で私の気に入った。しかし、私はその懐手をした達磨大師を眺めながら、松岡に対して無念の情を禁じ得なかった。
――なぜ、死ぬ前に真実を自ら書き残してくれなかったのか――
松岡が「肺結核兼慢性|腎臓《じんぞう》炎」のため東大病院で逝去したのは、昭和二十一年六月二十七日のことである。松岡は戦犯に指定されており、裁判は進行中であった。
『日独伊三国同盟回顧』及び『欺かれた歴史』の著者、斎藤良衛(松岡が外相当時の外務省顧問)は、「松岡が死ぬと、他の被告たちがすべての罪を松岡に着せようとしたことは公然の秘密であった」と書いている。
『松岡洋右――その人と生涯』(以下、『人と生涯』と略記する)はその最終章において、松岡の死の直後、被告たちが己だけは助かろうと、罪を松岡一人に押しつけようと泥仕合を演ずるさまを苦々しげに書いているが、そのなかでも、武藤章中将の松岡論は極端なものである。東京裁判記録にのっている武藤の供述には「三国同盟を成立させたのは松岡外相の活躍によるもので、松岡外相は非常な自信家で、独断をもって三国同盟締結に突進した。決して陸軍が主導したわけではありません」という意味の証言が見える。昭和十五年夏、陸軍が三国同盟反対の米内《よない》内閣を倒すため、畑陸相を辞職させ、かわりの陸相を出すことを拒否して米内内閣を総辞職に追いこみ、ついに同年九月の同盟締結にいたったことは周知の事実である。
当時軍務局長であった武藤がそのいきさつを知らぬはずはない。しかし、彼は「私はこの条約について知るところが少なく、枢密院の審議会で、条約局長が条約文の解釈をするのを聞いて初めて知ったほどです」ととぼけている。松岡が生きていたら、いかな厚顔な武藤といえどもこのようなとぼけ方は出来なかったことであろう。
死ぬ者貧乏≠ニいうが、松岡は裁判進行中の死という不幸な最期のため、他の便乗主義の被告たちによって利用され、日本の孤立化と開戦への共同謀議の最大の責任を負わされたのである。松岡はこの前年、終戦の年、近衛文麿が残した「近衛手記」によっても、三国同盟推進の首謀者とされている。
私は松岡が真相を書き残す時間を与えられなかったことを惜しむと共に、他の被告たちが保身に汲々《きゆうきゆう》として、死者にすべてをなすりつけようとする態度を世界にさらしたことを残念に思う。
三輪公忠『環太平洋関係史』も、「松岡は天皇側近の重臣、公卿、貴族の伝統的な保身術の犠牲にされたのだ」と書いている。
私は、松岡の墓の前にしばらく立っていた。「人の評価は棺を蔽って後定まる」といわれるが、死後も誤解され続ける人物も少なくない。松岡もその一人である。
私は拙《つたな》い筆をもって、真相を究明すべき責任を自分に課することにした。松岡が背負わされている誤解を解くのが、私の一つの責務となったのである。
墓地の近くに光立寺の本堂がある。
ここの庫裡《くり》で、私は住職の松尾英世さんに会い、松岡の話を聞いた。
住職の話によると、松岡は大変な親孝行であったらしい。
「昭和七年、国際聯盟脱退の前年、ジュネーブに出発する前、洋右さんは室積の実家に帰って来ました。実家には母のゆうさんが健在でした。この人は大変きびしい人で、洋右さんがいたずらをすると、掌の甲を必ず三回つねったそうです。三回というのは当時の女性としてはかなりきついやり方でしょう。そして、さらにいうことを聞かないときには土蔵にほうりこんだそうです。ですから、強気の洋右さんもお母さんには非常に従順でした。それで、いよいよ全権の大任を背負ってジュネーブに行く前には、故郷に帰り、親任官の正装を着てお母さんの前に両手をついて、『今度は大切な仕事を陛下から直接命じられました』とあいさつしたのです。このときはそれほどではありませんでしたが、いよいよ国際聯盟を脱退して昭和八年五月、再度郷里を訪れたときは、大変警戒が厳重でしたね。私はこの年、四月に洋右さんが浅間丸でハワイ経由で帰って来るのを横浜まで出迎えに行きました。このときも、横浜|埠頭《ふとう》は警官がいっぱい出て大変な警護ぶりであったことを覚えています」
住職はそのように松岡渡欧当時の回想を語ってくれた。
「国際聯盟脱退」の声明をして帰国した松岡に対して、なぜそのように警護が厳重であったのか、私には少々合点がゆかなかった。
この三年前、総理・浜口|雄幸《おさち》が右翼の佐郷屋留雄に狙撃《そげき》されているが、これはロンドン条約可決にからんで、内閣が勝手に勅許を仰ぎ、「統帥権干犯」を行ったものとして、浜口に天誅《てんちゆう》≠ェ加えられたものである。
しかし、国際聯盟脱退は、あくまでも満州における日本の権益を擁護するため、あえて国際的孤立化に踏み切ったもので、当時の日本人の大部分からは壮挙≠ニみられていたものであった。その壮挙の中心人物松岡洋右を暗殺しようと企んだ人間がいたのであろうか。
よくわからないが、これは当時の官憲の事大主義ではないか、と私は考える。
国際聯盟脱退のニュースを聞いた日本では、提灯《ちようちん》行列をもって松岡全権一行を出迎えようという位の熱狂ぶりで、松岡は一躍英雄となったのである。この英雄に万一のことがあってはならない。この英雄を狙う不心得者がいようとは考えられないが、大物である以上警護もそれに相応した手厚さでなければならない。当時の警備当局の考えは、このようなものであったのではないか。
松岡は今でいうVIPの扱いをうけることになったわけである。
光立寺からの眺めは、なかなかよろしい。
右の方つまり西南の方向にはかつての光海軍工廠、現在の新日鉄、武田の工場があり、鉄塔が乱立して殺風景であるが、その左方、つまり南の方は、白砂の見事な浜である。沖には小水無瀬《こみなせ》、大水無瀬の二つの小島が見える。さらに南東方には峨嵋半島が弓形に突出して室積港を抱いている。
このあたりの海岸は虹の松原と呼ばれ、いわゆる白砂青松の景勝地で、瀬戸内海国立公園の一部である。
光立寺の丘をおりた後、市長は私を市東方の健康保険センターに案内した。ここは室積港を見おろす丘の上にあり、正面は峨嵋半島と、その突端の象ヶ鼻岬や室積灯台も俯瞰《ふかん》される。景色のよいところに大衆向けの保養センターを誘致したものである。私はここで、室積名物、磯料理の盛り合せを御馳走になった。
五十センチ以上もある舟形の容器に、横幅二十五センチほどの大きなワタリガニや、伊勢エビの刺身、ハマチの姿造りなどが盛られている。エビはまだ生きていて、頭のヒゲをふるわせている。カニの甲羅にいっぱいつまっている黄色いミソをほじくり出しながら、私は三十四年前の冬を回想していた。あのとき、少尉候補生であった私は避難チャージとして室積港に入り、金久本館で、魚料理の御馳走を目の前にしたのであるが、S少尉の「勤務中に何事であるか」という一喝を受け、食事もそこそこに床へ入ってしまったので、名物の魚の味もろくに舌の先に残ってはいない。
それから三十四年後のこのときは、もう少尉候補生ではなく、きびしい上官もいないので、磯料理を心ゆくまで賞味させてもらった。
私が食事をした部屋からは室積湾がよく見える。名前の通り彎曲《わんきよく》して海中に突出している象ヶ鼻岬の先に、室積の灯台が立っている。ここに灯台が建ったのは古いことで、最も古いものは元禄十五年赤穂浪士討ち入りの年に建てられたそうである。
光地方史研究会の野田一氏が「広報ひかり」に書いた文章によると、元禄十四年室積浦の百姓松村屋亀松という者が、御手洗《みたらい》の洲《す》(現象ヶ鼻岬)の先に自力でもって灯籠堂(灯台のこと)一基を造りたい旨を藩に申し出て許可を受け、翌元禄十五年に完成したものであるという。
このとき亀松が呈上した灯籠堂寄進趣意書によると、「この港の入口に灯籠堂を造れば、諸国の船が出入りするのに便利で室積浦の収入もよくなって来ると思われます。私の父次郎左衛門は、前からこの浦のために尽したいと考え米や金銀を貯えていましたが、このほど急死しましたので、父の遺志により、この地に灯籠堂を建てたいと考えた次第であります」となっている。
江戸の初期にも先見の明のある人はいたのである。
松岡洋右の先祖は、この室積浦で通称「今五」といって、今津屋五郎左衛門を名乗る回漕問屋であった。
森清人著『人間松岡の全貌《ぜんぼう》』(昭和八年、実業之日本社刊)によると、今五はもと毛利藩の武家の育ちで、回漕問屋といっても企業の幅は広く、近代でいう兌換《だかん》銀行と汽船会社と倉庫業を兼ねた豪商であったという。毛利家の御武育蔵(軍用品糧食などを貯える蔵)を預っていたので、海岸には今津屋の蔵が並び、「東は米倉、西は金倉」と歌われた時代もあった。
松岡家の菩提寺《ぼだいじ》は、先に私が参詣《さんけい》した光立寺であるが、ここの過去帳によると、松岡家の祖先は、釈祐玄信士という戒名で、延宝四年(一六七六)没したとなっている。延宝四年は、四代将軍家綱の治世であるから、百姓松村屋亀松が、灯籠堂を寄進した元禄十五年には、今津屋はすでに室積浦で営業を始めていたとみてよかろう。今五の船は、亀松が寄進した灯籠堂を右に見ながら帆を張って、諸国の港に交易に出かけたものであろう。今五の交易範囲は中国一帯はもちろんのこと、関西、江戸から北陸、松前に及んでいた。その全盛時代には、小判を包む紙に「今五」という判が押してあれば、中身が瓦でも通用したという話や、今五の全盛時代には、室積湾に船を出して花火をあげたという話も伝わっている。
松前から鰊《にしん》や昆布《こんぶ》を積んで長州藩相手に商売をしに来るあらくれ船頭たちも、「今五」の機嫌を損じると、商いが出来なくなるので、「今五」の帆をあげた船の前では大人しくしていた。幕末の頃には奇兵隊の高杉晋作や山県狂介(有朋)ら長州の革新派を庇護《ひご》し、坂本竜馬も来て泊ったことがある。
高杉晋作は長州征伐のときは、峨嵋半島にある古刹《こさつ》普賢寺や先述の専光寺に兵をひきいて駐屯したこともある。
室積浦の名は、今は知る人も少なくなったが、日本史に名前を出したのはかなり古いことである。『防長風土記』(野村|春畝《しゆんぽ》)によれば、室積湾はその昔、御手洗湾といったという。その所以《ゆえん》は、神功皇后が三韓征伐のとき、ここに滞在し、おだやかな海の水で手を洗ったというので、この名前がついたという。
また、室積の由来も、湾のなかが丁度、室《むろ》のなかに住むように峨嵋半島に抱かれているところから来たといわれる。
『人と生涯』によると、今津屋の屋号は関西から来たものらしい、という。琵琶湖の北西岸にある今津あるいは、神戸に近い今津がその原住地ではなかったかという。
松岡洋右は、よく「おれの先祖は海賊だったらしい」と洩らしていたそうである。
郷土史家の説によれば、「幕末の室積には十八軒の海賊衆が残っており、今津屋もその一軒である。海賊衆というのは盗賊ではなく、回船業を営む海上貿易商というべきもので、瀬戸内には今津屋という海賊衆が七軒あった」となっている。
以上を総合してみると、松岡の先祖は関西の今津からやって来た回船業者の一軒で、これが良港室積に土着し、長州藩士と縁を結び、近海に重きをなすようになって来たものではあるまいか。
もっとも、松岡は第二次世界大戦後戦犯に指定され、病気が重くなってからは、悲観的になり、「おれは先祖が海賊だったから、このような業《ごう》に苦しめられるのだ」と憂鬱そうに語っていたそうである。しかし、これは彼が落ち目になったための鬱病的発作とみられる。気鋭の頃の松岡は、先祖が海賊であったことを自慢にしていた様子がみえる。日本が海外に進出し、満蒙《まんもう》をはじめとして権益を増大するため、その尖兵《せんぺい》の役割を演ずるのを、光栄と感じていたのではあるまいか。
食事を終り、健康保険センターを出た私は、旧室積浦の町におり、松岡の実家、今津屋跡を訪ねることにした。
古図面によると、今津屋はかつての室積浦の目抜き通りと思われる通りを挟《はさ》んで、両側に店と蔵を持っていたことになっている。明治初期の図面によると、海側に狭い四区画、山側にかなり広い三区画が松岡三十郎の名前で表記されている。三十郎は洋右の実父で、今津屋十代目の当主である。
松岡洋右は明治十三年(一八八〇)三月四日、松岡三十郎の四男として生を享けた。母は前にも述べたゆう女で、正しくは※[#「鹿/匕」、unicode9E80]と書いてゆうと読ませる。
出生地は山口県熊毛郡室積浦二百三十一番地である。今五の屋敷内で生れたのであるが、海側であるか山側であるかはよくわからない。
それはともかく、私はかつて道の両側に今五の屋敷や蔵の並んでいた地点に松岡市長と共に立ってみた。
無論、全盛を極めた頃の今津屋の家屋敷は跡形もなく消えている。しかし、このあたりはれんじ格子の古びた家屋が軒を並べ、かつては繁盛した港町の面影を偲《しの》ばせる。
今津屋の旧本宅跡といわれる所に元海軍中将の妹尾《せのお》知之という人が家を建てて住んでいる。この家の裏に、洋右が産湯をつかったという井戸が残っているから、洋右はここにあった居宅で生れたのかも知れない。
妹尾さんは海軍兵学校六十六期生妹尾知明氏の父君である。知明氏は私より二期先輩で、最近も横浜の有隣堂の新館落成記念の会で会ったことがある。
妹尾知之氏は、昭和十六年一月、聯合艦隊が室積沖に集結したときの光海軍工廠長であった。聯合艦隊参謀長として有名であった宇垣|纒《まとめ》少将の『戦藻録《せんそうろく》』にも、「山本五十六長官、妹尾工廠長と金久旅館で会食す。魚は豊富にして美味なるも、女は問題にならず」という意味の記述が見えている。
妹尾工廠長は長く光市に勤務し、遂にここを永住の地と定めたのである。その地が松岡洋右の生地であったとは、奇《く》しき因縁であると言えようか。
妹尾さんは折よく在宅で、松岡洋右に関して次のような話をしてくれた。
「福留繁(中将、妹尾氏と同期、聯合艦隊参謀長、第二航空艦隊司令長官)の『帝国海軍の反省』という本に松岡論がのっている。それによると、松岡洋右はアメリカを知りすぎていてかえって失敗を招いた、ということになっている。かつて松岡が友人にアメリカを語っていわく、『アメリカ人というのは勇敢な相手に敬意を払う。初めからお辞儀をして来るような弱虫は軽蔑《けいべつ》する。まず強い一撃をくらわせてから話し合いに移るような相手に敬意を表するのだ。だから、こちらも強気強腰で押してゆかねば、アメリカと対等に渡り合うことは難しいのだ』と。しかし、あまり強気になりすぎて、ついにアメリカの本腰を入れた反撃をくらうことになったのだ、と福留は書いているね」
これを聞いて、私は一部は当っているだろうと考えた。確かに少青年時代アメリカ生活を長くおくり、外交官となってからも、米国駐在の経験のある松岡は、誰よりもアメリカを知っているという自信を持っていた。しかし、そのために、彼が真珠湾の一撃に至る軍部の強気の作戦をバックアップしたと考えるのは行きすぎではないか。松岡には松岡の画策があったはずである。ルーズベルトと、太平洋上で不戦条約を結ぼうと企図していた、松岡の遠謀を私は信じたい。
妹尾邸の左隣に興味ある人物が住んでいた。洋右の幼な友達で数え九十三歳(明治十五年生れ)の津川テルさんというお婆さんである。この品のよいお婆さんは、喜久屋という古い回漕問屋に近くから嫁にきた人である。喜久屋は今五ほどではないが、名の通った回漕問屋であった。今五は、明治中期、洋右の兄賢亮を十一代として倒産、のれんをおろしたが、喜久屋は生き残ったとみえて、こちらの家は随分古い家である。入るとすぐ土間になっており、左側に上り框《かまち》がある。その奥の部屋で、九十三歳のテルさんはこたつに入っていた。
洋右の話をすると、白髪の老女の頬に血の気が上った。
「洋右さんには、よく御馳走を造って食べさせてあげた。私は小学校が一緒で小さいときから知り合っていた。えらくなってからも、室積に帰って来ると、必ずこの津川の家に寄るもんで、私が手料理をつくって食べさせました。私の作るものなら、何でも喜んで食べてくれましたな、洋右さんは……」
老女は親しみをこめてそう語った。
「どんなものを喜んで食べたんです?」
「そう、一番好きなのがけんちん汁、それから野菜のたき合せや、焼き豆腐も好きじゃった。それがのう、ぱくぱくとよう食べなさってのう……」
「酒はどうでした?」
「お酒は強かった。そして酔うといつも槍さびを歌っていなさったな……」
老女は、遠い所を眺める目付きをしてみせた。――ひょっとしたら――と私は考えていた。このテルさんにとって、幼い頃の洋右は初恋の人だったのではないか。二つ年上で、元気のよい暴れん坊、しかもフェミニスト?の少年がいたら、少女が恋に似た淡いものを感じたとしても不思議ではあるまい。
「どんな人でした? 松岡さんは……」
と私は訊いてみた。
「ええ、そりゃあ、えらい人でした。親思い、子供思いで、目下の者を可愛がっていましたな」
老女はそう言って洋右を懐しむと、さらに話を続けた。
「ジュネーブから帰って来たときは、私たち一同そろって松原口(虹の松原の近く)まで出迎えましたがな。八幡様で祝賀会があり、招魂社(峨嵋半島にある)で洋右さんの演説会がありました。――それがのう、つい最近のことのように思われますがな……」
老女の回想はさらに次のように続いた。
「洋右さんは苦労して育ったもので、他人には同情が深かったわな。いくら出世しても決して威張らんかった。大変な親孝行でな。もう大人になって外交官になってからでも、外国へ行くときは、母のゆうさんが『洋右、海が荒れているときは乗るでないぞ』というので、船に乗るときは、必ずお母さんに『今日は海は荒れておりません』そして船が安着すると、『お母さん、無事に着きましたよ』という電報を打って来ましたぞな」
津川家を辞した私たちは、その向い側の小路を入り、海岸に近い古い家を訪れた。この家は今五の旧宅のものではないが、明らかにかつての海岸の土蔵(今はない)とつながっていた跡があり、傾いてはいるが明治中期の建築であった。
この家に現在住んでいる人は、松岡家にゆかりの人ではないが、この家にはかつて、洋右の母ゆう、姉の松枝、妹の藤枝(佐藤寛子の母)などの女性が住んでいたと伝えられる。気性の激しいゆうは、娘たちをきびしくしつけたのであろう。この家のれんじ格子や古びた壁のかけ時計には、明治の匂いがしみついているようであった。
さて、私の室積探訪も終りに近づいた。
陽が徳山湾の方面に傾いた頃、私は最後の取材の場所、松岡別邸を訪れた。別邸は峨嵋半島の途中、室積湾に面した海岸にある。大正期に建てられた総檜《そうひのき》の瀟洒《しようしや》な純日本家屋で、今は松岡市長が住んでいる。
松岡の今津屋は幕末の頃から急に衰えて来た。通説では長州征伐のとき、毛利藩の軍用金を一手にひきうけたためとなっているが、それが大きな原因ではない。確かに高杉晋作の奇兵隊と資金繰りの件で談合などしてはいるが、倒産の原因はほかにある。それは海運業界の変遷である。瀬戸内を海運の主航路とする時代は過ぎ、経済の中心はようやく関東に移りつつあったのである。そして、最も大きな原因は、家督を継ぐはずになっていた洋右の長兄英太郎、次兄勧治郎の遊蕩《ゆうとう》であった。この二人は、室積や徳山の花柳界で蕩尽を極めた。そして、洋右が五歳の頃には五円の金を借りるのに、母と共に防府《ほうふ》の親戚《しんせき》を訪ねるほど窮迫し、ついには三男賢亮と四男洋右はアメリカへ行くことになるのである。
この後、今津屋の邸宅はほとんど人手に渡り、洋右が日本に帰って来ても住む家はなかった。そこで、外交官時代の洋右が、眺めのよい所に今津屋別邸という形でこの家を建てたわけである。
松岡満寿男氏は、この家に興味ある人物を呼びよせてくれた。
それは、松岡が満鉄の理事となり防府に家を建てて住んだ頃、お手伝いとして働いていた吉永ミカさんという明治四十年生れの女性である。
吉永ミカさんが防府にあった松岡邸に奉公にあがったのは、大正十年十四歳のときのことである。
この頃の松岡は多忙であった。
大正二年二等書記官として米国大使館勤務を命ぜられ、大正四年四月兄賢亮を失う。五年六月一等書記官に昇進、同七月帰国。外務省勤務となり、六年十一月本野一郎外相の秘書官、七年五月総理原敬の秘書官を兼任。八年二月欧州大戦講和会議全権随員。九年三月外務省政務局勤務。十年七月満鉄理事を拝命、となっている。
この年松岡は四十一歳。あぶらの乗り切った男盛りで、仕事盛りでもあった。
そして大きな転機にも直面していた。それは明治三十七年から十七年間勤めた外務省をやめて、満鉄に移ろうとしていたのである。
野人肌の松岡は官僚政治の内幕を知るにつけ、そろそろいや気がさして来ていた。ベルサイユ会議に出席して列国の動き、世界の情勢などをみるにつけ、一外務官僚であることをあきたらず考えていた。彼の理想は世界を動かす大政治家であった。そこで、大正九年三月政務局勤務を命ぜられてからは、もっぱら防府の自宅で読書にふけり、人と会い酒を呑んで浩然の気?を養っていた。
この年五月彼は間島《かんとう》(満州と朝鮮の国境の北にある)総領事を命ぜられたが辞令のみで赴任せず、防府で次の飛躍に備えて勉強をしていた。
十四歳の吉永ミカさんがお手伝いにあがったのは、このような時代の松岡家であった。
奉公にあがってまずミカさんが担当したのは、酒の肴《さかな》をつくることと、主人の食卓に運ぶことであった。
洋右は前に津川テルさんが言った通りにこの時もけんちん汁や焼豆腐が好きであったが、人が来るとふぐの刺身やちり鍋《なべ》、鯛《たい》の吸いものなども好んで食べた。
十四歳のミカさんは、懸命に料理を習い、洋右の食卓をにぎわわせたが、何よりも驚いたことは、洋右の酒の強さであった。人の訪問を喜ぶ洋右は、町の人が来ると喜んで迎え入れ、得意の髭《ひげ》をなでながら談論風発したが、時には一人で黙って酒盃《しゆはい》をふくんでいることもあった。アルコールは日本酒、ビール、ウイスキー何でもやった。松岡は天成の酒豪で大抵の客は酔いつぶれてしまうのであるが、二人だけ最後までつきあう豪酒家がいた。松岡が日露戦争直後、満州南端の関東都督府勤務で大連にいた頃、酒豪三羽烏として並び称された関屋貞三郎と南次郎であった。関屋はこの頃、牧野伸顕宮内大臣の下で次官を勤め、南は少将に進級して盛岡の旅団長でもあったが、二人とも松岡を懐しみ、関西に用事があると、防府の松岡邸を訪れ、痛飲した。
十四歳のミカさんにとって、これら後の有名人が酒を競い合う姿は、ただただ驚異そのものであって、御用第一に膳や酒を運ぶのであるが、それぞれの酒癖は少女にとって興味深く映るものがあった。
松岡の酒は愉快な酒で、酔っても女に溺《おぼ》れる性質とは異っていたが、それでも大酔すると、酒を運んで来た少女ミカに向ってこういうことを言った。
「おい、ミカ子よ。お前さんはな、このわしを仕方のない呑み助だと考えておるじゃろう。色気も何もなしで、ただ酒を呑みまくる。しかしな、このわしでも、時には芸者にもてることもあるんだぞ。あまりばかにするな」
しかし、松岡はついにそのもてた芸者について、具体的にミカ女に語ることはなかった。
『人と生涯』の荻原極氏も書いているが、松岡の女性関係については、ついに匂いをかぐことが出来なかった……とあるように、松岡の酒は野人の酒、書生っぽの酒であって、情緒|纏綿《てんめん》とは程遠かったように思われる。
防府にミカが奉公していたとき、洋右の母ゆうが同居していた。ゆうは長命で、昭和十一年二・二六事件の年に九十四歳で世を去るのであり、防府時代は七十九歳であったが、非常に元気なお婆さんであった。冗談をいうのが好きで、洋右の顔を見ると、
「洋右、お金をたんとおくれ。わたしはもう長くないもんで、地獄に行ったら金をばらまいて鬼たちの機嫌をとらにゃいけんからのう」
とせがむのが常であったという。
吉永ミカさんの回想話を聞いた後、私は松岡邸を辞して金久別館に戻った。この日の夕食は松岡が愛したというふぐちりであった。一人前の小さな土鍋に入ったふぐの骨付きをつつきながら、私は松原海岸の波の音を聞いていた。夕刻から小雨であったが、夜に入ってかなりの雨となった。雨が砂をうがち、風が松の梢《こずえ》をゆする音を聞きながら私は浅酌を試みた。松岡の生地が歴史に縁の深い所でよかった、と私は思った。
歴史は人の営みを伝える。人は歴史に学ぶことが多いが誤った歴史は誤った教えを残す。私は光市室積の歴史のなかでも大きなエベントである松岡の生涯が誤って伝えられたくない、と考えた。高杉晋作や山県有朋らが作った歴史が正しく伝えられることを望むと同じように、松岡洋右が歩いた昭和の歴史も正しく伝わって欲しいと、松風の音を聞きながら念じた。
松岡洋右は七人兄妹の四男であるが、上の三人は、父三十郎の先妻|於幸《おゆき》の腹である。於幸は徳山の酒造家から嫁に来たのであるが、長男英太郎、次男勧治郎の放蕩に頭をいため、命をちぢめたといわれるとある伝記には書いてあるが、これはいかがなものであろうか。於幸が没したのは慶応二年(一八六六)六月である。これに対して長男英太郎は安政五年(一八五八)生れ、次男勧治郎は元治元年(一八六四)生れである。母の於幸が没した年には、英太郎は八歳、勧治郎は二歳であるから、遊蕩とは関係がなかったのではないか。
洋右や洋右の兄賢亮の母ゆうは、二男二女を生んだ。このゆうの実家は徳山藩の名門である。ゆうの父は徳山藩の評定役《ひようじようやく》を勤めた小川道平という学者で号を乾山と言った。乾山は防府では聞えた学者で、洋右の命名者でもある。晩年の洋右は違うが、生れたばかりのときは、両眼が少しおちこんでいたらしい。これをみた小川乾山は、「眼の凹《くぼ》んでいるのは頭がよい」といって、名づけ親を承諾してくれたという。洋右の由来は、『中庸』のなかに「洋々|乎《こ》として其《そ》の上に在り。其の左右に在るが如し」とあるのによったという。松岡はこの句の意味を、「徳の盛んな有様らしい」と説明していた。
洋右の生れた頃、今津屋の松岡家はすでに左前であったが、儒学者の家に育った母ゆうは、勤倹を旨とし、子供たちをきびしくしつけた。
先妻の子の放蕩に苦しんだ彼女は、頭のよい四男の洋右を頼りにした。古今の英雄や学者豪商の話をすると、
「洋右や、早くえらくなって、松岡の家を復興しておくれ」
と涙をうかべて頼むのが常であった。
親孝行で母には従順な洋右少年も、外では暴れん坊であった。体は小さいが弁舌が達者であった。
当時室積小学校には江ノ浜、西ノ浜という漁師町の漁師の子が多数就学していた。常に危険にさらされている漁師の子は気が荒く体も大きくて、いわば暴力団的存在であった。しかし少年洋右は敢然とこれに挑戦した。腕力ではかなわないので、正論を立て、生来の天才的な能弁でまくしたてるので、さすがの漁師の悪童たちも一目おき今津屋の若だんさあ≠ノはかなわん、とこぼすようになった。洋右は自分の理論で屈服させた相手を子分にして、これをひきつれて浜をのし回った。前に書いた祭の件で警察署長と話をつけ、専光寺で祭を行ったという物語はこの頃のことである。
洋右の弁論は村でも有名だったが、少年のこと故、屁理屈《へりくつ》みたいなものも多かった。
当時の室積小学校長柳川陽明の回想談にこういうのが残っている。
ある日松岡が、「校長先生は周防の国一の物知りということですが、便所に入ってしゃがんだ時両手でつかまえる板を何というかご存知ですか?」と問うた。柳川校長は、弁論家だといっても子供だな、物を知らない、と苦笑しながら、
「あれはな、松岡、キンカクシというんだ」
と答えた。すると松岡は言下に、
「では、校長先生、女が入った場合は何というんですか?」
と訊いた。
校長はぐっと言葉につまり、松岡は得意顔であった。校長は、今津屋の若だんさあ≠ノ、ひっかけられたのであった。
この当時、教員の間には「松岡時間」「松岡嵐」という言葉がはやっていた。松岡の質問攻めで喰い下られると、一時間の授業が単なる質疑応答になってしまい、少しも前に進まない。こういうとき、教師は「今日も松岡嵐にやられた」と頭をかきながら、教員室に戻って来るのであった。
前にも書いたが、洋右は親孝行な子供であった。しかし、『松岡洋右――その人間と外交――』の三輪公忠氏が調べたところによると、その親孝行の内容は、時に茶目っ気の多いものであったらしい。この頃、松岡の父三十郎は米相場に手を出して失敗し、今津屋の身上《しんしよう》は完全に左前であった。父は金策のため長崎や大阪へ出かけてなかなか帰って来ない。帰って来てもヤケクソになって芸者をあげて酒を呑んだりする。そのようななかにあって、きびしいながらも明るい母のゆうは、よく冗談を言って、賢亮や洋右の気を引き立てようとした。
松岡は頑張り屋であったが、ユーモアを解した。母子はよく冗談を言いあって、暗い家庭の気分を引き立てようとした。その内容は今残っていないが、後世の母子のやりとりによって、二人の間の親密さを推察することが出来る。
松岡の母はかなり酒がいけたが、松岡はかなり出世してからでも、母に焼酎《しようちゆう》以外を呑ませようとはしなかった。ある日夕食のとき甥《おい》の五郎がその理由を訊くと、洋右は、
「考えてもみろ。おれはいつも重任を帯びて国の内外を往来する。いつ大事が出来するかも知れぬ。そうなると、いつも上等な清酒やウイスキーをさしあげていたのではダメになる。従って平生から安物の焼酎に慣れておいてもらった方がずっとよいということになるわけじゃないか……」
これを聞いて、母のゆうは、「またいつもの洋右の屁理屈が始まった」と苦笑しながら焼酎のグラスを口に運んでいた。
中年の洋右は日本にいるときは母と共に住むのが常であったが、よく風呂場に母を呼んでは背中を流させた。これも甥の五郎には不可解のことであった。松岡が四十歳のとき、母のゆうは七十八歳であった。ある日、五郎はなぜこんな老人に背中を流させるのか、そのわけを洋右に問うてみた。
「それはな、わしが御用で忙しいので、さぞかし疲れてやつれていはしないかとお母さんは日夜心配しておられる。そこでわしの隆々たる体をみてもらい、安心してもらうためじゃよ」
しかし、これも単なる理屈であった。要するに、洋右は母に触れてもらいたいのであった。幼いとき苦労して自分を育ててくれた母に自分の元気な体を誇示し、こんなに元気です、と甘えてみたいのであった。また十三歳からの最も多感な九年間を、母から離れてアメリカで暮らしていたことも大きな理由であったろう。今流にいうならば、スキンシップを楽しんでいたのである。このような小児的な甘えや、自己顕示は終生松岡の特質であり、それがまた彼を大外交官たらしめた大きなエレメントでもあった。
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三章 アメリカ時代
松岡洋右がアメリカに渡ったのは、日清戦争の前年明治二十六年三月のことである。
十三歳の少年がアメリカに渡るのであるから、これにはいろいろな原因があった。
その原因を説明する前に、当時の同級生松田清七が松岡の壮行に際して読んだ「送別の辞」が残っているので、ここに紹介しておこう。
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嗟《アア》、明治二十六年三月ハ君ニ於《オイ》テ如何《イカ》ナル時ゾヤ。即《スナハ》チ是《コ》レ君、初等教育卒業ノ試験アリテ、而《シカウ》シテ其ノ卒業証書ヲ得ルノ時タリ。余聞ク、君、其ノ瞬月ヲ待タズ、太平洋モ広シトハセズ、将《マサ》ニ飛ンデ亜米利加洲《アメリカシユウ》ニ遊バントスト。君|或夜《アルヨ》来リテ余ニ告グルヤ、余、徒《イタヅ》ラニ狼狽《ロウバイ》シテ為《ナ》ス所ヲ知ラズ。只一言モ出ス能《アタ》ハズ、唯汗背ヲ沾《ウル》ホシ余モ亦《マタ》君ト飛ブノ心セリ。君、帰途ニツク、余、茫然トシテ之《コレ》ヲ送リ、愁然トシテ楽シマズ。曰《イハ》ク、嗚呼《アア》、吾ガ良友ヲ失フト。
余、君ト交ル|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ココ》ニ数年、常ニ君ノ大胆剛気、必ズ将来為ス有ル友タリト思ヘリ。然《シカ》ルニ一朝ニシテ君ト別ル。豈能《アニヨ》ク懐ニ介然タランヤ。然レドモ、会者定離《エシヤジヨウリ》ハ天則タリ。何ゾ又去ルヲ憾《ウラ》マンヤ。※[#「玄+玄」、unicode7386]ニ聊《イササ》カ鄙辞《ヒジ》ヲ述ベテ其ノ行ヲ送ルト云フ。(『人間松岡の全貌』より)
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日清戦争の頃といえば今から八十年前であるが、十三歳の子供にしては難しい文章を立派にこなしたものである。
では当時、洋右はどの程度の文章を書いていたのか。
『人と生涯』に雑誌「キング」に載った柳川陽明校長の「先生の見た腕白小僧・松岡洋右」記載の洋右が転任する柳川校長を送る辞が紹介されている。
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校長先生ヲ送ルノ辞
歴山《アレキサンダー》大王常ニ人ニ語ツテ曰ク「吾ヲ生ム者ハ父母ナリ、吾ヲ教ヘテ人タラシメル者ハ教師ナリ」ト。生等、今日先生ト※[#「玄+玄」、unicode7386]ニ袂《タモト》ヲ分ツニ当リ、覚エズ彼《カ》ノ大王終生報恩ノ語ヲ欽慕《キンボ》セザルヲ得ズ。是レ則《スナハ》チ、先生ガ時々生等ニ教訓セラレシ例話ナレバ也。
先生常ニ教戒シテ曰ク、大器ハ晩成スルモノナレバ、君等時代ニ於ケル所謂《イハユル》頑童タル、敢《アヘ》テ別ニ咎《トガ》メズト雖《イヘドモ》、苟《カリソ》メニモ恩ヲ忘レ義ニ背クノ行為ハ、将来人トシテ必ズ成功スベキ所以《ユヱン》ニ非ズト。
生等、今日ノ別離ハ或《アルイ》ハ師弟トシテ永遠ノ訣別《ケツベツ》タルナキヤヲ悲ムト雖、然シ先生ガ彼ノ教訓ハ生キタル永遠ノ教師タルコトヲ想ヒ、各自前途ノ光明ニ向ツテ身ヲ立テ、道ヲ行ヒ盟《チカ》ツテ先生ノ期待ヲ空《ムナ》シウセザルコトヲ期ス。男子、涙ナキニ非ズ、別離ニ臨ミテ注ガズ。謹ミテ、先生ノ健康ヲ祈ル。
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この文を読み上げながら、洋右はぼろぼろ涙をこぼして泣いた、と柳川校長は書いている。多感な松岡少年らしい文章である。この文章は渡米の前年あたり、洋右十二歳頃の文章であろうか。首尾よく整い、当時の漢文教育を想わせる文章である。私はこのような文章を読むと、海軍の航空隊に勤務していた頃の飛行機事故を想い出す。事故死した搭乗員《とうじよういん》に対し、航空隊司令が弔辞を読むが、やはりこのような漢文調の文語体であった。
さて、松岡渡米の原因であるが、一つはいうまでもなく家計の貧困であった。
今津屋は三十郎の米相場の失敗がもとで明治二十五年倒産した。洋右の両親は子供の教育どころか、食ってゆくのがやっとの状態となった。このとき、二人の人物が登場する。一人は従兄《いとこ》の藤山基三郎であり、いま一人は郷土出身の僧侶《そうりよ》、島地黙雷である。
藤山基三郎は近くの田布施《たぶせ》村(岸、佐藤の出身地)出身の藤山基一の三男で、基一はこの十年ほど前アメリカに渡り、商業でかなりの成功を収めていた。
この頃西本願寺派の有力な僧である島地黙雷が、室積の近くで布教に従事していた。今津屋と親しい黙雷は、倒産による苦境に同情し、成績のよい洋右の渡米を母のゆうにすすめた。(父三十郎は負債返済のため九州方面に旅行中であった)
気丈なゆうも洋右をアメリカに出すことには迷っていた。
丁度、藤山基一の三男が一旦帰国し、再び父のもとに渡航することを知った島地黙雷が、この際渡米して勉学すべきことをすすめたのである。黙雷は明治五年に欧米に旅行したことがあり、当時の真宗としては近代的な感覚をもった僧であった。
黙雷は洋右の母ゆうにこう説いた。
「とに角、これからの日本は東洋の島国ではダメじゃ。欧米を知らねばならぬ。とくに、海の向うの新興国アメリカでは、すべてがエネルギッシュに動いている。これからの日本はアメリカに学ばねばならぬ。アメリカの知識を吸収し、これに追いつくことじゃ。学問は若いうちにした方がよろしい。思い切って洋右を手ばなしなさい」
ゆうは決しかねて、かたわらで大きな目玉を光らせている洋右に、
「洋右どうするの?」
と尋ねた。
洋右はゆく気であった。漁師の悪童共を手なずけたり、警察署長と渡り合うことにはあきあきしていた。彼は漢文も得意であったが、英語がとくに好きで、学校がひけてからも、先生の家に日参していた。ただの餓鬼大将ではなかった。
「母さん、おれ、アメリカへ行く」
洋右はそう答えた。
「そう。それじゃあ、そうしなさい」
母はそう決を下し、ここに十三歳の少年のアメリカ渡航は決まった。
当時アメリカに渡航するにはサンフランシスコ経由でも、カナダのバンクーバー経由でも、船賃七十円を含んで百円以上の金がいった。気丈なゆうは、自分の実家その他に泣きついて金を借りて回った。この金策には、少年洋右も同行していったが、予想以上に親類は冷たく、難航を極めた。
室積から徳山へ行く途中、下松《くだまつ》のあたりは磯《いそ》続きで、岩に白波が寄せ、岸には松が並ぶという景勝の地であるが、徳山まで歩いて金策にゆき、一文にもならぬとき、母子は黙って松の根方で、祖母の家の女中が作ってくれた弁当を使うことがあった。このときは気丈な母も無口に黙りこくり、陽気な洋右少年も、母の顔色を気づかいながら、両手の指についた飯粒をしゃぶっていた。このあたりの松並木は、今も昔の姿を残している。
やっと金策も出来て、洋右は藤山基三郎青年(当時二十歳)と共に明治二十五年十一月、まず神戸へ赴き、アメリカへ行く移民船を待つことになった。
当時はまだ山陽本線(明治三十四年開通)が通っていなかったので、二人は船で広島までゆき、そこから馬車に乗ることになった。母のゆうは室積港の桟橋まで洋右を見送った。晩秋の好天の日であった。御手洗湾は凪《な》いでいた。
「洋右よ」
と母は言った。
手をとりもせず、涙も見せなかった。
「洋右、体に気をつけてな。よう勉強して、今津屋の店を建て直しておくれ。私たちを笑った人たちを見返すような立派な人になっておくれ」
十三歳の子を異国に送る母の願いは、つぶれた生家の復旧と、冷遇した人への報復であった。気丈な母であった。
神戸へ着いたのは初冬であった。
二人は神戸市北|長狭《ながさ》通りの泰然寺という寺に落ち着いた。ここで米国への移民船を待つのである。当時の米国移民熱は相当なもので、明治二十六年には八千名に近く、現今から考えると意外なほどである。
明治二十六年三月、洋右少年と基三郎青年をのせた移民船タコマ丸は、神戸港の商船桟橋を離れた。タコマ丸には千名以上の米国移民が乗っており、桟橋では別れのテープが花吹雪を舞わせた。
洋右と基三郎には見送り人がいなかった。二人は、黙然として、前部最上甲板から、舞い上るテープの吹雪を見下していた。洋右は黒紋付の羽織|袴《はかま》を着用していた。倒産した今津屋の若だんさあに、せめてものはなむけとして、親戚一同が、これも貧しいふところから醵金《きよきん》して新調したものであった。初め、親類総代は、「アメリカに行くんじゃから、背広がよかろう」と言ってくれたが、洋右は、「アメリカへ行くんじゃから、日本の礼装で行きたい。柳川先生も、外国へ行っても、日本の心を忘れるな、と言っておられたけん」と言って、和服を新調してもらったのであった。
デッキの上の洋右は、ややもすれば、紋付の袖が顔にゆくのをこらえていた。船の舳《みよし》の向うに、六甲の連山が見えた。日本も当分見納めである。ひょっとするとこれが最後かも知れない。それに洋右は父の病気が心配であった。父の三十郎は、負債整理のため長崎へとび、そこで発病し、佐賀の伊万里《いまり》で倒れ治療中であった。
憂い出せばさまざまのことは、果てしがなかった。小心ではあるが強気の(この性格は終生変ることがなかった)洋右は、最上甲板から、船の後進と共にちぎれゆくテープの多彩な色彩を俯瞰《ふかん》しながら、ひそかに心中に期するところがあった。
――いつか、いずれの日にか、おれの日本出発を、無数のテープでもって送らせてみせる。そして、おれの帰りを歓迎する人で、港の桟橋を埋めてみせる――。(彼がこの宿願を果したのは、それから三十九年後、昭和七年|敦賀《つるが》港からジュネーブへ向けて出発のときであった)
タコマ丸は、日本人の多いシアトル市に近いタコマ市の名をとった船であるが、貨物船であったため、移民たちは荷物扱いで船艙《せんそう》に寝かされ、待遇はよくなかった。折柄三月のシケで太平洋は大荒れに荒れ、船底に近い船艙では、移民たちがヘドを吐いたウォスタッブ(洗濯|桶《おけ》)が、船の動揺につれて左右に移動し、船酔いで疲労こんぱいした中年婦人などは、移動するウォスタッブにしがみついてヘドを吐き続ける有様であった。
少年洋右は船に強かった。後年酒豪となるだけあって、酔いには強かったのであろう。
洋右は、ゲエゲエやっている日本人たちの騒ぎをよそに、英会話の本を読みふけっていた。これからは英語が大切である。船員のなかに英語の上手な者がいたので、これについて発音を習った。防州の室積で習った英語とアメリカの英語とはかなり違いそうであった。
英会話の学習にあきると、彼は上甲板に出て海を眺めた。世界中を旅してみたい、と彼は望んでいた。彼の望みはふくれるばかりであった。アメリカはもちろんのこと、イギリス、フランス、そして、ツァーの国ロシア、もちろんおとなりの支那《シナ》にも行ってみたかった。
盛り上る太平洋のうねりを見上げながら洋右は――おれは大人になったら、世界中を駆けめぐるような人物になってみたいものだ――と考え続けていた。
途中でエンジン故障などしたため、ハワイ経由のタコマ丸がバンクーバーに着いたのは、四月下旬のことであった。
船が桟橋に接岸すると、洋右少年は作業中の人々を眺めおろして、
「ここカナダにはいろいろな人間がいる。アメリカも雑多な人間の住む所じゃろう。そじゃけん、合衆国と呼ばれるのじゃろうが」
と考えた。
作業員のなかには背が高く頬のやや赤い白人もいたが、石炭のように黒い黒人や、日本人に近い支那人、フィリピン人、それに日本人もいた。途中寄港したハワイでも、カナカ族がいて珍しかったが、こちらはさらに人間の種類が多かった。
バンクーバーですぐ上陸して目的地のアメリカ、オレゴン州のポートランドへ行けるかと思うと、そうはゆかなかった。移民のなかに天然痘患者が出たため、全員移民局の天幕で二週間、保菌者の発病を待つこととなった。(あとでわかったことであるが、この間、五月二日、父の松岡三十郎は、伊万里で逝去した。享年六十三歳。三百年続いた今五ののれんをおろすまいとして、ただ借財と戦い抜いた生涯であった)
やっと天然痘の疑いが晴れ、移民たちはそれぞれアメリカの移住地に移動を開始した。
洋右の目的地は米国の西岸オレゴン州の州都ポートランドで、シアトルから三百キロ南、バンクーバーから馬車で三昼夜ほどのところであった。
洋右は基三郎に礼を述べると、別れてただ一人ポートランドに向った。一人旅は心細かった。しかし、シアトルで馬車を乗り換えて間もなく車窓に姿を見せたタコマ富士(レーニヤ山=[#「=」はゴシック体]四三七〇メートル)の美しい姿は、少年の心を和ませてくれた。東京を訪れたことのない彼は、実物の富士山を見たことがない。
「この山も美しいが、日本の富士山はもっときれいで、もっと高いじゃろう」
少年は異国の火山を遠望して、母国の代表的な霊山の秀麗な姿に想いを馳《は》せていたが、実際は、富士山よりもタコマ富士の方が六百メートル近くも高いのであった。
洋右は馬車のなかで盛んに英会話を試みた。予想通り、彼が日本や船の中で練習した英会話は、アメリカ本土ではなかなか思うように通用しなかった。
たとえば、「小さい」は、リトルでなくてリルルと発音する。水はウォーターではなくて、ウワラー、たくさんはメニイではなくて、ラーラブ(lots of)である。数の勘定も、スリーはトリー、トゥエンティ(二十)はトエニ、サーティ(三十)はサーリイ、というようであった。
――これはえらいことだぞ――
と洋右少年は馬車のなかで考えた。彼の勉強して来たのは英語であるが、米語すなわちアメリカ語はまた発音が違うらしい。これを勉強しながら、アメリカで生活してゆくことは大変なことだ、と考えて彼は緊張した。
洋右をのせた馬車は、ことことと終日オレゴン州の高原を南へ下った。丘はゆるやかに起伏し、森や村落が丘の向うからせり上るようにして姿を現わすと、馬車はそのなかを通り、やがてそれらの風景は後方の丘の向うに吸いこまれるように消えて行った。
オレゴン州は一八四六年アメリカ領となり、一八五九年(安政六)州となったばかりのアメリカ合衆国の新開地である。洋右の走った道も、まだ白人が移住して間もない未開拓の荒野が多かった。(オレゴン州は面積二十四万八千平方キロで本州に四国を併せた程度、人口は一九七〇年でも二百万であるから、この頃にはその十分の一そこそこであったろうと推察される)
馬車のなかで、洋右は一人の少年と知り合った。ランバートと名乗るその少年は、洋右とほぼ同年齢で、リリイという二歳下の美しい妹と共に、両親に同伴されていた。父のマクドナルドは判事で、シアトルからポートランドに赴任する途中であった。
ランバートと洋右はすぐに仲よくなった。ランバートは、初めて見る日本の少年について何かを知りたかったし、洋右は会話の勉強相手として、ランバートを手頃と見込んだのである。そして、彼はリリイを西洋菓子のようにきれいな子だと思った。リリイは白い頬にうっすらと生毛《うぶげ》をはやし、フリルのついた白い服や造花を飾った麦藁《むぎわら》の帽子がよく似合った。
やがて、地平線の向うに、森林の緑を突っ切ってひときわ高い教会の塔が見えてくると、それがぐんぐん迫り、赤や緑の瓦屋根を持った町が現われた。これがオレゴン州の州都ポートランドである。(ポートランドは、一九七〇年調べで人口三十七万ほどであるから、この頃は一万もいたであろうか)ポートランドの手前にコロンビア河という大きな河があり、馬車は浅瀬でこの河を渡った。
折柄初夏で、町の入り口には杏《あんず》の畑があり、白い花が一面に咲き乱れていた。洋右は郷里室積の今津屋の庭にあった梅の花を想い起しながら、ランバートのとなりにすわって馬車に揺られているリリイの横顔をみた。――この子も杏の花に似ている。ということは日本の梅の花に似ているということか――洋右の胸に、「梅花|凜冽《リンレツ》トシテ寒風ヲ劈《ツンザ》ク」という漢詩の一句が甦《よみがえ》った。しかし、ここ北米ポートランドの杏の花の野は、北緯四十五度とはいえ、陽光を浴びた異国の風景は馬車の窓からも、うららかに眺められた。
ポートランドの教会前の広場で馬車は止った。ここが終点であった。洋右は再会を約束して、ランバート少年やリリイと別れ、重い行李《こうり》とバスケットをかついで教会の門をくぐった。このセントポール教会の近くに、日本で島地黙雷から紹介された日本人|美似花《メイフラワー》教会があった。セントポールが五十メートルを越す尖塔《せんとう》をもつキャセードラル(大聖堂)なのにくらべて、美似花教会の方はこぢんまりとしたものであったが、こちらには中村徳太郎という日本人の牧師がいた。後に河辺貞吉牧師に代わったが、当時すでにポートランドには百人を越す日本人の移民がおり、日本人牧師は彼らや新しく入りこむ移民への布教に勤めていたのである。
松岡は中村の紹介でハリイという商人の家に住みこんだ。彼の待遇はスクールボーイである。スクールボーイというのは、日本人が白人の家に住みこみ、朝は台所の掃除、配膳など主婦の仕事を手伝い、八時半頃には学校に出かけ、夕方は五時頃から家の掃除、夕食の配膳、食堂の後片付け、皿洗いなどを行い、日中は学校で勉強させてもらうのである。ある人は、これを北西岸では南部のように黒人が少ないので、日本人を代りに使ったのだと説明するが、学校へ行かせてもらえるだけでも、かつての黒人奴隷よりははるかにましであった。しかし松岡少年は、最初からこのスクールボーイに反撥した。
ハリイ夫人は商人の妻であるから洋右を効率的に使おうとする。洋右は約束通り学校に行かせてはもらえたが、学校から帰るとすぐ残りものの皿洗い、配膳、その合い間には掃除、薪《まき》割りなどをやらされるので、くたくたになり、夕食後解放されても、復習予習をやる元気が出ない。
一つには彼が新しい世界にとびこんで、ノイローゼ気味になっていたこともある。朝六時に起きてすぐ配膳をし、七時に食事、終えると早々に皿洗いをすませ、学校へ行くのだが、初めからしまいまで英語ばかりなので芯《しん》が疲れる。これが先にも述べたように米語なので、一生懸命ヒヤリングをするのだが、聞きあやまって早とちりをしたりすることが多い。
同学の米人の子弟は、悪気はないが、ただ一人の珍しい存在であるヨースケが、頓珍漢《とんちんかん》な受け答えをするのでどっと笑う。
たとえば、米語では小便をすることを「pass water」という。水を通すというのである。これが洋右にはわからない。「River ?」と訊《き》くと少年たちはどっと来る。「日本人は河のような小便をするのか?」というわけである。
またこういうこともあった。米語では、「黙れ!」ということを「Shut up !」という。あるとき、少年たちが授業開始前に大声で雑談を交していたところへ、先生が近づいて来た。あわてた級長は、「Shut up !」と大声をあげた。窓際にいた洋右は急いで窓のガラスを下にさげたので、一同大笑いになったということもあった。
要するに、異境の明け暮れは故郷を離れた満十三歳の少年の肩には、重荷であったのである。
初夏の宵のことであった。
匂い豊かな藤棚の近くで薪を割っていた洋右少年は、いきなり斧《おの》を投げ出してうずくまった。隣の家からピアノが聞えて来たからである。同じ少年少女として生を享けながら、彼女は自国の富裕な家に生れて夕餉《ゆうげ》前のひとときを音楽の演奏で楽しみ、我は遠く故国を離れて、少年の腕に重い斧を揮《ふる》わねばならぬ。加うるに、勉学ははかどらない。何の顔《かんばせ》あってか郷党に見《まみ》えん、という気持で、胸が一杯になって来たのである。
藤棚の下でうずくまって泣いていると、出て来たハリイ夫人は叱咤《しつた》した。
「What's matter ?(どうしたの)」
彼女はスクールボーイの洋右が、さぼっていたと考えたのである。洋右は立ち上って涙をふき、「自分は今、故郷のことを考えていたのだ。自分は疲れている」と言った。
英語がよく聞きとれなかったせいもあるが、商人の夫人であるマダム・ハリイは気色を荒立てた。彼女は、「ヨースケ、お前には食事を与え、学校へも行かせてある。何が不足なのか。いやなら日本へ帰れ」と言った。
洋右は唇を噛《か》んだ。どうして在米一カ月足らずで故国へ帰られよう。どのような屈辱を受けても忍ばねばならない。洋右は涙があふれそうになるのを、しばたたいてこらえたが、とうとうその数滴が地上に落ちた。
その時庭の外から声がかけられた。たそがれの街路に二つの白い顔が浮んでいた。
「Hey Yosuke ! Aren't you ?(あら、ヨースケさんじゃないの?)」声をかけたのは、シアトルからポートランドに来るとき馬車のなかで一緒になった少女リリイで、その横に畳んだ日傘を手にして立っているのは、母のイザベル・ダンバー・ベバリッジ夫人である。
二人が庭のなかに入って来て、様子を聞くと、リリイは真っ先に、
「ヨースケ、うちにいらっしゃいよ」
と言った。
彼女は馬車で同席したときから、小柄で眼がくりくりして元気のよいヨースケが気に入っていた。
母のベバリッジ夫人も同意し、ハリイ夫人にとりなしてくれた。洋右はもとより望むところなので、翌日から彼はダンバー家に移ることになった。
ベバリッジ夫人はニュージーランドで裁判官をしていたスコットランド人の未亡人で、現在は弟のウィリアム・ダンバー・マクドナルドと同居していた。洋右はシアトルからポートランドに来る馬車のなかで、リリイの父は判事でシアトルからポートランドに赴任する途中だと聞いたのであるが、これは彼の聞き間違いで、ダンバー・マクドナルド氏は、貿易商で、シアトルで商用をすませて、ポートランドに帰るところであったのだ。そして、リリイの兄と見られたランバート少年は、マクドナルドの亡くなった妻の子で、リリイはベバリッジ夫人の娘であった。
ダンバー家は高さ五十メートルの尖塔をもつセントポール教会の近くにあった。
洋右は日夜教会の鐘の音を聞きながら皿を洗い、薪を割り、そして、天を突く尖塔を仰ぎながら学校に通うことになった。
ダンバー家では、ハリイ家よりも労働は楽であった。ダンバー家は富裕で信仰心厚く、黒人の夫婦を下僕に雇っていたので、洋右の負担は軽かった。黒人夫婦も親切で、遠く故国を離れて苦労する洋右に同情して、試験の前日などは、全部の労働を肩代りしてくれることもあった。
しかし、最も洋右のことを気づかってくれたのは、主婦の立場にあるベバリッジ夫人であった。彼女は信仰深い女性で、自由と平等博愛の精神に富み、黒人夫婦に対しても酷使するようなことはなく、洋右にも盛んに教会に行くことをすすめた。
後年、洋右は次のようにベ夫人のことを回想している。
「ベ夫人は敬虔《けいけん》なキリスト教信者で、清潔な人格と博い愛情をもっていた。十四歳(数え)から十六歳までの傷つき易い少年時代にこのような心優しい女性から日夜教化されたことは、非常に幸せなことだと思う。僕はひねくれた所があり、勝気で気短かでもあり、ベ夫人を怒らせたこともあるが、そのような欠点をいくらかでも矯正出来たのは、ベ夫人の人柄による感化が大きいといわねばならぬ」
洋右は、よほどベ夫人の教化に感じ入ったと見えて、一九三三年(昭和八)春、ジュネーブから日本への帰路、ポートランドに立ち寄り、ダンバー家の旧邸からほど遠からぬ墓地の一角に、ベバリッジ夫人の墓を建てている。ダンバー家はポートランドでも有数の豪商であったが、その後間もなく没落し、洋右が再訪した頃は離散して、ベ夫人は墓も定かではない始末であった。三輪公忠『松岡洋右』によると、墓は八十センチ四角の石碑に、高さ三十センチ幅五十センチの銅板をはめこんだもので、墓碑銘は次のようになっている。
「イザベル・ダンバー・ベバリッジを記念し、深き愛の手をもって、松岡洋右これを建立す。母と並んで私の精神と人格を形成してくれた一人の女性に対する変らぬ感謝のしるしとして」
このとき、松岡は国際聯盟でサヨナラ演説≠しての帰りであった。外交官である彼には、このサヨナラ演説が、やがてアメリカを敵に回すべき性質のものであることがわかっていたはずである。かつて、自分を育ててくれたベ夫人の故地に立って、その母国と一戦を交えることを回避するよう、全力を揮わねばならぬ立場に洋右は立たされていた。深い感慨と共に彼はこの碑を建立したものと推察してよかろう。
松岡の伝記作者は、その少年時代孤独の時期にベ夫人と遭遇し、教化を受けたことが性格に大きな影響を与えたように説いているが、これはある半面を現わしていると思われる。
松岡は勝ち気で能弁でけんか早いところがあったが、それに妥協することを教え、国際協調を岩に沁《し》み入る水のように浸透させたのは、ダンバー家の生活であった。
しかし、一般に言われるように、松岡には抜き難いナショナリズムと天皇中心主義があった。これには、彼の渡米を促進した本願寺の僧島地黙雷の国粋主義が影響していたろうということがまず考えられる。黙雷は当時の民族主義を代表する「日本人」発刊の中心人物であり、洋右はしばしば彼の話を聞いている。黙雷は名前とは違い、雄弁な人物で、洋右の能弁は黙雷の感化でますます拍車をかけられたことであろう。
次に考えられるのは、日清戦争の影響である。日清戦争は明治二十七年八月、洋右の渡米後一年余で勃発《ぼつぱつ》している。異国で苦学している満十四歳の少年にとって、眠れる獅子《しし》≠相手に戦いを宣言した故国の運命は、たとえようもなく大きな問題であった。
この頃はかなり日本人の移民も増えて来ていたので、アメリカ人も日本人なるものを認識してはいたが、さて世界の政治区画的に日本をどう見ているかというと、これが甚《はなは》だ怪しいものであった。
かつて、明治七年、台湾で日本人が殺されたとき、この談判に赴いた内務卿大久保利通は、北京《ペキン》で李鴻章《りこうしよう》と交渉の最中、ヨーロッパの某小国の公使から、「日本はいつ清国の下から独立するのか」と訊かれて閉口したことがある。憤慨した大久保が、「日本は三千年前から独立国である」と口を尖《とが》らすと、その公使は持参した地図を見せ、「わが国では、日本は支那と同じ色に塗ってあり、小学校でも、日本は清の保護国である、と教えている」という、見るとその地図には、日本も清国と同じく黄色に塗ってあった。ここに至って大久保は、他日東洋に日本ありと知らしめねばならぬ、と決意するところがあったという。
余談になったが、明治二十七年のアメリカ西海岸ポートランドでも事情は同じであった。中学校の昼休みに、洋右は学友のケンから、
「いよいよ日本が反乱を起したが、うまく独立出来るといいね」
と言われて奇異の感を抱いた。
日本は優れた天子をいただくユニークな独立君主国であると彼は信じこみ、このことについて特に学友たちに解説することもなかったが、ここに至って彼のうちなる愛国主義は赫然《かくぜん》と燃えたのである。
「日本は中国の一省であり、中央政府に対して反乱を起しつつある」という学友たちの認識を革新してもらうには、日本に勝ってもらうより致し方ない。祖国が世界に認められるには、それにふさわしい国力を備えねばならぬ……この国家主義的思考源は、明治二十七年から、昭和八年まで四十年にわたって育成され膨脹してゆくのである。
この頃、アメリカ合衆国の西海岸に増加しつつあった中国人、日本人の移民に対する白人の偏見もようやく高まりつつあった。中国人はずるくて金もうけがうまい、日本人は働きすぎる、というのが白人の言い分であった。そう言いながら、彼らはチャイナタウンで中国料理を食べ、中国人の女中や、日本人のスクールボーイを雇っていた。
この偏見を打ち砕くには、日本が清国を打ち破って、自ら国際的地位を向上せしめるよりほかにない、と在留日本人たちは考え、幼い松岡も、漠然と「勝ってくれ」と念じていた。少なくとも、この戦いで日本が負けたなら、学友の間における彼の地位は一段と低くなるであろうことは予感されたのである。
明治二十八年四月、日清戦争は日本の大捷《たいしよう》のうちに終り、下関条約が調印され、ポートランドにおける洋右少年も、ほっと胸をなでおろした。
「ヨースケ、日本が勝ってよかったわね」
幼いリリイが、そのようにお世辞を言ってくれた。
「ヨースケ、コングラチュレイション!(お芽出度《めでと》う)」
と言って、学友たちも握手を求めて来た。もう、日本が清国の一省であるなどという見当違いのことを言うものはいなくなっていた。しかし、引き続いて起った三国干渉は洋右に苦い事実を学ばせた。外交は力の均衡であり、拮抗《きつこう》である、ということを、遠いアメリカにおいて洋右は知らねばならなかった。難しい外交理論はわからぬが、満州の南端|遼東《りようとう》半島を日本に与えることは、露、独、仏にとってきわめて不利益であるため、この三国が同盟を結んで日本に返却せしめたのだ、という理屈は、少年にも理解出来た。彼は満州の重要性を認識すると同時に、力を背景とする外交の何物たるかの一端に触れたのである。
在留邦人会に顔を出したとき、邦人の一人が顔を真っ赤にして、「満州には日本人の赤い血が流れている。その満州をロスケやドイツなどが手を組んで力ずくで日本に返却させたんじゃ。この恨みを忘れちゃならんぞ」と力んでいたことを、洋右は印象にとどめないわけにはゆかなかった。
日清戦争の終った頃、彼は高等小学校を卒業して、オークランドのハイスクールに入学した。オークランドは、サンフランシスコの対岸にある町である。(現在はサンフランシスコからベイブリッジという長い橋がかかっている)なぜベ夫人やリリイと別れてポートランドを去ったかという理由は判然としなかった。一つにはダンバー家が左前になったこと、一つにはオークランドの方が邦人がいるし、またアルバイトのチャンスも多いということであったろうと思われる。(ウィリアム・ダンバーは、この頃、中国人奴隷の密輸入で、有罪の判決を受けている)
オークランドで、洋右はさまざまなアルバイトを経験している。皿洗い、掃除夫、農業等で、とくに移住してから間もなくは、桜桃の実る頃だったので、連日桜桃畑にアルバイトに出かけた。森清人『人間松岡の全貌』には次のような松岡の回想が出ている。
「私はいろいろな労働をやったが、そのなかで、桜桃もぎは楽で割りのよい労働であった。陽当りも空気もよいし、よい匂いが果樹園に広がる。アメリカ人の学生は、ある程度とると満足して草の上に寝てしまう。私は一人でなおもとり続けるのだが、一本をとり終って次に移るとき、体が小さいので梯子《はしご》が運べない。そこで眠っている仲間を起して『桜桃をやるから、梯子を一緒に運んでくれ』と頼み、時間一杯とり続けた。だから、収穫高に応える賃銀は私がいつも一番多かった」
洋右がハイスクールに何年いたかについては、史料がまちまちである。
『人と生涯』は大正五年(一九一六)六月二十三日付のサンフランシスコの日刊紙「新世界」を引いて、松岡は、ハイスクール三年修であると主張している。しかし、三輪公忠『松岡洋右』はずっと後の、一九四一年(日米開戦の年)三月二十八日付のオークランド・トリビューン紙の記事をあげ、松岡はこのハイスクールに明治二十九年十二月まで、約一年半在学したとしている。同紙には「マツオカ―ヒトラーズ・ゲスト―ワンス、オークランド、ピョピル(ヒトラーの賓客松岡はかつてオークランドで生徒だったことがある)」というみだしのもとに当時の紹介がのり、成績表が出ている。これによると、古代ローマ史、古代ギリシャ史とラテン語がA、英語はA'、数学はBで、当時の留学生としては優秀な成績であった。(この一九四一年三月、彼は日ソ不可侵条約締結のためモスクワに赴いており、前年の日独伊軍事同盟調印に続いて話題の人となっているので、オークランド・トリビューン紙が、松岡の生徒時代をとり上げたものであろうか)
ハイスクール時代の松岡は、前述の通り、皿洗いや農業などのアルバイトで学費をかせいだが、一時期、オークランド・エンクワイヤラーという新聞で働いていたことがある。むろん、記者としてではなく、給仕として雑用、走り使いや新聞配達などをしていたのであるが、編集局のなかを走り回っている間に、彼は新聞記者に憧《あこが》れるようになった。
当時の大統領は、ステファン・グローバー・クリーブランドであり、民主政治と選挙について、新聞は大いに論陣を張っていた。クリーブランドは一八八五年に第二十二代大統領となり、一八九三年(明治二十六)洋右が渡米した年に第二十四代大統領になっている。アメリカでは十六代大統領リンカーン以来歴代共和党の大統領が続き、クリーブランドに至って、久方ぶりに民主党の大統領を得たのである。クリーブランドはそれまでの共和党の保護関税政策や帝国主義的政策を批判し、民主主義の本道を歩むべく努力し、行政改革に意を用いた。
クリーブランドは、共和党から強い攻撃を受け、新聞も二派に別れてしのぎを削った。オークランド・エンクワイヤラーは民主党系の新聞であったので、クリーブランド応援に論陣を張った。
このように政治を動かし、国家をリードする役割を持った新聞の動きを、日夜目撃した洋右少年が、新聞記者になりたいと考えたのは無理からぬことであろう。
しかし、彼の関心は、間もなく政治そのものに惹《ひ》きつけられることになった。
ある日、オークランド・エンクワイヤラー社を訪れた中年の紳士があった。彼は数名の若手記者を前にして熱弁をふるった。
「見たまえ、ヨースケ。あれが今売り出しのウィリアム・ブライアンだよ」
主筆のアブナー・ナイルは、そう言って松岡に教えた。
ブライアンは、その頃急速に擡頭《たいとう》してきた民衆による政治獲得の機運に乗じて、ポピュリスト(人民党)なるものを結成して党首となり、次期大統領選挙に出馬するつもりで各地を遊説していた。彼はテキサスやカリフォルニアの農民階級を地盤としていたので、サンフランシスコやロサンゼルスによく顔を見せた。
アメリカは元来デモクラシーを基盤として発足した民衆の国であるが、いつの間にか東部の有力者が、その近代企業による収益を基礎とし、金融資本を背景にして、全アメリカをリードしつつあった。これに対して、農民の多い、中部、西部は反撥したのである。(ブライアンは、一八九六、一九〇〇、一九〇八年の三回大統領選に出馬したが、いずれも敗れている。一九一二年にはウィルソン大統領の国務長官となり、上院議員の直接選挙、婦人参政権の改革などに尽力し、高く評価された)
松岡は当時三十六歳の若き大統領候補ウィリアム・ブライアンのさっそうたる雄姿に魅せられ、ある日、ハイスクールの弁論大会で、次のように演説している。
「私は日本からアメリカに留学して来ているが、最も印象的であったのは何かというと、それは大衆政治の進出である。私は最近、ウィリアム・ブライアン氏に会う機会を得たが、氏が大衆を背景にして、新しい政治を打ち出そうとしている情熱に深く感動するところがあった。私は日本に帰ったら、真に大衆を代表し、大衆にアピールする政治家になって、国政を担当したいと考えている。私の家は貧しいが、これからの日本は、アメリカのように貧しい家に生れても、国政担当者になれる国になってゆく、と考えている」
この松岡の大衆を代表し、大衆にアピールする政治家になるという意図は、後年ますます膨脹し、ついに昭和八年の国際聯盟脱退に及ぶのである。このとき、松岡は自分が大衆すなわち日本国民の意図を代表していると信じ切っていた。そして、英雄的なサヨナラ演説≠行うことによって、大衆的人気を得た。しかし、このサヨナラは日本を孤立化させ、ついに第二次大戦へと導き、松岡をして、開戦の責任者とみなされるに至らしめ、戦後は大衆から批判の眼でみられるに至るのである。歯車はどこで噛み違ったのであろうか。
松岡がハイスクール在学中の一八九六年、ブライアンは民主党の大統領候補として出馬したが、惜しくも落選した。このとき、ブライアンは「黄金の十字架」という演説を行っている。これは中部、西部の農民労働者が、東部の金権階級のために、十字架にかけられ、はりつけにされているという彼の日頃の主旨を説いたものである。
昭和七年十一月ジュネーブの国際聯盟会議場において「聯盟よ慎重なれ」と演説した松岡は、翌十二月「支那の存在は日本の力」「十字架上の日本」という二つの演説によって日本の立場を理解してもらおうと訴えている。かつて彼が熱心に傍聴したブライアンの「黄金の十字架」という演説が松岡の脳裡《のうり》にこびりついていたのであろうか。
明治三十年(一八九七)松岡はハイスクールを退学した。学校に通いながらのアルバイトでは生活費がかせげないので、しばらく学業を中止して資金をかせごうと考えたのである。彼は法律事務所に勤め、雑役を担当したが、働き者で頭の切れる彼は雑役にあきたらず、事件の調査にものり出すようになった。ある刑事事件の際は弁護をかって出て、見事無罪を立証し、依頼人から喜ばれたこともある。十七歳の弁護士というのも弁論人松岡洋右らしい。
そうかと思うと、彼は牧師の代役をも受けもち、幾組かの結婚式に司祭の真似事をしている。このときはさすが強心臓の彼も大いにテレたと見え、
「いや、何といっても十七歳だからね。新郎新婦よりもこちらがあがってしまう始末でね」
と後年述懐している。
そして、翌三十一年ポートランドに戻り、十八歳でオレゴン州立大学法科の夜間部に入学した。
このとき、松岡は久方ぶりに懐しいダンバー家を訪れて、母代りのベバリッジ夫人に会うのを楽しみにしていたのであるが、ダンバー一家はすべて離散して、ベ夫人に再会することは出来なかった。
この頃、ポートランドでは、伴新三郎という外務官吏出身の人物が日本人移民のための事務所をひらいていた。伴は土木請負業でもあった。
松岡はこの伴を頼って行った。
松岡が行くと、伴事務所の玄関わきに数名の日本人移民がたむろして、仕事の割当てを待っていた。
「おう、お前さん、何か、仕事を探しに来たんかい?」
一人の青年が威勢よく声をかけた。
松岡が仕事と住む所を探しているというと、彼は、
「おう、それじゃあ、わしんとこがええ。わしの部屋はダブルベッドじゃから、一緒に寝よう」
と言った。
愛知県出身の伊藤平七という人夫募集係である。その晩から松岡は伊藤の部屋に起居し、ダブルベッドに一緒に寝ることになった。
伴新三郎は江戸の旗本の倅《せがれ》として生れ、維新後は榎本|武揚《たけあき》の教えを受け、外務省に勤務したが、日本人のアメリカ移民に関心を持ち、外務省をやめて、ポートランドに事務所を持ったものである。
伊藤平七は、最初、松岡が人夫として応募したものと考え、面倒をみるつもりでいたが、間もなくこの少年がただ者でないことがわかった。法律の勉強が進むにつれて、松岡は所長の伴の手伝いをするようになった。
あるとき、伴の事務所で鉄道会社にあっせんした大田という男が、事故で脚を折ったことがあった。伴は大田を入院させて治療する一方、鉄道会社と交渉してまとまった見舞金を出させようとしたが、なかなかうんといわない。鉄道会社は後藤という日本人の食いつめ者を使って、伴をおどかし、手を引かせようとした。ある日、伴の事務所に後藤が白鞘《しらさや》の日本刀を提《さ》げて乗りこんで来た。
「伴所長、今日はあなたに買ってもらいたいものがあってやって来たよ」
「何かね、後藤君」
伴は、かたわらの相談相手松岡と顔を見合せた。後藤は以前に酔って人を怪我させたことがあり、この時もかなり酔っていた。
「伴さん。あなたは日本刀の収集をしている結構な身分だと聞いた。実はこいつを買ってもらいたいんだ」
後藤はその大刀をギラリと抜くと、伴の前で構えてみせ、驚いて大きな眼をあいている伴の顔をひたひたと刃の表で叩いてみせた。
「どうかね、こいつを五千ドルで買ってもらいたい。そうすれば片輪になった大田に鉄道会社から五千ドル出させよう。それでこの事件は丸くおさまると思うがどうかね」
伴はしっかりした人物であったが、さすがに顔色を変えた。一つには白刃に対する恐怖もあったが、いま一つは、このような卑劣な手段で手をひかせようとする鉄道会社のやり方に対する怒りであった。
そのとき、松岡が、
「ちょっと、その刀を見せてくれんか」
と声をかけた。
「ふむ、小僧。えらそうなことを言って、刀のめきき[#「めきき」に傍点]でもしようというのかい」
後藤は、体の向きを変えると、松岡の前に大刀をつき出してみせた。
「ふうむ、これは直刃《すぐは》の新刀だな。どうせ無銘だろう。五千ドルはおろか、十ドルでもあやしい代物だな」
洋右は、今五の若だんさあに生れ、子供の頃は祖父が縁側で刀の手入れをしているのを目撃しており、知識があった。
「この小僧、十ドルとはぬかしおったな。では、このピストルを三千ドルで買ってくれい」
後藤は腰に提げていたリボルバー式のピストルをとって、テーブルの上においた。蓮根式で、外部から弾丸の装填《そうてん》してあるのが見えた。
「今度はピストルが三千ドルか。ピストルなら、こちらにもあるぞ」
松岡は抽《ひ》き出しから三挺のピストルを出し、
「さあコルトがいいか、ブローニングがいいか、モーゼルがいいか、好きなのと交換しようじゃないか」
と平然として言ってのけた。
「この小僧……」
後藤はじっと松岡の顔を睨《にら》んでいたが、踵《きびす》を返すと退散した。
松岡と伴は、顔を見合せ、溜《た》めていた息を吐いた。
それから間もなく、伴と松岡はケネンリー鉄道会社を訪れた。社長とじか談判をしていると、別室から棒を携えた日本人と白人の暴漢数名が襲ってきた。その先頭に立っているのは、先日来た後藤であった。乱闘が始まり、すばしこい松岡は後藤の棒を奪い、大いに戦ったが、かなり殴られた。伴は二の腕に負傷をし、ついに警察が介入して裁判となり、伴の勝利で、この事件は解決した。伴が松岡の尽力を高く買ったのはいうまでもない。
またこういうこともあった。
この頃の松岡は、アメリカ滞在が長くなればなるほど、愛国者となってゆきつつあった。当時、ポートランドには、日本人会のほかに、日本人留学生会というものがあり、松岡はそのリーダーであった。
明治三十一年十一月三日は明治天皇の誕生日で、当時は天長節であった。日本人には天長節でも、アメリカは祝日ではないので、松岡たちは夕刻、大学の会議室を借りて、ささやかな式典をあげた。
はるかに東方の皇居を遥拝《ようはい》し、手づくりの日章旗をふって一同で君が代を唄っていると、突然、ドアを蹴《け》って一人の巨漢が乱入した。
「おい、そんな不景気な歌はやめろ。もっといき[#「いき」に傍点]な歌をうたってくれい」
この学生は東京生れの牧野という男で、学業を半ば放棄して、不良の仲間に入り、酒と女で身をもちくずしていた。彼は右手にウイスキーの瓶《びん》、左手にウイスキーの入ったコップを握ってごきげんであった。
歌を中断された松岡は、怒り心頭に発した。
「おいっ! 牧野、貴様は日本人としての自覚があるのか!? アメリカ人になめられて、恥かしいとは思わぬのか」
松岡はすばやくとんでゆくと、下から伸び上るようにして巨漢牧野の顎《あご》にアッパーカットを入れた。ボクシングの自慢な牧野であったが、この時は、ウイスキーをふりまきながら、床にダウンした。これまで小柄の松岡をみて馬鹿にしていた学生たちは、この事件から、松岡を重視するようになった。
成人してからの松岡は弁論人であって、手を出すことは少なかったが、若き日の松岡は熱血漢であり、かの地で、思う存分腕力をふるったこともあったのである。
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四章 若手外交官
明治三十二年九月、洋右の兄賢亮は、従兄《いとこ》基三郎の妹孝野と結婚し、サンフランシスコに渡ってレストランを開店した。
そして、三十四年六月、松岡は二番の成績でオレゴン州立大学を卒業、バチェラーオブローズの学位を受けた。
オレゴン大学を二番の成績で卒業した旨を、郷里山口県の母ゆうに手紙で知らせると、折り返し、母から手紙が来た。
「晴れの御卒業にてお芽出度、お父上様が生きておられたならばさぞかし、とただただ思い入れ参らせ候。
このほど、防長の里にては、去る五月より山陽本線全線が開通致し、柳井、下松の駅よりは、直通にて東京へ旅行が出来るよう相成り申し候。
桑港《サンフランシスコ》の賢亮の西洋料理業も大いにもうかりおる由、重ねて大慶に存じおり候。
ついては、お前様のアメリカ勉学も、いつの間にか十年近くとなり申し候につき、この際一度帰国なされてはいかがかと存ぜられ候。
いずれ、嫁取りの儀も生じ申すべく、実は内々に存じよりの娘御も心がけて申し候故、一度室積に帰郷なされるべく候。
今五の店の借財も、どうにか整理を終り、御身様が帰郷なさるとも、債鬼に追い回される如き有様にはなり申すまじく候。
また、お父様のお墓も出来ました故、一度御帰郷の上、墓参なさるべく候(後略)」
ゆうの父は小川道平といって、徳山藩の評定役を勤めたことがあるが、乾山と号する学者で、後には藩主の侍講を勤めたこともあった。
達筆な母の手紙を前に、洋右は涙ぐんでいた。
室積にも汽車が通ったか……。彼は九年前、室積から柳井まで歩き、柳井から広島まで船に乗ったことを想い起していた。
母にも会いたいし、父の墓参もしたい。室積の今五のあたりもいくらかは変ったのではないか……。そう考えながらも、彼は山陽全線が開通したというニュースが頭のなかにひっかかって仕方がなかった。日本中に汽車が開通する、もう海運業は終りじゃ。それは、江戸初期から続いた回漕《かいそう》業「今五」の完全な終焉《しゆうえん》を告げるものであった。
洋右が母の手紙を前にして物思いにふけっていると、作業を終って帰ってきた同室の伊藤平七が、
「よう、ヨーさん、何をぼんやりと考えごとしとんさるんやな?」
と名古屋弁で訊いた。
洋右が母の手紙のことや、今五のことを話すと、
「ほう、ほんなら、ヨーさん、あんたは海賊の子孫じゃったんか。道理でけんか早いと思っとったがや。そやけどな、ヨーさん、何も心配することあらへん。今五たらいう古い店はつぶれても、今にきっとおまはんの時代が来る。おまはんはよう、きっと、松岡家の名前を日本中に、いや世界中へ鳴り響かせるようなどえらいことをしでかしんさるでなも。せいぜい頑張ってちょうよ」
平七はそう言って、洋右を激励した。
「有難う。平さん。わしゃ、きっと頑張るで……」
二十一歳の洋右は、平七の手を握り、感動の様子を示した。
伊藤平七は後年|落魄《らくはく》して、名古屋に帰り、昭和七年夏、名古屋駅頭で、松岡洋右と劇的な再会をするが、それは後の話に譲ろう。
母の手紙を受けとってから間もなく、洋右は、サンフランシスコの兄賢亮から一通の手紙を受けとった。その手紙には、洋右の大学卒業を祝う言葉と共に、母の病気を知らせてあった。
「母上の病気の儀は承知にて候や。何でも松枝姉の手紙にては、胃と肝臓の調子がよろしくない由、洋右殿も大学卒業を機として、一度帰郷されてはいかがかと存ぜられ候」
そう書いてあるのを読むと、洋右は急に眼頭が熱くなった。
――知らなかった。お母さんは病気だったのだ。それを心配させまいとして――
そう考えると、洋右はますます母に会いたくなった。しかし、この頃、洋右は単なる家族恋しさから、一途《いちず》に帰郷を考えていたわけではなかった。学問好きの彼は田舎の二流大学であるオレゴン大学の二番卒業にあきたらず、東部のエール、ハーバードなどの一流大学に進学することを考えていた。
しかし、東部の一流大学に留学するとなれば、学費も西部よりはさらにかかる。洋右は迷っていた。
三十四年六月、オレゴン大学卒業後、彼はさらにアルバイトにせいを出した。時にはコーヒーの行商もやった。一刻も早く帰国して母に会いたいという気持を抑えて、学費作りにせいを出したが、大学で三年間学ぶだけの資金をためることは容易ではなかった。エール、ハーバードというような有名大学で、アメリカ中から集って来た秀才と学を競うということになれば、昼働いて夜は夜学というわけにはゆかなかった。しかし、三年間の学資をためることも容易ではない。
なおも迷っている洋右のもとに、三十五年夏、サンフランシスコの兄賢亮から一通の手紙が届いた。
「当方、その後西洋料理店の営業成績もぐんと向上致し、そこばくの余裕を生じ候。さて、母上の病もはかばかしからざる由、従って、貴殿が内地に帰国の希望をもたるるならば、旅費の負担を致すべく候。(後略)」
この手紙をみて、洋右の心は動いた。ここは一旦帰国して、父の墓参をしてから、再びハーバードあたりに入学しても遅くはない、と彼は考えた。この年一月、日英同盟が締結されたことも洋右の心にとまっていた。彼は明治二十八年の三国干渉のことを忘れてはいなかった。せっかく、多くの血を流して獲得した遼東半島を、露、仏、独三国が手を組んで清国に返却せしめたのである。そのなかでもロシアの東アジア侵略は露骨であった。ロシアは明治三十三年の北清事変を機に、北京及び満州に出兵したが、その後も撤兵せず、清国に利権の要求を続けていた。
このときにあたって、日本がイギリスと同盟を結んだのは、いかなる意味を有するのか……。
松岡は、時の外務大臣として、日英同盟を結んだ小村寿太郎及び、その前に外相であった加藤高明らの外交官に注目していた。
日英同盟の骨子は、「イギリスの中国における、また日本の中国朝鮮における権益擁護のための相互援助を約したもので、締結国の一方が二国以上と戦うときは、他の締結国は参戦義務を負う」としている点である。これは、イギリスにとっては、露、仏と戦うときは、日本がロシアに宣戦することを意味し、日本がロシア、中国と戦うときは、イギリスがロシアに対して宣戦することを意味していた。アジアの東西におけるロシアの進出は、日英両国にとって共通の悩みであったのである。
第三の新興大国であるアメリカの新聞は、もちろん、この日英同盟を大きく報じていた。ポートランドで、連日のニュースを眺めていた松岡は、外交官というものに惹かれ始めていた。カミソリ大臣と呼ばれた小村寿太郎とはいかなる人物であるか。また、四十歳で外相となり、日清事変を収拾した少壮外交官加藤高明とは、いかなる切れ者であるか。二十二歳の洋右の胸は躍った。よし、おれは外交官になって、世界の政治を牛耳ってやろう。そして、日本国に有利な条約を次々と結んで、後世に名の残る大外交官になってやろう。それにはまず、日本に帰ることだ――そう決心した彼は、明治三十五年夏、兄賢亮より旅費の援助を仰ぐため、サンフランシスコのブロードウェー四百四十三番地に兄のレストランを訪ね、間もなく、船で帰国の途についた。
洋右をのせた船が横浜の桟橋に着いたのは、早くも初秋の風が吹く頃であった。
そして、十月の初めに、洋右は山陽本線に乗って懐しい室積の土を踏んだ。明治二十五年の年末に室積を去ってから、正に十年ぶりのことである。
あどけない少年であった洋右は、多年の筋肉労働に鍛えられ、小柄ながらも隆々たる筋肉を貯えていた。また法律事務所や商事会社のアルバイトで、いっぱし世間のこともわきまえて、二十二歳にしては大人びた青年に成長していた。
母のゆうは、室積浦の旧居にふせっていたが、起き上って久方ぶりに会う四男を迎えた。
「おう、おう、洋右。まあ、大きゅうなって……。ほう、これがアメリカの洋服かいな……」
彼女は、その頃アメリカではやっていたあらいチェックの背広に鳥打帽をかむった洋右を、にこやかな表情で迎えた。夫の不始末から、遠いアメリカに苦労をさせにやったのであるが、苦労しながら、オレゴン大学とやらを二番で卒業した洋右が、彼女にはいとおしくてならなかった。
「ほうれ、母さん、これが土産じゃ」
洋右は母の前に紫色のレース編みのショールを出して、拡げてみせた。
「ほう、これは何じゃいな。アメリカの風呂敷かいな」
不思議がる母に、洋右はそのショールを肩に羽織ってみせ、
「このようにして、肩にかける。冬は暖かいし、第一、模様がしゃれておるじゃろうがの」
「そじゃけんど、これは洋服につけるもんと違うんかいの。わしは洋服なんぞ持たんけん……」
「うんにゃ、きものでもええんじゃ。東京、横浜では、みなきものの上にかけてござる。英語でショールというが、日本語に訳すれば肩掛けじゃ。つまり、肩にかければよいのじゃ」
そこで、親子は声を合わせて笑った。
笑いが収まると、母は少し心配そうな表情で洋右に問うた。
「洋右、あんた、九年間もよう学資が続いたのう。メリケンへ行って、さぞ困っちょりゃせんかと、松枝(長女)とよう心配しとったものじゃ」
気丈な母にも、それは気がかりなはずであった。しかし、洋右はこれを一笑に付した。
「なんの母さん。金のことなら、心配はいりゃあせんが。洋右はしっかり、ポーカーでかせいじょりましたけん……」
「ポーカーちゃ何じゃの」
「ポーカーいうたら、ばくちじゃ。カードを並べてやる西洋ばくちじゃ。洋右は、これで、一晩に十円、二十円とかせいじょりましたんじゃ」
「ほう、洋右、お前は西洋ばくちなんぞやりよったんかいの」
母は心配そうである。洋右の兄英太郎と勧治郎は賭博で身上をすってしまったのであった。洋右までがその悪癖に染まっては、松岡の家は絶望に近いのである。
「何の母さん、心配してつかあさるな。洋右は西洋ばくちで負けたことはない。いつも青い目玉のメリケンから、仰山ドルをまきあげてやりましたけんのう。洋右はな、そのほか、けんかをやり、けんかの仲裁もやり、裁判の弁護人から、結婚の仲人までやっちょりましたんじゃ」
「ほう、お前が結婚の仲人を……」
母のゆうは、心から驚いたようであった。オレゴン大学の同窓会誌は、洋右の卒業に際し、「我等がよき日本の友、ヨースケ。そして、ポーカーの名手、ヨースケ。我等はヨースケに多額の資本を投資したが、それを悔んではいない……」という旨の送辞を記録している。
十年ぶりに母に再会した松岡は、同じく室積に住んでいる、かつての小学校長柳川陽明を訪れた。
チェックの背広に、鳥打帽といういでたちは、明治三十五年の山口県室積では珍しい。応対に出た柳川の妻は、はじめ洋右を西洋人と間違え、ついで、県庁からの高級役人と間違え、やっとかつての腕白小僧洋右とわかるまでにはかなりの時間を要した。
「おう、帰って来たか、腕白坊主。まあ、こちらにあがれ」
奥から出て来た柳川陽明は、嬉しそうに笑いながら、洋右を書斎に通した。相変らず勉強中とみえて、一閑張《いつかんば》りの机の上には、漢籍がひろげてあった。
「どうだった。アメリカは?」
柳川は、九年前、洋右が洋行するとき、級友の松田清七が読んだ送別の辞を想い起しながらこう問うた。「余、君ト交ル|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ココ》ニ数年、常ニ君ノ大胆剛気、必ズ将来|為《ナ》ス有ル友タリト」と松田は詠んだのである。そして、いま、洋右は海外遊学を終えて、校長の前に姿を現わしたのであった。
「はあ、いろいろと勉強して参りました」
往年の腕白小僧洋右は、神妙に膝小僧《ひざこぞう》をそろえてそう答えた。
「どういう国かね、アメリカは?」
「はあ、広くて物資もたくさんあります。そしてアメリカ人は、体も大きく、頭もよく、精力的です。今は日本がアメリカに学んでいます。しかし、いずれ、日本はアメリカに追いつくでしょう。その時、大切なことは、アメリカ人に馬鹿にされてはならない、ということです。アメリカ人は一本道で人と行きあったとき、相手がおじぎをして道を通してくれると、感謝する代りにこれを軽蔑《けいべつ》します。そして、相手が、この野郎と、一撃を加えてきたとき、初めて、これを対等の相手とみなすのです。これは、これからの日本の外交官が気をつけるべきことだと思います」
思わず、外交官という言葉を口に出してから、洋右は、
「先生、私は外交官になりたいと思います。外交官になって、国際場裡に立って、これからの日本に有利になるような交渉を行ってゆきたいと思います」
と、決意の一端を披瀝《ひれき》した。
「うむ、外交官か。それもよかろう。洋右なら、外人と弁舌で戦っても負ける気づかいはあるまい」
少年時代の口達者な洋右を回想しながら、柳川はそう言ったが、ふいに話題を変えた。
「外交官といえば、当然、語学が必要になるが、どうじゃった? わしが教えた英語は間にあったかの」
柳川は少々得意気に顎ひげをなでたが、洋右は言下にそれを一蹴《いつしゆう》した。
「いえ、先生の英語は日本英語≠ナ、アメリカでは通用しませんでした」
「なに? 全然?」
「はあ、先生は英語で『小便する』はpissと教えて下さいましたね。しかし、シアトルで聞いたのではpass waterというのです」
「そうか、わしの教えた英語は、アメリカでは通じんじゃったか……」
柳川校長は意外な洋右の報告に、憮然《ぶぜん》として顎ひげをなでた。
「先生、それだけではありませんぞ。アメリカでは発音の仕方が違います。たとえば水はウォーターではなくて、ウワラーというように発音します。小さいという意味のリトルはリルル、たくさんのロッツオブは、ラーラブというように発音するのです」
「そうか、水はウワラーか」
柳川校長は、新帰朝者の洋右から講義を聞かされ、神妙に聞き入っていた。
ひとしきり語り終ると、洋右はトランクのなかから一枚の油絵をとり出した。
「先生、これは先生へのお土産です。ごらんなさい。この酒をうまそうに呑んでいるのは、バッカスといって、西洋のギリシャ神話に出て来るお酒の神様です。先生はお酒が好きだから、アメリカのウイスキーを持って帰ろうと思いましたが、横浜の税関で税金をたくさんとられそうなので、油絵にしました。お酒は呑めばなくなりますが、絵ならばいつまで眺めてもなくなりませんから。どうぞお収め下さい」
洋右はそういって額に入った油絵を恩師に贈り、柳川校長は喜んでこのプレゼントを受け、長く保存することを約束した。
「ところで洋右、お前は長くアメリカでくらして来たが、頭のなかまでアメリカ的になりはせんじゃろうな、わしはそれを心配しておるんじゃ」
柳川校長は、心配していたことを口に出した。
「大丈夫です、先生。アメリカに長くいるとますます日本のよさがわかり、日本が懐しくなります。私はこれから外交官試験の準備として、法律学や英語を勉強しますが、そのかたわら、出来るだけ、国文や漢籍を勉強するつもりです。日本の役に立つ人物になるためには、日本や支那を知っておかねばなりませんから……」
洋右はそう答えた。
柳川校長を訪れた帰路、洋右は旧今五の隣家にあたる回漕問屋喜久屋を訪れた。前にも書いたが、ここの当主津川真一の妻テルは、洋右の幼な馴染《なじみ》で、初恋の相手とも言えるかも知れない女性である。洋右はテルに、アメリカの小さなハンドバッグを贈った。テルは返礼に、洋右の好きなけんちん汁や揚げ豆腐、まぜ飯などをご馳走した。
洋右は、柳川校長との約束通り、今五の旧宅に腰をすえ、漢籍を勉強し始めた。この頃大陸では、ロシアが日本の強硬な申し入れを受諾して、満州からの撤兵を徐々に実行することを約束だけはしていた。
翌明治三十六年夏まで洋右は郷里で国文や漢籍の勉学に没頭した。
しかし、いなかにいては勉学の限度が知れている。彼は東京遊学を思い立った。アメリカのハーバード大学に行けなかったかわりに、東京の帝国大学で勉強しようと考えたのである。
三十六年九月、母の病気も快方に向ったので彼は母と妹の藤枝を同伴して上京した。藤枝はこの後日本女学校を卒業して佐藤松介と結婚し寛子を生むことになる。母のゆうも東京住まいが続いた。松岡は本郷に下宿して、とりあえず明治法律学校(明治大学の前身)に籍をおき、東京帝大の学習内容を探ったが、がっかりした。アメリカのオレゴン大学でスピーディな講義を経験した彼には、東大のゆっくりとした講義ぶりは、まどろこしくて、とても頼りにはならぬ気がした。
「よし、こうなったら、独学だ。独学で外交官試験にパスしてみせる」洋右は、こう自分に言い聞かせ、神田の古本屋で文献を買って来ては、深夜まで勉強した。
この間、国際情勢は意外な進展をみせ、三十七年二月には日露戦争が始まってしまった。ロシアは三十五年一月シベリア鉄道が開通すると、どしどし軍隊を満州に送りこみ、第二次撤兵協約を破って兵力の駐留を続けた。
日本とロシアの国交は三十六年夏からくすぶりにくすぶり続けていた。同年八月、外務大臣小村寿太郎は、駐露公使栗野慎一郎を通して、次のような日露協商案を提示した。
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一、ロシアと日本は清韓両国の独立と領土保全を尊重する。
二、ロシアは韓国における日本の優越権を認め、日本は満州におけるロシアの鉄道経営権を認める。
三、第一条のため、商工業的活動を保障する必要な措置をとるべき権利を互いに承認する。
四、第二条のため、派遣する軍隊は必要以上の人数を超過せず、かつ任務終了次第直ちに撤退する。
五、韓国における改革のため、忠告援助を与える日本の特権をロシアは承認する。
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これに対して、ロシア政府は十月、駐日公使ローゼンを通じて次のような修正案を提示した。
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一、韓国の独立と領土保全を尊重する。
二、日本が韓国に派遣する軍隊は、必要人数を超過せず、かつ任務終了後は直ちに撤退すること。
三、韓国領土中北緯三十九度(平壌と元山を結ぶ線)以北の地を中立地帯として、両国いずれの軍隊もここには入れないこと。
四、満州及びその沿岸はまったく日本の利益範囲外であることを日本は認めること。
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ここに注目すべきは第四条である。すなわちロシア側はこの修正案において、もっぱら日本の権益を牽制《けんせい》し、かつ、満州を完全に日本の勢力圏からはずそうとしたのである。韓国の保全を期せなくては日本は危く、韓国の安全を期するためには、満州にロシア軍を入れてはならない、というのが当時の政治外交通の共通した見方であった。
このロシアの修正案をみたとき、小村外相は日露開戦避け難きを決意した。この後、互いに協商等について応酬があったが、ロシア側は三十六年夏、長春以北の東支鉄道全面開業とあいまって、ますます満州への軍隊投入を続行したので、ついに三十七年二月四日の御前会議において、「事ここに至っては、国運を賭《と》して大国ロシアと一戦を交えるよりほかはない」と開戦の決議がなされ、二月十日、ロシアに対して宣戦布告がなされたのである。
この間のいきさつを、東京住まいの松岡洋右は注意深く見守っていた。
十年前、日清戦争のとき、ポートランドの高等小学校にいた洋右は、はるか祖国の命運を憂えたが、こんどは、お膝元の東京で、毎日の新聞に目を通し、一喜一憂したのである。外相小村寿太郎の判断に彼は注目していた。日英同盟を締結したこのカミソリ外相が、危険な敵ロシアとの一戦を決意するまでの心理的推移を、洋右はさまざまに忖度《そんたく》していたのであった。
宣戦二日前の二月八日、朝鮮の仁川《じんせん》に碇泊《ていはく》していたロシア軍艦コレーツ、ワリヤーグの二艦は瓜生《うりゆう》外吉少将のひきいる日本艦隊の攻撃を受けて撃沈された。同じ日、聯合《れんごう》艦隊司令長官東郷平八郎のひきいる主力は、旅順港外で夜間演習中のロシア極東艦隊主力を捕捉《ほそく》し、駆逐艦隊の夜襲によって、戦艦二隻、巡洋艦一隻に損害を与えた。
緒戦の戦果を知った洋右は、強敵ロシアに対して、日本海軍が善戦しているのを知った。国民も、「これは大国ロシアを相手にして五分五分に戦えるかも知れない」という望みを抱くに至った。
戦線は徐々に拡大され、戦況はなおも日本軍に有利に展開した。二月十四日、ロシア海軍切っての名将といわれるマカロフ中将のひきいる極東艦隊は、その主力をあげて旅順港を出撃し、東郷艦隊に決戦を挑んだ。しかし、ロシア側の武運|拙《つたな》く、マカロフの座乗する旗艦ペトロパウロフスクは、日本軍の敷設した機雷に接触して沈没し、マカロフも艦と運命を共にしてしまった。ロシア艦隊にとっては大損害である。
陸上でも、黒木中将の第一軍は朝鮮から満州東南部に進出、奥中将の第二軍は遼東半島の南山でロシア軍を撃破し、野津中将の第四軍と合流して、遼陽をめざした。
一方、乃木大将の第三軍はステッセル将軍の守る旅順|要塞《ようさい》を包囲していた。
九月、日本陸軍は遼陽を占領し、十月、沙河《さか》の会戦に勝ってさらに北進し、奉天をうかがうに至った。
この十月、松岡は東京で外交官試験を受け、一番で合格した。(一説には一番であったのは英語だけであったともいわれるが、ここでは通説に従っておく)ちなみに、松岡より一期後の合格者には、外務省最大のホープといわれながら、駐支公使在任中箱根の富士屋ホテルでピストル自殺をとげた佐分利貞男、駐仏大使になった佐藤尚武、二期あとにはライバルであった吉田茂と広田|弘毅《こうき》がいる。吉田は戦後五回にわたって総理を勤めた。広田は戦前、外相、総理を歴任し、文官中唯一のA級戦犯死刑囚として処刑されている。
この頃、松岡には一つの悩みがあった。
彼はすでに徴兵検査を終っており、現役補充兵という兵籍があった。従っていつ召集が来るかも知れず、また、国の興廃を賭《か》けた戦いを眼の前にして、彼は戦場に赴きたいという気持を抑えるのに苦心していた。しかし、外交官試験に合格してみると、やはり外交官になって、小村寿太郎のようなえらい外交官になってやろうという気持が強く擡頭《たいとう》して来るのを覚えた。
このときの受験者は百三十名で、採用人員は七名であった。百三十名の俊秀を抜いて一番で合格したのであるから、松岡のアメリカ以来の努力も大きく実を結んだというべきであろう。
『人と生涯』には、松岡が例によって物おじせず、試験場において、試験官と大いに議論した旨を紹介している。
後に内務大臣、文部大臣などを歴任した一木喜徳郎も試験官の一人であったが、法律の条文をめぐって松岡と激論になり、ついに六法全書をとりよせ、逐条審議するに至った。結局、松岡の解釈の方に軍配があがった形となった。むっとした一木は、
「只今は、貴君の解釈が正しいことになったが、もし、これが逆であったら、君はどうする?」
と尋ねた。
すると、松岡は少しもあわてず、
「そのときは、論理をひっくり返し、逆の理論立てを展開する」
と答えたので、一木はあっけにとられて、まじまじとこの強気の青年の顔をみつめていたという。
また、後に大審院長となった横田秀雄も試験官の一人で、洋右の争論の犠牲者?になった一人である。
横田は後に大審院長をやめた頃、たまたま満鉄副社長であった松岡と同席した。そのとき、横田は、
「昔、わしが外交官試験を担当したとき、松岡某という口の達者な奴がいて、わしに三十分以上も法律の議論をふっかけてはなしてくれんので困ったことがあった」
