9S 第1巻
葉山 透
[#表紙(img/9s-000a.jpg)]
[#表紙(img/9s-000b.jpg)]
[#帯(img/9s-001.jpg)]
[#挿絵(img/9s-003.jpg)]
[#挿絵(img/9s-004-005.jpg)]
[#挿絵(img/9s-006-007.jpg)]
[#挿絵(img/9s-008-009.jpg)]
[#挿絵(img/9s-010.jpg)]
一章 遺産の剥奪《はくだつ》者
二章 スフィアラボ、再び
三章 力の差
四章 遺産を継ぐ者
[#挿絵(img/9s-011.jpg)]
マッドサイエンティストと聞かれたら、たいていの人は口をそろえて峰島勇次郎《みねしまゆうじろう》の名をあげるだろう。
彼はあらゆる分野でその才能を発揮したが、それ以上に狂気的な言動が目立った。しかし彼はまぎれもなく天才だった。ガリレオやアインシュタインでさえも、彼の業績の前にはかすむだろう。
峰島勇次郎が行方不明になったいまも、世界各地に残された遺産と呼ばれる驚異的な発明を求める人々は、後を絶たない。モラルを無視した峰島勇次郎の狂気は、それ故にいまだ人々を魅了し続けるのである。
[#地付き](歴史を変えた天才達、最終章「天才の狂気」より抜粋)
[#改ページ]
[#見出し]  プロローグ
その部屋は、少女の牢獄だった。
窓は一つもなく、床や壁は重厚な鉄で構成され、唯一の扉は見るからに頑強な作りで開かれることを拒んでいる。冷気さえ漂いかねない部屋の隅で七、八歳ばかりの少女は、一人膝を抱えていた。
少女に己の境遇を愁える様子はない。体の接する床や壁から体温が奪われていくというのに、目はうつろなまま、ぼんやりと床を見ているだけであった。
よく見れば目鼻立ちは整い、まるで日本人形のように可憐《かれん》なだけに、よけいに痛々しい。しかしここにそのような感慨を抱く他者は存在しない。ただぽつりと幼子が、いるだけである。
どれほど時間が無為に流れたか。まるで凍りついたように静止した少女の景色を壊したのは、耳障りな機械音だ。高い天井の一角がゆっくりと開き、暗い部屋に明かりをもたらす。
少女が音に反応し上を見れば、分厚いガラスを隔てた明かりの中に五、六人の人の姿を確認できただろう。しかし少女は身じろぎ一つしない。そこだけは依然として静謐《せいひつ》の底に沈んだままである。
明かりの中にいるのは中年または初老の背広姿の男達。いずれも少女の姿に同情する様子はなく、それどころか忌々《いまいま》しそうに高みから見下ろしていた。
「生きているのかね?」
コンコンと、男の一人がガラスを叩き、少女の反応を待った。しかし期待に反し、少女の視線は床を向いたまま。変化は皆無である。今度は少し強めに窓ガラスを叩くが、それでも反応はない。
「昨日もこんな感じだったじゃないか。使い物になるのか?」
肩をすくめる男に別の一人が、話しかける。
「やはり処分するべきだろう。使い物にならないのなら、なおさら」
「いや、あの頭脳にある知識の数々は、捨てるに惜しい」
さらに別の男が、
「問題が起こってからでは遅いのだよ」
「心配性ですね。この地下1200メートルの牢獄を抜け出せるとでも?」
「しかし役に立つのか、あれで? 廃人同然ではないか」
「問題となるのは、それだけではなかろう。日本政府があの娘の存在を隠蔽《いんぺい》していると、他国に知られたら」
「隠し通せばいい。いざとなったらこの施設ごと切り捨てる」
「アメリカやヨーロッパ諸国の追求をかわせるというのか?」
「それは君達の仕事だろう。私が急な予算の捻出《ねんしゅつ》に、どれほど苦心してると思って…」
「待て!」
一人がガラスの外、部屋の隅でうずくまっていた少女を指さした。見ればずっとうずくまっていたはずの少女に変化が起きている。いつのまにかうつろな眼差しが、床からガラス窓の向こうの男達へと移っていた。
「どうやら生きてるようだな」
最初に窓ガラスを叩いた男が、息苦しそうにエリに指をいれる。
「いまの会話が聞こえたのか?」
「まさか。防音は完璧なはずだ。そうだったね、岸田《きしだ》君?」
白衣姿が板についた恰幅《かっぷく》のいい学者風の男は、気弱げに「そのはずです」と答え、ハンカチで汗をぬぐう。そしておずおずと言葉を付け足した。
「あの、相手はなにぶんまだ七歳の子供です。皆様、どうかおてやわらかに」
「何を言ってるのだね、君は?」
「子供だろうがなんだろうが、あれはあの男の娘なんだぞ」
「大丈夫なのか、こんな男がこの施設の責任者で?」
無遠慮に浴びせかけられる非難の言葉に、岸田と呼ばれた男はただ唇をかみ締める。
「おい、あれが何か喋《しゃべ》っているぞ」
見れば少女の唇が、力なく動いている。何か喋っているらしいが、完璧に近い防音処理をされた部屋からそれが聞こえてくることはない。たとえそうでなくとも、あまりにもはかなげな声は、男達に届く前に部屋の冷気に飲み込まれてしまうだろう。
「何か言ってるようだが。音声をマイクで拾えるかね?」
まもなく少女のつぶやきを、牢獄にそなえつけられたマイクが拾った。しかしそれはあまりにもか細く、言葉として意味をとらえるのは困難である。
「よく聞き取れませんな」
「単なるうわごとじゃないのかね?」
「もっと聞こえるようにできないのか?」
ボリュームを上げたスピーカーから、雑音に混じり少女の声がようやく届いた。
「もっと……聞こえるように……できない……のか?」
少女の抑揚のない言葉。最初、男達はその意味を理解できずにいた。しかしその内容が、ほど男達の一人が発した言葉と等しいことに気づくと、表情がいっせいに強張った。
「おい、完全な防音のはずだったんじゃないのか?」
「は、はい。そのはずです」
岸田博士も理解できないという顔をする。完璧な防音設備、少女のいる部屋に男達の言葉が聞こえるはずはない。男達の一人がガラスを叩いたことも、本当は無意味なことなのだ。
「おい……完全な防音の……はずだったんじゃ……ないのか?」
マイクが再び少女の声を捨い、また男達の言葉が再現されたことを証明する。
「やはりあれも峰島勇次郎の遺産の一つだ」
峰島勇次郎の遺産という単語が出た瞬間、男達の緊張感の中に恐怖が混じった。
「いったい何が起こったんだ? あんな能力があるなど報告にないぞ」
「峰島勇次郎の遺産。やはり処分すべきだったんだ」
「いまからでも遅くはない。殺してしまおう」
恐怖はまたたくまに膨れあがり、男達のあいだに蔓延《まんえん》する。峰島の遺産とは彼らにとって、未知への恐怖に他ならない。
少女はぼんやりとうろたえる男達を見ていたが、三度《みたび》唇を動かした。
「どうやって処分する?」
マイクが拾った少女の声に、男の声が見事に重なった。その言葉を発した男は、一瞬何が起こったのか解らなかった。他の男達は混乱のさ中で、気づいていない。
「おい、いま俺の言葉……」
次の言葉も、同じように重なる。そこでようやくまわりの男達も気がついた。
「いま、君の言葉とあれの言……」
さらに一人の男が言葉を発したが、しかしその言葉も途中で切れた。スピーカーから聞こえる少女の声と同じであることに気づいたからだ。言葉の途切れた箇所も、寸分違わない。
もう誰も喋る者はいなかった。恐怖をたたえ、少女の姿を見る。表情のないうつろな視線だけが返ってきた。
「不用意ですね。彼女の前であのような会話をするなんて」
恐怖が頂点に達しようというとき、張りのある声が背後から聞こえてきた。男達が振り返ると、三十半ばの口ひげを蓄えた落ち着きのある風貌《ふうぼう》の男がそこに立っている。
「伊達《だて》君か。不用意とはどういうことだ?」
伊達と呼ばれた男に一人が話しかけるが、あわてて口を押さえた。しかし、スピーカーから少女の声は聞こえず、ほっと胸をなで下ろす。伊達は、計ったような正確な歩調で男達に近づいた。
「伊達君、やはりあれは峰島の遺産だ。どうやってか知らないが、我々の言葉を読む」
「読心術か?」
「いや、そんな研究があった報告は受けていない」
「あのマッドサイエンティストの研究が、全部明らかになっている訳じゃないだろう」
再び男達は無秩序に騒ぎ始めた。
「別に人間ばなれしたものじゃありませんよ。ただ唇の動きを読んだだけでしょう」
伊達の一言が、それを静める。
「唇の動きを読む?」
「そうです。私の部下にも同等の技術を持った者は何人もいます。もちろん先ほどアレがしたことと同じ振る舞いもできます」
少女を顎でさす伊達に、一人が反論する。
「しかしさっきは私と同時に喋った答。これはどう説明する?」
「唇を読むのに慣れたんでしょう。よく聞けば、微妙に遅れていたとは思いませんか? 私にはそう聞こえましたが。どうです?」
「うむ、言われてみれば」
「その通りでしたな」
「解ればなんて事はない」
伊達の提示した常識に、その場の誰もが飛びついた。
「必要以上に警戒しても、思うつぼですよ。相手はたかが小娘。我々をからかって遊んでるんです」
そう言って伊達はさりげなくマイクのスイッチを切った。その様子を生気のない目で、少女が見つめている。
「そういえば君の部隊の調子はどうだね? そろそろ本格的に活動してもいい頃合いだろう」
「これから峰島勇次郎のオーバーテクノロジーを狙った凶悪犯罪は、ますます増えるでしょうね。対遺産犯罪部隊、レガシーカウンター部隊の発足は半年遅れたと思ってます」
誰もがほっとするなか、岸田博士だけが険しい表情を崩さなかった。彼だけが伊達の言葉の偽りに気づいていた。
伊達と岸田博士だけは、重なった少女の言葉が微妙に早いことを見抜いていた。しかしそれを単純に峰島の遺産の能力、読心術ではないかという推論はしない。人間外の超常的能力ではない。しかし考えようによっては、もっとやっかいな能力だと考えていた。
――こいつらは何も解っちゃいない。
伊達は表情ひとつ崩さず、内心で男達をあざけわらう。しかしガラス越しに見える少女に目をやると、それもかすかに強張った。
――あれのもっとも恐れなければならない能力は、峰島勇次郎から受け継がれた知識ではない。それを受け止められる知性と、卓越した観察力なのだ。
それが導き出す能力はついさっき目の前で見せつけられた。相手の言動をつぶさに観察し、性格や思考傾向をあばき、発する言葉すらも完璧に予想してしまう。男達は何度もここに足を運んでいる。おそらくそのとき軽率な言動をいくつもしたに違いない。
特定の状況下の単純な行動パターンなら、予想も導きやすい。最初に唇を読み言葉を重ね、男達を混乱に導き、言動を限定させる。限定された言動からなら、次の言葉を読むことは、少女にとってたやすいことなのだろう。
――読心術? とんでもない。もっと事態は深刻なんだ。あんたらはあれに操られたんだよ。
伊達と男達は、少女に背を向けると部屋から出ていった。岸田博士も心配げに少女を見た後、部屋を去る。
分厚い金属の扉が閉じる。部屋は静寂にうつろい、少女も当然のごとくその中にとけ込んでいった。
物語の幕が開くのは、まだ十年の年月を必要とする。
[#改ページ]
[#見出し]  一章 遺産の剥奪《はくだつ》者
「注意してください。エネルギー消費量が規定値を超えています。注意してください。エネルギー消費量が規定値を超えています」
女性的な電子音声に再び注意されて、坂上闘真《さかがみとうま》はめげた。水中モニターを見れば、マニピュレータから運搬している機材がいまにも落ちそうになっている。
――へたにいじらないほうがいいな。
賢明な判断をすると闘真は、マニピュレータの操縦桿《そうじゅうかん》からそっと手を離した。途中、機材ががくんとさらに傾いたが、なんとか難はしのげたようだ。
モニターの隅には赤い文字で、推奨されるマニピュレータのエネルギー消費量と、いま闘真が無駄に使ってしまったエネルギー消費量が点減していた。ダブルスコアに近い値をさしている。しかもまだ作業は半分も終わっていない。さらにめげた。今日中に終わらせなければならない作業なのだが、やりとげられない自信ならある。
ため息をつき、気分転換に窓の外を見た。外といっても野外ではなく、直径525メートルのほぼ球形をした大規模な研究施設内の光景である。
研究施設の名はスフィアラボ。完全閉鎖型での自然環境の循環を再現した研究所である。この実験が成功すれば、外部からの補給はいっさいなしに施設内の資源のみで、人が生きていける。宇宙時代を先駆けた未来の希望とまで言われ、はやしたてられた。極端な話、循環環境が整ったら、太陽光が充分に届く範囲という限定つきで、宇宙のどこに放り出しても大丈夫なのだ。
以前、ロシアやアメリカでも同等の実験が行われたが、それらは失敗に終わっている。
先の実験とは異なり、自然の力に最新鋭のバイオテクノロジーとコンピュータ管理が行き届いたスフィアラボは、実験開始から半年、順調に事が運んでいた。
ほとんどの職員と一部の家族が、闘真と同様この研究所で暮らしている。小さな町といってもいい。実験の性質上、外との交流も最小限である。といっても、まわりは見渡す限り海なのだが。
発表当時はマスコミも世間も注目し、大きく騒がれた。しかしいまでは一部の科学雑誌を除けば、取材に来るマスコミはほとんどいない。
闘真がここで働くようになったのは十日前。春休みを利用した衣食住完備の割のいいバイトのつもりだったが、まだまだ不慣れなことが多く、笑いたくなるくらいミスが多い。
特に発表当時もう一つ話題になったスーパーコンピュータLAFIによる、徹底した管理体制はどうにもしっくりこなかった。
十七歳の青春をこんなところで浪費していいのだろうかと、自問自答する。モニターに映る失態から逃避するすべを見つけた闘真は、しばしその疑問を頭の中で転がした。
そこに太い笑い声とともに、豪快な男が現れた。
「はっはー。また。何回やっても上達しないな、おまえは」
「あんまり笑わないでくださいよ、横田《よこた》さん」
横田は笑い声こそ消したものの、ニヤニヤと口に浮かべた笑みはそのままで、闘真に近づいてくる。三十歳前後の鍛《きた》えられた体と、しまりのない表情、そして無精ひげが印象的だ。これでも一セクターをまかなう技術主任だ。
どこか野獣じみている。知り合って一年以上経過するが、第一印象は変わらないどころか、より堅牢《けんろう》になるばかりだ。高校生のバイトにマニピュレータの操作などという高度な作業を、やればできるの一言でまかせてしまうアバウトさも含めて。
「今日何回目だ、三回か?」
闘真は無言で指を四本立てた。
笑っていた横田も渋い顔をして、顎をなでる。
「ああ、そりやいただけねえな。センスないにしても、限度ってものがあるだろう」
「難しすぎですよ! 同時に七軸も操るなんて、僕にはできません。そもそも荷が崩れたのに、先にエネルギー消費量が警告されるなんておかしくないですか?」
「まあ、そういうな。このスフィアラボは一日のエネルギー消費量が決まってる。お天道様と海流のエネルギーだけで、この馬鹿でかい建物をまかなってるんだ。小さな地球、限られた資源は大事に使おう」
最後の言葉をキャッチフレーズのように歌った。このスフィアラボで働く人々は、なにかにつけてそれを口ずさむ。確かにスフィアラボ内の循環環境施設は、地球環境のミニチュア版だ。
「そうだな、おまえがいま消費したエネルギー量を地球規模に考えて換算するとだな、ああ、うーん、ざっと東京が一日に消費する電力の三倍に匹敵するな」
「そんなに?」
「スフィアラボにいると、資源の大切さを実感するだろう。まあ実用化なんて夢のまた夢かもな」
思い出したように横田は時計を見る。
「そろそろミツバチの時間だ。引き上げるぞ。飯もまだだろ?」
闘真は一度大きくのびをすると、横田に続いて部屋の外に出た。
そこには巨大な密林が広がっていた。とても建物の中の景色には見えない。直径525メートルのスフィアラボの実に六分の一を占めている密林である。7000万立方メートル以上の空間の酸素供給をまかなうには、これだけの植物が必要なのだ。それでも不十分らしく、より多くの酸素を生みだすよう、ここにある植物類はどれも遺伝子改良されている。
密林を割るように舖装された、なんともミスマッチな道を急ぎ足で二人は進んでいく。
「おっと、時間だな。走るぞ」
腕時計を見て、二人は走り出した。
天井から黒い塊が降りてきたかと思うと、水にたらしたインクのように広がっていく。ここからだとよく見えないが、一つ一つがミツバチと呼ばれる指先程度の小型ロボットである。
スフィアラボの酸素の大部分をまかなうため、ジャングルのように草木が密集しているプラントセクター。その植物の管理育成をまかされているのがミツバチである。役割の一部がミツバチに似ていることからそう呼ばれているが、四枚の羽で宙を飛び交う姿も似ていなくはない。
「なんかぞっとしない光景ですね」
闘真のつぶやきに、横を走る横田は豪快に笑った。
「肝っ玉がちいせえな。安心しろ。ありゃ無害だ。草木の病気調べたり、ミツバチのように花粉を運んだり、蜜をあつめたり。物騒どころか、あれがなきゃ人様の手でその膨大な作業やんなくちゃなんねえ。ぞっとしないなんて、ばちがあたるぜ」
「でもミツバチの時間、人追いだされますよ」
「そりゃ危険なんじゃなくて、人が無意味にうろうろされたら、その回避行動で余計なエネルギー喰うからだよ。ほら、俺達も邪魔にならねえように、さっさと出て行くぞ」
道を曲がると扉が見えた。飛び込むようにかけこむ。
「横田|健一《けんいち》さん、坂上闘真さん、運動によるエネルギー消費量が規定値を超えています」
扉を閉めたとたん、女性的な電子音が警告する。闘真と横田は顔を見合わせて、苦笑いした。
「人のエネルギー消費量も誤差0・1パーセント以内で観測可能なんだとよ。すごいね、メイドイン峰島は。ただちょっとうるせえな。姑《しゅうとめ》ってのは、こんな感じなのかね?」
「僕に聞かれても、解りません」
窓の向こうでは、ミツバチと呼ばれるロボットが、せわしなく飛んでいる。
いささか奇異な光景ではあるが、スフィアラボ内ではまだ平和な日常が続いていた。
「人のエネルギー消費量管理、もうちょっと緩めていいんじゃないのか? 今日はやけに厳しくないか?」
モニターを監視していた小金井《こがねい》は、椅子をくるりと回して、同僚に同意を求めた。モニター上には今日すでに警告が二千以上あったことを示している。研究員五百七十三人、警備員百五十人、その他スフィアラボを稼動していく上で必要なスタッフや家族達が三百二十人。計千四十三名の人間がスフィアラボで暮らしている。一人平均二回弱程度の警告量である。
「明日ラボで例の実験やるだろ。あれが莫大なエネルギーを喰うらしい。そのしわ寄せが、いま俺達に来てるんだよ」
「スフィアラボの中にラボって施設ってのもねえ。なんかおかしくない?」
「知るかよ」
答えた男が、大きなあくびをする。
スフィアラボの状況を監視するこの中央制御室は、建物の規模を考えると、人は極端に少なく、常時五人しかいない。それでもじつは多いくらいなのだ。これも統括管理するスーパーコンピュータLAFIの恩恵なのだが、監視員にとっては退屈このうえない。
「そんな実験、内部電力でまかなわなくていいんじゃないのか? 通常運行下なら、ありえない状況だろ」
「さあね。エネルギー供給の限界でも調べておきたいんじゃないの。実際30パーセントほど余裕あるから、申請するか? この調子だと、午後には警告鳴りっぱなしで、うるせえし」
そのとき来訪を告げるノックが、耳に届いた。小金井達は同時に、外に設置されている監視カメラの映像を見る。
「おお、ラボのマドンナ。宮根瑠璃子《みやねるりこ》さんでは、ありませんか!」
喜び勇んでドアを開けようとする小金井に向かって、同僚がぽつりと漏らす。
「お前、幸せだよな」
「おおよ。うらやましいか」
同僚は呆れたため息をつく。
小金井が扉を開げて瑠璃子を招き入れるそのとき、ちようどその音が聞こえた。かすかに虹色のグラデーションを見せる外壁ガラスの外に、大型の輸送用ヘリコプターが姿を見せた。
「なんだ?」
スフィアラボの全景を説明するなら、一言で事足りる。直径500メートル以上のガラス玉。それが海上にぽっかりと浮かんでいるのだ。
スフィアラボに隣接する形で、大きな板が浮いている。スフィアラボの玄関口、ヘリポートと小さな港だ。
着陸した一台のヘリに向かって、警備責任者の神田が険しい表情で近づいていった。後ろからは部下が何人かついてきている。
神田は警備の仕事に誇りを持っていた。スフィアラボは世界的にも注目されている実験施設だ。導入されている技術は、あの峰島勇次郎のオーバーテクノロジーがふんだんに使われている。産業スパイや他国にとっては宝の山である。
だから彼は少しでも怪しいものは、受け入れないという姿勢を持っていた。
すでにヘリからは何人かが降りて、コンテナを下ろす作業をしている。
「ちょっと待ってくれ。資材の搬入予定は来週と聞いていたが?」
指示を出している責任者らしき男に向かって、神田は声をはりあげる。
「ああ、なんですかあ?」
ヘリのローター音がうるさいのか、どこか暗い目をした男は聞き返した。
「だから、搬入は予定では来週のはずなんだが?」
「俺達に文句言われても困るよ。今日この時間に運んでくれって言われただけなんだから」
「コンテナの中はなんだ?」
「ああ、テロリスト1セット」
あまり面白くない冗談に、神田は顔をしかめた。
「おおっと、いけねえ。大事なこと忘れてたぜ」
休憩所のテーブルで配給の夕食を食べながら、闘真がヘリコプターの軌道をぼんやりと目で追っていると、横田がさもわざとらしい演技で、手をぽんと叩いた。なにか面倒なことを頼むつもりだ。一年以上の付き合いの中で、闘真がまっさきに学習したことである。無精ひげも面の皮の厚さのうちに入るのか、白い目で見てもびくともしない。
「おまえに頼みがあるんだ。聞いてくれるよな」
ほおら、きた。闘真は聞こえなかったフリをしようかと思ったが、横田はおかまいなしに話を続ける。
「明日一日、セントラルスフィアで俺の代わりに管理しちゃくれねえか」
あーあ。闘真は口に出さずにため息をついた。
セントラルスフィア。スフィアラボの全制御を担うコンピュータLAFIの中枢が設置されている、この施設の最重要区画だ。
「あのですね。僕、バイトの身ですよ。セキュリテイレベル7。この意味解ります?」
「おお、おまえが下っ端だっていう証《あかし》だ」
「ええ、ええ、どうせ下っ端ですよ。その下っ端がどうやったら、セントラルスフィアに入れるんですか!」
「無理か?」
「無理に決まってるでしょうが。あそこはレベル0ですよ! 入ろうとしてもドアは開かず、代わりに警備員が飛んできますよ!」
へえ、などとわざとらしく感心する横田は放置して、晩飯をパクつく。品数はなかなか豪勢で、味も申し分ない。完全循環環境施設とうたうだけあって。材料から調味料にいたるまで、すべてスフィアラボ内でまかなわれている。簡単に言うと自給自足だ。外からの補給は、お天道様の光と海流のエネルギーのみ。
「なあ、どうしてそんなこと頼むのかって、聞いてくれないのか? 気になるだろ、な?」
「気になりません」
「そうか気になるか。しかたない。おまえには特別に教えてあげよう」
びくともしねえし。闘真は疲れたように箸から口を離す。
横田はぼろきれのようなバッグから、とても似つかわしくない可愛らしく梱包《こんぽう》された箱を取り出した。プレゼント用なのは、一目|瞭然《りょうぜん》だ。ご丁寧《ていねい》にメッセージカードまでついている。
「明日は鏡花《きょうか》ちゃんの誕生日なのでーす」
鏡花とは横田の四歳になる娘の名前だ。目に入れても痛くないを体現する親バカぶりは、横田を見ればインスタントラーメンより早く理解できる。
体をくねらせる中年男に闘真は頭痛を感じながら、
「そういえば、横田さんも家族組でしたっけね」
などと当たり障りのない言葉を返す。
家族組とは、スフィアラボに家族で住んでいる人達のことである。スフィアラボの実験の性質上、月単位から年単位で暮らすことを要求されるため、家族ぐるみで住んでいる人達も多い。
そうした家族組と言われる人達は百組をゆうに超え、独身組と呼ばれる人達と合わせて、スフィアラボの中にちょっとした町を形成している。
独身組の中にはいつのまにかくっついて、家族組になる人達もいる。意外と多い。娯楽が少ないスフィアラボの中では、男女の仲は発展しやすいものらしい。いま独身組の男性達の話題の的は、同じ独身組の宮根瑠璃子と、どうやって家族組になるかということである。闘真も何回か会ったことがある。バイト君と気安く呼びかけてくれるが、大人っぼく美しい彼女はどことなく近寄りがたい雰囲気があった。
「まあ気持ちは解りますが。さっきも言いましたけど僕のセキュリティレベルじゃ、セントラルスフィアに入ることは無理なんですよ」
「ほう、気持ちは解ってくれたか」
横田はにんまりと笑う。いやな予感に闘真は逃げ出そうとしたが、もう遅い。
「つまりだ、セキュリテイレベルさえどうにかなれば、おまえは引き受けてくれると。そういうわけだな! ようしおまえの心意気買った!」
「買わなくて……いいです」
横田は休憩所のコンビュータターミナルを引っ張り出すと、ごつい指でキーボードを器用に叩く。
「へへ、ちょっと仕掛けがあってな。前に言っただろう? このLAFIってコンピュータには、いま使ってるOSのさらに下に何かあるって。覚えてるか?」
「ええ、まあ。それより、くわえタバコやめませんか? 火ついてなくても、管理部から苦情来ますよ」
「ウチのかみさんみたいなこと言うなよ。まあ聞けや。少し前、OSの下に何が眠っているか、その手がかりをつかんだんだ。本当のLAFIの姿だ。どえらいもんだったぜ。いままでのコンピュータとはまったく設計理念が違う。ようやく少し解りかけてきたところだ」
「よく解んないんですけど?」
「つまりだ、LAFI社では社長が一番えらいと思ってたら、その裏に会長がいた。俺はその会長にコンタクトできる、直通回線を手に入れたってことだ」
「はあ? 会長と話せると、何かいいことがあるんですか?」
「あたぼうよ。いろいろ誰にも知られずいじることができる。たとえば……ほら、できた。今日からおまえはビップになる。セキュリテイレベル0だ。どうだ気にいったか? 好きなところ見て回っていいぞ」
「それものすごく問題ありそうなんですけど……」
「気にするな。管理部や保安部が使ってるOSには記録は残らねえ」
「いや、だからそういう問題じゃなくて」
「じゃあ頼むな、セントラルスフィアのチェック」
やはり聞いていない。
「そのあいだ、俺は鏡花ちゃんと誕生日バースデー! 待っててねえ」
「英語と日本語、重複してます」
銃声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。
「さあ、どうぞどうぞ。むさくるしいところですが」
マドンナを案内する小金井の態度は、嬉々としたものだった。
「ごめんなさい、お仕事の邪魔だったかしら?」
中央制御室に招くと、宮根瑠璃子はいつものようにつつましい態度で入ってくる。目鼻立ちは派手なのだが、そのギャップが人気の秘密でもある。手には彼女によく似合う可愛らしいバッグ。そこに立っているだけで、硬い雰囲気の中央制御室は花が咲いたように華やかになった。
「いえいえ、瑠璃子さんなら大歓迎ですよ。ちょうど退屈してたんです」
同僚の冷たい視線をものともせず、小金井が瑠璃子に進みでる。
「それで何か御用ですか?」
同僚は、なるべく事務的になるように努めて尋ねた。
しかし瑠璃子はそれには答えず、数多く並ぶモニターの一つに目を向けていた。
「珍しいですね。今日ヘリが来るなんて。何か搬入の予定はありました?」
瑠璃子のマイペースな態度に同僚は肩をすくめた。
「こちらにも連絡が入ってなくて。なんか手違いらしいんですが」
何か口諭をしているらしい映像を見て、肩をすくめる。珍しいが、ないわけではない。三ヶ月前も似たような手違いがあって、同じようにもめた。
「しかし、今日は暑いですね。ここの真下にある貯水池にダイビングしたくなりますよ」
瑠璃子は小金井の言葉に、口に手を当てておかしそうに笑った。
「知らなかったよ、お前に自殺願望があったなんて」
同僚の口調はますます呆れていく。
窓の外のちょうど真下には、大気調整用の電気分解を目的とした貯水池があるが、中央制御室からは、50メートル以上の落差のため、飛び込むなど自殺行為に等しい。
「でも小金井さんの気持ちも解りますわ。こんな暑い日ですと、涼しげな貯水池の水面の揺れは、見ているだけで気持ちいいですもの」
「そうでしょ、そうでしょ」
小金井は我が意を得たりとばかりに、大仰にうなずく。
「おい、待て! 外の様子が変だ」
同僚が鋭い声を上げる。モニターに信じられない光景が映っていた。次々と倒れる警備員。銃を撃っているのは、ヘリのパイロット。ヘリからは銃器を手にした兵士が何人も現れる。
「くそ。なんだあいつらは。早く警報を鳴らせ!」
「それは、困ります」
瑠璃子は小さなバッグに手を入れ、中から出したものを後ろから同僚の首に押し付ける。
「え?」
次の瞬間、同僚の喉《のど》から勢いよく血が吹き出し、コンソールを真っ赤に汚した。瑠璃子の手の中で凶器のナイフが、くるくると回る。
他の監視員がとっさに反応し銃を抜くが、瑠璃子のあまりに思いがけない、次の行動に動きが止まった。全員が注視する中、瑠璃子は自分の服に指をかけると、一気に左右へ引き裂いた。
しかし体があるはずの空間には、何もなかった。空っぽだ。瑠璃子が服をかなぐり捨てると、残ったのは最初から露出していた肌の部分、頭と手、それに手の中の血に濡《ぬ》れたナイフだけが宙に浮いている。
「うふふふふ」
艷《あで》やかな笑い声と共に、頭と手がうっすらとかすむように消え、瑠璃子の姿は完全に見えなくなった。
全員の硬直が解けたのは二人目の犠牲者が、喉から血を吹き出して倒れたときだ。混乱する中、さらにもう一人。姿の見えないナイフの殺戮者《さつりく》は、犧牲者を次々と増やしていく。
十秒とたたないうちに中央制御室は血に染まり、死体が散らばった。その間小金井は唖然《あぜん》としているしかなかった。何が起こったのかまるで把握できなかった。
「いったい、どういう……なんの冗談?」
震える小金井の喉に、ナイフの冷たい感触が押し当てられる。消えたときと同じように、瑠璃子がにじむように現れた。
「革命の始まりよ」
凄艶《せいえん》な笑みをこぼし、瑠璃子は小金井の喉を引き裂いた。
闘真と横田の聞いた銃声は一つで終わらなかった。最初は立て続けに、次に断続的に、それもやがて収まり、痛いくらいの静けさが訪れる。
「横田さん、いまの!?」
「闘真、ここにいろ! 俺は制御室に行ってくる!」
そう言って、横田は普段見せたことのない俊敏さで、かけていく。闘真も動くべきかどうか迷ったが、しばらく静観するほうを選択した。へたに動いて横田に迷惑をかけたくなかった。
五分待ち、十分待ち、しかし何も起こらなかったおかしい。いまの銃声はどう見ても警備上問題ありそうだ。警報の一つも鳴らないのは、おかしすぎる。
――何かが起こってる。
闘真は確信すると行動を起こした。制御室に行くのはもしかしたら危ないかもしれない。しかし横田の身が心配だった。
廊下を走り、建物をつなぐチューブ通路を抜け、制御室まで行く。このときまで闘真は誰にも会わなかった。
おかしい。おかしすぎる。頭の中の警報はますますひどくなる。現実は冷めたように静かだ。
闘真が制御室の前まで来ると、扉が開けっ放しになっていた。鼻に異臭がこびりつく。見なくても、中の様子が想像できた。扉の横に体を張り付かせ、そっと顔を覗《のぞ》かせる。
血の海だ。中の人間全員が血まみれになって倒れていた。
「そんな」
予想通りの光景でも、闘真の動揺は激しかった。しかし悲観している暇はない。早くこのことを知らせなければ。中は血まみれの警備の人間以外、誰もいない。
おそるおそる中に入る。物音一つしない。
コンソールの上につっぷしてすでに事切れた人の体をどかすと、両手に血がべっとりとついた。粘つく感触にあわててぬぐったがとれない。服を汚しただけで終わった。
警報のスイッチを見つけ、闘真は叩くようにそれを押す。しかしあたりは静まり返ったまま。闘真は何度も何度も押したが、何も変わらなかった。
「なんでだよ、なんで鳴らないんだよ」
嘆く闘真に誰かが気づいたのか、うめき声がした。生きている人がいると思って振り返ると、闘真の顔がさらに青くなる。
「横田さん!」
急いでかけよろうとして、足が血ですべって転んだ。服が雨で濡れたようになる。それでも這《は》うようにして横田のそばに行った。
「横田さん、横田さん、大丈夫ですか、しっかりしてください!」
手遅れなのは見てすぐに解った。服はぐっしょりと血で汚れ、横田がうめくたびに、それはさらに広がっていった。
「よお、……坊主か」
横田の口からごぼごぼといやな音がした。咳《せ》き込むと大量の血を撒《ま》き散らした。
「いま助けを呼びます」
立ち上がろうとする闘真を、横田がつかむ。
「無駄だ。俺はもう助からねえ」
「そんなことない!」
叫びながら、横田の言葉が正しいことをすでに自覚していた。横田は長くもたない。あと一分か二分か。冷静な分析ができてしまう自分に嫌悪感を抱く。
「早く逃げろ。通信機は使えねえ。外の人間にこのことを伝えるんだ」
「絶対伝えます。だから……」
「それと一つ、頼みがあるんだけどよ」
「解りました。だから喋らないで!」
「悪いな、いつもいつも……、おめえには本当に感謝してる」
「僕だって横田さんにどんなに世話になったか。だから、お願いだから!」
「これを…」
横田の震える手には、血で汚れたプレゼントの箱。
「……俺、届けられそうにねえから。おめえに頼むわ」
「届けます。届けますから。だから……」
横田の体から流れる血は、絨毯《じゅうたん》のようにまわりに広がる。
「悪いな……鏡花。今年も約束……やぶっちまった……」
横田の目から光が消えた。眠るような死ではない。見開いた目と歪《ゆが》んだ顔は、はっきりと怒りと悲しみが刻まれている。すべてを無理やり奪われた、無残な死である。
「……横田さん、横田さん」
涙がぽたぽたとこぼれた。こぼれた涙が。床の血だまりではねる。握り締めた拳の中で、プレゼントの箱が、ひしゃげた。
「感動のお別れはおしまい、バイト君?」
突然、後ろから女性の声がした。聞き覚えのある声に、あわてて振り返ったが誰もいない。
「うふふ、やっぱりあなた可愛いわ」
「まさか、宮根さんですか!」
「あら、いつも言ってるじゃない。瑠璃子でいいって」
部屋の隅々まで見渡す。誰もいない。目に入るのはむごたらしい死体だけ。頭がおかしくなったのだろうか。
「じゃあ、あなたも後を追いなさいな。バイト君」
首筋に寒気が走った。反射的に体を引こうとしたが、足を血ですべらせた。何かが喉をかすめる。ころんだ拍子に床の血がはね、それは空中で止まった。見えない何かに付着したかのようだ。しかしその血もすぐにかすむように消えた。
「と、透明人間?」
「あはははは。そうね、そうとも言えるわ。光学迷彩。あなたも高校生なら、このくらいのSF用語は知ってるでしょう?」
知っている。光の屈折をコントロールしてカモフラージュする技術だ。効果は見てのとおり、と言っていいのか解らないが、とにかく見えなくなる。
[#挿絵(img/9s-043.jpg)]
「ふふん、おしゃべりはここまで」
闘真はしりもちをついた体勢から無理やり後ろに下がった。鼻先で何かが通り過ぎる。それがきっとここの人達の命を奪ったものだと、直感した。
人の足音がいくつも迫る。希望をたたえ部屋の外を見た闘真の目は、だがすぐに絶望に染まった。唯一の扉の先には知らない格好をした武装集団。控えめに見ても、味方なんて雰囲気ではなかった。
スフィアラボは何者かに蹂躙《じゅうりん》されようとしている。横田が死に、大勢の人間が死に、さらに自分が殺されようとしている。理不尽な暴力に、闘真の中で怒りの感情が芽吹く。
瑠璃子がいるはずの空間を、闘真は睨《にら》みつけた。
「なに!?」
闘真の視線に込められた殺意の濃さに、姿なき殺戮者は一瞬ひるむ。
闘真はその隙《すき》を逃さない。瑠璃子の背後にひび割れた窓ガラスがあった。ガラスの向こうは、50メートル以上の高さがある空間。だが闘真にためらいはなかった。その隙に乗じて脇を抜け、窓ガラスに体ごとぶつけた。
闘真の体が窓ガラスの外に落下する。
「まさか自殺?」
驚いた声と同時に、何もない空間に女の体が現れた。宮根瑠璃子だ。体にフィットした奇妙なスーツを着ている。それが女の体を視覚から隠していたのか。
瑠璃子があわてて割れたガラスの下を見ると、遥か下方で大きく揺れる水面が目に入った。うかつだった。制御室の窓の下は貯水池だ。しかしまさかこの高さを飛び降りるとは。いや、それよりもほんの一瞬だけ見せた、瑠璃子が気圧《けお》されたあの殺気はなんなのか。とても普段の、のほほんとした少年のものではない。
「首尾はどうだ、瑠璃子?」
背後からの声に瑠璃子の雰囲気が一変した。険しい表情が、一瞬にして恍惚《こうこつ》へと書き換えられる。
「申し訳ありません。一人逃がしてしまいました」
うわずった声で報告した相手は、線の細い若者。長身、整った顔立ち、黒ずくめの衣装、数ある特徴を圧倒して、表に出ているのは自信。表情から、立ち振る舞いから、全身から、自信をあふれさせる若者の名は風間遼《かざまりょう》。スフィアラボを占拠しつつある武装集団の若きリーダーである。
「かまわん。LAFIファーストのコントロールルーム、セントラルスフィアに降りるぞ。そこを制圧してしまえば、誰もスフィアラボから出ることはできない」
「はい、風間様」
TV局や新聞社名のロゴが描かれた取材用ヘリコプターが何機も、ところせましと一箇所に集中し、ひしめいていた。眼下には大海原の中にあってもひけをとらない巨大な研究施設スフィアラボ。彼らの取材の対象である。
「みなさま見えますでしょうか、海上にそびえる巨大な建築物が。直径525メートル、日本の、そして世界の未来をかけて作った巨大研究施設スフィアラボが、何者かによって占拠されました」
リポーターが興奮を隠しきれない声で、報道する。峰島勇次郎の発明、遺産と呼ばれる物を狙った事件はいくつかあるが、今回の事件はいままでの中でもとびきりの規模である。
「すでに事件発生より十七時間経過していますが、いまだに犯人グループからの要求はなく、警官隊も目立った動きを見せず、依然こう着状態が続いています。はたして何が目的なのか、中で何が起こっているのか。時間が経過するごとに不安は高まっていきます」
報道ヘリコプターをけん制するかのように、瞥察|所轄《しょかつ》のヘリも何機も飛んでいる。
「未確認の情報によりますと、犯人グループの占拠からただ一人、難を逃れた少年がいるとのことです。その少年の勇気ある決死の行動により通報が警察に届き、今回の事件、スフィアラボ占拠事件が明るみになったという、そういう経緯のようです」
リポーターはイヤホンに集中するしぐさをし、さらに興奮した様子を見せた。
「あ、いま、通報した少年らしい姿を別のカメラが捕らえたとのことです。では、カメラを」
リポーターの声が途中で途切れ、カメラは別の上空からの映像に移った。
「はい、こちらXXX町の警察署の上空です。たったいま噂となっている少年らしき人物が担架で運ばれています。見えますでしょうか? ……あれです。いまヘリコプターに乗せられました。ヘリコプターのロゴが見えます。レガシーカウンター! LC部隊のロゴです。やはりと言うべきでしようか。峰島勇次郎の生み出したオーバーテクノロジー、遺産と呼ばれる技術に関わる犯罪対策部隊。やはり彼らが、LC部隊がでてきました! しかし少年がLC部隊のヘリコプターに乗るとは、どういうことなのでしょうか。考えられるのは、なんらかの情報提供なのでしょうが、ヘリコプターはどこに向かうというのでしょうか」
こちらのリポーターもイヤホンに耳を傾け、残念そうな顔をした。
「え? しかし……はい、解りました。……ええ、失礼しました。ここから先は航空管制に規制がかかり、LC部隊のヘリコプターを追うことが不可能になりました。それではカメラを……」
古い色あせたセピア色の光景。閾真は、ああ、またあの夢かと陰鬱《いんうつ》な気持ちになる。夢と白覚する夢、明晰夢《めいせきむ》と呼ばれるものだが、夢の映像は闘真の記憶から構成されている。忌《いま》わしい、あの事件の記憶から。
夢はまるでフィルムをでたらめにつなぎ合わせたように、一部は欠落し、時間の流れもばらばらである。何もかも曖昧《あいまい》で、蜃気楼《しんきろう》のようだ。それなのに血の臭いだけはいやになるくらい明確で、その臭いに触発され、色あせた記憶の中で赤だけが鮮明になる。
不明瞭な像が形を結ぶ。人が倒れていた。一人や二人ではない。広い平原を敷き詰めるように、何人も何人も。闘真の立つ丘の頂を中心に、無造作に。
みんな死んでいる。一目見ただけで誰でも解る。五体満足な体は一つもない。ばらばらになったマネキンのように、細かいパーツに分断され、散らばっている。恐怖と苦痛に顔を歪め、恨みがましく闘真を睨んでいる。睨んだまま、死んでいる。
ああ、なんてことだ。
言葉にならない嘆息をこぼす。しかしそれは意識だけで、夢の中の闘真の像はそんなことはしない。ただ口元に笑みを浮かべるだけ。
「た、助けて……」
誰かの声が足元から聞こえる。
「死にたくない……」
一人の男が、地面をはいずり遠ざかろうとしている。闘真とその男の間には、延々と血の川が、いまも生きて流れている。
闘真の目が、笑った。喜悦の笑みである。
やめろ。
心の叫びは、しかし笑う闘真には届かない。
「誰か……」
笑ったまま、右手を振り上げた。
やめるんだ。
「呪われた子供め……」
右手には真っ赤に濡れた刀が握られている。
やめろおおお!
