TITLE : ミッドウェー戦記
〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年八月二十五日刊
(C) Shouko Toyoda 2000
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目 次
第 一 部
第 二 部
参 考 文 献
あ と が き
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長篇小説 ミッドウェー戦記
第 一 部
プロローグ
一九四二年(昭和十七年)六月三日(アメリカ時間六月二日、以下日本時間を使用する)、ジョン・フォードは、北緯二十八度のミッドウェーにいた。
ジョン・フォードは、防空壕の入り口に据《す》えつけた三十五ミリカメラの、テストに没頭していた。
「ねえ、ボス……」
と、擬装用のヤシの葉を防空壕の屋根に並べながら、助手のウイリーが言った。ミッドウェーは、不毛の島なので、わざわざ、ハワイから運んで来たものであった。
「こんなに、準備して、JAPのやつは、本当に、やって来るんですかねえ」
「うむ、来るさ」
と、フォードは答えた。
「少なくとも四隻、多ければ六隻の航空母艦と、数隻の戦艦を含む百二十隻の艦隊が、この島をめざしているんだ」
「空母……。するてえと、空襲ですね」
ウイリーは、空を仰いだ。
断雲があったが、陽《ひ》ざしは強かった。
「ねえ、ボス……。その空襲に来る、JAPの飛行機を撮《と》ろうてんですかい」
「違う……。空中戦闘を撮るんだ。アメリカの戦闘機が、日本の爆撃機を墜《お》とすところを撮るんだ」
「だったら、いっそのこと、アメリカの爆撃機が、日本の空母を沈めるところを撮ったらどうです? その方が、ぐっと景気がいいや……」
「うむ……」
フォードは、ぐっとつまった後、
「爆撃機に乗せてくれと頼んだんだが、二座だから、カメラマンは無理だというんだ。それで、この島の雷撃機隊長ヘンダーソン少佐に頼んで、八ミリを回してもらうことにした。リックという偵察員がやってくれるはずだ。フォートレス(B17)爆撃機の偵察員にも頼んであるんだ」
「ボスを乗せてくれればいいのにな、折角、海軍を志願したんだからな」
「搭乗員以外はだめだとさ。海軍は、映画の宣伝価値を知らん。戦闘の厳しさを国民に示さなければ、税金も国債も集まらんぞ」
そう語っている所へ、海軍のミッドウェー基地指揮官、シリル・シマード中佐が視察に現われた。ジョン・フォードは、白いヘルメットのヘリに二本指をあてて、敬礼した。彼は志願による海軍大尉であり、軍人らしくふるまうことに充足を感じていた。
「リューティナント・フォード……」
と、シマード中佐は呼びかけた。
「その半ズボンは長ズボンに変えた方がよい。真珠湾の経験によると、長袖、長ズボンの方が、空襲の場合、被害が少ないことが立証されているんだ。それに……」
と、一息ついた後、シマードは言った。
「君をここで殺すわけにはいかん。アメリカの映画ファンから恨まれるからな」
「まったくですよ、中佐。こんな小さな島なんか、どうだっていい、うちのボスを死なせるわけにゃいきませんからねえ」
と、ウイリーが言った。
「馬鹿なことを言うな!」
と中佐が一喝した。
「この島をとられてみろ! 日本兵が上がって来て、我々はみな、これだ」
彼は、のどぶえをカットするしぐさを見せて、
「ジョン・フォードは、ヒロヒトの前で、見世物にされるぞ」
と言った。
「ところで、中佐……」
と、フォードは尋ねた。
「JAPの空母は、本当にこの島に来るんでしょうね」
「うむ、パールハーバーの司令部は、数日前、ミッドウェー通信部に、『もっとパイナップルを送れ』と、平文で打電させた。すると、二日後、日本の軍令部では、暗号で、『AFには新鮮なフルーツが不足している』という情報を、西部太平洋で行動中の、ヤマモトに打電した。AFというのは、ミッドウェーのことだ。そして、敵は、Dデイに、この島に上陸するつもりだ」
「Dデイというのは、いつですか?」
「さあ、六月初めだろう。そこまではわからん。もっとも、ヤマモトも、わが軍のパイナップルが、爆弾を意味することには、気づいていまいよ」
シマード中佐は、そう言い捨てると、ジープで立ち去った。
映画監督、ジョン・フォードは、このとき、四十七歳であった。
アイルランド移民の子として、アメリカ東部で生まれ、本名は、シーン・オフィニーと言った。一九二四年、処女作「アイアン・ホース」を二十九歳で発表。一九三五年、アイルランド独立運動を描いた「男の敵」で、監督としての地位を確立した。
そして、一九三九年には、同じアイルランド系の大男、ジョン・ウェインを使って、名作「駅馬車」を作り出し、一躍、スターダムにのしあがった。
その後「怒りの葡萄」「タバコ・ロード」も好評で、太平洋戦争の始まった四一年には、「わが谷は緑なりき」で、アカデミー作品賞と、監督賞を受けた。
しかし、戦争が始まると、彼はじっとしておれなくなった。真珠湾空襲のとき、なぜハワイにいなかったのか、と嘆いた。彼は、硝煙のなかに生きる男だった。実弾のとんで来るなかで、カメラを回してみたい、というのが、このアイルランド男児の願望であった。ついに、海軍に志願し、大尉として情報記録班に採用された。ハワイの艦隊司令部は、暗号解読により、日本軍のミッドウェー攻撃を察知した。そして、すぐれた戦争映画を作らせるため、ジョン・フォードの撮影隊を派遣した。フォードにとっては、一つのチャンスであったが、アメリカ海軍が、フォードを派遣する余裕があったということは、日本の機動部隊にとって、暗い運命を予想させるものと言えよう。
フォードは喜んだが、見送りのとき残念がったアイルランドの男が二人いた。一人は「男の敵」に主演した、ビクター・マクラグレンで、いま一人は、「駅馬車」のスター、ジョン・ウェインであった。
「監督! 今度は、あっしらの役はないんですかい?」
と、三十四歳のジョン・ウェインが訊いた。
「陸軍でも志願するんだな。砲兵隊で、背の高い男を探しているそうだ」
と、フォードは微笑しながら答えた。
一
空母四隻を中心とする日本海軍の機動部隊は、六月三日(日本時間)朝、ミッドウェーの北西六百マイル(千百十キロ=海の一マイルは一・八五キロ)の地点に達していた。
六月五日が攻撃予定日であるから、そろそろ南東に向けて変針する頃である。艦隊は早朝から、濃い霧に包まれていた。
ジョン・フォードが、ミッドウェーの砂地で、カメラの取り附け、テストを行っていた頃、機動部隊の旗艦赤城のガンルーム(士官次室=青年士官のサロン)で、ハーモニカの手入れをしている若い士官があった。色が浅黒く、鬚の濃い男で、ケプガン(ガンルームの長)である芝山末男中尉(海兵六十八期、筆者の同期生)であった。みかけによらず、東京生まれの彼は音楽や映画にくわしく、兵学校生徒のなかでは、よくいえば文化的、早くいえば軟派に属した。
ハーモニカの手入れをしている芝山のかたわらに、水無月《みなづき》島郵便局長の小高助正が近づいて、
「甲板士官、一曲聞かせてくれんですか」
と、笑い顔をみせた。
芝山は甲板士官で、平時は、副長に直属して、艦内の軍紀風紀の取締り、整備整頓を駐視することが職務であった。戦闘時は、中部応急指揮官として、副長、運用長の指令のもとに、応急(防火、防水、被害局限)という重要な任務を帯びることになっていた。
小高郵便局長は、軍人ではなく、内地の三等郵便局長であった。ミッドウェーは、日本軍の占領後、水無月島と名前を変える予定であった。ミッドウェーを日本軍が占領することは、日本軍の間でも、関係ある民間人の間でも“既定”の事実になっていた。それは、アメリカ海軍の一部でも、そのように信じられつつあった。ニミッツの司令部と、米機動部隊の乗員を除いては……。
小高郵便局長は、かたわらで休息している艦攻(艦上攻撃機=魚雷攻撃または、水平爆撃を主体とする)操縦員の後藤仁一大尉(海兵六十六期)に向かって言った。
「ねえ、飛行士。なぜ、真珠湾をば占領せんのでしょうかねえ。こげんミッドウェーのような、こまかい島をば、とるより、その方が早決まりでしょうがね」
「さあ、ミッドウェーは、えさで、これで敵の主力艦隊を釣り出して叩いた後、真珠湾上陸となるのかな。作戦のことはわからん」
後藤はものうげに答えた。真珠湾、印度洋と勝つ戦ばかりやって来たので、戦闘の見通しについて説明するのは、わずらわしかった。
芝山がハーモニカをかかえこむようにして大きくベースを入れながら、デザートキャラバンを吹き始めたとき、郵便局長が言った。
「島へ上がると、忙しくなりますな。艦隊が内地を出るとき、次の手紙の宛先はどこか、と訊《き》かれて、ミッドウェーじゃ、いや、水無月島に送ってくれ、と言っていた兵隊も多かったと言いますからな。占領と同時に、どかんと、祝電や、慰問袋が届くことでしょうが……」
二、三曲吹くと、芝山はハーモニカをしまって、立ち上がった。軽い不安と、不吉な期待が彼の胸の奥にあった。
赤城のガンルームは、第一中甲板左舷で、艦橋のすぐ前にあった。その前には士官室、機関科事務室があり、うしろには士官バス(浴室)、医務室、病室などがあり、そのうしろは、下段格納庫になっている。
赤城の格納庫は三段になっており、ガンルームのすぐ上が中段格納庫、その上が上段格納庫、さらにその上は、飛行甲板になっていた。芝山は、下方に向かって、ラッタル(梯子《はしご》)を降りた。三万五千トンの赤城は、元来高速戦艦として設計された艦で、第一中甲板の下が、四十ミリの厚い装甲鈑《ばん》になっていた。これが戦艦の防禦甲板に当たるわけである。
運用長、土橋豪実中佐の発案で、赤城の応急担当の幹部は、内地を出港するとき、艦底に近いマンホールを全部点検し、ついでに、艦底のビルジ(水あか)の深さも計測した。四十ミリの装甲鈑があるので、敵の爆弾も、これの貫徹は困難であろう。しからば、もっとも警戒を要するのは、側面からの魚雷の被害である。それには、マンホールや、防水扉の閉鎖を厳重にして、被弾時の浸水を最小限度に止めなければならない。そう考えて、運用長は、応急担当の芝山らをひきいてうすぐらい艦底を回ったのであった。
今、芝山は、予想される合戦を前にして、小さな不安を感じていた。赤城に命中するのは敵の魚雷だろうか。飛行甲板や、格納庫の防禦は考えなくてもよいのだろうか。そして、彼は一つの想いを秘めていた。本艦に乗り組んでいる六十八期生は、彼一人である。六十五期の根岸大尉や、六十六期の後藤大尉は、パイロットであるから、またも武勲を立てるわけであるが、中部応急指揮官としては、敵弾が命中しなければ、腕のふるいようがない。しかし、赤城に敵弾が何発も当たって、おれが忙しいようでは、戦局が思いやられる。若い芝山中尉は、一つのジレンマに陥りながら、再びラッタルを登り始めていた。
二
六月三日朝機動部隊は、針路七十度(東北東)で、ミッドウェーの北方に向けて航行していた。攻撃予定によれば、三日の朝十時頃、ミッドウェーに向けて変針し、島に接近して、距離二百マイル(三百七十キロ)のところで、陸上攻撃隊を発進させる必要があった。
赤城の艦橋では、第一航空艦隊参謀長の草鹿《くさか》竜之介少将が、しきりに迷っていた。ミッドウェー島を攻略するには、予定通り、六月五日の早朝、午前一時半に、攻撃隊を発進させなければならない。しかし、内地を出て以来、杳《よう》として消息の知れないのは、敵の空母部隊である。――わが機動部隊は、島の攻略と、空母の決戦という、両様の任務を背負わされている――草鹿は、軽く眉をしかめた。それが出来ない機動部隊ではなかった。しかし、さしあたっての問題は、濃霧で、加賀、飛竜、蒼竜《そうりゆう》の空母をはじめ、一艦も他の部隊が見えぬことであった。予定通り、ミッドウェーに変針するならば、各艦にその旨を知らせないと、衝突その他の事故を起こしかねない。
草鹿は、艦橋右舷の、通称、猿の腰掛けと呼ばれる小さな椅子に腰をかけている、司令長官、南雲《なぐも》忠一の背中を見ていた。――長官は何も言わない。一体、変針をどう考えているのだろうか――腕時計を見ると、午前十時を回っている。真珠湾のときもそうであったが、肝心のときになると、長官は黙ってしまう。元来が水雷屋で、航空にはしろうとなので、自信がないのであろう。無理もないことだ。
草鹿は、あきらめて、通信参謀の小野少佐に訊いた。
「敵空母の動きは、何かわからんかね」
「はあ、敵信班も、懸命になって、キャッチしようとしていますが、まだ何も……」
一体敵は、島の近くに来ているのか、それとも、南太平洋のあたりで、珊瑚海で戦った翔鶴《しようかく》、瑞鶴《ずいかく》を探しもとめているのか……。
草鹿は思い切って、南雲の背中に声をかけた。
「長官! 予定通り変針するには、この濃霧では危険ですから、無電で、各隊に知らせる必要があると、思われますが……」
「電波を出すのかね」
長官は、肩をゆすったきりだった。
そのとき、通信参謀が意見を述べた。
「長波の微勢力電波ならば、遠距離にいる敵にまでは届かないと思いますが……」
「長官、お聞きの通りですが……」
「よかろ」
厚い肩が動いた。草鹿の指令が出た。
「各隊に指令、一二〇〇《ヒトフタマルマル》(午後零時)針路一〇〇度、一三一五(午後一時十五分)針路一三五」
これは、一ぺんに七十度から、百三十五度まで、六十五度も変針しては、三十隻から成る機動部隊が混乱するのを恐れたのである。
濃霧のなかで、無事、変針が終わった午後二時すぎから、霧が晴れて来た。
「何だ。晴れるなら、晴れると言ってくれれば、危い無電など、打たずにすんだのに……」
草鹿は、姿を現わした飛竜や加賀の姿を見ながら、そうボヤいた。幸いにこの電波は、米機動部隊にはキャッチされなかった。しかし、三百マイル後方にいた大和《やまと》の無電室には、明確にキャッチされた。
山本五十六《いそろく》は、二十畳敷ほどもある、大和の艦橋で、黙然と立っていた。
「長官! 赤城が電波を出しました。機動部隊は、一二〇〇MI(ミッドウェー)に向けて変針します」
先任参謀の黒島亀人《かめと》大佐の声には、切迫したものが感じとられた。作戦行動中は、無線封止という厳命があったのである。機動部隊はミルク壺のような濃霧のなかに落ちこんでいるが、大和を先頭とする主力部隊の周辺は晴れている。赤城から大和への気象報告というものはない。それも禁じられているのである。
「困ったものですなあ。変針は予定の行動なのに、電波を出さなければ、統一行動が出来ない。機動部隊はたるんでいるんじゃないか」
連合艦隊参謀長の、宇垣纒《まとめ》少将が、きびしい声で言った。宇垣は海軍兵学校四十期生で八番で卒業した。一番は後に海軍省軍務局長になった岡新《あらた》で、二番は、機動部隊の第二航空戦隊司令官として、南雲のあとに続いている山口多聞《たもん》である。
昭和十五年秋、真珠湾攻撃の計画を山本長官から聞かされたとき、宇垣の頭に、まず浮かんだのは、山口多聞である。――多聞丸なら出来る――と宇垣は考えた。
山口は、支那事変中、第一連合航空隊を指揮して漢口に進出し、戦果をあげ、搭乗員の信頼が厚い。しかし、海軍には、江田島卒業時のハンモックナンバーというものがあり、また卒業年次による序列というものがある。三十二期生の山本五十六の下で、第一航空艦隊司令長官に任ぜられるならば、まず、三十六期の原二四三《にしぞう》か、三十七期の小沢治三郎であろう。二人とも航空のエキスパートである。しかし、ふたをあけてみると、1AF(第一航空艦隊)の長官は、三十六期の南雲であった。――水雷屋か――宇垣は複雑な表情になった。宇垣は岡山県出身で、陸軍大将宇垣一成《かずしげ》の同族につながる。南雲は山形県米沢で、山下源太郎大将を頂点とする“米沢の海軍”の代表である。宇垣は、南雲とは親交がなかった。対抗意識のようなものもあった。宇垣は砲術科で、鉄砲屋とよばれ、大艦巨砲主義の信奉者であった。飛行機のことはわからない。しかし、南雲で勤まるなら、おれにでも、という気持があった。なぜ、山口ではいけないのか。なるほど、機動部隊をひきいてゆくということになれば、各戦隊の司令官よりも先任者でなければいけない。現に、先ほどまで海軍兵学校の教頭を勤めていて、いま八戦隊司令官として、重巡利根《とね》に座乗して、南雲の横を走っている阿部弘毅少将(筆者が兵学校生徒時代の教頭)は、三十九期で、山口より一期先輩である。しかし、宇垣の肚のなかには、――三十九期が何だ――という気持があった。――山口に航空部隊を指揮させ、その他の部隊は、山本長官が自ら大和で指揮をとる、ということは、参謀長の自分が、実際上の戦闘の采配をふるうのだ――という気持が宇垣にはあった。
宇垣の四十期は、きわめて意気壮《さかん》なクラスで、山口多聞のほか、大西滝治郎(終戦時、軍令部次長、八月十六日割腹自決)、福留《ふくどめ》繁(連合艦隊参謀長、終戦時、第二航空艦隊司令長官)、寺岡謹平(終戦時、第三航空艦隊司令長官)などを輩出し、生徒時代から活気があった。
真珠湾攻撃のとき、宇垣は、南雲が、空中攻撃隊の第一撃(第一波、第二波)に成功したのにもかかわらず、第二撃で戦果を拡大しないことに不満であった。事前の攻撃計画で、「第一撃が終われば、避退すべし」と定められてあったにもかかわらず、である。
宇垣の大著「戦藻録《せんそうろく》」には、十二月九日の項に、
「僅に三十機を損耗したる程度に於ては、戦果の拡大は最も重要なることなり。(中略)但《ただし》自分が指揮官たりせば、此際に於て、更に部下を鞭撻して、真珠湾を壊滅するまでやる決心なり」
と、感想が記してある。宇垣は、その最後が示すとおり、積極的で、不屈の意志を具《そな》えた提督であったが、傲岸な点があったのは、部下の参謀たちも認めるところである。
宇垣のボヤキを耳にした山本は、
「見えんのじゃないか」
と、言った。
データが少ないので、このへんの気象は予備知識が多くない。こちらは晴れているが、向こうは雲が多いのかも知れない。
山本は、宇垣とは違って、南雲にはある種の同情を感じていた。真珠湾攻撃を立案したとき、彼は信頼する米内《よない》光政を訪れて、計画を話した。米内は重苦しい調子で言った。
「その方法しかない、ということはわかるが、誰が指揮官で行くかね」
「私がゆきます!」
「君が!?……。ではGF(連合艦隊)はどうするかね?」
「閣下に指揮をとっていただきます」
「なに、わしが……」
驚いたように眼をしばたたいた後、米内は言った。
「オール格下げ、というわけだな。しかし、君、そんな必要はあるまい。日本海海戦の頃とは、通信の普及度が違う。広島湾にいても指揮はとれる。ハワイの指揮官は、だれか行き足《ヽヽヽ》(前進力)のある男を出したまえ。それよりも、奇襲が、だまし討ちにならんように、国際法を勉強しておいたらどうだ」
それで会見は終わった。
昭和十六年の春、極秘裡に機動部隊を編成するにあたって、参謀長に内定した草鹿竜之介が、長門《ながと》にいる山本のところにやって来た。
「長官! 1AFのチーフには、飛行機の大エキスパートか、それでなければ、全然、飛行機のわからん人をいただきたいのですが……」
「飛行機のわからん男の方がいいかね」
「はあ、なまじっか、中途半端な知識で口を出されると、現場はやりにくいのです」
「それは、おれのことじゃないだろうな」
山本は冗談を言った。
「長官、まじめに話を聞いて下さい」
「うむ……」
山本の航空に関する経歴は、海軍大佐以降である。霞ヶ浦航空隊の教頭を勤め、赤城の艦長を経て、航空本部長を勤めている。
草鹿は、大正十五年、海軍少佐で海軍大学校卒業後、霞ヶ浦航空隊勤務となり、以後、軍令部航空参謀、空母鳳翔《ほうしよう》、同赤城艦長を歴任。昭和四年にはドイツ飛行船ツェッペリンに同乗して太平洋を横断した経験を持っている。
長門を辞去すると、草鹿は東京にとんだ。海軍省人事局第一課に、同期の川口義正がいた。草鹿は、山口多聞や宇垣より一期下の四十一期である。草鹿は、川口にも同様のことを頼みこんだ。温厚な川口は了承した。
そして、実現したのが、南雲司令長官である。実直な南雲は、大任に感激したが、真珠湾攻撃の計画を聞くと、山本のところに赴き、反対の意を表明した。理由は、長距離を隠密裡に航行することが困難である。真珠湾に敵がいるかどうかわからない、というふうなことであったが、結局、山本に押し切られた。草鹿は、南雲に同調するような顔でひかえていた。肚は決まっているつもりであったが、南雲にそう言われると、心配になって、山本にダメ押しをしたりした。周囲の幕僚は、草鹿も反対なのか、と思ったのである。
大和の艦橋で、山本はそのような事情を、胸のなかで反芻《はんすう》していた。――南雲はやりにくいだろう、しかし、黙って幕僚に任すことの出来る男だ。あいつの取柄はそこだ。おれも南雲に任せた以上は、口出しは慎むべきだろう――山本はそう考えて、腕を組み、南海の洋上に浮遊する断雲をみつめていた。
三
同じ頃(日本時間六月三日)、ミッドウェーの北東三百二十五マイル(六百キロ)の海面で、思案にふけっている一人の提督があった。その名は、レイモンド・A・スプルアンス。アメリカ海軍においては、とりたてていうことのないような、砲術科士官、いわゆる大砲屋であった。つい十日ほど前まで、彼は、自分がアメリカの、ひいては、日本の運命を左右するような熾烈な航空戦を指揮するようになろうとは、夢にも考えていなかったであろう。
スプルアンス少将は、“鬼のハルゼー”もしくは、“ワイルド・モンキー”とあだ名されるハルゼー中将の部下であった。日本の利根、筑摩《ちくま》をひきいた八戦隊司令官の阿部弘毅少将のように、スプルアンスの任務は、巡洋艦や駆逐艦をひきいて、空母の護衛をすることであった。
ところが、ハルゼーが、エンタープライズ、ホーネットをひきいて、珊瑚海海戦の現場に駆けつけ(実際には間に合わなかったが)、五月二十五日、ニミッツの指令で真珠湾に入港したときは、重い皮膚病にかかっていた。口の悪い部下は、“人殺しハルゼー”が、部下をきたえすぎたので、罰が当たったのだ、と言ったり、航海中に発病するとは、タチの悪い病気ではないか、とかげ口をきいたりした。
何にしても、ハルゼーは、ヤマモトとナグモの艦隊が近づいて来るので、気が気ではなかった。とくに、十二月七日、彼が留守をしている間に、真珠湾を叩いたナグモとは、是非、お手合わせを願わなければならぬ、と考えていた。しかし、肌の痛みは、その戦意をも喪失させるほどに甚だしく、皮膚はただれて、“ワイルド・モンキー”は、“オールド・モンキー”と呼ばれるほどに憔悴《しようすい》していた。
真珠湾で待っていた太平洋艦隊司令長官ニミッツは、ハルゼーの顔を見ると、入院を命じた。当然のように、ハルゼーは抗議した。“リメンバー・パールハーバー”を具現化出来る最高の機会である。
「ニミッツ、あんたは、おれに死ねというのか」
ハルゼーは、ただれた顔を、ひきつらせて、我鳴《がな》った。しかし、ニミッツは冷静だった。
「ビル(ハルゼーのこと)。よく聞いてくれ。おれは、君のためを思って言っているのではない。君が皮膚病のまま前線に出て行くと、きっと途方もない命令を下す。その結果は、ヤマモトや、ナグモが笑うだけだ。ミッドウェーの線を破られれば、ハワイも危い。ビル……。おれは、ハリウッドのスターが、日本のパイロットに媚《こ》びを売りつつダンスをするのを見たくない。理由はそれだけだ。誤解しないで欲しい。ビル……」
ハルゼーは、声をのんで、この友情にあふれた先輩の顔を見守った。別れぎわに、テキサス生まれのチェスター・W・ニミッツは言った。
「ビル……。おれの故郷ではな、その手の皮膚病には、馬のミルクを醗酵させたバスに入ると効くというぜ」
「ありがとう、チェスター。おれは、カメハメハの銅像に誓って、そいつを実行するぜ」
ハルゼーは、そういうと、長官室を出た。
事実、彼は、カリフォルニヤから、馬のミルクをとりよせて、入浴を試みた。そして、皮膚病は治らなかった。
日本の“人殺しの水雷屋”ナグモに対して、アメリカの、“お嬢さんのような大砲屋”スプルアンスが、両機動部隊をひきい、ミッドウェーをはさんで対決することになったのである。
ニミッツは、スプルアンスを呼ぶと言った。
「いいか、英雄になろうと思うな。君が英雄になっても、アメリカが負けては、何にもならん。勝とうと思うな。刺し違えろ。しかし、フィフティ・フィフティはいかん。向こうは四隻、こちらは二隻だ。こちらが沈んでもいい。向こうの全飛行甲板を叩け。今、ヨークタウンが、修理中だ。うまく行けば、つまり、ナグモが、予定通り六月三日以降に戦場に到着するならば、ヨークタウンが間にあう」
「ナグモの空母が見つからないときは、どうしますか」
「そのときは、ヤマモトを叩け。七万トンのヤマトに乗って、ナグモの後方、三百マイルに続いているはずだ」
「ヤマモトが……。何のためにヤマモトが出て来るのですか」
「戦争見物だろう。それとも、戦地加俸が欲しいのかも知れん。何にしても、ヤマモトをつぶせば、日本軍は後退する。知っているだろう。アパッチでも酋長を殺されれば、旗を巻くんだ」
テキサス生まれの長官は、きわどい所で、シャレを飛ばした。
スプルアンスが退出しようとすると、ニミッツが呼び止めた。
「レイモンド……。わかってくれるかね。私の心臓は、いま、少女のようにふるえているが、それは喜びのときめきではない。一つだけ言っておく。サラトガが、修理を終わり次第、サンフランシスコからミッドウェーに向かうことになっている。早ければ、六月六日には、ミッドウェーに接近出来るだろう。それまで、何とか持ちこたえてくれ。病院で待っているビルを落胆させないで欲しい」
ニミッツは掌をさし出し、スプルアンスはそれを握り返した。
このようにして、スプルアンスは、アメリカ海軍が可動し得るただ二隻の空母、エンタープライズと、ホーネットを連れて、五月二十五日、真珠湾を出港した。
エンタープライズの艦橋で、双眼鏡を手にしたスプルアンスは、何げなく陸上を振り返った。二つの視線が、彼の背中を刺していた。ワイルド・モンキー・ビルと、テキサスの赤馬(顔が赤い)ニミッツの二人であった。しかし、スプルアンスは、双眼鏡を眼に当てようとはしなかった。ニミッツが、与えた言葉が、彼の背中にのしかかっていた。――英雄になろうと思うな。刺し違えろ――。
そのときスプルアンスの出港を見守っている、いま一人の男がいた。第十七機動部隊――といっても、ヨークタウン一隻であるが――を指揮するフランク・ジャック・フレッチャー少将である。ヨークタウンは、ドックのなかにいた。珊瑚海海戦で、ヨークタウンは、二発の至近弾と、一発の直撃弾を受けていた。
ニミッツは言った。
「六月三日までにミッドウェーの戦場に到着するには、五月三十日までに修理を完了せねばならぬ」
ヨークタウンの艦長、バックマスター大佐は、いとも気軽に答えた。
「アイ、アイ、サー」
ニミッツは、明らかに怒っていた。彼は、バックマスターがふざけていると考えていた。(しかし、実際に、ヨークタウンは、五月三十日の朝、出港し、六月五日の海戦には間に合ったのである)
フレッチャーの悩みは、別のところにあった。彼は、スプルアンスよりも先任であった。ハルゼーが入院した以上、ミッドウェーにおける指揮は、自分がとらねばならない。倒れるなら、スプルアンスと共に倒れるべきだ、と彼は考えていた。
スプルアンスは、エンタープライズ、ホーネットからなる第十六機動部隊をひきいて、六月一日午後、ミッドウェーの北東、六百二十五マイルに位置した。
六月二日は、天気が悪かった。雨雲が低く、視界が悪かった。しかし、午前九時、ヨークタウンの索敵爆撃機(SBD・ダグラス・ドーントレス)が雲間から現われ、バンク(翼を左右に振ること)をしながら、エンタープライズに接近すると、飛行甲板の上に赤い報告球を落とした。整備員がひろって、艦橋に届けた。飛行長がひらいて、報告した。
「本日、午後四時、ラッキー・ポイントに到達の予定。フレッチャー」
ラッキー・ポイントとは、まさにスプルアンスがいるその地点である。スプルアンスは微笑した。――これで三隻だ。悔いのない戦いが出来よう。敵は四隻だが、こちらには、情報という味方がある――。
ミッドウェーに参加した米海軍将兵の間では、“ラッキー・ポイントにおけるランデブー”ということばは、長く忘れられないことばとなった。
そして、六月三日(日本時間)午前十時、スプルアンスは、ラッキー・ポイントの近くを往復しながら、情報を待っていた。
――予定通り、ラッキー・ポイントでランデブーすることが出来たが――とスプルアンスは、前夜の霧で湿った飛行甲板を往復しながら考えていた。――果たして、この地点がラッキー・ポイントになるかどうか、わからない――彼の危惧《きぐ》はそれであった。
ニミッツは、はじめ、ミッドウェーから、さらに西に進出して、いち早くナグモを捉《とら》えるように指令した。それに対して、スプルアンスは、ミッドウェーの手前、すなわち、ラッキー・ポイントで待つことを提案した。彼は言った。
「敵は、AFすなわちミッドウェーを襲うという情報であるが、敵が果たして最後までミッドウェーに来るかどうか、私は疑ってかからなければならない。わが方の企図に気づいた場合、ナグモは剣を返して真珠湾に向かうかも知れない。それでは、われらは、二階へ上げられて、梯子をとられたようなものである。加うるに……」
と、彼はニミッツの顔を見ながら、まじめな顔をして言った。
「私の部下には、ハワイに妻子をおいている者が多い。ハワイを気にしていては、満足な戦いは出来ない。その点、ミッドウェーの北東ならば、いつでも、ハワイに戻れる。本当にナグモが出現したら、全速で西に進みましょう」
ニミッツは驚いてスプルアンスの顔を見た。
「スプルアンス……。わしは、もう少しで君を尊敬してしまうところだった。このプランをビルに知らせてやりたい。少なくとも、三十分間は、痒《かゆ》みが止まるだろう」
こうして、彼はニミッツとラッキー・ポイントを協定したのだった。――もし、ナグモが南西から接近したら――その時は、味方の索敵機に、全幅の信頼をおくよりほかはないのだった。
スプルアンスには、いま一つの心配があった。フレッチャーが先任指揮官で、この作戦を指揮するのであるが、結局は自分のエンタープライズとホーネットが、作戦の窮極を決するだろう、と彼は予測していた。ヨークタウンは、真珠湾で応急修理をして出て来たが、全速で二十七ノットしか出ない。加うるに、珊瑚海海戦で、搭乗員の大部分を損耗して、サラトガの搭乗員を緊急補給している始末である。――一体、サラトガの飛行甲板には、何を載せるつもりだろう――乗員は、珊瑚海から帰ったら、サンフランシスコのチャイナタウンでビールが呑めると考えていたのに、一歩も上陸外出を許されず、突貫工事で、修理をして、再び新しい戦場に向かって来たのである。多くは期待出来ない。
そこへ行くと、こちらにはエンタープライズ爆撃隊長のマクラスキー少佐、ホーネットの雷撃隊長、ウォルドロン少佐などのような、聞こえたベテランがいる。――結局、マイ・サイド(こちら側)で、結着をつけねばなるまい――と考えながら、スプルアンスは、搭乗員待機室に入ると、トランプをやっていた一人の将校に訊いた。
「長期間飛行した場合、のどが渇いて、照準が狂うということはないかね。マクラスキー?」
「ありませんね。司令官。その先に敵さえおれば……。早く鳥の糞(爆弾)を当てて、帰ってアイスクリームでも呑もうと思うだけでね……」
Indomitable=“人のいうことをきかない”という評判のある、この爆撃隊長は、そう答えた。スプルアンスはうなずいた。彼は、新しく艦に積みこまれた、のどのかわかない薬、という新兵器の効果について考えているのであった。十日前まで、飛行機と搭乗員について、小学生程度の知識しか持ち合わせていなかった彼は、このようにして、即席の勉強をしているのであった。
搭乗員たちは、大砲屋や水雷屋から航空部隊の司令官に転任して来た司令官を、“ブラック・シュー・アドミラル(黒靴の提督)”と呼ぶ。パイロットはみな飛行靴をはいているが、大砲屋は、艦上で黒靴をはいているからである。
このとき、パイロットたちは、搭乗員待機室を出て行く司令官の後姿を見送った。彼らは、多かれ少なかれ、憐憫《れんびん》の情にかられていた。空母は、搭乗員を戦場に運ぶためにあるのであって、司令官の初度訓練をやるために走っているのではない。しかし、不思議なことに、提督は、茶色の飛行靴をはいていた。
スプルアンスより、四キロ北西方に占位したフレッチャーは、かなり暗い気持でいた。その理由は、スプルアンスの項で述べた通りである。彼が、日本の機動部隊接近を聞いたとき、すぐ考えたのは、レキシントンのことであった。レキシントンは、彼の双眼鏡の視野のなかで、珊瑚海に巨体を沈めたのである。しかし、仇討ちは容易ではなかった。早急な修理、そして、搭乗員の方も応急修理的な補給であった。現に、サラトガから移って来た若い少尉は、ヨークタウンは狭いので、着艦が難しい、などとボヤいている。
しかし艦橋では、老練なバックマスター艦長が、司令官の気持を察するかのように、拡声器で、与太をとばしていた。
「いいか、みんな。恐らく明日あたりは、この海面で、女の腐ったようなつねり合いが始まる。そこでJAPをやっつけたら、今度こそ、本当に、フリスコ(サンフランシスコ)でも、ロスでもいい。たっぷり本物の女と酒を味わってもらうぞ!」
艦内の各所では、喝采と笑声が湧いているはずであった。
四
六月三日(日本時間)午後一時十五分、日本の機動部隊は、針路百三十五度(南東)に変針し、ミッドウェーに指向した。
旗艦赤城の右の方、つまり、南西三キロを航行中の、第二航空戦隊旗艦、飛竜の士官室では、搭乗員の若い士官たちが、談笑していた。
飛竜の士官室で最も若いのは、この春、大尉に進級したばかりの海兵六十六期、橋本敏男(艦攻)、重松康弘(戦闘機)、近藤武憲(艦爆)の三人であった。(六十六期は、筆者より二期上で、橋本大尉は、筆者が三号のとき、二十七分隊の一号、また、近藤大尉は、筆者が霞ヶ浦航空隊の飛行学生当時の教官であった)
「おい、三人そろっているところで、クラス会をやろうや。まんじゅうとラムネだが、まあいいだろう」と近藤が言った。
三人は、機動部隊の他の各艦に乗っている同期生の噂話を始めた。
「赤城は後藤仁一が飛行士だったな」
「大淵圭三と葛城丘が加賀にいるよ」
「蒼竜が藤田怡与蔵《いよぞう》と山本重久か……」
「一番のんびりしているのは、シモデンさ。あいつは今頃、横須賀空の士官室で居眠りをしているだろう」
「内地は、今頃昼飯の時間だろう」近藤が腕時計を見た。
ミッドウェーは、東京より三時間日の出が早いが、便宜上艦隊は東京時間を使っている。
「シモデンの奴、バクバク食っているだろうな」
シモデンこと下田一郎は、艦爆操縦員で、赤城の艦攻操縦員山田ショッペイこと、山田昌平と並び称される巨漢で、柔道三段、機動部隊の名物男だった。シモデンは、飛竜乗組で真珠湾、印度洋と戦ったが、この作戦の前に、同期の近藤と入れ代わり、横須賀航空隊に転任したのであった。巨漢で大食漢のわりに、操縦がうまく、ぬうっとしたところがあって、皆から愛されていた。
「藤田の鬚も少しは伸びたかな」
「うん、あいつ、何を思ったか、妙な鬚を伸ばし始めたな」
蒼竜の戦闘機隊にいる藤田は、宮崎県富高の基地にいるときから、口鬚と頬鬚を伸ばし始めた。一説には、別府にいた小糸という芸者と仲がよくなり、鬚を生やせば、弾丸《たま》に当たっても生きて帰れるといわれて、伸ばし始めたといわれるが、定かではない。
「おれは、このまんじゅうを見ると、シモデンのふくれた顔を思い出すよ。あいつは、別府の『なるみ』で、フグを大皿に一杯は軽く食いよったからな。フグ提灯を思い出すな」
近藤は、宇佐の航空隊で、艦爆の飛行学生であった頃、下田や岩下豊(後、石丸と改姓、南太平洋海戦で戦死)と一緒に、よく別府の料亭「なるみ」にフグの刺身を食いに行ったので、フグの味をもふくめて、シモデンを懐しがっていた。
「いや、シモデンといえば、あのことを思い出すな。あいつと一緒に、沖繩近海で、加来《かく》艦長に殴《なぐ》られたことを……」
橋本はそう言って、重松の顔を見た。
重松は、にやりとした。
一カ月半前の、四月十八日、機動部隊が印度洋から内地へ帰る途中、比島沖まで来たとき、ドーリットルの東京空襲の報が入った。大本営は、南雲部隊にホーネット追撃を下令した。空母部隊は、急遽北東に進路を変え、沖繩東方四百キロの南大東島の近くまで高速で進出した。その頃、すでにホーネットは、ハワイに向かって、はるか東方に去っていたが、機動部隊では、再度の敵襲に備え、「合戦準備」を下令し、戦闘に対する即時待機に入っていた。
戦闘機と艦爆は、印度洋の戦闘のとき、被弾した機の修理が終わったので、試飛行をやることになった。試飛行は、普通、若い士官である分隊士が行うことになっている。
艦爆にあまり乗ったことのない橋本は、この機会に、下田の後席に乗って発艦することになった。戦闘機の試飛行は、重松であった。この試飛行は、同期生ばかりでやることになったので、彼らは茶目気を出し始めた。
「おい、俺は実包(実弾)を積んで行って、二十ミリの試射をやりながら、貴様の襲撃をやるぞ」
重松がにやにやしながら言った。
「よし、それなら、俺も七ミリ七に、実包をつめて射《う》つぞ」
橋本も、半分本気で、やりかえした。
「よし、本物のアイスキャンデーをくらわせてやるぞ。上にあがってから、後悔するな」
重松が少し真顔になって言うと、
「おい、本当に実弾でやるんかあ……」
下田が、間のびした声で言った。
「本当さ。重松がやるなら、こちらもやるぞ」
橋本はかなりむきになって言った。
そのとき、艦長の加来大佐は、艦橋から降りて、飛行甲板にいたので、三人の会話を聞いていたが、冗談だと思って聞き流していた。
しかし三人は、実際に実包をつめると、喧嘩腰で飛竜から発艦した。
北緯二十五度附近であるが、天候はあまりよくなかった。密雲が高度三百から五百くらいのところに垂れこめて、雲の下では襲撃訓練は出来そうになかった。
重松と下田の機は、雲のなかを計器飛行でくぐり抜けて、雲の上に出た。雲の厚さは二百メートル以上あると思われた。下田と橋本の乗った艦爆が水平飛行で、エンジンを試験していると、重松の機が後上方から襲って来た。重松は本当に実弾を発射したらしく、青い曳痕弾が、橋本の機の右前方を通り抜けた。ふりむくと、弾跡が、アイスキャンデーのように見えた。
「畜生!」
橋本が七ミリ七を構えて、重松の零戦に照準を合わせようとすると、重松の機は、軽々と、右に反転し、青白い腹を見せながら、後方へ飛び去った。
大きく旋回すると再び、重松の機は、橋本機の後上方に占位した。今度は、二十ミリ弾の赤い曳痕が流れた。
「重松のやつ、いい気になりやがって……」
橋本は、七ミリ七の旋回機銃を、重松機の近くに向けて、引き金をひいたが、弾丸は出なかった。重松は、零戦の駿速《しゆんそく》を示して、何度も襲撃を繰り返した。心地よさそうだった。
橋本は、操縦席の下田に言った。
「おい、シモデン、機首にある七ミリ七で、重松を墜《お》としてしまえ!」
九九式艦爆の機首には、七ミリ七の固定機銃が二挺あった。
「冗談いうない。零戦に勝てっこねえよ」
下田は、のんびりした声でそう答えた。
いつの間にか、二機は母艦の上空を離れていた。
「おうい、もう試飛行は終わりだ。ぼつぼつ降りようぜ」
下田の声で我に返り、橋本機が雲のなかを下降すると、重松もついて来た。しかし、雲の下に出てみると、機動部隊は大きなスコールの下に入っており、飛竜は見えなかった。
九州の基地までは、五百キロそこそこなので、橋本は、母艦の出現を待つべきか、九州へ飛ぶべきか迷っていた。重松は早目に見切りをつけ、翼をひるがえすと北上した。長さ二百五十メートルの空母を探すよりも、九州の陸地を探した方が間違いがなさそうである。
橋本は何度も無電を叩いては母艦の通信室を呼び出し、やっとスコールから出た母艦の位置を確かめ、着艦した。
艦橋に報告に行くと、加来艦長は、重松の安否を気づかっていた。「航法がまずいから、母艦を見失うのだ」と言って、叱られるかと橋本は思っていたが、そのときは何もなかった。
二時間ほどして、大分航空隊から、重松の機が着いた旨の電報が入った。加来は、下田と橋本を、艦長休憩室に呼んだ。
「本艦には、この四月大尉に進級した飛行科士官は、君たち三人だけだ。君たちが若くて元気、いつも明朗なので大いに頼もしく思っていた。しかし、下士官兵のいる前で、実包を射ち合うと言ってみたり、いつまでも雲の上で遊んでいて帰るのを忘れたり、ふざけていてはいけない。もう、子供じゃないんだ。本日は、本艦の若い飛行科分隊士の全部を失ったかと思って、非常に心配した。司令官も非常に心配しておられた。今後、こういうことのないように、艦長が睡気ざましの活を入れてやる。一人ずつ出て来い」
加来止男《かくとめお》は、非常に部下思いであったが、厳格で、典型的な海軍将校であった。骨格が大きく、肩幅が広く、がっしりした体格をしていた。彼はその広い肩を大きくゆすると、一発ずつ、下田と橋本の頬に鉄拳を与えた。士官が士官に殴られることは珍しい。しかも、艦長が大尉を殴るということは、滅多にない現象であった。二人とも、兵学校を出て以来、久方ぶりに頬に衝撃を与えられたので、痛いよりも懐しい気がした。ことに、下田は、江田島では強く殴るというので有名だったので、艦長の鉄拳は、大したことはねえな、などと考えながら、やはり、古巣に帰ったような気がしていた。
「おい、重松、あのときは貴様が一番うまいことをしたぞ」
橋本は、艦長の鉄拳を回想して、頬をなでながら言った。近藤も言った。
「重松、貴様、別府にインチ(馴染)のエス(芸者)がいたんだろう」
「いや、大分にエンゲ(婚約者)がいたんで会って来たんだ」
「うまくやりやがったなあ、大分に降りんでも、鹿屋という近い所があったのにさ」
「いや、雲の切れ間から降りてみたら、偶然そこが大分だったというわけさ」
「うそをつけ! 計画的な偶然だろう」
「しかし、重松は殴られんでうまいことをしたよ」
「冗談をいうな、艦に帰ってから、艦長に呼ばれて、三つ殴られたぞ。なぜ、艦爆と行動を一緒にせんかと言われてな。貴様とシモデンは、一発だろう」
「そうか。三発やられたんか。それならよろしい」
「何を今ごろ言っているんだ」
三人が女学生のように語りあっていると、
「にぎやかだね、クラス会かね」
艦攻隊長の友永丈市大尉が、少しうらやましそうに顔を出した。
「隊長! 明日はよろしくお願いします」
橋本は明朝の陸上攻撃に、友永機の偵察席に乗るので、そうあいさつした。
「いやあ、おれの方が本艦は初めてなんでなあ、よろしく頼むぜ、うっふっふ……」
友永は、陽灼《ひや》けした厚い皮膚をたるませて、テレ臭そうに笑った。
士官室の奥の方、つまり上席の方では、副長の鹿江隆中佐が、鼻下の髭をなでながら、飛行長の川口益中佐と話していた。副長は応急(防火、防水)指揮官であり、いまのところは、手持無沙汰であった。司令官の山口多聞少将は、艦長の加来止男大佐と共に艦橋にあった。
そのかたわらに、むっつりと押し黙った男が、体を斜めにソファにもたせ、まずそうに煙草を吸っていた。よく肥《ふと》っており、ほとんど陽に灼けていなかった。顔の色が蒼白くむくんだようで、不健康そうな小皺が眼の下にたるんでいた。彼は、不機嫌そうな眼付で、かたわらの人々を、横目で眺めたり、時々だるそうに、尻をゆらゆらと揺すぶったりした。機関長の相宗《あいそう》邦造機関中佐で、京都の公卿の出身であり、家柄のよいのを自慢にしていた。
そこに、黄色いラミー地の作業服をつけた背の高い士官が入って来た。
彼は、かなりやせていたが、敏捷そうな体つきをしていた。浅黒い頬に濃い鬚が一分ばかり伸びていた。機関科分隊長の梶島栄男《よしお》機関大尉であった。
「何だ、こんなところにいたんですか、機関長!」
梶島は、むっとした調子で言った。彼は戦闘運転について、機関長附の万代少尉や、先任下士官の松岡兵曹と打ち合わせをしていたが、いつの間にか機関長がいなくなったのであった。
「困りますな、肝心のときに機関長、あんたがいてくれなくちゃ……」
梶島は眉をしかめながら、相宗のそばに坐った。彼は鹿児島県士族の出身で、父は東京の中学校長を勤めていた。海軍兵学校出身者より、海軍機関学校出身者の方が頭がよい、というのが彼の持論であった。
海軍機関学校の試験は十月であり、兵学校は十二月の終わりである。兵学校の試験の前に、機関学校の試験の発表がある。機関学校に合格した者は、それを辞退しなければ、兵学校を受験することは出来ない。これは、自由選択にすると、優秀な少年の大部分が江田島を志願するので、舞鶴の機関学校にも、人材を吸収するための一方策であったと考えられる。梶島の経験によると、機関学校を落第した後、兵学校に合格した者は少なくない。兵学校は、機関学校の四倍近く採用するからである。従って、機関学校生徒の方が、兵学校生徒よりも、一般的に言って頭がよい、と言えるのであった。