と回想したことがあった。
洋右はその松岡某が自分であることを知っていたが、わざとそらとぼけて、
「ほう、あなたに法律の議論をふっかけて悩ませるとは、気の強い奴もいたもんですな」
と相槌《あいづち》を打っていた。
外務省は、一番で合格した松岡を迎えて喜んだが、履歴をよくみると、現役補充兵となっているので、内地勤務にしておくと、兵役に引っ張られるおそれがあると考えた。優秀な外交官の卵が入って来たのに、一兵卒にとられて戦死でもされては損失である。そこで外地勤務ならよかろうというので、松岡を上海《シヤンハイ》勤務の領事官補に任命した。
松岡は叙高等官七等、賜五給俸という辞令をもらい、三十七年十一月、長崎から船に乗って上海に赴任した。おりから、日露戦争の戦局はクライマックスを迎えつつあった。
八月の黄海海戦で、敗北を喫したロシア海軍は、極東艦隊では到底東郷艦隊と太刀打ち出来ないことを悟り、そのヨーロッパの主力であるバルチック艦隊を東洋に回航することに決した。
そして、旅順を包囲中の乃木将軍は、一月一日までに旅順要塞を陥落せしめよとの至上命令を受けていた。
長崎から上海へ向う船の上で、洋右は一種の感慨に打たれていた。明治二十五年十二歳でアメリカに渡ってから、十二年ぶりの海外渡航である。あのときは、何が前途に待っているかもわからぬお先まっくらの渡航であった。アメリカ留学といえば聞えはよいが、実は没落した今五から逃げ出すための、必死の逃避行であったのだ。それだけに悲壮なものがあった。
しかし、今回は上海総領事館領事官補高等官七等という辞令を胸に抱いての渡航である。大陸での勤務は困難なものであろうが、それだけにやり甲斐《がい》があり、前途は洋々たるものがあった。
――おれもやっと憧《あこが》れの外交官になったな――
船首に砕ける東支那海の波をみつめながら、洋右はしばし感慨にふけっていたのであった。
上海に赴任した松岡には早速忙しい仕事が待っていた。
当時の上海総領事小田切満寿之助は東京へ出向いて留守であった。このため二十五歳のほやほやの領事官補は、着任早々総領事代理として、職務に追いまわされることになった。しかし、このため、二回にわたる召集令状も、第一線における重要任務に従事中という理由で回避することが出来た。
松岡は上海で多くの官民の知己を得たが、そのなかで特筆すべきは山本条太郎との交遊である。山本は当時三井物産の上海支店長として腕をふるっていたが、若い領事官補の松岡が、総領事代理として困難な事務処理に追われているのを好意的なまなざしで眺めていた。山本は暇があると、松岡を誘い、バンドに近いアスターハウスや上海クラブなどで支那料理をおごった。松岡の豪酒は有名であるが、彼が酒を覚えたのは上海の老酒《ラオチユー》が皮切りであろう。
山条こと山本条太郎は後に政友会の幹部となり満鉄社長(後に総裁と改称する)を勤めた。松岡は山本が社長のとき、満鉄副社長に招かれ、また山本のひきで、政友会の代議士となっている。また、上海当時、山本三井支店長の下に森|恪《かく》がいたことも見のがしてはならない事実である。森は松岡より三歳年下であるが、中国における利権獲得拡張の急先鋒《きゆうせんぽう》であった。
森恪は後に、田中義一内閣(昭和二―四年)のときに外務政務次官として東方会議≠主宰し、犬養内閣では書記官長を勤め、軍部と提携して、中国大陸進出を計っていたが、犬養が軍部の兇刃《きようじん》に倒れた昭和七年、十二月、病気で急死している。
森と松岡は、同じ政友会の代議士で親交があった。森が急死したとき、松岡はちょうどジュネーブにいて、世界の代表を相手に国際聯盟脱退直前の演説をぶちまくっていた。「十字架上の日本」という演説を行って間もなく、日本から森の急死を伝えて来た。松岡ははるか遠くから東京をのぞみ、三十年来の旧友の死を悼んだ。
ここで、森恪が田中義一内閣当時主宰した東方会議についてふれておこう。
東方会議は中国に対する日本の根本政策を決定するため開かれたもので、原敬内閣(大正七―十年)当時と、田中内閣当時と二回開かれ、森恪が参画したのは後者である。この第二回東方会議では主として、日本軍の山東省出兵と国民革命軍の北伐に関して日本の態度を決定しようとしたもので、田中首相はこの会議で「対支政策綱領」を提示している。
この綱領で田中首相兼外相は次のように述べている。
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一、日本の支那本土に対する政策と満州、蒙古《もうこ》に対する政策は異るのが当然である。
二、支那本土における日本の権益に対する侵害に関しては、平和的な現地保護主義を採用する。
三、満蒙における権益に関しては、軍隊による積極的な治安維持方針をとるべきである。
四、非公表ではあるが、日本はいずれ満蒙の支那本土からの独立に関して、積極的な援助を加えるものとする。
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この綱領は後に対支強硬外交の典型といわれ、日本の中国侵略の一つのテーゼとみなされたものである。
この綱領の積極的な推進者は外務政務次官の森恪であり、森の対支政策のアイデアは、三井物産上海支店当時から培《つちか》われたものとみられる。このような対支強硬論者を若き日の友に持った松岡が、後に、満蒙は日本の生命線であると考え、これを阻害する国際聯盟に訣別《けつべつ》する使者の役を演ずることになったのは、所以《ゆえん》のないことではなかろう。
森恪を紹介した序《ついで》に、後に満鉄社長として松岡を副社長に呼ぶことになった山本条太郎のことも、いま少しく紹介しておこう。
政友会に山条≠りといわれた山本条太郎は明治維新の直前、福井藩士の息として生れた。学歴は小学校高等科修であるが、明治十五年三井物産に入って手代となってからは着々と才能を伸ばした。明治二十一年、上海支店勤務となり、明治三十四年上海支店長となった。松岡が領事官補として上海に着任したのは、これから間もなくである。山条の上海勤務は長く、明治四十二年まで通算二十二年に及んでいる。この間、日清、日露戦勝に伴って、支那における日本の経済勢力も大いに伸展した。山条は、上海を門戸として、支那における日本の経済進出を推進した有力な人物であった。
彼は明治四十二年、その功を認められ本店理事に昇進して東京本社に帰り、実力者として主として大陸経営に腕を揮《ふる》ったが、大正三年シーメンス事件で起訴され三井を退職した。シーメンス事件とは、ドイツの代表的な電機会社シーメンス会社が日本海軍に軍需品を納入する際、軍の高官に賄賂《わいろ》を贈っていた事件である。シーメンス会社の日本駐在員リヒテルが、極秘書類を盗み出し、同社をゆすったことの裁判から事件が明るみに出て、ついに山本権兵衛内閣はこの事件のため倒れた。事件の発覚が進むにつれ、日本海軍幹部はイギリスのヴィッカース会社、日本の三井物産からもコミッションを受けとっていたことがわかった。山条は三井側贈賄者の代表として責任をとらされたものである。
このあと山条は大正九年衆議院議員となり立憲政友会に入り、昭和二年幹事長となった。この年、満鉄社長となり、上海以来の旧知松岡を副社長に招いた。昭和五年、山条は政友会の政務調査会長に就任、昭和七年の五・一五事件で党首犬養が倒れてからは、党のまとめ役として辛酸をなめた。同年斎藤実の挙国一致内閣成立後は、挙国一致政権維持のために力を尽した。昭和十年貴族院議員に勅選され、翌年世を去った。山条の影響は、松岡の後半生を通じて強いものがあると見なさざるを得まい。松岡はジュネーブから凱旋《がいせん》≠オた昭和八年十二月、政友会を脱党、政党解消運動を始めている。翌九年には北海道から九州まで、この運動のために遊説行脚している。ここにも、山条の挙国一致体制イズムが影響していたとみるべきであろう。
この項では、松岡に影響を与えた人々について紙数を割いたが、ついでに今一歩視野を推し拡げてみよう。
後年、松岡の最大のライバルもしくは盟友とみられたヒトラーは、この年何をしていたか? 一八八九年(明治二十二)オーストリアの田舎町ブラウナウに生れたアドルフ・ヒトラーは、松岡が外交官としての一歩を踏み出した明治三十七年にはまだ十五歳の少年であった。ヒトラーの父親は税関吏で、ヒトラーを官吏にしようと考え、実科学校に通わせた。しかしヒトラーは松岡と異り劣等生であった。彼は落第して転校し、ついに実科学校を退学してしまうのである。この後、ヒトラーはウィーンに出て画家を志すが、美術学校の試験も二度受けて二度落第してしまう。ヒトラーはついに無料の浮浪者収容所に宿泊するようになり、似顔絵や絵葉書を描いてわずかな生活費を得る始末となった。ある史家は、ヒトラーがこの流浪生活の間にユダヤ人のルンペンや下層の貧民と接触し、大衆心理を収攬《しゆうらん》する術を会得したとする。また、ヒトラーのユダヤ人|厭悪癖《えんおへき》がこの間に育成されたとする人もいる。
また別の史家は、ヒトラーは決して頭が悪かったわけではない、彼は徴兵忌避のために浮浪者収容所に身を潜めていたのだと主張する。ある記録によると、ヒトラーは三度徴兵検査を拒否して、官憲から追い回されたことがあるという。しかし、大正三年第一次大戦が始まると早速志願して軍隊に入り、勇敢に戦ったかどで伍長に昇進し、鉄十字章を受けているのであるから、徴兵忌避説も全面的に信頼するわけにはゆかない。
いずれにしても、この時期のヒトラーは、暗中模索の雌伏期であったといえる。そして、後に世界の外交を牛耳ったヒトラーと松岡の二人が、いずれも少年時代、明日の飯に困る放浪の時代を送った経験を持つということは、この二人の精神構造を解明する重要なエレメントとして記憶されてよいであろう。
いま一人、後に松岡と日ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせたスターリンは、この頃何をしていたであろうか。
ヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・スターリン(スターリンは通称、本名はデュガシビリ)は、一八七九年(明治十二)コーカサスのグルジア州チフリス県ゴリ町で生れた。父はグルジア人の靴職人である。
グルジアは紀元前からコーカサスに国を成し、比較的早くキリスト教を信奉したが、東アジア、中近東、ヨーロッパの交通の要路に当るため、常に他国の侵略を受け、独立を保つのに苦心をした。ギリシャ、ペルシャ、ビザンチン、アラブなどの支配を受け、その後もセルジュク・トルコ、モンゴル、チムール、オスマン・トルコの侵略を受けたが、一八七八年露土戦争の結果、グルジアは帝政ロシア領となることが決った。従って、スターリンが生れたころは、グルジアは、帝政ロシアの一州になったばかりであった。この後、一九一七年のロシア革命の際労働者が一斉に蜂起《ほうき》し、一九二二年グルジア共和国としてソ連邦の構成メンバーとなった。
グルジア人は長い間他国の支配下にあり、常に分裂と裏切りを繰り返してきたため、人間不信が強いといわれる。その反面、反逆的、戦闘的で尚武の気性に富んでいる。交通の要路にあるため、旅人をもてなすことを楽しみとする気風も強い。
筆者は、昭和四十三年、四十六年の二回、グルジア共和国の首都トビリシを訪れたが、レストランでワインの御馳走攻めにあって閉口したことがある。彼らは非常に郷土意識が強く、レニングラードのレストランでも、ひとかたまりになって、手拍子をとり郷土の民謡を高声で歌っているのをみかけたことがある。成年男子は必ず太い髯《ひげ》を生やし、ホットブラッデッド(熱血的)であるといわれる。
反逆的、戦闘的であることと、人間不信の念が強い点とは、スターリンのなかにグルジア人的気質が受け継がれているとみてよいであろうか。
スターリンは早く父を失い、母の手で育てられた。ゴリ町の小学校を出た後、トビリシの神学校に入ったが、十四歳ころからマルクス主義の影響を受け、神学の勉強はそっちのけで革命運動に熱を入れ、十五歳のときにはいっぱしの革命家気どりであった。先述の通り、グルジア人には圧迫勢力に対する反逆精神が旺盛《おうせい》であるが、スターリンもツァーの帝政ロシアに反感を持ち、同じ被圧迫感覚をもつグルジア人の団結を呼びかけた。一八九八年、松岡洋右がオレゴン大学に入ったころ、スターリンはメサメ・ダシと呼ばれる社会民主党系秘密結社に入り、ついに神学校を放校された。この後、トビリシの気象台に就職したが一九〇一年これもやめて、本格的に職業革命家となり、一九〇二年から十三年の間に、逮捕七回、流刑六回、逃亡五回の記録があるというから、松岡が上海に赴任した一九〇四年にはおそらく獄中にいたのであろう。この二年後スターリンはトビリシで革命運動資金獲得のために銀行襲撃を行っている。党地方機関紙を編集してレーニンに認められるようになったのもこのころである。
スターリンの消息を知らせたついでに、いま一人の松岡の条約締結の相手、未完に終った幻の日米不戦条約の相手であるF・D・Rことフランクリン・デラノ・ルーズベルトの消息にも触れておこう。
アメリカ合衆国第三十二代大統領ルーズベルトは、一八八二年(明治十五)ニューヨーク州ハイドパークの裕福な名家に生れた。松岡洋右より二歳年下である。ここでちょっとおさらいをしてみると、ヒトラーは洋右より九歳年下、スターリンは一歳年長、ルーズベルトは二歳年下で、スターリンとルーズベルトは、洋右と同時代人ということが言える。
ルーズベルトは土地の名門校グロトン校を卒業した後、マサチューセッツ州ケンブリッジ市にあるアメリカ最古の名門大学ハーバードに入学した。
彼はハーバード卒業の翌年、有名な二十六代大統領セオドル・ルーズベルトの姪《めい》エリノア・ルーズベルトと結婚した。
松岡が上海に赴任した一九〇四年には、ルーズベルトは二十二歳であるから、エリノアと恋愛中の大学生であったとみてよかろう。彼がニューヨーク州から上院議員に立候補し、二十八歳の若き議員として政界にデビューするのは、これから六年後、一九一〇年のことである。
さて、筆を日露戦争に戻そう。
苦戦を極めた旅順の戦いも、明治三十八年一月一日、ステッセル将軍の降伏によって陥落した。
続いて三月十日、奉天の会戦には、旅順を陥しいれた乃木将軍の第三軍も参加し、クロパトキンは敗北を認めて鉄嶺の線まで後退した。このとき日本軍は補給線が伸びすぎて途切れることを心配し、ロシア軍は何物かを待ち構えていた。その何物かとは、半年以上も前にロシアのバルト海を出発したバルチック艦隊であった。
ロシア軍は、この艦隊の来訪によって日本の満州軍の補給路を断つことを期待し、日本軍は、このバ艦隊を叩き伏せねば勝利は確実なものにならないと考えていた。
この間、上海における松岡洋右は何をしていたか。
『人と生涯』には、松岡が日本海海戦を前に明敏なる諜報《ちようほう》活動を行い、東郷大将の聯合艦隊を勝利に導くのに一役かった事件の記述があるので、紹介しておこう。
明治三十八年春、仏領印度支那(現ベトナム)のカムラン湾にバルチック艦隊が入ったところまでは大本営にもわかったが、その後の消息がわからない。
聯合艦隊司令部では、対馬《つしま》海峡、津軽海峡、宗谷海峡の三つの通路のうちいずれかを通って浦塩《ウラジオストツク》に入港を計るものと推測し、最終的には対馬海峡に来ると予測し、これが当ったのであるが、これには松岡の情報が一役かっているのである。
日本海海戦三日前の五月二十四日朝、上海沖のベルブイの近くにバルチック艦隊所属の義勇艦隊運送船が入港し、食糧燃料の補給を申し出た。(ベルブイというのは、黄浦《こうほ》江が揚子江に流れ出るあたりの浅瀬に繋留《けいりゆう》してある信号用のブイで、一定時間をおいてベルが鳴り、航行船舶に位置を知らせるものである。筆者は海軍少尉候補生時代に練習艦鹿島でこのベルブイ付近を航行したことがあり、音の出る変った航路標識として印象に残っている)
総領事館にいて情報収集に力を入れていた松岡は、すぐにピンと来た。バ艦隊の一小艦が上海沖に現われたということは、バ艦隊が西寄り、すなわち対馬海峡よりの航路をとっているということを示す。このしばらく前、彼はバ艦隊が台湾南方のバシー海峡付近を北上しているという情報を受けとっていたので、ベルブイの件と合わせて、
「バ艦隊主力は台湾北方を北に向けて進んでいるものと考えられる。従って、対馬海峡に向う公算が大である」
と日本政府に向けて打電した。
この無電の内容は直ちに鎮海湾にいた旗艦三笠の東郷司令長官に打電された。この通報は、東郷長官の対馬決戦の決断に大きな役目を果したものとみられる。
この間の消息は、司馬遼太郎著『坂の上の雲』にも叙述がある。
第六巻百五ページに「五月十九日午前九時バシー海峡付近でバ艦隊はノルウェー汽船第二オスカル丸を臨検し、釈放した。この汽船は三井物産の傭船《ようせん》であったので、釈放された後、直ちに東京の三井物産本社あてに、ロシア艦隊に臨検された旨を打電した」という記述がある。
上海支店長の山条を通じてこの情報は直ちに松岡の耳に入っていたであろう。
また、同書の百二十八ページにも興味ある記述が見える。
それによると五月二十五日朝八時、バルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー中将は、艦隊が帯同していた六隻の運送船を分離し、「上海に行け」と命じた、となっている。
決戦が近いので、速力が遅くて足手まといの運送船を分離したことは、幕僚ならびに艦隊将兵の士気を高める効果をもたらした。
「汽船は艦隊の長途の航海のために欠かせないものであった。かれらは航海のための石炭、弾薬、機材、食糧などを積んで艦隊とともについて来た。しかし、決戦が明後日(ロジェストウェンスキーは対馬海峡を二十七日正午とみていた)にせまっているいま、汽船を従えることは足手まといであった。
ところが、このロジェストウェンスキーの配慮は、日本側にとってほとんど運命を左右した[#「ほとんど運命を左右した」に傍点](傍点引用者)ともいうべき幸運をもたらした。日本側がバルチック艦隊の針路について頭を悩ませていたとき、二十六日、この汽船団が上海港に入ったという上海発の電報を得てかれらが対馬海峡に来ることを確信するにいたるのである」
と『坂の上の雲(六)』は叙述している。
『人と生涯』の運送船上海ベルブイ入港の叙述は、松岡洋右が満鉄総裁当時の回想をもとにしたものであるが、この回想によると、ロシア運送船の上海入港は、日本海海戦三日前となっている。『坂の上の雲』では入港は二十六日である。おそらく、松岡の手元に日本海海戦の捷報《しようほう》が届いたのは、二十八日か二十九日であろう。彼は捷報が届いた日から逆算して、三日ほど前にベルブイにロシアの運送船が来た……逆に言えば、運送船がベルブイに着いてから、三日ほど後に捷報が届いた、と考えていたのではなかろうか。
『人と生涯』にはさらに田中隆吉少将の語る東郷元帥の回顧談が出ている。
「バ艦隊がカムラン湾を出港したことは確実だが、そのあとどこに来るかわからない。実は運を天に任せてサイコロを振った。ツシマと出た。そのとたんに上海の松岡(洋右)領事官補よりロシア運送船入港の電報が入ったので、対馬での決戦を決定、主戦場を対馬として、その戦闘配備を各艦隊に指令した」
と東郷平八郎は語っている。
バルチック艦隊の対馬来訪察知に関しては、聯合艦隊参謀秋山真之の血のにじむ苦心と天才的なひらめきによる判断が喧伝《けんでん》されているが、そのかげで、領事官補になりたての、弱冠二十五歳の松岡洋右の情報活動も、戦捷に大きな役割を果していたのである。
かくして、日本海海戦に大捷を得て、日本の勝利はほぼ確定したが、それはあくまでも極東戦域における勝利であって、満州にはなおクロパトキンに代ってリネウィッチがひきいる三十万のロシア軍が健在であり、露都ペテルブルグまでは、一万キロに近いへだたりがあった。
三十八年六月一日、ワシントンにあった駐米公使高平小五郎はセオドル・ルーズベルト大統領に日露の講和をあっせんしてもらいたいと申し出た。
セオドルは、これを受け入れ、早速両国に平和交渉開始の勧告を行い、日本は六月十日、ロシアは同十二日に、この勧告を受け入れ、平和交渉に踏み切ることとなった。
ここで、日露講和条約の生みの親であり、日本の恩人?といわれているセオドルについて、説明を加えておこう。
セオドルは、一八五八年(明治維新の十年前)ニューヨーク市の名家に生れ、ハーバード大学を出て下院議員となり、一八九七年海軍長官に就任した。翌九八年米西戦争が始まると、義勇軍を組織して先頭にたち、国民的英雄となった。その後、マッキンレー大統領の副大統領として革新政治への志向を見せ、一九〇一年、マッキンレーの暗殺事件によって二十六代大統領となり、大資本、大企業を批判する革新主義を実行に移し、炭鉱ストライキの調停などに成功した。一方、外交政策にも積極的で、ラテン・アメリカにおけるアメリカの勢力を拡張し、パナマを独立させてパナマ運河を造り、日露戦争終結の調整にあたったかどで、一九〇六年ノーベル平和賞を受けている。もっともこの経歴からセオドルをウィルソンのような平和主義者とみることは当っていない。セオドルは一種の均衡論者であって、列強の勢力の均衡の間にアメリカの勢力を伸張させようと画策していた。彼はロシアの満州独占に危険を感じていたが、日本が戦勝によって全面的に極東の盟主となるのも、アメリカの中国に対する機会均等主義に照らして望ましいことではない。従って、ここは両者のバランスの上に立って、満州が中国領であることを維持しつつ平等に開放されることが望ましいと考えていたのである。
そのように首鼠《しゆそ》両端の底意を持つセオドルの司会のもとに、一九〇五年(明治三十八)八月九日から、日露講和会議は、アメリカの東海岸北部ポーツマス軍港の海軍|工廠《こうしよう》雑貨貯蔵庫内の一室でひらかれることになった。
会議に先立って、六月十六日、セオドルは次のように日記に書いている。
「私は日露両国代表者に、すべてを正直に打ちあけて、どちらにもわけへだてをしないつもりである。ロシアに対しては『この上戦争を続けても、絶対に勝利の望みはない。東洋にある領土を失い、二百年来領有して来た領土まで失うことになるかも知れない。応分の条件で講和すべきだ』と説き、日本に対しては『ロシアが承服出来ないような条件を出しても、承諾を得られず、戦争を続けることになれば、今後一年間でシベリアの東部を手に入れることが出来てもその犠牲は甚大である。日本はすでに、旅順や韓国を勢力圏下に入れた。満洲においても優勢である。あまりきびしい条件を出さずに講和を成立させるのが得策であろう』と説得に務めた」(大久保利謙ほか著『日露戦争』集英社刊)
さて、この日露講和会議には二人の切れ者が登場して、遠く上海にいた松岡洋右の眼を惹《ひ》きつけた。
一人は先に日英同盟を締結したカミソリ大臣小村寿太郎、いま一人は、ロシア政界切っての政治家、セルゲイ・ユーリエヴィッチ・ウィッテである。
小村は一八五五年(安政二)宮崎県|飫肥《おび》町(現日南市)に生れた。セオドル・ルーズベルトより三歳年長であるが、後アメリカに留学してハーバード大学で法律を学んだときは、セオドルと親交があった。これが後に大きな役割をもつこととなる。
明治の外交官として小村ほど重要なポストを歴任した人物も少なかろう。日清開戦当時は北京にいて代理公使として折衝に当った。その後、朝鮮公使となり、ロシアとの間に小村・ウェーバー協定を結んだ。義和団の北清事変収拾の国際会議に日本代表として出席、第一次桂太郎内閣の外相として日英同盟の締結を行い、ポーツマス日露講和会議の後も、ハリマンの満鉄買収計画やアメリカの満鉄中立宣言などに反対してこれをつぶした。陸奥《むつ》宗光《むねみつ》の懐刀といわれたが、日本の満州における地位強化に努めた点では、松岡の大先輩である。
小村は、当時の日本外交界が秘蔵する最大の切り札であったが、これに対するウィッテもなかなかの曲者《くせもの》であった。
セルゲイ・ユーリエヴィッチ・ウィッテは、一八四九年ペテルブルグで生れた。ポーツマス会議のときは、五十六歳の分別盛りであった。鉄道局長官、交通大臣を歴任した後、一八九二年から一九〇三年まで大蔵大臣として腕をふるった。当時ロシア政界の主流はツァーを宗主といただく地主貴族の専制派グループであったが、そのなかにあってウィッテは、保守政治家ではありながら、自由主義的な流動性を含有していたので、貴族たちからは煙たがられる存在であった。彼はまず金本位制の実施、保護関税の強化などを行い、封建的農業国であるロシアに資本主義を推し進めようとした。また極東政策に関しては、シベリア鉄道の建設を促進し、経済的に極東に進出することを主張し、軍事的に日本と事を構えることには反対であった。そこで軍事侵略をねらっていたツァーとその周辺の貴族閣僚にうとまれ、一九〇三年大蔵大臣の職を追われた。しかし、一九〇五年、日露戦争に負けてみると、日本のコムラに対して対等に太刀打ち出来る政治家は、ウィッテ以外にいないことを皇帝は見出《みいだ》していた。彼は、ポーツマス会議をロシアに有利に導いた功績で伯爵を授けられている。会議後は首相として革命派と戦ったが、革命が一応下火となると、不必要な$l間とみなされ一九〇六年政界から隠退している。
さて、海の向うから松岡が見守っている間に、小村対ウィッテの丁々発止の外交交渉はポーツマスの雑貨貯蔵庫で開始された。
会議は最初から荒れ気味であった。
まず開会に先だって、司会者のルーズベルトは、両国皇帝の万歳を唱えることを提案した。
「どちらの万歳を先に唱えるのですか?」
と曲者のウィッテが尋ねた。
「やはり、日本からでしょう」
とルーズベルトが答えると、「それはおかしい」とウィッテが言った。
「ロシアは敗戦を認めたわけではない。皇帝の万歳も両国一緒でなければ、会議には応じ兼ねる」
と彼はふくれ面で言った。
そら来た、とルーズベルトは考えた。彼は小村を説き、両国同時に皇帝の万歳を唱えることで、ともかくも会議を発足させた。
次に、ルーズベルトは両代表の全権委任状を点検した。ウィッテの方は、彼が条約に調印すると同時に効力が発生するように書かれてあった。これに対して、小村の方は、調印後日本に於《おい》て批准し、そこで初めて発効することになっていた。天皇絶対の君主国である日本ではこれが常識であった。しかし、ウィッテはこれに難色を示し、ここでもひと悶着《もんちやく》あった。
さて、まず日本からロシアに対する講和条件がつぎの通り提出された。
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一、ロシアは日本が韓国において政治、経済、軍事上に優越していること、及び指導、監督をすることを認めること。(ロシアは全面的に韓国から手を引くこと)
二、ロシアは満州から撤退し、今後清国の主権を傷つけ、機会均等主義にそむくような行為を行わないこと。
三、サガレン(樺太《からふと》)を日本に割譲する。
四、旅順、大連とその周辺地域の租借権を日本に譲渡すること。
五、ハルピン―旅順口間の鉄道利権を日本に譲渡する。
六、ロシアは戦費の実費を賠償する。
七、極東におけるロシア海軍力を一定トン数に制限する。
八、中立港に残存しているロシア艦艇を戦利品として日本に渡すこと。
九、日本海、オホーツク海、ベーリング海にのぞむロシア領沿岸の漁業権を日本に許与する。
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これに対して、ウィッテはきわめて巧妙に戦った。とくに彼は会議場外における新聞記者戦略に意を用いた。これはアメリカの世論をロシアに有利に導くためで、そのために彼は三人の外国人ジャーナリストを顧問として随行させていた。イギリスの国際政治評論家ディロン博士、前ロンドン・タイムズ政治部長マッケンジー、フランス、マタン紙記者アデマンなど、アメリカにも名の通った人々であった。
小村が秘密主義なのに対し、ウィッテはほどよく会議の内容を、しかもロシア側に有利に新聞記者団に発表した。記者団がウィッテびいきになったとしても不思議ではあるまい。後日この様子を知った松岡は、新聞記者を通じて人心を収攬することがいかに重要で、しかも新しい方法であるかを知った。後に彼が長谷川進一(時事新報記者)らのジャーナリストをブレーンとして重用し、マスコミを最大限に活用したパブリシティの方法論は、この会談に元を発したのである。
さて、ウィッテは、「ロシアは決して敗戦国ではない。ただ極東の平和のために条約を結ぶのである」というテーゼを前提として、日本側の提案に一々クレームをつけたが、なかでも難色を示したのは、樺太の割譲、賠償金の支払い、ハルピン以南の鉄道譲渡であった。ウィッテがペテルブルグを出るとき、皇帝と打ち合せたのは、不割譲、不賠償の二条件であった。従って、この二点で二人の全権は激しく対立した。
「樺太では全然戦闘が行われていない。降伏もしていないのに、領土を割譲し、賠償金を支払うわけにはゆかない。現に日本軍はロシア領に一兵も入っていないではないか」
ウィッテはこう言って抵抗した。
小村は段々腹が立って来て、
「もし、あくまでも割譲賠償に応じなければ、談判は決裂するより仕方がない。私は東京へ帰ります」
と卓を叩いて立ち上った。
「Just a moment please ! Your Excellency Ambassador.(お待ち下さい。大使閣下!)」
とルーズベルトが止めた。
太い葉巻をくゆらしながら、ウィッテはじっと小村の表情を眺めていた。――この男、評判通りなかなかやるわい――と彼は考えていた。彼はポーツマスに来る前、小村の経歴を十分に洗ってみた。十一年前の明治二十七年夏のことである。日本と清国は互いに朝鮮に出兵してにらみ合っていた。北京には一等書記官の小村寿太郎が、代理公使として駐在していた。時の外相陸奥宗光からとくに嘱望されて派遣されたものである。
以前に結ばれた天津《てんしん》条約には、朝鮮における出兵に対してはきびしく規制されていた。小村はこれをタテにとって清国宰相李鴻章に喰い下ったが、いっこうによい返事がもらえない。ついに彼は八月一日、独断で国交断絶を清国に通告し、公使館を閉鎖し、日本へ引き揚げにかかった。「独断で国交断絶をしたからには、帰国後死刑になるであろうが、こうしなければ、日本は面子《メンツ》が立たない」小柄ではあるが、強気の小村は、こう断言して帰国の途についた。折もよし、戦機熟したとみた外相陸奥宗光は、総理伊藤博文に建言して、八月一日をもって、清国に宣戦布告を行っていた。この事件で、小村の名声は一挙に高まった。松岡はこの小村をよく研究していたが、後年、ジュネーブにおける国際聯盟脱退のポーズはこの北京における小村の国交断絶事件によく似たところがある。もっとも、松岡は十二分に本国の訓令を受けてから脱退に踏み切ったので、小村のような独断ではなかったけれども。
ウィッテは十一年前のこの事件を、当時の北京駐在ロシア公使カシニーから聞いて知っていた。カシニーはポーツマス会議当時米駐在大使であった。
――この男、何をやり出すかわからん――とウィッテは小村を警戒し始めた。ウィッテは、外交的かけひきでは、十分小村と対抗する自信があったが、国内問題に一つの弱味を持っていた。それは進行しつつある革命運動である。すでに日本海海戦にやぶれる以前の段階で、ペテルブルグには反戦革命運動が起っていた。この上、日本軍がシベリアに侵入することになれば、ペテルブルグには暴動が起りかねない。ここはあまり強気の談判も出来ない……と彼は葉巻をくゆらしながら、腹の中でうなずいていた。
会議は二転三転した。ウィッテは本国のラムスドルフ外相に電報を打ち、樺太の南半を割譲の止《や》むなきに至るだろうと意見を述べた。ルーズベルトもこの意図を汲《く》み、講和を促進させようとした。しかし、日本は樺太全島の割譲を主張し、南半のみを割譲するというのならば、北半の代金として六億ドル(十二億円・当時)を日本に支払ってもらいたい。つまり、一旦日本に割譲したものとして、買い戻してもらいたい、と主張した。
ついに八月二十九日最後の会議が開かれた。ウィッテはあくまでも、「北緯五十度以南の南樺太を割譲するが、それ以上の賠償には応じられない」という最終回答をツァーの名によって、小村に回答した。
「もし、これに貴国が同意しなければ、本全権は直ちに帰国し、同時に戦闘が再開されるでしょう」
と、ウィッテは、小村をおどかすと、悠然と葉巻をふかしてみせた。しかし、彼の胸中は畏《おそ》れにおののいていた。
――もし、これで再び極東に戦火があがれば、ペテルブルグでは待っていましたとばかりに暴動が起るであろう――レーニンの一派はすでに暗躍していた。昨年は主戦論者のプレーベ内相が、そして今年に入ってからはモスクワ総督のアレキサンドロヴィッチ大公が過激派によって暗殺されていた。一月二十二日にはデモ隊から千人以上の死傷者を出す血の日曜日℃膜盾煖Nっていた。ロシアは国の内外から恐るべき圧力にせめつけられていたのである――もし、この談判が決裂したために、ロシアが崩壊したならば、祖国を滅ぼした外交官としてわしは歴史に名を残さねばならぬ――ウィッテの胸底には重いものが沈みこんでいた。
小村の方は明確な態度をとることが出来た。この前日、東京で御前会議が開かれ、樺太南半のみで講和に同意しようという結論が出ていたのである。
「日本政府は国際平和のため、ロシア政府の回答に同意する」
と小村は英語で言った。
ウィッテは一瞬耳を疑った。もし、このとき小村が、「あくまでも樺太北半を要求する」と主張したならば、ウィッテは独断で北半を割譲してでも、和平を結ぶつもりでいたと彼は回顧録で回想している。外交技術において、日本はやはりウィッテより一枚下であったとみなければなるまい。
かくして九月五日、日露講和条約はポーツマスにおいて調印されたが、条約の内容を聞かされた日本国民は憤激した。大体、国民には連戦連勝の号外ばかりが知らされて、日本政府の苦しさはほとんど知らされていなかった。二〇三高地における乃木将軍の苦衷も、日本海における東郷大将の苦心の判断も国民に知らされたのはずっと後のことである。「我大捷」と信じこんで、国民の間には樺太全島はもちろんのこと、沿海州、黒竜江州もとり、償金は二十億円、というのをひとつ覚えのように唱える大衆が圧倒的に多かったのである。
ポーツマス講和条約調印の翌日、日比谷公園に集った大衆は講和反対の国民大会を開き、日比谷を初め五カ所の交番を襲撃し火を放った。このため東京周辺に戒厳令が布《し》かれ、軍隊が出動した。通算三百六十四の警察や交番が壊され、二千余人が検挙された。世にいう日比谷の焼き打ち事件である。
上海にあって、連日このニュースを聞かされていた松岡は外交の難しさが身に沁《し》みる思いであった。条約を締結することも難しいが、その後に民心をつかむことも容易ではない。外交官はすべからく大衆にアピールする外交術を身につけるべきである。松岡は日露戦争の終結に当って、尊敬する小村の苦境を見てこのような勉強をした。後年、彼が全権として国外に使いしたとき、常に大衆の人気獲得に気を遣った理由がうなずけよう。
ちょうど日露講和条約交渉が白熱していた八月二十二日、松岡は上海勤務を解かれ帰国を命ぜられた。後任は出淵勝次(後のアメリカ大使)である。
十月六日上海を出港した彼は、講和に対する不平の未《いま》ださめやらぬ日本に帰って来た。日比谷の交番の焼け落ちた無残なさまを見て、彼は今更のように外交の難しさを知ったのである。このとき、彼の胸中には二つの考えがあった。小村寿太郎のような大外交官になるか、それとも郷土の先輩伊藤博文のような大政治家になるかである。
松岡の心は揺れ動いていた。
外交官として生涯を捧《ささ》げるか、それとも、外交を勉強した後、その外交官を駆使する政治家となるか。何はともあれ、当座は外交の勉強を続けるよりほかはなさそうであった。
この年十一月、上海総領事永滝久吉は日露戦争中、情報活動に活躍した松岡の功績を桂外相(兼総理)に具申し、進級を申請した。
『人と生涯』からその内容を紹介してみよう。
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領事官補、松岡洋右。右は昨年十二月来任以来|或《あるい》は小田切前総領事を助け、或は館務の代理をなし、戦時事務の繁劇に加え、電報の往復昼夜数十通に及ぶに拘《かかわ》らず、遺憾なく之《これ》を処弁し、小官着任後に於ても誠実に勤務するは、小官の敬服する所に有之候。特に同人は永く米国に留学し居れることとて、他の領事官補に於て見るが如き専ら欧米転任を望むものと異り、能《よ》く其《その》分を守り加うるに明晰《めいせき》なる頭脳と敏活なる事務的才能を有するは幾多領事官補中、実に稀《まれ》に見る所と確信致候。就ては特別の御|詮議《せんぎ》を仰ぎ破格の進級を与えられ、小官当地在勤中補翼の任に当らしめられ候様希望致候敬具
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この要請に対して政府は翌三十九年四月、勲六等単光|旭日《きよくじつ》章、金三百円、賜四級俸を松岡に授けその労に報いた。
日本に帰った松岡が、政務局長の山座円次郎にいわれて桂首相にあいさつに行くと、郷土の先輩である桂は、
「いや、ご苦労さんじゃった。東郷さんも君の情報にはいたく感心しておられた。ところで、何だな、しばらく日本にいて、満州のことでも勉強しておかんかい」
と言った。
松岡はいわれるとおり、満州の地理や、ロシアが建設した満州鉄道について勉強を続けた。学ぶにつれて、彼は満州について興味をもつようになった。
ポーツマス条約によって日本が利権を行使するようになった南満州は、北海道に倍する広さを持っている。国土の狭い日本にとってこの広大な土地を有効に管理すべきはもちろんであるが、日本の生命線といわれる韓国の守りを確保する上からも、南満の経営は重要と思われた。
――満州に関しては、日本は画期的な手を打たねばいかぬ。現下もっとも重要なのは、対満政策である――
松岡はそのように痛感していたが、彼の心中を見すかすように、三十九年六月満鉄(南満州鉄道株式会社)が勅令によって設立された。長春旅順間の鉄道一千キロを中心とする政治的国策推進会社である。資本金は二億円(百万株)。現在の一千億円かそれ以上に当るであろうか。株の半額は政府出資とし、残りの大部分は銀行や財閥に割り当てられ、一般公募は九万九千株であった。
「満鉄は有望だ」「満州は日本の第二の生命線だ」という呼び声が高かったので、満鉄株の申し込みは、千倍以上に達した。満鉄KKは、鉄道経営のみならず、鉱業、商業部門にも手を伸ばし、沿線の鉄道付属地の一般行政をも担当し、日本の満州進出の枢軸となったのは周知の通りである。
満鉄が設立されるのを待っていたように松岡はこの年十月、関東都督府事務官(高等官六等)となり、翌十一月、関東都督府外事課長に任ぜられた。
松岡は二十六歳の課長として、旅順の関東都督府に赴任した。
初代都督は大島義昌大将。初代満鉄総裁は後の東京市長として有名な後藤新平である。後藤は松岡が尊敬した先輩で、尊敬に値する偉材であった。一八五七年岩手生れで、松岡より二十三歳年長である。松岡の生れた一八八〇年(明治十三)愛知病院長となり、二年後の十五年、岐阜の金華山下中教院で板垣退助が暴徒に刺されたときは、名古屋から駆けつけ治療をした。この後、台湾銀行の創立に力を貸し、また桂内閣、寺内内閣の大臣を勤めた。大正十二年の大震災後、第二次山本内閣の内相兼帝都復興院総裁として、東京の復興計画をたてた。昭和通りのみが今日なお名残りとして、交通の便に供されているのは人の知る通りである。
満州に赴任し、先の上海に続いて支那料理と老酒《ラオチユー》、あるいは高粱《コーリヤン》酒に恵まれた松岡は、ここにいよいよ酒豪の本領を発揮することとなった。
当時、都督府の酒豪三羽烏は、まず都督府参謀の南次郎少佐、次いで民政署長の関屋貞三郎(後の宮内次官)、そして松岡であった。とくに豪傑なのは、南で、朝から一升酒をも辞せぬという有様で、これには松岡も恐れをなした。後年、松岡が代議士時代、南はよく防府の松岡邸にやって来たが、来れば必ず徹宵して呑み明かし、松岡ももてあまし気味であった。
南は一八七四年大分県の産で、松岡より六歳年長である。後年陸軍大将となり、若槻《わかつき》内閣の陸相、朝鮮総督を歴任し、昭和二十年には大日本政治会総裁となった。戦後松岡と同じくA級戦犯となり、松岡の病死を見送った後、終身禁固刑の判決を受け、昭和三十年八十一歳で病死した。
南が防府の松岡邸を訪れた頃、酒の肴《さかな》にけんちん汁や湯豆腐などを作ったお手伝いが、若き日の吉永ミカさんであるが、松岡は酒の無茶呑みでは終生南にかなわず、
「南の酒は猪突《ちよとつ》猛進だ。あれでは酒を呑む意味がない」
と評していたらしい。
広大な満州平野を満鉄に乗って、奉天、長春などを視察した松岡は大いにこの大陸が気に入った。満人と気が合いそうな気がした。将来、大いにこの土地の経営に力を入れてみたいものだ、と二十六歳の外事課長は大陸経営の夢を描いていた。
その若き外事課長に一つの難題がふりかかって来た。日支漁業衝突問題である。当時関東都督府の許可を得て設立された関東州漁業組合が、清国漁民に対して、海賊から保護してやると称して日本国旗を与え、その代りに賦課金を徴収する、という事件があった。これに対して北京の清国政府から抗議が日本政府に来た。
時の西園寺内閣は、関東都督府に実態調査を命じたが、それよりもこの事実に対して怒ったのは、元老の山県有朋であった。山県は満州経営が順調にゆくことを願っていたので、一旗組のような日本人が、戦勝国をかさに着て、満人の漁民を脅すのは怪《け》しからんと考えたのである。
山県は大島都督に厳重な抗議を送り、大島は、外事課長の松岡を事情説明のため内地に派遣した。
当時山県は小石川の椿山《ちんざん》荘(現在)に住んでいた。
山県が長州人であり、幕末奇兵隊時代山県狂介と称していたことを知っている松岡は、一種の成算と共に、椿山荘の門を叩いた。七月中旬(四十年)、起伏に富む広大な椿山荘の庭では、蝉《せみ》が鳴きしきっていた。
松岡は所定通り、
「関東州漁業組合の行き方には、一部行き過ぎがありましたが、それは今後、関東都督府で十分取り締ります。しかし、現地における日本企業の進出を頭ごなしに規制するときは、折角得た南満の権益を十二分に活用出来なくなるおそれもありますので、何とぞ、現地監督機関の直接指導にお任せ願いたい」と述べた。
滔々《とうとう》と語る青年課長を前にして、当時六十八歳の山県元老は、この小生意気な若者に、
「わしは日清戦争当時第一軍司令官として渡満したことがあるから、満人の気質は十分知っておる。今後は日満手を携えて、ロシアからの恐怖に備えねばならぬ。そのような意味においても、現地は慎重にやってもらわねばならぬ」
と、くどくどとこごとを言った。
松岡は郷土の先輩の女性的なのに少々いや気がさし、ここでひとつへこませてやろうと考えた。
「維新史によりますと、老公は幕末当時高杉晋作先生のもとに奇兵隊を組織し、防州の室積あたりで普賢寺を屯営として軍備を練られたという話ですが、事実でございますか」
と松岡は問うた。
「うむ、いかにも、わしは奇兵隊で参謀や軍監を勤めた」
「そうですか。私はその折、軍資金を調達した回漕《かいそう》問屋今五の倅《せがれ》です。当時お世話した今津屋の主人松岡三十郎は私の父です」
と松岡は言った。
すると、山県の顔色が変った。
「そうか。君が今津屋の倅か、それは奇遇だな。いや、あの節は大いに世話になった。どうだ、今夜はゆっくり飯でも食ってゆかんか」
「はあ、ではお言葉に甘えまして……」
ということで、椿山荘で夕食をよばれることになった。
縁側の障子をとり払った奥の座敷で待っていると、老公が紋服姿で出て来て、
「松岡君、こちらへ」
と上座を指した。
さすがの松岡も少々うろたえていると、老公は、
「いや、今日は関東都督府の外事課長としてではなく、我々志士たちが世話になった今五の好意に礼をしたいのだ」
と言った。
続いて山県は、
「いや、あの頃は今五には随分と世話になったものだ。今五は我々に軍資金を調達したために、身代が左前になったと聞いたが、その後はどうかね?」
と訊《き》いた。
「はい。明治二十七年、在米中に私が家督を相続しましたが、間もなく倒産致しました」
と松岡が正直に答えると、山県は眉を伏せて、
「そうか、それはお気の毒なことをした。まあ、今夕は一つゆっくり呑んで行ってくれたまえ」
と盃《さかずき》をさした。
酒が回ると、山県は、
「君、幾松を知っておるかね? 芸者の……」
と訊いた。
「はあ、名前は聞いております」
「うむ、桂(小五郎=[#「=」はゴシック体]木戸|孝允《たかよし》)の女だったが、あれが今五に世話になったことがあってな……。左様、慶応元年、第二次長州征伐の頃であったかな。室積の浜からちょいと突き出した鼻に別邸があってな、そこに幾松を預けたらしい。ところが、幾松は京の祇園《ぎおん》で一、二といわれた芸者だから、鼻っ柱が強い。世話役の女にも威張り散らし、つんとしているので、仲違いし、二カ月ほどで京へ戻ったらしいな。うむ、木戸が生きていたら喜んだろうになあ」
山県はそういうと、庭の松の梢《こずえ》を仰ぐようにして、盃を唇に運んだ。木戸孝允は明治維新後、西郷隆盛、大久保利通と共に維新の三傑とうたわれたが、明治十年五月、西南戦争のさなかに、四十五歳で世を去っている。
庭の老松を仰ぐ山県の脳裡《のうり》には、四十年前、高杉晋作や桂と共に東奔西走した維新前夜のめまぐるしい歳月が懐しく再現されていたのかも知れない。しきりに幕末の昔を語る山県に対して、松岡は現実的に話を進めた。
「老公、我々は公が桂公らと共に、維新の大業をすすめられたことを熟知しておりますが、現代の日本は、その頃にも劣らぬ国難に直面しておりますぞ」
「国難?」
「左様、日露戦争には幸い勝ちましたが、今後、満蒙《まんもう》をどのように経営してゆくかが、これからのアジア政策の中心点です。失礼ながら、公は満蒙に対して深い認識をお持ちでない」
「なに?」
山県は気色ばんだ。どうもこの青年は生意気のようである。しかし、松岡はひるまなかった。
「公を初め、桂、西園寺の諸総理は、日露の戦勝をみて、もう満州は現状維持でよいと安心しておられます。しかし、世界の現況はそれを許しません。世界地図を拡げてごらんなさい。日本の東は海ですが、西には朝鮮、満州、支那があります。そして、満州の向うには、未だに恐るべきロシアがあります。日本はすべからく、日露戦争による満鉄その他の諸権益を十二分に活用して、満蒙を勢力下におくべきです。日本は小さな国です。満州は広い。一度広い満州に来訪をお願いしたい。私が、満鉄でご案内してあげます。日本の人口は年々膨脹して、この小さな島国でははちきれてしまう。日本は新しく興りつつある国です。すべからく、満蒙の新天地に活路を見出すべきです。それには政府が満蒙政策に本腰を入れることです。もっと人材を送り、そして民間人の一旗組を送ることは警戒すべきです。彼らは目先の利益のみを考えて、国家百年の大計を知らない。これからはすべからく大いなる世界観をもって対外策に当るべきですが……」
松岡の能弁は所を得て、止《とど》まるところを知らなかった。彼は顎《あご》の汗を拭いながら二時間にわたって考えを説いた。
――この生意気な若僧が――と考えながらも山県は、この青年の達見にうなずかざるを得なかった。
「そうだな。いずれ、あらためて、ロシアとも同盟を結ばねばならぬかな」
と彼は太い髭《ひげ》をひねりながら言い、
「ところで、君の西方経営論はわかったが、東方のアメリカに対してはどう考えているかね?」
と訊いた。
「問題はそれです!」
と松岡は大きく膝《ひざ》を乗り出した。
「老公。私は少年時代アメリカに留学しましたので、アメリカ人というものをよく知っております。アメリカは非常に強力な国で、国勢の進歩向上もいちじるしい。やがてはこの新大陸だけで世界を相手に出来る国力を貯えようとしております。私はこのアメリカに対しては、大アジア主義≠もって対抗すべきであると考えています。すなわち、現在の日英同盟を機軸として、それに、ロシア、フランス、ドイツなどを併せた旧大陸同盟をもって新大陸に拮抗《きつこう》すべきであると考えます。そうでないと、アメリカはしばしば、日露、仏独の抗争に介入して、漁夫の利を得ようとするでありましょう」
すると、山県は微笑しながら、こう問うた。
「君、そんなにアメリカが強力ならば、アメリカと同盟を結ぶことを考えたらどんなものかね?」
これはむろん、山県一流の皮肉であった。アメリカ留学の長い松岡がアメリカをどうみているか、さらに一歩踏みこんで打診してみようというのであった。松岡は答えた。
「アメリカと日本が同盟を結べば、これは世界でも強力なチェーンとなることは間違いございません。しかし、これはいくつかの難点がございます。まず、国体の相違があります。先に日本と同盟を結んだイギリスは、日本と同じく立憲君主国です。しかし、アメリカはデモクラシーといって、人民が主権をもち、選挙によって元首の大統領を選ぶ国柄であります。これは万世一系の天皇をいただく大日本帝国にとっては、そぐわない国体であります。第二に、最近のアメリカ人は支那人や日本人を排斥しつつあります。それは、支那人や日本人が勤勉で、ややともすれば彼らの職場を圧迫するからであります。現に、カリフォルニアなどにおいては、排日運動がおきております。(サンフランシスコの米学務局が日本学童隔離を決議したのはこの前年三十九年の十月で、同市に排日暴動が起きたのは、この年十月である)従ってアメリカの世論は日米同盟には動きますまい。第三に、これが重要な点ですが、アメリカは近い将来、必ずや日本を敵に回します。なぜならば、日本とアメリカは太平洋を挟《はさ》む両雄なのです。アメリカは片方でヨーロッパをにらみ、片方で太平洋を超えて支那をにらんでいます。ヨーロッパは群雄が割拠してアメリカがつけいるすきは少ないが、老大国支那にはまだまだ利権が残されています。かつ、工業国アメリカの製品の消費国として、支那の四億の民というのは魅力です。アメリカはやがて太平洋を超えて支那に手を伸ばします。(アメリカがハワイを併合したのは、一八九七年、そして、米西戦争に勝って、フィリピン、グアムをスペインより奪ったのは、一八九八年のことで、すでにアメリカの極東経営は始まっていた)その場合邪魔になるのは日本です。彼らは日本を東洋の番犬≠ニ考えているらしいのです。アメリカが日本と同盟を結ぶことは可能性が少ない。しかし、日本としては、この新興大国と争うことなく極東の権益を育てなければなりません。それには前にも申した通り、旧大陸同盟を結成してこの新大陸に拮抗すべきバランスを考えるべきです」
松岡は後に、日独伊を結び、さらにソ連を加えて、一種のユーラシア同盟を実現しているが、この発想は、遠く彼の二十代の頃に芽ばえているとみてよかろう。世人は松岡の日独伊軍事同盟が日米戦争を誘発したとして非難するが、松岡としては満州確保に関するアメリカの干渉を防ぐには、このユーラシア連合よりほかにはないと考えたのであって、必ずしも、対米戦争準備のための三国同盟ではなかったと考えられる。
この大アジア主義は大いに山県を感服させたが、この着想は松岡独自のものではなくて、実は当時の満鉄総裁後藤新平のアイデアにもとづくところが多かった。
先見の明を誇る後藤は、つとに新興国アメリカの世界政策に注目していたが、その政策が一種のヨーロッパ人的帝国主義をとりつつある傾向に注目していた。太平洋を挟んで相対する小国日本としては、大アジア主義という大リーグを結成する必要を感じ、星ヶ浦海岸に出来た満鉄クラブなどで、大いにこの論をぶったものである。
当時、青年官僚として後藤に傾倒していた松岡は、この大アジア主義にも感服してこの受け売りをして歩くようになったのである。そして、この大アジア主義がやがて三国同盟に発展して、松岡に戦争触発者の名を冠せしめるようになったことを考えると、後藤の影響も、さまざまであったといわざるを得まい。
山県は、滔々と説き去り説き来るこの青年論客に大いに魅せられた形で、
「君、なかなか卓論を持っているようだが、これからの日本の政治をどうしたらよいと考えるかね」
と問うた。
「それはですな、閣下。今後の日本を世界の日本に推し上げるには、若い者を抜擢《ばつてき》しなければだめです。もう明治維新の元勲の時代ではないのです。二十代、三十代の無名かつ有為の人物を活用すべきです。公が実際に維新の大業を遂行したのも、その位の若さではなかったのですか?」
と松岡は反問した。
「うむ、いわれてみるとその通りじゃが、今の日本に、そのようなたのもしい青年がいるかね」
すると、松岡は泰然として言った。
「たとえて言えば、閣下の前にも一人坐っているかも知れません」
これには、傲岸《ごうがん》をもって鳴る自信家の山県も、
「うーむ、君か……」
と唸《うな》ったきり、しばらく、言葉を発することが出来ず、眼前の青年の顔を凝視するのみであった。
松岡はこのとき、さらに一つの問いというか相談を山県にもちかけている。
「閣下、私は外務省の官吏をやめようかと考えております。どこまで行っても官吏は官吏です。それよりは政治家になりたいと考えていますが……」
すると、山県は言った。
「君が政治家になることは賛成だ。君は政治家に向いているよ。しかしな、まだ若すぎる。いま少し、外交官として勉強し、諸外国を見て来たまえ。君のような前途有為の青年が、日本の国政を動かす日が来るのを、わしは期待しているぞ」
元老はそう忠告すると、この日の会見を終り、自ら玄関まで来て、松岡を送ったので、彼も感激した。初めは偉そうにしている爺《じじ》いだと思っていたが、やはり明治維新の大業を成し遂げた傑物だけあって、人のいうことを聞く雅量がある、と感心したのである。
この後、松岡は折にふれて、椿山荘にフリーパスで乗りこみ、外交事情や国際問題について、必要なことを報告し、時には大いに論じた。但し、当時最高の元老と親しくなりながら、それを利用し、闇取引をした形跡は見られない。
明治四十年秋、山県公との会談を終って日本から帰った松岡は大島都督に辞表を出した。山県からあれほど言われたのであるが、どうしても外務省の一役人に終る気持はなかった。常に何事かをやっていなければ気がすまない、というのが松岡の気質の一つである。これは後々まで持続する。
もう一度世間を勉強し直そう。そして、真に日本を担うような政治家になりたい、彼はそう考えていた。
しかし、当時の外務次官|珍田《ちんだ》捨巳、政務局長山座円次郎といった優秀な外務官僚は、松岡の大器であることを認め、大いに慰留した。そして、満鉄社長後藤新平の言葉がついに松岡を外務省にひきとめることになった。
「松岡君、吾輩はね、他の人のように外務省にとって君が必要な人物であるとは思わんね。しかし、君にとって外務官僚として国際事情を知るということは、他日大いに役立つときが来ると思うよ」
これを聞いて、松岡は一応外務省勤めを続ける決意をした。
この頃、呑み仲間の大連民政署長関屋貞三郎が佐賀県内務部長となって旅順を去った。続いて参謀の南次郎が陸軍大学校付となって去った。
呑み仲間を失った松岡は、ようやく高粱酒も鼻につきかけていた。
そこへ、十一月二十八日、本省政務局勤務の外務書記官という辞令が来た。
外務省の政務局といえば、陸海軍省の軍務局、大蔵省の主計局のようなもので、外交政策そのものを担当するので、別名機密室と呼ばれ、ここの勤務は出世コースとみなされていた。
当時の局長は俊才とうたわれながら夭折《ようせつ》を惜しまれた山座円次郎から倉吉鉄吉に代る頃であった。山座は福岡県出身、東大法科を出て外務省に入り、小村寿太郎に可愛がられた。一九〇二年の日英同盟の際は、小村外相の下で外務省の課長として協力、また一九〇五年のポーツマス条約にも随員として小村全権を助け、将来の外相と目されたが、一九一四年(大正三)惜しくも四十八歳で病死した。
その下には、後に首相となり、松岡と共に戦犯として裁かれる身となる広田弘毅や、武者小路実篤の兄武者小路|公共《きんとも》らが、若い書記官としてひしめいていた。武者小路は、トルコ、ドイツ大使などを歴任、一九三六年(昭和十一)広田弘毅総理の下で日独防共協定に署名する運命となるのである。
また、電信課長には、後に外相、総理となる幣原《しではら》喜重郎、第一課長に芳沢謙吉、秘書官には、スイス、ドイツ大使などになった本多熊太郎などがおり、昭和外交の夜明けといった感があった。
芳沢謙吉は、後に中華民国大使として難関に当り、満州事変の当時も国際聯盟理事会で列国代表の質問の矢面に立たされている。松岡とも深い交渉があり、外交史に名を残した人物である。
『人と生涯』には芳沢の松岡評がのっている。それによると、松岡は六歳年長の先輩芳沢を初めから「芳沢」と呼びすてにしていたという。当時、外務省にはトップ・三羽烏というのがいた。外交官試験をトップで合格した三人で、松岡を筆頭に、本多熊太郎、それに水野幸吉の三人であった。
三人のうち、松岡は政務局員で、芳沢の直接の部下であるが、本多と水野は政務局員ではない。しかし、よく政務局に遊びに来た。政務局には論客三羽烏の一人、松岡がいるからである。
彼らは、満蒙を語り、アメリカを語り、ロシア、ヨーロッパを語り、大いに重臣たちの手ぬるい外交を批判した。そのなかで、一人、じっと彼らの弁舌に耳を傾けている男がいた。福岡生れの広田弘毅である。城山三郎『落日燃ゆ』では、広田は背広の似合う男≠ニして、穏健な和平派に描かれているが、筆者は必ずしもそうは思わない。広田は頭山満《とうやまみつる》の主宰する右翼団体玄洋社の有力メンバーであったと思う。城山氏は、広田を玄洋社員ではないというように書いているが、昭和十一年三月、二・二六事件の直後に総理大臣に就任した際は、新聞雑誌が一斉に広田を玄洋社の幹部であり、黒竜会にも近づきがあるように紹介していたように記憶している。当時筆者は中学四年生であったが、少年雑誌にも広田の伝記がのり、やはり、天皇を盛り立てる玄洋社の幹部というように紹介してあったと記憶している。
城山氏の広田弘毅は、軍部と相合わぬ和平派のように描かれているが、当時の広田が国民に与えていた印象は、民間右翼を代表する主戦派で、その故に、二・二六事件直後の、誰がやっても難しい時期に組閣の大命が降下したものと推察される。もし、広田が真の国際協調派、たとえば幣原喜重郎の如き人物であったなら、陸軍は各種の圧力をかけて、陸軍大臣を送りこまず、従って組閣は出来なかったであろうと思う。
但し、広田はそのように右翼とみなされてはいたが、地味な男で、自分から対満蒙積極論を説くような男ではなかったらしい。彼の伝記を通読しても、国際問題について、松岡のような痛烈な主義主張を持っていたと考えられるふしは少ない。
松岡が着任する前に、広田は北京に転勤し、やがてそのあとを松岡が追うようになるのである。
明治四十一年十二月十四日、松岡は三等書記官に昇進、ベルギー公使館勤務を命ぜられた。
これは早くいえば外地留学である。つまり、いきなり、ロンドン、ワシントン、パリなどのような大きな大使館に若い外交官を派遣しても役には立たないので、とりあえず無難な小国の公館に赴任せしめ、外交のいろはを勉強させようというものであろう。海軍の少尉候補生が、二等駆逐艦で船乗り精神を修業したのに似ている。文士でいえば同人雑誌修業というところであろうか。
しかし、松岡はこれを辞退し、北京駐在を希望した。
この頃の彼は、革命を懸命に勉強していた。支那とロシアに革命が起きるのは必至である、と彼は推測していたのである。
外交官に終始せず、後年大政治家たらんとする松岡にとって、この二大国の革命問題は看過すべからざる大事であった。何より君主国である日本への影響が大きく、また世界の地図がどのように塗り替えられるかわからない。外交官として終始するならば、他の書記官のようにヨーロッパ留学をしてヨーロッパの情勢を学んだ方が立身出世の上からも得策と思われる。しかし、この頃の松岡にはすでに大アジア主義≠フ構想があった。
無論、このアイデアは大風呂敷≠ニ異名をとる後藤新平の影響によるものであるが、盛夏の椿山荘で元老山県有朋と討論を交えて以来、松岡の持論となってきつつあった。「満蒙は日本の生命線である」「支那を制するものはアジアを制す」「満州支那を守るためには、対ロシア政策を考えねばならぬ」「窮極として、新興大国アメリカと相対するには、日、露、支、ヨーロッパの大アジア聯盟を結ばねばならぬ」このような考えが、一枚一枚のトランプのカードのように松岡の脳裡に変転し、それは徐々に形を成してゆきつつあった。
萩原新生『世紀の英雄・松岡洋右』によると、この頃松岡は、「三年そこそこで支那には革命が起り、清国は滅ぶ」と予言したそうである。
これは、上海、旅順における生活から清朝政府の腐敗無力をみての感想であろう。清朝最後の大政治家といわれた李鴻章もすでに一九〇一年世を去っており、北京政府には有能な政治家は乏しく、軍閥は各地にはびこりつつあった。
明治四十二年四月、松岡は希望通り北京公使館に赴任した。彼の前任者は広田弘毅であった。
「おう、松岡さんな来たと」
広田はいんぎんに松岡を迎えた。松岡は外交官試験で広田より二年先輩であった。
「おい、広田君、君はロンドンへ行くんだって?」
松岡は少しおうへいに訊いた。
広田は例のヨーロッパ留学組とは別に、いきなりロンドンの加藤高明大使のもとにゆくことになっていた。
当時、日本と英国の間には、通商条約の改正、日英同盟の改訂という大きな問題があり、大物の山座円次郎もすでに参事官として着任していた。広田は山座のお気に入りであった。
「うむ、しばらく洋食を食って来るよ」
広田は言葉少なに答えた。
「そうか。おれは北京でアジアの動静をみる。いまに革命が起るぞ。おれはそいつを見届けてやるんだ」
松岡は自信あり気にそう言った。
世にいう辛亥《しんがい》革命はこれから二年六カ月後、武昌蜂起《ぶしようほうき》を皮切りに勃発《ぼつぱつ》するのであるが、松岡の予言は適中していたといえよう。
いわゆる中国革命の原因は、清朝政府の腐敗と、共産主義、民主主義の浸透であることはもちろんであるが、現代の人々が見落しがちなのは、北と南の民族問題である。
一六一六年(元和二)、瀋陽(奉天)で起った愛新覚羅《あいしんかくら》氏が南下して明朝を倒し政権をとったのは、一六四三年世祖順治帝のときのことであるが、この頃から討北興南(=[#「=」はゴシック体]討満興漢)つまり、北の蛮族を討ち、南の純粋な漢民族の国を復活せよという声はとくに揚子江以南に強かった。
中国の歴史をひもとくと、昔から東夷西戎《とういせいじゆう》南蛮|北狄《ほくてき》という言葉がある。周囲は蛮族で、中央のよいところに中華の国があるという思想である。その最盛期は唐の時代であろう。
中国は紀元前数世紀から北方の異民族に苦しめられてきた。古代トルコ族といわれる遊牧騎馬民族の匈奴《きようど》しかり、突厥《とつけつ》しかりである。そして北方民族は何百年かの周期をおいて大きく南下し、中国を征服し、王国を造っている。始皇帝の秦《しん》や、成吉思汗《ジンギスカン》の元、そして愛新覚羅氏の清などはその代表的なものである。
清は支那を代表して日本とも戦ったが、元来は支那の東北に古くから住むツングース族で、民族的に漢民族とは異る。むしろ昔から漢民族を悩まして来た北方民族の遼《りよう》、金、女真《じよしん》などの末裔《まつえい》にあたると説明した方がわかりやすかろう。
私は大正九年三月満州の四平街に生れ、満鉄沿線の公主嶺、鉄嶺などで小学校生活を送ったが、その間、子供と大人とを問わず、日夜満人と接触した。彼らは概して日本人より大きい。後年、上海、南京《ナンキン》で代表的な南方漢民族と会い、また香港《ホンコン》で広東《カントン》人といわれる人々とも会ったが、満人は肌も浅黒く、骨格も大きく、確かに南方中国人とは異るようである。
後に満州国が出来るとき、五族協和ということがいわれたが、内容は日、鮮、満、漢、蒙の五つの民族が協調しようというようなことであったと記憶している。
昭和二十一年以降の進歩派といわれる学者たちの史観では、太平洋戦争の大きな原因の一つは、日本が満州国を作って中国を侵略したことである、としているが、私はこの考え方に少々疑問がある。満州国は満人すなわちツングースの国であって、朝鮮人が韓国を作るのと意味は変らないのである。ツングースの清国が中国全土を征服していたのが、原領土の満州にひきこもったと考えれば、それほどおかしくはない。ただこれに至る河本大佐の張作霖《ちようさくりん》爆殺事件のような荒っぽいやり方には無論異論があるし、満州国の成立について、日本人が征服者のような顔をして乗りこんだ点についても、研究の余地があると思う。
但し、私はこの点に考え及ぶと、かつてアメリカがフィリピンやハワイでやった占領政策、及び、終戦後の日本に対するマッカーサーの方策を想起せねばならぬし、また、ソ連が、ポーランド、チェコ、東独、ハンガリー等衛星国に対してとっている一連の政策についても研究せねばならぬ、と考えている。
さて、話を北京に戻そう。
繰り返すが、中国南部では、排満興漢ということがいわれていた。北方民族の満人を追い返して、純粋な漢民族の国にしようという運動である。これが革命運動と結びつくのであるが、もともとは、学生、青年の間に起った一種の民族主義、ナショナリズムであって、それが北京政府打倒に結びついたものと考えたい。
松岡が北京で革命を勉強していた頃の北京公使は鹿児島出身の伊集院《いじゆういん》彦吉(後に男爵)で、しばらくたつと、佐分利貞男が書記官として着任して来た。後に、松岡、広田、吉田(茂)らのライバルとなって、大正時代外務省の最大のホープといわれながら、昭和四年、箱根富士屋ホテルで謎《なぞ》のピストル自殺をとげた人物である。佐分利はこの頃から貴公子然としていて、田舎者臭い松岡はそりが合わぬものを感じていた。
伊集院彦吉は一種の大物であった。明治維新の生き残りで、小型の西郷隆盛のようなところがあった。
松岡の回想によると、当時外務省の暴れものや鼻つまみはみな伊集院のところにやられたという。伊集院がそういう若手外交官の指導がうまかったかというとそうではない。
早くいえば、若手以上に無茶苦茶な人間で、何を言い出すかわからないのである。若手書記官が何か苦情を言っても、
「ああ、あの何とかいいよる何か。あれはやがてだれもっそ」
という調子で、全然意味が通らない。それではけんかにならない。外国の公使のことを領事と呼んでみたり、陸軍士官のことを公使と呼んでみたりする。そばについている書記官は始終はらはらして、自分の我を通している暇がない。
電文を打つにしてもそうである。あるとき松岡は英文の平文電報を打つため、原案を伊集院公使のもとにもって行った。すでに終った事項についての報告であるから、全部過去形で書いて行ったが、伊集院はペンをとると全部現在形に書き直してしまった。
「公使、これでは、現在進行中と誤解されますが……」
松岡が首をひねると、伊集院は言った。
「そげんこつは、本省においてわかりもす。じゃっどん、こげん方が、字数が少なくてよか」
また何をか言わんや、と松岡は嘆息した。オレゴン大学卒業の彼の英語力も維新生き残りの志士≠フ語学の前には効果がなかったのである。
しかし、松岡は、伊集院の才能よりも、その人格を高く評価していた。『人と生涯』には、伊集院彦吉、十周忌における松岡の談話がのっているが、そのなかで、松岡はこう述懐している。
「人間には偉い人間≠ニ馬鹿な人間≠フ二種類があるが、偉い人間にも二種類ある。一つは、頭はよいが性質が悪いやつである。これは知者であるというに過ぎない。ところがもう一つ、頭が悪くても偉いというのがいる。これは本当は思慮の深い知識のある人物である。伊集院彦吉氏はそういう人であった」
さて、明治四十二年秋、北京の空は、青々として、西湖のほとりにはポプラの葉が緑の影を湖面に落していた。
八方破れともいうべき伊集院彦吉のもとで薫陶を受けていた松岡はこの年九月、一時、上海総領事事務取扱いを命ぜられ、懐しの上海に赴いた。かつて三井物産支店長山本条太郎と大いに呑み、談論風発した場所である。
上海に着任して間もなく、松岡は一つの兇報《きようほう》を聞いた。元老伊藤博文の死である。伊藤はこの年十月二十六日、ハルピンにおいて、ロシアの蔵相ココツォフと対談するため、駅頭に降りたところを、朝鮮の民族運動家|安重根《あんじゆうこん》のために射殺されたのである。伊藤は当時韓国統監を辞し、枢密院議長であった。彼の念願とした日韓併合の一年前に、彼は世を去った。
郷党の先輩であり、明治時代切っての大政治家であった伊藤の死は、松岡に大きなショックを与えた。
伊藤の死によって、松岡は二つの教訓を得た。つまり、大アジア主義によって民族を統合するときは、少数民族の主張をよく聞き、恨みをかわぬよう留意すること。いま一つは、政治家は、信念を貫くためには死を恐れてはならぬ、ということであった。
明治四十四年(一九一一)、三つの訃報《ふほう》が松岡に伝えられた。
二月、松岡のアメリカ留学に手をかしてくれた真宗の僧島地黙雷が盛岡で死去した。
四月、従兄《いとこ》の佐藤松介が三十三歳の若さで急死した。松介は、洋右の妹藤枝の夫で、後の総理、佐藤栄作夫人寛子の父である。
そして、十一月、明治の大外交官といわれた、小村寿太郎が世を去った。松岡が大いに学び、ある意味では範としていた外交官であった。
三つの死を、松岡はそれぞれ感慨深く受けとった。
しかし、中国の風雲は、いたずらに松岡に知己の死を嘆かせてはおかなかった。
この年十月、武昌に反政府軍の新軍が蜂起した。いわゆる辛亥革命の始まりである。
ところが不思議な縁で、松岡はこのとき武昌に滞在していた。長沙事件という事件を調査するため、九月から漢口に出張していたのである。
この頃の武漢には不思議な人材が集っていた。後の関東軍司令官本庄繁、同じく陸相畑俊六、川島浪速(男装の麗人と評判された川島芳子の養父)等々。
彼らはそれぞれ、北京の袁世凱《えんせいがい》を支持するか、武昌の革命軍を支持するかで日夜議論を戦わせていた。この間にあって、松岡は革命派びいきであった。なぜ、松岡が革命派を支持したかを語る前に、辛亥革命の直接の原因について説明しておこう。
辛亥とは、干支《えと》における、「かのとい」という年にあたる。
一九一一年十月十日、武昌における新軍の蜂起は、中国革命の発端として、歴史的に有名であり、今でも中国はこの日を双十節として祝っている。
非常に皮肉な言い方をすれば、中国革命の大きな原因は、日露戦争における日本の勝利にある。
帝国主義ロシアの敗北は、侵蝕《しんしよく》されつつあったアジアの大小諸民族に民権確立の夢を与えた。(この点、太平洋戦争初期、日本の、東南アジア植民地における英、米、蘭軍追放が、民族自立を促したという説と共通する点があるが……)
鳥海《とりうみ》靖『祖父と父の日本』(『大世界史23』)によれば、一九〇五年(明治三十八)八月二十日、ポーツマスで日露講和条約が論ぜられつつある頃、東京霊南坂の坂本金弥代議士(同政会所属)邸には中国人を中心に約百人の革命運動家が集り、中国革命同盟会が開かれた。総理は孫文、執行部長に黄興、日本側からは犬養毅、宮崎|滔天《とうてん》、頭山満、萱野長知らが参加し、大逆事件の幸徳秋水(一九一一年一月処刑)、日本改造法案の北一輝(一九三七年処刑)もこれに関係している。右翼や大陸浪人が中国革命に荷担するのは一見奇異に感ぜられるかも知れないが、彼らは日清戦争の前から、清国宮廷政治の腐敗を慨嘆し、早く新政府を興し、そして、「日本の利権を確立し、欧米の介入をはねのけ、東亜民族主義の確立を計ったもの」と考えられる。
この時のテーゼは、「満州から来た北狄を追い払い、中華を回復し、民衆の国を創立し、地権を平均せん」であった。
日露戦争中、法政大学に留学し、孫文に従って革命運動を助けた汪兆銘《おうちようめい》(汪精衛)はその自叙伝で「私はこの頃、日本において初めて憲法や国家や民権について学び、固有の民族思想に目ざめていった。新しい民権の思想から、孫文について革命運動に走ったのである」と述懐している。
この動きは、清国本土にも高まり、清国政府は一九〇九年各省|諮議《しぎ》局、一〇年資政院を設け、いわゆる民意(といっても上層の)を政治に反映せしめ、宮廷の独裁政治に対する圧力を緩和しようと試みた。当時、清国には地主、官僚、大商人などのブルジョアジーが、各地に勢力を張っていたが、北京政府は、彼らの上層部に、清国は立憲制の国であると説いて、歓心を買い、下層有産者あるいは中流知識階級と分離せしめようと試みた。
革命派はこの下層有産階級に所属するが、彼らの運動も、大同団結には至らず、黄花岡《こうかこう》事件では一|頓挫《とんざ》を来たした。この事件は一九一一年四月二十七日、広州で革命派が決起し、失敗した事件で、失われた優秀な同志七十二名を広州市の黄花岡に葬ったので、そう呼ばれる。
しかし、一九一一年十月十日には、四川省に反乱が起り、武昌では、政府軍の手薄に乗じて、新軍が暴動を起し、革命派は翌十一日、中華民国湖北軍政府を樹立した。
ここで、新軍についてちょっと解説しておこう。
新軍は、日清戦争の敗北後、その反省によって中国で組織された近代的軍隊で、創始者は、後に中華民国大総統となる袁世凱である。この新軍は、とくに義和団の乱(明治三十三年)後、全国的に推進されたが、北方の新軍が北京政府の直衛軍的性格を強めたのにくらべて、南方諸省の新軍のなかには、討満興漢的思想の影響を受け、革命に共鳴するものが多くなって行った。革命後は、革命を推進するもの、北洋軍閥、地方軍閥などに分裂してゆくのである。
さて、中国革命の皮切りである武昌の新軍の中心は五千人から成る文学社という革命団体で、松岡たちがあれよあれよと見守るうちに、一カ月のうちに主として南部十六省が革命に賛意を表して決起の構えをみせたが、全体的な団結は強くなかった。肝心の孫文は、黄花岡事件に失敗してから外国に亡命し、武昌蜂起の十月十日にはアメリカにいた。
この間、清朝政府は事実上統治の権力を失ったが、革命派も指導者を欠き、一部は軍閥に、一部は立憲派に、一部は官僚に勢力を奪われ、実際にまとまった団結を示し始めるのは、急遽《きゆうきよ》アメリカから帰国した孫文が南京で中華民国臨時大総統に就任した翌一九一二年一月以降のことである。
この間、清朝から軍事政治の大権を委任された袁世凱は、私兵と軍閥の兵を集めて、革命派を圧迫し、孫文側は、内部分裂によって政治軍事資金の窮乏に苦しんだ。
一九一二年(明治四十五)二月、孫文は袁世凱との協定に応じ、最後の清帝|宣統《せんとう》帝(後の満州国執政|溥儀《ふぎ》、当時六歳。一九三四年満州国皇帝となる)は退位し、孫文は臨時大総統を袁世凱に譲った。ここに、三百年にわたるツングースの国清朝の治世は終ったのである。
この頃の北方の軍閥には、袁世凱を初め、段祺瑞《だんきずい》(後に国務総理、臨時執政)、張勲《ちようくん》、馮国璋《ひようこくしよう》等、後の中華民国史に顔を出す人物がいる。南方の旅団長には李烈鈞《りれつきん》という若手の指導者がいた。年輩の読者は、昭和初年「少年|倶楽部《クラブ》」に連載された『敵中横断三百里』という小説を御存知であろう。あの筆者、山中峯太郎は、この当時、陸軍士官学校出の陸軍中尉で、密命?を帯びて上海付近で李烈鈞将軍と連絡をとっている。
ここで、ちょっと大総統袁世凱についてふれておこう。
袁は一八五九年河南省の生れ。科挙(官吏採用試験)に失敗して軍人となり、李鴻章《りこうしよう》に認められ、朝鮮の政治に干渉して出世をした。先述の新軍創立時には段祺瑞、馮国璋らを部下としている。西太后と接触して保守的宮廷政治家として立身した。一九〇四年、李鴻章が死ぬ直前の推薦で、直隷総督(東京都知事に当る)・北洋大臣となったが、西太后が死ぬと一時失脚した。辛亥革命と共に大物として復活して内閣総理大臣を命ぜられる。
彼は時代感覚には乏しかったが、権力意識だけは旺盛《おうせい》で、また権謀術数にも長《た》けていた。革命派を圧迫し、孫文から臨時大総統を譲り受け、一旦南京を首都と定められたのに、中華民国の首都を、自分の住む北京に戻すなど、革命の成果を丸取りしてしまった。
袁は単純なる立身出世主義者で、皇帝となる野心を抱いていた。一九一二年、新勢力である国民党を弾圧して、その中心人物宋教仁を上海駅頭で暗殺してしまった。宋は早稲田大学に学んだ少壮革命家で、辛亥革命後南京政府の法制院総裁となり、やがて国民党を組織し、一九一二年の総選挙で大勝したが、袁に警戒されて三十一歳で殺されたのである。
この後、袁は、孫文、黄興らの要人を国外追放に処して、一九一三年十月、正式に中華民国大総統に就任した。一五年一月、日本から提出された悪評高き「対支二十一カ条要求」(後述)を承認し、評判を落したが、なおも皇位の野心を捨てず、同年十二月、皇帝に即位したが、おりから第三革命が起り、各省独立の動きが強まったので、日本、イギリス、ロシアは、私権擁護の立場から、袁に帝制の延期を勧告した。袁は以前に革命弾圧のため日、英、露、仏、独から二千五百万ポンドの軍事借款をしているので、勧告に応じて一六年三月退位し、同六月、失意のうちに五十七歳で死去した。第一次世界大戦の三年目であった。彼の保守的専制政治家としての野望は、ナポレオン三世を思わせるものがあるが、遠く及ばなかったとみるのが至当であろう。
さて、この革命の時期、日本政府は北京の清国政府を支援していた。衰えたりといえども、清朝は立憲君主国の王朝で、その点日本の皇室と共通している。山県有朋や外相内田康哉は、隣国に革命による共和政府が出来ることに脅威を感じていた。この年一月には大逆事件の首謀者、幸徳秋水らが処刑されたばかりである。
皇室絶対主義の山県は、清国の王朝が危機に瀕《ひん》する場合は、出兵による干渉も考えていたが、首相西園寺や後に平民宰相と呼ばれた内相原敬は、むしろ革命勢力に同情的であった。やがて、政権が孫文から袁世凱に移ると、政府首脳は袁政府承認に傾いて行った。西太后の死後、枯死した巨木のように倒れてゆく清朝を支える力はどの国にもなかったのである。
この間にあって、武昌にあった松岡洋右は、初めから革命派に同情的であった。元来、彼は革命の予言者?であり、上海在勤当時から、老大国支那に新しい活力を注入する必要を感じていた。現地の武昌において、革命軍のきびきびした活動を見た目にはなおさらのことであろう。
この頃、松岡にとって注目すべき二つの動きがあった。
一つは、旧友山本条太郎を中心とする三井物産の動きである。三井は革命派に資金を提供した。この戦い南の勝ちとみて、革命成功後の中華民国から、利権に関する契約をとりつけようというのである。その地域は主として揚子江流域で、製鉄所、鉄山、炭坑などを経営する大コンツェルン漢冶萍公司《ハンヤピンコンス》などは代表的なものであった。大陸浪人たちの一部も、革命派に夢を描き、新しい中国の誕生≠ノ夢をかけて奔走した。「海の向うにゃ支那がある。支那にゃ四億の民がある。……僕も行くから君も行け、狭い日本にゃ住みあきた……」などという支那革命の歌?がはやったのもこの頃である。
また、陸軍でも参謀本部は、革命援助に回り、武器その他を援助した。先述の山中峯太郎中尉が、李烈鈞将軍との間に密約をとりついだというのは、この間のことかも知れない。
いま一つの動きは陸軍と外務省の対立であった。山県を中心とする陸軍の主流は何とか清朝を維持しようと考え、そのため宗社党と称する満州人貴族の一派と手を組むことを考えた。宗社党は満州を中国から分離させ、日本の勢力下に入って、王朝を全うしようという考えをもっていた。南北朝時代の吉野朝のようなものであろう。このアイデアは後に満州建国、宣統帝復位という形で表面に出るのであるが、この段階では、陸軍の息のかかった大陸浪人が暗躍した程度にとどまった。政府、外務当局は、清朝の保全を困難と考えていたらしい。
このような動きのなかで、孫文を中心とする革命主義者たちは、日本の援助が実はみせかけのものであって、内実は中国内部に対する利権|漁《あさ》りであることに気づきつつあった。
日本もヨーロッパの白人と同じ禿鷹《はげたか》≠ナあると彼らは考え、やがて対立は深まってゆくのである。
そして、辛亥革命の翌年、日本人にとっては悲しむべき事件が起った。明治天皇の死である。天皇|睦仁《むつひと》は、七月初旬から糖尿病、腎炎《じんえん》等を患い、四十五年七月三十日、五十九歳で崩御あらせられた。国難ともいうべき幕末に生をうけ、内外のあらゆる困難をのりこえて、日本を東洋の一小国から、世界の五大強国の一つに成長させた大帝の死を、国民は心から悼んだ。
松岡はこの頃、北京にあって、袁世凱総統の保守的な冴《さ》えない政治ぶりにやきもきしていたが、たまたま七月東京に帰って明治天皇の死を聞き、愕然《がくぜん》とした。他の多くの日本人と同じく、日本は天皇睦仁と共に栄えて来たと考えている彼にとって、天皇の死は、日本の将来に、暗影を投げかけるものと憂えられたのである。
この頃、松岡には別の人生が開けつつあった。進竜子との結婚である。
松岡は三十二歳、竜子は二十歳で、女子学習院を卒業したばかりであった。
進家は長州藩の旧家で、竜子の父進経太は工学博士、祖父十六は錦鶏間祗候《きんけいのましこう》、そして、伯父の斯波忠三郎は貴族院議員、工学博士で男爵になっていた。
松岡の岳父となる進経太は、日本の造船造機学の先覚者として有名であり、石川島造船所の指導者として知られている。工業立国を念願し海防義会を設立し、発動機設計委員会や、海上船舶経済の統制問題でも活躍した。彼は後年、松岡がジュネーブの国際聯盟で世界を相手にして演説をぶっていた昭和七年十二月、青山の自邸で世を去った。
名門に育った竜子は、面長でおっとりとした美しい娘であった。多くの縁談のなかでも、旧山口藩主毛利三徳公の五男で男爵の某氏などは有力な候補者であったが、おとなしいわりに気性のしっかりした竜子は、自ら「洋右さんのところに行かせていただきます」と父の経太に明言し、縁談は落着した。
松岡に竜子をすすめたのは、北京で松岡と一緒に勤めていた矢田七太郎書記官(後に満州国参議府参議)であった。矢田の妻は志賀|重昂《しげたか》の娘で、女子学習院では竜子と同級生であった。志賀重昂は地理学者、旅行家、文明評論家として名高く、三宅雪嶺らと「日本人」を出したこともある。日本ライン≠フ命名者は彼だといわれる。
志賀は竜子を知っていたので、竜子と新進外交官の縁談に乗り気で斡旋《あつせん》役を買って出た。
しかし、正式の仲人は長州出身の田中義一少将(後の陸相、首相、政友会総裁)であった。『人と生涯』によれば、竜子の祖父十六は山県有朋と奇兵隊時代からの同僚で、山県にしかるべき仲人を依頼したところ、田中を推薦されたものであろうとなっている。
当時田中は、桂太郎、寺内|正毅《まさたけ》に次ぐ長州陸軍のホープであり、松岡もその名前はよく知っていた。田中はこの頃、陸軍省の軍事課長を経て、軍務局長であった。
結婚は大帝の死後間のない大正元年十一月であったが、その前に、松岡は仲人の田中と会った。田中は一八六三年生れで、松岡より十七歳年長である。しかし、長州軍閥を背負って立つエリートも、口から先に生れた松岡の弁舌の前には歯が立たなかった。
松岡は仲人に対するお礼もそこそこに、この陸軍省軍務局長に、この目で見て来た中国革命の実態を説いて聞かせ、さらにロシア革命を予言した。陸軍が、旧清国を保全しようとした動きを時代遅れとして指弾し、「いずれ、支那は孫文一派のものとなります。これが時代の勢いというものです。日本はこれと協調してゆかねばならない。ところで、閣下は満蒙問題をどうお考えですか?」
と松岡は田中に水を向けた。
「無論、日本の生命線であり、絶対に確保せねばならぬと考えちょるが……」
と、日露戦争に満州軍参謀として従軍したことのある軍務局長は、髭《ひげ》をしごきながら答えた。
「そこです、閣下、難しいのは……」
松岡は声を励まして言った。
「革命軍はやがて全中国を支配下に入れるでしょう。このときにあたって、満蒙の権益を従来通り、わが日本の手中に収めておくには、どのような方策があると思いますか?」
松岡はそういうと、田中の顔を凝視した。
「さあなあ……。満蒙は日本の生命線だが、これを確保するということになると、新しく出来るという革命政府と折り合いをつけねばならぬ。革命政府が、日本の満蒙における権益を素直に認めないときは、武力によっていま一度支那を制圧しなければならぬ。これは厄介なことになるなあ……」
満州軍参謀の経験のある田中義一は、満州の確保については積極的であり、強硬でもあった。後に、昭和三年六月奉天で河本大作大佐らの手によって張作霖爆殺事件が起ったが、このときの総理は田中義一である。張爆殺は、満州国建設への足固めであった。田中がこの陰謀をどの程度事前に知っていたかについては後に述べるが、とにかく、この事件は大きな問題となり、翌四年七月田中内閣は総辞職し、同年九月、田中は六十六歳で急死している。そして、同年十一月、若手外交官最大のホープといわれた駐支公使佐分利貞男は、箱根の富士屋ホテルで自殺?しているのである。
さて、話を前に戻そう。
松岡の難しい質問に対して、田中は一応考えこむふりをしてみせた後、松岡の出方を待った。長州閥の先輩は、若輩の外交官が、この難問に対して、どのような答えを用意しているか、興味を持っていた。
松岡はしゃべり始めた。
「日本が満州を安全にわが勢力下に確保するには、アジア全体の共存共栄という考え方が必要です。つまり、支那をいためつけるのではなく、手を握ってわが利権の正当なるものは、これを主張するのです。革命政権が出来たなら、これと交渉して、満蒙におけるわが利権を認めさせるのです。軍部の一部や大陸浪人の間には、この際混乱に乗じて支那をとってしまえというような早急な暴論もあるそうですが、私はこれはとりません。考えてもごらんなさい。支那は面積一千百十一万平方キロ、日本全土の二十数倍にあたる大国です。人口も四億で、日本の八倍以上あります。このような国が簡単にとれるものではありません。あくまで共存共栄でゆくよりほかはありません。それよりも、警戒すべきは、北方のロシアと、アメリカ、イギリスなどヨーロッパ系の国々です。とくにロシアには注意を払わねばいけません。ロシアには間もなく革命が起きます。これに対して、日本はどう対処したら満蒙の生命線を守れるのか。ただ兵火を交えるのみが能ではありませぬぞ。閣下も、陸軍の上級幹部なら、この共存共栄という方策と、いかにしたらアジア連合が成るか、ということについて配慮していただきたいものですな」
松岡の弁舌はとどまるところを知らない。田中はところどころうなずきながらも、松岡の能弁にはあきれていた。
後年、満州において張作霖暗殺事件が起きたとき、松岡は、満鉄の副社長で大連にいたが、事の意外さに驚き直ちに奉天に急行、得意の弁舌で陸軍のやり方を非難した。
総理の田中は、事態収拾に苦心しつつも、「松岡のおしゃべりは昔と変らんのう」と述懐した由である。
さて、田中の媒酌で、松岡は大正元年十一月進竜子と結婚した。日比谷の大神宮で式をあげ、披露宴は築地の精養軒であった。
新婦竜子はいかなる女性であったか? 松岡が長男謙一郎氏に残した竜子評を、最近筆者は聞くことが出来た。それによると、「うちのかあさんは子供をたくさん生み、ちゃんと育てたことと、体の丈夫なことが取柄だな」とよく言っていたそうである。
竜子夫人は松岡との間に男子五人、女子二人をもうけている。夫人は現在(昭和五十四年)も八十七歳で御殿場に健在であるから、松岡との夫婦仲について、多くを臆測することは避けたいが、七人の子供をもうけたということは、夫婦仲がよかったと考えてよいのではないか。
結婚に先立つ大正元年八月、松岡は二等書記官に昇任し、露都ペテルブルグの日本大使館勤務を命ぜられていたが、結婚のため赴任を延期してもらい、十一月の結婚直後、新婦竜子を同伴して、シベリア鉄道に乗った。二週間に近い長い汽車の旅であった。これが松岡がシベリア鉄道に乗った初めであるが、彼はこの広大なシベリアの風土がすっかり気に入ってしまった。そして、素朴なロシアの民衆が好きになった。この後、彼はしばしばシベリア鉄道で大陸を横断する運命におかれるが、彼が決して陸軍のようにロシアを仮想敵と考えず、ロシア人と融和しようと考えたのは、この三十二歳のときの、新婚旅行におけるロシアとロシア人の初印象が素晴しかったことによると断言しても過言ではあるまい。
松岡のロシア在勤は一年そこそこであったが、彼はそこで重大な事実を目撃し、ロマノフ王朝の滅亡を予言するに至った。
ペテルブルグの宮廷は混乱し切っていた。その中心人物は、グリゴーリイ・エフィモヴィッチ・ラスプーチンと呼ばれる怪僧であった。彼はその奇怪な祈祷《きとう》力によって、スタレツ(予言者)とも呼ばれていた。
ラスプーチンの出現する前に、ロマノフ王朝はすでに革命運動の洗礼を受けていた。
先にも書いたように一九〇五年一月九日、日露戦争の最中、旅順が陥落して間もなくペテルブルグで有名な血の日曜日℃膜盾ェ起きた。二十万の労働者の大群衆が聖像とツァーの肖像をかかげて、ネバ河畔の冬宮に向ってデモ行進を行った。目的は労働時間の短縮と最低賃金(一日一ルーブル五十コペイカ)の保証であった。しかし、五列縦隊が壮麗な冬宮前広場にさしかかると、コサック騎兵隊が抜刀して斬りかかり、政府側の守備隊も小銃の斉射を浴びせた。
このため、死者五百名、負傷者三千名を生じ、民心は速かにロマノフ王朝を離れた。
続く、二月四日、モスクワ・クレムリンのスパスカヤ門の前で、モスクワ大公セルゲイが爆弾で殺された。犯人はカリャーエフという二十八歳のポーランド青年で、モスクワ大学で歴史学を専攻した後SR(社会革命)党のテロ委員となっていた。
カリャーエフは、セルゲイ大公妃(未亡人)の、「お慈悲を乞えば死一等を減じるように皇帝にお願いしてあげよう」という勧告を退けて、五月十日絞首刑を執行された。
それから間もなく、黒海で有名な戦艦ポチョムキン号事件≠ェ起った。
当時、黒海艦隊の幹部は腐敗しており、乗組員に悪質な食事を与え、私腹を肥やす艦長が珍しくなかった。
戦艦ポチョムキンは、就役して間のない一万三千トン、砲四十四門の新鋭艦であったが、上層部の腐敗は例外ではなかった。当時ポ号は黒海の軍港オデッサに寄港していたが、オデッサでは五月以来労働者のストライキが続き、六月には市街戦が各地で勃発していた。
六月十四日は、日本海海戦から十八日後のことである。この日の昼、ポ号の乗員に支給されたボルシチ(肉入りスープ)の牛肉は腐っていた。当時、ポ号乗員のなかにはかなりのSD党員(革新派)がおり、乗員は直ちにハンストに入った。艦長は水兵たちを処罰しようとし、ここに反乱が起きて、新鋭戦艦は水兵の支配下に帰し、艦長を初め士官の一部は処刑された。
このとき、ポ号の乗員と相呼応しようとして、埠頭《ふとう》の階段に殺到した群衆を、政府軍は乱射して多数を虐殺した。この階段はポチョムキンの階段≠ニ呼ばれ、現存している。筆者は昭和四十四年夏オデッサを訪れ、この階段の上に立ってみた。かなりの高さがあり、黒海の眺めがよろしい。上から見ると右側が商港で、左側が今も軍港になっている。右側は写真をとってもよいが、左側は撮影を禁止されている。いたずら心を起した日本の商社員が二名、夕刻、左側の軍港の写真を撮り、逮捕されて留置場に入れられたのは、この頃の話である。
さて、ペテルブルグのツァーの政府は、セバストポリ軍港の黒海艦隊にポチョムキン号の撃沈を命じた。同艦隊は戦艦五隻を含む十二隻の大艦隊であったが、艦隊内にサボタージュの気分濃厚で、ついに戦わずしてセバストポリに引き返してしまった。
ポ号の方も、水、食糧、石炭が欠乏し、ついにルーマニアのコンスタンツア港に入港し、革命派の士官と兵は退艦した。
レーニンは、ポ号反乱の第一報を聞くと、すぐに幹部をオデッサに急派したが、ポ号はすでにコンスタンツアに向ったあとであった。
ロシア政府はポ号をとり戻し、艦名を変え、大砲の要部を除去して廃艦とした。革命派の士官や水兵は各地を流浪したが、多くはロシア政府の密偵に捕えられて処刑された。
しかし、ポチョムキン号事件は、後に不世出の名監督エイゼンシュテインによって映画となっている通り、ロシア革命の重要な引き金となっている。
先に筆者は、辛亥革命の大きな原因は、日露戦争における日本の勝利である、と書いたがこのような一連の事件を眺めてみると、ロシア革命の大きな誘因が日露戦争における帝政ロシアの敗戦であったことも事実のようである。
太平洋戦争の敗戦後、日露戦争は侵略戦争であったか、自衛戦争であったかの論争があり、未《いま》だに結論が出ていないが、二つの大きな革命の誘因となったことは、左右両派いずれの歴史家も認めるところであろうと信ずる。
さて、このような情勢で動揺していたロマノフ政府を更に混乱させ、ついに滅亡に追いこむのが、妖僧《ようそう》≠ニ呼ばれたラスプーチンである。
ラスプーチンは一八七一年頃?ウラル山脈の東方二百五十マイル、チュメニ県のポクロフスコエという村で生れた。チュメニは、最近日本の産業界がここの石油を日本にもらおうとして交渉を続けているところである。
ラスプーチンは貧農の子であったが、少年の頃から不思議な祈祷の才能があった。皇帝ニコライ二世の皇太子アレクセイは内出血をすると血の止らない血友病という持病をもっていた。ところが、一九一〇年頃のことである。アレクセイの発病で困り果てていた皇后アレクサンドラは、ペテルブルグから二千マイル離れたチュメニにいたラスプーチンに電報で独特の祈祷を依頼した。
ラスプーチンは祈り、そして皇太子アレクセイは間もなく平癒《へいゆ》した。(思うに、血友病というのは、時間がたてば小康をとり戻すもので、ラスプーチンはそれを知っていたのではあるまいか)ラスプーチンに対する皇后の信頼は急激に上昇し、ついに彼はペテルブルグに邸を与えられ、自由に宮廷に出入りし得るまでに出世した。
この頃、巷《ちまた》では、ラスプーチンは、皇后と通じているという噂《うわさ》があった。ラスプーチンは若い時から多淫で、ペテルブルグに来てからも、貴族の夫人、踊り子など片はしから手をつけていた。
昭和四十四年夏、オデッサを訪問する前、筆者はヤルタを訪れた。ここにはニコライ二世一家がよく避寒に来たというリバディア宮殿というフランス風の宮殿が残っている。ここの裏には、ラスプーチンの階段≠ニいうのが現存している。近くのホテルに泊っていたラスプーチンが、暮夜ひそかに、裏の階段から二階にある皇后の寝室に忍びこんだとき用いられたものであるという。
ヤルタの丘の中腹にはアントン・チエホフの本宅があり、その近くにユスポフ公爵の別邸が残っている。ユスポフは一九一六年十二月十六日、ペテルブルグでラスプーチンを暗殺したロシア最高の貴族である。彼は当時陸軍中尉であったが、ユスポフ家はロシア最大の資産家で、皇帝よりも裕福であった。ペテルブルグに四つ、モスクワに三つの邸を持ち、ロシア全土に四十近い領地を保有していた。ラスプーチンが、ロシア革命の前年に、皇帝と縁戚《えんせき》にあたる若い青年貴族に暗殺されたことは、皮肉な現象である。
ラスプーチンは興味ある人物であったと見え、多くの本が書かれているが、その足跡の重要な部分は未だに謎に包まれている。イギリスの批評家コーリン・ウィルソンは「ラスプーチンの生涯は歴史ではなく、歴史と主体性の衝突である」と書き、また「歴史においては、誰も最後の言葉を持っていない。しかしその外に立っていることによって、ある種の最終性に達することができる。だからこそ、ラスプーチンはわれわれにとって一種の終止符とうけとられるのであろう」という含蓄のある言葉で、彼の『ラスプーチン』(内山敏訳、読売新聞社刊)をしめくくっている。
話が横道にそれたがラスプーチンの暗躍は露都の新聞にもスキャンダルとして大きくとりあげられ、これを読んだ松岡は、ロマノフ王朝はもう長くはないと結論するに至った。
大正二年(一九一三)十月、松岡はワシントンの日本大使館勤務を命ぜられた。辞令を受けとって、出発の準備をしていると、
「おう、松岡、元気か」
と一人の珍客がやって来た。
外交官になりたての頃、旅順の関東都督府で無二の呑み仲間であった南次郎騎兵中佐であった。南は星野金吾少将を団長とする欧州視察団の一員として訪欧しての帰路であった。
「おう、こりゃあ珍しい。竜子、ウオトカの用意をしなさい」
松岡は新妻にそう命じた。
この頃、竜子はすでに懐妊していた。(後にワシントンで出生する長男謙一郎である)身重の妻に酒の支度をさせ、松岡は南と痛飲した。『南次郎伝』「巣鴨手記」によると、「このときは三日三晩飲みあかし、ついに竜子夫人をおいてペテルブルグの町を飲み歩き、帰りの旅費を全部使い果してしまった。内地までの旅費はすべて松岡から借用した」となっている。