それは無慈悲に、振り下ろされた。視界がさらに赤くなる。
「見事!」
父の姿がいずこからともなく現れ、さも痛快に叫んだ。
「禍神《まががみ》の血、ここに開眼《かいげん》せり」
闘真の意識は覚醒《かくせい》した。悪夢だったが目覚めは静かだった。
ここはどこだろう。朦朧《もうろう》とした意識の中、体がかすかに揺れている。何かの乗り物に乗っているらしいことに気がついた。
「事件発生からもう十八時間たちますが、いまのところ犯人側からなんの要求もありません」
「そうか。だいたい書類には目を通した。坂上闘真、十七歳……母子家庭か。現在は一人暮らし。母親は海外」
書類をめくりながら、四十前後の男性が、隣の若い背広姿の男性と話している。二人とも目つきが鋭く、堅気《かたぎ》といった雰囲気ではない。
「報告が入りました。スフィアラボの全セキュリティロックは解除不可能。非常回線も通じないとのことです。スフィアラボもそれを制御するLAFIファーストも完全に敵の手に渡ったと思っていいでしょう。このままだと突入は不可能ということになりますね」
「やはり、あれを使うしかないか。あまりいいを顔しないだろうな、岸田博士は」
「伊達さんも、人の顔色を気にするんですね」
「君は、私をどう思っているんだね? ふむ、しかしこの少年は、なかなかの行動力だな。まだ肌寒い海をしかも夜に、十六時間も泳いできたか。精神力も相当なものだ。水泳部にでも入ってるかと思えば、何も活動はなしか」
「そうなんですよ。でも見れば体は鍛えられている。実戦向きの鍛え方なんです。ちょっとおかしいと思って、さらに調べさせました」
「何かあるのか?」
「そのお手元の資料の作成には間に合わなかったんですが、父親が誰なのか見当がつきました。驚きますよ、その名を聞いたら」
「もったいぶらずに言ってみろ」
「あの真目《まなめ》家の当主、真目|不坐《ふざ》らしいです」
伊達と呼ばれた中年の男の険しい顔がさらに厳しくなる。
「……確かか?」
「間違いありません」
「真目家は峰島勇次郎を毛嫌いしていると思ったが。系列会社は峰島製の技術をいっさい排除する徹底ぶりだ。そんな真目家の血縁者が、峰島勇次郎の技術の結晶であるスフィアラボで働くか? それで、この少年と真目家の交流はあるのか? 時々会いに行くとか」
「いえ、父親とはなさそうなのですが、娘の真目|麻耶《まや》を知ってますか? その娘とは時々会っていたようです」
「ナンバー2とは懇意《こんい》にしてるというわけか。なかなか複雑そうな家庭環境だ。あそこの男子は、なんとか流だかの武術を受け継ぐのがならわしだったな」
「鳴神流《なるかみりゅう》です。海を泳ぎきったのもうなずけるかと」
「ほお、慎重に事を運べ。真目家にケチをつけられたら、後々面倒だぞ」
「あの……」
闘真は恐る恐る言葉をはさんだ。ずっと言葉をかけるタイミングを逸していたのだ。
「起きたか? 坂上闘真君。私は伊達真治《だてしんじ》。|ADEM《アデム》の責任者をしている」
そう言って、強引に握手を求めてくる。
「ここ、どこですか?」
「ヘリの上だ。心配ない。君がさっき警察署で話したことを、もう一度ある人物に聞かせてもらいたいだけだ」
「はあ」
本人の承諾もなしに連れて行かれるのかと思ったが、細かいことは気にしないでおく。考えるのも億劫《おっくう》なくらい疲れていた。
「それで、どこに向かってるんですか? あのアデムって?」
「The Administrative Division of the Estate of Mineshima。略してADEM。日本語では峰島の遺産管理局と言ったところか。現在向かっているのはADEM施設の一つ、NCTを研究しているところだ」
「NCT?」
「Non-Cognizable Technology。略してNCT。認識外テクノロジー。峰島勇次郎の発明は総じて常識はずれの物が多い。皮肉を込めて、我々はこう呼んでいる」
「伊達さん、目的地が見えてきましたよ」
ヘリはゆっくり降下し、静かに着陸した。
闘真はヘリを降りてあたりを見渡すが、道らしい道は何もない。目の前にある馬鹿でかいコンクリートの塊みたいな建物とヘリポート以外、人工の香りはしない。
「車ではこられない場所なんですね」
「そうだ。行くぞ、時間がない」
何も解らないまま状況に流されている気がしないでもないが、たぶんそうしたことを把握している時間はないのだろう。スフィアラボの出来事を思い出し、闘真は体を一度大きく震わせた。
伊達に導かれ、コンクリートの塊に近づいていく。一箇所だけ、何かの冗談のように扉があった。その扉の前に、初老の恰幅《かっぷく》のいい男性が待ち構えている。
「お待ちしていました。わざわざこんな山奥に出向かなくても」
「出向く理由がある。だから来た。例のモノの用意はできているか?」
「準備はできています」
初老の男は少しだけ顔を歪ませ、いやな話題から話をそらすように闘真を見た。
「その前に、そちらの少年がそうですか?」
「坂上闘真君だ。スフィアラボ占拠事件で、唯一あの場から逃げ出せた少年だ。彼の話を。アレにも聞かせたい。坂上君、こちらはこの研究所の責任者、岸田|群平《ぐんぺい》博士だ」
「はじめまして、坂上闘真です」
研究所というのは目の前のコンクリートの塊のことだろうか。いったい何をこんな場所で研究しているのか興味がわいた。
「岸田です。わざわざこんなところにようこそ」
「挨拶は終わったな。では例のモノのところに案内してもらおうか」
伊達の態度は一分一秒でも惜しいと言いたげである。
岸田博士は少しだけ伊達を睨みつけると、建物の中に向かって歩きだした。伊達は当然のごとくその後につづき、闘真もあわてて二人の後ろ姿を追った。いまだに状況が把握できず、右往左往している自分が少し悔しい。
「ここに何があるんですか?」
「来れば解る」
しかし建物の中に入っても、ドアが幾つか左右に並んだだけの無機質な通路を進むだけで、どういうところなのかまるで見当がつかない。
「ここはNCTの研究所なんですよ」
闘真の様子を察してか、岸田博士が柔らかい口調で教えてくれた。
うわっ、と闘真は口に手を当てる。いまになって、NCTにかかわる噂を思い出したのだ。アメリカに宇宙人の基地があるというくらい、怪しげにささやかかれている研究所。
「き、聞いたことはあります」
「ふむ。どんなことです?」
「いわく日本は一人の天才科学者の技術の独占を狙っている。いわく裏から世界を牛耳ろうとしている。いわく……」
「独占とは人聞きが悪いですな。危険な技術を保護していると解釈してほしい」
前を歩く岸田博士が顔だけ振り向いて、苦笑いをした。
「峰島勇次郎氏は数々の発明発見をしましたが、あいにくそれは世界中に散らばったままなんですよ。その中には無害なものもあれば、とても危険なものもある。運良く我々がそれらを先に手に入れた場合は、秘密裏に保護し、ここに眠らせておくのです。そしてしかるべき時にしかるべき形で、世に送り出す。しかし諸外国にとってはそれは面白いことではないでしょう。だからこのNCT研究所は、極秘扱いになってるんですよ」
それってやっぱり独占って言うんじゃないのか、と闘真は思った。スフィアラボは公開され、国連の認知も受けた正式なものだ。しかしここは違う。隠蔽の臭いがぷんぷんする。
しかし思うだけで口には出さないでおく。伊達と違い、岸田は人がよさそうで、あまり彼が不愉快になりそうなことは言いたくない。
思ったよりも喰えない状況にいる自分に、闘真は少し焦りを感じていた。安易についてきすぎたかもしれない。いまからでも引き返そうか。
「あの、どうしてなんですか?」
「何がだ?」
「ただの高校生をこんな場所に案内して。僕に何をやらせようというんです?」
「君がただの高校生かどうかはともかく、あまり身構えないでいい。話をするだけだ。何をそんなに警戒している?」
「ほら、よくあるじゃないですか映画とかで。ここで見たことは外に漏らすな。もしも秘密をばらした場合は……」
闘真は自分の首を切るまねをする。
「はっはっはっ、カンがいいな」
伊達はおかしそうにひとしきり笑うが、顔は冗談を言っていない。
「まあ、言いたくなっても言えないと思うがね」
意味深な言葉を残して伊達は口を閉じた。
「この先に地下に降りるエレベーターがありますが、その前にセキュリティチェックが入ります。そこから先は、日本でも数えるほどの人間しか知らない最重要機密エリアです」
岸田博士の説明に、闘真の顔はますます強張った。
案内されたのは、四畳程度の小さな部屋だ。
ドアを閉めると同時に、青いランプがともった。天井の隅から、糸のような赤い光が、三人を格子状にスキャニングしていく。
「大脳皮質番号0000010、岸田|群平《ぐんぺい》、特級権限、二十七項目の照合一致しました」
どこからか電子的な女性の声が聞こえる。
「大脳皮質番号1002007、伊達|真治《しんじ》、一級権限、二十七項目の照合一致しました」
つづいて伊達の名を呼ぶ。
最後に闘真を赤い格子状の光が覆うと、
「大脳皮質番号の登録がされていません。ただちに拘束します」
とたん、けたたましいサイレンと共に壁のあらゆる箇所が開き、銃口が突き出た。スキャニングとは別の意味を持つ、赤外線照準の赤い光が、全身を埋め尽くす。
「え、あ、ちょっと?」
「動かないでください。指示に従わない場合は、強制排除します」
うろたえる闘真に、電子音声は冷たい言葉をあびせかける。冷や汗が全身から吹き出た。
「いや、あの、どうにかしてくださ……」
銃声が一発、頬をかすめた。血の感触が、頬から喉のほうに流れていく。
「次は威嚇《いかく》ではありません。動かないでください」
電子音はどこまでも冷たい。言われたとおり闘真は一歩も動かず、口も開かず、彫像のようになることに徹した。おそらく次に行動を起こした場合は否応なく、壁から突き出ているあらゆる銃口が火を噴くだろう。
いったい自分は何をされているのか。どうしてこんなところにいるのか。どうして説明もなくこんな目にあわなければならないのか。
命の危機と理不尽さ。
何かが腹のそこでぞわりと、波打った。その瞬間、まるで比べ物にならない恐怖が、闘真の心を覆いつくした。腹の中のうねりは、徐々に徐々に大きくなっていく。全身をくまなく染め上げ、外に這い出そうとしている。
それは純粋なまでに暴力的な力であった。
――まずい。
本能よりさらに深いところで、闘真の心は危険信号を発していた。恐怖に目をつむる。かつて人間だったモノの肉片が散らばっている光景が、まぶたの裏に克明によみがえった。
凶暴なうねりはさらに速度を増し、全身に広がる。恐怖がさらに深くなった。あらがえない。いや、あらがうという発想すら生まれない。肺が潰《つぶれ》れそうに萎縮《いしゅく》し、喉の奥から熱い息がこぼれる。火傷しそうに熱い。自分が吐き出したと信じられないほどに熱い。
うねりは心まで触手を伸ばす。心が壊れる。亀裂が入る。
突然、なんの前触れもなくうねりは去った。いや消えたといったほうが適切か。心と体が一気に軽くなった。
放心し体が崩れそうになるのを、一歩手前で踏みとどまる。ここで動いたら撃たれる。
「ああ、忘れていたな」
伊達がみょうにのんびりした声で言った。
「彼はゲストだ。私の権限により二十四時間だけ、三級、いや二級権限を与えてくれ。名前は坂上闘真」
「了解しました。一級権限により、未登録者に限定二級権限を発行します」
電子音が答えると同時に、放心する闘真の側頭部にまばゆい光が集中する。なんだろうと思うまもなく、殴りつけるような衝撃が頭部を襲い、体が真横に吹っ飛びかけた。
「大脳皮質番号2003123、坂上闘真、限定二級権限を発行しました」
激しい頭痛と耳鳴りのなか、ようやくその声だけを聞き取る。大脳皮質番号という言葉に不安を感じる。
「だ、大脳皮質番号?」
「脳に直接認識番号を書き込む。複製は不可能だ」
「の、脳に?」
衝撃を受けたこめかみの上あたりを恐る恐る指でなでる。心配したような怪我も異常もなさそうだ。
「大丈夫なんですよね?」
「いまのところ、これで障害を起こした人間はいない」
安心していいのか悪いのかよく解らない答えが返ってくる。
「心配いりません。神経細胞は避けて刻印してあるので」
岸田があわてて付け足した。
頭も開けずどうやって脳に刻むのか聞きたかったが、理解不能な答えが返ってきそうなのでやめた。
「さ、行くぞ」
胸に手を当て目をつむる。大丈夫、うねりは消えた。あんな悲劇はもう起こらない。
「どうかしましたか?」
岸田が心配そうにエレベーターの中から顔を覗かせる。闘真はあわてて首を横に振り、小走りにエレベーターに乗り込んだ。
墜落していると錯覚しそうなほどに、エレベーターの下降速度は速かった。頭に血が上る。
――禍神《まががみ》の血、ここに開眼せり。
父の言葉が脳裹によみがえる。ずっと封印していた記憶。夢に見た凄惨《せいさん》な光景。悪夢ならまだいい。あれは現実だ。スフィアラボの出来事に触発されて、眠っていたものが再び目覚めようとしている。
「本当に大丈夫ですか? 気分が悪くなったりしていませんか?」
「はい、大丈夫です。ただ、ずいぶんと降りるんだなと思って」
「地下1200メー卜ルまで降ります」
「そんなに? いったいそんな地下に何があるんですか?」
そろそろ我慢の限界だという意味を込めて、伊達を睨んだ。
「まあ、いいだろう。説明しよう。峰島勇次郎の発明が起こす事件の危険さは知っているな。その対処のためレガシーカウンター、通称LC部隊が創立されたが、いずれそれでも対処できない事態は予測されていた。思ったよりも早く起こってしまったがな」
「スフィアラボの事件ですか?」
「そうだ。その事態にそなえての切り札が、この地下にある」
「切り札?」
「峰島勇次郎の最高傑作です」
誇らしげに語る岸田の言葉と共に、エレベーターが止まった。地下1200メートルに到着したらしい。
エレベーターを降りると、奇妙な光景が目に入った。
床が全面ガラス張りになっている。ガラスの下の光景の意味を、闘真ははかりかねた。
それはなんてことはない普通の、しかしこの状況においては異常きわまりない光景であった。
ガラスから大きく見下ろす形で下に広大な空間が広がっている。その空間にはソファやテレビ。
テーブル、椅子など日用品が並び、床にはカーペットが敷き詰められている。一面の壁の棚は本でびっしりと埋まり、その量はちょっとした図書館並みといえた。空間を仕切る壁もある。
少々広すぎるが、家の屋根を外し、上から覗いているような状況であった。
誰かが生活しているのだろうか。こんなところで。プライバシーも何もない。
「さあ、この先です」
岸田博士の案内に従いさらに奥へと進む。
体育館程度の広い空間だ。
何十人もの銃を構えた警備兵が、壁際に並んでいる。吹き抜けの二階の回廊にも、同じように警備兵が並び、銃を構えていた。銃口はすべて、部屋の中央一点に向けられている。いったいどれほどのものが、そこにあるのかと思えば。
少女が一人、ただ立つのみ。
しかしその姿が普通ではない。
病院で着るような薄手の服、そこから伸びる白い手足は、冷たい色を放つ拘束具《こうそくぐ》で固定されていた。顔もよく解らない。目も口も大きくふさがれているのだ。拘束具だけではあきたらず、四方から伸びるピンと張った鎖が、少女をいま立つ位置に固定していた。
少女の中で唯一自由を感じさせるのは、背中に大きく広がる黒髪だけである。
もう一点、場にそぐわないものがあった。いや聞こえてきた。ロック音楽が大音量で部屋いっぱいに鳴り響いているのだ。耳が痛いくらいに。
闘真はまるで理解できなかった。いったいこの状況はなんなのか。
「これは……」
この悪趣味な光景はなんなのかと、伊達に聞いただそうとして、さらにもう一つ奇妙な点に気づく。
目隠しをされ拘束された少女と、銃を構える警備兵。非常に大げさな規模ではあるが、どこか銃殺刑を連想させる光景と言えなくはない。だが、一つだけ決定的に異なる点がある。震えているのは、なぜか銃を構えている警備兵のほうだった。一人二人ではない。全員が青ざめた顔をしている。
それに比べ表情は見えないが、少女に怯《おび》える様子はなく、それどころか余裕すら感じられる。
まるで逆ではないか。隣の伊達さえも緊張しているのが解った。
少しだけ少女が身じろぎをした。その瞬間、警備兵達の間に流れる緊張がさらに高まった。
誤って発砲してしまう警備兵がいてもおかしくない。緊張がクモの糸一本で保たれている。
ただ一箇所、少女のまわりだけは、その格好と裏腹にどこか涼しげである。
――峰島勇次郎の最高傑作。
岸田博士の言葉を思い出す。この状況でまわりを圧倒している、あの少女がそうなのだろうか。だがとてもそうは見えない。理不尽で非人道的な扱いを受けている、ただの少女にしか思えない。
「彼女が、峰島勇次郎の最高傑作です」
岸田博士はエレベーターの中と同じ言葉を繰り返す。違うといえば、その口調にかすかな悲しみがまじっていることくらいだ。
「最高傑作?」
「ええ」
闘真の質問にうなずく。
「いつもと曲が違うな。どうしたんだ、これは?」
部屋の隅のスビーカーを見て、伊達は顔をしかめる。
「こういう音楽は、しょうに合わないな」
「同じ聴覚を狂わせるものなら、せめて彼女の要望をと思いまして。まずかったでしょうか?」
「いや、それでおとなしくしてくれるなら願ってもないが。こういうのが趣味だとは知らなかった」
伊達は不審をぬぐいきれない表情でロックに耳を傾けている。
「音楽ならなんでも聴きますよ。クラシック、ポップス、演歌、ハードロック」
「聴覚を狂わせる?」
「ええ、危険なんですよ、彼女に周囲の音を聞かせるのは。いや、音に限ったわけではないのですが。危険というなら五感の刺激全部が危険です」
闘真の質問に岸田博士は答えてくれるが、どれもこれも説明不足で何を言おうとしているのか解らない。お人好しそうな顔で、わざとそうしているとも思えなかった。
「もしかして、彼女は遺産の技術で、肉体的に強化されているとか? そういうことですか?」
「いえ、そんなことはありません。鍛えられてはいますが、筋力ならあなたのほうが上でしょうね。五感も鋭いですが、超人というわけではありません。誤解のなきよう言っておきますが、彼女に遺産の技術はいっさい使われていないのですよ」
ますます解らなくなる。ならこの扱いはなんなのだ。
「無駄話をしている暇はない。行くぞ。岸田博士はここで待っていてくれ。私とこの少年で行く」
不満そうな岸田博士を残して、伊逹は闘真を連れて部屋の中央目指して歩く。そこには一人ぽつんと立っている少女。
警備兵達の緊張感が、さらに高まっていくのが解る。いつのまにか伊達の額にも汗が浮いていた。
どう見てもこの少女に何か特別なことがあるとは思えない。どうして誰も彼もがこんなに警戒しているのか。この大げさすぎる包囲網はなんなのか。答えはまったく見つからなかった。
理不尽、不可解、何か大変なことが起こりつつある。闘真の頭の中の警報は、いまや最高潮に達しようとしていた。
そのとき、ぱらぱらと何かが上から降ってきた。足を止め上を見ると。全面ガラス張り天井から観察している研究員達の姿が見える。場所こそ違えど、さっき通った通路と似たような構造だ。天井から見下ろされて観察されるなんて、あまり気分のいいものではない。
「どうした? ん、あれか。あれは厚さ20センチの特殊強化ガラスだ。ちょっとやそっとで割れることはない。さっき通った通路も同じ材質だ。今度は俺達が見下ろされる側だがな」
説明をしながら伊達は歩く。その先に拘束され動けない少女。近づけば何か解るかと思った。
しかし何も解らなかった。肌が白いということくらいだ。警備兵が震える理由にはならない。
何も解らないまま、少女の前にたどり着いた。闘真と伊達の気配に気づいたのか、うつむいた顔を持ち上げる。細い首の上は無残だ。目隠しと猿轡《さるぐつわ》が、きつく肌に食い込んでいた。
「顔だけでも、はずしてあげられないんですか? ひどいですよ、これは!」
伊達はちらりと闘真のほうを向いただけで、いいとも悪いとも言わない。どっちでもいい。闘真は体が先に動いていた。少女に近づき「大丈夫?」と声をかけ、顔の拘束具をなんとかはずそうとする。
「あ、あれ? はずれない。おかしいな」
「特注の電子ロックだ」
伊達が投げよこしたカード式のキーを受け取ると、手探りで長い髪に埋もれた拘束具のスリットにそれをスライドさせる。キーを口にくわえ、顔から丁寧に、拘束具をはずした。
少女の顔があらわとなる。
「あ……」
呼吸が止まった。闘真の手から拘束具がこぼれ落ちる。少女の顔は、心臓が止まるかと思うほど美しかった。
瞬きすれば音がしそうなほどに長いまつげ、伏せられたそれがゆっくりと開く。奥にある瞳は、底のない闇を連想させる。吸い込まれそうなほどに深い。
[#挿絵(img/9s-068.jpg)]
傾国の美女という意味では、確かに彼女は危険かもしれない。ただし三国志の時代ではだが。
少女が真正面から闘真を見る。気負いも気後れもないまっすぐな瞳。闘真のほうが一歩下がってしまう。いや実際は下がる余裕もなかった。足が地面に張り付いてしまっていた。
少女はわずかに視線をそらせ、闘真の背後にいる伊達を見る。黒曜石の瞳が、さらに鋭くなった。
「ひさしぶりだな。半年近くになるか」
伊達の声は少し硬い。
少女は少しだけ顔を歪め、何かを床に向かって吐き捨てた。唾液にまみれた布が転がる。舌をかまないようにだろうか。美貌にそぐわない粗野な振る舞いが、なぜかよく似合った。
「ひさしぶり」
少女は笑う。初めて見せた感情らしい感情は、日本刀の切っ先を思わせた。怖いくらいに美しく凄絶《せいぜつ》である。
少女は部屋の中を隅々まで見渡す。視線があうたびに、警備兵達の空気が一変する。警備兵達は少女の美しさに見惚《みと》れるより、警戒心と恐怖を強めているようだ。
「ずいぶんと物々しい。あいかわらず臆病《おくびょう》」
「臆病で結構。それで生きながらえるならいくらでも臆病になろう。とくにおまえに会うなら、臆病すぎるに越したことはない」
「それは賢明」
少女はのどの奥で笑う。
「それでなんの用事?」
「おまえに手伝って欲しいことがある」
「答えはいつもと一緒だけど」
「今日はうなずいてもらう」
「それはどうかな?」
少女はロックの音楽に合わせて、少々調子っぱずれな鼻歌を歌った。ロックの音に混じり、天井の強化ガラスがビリビリと鳴っている。
「岸田博士、少し音量を下げてくれ。天井のガラスが振動している」
「いえ、いつもと同じ音量なんですが。おかしいですね」
パラパラとまた何かが降ってきた。闘真は少女の顔から視線を無理やり引き剥がして天井を見る。何も異常はない。床に落ちたそれを指ですくった。ホコリではない。砂の粒子みたいに硬く、ライトの明かりを反射して輝いている。
「なんだ?」
伊達ものぞき込む。その表情には、焦りがあった。得体の知れない何かを感じ取り、不安を抱いている。それは闘真も同じだ。胸の中に渦巻く不安は、ますます大きくなる。闘真達だけではない。まわりの警備兵にも動揺が連鎖的に広がりつつあった。
「ホコリではないようだが」
伊達が天井を見上げる。天井のガラス板に立っている研究員達も何か異常を察し、騒いでいるようだ。
「さあ、なんだろうね」
唯一のんびりとした声が、少女の口からこぼれ出た。
またホコリが、今度は伊達の肩に落ちる。それを指ですくった伊達は、厳しい目で見つめた。
その目が徐々に大きく見開き、驚愕《きょうがく》へと変貌《へんぼう》する。
「音楽を止めろ! 早く!」
伊達の叫び声が終わらないうちに、頭上からピシッ、ピシッと音が立て続けに聞こえた。天井のガラスに無数の細かいヒビが入り、あっというまに真っ白になった。パンッと破裂するように、ガラスがいっせいに粉々になり、雨のように降る。
「うわああああ!」
警備兵達は悲鳴をあげ、顔や頭を守る。混乱して誰かが発砲しなかったのは、奇跡に近い。いったい何が起こったのか。困惑する闘真の目の前に何かが迫った。
どきりとするほど目の前に少女の顔があった。闘真の口にくわえているカードキーの反対側をくわえていた。鼻先がくっついている。
「んふっ」
少女の鼻にかかるような微笑みが、闘真に隙を作る。緩んだ口から簡単にカードキーを奪われた。少女はそのまま器用に口で宙に放り投げ、背中側に拘束されている手でキャッチする。
次の瞬間には、両手が自由になっていた。
そこで伊達の視線が少女に向き、ようやく事態を把握する。いや、ようやくと言っては酷か。そのときまだ砕けたガラスは空中にあり、二階にいる警備兵達の頭に降り注ぐところだったのだから。
少女は信じられない手際のよさで、肘、膝、足首と、拘束具を次々とはずしていく。伊達が止めようと手を伸ばしたが、少女は腕一本でそれを軽々といなした。鍛えられた伊達の大きな体が空を舞った。
伊達が落下するのと、ガラスの雨が床に到達するのと、少女が自由になるのは同時であった。
一階にいた警備兵や岸田博士はガラスの雨に悲鳴をあげる。
ガラス片が床ではね。その間に少女はすでに次の行動に移っていた。
警備兵達の並ぶ壁際までおよそ20メートル。その距離を二秒で縮める。途中カードキーを闘真の口に戻すのを忘れない。
パニックになっている警備兵達の目前で、少女は大きく跳躍し壁を蹴った。三角とびの要領で、そのまま二階の手すりにつかまる。軽々と手すりを乗り越え、唖然とする警備兵達の中に飛び込んだ。
警備兵が一人倒れたときには、少女の手にその華奢《きゃしゃ》な体に似つかわしくない、凶悪な面構えのマシンガンがおさまっていた。
ようやく一人が反応して、発砲する。信じられないことに、少女はその弾丸を軽々とよけ、結果、少女の背後にいた警備兵に当たった。撃たれた警備兵は苦痛に悲鳴をあげる。
それが冷静を取り戻し始めたほかの警備兵達の動きを一瞬だけ止めた。凍った時間の中で少女だけが、束縛を受けずに行動する。無造作に構えたマシンガンで、一階に並んでいる警備兵達に、ためらいもなくトリガーを引いていく。足を撃たれ、警備兵達は次々と倒れた。服は耐弾仕様なのか出血はない。が、骨折はまぬがれないだろう。
混乱する警備兵を尻目に。少女は再び壁を蹴り、天井の割れたガラスの縁に手をかけ、体を引き上げた。上の部屋にいた研究員達は、我先にとあわてふためき逃げまどう。
「いいこと教えてあげる。この強化ガラスは欠陥品だ。特定の周波をぶつけるともろい。じゃあね」
ようやく起き上がった伊達が銃を構え少女に狙いをつけた。しかし引き金を引く前に少女の姿は、天井の上へと姿を消した。
「岸田博士、警戒体制をレベルSに引き上げろ。なんとしても捕らえるんだ!」
伊達が怒鳴る。
ガラスが割れてから、わずか二十秒たらずの出来事だった。
「まさかあのロック音楽の中に、強化ガラスを共鳴反応させる周波があるとは思いませんでした。うかつです」
急上昇するエレベーターに乗っているのは闘真、伊達。岸田を初め警備兵が十名程度。重苦しい空気につつまれている。闘真は慎重に疑問を口にした。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「なんですか?」
「彼女、普通の人間の体だったんじゃないですか?」
「そうですね。普通というには語弊《ごへい》があるかもしれませんが、人として鍛えられた肉体の範疇《はんちゅう》は超えていません」
「あれのどこがですか? 彼女のしたことは、人間業じゃなかった」
「肉体構造は、人の範疇だ」
今度は伊達が答える。
「でも、あの動きは普通じゃないですよ!」
「体は普通だ。ただ……」
「ただ?」
「頭脳が普通じゃない」
「頭脳? 確かに頭はよさそうですけど。でも僕が言いたいのは、そういうことではなくて」
「あの娘の身体能力は、我々と根底が違う。人間工学を遥かに発展させた自己管理能力にある」
「どういうことですか?」
「筋肉の流れの一つ一つ、骨格の作り、心肺能力、あらゆる状態を彼女は把握し、それらのデータを総合し可能となる動きを瞬時に頭の中に構築する。体の動作効率を極限まで高め、最適化を施し、再現する。自分の体だけではない。まわりの状況もすべて彼女の頭の中では、数値化され恐ろしい精度でシミュレーションされる。あの娘にとって体を動かすというのは、運動を意味するのではない。頭脳労働なんだよ」
何がおかしいのか、伊達は自嘲《じちょう》的に笑った。
「あれに言わせるなら、我々の動きは非効率的で体力の無駄遣いなんだそうだ」
伊達の言葉を頭の中で反芻《はんすう》する。理屈では理解できる。しかし本当にそんなことが可能なのか。闘真は自問自答する。いや、それは無意味なことか。なにしろ目の前で、それを実践《じっせん》されたのだ。
「彼女、何者なんですか? どうしてこんな地下に閉じ込められてるんです?」
「ああ、そういえばまだ言ってなかったな」
少しだけ訪れる沈黙。エレベーターの階数を示すパネルだけが勢いよく回る。
「彼女は、彼女の名前は……」
そのとき、なんの前触れもなくエレベーターが停止した。上昇する勢いだけが体に残り、かかとが宙に浮く。ライトも消え、真っ暗闇になった。
「な、なんだ? どうしたんだ? 停電か?」
「そんな、停電なんてありえない。電源は三重に管理されてるはずです」
数秒後、非常灯の赤いランプだけが灯り、なんとか視覚は確保された。
「岸田博士、現状が把握できるか?」
「はい、通信系統は生きているようです」
岸田博士はエレベーターに設置されているコンビュータターミナルをせわしなく操作する。
すぐにスピーカーから人の声がした。
『岸田所長、ご無事ですか? 大変なことが起こりました』
「木梨《きなし》君か。なんだ? 何が起こった?」
「メインコンピュータのLAFIセカンドに、何者かがハッキングをしています。現在、第六から第十二区画、および第十五区画が……くそ、第二と第三もだめか。以上の区画のコントロール系統が制御できません』
「なんだと!」
『現在もハッキングは進行中です』
「どこからハッキングを受けている? 割り出しを急げ!」
『すでにやっています。10秒待ってください。……ああ、第五、第十四、第十六区画も制御不能』
次々と届く報告は、闘真にあることを思い出させる。なすすべもなくハッキングされ次々とのっとられたスフィアラボ。あのときの惨劇がよみがえってきた。
報告の中には聞きなれた単語も混じっている。LAFIセカンド。スフィアラボを管理するコンピュータと同じ名前だ。違うといえばファーストとセカンド。同系のコンピュータでここも管理されているのか。
『逆探知成功。第二十七区画、研究所下層部からです』
「くそ、やはりあの娘か!」
伊達が乱暴に壁を叩いた。
闘真は伊達がどうしてここにきて、あの少女に会わねばならなかったのか理解した。
スフィアラボを占拠した犯人グループに対抗するには、この驚異的なハッキング能力が必要なのだろう。
あわただしい空気のなか、エレベーターの下から、何かの駆動音が近づいてくる。
「なんの音だ?」
「これは……。おい、稼動《かどう》しているエレベーターがあるぞ! どういうことなんだ?」
『解りません。一基だけ、最下層から地上に通じる第六エレベーターの電源が生きています。搭載重量41キロ』
「41キロ……あの娘と同じだ」
岸田博士が青ざめる。
「こしゃくなマネを。我々を動けなくして、一人のうのうとエレベーターで逃げるつもりか」
下から昇ってきたエレベーターは闘真達の乗るエレベーターを追い越し、上へ消えた。
「LAFIセカンドを緊急停止。強制システムダウン急げ! 全システムを手動に切り替えるんだ」
岸田博士が声を荒げる。
『しかし、それでは全システムの99・5パーセントが使用不可能になります』
「それでいい。あのエレベーターをなんとしてでも止めるんだ」
『了解しました。LAFIセカンド、強制システムダウン実行します』
明かりがまた、一瞬だけ消える。
『システムダウンしました。全システムを手動および守秘回線に移行します』
「ここのエレベーターの電源を手動で戻すのに何分かかる?」
『復旧まで五分かかります』
「遅い! 三分だ。それ以上は待てん」
岸田博士が初めて怒鳴った。
『善処します。システムダウン直前のNCT施設状況を把握できました。転送しますか?』
「頼む」
エレベータのターミナルの画面の中、ダウンロードを示すインジケーターがのろのろと進む。全員が、その目盛りを見つめていた。
「あのエレベーターはどこに止まった?」
『第七層と八層の間で止まっています』
「第七層と八層から外に通じるドアロックの状況を調べろ。それに換気口も。想定できるあらゆる逃走経路を調べるんだ」
伊達が指示した図面を見て、岸田博士が伊達の言葉をすばやく補足した。
「ここと、ここ。それにここも。考えられる逃走経路は三つ。それ以外のドアはロックされている。電源が通っていないので開けるのは不可能です」
「解った。そこにありったけの警備兵を集結させろ。ドアを手動で閉じて溶接するんだ。あらゆる逃走経路はふさげ」
『了解しました。あ……エレベーター電源、復旧します』
エレベーターが再び動き出す。
ずっと傍観していた闘真は、頭の奥で何か違和感を感じていた。何かが引っかかる。何かが間違っている。いや、間違えさせられている。理屈ではない。ただそう感じるのだ。
エレベーターが地上にたどり着く。全員が出て行く中、闘真だけが中に残った。
「何をしている? 早く降りろ」
「すみません」
闘真はそれだけ言い残すと、エレベーターの最下層を示すボタンを押した。驚く伊達と岸田博士の顔が、ドアの向こうに消えた。
最下層につき、闘真は自分のカンが正しかったことを知った。
警戒を知らせる赤いランプが明滅する中、兵士達全員が床に倒れている。その中の一人を調べ、生きていることにほっとした。
闘真達がエレベーターで昇った後、誰かが来た証拠だ。いや、誰かと考えるまでもない。
『緊急事態発生、緊急事態発生。全システムがダウンしました』
電子音のエマージェンシーコールがけたたましく鳴り響いた。
『ADEM規定E−999が発令されました。残っている職員は、ただちに緊急脱出用エレベーターで脱出してください。緊急事態発生、緊急事態発生』
「緊急脱出用エレベーター?」
いま降りてきたエレベーターではないだろう。システムダウンで、電源は手動でつないでいると言っていた。つまり緊急脱出用エレベーターとは、そうした制約を受けない代物に違いない。
降りてきたほうとは反対側にある三つのドアに注目する。上部に緊急脱出用を意味するプレートがあった。さっき来たときはすべて閉まっていた、と思う。それが開いている。いや、一つだけ閉まっているドアがあった。誰かが使用したのだ。