梶島は東京の名門校である新宿の府立六中を卒業していた。海軍機関学校に合格したとき、彼はこれをキャンセルして、江田島を受験しようか、と考えたことがあった。しかし、結局、彼はそれをしなかった。江田島に自信がなかったためではなく、海軍ならば、どれでも同じであろう、と考えたのである。
しかし、機関学校を卒業して、乗艦してみると、すべては彼を落胆せしめた。軍艦を指揮する艦長も、艦隊を掌握する司令長官も、すべて江田島出の兵科将校に限られている。最も肝心なことは、部隊の統帥《とうすい》権というものは、兵科将校に限られるので、機関科士官には、戦闘を指揮する権限は与えられない。補助業務として機関を運転するので、要するに罐焚きなのである。
そして、もっと梶島を悲しませたことは、機関科士官は中将にまでしか進級出来ず、彼が憧れた東郷平八郎のような、大将には昇進出来ない規則になっていることであった。
自分より頭の悪い江田島出に指揮されて、罐を焚くことの割りの悪さを思うと、彼は時々不機嫌になった。筋の通った鼻がつんと高く、プロシャの貴族を思わせるプライドが、鼻のあたりに漂うことがあった。
彼は、険しい声音で相宗中佐に言った。
「機関長! あの当直配置じゃ、敵襲が長引いたときに交替がうまくいきませんよ。それに、司令部の言うように、朝から晩まで、全速即時待機じゃ、参っちまいますよ。適当に敵状と、上部の戦闘状況を知らせてもらって、それにマッチするように精力を配分しなくちゃ……。いざというときに、ヘバって力が出なくてもいいんですか」
「うむ……。しかし、司令部の決めたことにタテつくわけにもゆかんが……」
相宗機関長は、相変わらず、体を斜めに傾けたまま、ぶすりと言った。デッキ(兵科将校)が、エンジン(機関科)に無理を言うのには、彼は慣らされて来ていた。抵抗しても無駄なときが多いことも知っていた。しかし、梶島には、それが、卑屈な服従というように受けとられるのであった。どうして自分たちよりも頭の悪いデッキオフィサーに、このように無理難題をふっかけられねばならないのだろうか。
「司令部の言う通りにやっておけば、罐が爆発して、艦が沈んでもいいと言うんですか。駄目ですよ、機関参謀なんか、実戦で痛い目にあったことがないから、なんでも全速待機にして走り回っていりゃいいと思っている。実際、司令部というのは頭が悪い……」
「おい、そう大きな声を出すな。まあ、君のいいように立案してみたまえ。僕は、乗艦したばかりで、航空戦闘のことはよくわからないんだ」
機関長は、物憂げに答えた。彼は、貴族の出にふさわしく、胃腸が弱く、この日も朝から下痢気味で、下腹が痛むのであった。
「いいようにやれと言ったって、機関長、あんたが司令部に言ってくれなけりゃ、私のような平分隊長の一大尉がいくらわめいたって、誰も本気にとりあげてくれやしませんよ」
梶島大尉は、言い終わると、唇をひきしめたまま、右の拳骨《げんこつ》で、テーブルを、ごつんと叩いた。
「じゃあ、機関参謀に会ってみるか」
相宗は、かったるそうな態度で、顔をしかめながら立ち上がると、士官室を出て行った。
「おい、やるなあ、貴様……。徹底的に機関長を痛めよるじゃないか」
艦攻分隊長の角野《かどの》博治大尉が、笑いながら話しかけた。角野と梶島はコレス(コレスポンデント=兵学校と機関学校の同期生)であった。
「機関長は、人が好すぎるんだ」
梶島は、半ば笑うように顔をゆがめると、黒い戦闘帽を手にとり、士官室を出た。機関室に通ずる、長い、垂直のラッタルを降りにかかると、彼は重苦しいものを背中に感じながら、一歩一歩階段を降りて行った。
相宗中佐は人事部などのデスクワークが長く、航空作戦の経験はなかった。早ければ、明日からは、敵との遭遇が予想される。実戦の場合、戦闘運転の全責任は、事実上、梶島の双肩にあるのだった。彼は初対面から相宗と気が合わなかった。先刻、梶島は、角野に、機関長は人が好すぎる、と言ったが、実際は、ムシがよすぎると言いたかったのである。相宗は空母の機関の実状にうとく、それでいて勉強せず体の調子が悪いと部下に小言を言った。調子のよいときは、やさしく、若い機関長附の万代少尉をねぎらったりするのだが、それが梶島には、実戦向きでないようにうつった。
相宗はこの五月、飛竜が内地を出撃する前に乗艦したのだが、最初に梶島に言ったことばは、
「やあ、今度は僕も、金勲をもらいに来たよ。仕事の方はよろしく頼むよ」
というあいさつだった。
梶島は反撥を感じた。
前任の機関長井上中佐は、真珠湾や印度洋の作戦に参加したため、特賞(殊勲甲)で、多分功三級位をもらうことになっていた。井上は相宗より機関学校の成績が悪かった。それが特賞をもらうのであるから、当然、自分も、もらう権利があると、相宗は考えていた。ただ、ミッドウェーが、わりに容易な作戦らしいので、海戦らしい海戦もなく占領してしまうと、特賞はもらえないのではないかと、相宗はそれを心配していた。
相宗が着任してから数日たったある日のことであった。梶島は、当直の合間に、いつも相宗がいるあたりにねころんで、雑誌を読んでいた。偶然入って来た相宗は、自分の席にいる分隊長を見ると、難しい顔になった。機関長は、副長と並んで、士官室の一方の長なのである。
「おい、梶島君。若い士官が何だ! そのざまは……、少しは戦闘運転のことでも勉強しておきたまえ!」
相宗はそういって怒鳴りつけた。
この一事で、梶島は完全に相宗が嫌いになってしまった。この男が金鵄勲章をもらうために、おれが戦闘運転の訓練をきびしくやる必要があるのだろうか……。彼は、そう疑問を感じながら、長いラッタルを降りた。
機関科指揮所になっている、右舷後部の機械室に入ると、梶島は、運転台にいる先任下士官の松岡兵曹に声をかけた。
「どうかね、機械の具合は……」
「どんぴしゃりですばい、分隊長、三十六ノットでも出してみせますたい」
長崎生まれの兵曹は、太い八字髭をふるわせながら、大きくうなずいた。その自慢の髭にゴミがついているのを、梶島は見つけた。
「おい、松岡兵曹、大切な髭にゴミがついているぞ」
彼がとってやろうとすると、
「いや、待って下さい。女房にも、これだけはなぶらせんとですけん……」
松岡は、ポケットから小さな鏡を出すと、腰にはさんだタオルの端で、丁寧に髭の先を拭った。
窓ガラスで囲まれた機関科指揮所では、機関長附の万代少尉が、記録に眼をとおしていた。梶島は、万代に何か言おうとしてやめた。万代はまだ若く、相宗にかわいがられているので、梶島の言い分に同調しそうには思われなかったからである。
梶島は、一旦、機関科指揮所に入った後、外へ出ると、計器を見た。速力計は、第二戦速二十四ノットを示していた。艦隊は高速でミッドウェーに接近しつつあった。
機械室の後部では、回転する巨大なタービンの唸《うな》る音と、かすかな、しかし、規則正しい摩擦音を発する推進機軸の震動に、通風機から入って来る冷えた空気の音が入りまじって、単調で退屈な混合音を醸し出しており、これが睡気をそそった。
五
六月三日夜から、機動部隊は深い霧のなかに閉された。赤城からは、飛竜、加賀、蒼竜の姿が見えず、発光信号を用いても、前方を行く、利根、筑摩、榛名《はるな》などとの連絡がとれなかった。
四日早朝、赤城の艦橋では議論が戦わされた。
このままでは、攻撃予定日の五日をあすにひかえて、部隊の掌握が出来ない、と主張するのが、参謀長の草鹿少将である。通信参謀の小野少佐や、航空乙参謀の吉岡少佐は、今、電波を出すと、敵に位置を知らせるから危い、という慎重論である。
南雲長官は、腕を組んだまま、赤城の艦首をなめまわす濃霧をみつめている。
たまりかねた小野通信参謀は、下へ降りて、源田中佐の部屋を叩いた。航空甲参謀で、源田サーカスと異名をとった源田は、風邪をひいて発熱があり、航空作戦に備えて、自室で静養していたのである。
通信参謀の連絡を聞くと、源田はあわてて上着をつけ、
「今、電波を出しちゃいかん。決戦はあすだ。絶対に敵にこちらの位置を知らせてはいかん」
と叫びながら、階段を駆け登った。
しかし、艦橋へ着くと、無電はすでに発信された後であった。草鹿参謀長が起案し、南雲長官は、「よかろ」と言ったきりであった。――惜しいことをした。この霧を利用して接近すれば、隠密のうちに奇襲を加えることも出来たのに……。源田は唇を噛み、発熱で、頭の痛みがぶり返すのを覚えた。
しばらくすると霧が晴れ、全部隊が視野のなかに捉えられるようになった。落胆と不安で力を失った源田は、力なくラッタルを降りて行った。
ミッドウェーから発進したアメリカのPB2Y哨戒艇が、ミッドウェーの西方千三百キロの地点で、日本の輸送船と巡洋艦を発見したのは、この日、六月四日の午前六時二十五分である。日本軍のOB攻略部隊)である。発見したジャック・リード少尉は、まず、「輸送船および巡洋艦二十隻以上、東に向かう」と打電し、続いて、ミッドウェー基地からの要請に応じて、「戦艦および巡洋艦六隻、単縦陣で進行中」「輸送船は二十一隻」と打電した。
発見されたのは、近藤信竹中将がひきいる第二艦隊を中心とするOBの一部で、OBは、戦艦金剛、比叡《ひえい》の二隻、重巡八隻、駆逐艦十七隻、輸送船二十一隻を主体としていた。このうち二十七隻が発見されたわけである。
二水戦の旗艦神通《じんつう》では、後にソロモンの海戦で“タナカ・ザ・テナシアス(恐るべし)”とあだ名された田中頼三《らいぞう》司令官がこれを認めていた。神通を初め、駆逐艦雪風、初風などが発砲したが、高度が高く当たらなかった。
ミッドウェー基地では、直ちにB17部隊を発進させて、これを攻撃させたが、大きな戦果は上がらなかった。
ミッドウェー基地を中継として、この情報が、二千キロ北東にあるフレッチャーの無電室にキャッチされたのは、同日、六月四日の午前十一時であった。
「司令官! 敵発見です。突っ込みましょう」
バックマスター艦長は、はやっていた。彼は、エンタープライズの三十三ノットにくらべて、こちらが二十七ノットしか出ないことを、痛いくらい心得ていた。立ち遅れるのを彼は恐れていた。
「待て!」
とフレッチャーは言った。
「ワシントンの情報では、ナグモは北西から接近中だという。今のは空母部隊ではない。ナグモが来るまでは、こちらの手を見せるべきではない」
フレッチャーは、「待つのも戦いのうちだ」と言った提督のことばを思い出していた。ネルソンであったか、それとも、トーゴーであったかは、思い出せなかった。
同じ頃、ミッドウェーの北東にあって、ゆっくり西進する空母ホーネットの艦橋で、艦長のマーク・ミッチャー大佐は、緊張と幻滅の入り混った感じで、蒼黒い海のうねりを見つめていた。彼は、近く少将に進級する予定であった。(後に、レイテ沖で小沢艦隊を撃滅し、日本近海を荒し回った第五十八機動部隊の司令官として、彼の名は“悪名”が高い。「汚く戦え」というのが彼の口癖であった。バックマスターにとって、戦闘が“いじましいつねり合い”ならば、マーク・ミッチャーにとって、戦いは“汚い叩き合い”であった。汚い方が勝つのである)
彼はカーキの戦闘服をつけ、後に有名になった、ツバの長い戦闘帽をあみだにかむり、艦橋後部の発着指揮所から飛行甲板を眺めおろしていた。第八雷撃機隊長のジョン・ウォルドロン少佐が、部下のジョージ・ゲイ少尉をつかまえて、盛んに論議をしていた。彼らはアメリカ東岸、ポーツマス軍港に近い、ノーフォーク航空隊で、雷撃訓練を終わって、ホーネットに乗り組んで来たのであるが、実戦は初めてであった。もっとも、アメリカの空母搭乗員で、実際に魚雷を放った経験のあるのは、珊瑚海で戦ったレキシントン、ヨークタウンの搭乗員のほかにはいなかったのである。
ウォルドロンの姿を見おろしながら、マーク・ミッチャーは二カ月前、このあたりを航行したときのことを考えていた。ジミー・ドーリットル中佐の指揮した十六機のノースアメリカンB25双発爆撃機が、日本本土を空襲したのは、四月十七日(米国時間)であった。双発爆撃機の発艦について、サンフランシスコに近いオークランドの基地を出港するとき、ミッチャーは、ハルゼー提督及びドーリットルと、真剣に協議した。その結果、二十トンの爆撃機が、五百四十キロの全速を出すことが出来るならば、十五メートルの向かい風で三十ノットで航行する空母の甲板から発艦することは可能である、という結論に達したのである。実験は一回も行われなかった。発艦出来るという可能性は計算されたが、着艦出来るという成算はなかった。陸軍機であるB25の操縦員に着艦訓練を施している余裕はなかった。攻撃は成功し、一部の犠牲者を除いて、B25の搭乗員は、中国に着陸した。(ミッチャーは、この攻撃が、日本の大本営に、最終的にミッドウェー攻撃を決意させた、ということを知らなかった)
――あのときも初めての体験であった。今度の雷撃も初めての体験であるが……。ミッチャーは、神に祈りかけて、止めた。普段の言動からして、突然、神が彼を援助してくれるとは考えられなかったからである。
飛行甲板では、ウォルドロン少佐が、若いジョージ・ゲイ少尉に、雷撃の角度について説明していた。ウォルドロンは、ベテランの操縦員で、米海軍でも、獰猛《どうもう》をもって鳴る隊長であった。彼はテキサス生まれで、先祖にはアパッチの血がまじっており、彼はそれを自慢していた。月夜になると血が騒ぐと言い、彼はそれを、自分の先祖が狼の乳を吸って育ったためだと主張していた。
彼は腰のバンドに短い山刀をさし、拳銃は肩からのベルトで吊していた。眼の色は青かったが、いつも険しい眼付をしていた。
「おれは欠点の多い男だ。そのなかの一つは、カンに頼りすぎることだ。これは、おれの先祖が数学を習わなかったためだ」
彼はいつもそう言って自慢していた。
ウォルドロンは、自分たちがそれに乗って戦う雷撃機、ダグラス・TBDデバステーターが、地上で最も性能の悪い戦闘用の飛行機であることを知っていた。速力は最高で、百八十ノット(三百三十キロ)そこそこで、操縦性は鈍重であり、運んでゆく魚雷は、高速の空母をうしろから追い駆けた場合、追いつけるかどうか、自信が持てないほど遅かった。ただ一つ、彼が頼みにしているのは、後部電信席に新しく装備された二連装の新式機銃であった。ホーネットがパールハーバーに入港したとき、軍需部に日参して割り当ててもらったものであった。ところが、新しい二連装機銃は、旧型のデバステーター雷撃機の機銃台座にうまく合わぬため、兵器員の徹夜の努力にもかかわらず、十五機の雷撃機電信員の大部分は、機銃を自分の手で持ち上げて、腰だめで、射撃しなければならぬ実状にあった。
ウォルドロンは、ゲイ少尉に向かって言った。
「ゼロ(零戦)は、手持ちの機銃でやっつけろ。その方が回し易い。魚雷を発射したら、JAPの空母のデッキをのりこすんだ。帰りの燃料がなくなったら、燃料タンクのなかにツバを吐いて、自分の手でペラを回せ」
ジョージ・ゲイは、微笑して言った。
「私にも、アパッチのカンとやらいうものがさずかってもらいたいものですな」
一方、飛竜の士官室では、橋本たちのクラス会が続いていた。
「おい、橋本、貴様や重松はいいな。何しろ、ハワイ以来、実戦の経験があるんだからな」
近藤が二人を見ながら、うらやましそうに言った。
「なに、おれなんか、ベテランの操縦員のうしろに乗っかってゆくだけさ」
橋本は、少しはにかみながら、そういうと、笑った。
橋本は背がすらりと高く、鶴のようにほっそりしていた。色が白く眼の円《つぶ》らな顔は、年よりも一層若く見え、白い歯を見せて大きく笑うと、少年の面影があった。彼は明早朝のミッドウェー島第一次攻撃に参加することになっていた。
彼は、偵察員でハワイ、印度洋の実戦に参加した経験があり、真珠湾攻撃のときは、飛竜の第二中隊長として、淵田美津雄中佐にひきいられ、カリフォルニヤ型戦艦に水平爆撃を行っていた。
橋本は、明日の陸上攻撃には、新しく着任した友永丈市大尉(海兵五十九期)の後席に乗ることになっていた。友永は太平洋は初めてであったが、支那事変では長い実戦経験を持っていた。
橋本は艦攻分隊士と同時に、飛行士をも兼務していたので、明朝の搭乗割りや、航空図や、攻撃隊の編成や、攻撃の要領などを研究し、必要な航空図や糧食などを準備し終わると、飛行甲板の搭乗員待機室から、士官室に降りたのだった。
近藤と重松は、共に小柄だが、タイプはまるで違っていた。
近藤は頬骨が高く、眼がやや凹《くぼ》み、鬚が濃く、彫りの深い顔をしており、無口だった。(筆者の霞ヶ浦時代の受け持ち教官は、近藤大尉と同期の岩下豊大尉であったが、この人は気が短く、怒ると操縦《かん》をぐるぐる振り回す癖があった。近藤大尉は温厚で、怒った顔を見せたことがなかった)近藤のあだ名は、和製クーパーであった。
重松は丸顔で色が白かった。笑うとえくぼが出た。朗らかで、人を笑わせることがうまかった。白いあんぱんのような感じであり、あだ名は“おしげ”であった。舞妓のように、女性的なところがあった。
重松は、ハワイ以来の乗組で、運動神経のよい彼は、すでに十機以上のグラマンF4Fや、カーチスホークP40、ホーカーハリケーンなどを墜としていた。
近藤は霞ヶ浦の教官から転任し、実戦は今度が初めてなので、少し不安らしく、クラスメートに質問していた。
近藤はラムネを呑みながら、重松に訊いた。
「おい、敵さんの機銃弾がアイスキャンデーみたいに見えるっていうが、そんなものかい?」
「うむ、よく似ているな。曳痕弾や、焼夷弾が、黄になったり、赤になったり、青みがかったり、花火みたいで、なかなかきれいなもんだよ」
「あすは、相当猛烈に来るな」
「大丈夫さ、どれもこれも、自分に向かって来るような気がするけれども、自分の前まで来ると、みんな外れてゆくものさ。もし、外れてゆかないやつがいれば、つまり、アイスキャンデーを喰うだけさ、それでおしまいだ。簡単なものさ」
重松が、少し得意そうに説明した。
六
同じ頃、映画監督ジョン・フォードは、サンド島の水上機格納庫の近くで、ミッドウェー島防衛指揮官のシマード大佐と話し合っていた。シマードは、昨日の辞令で、臨時に大佐に進級していた。その辞令はこうなっていた。「ミッドウェー作戦中、大佐として勤務すべし」。シマードはその辞令の意味をよく知っていた。つまり、ミッドウェー作戦中に戦死するか、あるいはミッドウェー防衛の任を果たした場合は、大佐は据えおきで、ミッドウェーを占領され、捕虜になった場合は、中佐に降等するという意味のものである。
「大佐お目出度う」
と、あいさつした後、ジョン・フォードは言った。
「防空壕の入り口からでは、空中戦闘が撮影しにくい。あの格納庫の上に、カメラをあげさせてほしい」
シマードは、眉をしかめた。
「フォード、君は知らないのか。一番狙われやすいのは格納庫だ。それに斜面はすべりやすくて、危険だ」
「JAPは水上機の格納庫なんか狙わないだろう」
「君は、カタリナ哨戒艇を知っているか? 一千マイル哨戒して、帰って来れる。JAPが今、一番警戒しているのは、味方主力の位置を知られることだ。ヤマモトの位置を知られないためには、まず、カタリナの格納庫を叩くことなんだ。満足なフィルムを撮りたければ、防空壕に居たまえ」
「シマード! 私の言う満足なフィルムとは、リアリティにあふれたフィルムのことなんだ」
このような問答の後、フォードは、助手のウイリーに手伝わせて、格納庫の屋根に撮影機をあげてしまった。
「ボス! この斜面はすべりやすいですね」
撮影機の脚を、電気修理用のゴムテープで固定しながら、ウイリーが言った。
「脚元に気をつけろ。この屋根は、二十五メートルあるからな」
フォードは、掌の甲で額の汗を拭うと空を仰いだ。今日も好天で、高度五百から千ぐらいに、綿菓子のような断雲があった。
フォードは、撮影機の把手にとりついて、上空を狙ってみた。上方の撮影角度が不十分のように思われた。フォードは、敵が西方、仰角四十五度で発見されるものとし、それが仰角九十度の頭上を通過し、仰角四十五度の東方に去るものとして、カメラを振り回してみた。カメラの動きはぎこちなく、フォードは、体を屈《かが》めたり、上体を反らせながら、回転したりして、自分を訓練した。フォードは自分で撮影する積りであった。それでなければ意味がなかった。青年時代、海軍士官を目指して、アナポリスの海軍兵学校を受験したが、彼は失敗した。彼は俳優になり、いつの間にか、脚本家になり監督になっていた。海軍よりも、陸上で、馬の走るのを撮る西部劇の監督になっていた。ミッドウェーのサンド島で、カメラを回すことは、彼にとって“戦闘”を意味していた。
――敵が爆弾を落としたら――と彼は考えた。格納庫も燃えるし、地上施設も燃えるだろう。してみると、カメラを下方に向ける必要がある……。ジョン・フォードは、カメラで、水上機を引き揚げるランプ(滑り台)を狙いながら考えた。もし、爆弾が格納庫に当たれば、おれは戦死だ。海軍は、何か、メダル(勲章)をくれるだろうか。
そして、もし、おれが戦死する前に敵が上陸したら、俺は戦わねばならない。「駅馬車」のジョン・フォードを捕えた、などという宣伝材料を敵に与えてはなるまい……。
同じ頃、サンド島の五キロ東にあるイースタン島の滑走路に近い飛行指揮所では、海兵隊のレフトン・ヘンダーソン少佐と、ベンジャミン・ノーリス少佐が論争していた。
「ノーリス、おまえのところに、少し古いパイロットを回してやろうか」
と、ヘンダーソンが言った。
それに対して、ノーリスは、かなり絶望的に答えた。
「だめだ。意味がねえ。あのおんぼろ飛行機じゃ、ベテランのパイロットがもったいねえ。まったく、この島のアホウ鳥みたいな、ボロ飛行機だ。あれで、ナグモのゼロと戦いながら、アカギを爆撃しろというんだからな」
「………」
ヘンダーソンは口をつぐんだ。
最初、この島の海兵隊にあったのは、旧式のヴィンディケーター急降下爆撃機十六機と、ブルースター・バッファロー戦闘機二十一機であった。
ヘンダーソンとノーリスは、十六機のヴィンディケーターで、日本の機動部隊と戦うことになっていたが、二人共多くを期待してはいなかった。ナグモの部隊は、いずれ、ハルゼーやフレッチャーの空母部隊がやってくれるだろう。こちらは、それまでのツナギになれば上出来だ、と考えていた。
ところが、パールハーバーのニミッツは、何を考えたのか、戦いの迫った五月二十六日の夜、大型輸送船で、大砲や戦車と共に、十八機のSBDドーントレス急降下爆撃機と、七機のF4Fグラマン・ワイルドキャット戦闘機を、イースタン島に陸揚げしたのである。
これらは、いずれも、空母の使い古しであるが、従来、島にあったものとくらべるとまだマシであった。
ドーントレスが、滑走路に並べられたとき、ノーリス少佐は、
「おい、こいつはどうだ。ひょっとすると、ニミッツは、USネイビイ始まって以来の、えらい《ヽヽヽ》提督かも知れねえぞ」
と、分隊長のフレミング大尉をかえりみた。フレミングは浮かない顔をして言った。
「なにしろ、パイロットの数だけ飛行機をくれる提督なんて、めったにいませんからね」
フレミングは、新しく来た中古のドーントレスが、先任士官であるヘンダーソンの隊に回され、自分たちは結局、おんぼろのヴィンディケーター、つまり、“ミッドウェーのアホウ鳥”で、ナグモの空母を攻撃しなければならないことを知っていたのである。
ヘンダーソンは、滑走路の端の砂地を飛行靴で蹴りながら言った。
「ノーリス……。気分を悪くしないで聞いてくれんか。ニミッツの情報に間違いがなければ、明日の午前には、ナグモの部隊が、この島を占領に来る。そのとき、おれのドーントレスは、空母を攻撃する。君のヴィンディケーターは、戦艦か巡洋艦をやってくれ。これは、功績の問題ではなく、効率の問題だ」
猛訓練をもって鳴るヘンダーソン隊長がそう言うのを、フレミング大尉は、おそらく、おれは、小さな巡洋艦をやるようになるだろう。それが一番功績が小さい……、と考えていた。
ノーリス少佐は、うなずいた後、呟《つぶや》くように言った。
「おれのヴィンディケーターが、グラウンド・ループ(地上滑走で横を向くこと)をしないで、全機無事に離陸することを祈っている。着陸出来るのは、何機かわからんからな」
七
六月四日の午後三時半、南雲の機動部隊は、ミッドウェーの北西三百五十マイル(六百五十キロ)の地点にあり、二十四ノットの高速で、ミッドウェーに接近しつつあった。
午後三時半は、現地時間で午後六時半であるから、すでに日没に近く、赤城の艦橋では、草鹿参謀長が、太陽が円《まる》い水平線の西端にタッチしかけて、その下辺が、手鏡の柄のように伸びて、水面に吸い着くのを、いつもながら、美しいものに認めていた。高度三千ぐらいに点々として浮いている断雲が、夕照に染まって、お祭りの綿菓子のように美しく、彼に幼年時代を回想させていた。
突如、赤城の右前方を走っている八戦隊の旗艦利根から、チカチカと発光信号のまたたきを送って来た。
「敵飛行機十機、二六〇度(西)方向……」
受信した赤城の艦橋では、
「長官、敵機らしいです。哨戒艇ですかな」
草鹿が双眼鏡を眼にあてたが、夕焼けのほかは何も見えなかった。
「ふむ、来たかな」
南雲は、双眼鏡を持ち上げたが、特に敵機を探そうとはしていなかった。飛行機のことは、飛行機屋にまかせる。水雷屋のわしは、艦《ふね》を、発艦する位置までもってゆけばそれでよい。あとは搭乗員にまかせるよりほかはない……。これが彼の方法論であった。
「戦闘機で追わせましょう」
草鹿は、十八サンチ大望遠鏡の方に歩みよりながら、艦長の青木泰次郎大佐と、飛行長の増田正吾中佐に眼くばせをした。待っていた増田は二段おきにラッタルをとび降りた。
「総員配置につけ! 対空戦闘!」
「発着配置につけ! 戦闘機当直員整列!」
けたたましいラッパの音に続いて、拡声器が下腹に響くような濁音で唸り始めた。
艦橋の下の搭乗員待機室では、戦闘機分隊長の白根斐夫《あやお》大尉が飛行服をつけて待機していた。真珠湾以来、二十機以上撃墜の名パイロットである。
「白根君、頼むよ」
「は、追いかけてみましょう。ちょっと遠いですが……」
白根は、いつもと同じく落ち着いた声で言い、うすく笑ってみせた。あまり表情に起伏のない男であった。小粒に並んだきれいな歯をしており、笑うと右の頬にえくぼが出来た。細面で、きめのこまかい、白い肌をしていた。
チリン、チリン、チリン……。
始業のベルのようにさわやかな音を立てながら、後部のリフトが動き始めた。翼端を折り曲げた零戦が、軽快な姿を飛行甲板に現わし始めた。甲板で待機中の直衛戦闘機は、すでに、ブルン、ブルンとエンジンを始動している。
「何機つれてゆくかね」
「三機でいいでしょう」
白根は、落下傘バンドのかけ金をかけながら、飛行甲板を、戦闘機の方に走り始めた。
赤城は、ちょうど風に向かっているので、三機の零戦はそのまま緊急発艦した。
敵機が現われたという西方に五分も上昇すると、彼は入道雲の谷間に、黒いゴマ粒がかなりのスピードで移動してゆくのを見つけた。太陽はもう、丸い水平線に下端を切らせている。大洋の夕景は壮大だった。白根はそのゴマ粒群を見つめた。これが敵機かという感じだった。戦争の実感が浮かんで来なかった。彼は責任感の強い男であったが、壮大な雲や水に囲まれて浮かんでいる自分の姿が、ひどく小さく感じられた。このまま天と地がひっくりかえっても、世の中は何も変わらないような気がした。彼は、ふと、このまま死んでもよいような気がした。昔の高僧は、このように美しい夕焼けの時に、彼岸に旅立つのか、という考えも、ちらと湧いた。それほど美しく見える西空に向かって、彼は飛行を続けた。ふりかえると、東の空は、青から黒にぼかされて、入道雲も灰黒色に重そうだった。その方向に、ミッドウェーがあるはずであった。
白根はバンクを振って、腕を伸ばして、敵機の方向を列機に教えると、ブーストを赤百まで入れた。背中が座席に押しつけられ、機速は二百五十ノットを越した。
黒いゴマ粒は、徐々に近より、小豆の粒ぐらいに見え始めた。雲の色も、上方から、灰色、そして、うすい紫色に変わり、下の海面も、波のかげは黒ずんで、夕焼けを反映している部分だけが紅紫色の縞をうねらせていた。
敵機は大型飛行艇らしく、高翼で胴体がずんぐりしていたが、それにしては高速を出しているらしく、なかなか距離はつまらなかった。
(この飛行機隊は、この朝発見した日本の輸送船団を攻撃するため、午後零時半、ミッドウェー基地を発進したB17隊であると想像されるが、米軍側には、この時刻に日本の空母群を発見したという記録はない。スウィーニー陸軍中佐のひきいるB17九機は、この日の午後一時半、二十六隻から成る日本の輸送船団を爆撃し、神通以下の護衛艦は、対空射撃を行い、B17隊は若干の至近弾をあるぜんちな丸その他の輸送船に与えた。しかしスウィーニー中佐は、その帰途、日本機動部隊の主力である四隻の空母を発見することは出来なかったのである)
太陽が水面下に落ち、小豆粒大の敵機は、それ以上大きくならぬうちに、紫色の雲の中に吸い込まれてしまった。
白根は母艦の方をふりかえった。夕陽を斜めに受けた母艦群は、弱々しいシルエットのように、おぼろだった。静止しているように見えた。彼はかすかな不安を感じながら、母艦の方に変針した。戦艦から発する発光信号が、チカチカと、白いいらだたしげな光芒を海面に投げた。――これが戦場か――ふとそんな気がした。母艦は徐々に近よって来た。赤城は標識灯を点じて飛行甲板の輪廓を海面に浮かばせていた。
三機は次々に着艦した。腕は確かだった。
「ふうむ、確かに敵機だったんだな」
待っていた草鹿は、緊張した顔で問い返した。
「は、間違いありません。大型機で十機近くいました」
「そうか」
草鹿は、南雲の方を向くと言った。
「長官、敵の哨戒艇らしいです」
「ふうむ……」
南雲は、少し眼尻の下がった顔をこちらに向けて、口をもぐもぐさせた。
「夜間空襲に来るかな?」
「来ても効果はないと思いますが……、水平爆撃なら……」
「外《ほか》の艦に、注意するように言わんでもええかな」
それを聞くと、草鹿は通信参謀と相談した。今朝、濃霧で位置を確かめるため、無線封止を破って電波を出した。しかし、今の飛行機がミッドウェーに帰って報告すれば、当然こちらの位置はわかってしまうのだった。
「超短波でやれば、遠くは届くまい。どのみち、明日は早朝から決戦だからな」
草鹿は、大きくつき出た腹をゆするようにした。戦いに勝てる自信があった。今まで負けたことがなかった。明日も、無敵の艦隊であることを確信していた。
間もなく、赤城の艦橋で、超短波の無線電話が、隊内向けの送話を始めた。
「相模《さがみ》太郎、相模太郎。コチラ義経、尾張町四丁目、尾張町四丁目(全機動部隊あて、赤城より、敵空襲に対し、警戒を厳にせよ)」
赤城の格納庫では、懐中電灯を手にした整備員が、あわただしく立ち働いていた。第一次攻撃隊発進は、明五日朝、日の出(午前二時)三十分前、すなわち、午前一時半(現地時間、六月四日午前四時半)で、ミッドウェー陸上攻撃隊百八機が発艦する。残機は、敵空母発見に備えて、対母艦兵装をして待機することになっていた。艦爆は、陸上攻撃のときは、二百五十キロの陸用爆弾(地上に落ちると同時に弾片が飛散する)で、艦船攻撃のときは、通常爆弾(信管を遅動させ、甲板を一乃至二枚突き破ってから艦内で爆発する)を用いる。艦攻は、陸上では、八百キロの陸用爆弾、艦船用には、九〇式航空魚雷を搭載することになっていた。
整備員や兵器具は、爆弾の装備や、魚雷諸元の調整で多忙を極めていた。飛行甲板でも、試運転の爆音が、夜気をふるわせていた。
月が遅く、甲板の上は暗かった。
赤城の飛行士の後藤仁一大尉は、飛竜の橋本たちと同じく、六十六期で、この四月、大尉に昇進したばかりであった。彼は艦橋の内側に張ってある大きな黒板に向かって、明朝の攻撃の搭乗割りを書き直していた。ハワイ以来、空中攻撃隊の総指揮官を勤めて来たベテランの淵田美津雄中佐が、出港して間もなく盲腸炎を発病して手術をしたため、攻撃に参加出来ないので、明朝の総指揮官は飛竜の艦攻隊長、友永大尉になるのであった。
艦攻操縦員の後藤は長身であった。踏台の上で、長い腕を伸ばしながら、黒い覆いをかけた懐中電灯で黒板を照らしていると、搭乗員室から三人の士官が現われた。顔を見なくても誰かはわかった。一番大きいのが、艦爆の分隊長で、ショッペイとあだ名のある山田昌平大尉、彼より少し低いのが、後藤より一期下で、艦攻分隊士の福田拓夫中尉、その間に挟まっている、ずんぐりと肥満しているのが、艦爆の隊長、千早猛彦大尉であった。
一番若い福田は、この作戦の始まる前、乗艦したので、先輩に質問することが多かった。
「このへんは意外と涼しいですね」
「うむ、日本は湿気が多いのだ。ハワイには六月でも梅雨はないからな」
「やあ、飛行士かね、御苦労さん」
「いやあ、明日の朝はお願いしますよ」
後藤も踏台から降りて、散策に加わった。赤城は艦爆隊を第一次攻撃に参加させるので、千早と山田が早番であった。
「艦攻の方がいいじゃねえか。出て来るぞ、空母が……。その時にゃ、魚雷でズドンとな、いただきだな」
巨漢の山田は、荒い口をきいた。兵学校では、ショッペイに殴られると、顔形があらたまるというので、筆者と同じクラスの四号は、脅威に感じていたのだが、運動神経は冴《さ》えており、霞ヶ浦航空隊では、操縦成績最優秀であった。
「敵の空母は出て来ますかね」
福田が尋ねると、
「当たり前さ。呉《くれ》では、レス(料亭)のエス(芸者)や、スコ(水交社)のメイド(女中)が、今度はハワイを取ったら、ヤシの実をみやげに頼む、なんて言ってるんだ。司令部が呑んで気焔をあげたんだろうが、少し敵をなめすぎとりゃあせんかな」
千早がむっとした調子で、そう答えた。
「まったく、今日は、二度も無電を打つしな……」
山田が、とてつもなく大きな声を出した。
「あれもおかしい。ミストで僚艦が見えなくなったからって、そう心配することはないんだ。晴れて飛び上がれば、見えるんだ。ミストのなかで散開して接触する方が、奇襲にはいいんだ。敵の索敵を助けるようなもんだよ。敵は電探を持っている。朝の電波を受信して、午後、確かめに来た。明日は来るぞ。きっと来る……」
千早が言うと、
「大体、水雷屋は何もわからんのだ。うちの長官は、馬鹿だよ」
山田が大きな声で言った。
「おい、聞こえるぞ」
「馬鹿だから、馬鹿だと言ったんですよ。参謀長も、航空参謀もいるのに、何をしているんだろ」
山田はやはり大きな声で言いながら、艦橋を見上げた。福田が訊いた。
「ミッドウェーをとって、どうするんですか」
「果たして使いものになるかどうか。あとの補給と索敵が問題だな。東京から二千二百マイル以上あるんだからな」
「島をとるよりも、とるとみせかけて、敵の艦隊を誘い出して叩くのが目的だろう」
「しかし、ミッドウェー郵便局の局長も乗艦しているし、基地の司令官も決まっている。水無月島のほか松岬、竹岬などという名前も地図に書き込んであるらしいぜ」
そのとき、闇のなかで、
「おい」
と呼ぶ声がした。太い声は近づいて来た。
「山田大尉だな、でかい声を出していたのは……」
「あ、隊長ですか」
声の主は、いつも飛行靴をはいているので、ブーツとあだ名されている、奇行と毒舌の持ち主、艦攻隊長の村田少佐であった。彼は第二次攻撃隊の指揮官に予定されていた。
「おい、あまりでかい声で悪口を言うなよ」
村田は、今まで、一緒に歩いていた右舷の男の方に、あごをしゃくった。
「あ、あんな所に長官がいたんですか」
山田は少々あわてた。
「そうなんだ。散歩に降りて来られて、搭乗員の調子を訊きに来られたんだ。そこへ、君が大きな声で、馬鹿だよ、なんて言うもんだから……」
「聞こえましたかね」
「聞こえたさ。別に怒った様子もなかったが……。若い士官は正直なもんですから……と言ったら、いや、搭乗員の言うことが本当じゃ。おれは馬鹿かも知れん、と言っておられたぞ」
「ふうん、長官も、わりにいいところがあるんですね」
「自分で馬鹿とわかっていりゃあ、相当なもんかも知れませんね」
士官たちの饒舌は続いた。
後藤は搭乗割りの変わった点を村田隊長に報告した。明朝、彼が行く筈になっていた索敵機を中根飛曹長に替えたことを告げた。索敵に出て遅くなると、第二次の母艦攻撃に出られなくなるおそれがあった。
「そうか、中根はおこるかも知れんが、まだまだチャンスは大ありさ」
村田は愉快そうに笑った。
八
六月五日、ミッドウェー海戦は、黎明と共に、開幕を迎えつつあった。
機動部隊は、ミッドウェーの北西二百十マイル(三百九十キロ)の位置にあり、速力二十四ノットで南東に進んでいた。風は、南東の風三メートルで、風力は弱かったが、風向は発艦に好都合であった。
機動部隊主力は、航空決戦に備えるため、第一警戒航行序列をとっていた。すなわち、前衛として、十戦隊の旗艦長良《ながら》を中心に、八戦隊の利根、筑摩を両側に配し、その後方に右側一航戦赤城、加賀、左側二航戦、飛竜、蒼竜とし、その後方に、三戦隊の榛名、霧島を配した。各空母の間隔は、約二千メートルである。
〇〇三〇《マルマルサンマル》(午前零時半)、各艦で総員起こしのラッパが鳴った。このときの位置は、東経百八十度の日付変更線まで三十マイル(五十五キロ)ほどで、ミッドウェーのアメリカ時間では、六月四日午前三時半、夜明けを迎える頃であった。
早く眼ざめたジョン・フォードは宿舎の外に出ると、顔も洗わずにサンドイッチをかじりながら、まず、東の空を仰いで朝焼けを確かめると、ゆっくり、自分が撮影カメラを据えた水上機格納庫の方に歩みよった。JAPの輸送船や巡洋艦の位置はわかっていたが、空母の位置はまだわかっていなかった。――しかし、来るだろう、ニミッツはおれに、すばらしい実戦のフィルムを撮るチャンスを与えよう、と約束してくれたんだ――フォードは、まだ暗い西の空を眺めながら、サンドイッチの固いハムを噛んだ。
日本空母の各艦では、整備員や兵器員が、眼を赤く充血したまま、格納庫で、総員起こしのラッパを聞いた。ほとんどが徹夜であった。
そして、徹夜で眼を赤くしている整備員は、ほかの艦にもいた。
赤城の右前方に位置した重巡利根の後甲板では、カタパルトの近くで、飛行長武田大尉が、いらいらしながら、整備員を督促していた。作戦命令によれば、七機の索敵機の発進は、〇一三〇《マルヒトサンマル》(午前一時半)であり、利根の四号機と筑摩の一号機は、もっとも敵空母の出現する可能性の多い、ミッドウェー島北東海面を三百マイル前進して索敵することになっていた。ところが、カタパルトの故障で、射出がかなり遅れた。艦橋では八戦隊司令官阿部弘毅少将、利根艦長の岡田為次大佐がじりじりしていた。先任参謀の土井美二《よしじ》中佐は、一つの危惧と共に、司令部の表情を見守っていた。(これからの土井参謀の見解は、最近初めて筆者に洩らされたものである)カタパルトの故障によって、利根四号機の発艦は三十分遅れて、午前二時となった。このため、偶然にも怪我の功名で米機動部隊を発見することになったのであるが、問題は、利根四号機のコンパスである。
土井中佐は、出撃の直前、利根に着任したのであるが、その頃、利根に積んでいた索敵用の零式水偵五機のうち、四号機が、脚の支柱をいためて、呉に近い広工廠《ひろこうしよう》に修理に出してあった。そのため、同機は偏差、自差の修正がおくれ、右へ約十度の誤差があったに違いない、という。これは、海戦後、阿部少将に代わって、原忠一少将が着任したとき、念のため、四号機の誤差を計測した結果判明したものである。
ミッドウェーの勝敗を決したのは、運命の五分間といわれるが、筆者の見解は違う。実際は、利根四号機の右へ十度偏した誤差のためであるが、それについては、その時点で付図によってくわしく説明しよう。
午前一時半、筑摩一号機とほぼ同じ時刻に、上空警戒の直衛戦闘機、各空母十機、対潜警戒機が戦艦、巡洋艦から発進し、同時にミッドウェー陸上攻撃の第一次攻撃隊も発進を命ぜられた。
発艦した友永丈市大尉は、飛竜の上で大きく旋回して、部下の機が編隊を組むのを待っていた。飛竜の艦攻は六機ずつ三個中隊に編成され、友永機は、第一中隊長機を兼ねていた。
陽はまだ上がっておらず、空は東半分がかなり明るく、西半分にかけて、ぼかしたように黒ずみ、西の水平線はまだ暗黒のうちにあった。海面には艦隊が蹴立てる波頭の外には大きな波も見えず、ただ蒼黒く重々しいうねりだけが、大きく呼吸する巨人の胸のように、のたりのたりと機動部隊全体を、一様にもち上げ、ゆりおろしていた。
友永の後席には、偵察員の橋本敏男大尉が、機の腹の下に眼玉をつき出している、ボイコー照準器をのぞいて、海面の波で偏流を計り、航法図板の発艦時の母艦の位置を、懐中電灯で照らしてみたりしていた。
「蒼竜の編隊、右後方に見えます」
後の電信席に乗った福田兵曹が伝声管で報告した。橋本は伝声管を切りかえて、それを友永に伝えた。
「おうい」
太い声がそれに答えると、
「発光で呼べ」
機は軽く、右に旋回した。橋本はピカピカと光るオルジス信号灯を開閉した。蒼竜艦攻隊長の阿部平次郎大尉の一番機が応答した。蒼竜の艦攻十八機が近よって来た。上には、飛竜、蒼竜の零戦十八機が直掩の位置についていた。飛竜の戦闘機は重松がひきいていた。
「一航戦の編隊、左後方……」
福田がまた報告した。機は南に向いていた。
「おうい」
友永は、機を左に大きくひねると、
「攻撃針路に入る……」
針路を百四十度(南東)にセットさせた。高度は千メートルに上がっていた。友永の中隊の二小隊三番機が、この時、エンジンの不調で母艦に引き返した。百八機の攻撃隊は百七機となって、飛竜の直上を通過してミッドウェーに向かった。母艦は周囲の標識灯で艦型を浮かばせ、時々明滅する照明灯の光がイルミネーションのように美しかった。これから戦場に向かうという感じはなかった。友永は、この美しさ……戦争というものは、美しいものだ、ということを、よし江と丈一郎に見せてやりたい、と考えた。
間もなく、太陽が水平線上に姿を現わした。ふり返ると母艦の上空附近には、高度三千メートルぐらいに、大きな断雲が一面に浮いて、雲量八ぐらいであったが、太陽が完全に水平線をはなれて、列機の顔がはっきりわかるころになると、徐々に雲が減って、ミッドウェー西方の環礁を通過する頃には、ほとんど快晴に近くなっていた。太陽に向かって進むのがまぶしいので、友永は色のついた飛行眼鏡を、額から眼の上におろした。
友永は気持が鬱屈していた。ひと息つくとよし江と丈一郎のことが、また頭のなかを占領し始めた。よし江は、九州の宇佐に近い町に住む芸者であった。友永が支那戦線から帰って、宇佐航空隊の教官をしているときに知り合ったのである。
元来、友永は女遊びの好きな方ではなかった。支那の前線から帰って来ると、内地の料亭で遊び呆けている同僚の姿が気に入らなくて、イモを掘った(暴れて物をこわす)のである。それをなだめたのが、よし江であった。博多の生まれで、馬賊芸者で男ぎらいとして通っていたが、その夜、友永は介抱してくれたよし江によって、生まれて初めて女の情というものを知った。二人は逢瀬を重ね、よし江は妊娠した。その後、友永は、霞ヶ浦航空隊教官に転勤になった。昭和十六年五月、開戦前夜である。(この頃、筆者は、霞ヶ浦航空隊の学生であった。友永大尉は、通称トモさん、汚れのトモさんと呼ばれ、また、土方のトモさんとも呼ばれた。その頃、霞ヶ浦では、敵襲に備え、飛行機をかくす掩体壕というものを造っていた。指揮官のトモさんは、ねじり鉢巻で、腰に汚れた手拭いをさげ、地下足袋をはいて出て来て、兵の真っ先に立って、よいしょ、よいしょ、と土嚢をかついだ。その恰好が土方の親分に似ていたので、親分とも呼ばれた)
中肉中背、野性的で、精悍な雰囲気を体にまとい、無骨ではあったが、実直で、打算や、えこひいきがないので、部下からは、愛された。そのトモさんにも、悩みはあった。
内地を出撃する前、トモさんは、別府で、よし江と会った。生後六カ月の丈一郎を抱いていた。ほっぺたをつつくと、無邪気に笑った。
「あなた、無事で帰って来て……」
馬賊芸者も、心の優しい一人の母親になっていた。
「うむ……」
うなずいたが、トモさんには、自信がなかった。トモさんは、平素、部下に言っていた。
「生に執着するな。死ぬべき時には潔く死を選べ、それがサムライというものだ」
トモさんは、大分中学の出身であったが、葉隠精神の信奉者であった。
発艦して一時間以上すぎた頃、友永は訊いた。
「おうい、飛行士、あと何マイルだ」
「七十マイルです」
友永は、柄にもなく冗談が言ってみたくなって来た。
「おい、右下に白い筋が見えるだろう、あれは、日付変更線じゃないか」
橋本は、釣られて、体をのり出し、下を見た。白い水尾《みお》が一筋、南北に長く走っていた。船の通った航跡かも知れなかった。
「違います、日付変更線は、もうとっくに越えました」