松岡はこのとき、ロマノフ王朝の滅亡を予言しており、同席した駐露大使館付武官蠣崎富三郎少将はそれを記憶していた。
それによると、松岡は、
「ロシアは遠からず大動乱に陥り、ロマノフ家は気の毒ながら滅亡する。従って当分ロシアは極東などに手を伸ばして来る余力はない。むしろ、われわれとして考慮すべきは、革命後にどのような政府が出来るかである。それにつけても、第一次から第三次にわたるペテルブルグ政府との日露協約はむだではなかったか? これは主として、山県公の親露、あるいは恐露政策のなせる業であるが、もうロマノフ王朝に色目を使う時代は去ったのだ」
と山県の政策をも批判した。
日露協約は、三次にわたって結ばれている。その目的は、日本にとってはポーツマス条約で決められた成果をロシアに守らせ、確実に手中に入れて極東の和平を維持するため、ロシアにとっては、収縮しつつある極東の勢力に安定を与え、過度に日本の勢力が膨脹することを避け、ロシアに再度進出の余地を残しておくためであった。
第一次は一九〇七年七月で、このときは満州における日露勢力の分界線を画定、日本は外蒙古がロシアの勢力下にあることを認めた。ところが、その後アメリカ資本が満州に進出して来たので、一九一〇年七月第二次協約を結び、第一次協約を相互に確認し、堅持することを決めた。
ところが、翌一九一一年十月、辛亥革命が勃発《ぼつぱつ》し、中国に対する列強の動きが複雑化したため、一九一二年七月、さらに第三次協約を結んで、二つの中国政府とは関係なく、日露が満州における勢力を互いに拡大し、内蒙古における特種利益地域をも規定した。この後、日露協約は一九一六年、日露同盟協約にまで発展しているが、これは翌年のロシア革命勃発によって無効と化した。
二人はこの夜、大いに重臣元老を批判し、日本の対露政策がなっていないこと、すなわち、刻々に革命の危機をはらんでいることに気づかないで、いたずらに条約時代の大国ロシア……北方の熊のイメージに恐れを抱いていることを痛憤した。
その反面、松岡は例の、大衆と親しみ、大衆の支持を背景とするポーズをここでも忘れず、ペテルブルグの官民に友人を作り、大使館の使用人であるロシア人にもよく声をかけ、おりにふれて贈物をした。階級差別のきびしい露都ペテルブルグでは、松岡二等書記官のこの平民主義的ポーズは、異様な感謝とともに受けとられた。
『人と生涯』には、珍しいエピソードが出ている。
松岡の三男震三は、終戦時満州におり、ソ連に抑留され、モスクワの近くのラーゲルで重労働に服していた。ある日、片言の日本語をしゃべるロシア人の老婆が訪ねて来て、
「セクレタリアート(書記官)マツオカのマリチック(むすこ)がいると聞いたが、会いたい」
と言った。
震三が出てみると、
「私は、ペテルブルグの日本大使館で掃除婦をしていました。あなたのお父さまには、とてもやさしくしてもらい、お世話になりました。数年前には、お父様はモスクワで同志スターリンと平和条約まで結んだのに、このようなことになって残念です。お父さまは、お元気ですか?」
と尋ねた。
震三は、その奇遇に驚いた。
松岡はヒトラーと組んで悪評高い三国同盟に調印したりしているので、高圧的で専制的な人間と思われがちであるが、彼は生来ざっくばらんな所があり、常に大衆と融和し、大衆の支持を受けるように努めていた。これは、アメリカで苦学生活をし、庶民と常に接していた経歴から来るもので、その点、幣原喜重郎、吉田茂などとは肌合いが違っていた。そして、これが後年、ある意味で軍部や近衛文麿と相容《あいい》れぬこととなる理由であったかも知れない。
この年アメリカ転勤の命を受けていた松岡は十二月一日、身重の妻竜子を伴って、想い出深いペテルブルグを後にしてシベリア鉄道に乗った。
一年そこそこの駐在であったが、忘れ難い印象を与えてくれたペテルブルグであった。悠々と流れるネバ河、河の向うにそそり立つ百三十メートルのペトロパウロフスク寺院の金色の尖塔《せんとう》、河のこちら側の岸には、女帝カザリン二世が富を誇るために造築した冬宮がコバルト色の見事なデコレーションを誇っている。冬宮前広場には、ナポレオン戦争における勝利を記念する高さ五十メートルのアレクサンドル一世の塔が立っており、この近くの海軍省からモスクワ駅までは、有名なネフスキー通りが一直線である。
筆者は昭和四十四年五月初旬、レニングラード(旧ペテルブルグ)を訪れ、このネフスキー通りを歩きながら、松岡と南がウオトカに酔いしれながら、訪れた酒場は、どのあたりであったろうか、と想いをそそられた。
レニングラードには四日間滞在したが、おりから、上流のオネガ湖の氷が解けて、流氷が終日音をたててネバ河を下り、バルト海の方に流れこんで行った。
一九一三年十二月二十二日、松岡はワシントンの日本大使館に到着した。
駐米大使は日露戦争当時、小村寿太郎の下で外務次官を勤めた珍田《ちんだ》捨巳である。珍田は弘前の出身で、大隈重信の知遇を受けて外交畑で出世をした。後に一九一八年のベルサイユ条約で西園寺公望、牧野伸顕らとともに全権を勤め、伯爵となった男である。
松岡が着任すると同時に、参事官の幣原喜重郎が駐英大使館に転勤し、松岡は参事官代行を命じられた。
幣原は三菱の宗家岩崎弥之助の娘雅子をめとり、かつての外相加藤高明の義弟に当り、外務省の出世頭の一人であった。国際協調主義をモットーとし、後に幣原の軟弱外交、松岡の強腰外交として対比されるに至る。
幣原の赴任先のロンドンには、広田弘毅書記官が待っていた。広田は一九〇九年北京からロンドンに転勤し、一九一一年には特命全権大使加藤高明の下で、山座円次郎参事官とともに働いた。テーマは日英同盟協約更新であった。
このとき、寡黙ではあるが堅実な広田は、山座や加藤に認められ、将来を嘱望されるに至っている。
当時の駐米大使館員には、大田為吉、岡部長景、斎藤博などがいた。斎藤は日米開戦直前の駐米大使で、急死したため遺体が巡洋艦で日本に運ばれたことを筆者は記憶している。
松岡着任の翌年、一九一四年(大正三)は内外ともに多事な年であった。
この年七月第一次世界大戦が勃発している。その直前六月十三日、松岡家では竜子夫人が長男謙一郎を出産した。場所はワシントン市西北通アール街千六百十九のアパートである。
そして、その前月、五月二十三日には、北京日本公使館で、水野幸吉参事官が急死した。
水野は一九〇七年(明治四十)松岡が関東都督府から外務省政務局に転じたとき、外務省内でも能弁家として知られた男で、松岡の論争の好敵手であった。
続いて、五月二十八日、駐北京公使山座円次郎が四十九歳の若さで急死した。原因は心臓|麻痺《まひ》と伝えられたが、大陸浪人の一部では、大総統袁世凱の刺客による毒殺であると騒ぐものもいた。この前年孫文らは中国第二次革命挙兵に失敗し、日本に亡命していたが、山座が革命派に同情的で、資金援助の橋渡しをしていたという噂が流れていたらしい。
第一次世界大戦の勃発については、筆者がその発火地点であるユーゴスラビアのサラエボに行ったことがあるので、ちょっと触れておこう。
サラエボはユーゴスラビア中部の古い町で、当時はボスニアの首邑《しゆゆう》であった。オスマン・トルコの支配が長く、町はトルコ、オーストリア、スラブの三地区に別れ、各種の人種が居住している。一九一四年六月二十八日昼、ボスニアにおける陸軍大演習の統監に来たオーストリア皇太子フェルジナンド夫妻は、セルビアの青年ガワリーロ・プリンシプによって暗殺された。セルビア人は、この地域は元来スラブ人の居住地であると考えていたので、オーストリアの支配を喜ばず、ひそかに汎《はん》スラブ主義者同盟を結成していた。
この暗殺事件によって、七月二十八日オーストリアはセルビアに宣戦を布告し、八月一日ドイツはセルビアの背後にあるロシアに宣戦、八月三日、ドイツはフランスに、八月四日、イギリスはドイツに宣戦し、ここに五年にわたる世界大戦の幕は切って落されたのである。
筆者は昭和四十四年六月初旬、サラエボを訪れた。ジナルアルプスを背にした高原の町である。トルコ地区からオーストリア地区に川が流れている。川に古い橋がかかっており、橋の向うに古い三階建てのビルがある。オーストリア皇太子夫妻をのせたオープンカーは、トルコ地区の方から南下してきた。橋の手前で待っていた汎スラブ同盟の青年が爆弾を投げた。爆弾は炸裂《さくれつ》して、侍従武官が負傷した。あわてた皇太子の車はビルに沿って右に曲った。そこに待っていたのが十七歳のガワリーロ・プリンシプ少年である。彼は待っていましたとばかりに、オープンカーにとび乗り、五十三歳の皇太子フェルジナンドの胸に拳銃弾を撃ちこみ、皇太子妃ののど首にもつきつけるようにして発射した。皇太子妃は即死し、皇太子は病院に運ばれて間もなく死亡した。
犯人のプリンシプは直ちにオーストリア憲兵に捕えられ裁判にかけられたが、十七歳の若さのため、死一等を減じられて無期懲役となり、プラハの監獄に送られた。彼はここで一年服役した後、肺結核で死んだ。プリンシプが立っていた位置には、彼の足跡が石畳に彫ってあり、そのビルのなかは、この事件に関する博物館となっている。この事件は計画された暗殺事件で、参加した二十七名の青年のうち大部分が死刑になっている。現場近くの橋は今も昔と同じ姿で現存し、暗殺者の名をとって、プリンシポフ橋と呼ばれている。プリンシプ少年が現在の社会主義国ユーゴにとって、英雄的な存在となっているのはもちろんのことである。
この年、松岡の媒酌人、田中義一少将は、欧州の視察旅行をすませてワシントンを訪れた。日英同盟による日本の欧州参戦(八月二十三日)について、現状を打診に来たものである。松岡は来栖《くるす》三郎(開戦時の駐米大使補佐官)とともに通訳を担当した。
翌一九一五年(大正四)駐在武官竹内重利海軍中佐のかわりに、野村吉三郎中佐が着任した。これ以後、松岡が外務大臣のときの駐米大使となるまで、野村との交友は続く。
四月十二日、兄賢亮がテキサスのサンアントニオで亡くなった。賢亮はレストランのマネージャーをしていた。洋右はワシントンから汽車でかけつけたが死に目には会えなかった。賢亮の次男三雄は後に郷里の山口県光市長となり、その没後長男満寿男氏が後を継いでいることは冒頭に述べた通りである。
兄の死は松岡にとって大きな負担であった。これ以後、松岡一族の生活費の大部分を、一外交官である洋右がうけもつことになるからである。
そして、この年は彼にとって公的にも大きな問題の起きた年であった。
一九一四年八月、ドイツに宣戦布告すると間もなく青島《チンタオ》を占領し、ドイツ東洋艦隊を撃破した日本政府は、この際かねての念願である支那における日本の権益を確認しようとして、翌年一月対支二十一カ条の要求を北京政府に提出した。これは列強の目が欧州に注がれている間に、支那における権益を固めておこうという火事泥的なもので、当時の総理は大隈重信、外相が加藤高明、次官幣原喜重郎である。この要求は、後に日本の中国侵略の大きな要因として、排日抗日の材料とされ、日本が極東軍事裁判で侵略国とみなされるに至る有力な遠因となった。
五号、二十一項目に及ぶこの要求は、一九一五年一月十八日、日置駐北京公使が、直接袁世凱中華民国大総統に手渡すという高圧的な方法で示された。その要点は次の通りである。
第一号、山東省の旧ドイツ権益処分に関する日独の協定事項の承認(旧ドイツ権益の継承)。第二号、旅順、大連の租借期限および満鉄安奉(安東―奉天間)線の権利期限の九十九カ年延長、南満州、東部内蒙古における土地貸借、所有権、鉱山採掘権などの承認。第三号、漢冶萍公司《ハンヤピンコンス》の日中合弁。第四号、中国沿岸港湾、島の他国への不割譲、不貸与。第五号、日本人の中国政府顧問採用、地方の警察の日中合同化ないし日本人の雇傭《こよう》。南昌中心の鉄道敷設権。
このうち第一―第四号は要求条項であり、第五号は希望条項である。
袁世凱は日本の非を鳴らし、中国国民は日本商品ボイコットなどの排日運動を起したが、欧州列強は戦争に追われて事態を顧みてくれない。アメリカのみが、この要求はかねて主張している「門戸開放、機会均等」の方針に反するとして難色を示したが、ウィルソン大統領の眼はヨーロッパの方を向いていた。
日本はなおもねばり、第五号をはずして、残り四号をもって、五月七日、中国に強硬な最後通告を行った。これを呑まねば武力で強行するというのである。いまや気力を失った袁世凱政府は五月九日、ついにこの通告を受諾し、この日は中国国民にとって長く国恥記念日≠ニして怨恨《えんこん》とともに記憶されるに至った。
筆者は、太平洋戦争の遠因は、南から進攻してきた英、蘭、東から海を渡って来た米国というヨーロッパ人の、有色人種圧迫政策に対する東洋民族の反撥と考えているが、日本の最大の失敗は、中国を敵に回したことであると考えている。
漢の時代以来、大唐の盛時を経て、アジアの東部に強大な国家を経営してきた中国を、たとえ衰えたりといえども敵に回したことは、大きな失策であった。もし、日本が東洋を代表して白色人種と戦わねばならないのならば、隣邦の大国中国を味方につけて戦うのが戦略の常道であると考えられる。
大体、中国を侵略したのが太平洋戦争の遠因であり、また、中国を背後の敵として連合軍と戦ったのが、太平洋戦争の大きな敗因であると筆者は考えている。中国侵略をやめ、友邦として共栄を計り、同盟してスクラムを組んだならば、太平洋戦争は避けられたに違いないというのが、筆者の私見である。
さて、大きな問題をはらんだ対支二十一カ条要求に対して、当時ワシントンにいた洋右はどのように考えていたであろうか。
筆者の手元に松岡の『青年よ起て』(昭和八年十二月、日本思想研究会刊)という本があるが、ここで松岡は次のように言っている。
「私の尊敬する小村寿太郎外相は、『日本の外交は掛け値がない』という世界記録を立てた方だ。二十一カ条要求までは、日本外交には掛け値がないということに相場が決っていた。すなわち、日本の国際的信義は厳として確立されていたのである。しかし、二十一カ条要求でこれが打ちこわされた。その後、余程回復されつつあった信用が、再び一昨年の満州事変以来地に墜ち、古疵《ふるきず》の記憶までが呼び起された、という始末である。世界をしてこの日本は嘘つきだ、という考えを改めさせるには、少なくとも五年もしくは十年はかかるだろう。ともかく国際的に信義を失ってはならぬ。ことに大和民族の生命は信義である。(後略)」
『人と生涯』によれば、この言説は、昭和八年十一月十一日富山高等学校の講演でなされたものであるが、この年は松岡が国際聯盟でサヨナラ演説≠した年であり、この頃の松岡は、二十一カ条を中国につきつけた加藤高明外交に批判的であり、かつまた、ジュネーブで満州事変について釈明している松岡の背中から殴りつけるような行動をとる現地の陸軍にも反感を持っていたのである。
しかし、同じ人物でも、時移り、環境が変ると、考え方や表現も異って来る。
筆者の手元には『興亜の大業』という松岡の著書がある。昭和十六年五月の刊行(第一公論社)で、横山大観の富士山の絵が装丁となっている。この出版社は、当時天才少女といわれた野沢富美子の『煉瓦女工』なども出しており、必ずしも右翼一辺倒の出版社とは言えないのであるが、この本にのっている松岡の満州事変に対する論調は、完全に神国日本£イとなっている。
第二章「開拓者としての大和民族」のなかの「満州事変の意義」から引用してみよう。
「昭和六年九月十八日という日は、吾々日本国民の忘れることの出来ない、極めて厳粛なる意義を持っている日である。私は信ずる、この日は我が大和民族史上、永久に燦《さん》たる光輝を放つべき日である。何となればこの日我が生命線確保の為《ため》に日本国民は蹶起《けつき》したのである。支那兵の不法なる鉄路破壊に対して、我が関東軍が久しき隠忍自重の堪忍袋の緒を切って蹶起したのであるが、これは独り関東軍のみが蹶起したのではなくて、日本国民が蹶起したというべきである。すなわち日本精神が爆発したのである。我が国の生命線確保の為に蹶起しただけではなしに、此《こ》の日を門出の日として、我が大和民族は、明治大帝の御遺策であり、我が国の一大国是である所の東亜全局保持、東亜全局を安定させるという大方針に向って一路|邁進《まいしん》することとなったのである。(後略)」
昭和八年から十六年までは八年間あるが、この間に、支那事変(日中戦争)があり、松岡の主唱した日独伊三国同盟締結があり、またこの本刊行の直前に、彼はモスクワを訪ねて日ソ不可侵条約を結んでいる。歳月の流れとはいいながら、人間の考えはまさしく流動的である。この『興亜の大業』という本は、松岡がモスクワから帰ると早々に発刊されており、松岡が筆をとって、全文を自ら書いたかどうか全面的には信じ難い点がある。しかし、昭和十五年九月、三国同盟締結以後の彼が、急速にナショナリストに傾き、祖国防衛≠フムードを高めたことは事実であり、それが為政者であり、世の指導者の一人として、右のような表現となったことは了解出来よう。満鉄総裁以降の松岡は、日本の青年に多くを期待し、青年に訴える文章を多く書いている。
一九一六年(大正五)欧州における第一次世界大戦はますますたけなわとなっていた。
五月三十一日、英国のジェリコー提督は戦艦、巡洋戦艦十数隻をひきいて、ドイツ海軍とデンマーク、ユトランド半島沖のスカーゲラック海峡海域で戦った。ドイツ艦隊を封鎖し、北海の制海権をおさめようというものである。
これに対して、グラフ・シュペー提督のひきいるドイツ海軍も、英海軍に近い全主力艦を動員して応戦した。結果はドイツ軍の善戦により英海軍の主力艦六隻を撃沈、ドイツ側は二隻を失い、形の上ではドイツ軍の勝利となった。しかし、英海軍の優勢に押されて、ドイツ海軍はキール軍港に後退し、この後、再びスカーゲラック海峡を西へ出ることはなかった。
翌六月、中国の大総統袁世凱が死に、黎元洪《れいげんこう》が後任となった。黎は辛亥革命が起きたときの革命軍の首領である。一九一一年十月十日、彼は武昌で第三十九旅団長をしていたが、革命軍都督として漢口、漢陽を占領し、中華民国軍の新政府を樹立したことがある。
黎の大総統就任で、中国は革命派が主力をとったとみられ、それだけ排日、抗日の気風は強まった。
翌七月、松岡は肺結核療養のため、帰国を命ぜられた。この結核が後に命とりとなるのである。
松岡は竜子夫人と、数え三歳の長男謙一郎を伴って、サンフランシスコから東洋汽船の日本丸に乗ったが、この船中で中野正剛と一緒になった。中野正剛は福岡県生れ、明治の文豪三宅雪嶺の娘をめとり、後には右翼的政治家として名をあげ、昭和十八年十月、東条英機の政策を批判して自決した熱血的政治家である。この船中では、朝日新聞記者であった。
このとき松岡は三十六歳、中野は三十一歳で、二人がすでに旧知であったかどうかは確かでないが、二人が第四次日露協約について、共に憤激したことは事実らしい。
第四次日露協約は、日露の秘密軍事同盟ともいうべきもので、とくに第三国(アメリカを指す)が支那を侵略した場合には、共に戦うという項が問題となっていた。ペテルブルグにおいてロシア宮廷の腐敗を目前に見た松岡は、帝政ロシアと組むことは大の反対であった。
日本に帰った松岡は青山南町二丁目に居を構えたが、外務省へのあいさつが終ると、早々と小石川椿山荘に山県有朋を訪れた。日露協約のことで苦情をいう気持もあったが、この年、山県は重い肺炎を患って、一時危篤を伝えられたので、その見舞いを兼ねたのである。(山県が実際に世を去るのは六年後の一九二二年である)
山県は面会謝絶の状態であったが、「松岡がアメリカから帰って来た」と聞くと、面会を許可して、病床に起きあがり、松岡を招じ入れた。かつて、一九〇六年(明治三十九)関東都督府の一課長として来訪し、長広舌をふるったこの長州の後輩を山県は愛していたのである。
山県は権力主義の専制的な陰謀家のようにいわれるが、若いときは奇兵隊の気鋭な参謀を勤め、高杉晋作、伊藤博文らとも親交があり、人の意見は聞く方であった。
武断的にみえて小心なところがあり、相手が大きく出るとひそかに仰天するようなところがあった。この小心を蔽《おお》いかくして権力を温存するために、彼は藩閥や朝廷のご威光を借りてきた、ともいえる。
見舞いのあいさつを述べると、松岡は早速、日露協約を叩き始めた。
「閣下、帝政ロシアはもう駄目です。ロマノフ王朝は死に馬です。こんな国と同盟を結ぶのは、光輝あるわが帝国を、死に馬の道づれにするようなものです。私は断言します。ロマノフは一両年の間に革命によって滅亡します。日本としてはその後始末をうまく考える必要があるのです」
山県は驚いて反問した。
「君、ロシアに革命が起きるというのは本当かね?」
「はい、私は、大正元年にペテルブルグに行き、そのとき、上層部の様子を注視するとともに、革命派の動きを調べてみました。日露戦争の頃からロシアでは革命の試みがあります。そこへこの欧州大戦です。ロシア軍は開戦後間のない東プロシャのタンネンベルグの沼沢地における戦いでヒンデンブルグ将軍のために大敗を喫し、敗兵が続々と自国へ逃げ帰って来る始末です。それ以後ロシア軍は立ち直れず、ペテルブルグ政府の威信は地に落ちています。革命は間近です。閣下、この際、日露協約のような有害無益なものは、御破算にして下さい」
「そうか、ペテルブルグでは革命が必至だと貴公は断言するのか」
山県は穴のあくほど松岡の顔をみつめていたが、傲岸《ごうがん》な彼は、日露協約をキャンセルするとは言わなかった。(ケレンスキーの革命が起きてニコライ二世が退位したのは、この会見から七カ月後のことである)
老獪《ろうかい》な山県は、日露協約には確答を与えず、次のように問うた。
「君、ロシアのことは大分わかったが、支那の方はどうかね? 袁世凱が死んで、黎元洪が大総統になり、わが政府も応酬に苦心しているようじゃがね……」
松岡はこのときとばかりかねての素志を開陳した。
「支那に列強と平等の権利を与えるべきです。それには治外法権の撤廃が先決問題です。日本が率先して行えば、英、米、仏も必ずついて来るでしょう」
「ううむ、支那をわが国と平等に扱えというのかね」
日清戦争に参謀として満州に上陸したことのある山県は、日清日露の勝利によって、ややもすれば、支那を日本の属領とみなしたがる癖があった。それを平等に扱えとこの若年の外交官が力説するのであるから、維新の元勲唯一の生き残りは驚愕《きようがく》して、再び床に入ってしまったのであった。
翌一九一七年(大正六)三月、松岡の予言通り、ロシアに革命が勃発した。ケレンスキー内閣が成立、ニコライ二世は退位し、ここに一六一三年以来三百年に及んだロマノフ王朝は終焉《しゆうえん》を告げたのである。
ロマノフ王朝の滅亡で、連合軍は困惑するが、日本の世論のなかには革命政府に好意的なものもあった。大阪朝日は社説のなかで、この革命を「民主的|巨濤《きよとう》が官僚政治を溺《おぼ》らそうとしたものである。官僚が民主主義のために滅ぼされるのは当然である」と評した。(以下、鳥海靖『祖父と父の日本』に依る)これは当時の寺内(正毅)内閣の官僚政治への反感とみてよかろう。
すでに論壇においては東大教授吉野作造が民本主義を主張し、大正デモクラシーの波は日本国中に行き渡りつつあった。これは、明治天皇のもとにおける天皇中心主義とナショナリズムに対する反動であったが、当時の大勢でもあり、また日本が大国への道を歩みつつあるための、一種の安定感によるものであったろう。日露戦争直前であったならば、民主主義は通用しなかったのではないか。
さて、ブルジョア革命と呼ばれるケレンスキー内閣の間はよかったが、同年十月、レーニンが政権を握るに及んで、形勢は過激化して来た。
ロシアは東部戦線においてドイツと休戦したので、ドイツはその全兵力を西部戦線に回し得ることになった。
翌一九一八年(大正七)一月、イギリスは日本とアメリカにシベリアへ出兵して、ボリシェビキのソビエトを尻からつくことを要請した。
松岡はこの前年外相秘書官を命ぜられ、一八年五月、総理の秘書官兼任を命ぜられている。松岡が外相秘書官となった時の外相は、彼がペテルブルグ駐在当時の駐露大使本野一郎で、後七月、後藤新平に代った。
帝国陸軍の一部には、日露戦争直後からシベリア、とくに沿海州に勢力を伸ばす論が盛んであり、この際、シベリアに出兵すべきであるという意見が盛んであった。
本野外相も同意見であり、松岡も最初は賛成していた。
ここに不思議な現象が起きた。連合軍に属する数千のチェコスロバキア兵がロシア領内に取り残され、東方へ脱出を計ったのである。英仏は、このチェコ兵団をボリシェビキの手から守るためにという名目で日米のシベリア出兵を依頼してきた。
アメリカは七月、ついに七千名に限って出兵することを決めた。
日本も七月、外相が大風呂敷の後藤新平に代ったところで出兵を決めた。
このとき秘書官として松岡が草した「シベリア出兵意見書」が、『人と生涯』にのっている。それによると、
一、シベリア出兵の目的
(一)帝国自衛の必要、ドイツ勢力東漸の危険
(二)帝国の国際政局上の地位確立の必要
(三)講和条約における発言権確保の必要
(四)米国のシベリア活動に対する対抗策
(五)帝国民心振興の必要
(六)我が対支政策上の必要
となっており、二、にはシベリア出兵反対論(たとえば時機尚早論など)のいくつかが列挙され、三、は「シベリア独立援助の形式による出兵の現下の最良策たる所以《ゆえん》」として、露国民の反感一掃、連合諸国の要望緩和等が述べられてある。
結局、八月二日、寺内総理、後藤新平のラインは、シベリア出兵を決定した。以後出兵は四年にわたり、七万余の大軍を派兵し、八億円近くの巨費を投じたが、革命干渉は成功しなかった。
日本軍はこのためウラジオストック、ハバロフスクから酷寒のバイカル湖畔イルクーツクまで進出している。筆者の中学校の軍事教練の教師は、Kという陸軍特務曹長であったが、彼は二年間シベリアに駐屯した経験があった。ある日雨で教練が室内授業に変ったとき、K特務曹長はシベリアの話をした。
「シベリアは寒いばかりで、何もよいことはなかった。とくに尼港(ニコライエフスク=[#「=」はゴシック体]アムール河口の港市)では、ひどかったな」
と彼は述懐した。
尼港事件は、一九二〇年二月、尼港を占領していた日本軍がパルチザンの圧力に堪えかねてここをあけ渡したことから始まる。いったん撤退した日本軍は、協定を破って再び尼港を攻めて惨敗した。このため市内にいた日本領事ほか日本市民百二十二名は捕虜となった。日本側は五月、大軍を送って尼港の奪回を策したが、パルチザンは捕虜を皆殺しにして撤退した。一九二五年、日ソ国交回復の際、日本側はこの事件の賠償をソ連に要求したが、ソ連側は、日本軍側にも非があるとして応じなかった。
尼港事件は筆者が満州の四平街という町で生れた年に起きた事件である。公主嶺の小学校にゆく頃になると、大人から尼港事件を聞かされた。「日本の領事は、領事館がパルチザンに囲まれたとき、西洋カミソリで首を切って自決した。パルチザンは残虐じゃ」と大人たちは話した。共産党というものは、恐しいものだ、と幼い私は考えた。
不思議なことに、「シベリア出兵意見書」を起案した松岡は、八月二日の出兵直前から、出兵反対論者に傾いている。これは、当時の外務省に革命派に同情的?であった欧米課長の武者小路公共や、亜細亜課長の小村欣一がいたせいかも知れない。
武者小路公共は、作家実篤の兄で、外務省入りは松岡の三年後輩、当時気鋭の外交官で松岡と気の合うところがあった。彼は後に一九三六年(昭和十一)日独防共協定の調印を行い、松岡外交の先乗りをした形となった。
『人と生涯』には、首相秘書官の松岡がシベリア出兵のため参内しようとした寺内首相を阻止した話が出ている。武者小路らの話に刺激された松岡は、もともと帝政ロシアに見切りをつけて、新しいロシアに望みをかけるところが大きかったので、直接首相に手紙を書いて寺内首相の出兵参内に反対の意を表明した。寺内は当時長州閥の代表格で、山県の強い推薦で総理になった男である。松岡が山県の信任が厚いことを知っていた寺内は、一時松岡の意見を入れて、出兵を中止することにした。このため、寺内は後藤外相を呼んで、
「外務省の若手は出兵に反対しているではないか。省内の統一がとれていないでは、わしが陛下にどう申し上げてよいかわからぬではないか」
と苦情を言った。
臨機応変の後藤は若手外交官の取り締りは外務次官の役とばかりに、幣原喜重郎次官を呼びつけ、
「若手連中は、なかなか味なことをやるが、途中を抜かしてショートサーキット(短絡)するのはどうかね」
とやんわり叱言《こごと》を言った。
このため、幣原は秘書官や課長の集る席で、
「近頃、わが省内では、下剋上《げこくじよう》の風習が出て来たように聞くが、もし本当だとすれば、それは困ったことだ」
と苦情を言った。
幣原という人はブルジョア的|雰囲気《ふんいき》と官僚的精神構造を身につけており、持って回った言い方をした。これがオレゴン州の苦学生上りの松岡とは肌が合わなかった。
「下剋上とは何ですか、次官!」
と松岡は食ってかかっていった。
鼻柱の強い彼は、ややもすれば、政務局長の小幡酉吉や、幣原次官をとび越えて後藤新平や、寺内首相に体当りする癖があった。話のわかる者と話せばよい、彼の外交的セオリーは若いときからこれであった。専光寺での祭の件で警察署長にじか談判したときのけんか洋右≠フ心情はあまり変っていなかった。これが後に、英米を抜かして独ソと話し合いを行い、破局を招く一つの原因となったのかも知れない。
「まあ、そういきり立つな松岡君。とにかく、外務省というところは官庁だから、上下の筋道だけは通してもらわねば困るのだよ」
と、幣原は貴族的ムードでやんわりと松岡をたしなめた。幣原対松岡、国際協調外交対民族自主外交はやがて軟弱対強硬というように色分けされ、ジュネーブ会議に至るのである。
松岡らが反対したにも拘《かかわ》らず、アメリカが出兵すると、日本も対抗上シベリアに出兵した。そして、三千五百人余の戦死者を出して撤兵することになるのである。
シベリア出兵が決定して間もなく、松岡は広田弘毅とともにシベリアの経済援助事務に従事することを命ぜられた。後に、二人だけ文官としてA級戦犯に指定された両名が、この時は一緒に働いている。広田は当時、通商局第一課長のポストにあった。
「シベリア経済援助」とは何であろうか?
表面上は、過激派の跳梁《ちようりよう》にまかせて荒廃したシベリアの住民救済であるが、実際には、アメリカとの利権争いであった。
このため、当事者の松岡は、一、政府予算のほかに、民間より相当の醵金《きよきん》を募ること、一、物資輸送のための交通路を開発すること。とくに、東支鉄道、南満鉄道の陸運、黒竜江、松花江の水運を活発にすべきこと、一、輸出入制限の撤廃、等の原則を立て、第一回の民間企業合同組織の設立準備会にのぞんだ。
一体に、松岡外交の微妙な点は、侵略と開発が紙一重になっているところで、これが後の満鉄経営、対独、対ソ交渉にも響いて来るのであるが、この二つのエレメントを、もし彼が善意をもってアウフヘーベンしているものとすれば、その要《かなめ》となるものは、彼の強烈なる愛国心であると言うべきであろうか。
この点、リベラリストの幣原は、もっと国際協調的であり、親米的であった。前述の設立準備会で、松岡が「米国資本のシベリア介入に対して、日本は正面から対抗すべきである」と主張したのに対し、幣原は、「あまりにも戦闘的すぎる」としてこれに反対した。
早くも犬猿の仲となっていた二人はいずれ劣らずにわたりあった。大阪の豪農の家に生れ岩崎の末娘を妻とし、加藤高明の義弟である幣原には、金持けんかせず%Iなところがあった。日本はアメリカと対抗せず、これと協調、追随すべきであるというのが、終生幣原の持論であった。形は変るが、このスタイルは海軍における条約派の山本五十六、米内光政の流派と似ている。そして、結果としてはそれは間違っていなかったと言えよう。
この設立準備会に出席した政財界人のなかで、松岡の能弁ぶりを興味深くみつめている人物が二人いた。一人は後に外相として松岡と対抗するようになる有田八郎、いま一人は後の満鉄社長早川千吉郎であった。早川はこのとき、三井合名の副理事長という財界の要職にあった。松岡に目をつけた早川は、後に満鉄理事として松岡を引っ張り出す形となるのである。
日本軍四個師団がシベリアでもたもたしている間、国内では米騒動が起り、欧州では大戦が終りに近づいていた。
米騒動の結果、野党の政友会が政権をとり、一九一八年(大正七)九月二十九日平民宰相′エ敬が総理となった。
原敬は南部藩家老職の生れで、伊藤博文や、山県のような下級武士の出身ではない。しかし、何といっても戊辰《ぼしん》戦争では朝敵となった東北六藩のなかの雄藩の出である。元老山県としては、政府を東北出身者に渡したくはなかったに違いない。試みに、第一代伊藤博文(長州)以下の総理の出生地を眺めてみると、黒田清隆(薩)、山県(長)、松方正義(薩)、大隈重信(肥)、桂太郎(長)、山本権兵衛(薩)、寺内正毅(長)となっており、薩長藩閥外では、公卿《くげ》出身の西園寺公望一人なのである。
ここに初めて勤王方≠フ藩閥グループでない平民宰相が登場した。そして、前途に待っているものは、国際的難局であった。
一九一七年(大正六)アメリカが参戦してからドイツの旗色は急激に悪くなり、一九一八年十月末、キール軍港で水兵の反乱が起きるころには決定的となり、全国的に革命的気運が高まった。十一月九日カイゼル・ウィルヘルム二世は退位し、ドイツは共和制となった。そして、同年十一月十一日、パリ郊外コンピェーニュの森で休戦条約が調印されることになった。
続いて、第一次世界大戦のバランスシートを仕上げるベルサイユ会議が行われることになった。この会議は対ドイツ条約のみが対象で、一九一九年(大正八)一月十八日に始まり、同年六月二十八日に調印に到っている。
有史以来の国際大会議とあって、アメリカは、大統領ウッドロー・ウィルソン、国務長官ランシング、イギリス=[#「=」はゴシック体]首相ロイド・ジョージ、外相バルフォア、フランス=[#「=」はゴシック体]首相クレマンソー、外相ピション、連合軍最高司令官フォッシュ元帥、イタリア=[#「=」はゴシック体]首相オルランド、外相ソンニー等が出席し、日本からは西園寺公望、牧野伸顕、珍田捨巳が全権として、他に松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(元駐支公使)らが出席した。
松岡は随員の首席兼新聞課長として同行することになり、一九一八年十二月十日、全権とともに横浜から天洋丸でサンフランシスコに向った。
この全権の一行の顔ぶれは多彩であった。
松岡のほかに若手外交官のエリート佐分利貞男、後に牧野伸顕の娘雪子と結婚する吉田茂、木村鋭市、有田八郎、陸軍からは畑俊六、海軍から竹下勇(後大将)、野村吉三郎(太平洋戦争開戦時の駐米大使)、日銀の深井英五(後に総裁)、ジャーナリストとしては黒岩涙香、鈴木文史朗、中野正剛らの顔も見えている。
メンバーは多彩であるが、サンフランシスコに向う船のなかにおける一行の様子は、あまり気勢のあがらぬものであった。というのは、講和条約といっても、日本は青島を攻略し、南洋に軍艦エムデンを追い、あとは地中海に小艦隊を派遣したにとどまる。百三十八万人の戦死者を出し、千三百四十億マルクの戦費を費したフランスや、九十四万の戦死者、二千六百八十億マルクの戦費の英連邦などとはもとでのかけ方が違うのである。
戦勝国の一員とはいっても、首席全権西園寺が本国から受けている訓令は、山東半島(青島を含む)におけるドイツ権益の継承、南洋における領有権の拡張の程度で、大全権団の割には、料理する材料は相手不足の気味があった。
出発する前、松岡は山県を訪れている。その席上、松岡は、最近考えている対欧州干渉論を打ち出した。
「日本は支那及び満蒙における権益を守るべきであるが、それには極東にばかり立て籠《こも》っていては駄目だ。いまや世界は欧米を中心として動きつつある。大なり小なり、欧米と交渉を持ち、かかわり合いを持ってゆくことが必要である。それでなければ、世界の中の日本として門戸を張ってゆくことは難しい。日本はもっと欧米と相わたるべきである」
という持論をぶち上げた。
これに対して、白人恐怖論者の山県は、
「まあ、待て。おれは五十年間日本の政治を預って来た。しかし、まだ日本が欧米に口を出すべきではないと考えている。まず極東を固めろ。そして、欧米から指をさされぬような日本、堅い守りの極東を築き上げよ。これが原則だ。むやみに欧米のことに口をさしはさんで、累を極東に及ぼすな」
と注意した。
これは非常に難しい、重要な論議であるが、結果としては、山県の極東立て籠り論≠ェ消極的ではあるが正しかったと言える。この頃から松岡は欧米という世界≠ノ対して関心と一種の野心――この国際場|裡《り》で自分の弁舌を思う存分ふるってみたいという――を抱いていたが、それが徐々にエクスパンドして、ジュネーブからベルリンへの道を歩むことになったと言っても過言ではなかろう。
この会議で松岡は新聞課長を命ぜられていたので、船上では旧知の中野正剛や、後に朝日新聞編集局長となった鈴木文史朗(筆者はこの人の『新聞記者入門』という本で、新聞記事の書き方を勉強した)らと後甲板で談論風発した。
そのようなとき、デッキを散歩しながら、黙々と彼らの議論に耳を傾けている長身の貴公子がいた。後年松岡と組んで三国同盟を結び、その死に当って「近衛手記」を残し、松岡に開戦の責任の多くを押しつけた後の貴族宰相近衛文麿である。
近衛は、貴族院議長、近衛篤麿の長男に生れ、このとき二十七歳ですでに貴族院議員であった。父の篤麿は、五摂家の筆頭の家に生れ、貴族院議長を勤め、明治三十一年東亜同文会を設立し、その会長となった公卿華族としてはエネルギッシュなナショナリストである。
参考までに東亜同文会の設立趣意書を掲げておこう。(白柳秀湖『近衛家及近衛公』国民新聞出版部刊)
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一、支那を保全す
一、支那及び朝鮮の改善を助成す
一、支那及び朝鮮の時事を討究し実行を期す
一、国論を喚起す
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続いて設立趣意書文があり、「日支の国交は久しく、文化相通じ風教相同じなのに、兄弟相せめぐ時がある。そして、列強は隙に乗ぜんとしている。ここにおいて、両国は相交わるに誠をもってし、互いに助け、同じく盛強を期すべきである」という意味のことが記されている。
東亜同文会が日支友好のための施設ならばそれは結構なことである。(筆者の弟は後に創設された上海の東亜同文書院の卒業生である)しかし、ある派の学者が説を立てる通り、大陸侵略の手がかりであったかも知れない。しかし、同文書院の卒業生がさまざまな形で中国大陸で働いた事は事実である。
参考までに述べておくが、この東亜同文会に一歩先立って、犬養毅らが東亜会を設立していた。東亜会の目的は、「日清両国間の経済関係をいよいよ緊密|且《かつ》鞏固《きようこ》なるものとし、その将来への発展を助長促進して、益々《ますます》両国の繁栄を期する為、まず特殊の教育機関と通信機関とを設けて親善に資すべし」
ということになっていた。
ところが、この経費の補助を約束してくれた大隈内閣が倒れたので、当時同文会を主宰していた近衛篤麿が両者を合して東亜同文会を創立したもので、これは日本の敗戦まで続いている。
このような父の血を受けた近衛の精神構造はいかなるものであったか。
近衛は世界大戦がようやく終りを告げた大正七年の十一月三日、当時の国粋主義の雑誌、「日本及日本人」に「英米本位の和平主義を排す」という論文を発表している。
三輪公忠『松岡洋右』によってその大意を紹介してみると、
「民主主義、人道主義といっても、その基づく所は人間の平等感である。これを国内的に見れば民権自由論となり、国際的に見れば各国民平等生存権の主張となる。
吾人は英米本位の考えを排し、日本人本位に考えざるを得ない。日本人の正当なる生存権を確認し、この権利に対し、不当不正なる圧迫となるものがある場合には、あくまでもこれと争うべきである。正義人道と人道主義は必ずしも合致せず。吾人は人道の為に将《まさ》に平和を捨てざるべからず。(筆者注、昭和十二年、「蒋介石《しようかいせき》を相手にせず」と宣言したときの近衛を連想させる)
欧州戦乱は既成の強国と未成の強国との争いである。現状維持派と現状破壊派の争いである。平和主義なるが故に正義人道に叶《かな》うに非ず、軍国主義なるが故に正義人道に反するに非ず。(筆者注、このような精神構造が、支那事変当時まで持続していたのであろうか?)」
次に彼は当時ウィルソンが主張していた国際平和聯盟(国際聯盟として一九二〇年成立)を痛烈に批判している。
「ドイツと同じく現状打破を唱えるべき日本人でありながら、英米本位の平和主義にかぶれ、国際平和聯盟を天来の福音の如く渇仰する態度あるは、実に卑屈千万にして、正義人道より見て蛇蝎視《だかつし》すべきものなり」
「この聯盟によって最も得をするものは英米で、他の国々には正義人道の美名に誘われて仲間入りしながら何ら得る所はない。もし、来るべき講和会議において日本が国際聯盟に加入するとすれば、まず、先決問題として次の二点を主張すべきである。一は経済的帝国主義の排斥であり、二は黄色人種白色人種差別の撤廃である。世界各国はドイツの軍国主義を圧服したことによって安堵《あんど》を感じているが、それは尚早である。世界は戦乱からはようやく脱却し得たけれども、世界国民の平等を脅すものは、単に武力のみではない。その他にも平等を損わんと企画する輩《やから》はいるのである」
この若き日の近衛の意見を読むと、意外に感じる人もいるかも知れない。
昭和十二年近衛文麿が青年宰相として登場したときは、蒼白《あおじろ》きインテリであるとともに、「平和を愛好するお公卿さん」であると考えた人が多かったと聞く。当時海軍兵学校一年生であった筆者も何となく、近衛は和平論者であり、ある意味では戦時の宰相としては心もとないのではないかと感じたことがある。それはくわしいことを知っての考えではなく、ただその風采《ふうさい》と一部の風評によるものである。
しかし、実際は近衛は大正七年にすでに以上のような考えを明らかにしており、この考えは、日中戦争の進行とともに対英米的にも明らかになってゆくのである。大正七年に有色人種の差別に抗議した近衛が、なぜ、昭和十二年に「以後、蒋介石を相手にせず」という声明を発したか、その理由の解明は、いまは後回しにするとして、不思議なのは、松岡の満州事変から国際聯盟脱退における言動がこの近衛の論文とある程度併行していることである。三輪公忠氏は近衛論文は日独伊三国同盟、日ソ中立条約を締結したときの松岡の精神構造と深い関係をもっていると指摘しているが、これは筆者にもうなずける。但し、大正七年の近衛論文がどうして二十年後の松岡外交に影響を及ぼしたのであるか。第一、松岡がこの論文を読んだかどうかすらもわからない。
しかし、両者の間には、先天的に類似した精神構造が形成されていたのではないだろうか。五摂家の筆頭で、関白の家柄に生れた近衛と、名家の倅《せがれ》ではあるが没落して、アメリカで皿洗いをしていた松岡とが、同質のナショナリスティックな考えを抱くというのは、不思議な暗合といえばいえるのであるが、この時代の世界的特色と流れのなかにおかれた日本の位置を知る一つの鍵《かぎ》があるのではなかろうか。
何はともあれ、横浜からサンフランシスコに向う天洋丸の船上でくしくも顔を合わせた三十八歳の松岡と二十七歳の近衛が何らかの話をしたことは間違いあるまい。そして、当時の二人の思考法として、大いに意気投合したとみても考えすぎではなかろう。しかし、二十年後に、同じ閣僚として祖国の大事に参画し、ついに国を敗戦に導く路線にそろって身をおくことになろうとは、二人とも想像していなかったであろう。まして、近衛が死に際して残した「近衛手記」が、松岡に戦争開始の多くの責任を押しつけることになろうとは……である。
近衛と松岡が共通した民族主義的思想を持つに至った原因について、三輪氏は、新渡戸稲造《にとべいなぞう》と孫文の二人をあげている。
新渡戸はキリスト教徒で社会主義者であったが、皇室中心主義者でもあり、総合的人間像として言えば、教養主義者であり、本音としては一種のディレッタントであった。
この点、近衛が思想家たり、政治家たらんとして、結局政治的ディレッタントに終ったのに似ている。近衛が一高に入ったとき、新渡戸は校長であり、当時の国際教養主義的学生の憧《あこが》れの的であった。
新渡戸が世間的に最もよく知られている業績は、札幌農学校教授として北海道にアメリカ式の大農場式経営法を導入し、成功せしめたことであろう。(新渡戸は有名な「少年よ大志を抱け」の言葉を残した札幌農学校教授ウィリアム・クラークの門下生である)
新渡戸は南部藩勘定奉行の息子として盛岡に生れ、農博、法博の学位を持ち、農学者であり、教育家であり、文明批評家であり、また植民政策の専門家であった。
アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学に学んだ彼は米国女性を妻とした親米家であり、さらにドイツにも学び、国際的教養人として高く評価されていた。しかし、その反面、『武士道』『東西相触れて』などを著わし、日本人の精神構造を海外に紹介することも忘れなかった。
新渡戸は青年時代太平洋の橋≠ニならんという志を抱いたという。皇室中心主義と社会主義とを内に蔵しながら、国際協調主義によって、世界平和の使徒≠スらんとしたのであろうか。
新渡戸を松岡がどのように評価していたかは資料がない。しかし、若干の縁はないとは言えない。新渡戸は一九一九年(大正八)創設されたばかりの国際聯盟事務局の次長に推され、二六年(大正十五)辞任するまでまとめ役として活躍した。従って、一九三三年(昭和八)二月、松岡が国際聯盟脱退の演説をぶったときは非常に残念がったと思われる。この年、新渡戸はアメリカ講演に招かれ、十月十五日、カナダのビクトリア市で客死している。
三輪氏は新渡戸の影響を近衛がどのように受けたかについて、次のように書いている。
「国内における階級の問題は民族の問題に吸収され、国際社会における民族間の階級問題へと認識変えさせられて行ったかに見える。そのとき、国内のもろもろの対立、抗争は、一君万民的な平等思想によって解消せられ、理想の天皇国家を目標にすえることになる。これが近衛が昭和十五年に松岡を外相として第二次近衛内閣を組閣した時、その大衆との接点として松岡等と組織し、みずからその総裁におさまった大日本大政翼賛会の思想であったし、その思想の中核にあったのは和の精神であった」
そして、日本の政治的伝統における「和」の意義を欧米の議会民主主義の伝統と比べて重く評価したのは、新渡戸であり、松岡であると、三輪氏は主張する。
三輪氏はさらに孫文の大アジア主義が近衛と松岡の接点であると主張しているが、これについてはすでにある程度述べたので省略したい。
近衛は東大、京大に学び、各種の思想を転々としているので、複雑な精神内容を抱いていたことは事実であり、その解剖は後章に待たねばならぬが、この項で三輪氏が早くも次のような結論じみたものを打ち出している点に注目したい。
「近衛が掲げた『東亜新秩序』というような一種危険な人種主義的響きをもった国策を、松岡は、日独提携と結びつけることによって、一挙に人種主義的には無害な同盟関係に変えてしまっていたといえようか。近衛がともすれば理想主義者として、国際的な社会主義的革命を指向しているかに見えたとき、松岡は米英のような国々の国民にも比較的理解し易い納得し易い、国家的利益を追求する国家間の同盟関係に置きかえてみたのだ、とはいえまいか」
先にも述べた通り、ベルサイユ会議は一九一九年(大正八)一月十八日開会され、同年六月二十八日に調印に至っている。そしてこの結果、翌一九二〇年(筆者の生れた年)は、松岡と切っても切れぬ縁の国際聯盟が発足しているのである。
松岡は会議の期間中新聞課長として一人活躍をした。というのは、日本の全権団はドイツに対して率先して要求案を出すことをはばかり、サイレント・パートナー≠ニいう有難くない呼び名を頂戴したほどであるが、松岡だけは大いにしゃべりまくった。但し、議事の内容について秘密にわたることは内外新聞記者団に洩らさぬよう牧野伸顕から釘《くぎ》を刺されていたので、これが大いに不満であった。
松岡はホテル・ブリストルを宿舎とし、パリ大使館の若い書記官たちともボルドーのワインを痛飲した。
当時、パリ大使館には、松井慶四郎大使(後、清浦内閣の外相、貴族院議員、枢密顧問官)の下に、芦田均(後総理)、沢田廉三(後国連大使)などがいた。
松岡はこの会議で二人の人物に注目していた。一人はフランス首相クレマンソーで、八十歳にして、矍鑠《かくしやく》として議場をリードしていた。この点、松岡はクレマンソーより若い西園寺侯(当時)が、一種のロボットとなり、主観的な発言をしないのにもどかしさを感じていた。
いま一人は、アメリカのウィルソンであった。ウィルソンは民族自決主義と、世界の恒久和平のため国際平和聯盟を提唱するベルサイユ会議の中心人物で、ベルサイユ会議に先立って、一九一八年一月八日、アメリカ議会への教書の形で「戦争目的に関する十四条」を発表していた。
それは次の通りである。
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一、平和条約は秘密裡に作られてはならず、公開されなければならない。規約が作られたあとはいかなる国際的秘密協定もあってはならない。
二、平時戦時を問わず、領海外の公海においては絶対的な航行の自由が確立されねばならない。
三、すべての経済的障壁は出来る限り除去されねばならない。
四、国家の軍備は国家の安全に必要とされる最小限度にまで縮小されるという保障が相互になされねばならない。
五、すべての植民地要求の公平な調整、この際当該植民地住民の利益が、主権を行使すべき政府の公正な要求と平等の比重を持つべきである。
六、外国軍隊のロシアからの撤退、ロシア自身の政治的発展と、その国策をロシア人自身に自由に決定させるために、世界の国々が協力すべきである。
七、ベルギーの回復。
八、アルザス、ロレーヌのフランスへの還付。
九、民族性にのっとったイタリア、オーストリア国境の調整。
十、オーストリア・ハンガリー帝国内の諸民族の自決。
十一、ルーマニア、セルビア、モンテネグロからの撤兵、セルビアには海への出口が保障され、バルカン諸国間には民族性に基づいた公正なる関係が樹立されねばならない。
十二、トルコ領内の異民族には、生命の保障と自由な自治発展の機会が与えられねばならない。
十三、ポーランドは独立国家となり、かつ海への出口が保障されなければならない。
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十四、大国と小国たるとを問わず、政治的独立と領土保全の相互保障を行う目的のために、諸国家の連合組織が特別の規約のもとに形成されねばならない。
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このうち最も重要な提案は最後の諸国家の連合組織である。松岡を始め、この十四条を読んだ日本の外交官は、ウィルソンをあまりにも理想主義者であると認めないわけにはゆかなかった。
民族自決や植民地住民の利益向上も結構であるが、領土的野心に燃える列強がすんなり了承するであろうか。
果して、半年間にわたるベルサイユ会議は、もみにもんだ。
当時、最大の問題はドイツの処遇であった。ドイツが全植民地を失い、アルザス、ロレーヌの二州をフランスに返還し、ポーランドにポーゼン、西プロイセン二州を割譲することは当然であったが、二年以内に二百億マルクという戦費賠償は到底敗戦国の負担し得ぬところであった。しかも、これで終りではなく、総額はついに千三百二十億マルクという数字となるのである。
また、ドイツの軍備制限もきびしいものであった。陸軍十万、海軍一万五千、軍用飛行機、徴兵制度の禁止等で、これらは後にヒトラーによって簡単に破りすてられるものである。
さらにドイツはラインの左岸、および右岸五十キロ地帯の武装を禁止せしめられた。連合軍はドイツの賠償等義務履行の保障として、ライン左岸と、ケルン、コブレンツ、マインツに駐兵することとなった。
また、ベルサイユ会議では、後世からみて興味ある一章が討議されている。それは戦争犯罪の問題である。会議は「戦争開始を国際的道徳に対する最高の罪」として、責任者ウィルヘルム二世を連合国の軍事法廷に出頭せしめることを提案し、さらに「戦争中の残虐行為の罪」に対しても責任者の提供を要請した。
これらは従来の国際法には例がなく、結局実行されなかったが、二十六年後の太平洋戦争終結時、実行に移され、ニュールンベルグ、東京等で裁判が行われたのは周知の事実である。
会議中もっとも戦闘的であったのは、当然フランスであり、クレマンソーは、四十八年前、普仏戦争におけるフランスの降服に言及し、今次の条約を第二のベルサイユ条約と呼んだ。そして、第二のベルサイユ条約は、第一のベルサイユ条約と同じベルサイユ宮殿鏡の間で調印されたのである。
この間、日本は旧ドイツ領の南洋群島の委任統治を依頼されたほか、山東半島におけるドイツ利権継承を主張し、ほぼ全面的に容《い》れられたかに見えたが、ここに一人の伏兵が登場し、山東問題で反撃を受けた。
その人の名は顧維鈞《こいきん》。後年ジュネーブにおいて、松岡と丁々発止わたり合う宿命をもつ中華民国切っての若手外交官である。彼は松岡より八歳年下でこのときようやく三十一歳である。彼は江蘇省の富豪の家に生れ、コロンビア大学を卒業、アメリカ公使を経てベルサイユ会議にのぞんだもので、その英語力は松岡をしのぐものであった。彼はこの後ワシントン会議の全権、外交総長、国務総理となり、一九三二年にはリットン調査団の中国側委員となり、後国際聯盟代表、英米仏の大使を歴任、中国一の外交官であり欧米通であるという評判が高かった。
顧維鈞は、ベルサイユ会議において、山東半島の返還と、二十一カ条の破棄を繰り返し要求し、列強に訴え、その同情を惹《ひ》いた。
これに対して、日本側は山東半島における利権はいったん日本が領有し、その後、中国に返還することを返答した。顧はなおも直接返還を主張したが、日本は一応これを領有し、一九二二年(大正十一)青島を中心とする利権を中国に返還している。
山東問題は、一時日本側も顧の態度を生意気であるとして、全権団引き揚げをほのめかした。これは効果があったが、それについて、『人間松岡の全貌』には松岡・スオープ会談がのっているので紹介しておこう。
ベ会議で真っ先に憤慨して席を立って引き揚げたのはイタリア代表団であった。ウィルソンはイタリアがユーゴスラビアにフィウメ(現地名リエーカ)を譲ることを勧告し、イタリア代表団は怒って退場してしまったのである。
日本もこれにならって、全権団引き揚げをほのめかすことにした。
当時松岡の新聞課には、鈴木文史朗のほかに近江《おうみ》谷駒《やこまき》がいた。近江谷はペンネームを小牧近江と言い、当時からマルキストで後に金子洋文らと「種蒔《たねま》く人」を創刊、日本プロレタリア文学運動草創期に活躍し、文芸戦線派の文士として知られるほか、戦後は中央労働学院長、法大教授なども勤めている。
彼は衆議院議員であった父に伴われて渡仏、パリ法科大学を卒業、バルビュスのクラルテ運動、コミンテルン活動等に参加していたところ、ベルサイユ会議が始まったので新聞課員として傭《やと》われたものである。
イタリア代表団の引き揚げを聞くと、松岡は直ちにモンパルナス駅に近江谷をやって事実を確認させ、対策を練った。
大衆にアピールすることを外交の必須課目と考えている松岡はここでもパブリシティを狙った。
彼は朝日の鈴木文史朗を呼ぶと尋ねた。
「いまパリに来ているアメリカの新聞記者で、一番有力なのは誰かね」
鈴木はちょっと首をひねると、
「そいつはニューヨーク・ワールドのスオープ記者だろうね」
と答えた。
ニューヨーク・ワールド紙は当時アメリカ一の新聞であり、編集長のスオープは、ウィルソンとも親しかった。
「よし、スオープと一杯やりながら話をつけよう。君、一席設けてくれたまえ」
そこで松岡とスオープは、オペラ座近くのレストランの奥の一室で会うことになった。この時、松岡は胸に一策を抱いていた。
スオープはアメリカ・ジャーナリスト界切っての弁論家であり、この点松岡とよい相手であった。
二人は滔々《とうとう》と国際情勢を批判し、ウィルソンを語り、クレマンソーを語り、ロイド・ジョージを語った。
いずれ、イタリア代表団の引き揚げと、山東半島問題が出て来るだろう、とスオープは期待していた。そして、その際、このオレゴン大学出身のぶち屋の松岡に利用されないよう気をつけなければいけない、とスオープは警戒していた。
しかし、オードブル、スープ、ソールのムニエル、シャトーブリアン・ステーキと定法通り進み、デザートになっても、松岡は山東問題のサの字も口に出さない。
今度はスオープが焦って来た。一体、松岡は何のために自分を招待したのだろう?
また、同席した鈴木文史朗も、「こりゃあ、さすがの松岡も口を出す機会を逸したかな?」と冷や冷やしていた。
やがてコーヒーが終ると、スオープは、
「いや、ミスター・マツオカ。うまい料理を有難う」
と礼を言って立ち上った。
スオープは葉巻をくゆらしながら、給仕人に手伝わせて、オーバーを着始めた。このとき、はじめて彼は本日最大の謎《なぞ》に言及した。
「ミスター・マツオカ。君は山東問題について何も語らないが、日本は一体どうするつもりかね?」
すると松岡はさもわずらわしげに、
「ミスター・スオープ。なぜ今頃そんなことを訊《き》くのだ。その件については、われわれは決定済みなのだ」
と答えた。
「決定済み? そりゃあ、どういうことだ?」
スオープは、思わず葉巻を唇から放した。
「つまり、山東問題に関しては、我々は非常に不満を持ち、明日にでも引き揚げる用意が出来ている。大体、日本は英仏二大連合国との紳士的な約束によって参戦したのだ。最小限の要求さえも入れられないで面目が立つと思うかね。支那の顧維鈞がいろいろ抗弁するが、支那は連合国とはいっても、口先だけで一兵も動かしてはいない。はっきり申し上げる。日本の全権団は明日中に引き揚げる。それでお別れにアメリカ記者団と一献傾けた次第だ」
「なるほど、こいつは一大事だ」
スオープは葉巻を揉《も》み消すと、急いで車に乗り宿舎に帰ってタイプライターに向った。
このとき、奇妙なことが起った。
スオープはニューヨークの本社にこのスクープを打電した。しかし、ニューヨークにあったフランスの通信社がこのスクープを探知し、逆にパリに打電した。従って、翌日のパリの新聞には、
「日本全権団は、山東問題の主張通らざる時は即時本国に引き揚げるべく、すでに荷造りを完了せり」
という記事がでかでかとのったのである。
これで会議の様子ががらりと変った。さすがの顧維鈞の弁舌も、日本代表の決意には勝てず、山東問題は日本の主張が通った。
ここで狐につままれたような表情を示したのは、当の日本全権たちである。
首席代表の西園寺は、牧野伸顕や珍田捨巳を呼んで訊いた。
「わしは帰るなどとは一言も言ってはおらぬが、パリの新聞は何を書いておるのかね?」
そこで牧野伸顕が事情を調べて、松岡の腹芸であったことを西園寺に報告した。
「ううむ、あのアメリカで皿洗いをしていた男か。なかなかやるじゃないか」
西園寺は松岡を認め、牧野も松岡の外交手腕を高く評価するようになったのである。
『人と生涯』には、パリ当時の松岡に関するさまざまなエピソードが出ている。
日本は山東問題で一応主張を通したものの、これによって中国の反日姿勢が強まるのを松岡は恐れていた。
「この際、必ず山東半島は近い将来日本の手から中国に返す旨の声明書を出すべきだ。それが国際信義というものだ」
と松岡は主張した。彼は後世言われるような侵略主義ではなく、「和《あまない》」を重んずる外交官であった。
しかし、一般随員はそれを渋った。そんなことを声明して、実現出来なかったらどうする? というのである。
松岡は止《や》むを得ず、西園寺侯の部屋をノックした。
「何かね、松岡君」
西園寺は、また松岡が何かをやらかしたな、と考えながら、この能弁家を招じ入れた。
「全権! 実はこういう事情でありますが、ここは声明を出して、中国側の態度を軟化させておいた方がよいと思います。我々は和平を求めに来たので、戦いを求めに来たのではないはずです」
松岡は熱心に西園寺を説いた。
「よろしい、わかった。わしが話そう」
こうして鶴の一声で、松岡案の声明書が新聞記者団に発表され、中国側も収まったのである。
この原文は後に駐米大使となる斎藤博が書いたのであるが、松岡の名前が、ヨースケでなくて、ヨーサケとミスプリントになっていた。新聞課では、課長はヨーサケを呑むからヨーサケでよかろうと冗談を言って、そのまま配布してしまった。松岡は得意になって声明文がのった新聞を読んでいたが、ついに自分の名前が誤植されていることには気がつかなかった。
近江谷駒すなわち後の小牧近江は、外務省のエリート佐分利貞男の依頼で全権団で働くことになったのであるが、彼の著書『ある現代史』によると、松岡はよく競馬に行ったらしい。日曜日になるとロンシャンの競馬場に近江谷を引っ張り出す。松岡は慎重に馬を調べて賭《か》けるのだが、初歩の近江谷の方がよく的中する。負けた松岡は近江谷から金を借りる始末である。それでも大穴をあてると得々としてモンマルトルあたりに呑みに連れて行ったらしい。
またウィルソンの主張した人種差別撤廃論にも、松岡は活躍をした。
ウィルソンは世界恒久平和のため国際聯盟設置を主唱し、それと併行して人種差別撤廃を主張していたが、いざこれを決定案としてコンクリートにするには彼自身の内部にこだわりがあった。
この人種差別撤廃案が上程されたのは、会議も終り近い五月中旬であったが、表決の結果は、賛成十一、反対五でまさに世界の人種差別撤廃という美挙が成就されるかに見えた。これが本当に実施されていたら、世界の歴史も何ほどか変ったかもわからない。しかしウィルソン自身、アメリカ国内における黒人に対する差別撤廃の自信がなかった。またアフリカ、インドに大きな領土をもつイギリス、アルジェリアやサハラを持つフランス、蘭領インド(インドネシア)を領有するオランダなど、白人の主な国はすべてこの案に反対であった。彼らは口では世界平和、人種平等を唱えながら、現実には過去の植民主義、帝国主義から脱却することが出来なかった。彼らが植民地を捨てることは、すなわち、彼らが小さな本国のみに閉じこもり、世界の強国であることを放棄することを意味したのである。
そこで、議長席にあったウィルソンは、
「このような重要な問題は、全参加国満場一致でなければ採択し兼ねる」
と可決を渋った。
果然、議場は紛糾した。
有色人種国対白色人種国の間に激しい論争が予想された。しかし、ウィルソンの懸命な慰撫《いぶ》で、ようやく収まった。
要するにこの会議はドイツからいかに報償を得るかということが主議題であり、人種問題までには手が届かなかったとみてよかろう。
このとき、松岡は最初、人種差別撤廃論の西園寺や牧野を支持した。しかし、途中からウィルソンと同調して、この案を流案とする方に力を入れている。つまり、山東問題が再燃することを恐れたのである。
当時、一等書記官としてパリにあった木村鋭市の『世界大戦と外交』によると、このとき、長老の全権たちは、この条項が入れられなければ、会議から退席するという強硬な態度を示した。彼らは明治維新以来、欧米諸国の治外法権に苦汁をなめて来たのである。この際、黄色人種に白人と同等の権利を与えてやりたいと考えるのも無理からぬところであった。
しかし、松岡、佐分利、吉田茂、木村鋭市、有田八郎、重光|葵《まもる》ら少壮派はこれに反対した。彼らの大部分は支那に勤務した経験を持っていた。支那における利権を失いたくないならば、軽々に人種平等論に賛成票を投ずべきではない、というのが彼等の多数意見となって来た。
もし、本当に(あり得ないことではあるが……)英、米、仏が上海や天津などの租界を撤収するならば、日本は満鉄を支那に返さなければならぬであろう。それでは発展しつつある日本の生命線は失われ、日清日露で流された将兵の血は烏有《うゆう》に帰してしまうのである。
アメリカで育って、黒人の被差別状況を熟知し自分も差別された経験をもっている松岡であったが、ここは祖国の利権保全のために、自己の信念を曲げたのであった。
結局、松岡と斎藤博が徹夜で、人種問題撤去案を書きあげ本会議に提出し、人種問題はヤミに葬られ、日本をも含めて有色人種国は苦汁をなめたのである。
大川三郎『巨豪・松岡洋右』にはまた別のエピソードが出ている。
六月二十八日、いよいよベルサイユ宮殿で条約が調印される日のことである。連合国側から出された条約文を見たドイツ代表は涙を流し、
「この条約はあまりにも過酷である。これでは過去六年間戦場で血を流したドイツの勇士たちに合わせる顔がない。ドイツ帝国軍人としてこの条約に調印することは出来ません」
と泣きながら席を立った。
議場は騒然となった。しかし、このとき廊下へ出た松岡は平然と言い切った。
「ドイツ軍人としては、戦死した部下の手前ああいうほかあるまい。しかし、ここでドイツが講和を蹴《け》れば、ドイツ全土は連合軍の軍靴《ぐんか》に蹴散らされ、首都ベルリンで城下の盟《ちか》いを結ぶこととなる。ドイツはきっと考え直して別の代表を出すだろう」
この松岡の断言を聞いて驚いた人々のなかに近衛がいた。若い近衛は松岡の自信に驚きかつ危険なものを感じた。この男は予測が当れば英雄になるが、外れたら大事を引き起すのではないか? 近衛はそのように懸念したのである。
しかしながら、ドイツ側は考慮の末、あらためて別の代表を出し、連合国の条約を呑んだので、近衛は松岡の先見の明に感服した。
以上は『巨豪・松岡洋右』にある記述であるが、ドイツが初めに軍人の代表を出したかどうかについては、筆者の手元に資料がない。林健太郎『二つの大戦の谷間』には、ドイツの首席全権は新内閣の外相ヘルマン・ミュラーであったと記載してあるだけである。ドイツ代表団に高級軍人がいて、一旦は条約を忌避したが、後にヘルマン・ミュラーが代表として調印したのかどうか明白ではない。ただ、この会議中、松岡と若き日の近衛がある程度親密を深めたことは想像出来よう。
ついでに言えば、ベルサイユ宮殿は、一八七一年一月十八日、普仏戦争に勝ったプロシャがドイツの諸君主を一堂に集めて帝国創建の式を行った場所であり、また六月二十八日は、一九一四年サラエボにおいてオーストリア皇太子フェルジナンドが射殺された日で、第一次大戦は、口火を切った日から満五カ年で終止符を打ったと言えるのである。
また、前述の通り、ベルサイユ条約は連合国とドイツ一国との間に結ばれたもので、他の敗戦国との間には左のような講和条約が結ばれている。
対オーストリア=[#「=」はゴシック体]サンジェルマン条約(一九一九・九・一〇調印)、対ブルガリア=[#「=」はゴシック体]ヌイー条約(一九一九・一一・二七)、対ハンガリー=[#「=」はゴシック体]トリアノン条約(一九二〇・六・四)、対トルコ=[#「=」はゴシック体]セーブル条約(一九二〇・八・一〇)。
一九一九年夏、ベルサイユ会議も無事?に終ったので、日本の全権団は帰り仕度を始めた。
あとしばらくでパリを去るという日、ホテルのロビーで松岡は牧野や珍田に会った。
「いやあ、松岡君、これで本国に大きな顔が出来るとみなごきげんだよ」
牧野がそう言って、新聞課長の労をねぎらった。
「いえ、お役に立ちませんで……。実は、私はこれをしおに外交官をやめようと考えております」
と松岡は答えた。
「やめる? そりゃまたどうして?」
外交畑の先輩である珍田男爵がそう問い返した。
これに対して、松岡は率直に自分の感懐を述べた。
「まず、何でも命令で統制してタテの筋ばかりを大切にする外務省の官僚機構というものが私に合わないのです。外務省に限らず、私のような野人は、どの官庁へ行ってもはみ出してしまうでしょう。それに、このベルサイユ会議でみておりますと、ウィルソンにしろクレマンソーにしろ、ロイド・ジョージにしろ、外交官出身者ではありません。私はすぐれた外交官はすぐれた政治家である必要があると思います」
「ふうむ、では君は政治家になりたいというのか」
「いずれはそうなって、邦家のために尽したいと考えております。その前にもっと世間を勉強するため、外務省を去りたいと考えるのです」
「そうか、しかし、君ほどの敏腕家を外務省がほってはおくまい。何とか思いとどまって、外務省でご奉公してはどうかね」
両全権はこもごも松岡を引きとめたが、まだ松岡は本当に外務省をやめるとは考えていなかった。松岡はすでに勤続十七年、高等官三等で近く勅任官になることが目の前にぶらさがっている。普通の人間なら、ここでやめるということはないはずである。
松岡が本当に外務省をやめて満鉄に入ったのは、一九二一年(大正十)七月のことであった。
松岡の本音は、もっと大物になって好きなことをやりたいという所にあったかも知れない。パリの会議でみていると、外交官などは全権の小使役である。どうせなるなら全権になって、世界を動かすような外交をやってみたいと彼は考えるようになっていた。
その意味で、ベルサイユの経験が、後に彼をヒトラー、スターリンと対等に話の出来る大外交官に仕立て上げた、という論理も成り立つのではないか。
後に一九三二年(昭和七)十二月、ジュネーブから朝日新聞に書き送った一文の中で、彼は次のように述べている。
「今度の闘いは我々だけの闘いではない。わが日本帝国の、全国民の闘いだ。そしてそれは日本の生か死かの闘いである。キリストが一番憎んだのは偽善だ。我々日本人が一番嫌いなものもこの偽善だ。真に平和を念願する正直な外交は歓迎するが、世にいわゆる外交というものは吾輩は若い時から大嫌いだ。もしこの世界にいわゆる外交なるものがなかったならば、世界はもっと平和であり、人類はもっと幸福だったろう。これ先年吾輩が外交官をやめた少なくとも一つの理由なのである」
松岡が本当に外交が大嫌いであったのかどうかについては一考の余地がある。むしろ、ディスカッションによって、国際間のバランス・オブ・パワーを調節することは得意であったのではないか。但し、彼はその人柄として裏で策を弄《ろう》することを嫌った。これは伊藤博文や井上|馨《かおる》、山県有朋など長州人の先輩の政策とくらべると、肌合いが異るようだ。
彼は秘密官僚外交を女性的術策として極度にきらい、フランク・トーキングを男性的な処理法として好んだ。外国語も出来たし、生れつき能弁であったのだ。
先ほどの朝日での一文では、彼は外交を偽善の一種のように書いているが、全面的にそう考えていたとは思えない。彼なりの誠意を尽すフランクな外交ならば、望むところであったのではないか。
そのような彼のキャラクターとテンデンシーが、彼をジュネーブ国際聯盟会議場での、孤独なヒーロー≠スらしめたのではなかろうか。
ともあれ、彼が官僚外交官をやめる決意をしてから、ジュネーブで世界を動かす¢蜉O交官となるまでにはなお十四年間の歳月を必要としたのである。
さて、松岡が現実に外務省をやめるまでには二、三の仕事があった。
一つはこの年(一九一九年)十二月、福州事件処理のため出張を命ぜられたことである。
この年五月山東省問題と二十一カ条問題に反対を唱える抗日中国人による排日運動、いわゆる五・四運動が始まっていた。
そして、七月十九日、長春のすぐ北の寛城子《かんじようし》という町で、中国軍と日本軍守備隊が衝突、双方三十名前後の死傷者を出し、さらに十一月十六日福州事件が起った。
福州は上海の南方、福建省の省都である。ここに天田洋行という日本人の商社が進出していた。日本側の発表では「この日、同社の雇った苦力《クーリー》が排日中国学生の為《ため》に暴行を受け乱闘となり、双方数名の負傷者を出した」となっている。
中国側の発表では「十六日、福州に居住する日本国籍台湾人六、七十名が棍棒《こんぼう》、短銃を携え中国人の青年会学生及び市民を殴打した。中国警察署がおさえようとしたところ、該日本人は短銃を乱射し、警官一名は身に四発の銃弾を受けて倒れ、学生や市民も負傷した。そこで中国軍隊二個大隊が出兵し、凶犯十名を逮捕した」となっている。
当時の外相内田康哉が調査したところでは、どうも日本側が先に手を出したらしい、ということになった。
そこで、松岡書記官が調査に派遣されることになった。
外務省の官僚主義に信をおかない松岡は、例の直接大物主義で、出発に先立ち、十二月八日首相の原敬に会った。
原敬は「日本に不利に取り計らってはいかんが、何でも力をもって支那側を圧服するようなことなく、将来のため公正な態度で処理するように」と訓示した。
松岡は心得て「調査とともに解決も心がけて来ます」と返答して南支に出発した。
十二月十八日、松岡が福州に着いてみると、すでに日本海軍の砲艦・嵯峨《さが》、駆逐艦・桜、橘《たちばな》が港内で軍艦旗をひるがえしている。邦人保護のため日本領事が招請したものである。
これをみた松岡はまずいと思った。まず武力をひけらかすというのは、公正なる平和解決の道ではない。幸い、福州の治安は回復しているので、彼は軍艦の退去を本省あて申請した。
続いて、事実を調査したところ、やはり日本人側が挑発したものであることがわかったので、謝罪と慰謝料を支払うことで中国外交部と話を決めた。この点、松岡は決して軍部と組んで侵略を事とした一介のファッショ的外交官でないことがわかる。
但し、このとき彼が気づいたのはアメリカの隠微な動きであった。事件直後、排日大会が開かれたとき、アメリカ総領事が大会支持のアジ演説をぶっているのである。けだし、アメリカは福州に食指を伸ばし、ここに海軍の貯炭所を設けようとしたことがあった。そこで、ここで日本を排斥し、中国に恩を売ろうと企図したものである。警戒すべきはアメリカである、と松岡はこの旨を本省に報告し、自分も肝に銘じた。ドイツが極東から手を引いた後に出て来るのは、英仏と並んでアメリカだな、と彼は観測した。
事件が片づいたので翌一九二〇年(大正九)二月、松岡は福州を出発して東京に帰った。
この年、大正九年四月一日、松岡は外務省情報部第二課長(内命)を命ぜられている。この二週間前、三月十四日に筆者が満州の四平街という町で生れている。松岡は筆者よりちょうど四十歳年長で、生きておれば九十九歳(昭和五十四年現在)のはずである。
情報部長は、以前、松岡が北京で勤務した頃の駐支公使伊集院彦吉。松岡は欧米方面を担当し、部下には後にファッショの外交官として知られた白鳥敏夫(三国同盟当時の駐伊大使)や先述の仏文学者近江谷駒などがいた。情報部といってもスパイの親方をやるわけではない。ベルサイユ会議以降の国際情勢にかんがみ、「情報を収集し、これを国民大衆に知らせて、政府の所信を知ってもらう事務局」程度のものということになっていた。
なぜいまごろこんなものが出来たかというと、当時の陸相田中義一が、世論の喚起、対外宣伝の必要を考えて、陸軍の予算五百万円を割いて外務省に、出先機関的に作らしめたものである。
しかしこの頃、松岡は仕事に対する情熱を失っていた。外務省をやめ、しばらく静観してみたい、と彼は切望していた。先述の理由で、これ以上外務官僚として出世しても、自分にとっては無意味であると考えていたのである。
在任一カ月そこそこで、彼は辞表を出し、室積浦の実家へ帰り、久方ぶりに母や姉と暮し始めた。母のゆうはいたく喜んで、息子の背中を流した。
松岡が辞表を出した理由は「病気のため」となっている。おそらくは軽い胸部疾患を理由にしたものであろう。
室積浦二百三十一番地の海の見える浴場で、息子の背中を流してやりながら、母のゆうが、
「洋右は病気休養じゃというが、背中の肉づきなんどはこりんこりんして、とても病気とは見えんぞな。どがいしてご奉公を怠けて郷里へ帰って来たんぞな」
と訊いた。
「役人がいやになった。もっとでっかいことを考えとるんじゃ」
と洋右は答えた。
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五章 満鉄時代
松岡のいうでっかいこと≠ヘ向うからやってきた。
松岡は、一九二〇年(大正九)五月間島(満鮮国境の北)総領事を命ぜられたが、「但文書のみ」で赴任はしなかった。
同年同月、彼は高等官二等、正五位に叙せられた。この年七月、次男洋二出生。そして勲三等|旭日《きよくじつ》中綬章を受けている。
この頃、世界の動きはポスト・ベルサイユとしてはかなり慌しいようであった。
一月、国際聯盟が正式に成立したが、主唱国のアメリカはついに参加出来なかった。
二月、ドイツではヒトラーの国粋社会党が結成された。
後年顔を合わせるべき両巨頭≠フうち、一人は新党結成によって再生ドイツの振興に情熱を燃やし、一人は瀬戸内海の片すみで老母に背中を流させているのは、面白いコントラストである。
三月、尼港事件が起り、ニコライエフスクでパルチザンのために日本人が多く殺された。一方、経済界では、第一次大戦の好況が終ったため、大恐慌が起り、株式が大暴落した。
七月、日本海軍は八八艦隊の建造計画を発表した。ベルサイユ条約や国際聯盟は、民族自立や和平を約束はしたが、軍備の制限をうたってはいない。戦勝国たる英米日仏伊の五大国は、次の大戦?を予知したのか、一斉に建艦競争におどりこんだ。
なかでも、日本の熱中ぶりはものすごく、三万五千トンの超弩級《ちようどきゆう》戦艦八隻、三万トン級の高速巡洋戦艦八隻よりなる八八艦隊の編成をもくろみ、これが英米を刺激して、大正十年のワシントン会議開催となるのである。
日本が八八艦隊を作ると、なぜ英米が困るか。太平洋における日本の海軍力が世界最大となるからである。英米はそれぞれ、地中海や大西洋に艦隊を残しておかなければならない。従って、太平洋に回せる艦隊には限りがある。そこで、無制限建艦競争にブレーキをかけ、自国の軍事予算をセーブするため、ワシントン会議を提唱することになるのである。
このような国際情勢のなかで、一九二一年(大正十)六月、松岡は依願免本官となり、翌七月、南満州鉄道株式会社理事を命ぜられた。
余談ではあるが、この頃、筆者の父豊田賢次郎は四平街駅の駅員を勤めていた。
父は一八九六年(明治二十九)生れで松岡より十六歳年下で、当時二十五歳であった。
私の父は岐阜県の大垣に近い墨俣《すのまた》という町で生れ、大垣商業学校を卒業した。祖父は商家に勤めることをすすめたが、野心家でロマンチストの父は、狭い日本で働く気持はなかった。当時、満鉄が幹部職員養成所の生徒を募集していた。これに合格すれば、二年間の専門的教育を受けた後、満鉄社員となり、専門学校卒業生と同じ待遇をうけ得るというのである。父は応募して合格し、大連の養成所に入った。二年後、父は長春勤務となり、列車の車掌を振り出しに満鉄職員の勤務に入った。奉天に近い蘇家屯《そかとん》や、ハルピンに近い双廟子《そうびようし》という駅で独身時代を過した。
当時、長春の満州日日新聞支局に山田祥吉という記者がいた。彼は読売新聞や日本新聞に勤めた後、新天地を求めて満州に渡ったものである。青森県野辺地町の旧家の産で彼の祖父山田改一は醸造業を営み、県会議員となり、原敬などとも親交があった。
山田祥吉の姉ケンは、縁あって東京で同郷の男に嫁ぎ、その男は満州に渡って出世し、後に吉林《きつりん》の駅長になった。
山田祥吉にはいとしという妹がいた。この頃、祥吉の父内之助は、発明に凝って資産を蕩尽《とうじん》し、いとしは女学校を中退し、看護婦学校に入る始末であった。
山田祥吉は、長春で筆者の父豊田賢次郎と知り合った。二人は寒い夜、満人の店でパイカルを呑んで気勢をあげた。
「おい、豊田、おれの妹をもらってくれや」
「よし、もらってやろう」
二人の間に約束が出来、山田いとしは、二十一歳で単身小樽から浦塩に渡り、ハルピン経由で長春に向ったのである。
豊田賢次郎と山田いとしは、長春の山田祥吉の家で簡素な結婚式をあげた。大正八年、新郎は数え二十四歳、新婦は二十一歳である。
一年後、賢次郎は南方の四平街駅勤務となった。
いとしは妊娠していた。三月十四日、長男が生れた。それが私である。
母いとしは二男二女を生んだ後、昭和二十年四月二十日、四十七歳で世を去った。長男の私はアメリカの捕虜収容所にいたので、いとしは、長男が戦死したものと信じて世を去ったのである。
父賢次郎は、四十八年三月九日、七十六歳で世を去った。長男の私は、ソロモン方面戦跡取材旅行のため、ガダルカナルに赴いていて、死に目には会えなかった。
閑話休題。
松岡を満鉄に引っ張ったのは、当時の社長早川千吉郎である。
前に書いたが、シベリア出兵の折、早川は松岡に目をつけていた。
大正七年八月、松岡は広田弘毅と共に臨時シベリア経済援助委員会幹事を仰せつかっている。
これに先立って七月二十六日には、民間企業シンジケートの設立準備委員会が、後藤新平外相の官邸で開かれた。
松岡は、このシンジケートの必要性について起案者として説明し、とくに「日本が資本をつぎこんでシベリア経済にテコ入れしないと、アメリカが資本を投入し、シベリアに利権を獲得するおそれがある」と力説した。
これに対して親米派の幣原外務次官は、この委員会が反米的なものになるのをおそれて、ブレーキをかけようとした。
そこで、幣原対松岡の論戦となり、松岡は例によって鋭い舌鋒《ぜつぽう》を示した。
これをみていたのが、当時三井合名副理事長の早川千吉郎であった。松岡の能弁と積極性とその勉強ぶりに感心した。
――この男、いつかは使える――
山本条太郎とともに三井財閥を背負っていた早川はひそかにそううなずいていた。そして、それから三年後にチャンスは到来したのである。
はじめ、松岡は満鉄入りを断った。彼の素志は政治家となることにあった。満州は馴染《なじ》み深い土地ではあるが、満鉄の社員などになっていては、一国の運命をになう大政治家となって天下の経綸《けいりん》を行う道からはずれてしまう。
一方、外相の内田康哉は、松岡の才能を惜しんで、今頃外務省を去ることの非を諭した。しかし、松岡は応じなかった。内田も松岡の才能に惚《ほ》れこんでいた一人で、これから十一年後には外相として、ジュネーブ会議の全権に松岡を引っ張り出す役を勤めることになるのである。
ちょっと内田康哉について説明しておこう。
内田は熊本の産。松岡よりは十五歳年長である。東大法科を経て外務省に入り、アメリカ大使を経て西園寺内閣の外相となり、以後一九三六年(昭和十一)死亡するまでに五度外相を勤めた。彼の外交は幣原とは対蹠《たいしよ》的で、終始自主強硬外交を唱えた。満州事変においても、「日本が焦土と化しても満州を守るべし」と主張した。そのような点で、松岡とはウマの合う点もあったのであろう。
しかし、その内田も松岡を慰留することは出来なかった。松岡はよほど外務省の官僚主義にいや気がさしていたのであろう。
松岡の後任は広田弘毅であった。
広田は松岡より二年年長であったが、外務省入りは二年遅かった。東大卒業時の外交官試験に落ちて、大学院で浪人していたせいである。広田は松岡のあとをついで、ワシントン大使館の書記官から、閑職とみられる情報部の課長となった。
この年十一月、ワシントンで軍縮会議が開かれ、駐米大使の幣原が海相加藤友三郎、貴族院議長徳川|家達《いえさと》とともに全権を勤めた。このとき、広田や吉田茂のライバルであった佐分利貞男は、ワシントン大使館の参事官として、活躍した。
『落日燃ゆ』によれば、広田が幣原にうとまれたのは無愛想であったからである、といわれる。
幣原がワシントンに着任して間もなく、男爵を授ける旨の電報が入った。佐分利を初め大使館員は争って大使のところにお祝いを述べに行った。広田一人は行かなかった。国士肌の広田は、三菱の令嬢をもらい加藤高明の義弟として出世してゆく幣原の貴族趣味が面白くなかったのかも知れない。広田は福岡の石屋の倅《せがれ》で、松岡ほどではないが苦学した経験をもっていた。
幣原は貴公子然とした佐分利を重用し、ワシントン在任中に参事官に昇任せしめた。一期後輩の広田はむろん一等書記官のままであった。
しかし、広田にも陽の当るシーズンがやってきた。大正十二年九月関東大震災直後、第二次山本権兵衛内閣が成立するが、このとき関東長官で閑職をかこっていた伊集院彦吉が外相に抜擢《ばつてき》された。伊集院はくすぶっていた広田を欧米局長に昇格させた。外務省の主流である。
この後、広田はオランダ公使、ソ連大使を経て、一九三三年(昭和八)八月、斎藤内閣の外相となるのである。奇《く》しくもこの年二月には、松岡がジュネーブでサヨナラ演説≠やっている。
ここでちょっと比較をしてみよう。松岡が外相になったのはこの七年後一九四〇年(昭和十五)七月である。
満鉄総裁、代議士などをやっている間に、二期後輩の広田に追い越された形である。
広田は、斎藤内閣に次ぐ岡田内閣にも外相として勤め、一九三六年(昭和十一)二・二六事件の後には総理となっている。
松岡が総理となって日本丸の舵《かじ》をとりたいと考えていたかどうか、今のところまだ明確な文献は出て来ていない。
ある人はいう。第三次近衛内閣の後に、松岡に総理をやらせてみたら面白かったのではないか。そうしたら、太平洋戦争は回避出来たのではないか、と。
しかし、松岡は一九四一年(昭和十六)四月、モスクワで日ソ中立条約に調印し、帰国後、日米交渉について近衛と意見が合わず、七月外相を辞し、九月|喀血《かつけつ》して倒れ、以後政治の主流に立つことはなかった。
松岡と広田は文官として二人だけA級戦犯として最重要視される被告となったが、松岡は病死し、広田は刑死している。
人間の禍福はあざなえる縄の如しといわれるが、まったく一寸先はわからないのである。
結論めいたものが少し顔を出したが、話を松岡の満鉄入りに戻そう。
大正十年夏、大連の満鉄本社赴任に当って、松岡は小田原の古稀庵《こきあん》に山県有朋を訪ねた。八十三歳の山県は重病の床にあった(翌年二月一日没)。面会謝絶であったが、松岡が満鉄入りのあいさつに来たというと、
「かまわんから通せ」
と言った。
山県は、和室にベッドを入れ、上半身を高くして、苦しげに息をしていた。
松岡が入ってゆくと、やせ細った掌を出して握手をした。
「おい、松岡、満鉄事件のことを頼むぞ、今満鉄が腐敗したら、日本は駄目になってしまうのだ」
山県は、かれた声で言った。
満鉄事件とは、撫順《ぶじゆん》炭坑に隣接する搭連《とうれん》炭坑(森恪所有)を森が三百万円で満鉄に売ろうとした事件である。満鉄副社長の中西清一は二百二十万円で買ったが、実際的価値は四十万円しかないと野党の憲政会に暴露され、中西らが起訴された一件である。創立間のない満鉄が疑獄事件で世間の疑惑の目にさらされると、日本の生命線≠ノひびが入るおそれがある。最後の元老を自任していた山県は、邦家のためにそれを憂えたのである。
「承知しました。不肖、松岡が粉骨砕身して事件解決に努力致します」
松岡がそういうと、
「頼む」
山県はそう言って、松岡の掌を握り返し、
「八十五まで、生きたいな。そうなれば、日本の国も何とかなる」
と呟《つぶや》いた。それに応じるように、庭の松の木で蝉《せみ》が鳴いていた。
しかし、事実上、山県の時代はとうに終っていたのである。
そして、実際に政治の舵をとっている後藤新平をも松岡は訪れた。
その席上、松岡は、後藤が初代満鉄社長(一九〇六年)でありながら、経営を途中で投げ出して桂内閣の逓相になった件について詰問した。
「閣下、閣下は満鉄社長に就任されたとき、この土地は日本の生命線だから自分の全生命をなげうつといわれたのに、間もなく逓信大臣になってしまわれたのはどういうわけですか。大臣の椅子はそんなに有難いものですか。私は閣下のような人は、逓信大臣になるよりも、満鉄社長として尽していただいた方が邦家のためになると考えますがいかがですか?」
「…………」
後藤は松岡の舌鋒の前にたじたじとなったが、次のように説明した。
「いや、満鉄社長よりも逓相の椅子が有難いと考えたわけではない。大体満鉄のお膳立てが出来たところで、なお中央において折衝することが多いと考えたので、桂総理の知遇にこたえて内閣に入ったのだ。そのかわりに中村是公を後釜《あとがま》にすえておいた。是公がわしの方針をよくのみこんでやっていることは君も承知しているだろう」
中村是公は大学予備門(後の一高)で、夏目漱石と同級生であった。漱石の「満韓ところどころ」には、明治四十二年満州に渡った漱石が、満鉄総裁の是公にいろいろと世話になる様子が描かれている。
やがて、後藤は膝《ひざ》をすすめると、満鉄対中央政府の関係についていろいろと打ち明け話をしたあげく、
「君も、そんなに吾輩のことを心配していてくれるのならば、吾輩の苦衷を汲《く》んで、邦家のため満鉄理事として健闘してくれたまえ」
と松岡の肩を叩いた。
松岡は後藤に丸めこまれた形で、後藤邸を辞した。
松岡が理事となって赴任すると早速二つの仕事が待っていた。
一つは山県から頼まれた満鉄事件、すなわち搭連炭坑買収事件である。松岡は社長の早川と相談して当時日本一といわれた花井卓蔵を弁護士に頼み、さらに鵜沢総明らをも応援に頼んだ。
幸いに、検事側の調べたところでは、搭連炭坑の実際的価値は二百万円で、買収価格は二十万円高かっただけだということになった。
花井は、
「四億四千万円の大資本を有する満鉄のことゆえ、二十万円位の見積り違いはままあることではないか。それよりも、野党がこの事件を政争の具に供したのは許せない」
と逆襲した。
結局、中西副社長は一旦懲役十カ月の判決を受けたが、控訴再審の結果、証拠不十分で無罪となった。
早川社長は後藤新平とは違ったタイプの太っ腹な人物であった。押せば引き、引けば押して来るという弾力性に富むタイプで、重厚円満なおおらかな性格の人であった。従って中国人にも好かれていたが、意外に早く殉職したのは惜しまれる。
早川は松岡が着任すると、
「松岡君、君は理事だが、実際には副社長のつもりでびしびしやってもらいたい。僕は君に大いに期待しているんだ」
と言って彼を激励した。
そこで、松岡は第二の仕事、すなわち、満鉄の付属線の建設、買収にとりかかった。これらを満鉄では培養線と化学的な名称で呼んでいたが、明治三十九年に満鉄が出来てからこの年まで十五年間に、培養線としては、僅かに、吉長《きつちよう》鉄路(長春―吉林間、約二百キロ)と|四※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]《しとう》鉄路(四平街―※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]南間、約七百キロ)の計九百キロが開発されたに過ぎなかった。
松岡は北満に目をつけていた。ロシア勤務の経験のある彼は、北満の開発こそ満州防衛の急務であると考えていた。
松岡は早川と相談して、長春―ハルピン間、及び、満洲里《マンチユリ》―ハルピン、ウラジオストックの北清鉄道の開発利用に乗り出すことになった。
ところが、大連の満鉄本社に着任した松岡には大きな不満があった。それは高給を喰《は》んでいる社員たちが偸安《とうあん》をむさぼって、まじめに仕事をしていないことである。
当時満鉄の社員の月給は参事、技師が五百円で、本社だけで、月額百五十円以上の者が三百名以上もいた。いかに満鉄本社の社員が厚遇されていたかがわかる。(筆者の父は昭和五年、十数年勤務した満鉄をやめて岐阜県の郷里に帰ったが、当時の月給は百二十円に満たなかったと思われる。退職金は一万円余であり、かなりの額の満鉄株を贈与された)
高級社員の怠慢に松岡は憤慨した。
ある日、彼は次のような通達を部課長ら高級社員に回した。
「爾今《じこん》、午前八時までに出社せざる者は、即時辞表を提出すべし」
部課長達は一驚したが、「そんなことを言ったって急には守れない。第一酒呑みの松岡理事自らが守れるものか……」とタカをくくる向きもあった。
しかし、松岡はやる気であった。彼は七時半に出勤して玄関で頑張り、社員の出勤ぶりをみた。八時には各部課を回り、部課長の在不在を確かめ、遅い者は理事室に呼びつけ、容赦なく叱りつけた。当時松岡は四十一歳で、部課長のなかには五十歳を越えた者も多かった。しかし、松岡は弊風一掃のため、遠慮なく怒鳴りつけた。
部課長のなかからは、ある程度の反撥が出たが、若手社員の間では松岡の評判はよかった。
「今度の理事はいよいよ懸案の北満開発に乗り出すそうだ。そう来なくちゃあ。それでなければ満鉄を志願した意味がないということになるではないか」
とりあえず、松岡が中国側と契約に成功したものだけでも、※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]南―昂昂渓《こうこうけい》(チチハルの南)間の※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]昂線(六百キロ)、吉林―敦化《とんか》(吉林の東方三百キロ)間の吉敦線などがある。建設に際しては、松岡は現場を回り、書類と照合し、不正なきを期した。
搭連炭坑事件の苦い体験が彼の頭のなかに刻みこまれていたのであろう。
また彼は、中国の要人とも会い、これらの新線が決して日本側の野心によるものでなく、中国側でも大いに便利であることを力説することも忘れなかった。
新線開発の話が出た序《ついで》に、筆者にとって懐しい話を一つはさんでおこう。
松岡が満鉄理事になった大正十年の十一月、奉天、鉄嶺間の複線の工事が完成している。奉天は別名|瀋陽《しんよう》といって、日清戦争で日本と戦った清国の開祖、愛新覚羅氏が、最初に都を定めた由緒ある古都である。
鉄嶺は奉天の北方にある小都市であるが、筆者はこの町の小学校に四年間通った経験がある。そのいきさつと、鉄嶺についての解説のために、拙作「拳骨とスケート」(「小説新潮」昭和四十九年五月号所載)から冒頭の部分を抜粋してみよう。
そのロシアの少女を見たとき、末吉和子よりも美しい、と竜作は感じた。
竜作をのせた汽車は、平頂堡から鉄嶺に向けて走っていた。
鉄嶺は南満州(現在の東北遼寧省)の中心である奉天(瀋陽)の七十キロほど北にある古い街で、日露戦争の最終期には、この線まで日本軍が進出していたと伝えられる。
平頂堡は鉄嶺の北七キロにある満鉄本線の小駅である。
竜作の父富田健一郎は、この前年、昭和三年の秋に、鉄嶺駅の筆頭助役から、平頂堡の駅長に転任した。一応栄転だということで、平頂堡に住む日本人たちは石切場を経営している川上源三の家で祝賀会をひらいてくれた。
鉄嶺、平頂堡のあたりは、南満州の平野がかなり広くなっている地域である。東側には本幹山脈の支脈が少し顔を出し、竜首山などという山があるが、西は一望の平野である。太陽が地平線の向うに沈む、という言葉は、ここでは単なる形容詞ではなかった。
鉄嶺は駅もかなり大きく、駅前広場から少し東に行くと松島町の通りに出る。左折すると満鉄病院と領事館のある十字路まで一キロ余の大通りで、両側にはアカシアの並木が連なっている。ロス建てといって、日露戦争前にロシア人が建てた灰色のレンガ造りの家が多く残っていた。中央にペチカといって大きな円筒形の壁のなかで火を焚《た》く暖房装置があり、壁の厚い構造であった。
満鉄病院につき当って右に折れると、すぐ右側に赤レンガ造りの鉄嶺尋常高等小学校があった。これは日本人の小学校で、生徒数は約六百名。満人の小学校は一キロほど東の、城内と呼ばれる旧市街のなかにあった。
当時、鉄嶺には三千人以上の日本人が居留していたと推定されたが、小駅の平頂堡には、日本人は満鉄の駅員と、川上鉱山の社員を入れて、二十人を出なかった。(後略)
この小説に出て来る時代は昭和四年前後で、この頃、松岡洋右は二度目の満鉄勤めで、間もなく副総裁になった。当時幼かった私の前で、父が、
「今度副総裁になった松岡というやつは、えらく切れるやつらしいぞ」
と母に語っていたのを、私はかすかに記憶している。理事時代の満鉄本社で粛正≠行ったのが、満鉄全体に鳴り響いていたものであろうか。
何にしても、松岡という男は、何をしても目立つ存在であったようである。
余談であるが先に引用した小説のおかげで、私は四十五年ぶりで、モデルの末吉和子君と再会することになった。彼女も盛んに鉄嶺や奉天を懐しがっていた。満州は雄大な風景をもって、暖く人を包み、人の志を大ならしめるものをはらんでいるようである。
松岡が懸命に満鉄の経営と培養線の拡張を計っている間に、内地の風雲はあわただしく動いていた。