開いているドアに乗りボタンを押すと、ものすごいはやさで上昇を始める。耳が痛い、と思ってまもなくエレベーターがチンと鳴って目的地についたことを知らせた。おそらくは地上階。
ドアが開くと長い通路があり、その先に少女の後ろ姿が見えた。病院の入院着のようなすそがその走りに合わせひらひらと舞っている。あの少女だ。
少女は振り返る。夢でも幻でもない。人の思考を一気に奪う美貌がそこにあった。
「電源止められたのに、よくエレベーター動くね」
闘真はどう声をかけていいか解らず、思いついたことを口にする。
「それは逆。電源が止められたからこそ動作する。緊急用のエレベーターが、停電で止まってどうする? ガス圧による独立動作だ」
「ああ、そうか。言われてみれば、そうだよね」
闘真はしきりに感心したようにうなずいた。少女はそれに厳しい眼差しを向ける。
「どうして、解った?」
「え、え? 何が?」
「どうして、あのエレベーターがオトリだと解った?」
「あ、いや……解ったというより、感じたっていうか。なんかおかしいって」
「それでこの緊急用エレベーターに気づいたか」
「気づいたわけじゃないんだけど、とりあえず逆に行ってみようかなって。ほら、オトリ使うなら、反対側に逃げるだろ。そうしたら、なんか動いてるエレベーターあったし。乗ってみたら君がいた」
少女の顔が呆れたものになる。
「それで私を、どうする?」
「何を?」
「ここで私を止める気か?」
「ああ、それなんだけど。正直状況がよく解らなくて。なんか知らないうちにこんなところに連れてこられて。君が何者で、どうしてあんな地下に閉じこめられていたのか解んないし、もしかしたら悪者は、伊達さん達のほうかもしれないし」
言っているうちに本当に困ってしまって、闘真は頭をかいた。
「どうしようね?」
「私に聞くな!」
少女は怒ったように、背を向けると、長い廊下をすたすたと歩いていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
少女に止まる様子はない。あわてて腰まで伸びる黒髪が揺れる背中を逼った。
「まだ、僕としてもどうするのが正しいか解らないんだ。せめて君の名前だけでも教えてくれないか?」
「峰島由宇」
ふりむきもせず少女は名を告げる。
「峰島由宇《みねしまゆう》か。いい名前だね。峰島由宇……峰島……峰島って、まさかだよね?」
「なんだ、知らなかったのか? 信じがたいのんびり屋だな、君は」
「だって君、まさか、もしかして」
口を金魚みたいにぱくぱくさせる闘真に、由宇と名乗る少女は冷ややかな視線を送る。
「お察しのとおり。私はあの忌々しいマッドサイエンティスト、峰島勇次郎の娘だ」
「……本物?」
「偽者がいるならぜひお目にかかりたい。こんな施設の地下深くに幽閉されていたことが、なによりの証明だと思うけど」
「え、でもだって、娘だからって、どうしてこんなところに閉じこめられてるの?」
「私の頭の中には、峰島勇次郎の遺産の知識が詰まっている。危険な知識も少なくない。充分な理由になる」
立ち尽くす闘真を置いて、由宇はさっさと通路を進む。
「ちょっと、待って。待ってったら」
後ろから由宇の肩をつかむ。世界が反転した。何をどうやったのか解らないが、投げられたことだけ解った。闘真はすかさず体を反転させ、四肢でやわらかく着地した。
わけも解らず顔を上げると、何かが鼻先に迫っていた。それが何か理解するまもなく、首がもげそうなほどの衝撃が襲う。体が真後ろに一回転するなか、あれは足の裏だと悟った。素足で助かった。靴を履いていたら、顔面は悲惨なことになっていた。意識を根こそぎ刈り取る鋭さもある。
――くそっ。
背後の壁に足で着地し、床に下りる。
追い討ちがくると思ったが、何もなかった。それどころか由宇の姿がない。前と左右、どこを向いても、隠れる場所はない長い通路と、コンクリートの壁があるだけだ。唯一残されているのは。
とっさに体を真横に跳ねさせる。一歩遅れ、真上からすさまじい衝撃が首筋を叩く。とんでもない跳躍力と滞空時間で、真上から攻撃してきたのだ。
すかさず体をねじり、なんとか威力をそいだ。
地面に着地した由宇は、予備動作もなくそのまま軽やかに体を後転させ、闘真と距離をとる。まるで体重を感じさせない、羽のような動きだ。音もほとんどしなかった。
「力の殺し方はなかなかうまい」
由宇は面白そうに目を細める。
「普通なら、昏倒《こんとう》している」
闘真は鼻を押さえたまま、荒い声を出す。
「一つ、大事なこと聞いてもいい? すごく大事なこと」
「聞くだけなら、ご随意に。答えるかどうかは解らないけど」
「いや、大事な話だから、答えてもらわないと因る」
由宇は肩をすくめる。言うだけなら勝手にしろという雰囲気だ。闘真は意を決した。
「あの、もしかして……下着はいてない?」
「はっ?」
とっさに何を言われたのか解らないのか、少女は目を白黒させる。
「いや、だから下着、もしかしてはいてないのかなって。病院で検査するみたいな服着てるし……」
少女の目がだんだんとつりあがっていく。
「そういうときってほら……、えーと、その、チラッと……、不可抗力?」
鼻を押さえた指の間から、血がボタボタと床に滴る。
「あ、誤解しないで。これは蹴られたから出た鼻血であって」
由宇は目をこれ以上にないほどつりあげ、顔を真っ赤にさせる。すごく怖い。闘真は怯えていた警備兵の気持ちが痛いほど理解できた。
「そんなに私の裸が見たければ、ここの職員になればいい。いつでもおがめる」
怒りを押し殺した声は震えていた。
「え、なんで?」
「私にプライバシーはない」
闘真は研究所で見た奇妙な部屋を思い出した。家の屋根をはずしたような構造。それを見下ろす研究員達。確かにあそこに住んでるならブライバシーゼロだ。年頃の少女が住むには、あまりにも酷な環境だ。
「もしかしてっていうか、やっぱりっていうか、怒ってる?」
「面と向かって言うからだ! ハレンチな奴め!」
怒りが頂点に達したのか、足を思い切り床に叩きつけた。コンクリートの廊下に、彼女の剣幕が大きく反響する。
「貴様みたいなバカに付き合ってる暇はない」
由宇は顔から感情を消すと、もうここまでといったように闘真を無視して走り去る。
「だから待って」
すでになんで追いかけているのか、闘真自身よく解らなくなってきた。なかば意地のようなものだ。ようやく追いついたのは、廊下の曲がり角。なぜかそこで彼女は、棒のように立っていた。
曲がり角の先の長い長い廊下の遥かむこうに、四角い形に切り取られた明かりが見えた。人工のそれではない。陽光の柔らかさと優しさがかる。
由宇の瞬きを忘れた大きな瞳は、ただただ一心にその四角い光を見つめていた。
「あ、……ああ」
声も出せず唇を震わせる。それをなんと表現したらいいだろう。喜び、悲しみ、驚き、不安、あまりにも多くの感情が一つとなり、ただ嗚咽《おえつ》となってこぼれていく。
何かが彼女の髪を揺らした。
「……風?」
風を含んだ黒髪は、優しく波打つ。
見えない風をつかむかのように、由宇は震える手を前に伸ばした。その手に引っ張られるように、体が前に傾き、走り出す。
「あ……」
離されてはならないと闘真も必死で後を追うが、みるみる離されていく。決して足が遅いわけではない。むしろ速い。闘真は100メートルを十秒台でかけ抜ける。なのに由宇との距離は、加速度的に開いていく。
駿馬《しゅんめ》のように美しくかける雄大なフォーム。ただ光を目指し走る純粋な姿。しかしその時間は唐突に終わりを告げる。
前を走る由宇が、突然倒れた。何かにつまずいたわけでもない。不自然な倒れ方である。起き上がる様子もない。
「どうしたの?」
ようやく追いついた闘真は由宇を抱き起こそうとし、そして、闘真はそこで一生忘れることのできないであろう少女の顔を見た。
由宇は左の胸に指を食い込ませ、苦しそうにうめいていた。大量の汗が額から流れ、床にこぼれ広がる。苦悶《くもん》に歪んだ顔は、それでも美しさを損なわず、瞳だけが獣のように爛々《らんらん》と輝いていた。ただまっすぐに光を目指し、腕の力だけで体を引きずろうとしている。
「大丈夫?」
「触るな!」
由宇は闘真の手をはねのけた。
「くっ、こんなときに。あと少し……少しなのに」
胸に食い込む指はさらに深くなり、血がにじむ。
「あ……がっ……げふっげふっ」
突然咳き込んだかと思うと、血の塊が白い床にぶちまけられた。
「もう……少し……なのに」
体が言うことをきかない悔しさか、か細い白い手が床を殴るが、それも力がない。
「そ…と……」
最後の力で由宇は少しでも光に近づこうと手を伸ばした。しかし、それもついに力尽き、床に落ちていく。
落ちようとする手を闘真が受け取った。意識が朦朧としている由宇の体を、抱き上げる。この少女が何者で、味方なのか敵なのか、もうどうでもよかった。あんな場面を見せられて、この娘につかないなんて男じゃない。闘真の思考はシンプルだ。一度決めたら行動は早い。
由宇を抱きかかえたまま、明かりのある出口に向かって歩き出す。
うつろに開いた由宇の目は、ただ光を見ている。意識はほとんどない。闘真に抱きかかえられていることすら、もう解らないのかもしれない。
「坂上君、よくとめた。お手柄だ」
一番聞きたくない声が、闘真の背中にかかる。振り向くまでもない。
「伊達さん、このまま行かせてください」
「駄目だ」
伊達の背後には、銃を構えた警備兵が何人もいた。
「納得できません」
「甘い考えを許すな。その娘の恐ろしさの片鱗は見ただろう。軽症者二十八名、重症者十二名。解るか? 全部その娘がやった」
「でも」
闘真の言葉が詰まる。
耳障りな金属音がした。明かりのこぼれる扉がゆっくりと閉まろうとし、外の光は徐々に細くなる。光が細くなるにつれ、由宇の瞳に宿る悲しみの色は濃くなっていく。
闘真が走り出そうとすると、銃声が耳をかすめた。
「動くな」
従うしかなかった。
扉は冷たい金属音をさせ、光を断った。同時に闘真の腕の中で、由宇の体が急に重くなった。気を失ったのだ。
由宇が目を覚ましたとき、最初に目に入ったのはいくつものまぶしいライトだった。
意識はまだ朦朧としていた。自分自身もまわりの現状も把握できていない。あたりを見渡そうとしても、体にカが入らず、わずかに身じろぎしただけに終わった。
「気づいたか」
ぼやけた視界に誰かが入ってきた。聞き覚えのある声のはずなのに、さだかでない。意識の混乱は、まだ続いていた。
「脈拍も脳波も安定しました。もう大丈夫です」
「例の処置をいまのうちにしておくか。また暴れられてはかなわないからな」
腕が持ち上げられる。何か塗っている。アルコールの臭い。続いて鋭い小さな痛み。注射をされた。
「聞こえているか? いま注射した液体には極小のカプセルが約一万含まれている。中は八十七種類の致死性の毒だ」
由宇はうっすらと目を開け、声のする方向を見た。ぼやけた視界が輸郭を結ぶ。そこには彼女がもっとも嫌う人物、伊達がいた。
「カプセルの融解リミットは、二十四時間。それを越えると中の毒がおまえを殺す。逃亡して解毒剤を作ろうとは考えないことだ。いくらおまえでも二十四時間以内に、百種類近い解毒剤は作れないだろう」
口を開こうとしてやめた。いまの体には憎まれ口を叩く余裕はない。
「助かりたければ、我々に協力しろ。おまえの知識を貸せ」
そのとき由宇にもっとも馴染み深い声が、飛びこんできた。岸田博士だ。
「伊達さん、無茶です! スフィアラボ制圧作戦に参加させるなんて! 発作を起こして、まだ間もないんですよ」
「岸田博士、その話はもう終わったはずだ。さっきも言ったとおり作戦開始は十八時だ。回復する時間はある」
「五時間しかない! 反対です。あなたは由宇君を殺すつもりですか!」
「死にはせんよ。遺産を狙った犯罪は何度もあったが、今回の相手は手ごわい。その娘の協力が必要だ」
「せめて私を同行させてください」
「駄目だ」
「しかし!」
「また発作を起こしたときのために、カンフル剤は用意しておけ。話は以上だ」
「伊達さん!」
「意識が会話できるくらいになったら、その娘に必要なものを聞いておけ」
伊達の足音が遠ざかる。
「大丈夫か? なんとかするから」
岸田博士もその言葉を残すと、伊達の後を追った。人の声は消え、無機質な電子音だけになった。
視線を天井に戻す。ライトの明かりがまぶしいだけで、温かみはない。長い通路の奥の、四角い光とは違う。
届かなかった。
唇をかみ締め、由宇は声もなくうめいた。
[#改ページ]
[#見出し]  二章 スフィアラボ、再び
無限の空聞に風間は漂っていた。体がどこまでも広がっていく。広がりながら、感覚は研ぎ澄まされ、頭はさらに冴《さ》えていく。
誰かの話し声が聞こえ、死体の山が見え、プラントセクターの花の香りを運ぶ風を感じ、人工池の噴水の水飛沫《みずしぶき》をあびた。緊張している見張りの心拍数は物音のたびに上下し、人が出入りするたびに酸素の濃度が変わる。
あらゆる感覚と情報が一度に頭の中に洪水となって押し寄せてきた。あわてて情報量を絞り込む。とても人間の脳が正しく判断できる領域ではない。
情報量の紋り込みが終わったら、今度は情報をカテゴリー別に分けていく。視覚、聴覚触覚、嗅覚、の四感を区分けし、さらにそれ以外の新しい未知の感覚を脳に適用させていく。
それは人間の体ではとうてい検知できないものばかりだ。当然、その新しい感覚に最初は戸惑うが、それもすぐに慣れて他の感覚と同様に扱うことができた。
新たに覚えた数多くの感覚の代償というわけではないだろうが、味覚が存在しないのは残念だった。
次にそれぞれの情報と、位置関係をつなぎあわせていく。
最初に行ったのは、視覚である監視カメラの無数の映像が、スフィアラボのどの部位にあたるのか、一つ一つ確認していくことだった。
いま自分はスフィアラボという生き物になっているに等しい。体の中に目があるような奇妙な感覚だ。逆に外を向くカメラは極端に少ない。といってもその数はゆうに百を超えるのだが。
外では警官隊の船と人がわらわらと動いている。
正確にはスフィアラボの頭脳であるLAFIにシンクロしている。
だいぶ慣れてきた。そろそろ自分の体に戻ろう。
風間はゆっくりとした上昇感に身をまかせる。ふっと一瞬何もかも閉ざされた感覚の後、慣れた、しかしいまとなっては窮屈に感じる人間の肉体に戻っていた。
スフィアラボの刺激的な情報量を人間の体に望めるはずもなく、取り戻した本来の感覚に風間は肩を落とした。
肩を叩かれて振り向いたが、視界は真っ暗なままだ。あわてて頭にかぶせてあるバイザーを脱ぎシートから立ち上がる。このシートとバイザーによって、風間の精神とLAFIファーストは連動する。
視界が戻ると目の前には仲間の一人、光城時貞《こうじょうときただ》の姿があった。たった二つしかない目がとても不自由に感じられた。暗い部屋の細部も解らない。スフィアラボの暗視カメラのようにはいかない。
[#挿絵(img/9s-097.jpg)]
セントラルスフィアと名づけられたLAFIの中枢部。光は部屋全体を覆う電子の光だけで、暗闇に光るそれは、星空のように見える。中央のシートを照らす赤い光だけは不気味に明るい。冷房が効いているため、かすかに肌寒い。唸るような低い電子音。人の五感が感じ取れるのはそれくらいだ。
「どうだ? いけそうか?」
光城が話しかけてくる。
「なかなか難物だ」
風間の答えを聞いて、光城は面白くなさそうに鼻を鳴らす。ばかでかい剣を背負ったコート姿の若い男。顔の下半分はコートで覆われ、人相はさだかでない。切れ長の瞳の底に暗い感情が見える。背中のものは剣というより、人の背丈ほどもあるばかでかいコンバットナイフのような印象である。刀身の全面は電子回路のような光学模様で覆われており、時折その溝に青白い光が走り輝く。
異様な姿は珍しいことではない。峰島勇次郎の遺産の恩恵を受けた人間は、大なり小なりそのような傾向にある。
「時間がかかるってのか? たかだかコンピュータ一個だろ?」
「峰島勇次郎が作り出した、まったく新しい理念のコンピュータLAFI。そう簡単に姿を拝ませてくれちゃ、ありがたみがないだろう」
「こんなに大掛かりな事件を超こしてまで、やってんだ。確実に金になるんだろうな?」
「あたりまえだ。Aクラスの遺産だぞ。欲しがるやつらはいくらでもいる。売る先には困らない」
風間はLAFIファーストと精神レベルでのシンクロ能力、峰島勇次郎から与えられたエレクトロン・フュージョンのことは口にしない。現段階で他のメンバーに知られるのは、風間の本当の目的を遂行するのに都合が悪いからだ。
風間は立ち上がると、セントラルスフィアの奥にある分厚いドアの前に立つ。認証パネルに手を置くと認証エラーと表示され、ドアはピクリともしない。単なるパフォーマンスだ。開けようと思えば開けられる。だが光城はその行動を見た目どおりに受け取り、どこか馬鹿にした口調で言った。
「解った解った。とにかくまだ一番奥には入れねえってことだろ?」
「LAFIのハッキングはあなたしかできないわ。頼りにしている」
光城の隣には、先に潜伏していた宮根瑠璃子がいた。体のラインにそったスーツは妖艶な肢体を浮き彫りにし、その上には体にふさわしい艷やかな顔がある。光城に比べると普通だが、戦いの場であると考えるとまともとは言いがたい。
「俺のすることに間違いはない。まかしておけ」
瑠璃子を見つめ風間は深くうなずく。瑠璃子は少女のように頬を赤らめた。瑠璃子だけは風間の精神レベルでのLAFIとのシンクロ能力を知らされていた。そのためか恥じらいの視線の中に、共犯者めいたなれなれしい雰囲気がある。
しかしそんな目の前の女の様子を歯牙《しが》にもかけず、風間は時計に目をやった。LAFIに潜ってから十五分ほど経過していた。体感的にはもう丸一日は潜っていたように感じられた。やはり電子の世界とこの窮屈な肉体の世界では、時間の流れが大きく違う。
風間はまたLAFIに潜りたいと感じた。麻薬的な魅力がそこにはあった。
「予定より遅れている。さっさとハッキングを成功させて、その頑固な金庫を開けてくれ。スフィアラボを乗っ取った時みたいによ」
光城は面白くなさそうに喋るが顔は笑っている。これから起こることが嬉しくてたまらないのだ。
「ふん。予定が遅れて一番喜んでるのはおまえだろう。峰島の遺産犯罪対策部隊、念願のLC部隊と思う存分やりあえるチャンスだ」
「おおよ、亜門《あもん》のやつも喜んでるぜ。傭兵時代の血が騒ぐってもんよ。ひゃーはっはっはっはっ!」
光城のヒステリックな笑い声は、狂人のそれであった。風間と瑠璃子が意味ありげに目配せをするのにも光城は気づかなかった。
闘真が事件のあらましを説明するのは二度目だ。一度目は最初にかけ込んだ警察署。二度目はいま、傍聴者は、たった一人の少女。
「以上で、終わりです。次に気づいたらヘリに乗せられて、ここに向かってました」
同い年の少女に向かって、なぜか敬語。
彼女はベッドの上で目を閉じている。まだ体を自由に動かせないらしい。
「あの、話終わりましたけど?」
瞼がゆっくりと持ち上がり、瞳だけが闘真を見る。
「横田健一か。惜しい男が死んだな」
ああ。闘真は深く深くため息をついた。いまの言葉でずいぶんと救われた。まるで矛盾することなく、深い悲しみもわいた。少女は、由宇は、慰めでもなんでもなく、ただ思ったことを言ったのだ。それがありがたかった。
「横田という男は、まぎれもなくコンピュータエンジニアとして天才だ。AFI本来の姿に気づき、少しとはいえ自力で解析したか。たいしたものだ」
「そんなにすごいことなの?」
「すごい。生きていたら木梨を首にして、雇いたいところだ」
「あの、木梨って?」
「ADEMのコンピュータ部門の責任者。優秀だがプライドの高さが、それを阻害している。LAFIセカンドをまかせておくのは心配だ」
「LAFIセカンドって?」
質問ばかりしている自分が馬鹿みたいに思えたが、由宇は同じ感想を抱いていないのか表情に出していないだけなのか、幸いにも丁寧な答えが返ってきた。
「三基あるLAFIシリーズの一つ。初代はスフィアラボで使われているLAFIファースト。後継機がこの研究所にあるLAFIセカンドと、ノートサイズのLAFIサード」
「そういえば、ヘリの中でこの研究所のコンピュータでスフィアラボにハッキングをしかけるとか、なんとか言ってたのはLAFIセカンドのこと?」
「だろうな。普通の方法では、ハッキング不可能だ。まあ妥当な判断だが……」
由宇はしばらく思案顔になってから、
「伊達を呼んでくれないか? 興味深いことが解った」
と言った。伊達が来ると、由宇は面白くなさそうに説明を始めた。
「重要な点を三つ言おう」
「聞こう。なんだ?」
「一つ、敵の兵士の中には遺産を所持している者がいる」
「それは聞かなくても解る」
「二つ、敵はLAFIを使いこなしている。カオス領域レベルで操ってるのは間違いない」
「カオス領域って何?」
「横田という人物が言ってただろう。LAFIのOSの下に何かあると。それをカオス領域という。設計思想そのものが、従来のコンピュータとはまったく異なる。使いこなせる人間はいない」
「でも、いま敵は使いこなしてるって」
「訂正しよう。使える人間はごく一部だ。伊達、これまでADEMにかかわった技術者全員の名簿は洗ってるな」
「割り出し中だ」
「無駄なことだと思うが、一応碓認してくれ」
「どういう意味だ?」
由宇は伊達の質間には答えず、自分の言葉を続ける。
「三つ、その少年のセキュリティレベル0は、生きている可能性が高い」
これには伊達も驚いた顔をする。
「なんだって?」
「おそらく敵もスフィアラボの職員が、カオス領域まで使っているとは思ってないだろう。セキュリティに関しては、従来のOS上の管理だけしかチェックしていない可能性が高い。だからその少年はLAFIまで奪われたにもかかわらず、ロックのかかったドアを開けて出ることができた」
「確かか?」
「あくまで可能性だ。それにそのときはしていなくても、いまはチェック済みで閉じられた可能性もある。そこまでは解らない。でももし」
「もし?」
「その少年のセキュリティレベルが生きているとしたら、とても貴重だ。無条件でレベルOをクリアできる。一度だけだろうが。今度使ったら、気づかれてセキュリティ権限は消される」
「一回だけの万能キーか」
闘真はポケットの中にある横田から託されたものを握り締めた。心臓がドクンと鳴る。
「あの……僕も協力できるってことですか?」
「いや、気持ちは嬉しいが」
「でも、何かしないと。あのスフィアラボの中には知り合いもいるんです」
「そこまで言うなら、LC部隊がスフィアラボに突入するためのメインゲートを開けてもらおう。それで充分我々の役に立つ。もちろん中には連れて行くことができない。解るね?」
「ゲートのセキュリティはレベル2だ。贅沢《ぜいたく》な使い方だな」
「子供を巻き込めるか。これでもぎりぎりだ」
「私も同い年だけど?」
伊達は鼻でせせら笑う。
「冗談はよせ。化け物が」
話はそこで終わった。
闘真は再びヘリコプターに乗ることになった。
隅に備え付けられたベッドでこんこんと眠り続ける少女を心配そうに見ながら、闘真は迷っていた。話した後、疲れたといってまた眠り始めたのだ。本調子でないのは、白い肌がさらに白くなっているのを見れば解る。
ヘリコプターの騒音がうるさくないだろうかと心配し、自分もここで寝ていたことを思い出し苦笑いをした。このままスフィアラボに着くまで、寝かせてあげたいと思う。
「伊達さん、本機に近づいてくるヘリがあります」
「なんだと?」
静かな顔で資料に目を通していた伊達が、表情を曇らせる。いつもこんな感じに忙しいのだろうかと、他人事《ひとごと》のようにぼんやり考えていると、
「この空域はLC部隊が占有しているはずだぞ」
「はい。しかし侵犯しても、とがめられない組織は存在します」
雲行きの怪しい会話が聞こえてきた。だが何かあったとしても自分には無関係だと思い、闘真は窓の外を見た。
「米軍か? また根拠のない遺産の所有権を主張しに来たか?」
「いえ、それよりももっとタチが悪いです」
「なんだ?」
「真目家のヘリです。坂上闘真の身柄を要求しています」
闘真の顔が引きつった。
「三十分だけ時間をくれと、真目家から連絡が入りました」
パイロットの言葉に、伊達は時計を確認して舌打ちをする。
「まったく、こっちのスケジュールをよく把握している。さすが昔から情報戦を勝ち得てきただけはあるか」
シティヘブンと呼ばれる超高層ビルの屋上に、闘真達の乗るLC部隊のヘリは着陸した。ほぼ強制的な真目家の誘導にしたがってだ。
闘真は屋上に待っていた初老の男性に案内されるまま、エレベーターを降りる。ついたのはビルの中なのかと疑うほど広く上品な内装の客間であった。闘真はソファに腰を下ろし、目をつむって待った。
闘真が真目家にかかわりのある地に足を踏み入れたのは一年半ぶり、あの凶事以来である。あの事件から最初の半年は、病院の鉄格子の中だった。父である不坐が放り込んだ。たまたま知人の見舞いに来た横田健一に会わなければ、いまも鉄格子の中だったに違いない。
次の半年、横田は闘真のリハビリにつきそい、新たな学校の編入手統きまでしてくれた。一年遅れて、闘真は高校二年へと進級した。
真目家の一子としての過去と、完全に決別するはずだった。真目家からもコンタクトはなかった。見捨てられたのだと解釈した。そのほうが楽だった。そのまま平穏な日常に身を沈めるつもりだった。しかし平穏な日常を教えてくれた横田は死んだ。平穏な死ではなかった。
ここにきて肉体的な疲労と精神的な疲労が、同時に襲ってくる。五分だけ休みをとろうと思い目をつむる。
どこまで本気でどこまで冗談なのか、麻耶は屈託のない笑みをこぼす。
[#挿絵(img/9s-107.jpg)]
「こっちは、おまえにまかせきりか。上の二人は?」
「北斗も勝司も、いまはお父様の腰ぎんちゃくをしています」
麻耶は闘真より血のつながりの濃い二人の兄を、名前で呼び捨てる。
「だから兄さんと会えます。お父様がいらしたら、首根っこつかまれて追い出されていますわ。それとも殺されるかしら」
半分は冗談だろうが、可能性としてないわけではない。厳格でいながら女にだらしなく、家族より家柄を大事にする男、真目不坐。子供達は真目家を繁栄させる道具でしかない。一番可愛がっていた器量よしの麻耶ですら、初めは政略結婚の道具と考えていたようだ。
しかし策略をめぐらす血筋を一番濃く受け継いだのは、皮肉にも麻耶だった。この一見愛くるしい妹は、あらゆる策略をめぐらし、めぼしい求婚の申し出を相手方から取り下げさせた。
何をどうしたのかは知らない。知らないほうがいいかもしれない。
闘真が一度だけ知る父の敗北。まさか目の前の花も折れそうにない娘がもたらしたとは、誰が思うだろうか。
「しかし兄さんは相変わらず、真目家の血筋である自覚が薄いのですね」
「え、何が?」
「スフィアラボは峰島勇次郎の遺産の結集なのですよ。まさか、そこでバイトだなんて」
きっかり五分後、目を開けた。テーブルを挟んだ向かいのソファには、予想通りの人物が座っていた。
「よく、お休みになれましたか、兄さん?」
真目麻耶は柔和な笑みをこぼすと、手にしていたテイーカップを置いた。指先まで神経のゆきとどいた洗練された動作は、物音一つさせはしなかった。闘真と一つだけ歳の違う、腹違いの妹。肩口で切りそろえられた柔らかそうな髪、目がくりっとした愛らしい顔立ち。外見だけで評価するなら、どこにだしても恥ずかしくないお嬢様だ。
麻耶が闘真を兄と呼ぶのは、二人きりのときだけである。いまも昔どおりに呼んでくれることに安心し、同時に重荷に感じた。闘真の頭の中のとある懸念が、さらに重圧となる。麻耶は一年半前の事件を、正しく記憶しているだろうか。
つとめて平静な声で、闘真は口を開いた。
「ああ、久しぶりだね」
「元気そうでなによりです。一年以上も会っていないというのに、あまり変わった様子はありませんね」
「もう少し別の方法で会えなかったの? ちょっと強引過ぎるよ」
「時間的な余裕がなかったものですから、強硬手段を取らせていただきました。兄さん、どうぞこれを。必要な書類はそろえておきました」
差し出された封筒の中身を確認するまでもない。渡された書類は、闘真が必要とするものに間違いなかった。闘真がどういう状況でどういう立場なのか、すべて理解しているのだ。
真目家が何百年も権勢をふるってこられたのは、つねに情報戦で先手を取ってきたからだ。
その異常ともいえる情報収集能力があるからこそ、峰島勇次郎の技術が隆盛を誇る現在、あえてその技術を排しても世界とやりあっていける。それどころか世界をリードしている。
闘真は一年半ぶりに会う妹の顔を、まじまじと見た。少し大人びたようだが、可憐な雰囲気は変わっていない。麻耶は闘真の視線に少し困ったように、体を縮めた。
麻耶はただ座っているだけで存在感があった。何百人という人ごみの中にいても、麻耶はすぐに解るだろう。麻耶だけではない。現当主であり闘真と麻耶の父である不坐の存在感はそれを凌駕《りょうが》する。
真目家が情報戦をつねに制してきた最大の因子。圧倒的な存在感が人望を集め、人夜を心酔させ、信頼を得て、価値ある情報が真目家へと集まってくる。
峰島勇次郎が新しい時代の異端者なのなら、おそらく真目家は数百年続く異端者なのだ。相容れないのは、なんとなく納得できる。
「親父は、どうしてる?」
「ここ半年見ていません。もしかしたら、またどこかで私達の兄弟を作ってるのかもしれませんね」
横田からスフィアラボでの誘いがあったとき、人とのかかわりを疎《うと》んじる闘真にとって願ってもない条件だった。真目家のことが頭によぎったが、そこの人間として認められていないのだから、かまわないと考えた。
「どうして、いまになって僕に連絡をしてきたんだ?」
麻耶は少しだけ答えることに躊躇する。
「兄さんが真目家を捨てるのは、しかたないと思いました。あんなことがあったんですから。忌わしい記憶を封じたまま病院で一生をすごすのも、幸せの一つかもしれないとも考えました。いまにして思えば、馬鹿な考えだと思います」
「だから放っておいたのか?」
「私を、真目家を恨みますか?」
「いや、恨んだことなんてないよ」
それは本心である。ただ真目家の禍神《まががみ》の血と呼ばれるそれを、忌わしく思ったことはある。
そのことはおくびにも出さない。目の前のほっとした麻耶の顔を壊したくはなかった。
「兄さんが平穏な生活を送るなら、もう二度とかかわるのはよそうと……」
語尾がかすかに震えている。
「一年半前私がどのような想いで、あの事件を聞いたと思いますか?」
麻耶の言葉から、妹が一年半前の事件を正しく記憶していないことが解かった。心の重圧の一つが取り除かれ、代わりに妹を騙《だま》しているという罪悪感が生まれる。
闘真が言葉に窮している間、麻耶はカップの紅茶を飲みほした。音を立てて置かれたカップが、彼女のいらだちをあらわしている。
「すまない。麻耶には心配をかけた」
会いにこなかったのは、真目家と決別したいという気持ちだけではない。人の道を外れた自分に会う資格はないと思ったからだ。ただそれは弁明として通じるものではない。だから闘真は頭を下げるしかなかった。
「兄さん……」
顔をあげると、悲しそうな顔があった。自分は何か間違いを犯かしたのだろうか。また悲しませてしまったのだろうか。
「一年半前、あの事件を聞いてお父様は…」
「さらに失望してたか?」
「いえ、嬉しそうに笑ってました。さすが禍神の血を濃く引いた男だと」
君そらくそれは闘真の心の中でなかば予想した答えだった。驚きはない。ただ心のそこにあるぽっかりとした穴の存在を自覚するだけだ。
「そうか」
「やっぱりって顔をしないでください。私のほうがやるせなくなります」
「悪かった」
少しだけ沈黙が続き、闘真はおもむろに右手を差し出した。
「あれを」
麻耶にはそれだけで通じる。表情がかたくなったことで、それが解る。
「お父様は、兄さんをさげすんでますが、同時に誰よりも認めている部分があります」
麻耶はかたわらに置いてあった、無骨な木鞘《きさや》に収まった小刀を手に取った。それを闘真の前にかざす。
「この鳴神尊《なるかみのみこと》をたくしたのは、兄さんなのですから」
「……」
父が唯一認めた闘真の才能。真目家を現在の地位にのし上げたもう一つの力。一年半前の事件の元凶とも言うべき才覚。人斬り。殺戮衝動。真目家の男系にだけ現れる禍神の血。
闘真は思った。スフィアラボで現在起こってる出来事を。死んでいった仲間たちを。峰島勇次郎の遺産を。何か思惑のある伊達の顔を。そして地下深く幽閉されていた一人の少女を。
いまは少しでも対抗できる力が欲しい。
小刀をつかむ。一瞬だけ、刀身が震えた気がした。キーンと耳鳴りに似た音も気のせいなのか。
麻耶が少しだけ目を細める。
「鳴神尊《なるかみのみこと》も兄さんの手に戻って、喜んでいるようですね」
闘真は少しだけためらい、呼吸を落ち着けてから、手馴《てな》れたしぐさで刀を半分だけ抜く。刀身を光にかざすと、美しい光沢を放った。乱れ刃の刃紋、鎬《しのぎ》から刃先にかけて雲のような映りが見事である。
しばらく刃の光を凝視する。心は落ち着いている。あのときのような、凶悪な高揚感はない。大丈夫、大丈夫だ。
妹を安心させるため笑顔を作ろうとした瞬間、なんの前触れもなく、心の底から黒いものがあふれてきた。それはあっというまに体中に蔓延し、感情を黒く塗りつぶしていく。両腕が一回り太くなり、血管が破裂しそうなまでに浮かんだ。刀を思う存分振るいたいという衝動がわき上がる。
必死の力でパチンッと刀を納めた。同時に体の中から、黒い衝動が霧散する。
全身が汗でびっしよりになっていた。鼻から大きく息を吸い込み、震える唇から少しずつ吐き出していく。それを数回繰り返し、ようやく落ち着いた。
「気を緩めましたね」
「……面目ない」
「いいえ。私は兄さんを信じていますから」
そして麻耶はふっと表情をほころばせた。
「では出発してください。真目家のバックアップの準備もできています」
そう言って、通信機らしきものをよこす。
「いつでも連絡ください。受信領域は世界中の97・7パーセントをカバーします」
「いや、これだけで充分だ」
小刀と封筒だけを受け取ろうとする闘真を見て、蘇耶の表情から笑みが消えた。
「兄さん。真目家は価値ある情報を武器に、ここまで発展したのです。なのに兄さんが失敗したら? 私が真目家の名をせおって渡した情報は、無価値ということになるのですよ。そのような不名誉をかぶれと、そうおっしゃるのですか?」