まじめくさって答えてから、橋本はにやりとした。うわついていた腰がどしりと座席の上に落ち着いた感じであった。
「もう、そろそろ、お客さんが見える頃だぞ。敵戦闘機に気をつけろ。高度を上げる――」
艦攻隊の高度が三千に上がった。後方にいた艦爆隊もぐんぐん高度をあげて四千まで上がった。
その頃、早朝ミッドウェーから発進したアディ大尉のカタリナPBY哨戒艇は、ミッドウェーから、北西百八十マイルの地点で、断雲の下から、ふいに大きなスリッパーが現われるのを見た。
「スリッパーが走っている。しかも二隻だ」
彼は電信員のマコーミック兵曹をつついた。マコーミックは、直ぐにキイを叩いた。
「敵空母二隻および、戦艦一群、速力二十五、ミッドウェーの北西、百八十マイル、針路百三十五度」
時に、六月五日、午前二時三十四分であった。
無電は直ちに、ミッドウェー基地と、機動部隊で受信された。
スプルアンスは参謀長のマイルズ・ブロウニング大佐と相談した。大佐は答えた。
「敵までの距離は、まだ遠い。わが軍の戦闘機は脚(航続距離)が短い。雷撃機も旧式だ。もっと、敵に肉薄してから発艦すべきです」
スプルアンスはうなずいた。発艦以前に敵が来たら……という危惧が、彼の背筋を冷たくしていた。しかし、攻撃を終わって帰投した部下が、燃料不足のため、水中に溺れるのを見たくはなかった。――これはナグモに対する一つの賭けだ――と彼は考えた。
それとほぼ同じ頃、米軍のカタリナ哨戒艇は、おびただしい飛行機の大群が東へ向かっているのを発見した。機長は、ミッドウェー基地に向かって発信した。
「敵機多数貴方に向かう。敵は、爆弾を抱いている。警戒せよ」
サンド島にいたジョン・フォードの耳にも、その通知は入った。
「本当の戦争を撮るんだ。本当のな……」
彼は、助手のウイリーにそう言い聞かせると、ゆっくりと梯子を踏みしめて、水上機格納庫の屋根に登った。
九
午前二時四十五分、右前方にミッドウェーの環礁が、二つのオハジキ玉のように見え始めた。
右の方にあるのがイースタン島で、三本の滑走路があり、B17やダグラス爆撃機、アベンジャー雷撃機などがこちらにたむろしていた。
左側のサンド島には、カタリナ哨戒艇の水上機基地があり、燃料タンクもこちらにあった。
攻撃目標はあらかじめ、分担が決まっていた。飛竜の艦攻と、加賀の艦爆が、サンド島の格納庫、航空施設、地上機。赤城の艦攻と蒼竜の艦爆が、イースタン島の滑走路、航空施設、地上機を爆破することになっていた。
橋本は、友永の後席から、近づいて来るミッドウェーの環礁を見おろしていた。真珠湾攻撃のとき、彼は飛竜水平爆撃隊の一員として参加したが、この時は、初めてのせいか、こわいという幼い気持があった。しかし、今回は、わりにのんびりした気持であった。
環礁の外壁は珊瑚礁から成り立っており、新しい珊瑚礁は美しかった。ゆるやかに波に洗われ、海水を透して、黄色や緑色に朝の陽光を照りかえし、おとぎ噺の夢の島のように美しかった。平和に見えた。
環礁の内側の入り江は、ちりめんの上に青ガラス玉をおいたように凪《な》いでいた。環礁の前端が右下方に見えたとき、橋本は不気味な静寂を感じた。彼は、静寂と共に、圧迫感を感じて、後方をふり仰いだ。青空に六つ、大きなゴマ粒が点々と浮かび、こちらに迫って来るところであった。
「隊長! 敵戦闘機六機、後上方!」
橋本は、けたたましく伝声管に唾をとばした。
友永は、大きくバンクして敵機襲来を列機に知らせた。橋本は、霞ヶ浦の飛行学生のとき、入佐俊家中佐から教わった戦訓を想い出した。入佐は中支の渡洋爆撃を初めとして、四十数回という爆撃行の経歴を持つ陸攻のオーソリティであった。
「攻撃機は、敵戦闘機の来襲にあったら、緊密な編隊を組め。そして、機銃で弾幕を張るんだ」
橋本は入佐のその教えに忠実に戦ってみようと考えた。彼は両手を左右に出して、「近よれ」と列機に合図した後、右掌で、後上方を指した。第一小隊の二機はぐっと友永機に近よって来た。しかし、少しはなれた二小隊の二機は、敵のグラマンに気づいていなかった。
上空にいたゴマ粒は虻《あぶ》ぐらいの大きさになり、黒い翼端が朝陽を鈍く反射すると、まっしぐらに突っ込んで来た。ジョン・カレー海兵大尉が指揮するF4Fグラマン・ワイルドキャット三機であった。カレーは日本機を見つけると真っ先に上昇してきた。性能の悪いブルースター・バッファローは遅れた。グラマンは、真正面から見ると、翼の前端とエンジンしか見えないので、灰色の団子を黒色の太い棒で突き刺したように見えた。団子が見る間にふくれ上がり、盆ぐらいの大きさになった。
橋本の後席では、福田の機銃が火を吐き、震動が尻から伝わって来た。橋本は力一杯伝声管に怒鳴った。
「隊長! 左旋回!」
「おうい」
友永は大きく操縦を左に倒し、左足を一杯伸ばして、フットバー(足踏)を蹴った。機はほとんど垂直に左に傾斜し、翼の下のミッドウェーが、右に流れた。
カレー大尉は発射用の把手を握り、グラマンの両翼に装備されている十三ミリ機銃が太い火を吐いた。無数のアイスキャンデーが、みな束になって、橋本の顔に向かって飛んで来た。飛行眼鏡をつけた面長な赤い顔がチラと見えた。敵も緊張していた。
カレーは、編隊一番機のガソリンタンクに、十三ミリが命中したのを確かめると、右下に避退した。そのうしろから、重松の零戦がぴたりとつけた。二十ミリが火を吐き、カレー大尉は、両脚に銃弾を受け、不時着のため降下した。
カレーの二番機、キャンフィールド中尉は二小隊二番機を狙った。牧村一飛の機は少し遅れていたのだ。キャンフィールドの射撃は確かで、牧村機は両側のガソリンタンクを射たれ、火を噴いた。キャンフィールドは、機をひねって降下しながら、燃えている牧村機を見た。若い操縦員が、熱そうな表情で左手を前にかざすのが認められた。――そんなに熱いものかな、ガソリンの焔というのは――そう考えながら降下したキャンフィールドは、下から急上昇して来る重松の零戦に出くわした。重松の二十ミリの方が発火が早く、キャンフィールド機は、補助翼とフラップをふきとばされ、操縦不能に陥った。降下しながらキャンフィールドが、ふり返ってみると、多くの機が火焔や白い煙を吐きながら落下しつつあった。大部分は旧式のブルースター・バッファローであった。
地上の格納庫の屋上では、ジョン・フォードが、熱心にカメラを回していた。飛行機の動きが早いので、望遠で狙うのには骨が折れた。グラマンやバッファローが落ちるたびに、フォードは唾をはいた。
「ガッデム! 戦闘機乗りになるべきだった。映画屋なんて、最低だ!」
「おい、ガソリンタンクをやられた。右か左か見てみろ」
友永の太い声で、橋本は我に返った。右側を飛んでいる松下兵曹の機が見えなかった。百メートルぐらいおくれていた。
「右です、隊長」
「おうい」
友永は、燃料タンクのコックを右に切り換えた。やられたタンクで、飛べるだけ飛んで、左に切り換えるのが常道であった。
松下の機は高度が下がっていた。操縦員の松下は、がばっというように前にのめり、偵察員の木口兵曹が座席に立ち上がって、黒板を振っていた。「バンザイ」と書いてあった。黒い虻がとびつき、松下の機は火焔に包まれた。すると、その虻も反転すると同時に火を吐き、近くを零戦が駆け抜けた。重松かな? と考えていると、赤い火を吐いたグラマンから、白いものがとび出した。パラシュートだった。ハーバート・メリル大尉は、パラシュートがひらいてからも心配だった。日本軍は、パラシュートを射つのではないか、と気遣っていたが、無事に水面に着いた。その頃、松下兵曹の機は、錐揉《きりも》みになって、海面に白い飛沫をあげた。
上から見ていた橋本は考えた。松下機の後席には、木口が入っている。日本の搭乗員は、なぜ、パラシュートでとび出すことをしないのだろう……。そして、自分も、トモさんが射たれたら、一緒に落ちてゆくだろう、と考えていた。
橋本は、はげしい渇きを感じていた。彼の中隊は、初め六機だったが、事故で一機帰り、今の敵襲で二機喰われたので、三番機の武信と、二小隊一番機で、水平爆撃特練のマークを持つ内村を合わせた三機になってしまったのである。橋本が、松下機の残した海面の泡にラムネを想像していると、内村機が近より、手を振って合図をした。彼は今から水平爆撃の誘導をするので、偏流測定のため、しばらく、編隊から離れなければならない。
「隊長、二小隊一番機、偏流測定に出ます」
「おうい、戦闘機に喰われんように気いつけろよ」
反射的に上を見ると、虻が五機つっこんで来るところであった。
パークス海兵少佐のひきいるブルースター・バッファローで、これはずんぐりとして、まことに形が悪く、虻というよりは、芋虫に似ていた。
「隊長、つっこんで来ます、右旋回!」
「おうい」
機は大きく右に傾いた。
「飛行士、仰角が利かないので機銃が射てません」
後席の福田が言った。
「射てる奴だけ射て! こちらの尾翼を射つな!」
福田の機銃が火を吐いた。五機のバッファローは、出ばなをかわされて、三機と二機に分れて、二中隊と三中隊に向かって行った。上昇して来た重松の戦闘機隊がその後にとりついた。零戦の二十ミリが一斉に発射され、三機の小隊長であったアーミステッド大尉は、操縦装置を破壊され、操縦不能に陥った。いま一機のバッファローも火を吐いた。
しかし、こちらも、二中隊の一機が燃料タンクから火を吐いて急降下し、三中隊の一番機も操縦員をやられたらしく、ふらつき始めた。さらにその後方からも、形の悪いバッファローが数機現われた。混戦であった。後方の一航戦でも、赤城の千早や、山田昌平の隊が黒い豆粒にとりつかれて苦戦していた。爆弾を投下する前の水平爆撃隊の苦悶は、陣痛に似ていた。
友永の中隊は、すでに、目ざすサンド島の格納庫の近くに来ているのに、特練の内村はまだ帰って来なかった。
「おうい、飛行士、内村飛曹長は、まだか」
バッファローの空襲を避けるため、急旋回を続けながら、友永が問うた。
「はあ、まだです」
「飛行士、君、照準をやれ」
「はあ?」
伝声管を前にして、橋本は当惑した。階級は大尉でも、飛行学生を出て日が浅いので、編隊を誘導して八百キロ爆弾を命中させる自信はなかった。
「隊長、やはり、特練を使いましょう」
「そうか」
友永は少しまのびした声で言った。
零戦の活躍で、バッファローの数が減り、その代わりに、高角砲の弾片が、附近に、ぽかり、ぽかりと白い煙の輪を拡げ始めた。
地上では、ジョン・フォードが、けんめいにカメラを回して、空戦の様子を撮影し、間もなく落ちて来るであろう爆弾を、心待ちにしていた。
三中隊の一番機、角野大尉機が近づいて来た。ふらついていた。中間席の偵察員、小林正松一飛曹が、手だけの手旗で信号した。操縦員の角野大尉が足首を射たれたので、自爆をする、というのである。操縦席に角野の大きな頭が見えた。眼を半眼につむっていた。角野博治は、山田昌平や、飛竜機関科の梶島と同じく、六十五期生であった。肩幅が広く、相撲と銃剣術の猛者《もさ》であった。しかし、彼がもっとも有名なのは、頭が大きく、特一号という帽子をかぶるためであった。いま、彼は、高角砲の弾片で、右足首を砕かれ、かなりの出血があった。操縦席内で血のしぶきが飛び散り、風防の内側が赤く染まっていた。大きな頭が、ゆらり、ゆらりと揺れていた。
橋本は、その旨を友永に伝えた。
「いかん、爆弾を落とすまで待てと言え!」
友永はそう命じた。
橋本はその通り、手旗で信号した。角野はあいまいにうなずき、ふらふらしながら後退した。
十
イースタン島の滑走路の近くでは、レフトン・ヘンダーソン少佐が、部下に訓示を与えていた。折角、ニミッツから、十八機のSBDドーントレスをプレゼントしてもらったのであるが、この新式といえばいえる中古機に乗った経験者は、ヘンダーソンをふくめて三人しかいなかった。ヘンダーソンは言った。
「JAPの母艦が近くに来ている。我々はこの飛行機に慣れていない。しっかり、おれについてこい。ゼロが来たら、まとめて十三ミリをお見舞いしろ。それから、急降下は無理だから、緩降下で爆撃する。おれによく注意しろ」
そこへ、一人の男が、落下傘のバンドを尻にぶらさげて走って来た。第二中隊長機に乗るフレミング大尉だった。
「すまない。寝すぎた」
彼は昼寝をしていたのである。
「フレミング、君の大胆さを、ヤマモトに知らせてやりたいものだ」
ヘンダーソンは、フレミングと握手をかわすと、彼自身もあまり乗ったことのない、ドーントレス=恐れを知らぬ、という意味の急降下爆撃機の方に歩みよった。
角野博治は、通称、カドデンと呼ばれていた。いつもにこにこして、滅多に怒り顔を見せなかった。しかし、彼は今、緊張していた。右足首の下は、機体が破られて、青い海面が見えていた。血が渦を巻くので、飛行服も計器も、操縦も、しぶきで赤くなっていた。突っ込むのがだめならば、爆撃をやらなければならない。彼はまず首に巻いていた羽二重のマフラーを破って、右股のつけねを縛り始めた。機は平衡を失って、酔いどれのように左右にふらつき始めた。列機は驚いて、しばらく遠ざかることにした。強く縛ると、これまで、右足首からぶくぶくふいていた出血は急に減った。彼は計器を見ながら、チョイチョイと顎で操縦を押し、機が錐揉みに入るのを防いだ。
次に、彼はマフラーで左足の足首をフットバーに縛りつけた。右の脛も、マフラーを少し長くして、フットバーに縛りつけた。こうすれば、右足首はぶらぶらでも、方向舵を動かすことが出来る。エンジンをふかして、機を上昇させ、マフラーの残り切れで、風防の血のりを拭った。それだけの作業を終わると、彼は座席にずしっと腰を下ろした。もうこれでいつ死んでもよい。そう思うと、急に目の前が明るくなり、頭がはっきりして来た。さきほどは、死が眼前に黒いヴェールのように垂れ下がって彼を脅かすので、一気にそれを突き抜けるため、地上に突っ込もうと考えたのであった。しかし、出来るだけの処置をすませると、彼は落ちついて来た。――俺は睡そうかな――彼は頭をふってみた。ふらつきは認められなかった。前を行く友永隊長や、二中隊長の菊地大尉の機も、真下のミッドウェーもはっきり見えた。――まだ睡くない、おれは生きている――彼は自分にそう言って聞かせた。その途端、機がガクンとつきあげられた。
「分隊長、高角砲弾です。足はどうですか」
小林の声が耳に入った。
「大丈夫だ、弾丸《たま》を落とすまで、頑張れそうだ」
そう答えると、角野は、正規の三中隊長の位置に着くべく、すわり直して操縦を始めた。
やっと、誘導機の内村が偏流測定から帰って来たので、友永は、彼に誘導させて爆撃コースに入ることにした。右の燃料タンクは燃料が洩れ尽くし、白い流れが止まったので、彼はコックを左に切り換えた。
内村機が先頭になり、友永はその右側に着いた。高角砲の弾幕が濃くなって来た。到るところに白い袋がはじけた。爆撃コースは、高度三千メートル、針路百二十度である。
橋本は照準器をのぞいていた。一番機内村の腹の下から八百キロ爆弾がはなれると同時に、彼の方も投下索を引くのであった。彼は下のミッドウェーをのぞいてみた。イースタン島の上に真っ白な帯が三本走っていた。滑走路は蒼竜の艦攻と、赤城の艦爆がやることになっていた。飛竜の艦攻隊は、サンド島の水上機基地と、すべり(水上機を水面におろすための斜面)をやるのだった。編隊はうまくコースにのっていた。格納庫の屋根がほとんど真下に近よっていた。
サンド島では、格納庫の上で、助手のウイリーが、盛んにフォードの袖を引いていた。
「ボス、来ましたぜ。まっすぐこちらですぜ。防空壕へ入りましょうよ。あっしの命じゃねえ。ジョン・フォードをこんな所で死なせちゃ、ファンに会わせる顔がねえ」
しかし、フォードは無言でカメラを回し続けていた。彼がカットを命じなければ、誰も撮影を中止させるものはいなかったのである。
内村機では、ボイコー照準器をのぞいている偵察員の「チョイ右、チョイ左、宜候《ヨーソロ》……」という合図に合わせて、内村が懸命にフットバーを踏んでいた。
「二中隊長機被弾! 燃料を引いています」
友永機の電信席で、福田の声がした。
橋本は、「うっ……」と呻《うめ》いたきり、頭を上げることも出来ず、投下索を右手に握り、左前方の内村機の腹に吊ってある八百キロ爆弾をみつめていた。
「二中隊長機、編隊についています」
福田の声がしたとき、橋本の眼の前で、八百キロ爆弾が機腹をはなれた。
「投下!」
彼は、右手の投下索を力一杯引いた。ゴトリと手ごたえがあって、機は急に浮き上がった。橋本は、爆弾を見ていた。愛着があった。爆弾は小さくなって、サンド島の海岸に溶《と》けこんで行った。彼は格納庫をにらんでいた。機は急に右旋回をした。高角砲弾の白煙が、鏡面に入った。格納庫から、すべりにかけて、パパパ……と白煙が上がった。
地上では、ウイリーが呻いていた。彼らがいた格納庫は、友永隊の八百キロ爆弾の直撃を喰って、ペシャンコにつぶれたのである。爆撃隊を撮っていたジョン・フォードは、鳥の糞のように機腹からはなれた、とてつもない爆弾が、まぎれもなく自分の方に向かって来るのを認めた。はじめ、彼はそれを魚雷かと思った。
「いかん! 伏せろ!」
フォードは、カメラにしがみついた。爆弾は格納庫に命中し、ウイリーは、はねとばされ、地上にころげ落ちた。フォードは、カメラと共に、地面に叩きつけられ、自分も、肩と脚に負傷した。彼は脚をひきずりながら、カメラをあらためた。フィルムはまだ回っていた。彼はそれを、まだ煙をふきあげているつぶれた格納庫に向けた。爆発はつづき、地表は揺れていた。あとから、このフィルムを現像してみたフォードは、画面がひどくぶれているのを発見した。味方の高角砲射撃と、敵の爆撃のためであることがわかった。
ジョン・フォードが、戦場の場面を撮るとき、カメラをわざと震動させて迫力を出す方法を思いついたのは、このときである。この方法は、長く戦争映画のテクニックとして踏襲された。フォードが撮影した二本の「Battle at Midway」は、日本未公開であるが、アメリカでは、戦意昂揚のため何回も上映された。
橋本は、友永に、
「八弾以上命中」
と報告した。そのとき、イースタン島の滑走路に白煙が上がった。
「艦爆つっこみました」
格納庫が煙をふき上げるのが見えた。呆気《あつけ》ない感じだった。倉庫や道路をこわすために、こんな苦労をして来たのか、という感じだった。菊地六郎大尉の機は、白い燃料の尾を曳きながら、少し遅れてついて来た。
角野の機が再び左から近よって来た。彼は弾丸《たま》を落としたので、ほっとしていた。急に睡くなって来た。偵察員の小林が信号を送った。
「ワレツッコム」
友永がこれを見ると、
「いかん、母艦へ着くまで待て、と言え」
と我鳴るように言った。橋本がその通り信号すると、角野は白い歯をむき出しにして、後退して行った。笑っているようにも、叫んでいるようにも見えた。
攻撃隊はもう帰りの針路に入っていた。針路三百度で、母艦群に向かっていた。
角野はぶらぶらの足で操縦しながら、睡魔に襲われ始めていた。疲れが出て来たのだ。
「おい、母艦までもたん。つっこむぞ」
「分隊長、あと一時間です。母艦に帰ってから、ゆっくりねて下さい」
「うまいこというな。だめだ。眼がかすんで来た」
角野は列機に手をふると、指先を下に向けて、つっこむしぐさをして見せた。左右の列機はぐっと近よって来た。右の二番機の偵察員が黒板を出した。
「分隊長ガンバレ」
とチョークで書いてあった。左の三番機の操縦員は、拳骨を出して、ぐるぐる回して見せた。角野は白い歯を出して、首を左右にふりながら、また指先を下に向けて見せた。左右の二機は高度を下げて、角野の機の腹の下に入ってしまった。角野は半分眠りながら苦笑した。その時、コツコツと肩を叩かれた。うしろの小林が、黒板の先に袋を縛りつけて差し出していた。背をよじって受けとってみると、航空錠甲であった。それは“ねむくならない薬”と呼ばれているもので、後世、文士が愛用したヒロポンと同じ種類の覚醒剤であった。角野は袋をあけると、十錠ばかりをまとめて、口のなかにほうりこんだ。苦い薬であったが、睡気は減ったような気がした。彼は、ふらふらしながら友永の機を追った。列機は再び両側に上がって来た。
編隊はすでに三十マイル以上、環礁を出はずれていた。友永は文案を練った後、福田に南雲長官あて、次のように打電させた。
「吾レ、敵基地ヲ爆撃、地上施設ニ損害ヲ与エタルモ効果不十分、第二次攻撃ノ要アリ、敵戦闘機多数、対空砲火極メテ盛、今ヨリ帰投ス」
友永は、敵爆撃機の大部分は基地を離れており、また基地の施設の破壊も不十分であったため、母艦が発見されなければ、いま一度陸上基地を空襲する必要を認めたのである。
時に、六月五日午前四時であった。
十一
レフトン・ヘンダーソンが、ドーントレスの編隊をひきいて、イースタン島の滑走路を離陸したのは、赤城の艦攻が滑走路を破壊する直前であった。
そして、午前四時は、スプルアンスの第十六機動部隊が、攻撃隊を発艦させる時間に当たっていた。
スプルアンスは、思い切った計画を実行した。自隊の全機を一度に、ナグモの攻撃に投入しようと考えたのである。午前二時半、アディ大尉のカタリナ哨戒艇の報告によれば、JAPの空母は二隻となっている。しかし、ニミッツの情報によれば、ナグモの空母は四隻である。スプルアンスは、他の二隻も、発見出来る、と賭けた。そして、未だに、ナグモは、われわれを発見していないと……。
午前四時より、エンタープライズからマクラスキーのドーントレス三十三機、リンゼーのデバステーター雷撃機十五、ジム・グレイ大尉のF4F戦闘機十、そして、ホーネットからは、ドーントレス三十五、ウォルドロン少佐の雷撃機十五、戦闘機十、計百十八機が発艦した。もし驚くとすれば、この二艦の攻撃隊が、友永の第一次攻撃隊より数において、十機もまさっているという点であろう。
ジョン・ウォルドロンは、発艦する前、第八雷撃中隊の部下を、ホーネットの飛行甲板に集合させると、
「四月十七日を知っているか」
と言った。
「四月十七日、この飛行甲板からノースアメリカンが、トキオ(東京)を空襲に飛び立った。今度は、おれたちが、ナグモの空母をやっつける番だ。攻撃がうまく行きますように……」
と続けた後、珍しく彼は、神に祈りを捧げた。
「隊長が祈るとは珍しい」
若いジョージ・ゲイ少尉がそういうと、
「アパッチにも、必要な時には神がいるのだ。みな、おれについて来い。腕白小僧(魚雷)を、アカギのどてっ腹に喰いこませてやるぞ」
そういうと、彼は腰の山刀を抜き、白く光る刃にキスをして、アパッチ流の戦いの誓いをした後、解散を命じ、乗機に走り寄った。
一方、気むずかし屋の、ウェイド・マクラスキーは、エンタープライズを発艦した後、高度をとりながら、眉をよせて列機の集合を待っていた。なぜか、戦闘機と雷撃機は発艦しなかった。
そのとき、エンタープライズの艦橋では混乱が起きていた。
「水上機一機、南方上空、JAPらしい」
と見張りが叫んだ。
「発見されたか!」
スプルアンスは呻いた。やはり、二時半に日本の空母を発見した直後に、無理をしても発艦、攻撃してしまった方がよかったのかも知れぬ。さて、ここで、予定通り、全飛行部隊を攻撃につぎこんだものかどうか、彼は迷った。(このとき、利根四号機は、北東の海面に米艦隊を発見し、「敵ラシキモノ見ユ……」という有名な無電を打ちつつあった。時に午前四時二十八分であった)
ハルゼーの参謀長であったブロウニング大佐は言った。
「スプルアンス。気分を悪くするかも知れんが、オールド・モンキー(ハルゼーのこと)なら、全力で突撃すると思うがね」
スプルアンスも意を決して、残余のジム・グレイの第六戦闘機中隊と、ゲン・リンゼーの第六雷撃中隊の発艦を命じた。
エンタープライズの艦爆隊長、マクラスキーは、三十三機のドーントレスをひきいると、どんどん高度をあげ、ミッドウェーの北東二百マイルの位置に急行した。第十六機動部隊の戦闘要領によれば、急降下爆撃機は高空から、雷撃機は低空から協同攻撃をとることになっている。戦闘機はその間にあって、両方を掩護するというムシのよい計画になっていた。十機の戦闘機が、高度四千メートルから突っ込む三十三機のダイブ・ボンバー(急降下爆撃機)と、五百メートルで海面を這うトッピードー・ボンバー(雷撃機)の双方を同時に掩護するということは、神業に近かった。
エンタープライズの戦闘機と、雷撃機が発艦を終わったのは、午前五時六分で、マクラスキーの爆撃隊より約一時間遅れていた。
その頃、つまり、午前五時ごろ、レフトン・ヘンダーソンは、高度三千の位置から日本の機動部隊がミッドウェーに向かっているのを発見した。くわしく言えば、四隻の空母は思い思いに変針していた。すでにミッドウェー基地を発進した六機のTBFアベンジャーと、四機のB26マーチンマローダーが、空母群に対して、雷撃を行っているところであった。
――今だ! とヘンダーソンは思った。今なら、技倆の未熟な、飛行機に慣れていない部下でも何とか突っ込めるだろう。
彼は、右掌を上げ、振りおろすと、突撃を下命した。十六機のSBDドーントレスは、エレガントな緩降下爆撃に移った。彼らの下を走っているのは、精悍な中型空母飛竜であった。飛竜の艦橋では、二千五百の低高度から、三十度位の降角でゆるやかに降下して来る米機の大群を発見した。
「敵艦攻、十機以上、右前上方!」
見張りがそう叫んだ。
降角が浅いので、雷撃機だと思ったのである。
「また、雷撃か……」
操艦にあぶらの乗った感じの加来艦長はそう呟いた。
そのとき、直衛のため上空にいた蒼竜零戦隊の藤田怡与蔵大尉は、緩降下するSBD隊を発見していた。
――まず、隊長機を――。
藤田は、先頭を降下するドーントレスの後上方に占位した。
「敵機です、うしろ! 隊長!」
偵察員がそう叫んだが、ヘンダーソンはかまわず、降下を続けた。彼が回避すると、他の機の歩調も乱れることが虞《おそ》れられた。ヘンダーソンは、このとき、多分、“死神”にとりつかれていたと考えることが出来る。
藤田の零戦のOPL照準器の十文字の交差点が、ヘンダーソン機の風防に指向されていた。藤田の右拇指が、スティック(操縦)の上端についているノッブを右に倒した。両翼の二十ミリ機銃が発射され、ヘンダーソン機の翼に吸い込まれた。機の左翼が直ちに火を発した。火焔が拡がり、ヘンダーソン機は操縦不能に陥った。ヘンダーソンは、背中にも弾丸を受けていた。彼は、呻くように、
「とびおりろ! おれは喰った」
と後席のキャフタ曹長に命令した。曹長はパラシュートでとび出した。ヘンダーソンは真っ直ぐ、下の空母目がけて降下した。
飛竜の艦橋でこれを見ていた航空参謀の橋口は、
「一機突っ込んで来ます!」
と叫んだ。
「面舵!」
加来が転舵を令した。飛竜はあやうく、この無鉄砲なSBDをかわした。
「ヤンキーも勇敢だね」
双眼鏡で、飛行機の突入した海面の波紋を見ていた山口司令官が呟くように言った。
レフトン・ヘンダーソンの名は、後にアメリカ海兵隊がソロモンのガダルカナル島を占領したとき、最初に日本軍から奪取したルンガの飛行場に命名された。そして、アメリカ海兵隊の間では、今もその名は不滅である。
ヘンダーソンの爆撃隊は、十六機のうち八機がイースタン島に帰還出来たが、そのうち六機は修理不能で、廃機となった。
友永のひきいる第一次攻撃隊は、帰投の途中、グラマンの追撃を受けた。二小隊一番機の菊地大尉は、集中攻撃を受けて、エンジンから白煙をふきあげ、降下して行った。偵察員も電信員も被弾し、菊地は掌をあげて合図した後、海面に降下して行った。
友永機の偵察席にも一弾がとび込んで来た。カンカラカンと音がして、橋本は左脇腹に焼けた金火箸をあてられたような気がした。左手で探ってみると、飛行服と下の軍服が半月状に裂けていた。腹の皮が焼けてひりひりしていた。あとで、みみずばれが残るだろう、と橋本は考えた。
「飛行士、テキさんのタマが一個とびこんで来ました」福田が電信機の下から、飛行手袋の上に十三ミリ弾をのっけてさし出した。さわってみると、まだ熱かった。
「そちらはどうだ?」
「大丈夫ですが、受信機をやられました」
「うむ、もういいだろう」
橋本は、掌の上で、銃弾をころがしてみた。銃弾の先端を、コツコツと額に当ててみた。こいつが垂直にここに当たれば、おしまいなんだ。弾丸の感触は、鈍く、不気味であった。彼は、怖くもあり、また、人間なんてそれだけのものかと思うと、気抜けしたようで、少しおかしくもあった。
菊地の機は、海面に向かって降下しつつあった。重松の零戦がその近くを回ると、手旗で、「カエレカエレ」と信号した。重松はあきらめて上昇する途中、下を見ていると、菊地機が海面に落下した飛沫が白く見えた。魚がはねたときの水しぶきに似ていた。
足首をやられた角野は、たくさん呑んだ航空錠甲が効いてきたのか、頭が少しはっきりし始めた。彼はなるべく郷里の肉親や、母艦で待っている人々の顔を思い浮かべ、生への欲求を強めようと試みた。彼の努力に反して、そうした人々の顔は一向に脳裡に浮かんで来なかった。彼の前にぼんやりとかすんで見えるのは、依然として、白いアイスクリームのような断雲や、ラマ塔のような入道雲や、そしてその向こうにある、黒く重い、だるそうな垂れ幕ばかりであった。
ミッドウェー陸上攻撃隊の被害は九機であり、そのうち、友永隊の被害は、菊地を入れて、四機を数えた。そして、いま一機、その被害のなかに入りそうな角野の機を引っ張りながら、友永隊は、母艦の位置に急いだ。
五時をすぎた頃、水平線に母艦が見え始めた。
「隊長、母艦が見えて来ました」
「おうい、燃料が少し足らないようだ。電信機を捨てろ!」
「はい」
福田が電信機をはずして外に投げ落とした。海面に飛沫があがった。
「機銃も、照準器も捨てろ」
白い飛沫が二つ上がった。
橋本は、航法の図板や、オルジス発光信号灯も海に投げた。福田は、いよいよ足りなければ、自分が飛び降りるつもりで身構えていた。このあたりなら、外周の駆逐艦から三十マイルもないので、助けられる可能性があった。五時半、攻撃隊は、母艦上空に帰投した。友永はバンクを振って、一航戦の艦爆隊と、蒼竜の艦攻隊に解散を命じた。エンジンがばたばたと息をつき始めた。高度を三百まで下げると、一度、飛竜の上空を通過し、自分の隊を解散し、左に大きく旋回した。また、エンジンが息をついた。燃料タンクが横になると、パイプの吸い込みが悪くなり、スターブ(燃料不足)するのであった。そのとき、橋本は、飛竜の周囲に巨大な水柱が十本以上たつのを見た(ヘンダーソン隊の爆撃であった)。飛竜はその水柱に蔽われて見えなくなった。
「隊長! 母艦が……」
そう叫んだ次の瞬間、水柱が吸いこまれるように海面に消えて、その中から、まっしぐらに走っている巨大なわらじ《ヽヽヽ》のような飛竜の姿が現われた。
内村の機は、高角砲弾のためフラップを故障し、着艦が困難なので、駆逐艦の近くに着水し、救助された。
友永はいよいよ母艦の艦尾から着艦コースに入った。橋本は後席で、米軍機の襲撃の様子を見ていた。あまり練度が向上しているとは思えなかった。後席の電信員が、飛竜に肉薄する雷撃機を射撃したが、命中したかどうかはわからなかった。アメリカ雷撃隊の直掩戦闘機はほとんど見えなかった。零戦との交戦に忙しいのであろう。零戦は、雷撃機のうしろにぴたりとついては、正確なアイスキャンデーを送っていた。
日本側の直衛戦闘機で、もっとも多くの米軍機を撃墜したのは、蒼竜の藤田怡与蔵大尉だということになっている。彼はこの海戦で十機以上を撃墜した。しかし、加賀の志賀淑雄大尉、飛竜の森茂大尉の零戦隊も、それに劣らず活躍し、それぞれ二十機以上を共同撃墜している。森大尉は、この後の攻撃で戦死したが、志賀大尉は健在で、後に筆者が飛鷹《ひよう》乗組になったときの戦闘機隊長であった。ミッドウェーの空戦の話になると、いつも微笑し、「空戦なんてものじゃないよ。訓練通り、敵の雷撃機の後上方について、引き金を押すと、たちまち火をふいて落ちてゆくんだ。実によくいうことをきく子供みたいなもので、かわいい《ヽヽヽヽ》という感じだったな。グラマン戦闘機も来たが、大したことはなかった。しかし、母艦が雷撃を喰ってはいかん、というので、もっぱら雷撃機を落としていたね。数は覚えていないが、片っぱしから喰っていったもんだよ」と述懐するのが常であった。
友永機が、駆逐艦の上を通って、母艦まであと百メートルほどに接近したとき、飛竜は、大きく、艦尾を右に振った。友永はスロットルを押し、はげしくエンジンをふかした。エンジンがまた、ばたばたと息をついた。機は艦橋すれすれにとび越えた。母艦は魚雷を回避したのであった。友永は、一時、上空で列機を集めて、敵機の去るのを待つことにした。母艦は、あたりに立ちこめる水柱のなかを、何度も激しく、左右に転舵を繰り返しながら、高速力で、北東を目ざしていた。
十二
赤城の艦橋は今や混沌《こんとん》としていた。
友永機から、「第二次攻撃の要ありと認む」という電報が入ったとき、まだ、敵空母の位置はわかっていなかった。草鹿は、源田と相談して、いま一度、基地を叩くことにした。
「長官、もう一回、基地をやります」
南雲は、少し考えた後、
「よかろ」
と言った。
赤城の信号は、その旨を各艦に伝えた。
しばらくなりをひそめていた格納庫は、再び喧噪《けんそう》になった。雷装を爆装に変えるのである。
この頃、イースタン島から飛来したTBFアベンジャー雷撃機に続いて、B26マーチンマローダーの雷撃が始まっていた。
南雲長官は、何を思ったのか、自分で直接操艦の指揮をとって、魚雷の回避を始めた。航空攻撃には、用はないと考えたのであろうか。この操艦は見事であった。操舵室に向かって、転舵を下令する南雲の姿をみて、草鹿は、――自分が水雷戦隊で二十年も魚雷を射つ訓練をして来たんだ。魚雷なんて自分の子供のようなもんだろう、回避がうまいのは当たり前じゃないか――と考えていた。
その頃、飛行甲板では、福田中尉が、直衛戦闘機の発艦の指示をするのに忙しかった。上空では、B17の高々度爆撃が始まっていた。
その少し前、搭乗員待機室でねころんでいた後藤大尉は、対空戦闘のラッパに夢を破られて、発着指揮所に急いだ。村田少佐が双眼鏡で輪型陣の方を見ていた。駆逐艦が煙幕を展張しながら、対空砲の火煙を打ち上げていた。
艦攻分隊長の布留川《ふるかわ》大尉と根岸大尉が上がって来た。根岸は一メートル八〇以上の長身を、だるそうにゆすりながら、ラッタルを登って来た。時刻は四時少し前であった。
海上では、赤城の指宿《いぶすき》、飛竜の森、蒼竜の藤田などが、敵機の迎撃に忙しかった。アベンジャー隊がほとんど全滅した後、B26マーチンマローダーの隊がやって来た。マローダーということばは、掠奪者という意味を持っていた。藤田怡与蔵は、B26の先頭機にとりついたが、この双発機は意外に速力が早いので、目標を二番機に変えた。このため、隊長機は無事に魚雷を発射して離脱したが、二番機が、藤田の照準器のなかに捉えられた。B26は低空で赤城に肉薄し、赤城の二十五ミリ機銃からの発射弾は、藤田機をもかすめた。
――あぶねえなあ、味方のタマの方が――口のなかでそう呟きながら、藤田は引き金を引いた。二十ミリ弾は、B26の機銃射手を一人倒したほか、燃料タンク、プロペラ、無電機、着陸装置を破壊し、主翼に無数の穴をあけ、さらに、機銃員二名を倒した。機内は弾痕から風が吹きこみ、血のしぶきが舞った。二番機は、魚雷を発射すると、赤城の甲板を飛び越え、その時、最後の機銃員が十三ミリを乱射した。魚雷は当たらなかったが、赤城は、このため、三番高角砲員二名重傷、同砲は一時、旋回不能に陥った。
藤田はさらに後方のB26にとりついた。最後尾の四番機である。後部のガラス張りの銃座から盛んに撃って来たが、かまわずに、接近して、射撃すると、左翼タンクから火を吐いた。海面すれすれに反転しながら見ていると、右に垂直に近く傾き、急旋回し、右翼端を海面に接触させると、その点を軸として、黒い腹をみせながら、転倒した。腹に太い魚雷を抱いていた。機は、突然、水煙と青白い泡に変わり、何も残らなかった。藤田は、ふと、今、機尾のガラス玉から自分を射撃していた射手の眼を思い浮かべた。飛行眼鏡をかけており、風防のなかに入っているので、眼玉が見えるわけはなかったが、はっきり見たような、印象が残っていた。――あの青い眼玉が、この白い飛沫に変わってしまったのだ――彼は空虚なものを感じた。撃墜の喜びよりも、背中のあたりに真空が生じたような感じが強かった。彼はすぐに旋回して上昇した。
さらに九機のB26が魚雷を抱いて襲って来た。南雲の操艦で赤城がうまくかわした魚雷が三本、飛竜の方に向かって行った。四千メートルはなれていたので、飛竜の艦橋では、そのような浮浪者のような当たりぞこないの魚雷には注意していなかった。藤田は、魚雷を追うと、バンクを繰り返してそれを飛竜に知らせた。艦橋にいた山口司令官がそれを見とがめた。飛行機の経験の長い山口には、その零戦の動きが、ただ事とは思われなかった。
「艦長、あの零戦を見ろ!」
言われた加来は、三本の魚雷が正しく飛竜の艦橋の下めがけて右側から航走して来るのを発見した。彼は眉を上げると、
「面舵一杯!」
を令した。飛竜は大きく右に転舵し、魚雷は、飛竜の艦首を左にかわり、気泡を残して後方に消えた。
「いろいろなのが来るね」
山口は、あごをつまんでいた。
加来は、難しい顔で三本の雷跡を見おくり、前方に視線を転じた。さらに六機のB26マローダーが左舷からこちらに向かっていた。
今度は、「取舵一杯!」であった。
赤城の発着指揮所では、パイロットたちが双眼鏡でその様子を見物していた。
「どうですか、敵の技倆は?」
後藤が村田に訊いた。
「経験不足だな。五十点やれんな。B26は陸上機じゃから、雷撃の射点というものを知らん」
雷撃の神様、といわれる村田はそう答えた。
そこへ、総隊長の淵田が上がって来た。
「どうですか、隊長、盲腸の傷は……」
「いや、心配で寝とれんよ。敵の母艦の様子がわからんのでね……」
そのとき、赤城の後部から蒼竜の方にかけて、十メートル以上の水柱が数本立ち上った。
「水平爆撃だ」
淵田の声に、皆はいっせいに空を仰いだ。三千メートルくらいに断雲があり、その上方、高度六千メートルくらいに、うすい刷毛《はけ》ではいたような高層雲が出ていた。その淡い雲を背景にして、二十機近くのB17四発爆撃機が、悠々と南に飛んでいた。葉巻のように見える胴体が、陽光を浴びて白銀色に光っていた。高角砲弾がぷかり、ぷかりと白い煙をあげたが、届きそうになかった。
「ううむ、あの高度じゃ、敵も味方も当たりそうにないな」
村田が唸るように言った。
十三
午前四時二十八分、利根四号機からの電報を握った草鹿は唸った。「敵ラシキモノ十隻見ユ……」
「遅いな、すぐ『敵ノ艦種知ラセ』とやれ!」
草鹿は時計を見ながら、通信参謀に言った。いらいらしていた。格納庫のなかでは、雷装を爆装に転換中であった。上空では第一次攻撃隊が着艦請求の発光信号を送りながら旋回しており、各空母は、B26の雷撃や、B17の爆撃を回避するのに忙しかった。
続いて四時五十八分「敵針八〇度、速力二〇ノット」、五時九分「敵ノ兵力ハ巡洋艦五隻、駆逐艦五隻ナリ」と入電があり、さらに、五時二十分、利根四号機は「敵ハソノ後方ニ空母ラシキモノ一隻ヲ伴ウ」という重要な電報を送信して来た。米軍の哨戒艇が日本の機動部隊を発見したのは、午前二時半であるから、丁度、三時間、索敵が、つまり、立ち上がりが遅れたわけである。この時点で、マクラスキーとウォルドロンの隊は、すでに発進しており、スプルアンス部隊の他の隊も発艦を完了していた。
「サラニ敵巡洋艦ラシキモノ二隻見ユ、ミッドウェーヨリノ方位八度二五〇マイル、敵針一五〇度、速力二〇ノット」という入電があったとき、赤城の艦橋では、草鹿が、首席参謀の大石保中佐、航空甲参謀の源田などと頭を集めて協議をしているところであった。
ここで、ミッドウェーの勝敗を決した大きな要素である「索敵」について、一言しておこう。
ミッドウェーについては、よく“運命の五分間”ということがいわれる。すなわち、友永隊長の「第二次攻撃の要ありと認む」という電報によって、司令部が、「雷装を爆装に換え」を令し、さらに、利根四号機の敵空母発見の報によって、爆装を雷装に換えた。この発艦が五分間遅かったために、赤城、加賀、蒼竜の三艦が被弾したというのである。
しかし、筆者の見解は、全然違う。問題は索敵である。
前出の付図1を見ると、米機動部隊のエンタープライズと、ホーネットは、午前三時、ミッドウェーの北北東二百マイルの位置に達している。赤城からは、東北東二百十マイルであった。
付図2を見ていただきたい。ちょうどこの頃、エンタープライズの真上にさしかかった日本機があった。筑摩の一号機である。しかし、機長の黒田大尉は、二隻の空母を囲む大輪型陣を発見することは出来なかった。なぜか……。雲が低くて、見とおしがきかないため、黒田機は雲の上を飛んでいたのである。
アメリカの戦史によると、スプルアンス麾下《きか》のエンタープライズ、ホーネットの攻撃隊が発艦を開始したのは、午前四時である。
(アメリカの哨戒艇が日本の機動部隊を発見したのは、午前二時三十四分)
もし《ヽヽ》、黒田機が雲の下を飛行して、運よく米空母を発見していたら……、もし、雲が晴れていて、見とおしがよく、三時までに、空母を発見していたら……、そして、赤城にその旨を打電していたら、合戦の様相はがらりと変わったであろう。
雷装で待っていた、日本の第二次攻撃隊の方が、エンタープライズや、ホーネットよりも早く発艦し、攻撃を加えることが出来たのである。
そして、ここに、今まで知られなかった第二の「もし……」がある。
まず、最も常識的な「もし……」について紹介しておこう。それは先に述べた利根四号機の問題である。
ウォルター・ロードの労作「Incredible Victory=邦訳名『逆転』実松譲訳」によれば、ロードは、もし《ヽヽ》……利根のカタパルトが故障せず、利根四号機の発進が三十分遅れなかったならば、赤城は、友永から、「第二次攻撃の要ありと認む」の電報を受信する前に、米空母を発見出来たであろう、と述べ、利根四号機三十分の遅延が作戦に大きな支障を来たしたように書いている。
なるほど、友永大尉が打電したのは、午前四時であり、利根四号機が「敵らしきもの見ゆ」と米機動部隊発見を打電したのは、午前四時二十八分である。従って、数字的に見れば、利根四号機が、定時に発進しておれば、友永の電報の前に「敵発見」を打電出来たことになる。しからば、その後の戦闘の様相も大きく変わったであろう。
しかし、事実は違う。「付図2」でもわかるとおり、防衛庁戦史室の資料によれば、利根の水偵第四号機は、発艦が三十分遅れたため、たまたま、米機動部隊を発見出来たのである。予定通り発進しておれば、敵の位置を早目にとび越えてしまい、発見出来なかったというのである。
ここに、筆者の主張する重大な第二の「もし《ヽヽ》……」が存在する。利根の土井参謀によると、利根第四号機の発進が遅れた大きな原因は、コンパスの故障だ、という。これは今まで発表されていなかった。発艦まぎわになって偏差、自差の修正が行われていないことがわかり、どうにか修正して、三十分遅れて発艦したが、コンパスの針は十度右ヘブレていた。そのため、予定コースよりかなり南へずれて飛行し、四時二十八分に米軍を発見したのである。
「もし……」コンパスがブレていなかったらどうか。「付図2」で自明のとおり北寄りに飛べば、三十分前には、米空母を発見出来たはずである。米機動部隊は、赤城の予想よりも、接近しており、午前四時前後には、発艦のため進路を南東に向けて、艦首を風に立てていた。この時、エンタープライズの上空には、断雲があったが、晴れていた。利根四号機は、眼下に二隻の空母を囲んだ大輪型陣を容易に発見出来たはずである。利根機の発見第一電によって、赤城司令部の作戦は大きく変わったであろう。運命の五分間の前に、運命の“十度のブレ”があったのである。
この重大な「もし《ヽヽ》……」は実現されなかった。ミッドウェー海戦の勝敗を決したのは、一つのコンパスのブレであった、と筆者が主張するのは、この点である。
話を赤城の艦橋に戻そう。
問題はいうまでもなく、新しく出現した母艦群に対する攻撃であるが、目下爆装に換えつつある艦攻をどうするか、ということである。加うるに、護衛の戦闘機も少なかった。ミッドウェーから帰った第一次攻撃隊も収容しなければならない。敵の母艦を沈めるには、陸用爆弾で水平攻撃をやっても効果は少ない。ここはどうしても雷撃で潰滅的打撃を与えねばならない。草鹿の頭には、ハワイ以来勝ち進んでいる常勝将軍のゆとりと奢《おご》りが半々になっていた。
この頃、長官の南雲は操艦に夢中になっていた。ミッドウェー基地からの、旧型爆撃機が緩降下して来たのである。先に戦死したヘンダーソンの同僚ノーリス少佐のひきいるヴィンディケーター十一機であった。南雲はこれを回避するための操艦に身構えていたが、ノーリスの隊は、空母は手ごわしと見たか、大部分が、榛名《はるな》と霧島の方に向かった。