大正十年九月、安田銀行頭取、安田善次郎が、朝比奈平吾という青年に刺殺された。
安田は日本の近代的金融業の草分け的存在で、安田財閥の総帥である。銀行業、生命保険業などをリードし、日本銀行、満鉄の創立にも寄与している。また、日比谷公会堂及び、全学連騒動で有名になった東大の安田講堂も彼の寄付によるものである。
朝比奈平吾の動機について、深いことは筆者は知らないが、要するに、安田の金融業が、拝金主義であり、その資本主義的方法が、国民経済を危くする。つまり、富が偏在して、貧民がますます窮すると考えたものであろう。
続いてこの年十一月四日、総理原敬は、東京駅頭で十八歳の少年中岡|艮一《こんいち》に刺されて死亡した。中岡は、大塚駅の転轍手《てんてつしゆ》で、いわゆる愛国の政治少年であった。
原は、日本最初の政党内閣を作り、平民宰相と呼ばれたが、内面はなかなかの策士で、平民≠ネらざる絶対主義の信奉者であった。
彼は政友会の総裁として、初めて藩閥の手から政権をもぎとったが、反対党である憲政会との間で、適宜政権を交代するというルールは考えていなかったようである。
彼は元老山県を頂点として、未《いま》だに隠然たる勢力をもつ藩閥系のグループと、勢力のバランスを保ちつつ政権の長期化を計った。
平民宰相といわれた原は、その内実、高圧的な権力主義者であった。大正九年の第四十二議会でも野党の提出した普通選挙法案に強く反対し、「現在の社会組織を脅威するが如き不穏なる思想の潜在するを感じる」として、ついに議会を解散している。
また、寺内内閣時代は、野党の政友会総裁としてシベリア出兵に反対していたが、自分が政権を握ってからはこれを強化し、ついに尼港事件を生起せしめている。
筆者は、最近、米内光政を書くため盛岡を訪れ、原敬が郷土出身の偉人として尊敬されているのを知ったが、実際に政治的業績を調べてみると、意外に政治家としてのメリットが少ないのに驚く。
原敬のあとは、だるま蔵相といわれた高橋是清が総理となり、このあと、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦|奎吾《けいご》と政権は移ってゆくのである。
大正天皇の病気が重くなり、皇太子裕仁殿下が摂政となったのがこの年十二月であるが、海外でも大きな動きがあった。
この前年二月、ヒトラーはドイツで国粋社会党すなわちナチスを結成したが、イタリアでは、この年十一月、ムッソリーニがファシスト党を結成している。後年の松岡の盟友≠ェ早くも頭角を現わしているのである。
また孫文はこの年五月、広東政府を樹立したが、七月には上海で中国共産党が成立している。
このようなめまぐるしい国際的な動きを横目でみながら、松岡は満鉄の経営に精を出していた。しかし、後年彼を倒す胸部疾患は早くも彼を侵し始めていた。
『人と生涯』には、当時の松岡の秘書大岩峯吉の回想がのっているが、これによると、松岡は当時から喘息《ぜんそく》の持病に悩んでいたようである。大連の北三百キロに近いところに湯崗子《とうこうし》という温泉があり、暇があるとここに静養に行った。
その反面、仕事はタフで、おれは寝だめが出来ると称して、寝てばかりいるかと思うと、緊急の場合には、三晩でも四晩でも徹夜をして平気であった。
ハルピンから湯崗子、湯崗子で一泊すると大連へゆく車中で大岩に案件を口述筆記させるという具合で、松岡の神風ぶりは、この頃から相当のものであったらしい。
しかも、記憶力はよく、交渉の経過などを口述筆記せしめた後、何ページの何行目あたりをこのように訂正してくれ、というので、ページをめくってみると、ほぼ当っていた。
大岩の回想のなかに理事のボーナスの話が出て来るのは興味深い。年一回で三万円ほどあり、これを秘書の大岩が月給と共に銀行に預け、必要に応じて出して来て松岡に渡すので、竜子夫人はノータッチという奇妙な経済事情であった。
月給のことは出ていないが、二千円前後ではなかったかと思われる。当時の二千円は、中級の家が一軒建つほどの金であるから、現在の千五百万円以上に相当するであろうか。
理事としての松岡は、部課長の養成と、対支外交円滑化に力を入れた。
ある集りのとき、課長のなかでも強腰をもってなる労務課長の保々という男が、対支外交のコツを訊《き》いた。
松岡は答えた。
「支那人というものは、非常に信義を重んじる。相手が信じてくれたと感じたら、当方も信義を守る。従って、これはと思う人物に出会ったら、折にふれて贈り物などをもって訪れ、親しくすることが必要である」
第二次大戦後、松岡を満州侵略の張本人であるように言う歴史家や評論家がいるが、松岡は単に力で満州を奪おうとしたのではない。満人と同化しつつ、日本の力を伸ばす場所として開発を計っていたと見るべきであろう。
また、松岡は、部下を指導するには細心、その計画を実施するには大胆といわれていた。細心というのは、彼が師と仰いだ外交官小村寿太郎にならったものであろう。
大胆は、長州高杉晋作や、郷土の今五の血を引いたものであろうか。
事業面で、松岡理事の大きな業績は先に述べた培養線の借款交渉であるが、その他に二つばかりあげておこう。
一つはオイルシェール(油母頁岩《ゆぼけつがん》)の開発である。
オイルシェールとは、石油のとれる石という意味である。
大正九年、満鉄研究所は東北大学勤務の木村忠雄を迎えて、奉天の東方五十キロにある撫順炭坑一帯の精密なボーリングを行った結果、五パーセント以上石油のとれる油母頁岩が数十億トン埋蔵されていると推定、満鉄本社に報告した。
満鉄は直ちに、これを工業化すべく、機械工学のエキスパートである長谷川清治を試験所長として、頁岩から石油を抽出する実験を始めた。実験は一応成功したが、海軍でこれを実際に軍艦に使ってみたところ、滓《かす》がパイプにつまるというクレームがきた。所長の長谷川はまだ四十歳前の英才であったが、国家に多大な損害をかけたと考え、責任を負って自殺してしまった。
後、稀硫酸《きりゆうさん》を添加することによって、滓の問題は解決したが、松岡はいつまでも長谷川のことを惜しんでいた。
「もう少し待ってくれたらよかった。国に対して責任を感じることはわかるが、惜しい秀才を若くして死なした」と彼は残念がった。
油母頁岩は、その後満州の大きな石油産業として発展してゆくのである。
次に、撫順炭坑長であった子爵井上匡四郎の解任にふれておこう。
井上は鞍山《あんざん》製鉄所長も兼ね、満鉄の鉱業部門の有力者であった。
彼は鞍山製鉄所における日本人技師の還元|焙焼《ばいしよう》法を非能率的として、高給で米人技師を招聘《しようへい》することとし、満鉄本社の許可を得た。
しかし、極端なアメリカ崇拝主義者であった井上は、鞍山製鉄所における研究をすべて自分が招聘した米人技師の業績として、これを中央の要人に吹聴《ふいちよう》して回った。
このため、日本人技師たちと井上所長の間にトラブルが生じた。
当時、米人の主任技師は社宅を与えられたほか、年額一万四千ドル(一ドルは四円?)の高給を与えられていたのである。
この確執の裁定は、結局副社長格の松岡理事のところに回ってきた。
松岡は、井上子爵の極端なアメリカ人崇拝を不可として、断乎《だんこ》井上を解任した。井上は後藤新平、中村是公等中央の要人を説いて対抗したが、松岡の決意は堅かった。日本人技師たちの苦心の研究報告を、来満後間のない米人技師たちの業績にすりかえるような井上のヤリ口は、穏当とは思えなかったのである。
しかし、その反面、米人技師が提案した新方式についても、これを経済的に有利として認めることを、松岡は忘れなかった。
翌、一九二二年(大正十一)は、松岡にとって、二人の重要な先輩の死をもたらした。
一人は山県有朋(二月)である。藩閥最後の元老は希望通り、数え八十五歳で、日本の将来を憂いつつ他界した。
そして、彼の晩年は、意外にわびしいものであった。
大正十年、皇太子妃問題で、山県の意見は陰謀として退けられたので、山県はすべての位記礼遇を辞退する決意を固め、辞表を提出した。しかし、宮内省ならびに賞勲局はそれを却下した。
山県の死は国葬をもって弔われたが、沿道で柩《ひつぎ》を見送る小学生はもちろん、青年たちも、棺のなかの人が、どのように国家のために貢献したかをよくは知らなかった。
山県は二回総理となっている。
第一回は明治二十二年十二月で第三代目の総理である。翌年、第一回帝国議会が開会され、また教育勅語が発布された。明治日本のモラルとイデオロギーが根をおろし、その開花を待ちつつあった年と言える。
第二回目の組閣は明治三十一年で、第九代目の総理である。山県の政権は二年間続き、この間北清事変があり、日本は支那に対する侵略の歩度を深めた。
悪名高い治安警察法が制定され、労働運動を弾圧し、罷業権を否定したのもこの内閣である。
そして、さらに重要なことは、軍部大臣現役制を定めたことである。すなわち、陸海軍大臣は現役大、中将をもってあてる武官専任制とした。これが後に昭和十年代となって、日華事変、日独伊三国同盟締結問題にからんで、陸軍のごり押しを誘発する遠因になるのである。陸軍は自分の意思が通らぬと、陸軍大臣を出さない。従って内閣は成立しない。結局、陸軍の意図に沿う人物でしか組閣出来ない、ということになり、第二次大戦へと突入してゆくのである。
このように、山県の首相時代は、明るいメリットに乏しいが、大連にあった松岡はひそかにその冥福《めいふく》を祈った。
かつて、外交官となって間もなく関東都督府外事課長時代に、漁業問題で椿山荘の山県を訪れて以来の郷党の先輩である。そのとき、山県は、松岡が今五のむすこであることを知り、鄭重《ていちよう》にもてなした。
そして、今回、満鉄理事として赴任するときも、松岡は小田原の古稀庵に山県を訪れ、その激励を受けている。どことなく陰気な感じで、好きになれない爺さんであるが、松岡は松岡なりに親しみを感じていた。
山県が世を去ったのは、一九二二年二月一日であるが、その五日後、二月六日には、ワシントンにおいて、五カ国間の海軍軍縮条約が調印されている。
これがワシントン条約と呼ばれるもので、後に軍国主義日本の海軍力拡張と関連して問題となり、昭和九年十二月、これの廃棄とともに、日本は無制限建艦競争にのめりこみ、ついに太平洋戦争を誘発せしめるのである。
しかし、いずれにしても、ワシントン条約は十三年間建艦競争に歯止めをかけたわけで、その意義は後のロンドン条約とともに軽視すべからざるものを包含している。
ワシントン会議は、かつてベルサイユ会議のおり、米大統領ウィルソンが主唱した軍備縮小による世界の平和維持という理念の一環に連なるもので、日本は全権として当時の海軍大臣加藤友三郎を派遣した。
加藤は広島県出身、海軍兵学校七期生で、明治十三年同校を二番で卒業した秀才である。
日本海海戦のときの聯合《れんごう》艦隊参謀長として有名であるが、ともに三笠艦上で戦った先任参謀秋山真之の十期先輩、また軍神と呼ばれた広瀬武夫や、ロンドン会議当時の海軍大臣兼全権|財部彪《たからべたけし》、二・二六事件で襲われた岡田啓介よりは八期先輩、そして、太平洋戦争終戦内閣の総理、鈴木貫太郎よりは七期先輩であった。
第一次大戦中から日米の建艦競争は始まっていた。
米は八四艦隊(戦艦八、高速巡洋戦艦四)二隊を計画し、日本は有名な八八艦隊を計画していた。第一次大戦が終ると間もなく、『日米未来戦』『日米もし戦わば』などという本が読まれるようになった。
日本は八八艦隊の実現を可能としたが、国家予算の膨脹に苦しみ、アメリカも内情は同様であり、第一次大戦の傷手が癒《い》えていないイギリスは当然建艦競争に反対であった。そこで、ワシントン会議となったのであるが、史上初といってよいこの種の大会議に、米は国務長官ヒューズ、英は外相バルフォア、仏は元首相ブリアン、伊は蔵相シャンツェルという第一級の人物を首席全権として送った。
この会議の主眼は各国の主力艦(戦艦)保有量の比率を決めることにあった。
米、英、日の保有比率について、日本は十、十、七を主張し、米、英は五、五、三を主張し、結局、米英の主張が通り、仏、伊は一・六七と定められた。
加藤は当時の海軍のなかにおいては、もっとも知性的な軍政家であり開明派であった。いざ戦わんかなの闘志に燃える主戦派の多いなかにあって、国際外交を考え、国家経済を考え得る数少ない軍政家の一人であり、彼の思考法は後に米内光政、山本五十六らに受けつがれ、彼らは財部彪、山梨勝之進、左近司政三、堀悌吉、井上成美らをも含めて条約派≠ニ呼ばれる。軍縮条約によって軍備を制限し、和平を保とうというテーゼをもつグループである。
加藤はその始祖であるが、ワシントン会議において彼が十・十・七から五・五・三に譲歩した理由として、伊藤正徳は『大海軍を想う』のなかで次のように述べている。
大体軍令部を中心とする海軍の専門家は、太平洋の防備として、対米七割を必要として戦術的に主張していた。
これに対して、加藤が六割で妥結したのは、別に定められる太平洋防備制限条約によって、米国の太平洋における対日攻撃基地を制限すれば、低い比率でも有利に防衛戦を戦えるということを予想し、いま一つは無制限建艦競争が、日本の財政を破綻《はたん》させるであろうことを考えたからである。
ここで、条約派≠ニ対立するいま一つの海軍の派閥、艦隊派≠ノついてふれておこう。
艦隊派は軍備拡張派ともいうべきもので、その始祖は一応、米沢出身の海軍大将山下源太郎(海兵十期生)となっている。
山下は一般的には広く知られていないが、日本海海戦のときは大佐で、大本営軍令部の作戦班長(作戦部長)で、バルチック艦隊が対馬海峡に来ることについて、東郷長官に進言したことで知られている。
大海戦に長官を勤めなかったので、国民に知られるチャンスが少なかったが、一九一八年(大正七)聯合艦隊司令長官となり、一九二〇年(大正九)軍令部長となった。
山下は四年半にわたって軍令部長の職にあり、この間、ワシントン会議も開かれている。山下が軍令部長の間に次長を勤めたのは、安保清種《あぼきよかず》、加藤寛治、斎藤七五郎。第一班長(後の第一部長=[#「=」はゴシック体]作戦部長)には末次信正、鳥巣玉樹らの顔が見えており、この大部分が、軍備拡張、対米主戦派であった。
なかでも強硬なのは、加藤寛治、末次信正らで、彼らが後に高橋三吉らとともに艦隊派の主力となってゆくのである。
山下は狂信的な軍拡主義者ではなかったが、結局、艦隊派にかつがれ、艦隊派はやがて、東郷元帥や伏見宮をもかつぎあげ、軍拡競争への突入を計るのである。
ワシントン会議における加藤友三郎の随員の顔ぶれをみると、軍令部次長の加藤寛治(中将)、第一班長の末次信正(大佐)など艦隊派がいるほか、条約派となる山梨勝之進(大佐)、堀悌吉(少佐)なども入っている。まさに呉越同舟の感がある。
このなかでも加藤寛治は強硬で、山下軍令部長から訓令を受けてきた対米七割をあくまでも主張し、ついに、加藤海相が会議を成立させるため、五・五・三を呑む旨を発表すると、「海軍大臣は腰抜けだ」と叫ぶに到った。
なお、このとき、専門委員会には、加藤寛治自身も出席し、アメリカの代表である海軍次官と長時間論争したが、ついに優位に立てなかった。この時の米代表が、後に日本を破局にひきずりこむ、米大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトなのである。
ワシントン会議の成果は、とくに軍令部方面にとって意に満たぬものに終ったが、このためにとくに大きな騒ぎはみられなかった。
後の昭和五年のロンドン会議では、軍令部長の加藤寛治が、全権財部彪の決定に不満をもち、ついに、統帥権干犯≠ニいう伝家の宝刀を抜き、これが浜口首相の暗殺や、五・一五事件、ひいては二・二六事件をひきおこすのであるが、ワシントン会議の結末は、穏便なものと言えた。
これは、当時海軍を圧した英才加藤友三郎の声望と、軍令部長山下源太郎の米沢武士的風格が、不平分子を抑え得たものと言ってよかろう。
ワシントン会議はそのくらいにして、話を満鉄に戻そう。
いま一人の松岡の先輩の死とは満鉄社長早川千吉郎のことである。
早川は先にも述べた通り、シベリア出兵の際の設立準備会で松岡を認め、外務省から満鉄理事に引っ張ってくれた恩人である。
その人格は温厚円満で、春風|駘蕩《たいとう》たるところがあり、鼻っ柱の強い松岡も、社長だけには心服していた。
また、早川も松岡の人となりをよくのみこんで、副社長格として、大いに手腕をふるわせていたのである。
早川が死んだのは大正十一年十月十三日で、急死であった。
彼は同年九月二十二日朝、大蔵満鉄理事ら五名を従えて、大連駅を出発、満鉄沿線視察の旅に出た。
九月三十日奉天につき、自称大元帥の総統張作霖の邸を訪問した後、奉天在住の社員に訓示を与えるため、奉天尋常高等小学校に赴き、講演のため壇上に上った。
卓の前に立った早川は、
「満蒙の開発、日華親善のために……」
と語り始めたところ、突然意識を失って、斜めに倒れ、一メートルに近い壇上から、床の上に落ちた。病因は脳出血である。
この日から逝去の十月十三日まで、早川は奉天小学校の一室に仰臥《ぎようが》したまま昏睡《こんすい》状態を続けた。
松岡が後に編集した『満洲野の露』という追悼録によると、十月七日に大連で早川社長の平癒祈願祭が行われ、日本人のほか中国人一千名が集ったというから、中国人に対しても温容の人であったのであろう。
当時満鉄の社員はすでに三万人に上っていたが、これらの社員が、それぞれに社長の平癒を祈願した。
しかし、十月十三日午後四時二十分、ついに早川社長は帰らぬ人となった。
満鉄社葬は十月十六日、大連の本社庭園で挙行された。
『人と生涯』には多くのデータがとり入れられてあるが、そのなかで目をひくのは、霊柩《れいきゆう》=[#「=」はゴシック体]沙河口工場製作、重量八十四貫目とある。三百十五キロほどであるが、木製としたら、よほど堅い材料で、大きなものであったに違いない。
松岡は霊柩車に続く第一号車で大連駅から葬儀場に向った。激情家の彼は涙を禁じ得なかった。敵に対してはあくまでもまくしたて、闘志をかきたてる彼も、自分を愛してくれた相手に対しては親愛の情を惜しまなかった。早川社長は、三井支店長時代可愛がってくれた山本条太郎と並んで、松岡を可愛がってくれた先輩であった。
――惜しい人を失った。大満鉄を経営出来る人は、一国の総理をも勤め得る人であるのに――
松岡は、早川社長が、その構想の半ばにして倒れたことを心から惜しんで、ハンカチを眼におしあてていた。
大連における葬儀には、内田康哉外相が東京から急行し、伊集院関東長官、小幡駐支公使、村井大連市長、そして、中国側からは大連華商公議会総理|郭学純《かくがくじゆん》が参加した。
ついで早川の遺体は東京に送られ、十月二十二日、麹町《こうじまち》の自宅において葬儀が行われた。
松岡はこの棺と同行して久方ぶりに内地に渡った。途中棺をのせた一等寝台車は、松岡の郷里に近い虹ヶ浜駅(現光市)に停車した。『人と生涯』には、遺体をのせた寝台車の前で、挨拶をする松岡の母ゆうと、姉松枝の写真が出ていて興味深い。
東京における葬儀は、やはり内田外相が委員長となり、葬儀委員には、子爵前田利定、一木喜徳郎、中橋徳五郎らが名前を連ねている。
葬儀当日は、六千名が焼香に集り、当時の人は、大正十一年の三大葬儀の一つだといって驚いたという。
他の二つは一月十日になくなった大隈重信と二月に没した山県有朋のそれである。
翌大正十二年は満鉄にとって比較的無難な年であった。
奉天の南にある蘇家屯《そかとん》から撫順炭坑までの複線工事が完成し、奉天―釜山《ふざん》間に直通列車が走り、西北部の興安嶺よりでは、鄭家屯《ていかとん》と|※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]安《とうあん》の間の|鄭※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]《ていとう》線が完成している。松岡が苦心して開発している培養線の一つである。
しかし、日本内地では、後半に大事件が相次いだ。
まず、九月一日午前十一時五十八分の関東大震災である。
この震災の大被害については、まとまった記録が出ているので、ここに重複を避けるが、パニックに陥った市民により朝鮮人の殺害が各地で行われ、数千人が犠牲になったことは忘れてはなるまい。
また、社会主義者の大杉栄と愛人伊藤野枝が憲兵隊の甘粕正彦大尉によって殺されたことも記憶を新たにしてほしいところである。『祖父と父の日本』には、大杉栄殺害のニュースを聞いた若い婦人の日記が紹介されている。それには次のような文章が見える。
「無政府主義者大杉栄が甘粕大尉に惨殺されたという。今度の東京の大火は多くの主義者が沢山の鮮人を手先に使って爆弾を投げさせたと聞いていたので、とうとうなるようになった……」
当時の民衆の認識はかくの如くであり、これには政府の指導、圧力が大きく影響していると思われる。
不思議なことに、この大災害のときにあたって内閣の椅子は空白であった。
先に述べたワシントン会議の条約派提督加藤友三郎は、一九二二年(大正十一)六月、高橋是清より内閣をうけつぎ、総理の座にあったが、翌二三年、すなわち震災の年の八月二十四日、惜しくも胸部疾患のため死亡している。
その後、組閣の大命を誰に下すか重臣陣はとまどい、八月二十八日、ようやく山本権兵衛と決るとすぐ九月一日の震災がやって来た。そこであわてて、山本権兵衛が組閣したのが九月二日である。
帝国海軍の形成者ともいえる人材山本は、先に一九一三年、桂太郎のあとをうけて組閣しているが、翌年シーメンス事件のために失脚している。
何はともあれ、大連にいた松岡は、満州でかき集められるだけの物資を集めると、東京に送った。こういうときの松岡は臨機応変、昔でいうなら藤吉郎秀吉に似たところがある。
山本権兵衛という人は、海軍切っての逸材で、日露戦争でも、勝利に大いに貢献し、すこぶる軍政の才能に恵まれた人であるが、どういうものか、総理大臣としては運がついていなかった。
組閣して震災の後始末に苦労している間に、年の暮れに虎の門事件が起って、わずか四カ月で辞職することとなった。
十二月二十七日、国会の開院式に臨む摂政裕仁(現天皇)の自動車が虎の門近くにさしかかったところ、群集のなかから走り出た一人の青年が自動車めがけて発砲した。
自動車の窓ガラスは割れたが、弾丸は摂政宮には命中せず、ガラスの破片で入江為守侍従長が軽傷を負ったのみに終った。
犯人は難波大助といって二十五歳、山口県の大地主で代議士の三男である。
彼はきわめて純粋な精神の持主で、反権力主義であったらしい。
父が選挙で資金を濫費《らんぴ》したり、郷土出身の陸軍大臣田中義一が帰郷した際、全小中学校を休校にして、生徒の閲兵を行ったことなどから、国家権力に対して反感をもっていたところに、関東大震災における朝鮮人の虐殺事件を聞き、天皇に対するテロリズムを考えたという。
難波大助は犯行の前日、次のような歌を残している。
[#ここから2字下げ]
神秘と虚偽で固めたる、呪《のろ》いの日本帝国よ、人の屑《くず》なる天皇を、物の見事にぶち殺し、赤旗高く宮城に、掲げる時は来たりけり
[#ここで字下げ終わり]
翌大正十三年十一月、大審院で大助に死刑の判決が下り、その翌々日死刑が執行された。覚悟していた大助は、従容《しようよう》として死についた。
満州でこの事件を聞いた松岡は、ひそかにその反動を恐れていた。大助は松岡と同郷の山口県人であった。
果して大きなぶり返しが来た。
山本内閣は総辞職し、山口県知事までが減俸処分に処せられた。
辞職した司法大臣平沼|騏一郎《きいちろう》を中心に、高級官僚中堅軍人らが右翼団体国本社を結成して、左翼思想に対抗し、政友会の幹部である小川平吉が、官僚、学者の一部と右翼浪人を集めて青天会を作り、ナショナリズムの歩を固めた。
松岡は天皇尊崇の念においては、人後に落ちなかったが、狂信的なファシズムを必ずしも愛国主義とは考えていなかった。
アメリカで学び、ソ連に勤務したことのある彼は、民主主義にも、共産主義にも関心を抱いていた。彼は彼なりに妥協と協調を考えていた。しかし、松岡外交が国際協調主義の幣原外交と異るのはアメリカのような国と協調するには、まずこちらの決意と底力をみせる必要があると考えている点であった。
そして、松岡の場合、力とは必ずしも武力を意味しなかった。彼の場合、力とは論理であった。合理主義にもとづく弁論が彼の頼みとするところの力である。
この点、彼は世にいわれたように、軍部とベッタリくっつくことを好まず、一九二八年(昭和三)の張作霖爆殺にも反対している。
そして、国際情勢が松岡の論理と弁論のジャンルからはみ出したとき、すなわち昭和十六年春、近衛が日米交渉を松岡に無断で開始したときから、松岡は権力の座を去るのである。
早川社長の死後も松岡が満鉄の整備拡張に努力している間に、一九二四年(大正十三)八月、第二次奉直戦が起きた。
奉直戦とは、奉天の張作霖と、北京を中心とする直隷派の戦いであった。北京は河北省にあり、河北省は別名を直隷省といった。
当時、直隷派の総帥で大総統を名乗っていたのは|曹※[#「金+昆」、unicode9315]《そうこん》で、これを補佐しているのが有名な呉佩孚《ごはいふ》であった。
曹※[#「金+昆」、unicode9315]は、初代中華民国大総統袁世凱の子分で、直隷総督となり一九二〇年、北京政権の実権を握った。一九二二年四月、中央進出を狙う張作霖と第一次奉直戦を戦い、これを破ってその地位を固めた。
これを根にもった張作霖は、一九二四年八月兵をあげて河北省に進軍した。
このとき、松岡は奉天にいた。
一九二一年の満鉄理事就任以来、松岡は東三省保安総司令と名乗る張作霖と知己となり、気脈相通ずるところがあった。
元来、三国志や水滸伝《すいこでん》ふうの豪傑は松岡の好むところであり、そのために大きな仕事を成しとげ、また誤解されることもあった。
松岡は満州馬賊上りの小柄な頭目と意気投合した。
世に松岡戦略≠ニ呼ばれるストラテジー(戦術)がある。
直接大物にぶつかり、大物と話をまとめるのである。松岡はこれを得意とした。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンなどと直接ぶつかったのも松岡戦略である。
惜しむらくは、近衛の軽率な動きによって、ルーズベルトと直接ぶつかるチャンスを失ったことである。
第二次奉直戦争が始まる前、松岡は張の邸で酒を飲んだ。
その結果、彼は次の意味の暗号電報を大連にいる社長の安広伴一郎に打った。
「張作霖軍は近く北京に向け行動を起す。これは、直隷軍が東三省を襲うことが明らかになったためである。帝国政府ならびに、関東軍においては、静観されたい」
松岡は、張が中央に野心をもつのを好まなかった。松岡は張が満州を治め、その張と日本が平和|裡《り》に交渉して、満州利権を守り、開発をすすめることを希望していたのである。
戦争後、松岡を支那侵略の張本人のようにいうジャーナリストが多いが、それは当っていない。松岡は満州だけを考えていた。膨脹する日本の人口を収容するには、台湾、朝鮮は飽和状態である。あき地に等しい満州ならば、なお余地が残されている。かつ資源もまだ蔵されている。
支那は東洋の宝庫といわれるが、ここに手を出すのは危い。英米を初め列強と衝突するおそれがある。松岡は支那の広さを知っていた。はまりこめば泥沼になる。満州だけにとどめておいた方がよいのである。
かつ、松岡にはいま一つの大義名分があった。ある日、北京進出を主張する張に松岡はこう説いた。
「総司令。閣下は遼陽の南の海城の生れでしょう。閣下にはツングース族の血が流れている」
「ツングース?」
「左様。近くは大清帝国を建設した愛新覚羅氏の満州族、古くは秦《しん》、漢時の東胡《とうこ》、鮮卑《せんぴ》、唐代の契丹《きつたん》、それに遼河のほとりに栄光ある王国を建設した、遼、金、女真《じよしん》など、中国を常に脅かしていたのが、このツングース族ですぞ。閣下が馬に乗るのが上手なように、このツングースは古来遊牧騎馬民族でしてな。だから騎馬戦に滅法強い。それはそれとして、閣下には、この光栄あるツングースの国を再建する義務がありますぞ。滅亡した大清帝国にかわって、閣下が満州を統一するのです。それならば、わが満鉄はもちろん、日本政府も合力《ごうりき》を惜しみはしません」
「なるほど……」
張は、長い白馬の毛のついた采配《さいはい》のようなもので、食卓の蠅を追いながら考えた後、言った。
「松岡|先生《シエンシヨン》。先生の言うところはよくわかる。しかし、この作霖は同じ、大清の跡を継ぐのならば、やはり北京が欲しい。愛新覚羅の故宮に入って、大中国に号令するのです」
「そうですか……」
松岡は上目遣いに張をみつめながら言った。
「それほど中央に野心があるのなら、あえて止めはしません。しかし、これだけは言っておきます。閣下が満州軍をひきいて河北に入っても、日本軍は決して応援はしません。そして、満州以外に手を出していると、いずれ、この満州も、そして、閣下自身も危くなりますぞ」
「…………」
張はしばらく考えた後、答えた。
「有難う、松岡先生。よく言ってくれました。張もよく考えておきましょう」
しかし、この馬賊上りの総司令は、やはり支那全土平定の夢を捨てようとはしなかった。
第二次奉直戦は、張に有利に展開し、十月三十日には山海関《さんかいかん》が陥落、張軍はなおも南下を続けた。この頃、鎌田という満鉄奉天公所長から、大連の松岡のもとに「張作霖から小銃三千|挺《ちよう》を関東軍から回して欲しいと言って来た」旨の連絡があった。
そら来た、いわぬことではない……と松岡は渋面を作りながら、旅順にいる関東軍司令官白川義則中将を訪れて相談したが、もちろん、白川の答えは否であった。白川は後に上海事変のとき、祝日の式場で、テロリストの爆弾に倒れるのであるが、局地解決、不拡大方針はこの頃から彼の主義であった。
しかし、このとき、直隷派の将軍|馮玉祥《ひようぎよくしよう》がクーデターを行ったので、北京政権は、一応張作霖と和平を結ぶことになった。
ここで、張作霖のことを今少しくわしく述べておこう。
張は一八七三年奉天省海城の生れで、松岡より七歳年長である。
日露戦争中には馬賊の頭目として日本軍に協力し、ロシア軍の背後を衝いたりして、認められた。後、東三省(現在の中国東北、当時は奉天、黒竜江、吉林の三省)総督の配下となり、巡防隊長となった。一九一一年辛亥革命のときには奉天を警備して第二十七師長となり、実力を醸成した。一六年、奉天督軍兼省長となって、省の実力者となった。一八年には、安徽《あんき》派(安徽省は南京の西方)の軍閥と手を握り、揚子江流域の湖南、湖北から黄河の西方にある陝西《せんせい》省にまで手を伸ばした。この頃から彼は満州のみならず、中央支那にも野心を抱いていたようである。
一九二〇年、彼は吉林、黒竜江の二省を手に入れ、ここに満州を掌握し、いよいよ中央への進出を計ることとなった。
直隷派安徽派の軍閥間に争いが起きると、張は初め直隷派にくみして、チャハル、熱河《ねつか》両省を支配下においた。
この後、前述の通り、第一次、第二次奉直戦を戦い、その勢力は北支、山東にまで及んだことがある。一九二六年には、呉佩孚と結んで、北伐途上の蒋介石の国民革命軍と戦った。二七年には北京大元帥と自称するに至った。
二八年、国民革命軍に敗れ、日本軍の勧告によって、奉天に引き揚げる途中、奉天駅の近くで列車が爆破され、死亡した。この事件は、戦後、陸軍の河本大作大佐らが仕組んだことが事実であったとして発表された。
日本陸軍は、蒋介石の国民革命軍を圧迫するため、張を支援していたが、張が敗れてからは、山海関以内に引き揚げて、満州を固めるように忠告していた。
しかし、張は日本陸軍の意見に従わず、国民革命軍と和平を画策していたので、ついに関東軍の怒りにふれたものである。
数年前、松岡が張に与えた苦言は、ここに計らずも現実となったのである。
松岡はこの頃、満鉄副社長で、張のために嘆いたが、このへんの話は後に詳説するとして、『人間松岡の全貌』に「張作霖と松岡」という一章があるので、紹介しておこう。
松岡は張の配下とも親しくなったが、そのなかでも、奉天省長の王永江とは最も親しかった。
松岡は晩年こう語っている。
「僕は中国人と二十数年つきあって来たが、王永江ほど人格もあれば手腕もあり、忠実で謙虚な人をみたことがない。満蒙では有数の達識人であった。彼は旅大租借地の金州城に生れて、日本人の多いところで育ったので、その感化を受けたのかもしれない」
果して金州あたりの日本人がそれほど範とするに足るほど立派であったかどうかは、資料が少ないので何とも言えない。
張作霖は小柄な優男で、若い時は白馬|銀鞍《ぎんあん》上の好男子≠ネどとうたわれたこともあったが、時に非常な鋭さをみせることがあった。(筆者が小学生の頃、作霖の息子の張学良が女優と浮名を流して有名になったことがあるが、学良もなかなかの二枚目であった)
一体に満州人を含めて、中国人の性格は、多角的で複雑である。このため単純率直で気短かな日本人との間に誤解を生じ易い。
その点、張は中国人としては単純な方で、精悍《せいかん》果断ではあったが、率直で時に軽率な点もあった。ツングースの血を引いていたためかも知れない。
大体、上流にある中国人は、大切な問題には即答せぬのが普通である。話もまわりくどく、かなり雑談をしないと、核心には触れて来ない。中華料理の品数が多く、コースがいくらでも時間がとれるようになっているのはそのためかも知れない。
日本人のように、一丁あがり≠フ握り寿司や、ざるそばを愛好する島国の民族とは、環境が異るのである。
その点、張は、重要な問題にでも即答するという、江戸っ子?的気質をもっていたので、論理、弁論の好きな松岡とは気が合った。
ある年、アメリカの特派員が張と会見したとき、こう尋ねた。
「張閣下、チャイナには内乱が絶えないので、アメリカを初め各国はどの軍閥を相手に交渉をしたらよいのか判断に迷っております。一体、なぜこのように内乱が静まらないのでしょうか」
すると、張はあっさりこう答えた。
「それは要するに、大物の無頼漢たちがけんかをするからだ。そしてその無頼漢のうち、一番大物は私だ。私が治めれば、チャイナも治まる」
その態度は尊大であった。
もっと論理的な説明を期待していた米人記者は、あっけにとられて、次の質問が出なくなってしまった。
張には、このように暴君的なところがあった。一説によると、三十数人の妾《めかけ》を後宮に養っていたというから、トルコのスルタンを気どっていたのかも知れない。
しかし、この張も、気鋭の松岡には押しまくられることが多かった。
先に述べた鄭※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]線敷設の話を持ちこんだときのことである。張はこの培養線の延長には反対であった。彼には、満鉄が培養線という動脈を満州中にはいまわらせて、ついには満州をのっとってしまうかも知れないというコンプレックスがあった。
「東三省の全人民はこれに反対する。強いて工事を起せば、地元の住民たちは何をするかわからない」
地元の住民で誰が反対するかは、松岡にわかっていた。それは馬車輸送業者である。これらの地域では、輸送は馬に頼るしかない。馬車の業者は鉄道に反対した。西部劇にみる如く、ユニオン鉄道に対して、駅馬車の業者が反対するのに似ている。
地主たちも反対であった。今までは小作人を酷使して巨利を博して来たのに、鉄道が通り、文明≠ニいうものがやって来ると、小作人が言うことをきかなくなる。都会へ出たがる者も増えて来るに違いない。
松岡はまず、地主に大豆、高粱《コーリヤン》の輸送が便になり、利潤があがることを説き、次に馬車業者には補償を出し、駅の作業員に転業させるなどの代案を出した。
地元が軟化し、張作霖の屈服する日が来た。
しかし、張は表面上はあくまで強腰で、松岡の手腕に頭を下げようとはしなかった。
松岡が、
「張閣下、地元での反対はほとんど治まったようですから、工事に着手したいと思いますが……」
というと、張は渋面を作り、
「地元が賛成しても、私はあくまで反対である。しかし、それが満鉄の利益とあればやむを得ない。残念ながら、満州はこの張のものではなく、満鉄と関東軍の支配するところなのだから……」
と嫌味を言って横を向いた。
傲慢《ごうまん》な彼は、素直に現実を認めようとはしなかった。
一方、松岡にはこの満州のスルタン≠からかってみようという気持があった。彼は、すべてこの件について北京政府の承諾をとりつけていた。
松岡はにこにこしながら言った。
「張閣下、今のお言葉を、私は承諾と解しますがよろしいですな。ところで、同じ承諾するなら、そんなむつかしい顔をして承諾せずに、もっと明るい顔で、気持よく快諾して下さったらどうですか。大体、あなたは物の道理を知らない」
すると、短気な張は色をなして反撥した。
「どこが、なにが、私が物の道理を知らないといわれるのか?」
松岡は落着いて言った。
「では、ご説明致しましょう。すでにお聞き及びかと思うが、この件について満鉄本社は、すでに北京政府の許可をとりつけ、原契約も結ばれています。実は、満鉄としては、この契約にもとづいて、鉄道敷設を強行してもよかったのです。しかし、そこは、私と張閣下との間柄です。私はあくまでも総司令閣下の体面というものを尊重したまでです。しかし、間違ってもらっては困りますぞ。貴官は支那の政治機構からいえば、どこまでも一地方の司政官に過ぎない。一国を相手に契約を結ぶ力も権限もないのです。わかりましたか? 私があなたを、物の道理を知らないと言った理由が?」
こうして、松岡は滔々《とうとう》として張をやりこめた。このチャンスに、この軍閥の頭目を押えつけておく必要が松岡にはあったのである。
単純な張は兜《かぶと》をぬいで、
「わかった。何でも協力するから、好きなようにやってくれい」
そう言った後、
「どうも、松岡先生には酒と口ではかなわない」
と、また眉をしかめた。
ところが、いよいよ工事着手という段階になって、北京政府から少々物言いがついた。
それを聞いた張は、
「今更、北京が何を言っているか。文句を言うなら、兵力に物を言わせても承知させてみせるぞ」
といきりたち、今度は松岡が、
「まあ、まあ、こういうことは出来るだけ平和裡にすすめるべきでしょう」
となだめ役に回る始末であった。
張は馬賊のなかにもまれて成長したので、学問はなかったが、生一本なところがあったので、味方も多かったが、敵も多かった。小柄な割には女にももて、本当に知り合うとよき友となった。
松岡が親しかった奉天省長の王永江は、張について次のように洩らしている。
「総司令は、ときにひどく独断的で、人の意見をいれようとしないので、もうこれまでだ、袂《たもと》を分かとうと考えたことも度々あるが、結局、彼を憎み切れず、最後まで行をともにすることになった」
張は中国人としては礼儀を知らない方で、初めての相手でも、無理を平気で言った。矛盾した命令を出すこともある。しかし、どこか捨て切れない魅力を身につけていた。このため支持者もあり、またその率直な性格の故に、爆殺というような悲惨な最期を遂げたりするのである。
松岡はこのような張を「余計な学問を受けず生れたままの天真を保存していたためだろう」と評している。
そういう松岡にも、張と共通した性格があり、そのために、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンといった独裁者と気脈の通じるところがあった。
これは、これらの独裁者たちに、程度の差こそあれ、共通した性格が含まれていたためであろう。
松岡は張に対して、真の意味での友情を感じていたと思われる。
一九二七年(昭和二)松岡は北京を訪れて張に会った。
張は大元帥を名乗り、得意の絶頂にあった。しかし、松岡はしきりに張の中央進出をいさめた。
「満蒙の開発と保境安民が閣下の任務であり義務だ。支那全土平定などは、こう言っては失礼だが、閣下の手にあう事業ではない。即刻手を引いて、奉天にお帰りなさい。悪いことは言わない。閣下が中央の軍閥と事を構えていると、満州はお留守になる。関東軍も満鉄もそれを喜ばない。満蒙を発展させ、満鉄と共存共栄するのが、閣下の最良の道ですぞ」
「有難う、松岡先生……」
張は、松岡の真情を吐露した忠告に、涙を浮べて、その掌を握った。
しかし、この時の張は、中央支那の内紛に巻きこまれて、身動きがとれなくなっていた。
張は翌年六月爆殺され、この北京での松岡との会談が最後の別れとなったのである。
筆者の私見を述べれば、張が松岡の忠告を容《い》れて、関内(山海関以南=[#「=」はゴシック体]支那本部)に野心を持たず、満蒙の整備に心を砕いていたならば、満州事変も、ひいては太平洋戦争も起らなかったかも知れない。
なぜなら、松岡の計略では、満州に日本の勢力を伸張させるには、あくまでも張に満州を支配させ、その張と提携して満蒙の開発を行った方が、支那中央政府からの直接干渉を防ぎ得て好都合と考えられたのである。
つまり、中央政府に対して、張の勢力を防壁に立て、その囲いのなかで開発を行おうというのである。
ところが、張は松岡の忠告を容れず、中央に野心をもち、ついに関東軍に爆殺されるに至った。
この結果、日本政府は満州の経営に関して、北京あるいは南京中央政府と直接交渉を行わなければならなくなり、中央政府は日本を侵略者とみなし、排日抗日運動をあおった。
このため軍部は満州を支那本部から切り離そうとして、まず軍事占領を考え、満州事変を起す。ついで、満州国を成立させ、傀儡《かいらい》政権を樹立し、強引に満州国を日本の保護国化したのである。
このため、英米等列強のにくむところとなり、日本は国際聯盟脱退から、太平洋戦争の道を歩んでゆくのである。
そして、張に満州固守を進言した松岡が、やがて、国際聯盟でサヨナラ演説を行い、三国同盟を締結して、太平洋戦争への歩みを助けることになったのは、歴史の皮肉と言うほかない。
このへんで日本国内の政権の推移と、国際情勢の動きに眼を移してみよう。
摂政宮|狙撃《そげき》事件で総辞職した山本内閣のあとをうけて、枢密院議長の清浦|奎吾《けいご》が組閣の大命を受けた。
清浦は熊本県出身の官僚政治家で、第二次松方内閣を皮切りに、法相三回、農商務相一回などを歴任したが、これという経綸《けいりん》の才を持たぬ男とみられていた。
清浦の組閣を各政党は喜ばなかった。
原敬、高橋是清と政党内閣が続いたが、その後は山本権兵衛、清浦、と軍人、官僚が政権をとっている。そもそも帝国憲法によれば、政党が内閣を組織するのが正道である。そこで、護憲運動というのが頭をもたげた。
加藤高明の憲政会、高橋是清の政友会、犬養毅の革新|倶楽部《クラブ》は、連合して護憲運動に力を入れた。
この年一九二四年(大正十三)五月、総選挙が行われ、憲政会が第一党となった。
六月、清浦内閣は総辞職し、憲政会の党首加藤高明に大命が降下した。
世論は好感をもってこれをうけとめた。大正デモクラシーの影響もあったのであろう。
この後、第二次加藤内閣、若槻礼次郎、田中義一、浜口雄幸、第二次若槻、犬養毅と、五・一五事件まで、足かけ八年間にわたって政党内閣が続く。そして、政党内閣が終り、挙国一致超党派内閣となってから、日本は軍国主義のなかにのめりこんでゆくのである。
しかし、八年間続いた政党内閣も、決して大正デモクラシーのメリットだけを実現していたわけではない。
一九二五年三月、第五十議会で普通選挙法が通過し、二十五歳以上の男子すべてに選挙権が与えられることになり、日本は民主化の大きな一歩を踏み出した。
しかし、同じ議会で後年悪名高き治安維持法が成立したことも見落してはなるまい。
これは、この年一月、日ソ条約が調印され、日本がソ連を正式に承認したため、共産主義が国内に流入することを恐れてとられた措置である。治安維持法は昭和になってから、さまざまな形で官憲の言論弾圧に利用されるが、その第一条を掲げれば次の通りである。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
第一条 国体ヲ変革シ、又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ、又ハ情ヲ知リテ之《コレ》ニ加入シタル者ハ、十年以下ノ懲役又ハ禁錮《キンコ》ニ処ス
[#ここで字下げ終わり]
さて、中国及びヨーロッパでも政局はめまぐるしく動いていた。
一九二一年(大正十)十一月イタリアでファシスト党成立、翌、一九二二年、ファシスト党政権獲得、一九二三年十一月、ミュンヘンでヒトラーの一派決起するも鎮圧さる。一九二四年九月、アメリカで排日移民法案両院通過。一九二五年一月、ムッソリーニ内閣全閣僚をファシスト党より任命、同三月、孫文死去、同五月三十日、上海を皮切りに日系資本の紡績会社のストライキが起り、いわゆる五・三〇運動が燃え上る。そして同十二月、奉天では郭松齢《かくしようれい》が張作霖に反抗し、いわゆる奉天内変が起るのである。
五・三〇運動は、上海に始まり、広東、青島等支那全土に拡がった。歴史に残る反帝国主義運動で、各地で労働者や学生が警官と衝突して、死傷者を出している。
この頃、松岡は北京にいた。
六月六日の夜、在北京日本記者団を満鉄公館に招いて、協議した。テーマは五・三〇運動に対する対策である。
この頃は雨続きで松岡が演説をしていると、窓の外を雨に濡れながら、排日デモ隊が通った。
松岡はこの運動が満州に波及することを恐れた。いうまでもなく満鉄は多数の満人を雇傭《こよう》している。大連の埠頭《ふとう》では信じられないほど低賃銀の苦力《クーリー》が荷役の労働に従事している。これらの労働者がゼネストを打てば、満鉄は麻痺《まひ》してしまう。
松岡は五・三〇運動の実態を調査し、直ちに大連にいる安広社長に意見書を送った。彼の意見は、早急に満鉄関係の満人労働者の作業実態、給与待遇等を調べ、善処し、ストライキを誘発しないようにすべきである、という点にあった。
このため、満鉄の重役会議は「満人従業員罷業予防に関する件」について協議し、松岡の意見を容れて、「満鉄と同業従事労働者待遇調査」を行うこととなった。幸いに満鉄にはストの影響はみられなかった。
この頃の松岡は支那服を着て、支那語の学習に力を入れていた。語学の得意な彼は、上達も早く、支那の小説類を読破し、支那の芝居をも鑑賞出来る程度となった。出来るだけ支那と同化したいという彼の意図がここにみられる。
但し、正式の対外交渉となると、支那語で滔々とやるというわけにはゆかず、同文書院出身の社員の通訳を同行した。しかし、勝ち気な彼は、専門家である通訳に向って、「いや、そこのところはこのように強調すべきだ」などとアドバイスしていたというから、性格というものは現われるものである。
五・三〇運動のあった同じ年の年末、郭松齢の反乱、いわゆる奉天の内変≠ェあった。
郭松齢は、奉天の出身でもともと張作霖の部下であったが、部内切ってのインテリであった。
彼は、作霖の息子学良の教育を担当し、作霖の信任も厚かった。
しかし、元来インテリの彼は、馬賊上りの頭目の下にいることを快しとせず、ついに北京の馮玉祥と手を結び、東北三省を北京の下に入れるべく反逆を企てるに至るのである。この点、宇垣一成は『宇垣日記』のなかで、郭を「明智光秀的」と評しているが、当っていると言えよう。
この年も押しつまった十二月初旬、郭は張の不意を衝いて兵をあげ、一時は張も危いかに見えた。
このとき大連にいた松岡は、直ちに旅順の関東軍司令官、白川義則中将のもとにかけつけた。
「閣下、もし、張が討たれると満州はまとまりがつかなくなります。とくに馮玉祥軍が山海関を越えて北上して来ると奉天は不利になります。どうか、満鉄の周辺を固めて下さい」
不干渉主義の白川も、今回は事重大とみて腰をあげ、関東軍に動員を命じた。
しかし、勢いに乗る郭松齢軍はなかなか手ごわく、本腰を入れない関東軍の小部隊では抵抗し難い。
当時、奉天総領事をしていたのが松岡より二期後輩の吉田茂である。吉田は後年太平洋戦争に反対し、和平主義者であったメリットを買われて、戦後首相に推されたが、奉天時代の吉田は必ずしも慎重論者ではなかった。
彼は松岡とともに張作霖を援助して、満蒙に日本の利権を拡張することを考えていたので、郭松齢の反乱が起きると、直ちに外務省に電報を打って、張を支援する手段を講じて欲しい、と申し入れた。
時の外相は、国際協調主義で有名な幣原喜重郎である。
幣原は閣議でこの問題がとりあげられたとき、「満州の一部の情勢ばかりを見て、北京、南京方面を閑却する態度は、帝国のために危険である」と述べて、張支援のための出兵に反対した。
吉田茂は幣原の回答には大いに不満で、ついに加藤総理に直訴を試みた。
奉天における吉田は高姿勢であった。その理由として、『落日燃ゆ』は次のように説明している。
パリ講和会議に、松岡らと共に随員として参加した吉田は、その後ロンドン大使館勤務、天津総領事を勤め、待命となって日本に帰った。今度はスウェーデン公使くらいに出られるだろうと期待していたところ、幣原外相に呼ばれて、
「ご苦労だが、奉天総領事に行ってもらいたい」
と言われた。
また総領事か、と吉田はがっかりした。後年の吉田総理にみられる如く、吉田は一種の権力主義者で、出世欲や自己顕示性は強かった。
予期していた幣原は、慰撫《いぶ》するように言った。
「公使になれなかった代りに、君を高等官一等に申請しよう」
「そうですか」
吉田は大きな唇をへの字に曲げ渋い顔をして承諾した。
しかし、吉田の高等官一等昇格は実現しなかった。幣原が形式上同期の広田弘毅と並べて内閣に申請したところ、審査委員会では、本省勤務の長い広田の昇進を認め、吉田は年限不足で失格としてしまったのである。
吉田は一層渋い顔をした。この上は奉天でひと暴れしなければ、と彼は画策した。彼は幣原を訪ねてこう要求した。
「仰せの通り奉天に赴任しますが、満鉄理事の松岡洋右らに聞くと、満州はいま張作霖政権と満鉄、関東軍が三つ巴《どもえ》になって、大もめにもめていると聞きます。そのようなところに、一総領事として着任しても、鼻先であしらわれるだけです。ここは是非、総理の全権委任状がいただきたい」
「全権委任状?」
幣原は顔をしかめた。
「そうです。一総領事ではなく、満州における外交には、日本を代表して進退を決し得るという親任状です」
「ふうむ……」
幣原は腕を組んで考えた後、一応承知して、義兄である加藤高明首相に計った。
「ふむ、この吉田という男は牧野伸顕伯の娘婿だったね」
閨閥《けいばつ》に関心の深い加藤は、吉田の名前を知っていた。
「まあよかろう。しかし、全権委任の親任状は大げさだな。まあ、満鉄、関東軍、それに張軍閥への紹介状兼推薦状というところでどうかね……」
このようないきさつで、加藤は強く吉田を推す紹介状を書いて渡した。吉田はこのお墨付を抱いて奉天に赴任した。
そして、このような過去のいきさつから、吉田は奉天内変について、善処方を強く加藤総理に訴える態度に出たのである。
一方、松岡も幣原外相に長文の手紙を送って張を支援することの重要性を説き、また軍部中央にもその意見を反映させるべく努力した。このあたりは、吉田と松岡の合作というところである。
十二月十五日、総理加藤高明は、在満日本人の生命財産保護と満鉄沿線の利権確保を名目として、満州出兵を決意し、朝鮮軍から歩兵二個大隊と野砲兵二個中隊が、また内地からは混成第一旅団が奉天に派遣された。
その兵力はさして大きくはなかったが、このため張の奉天軍は勢力を盛り返し、十二月二十五日、郭松齢は隠家《かくれが》で夫人とともに、射殺され、遺体は反逆者へのみせしめとして、荷車にのせられ奉天市内をひきまわされた。
これで一カ月に近い奉天内変は終り、張の主権は安泰となった。
しかし、この奉天内変は、一部将の反乱というだけでなく、別の意味で、日本の外交界に大きな影響を与えた。
すなわち、幣原外交対松岡外交の対立である。
この内変の当初、幣原は持ち前の内政不干渉、国際協調主義を打ち出し、満州出兵に反対であった。
しかし、結局、政府の裁決は、出兵となり、松岡の自主的強硬外交の勝利に終っている。幣原のヨーロッパ的外交術とその思考法は確かに一理あり、欧米にとっては好ましく、また、太平洋戦争に日本が敗北して後は、先見性のあるものとの高い評価を受けたが、国家的に膨脹を続けていく当時の日本としては、喰い足りぬものがあった。
当時の幣原外交を批判する人々は、幣原外交は、あまりにも全体的すぎて、局所的な事件に善処する手段を知らない、和平主義は結構であるが、事なかれ主義に終始し、日本国の利権擁護あるいはその伸張について熱意を欠いている、また外務省の出先機関に対してあまりにも全体を訓令によって縛り過ぎ、出先に自由裁量の余地を与えない、等と指摘している。
松岡は当時の外務省ならびに幣原外交を評して、「外務省には総論はあるが各論がない」と言って、その抽象性を批判した(『満鉄の真使命』)。
松岡はさらにこう述べている。
「幣原さんは、満蒙問題もうまくやろう。そして、中支の揚子江沿岸の貿易もうまくやろうと、よくいえば総合的、早くいえば漠然と考えている。この二つを調和させて両立させると言えば、言い方は立派であるが、実はそうはゆかない。その点、私は満蒙のみに的を絞って来た。満蒙以外に色眼を使うのは間違いのもとである。さらに言えば、幣原さんは、満蒙もうまくやろうというが、何ら具体策が示されて来ない。これは当然の話で、支那や満州に全然足を踏み入れたことのない幣原さんに、満蒙問題がわかるはずはない。要するに、現場の勉強をしないで、欧米方面によい顔をする妥協外交だから、波乱が起きたときには腰が砕けてしまうのだ。もう一つ幣原さんの大きな誤謬《ごびゆう》の一つは、軍部を外務省が牛耳れると考えていることだ。軍部というものは、そんなに甘くない。軍部こそ外務省を牛耳ろうとして、虎視たんたんとしているのであって、この点、外務省としては十分警戒して当るべきではないか。外交が軍人を引きずってゆけるなどという話は、欧米のどこかの国ならばいざ知らず、日本では至難に属する業というべきであろう」(「松岡洋右縦横談」)
後年、日本の国際外交の二つの流れとなった幣原外交と、松岡外交は、この奉天内変事件を契機として、はしなくも刃《やいば》を交わすことになったのである。
さて、このへんで、後年、松岡とともにA級戦犯に指定された広田弘毅と、第二次近衛内閣におけるパートナー≠ニなる近衛文麿の動きを一|瞥《べつ》しておこう。
ベルサイユ会議で、松岡や佐分利貞男がパリで活躍しているとき、地味な広田は、本省にあって通商局一課長として留守を守っていた。
その後、一九一九年(大正八)には、ワシントンの駐米大使館の一等書記官として、幣原大使のもとで働くことになった。このとき佐分利も一等書記官として赴任し、二人はライバルの位置におかれた。
翌々年、広田は日本に帰り、本省情報部の課長となった。広田が日本へ帰ると間もなく、ワシントン軍縮会議が始まった。
幣原の覚え目出度く、参事官に昇格してワシントンに残っていた佐分利は、甲斐甲斐《かいがい》しく、大使や全権の補佐を勤めた。
続いて広田は情報部の次長となり、大正十二年九月、震災後の山本内閣では、欧米局長に抜擢《ばつてき》され、ようやく外務省の主流に棹《さお》さすこととなった。
一九二四年(大正十三)加藤高明内閣が出来て、義弟の幣原は待望の外務大臣に就任した。
広田は動かなかった。
一九二七年(昭和二)四月、オランダ公使として、陽の当らない場所に送られた。
その頃、佐分利は通商局長、条約局長を経て、待望の駐支公使となって北京に赴任し、東亜の外交を切り回し、一九二九年(昭和四)十一月、箱根富士屋ホテルで怪死するに至るのである。
一方、後の青年宰相近衛はどのような道を歩んでいたか。京大在学中から公爵議員として貴族院に議席を持っていた近衛は、ワシントン会議の随員で国際会議のあり方を学び、大いに日本の政界を批判するところがあった。
一九二二年(大正十一)九月、彼は貴族院内の研究会に入会し、青年政治家たらんと志した。当時三十一歳である。岡義武『近衛文麿』(岩波書店)によれば、研究会というところは、従来、歴代内閣となれあい、内部腐敗が激しいとして、非難を招いて来たところであった。しかし、近衛は、研究会の改革を考え、いずれは自分がこのグループのリーダーとなり政界に打って出ようという考えを抱いていた。
この近衛青年の覚悟を、目を細めてみていたのが元老西園寺公望であった。
西園寺は、文麿の曽祖父|忠煕《ただひろ》から書道を学んだことがあり、また、オーストリア・ハンガリー駐在公使として赴任するとき、たまたまドイツに留学する文麿の父篤麿を同伴したよしみもあって、近衛家には格別の親しみを抱いていた。家柄からいっても、近衛家は五摂家の筆頭、西園寺は九清華の筆頭で、近衛の方が上格であった。
大正十三年、清浦奎吾が組閣したとき、官僚出身の彼は、政党政治家を避け、貴族院の研究会から大部分の閣僚を採用した。これには、研究会幹部からの画策もあり、護憲派に共感を抱いていた近衛は、そのような研究会の保守的な野望に対して批判的であった。
同年六月、加藤高明内閣が出来たとき、近衛は研究会の常任委員としてさらに一歩を踏み出した。西園寺はこれを喜んで、高等?な政界浪人である松本剛吉を近衛に紹介して、政界遊泳術の手ほどきをしたりした。
第一次加藤内閣の大きな所産は前にも書いた通り、普通選挙法と治安維持法であったが、当然のことのように、貴族院では普選には反対であった。税金を全然払わぬ者に選挙権を与えると、上流の特権階級が圧迫されると考えたのである。これに対して近衛は、衆議院がこれを通そうというのなら、貴族院も第二院として支援すべきだと演説して注目を浴びた、青年政治家近衛のささやかな第一歩というべきであろうか。
その後、近衛は大正十五年研究会常任委員会の相談役となり、さらに、一九二八年(昭和三)二月には、公侯爵議員より成る火曜会という新グループを結成し、貴族院革新?の旗印をあげるのである。
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六章 満鉄副総裁
松岡は一九二七年(昭和二)七月、満鉄副社長(後に副総裁と改称する)となっているが、その前年三月、一応満鉄をやめている。
鄭※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]線、吉敦線(吉林―敦化間)を完成せしめた松岡は、休養を欲していた。
そこへ、副社長として幣原の友人である大平|駒槌《こまづち》が着任したので、やる気を失った。おりから、大連に高島易断の易者がやって来た。松岡がみてもらうと、「貴公は将来大政治家になる人である」という卦《け》が出た。
松岡はひそかに代議士になろうと考えていた。代議士から外務大臣になり、総理大臣になって、世界を相手どって、東洋の盟主%本の地位を向上させ、アジアの発展に貢献するのが、彼の宿願であった。
松岡は辞意を洩らし始めた。
これに対し、大正十五年三月、牧野伸顕から松岡あてに慰留の手紙が届いた。
松岡はかつて、牧野がベルサイユ会議の全権として、パリに赴いたとき同行したので、面識があった。また、牧野は山県有朋を通して、松岡がやり手≠ナあることを聞かされていた。牧野は満蒙の重要性を説いて、留任をすすめた。しかし、そのようなことは松岡は百も承知であった。
松岡は牧野に返信を出した。
恩顧を受けた早川社長が逝去した頃から辞意を蔵していたこと、懸案の二路線が完成したら、職を辞することの決意は堅いこと、後任に適任者を得たので、安んじて勇退出来ること、等を並べ、辞意の堅いことを伝えた。
大正デモクラシーも終りに近い十五年三月二十三日、松岡は、一応、想い出深い赤い夕陽の満州に別れを告げて、大連から下関行の汽船に乗った。
東京に帰る途中、松岡は故郷の室積浦に寄った。そして、そこで、妹藤枝の長女寛子が、隣村の秀才佐藤栄作と結婚したことを知った。佐藤は当時二十五歳、東大法科出、鉄道省勤務、海のものとも山のものともわからぬ青年官吏であったが、松岡は佐藤を高く買い、学資の援助をしたこともあった。
彼はかねて、姪《めい》の寛子に「栄作は賢い男だ。きっと今に大物になる。お前はよく内助に努めよ」と語っていた。
栄作は、松岡の予言通り大物≠ニなり、ノーベル平和賞を受けて昭和五十年国民葬をもって葬られたが、その政治家としての業績が、果して松岡の期待通りのものであったかどうか、地下の松岡に聞いてみたいものである。
さて、待望の浪人生活に入った松岡は、政治家としての第一歩を踏み出すべく、青山一丁目の近くに居を構えた。
『人と生涯』によると、青山一丁目から渋谷への道をゆくと左側にヤング軒という理髪店がある。これを左に曲って、二十メートルぐらい行ったところに、松岡家があったという。これは青山子爵(元岐阜県|郡上八幡《ぐじようはちまん》城主?)の持ち家で、玄関に車まわしがあるが、人力車用で、その前に梅の木があり、応接間も明治時代の作りであった。
この青山の家には雑多な人物が出入りした。外務省関係、満鉄関係、長州の後輩、大陸浪人etc……である。
松岡は夜読書をするので、昼二時頃までの客は皆書生に追い返させた。
ある日の朝、背広を着た小柄な中年男が青山の邸を訪ねた。
「わしが来たと松岡に伝えなさい」
と彼は言ったが、当然のように書生は追い払った。この男は、当時第十六師団長(京都)を勤めていた南次郎であった。松岡はあとで、無二の呑み友達に玄関払いをくわせたことを悔いた。
青山の本宅のほかに、松岡は御殿場に別荘を建てた。(この家は今も竜子未亡人が住んでいる)この家の庭に柿の木があった。左党でありながら松岡は柿が大好物で、実をたくさんつける頃になると、別荘に来てこれを試食するのを楽しみにしていた。
後に、昭和七年、国際聯盟会議でジュネーブに赴いたときも、湖岸の公園に柿の木があるのをみつけ、
「うーむ、少年の頃を思い出すのう。山口の柿もうまかった。寺の柿の木に登って実を叩き落し、和尚におこられたことを想い出すなあ」
と懐しそうに見上げていたそうである。
松岡の浪人生活は、一九二七年(昭和二)七月の満鉄副社長就任まで一年四カ月続くが、その間の大きな動きは、三カ月にわたる中国政情視察旅行であり、そのハイライトは、昭和二年三月、南昌における蒋介石との会見であろう。
松岡が満鉄をやめた年、つまり、大正十五年の七月、蒋介石は国民革命軍総司令に就任、北伐を開始した。
おりから、北京では、張作霖が呉佩孚と手を握り、合作政権をスタートさせたところであった。中国の南北戦争はここにスタートを切った。
この年十二月二十五日、大正天皇は崩御され、多事多難、戦乱と会議と条約にあけくれた大正デモクラシーの十五年は終りを告げた。
松岡が蒋介石と会ったのは、昭和二年三月十日、|※[#「番+おおざと」、unicode9131]陽湖《はようこ》の南にある南昌においてである。視察団の一行は、政友会幹部で後の満鉄総裁山本条太郎を団長格に、外務政務次官森恪、松岡、それに中日実業の江藤豊二、医学博士の名倉重雄が同行した。名倉は整形外科では知られた医師で、戦後名古屋大学医学部教授、整形外科部長を経て、東京の厚生年金病院長となった人物である。
視察の目的は、北伐の成否にあった。
蒋介石の北伐が成功すると、支那は蒋に統一される。それならば、あらためて蒋に仁義を切っておかなければ、わが満蒙の権益は危うくなる。まず、現地の実情を把握《はあく》して、対策を樹立すべきである、というので、政友会総裁田中義一が、以上のメンバーを南支に派遣したのである。
田中がこの挙に出たのは、一つには幣原の軟弱外交≠ノ田中らが業を煮やした結果ともいえる。
支那の南北戦争に関して、幣原外相は相も変らず内政不干渉を唱えて、その実態を探ろうともしなかった。
そこで、東方会議を主宰し、満蒙問題に関心の深い森恪が、山本や松岡を誘ったものと思われる。
一行は三月十日|九江《きゆうこう》より鉄道で南昌に向い、午後四時、南昌駅についた。
この後、午後七時から蒋介石の総司令部に招かれ、食事をともにした。蒋は、軍服で愛想よく一行を迎え、蒋側の幹部、張群、朱培徳《しゆばいとく》、殷汝耕《いんじよこう》らも同席し、洋食を供せられた。
蒋の右側に山本、左側に松岡が席を占め、松岡は得意の支那語で会談、食事後も午前零時まで別室で歓談した。
このときの蒋の第一印象はいかがであったか。
松岡洋右著『動く満蒙』(昭和六年七月、先進社刊)三百十二ページより抜粋してみよう。この印象記は、「長江を遡航《そこう》して南方革命を見る」という章に収録されている。
松岡は蒋について次のように述べている。
「さて、蒋介石その人はどんな人であるかと申しますと、非常に気持のよい人で、物を尋ねると、そのポイントに真っ直ぐ、返事を簡単明瞭にする人である。無口な人だと聞いていたから、私のようにしかめ面でもしているかと考えていたが、非常に明るい顔をした人で、普通日本の新聞に出ている蒋介石の写真というものは、あれは蒋介石ではない。あれは広東で撮った写真で、現在の実物とは違っている。あれは光線の具合で、顔が非常に白っぱくれて撮れている。ちょっとみると弱々しくみえるが、本当の蒋介石は日に灼《や》けた、むしろ赤ら顔をしている。年は今年四十歳であるが、もう頭のてっぺんは薄くなっている。額のちょっと隆起した人で大きな眼をしている。非常な明るい健康そのもののような顔付である。体つきは、中肉よりもやややせ型で、非常にしまった感じのするイギリスの陸軍将校などによくある体で、贅肉《ぜいにく》などは一匁もないような体をしている。話をしてもはきはきした人で、六、七時間も語り合ったが、無駄口を一つもきかないというところをみると、頭も極くはっきりした人間である。非常に人間が正直であるとは聞いていたが、行って問答してみても確かに正直であると思われる。断言してもよろしい。吾々に対しても、普通の人ならばそうは言わないだろうと思ういやなことでも、真っ直ぐ言って来る。支那人のなかでは、極く正直な人――そういうと、支那の人は怒るかも知れませんが――少しの悪気もないフリーな気持のよい正直な人である」
これは、中国視察旅行から帰って間もなく、五月、東京で講演した速記録から抜いたものであるが、松岡の弁舌のなかに、若き日の蒋介石の姿が彷彿《ほうふつ》としており、また物の見方に、松岡の性格もうかがわれて興味深い。
しかし、この会談で何を語り合ったかは、この講演では明らかにされていない。この点に触れる前に、蒋介石の経歴をのぞいておきたい。
蒋は一八八七年上海に近い浙江《せつこう》省に生れた。松岡より七歳年下で、近衛文麿より四歳年上である。
少年時代から革新的で、十六歳のとき、清朝の支配に反抗するため弁髪を切った。一九〇六年、日本に留学、帰国して保定軍官学校に入り、二十一歳で再び来日し、陸軍士官学校で軍事訓練を学んだ。
一九一一年、辛亥革命に際しては、上海の接収を指揮し、革命派の軍事面の実力者となるとともに、上海財界とも深いつながりを生じた。孫文の信任により、一九二三年革命軍参謀長に就任、国共合作によってソ連に留学、二四年広東に近い黄埔《こうほ》軍官学校長となった。
二五年、孫文の死後はその遺志をついで北伐が開始され、蒋は国民革命軍総司令として、軍事面での最高責任者となり、北京の張作霖や呉佩孚と対抗することになった。
蒋の北伐の初期の動きについては、日本にも関係が深いので少しく書いてみよう。
一九二六年(大正十五)七月、蒋のひきいる国民革命軍は広東を発《た》って北伐を開始した。
主力は武漢をめざし、一隊は福建から浙江省に入った。
一九二四年、すでに国共合作が成っていたので、革命軍のなかには多くの共産党員がいた。当時三十一歳の毛沢東も郷里の湖南省に潜行して、農民を組織し、革命軍の先がけを成した。
八月、長沙、岳州を占領、九月、漢陽、漢口、十月、武昌、十二月、九江、南昌をそれぞれ占領。国民政府は広州から武漢に移った。
この頃から、武漢地方は革命の意気大いにあがり、その方法は極端に左翼化し、翌二七年(昭和二)一月には、九江のイギリス租界に侵入した。これら急進派の主力は、共産主義者であった。骨の髄からの共産主義者でない蒋介石は、このような急進的な動きには反対であった。彼は左派が牛耳る武漢の国民政府と手を切り、南昌に国民革命軍総司令部をおき、独自の力で北伐を開始することとなった。
三月に入ると、左派の牛耳る武漢の国民政府は、蒋介石を非難し、三月十一日の国民党中央執行委員会全体会議は、蒋の指揮する国民革命軍総司令部を廃止し、蒋は軍事委員会の平委員にされた。
松岡ら一行が訪れたのは、三月十日であるから、孤立化をかこっていた蒋は、喜んで一行を迎えたのである。もし、蒋が革命軍の全権を握って、勇ましく北伐に励んでいたときであったなら、東亜進出を唱える張本人である森恪を含む政友会の使節を、あのように歓迎したかは疑問である。
もし、北伐が難航した場合、蒋には、日本から武器弾薬を借りようというはらがあったのかも知れない。
幸いに蒋は孤立化して自滅するようなことはなかった。夫人の宋美齢《そうびれい》を中心とする浙江財閥の援助も大きかったであろう。容共に反対の勢力は蒋のもとに結束し、武漢打倒、北伐続行を叫ぶ奇妙な情勢となった。
松岡らと別れた翌月、すなわち二七年四月、蒋は反共宣言を行い、四・一二クーデターで、上海総工会を占領し、左翼労働者の組織を潰滅《かいめつ》せしめた。さらに兵をすすめて、武漢政府を併合し、南京国民政府を樹立して全国統一を計った。翌二八年、ついに北京政府を倒し、北伐を完成し、国民政府主席に就任した。
この頃、大元帥を名乗った満州の総司令張作霖はすでに亡く、蒋はやがて満州国の独立を中心とする日本の侵略と身をもって対処してゆかなければならなくなるのである。
さて、二七年三月十日夜、蒋にとってシュトルム・ウント・ドランクの季節に、松岡と蒋は深夜まで何を語り合ったか。
前述の演説の速記録から推測をしてみよう。
松岡はこう語っている。
「蒋介石氏はもとより革命の前途については楽観していた。そして自分は共産党ではないとはっきり申しておった。(筆者注、政友会や日本政府、軍部のかんぐりはこの点であろう。広東政府にはボロジン、ガレンなどというロシア人が来て政治、軍事を指導していたので、日本は支那の赤化を何よりも恐れていた。従って、この時、松岡も遠慮なくこの点を質《ただ》したものと思われる。ついでに言えば、蒋軍が赤軍でないならば、日本は経済的援助を惜しまない、というような形勢判断も匂わされたのではなかろうか)この会談から我々が帰納して考えてみると、まず蒋介石の当時の考えは、上海南京を略取して、武漢の攻略はこれからである、ということらしい。このあとも、揚子江のすぐ北には進まず、江南を整理する、というように考えていたらしい。この点について付言するならば、元来北伐軍なるものが昨年広東を出発して揚子江に向って進出したときには、先生(蒋のこと)たちは、あれほどの急速力で進展し得るものとは予想しておらなかったらしい。ところがやり出してみると、無人の野をゆくが如き勢いで発展した。これは蒋の軍事力のみによるものではない。支那では、強い勢力が来ると、寝返りを打つものが多い。また、宣伝の力というものもあった。民衆も、民族、民権、民生という三民主義(一、国内諸民族の平等と外国の圧迫からの独立、二、民主制の実現、三、平均地権、資本節制)を掲げた革命軍に魅力を感じたことは事実である。私共が長江をさかのぼって九江に至る頃が、その寝返りの最中であった。
こうして、蒋介石は、長江方面の実権を手にしたが、ここに不思議な分解作用が生じた。元来、支那ではある勢力が相当大きなものになると分解作用が起きる、という一つの原則がある。この頃、湖南、湖北では共産党が非常に露骨に活躍しておった。そして、蒋介石はやがて、共産勢力と手を切ることになる……。ところで、いわゆる列強の支那に対する帝国主義について彼はどう考えているか。はたまた、朝鮮、台湾、あるいは日本の生命線である満蒙について彼はどう考えているか、これについても語りあったのであるが、その内容は残念ながら、公開の席では発表しかねるのであります」
一番肝心の点について、この速記録は何も触れていない。
しかし、筆者の推量によれば、一つのことはいえる。それは蒋が北伐を完成して全中国の政権をとった場合、満蒙における日本の権益は従来通り残しておいてもらいたい、その代り、北伐に関して、山海関までならば、日本政府及び軍部は介入しない、というような交換条件が出されたのではなかろうか。いが栗頭の松岡は、一見座談にみせかけて、真剣にこの交換条件を説いたものと思われる。これに対して、蒋は黙諾を与えたのではないか。それは、その後の満州事変、満州国の成立における彼の態度から類推されるのである。
蒋介石は、満州事変から昭和十二年の支那事変に至る日本軍の侵略に対して、正面からこれを排除する動きをみせず、「内を安んじ、外を攘《はら》う」と称しながら、国内統一、紅軍討伐を先とし、日本軍の華北侵略で反蒋的な宋哲元の第二十九軍が消耗するのを喜ぶふうが見えたのである。
松岡と蒋の会談の裏面推測から、ここまで話を飛躍させたのは、もっぱら筆者の空想力の所産で実証はないが、こう考えれば筋道は一応通る。
いずれにしても大物好きの松岡戦略≠ェここでも大いに幅を利かし、言いたいことを言って蒋を煙に巻いたことは、想像に難くない。
ところで、蒋が北伐完了の際、満蒙における日本の権利を認める代りに、日本は北伐には干渉しない、という内約?の実証は何かあるのか、といわれると、これがないことはないのであるから不思議である。
それは、松岡らが南昌を去って間もなくの上海、南京における支那側の荒々しい動きに対する日本側の実に意外とも思える軟弱な処し方である。
三月二十一日、上海郊外に迫った国民革命軍の動きに呼応して、上海の労働者は武装暴動を起し、行政機関を占領した。二十四日には、南京も国民革命軍に占領された。南京に入った革命軍は、日本人を含む外国人に暴行を働いたので、揚子江の下関《シアカン》港付近にいたイギリスとアメリカの軍艦は、南京市内の革命軍陣地を二時間にわたり砲撃した。
ところが、日本の駆逐艦隊は、一発も撃たなかった。へたに砲撃すると、革命軍を刺激すると司令は判断したということになっている。市内の日本人は南京領事館に集合したが、革命軍は領事館に押し入り、暴行を加え、拳銃で撃ち、財産を強奪した。
このとき、あわれをとどめたのは、たまたま通信連絡施設を設置するため領事館に来ていた荒木亀男大尉以下十一名の日本兵であった。
駆逐艦|檜《ひのき》乗り組みの荒木大尉のひきいる十一名の海軍兵士は、押しよせる革命軍に対抗すべき、唯一の日本軍側兵力であった。
しかし、日本外務省から南京領事に与えられている訓令は、内戦不干渉であり、駆逐艦隊司令から荒木大尉には、居留民保護のため、革命軍と交戦すべしという命令は来ていなかった。
当時|病臥《びようが》していた領事の森岡武一は無抵抗によって、事を穏便にすまさせようと考えた。日本人居留民も同じはらであった。もし、ここで荒木大尉の部下が砲門をひらけば、日本兵だけでなく、居留民も数万の革命軍のために全滅してしまう。
森岡領事は荒木大尉に、非戦、忍耐を説いた。荒木大尉は、一|挺《ちよう》だけ携行していた機銃をかくし、部下に無抵抗を言い渡した。領事館に侵入した革命軍は、婦女子を凌辱《りようじよく》するなど散々に暴行を働き多くの負傷者を出したが、荒木大尉の隊を含めて、死者は出なかった。
革命軍は退去し、荒木大尉は駆逐艦に戻った。駆逐艦隊司令は、その沈着を賞したが、同僚や下士官兵はそうはとらなかった。
「なぜ、堂々と戦って戦死しなかったのか」
「何のための機関銃だ。無抵抗、忍従とはいうが、要するにおじ気づいたのではないか」
「要するに荒木大尉は、臆病者だ」
このような風評が、艦隊にはびこった。
指弾にいたたまれなくなった荒木大尉は、自決を決意し、自室で割腹したが、死に至らず、救助された。間もなく、彼は退役となり、不遇の生涯を送った。
筆者は、海軍兵学校在学中に、陸戦教練を受けたが、教官のいうには、陸戦隊の最も困難な任務は、戦闘ではなく警備であるという。警備とは主として、上海、南京の租界など、日本人の居留地の警備をいう。ここに支那軍から圧力がかかったとき、どのへんで戦闘に踏み切ったらよいのか、この潮時が非常に難しいのである。とくに、味方が少数である場合はなおさらである。
さて、後世の史家は、この一九二七年(昭和二)三月の革命軍南京占領時の事件を、第一次南京事件と呼ぶ。第二次南京事件は、大虐殺として有名な、昭和十二年十二月の日本軍南京占領時の事件をさす。(最近は『南京大虐殺のまぼろし』などという本も出て、この事件の真相はまだ解明されていないように思われるが)
さて、この革命軍の一部がひきおこした南京事件によって、蒋介石は苦境に陥った。
南京の租界に押し入って暴行を働いたのは、国民革命軍内部の反蒋的容共分子であって、もとより蒋の志ではない。
しかし、列強は黙ってはいなかった。
なかでも支那侵略に最も力を入れていたイギリスは、この直前すでに上海、南京租界防備を名目として、陸軍三個旅団を揚陸する旨を通知し、日本とアメリカに共同歩調をとるようにうながした。
日本は、例によって幣原外相が対支不干渉を唱えて応じない。不思議なことに、昭和七年の上海事変以後は、あれほど強硬であった日本の軍部が、このときは、先行して武力解決を主張していない。もっとも、この頃、対支強硬策を唱えていたのは陸軍で、陸軍の縄張りは満蒙であり、上海、南京は海軍陸戦隊の受けもちであった。そこで、揚子江方面では、柔軟、あるいは軟弱≠ネ態度が守られていたのかも知れない。
イギリスは、南京事件|勃発《ぼつぱつ》の直後、南京事件の首謀者の処罰と謝罪を期限つき最後|通牒《つうちよう》で要求すべしと主張した。
しかし、幣原は相変らず、不干渉政策を主張して動かなかった。
その理由を、衛藤瀋吉《えとうしんきち》『眠れる獅子《しし》』(文藝春秋)は次のように説明している。
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一、日本が中国に要求するところは、領土ではなくて、市場である。
二、いずれ国民政府が全中国を支配するとみられるので、摩擦は避けたい。
三、共産主義が支那全土を蔽《おお》うものとは考えられない。かりにそうなっても、外国人の居住と貿易が可能であることは、ソビエト・ロシアをみても明らかである。
四、国民政府内に容共派と反共派の対立がはげしくなりつつあるので、今しばらく静観したい。
五、最後通牒をつきつけて期限切れとなった場合、どのようにして制裁するのか。沿岸封鎖とか砲撃、軍事占領を行っても、広大で人口の多い支那に対して有効とは考えられない。むしろ、居留民を危険に陥れ、最後は泥沼的戦争となる。(この点、幣原の見解は後の日中戦争を予見した、卓見といえるであろう)
六、現在、支那を統一する力のある者は蒋介石しかいない。ここで事件責任者の処罰を持ち出すと、武漢政府は蒋を罷免してしまうおそれがある。そうなると形勢は再び混沌《こんとん》とし、我々は誰を相手に交渉してよいか判断に苦しむこととなる。ここはあくまで、蒋が国民政府内の粛清を行い、支那統一を完成するのを待つだけである。
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軟弱外交≠ニいわれた幣原の判断は、大局的には正しかった。幣原は上海総領事の矢田七太郎を蒋のもとに急行させ、「早く共産分子を一掃せよ」と忠告せしめた。
この結果、蒋介石は上海地域の財閥の支援をうけて、四月十二日の反共クーデターを行い、共産分子を一掃するに至るのである。このクーデターは激烈をきわめ、共産系の指導者はほとんど逮捕され、数千人が処刑された。これに続いて、広東、武漢、長沙等でも、反共クーデターが行われ、また北京では、大元帥張作霖がソ連大使館を急襲し、共産系幹部の|李大※[#「金+利のつくり」、unicode91D7]《りたいしよう》を処刑した。押収された機密文書のなかには、コミンテルンからの中国共産化の詳細な指示書があり、「今や中国共産党が革命の主導権を握るべきときがきた」という激励のアジ文もみられた。しかし、コミンテルンの判断に反して、支那からは共産革命が一斉に後退しつつあった。
この後、松岡は北京に寄り、大元帥張作霖に、「満蒙の開発に専念せよ。保境安民に徹せよ」と説いたのは前述の通りである。
張は、
「松岡先生有難う。日本人のなかで、真に私と満州のことを想ってくれるのは、松岡先生ただ一人だ」
と言って、松岡の手を握り、涙を流した。
この年、四月二十日、若槻《わかつき》礼次郎内閣は総辞職した。
原因は経済的行きづまりと、中支方面における南京事件等の国威失墜である。
次期大命は、長閥の元陸軍大将政友会総裁田中義一に降下した。山本条太郎と松岡は急遽《きゆうきよ》帰朝した。山条は政友会の大幹部であり、松岡は山条の弟分である。田中が総理となるならば、何らかの沙汰があるとみるべきである。
やがて七月、山条は満鉄社長、松岡は同副社長に任命されるのであるが、その前に、おらが宰相≠ニあだ名された好戦的な総理田中義一の略歴をふり返ってみよう。
田中は一八六三年生れで、松岡よりは十七歳年長にあたる。陸大卒業後ロシアに留学、日露戦争では、満州軍参謀として児玉源太郎の下で活躍した。
陸軍省軍事課長、軍務局長と出世コースを歩み国民教育の軍国化と在郷軍人会の設立などを押し進めた。参謀次長を経て、原内閣、山本権兵衛内閣の陸相を歴任した後、政界に入り、一九二五年政友会の総裁となった。
一九二七年四月総理となってからは、自ら外相を兼ね、幣原と打って変って大陸進出強硬外交≠フ線を打ち出した。後に太平洋戦争勃発に至る日本の支那侵略の基本路線は、一応この田中内閣のときに敷かれたとみて大きな間違いはない。
田中は山県のあとをついで大の恐露反共主義者で、国内では共産党の大弾圧を行い、治安維持法を強化した。また一九二八年(昭和三)六月の張作霖爆殺も彼の総理時代に起ったもので、この説明がつかぬままに内閣を解散、翌昭和四年九月、狭心症で失意のうちに世を去った。
さて、田中内閣成立と、松岡の満鉄副社長就任の間に、北支では大きな日本軍介入事件が起きた。五月二十七日の山東出兵である。蒋介石の北伐軍が北上し、五月、徐州を占領したので、田中総理兼外相は、現地居留民保護の名目で、五月二十七日、青島に派兵した。北伐軍はこのため、揚子江の線まで後退し、日本軍は八月撤兵したが、このため抗日運動が激化した。
直接戦火をまじえることには至らなかったが、この出兵は田中内閣の支那に対する態度を明らかにし、南京、北京の両政府から抗議を受けるに至った。そして、この第一次山東出兵が翌年五月の済南《さいなん》事件をひきおこすのである。
山東出兵の翌月、外務政務次官の森恪が画策した東方会議が六月二十七日から外相官邸で在満支外交官(公使、総領事)らを召集して開かれた。
前にも書いたように、森は大陸進出、満蒙確保の急先鋒《きゆうせんぽう》であった。
まず満蒙における経済的行きづまり打破について討議があった後、満鉄の経営方針について次のような決議がなされた。
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一、満蒙開発は、満鉄中心、大連集中主義に限定しない。
二、満鉄の付帯事業を分離すること。
三、満鉄の地方行政を関東庁に行わしめること。
四、満鉄に現状を維持せしめること。
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等である。
この東方会議の最終日に田中首相兼外相は「対支政策綱領」を示した。
このなかには、
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一、支那における帝国の利権並びに在留邦人の生命財産が不法に侵害されるおそれがあるときには、断乎《だんこ》として自衛の措置(武力を用いて)に出るべし。
二、万一、動乱が満蒙に波及した場合は、同地方におけるわが特殊権益擁護のため、機を逸せず、適当の措置をとる覚悟を要する。
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等の田中内閣の前進?姿勢を示す条項が見える。
なお、この会議には、関東軍司令官武藤信義大将が、高級参謀河本大佐を同行して出席している。ここでその翌年六月の張作霖爆殺について、何らかの相談があったと思われるが、その秘密会談については、資料が残っていない。
さて、ここで、少々遅きに失したが、満鉄の生いたちと児玉源太郎大将の関係について、興味ある話を挿入《そうにゆう》したい。
松岡洋右著『興亜の大業』(昭和十六年五月、第一公論社刊)のなかに、「満鉄と三先人」という項がある。
三先人とは、満州軍総参謀長の児玉源太郎、満鉄初代総裁後藤新平、外務大臣小村寿太郎である。
明治三十七年日露戦争が勃発して、日本軍が鴨緑江《おうりよくこう》を渡って満州の安東県に足を踏み入れたとき、当時参謀本部次長であった児玉源太郎大将は、早くもこの戦争に勝った後の経営を考えていた。とくにある地点まで、ロシアの敷いた東清鉄道を占領したならば、この鉄道を中心にどのように満州に日本の勢力を張るべきか、児玉は考えていたのである。遠謀というよりほかはない。
また彼は、ロシアはきっと復讐《ふくしゆう》戦を試みるであろうと憂えた。これに備えるためには、軍事力だけではなく、経済的に根を張らねばならない。
そこで、児玉は、通訳官で外国事情にくわしい上田恭輔という人物を呼んで、
「おい、上田、お前は、東インド会社というものについて、いつかわしに話したことがあったな」
と問うた。
上田が、
「はい、あれは十七世紀から十八世紀にかけて、イギリス、オランダ、フランスなどが、東インド諸島、インド等に勢力を植えつけるべく、まず経済的な貿易会社として創立、続いて、侵略の支援を行い、これらの地方を植民地と化したものであります」
と答えた。
「よろしい、その東インド会社の構成と歴史を骨組みだけ書いてみせてくれい」
児玉はそう命じた。
日露戦争が終り、日本は満州に軍政をしくかわりに、満鉄を作った。これは軍事よりも経済開発に重きをおいた児玉の発案によるものであった。
この話は、上田恭輔が後に満鉄で後藤新平をはじめ歴代総裁の秘書役を勤めていたとき、松岡に語ったものである。
また、初代総裁に後藤新平という大物をもって来たのも、児玉の着想であるという。いかに児玉が満州を重視していたかがわかるであろう。
また、児玉のサジェッションによって、日本政府は毎年五千万円という巨額の補助を満鉄に交付することを考えていたという。
大正から昭和にかけて、満鉄は高配当の超一流会社であり、私の父なども長く満鉄の株を大切に握っていたが、創立当時は、だれもこの国策会社がペイするなどとは考えていなかった。財政通の井上|馨《かおる》でさえも、これは当分、あるいは永久に赤字であると予想していたという。
ここで、実は満州がアメリカの勢力下に入ったかも知れないという秘話を紹介しておこう。
日露戦争が終り、ポーツマス会議で小村寿太郎が、ウィッテを相手に苦戦をしていた頃、アメリカの財閥ハリマンが満州に目をつけていた。
ハリマンの着想は一風変っていて、どことなく稚気のあるものであった。
彼はアメリカの有名鉄道会社、グレート・ノーザンの社長で、一種の夢想家であった。彼は自分の手で世界周遊便を作ることを構想していた。彼は太平洋にも、グレート・ノーザン系の汽船会社を経営していた。ニューヨークをグレート・ノーザン鉄道で発ってサンフランシスコに至り、シスコから同系会社の汽船で横浜を経て大連に至る。大連から南満州鉄道を経て、シベリアに出る。さらにヨーロッパを経て、ニューヨークに帰る。彼はこのため、満州、シベリア、ヨーロッパの鉄道、太平洋の船会社を自分の手で買収しようと考えたのである。
ハリマンは娘をつれて、ふらりと日本へやって来て横浜のニューグランド・ホテルに泊った。
日本の政界、財界の名士のなかには、面会を求める者も多かった。
そして、ハリマンが、大連から長春までの鉄道を日米合弁(実質的にはアメリカ資本)でやりたいというと、要路の人たちは大喜びをした。井上馨をはじめ、総理の桂太郎や、元老の伊藤博文までが喜んだ。ちょっとしたハリマン旋風が巻き起ったのである。そして、愚かしくも?日本政府は、興業銀行総裁添田寿一を仲立ちにして、後の満鉄をハリマンに売り渡してもよいという仮の覚書を作って渡した。
ハリマンは、大喜びでサイベリア号でアメリカに帰った。
二日後、ポーツマス会議を終った小村寿太郎が病気のまだ完癒しない体で横浜港に帰朝した。小村はハリマンの話を聞くと、驚きかつ怒った。
小村は、ポーツマス会議が日本国民の意に満たぬ結果に終ったことを自覚しており、ある覚悟をして帰国した。
太平洋を渡る船中で、小村は秘書官の本多熊太郎を呼んで、
「今日は、とくに重大な計画を話すから筆記してくれい」
といって、「満韓経営計画綱要」という企画を口述筆記せしめた。小村はこの書類を二通作成させた。
船が横浜に着く前夜、小村は本多を自室に呼んで、
「足腰も満足に立たぬ身で、帰国を急いだのは、この書類にある方針を政府で討議させ、自分の目の玉の黒いうちにある程度の路線を敷いてもらいたいと考えるからである。船が横浜に着いたとき、爆弾が飛んでくるかも知れないから、一通は私、一通は君が持っていてくれたまえ。そして、もし私が倒れたら、構わぬから君はその一通を持って、桂総理のもとに急行し、満韓について小村の意のあるところを伝えて欲しい」
と言った。
小村はこれほどの覚悟をもって横浜港に帰って来たのである。
ところが、船が横浜に着くと、政務局長の山座円次郎がさっそく小村の船室に入り、内側から鍵《かぎ》をかけてしまった。
山座が、例のハリマン覚書の件を語ると、小村はやおら立ち上って、卓を叩いて怒号した。
「そんなこともあろうと思って、私は病躯《びようく》をおして急遽帰朝したのだ。二十億の巨費と十万の生霊を犠牲にした満州をアメリカなどに横取りされてたまるか」
かくして、小村は、自宅にも帰らず、桂総理に会い、絶対に満州の利権を手放すべからざる道理を説いて、満鉄の創立に持ち込んだのであった。
何も知らないハリマンは何週間かの航海の後、サンフランシスコに着いた。彼を待っていたのは、日本領事が手にした一通の電報であった。それは小村外相からハリマンにあてて、満鉄の日米合弁の件は、決定事項にあらず、目下討議中につき、承知ありたい、という意味である。
ハリマンは落胆し、かつ怒った。そして、彼がニューヨークに着くと、添田興銀総裁から、あの件は閣議で否決されたから、覚書はなかったものと思ってもらいたい、という長文の電報が届いていた。ハリマンは、怒り、嘆き、ついに寝こんでしまったほどであったという。危いかな、明治三十八年にアメリカが満州を手に入れていたならば、その後の国際情勢はどう変っていたであろうか。
政治、軍事も大切であるが、優れた外交官は、徒手にして一国の運命を救うことが出来るのである。
さて、東亜の政局はいよいよ混沌の極を迎えるに至った。
七月、松岡は満鉄副社長に任命されて、懐しい大連の赤レンガの満鉄本社に着任して、山条の下でまたもや新路線建設に励むことになった。
一方、江南では騒ぎがもちあがっていた。
八月、南昌で中共が武装|蜂起《ほうき》した。
九月、武漢政府と南京政府が合体するに当って、蒋介石は革命総司令の席を追われ、日本に政治亡命した。
十月、蒋はかねて信頼?をよせていた田中総理と会談し、再び中支に返り咲くための軍事援助を要請した。
案に相違して、田中は蒋に応諾を与えなかった。当時、陸軍部内では、奉天派の張作霖を高く買い、これを援助することによって満蒙を固めようという意見が多かった。
満鉄の山条も松岡も同意見であった。
田中は結局、内政不干渉を理由として蒋の要請を断った。彼は支那に兵を出したいのは山々であった。しかし、いまや一軍閥にすぎない蒋の後押しをして、支那に軍隊を出すと、支那全土を敵に回すおそれがあった。
馬鹿でない田中は、蒋が並々ならぬ人物であることを知っていた。蒋のいう通り兵を出しても、結局は利用されるだけで、用が終ったら支那本土から追い出され、思ったほどの収穫は得られまい、と考えていた。
それよりも、自主的?に兵を出して、利権を得ようと田中は判断した。
憤慨した蒋は、失意のうちに日を送っていたが、やがて、翌一九二八年(昭和三)早々、南京中央政府に迎えられ、再び国民革命軍総司令となり、捲土重来《けんどじゆうらい》の勢いで北伐を開始した。
今回の北伐は大成功で、蒋軍は急速に北上して、山東省に入った。
四月十九日、田中内閣は第二次山東省出兵を決議した。
そして、この年五月に勃発したのが済南事件である。
済南は、北京の南方四百キロ、黄河の支流に沿う古い町で、山東省の省都(当時人口六十万?)である。
ここには数百名の日本人が居留し、領事館もあった。
四月末、日本軍は済南に入った。続いて、五月一日、蒋介石の国民革命軍は、北軍である張宗昌の山東軍を追って、済南に入城した。革命軍は連勝で意気大いにあがっており、排日抗日の気風は軍のなかに横溢《おういつ》していた。
こうなれば衝突は必至である。
五月三日、六馬路《リユウマロ》付近で両軍が接触し、火ぶたを切った。
両軍は激戦を続け、このため民間人にも被害が及んだ。日本軍も残虐に支那人を殺戮《さつりく》したが、中国人街にまぎれこんだ日本人十一名の惨殺死体が発見されたことから、日本軍は「在留邦人三百名虐殺さる」と発表し、国内世論をあおった。
当時、筆者は小学校三年生で、奉天の北の鉄嶺の近くにいたが、日本人の駅員が、「済南では、日本の婦女子が強姦され、二頭の馬に両脚を縛られ、馬が両方に向い走ると股《また》の間から引き裂かれた」などと、物々しげに語るのを聞いたことがある。五味川純平『戦争と人間』によると、済南における日本人虐殺は、日本側の某特務機関の仕業である、となっているが、あるいはそのような謀略≠ェあったかも知れない。
五月九日、日本政府は名古屋の第三師団に動員令を下し、一万五千の兵士を青島に送った。これに先立って青島にいた日本の飛行隊が済南の革命軍を爆撃して、多くの死者を出さしめた。
蒋介石はやむを得ず、済南から撤兵し、済南を迂回《うかい》して、北伐を継続することとした。
前から話の出ている松岡の盟友?張作霖大元帥が、爆殺されたのは、一九二八年六月四日午前五時すぎのことであった。
場所は奉天駅の北一キロ、満鉄本線と京奉線がクロスする皇姑屯《こうことん》のガード上である。
済南事件後、蒋のひきいる北伐中央軍は、山西省の閻錫山《えんしやくざん》、甘粛《かんしゆく》省の馮玉祥などと手を結び、北京直撃の勢いを示した。
大元帥で安国軍総司令官張作霖は、なおも北京、天津の線で最後の一戦を試みようと考えていた。
日本政府は面子《メンツ》のために自滅しようとしている張作霖の態度に危険を感じていた。張軍が敗れれば、満州に逃げて帰る。勝ちに乗じた革命軍は、勢いにのって満州に入り、利権回復を叫ぶかも知れない。
田中総理は、北京駐在の芳沢謙吉公使に訓令を与えた。芳沢は、張に、速かに奉天に帰れ、それでないと、満州が危くなる、と警告した。張はこの意見を入れ、六月三日特別列車を編成して京奉線で奉天に向った。
日本人では、軍事顧問の町野武馬大佐と、同じく顧問である儀峨《ぎが》誠也少佐が同行した。町野は天津で用事があるといって降りてしまった。儀峨も降りようとすると、張が、
「そんなにみな降りてしまっては淋しくなるから、奉天まで同行してくれ」
と言ったので、止《や》むを得ず残ることとなった。
四日午前五時、早起きの張はすでに起床して、三|輛《りよう》目の食堂車の喫煙室で煙草を吸っていた。
儀峨は朝のあいさつをしたが、何故《なぜ》か、列車がガードに近づくと、デッキに出てしまった。
突如、轟然《ごうぜん》たる爆音とともに、三輛目の食堂車と四輛目の寝台車は、火を発して燃えた。張は重傷を負い、間もなく絶命した。デッキにいた儀峨はどういうわけか軽傷ですんだ。一説には、列車がガードに近づいたとき、デッキから車外に飛び降りた、とも伝えられている。
前にも述べた通り、この爆殺を計画したのは、関東軍の高級参謀河本である。
実施に当ったのは、独立守備隊の東宮鉄男大尉で炸薬《さくやく》を装備したのは、朝鮮軍の竜山工兵隊である、といわれる。
張爆殺は、田中首相の秘密命令であったという説と、田中は知らなかったという説と二説ある。現在までの研究では知らなかったという説に傾いている。張を殺すくらいなら、関東軍を増員して、山海関を閉鎖すれば、張は北伐軍のために自滅するであろう。田中が張を奉天に呼び返させたのは、あくまでも、張に満州を握らせ、その張を表面に立てて、満州を開発してゆこうというはらではなかったのか。
張爆殺は関東軍の独断による。
関東軍はなぜ張を爆殺したのか?