「いや、そんなつもりじゃなくて。困ったな。それにあまり僕にかまうと、親父が……」
「兄さん!」
闘真に最後まで言い訳をさせず、麻耶はすくっと立ち上がる。
「真目家に名を連ねる一人として、兄さんを全力でバックアップします。たとえ」
麻耶はそこで言葉を切り、深呼吸をする。
「たとえ、お父様を敵に回そうとも」
おそらくいずれ、そう遠くない将来。麻耶と父、不坐の確執は表面化しそうな気がする。もしかしたら、それは自分がきっかけかもしれない。あくまできっかけであり原因ではないが。
「ですから、安心していってらしてください」
以前から麻耶の笑みが誰かに似ていると思った。それはずっと解らなかったが、今日初めて誰なのか気づいた。父、不坐に似ているのだ。
闘真は三度《みたび》、機上の人となる。輸送ヘリコプターの駆動音に混じり、雨音が激しくなっていく。季節外れの嵐が近づいているのだ。
搭乗してからすでに一時間。ずいぶんと沖に出たようだ。闘真は首を回し、窓の外を見た。窓を叩く雨粒と闇のように暗い海面が、かすかに見える程度だ。
視線をヘリの中に戻す。
無骨なヘリの空間に、十数名の男がせま苦しく納まっている。ほとんどの人物は体格がよく、重装備に身をかためているため、せまい機内はさらに窮屈になっている。
峰島勇次郎の遺産犯罪対策部隊。通称LC部隊(Legacy Counter)の面々だと紹介された。峰島勇次郎のオーバーテクノロジーが生む凶悪犯罪。激化するそれに対抗するために作られた特殊部隊。話には聞いていたが、当然ながら見るのは初めてだ。メディアに露出することもほとんどない。
全員が搭乗してきた闘真の若さに驚いていた。どうして高校生がいるのかと、あからさまに不愉快な顔をした隊員もいる。
しかしいま空気が重苦しいのは、そのせいではない。異様な緊張感に空気が張り詰めていた。その理由を闘真は容易に想像できた。
席のはじに座る一人の少女、峰島由宇。その存在が、彼らに困惑と緊張をもたらしていた。
場違い、という理由だけなら闘真自身も充分に場違いである。闘真は線の細いまだまだ少年の面影を残した顔立ちをしている。しかし闘真に由宇が浴びるような奇異な視線は向けられない。
思い出したように闘真に視線を向けられることはあるが、すぐにそれも由宇のほうへと戻っていく。
彼女の人並みはずれた美貌が注目を集めている、というわけでもない。なぜなら彼らは由宇の顔を見ることができない。いまの彼女は初めて会ったときと同じく目隠しをされ、顔の半分が覆い隠されていた。それだけではない。手足には拘束具、そして太いベルトが華奢な体を、座席に縛り付けている。
まるで凶悪な犯罪者の護送のようだ。しかしその扱いを受けているのは、小柄な少女。他の搭乗者の当惑をよそに、由宇は身じろぎ一つせず、唯一自由な唇を固く結んでいる。
装備も何もない。白い薄手のノースリーブのシャツにカーゴパンツ。
もし拘束具がなければ、その格好は彼女の魅力を充分に引き出していると思うところだろうが、これから行くのはショッピングを楽しむ場所ではない。敵地なのだ。
「ブリーフィングを始める」
伊達の声が、異様な緊張感を切り裂いた。
「昨日、十八時零分。環境研究施設スフィアラボが、何者かによって占拠された。久野木《くのき》、スフィアラボについて簡潔に述べよ」
「はい。スフィアラボには、かの峰島勇次郎の技術がふんだんに使われています。外壁を覆う特殊ガラス、施設内の植物や微生物、そしてすべてを統括するコンピュータLAFI。とくにLAFIはクラスAの遺産で、民間レベルでそのクラスの採用は、他に例はありません」
久野木と呼ばれたLC部隊隊員の一人が、声を大にして答える。
「そうだ。スフィアラボは遺産の宝庫。その手を狙う犯罪者には、宝の山だ。まだ特定はできていないが、犯人グループは手口の類似性より蜃気楼《ミラージュ》である可能性が高い。そうだな……大場、蜃気楼について簡潔に述べよ」
「はい。四年前より頭角を現してきた遺産強奪グループの一つです。おもな目的は峰島勇次郎の遺産の強奪、非合法のルートでそれらを売りさばくことです。手口に特徴があり、強奪対象がなんらかの組織によって管理されている場合は、内部に仲間を送り込み、強奪の手引きをさせます」
「うむ、今回の事件もその性格が現れている。内部犯の手引きがあった。行動は迅速《じんそく》にして的確。過去何度もLC部隊が出動したが、すべて遺産が奪われた後だった。しかし今回ばかりは彼らもしくじった。警官隊に囲まれ、奴らはスフィアラボに立てこもっている。事件発生当時中にいた民間人は千四十三名。うち二十名以上は、占拠事件発生後殺害されている」
ざわめきが起こる。闘真の表情も硬くなった。犧牲者の一人は横田だ。また千名以上の人質の中には、横田の家族がいるのだ。無事かどうか不安になる。
「それでも千名以上。スフィアラボの敷地面積は、ちょっとした町に匹敵すると聞いています。それだけの人数の人質と、それだけの広さ。占拠できるものでしょうか?」
隊員の一人が質問をした。
「もっともな疑問だ。それを可能にしているのが、スフィアラボを管理しているLAFIファーストだ。LAFIファーストはスフィアラボ全体の大気調螫から、ドアの開閉一つすべてを管理している。極端な話、人質達の自由を制限するという目的だけなら、ファーストを使いこなせば一人で充分に可能なのだ。犯人グループは、どのような手段を使ってか難攻不落と言われたLAFIファーストを、一瞬でハッキング。スフィアラボの全制御を奪ってしまった」
「あの……人質の人達の身の安全はどうなんでしょうか?」
闘真はおずおずと手を上げて質問をした。
「大勢の人質を少人数で管理しているという性質上、いらぬ危害は加えないだろう。暴動など起こされてはたまらないからな。過度のストレスからスフィアラボ内の限られた酸素を、よけいに消費するのも好ましくはないだろう」
それを聞いて、闘真の気持ちは少し軽くなった。
「ちょうどいい。今回の作戦に参加する二名の人間を紹介しよう。いま質問をした少年は坂上闘真君という。彼は事件発生当時スフィアラボにいて、唯一脱出できた民間人だ」
「民間人が参加ですか?」
「別に中まで同行させるつもりはない。彼には出入り口のゲートを開けてもらうだけだ」
伊達はなぜ闘真がそのような役になったか、簡単に経緯を説明する。次に由宇へ視線が集まる。全員が事情を聞きたくてうずうずしている様子だ。だが伊達の説明はあっけなく終わった。
「その少女に関しては何も聞くな。何も知るな。以上だ」
「見えたぞ。あれがスフィアラボだ」
久野木の言葉で全員がいっせいに窓の外を見て、そして息を呑んだ。巨大な、あまりに巨大な球形のガラスが海にぽっかりと浮いていた。
まわりを巡回する船が強力なライトで浮かび上がらせている。
「あれ全部ガラスか? よくもまあ自重でつぶれないな」
「いま進んでるスペースコロニー計画の外壁ガラスでも最有力候補。スペースダストと衝突しても、ビクともしないんだとさ。放射線や有害な宇宙線もカットするらしいよ」
「たいしたもんだね、メイドイン峰島は」
「直径525メートル。普通ならあれほど大きなガラスならば、自重で変形するか割れるものなんだが。峰島勇次郎の作り出した材質は、建築工事をも大きく変えた。あれが顕著な例だ」
「写真で見るのと大違いだね」
隊員たちが次々と感想を漏らす。
「長時間の立てこもりもできそうですね」
「長時間? とんでもない。忘れたか、あれは地球循環環境を再現している。中の資源だけで自給自足が可能だ。その気になれば、一生たてこもっていられる。さらにあの外壁ガラスは破壊不可能だ。おかげで、進入は正規のゲートしか使用できない。しかしそのゲートはLAFIによって管理され、ハッキングはほぼ不可能」
「そこで、そこの坂上君の出番なんですね」
「そうだ」
「しかしこれまでの話を総合すると、メインゲートだけ開けても、中がそれだけLAFIに管理されてるんじゃ、行動制限厳しくないですかね?」
伊達は重くうなずく。
「もっともな意見だ。それは同性能以上のコンピュータでハッキングをしかけることによって、かく乱する」
「同性能以上って、LAFIは世界最高峰なんじゃ?」
「後継機がある。ADEMのLAFIセカンド。ゲートのロックを解除、第一第二部隊で突入をしかける。突入後は部隊を三つに分け、別ルートでLAFIファーストの制御室セントラルスフィアを目指す。ルートはこうだ」
伊達の説明が終わるタイミングを見計らったように、ヘリが着陸した。
「よし、全員降りろ。久野木、坂上君に念のためプロテクターを着せておいてくれ」
そう指示を出す伊達はプロテクターをつけていない。最初に会ったときと変わらず背広姿だ。
「解りました。坂上君、こっちにきて。これを着てくれるか?」
久野木が渡してくれた耐弾|防刃《ぼうじん》スーツは、思ったよりもやわらかい素材でできていた。その上からさらに、見た目のごついいかにも装甲と主張しているプロテクターを着る。
「ほう、なかなか似合うじゃないか。おっと自己紹介が遅れたな。俺は久野木|元也《もとや》。いちおう今回の突入部隊のリーダーだ。よろしくな」
思ったよりも柔らかい久野木の物腰に、闘真はぎこちなく笑った。
「伊達さん、終わりました。あ……」
久野木の顔が由宇を見て曇った。
「そっちの彼女は、どうしましようか?」
「必要ない」
伊達が答える前に、由宇が喋っていた。
「いや、しかし……」
「動きにくくなるだけだ。必要ない」
動きにくい? その格好で動きにくいもなにもないだろう。久野木の顔はそう言っていたが、口には出さなかった。
ここで初めて由宇の拘束が解かれた。解かれたといっても、席に縛るベルトがとられただけで、目隠しはされ、手はまだ束縛されている。両足も30センチ程の鎖でつながれ、歩くのはなんとかなるが、走るのは不可能な状態だ。
それでも器用に歩き、段差のあるヘリから床へ器用に飛び降りた。とたん、激しい雨が彼女を濡らす。
「濡れるよ」
闘真は肩にレインコートをかけてやるが、反応はない。何かに集中しているのか、ゆっくりと目隠しされた顔をめぐらせていた。
「……雨」
由宇は拘束された不自由な手で、叩きつけるような雨をすくう。
「本物の雨」
手のひらにたまった雨に、愛しそうに頬をよせた。
「つめたい」
不自由な体をせいいっぱい広げて、由宇は全身で雨を受け止めようとしていた。
彼女の額が濡れているのは、雨のせいだけだろうか。
全身で雨を受け止める由宇を、闘真はずっと眺めていた。
スフィアラボ・メインゲート前[#「スフィアラボ・メインゲート前」はゴシック体]
「こうも最初から計画が狂うとはな」
伊達はメインゲートの前で憮然《ぶぜん》と腕を組む。彼が睨みつけているのは、ゲートに設置されているセキュリティ認証用センサーの残骸《ざんがい》である。ここで銃撃戦があったときにたまたま壊されたのか、それとも故意なのか。闘真のセキュリティレベルがどんなに高くても、それを判別してくれる装置がないのでは話にならない。
「どうして、もっと早く報告がこなかった?」
いまさら部下をせめてもしかたないと思ったか、伊達はあきらめたように首を振ると、次の案を練る。
「北側にもゲートがあったな。あっちは使えないか?」
「はい、北側のゲートは無傷です」
伊達はスフィアラボの見取り図をしばらく睨みつけ、断念した。
「いや、駄目だ。北側は通路もせまく、多人数で突入するには不向きだ。やはり当初の計画通りメイングートをハッキングして乗り込むか」
伊達は後ろにいた闘真を見ると、有無を言わさぬ声で告げた。
「坂上君、聞いてのとおりだ。悪いが君の出番はなさそうだ」
「そんな」
「君の気持ちは嬉しいが、民間人を危険な場所に連れてはいけない。いますぐ帰すことはできないが、ヘリで待機していてくれ。責任を持って家に送る」
伊達は肩をぽんと叩くと、あっさりと闘真に背を向ける。もう帰れということなのだろう。
「ADEMに連絡。当初の予定通り。LAFIセカンドでハッキング。メインゲートを開ける。予定通り十八時三十分に作戦を開始する。各員突入準備。怠るな!」
ポケットの中のプレゼントの箱をぎゆっと握り、闘真は唇をかんだ。
とぼとぼとヘリに戻る闘真と入れ違いに、大勢のLC部隊があわただしくメインゲートの前に集結する。その中に拘束具姿の少女を発見した。
「……あっ」
声をかける前に、少女は引っ張られるようにゲートの前に連れて行かれた。闘真はその後ろ姿をただ眺めるしかなかった。
ADEM・LAFIセカンド制御室[#「ADEM・LAFIセカンド制御室」はゴシック体]
LAFIセカンドの関係者達に、脱走を企てた由宇がつかまったという報告が入ったとき、それを聞いた木梨孝《きなしたかし》は、鼻で笑った。もともとLAFIセカンドのエンジニアを束ねる木梨にとって、由宇という小娘の指示は、うっぷんの溜《た》まるところであった。
木梨がNCT研究所に勤めるきっかけになったのは、ハッキング能力を買われてのことだった。
十七歳の頃、ハッキングにスリルを覚えネット空間を遊びまわっていた木梨の所に、多大な報酬《ほうしゅう》とともにNCT研究所から協力の申し出がきたのがきっかけだった。
それから十五年、世界でも類を見ないコンピュータLAFIセカンドの開発チーフを、まかせられるまでになったうぬぼれの強い実力者にとって、由宇はまさしく目の上のたんこぶである。
確かに峰島勇次郎の残した未完成のLAFIセカンドを、完成一歩手前までこぎつけることができたのは、由宇の指示があってこそだ。しかし現場に接しない人間の意見は無責任すぎるとの持論を打ち立て、公然と由宇の存在を非難していた。
まわりの人間は彼の言動を黙認していたが、だからといって由宇の存在が疎ましくなくなるということはない。
そのうっぷんが頂点に達しかけたころ、スフィアラボの事件と由宇の脱走騷ぎが起こった。そのためかどうか解らないが、LAFIセカンドによるスフィアラボへのハッキングは木梨がまかされることになった。
彼は自分の矜持《きょうじ》が保たれたと解ると、嬉しそうにLAFIセカンドのメインコンソールの席に腰を降ろした。
すでにハッキング用のシステムは起動されている。自分の手足として最も適している選りすぐったメンバーも五名、スタンバイされている。
現場からハッキング開始の指示が届いた。木梨は満足げにうなずくと、全員に指示を出す。
「予定まであと三十分だ。これからが勝負だぞ」
木梨は、これから始まる世界最高峰マシン同士のハッキング合戦に、興奮を覚えた。
とうとう、自分の能力が完全に活かされるときがやってきたのだ。
最高のゲームだった。彼の頭に、人命の存在はなかった。
スフィアラボ・セントラルスフィア[#「スフィアラボ・セントラルスフィア」はゴシック体]
風間遼が中央制御室に入ると、室内の温度が一気に下がったような錯覚を覚える。端整な顔立ちでありながら、目の奥に潜める暗い色が見る者に嫌悪と寒気を覚えさせるのだ。
しかしその異端の外見は、ともすればカリスマ的支配力へと変貌する。事実、中央制御室にいた仲間のほとんどは、風間の姿を見て表情を明るくした。特に紅一点ぞある宮根瑠璃子の表情は、歓喜に等しい。対照的に彼女を見ていた光城の瞳は暗く、風間に向かって殺意に近い感情を向ける。
瑠璃子はLAFIのメインコンソールの席から立ち上がった。風間に席を譲るためだ。
「おせえぞ! どこで油を売ってやがった? この計画は、なによりも時間が大切だと言ったのは、おめえ自身じゃなかったか?」
光城が怒気をはらんだ言葉をぶつけても、風間は一瞥《いちべつ》をくれただけで、瑠璃子の空けた椅子に座った。間髪なく、瑠璃子はバイザーを渡す。
「はい、これ必要でしよう」
風間は黙ってうなずき、それを受け取った。
光城はその二人の様子を見て、あからさまに舌を鳴らした。光城が瑠璃子に恋慕しているのは、周知の事実である。そして、瑠璃子と光城が過去に恋人同士だったのも。
光城と目が合った一人が、あわててばつが悪そうに下を向く。光城はもう一度、舌を鳴らすはめになった。
「外のLC部隊の動きが、ついさっきあわただしくなりました。突入準備でしょう。馬鹿な連中だ」
「LAFIセカンドが出てくるか。すべてこちらの思惑通りだ」
風間は裂け目のような笑みを浮かべ、そのときを待った。
スフィアラボ・メインゲート前[#「スフィアラボ・メインゲート前」はゴシック体]
「あと十五分でLAFIセカンドによるハッキングが行われる」
ゲート前に集結しているLC部隊員に向かって、伊達は雨音に負けない声で怒鳴った。
「いつもどおり通信機で指令を出す。スクランブルコードはCE7Q0。リーダーは久野木。作戦の手順は頭の中に入ってるな?」
レインコートの集団が、いっせいにうなずいた。ただ一人、反応がないのは峰島由宇。コートで体のほとんどが隠れているので、拘束具の異様さは軽減されているが、体は他の隊員に比べてふたまわり以上小さいため、やはり目立つ。
「おまえも解ってるな。いやでも協力してもらうぞ。LAFIでしかハッキングが不可能だと言ったのはお前なんだからな。できればまだLAFIセカンドは使いたくない。せめてメインゲートの解除だけでも普通のコンピュータでは不可能なのか?」
「無理。何万種類ものセキュリティを自動的に生成して、たえず切り替わってる。一つのセキュリティを解く間に、新たなセキュリティがいくつも生まれる。LAFIの尋常でない処理速度と、柔軟な思考能力の賜物《たまもの》だ。どんなに急いでも、既存のコンピュータでは、処理速度が追いつかない。物理的に不可能だ」
伊達の質問に、由宇は意外にもあっさり答える。雨をあびて気分がいいのかもしれない。
「LAFIに対抗するにはLAFIしかない。後はお互いのプログラマの力量しだい」
「ADEM内部のコンピュータを使う以上、失敗は許されない。おまえが愛用している携帯コンピュータ、LAFIサードを持ってきてある。やることは解ってるな?」
そう言って黒いアタッシュケースから、ノートパソコンとしか思えない物を出し、由宇に渡した。
「目隠しで、どうやれって? いくら私でもそれは無理」
「待ってろ」
伊達は目隠しははずそうとぜず、ノートパソコンからケーブルを伸ばし、目隠しのこめかみのあたりについているコネクタに接続する。
「これで目隠しの裏に表示されるはずだ。見えるな?」
「モニターが近すぎる。目を悪くしそうだ」
「つべこべいうな」
「まあいいや。ついでにこれも」
由宇は手錠で不自由な両手を伊達に差し出す。両肘も体の脇に固定され、動かすのはままならない。
「それでやれ。問題ないばずだ」
「もう少しレディとしてあつかってほしいね」
「レディはひとりで警備員を何十人も重傷にしたりはしない。おてんばというには度が過ぎる」
伊達が合図すると、由宇の後頭部に銃が押し付けられた。
「気が散るんだけど」
由宇はキーボードに手を置くと、まるで見えているかのように、壮絶な速さでキータイピングをする。モニター上に流れる文字は、速すぎて残像しか解らない。
「すげえ」
誰かがつぶやく。それ以外、口を開く者はいない。キーと雨音だけがしばらく続いた。やがてモニターにコンプリートと表示された。
「状況把握完了。ゴーサインはいつ?」
見えない目で伊達を見る。
「十八時三十分に予定どおりADEMのLAFIセカンドとサードでハッキングをしかける。全員突入準備をしろ」
それからしばらく静寂の時間が続く。全員が固唾《かたず》を呑《の》み、そのときが来るのを待った。
由宇だけは空を見上げている。いや実際は目隠しの裏に表示されているのだからどこを見ようと関係ないのだが、意識は明らかにモニターから離れている。
「雨、やむかな」
誰に言うでもなく、少女はつぶやいた。どこからも答えは返ってこない。
伊達は腕時計を確認し、表情をいっそう険しくした。
「十八時二十九分。あと一分で始まるぞ。準備はできてるな」
雨脚はさらに激しくなる。
スフィアラボ・ヘリポート[#「スフィアラボ・ヘリポート」はゴシック体]
闘真は手の中で横田から預かったプレゼントの箱を転がしていた。
ヘリの中は闘真以外誰もいない。全員が外でなにかしらの仕事に携《たずさ》わっているのだ。
ヘリから出ないように言われた。伊達の言うとおり帰るべきなんだろう。しかし胸の中のもやもやした感情が、踏ん切りをつけさせてくれない。
ヘリの窓から、ゲート前に突入待機しているLC部隊を見た。壁のように大柄な体格ばかりで、少女の姿は見えない。
いらだちがつのる。
自分の手を見つめ、由宇の言葉を思い出した。一度限りのセキュリティフリーパス。
また窓の外を見る。少し角度を変えると、メインゲートから右に伸びる通路が見えた。
あの先には北側のゲートがある。足元には脱いだプロテクターがあった。
――なに馬鹿なことを考えているんだ。
頭を振り、無謀な行為を振り払おうとしたが、こびりついて離れない。
メインゲートのあたりがあわただしくなった。実際に騒がしくなったわけではない。気配が変わり、それが闘真のいるヘリの中まで伝わってきた。
ハッキングが始まったのだ。
LAFIファースト・カオス領域[#「LAFIファースト・カオス領域」はゴシック体]
大海原に漂う感覚だった。無限の水に風間の体が徐々に溶けて広がっていく。それにつれ五感の感覚は冴えていき、知覚できるものが増えていく。
電子の情報が次々と脳にパルスとなって送り込まれた。情報はすでに情報としての認識を失い、五感と同じように感じることができた。
LAFIセカンドのハッキングも知覚できる。風間にしてみれば、幼稚極まりない方法だった。電子の世界を目と指で間接的に知る人間と、五感として知覚できる人間の差と言ってもよい。
あの手この手でアクセスしてくるLAFIセカンドを風間は適当にあしらっていた。適当にあしらいながら、ダミーの中枢プログラムの海へ、LAFIセカンドを導く。ダミーと気がつかないLAFIセカンドは、狂喜して喰いついてきた。
滑稽《こっけい》極まりないLAFIセカンドに嘲笑を向けると、風間はゆっくりと少しずつLAFIセカンドのアクセス経路をさかのぼっていく。LAFIセカンドに悟られるのだけは、避けなければならない。
慎重かつ大胆に、風間は進んでいく。
スフィアラボ・メインゲート前[#「スフィアラボ・メインゲート前」はゴシック体]
ハッキングが始まり五分。いまだに由宇の手はぴくりとも動いていない。
「何をしている、もう始まってるぞ」
後頭部を銃で小突かれるが、由宇はやはり動かなかった。
「ここまできて裏切る気か?」
「いや」
「なら早くハッキングを開始するんだ」
「相手は手ごわい」
「ならばなおさら!」
「慢心を待ってる」
「慢心?」
「セキュリティの穴は技術だけじゃない。人の心にも潜んでいる。もう少しで忙しくなる。素人は黙ってろ」
由宇は有無を言わせない厳しい声を出す。表情も硬い。
「……やはり、やつか。やっかいだな」
「やつ? 何か知ってるのか?」
伊達の問いに答えることなく、由宇はモニターに集中していた。一見して解らないが、彼女に余裕はなかった。雨に混じり、汗が頬を流れる。
LAFIファースト・カオス領域[#「LAFIファースト・カオス領域」はゴシック体]
冴え渡っていた電子の感覚の一部に、濁りが生じた。まだこの感覚に慣れていないためか、それとも急速に広がる感覚に脳がついていけないのか。しかし、風間はそれほど不明瞭となった感覚、メインゲート付近の制御を気にとめはしなかった。
いまは目の前にある馬鹿なオモチャの相手をしているほうが楽しかった。いい気になってダミーに喰らいついているLAFIセカンドを尻目に、風間はゆっくりと確実にLAFIセカンドの中枢へ近づく。
いまだ侵食されつつあることに気づかないLAFIセカンドからは、妨害らしい妨害もなかった。複雑かつ多重に張り巡らされたプロテクトを気づかれないように慎重に剥がしていく。
システムの一部を操作すると、知らない人間達の姿が脳に飛び込んできた。初めは驚いたが、それがどこかに設置されている監視カメラであると解ると、次はそれがどこを映しているのか知りたくなった。疑問が頭に生じた瞬間、答えが電子の世界を通じて流れ込んでくる。
風間は笑い出したくなった。
目の前に広がる光景の中で右往左往している男達は、LAFIセカンドを操作する哀れで滑稽なピエロ達だった。音声の情報も流れてくる。リーダー格らしい木梨という男が、指揮をとっているが、その見当外れな指示に、風間は笑いをかみ殺した。
やがて一枚だけのプロテクトを残し、ほとんど裸同然となったLAFIセカンドの中枢を、風間はわしづかみにした。
ADEM・LAFIセカンド制御室[#「ADEM・LAFIセカンド制御室」はゴシック体]
突然の警告音。
木梨はその警告音の意味を知ると、愕然とした。
「馬鹿な」
一面のモニターに、警告を示すメッセージが次々と流れた。
「何者かのハッキングです」
オペレーターの一人が、怒鳴った。
「まさか、そんな……」
もう一人のオペレーターが信じられないとでも言うように、首をふる。
「すでに104プロテクトから005プロテクトまで突破されています。システムの47パーセントが制御不能です。こんなになるまで気づかなかったなんて!」
あちこちで悲鳴にも似た報告が飛び交った。
「アラームがうるさい、切れ! 工藤、誤報の可能性をチェックしろ。木村、ハッキング経路を追え。三浦と直木はLAFIへのハッキングを続けろ。慎重にな」
各オペレーターに指示を出しながら、木梨もモニターを睨みつけ、必死に原因をさぐろうとした。いくらなんでもあんな深部にハッキングされるまで気づかないのはおかしすぎる。彼の常識を遥かに超える出来事だった。
ふと見られている気がした。
振り返ると一台の監視カメラが、木梨のほうを向いていた。
一瞬、レンズの向こうに得体の知れない何かを感じたが、あまりに非科学的な思考を、木梨は頭を振ってすぐに追い払った。
いまはそれどころでないのだ。
スフィアラボ・メインゲート前[#「スフィアラボ・メインゲート前」はゴシック体]
険しい表情を続けていた由宇が、初めてニッと笑った。
「きた」
由宇の指がこれまでの静止が嘘であるかのように猛然と動き出した。先ほど見せたスピードの比ではない。
ほぼ時を同じくしてADEMから伊達に緊急の連絡が入る。
「LAFIセカンドが逆ハックされてるだと!」
伊達はようやく由宇の意図を察した。
「こいつ、LAFIセカンドをオトリに使いやがった」
世界最高峰同士のコンピュータによるハッキングの攻防。勝利をつかみかけた人の心の隙、すなわち慢心こそがセキュリティの穴だと言ったのだ。
伊達はいまさらながら由宇の存在が怖くなる。
天才は得てして人を観ない傾向が多い。自分の頭脳の殻に閉じこもりがちだ。しかしこの少女は違う。いやになるくらい人を観察し、暴く。人との交流が少ないあの地下の底にいて、よくもこういう成長のしかたをしたと思う。いや、逆に交流が少ないからこそ、わずかな時間で相手を知ろうとした結果なのか。
由宇の指はさらに加速を続けた。
LAFIファースト・カオス領域[#「LAFIファースト・カオス領域」はゴシック体]
翻弄《ほんろう》されるLAFIセカンドを見るのが楽しくてしかたなかった。風間はそれ一つで解析に一ヶ月はかかるようなプロテクトを、紙のようにはがしていった。
次々と送られてくるハッカー撃退用のプログラムを、片手であしらっていくと、分解され用を成さなくなったプログラムの残滓《ざんし》が、散っていく。
ここまで来ると赤子の手をひねるよりたやすい。
風間は絶対の自信と確信を持って、最後のプロテクトに手をかけようとした。
そこでようやく別の方向から、風間の操るLAFIファーストに向かってハッキングする存在に気がついた。外部からの妨害か。ファーストに比べればゴミみたいな性能のコンピュータだ。ひねりつぶすのに、一秒とかからないだろう。
風間は余裕の表情で。招かれざる侵入者に手を伸ばした。手が触れた瞬間、それは内からはじけ、中から現れた無数のプログラムが指に絡みつき、あらゆる手段でファーストの深部へ侵入しようとした。
ゴミのような性能は見かけだけだった。中にとんでもないものが潜んでいた。それにたいした準備もなく安易に触れてしまった。風間は屈辱に歯をかみしめる。
一時LAFIセカンドへのハッキングを中断せざるをえなくなった。いまは思いがけない伏兵をどうにかするのが先だ。
風間の歯軋《はぎし》りはさらに強くなる。二十秒程度だがメインゲートの制御を乗っ取られるのを避けられそうにないからだ。
スフィアラボ・メインゲート前[#「スフィアラボ・メインゲート前」はゴシック体]
「二十秒が限界だ」
由宇はなんの説明もなく、それだけを口にする。
「何がだ? ゲートの開く時間がか?」
「他に何がある。ゲー卜開放まで、後一分」
ノート型のLAFIサードにデジタルタイマーが表示され、一分間のカウントダウンを始める。
「第一部隊、第二部隊、準備はいいな?」
「いつでも大丈夫です」
リーダー久野木が答える。
「久野木、おまえにこれを預ける」
カードキーを久野木の手の中に入れた。
「これは?」
「あの女の拘束具のキーだ。非常事態に使え。それ以外は絶対に使うな。解放すると危険だ」
久野木はキーと由宇を交互に見て、最後に伊達の顔に戻った。
「あと三十秒」
静かな由宇の声は、なぜか雨音の中でも透き通るように聞こえてくる。
「それとキーを持っている間は女に近づくな。あの状態でも危険だ。奪われる可能性がある。近づく必要があるときはキーを誰かに預けろ」
「了解しました」
「あと二十秒」
「頼んだぞ、久野木」
「はいっ!」
「あと十秒」
「全員突入準備!」
LC部隊全員のレインコートが、宙を舞う。
「ゼロ」
「突入!」
静かに、すみやかに、すべるように、LC部隊は開いたゲートに突入した。
メインゲートは由宇の言葉どおり二十秒ジャストで閉じた。LC部隊全員と由宇がゲートの中に消えた後である。
伊達はぬぐえない不安に、しばらくゲートを見つめていた。今度の相手はこれまでの相手と違うように思える。何度も峰島勇次郎の遺産を狙った犯罪にかかわったが、これほど胸騒ぎが起こることはなかった。
峰島由宇をつけたのは正解だろうか。いまだに心に迷いはある。しかしこの勝負にはどうしてもジョーカーが必要だと感じていた。諸刃《もろは》の剣《つるぎ》ではあるが、由宇の能力ははかりしれない。
伊達は司令塔をかねるヘリに向かって歩き出した。途中、闘真が乗っているヘリに顔を出す。
「坂上君、悪いがもう少し待っていて……」
開けたヘリの中は空だった。脱いだはずのプロテクターもない。
「まさかあのガキ」
LC部隊がゲートを走り抜けると、広い空間に出た。一辺50メートル四方くらいの広さ。天井も高く、20メートルはある。そこにいくつも積み上げられているコンテナの山。
「資材の一時搬入倉庫か。間違いないか?」
「はい、図面にあるとおりです」
久野木は部下に確認をとると、広い倉庫にLC部隊を散開させた。
由宇は最後尾にいた。入ってきた出入り口の近くである。あちこちに首を傾け耳を澄ましている。何度か形のいい眉を不愉快そうによせると、愛用のラップトップのコネクタを目隠しの端子につなぎ、キーをカタカタと打ち始める。
「よし、だいたい解った。ここを拠点に、少しまわりの様子を調べる」
久野木は予定通りであることを通信機で伊達に知らせると、由宇の様子が気になった。何かノートパソコンをいじっている。LAFIサードとかいうとんでもない物らしい。不気味だ。それにどう扱っていいのかも図りかねている。不確定要素が多く、作戦の支障にならないか不安だった。
「何をしている?」
「少し気になることがある」
問うと意外と素直に答えてくれた。しかし不用意に近づくなという忠告は守った。
「なんだ?」
「設計理念と言うべきかな。閉鎖型循環環境、というコンセプトなのは解るんだけど……、この違和感はなんだ? そもそも完全に球形にする必要性なんてないのに……」
後半は独り言に近い。
「それから、調べに行くなんて悠長《ゆうちょう》な暇はないと思ったほうがいい」
「どういうことだ?」
「相手はこの施設の全制御をあずかるLAFIを使っている。もう私達の侵入は気づいているだろう。ああ……さっそくお客さんだ」
「お客さん?」
「上だ」
由宇の口が開くより早く、天井の一部が開いて何かが次々と落下してきた。高さ20メートルはある距離をものともせず、それらは盛大な砂埃《すなぼこり》と振動を従え、次々と着地する。
大仰なマスクにコンバットスーツ、手にはアサルトライフル。同じ格好の戦闘スタイルをした男が五人。LC部隊の中央に飛び込んできた。
「おいおいおい、冗談じゃねえぞ。なんで飛び降りて平気なんだよ」
LC部隊の一人が叫ぶ。驚きはそれで終わらなかった。
「撃て!」
久野木の号令とともに、突然の乱入者に向かって銃がいっせいに火を噴いた。しかし彼らは銃弾の雨をよけようともしなかった。
十秒ほど続いた銃声が、尻すぼみに消える。
LC部隊の銃弾によってぼろぼろになったコンバットスーツ。その下に見える金属質の輝きには、曇り一つない。LC部隊全員がひるむ。
「君はもっと下がれ。ここはLC部隊にまかせろ」
「へえ、あれ実用化したんだ」
久野木の忠告が聞こえなかったのか無視しているのか、由宇は移動することなく感心したようにうなずく。何かを知っている口ぶりに、久野木はすかさず聞き返した。
「あれを知ってるのか?」
「ゼクト社のA9汎用特殊装甲だ。銃弾はもとより、各部の関節にある対ショックギアが、体の衝撃を最小限に抑える。まだ試作段階かと思ったけど、思ったより半年実用化が早い。それとも試作品が流出したか」
由宇は壁によりかかったまま無感動に説明する。姿が敵に丸見えだ。これでは撃たれる、と久野木が動く前に、敵兵が動いた。LC部隊総勢三十名の発砲などものともせず、悠然《ゆうぜん》とライフルを構えトリガーを引く。そのたびに悲鳴と血が、宙を飛び交った。たかだか五人相手に、LC部隊は後退を強いられ、追い詰められていく。
銃弾は最後尾にいる久野木達のところまで、飛んできた。
「危ない。隠れるんだ!」
久野木の叫びなどまるで気にした様子もなく、由宇は壁に寄りかかったまま。顔のすぐ真横の壁が、銃弾ではじける。
「問題ない。状況は把握している」
由宇が首をかしげると、すぐ真横で壁がはじけた。偶然か否か。
「……見えてるのか?」
見えているかどうかの問題でない。たとえ見えていても、首をかしげて銃弾をかわすなぞできるわけがない。
「耳が聞こえていれば充分だ」
――冗談だろ?