「長官……」
草鹿は、源田と相談した結論……爆装を再び雷装に換える旨を南雲に伝えた。操艦に一息入れていた南雲は、戦闘帽をぬいで、汗を拭いながら、少し考えると、
「よかろ」
と言った。
再び、格納庫は喧噪になった。敵襲の合間を縫って、第一次攻撃隊の収容が開始された。機動部隊は、飛行機を収容し、兵装を転換しつつ、一路北東を目指した。肉薄、決戦を望んだのである。このとき、赤城の艦爆隊は輪型陣の味方駆逐艦からかなり撃たれた。着艦した千早や山田は、「味方を撃つなんて、駆逐艦の奴ら、どういう眼玉をしてるんだろう」
と、眼を三角にした。
「いや、敵襲が続くと神経質になる。ああいうのは、撃ち出すと止まらない、そう怒るな」
と村田がなだめた。
飛竜の艦橋では、山口多聞が、双眼鏡を眼にあてて、四千メートル先の赤城を見ていた。今、利根四号機から来た電報は、「敵空母一隻見ユ、〇五二〇」であった。山口は、直ちに航空参謀の橋口喬少佐を呼ぶと、「直チニ攻撃隊ヲ発進スル要アリト認ム」と赤城に発光信号を送るように言った。橋口は驚いた。普通、作戦命令は、参謀が起草して、司令官がそれにOKを与え、発令となるものである。司令官が自分で信号文を作って下令することは珍しいことであり、それだけ、事は緊急を要すると思われた。山口はじりじりしていた。見敵必戦のこの勇猛な提督は、敵空母発見次第、一撃を加えなければ、この戦いは危いということを見抜いていた。一航戦の艦攻は爆装であるが、二航戦の艦爆三十六機は、ベテラン江草少佐(蒼竜)指揮の下に、朝から発艦を待っているのである。抱いているのは陸用爆弾であるが、これでも二、三発喰わせれば空母の飛行甲板を破って、発着不能に陥れることは容易である。それからゆるゆる雷撃で料理しても遅くない。これが、二航戦司令官山口の判断であった。時に五時三十五分であった。
しかし、この適切な意見具申に対して、赤城司令部の返答は、「爆装ヲ雷装ニ換エ、今ヨリ北上、敵空母ヲ撃滅セントス」であった。
飛竜の艦橋で、山口は、大きく右掌を上げて、自分の出っ張った下腹を撃った。ぼこんと音がした。
「兵は拙速を尊ぶだ。南雲さんは、わかっているはずだがな……」
山口は、赤城の幕僚が近視眼になっているのではないか、とおそれていた。一航戦の赤城と加賀は、午前の基地攻撃に艦爆を供出したので、艦攻各二十七機計五十四機が格納庫に入っている。こいつに魚雷を抱かせて、またも轟沈と凱歌をあげさせてやりたいのは人情である。しかし、二航戦は、艦爆だけが残っている。早くゆかせてやりたい、これも人情である。そして、艦爆三十六機を先に出すのが、この場合戦術というものであった。
五時四十分。友永は、敵襲のすきを縫って艦首を風に立てた飛竜に着艦した。着艦して機首が上を向くと、プロペラが止まった。燃料はほとんど残っていなかった。彼の中隊に続いて、角野の機が着艦した。彼は母艦が見えたのに、変針を繰り返して、一向に着艦出来ないので、いらいらしていた。ここで自爆するわけにもゆかなかった。右の足首は、血がどすぐろく固まり、少し動かしても、生皮をむしるような痛みを感じた。
「分隊長、もう少しで着艦です。そしたら、ゆっくり眠って下さい」
中間席の小林は、黒板で角野の背を叩きながら、叫び続けた。着艦コースに入ると、角野の機は、生酔いの人間のように、何度も頭をふらつかせた。小林はうしろから「七十(ノット)、六十八、六十七……」と機速を読みながら、「分隊長、右にふれています、今度は左です」と注意を繰り返した。角野はその度に、「うー、うー」と手負い猪のような唸り声で答えた。彼の機は、機首が少しさがり、艦尾の気流に吸い込まれそうになったので、少しエンジンをふかして、やや高目に艦尾をかわし、七番索にひっかかった。
バリケードの向こう側に機が運ばれると、小林はすぐに座席からとび出し、整備員を呼んで、角野をデッキに抱き下ろした。角野はやや元気を回復していた。
「分隊長、よく頑張りましたね、いや、実際頑張りなさったですよ。随分きつかったでしょう」
肥満した角野を背負いながら、小林は分隊長がいとおしく感じられた。
「うん、有難う、みんな小林兵曹のおかげだよ」
角野はもの憂げな声で、背中から返事をした。二人は戦時治療所になっている士官室に入った。
「さあ、分隊長、もう大丈夫です。ゆっくり寝て下さい」
小林は笑おうとして、ふいにしゃくりあげた。
「いや、もう眠くなくなったんだ。あの薬が効いたんかな?」
角野はほろ苦く笑ったが、うつろな眼をしていた。軍医は彼の傷を見ると、黙って、鋸を出し、足首の骨を切り落とした。出血が激しいので、輸血の必要があった。小林と角野は同じ血液型であった。小林の血が注射器に抜きとられ、点滴が行われた。自分の静脈に刺された針を通じて、吊された容器の赤い液体が徐々に減ってゆくのをみながら、角野はふいに自己嫌悪に陥った。――いやなことだ――と彼は考えた。小林がおれを励ましてくれたのは、自分が助かりたいからではなかったのか。おれが突っ込めば、後席も一蓮托生だ。では、おれは、小林の命の恩人というわけだ。そして、そのお礼に彼は血を提供してくれた。その人間とおれの血は混合しつつある。これはどういうことだ。――そう考えて、――なぜ、こんな考えが浮かぶのだろう、おれは疲れている。なぜもっと、人間の滅私的な献身、美しい友情などについておれは考えられないのだろう、おれはいやな人間だ――そう考えている間に、角野は体が温まって来るのを覚え、眠りに落ちて行った。
彼の頬に血の気がさすのを見た小林は、電信員の今村と顔を見合わせて微笑をかわし、息を一つついた。
十四
その頃、飛竜の北東百八十マイルの海面では、一人の提督が苦悶していた。
ヨークタウンのフレッチャー少将は、攻撃隊をいつ発艦させるべきかで迷っていた。フレッチャーの任務は、後詰めである。日本空母四隻のうち、発見された二隻をスプルアンスに任せ、自分は、艦爆十七、雷撃機十三を抱えて、次の空母の発見されるのを待っていた。フレッチャーは、スプルアンス隊が午前四時に発艦を開始したものと信じていた。しかし、五時を過ぎても、何の情報も入らなかった。敵がそう遠くにいるとは考えられなかった。フレッチャーは、ナグモの奇襲を恐れていた。日本の航空部隊のお手並は、珊瑚海で十分経験ずみであった。――あのときは、鯨のようなレキシントンに殺到してくれたので、こちらは手傷だけで助かったが、今度、先手をとられたら、助かる見込みはない――と彼は考えていた。バックマスター艦長、飛行長のマー・アーノルド中佐と相談した結果、午前五時すぎ、フレッチャーは、攻撃隊発進を決意した。五時四十分、レム・マッセー少佐のひきいる第三雷撃中隊のデバステーター十二機に引き続いて、マックスウェル・レスリー少佐の第三爆撃中隊、ドーントレス十七機が発艦して、南西へ向かった。
世の中には不思議なことがあるもので、日本にもあとの烏が先になる、という諺《ことわざ》がある。
エンタープライズを午前四時六分に発艦したマクラスキーは、三十三機をひきいて、哨戒艇の情報通り、ミッドウェーの北西百二十マイルに接近しているはずのナグモ部隊を探したが、いっこうに見つからなかった。そして、その間に、彼より一時間も遅く発艦したホーネットのウォルドロン隊が、まず攻撃を行い、ついで、エンタープライズの、ゲン・リンゼーの雷撃機隊が、そして、彼より一時間半も遅れて発艦したヨークタウンのレム・マッセー雷撃隊までが、攻撃を行ってしまったのである。
まず、ウォルドロンである。彼は、人の言うことをきかない点では、マクラスキー以上であった。エンタープライズのリンゼー雷撃隊は、司令部から指示されたとおり、南西に飛んだが、ウォルドロンは、黙って、針路を西南西にとった。これはいわゆるアパッチのカンによるものであった。彼は西の方がキナくさいと思った。ナグモが勇敢な提督なら北上しているはずである。まず、西を探し、それから南下して、ミッドウェーに向かっても遅くはないと考えていた。なにしろ、愛機はオンボロのデバステーターであった。早く敵を発見しないと、エンコしてしまう可能性があった。ジョージ・ゲイ少尉は、艦橋の指示よりは、少し針路が違うな、と感じながら、「おれについて来い」というアパッチ出身の隊長について行った。そして、ウォルドロンのカンは正しかった。
午前六時二十分、低空を飛んでいたウォルドロンは、水平線に三隻の空母を発見した。ウォルドロンは直ちに「突撃隊形作レ」と下令し、隊を二隊に分け、高度五百メートルで、もっとも南にいた空母、すなわち蒼竜に向かって突撃した。ウォルドロン隊十五機は、輪型陣の駆逐艦の猛烈な対空砲火をおかして肉薄したが、空母の直衛機に捕捉された。蒼竜直衛隊を指揮する藤田は、部下九機をひきいて、このよぼよぼした雷撃隊に殴り込んだ。零戦とデバステーターでは、時速百キロ近い速力差があった。
藤田は苦もなく後方の一機にとりつくと、これも撃墜した。そこここで、デバステーターが火を吐き、海面に波紋をあげた。蒼竜からの対空砲火も熾烈だった。雷撃隊は、見る間に、十五機から五機に減ってしまった。藤田は続いて、先頭を、勇ましく、しかし、のろのろと母艦に向かうデバステーター機のうしろにとりついた。
「隊長、ゼロです!」
偵察員が絶叫した。射点にはまだ遠かったが、ウォルドロンは、急いで、魚雷の投下索を引いた。魚雷が機体をはなれると同時に、藤田の二十ミリ弾が、燃料タンクのなかで炸裂し、デバステーターは焔に包まれた。ウォルドロンは、焔のなかに立ち上がり、脱出しようともがいた。――畜生、黄色いJAPまでが、このアパッチ様を痛めようというのかい――呻くように叫ぶ声が、後続のジョージ・ゲイ少尉の電話に聞きとれた。しかし、ウォルドロンは、背中に二十ミリ弾を喰っていた。腰の山刀を抜いて、落下傘の紐を切り、機外に脱出しようとした、三十四歳のアパッチ系のアメリカ人は、燃えさかる焔の一塊と化した機と共に、海中に激突し、最期をとげた。見ていたジョージ・ゲイは、自分も血が騒ぐのを覚えた。
デバステーターは三機に減っていた。ウォルドロンが発射した魚雷は蒼竜の柳本柳作《りゆうさく》艦長に回避されて、射点が後落していた。三機が魚雷を発射した直後に、二機が撃墜された。魚雷発射後、ゲイ機は、蒼竜の甲板上をすれすれに通過したが、ついに、零戦につかまり、撃墜された。ゲイは足に負傷をしたが、着水した機から這い出して水に浮いた。操縦員も、機銃員も射殺され、偵察員の彼だけが生き残った。そして、これが、ホーネットの第八雷撃中隊唯一の生存者であった。ウォルドロンの雷撃中隊は、十五機全機が撃墜され、一発の命中魚雷も得られず、そして、唯一人の生存者は海面に在った。
しかし、運命の神は皮肉である。神は、日本の零戦パイロットをも、一人、海の上におきざりにし給うた。それは蒼竜の藤田怡与蔵である。最後の機を撃墜したとき、彼は、自分のエンジンが白煙を吐くのを認めた。附近に敵影はない。なんのことはない、味方母艦の機銃に射撃されたのであった。
――ちえっ、味方の機銃か――藤田は濃い髭をひとなですると、一杯上げ舵をとり、高度八十から三百まで上昇した。スティックをひねり、機を背面にすると、頭の下に来た風防を開き、腰の落下傘バンドを確かめ、両足を座席の前縁にかけると、よいしょとばかりに機外にとび出した。機は失速に入って、彼と一緒に落ちて来る。――こいつはうまくない――彼は、足で、ぐいと機の胴体を蹴った。機は彼から七メートルばかり離れて錐揉みに入った。藤田の頭上でぽかりと落下傘がひらいた。彼はほっとして下を見た。まだ百五十くらい高度があった。彼は、自分を撃墜した蒼竜の機銃群がまだ火を吐いているのを、複雑な気持で眺めた。加賀に雷撃隊が群がり、次次に零戦に墜《お》とされて行った。先ほどまで彼が乗っていた零戦が、飛沫をあげて海に落ちた。その波紋から二十メートルとはなれぬところに、彼も着水した。カボック(救命胴衣)をつけていたので、ぷかりと水に浮いた。駆逐艦が五百メートルほど前方を通ったが、誰も彼に注意してくれなかった。――朝から働いて、その揚句がこのざまか――そう思ったが、別に肚も立たなかった。元来、気楽な性分であった――こんな大きな戦争で、おれ一人の命なんか、問題にはならないんだ。助かるものなら助かるだろう――そう考えているうちに、空腹を感じ、それもあきらめ、そして、海面に浮きながら眠り込んでしまった。
十五
エンタープライズのマクラスキーは、いくら予定海面を探しても、ナグモ部隊が発見出来ないので、思い切って、右に変針しようと考えた。ナグモは北上したと予想したのである。発艦してから、二時間半以上も経過しており、帰りの燃料に自信がなくなる頃であった。同じ頃、ホーネットから出たスタンホープ・リング中佐のドーントレス三十五機と戦闘機十機は、最後までこの海域を捜索し、ついに攻撃をあきらめ、爆撃機二十一機は母艦に帰り、十四機はミッドウェーに不時着、戦闘機は燃料が尽きて、大部分が海上に不時着してしまった。
爆撃隊が、そのように、“ぶざま”な行動をしている間に、またも二つの雷撃隊が南雲部隊にとびこんだ。
まず、ゲン・リンゼー少佐のひきいるエンタープライズ第六雷撃中隊十五機である。リンゼーは、高度四百メートルで、断雲の下を飛んでいたので、予想地点よりもはるか北方を北上している空母部隊を発見することが出来た。リンゼー隊は、戦闘機隊とはぐれたため、はだかで、真南から、日本のもっとも大きな空母、加賀に向かって突撃を試みた。リンゼーは、隊を二隊に分けて、加賀を挟撃する戦法をとったが、デバステーターは、あまりにも遅かった。加賀の直衛戦闘機十数機は、この中古品をなぶりものにした。次々に雷撃隊は墜とされ、リンゼー隊長も、三番目に、海中に突入した。リンゼー隊の帰還機は四機に過ぎなかった。
レム・マッセー少佐のひきいるヨークタウンの第三雷撃中隊十二機は、リンゼーよりも少し遅れて戦場に到着した。南雲部隊はさらに北上しており、発見は容易であった。マッセーは、攻撃目標を一番北東にいる母艦と定め、やはり、二隊に分れて突撃した。様相は、エンタープライズのリンゼー隊とよく似ていた。飛竜に向かって突進した十二機の中古品は、十機の零戦に捕捉された。恐ろしく精度のよい直衛戦闘機隊であった。隊長のマッセーは、二番目に撃墜された。機が燃え、マッセーは風防をあけて外へ出たが、そのまま、魚雷もろとも、海中に突っ込んでしまった。
ヨークタウンの雷撃隊で、帰投し得たのは、十二機中、二機に過ぎなかった。
六時半から四十分間にわたって、四十三機のデバステーターが雷撃を行ったが、一発の命中魚雷もなかった。そして、彼らは、ウォルドロン隊の十五機をもふくめて、三十七機を失った。南雲部隊の司令部や搭乗員や、見張員は、零戦が、脚の遅い鈍重なデバステーターを鳥射ちのようになぶり殺しにするのを興味深く見物していた。アメリカの魚雷は当たらぬものと彼らは考えていた。そして、彼らの注意は、自然に海面にひきつけられ、次はどのような雷撃機が現われるかを楽しみにするようになっていた。
ウェイド・マクラスキーのひきいるエンタープライズ第六爆撃中隊三十三機が、南雲部隊の上空に達したのは、午前六時五十五分である。帰りの燃料は、一杯一杯であった。高度四千で飛行していたマクラスキーは、全速力で北西に進む小艦を発見した。(南雲部隊の後方を警戒していた駆逐艦嵐であった)マクラスキーは、その艦の進路の方向に視線をたどってみた。「いる、いる」と彼は思わず叫んだ。ゆがんだ、しかし、大きな輪型陣――そのどれもが、火と煙をふき上げている――のなかに四隻のスリッパーのような空母が北上していた。三隻はほぼ固まっており、一隻ははるか北東にはなれていた。彼は壊れた拡声器とあだ名された疳高《かんだか》い声で部下にそれを通報し、近い空母(加賀)を自分のひきいる隊が、そして、少しはなれた空母(赤城)を、次席指揮官のディック・ベスト大尉の隊に攻撃させることにした。
時に午前七時十八分、現地時間では、四日の午前十時十八分である。太陽は機動部隊のほぼ直上にあった。
マクラスキーは、先頭に立って前進した。――早く攻撃しなければ、帰りの燃料がなくなる。もっとも、ここでやられれば、帰る必要もなくなるが――そんなことが、断片的に彼の脳裡を通りぬけた。
急降下爆撃機の降下法《ダイブ》は日本もアメリカも同じである。目標の艦が、エンジンの左側に沿って近づいてくるように機を進行させる。艦が左翼の前端の線に達したとき、一旦エンジンを絞った後、機を左に捻り、頭を突っこんで降下に入るのである。降下の角度は普通六十度であるが、角度が深い方が機速も出るし、敵に発見されにくいので、七十度にすることもある。しかし、そうなると、体は浮いたような形になり、機の操縦が困難になる。引き起こす高度は、ミッドウェーの頃は五百が普通であったが、後には四百となり、南太平洋海戦では、二百五十まで突っ込んでいる。
マクラスキーは、予定通り、目標の大艦(加賀)を翼の根元まで引き寄せると、かすかなときめきを感じながら、静かにダイブに入った。七時二十分である。加賀は礼儀正しく北東に向かって直航していた。第二次攻撃隊を発艦させるため、艦首を風上に立てていたのである。降下する途中、マクラスキーは、不思議な静寂を感じた。聞こえるのは、エンジンの唸り声だけである。
うしろの偵察員が高度を読み上げていた。
「一万(フィート)、九千、八千……」
マクラスキーは、小さな不安を感じていた。エンタープライズを発艦したとき、三十三機あったドーントレス爆撃隊は、途中エンジン不調で帰艦したものや、燃料不足で着水したものをひいて、三十機になっていた。果たして、ナグモの空母二艦を屠《ほふ》ることが出来るかどうか……。彼の部下の訓練状態は決してよいとは言えなかった。ディック・ベスト隊の後尾にいるブラック・スミスという、鍛冶屋のような名前の少尉は、訓練中、一発の命中弾をも得ることが出来なかった。
――おれは、最も標準型の爆撃を行おう――とマクラスキーは考えていた。日本でもそうであるが、急降下爆撃の場合、一番機は、ごく普通の、つまりほとんど修正をしない照準で、爆撃を行う。目標附近の風向風力がよくわからないからだ。後続機は、隊長機の弾着が手前にすぎたら、これは向かい風が強いとみて、照準を若干前方にずらせるのである。
マクラスキーが降下したとき、ディック・ベスト大尉は驚いた。それは、マクラスキーと共に、手前の大艦を攻撃するはずの十五機のほか、ベストと共にやや遠方の空母を攻撃する予定になっていた十五機のうち、十機までが、隊長のマクラスキーに続いてダイブに入ってしまったのである。無線電話の連絡が不十分であったのだ。あの金切声め! とベストは、口の中で隊長を罵った。ベストは止むを得ず、爆撃の技倆最低と定評のあるブラック・スミスをもふくめた四機をひきいて、遠方の空母を目指した。
「三千、二千五百、二千……」
マクラスキーの後席では、チョチョラウセクという、カナカ人の血のまじった偵察員が高度の読み上げを続けた。
「千八百!」
「OK! fire!!」
マクラスキーは、高度五百メートルで、左の掌で投下用ハンドルを回し爆弾を投下した。機は急激に軽くなり、浮き上がった。機を引き起こしながら、マクラスキーは、JAPの空母の飛行甲板を見た。この大艦は右舷に艦橋があった。引き起こしを終わり、ふりかえってみると、彼の落とした鳥の糞《バーズシエツト》(爆弾)は、艦橋の左手前に落ちた。――向かい風があるな――そう思っていると、二番機の弾着も近目の至近弾であった。とりついて来た零戦を避けながら、――早く修正して投弾しないと、逃げられてしまうぞ――マクラスキーは焦りながら、機をひねっていた。四番目に降下したガラハー大尉は、三発の至近弾を見て、投下点をやや前方に指向し投弾した。
加賀の艦橋では艦長の岡田次作大佐が、見張員の報告に驚いているところだった。
「敵の飛行機、右直上! 降下して来る!」
岡田大佐は、ためらわずに、
「面舵一杯!」
と令した。海軍では、緊急の場合、右の利き腕を使って面舵をとり、衝突を避ける慣習になっていた。四万二千トンの加賀は、舵の利きが悪かった。ガラハーの爆弾は、午前七時二十四分、中部リフト、つまり加賀の飛行甲板のまん中に命中した。発艦を待っていた飛行機が三機吹きとび、リフトが屏風のように突っ立ったかと思うと、下に落ちた。
「面舵! 急げ!」
岡田艦長が伝声管にそう叫んだとき、次の爆弾が右舷後部に命中して、ガソリン車の爆発によって、火焔が刷毛ではいたように甲板上に拡がった。そして、その次の爆弾、ダスティ・クレイス中尉の投下した鳥の糞《ヽヽヽ》は、加賀の艦橋の左前部を直撃した。この爆発によって、岡田大佐は、世界が真紅に燃え、伝声管を握ったまま、即死した。こうして、マクラスキー隊二十五機の投弾のうち、四弾が命中、第四弾は、前部飛行甲板で作裂した。命中率は十六パーセントで高いとは言えなかった。しかし加賀は、まんべんなく全甲板に四百五十キロ爆弾の洗礼を受けたといえる。そして、誘爆によって、燃えさかるたらい《ヽヽヽ》と化したのであった。
ディック・ベストは、全速でやや遠方の空母に接近した。ベストは、残り少なくなった部下の四機に電話で命令した。
「おれについて来い。目標は左前方の空母だ。もう、よそには行くな!」
彼は部下の命中率を心配していた。手前の大艦(加賀)に、マクラスキー隊が突入して、投弾したが、至近弾が多いようだった。ベスト隊のしんがり《ヽヽヽヽ》は、今まで命中率零のブラック・スミス少尉である。
「落ち着いて、よく狙うんだぞ、ブラック・スミス!」
とベストは命令した。“森の鍛冶屋”とあだ名を持つスミスは楽天家だった。彼は答えた。
「OK、隊長、あんなでかい目標なら、ひとひねりでさ」
スミスは落ち着いていたが、ベストのほかの部下は、はやっていた。
けんか早い、ロバート中尉は、ベスト大尉が慎重に前進するので、――もう我慢出来ない、と考えて、機を左にひねり、太陽を右直上に受けながら、降下に入った。ディック・ベストは、早駆けする部下に、小さな怒りを感じながら、自分は、最も適正だと信じられる位置、つまり、赤城が、どんぴしゃり、ドーントレスの左翼のつけ根に来たとき、エンジンを絞って、翼を左にひるがえした。
赤城の艦橋では、いくらか雷撃機の攻撃から解放された見張員の高田兵曹が、ふいに肩がすくむような空白感をおぼえて、空を見上げた。南海の夏の太陽のまわりに、丸い虹に似た色彩の輪があり、その中心から射出されたように、突っ込んで来る三匹の虻がいた。(赤城からは、五機のうち三機しか視認されなかった)
「艦爆三、直上! 究っ込んで来ます!」
「面舵一杯!」
空を仰ぎながら、航海長の三浦中佐は、声をふり絞った。
発着指揮所にいた、山田昌平と、後藤仁一は、福田中尉が、戦闘機隊の一番機に発艦用意の旗を指向しているのを眺めていたが、あわてて空を見上げた。昼に近い太陽が眩《まぶ》しかった。その陽光が、小波《さざなみ》の輪をゆらめかせている青空のなかを、エンジンと翼だけをこちらに向けて、逆落としに迫って来る三機のドーントレスを二人は認めた。高度は千メートルぐらいで、もう目標に向かって、教科書通りに、爆撃コースにセットしているように見えた。
「こりゃあいかん、当たるぞ!」
急降下爆撃のベテランである山田は、確信をもってそう叫んだ。鹿児島で訓練中、彼は地上指揮官として、急降下爆撃の採点をしたことがあった。彼は急いで、搭乗員待機室にとびこみ、ありあわせの落下傘収納袋を頭にのせ、大きな体を小さくしてしゃがみこんだ。後藤も急いでその後から駆け込んだが、すでに他の搭乗員が入り口にしゃがんで、中に入れないので、脚だけ搭乗員室に入れ、尻を外に出したまま、頭の上に座席用のクッションをのせ、息を殺した。一秒、二秒、三秒。彼はもどかしい思いで、自分の心臓の鼓動を聞いた。彼の心臓は、時間を、そのもっとも充足した長さで感じとった。彼は眉を一杯、真中によせ、――やるか、やるか――と口のなかで繰り返した。キーン! と、全速で灼けたエンジンが、艦橋の上をとび越す音がした。――来たか、やるか、やるか――彼はまた繰り返した。シュルシュルシュル……と爆弾の落ちる音が、搭乗員室の入り口から聞こえた。
キーン、とまた一機がとび越えた。――二つ目だ。やるか――すると、ズズーンと、底力のある震動が左下の海面から彼の足元をすくい上げた。ロバート中尉の第一弾であった。続いて、バガーン! あたりの空気がはげしく大幅にゆれ動いた。ディック・ベストの第二弾は、飛行甲板中央、リフトの前端に命中した。ベストは降下の途中、ロバートの第一弾が、赤城の左舷にある艦橋のすぐ外舷に落ちるのを認め、そして、発艦の途中にある零戦一機と、旗を振っている若い士官を認めた。投弾して、ふり返ってみると、飛行機も、若い士官も消滅し、中部リフトに大きな穴があいていた。午前七時二十六分であった。
第一弾は至近弾であったが、十五メートルに及ぶ水柱を上げ、このため、艦橋の左側にいた草鹿と源田は、白く濁った、はげしい硝薬の臭いのする泥水を、どぶりと頭から浴びせかけられ、身ぶるいをした。ほかの参謀たちも首をすくめた。えさをもらいに来た野良犬が、ぞうきんのあらい水を、バケツでかぶせられたのに似ていた。
泥水の量は多く、後藤のところにもやって来た。隔壁に体を叩きつけられ、耳の上をいやというほど打った。耳がキーンと鳴った。生まれて初めて感じたはげしいショックだった。濡れた重いぞうきんで、頭の上から力一杯叩かれた感じで、眼は固くつむっているのに、眼の中が出血したように真っ赤に染まった。少年の頃にみた漫画の、頭を拳骨で殴られたときに出る火花、あれに似て、もっと大きなものが眼球のなかで炸裂した。あの漫画は本当だったんだな、と彼は考えた。
ブラック・スミス少尉は、テールエンド、つまり、第五番目に降下した。教官に習ったとおり、すべて、教科書通りであった。第一弾が、艦橋の近くで大きな水柱をあげ、第二弾、すなわち、ベスト大尉の投弾が、飛行甲板中部に火花を散らすのを、彼は認めた。ブラック・スミスは落ちついていた。いつも彼は、降下の途中、機が揺れ動いているように感じ、勝手に修正しては、失敗するのであった。今日の彼にはそれがなかった。赤城の全機銃は彼の機に集中され、彼はあきらめた。多分、生還は出来ないだろう、今に機銃弾が自分に当たる……。そう考えると、逆に落ちつき、高度三百まで降下して、投下ハンドルを引いた。――こんなに大きな軍艦に弾丸《たま》が当たらないようなら、おれは潔くパイロットをやめて、陸上の倉庫番にでもなるべきだ――と考えながら……。
ブラック・スミスの第五弾は、飛行甲板後部のリフトのうしろに命中した。爆弾は下甲板で炸裂し、これが後に赤城の舵故障の原因を作った。
「いかん、やられた!」
落下傘の袋をかなぐりすてた山田は飛行甲板に出た。後藤も、足もとがよろめくのを感じながら、その後について、外へ出た。
赤城を襲った五弾のうち、第一弾は艦橋側面の至近弾で、機銃座、救命艇、アンテナなどをふきとばし、艦橋を海水づけにした。第二弾は中部リフトの前端に命中し、直径十五メートルくらいの大穴をあけ、第三弾は左舷艦尾に命中し、飛行甲板をねじまげ、附近の乗員を海中にはねとばした。(第三、四弾がはずれたため、ブラック・スミスの第五弾が、第三弾のようにうけとられたのである)
エンタープライズのマクラスキー隊よりはるかに遅れて発艦したヨークタウンの急降下爆撃隊、マックス・レスリー少佐のひきいるドーントレス十七機は、意外に早く日本の空母群を発見することが出来た。先に攻撃したウォルドロンの雷撃隊から、日本軍は予想位置よりも北上しているとの報を受けていたので、マックス・レスリーは、ほとんど西に針路をとり、マクラスキー隊が加賀や赤城を発見したとほぼ同じ頃、すなわち、午前七時五分、四隻の空母を発見した。二隻は西側で単縦陣を作り、一隻(蒼竜)はかなり東にはなれ、さらにあとの一隻(飛竜)は、ずっと東北に寄っていた。(飛竜にはもっとも多く雷撃隊が集中したので、回避のため遠ざかって行ったのであった)レスリーの方から見ると、蒼竜の方が近かった。遠くにいる加賀や赤城の方が大きく見えたが、レスリーは、手近ので我慢することにした。
この頃、海面近くでは、レム・マッセー少佐のひきいるヨークタウンのデバステーター雷撃機十二機が、最後の死闘を演じていた。
レスリーは、高度四千で、蒼竜を、エンジンの左側に見ながら前進した。間もなく突撃である。彼は、無線電話で、十六機の部下に命令した。
「鳥の糞《ヽヽヽ》の起爆装置を起こせ!」
つまり、四百五十キロ爆弾の安全装置をはずし、いつでも、衝撃があれば、爆弾が爆発するように、瞬発の状態においたわけである。ところが、どういうわけか、レスリーの鳥の糞《ヽヽヽ》は、その途端に落ちてしまった。サーキットがショートしていて、投下装置が働いてしまったのである。
「何という馬鹿なことだ!」
レスリーは、電話機に向かって、ありとあらゆる雑言を並べたかった。すると、三番機の、デビッド少尉が、
「隊長、爆弾が落ちました」
と言った。
「わかっておる!」
レスリーは、腹立たしげに答えた。
「いえ、隊長、私の機の爆弾が落ちたのです」
とデビットは言った。新式といわれるサーキットの故障は、ほかにもあったのだ。さらに、二機が、爆弾の落下を報告した。
「恥知らず奴!」
レスリーは、まずこう言って、起爆装置をとりつけたハワイ、ヒッカム飛行場の兵器班長に毒づいた後、
「爆弾がなければ、機銃があるだろう。銃撃で、ヤマモトを撃ち殺せ」
と、やけくそ気味に部下に命令した。
かくして、午前七時二十五分、レスリーは、爆弾を持っている十三機と、もう鳥の糞《ヽヽヽ》をひり落としてしまった三機とをひきいて、高度四千から蒼竜の艦橋めがけて突っ込んだ。空《むな》しい感じであった。鳥の糞《ヽヽヽ》も持たないで、スリッパーに突っ込んで、何になるのか。レスリーは、とげとげしい声で、後席のギャラハー兵曹に命令した。
「おい、わが機は、すでに鳥の糞《ヽヽヽ》を落としてしまった。後席の七・七ミリで、敵の艦橋を撃ちまくれ!」
ギャラハーは、早速、降下中の飛行機から遠い雲をめがけて、七・七ミリ機銃の試射を行った。弾丸は出なかった。
「隊長、機銃も故障です」
「なに!? Gonna Hell! (地獄へ行け=くたばれ)!」
レスリーは、今度こそ、心をこめて、パールハーバーの軍需部全部を呪った。
「ガッデム! 帰ったら、軍需部に、千ポンド爆弾をぶちまかしてくれるぞ」
レスリーは、最後に残った武器、エンジンに装備してある十三ミリ機銃を乱射しながら蒼竜の艦橋めがけて突っこんだ。このようにして、ヨークタウン隊は、爆弾を事前に落とした機が多かったため、最初の何機かは、急降下したのに、鳥の糞《ヽヽヽ》を落とさずに引き起こし、ために蒼竜への第一弾命中は、午前七時二十八分と遅れた。
十七機のうち四機は、事前に爆弾を投下してしまったので、実際に投下したのは十三機であるが、そのうち、九機が投弾したときに、すでに蒼竜の前、中、後甲板にそれぞれ一弾、計三弾が命中して、甲板が火の海と化したので、残りの四機は、近くにいた戦艦霧島と駆逐艦一隻に投弾し、至近弾を与えた。
従って、蒼竜に対する命中率は九分の三、すなわち三十三パーセントである。
海面を這って逃走しながらふり返ったマックス・レスリーは、蒼黒い海の上にあかあかと燃えさかる、三つの巨艦を見た。太い煙が三筋、水平線を突き破って、噴煙のように立ち上っていた。
十六
赤城の受けた致命傷は中部リフトに落ちた一弾であった。リフトはめくれ上がって、帆のように直立し、附近の整備員は羽虫のようにはねとばされ、ちょうど発艦しつつあった直衛戦闘機が、艦首附近で逆立ちし、かたわらに、胴と腕のない死体がころがっていた。整備員の一人は、首と胴が十メートルくらいはなれた所に落ちていた。破孔の周囲からめらめらと悪魔の舌のような焔が見え始めた。不吉な予感のある焔だった。
「やった、ついにやった!」
山田が赤く焦げた顔を歪《ゆが》めながらそう言った。笑っているようにも見えた。後藤は他の艦を見た。加賀が早くも、赤い火の柱と、どすぐろい煙をあげていた。蒼竜も三発の直撃弾を受けて、約五百の人命と、準備中の飛行機の大部分を失い、大火災を生じた。機動部隊に致命傷を与えたのは、エンタープライズ三十機、ヨークタウン十三機、計四十三機が投弾したうち、赤城二発、加賀四発、蒼竜三発、計九発の命中弾であった。このときの命中率は、二十一パーセント弱で、当時の日本の艦爆隊の平均命中率六十八パーセントにくらべると、三分の一に足りないのであるが、よく、機動部隊の死活を制することが出来たのである。
――えらいことになったものだ――後藤は茫然とその光景――もくもくと立ち上る黒煙や火焔や、懸崖の菊花のように海上にはみ出す白煙や、去勢されたように元気のない母艦の姿――などを眺めながら、口の中で、同じことを呟き続けた。
――運命は、突発する――ふとそんな警句を、どこかで聞いたことがあるような気がしていた。そして、いや、異常な現実というものは、突発するように見えるものだ、日本の母艦が火焔に包まれるなどということは、想像も出来なかったことだ。しかし、いま、燃え出してみると、それはどうにもならない現実なのだ。そう考えている後藤の意識のなかに、若い福田中尉の姿が浮かび上がって来た。彼はリフトのあたりを見た。ちょうど後部リフトの附近で、戦闘機を発艦させていた福田は、爆風ではねとばされて、影も形もなかった。――あの男もやられてしまった――彼は、福田の丸い鼻や、ふっくりした頬や、人なつっこい眼や、少しどもるようにしてしゃべる彼の癖などを思い浮かべた。後藤が、発艦の旗ふりを、福田と代わろうとしたのは、ほんの少し前のことであった。福田は、「まだよいです」と言って、自分が旗ふりを続けたのである。
もし、あの時、おれが福田に代わっていたらどうだったろう――後藤は背筋が冷たくなるのを覚えた。黒い淵の底を見せつけられた感じであった。――今頃は、福田がここに立っていて、俺は、どこに行っているのだろう――彼は首と胴がばらばらになって、海面に漂っている自分の姿を想像してみた。そして、福田がここに立って、後藤大尉は、一体どこへ行ってしまったんだろう? と首をかしげている。――ひどい話だ。しかし、おれが福田に代わっていれば、爆弾は後部リフトではなく艦橋に命中して、おれは後部リフトのへんに立っていたかも知れない。すると、おれが今、両脚でここに立っているのは、現実ではなくて、一つの運命なのかも知れない。
後藤が運命ということばにこだわっている間に、破孔が、ばふーっ! と大きな火焔をふいた。航空ガソリンが、気化して爆発したのだ。ガソリンのほかに、爆弾や魚雷を満載した空母は、ライターよりも燃え易い状態にあった。
――とに角、この火を消さなくちゃ……。みな泥人形のように、眼ばかり大きくしていたって、仕方がないじゃないか――。
後藤はそう考えたが、防火ということになると、飛行服姿の彼には、急にはよい考えも思い浮かんで来なかった。彼は、格納庫のなかで、燃えているはずの、自分の乗機のことをちらと思い浮かべた。誘爆によって、火焔を増しつつある赤城の飛行甲板で、落下傘のバンドをはずしつつ、後藤は搭乗員の無力を感じた。
甲板士官の芝山中尉は、赤城左舷第一中甲板の中部応急指揮所にいた。すぐ前にガンルーム、士官室、機関科事務室があり、うしろには士官浴室、病室があり、その後部は、第三段格納庫になっていた。
第一中甲板のデッキは、いわゆる防禦甲板で、厚さ四十ミリの装甲鈑が張ってあった。頭の上は、第二段格納庫で、その上は第一段格納庫、そして、その上に艦橋があった。ハワイでも、印度洋でも、爆弾や魚雷が命中したことはないので、防火、防水の応急指揮官は呑気な配置であった。このときも、艦橋に近い応急総指揮所からは、総指揮官の土橋中佐が、「只今、敵大型機の爆撃を受けつつあり」とか、「敵雷撃機編隊来襲」「我が方被害なし」などの情報を伝えて来るので、――今日も当たらんな。こうヒマなら、ハーモニカでも持って来るんだった――芝山は、そのように、のんびりと構えて、班長の佐藤兵曹と冗談を言い合っていた。
そこへ、七時二十六分、頭の上で、ゴツンという衝撃があった。
「当たったかな?」
「中部リフトのへんですね」
二人がそう語っているとあかりが消えた。
すると、
「中部リフト火災! 防火班放水始め!」
という号令が拡声器で響いた。
「おい、行こう!」
芝山は、十名ほどの応急班員を連れて、すぐ上の第二段格納庫の横に上がった。すでに応急班員がホースを引っ張っていた。その向こうに、火焔が見えた。
「後部リフト火災!」
またそういう声が拡声器で流れた。
「おい、中部の火を消せ!」
芝山が叫んだとき、艦攻のガソリンタンクが誘爆でふきとんだ。火焔は広まり、ホースの水はまだ出なかった。格納庫の温度は上がっていた。
芝山は、運搬車にのせられた爆弾に手をふれてみた。かなり熱かった。――こりゃあ、誘爆が続くぞ――彼は、一旦、下の甲板に降りて、別の通路から、火災現場に近づき、防火の指揮をとろうと考えた。通路の防水隔壁をさえぎる防水扉は、すべて密閉されていた。芝山は判断した。今、被害は火災によるもので、魚雷による浸水ではない、通路がひらかないと、ホースも人員も通れない。
芝山は、応急総指揮所への電話にとりついてみた。電話は切れていた。艦橋からの拡声器も沈黙していた。――今こそ、やらなければならない――芝山は、独断専行という言葉を思い出した。彼はメガホンで、近くの応急員に命令した。
「各区画、防水扉ひらけ!」
号令は次々に伝わり、防水扉が、ギイーッ、ギイーッとひらかれ、前部と後部の交通は、きわめて風通しがよくなった。(芝山のこの処置のために、総員退去のとき、防水扉が火で溶けて癒着するようなことがなく、数百名の人員の生命が救われることになるのである)
芝山は、前部に急いだ。しかし、二十サンチ砲の揚弾機の口から、すでに火焔が舞い下りて来ており、行く手を阻んだ。上部の格納庫では、爆弾の誘爆が始まっていた。天井を見ると、すでに、熱のために、白いペイントが溶け、泡をふいていた。芝山は、途中のラッタルで、中段格納庫をのぞいた。しかし、火は、全格納庫にひろがり、もはや消火は不可能と思われた。爆発してひっくりかえった艦攻の腹の上で、長さ六メートルの魚雷が、熱せられて赤く変色しているのを芝山は認めた。――格納庫はもうだめだ――彼はなおも前部へ急いだ。士官室の横を通ったとき、上部の格納庫の爆発で、天井が抜け、焼けた鉄板が、食卓の上にどさりと落ちた。
芝山は、なおも前進し、機関科事務室の横を通りすぎたとき、上で、ドカンと誘爆の音が聞こえた。ふり仰ぐと、天井の一部が裂けて、格納庫から、炎が舌を出しているのが見えた。芝山は、左の太股《もも》に衝撃を感じて、うずくまった。爆弾の破片かと考えたが、実際には、鉄板をとめてあるリベットが一個、肉のなかを貫通したのである。リベットは、股の内側から入り、外側にぬける手前で止まっていた。痛みは激しく、芝山は気を失って、その場に倒れた。
赤城の東方四千メートルを北東に向かって航進中の、飛竜の艦橋から、真っ先に視認されたのは、旗艦赤城の被災であった。
「赤城火災!!」
「加賀、燃えています!」
「蒼竜、大火災!」
見張員が次々に報告するのを、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将は、双眼鏡をかざして、一つ一つ念を押すように確かめた。
第一航空戦隊の赤城、加賀はもちろん、二航戦の二番艦である蒼竜までも、敵弾を浴びてしまったのである。
――直チニ第二次攻撃隊発進ノ要アリト認ム――。
と意見具申したのは、敵空母発見の直後であった。その時すでに、飛竜の艦爆隊は、格納庫のなかで準備を完了していた。
――あのとき、爆装のままで発進させておけば、こういうことにはならなかっただろう――。
山口は、当然、そう考えたが、愚痴をいうのは性に合わなかった。
双眼鏡を下におろすと、彼は、おもむろに艦橋内を見わたした。先任参謀の伊藤清六中佐、航空参謀の橋口喬少佐、機関参謀の久間武雄少佐、通信参謀の安井真次少佐、すべてが、粛然としてうなだれていた。
ただ一人、艦長の加来《かく》止男だけは、昂然と頭を上げて、司令官の命令を待っていた。
山口は言った。
「みた通り、残ったのは、飛竜一艦だけだ。いまから、飛竜は敵空母と差し違える! まず、艦爆隊を発艦させる。そして、敵の方向に肉薄して、航空決戦を行う」
続いて、加来が言った。
「敵の位置は、本艦の北東百五十マイルあたりと思われる。母艦の戦闘機が掩護に来ているところを見ると、決して遠くはない。誓ってこれを撃滅するぞ!」
山口は飛行長の川口益中佐に言った。
「艦爆の隊長を呼んでくれたまえ!」
川口は、飛行甲板にいた艦爆隊長の小林道雄大尉を艦橋に呼んだ。
山口多聞は、若い小林(海兵六十三期)の顔を見ると、
「小林君、機動部隊は、本艦だけになってしまった。敵の空母は三隻いると思われる。まず、そのうちの一艦を倒してくれい。すぐあとから友永君の艦攻隊を出す。ではしっかり頼む」
山口は、大きな分厚い掌を出すと、小林と握手をした。掌の甲に、こわい毛が生えているのを認めながら、小林は、――これが、司令官と最初の握手だ。そして、最後の握手になるだろう――と考えた。
挙手の礼を終わると、小林は艦橋を降りた。飛行甲板では、すでにリフトによって引き揚げられた九九式艦爆が、プロペラを回し、発進の合図を待っていた。
小林は、搭乗員を整列させると、簡潔に訓示を与えた。
「いま、山口司令官から、しっかりやれ、と激励のことばがあった。本艦の艦爆隊は、唯一の艦爆隊だ。みな、おれのあとに、まっすぐついて来い」
午前十時四十分、小林のひきいる艦爆十八機は、戦闘機六機に掩護されて、飛竜を発艦、北東ヘアメリカの空母を求めて急行した。艦爆第一中隊長は小林、第二中隊長は山下途二大尉、掩護の零戦隊長は、橋本や後藤と同期の重松康弘大尉、そして、同じく同期の近藤武憲大尉は、小林中隊の二小隊長機として、同行していた。
折柄、風は北東五メートル、海面はおだやかで、うねりのみが大きかった。
飛竜は攻撃隊の発艦を終わると、三十ノットの高速で、北東、すなわちエンタープライズや、ヨークタウンのいる方向に直進した。
艦底の機関科指揮所では、「第五戦速」という速力通信器の針を見た梶島大尉が、――やっぱり来たか――と、機関長の横顔を見た。機関長の相宗中佐は、艦橋に「敵の位置と兵力を知らせ」と電話で尋ねさせた。艦橋からは、「わからん」と言って来たきりだった。――要するに機関科はスクリューを回しておればよいということだろう――と、梶島は考えていた。
このとき、彼我《ひが》の距離は、正に百二十マイル(東京と大井川の間)、爆撃機でも一時間そこそこの距離である。
肉を斬らせて骨を斬る、ミッドウェー海戦の、決戦後半の幕は、ここに切って落とされたのである。
十七
昭和十七年六月五日、午前八時、ミッドウェー海戦は、たけなわ《ヽヽヽヽ》となりつつあった。
西経百七十九度八分、北緯三十度十八分の海面で、腕を組んで、冥想にふけっている提督がいた。第二航空戦隊司令官、海軍少将、山口多聞である。
飛竜はいつの間にか日付変更線を越えて西半球に入っていた。
日本の機動部隊が使っている東京時間では、六月五日午前八時であるが、アメリカ海軍が使っている、ミッドウェー海域の地方時間では、四日の午前十一時であった。
太陽はほぼ天心にあり、被爆して燃えさかる、赤城、加賀、蒼竜の三空母を照らし続けていた。この三艦も、西半球の西経百七十九度と百八十度の間に点在していた。
火の神にとりつかれて、身悶えする巨人のような三艦をあとに残して、一艦だけ無傷の飛竜は、まだ無傷の米空母を求めて、北東に急行していた。
今朝までは上陸目標であったミッドウェーの北西百五十マイルの海面を、太陽を背にして、飛竜は北東に直進した。
この時点で、アメリカの三空母は、西経百七十六度四十分、北緯三十度四十五分の周辺にいた。飛竜からの距離は、東北東百二十マイルである。山口多聞の判断は、正しかったといえる。
これより先、午前七時五十分、山口多聞は、全艦隊あてに、「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と、決意のほどを打電した。
ところが、同じ時刻に、八戦隊司令官の阿部弘毅少将は、二航戦に対し、「敵空母ヲ攻撃セヨ」という命令を打電していた。
ここで海軍のしきたりについて説明しておこう。赤城ほか三艦が被爆すれば、当然、二航戦の山口少将が、飛竜の攻撃隊を指揮するものと想像される。しかし、機動部隊の最高指揮官は、南雲中将(海兵三十六期)で、次席指揮官は、阿部少将(三十九期)である。四十期の山口多聞は、阿部少将よりも後任である。
赤城の司令部は、艦橋附近の火災が激しいため、午前七時四十六分、駆逐艦野分《のわけ》のカッターを横附けさせて、南雲司令長官以下がこれに移乗し、巡洋艦長良に向かった。このとき、赤城の艦橋マストからは、南雲中将の将旗がおろされていた。八戦隊旗艦、利根の艦橋にいた先任参謀の土井中佐は、