第一は、張がいつまでも中原《ちゆうげん》に野心を持っていて、関東軍のいうことを聞かないからである。
第二は、張を殺して、直接満州の支配権を握ろうとしたことである。
後にも関東軍は独断の行為が多くて、中央政府や参謀本部を悩ましたが、この時からその独断専行?は始まっていた。
このとき、松岡はどうしていたか。
無論、松岡はこの計画を知らなかった。盟友£」作霖と手を携えて、あるいはこれを活用して、満州の開発を考えていた彼が、張爆殺に荷担するわけがない。
一説には、当時、松岡は東京にいたという説がある。
爆殺事件直後の議会で、中野正剛が松岡もこの事件に関係していたような発言をしたことがあった。これに対して、松岡は昭和六年二月十四日の衆議院で、
「この事件について、中野君は、松岡副社長は、村岡関東軍司令官と同行して奉天に向い、などと発言しておられるが、当時、私は東京にいた。それがどうして、軍司令官と奉天に向うことが出来るのか」
と反問している。
しかし、それは、事件前、奉天に関東軍が集結したときの話で、事件当日は、大連の自宅にいたものと思われる。
『人と生涯』には当時の松岡の秘書藤井十四三夫人の日記が出ている。
六月四日、パパ(藤井のこと)副社長と午後十時発で奉天出張。六日、パパ午後八時半急行にて帰宅。
とあるところをみると、松岡は四日早朝の事変を聞いて当日の夜行で奉天に出かけ、張を見舞い(実は死んでいたが)、そして、事件の真相を出来るだけ調べ、総裁の山条と協議すべく、大連に帰ったものと思われる。
松岡がどの程度の真相を探知し得たかはよくわからぬが、児島襄著『天皇(二)』には、張爆殺のくわしい解説があるので、その要点を引用させてもらうことにする。
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河本大佐は支那人の策謀とみせかけるため、爆破現場に三人の支那人の死体をおき、その懐中に亀甲《きつこう》型爆弾と鉄橋爆破指令書を押しこむことを考えついた。
彼は吉林軍の営長|劉載明《りゆうさいめい》に命じて、不用なる人物三名を供出せしめることにした。劉は、癈人《はいじん》に近いアヘン中毒者三名を探し出し、日本軍のために密偵になれ、金をやると言い、日本軍からもらった金を五十円ずつ三人に渡した。そのうち一人はカンづいたのか金だけもって逃走し、二人は三日夜、皇姑屯のガードの近くに連れて来られた。日本兵はここで二人を刺殺し、懐中に用意したものを押しこんだ。(中略)
午前五時二十分、ガードの上で列車は爆破された。儀峨少佐は脚部に打撲傷をうけただけであるが、同乗していた黒竜江省督弁|呉俊陞《ごしゆんしよう》は即死し、張大元帥は胸部に裂傷をうけ、車外にほうり出された。
張大元帥はただちに警備中の味方部隊の自動車で奉天城内の大元帥府に運ばれた。居あわせた第五夫人が顔面にアヘン液をふきつけ、外人医師が手当てした。張は一時意識を回復して「私はかまわぬ、行くよ」と発声したものの、ふたたび意識不明となり、午前十時ごろ死亡した。
張側では奉天に戒厳令をしき、その死亡を厳重にかくした。日本側から満鉄の医師を派遣したいと提案したが拒否し、見舞客も制限した。
このため、張の死はしばらくの間日本側も察知出来なかった。
関東軍は、二人の怪しき支那人の死体を根拠にして、犯人が蒋軍に属する南方便衣隊の一味である、と発表したが、日満共にこれを鵜呑《うの》みにする者は少なかった。(後略)
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当時北京にいた張学良は、急遽奉天に帰って、父の遺体と対面したが、十数日間父の喪を秘し、六月二十一日に至ってやっと作霖の死を発表してその跡をついだ。
学良は一八九八年生れで、三十歳に満たぬ青年であったが、意外のしっかり者で、事態は必ずしも関東軍の思うようには進まなかった。
当時、日本政府は、この事件を「満州某重大事件」と称していた。
正面切って張作霖爆殺事件とも呼べないし、また、張の死をそれほど大した事件でもないというふりをする必要もあった。
張作霖の爆死について、重臣のなかで真っ先に疑念を抱いたのは、西園寺公望であった。
「どうも怪しい、陸軍あたりの仕業ではないか」
と彼は秘書の原田熊雄に洩らしている。
田中首相も初めは、関東軍のいう便衣隊犯人説を信用していた。
「張作霖とは日露戦争の頃からの知り合いだ。はじめは小さな頭目で、ロシアのスパイだったのを、満州軍参謀だったオラが説得して、日本軍のために働くようにさせた。どうも、こういう死に方をするとはね」
などと、記者たちに語ったりした。
しかし、田中が実情を調査するにつれて、関東軍の仕業である嫌疑が濃厚となって来た。
『天皇(二)』によると、張作霖の第二子の教師兼守り役である貴志中将は、事件直後、現場に駆けつけ、爆薬は大型爆薬百個以上(実際は二百個)で、二名の便衣隊が携行するには、あまりにも過大である、と政府に報告して来た。
また小川平吉鉄相のもとには、支那浪人の口から、河本大佐の偽装工作をはじめ、事件の内幕が伝えられて来た。
田中首相は苦しい立場に追いこまれて来た。
参謀本部は、六月二十六日、河本大佐を東京に呼んで、一週間にわたって訊問《じんもん》した。もし、大元帥陛下の軍隊である関東軍が、統帥権を承行する参謀本部の命令なしに、外国の重要なる大官を暗殺したとすれば、それは重大なる統帥権の干犯となるのである。
河本は、証拠品≠フ写真を携えて、あくまでも、事件は便衣隊の仕業である、と主張して譲らなかった。
不思議なことに、河本のあいまいな説明に対する陸軍当局の追及はきびしくなかった。
参謀本部第一部長荒木貞夫中将は、「この際軍部は、部内外に及ぼす影響を考えて、事態は大局的に処理すべきだ。首謀者の糾明を急ぐ必要はない」と主張した。
そして、「関東軍に責任なし」という結論が一応出され、これを聞いた田中は、「オラも安心した」と一息ついた。
ところが、国内国外の疑念は深まる一方で、九月、西園寺は、田中に内外の疑念を晴らすため、徹底的な調査をするよう内示を与えた。田中も止むを得ず同意し、憲兵司令官峯幸松少将を現地に派遣した。
九月二十八日、天皇の弟秩父宮|雍仁《やすひと》親王と勢津子姫の婚儀が終り、十月八日、峯憲兵司令官が報告を携えて帰京した。
峯は、河本大佐、そして爆薬をしかけた東宮大尉に会って、執拗《しつよう》な追及の結果、ついに爆殺の真相をつかんだ。
田中は、「そうか、やはり関東軍がやったのか。河本の奴め」と憤慨した。
田中は西園寺に実情を報告し、西園寺は、「早目に処罰することが、国の内外に対して、政友会内閣が信頼をつなぐ道である」と主張した。
田中は、早急に陛下に実情を報告しようという気になったが、十一月十日には、今上陛下の御即位を祝う御大典が京都で挙行されることになっていたので、その後でということで延引した。この御大典のとき、牟田口廉也《むだぐちれんや》少佐は、祝砲発射の指揮をとった。後にビルマ戦線で、死の持久戦を命じた鬼将軍≠ナある。
御大典が終ると、西園寺はあらためて真相の上奏を田中に示唆した。
田中は十二月二十四日参内したが、小川鉄相や軍上層部の強硬な反対のため、ついに真相を申し上げることなく、
「帝国軍人が関係しているものと思われます。事実ならば、厳然たる処置をとりますが、目下調査中にて、くわしいことは白川陸相よりご説明致します」
と逃げてしまった。
天皇は不審そうな表情を示した。天皇は新聞をよく読み、側近からもかなり立ち入った情報を得ている。しかし、総理は関東軍の仕業だと明言することを避けている。一体、真相はどうなっているのであろうか。
陸軍の上層部は揺れていた。宇垣一成、上原勇作の両大将も、初めは「犯人に対しては軍法会議において、断乎たる手段をとるべし」と主張していたが、やがて軟化して、白川陸相に、「事を穏便に運んで、陸軍の汚名とならぬように」と警告するようになった。
しかし、翌昭和四年春火の手は野党の民政党から上った。中野正剛を先鋒として、議会で真相の糾明を要求して来た。
五月には、河本大佐に対して転補の命令が出されることになり、関東軍はこれに対し、村岡軍司令官以下反対した。
この間、田中は関係者の処罰を考えていたが、処分が関東軍司令官に及ぶということを聞いた陸軍上層部はこぞって反対した。白川義則陸相、鈴木壮六参謀総長、武藤信義教育総監らの三役がこぞって反対したのである。
結局、田中は、協議の結果、軍法会議は行わず、関係者の処分を行政処分のみにとどめることとし、六月二十八日参内して、
「張作霖事件については、日本陸軍に犯人はいないということが判明しました。しかし、警備上手落ちがありましたので、その責任者を処分致したいと存じます」
と上奏した。
天皇は不審そうに田中の田舎|親爺《おやじ》くさい顔を眺めていた。昨年十二月には、日本軍に犯人がいると総理は言っていたのである。
天皇は田中に、
「この件については、関係者の責任は明確にとらすべし」
と言った。
田中は応諾して、早々に退出した。
翌日午前、白川陸相が参内して、関係者の処分を読み上げた。
「関東軍司令官、陸軍中将村岡長太郎、願ヒニヨリ予備役(七月一日付)トス。……」
続いて当時の関東軍参謀長斎藤恒中将(昭三・八・一〇進級)と独立守備隊司令官水町竹三少将は譴責《けんせき》(八月一日付待命となる)、そして、主犯として悪評の高い張本人の河本大佐は停職と極めて軽い処分であった。
二十九歳の若い天子は、頬を紅潮させ眉をよせて激怒した。
「それでは、総理が以前に上奏したものと合わぬではないか。そのような処分で軍規が維持出来るのか」
天皇は大声で叱りつけると、自室に戻ってしまった。
そして、鈴木貫太郎侍従長に、
「総理のいうことは筋が通らぬ。もう二度と聞きたくない」
と痛憤の面持ちで言った。
鈴木侍従長は事重大とみて田中総理の参内を求めた。戦後の象徴天皇と異って、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」と憲法にうたってある時代のことである。
その天皇が総理を信頼しないというのであるから、事態は終末的段階を迎えたのである。
同日、午後一時半、田中は恐縮しながら参内した。古い言葉で形容するならば、鞠躬如《きつきゆうじよ》というところである。
硬骨の鈴木侍従長は天皇の怒りをそのまま総理に伝えた。田中は驚いて、ご説明のため再度の拝謁を願い出たが、鈴木は、
「もはや、拝謁しても、この件についてはご聴許にはならんでしょう」
と冷たくつきはなした。
陛下の信任を失ったことを自覚した田中は、すごすごと退出し、首相官邸に戻ると閣僚を集めて総辞職の意向を伝えた。
田中は一九二九年(昭和四)七月二日総辞職し、民政党総裁浜口雄幸が跡を襲って組閣した。政権の座についた民政党は、歓呼の声をあげてライオン首相≠フ就任を祝ったが、内外の困難な情況の下に、政党内閣の終焉《しゆうえん》が近づいていることに気づいている者はほとんどいなかった。
一方、失意のうちに日を送っていた田中義一は、九月二十九日急死した。かつて、大正十五年、陸軍の機密費八百万円を横領したかどで部下から告訴されたことのある田中は、二十九日午前五時、麹町《こうじまち》の妾宅《しようたく》で狭心症のため急死した。総辞職の事情もあるので一時は自殺説まで出た。
機密費事件も、張爆殺事件も、結局|謎《なぞ》のベールに包まれたうちに流れ去ってしまったのであるが、山県のあとを継ぐ、長州閥最後の長老としては、わびしい最後であった。
さて、話を少し戻して、松岡の満州経営のその後について触れておこう。
張爆殺事件は、山条、松岡にとっては大ショックであった。一時は、これで満蒙経営の夢も破れるか、と松岡は心配した。北伐を終った蒋介石が満州に手を伸ばすと、満鉄の権益もあやうくなるのである。以前に南昌で会見したとき、一応、蒋の北伐は山海関までという内諾はとりつけてあったとしても、大元帥の張が爆殺されたとあっては、どう変るかもわからない。
しかし、幸いに、張の息子、張学良が早速北京から帰ってその跡をついで東北軍総司令に就任し、国民政府もこれを認めたので、松岡は、張と今後の経営について協議推進させることとした。
昭和三年六月末、松岡は学良に招かれて奉天へ行った。
学良は言った。
「自分は日本陸軍は信用出来ない。軍事顧問に土肥原(賢二)大佐が来ているが、信用してはいない。いま、自分の生きる道は、日本と手を握るか、蒋介石と組むかの二つしかない。自分は日本との合作を望むが条件がある。
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一、鉄道を満鉄と中国鉄道の合弁経営とする。
二、満鉄沿線付属地の撤廃。
三、日本人の満蒙における居住営業の自由。
四、政府の重要機関に、日本人顧問の雇傭《こよう》。
五、そして、満蒙は日本軍の後援で、特別区ではなく、独立国とする。その政治工作費として四億円を日本が提供する。これは二週間以内に急いでくれ。実は国民政府は五十万ドルをもって、合作の工作に来ている。至急善処してもらわないと、間に合わない」
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これを聞いた松岡は、学良はなかなかしっかり者だと思ったが、即答は与えなかった。
焦った学良は村岡関東軍司令官を呼んで、この提案をした。一説によると、村岡は満蒙独立説に魅力を感じ、急遽松岡に飛行機で東京に飛んで、四億円の資金調達の使いとなってもらうよう依頼したが、松岡に断られたという。
松岡は、数え三十一歳にしては学良がしっかりしていると考えていたが、その提案には、三、四以外は不賛成であった。まして満鉄を含めて全鉄道を日支の合弁経営とするなどはとんでもない話であった。満鉄付属地を廃止するとなると、日露戦役で血を流して得た権益を失うこととなるのである。また、満州を独立国家とすれば、列強が騒ぐことは目に見えていた。
いずれにしても、満鉄は新しい満州の支配者張学良と提携して、鉄道の開発に乗り出すのであるが、ややともすれば、松岡の情熱は薄れ勝ちであった。陸軍の強硬なやり方が彼のカンにさわっていた。
後年、松岡の回想によれば、張爆殺後しばらくたって、東京に田中総理を訪れた彼は、えらい勢いで田中を詰問したことがあるそうである。満州の経営は満鉄に任せてもらいたく、また松岡は満鉄をバックにして、堂々と平和|裡《り》に満州を開発し、日本の味方につける自信を持っていたのであろう。
張作霖の死後、気乗り薄ながらも松岡は、精力的に仕事をすすめた。
昭和三年七月、営口、牛家屯の石炭桟橋着工。
八月、甘井子埠頭《かんせいしふとう》石炭桟橋着工。
十月、理事時代から工事中の吉敦鉄道完成。
昭和四年一月、鞍山鉄鋼一貫作業計画を申請。
二月、日本|精蝋《せいろう》徳山に設立。
三月、社債、三千五百万円起債。
四月、大連農事株式会社設立。
五月、日満倉庫川崎に設立。
七月、運転時刻を一日二十四時間制に改正。
そして、七月二日、親分である田中義一が総理をやめると八月十七日、松岡は山条とともに職を辞して野に下ったのである。
この時期における他の外交官の消息にちょっと触れておこう。
まず、広田弘毅はオランダ公使として、のんびりヨーロッパで勤務していた。『落日燃ゆ』には、「風車風の吹くまで昼寝かな」という広田の句が見える。
奉天総領事であった吉田茂は、森恪と結んで東方会議で活躍し、奉天でも、張作霖と衝突して、関東軍に煙たがられていた。加藤高明首相のお墨付をもっていたので、精一杯わがままにふるまっていたが、時代が田中内閣に変ると、外務政務次官の森恪を通じて中央に色目を使い始めた。そして自分を外務次官に売りこみ、張が爆殺されるしばらく前に、田中総理にじか談判して、外務次官に就任していた。
一方、エリート中のエリート、佐分利貞男はアメリカから帰ると、浜口内閣が成立した昭和四年夏待望の駐支公使として北京に就任した。当時北京は国際問題のるつぼであった。颯爽《さつそう》と着任した長身の佐分利は、早速仕事を開始したが、張作霖爆殺以後の北京には、何一つとして簡単に片づく問題はなかった。佐分利は外相の幣原の流儀にならって、協調外交で、問題を一つずつ解決しようと試み、それは徐々に効を奏し、貿易関係においても、日支間はやや好転のきざしが見えた。
佐分利の前途は洋々たるものと見えた。満鉄副総裁を辞任して大連から東京に帰った松岡は、半ば羨望《せんぼう》の眼で佐分利の活躍を眺めていた。おれだったらこうする、ああする、と彼は青山の邸でニュースに目を通しながら考えていた。
十月、松岡は京都における第三回太平洋問題調査会京都大会の日本代表に選ばれ出席した。
そして、十一月二十八日(昭和四年)夜、佐分利は、箱根の富士屋ホテルでピストル自殺をとげてしまった。
『落日燃ゆ』は佐分利の自殺を一応日中交渉の行きづまりとしている。おりから、政府、外務省は、ロンドンで行われている軍縮会議の応対に追われて、佐分利の支那問題は後回しとされていた。北京で引き受けてきた問題が片づかぬままに、佐分利は東京でじりじりしながら日を送っていた。
また、佐分利は北京で夫人を亡くして以来死を考えていたという説もあった。佐分利の妻は小村寿太郎の娘であった。妻が死ぬと、彼は名門ではなくなるのである。
花柳界関係のもつれといわれたり、部下の妻との関係も噂《うわさ》に上った。しかし、いずれも自殺の動機としては薄弱であった。一国を代表する公使のなかでも、筋金入りといわれた佐分利が、女のことぐらいで自殺をするであろうか。筆者は他殺説をとる。佐分利は当時「おれは狙われる」と称して、小型の護身用の拳銃を身につけていた。しかし、遺体の右手が握っていたのは、それとは違う大型の拳銃であった。また左利きの佐分利が右手に拳銃を持っていたという検屍《けんし》報告も出ている。
誰が佐分利を殺したのか。一般には、殺すとすれば、軍部か右翼といわれていた。幣原流の協調外交を北京で実施されては具合の悪い勢力があったのであろう。そのグループは、協調せず、強硬な武断外交によって、支那に勢力を植えつけようという考えを持っている者に違いない。
筆者は、佐分利公使の死には裏があるような気がして仕方がない。
当時、筆者は満州の鉄嶺小学校の四年生であった。新聞には大きなみだしで、佐分利公使怪死と出ていた。その記事を前にして、小駅の駅長である父が、職員と何事かを語りあっていたのを記憶している。
なお、この年、昭和四年の四月、筆者は小学校の遠足で奉天に行った。その時、例の鉄橋の近くを汽車が通った。「この近くで、張作霖が死んだんだよ」と教師が説明した。その鉄橋は京奉線のもので、満鉄本線よりは下に見おろされた。鉄橋の修理はまだ完全には終っていないらしく、貨物列車が徐行していた。
松岡は、昭和四年十月二十八日から十一月九日まで京都で催された太平洋問題調査会に出席している。
この会は、一九二五年(大正十四)に設立された民間の国際調査研究団体で、排日移民問題の討議を皮切りに、太平洋地域諸国の問題を討議する機関となっていた。
日本側は最初元日銀総裁の井上準之助が理事長であったが、井上が浜口内閣の蔵相となったので、京都会議のときは新渡戸稲造が理事長で大会会長を兼ねることにした。
日本側の出席者には松岡のほか、次のような顔ぶれが見えている。
姉崎正治、団伊能、樺山愛輔、河上丈太郎、前田多門、蝋山政道、高石真五郎、高柳賢三、鶴見祐輔。
松岡はこの会議で、得意の英語を駆使して活躍した。というのは、満州問題が俎上《そじよう》に上り、支那及び欧米の大国がこれを攻撃したからである。
松岡は、中国代表、徐淑希《じよしゆくき》(コロンビア大卒、哲学博士)と、満州問題について論争した。
徐は、日本の満州駐兵、満鉄の諸線開発などを、侵略であるとして、手きびしく批判した。
これに対して、松岡は以前にも張作霖に説いていたように、歴史的、民族的な満州の独自性について説明した。満州は必ずしも支那本部の純粋な領土ではない、という説である。
ついで、日清、日露戦争において、日本が血税を払って獲得した権益について、その妥当性を説明し、また満鉄による満州開発によって現地人も大いなる利益を受けていると主張した。
松岡と徐は、丁々発止とやりあった。
そして、そのあとでは打ちとけて一緒に食堂でランチを食いながら談笑する仲になっていた。このへんに、いわゆる松岡の腹芸というものが、あるといえばあるといえるのであろう。
続いて太平洋会議は広島に舞台を移して行われた。
『人と生涯』にはこの会議における松岡の演説の速記録がのっているが、これは、松岡の長男謙一郎(現テレビ朝日副社長)が、「週刊新潮」を通して伝記刊行資料提供の呼びかけをした際、広島の元小学校長河野員美から提供されたものである。
ここで、松岡は同じく満蒙問題に言及し、「満蒙は事実である。事実はよって来る歴史を除いては議論はされ得ない。合理的解決をなされては役立たぬ」と説いている。本当にそうと思っていたかどうかはわからぬが、満蒙に対する日本の権益について説明し納得させるには、このようなロジックを用いなければ外に方法はなかったのであろう。
続いて彼は、日清戦争直後、遼東半島は下関条約で日本に割譲されるものと議定されたにもかかわらず、露独仏の三国干渉で支那に返却を強制されたので、もともと遼東半島は日本が領有すべき権利があると主張した。
次に日露戦争に言及し、「満州からロシアを追っ払うのに、日本は二十億円の戦費を費《つか》っている。その後二十五年間には元利で六十億円にもなるであろう。これを中国側は払って下さるであろうか」と問いかけている。
また、満州で現地人が日本人に圧迫されている、という説に対しては、「日本が満蒙を経営してから二十年たつが、その間に日本管轄地内での支那人は以前の一人が二十人に増加している。ところが、支那の管轄下にある地域では一人が二人にしか増えていない。これでも、日本人が現地人を圧迫しているといえるのか」と反撥した。
そして、最後に、「日本は満州で十万の戦士の尊い生命を犠牲にしている。これは金には代えられぬものである。この点をよく認識していただきたい」と結んだ。
戦後から見れば、これは満州侵略の弁明とみられるだろうが、当時としては愛国の至情≠ルとばしる大演説で、記録をとった河野青年(当時二十八歳)も「満州開拓に尽された英傑の国を思う熱情に打たれた」と感想を述べている。
実はこの会議は、松岡の生涯において、重要なるキーポイントとなった。
全会議を通じての記録を読んだ徳富蘇峰は、松岡の活躍にいたく感激し、「松岡君の働きは、小牧山における本多平八郎忠勝に比すべきものだ」と激賞した。
政府、外務筋でも、松岡の満州通と英語力とその能弁を高く買うものが出て来た。
これが後年、松岡をジュネーブでの国際聯盟に押しあげる大きな要素となるのである。
京都会議で松岡が英語の大演説を終ると、新渡戸大会会長は、松岡に握手を求め、後で側近に、「私は日本にあんなに達者な英語をしゃべる人物がいるとは知らなかった」と感想を洩らした。
ともあれ、この演説が大きな誘因となって、松岡はジュネーブ代表となり、ついで、三国同盟締結、日ソ中立条約調印へと歩みをすすめてゆくこととなるのである。
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七章 政治家となる
京都会議の翌年、一九三〇年(昭和五)二月、松岡は政友会所属として山口県第二区から衆院選に出馬し、一万七千票の最高点で当選した。
松岡は初級外交官として上海に赴任した頃から待望の政治家となったのである。
さて、代議士松岡洋右の使命とは何か?
それは、当時政府が苦悶《くもん》していた経済問題を救済するために満蒙開発を提案し、このためには、幣原流の協調外交を廃し、自主強硬外交を押し進めるべきを説くことであったのである。
代議士となって間もなく、松岡は『動く満蒙』『東亜全局の動揺』などの著書を著し、国情の行きづまり打破について、自説を主張している。
当時の浜口内閣のやり方と国情について、みておこう。
ライオンとあだ名された浜口雄幸は、緊縮財政で有名であった。
これは一に、彼が財政の杖《つえ》と頼む元日銀総裁井上準之助蔵相の見通しの失敗に原因するものである。
つまり、井上は一九二九年(昭和四)十一月、翌年一月十一日を期して金解禁を実施することを声明し、翌年、期日通りこれを実行した。ところが、繁栄の国アメリカでは、昭和四年十月、ウォール街における株価の暴落に始まる有名な世界経済恐慌が発生していたのである。
なぜ井上は危険を冒してまでも金解禁を断行したのか?
話は第一次大戦にさかのぼる。
第一次大戦中、列国は当然の措置として金の輸出を禁止したが、大戦終結後は次々に輸出解禁すなわち金解禁を行った。
ところが日本だけは、大戦の反動による恐慌、大震災、経済恐慌など経済混乱が続いて、金解禁がおくれた。
ここで井上は金解禁を実施すれば、通貨は収縮し、物価は下り、不安定になっていた為替相場も安定するだろう、一時は不況になっても、輸出は増大して、国際収支は好転するから、国内経済の安定は達成出来る、と考えたのである。
また一説には、金解禁を行えば、「円価騰貴―輸入の増大―正貨流出―通貨縮小―消費減退という図式によって、物価は下落し、内外の市場は縮小する、これによって財界を整理し、独占資本の対外競争力を強める」という理論もあったといわれる。
このためには、輸入制限、国産品愛用、消費節約、産業合理化などが必要である、という説もあった。
ところが、不幸にも井上の場合は理論倒れとなり、金解禁と同時にアメリカのパニックの影響をまともに受け嵐の中に雨戸をひらく≠ニいう惨状に陥った。
日本国内では、恐慌に対する処置として、政府が産業合理化≠指導した。しかし各種のカルテルが続々結成されるにつれて、中小企業は不況のしわよせで深刻な打撃を受けた。
また、合理化のため賃金引き下げが行われた。浜口内閣ではすでに昭和四年十月、官吏に減俸を言い渡し、反撃を受けていたが、昭和五年となると、大小の会社でも減俸、首切りが続出した。失業者も増え、大学は出たけれど≠ニいう時代に至るのである。
最も甚大な被害を受けたのは農村であった。昭和五年秋は大豊作で、米価は大正十四年の半分以下(一石二十円)に下った。ところが、北海道、東北は大凶作であり、欠食児童が続出した。
このため、ついに東北では娘を売るに至った。東京の遊里には、東北の娘があらわれた。
当時、金解禁反対の四人の侍と呼ばれた経済学者がいた。
小汀利得《おばまとしえ》(中外商業新報経済部長)、高橋亀吉(経済評論家)、石橋湛山(東洋経済新報主幹)、山崎清純(時事新報経済記者)である。
昭和史上有数の経済学者といわれる高橋亀吉は、「後年五・一五事件(昭和七)、二・二六事件(昭和十一)の発端は金解禁にあったといっても過言ではない」と断言している。
五・一五事件のことはさておき、二・二六事件において、昭和維新を叫ぶ青年将校たちの脳裡に、東北から売られて来た少女の姿があったことは確かである。
立野信之著『叛乱《はんらん》』などのなかにもそれは出て来る。
麻布三|聯隊《れんたい》のある中尉が遊里で女と遊んだとき、女からしみじみと東北農村の悲惨な状況を聞かされたこと、また首魁《しゆかい》として死刑になった安藤大尉は、ある日部下の兵から、妹が吉原に身売りしていることを聞いて愕然《がくぜん》とし、このような民政状態では、皇軍が皇軍としての面目を保ち得ないと考え、ついに革新に踏み切るのである。
このように困難な時代にあえて立候補した松岡のスローガンは何か。
それは、アジアの日本としての興亜の大業=A日本の発展、及び政党の解消、の三つであった。
このうち、興亜の大業の内容は、後年昭和十六年に刊行された『興亜の大業』のなかにも出て来るが、ここではかなり当時の風潮に影響されてか、神がかり的なところもみられる。
「興亜の大業とは何か? これを一言にして言えば、神武天皇の八紘一宇《はつこういちう》の御詔勅の実現に尽きる。単なる自惚《うぬぼ》れや神がかり式のひとり善がりではない。近代世界の実情、現下の国際情勢、生きた人類史の事実に即して、此《こ》の崇高|雄渾《ゆうこん》なる神武天皇の御創業の御精神を大規模に大陸経営の上に実現し、進んで亜細亜《アジア》より全世界へと皇道仁愛の道を宣布し、人類救済の実を完《まつと》うすることこそ、正に興亜の大業の理想でなければならぬ」
まず冒頭にこう書かれてある。
これに続いて松岡はこう書いている。
「私は天の選民の資格ありや否やの判断の基準となるものがおよそ三つあると考える。第一は、その民族の過去の歴史である。第二はその民族の上に現に課せられている役割、それを遂行する為《ため》に採用されつつある手段、方法及びその実績である。第三はその民族の理想が果して人類をあまねく救済し得るが如き客観的価値を有しておるか、しかして、その民族はこの理想原理を忠実に追求実現するだけの真実性と実践力とを持っておるか、更に他民族をして承服せしむるだけの精神力を有するか、ということである」
『興亜の大業』は昭和十六年に出版されているため、ヒトラーのゲルマン民族選民主義と国内の皇道思想に影響されて、多分に神がかり的で、人類救済%凾フ言辞もみられるが、元来松岡はもっと現実的な男であるはずである。
昭和五年二月松岡が立候補したときの心境は、満蒙が日本の生命線であるという考えを普及し、もってソ連の進出を防ぎ、また英米に対しても、対等に門戸を張ってゆこうという程度のものではなかったろうかと思われる。
この考えは、第二次大戦直前まで持続し、『興亜の大業』にも次のように述べてある。
「『興亜の大業』が満州建国の延長であるとの私の主張に対して、隣邦人の誤解のないように特に念を入れて言っておかねばならぬことは、日本は満州国を日本化し、支那を満州国化せんとするが如き意図を有するものではないということである。日本の望むところは一日も早く支那が近代的国家として統一されることである。(中略)
日満支三国を打って一丸とする東亜新秩序、それを枢軸とする大東亜共栄圏体制は、かのベルサイユ会議が生んだ国際聯盟の如き空虚な夢幻的存在であってはならぬことは勿論《もちろん》である。(後略)」
一年生代議士となった松岡は、翌、昭和六年一月二十三、二十四の両日、第五十九議会において、幣原軟弱外交≠強烈に批判する質問演説を行い、注目を浴びるのであるが、その前に、ロンドン会議と統帥権干犯問題、続いて起った浜口総理|狙撃《そげき》事件について述べる必要があろう。
松岡が選挙戦のため、しきりに演説をぶって歩いていた昭和五年一月、ロンドンでは、一九二一年のワシントンに次いで、軍縮会議が開かれた。集ったのは、前回と同じく日、英、米、仏、伊の五カ国で、前回の主題は主力艦であったが、今回は補助艦艇であった。
前回、五・五・三の比率に抑えつけられた日本は今回は十・十・七を主張せんとして会議に臨んだ。全権は元総理、若槻礼次郎、海相、財部彪である。
会議は難航し、三月に入ってようやく協定案が生み出された。
この案をみて目の色を変えたのは、東京にあって成否を待ちわびていた軍令部長加藤寛治と、同次長末次信正らの艦隊派である。彼らは、先のワシントン会議においても十・十・七を主張したが、条約派の総帥加藤友三郎が、五・五・三で妥協して帰国したので、ひどく憤慨していた。今度も代表が条約派の財部彪なので心配していた。
加藤ら艦隊派の主張は、補助艦保有量は対英米七割以上、大型巡洋艦は対英米七割、潜水艦は七万八千五百トン、であった。
しかし、財部が報告してきた妥協案は、保有総量こそほぼ七割に近いが、大型巡洋艦は六割、そして潜水艦の専門家末次が強く主張した潜水艦の保有量は、日、英、米ともに五万二千七百トンに抑えられていた。
加藤たちは一斉に反対の意思表示をした。まず、戦艦を五・五・三で抑えられた上に、大型巡洋艦を六割に抑えられたのでは、アメリカの太平洋艦隊が渡洋作戦を敢行して攻めて来たとき、遊撃戦法によってこれを撃って追い返す自信が持てない。
第二に、通商破壊、後方|攪乱《かくらん》に有効な潜水艦を制限されては、機動力の発揮のしようがない、等が大きな理由であった。
彼らは伏見宮と東郷元帥を表面に立てて条約調印反対を申し立てた。
しかし、若槻全権の最終比率案を受けとった浜口総理は、財政上からも建艦競争は無理とみて、調印の覚悟を固めた。この頃の海軍省は、山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長ら条約派で固めていた。堀悌吉は山本五十六と同期で、海兵三十二期をトップで卒業した秀才でありながら、後に大角海相によって、惜しくも予備役に編入された人物である。
浜口首相は四月一日閣議のあと、参内して条約賛成の儀を上奏することとした。ところが、これを阻止しようとする加藤軍令部長は、それ以前に参内して、直接天皇に、この条約をお許しにならぬよう上奏する決意を固め、その手続きをとった。いわゆる明治天皇の時代によく行われた帷幄《いあく》上奏の手である。
普通天皇への上奏は、閣議を経て首相が行うのが通例であるが、陸海軍だけは直接上奏が認められていた。これは明治憲法に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」となっており、陸海軍は天皇直属であって、首相ほか他の国務大臣、重臣の指示を受けない、という思想にもとづくものである。この思想が後に五・一五事件、二・二六事件をひきおこし、ひいては太平洋戦争につながるのである。
三月三十一日朝、加藤は早々と皇居に参内し、鈴木貫太郎侍従長に陛下に拝謁を申し入れた。
鈴木は事の重大さを悟り、加藤を侍従長官舎に伴って、上奏を中止するようなだめた。
加藤は海軍の先輩である鈴木のいうことを一応は聞いたが(鈴木は海兵十四期、加藤は十八期、鈴木はすでに聯合艦隊司令長官、軍令部長を歴任していた)、翌四月一日、閣議が条約案賛成として、若槻への回訓案を議決すると、いてもたってもおられず、再び皇居を訪れて、拝謁を願い出た。しかし、ここでも、鈴木に阻止された。
そして、四月一日、浜口首相は参内して、若槻案を承諾したき旨を天皇に上奏し、裁可を受けた。加藤が拝謁を許されたのはその翌日であった。加藤は政府の回訓電発信に反対の旨を上奏したが、すでに裁可を終った天皇は、ただ聞きおくというだけで、とりあげにはならなかった。
皇居を退出する加藤は、車のなかで、「統帥権の干犯だ」と呟《つぶや》いた。
統帥権は天皇と軍上層部を直接結びつけているはずなのだ。鈴木侍従長は明らかにこれに介入して、浜口の計画を実現させてしまった。これでは、天皇から兵馬の大権をあずかる軍令部としては威信が保てない。
そこで、軍令部は、伏見宮、東郷元帥をかつぎあげて、統帥権の干犯を攻撃した。ところが、攻撃さるべきは鈴木侍従長であるはずなのが、浜口首相が攻撃をうけることになった。これには野党である政友会一派の策謀もある。統帥権干犯をふりかざして浜口内閣を攻撃した人のなかには、犬養毅や鳩山一郎も入っていた。
混乱のうちに、四月二十二日、条約は調印され、十月二日批准される運びとなった。
加藤軍令部長は六月十日辞表を出し、財部海相は十月三日辞職した。
そして、十一月十四日浜口首相は東京駅頭で愛国社社員の佐郷屋留雄に拳銃で狙撃された。逮捕された佐郷屋は警視庁での訊問で、「浜口内閣は不景気を招き、またロンドン会議では日本を屈辱的な位置におく条約を結び、統帥権を干犯したので、浜口内閣を打倒するため撃った」と自供した。浜口は下腹部に一発をうけたが、急所をはずれていたため助かり、翌年の第五十九議会には出席出来るまでに回復した。
野党はかねて、浜口内閣は「緊縮政策による深刻な不況を招来し、独占資本擁護で、財閥と結託し、政党政治に対する国民の信頼を失った」として、国民の不満をあおっていた。軍部の一部と右翼団体がこれに同調し、佐郷屋の犯行となったものである。
佐郷屋は土建業の飯場長の子供として、満州吉林省で生れ、朝鮮忠清南道の小学校を卒業し、満州、シンガポールなどを流浪して昭和三年日本に帰った。右翼団体黒竜会、白浪会などに寄食した後、愛国社社員となった。愛国的な壮士というよりは、「粗暴で激し易い男である」と警察では発表している。
さて、翌、昭和六年は満州事変が勃発《ぼつぱつ》した多難な年であるが、この年一月二十三、四の両日、松岡は第五十九議会で処女演説を行った。
この議事録は『動く満蒙』に収録されているが、要するに松岡は、宿敵&シ原外相(浜口が病気のため首相代理をも兼ねていた)を相手に、丁々発止とやりあい、多くの賛成者の拍手を浴びたのである。
松岡はまず、日米関係について質問した。ロンドン会議において日本が譲歩する代りに、米国への移民条件を改良するという約束があった、と米国の新聞にも出ていたが、実際はどうか、というのである。これに対して、幣原は、翌日の本会議で、そのような事実は全くないが、日本移民法の改善にはなお希望がある、と答弁した。
第二は日英関係で、「幣原外相の口ぶりでは、日英は親善で結構な関係であるといわれるが、最近の例をみてもインドの関税引き上げ、シンガポールの軍港築造等、ゆるがせに出来ぬ事実が出て来ている。しかも、最近ある著名な政治家が『イギリスはシンガポールに軍港を造らなかったならば、他に造りたい所がある。それは日本である』などと放言している。さらに、世界の四分の一を領しているイギリスの領土内に、大和民族は移民として一歩も足を踏み入れることが出来ぬではないか。これでも日英は親善関係にあるといえるのか」と質問した。
幣原は「松岡君は日英国交について二、三例をあげられたが、しからば日本政府としていかなる処置をとるべきか、ということについては、意見をうけたまわっていない」と軽くいなし、「最近南アフリカにおける日本移民が、永年の排斥から改善され、今年十月からは、一定の条件を備えた日本人は入国の自由を得るに至りました」とメリットの一例をあげた。
松岡は第三に日露関係について質問した。
「大正十四年、幣原男が外相であった当時に日露国交基本条約が締結され、これによって、日露の関係は回復されました。しかし、その後、日本に不利益なことが多い。幣原外相は、日露貿易は国交回復時の三倍になっていると言われたが、物価の高騰をみれば、喜ぶには当らない。日露貿易はわが全貿易の一パーセントにしか当っていない。しかも、わが国への輸入超過が多い。また北海漁業は日々に圧迫をこうむり、浦塩における朝鮮銀行はついに閉鎖の憂き目に会っている。この方面にいる数百名の同胞も近く引き揚げようとするような有様である。これでも国交回復は順調に行っていると言われるのか?」
幣原は答えた。「北海漁業と浦塩、この二つの問題に関しては、目下交渉中であります。交渉の経過をここで言明することは、交渉を不利に導くおそれがあるので言明は出来ません」
第四は支那問題。「支那に関しても幣原外交は腰が弱い。先に南京事件があり、後には小幡公使アグレマン事件がある。南京では、領事が眼前で妻を凌辱《りようじよく》される事件がおきている。しかし、領事は本国の訓令が穏便にすませよと言ってきているのでじっと耐えてしまった。こんな事で、国の威信が保てようか。また小幡アグレマン事件(日本外務省は、佐分利の急死のあと、小幡酉吉を駐支公使に送ろうとして、アグレマン〔賛成〕を求めたが、支那側は、小幡が大正五年の対支二十一カ条要求時の外務省当局者であったことを理由に、これを拒否した事件をいう)でも、幣原外相は昨春の臨時議会において円満なる解決を約束されたが、その解決とは、小幡氏を引っこめて、ドイツ大使に転任せしめることであったのか。これは、わが国の威信を傷つけると同時に、ドイツに対しても、はなはだ失礼なことではないのか?」
幣原「南京事件につきましては、一昨年貴族院でくわしく述べた通りで、決してわが外交の軟弱であったために起ったものではありません。被害者は日本人だけでなく、南京に在住せる外国人全部に及んでおります。また小幡公使アグレマン問題については、アグレマンというような問題がこの議場に適しないということは、外交にくわしい松岡君のよく知る所でありましょう。ドイツ政府はこの問題の真相を知っておりますので、快く小幡大使を迎えるに至ったのであります」
第五は満蒙問題である。「満蒙問題は我が国の危急存亡にかかわる問題であります。国防上も、経済的にもそう考えます。満蒙に二十万の日本人がいるとか、鉄道を持っているとかいうことが満蒙問題のすべてではない。満蒙はわが国の生命線であると私は考えている。しかるに、現内閣は、何もしていない。幣原外相の無為傍観主義がよく現われているではないか」
幣原「満州の鉄道問題について、最近交渉を始めることになりましたが、これを議会対策の一部であるというように批評される向きがある。しかし、実情に通じておられる松岡君ならば、そのようなことはいわれないと思います」
議事録をずっとみると、松岡はムキになって愛国の観点から発言し、幣原は国際協調の見地から、巧妙にこれをはぐらかしているという感じを受ける。
なお、松岡は選挙区への報告のなかで、この時の質問の要点を次のように述べている。
一、私の質問は、単に外務大臣を質問攻めにするとか、わが国民に呼びかけるというだけの意味ではなく、この機会をかりて、諸外国に対して、わが国の正当なる主張と公正なる立場を明らかにすることを期待して行われたものであります。
二、経済上、国防上、満蒙はわが国の生命線である。
三、現下の急に処する為、わが国民の要求するところは、生物としての最小限度の生存権であります。かつて、ドイツ帝国の宰相フォン・ビューロー伯は、a place in the sun(日なたぼっこの出来る土地が欲しい)と叫んだ。しかし、この経済困難に喘《あえ》ぎつつある今の日本国民にとってはそれすらもぜいたくなことのように思える。わが求むる所はわずかにa breathing space(息をするだけの余地)であるということを、世界に徹底せしめたい。
四、わが国が東亜の全局を背負って立つという抱負、気魄《きはく》は、明治以来吾人の先輩が一貫して中外に公示したところのものであったが、近年の外交のやり方をみると、この気魄、抱負はどこかに置き忘れたかの感がある。位取り、気合の根本を建て直さない限り、百の技巧も術策も無価値である。私の質問は特にこの点に焦点の一つをおいたのである。
「満蒙はわが国の生命線である」という言い方は、松岡が満鉄副総裁の頃から側近や部下に語っていた言葉であるが、広く公の場で語られたのは、この五十九議会が初めてである。
このキャッチフレーズは、翌年九月の満州事変によって、広く日本に広まった。しかし、この言葉を創始した松岡の意思は、軍事的侵略ではなくて、平和的開発であった。
満蒙の権益の活用なくしては、膨脹してゆく日本の人口のはけ口がない。移民問題に対する関心の深さをみてもわかるように、彼は人口問題に常に深い注意を払っていた。これは幼にしてアメリカへ移民として送られた経験がそうさせたのであろう。
この満蒙生命線≠ノついて、『太平洋戦争史』は「まことに巧みな表現である。特殊権益等という言い方は、条約上の確認を伴うが、生命線≠ニいえば、そのような限定がいらない。生命線といえば、日本国民がこの地域に生命を捧《ささ》げた歴史を呼びさまし死守≠ケねばならない、という感情をうながす。大日本帝国が陥った危機を明示し、危機打開の衝動をかき立てる。このため、松岡個人の用語から、政友会の公用語となり、陸軍や新聞に使われるに至った」と述べている。
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八章 満州事変
松岡の創始した「生命線」という言葉は、松岡流の英語ではライフ・ラインと訳され、昭和七年、ジュネーブの国際聯盟でも用いられている。
このとき、松岡が、「マンチュリアとモンゴルは、わがジャパンのライフ・ラインである」と強調すると、列国代表は苦笑した。彼らは、満蒙における日本の権益を不当なものと考えていたので、それを松岡がライフ・ライン(英語では通常、命綱を意味する)と呼んだのであるから、日本の代表にも困ったものだ、と考えたらしい。しかし、後には、各国代表もこの言葉を採用し、日本のライフ・ラインが満蒙ならば、我々のライフ・ラインは国際聯盟である、と叫ぶ国も出て来るほどであった。
さて、いよいよそのライフ・ラインである満州において、満州事変が始まるのであるが、これは陸軍の意図によるもので、松岡にとっては心外な進展であった。松岡は満蒙のライフ・ラインをあくまでも外交によって確保し、親善|裡《り》に開発しようと考えていたからである。
ここで満州事変勃発に至る内外の事情を眺めておこう。
まず中国における北伐の完成である。
一九二八年(昭和三)六月、張作霖が爆殺されてから間もなく、蒋介石のひきいる北伐軍は北京に入城した。七月六日、蒋介石は、西北地区司令官の馮玉祥、山西省を地盤とする閻錫山らとともに、孫文の柩《ひつぎ》の前で北伐完成を報告した。
このとき、北伐軍司令部のなかで問題になったのは、満州すなわち東北三省の処遇である。
張作霖死亡の後、東北三省は息子の学良が統治している。しかし、これを攻撃すれば、関東軍との衝突を生じ、日本側に口実を与えることになる。
このとき、日本側は、外交界の長老、林|権助《ごんすけ》男爵を奉天に派遣して、あくまで蒋介石の勢力に対抗するよう説得したが、怜悧《れいり》な学良は、一応、林を東京に追い返すと、十二月二十九日、東北三省は南京国民政府の旗である青天白日旗を掲げ、同調の意を表明した。
これに対して、国民党はあらためて学良を東北辺防軍総司令に任じた。これを東三省|易幟《えきし》と呼ぶ。
さて、中国を統一した蒋介石の前途は多難であった。
早速、内部分裂が起り、一九二九年三月、蒋は閻錫山の山西派を弾圧し、また西北地区の馮玉祥とも不仲となった。
また、国民党内で広東派と呼ばれる有力者|汪兆銘《おうちようめい》(汪精衛)のグループも蒋に批判的で、彼らは馮玉祥、広西派と結んで、反蒋運動を起した。
一九三一年(昭和六)汪一派は広東に集り、新広東国民政府を樹立して、反蒋運動を起し、日本の援助を求めた。汪兆銘は後に支那事変(日中戦争)のさなかに蒋と袂《たもと》を分かって、南京に新政権を樹立するが、その種子はこの頃からまかれていたので、単に日本政府が傀儡《かいらい》政権を作るために汪を利用したとみるのは、底の浅い見方といわねばなるまい。
当時、日本では大陸に野心を持つ田中内閣は瓦解し、次は浜口内閣で、外相は協調外交の幣原であったので、非干渉政策をとって手を出さなかった。この汪の一派が日本政府に援助の手を求めたとき、田中内閣であったならば、あるいは南京派兵位はあって、大異変が起きていたかも知れない。
異変は日本においても準備されつつあった。
ロンドン条約問題は右翼と軍部を大いに刺激した。
日本国民党、愛国勤労党、恢弘《かいこう》会、黒竜会、愛国社、興国学生連盟などの右翼団体や在郷軍人団体は、「屈辱的海軍条約を葬れ」というスローガンのもとに、浜口内閣や重臣たちの弱腰を攻撃した。
浜口総理が狙撃されたのは、前にも書いたとおり、一九三〇年十一月十四日である。
これに先立つ九月、陸軍部内では、桜会を結成している。発起人は部内の右翼思想家として知られる参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐ら二十余名で、主題は「本会は国家改造をもって終局の目的とし、これが為に要すれば、武力行使を辞せず」というもので、一種の武力革命もしくはクーデターを目的としたものである。最盛時には二百五十名くらいが加盟したのであるが、ここに、「国家改造」という言葉とともに北一輝の名前が登場するのである。
北一輝が有名な『日本改造法案大綱』を著したのは、一九一九年(大正八)のことで、すでに十年ほど前のことであるが、ロンドン条約と経済不況による国家危機≠フ時代を迎えて、その信奉者は急増しつつあった。
急進派は陸軍部内だけとは限らず、海軍にもいた。藤井|斉《ひとし》海軍中尉は、北一輝の『日本改造法案大綱』を読んで感激し、昭和三年、部内で革新グループ王師会を作り、昭和五年には、陸軍の第一師団長真崎甚三郎中将と連絡をとり、原田文男歩兵大尉らと協調すべく約束している。
彼らの意図するところは、重臣ら君側《くんそく》の奸《かん》をのぞき、議会を粛正し、天皇親政の御代に返すことである。明治天皇が軍人に与えた勅諭には、「古《いにしえ》は天皇自ら大伴《おおとも》、物部《もののべ》のつわものどもをひきいたまい……」となっている。
天皇親政ならば、統帥権干犯もなくなるし、財閥の利益独占によって民衆が泣くこともなくなる。
彼らは天皇中心の国体主義を掲げ、軍隊による錦旗革命≠目標としていた。
昭和五年秋、桜会は急激に拡大され、参謀次長二宮治重中将、第二部長建川美次少将、陸軍省軍務局長小磯国昭少将らを同調者として獲得した。建川少将は、昭和初期に少年読者の血を沸かした『敵中横断三百里』(山中峯太郎著)の主人公|挺身《ていしん》斥候隊長建川中尉である。
彼らは陸軍大臣宇垣一成をかついで、昭和六年三月を期してクーデターを決行し、政権を奪取し、昭和維新≠実現することを企画した。
その要項は次のとおりである。
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一、二月中に社会民衆党ら無産三派によって内閣糾弾デモを行わしめる。
二、三月の労働組合法案上程の日、左右両翼一万人を動員して議会にデモをかけ、政友、民政両党本部、首相官邸を爆破する。
三、軍隊を非常呼集し、議会を包囲して交通を遮断《しやだん》する。
四、元老らに工作して、宇垣大将に大命降下させ、内閣を組織して革新を行う。
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無論、青年将校たちは、革新内閣が出来たならば、それぞれ枢要の地位に入りこみ、自分たちの手で昭和維新が実現出来るものと考えていた。彼らは明治維新が、当時の僻地《へきち》の下級藩士の手に成った事例を考えていた。再び、青年将校が立つべき時期が到来したと考えていたのである。
軍人のほかに、この計画に同調した人物もいた。
その一人は、後に、極東軍事裁判で、日本帝国主義の理論的指導者として戦犯となる大川周明である。
青年将校の意を体した大川は、昭和六年二月、第五十九議会が混乱の極に達しているとき、宇垣一成を訪ねて、三月クーデターの話をした。「クーデターのときは、軍を指導し、首班に立って欲しい」というと、宇垣は初耳なのでびっくりして、「自分にその意図はない」と答えた。清浦、若槻両内閣の陸相として、陸軍四個師団の軍縮を決行し、陸軍部内から不評をかっている自分が、クーデターの後、内閣の首班に推されるというのは、不思議な話であった。
大川は困った。今更、青年将校のもとに帰って、宇垣陸相は立つ気がないとは報告出来ない。
雑談のあげく、「閣下は現下の政局に対して、陛下の軍人としてどのようにお考えですか?」と誘導|訊問《じんもん》を行った。
宇垣は、「無論、今の政治のあり方や国情には満足していない。本当にこの宇垣の命が必要なときは、喜んで国家のために捧げるつもりである」と抽象的な答えを返した。
大川はよいことを聞いたと思って、帰ると橋本欣五郎中佐や小磯少将らに、「宇垣さんは、いつでも命を投げ出すといわれた」と報告した。
そこで、革新派は実行にとりかかり、まずクーデターの日どりを昭和六年三月二十日と決めた。
ついで、彼らのシンパ≠ナある徳川義親侯爵から、二十万円の軍資金を調達し、デモ隊を動員することとした。
千葉歩兵学校から演習用擬砲弾三百発を借り出し、これをデモ隊に持たせる。デモ隊は、主として、上野、芝両公園のルンペンに日当をやって動員し、これらで抜刀隊をも組織させるなど、着々?と準備をすすめた。
前述のように、各党本部、首相官邸などに擬砲弾を投げこみ、市内を混乱に陥れた後、議会に、真崎中将あるいは小磯、建川少将らがのりこみ、宇垣大将を首班とすべき旨を宣言する。それまでに西園寺公、閑院宮などに面接して、宇垣大将に大命が降下するように工作しておく……。
と、机上プランだけはととのった。
しかし、二月末、二宮参謀次長が念のため宇垣陸相の最終的意向を打診するため宇垣に会うと、宇垣は決行案を一読し、
「おい、上野のルンペンなんかでクーデターが出来るもんか。そんなものを集めなけりゃあ出来ないものなら、やらん方がええ。おれは出ないぞ」
と蹴《け》ってしまった。
これで、三月クーデターはお流れになってしまった。国民はほとんど知らされていないが、軍部では、これを三月事件と呼んでいる。
三月事件失敗の原因の一つは、参謀本部側が独走して、陸軍省側の協力を得られなかったためとみられている。
陸軍省の軍事課長永田鉄山大佐、補任課長岡村|寧次《やすじ》大佐、歩兵第三聯隊長山下|奉文《ともゆき》大佐らは、日本改造には、東京における政治的クーデターよりも、満蒙問題の発展が先決問題であるという国際的な見方をしていた。
関東州の租借は一八九八年の露支条約を日露戦争でそのままひきついだもので、一九三四年(昭和九)が期限切れとなっていた。
悪評高い対支二十一カ条条約では、九十九年間の租借を認めさせたが、蒋介石の新政権は、高まるナショナリズムの勢いで、前約通り、一九三四年の返還を要求し、排日運動が強まっていた。
おりから起ったのが、万宝山事件である。
当時、満州には八十万人に及ぶ朝鮮人の農民が居住していた。中国人の排日運動は、朝鮮人にも及んだ。
この年春、長春(新京)の北にある万宝山で、朝鮮人農民約四百名が中国人地主から土地を借りて、水田開拓事業を始めた。ところが、中国側官憲はこれを禁止した。朝鮮人は日本領事館に保護を求め、領事は中国側に抗議をした。ところが、七月一日、中国人農民八百名が現地に現われ、朝鮮人農民が開拓した水田の溝《みぞ》などをこわした。そこで、長春から駆けつけた日本人警察官と中国人農民の争いとなり負傷者が出た。これが日本の新聞に過大に報道されたので、報復のため、朝鮮各地において朝鮮人が中国人に対して暴行を働いた。これが万宝山事件の要約である。
続いて中村大尉事件が勃発した。
対ソ作戦のための地理を研究するため、参謀本部員中村震太郎大尉は、井杉延太郎曹長を連れて、この年夏、興安嶺地区を旅行した。
しかし、中村大尉の一行は予定期日を経ても帰って来なかった。
八月中旬に至って、中村、井杉の両名は、チチハル西方の蘇鄂公爺府《そがくこうやふ》というところで、関玉衡《かんぎよくこう》の指揮する中国軍によって惨殺されたことが判明した。
筆者の少年時代「ますらお中村震太郎、行手は遠し興安嶺」という歌がはやった。
その冒頭は、「国家の保護と国権の維持とは兵の力なり、尊き使命帯ぶる身に、何の恐るることやある……」となっていたように思う。
当然、関東軍は、中国側に厳重な抗議を行った。中国は延引策をとり、なかなか事態は解決しなかった。
しかし、ついに、九月十八日、東北辺防軍参謀長|栄臻《えいしん》が、殺害の責任者関玉衡を奉天に連行した旨、日本側領事に通知があった。
そして、その日の夜十時二十五分、奉天北方柳条湖において爆発事件が起り、満州事変へと拡がってゆくのである。
一般に、満州事変は、奉天の北方にある張学良の親衛隊ともいうべき部隊が屯営している北大営に近い「柳条溝」で爆発が起ったに始まる、といわれている。
しかし、衛藤瀋吉『眠れる獅子《しし》』によれば、北大営の西側、満鉄を挟《はさ》んで柳条湖という小さな池があり、爆発はこの池に近い満鉄線路際で起った、となっているので、本書でも柳条湖説をとっておく。
例によって、この爆破事件も日本側が仕組んだものである。
関東軍の高級参謀板垣征四郎大佐、作戦主任参謀石原莞爾中佐、奉天特務機関花谷正少佐、張学良顧問今田新太郎大尉らの名前が、『眠れる獅子』にはあげられている。
肝心の満鉄を守備する独立守備隊の大部分には、何の通報もなかった。柳条湖付近の警備を命じられていた独立守備隊第二大隊の河本中尉は板垣の命でこの爆破を担当し、これを張学良側の仕業として、中隊本部に連絡した。
奉天独立守備隊第二大隊長島本中佐は何も知らされてはいなかった。彼はこの夜酒に酔って快眠しているところを、部下の報告で起され、眠い眼をこすりながら長靴《ちようか》をはき、軍刀を腰に吊《つ》った。
不思議なことに、満鉄を爆破したはずの張学良側は、何の戦闘準備もととのえていなかった。
不意を打たれた独立守備隊以上に北大営の張学良軍はもたもたしていた。関東軍の二十四サンチ榴弾砲《りゆうだんほう》が北大営に撃ちこまれると、彼らは敗走した。朝までに、北大営のほか、奉天城、東大営、飛行場、兵工廠《へいこうしよう》を占領、すなわち、日本軍はほぼ全奉天の占領を完了した。
さて、満蒙を生命線と主張していた松岡は、この満州事変勃発をどう受けとっていたか?
青山の自宅にいた松岡は九月十九日の朝刊で柳条湖事件の勃発を知った。(当時、筆者は岐阜市に近い郷里に住んでいたが、十九日の夕刻、買い物に出た母が、「大変だよ、戦争だよ」と顔色を変えて号外を手にして帰って来たことを覚えている。号外の見出しは、「突如! 奉天柳条溝において満鉄爆破さる。我が軍直ちに北大営を攻撃中」というようになっていたと記憶している。当時筆者は小学校六年生であった)
松岡はその頃、東京にいて『東亜全局の動揺』という著作に打ち込み、ほぼ完成しかけている所であった。(敗戦直後知ったかぶりの評論家が、あたかも松岡が満州事変の計画に参画していたようなことを言って、松岡のことを侵略主義者としてあげつらっているのを見たことがあるが、それは時流におもねる者の仕業である)
外交によって満蒙を開発しようと考えていた松岡にとって、柳条湖事件は、青天の霹靂《へきれき》であった。
実情を知らぬ史家は、敗戦後の論調において、松岡を親軍派とみなし、陸軍の強硬派と力を合わせて満州ならびに中国の侵略を行ったように、漠然とみなしている向きがあるが、それは実態を知らぬ者の推論である。松岡は常に陸軍の先走りを警戒していた。また、その半面、陸軍のゴリ押しを知恵がないと言って軽蔑《けいべつ》していたことも事実である。松岡の側近の間では、「松岡さんは軍部なんか屁《へ》とも思っちゃいませんよ」というのが通説であった。国の為に命を投げ出すつもりならば、軍部の圧力もこわくはない、という意味であろうか。
松岡は、事件を知ったときの衝撃を『東亜全局の動揺』の校正後記に次のように書いている。
時は県議選の真っ最中である。急迫せる満蒙の事態と動揺せる東亜全局に想到して、深憂禁ずるあたわず、忙中の寸閑を偸《ぬす》みて今春来病める右手に筆を呵《か》しつつ、無理にも本書をものにした。私のこの警鐘がいささかにても我が朝野反省の因となり、外交によって満蒙をその当然の位置に置き直すことが出来たならば、という微衷からであった。九月十五日稿を了《お》えた。あたかも満州で生れた三男震三の誕生日であった。
今日は朝早くから最後の校正にとりかかった。朝刊が来た。眼を見張った。が、次の瞬間に力なく校正の赤鉛筆をほうり出して、吾れ知らずうなじを垂れた。外交は完全に破産した。威力は全く地に墜ちた。世界をあげて我が勢力の存在を認めていたはずの満蒙で、このていたらくは何事であるか。実は我が軍人ほど堪忍強い者はない。それがこの挙に出たということはよくよくの事であったろう。こんな事を防ごうと思えばこそ筆を執った。もう校正する勇気もない。砲火剣光の下に外交はない。東亜の大局を繋《つな》ぐ力もない。休《やん》ぬるかな、噫《ああ》。
九月十九日朝、奉天付近における日支兵衝突の報道を読みて著者識す
これを読むと、柳条湖事件について、陸軍からは松岡に何らの事前通報がなかったことがよくわかる。
松岡の憂慮にもかかわらず、事変は刻々に拡大されていった。
九月十九日、午前零時、関東軍司令官本庄繁中将は関東軍全軍に出動命令を下した。
彼はこの年八月一日、軍司令官として着任し、各地の巡視を終えて、十八日午後八時、旅順の司令部に帰着したばかりであった。幕僚として参謀長三宅光治少将、参謀石原莞爾を伴い、板垣征四郎は奉天に残って、事件の指揮をとっていた。
事件の第一報が旅順の司令部に達したのは、午後十一時で、本庄は直ちに主だった幕僚を集めて、協議に入った。
本庄はもちろん、石原を除く幕僚の大部分は事件の真相を知らなかった。事件が板垣や石原らによって計画されたことを感知した本庄は愕然《がくぜん》とした。筋を通す参謀のなかには、板垣、石原らの所業は統制違反であり、処断さるべきものだと主張するものもいた。しかし、以前から武力による全満州の占領を可としている参謀たちは、板垣らの行為は国を思う至誠に出ているのであるから、関東軍はこれを見殺しにすべきではない、と司令官を説いた。
本庄は決して過激な満州武力占領論者ではなかったが、結局、勢いに押されて、板垣らを支援することに決し、十九日午前零時の動員令、奉天攻撃となったのである。
関東軍司令部は同日正午、奉天、東拓楼に移り、十九日には、長春、撫順等の要所を制圧した。
当時、満州には、約二十三万人の日本人が居住し、沿線各地には多門中将のひきいる第二師団を中心とする関東軍一万四百人が駐屯していた。
これに対し、一方は、張学良や馬占山《ばせんざん》のひきいる軍隊を中心に、満鉄沿線の外側に五万人、各地に二十一万五千人、計二十六万五千人の軍隊をもっていた。いかに皇軍≠ェ精鋭なりとはいえども、二十一万対一万では劣勢を蔽《おお》い難い。満鉄各地に散らばる日本人の生命財産を守るには、余りにも不足と感じた本庄司令官は参謀本部の指令を仰ぐことなく、京城の朝鮮軍司令官林銑十郎大将に救援依頼の電報を打った。『本庄日記』(原書房刊)には、「九月二十一日、午後一時発、新義州待機の朝鮮軍来満に軍司令部独断決せられる。午後三時より板垣参謀らと戦線巡視」とある。朝鮮軍は、羅南と竜山に各一個師団を持っている。
通報を受けた林大将は直ちに満鮮国境を流れる鴨緑江の手前の新義州に待機中の第三十九旅団に出動命令を下し、同旅団は十九日鴨緑江を渡って、満州に進出した。
十九日朝、陸相南次郎は、参内して満州の状況を天皇に報告したが、天皇は理解し難い表情であった。
林大将は、兵を満州に出しておいて、参謀本部に電報を打ち、事後承諾を得ようと努力している。
午後三時、参謀総長金谷範三大将は参内して、「朝鮮軍が独断で満州に派兵しましたが、停止命令を発しておきました」と奏上した。
天皇はこれに対し、「事件をこれ以上拡大せぬように」と注意した。
このとき、朝鮮軍司令官林銑十郎は死を覚悟していたといわれる。独断の満州派兵は、明らかに統制違反である。もし、天皇からお咎《とが》めがあれば死をもってお詫《わ》びしなければならない。彼は京城の官邸で白装束に着換え、眼の前には三方の上に短刀をおき、中央からの指令を待っていた。その間に、三十九旅団は進軍して奉天に入ってしまった。
九月二十一日の新聞は、三十九旅団がすでに奉天に入ったことを告げていた。
天皇は侍従武官長奈良大将を呼んだ。
「朝鮮軍は進撃をやめておらぬではないか」
天皇の問いに、
「はい、参謀本部では戦闘行動を停止しておるとのことですが……」
と答えた。
天皇は、
「張作霖事件のときと同じようなことにならぬよう、注意せよ。参謀総長に会いたい」
という意味のことを言い、奈良武官長は全身が硬直する思いであった。
午後五時半、金谷参謀総長が参内した。彼は苦慮していた。この日の閣議で彼は朝鮮軍の行動の事後承認を請願した。ここまで出てしまった朝鮮軍の行動に対し、統帥部から違反であると引き返しの命令を出せば、林大将は割腹するであろう。そうなれば、陸軍部内の統制は滅茶滅茶になる恐れがある。在留邦人保護のためにも朝鮮軍の行動を認めて欲しい、と彼は説いた。しかし、この段階では若槻首相は不賛成であり、結局、閣議の承認は得られなかったのである。
金谷総長はついに伝家の宝刀を引き抜いた。統帥権に頼って帷幄上奏を行い、陛下に直接請願しようというのである。
しかし、金谷総長は奈良武官長に阻止された。
「閣議で承認されぬものを、お上に直接お願いするのはおだやかでない。陸軍全体のためにも自重するように」
ということである。
苦悶《くもん》の表情で退出した金谷総長は、再び若槻首相に泣きついた。
「海外に派兵すると、まず武器食糧の補給が要ります。閣議で承認してもらえないと、兵は飢えます。かつ、一万くらいの関東軍では、二十万を越す支那軍のために圧倒され、在留邦人は全滅の憂き目を見るかもわかりません」
これに対し、若槻は、天を仰いで大息した後、
「出てしもうたものは仕方ないか」
と呟いた。
二十三日、若槻に続いて金谷も参内し拝謁した。
天皇は険しい表情で金谷を迎え、
「この度は在留邦人保護の件もあり、致し方がないと思うが、将来はこのような独断出兵のないように注意せよ」
と注意を与えた。
金谷は恐懼《きようく》して退去したが、これで御裁可を得たのでほっとした。
天皇の御裁可がおりた旨の電報を受けとった京城の林大将は、複雑な表情を示した後、感涙にむせんだ。これで腹を切らなくてもすんだのであるが、もし、天皇の御裁可が得られない場合は、子々孫々に至るまで、不忠の臣のそしりを免れ得ないところであったのだ。あらためて皇恩の広きに感謝しなければならない。白装束を解きながら、林は、滂沱《ぼうだ》として涙が頬を伝うのを禁じ得なかった。
このときの林司令官の白装束の話は、さまざまに誇張され、雑誌等で喧伝《けんでん》された。
林はお咎めをこうむらなかったばかりか、一九三七年(昭和十二)には総理となっている。このときの白装束問題で、人望を集め得たのであろうか。
御裁可が出たとみるや、皇軍≠ヘ破竹の勢いで進軍を開始した。
まず、長春の東方にある吉林を占領した。このときは、吉林特務機関長大迫通貞中佐と甘粕正彦元大尉が共謀して、吉林の町に騒乱を起し、日本軍を導入したものである。
甘粕大尉が、関東大震災のおり、大杉栄、伊藤野枝らを殺害したのは周知の事実である。甘粕は軍法会議で十年の刑を宣告されたが、三年で釈放され、大川周明の世話で渡満し、特務機関的活動を行っていたものである。
続いて、関東軍はハルピンを占領した。このときも、甘粕と特務機関長百武晴吉中佐が日本総領事館や新聞社、料亭などに爆弾を投げこみ、支那兵の仕業だと宣伝したのである。『秘録・板垣征四郎』によると、板垣はこの頃、若手の参謀に、
「とにかくやってしまうことだ。中央のいうことなんか気にすることはない。そのいい例が朝鮮軍出動だ。出てしまえばこちらの勝ちだ。最初は金谷総長が陛下から叱られたというが、結局は御裁可を得られたじゃないか」
と、意気揚々と豪語していたそうである。
日本軍はさらにチチハル方面にも出動したが、ここでは関東軍に協力する張海鵬《ちようかいほう》の軍が北満で最強といわれる馬占山軍に大敗したので、関東軍の歩兵一個|聯隊《れんたい》、野砲兵二個大隊を派遣して、苦戦の末馬占山を追い払い、チチハルに入城した。
満州における日本軍の動きについて、当然国際聯盟は注目していた。聯盟理事会議長、およびアメリカの国務長官スチムソンからも、平和的解決を望む電報が届いた。
これに対して、若槻首相は「事態が好転すれば、日本軍は引き揚げる。日本政府の誠意ある解決を信頼されたい」と打電し、一応急場をしのいだ。しかし、解決どころか、日本はついに満州国を作ってしまったのである。
これら、内外の動きを、青山の自宅にいた松岡は、憂慮すべき事態として注目していた。とくに、政府が信義ある回答をするかどうかを心配していた。
昭和八年十一月十一日、富山高等学校における講演「青年と語る」で彼は次のように述べている。
「満州国はわが国にとって生命線であり、非常に重大な交渉を持っているのであるが、国際関係においてさらに重大なものは、帝国の信義≠ニいう事である。日本がいかに強くとも、一度世界に信義を失したならば大変である。
しかるに、満州問題に関する過去二カ年の外交において、日本はウソつきだと欧米では相場が決ったようである。かかる言語道断な認定に対して、われわれは考慮する必要はないか。
第一、国際聯盟に加入したとき、『いかなることがあっても兵力は使わぬ』と言ったではないか。満州事変では『自衛上|止《や》むを得ぬ』と言って弁明している。
これは詭弁《きべん》とはいえないが、ともかく兵力を使っておることは事実だ。また、何度かわが兵を出来るだけ早く鉄道付属地に引き揚げると言ったではないか。また『チチハルへは行かぬ』と言っていて、少なくともそう思わしめておいて、チチハルへ行った。『錦州へも行きませぬ』と言って間もなく錦州へ行った。
欧米でわが国をウソつきだという人がありとするも、それは全然いわれのないことと一概に言えるであろうか。
私のジュネーブ着は一昨年の十一月であったが、新聞でもお読みになったであろうが、一昨年の夏ごろまでに聯盟は幾回決議をしたか。これらの決議は厳として今日もなお存している。これらの決議には日本の代表も同意している。しかもわが国はこれを遵守したか? 少なくとも議論はあろう。少なくともわが国の信義は大いに問われた形となった。これはいかにしても残念なことである」
この演説は、ジュネーブにおけるサヨナラ演説から九カ月の後に行われたものである。これによると、松岡は世に伝えられる如く、日本の満州侵略を是認して、世界を相手に大見得を切ってサヨナラを宣言したものではないことがわかる。
松岡は、日本政府、とくにその外交方針に疑問を抱いていたが、その外交の実態が、列強から信頼され得ないような状況に追いこんでいく軍部の強引なやり方には、批判的であった。しかし、その半面、必ずしも満州進出を否定はしないという二面性が松岡にはあった。
次に掲げるのは、それより二カ月前、昭和八年九月、東京日比谷公会堂で「満州事変記念日に際し国民に愬《うつた》う」と題して講演したものである。
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私は十数年来、満蒙の事情を説き、近年満蒙はわが国の生命線なりと絶叫して来たが、日本国民全体としては、なかなか認識を深めないで朦朧《もうろう》としていた。現に(昭和六年)九月十八日事変が勃発《ぼつぱつ》するや、狼狽《ろうばい》おくところを知らず、また最初はその意義すら解せず、先程述べたような意義、即《すなわ》ち我が軍隊の行動は我が生命線を守るのにある、明治大帝の御遺策を奉ずるのであるという、この意義さえ、判然とは分らなかった。かような正体がソックリ欧米人に映じた。欧米人の間では、やはり軍人が――軍閥が悪い、これは一つ反軍閥の先生らを声援してやったら、日本軍閥が押えられるだろう、またそうして押えなければならぬと誤想した。無理はないではないか。我が国の一部の政治家もしくは、いわゆる有識者たちは「ご苦労であった」と彼らに謝意こそ表する義理がある。少なくとも、今日国民と共に彼らを不都合呼ばわりするのは少しひどい。「冗談言うものではない」という方があるなら、アメリカの国務省筋から資料を多くもらって刊行せられている書物があるからそれをお読みなさい。人の名まであげて、日本の軍閥|跳梁《ちようりよう》を押えるため、リベラリズムを助けるのが当時米国政府の方針であったという意味のことが書いてあります。一国内で意見を異にすると一方を外国が助けて、――それはその外国の都合のよい一方――一方をやっつけようというようなことをするに不思議はない。これはあなた方よく気をつけていただきたい。国の意見が分れますというと、そういうことが起りがちなものである。
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『人と生涯』によると、この「一方を外国が助ける」という「一方」は、幣原のことを指しているという。幣原は満州事変で不拡大方針をとり、軍部と相容《あいい》れずに辞職しているが、アメリカの国務長官スチムソンは「日本を正しく進ませるためには、幣原外相を援助するような方法を考え、国家主義者に対抗せしむべきである」と説いていたのである。
この日比谷公会堂における演説は、事変勃発の二年後に行われているが、同年十一月に富山高校で行われた講演とは異って、多分に軍部の味方をしている。これは、幣原外交に反撥するあまりにこのような姿勢となったものであろう。
一体に松岡は、アメリカで育ち、政治家は大衆の世論を背景にしなければならないということを、身をもって知っていた人物である。満州事変勃発時における軍部の横暴には反対であったが、満州国が出来てみると、彼の満蒙生命線論と合致するので、これに賛成するポーズをとり、大衆にもそのように説いている。
このような彼のパブリシティを好む性格は、『松岡洋右』の著者三輪公忠氏も指摘している。
この性格の故に、彼は派手な身ぶりで、ジュネーブのサヨナラ演説≠ナ国民の人気をあおり、三国同盟ではヒトラーと握手を交すに至り、そして、戦犯容疑者への道を歩んでゆく。
松岡の場合に限らないが、悲劇は歴史の歩みだけにあるのではなく、歴史のなかを歩んでゆく、人間の性格のなかにも包含されているのである。
中央政府がもたついている間に、関東軍はどんどん戦線を拡大して行った。
北京にいた張学良は、軍勢をまとめて、熱河省の錦州に進出していた。板垣と石原の指導する関東軍は、十月八日、錦州に爆撃を加えている。
ところが、これについて、『本庄日記』には一行も書いてない。彼は十月七日、満鉄総裁一行と、柳条湖付近の爆破現場を視察し、十月八日は、総裁と懇談したと書いてあるだけである。錦州爆撃のことは耳に入っていたのかいないのか、それとも故意に記述を省略したのであろうか。
この頃までに関東軍から「満蒙問題解決案」なるものが陸相、参謀総長あてに提出されていた。
その要点は次の通りである。
第一 方針
我国の支持を受け、東北四省及蒙古を領域とせる、宣統帝を頭首とする支那政権を樹立し、在満蒙各民族の楽土たらしむ。
第二 要項
国防外交は新政権の委嘱により、日本帝国に於《お》いて掌理し、交通通信の主なるものは之《これ》を管理す、内政|其《その》他に関しては、新政権自ら統治す。(以下略)
主な閣僚を暗殺して、新政権を樹立しようという十月事件が発覚したのもこの頃であった。
この事件は、桜会の主要メンバーである参謀本部ロシア班長橋本欣五郎、北京駐在武官、長勇少佐らが中心になって企画したものである。
まず桜会の将校百余人を動員し、これに歩兵十個中隊、機関銃一個中隊、爆撃機十三機をつけ、首相官邸、陸軍省、参謀本部を襲撃する。
剣道の達人である長少佐が若槻首相、幣原外相ら、満州事変拡大に反対する閣僚を軍刀で斬り殺す。このあと、東郷元帥と閑院宮の応援を求めて、新国策推進のための、強力なる内閣を樹立する。その主な予定メンバーは次の通りである。
首相兼陸相=[#「=」はゴシック体]荒木貞夫中将、内相=[#「=」はゴシック体]橋本欣五郎中佐、外相=[#「=」はゴシック体]建川美次少将、蔵相=[#「=」はゴシック体]大川周明、警視総監=[#「=」はゴシック体]長勇少佐、海相=[#「=」はゴシック体]小林省三少将。
中佐や少佐が国政の枢機を握ろうとするところに、彼らの明治維新の志士を模倣した昭和維新≠フ意気込みがうかがえる。
この計画は簡単に暴露し、荒木中将も反対で説得する側に回り、橋本、長ら主謀者は憲兵に逮捕され、やがて満州勤務などに飛ばされるのである。
十月事件は天皇の耳にも入り、金谷参謀総長は、ここでも叱られた。事変は拡大する一方で若槻内閣の命運は旦夕《たんせき》に迫っていた。
この頃、内相安達謙蔵は「協力内閣説」を唱えていた。一政党にこだわらず各党が協力して力のある内閣を作るべきだというのである。後の挙国一致内閣のはしりである。
これに対して、後に政党解消運動を起す松岡はどう考えていたか? 『人と生涯』から引用してみよう。
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政党というものは、対立と抗争の政治形態である。これが問題である。この頃、政友民政提携などということが報道されている。ところで、政民両党が提携することは、見ようによっては、政党を否認することになる。政党というものは、対立して抗争するというところに意義がある。これらの人たちだけで党を作って、国民をひきいるという考え方に対して、私は絶対に反対する。わが国はそういう党人だけの国では、もとよりない。しかして、私は、政党というものは、政党人だけの政党ではないと思う。あたかも、陸海軍が、将校たち、軍人たちの陸海軍ではないと同じである。日本の陸海軍は誰のものでもない。自分の陸海軍だということはすぐ頭に入る。政党は民間同志の団体であるから、俺らのものじゃない。何をしようと俺らの知ったことじゃないという感じがある。それはいかぬ。いやしくもこれだけの大組織を国内につくり、国の政治にこれだけ関するところの機関は、否でも応でも全国民のものである。決して、支那やその他の外国から来た政党じゃない。われわれ同胞のつくった、そしてわが国の政治をある程度まで左右するところの大機関である。これはわれわれのもの、国民全体のものである。そこで私は国民全体にご相談申し上げたい。これをただ党人のものであるように思うから、そこに間違いが起きる。政党解消とは、立憲政治の否認ではないか。こういう問いに至っては、私の方が恐れいる。それは日本の憲法をごらんになるがよい。一目瞭然、どこに政党政治は憲政の常道なりと書いてあるか? この憲政の常道論は、実に不思議だ。憲政常道ということが憲法のどこにありましょうか。伊藤公の憲法|義解《ぎげ》を読めば、そこには政党を少しも予想していなかったことがわかる。日本の憲法が政党を予想してつくられた憲法でないということは、明々白々の事実である。
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松岡の意見は、戦後の議会民主主義からゆくと、突飛に聞えるが、非常時局といわれた満州事変の頃には、このような意見も、大衆にアピールしたものである。
非常時という言葉が叫ばれ始めたのは、この頃からのようである。私が小学校六年生のとき、村の豆腐屋が、「今は非常どきやでなも、わっちらも精出して、ええ豆腐を作らな、満州で戦っている兵隊さんに申し訳ないでなも」と語っていたのを記憶している。
さて、松岡が政党解消論をぶっている間に、若槻内閣は完全に時局収拾の能力を失った。関東軍の錦州爆撃、安達内相の統一協力内閣説など、困難な事態が次から次に起った。
十二月十一日、若槻内閣は総辞職し、大命は犬養毅に降下した。
陸軍大臣は南次郎から荒木貞夫に、次官は杉山元、参謀総長は金谷から閑院宮に代った。
この犬養内閣も多難な道を歩み、翌年五月、総理が射殺されてしまうのであるが、その前に、土肥原機関が仕組んだ、元清国宣統帝こと溥儀《ふぎ》の天津脱出について『天皇』及び『本庄日記』付録の記述を紹介しておこう。
関東軍は先に発表した満蒙問題解決案に「宣統帝を頭首とする支那政権を樹立し」とうたっていたが、十一月、これを実行に移す第一歩として、宣統帝溥儀を天津から満州に移した。
奉天特務機関長土肥原賢二大佐は、十月二十七日天津に到着、十一月二日、天津の日本租界協昌里の政商陸宗興の邸宅静園で余生を送っていた宣統帝溥儀に会った。
「満州に新国家を作るため、あなたに元首となってもらいたい」
と土肥原が言うと、溥儀は驚いたが、事情を聞き、ツングース族の満州人の国が出来る機運が熟成したと聞くと、
「その国は共和国なのか、帝国なのか、私は帝国の皇帝として復帰するならば行くが、共和国ならば行きたくない」
と答えた。
時に、溥儀は数え二十六歳であった。
土肥原は、
「もちろん、満州に帝国を作り、王道楽土を建設するのです。あなたは皇帝になるのです」
と答えた。
「よろしい、それならばゆきましょう」
溥儀は承諾し、十一月十二日夜、自動車のトランクルームに身をひそめて静園を出た。
この頃、天津市内は土肥原機関の指導した暴動騒ぎで、日本租界内は戒厳令が布《し》かれていた。しかし、前もって連絡のあった溥儀の車は、そのなかを突破し、日本料理店敷島で、溥儀は日本軍将校の軍服を着用し、フランス租界の埠頭《ふとう》からランチに乗り白河を下った。
塘沽《タンクー》沖に出ると、商船淡路丸が待っていた。溥儀はこれに移り、渤海《ぼつかい》を横断して十四日午前八時半|遼河《りようが》河口の営口に着いた。埠頭には、甘粕元憲兵大尉が待っていた。
溥儀は営口から湯崗子を経て、旅順の粛親王府に移った。
関東軍は、この件について、次のように発表した。
「元宣統帝溥儀は天津において暴動が発生したため、脱出して営口に上陸したので、人道上の見地≠謔阨ロ護することとせり」
この時は、若槻内閣瓦解寸前であったが、外相は幣原で、「関東軍はまた困ったことをしてくれた」と眉をひそめたが、この段階で、土肥原たちが、溥儀をかついで、満州国を作ろうと企画していたことを、果して知っていたであろうか。
ここで、本庄軍司令官が、十月事件及び土肥原派遣につき、どの程度に了承していたかを、『本庄日記』からひろってみよう。
▽十月十七日、(在奉天)此《この》日東京に於て少壮将校不穏事件あり、これに伴い、関東軍独立の徴ありとて差控ゆべく電報し来る。此晩、関東軍不穏電、余り馬鹿らしく直ちに返電を発送す。
▽十月二十一日、白川(義則)閣下を奉天停車場に出迎え、引続き司令部にて関東軍、中央部との離脱の風評につき会談、馬鹿げたる話なり。
しかし、この関東軍独立の風評は必ずしも馬鹿げたる話≠ナはすんでいなかった。片倉大尉ら関東軍の若手参謀は憤激のあまり、陸軍次官らに左のような電報を打ったのである。
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至急親展、号外電ノ如ク事実無根ノ浮説ニ帝国軍建軍ノ本義ヲ紊《ミダ》リ、我名誉アル関東軍ニ対シ拭フヘカラサル疑惑ヲ以《モツ》テ見ラルルニ至リテハ、我等一同絶対ニ承服シ難キ所トス。コノ電報カ真ナレハ既ニ未遂罪トシテ処分セラレタシ。賢明ナル貴官等ハ何ヲ以テ之ヲ償ハントスルヤ。我等ハ光輝アル帝国軍ノ威信ヲ失墜シ軍ヲ利用スル策士ハ、其現職ニ在ルト退職セルトニ関セス、徹底的ニ極刑ニ処シ、帝国軍人ノ栄誉ニ寸隙《スンゲキ》ナカラシメンコトヲ切望ス。我等|若《モ》シ大西郷ノ城山ヲ再演セントセハ之レ別ニ方策アリ、時機アリ、何ソ現職ニ便々タランヤ、又之ヲ企図セハ、何ソ貴方ノ阻止ヲ待タンヤ、若シ夫《ソ》レ軍紀ヲ紊ルモノアランカ一刀両断スルノミ乞フ安ンセヨ。
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[#地付き]関東軍参謀部一同
もって、いかに関東軍の若手参謀たちが気負っていたかがわかる。
過激な電文に驚いた中央は、白川大将と今村作戦課長を奉天に派遣したのである。白川大将は、関東軍に他意なきことを確め、安心すると同時に、満蒙問題解決について中央の意図を伝達した。
これに先立って、中央では、十月十八日付で、「関東軍ニ伝達スヘキ事項」を作成し、南陸相から白川大将に委託してあった。その内容は、関東軍の独走については、中央でも深い関心を持っているので、軽挙を慎むように、というようなものである。
『本庄日記』付録には、この時、白川大将に随行した今村作戦課長の行動が出ている。それによると、今村課長は二十三日、林奉天総領事官邸で、白川大将主催の関東軍幹部招宴の後、少壮参謀たちと別の場所で会談している。
元関東軍顧問、松木|侠《きよう》氏の回想によると、場所は金六という料亭で、出席者は板垣、石原(莞爾)、竹下、片倉各参謀、松木顧問らとなっている。
この夜、今村課長は、
「国内および国際情勢上てっとり早く新政権樹立でおさめてもらいたい」
と(中央の)希望を述べた。板垣、石原参謀は、
「新政権樹立も建国も同じことだ。支那主権下の新政権では結局駄目であることは、今日までの事実が証明している。少なくとも一挙独立国家建設に進む必要がある」
とこもごもやり返した。
「あるいは同じかも知らぬ。しかし、中央ではそう理解されていない。誰か説得に上京してくれ」
というようなわけで、結論は得られないまま解散した。
板垣、石原両参謀は、帰途私に、今村さんをほめるとともに、「遺憾ながら支那を知らない」というような感想をもらしたことを記憶している。
これによると、中央でも、片方では関東軍を牽制《けんせい》するかたわら何らかの形で満州の独立を企図していたのである。
続いて、『本庄日記』十月二十五日には、土肥原特務機関長のことが出て来る。
▽十月二十五日、此朝始めて小雪を見る。土肥原大佐を天津に出すに付き招致懇談。
▽十月三十一日、磯部検三氏来訪、恭親王樹立を語る。之を中止せしむ。
▽十一月五日、参謀総長より、関東軍及隷下部隊の一部を掌《つかさど》る旨、前例により御委任を受くとの命令来り、次《つい》で嫩江《のんこう》陣地の指示来る。統帥権を破る甚《はなは》だし。(本庄及びその参謀は関東軍は参謀総長の命によらず、独自に動けるものと自認していた模様である)
▽十一月六日、参謀総長、大臣へ戦況に基く情況変化により、斉々哈爾《チチハル》に進出すべき意見を具申す。
午後七時、総長より、軍の意見を採用せる電報着。
十一月十四日は溥儀をのせた淡路丸が営口に着いた日であるが、日記には何の記載もなく、馬占山に通告を発したことが書いてあるだけである。
▽十一月十五日、奉天の邦人、(国威発揚、邦人保護のため)一万三千人の大デモンストレーションあり。
▽十一月十六日、混成第四旅団朝鮮経由二十日頃着満と決す。
▽十一月十九日、第二師団チチハル到達。
▽十一月二十日、混成第四旅団奉天着、二宮参謀次長奉天着。
等々とあって、土肥原が溥儀を連行して来たことは一向に出て来ない。
このあと日記は、
▽十一月二十六日、此日午後八時半より天津において支那軍日本租界攻撃。
▽十一月二十七日、此日、早朝混成第四旅団錦州攻撃、本日夕第二師団集中のため出動。
此日再三総長より出動を委任命令にて差止め来る。
▽十一月二十八日、午前八時、河本大佐を招致し、昨日の総長の委任命令に関し、中央の態度変化にあらずや。しからば満州問題の解決不可能と認められるに付、何等か方策を講ずべき必要ありと考え、意見を徴す。
と続いている。
またしても、参謀総長の御委任命令問題が出て来たのである。天皇の御委任であるとして、関東軍司令官の現地指揮を抑制し、中央から直接第二師団を指揮しようというものである。
この頃、統帥権の大もとである天皇の周辺はどうであったのか。
『天皇(二)』によると、天皇は鈴木侍従長から日本軍はチチハルに進出するかも知れぬ、という話を聞いていた。これに対し、幣原外相は、「チチハルへ出ると国際聯盟で大きな問題になる」と憂慮していた。
鈴木侍従長は、奈良侍従武官長に、参謀本部の態度を天皇に説明しておいてもらいたいと申し入れた。奈良武官長は、夕食時であったが天皇のもとへうかがって、「参謀総長が命令してチチハルを占領するようなことは決して起らないと思うが、敵の攻撃を受け自衛の必要から軍自ら進軍することなしとは断じ難き」旨、を奏上した。
これが十一月十六日の東京の状況である。そして、三日後の十九日には第二師団はチチハルを占領している。
天皇は、朝鮮軍の満州侵入と同じ手段か、と苦い思いをした。
十一月末の錦州攻撃の際は、金谷参謀総長も、かなり強硬に「御委任命令」をかついで、関東軍にブレーキをかけたらしい。しかし、その裏で、総長は、いずれ関東軍が錦州に進撃することは予期していた。それは誰にも阻止することの出来ない奔流のような歩みであった。
但し、今回は直接行動は遅延し、十二月十三日の内閣交替の後、翌一月三日、錦州入城を実現した。
またやったのか、軍のやることはいつも同工異曲である、と考え、天皇はいうべき言葉もないほどであった。
軍の中堅幹部は統帥権と称して、内閣の意図に反する進撃を行う。しかし、その統帥権の大本である天皇の意図が直接軍部に伝わらぬところに、この頃の政治形態の難点があったようだ。
ところが、このように関東軍を自由に暴れさせる根拠は、実は陸軍上層部自身がその種をまいていたのである。
参考までに、大正八年四月制定の「関東軍司令部条例」(軍令陸一二)の要点を記しておこう。
第一条、関東軍司令官ハ陸軍大将又ハ陸軍中将ヲ以テ之ニ親補シ、天皇ニ直隷シ[#「天皇ニ直隷シ」に傍点]、関東州及南満州ニ在ル陸軍諸部隊ヲ統率シ、且《カツ》関東州ノ防備及南満州ニ在ル鉄道線路ノ保護ニ任ズ(傍点筆者)
第二条、関東軍司令官ハ軍政及ビ人事ニ関シテハ、陸軍大臣、作戦及ビ動員計画ニ関シテハ参謀総長、教育ニ関シテハ教育総督ノ区処[#「区処」に傍点]ヲ受ク
となっている。
これによると、関東軍司令官は、天皇に直属し、作戦及び動員計画においても、わずかに参謀総長の「区処」を受けるのみである。軍隊ではよく区処するという。区処とはどの程度の意味か。手元の『広辞苑』を引いてみると、「区分して処置すること。取り計らい」と書いてある。しかし、無論、軍隊ではこのようなあいまいな意味には使われていない。区処とは、たとえば直接指揮下にいない他部隊が作戦の都合で合流した場合、上級指揮官は、下級指揮官の部隊を臨時に指揮するもので、決定権はあくまでも、もとの部隊の直属上官にあるのである。
たとえば、第一師団のA聯隊と第二師団のB中隊とが、たまたまニューギニアの山中で敵に囲まれた場合、A聯隊長にはB中隊に対する全面的な指揮権はない。臨時に「区処」するのである。それは、軍隊には、「部隊は直属の上官これを統率す」という原則があるからである。
先の関東軍司令部条例の第一、第二条をみると、関東軍司令官は、天皇の直属の司令官として、独断で作戦行動を起してよいことになっている。これでは、いかに参謀総長や大臣が区処≠オようとしても、言うことを聞かないわけである。板垣、土肥原、石原というような中堅将校が、中央の言うことなんか聞く必要はない、と豪語し、戦線を拡大してゆくのも当然である。
強いて参謀総長が、御委任命令であると称して、関東軍を直接指揮しようとすれば、それは統帥権の干犯になりかねないのである。こういう条例が出ている以上、あながち関東軍だけを独断的な特別部隊として白い眼でにらむわけにもゆかないのである。そこで、中央では、これにブレーキをかけるべしという意見も出たが、実際に打ち出されたのは、「関東軍ニ治安維持ノ新任務ヲ与フルト共ニ更ニ兵力ヲ増加スベキ意見」という、関東軍の権限を拡大せしむる意見であった。
但し、この意見は、白川大将が渡満する頃、参謀本部作戦課に於て作成されたのであるが、結局、陽の目はみないで流産してしまった。流産したが、事実はこの考えの示す通りに進展し、ついに関東軍の構想通りに満州国を造ってしまったのであるから、参謀本部も、どこまで本腰を入れて、関東軍にブレーキをかけるつもりであったかはよくわからない。上層部と中堅参謀では、意見はまちまちというのが本当のところであったであろうか。
このころ、東京青山から形勢を観望していた松岡は何を考えていたか。
『人と生涯』によると、彼は十一月初めに、政友会本部で、満州問題について長い演説をやった。「この事件は日本という国家の運命を左右する大事件である。我々は真剣な覚悟でこれに取り組まねばならぬ」という内容で、喝采《かつさい》を浴びた。
毎晩九時ごろには、外務省の谷正之亜細亜局長から指示を仰いで来た。谷は幣原外相の協調外交には不満を感じていたのである。
このころ、松岡のもとに平島敏夫(後に参議院議員)がいた。松岡は関東軍の動きを心配して、平島を本庄司令官のもとに派遣することにした。
松岡は「最も重要なことは、新国家の首班問題である。これは新国家の性格を左右する。情報によると、清朝の廃帝溥儀を天津から連れて来て新国家の皇帝にするつもりらしいが、これは大問題である。早く手を打たねばならない」
といって本庄司令官あての手紙を書いて平島に托《たく》した。
『本庄日記』には「十二月九日松岡洋右代理、平島敏夫氏来訪」とある。
平島は一時間あまり、本庄と対談し、松岡の意図を伝えた。
また、中心人物である板垣、石原とも一時間ばかり話すことが出来た。
平島は次の内容の松岡の意図を話した。
「新国家は清朝の復興であってはならない。新国家は人種平等、民族協和の新理念に基づく理想の国を完成し、行く行くは、中国はもとよりアジア諸国と提携し、アジア民族の解放と独立を図るべき使命と理想を持つべきものでなければならぬ。
まず、握手すべきは中国である。中国四億の大部分を占めるのは漢民族である。清朝は満州民族が中国に侵入して作った政府で、漢民族のいう北狄東夷《ほくてきとうい》であり、二百年にわたるその治政は康煕《こうき》、乾隆《けんりゆう》二帝時代は別として漢民族を悪政のもとに苦しめた。孫文の革命によって、漢民族はようやく復活して、希望を取りかえしている。ここにまた日本援助のもとに清朝を復辟《ふくへき》したならば、漢民族は永久に新国家と日本を敵とするであろう。かような国をつくり、溝《みぞ》を深め、民族抗争の種を大きくすることは策を得たものではない」
これに対して、板垣は、
「それならば、誰を首班にしたらよいと思うか」
と問うた。
平島は、
「松岡さんの意見は、清朝以外のもので満州住民の多数が要望する者なら誰でもよい。たとえば干冲漢《かんちゆうかん》、張景恵等のなかから民意によって決すべきである、ということです」
と答えた。
「ふうむ」
と板垣はうなずいたが、その様子から平島は、もうすでに板垣のはらは決っている、という感じを受けた。
事実、土肥原、石原、片倉らは、初め共和制を考えていた。溥儀がいきなり皇帝にならずに、執政となったのは、その現われとみるべきであろう。しかし、板垣は強く帝制を主張した。そして、結局、満州国は満州帝国となったのである。
さて、多難なこの年、十二月十三日、犬養内閣は発足した。閣僚は老人が多かった。
犬養首相(77)、高橋是清蔵相(78)、中橋徳五郎内相(68)、床次《とこなみ》竹二郎鉄相(66)、鈴木喜三郎法相(65)、山本|悌二郎《ていじろう》農相(62)、三土忠造《みつちちゆうぞう》逓相(61)、秦豊助拓相(60)
以上が六十歳以上である。
このほか、大角岑生《おおすみみねお》海相(56)、荒木貞夫陸相(55)、前田米蔵商相(50)と続き、鳩山一郎文相(49)がただ一人の四十代として異彩を放っていた。
年があらたまって、昭和七年となると間もなく、一月三日、第二師団は張学良を追い払って錦州を占領した。
そして、一月八日代々木練兵場で観兵式が行われる日の朝、不敬事件が起った。
犯人は李奉昌という朝鮮人で独立党の志士であった。
李は、天皇の車が桜田門にさしかかったとき、手榴弾《しゆりゆうだん》を投げた。手榴弾は車に命中せず、電車のレールに当って爆発し、天皇の車に異状はなかった。
しかし、犬養首相はこの報に緊張した。大正十二年暮の難波大助の虎の門事件のときには、山本内閣が総辞職している。
出来たばかりの犬養内閣も、総辞職しなければならないかと、犬養は閣僚と協議に入った。
山本権兵衛が首相官邸にやって来て、「虎の門事件のときとは事情が違う。出来たばかりの内閣がこんなことで瓦解するのは好ましくない」と忠告した。
しかし、犬養は一応前例にもとづいて、閣僚の辞表を奉呈した。
だが、天皇は、牧野内大臣をして、元老西園寺と十分協議するように命じた。
結局、犬養内閣は辞表を撤回し、留任することとなった。
西園寺としても、いろいろ考えた末の犬養総理起用であったので、ここでやめられては簡単に代理を立てることが難しかったのである。
犬養内閣留任については、野党の民政党からかなりの批判があった。
しかし、ここに国民の目を海外にそらす事件がもちあがった。
一月下旬の上海事変がそれである。戦火は満州から上海に飛んだのであった。
一月十八日、上海市華徳路の東華紡績工場付近で、日本人の日蓮宗|僧侶《そうりよ》五人が、十数人の支那人に襲撃され、重傷を負う事件が起った。(戦後の調査では、この事件は、陸軍の田中隆吉少佐が、支那人暴力団を買収してやらせたものだということになっている。また、奉天にいる板垣が、上海にいる陸軍の中堅将校に、「そちらでも何か起してくれい。どうもチチハルや錦州ばかりに世界の目が向けられるのでいかん」と伝えたのが原因だ、という説もある)
真相を知らぬ上海在住の日本人は、激昂《げつこう》してデモや集会を行った。
当時、上海の周辺には蔡廷楷《さいていかい》将軍のひきいる精鋭十九路軍が、三万四千の兵力を擁して包囲を行い、各地で日本軍と衝突し、また、公使官邸や総領事館も暴徒に襲われた。
一月二十八日、大角海相は、日本軍の攻撃開始を認めた。第一次上海事変がここに勃発したのである。
上海が交戦状態に入ると、イギリスは香港《ホンコン》から歩兵一個大隊、砲兵一個中隊を派遣し、またフーバー米大統領は、参謀総長ダグラス・マッカーサー大将に、フィリピンから、陸兵千四百人を上海に送るよう命令した。
日本政府は、事件の拡大をおそれ、真相を見きわめるため、松岡を特使として上海に派遣することに決した。
松岡は上海勤務の経験もあり、満州通なので、出来れば彼に調停を頼みたいというはらであった。
もっとも当時の外相芳沢謙吉の、松岡の十七回忌における回想によると、この特使は松岡自ら、芳沢を訪ねて、「上海をうまくまとめてみたいから行かせてくれ。一番心配なのはこれがもとで日米戦争が起きることだ」と頼みこんだのがはじまりらしい。
松岡は後に上海時代を回想して、「上海では毎日、日支の兵が市街戦を演じている。ところが、このすぐ近くに米国はじめ各国の軍隊が集っている。アメリカは支那に同情的というよりも、日本が支那を侵蝕《しんしよく》するのが気に入らない。当時、アメリカの上層部では、対日経済断交を叫んでいた人も出ていた。夜になると市街戦が始まる。朝ホテルで眼がさめると、窓から市街を見おろして、『ああ、昨夜もどうやら日米戦争は起らなかったか』と神に感謝しました」と語っている。
当時、アメリカでは、上海事変における日本軍の態度に憤激した少壮将校が、日米開戦を叫んでいた。海軍作戦部長プラット提督の回想には、フーバー大統領に、この際日米開戦は不可である、と進言したと出ている。
このころ、勉強熱心な天皇は、上海特使をひきうけた松岡という男に興味をもった。そこで、二月八日午後二時から松岡は宮中に招かれ「日満関係と満蒙外交史の一斑《いつぱん》」と題して御前講演を行った。松岡は日ごろ、自分がとなえている満蒙の特殊性と、日本が移民によってこれを開発利用すべき旨を申し上げた。
講演の後で天皇は、
「日支親善ということは難しいか」
と訊《き》いた。
松岡は、
「支那には昔から遠交近攻の策というものが存在し、近いところは戦い、遠い国と親しくするという戦術があります。また、生物学の原理から言っても、相接した生物の間には闘争が起きやすいものであります」
と答えた。
天皇はまた満州に予想される新政権と、その首班としての張学良の適否を問うた。
松岡は、
「張学良の性格は、複雑、有情、冷酷、果断であり、張学良と提携して、満州新政権をつくることは、今となっては不可能であります」
と答えている。
松岡は二月十八日上海に到着、南京路のカセイホテルに投宿した。
松岡は精力的に活動を開始し、重光|葵《まもる》駐支公使、村井倉松総領事ほか、居留民会長、日本商社代表から事情を聴いた。ふだんは能弁な松岡が、黙々として他人の話に聞き入っているので、彼を知る重光らは奇異の感に打たれた。
事変勃発の初期、上海を警備していた日本兵は、千名そこそこの陸戦隊であったので、日本軍は、野村吉三郎中将を司令官とする第三艦隊を強化し、久留米から下本少将の混成旅団一万を上海に急派し、さらに金沢の第九師団を植田謙吉中将指揮のもとに上海に送った。
しかし、十九路軍はドイツ軍人顧問の指導による堅固な塹壕《ざんごう》陣地を完成し、列車砲まで準備していたので、なかなか上海地区からこれを排除することは難しかった。
そこで、陸軍はさらに白川義則大将を支那方面派遣軍司令官として三月一日より三個師団を揚陸し、ようやく上海を確保することに成功した。
この間、支那側は日本を侵略者として国際聯盟に提訴し、満州問題で神経を尖《とが》らせていた聯盟は事件を重大視し、二月十九日の理事会で、この問題を三月三日の総会に移して討議することに決めた、従って、日本側は三月三日までに事態を収拾する必要を感じていた。
この間、松岡は停戦勧告のため、よく働いた。
とくに、野村吉三郎とはアメリカ大使館当時から旧知の仲なので、松岡はまず、野村中将に国際情勢を説き、停戦を勧告した。また、上海の在留邦人の意見は、重光を軟弱外交として非難していたが、松岡は強硬策を抑え、重光と連繋《れんけい》した。
二月二十一日、日本軍が江湾鎮《こうわんちん》、二十二日|廟江鎮《びようこうちん》を占領すると、支那側は、英国支那方面艦隊司令官ケリー大将のもとに調停を依頼した。
そこで、ケリー提督は野村中将に英国旗艦ケント号に来艦を依頼して来た。
二十八日午後六時、野村は松岡を同伴してケント号に乗艦した。
支那側は、外交部長|羅文幹《らぶんかん》の代理|顧維鈞《こいきん》と十九路軍参謀長、黄強《こうこう》である。
相手側の代表のうち、ベルサイユ会議で見たことのある白面の青年が流暢《りゆうちよう》な英語を操るのに、松岡はひそかに舌を巻いた、実に能弁である。これが、この年秋、ジュネーブの国際聯盟で火の出るような舌戦の相手となる顧維鈞であった。
顧維鈞は、江蘇《こうそ》省の富家の生れで、コロンビア大学を卒業、外交部に入り、駐米公使、パリ講和会議全権、ワシントン会議全権を経て外交総長、国務総理を歴任した。細身で色が白いため松岡の目には青年のように映ったが、この時四十四歳であった。彼はこの後、リットン調査団の中国側委員となって、大いに日本の侵略を鼓吹し、さらに国際聯盟代表となって松岡と戦い、後、英、米、仏の大使を歴任した。当時支那の外交畑の第一人者といって異論はなかろう。
この会見は二時間に及び、具体的な停戦の話し合いには至らなかったが、話し合いによって歩みよる効果はあった。
また、この同じ日、芳沢外相は「十九路軍が撤退すれば、列国と善後策を講ずるため、会議をひらく用意がある」と公表したため、ようやく、停戦ムードは盛り上って来た。
三月一日、白川大将のひきいる師団が上陸して、十九路軍を撃退にかかると、二日、野村と松岡は午後九時、再びケント号にケリー提督を訪れ、日本側は停戦に関し、いつでも会議に応ずる用意があると告げた。日本政府はこの時点で、松岡に対し、聯盟議長の停戦案を呑む用意があるという回訓案を打電して来ていたのである。
しかし、松岡が野村提督とばかり組んで停戦に奔走するので、やる気でいる@、軍の参謀連は、松岡の行為を統帥権干犯≠ナあると非難した。しかし、松岡は「停戦は戦闘行動ではなく、政治的問題である」として平然としていた。
三月三日、松岡は今度は重光とともに、鐘紡重役室にある白川軍司令官の部屋を訪れ、停戦を勧告した。松岡と白川は第二次奉直戦のころから旧知の間柄である。
松岡は卓を叩いて進言した。
「閣下、停戦の時期は今をおいてはありませんぞ。列国は日本軍の行動を注目している。とくに、アメリカはこれ以上日本軍が支那に手を出すならば、日米戦争も辞さないという決意が感じられます。すでに上海地区は確保されたのですから、ここで停戦して下さい。時機を失すると、戦火は八方に飛び、事変はどこまで拡大されるかわかりませんぞ」
これに対して、白川大将はなかなか即答しなかった。参謀本部から「貴軍は太湖《たいこ》(蘇州と南京の中間)方面に向って進軍することを期待する」という密電が入っていたからである。このころから軍部は上海よりする支那侵略を企図していたようである。
この時の白川軍司令官の苦悶《くもん》の状況を桜井忠温著『大将白川』は次のように描写している。
「三日の昼ごろ、松岡洋右氏と、重光公使と大将と三人が卓を囲んで密談していた。昼の食事が運ばれたがふりむくものもいない。大将は楕円形《だえんけい》のテーブルの上の地図を穴のあくほどみつめている。身動きもしない。ときどき目をすえてはかすかな溜息《ためいき》をついた。松岡、重光両氏の目は大将の顔をみつめながら、息づかいも激しい。何の密談か、すなわち、停戦である。大軍をひっさげて一旦攻撃に出《い》で、中途停止することは軍司令官として苦痛である。反対者もむろんある。それを押し切ることは忍びない。しかし、この場合、停戦するを正当と認めたのである。事の意外なるに驚かぬものはなかった」
そして、結局、白川は停戦に踏み切った。もともと彼は思慮深い点では、陸軍部内でも一頭地を抜いていた。白川でなかったら停戦は難しく、日本はこの時点で日中戦争の泥沼に足を踏み入れていたかも知れない。
松岡と重光はほっとして顔を見合せた。連日の苦労が実ったのである。これで、もう国際聯盟の総会で攻撃の的となることもなかろう。松岡の脳裡《のうり》を、ふと顧維鈞の白い顔がよぎった。
帰りの自動車のなかで、松岡は上機嫌で重光を相手に白川大将評をやった。
「白川という男はね、要領を得るまでは容易な奴じゃない。しかし、あれは了解したら筋の間違わぬ奴だからもう安心だ。それにしても、白川という男は、軍人としては物凄《ものすご》く勇敢な男だが、政治家としても立派な決断力を持っているなあ。日露戦争の終りころ、児玉源太郎大将が、このへんでよかろうと奉天戦を最後に和平を決意したのによく似ているな……」
とにかくこれで、松岡が特使として上海に来て、二週間ばかり奔走した甲斐《かい》はあったのである。第二次大戦後の評者は、松岡に好戦的な軍国主義者というレッテルを張るのが常識となっているが、それは日中戦争|勃発《ぼつぱつ》後の情勢に影響されたもので、一九三二年(昭和七)の松岡には、まだまだ和平を尊重する気質が多分に残されていたのである。
大役をなしとげた松岡は、なおも停戦交渉の進行を見届けるため、カセイホテルに泊っていた。
三月十四日、牧野内大臣の特使便が松岡のもとに届いた。すなわち、密命である。内容は、おりから満州問題視察のため、支那を訪れているリットン卿を首班とする調査団と会見し、満蒙問題について啓蒙的に説明せよ、というものである。
リットン調査団はこの年二月二十九日東京着、三月十一日神戸出発、十四日上海着、二十六日南京へ出発となっている。
牧野内府の密命に対し、松岡は特使便をもって、次のように返事をした。
「当方面の戦況は三月一、二日の戦闘でようやく帝国の国運を支え、停戦にこぎつけました。この上は、軍の圧力により善後策を講ずるというような誤った考えの者がいないことを望みます。
国際聯盟の委員は本三月十四日上海到着の予定につき、機会を捉《とら》えるよう努力します。とくに、対米関係は重大な問題で、向う五カ年を期して、米国民の感情融和を計る必要があります。またロシアとも不可侵条約を成立せしむる必要があります。近年のような無方針無努力で進めば、帝国の運命はどうなるかわかりません」
松岡は、三月二十一日、上海でリットン調査団と第二回目の会見をした。(第一回は日時不詳)
その会見録を要約すると、次の如くである。