しかし現に由宇は最小限の動きで、弾の軌道から体をそらしている。彼女の背後の壁は、銃痕で十以上もの穴があるのに、いまだ由宇はその壁によりかかり平然としている。伊達が気をつけろと言った理由が、おぼろげに理解できた。敵か味方か解らないが、あれは普通じゃない。
「大場、あれを使え。一掃しろ」
久野木が戦局を打破すべく、部下の一人に指示を飛ばす。
「了解」
大場と呼ばれた男は、肩にかけてある大きなケースを開けた。中から取り出されたライフルは、呆れるばかりに大きかった。威力を追求した凶悪なフォルム。マガジンにおさまっている弾は人の指より太く長い。
「パレットM82A。こいつの徹甲弾《てっこうだん》は装甲車も突き破るぜ」
雨のような銃撃にびくともしなかった敵兵も、それを見てひるんだ。
「喰らいな」
大場が引き金を引くと、まるで大砲のような銃声がし、敵兵の一人がきりもみしながら、真後ろにふっとび壁に激突した。床に落ちた体は、ほとんど半分に千切れかかっている。
「あまり人道的な武器ではないね」
由宇が眉をひそめつぶやくうちに、二発目が火を噴いた。二人目は上半身が消し飛び、腰から下だけが地面に倒れる。
「どうした、さっきの威勢は!」
さらに大場は二発撃つ。一人はコンテナの裏に隠れたが遮蔽物ごと貫通され、一人は逃げようとして背中から粉砕された。
残った一人は恐怖のあまりか、何もできず震えて立ちつくす。股間のあたりが濡れているのは、失禁したからか。
「最後の一人と」
「大場、撃つな。そいつからいろいろと情報を引き出すんだ」
「はい」
LC部隊が体勢を立て直す中、由宇だけは相変わらず、天井へ見えないはずの視線を向け、柳眉《りゅうび》をかすかにひそめた。それに気づかない久野木は現状の把握に努める。
「被害を報告しろ」
「第一部隊は死亡一、重症三。第二は死亡二、重症四です」
「くそっ、しょっぱなから被害が大きいな。そいつをここにつれてこい。いろいろ聞くことがある」
LC部隊の何人かが一人残った敵兵に近づく。大場のパレットM82Aは狙いをさだめたままで、逃走を許さないかまえだ。
「……まずいな」
由宇は天井を見たまま、つぶやく。
「どうした?」
「まずい」
「まずいって、何がまずいんだ?」
その答えはすぐに降ってきた。巨大な何かが先ほどと同じように落下してきたのだ。それは下にいた隊員の一人を踏み潰し、仁王立ちになる。2メートルを軽く超える巨漢に踏まれた隊員はビクリとも動かない。
まだ事態が把握できず、呆然としているそばの隊員の頭を、ウチワみたいに大きな手がわしづかみにした。巨漢はそのまま軽々と持ち上げると、耐弾ヘルメットごと握り潰してしまう。
「亜門様!」
一人生き残っていた敵兵がすがるように近づいた。しかしあろうことか、味方であるはずの兵士を、亜門と呼ばれた男は文字通りうなりをあげる拳で殴りつけた。M82A以外まるで銃弾をうけつけなかった特殊装甲があっさりとひしゃげ、地面に叩きつけられた生き残りは動かなくなった。
「負け犬に生きる資格はない」
亜門は低く唸る。
「それじゃ、てめえに生きる権利はあるってのかよ!」
大場のM82Aが続けざまに大砲のような銃声をあげた。全弾が亜門に命中し、爆煙につつまれる。
「へっ」
笑いかけた大場の表情が一変する。爆煙をかきわけて出てきた亜門には、傷一つついていない。大場はさらに撃つが、巨漢は多少のけぞりこそするものの、それだけに終わる。
「な、なんなんだ、あれは!」
「まいったな。オリジナルだ」
そう喋る由宇の様子は、あまりまいっているようには見えない。
「オリジナル?」
「A9汎用特殊装甲のオリジナル。Eランクの遺産の一つ。さっきまで戦っていたのは、粗悪な模造品にすぎない。……次々とよくまあ」
最後の一言は、天井を見ていた。
「もう一つ、くる」
「なんだって?」
天井からさらに一つ、黒い影が亜門の隣に降りた。これもまた、異様な姿をしている。全身に漆黒のコートをまとい、その眉には幅の広い剣がかつがれている。剣の表面には電子回路のような光学模様。
「くくく、かかか、ひゃああはっはっはっ! 雑魚《ざこ》雑魚雑魚雑魚雑魚雑魚、雑魚だらけじゃねえかー」
エキセントリックな甲高い声。どこか病的な雰囲気がある。
「なんだあLC部隊って言ったら、遺産犯罪のエキスパートじゃねえのかよ? なあ亜門、拍子抜けもいいところだぜ」
「だったら出てくるな、光城」
「おいおいおいおいおいっ! 亜門よお、おめえ一人で全部喰おうってか? そりゃムシがよすぎるぜ。俺にも半分くれや」
「好きにしろ」
屈辱に大場が怒鳴る。
「ふざけるな!」
亜門にはきかないと悟ったか、M82Aを光城に向けた。光城はけだるそうに銃口を見つめ、剣をふりかぶった。
大場は怒声をあげながらトリガーを引いた。銃声と剣の一振りはほぼ同時。他には何も起こらなかった。大場が撃ったはずの弾丸が、どこかに着弾した音もない。
不発か。誰もがそう思った。大場もそう思い、トリガーを何度も引いた。そのたびに剣が音もなく無造作に振られ、弾はいずこかへ消えた。
「つまんねえつまんねえつまんねえつまんねえんだよっ」
光城は剣を振りながら、一直線に大場に近づいていく。
「斬った? いや消したのか?」
久野木は目を見開く。どんなカラクリなのか、光城はその馬鹿でかい剣で、弾丸を消している。
「消えるわけがない。よく見るといい。足元が解りやすいはずだ」
由宇の言われたとおりに目をこらすと、鉄色の砂塵《さじん》が一振りごとに地面に散らばっていくのが見えた。
「鉄の砂?」
「弾のなれの果てだ。聞いたところ、LC部隊に対抗できそうな武器はないな。遺産犯罪対策部隊と名乗るなら、もっと規制を緩くしてもいいのに」
由宇の言葉はどこか他人事のようだ。
「くそ!」
大場は銃を構え、吼《ほ》えながら光城に突進した。得体の知れない恐怖が、彼を無謀へと動かした。銃声だけがむなしく響く。
「馬鹿が」
光城がすべるように間合いを詰め、大場を剣の間合いに引き込んだ。
閃光《せんこう》一閃。大場が斬られた、と思った。しかし地面に転がった肉体は、ピシャッと妙に水っぽい音をたてる。ヘドロ状の肉塊が散らばっていた。服の間から、まるで溶けたアイスみたいに、どろどろの肉が流れ出る。人間の姿をとどめていない。血と肉のまじったすさまじい臭いが、部屋に充満する。
何人かがそれを見て口を押さえ嘔吐《おうと》した。
「な、なんだ……あれは?」
久野木も呆然としている。
「霧斬《むざん》か。またやっかいなものを……」
由宇がぽつりとつぶやく。
「む、ざん?」
「液状化現象と似た現象を引き起こす」
「液状化現象だって?」
「そうだ」
液状化現象なら久野木も聞いたことがある。
地震などの振動により地盤を構成する粒子同士の結合力が弱まり。地面がヘドロ状になる現象のことだ。
「昔から刃物に超振動をあたえ、威力を増加させる方法は考案されていたが、あれはそれをさらに発展させた武器だ。対象物の構成する物質の結合力を弱める振動数を瞬時に割り出し、液状化現象を最速に発生させる。水分のない鉄では砂のように砕け、人だとああなる」
「あれも遺産の一つなのか?」
「そう。クラスDに相当する遺産だ。いつか回収したいと思っていたが、もう人の手に渡っていたか。指先にかするだけで、腕一本まるごと持っていかれる。体が液化する苦痛に耐えられる人間はいない。ショック死するか発狂するか」
久野木が青ざめる。これほど強力な遺産を有した相手だとは思わなかったのだろう。
[#挿絵(img/9s-155.jpg)]
「LAFIを使いこなし、いくつかの遺産を手にしている。最悪の予想があたりそうだ」
顔下半分しか見えないが、苦々しい表情をしているのが解る。
「最悪の予想?」
「撤退しろ。お前達がかなう相手ではない」
「だ、駄目だ」
「全滅したいのか。撤退しろ」
「駄目だと言ってるだろうが!」
久野木が怒鳴り返した。
「ならば、私のいましめをとけ」
「なんだと?」
「助けてやる。いましめをとけ」
久野木の目に迷いが生まれる。非常事態以外、この少女を解放するなと指示言れている。いまは非常事態か。否。由宇に対する不気味さと不信感も手伝って、久野木は即断した。この少女は解放してはならない。
「第一部隊はあの扉から、第二は向こうの廊下にそれぞれ応戦しながら移動しろ。オトリを各隊二名ずつだせ」
久野木は通信機で各隊に伝えると、由宇は少しだけ不愉快な表情を見せた。
「オトリ?」
「無傷で通れると思っているほど、甘くはない。吉田、その娘を引っ張って来い。行くぞ」
久野木が走り出そうとしたそのとき、コンテナが爆発するようにふっとび、その裏から亜門が姿を現した。
「なんだ、この娘は?」
亜門は鎧《よろい》のような装甲の奥から、束縛された少女を見つめた。
闘真は真っ暗な通路を一人で歩いていた。
スフィアラボを夜一人で歩くのは慣れていたがいまは違う。
心臓はめちゃめちゃに暴れ、自分の足音がやけに大きく聞こえる。
途中、ロックのかかっているドアの認証パネルに手を置くが、開く様子はない。
「やっぱり一回限りか」
北側のゲートからこっそり入ったはいいが、どうやって合流しようか。しかし迷うまでもなかった。なんの前触れもなくけたたましい銃声が続けざまに鳴る。せまい通路に耳が痛いほど反響した。
――どこかで、近くで戦闘が起こってる。
足がすくみそうになる。しかし闘真はおのれを鼓舞し進む。この先の銃撃戦の中に、自由に動けない少女がいるかと思うと、足を止めるわけにはいかなかった。
途中、二、三人のLC部隊の隊員とすれ違う。一様に恐怖が張り付いた表情をしていた。通路の先に開けた空間が見えた。銃声も悲鳴もあそこから聞こえる。
知っている顔が、ふらふらと廊下に現れた。ヘリで一緒だった人である。名前も覚えている。久野木だ。全身血まみれで、鉄片が背後から胸を貫いている。倒れる体をあわてて支えた。
「久野木さん!」
呼びかけても返事はない。すでに絶命していた。
久野木の腕が力なくたれると、カランと足元に何かが落ちた。見慣れたカードキー。
闘真はそれを拾い上げると、迷うことなく銃声の鳴り響く通路の奥へ走り出した。
亜門は戸惑っていた。
「おん……な? 女か?」
確かに女だろう。拘束具で拘束された体は、女性的なラインを強調し一目瞭然だ。しかし亜門が言いたいのは女がいるということではない。あまりに意外なものが目の前にあるため、言葉がいろいろとはしょられてしまっただけである。
LC部隊の中にどうして武装もせず、代わりに拘束具で動けなくした女がいるのか。その必然性がまるで理解できず、彼はしばし硬直した。
細い腰なら片手で一掴みしてしまいそうな大きな手を、由宇に伸ばした。それは捕まえるというより、目の前のものが現実か幻か、確かめるという意味のほうが強い。
しかし由宇は床を転がるようにしてそれを避け、亜門の手はむなしく空をおよぐ。拘束された体とは思えないほどすばやい回避行動は、残像を残しやはり幻だったかと、一瞬勘違いさせたほどである。
同じことをもう一度操り返し、呆然とする亜門に、夢か幻のごとき少女は一言口を開く。
「のろま」
亜門の体が先ほどとは別の意味で止まる。鎧ような装甲の隙間からわずかに見える顔がまっかになり、熱風のような威圧感をまきちらす。
「おや、心拍数が上がったね。もしかして、のろまとか愚鈍とか鈍重とか愚図とかカメとかウドの大木とか、言われるの嫌いなタイプ? 許せ。私は嘘がつけないたちなんだ」
目隠しは依然されたままなのだが、言動はとてもそうとは思えない。
亜門は無言のまま、突進する。とてものろまという動きではない。巨漢からは想像できない俊足。軽量級のボクサーに匹敵する。しかし由宇は、それを苦もなく後ろに宙返りしてかわした。弓のようにそった体が空中で綺麗に一回転する。
驚嘆すべきはその動作に、亜門がついていったことである。
「ふんっ!」
迷うことなくさらに一歩踏み出し間合いをつめ、いまだ宙にいる由宇に充分な破壊力ののった拳をお見舞いする。しかし亜門の腕に手ごたえはなかった。綿を殴ったような奇妙な感触。由宇の足の裏が拳を受けとめていた。膝の関節を絶妙のタイミングで曲げ、豪腕を柔らかに殺したのである。
息つく暇どころか着地するまもなく、新たな攻撃が由宇を襲う。いまだ宙にいる由宇の頭上に影が落ちた。
「ひゃっほおおおお!」
真上には高々とジャンプした光城の姿。剣を大上段に構え、体重を乗せた一撃を振り下ろした。人体ならそれに触れるだけで、振動により液状化させ絶命させる必殺の武器。まして剣の軌道は、由宇の体を真っ二つにするに充分な速さと正確さを兼ね備えている。
由宇は鋭い息を吐き、亜門の拳を蹴り、それをかわす。かに見えたが、それより早く亜門は拳を引き、キックを無効にした。よほどのろまと言われたのが、しゃくにさわったのか。由宇は拘束具をつけ不自由なまま、宙に取り残された。
もうかわすすべはない。光城の凶刃が由宇を両断、否、肉と骨のゼリーにするかと思われた。しかし刀はなんの手ごたえもなく、そのまま地面のコンクリートを粉砕して終わる。由宇の体はなぜか、跳ぼうとした方向とは逆方向に引っ張られるように移動した。
亜門の引いた拳に、拘束具の足と足を結ぶ鎖が引っ掛かっていたのだ。由宇にしてみれば、引っ掛けていたと言ったほうが正しいか。そのまま引っ張られた遠心力を利用し、由宇は鎖をはずすと、体操選手みたいに綺麗に両足で着地する。
一瞬の沈黙。それはわずか数秒の攻防で見せた、峰島由宇の実力がもたらしたものである。
亜門と光城は小柄な少女を凝視する。この娘は何者なのか。どうして束縛されているのか。
本当に目が見えていないのか。そしてなによりも、束縛されていなければ、どれほどの実力があるのか。同じ疑問が二人に浮かぶ。それは恐れであり、戸惑いであり、期待でもあった。
「おもしれえじゃねえか。おい亜門、そっちに回れ」
光城と亜門は左右からじりじりと距離を詰めていく。スピードで翻弄するタイプはかえってじわりと攻められるほうが弱い。
「やめろっ!」
そこへ思いがけない声が、聞こえた。めったに驚かない由宇が驚いた顔をする。
「なんでここに!」
現れたのは坂上闘真。高く上げた右手にはカードキーが握られている。
「これを!」
闘真はそれを思い切り投げた。カードキーは空高く、なぜか光城のほうへと飛んでいく。
「へたくそっ!」
光城の剣をかいくぐり、由宇は大きくジャンプする。見事口でカードキーをキャッチし着地するやいなや、さらに大きくとんぼ返りをしコマのように体をひねり、今度は膝をつくように着地した。髪がふわりと舞い降り、同時に外れた拘束具が次々と由宇のまわりに落下する。由宇が凛然《りんぜん》と立ち上がると、最後に顔半分を隠していた目隠しが落ち、そのたぐいまれな美貌をさらした。
その容姿すら戦いの道具となるのか、つかの間の時間、停滞する光城と亜門に、由宇は間髪をいれず間合いを詰めた。目指すは二人の間合いのちょうど中間地点。光城と亜門はお互いの戦い方を熟知している。間合いもである。それがかえってアダとなった。寸分の狂いもなく二人の間合いの中間を射貫かれたため、躊躇が生まれた。先の隙と合わせて一秒にも満たない時間だが、それは寸刻みの戦いの中では決定的に大きい。
生まれた空白の時間を縫って、由宇は亜門へ向かい、まるで慣徃がないかのごとく進路を鋭利に変更した。同時に手にしたカードキーを指ではじく。手裏剣のように回転するそれはまっすぐ光城に向かい飛んでいく。
虚をつかれた亜門が気づいたときには、由宇との間合いが近すぎた。あわてて体重の乗った拳を振っても、破壊力が最大限になる打点はずれ、威力は半減してしまう。それでも小娘一人を撲殺するのには充分な一撃。
だが由宇は跳躍すると羽のように拳の真横に着地した。顔が膝に激突しそうなほど、体を屈伸して威力を殺す。拳は勢いを殺さず少女を乗せたまま、吹き飛ばそうと振りむく。それこそが由宇の意図するところであった。その勢いを利用し光城の方角へ、弾丸のごとく飛翔する。
なんと先に投げたカードキーすらも追い越し、光城の頭上を超えた。
頭上を飛び越える由宇を追い、思わず振り返った光城の耳と頬が、遅れて到着した手裏剣のように回転するカードキーにより深く裂けた。
光城が耳を押さえうめくと同時に、由宇は突き刺さるような着地を決め、その反動を余すことなく足へつぎ込み、あっというまに光城の懐《ふところ》へともぐりこむ。
距離を開けようと後ろに下がったのは光城のミス。いや誘発されたということか。あわてて由宇へ向かおうとした亜門とからまるように激突してしまった。
由宇はそこで軽やかに、足をトンと止めた。長い髪だけが慣性の法則に従い、一瞬だけ彼女を包み込む。
「ふむ……こんなものか」
激突し倒れた光城と亜門に追い討ちをかける様子は見せず、由宇は体の各部を点検するように、手足をぶらぶらとさせたり体をひねったりを繰り返した。
「まだ多少誤差はあるが」
「て、てめえ!」
光城はようやく立ち上がると、コケにされた屈辱に体をわなわなと震わせた。逆に亜門のほうは冷静である。彼への禁句は『鈍い』だけか。
その一部始終をあますことなく見ていた闘真は、ただただ呆然としていた。体のキレは地下で会ったときの比ではない。
どう見ても尋常でない敵二人を相手にして、由宇にはまだ余裕がある。しかも彼女の動きは戦いとは思えないほど美しい。指先まで緊張と神経を行き届かせた動作は、まるで洗練されたバレエを見ているようだ。
あの娘の身体能力は、我々と根底が違う。人間工学を遥かに発展させた自己管理能力にある。
伊達の言葉の意味が徐々に頭の中に浸透していく。
あの娘にとって体を動かすというのは、運動を意味するのではない。頭脳労働なんだよ。
彼女にしてみればいまの行動すべては、計算ずく、予測済みということなのだろうか。多少誤差があると言ったのは、そういう意味なのか。
由宇の運動能力は驚嘆のひとことであり、驚嘆は感動に変わり、感動は闘真の底に眠る黒いうねりを呼び起こした。
「あ……」
不意打ちに近いそれに闘真は膝をついた。突然呼び覚まされる殺戮衝動。右手が勝手に、腰の後ろの短刀を握る。由宇を助けるためではない。殺すためだ。
あわてて左手で右手首を押さえた。押さえられた右手の指は、まるで壊れたみたいにデタラメに動く。
「う……くく」
黒いうねりが体の中を徐々に蝕んでいく。いけない。このままではいけない。理性が必死に警報を鳴らすが、侵食は止まらない。
体に異常を起こしたのは闘真だけではなかった。偶然にも同じタイミングで、光域がガタンと剣を落としていた。
「ちちちち、ち、ち、ちく、しょうおおお、ひっ、ひゃっ」
ろれつの回らない声で、悪態をつく。剣を何度も拾おうとするが、すぐに落としてしまう。まるで極寒の地のように体を震わせている。闘真の症状に似ていなくもないが、闘真の衝動に対し、光城は病的な感じである。
「禁断症状か」
由宇は冷めた声を出す。
「あああも、あもんんん、ははははなななはなせええええ」
抗議を無視して、亜門は片手に光城、もう片手に剣を持つと、由宇を警戒しながら、少しずつ下がっていく。
由宇は少しだけ迷う様子を見せるが、うずくまり、うめいている闘真に視線をやると、緊張を解きさっさと行けといったしぐさをした。
「次は殺す」
短い言葉を残し、人一人抱えているとは思えない俊敏さで、亜門は走り姿を消した。光城の悪態も遠くなり聞こえなくなる。
由宇はゆっくりと闘真に近づき、膝をついて顔を覗きこむ。
「さて君の場合は薬物中毒、というわけではなさそうだな」
「あ……に、逃げて」
暴れる右腕を、闘真は必死に押さえていた。汗がしずくとなって、いくつも落ちる。
「真目家ゆかりの人間となると、なるほどそれが禍神《まががみ》の血か。初めて見た」
観察するように闘真の顔を覗きこんだ。由宇の瞳が目の前にあった。綺麗な瞳だ。とてもきれいなのに、その奥に闇よりも深い色があった。それがなんであるか闘真は瞬時に悟った。かつて自分も通った非情の決意。その意味に闘真の理性は戦慄《せんりつ》し、内なる狂気は歓喜した。
汗が押さえていた手を滑らせた。警告する暇もなかった。右手はすばやく小刀を抜いたかと思うと、由宇の首筋へ蛇のように走った。
次の瞬間訪れる惨劇に、闘真は思わず目をつむった。しかし予想された感触はいつまでも右腕から伝わってこなかった。うっすらと目を開けると、小刀は止められていた。刃が二本の細い指ではさまれている。由宇の指だ。ほんの少し首筋に触れた先端から、血が伝い、刃を赤いラインで彩る。
闘真を見つめる由宇の表情に変化はない。
「遺伝子レベルで組み込まれた殺戮衝動と、人格の二面性。技の練磨は骨格選別の域にまでおよんでいるか。真目家も古いだけがとりえではないようだ。禍神の血、なかなか奥が深い」
「あ……あ……」
「落ちついて。衝動を無理やり押さえると、反発が大きい」
冷たい手のひらが、闘真のひたいに当てられた。
「衝動は押さえるのではなく、向きを変えるとイメージしたほうがいい。目をつむって、集中する」
言われたとおりに目をつむる。由宇の冷たい手のひらから熱が奪われるように、体の底の黒いうねりが収まっていく。呼吸が徐々に落ち着いた。暴れていた右手の力が抜け落ちる。
「深呼吸を、ゆっくりと」
「ふうううう、はああああ、ふうううう」
「落ち着いたか?」
「うん」
「衝動?」
「……おさまった。大丈夫」
「うん、目を開けていい」
目を開けた闘真に新たな衝撃が来る。目と鼻の先に由宇の顔があった。呼吸が闘真の鼻をくすぐる。
「うわあああ、たったったっ」
思わず大きくのけぞり、盛大に後ろにひっくり返ってしまった。ゴンと後頭部を床にぶつけ、しばらく苦痛にのた打ち回る。
「騒がしいな君は。本当に衝動はおさまったのか?」
由宇は呆れたようにため息をつく。
「いや、だって!」
反論しようとした闘真は、由宇の首筋を見てあわてて言葉をとめ、暗い顔になった。
「ん? ああ、気にするな。私のミスだ」
指で血を独ぐい、由宇はあっけらかんと喋る。
「だって」
「私には一つ悪い癖がある。なんでもきわどいラインで見切ろうとする。本当は一センチ程度手前で止める予定だった」
「でも」
「悪いと思うなら、少し手伝ってくれ。十分程度でいい。それでチャラにしよう」
「そんな、その程度で……」
「手伝うのはいやか?」
「そ、そんなことないよ」
あわてて手を振り、必死に否定する。
「禍神の血か。あの距離で一センチの誤差は大きい」
立ち上がりホコリを払う闘真に、由宇は厳しい視線を一瞬だけ向けた。
「え、何?」
「いや、なんでもない」
あれは。あの少女はいったい? 情報の海の中で、風間は驚嘆していた。
光城と亜門は戦力の両翼である。LC部隊への対応は、この二人にまかせておけば大丈夫という程度の信頼はおいている。事実、そのとおりになるはずだった。戦いに興じるあまり目的を忘れがちな一面もあるが、それは指揮官である自分がうまくコントロールすればいいこと。
問題といえば、その程度のはずであった。
しかしたった一人の少女によって狂わされた。何者なのか。
少女の動きをあらゆる見地から分析する。スフィアラボに備えられた各種センサー、可視光線はもとより赤外線、紫外線、マイクロ波による映像分析、超指向性マイク、床の圧力センサー。それらを駆使し、少女の動きを解体していく。
すぐに少女のエネルギー消費量が算出された。本来スフィアラボに備わっている機能なだけに、箇単に割り出せる。それは驚くべき事実を発覚させた。
少女の体の動きにエネルギーロスはほとんどない。無駄な動きがない。これは普通ありえないことだ。歩くという行為だけでも、人は無駄にエネルギーをロスする。小さな小石一つ踏みつけただけで、影響が出る。
それを二人の男相手に戦い、エネルギーロスがほとんどないのは不可能に等しい。相手がどんな動きをしてくるか解らない以上、臨機応変がどうしても必要になる。予定外の行動は、エネルギーのロスにつながる。だからおかしい。
結論は一つしかない。少女は光城と亜門の二人の行動を完璧に予測してみせた、ということになる。それも拳や剣を振り回すタイミングなどを百分の一秒以下の精度でだ。
それこそ不可能だ。風間は概念的な存在の頭を振る。
もう一人の少年も気にかかる。誰なのかはすぐに解った。坂上闘真、十七歳、単にスフィアラボにバイトに来た学生にすぎない。それなのに、なぜかカオス領域に直接アクセスするセキユリティ権限を持っていた。すぐにその権限は削除したが、気にかかる。何をしに戻ってきたのか。
他の職員も総ざらいし、一人だけカオス領域に侵食したセキュリティレベルを発見した。横田健一、システムエンジニア。地位は主任どまりだが、有能なのは残っているデータの仕事振りを見れば解る。本来のセキュリティレベルも0と、その地位を考えると破格の好条件だ。現場では認められ上の人間には理解されない、典型的な職人気質だ。
この三者につながりはあるのか。そもそも少女は何者なのか。外部のデータを洗いざらい調べてみるが、まだ引っかからない。
少女の行動をすぐに束縛すべきなのだろうが、あのあたりのドアロックの制御は先ほどのハッキングで、ままならない状態である。あと十分程度の時間が必要だ。
最要注意人物として、少女の行動の監視を強化した。
闘真は嘔吐した。
どろどろに溶けた人間の死体なんて見たことがない。見た目も酷《ひど》いが臭いも相当なものだ。それに比べて由宇は血肉の塊に、顔色一つ変えることなく触り、服を点検している。
「な、何してるの?」
「身元を調べている。名前は解らないがLC部隊の認識番号は書いてあるはずだ。闘真、君もあっち側を調べてくれないか。番号は叫んでくれればいい。こっち側の死体は私が調べる」
口のまわりの汚物をぬぐい、言われたとおり死体の服をひっくり返し番号を由宇に伝える。こちらの死体も酷い。目を背けたくなるような状態が多い。ただ闘真は十七歳の高校生にしては、昔から死体を見慣れていた。禍神の血は死を振りまく。嘔吐したのはどろどろの死体だけで、後は気丈に調べていく。
「終わったよ」
「こっちもだ。計十一名か」
由宇は通信機を手に取ると、スイッチを入れる。
「伊達、聞こえるか? 私だ」
『由宇、おまえか? 久野木はどうした? 他の隊員は?』
「戦闘が起こった。久野木は死んだ。他にも十人」
『まさか一人なのか? そこで何をしている?』
「自由を満喫している。あ、でも一人じゃないね。坂上闘真君が一緒だ」
『坂上君? やっぱり中にいるのか。彼は無事なんだな? とにかく経緯を説明しろ』
「あいかわらず外から偉そうに命令するな。まあいい。いまから殉職《じゅんしょく》した隊員の認識番号を読み上げる」
それから由宇は淡々と番号を羅列していき、事の経緯を説明する。
「以上、これまでの経緯と確認できた範囲での殉職者の番号だ」
『ご苦労だった。では、すぐに残りのLC部隊と合流しろ、作戦を立て直す』
「それは断る」
『なんだと?』
「足手まといは少ないほうがいい」
少ないってのは、自分のことなんだろうなと闘真は思った。まわりには誰もいない。
「D、Eランクの遺産をむこうは所持してる。LC部隊じゃ対処しきれない。撤退させろ」
『それはお前が決めることではない。命令にしたがえ』
「それなら、そっちはそっちで勝手にすればいい。私は私で勝手にする」
『忘れるなよ、お前の体の中にある毒の猶予《ゆうよ》時間は、後十三時間あまりだ』
「たまに忘れたくなる」
由宇が通信を切ると、闘真が詰め寄った。
「毒ってどういうこと?」
「あと十三時間で体に埋め込まれたカプセルが溶け、中の毒が私を殺す」
「伊達さんがやったことなの?」
「うん。ご丁寧にも彼みずから注射をしてくれた」
「なんて酷いことを! まさかそんなことまでする人とは思わなかった」
「そうか? いつ噛みつくか解らない狂犬を、飼いならすには悪くない手段だ」
「そんな他人事みたいに……」
「錯乱しても無意味だ。それよりここを出る。そろそろLAFIファーストの能力が回復するころだろう。まったくあの男が相手となると、いろいろと面倒だ」
闘真は息を呑み、かすれた声を出す。
「犯人の正体が解ってるの?」
「主犯格の想像はついている。説明は気が向いたらしよう。相手が誰であれ関係ない。私は私の目的を果たすだけだ」
「君の目的って、なんなの?」
由宇は少しだけ困った顔をし。首をかしげると、
「内緒だ」
といたずらっぽく笑った。
その瞳に、つい先ほどまであった闇の色がないことに、闘真はほっとした。
由宇はいくつか荷物を選別すると、プラントエリアに行く通路を歩く。カツカツと颯爽《さっそう》とした歩調で、敵地にいるとは思えない。
闘真もいくつか荷物を抱えながら横に並ぶ。並ぶと彼女の小柄な体格が、よりいっそう明確になる。小柄といってもモデルのような体格をそのまま縮小した彼女の体のラインバランスは、絶妙の一言である。
「本当にプロテクターつけなくて大丈夫なの? 一応つけたほうが」
「前にも言ったけど動きが鈍くなる。空気の流れも読みにくい。まあ、君はしっかりとつけておいたほうがいいと思うが」
言われなくても闘真はそのつもりだ。軽く頑丈なプロテクターは心強い。動きが阻害されるということもない。しかし同じ重さが増えても体重比を考えると、彼女にしてみれば、そうではないのかもしれない。
「あの峰島さん、一つ聞いていい?」
「その姓は嫌いだ。名前でいい」
由宇は憮然と言い放つ。
「あ、じゃあ、えーと、由宇さん?」
「ただ由宇でいい」
「え、ええと、じゃあ由宇、一つ聞いていい?」
「うん、私に答えられることなら」
少し気恥ずかしく感じながら名前を呼ぶと、由宇は機嫌よくうなずいた。
「さっきの戦い方なんだけど」
「うん」
「どうやればあんな動きができるの?」
「簡単だ。体の各筋肉の強さをグラム単位で管理し、物理法則をリアルタイムで計算すればいいだけのこと」
「……それ簡単って言わない。敵の動きも、なんか読んでたみたいだけど」
由宇は少しだけ目を細めて、
「どうしてそう感じたのか興味深いな」
「なんか全部、あらかじめ決めていた行動を、やっただけですって感じだったから」
「なかなかいい洞察力をしている。君に対しての認識を少し改めよう」
「ど、どういう認識だったのかな?」
「なぜ君は、そんな自虐的な質問ができるんだ? 特殊な性癖を持っているようには見えないが」
つまり聞かないほうがいい内容なのだろう。質問を切り替える。もとい、もとの軌道に戻した。地下で会ったときは、質問してもけんもほろろだった。気まぐれな性格なのか、気分がいいのか、いまは質問に素直に答えてくれる。聞くだけ聞かなければ損だ。
「じゃあ、あの、それって相手の行動も予測済みってことだよね?」
「筋肉のつき方や骨格から、身体の動きの特徴とその限界、戦いにおける行動はある程度限定できる。他にも五感の情報をいろいろと加味すれば、思考を予測するのも難しくはない」
「それって僕のも読める?」
「ん? 読んで欲しいのか?」
「まだ読んでない?」
「当たり前だ。読めば相手が不快感を覚える程度には解ってしまう。一種のプライバシーの侵害だ。私はそれほどモラルが欠如した人間ではない」
由宇のモラルがいったいどの程度の定義なのか、闘真はいささか疑問を禁じえなかったが、口にしないだけの賢明さはあった。
「でもさっき僕を見て、遺伝子レベルとか骨格がどうとかって。僕自身よく知らないのに」
「あんなのは庭先を見た程度だ。問題ない」
「モラルって言葉が、どの程度のものかよく解ったよ」
「そうか。理解を得てなによりだ」
由宇は満足そうにうなずくと、魅力的な笑みを浮かべた。皮肉はまるで通じていない。ただ単に、通じていないフリかもしれないが。
「逆に私から質問していいか?」
「あ、いいよ。なんでも聞いて」
「なぜ君はスフィアラボに入ってきた? 無謀にも限度というものがある」
「あ、それは……その」
「人には言えない類のものか? やましいのか?」
「いや、そうじゃないよ。ホントに、違う。約束があるんだ」
ポケットの上から、中のプレゼントの感触を確かめる。
「ある人に会って、渡したいものがある。ここでバイトしていたとき、いろいろと世話になった人の頼みなんだ。死んじゃったけど」
「横田健一という男性の頼みか?」
由宇がその名前を覚えていてくれたことが嬉しく、闘真の暗く沈んだ気持ちが少しだけ明るくなった。
「うん、いい人だった」
「しかしそれは事件が解決してからでも、可能な頼みごとではないのか?」
「誕生日プレゼントなんだ。今日が横田さんの娘の。最後の誕生日プレゼントが遅れて届くなんて、悲しすぎるだろう。それに横田さんが死んだことを家族に伝えないと」
「君は余計な苦労を背負うタイプだな」
「よく言われる」
妹の麻耶の顔を思い出す。
「悪いことではない。それだけ誠実に生きているということだ。しかしここに来た理由は、本当にそれだけなのか?」
由宇は横目で探るように闘真を見た。
闘真はどう答えていいか迷った。拘束具で自由を奪われ、連れて行かれる由宇の姿が思い出される。
「心配だったから……」
「何が心配だったのだ?」
「何がって、その」
「うん?」
「だって……その、由宇は女の子じゃないか」
闘真が喉を振り絞ると、由宇は大仰にうなずいた。
「うん、当然だ。私の体を見て男性と判断する人は少ないと思う」
「違う……そうじゃなくて」
急に由宇は不安そうな顔をした。
「違うって……あ、まさか、私の体に何か欠点があるのか? 女性として何かおかしいのか? 見たくらいでは解らないのか?」
何を思ったか、自分の顔をぺたぺたと触りだした。
「やっぱり顔か? 顔がおかしいのか? 大抵の者は私の顔を初めて見ると、呆然とする。戦いのさ中なら戦術的に効果があると思い、あえて気にしないようにしてきたのだが。や、やっぱり変なのか?」
「いや、だから違うって」
手をばたばたと振り、闘真は脱力した。
「嘘は言わないで、本当のことを言ってくれ。心の準備はできている」
――なんの?
「だから大丈夫。由宇はどこから見ても女性だと解る。顔も、うん、そう、そうとう控えめに見ても、女性的だと思う」
「なぜ奥歯に物がはさまった言い方をする?」
「もう、なんで解らないのさ!?」
「解らないのは君だ。私が生物学的に女性であるということと、君の言った放っておけないというのは、何か関連性はあるのか? この問題は一向に解決していない」
――これのどこが人の心を読むのに長けているんだ?
呆れかけた闘真はしかし、その理由が突然ひらめき、暗澹《あんたん》たる気持ちになった。
由宇は人の心を読むのに長けている。悪意、殺意、不安、恐怖、不快、すなわち負の感情に機敏で、それは見事に読むのだろう。戦うことに関してはそれで充分なのだ。
しかし人から心配されたり。気づかってもらったりなどの好意は読めない。いや解らない。
きっと由宇はそうした感情を、向けてもらった経験がほとんどないからだ。
あの地下で恐れられ、敵意を向けられ、利用され。やりきれない気持ちになった。
由宇が突然憮然とした声を出した。
「君は人を不快にさせることに関しては、エキスパートのようだ」
「え? え?」
「なぜ私がそんな哀れみの視線を、受けなくてはならない? じつに不愉快だ」
なんて言い訳をしようか、闘真はまた頭を悩ますことになるとは思わなかった。しかしその時間は短くてすんだ。
「思ったよりも回復が早いな」
歩きながら由宇がまわりを見る。声が硬い。彼女の緊張感が一気に高まるのが解った。
「早いって何が?」
「LAFIファーストの制御を取り戻すのがだ。どうやら最悪の予想が当たりそうだ。走るぞ。このままでは閉じ込められる」
闘真は訳が解らないまま、由宇と一緒に走り出す。廊下のシャッターが行く手を阻もうと、ゆっくりと閉じ始めたのはそのときだった。
[#改ページ]
[#見出し]  三章 力の差
巨大なファンに吉田淳一《よしだじゅんいち》の髪がなびいた。LC部隊後方支援担当を主とする彼は、化け物のような二人から逃げ、仲間とはぐれ、一人になってしまった。敵地で単独行動になるのは初めての経験だったが、心は本人も驚くほどに落ちついていた。
たどり着いたのは空調施設のようだ。家が二、三軒すっぽり入りそうな広さに、直径7、8メートルのファンが壁の左右に五基ずつ回っている。ファンの音はうるさく、普通なら自分の足音も判別できないほどである。動くものはない。あえてあげるなら左右の計十基のファンと、ファンの回転にきざまれる薄暗いライトだけである。
充分な警戒をしながら吉田は、足を進めていく。緊張に唇を何度もなめた。
他のメンバーに比べて、吉田の装備はオーソドックスである。体を守るLC部隊製特殊プロテクターは装備しているが、両手に持っているMP5サブマシンガン、腰のSIG P230など、SATや警察と変わらない標準的な物も多い。ただ一つだけ、彼の左目を覆うバイザーだけが特徴的である。
吉田の背後で何かがかすかにぼやけ揺らいだ。熱で空気が歪められるような揺らぎは、人の形をしているように見える。それはゆっくりと吉田の背後に忍ぴ寄るが、吉田に気づいた様子はない。
揺らぎが吉田に襲いかかろうとしたそのとき、いままでなんの反応も見せなかった吉田はいきなり振り向き、手にしているサブマシンガンを構えた。
薄暗い空間に、マズルフラッシュの閃光と銃声がしばらく鳴り響く。
「ちっ!」
手ごたえがないのが解ると、吉田は忌々しそうに舌打ちをし、あたりを警戒する。しかし、空調施設の中に、吉田以外の姿はない。
「光学迷彩か。まさか実用化されてるとはね。おどろいたよ」
何もない空間に向かって叫ぶ。
「カンがいいのね。楽しめそう」
女の声だけが返ってきた。魅惑的な声だ。姿は見えないが、きっと外見もそれに見合う魅力を持っているにちがいない。吉田は相手の挙動を警戒する。
ゆらりと空間が揺らいだ。反射的にMP5をフルオートで撃ちまくる。女、宮根瑠璃子のシルエットはすばやく物陰に隠れ、背後のファンに着弾の火花がいくつも咲く。
「いま一歩のできだな。動くときは丸見えだぜ」
「さあ、どうかしら」
瑠璃子の輪郭をしたゆらめくような空間が、物陰から姿を現した。踊るように軽やかに、移動する。武器はナイフだけなのか、指先でそれをくるくると回している。その輪郭が徐々に薄まり、消えた。
「お、おい!」
吉田はあたりを見渡し、銃をせわしなく振り回した。完全に姿を消したことに、あわてている、かのように見える。
――悪いな姉ちゃん。あんたにとって俺は最悪の相手だぜ。あの坂上とかいう小僧からも話を聞いてるしな。
じつのところ心の中ではほくそ笑んでいた。姿は見えないが、瑠璃子の位置をしっかりとつかんでいた。吉田の左目を覆うバイザーにその秘密がある。
超音波の反射を測定し、360度全方位の状況を、左目のバイザーに圧縮して表示する。いまも瑠璃子はゆっくりと吉田の背後に回ろうとしているのが、丸見えなのだ。
このワイルドカードスコープの前には、いかなる隠し事も不可能だ。たとえ光学迷彩で視覚から姿を隠したところで、超音波測定によるソニックセンサー、熱源によるサーモセンサーが、敵の所在地を確実に捕まえる。
それだけではない。吉田は耳が異常にいい。じつのところ、バイザーのセンサーで確認する前から、見えない誰かがここにいると気づいていた。この騒音だらけの空調施設の中で、敵のかすかな足音、息遣いを耳に捕らえていたのだ。
腰を低く落とし、見えない敵を探すように首をせわしなく動かす演技をする。瑠璃子の発するかすかな音は、後方10メートルからじりじりと近づいてくる。
――後はタイミングだ。分はこっちにある。
「ワイルドカードスコープを使ってるようね。でも、そんな道具に頼って私に勝てるかしら」
艶然と微笑む女の表情が、バイザーごしに見えた。吉田の余裕が凍る。相手はこっちの切り札を知っている。それなのにあの余裕はなんなのか。
「なら私のこれは、さしずめユニバーサル迷彩っていうところかしら」
瑠璃子はまるで挑発するかのように、足音をたてて吉田のまわりを回りだした。
「ふふふふ、はははは」
女の笑い声が不安をかきたてる。吉田は頭を振り払い銃を構えようとした。と忽然《こつぜん》にバイザーの中の瑠璃子の姿がぼやけ、消えてしまった。
――壊れたか?