「司令官、赤城に将旗があがっておりません」
と阿部少将に報告した。
阿部少将は、次席指揮官として、自分が指揮をとる責任を感じて、攻撃命令を飛竜に打電した。すると、折り返し、飛竜から、自主的な攻撃意思表明の電報が入電した。
利根の艦橋でこの電報を見た、阿部少将は、白髪のまじった口髭をなでながら、眉をしかめた。六カ月半前のウェーキ島攻略作戦当時の状況が、阿部の脳裡に浮かんだ。
日本海軍は、ハワイ攻撃と並行して、ウェーキ島の攻略を実施したが、失敗に終わったため、ハワイから帰る二航戦の飛竜、蒼竜をその支援に当てた。二航戦には、八戦隊と駆逐艦が同行し、指揮は、先任者の阿部少将がとることになっていた。これは、山口多聞にとっては迷惑なことであった。空母の司令官が、一々巡洋艦の司令官におうかがいを立てて、飛行機の発進をやっていたのでは、臨機即応の行動はとれない。
このとき、山口多聞は、艦橋にいた先任参謀の伊藤清六中佐に、
「どうも、しろうとに指揮されたんじゃあ、やりにくくていけない」
と洩らしていた。
この次は、かまわずに、自分が航空戦の指揮をとろう、その方が実際的だ、と山口は考えていた。
ミッドウェーで、赤城を含む三艦が被災したとき、阿部少将の指示を仰ぐ前に、攻撃隊発進の意思を打電し、続いて、小林の艦爆隊を発進させたのは、この決意にもとづくものであろう。
もっとも、この日、朝から山口は焦れていた。午前五時半、利根の索敵機から「敵発見」の入電があったとき、「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と意見具申したのに、赤城の司令部はぐずぐずしていて、とうとう、三艦被災の大事を招来してしまった。
もう、しろうとには、まかせておけない、と山口は考え、何度も飛竜の艦橋で唇を噛んでいた。もし、独断専行の行きすぎがあったら、腹を切っておわびをすればよい。長年手塩にかけた母艦や搭乗員を、手遅れのため、みすみす火にかけるよりはましだ、と彼は考えていた。彼は本当に怒っていたのである。
ここで、猛将の聞こえ高い山口多聞の来歴と、人柄について述べておこう。以下は、山口と同期の寺岡謹平元中将の著書、「山口多聞と其の生涯」によるものである。
山口多聞は、明治二十五年八月十七日、東京に生まれた。父は山口宗義と言い、旧松江藩士で、茶道で有名な松平侯に仕《つか》えていた。明治初年、藩から選抜されて、東京大学の前身である開成学校に入り、卒業後、大蔵省の官吏となり、台湾が日本の領土となったとき、台湾総督府の財務部長を勤め、その後、日本銀行の理事となった財政家である。
宗義の弟、半六は、工部大学出身で、文部省に勤め、日本最初の工学博士となった。
その弟、鋭之助は、東京帝大理学部を出て、理学博士となり、一高、京大の教授、学習院長を勤めた学者である。
多聞の母、貞子は、佐賀の小城藩の藩士の娘で、厳格なしつけのなかに育ったが、慈愛深い、典型的な武家の息女であった。
父、宗義は、若いときから忠君愛国の志が篤《あつ》かった。三男を多聞と命名したのは、南朝の忠臣楠正成の幼名多聞丸からとったもので、父が息子によせた期待を知ることが出来る。
多聞には、兄二人、弟二人、姉二人、妹一人があり、八人兄弟のちょうど真中であった。
多聞は、裕福な家庭に育ったので、経済的な苦境を味わったことはないが、その考えは決して安易に流れることはなかった。これは、明治時代のきびしい教育と、家庭の訓育によるものであろう。
多聞は、神田の開成中学に学んだ。当時は、攻玉社中学から海軍関係の学校に入るものが多く、開成は、陸軍に行くものが多かった。山口家は、当時本郷に家があったが、神田まで、毎日、歩いて通学し、冬でも、マント(外套)を着用しなかった。
これは、彼の自己鍛練の思想の現われで、後年、司令官となってからの猛訓練は、“人殺し多聞丸”と呼ばれ、航空関係の搭乗員におそれられたものである。
多聞の父は財政家であり、叔父は理学博士、工学博士である。これを見れば、山口家の資質が、理数に明るいということが想像出来る。事実、多聞は、数学をはじめ、理科系に強かった。そして、開成中学始まって以来、稀《まれ》に見る秀才であった。
秀才というものは、あまり勉強をしない。彼は明治四十二年、開成中学四年生から第四十期生として、海軍兵学校に入校した。応募者三千余名中、合格者は百五十名で、多聞は合格者中、最年少であった。
全国の俊秀を集めた兵学校でも、多聞はずばぬけていた。大正元年、彼は二番で兵学校を卒業した。一番は後に海軍省軍務局長になった岡新《あらた》である。岡は勉強家であったが、事務系統の才能をかわれ、実戦では、同期の山口、大西滝治郎、宇垣纒《まとめ》、福留繁らほどの足跡を残してはいない。
江田島時代の山口多聞は、あまり勉強しなかった。彼は学問のがり勉はきらいであった。それよりも、体育と精神訓育に熱を入れた。それでいて二番で卒業したのであるから、すぐれた資質に恵まれていたというべきであろう。
しかし、成人してからの彼は、単なる精神主義的な愛国者ではなく、冷静な合理性と、国際的なヒューマニズムも身につけるようになった。
これは、大尉時代(大正十一年ごろ)アメリカのプリンストン大学に留学したことが、大きく影響しているであろう。当時、アメリカは、国も人も、まだ大いに若々しく、多聞は、国際色を身につけ、またヤング・アメリカのメリットをも学んだのであった。
佐官時代、多聞は早くも肥満して、下腹が出っぱっていたが、大佐時代に、馬術の修業をしたことは有名である。
昭和十一年秋、福井県下で陸軍特別大演習が行われた。山口は、海軍大学校教官として、これを参観した。天皇が親裁されるので、正規の参観者は、陪観と称して、乗馬で随行することになっていた。山口は、陪観が決まると、急遽《きゆうきよ》、馬事公苑で馬術の猛訓練を行った。こういうストイックな訓練は得意中の得意である。彼は、一週間近い演習期間を、馬上で随行した。道のない山河を強行軍するので、本職の騎兵将校でも、困難を感ずる場面が多かったが、彼は頑張り通して、
「海軍さん、なかなか乗りますな」
と、騎兵旅団長を感心させた。
山口を生えぬきの航空屋と考えている人が多いようであるが、彼の専攻は潜水艦である。日華事変が始まった当時、彼は潜水戦隊旗艦、五十鈴《いすず》の艦長であった。しかし、戦争が始まり、渡洋爆撃が行われ、九六式艦上戦闘機が戦果をあげると、彼は飛行機に目をつけた。これからの戦争は、海軍でも飛行機が主体だ、そう考えた彼は、航空隊の司令を志願した。
昭和十五年一月、彼は第一連合航空隊司令官を命じられた。待望の航空部隊指揮官である。彼は九六陸攻と九六戦をひきいると、漢口にとんで、前線の作戦を指揮した。
当時、漢口の飛行場には、第二連合航空隊がおり、これも猛将として名高い、大西滝治郎が、司令官として陣どっていた。この同期生の猛将同士は、意気相投じたが、ときに意見が喰い違うこともあった。
昭和十五年五月、ヨーロッパで英仏軍がドイツ軍に圧倒されているのと併行して、中国でも、この際、重慶を爆撃して、蒋介石軍の息の根を止めようという、陸海合同航空作戦が発動された。総指揮官は山口多聞である。
このとき、大西は、「この際、重慶を徹底的に破壊すべきだ。戦争を早目に終結させるためには、無差別爆撃も止むを得ない」という意見を吐いた。
同じ、猛将でありながら、山口多聞は反対であった。プリンストン大学で学んだ国際法や、国際的道義というものが、彼の頭にあった。
「いかなる理由があろうとも、無差別爆撃はやるべきではない。国際的な信義は守らなければならない」
として、彼は親しい同期生である大西の言を、断乎としてしりぞけた。
このあたりに、二人の猛将の性格の差違を見ることが出来る。大西はどこまでも意志の人であり、山口は、知と情の人である。
大西は国家を勝利に導くためには、あるいは、少しでも惨めな敗北から救うためには、特攻もやむなし、としてこれを強行した。
山口は、飛竜の第四次攻撃に当たって、戦闘機が少ないから、白昼の攻撃は被害が大きい、と考え、薄暮《はくぼ》攻撃を計り、日没を待った。この間に奇襲を受けて、飛竜の被爆を招き、艦と運命を共にしている。
山口の死を聞いた連合艦隊参謀長、宇垣纒は、「戦藻録」のなかで、「山口少将は剛毅《ごうき》の果断にして(中略)余の同期生中最も優秀の人傑を失うものなり。(中略)司令官の責任を重んじ、ここに従容《しようよう》として艦と運命を共にす。その職責に殉《じゆん》ずる崇高の精神正に至高にしてたとゆるに物なし」と追悼している。
さて、伝記が先走ったが、飛竜艦橋の山口に視点を返そう。
参謀たちの眼には、山口が必死に何ごとかを念じているように見えたが、実際には、簡単な計算をしていたにすぎない。
山口の頭のなかには、二つの数字があった。三と一である。彼は敵の空母を三と推定した。こちらは一である。まず、小林の艦爆隊によって、その一つを叩いて発着不能に陥れる。ついで、友永の指揮する艦攻隊で、いま一艦を叩く。そうすれば、残るは一対一の決戦である。ここで刺し違えれば、双方に空母はなくなる。そうすれば、内地にいる五航戦の翔鶴《しようかく》、瑞鶴《ずいかく》を急遽呼びよせるかたわら、ミッドウェーを占領し、引き続いて、ハワイ攻略も不可能ではない。実戦家であると同時に、戦術家でもある山口は、GF(連合艦隊)長官の山本五十六が考えることまで、計算していた。
もし、この案が失敗したならば……と、彼は考えた。もし、敵空母の全部に被害を与えないうちに、飛竜が決定的なダメージを受けるようなことがあるならば、二航戦の司令官としては、艦と運命を共にして、作戦の失敗を、お上《かみ》と部下に詫びるのみである。山口多聞は、そう自らに決断を下していた。
十八
午前八時半、飛竜と、アメリカの機動部隊の距離は百マイルに接近していた。
三隻のうち、もっとも南西、つまり、飛竜の方に寄っていたのは、ヨークタウンである。
ヨークタウンの艦橋で、フレッチャー提督は苦悶していた。
マックス・レスリー少佐のひきいるSBD艦爆隊十七機、レム・マッセー少佐のひきいるTBD雷撃隊十二機がヨークタウンを発艦してから、三時間近くが経過していたが、攻撃隊からは、何の連絡もなかった。
エンタープライズのマクラスキーから、午前七時五分、「直ちに母艦を攻撃せよ」という部下あての無電があったのを、スプルアンスは入手していた。しかし、その後は、何の電報も入って来なかった。マクラスキー機は、投弾後、引き起こす間もなく、零戦に襲われ、操縦室に命中弾を受け、彼自身も左の肩と腕に二十ミリ弾の破片を受け、出血していた。他の飛行機も、零戦の追撃をかわすに忙しく、戦果の報告どころではなかった。
フランク・ジャック・フレッチャーには、“ブラック・ジャック”というあだ名がついていた。ブラック・ジャックというのは、トランプを用いてやるギャンブルの一種である。フレッチャーは、若いときから“博才”があった。提督になったとき、海軍部内では、その“博才”が、実戦に生かされることを期待していた。
しかし、彼が最初に参加した五月七日の珊瑚海海戦では、小型空母翔鳳一隻を撃沈したにとどまった。レキシントンは沈められ、ヨークタウンも大破したのである。
いま、後輩のスプルアンスの隊は、何らかの成果をあげたらしいが、総司令官である、彼に直属の、ヨークタウン隊からは、何の報告もなかった。もし、今度、戦果があがらなかったら、ブラック・ジャックなどという名前は返上すべきだ、と考え、彼はヨークタウンの艦橋を行ったり来たりしながら、しきりに爪を噛んでいた。
その頃、雷撃隊のレム・マッセー隊長は、すでに海の底に沈んでおり、爆撃隊のマックス・レスリーは、無電機に被弾して、ひたすらにヨークタウンを探し求めていた。
ヨークタウンの艦長、バックマスター大佐には、司令官のあせる気持がよくわかった。彼自身も焦れていた。敵の空母は四隻だというが、残りの一隻はどこにいるのか。索敵機はどこをうろついているのか。エンタープライズのマクラスキーは突撃したらしいが、ヨークタウンのマックス・レスリーは何をしているのか。アメリカ海軍一と勇名を誇ったウォルドロンのホーネット雷撃隊は、どのような成果をあげ得たのか。立ち遅れたヨークタウンの雷撃隊は、一体、敵空母を発見出来たのかどうか。何とか言ったらどうなんだ。――まったく、戦闘というやつは、みみっちいつねり合いだ。こんなことでくよくよするなんて、これは女のやることだ――。
バックマスターは、かみたばこを吐き出すと、艦橋の窓から、外の海面に向かってつばをはいた。
飛竜の艦爆隊長、小林道雄大尉にとって、敵を発見することは、それほど難しいことではなかった。
発艦して、編隊を組むと間もなく、彼は、北東に向かって帰投してゆく、アメリカの小型機を認めた。その多くは、やっと零戦の追撃をふり切ったマクラスキーやマックス・レスリー艦爆隊の生き残りであったが、なかには十三機のうち、たった二機だけ生き残った、レム・マッセーのヨークタウン雷撃隊の幸運なデバステーターもまじっていた。
――まさに送り狼だな――。
小林は、見えつかくれつ、その米軍機のあとをつけた。その先に、米空母の輪型陣を、彼は予想していた。
小林隊は、十八機から成っており、第一中隊九機を小林が中隊長として引率し、第二中隊は、山下途二大尉が中隊長を勤めた。
第一中隊の二小隊長機に近藤武憲大尉が乗っていた。初陣であり、緊張していた。彼は操縦を握っている自分の右掌を意識していた。飛竜発艦の直前、同期生の橋本が、「しっかりやって来てくれよ」と握った掌である。それに対して、近藤は「ひき受けた。一足先に行くぞ」と答えて、発艦したのである。
近藤機の二百メートル上空に六機の戦闘機がいた。重松康弘が隊長機に乗っていた。
――あそこにも、クラスがいるな――。
近藤は上空を仰いだ。高層雲を背景にして、六機の零戦は、エンジンを絞り気味にして、九九式艦爆の護衛についていた。
合計二十四機の攻撃隊は、多いとは言えなかった。この日の早朝、友永がひきいた陸上攻撃隊は百八機という編成であった。そして今、肝心の敵空母を攻撃に行くにあたって、全機動部隊から出せる攻撃隊は、この二十四機しかなかったのである。
午前八時二十五分、近藤の頭上の零戦隊の隊形が乱れた。
飛竜艦爆隊の斜下に、アメリカのドーントレス六機が見えた。ドーントレスは、左から右に小林隊の進路を横切ったのであるが、重松にはそれが、今から飛竜を攻撃に行く爆撃隊のように見えた。飛竜に知らせているひまはなかった。彼はバンクをふると、零戦隊を解散し、真下のドーントレスに向かわせた。二十ミリの斉射を受けたドーントレスは、四機が燃料タンクから白いガソリンの糸を引いたが、墜落はしなかった。重松はあきらめて、集合を命じた。それが聞こえなかったのか、まだ襲撃を繰り返している一機がいた。二小隊長の峯岸義次郎飛曹長機であった。峯岸は乙飛(予科練)の二期で、長いキャリアを持っていたが、自己顕示性の強い男だった。階級や命令よりも、敵を墜とせば、文句はないだろう、という態度があった。結局峯岸は、編隊からはぐれてしまい、一機も墜とさぬうちに、被弾して燃料に不足を来たし、母艦に引き返した。いま一機、佐々木斎一飛曹の機も、十三ミリ弾を受け、操縦に支障を来たし、引き返して、飛竜の直衛駆逐艦の近くに不時着、救助された。(峯岸飛曹長は、筆者が宮崎県富高航空基地にいたとき、零戦隊の分隊士であった。操縦の派手なことで、いつも注意を集めていた。着陸直前に横転のように激しい旋回をして、地上指揮官をはらはらさせてから、着陸して得意になっているところがあった。何度注意されても、この癖は直らなかった。彼は十九年二月、マーシャル群島のルオット基地に敵襲があったとき玉砕した)
こうして、小林隊を護衛する零戦は四機に減ってしまった。
午前八時五十分、小林の後席、小野義範飛曹長が、伝声管に叫んだ。
「隊長! 航跡が見えます」
「うむ……」
小林も、その白い航跡を認めていた。そして、その向こうに、黄色いワラジのような空母が、東に向かって直進しているのを認めた。
「敵発見、突撃隊形造れ」
彼は、こう下令した。無電は、飛竜の電信室でもキャッチされた。高度五千メートルで、十八機が小林を右先頭にした斜単横陣に展開した頃、グラマンが姿を現わし、空中戦が始まった。
ちょうど、同じ頃、マクラスキーは、エンタープライズに着艦し、艦橋に登って、戦況を報告した。
「JAPの空母は三隻です。そのうち、大きい方の二隻は、わが隊がやっつけました。もう一つ、少し、小さいのも、トーチ(たいまつ)のようになりました」
うなずいて聞いていたスプルアンスは、
「第四の空母は見えなかったかね」
と訊いた。
「東の方に一隻いたように思います。そして、それは無傷だった」
そこまで言うと、彼はめまいを感じ、コンパスの台にもたれかかった。
「衛生兵《メデイツク》を呼べ、病室に連れてゆけ」
スプルアンスは、マクラスキーの飛行服の左袖が、血でどっぷり濡れているのを認めた。
「早く止血しないと、貧血で死んでしまうぞ」
スプルアンスは、そう怒鳴った。
衛生兵に手をとられて、ラッタルを降りようとしたとき、第二中隊長のディック・ベスト大尉が登って来た。(彼は赤城に命中弾を与えていた)
「隊長! いかがですか」
とディックは訊いた。彼は赤城と加賀に突入するとき、いきなりマクラスキーが加賀に突っこんだので、ディックの隊の大部分もそれに同調し、彼のところには四機しか残らなかったのを想い出していた。
「二つやっつけた。合計三つだ。ところで、おれは、零《ゼロ》にやられた。君は?」
「私もですよ、隊長……。まったく、あいつらはクレージー(気違い)だ」
ディックは、飛行帽をとってみせた。マフラーが巻いてあり、それに血がにじみ出していた。ディックの操縦席に命中した二十ミリ弾は、席内を駆けめぐり、あやうくディックの鼻をかじるところだった。
「じやあな、バイ……」
マクラスキーは、ラッタルを降りたところで、失神して倒れた。夢のなかで、彼は呟いていた。――二つやっつけた。おれは、ダイブ・ボンバー(急降下爆撃機)のウェイド・マクラスキー。ところで、トッピードー・ボンバー(雷撃機)のレム・マッセーはどうしたのだろう――。
攻撃に参加したエンタープライズのドーントレス三十三機のうち、母艦に帰着出来たものは十五機のみである。奇襲に成功したとはいえ、犠牲は小さくなかった。
ヨークタウンの艦橋では、論争が行われていた。マクラスキーの報告が、エンタープライズから入電していた。
「三隻はやっつけた。JAPのNO・4は、どこにいるのかね」
フレッチャーは、やっと元気をとりもどして、ブラック・ジャックらしいエネルギッシュな風貌に戻った。
「一隻は、遅れて参加しなかったのですかな。どの隊も攻撃していないということは、つまり……」
バックマスター艦長も、首をひねりながら、右舷、つまり南の方を眺めていた。
そのとき、見張りが叫んだ。
「敵爆撃機、約二十、南西より本艦に向かう」
ブザーがけたたましく艦内の空気をゆすった。
「艦長、第四の空母はいる。いや、確実にいたんだ。いま、そのメッセージが届きつつあるんだ」
フレッチャーは、無表情のままいうと、双眼鏡を眼に当てた。
幸いに、ヨークタウンは、飛行機を発艦したあとで、格納庫は空《から》であった。蒼竜を爆撃して帰って来た、マックス・レスリー少佐の隊は、着艦を許されず、いたずらに、上空を旋回していた。止むを得ず、レスリーは、電話で、ヒリュー型一隻撃破という戦果を報告したが、ヨークタウン無電室の返答は、「了解した、本艦は敵の空襲に備えつつある。着艦はそれが終わるまで待て」というそっけないものであった。
――何という礼儀知らずだ。もう頼まれても、行ってやらないぞ――。
レスリーは、操縦席で拳をふるってふんがいした。エンジンの響きがおかしくなった。彼のドーントレスは、片方の燃料タンクに被弾していた。どこに不時着するか……。レスリーは、海面を物色した。ヨークタウンの甲板が広くて、降り心地がよさそうだった。
まったく、母艦があるのに、降りられないなんて……。レスリーは、また肚《はら》が立って来た。彼は蒼竜の上空で、起爆装置のスイッチを入れた途端、自分の爆弾が、あさっての方向に落ちて行ったのを思い出した。――まったく、あの爆弾があったら、ぶっつけてやりたい――。彼は憎悪をこめて、ヨークタウンの甲板を横眼で見ながら、高度を下げて行った。そのとき、彼は、ヨークタウンの十二・七サンチ高角砲が一斉に火焔を吹き上げるのを見た。上空を見上げると、十機以上の爆撃機が突っこんで来るところだった。
――とうとう来た。これで、おれは永遠にヨークタウンに着艦出来ないかも知れない――。
マックス・レスリーは、半ばふてくされて、そう呟いた。そして、その予感は正しかった。
十九
突撃隊形を造ると間もなく、小林の隊は、十二機のグラマンF4F戦闘機にとりつかれた。味方は重松のひきいる零戦四機だけである。止むを得ず、小林は、進入点をやや早め、浅い角度の緩降下爆撃を行うことにした。このため、飛行機の降下スピードは思ったほど出ず、被害が増した。さらにこたえたのは、対空砲火であった。輪型陣の重巡アストリア、ポートランドや五隻の駆逐艦もさることながら、ヨークタウンからの集中砲火が凄《すご》かった。降下する途中で、近藤は、火箭を身にまとった針鼠のようなヨークタウンの射撃ぶりを見た。彼は、小林大尉の機が、火を吐きながら投弾するのを認めた直後、背中に衝撃を受けた。口のなか一杯にあふれた紅いものを、ぶーっとふき出しながら、爆弾を落とすと、彼の機は、海面めがけて落ちて行った。
第一中隊の被害は甚大であった。隊長の小林大尉、小隊長の近藤大尉をはじめ、九機のうち、八機が撃墜された。帰還したのは、三小隊二番機の土屋孝美二飛曹の機だけで、また、爆弾を当てたのも彼の機だけであった。(土屋は、筆者が、飛鷹乗組となり、昭和十七年秋、鹿児島で訓練中、同じ艦爆隊員であった。飛竜艦爆隊の戦闘ぶりは、彼から聞いたのである。顔に大きな火傷を残していたが、笑うと歯が真っ白で、快活な男であった。操縦は強引な方であったが、力が強く、爆撃も巧みで、また敵機に追われても、何とか逃げて帰投するねばりを持っていた。彼は、筆者と共に、イ号作戦にも出撃し、ソロモンで、戦果をあげたが、昭和十九年六月、マリアナ沖海戦で戦死した)
ヨークタウンの艦橋で、空を見上げていたバックマスター艦長は、真昼の花火を見ている思いだった。艦は面舵をとっていた。次々に突っこんで来る日本の爆撃機が、火焔をふき、マグネシュームのような閃光を放ちながら落ちて行く。
「あれは、高角砲、これは機銃によるものだ……」
彼は七機までを数えた。
八機目はなかなか落ちなかった。それだけではなく、高度二百五十メートル位で、楕円形の樽のようなものをおっぽり出すと、蒼白い腹を見せて引き起こし、北東の海面すれすれに逃げて行った。
樽は、少し頭をふりながら、バックマスターの方に落ちて来た。
「舵中央! 取舵一杯!」
彼は大あわてでそう下令した。
しかし、遅かった。樽はふらつきながら落下すると、ヨークタウンの艦橋をかすめ、すぐ左うしろの飛行甲板に命中し、格納庫甲板で爆発した。二百五十キロ爆弾は、格納庫にあった予備機をふきとばし、近くの機関砲の砲台員四十余名に死傷者を出させた。(これが土屋の投下した爆弾であった)
「やられたか……」
バックマスターは、フレッチャーと顔を見合わせたが、いつまでもにらめっこをしているわけにはゆかなかった。次の爆撃隊が突入していた。もう、グラマンの迎撃は間に合わなかった。九機の九九式艦爆は、六十度位の適正な降角で、南西すなわち太陽を背にした形で突っこんで来た。
第二中隊長、山下大尉は、被弾して、機上戦死し、そのまま海に突っこんだが、一小隊二番機の松本兵曹は、飛行甲板右舷後部に陸用二百五十キロ爆弾一個を叩きこんだ。
ここに不思議なことが一つある。飛竜の艦爆隊は、五個の二百五十キロ爆弾をヨークタウンに命中させたが、そのうち、瞬発の陸用爆弾は、この松本の一発だけで、他の四個は、土屋のものも含めて、徹甲弾といわれる通常爆弾である。有名な「雷装を爆装に換え」が赤城の司令部から下令されたとき、飛竜でも、通常爆弾を全部陸用爆弾に換えたはずであるが、実際はそうでなかった。飛竜の兵器員や、整備員は、間もなく敵空母が出現することを予想して、まことにのろのろと転換を行っていたのである。従って、「敵空母発見」で、再び母艦用に爆弾を切り換えたとき、飛竜では、ほとんどが通常爆弾になっていたので、転換は非常に早く、艦爆隊も、緊急発進が出来たのである。山口司令官は、この事実を知っていたかどうか、今となっては、確かめる術《すべ》がない。
さて、飛竜第二中隊、二小隊は、二弾をヨークタウンに浴びせた。二小隊一番機の中沢岩夫飛曹長は艦橋後方二十メートルのリフト附近に命中弾を得た。(中沢飛曹長も、筆者が飛鷹乗組のとき、同じ艦爆隊にいた。やはり、顔に火傷をして、ケロイドがあった。無口で、といって、ニヒルではなく、温厚なパイロットであった。まだ健在のはずである)
二小隊二番機の瀬尾兵曹は、艦橋のすぐ真横に徹甲弾をぶちこんだ。
バックマスターは、眼の前ではなく、瞼の裏が、赤く燃えるのを感じた。太陽が眼の中に出現したようであった。実際、この一弾はこたえた。投下高度が低く(二百メートル以下)爆弾の落下スピードが速かったため、この一弾は、下甲板の下の機関室で爆発した。この爆発は罐室をはじめ、事務室、士官室など多くの部屋を破壊し、大火災を生ぜしめた。このため、ヨークタウンは、ほとんど停止せざるを得なくなったのである。
そして、最後の一弾、三小隊一番機中川静夫飛曹長の一弾は、艦橋前方のリフトに直撃し、リフトをふきとばし、下甲板で爆発し、火災を生ぜしめた。この報を受けたバックマスターは、爆風で灼けた顔をなでながら、心配した。火災の位置は、ガソリン庫に近く、また十二・七サンチ高角砲の弾火薬庫からも遠くなかったからである。
こうして、飛竜の艦爆隊は、十八機のうち十三機を失い、残る五機が投弾した。そして、投下された爆弾はすべて命中している。この限りでは、命中率百パーセントと言えよう。
ここに不思議な事実がある。防衛庁戦史室の「ミッドウェー海戦」によると、ヨークタウンには、以上の五弾のほか、最後部、リフトよりも艦尾よりに一弾が命中しているが、これは、誰が投弾したものか不明である。しかし、生還した搭乗員のすべてが、この位置に大破孔があったことを認めている。
ところで、ウォルター・ロードの「Incredible Victory」には、興味深い記述がある。
爆弾を投下した日本の飛行機は海面すれすれに飛んで退避したが、そのなかに、尾翼に黄色い筋があり、胴体のまわりに赤い二本の帯が巻いてある機があった、とヨークタウンの機銃員が証言しているというのである。
筆者も艦爆隊にいたが、尾翼に黄色い筋がつけてあるのは、指揮官機であり、胴体に赤線二本を巻いているのは、中隊長機である。しからば、小林大尉か山下大尉かのどちらかが、投弾して、途中まで退避したものと思われる。このうち、小林大尉は火焔に包まれ、投弾した後、海面に落ちたという生還者の証言がほぼ当たっていると思われる。しからば、一旦逃げのびた中隊長機は、山下途二大尉であると推定され、従って、ヨークタウン艦尾近くの命中弾も、山下大尉の投弾によるものと推定せざるを得なくなる。かくして、謎の一弾をめぐるミステリーは、解決ということになるのである。
フレッチャー提督は、艦橋で夢を見たような表情で立っていた。実際、バックマスターにはそう見えたのであるが、フレッチャーは、夢を見ているのではなかった。艦橋近くに落ちた至近弾のために、鉄片が彼の頭をかすめ、帽子がふきとび、頭皮から出血しているのであった。
「アドミラル……」
とバックマスターは痛ましげに言った。
「頭から血がふき出ています」
すると、フレッチャーは、ブラック・ジャックらしい表情をとり戻し、
「おれの頭にも来たか」
と言い、帽子を探すように、あたりを見回した。
ヨークタウンの火災は激しかったが、応急員は、珊瑚海の教訓を鮮やかに記憶していた。バックマスターの叱咤激励によって、火災は間もなく下火になり、そして、驚くべきことに、被爆後三十分間で、飛行甲板はふさがれ、発着がほぼ、可能になった。かねてバックマスターが準備させた、木板、穴のあいた薄い鉄板、そして、それをとめるボルト、ナットなどが、大いに役に立った。
午前九時半、バックマスターは、鼻の穴をふくらませながら、フレッチャーに言った。
「アドミラル、本艦は再び使用可能です。いま、罐の圧力を上げております」
これに対して、頭に白いほうたいを巻いた、ブラック・ジャックの返答は、誠につれないものであった。
「長い間ご苦労だった、バックマスター。私は、今からアストリアに移ることにした」
「行くんですか?」
「左様、本艦は停止したままだ。それに、電信室が破壊されている。これではタースク・フォース(機動部隊)の指揮はとれない」
間もなく、重巡アストリアの内火艇がヨークタウンに横附けになった。
「グッドラック、バックマスター、武運を祈る。潜水艦に気をつけたまえ……」
そう言い残すと、バックマスターの掌を軽く握り、提督は、ロープにしがみついて、内火艇の上に、ころげ落ちるようにして降りた。――ブラック・ジャックはまだやる気だな――そう考えてうなずくと、バックマスターは上空を旋回しているヨークタウンの飛行隊に、エンタープライズか、ホーネットに行くよう、信号を送らせた。
二十
時刻を少しさかのぼって、燃えさかる機動部隊の旗艦赤城の状況を見てみよう。
南雲長官の司令部が、赤城を棄てて、巡洋艦長良《ながら》に移ることを決意したのは、午前八時三十分である。
それ以前に、副長、鈴木忠良中佐、応急指揮官、運用長、土橋豪実中佐を中心とする応急(防火、防水)のきびしい戦いがあった。
中部リフトを貫通した一弾(ディック・ベスト大尉による)……ただ一個の千ポンド=四百五十キロ爆弾が、四万トンの空母赤城の死命を制した。中部格納庫で爆発したため、車内にあった二十機以上の艦攻、艦爆の燃料、爆弾の火薬、魚雷の圧搾空気が、一斉に誘爆を始めたのだ。
火焔は巨大な朝顔のように、二百メートル以上、中天にふき上げ、中部の破孔附近の人員はほとんど殺傷された。一発の千ポンド爆弾は、十発の八百キロ魚雷と、十発の二百五十キロ爆弾の効果をもたらしたのである。
運用長土橋中佐は、直ちに防火隊を派遣して防火に努めたが、消火ポンプが故障しているので、水が出なかった。火は流れ出るガソリンを伝い、燃えながら這って行くと、燃料タンクにたどりつき、爆発音とともに燃え上がり、高熱によって附近の爆弾や魚雷を灼熱させた。
戦艦ウェストバージニヤ、空母レキシントンを屠った強力な火薬の力を、赤城は身をもって実験していた。伝家の宝刀で切腹し、その切れ味を試すに似ていた。
二百五十キロ爆弾は、真っ赤に灼けて半透明になりかかっていても、爆発しないものがあった。整備員はそれを運搬車にのせて、あるいは、機の腹につけたまま舷側に押して行って、海に落とした。運搬車も熱しており、応援のため、その把手をつかみ、じゅうという音と共に、掌が金属に灼きついてしまった搭乗員もいた。
上部、中部格納庫は、修羅場と化した。首や胴のない死体、腸を露出して唸る整備員、全身に火傷を負って、「水、水……」と叫びながらころげまわる兵器員、この世の火焔地獄であった。
勇敢で勤勉で昇進の早かった若い下士官も、新兵に辛《つら》くあたるので恨まれていた古参兵も、郷里に年老いた両親と十一を頭に五人の子供を残して応召した老整備兵曹長も、平素、ヨタばかりとばして同僚を笑わせていた愛すべき機銃の旋回手も、みな一様にこの火焔の洗礼を受けて、生身を焼かれたのであった。
高オクタンの航空燃料と爆弾と魚雷を満載した母艦の格納庫は、火葬場以上の好適な焼き場であった。もろもろの運命をはらんだ人々が、その運命を一挙に中断終結せしめるため、この焼き場で、これという儀礼もなく火葬に付せられたのであった。火は誘爆によって、中部格納庫から徐々に下部格納庫、上部の艦橋、下部の士官室、下士官兵居住区、そして、機関室の方に拡がって行った。
搭乗員室が灼けて、居たたまれなくなったので、後藤仁一大尉は、村田少佐や、山田昌平と共に艦首の長官ボートが繋止《けいし》してある附近に移った。彼らは、一様に相手が笑っているのに気がついた。今まで、口のはたを縛りつけていたバンドが、知らぬ間に溶けて流れたような笑いであった。お互いに他人が笑っていることには気づいたが、自分が笑っていることに気づいているものはいなかった。それは、人生にしろ、ゲームにしろ、突然、破局に陥った場合、人間が原始的に表現するあのニヒルな笑いであった。
火口のような破孔を胸に抱いたまま、赤城は走っていた。機関科はまだ健在であった。
「全力運転可能」そう艦橋に報告して、指示を待っていた。やがて火は最後部の操舵室に回った。(後部に千ポンド爆弾を命中させたのは、“森の鍛冶屋”とあだ名をとる、マクラスキー隊のブラック・スミス少尉であった)
ちょうど、取舵をとったところで、舵取機械は、電動機が故障し、旋回しなくなってしまった。艦長の青木大佐は、「機械停止」を命じた。それまで西を向いていた赤城は、燃えさかる火焔を抱いたまま、ゆっくり行き足を止め、洋上に停止した。今まで、艦尾にふき流されていた火焔は、一度真っ直ぐに立ち上ると、南東の風にあおられて、艦首に向かって流れ始めた。艦首にいた乗員たちは、煙にむせび始めた。続いて速力通信機も故障し、艦橋と機関科との連絡は絶えた。
艦橋では、源田と草鹿が相談していた。火が通信室に入り、旗艦としての指揮機能が失われていた。
「もう、致し方ありませんな」
草鹿は、南雲の方を向いて、実状を報告した。
「うむ、降りよう。長良を呼んでくれんか」
南雲は、眉をよせながら、そういうと、周囲を警戒している水雷戦隊の方を見た。潜水艦による雷撃のおそれがあった。
午前七時四十分、格納庫横の通路で防火を指揮中、焼けたリベットを左太股《もも》に受けて、一時昏倒した赤城甲板士官の芝山末男中尉は、意識をとり戻すと、立ち上がろうとした。左脚が動かなかった。血がカーキの作業服を濡らしていた。ズボンを切り裂くと、傷口が姿を現わした。芝山は、初め、小指を傷口にさしこんでみた。かなり深く、奥までは届かなかった。彼は胸のポケットにさしたシャープペンシルをとって、傷口の奥を探ってみた。かすかに金属の感触があった。
「やはり、リベットだ」
その金属の小片は、内股の付根近くからとびこんで、筋肉を貫通し、外側へ出る二センチほど手前で止まっていた。外側から手をあててみると、かなり熱かった。
「いいだろう、焼けているから、自然消毒になって、化膿することもあるまい」
芝山は、不思議に落ちついている自分を意識しながら、タオルをとって、太股を固く縛り、近くにころがっていた木材の一つをとると、杖にして立ち上がった。左脚をひきずりながら、彼は前甲板を目ざした。中部から火焔が拡がって来るということもあったが、前甲板に出て、燃えている艦の実状を見たいという希望が彼の胸のなかにあった。自分の股をぶちぬいた、焼けたリベットを投げてよこした格納庫の実状を見て、消火作業の指揮をとらねばならぬ、と彼は考えていた。彼はまだ、赤城の中部応急指揮官であった。
錨甲板(錨をつなぐ錨鎖が繋止《けいし》してある)まで出ると、あたりが明るくなった。空が見えた。硝煙に曇る、中部太平洋の六月の空を、芝山は見た。錨鎖に腰をかけて憩うと、南の方、つまり、左舷の方向に大きな煙の柱が二つ見えた。
「近いのが加賀、遠いのが蒼竜です」
近くにすわっていた整備兵曹がそう説明した。彼も脚をやられていた。気がつくと、錨鎖の間に、何十人も負傷者が並べられていた。なかには、顔の表情から見て、すでに息が絶えていると思われるものも数体あった。
「もう、機動部隊は、飛竜だけになってしもうたとですよ」
その下士官はそう説明した。芝山は、急には状況が呑みこめなくて、こめかみに痛みを感じ、眉をしかめた。
「甲板士官、指をやられましたね」
寝ていた応急員の水兵がそう言った。
右掌の小指の付根が裂けて、白い骨が出ていた。動かそうとしたが、少ししか動かなかった。(この後、彼の小指はほとんど硬直したきりで、薬指もよく曲がらなくなった。戦後、自衛隊に入った彼は、長い間、無礼な敬礼をする自分に悩んでいたが、このほど、海将補を最後に、定年退官した)
「おうい、だれか、軍医官を呼んでくれい。甲板士官がやられたぞう……」
下士官がそう叫んだ。
軍医大尉の宮坂が近づいて来た。作業服に血がこびりつき、顔は黒くすすけて、ひどく汚れていた。
「大分、やけ《ヽヽ》ましたね。軍医官……」
芝山は、自分と同じく、おしゃれで、モダンボーイである慶応出の軍医官を冷やかした。
「あんたの方がひどいよ、甲板士官」
宮坂は、無表情のままそう言うと、芝山を甲板に寝かせ鋏で、芝山のズボンをジョキジョキと切り裂いた。
「ふうむ、タマは、こちらから入って、どこへ抜けたのかな」
「タマじゃない、リベットだ」
「リベット!?」
軍医は、指を立てて、リベットの入った方向を調べ、
「ここへ抜けるはずだが……」
と、芝山の腿の外側を指先でさぐり、
「熱う……」
と呻いて、掌を振った。
芝山は少し愉快になって来た。いまは自分の身内ともいうべき、焼けたリベットが、他人を驚かすのが面白かった。
「ちょっと注射器を。その大きい方だ」
軍医は衛生兵から二十cc入りの注射器をとりよせると、リバノール液を一杯ひたし、傷口から、二十cc全部を注ぎこんで、ほうたいをさせた。
「動かないで。動くと消毒液がこぼれる」
軍医はそう言うと、立ち去りかけた。
「それだけ?」
と芝山は訊いた。
「それだけ。あとは海軍病院で……」
軍医はそう答えた。
芝山は、右掌の小指を見せた。
「軽傷だな、まだ指は付いてる」
軍医は、ほうたいをひと巻き与えると、
「自分で縛って」
と言って、次の負傷者の方に立ち去った。
――まったく、無情なもんだ、軍医という奴は……。多分、あいつは、外科か産婦人科だろう。いや、解剖学が専攻かも知れぬ――。
と芝山は考えた。
「おい、長官が長良に移られるぞ」
下士官の叫び声で、艦首の錨甲板にいた芝山中尉は、負傷した脚をひきずりながら、立ち上がった。左舷に、巡洋艦が接近していた。母艦よりはずっと、乾舷(水面以上の艦体)が低かった。
赤城は、「母艦トシテ使用不能」と見なされ、司令部は長良に移ることになった。駆逐艦野分のカッターが三隻近づいて来て、艦首、右舷に達着した。「搭乗員ハ退艦、捲土《けんど》重来ヲ期セヨ」という命令により、体の動ける搭乗員は、それぞれ、カッターに乗り移った。
芝山は、司令部がカッターに乗り移るのを、艦首の甲板から見おろしていた。
若いときから柔道で鍛えた南雲は、思ったより身軽に、ロープを伝わって、十五メートル下の海面で揺れているカッターに降りた。肥満した草鹿は、艦橋から甲板に降りるとき、ロープの使い方がまずくて、右足首を捻挫していたので、このときも、降り方がぎこちなかった。
遠ざかってゆくカッターの十二本のオールが、むかでの足のようにゆっくり動いて、水を掻くのを、芝山は、錨甲板の上から眺めていた。赤城はまだ燃えていた。風は、艦尾から艦首の方向に流れており、錨甲板には、煙が渦を巻き、負傷者たちは、熱風に眉をやかれながら、しきりにむせていた。
二十一
遠ざかってゆくカッターの艇尾にあって、航空参謀の源田実中佐は、赤城を眺めていた。赤城は、火焔を背負って、太鼓を打ち鳴らしている生き不動のように、不思議な活気を示していた。はるかかなたに加賀と蒼竜の火煙がのぞまれた。
源田は赤穂城明渡しの大石内蔵助のようなポーズで立っていた。城のかわりに、燃える三隻の空母があった。力なくすわると、
「ここで、翔鶴と瑞鶴がいてくれたらなあ」
と呟いた。
出撃前の作戦会議で、彼はそれを主張したのであった。
「源田君!」
と、草鹿がたしなめる口ぶりで言った。
肥満した参謀長は、足首の痛みに堪えて、眉をしかめていた。その眉はこう言っていた。――何も言うな。ほかの者ならいい。しかし、貴様は、何も言うな。言ってはいかん――。
源田は、かすかにうなずくと、南雲の方を見た。艇尾の座席に腰をおろした長官は、巌のようにいかつい肩をよじらして、燃える赤城を見ていたが、やがて、眼を閉じると、うなだれた。――えらいことが起きた。申し訳のないことをしてしまった――彼は、それだけを念じるように考えていた。情況の整理をすることは、急には無理であった。
カッターが、赤城に着いて、搭乗員を収容してはなれたとき、後藤仁一は艦内にとり残された。たまたま、彼は靴が水で濡れて気持が悪いので、私室にはきかえに行っていたのだが、そのため、離艦に遅れ、飛行長の増田中佐とただ二人だけ、搭乗員として赤城の艦内にとどまることになった。
他の搭乗員がいなくなると、だんだん彼は心細くなって来た。彼の乗機九七式艦上攻撃機は、庫内で燃えていた。彼の戦闘配置は失われたのであった。危険を冒すための裏付けである、信念と任務を失った彼は、急に心細くなって来た。その心細さを消すため、彼は附近の整備員にまじって、今、艦内における唯一の作業である防火に従事し始めた。
水面下七メートルの赤城右舷機械室にある機関科指揮所では、機関長以下全員が倒れていた。通風孔から火焔を吸いこんだので、生存者は少なかった。しかし、赤城の機械はまだ傷ついてはいなかった。先に、青木艦長の命令で、機械は停止したままであるが、回そうと思えば、回るのであった。左舷にあった機械指揮所では、機関科分隊長が、しきりに首をひねっていた。彼は伝令に言った。
「まだ、艦橋との連絡はとれないか」
連絡は中絶したままであった。
上甲板の方で、激しい炸裂音が聞こえていた。
「これだけ敵の弾丸《タマ》が当たっているのに、本艦は停止のままでいいのかな?」
分隊長の疑問はそれであった。(この音は誘爆の音であった)速力通信機は、依然、停止のままである。
「こりゃ、分隊長、艦橋も困っているんじゃないですかな、速力を出したいんだが、停止のままで、通信機が故障してしまった、ということだったら、大変ですぞ」
中年の機械長がそう言った。
分隊長も同意見であった。今は爆弾だけだが、そのうち、魚雷でも命中したら、本艦の運命は危い。
「そうだな、多分、君の言うとおりだろう、ここは状況判断して、独断専行すべきだな。とにかく、全力運転出来る機関を止めたままにしておくという手はない、激戦の最中だからな。スクリューさえ回しておけば、あとは艦橋で舵をとってくれるだろう」
分隊長は、タービンに蒸気を送るバルブをあけさせた。スクリューは回転を始め、赤城は十四ノットの強速で、走り始めた。
艦首で、煙にむせていた後藤は、驚いて横の増田飛行長に呼びかけた。
「おや、動き出しましたよ、飛行長」
「うん、こりゃ、しかし、何もならんよ。左にぐるぐる回るばかりだ」
舵取機械は、先刻、取舵をとったまま故障しているので、赤城は、その場で左旋回を始めたのである。
増田は艦長の青木の方を見た。青木は、艦橋を焼かれて、艦首に避退して来たのである。
「どうせ走るなら、敵の来ない方に走った方がいいんじゃないですかな、艦長」
増田の声に、青木もうなずいた。
「それはそうだな。人力操舵でやれんもんかね、副長」
青木の声に、
「そうですな、決死隊でやってみましょう」
副長の鈴木中佐は、運用科と整備科の兵から決死隊を募った。十名ばかりの兵がのろのろと集まって来た。みな火傷したり、服を焦がしたり、水に濡れたりして、どろんと濁った眼に精気がなかった。鈴木はその十名に、艦尾の艦底近くにある人力操舵室に潜行して、舵を動かすことを命令した。
軍艦の舵は、普通、油圧または電動機で動くようになっているが、それが故障したときの臨時処置としては、人力で直接舵を回す、人力舵取機が、舵のすぐ前部の部屋に設けてあった。十名以上の屈強な水兵が、いくつもの把手にとりついて、えいやえいやと舵を回すのである。
急ごしらえの決死隊は、いくつもの防水扉やマンホールを、ハンマーで叩き破り、熱湯の中に浮いている焼けただれている死骸をおしのけながら、ようやく人力操舵室に達した。
さて、舵をどのように回すか。
副長は、一名伝令を派遣して、艦首がちょうど、西を向いたときに、舵を中央に戻す予定であった。ところが、その伝令が途中で行方不明になってしまった。人力操舵室で待機していた十名は当惑した。いつまで待っても、何の音沙汰もない。このまま上から火が移って来たら、おれたちはどうなるのか。
艦底の暗い操舵室で、ただ、ごとごと足の下で回るスクリューの音だけを聞きながら、彼らは背筋を走る鬼気のようなものを感じ始めていた。
「とにかく、舵を中央に戻しておこうじゃないか、同じ所をぐるぐる回るんじゃ能がないし、また敵襲があったら、いい目標になってしまうぞ……」
古参兵の提議によって、とにかく彼らは舵を中央に戻すことにした。
「わっしょい、わっしょい……」