前回の会見で、リットン卿より「支那の顔を立て、日本の合法的要求をも貫き、円満に満蒙を解決することを目的とし、仮に第三者としての立場よりいかなる案を立つべきか」ということを次回までに考慮されたき旨発言があったので、これを出発点として会談した。
一、前回会見以来、知恵を絞りましたが、根本的な解決案を出すことは困難であります。満州の事態はあまりにも行きすぎています。(この時、すでに満州国建国が宣言せられていた)満蒙問題は迷宮にはいった感があります。ただ時を待つよりほかありません。そこで、皆さんに参考になるよう、満蒙問題と東亜全局の動きについて次に説明を致します。
二、まず支那とロシアの動きであります。
イ、支那は統一せられ建設的なるべきか、あるいは崩壊すべきかについて考えましたが、近年の支那は残念ながら崩壊の過程を辿《たど》りつつあると断ぜざるを得ません。
ロ、一方、ソビエト・ロシアは、世界革命の夢を捨てず、支那を赤化し、アジアを赤化しようとしております。外蒙はすべてソビエト化し、その手は内蒙にも及びつつあり、これに対して、蒋介石は全く無力であります。
ロシアは、ノボシビルスクよりタシケントへの鉄道を完成させましたが、タシケントは、印度《インド》を衝き、またタクラマカン砂漠へ出て新疆《しんきよう》省へ出る要地でもあります。ロシアは新疆より甘粛省に入り、有名な海蘭《かいらん》鉄道を実現し、支那を両断しつつ、江蘇省の海岸へ頭を出し、朝鮮及びわが九州ににらみをきかせようとしているのであります。
このような情勢下においては、わが日本としては、これを満蒙より駆逐せんとする支那軍に対して、従来とったような行動をとらざるを得なかったのであります。
三、ロシアの外蒙古割取、および中部支那にソビエト政権が出来つつある事実について、国際聯盟において抗議を提出した国があるのを私は聞いておりません。これははなはだ遺憾なことであります。
四、小生は過去十年間のうち、七年間を満蒙の現場に過し、平和的に相互の利害を調和しようと試みて参りました。一時はほとんど成功に近づきましたが、結局は失敗しました。その後支那側は満鉄を駆逐しようとして、昨秋の爆発をみるに至りました。(松岡は柳条湖の爆発が関東軍の謀略であることを、どの程度知っていたのか、この段階では明らかでない)今この段階で支那側の希望する通り、日本が弱腰で満蒙から引きさがるならば、ロシアが直ちに南満に入って来ることは疑いのないことです。独り、日本の存立のみならず、東亜全局保持の責任感からも、このような事態は避けねばなりません。
五、満蒙に対する日本の関心事は、政治的(広義に国防問題を含む)及び経済的の二方面である。(この項、松岡がリットン卿の言葉を逆用したものである)
経済上のわが権利は主として条約に基づくものである。政治については国防上の問題であるが、支那側がこの二点に関して日本の要求を容《い》れていたならば、昨秋以来の事態は起らなかったであろう。事態は今日においては後戻りすることは不可能である。
六、さて、今日の満蒙の現状と張作霖または張学良の下における時代とを較べてみると、その差は少なく、独立国という名を冠したに過ぎない。張作霖時代にも、実質的には支那中央政府の支配を受けてはいなかった。しからば、今日宣統帝が統治者として満州に在ることは不思議なことではない。日本が満蒙から手を引けば、満蒙も支那本土の如く混乱に陥ったであろう。
張作霖の統治時代に列国より抗議を受けたことはない。小生は広東がしばしば独立を宣したことを聞いているが、国際聯盟及び列強より抗議が出たということは聞いていない。日本が満蒙において援助を行っても、国際問題とするには当るまい。
七、(リットン卿より、日本軍を満蒙から撤退せしめた場合、溥儀は失脚するや、満蒙の事態はどうなるか、という質問に対して)撤兵の場合、溥儀氏が直ちに失脚するかどうかは、予見し難い。いずれにしても満蒙は混乱に陥り、溥儀氏が成功するか否かは、時が決定するであろう。聯盟もしくは列強は、混沌《こんとん》たる満蒙を歓迎されるか、治安の維持されたる満蒙がよろしいのか。東亜全局保持のためには、治安の維持せられたる満蒙を必要とするであろう。
八、要するに、日本は東亜における平和維持の主張を持っている。聯盟はこれを支持するのか、はたまた東亜を混沌に委《ゆだ》ねんとするか。この点、欧州大陸におけるフランスの位置と日本は似ている。但し、フランスは同一目的に向いて同盟国を持っているが、日本は独力で東亜の危局を救おうとしているのである。
九、もし、日本の真意が理解されない場合には、日本は聯盟を脱退しなければなるまい、と考えている要人が日本には多い。(これに対して、リットン卿より「日本は聯盟の会員ではないか。なぜ聯盟の安全保障をすて、独力で戦おうというのか」という問いがあった)無論、日本はあくまで聯盟を支持したいと念願している。しかし、聯盟にとどまった場合、日本の安全と東亜全局の保持が困難とみられたときには、脱退について真剣に考えなければならない。
十、イ、国民党を統治者とする支那の掲げる主張からすれば、日本を満州から叩き出さねばならない。その場合、日本は再び日露戦争をやり直さねばならない。
ロ、溥儀氏は日本人の傀儡《かいらい》なりという説があるが、これは世論が決めるであろう。満蒙における民衆の意志に反して、日本といえども永く溥儀氏を支持することは出来ない。しかし、上海においてすら、溥儀氏の出現を喜ぶ人物もいるし、満州においては非常に多くの支持者を得ている現状である。
十一、(リットン卿より執拗《しつよう》に満鉄併行線建設問題について、満鉄の独占に関する疑問ありとして質問せられたるにつき)右は満州善後策談判のとき協定したところである。満鉄独占の意図はない。
以上に続き、松岡は、かねて彼の持論である満州は清朝のもとにおけるクラウン・ランドであって、元来が支那本土の在来的の領土ではないことを力説した。「僅かに二十数年前、或《あるい》は支那に併合されたりと言い得べけんも、満州人はノーと言うやも知れず」と松岡は説いている。
このようにして、松岡は最終的には満州に関する支那本土の主権の在り方の稀薄《きはく》性について、リットン卿を説得しようと試みたが、効果は少ないように思われた。リットン調査団は、初めから「日本の侵略を調査する」という先入観をもって来訪していたのである。
ここで、世に有名なるリットン報告書と、リットン卿について説明しておこう。
リットン報告書は、正式には「国際聯盟日華紛争調査委員会報告書」といういかめしい名前を持っている。
いうまでもなく、満州事変突発後、支那側の要請に対して国際聯盟が派遣した調査団の報告書である。
メンバーはイギリスのリットン卿をはじめ、イタリアのアルドロバンディ伯、フランスのクローデル将軍、アメリカのマッコイ将軍、ドイツのシュテー博士の五人から成っている。
委員会は一九三二年(昭和七)二月東京着、以後、上海、南京、北京などを経て、四月二十日から六月四日まで満州の現地で調査をし、日支両国政府と接触した後、七月二十日から北京で報告書の起草に当った。この間三月一日に満州国建国宣言がなされているのは、既述の通りである。
報告書は、九月三十日、日支両国政府に手渡され、十月二日に公表された。
報告書は、全十章よりなる厖大《ぼうだい》なものであるが、その要点は次の通りである。
一、九月十八日夜、奉天における日本軍の軍事行動は、正当なる自衛手段と認め得ず。
二、満州国は「純粋かつ自発的な独立運動によって出現したもの」と考えることは出来ない。
三、しかし、満州の特殊事情を考えると、事態を九月十八日以前に戻すことは何の解決にもならないと考える。
四、この解決には、満州の自治化、国際化が必要であり、日本の主張も認めるが、国際管理化の方を是とする。
この報告は、十月十一日の理事会、十二日の総会で討議され、翌年、二月二十四日の聯盟総会で審議され、結局、四十二対一で採択され、これがもとになって、日本の聯盟脱退、松岡のサヨナラ演説が行われるわけであるが、章を追って詳説しよう。
ついでながら、団長のリットン卿について、簡単な紹介をしておこう。
ヴィクター・アレクサンダー・ジョージ・ロバート・リットンという長い名前のこの男は、政治家で、海軍次官、インドのベンガル州知事、インド総督代理などを歴任。満州事変に際し国際聯盟の調査団長を命じられた。リットンは一八七六年生れで、このとき、五十六歳である。
ここに興味ある事実がある。
イギリスで十九世紀に活躍したエドワード・ロバート・バルワー・リットン(一八三一―九一)という男がいる。彼は外交官兼植民地行政官で、一八七六年インド総督となり、ヴィクトリア女王をインド皇帝と宣した男である。この後、ロシアとの対立から第二次アフガン戦争をひき起し、インドの財政危機を深めた。武器法、土語新聞法などの抑圧政策によって、インド人の抗議を受けた。彼はイギリスの帝国主義政策遂行主義者として有名である。
この二人のリットンの間に縁戚《えんせき》関係があるのかどうか、よくわからないが、二人に共通していることは、二人ともインドの行政官を勤めていることである。
イギリスがどのようにしてインドを奪取し、どのようにして、ヴィクトリア女帝がインド皇帝を名乗るようになったかを、ここに詳説しているいとまはないが、その悪辣《あくらつ》な帝国主義は、スペインの中南米における侵略と対比することが可能であろう。
そのインド総督代理を、調査委員会代表として派遣したイギリス政府の真意は奈辺にあるのか。恐らくは、植民地としての満州の可能性を探るのが目的ではなかったのか。阿片戦争によって、清国侵略に先鞭《せんべん》をつけたイギリスが、満州における日本の独走を苦々しげに眺めていたことは、想像に難くないのである。
ここで、満州国成立に至る人物の動きと、各種の建国案について一望しておこう。
まず、石原莞爾である。
石原中佐は、昭和四年以来、満蒙領有案を唱えて来た。
これには同調者もあったが、中央では、建川美次少将らの反対者もあったので、一歩退いて彼は独立国家案を提案するに至った。
まず、石原の「関東軍満蒙領有計画」について一|瞥《べつ》しておこう。
第一、平定
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一、軍閥官僚の掃蕩《そうとう》、官私有財産の没収
二、支那軍隊の処分
1、巧妙なる武装解除
2、兵卒の処分
三、逃走兵及|土匪《どひ》の討伐掃蕩
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第二、統治
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一、方針
最も簡明なる軍政を布《し》き、確実に治安を維持する以外、努めて干渉を避け、日鮮支三民族の自由競争による発達を期す。
其《そ》の結果、日本人は大規模の企業及び知能を用うる事業に、鮮人は水田の開拓に、支那人は小商業労働に各其能力を発揮し、共存共栄の実をあぐべし。
二、行政
1、根本としてはなるべく急激なる変化を考えざること
2、行政組織及区域
総督府を編制し、その下に総務部、陸軍部、民政部、道尹《どういん》、師団長、憲兵司令部をおく。(以下略、筆者注、石原構想は、満州を朝鮮化することを狙っていたもののようである)
3、治安維持
イ、治安維持の主体たる守備隊の活動は、まず、鉄道路線を第一とす。(以下略)
4、財政(略)
5、金融及産業、交通、通信
これら事業の根本は満鉄会社を利用するものとす。(以下略)
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第三、国防
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一、約四個師団を用いて露国の侵入に備う。
二、帝国の国力これを許すにおいては、対露戦争の場合、チタまたはイルクーツクに向い攻勢作戦を行うこともとより可なるべきも、防備の場合には竜門、ハイラル付近に作戦の拠点を編成すべし。(以下略)
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いかにも石原らしい大風呂敷であるが、この構想は、あきらかに軍人としての軍事行動を逸脱した政治的な侵略構想で、明治天皇が「軍人に賜りたる勅諭」のなかに諭された「軍人は政治に拘《かかわ》らず、世論に惑わず」とあるのに違反したものと言うべきである。
石原はこれに続いて、昭和五年には起り得べき日米戦争について盛んにその必然性を説いて回っている。
同年九月、石原構想になる「満蒙における占領地統治に関する研究」が出来上り、関東軍幹部の間で回覧せられた。内容は前述の「満蒙領有計画」をさらに具体化したものである。
さらに、石原は昭和六年四月、「満蒙問題解決の為《ため》の戦争計画大綱(対米戦争計画大綱)」を部内で発表している。
第一、戦争目的
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一、満蒙を我が領土となす。
二、西太平洋制海権の確保。
1、フィリピン、ガムをわが領土とす。
2、ハワイを我が領土とするか、或はこれが防備を撤去せしむ。
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第二、戦争指導方針
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一、米のみを敵とすることに努む。
二、支那の態度参戦の疑いあるときは、一挙に南京を攻略し中支那以北の要点を占領す。
三、英国の了解を得ることに十分努力を払うも、やむなき時は、断乎《だんこ》として英国を敵とすることを辞さず。
四、極力露国との親善関係を継続すべし。
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以下を省略するが、日中戦争以降、太平洋戦争開始を暗示するものが多いのは、陸軍中央における石原の信者が多かったためであろうか。
しかし、さすがの彼も、戦線がソロモンからビルマまで伸びようとは予想していなかったようである。とくに海軍に関しては、西太平洋における海戦しか予見していなかったし、航空機の重要性についてはほとんど語るところがない。彼のように、フリードリッヒ大王や、モルトケの研究家にとって、艦隊、とくに航空部隊の役割というものは、計算外にあったのであろうか。
さて、その後、満州事変が勃発すると、関東軍は、十月二十四日、「満蒙問題解決の根本方策」を立案した。
第一、方針
支那本土と絶縁し、表面満州人により統一せられ、其の実権を我が方の手裡に掌握することを目的とす。
第二、要領
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一、二、各省に関する方針
三、新国家の要素は国防、交通の実権を我が方に掌握せる在満蒙諸民族の共存共栄を図り得べき機構を備えたるものとす。
四、新国家の建設中着々既得権益を合法的に恢得《かいとく》すべし。
五、新国家建設は表面あくまで支那人の手により行うも、内面的には今一層強力なる支持を与え、これを促進し、速かに黒竜江省政権の刷新、錦州政府の掃蕩、学良勢力の覆滅を期す。
六、国内及び在満蒙諸民族の世論を、新国家建設に向い指導すると共に、国際聯盟等に建設運動を阻害すべき言質を与えざるを要望す。
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さて、具体的な建国案はどのようにして進行したか。
これについては、『本庄日記』付録にある松木侠の動きを見る必要がある。
松木は満鉄上海事務所勤務であったが、十月一日付で、関東軍国際法顧問の辞令を受けとった。
松木侠が奉天に着いたのは、昭和六年十月十日である。
本庄軍司令官のほか、板垣、石原両参謀が彼を待っていた。
『本庄日記』には、「十月十一日、午後三時三十分、松木侠嘱託と会談」とある。
席上、板垣はこう言った。
「松木君、君に頼みたいのは、新国家を作ることだ。その原案を起草してもらいたい。絶対必要なのは三つの条件だ。一、支那からは完全に独立させる、二、すべてに関して日本の指示に従うこと、三、国防は日本が引き受ける、単なる条約上の駐兵権では駄目だ。この三つの条件以外は、どのような形態でもかまわない。独立国家が出来るまで、何年でも頑張る覚悟だ」
松木は戦後山形県鶴岡市長を勤めた男であるが、その法律的歴史的知識をかわれたものであろう。
松木は、本庄司令官らと十分話し合い、さらに、満蒙三巨頭の一人、干冲漢の意見をも聞いた。
干は、以前に松岡と親交のあった奉天省長王永江(このときはすでに故人)、袁金鎧《えんきんがい》らとともに、東北文治派三巨頭と呼ばれていた。遼陽に住んでいた干は、十一月初め奉天に出て来て、松木に意見を述べた。
開口一番、まず干は、
「満州の絶対保境安民の実現には、独立国家が必要である」
と主張し、大いに松木に力強さを感じさせた。松岡洋右の説く、満州は清朝のクラウン・ランドであって、もともと国民党政府の支那の領土ではない、という説は、満人の有力者のなかにも通用していたのである。
続いて、干冲漢は、新国家について、次のような意見を述べた。
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一、民力を培養するため、軍閥政治を打破し、悪税を廃止する。
二、官吏の給与を改善し、品位を向上させる。
三、審計院(会計検査院)を創設する。
四、警察制度を改革する。
五、軍隊(満人の)を廃止し、国防は日本に委任する。
六、交通産業を開発する。
七、自治制は、歴史、人情、風俗を考慮し、漸次完成に導く。
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松木が新国家建設案を起草している間に、関東軍は軍司令官名で、陸軍中央部に対して、次の内容の電報を送った。
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一、軍の企図するところは、一つの自由国の建設であって、国家の形式はとわないが、世界に対して、完全なるもので、支那本土の凡百の政権とは完全に絶縁するものとする。
二、軍の企図は、またあくまで表面上支那側をして、自然推移の形式を辿《たど》らしめ、政情ほぼ安定せる時機において、溥儀を民意の形成をもって迎えしむるものである。
三、支那人の特性として目的を明確にしなければ、結局その行動が徒《いたず》らに動揺し、各種の工作は頓挫《とんざ》するであろう。
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かくして、十一月中旬、松木侠の起草にかかる「満蒙自由国設立案大綱」が出来上った。これと併行して、土肥原大佐が天津から溥儀を脱出せしめるべく工作していたのは既述の通りである。
「満蒙自由国設立案大綱」は全四章からなる長いものであるが、その要旨を左に紹介してみよう。
一、序言
日本の満蒙における地位を危くした理由には、対内、対外、二つの理由がある。
対内とはすなわち、満鉄が過去二十年間、社の営業的立場のみを考えて、満蒙経営に眼を向けなかったことを指す。
対外的にはこれを四期に分けて考えることが出来る。
第一期は露国の脅威がこれで、明治四十二、三年頃までは、第二の日露戦争を予想して、アメリカの資本をとり入れ、満蒙をもって日露の緩衝地帯たらしめんと考えたこともあった。
第二期は、日露相提携して米国その他第三国の介入を阻止した時代で、欧州大戦までがそれである。
第三期は欧州大戦中であって、我が地位が小康を得たるこの時代に、満蒙の地位を永久的に安定させるため、二十一カ条要求の第二項として提議したが、結果は排日の原因となった。
第四期は欧州戦後今日までで、支那軍閥政権による条約|蹂躙《じゆうりん》、排日侮日となり、今日の事態となる。この四期を通じて、支那は常に「夷《い》を以《もつ》て夷を制す」の伝統的政策をもって、わが国の外交を翻弄《ほんろう》して来たのである。
この際、帝国は、第三国の干渉介入を排除し、支那軍閥を徹底的に覆滅する必要があると考えられる。
二、満蒙独立政権説の誤謬《ごびゆう》
満蒙において、独立国家を建設するのではなく、単に独立政権を樹立して、これを帝国の意のままに動かそうとする計画は、一つの空想にすぎず、このような満人による独立政権は、必ず軍閥化して、日本の敵となる。
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1、満蒙をもって支那の一部に止めおくときは、これと条約を締結することは出来ない。
2、条約を締結出来なければ、これを意のままに動かすことも出来ない。(以下略)
[#ここで字下げ終わり]
三、満蒙自由国建設大綱
理想論としては、満蒙三千万民衆の利益からみても、帝国の前途を考えても、満蒙をわが領土の一部とするのが最善であるが、国際間の物議をかもすおそれあり。よって、満蒙独立国を建設し、支那の行政支配より完全に分離せしめ、三千万民衆の安寧を保持し、その福利を増進するとともに、東洋の平和を永遠に確保する道を講ずることが、帝国の為《な》すべき、最小限度の国際的かつ道義的義務なりと思考される。
(一)満蒙自由国綱領
1、軍閥政治を排除し、文治主義によって統治を為す。
2、国政は出来るだけ人民の自治に任せ、官治行政の範囲を少なからしめる。
3、徹底的に、門戸開放、機会均等の政策をとり、内外の資本及び技術をとりいれ、資源の開発、産業の振興を計る。
4、租税を軽減し、治安を計り、人民のための自由の楽土たらしめる。
(二)満蒙独立国の機構
1、満蒙独立国は民主的政体とする。(筆者注、最初軍は、清朝の再現を避けていた。おそらく支那本土の世論の反撥を考慮したものであろう)
2、満蒙独立国は左の六省区より成る。
奉天省、吉林省、黒竜江省、熱河省、東省特別区、蒙古自治領
3、略(中央集権の問題)
4、満蒙独立国は立憲政体とする。
(三)満蒙独立国建設手段
1、満蒙独立国の建設は、支那人自身これを行うものであるが、帝国の有形無形の援助を必要とする。但し、支那人は由来|面子《メンツ》を重んずる国民であるから、表面上日本人の監督下におくときは威令が行われないおそれがある。
2、以下略(漸次に中央集権として、独立国家にもってゆく)
(四)満蒙自由国と帝国の関係
1、満蒙自由国の国防は帝国これに任ず。
2、内政上の干渉は少なくするが、鉄道、航空路等、国防上必要なものは、完全に帝国の統制下に収める必要がある。
3、4、帝国国民の満蒙自由国内における活動は自由であるが、義務も平等で、納税、警察、裁判等も当然平等である。
5、満蒙自由国を指導するため、帝国臣民より成る顧問府を設け、条約の締結、重要法令の公布等に対する同意権を留保する。
四、結言(略)
さて、この後、北満における馬占山、錦州における張学良への攻撃があり、十二月十三日内閣は若槻から犬養に代った。
この間、板垣大佐のあっせんによって、馬占山、張景恵の握手がなり、また干冲漢が地方自治指導部長として出馬し、干冲漢、袁金鎧ら五要人の会合で、連省自治と、四省代表会議の開催が決定採択された。
昭和七年一月三日、錦州を攻略すると、荒木新陸相は、今後の方針について、関東軍に新しい指示を与えるべく、参謀の上京を求めた。本庄司令官は、板垣参謀を上京せしめることに決したが、上京に先立って、次のような指示を板垣に与えた。
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一、満蒙中央政府の設定
1、機構。逐次中央集権制とする。首脳者には大統領等の適当なる名称を付し、復辟《ふくへき》的傾向を避ける。首脳者には溥儀をあてる。
2、待機及準備。奉天に政務委員会を設置し、研究準備をさせる。政府設置の時機は、遅くも二月下旬とし、三月上旬着満する予定の国際聯盟派遣員到着の時機までには建設を完了する。
3、首都は長春とし、奉天の政務委員会を移して新政府とする。
4、参議府の設置。中央政府に参議府を設け、次の参議をおく。
満州人、一、蒙古人、一、漢人、三、日本人、三
二、独立国家と独立政権(前出と同様につき省略)
三、満蒙新国家に配置すべき兵力。一、警察軍(各省に所属す)二、巡防軍(中央政府に属す)三、国防軍(日本軍)
四、満蒙における日本側官庁(略)
五、満蒙問題解釈に伴うわが対満政策の要機
1、将兵の奮闘努力と社会政策。(略)
2、満州問題の国家本位化。
満州問題は、国家本位とし、党利党略に利用されぬよう注意されたい。利用された場合は、奮闘した将兵をして、党利党略の犠牲になったという感じを抱かせるであろう。
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板垣大佐は一月六日、陸軍大臣及び中央幹部と懇談し、右の趣旨を伝えたが、これに対し、陸、海、外(務省)協定案として、次の「支那問題処理方針要綱」が示された。
一、根本方針
(一)満蒙は、帝国の威力下に、政治、経済、国防、交通等に関し、帝国の永遠的存立の重要な要素を保持するものとする。
(二)支那本部については、門戸閉鎖、排日排貨を一掃する。
二、要綱
(一)満蒙は支那本部政権より分離独立した一政権の統治支配地域とし、逐次一国家としての形態を有するように誘導する。この目的のため、各省政権の迅速な確立安定を計る。(筆者注、陸軍中央の考えは、関東軍よりは漸進的であると言える)
(二)満蒙における政治的支配力強化のため、この地の政治機構に有為純正なる帝国臣民を顧問その他の形式で参加させる。
(三)治安の件、主として帝国がこれに任ずる。(以下略)
(四)防衛。少なくも三個師団の日本軍を駐留させ、支那正規軍の存在を許さず。
(五)わが権益を回復拡充する。
(六)国際法上の問題。(略)
(七)経済問題、門戸開放、機会均等を原則とする。
(八)(略)
(九)支那本部政権の満蒙問題に対する関係については、満蒙に対する一切の主張を自然に断念せしむる如く仕向ける。
(十)支那本部における門戸閉鎖、排日排貨の根絶。
(十一)支那本部における赤化運動ならびに反日軍閥、反日政党の覆滅を期する。
(十二)満蒙に関する帝国の根本方針遂行に当っては、国際聯盟及び諸外国の関係を激化せぬように努めるが、その干渉は断乎これを排撃する。
続いて、板垣参謀は、一月八日、大佐としては異例の拝謁を賜り、関東軍に対する勅語をいただいて、十三日奉天に帰った。
このとき、どのような勅語を天皇が関東軍に賜ったかは関心をひかれるところであるが、それについては『天皇(二)』に興味ある記述がある。
この年、昭和七年は、明治十五年一月四日に「軍人に賜りたる勅諭」が発布されてから五十年目にあたるので、一月四日、それを記念する勅語が陸海軍に下付され、陸海相が誓詞を奉呈し、東郷平八郎元帥が自宅から記念放送をした。
この際、満州の野で実戦に従事している関東軍にも勅語を賜りたいという意向が陸軍にあった。そこで、宮内省が陸軍上層部と相談して勅語案を作成し、天皇に提出したのであるが、天皇が目を通すと、「満蒙問題の解決」という言葉が目についた。平和主義の天皇は、この辞句は他国への侵略と解されるおそれがある、と牧野内大臣と奈良侍従武官長に注意を与えた。
奈良武官長は、参謀本部総務部長梅津美治郎少将と相談して、「関東軍の勇戦を嘉賞し、東洋平和を祈念する」という趣旨の内容に書き改められ、正式に下付されたものである。
板垣参謀はこれをもって、天皇が関東軍の満蒙における政策を認容されたものとして、感激して帰満したものである。
前記の「支那問題処理方針要綱」は、あらためて、同年三月十二日の閣議の決定をみているが、これが三月一日の満州国建国宣言の後に行われているのは、奇怪といえば奇怪である。
さて、板垣参謀が中央の了解を得、勅語をいただいて帰満してから、新国家建設は拍車をかけられた感がある。
一月二十二日、関東軍参謀長は、板垣、石原、松井、竹下、和知、片倉らの各参謀、土肥原大佐、花谷少佐ら特務機関の幹部を招き、さらに新国家案を練った。
さらに、一月二十七日、「満蒙自由国建設順序」が議定された。
この要旨は、奉天、吉林、黒竜江の三省主席をもって中央政務委員を組織し、新国家樹立の準備を行わしむる、というもので、役員名も、政務委員長、張景恵、政務委員、臧式毅《ぞうしきき》、煕洽《きこう》、馬占山、幹事長、煕洽などの幹部が指定された。
この間にあって、顧問松木侠は非常な苦心を払った。彼の回顧によると、法制と魂≠フ問題に出あって困惑した、とある。建国の理念≠ノはどうしても哲学的基礎が必要であると考え、国家主義哲学の大家とみられていた大川周明博士に来満して筋≠通してもらおうと考え、石原参謀に相談した。
相談をうけた石原は言った。
「大川君が満州に来るのは困る。満州の問題は国内の革新とは関係がない。大川君が、内地で考えていてもらう分には差しつかえないが……」
石原は、狂信と論理を併せ持っている大川が来満するのを恐れていた。石原がリードしているところに大川が来ては、せっかくの構想に色を塗られることになりかねない。
松木は致し方なく、たまたま日本に帰るという河本大作大佐に、その件を依頼した。河本は「内地へのよい土産が出来た」といって、喜んで承諾してくれた。
ところが、実際の建国理念について、石原参謀はすでに、一月十一日、大和ホテルにおける朝日新聞主催の座談会においてふれていたのである。そのときの石原発言のなかから、主なものをひろってみよう。
一、満州が独立国家になる以上、都督制などでやるべきではないと思う。今までの日本は支那軍閥のために、付属地内に屏息《へいそく》されていたのであるが、今度は日支両国が新しい満州を造るのであるから、日本人、支那人の差別はあるべきではない。従って、付属地も、関東州も全部新国家に還納すべきである。日本の機関は最小限度に縮小し、新国家そのものに、日本人も入り、支那人も区別なく入ってゆくのが、よろしいと思う。それでなければ、満蒙新国家は意味がない。
二、私が新国家に職を奉ずるならば、新国家の聯隊《れんたい》長に任命されるわけです。日本の軍隊で満州の国防に任ずるならば、関東軍司令官は必要であるが、関東州長官はいらない。新国家で活動する人は、その国家に国籍を移すべきだ。
この座談会の主な出席者は次の通りである。
▽中国側
奉天省政府地方自治指導部長、干冲漢、東北交通委員会委員長、丁鑑修《ていかんしゆう》、奉天市長、超欣伯《ちようきんぱく》
▽日本側
一、関東軍
参謀、石原莞爾中佐、同、片倉衷大尉、新聞班長、松井久太郎中佐
二、海軍及外務関係
海軍武官府、久保田久晴大佐、関東庁外事課長、奉天総領事館、河相達夫、満鉄、理事、村上義一
さて、関東軍がハルピンに入ると北満の雄#n占山も新国家建設に参加することとなり、二月十六日、張景恵、煕洽、臧式毅に馬占山を合わせた四巨頭が、午後八時から奉天省政府で「建国会議」をひらいた。会議は翌十七日午前三時に及んだ。関東軍からは板垣、和知両参謀が参加していた。
その結果、次の声明を発するに至った。
▽東北四省、一特別区及び蒙古各旗王公により東北行政委員会を結成し、ここに、国民党政府と関係を断ち、東北省区は次の精神とともに完全に独立せり。
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一、王道を布き民衆を安息せしめんとす。
二、排外政策を持たず、国際戦争をやめ、門戸開放、機会均等主義をもって、世界民族と共存共栄を計らんとす。
三、職業を奨励し、階級闘争をなからしめ、赤化を防ぎ、民生の安全を期すべし。
続いて二月二十五日、新国家の組織大綱を次のように発表した。
一、国家名、満州国
二、元首名、執政
三、国旗、新五色旗
四、年号、大同
五、首都、新京(長春)
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さらに、二月二十九日、奉天における全満建国促進運動連合大会(各省県市代表、蒙古代表、各地朝鮮人代表約七百名参加)は、新国家建設の宣言決議を発表するとともに、緊急動議をもって、溥儀を執政に推戴することを満場一致で可決した。
そして、三月一日午前九時、奉天の張景恵邸において、東北行政委員会は、満州国政府の名をもって、既述の各地区は即日中華民国と絶縁し、満州国を創立することを宣言、次の建国宣言、建国要綱を発表したのである。
一、満蒙の地は広く、民は淳朴《じゆんぼく》なり。
二、満州国は崩壊しつつある中華民国と断然絶縁し、ここに独立す。
三、満州国の政治は民本主義に依り、民族は一視同仁差別なし。
四、内政は法律を改良し、自治を促進し、実業を開発することに努む。
五、対外政策は信義を本とし、列国との親睦《しんぼく》を図り、既存の条約は国際慣例によってこれを処理す。
ここに、後日、太平洋戦争の遠因となった満州国は複雑な国際情況のなかに誕生したのである。
折柄、松岡は上海で、停戦調停のために奮闘していた。三月二日には、野村吉三郎と同伴、黄浦江上のケント号にケリー提督を訪ね、会談を重ねている。そして、三月三日、白川軍司令官と膝《ひざ》づめ談判に及び、ついに停戦決定に持ちこんでいる。
第二次大戦終戦後、松岡が戦犯として起訴されるに及んで、満州を侵略し、満州国を造るのに、松岡は手を貸した、と説く人がいたように思うが、その頃、松岡は上海にいたのである。松岡が先に満鉄副総裁を勤め、後に満鉄総裁を歴任したので、このような錯覚を持ったものではないか。
さて、いよいよ、本編はヤマ場の一つである「国際聯盟脱退」に近づいてゆく。
上海事変の停戦調停に成功した松岡は、三月十二日の停戦調停確実という軍の言質を得たので、十三日一応帰国の途についた。
日本に帰った松岡は、それまで新聞等で聞いていた井上日召の結成した「血盟団」一派のテロの実情を聞かされた。
まず、二月九日、元蔵相井上準之助が暗殺された。井上は、部下であった駒井重次(大蔵省銀行検査官)が代議士に立候補、その応援演説のため、九日夜、本郷区駒込の駒本小学校講堂に赴いた。午後八時、井上と駒井の乗った自動車が小学校の通用門前に到着した。井上が自動車からおりたとき、血盟団の一員小沼正は、井上日召から渡されたブローニング拳銃の安全装置をはずして、駆けよった。小沼は井上に抱きつくようにして、三発の銃弾を発射した。午後八時十五分、井上は東大病院青山外科で絶命した。小沼は、井上日召の、腐敗した国家を革新するには、政財界の巨頭を一掃せねばならぬ、という思想に共鳴したものである。
続いて、三月五日、血盟団員菱沼五郎が、三井合名理事長男爵、團啄磨を襲った。
五日午前十一時半、團は日本橋三井銀行本店南側にとまった車からおりた。黒オーバーを着た菱沼五郎が駆けより、團にぶつかるようにして、拳銃を発射した。團はエレベーターで銀行五階の医務室に運ばれたが、弾丸は右胸から斜めに心臓に撃ちこまれており、午前十一時四十六分絶命した。
團啄磨は、福岡県出身、アメリカに留学後、三池炭坑に入り、その経営に当った。一九一四年(大正三)三井合名の理事長となり、三井の大番頭として、財界の指導的役割を果していた。
警視庁は、血盟団員の逮捕に踏み切り、団長井上日召は、紫山塾塾頭本間憲一郎とともに自首した。
この頃、血盟団の共鳴者として、海軍大尉故藤井斉、海軍中尉三上卓、海軍少尉古賀清志、同山岸宏らの名前も浮びあがっている。彼らは後に五月十五日の事件を起すのである。
国内のテロに、松岡が眉をひそめている間に、上海でもテロが起り、彼が信頼をよせていた白川義則軍司令官が死亡する椿事《ちんじ》が発生した。
松岡は帰国後、上海における行動と感想をまとめ、四月二十八日参内して、天皇に「上海事変について」と題して進講申し上げた。内容はリットン調査団会見その他に関連し、牧野伯に報告したものを骨子としたものと思われる。
翌四月二十九日は天長節であった。
上海でも祝賀会が行われたが、列席した首脳陣に朝鮮人|尹奉吉《いんほうきち》が爆弾を投げた。このため、白川、重光葵、野村吉三郎、植田謙吉(第九師団長)ら要人六人が負傷した。
しかし、幸いにその後上海事変の停戦交渉は順調に進み、五月五日ついに停戦協定調印に漕《こ》ぎつけた。
そこで松岡は、重光の後任大使である有吉明とともに再度上海を訪れた。停戦の実態も確かめたかったが、それよりも旧知の白川、野村、重光を見舞いたかったのである。
五月十一日、上海に上陸すると、彼は兵站《へいたん》病院に白川と野村を見舞った。白川は「傷は軽いよ」と笑っていたが、松岡は、どうも元気がない、と感じた。白川は二十日に容態が急変し、二十六日他界した。
重光は脚に、野村は眼に負傷した。(後に重光は隻脚に、野村は隻眼となるのである)
松岡はこの二人をも見舞い、大いに激励した。
『野村吉三郎』(木場浩介編)には、野村の次のような談話がのっている。
「松岡氏は上海事変の停戦交渉では実によく協力してくれた。また、私が負傷して陸戦隊病院入院中は、十日間くらい、毎日のように見舞いに来てくれた。彼の宿舎と病院ははなれており、途中にはまだ危険な場所も多い。しかし、彼は危険を犯して来てくれた。私は彼を人間として、友情厚く、信義に強い、一異彩者だと考えている」
さて、松岡の上海における功績と、それ以前の太平洋会議京都大会における実績とは、やがて彼を国際会議の檜《ひのき》舞台に押し上げることになった。しかし、それを語る前に、突発した五・一五事件にちょっとふれておこう。
五月十五日は日曜日であった。犬養首相は、永田町の首相官邸日本間でくつろいでいた。
午後五時二十七分、一台の自動車が官邸内に入って来た。二人の海軍将校と三人の陸軍士官候補生が、官邸護衛の村田巡査部長をブローニング拳銃で脅かして、奥の間に通った。二人の海軍将校は三上卓中尉と黒岩勇少尉である。このとき、官邸裏門からは山岸中尉らが侵入していた。
村田巡査部長は異変を感じて走り出し、日本間に入ると「総理、暴漢です。逃げて下さい」と叫んだ。
「いや、逃げることはない。会って話を聞いてやろう」
首相は、和服のまま答えた。
そのとき、三上中尉と黒岩少尉が拳銃を構えて姿を現わした。と同時に護衛の田中五郎巡査がとんで来て、三上中尉の拳銃を奪おうとした。三上は発砲し、銃弾は田中の右胸部から左胸部に抜けた。
三上は、首相の方を向くと、不動の姿勢をとって、拳銃の引金を引いた。しかし、今度は不発であった。
「まあ、待て!」
犬養は右手をあげて三上らを制すると、「あちらで話そう」と食堂のとなりの十五畳の客間に案内した。このとき、裏門からは、山岸、村山、野村の三人が走りこんで来た。
「話を聞こう」
と、犬養は煙草に火をつけた。
三上が訊《き》いた。
「以前に、満州の張学良が日本の高官に送った大金の領収書が発見されているが、その中に犬養総理のものも入っているのはどういうわけか」
「ふむ、その話か。まあ、話せばわかる」
そこまで犬養が言ったとき、山岸が、
「問答無用、撃て!」
と叫んだ。
黒岩と三上がほぼ同時に発砲した。
犬養は前のめりに倒れた。
将校たちは引き揚げた。
「おい、今の若いものを呼び返せ。話がある」
犬養はなおも叫んだが、起き上ることは出来なかった
犬養は右こめかみと、左頬に一発ずつの命中弾を受けており、左頬の一弾は脳底から頭蓋腔《ずがいこう》内に達していた。
当日午後八時頃、多量の血を吐き、午後九時頃、脳からと思われる黒い血を少量吐いた。午後十一時二十分、犬養は最愛の孫道子らにみとられながら臨終を迎えた。七十七歳であった。
犬養は尾崎行雄とともに、帝国議会開会以来の連続当選者として有名であった。
なぜ、三上たちが犬養を襲ったのか。それは、彼らが自動車で撒布《さんぷ》した檄文《げきぶん》に示されている。
「国民よ! 天皇の御名において国政を毒する君側《くんそく》の奸《かん》を葬れ。国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ! 横暴極まる官憲を膺懲《ようちよう》せよ」
彼らはこのほか、内大臣邸、立憲政友会事務所などをも襲撃する予定であった。
実際に内大臣邸と警視庁玄関にも手榴弾《しゆりゆうだん》を投げこみ、また、三菱銀行本店、鬼怒川水力発電所東京変電所、西田|税《みつぐ》宅、等数カ所をも襲撃している。
犬養首相の死は、日本の政党政治に対する弔鐘である。
この後、戦争が終るまで、政党政治は復活しない。高橋是清蔵相が臨時首相代理となるが、五月十六日、彼は内閣の辞表を奉呈した。この後、内閣は挙国一致内閣≠ニなり、軍国化の道を辿るのであるが、『天皇(二)』に、このときの天皇の次期総理に要望する条件がのっているので、紹介しておきたい。
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一、首相は人格の立派なる者。
二、現在の政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するは、首相の人格|如何《いかん》による。
三、協力内閣、単独内閣などはあえて問うところにあらず。
四、ファッショに近き者は絶対に不可なり。
五、憲法は擁護せざるべからず。然《しか》らざれば明治天皇に相済まず。
六、外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努むること。
七、事務官と政務官の区別を明らかにし、綱紀振粛を実行すべし。
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青年将校は君側の奸を除くと称して、暗殺暴動を企画する。しかし、天皇はファシズムに危険を感じ、明治憲法の遵守を祈念しておられたのである。
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九章 沸騰する国際聯盟
暗殺された犬養首相の後任には、当時、朝鮮総督の海軍大将子爵、斎藤|実《まこと》が選ばれた。
五月二十一日、神田駿河台の西園寺邸には、朝から、若槻礼次郎元首相、近衛文麿公爵、清浦|奎吾《けいご》元首相、上原勇作元帥らが出入りしたが、西園寺のはらは決っていた。この以前から、内大臣秘書官木戸幸一は、弱体化した政党政治のあとに、軍人の総理をもって来るならば、海軍の斎藤しかないと確信していた。その意向は内大臣牧野伸顕や西園寺にも伝わっていた。
西園寺も、軍部に政権を渡すことの危険を感じながらも、斎藤が海軍の長老であり、またその温厚な人柄と人心|収攬《しゆうらん》の能力に信頼をおくこととして、五月二十二日、参内して斎藤を後継総理に推薦した。
斎藤は安政五年生れでこのとき七十四歳。彼は海軍兵学校六期生で明治十二年、築地の海軍兵学校を卒業(成績は三番)、同期生には郡司成忠がいる。
郡司は幸田露伴の兄で、海軍大尉で退官後、北千島の探険を行ったことで知られている。
斎藤は日清日露の海戦に従軍、先に条約派の始祖として紹介した加藤友三郎(日本海海戦当時の聯合艦隊参謀長)は彼の一期下に当るから、いうまでもなく、海軍の大長老である。当時まだ存命していた東郷平八郎元帥(昭和九年死亡)につぐ長老といってもよいほどである。
斎藤の経歴は、明治三十六年、早くも第一次西園寺内閣の海相となり、以後、五代の内閣に入閣しており、そのほか、ジュネーブ軍縮会議全権をも勤めたことがある。
木戸や西園寺が斎藤を推したのは、陸軍に政権を渡すことの危険を感じたこともあるが、その豊富な経歴によって、海軍はもちろん、陸軍をも抑えることが、大きな狙いであった。
斎藤は、それまでの慣例を破って、政友、民政両党、官界、貴族院、財界各方面から閣僚を選んで組閣した。
問題の陸相は、荒木から林銑十郎に代るという話があり、林は朝鮮から東京まで出向いて来たが、結局気乗りがせず、荒木の留任と決った。
外相には芳沢謙吉にかわって当時の満鉄総裁の内田康哉が入ることになった。芳沢は犬養総理とともに満州建国に反対していた男であった。
内田は満州事変当時、議会で自主強硬外交を主張し、「日本は焦土と化するとも満州を守るべし」と論説した男である。
内田の外相就任には満州の関東軍司令部が反対した。内田はかつて関東軍の特使≠勤め、また関東軍の対満政策には、全面的な理解と支援を惜しまぬ満鉄総裁であった。このような味方≠ナある総裁を、関東軍は手放そうとはしなかった。関東軍は、内田の離任に反対し、内田も、まだ満州でやることがある、として、なかなか外相を受諾しなかった。彼は、いずれ満州国承認が国際聯盟で問題となるときが来るのを予想し、その地盤の固まるのを自分の眼で見きわめるまでは、満州を去りたくないと考えていたのである。
しかし、斎藤は、この際外務省を抑えるには内田が適任である、という方針を変えず、有田八郎次官を満州に派遣して、外相就任を懇望させた。それまでは斎藤が外相を兼任していた。有田は、満州国問題が国際聯盟で討議される際肝心なのは、外務省並びに代表のあり方であって、内田に霞ヶ関入りの必要性を説いた。この結果、内田は七月六日、外相就任を受諾したのである。
内田は外相就任の直前、上京するや次官官邸に外務省幹部を招集すると、満州国問題について協議し、幹部たちが内田の考えを了承することを確認した。(この項『外務省の百年・下』より)
斎藤内閣は、いわゆる党派を超越した挙国一致内閣≠ナあったが、天皇の「ファッショを避けよ」との思《おぼ》し召しにもかかわらず、荒木、内田というような構成因子を除外することは出来なかった。ここにこの挙国一致内閣≠フ性格の一端を見ることが出来るし、またそのような現象を招来する国情が背景にあった。(高橋是清蔵相は留任し、海相には岡田啓介大将が入閣した)
当時、日本の国内では非常時≠ニいう言葉が盛んに言われた。日本が列強に抗して、満蒙を確保し得るかどうか、ということが、小さな島国である日本の将来に大きく影響するということは国民にも滲透《しんとう》していたが、だれがこの非常時という言葉を造り出したかは明らかでない。
筆者は、昭和六年、満州事変|勃発《ぼつぱつ》時は小学校六年生であり、昭和七年四月、岐阜県の田舎の中学校に入ると間もなく、五・一五事件が起った。
中学校の教師が、「日本は非常時である。国のお役に立つ人間になるように」と語ったことを記憶している。
村からも召集を受けて出征した兵士がおり、筆者の少年時代はまさに日本の軍国化時代と歩調をともにしており、教師の大部分もこれに同調し、少年雑誌もこれに拍車をかけていた。
さて、斎藤内閣が発足早々直面したのは、当然ながら満州国承認問題である。
当時の国会はすでに満州国承認ムードであった。内田が外相に就任する直前、六月十四日には、衆議院において、政友民政両党が中心となって、「政府は速かに満州国を承認すべきである」という結論を出した。(『外務省の百年・下』)戦後になって、満州国の建国並びに承認は、軍部とくに陸軍の策謀であった、という説をなす人は多く、筆者もそれに賛成であるが、では民間を代表する政党人はどうであったか、というと、彼らも前述のように、満州国承認を希望していたのである。これが、五・一五事件の青年将校のテロリズムに脅威を感じたものであるか、あるいは、当時の日本の国策≠ナある、「満蒙における権益の擁護」を必要と認めたものであるか、おそらく、内容は区々であろうが、国策推進論者が多くいたことも事実であったと思われる。国民のなかにも明治以来の満州進出ムードがゆきわたっており、そのような票田によって選出された議員であってみれば、議会でのムードもおおよそは想像がつこうというものである。
さて、これに続いて、いよいよ七月下旬、松岡洋右が国際聯盟臨時代表を依頼され、内諾を示すのであるが、その前に、外務次官官邸における前述の内田康哉を中心とする幹部会議の内容を今少しく『外務省の百年・下』によって紹介しておきたい。
この幹部会議で、おおむね合議に達した結論は、次のようなものである。
一、根本方針
我方に於《おい》ては、満州の併合を企図せざるとともに、満州国をもって、いわゆる理想国≠ニなさんとするものに非ず。満州国を独立国として立ち行かしめつつ、我が権益の確保及び伸張を期するものなり。
二、承認の時期については、
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イ、日満関係の整備。
ロ、満州国の独立国としての内容充実の程度。
ハ、過早なる承認が国際関係に及ぼす影響。
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ニ、国内における承認促進論等の諸点を考慮して、適当の時期に承認すること。
三、承認の方法に関しては、
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イ、あらかじめ、基本条約締結の下準備を整えた上で、日本側の一方的宣言または通告によって満州国を承認し、その後で、直ちに基本条約を締結する。
ロ、右の下準備を整えた上で、満州国の外交使節を受け入れ、また日本の外交使節を派遣することによって、黙示の承認を与え、基本条約を締結する。
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ハ、初めから基本条約を締結する。
の三案であるが、第三案が適当であろう。いずれにしても、承認の方法は国際関係を考慮し、形式張らない形をとること。
四、基本条約の内容としては、相互的軍事援助、日本軍隊の満州国内における駐屯権、日本人官吏および、顧問の傭《やと》い入れ、旧日支間条約、約定等を尊重すること。さらに基本条約の付属協定として、
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イ、中央銀行の設立に対する援助。
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ロ、交通機関の改善に関する援助に関する協定を締結すること。
以上である。
満州事変勃発以来、関東軍の軍事行動に関して、外務省が非常に批判的であったことはすでに述べたが、満州建国の事実的積み重ねによって、外務省も内田外相を迎えてついに満州国承認に踏み切ることになった。
しかし、主管局たる亜細亜局の考え方は、軍が満州国の領域以外に進出することは不可という線を画しており、この点、内田が外相に就任した後も、谷亜細亜局長と、白鳥情報部長の間には、意見の喰い違いがあった。(白鳥は昭和十五年三国同盟締結当時の駐伊大使で、外務省内では、ファッショの代表として知られていた)
内田外相はもとより満州国承認の強い決意をもち、大連から日本に向う船中でそのはらを固めていた。
彼の胸中には一人の人間の映像があった。かつての満鉄副総裁松岡洋右である。
いずれ、満州国建国、ならびに承認は、リットン報告書とともに国際聯盟で問題となるであろう。その際、日本代表としては、三つの条件を備えていることが必要である。
まず、満州の実情にくわしい人物であること、次に語学に堪能であること、そして、最後に、これが最も肝要であるが、憂国の至情に燃えていること、日本の将来を憂えるがために、満蒙を生命線として確保する必要性を痛感している男……それは松岡洋右のほかには考えられなかった。
内田は、七月九日、松岡に対して、聯盟代表として、ジュネーブ行きを懇請し、松岡は承諾した。
『人と生涯』によると、内田は枢密顧問官の石井菊次郎にも白羽の矢を立てたが、石井は断った、となっている。
石井は外交畑においては内田と並ぶベテランで、フランス、アメリカ大使を経て、大正四年大隈内閣の外相となり、大正六年には全権としてアメリカへ行き、石井・ランシング協定を成立させ、昭和二年には、ジュネーブ軍縮会議の全権を勤めたこともある。
石井は外交官として一家言を持っており、彼の著書『外交余録』には、日本人の外交官の欠点は次の三点である、と指摘している。
一、外国語を操るのが下手である。
二、外交談判に不慣れであること。
三、弁舌が下手であること。
この点、松岡はこのいずれの項目にも合格であり、全権として適任といえたであろう。
この頃、駐仏大使兼聯盟全権の長岡春一は、松平恒雄(駐英)、佐藤尚武(駐ベルギー)、吉田茂(駐伊)三大使らと協議した結果、次のように本省に打電して来た。
「満州国承認問題に関する国際聯盟の空気はきわめて神経過敏の状態にあり、此《こ》の際、承認を決行せられんか、形勢の推移如何によっては、聯盟脱退をも覚悟せざるべからず。よって、承認はリットン委員会の報告書提出後まで差し控えられたし」
この電文は、当時のジュネーブの対日ムードをよく伝えているというべきであろう。
外務省の慣例としては、外国での大きな会議の場合、出先の大使が全権を勤めることになっていたが、今回の討議は、大きく言えば日本の興亡を賭《か》けた会議であるだけに、大物の起用が期待された。
長岡、佐藤ともに、松岡より先輩であるが、内田はあえて松岡起用に踏み切ったのである。
昭和七年七月二十四日付の朝日新聞は、近く開催を予想されるジュネーブ国際聯盟臨時総会代表に松岡洋右が指名され、内諾した記事を掲載した。
この朝日の記事では、「松岡は列国代表との私的懇談により、日本の立場を了解せしめんとするのが主な役目であるらしい」となっており、松岡は上海事変と同じく裏方の役目を負わされることになっていたらしい。
しかし、駐ベルギー大使の佐藤尚武は、「松岡を起用してジュネーブに派遣する以上、彼が首席全権であるべきだ」と主張し、ついに松岡が全権代表となることになってしまった。
これは、総会の討議となれば、相手は支那とアメリカであり、いずれも英語を話すので、フランス語を専門とする佐藤が譲ったものと思われる。
また、松岡を推したのは、白鳥敏夫情報部長と、谷亜細亜局長である、という説があり、牧野伸顕、荒木貞夫、大川周明らのグループも、松岡引き出しに一役かったと伝えられる。
松岡は、七月二十六日、事前準備のため、満州視察の旅に出た。
『人間松岡の全貌』には、このときの興味深いエピソードが出ている。松岡をのせた特急「富士」が名古屋駅にすべりこむと、新聞記者や政治関係者が展望車めがけて殺到した。
そのなかから、
「おうい、松岡さん、わしじゃ、伊藤平七じゃよ」
と声をかけながら近よって来るどてら姿のみすぼらしい老人がいた。
「伊藤平七?」
松岡はこくびをかしげた。
「そうれ、オレゴンのポートランドで、同じベッドに寝たイトーじゃよ」
老人はさらに車窓に近よった。
「おう、あのときの伊藤平七さんか」
松岡はあわててデッキに出ると、その老人と堅い握手をかわした。
松岡がオレゴン州立法科大学で苦学をしていた頃、ポートランドで土木請負業をしている伴新三郎という人に雇われたことがある。
そのとき、人夫募集頭として、松岡の面倒をみたのが、伊藤平七であった。彼は本名を伊藤徳次郎と言って、愛知県|海部《あま》郡鍋田村の出身で、常々、松岡の硬骨ぶりとその語学の才能に感心していた。
「松岡さん、あんたは今にきっと日本を背負って立つ大物になる」
と伊藤平七は断言していた。
「よう、松岡、やはりわしの予言は当ったじゃろうが……。わしはポートランドの宿舎で、あんたと一緒のベッドに寝ていたとき、口癖のように言うとったやろうがね、お前さんはきっと大物になる、とな……」
伊藤は懐しげに松岡の肩を叩いた。
日本に帰った伊藤平七は、松岡が満鉄の理事になった頃から目をつけていたが、やがて松岡が副総裁になり、代議士に打って出ると、かげながらその出世を喜んでいた。
その松岡がついに国際聯盟の日本全権になり、名古屋を通ると聞くと、鍋田村にじっとしていることが出来ず、どてら姿をも恥じず、名鉄電車に乗って名古屋駅にかけつけたのであった。
「いや、伊藤さん、その節は大層お世話になりましたな……」
松岡は感慨深げに伊藤の年老いたあから顔をみつめた。あれから何年たつだろう? たしか、明治三十年頃のことだから、もう三十五年も前のことになるのだろうか……。
「伊藤さん有難う。あのとき覚えた英語が、いよいよ役に立つときが来ましたよ」
松岡は、この男にしてはひかえ目にそう言った。その言葉の奥には彼一流の気負いが潜められていたが、周囲の人たちは、うす汚い老人の前で、謙虚な姿勢を示す松岡をけげんそうにみつめていた。
「いやあ、松岡さんよ。お前さんはなも、あのときわしが言うたやろうがね。末は外務大臣か総理大臣じゃと……。な、きっとそうなってくんされ。お前さんは、もっともっと大物になる人じゃ。頼んだぜ。日本のため、世界のため、な……」
伊藤平七は、感きわまったのか、ぼろぼろ涙を流して松岡の手を握った。
「うむ、伊藤さん、わかった。私はきっとお国のため、世界のために頑張って来る。だから、あんたも長生きして、元気に暮して下さい」
松岡も堅くその手を握り返した。
やがてベルが鳴り、発車時刻が迫った。
「じゃあ、伊藤さん、また会いましょう」
松岡は、平七の手をはなして展望車のなかに入った。
特急富士が発車すると、伊藤平七は、他の人々にまじって両手をあげ、
「松岡洋右万歳! 松岡全権万歳!」
と叫んだ。
松岡は展望車のデッキから手を振り、平七は地に落ちていた日の丸の小旗を振り始めた。両頬を濡らして特急を見送る平七の姿が小さくなってゆくのを、松岡は展望車のデッキからあかずにみつめていた。三十五年の歳月が二人の間を音もなく流れ去って行った。少年の日に帰ったような気持で、松岡は平七の姿を眺めていたのである。
松岡の満州視察旅行には、秘書官の八辻旭と、フリーの新聞記者竹内克巳が同行した。
松岡が満州に着いたのは七月の終りである。
七月三十日、松岡は奉天で本庄繁に会った。『本庄日記』には「午後一時半、松岡洋右氏ジュネーブ行の準備として満州視察のため来満来訪に付き、午後七時より宿舎にて会食す」とある。
この頃、本庄繁は関東軍司令官から軍事参議官に転任するところであった。
七月二十八日の項に「此日軍事参議官転任内命」と出ている。
七月三十日の項には、松岡洋右来訪のほかに、いま一つ興味ある記述がある。
「馬占山二十七日午後三時頃安古鎮付近にて戦死す、との第十四師団長の電報に接す」と出ている。馬占山は、昭和七年一月の満蒙自由国建設の段階では政務委員として四巨頭の一人となり、その後、三月の満州建国の際も軍政部長として要人の一人であった。しかし、その後、新政府に不満を抱き、反満抗日≠フ旗を掲げ、北満を根拠地として日本軍と戦っていた。彼は娘を日本に留学させたりする親日的なところもあったが、どこか関東軍とは反りが合わぬところがあったと見える。(但し、この馬占山戦死の報は誤報らしく、彼は第二次大戦後まで生き残り、人民中国に参加し、一九五〇年〔昭和二十五〕世を去ったことになっている)
松岡はしばらく奉天に滞在し、『本庄日記』には、「三十一日午後七時より領事館における松岡招待会に臨む」「八月一日、午後三時二十分松岡洋右と会談す」という記述も見える。
『人と生涯』によると、この当時、満州には、満州国承認促進の動きが盛んで、松岡を大歓迎で迎えた。満州青年聯盟は、満州事変勃発当時から聯盟即時脱退を決議し、この促進を計っていたというから、松岡を迎えたときの歓迎ぶりは想像に難くない。また、奉天駅では、粛《しゆく》親王(大正十一年没)の遺児で東洋のマタハリ≠ニ呼ばれた川島芳子も松岡を迎えた。粛親王は満州出の清朝の皇族で太宗の家柄で最高の家格を誇り、辛亥革命のときには日本軍の援助によって満州の独立を計ったこともある。芳子は日本人川島|浪速《なにわ》の手によって育てられ、満州にいることが長かったので、松岡とは旧知の間柄であった。洋右は若い頃の芳子を可愛がった。
奉天駅では、芳子は、「松岡のおじさん、松岡のおじさん」といって、懐しそうに松岡にあいさつした。
日本に帰った松岡はしばらく表面に出ないで、青山のかくれ家で策を練った。
青山南町二丁目の石勝という石屋(現存?)の裏に、妻竜子の実家進家の東京宅があった。ここの二階に進家の次男|緯介《いすけ》の書斎があった。ここからは畏兄《いけい》と仰ぐ山本条太郎などの家が近かったので、ジュネーブにおける日本の出方について、色々指示を仰いだものと思われる。この年三月、アメリカはすでに「満州国不承認」を表明しており、リットン報告書の聯盟総会提出も間近いと思われていた。
日本の満州国承認は時間の問題であり、山本も松岡も、それはリットン報告書が提出された後の方が穏便であろうと考えていたが、とかく先走る傾向のある内田康哉外相らの動きと、国内の世論の高騰とが相まって、九月十五日に満州国承認と決っていた。
進家の次男緯介は当時、三井信託に勤めていた。そのころ、毎日のように進家を訪問しては、松岡と議論を戦わせる客がいた。駐伊大使で、折柄東京に帰っていた吉田茂である。吉田は松岡より後輩であったが、気が強く、よく松岡に議論をふっかけた。吉田は太平洋戦争に反対したため、戦後五回にわたって総理を勤めることになったが、対支対満では、決して和平論者ではなかった。彼は、昭和八年、田中義一内閣の外務次官となり(外相は田中が兼務)積極外交を主張する田中内閣の対支強硬政策を推進している。山東出兵、済南事件、張作霖暗殺事件などは、すべて彼が外務次官のときに起ったものである。
土佐っぽで鼻息の荒い吉田は、青山の進家に来ると、一つの事を松岡に説いた。一つの事とは、ジュネーブに老人≠連れてゆけ、ということである。
「おい、松岡!」
と吉田は先輩である松岡を呼びつけにして(年は吉田の方が二つ年長)こう言った。
「ジュネーブへゆくのはよいが、今度は大ごとだぞ。だれか老人を連れてゆけ。それでないと、いざ聯盟脱退という羽目になったとき、お前が全責任をとらされるんだぞ」
「うむ、それはおれも考えている……」
松岡もこの件については思案気味であった。吉田のいう老人≠ニいうのは、年より、すなわち、西園寺、牧野伸顕(吉田の岳父)のような元老格の大立者という意味である。
ベルサイユ条約のときは、確かにこの二人が代表であった。しかし、今は二人とも年より≠キぎる感じである。家柄からゆけば近衛文麿がよいし、東亜に対する考え方も松岡と共通するところがあるが、まだ若いし、松岡はこの下につきたくない。
ロンドン会議の全権は若槻礼次郎であったが、この人は関東軍の大陸政策に不賛成で、後には東条内閣打倒を計ったほどの人であるから、今回のジュネーブ行きには不適格とみられた。
「こんなとき、小村さんがいてくれたらなあ……」
松岡は畳の上に寝ころがると、天井を仰いで嘆息した。
小村さんとは、小村寿太郎のことである。
小村外相が、日露戦争の後始末のため、アメリカのポーツマスで、ロシアの全権ウィッテとしのぎを削ったとき、松岡は外交官になりたてのほやほやで、上海の領事官補であった。
大陸にあった松岡は小村の苦難に満ちた交渉ぶりを新聞や外電で知って、ひそかに明治以来最高の外交官はこの人だ、と私淑していたのである。
しかし、頼みとする小村は、明治四十四年すでに世を去っていた。
『原田日記』によると、西園寺は牧野伸顕を出してもよいと考えていた。しかし、松岡は今回は自分が首席でのり切るつもりであった。かつて、大正八年のベルサイユ会議の時は、随員で新聞課長であったが、それから十三年たった今、今度こそは自分が檜舞台に立って脚光を浴びるべきである、という考えも彼のはらのなかにわだかまっていた。彼もいつの間にか五十二歳になっていた。
松岡は自己顕示欲が強く、また人気とり政策が好きだといわれるが、これらの属性はすべて、少年時代アメリカ留学のときに身につけたものである。冒頭に述べた如く、彼はアメリカの政治家のポピュラリティとその盛衰を実見しており、政治家になるなら、大衆の人気を忘れてはならぬ、と考えていた。そのポピュラリティを、大量につかみとるチャンスが到来しようとしているのである。
いつも強気の吉田が、このときは、弱気に回り、聯盟脱退反対派に回っていた。彼は松岡が最近の欧米事情にくわしくないのを幸い、国際情勢を滔々《とうとう》と説き、聯盟脱退による日本の孤立化の危険を説いた。
「聯盟を脱退すれば、日本は世界の孤児となる。そうなれば、やがては英米を敵として戦わねばならない。ここはリットン報告の出方を見て、満州で多少の譲歩をしても、聯盟は脱退すべきでない」
と吉田は説いた。
それは正論であった。しかし、吉田は正論を立てるためにこの説を松岡にぶっつけたのではない。松岡に競争意識を抱いている彼は、要するに松岡に反対のことを言えば気がすむので、もし、松岡が非脱退論を説いたら、脱退をすすめたかも知れない。
さて、当の松岡はどうであったかといえば、吉田に言質をとられぬよう、言を左右にして、その舌鋒《ぜつぽう》をかわしていたが、彼自身決して絶対的に脱退を主張していたわけではない。後に、彼は「ジュネーブ印象記」で、「このたびの外交戦は、七分が世界の民衆相手、そして三分の相手が聯盟における各国代表」と回想しているように、あくまでもポピュラリティを考慮していたというのが事実であろう。そして、そのポピュラリティのなかに、政府の意向も一要素として入っているのが、松岡式思考法の特徴なのであった。
『人と生涯』には、九月頃、御殿場で松岡と西園寺が会ったことになっている。御殿場に松岡が別荘(現在は竜子夫人が住んでいる)を構えていた地域には次のような名士が別荘を持っていた。西園寺公望、犬養健、頭山満、三宅雪嶺、岸信介、東山千栄子、秩父宮。西園寺が訪ねていったのが事実とすれば、老公もよほどジュネーブの成り行きが気にかかったものとみえる。何にしても、その御殿場会談で、西園寺は松岡に次のようなことを明言したことになっている。すなわち、
「どんなことがあっても政府が(政府の方から)聯盟を脱退するようなことはさせない」
それがなぜ、脱退することになったのか、きわめて微妙で興味ある問題であるが、それは順を追って資料に当ってゆこう。
日本の満州国承認と日満議定書の調印が発表されたのは、九月十五日のことである。
日満議定書の内容についてはすでに満州建国の段階でその骨子が紹介されているので、その要旨は後に回すが、問題はこの十五日後、九月三十日にリットン報告書、正式には「国際聯盟日華紛争調査委員会報告書」四百ページが、聯盟に提出されたことである。
日本では、九月三十日午後七時二分、グリーン駐日イギリス大使館一等書記官によって外務省に伝達された。外務省では三十六人の翻訳委員が徹夜で翻訳作業を開始した。このとき興味深いことは、松岡の秘書官八辻旭が大量のロウソクを買いこんで来たことである。これは出発までに六週間しかないので、その間に不慮の停電があって、作業が遅れてはいかぬという松岡の配慮であった。
『人と生涯』には、このような配慮をしたにもかかわらず、松岡一行が出発するまでに全部の翻訳が間に合わず、残部はモスクワに打電され、モスクワ大使館で暗号解読を終り、シベリア鉄道で来訪する松岡一行を待ったとある。(注、意見書と混同した、と荻原氏はいう)
『天皇(二)』では、十月二日午後六時までに翻訳し、さらに二百五十部を印刷製本することを命ぜられ、四人のタイピストは、九月三十日午後十時から一睡もせずにタイプを打ち続け、十月三日午後四時すぎようやく仕事を完了したが、キーを打ち終っても、右手が握りしめたキーから離れず、彼女たちはタイプライターの上に泣き崩れた……ときわめてドラマチックに描写してある。
松岡一行の日本出発は十月二十一日であった。はたしていずれの記述が事実に近いのか。
『外務省の百年・下』によると「リットン報告書が日中両国及び聯盟諸国に通達されたのは、九月三十日であった。外務省では直ちに課長以下、英語の出来るものほとんど全員を動員して長文の報告書の翻訳に着手し、十月二日、これをまず原文のまま公表。翌三日午前中に、本文邦記十八万語の仮訳文として発表した」となっている。おそらく、十月三日には全翻訳が完了していたとみるべきで、松岡は出発以前に全文を英文と日本文で読了していたとみるべきである。
しかし、読了した松岡には何の新鮮味もないものであった。というのは、リットン報告書は、九月四日には完成し、日本政府は九月中旬、満州国承認以前にその全貌《ぜんぼう》を探知しており、ジュネーブの国際聯盟日本代表にもその旨を秘密|裡《り》に通報しておいたものであるから、その段階で松岡も当然、内容を知っていたとみるべきであろう。
さて、リットンの報告書の内容であるが、一言にして言えば「満州は中国の領土であり、日本はこの中国領土を侵略した」という考え方が基調になっている。そういう先入観をもって視察し、それを立証するために作られたといっても過言ではない。
緒論のあとは、第一章「支那における近時の発展の概要」から第八章「満州における経済上の利益」までが経過調査となっており、第九章「解決の原則及び条件」第十章「理事会に提出すべき考察並びに提議」が結論となっている。
今少しくくわしい内容に立ち入るならば、次の通りである。
一九三一年九月十八日夜の日本側の軍事行動は、「正当なる自衛手段」と認め得ず、また満州国は「純粋かつ自発的な独立運動によって出現したものと考えることは出来ない」
しかし、それと同時に、満州の特殊事情(ツングース族の居住地、清朝発祥の地、日露戦争後の日本の権益、張作霖の多年の支配による半独立化等)を認めるならば、単に九月十八日以前に戻すことは何の解決にもならない。
解決のためのヒントとしては、満州の自治化、国際化があり、日本側の主張を半ば入れつつ、満州の国際管理が良策である。
なお、これに先立って、九月十五日、日本が調印した日満議定書の内容をも次に紹介しておこう。
議定書本文では、満州国は日本国または日本国民が従来日支間に存在した一切の権利利益を確認すること。国防に関しては日満両国が共同防衛にあたり、日本軍が満州国内に駐屯することを認める。
なお、この議定書には秘密文書が付随しており、従来関東軍司令官と満州国政府との間で秘密に協定された多くの権益条項を満州国で確認している。その権益とは、一、満州国が国防及び治安維持を日本に委託し、その必要経費を支払うこと、二、国防上必要な鉄道その他交通路の管理新設に日本軍が当ること、三、日本人を満州国参議及び官吏に任命し、その選任、罷免は関東軍司令官の指示によるものとする、四、日満合弁航空会社の設立、五、国防上必要な鉱業権の設定など、既述の関東軍司令部案を基礎としたもので、後世の史家は、この議定書調印をもって、満州国は日本の従属国となったものとみなしている。
松岡が正式にジュネーブ会議の全権に任命された旨発表されたのは十月十一日で、新聞に大きく報道された。
くしくもこの日、ジュネーブの国際聯盟理事会では、リットン報告書が提出され、翌十二日の総会にもひき続いて討議されている。
ジュネーブの空気は、顧維鈞支那代表が報告書の原則に賛意を表し、これに対して、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなど、過去に侵略行為を行い、植民地を有する大国代表は、対日|宥和《ゆうわ》(軟化)政策をとった。
日本代表の長岡春一駐仏大使は当然、日本の軍事活動の自衛的性格、満州国の独立運動の自主性を強調したが、大国の脅威におびえるスウェーデン、ノルウェー、アイルランド、チェコスロバキアなどは、聯盟規約をたてにとり、日本の侵略的政策に態度を硬化させつつあった。
松岡が東京駅を出発したのは、十月二十一日であるが、多忙な松岡のもとには来客が絶えなかった。彼は箱根宮の下の富士屋ホテルで、リットン報告書全文に目を通していた。このホテルはかつて昭和四年十一月、後輩の俊才駐支公使佐分利貞男が怪死をとげたところである。松岡はそのことを忘れず、到着の日に佐分利の最後の部屋を訪ねて冥福《めいふく》を祈り、さらにその後は精進料理を申しつけて追善供養をした。佐分利がどのような苦悩に直面して自殺≠オたのか、当時満鉄副総裁であった松岡にはつまびらかでないが、自分もいよいよ佐分利が直面したのに劣らぬ、いやそれ以上の難局に処せねばならないという緊張が、晩秋の箱根の冷気とともにひしひしと湯上りの肌に迫り、精進料理を前にして酌む追善の酒もほろ苦かった。
富士屋滞在中の来客としては、本庄繁中将があった。彼は新しく関東軍司令官として着任する武藤信義大将と交代するため、森、吉岡各中将、石原莞爾らと同行して、松岡激励のため、富士屋を訪れたものである。
また、千葉県銚子町連合青年団五百名の代表がやって来て、豪雨のなかを香取、鹿島両神宮に参詣《さんけい》して必勝祈願≠したというお守りの札を松岡に手渡した。
富士屋の応接間でその札を受けとった松岡は、代表を玄関まで見送った後、
――必勝とはなにか――
と考えていた。
会議を中絶させて聯盟を脱退するのが勝利か、それとも、うまく列強をなだめて円満裡におさめて帰るのが勝利か……。このころの日本大衆の総意は、聯盟を脱退するとも、満州を手放すべからず、という傾向にあった。
西園寺は御殿場での会談で「絶対に政府が聯盟から脱退させるようなことはさせない」と確約してくれた。
しかし、国民の総意は満州国の確保にある。もし、満州国を御破算にして、満州を手放すというようなことを松岡が国際聯盟で発言したならば、彼は帰国早々右翼の手で暗殺されるであろう。
まして、松岡が満鉄理事時代、副総裁時代と手塩にかけた満州である。日露戦争で、十万の生霊を犠牲にした赤い夕陽の満州≠ナある。
――絶対に満州を手放すことは出来ない。しかし、そうなれば、聯盟脱退は必至となるのではないか――
満鉄の展望車から眺めた血のような満州の夕陽を脳裡に再現しながら、松岡の胸は千々に乱れるのであった。
この件に関して、後に松岡は著作『青年よ起て』で、次のような注釈を加えている。
「聯盟がなぜ満蒙問題に関してあれほど日本をボイコットしようとしたのか。うかつではあるが、ジュネーブに着くまで明快な解答は得られなかった。ジュネーブで実感したことはこうである。聯盟のなかには、支那に憲兵制度をしいて、支那を国際管理の下におこうというプランが根強く動いていたのである。(こうすれば、大国である英、仏、独、ひいてはオブザーバーである米国の意の通りに支那の権益をつかみどりすることが出来る)
リットン卿が委員長となって、聯盟の調査団なるものが極東に来た。あれは最初から一種の芝居であって、その行動や筋書は、欧州を出発する前からちゃんと書きおろされていたのである。それを知らなかったのは、おそらく、日本の外交官だけであろうと、ある欧州の新聞記者が言っていた。この結論に都合のよい材料を収集するのが、リットン調査団の任務であった、としか思えない。
満州に憲兵制度をしいて、一種の国際管理下におこうというのが、結局、リットン報告の満州国に関する結論となったのは当然である。そして、これと、支那全土を国際管理下におこうという考えは、根本において同じ思想であり、考案である。否、むしろ、前者は後者から出て来たとみるべきであろう」
松岡のジュネーブ行きに同行した新聞記者のなかには、朝日の古垣鉄郎(後NHK会長)、時事新報の長谷川進一(後松岡の秘書官、東海大教授)らの顔が見えるが、松岡はパリ講和会議で新聞課長を勤めて以来、「すぐれた国際通信記者のチームを養成せねばならぬ。外務省や政府が力を入れて、毎年二、三十人の記者を海外に送って、優秀な記者を養成しなければ、日本は国際報道戦、ひいては宣伝戦において敗北するであろう」と主張していた。
政府はそれにとくに耳をかさなかったが、新聞社側は大正十一年のワシントン軍縮会議以降、コレスポンデントの養成に力を入れ、昭和五年のロンドン会議には、大スクープをやった伊藤正徳(後、共同通信理事長)などが出ていた。
古垣鉄郎は「心に刻まれた人びと」という文章のなかで、松岡の出発直前、朝日の緒方竹虎に紹介されて、松岡と芝の紅葉館で懇談したことについて述べている。そのなかで、松岡はしきりに「興津《おきつ》のじいさん(西園寺公のこと)」という言葉をはいていたそうである。西園寺が確約した言葉が余程頭のなかにあったのであろう。
日本の敗戦後、松岡が戦犯に擬せられてから、いかにも松岡が最初から聯盟脱退を仕組んだように説く親米的評論家がいたが、出発前の松岡には、脱退の信念≠ネどはなかった。日本国のため、いかに善処したら満州国を確保出来るか、彼は迷っていたのである。『原田日記』によると、西園寺はリットン報告書の内容を聞くと次のように述べた、となっている。
「日本はこのさい英米とともに世界の采配《さいはい》を握ってゆくよう努力すべきだ。それが結局、世界的地歩を確保するゆえんである。フランスやイタリーなどと一緒になって、采配の先にぶら下っているようでは、どこに日本の世界的伸展する余地があろうか。東洋の問題においても、単に『アジア主義』とか『アジアモンロー主義』とか言っているよりも、英米と協調してゆくうちに自ら解決されてゆくものではないか」
西園寺の見解は、ベルサイユ条約以来の国際協調主義で、これが後にリベラリストとして牧野伸顕とともに右翼にねらわれるところなのであるが、国際聯盟脱退事件に関しては、注目すべき少数意見となったといえよう。
陸軍当局は、リットン報告書を、「かつてみたことのない悪意に満ちた報告である」と批判した。(陸軍省でこの報告書の翻訳に当ったのは、本間雅晴大佐=[#「=」はゴシック体]後のフィリピン軍司令官、戦犯として刑死=[#「=」はゴシック体]を班長とする新聞班であった)
新聞も一斉に、「錯覚、曲弁、認識不足に満ちた報告書だ」と抗議した。なかでも朝日新聞は、「国際聯盟脱退も辞するところにあらず」という強硬な社説を打ち出していた。
この件は天皇の耳にも入り、後に陸軍が熱河省に兵を入れたとき、「国際聯盟に悪影響を与えぬように」という注意があったほどである。
『人と生涯』には、このとき、『日本改造法案大綱』の著者北一輝が、国際聯盟非脱退論を唱えたという興味ある記述がある。
この頃連絡のため帰国していた国際聯盟事務局次長伊藤|述史《のぶみ》がたまたま北一輝を訪れたところ、北は「日本が聯盟を脱退し、代ってアメリカが加入することになると、容易ならぬ事態となるから、脱退とならぬように努力されたい」と希望したそうである。北の意見が先見の明であったかどうかは歴史の示すところであるが、残念ながら、北はその結果を見ないで、昭和十二年八月、支那事変(日中戦争)勃発《ぼつぱつ》の直後、二・二六事件の指導者として銃殺されている。
さて、肝心の外務省の態度はどうであったかといえば、内田外相は会議が紛糾した場合は、脱退も止《や》むを得ない、と考えていた。しかし、松岡への公式な政府訓令は、「満州問題に関しては、日満議定書の精神にのっとり、日本の国論に即してリットン報告書を処理されたい」というあいまいなもので、脱退は可なりとも不可なりともしていなかった。
解釈の仕方によっては、現地における松岡の判断に下駄を預けたともみえる。松岡の責任は重大であった。
松岡は当時いがぐり頭で通していたが、ジュネーブ行きの際は頭をのばしたという説がある。
現存する東京駅出発の松岡の写真では、髪を左から七三に分けている。ジュネーブにおける頭髪はもっと長くなっている。これには、国際場裡にいがぐり頭では、囚人と同じ頭で、外国代表によい印象を与えないのを考慮したという説もある。
また、当時ハンチングを購入して愛用していたが、東京駅頭でも、ジュネーブでも中折帽をかぶっている。これも外交官としての考慮からであろう。全権がハンチングでは安っぽく見られ、失礼に当る懸念もあったかも知れない。
そうかと思えば、『人と生涯』には、随行者の談として「松岡さんは日本ではいがぐり頭に着物ということが多かったが、ジュネーブでは、日に三度も着がえをした。朝は背広、昼はアフタヌーンに縞のズボン、夜はタキシードまたは燕尾服《えんびふく》といういきなスタイルであった」と意外なおしゃれぶりを紹介している。アメリカで育った彼の半面であろう。
松岡のジュネーブ行きの随員のなかに石原|莞爾《かんじ》大佐が入っていたことは注目してよいだろう。その他は一等書記官吉沢清次郎、海軍中佐岡野俊吉、秘書官の八辻旭らで、正式随員は小林絹治以下十一名であった。
『人間松岡の全貌』の口絵グラビアには、十月二十一日東京駅頭の写真が出ているが、そこには、内田外相、荒木貞夫陸相のほか、南次郎や広田弘毅らしい顔も見える。広田は昭和五年十一月駐ソ大使を命ぜられてモスクワに向い、現地で満州事変の報に接した。『落日燃ゆ』には「ほぼ二年のソ聯在勤の後、広田は帰国した」とあるが、松岡が東京を出発する日、東京付近にいたかどうかはよくわからない。
さて、『人間松岡の全貌』には、その第一章「何故の涙ぞ」の章に「東京駅頭の劇的シーン」なる項がある。いささか時局的≠フ感はあるが、当時の人々の松岡観が現われているので紹介しておこう。
「国民の輿望《よぼう》を双肩にになった国際聯盟帝国代表松岡洋右氏は、昭和七年十月二十一日午後九時二十五分、万歳渦まく東京駅を後に、一路ジュネーブに向い出発した。
発車五分前である。怒濤《どとう》のような歓呼の声にまじって、
『松岡クーン!』
という声がする。
ふり返ると、それは斎藤実首相だ。
警官にとり巻かれた老首相が、渦巻く群衆にもまれながら泳ぐようにして列車に近づこうとしている。だが洪水のような群衆にさえぎられて容易に車窓に近づけない。
斎藤首相は、警官の機転で、となりの寝台車から乗りこみ、やっと握手するといった騒ぎである。後藤(文夫)農相の如きは、せっかく見送りに来ていながら、とうとう言葉も交わせないという混雑ぶりである。
展望車の窓から顔を出して、この歓送ぶりをみていた松岡氏の眼から、ポツリと白いものが落ちた。あの剛腹で、そして有名な負け嫌いな人が泣いているのだ。咫尺《しせき》の間にあってこれをみていた私の目頭も熱くなった。荒木陸相が窓に寄って何か小声でささやくと、太い眉をピリッとひきしめながら無言でうなずく。この瞬間列車は静かに動き出した。かくてわれらの代表松岡洋右氏は、万歳渦巻く東京駅を後に、一路ジュネーブへ向ったのである。
出発前、氏は新聞記者団にその心境を次のように語っている。
『私は正直に是なりと思ったところを邁進《まいしん》する許《ばか》りだ。それはまこと≠セ。まこと≠ナ当ったら国境を越え、民族を超越して納得してくれるに違いない。いわゆる人を相手にせず、天を相手にするのだ。これは相手をみくびることではない。神を相手とすることだ』」
以前にも述べたが、松岡のなかにはアメリカ仕込みの合理主義と、そのために却《かえ》って強化された日本的精神主義が同居している。
彼は後に昭和十六年頃になると、「和《あまない》」の精神を説き、古事記や国学の書を文中に引用するようになるが、その兆はすでにジュネーブ行きの頃から現われている。
有史以来といってよい困難な時期に、重任を負わされた松岡としては、まさに、神に祈るよりほかはなかったであろう。但し、このとき、松岡が、単に神に祈ることしか考えていなかった、と想像するのは、無論早計である。
外交官であり、政治家であった彼は常に大衆を忘れなかった。政府を相手にするよりは、大衆を相手にして、その支持を得た方が、自分の主張を実現し易い、ということを彼は考え、計算もしていたはずである。
三輪公忠『松岡洋右』第六章にある次の記述は、当時の松岡の心境の一端をよく現わしているものとみるべきであろう。
松岡がジュネーブへ「はじめからぶちこわすつもりで行ったとは思われない」とは随員の一人、一等書記官吉沢清次郎氏の回想でもある。とはいえ、満州国の独立、そして日本の正式承認が発せられてしまった後で、松岡の外交手腕に残された選択には何ほどのものがあったであろうか。松岡がもし自分の大衆政治家としての生命を熟慮するのであるならば、その最後のわずかばかりの選択において、大衆うけを狙った行動を選びとるのではなかったろうか。聯盟脱退ということが避けられないものならば、松岡はその際に大衆の敵としてではなく、大衆の英雄として現われるべきであった。そのためには世論が聯盟の横暴をいきどおり、日本の正義に酔うという状況になっていなければならなかった、というふうには考えられないだろうか。
では当時の国民のムードはいかがであったか? というと、歌人吉井勇が昭和七年十二月号の「現代」に「遥《はる》かなる寿府《ジユネーブ》に在る松岡全権に寄す」と題して、次の八首を寄せているので、これによって察することが出来よう。
雄たけびはすれど或る日はふるさとの老|刀自《とじ》に文を書く君
ますらをの松全権の獅子吼《ししく》には赤髯《あかひげ》やつこ怖《お》ぢて伏すべし
松岡の赤誠《まこと》おもへば国民の心は遠く寿府にこそ通へ
あはれかのリ卿の書《ふみ》は盲目《めしひ》どち寄りて書きたる楽書きに似る
聯盟は脱するもよし似非《えせ》蜃気楼《かいやぐら》めく宮にゐむより
ますらをの松全権よ日本のために生きたる雷《いかづち》となれ
ひんがしの大き亜細亜《アジア》の平和をば思ふ心を誰かうたがふ
新しきわが英雄を賛《たた》ふべく歌はあまりに短かかるかな
吉井勇は、「かにかくに祇園《ぎおん》は恋し寝《ぬ》るときも枕の下を水の流るる」という歌や、歌集『酒ほがひ』で有名で、遊蕩《ゆうとう》を好んだ酒仙という定評があるが、一朝事ある≠ニみるや、このような憂国≠フ歌も作っていたのである。彼のなかの日本的なものがそうさせたのであろう。
一方、松岡は出発直前の十月十四日、日比谷公会堂に於ける東京市主催の国際時局講演会で、演説をし、その内容はNHKラジオで全国に中継された。これは松岡の初めての放送体験である。その内容のあらましが、『人と生涯』に出ているが、それを更に要約すると、次のようになる。
今回微力なる私が、この全権を引き受けたについて、安心出来る二つの事情がある。
その一、満州国というものは、すでに生れて、わが政府は国民の総意に立脚して承認を断行したのであるから、聯盟会議において歩む道は一筋しかない。この際、前へ進むよりほかない。戻ることは許されない。
その二、満蒙問題に関しては、我が朝野をあげて真に挙国一致である。この力が私の背後にある以上、私を前に押し出してくれると考えている。
今回のジュネーブ行きの目的は、七十年来のわが外交を清算するにある。清算するといっても、大変な戦争を始めるというわけではない。七十年来の外交に幕を下して、新たに吾々は世界に向って足を踏み出すのである。この点、外交だけではなく、内政においても、あるいは貿易等においても日本人の本然の姿を現わすべきである。
聯盟も世界の平和を目的としており、日本をやっつけようとして議論するのではない。アメリカも時々気にくわぬことを言うけれども、アメリカもまた世界の平和を念願しているものと信じている。そして、日本も勿論《もちろん》である。
満州事変以来の日本の歩みは、東亜全局の保持を確実にする唯一の方法であり、これが世界の平和に貢献する道であると信ずる。
ところが支那や欧米のなかには、そうではないという意見がある。しかし、この喰い違いは時がたてば解決される。ことに東洋人は因果律というものを信じている。因があれば果があるというのは天地間の真理であり、すなわち神の声であって、神のご判断が吾々の道を明白に導いてくれよう。
松岡の一行は、米原で東海道線から北陸線に乗り換え、浦塩・満州里経由シベリア鉄道でジュネーブに向うことになっていた。
彼個人の荷物は五個のトランクで、一国の運命を荷《にな》った全権としては軽装であった。
そのなかには、大谷|光瑞《こうずい》の「養神」という書一幅、正宗の短刀|一口《ひとふり》と好物の柿が入っていた。松岡を激励する多くの血書とともに刀も贈られたが、この正宗がそのなかの一つか、あるいは家伝のものかはわからない。
徳富蘇峰は『孫子評註』一巻を贈った。これは松岡にとって非常に参考になった。
英語の達者な松岡は、また漢文を好み、十月二十三日、敦賀港を出帆した後、次の漢文調の日記をつけている。
「昨夜来、全国各地より激励電報数百通に達す。風強く波高きも、秋空|一碧《いつぺき》、恰《あたか》も日本海大海戦の昔を想起せしむ」
この頃、松岡は日記をつけていた。
十月三十一日、西園寺公よりの「一路平安御成功を祈る」という電報を、シベリア鉄道の車中で受けとっている。
その日松岡の日記には次のように記されている。
「車中にて西園寺公よりの電報に接し感激す。(中略)シベリア鉄道の窓外には耕地限りなく展《ひら》け、満州を髣髴《ほうふつ》せしむ。赤陽沈む処《ところ》特に其《そ》の感を深くし、日露戦役及び今回の事変にて満州の曠野《こうや》に骨を埋めし幾多英霊の上に冥福を祈れり。宿に入り記者団を訪《おとな》い、幽霊話やガンジー論に花を咲かせたり」
十一月三日、一行はモスクワに到着した。日本を発《た》ってから、ちょうど二週間である。
モスクワではソ連政府に歓待された。
「四日(金)曇後晴、午前、外相リトビノフ氏に、午後外務次官カラハンに会う。午後五時、天羽代理大使主催の招宴に臨む。各国外交団、新聞記者等百数十名臨席す。七時半よりカラハン氏の招待により、国立劇場にて歌劇カルメンを見る」
リトビノフはポーランド生れのユダヤ人で一九一七年の十月革命後、長く外務人民委員などの要職を占め、近隣諸国との協調外交を方針としていた。米英との親善に力を尽し、一九三三年(昭和八)のアメリカのソ連承認、三四年の国際聯盟加入、三五年仏ソ条約等の締結に力を尽した。また、日本、ドイツ、イタリアとは集団安全保障を主張した。独ソ戦のときは駐米大使で、アメリカの対ソ援助を働きかけた。一九五一年没。
カラハンはトロツキー派であったが、生き残り、外交官として出世し、一九一九年(大正八)には、カラハン宣言で対中国不平等条約の廃棄を宣言した。一九三七年(昭和十二)陰謀事件にまきこまれ、スターリンに処刑された。
ここに二人の略歴をのせたのは、松岡がモスクワ滞在中、この二人から日ソ不可侵条約を提案されたという史実があるからである。
松岡もまた出国前内田外相と密談して、ソ連とある程度の友好的な条約を結ぶ下ごしらえをして来るよう密命をうけていた。
つまり、聯盟が日本をボイコットした場合、同じく聯盟に入っていないソ連と手を結び、第二(第三?)の勢力を作って、対抗のため勢威を張ろうとしたものらしい。
これは外交上の施策としては、一つの方法であった。しかし、ソ連は共産党の国であるし、日本は天皇制の国である。しかも、松岡はこの先、ジュネーブに大任が待っている。結局、この年の日ソ不可侵条約は九分近くまで話がまとまりかけたが、締結までには至らなかった。日ソ不可侵条約の実際的な締結には、九年後、昭和十六年の松岡訪ソを待たねばならなかったのである。
松岡はこの件に関し、後年、「出来れば、国際聯盟対策として、ジュネーブ到着以前に、日ソ不可侵条約交渉進行中の発表ぐらいにはこぎつけて、聯盟を牽制《けんせい》したかった。しかし、日本政府の内部に、それでは国体が危険になる、などの意見があり、踏んぎりがつかなかった。つまり、スターリンは戦国型≠ナ力で押し、ずばりと決断、実行するのに対し、日本の中央は小役人型≠ナとても勝負にならない。結局、お土産なしで、素手で聯盟に乗りこむこととなってしまった。どうせまとまらぬものなら、こんな芝居は打つべきではなかった」と回想している。
しかし、このとき、松岡がスターリンに対して、異常な興味とともに、一種の親しみを感じたことは事実である。日記にはくわしく出ていないが、この両雄は一脈相通ずるところがあったらしい。とくに、英雄好きの松岡は、ソ連革命の大物スターリンには強く惹《ひ》かれた。そして、このときの会見が、昭和十六年の日ソ不可侵条約の母胎となったことはもちろんである。
一説にはモスクワで、聯盟総会開会一週間延期の報が入ったので、滞在が長びいたとあるが、実際にはその間に、不可侵条約の打ち合せを重ねていたものであろう。
しかし、松岡の日記は、表面上まことにのんびりとしている。
五日(土)カラハン氏と再度会見、極東問題につき懇談す。天羽代理大使の招宴に出席の後、更にカラハン氏の招待により国立劇場に赴く。露国声楽会の主なる人々の演奏にて、さすがにすばらしと思いき。
六日(日)午前中ロシア側の案内にて工場視察、午後は書見及び休養に費せり。
七日(月)午前九時より「赤色広場」にて露国革命十五周年記念観兵式を見る。諸種の点にて敬服すべきもの多し。夜、十時四十分、ワルソウに向う。露都滞在四日間なすべき[#「なすべき」に傍点]をなし(傍点筆者)見るべきを見、遺憾なし。
この観兵式にはスターリンが臨席した。
松岡は後日「ジュネーヴ印象記」のなかで、次のように語っている。
あれを見たら、誰の目にもソビエト・ロシアがいかに国民皆兵主義を徹底させているかがわかる。
精神においても、形式においても国民をあげて、国を守るということに徹底している。
あの観兵式には、ゲー・ペー・ウー(秘密警察)や、工場の職員や学校の先生たちが平服のまま銃をかついでいた。また女の兵隊もいた。但し美人は見当らず、男のようである。しかし、観兵式に民間人が参加するという方式は、わが国でも見習ってよいのではないか。軍隊と国民はもっと密着してよいと思う。
僕等のすぐ近くにスターリン氏が立っていた。やはり際立ったのはスターリン氏で、彼だけが軍服めいた中山服を着てキャップをかぶっていたのが目立った。
彼は写真で見た通り、輪廓《りんかく》のはっきりした真に強いよい顔をしている。あの観兵式には海軍も参加していたが、陸海軍が一緒というのも面白い。
松岡の日記はまだ続いている。
十一月八日(火)ワルソウ着。
九日(水)午前十一時ポーランドのベック外相及び国際聯盟代表者と会見、正午外相官邸に招かる。
世上に言う。「ポーランド人は三人よれば三党派を生ず」と。しかれども、ポーランド国民にして、ひとたび「ダンチヒ」の声を聞かば、たちどころに彼ら三千万国民は一致結束して外敵に当るの習性を有す。(注、ダンチヒは現在の「グダニスク」で、プロシャ以来、ドイツとポーランドの争点で、この時期には自由市となっていたが、ポーランド国民はその失地回復を叫んで止まなかった)恰も満州問題に対する日本国民の心理に似たり。今挙国一致にある母国を思うや切なり。夜十時発ベルリンに向う。
十日(木)天気なれども霧深し、午前八時ベルリン着。ホテル・アドロンに入る。満州国代表|丁士源《ていしげん》氏と会う。ドイツ外相と会談、夜、我が帝国大使官邸の招宴に臨み、多数の在留同胞と懇談、愉快なりき。
松岡は十一月十三日ごろまでベルリンに滞在し、その後、パリを経て、十八日ジュネーブに入ったものと思われるが、その間の日記が欠落しているのでコースはよくわからない。長谷川進一氏(当時時事新報記者)の話では、一旦パリで長岡春一駐仏大使と打ち合せをした後、ジュネーブ入りをしたとなっている。長岡と松岡とは同じ長州人で気が合ったらしい。
あるいは西進して一旦パリに出た後、南下してディジョン経由でジュネーブに入ったのかもしれない。しかし、パリの長岡大使はすでにジュネーブ入りをしていたと思われるので、ミュンヘン経由の方が公算が大であるという見方もある。
十八日からまた日記が始まっている。
十八日(金)午前九時ジュネーブ着。ホテル・メトロポールに入る。十一時半、聯盟事務総長ドラモンド氏訪問、午後三時半英国外相サイモンと会見、午後五時各国記者団とインタビューを為《な》し、ステートメントを発表す。七時より石原大佐の講演を聴き、食後二時まで代表会議を為す。愉快、特筆すべきは、各国記者団中にオレゴン大学の旧友Dosh君あるを発見し、確《かた》き握手と共に乾盃《かんぱい》したることなり。
松岡の一行がジュネーブのレマン湖に近いカルナバン駅に着くと、国際聯盟事務局次長兼政治部長の杉村陽太郎が出迎えた。
杉村陽太郎は、後に駐伊大使を勤めることになるが、難局を迎えてこのときは国際聯盟に入り、事務局長のドラモンド(英国外交官)の補佐として、事務局次長を勤めることになったものである。
杉村は一メートル八十一センチ、百十キロという西郷隆盛を思わせる巨漢で、彼の握手は列国の外交官泣かせであった。うちわのような大きな掌で堅く握りしめられると、大抵の外交官は悲鳴をあげる。おとぼけやの杉村は、
「どうかしましたか?」
と尋ねるが、相手は痛さに声も出ない。こうして、相手の度肝を抜いておいてから、かなり強硬な外交を展開するのである。
彼は少年時代から柔道が強く、東大法学部在学中は、柔道部の主将を勤めていた。当時、慶大在学中の三船久蔵(後年十段)が、講道館の嘉納治五郎門下の逸材として評判が高かった。
あるとき、東大対慶大の対校試合があった。東大の主将は巨漢杉村、慶応は小兵の三船である。杉村が豪快な跳腰《はねごし》にゆくのを、三船は飛鳥のようにとびあがって体をかわす。強引に投げとばすと、空中で一転回してひょいと畳の上に立つ。杉村があきれていると、三船の強烈な捨身投が襲って来る。ついに三度戦って勝負がつかず、引き分けとなったが、この明治末期の熱戦は後世までの語り草となった。また杉村は水泳も達者で、ドーバー海峡を泳いで渡ろうと企画したこともある。
「よくいらっしゃいました全権。今度は大変ですよ」
杉村はそういうと、例によって堅く松岡の掌を握りしめた。
松岡は顔をしかめながら、
「君、飯の方は大丈夫かね」
と、外交とは全然関係のないことを訊《き》いた。今度は滞在が長びくとみて、松岡はあらかじめ、日本食を食べられるように杉村に依頼しておいたのである。
「ああ、日本メシですか、大丈夫です。ちゃんと用意してあります」
杉村は自信たっぷりに答えた。
レマン湖畔のホテル・メトロポールで旅装を解いた松岡は、その夜随員の吉沢書記官や石原大佐らを連れて、杉村の案内でその日本メシ屋に出かけた。
ジュネーブは当時人口十万、レマン湖畔の風光|明媚《めいび》な町である。
ホテル・メトロポールは冒頭にも書いた通り、レマン湖の南岸、イギリス公園の近くにあるが、このホテルの裏から南に坂を登ると、十二世紀に出来たサン・ピエール寺院の塔が見える。そこから先がジュネーブの旧市街で十四世紀創立のジュネーブ大学など中世紀の建築物がみられる。坂の途中に小さな店があり、看板は出ていないので、杉村らはレストラン・シシリーと呼んでいた。
ここに杉村が訓練したイタリア人夫婦がいて、日本料理を作った。イタリア人の作る日本料理など……と松岡らは馬鹿にしていたが、すきやき、天ぷらはもちろんのこと寿司、刺身、茶づけまで作ったというから驚きである。
米はイタリア米と日本米であるが、料理の味つけも日本人向きで上々であるし、どこから運んだのか、鮪《まぐろ》の刺身や中トロの握り鮨《ずし》まで出来たというから、奇異の感に打たれざるを得ない。
「君、この寿司はなかなかうまいね」
と松岡が賞めると、杉村は大きな鼻をうごめかして、
「うまいでしょう、全権。今日あるに備えてわが家で何カ月も特別に訓練したのですよ」
と得意そうに言った。
石原や土橋陸軍中佐、岡野海軍中佐らの武官連もすっかりこの日本レストラン・シシリーが気に入ってしまった。おまけに日本からはるばるとりよせた白鹿、大関などの四斗|樽《だる》や一升|瓶《びん》が山のように積んであった。
酒豪の多い武官連は、夜になると、シシリーに来て、中トロの刺身を肴《さかな》に、日本酒を呑んで気焔《きえん》をあげていたのである。
日本がこの会議を長期戦と考え、まず食糧から確保してかかった気構えが想像出来る。
現在でこそ、パリ、ロンドンには十軒以上もの日本料理店があるが、一九三二年(昭和七)にこれだけの材料をスイスでそろえるには、当事者のなみなみならぬ苦心があったと思われる。しかし、この深慮遠謀のおかげで、日本代表は約四カ月間の滞在期間中、洋食攻めに会うことなく、十分にスタミナを貯えて、列国とわたりあうことが出来たのである。
また、このシシリーのほかに、ホテル・メトロポールのすぐ近くにレストラン兼バー・ババリアがあり、ここではうまいビールとヨーロッパ料理が出たので、随員たちは、シシリーの日本料理にあきると、ババリアに来て生ビールのジョッキを干して気勢をあげるというふうであった。
ババリアには他国の随員や新聞記者たちも多数来訪し、そのなかの絵心のある外人記者が描いた各国代表の漫画がいまも壁に貼《は》ってある。松岡のものもあったが、今は、後に出来た湖岸のパレ・デ・ナシオン(国際聯盟会議場)の資料室に保存されている。
さて、松岡はドラモンドに対し、とりあえず日本の意向を述べ、各国記者団と会見をしたが、どのようなことを述べたのか。「ジュネーヴ印象記」に「ドラモンド総長に述べた意見」が出ているので、それを要約してみると、次のようになる。
「満州国の実在と日本政府がこれに与えた承認は抹殺《まつさつ》することの出来ない事実である。もし、国際聯盟が、日本の明治以来の国是である東亜全局の平和保持の根本義を無視したり、またわが国の威厳を損じたる場合には、日本は聯盟から脱退せざるを得なくなることを承知しておいていただきたい」
これによると、松岡はジュネーブに着く早々、脱退をほのめかしている。これは一見まずい外交技術のように思える。伝家の宝刀≠ヘ遅く抜いた方が効果があるのが普通である。松岡は日本を発つ前、「成る可《べ》く脱退は避ける」と西園寺公とも約束したはずである。
しかし、ここが松岡一流のテクニックとも思えぬこともない。
まず一発かまして、「脱退するぞ」とおどかしておいて、じわじわと聯盟を軟化させ、わが方の主張を認めさせる……彼にはこのような志向があったと考えたいところである。松岡はさらにこう続けている。
「しかし、私は脱退に至るとは考えていない。日本国内には昨秋以来聯盟におけるある種の人々の言動に不満を抱き、速やかに脱退すべしと主張する者もいるが、今日現在、大多数は、わが国の立場や主張を理解してくれるならば、聯盟にとどまって、過去十三年の歴史が確認する通り、聯盟に忠実な態度を持続して、人類の幸福と世界平和に寄与したいと決心している」
松岡はまずドラモンドに一喝をくらわし、次いで軟化政策をとっている。
続いて日記を紹介してみよう。
十九日(土)朝食後、約一時間散策を試む。レマン湖畔の朝の空気心地よし。(中略)午後五時より、ホテル・ド・ラ・ペーで聯盟理事会議長デ・ヴァレラ氏と会見。六時より在寿府日本記者団及び外務省関係者にレセプションあり。一同意気あがり、よく談ず。
松岡は好んでレマン湖畔のイギリス公園やグスタフ・アドルフ湖岸、さらにその東のグランジュ公園やオーヴィヴ公園を散策した。美しい湖と静かな公園に恵まれたジュネーブは、外交官の思索と休養に適した町といえよう。
ジュネーブは元来ガリア人(北イタリア、フランスなどに居住)の町として発展し、紀元前一世紀、ガリア遠征のためこの町を通過したシーザーは、その大著『ガリア戦記』のなかに、この町がすでに繁栄していたことを記している。このためローマの支配を受け、続いて古ブルグンド王国、フランク王国の支配を受けた。有名なカール(カロロ)大帝も八世紀末、この町で集会を開いたことがある。
この後、神聖ローマ帝国、サヴォイ家らの支配を受けるが、十六世紀にはベルンなどとともに連邦を形成して、ほぼ独立を達成している。
ジュネーブの生んだ有名な人物は哲学者のジャン・ジャック・ルソーと、宗教改革運動で知られるカルヴィンである。ローヌ河にかかるモンブラン橋の途中にルソー島があり、思索しているルソーの像がある。カルヴィンの像は旧市街の中心ヌーブ広場にある宗教改革記念碑に、レリーフとなって残っている。
ジュネーブ滞在中、松岡は公園を散歩しながら、ジュネーブの歴史に想いを致し、人類に貢献した偉人の苦心を考えた。
時には長かったシベリア鉄道の旅を想起したりした。現代でもほぼ同じであるが、この時代のシベリア鉄道は、ウラジオストックに発し、ハバロフスク、イルクーツク、トムスク、オムスク、エカテリンブルグなどを通り、二週間近くかかってモスクワに着いたものである。主として石炭を焚《た》いていたが、途中石炭が不足すると機関士が一日位汽車をとめ、森林のなかに入って木を伐り倒し、薪にした、という冗談めいた話も残っているほどである。
松岡は、長かった旅を回想し、あらためて難局に処する方策を練った。彼の考えでは、問題はまだ「脱退するか、しないか」ではなく、どのようにして、「帝国の威信を損じないようにネゴシエーション(相談)するか」であった。彼は、十九、二十日の二日にわたって、理事会兼総会議長のデ・ヴァレラに会っている。デ・ヴァレラは、やせた背の高いアイルランド人であるが、野性的で松岡とはよほど気が合ったらしい。それは、デ・ヴァレラの経歴をみればわかる。
デ・ヴァレラは、一八八二年アメリカ生れで、松岡より二歳年下である。ダブリン大学卒業後、アイルランド独立運動に身を投じ、一九一六年、ダブリンの反乱を指導し、逮捕されたが、他の指導者がほとんど処刑されたなかで、彼はアメリカ生れの理由で処刑を免れ最有力な指導者となった。一九一八年、独立党であるシン・フェーン党の党首に選ばれ、一九年イギリスからの独立を宣言し、初代大統領となった。しかし、その後、彼は左翼的立場をとり、一九二一年アイルランド自由国の誕生に当っては、大統領を辞任し、新政府に対抗した。一九三二年(昭和七)の総選挙に勝って、組閣、アイルランドの首相として国際聯盟に参加、理事会、総会議長を勤めることになった。彼はこの後もアイルランドの指導者として活躍し、三七年には国号をアイレと改称せしめている。国際聯盟議長を勤めること三回。第二次大戦中は中立政策をとり、一九五九年からは大統領となって二期勤めている。
経歴をみてわかるように、この聯盟議長は、反骨精神|旺盛《おうせい》で、松岡とは気が合った。
次は松岡のデ・ヴァレラ評である。
「野性的な彼の人柄にひきずりこまれて、一時間二十分も話しこんでしまった。『サヨナラ』と握手したとたんに、こんな言葉がとび出してしまった。『われわれ日本人は、ただ神のみが裁判し得るものと信じている。裸で神様の前に立っているのだ。われわれは東洋人で、因果の鉄則を信じている。われわれは罪を犯して天国に行こうなどと希望していない。罪を犯したら地獄に落ちるまでだ』。彼はしっかりと僕の手を握りしめて、僕が『天国』と言おうとしたとき、彼も一緒に『天国』と言いかけたので、二人で思わず苦笑した。デ・ヴァレラ君は人間だ。真人間だ。私は案山子《かかし》と話をするのは嫌いだ。血の通ったしかもその血の暖い人と接すると、いつも僕の腹を裁ち割って不用意そのものとなって思いのままに話すのである」
ここで面白いことが二つある。
一つは、国際聯盟が、左翼思想の持主で、反イギリス的人物であるデ・ヴァレラの如き闘士を聯盟の議長に据えた点である。これは、英、仏、伊等植民地を持つ侵略大国≠ノ反対する小国の票がアイルランドの首相を議長に選んだものと類推される。この傾向は、満州国を抱えこもうとする日本に対する小国群の反対意見を醸成するのに役立ったように思われてならない。
いま一つは、松岡がデ・ヴァレラのような左翼で、独立運動の闘士と意気投合したことである。日本代表としては、独立党の党首と親しくなることは避けたいところである。なぜなら、一九二一年独立以前のアイルランドとイギリスの関係は一九三二年満州国となった満州と日本との関係によく似ているからだ。デ・ヴァレラが純粋な満州独立党の志士であったなら、松岡は果して胸襟《きようきん》を開いて語り得たであろうか?