バイザーを指先で叩くが、表示は変わらない。瑠璃子以外のものは正常に表示されている。
「どうしたの? 何をあわててるのかしら?」
「くっ!」
すぐさまバイザーをサーモセンサーに切り替える。瑠璃子のシルエットが浮かんだ。さっきよりずっと近い位置で、吉田のまわりを回っている。
「うふふふ。これでどう?」
サーモセンサーの赤いシルエットまでも消えてしまった。残るのは足音と笑い声だけ。
「さあ、どうするの? 私の姿は見える? ふふふふふ、あははははは」
女の笑いがボリュームを絞るように小さくなっていく。いや女の声だけではない。足音も小さくなっていく。
やがて何もかも完全に消え去り。吉田だけが残された。
――ど、どこにいやがる。
でたらめに銃を乱射する。さっきのような演技ではない。恐慌状態寸前であった。すぐに弾が切れた。
「くそっ、くそっ」
マガジンを交換しようとした。喉に何か冷たいものが当たった。
真っ赤な血飛沫が目の前に吹き出していた。
悲鳴を上げようとしたが、大きく開かれた口からこぼれたのは血の泡だけである。全身から力が抜け、前のめりに床に倒れた。
ぼやけた視界の中に瑠璃子の足が現れる。
「さよなら、おばかさん」
頭上から笑い声がする。
ユニバーサル迷彩とは万能迷彩。光学迷彩だけでなく、音や熱、あらゆる測定を不可能にする迷彩機能。
吉田は瑠璃子の言葉の意味をようやく理解し、絶命した。
通路の出口をすべり込むように出るのと、シャッターが背後で閉じるのは同時だった。
「はあはあはあはあ……か、間一髪?」
閉じたシャッターを見て冷や汗をかき、闘真はその場で大の字になり荒い呼吸を繰り返す。土の冷たさが火照った体に気持ちいい。自然の多いプラントセクターならではの小さな幸福にひたる。
「これくらいの運動量、本当は平気なはずなんだけど」
「確かに軟弱に見えて、意外と鍛えられているな。必要以上に体力が消耗するのは、精神がまいってるからだ。この状況に慣れれば、本来の力も出せるだろう」
「由宇は……平気そうだね。こういう状況に慣れてるわけじゃないだろう?」
「私は特別だ」
しれっと答える。
「そのバックパックをくれ。中を確認したい」
闘真が背中のバックバックを渡すと、由宇はひっくり返して、中のものを豪快にぶちまける。
その一つ一つを確認しては、またバックバックの中に戻していった。
「ワイヤーに発炎筒が十本……ろくなものがないな。ナイフに、一応銃はあるな。闘真、君は銃を撃てるか?」
「モデルガンなら撃ったことはある」
「ふう……。食料まで入ってるか、これは置いていく」
無造作に捨てられた食料を見て、
「ゴミの投げ捨ては、スフィアラボじゃタバコに次ぐ罰則対象なんだけど。あと最初のため息、どういう意味?」
「あまり深く追求しないほうがいい。ん? これは君個人のものだな?」
由宇が渡したのは真目家の紋が入った封筒だ。麻耶から必要な情報としてもらったものだ。中はまだいろいろとあわただしくて、見ていなかった。
書類は闘真が読むことを考慮してか、簡潔かつ的確に書かれていた。スフィアラボに関して、闘真に足りない知識が書かれている。さらにADEMやLC部隊の実態から、各隊員の能力から性格にいたるまで、じつに解りやすい。
――ありがとうな麻耶。助かるよ。
なにか突き刺さるような視線を感じて、顔を上げると、なんとも冷たい目をした由宇と目があった。
「な、何?」
「別に、なんでもない」
とてもなんでもないという視線ではない。
「あ、これ、いろいろ有益な情報、書いてあるから。読んでみる?」
「真目家の情報など、目を通すつもりはない」
一方的に真目家が峰島勇次郎を嫌ってるのかと思ったら、双方向か。突き刺さるような視線を、ようやく理解する。
由宇は淡々とキーボードを打ち込んでいる。ゲートのハッキングにも使ったLAFIサードだ。闘真はやることがないので、それをぼんやりと見ていた。
モニターの隅でゴミみたいな点が、わらわらと動いているのが気になった。
「ねえ、一つ聞いていい?」
そう言って指差すと。その点の集合はパッと画面中に散ってしまった。が、すぐに先程とは離れた場所に、また集まり、同じように動き出した。スクリーンセーバーの一種だろうか? それにしては動きが変わっている。もう一度指を近づけようとしたところを、由宇にとがめられた。
「ダメだ。臆病なんだから」
「臆病?」
「生きてる」
「AI?」
「根本的に違う。人の手によって作られたものじゃない。LAFIシリーズが無限の可能性を秘めた宇宙なら、これはそこで生まれた偶然の産物」
「偶然の産物?」
「ある日LAFIサードの中の不確定因子が結びついて、一つの意思を持った。三十億年前、地球に生まれた原始生物と同じだ」
「なんだかよく解らないけど、すごいことなんじゃないの?」
「私のペット。地下で犬や猫は飼えないから。可愛いだろ」
可愛い? 地下で暮らすと美的感覚はこうも一般とずれるものなのだろうか。とりあえず闘真は、あいまいに笑ってお茶を濁した。
「さっき言ってた最悪の予想ってなんなの?」
「LAFIをハッキングした犯人。おそらく風間遼という男だ」
「知ってる人?」
「うん、勇次郎は助手というべき人間をそばに置かなかったが、風間だけは別だった。LAFIファーストが開発の佳境に入ったころ、突然現れ勇次郎の助手になった。LAFIの扱いに恐ろしく長けている。この男が相手だとしたらやっかいだ」
「そんなに? 由宇もすごそうだけど?」
「私がすごいことは微塵《みじん》も否定するつもりはないが、風間には大きなアドバンテージが二つある。一つはLAFIファーストのセントラルスフィアに陣取っていること。LAFIファーストの全権を握っている。これは事実上スフィアラボを支配していると言って差し支えない。それに比べて私のほうはこのノートタイプのLAFIサードのみ。同じ理念の設計とはいえ小型化された分、性能に大きな差がある」
「そ、そうなのか。だけどゲートのロックはやぶったじゃない?」
「スフィアラボのLAFIファーストとADEMのLAFIセカンドがせめぎあっていたからだ。その隙をついた。まっとうにやりあっても、勝ち目はない。そしてもう一つ、こっちのほうがやっかいなんだが。風間は勇次郎自身の手によって、特殊な能力を得ている」
「特殊な能力? 遺産の?」
「うん。エレクトロン・フユージョン。精神構造を限りなくデジタル化し、コンピュータと思考をリンクさせる」
「日本語で説明してくれるとありがたいんだけど……」
闘真の要求をあっさり無視し、由宇は説明を続けた。
「単純に性能だけ比べるなら、ADEMのLAFIセカンドのほうが上だ。しかしプログラマの性能差が、それをくつがえした。いやこの場合はインターフェイスの差かな。キーボードで操作するのと、思考がダイレクトに反映されるのとでは、雲泥の差だ」
闘真はなんとなくイメージをつかんできた。難しい話をしているようなのに、由宇の手がまるで止まらないのが不思議だ。さらに説明は続く。
「とにかく風間は文字通り電子の情報を、五感に近い感覚として知る。目や耳で見聞きするように、手足を動かすように、電子のあらゆる情報を感じ取り動かすことができる。こう言えば解りやすいか。たとえば私達はロボットをリモコンで動かしてるけど、彼の場合はロボットそのものだ。それくらいアドバンテージが違う」
「それはいったいどういう世界なんだ? 僕にはさっぱり想像できない」
闘真の正直な感想に、由宇も首をかしげるだけだ。
「さあ、私にも想像つかない。きっとまるで理解不能な世界なんだろう。それを理解できるから、遺産だと言える。遺産でない者がエレクトロン・フュージョンの設備を使うと、あまりにも異質な世界に気がふれる」
「どうしてそんなことができるの?」
「峰島勇次郎が悪名高き理由は?」
闘真の頭に数多くの理由が浮かぶが、その中からこの場に一番ふさわしいと思われるものを選び出した。
「人体実験。人類の進化をどうのこうのって……」
「そう、正確にはLAFIシリーズとセットで初めて遺産としての能力が活用できる。でなければ、ただの優秀なハッカーだ」
「どうしてLAFIでないといけないの?」
「理由は二つ、一つは風間遼のエレクトロン・フユージョンはLAFIベースで作られていること。もう一つは、まるまる一つの人間の脳を受け入れることができるコンピュータは、この世にLAFIシリーズ以外存在しないこと」
これでもいいのかとノートパソコンを指差す闘真に、由宇はぎりぎりと答える。
「やはりおかしい」
モニターを見つめる由宇が難しい顔になる。
「どうしたの? また何か問題?」
「風間のLAFIファーストに適応する速度が、計算より速い」
由宇はさらに難しい顔をする。
「適応?」
「もし君の脳をそうだな……レミングに移植したとしよう。君はそのレミングの体を自在に動かせるか?」
どうしてレミングなのか疑問に思いつつ、闘真はどうなるのか頭をひねった。
「さあ、どうだろう。四本足で歩くことや、食べ物や、そもそもレミングって何食べるんだっけ? あと、住処《すみか》とかいろいろ困りそうな気もする」
「そのとおり。君はレミングとしての習性を学ばなければならない。本能の意味を理解できず、レミングとして行動できない。君はきっと二本足で歩こうとして失敗するだろう。レミングの突然自殺したくなる感覚も、最初は理解できず悩むことになる」
「いや、それは理解したくない」
「それと同じことが風間にも言える。コンピュータに脳を移植されたと考えてみればいい」
「でもコンピュータってある意味脳だよね? 脳に脳を移植って変じゃない?」
「細かいな君も。ではこう言おう。コンピュータに意識を移植された。これなら問題ないだろう」
どうだと言わんばかりに胸をそらす。
「レミングでさえ人は大きく戸惑う。コンピュータともなれば、いったいどれほどの差異が生まれるか。普通の人間なら、その感覚の違いだけで発狂する」
「それができるから遺産?」
「そうだ。しかし風間でも意識をコンピュータに合わせるのには時間がかかる。適応時間をある程度の余裕を持って算出したんだが、それでも速い。はやすぎる。おかしい」
それを最後に由宇は黙りこみ、キーボードの音だけがしばらく続いた。
「くそくそくそ、ちくしょう!」
光城は。八つ当たりで近くの床や壁を殴りつけていた。
「亜門、どうして撤退しやがった! あと少しで殺せたんだ!」
亜門はゆっくり首を振る。
「おいおいおい! 俺にできねえと思ってるのか? そうなんだな? おい、そうなんだろ!」
「ええ、無理ね」
亜門ではない声が答える。しかしこの場には光城と亜門以外の姿はない。
「瑠璃子か。隠れてねえで、その体、拝ませてくれよ」
嫌悪をあらわにした瑠璃子の姿が、二人から少し離れた場所に現れた。
「よお、瑠璃子。俺の実力知ってるだろう? さっきのは何かの間違いだよな?」
にやけた顔で瑠璃子のそばに寄るが、瑠璃子はそれをたくみに避ける。
「ええ、知ってるわ。だからこそ、無理だと言ったのよ」
「なんだとお?」
「あなたの体は薬に依存しすぎて、もうボロボロ。禁断症状の間隔もだんだん短くなってるのではなくて?」
光城の手にあるピルケースを見て、瑠璃子はほんの一瞬だけ悲しげな表情を見せるが、すぐに鼻で笑った。
「てめえ!」
光城が詰め寄る前に光学迷彩で姿を隠し、声だけの存在となる。
「私はいったん、風間様のところに戻るわ。亜門、あなたはブレインプロクシの調整を。光城、LC部隊の生き残りを狩りなさい」
「あの女の始末は俺にやらせろ!」
「あの女はプラントセクターに逃げ込んだわ。これが何を意味するか解るわね?」
それを聞いて光城はあきらめた表情になる。
「次に会うときは、干からびて死んでるわよ」
最後には艶然とした笑い声も消し、完全に瑠璃子は消えた。
カタカタとキーを叩く横で、闘真は少しでも体力を蓄えるべく寝転がり天井を見ていた。
「あっ」
天井の中心部から黒いもやが広がってきた。闘真にとっては馴染み深い光景。プラントセクターの植物を世話する羽虫型ロボット、通称ミツバチの群集である。
「あれは?」
由宇が天井の異変に気づいて目を細める。
「ああ、あれはミツバチだ。プラントセクターの草木の管理ロボット。別に警戒する必要はないよ」
「バカ、警戒しろ!」
言うや否や、由宇は闘真の手をひっぱり、猛然とダッシュした。
「え? え? なんでだよ?」
「見ろ!」
いつもはプラントセクター全体に散開するミツバチの黒い霧は、しかし闘真達めがけて墨のようにたれてきた。
「うわっ! なんかやばそう」
「私達を襲うようにプログラムされている。つかまったら終わりだ」
「も、もしかしたら威嚇だけで、襲ってきても無害かもしれない」
「君はあきれるほどの能天気だな。ある意味賞賛に値する。樹液を採取する機能があるだろう。ターゲットを人間に変更されて、血を吸われたらどうする!」
「でもせいせい蚊程度の量だけど」
「蚊程度でも十万匹に吸われれば干からびる。ほら、走れ!」
後ろから膨大な羽音が近づいてくる。
「あそこの管理室に!」
二人は体を投げ出すように部屋に飛び込むと、ドアを蹴飛ばして閉めた。一瞬遅れて、台風の雨のような音が、ドアや窓ガラスを叩いた。
「うわぁ……」
窓ガラスの外を見て、闘真はうめいた。あまりにも密集しすぎて、黒い霧となっているミツバチの群れ。確かにこれに襲われたらひとたまりもなさそうだ。
[#挿絵(img/9s-199.jpg)]
闘真の首筋に張り付いていた一匹を、由宇は指で乱暴につまむ。
「いてっ!」
由宇は痛がる闘真のことなどお構いなく、指の中で暴れるミツバチの挙動を観察した。丸い体の四方に四枚の羽、中央には採取用の極小の針。闘真の血を吸ったのか針は赤い。シンプルな形状だ。四枚の羽と針があるという共通点以外、ミツバチどころかムシにも見えない。
「ふーん」
由宇がミツバチを観察している間、闘真は開いている窓やミツバチの入り込めそうな所はないか、点検しようと部屋の中を動き回り、そして後悔した。
「あ……」
由宇は硬直している闘真の見ている場所を、後ろから覗き込み顔をしかめた。
「あそこでのんびりしていたら、私達もこうなってた」
死体が転がっている。またしても無残な死に様である。全身という全身に細かい穴が開き、血の気を失った死体である。闘真達と同じくここに逃げたはいいが、ドアを閉めるのが間に合わなかったのだろうか。LC部隊の隊員ではない。となるとスフィアラボの人ということになるが、見覚えはなかった。全員の顔を知ってるわけではない。
由宇は死体から離れると、ミツバチの観察に戻った。指ではじかれたミツバチはいったん遠ざかったが、すぐに由宇めがけて飛んでくる。それを指先でまた器用につまんだ。それを何度か繰り返す。
「行動パターンもシンプルだ。それほど高度に人を識別してるはずもない。体温を感知しているのか? いやそれなら人肌の温度なんて、この施設にはいっぱいありそうだ」
闘真は窓の外を見て、くらくらとなった。ミツバチの群れで真っ黒だ。
「ああ、もしかして」
何か思いついたのか、由宇は再びミツバチをはじく。ミツバチはしばらくうろついていたが、なぜか近くにいる由宇は素通りし、闘真に向かった。
「いてっ」
まさしく虫に刺されたときみたいに闘真は、自分の頬をパチンと叩いた。
「ああ! 貴重なサンプルなんだから壊すな」
「そうは言っても……」
手に張り付いた潰れたミツバチを見て、闘真はうわっとなった。採取用の容器が破れたのか、血がはみ出ている。血は少量だが、蚊に比べればずっと多い。これだけ一匹に吸われたかと思うと、あまりいい気持ちはしない。これが何千匹にもなれば、床に転がっている死体になるのかと考えるだけで、胃のあたりがむかむかする。
壊れたのは容器だけなのか、ミツバチはまた飛び立った。それをつまみ、曲宇はまた同じ作業を繰り返す。
計十回、そのすべてが闘真のほうに向かった。距離としては由宇のほうが近い。
「な、なんで全部僕のところにくるんだ!」
ミツバチが近づくたびに、手のひらで追い払う。由宇みたいにつまむなんて芸当は闘真にはできない。
「鈍いね、君」
そのたびに指で器用につまむ由宇は、哀れむような視線を向けた。闘真としては抗議したくなる。誰だってできない。できるほうがおかしい。いるとすれば、箸でハエをつまむ宮本武蔵くらいなものだ。
断固そのことを主張すべく口を開こうとすると、またミツバチが血を求めて近づいてくる。
「だからなんで、僕のところにくるんだ!」
「それは君がこいつを引き寄せるものを、発散しているからだ」
「引き寄せるもの?」
「だいたい解った。ミツバチを黙らせるのは簡単だ。でもそれだけでは面白くないな」
気まぐれな回答タイムは終わったのか闘真の質問を無視し、由宇は人差し指を口にあて思索にふける。彼女の癖だろうか。その綺麗な横顔を見ていると、とても世界を一変させる知識を持っているとは思えない。
「どうせならスフィアラボのセンサー類も黙らせたい。これから先も行動が束縛されるのは面白くない」
「センサー類?」
「スフィアラボは大気や人の行動を監視するため、センサーが無数にある。風間はそれを自在に自分の感覚として使いこなせる」
「それってセンサー類が風間って人の、目や耳や舌みたいだってこと?」
「なかなかいいたとえだが、舌はないぞ」
それに関して闘真は一計をひらめいた。
「火をおこすってのはどうかな? 火事になったら、それでセンサー狂わない?」
「すぐに消火される。却下」
あっさり一蹴される。
「それにどうせセンサーを狂わせるなら、スフィアラボ全体だ。それには火を全部つけて回るわけにはいかないだろう。それとも君には焼身自殺願望があるのか?」
「ないよ。……でも半分くらいなら燃やしても」
自分のアイディアに執着したが、睨まれて終わった。
「闘真、外に出ない範囲で医療施設か工場施設はあるか?」
「うん。医療施設なら、けっこう立派なのがこの奥に」
「そこにドライアイスがあったら持ってきてくれ。それと火か煙の出る道具があれば……」
「やっぱり火をつけるの!」
「防火用センサーが反応する程度のものでいい。火事はおこさない」
「あ、そう。発炎筒なら何本か。ADEMの標準装備の中にあったと思うけど」
「解ってる。あとはせめて隙があれば……」
「隙って、なんの?」
「風間の意識を一時的にどこかにそらしたい」
「ゲートのときみたいに?」
「そう。LAFIみたいにハッキングをしかけてくれるコンピュータがあれば。しかしADEMのLAFIセカンドはもう使い物にならない。他に方法があれば……」
思案顔の由宇と一緒に、しばらく闘真も考えていたが、あることを思い出す。
「まって。一つだけ、方法があるかもしれない」
そう言って闘真は、真目麻耶からもらった通信機を取り出した。
「真目家に助けをこうのか?」
由宇の顔は心底いやそうだ。
「いや助けをこうんじゃなくて、それにほら、お願いするのは由宇じゃなくて僕だから」
「解った。いまは贅沢を言っていられないか」
しぶしぶといった感じで由宇は、承諾する。
「じゃあ、いまから通信するから」
闘真は麻耶からもらった通信機を取り出し、スイッチを入れる。待つ時間もなかった。すぐに、麻耶の声が通信機から聞こえてきた。
『兄さんですか? お待ちしてました。ずっと連絡がなくて心配していたんですよ』
切迫した中にどこかほっとした声。ここまで心配かけているのかと思うと、闘真の胸は少し痛んだ。しかし由宇はまるで違う感想を抱いたようだ。口に形容しがたい笑みを浮かべた。あえて表現するなら、ネズミをいたぶるネコ。
「ごめん、麻耶。すま…あっ!」
闘真が答える前に、通信機をひったくる。そしてなんともえらそうな口調で、由宇は喋りだした。
「悪いが君の兄さんではない。用があるのは私だ」
『誰ですの?』
麻耶の声があからさまに硬くなる。
「その質問には答えられない。おそらく名前を聞いただけで、不愉快になるはずだ」
『私、すでにとても不愉快な気持ちになっています。誰ですの? 答えないのなら、通信を切ります』
「あ、ちょっと待ってよ麻耶!」
「ほら、兄さんもこう言ってる」
通信機を奪い返そうとするのを、由宇はひらひらとよける。
「まあ、しかたない、名乗ろうか。不愉快になる準備はできたか?」
『ええ、とっても。さあ、教えてください』
「峰島由宇」
麻耶の答えはしばらく返ってこなかった。
『……なんですって? あの、もう一度』
ようやく返ってきたのは、闘真でさえいままで聞いたことがないほどに動揺した妹の声である。
「だから峰島由宇。注釈を付け加えるなら、真目家がもっとも嫌っている男、峰島勇次郎の一人娘だ」
『そ、そんな、まさか! あの男の娘は、地下に監禁されているはずです!』
「ADEMの隠蔽工作もザルか。私の存在が漏洩《ろうえい》してる」
『に、兄さん、いまこの女が言ったことは本当ですか?』
何も悪いことをしていないのに、闘真は肩をすぼませて「本当です」と情けない声を出す。
『……なんてこと』
麻耶が頭を抱えているのが目に浮かぶ。ごめんよ麻耶、約束は守れそうにない。スフィアラボの事件が解決しても会いにいけそうにない。だって怖いじゃないか。
『どういうことか、あとでキッチリと説明してくださいね、兄さん』
「……善処します」
どうして由宇はそんなに楽しそうな顔をしているのか、闘真は恨みがましく見る。真目家が峰島を嫌うように、峰島も真目家を眼の敵にしているのだろうか。だとしても自分を巻き込まないで欲しい。闘真にはいまひとつ、自分に真目家の血が流れている自覚がない。
「しかし、本当によく私の存在を知っている。あそこに出入りする人間は例外なく、ブレインプロテクトで。外では話したくても話せないはずなんだが」
「フレインプロテクトって、何?」
「平たく言うと口止め。大脳皮質番号、書き込まなかったか?」
由宇はこめかみのあたりを叩き、衝撃を受けたフリをする。ADEMのエレベーターで地下に降りる前のことを思い出し、あれは口止め作用もあったのかと、衝撃を受けたこめかみのあたりをなぞる。
「それって、忘れちゃうってこと?」
「いや、言いたくても口に出せないというだけだ。記憶操作というより意識操作に近い。私やADEM関係者となら問題なく会話できる」
闘真は心底安心して大きく息を吐く。そしていつのまにか自分の中で由宇との記憶は、とても大事なものになりつつあることに気づいた。意思とは関係なく強制的に忘れさせられてしまうなんて、考えるだけでぞっとしたし、絶対にいやだった。
「例外として、部外者でもADEM関係者と機密事項を話している相手なら、ブレインプロテクトは解かれる。たとえば君の妹みたいにだ」
伊達が闘真を最重要機密施設に連れて行ったのも、これでうなずけた。
『それで地下でずっと引きこもってた人が、私になんの用なんです?』
「トゥルーアイ20000を借りたい」
『なんですか、それは?』
「とぼけなくていい。真目家のコンピュータ部門が開発中のスパコンだ。ほぼ完成しているはずだ。その力が借りたい」
『情報は筒抜けですのね。セキュリティ面を全面的に見直さないと』
「お互い様だ。私のことも知られていた」
『真目家はそれが本業ですから。地下に引きこもっている小娘に知られているのとは、大違いです』
「先祖代々、覗き見趣味の家系に知られるよりましだ」
『真実を知りたければ、真目家の門を叩け。この言葉を知らないとは、さすが引きこもりの穴倉娘は世間知らずですわね』
「覗き見趣味も、言葉しだいではもっともらしく聞こえるか。私も参考にしよう。地の底より天の深さを知る」
『あら、井戸の底にいるのは、カエルと相場が決まってますのに』
ヒートアップする二人に、闘真はあわてて割って入る。
「ストップ、ストップ! ああ、二人とも時間がないんだから」
「君は黙っていろ」
『兄さんは口を出さないでください』
二人同時に怒鳴られてしまった。もしかして自分は女難の相なんじゃないだろうかと本気で疑い始めた。
『それで、トゥルーアイ20000で何をしろと?』
「スフィアラボのLAFIにハッキングを仕掛ける。隙が欲しい」
それでも二人の会話はようやく本題に戻ったことに、闘真はほっと胸をなでおろす。
『ADEMのLAFIセカンドを使えば、よろしいことではないですか』
「知ってて言ってるだろう? すでにLAFIファーストのハッキングを受けて使い物にならない」
『それでうちのトゥルーアイ20000を?』
「LAFIシリーズに比べればポンコツだが、それでも他のよりはましそうだ。ちなみに協力してもらった場合、トゥルーアイ20000は確実に使い物にならなくなる」
『協力して欲しいのではなくて? 人にものを頼む態度とは思えませんが』
「頼むのはそちらだ」
『面白いことを、おっしゃいますのね』
「君のお兄さんは、帰らぬ人となる」
『……脅迫ですか?』
「事実を述べているだけだ」
『家系図にも漏れる妾の子と、真目家のコンピュータ部門を左右しかねない最新コンピュータと。どちらを優先すると思います?』
「私が決めることではない」
『真目家が、峰島の血を引く者の要求に応えるとでも?』
「それも私が決めることではない」
闘真の顔に脂汗が浮く。沈黙が痛い。このまま帰らぬ人になったほうがましなのではないかと、本気で思い始めたころ、麻耶の答えが返ってきた。
『解りました。兄をよろしくお願いします』
「すなおでよろしい」
麻耶の引きつった顔が目に浮かぶ。
『それでトゥルーアイ20000をどうすれば、よろしいのですか?』
「まずネーミングをどうにかしてくれ。真目家でトゥルーアイなんてセンスは、どうかと思うぞ」
闘真が聞いたこともない麻耶の罵声《ばせい》に、由宇はうるさそうに通信機から耳を離した。
由宇はいくつかの指示を出すと、まだ何か言いたそうな麻耶を無視して通信を切り、なぜか妙に青ざめている闘真に通信機を返そうとするが、途中でその手を止めた。通信機を凝視する表情が徐々に険しくなる。
「ふーん。君の妹もただのお嬢様ではなさそうだ」
「どうしたんだ?」
「いや、なんでもない。あんなのでもさすがは真目家のナンバー2か。潔い覚悟だ。悪くない」
そう言って、闘真の胸に叩きつけるように通信機を返した。
「けほっ、もう少しおしとやかにしてもいいんじゃない?」
闘真のささやかな抗議は無視された。
「呼吸を止めて、どれくらい走れる?」
「さあ、やったことないな。どれくらいがご希望なの? 一時間とか言わないでよ」
「潜水時間はどれくらい?」
「十分そこそこ」
真目家門外不出の鳴神流は、闘真に厳しい鍛錬《たんれん》を強要した。
「けっこう。これからここに向かう。荷物は忘れずに」
「なんか、えらそうだね」
「これからミツバチの大群の中を走りぬける」
由宇はあっさりと無視し、さらりととんでもないことを言う。
「どうやって!」
「ミツバチは、人の吐き出す二酸化炭素に反応する。呼吸を止めて走ればいいんだ。」
ドアが勢いよく開けられ、なだれのごとくミツバチの大群が部屋の中に押し寄せてくる。
――心の準備くらいさせてくれ。
叫ぶわけにもいかないので、闘真は抗議を喉元でのみこみ呼吸を止め、由宇の背中を追って、黒い霧に突っ込んでいった。
情報の海の中で、風間は目を開いた。やつらが動いた。しかしたいした準備をしているようには思えない。ヤケになったか。
いや、ミツバチの動きが鈍い。
いくつものモニターが風間の意識に送りこまれてくる。何百という映像の中から、二人の映っている映像の重要度を上げる。
呼吸を止めて走っている。ミツバチの動きが鈍い理由も説明づけられる。しかしいつまでそうやって行動できるか。その死に様をゆっくりと観賞しよう。
しかしその楽しみは突然邪魔される。外部からのハッキング警報だ。
ハッキングの経路を調べ、釈然としない気持ちになった。真目家が開発中のトゥルーアイ20000。真目家は峰島勇次郎の事柄全般に、いっさいかかわりをもたないという不文律がある。
確かにトゥルーアイはLAFIシリーズを除けば世界トップレベルのコンピュータだ。しかしこれだけバリエーションのあるハッキングを行うほどではない。
やはりそのバリエーションに対して、コンピュータの性能は少々足りないようだ。LAFIセカンドほどの手ごたえもない。
風間は着実にハッキングを阻止し、逆にトゥルーアイに潜りこんだ。もろい。LAFIセカンドに比べると、なんともろいことか。
あっさりとトゥルーアイの九割を制圧し、いまや真目家のセキュリティシステムさえ風間のものとなった。
社長室の監視カメラに視覚をつなぐ。誰がこんなまねをしたのか。カメラをつないだ瞬間、風間はぎょっとした。
若い女がカメラを見ている。いや睨んでいる。まるでこちらが覗いているのを見透かしているように。偶然だろうが。急いでその容姿から誰かを割り出す。
真目家の当主不坐に次ぐナンバー2、真目麻耶。
『こんにちは、と言うべきかしら。あの穴倉娘の言うことが本当なら、風間遼、あなたはいま私を見ているはず』
風間はさらなる衝撃を受ける。
「これがなんのスイッチかお解りかしら?」
麻耶の細い手には似合わない、無骨なデザインのリモコンスイッチを見せた。
『まったく、あのコンピュータの開発に何億ドルつぎ込んだと思ってるのかしら、あの穴倉娘は』
穴倉娘? なんのことだ?
『せっかくお会いできたけど、これでお別れ』
麻耶はうっすらと微笑むと、スイッチを入れた。
同時刻、真目家の傘下であるトゥルーフロンティア社開発研究所が大爆発を起こした。のちに過激派テロの仕業とされるが、さいわいにも死傷者はゼロで、被害は同社の最新鋭コンピュータトゥルーアイ20000に留まった。
――があああああっ!
風間は声にならない悲鳴をあげる。トゥルーアイに潜入していた心の一部が、無理やり引き裂かれ消失した。
それは、肉体が損失した痛みに似ていた。
報告を受けた麻耶は椅子に深く腰を下ろすと、どうやって父に言い訳しようか方策をいくつか検討する。しかしその間も彼女の視線は、たった1つのモニターから外れようとはしなかった。ここ何時間かずっと眺めっぱなしのそれには、心電図や血圧、脳波などの身体データが表示されている。闘真に預けた通信機から送られてくるデータだ。もしものことがあれば、すぐに解る。闘真にこのことは伝えていない。
しかしまさか兄が峰島由宇と行動しているとは。忌々しい娘だが、覗き趣味というのは悔しいことに当たっている。ただ麻耶は最後の一線だけは守っていた。送られてくるデータの一つ、音声データだけは意図的にオフにしている。会話だけは聞くのがためらわれた。こわかったとも言える。
禍神の血の暴走を見るには、現在表示されているデータだけで充分である。麻耶は透明なケースに包まれたボタンのフタを開けると、それを押すマネをして、自虐的な表情を浮かべた。
はたして、そのときになったら自分は押せるだろうか。兄を殺せるだろうか。
――殺せる。
一年半前、鉄格子の中で膝を抱え、心の中に閉じこもっていた兄。次はないだろう。次こそは本当に心が壊れてしまう。それほど辛いのなら、代わりに自分が兄を殺す業《ごう》を背負おう。
麻耶は決意を新たに固めると、ボタンのフタをそっと閉じた。
ずいぶんと走った。限界が近い。どこをどう走ったのか、細い通路みたいな場所に出る。入り組んだ扉と十字路で、すぐに迷子になりそうだ。
少なくなったとはいえミツバチの群れは、まだそこらじゅうにいる。逃げ場はない。
隣で由宇は顔色一つ変えず、走っている。呼吸を止めているはずなのに、ぜんぜんそんな様子はない。闘真と同じく大量のドライアイスを背負っても、まったく平気そうに走っている。
実はもしかしてロボットなんじゃないかと、本気で疑い始めた。
そろそろ呼吸が限界だ。手を振り回しゼスチャーでそのことを伝えようとするが、伝わらなかった。代わりに変人を見る目つきを返された。
すでに闘真が自分の限界の峠を二回乗り越え、さらに新記録を更新中のとき、由宇は突然立ち止まり、バックバックをおろすと、ドライアイスを廊下にぶちまけた。さらに闘真のドライアイスも、同じようにするようにと、身振りで伝える。
ゼスチャーが一方通行なのは不公平だと思いながら、闘真もドライアイスを廊下一面に撒き散らす。ドライアイスは廊下を気持ちいいくらいにすべっていく。
由宇は次に発炎筒を何本もつけると、同じように廊下にばらまいた。火花と煙が景気よく噴出される。
数秒と待たずに、けたたましいサイレンが鳴った。火災報知器のサイレンだ。一瞬遅れてスプリンクラーが噴水のように水をまく。
発炎筒の煙はあっというまに鎮火された。しかし別のものが視界を悪くする。水と反応したドライアイスが、爆発的に白い霧を発生させた。本来は下に沈むはずのドライアイスの霧は、温度変化を察した天井のエアコンの作動により、上空に巻き上げられる。あたりはあっというまに霧に包まれ、何も見えなくなった。
霧に包まれるとミツバチの様子がとたんにおかしくなった。その場でぐるぐると回りだした。
その動作は電灯に群がる羽虫に似ていた。
「ふはあ、もう呼吸しても大丈夫だ」
由宇はいままでの分の呼吸を取り戻すかのように大きく深呼吸を繰り返す。
「よかった。由宇はもしかしてロボットなんじゃないかと、心配してたところだ。でもミツバチがなんで?」
二人が会話しても、ミツバチが向かってくる様子はない。
「ドライアイスの霧の成分は何か解るか?」
「あ……二酸化炭素!」
「そう。私達の出す二酸化炭素なんて微細になるくらいに大量にあふれている。これでミツバチは封じた。監視カメラもサーモセンサーも大気分析機も、霧と冷気で使い物にならない」
「でも、いつまで持つの? ずっとモクモクしてるわけじゃないだろう?」
「解ってる。次は風間の動きを封じる」
由宇は走りながらLAFIサードを取り出すと、勢いよくキーボードを叩き出した。
風間は歯軋りをしながら電子の海を漂う。電子の中に肉体は存在しないのだが、電子に変換された脳の構成は肉体の風習もそのまま引きずっている。
風間は一部の役に立たなくなったセンサー類をシャットアウトする。敗北を象徴しているようで、忌々しいのだ。トゥルーアイ20000に引き裂かれた精神的ダメージも残っている。スフィアラボを管理するには支障ないが、屈辱感が残る。いったいあれは誰の差し金なのか。
侵入者の少年少女が潜んでいると思われる範囲はせまい。ドライアイスによる目くらましもいつまでももつわけではない。発見は時間の問題だろう。
それに潜伏している区域を見張っていれば、何か動きがあるはずだ。
案の定、ネット端末の一つに、仲間のものでないアクセスが一つ入った。A12区。まだセンサーの役に立たない区域だが、人を差し向けることはできる。
都合のいいことに亜門と光城が近くにいる。すぐし連絡しようとすると、その端末からウィルスが放たれた。比較的ポピュラーなそれは、威力こそたいしたことはないが、繁殖率が高く、駆逐するのに少々てこずるタイプだった。
風間は時間をかけずに一掃するため、シンクロ能力を全開にした。ウィルスはあっというまに消え去ってしまう。時間稼ぎの姑息《こそく》な手段だ。
風間は、その端末を使えないようにすると、彼らのことを口で伝えるべく意識を浮上させた。
ミラージュのメンバーには、自分がLAFIファーストと精神レベルでシンクロできることは悟らせてはならない。知っているのは宮根瑠璃子だけだ。そのためにつかんだ情報は、口で言う必要があった。本来の目的のため、多少の手間はがまんしなければならない。
ふと、意味不明な不安感が、風間の奥底に生まれた。それがなんなのか解らなかったが、いやな予感だけは明確に感じ取った。
一面の煙で、まだ視界は大きくせばめられている。
光城は慎重な足取りでA12の端末に近づいた。風間の話を信用するなら、つい先ほどまで、二人の侵入者がいたはずなのだ。そのうちの一人は先ほど戦った少女だ。いつ煙の中から飛びかかられるか解らない。
どのような事態にも対処できるよう、部下に指示を出し、端末のまわりを包囲する。その中を亜門が無造作に端末に向かって歩いていった。
「気をつけろ」
光城の言葉に耳も貸さず、亜門は端末の前まで来ると、無造作に腕を振った。それだけで煙が払われ、隠れていた端末が露となった。
しかしそこには亜門以外、誰の姿もなかった。
「くそっ、逃げた後か」
「いや、オトリだろう」
光城の言葉に、亜門は異を唱える。
「どうして解る?」
何も答えず、亜門は何かを投げよこした。受け取ったそれは端末用の端子とアンテナがついている。
「端末機にそれが刺さってた。そのアンテナで別の場所に情報を送ってたんだろう。やつらはそこにいる」
10
A12端末付近に兵士達が集まって手薄になった廊下を、闘真と由宇は並んで走った。
「この先はもう、ドライアイスの煙が薄れてるよ。どうする?」
先ほどから自分は質問しかしていないことに気づいていても、やはり質問しか出てこなかった。情けないとは思うが、この少女と張りあおうというほうが間違いなんだと、自分の自尊心に言い聞かせる。
「ううん、スプリンクラーはもう動作しないと思うから、止めとく」
「それなら、どうするの? この先はセンサーが生きてるんじゃ?」
やはり聞いてしまう。しかも息が切れてきた。隣の由宇は余裕の表情を崩《くず》していない。足手まとい。由宇の言葉が脳裏をかけ巡る。そんな闘真の胸中も知らずに由宇はたのしそうに言った。
「それももう少しでダメになる。風間の電子の五感は使えなくなる」
「なんだって?」
「もうそろそろ起こってもいいんだけど」
由宇が天井を見上げると、ちょうどライトが明滅する。
「始まった」
由宇が不敵に、しかしどこか子供っぽい笑みを浮かべた。
11
風間は光城達が動くのを確かめると、ふたたび電子の海に潜った。我が物にしたADEMのLAFIセカンドから、有益な情報がないか探るためにだ。
深く潜っていった底で、風間は目の前に広がるLAFIセカンドの中枢の世界に見とれた。
なんて美しいプログラムが広がっているのだろう。理路整然とし、無駄な贅肉《ぜいにく》はいっさいない。機能美の極みが広がっている。
それなのに、これほど美しい世界を構築できる人間がプログラムしているのに、なぜLAFIセカンドの力を最大限に発揮できない。
いや発揮させていないのか。しかしそれなら、いったいどんな意図があって?