焦熱地獄のように蒸し暑い、暗黒に近い艦底で、彼らは、かけ声と共に、必死の力をふり絞って舵輪を回した。舵は中央に戻った。十名は、一息ついて、再び、あの暗い危険な通路を前部上甲板の方に急いだ。情況は往路よりも悪化しているように思われた。誰が閉めたのか、往きにあけておいたマンホールが、しまっており、下から押しあけると、熱湯が頭から流れ落ちたりした。幾度も焼けた鉄片が飛んで来るのに傷ついたりしながら、彼らは艦首に戻って来た。彼らは、当然、何らかのねぎらいがあると考えていた。正しく、困難な事業に生命を賭けたのであるし、あの暗黒に堪えての力仕事は、褒賞に値すると誰もが考えていた。
「よくやってくれた」
そういう言葉を期待して、彼らは埃と煙に黒ずんだ顔を副長の前に並べた。
「いや、御苦労さんだった、しかし……」
鈴木副長は、悲しそうな顔で彼らの労をねぎらった。彼らはまわりを見回した。艦は東北東、ハワイを指して、十四ノットで走っているのであった。運悪く、舵を戻したとき、艦首がハワイに向かっていたわけであった。決死隊の十名は、それを知ると、がっかりしてしまった。へたへたとその場にすわりこんでしまったものもいた。艦長も飛行長も後藤も一様に情なさそうな顔になっていた。人間の必死の努力が、いかに偶然の一かけらにも値しないか――彼らは、悄然《しようぜん》として、しばらく艦首が海水を切り、白波を立てるのをみつめていた。いま一度、操舵室に決死隊を出すか。しかし、誰が果たして、この報酬の少ない賭けに労力の提供を申し出てくれるか。情況は時刻と共に悪化していた。連絡をいかにすべきか……、この一点で、艦長の青木は迷っていた。人力操舵が不可能とすれば、機関科に決死隊を出して、機械停止を命ずるか。一体、誰がスクリューを回しているのだろう。青木は、深い淵をのぞく思いだった。青木は徒労感に打ちのめされながら、茶色に焦げた靴の先をみつめながら、考えこんでいた。戦争そのものが大きな徒労であるが、彼はそのなかの一つの徒労について考えているのであった。
しかし、多くの人にとっては、徒労であっても、たった一人の人間にとっては、有益であることもあり得る。
ここに一人だけ喜んでいる男がいた。その男は、赤城の艦上にはいなかった。附近の海面に樽のように漂っていた。朝五時ごろ、敵の雷撃機を追跡中、味方の機銃で撃墜された蒼竜の戦闘機隊分隊士、藤田怡与蔵であった。
藤田は、朝から五時間近くの漂流に、手足はぶよぶよになり、眉毛や鬚にも塩がたまり、かなり疲労していたが、持前の気さくな性分から、まだ楽天的であった。――おれはきっと助かる。おれの生まれた日は、お釈迦様と同じ日なんだからな――彼は何度も自分にそう言って聞かせた。彼は海面に漂う観戦武官であった。彼はうねりにゆられながら、機動部隊がまっしぐらに、ミッドウェーに突っこむのを見た。多数の星のマークをつけた飛行機が彼の頭上を飛んで、その方に肉薄して行った。やがて、母艦群は変針して北西に走り始めた。彼は水平線近くで母艦が三方で煙を上げるのを見た。――やられたかな――彼はそう考え、少し悲観した。そこでやられてしまっては、もう彼の助かる見込みはなくなる。――駄目か、おれも……。二十六歳を一期として……ということになるか――彼は青黒い何メートルあるかわからぬ海底の方をみすかしたが、――いや、まだまだおれの息の根のあるうちは、チャンスはあるんだ、悲観するのは、死んでからでも遅くはない、何しろ、おれの生まれたのは、お釈迦様と同じ日なんだから――彼はそう思い直すと、青空にプカリと浮いている断雲を見上げた。彼は渇いていた。さまざまな意味で、渇いていた、と言えるだろう。
――アイスクリームのようだな、佐世保のスコ(水交社)のアイスクリームはうまかったな、もう一度食えるかな、食ってみたいものだ。アイスクリームが駄目なら、氷イチゴでもいい――そんなことを考えながら、浮いていた彼は、太陽が中天を回った頃、自分の方に巨大な一艦が、燃えながら走って来るのにびっくりして、眼をみはった。艦首に菊の紋章をつけた平べったい艦《ふね》である。それは、見覚えのある旗艦赤城であった。両側に護衛の駆逐艦をつれていた。
――や、赤城だ。しかし、何でまたこんな方に進んで来たのだろう。燃えたまま、敵の方に突っこむつもりだろうか。まさか、おれをひろいに来たわけでもあるまい。見れば、ずい分いたんでいるようだが――。
彼がそういぶかっている間に、赤城は彼の二千メートル北を走りすぎた。後衛の駆逐艦、嵐の艦橋にいた航海長(兼水雷長)の谷川清澄大尉は、信号兵の報告にある予感を感じた。
「右四十度千メートルに、人が浮いています」
「うむ」
嵐の艦長渡辺保正中佐は、やや思案気だった。燃えながら敵の方に走っている赤城も心配だが、一人といえども、人命は貴重である。母艦から落ちた搭乗員や、艦が沈むとき、残存した乗員を救うのが、このとんぼつり《ヽヽヽヽヽ》と呼ばれる直衛駆逐艦の大きな任務でもある。
「生きているか、死んでいるか」
谷川は双眼鏡を眼にあてた。
「手をふっています。あ、アメリカ人のようです。鬚を生やしています」
「ふむ……」
渡辺艦長がうなったとき、谷川が眼鏡を眼にあてたまま口をひらいた。見たことのあるような顔であった。
「艦長近よってみましょう。日本人のようです」
「そうか。両舷前進微速!」
嵐は、速力を減らし、旋回しながら、藤田の方に近よって来た。カッターがおろされた。谷川も乗り移った。
抵抗するかも知れん、というので、先頭の兵が、拳銃を擬した。近よると、うねりの上に浮いていた男が、水を吐き出しながら、突飛な声を出した。
「おい、谷川じゃねえか」
「お、何だ、藤田か。どうしたんだ。こんなところで、何をしてるんだ」
「何をしてるったって、貴様……」
そう言うと、藤田は波をかぶって、ガブリと海水を呑んだ。
「まあ、いい、とにかく上にあげろ!」
艇員の二人が、櫂を手ばなすと、藤田を引っ張り上げた。カッ夕ーのなかに引きずりこまれ、艇尾の床にすわると、藤田はぼろぼろと涙をこぼした。彼は嬉しくも悲しくもなかった。涙は衝動的に出たのである。――やっぱり、おれは助かった。おれはお釈迦様と生まれた日が同じなんだからな――彼はそう考えようとした。しかし、何も考えは浮かんでは来なかった。涙だけが出た。涙だけはあざむけなかった。
カッターは嵐に着き、藤田は、兵二名にかつぎ上げられた。デッキに上がると、
「いや、歩ける、大丈夫」
そう言って、藤田は自分の足で立った。まだふらついていた。五時間、大地を踏んでいないと、人間の足は頼りなくなるものであろうか。
艦長にあいさつした後、藤田は、谷川の私室に導かれた。
「おい、貴様、外人といわれたぞ。見張員がそういうんで、艦長はレッコ(放棄)してゆくつもりだったんだ。おれが知っていると言って、カッターをおろしてもらったんだぞ」
谷川はそう言った。
藤田は激しかった空戦のことを考えていた。十機以上墜としたはずであった。そして、その報償として、自分を撃墜してくれた蒼竜の機銃のことを考えていた。――おれの気持は、谷川にはわかるまい――彼はそう思っていた。
「しかし、そんなに貴様の顔は、エキゾチックかな?」
谷川は、しげしげとこの同期生の顔に見入った。丸い顔、丸い顎、どう見ても外人に見える顔ではなかった。
「結局、その鬚だな、そいつがポイントだな。――貴様、海上だったからよかったが、陸上の戦闘でふいに味方と出会ったら、敵と間違えられて、やられてしまうぞ」
谷川は真顔で言った。
「うん、この鬚も剃ろう」
藤田は、重々しい調子で答えた。
「そうだ、それがいい、貴様のエキゾチックは、同じエキゾチックでも、モンゴリアンに近い方だからな」
谷川はそう言うと、一人でうなずきながら立ち上がった。
「しかし、貴様、よく助かったな。悪運の強い奴だ」
彼は思わず涙が出そうになったので、艦橋へ急いだ。藤田は、黙って顎鬚をなでていた。(戦後、藤田は日航国際線の機長となり、何度もミッドウェー近くの海上を飛んだ。谷川は、海上自衛隊の佐世保地方総監=海将となった)
第 二 部
二十二
飛竜艦爆隊の小林道雄大尉から、「ワレ敵空母ヲ発見、今ヨリ攻撃ス」という電報が入った後、その後の報告がないので、第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、旗艦飛竜の艦橋で、いらいらしながら待っていた。
一中隊三小隊二番機の土屋孝美二飛曹が、「ワレ敵空母ヲ攻撃ス、敵空母大火災」と打って来たのは、午前九時二十分であった。
「ふむ、一隻はやっつけたな」
山口は、大きくうなずくと、
「艦攻隊の発進はどうかね」
と加来止男艦長に尋ねた。
加来は、艦橋から発着甲板にいる飛行長の川口益中佐を呼んだ。
「あと二十分位で発進出来ます」
と川口は答えた。
加来は、土屋の電報を川口のもとに送った。電報の発信者を見ると、川口は暗い表情を示した。
「一中隊三小隊二番機か……」
すると、隊長の小林も、二小隊長の近藤武憲大尉もやられたのだろうか。二中隊長の山下途二大尉はどうしたのだろう……。
飛行甲板では、第三次攻撃隊の準備が整いつつあった。艦攻十機、零戦六機が準備された。艦攻は五機を一個中隊とし、第一中隊長が友永丈市大尉、第二中隊長は橋本敏男大尉であった。戦闘機は森茂大尉が指揮した。
小林の艦爆隊を掩護に行ったが、途中、敵のドーントレス爆撃機を追っかけて、燃料不足となり、帰投した峯岸義次郎飛曹長は、戦闘機隊の第二小隊長に入っていた。
第一次攻撃で残った艦攻のうち、負傷者や被爆のため、使用可能機は九機であったが、艦爆が攻撃に行っている間に、赤城の艦攻一機が帰って来て、飛竜に着艦したので、これを攻撃隊に編入し、計十機となった。
このほか、他の三艦の直衛戦闘機が続々と飛竜に着艦したが、川口は被弾して使えない機は、どしどし舷側から海に棄てさせた。
赤城から帰って来たのは、朝、索敵に出た中根飛曹長であった。
この日、敵の空母に対する索敵には、前述の利根《とね》四号機をふくめて、七機が、午前一時半ごろ機動部隊から発進していた。真南に当たる百八十度が中根の乗った赤城の艦攻、その左が加賀の艦攻、ミッドウェーをはずして、百二十三度が利根の水偵一号機、ほぼ東に当たる百度が利根四号機、さらに、北の方向に筑摩《ちくま》一号機、筑摩四号機、榛名の水偵となっていた。
索敵方法は、三百マイル行って、左に直角に六十マイルに飛び、帰投する。中根の艦攻は途中で、日本のミッドウェー攻略部隊を攻撃に行く飛行艇や、B17の編隊を発見したが、無電機が故障のため、報告出来ないままに帰途に着いた。
約六時間の索敵行から帰投した中根機が発見したのは、燃えている三隻の空母であった。中根は燃えていない唯一の空母飛竜を探して着艦したのである。
赤城の飛行士後藤仁一大尉は、自分が第二次攻撃隊に参加したいため、自分のかわりに中根を索敵に出したのであるが、今、運命は皮肉な転回を見せ、赤城の第二次攻撃は取止めとなり、後藤は大火災の赤城にとり残され、彼のかわりに索敵に出た中根が、はからずも、彼の希望を実現して、第三次攻撃に参加することになったのである。しかし、中根の攻撃が果たして、その幸運に匹敵し得るものとなるかどうかは、誰にもわかっていなかった。
友永は、朝の第一次攻撃(陸上攻撃)で右の燃料タンクに被弾した自分の機を使うことにしていた。他に予備機はなかった。橋本が、
「隊長、大丈夫ですか」
と尋ねると、
「大丈夫、敵は近いんだ。両方あっても、いらないときはいらないんだ」
と大きな前歯を見せて笑った。土方《どかた》のトモさんらしい豪快な笑いであった。友永は海兵五十九期生で、気性は荒けずりであったが、真っ直ぐな人柄で、同僚からも、部下からも愛された。友永と同期生で、同じ大分県出身の西畑喜一郎(厚木航空隊副長、七十一航戦参謀を歴任、終戦時中佐)は、「友永は大分中学出身だが、非常に運動神経の発達した男でしたね。とくに水泳と体操が得意だった。負けじ魂が強く、クラスでも好漢として愛されていましたね」と述懐している。
午前九時五十分、蒼竜から発艦した二式艦偵(後の艦爆彗星《すいせい》、高速をもって知られる)が飛竜に着艦して、敵空母はエンタープライズ型三艦で、東に進んでいることを報告した。山口の予想通りであった。
それを聞くと、山口多聞は、加来と共に、艦橋から飛行甲板に降りた。
「いいか。敵の空母は三隻だ。艦爆隊が一隻やっつけたから、あと二隻だ。なるべく無傷な新しい母艦をみつけてやってくれい。そうすれば、あと一隻となる。一対一となるんだ」
山口は、そう訓示すると、搭乗員の掌を一人ずつ握って歩いた。山口は祈る気持であった。橋本は、山口の毛の生《は》えた太い指を握り返しながら、ふと将棋の駒のことを思い出した。内地の港を出るとき、宴会の席上で、山口が橋本たち若い士官のところに盃をさしに来た。
「司令官、今度は存分に私たちを使って下さい。私たちは、将棋の歩《ふ》ですからね」
橋本がそう言うと、
「いや、君たちは歩じゃない。飛車だ、いや香《きよう》ぐらいのところかな」
山口はそう言って笑った。
橋本が思い出したのは、その香のことであった。飛車であるか、香であるか、その判定は、間もなくつけられようとしていた。
加来は、
「機動部隊の主力は、いま君たちだけになってしまったんだ。しっかり頼むぞ」
と、山口のあとから、手を握って回った。
そのとき、艦爆小林隊の第一中隊から一機だけ生還した土屋の機が、飛竜の甲板上を低空で通過し、報告球を落とした。「敵空母ハ予定位置ヨリモ、南ニ寄ッテイル」と書いてあった。土屋は、飛行甲板が艦攻で一杯になっているので、発艦が間近いと見て、至急、報告球で通報したものである。(報告球は、ゴムマリを赤い布でくるんだもので、布のなかに通信文を入れるという簡単な通信用具である)
搭乗員は、敬礼を終わると、一斉に乗機に散った。
報告球をひろった整備員は、すぐに飛行長の川口に渡した。内容を読むと、川口は、すぐに、「橋本大尉に渡せ」と言った。今までの癖で、橋本が友永の偵察員だと思いこんでいたのである。整備員は正直に、プロペラの間をくぐってそれを橋本に渡した。橋本がそれを読んでいる間に、森大尉の機から戦闘機が発艦を始めた。間もなく、友永の艦攻も発艦した。
第三次攻撃隊十六機が発艦して、飛竜の上空で編隊を組み始めたのは、午前十時四十分である。
飛竜の艦橋に戻った山口多聞は、赤城被爆直後にしたと同じ計算を、胸のなかで繰り返した。
――やはり、敵は空母三隻だった。そして、そのうち一隻は、小林隊が撃破した。いま一隻は、友永の隊が叩いてくれるだろう。そうすれば、残りは一対一だ。今日の、本当の戦いは、そのときから始まるといってよいだろう――。
艦爆隊の生き残りが着艦を始めていた。山口は、航空参謀の橋口喬少佐を呼ぶと、第四次攻撃に使えそうな攻撃隊の兵力を計算させた。
橋口は発着指揮所に降りると、飛行長の川口と、計算を始めた。艦爆隊の帰還機は五機であった。零戦は、隊長の重松を入れて、三機が帰って来た。いま、攻撃に行っている艦攻隊のうち、五機が帰るとして、第四次攻撃隊は、艦爆六機、艦攻五機、零戦は他艦の直衛機を入れて、八機が出せると推算した。
(実際に、友永隊の残機が帰投した段階で、午後零時四十分、第四次攻撃隊を編成してみると、艦爆五機、艦攻四機、零戦十機という機数になっていた)
山口は、とりあえず、「第三次空母攻撃隊(第四次のこと)艦爆六、艦戦九、出発準備中」と長良の南雲司令部に打電した。彼は機数の不足を感じていた。午前十一時半、赤城に対し、「貴艦ノ残存機発艦可能ノモノアラバ、飛竜ニ収容シタシ」との電報を打たせた。これは山口にとって、辛い最後のあがきであった。赤城が火焔をあげているのが見える以上、そこに飛行機があっても、発艦不能なことはわかっていた。加うるに、赤城の無電は、発受信不能に陥っていた。長良の艦橋で、山口の電報を受信した草鹿は、暗い顔をした。彼には、山口の気持がわかった。一期上の山口が兵学校の中庭を、悠々と濶歩《かつぽ》しているときの姿が浮かんだ。屈したことのない山口が、飛行機の不足に悩んでいる。そして、機動部隊の参謀長である自分はいま、軽巡の艦橋にいて、なすすべを知らないのである。
草鹿は、南雲の方を向き、
「長官、二航戦からこう言って来ましたが……」
と言って、電報を見せた。
一読すると南雲は、
「山口君も困っているだろう。しかし……」
と言ったきり、前方をにらんでいた。一艦だけ残った飛竜の責任と、機数の不足との板ばさみとなって苦しんでいる山口の苦衷は、南雲にもよくわかった。痛いほど身に沁みた。しかし、いま、彼の関心は水雷攻撃にあった。長良を先頭とし、水雷戦隊をもって、敵空母を雷撃、撃滅することが、現在の彼に与えられた任務であった。自ら課したと言ってもよかった。水雷屋の彼が、三母艦を失ったとき、水雷戦に突入するのは、空を眺めさせられていた鯱《しやち》が、再び水に戻って、鯨を襲撃するのに似て、やり甲斐のある戦いであった。長良は遠くに飛竜をのぞみながら、これと並行し、三十ノットで東北東に急いでいた。
二十三
ミッドウェー北方百三十マイルの海上は、高度五百ぐらいに断雲が点々とあり、視界はあまりよくなかった。このあたりが、本日の主戦闘海面につらなる予定であった。
橋本は、土屋の報告球の通信文を見て、敵の位置を友永に知らせようと思ったが、この機は隊内電話が故障して通じないので、いらいらした。友永は、車から軛《くびき》を解き放された馬車馬のように、先行してしまうので、なかなか第一中隊に追いつけなかった。思うに、友永は、自分が片燃料タンクなので、早く敵を発見し、主戦闘海面に到達して、魚雷を発射しないと、攻撃を終わらないうちに、燃料がなくなって、不時着することをおそれているのであろうか。何にしても異常なスピードである。それはそれとしてわかるのであるが、友永は、土屋の報告をみていないので、進路がどんどん左へ、つまり北へそれて行くのである。
敵の母艦は東進しているので、もっと東の方、つまり、右の方に見えて来るはずであった。
友永機の偵察員、赤松作少尉が、右前方に白い航跡を発見したのは、午前十一時半である。
「隊長、艦《ふね》が見えます」
「うむ、空母は?」
「は……」
後席で双眼鏡をかざしていた赤松は、
「隊長、空母です、右四十度、距離三千、東へ進んでいます……」
「わかった!」
友永は、真昼の光線の下で、白い航跡を引いている十数隻の軍艦を発見した。彼はその中央にある大きなワラジに注目した。損傷があるかないか。このとき、ヨークタウンでは、罐室員の必死の努力によって、速力が十五ノット出るまでに回復していた。飛行甲板は修理され、発着艦はまだ無理であったが、火災は消しとめられて、煙は消え、艦の傾斜はなかった。
赤松は、この空母の速力を二十四ノットと判定し、友永は、まだ攻撃を受けていない“無傷”の空母であると判断した。
橋本の二中隊では、五番機についていた赤城の中根がつうと前進して、彼の横に並んで手で右を指した。断雲の下に巨大な輪型陣が見えた。南洋の環礁のように見える輪型陣の中央に、わらじのような空母が、眼に沁みるように真っ白な波を蹴立てて、東進していた。十五ノットで航走するヨークタウンは、橋本の眼にも、二十ノット以上の高速に見えた。無傷の空母を叩かねばならぬという考えが、この空母こそ無傷の、新しく出現した空母である、という信念に変わり、その心理が、十四ノットを二十ノット以上に見せたのである。橋本は空母よりも、白い航跡の方を見ていた。涼し気だった。そろそろ渇きを覚えていた。はるかな前方上空に、キラキラと光るものが数を増しつつある。グラマンF4F戦闘機であった。(ヨークタウンは、日本機の再度の襲撃を予想して、三十機のグラマンを直衛として用意していた)
橋本は操縦員の高橋利夫一飛曹に、全速で友永隊長機に接近を命じ、友永機の横に出ると、大きく右掌をふりおろして、空母の位置を示した。友永は了解して編隊を解散し、赤松に、「ワレ敵発見、イマヨリ突撃ス」と打電させ、隊内電話で、「突撃隊形造レ」と下令した。
発艦前の打ち合わせで、一中隊は敵の向かって右、つまり、空母の左舷から、二中隊は向かって左からはさみうちにする予定になっていた。
橋本の隊が、高度五百の断雲を縫いながら、輪型陣の外廓にさしかかった頃、左後上方に、パッと照明弾を打ち上げたような閃光が上がった。橋本がふり仰いでみると、マグネシュームを焚いたような、まばゆい光のなかに、飛行機の破片らしいものが、ばらばらになって落ちて行くところであった。六機の戦闘機隊をひきいて、護衛に続行した森の機が、高角砲の直撃弾を受けて分解したところであった。橋本は、飛散する破片のなかに、森の遺体を見ようとつとめたが、果たされなかった。海軍大尉森茂は、文字通り散華《さんげ》してしまい、一物も残さなかった。橋本は、その不吉な、しかし、美しい閃光のなかに、この世のものでないような、不気味な戦慄を感じとったが、彼はこれからの仕事の方が大問題なので、長くそれに見入っているひまがなかった。
ヨークタウンを囲む輪型陣は重巡五隻、駆逐艦十一隻から成っていた。輪型陣の上空に入ると、敵の対空砲火は、突然、熾烈《しれつ》になった。大雪の日に、暗い部屋から、吹雪《ふぶき》のなぐりつける戸外にほうり出されたときの感じである。赤や黄のアイスキャンデーが、ふりしきる牡丹雪のように、間断なく四方から叩きつけて来た。どれもこれも、みな自分の顔に向かって来るように見えたが、通りすぎて見ると、それは当たっていないのであった。アイスキャンデーが自分に向かって来るたびに、橋本は、首をすくめたい欲望に駆られたが、それをしないことにした。すべてを操縦員の高橋兵曹の腕にまかせることにした。
輪型陣の内部は、相撲《すもう》の土俵に似ており、拳闘のリングにも、またさらに一層、闘牛場の内部に似ていた。それは真剣勝負の場であった。喰うか、喰われるか、生命の最高度の燃焼がそこにあった。弧を描いて飛来する銃弾の弾道は、死の力学を伴っていた。橋本は、口のなかがからからになった。のどの奥に、丸っこい痰がからまって、いくら呑みこもうと努力しても、それが呑み込めなかった。彼は今までになく、緊張していた。平常の大脳と、全然別のところで思考しているように思われた。彼の四肢《しし》は、小脳とは別のところから命令を受けて、ぎこちなく働いているように感じられた。
ここでは一つの取引が行われている、と考えてもよかった。彼は、五千万ドルの空母と、十八万円の攻撃機を交換しようとする、かなり虫のよい商取引の仲買人であった。彼は、その取引の手数料として、彼にとって無限の価値を持つ、自分の生命を、無償で支払おうとしていることをしばらく忘れていた。彼ののどの奥にしがみついている、丸っこい痰のかたまりだけが、それを知っているのかも知れなかった。
グラマンF4Fが襲って来た。陸上空襲のときと違って、母艦の直衛戦闘機は、精悍であった。眼鏡をかけたモダンな虻のように、接近し、ウワーンという金属的な響きと共に腹を見せながら反転しては、またとりついて来た。橋本はそのたびに、けたたましく高橋に旋回を命じ、しばしば断雲のなかにとびこみ、何度も危地を脱した。後席の電信員、小山富雄三飛曹が、七・七ミリ機銃を連射して、グラマン一機に命中弾を与えた。引き起こしそこなったグラマンは、海中にとびこみ、大きなスプラッシュをあげた。小山は、さらに、去ってゆく別のグラマンを追い討ちした。機は旋回し、グラマンは後方にかわったので、小山は、尾翼を射ち続けることになった。
「おい、尾翼を射っているじゃないか」
橋本が噛みつくように言った。尾翼に五つばかり穴があいたのを見て、小山はやっと射撃をやめた。――小山も昂奮しているな――と考え、橋本は、わずかなゆとりを感じた。
断雲をうまく利用したおかげで、彼の二中隊は、一機の損失もなく、敵空母の左側、つまり、ヨークタウンの右舷前方千メートルの地点に到達した。彼はときどき、友永の隊に気をつけていた。攻撃精神旺盛な友永は、断雲に頼らず、高度二十メートルの低空で、まっすぐ母艦に向かって右側へ突っこんだ。もう魚雷を落とすころだ、と橋本が投下索を握ったとき、母艦は面舵をとりキューッと右に大きく転舵した。橋本の眼前で、母艦の艦首が大きな白泡を噛みながら、左にふれ回って行った。――しまった、射点が変わったぞ――橋本は、尻のあたりに、むずむずするものを感じた。彼の中隊は、母艦に向かって左側から右側、すなわち左舷に出てしまった。しかし、不運なことに、母艦の左舷をねらって直進していた友永隊の五機は、母艦の艦尾から追撃する形になってしまった。最悪の射点であった。
「おい、大丈夫か!」
橋本は、うわずった声で操縦員の高橋に聞いた。
「大丈夫です、このままやりましょう」
高橋が疳高い声で答えた。
友永が狙っていた射点に、橋本の隊が占位することになってしまった。もう距離は、八百をすぎて、七百に近かった。母艦はまだ変針しつづけていた。グラマンF4Fは、まだ攻撃を続行していた。橋本機は、プロペラが波を切るほどの低空で、直進を続けた。ヨークタウンの甲板上に、五、六機の飛行機が繋止《けいし》してあるのが見え、舷側の機銃が、水平射撃で赤い火を吐き続けていた。被害は先に接敵した友永隊に多かった。橋本は、自分が決断の時点に達したことを悟った。ヨークタウンに対する射角は六十度、適正角度と言えた。――いまだな、教科書通りだ――そう考えて、橋本は、
「投下!」
力一杯投下索を引いた。八百キロの九一式航空魚雷は、九七艦攻の腹をはなれ、腕白小僧をほうり出した機はふわりと浮き上がった。
「艦首に突っこめ!」
飛沫をあげて海面に落下した魚雷が航走を始めたのを確かめると、橋本は、そう絶叫した。高橋は、海面すれすれに、赤ブーストの全速力で、ヨークタウンの艦首めがけて突進した。魚雷の命中も大事であるが、この突進が三人の搭乗員を救うか否かの瀬戸際でもあった。下の海面がきめのこまかい、青と白の絣のように、無数の糸で、文様を織《お》り出した。橋本は友永の隊を見た。すでに三機に減った友永の隊は、ヨークタウンの艦尾を追いながら、うしろから左舷後尾に出て魚雷を発射しようと試みていた。橋本は、瀬戸内海で行われた演習のある場面を想い起こしていた。――ああ、まずいな、あのままでは、射点が後落して、とても当たらない。思い切って前進し、右舷の前方まで出てくれるとよいのだがな――彼がそう考えてみている間に、尾翼に黄色の線を二本つけた友永の隊長機は艦尾に向かって直進を続けた。
機上の友永は、すでに銃弾をうけていたが自分でも驚くほど冷静であった。片翼だけの燃料タンクで、飛竜を発艦するときから予想されていた情景が、いま、現実に展開されつつあった。赤城を含む三艦が被爆したときから、彼の覚悟は決まっていた。――今日は死ぬな、いや、死なねばならんのだ。おれが死ぬことによって、日本の勝運を取り返さねばならぬ――彼は、そう決意して、飛竜を発艦していた。友永は後落した射点で、一応魚雷を発射した。魚雷は、ヨークタウンを追うように並行して走り始めた。ヨークタウンは十数ノットで、九一式航空魚雷は五十ノットのスピードを持っているのであるが、急にはヨークタウンに追いつかないようであった。
魚雷を発射した後も、友永は敵空母を追撃した。この空母の攻撃隊は、赤城をやったのか、加賀をやったのか、友永は知らなかった。しかし、味方を破壊したこの空母を無傷でおくことは、友永には許されていなかった。彼はすでに身に数弾を受け、血のしぶきが、操縦席のなかで舞っていた。グラマンと、対空砲火と両方からの命中弾を受け、左の燃料タンクからも、ガソリンが白い糸を引いていた。――いずれにしても、もう飛竜には帰れない――友永の脳裡を、九州で待っている、よし江と丈一郎の姿がちらとかすめた。――さらばだ――友永は機上から、別れを告げた。ヨークタウンの、黒い崖のような後尾の艦側が眼前に迫っていた。艦尾では、海水が白い渦をつくりながら押し出されており、そこに出来ている吸いこみ気流が、友永の機をひきずりこんだ。友永機は艦尾に体当たりした。
二十四
ヨークタウンの速力は、十九ノットにまで回復していた。このためには、罐室の必死の努力と、バックマスター艦長と、機関長の間に、殴り合いよりもひどい罵声の応酬があった。まったく、バックマスターは、無事にパールハーバーに帰れたら、機関科全員にのされても仕方がない、というほどのひどい激励を与えたのである。
午前十一時三十五分、バックマスターは、日本の雷撃機が、右舷と左舷と二手に分れて、低空で突進して来るのを認めた。
――よくある手だ――。
珊瑚海海戦で、十数本の日本の魚雷を、転舵によってかわし切ったバックマスターは、鼻唄をうたおうと思ったが、鼻孔からスーと息が洩れただけで、歌にはならなかった。
バックマスターは、まず、――おれは、魚雷回避に関してはプロフェショナルなんだ――と自分に言って聞かせた後、両方の雷撃隊を見くらべた。
左舷から来る隊(友永隊)の方が進入が早そうだった。――まず、こいつを回避しなければなるまい、右からの敵はそのあとだ――。
バックマスターは、日本の雷撃機が、実戦の場合通常の射点よりも肉薄し、五百メートル附近で投下することを知っていた。彼は、まず、友永隊の三機を十分ひきつけておいて、
「ハード・ア・ポート!(面舵一杯)」
を令した。
ヨークタウンは大きく右に頭をふり、左舷から、こちらに向かっていた三機は、たちまち、射点が後落し、あとから追いかける形となった。ヨークタウンの機銃は一機ずつ狙い射ちにした。魚雷は三本投下されたが、艦と並行の形となったのでバックマスターは、うまくかわせると考えた。
――次には、右から来ていた五機だ――。
艦の変針によってこの隊は、左舷前方にかわっていた。――ヘタをすると、絶好の射点を与えることになるぞ――。
頃合よし、とみて、バックマスターは、一旦、舵を戻し、「スターボード!(取舵)」を令しようと思い、大きく息を吸いこんだ。左舷前方の一番機は、すでに魚雷を発射していた。そのとき、見張員が、
「艦長、左舷後部に雷跡! 本艦と並行しています!」
と声をはりあげた。
バックマスターは、急いでその方を見た。
白い雷跡が、後尾機銃の左正横五十メートルのあたりを、ヨークタウンと並行して、徐々に追いつきつつあった。(この魚雷が、友永大尉の落としたものであるかどうかは、誰も知らない)バックマスターは、進退きわまった。いま、取舵をとれば、追い抜きつつある魚雷をちょうど、中部左舷で受けとめることになる。これはまずいのだ。しかし、このまま直進すれば、残りの五機のパイロットをにっこりさせることになる。
「Goddem! Cat and dog!(畜生! くそくらえ)」
バックマスターは、窮余の一策として、再び、「面舵」を令した。
右旋回することによって、左舷から来た隊の射線を後落させようというのだ。しかし、一旦、中央《ミチツプ》に戻した舵はなかなか利かなかった。やっと舵がきいて、艦が右旋回を始めたころ、左舷の一番機(橋本機)が発射した魚雷は、左舷のほぼ中央、艦橋の反対側に命中した。ヨークタウンの艦橋は、右舷にあり、このために、左舷から来る魚雷はよく見えない、というハンディがあった。しかし、魚雷の破壊力にはハンディはなかった。ヨークタウンは、呻く巨人のようにゆっくり震動し、八百キロ魚雷の命中を認めた。
罐室の並んでいるあたりに浸水があり、罐の火が消え、蒸気パイプからは、高熱の蒸気が噴射された。こんどの被害は、爆弾とはくらべものにならなかった。二万トンの空母は、大破孔からの浸水によって、早くも左舷に傾斜を始めていた。さらに、すぐ近くの艦腹に、第二の魚雷が射ちこまれた。
橋本は、魚雷を発射した後、友永隊長の機が、火焔に包まれながら、空母の艦尾に追突するのを認めた。飛行機は二つに折れて艦尾の渦に吸いこまれた。すうーっと白い煙が上がった。香煙のように見えた。――ああ、隊長が、や、ら、れ、た――橋本は全身から力が抜け、がくりと頭を前に落とした。マナーは荒っぽいが、心のやさしい、親しみやすい上官であった。――もう、隊長はいない――黄線の入った尾翼の飛び散る姿のみが、印象的に頭に残った。このとき、すでに、後続の衛藤親志一飛曹の二番機、中村豊弘一飛曹の三番機は、魚雷を投下して、いずれも、ヨークタウンの飛行甲板上をとびぬけるべく、前に向かって避退中であった。
橋本機は、高く突き出した、∃ークタウンの艦首の下を通りぬけた。艦首はまだ勇ましく波を蹴立てていた。舷側の機銃は射撃を続けていた。艦首の機銃は、射撃をやめていた。機銃員の一人が、橋本の方を見ながら、なにごとかを叫んでいた。彼は突然、手をふってみたいような衝動に駆られた。しかし、両掌は、固く座席の縁を握っているだけで、指が一本も動かなかった。彼は死者のように硬直していたのである。
母艦をかわし切った後、彼はうしろを向いて、じっと母艦をみつめていた。列機は、母艦の上をとびこえ、あるいは、艦尾をかわして、橋本の方によって来た。
――第二中隊は、一機も喰われなかったな――。
しかし、友永の隊は、一機もこちら側に姿を現わさなかった。友永隊の犠牲によって、二中隊の攻撃が無事に終わったことを、橋本は考えないわけにはゆかなかった。
三百メートルぐらい来たころ、空母の中腹に高さ五十メートルの大きな水柱が二つ続いて上がった。続いてその三分の一ぐらいの小さな水柱が一つ上がった。――二発は確実に命中したな――彼は、ほっとしてあたりを見回した。安堵があった。これで、帰路に撃墜されても、任務は果たしたのである。五千万ドルと十八万円との取引は終わっていた。いまのところ、攻撃隊の支払った代価は、艦攻五機である。空母側の代価は、まだ計量が困難であった。
橋本は、飛竜にあてて、「ワレ敵空母ヲ攻撃ス、魚雷二本命中ヲ確認ス」と打電した。時に、午前十一時四十五分、飛竜を発艦してから、一時間二十分を経過していた。
バックマスターは、打ちのめされていた。
魚雷は中部に二本命中し、さらにすぐそのうしろに三本目が命中していた。
罐室の火は消え、熱い蒸気が通路を満たし、発電機はすべて停止し、艦内は真っ暗であった。スクリューは回転を止め、浸水が激しさを増しつつあった。
こうなると、居住区を豊かにするため、防水区画を大きくとってあるアメリカの空母の弱点が明らかになった。
一発目の魚雷が命中して五分後にヨークタウンは五度左に傾斜し、さらに三発目の命中後五分で、左に十八度傾斜した。友永隊の攻撃直前、ヨークタウンでは、修理した甲板から、戦闘機の発艦を行っていたが、それは不可能となり、ヨークタウンは、二十五度傾斜するまで、浸水がやまなかった。
ヨークタウンをはなれてから五百メートルほど来たとき、橋本は左に続行する中根機の腹の下を見て、のけぞらんばかりに驚いた。その腹には、まだ一本の魚雷が、母親にしがみつく子猿のように、ぴったりくっついていたのである。――おかしな奴だな、何のために、あれだけのアイスキャンデーを喰いながらここまでやって来たのかな? 魚雷を発射するためではなかったのか――橋本は、機からのり出して、中根の腹下を指さしてみせた。中根機の偵察員が「了解」というふうに手をあげた。すると、ぽとんとその魚雷が海面に落ちた。
機はぴょいととび上がった。
橋本はがっかりしてしまった。――なんだ、つまらないことをする奴だな、せめて巡洋艦か駆逐艦にでも発射すればよいのに、もったいないことをする奴だ。魚雷ももったいないが、命ももったいない。ここまで来た労力が水の泡だ、まったく屁のようなことをする奴だ――橋本は、その偵察員をにらみつけた。偵察員は、すまん、すまん、というふうに自分の頭を叩きながら、座席のなかにもぐってしまった。その偵察員は、魚雷が落ちていないのに気づいたので、何げなく、「おかしいな」と呟きながら投下索をいじってみた。そうしたら、ぽとん、と魚雷が落ちてしまったのであった。本当は彼が一番がっかりしたのである。彼は先刻アイスキャンデーの火箭の束に囲まれながら、「投下!」と勇ましく投下索を引っ張り上げていた自分の姿を思い浮かべると、無性に肚が立って来た。――なんだ、魚雷がなんだ、投下がなんだ、あまり人を馬鹿にするな――彼は本気に怒って、投下索を踏みつけた。何も知らない中根は、グラマンを避けるため、必死に急旋回を続けていた。魚雷はぶくぶくと気泡を立てながら、その後を追いかけていたが、その前方には、巡洋艦も駆逐艦もいなかった。
橋本は憮然《ぶぜん》としてその小さなドラマをみつめていたが、彼はまだ気づいていなかった。五機が魚雷攻撃を終わったとき、彼は三発が命中したので、命中率は五分の三、すなわち六十パーセントで、これは自慢出来る、と考えていた。しかし、実際の命中率は四分の三、つまり、七十五パーセントという高率だったのである。
橋本の機は、ぽかりとアイスクリームのように浮いている断雲を見つけると、すぐそのなかにとびこんだ。彼の機は飛石を伝わるように、その断雲から断雲へと縫って飛んだ。飛び移るときが危険であった。虻のようなグラマンは、その断雲の切れ目に数機待っていて、鈍重な艦攻が姿を現わすと、逆落《さかお》としに落ちて来るのであった。橋本はもう友永のことも、中根の魚雷のことも考えているひまはなかった。彼は高橋への伝声管を唾で温めながら、懸命に、右旋回、左旋回を繰り返した。彼の列機もそれにならった。
断雲戦法は功を奏して、彼の中隊は無事に輪型陣を脱した。ふりかえってみると、空母は、もくもくと白煙をふき上げていた。左に傾斜し、停止しているように見えた。グラマンはもうついては来なかった。空母の西方二十マイルで左旋回しながら、集まって来た三機の戦闘機をつれて、彼は飛竜のいる方向に西進した。
「敵空母火災、傾斜ス、艦攻五、戦闘機三、今ヨリ帰投ス、一二〇五」
彼の機からそう無電が打たれた。
帰投した三機の零戦のなかには、あの変わりものの峯岸義次郎飛曹長がふくまれていた。はげしい空戦であったが、彼は運強く生き残ったのである。赤城から来た中根も変わった運命のなかに身をおいていた。このとき中根は橋本の隊に属して攻撃に参加したのであるが、もし予定通り後藤が索敵に出てその帰途、飛竜に着艦していたら、同期生である橋本の列機にはならず、友永の中隊に入ったであろう。後藤は友永と共に消える運命を副次的に持っていたのである。しかし、彼の機は、中根のように魚雷発射に失敗するようなことはなかったかも知れない。ヨークタウンに一発を命中させて、戦史に名を止めることが出来たかも知れないのである。
二十五
ヨークタウンの艦長バックマスターが、「総員退艦」の命令を発したのは、正午に近かった。橋本隊の攻撃から二十分そこそこである。いかに、浸水と傾斜が急速であったかを示しているが、それにしても、アメリカの総員退去は、いかにも早い。ヨークタウンは、このあと、傾斜したまま漂流していたが、翌々七日朝十時、田辺《たなべ》弥八艦長の伊号百六十八潜水艦から二本の魚雷をうけ、その後間もなく沈没した。(米側の資料では、八日午前二時まで浮いたことになっている)
してみると、バックマスターの総員退去は、四十六時間あるいは、六十二時間早かったことになる。(彼はキャプテン・ラストの原則に従って、沈没の直前まで艦に居残って、防水と本国への曳航に努力しているが)
これは、日本とアメリカの兵器に関する考え方の違いを示すものであろう。日本では、すべての兵器は天皇陛下より賜わったもので、軍人精神の在り方を示すものである。アメリカでは、兵器は大小にかかわらず、戦闘のための用具に過ぎない。故障したら、満足なものに切り換えればよいのである。空母としての機能を失った艦に、いつまでいても仕方がない、というのが、アメリカのプラグマチックな考え方のようである。
ヨークタウンで、総員退艦が下令された正午ごろ、米巡洋艦から発進した索敵機が、日本の第四の空母飛竜のありかをつきとめ、エンタープライズに打電した。この電報は、巡洋艦アストリアに移乗していたフレッチャー提督にも届いた。
「そうか、NO・4がみつかったか……」
フレッチャーは、電報を手にとると、しばらく沈黙した。彼は第十六、十七機動部隊の先任司令官であった。しかし、ヨークタウンは傾斜し、すでに戦闘不能に陥ってしまっている。海戦の最後の決は、珊瑚海生き残りの航空部隊専門の司令官であるフレッチャーの手にではなく、十日前までは、護衛の巡洋艦隊を指揮していた航空戦のアマチュアであるスプルアンスの手に握られているのである。
洋上に停止したヨークタウンを遠望しながら、フレッチャーは、肩を落とし、息を一つ洩らした。
エンタープライズの艦橋は活気づいて来た。
「ラスト・ワンですな、提督……」
艦長のマレー大佐が、スプルアンスにほほえみかけた。
「うむ……」
うなずいたスプルアンスは、双眼鏡で西の方を見た。十五マイル西方のヨークタウンはまだ黒煙をふき上げていた。彼はヨークタウンが、二回の攻撃――一回は爆弾で、一回は魚雷で――を受けたことを知っていた。二日前、ヨークタウンとエンタープライズは、ラッキー・ポイントでのランデブーを祝い合ったのであるが、いま、僚友のヨークタウンは、その祝福から見はなされようとしていた。スプルアンスは、自分の足を見た。飛行靴をはいていた。航空のアマチュアである彼が、航空屋に入門した、唯一の、それが証拠品であった。責任は重い……。しかし、スプルアンスは計算していた。ヨークタウンに対する二度の攻撃が、敵のラスト・ワン・ヒリュー型からのものとすれば、ヒリューの次の攻撃までには、少し間があると考えてよい。その間にこちらは、出来るだけのドーントレスをかき集めればよい。
スプルアンスは、ブロウニング参謀長と相談して第十六機動部隊の戦力を集計した。エンタープライズのマクラスキー隊は、十一機のSBDドーントレスが使用可能であった。ヨークタウンから着艦したマックス・レスリー隊の十四機が健在であった。そして両隊共、マクラスキー少佐は肩を撃たれて病室に、レスリー少佐は、着艦を待っている間に海面に不時着し、今は駆逐艦の上にいた。
この二十五機をエンタープライズ攻撃隊として、マクラスキーの部下のアール・ガラハー大尉が指揮することとなった。
午後零時半、ガラハーは二十五機をひきいて発艦し、西に向かった。現地時間では、午後三時半であり、太平洋は夕刻に近かった。発艦後、一機が引き返し、計二十四機となったガラハー隊のドーントレスは、断雲に夕陽が映える海上を、高度をとりながら、西に向かった。この時点において、エンタープライズと飛竜の距離は百マイル(東京―静岡間)である。発見にいくらか手間どるとしても、一時間半見ておけば十分の距離である。
スプルアンスは、まぶしい夕陽を掌でさえぎりながら、マレー艦長と共にガラハー隊を見送った。彼はまだ怯《おび》えていた。どこからともなく、ヒリューのダイブ・ボンバー(急降下爆撃機)が現われて、彼のエンタープライズとホーネットを、ヨークタウンのように火の入ったバケツにしてしまうことをおそれていた。
ホーネットでは、猛勇をもって鳴るマーク・ミッチャー艦長が、いらいらしていた。彼が愛したウォルドロンの雷撃隊は全機が未帰還で、全然、消息がわからない。リング少佐のひきいた爆撃隊は、敵を発見しそこなって、ミッドウェー島に不時着していた。
――この大切なときに、一機も攻撃隊を出せないとは――。
トーキョー空襲でトージョーの心胆《しんたん》を寒からしめた、栄光あるホーネットの恥だ。彼は、有名なひさしの長い特別あつらえの戦闘帽をとり、窓のへりを叩いて憤慨した。
「神よ、我を見捨てたもうか」
彼は、滅多にお祈りしたことのない神様をひきあいに出して、己《おのれ》の不運を嘆いた。そのとき彼は、かすかな爆音を聞いた。蠅のとぶ音に似ていた。
「おい、みんな静かにしろ」
一同を制したとき、
「右前方に編隊……」
と見張員が告げた。
「対空戦闘!」
ミッチャーは、まず、そう下命した。ラスト・ワンのヒリューからの使者が、今度はこちらに現われたのか、そう思って体を堅くしていると、
「ドーントレス、十機こちらに向かう」
と見張員が、内容を明かした。
間もなく十一機のドーントレスがホーネットに着艦した。ミッドウェーに不時着した爆撃隊の一部が帰艦したものであった。
「おう、神は未だ我を見捨てたまわず」
忽然として敬虔なる信者と化したマーク・ミッチャーは、両掌を組んで、頭《こうべ》を垂れ、次いで、とび上がった。
五機の予備機を加え、十六機となったドーントレスの隊を、ステビンズ大尉が指揮して、午後一時すぎ、発艦することになった。
「いいか、敵は近い。ラスト・ワンのヒリューを、よく狙え。回りこんで太陽の側から行けば、必ず当たる。本艦長は、諸君の上に神の加護があらんことを確信している」
ミッチャーは、搭乗員にそう訓示した。彼はいまや、どのような奇蹟でも信じたい気持になっていた。
十六機のドーントレスは、次々に発艦し、夕陽に翼をきらめかせながら、高度をとりつつ、先行したエンタープライズ隊のあとを追った。
二十六
マクラスキーの隊によって、四発の命中弾を受けた加賀の被害は大きかった。
艦長岡田次作大佐、副長川口雅雄中佐をはじめ、艦橋にいた幹部は、直撃弾によって即死し、加賀は主なき鋼鉄製の炬火《きよか》と化していた。