ここに松岡の一つの特殊性格が現われていると筆者は考える。松岡の精神構造には強烈な愛国心とともに、無条件に近い英雄崇拝の志向が潜んでいる。その志向が彼にヒトラーとスターリンという両対極と握手せしめたと考えることは容易である。彼はルーズベルトとの握手も考えていた。このように、主義思想を越えて、英雄を愛好する思想傾向をどのように評価すべきであろうか?
私(筆者)が文学の師と仰ぐ人のなかに、尾崎士郎がある。
彼は三河の出身で、出身地を背景にした『人生劇場』は、多くの人に読まれている。
「関ヶ原百里」という紀行文を書くとき、私は中日新聞文化部記者として、一週間ばかり、彼と旅行をしたことがある。昭和二十七年五月のことで、一種の案内役として同道したのであるが、当時の中日新聞編集局長である亀山巌氏が、文学者志望であった私を、尾崎と接近させた方が将来のプラスになるであろうと判断し、私を同行せしめたものである。
私の郷里は、藤吉郎秀吉が一夜城を建てた墨俣《すのまた》というところで、関ヶ原には中学生時代から何度も行ったことがある。
文藝春秋のA記者を加えた一行は、名古屋を出て大垣で一泊した後、関ヶ原に向った。途中墨俣の私の伯父の家に寄り、松琴亭という料亭で少憩した。ビールを呑んだ後、尾崎士郎は一夜城跡から長良川の向うに見える金華山(旧稲葉山)を遠望すると、
「おい、あの山に登ろう」と言い出した。
金華山は標高三百四十メートルであるが、岩山で、登攀《とうはん》路は急である。山頂に近い七間|櫓《やぐら》のあたりで、尾崎士郎はビールの酔いが出たのか、岩の上に四つん這《ば》いになって坂を登った。山頂に着くと、彼は、
「さっきは地球を両掌でつかんだような気がしたよ」
と負け惜しみを言った。
当時山頂には、現在の復元した城はなく、気象測候所があったのみである。尾崎は美濃側と尾張側をかわりばんこに見て、
「うむ、この山を制すれば、美濃、尾張を制し、京都に上る美濃路、伊勢路をも制することが出来る。斎藤|道三《どうさん》や信長がこの山を欲しがった気持がわかるような気がするな」
としきりにうなずいていた。
関ヶ原の古戦場では、家康が西軍の首実検をした陣馬野のあたりに立って、土地の郷土史家から合戦の説明を聞いた。
渺茫《びようぼう》とした古戦場の跡に立った尾崎士郎は、説明を聞き終った後、私に、
「君、おれは三河の生れだが、徳川家康よりも、石田三成の方が好きだよ」
と言った。
尾崎士郎は『篝火《かがりび》』や『石田三成』という作品で、三成のことを描いている。
尾崎の言葉は微妙なニュアンスを持っている。
家康は多くの術策を弄《ろう》して、西軍のなかに内応軍を作り、関ヶ原の戦いで勝ちを制した。豊家恩顧の福島正則、加藤嘉明、藤堂高虎、黒田長政などが家康の側についたが、三成は残余の宇喜多秀家、大谷|刑部《ぎようぶ》、小西行長、島津義弘らを糾合して決戦を挑み、敗れた。
尾崎の心情はこの三成の孤忠≠ノ憐《あわ》れを感じたものと思われる。
しかし、尾崎は、三成の作戦能力を甘く見ていたわけでは決してなかった。
明治年間、関ヶ原の布陣図を見たドイツ軍参謀本部の将校は、「これは絶対に西軍の勝ちだ」と断言した。
中仙道の西には、石田、島津、小西、宇喜多、大谷、小早川金吾中納言秀秋の軍勢が、家康の本陣を迎撃せんとしている。
家康本隊の左後方に海抜四百十九メートルの南宮山があり、ここには西軍の吉川《きつかわ》広家、毛利秀元の軍勢が山上から形勢を観望している。その東ふもとには、長束《なつか》正家、安国寺|恵瓊《えけい》、長曽我部《ちようそかべ》盛親らの西軍が待機している。
西軍は完全に東軍を包囲しているのであり、各部隊がそれぞれの機能をフルに活用して決戦に持ちこむならば、西軍の勝利は堅かったと思われる。
しかし、事態はドイツ参謀将校の期待を裏切った。
九月十五日朝、両軍が遭遇すると、実際に戦った西軍は、石田、島津、小西、宇喜多、大谷ら正面の軍勢だけである。南宮山上では若い毛利秀元がしきりにはやっていたが、家康の側近と密約をかわしていた叔父の吉川広家はもっぱらこれを抑えた。
また、南宮|山麓《さんろく》の長束、安国寺、長曽我部の三隊は、池田輝政、浅野|幸長《よしなが》らの精鋭に阻まれて、主戦場に到着することは出来なかった。
そして、午後二時の小早川秀秋の裏切りによって大谷の軍が崩れ、勝敗は決したのである。
私は尾崎士郎の発言は、この石田三成の万全を期した作戦的配備と、にもかかわらず味方の裏切りによって敗れた彼の不運に対するものとみたい。彼は単純に三成の孤忠に同情していたものではない。
この尾崎の感想は、松岡洋右の運命にもあてはまる。
少し筆が先にとぶが、松岡は日本が国際聯盟を脱退した後、英米の圧力に抗して満州を確保すべく、ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアと結んだ。そして、満州の背後からの恐怖を除くため、スターリンと手を握った。さらに最近の研究によって、彼はルーズベルトと太平洋上で会談をして、日米会談を行い、日米不戦条約を結ぼうと企画していたことが明らかとなった。
このようにして、彼は力のバランスの上に立って、平和を保ち、満州を日本の友好国として活用しようとして松岡外交≠推しすすめたのである。
しかし、不幸にして松岡外交は挫折《ざせつ》した。何が原因か? 簡単に言えば、近衛総理の独断による日米交渉開始と軍部の暴走による仏印進駐が引き金であったと言えるが、それはなお研究の後、後章に詳述することとしたい。
さて、話が先にとびすぎたが、筆をジュネーブに戻して、松岡が主義主張の違うデ・ヴァレラと意気投合して、そこに不自然さを感じさせないのはなぜか、を考えてみよう。
松岡には、尾崎士郎に似た英雄志向がある。
尾崎士郎は、石田三成のほか、上杉謙信、武田信玄、島津義弘、毛利元就らの英雄を愛し、大西郷を敬愛していたが、これらの英雄には共通点がある。それは、大計略をもちながら、中道にして倒れた点である。この点、彼は天下取りに成功した秀吉や家康よりも前記の諸将に愛憐《あいれん》を感じているのである。そして、さらに言えば、彼は無類の英雄好きであった。戦後のソ連の指導者について語ったとき、彼は「レーニン、スターリンも面白いが、フルシチョフという奴が面白いね」と洩らしていたことがある。
ウクライナの一炭坑労働者から身を起して、ソ連の指導者となったフルシチョフのバイタリティと、その果敢な政策――スターリンの死後、徹底的なスターリン批判を行い、自由陣営と平和共存政策を推進し、米英と部分的核実験停止条約を結んだこと――を高く評価し、かつ、あの魁偉《かいい》な風貌《ふうぼう》に魅力を感じていたものであろう。
松岡洋右にも、尾崎に似た英雄主義のようなものがある。
彼は一国の指導者が好きである。
とくに、強烈な弁論をもって、指導者に成り上ったような人物が好きである。ヒトラーとウマがあった所以《ゆえん》である。但し、戦国時代のような権謀術数を弄するスターリンには、ある程度丸めこまれたようなところがある。合理主義者のように見えて、冷たい現実主義者のルーズベルトと太平洋上で会談してみたら、果してどうであったろうか。直情的な松岡の弁論外交が、どの程度にルーズベルトを動かすことが出来たか、これは是非とも実現してみたい一幕であった。
この会合と演出によって、日米不戦条約が成立したならば、太平洋戦争は、あるいは回避出来たかも知れず、もし開戦するとしても別の形をとったに違いないと推測せざるを得ない。
『人と生涯』によれば松岡は、デ・ヴァレラの人格を賞めた後、次のように、「外交は嫌いだ」と彼一流の感想を述べている。
「私は外交は嫌いだ。世界マイナス外交となったら、よほど世界は住みよくなるであろう」と私はヴァレラ氏に言った。この外交とは、ややこしい回りくどい行き方にあらざれば、偽善の白粉《おしろい》を塗った外交をさすのである。ほんとうに人類の平和と幸福をもたらさんとする正義の立ち回りを外交というなら、私も嫌いではないが、そういう意味の真剣な外交が、このジュネーブにおいて、果して何パーセント行われているであろうか?
さて、ジュネーブ着後の松岡の日記を今少しく追ってみよう。
十一月二十一日(月)早起、斎戒|沐浴《もくよく》、遥かに日東の天を拝して、聖上陛下の万歳と御《み》稜威《いつ》無疆《むきよう》を祈る。
十時十五分、ベルビュー・ホテルにおいて伊国代表アロイージ氏と面見、十一時理事会にのぞみ一時間演説す。会議後、ホテル・ベルーグにおいてボンクール仏代表と会見。
竹内夏積編著『松岡全権大演説集』によると、この日の松岡はかなり緊張していたらしい。
「松岡は議長がある死亡した代表への弔辞を述べている間に煙草の火をつけた。そして、体をやや上向き勝ちにして、煙を輪に吹いている。やはり緊張をまぎらわせようとしているのだな、と思われる。場内につめかけている数百人の聴衆、外交官、新聞記者、そのほとんど三分の一が婦人、此《こ》の頃流行の赤い服を着ているのが会場を色っぽく見せる」
午前十一時十五分、国際聯盟における松岡の最初の演説が行われた。
彼は緊張しながらも落ち着いて、次のように英語で演説した。外交官松岡の国際|檜《ひのき》舞台への初登場である。
「最初に警告しておきたい。リットン調査団は、日本国民に対して、ワシントン会議時代の圧迫的態度を強制しようとしているものではなかろうか。そうでなければ幸いである。
次に中国の現状について述べたい。承認された国家の信任の下にある外国全権公使の生命が、各自国の軍隊の駐屯によって守護されねばならないというのは、実に異常な状態ではないだろうか。世界中に、どこにかかる状態が存在しているであろうか?
国民政府は上下を通じて尖鋭《せんえい》な排外感情が滲透《しんとう》しており、しかも政府は青少年の心臓に外国人に対する憎悪の念を注入することに孜々《しし》としてこれ努めている。
しかし、日本にとって、満州は軍事上、また経済上、重大な生命線である。(注、前述したが、生命線はライフ・ラインすなわち命綱≠ニいうように英語では翻訳された)
従って、日本は同じ立場におかれた西洋列国がなし得るだけの忍耐を持続して来た。しかし、堪忍袋の緒が切れたのが、昨年九月十八日の事件である。
これに対して調査団が、『当夜の日本軍隊の軍事行動は適法の自衛手段と認めることは出来ない』と言っていることには同意出来ない。
また、『日本はなぜ、満州事変を国際聯盟に提訴しなかったか?』という質問に対しては、次のように答えた。
第一、日本の国民的感情は、満州問題には外部からの介入を許さないこと。
第二、もし、我々がこの事件を聯盟に持ち出すならば、聯盟の手続き上に始終起り勝ちな遅滞のために、日本の満州における優越せる地位がその間に重大な損害を受けることとなるであろう。
第三、日本人と西洋人との気質の間には、相当差異がある。西洋人は事態が尖鋭化せぬうちに論議し始めるが、日本人はかなり気短かに問題解決の希望を固執する傾向がある。
第四、破壊点が予期しない点に至ったとき、事件が次々と、自然的な進路をとって行ったのだ。
次に報告書が『満州は中国の一部である』と述べているのには承服出来ない。満州は歴史的に明らかに清朝のクラウン・ランド(天領)すなわち、世襲的な属領で、革命によって北京の清朝政府が崩壊しても、満州が国民党の版図《はんと》に組み入れられるべき正当な理由は見出《みいだ》せない。
また、報告書が『満州を原状に復帰せしめるということは極めて不適当な解決策であろう』といっている点には同意するが、『現制度の支持、承認もまた同様に不当である』といっている点には、我々は全く不賛成であり、二つの解決策中、我々の方策を無視するならば、おそらく全極東の事態をして重大な紛乱の中に投ずるであろう、ことを警告したい」
次に、松岡は、満州国独立に至った動きについて解説し、次のように了解を求めた。
「満州に起った事件に関し、事ごとに日本に責を負わすのは妥当ではない。我々はあの変革を事前に探知することが出来なかった。もし、支那が全体として、あるいは満州一国だけでも純粋に自治されていたならば、日本人の権益と生命とは遅々として進まぬ破壊的努力に労せしめられずにすんだであろう。変革も起らなかったはずである。日本は自然発生的に自衛行動をとった。しかも我々がそれをとったとき、すでに独立運動は自然発生的に発展していたのである」
ここで彼はナバリノ事件によるギリシャの独立を例に引いた。
「この例は自衛上の行動の影響を局限することのいかに困難であるかを物語っている。また、我々は、一九一六年(大正五)から一七年にかけて、米国がメキシコに遠征軍を送った事実を想起する。その時代のメキシコ政府には、米国人居留民の生命を保護する能力がなかったからである。満州事変の場合は、時の官憲自らが反日運動を現実に煽動《せんどう》したものである。我々はその結果に対して責任を負うわけにはゆかない。支那と張学良の独立政府自らが責任を負うべきである。それは彼らの行為であって、断じて我々の為したことではない。それは我々が再三、執拗《しつよう》に警告したにもかかわらず、それにさからって為されたのである。日本は決して聯盟規約にも、九カ国条約にも、またパリ不戦条約にも違反するものではないのである」
ここで彼の第一次演説は終っている。
演説中に出て来た九カ国条約、パリ不戦条約について簡単に説明すべきであるが、その前に当日の聯盟理事会の会場の状況について説明しておこう。
会場は冒頭に述べたように、筆者が訪問した現在パレ・ウィルソンとなっているホテルである。
正面の階段を登り、左に突き当った大きな部屋で、中に入ると右手のガラス窓から、レマン湖の静かな水面が見えた。
この日、レマン湖の湖面には淡い霧があった。霧のけむる向うの空に、かすかにモンブランに連なるアルプスの山影が見えた。
松岡が自動車で会場に着いたのが十一時五分前、続いて顧維鈞《こいきん》が同二分前に到着している。
松岡は長岡駐仏大使に案内されて所定の席に着いた。
議場はテーブルがコの字型に並べてあり、正面メーンテーブルの中央に議長のデ・ヴァレラ(アイルランド首相)、右にボンクール(仏)、アロイージ(伊)、左にドラモンド事務総長(英)、サイモン(英)、その次の角の席に松岡、ここから折れ曲ったテーブルにベック(ポーランド)、ブアラドラー(ノルウェー)、ギャレー(パナマ)、バニー(メキシコ)、そして、アロイージの右の角、つまり松岡と対称的な席にはフォン・ノイラート(独)、折れ曲って、ブルエッタ(スペイン)、マトス(グアテマラ)、顧維鈞(中国)、ベネシュ(チェコ)となっていた。
また、デ・ヴァレラ議長の後方には事務局次長の杉村陽太郎、松岡の後方には長岡駐仏大使、佐藤尚武駐ベルギー大使、沢田節蔵公使(帝国聯盟事務局長)、バニーの後に建川美次陸軍中将、そして、顧維鈞の後方には中国の顔恵慶《がんけいけい》、郭泰祺《かくたいき》が席を占めて、会の進行をみつめていた。コの字型の中央に通訳席があって、通常英仏語の話せる四人の通訳が着席し、その後方に新聞記者と一般聴衆席があった。
この配置によると、松岡はデ・ヴァレラ議長に近く、顧維鈞とは斜向《はすむか》いににらみ合う態勢となっている。
『人間松岡の全貌』によると、松岡は外交官らしく緊張のうちにもユーモアをさしはさむことを忘れなかったらしい。
「日本が満州を意のままに動かしたといわれるが、九月十八日の満州事変|勃発《ぼつぱつ》以来、三カ月やそこらで、ホンの少数の日本人が大きな満州一国をコントロールして、旧政権をひっくり返す大事業が出来てたまるものでしょうか。そんな想像は、あまりにも、日本人に対するお世辞にすぎます」
などと言って、会場に微笑をさそうことも忘れなかった。
さて、松岡の次には、顧維鈞が指名されて演説を行った。内容は例によって、「日本は満州に事変を起し、ついに満州国を作った。これは、中国固有領土の侵略である」という内容のものである。
顧はアメリカ生活が長く、英語も達者であったが、この日の演説は早口で、落ちつきを失った声なので、とおりが悪かった。
顧は次の点を強調した。
「支那の内政状態が悪いと松岡氏は言うが、そのために、日本がフランスとドイツを併せたくらいの支那の大領土を占領しなければならぬほどであるとは考えられない。日本は自衛というが、事前に軍事行動を計画整備していたのであるから、自衛権行使とは言えない。結論として、聯盟がこれ以上|逡巡《しゆんじゆん》することなく行動せんことを求める。ことは支那の存亡にかかわるのみならず、聯盟の威信にもかかわる大事である」
顧の演説は予想通りであったので松岡は微笑しながらこれを聞いていたが、終ると席を立って、ベルサイユ会議以来顔なじみの顧に握手を求め、
「Nice speech, congratulations(よい出来でした。おめでとう)」
とあいさつした。
これに関して、松岡の感想が「ジュネーヴ印象記」に出ているが、その前に、松岡が、「日本は九カ国条約にも、パリ不戦条約にも違反していない」と述べた、この二つの条約について説明しておこう。
まず、九カ国条約であるが、これは正しくは、「中国に関する九カ国間の条約」と呼ばれる。一九二二年(大正十一)ワシントン軍縮会議が開かれたとき、日、米、英、仏、伊、中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルの九カ国の代表は次の内容の条約に調印した。内容は中国の主権、独立、領土などを尊重しつつ、中国における他国への門戸開放、機会均等主義を実現すべし、ということが眼目である。これは主として、中国における利権獲得で出遅れて来たアメリカが、以前から主張して来た門戸開放を明文化したもので、アメリカの利益のために調印された条約といっても過言ではない。アメリカはこの条約によって、とくに第一次大戦中中国に進出し、二十一カ条要求などをつきつけた日本の勢力を阻止しようと試みた。アメリカはこの条約の調印によって、中国進出における主導的立場に立つのであるが、このために、先に中国における日本の特殊権益を認めた石井=ランシング協定は無効に近くなり、一九二三年廃棄された。満州事変以後、日本の中国侵略に対するアメリカの抗議は、この九カ国条約をタテにとって行われ、日本政府は一九三八年(昭和十三)この条約を否認したが、戦後の極東軍事裁判においては、日本の指導者がこの条約に違反したというのが、有力な訴因の一つとなっている。
ついでであるから、石井=ランシング協定についても解説を加えておこう。
この協定は一九一七年(大正六)ワシントンにおいて、日本の駐米特命全権大使石井菊次郎とアメリカ国防長官ロバート・ランシングとの間に交わされた覚書である。
石井菊次郎は、松岡が全権に指名される前、下馬評にのぼった外務省畑のベテランである。一八六六年生れで、松岡よりは十四年の先輩、明治三十三年義和団の変のときは、領事として北京城に立て籠《こも》り、後、外務次官、フランス大使をへて、一九一五年(大正四)大隈内閣の外相となり、対支二十一カ条要求を中国につきつけた。駐米大使の後、国際聯盟、軍縮会議の代表となり、一九四五年(昭和二十)戦災のため七十九歳で死亡した。
さて、石井=ランシング協定を語るには、その背景を語らねばならない。この年四月、アメリカはUボートのルシタニア号撃沈とともに、対独宣戦布告を行い、ヨーロッパの大戦の仲間入りをした。この間、日本は列国がヨーロッパの大戦に深入りしているのをよいことに、支那における利益を高めつつあった。支那市場に野心を持つアメリカとしては日本に釘《くぎ》をさす必要があった。そこでランシングの方から会談をもちかけて来たのである。アメリカはこの席上、「日米両国が中国の領土保全、門戸開放、機会均等の諸原則を守ること」を提案したが、対支強硬派の石井は、そのかわり、「アメリカが満州における日本の特殊権益を認めること」を約束せしめ、覚書をとり交わした。これが五年後の九カ国条約によって空文と化するのである。これは、第一次大戦が終ると間もなく、戦争中に増大した日本の軍事力と経済力に脅威を感じたアメリカが、日本を牽制《けんせい》した結果であろう。
さて、いま一つのパリ不戦条約であるが、これも正式には「ケロッグ=ブリアン条約」と呼ばれる。
一九二七年(昭和二)フランス外相は、アメリカに対して、二カ国不戦条約を提唱した。ブリアンは新聞記者、弁護士の出身で、首相十一回、外相十回を歴任したフランスの大物政治家であり、後に国際聯盟理事会議長を勤め、ノーベル平和賞を受けた。松岡の宿舎ホテル・メトロポールに近いレストラン・ババリアには、太い髭《ひげ》を生やしたブリアンの漫画が何枚も出ている。ブリアンがなぜ仲の悪くもないアメリカに二カ国間の不戦条約を提案したのか。おそらく、アメリカとのなれあいで、この条約に世界を参加させ、復讐心《ふくしゆうしん》に燃えるドイツ復興の芽を摘もうとしたものではないかと推定される。果せるかな、アメリカの国務長官フランク・ケロッグは、この不戦条約を世界的に拡大することを提案し、二八年(昭和三)八月、パリにおいて、次の十五カ国の間に、いかなる場合においても国策の具としての戦争を禁ずる条約に調印をせしめることに成功した。
アメリカ合衆国、アイルランド、イギリス、イタリア、インド、オーストラリア、カナダ、チェコスロバキア、ドイツ、日本、ニュージーランド、フランス、ベルギー、ポーランド、南アフリカ。
この条約加盟国はその後六十二カ国に膨脹したが、違反国に対する制裁の手段を持たなかったため、イタリア、日本、ドイツ等がエチオピア、満州、ポーランド等で武力を行使した際、何らの拘束力を持たなかった。但し、ケロッグはこの条約締結の功でブリアンと同じくノーベル平和賞をもらっている。ノーベル平和賞の意義があいまいなことは、戦後に始まったことではないらしい。
さて、条約の解説の終ったところで、本題に戻ろう。松岡は「ジュネーヴ印象記」で顧維鈞の演説に関連して次のようなことを述べている。
「ジュネーブまで来て兄弟分であるはずの東洋人同士が、欧米人にとり囲まれながら、論争しなければならないのは残念だ。一九一九年のパリ・ベルサイユ会議のときも、支那側が、顧維鈞を代表として山東出兵問題をタテにとり、盛んに日本を攻撃して来た。私は情報部長の役であったが、『パリの真ん中で日本と支那がけんかをするのは、東洋人のすべきことではない』として、応じなかった。日本の新聞記者たちは、『なぜ堂々と応戦しないのか』と私をなじるのだが、『私は東洋民族を愛する』といってやはり応じなかった。ところが、二カ月もすると、支那側は疲れて沈黙してしまった。そこで新聞記者の諸君も、やっと『松岡さんの方針でよかったのだ』と、私の考え方を認めてくれた。その私が、十四年後、またこのジュネーブで顧維鈞を代表とする支那全権と太刀打ちせねばならぬということは、感慨無量というよりは情ない気持が先に立った。
この私の真情は、旧友である顧君もまた顔恵慶君もよく知っているはずである。とくに顔君は親しい外人に向い、『松岡とは友達である。日支人が争うということは根本的に間違っている』と述べたそうである。正にそうであろう。私の考え方を理解してくれる人が隣邦にもいるということは心強い。争いについては日本人も反省しなければならぬが、支那人も猛省してもらいたい。
私は理事会の初日に、顧君が演説を終ると彼の席に足を運び『よく出来ました。お祝いします』といって握手した。これは決して偽善ではない。たとい二人の間で国の為《ため》に激論をしようが、旧知としての個人関係、つき合いはつきあいである。おかしな話かも知れぬが、顧君でも顔君でも、どうかウマク演説をやってくれればよいがと、個人としての松岡は思っている。人情に国境はない。日本人というものは国家観念も強いが、人間としては国境を忘れた純情を持っているのである。
かつて私の旧友で有名な一英人記者が私に告げたことがある。この人は欧州大戦後半期において、徹底的に日本を攻撃した人である。そして戦後には心境一転、日本支持に変った人であるが、この人はこう言った。
『日本人にはホトホト感心した。私があれほど猛烈に日本攻撃をしていた間でも、日本人の友人は一人も失わなかった。個人としての日本人と、国家としての日本人は截然《せつぜん》と区別することが出来る。実に奇妙だ。感心だ。これは日本人の特殊性であるのだろう』
この大和民族の純情を真に中国青年が理解し、これを味わい得るならば、日支関係はすっかり変った場面を展開するであろう。無論、大和民族にも短所がないとはいわない。また漢民族にも幾多の短所がある。しかし、お互いに長所をよく見ることにしようではないか。そんな考えがしきりに私の頭の中を去来する」
この松岡の感想は、松岡の精神構造をよく現わしている。「顧君でも顔君でも、どうかウマク演説をやってくれればよいがと、個人としての松岡は思っている」と彼は書いているが、このあたりに、松岡の武士道愛好的な友情という観念が現われている。やや大袈裟《おおげさ》に言えば、英雄よく英雄を知る≠ニいうような心境に彼は憧《あこが》れていたのである。
この感想には松岡の東洋ならびに東洋人の友情を愛する気持がよく現われており、また、彼の愛国心というものが素朴な形で現われているが、外交官としては単純率直という感じも免れ得ない。日露戦争後、日本と支那との間には関東州の租借、満鉄の経営、その付属地の租借などの条約が調印されているが、日本が満州国をつくり、その経営を中国に認めさせるという条項は入っていない。エネルギーと大勢の赴くところではあるが、いかに日本が満人はツングースで、満州は清朝のクラウン・ランドであると主張しても、辛亥革命以降、曲折を経て、清朝の全領土を引き継いだと考えている国民政府が納得する可能性はほとんどあるまい。
それを知っていて松岡は顧や顔と腹芸≠ノよって気脈を通じ、妥結点を求めようとしていたかに見える。彼は何物か見えぬ力に踊らされていたのではないか。
ここまでの研究で、筆者によくわからないのは、松岡は果して、関東軍が張作霖を暗殺し、柳条湖の鉄道を爆破して満州事変を起した事実を知っていたか、という問題である。
もし、知っていて国際聯盟で強弁したとするならば、彼は愛国者であるとともに、老練な外交官であるといえよう。しかし、事実を知らず、すべては支那側の策謀と信じて、ジュネーブで奮闘したとしたならば、彼は関東軍の実情を知る人々から一種のピエロと見られても致し方あるまい。
『人と生涯』の著者、荻原極氏は知っていたであろう≠ニ推察している。松岡の直接の証言はないが、松岡は昭和八年十一月十一日、富山高等学校における講演「青年と語る」で、次のように述べている。
「満州国は我が国にとって生命線であり、非常に重大な交渉を持っているのであるが、国際関係において更に重大なものは、帝国の信義≠ニいうことである。(中略)第一、国際聯盟に加入したとき、『如何《いか》なる事があっても兵力は使わぬ』と言ってはいないか。満州事変では『自衛上やむを得ぬ』といって弁明している。これは詭弁《きべん》ではないが、しかしともかく兵力を使っていることは事実だ。また何度、我が兵を早く鉄道付属地に引っこめると言ったか。また、『チチハルや錦州へは行きませぬ』と言っていて行ってしまった。欧米で我が国を嘘つきだと言う人がありとするも、それは全然いわれのないことと、一概に言い得るであろうか」
松岡のこの演説は、表面上、その責任は政府、とりわけ外交にあるようにみえるが、よく読んでみると、日本の国際信義を失墜させた「元凶」、すなわち、日本政府の外交をそうさせた軍部を非難したものとみるべきではなかろうか。
前にも述べたが、戦後、極東国際軍事裁判の被告として指名された松岡を指して、軍部と共謀して満州、中国を侵略したとする、アメリカの検察官や日本の文化人がいたように思うが、それは必ずしも当っていない。松岡は満州の鉄道経営には力を入れたが、一連の軍事的占領には無縁であったと筆者はみたい。
しかし松岡は、張作霖の暗殺も、柳条湖の爆破も関東軍の仕業であるということをほぼ知っていて、聯盟理事会にのぞんだ、というのが、荻原氏と筆者の一致した観測である。
張爆殺のとき、松岡は大連にいてすぐ奉天にとんだし、柳条湖の爆破のとき松岡は日本にいたが、満鉄理事は彼の子分の木村鋭市で、逐一電報で事情を報告している。松岡が知らないはずはない。
松岡は、関東軍が、陰謀によって、満人に罪をきせながら満州を手に入れつつある事実を知り、内心で憤慨しつつ、ジュネーブの会議にのぞんだ。列国の代表を前にして日本の無罪を説く彼の心中は苦渋に満ちていたに違いない。前にも書いたが彼はもともと軍事力による侵略占領には反対である。弁論、外交によって、友好|裡《り》に相互の利益を開発してゆくのが彼の理想である。
彼は軍部の独走に歯噛《はが》みしながら、日本を発《た》ち、ジュネーブに向った。しかし、国策を背負った全権であれば、レマン湖畔の会場で、関東軍の陰謀を暴露することは不可能であった。彼は愛国者として、軍部の陰謀に対する怒りをおさえつつ、日本の対満政策擁護の熱弁をふるったのである。そのような意味でならば、彼に国士≠フ称号を奉っても、誤りではなかろう。
十一月二十一日、聯盟における処女演説の後、翌二十二日(火)松岡は朝、イギリス公園のあたりを散歩した。珍しく柿の木があり、柿の実が赤く色づいていたので、柿好きの松岡は、御殿場の別荘で色づいているであろう柿畑のことを連想した。
この日は、理事会はなくソ連、アメリカ、イギリスの新聞記者と会見し、日本の立場を力説した。
翌二十三日は午後三時半から理事会が開かれた。この日は終日曇天で、レマン湖の湖面に鈍色《にびいろ》の雲が影を落し、日支の関係を象徴しているかのようであった。
松岡は一昨日行われた顧維鈞の日本侵略論に全面的に反駁《はんばく》を加えた。
この日、デ・ヴァレラ議長はイギリス代表の要請によって、リットン卿の報告説明を求めようとしたが、松岡が発言を求めて、
「リットン調査委員の報告はすでに終っており、報告の末尾にも明らかに『これで我々の責任は終った』と書いてある。これ以上の発言は無用ではないか」
と語気を強めたので、議長はこの提言を取り消した。
続いて、松岡は支那側が日本を攻撃する大きな材料とした「田中義一上奏文」という怪文書の真偽について論駁した。
田中上奏文は、昭和二年六月、当時の外務政務次官森恪が画策して行われた東方会議が元となって、支那側が世に出した怪文書である。すなわち、日本が満州における日本人の生命財産及び国家権益を守るため、また同地の治安維持のため、必要とあらば武力を用いることを辞せず、という主題のもとに、田中首相兼外相が訓示した「対支政策綱領」が支那側に洩れたので、支那側は、日本の首相が満州を武力占領すべく秘密の上奏文を天皇に奉呈したとして、その英文版を北京において作成、世界中にばらまいたものである。
この上奏文には尾ひれがついて、アメリカ版には「支那及びアメリカ合衆国及び残余の全世界を征服せんとする日本の秘密計画」として宣伝流布されるに至った。
松岡は、『動く満蒙』のなかで、次のように述べている。
「この上奏文なるものの原本は、北京に居住している某国人が偽造したもので、確実な証拠さえあると言われているが、私は、あるいは日本人のある者が金もうけのために偽造して、支那人に高い値段で売りつけたのであって、これを買いとった支那人は、本物と信じており、またその人が今日その虚偽なることを悟っても、自らその虚偽なることを告白し得ない破目に陥っているのではあるまいか、と想像せられる節がないでもない」
田中上奏文は、その後の日本の対満政策と類似しているので、極東裁判でもとりあげられたが、真偽のほどは今もって不明である。
この間の事情にくわしいNという人の説によると、松岡はこの「田中上奏文」を流した張本人を知っており、それはA紙の記者竹内克巳(号夏積)ではないかという。竹内は『松岡全権大演説集』の編者であるが、金のいることがあって、「田中上奏文」なるものを秘密文書≠ニして作成し、北京の中国側要人にさも重要文書の如くにみせかけ、金と引き替えにした、という説である。もちろん、仮説であって、竹内氏の名誉を汚したならば、前もって謝罪しておく。ただ、竹内という人は、一介の新聞記者ではなく、大陸浪人的な風格をもっており、その故に松岡に愛されていた。かりに「田中上奏文」の作成者が竹内であっても、松岡がこれを庇《かば》うのは当然であったろう。
十一月二十三日午後の聯盟理事会演説において、松岡は「田中上奏文」が捏造《ねつぞう》であることを攻撃したが、その要旨は次のようなものである。
「田中大将の上奏文なるものは、日本の政府関係において作成された事実はない。それはこの形式をみればわかる。この文章は、その形式と用語において、陛下への上奏文としての体裁をなしていない。やや事情にくわしい日本人ならば、この上奏文が偽作であることを看破出来るはずである。私はかつて総理であった田中大将とは親密な関係にあったので、真相をよく承知している。
これが公布されてから三年後の一九三〇年(昭和五)四月、南京国民政府の外交総長であった王正廷氏が、この偽文の流布によって生ずる弊害を防止するため、適当な手段を講ずる旨を、当時の駐支公使に誓約し、また奉天の支那側交渉員及び天津市長は、それぞれ同地の日本側総領事に同じ意味の誓約書を手渡している。それを今ごろ、国際聯盟でむし返すとは、いかに支那側上層部の統制がとれていないかを示すものにほかならない。
また、この上奏文中には不合理な記述がある。すなわち『九カ国条約が満蒙における軍事行動を制限するという内容で一九二二年(大正十一)二月六日調印されたとき、日本の世論は沸き返り、大正天皇はこの条約を破棄せんとして、元老山県公爵を初め、陸海軍首脳部を一堂に集めた』となっているが、山県公は同年二月一日すでに逝去している。どうして、大正天皇が死者である山県公を呼ぶことが出来たのか?
また、この文章には、田中大将が欧米を視察しての帰路上海で狙撃《そげき》されたが助かった、と書いてあるが、田中大将がこの時期に欧米を視察した事実はない。彼が狙撃されたのは、特使としてマニラに赴き、その帰途上海においてである。
また、英文の『田中上奏文』は『フィリピンのアメリカ・アジア艦隊と対馬海峡は一投石の距離にある』といって危機感を強調しているが、対馬とマニラの間には、二千五百キロの海が拡がっている。このパンフレットの作成者にとっては、二千五百キロが一投石の近距離であるのか?
また、この文中には、かつて関東州租借地の総督であった福島安正大将の息女が日本の勢力を伸ばすため、蒙古王の顧問として蒙古の奥地に派遣された、と書いてある。しかし、当時、福島大将の息女は十五歳で学習院女子部在学中であった。蒙古王の顧問になるのは不可能ではないか。
さらに、『名古屋市におかれた日本陸軍の一師団は、吉会線を経て満州に輸送される』と、既定の方針のように書かれてあるが、吉会線は現在も開通していない。(一部が昭和八年完成)鉄道敷設計画について日支間に時折、交渉がもたれる程度である。
他にも例をひけばきりがないが、要するにこの日本の領土的野心を暴露したという『田中上奏文』は、幼稚な誤りと、軽率な推測によって書かれた価値のない雑文にすぎない」
このように、「田中上奏文」を論破した松岡は、さらに、「露支密約」に言及して、支那側の態度を非難した。
「露支密約」は、明治二十七、八年の日清戦争の直後、李鴻章が、ロシアの代表ロバノフと結んだもので、その内容はまさに密約であって、これが暴露されたのは、二十五年後のワシントン会議のときであった。
実は密約の内容は英字紙「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」によってスクープされていたが、故あって、ワシントン会議のときまで伏せられていた。
そして、その内容を知って、心ある日本人は憤激した。このような密約が実在したのならば、日露戦争に勝ったとき、支那に対して満州全土を要求してもよかったのだと悲憤|慷慨《こうがい》する志士≠烽「た。
しからば、密約の内容とは何か。
一、ロシアと清国は、日本を共同の敵とする。
二、ロシアが日本と戦争状態に陥った場合、清国は陸海軍の全力をあげてロシアを助け、ロシアにその港湾の自由使用を許す。
三、清国は、黒竜江、吉林二省を通過して、ウラジオストックに至る鉄道の敷設をロシアに許可する。
以上であって、これは完全な軍事同盟である。しからば、日本がロシアを打ち破ったとき、その同盟国である清国に対して、満州全土の支配権を要求しても過当ではない、というのが、大陸進出論者の言い分であった。
松岡は、この「露支密約」について、支那の態度を論難した。松岡の演説によると、支那側はこの密約を発表する意志はなかった。しかし、大正十一年、ワシントン会議の際、アメリカ政府の要請によってその全貌を発表し、世界の政界を驚かせた。そして、くしくも、このとき要旨の発表にあたったのが、当時中華民国の駐米大使であった顧維鈞であった。
この密約は、後にソビエト政府によって、全文が公開され、先に顧維鈞によって公表されたものには、脱落があったことが明らかにされた。
松岡は言う。
「日本に対する攻勢的なこの密約について、ある支那の要人は、これを防衛的条約であると説明する。しかし、従来の同盟条約について、どの当事者が自ら、この条約は他国を攻撃するためのものだと告白しているか。
帝政ロシアがあのように迅速に満州に侵入して鉄道を旅順にまで延長し、日本を危うくさせたのは、あの密約のおかげである。日本は戦うよりほかなかった。そして、日本は二十三万人の死傷者(内、死者八万)戦費十八億円という犠牲を払って、満州をロシアから取り戻したのである。我々はもっと支那から感謝されてもよい。日本人は未《いま》だにあの厖大《ぼうだい》な戦費を皆済出来ないでいる。それは満州をロシアから取り返して、再び支那に還付してしまったからである。それを考えれば、現在日本が満州で得ている権益は、決して過大なものとは言えない。
また、先の密約がワシントンで暴露されたとき、日本は支那の行為に対して、何の行動も起さなかった。今日でも遅くはない。支那が何らかの形で、あの密約に対する賠償を実行する意志があるのならうけたまわろう。
議長閣下――
余をして率直にいわしむるならば、ロシアをして、満州に侵入させたものが、ほかならぬ支那自身であったという一事を知っていたならば、わが日本政府は、日露戦勝の後、疑いもなく満州全土の譲渡を要求していたであろう。従って、今日に至って、満州問題で論議をかもす必要もなかったのではないか。
このような歴史的事実を無視して、日本を単なる侵略者として追い出そうとする張学良らの行為は、あまりにも忘恩の行為としかうつらない。我々は、近い将来において、再びかの李鴻章の如き人物が出現して、日本を危うくするような密約を締結する恐れがないとは断言出来ないのである」
松岡の「田中上奏文」論破と「露支密約」攻撃とは、後の「十字架上の日本」と並ぶ熱弁であった。
続いて、日記を披露しておこう。
十一月二十四日(木)午前中、ノーマン・デビス氏(米オブザーバー)来訪。三時半より会議。昨日の続きなり。
二十五日(金)本日の会議は、言葉の交換に面白き節あり、英外相サイモン氏も余の肩を叩いて笑う。夜は和服をつけ、付近の日本食(レストラン・シシリー)に出かけたり。(注、松岡は時々、緊張をほぐすため、例のイタリア人が経営しているレストランに赴き、日本酒を呑み、寿司、天ぷらなどを食していた。この日は理事会の討議が一段落したのでくつろいだものと思われる)
二十七日(日)久方ぶりに雨。傘をさして一時間あまり、湖辺を逍遥《しようよう》す、神気|頗《すこぶ》る爽快《そうかい》なり。十時半より会議。四時、パラマウント・サウンドニュース及び、ムーヴィ・トーキーの依頼により、トーキーを撮る。
二十八日(月)天気なれど霧深し。(注、初冬のレマン湖は霧が深かった。松岡は湖畔から霧のけむる湖面を眺め、シベリア鉄道のなかで読んだ『孫子』の言葉を反芻《はんすう》した。「敵を知り、己を知らば百戦あやうからず」その敵は何を考えているのか……。松岡は「ジュネーヴ印象記」のなかに次の言葉を残している。「霞ヶ関のある人々は、エドワード・グレー卿の『大英帝国二十五年外交史』を読んで随喜の涙を流している。わが国民とまるで性情を異にする欧州諸国の外交史などを後生大事に読んでいる方も多いようだ。わが国外交の振るわざる一面は少なくともここにある。孫子でも少しく読まれるとよかろう」)
また、松岡は、自室に帰ると、机の前にかけてある額に見入った。日本出発に際して、大谷光瑞師が贈ってくれた「養神」の扁額《へんがく》であった。
こうして、松岡は東洋的教養を噛みしめながら、欧米の大物外交官に対する秘策を練っていたのである。
二十八日(続)十一時より理事会出席、午後二時半より、部内の会議を開く。午後四時ドイツ、ターゲス・ツァイトゥングの外交部長ウィルヘルム・ヘエク氏に会う。在ベルリン、満鉄社員坂本直道君の紹介なり。
松岡の日記はなお続いているが、ここでちょっと筆を返して、第一次理事会最終日の二十五日までの会場の様子をふり返ってみよう。
まず、二十四日、この日は朝から雨であった。
満州国とリットン報告の問題は理事会から総会に付託する傾向が決定的になったので、理事会の空気もやや小康をとり戻した観があるが、松岡はなおも緊張裡に日本の立場を主張しようとしていた。
但し、この日の午前は、日支紛争問題以外の問題を扱ったので、日本側は、長岡春一駐仏大使を理事として出席せしめ、松岡は少憩を与えられた。
理事会は約五十分にわたり、ボリビア、パラグァイ、及びイラク、シリア間の国境問題に関する報告書を審議した。
やがて、松岡が入場し、議題は日支紛争問題に移った。
デ・ヴァレラ議長は、まだリットン卿の発言要請にこだわっていた。彼はリットンに対し、
「これ以上報告書に追加をする意志があるかないか」
と確かめた。
リットンは、追加訂正する意志はないということを告げた。会場には動揺が起った。
これについてちょっと説明しておこう。
松岡は、二十三日の理事会で、議長がリットンの発言を求めようとしたとき、これを制する発言を行い、議長はこれを了承した。
実は、日本側は理事会開始以前に、リットン報告書を各所において反駁する意見書を提出しており、もし、リットンがそれを承知の上で、報告書を訂正する意志がない、と発言するならば、それは間接的に日本側の意見書を否定することになる。(海野芳郎著『国際連盟と日本』近代外交史|叢書《そうしよ》6、原書房刊)そこで、松岡はリットンの発言を封じ、二十三日の理事会においても、何とかリットンに発言させようとする議長に対し、リットン報告書はすでに完結しているもの、として強く反撥していたのである。しかし、二十三日午後五時、リットン委員会では、理事会がリットン卿に発言を求め、報告書の修正追加を欲するや否やをただすべきものであるという決議をしていた。
それが、二十四日、最終日の前日に実現したのである。松岡は敗北感を味わわざるを得なかった。
さらに、チェコ代表ベネシュは、
「もっとも単純な審議進行方法は、問題の全部を特別総会に付託することであると考える。よって、私は、総会において意見を述べる権利を留保するものである」
と発言し、大勢はこの方向に移行しつつあった。反対するのは日本だけである。総会に付託し、リットン報告書を採用し、日本を非難する決議がなされるならば、日本は聯盟脱退を余儀なくされるであろう。松岡としては、何とか理事会の段階で日本の主張を認めさせ、ここでくいとめたかったのである。
しかし、デ・ヴァレラ議長は、聯盟規約第十五条の適用を主張する支那側の意見をとりあげ、日支問題の総会付託を提案するに至った。
ここで簡単に国際聯盟の規約を説明しておくならば、第一条から七条までが聯盟の構成に関する事項、第八条から十七条までが、国際平和の維持に関する条項、第十八条から二十二条が国際協力の促進に関する条項、以下、文化的諸機関に関する条項(二十三条―二十五条)、規約の改正に関する条項(二十六条)となっている。
このうち、本編に関係のある重要な条項をあげてみると、第八条、軍備縮小規定、第十条、国家の政治的独立、領土保全の尊重擁護、第十一条[#「第十一条」に傍点]、平和維持に関する防止的措置[#「平和維持に関する防止的措置」に傍点]、第十二条、紛争を平和的処理方法に付する義務、第十三条、聯盟国間紛争の平和的処理方法―司法的解決および仲裁裁判、第十四条、常設国際司法裁判所、第十五条[#「第十五条」に傍点]、聯盟機関による調停および審査[#「聯盟機関による調停および審査」に傍点]、第十六条、紛争の平和的処理に関する聯盟の制裁、第十七条、非聯盟国の関係する紛争における聯盟機関による調停および審査、となっている。
日本は、第十一条をとりあげ、平和維持に関する防止的措置の範囲で討論し、リットン報告書を否認し満州国を承認せしめるべく努力したのであるが、支那側は、第十五条の聯盟機関による調停および審査を主張し、総会においてリットン報告書を承認せしむることによって、第十六条の制裁条項にもちこもうと計っていた。
さて、デ・ヴァレラ議長は、日支問題の総会付託を提議した後、松岡に発言の機会を与えた。
松岡はやおら立ち上ると、まず、
「支那側代表にはこの際何か言われることはないか」
と鋭く顧維鈞の方を凝視した。顧は不意を打たれて狼狽《ろうばい》し、
「NO、NO!」
と連呼した。
松岡は従来の主張の総括を行った。
「議長が理事会の議事を指導された努力には、深甚なる謝意を表する。しかし、私は本理事会がさらに今後も日支問題をとりあげ、理事諸公は、リットン報告書の諸勧告を自身で再度研究すべきであると信ずるものである。
熟慮するならば、リットン報告書が容易に是認さるべきものでないことがわかっていただけよう。私は果して、リットン委員会が、本問題の総会付託の権限を有するものであるかどうかを疑うものであるが、日本はすでにリットン報告書中、同意し難いいくつかの点について、意見を明らかにした。そして、日本は、日支直接交渉を提議したが、この提議は無視された。
その結果、事態は諸兄の見られる経路を辿《たど》ったのである。私としては、規約第十一条のもとに、あらゆる和平手段を講ずることが必要であると考え、今後の方針について、日本本国政府に請訓せざるを得なくなった。重ねて直言するが、日本は紙上の平和に満足するものではない。東洋平和のためには、満州国承認が唯一の途であり、これが日本帝国の一貫した政策なのである」
松岡の演説が終るとデ議長は、「訓令は何日間で返信が到着するか」と尋ね、松岡は「まず二十六日午後、遅くも、二十八日までには回訓が到着するものと信ずる」と返答した。
続いて、ようやく落ち着きをとり戻した顧維鈞が発言した。
「私は、問題を総会に付託する提議に賛成する。私は、松岡代表が少なくとも、リットン報告書に述べられているところの、『いかなる解決方法も、聯盟規約、九カ国条約、パリ不戦条約に合致したものでなければならぬ』という原則を受諾するものと期待していたのである。松岡代表は、事実を現実すなわち日本の満州国承認にもとづいて取り扱わねばならぬといわれたが、支那は既成事実のみを基礎に事件を処理することに絶対反対である。国際的諸機構と合致するが如き現実を基礎とした解決案を受諾するものである」
これに対して、松岡は、
「ベルサイユ会議以来、十四年来の親友である顧維鈞氏よ」
とユーモアたっぷりに呼びかけ、
「支那のとくに文学に対して博学なる代表に私の用いた現実なる語の意味をお伝えしたい。日本人のいう現実とは、夢に非ず、幻に非ず、実在する一切のものを指すのだ。聯盟も、諸規約もすべてみな現実ではないか」
と外交辞令的答弁を行った。
顧維鈞も頬に笑いを浮べる余裕を示し、
「松岡代表が最初に私に発言の機会を与えて下さったのに、辞退したのは、日本側の最初の譲歩を無視したのではなく、こちらが一旦譲歩することによって、次の日本の譲歩を期待したからである」
という説明をするに至った。
二十五日は、一応松岡到着以来、第一次理事会の最終日であり、この日も朝から雨であった。
理事会の大勢が臨時総会付託に傾いたので、この日は、サイモン(英外相)、ポール・ボンクール(仏陸相)などの大物も一時的に帰国し、理事席には二流どころの代理者の顔が多かった。
『人間松岡の全貌』には次のような記述がある。
デ・ヴァレラ議長は、開会を宣した後、松岡に、議長あての日本政府からの書翰《しよかん》を朗読せしめた。内容は十五条適用留保の、意思声明である。
議長はうなずきながら聞いていたが、これに関する審議はとくに行わず、懸案の「日支問題を臨時総会に移す件」を上程した。
理事会は日本が留保、他の十三代表が賛成し、総会付託を採択した。
この日、松岡ははじめから沈黙を守るつもりでいた。それは政府の回訓(十五条適用留保)を書翰の形式で、議長代理の通訳をして議場に発表せしめたからだ。
ところが議長が、
「余はここに理事会を代表して、リットン委員会の努力と援助に対し、感謝の意を表明するものである。しかして、もし必要の場合はさらに臨時総会のため援助と努力とを求めることが出来るであろう。けだし、リットン委員会は総会の決議により再招集し得るからである」
この発言は理事会議長が総会の権限に言及したもので明らかに勇み足であった。黙って聞いていた松岡はすかさず、その失言をつき、発言を求めた。そして、
「リットン委員会の任務はもはや終了したものと考えるから、余はこの点につき反対を留保する」
と強く抗議し、これを留保記録にとどめしめた。
以上は昭和八年二月発行の森清人著『人間松岡の全貌』による記述で、これによると、日本政府からの回訓を松岡が二十五日に読みあげたことになっている。また、理事会が日支問題を総会に付託する決議をしたのも同じく二十五日となっている。
ところが、『国際連盟と日本』には次のような記述がある。
理事会でリットン報告書を十分審議し尽すということはもちろん不可能であった。果して、日中両代表の演説にみるも、日本側は「単なる原状回復は解決にあらず」という点を除いては、リットン報告の解決原則を受諾せず、中国側も同報告の解決十原則の第三項の承認を明言したのみで、解決方法に関する意見はいずれ後に提出することとしたため、かかる状況下では、リ報告の勧告に関し、何らの一致点もないことが判明し、すべては総会の審議に委《ゆだ》ねられることとなった。従前、聯盟規約十五条の適用に反対した日本は、ここでも同条項に対する留保の点から総会付議に反対し、松岡は本件については政府の意見到着をまって回答すると述べたのである。
日本側の十五条適用に関する政府の回訓は、「同条三項までは妥協による解決を目的とするもの故それはとも角、実際に異議のあったのは四項以下であったが、従来、閣議決定で『十五条の適用に反対』との建前をとった関係上、急速変更は出来ないとして、同条全部を留保すべし」としたのである。
右の日本側回答は、十一月二十八日の理事会に松岡から披露され、結局、日本側の留保をもって、総会付託に関する議長提案は全会一致採択され、理事会は満州問題の処理から手を引くこととなったのである。
これによると、日本政府の回訓を松岡が理事会で披露したのは、十一月二十八日となっている。
二十五日か、二十八日か、いずれが正しいのか?
松岡日記は前述の通り、二十五日は、「本日の会議は、言葉の交換に面白き節あり……」二十八日は「天気なれど霧深し。十一時より理事会出席……」となっていて、肝心の回訓発表については記述がない。
『外務省の百年・上』第三編第四章「国際聯盟」の項には、「十一月二十八日、理事会はリットン報告書と日満議定書の審理を総会に移牒《いちよう》した」となっている。
従って、松岡が、回訓を理事会で披露し、理事会が、議事を臨時総会に付託する決議をしたのは、二十八日とみるのが妥当と思われる。
さて、国際聯盟臨時総会は十二月六日開催され、松岡は「十字架上の日本」という大演説を行うのであるが、その前に、いま少しく、日記と「ジュネーヴ印象記」を紹介しておこう。
二十九日(火)インターナショナル・クラブの午餐《ごさん》会に招かれ、約二十分間のスピーチをなす。午後三時半より会議、五時、ドクトル・ラッセル氏をインタビューす。
十二月一日(木)ベルギー全権イマン氏(十九カ国委員会長)に面会。昼はリー氏夫妻、佐藤安之助、鷲沢与四二氏らとホテルで会食。午後三時半自動車にてベルーへ赴く。矢田七太郎、小林絹治同行す。同夜は矢田公使(駐スイス)官邸に泊る。
四日(日)午前、A・エドワード氏に面会。午後七時、対米ラジオ放送十五分間、夜十一時、対欧放送をなす。クエーカー教徒四氏に面会、平和主義者の夢をポイント・アウトして、日本人の信念、日本主義に言及した。
五日(月)午前散策、読書。会議。
午後零時半、英首相マクドナルド氏に面会す。十年ぶりの再会なり。マック氏の令息アラステア氏は、先年の京都平和会議において知り合いの仲なり。午後、タン紙、ウォルド紙の記者と面会。夜は出淵勝次駐米大使の歓迎会に臨む。
マクドナルドは、松岡好みの人物であったらしく、後述の感想が、「ジュネーヴ印象記」に出て来るが、その前に、マクドナルドの略歴を紹介しておこう。
ジェームズ・ラムゼー・マクドナルドは一八六六年(慶応二)スコットランドの貧農の息子に生れ、一九一一年労働党の党首となった。第一次世界大戦には参戦に反対、(大戦中は主としてロイド・ジョージが政権を担当)二四年、戦後初の労働党内閣を組織、異彩を放っていたが、世界恐慌の対策に苦慮して辞職。後、挙国連立内閣を組織したため、古巣の労働党からは除名された。
在任中は、失業保険の確立、教育の改善、住宅法の成立、ソ連承認、ロンドン軍縮会議、オタワ会議、ジュネーブ軍縮会議等に活躍した。
この経歴からみると、マクドナルドも、一介の貧農から身を起して、大英帝国の首相の印綬《いんじゆ》を帯びた大物≠ナあり、松岡好みの英雄≠フ一人であることが了解出来よう。
さて、「ジュネーヴ印象記」には、次のようなマクドナルドとの簡単な会見記が出ている。
「マクドナルド君とは難しい話はしなかった。軍縮問題で彼は大変とりこんでいたので、僕は簡単に言った。
『大英帝国首相としての貴方《あなた》に敬意を表し、かつ個人としての君との旧交をあたためるために訪問したのです』
すると、彼は私の顔をみつめてすぐ記憶を呼び戻したものの如く、
『そう、君には先年パリ(ベルサイユ会議)で会いましたね。覚えていますよ。それに君のことは僕の倅《せがれ》から聞かされた。倅は太平洋会議の時に日本に行きましたからね。この間、君が全権として来ることを新聞で見て、倅は喜んでいました』
とさすがに人をそらさない。
そこで僕は、
『お忙しいなかを妨げはしません。万事はサイモン外相に話してある。あなたはまことによい息子さん、いな、よい後継者を持たれていますね。お帰りの折よろしく言って下さい。いずれロンドンに行くから、あちらであなたにも息子さんにも会いましょう』
と言った。
彼は何の飾りもなく、
『ありがとう。倅のことを言われると、親父《おやじ》というものは、……いや、家庭のことはまことに特別ですね』
と甘いダッディ(親父)ぶりを見せた。マック首相はヒューマンだ。息子のことを讃《ほ》められて他愛もなく喜んで見せることの出来る人は仕合せだ。私もかくありたいと思った。いよいよ辞し去るとき、彼は僕の肩を叩いて、
『どうぞ満州問題を円満に、平和的に解決されることを切望しますよ』
とあたたかみのある親父らしく言った」
マクドナルドは、一九一九年のベルサイユ会議で、日本の新聞課長として活躍した松岡の顔を覚えていたものらしい。
またこの印象記のなかには、マクドナルドが軍縮問題に多忙である旨の記載があるが、それについて説明しておこう。
マクドナルドは折柄ジュネーブで開かれていた軍縮会議のために来訪していたものであるが、世上にジュネーブ軍縮会議と呼ばれるものは二つある。
一つは、一九二七年(昭和二)六月開かれた日英米三国の軍備縮小会議で、ワシントン会議で決定されなかった補助艦の制限を決めることを目的として、アメリカが提議したが、フランス、イタリアが出席せず、また会議の進行中、英米の意見の対立が激しかったので、このときは、何の成果も得られず八月閉会した。
第二回目は一九三二年(昭和七)から三四年にかけて、国際聯盟主催で一般軍縮会議として開かれたもの。ベルサイユ条約の規定にそって、国際聯盟は各国の軍備縮小をその任務の一つとしていた。
この軍縮会議の一大特色は、軍縮を海軍のみに限定せず、陸海空三軍に及ぼそうというものである。参加国は、国際聯盟加入国を中心に、非加盟国(アメリカ等)を加えた六十カ国の多数に上った。
これに対する日本側の動きはどうであったか?
一、ロンドン軍縮会議をめぐる軍部の不満、二、一九二九年の世界的不況、三、満州問題の重大化
以上の三つの理由で、日本国内の世論は、幣原外相の国際協調主義に疑問をもち、また英米が牛耳るベルサイユ体制に反対の気勢が濃厚となりつつあった。(『国際連盟と日本』)すなわち、ワシントン条約、ロンドン会議に不満を持つ日本の世論は、右翼や、在郷軍人会の「この上軍縮会議を開けば、さらに英米両大国の立場を有利にするのみで、締約国の多くは国防上の不安を感じ、かえって国際平和の破綻《はたん》を招来する」という意見に圧されていたとみてよい。
合理的な軍縮を唱えたのは、国際聯盟協会及び、軍縮誓願の署名運動を展開した婦人団体――婦人平和協会、国際聯盟協会婦人部、日本|基督《キリスト》教婦人部、矯風会婦人部――および、一部の知識人階級に過ぎなかった。
しかし、ドラモンド事務総長の招集状に対し、若槻首相と幣原外相はこれに応ずる覚悟を議会で表明していた。
但し、陸海空の軍縮に関し、海軍側の反応は冷たかった。それは昭和五年のロンドン軍縮会議をもって、一応事は終りという見方が強く、また、軍備強化を主張した艦隊派≠フ中心、加藤寛治大将も、すでに軍令部長を退いていた。
これに対して、陸軍は初めての本格的軍縮会議なので力を入れていた。
政府は軍部の意向を聞くため、昭和六年六月十八日、首相官邸で軍縮六巨頭会議を招集した。出席者は若槻首相、幣原外相のほか南次郎陸相、金谷範三参謀総長、安保清種海相、谷口尚真軍令部長で、ここで日本側の方針を研究し、軍部と政府の緊密化を計った。席上、幣原外相は「恰好なる兵力量に軍縮する」件につき陸軍側に質問したが、南、金谷両大将は、「わが国防を維持する点で、陸軍の現有常備兵力は好都合であり、これを減少することは好ましくない」と答えた。
さて、ジュネーブにおける第二回軍縮会議開催日は昭和七年二月二日となっていた。日本側が準備をすすめ、前年九月三日、参加する旨を聯盟に回答して間もなく、満州事変が勃発《ぼつぱつ》し、情勢は俄然《がぜん》複雑となって来たが、十二月九日、全権並に随員が任命された。全権は四人で、駐英大使松平恒雄、駐ベルギー大使佐藤尚武、陸軍中将松井|石根《いわね》、海軍中将永野|修身《おさみ》で、委員には駐スウェーデン公使武者小路|公共《きんとも》、駐スイス公使矢田七太郎、帝国聯盟事務局長沢田節蔵、駐チェコ公使堀田正昭、聯盟事務局次長伊藤|述史《のぶみ》、在独大使館参事官東郷|茂徳《しげのり》、同総領事横山正幸ら、陸軍首席随員に建川美次少将、海軍は小槇《こまき》和輔少将が任命された。
それから間もなく、満州事変収拾に手を焼いて若槻内閣は総辞職し、十二月十三日犬養内閣が誕生するのであるが、この間、全権と委員は、次の通り、軍縮条約にのぞむ方針を定めた。
海軍はまず、三大原則である「各艦種を通じ対英米保存トン数総括七割」「八インチ(二十センチ)備砲巡洋艦対英米保有トン数七割」「潜水艦現有勢力」確保を主張し、「航空兵力」「人員制限問題」「海軍機械制限問題」等についても、これ以上の制限を受けないよう努力することを決めた。また、「空軍機材制限問題」では自主的所要量を要求、「軍事費制限問題」では、実行上の見地から反対することとした。
また陸軍側は初めから一歩も譲れぬ態度を示し、「兵力量の決定については他省の口出しを許さず」と強硬に主張。日本は隣国にソ連、中国等予算的に明確でない特殊国を有する点、欧州諸国と立場が異る点を指摘し、「兵員」「兵器機材」「予算」については、国防上の現状からして、これ以上の節約は出来ない、とくに「航空機材」については、列国中もっとも少数であるため、むしろ充実改善を計りたいと主張した。
これに先立って、九月十日国際聯盟に提出してあった日本の軍備現状報告書は、同十七日、ジュネーブと東京で同時に公表された。
その主な内容は次の通りである。
一、陸軍軍備
(一)、人員
イ、航空を除く総人員二十六万人、内将校一万七千人。
ロ、航空 七千人
(二)、航空機材
現用飛行機数 八百三十八機
(三)、陸軍経費(昭和四年度予算)
イ、一般陸軍費 二億二千七百万円
ロ、陸軍機材費 三千二百万円
二、海軍軍備(昭和六年七月一日現在)
(一)、人員
イ、総人員 八万八千人
ロ、内航空関係人員 九千八百人
(二)、艦船機材
A、総トン数 八十五万トン
B、条約制限内艦船
a、主力艦十隻 三十万トン
b、航空母艦四隻 六万八千トン
(注、昭和六年といえば、山本五十六が海軍航空本部技術部長で、第一航空戦隊司令官に任ぜられる前である。空母四隻というのは、赤城、加賀、鳳翔《ほうしよう》、竜驤《りゆうじよう》で、日本海軍航空隊はまだ揺籃《ようらん》期にあった)
c、巡洋艦
(1)重巡、既成八隻、六万八千トン、建造中四隻、四万トン
(2)軽巡、既成十九隻、九万トン、建造中のもの等を含み十二万七千トン
d、駆逐艦、既成九十七隻、十一万トン、総計、十四万二千トン
e、潜水艦、既成六十七隻、七万一千トン、総計八十隻、八万九千トン
(三)、航空機材
A、沿岸航空隊飛行機 四百七十二機
B、空母及び軍艦搭載機 三百二十九機
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総計 八百一機
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(四)、海軍経費(昭和四年度)
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二億六千七百万円
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(注、これによると、海軍の経費は陸軍より四千万円多いのみにとどまっている)
さて、この軍縮会議は、昭和七年二月二日ジュネーブの市議事室で開かれたが、すでに満州問題で前年十二月リットン調査団が派遣されており、またこの年一月には上海事変が始まっており、聯盟の視線は軍縮よりも満州問題に向けられていた。また、ドイツは大統領選挙、フランスは総選挙をひかえていたので、会議の盛り上りは低調であった。
会議の中心人物は、松平(日)、サイモン(英)、タルジュ(仏)、ギブソン(米)、ブリューニング(独)、グランジ(伊)等であったが、最初は手続き問題の討議に時間を費し、各国代表の演説も、
一、準備委員会が作成した「軍縮条約案」を討議の基礎とすること。
二、非人道的戦闘方法、攻撃的兵器の禁止または制限、すなわち、制限の原則に賛成する。
という二点で合意したにとどまった。
このあと軍縮条約案について審議が続いたが、十一月に入って、松岡全権の一行が到着するや、聯盟は緊張と混乱の度を加え、日本側の宿舎メトロポールも膨脹した。この間にあって、建川中将(進級)らの軍部代表は、全権の指示を受けず、独自の活動をしようとしたが、日本全権団の事務総長であった東郷茂徳は、すかさず軍縮会議関係者と中国問題関係者との事務上の分担を明らかにして、軍側随員が両方に干渉するのを回避することに成功した。(『国際連盟と日本』)
この間、日本政府は極めて異色ある軍縮案を作成し、十二月九日提案した。
これには、一、主力艦一隻を二万五千トン、十四インチ砲装備に制限する。また保有量を日本二十万トン、英米、二十七万五千トンとする、二、航空母艦を全廃し、各艦船に飛行機着艦用の台または甲板の装備を禁ずる、等の条項を含む大規模な軍縮案が含まれ、列国代表を驚かせた。しかし、この内容は、つぶさに読んでみると、主力艦、空母、甲級巡洋艦を大幅に縮減せしめ、日本の得意とする小艦艇を据えおこうとしたものであることがわかる。
内田外相は、この案を「正《まさ》しく世界の世論である軍縮の真髄にふれる案」と自賛したが、米、英、仏の強力な反対のために不成立に終った。
この後も、軍縮会議は続き、フランスが提案した「安全保障」「欧州相互援助」等に関する新提案等を審議したのであるが、日本は、翌昭和八年二月二十四日、松岡のサヨナラ演説≠ノよって、聯盟を脱退するに至るので、具体的には日本側は気乗り薄となった。
もっとも、軍縮全権団は、松岡らと行動をともにすることを政府に計ったが、斎藤内閣は、この会議が米ソ等非聯盟国を加えた世界的な会議であり、世界平和に協力し得る、との考えから、軍縮会議続行を指令した。
しかし、その後も同会議は遅々として進展を見せず、同年十月、ヒトラーのナチスドイツが軍縮会議を脱退、続いて聯盟を脱退するに至って、会議は混乱、骨抜き状態となった。
このジュネーブ軍縮会議は、一九三四年(昭和九)七月、夏期休暇入りと同時に事実上流会となり、のたれ死に≠フ様相を呈し、聯盟の権威を失墜する一つの現象を示した。
日本は、一見みてくれのよい大軍縮案を提起して、列国の度肝を抜いた後、のらりくらりと審議に加わっていたが、九年九月、陣容を大縮減し、軍縮会議のその後の動きを、帝国会議事務局(沢田節蔵局長)をして、観察せしめることにとどめた。
かくして、第二次ジュネーブ軍縮会議は、航空関係をも含めるという、近代的かつ異色あるその前ぶれにもかかわらず、満州問題審議、日本、ドイツの相次ぐ聯盟脱退のあおりをくらい、足かけ三年間と会期のみ長い竜頭蛇尾《りゆうとうだび》の徒花《あだばな》に終ったのであるが、英雄や指導者、宰相好きの松岡にとっては、マクドナルド英首相と語ることが出来たのが、一つの収穫であったといえよう。
昭和七年十二月六日、大きな問題をはらんだ国際聯盟臨時総会は開催された。議長は、ベルギーの代表ポール・イーマンス外相である。
イーマンスは一九二〇年(大正九)十一月十五日、ジュネーブのサル・ド・ラ・レフォルマシオン(宗教記念館)で四十一カ国の代表を集めて開催された第一回国際聯盟総会の議長を勤めたベテラン外交官であった。
イーマンスは同年九月第九回理事会に提出されたポーランド、リトアニアの国境問題の解決案立案者として尽力、また一九二一年夏の理事会でも、ドイツ、ポーランド間にある上部シレジアの帰属問題をめぐり、顧維鈞らとともに特別委員として国境線設定に努力した。
その後、一九三〇年(昭和五)の聯盟主催関税休戦会議、一九三二年三月の上海事変を中心議題とする臨時総会にも出席、聯盟ではおなじみの代表である。
小国ベルギーの代表であるから、当然武力大国の侵略に対しては敏感であり、小国の利益擁護に動くことが多かったが、日本側では、ベネシュ(チェコ)、ポリチス(ギリシャ)らとともに、一応友好的な代表としてリストされていた。
さて、臨時総会の日本側代表は、松岡、長岡、佐藤らの全権、その補佐として吉田、沢田、堀田らの大公使、陸軍の建川中将、石原大佐らとなっていた。
『最終戦争論』の著者で、柳条湖事件の責任者ともみられるべき石原|莞爾《かんじ》が、ジュネーブでどのような言動を示したかは興味のあるところであるが、『秘録・石原莞爾』(横山臣平著)にも、「石原はジュネーブに着いてからは、聯盟総会には一度も出席せず、毎日市内の本屋や古画店をあさり、戦争の文献やナポレオンの古画を探していた」とあるだけで、くわしいことはわからない。満州事変の責任者として、鳴りをひそめていたのであろうか。なぜ陸軍省は石原をジュネーブに派遣したのであろうか?
松岡日記には、十一月十八日の項に「午後七時より石原大佐の講演を聴き」と出ているが、その内容はわからない。
石原は、陸軍が松岡の腰を強くするためのテコ入れに同行させたのではないか? 『秘録・石原莞爾』には、総会が始まる前、石原が聯盟事務局次長の杉村陽太郎に、
「私どもは日本が聯盟を脱退しようが、しまいが、どちらでもよいのです。満州問題に対しては既定方針に向って邁進《まいしん》するのみです」
と一言クサビを打った、となっている。陸軍は、全権団が聯盟に残ろうが残るまいが、満州国を推進する方針に変りはない、という意図を強調したものであろうか。
もっとも、石原は、往路モスクワに寄ったとき、ソ連参謀長のエゴロフと会い、エゴロフの方から「日ソ不可侵条約」を締結したいと申し出た、と秘録≠ナはなっているから、そちらの方が主目的であったかも知れない。
日本に対する支那側は、顔恵慶、顧維鈞、郭泰祺が代表、その他の主な国では、イギリスがマクドナルド首相、サイモン外相、フランス、エリオ首相、ポール・ボンクール陸相、ドイツ、ノイラート外相らおなじみの顔ぶれが総会に参加した。
開会後まず顔恵慶が登壇して、三月十一日の総会決議以来、事態は少しも改善されていないと訴えた。日本はその二大誓約たる撤兵、及び事態不拡大の義務を実行せず自己の計画に従って、満州問題を処理してしまった。リットン報告は妥当な情報であり、その結論である満州国の解消、日本軍の撤退も論理的である。従って、総会は、日本を、一、聯盟規約、不戦条約、九カ国条約の侵犯者であると宣言し、二、日本軍を満鉄付属地内へ撤退せしめ、満州国を解消せしめる、三、満州国を承認せず、かつこれと何らの関係も結ばず、四、短期間に規約第十五条(調査、審議)により紛争の最終的解決の報告を作成公表する、という四項目を実施すべしと迫った。
顔恵慶についてちょっと説明しておこう。上海出身、アメリカ・ヴァージニア大学卒。一九〇八年外交界に入り、外交部次長、ドイツ公使、国務院総理等を歴任、一九三二年(昭和七)には、中ソ国交を回復させて、駐ソ大使となっていた。一八七七年生れで、松岡より三歳、顧維鈞より十一歳年長であった。
顔の演説に続いて、満場注視のなかに松岡が立ち上り、次のような内容の演説を行った。その主旨は、支那がどうにか規律を保って存在し得るのは、日本の秩序維持力によるものであるという点にあった。
最初にリットン報告書について述べたい。
この報告書の中で、支那が承諾し得る部分にわが方としては満足出来るものはほとんどない。非常に興味あることは、この文書は世界に対して支那政府の代表者が今日まで長く隠蔽《いんぺい》し、弁明し、看過せんと努めて来た支那の実情をきわめて明瞭に照らし出しているということである。但し我々が報告書のなかで同意し難い点は、支那の無秩序を描いている部分で、支那の統制に関して、あまりにも楽観論を述べている点である。我々の希望にもかかわらず、支那の無秩序状態は、近い将来において回復されるとは考えられない。その人口においてヨーロッパより多く、その領土においてヨーロッパより大なる一国が、突如として古き封建国家より近代国家に変貌《へんぼう》することは期待する方が無理というものである。
次に、満州問題に関して、何故に日本は国際聯盟の保護を求めなかったか、という疑念があるらしいのでお答えしよう。
聯盟の機構規模に徴するに、その組織上、迅速かつ効果的な保護を期待することが出来なかったのである。日本は、まず第一に目前の危機を処理せねばならず、第二にその権威が満州に及ばぬ(欧米の)国家と交渉せねばならず、更に第三に国際条約ならびに国際慣例の一方的廃棄政策をとっている支那政府と交渉せねばならなかった。このような例外的な事態においては、国際聯盟の保護は期待出来ない。
聯盟は以前にも、支那の内乱に対し、欧米各国が出兵するのを阻止出来なかった実績を持っている。昭和二年南支で内乱が起きたとき、英、米、仏の軍隊が居留民保護の名目の下に上海に出兵したが、聯盟はこれに代って保護の役目を果すことが出来なかった。当時の聯盟理事会は満場一致でこの出兵に賛成を与えているのである。
今少しく立入った事情を説明するならば、北京政府は英米軍の上海進出を歓迎していた。これによって国民革命軍の北上を阻止することが出来ると考えていたからである。そして当時の北京政府国務総理が、ここに列席しておられる顧維鈞氏であることを指摘しておきたい。
同様の理由によって、北京政府は昭和二、三年の二次にわたる日本の山東出兵にも反対しなかった。日本軍が、北京政府に代って国民革命軍を抑えてくれると期待したからである。
顧博士はまた、張作霖大元帥が北京にいて、国民革命軍のためあやうくなったとき、日本が張大元帥を援助するため軍隊を送らなかったため、北京政府が激怒したことをご承知のはずである。日本軍は北支那に出兵し、張大元帥を援助し、顧博士の地位を擁護出来たはずであるが、居留民の生命財産に危険がない限り、支那の内乱に干渉することを差し控えたのである。
さてここで、英国が上海に軍隊を送ったとき、英国外相オースチン・チェンバレン氏が一九二七年(昭和二)二月八日付で聯盟に送った書翰の要点を引用することをお許し願いたい。
「一九二二年、支那に関する九カ国条約成立以来、不幸にも支那は以前にもまして不統一状態に陥り、今や広東の国民政府は揚子江以南の大部分の地域にその権威を拡大し、全支那の唯一の政府として承認せられんことを要求している。この事実はワシントン条約によって基礎とした仮定を変更するものである」
「広東における国民党の急進分子は特に英国人を目標としてこれに執拗《しつよう》なる暴行とボイコットを加えている。実に英国に対する敵意は国民党の団結を促進し、その攻撃的精神を強化する目的をもって、これらの分子ならびにその顧問によって故意に根強く涵養《かんよう》された」
「ワシントン会議ならびにその他幾多の機会において示された英国政府のきわめて友好的な、かつ同情的態度は、軽侮をもって一蹴《いつしゆう》されたのである」
「特に肝要なことは、反英宣伝に対する当局の煽動《せんどう》が中止されるべきことである。過去二、三カ月間にわたり、南支那の大半は比較的平和の状態にあったが、この事実に徴すれば、組織的煽動ならびに威嚇《いかく》が存しなければ、支那人と英国人との友好的関係は、過去におけると同様、まことに申し分なきこと明らかである」
これらの言葉は英帝国政府の言葉であるが、同様のことが支那人と日本人の関係においても言えるのである。
さらにチェンバレン外相は、五カ年前の一九二七年において次のように述べている。
「現在、支那における困難な解決にあたり、聯盟の援助を求め得べき何らの道も見出《みいだ》されないことは、英帝国政府の最も遺憾とするところである」
日本も同様に、満州問題に関して、聯盟が日本を援助する方法を見出し得ないものであることを痛感する。しかも、上海と満州のそれとの間には、更に顕著な差がある。すなわち、英国はわざわざ上海に軍隊を派遣したのであるが、日本は南満州鉄道沿線における日本の権益を保護する条約上の権利にもとづいて当初からその軍隊を現地に駐せしめていたのである。
さらに松岡は、支那の無秩序ぶりについて次のような指摘を行った。
「支那に共和政治が宣言されて以来、永続した政府は、一つとしてなかった。現在はどうか。顧博士は北京政府の代表として、支那を代表する形でこのジュネーブに来ておられるが、同政府は四年前にその首脳(張作霖)を失って有名無実化している。国民政府は、ロシアの支那ソビエト化運動に源を発し、わずかに揚子江周辺の数地方を統治しているにすぎないし、その行政は不完全なものである。(注、蒋介石は一九二八年の第二次北伐において一旦北京を占領し、国民政府主席に就任したが、その後再び地方のとくに北支の軍閥が復活して、国共内戦と共に国情を混沌《こんとん》とした状態に陥れていた)
また共産主義運動は、すでに承認された政府として数多《あまた》の省を統治しており、リットン報告書にも、『共産主義は国民政府の真の癌《がん》となるであろう』と記されている。私は、共産主義は今日、支那の心臓部に食いこみつつある、と直言したい。
我々が満州国の承認にあたってとった行動は、現在の情勢下において我々のとるべき唯一の、かつ最も確実な道であった。
我々はいかなる原則も次の原則によって支配されなければならないと考える。
一、解決は有効に実行し得られるものであり、更に極東の平和を完全に保持するものでなければならない。
二、支那無秩序状態に対する解決案が発見されなければならない。
三、聯盟によって何らかの解決案が見出される場合は、聯盟はその実行に関して自ら責任を負わなければならない。
支那の現状をみるに、その実行は困難である。聯盟はそれに必要な犠牲を払う決意と手段を講じなければならない。聯盟加盟国中、だれかこのような企てに協力参加する国があるであろうか?」
アメリカ、ソ連という大国の加盟を得られない国際聯盟は事実上世界を代表するには弱体であり、また、後世批判されたように、加盟国に対する強制力、違反国に対する制裁力を欠いていたことは致命的であり、松岡は激しくその弱点を衝いたのであった。
なお、この総会当時の松岡の様子を、『人間松岡の全貌』は次のように描いている。
松岡は連日、朝の湖畔の散歩を続けていた。
五日の朝新聞記者に「戦いにのぞむ御決心は?」と訊《き》かれて、「虚にして無だ、僕の頭の中には日本の正義を発揚する以外何物もない」と答えている。
昼は会議や内外関係要人との会見応酬に寸暇もなく、夜は会議の原稿作成や、長岡全権、佐藤全権をはじめ、各大公使幹部を集めて、毎晩午前二時、三時まで協議を続け、朝は七時半にはベッドをはなれて、会議関係の書類を読む、というエネルギッシュな毎日であった。
初日である六日も七時半に起きると、フランス式のパンとコーヒーの朝食をすませ、ホテル前の湖畔の公園を散歩し、帰ると部屋に閉じこもり、最初の演説の原稿に目を通し、総会の開かれる二十分前の一時四十分にホテルを出て聯盟本部に乗りこんだ。
今日は大切な戦いだというので、松岡は今回首席全権任命の際、皇太后陛下から下賜されたカフスボタンを佩用《はいよう》し、また属僚である書記官補河崎一郎(後のアルゼンチン大使)がかかえた折り鞄《かばん》のなかには、石原莞爾大佐が、出発に際して京都の高貴な篤志家からもらって松岡に贈った明治大帝の着用された羽二重の御召物を奉書の紙に包んで、お守りとして収められてあった。
六日当日朝、相も変らずレマン湖の湖面には淡い霧がたちこめていたが、朝日がさすと、やや晴れ間が見えるようになって来た。聯盟総会場には、世界各国から集って来た新聞記者、カメラマン、映画班が、この歴史的会議を報道しようと待ち構え、傍聴席も満員であった。傍聴席の大部分はいろとりどりのドレスを着用した年配の御婦人であった。
各国代表が着席し、議長ポール・イーマンス(ベルギー)が、最初の発言者、顔恵慶を指名したのは、十一時三十二分のことであった。
同書には、議長ポール・イーマンスの経歴がかなりくわしく紹介されているので、その要点を記しておこう。
イーマンスはベルギーの有名な新聞記者の子としてブリュッセルに生れ、若くして親を失ったため、苦労して大学を卒業した後は、直ちに自活の道を講じなければならなかった。初めは弁護士として世に出たが、親の血をうけたのか、間もなく新聞記者に転業し、アンデパンダンス・ベルジュ紙に健筆をふるい、議会記事をうけもった。政治に関心をもち、後には代議士として打って出て、ついにベルギー自由党の首領となり、多年にわたって外相として活躍、ベルギーのブリアン(仏外相)≠ニいう異名をとり、万年外相≠ニ呼ばれるに至った。
しかし、ブリアンが大衆的なのに較べて、イーマンスは貴族趣味であり、芸術文学を好み、ブリュッセル大学の名誉総長や、文芸家協会の会長を勤め、王侯のような大邸宅に住み、政治家のみならず、ヨーロッパの名だたる文化人は始終イーマンスの邸を訪れた。
イーマンスはこのとき年六十八歳、白髪で広い額と紅い頬をもち、きわめて壮健で、ウイットに富み、ユーモアを解するので定評があった。社交的で親切な人柄であるが、政治的処理は理知的といわれ、その半面、老人らしいかんしゃく玉を破裂させることもある。日本側では、この老人が日本の立場をかなり理解しているという希望的観測を抱いていたが、実際はどうであろうか?