しばし美しく構成された世界に見入っていたが、再びあの不安感が無視できないほど大きくなり始めた。
それがなんであるか解ったとき、風間は愕然とした。不安の原因は飢餓感であった。どうしてと思う。電子に心を移した風間にとって、人間の風習など必要ないはずだった。食事も睡眠も排泄も必要ないはずだった。
しかし、心を蝕む不安感はますます大きくなっていく。それは徐々に、恐怖へと姿を変えていった。
その原因に思い当たり、風間は叫びだしそうになった。飢餓感は自分の心から発せられているのだ。事故などで手足を失った人間が、失ったはずの肉体に痛みを覚えるのと似ている。
しかし風間のそれはもっと深刻であった。飢餓感は突き詰めると餓死へとつながる。本当に肉体が死ねわけではないが、心が感じる飢餓感に精神が死んでしまう。
とんでもない盲点だった。いずれはLAFIに心をすべて移し、不自由な人間の肉体を捨てようと思っていたことが、根本から崩れてしまう。密かに進めていた計画が、形をなさなくなってしまう。
ついに飢餓惑の恐怖が限界に達した風間は、逃げるように電子の世界を後にした。
風間が荒い息でバイザーを外したのを見て、瑠璃子は心配になる。
「どうしたの?」
顔を覗き込んだとき、瑠璃子は思わず小さな悲鳴を上げた。風間の顔が何日も食事をとっていないように、げっそりと痩《や》せこけてしまっていたのだ。
瑠璃子の反応を見て、風間も自分の体に異変が起こっていることに気づいた。自分の腕を見ると細く痩せていた。顔をなぞると、頬がこけている。体が異様にだるい。
「精神が肉体に影響を及ぼしたか」
どうしてこんなことになったのかは予想ができる。電子の世界は思考のスピードを何倍にも上げることができる。構成された電子の脳をより最適化できるためだ。LAFIセカンドをハッキングしたときは、思考スピードをほぼ百倍近い速度に実現していた。
しかし脳には同時に肉体の管理機能も残っている。すでに電子の中で風間は、相対的な時間にして十日以上経過していた。
最後のウィルスの駆逐《くちく》が駄目押しになってしまったようだ。そこまできて風間は愕然とした。もしかしたらこれを狙って、あのウィルスを仕掛けたのではないかと。しかしすぐに思い直す。自分の秘密を知る人間は峰島博士だけのはずであった。
「大丈夫?」
瑠璃子が水を汲んだコップを差し出した。礼も言わず受け取り一気に飲み干したが、瑠璃子は嬉しさを隠し切れない表情をする。それが風間には不可解だった。
「LAFIセカンドに有益な情報はあった? そろそろ第二段階に計画を推し進める頃よ」
解っていると答えようとして、風間の動きが止まった。
LAFIセカンドに広がる美しいプログラムの世界とゲートのハッキングのプログラム。さらにトゥルーアイ20000のハッキングバリエーションの類似性を思い出したのだ。そして監視カメラに映った少女の姿。
風間の頭の中ですべてがつながった。
「まさか、峰島由宇か!」
峰島由宇でなければ、このような人の心の盲点をついた方法は思いつかない。やっかいな、ある意味最悪な相手が敵に回った。
「瑠璃子」
「はい」
「おまえにまかせる。期待は裏切るな。あの二人を始末しろ」
瑠璃子は、笑った。
風間がもっとも懸念している相手なのは、様子を見れば解る。その相手の始末を、光城や亜門ではなく、自分がまかされたことに、彼女は至上の幸福を感じた。
「必ず、殺して見せます」
「期待している」
セントラルスフィアを出たときは、すでに瑠璃子の姿は消えていた。姿だけでなく温度も音も、あらゆる存在証明が、遺産の力によって隠蔽されたのである。
12
「ねえ、どこに行くの?」
前を恐ろしい速さで走る由宇に、闘真は離されまいと必死だった。
「なるべく早く、このラボセクターを離れたい。ここは、LAFIファーストの制御下のものが多すぎる」
「でも、風間はしばらくLAFIを使えないんでしょう?」
「慢心と油断は人生の落とし穴だと覚えておいたほうがいい。君の性格からして慢心はないと思うが、油断はふんだんにありそうだ。気をつけたまえ」
「もうスフィアラボっていうでかい穴に落ちてるよ」
「それは慢心でも油断でもなく、軽卒さから落ちたことだ。ふう、正直君の今後の人生が心配になってきた」
「忠告、ありがとう」
さすがにこのあたりまで来ると、ドライアイスの霧は薄くなってきている。ミツバチの姿がないことに、闘真はほっとした。
しかし由宇は足が速い。しかも加減して走っているのが解る。本気で走ったら世界記録を抜くんじゃないだろうかと思う。
いま走っているラボセクターは、闘真もあまり来たことがない。用事がなかったというのもあるが、それ以上にセキュリティレベルの高いエリアが多いからだ。物珍しそうにまわりを見ながら走っているのも、由宇におくれを取る原因の一つだろう。
その闘真が、大きな窓ガラスの向こうに奇妙なものを見つけた。
「ねえ、ちょっと待って」
窓ガラスの向こう側は大きな部屋だった。ベッドがずらりと並び、そこには例外なく人が横たわっている。百人以上はいる。
服装はさまざまだが、スフィアラボの警備員の服装が多い。つまり仕事着か私服で寝ているのである。病人には見えない。
引き返した由宇は、顔色一つ変えず、その奇妙な光景に目を向けた。
「ここ、何?」
闘真はガラスを軽く叩く。しかし誰も反応しなかった。さらに強く叩く。結果は同じ。ドアを開けようとしたが、びくともしない。ロックされたままである。
寝ている人達の首の後ろについている奇妙な機械に気づいた。
「あの機械はなんなんだ?」
由宇はガラス窓から見える範囲で、部屋の中をいろいろと覗き、納得したようにうなずく。
「なるほど、そういうことか」
「何か解った?」
「うん。スフィアラボは、ブレインプロクシを手に入れていたのか」
「ブレインプロクシ? 何それ?」
「世界でどこが一番遺産が発見される国だと思う?」
「日本だろ? 峰島勇次郎が行動の拠点にしていたから」
「では発見された遺産はどこに行くと思う?」
「ADEMじゃないの? 今日初めて知ったけど」
「本当にADEMに全部集まると思う?」
「どういうこと?」
「優れた技術、ばく大な利益をもたらしてくれる遺産を、見つけた人が素直に渡すと思う?」
「じゃあ……スフィアラボが隠し持ってたってこと? UNの第二京都条約に違反するじゃないか!」
「よく知ってるね。最近学校で習った? でも違反キップが怖くて、良心的な経営をする組織なんてものは存在しない。だいたい第二京都条約を持ち出したら、ADEMなんて違法の塊だ」
「そうかもしれないけど……。そもそもブレインプロクシってなんなの?」
「代理脳。文字通り脳の代わりをする機械だ。首の後ろに接触させると、約十時間で脊髄《せきずい》に侵食、癒着《ゆちゃく》を完了。脳信号はカットし、代わりにブレインプロクシが体に指令を与える。本来は脳死状態の人間につけたり、医療目的だったんだけど……」
少しばかり由宇は難しい顔をする。
「さて問題はこの人達は、治療が必要そうに見えないことだ。間違いなく医療プログラムは戦闘用に書き直されている。風間の手によってね」
「それって、あまりいいことをしてるように聞こえないんだけど、どういうこと?」
「戦闘用プログラムを組み込んだブレインプロクシを、健常者に着床させる。するとどうなるか。即席兵士の出来上がりだ」
予想通りの返答に、闘真の顔は暗くなる。
「助ける方法はないの?」
「本来医療目的だから、取り外せるようにできている。ただ……」
ガラスをコンと殴る。
「スフィアラボの重要区画は壊すのが難しい。中に入れない以上、ブレインプロクシははずせない」
「解った。入れる場所がないか探してみる」
鬪真は部屋の壁伝いに走り、廊下を曲がる。由宇はそれを見送ると、ふうとため息をついた。
宮根瑠璃子は、峰島宙宇の後方十メートルにいた。その姿はユニバーサル迷彩の機能の一つ、光学迷彩によって見えなくなっている。
少年は何かを叫ぶといずこかに去り、少女は一人になる。
少女が着ているのは白い薄手のノースリーブのシャツ。プロテクターも何もつけていない。シャツの素材も特別なものには見えない。カッターナイフでも簡単に引き裂けるものだ。いったい何を考えて、このような格好でいるのか。
瑠璃子はすべるように由宇へ近づく。ユニバーサル迷彩は、姿だけでなく、音や体温、存在のあらゆる痕跡を隠蔽する。
あっというまに由宇の真正面、30センチと離れていないところにきた。ナイフを一閃させれば、殺せる距離だ。一見たやすい任務に思える。しかし瑠璃子に慢心はない。光城や亜門との戦いぶりは覚えている。
肌が露出している部分は狙わない。微妙な空気の流れを、肌で感じ取られてしまう可能性がある。このユニバーサル迷彩でも、空気の流れだけはごまかしきれない。そういう意味で由宇の格好は、じつにやりづらかった。武装した人間に比べて肌の露出が多い。
瑠璃子は空気を乱さぬよう慎重に構え、狙いを定める。心臓を一突き。その瞬間だけ大気は流れるが、そこから回避することは不可能に近い。これですべてが終わる。
瑠璃子は持ちうる限りの技量を駆使し、心臓めがけてナイフを、最速かつ最短距離で走らせる。最後の瞬間まで、由宇に気づいた様子はない。
――これでオシマイ。
完璧な存在の隠蔽、完璧な手順、完璧な動作。
なのにナイフは止まった。止められた。ナイフの切っ先が胸に突き刺さる寸前、いつのまにか二本の細い指にはさまれてしまっていた。
目の前の由宇の表情はまるで変化がない。いま胸元で起こった出来事が無関係だとでも言うかのよう。しかし細い指は彼女のものだ。いっさいの予備動作なく、右手だけがその瞬間、そこにあった。
瑠璃子の背に冷たいものがかけぬける。あわててバックステップで距離を取ろうとする。そこでさらなる驚愕が待ち受けていた。しっかりと握っていたはずのナイフが手元からなくなっている。
由宇の姿勢に変化はない。ただ二本の指の間から、ナイフがにじむように空間に現れた。瑠璃子の着る迷彩スーツからの接続が断たれたからだ。
ナイフを奪われた、という感覚はまるでなかった。しっかりと握り締めて後方に飛んだはずだ。もっとも慣れ親しんだ武器だ、体の延長と言っていいほど、熟練している。それが無様にも、あっけなく敵の手に渡っている。
何をしたのかと、問うでもない。歴然とした技量の差だ。瑠璃子にも相手がナイフを構えただけの素人なら、気づかれずに奪えるかもしれない。だとしたら目の前のこの少女にとって、LC部隊すら圧倒する瑠璃子の技量は素人同然ということになる。
由宇は刃の部分を持ったまま、ナイフをぷらぷらさせながら、ガラス越しに部屋のあちこちを見渡している。瑠璃子がしかける前とまるで変わらない。
「まだいたのか?」
しばらくして瑠璃子のほうを見ると、心底呆れた声を出す。
由宇は無造作にナイフを振りかぶる。すると手の中のナイフが、スッと消えた。いったいいかなる技法を使ったのか。ナイフの迷彩機能は瑠璃子の着ているスーツに接触して初めて機能するはずなのに。
由宇は見えないナイフを投げる。瑠璃子はナイフの軌道を予測し、上体をそらせた。しかし由宇の手の中には投げたはずの、姿が消えたはずのナイフが握られていた。
――はかられた。
由宇はナイフの迷彩機能を使ったわけでない。投げると見せかけて、手品の手法で隠してしまっただけなのだ。
今度こそ、由宇の手からナイフが放たれた。一直線に瑠璃子へと向かう。姿勢を崩した状態では、回避もままならない。無理やり体をねじり、避けようとする。
「うっ!」
一歩間に合わず、右肩に刺さったナイフに瑠璃子は大きくうめいた。
あの娘はまだ右手しか使っていない。足の立ち位置すら動かしていない。それなのに、瑠璃子はいいように翻弄され、負傷すらしてしまった。
格が違いすぎる。たった数秒のやりとりで、それは瑠璃子の心に深く刻まれた。
皮肉にもスーツに刺さり接触することによって、ナイフは今度こそ消えた。
「できればこのまま去ってくれないかな?」
由宇は何もない空間に向かって話す。
「女性相手に斬った張ったは、私もやりにくい」
さきほどナイフをためらいなく投げた人間が、臆面もなく言う。
「それに……」
戻ってきた闘真を見て、
「あの男を戦いに巻き込むのは、まずい。私にとっても、あなた達にとってもね」
由宇の体がかすかに弛緩する。
「ふう、行ったか」
「どうしたの、由宇?」
「いや、なんでもない」
「誰かと話してたみたいだけど」
「独り言だ。それよりこの部屋に入れそうな場所は見つかったか?」
「それがどこにもないんだ。ハッキングとかでなんとかできないかな?」
「あまり期待はしないでくれ」
それでも由宇はLAFIサードを開け、何か方策はないか検討する。
「どうしたの?」
「敵もなかなかしぶといなと、再認識しただけだ」
「何かあったの?」
「すまない。いますぐに、ここをなんとかするのは無理だ。あとでまた来よう。いまは逃げるのが先だ」
由宇は闘真の腕を無理やり引っ張ると、通路を全力で走り抜けた。引きずられて走る闘真は、さっきの自分の認識が間違っていることをいやというほど思い知らされた。
由宇が本気で走ったら世界記録を抜くかも、どころでない。この足の速さは確実に全世界にセンセーションを巻き起こす。
13
風間は三度目のLAFIファーストへのダイブを試みた。しかし背筋に恐怖が走り、本能が邪魔をする。
人間が生存する上での基礎代謝機能をプログラムに盛り込み、そのプログラムによって電子の世界での食欲を擬似的に満たそうとした。
しかし結果は同じだった。染みついた恐怖をぬぐい去るのは、至難の業であることを風間は絶望に近い感情で認識していた。
しかしそれでも、徐々にだがもう一つのプログラムが完成しつつある。もう一度ダイブすればそれは完成する。
風間は深呼吸すると、四度目のダイブに挑んだ。
14
突然けたたましいアラート音が、スフィアラボ全体を覆う。
「な、何?」
「なかなかやってくれる」
由宇はとんでもないスピードで闘真を引きずりながら、通路を曲がる。遠心力で、闘真の足が一瞬浮いた。
「これって非常警戒態勢のアラートじゃ?」
「ご名答。風間め、LAFIを無理やり非常警戒態勢に移行させた。確かにこの方法ならスフィアラボ全体のドアを容易にロックできる。私達の行動は著しく制限される」
「でもそうなると、敵も味方も動けないよ」
「そのかわりLAFIにシンクロする時間が稼げる。なかなか大胆だ」
「それでいま、僕はどこに連行されてるんだ!?」
「ライブセクターだ。あそこは住んでいる人の精神を圧迫させないため、LAFI制御によるドアロックが少ない。行動の制約はそれほど受けなくてすむ。見えた。あのドアを抜ければライフセクターた」
しかし、その肝心のドアはゆっくり閉まろうとしている。距離はまだ遠く、すべり込んでも間に合いそうにない。さらにドアの前には見張りの兵士が二人、銃を持って待ち構えていた。
由宇は迷うことなくナイフを数本出すと、それを連続して投げた。投げたナイフ全部が、見事にドアとレールの間に突き刺さり、閉まろうとする力を阻害する。さらに追加で投げたナイフは兵士達の腕に突き刺さった。
そのままひるむ兵士と、30センチもないドアの隙間を、二人は急いで抜けた。ナイフが砕け、ドアが一気に閉まる。
向こうからドアを叩く音が聞こえてくる。諸刃の剣である非常警戒態勢は、闘真達に味方してくれたようだ。
「なんか僕の人生、いつも崖っぷちな気がする」
「時には思考を放棄することも大切だ。つらい現実は見ないほうがいいぞ」
「そうさせてもらうよ」
闘真はようやく息を整えると、体を伸ばし、ライブセクターを見た。後ろのドアプレートには、ここが最下層ということが示してある。
ライブセクターも他のセクターと同じく多層構造だが、各階層はどれも50メートル以上の天井の高さを有しているため、圧迫感はそれほどない。
そして、その50メートルの狭間《はざま》の底に、空がないことを除けば、普通の家並みがある。モデルハウスみたいにどれもこれも似たタイプだが、その光景は驚くに値する。
「ライブセクターか」
闘真の視線が一軒の家に釘付けになる。人との交流をあまりもたないようにしていた闘真が、何度か訪ねたことのある場所。恩人、横田健一の家だった。
「行きたいか? まだ誕生日の日付は有効だ」
視線の意味を理解してか、由宇はストレートに問う。時計は夜八時をさしていた。まだ四時間ある。
闘真の脳裏にある疑問が浮かぶ。最初はそんなはずはと思っていた。が、由宇の行動は、彼女の目的の遂行のためだけでなく、闘真の意思も尊重してくれている、気がする。理由までは解らない。
「どうした? 行かないのか?」
ポケットの中のプレゼントを握り締め、闘真は歩き出した。ここに来た目的の半分は、これなのだ。
闘真がドアチャイムを嗚らすと、勢いよく玄関のドアが開いた。目の前にいる中年の女性に、闘真は見覚えがなかった。恰幅のいい、いかにも世間話が好きそうなおばさんは、横田の妻である和恵でもなければ、とうぜんながら娘である鏡花でもない。
おばさんのほうも闘真に見覚えがないらしく、いぶかしげな視線をよこしてくる。LC部隊のプロテクターをつけた姿に、あからさまな警戒心と不安を抱いているのが解った。
「あの、ここは横田健一さんのお宅ですよね?」
お互いいつまでも黙っているわけにもいかないので、闘真がおずおずと口を開いた。隣で無表情に立っている由宇に、この手のコミュニケーションを期待するのは間違いであることは検討するまでもない。
「そうだけど。あんたは? テロリストの仲間じゃないの?」
どうやら記憶違いでないことにほっとし、同時に目の前の女性が誰なのかますます解らなくなる。過去数度訪ねた記憶の中に、目の前の女性の姿はない。
「ち、違います。これはLC部隊の装備で。そ、そのだからといって僕が、LC部隊の人間ってわけでもないんですが。だから、えーと、まいったな……」
あわてて弁明するが、うまく意味が通らない。疑惑の眼差しはさらに深まった。不審者にこの家の敷居はまたがせない、それが自分の使命であるかのように、おばさんはデンと玄関に立ちはだかる。
「ほんとうにあいつらの仲間じゃないの? 油断した隙に殺すつもりじゃないでしょうね?」
「違いますよ! あの、横田さんの奥さんか、鏡花ちゃんに会わせてくれませんか? そうすれば、顔見知りだって解ってもらえます」
しかしおばさんの使命感はその程度の弁論で揺るぎはしなかった。
「ふん、まったく最近のテロリストというのはモラルも何もないのかい。小さな子供にまで手をかけるなんて、言っておくけどね、あたしの目の黒いうちはここは絶対に通さないよ!」
フンッと鼻息荒く玄関の真ん中で仁王立ちになる。
「奴らは政治的、宗教的な主義主張を持っているわけではない。テロリストと呼称するのは、正確さに欠ける表現だ。加えてあなたを殺すつもりにしても、油断や隙を狙う必要はない。殺すのなら、いまこの瞬間二秒とかからない」
隣から横槍が入った。由宇の援護射撃はものの見事におばさんの疑惑を、確信へと変換させる。無愛想な美貌は、この場合おばさんの不快感を増長させるのに一役買い、さらに付け加えるなら、由宇の不遜《ふそん》な振る舞い、ありていに言えばえらそうな態度は、不愉快というオプションまでサービスしてくれる。あまりにも完璧すぎて、闘真は思わずよろけた。
「ここが横田邸であるのに間違いがないのなら、あなたこそ何者なのだ? 尋問されるべきばあなたのほうであって、私達ではない。それから闘真、あまりよろよろするな。それはいったいなんのパフォーマンスだ? 君の行動は時々、いや往々にして不可解で理不尽だ。いまはそのようなことをして遊んでいる状況ではないそ」
「あの少し黙っててくれる? 状況、ますます酷くなるから」
「なぜだ? 私は間違ったことを言ってないぞ? それともなにか、目の前の体脂肪率42パーセントの肥満体の女性がその外見とは裏腹に、実は卓越した戦闘能力の持ち主で、二秒で片付けるのは無理だといいたいのか? 私を見損なうな!」
「お願い……黙って」
人の心を読むのに長けてる? これの? どこが? いや敵と判断しないかぎり、由宇は相手の心理を分析するまねはしない。それにしても、これはないだろうと思う。
もはや不屈の壁となったおばさんは、真っ赤な顔をして闘真達を睨んでいる。奇跡が起こらない限り修復不可能な誤解に、残された道は由宇に二秒で片付けてもらう以外ないのだろうかと本気で検討し始めたとき、その声は聞こえた。
「あれえ。とーまちゃん?」
幼い声が険悪な雰囲気の中に清涼をもたらす。廊下の奥の部屋から、小さな女の子が顔を覗かせていた。
「鏡花ちゃん?」
「わあ、とーまちゃんだぁ」
鏡花はとことこと走り寄ると、飛びつくように闘真に抱きついてきた。おばさんの表情がやわらぎ、闘真はふうと肩を落とす。由宇だけがまだ納得のいかない顔をしていた。
「僕がいまこうしていられるのは、横田さんのおかげです」
ここに来るまでの簡単な経緯の最後をそう結ぶと、闘真は少しぬるくなった紅茶にようやく口をつけた。カラカラの喉が潤《うるお》う。
案内された居間は綺麗な飾り付けがしてあった。『ハッピーバースデー鏡花ちゃん』と書かれた垂れ幕もある。キッチンには手付かずの豪勢な料理とケーキ。きっと横田の帰りを信じて、待っていたのだろう。
「そう、横田さん死んでしまったのかい」
おばさんはそっと奥の部屋で一人で遊ぶ鏡花の姿を見て涙ぐむ。おばさんは隣の家に住んでいて、横田家とは交流が深かったらしい。
「ジングルベール、ジングルベール、鈴がぁなるぅ〜」
鏡花はなぜかジングルベルを歌いながら、部屋の飾り付けをしていた。
「いまは普通にしてるけど、昼頃までずっとわんわん泣いてたんだよあの子。ほら紅茶もう一杯お飲み」
「それじゃ、せっかくだから」
「ほら……えーと、由宇さんだったかい? あんたは紅茶はいいのかい?」
少しはなれたところに座ってLAFIサードをいじっていた由宇は、顔をあげるとポットを持つおばさんを見た。気後れしたようにおばさんは少し身を引く。別に由宇は睨んでいるわけではないのだが、意志の強い瞳は威圧感がある。
「いや、いい」
と愛想の一つもなく、またLAFIサードの作業に没頭する。しばらくキーボードの音だけが、あたりを支配した。
由宇に関しての説明はLC部隊の隊員ということにしてあるが、それでおばさんが納得したかどうかははなはだ疑問だ。こんな格好で武装もなしに、敵地に乗り込む特殊部隊がどこにいるというのか。無理のある嘘だが、おばさんは深いことまで聞いてこなかった。
おばさんは疲れたようにため息をつくと、話を元に戻した。
「そうかい、鏡花ちゃん、一人ぽっちになっちゃったのかい」
「一人ぼっちって、どういうことですか? 鏡花ちゃんのお母さんは、和恵さんはどうしたんですか?」
「和恵さんは連れて行かれたよ」
「連れて行かれた? どこに、なんのためにですか!」
「しぃ! 大きな声だすんじゃないよ。また鏡花ちゃん泣かせたいのかい、まったく。和恵さんだけじゃない。他にも何十人……いや、百人以上だね、今朝方テロリスト達に連れて行かれちまったんだ。あたしのふがいない旦那もね。どこに連れて行かれて何をされているのか」
おばさんは突然老けたように眉を落とし、首を弱々しく振る。
「百人以上も……」
「どうしてあたしらがおとなしくしていると思う?」
「見張りがいるんですか? 見回りとか」
「あたしらがそれくらいで引き下がるもんかい。それはね、絶対に逆らえない相手だからさ」
「逆らえない相手?」
「ねえ、おばちゃん」
幼い声は、少し涙ぐんでいた。
「おとちゃんはいつ帰るの? ママはいつ帰るの? 鏡花の誕生日、もう少しで終わっちゃうよ」
おばさんは声を詰まらせ、そして優しく鏡花の頭をなでる。
「おとちゃんは、今日はちょっと帰れないって。ママも忙しいってさ。鏡花ちゃんの誕生日は、おばちゃんと一緒にお祝いしょう」
「ええぇぇ、約束したのにぃ!」
「ごめんね鏡花ちゃん。おばちゃんじゃ駄目かい?」
「やだやだやだ。おとちゃんとママがいないとやだあ!」
闘真は駄々をこねる鏡花の前にしゃがむと、横田から預かったプレゼントの箱を出した。
「これパパから鏡花ちゃんにって」
しばらく鼻を鳴らして唸っていた鏡花は、箱を受け取ると小さな手で不器用に開けていく。
箱から出した小さなぬいぐるみに、顔を輝かせるが、すぐにまた不機嫌な表情をする。大事そうにぬいぐるみを胸に抱くと、ぎゅっと握り締めた。いまにも泣きそうな顔をぐっとこらえている。
「おとちゃんは? おとちゃん、もう一つくれるって言った」
「鏡花ちゃん」
「おとちゃん、星空見せてくれるって言った。赤い星、見せてくれるって言った」
「鏡花ちゃん……ごめんね。ほんとうにごめんね」
おばさんは口に手を当て、肩を震わした。
「ねえなんで? なんでおばちゃん泣くの?」
「ごめんね、ごめんね鏡花ちゃん。おばちゃん……泣き虫で」
「おばちゃん、泣かないで。涙、ごしごししよ。ねえ、泣かないで」
すすり泣くおばさんと鏡花の声に、キーボードの音がふと止まった。見れば由宇は思うことがあるのか、二人の様子をじっと見つめていた。その瞳の中にある感情は複雑すぎて、闘真には解らなかった。
半日時間が欲しいという由宇の言葉で、闘真達はその夜、横田家に泊まることになった。鏡花は泣きつかれて寝てしまい、おばさんは隣の自分の家に連れて行った。
「半日ってどういうこと?」
二人きりになると、闘真はさっそく質問をする。
「とにかく緊急事態のアラートを解除しないと話にならない。風間もこの時間に、LAFIファーストとのシンクロを試みるだろう。時間との勝負だ」
「それが半日?」
「うん、だいたいだけど」
微妙な長さだ。時計を見る。二十二時五分。半日ということは明日の昼近くになる。
「由宇、大事なことを忘れてないか?」
「私の体内の毒か? 忘れるものか。リミットは、明日の十二時。まだ余裕はある」
「でも」
「あわててもしかたない」
居間の誕生日の飾りつけはそのままだ。鏡花が遊んで散らかした人形やぬいぐるみも散乱している。
「一つ、聞いていい?」
「答えられることなら」
LAFIサードのキーボードの音は止まらない。
「由宇の小さいころって、どんなだったの?」
さっきのおばさんと鏡花に見せた視線が気になり、その意味を知りたくなった。
「何が言いたい?」
「いや、由宇の小さいころが、ちょっと想像つかなくて」
「それは言外に、私からはあの鏡花とかいう娘のような、小さいかわいらしい少女時代は想像つかない、と解釈していいか?」
「ち、違うよ。ただぬいぐるみとか、足持って引きずって歩いてそうだなって」
「それはもっとひどいぞ。私が情緒に欠落のある人間だと思ってるな?」
由宇は呆れたように息を吐く。
「そこまで言ってないだろ」
「言ってるのと同じだ。だが私はぬいぐるみの足をひきずるなんてことは、決してしなかった。断言しよう」
「本当に?」
「本当だ。ちゃんとした理由だってある」
「どんな?」
「ぬいぐるみなんてものは、もらったことはなかった」
「あっ……」
「自分の軽率な言動のおろかさに少しは気づいたか?」
「もう、いい。やめてくれ。僕が悪かった」
別に由宇を怒らせるつもりはなかった。ただ彼女の重苦しい空気を払いのけたかったのだが、裏目に出てしまった。
「断る。この仕返しは私の正当な権利だ。聞いてもらうぞ。おまえには聞く義務がある。私は……」
しかしそれからしばらく由宇は口を開こうとしなかった。天井を見上げる目は何を見ているのか、ただ、澄んだ瞳は悲しい色をたたえていた。
「すまない。一つ嘘をついた。私はぬいぐるみを一度だけもらったことがある」
誰からと聞こうとして、やめた。
[#挿絵(img/9s-249.jpg)]
「六歳のときだ。私はそのころよく勇次郎に怒鳴られた。この程度の計算もできないのか。これしきの理論も構築できないのか。泣いてることが多かった……と思う。いつも公園で泣いた記憶がある。そこで一人の老人と仲良くなった。いや仲良くしてくれた。私が泣いて公園に来るたびに、慰めてくれた。ある日老人は私にプレゼントをくれた。クマのぬいぐるみだ」
「よかったじゃない」
「ぬいぐるみはふわふわと柔らかく、未知の感触だった。どうしていいか解らず、とりあえず壊さないように大事に持ち帰った。そうっと忍び足で。フェルマーの定理を鼻歌交じりに解く私は、ぬいぐるみの扱い方一つ知らなかった。どうだ、なかなか笑えるだろう」
「笑えない」
「そうか、あまり面白くなかったか」
「そうじゃなくて」
それでも闘真は少しだけほっとしていた。由宇の幼少時代は決して孤独ではなかったのだ。
わずかだが。本当にわずかだが、人とのつながりがあった。
「翌日、私は老人に会いに公園へ行った。プレゼントなんて初めてもらって気が動転して、お礼の一つも満足に言えなかったことに後悔していた、だから……。しかしいつまで待っても老人は来なかった。日が暮れて、明日はくるだろうかと後ろ髪を引かれる思いで帰った。家に帰ると、というか研究所か、研究所に帰ると、半壊していた。爆薬物が爆発したんだ。爆発したのはぬいぐるみだった」
言葉を詰まらせる闘真に、由宇はあくまでも淡々と語る。
「翌日、親切だった老人は某国のスパイとして手配。数日後、口封じのためかどぶ川に浮いていた」
「……」
「なにを黙ってる? オチはないぞ」
「……うん」
「どうだ、なかなかヘビーな話だろ?」
「どうして由宇は、話の締めくくりに、そうやって笑えるのかな」
「泣いて欲しいか?」
由宇はからかうような視線を向けてくる。
強いのか、それとも強くならなければならなかったのか、こんなひどい昔の話を笑える由宇の顔がまともに見られない。
「私はこれで大切なことを一つ学んだ。誰も信用してはいけない。きっと勇次郎さえも信用してはならない」
「それは、違う。大切なことを学んだとは言わない」
「そうかもしれない。君を見ていると、とくにそう思う。ただ私の生きる確率を高めてくれた教訓ではある。善し悪しはともかくとして、それは事実だ」
それから、由宇はもう一度笑うと、勢いよく立ち上がった。
「どうやら君の言うとおり、私は情緒の欠落した人間に育ったらしい。つまらない話で、時間を取ってしまったな。少し休んだほうがいい。私はハッキングを続ける」
「休まなくていいの?」
「私の目的が達成できたら休む」
闘真はソファに横たわろうとして、ふと、作業に没頭する由宇を見つめて言った。
「由宇の目的って、なに?」
「スフィアラボの奪取、および犯人組織の排除だ」
「本当は……他に目的があるんじゃないの?」
「どうして、そう思う?」
否定されるかと思ったが、意外なことに由宇は顔を上げるとうっすらと笑った。
「どうしてって、そりゃ」
「興味深い。ぜひ聞かせてくれ」
闘真は由宇の目をじっと見つめる。黒曜石のような深みの中に染み付いている暗部。その暗さを闘真はよく知っていた。とある決意をした人間が共通に持つ闇の色。
「誰かを殺そうとしている。違うかい?」
かつて闘真自身も持ち、根付かせてしまった闇。
由宇は肯定も否定もせず、闘真の次の言葉を待っている。
「風間という男を殺すんだろう? そのために由宇はここに来た。きっと遺産を誰かの手に渡したくないんだ。あのブレインプロクシみたいに。危険なものだから」
「どうしてそう思う?」
「人を殺そうと決意した目は、僕にも解る。スフィアラボで再会したときも、さっきのベッドで人が寝ていた部屋の前でも、由宇の中には誰かを殺す決意があった」
「……君の勘違いだ」
「僕も同じ目をしたことがある。一年以上も昔、家族を守るために。禍神の血に引きずられて何人も殺したことがある。あの日、真目家を狙う暗殺者の集団が来た。僕は麻耶を、妹を守りたかった。だから……血の力に引きずられるまま」
小刀を握り締めて、闘真は記憶の残滓を無理やり追い払った。
「由宇の目は綺麗だ。その闇を僕みたいに根付かせちゃ駄目だ」
「誰も殺すな。そう言いたいのか? この状況で?」
「解ってる。それがどんなに難しいことか。犯人達は僕達を殺そうとするのに、なんのためらいもないだろう。絶対避けられない死はあると思う。だから……」
闘真はここに来たもう一つの理由を、口にした。
「そのときは、代わりに僕が殺す」
殺戮衝動、禍神の血を使う決意を表明する。口は滑らかに動いた。わずかにあったためらいは、もうどこかに消えた。
「僕が風間を殺す」
しばらく由宇はじっと闘真を見ていた。その間も手だけは休まずに動いている。さぐるような視線。闘真の真意を測りかねている、どこかに疑いを抱いている眼差し。
「一つ、聞きたい」
ようやく口を開いた由宇の声は、いままでにないくらい硬い。
「な、何?」
「その頃から君の人格は二つに分かれていたのか?」
「な、なんのこと?」
「とぼけなくていい。君の中に人格は二つある。これは真目家の裏の血。現在の地位を確立するために行われた殺戮の証だ」
由宇の言葉はさらに続き、闘真を見る眼差しからは感情の色が徐々にあせていく。
「遺伝的殺戮衝動を真目家はずっと抱えてきた。いや、より洗練させていったと言ったほうが近いか。しかし殺戮衝動を特化させればさせるほど、日常生活が不可能になる。真目家としては、それは好ましくない。そこで行ったのが人格の二分化。殺戮衝動を一手に引き受ける人格と、君のように日常をすごす人格に分けられた。人格の切り替えは鳴神尊《なるかみのみこと》、君の持つ小刀だ。よほど特殊な仕掛けなのだろうな、微弱電流のある鉱物を利用しているのか、それとも生体電流か、それらを利用し、なんらかの方法で小刀の刃を振動させる。その振動波が人の脳波に影響を与え、人格が切り替わる。と予測しているのだが、当たっているか?」
「ちんぷんかんぷん」
「君に聞いた私が馬鹿だったよ」
由宇は少しだけ気を緩めたが、すぐに真顔にもどった。
「まあいい。さて、以上の話をふまえた上で、問う。本当にそうか? 君が私と一緒にいるのは、私に人を殺させないためなのか?」
「なんの、こと?」
「ここまで言っても解らないか。ではストレートに言おう。君は自分の中にある殺戮衝動を正当化するために、私をダシにしているのではないか? そう聞いている」
「違う!」
自分でもびっくりするくらい大きな声で闘真は否定した。
「確かに僕は自分の中にあるもう一つの人格を抑え切れていない。ああ、そうさ。由宇も見ただろう。スフィアラボで最初に会ったとき、由宇が戦っているとき、僕の中のもう一人が暴れた。確かに僕は未熱者だ、未熱者だよ!」
闘真の剣幕に由宇は少し意外そうな顔をした。
「この力に振りまわされて、人を遠ざけてきた。ここのバイトを横田さんに誘われたとき、峰島の遺産であるにもかかわらず僕は受けた。普通、真目家の人間がここで働くなんて考えられない。でも僕はいやだった。真目家の血が、人と接することが。だからこのスフィアラボに逃げ込んできたんだ。でも初めて……」
そこでようやく言葉を切り、
「初めて、由宇を地下で見たとき、僕は惹《ひ》かれた。そのときはどうしてか解らなかった。でもいまなら解る。少しの間だけど一緒に行動して解った。由宇は自分の運命を受け入れ、戦っている。あの地下の底ででさえ一人で戦っている。僕は悔しかった。情けなかった。逃げ続けた自分がいやだった。あのときから由宇は僕の目標になった。特別なものになったんだ」
「つまらない……偶像崇拝じみた勘違いだ」
由宇はかすれた声で答えを返す。指はいつのまにか止まっていた。
「由宇がそう思うならそう思えばいい。でも僕は、由宇をダシにするなんてマネは絶対しない。自分の中の殺戮衝動を正当化したりなんかしない。絶対そんなことはない。由宇をダシにするくらいなら、自分の中の殺戮者を受け入れてしまったほうが、何万倍もましだ!」
荒い息が収まり冷静になると、闘真は急に自分の言ったことが恥ずかしくなった。あたふたと真っ赤になった顔を隠し、おそるおそる由宇の様子をうかがった。
由宇は闘真を見ていなかった。黙ってうつむいていた。そのまま、沈黙を続ける。それからしばらくして、ようやく由宇の手が動き出し、キータッチの音だけがしばらく続く。
「すまない。私が間違っていた」
キーの音にかき消されそうな声で、由宇はそれだけをつぶやく。
由宇をよく知る伊達や岸田博士がこの言葉を聞いたら、自分の耳を疑うだろう。峰島由宇が素直に間違いを認めた。それはかつてない出来事だった。
気まずい空気を、乱暴なノックの音がかき消した。
「鏡花ちゃん、戻ってないかい?」
玄関のドアを開けると、血相を変えたおばさんが、飛び込むように入ってくる。
「見てませんけど」
「いなくなったんだよ! ちょっと目を放した隙に。どうしよう、どうしよう。もし和恵さんに会ってしまったら」
「ちよっと待ってください。それってどういうことですか? 会ってしまったらって、和恵さんは連れて行かれたんじゃ?」
「見回りがいるんだよ。あいつらに連れて行かれたうちの何人かは戻ってきたんだ。なんてこったい。その仲間が見張りなんだ。首の後ろにへんな機械をくっつけられて、泣きながら、助けを求めながら、あたしらを撃ってくるんだ」