たまたま艦橋後部の発着指揮所にいた飛行長の天谷孝久中佐だけが、火の粉をかむりながらも生き残ったので、以後、加賀の指揮は、天谷中佐がとることになった。
艦橋の全滅を知った天谷飛行長は、まだ一人、整備長が飛行甲板に残っていると考え、中部リフトの方を眺めた。誰もいなかった。リフトがとび、甲板が大きな口をあけていた。整備長の山崎中佐は、四百五十キロ爆弾の直撃を受けて、飛散したのである。
天谷は眼をこすってみた。先刻まで、元気に発艦に立ち会っていた僚友が、爆発音と共に消滅する……不可解なことだが、これは戦争だ、と彼には思われた。
格納庫では爆発が起き、火災はたけなわであった。天谷は、最後に残された先任将校として、消火を命じたが、消防ホースからは、水が出なかった。
天谷は、加賀の放棄を真剣になって考えていた。午前十時二十五分、彼は庶務主任の若い主計中尉に命じて、天皇陛下の御真影を、駆逐艦に移すことにした。中尉は、全身に水をかぶり、火焔のなかをかいくぐって、上甲板にある艦長室から、御真影を運び出して来た。警戒の第四駆逐隊からは、萩風と舞風が近づいて来た。主計中尉は、木箱に入った御真影を背負い、萩風のカッターに移った。
「総員退去だ。皆、カッターに移れ!」
天谷はそう号令をかけながら、燃えている艦橋をふり仰いだ。艦が回復不能の被害を受けたとき、この命令を下すのは、艦長の役目であった。そして、艦長はこの命令を下すと同時に、艦橋に行き、コンパスの台に自分の体を縛りつけるのを常識としていた。艦が沈むとき、艦長が艦と運命を共にするのが、日本海軍の伝統であった。
しかし、いま、艦長は戦死し、艦橋は燃えて近づく術《すべ》もない。
――どうしたものか――。
天谷は、遠ざかってゆく、駆逐艦を眺めていた。艦長はおらず、自分が先任将校ならば、加賀と運命を共にすべきは自分である。しかし、加賀の火災は、野焼きのように拡がり、もはや飛行甲板も熱くて、じっとしてはおれなくなって来ていた。
そのとき、午前十一時、アメリカ潜水艦ノーチラス号は、燃えている加賀に対し、三本の魚雷を発射した。
「飛行長! 魚雷です」
残っていた整備員の一人が、白い雷跡を指さした。
「来たか!」
いよいよ最後の時が来た、と天谷は考えた。要するに、これが最後なのである。
雷跡は、二筋となり、さらに三筋となった。
「三本だな……」
天谷は低く呻いた。
ここに魚雷をくらえば、事は完璧と思われた。しかし、一本目と二本目は、よこにそれてしまった。これは不思議なことであった。飛行機乗りで、雷撃訓練の経験を持つ天谷にとって、静止して燃えている全長二百五十メートルの目標に対して、雷撃をし損じるということは、想像することが困難であった。
天谷は米潜水艦が、ふだんまじめに訓練をやっているのかどうかを疑った。やがて、三本目が近づいた。今度は加賀の横腹に向かった。
「おい、今度は当たるぞ」
「うむ、危いぞ、ここにいちゃあ……」
近くにいる整備員と兵器員が相談すると、高さ十五メートルの飛行甲板から海面にとびこんだ。天谷も、今度は当たると思った。当たれば、水面下に大穴があき、急速に傾斜する。格納庫に残った飛行機や魚雷がすべり出し、誘爆がひどくなるかも知れぬ。今、とびこむにこしたことはない。そう考えたが、両脚が、熱している甲板に磁石で吸いつけられたように動かなかった。最先任将校として、艦長の代理を勤めている、という責任感が、彼の脚を釘づけにしたのである。
しかし、魚雷は爆発しなかった。ゴツンと加賀の脇腹に命中したが、半分に折れ、強力な圧搾空気を噴射して、先にとびこんだ兵士たちを小さな水柱のなかに巻きこんだが、予期された爆発は見られなかった。天谷は気落ちしていた。緊張がはぐらかされたのである。魚雷の一部が残っており、海面に浮いている兵士が、それに泳ぎついていた。アメリカの潜水艦では、魚雷に炸薬をつめるのを忘れているのではないか……。天谷は額に手を当てて、そんなことを考えていた。やがて、火は飛行甲板全部に回り、立っている場所もなくなってしまった。このままでは焼け死んでしまうので、一応、駆逐艦に避難して、加賀の様子を見守ることにし、天谷は海面に向かって、身を躍らせた。海軍兵学校の訓練では、十メートルの高さからしかとびこんだことがないが、要するに、水にとびこむなどということは、空母をひきいて、味方がやられぬうちに敵をやっつけるという困難な作戦にくらべれば、何ものでもないということを、天谷はそのとき悟ったのであった。
マックス・レスリー少佐のひきいた、ヨークタウンの爆撃隊は、蒼竜に三つの命中弾を与えていた。前部、中部、後部の三つのリフトに命中弾があり、これは空母にとって致命的であった。火災のひろがり方は、加賀よりも早く、誘爆も盛んであった。
蒼竜の艦長、柳本柳作大佐は、爆弾命中の二十分後、午前七時四十五分、早くも艦の機能維持に絶望して「総員退去」を命じている。もって、いかに蒼竜の火災が激しかったかがわかるであろう。
格納庫の火災が激しく、消防ホースから水が出なくて、防火に困難をきわめた点では、加賀と同じである。応急総指揮官の副長小原尚《ひさし》中佐が負傷して倒れたので、柳本艦長自らが、防火総指揮官をかって出て、陣頭指揮を行ったが、ホースの水が出ないので、誘爆を食いとめるため、赤く熱した爆弾や魚雷を艦外に捨てるだけが、せい一杯であった。
柳本大佐は、山口多聞より四期後の海兵四十四期である。明治二十七年一月九日南蛮文化で知られる、長崎県北松浦郡平戸町に生まれた。父慶吉は、平戸藩士で、中流の家柄であったが、家はさして裕福ではなかった。明治四十五年三月、平戸の旧藩校、猶興館中学を卒業したが、しばらくは代用教員を勤めて、家計を助けた。
海軍兵学校に合格し、江田島の校門をくぐったのは、翌大正二年九月二日である。
努力家の柳本は、学業の成績は二十番ぐらいであったが、それよりも、彼を有名にしたのは、弥山《みせん》競技であった。江田島に近い、宮島に海抜五百六十メートルの弥山がある。毎年、生徒はこの山の早登り競走を行う。小柄な柳本は、一年生のときから、断然トップであった。これは、彼が中学生のとき、神崎《こうざき》という村から、猶興館中学まで、往復十キロの山道を歩いて通った成果である。
海軍少尉のころ、彼は、乗艦の霧島が横須賀に入港したとき、東京から横須賀まで、歩いて帰ったことがある。横浜を出はずれたところで夜半となった。警官に何回も誰何《すいか》をうけながら、ついに彼は六十キロの道を歩き通して横須賀にたどりついた。
青年士官時代の思い出として、柳本がよく部下に語ったものに、今の天皇の回想がある。大正十一年三月、当時摂政宮であった今の天皇が、軍艦香取をお召艦として、渡欧されたことがあった。
柳本中尉は、当時、香取の分隊長心得であった。当時は、摂政宮も若く、青年士官と気さくに話をされた。アラビアの港、アデンに香取が寄港したときのことである。現地人の漁船が近よって、士官室のコックに魚を売りに来た。柳本は、士官室の糧食仕入係であった。近よった二隻をみると、一隻はきれいな舟で、屈強な大男がこいで、いち早くタラップにこぎよせ、魚を売りつけた。柳本がいくらかの魚をコックに買わせて、甲板に引きあげようとすると、後甲板から摂政宮の声がかかった。
「柳本中尉! むこうの舟からも買ってやったらどうか」
見ると、十歳ぐらいの少年が、小さな舟をけんめいにこいで近よっていた。柳本は、打たれるものを感じ、その少年からも魚を買った。
その夜、柳本は同僚に語った。
「摂政宮の心は、天性広く出来ておられる。吾々も、部下を大切にする気持を忘れてはならぬ」
小柄な柳本は、無類のがんばり屋であった。少尉候補生時代、毎晩徹夜で海軍諸例則を暗記した話は有名である。平戸武士の血をうけた彼は精神修養の道として、剣と禅を選んだ。山岡鉄舟の創始した無刀流を習うため、石川養三という剣士についた。石川は、旧加賀藩に属した敬義塾という道場の師範であった。また、円覚寺に参禅し、古川堯道師について、修業を重ねた。
彼が常に考えていたのは、死の解決であった。いかに、大楠公の如く、国家に殉ずるかということであった。彼は海兵の四十四期生であったが、担任の教官は、これを「始終死期」と読ませ、生死を超越して国に尽くすことを説いた。
彼が海軍大尉のころ、あや夫人の父畑野栄太郎が死去した。そのとき、あや夫人の弟辰雄に、六カ条からなる処世訓を与えたことがあった。そのなかには、
一、何ごとも誠を第一とすべきこと、
一、人の言行は絶対的なるべきこと、善は一筋なり、
というような条項がある。鎌倉以来の武士道にのっとって、おのれをストイックに律したことがわかる。
蒼竜の砲術長を勤めていた金尾滝一氏の回想によると、柳本艦長は、“海軍の乃木さん”のような人だとなっている。乃木将軍と異なることは、小柄だが大食漢であったというような点であろう。
砲術長金尾少佐は、甲板にあって、柳本の最期を見とどけた、数少ない生存者の一人である。
総員退去の後、柳本はなお、艦橋にあって、残存した応急員と共に消火に勤めた。しかし、火勢は収まりを見せなかった。金尾がふと艦橋を見ると、艦長の顔が見えた。艦橋も燃えており火焔を背景にした柳本の精悍な顔が、赤不動のように見えた。柳本は硬直したように、飛行甲板を見おろしていた。
金尾は、これと同じような表情を、前に見たことがあるような気がした。
それは、昭和十六年十二月中旬、ハワイ空襲の帰途、二航戦がウェーキ島の占領作戦に参加したときのことである。作戦は無事終了したが、索敵に出した艦上攻撃機が帰って来ない。無線帰投装置が故障して、母艦を発見出来ないのである。通信長や航海長が無線電話で方向を指示し、砲術長は探照灯で上空を照射してやるのだが、どうしても発見出来ない。そのうちに燃料がなくなって来た。
「燃料がなくなりました」
「艦長、飛行長、分隊長、長い間お世話になりました」
搭乗員が、そのように、最後のあいさつを送って来たとき、金尾は柳本の顔を見ていた。柳本は全身を硬直させ、沈痛なものを頬に漂わせていた。彼は自分で電話に出ると、言った。
「艦長だ。最後までがんばれ。あきらめてはいかん」
「わかりました。最後までがんばります」
間もなく、完全に燃料がなくなり、艦攻は海面に落ちた。このときは、着水のスプラッシュが、見張員に発見されたので、搭乗員は救助された。
――あのときは、あとで助かった。しかし、今度は難しかろう――。
艦橋の柳本をみつめながら、金尾は、そう考えていた。
間もなく柳本艦長は、旗甲板に姿を現わした。軍帽をかむり、左掌に菊水刀という特別ごしらえの短剣を持っていた。軍服には火がつき、いぶって白煙をあげていた。彼はまず、西の方、日本と思われる方向に向かって、敬礼した。彼の敬愛した天皇と、祖国の国民に別れを告げたのである。続いて、飛行甲板の生存者に敬礼を送った。彼が托された母艦蒼竜と、その乗員への、これが訣別であった。それが終わると、彼は艦橋のなかに入ってしまった。
副長の小原中佐は、負傷の身を起こして、二人の屈強な整備兵を派遣して、艦長をおろして来るように言った。二人が艦橋に入ると、火はすでに艦橋を蔽っていた。艦長、柳本大佐は、短剣を掌にしたまま、凝然とコンパスの横に立ち、前方をみつめていた。その後姿に臆して、二人は艦長を拉《らつ》しさることが出来なかった。これが柳本艦長の最後の姿である。柳本艦長は、死後、功二級金鵄《きんし》勲章を受けた。戒名は、興国院殿忠誉勲義居士《こじ》。現在、江田島の旧兵学校参考館に、火焔を背負った柳本大佐の木像が保存されている。
二十七
橋本が、第三次攻撃隊の残存八機をひきいて、飛竜に着艦したのは、午後一時すぎであった。このころ、飛竜と敵空母の位置は極度に接近し、百マイルあるかなしかに思われた。橋本は、敵の輪型陣を水平線のかなたに見失うと間もなく、飛竜を囲む輪型陣の外廓に、味方駆逐艦を発見したのであった。
機動部隊の陣形はばらばらとなり、赤城は東の方に、加賀と蒼竜は南西の方に位置し、煙をあげていた。
飛竜の周囲には、依然として無傷の戦艦榛名、霧島、八戦隊の重巡利根、筑摩などが、機銃、高角砲を空に向け、長良のひきいる十隻の駆逐艦も、飛竜の回りを固めていた。
長良に移乗した南雲は、艦橋で、飛竜の攻撃成功の入電を聞くと、急に元気になった。今までうつむき加減だった姿勢が、しゃんとして来た。
彼は十戦隊司令官の木村進少将をみると、言った。
「おい、今から夜襲をやろう。駆逐艦に信号を送ってくれい」
彼は太い声でそう言った。
そばで聞いていた草鹿は、はっとして南雲の顔を見た。そこには、自信に満ちた表情のかわりに、追いつめられたものの顔があった。三艦を失った詫びに、一旦は自決を決意した南雲であるが、思い直して、水雷戦の夜襲で、最後の賭けを行おうというのである。
草鹿は、長官が気の毒になって来た。海軍生活三十年を水雷と共に暮らし、今やっとその成果を問うチャンスが到来したのであるが、果たして、高速の空母を駆逐艦で追いかけて、どの程度の成果が上がるものか。日没まではまだ三時間ある。陽のあるうちは、飛行機を持った空母には近づけない。では、日没を待つとするか。飛行機がなくなった今、当分は仕事がないのだ。何にしても、長官が元気を出して来たのは、よいことなのであろう。急に疲れが出て来たのを感じると、草鹿は、休憩をとるため、艦橋を降りて、艦長休憩室に向かった。
日没を待っている男は、飛竜の艦橋にもいた。
橋本たちが着艦を始めたとき、山口多聞は西の空を見ていた。太陽はかなり西に傾いていた。――薄暮《はくぼ》攻撃だな――帰って来た機数の少ないのに気づいて、山口はそう考え、航空参謀の橋口にそれを告げた。少ない機数で奇襲をかけるには、白昼よりは薄暮がよい。搭乗員も疲れているだろう……。人殺しといわれた山口も、朝からの激戦に、ふとあわれみの心を出した。彼にも心の弱りというものはあったのである。これ以上、強行作戦で、部下を損耗させることはしのびなかった。そして、その心の弱りが、飛竜を破局にひきずってゆくのであった。
母艦に着いた橋本は、戦果と味方の被害を山口と加来《かく》に報告した。友永の死を聞いた山口の心は重かった。暗示的なものが背筋に来た。あれだけ豪快で、気っぷのよいパイロットでも、やられるときはやられるのだ。この戦いは、今までの精神的な迫力では押し切れぬものがあった。ハワイや印度洋とは、どこか様相が異なっていた。トランプのつき《ヽヽ》が変わりつつあった。“航空戦の鬼”といわれる彼も、それには気づいてはいたが、ここで挫けるわけにはゆかなかった。三艦のうち二艦をやっつけたから、もう一艦であった。この薄暮攻撃にまで持ちこめば、刺し違えても悔いはない、と彼は考えていた。
山口は、ただ二人残った兵学校出の若い指揮官の一人である橋本に問いかけた。
「どうだ、疲れたか、もう一度行ける元気があるか。飛行機は使えそうか」
「はい、まだ大丈夫です。最後までやります」
長身の橋本は、いつもは白い頬を紅潮させて答えた。しかし、彼の頬はかなり油のしぶきで汚れていたので、表情は山口にはよくわからなかった。
橋本は第四次攻撃隊の編成にかかった。
使用機数は、艦爆五機、艦攻四機、零戦十機であった。艦爆の隊長は、中沢飛曹長、零戦の隊長は重松で、いつも変わったことをする峯岸飛曹長が第二小隊長であった。
攻撃隊総指揮官は橋本であった。編成にかかるとき、彼は重松の方を向いて言った。
「二人だけになってしまったな」
「うむ……」
朝からの攻撃で、七人の上級指揮官を失っていた。将棋の歩は香になり、ついに飛車と角になってしまったのである。
「いいか、ここまで来たら、階級は問わない。とに角、一番当たりそうな人間をつれてゆく。そのかわり、十中の十まで帰れないぞ。おれの人選にあとで苦情をいうな」
橋本は今までにないけわしいものを眉の間に漂わせながら、集まった搭乗員たちの顔を見回した。汗と油で、鈍く光る三十いくつかの顔が、まもとに彼の顔を見返していた。
――いいです。やりましょう飛行士。ここが死に場所ですぜ――。
六十いくつかの眼がそう言っていた。どれもが、爬虫類に似たプリミティブな光を放っていた。
重松は、母艦の直衛に残す機と、攻撃に行く機とを分けにかかった。誰もが攻撃に行きたがった。
「だめだ。敵はまだ来る。母艦はどうなってもいいというのか」
彼は声を励まして、何機かを直衛に残した。
「敵の雷撃隊は被害が大きい。爆撃の方に気をつけろ。高度五千位で入って来るぞ」
彼はそのように、直衛機に注意を与えていた。
陽は西に傾いていたが、三時四十分の日没まで、まだ二時間あまりあった。しかし、太平洋は徐々に夕景を見せ始めていた。波が金色に光り、うねりが重苦しく、時々けだるそうであった。
編成が終わると、橋本は重松の肩を叩いて言った。
「おい、重松、頼むぞ。これで最後だ。今になって見殺しにしたりするな」
「大丈夫、おれがいる間は大丈夫だ」
重松は丸い顔をほころばせて、にっと笑った。――こいつは、敵機が照準器に入ったとき、どんな顔をするのだろう――と橋本は考えていた。
艦橋の下で整列していると、山口と加来が艦橋から降りて来た。
「みな頼むぞ。体は大丈夫か、疲れは直ったか、眠いものはおらんか」
山口は、三十二名の搭乗員の肩にさわって、一人ずつゆり動かしてみた。加来のあとからついて来た飛行長の川口が思いついて言った。
「そうだ。あれを持ってゆけ。おい、整備員、医務科に行って眠くならない薬をもらって来い」
間もなく、整備員が持って来たのは、航空錠の甲であった。
「おや? これは眠る方の薬じゃないのか」
川口がレッテルを見て首をひねった。
「馬鹿! ぼやぼやするなと軍医官に言え!」
加来が眼を三角にして、本気になって怒った。これは、かけがえのない大切な攻撃であった。
「敵の前で眠ってしまったらどうするんだ」
川口が医務科に電話をかけた。その薬で間違いないという返事であった。
出発準備が整ったところで、山口は、壇の上に立って言った。
「みな、ご苦労。――これがおそらく、最後の攻撃となると思う。敵の最後の空母に止めを刺してくれい」
そう言ったとき、山口は、飛行甲板に並んだ数少ない艦攻や艦爆を見て、落涙を覚えた。この数では、無効であるかも知れなかった。しかし、出さねばならなかった。それが司令官の責務であった。
山口は猛訓練をもって鳴るだけに、また青年を愛する男であった。彼は朝からの攻撃で何人もの指揮官と四十機以上の飛行機と多くの搭乗員を失った上、今また総指揮官の友永を失ったので、かなり気が弱くなっていた。――こんなに、若い生命を殺してよいものか。おれにそれだけの権利があるのか。薬品を用いて、疲労を押し伏せ、死にに行くことが、この敗軍のなかでどういう意味を持つか。それは若い生命に対する冒涜《ぼうとく》ではないのか――。
航空戦の鬼といわれた山口の大きな眼球のなかに、そのような疑問と悲しみが湧き起こっていた。彼のなかには、まだ、即時、攻撃隊を発進させた方が、少なくとも母艦の被害は局限出来る、という計算が働いていた。しかし、彼が攻撃を薄暮に延ばしたのは、必ずしも、情に負けたからではなかった。彼のなかの数学が、実質的に敵に対して有効と思われる薄暮攻撃を選ばせたのである。山口は、そう自分に言って聞かせた。彼の思考内容は複雑であった。多くの情緒を抑え、不可能を可能にしようというのであるから、いきおい、複雑にならざるを得なかった。
彼のなかに、ぼんやりとした美の意識があった。彼は、むしろ、漠然と攻撃を薄暮に延期させたとも言える。薄暮攻撃の成果を期待しているのではなかった。彼は、死地に赴《おもむ》くことを承諾した青年たちの表情を美しいと思い、その美しさにうたれていた。彼は、青年たちが死地に入る時刻を延ばし、彼らに生の呼吸をいくらかでも長くさせようと試みたにすぎなかった。
山口は台の上から、斜陽を反映する大きなうねりを見ていた。金色の縞をゆらめかせる陽光は、青年の顔におとらず、美しいと言えた。山口は、
「攻撃は薄暮とする」
と宣した後、加来の方を見ると、やや無愛想に言った。
「搭乗員をよく休ませてくれ給え」
搭乗員は休養のため解散し、橋本は整備長の三雲中佐と、残りの機の整備について打ち合わせをすませると、しばらく飛行甲板に立っていた。B17が高空から爆撃を行い、遠くに水柱が上がっていた。
輪型陣の乱れに、彼は気がついていた。戦場全体に倦怠が感じられた。この乱れた輪型陣で、漫然と日没を待つというのは、危険ではないか。戦争というものは、坂道を上る車だ、とだれかが言った。押す手をゆるめれば、車は滑り落ちてしまうのだ。そんなことを連想し、いますぐ攻撃を開始するよう、意見具申をしてみようか、とも橋本は考えたが、何にしても疲れていた。搭乗員待機室に入ると、飛行服の上半分をぬぎ、ソファに横になった。今朝まで、十名近くの士官が雑談をかわし合って、やかましいくらいにぎやかだった待機室も、いまは、橋本と重松のいびきが聞こえるだけであった。
艦橋では、山口が、薄暮まで、戦場から遠ざかるよう、針路を北西に指向させていた。
二十八
二十四機のドーントレスをひきいて、西北西に進んだガラハー大尉は、午後一時四十分、ほぼ索敵機の知らせた位置に、ヒリュー型空母とこれを囲む輪型陣を発見した。不思議なことに、ヒリューは西に向かって進んでいた。
ガラハーは、大きく右へ、つまり、北の方に旋回し、高度をとりつつ、さらに西の方、すなわち、ヒリューにとって太陽のある側に回りこんだ。
――もし、隠密裡《おんみつり》に突撃することが出来るならば――とガラハーは考えた。空母一隻に、二十四発の千ポンド(四百五十キロ)爆弾は多すぎる。命中弾は三ないし五発あれば、十分である。それならば、と彼は下をよく見て、ヒリューに近いところに一隻の戦艦が同航しているのに眼をつけた。
彼は隊内無線電話で、「エンタープライズの隊(十一機)は、ヒリュー型空母を狙え。ヨークタウン隊(十三機)は、戦艦に投弾しろ、グッドラック!」と告げた。
高空にいた直衛の零戦数機が急上昇して、ヨークタウン隊のドーントレスに追いつき、後尾から、一機、二機と、火焔の洗礼を浴びせていた。高度は五千五百にのぼっており、太陽を背にうけたガラハー隊は、すでに突撃の位置にかかっていた。
「突撃する(Come into dive)」
ガラハーは、一旦エンジンを絞って、機首を下げると、急降下に入り、エンジンを全速近くまで増速すると、降角六十度で、急降下を続けた。
飛竜艦橋の上部にある防空指揮所では対空見張員の兵曹が、上空における不気味な静寂に、不審を感じて、十二倍双眼鏡を上方に向けてみた。零戦が、敵の爆撃機に襲いかかり、火をふかせていた。そのたびに、キラリ、キラリと、夕陽に翼の裏側が反射をみせた。その近く、太陽光線でけむって見える大気のかたまりのなかを、まっしぐらに降下して来るずんぐりした爆撃機があった。
「敵機急降下!! 左三十度、高度四〇《ヨンマル》(四千)!」
見張員は、あわただしく、伝声管につばをとばした。
それを聞いた加来艦長は、双眼鏡をかざして、空を仰いだが、もやのような夕方の光線にまぎれて、敵機の姿は、明確に視認出来なかった。――来たか――と思いながら、彼は、
「とーりかあじ!! 一杯!」
と転舵を命じた。
十秒、二十秒、飛竜はゆっくりと左に旋回し始めた。
高度三千で、ガラハーはヒリューの転舵に気づいた。太陽の側、つまり、こちらに食いこむように転舵して来るので、そのまま照準を続けると、降下角度が深くなり、七十度近くなると、ふわふわと体が浮いて、照準が困難になった。高度五百、半ば自暴自棄になって、ガラハーは投下ハンドルを回した。彼の投弾は飛竜の右舷三十メートルに外《そ》れ、続く数機も至近弾に終わった。
このとき、漁夫の利を占めたのは、ヨークタウンの隊である。ガラハーの命令によって、ヨークタウンの十三機は、近くの戦艦を攻撃するようにいわれていたが、ヨークタウン隊の指揮官は、――そんな馬鹿なことが許されてたまるか――と考えていた。
ヒリューがこちら向きに転舵し、進入点が早まったのを幸いに、彼はバンクをふって、空母に突入してしまった。あわてたのは、エンタープライズの第二中隊である。朝、赤城を攻撃して命中弾を与えたディック・ベスト大尉は、ヨークタウン隊が、自分よりも早く降下したので、怒り心頭に発した。――どうして、こう、みんな、ルールを守らないんだ――彼は中隊の六機をひきいて、大急ぎで、エンジン全開のまま降下に入った。こうして、エンタープライズとヨークタウンの十数機が入り乱れて、飛竜に殺到する形となった。
第一弾命中は、午後二時五分。前部リフトに四百五十キロがぶちこまれ、リフトは爆風で舞い上がり、とんで来て艦橋前部にぶつかり、全部の窓ガラスを割った。続いて、三弾が、前部に命中し、火災を生じた。
艦橋にいた航空参謀の橋口は、大きなリフトが、飛び上がったかと思うと、艦橋にぶつかり、飛行甲板にぐさりと突き刺さるのを見た。――えらい力だ――そう考えながら、彼は山口の方を見た。山口は腕を組んだまま、前方を凝視していた。突き刺さったリフトが視野をさえぎりマントレット(ハンモックで作った防禦装置)が燃え、その煙が、割れた窓から、艦橋に入りこんだ。飛竜の艦橋は沈黙に支配されていた。やがて、航海長の長《ちよう》少佐が、機関科と連絡をとった。
「機関室異常なし」
と彼は報告を伝達した。
しかし、山口の心は重かった。スクリューは回っても、甲板に穴のあいた空母は、どこへ行けばよいというのか。彼の心のなかに、薄暮攻撃決定に対する悔いが残っていた。ツメを誤ったのだ。搭乗員の疲労を思いやるのではなかった。一時の同情が、すべてを灰燼《かいじん》に帰したのである。航空戦の鬼は、鬼であることによって、航空戦を勝利に導くことが出来るのであって、鬼でなくなると同時に、死神にとりつかれ始めていたということが言える。(もっとも、エンタープライズから、ガラハー隊の二十四機が発艦したのが午後零時半。橋本の隊が、ヨークタウン攻撃を終わって飛竜に着艦したのが、午後一時すぎであるから、それからすぐに攻撃隊を編成して発進しても、エンタープライズの攻撃隊を阻止することは、不可能であったということが、計算では《ヽヽヽヽ》言える)
背中のソファを下から大きなハンマーで叩き上げられたような衝撃で、橋本は眼をさました。搭乗員待機室の時計は、午後二時五分で止まっていた。彼は反射的に飛行服の上部をひっかぶり、飛行帽をとって飛行甲板に出ようとしたが、ハッチが開かなかった。格納庫の横の通路に降り、作戦室の横から艦橋に上がろうとした時、ズズーンと第二回目の衝撃が足元の鉄板をつきあげてきた。消火器から出る、ガスのような臭いがして来た。大勢の整備員が、格納庫からぞろぞろ通路の上に上がってきた。帽子をふきとばされ、髪を焦がしている者、片腕の袖をちぎられ、黒く焦げた腕を露出している者、背中を赤黒く焼かれて、僚友の肩につかまっている者、いずれもショックに茫然となった表情で、瞳孔《どうこう》がひらいていた。ハッチからは、火薬の臭いと、ガソリンの燃える臭いがあふれていた。
橋本が艦橋に上がるラッタルに一歩足をかけたとき、第三弾の衝撃が来た。ヨークタウン隊が投下した第三弾は、橋本がのぼろうとしていた艦橋の前方五メートルぐらいの所に落下し、艦橋の側壁をこすりながら、爆発したのである。強烈な爆風で顔を叩かれた橋本は、ラッタルからすべり落ち、手すりでしたたか顎を打った。後頭部がじーんとしびれた。電源が切れたらしく、あたりは暗黒となり、薄暮の陽光が空隙《くうげき》からかすかに洩れ入るだけで、物の識別は困難であった。隔壁のなかには、たちまちガスが充満した。橋本の周囲で、整備員たちが、窒息して倒れ始めた。突然、不吉な予感が橋本を襲った。朝から二回、攻撃隊として危険な出撃をしたが、そのときには経験しなかった、つかみどころのない不安であった。
自分の戦闘配置におれば、兵士は不安を感じることは少ない、といわれるが、橋本もその例外ではなかった。艦攻の偵察席で、航法の図板をあつかったり、グラマンの襲撃を見張ったりしていたとき、彼は恐怖を感じたことはなかった。一メートル四方には足りないが、その席が彼の持場であり、そこで死ぬことは、彼にとって正当な運命であり、名誉なことでもあった。
しかし、いま、艦橋の下でガスに追いつめられた鼠のように死んでゆくのは、彼にとっては無意味であり、それは単にみじめな死であるにすぎなかった。
橋本はあわて、正常な判断を失った。運動神経だけが反射的に活動し始めた。やみくもに手さぐりし、手にふれたビーム(梁《はり》)を伝って、上に登り始めた。艦橋へのラッタルのつもりであった。天井の鉄板で頭を打って、床に落ちた。ぐにゃりと、足の下で肉塊が動いた。また登り、また落ちた。鼠とりに入れて水中に漬《つ》けられた鼠のように、出口のわからぬ区画の中で、何度も無意味な上下運動を繰り返した。やがて意識が少しずつ戻って来た。
彼はビームをよじ登ることをやめて、床にすわった。煙で眼が痛く、呼吸が苦しかった。心臓が激しく鼓動を打っていた。彼は両手で頭をかかえて、うす暗い床をみつめた。
どこからかさしこむ、淡い光線に、煙が濃い不気味な縞を漂わせていた。――おれもここで死んでゆくのか――彼はその縞の底にころがっている死体を眺めた。自分が生きていることが不思議に思えた。郷里の肉親のことは、全然頭のなかに浮かんで来なかった。死ぬ間際に、思い出として浮かび上がって来るような、記憶を刻みこんでくれた女もいなかった。
――どうせ死ぬのなら、艦攻の偵察席で死にたい、あそこが、おれの戦闘配置だ――彼は勇気をふるい起こし、また、冷静になって、艦橋へのラッタルを求めた、屍体に蹴つまずき、他の兵士とぶつかり合い、突起で頭を打ち、狭い区画のなかをふらつき回った。
そのとき、区画の一角から煙が外に吐き出された。霧が晴れるように、あたりが澄んで来た。爆弾の衝撃で出来た破孔から、煙が外に流れ出たのであった。彼は本能的にその方に駆けよった。明かりがさしこんでいた。人間一人が十分抜け出せる孔《あな》であった。首を出してのぞいてみると、艦橋の下に救助艇の吊ってある位置であったが、救助艇は消えていた。爆風で吹きとばされてしまったらしい。そのダビット(繋止装置)の残骸がくにゃくにゃに曲がっていた。その下は、すぐ海面であった。赤い焔を映しながら、蒼黒い海水が、秒速十数メートルのスピードで流れていた。水面までは、十メートル以上の高さがあった。
橋本は大きく口をひらき、息を吸った。うまい空気であった。――生きることはいい、空気はうまい――そう考えながら、飛行手袋を両手にはめ、孔から抜け出すと、まだ灼けているダビットを伝って、艦の横腹を這い始めた。うしろから数名の兵士がついて来た。誰も声をあげなかった。みな、持場を去った兵士であった。彼は旗甲板の横にポケット(突出部)になっている小さな台にたどりついた。このあたりは、いつも往来して、十分地理を心得ているはずなのに、いっこうにそれが頭に浮かんで来なかった。
台の上にあがると、彼は初めて飛行甲板の火災を見た。前部と中部のリフトの附近に直径十五メートルくらいの大穴があいて、飛行甲板は、氷山のようにジグザグに折れ曲がり、前部リフトは二メートルほど前方の甲板に、帆のように突き刺さっていた。破孔は、熔鉱炉のように白熱した火をふいていた。ダーン、ダ、ダーンと誘爆が始まっていた。飛竜は針路を西に変え、全速で主戦場から離脱しつつあった。飛行帽の顎紐が、ぱたぱたと、はげしく、橋本の憔悴した頬を打ち続けた。
二十九
飛竜の艦底に近い右舷機械室では、分隊長の梶島栄男大尉が苦い顔をしていた。朝からの戦闘運転で疲れていたが、赤城など三艦が被爆したという情報を艦橋から受けたときは、機械室も憂色に包まれ、飛竜の攻撃隊だけが攻撃すると聞いて、緊張していた。
敵空母に対して、二回の攻撃を行い、最後に残っている一艦に対して、第三回目の攻撃を行うという連絡があったので、彼は先ほどから全速待機を命じ、艦橋からの指令を待っていた。
機関長の相宗《あいそう》邦造中佐は、赤城がやられたと聞いたころから、急に元気がなくなった。神経質な彼は、不吉な予感に体を縛られ始めたのかも知れない。そして、敵弾の命中らしいドカーンという激しい音響が、上部から伝わって来ると、顔色が蒼ざめ、よろめくように一区画となっている機関科指揮所に入ってしまった。梶島がガラスの窓ごしにのぞくと、相宗は、防毒面と毛布を抱えて机にもたれ、艦の震動に身をまかせていた。唇の色がうすかった。梶島は苦々しげにそれを眺めた。
チリン、チリン……と速力通信器が回って、「両舷前進全速」が艦橋からかかって来た。心得た松岡兵曹は、すぐにハンドルを回して、蒸気圧力を一杯に上げた。機械は凄い音で回転を増し始めた。急に艦体の震動が増して来た。続いて、頭の真上に、耳の痛くなるような衝撃があり、更にまた左前方から衝撃が来た。艦はその度に、今にも分解しそうに揺れ動いた。鉄板を接合しているリベットがゆるんで、はずれてしまいそうな震動であった。
梶島はすぐに電話で艦橋を呼んで、デッキの状況を訊いた。
「三弾命中、目下防火中。機関科の状態はどうか」
と機関参謀の声がした。乾いた声で、無愛想に聞こえた。
「機関科異常なし。全力運転可能」
と答え、それを知らせようと、機関科指揮所に近よると、相宗は、あっちへ行け、というふうに、手で追う真似をした。何も聞きたくないのかも知れなかった。
飛竜は三十六ノットの全速で、西に走っていた。松岡兵曹は、自慢の鬚をひねり上げ、速力計と回転計をにらみつけていた。
艦橋では、山口多聞少将が、沈痛な顔で加来《かく》艦長と顔を見合わせていた。
「しまったですな、あれからすぐに攻撃隊を出してしまった方がよかったですかな」
加来はそう言ってから、悪いことを言ったというふうに、視線を落とし、右手の人差指で小鼻のわきをこすった。
「うむ……」
山口は陰鬱にだまりこくった。
被害の様子では、もう母艦としての使用は不可能だった。彼はいま、ある宿命を感じていた。あれだけ厳重な対空見張のなかを、どうかいくぐって来たのか。やはり、気がゆるんだんだな。おれの士気の挫折が、艦全体に影響を及ぼしたんだ……。彼は悪夢のような敵弾命中の一瞬を想い起こすと、――とてもかなわない。おれのような一個人の微力では、どうにもならない大きな動きがそこにある。それが戦争なのだ。それが人生なのだろう――と、正直に兜をぬいでいる自分を見出していた。
飛竜はもう、その戦闘のホットポイントからは逸脱した。あとは、日本に帰れるかどうかである。機関が無事なのが、唯一の救いであった。しかし、帰ったところでどうなるというのか。蒼竜もやられてしまった。おれの航空生活も、このへんがピリオドの打ちどころだろう――また彼はこう考えた。――自分はいい、自分はいいが、死んで行った友永や、小林や多くの整備員や搭乗員をどのようにあつかうか。どこに彼らの死の意味を見つけてやるべきか……せめて、予定通り、いま一度攻撃出来たらな――その最後の攻撃を許してくれなかった、米軍の奇襲が、山口には恨めしかった。――武士の情というものはないのか、それがあったらな――痛みが下腹からこみあげて来た。無意味なことであった。戦場には、そのような思いやりのある神が不在であることを、身にしみて熟知しているはずの山口であった。――未練だ。今一回攻撃してみたところで、あの兵力でどう戦局が変わるものか――と肚のなかで打ち消す心境にたどりついていた。
「こうなると、いっそ、もっと早く日が暮れてくれるといいですな」
加来も、日本への帰投を考えていた。
沈みそうで、なかなか沈まぬ南国の夕陽を、山口はガラスの割れた窓からみつめていた。入陽《いりひ》は、艦首の左舷にあった。日本の方角に沈む、血のように紅い夕陽であった。
血のように無惨な色は、飛行甲板の破孔の附近にも渦を巻いていた。
疾走する飛竜の南方で漂流する、赤城、加賀、蒼竜の周辺にも、斜陽の光線と共に、死の色が漂っていた。そのなかでただ一人、楽観的になっている男がいた。
ウォルドロン少佐のひきいるホーネットの雷撃隊のなかで、ただ一人生き残ったジョージ・ゲイ少尉である。彼の機は、藤田怡与蔵大尉のひきいる直衛戦闘機隊のために、蒼竜の近くで撃墜されたが、ゲイの体は無事であった。しかし、偵察員も、電信員も零戦の二十ミリ弾をくらって戦死していた。
ゲイは、カボック(救命胴衣)の力で辛うじて浮いていた。この戦いで、アメリカが勝つとは信じられなかった。海面にスプラッシュをあげるほとんどの飛行機が、星のマークであった。やはり、JAPはタフだ。おれもいずれやられるだろう。そう観念を決めこんでいた。ところが、ゲイの指先がふやけて間もなく、近い所で煙が立ち上った。それも一条ではなく、三条である。うねりにゆり上げられたとき、彼は見た。三隻の空母が燃えているのを……。――やったぞ――彼がすぐに想い浮かべたのは、眉のけわしいウォルドロン隊長のことであった。アパッチの名誉にかけて戦った隊長の死も、これで意義があることになろう。この戦いは、ひょっとすると、アメリカ側の勝ちかも知れぬ、と彼は安心するようになった。
そして、彼の防水腕時計の針が、午後五時を回ったころ、はるか北西の水平線に茶色の煙が高く立ち上っているのを、波の頂点に来たとき、ゲイは認めた。はじめ、彼は味方の空母がやられたのではないか、と疑った。しかし、ホーネットは、少なくとも百マイル(百八十キロ)は北にはなれており、ここから肉眼で見えるはずはなかった。
――してみると、四番目のJAPの空母だ。やったぞ――。
ゲイは、水の上に右拳を出すと、スナッチを鳴らした。湿った音がした。
――もし、アメリカがこの航空戦に勝ったのならば――とゲイは考えた。おれも、うまくゆくと、救助されるかも知れぬ。物事は、うまくゆき出すと、万事うまくゆくというからな……。ゲイは楽天的になって来た。彼は、その名前の通り gay(陽気)な男であった。波にゆられながら、彼は口笛をふいた。波の底深く沈んだとき、彼は蒼い天空に星座を見たように思った。やがて、太陽は西の水平線に近づいて行った。戦闘が終わりに近づいたことをゲイは肌で感じた。しかし、おれが救助されるのは、そう近いことではあるまい。それまでは、滅多にみることの出来ない、この大洋を、浮かぶ壮大な戦場と、それを照らす夕陽が刻々に変化するのを見物しようと彼は考えていた。(ジョージ・ゲイがアメリカの飛行艇に発見され、救助されたのは、翌六日の朝であった。ホーネット雷撃隊中唯一人の生存者の話は、新聞や雑誌に大きく紹介された。筆者はアメリカの捕虜収容所で見たライフの広告記事に、海面を漂流する彼の絵が大きくのっているのを見たことがある。セブンアップかコーラのコマーシャルで、彼が漂流中、心から欲したのは、この一本の清涼飲料水であった、と書いてあった。しかし、ゲイの手記によると、彼は漂流中一度も清涼飲料水を飲みたいと考えたことはなかった。もし、生還すれば、同僚によい土産《みやげ》話が出来るだろう、と考えたことはあったけれども……)
三十
早朝から、苛烈な戦場を眺めおろしていた、ミッドウェーの太陽は、傷ついた艦や将兵をそれぞれの色に染めながら、多くの人に消え難い印象を残す夕陽となって、午後三時半、水平線に下端を接し、やがて吸いこまれるように沈んで行った。
飛竜の艦橋では、山口と加来が、無量の想いで、それをみつめていた。まさに薄暮であった。あれだけ待ちこがれていた薄暮が訪れたのである。しかし、いま、発進すべき攻撃隊はなく、手元に残されたのは、格納庫の大穴から、火焔をふきあげる空母だけであった。うす墨色のこの薄暮が、今は、西方への逃避を助けるものとしてしか活用出来ない状況となっていた。
はるかな高空よりするB17爆撃隊の攻撃はまだ続いていたが、命中弾はなかった。
駆逐艦浜風、磯風は、漂流している蒼竜の生存者を救助した後、その周囲を回って潜水艦を警戒していた。
午後四時、蒼竜の火勢は一時おさまったかに見えた。駆逐艦浜風からこれを見ていた蒼竜飛行長の楠本幾登《くすもといくと》中佐は、一策を案じた。真珠湾以来飛行長を勤め、歴戦の士である楠本は、自分で防火隊を派遣して蒼竜の火を消し、榛名あるいは霧島などの高速戦艦によって、日本への曳航を考えていた。ハワイ攻撃はもちろんのこと、印度洋においても、艦爆の名隊長江草隆繁少佐指揮のもとに、命中率百パーセントに近い成績をあげた、輝く歴史をもつ蒼竜を、このまま敵地に放棄するにしのびなかった。やせぎすではあったが、楠本は策に富んだ男であった。彼はまず、相撲部員の体格のよい兵曹を選び出し最初のカッターで、蒼竜に乗艦させ、艦長の柳本大佐を救出させようと考えた。蒼竜を曳航するならば、艦長の指揮が必要であった。
しかし、艦橋は火焔でまだ焼けており、救助は容易ではないと思われた。午後四時十二分、蒼竜は艦尾から沈み始めた。そして同十五分水面下に没し、同二十分、火薬庫に引火したらしく大爆発を起こし、軍人精神横溢《おういつ》した“海軍の乃木将軍”柳本艦長を艦橋に抱いたまま、海底を目ざしたのである。沈没位置は、ミッドウェーの北北西百七十マイル(三百十五キロ)である。
同じころ、ミッドウェーの西北西五百マイル(九百三十キロ)に占位した連合艦隊旗艦大和《やまと》の艦橋で、長官の山本五十六《いそろく》は、思案していた。七万トンの巨艦は東南東すなわちミッドウェーの北方に位置するといわれる米機動部隊の方向を目ざしていた。
飛竜火災の報がすでに入り、艦橋の空気は重くよどんでいた。
「四隻ともやられたか」
山本は、唇をゆがめて、かたわらの宇垣纒《まとめ》参謀長をかえりみた。薄氷に似た笑みのようなものが口辺に漂っていた。
「やられましたな」
ほお骨の張った宇垣が、無表情のまま、ぶっすりと答えた。
「空母なしで、ゆくか……」
山本がぽつんと言った。一語一語がぶち切られたような言い方だった。
「やるほかに手はありませんな」
宇垣はむしろ積極的であった。真珠湾以来、ことごとに図に当たっている機動部隊の司令部が、オールマイティのような雰囲気を持ち、GF(連合艦隊)司令部を無視する傾向があるのを彼は知っていた。このチャンスをとらえて、GFの大艦巨砲の威力を知らせるのは、無意味ではない、と彼は考えていた。彼はまだ日本が敗《ま》けたとは考えていなかった。空母四隻を失っても、それが致命的とは考えられなかった。砲術出身の宇垣には、巨砲決戦の思想が沁みこんでおり、それが拭い去られるには、レイテ沖海戦(19年10月。彼は一戦隊司令官として、大和、武蔵、長門を指揮した)までの時間を必要としたのである。
「ここが、七分三分の兼ね合いというところかな」
呻くように山本が言った。
“七分三分の兼ね合い”とは、海軍の戦訓のための警句である。表面的な損害のみを見て、敵の兵力と味方の損害を過大視し、指揮官が、必要以上に弱気になり、戦闘の大局判断を誤るのを戒めた海軍伝統の古諺《こげん》で、敵の損害三分、味方の損害七分、我にわずか三分の利のみと見たとき、実は彼我《ひが》の兵力は五分五分なのだという意味であった。
午後四時十五分発の長官命令は、四時半ごろ各隊で受信され、その内容は次のような強気のものであった。
一、敵艦隊ハ東方ニ避退中ニシテ、空母ハ概《おおむ》ネコレヲ撃破セリ
一、当方面連合艦隊ハ敵ヲ急追撃滅スルト共ニ「ミッドウェー」ヲ攻略セントス
この夜戦命令に先立ち、攻略部隊指揮官の近藤信竹中将は、七戦隊(熊野、鈴谷《すずや》、三隈《みくま》、最上《もがみ》)を派して、ミッドウェーの砲撃を企図していたが、山本はこの命令の一時間半後、すなわち、午後五時五十分、ミッドウェーのすぐ近くで、伊号百六十八潜水艦が待機していることを思い出し、同潜水艦に、ミッドウェーの砲撃を命じた。(伊号百六十八潜は、後にヨークタウンを撃沈するが、その動きについては後に述べる)
三十一
いつの間にか飛行帽を失った橋本は、ざんばら髪のまま、飛竜の旗甲板のポケット(突出部)に立っていた。長身なので、のっそりという感じであった。煙がひどく、胸元が苦しいので、激しい息をしていた。火の粉があとからあとから降ってきた。時には赤く焼けた鉄片が頭上をとび越えた。頭に落ちた火の粉は、ジリジリと髪を焼いて、不快な異臭を放った。彼が盛んに頭の火の粉をはらっていると、下から、整備員の一人が、
「飛行士!」
と半ば焼けた防毒マスクをほうり上げてくれた。かけてみると、まだ使えそうであった。橋本の長身をみつけた副長の鹿江中佐が、艦橋から、
「おい、橋本大尉、そのあたりの兵隊を集めて火を消せ!」
と怒鳴った。
応急総指揮官の副長は消火に忙殺されていた。
橋本は、軽く手をあげて、了解の意を示し、旗甲板から、燃えている飛行甲板におりた。飛行靴の裏が熱かった。活動する意欲が湧いて来なかった。――そんなにきびしく言わんでもいいじゃないか――そう考えていると、対空戦闘のラッパがまた鳴った。――まだやるのか、もう飛竜はだめなのではないか――そう考えると、急に恐怖がこみあげて来た。――やはり、自分の戦闘配置にいないからだろう――と考え、リフトの方を見たが、自分の乗機はどこで燃えているのかわからなかった。