第一次大戦で、ドイツに国土を蹂躙《じゆうりん》されたほか、常に大国の間にはさまれた小国の苦難を味わっているベルギーの外相が、日本の満州占領に対して同情的であると考えるのは、あまりにも楽観的にすぎたのではなかろうか。
イーマンスは、総会議長のほか、十九カ国(十九人ともいう)委員会(後述)の委員長をも兼ねていた。
松岡は、十二月一日、ホテル・ベルグでイーマンスと会見し、日本の立場を訴え、理解を求めている。
この日は十九カ国委員会が開催される日であった。
十九カ国委員会は、松岡が全権としてジュネーブに到着する八カ月前、三月十一日の総会で、その設置を議決されたもので、満州上海問題を審議する特別委員会である。
このときの日本の国際聯盟代表は松平駐英、佐藤駐ベルギー、吉田駐伊大使らであった。その後、十九カ国委員会は主として上海における停戦について協議したが、さしたる進展をみせず、結局、上海事変の停戦は松岡、白川義則、野村吉三郎、重光葵らの苦心によって、五月五日、現地において無事停戦協定を結んだことは前述の通りである。
しかし、十九カ国委員会はその後も生き残り、支那問題について協議を続けていた。
十二月一日の十九カ国委員会も、支那側の規約十二条に関連する要求を議題としただけで、内容の乏しいものであった。
さて、総会第二日目の十二月七日は午前十一時一分開会されたが、日本側の演説はなく、午前は小国の発言が続いた。
まず、スペインのマダリアガが立った。スペインは、十九カ国委員会でも、激烈に日本を批判した聯盟第一主義者で、この日も、聯盟規約を重んずべきことを、重々しい調子で朗読した。マダリアガは満州事変勃発当時からスペインの全権を勤めているが、心理学的分析を試みるのが得意で、日本にとってはうるさい相手であった。当時の日本代表芳沢謙吉は、マダリアガが、ブリアンらと組んで質問するので応答に苦心したものであった。
但し、マダリアガの論旨は必ずしも一定しておらず、途中で掌をひるがえすと、「自分は日本の名誉を重んじ、日本の聯盟に関する過去の貢献を賞揚するものである」と日本を持ち上げ、そうかと思うと、最後には「秩序とは軍服にあらず、軍人にあらず、法にあり」と叫んで降壇する始末であった。松岡はかつての侵略大国スペイン代表の混乱ぶりを興味深く注視していた。
マダリアガに続いてスイス代表モッタが演壇に立ったが、この男もマダリアガに劣らず日本攻撃の急先鋒《きゆうせんぽう》であった。モッタは、日本の自衛権の主張と、満州国の成立は両立しないとして、その矛盾を衝いた。
次いでギリシャ代表ポリチスが立った。
彼は国際法の専門家であり、感情に走らず、日支間の情勢を冷静に分析した。
彼は、支那の排外行動と外国製品ボイコットは国際法の違反であり、一種の侵略である、と極言した。これには松岡も少々驚いたくらいであった。ポリチスはさらに自衛権の解釈に言及し、支那の現実に照らし、日本の行動は正当な自衛権であるかどうかを再考すべきであるという法理論を展開し、日本代表に安堵《あんど》の感を抱かせた。松岡は海運業以外に、日本とさしたる利害関係もないギリシャの代表が、彼の論旨に近い論調で理論を展開してくれたので、我が意を得たりと拳《こぶし》を握りしめていた。
続いて、中米のグアテマラ代表ホセ・マトスが立ち、小国の不安を力説し、聯盟は大国の圧迫に対し、適当なる手段をとるべきことを力説した。
午前の総会は午後零時五十八分休憩に入った。
松岡は午前の演説を聞き、形勢は七分三分で日本に不利であると考えた。日本に同情的なのはギリシャだけで、しかもギリシャは第一次大戦直後、オスマン・トルコに対して失地回復の行動を起したが、ケマル・パシャのひきいる青年党によって、海に追い落されたような無力な国であった。
この日は引き続き、午後も総会が開かれた。
午後は大国代表の演説が多く、その論旨は一見日本の立場を支持するかに見えた。
まず、フランス代表、ポール・ボンクール陸相が立ち、日支問題解決に関する急進論をなだめ、自重論を説いた。彼は言う。
「過去の事件に対する判断のみにこだわらず、リットン報告中の将来に対する解決策について、十分検討すべきである。聯盟はまず和協に努め、日支の意見をよく聞くべきである」
ボンクールの意向は、極東に仏領インドシナ等の利権を有する大国の立場をふまえ、日本と衝突せず、宥和《ゆうわ》的解決策を考慮すべきである、というように聞きとれた。日本の満州建国には反対であるが、さりとて、支那に既存する利権を全部返すとなると、英、米、仏、ポルトガル等は、大きな損害を免れ得ないのである。
続いて、英国代表、サイモン外相が立った。
サイモンは、日支紛争解決の一方法として、十九カ国委員会に、非加盟国の米ソを特に招請し、その参加を見るならば、同委員会は問題解決を容易ならしめるであろう、と拡大委員会の設置を提案した。
さらに彼は、リットン報告書と支那の態度について、現在、支那側はリットン報告書を自国に有利なものとして支持しつつあるが、ある時期においては、これを自国の乱れた状態を暴露したものであるとして、ボイコットしていた事実がある、と支那には痛いところを指摘した。これは松岡も同意見であった。
続いてオランダ代表、デンマーク代表が立った。オランダは蘭領東インド(現インドネシア)を植民地としているのであるが、日本の進出には無気味なものを感じている。従って、日本の方針には反対であった。
デンマークもグリーンランドをはじめ、海外に植民地を持っている国であるが、今は小国の立場をとり、リットン報告書を支持した。
次に、イタリアの首席代表アロイージ男爵(外相)が立った。
イタリアは、アフリカにトリポリ(リビヤ)をはじめ、紅海南岸のエリトレアなどを領し、エリトレアの南に接するアビシニア(エチオピア)に領土的野心を抱いていた。
ムッソリーニのひきいる黒シャツ党(ファシスト党)は、すでに一九二二年(大正十一)ヒトラーに先立ってイタリアの政権を握っていた。ムッソリーニは大ローマ帝国≠フ再建を唱えてユーゴスラビアとの国境の要衝のフィウメ(現リエーカ)を併合し(一九二四)、さらにギリシャとユーゴとの間にはさまっているアルバニアを保護国化(一九二六)していた。そして、昭和九年十二月にはエチオピアに侵入、翌年宣戦布告して、十一年五月には首都アジスアベバを占領するに至るのである。
このような背景をになっているので、アロイージ外相はきわめて複雑な立場にあったが、東アジアに利権を有しないイタリアとしては、日本の満州国建国に対し、寛容な態度をとらざるを得なかった。それが二年後に始まるエチオピア侵入への布石でもあった。
アロイージはこう発言した。
「我らが求めているのは、理論上の原則の樹立ではなく、紛争の実際的解決策であるが、聯盟はそのために和解を計るべく努めるべきである。イタリア代表としては、極東の平和は、支那内政の安定が第一条件であるという日本の見解を支持したい。従って、最善の和解方法は、日支の直接交渉にあると考えるものである」
日支直接交渉を推進するならば、聯盟の介入は不要であり、従って、理事会も総会も余計なことであるということになる。しかし、松岡はイタリアの立場を知っていたので、なかなか味な発言をする、とうなずいていた。(イタリアはこの後エチオピア侵略が原因となって、日本に続いて国際聯盟を脱退するに至るのである)
次に、ドイツの外相ノイラート男爵が立った。ドイツの内状は、この年十一月の総選挙によって、ナチスが第一党になったところであった。(翌年一月、ヒトラーが組閣し、昭和九年八月、ヒトラーが総統となるのである)
フォン・ノイラート男は、必ずしもヒトラーのナチスに全面的に賛成をしていたわけではないが、この席では、第一次大戦後のベルサイユ体制における失地回復を叫ぶナチスを代表して、日本に同情的な発言をした。
彼の発言は次の通りである。
「スペイン、スイス、グアテマラなど、いわゆる小国側の意見は、理論オンリーに終始しているきらいがある。満州問題は、その歴史的背景からみても、支那の内政の現状からみても複雑なものがあり、原則論だけで解決出来るものとは思われない。以前に英国代表サイモン氏も発言されたが、本紛争は一国が聯盟規約を無視して他の一国に戦争をしかけたのではない。また一国の確然たる国境を武装軍隊によって侵略したのでもない。一概に日本だけを攻撃するのは、当を得たやり方ではない。ドイツ代表としては英国同様、米、ソの特別参加による討議を希望する。但し、ドイツ代表としては、この事件を処理するに当って、聯盟は単に既成の原則のみにこだわらず、将来も発生すべきこの種の紛争を未然に防止すべきところの、建設的なる新たな解決案を新しく議定すべきであることを主張したい」
この発言も、松岡に多くの示唆を与えた。フォン・ノイラートは、松岡の考えている新しい構想の一部を明らかにしてくれたのである。
大国、小国、さまざまな立場の発言を盛った聯盟総会、第二日目は午後六時五十分散会した。会場を辞した松岡をのせた車が、ローヌ河にかかるモンブラン橋にかかると、左側のレマン湖はもうとっぷり暮れていた。橋の右側にはルソー島が小さくシルエットを浮ばせていたが、この町が生んだ大思想家ルソーの銅像は、もう定かではなかった。
いよいよ明八日は、松岡が日本を代表して、大演説を行う日である。この後、夜半、書記官補河崎一郎は、三階のベランダを往復しながら、松岡が英語で何事かを呟《つぶや》いているのを聞いた。明日の演説の予行演習である。さすが剛腹な全権も緊張しているな、と河崎は考えていた。
松岡の日記は次のようになっている。
十二月八日、聖天子東方にまします。我、今朝、東方を拝す。聖上陛下の御《み》稜威《いつ》により存分の戦を為《な》し得たることを肝銘す。(後略)
この存分の戦とはこれから記述する「十字架上の日本」と題する大演説のことである。
八日の聯盟総会は、午前十時五十分開会となった。
列国代表は、この日、松岡の出方に大いなる興味をもって注目していた。というのは、前日、四カ国(チェコ、スペイン、アイルランド、スウェーデン)代表共同決議案及び二カ国(スイス、チェコ)代表共同決議案が作成され、この日開会と同時に、各国代表の手もとに配布されたからである。
この二つの決議案のうち、後者は「事件の実質について直ちに善悪の判断を下すことを避け、十九カ国委員会をしてさらに再検討せしむべし」という慎重論であったが、前者はかなり過激と思われる内容をはらんでいた。
それは日本を真向から非難したもので、
一、日本の満州における九月十八日以後の行動及び軍事占領は自衛手段とは認め得ざるものである。
二、満州の新政権は日本軍の存在によって実現したものである。
三、満州国家承認は現行国際義務と両立しない。
四、以上の見解を基礎として紛争解決を推進するため、米ソの協力を求めることを十九カ国委員会に許可すべきである。
という四カ条が、その内容であった。
ここに早くも日本は小国代表群から侵略者≠ニ決めつけられ、決議案をつきつけられるに至ったのである。もし、米ソが討議に加入するならば、満州問題に関して日本と利害が相反するこの両大国は、大いに日本にブレーキをかけてくれるであろうし、それが小国代表群の狙いであった。
さて、この日午前、トルコ、及びメキシコ代表の演説の後、松岡は緊急動議を提出し、発言を要求した。イーマンス議長の許可を得て、松岡は発言した。かなり激越な口調であった。
「日本代表は、只今配布された四カ国代表共同決議案に強い不満と遺憾の意を表明するものである。本総会開会以来、列国の各種の発言に対し、日本代表は未《いま》だ何らの説明も、意思の表明をもしていない。しかるにこのような日本を攻撃する如き決議案を早々と提出されるとは誠に心外である。私は日本代表として、この決議案の撤回を要求する。もし強いて、この決議案を上程し討議するというならば、諸君は全く予期せざる重大なる結果を招来し、後悔するであろう」
松岡の演説に会場はざわめいた。
最後のセンテンスは、明らかに日本の聯盟脱退をほのめかしたものである。日本が脱退したらどうなるか。ファシストのイタリア、ナチスのドイツはそれをどう受けとるか、そして、国際聯盟存続の基盤は大きくゆらぐのではないか。
そうなれば、最も苦しい立場に立つのは、一群の力少ない小国である。彼らは国際聯盟の団結力というものを背景として発言して来たのであるから。
イーマンス議長は決議案を提出したチェコ、スペインら四カ国の代表の表情を見ていた。小国代表の顔には明らかな動揺が認められた。松岡のブラッフ(威嚇)は功を奏した形となった。
この決議案は小国代表中策略家として知られるチェコ代表のベネシュが主導して、マダリアガ(スペイン)、ウンデン(スウェーデン)、コノリト(アイルランド)らの諸代表を仲間にひき入れたものである。
彼らは松岡の強硬な発言に度を失い、議場を出て控室で善後策を練った。提案者のベネシュは、ドラモンド事務総長を呼んで来て善後策を練った。ベネシュは、一応提案があったことを記録に止《とど》めてくれとドラモンドに頼んだが、ドラモンドは、「記録に止めるということは、結局、総会を通過したという形になるので、日本が承知しないだろう」と見解を述べた。
このときウンデンは、あくまでも上程を主張すべきだと言い張ったが、マダリアガはドラモンドを説いて、多少の修正をして、通過という形にしたいと言い、ベネシュは、「決議案提出の事実を単に事実として記録に止めてもらいたい」と提案し、舞台裏の小国連の密議は紛糾した。結局、決議案は撤回しないということで四人の考えは一致したが、イーマンス議長は、大国の思惑を推し計ったのか、この決議案は上程されず、流産してしまったのである。
さて、八日午後五時半、中国代表郭泰祺の演説が終った後、いよいよ松岡の歴史に残る大演説「十字架上の日本」が始まろうとしていた。
廊下にはベルが鳴り響き、掲示場の名前の松岡のところにランプがつくと、今まで廊下で立ち話をしていた百に余る各国代表、随員、新聞記者、傍聴者たちは会場に入った。
歳末を迎えたジュネーブの町の日暮れは早く、レマン湖の湖面には早くも夕靄《ゆうもや》が漂っていた。
イーマンス議長の指名によって松岡はゆっくり立ち上った。大きなガラス窓から暮れてゆく湖面が見えた。彼は自分が緊張していることに気づいていた。やはり、ムーアのすすめに従って、前夜草稿を作っておくべきであったかという軽い悔いが胸のなかにあった。アメリカ人のフレデリック・ムーアは全権団の嘱託で、英文文書の作成に従事していた。翌日の演説が重大であることを察知したムーアは、松岡の口述筆記をしようと申し出た。しかし、時刻はすでに二時を過ぎており、松岡はムーアが病弱であることを知っていた。松岡はすでに演説内容を暗記していると言って、ムーアの申し出を断った。しかし、一様に緊張して彼の顔を凝視している列国代表や新聞記者団の表情をみると、やはり草稿を手にして、間違いのない演説をした方が悔いを残さずにすんだのではないか、とも考えられたのである。
しかし、一旦口を切ると、言葉は自然に流れ出して来た。宿命的に松岡はやはり弁舌の雄であった。考えているよりも話した方がたやすいのである。語るに従って考えは深みを増し、表現は有効適切となっていった。
松岡の演説の大意は次の通りである。
日本がベルサイユ会議において国際聯盟参加を決定したとき、主唱者であるアメリカは当然参加するものと信じていた。しかし、アメリカは、主唱者ウィルソンの努力にもかかわらず、議会で否決され、不参加となった。他方、ソ連もまた聯盟の外にある。
そして、日本の西には恐るべき混乱状態におかれた支那がある。
米ソが参加しないのなら、日本も聯盟に参加しなくともよかった。しかし、日本政府はあえて参加に踏み切った。その理由は、多少とも聯盟の主旨である世界の平和に貢献せんがためである。
しかし、今、私はここに告白しなければならない。日本の有力者の大部分が国際聯盟脱退論を唱えていることを……。ある人に至っては、初めから加盟したことが間違っている、というのである。
しかしながら、わが国民の大部分は依然として聯盟を支持している。
さて、その半面、支那の内状はますます悪化し、日本は東亜全体を通ずる脅威にさらされている。ソビエト・ロシアを聯盟外においたまま、日本は極東平和のため、腕一本で戦っているのである。
このような日本のおかれた現状を認識するとき、聯盟が規約に何らの伸縮性をもたさずして、日本を裁くということは、認められるべきではない。
上海ならびに満州における日本の行動を、日本の一部軍国主義者の行為である、という説があるが、それは正しくない。日本軍が満州において行動を起すや、全日本国民がこれを支持している。
日本にはいくつかの政党があるが、満州の事件が勃発《ぼつぱつ》するや、各政党は党利のための抗争をやめて、日本軍の立場を支持した。
すなわち六千五百万人の日本民族すべてが蹶起《けつき》したのである。
我々が正しい道理がある、と信じなければ、全国民こぞって立ち上るということはあり得ない。その道理とは何か! すなわち、満州問題は、日本の存在そのものと不可分の問題である、日本にとって生死の問題である、ということなのである。
ここでこつんと卓を叩くと、松岡は暮れてゆくレマン湖の湖面に視線をやった。
満州の風景が彼の脳裡《のうり》にあった。
満鉄副総裁として、いくたびも往来した満州……。遼河の向うに沈む、紅い夕陽が、そして、流氷を浮べて流れる早春のスンガリー(松花江)の夕照が彼の脳裡にあった。
満州の歴史について、いま一度、彼は列国代表に説明したいという衝動に駆られていた。リットン卿を初めとして、ヨーロッパ列強代表は、満州を古代から漢民族の領土であると考えている。従って中華民国が成立するや、当然、民国政府の領土である、と考えている。従って、陸軍が満州国を造ったとき、日本がカイライ政府を造って、中国を侵略したという発想が成り立つのである。
しかし、この発想はヨーロッパの政治家の東洋史に対する無知から来ている。
満州はそのオリジナルな出生において、漢民族の領土ではない。漢民族が東北と呼ぶこの地域は、黒竜江省、奉天省、吉林省、興安省、熱河省の五省にわかれているが、住民はその大部分が満州民族すなわちツングース族で、一部が蒙古民族である。漢民族はしばしば万里の長城を越えて、北狄《ほくてき》であるツングース族を支配したが、オリジンにおいて、ツングースは漢民族ではなく、従って、満州は漢民族の原初からの本領ではないのである。
しからば、ツングースとはなにか……。
ツングース族は元来シベリアのレナ河、アムール河流域に住み、アルタイ語族に属するツングース語(満州語)を話す民族で、現在でも、特有の文字と言語が残っている。
狩猟を生業としていたが、先史時代に南下し、満州に居住するに至った。これを南ツングース族と呼ぶ。
南ツングース族すなわち満州族の歴史は、漢民族との抗争の歴史であって、彼らは常に彼らの国家を形成していた。
文献に現われた最も古いものは貘《ばく》で、紀元前四世紀に著された『孟子』にその名前がのっている。
また、春秋時代(前五世紀)この地区に住む民族を山戎《さんじゆう》と呼び、その地域を遼東、遼西と呼んだことも史書に出ている。もっとも、遼東、遼西は、満州南部、渤海《ぼつかい》湾沿岸で、比較的早く文化の開けた南満に属するところで、北満は漠然と山戎と呼ばれ、また、戦国時代(前三世紀)には東胡《とうこ》と呼ばれた。
紀元前三世紀後半に秦の始皇帝が西北の西戎の国より起って、一応後年支那本部と呼ばれる地域を統一したが、秦の支配は南満の遼東遼西をその長城の内側に囲ったのみで、北満及び、今日の遼陽以北の南満には及ばなかった。(今日でも、遼陽の近くに、始皇帝の築いた長城〈木柵《もくさく》〉の跡といわれるところが残っている)
紀元前二世紀、秦から漢に主権が移っていたが、その支配は依然として、遼東以内にとどまり、長城より北には烏桓《うがん》、鮮卑などが漢民族の支配を拒んでいた。
この後、満州族は一時期、朝鮮民族である高句麗《こうくり》、夫余《ふよ》などに押されて西に移動するが、再び、本来の満州を回復する。その顕著なものは七世紀(唐の時代)に起った渤海国で、これは今日も渤海湾という名を残している。大唐の時代にすらも満州の大部分は漢民族には征服されてはいない。渤海の首都は上京竜泉府(現在の吉林付近?)で、ほかに四つの京を持ち、彼らは靺鞨《まつかつ》族と呼ばれた。興安嶺《こうあんれい》から吹きおろして来る西風を靺鞨|颪《おろし》と呼ぶのはここから来ている。
渤海国の開祖|大祚栄《たいそえい》は、清朝の始祖愛新覚羅に先立つ満州族の英雄であり、靺鞨の末裔《まつえい》である黒水靺鞨が後に女真と称し清国を建てるのである。
渤海は十世紀の初めにモンゴル系の契丹《キタイ》に滅ぼされる。契丹は満州族を支配して国号を遼と称する。
しかし、満州族の自立の欲求は抑え難く、十二世紀初め、女真部族の首長|阿骨打《アクダ》は、遼を滅ぼして、金を建てる。だが、モンゴル族は再び巻き返した。
金は初め北満の会寧《かいねい》(ハルピン付近)に都をおいたが、勢いに乗って南下し、北宋を滅ぼし、都を燕京《えんきよう》(北京)、|※[#「さんずい+卞」、unicode6C74]京《べんきよう》(開封)などにおき兆京(洛陽《らくよう》)なども経営し、盛大を極めた。この時、満州族は漢民族の北半を支配していたのである。
しかし、成吉思汗《ジンギスカン》によって起った蒙古のために、金は一二三四年滅亡する。開祖阿骨打以来多年の念願であった漢民族の国、中華すなわち宋全国を制圧することは夢と化したのである。
この後しばらくの間、満州族は被支配民族として忍従の時代を送る。元が滅び、明《みん》が起っても、満州の大部分は明の支配下にあった。
しかし、十七世紀の初頭、女真族(満州族)の一首長である愛新覚羅ヌルハチは、金の衣鉢《いはつ》を継いで、後金を興し、都を興京(奉天=[#「=」はゴシック体]瀋陽)に置いた。後金は間もなく清と国号を変え、漢民族のメーンランドである支那本部はもちろん、チベット、新疆省、蒙古全土をも征服し、満州の東、沿海州をも領有して、大唐の国をしのぐ大帝国を建設するのである。一般には知られていないが、満州には独特の満州文字があり、今も残っている。
その末路はすでにくわしく説いた通りであるが、このように満州の歴史を通覧すると、彼らは常にツングース族として、漢民族より別の国を建て、自立しようと考えている。時には、金、清のように、漢民族の本土の半分、または全部を領有している。
逆に、漢民族が長期にわたって満州全域を支配下においた時期は、唐、明の時代を除いてはほとんどない、皆無といってもよいほどである。元や遼はモンゴル族である。
欧米人は、ひと口にチャイナ≠ニ呼んで、清が満州を領していたので、満州も当然中華民国の領土であると考えている。従って日本が満州に利権を持ち、満州国を建てたのを、中華民国の主権を侵害したかのように信じこんでいる。
しかし、これには、満州人自体からも不満が出ていることを松岡は知っている。張景恵その他満州国の要人となった人々は、もともと満州人なのであって、南方から起った漢民族の蒋介石の支配を快しとせず、満州建国に賛成した人々なのである。なかには日本の支配に不満で、反逆した馬占山のような将軍もあるが、満州人のなかには、自分たちは、かつて、ほとんど漢民族に屈したことがない、という誇りがあり、また、自分たちの国を持ちたいという根深い欲求があったと見てよかろう。
ただしかし、松岡にとって、残念なことは、陸軍が武力によって満州を占領し、満州国を造ったことであった。外交官である彼は、清国の母体である満州が、満州人の自発的な意向によって自治を行い、その国と、日本が平和裡に交渉して、利権を守り、日本の過剰な人口を移民させてもらうことを理想としていたのである。少年時代、単身アメリカに移民した松岡にとって、人口増加と移民の問題は、外交官となってからも、頭のなかにこびりついて離れなかった。
もっと、平和裡に満州に進出すべきであった。そうすれば、ジュネーブで、このような演説をする羽目に追いこまれる必要もなかったのだが……。
松岡の脳裡には、多くの想いが去来していた。その想念が、彼の演説を、時に高揚させ、時に悲壮な調子を帯びさせた。
松岡の演説は続いた。
私は、ここに我々日本人の一つの決意を明らかにしておきたいと考える。
それは、昨年秋から今年にかけて、ジュネーブに集《つど》う人々の間にかわされている無責任な風評についてである。すなわち、日本に対して、聯盟規約にもとづく苛酷な経済封鎖が加えられるかも知れない、という威嚇である。
しかし、これは間違っている。我々は、経済封鎖を恐れてはいない。いな、私は敢えて明言する。日本政府及び国民は、経済制裁いつでも来たれ、という覚悟が出来ているのですぞ。(このあたりは、松岡特有のブラッフ=[#「=」はゴシック体]威嚇=[#「=」はゴシック体]の調子が高まって来ていた)
なぜならば、日本は、この問題を、「今か、しからずんば、永久に」と考えているからである。すなわち、「今解決しなければ、永久に日本は屈服しなければならない」と見通しているからである。
しかるが故に、日本は制裁の前に屈しない。そして、日本の立場をあくまでも正しいと信じているのである。
さて、次にリットン報告書のなかに示された提議の一つを検討してみよう。すなわち、満州から日本軍を撤退させ、かの広漠たる地域を、列国混成の国際憲兵隊(警察軍)で警備すると仮定してみよう。ドイツとフランスを合わせたほどの広大な地域に匪賊《ひぞく》や不逞漢《ふていかん》が跳梁《ちようりよう》している。どの程度の憲兵隊を列国が派遣したら治安維持が可能と思考されるのであろうか?
これは、第一次大戦後トルコで試みられ、失敗という経験ずみである。満州において成功するという保証は何もない。
かりに、どこかの軍隊が満州の治安維持に当るとしよう。一番近い支那の軍隊ではどうか? その軍隊は張学良軍かそれとも南京国民政府軍であるのか? いずれにしても混乱は免れ得ない。しかも、リットン報告書は「満州における原状回復は絶対に不可能である」と断じているのである。
私の考えでは、張学良の軍隊に満州を任せれば、国民政府軍が黙ってはいない。その逆も同じである。再び内乱の時代が到来するのみである。その間ジュネーブの命令で、満州の人々がおとなしく秩序を保っておられると考えているとしたら誤算ではないのか?
次に、リットン報告書は、第十の原則として、支那に強固なる中央政府の出現なくしては、それまで述べた九つの平和のための原則の実現は不可能である、と述べている。
私は、支那問題の研究を生涯の仕事として来た。しかし、残念ながら断言せざるを得ない。支那は今後、十年間、あるいは二十年間も統一することは不可能であると。
さて、ここで、聯盟ならびに支那の日本に対する態度について一言したい。元来、聯盟は、列強の干渉を防止し、極東平和の建設に尽すべきである。ところが、東亜全局の収拾に力を尽している日本をないがしろにして、むやみに支那に味方する態度をみせているのは、何故であろうか?
支那人は、聯盟は日本に反対し、支那に味方している、と考えている。少なくともそう内外に宣伝している。
このため、支那は日本との直接交渉を拒否する態度に出ることが多かった。
私は、日本との直接交渉を望んでいる支那の要人が大勢いることを知っている。しかし、もし、いまその名前をあげるならば、彼らが過激な青年や学生によって、襲撃されたり、暗殺されたりする可能性があるので、名前をあげることは差し控えたい。
さて、聯盟の目的は、いうまでもなく世界の平和≠ナある。米、ソ、英、仏、すべての列強が平和を望むが如く、日本も、種々の逆宣伝にもかかわらず、平和を望んでいる。
我々の目的にさしたる違いがあるとは思わない。ただ、その手段に関して意見の喰い違いがあるのみである。
我々は、日本が生きるか死ぬるかの大問題に取り組んでいる。極東における安寧秩序の回復という重大問題はその一環である。
列国代表諸君は、極東とくに満州の歴史をよく考慮し、十分の認識の下に、日本が極東においてとりつつある行動を理解していただきたい。この際必要なものは、常識なのであります。
ヨーロッパやアメリカのある人々は、世界の世論は日本に反対している、日本は世界の世論を無視するものだ、などと主張している。その半面、我々はヨーロッパ、アメリカの各地から手紙や電報で激励を受けている事実をみのがさないでいただきたい。このように日本の立場を理解し、支持する人々は増加しつつある。
ここで、私は、列国の代表に対して、声を大にして訴えたい。
松岡はここで、一旦、息をつくと、窓の外のすでに暗くなったレマン湖の湖面に一|瞥《べつ》を与えた。大きなガラス窓をとおして、湖面に映る対岸のホテルの灯火が、美しくゆらめいていた。彼の宿舎である、ホテル・メトロポールもそのなかにあった。ふと気がつくと白いものが、湖上に舞っていた。「雪になったな」と松岡は思った。雪の満州が彼の脳裡をかすめた。
ひと息入れると、彼はここで、歴史に残る有名な言葉を発した。
もし、かりに、世界の世論が、ある種の人々がいうように、日本に絶対であったとしても、その世界の世論というものは、永久に固定化して変化しないものである、と諸君は確信出来るであろうか?
ここで、欧米の諸君に馴染《なじ》みの深いキリスト教をひきあいに出すことを許可していただきたい。
人類は、といっても、ローマ人であるが、二千年前、ナザレのイエスを十字架にかけた。イエスの考えを危険であり、世をあやまる、すなわち、不可としたのである。しかも、今日、いかがであるか? 欧米の大部分をはじめ、世界に分散する多くのキリスト教徒が、エルサレムのイエスの墓の前にぬかずいているではないか。
諸君は、いわゆる世界の世論とせられるものが、誤っていないと保証出来るであろうか?
我々日本人は、現に試錬に遭遇しつつある。かつて、イエスを十字架にかけたローマ人にかわって、欧米のある種の人々は、二十世紀における日本を十字架にかけようと欲しているではないか?
諸君――、日本はまさに全世界から十字架にかけられようとしているのだ。しかし、我々は信ずる。堅く信ずる。もし、今日、日本が十字架にかけられたとしても、世界の世論は、やがて我々にくみするであろう。早ければ、わずかに数年にして世界の世論は変るであろう。
もし、世界の平和と東亜の平和に対する聯盟の希望が真剣であるならば、やがて諸君は日本の立場を理解するであろう。
私はここに断言する。
ナザレのイエスがついに世界に理解されたように、今日十字架にかけられつつある日本も、また、やがては世界から理解されるであろう、と。
松岡の熱のこもった聯盟総会における演説はこれで終った。満場は寂《せき》として声がないようにみえた。
列席した日本人のなかから、すすり泣きの声が洩れていた。彼らは、松岡の愛国心にあふれた熱弁に感動したのであろう。
静かな会場に松岡の声が響き、すすり泣きの間を縫って、時折り、記者席から新聞電報を運び出す守衛の低い足音が聞えた。
演説が終ると、一斉に拍手が起った。
演説の内容に対する賛否はともかく、国を想う情熱のこもった松岡の名調子に、各国代表や列席者も感動したのであろう。この点、松岡はどこまでも弁舌の人であった。そして、オレゴン大学卒業の英語がそれを助けていた。イエス・キリストを演説の中に導入したことも一つの成功であった。十字架上のイエスを語るとき、松岡の脳裡には、自分に教会でのお祈りを教えてくれたイザベル・ダンバー・ベバリッジ夫人の優しい面影が懐しく浮び上っていた。少年移民として訪れたポートランドの田園の風光が、想い出深く彼の胸中に甦《よみがえ》っていたのである。
松岡が拍手の間を分けるようにして自席に帰ると、まず、フランス代表ボンクール陸相が握手を求め、ついで、英国代表サイモン外相が、そして、多数の人が次々に握手を求め、松岡の演説をワンダフル≠ニ激賞してくれた。
なかでも、ベルサイユ以来の古いつきあいである英国陸相、ヘールシャム卿は、松岡に抱きつき、
「ワンダフル! 三十年間の私の外交生活のなかで、これほどの感動的な演説を聞いたのは初めてだ」
と大声で叫んだ。
すると、ボンクールも負けじと、
「ミスター・マツオカの今日の演説は、ベルサイユ会議におけるクレマンソー仏首相の猛虎演説≠ノも比すべき、歴史的大雄弁である」
と激賞した。
松岡が期待したように、世界の世論は、十字架上の日本に対して、イエス・キリストに対するように好転はせず、やがて日本は太平洋戦争の渦中に投ぜられるのであるが、この日、松岡は、いずれは日本が世界の理解を得ることを確信して雄弁をふるい、そして、この十字架上の日本≠ヘ、確かに国際聯盟史上に残る価値のある大演説であったと言ってよかろう。
この日、松岡の演説によって一応総会が終った後、ホテル・メトロポールのホールで、九時から「リットン卿一行の満州視察」という映画が公開された。
この映画は満鉄弘報課が製作したもので、約一時間半にわたる長尺で、弘報課の意図は、日本が満州の開発や教化にいかに力を入れているかを紹介するにあった。
各国代表のほか、六百人がこの映画を鑑賞したが、満州における日本の力の入れ方がわかった意味で、確かに有効であった。
小国派≠ノ属し、反日的な態度を持する側の急先鋒であるチェコのベネシュまでが、
「日本がこれほど満州における開発と文化建設に力を尽しているとは知らなかった。日本はなぜもっと早く、このように文化的に満州を開発していることを海外に宣伝しなかったのか」
と首をひねるほどであった。
映画が終ると、椅子がとりのけられ、ホールは一転してダンスパーティの席と早変りした。
ジャズバンドが用意してあったので、ドラムが鳴り、トランペットがカン高い音を立て、クラリネットが、すすり泣きを思わせるメロディを流した。イブニングドレスに着飾った名流婦人たちが踊っている間に、窓の外で再び白いものがちらつき始めた。ジュネーブの初雪であった。
松岡はこの夜の演説と思い合せて感慨深いものがあった。彼は、近くにいたサイモン外相夫人に一礼すると、ホールの中央に踊りながら進み出た。短躯《たんく》ではあるが、二度の満鉄勤めで、松岡は大連仕込みのあざやかなステップを踏んだ。客の人々が、この日の立役者の踊りぶりを、息を呑んでみつめている間に、雪は降りしきり、地面につもり始めていた。
この夜、松岡は日記にこう記した。
会議の果つる頃より雪模様となり、この夜、積雪五寸に及ぶ。演説の後は、あたかも暴風雨の後の静かな海岸の如き心地なり。
総会第四日目の九日、ジュネーブは朝からの雪で、午後二時、各国代表は、雪のなかを車で会議場に集ってきた。
イーマンス議長は、午後二時五十分開会を宣した。
議長は、日支紛争に関するすべての文書は、十九カ国(十九人)委員会に付託すべきものであることを提案し、日支両国をふくむ全代表の賛成を得て、これを可決した。
ここにおいて、満州問題は、十九カ国委員会に付託されることとなったのである。
この日は、ほかにさしたる議事もなく、聯盟事務総長の交替が決められた程度であった。
長い間事務総長を勤め、著名であったドラモンドからジョセフ・アブノールにバトンが渡される(翌年六月交替)ことになり、総会は四十三対一でこれを可決した。
この日を最後として、聯盟臨時総会は幕をおろしたが、何となく聯盟の頼りなさというものが、日本代表の胸中におりのように残った。
『人間松岡の全貌』では、四日間の総会に対して、三つの印象が残るとしている。
第一は、総会がほとんど無力にしてたのむに足らず、紛糾せる日支問題を解決する能力を持っていないことを暴露したこと。
第二は、無能力を自認した聯盟首脳部が、早くも責任回避の逃避的態度をとり始めたこと。
第三は、理事会以来の松岡全権の水ぎわだった奮闘ぶりである。松岡は熱すべき時には白熱し、冷静なる時は氷のように冷静であった。ことに、八日の総会における演説は、議場内のかけひきからいっても、松岡一代の大雄弁であった。
四日間の討議は、明快な結論を導き出さなかったが、一つだけはっきりしたことがある。それは「聯盟は困難な問題については決定が出来ない機関である」ということであった。
理事会は総会に、そして、最高議決機関であるべき総会は、逆にこれを十九カ国委員会に押しつけてしまったのである。
松岡は、このような聯盟のあり方に危惧《きぐ》を感じていた。
あいまいに小田原評定を重ねるだけならば、いくら熱弁をふるっても何にもならない。聯盟が日本の立場を理解せず、責任の押しつけっこを繰り返しているのならば、聯盟に籍をおいておくことは無意味なのではないか……。
聯盟脱退……。
早くも、松岡の胸の内には、そのような考えがきざしていた。窓外に霏々《ひひ》として降る雪をみつめながら、松岡は深夜まで、考え続けていた。
日支紛争事件の討議は十九カ国委員会に移され、同委員会は十二月十二日から十五日までに決議案ならびに理由声明書を作成することとなったので、日本代表団は、各国代表の説得に力を入れることになった。
このとき活躍したのが、全権部の情報部長伊藤述史であった。
伊藤は正式にはジュネーブにおける日本帝国聯盟事務局次長で、法学博士、英、仏、独語を自由にあやつる天成の外交官で、よく松岡全権を補佐した。彼は早口で有名であったが、早読み≠ナも稀代《きたい》の才能を有していた。総会で顧維鈞が演説を始めると、その草稿が配布される。すると、伊藤はそれを受けとるが早いか全速力で読破し、演説の終るはるか前に、その大要を松岡に話して聞かせるというようであった。
また彼は大の早耳≠ナもあった。外国の代表や新聞記者の間を泳ぎ回り、得意の語学力を駆使して、さまざまな情報をキャッチしては、松岡に耳打ちした。
さて、この頃の松岡の日記をのぞいておこう。
十二月十日(土)午前は書類の閲読。午後はカナダ外相キャハン氏来訪。二時間近くも話して帰る。日本の立場を十分に了解せるものの如し。
外務大臣あて長文の電報二通架電。
夜は旧友ドッシュ君に招かれ、ジュネーブ祭のgay(陽気)な光景の中に愉快に過す。旧友の包むが如き好意、嬉しとも嬉し。
十一日(日)雪解けの中を散歩したる後、記者団のインタビューを受け、午後はローム氏、ヴィーガンド氏らの来訪を受く。内田外相にAB(不明)打電。
十二日(月)起床。散歩後会議に出《い》で、午後五時半、ホテル・ベルークにて、ソ連外相リトビノフ氏を訪問、一時間ばかり談合す。(注、断交状態にあった中ソが、国交を回復したので、ソ連側の考えをたたいたものである)
今日、旧友森恪君の死を聞き、哀悼の念切なり。ひとり政友会の損失たるにとどまらず、我が国憲政史上の一大損失たるを免れず。(注、森は田中内閣のとき、外務政務次官として東方会議を主宰して、極東経営を画策し、その後、犬養内閣の書記官長、政友会の幹事長等を歴任、少壮政治家のホープ、未来の総裁として期待される存在であった。松岡より三歳年下で、このとき、数え五十歳であった)
十三日(火)午前中会議。昼食をグリーン夫妻、沢田公使らとともにレストラン・デ・ノールでしたためる。
十四日(水)午後、ホテル・メトロポールにおいて、各国有数記者団のインタビューを受ける。反日的有数の人物を集めたるは面白し。十分の説明を与えたり。正理を聞いて解せざるものはなし。
午後七時英外相サイモン氏を訪問。シガーをくわえて室に入りたる処《ところ》、サイモン氏最も愉快に歓迎してくれたり。
十五日(木)レストラン・トイリイにて昼食をとる。東郷(茂徳)、二見(甚郷)、佐藤(安之助)、竹内(克巳)君ら同行す。午後、リー氏来訪。夜は佐藤大使邸に招かる。
日本より新聞切抜来る。母上の御写真と、毎朝九十歳老の身をもって、御宮様に御参拝の記事あり。熱涙禁ぜず。(注、母のゆうはこの頃、長州三田尻の別邸に起居していたが、ジュネーブで連日奮闘している洋右の身の上を案じて、毎早朝近くの神社に参拝を続けていた。ゆうが世を去るのは、これから四年後、昭和十一年四月のことである)
十六日(金)午前チェコ代表ベネシュ氏訪問。午後はタフシュ(タス通信?)のロム氏に面会。終日会議に多忙、内田外相より十一日発電に対する返電あり、当方更に返電す。夜は丁士源氏を招き、当ホテルにて種々談ず。
十七日(土)リットン調査団の活動写真(満鉄弘報課製作)は数日前(八日夜)当ホテルのホールにて催し、評判よろしく各方面の希望により、本日また当ホテルにて開催、多数の観覧者あり、終って会議を催す。
十八日(日)今日、先日の返礼として旧友ドッシュ君夫妻を招待す。
十九日(月)会議にて殆ど終日を費せり。散策|其《その》他例の如し。天気よけれども霧深きこと常の如し。いささか寒気を加え来り、いわゆるビーズ(山おろし)の訪れ来るが心持す。
二十日(火)聯盟事務総長ドラモンド氏を訪問してあいさつを述べおきたり。各国代表及び随員等は、それぞれ冬休旅行にて、多く当市を引きあげたる由に聞く。
この日は十九カ国委員会が結論を出す日であったが、結局、松岡が予想した通り、結論らしい結論は出ないで終ってしまった。委員会が最終的に発表したコミュニケは左の通りである。
「十二月十日の総会の決議によって、委託せられたる任務にもとづき、十九カ国委員会は、紛争当事国間における和協によってもって達成せらるべき基礎、ならびにその目的のためとるべき手続きを一般的に指示するある草案は、二個の決議案と一つの理由書の形式をなすものにして、それらはいずれも起草委員会委員長、ならびに聯盟事務総長の手を経て、両紛争当事国に示すところありたり。而《しこう》して両紛争国とも右草案に対して意見書を提出しており、これに伴って行わるべき審議は一定時間を必要とすべし。
かかる状勢なるをもって、当委員会は、この重大問題に関し協定に到達するため、その努力を継続するの必要を認め、叙上の審議を行わしむる目的をもって、遅くも明年一月十六日まで、委員会の会合を延期するを適当と思惟《しい》せり。委員会は上記草案に関し、両当事国との間に審議を継続しおる間は、これを公表せざることに決定せり」
要するに、決議案等の草案を作ってみたが、公表するには至らず、一月中旬まで討議を延期した、ということであるが、早く言えば、早急に結論が出せそうにないので、一応冬休みをとって、ゆっくり休息してから、また出直そうというのである。そう言えば、クリスマスが目前に迫っていた。
このとき、日本代表部のなかには、やや事態を楽観する動きもあった。
相当な圧力を覚悟してジュネーブに乗りこんだのであるが、松岡の雄弁と、植民地を持つ大国のあいまいな態度によって、理事会、臨時総会を一応切り抜けて来たことを、彼らは一種の成功と認めたのである。
この分ならば、明年の会議の成行きは日本に有利と見通しを立てるものも多かった。しかし、松岡は楽観していなかった。聯盟は弱体である。なかなか結論が出ないところにその実態を示している。そして、この弱体な聯盟が結論を迫られるとき、その内容が日本に有利なものとは想定出来なかった。なぜならば、構成国の大部分がヨーロッパ系の国である。彼らには極東における日本の地位、その立場というものがわかっていない。彼らは黄禍≠ニ呼び、日本を東洋の番犬≠ニする思想にかぶれている。東亜における唯一の大国支那は日本の当面の敵である。残念なことに、東アジアには独立国が少ない。ほとんどが欧米諸国の植民地となっているからだ。
日本を除く数少ない独立国としてタイ(シャム)がある。最終的表決に持ちこまれたとき、日本に同情的なのは、タイくらいではなかろうか……。松岡の胸をそのような想いがかすめていた。
さて、今少しく松岡の日記を追ってみよう。
二十一日(水)好晴。ビーズ更に激しく窓を打つ。散歩せず、十時半より会議を開く。一時半ドラモンド氏を訪れ、更に少時会議。午後、エドワード氏、津島(寿一)財務官、河合(博之)公使等来訪。
二十二日(木)午前十時ジュネーブ発。小林(絹治)、吉沢(清次郎)随行ウィーンに向う。午後四時、チューリッヒにて乗りかえ、翌朝九時ウィーン到着の筈。スイスの夜空は好天にして仰げば、星斗|燦爛《さんらん》たり。
歳末のスイスの夜空に彫り込んだような星々の輝きは、さまざまな感慨とともに、松岡の胸に深い印象を刻みこんだに違いない。
松岡はこの後、ウィーン、トルコ、ユーゴ、ベニス、ナポリ、ローマ、フローレンスと、しばし回遊の旅に出るのであるが、この間の言行については同行した吉沢清次郎一等書記官の回想が『人と生涯』にのっているので、その中から興味あるものをひろってみよう。(吉沢が外交官試験を受けたとき、松岡が英語の試験官であった。また、リットン調査団が来るとき、外務省で、これに対抗するため、支那問題調査記録を作成した書記官でもある)
特急のコンパートメントには、松岡と吉沢といま一人随員の小林絹治がいたが、小林は松岡の長広舌を聞かされるのが苦手で、狸寝入《たぬきねい》りをきめこむのが常で、結局、吉沢がいつも長談議のお相手をすることとなった。
しかし、辛抱強い吉沢は、よく松岡の放談の相手を勤め、松岡の真髄を掴《つか》もうと努力した。
その要点は、
一、富士屋ホテルで怪死した北京公使佐分利貞男のことを、非常に惜しんでいたこと。
二、ジュネーブ出発のとき、毎日新聞|来間《くるま》記者が贈ってくれた李白の詩がとくに気に入っていたこと。その中でも「我ヲ棄テ去ル者ハ昨日之日留マル可《ベ》カラズ。我ガ心ヲ乱ス者ハ今日之日煩憂多シ」とか、「上青天ヲ欲シ、明月ヲ覧《ミ》ル」あるいは、「刀ヲ抽《ヌ》キテ水ヲ断ツニ水ハ更ニ流レ、杯ヲ挙ゲテ愁ヲ消スニ愁ハ更ニ愁ウ」などという詩句が気に入り、これは欧米人にはわからぬ境地だよ、となかなか御機嫌であった。
松岡は十二歳のときから漢学を学び、漢詩の素養があった。冒頭に書いた小川乾山という学者が母方の祖父であり、吉田松陰門下で赤川晩翠という人物が父の従兄弟《いとこ》であったので、漢学漢詩には熱心であった。
初めて作った漢詩は「夕陽」という題で、その詩句は「夕陽ハ暑熱ヲ流シテ焼クガ如シ」で始まり、「帰禽《キキン》数点水ノ西東ニアリ」と結び、師にほめられたものであった。
三、若いときから、キプリングの「東は東、西は西」という句を読まされて来たが、そんな筈はない。西も東も人間だ、人情に違いはない。そう考えていたが、今回ジュネーブで満州問題について討論してみると、やはりキプリングの言ったことは本当であったのか、と考えざるを得ない。日本人の真意はなかなかわかってもらえない。
四、とは言っても、東も西もなく、ワン・ヒューマニティという具合にはゆかぬものか。これを実現することが大和民族の天から与えられた使命ではないのか。
この点に関して、松岡は汽車がウィーンに到着する直前、次のように述懐している。
「そうだ。このことこそ我が大和民族の使命だ。この信仰は、私がアメリカにいた十五、六歳のころから今日まで変らぬ心境である。大和民族よ、この信仰に徹底せよ。而してまずもって、自ら現在の物質文明に堕するを深く戒めよ。領土欲に走ったり、際限なく物質欲に迷ったりすることは、大和民族の本然と相容《あいい》れないのみならず、それは天から自分に課せられたる使命を忘れたるものである」
この時代の多くの指導者と同じく、松岡も理想主義的な精神主義者の半面を持っていた。
さて、このように、さまざまな感懐を吉沢に語っている間に、夜行列車は払暁の東オーストリアに入り、首都ウィーンに着いた。
十二月二十三日(金)午前十時ウィーン着。市毛孝三代理大使の案内にて、市内見物。元離宮(郊外のシェーンブルン宮殿)の宝物殿を見る。昼食はレストラン・シェーン。この飯店の入口に水槽《すいそう》があり、形は鮎《あゆ》に似て、鱒《ます》の如き斑点《はんてん》のある淡水魚の泳ぐのを見る。夕方、ドナウ河の橋上をドライブし、六時発、トルコに向う。
松岡はこのとき、「会議は踊る」という映画で有名な一八一四年九月のウィーン会議のシェーンブルン宮殿を訪れている。
ウィーン西郊にある広大なシェーンブルン宮殿の冬枯れの庭を散策しながら、松岡は十八世紀中葉、この離宮を作ったオーストリア女王マリア・テレジアの豪奢《ごうしや》に思いを致し、また、ナポレオン敗北後の欧州再編成を会議したウィーン会議の立役者、メッテルニヒのことをも連想した。
筆者は、昭和五十年秋、ウィーンを訪れ、やはりこのシェーンブルン宮殿を訪れた。ルイ十四世のベルサイユ宮殿を模したといわれるが、松岡が比較しているように、その華麗|精緻《せいち》に関しては、ベルサイユに及ばない。ただその自然を利用した広大な庭と、それを抱くようにして広がる本殿との対比には荒削りではあるがゲルマン民族らしい力強さと雄大な気魄《きはく》とが感じられた。
ウィーン会議は、本会議は市の中心にあるホフブルグというハプスブルク家の本宮殿で行われ、その日の会議が終ると、皇帝を含む各国代表団は、馬車を連ねて、西郊八キロのシェーンブルンに赴き、ダンスパーティを楽しんだのだ、と宮殿の案内人は説明していた。
ウィーン会議には、ロシア皇帝アレクサンドル一世、プロシャ王フリードリッヒ・ウィルヘルム三世を初め、全権としてオーストリア=[#「=」はゴシック体]メッテルニヒ、イギリス=[#「=」はゴシック体]カッスルレー、ロシア=[#「=」はゴシック体]ネッセルローデ、プロイセン=[#「=」はゴシック体]ハルデンベルク、フランス=[#「=」はゴシック体]タレーランら、当時のヨーロッパを代表する政治家が集り、正式の使節だけでも二百十人を越えていた。
表面上の議決機関は、パリ条約の調印国であるイギリス、ロシア、オーストリア、プロシャ、スペイン、スウェーデン、ポルトガル、フランスの全権から成る八カ国委員会であったが、実際上会議の主導権を握っていたのは、英、露、墺《おう》、普《ふ》、仏の五カ国委員会で、このほかに、ドイツ問題委員会、スイス問題委員会、国際河川問題委員会、外交使節席次問題委員会、奴隷禁止問題委員会などという、多くの委員会を抱いていた点は、百二十年後の国際聯盟と似ている。
会議は表面上の討論よりも、列強間の秘密交渉の方が力を持ち、まさに会議は踊った≠フである。
パリ会議で英、露、墺、普間ですでに秘密|裡《り》に合議されていたベルギー、ライン左岸、イタリアにおける領土の処分については、早目に決着をみたが、ザクセン、ポーランドの区画問題については、対立が生じた。
すなわち、英墺は結んで、露普と対抗した、勢力均衡の見地から、英墺は、露普二国が強大となることを好まなかったのである。
この間にあって、常に会議の主導権をとったのは、オーストリア全権メッテルニヒで、彼はマキャベリに次ぐ権謀術数の鬼とさえ言われたものである。
メッテルニヒに劣らず暗躍したのは、怪物といわれたフランス全権タレーランである。彼は戦敗国フランスのために、正統主義の原則を掲げて各方面に働きかけたため、戦勝四カ国の同盟は崩れ、逆に英墺仏の三国同盟が出来た。
この会議による主な領土の移動と議定は、
一、ロシアがポーランドの大部分とルーマニアの東部ベッサラビアを併合し、世界一の陸軍国となったこと。
二、オーストリアは、ナポレオンに蹂躙《じゆうりん》された旧領を回復したほか、ベニスと中部イタリアに主権を持ち、イタリア半島を制するに至った。そのかわり、自領ネーデルランド(ベルギー地方)をオランダのために放棄し、ここにフランスの東進を阻む障壁を作らせようとした。
三、プロシャは、旧領を回復し、ザクセンの五分の二を併合し、ライン左岸にも領土を獲得し、ラインの守り≠唱えて、ドイツ民族の指導者となる素地を築いた。
四、スイスに新たに二州を加えて不可侵の永久中立国とした。
五、サルジニア王国にゼノアを与え、フランスの南下を防ごうとした。
この会議の途中一八一五年三月、ナポレオンがエルバ島を脱出し、南仏カンヌの近くに上陸した。
そのため、一時は決裂状態とみられた列国は、再び結束を固め、四強の間に妥結が行われ、六月九日には「ウィーン最終議定書」が調印され、いわゆるウィーン体制≠ェ確立されるのである。
ウィーン体制によって一躍世界の主導者となったのは、オーストリアではなくイギリスであった。
そして、ウィーン体制は一八五三年のクリミア戦争、一八七八年のベルリン会議等によって修正されたが、大体において、第一次大戦|勃発《ぼつぱつ》までは維持された。
ウィーン会議の三原則は、第一に勢力の均衡で、この時代における国際政治の自然法則である。
第二は、正統主義の原則で、これは武力征服を認めず、在来の君主、領土によって、正統の権利者に権限を与えようというものである。
第三原則は自国利益優先の便宜主義ともいうべき原則で、実は各国はこのために暗躍を繰り返し、タレーランが怪物といわれたのもこのためである。
しかし、何といっても、この会議の主導権を握っていたのは終始議長を勤めたメッテルニヒで、このためウィーン体制は、メッテルニヒ体制≠ニまで言われた。
松岡はシェーンブルン宮殿の広大な庭を散策し、離宮の鏡の間にたたずんでは、メッテルニヒの権謀に思いを致した。
メッテルニヒは、正式にはクレメンス・ウェンツェル・ローテル・フォン・メッテルニヒという長たらしい名前を持っている。
一七七三年、ライン河畔のコブレンツの名門貴族の子として生れた。
コブレンツはライン河とモーゼル河が合流する地点で、現代ではライン下りの名所となっている町である。
メッテルニヒは十六歳でストラスブール大学に入ったが、間もなく一七八九年フランス革命が起ったので、下流のマインツ(フランクフルトの近く)大学に移った。しかし、マインツがフランス革命軍に占領されたので、ネーデルランド(当時オーストリア領)総督の父のもとにゆき、父を補佐して、革命軍に対抗した。この当時から、彼は革命を貴族政治の敵として意識していた。後年代表的な反動政治家と呼ばれる所以《ゆえん》である。
一七九四年、イギリスに渡り、若き首相ピットに会い、その政治力に影響を受けたが、その間に革命は拡大し、メッテルニヒ家は領土を失い、ウィーンに逃げて、ハプスブルク家の宮廷に出仕することとなった。政界に顔のあった母の口ききで前宰相カウニッツの孫娘マリアと結婚し、政界進出をねらった。
ドレスデン、ベルリンの公使を勤め、アウステルリッツの会戦でオーストリア皇帝がナポレオンに打ち破られた一八〇五年の翌年フランス大使となった。
パリにおけるメッテルニヒは、持ち前の弁舌を利用し社交界で活躍し、ナポレオンの妹カロリーヌとも親しくなるほどであった。その半面、彼はフランスの内情を内偵し、オーストリアにナポレオン討伐をすすめたが、一八〇九年オーストリア軍はワグラムの戦いで、ナポレオンに打ち破られた。この失敗にもめげず彼はウィーンに戻ってオーストリアの外相となり、仏露の衝突から一応身をかわし、自国の国力回復に努力した。名門好みのナポレオンにオーストリア皇帝フランツ一世の娘マリー・ルイズを皇后として送りこみ、ナポレオン宥和《ゆうわ》政策をとったのも、彼の権謀≠フ一つである。
革命は皇帝政治の破滅である、と考える彼は、一八一二年皇帝ナポレオンがロシアで敗れた後、その勢力が極度に弱まるのを警戒し、一八一三年以降の反ナポレオン戦争においても、ナポレオンに講和受諾を再三勧告した。王制国家による勢力均衡がヨーロッパの秩序を維持し得るという信念を彼は持っていた。
このような貴族政治の申し子のような男であるから、ウィーン会議における議長ぶりも多彩をきわめた。この年彼は四十二歳の若さで列国の老練な外交官を牛耳った。
彼は細面色白で、容姿端麗なダンスの名手としても知られていた。一種のスタイリストで、ロシア皇帝アレクサンドル一世の提唱した戦勝国の「神聖同盟」をむなしい響きの悪い記念碑≠ニ酷評した。ウィーンのハプスブルク家は長い間神聖ローマ帝国の皇帝という美名を冠せられていたが、ナポレオンに打ち破られてからは、単なるオーストリア皇帝になり下っていたので、神聖という文字は、彼には空々しいものに映ったのであろう。
ウィーン会議でナポレオン体制を変革し、メッテルニヒ体制を確立した彼は、その後ドイツ連邦の首長として、革命圧迫、言論弾圧の反動政治の色を強めた。イタリア、スペインの革命にも強く干渉した。一八三一年オーストリアの首相となり、カトリックを保護し、軍事政権的色彩を強めたが、ようやくイギリスの反撥を受けるに至った。
ラテン・アメリカの独立運動や、ギリシャ独立運動にも干渉したが失敗し、ようやく落日のときを迎えようとしていた。四八年のフランス二月革命がウィーンにも影響を及ぼし、三月革命が勃発すると、ついにこれを抑え切れず、失脚し、妻とともにロンドンに亡命した。
しかし、その後、皇帝派が勢いを盛り返すと、五一年帰国し、当時の若き皇帝フランツ・ヨゼフ一世(第一次欧州大戦まで六十数年にわたって在位)を補佐する政治顧問となった。この後、ハプスブルク家の最後の王権の栄える時代に元老となり、一八五九年八十七歳でウィーンに没した。
メッテルニヒが主導したウィーン体制に対して、その後、民族主義や、王権に反対する革命主義が各国に起ったが、第一次大戦後のベルサイユ条約では、米大統領ウィルソンが、民族自決主義を強く主張し、世界の地図は大きく変った。
そして、いま、ジュネーブでは、満州の主権をめぐる国際紛争が裁かれようとしている。
満州の主権は満州族にあるのか、それとも漢民族の国民政府にあるのか? 日本がバックアップして建てた満州国は、なぜ列国の認めるところとならないのか?
メッテルニヒならば、どうとり裁いたであろうか。シェーンブルン宮殿の壁面に残る数々のメッテルニヒの肖像を眺めながら、松岡は感懐にふけっていた。
ベルサイユ会議に出席した松岡は、マリア・テレジアが建てたシェーンブルン宮殿の内装については批判的であった。
彼はシェーンブルン宮殿内を飾る中国陶器や日本陶器、あるいは、漆細工の大部分を本物ではない、と言った。徳川時代の漆器の小机が二つあったが、いずれも出来が悪く、このようなものを飾っておくのは、国辱ではないか、と吉沢清次郎に語っている。
伊万里焼とみられる大きな花瓶《かびん》がいくつもあったが、彼はこれをチャイニーズ・イマリという模造品であって、本物の伊万里ではない、と看破している。中国勤務の長かった彼は内幕を知っていたのであろう。
ただ一室ベルサイユ宮殿の鏡の間を模した部屋だけは、瀟洒《しようしや》であるとほめた。
シェーンブルンの壁にはゴブラン織りが多数かかっていたが、松岡は松方幸次郎がヨーロッパで買って来た特大のゴブラン織りに及ぶものではない、と言っている。松方幸次郎は第四代総理松方正義の息子で、第一次欧州大戦直後、インフレの時代に、欧州の貴重な美術品を買い集めた。第二次大戦後、その大部分は日本に送られ、上野の西洋美術館に松方コレクションとして保存されている。
また松岡は豪華|絢爛《けんらん》を旨とするヨーロッパの宮殿と、侘《わ》び、寂《さ》び、渋味《しぶみ》を生命とする日本の建築とを比較して、オイランと生真面目な妻女、成金と旧家ほどの差があると語って、日本のよさを強調し、ナショナリズムを発揮している。
そして、珍しく、彼は次のように哲学的?な人間論を展開している。
「世界にもし差異がなく、変化がなかったならば、いかにそれが理想的であろうが、結局は飽きるであろう。人間という動物は単一化を嫌う。これが近頃の合理化、標準化の弱点であろう。標準化を極端まで押しすすめたら、精神的にはもとより、経済的にもまた人間という動物は必ず個性発揮に向い、複雑化に走るものである。この私の余談をもう十年ほど牢記《ろうき》しておくがよろしい。今に事実が実証するであろう」
このとき松岡は果して何を言いたかったのか? 人間や国を画一的に扱いたがる国際聯盟に対する皮肉であろうか。それとも、極東問題を善処しなければ、破局的な事態が訪れることを予言したのであろうか。太平洋戦争が勃発したのは、この年より九年後の歳末であった。
また松岡は、宮殿を見た序《ついで》に、自分の理想とする家屋についても意見を開陳している。
「もし、金持の篤志家がいて、自分の好きな家を建てさせてくれるならば、屋根は瓦でふいて、外観と庭は全然日本式にして、家の中に一間か二間は純粋な西洋間を作って、あとは皆日本間にする。茶屋はどうしても一室必要だ。これが日本趣味の最高調であるからだ」
ふだん大風呂敷をひろげる松岡としては、かなり簡素な願いと言えよう。
また、彼はシェーンブルンの壁にかかっている肖像画のなかで、女王マリア・テレジアの父にあたる人の全身像が一番傑作で、眼底に残った、と言っている。マリアの父はカール六世で、兄ヨゼフ一世の死後、神聖ローマ帝国の皇位を継ぎ、スペイン継承戦争に干渉して、スペインから属領を奪った。彼は男子がなかったため娘のマリア・テレジアに帝位相続権を与える家憲を制定したことで知られている。このため、帝位についたマリア・テレジアは、終生プロシャを敵として戦ったが、フレデリック二世(大王)に負けてシレジアを失った。夫ロートリンゲン公との間に十六人の多くの子供をもうけたが、この第九子が、有名なフランス革命でギロチン台に上るマリー・アントアネットである。
十二月二十三日夕刻、松岡は汽車でトルコに向った。この後はハンガリー、ユーゴスラビア経由でトルコのイスタンブールに向うのであるが、しばらく日記を追ってみよう。
二十四日(土)車中あくればハンガリア領は過ぎ、ユーゴスラビアの領域なり。中欧の原野広く目をさえぎるものなし。豚羊の放牧の群れ点々窓外に眺む。小高き丘より野のひらけたるなだらかなる態《さま》は千葉県あたりによく見る景色なり。赤煉瓦白壁の小さき農家多し。
このあたりの松岡の描写は簡にして要を得た名文である。列車はウィーンからブダペスト経由ベオグラードに向ったと思われる。筆者も、昭和四十四年初夏、ブダペスト、ベオグラード近郊をドライブしてみたが、まことにのどかな田園風景で、ハンガリア舞曲などが聞えて来そうな感じであった。
二十四日朝、七時半彼はユーゴの首都ベオグラードに着いた。駅から遠ざかるにつれて城が見える、と言っている。ドナウ河とサバ河の合流点に、トルコ民族の来襲を防ぐためスラブ族が建て、トルコに奪われたカレメグダンの城塞《じようさい》であろう。
ここで彼は面白い観察をしている。
それは、ユーゴのレールの細いことである。シベリア鉄道もレールが細いが、ここのレールも細く、枕木も一本のレールに十四、五本しか入っていない。そして広軌だから、揺れるはずである。ただ、石炭がよいのか煙突から出る煙は白く、満州の撫順《ぶじゆん》炭から出る真黒な煙にくらべればずっとましである、と語っている。
二十五日(日)朝八時頃、マルモラ海を右に見て進む。海浜、カモメの群多し。九時半イスタンブール停車場に着く。村上義温代理大使らの出迎えを受け、ホテル・ベラパレスに入り少憩の後、郊外にドライブし、午後はサルタン宮殿跡(トプカプ)の宝物博物館を見る。露都クレムリン宮殿のそれにも劣らぬ程のものなり。アヤ・ソフィア寺院の宏壮にも一驚せり。
イスタンブールは、筆者も、昭和四十四年以来、四回にわたって訪れている。イスタンブール市は、金角湾という細長い湾によって、南のイスタンブール地区と、北のガラタ、ペラ、タクシム地区に分れている。トプカプ宝物殿も、アヤ・ソフィア寺院もイスタンブール地区の丘陵の上にあり、海上からの眺めもエキゾチックである。
トプカプの宝石、貴金属、とくに各国陶器、ガラス器のコレクションは素晴しい。さすがの松岡も、ここでは悪口を言えなかったらしい。
アヤ・ソフィア寺院は、東ローマ帝国初期の皇帝が、世界最大の教会として建てた、高さ五十メートルの円蓋《えんがい》を持つ大寺院である。一四五三年、オスマン・トルコのスルタン・メフメット二世によって、コンスタンチノープル(イスタンブール)が陥落した後、内部を塗り換え、回教の大寺院としたもの。近時は内部の壁を剥《は》がし、昔の聖像画が見られるようになっている。
二十六日(月)午前中グランド・バザールでじゅうたん屋、古物商などを見物。昼は大使官邸にてトルコ海峡委員長ベルアク中将と食事。午後は雨中釣りに出かけ目の下一尺五寸から二尺位の鰹《かつお》四尾を一時間足らずにて釣りあぐ。
ベルアク中将はかつて日露戦争中来日し、乃木将軍のもとで従軍武官を勤めたことのある人で、松岡とは話があった。
松岡は、釣りを楽しんだが、マルモラ海に小舟を出して、その間、心は常に東の方を向いていた。
東の方、小アジアのアナトリア高原に、トルコの新首都アンカラがある。
そして、アンカラには有名なトルコ共和国の創立者である大統領ケマル・パシャがいる。ケマルは、松岡より一歳年下でこの年数え五十二歳であった。(彼は建国以来の功績により、これより二年後、ケマル・アタチュルク〔父・ケマル〕と呼ばれるようになるが、一九三八年〔昭和十三〕五十七歳で死去するに至る)
松岡は、第一次大戦で衰亡に瀕《ひん》したオスマン・トルコ内に決起し、ついに近代的な共和国を造ったケマルの功績を高く評価した。彼の英雄好き、指導者好きのしからしむるところである。
ムスタファ・ケマルは、一八八一年、当時オスマン・トルコ領であったギリシャのサロニカで生れた。軍人を志して陸軍幼年学校、士官学校に学び、抜群の成績を修め、「君こそは正しくケマル(完全の意)だ」と教官に賞讃《しようさん》された。
この時、日本では日清戦争が終った時であったが、トルコは、オスマン王朝の末期で、アブドゥル・ハミット二世が暴政を行っていた。これに対して、青年トルコ党が革新の運動を展開し、ケマルもその影響を受けた。
九九年、イスタンブールの陸軍大学に入学した彼は、革新運動に加わったが、逮捕された。その後どうにか卒業し、一九〇七年(明治四十)にはマケドニア第三軍の副参謀となった。
一九〇五年、日本がトルコの宿敵ロシアを破ったことに刺激され、青年トルコ党は革命を起した。ケマルもこれに参加した。
皇帝は革命軍に屈し、革命軍は議会を開いた。
オスマン領であったブルガリアは、革命に乗じて独立を宣言し、バルカンをめぐる露、独、墺の対立は激化した。
一九一四年第一次世界大戦が始まると、トルコは独墺側についた。ケマルは第五軍司令官としてダーダネル海峡を守り、連合軍をガリポリに破り、その後、第三軍司令官となって、コーカサス、メソポタミア、シリアに転戦した。
しかし、結局トルコは敗戦国となり、ムードロス条約が結ばれた。
ケマルが本当の活躍を示すのは、これからである。
一九一八年、かねてからオスマンの圧政に恨みを抱いていたギリシャが、トルコ西岸(エーゲ海沿岸)のイズミル(スミルナ)に侵略を開始すると、ケマルは、この上陸軍を追い払うべく、新生トルコ独立運動を開始した。一九二〇年五月、彼はトルコ独立宣言を行った。当時、イスタンブールにあったオスマン系のトルコ政府はイズミルその他の地区がギリシャの管理下におかれることを承認したが、ケマルのアンカラ政府は、これを否認した。
ケマルは国民軍を組織し、二一年八月、ギリシャ軍をイズミル付近で大いに破り、ガージー(勝利者)の称号を受けた。ギリシャ軍は撤退し、一九二三年十一月、新首都アンカラで、あらためてトルコ共和国宣言が行われた。ケマルはスルタンを廃止し、カリフ制(回教国の教主が国王を兼ねる制度)をも廃止した。回教圏の後進性をただすには、政教分離が必要であると考えていたのである。
彼の顕著な改革は、イスラム文字を廃止し、ローマ字による表記を採用したこと、婦人参政権の実施、義務教育の施行など、きわめて多方面にわたっている。
昭和四十五年一月、筆者は、アンカラの東郊にあるケマル・アタチュルク廟《びよう》に詣《もう》でたが、モダンで宏壮な白亜の廟内には、ケマルの棺のほか、多くの遺品があった。ケマルはなかなかのおしゃれで、靴なども極上のものをはき、パイプも凝ったものであった。
松岡はケマルと会ってみたいと考えていた。この当時において、民族主義の指導者として名をあげていたのは、イタリアのムッソリーニと、トルコのケマルであった。
しかし、彼の日程にはその余裕はなく、この日夜、汽車はイスタンブール海岸の煤煙《ばいえん》にすすけた駅を出て、ベニスに向うのである。松岡はひそかにムッソリーニと会ってみたいと考えていた。英米仏などの旧勢力のなかにあって、新生イタリアを背負って立つ、このファシスト党の党首は、松岡の英雄好みを惹《ひ》きつけるに十分なものを貯えていたのである。
二十七日(火)汽車はブルガリアに入り、正午、首都ソフィアに着く。午後三時、ユーゴスラビアに入る。時計を一時間元に戻す。小高き丘上展望台の如きものあり。国境監視員の詰所なり。四時二十分ニス着。冬の日早く暮れて駅頭人少なし。夜十時、ベオグラードで線路を換えて、西方ベニスに向う。
二十八日(水)午前八時半ユーゴとイタリアの国境ラケック市を過ぎ、山を越えればイタリアに入る。ポスツミア・グロット駅に着く。憲兵の帽子など変って面白し。十一時トリエスト市、空晴れて片雲を止めず。停車五十分。午後二時、水の都ベニスに着く。市内に自動車というものはなく、水路ホテル・ダニエルに入る。休養のため外出せず休む。
松岡は翌日水の都のサン・マルコ寺院やドゥカーレ宮殿を物珍しく見物した後、ローマに向った。
北イタリアを汽車が通るとき、松岡はこのへんの村落のあり方に興味をもち、吉沢清次郎に尋ねた。
つまり、どの村も丘の上に城と教会があり、そのあたりに住居が固まっているのはなぜか、という問いである。
イタリア在勤の長い吉沢は、
「ローマ時代からこのあたりでは、外敵防衛のため山上に城塞を築き、住民は城郭のなかで生活した。キリスト教が普及してからは、城塞の近くにカテドラル(大寺院)を建てるのが常識となり、カテドラルもまた戦争のときには城塞の役目をした。それはバチカン宮殿も同様である。また中世のイタリアでは、マラリアが流行したので、住民は蚊の少ない丘の上に住居を作り、昼間のみ平野部に降りて耕作をしたのです。その名残りが残っているのでしょう」
と返答した。
これは、中世ヨーロッパに対する松岡の知識の欠如を物語っている。
筆者は、シシリー、スペインにも旅行したが、地中海沿岸で、山地の多いところは、このような形式をとるところが多い。山間部の農業がオリーブやオレンジに頼っていたことを示すものである。
ギリシャも山の上に町が残っているが、これは主として、太陽神アポロを礼拝するため、山の上に神殿を建てたことによるものであろう。
松岡には面白い癖があって、人から聞いた知識を、相手かまわず吹聴《ふいちよう》するところがある。
ローマからナポリへ向う途中、やはり山頂に城塞と教会をいただいた町が点々と車窓に見えた。松岡は早速、吉沢や他の属官に、
「君たちわかるかね、なぜイタリアでは、山の上に城や町を築くのか……。それはね中世イタリアでは戦乱が続き、また害虫が多くて、そのような理由のために……」
と説明し始めた。
吉沢はかたわらで苦笑を禁じ得なかったが、松岡の記憶力は正確なので有名であるが、こういう受け売りを平気でやるのが、法螺吹《ほらふ》きといわれたゆえんであろう。
松岡はローマのホテルで、多難であった昭和七年の大《おお》晦日《みそか》を迎えた。南国とはいえ古都ローマの歳末はさすがにうすら寒い。松岡は、旅の間に年賀状を書くことを忘れていたので、夕食後は部屋にひきこもって、三田尻の母ゆうをはじめ、親戚《しんせき》知人におくればせの賀状を書き始めた。国際聯盟総会の第一次は何とか乗り切ったが、まだまだ第二次の裁決がひかえている。更けてゆくローマの街の灯を窓外に眺め、松岡は複雑な心境に捉《とら》えられていた。
昭和八年元旦(日)好晴 年賀ハガキを書き、十時、大使館に参集して在留民一同と共に遥拝《ようはい》式を為《な》し、聖寿万歳を祈る。祝盃《しゆくはい》を挙げ、郊外にドライブしたる後、四時発ナポリに向う。六時半ナポリ着。ホテル・エクセルシオルに投宿、海辺の飯店にて食事をしたため宿に帰る。
松岡はこのあとポンペイなどを見物したが、二日から四日までの日記を残していない。
三日、松岡はローマでムッソリーニを首相公邸に訪れ、待望の会見をした。
話の内容はよくわからないが、大風呂敷のムッソリーニは、黒シャツ党と新生イタリアを自慢し、松岡は天皇のいます東洋の君子国日本を吹聴したに違いない。しかし、主要な題目は、国際聯盟の満州問題であった。
北アフリカにトリポリ(リビヤ)、エリトレア、ソマリランドなどの植民地を領し、エチオピア(アビシニア)に野心を持つムッソリーニは、日本の立場に共感を抱いていた。従って、国際聯盟でも、イタリアは、日本に同情的であった。
但し、この段階では、まだイタリアは英仏を相手にして戦うほどの野心も力もなく、枢軸国の構想も生れていなかったので、日本の力を頼みにするという発想はなかったようである。ムッソリーニは表面上、松岡に協力を約しはしたが、聯盟の表決では、イタリアは他の四十二カ国とともに日本反対の側に回っている。三国同盟の構想が始まる僅か五年前のことである。
ムッソリーニは、単なる全権大使である松岡を軽く見ていたかも知れない。年は松岡の方が三歳年長であったが。
一方、松岡の方は、この容貌|魁偉《かいい》なる野人的な黒シャツ党首が気に入ったらしい。例の英雄豪傑好みである。
ここで、後に松岡の盟友となるベニト・ムッソリーニの経歴を一|瞥《べつ》しておこう。
ムッソリーニは、一八八三年、イタリア北東部のフォルク州プレダッピオの鍛冶《かじ》屋の息子に生れた。
父は鍛冶屋の癖に本を読み、演説、議論好きで、急進的な社会主義者であった。
反対に、小学校教師の母は、貧乏に負けず、独立独歩の精神を重んじた。
ムッソリーニはこの両親の感化を受けて、議論好きで負けず嫌いの少年に育った。
また、乱暴でけんか好きで、小学校時代に放校になったこともある。
師範学校を卒業して、小学校教員となったが、生来の放浪癖で十九歳でスイスに渡り、職を変えて各地を転々とした。ニーチェを読んで超人の思想に憧《あこが》れ、マキャベリを読んで、権謀術数の必要性を学んだ。社会主義に惹かれ、社会主義運動に加わり、社会党にはいり、帰国して郷里やローマで活動を行い、投獄されたりした。この間、同郷の農家の娘ウケーレと結婚し、五人の子供をつくった。
彼の野性的な行動は次第に党内で重視され、一九一二年党執行委員となった。第一次大戦勃発の二年前である。
党機関誌「前進」の主筆となり、戦闘的に書きまくり一万の部数を十万に伸ばした。彼もヒトラーと同じく、先天的なアジテーターでプロパガンディスト、デマゴーグの性格を具《そな》えていたものと思われる。
社会主義者でありながら、国粋的な愛国者であった点もヒトラーと類似している。この点、松岡はナショナリストで、愛国者であったが、社会主義者たらんとした痕跡《こんせき》は認められない。ムッソリーニやヒトラーが、青年時代、純粋な正義感≠ゥら社会主義に惹かれていた頃、松岡はアメリカ帰りの英語を活用して、外交官となり、それがきっかけで山本条太郎に認められ、明治資本主義の尖兵《せんぺい》である満鉄の経営者になっていたのである。この三者の経歴の相違点は、後々、微妙なニュアンスの波をもたらすものと考えてよかろう。
よかれ悪しかれ、松岡は一種のエリートとして、人生のコースをスタートしている。但し、少年時代に貧しい生活を経験し、どん底をくぐっているという点は三者とも共通している。こういう経歴を持つ人間に共通の願望は、立身出世を中心とする自己顕示欲であり、ゆくゆくは天下取り≠フ野望とつながり得るのである。
さて、ムッソリーニは、一九一四年第一次大戦が勃発すると、愛国心から参戦を主張し、党から除名されるに至った。彼のなかに愛国心とともに好戦的な傾向が内蔵されていることは、少年時代の素行をみても明らかである。
その頃、ドイツに苦戦していたフランスは、イタリアの参戦を企み、ムッソリーニに資金を授けて、「イタリア人民」を発刊させ、参戦をあおらせた。
一九一五年、イタリアは、英仏側について参戦した。出しゃばり好きのムッソリーニも早速従軍した。この頃、後年の盟友、アドルフ・ヒトラーは、一兵卒として、東部戦線や、対イタリア戦線で勇戦し、二度負傷し、伍長となり、鉄十字章を受けている。
ムッソリーニも奮戦し、負傷した。但し、彼のは自軍の臼砲《きゆうほう》を発射したところが、砲弾が|砲※[#「月+唐」、unicode8185]《ほうとう》内で爆発したための事故である。あやうく戦死するところを、彼は奇跡的に助かった。病院から退院し、今度は新聞編集に当り、愛国心をあおっている間に、大戦は終った。
戦後のムッソリーニは、相も変らず、社会主義と愛国心の両輪を回しながら急進的な活動を続けた。一九一九年三月、パリではまだベルサイユ会議が進行中なのに、先取り≠フ好きなこの男は、復員軍人を中心として、ナショナリストを集めイタリア戦闘団≠ニいう政党を結成、ここに党員百五十名の党首となった。しかし、新党は大衆の支持を受けられず、十一月の選挙では、立候補者全員が落選の憂き目をみた。
ここで不思議なことに、ムッソリーニは一転して資本家の手先となるのである。彼にはオポチュニストの素質もあったと見える。北部イタリアの工業地帯で労働運動が激化すると、社会主義者であったはずの彼は、党員に黒シャツを着せて弾圧行動隊を組織し、社会党員や労働者を襲撃し、暴行を加えた。社会主義者から、テロリストへの変貌《へんぼう》である。
このバックには、当然資本家の援助があり、また憲兵や軍隊も応援した。ついには反動主義者となったわけであるが、その悪名が功を奏したのか、一九二一年五月、彼は初めて代議士に当選し、政界人の第一歩を踏み出した。十一月、戦闘団の全国大会をローマで開き、「ファシスト党」と名乗り、当然その党首となった。ここで彼の名前はようやく世界に知られるようになる。
社会主義者であったはずの彼の生涯の念願は、古代ローマ帝国の復活であった。ローマ史を研究した彼は、古代ローマでは、右手をのばして敬礼したことを発見し、早速党員の敬礼にこれを採用した。ヒトラーのナチスも同じ敬礼を用いているが、ムッソリーニの方法を真似たものであろう。
ムッソリーニは早くも政権奪取をねらい、クーデターを画策した。一九二二年十月、彼は党大会をナポリでひらき、四万の党員に武装せしめて、ローマに進軍を試みた。当時イタリアの国王は、落ち目のヴィットリオ・エマヌエレ三世であった。国政の腐敗に絶望していた国王は、ムッソリーニを買いかぶり、ローマに到着したムッソリーニに組閣の大命を下したのである。ムッソリーニは感激して内閣を組織し、希望通りイタリアの主権を握った。時に三十九歳であった。
この後、彼は独裁者への道を歩み出す。
まず、新しい選挙法を定め、ファシスト党を国会における第一党とした。ついで、秘密警察を組織し、言論出版取締令を布《し》いて、反対党を弾圧した。日本に治安維持法が公布される前のことである。独裁者の弾圧としてはヒトラーの悪名が高いが、実はムッソリーニの方が先輩である。双方の伝記をよく調べれば、後輩のヒトラーがムッソリーニを模倣した跡を発見するのは、さほど難しいことではなかろう。
むろん、若き独裁者には敵も多かった。二六年には、三回のムッソリーニ暗殺事件があったが、悪運強い彼は無事であった。ムッソリーニがこうして、強引に一国の政権を奪い、修羅の巷《ちまた》を駈けめぐっていた頃、松岡はまだ満鉄の一理事にすぎなかった。(ヒトラーがミュンヘンで有名な決起を行い、鎮圧されたのは、この三年前である)
間もなく、ムッソリーニは、首相のほか、内相、外相、陸海空相、労働相をも兼ね、完全な独裁者となった。大ローマ帝国の再興を念願とする彼は、二四年ユーゴとの国境のフィウメ(現リエーカ)をイタリア人が多いという理由で強引に併合し、二六年アルバニアを保護国同様として、東方にも勢力を伸ばした。そして、三三年日本の国際聯盟脱退の後、一九三五年、かねて野望を持っていたエチオピア侵略を開始した。
エチオピアは、三千年の歴史を誇る君主国で、その意味で日本とは親交があった。
このしばらくあとで、黒田子爵の令嬢が、エチオピア皇帝の甥《おい》のところへ嫁入りするという話がもちあがった。
そのころ、筆者は中学三年生であった。
令嬢の名前は黒田礼子さんと言ったと記憶している。
日本の女性は礼子さんに同情的であった。写真でみるハイレ・セラシエ皇帝の甥はきりっとひきしまった男性的な風貌であるが、何といってもアフリカの人間であるから色が黒い。エチオピア人は聖書に出て来るシバの女王≠フ末裔《まつえい》であると信じており、ニグロ族とは違うのであるが、日照の強い熱帯の民であるから、やはり色は黒いのである。
「華族のお嬢さんがアフリカの黒ん坊のところにお嫁にゆかされるんだって……。可哀想にねえ」
私の母などもそう言って礼子さんに同情をよせていた。私もなぜ、日本の華族の令嬢がアフリカの王国にかたづかなければならないのか、その理由がよくわからなかった。あとから考えてみると、国際聯盟脱退後の日本としては、一つには同じ王国同士|誼《よし》みを結んで地位の向上に努め、今一つには君主国同士のつながりを強化して、共産主義の脅威に備えようとするものであったかも知れぬ。
当の黒田礼子さんは、新聞などの談話によると、
「日本とアフリカの歴史ある王国の親善のため、喜んで嫁いでゆきます」
とけなげな決意を表明していたが、内心のほどは今でもわからない。
ところが、進行していた縁談が突然とりやめになった。新聞の論評にはその理由として、イタリアとの友好に支障があるため、とちらりと出ていたように思う。イタリアは一九三六年(昭和十一)五月、エチオピアの首都アジスアベバを占領し、エチオピア全土の占領を宣言した。黒田子爵令嬢の婚約破棄が発表されたのは、その前後かと思う。
エチオピアがイタリア領となり、皇帝がイギリスに亡命したので、王国としての誼みを結ぶ意味がなくなったのか、それとも、当時ドイツとともに日本に接近し始めて来たイタリアから圧力がかかって来たのか、何にしてもエチオピア王室が亡命してしまったのでは、黒田礼子さんの行く先もなくなってしまったのであろう。
このあとムッソリーニは、ヒトラーとともに日本と接近し、一九四〇年(昭和十五)には有名な日独伊三国同盟を結ぶのであるが、これについては後に詳述する。
ただ、エチオピアは、一九四二年、イギリスの力によって解放され、ハイレ・セラシエ皇帝が首都アジスアベバに帰ったことだけをつけ加えておきたい。
さて、このあと松岡はミラノでムッソリーニにゆかりの家を訪ねるのであるが、しばらく松岡の日記を追ってみよう。
五日(木)昨夜降雨あり、空よく晴れて心地よし。午後二時発、松島|肇《はじめ》駐伊大使らの見送りを受けて、伊国御自慢の超急行にてローマ発フローレンスに向う。六時半着。市内を散策、由緒ありという地下室食堂にて夕食をしたため帰りて休む。ホテル・エクセルシオル。
筆者も昭和四十九年秋フローレンスを訪れ、その史跡と風光に魅せられた。松岡もサンタ・マリア・デル・フルーレ(花の聖母教会)やウフィツィ宮博物館、そしてアルノ河にかかる古風なポンテ・ベッキオ(古代橋)などを興味深く見物したことであろう。ここでは彼もウィーンのシェーンブルン宮殿で洩らしたような悪口を言ってはいない。ルネッサンスの中心地フローレンスには世界に誇る建築と美術品が満ちあふれていたはずである。
六日(金)九時すぎより市内見物、午後雨にて休み。六時発ミラノに向う。夜十一時半着、井上堅曹領事らの出迎えを受け、ホテル・サボエに投ず。川崎飛行機工場技師渡利彦四郎君来訪。領事の報告を聞き、三時就寝す。
七日(土)当地では約三週間位好晴なりという。鉄工場、飛行機工場、試験場等を視察し、午後八時発十一時着、ムッソリーニ氏母堂の墓に詣《もう》でる為《ため》なり。
八日(日)ムッソリーニ氏の育った家を近郊フォリー市に訪れる。あたかも伊藤博文公生地に似たる山野の風趣ある処《ところ》にあり、ムッソリーニ氏両親の墓は地方民尊崇の聖地となり、参詣《さんけい》者絶えずと。軍人、地方人の歓迎を受け挨拶を述べて曰《いわ》く、余は母が健在なることにおいて、ムッソリーニ氏よりも幸福なることをもってせり。三時発七時ミラノに帰る。
このころ、山海関付近において、失地回復を計る張学良軍と、錦州に本拠をおく日本の第八師団(西義一師団長)が衝突を繰り返していた。日本では天皇初め、側近が、国際聯盟に悪影響を及ぼさないかと心配していた。しかし、このような実態が松岡の耳に入っていたかどうか、日記ではわからない。また聯盟は休会中であった。しかし、関東軍のゴリ押しは聯盟の危機感情を刺激し、聯盟は一月二十一日、聯盟規約第十五条第四項の適用をきめた。紛争和解が失敗したときは、総会は「公正かつ妥当と認むる勧告」を行う、という規定なのである。
さて、再び、松岡の日記に戻ろう。
九日(月)今朝来訪者、APのポスコル、INSのシェプレー記者らなり。我が国の立場、事件の真相を正説して彼の謬《びゆう》を正す。電気工場を視察し、十二時発トリノに赴く。二時すぎ着。ゼノア駐在日本総領事ら来訪。フィアット自動車工場を視察す。規模雄大、一九〇五年個人経営の小自動車製造所が今日の盛大をなせるものにて、目下一日一五〇台製造しつつありと。霧深くして市内の形勢判らず。六時同地発八時ゼノア着、ミラ・ニエラホテルに投ず。仰げば月澄みて風暖かなり。
十日(火)好天。旅の心何となく軽さを覚ゆ。午前中港のグレーン(穀物)エレベーターを見、小艇を浮べて、港内の風光と施設を見たる上、カナリ氏宅にて午餐《ごさん》を供せられ、午後は造船場を見物して五時二分発ミラノに帰る。
十一日(水)午前十時二分ミラノ発ジュネーブに向う。此《この》日天気晴朗、朝よりアルプスの絶景を眺めつつ七時寿府着。メトロポール・ホテルの元の室に入る。ジュネーブは霧深しと思いしところ、今日は晴れて気持よし。
筆者は昭和四十九年秋、ジュネーブからローザンヌ経由、シンプロントンネルを抜けてミラノに向った。途中レマン湖の眺めや、両側に迫るアルプスの展望は華麗雄大なものがあった。さすがは観光国スイス……、という感を強くしたものである。松岡は四十一年前にこのコースを逆に走ったわけであった。
松岡は昭和七年十二月二十二日にジュネーブを発《た》って、一月十一日まで二十一日間の南欧の旅を経て、ジュネーブに帰着したのである。が、初めこの旅はもっと長い予定であった。というのは、十九カ国委員会は一月十六日に再開される予定であったからである。
しかし、松岡は各地で総領事や大使から抜け目なく聯盟の情報を集めていた。
一月早々、国際聯盟事務局のドラモンド事務総長と、日本の同局次長杉村陽太郎との間に表面上プライベートな交渉が始まり、一月十二日ごろには、ドラモンド・杉村試案ともいうべき修正案が出来上るという旨の入電がミラノにあったので、日程を切り上げてジュネーブに帰ったのである。
この試案作成の提案者はイギリスであった。東洋に多くの利権をもつイギリスは、日本の国際聯盟脱退を喜ばなかった。
しかし、前年の十二月十五日に十九カ国委員会は二つの決議案と理由書を作成、その要旨が日中両国に内示されたが、新しく設けられた和協委員会は、米ソ両国を参加させる、満州国不承認は今回は論じない、という修正案であった。しかし、この案は審議未了のまま越年ということになった。
そこで、日本の脱退防止にイギリスがドラモンドをして宥和案を杉村と協議せしめたものと思われる。
もちろん、イギリスが年末にこの試案作成を考えたのは、山海関方面において、日本軍と張学良軍との衝突が必至とみられて来たからである。
果せるかな一月早々両軍は衝突したのである。
さて、ドラモンド・杉村試案の主な修正点は次の通りであった。
[#ここから1字下げ]
一、十九カ国委員会より小委員会を任命し、これをして日中問題解決のため当事国を補助させる。
二、小委員会に非聯盟国招請の権限を与える。
三、リットン報告を全部採用せず。第九章は解決の有益な基礎とするが、その適用は極東の新事態に応ずるよう按配《あんばい》する。
四、リットン報告第十章には触れず。
五、リットン委員会に対する感謝については、その公平な業績と言わず、ただ解決に対する有益な貢献……というにとどめる。
六、理由書は議長宣言と変更する。
七、議長宣言中、原状回復不可、満州国否認には触れない。
[#ここで字下げ終わり]
参考のために繰り返しておけば、リットン報告書第九章は「解決の原則及び条件」で、満州の旧状復帰が事件の解決にはならない、とし、日本の利益を承認しつつ満州の自治を計り、日中間に新条約の締結を示唆するものである。
また、第十章は「理事会に提出すべき考察並びに提議」で、諮問会議を設置した上で、東三省(満州)の特殊行政を組織する中国政府宣言、日本の利益に関する日中条約等を討議するものである。
言い遅れたが十九カ国委員会で提案された和協委員会に米ソを参加せしめるという件について、日本政府がアメリカについては強く反対したため、委員会もこれをあきらめた。そこでイギリスがドラモンド試案を考えたのであろう、と松岡は後になって感想を述べている。
この和協委員会に米ソを参加させるという件は、実は聯盟脱退の大きなポイントであった。松岡は初め、米ソを参加させてもいいから、何とか妥協して、脱退を避けたいと考えていた。脱退するならば簡単であるが、脱退しないで、しかも我が方の立場を理解させるのが、外交官の手腕である、と彼は考えていたのである。弁舌に自信を持つ彼らしい考え方である。
しかし、日本本国には、彼よりも強硬な考えを堅持する人がいた。外相内田康哉である。議会において、「日本を焦土と化すとも、満州を手放すことは出来ない」と演説したこの人は、一種のジンゴイスト(来るなら来い主義者?)であったかも知れない。一般に国際聯盟脱退の責任者は松岡洋右であるというのが通説となっているが、実際には強硬な自主外交を唱えて妥協を拒否する訓令を日本から打ち続けた、熊本県出身、当時六十八歳の老外相に大部分の責任があると筆者はみている。内田は一九一一年(明治四十四)西園寺内閣の外相になったのを皮切りに、このとき五度目の外相勤めであった。
彼は昭和十一年三月、二・二六事件の直後に世を去っているが、日本の興隆を信じて死んで行けたのは幸せというべきであろう。
『人と生涯』には、昭和八年五月、松岡が枢密顧問官伊東巳代治伯に送った手紙が載っている。(伊東は長崎の出身であるが、伊藤博文に重用され、第三次伊藤内閣では農商務大臣などを勤めており、松岡とは親しかった)
松岡の伊東への書簡は昭和八年五月、日本に帰って間のない彼が、静養地の雲仙、有明ホテルから配達証明便で東京の伊東に送ったものであるが、そのなかに次のような文章がある。
「非聯盟国招請に関し、小生露代表と会談の結果、露は満州問題に関し、聯盟と行を共にせざる旨言質を得たる故、米のみの招請[#「米のみの招請」に傍点]と考え候。(傍点筆者)この旨、我代表部の意見を容《い》れさせ、小生より外相に、是非右の形にて同意相成様強硬なる反省を促す電請を再応架電致し候」
しかし、本国の内田外相は、あくまでも米国の和協委員会への招請には同意してこなかった。満州国を生命線と考える彼は、アメリカがこの件に関して発言権を得ることを極度に警戒していたのである。
そこで結局松岡は、
「小生限りに於ては、我政府の意を汲《く》み、極く内密に種々の経路により、米政府をして、招請不応の決定をなさしむる様画策致し候」
と書くことになるのである。
また、このとき、内田外相の強硬態度が脱退の原因となったといわれたことに対し、松岡は、
「我が外交機関はジュネーブとロンドン以外においては、全身不随に陥り、何ら外交作用を為さず、(中略)実は単に内田伯をのみ責めることは能《あた》わず候」
と内田を弁護しつつ、暗に中央の無能ぶりに触れている。
さて、話が少々先にとんだが、やはり『人と生涯』に、日本が聯盟脱退のやむなきに至った理由として次の五条を松岡があげたと記してある。
一、支那の対英脅迫(対英商品ボイコット実施)による英国の態度変更
二、和協委員会への米ソ招請
三、満州国の不承認
四、ヨーロッパの現状
五、小国側の脅威
また、『内田康哉伝』には、内田は聯盟に対して、次の三点に対して、絶対反対を唱えた、と述べてある。
一、リットン報告書を基礎とする解決
二、アメリカとソ連の委員会参加
三、満州国承認の取消し
いかにも内田の強硬的態度を示す言い分であるが、これでは結局脱退とならざるを得ないであろう。
さて、話を前に戻そう。
十九カ国委員会は予定通り一月十六日に再開されたが、この頃、アメリカ国務長官スチムソンは、数カ月の沈黙を破って一つの声明を出した。
すなわち、新大統領就任後も、アメリカは満州国不承認政策を続行するであろう、というのである。
三二年秋の選挙で、新大統領に選ばれたフランクリン・デラノ・ルーズベルトは、翌年三月四日から大統領として執務することになっていた。
いよいよ松岡のライバルであり、松岡の好む大物政治家の登場である。そして、ルーズベルトの謀略に呼び寄せられて、日本は大戦に突入したという説も、今は一部において強力なのである。
ここで章を改めて、太平洋戦争で日本を打ち破った人物、松岡にとって痛恨のライバルである通称F・D・Rことフランクリン・デラノ・ルーズベルトについて述べよう。
この作品は昭和五十四年六月新潮社より刊行され、昭和五十八年十一月新潮文庫版が刊行された。