――まず、防火隊を作ろう。何かをしていなければだめだ――そう考えたとき、バサーッと音がして、艦橋の附近に巨大な水柱が上がった。B17の爆撃であった。橋本は爆風の風圧が、のどの奥から胸元の気管支のあたりまでとびこむのを感じた。手をつっこんで、こじ入れるような痛さだった。爆風で人が死ぬという意味がわかったような気がした。それ以上圧力が強かったら、彼の胸は、破裂していたに違いなかった。
続いて、灰色の火薬を含んだ泥水が頭からざぶりとかかった。爆弾は続いて附近に三発ばかり水柱をあげた。艦体には当たらなかった。――まだやるのか――彼は上空を仰ぎ、タ陽を浴びた断雲の上を悠々と去ってゆくB17の編隊をみた。
破孔のなかでは、人間が燃えていた。原形を止めているものは少なかった。人間は物体として、高熱の炉のなかで熔《と》かされていた。ふと、橋本は真珠湾攻撃のことを想起した。おれたちはあのとき、魚雷や爆弾で、アメリカの軍艦や建物を破壊した。戦勝と武勲のかげに、どれだけ多くの人間が、“もの”として、消散して行ったかを考えなかった。――今までおれが考えていたのは、戦争の表側にすぎない。いまおれが見ている“もの”こそ戦争の本質なのだ。これからが本当の戦争なのだ――橋本は激しい戦慄と共にのどの渇きを覚えた。内臓を抉《えぐ》り出されて、一つ一つ並べられるような苦痛と空白感を覚えた。
爆弾の水柱が消えた向こうに、駆逐艦が波を蹴立てている姿が見えた。いま、海中にとびこめば、あの駆逐艦に救助される……彼は飛竜から離脱したがっている自分を感じていたが、疲労と恐怖で体が萎《な》えたようになって、とびこむ元気もなかった。
彼は不安を打ち消すために、防火にとりかかることとし、附近を去勢されたようにふらふらしている兵隊を十人ばかり集めた。飛行甲板の板の隙間をチョロチョロと蛇の舌のように火が這っていた。ドラバケツ(長い引索《ひきづな》のついた帆布製のバケツ)で舷外から海水を汲み上げ、それを破孔に投げたり、雑布《そうふ》にひたして、甲板のチョロ火を叩かせたりした。その途中、彼はプスッと音がして、左股に何か金属が喰いこむのを感じた。まず熱く、ついで痛みが来た。血の流れる感じがあったが、負傷という感じはなかった。
太陽は西の水平線に沈んで行った。長い、実に長い、二、三十年分の長さを持った一日が終わった。しかし、戦争はまだ終わっていなかった。日没をすぎても、B17の爆撃は続き、午後四時をまわっても、誘爆は続いた。
母艦はまだ走っていた。ついに足元の甲板が焼けて来たので、橋本は艦橋の見張所に避難した。艦橋からは、信号兵がメガホンで、
「総員、早く火を消せ。火さえ消したら、二十八ノットで内地まで帰れるぞ」
と怒号を続けていた。火勢を見ていると、本当とは思えなかった。機関科の梶島は、この段階で重油タンクの残量を調べ、火さえ消えれば、かなりの速力で内地まで帰る自信があることを、艦橋に報告していた。しかし、兵たちは、火を消すというよりも、火勢に追われるという形で、のろのろと作業を続けた。
陽が完全に没して夜になると、敵の攻撃は止んだ。誘爆もようやく止み、火災は下火となった。格納庫のなかは熱湯が渦流《かりゆう》を作り、機関科の入り口附近は、腰までつかる水の深さとなっていた。その熱湯のなかを四肢や首のない屍体が流木のように浮いていた。赤黒く焼けただれた屍体は、さらに熱湯に煮られて、白っぽく変色し、蛹《さなぎ》の肌のようにぶよぶよになり始めていた。ガソリンや硝薬の臭いにまじって、肉の煮える異臭が、生存者の鼻をつき始めていた。
橋本は息のつまる思いでそれを見ていた。多くの人間が死んでゆき、自分が生きていることが、僥倖《ぎようこう》の上に成り立っていることが理解された。彼のそばで、泣く声が聞こえた。新しく少尉になって乗艦したばかりの古田という若い航海士であった。
「どうしたんだ! 泣くな!」
橋本は不機嫌になって、冷たく言った。
「御真影が……。行けないんです……」
古田は、副長から艦首に安置してある御真影を持って来いといわれたが、熱湯と火に妨げられて行けないので、その旨を報告すると、何を気の弱いことを言っているか、と叱られたので、進退に窮し、泣き出したのであった。
「そうか、まあ、よし、大丈夫だ。心配するな」
橋本は、そう言って慰めながら、肩を叩いてやった。古田はしゃくり上げながら泣き続けていた。
間もなく、下弦の月が上がって来た。
飛竜は左に二十度ばかり傾斜したまま、西に向かって走っていた。艦橋からは士気を高めるため、「二十八ノットで日本へ帰れるから火を消せ」と信号兵が、メガホンで連呼し続けていた。月は陰惨な屍体の群を蒼白く照らしていた。
山口と加来は、防火の直接指揮をとるため、飛行甲板におりて来た。前部と後部の連絡をつけて、防火のホースを通すため、下部甲板の防水扉をひらかせたところ、火は通路に燃え拡がり、通信室から艦橋に延焼した。山口、加来、鹿江らの幹部は、後甲板に移動した。
この頃、長良にあった南雲長官は、次の命令を発した。
一八三〇《ヒトハチサンマル》(午後六時半)我、飛竜ヲ掩護シ、北西方ニ避退中、速力十八ノット。
しかし、この頃には、飛竜のスクリューは事実上回転を止めていた。
梶島たちの努力にもかかわらず、罐室に火が入って、蒸気が来なくなったので、タービンが回らなくなったのである。
機械室と艦橋との連絡も途絶《とだ》えていた。
間もなく、電灯が消えた。
「発電機室に火が入ったな」
梶島は強《し》いてつぶやくように言った。
発電機室員が退去したのかも知れなかった。しかし、艦橋の命令がないうちに持場を離れるわけにはゆかなかった。伝声管で何度艦橋を呼んでも返事はなかった。かすかな唸り声と震動が伝わって来るだけであった。それが艦橋の燃える音であった。
停止した飛竜に駆逐艦風雲が近よって来た。火はまだ盛んであった。駆逐艦のホースでは水が届かないので、飛竜の長いホースが欲しかった。鹿江副長は、ホースを探す決死隊をつのった。後甲板には、探し集めて来た数箱のハービス(乾パン)と、オスタップ(洗濯桶)に数杯の清水があった。いまとなっては貴重な糧食であった。被弾してから、ほとんどの乗員が何ものどに通していなかった。
鹿江は、決死隊に出る者には、五個のハービスと、コップに一杯の水を与えることにした。十名ばかりの兵が、水を呑み、ハービスをかじりながら、ホースを探しに下甲板にもどって行った。鹿江は防火の指揮を続け、加来は駆逐艦との連絡にあたった。何もしないで、横合いから出て来て、ハービスをボリボリ食う男がいた。山口がそれに気づき、
「おい、このビスケットと水は決死隊用の最後のものだ。お前もホースを探して来い。何もしないで食おうと思うな」
と冷静な声でさとした。その兵は、しょんぼりして、食いかけのハービスを箱の上におくと、姿を消した。山口は、ハービスと水の前に立って番をし始めた。航空戦の鬼とうたわれた二航戦司令官も、いまはビスケットの番が役目であった。
オスタップの中で、月光を映じながら揺れている澄明《ちようめい》な水を見ている内に、山口は渇きを覚え始めた。のどの奥がからからになって、つばも出て来なかった。先刻注意を与えた手前、彼一人勝手に呑むわけにもゆかなかった。――おれも決死隊を志願して、ホースを探しに行こうか――と考えたが、それも不自然のようであった。彼は、ぼんやり、そのオスタップの水に映った自分の顔を眺めた。煤《すす》で汚れていたが、憔悴しているようにも見えなかった。月光がちらちらと鼻のあたりを洗っていた。――司令官も不自由なものだ――そう考えていると、間もなく、ホースを探した五名ばかりの決死隊が勢いよく帰って来た。彼らは当然のようにハービスの新しい箱をあけ、オスタップにコップをつっこんで、水のしぶきをとばした。鹿江も戻って水を呑み始めた。山口に気のついた彼は、「あ、司令官……」と自分のコップをさし出した。
「呑んでもいいかね」
自分だけに聞こえるような低い声で言いながら、山口がコップを受けとろうとしたとき決死隊の兵に便乗して、附近にいた兵たちが、ハービスをかじり始めた。
「こら、決死隊以外の者は、食っちゃいかん!」
山口は自分の手をひっこめて、怖い顔をしてみせた。
「いや、少しずつやりましょう。今、決死隊が糧食庫をあけて、罐詰とビールを持って来るそうですから……」
鹿江がそう言って、山口にハービスを差し出したが、
「いや、ぼくはいいんだ」
山口は手をふって、受けとらなかった。鹿江はけげんそうな顔をしたが、――ああ、そうか――というように、肚のなかでうなずいて、それ以上はすすめなかった。そこへ、七人ばかりの兵が、「わっしょい、わっしょい」とかけ声をかけて、ビールと罐詰の箱を運んで来た。加来が戻って来て、短剣の剣帯の止め金でビールの栓を抜くと、
「司令官、いかがですか、一杯……」
とすすめた。
「いや、ぼくは水の方をもらおう……」
山口は低くそう言ってから、
「おい、決死隊以外の者も少しずつ来て、腹をこしらえろ」
と、あたりに言った。
ぞろぞろ兵が出て来た。やけどしたものが多く、服が破れ、焦げて、みじめな服装をしていた。山口はそれらの兵と、オスタップの月影とを半々に見ながら、コップの水をゆっくりのどに通した。何時間ぶりであろうか、――みじめなものだな、司令官といっても、敗ければ、漂流の漁夫と変わりはない――そう考えながら、のどをゴクゴクと動かしたが、水はやはりうまかった。旱天《かんてん》の砂地が雨を吸うように、キューッと全身に吸いとられて行った。
そのような光景を眺めているうちに、橋本は、無性に眠くなって来た。大きくめくれた鉄板の陰に入って、横になった。彼の眼のふちには、タールに似た黒い粘液がコパコパにこびりついて、どうこすってみてもとれなかった。それが眼に沁みて、開けても閉じても痛みを訴えるのだった。
朝の攻撃で負傷し、右足首を切り落とされた艦攻分隊長の角野博治大尉は、前部の士官室から、最後部の居住区に移されていた。二人の軍医官は、上部がだんだん焼けて来るにつれて、落ちつかなくなった。
「おい、ここまで焼けて来たら、どうする?」
「そうだな、舷窓《げんそう》から海へとびこもうか」
二人の会話を聞くと、角野はむくりと半身を起こして言った。
「おい、おれをどうしてくれるんだ?」
角野はひどくのどがかわいたので、衛生兵に水を頼んだ。衛生兵の一人が、酒保《しゆほ》からビールを見つけて一箱かついで来た。角野は、壁に口金をぶっつけて割り、がぶがぶ呑んだ。瓶の割れ目で唇を切った。かなり熱しており、泡がひどく出たが、のどにはうまかった。やがて、彼は眠り始めた。突然、彼はとび起きて、右足のほうたいを解き始めた。軍医官はびっくりして、彼のそばに駆けよった。彼は気がついて解くのをやめた。彼は夢のなかで、素晴らしい贈り物をもらったので、その包みをあけにかかったのであった。熱されたビールは、重傷者の脳にそのような影響を与えたのである。
三十二
ミッドウェー島砲撃の命令を受けていた伊号百六十八潜水艦の田辺弥八艦長は、午後十時半、浮上して、ミッドウェーに近づき、サンド島に六発の十サンチ砲弾をぶちこみ、病室で左肩の治療をしていた、映画監督ジョン・フォードの夢を破った。いよいよJAPが上陸して来る、という流言が島を蔽った。このため、海岸に近づいた不時着搭乗員の一部が、味方の機銃によって負傷した。ジョン・フォードは、敵が来たら、最後まで戦うつもりで、拳銃の安全装置をはずし、枕元においた。
「総員集合!」の声に、橋本は眼をさました。母艦に別れを告げて、総員退艦の時期が近づいていた。機関は停止していた。ボイラーに火が回ったのであった。
「機関長は戦死したらしいです。連絡は不能になりました」
機関参謀は、山口多聞司令官にそう報告した。先刻から、三回にわたって、決死隊を出して、機関科に総員退去を連絡させたのであるが、熱湯と、ハッチが熔けてひらかないため、連絡は不能であった。通気孔から火焔や有毒ガスが入るので、被害は大きいと思われた。
「仕方がない。私と一緒に行ってもらうんだな、相宗《あいそう》君も、そのほかの人たちも……」
山口は、低い声でそう呟いた。
「各科長、艦橋の下に集まれ!」
伝令がそう叫んで歩いた。
飛行長、整備長、砲術長、航海長、主計長、軍医長などが艦橋の下の焼け残った鉄板の上に集まって来た。物かげにいた兵が、ぞろぞろ出て来て、五百名ばかりが、艦橋の附近に整列した。負傷した角野も担架で運ばれて来た。
山口と艦長、加来《かく》止男大佐は、少しはなれたところで、先刻から問答を繰り返していた。
「司令官、あなたはお帰り下さい。そして再建をやって下さい。あなたは大切な人です。本艦の責任は、私一人残れば十分です」
加来は、かなり強い口調でそう言った。
「いや、私はいいよ、私はもうこのへんでいい。蒼竜もやられたし、飛竜がだめになったら、二航戦の司令官も用事がなくなった。私が帰ったところで、やれることは知れている。私は残るから君は帰りたまえ」
「いや、艦長が艦を沈めて、逃げ帰るというわけにはいきません」
加来は唇を噛んだまま、司令官の顔をみつめた。残るのが是《ぜ》か、帰って再度のご奉公を期するのが、本当の軍人の道であるのか、彼にも迷いはあった。しかし、艦長が艦と運命を共にするのは、英国海軍以来の伝統であった。マレー沖海戦で、イギリスの戦艦、プリンス・オブ・ウェールズ号が撃沈されたとき、司令官と艦長が、「ノー・サンキュー」と部下のすすめをことわり、艦と運命を共にした話を彼は聞いている。彼の長い海軍生活で、艦を放棄した艦長が、どのような余生を送ったかを彼は知っていた。無惨な死に方をした多くの部下のことを思うと、謝罪の意味でも、運命を共にしたい気持が強く働いていた。――ここで死のう。それが、おれの人生にとって、最良の死に方なのだ――彼は自分にそう言って聞かせた。
山口は平静であった。若い時結婚した妻と死に別れ、再婚して間がなかった。しかし、三十年の海軍生活の間に、愛情も執着も軍人として、別のところで思考するように、自分を鍛え続け、その思考法は、今、この艦上で死ぬことによって、完璧な結論を得るはずであった。月光に照らされている屍体や、まだいぶっている白煙などによって、彼はすでに半身を死の世界にひたしつつあった。十分に戦ったという満足に似たあきらめがあり、それを自分の死によって、完全なものにしたかった。
さまざまな意味において、彼はティピカルな海軍軍人であり、日本の武人であった。彼が死んでゆくことが不幸であるとするならば、それはその発生の根本において、萌《きざ》しているものに違いなかった。
そのころ、後方の大和の艦橋にも月光がさしこんでいた。山本は海面を見おろしていた。月光なのか、夜光虫なのか、波頭に砕け散る青白い光があった。大和は速力を落としていた。――参謀たちの頭も冷えて来たようだ――と彼は考えた。午後四時半、蒼竜の沈没と同じ時刻に、彼は、夜戦による攻撃命令を発していたが、それは必ずしも、彼の本意ではなかった。まず、夜戦によって決戦を行おうと東進している南雲部隊や、若手の参謀を抑えることの困難を、彼は知っていた。次に、戦局を収拾する方法を彼は摸索していた。被害の状況と共に、敵の残存兵力と、その動きを知るべきであった。
しかし、巡洋艦長良にいる南雲の司令部は、飛竜の被害甚大なのを知って、夜襲をあきらめる気運が濃厚となって来た。飛行機では一時間の距離でも、軍艦では数時間はかかる。スプルアンスの空母二隻は、東へ避退しつつあった。空母と駆逐艦はほぼ同じ速力である。夜明けまでに魚雷戦を敢行出来なければ、六日午前には、また空襲によって、数隻が炎上する計算である。
撤退するにしても、山本は逃げながら戦局を収拾することはしたくなかった。前を向いて、進撃しつつ、実情を確かめ、その上で、と考えていた。
作戦室に入っていた、宇垣参謀長が紙片を手にして、艦橋に姿を現わした。
「やっと意見がまとまりました」
彼は起案した長官命令の電文を差し出した。山本は懐中電灯のあかりでそれを読み、うんうんというふうにうなずいた。
午後十一時五十分、次の命令が大和から全軍に打電された。
一、「ミッドウェー」攻略ヲ中止ス
一、主隊ハ、攻略部隊、第一機動部隊ヲ集結シ、六月七日、午前、北緯三三度、東経一七〇度ニ至リ、補給ス(後略)
補給地点は、攻撃命令を出した地点よりも百マイルほど西に当たる。大和は大きく変針し、連合艦隊は、反転して日本へ針路をとることとなった。
三百マイル東方にあった長良の艦上で、この電文を見た南雲は、艦橋をおりると、司令官公室に入った。草鹿が足をひきずりながらあとを追った。長官の肩が落ちているのを彼は認めていた。長官の短剣には、真剣が仕込まれているのを、彼は知っていた。公室に入ると、草鹿は、南雲に言った。
「長官! もう一度やりましょう。GF長官にお願いして、仇討ちをやらせてもらいましょう。それまで、軽挙は御無用に願いますぞ」
「うむ……」
と南雲はうなずいた。灯火は暗く、うつむいているので、表情はよくわからなかった。
「長官!」
草鹿は、南雲の肩をつかんでゆすぶった。
「わかったよ、一人にしてくれんか……」
南雲が呻くように言った。
草鹿は、うなずくと、南雲からはなれ、扉をあけた。
飛竜の艦上では、一つの和解が進行しつつあった。押し問答の末、山口と加来は、二人とも、艦に残ることになった。沈黙がそれを相互に了解させあった。
話が決まると、加来は、かたわらにいた橋本に拳銃を貸してくれるように頼んだ。パイロットは出撃の前に、いざというときの自決用の拳銃を首にかけて行くので、橋本はまだそれをかけている。橋本は副長の顔を見た。鹿江は怖い顔で顎を横に振ってみせた。橋本がためらっていると、
「なあ、いいだろう……」
なだめるように言って、加来は、橋本の首から拳銃をはずした。
山口と加来は、参謀や、各科長と別盃をかわすことになった。ビールはもうないので、山口が先刻番をしていた、ハービスと水で別盃を行うことになった。若い甲板士官がニュームのコップや帽子に水を注《つ》いで回った。橋本も、自分の防毒面の隅にそれを受けた。山口と加来も、コップに受けて呑んだ。橋本はハービスを食った。うまかった。
「艦長!」
突然、艦長附だった若い甲板士官が泣き出した。誰も止めなかった。彼はしゃがむと、水の入った帽子を顔に当てて、おいおい泣き出した。涙のまじった水が、頬を伝った。加来は何も言わなかった。
別盃が終わると、山口と加来は士官一同と握手をかわした。二人は握手をかわしながら、橋本の前に来た。
「おう、橋本君か、朝から御苦労だったな。その甲斐もなく、母艦をこんなことにして、まったく申し訳がない、許してくれたまえ」
山口が橋本の手を握った。太い指に毛のもじゃもじゃ生えた堅い掌であった。“航空戦の鬼”の指であった。橋本は声が出なかった。
加来が回って来た。
「橋本君、いろいろ有難う、よくやってくれた」
加来は、力強く橋本の掌を握った。橋本は一カ月半ばかり前、試験飛行に出て着艦に遅れ、艦長になぐられたことがあった。懐しい掌の感触であった。
「艦長……」
と言ったが、あとは声が出なかった。これから艦と一緒に沈んでゆこうという人に、何か言おうと思うのだが、言葉が見当たらなかった。加来は、月光を背中に浴びていた。頬が青白く冴え、表情はよくわからなかったが、硬い顔には見えなかった。
「司令官!」
別の方角から、若い声が呼びとめた。司令官附の従兵、森本一水であった。
「おう、森本か、随分世話になったな。元気でやってくれ」
山口は、ふりむいてそう言うと、火の消えた前甲板の方に歩き始めた。
「司令官!」
森本がもう一声叫んだ。山口は、もうふりむかなかった。
いつの間にか、六月六日に入っていた。
飛竜の「総員退去」が下令されたのは、六日の午前零時十五分であった。五百余名の乗員は、鹿江の指揮で、分隊番号順に整列し、後甲板から駆逐艦のランチに移り始めた。
山口と加来は、二人並んで前甲板を散歩していた。焼けた甲板に、月影が落ちた。艦首までゆくと、回れ右をして、艦橋の方に向かった。橋本の方からは、黒いシルエットに見えた。そのシルエットがだんだん小さくなり、ランチが駆逐艦に着くころ、シルエットは艦橋に消えた。
人力操舵によって、ハワイの方に航行し、その副産物として、蒼竜の藤田大尉を救出する役目を果たした赤城も、午前十一時すぎには火焔が通風孔から罐室に入り、ボイラーが活動をやめ、エンジンもストップとなり、漂流の状態となっていた。
山本は榛名によって赤城を曳航する意志を持っていた。このため、艦長が必要であり、艦長の青木泰次郎大佐は一旦、艦首の錨甲板の柱に自分の体をしばりつけたが、考え直して、部下のすすめをいれ、駆逐艦嵐に移って様子を見ていた。
山本が作戦中止後間もなく、赤城の曳航不可能と判断し、赤城の処分を第四駆逐隊に命令したのは、六日午前一時五十分であった。先に、漂流していた戦闘機の藤田怡与蔵をひろいあげた、嵐の水雷長、谷川が魚雷を発射することになった。
このとき、嵐の艦橋には、赤城艦長の青木大佐がいた。「赤城ヲ処分セヨ」という命令が大和から届いたとき、青木は嵐艦長の渡辺中佐に言った。
「おい、もう一度赤城に移してくれい。今度は本当に、艦と運命を共にするんだ!」
「………」
渡辺艦長は、青木大佐の顔をじっとみつめたきり、何も答えず、水雷指揮所の谷川に、
「雷撃始め、目標赤城!」
を令した。
「右魚雷戦、右三十度、赤城……」
谷川は号令をかけながら、奇妙なものが、胸元にこみあげて来るのを押えかねていた。彼が実用の魚雷で艦を沈めるのは、生まれてはじめてであり、その目標が赤城であった。
艦橋では、青木が、渡辺の肩をつかんでいた。
「渡辺君! 武士の情だ。行かしてくれんか」
「………」
しかし、渡辺は答えなかった。――私が艦長です――とその顔は言っていた。青木を赤城に戻すことを無意味である、と彼は判断したのである。
「発射始め!」
一本の魚雷が発射管から射ち出された。しばらく艦橋は沈黙した。
バガーン!!
激しい震動が海面を伝わって、嵐の舷側を打った。
「おれの赤城だ。おい、貴様」
渡辺につかみかかる青木を、副長たちが取り押え、艦長休憩室に連れこんだ。(この頃帝国海軍では、艦長は必ず艦と運命を共にするということになっていたので、青木大佐は内地帰還後、同年十月予備役に編入、即日応召、陸上勤務を命ぜられた)
嵐に続いて、野分《のわけ》、舞風、萩風も発射した。赤城は魚雷四本を受け、四百人の機関科員を艦底に抱いたまま、午前二時すぎ、海底への道を辿った。
飛竜への雷撃は、午前二時十分、赤城が沈み始めたころである。第十駆逐隊の巻雲が担当した。二本発射したうち、一本が命中し、母艦は、艦首から水につかり始めた。しかし、駆逐艦が現場をはなれた後も、飛竜はまだ浮いていた。
魚雷の命中音が艦体をゆるがしたとき、機械室にいた梶島は、相宗に言った。
「機関長! こりゃ、以前のような爆弾とは違いますよ。魚雷だとすると、沈んでしまいますよ」
「うむ、上へ出てみよう」
相宗は、冷静をとり戻し、落ち着いた声で言った。
梶島は松岡兵曹に命じて、斧、ハンマー、ドライバーを用意させ、上部通路のハッチを破壊させた。ハンマーではききめがなく、太い鉄棒で下からつき上げた。鉄扉があくと、熱湯が流れこみ、松岡はじめ数名が火傷を負った。暗い艦内をさまよい、飛行甲板に出た梶島は、火山の爆発のような廃墟のなかに、死火山のような静寂を発見した。
「総員退艦だ。おれたちをおいてけぼりにしてな……」
若い下士官が、ハンマーで鉄板を叩いた。空虚な音が口をあいた格納庫の内部にこだました。艦は前部から沈みつつあった。梶島たちは、もち上がった艦尾の短艇甲板からカッターを二隻おろした。一隻は水面を叩いて壊れた。二十メートル以上下の海面に向かって四十五人の機関科員が飛んだ。海面には月光があり、落下する途中で、梶島は、かぐや姫が月よりも高く飛んだという話を、ちらと思い浮かべた。
カッターにたどりついた機関科員は、相宗以下、しばらくは重油を吐くのに忙しかった。
三十三
飛竜が海面下に没したのは、六日午前六時と推定される。被災後十六時間である。
そのころ、米機動部隊の動向を探るため、東方海面を索敵中の巡洋艦筑摩の水偵が、漂流中の米空母を発見して、GF長官に報告した。
「敵ヨークタウン型一隻大破、左ニ傾キツツ漂流シツツアリ、地点トスヲ一八」
トスヲ十八は、ミッドウェー島の北北東百五十マイル(二百八十キロ)である。
山本五十六は、先遣部隊である第六艦隊の司令長官小松輝久中将あてに、午前六時四十五分、次の命令を打電した。
「伊号百六十八潜ヲシテ地点トスヲ一八ニ漂流中ノ敵空母ヲ撃沈セシムベシ」
ミッドウェー砲撃後、周辺を警戒していた伊号百六十八潜の田辺弥八艦長にこの電報が届くのはかなり遅れた。
六日日没後、四時半、浮上した伊号百六十八潜は、左の通り、返電を打った。
「本日終始敵哨戒艇ノ制圧ヲ受ケシ為、受信遅レタリ、直《ただ》チニ指定地点ニ向ウ、七日〇一〇〇(午前一時)着ノ予定」
ミッドウェー周辺の警戒は、上陸を予想して、まだ厳重をきわめていた。
海の百五十マイルは、飛行機では一時間の距離であるが、十ノットで海面航走をする潜水艦には十時間の行程である。
六月七日、午前一時すぎ、指定地点に到達した田辺艦長は、
「潜望鏡上げ!」
を令した。
恐る恐るという感じがあった。航海長の航法が正確すぎて、ヨークタウンの真横に出たらどうしようか、という懸念があった。しかし、それは杞憂であり、周辺に急には敵影は認められなかった。空はようやく白みはじめていた。東方に朝やけを背景にして、黒点が一つ視野に入った。ピントを合わせると、これが、目ざす空母であることがわかった。なれると、近くの駆逐艦も眼に入った。――こりゃあ、大ごとだぞ――咄嗟に田辺が考えたのは、これであった。輸送船と違って、空母は護衛がきびしい。少なくとも五隻、多ければ十隻は駆逐艦がいるであろう。傷ついた空母であれば、当然、猟犬のように周囲をかぎまわって、潜水艦に備えているに違いない。これはうかつには近よれない。
一旦、潜望鏡をおろした田辺は、まず、おのれに向かって、決して猪突《ちよとつ》をしないことを戒めた。このさい、慎重に行動することは、決して、卑怯な振舞いではない。急げば、敵を屠《ほふ》る前に自分が海底に沈むおそれがある。そして、それは誰にも知られることがないのである。
田辺を知る男は、誰でも、地味な男だという。目立たぬ行動をする男である。しかし、慎重すぎるほど、堅実に事を運ぶ男であり、その性格は、この場合、メリットとなって現われて来た。
最初、田辺は、夜まで待とうと思った。しかし、日没は午後三時半である。一年で一番日の長い季節に入っているのである。二回ほどの測定で、目ざす空母は、徐々に東の方に曳航されているらしいことがわかった。日没までは待てない。田辺は発射の時点を固定せず、時機を得次第、撃沈することに決した。
探信儀が海中におろされ、電波が送られた。電波は異物体に当たるとはね返って来る。受信機には、駆逐艦が発する探信音が入っていた。各方面の駆逐艦が水中探信のため発する音波が、探信員の耳には、パ、プーン、パ、プーンというように聞こえていた。
慎重な探信によって、伊号百六十八潜は、ゆっくり目標に接近した。ヨークタウン型空母は、左に六度ほど傾き、右舷には駆逐艦が横附けしていることがわかった。田辺は左舷からの攻撃を考えたが、さらに接近してみると、駆逐艦は左舷の方に数が多いことがわかった。
田辺は、空母の右舷に回ることにした。
「両舷前進微速……」
低い声である。
機械が回り始めると、すぐ、
「両舷停止!」
を下令する。
あとは、惰性で進むのである。出来得る限り、スクリューの回転を抑えて、敵の探信を避けねばならない。そのような忍耐の繰り返しの結果、午前九時三十七分、もうそろそろよかろう、というので、
「潜望鏡上げ!」
を令した田辺は、直ちに潜望鏡を下げなければならなかった。確かに、伊号百六十八潜は、空母の右舷に出ていたが、あまりにも近すぎた。ヨークタウン型は、目前にあり、舷側で作業している水兵の姿が、ありありと視認された。距離は五百メートルそこそこである。発射された魚雷は、一旦下方に沈み、やがて深度調定が働き出し、魚雷は与えられた深度で目標に向かう。所要の深度にセットするには、七百メートルは欲しかった。
田辺は、唇をかみしめながら、距離を千メートルまでひらくことにした。
ヨークタウンの艦上では、バックマスター艦長が、ややくつろいでいた。日本の飛行機が近づいたという報があったが、爆撃もなく、潜水艦の魚雷も見えない。彼はヨークタウンに残留した作業員を督促して、重量物の海中投棄を行っていた。機銃、高角砲、通信機など不要物の投棄であるが、それもどうにか終わり、この分ならば、五ノットで、ハワイまで無事曳航出来そうであった。
バックマスターは、右舷に横附けしている駆逐艦ハマンの方を見おろした。ハマンの消火作業のおかげで、ヨークタウンの火はほとんど消えたのであった。
――これで、珊瑚海同様、傷つきはしたが、無事母港に帰れる。今度こそは、乗組員にゆっくり、ワイキキでサーフィンでも楽しませてやらなくちゃなるまい。日本の空母も、四隻が爆弾をくらい、三隻が沈んだというから、当分は出て来れまい――。
バックマスターは、昼食のサンドイッチを食うため、タラップの方に近よった。時計の針は午後一時半(現地時間。日本時間は午前十時半)に近づきつつあった。
田辺が再度潜望鏡をあげたのは、七日午前十時五分であった。空母までの距離は約九百メートルである。これならば、好適である。
「発射用意!」
田辺は四基の発射管に、用意を命じた。魚雷はすでに装填ずみであった。
午前十時半、田辺は決然と、
「打て!!」
と下令した。
シューッ、シューッ、魚雷は、艦体に軽い震動を残して、伊号百六十八潜をあとにした。普通、四本の魚雷は、間隔を二度とするのであるが、目標に集中する意味で、田辺は一度間隔に設定しておいた。
時速六十ノット(秒速三十メートル)で直進した魚雷は、三十秒後に、第一撃の命中音を伊号百六十八潜の聴音器に響かせた。続いて、二発、三発、四発まで、田辺はコーン、コーンという命中の爆発音を聴いた。
「やった! 四発命中したぞ!」
田辺の声を聞いた先任将校や航海長、探信儀員たちは、万歳を叫んだ。
しかし、戦いはまだ続いていた。
ヨークタウン艦上のバックマスターは、
「ありゃ、魚雷じゃねえかね」
とハマンの作業員が指さす先を見たとき、体が沈むような気がした。右舷前方を走って来る四本の魚雷は、明らかにこちらを向いていた。ポート(面舵)と彼は口のなかで唱えた。しかし、ヨークタウンは停止していたし、舵取機械も動いてはいなかった。
魚雷はそのまま前進し、二本は横附けしていたハマンに命中し、あとの二本は、ハマンの艦底をくぐって、ヨークタウンの右舷に命中し、いずれも故障なく爆発した。ハマンは、二つに折れ、五分以内に艦体でV字形を示しながら沈没した。
左舷に傾斜していたヨークタウンは、二本の魚雷を右舷に受けたため、一時は傾斜が復原したように見えた。
「こりやあ、水平になって、曳航がしやすくなったかな」
バックマスターは、そう考えて、自分を引き立たせようとしたが、ヨークタウンの吃水《きつすい》は徐々に深くなりつつあった。
新しく近づいた駆逐艦の艦長が、盛んにバックマスターの名を呼んだ。
「いま横附けするから、早く乗り移って下さい。ヨークタウンが沈むときの渦が危険なので、長くは横附け出来ませんから」
それを聞いたバックマスターは、怒って見せた。
「ヨークタウンが沈むって!!」
彼は、拳《こぶし》をふり上げて、宙を叩く真似をしてみせた。しかし、海面が徐々にせり上がりつつあった。彼はついに二度目の「総員退去」を下令し、自分も駆逐艦に乗り移った。
田辺は、海中で喘《あえ》いでいた。爆雷攻撃が続いていた。折角、守っていたヨークタウンを、出し抜いて雷撃されたための怒りもこめて、五隻の駆逐艦は、ありったけの爆雷を周辺の海中に投下した。そのたびに、伊号百六十八潜は震動した。時に身悶えするようであり、時には咆哮するような音を発した。艦内の電気は消え、リベットのゆるんだ隔壁からは、漏水が始まっていた。
爆雷の数は六十発に及び、六十一発目は至近弾であり、このため、二次電池がこわれ、硫酸と海水の混合によって、亜硫酸ガスが発生した。
「艦長! 浮上しましょう。圧搾空気があと四十キロしかありません。遅れると、メーンタンクをブロー出来なくなります」
先任将校がそう告げた。
「よし、浮上して、砲戦でもやるか」
田辺は、十サンチ砲の砲員に待機を命じた後、浮上を命じた。午後一時四十分である。現地時間は日没であり、夕陽を浴びた海面には、すでに空母の姿はなかった。駆逐艦は三隻いたが、こちらに向かって来る気配はなかった。
田辺は煙幕を展張しつつ、西に走り、GF長官あてに緊急電報を発信した。
「ワレ、魚雷四発発射、全弾命中、エンタープライズ型空母一隻ヲ撃沈」
横から電文をのぞきこんだ先任将校は、
「艦長、ドンガメ(潜水艦の通称)乗りになってよかったですね」
と言った。
「うむ……」
田辺は微笑しようとしたが、急には笑えなかった。後方では、駆逐艦の射撃音が続いていた。
田辺の電報を受けとった連合艦隊司令長官山本五十六は、大和の艦橋で、はじめて、明るい表情を見せた。
「一隻撃沈か。これで、戦果は、空母一隻撃沈、一隻大破ということになりますな」
かたわらで、宇垣参謀長が集計をとっていた。
(しかし、実際には、飛竜の艦爆隊も艦攻隊も同じヨークタウンを攻撃したので、日本軍の本当の戦果は撃沈、空母一、駆逐艦一、であった)
山本は、伊号百六十八潜の田辺という艦長は、どのような男か、一度会ってみたいものだ、と考えていた。
(米軍側の記録によれば、ヨークタウンは、八日朝まで水面すれすれで浮いており、午前二時、大きく傾斜し、沈没したとなっている)
山本は、日本への帰途を急ぐ、大和の艦橋で、ヨークタウンの撃沈をもって、ミッドウェー海戦は終わった、と考えていた。
しかし、海戦はまだ続いていた。
それは、空母の飛行甲板上でもなく、戦艦の艦橋においてでもなく、ミッドウェー西方の単なる洋上であった。
沈みつつある飛竜を脱出した相宗機関長以下、四十五名は、一隻のカッターに乗って、南に漕いでいた。彼らはマーシャル群島を目ざしていた。
梶島の計算では、千マイルあるマーシャルまで、三週間で到達する予定であった。
艇内には、ハービスが二箱と水樽に二本の水があった。
水樽一個をビール瓶二打《ダース》に等しいとみて、配給許容量は、一日にビール瓶二本と少し、ハービスは、一箱に五十包(五百枚)入っているので、二箱で千枚、一日五十枚の配給とすれば、一人一日一枚という勘定である。
「いいか、今から二十日間でマーシャルに着く予定だ。それまでの糧食は一日ハービス一人一枚、水は一日にビール瓶二本を総員で呑むことになる。非常に苦しいが、機関長も平等にやられるから、皆も辛抱しろ」
艇尾座(艇指揮のすわるところ)にいる梶島がそういうと、艇底で横になって重油を吐いていた相宗機関中佐は、びっくりしたような顔で梶島の顔を見上げた。彼はまだ梶島に指揮権を譲った覚えはなかったのである。しかし、衰弱が激しくて、指揮がとれそうにもなかった。
「分隊長! この位置で待ってはどうですか。味方の駆逐艦が助けに来ると思いますが……」
鬚の松岡機関兵曹がそう言った。
「何をいうか!」
言下に否定したのは、相宗だった。
「来るはずがない。デッキの奴らは、おれたちを、牛馬以下に思っていやがるんだ。助けに来る位なら、艦底に閉じこめたまま魚雷を射ったりするものか。使えるだけ使っておきやがって……。あいつらは、畜生だ。加来も山口も鬼みたいな野郎だ」
相宗は、まだ山口多聞と加来止男が、飛竜と運命を共にしたことを知らなかった。
「まったく、今度のMI作戦は、楽をして、金勲をもらえると言ったのは、どこのどいつだ」
そういうと、彼はまた、ゲェと重油を吐き、
「とに角、マーシャルへやってくれい。意地でも生き抜いてやるぞ」
と梶島に言った。
最後のところだけは、梶島も同感であった。
松岡の発案で、全員の上着をスパニヤン(麻紐)でつなぎ合わせると、大きな帆を作り、爪竿に結びつけて艇の中央に立てた。風は東から、五、六メートルの軟風であるが、オールで漕ぐ労力の助けにはなりそうであった。
艇内には負傷者が多かった。
大部分の者が、重油を呑んで胃をやられており、真水を欲しがった。
松岡兵曹の肩は艦底から脱出するとき打撲傷を受け、内出血でひどく腫れていた。栗山一等機関兵は、火傷で右掌の指が四本癒着していた。梶島は折りメス(大きなナイフ)で、その指を切りはなし、海水であらって、消毒の代わりとした。三日ほどで指は動くようになった。指を切り離すとき、栗山はひどく梶島を恨んだが、あとからは感謝するようになった。
漂流は十五日間続いた。
一日一枚のハービスを、彼らはいろいろな食い方をした。もらうとすぐに食ってしまい、他人の食うのを、じっとみつめている者、太陽の傾き具合を見ながら、少しずつ二十日鼠のようにかじる者、半分を食って、半分を耳の上に挟んでおく者、辛抱強く、次の一枚が配給されるのを待って、やっと先の一枚を食う兵士もいた。
水の配給は技術的に困難であった。
ビール瓶一本を二十人以上の人間が呑むのであるが、生憎コップがなかった。ビール瓶を二十本ばかりのスパニヤンでくくって、目盛りをつけた。一人分一回の量は一センチそこそこである。
「苦しいが、二十日間これで頑張るんだ。他人の分まで呑むな。余分に呑んだものは、翌日の分をなしにするからな」
この命令は、初めは守られた。梶島は、皆が回し呑みをした一番最後の分を呑むことにした。さまざまな人間の感情を混合したしるしとして、ビール瓶は、白く濁った泡を底の方に溜めて戻って来た。それは水とは言えなかった。しばらく、ほっておいても、泡は水とはならなかった。初め、梶島はその泡を敬遠していた。しかし、三日目からは呑むようになった。
艇尾座で、仰向いてビール瓶の泡をなめながら、彼は雲を見ていた。高度三百ほどのところに、断雲があった。梶島はスコールを待っていた。しかし、断雲が降下して来る気配はなかった。彼は、自分が機関科を志望したことをあらためて悔んだ。――今度なるなら、デッキ・オフィサーになろう――そう考えたが、その機会はなく、死は確実に近づきつつあった。
五日目に騒動が起きた。相宗が夜中に、水樽の栓をあけ、竹の筒を突っこんで水を吸ったのである。発見したのは、栗山であった。
「もう機関長の言うことは聞けん」
と兵士は言い、下士官はなだめ役に回った。
梶島が困惑していたとき、松岡兵曹が、
「あ、あそこにスコールが来てる」
と言った。
スコールのある部分は、雲の下が暗く、海面に接着していた。艇員たちはオールをとりあげて、漕ぎ始めた。このときの「バッチャン、バッチャン」というオールの音を梶島は忘れることが出来ない。
八日目ごろから人が死に始めた。肩を痛めた松岡兵曹は、折りメスで自分の鬚を切り落とし、親友の兵曹に渡し、「無事に内地に帰れたら、この鬚を女房に渡してくれい。再婚は自由じゃが、子供は機関兵にはするな、というてくれい」と遺言して死んだ。
漂流十三日目、米軍の飛行艇は、このカッターを発見した。そして、漂流十五日目、水上機母艦バラードが接近した。そのカッターが、飛竜のカッターに近づいたとき、あまりの静けさに、米兵たちは驚いた。四十五人のうち、十二人が死に、残りの三十三人は、艇底に折り重なって、ただ呼吸を続けていた。六月二十日であった。ミッドウェー海戦はここに終わりを告げたといえる。
連合艦隊が柱島《はしらじま》に帰投したのは、六月十四日である。一航艦の航空参謀源田実中佐は、一足早く、水偵で内地に帰り、航空部隊の再建にかかっていた。
六月二十日、梶島たちが、バラードの艦上にひきあげられたとき、彼らは破れ汚れた褌一本で、鬚を長く生やしていた。
「分隊長、捕虜になる前に死なんでもいいんですか」
と栗山が真剣な眼色で問うた。
梶島は黙っていたが、顎が横に振られていた。(この後、彼らは米本土ウィスコンシン州の収容所に送られ、筆者はそこで彼らと会い、くわしい漂流談を聞いた)
同じ日、柱島にある大和の艦上では、草鹿竜之介が主催して、空母改良研究会が催されていた。GFの宇垣参謀長は、五日前、東京の自宅で飼っていたシェパードの死を聞いていた。彼は、その後、髪を刈り、丸坊主となってしまった。昼食の時、山本五十六は、宇垣の頭を見て、
「参謀長、頭の様子が変わったね」
と言った。
「はあ、愛犬に死なれましてね」
と宇垣は答えた。その犬が何を意味しているか、山本にはわかっていた。
同じ頃、肩の傷が癒えかけたジョン・フォードは、ミッドウェーから、ハワイに飛ぶ輸送機のなかにいた。彼はフィルムを整理し、こわれた撮影機を修理しながら考えていた。
――この四月、ホーネットが東京空襲に行くときも乗って行ったが、あのときは、B25の発艦をとったきりで、サマにならなかった。今度は、少しはましなフィルムになっているだろう。それに、おれも負傷したしな。これで、一人前の海軍将校になれたというわけか――。
〈了〉
参 考 文 献
ウォルター・ロード著 "Incredible Victory"(邦訳名『逆転』実松譲訳、(フジ出版社)および、防衛庁公刊戦史「ミッドウェー海戦」ほか、次の文献を参考にしました。
"Rendez vous at Midway" Pat Frank & Joseph D.Harrington.
"1942:The Year That Doomed The Axis" Henry H.Adams.
"History of The Sea Battles in Pacific" Chester W.Nimitz.
半藤一利「人物・太平洋戦争」
柳本柳作顕彰会編「柳本柳作伝」
寺岡謹平「山口多聞と其の生涯」
源田実「海軍航空隊始末記」
草鹿竜之介「連合艦隊の栄光と終焉」
談話をいただいた人、土井美二、橋口喬、橋本敏男、後藤仁一、藤田怡与蔵、芝山末男氏らその他多くの海戦関係者にご意見をいただきましたので、あわせて謝意を表します。
あ と が き
ミッドウェー海戦が行われたとき、私は大分県宇佐の航空隊で、飛行学生(海軍中尉)として、急降下爆撃の訓練中であった。
宮崎県の富高(現日向市)という航空基地に着任すると、ミッドウェーからの帰還兵が兵舎に軟禁状態になっていた。私はここで、瑞鶴の臨時乗組を命ぜられ、着艦訓練を行った。着艦指導官は、赤城の艦爆隊にいたショッペイこと、山田昌平大尉であった。
それから一年近くたって、私はソロモン海域の戦いで、撃墜されて、捕虜となり、アメリカ、ウィスコンシンの収容所で、相宗機関長、梶島大尉と一緒になり、飛竜の最期について、くわしい話を聞いた。印象的であった。
戦後、私は小説を書き始め、昭和二十四年夏、ミッドウェー海戦をまとめるため上京して、橋本敏男、後藤仁一、その他の生存者の先輩に会って、くわしい話を聞いた。
三百六十枚のこの小説は、昭和二十六年、作家社から刊行され、昭和三十一年には、「海なる墓標」と題して、再編の上、刊行された。
それから十六年間、私の胸中には、大きな不満がわだかまりつつあった。一つには、日本軍の指揮官、とくに中心人物である山口多聞少将の伝記が入っていないこと、次に、米軍のデータがわからないことである。
米軍のデータに関しては、ニミッツその他の記録が刊行され、ウォルター・ロード氏の労作も邦訳された。ロード氏が日本へ材料集めに来たとき、私は、インタビューをしたが、熱心な法律家であった。そして、赤城をやったのは、どのような飛行士であり、ヨークタウンが沈むとき、艦長がどのように苦悶したかを知った。
その結果、私が知ったのは、敵も決して楽に戦ったわけではないこと、人間のどのような努力も、一つの偶然によって水泡に帰し得ること、そして、その偶然を支配する神が、戦場を見おろしており、その神の意志は、人間にはわからない……言いかえれば、戦士は、抵抗が不可能なある意志のもとに動かされながら、死地に赴くこと、などであった。
勝っても負けても、戦争は大きな徒労である、と私は考えているが、その戦場のなかで神を発見する戦士もいるのではないか。戦場は、何にもまして大きな教訓を残すが、それを後代に生かすのが、同時代人の勤めである、とも考えている。
この作品の執筆にあたって、文藝春秋編集局、半藤一利氏の教示と、池田吉之助氏の激励があったことに、厚く感謝の意を表します。
昭和四十七年十二月二十日
豊 田 穣
改定新稿
オール讀物/昭和四十七年十一月・十二月号
単行本
昭和四十八年一月三十日文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
ミッドウェー戦記
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 豊田 穣
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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