「まさかその中に和恵さんが?」
おばさんはうなずくと、そのまま泣き崩れてしまった。
「ブレインプロクシか」
いつのまにか背後に立っていた由宇が、納得したようにうなずく。闘真は思い出した。大勢の人間が横たわっていた部屋、首の後ろにつけられた変な機械、人の体を乗っ取り兵士に仕立て上げる悪魔の仕業としか思えない所業。
「こんな非人道的な方法が許されてたまるか!」
闘真は腹の底から煮えたまる怒りに、静まり返った町へ飛び出した。
15
「ママ、ママ、どこにいるの?」
プレゼントのぬいぐるみを手に、鏡花は暗い道を一人で歩く。母親の声が聞こえた気がしたのだ。いてもたってもいられなくなり、そのままおばさんのところを飛び出した。
しかし夜のスフィアラボは暗く静かで、いまにも何かが出そうで、怖くてたまらなかった。それでも鏡花は小さな足で一生懸命走った。母親の声を求めて走った。どこから聞こえててきたかとは考えない。幼子は母親を求める心の命ずるまま足を動かした。
「ママ……ママぁ……」
不安と孤独で涙ぐむ。涙でぼやけた景色に、一つの黒い影が飛び込んできた。
「ママ? ママなの?」
鏡花は不安と喜びを半々に抱えたまま、人影に向かって走り出す。距離を半分まで縮めると、鏡花の表情がぱっと輝いた。
「ママ、ママだあ! ママ、ママ!」
人影、和恵は声に驚き、一瞬だけ喜び、そしてたとえようのない悲壮な顔をした。和恵の首の後ろには体を操るブレインプロクシ。手にはアサルトライフルが握られていた。
「鏡花、来ちゃだめ!」
母親の強い制止に、鏡花の体は硬直した。
「ママ、どうしたの? 鏡花のこと嫌いになったの?」
「お願い、鏡花ちゃん早く逃げて。どうして、どうして体がいうことをきいてくれないの!」
震える手の中のライフルがゆっくりと鏡花へ向けられる。
「ねえ、ママ。いい子にするから。なんでも言うこと聞くから。だから嫌いにならないで!」
「鏡花ちゃん、ママから離れて! いやああああ!」
泣きながら和恵にかけよる鏡花に照準があう。人差し指に力がこもる。ブレインプロクシは目をつむる自由さえ許さなかった。母親の悲痛の叫びもむなしく、引き金は引かれた。一発の銑声が、スフィアラボのライブセクターに反響した。
和恵はマズルフラッシュに一瞬だけ目がくらんだ。鏡花のいた場所に赤い血だまりがあった。
「……ああ」
嗚咽はしかしすぐ途切れる。肝心の鏡花の姿がない。細い血のあとはなぜか真横に飛んでいた。血の痕の先にある人影に和恵は息を呑んだ。
「ふう、間一髪」
気を失った鏡花を抱きかかえ、坂上闘真が立っていた。左腕から血が滴り、それはついさっきまで鏡花がいた場所につながっている。
「闘真……君?」
見覚えのある少年に呆然としたのは、和恵の意識だけであった。それよりもはるかに速く、首につけられたブレインプロクシは、新たな敵を殺すべく銃を向け、続けざまに撃った。
普段おとなしそうな印象が強かった少年は、それらすべてを払拭《ふっしょく》するかのように鏡花を抱えたまま家の物陰に奔《はし》った。その軌跡を銃口と銃弾が追う。最後の一発は隠れた家の壁を削り、闘真の後ろ髪を何本か飛ばした。
ブレインプロクシに操られた体は、空になったマガジンを交換し、スライドを引き初弾を装填《そうてん》する。一連の動作は熟練した兵士のそれに等しい。
和恵はまだ事態が飲み込めず、呆然としていた。
「まさか、闘真君なの?」
体は銃を構えながらゆっくりと隠れている壁に回りこむ。
「そうです。和恵さんは大丈夫ですか? 怪我はないですか?」
「私のことはいいの。お願い、鏡花をつれて逃げて!」
「それは……」
闘真は答えにつまる。たとえ鏡花のために和恵を見捨てたとしても、闘真が隠れた場所は、袋小路で逃げられるような状況ではなかった。
状況はさらに悪くなる。人影が集まりだした。全員が首の後ろにブレインプロクシ、手には銃を装備している。和恵を含めて全部で六名。
「早く逃げるんだ」
「助けて。お願い助けて」
「これは僕の意思じゃない。僕がやってるんじゃない」
「闘真君、早く逃げて。鏡花を助けて!」
彼らは口々に悲痛な声を絞り出し、しかし迅速な行動で闘真と鏡花を囲む輪を縮めていく。
闘真は一瞬、腰にある鳴神尊《なるかみのみこと》のことが頭によぎる。しかしすぐに頭から振り払った。ここにいる人達はみな犠牲者なのだ。殺すわけにはいかない。それに鏡花もいる。鳴神尊《なるかみのみこと》を抜いたら最後、自分の中に眠る殺戮衝動は無差別に人を殺すだろう。それは幼子も例外ではない。
いや、それは言い訳だ。闘真の中でまだ戦う覚悟ができていなかった。この状況においてなお、一年半前の出来事が足かせとなっている。
外の騒ぎに窓をそっと開けた家もあった。しかしすぐに威嚇射撃で閉じてしまう。これでは援護は期待できそうにない。
鏡花をどこかに隠し、自分はオトリになって飛び出そうか。なかばそんな結論に落ち着こうとした頃、さらに影が一つ増えた。
影はまるで重力がないかのように空を跳ね、ブレインプロクシの犧牲者の一人に飛び掛った。
峰島由宇だ。由宇は飛び掛った中年の男の首筋にある機械に、手にしたLAFIサードから伸びるコードをつなげる。
他の五名の反応も早く、すぐに由宇に狙いをつけ引き金を引いた。それより一瞬早く、由宇は中年の男から離れ、再び人間離れした跳躍力で、他の一人の背中に飛びつく。中年男は倒れたまま動かない。一人目と最初と同じことが繰り返され、さらに三人目にいき、次の跳躍でようやく闘真達のいる建物の陰に着地した。三人の人間が、地に伏したまま動かない。
「君はつくづくやっかいごとに首をつっこむのが好きなのだな。趣味か? 性癖か?」
息一つ乱していない由宇は、開口一番嫌味を言う。
「な、何をしたの?」
「緊急用コードを送り込んでブレインプロクシの機能を停止しただけだ」
「緊急用コード? なんでそんなものを?」
「私が作った。だから私が使い方を一番知っている。当然ではないか」
由宇はそう言い残すと、残りの三人も同じように処理し、ブレインプロクシをあっさりと停止させた。
由宇は引き剥がしたブレインプロクシの一つを手に取り、見つめたまま黙した。神経のようなコードが、側面から伸びている。彼女はただ表情のない目で、それを見つめる。
「科学の進歩に不必要なものは、何か解るか?」
「不必要なもの?」
「モラルだ。倫理観という名の足かせは、科学の発展を鈍らせる。峰島勇次郎の言葉だ。私もその意見には賛成する。科学者は己の信念に従って、探究心を追い求めていけばいい」
「……」
「だから私は、私の生みだしたものに後悔したりはしない。するものか!」
由宇は奥歯をかみ締めると、ブレインプロクシを地面に叩きつけた。背を向けた彼女の代わりに、闘真がその残骸へ悲しげな視線を送った。
16
強引に抱き寄せると唇を奪い、壁に押しつけた。腕の中で暴れる華奢な体の感触を一通り楽しむと、そこでようやく相手を解放した。
平手で頬を打つ、小気味よい音が廊下に響き渡る。
「馬鹿にしないで!」
瑠璃子の怒りに満ちた目が、光城を射貫く。
「いいじゃないか。昔を思い出そうぜ」
瑠璃子にぶたれた頬をなでながら、光城は薄ら笑いを浮かべた。
「あなたとはもう終わったの。いいかげん、つきまとうのは止めて」
「待てよ」
腕をつかまれた瑠璃子は振りほどこうとする。しかし女の細腕では、光城の手を振り切れるものではなかった。
「私は風間様の手伝いをしなければならないの。あなたにかまっている時間はないの」
「お前がいなくたって、あいつ一人いればいいんだろ? あの根暗なコンピュータオタクがいればさ」
昔の瑠璃子なら、発狂しかねない言葉である。自分より能力のある男がいるからお前はいらないだのと言われたら、このプライドの高い女は激昂《げっこう》したはずだ。
しかし瑠璃子はそんな態度を微塵もみせなかった。
「そうよ。彼は素晴らしいわ。だから、私は少しでも彼の手伝いをしたいの。直接手伝えなくても、役に立たなくても、できる限りのことをしたいのよ」
風間のことを語るときの瑠璃子は、光城が知っていたどの瑠璃子とも違っていた。頬は紅潮し、声には尊敬の響きがあった。
彼女は男に知性など求めず、自分を守る腕力だけを求めていた。そんな表情を、光城に見せたことはなかった。
「そんなにあの男がいいのか? そうなんだな! あの風間って野郎が、おまえをたぶらかしたんだな!」
「離して」
振り払う瑠璃子の手が、光城の左胸のポケットをかすめ、ビルケースが床に落ちた。散らばる白い錠剤を踏みつけると、瑠璃子は心底馬鹿にした表情で言う。
「あなたが勝手に身を滅ぼすのは構わないけど、作戦に支障を及ぼすのだけは、やめてちょうだい」
瑠璃子はきびすを返すと、足早に去る。
「くそっ」
遠ざかる背中を、光城はにごった目でずっと睨んでいた。
17
赤い。
不鮮明な映像の中で、ただ赤だけが鮮やかである。
人が倒れていた。一人や二人ではない。歴史を感じさせる大きな屋敷のどこを見ても、かつて人であった血と肉が散らばっている。
またあの夢かと思い、しかし似ているようで異相を見せる景色に、闘真の陰鬱《いんうつ》とした気持ちはさらに深くなった。心の一番そこに封じていた記憶、決して思い出したくない一年半前の事件の結未である。
苦悶の表憶を浮かべたまま生を終えた顔は、いつもの真目家を狙った暗殺者集団ではない。若者も、老人も、女も、みんな等しく恐怖をはりつかせたまま死んでいる。知っている顔もある。知らない顔もある。しかし共通していることが一つある。真目家にゆかりのある者達、使用人、ボディガード、社員、罪のない人々であった。
殺戮衝動は暗殺者の集団を葬るだけでは収まらなかった。
血で彩られた廊下を闘真は歩く。表情は喜びで笑みの形を作る。死体を無造作にまたぎ、時に足でのけ、屋敷の奥へ奥へと歩いていく。
「兄さん」
屋敷の最奥に一人座る少女は、闘真をそう呼んだ。
構えた鳴神尊《なるかみのみこと》の刀身に、妹の顔が映る。それは諦念《ていねん》なのか、それとも別の情動から来るものなのか、静かに闘真の狂気に彩られた顔を見つめ返す。その瞳に困惑し、闘真はわずかに躊躇した。
「いかんな。まだその娘を殺させるわけにはいかんのだよ」
振り向いたそこに、真目不坐が笑って立っていた。
闘真の記憶はそこで途切れる。
18
久しく見なかった夢を見た。ほぼ半年ぶりだ。
理由は解っている。昨夜、娘である鏡花を殺しそうになった和恵の姿を見たからだろう。
その姿が自分と重なったのだ。
あの事件の後、妹の麻耶は緊張が途切れたためか気絶し、殺されそうになったときの記憶はないと聞いた。それは昨日、一年半ぶりの再会でも解ったことだ。
闘真の殺戮衝動は、その渇きを癒すためなら相手を選ばない。無差別だ。男も女も、老人も子供も、獣も人も。生あるものに等しく、死を分け与える。
ようやく心が落ち着きまわりを見る余裕ができると、闘真の眠っていた横田家の居間に由宇がいないことに気づいた。
代わりにキッチンで和恵がせわしなく働いていた。包丁の音が、この非常事態の中でじつに平和に響いていた。時計を見ると六時過ぎ。思ったよりも寝すぎてしまった。
「あら、お目覚め? おはよう」
「おはようございます」
和恵の目は赤い。あれから意識を取り戻した和恵は、鏡花を抱きしめたままずっと泣いていた。鏡花もわんわん泣き、隣のおばさんも泣いた。つられて闘真も泣いた。泣き声の四重奏の横で、由宇は耳栓をしてプログラムを打ち込んでいた。
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
「いえ、大丈夫です。それよりも和恵さん、もう動いていいんですか?」
「ええ。闘真君、本当にありがとう。また鏡花を抱きしめられるとは思ってもいなかった」
「僕は何もしてません。礼なら由宇に」
「言ったわ。そうしたら。そうしないと闘真君が不機嫌になるからしただけだって答えられちやった」
少し戸惑ったように笑う。
「健一さんね、闘真君のことよく話してたわよ」
「はは、ろくでもない話ばっかりでしょう」
横田の死は昨夜のうちに伝えておいた。和恵は覚悟していたのか。そうと短く答えただけだった。
「そんなことなかったわ。健一さんは闘真君のことを話すとき、とてもうれしそうだった」
照れくさくなり、闘真は頭をかく。
「そうだ。由宇見かけませんでした?」
「一時間くらい前に起きて出かけたわ。外に出て、シャッターが降りっぱなしなことに、なぜかひどくがっかりした様子で。ここでの生活で一番の贅沢は、日光なんて言ったらすごい奇妙な顔してて。普段は規定の光量をファイバー越しに感じるだけだからね」
あまりライブセクターに立ちよらなかった闘真には、意外な言葉だった。
「それで、どこに?」
「太陽の見られるところはないかって聞いてきたから、展望台ならって。あそこは市民の憩いの場で」
「それ、どこですか?」
「ライブセクターの最上階、中央シャフト側に。エレベーターは止められてるから、階段を登るの、大変だし危険よって言ってもきかずに。十五分くらい前だったかしら」
ADEMの施設で、光を求め、血を吐きながら床を這う由宇の姿がよみがえる。いやな予感に、闘真の心が震えた。
「ちょっと僕も一緒に行ってきます。心配しないでください、和恵さんたちも、戸締りにはくれぐれも用心してください」
プロテクターをつけると、闘真は走った。
由宇は階段をかけ上がる。ライブセクターの最下層から最上階の展望台まで250メートル弱。その距離の三分の二を過ぎても、彼女の歩み、いや、かけ足に陰りは見えない。顔にも疲れはないどころか。展望台に近づくほど、表情は晴れやかに、動作は軽やかになっていく。
残りの三分の一、100メートル近い階段を、彼女は一気にかけ昇った。
「もう少し……、もう少しで」
顔を上気させ、まるで恋焦がれる恋人へ会うように。最後の階段を、乗り越えた。
さすがに呼吸に乱れはあった。ひたいにうっすらと汗をかき、肩を上下させている。しかし彼女が立ち止まったのは、疲れからではない。
階段の先、通路の向こうに展望台がある。天窓からまぶしいばかりの明かりが差し込み、あたりを優しく包み、時々チチチと鳴き声がする。憩いの場である展望台は公園もあり、小鳥が放し飼いにされていた。とても占拠事件の起こっている建物の中には見えない。平和そのものである。
由宇は陽射しのまぶしさに目を細め、立ち尽くす。今度こそ、今度こそ、あの暖かさにふれることができる。胸が張り裂けそうな喜び。それが彼女の足を止めていた。
しかし喜びと期待の時間は長く続かなかった。
耳障りな機械音が静けさをやぶり、天窓のシャッターがゆっくりと下りてくる。小鳥は突然の音に驚き、ばたばたとあわてて姿を隠す。
峰島由宇は、走り出した。一瞬でもいい。あのぬくもりにふれたい。その想いだけが彼女の足を動かす。しかしまたしてもその想いむなしく、彼女の指先が光に触れる寸前、シャッターは完全に閉じてしまった。
また届かなかった。失意の眼差しで指先を見つめ、悔しさに拳を作る。
闇に閉ざされた彼女の空間を、ライトの冷たい明かりが照らした。
『ぶざまだな、峰島由宇よ』
ターミナルのモニターに、風間遼の姿が映る。足音があわただしく、由宇のまわりを囲んだ。いっせいに向けられる二十以上の銃口。
『どこかに幽閉されていたというのは本当だったか。それほど陽の光が恋しいか。まわりの状況が見えないほどに』
風間の勝ち誇った声に対し、由宇の表情は能面のように感情がすっぽりと抜け落ちていた。うつむいた姿は壊れたマネキンのようである。
『しかしおまえをここで殺すのは惜しい。かつては峰島勇次郎の下で、共に研究したこともある。おまえの才能は買っている。どうだ仲間にならないか? 不自由な地下生活から解放してやる』
『風間様、危険です!』
女の声が割り込んできた。宮根瑠璃子だ。
『黙れ、瑠璃子! お前達とあの女では比べ物にならない』
『どうかお考えを改めてください。もっと精進します。ですから』
『どけっ!』
悲鳴と何かが倒れる音の後、風間は再びモニターに顔を出した。
『どうだ由宇よ、悪い話ではないと思うぞ』
由宇はうつむいたまま、肩を震わせた。
『俺の仲間になれ。おまえの頭脳があれば……』
「くく…くく」
『どうした? 仲間になる気になったか? それともここで骸《むくろ》になるか?」
「く……は、は、はーはっはっはっはっはっ」
銃口が向けられた真ん中で、由宇は高らかに笑った。いっさい気圧されることなく、それどころか傲慢《ごうまん》に、心の底から相手をあざけった笑いである。
「寝言もほどほどにしろ、カスが! コンピュータとシンクロするしか取り柄のない無能者が、私に組めだと? 思い上がるな!」
そしてすぐに、由宇の激昂は嘘のようにおさまり、優しい声色で風間に話しかけた。
「風間遼、ただ一つだけ感謝していることがある」
『な、なんだと』
由宇は目を細め、閉じたシャッターに目をやる。
「貴様を憎む理由ができた」
由宇は微笑む。先ほどとはまるで違い、静かなそれは壮絶に美しく、そして見る者の背筋を凍らせるような残忍さを含んでいた。
風間の顔が明らかに引きつる。それは本能か。彼はようやく自分が重大なミスをおかしたことに気づいた。もっとも危険な相手を、本当に敵に回してしまったのだと。
『撃てっ!』
風間の号令で、銃口がいっせいに火を噴いた。瞬きほどの間をおき展望台から、肉のひしゃげる音が、骨が砕ける音が、いくつもの悲鳴が絶え間なく続いた。
「はあ……、はあ……」
ようやく展望台についた闘真は階段の手すりによりかかった。呼吸はふいごのように荒い。
250メートルの高さがある階段の全力疾走は、さすがにこたえた。景色がぐるぐると回り、いまにも倒れそうだ。
しかし、その酔いにも似た感覚は、顔を上げたときいっぺんに吹き飛んだ。
「あ……ぐっ」
目の前の惨状に、言葉も出ない。
人がいくつも転がっている。手足がありえない方向に曲がり、首や体がねじれ、壊れたおもちゃのようだ。しかし全員が奇跡的に生きている。死んだほうがまし、という状態もあるが、とにかく死体になっている者はいなかった。
歩みを進めると、苦痛と怨嗟《えんさ》の声で耳をふさぎたくなる。
――全部、由宇がやったのか?
凄惨な光景の中に感じられる、由宇の怒り。そうだ、きっと彼女は怒っている。
闘真は展望台の閉じたシャッターを見た。陽射しが完全に閉ざされている。風間が閉めたのだろう、おそらく由宇の目の前で。それが彼女の逆鱗《げきりん》に触れたのだ。
初めて会ったときの光景が脳裏によみがえる。銃を向ける警備員は怯えていた。異常なほどに。おそらくは、ここまで酷くなくとも、これと似たことをやったことがあるのだろう。
しかし闘真は見てしまった。ただ陽の光を求め、涙を流している姿を。雨を感じ、感動に震えている姿を。血を吐いてまで、光を求めていたあの表情を。
何が由宇の代わりに死を背負うだ。何が放っておけないだ。結局のところ、ずっと彼女に助けられっぱなしだ。情けない。情けなさすぎる。
「由宇、お願いだからあんまり無茶しないで」
闘真は気合をいれるように頬を叩くと、由宇の後を追う。
追うのは簡単だ。人の倒れているほうへと進めばいい。鳴神尊《なるかみのみこと》を握り締め、闘真は全力で走り出した。
「下がれ、早く下がれ」
兵士達はじりじりと後退させられた。通路の先では仲間の銃声と悲鳴。しかしそれもすぐに静かになった。
全員の背筋に恐怖がかけぬけた。それはいまにも悲鳴となってしまいそうだ。
「落ちつけ。体勢を立て直すぞ」
リーダー格が指示を飛ばす。叫んでいないと、彼も頭がおかしくなりそうなのだ。
「ここで、迎え撃つ」
せまく長い通路。距離にして50メートル。遮蔽物はない。その端に十名の銃を構えた兵士が迎え撃つ。どんなに弾を巧みに避けたところで限界はある。一斉射撃で弾幕を張れば、避ける隙間などない。
万全の準備だ。落ちついてやれば、必ず成功する。誰もがそう思う。なのに彼らの顔は強張り、青ざめ、そして絶望している。
足音が近づいてきた。せまい通路なのでよく響く。それだけで兵士達の間の緊張が数段跳ね上がった。足音はあと少しで、角を曲がりこちらに姿を現すだろう。
「現れてもすぐに撃つな。距離30メートルまで待て。隠れようのないところで、一斉射撃だ」
曲がり角の先で仲間の悲鳴がさらに一つ。角から跳ねるように転がった体が、壁に激突して動かなくなった。
いったいあの細い体で、なぜこのようなことができるのか。あれは本当に人間なのか。兵士達の唇は、すでに死んだかのように青ざめている。
転がり動かなくなった兵士より少し遅れて、比類なく美しい殺戮者が現れる。
峰島由宇は奥に待ち伏せをしている銃を構えた集団を見ても、顔色一つ変えなかった。同じ歩調で、コツコツと近づいてくる。
何を考えているのか、まるで躊躇がない。静かな動作の中で、瞳だけは燃えるような殺意で、睨みつけてくる。
「撃て、撃つんだ!」
リーダーは30メートルの距離まで待てなかった。恐怖が唇を動かした。
何十発もの銃声、驚愕の声、悲鳴、そして静寂。
コツコツと緩やかな足音だけが再開する。
「第三部隊、どうしたの? 応答しなさい。第二部隊、第二、どうしたの? 答えなさい」
瑠璃子は必死に叫んでいた。しかし通信機に応答はない。
風間はマニュアル操作で、LAFIの監視システムを動かす。LAFIにシンクロできない以上、原始的な方法で操作するしかない。カメラに映るのは、倒れた手駒の兵士達。
「くそっ、なんて女だ」
風間のもくろみは完全に崩れた。峰島由宇がここまで手強いとは思いもしなかった。考えてみれば当然かもしれない。風間が知っている曲宇は七歳までだ。その後の十年を知らない。その地下の十年が、どれほど彼女を変えたのか知るよしもない。
「こちらセントラルスフィア、誰か応答しなさい。誰か!」
瑠璃子の必死の言葉が通じたのか、雑音交じりの通信が入る。
『こちら第七……現在、敵の女と交戦中。すぐに増援を!』
「どこで交戦しているの? 状況を詳しく説明しなさい。第七部隊!」
『あの女は……ば、化け物だ。早く、早く助けにき、……うわああああっ!』
叫び声が消え、雑音だけが残った。
「第七、第七部隊? どうしたの? 応答なさい!」
時間だけが無為に過ぎていく。
「ああ」
瑠璃子は目を覆い、疲れた声をもらした。
「おそらく第七も破られました。もうあの女は近くに来ているかと」
「亜門と光城はどうした?」
「光城の居場所は不明です。どこで勝手な行動をしているか。亜門はいま、プロダクトセクター側で、足止めされています。そのドアのロックのため」
風間は椅子を思い切り叩き、怒鳴った。
「俺の判断は間違っていたというのか!」
「いえ、決してそんなことは。あのときは、それが最良でした」
「そうだ。あのとき、あいつらの行動を封じるにはこれしか方法がなかった。俺は間違っていない」
「……はい。まだドアのセキュリティは破られていません。ここに立てこもり時間を稼げば。風間様がLAFIと再びシンクロできれば」
うなだれる風間の膝に、瑠璃子はやさしく手を置いた。
「ああ、解ってる。何度か試している。もう少しだ」
「はい。あと少しです。あと少しで、私達の、いえ風間様の楽園が完成するのです」
瑠璃子は顔を輝かせ、風間の頭を抱きしめる。
「楽園? なんのことだ?」
突然の第三者の声に、風間と瑠璃子はあわてて振り向く。血走った眼で二人を睨むのは光城だ。
「俺はそんな話聞いてねえぞ。LAFIファーストをいただくのが目的じゃなかったのか?」
「光城、あなた、いままでどこに行ってたの!」
「うるせえな。俺の勝手だろうが! それよりも聞かせてくれよ。楽園ってなんのことだ?」
「ただの、言葉のあやよ。LAFIファーストを奪取し、それを某国に売る。手はずは全部伝えたとおり」
光城は目を細めて、剣で肩を叩く。
「予定ではもうこんな場所おさらばだと思ったんだけどな。俺の考え違いか?」
「予定は、狂うものよ」
「あのクソガキのせいで、思ったよりも早く外部に知れ渡っちまった。しかもあのガキ、LC部隊にかかわりがあるときていやがる。これも偶然かねえ?」
これは偶然なのだが、一度わいた疑惑の前にはなんでも怪しく見える。
「何が言いたいの?」
「本当に予定は狂ったのか……と、ふと疑問に思ってな。てめえら何を考えている?」
「口を慎みなさい。風間様にてめえらなどと!」
「うるせえ、女はすっこんでろっ」
光城は怒りまかせに剣を床に叩きつける。一瞬剣が震えたかと思うと、それははじかれ手から離れそうになった。
「ちっ、ここの建物は霧斬《むざん》がきかねえ材質が多すぎる。異常だぜ」
忌々しそうに床へつばを吐き捨てた。
瑠璃子は焦っていた。この場で誰が一番戦闘力があるかと言えば、光城だ。瑠璃子の敬愛する風間は非戦闘員だ、瑠璃子は暗殺専門で風間をかばいながら戦うことなどできない。状況は圧倒的に不利である。
『こちら第六部隊、応答願います。こちら第六部隊……』
突然入った通信が、場の緊張感を一変させた。
『女が一人で……信じられません。このままでは全滅し』
通信は唐突に切れた。
「けっ、きやがったか。てめえらとの話は、あの女と決着つけてからだ」
光城はもう一度つばを吐き捨てると、肩に剣をかけ、去った。
闘真はせまい廊下に出た。ここまで数えた倒れている敵兵の数からして、おそらく犯人グループの過半数はやられたに違いない。
廊下の曲がり角に、倒れている敵兵の姿を発見した。いままでと同じように、生きているのが不思議なくらい体が折れ曲がっている。
そっと角から顔を覗かせた。長い通路だ。壁や天井のあちこちに無数の銃痕《じゅうこん》がある。十や二十ではない。おそらく百以上の銃痕はある。
どのような状況なのか、これもすぐに解った。敵兵はこのせまい通路なら、由宇も避けられないと思ったのだろう。この通路で一斉射撃すれば、弾は避けられない。そういう作戦を行ったのだ。当然だ。闘真だって同じ立場ならそうする。そして同じように敗れた。
壁や天井、ありとあらゆるところに縦横無尽についている小さい足跡。由宇の機動力に床はない。いや重力はない。そう錯覚させる戦いぶりだ。まるでボールが跳ねるように、壁や天井を蹴り、あっというまに距離を詰めたのだろう。
長い廊下の終点に転がる人の山。人の姿をかろうじてとどめ、生きている。その横を通り過ぎようとして、足先がピシャッと湿っぽい音を立てた。大量の血が床にたまっている。
闘真はそれに違和感を感じた。由宇は肉体こそ平気で壊しているが、刃物や銃は使わないので相手に大きな出血はない。
血は点々と通路の先へと続いている。
まさか由宇が怪我を負ったのか。しかしその考えはすぐに消えた。怪我でこの出血なら動くのもままならないだろう。それに先へつづく出血量が少なすぎる。一気にここで血を撒き散らした感じだ。
「まさか……」
それは吐血《とけつ》の痕だった。
光城は待った。
セントラルスフィアに通じる通路の真ん中で、愛剣の霧斬を肩にしたまま、彼にしては恐ろしいほど忍耐強く待った。
部隊の守りはもうない。ここを突破されると、セントラルスフィア。風間のいる場所である。
光城は最後の砦ということになる。しかし彼にそんな気負いはない。いや、そもそも砦になろうなどというつもりは毛頭なかった。風間が生きようが死のうがどっちでもいい。いまは好敵手が来るのを、ただひたすらに待ちわびていた。
しかし、遅い。これまでのペースを考えると遅すぎる。途中でやられたか、それとも進路を変更したか。どちらにしても、それなら瑠璃子から連絡が来るだろう。
瑠璃子のことを思い出し、胸に痛みが走る。なぜ自分を捨て、あんな軟弱な男の下へ行ったのか、まるで理解できなかった。ただコンピュータを操るしか能のない、自分の身も守れない腑抜《ふぬ》けだ。
瑠璃子、瑠璃子、くそっ、くそがあ、なんでだよ。風間め、風間め!
思考がループを始める。瑠璃子を想う気持ちと風間を呪う気持ちが幾重にも絡み感情が混濁する。
腕がまたケイレンを始めた。禁断症状だ。
「ちちち、ちくくしょうう」
おぼつかない手つきで小瓶の中の錠剤を何錠も手に取り、半分以上こぼしながら口にようやく運ぶと、奥歯で噛み砕く。飲み下すとすぐ、これ以上にないほどに頭も体も晴れやかになる。万全の態勢だ。しばらく禁断症状はない。
コツ、コツと、とても緩やかな足音が聞こえた。
「来た、来た、来たぜ、来たぜ来たぜ来たぜっ」
光城の興奮は、しかし由宇の姿を見たとたん、あっさりと抜け落ちた。
由宇は来た。倒れそうな体を壁に預けるようにして、足を引きずるようにして。口のまわりと胸元が血まみれで、時々立ち止まっては咳をして、さらに服を赤く染める。ずるずると体を引きずった壁には、血の道が延々と続いている。
光城に気づいているのか。いないのか。歩みも様子もまるで変わらない。亀のような鈍さで、由宇はそれでもセントラルスフィアを目指している。
「おやおやおやおや、通信機で聞いていたかぎりではずいぶんと勇ましい戦いぶりだと思ったんだけどなあ」
肩を剣でとんとんと叩く。もう震えはない。頭も体もこれ以上にないほどにすっきりしている。しかし気勢はそがれた。
「満身創痍《まんしんそうい》じゃねえか。けっ、つまんねえ」
由宇の歩みが止まった。うつむいていた頭が持ち上がり、初めて光城の姿を見る。それを見て、光城は軽く口笛を吹いた。
「わるかねえな」
由宇の目だけは異様にぎらついている。獣の目だ。油断すると喉もとに喰いつかれる。
光城は唇を嘗《な》め回すと、剣を構えた。
「わりいがここは通さねえよ。といっても、こっから先のドアは全部ロックされてるがな」
由宇は腰のキーボードを、数回叩いた。光城の背後の扉が、パシュッと開く。その向こうの扉も、さらにその向こうも。次々と扉が開き、道を作る。それを見ても光城は口笛を吹き、軽く驚くだけであった。
「ここにも自分をわきまえない愚か者がいたか」
由宇はいまにも消えそうな細い声で喋ると、体を壁から離した。
「二流に用はない」
「二流だと? はん! この状況でよくそんな口を聞けるな。てめえこそ死にそこないじゃねえかよ」
ヒステリックに笑う光城に由宇は冷めた視線を送る。
「つまらないオモチャを振り回して喜んでいるのも、この場限り。その剣はおまえのすべてだ。絶対の自信であり、逆を言えばそこにしかよりどころがない。思う存分振り回すがいい」
光城の頭に血が逆流していく。
「おまえのすべてを否定してやる」
由宇の言葉は、確信に満ちていた。
「E−2エリアのロック解除されました。E−1エリアのロック解除されました。D−8エリアのロック解除されました。D−7エリアのロック解除されました」
セントラルスフィアに無機質な声。もっとも頼りにしていた防壁、セキュリティロックが外れる報告を、LAFIの電子音声が知らせる。
風間と瑠璃子は、もう言葉を失っていた。
獣の強さだけならいい。ドアロックは破られない。知性だけでもかまわない。武力で迎え撃っ方法がある。
しかし峰島由宇はどちらも兼ね備えた、正真正銘の化け物であった。
「A−2エリアのロック解除されました。A−1エリアのロック解除されました」
パシュッパシュッとドアが強制的に開かれる音が近づいてきた。
「セントラルスフィアのロック解除……」
風間と瑠璃子の目の前のドアがガタンと揺れ、数センチの隙間を見せた。それは徐々に広がっていく。
瑠璃子は風間の手を強く握り、風間はドアを凝視した。長い時間そうしていたように感じられるが、おそらくはほんの数秒。
「セントラルスフィアのドアを閉鎖しました」
開きかけたドアが勢いよく閉じる。二人は緊張に強張った体をようやく弛緩させた。
「さすがにセキュワティレベル0は無理だったと見える」
「風間様、いまのうちに」
風間はバイザーをかぶり、シーツに体を預けた。しかしすぐに悲鳴を上げ、瑠璃子はあわててバイザーをはずした。LAFIファーストの拒絶はもう何度目になるのか。
「く……はあはあはあ」
風間の頬はさらにやつれていく。
光城はへらへらと笑っていた。信じられない光景に出くわし、しかもいままで自分が築き上げてきたものを、あの娘によって完全に否定されてしまったのだ。
――二流に用はない。
「……ちくしょう」
由宇の言葉が頭によみがえる。
――クスリに頼らなくちゃ生きていけない、そこがあなたの一番ダメなところね。
瑠璃子が別れ話を切り出したときに言った言葉だ。
「瑠璃子……瑠璃子、愛してるよ」
また意識が遠くなりそうになる。ビルケースを取り出すと、何錠かまとめて口に放り込んだ。
――またクスリをやってる。
目の前に立つ女は誰だろう。
――ダメな男。
「黙れ」
――それがないと自分が保てないんでしょ?
「うるさい」
――だから私にふられるのよ……おまえのすべてを否定してやる……役立たず……二流……。
目の前の女は、次々と言葉を繰り出してくる。耳をふさいでもその言葉は聞こえてきた。まわりの景色は歪み。極彩色の色を放つのに、女だけは目の前で、風間を言葉で責めつづけた。
「黙れ黙れ黙れ黙れ!」
怒りが頂点に達し、霧斬を乱暴に振った。床や壁が砂状に砕ける。それとともに景色は元に戻り、目の前には誰もいなかった。
しばらくうなだれていた光城は、体を引きずるように歩き始めた。
「瑠璃子……瑠璃子……」
つぶやきつづける。
「瑠璃子……愛している。瑠璃子……ちくしょう、ちくしょう。瑠璃子、愛してる。ちくしょう……殺してやる……愛してる……殺してやる。瑠璃子、瑠璃子」
すでに彼の頭に正常な意識は存在しなかった。由宇の記憶が瑠璃子につながり、愛情と憎悪が入り混じっていた。
最後の扉、セントラルスフィアに通じるそれだけが開いていない。
風間はLAFIに拒否反応を起こしながら、それでも一部のドアロックの制御だけは取り戻していたのだろう。非常警戒態勢で出入りできないはずのライブセクターの展望台に、兵を集結できたのはそのためだ。
そしてセントラルスフィアのセキュリティレベル0は閉ざされたまま。由宇が一晩かけて作ったセキュリティ突破のプログラムは、最後の最後で防がれた。
なぜだ? 由宇は己に問う。風間の行動は予測をつねに一歩上回る。それが不可解だ。闘真に説明したようにLAFIとシンクロするには、乗り越えなくてはならない壁がある。予測される時開を大幅に短縮して、風間は行動している。
何か大前提が間違っている。それが彼女をいらだたせた。
「殺してやる。……愛してるよ瑠璃子。殺してやる殺してやる」
意味不明の言葉が背後から迫ってくる。
由宇はため息をつき、ふらふらと歩み寄る光城へと振り返った。あれからまた薬をやったのか、意識の混濁していることは見て取れる。そばにいる由宇に気づいているかもあやしい。
薬のせいか光城は肉体を破壊され痛みに鈍感だ。ここで徹底的に破壊すべきか。闘真との殺さずの約束は守れるだろうか。自分の肉体のダメージを鑑《かんが》み、それは困難だと判断する。それでも彼女はそれを守るほうを選択し、頭の中でこれから起こる戦いのシミュレートを行う。
しかし由宇はそれをすぐに取り消して、セントラルスフィアのドアの前からゆっくりと離れた。そして予想通りの展開が目の前で起こる。
光城はすぐそばにいる由宇にも気づかず、認証パネルに手を置き、セントラルスフィアのドアを開けた。
LAFIとのシンクロに拒絶反応され、風間の顔色は死人のように青ざめていた。短時間なのにすでに体中に汗が浮かび上がり、どうしようもない疲労感に体が重かった。
「無理しないで」
瑠璃子はタオルで風間の顔を拭いてやると、優しい言葉でいたわる。彼女をよく知る人間が見たら、不思議な光景であったに違いない。
「私、あなたが心配なの」
そっと肩に手を添えると、瑠璃子は顔を近づけた。風間は疲労感と拒絶のショックから、瑠璃子の行動など気にもとめなかった。瑠璃子はそれでもかまわなかった。いまはそれでよかった。
「くそっ、なんでなんだ」
自信を失いかけた男の顔が目の前にある。心が痛んだ。同時に愛おしさがあふれ、気がつけば瑠璃子は自分の唇を風間の唇に重ねていた。
「なんのつもりだ?」
疲労以外、なんの感情も映していない目が瑠璃子を見る。瑠璃子は一気に正気へ引き戻されるが、一度走り出した感情は止まらない。心に引きずられるまま、風間の首に手を回し抱きついた。
「離れやがれ!」
突然の叫びに、瑠璃子は驚いて振り向く。
いつのまにか光城が立っていた。どす黒い服を着ていると思ったら、それはたっぷりと血を含んでいるからだった。いまも雫《しずく》となって、服から血が滴り落ちている。血の気を失い蒼白な顔の中で、目だけが狂気の光を放っていた。
「瑠璃子は、俺の女だ。手を出すな」
そのまま握り締めた剣を風間に向ける。切っ先に疲れた顔をした風間の姿が反射した。
感情の乏しい目が光城を見た。単なる疲労ゆえなのだが、馬鹿にされたと感じた光城は、さらに嫉妬の炎を燃え上がらせる。
「なんだ、その目は? 馬鹿にするな!」
「何をするつもりなの?」
責めるような瑠璃子の声が、引き金だった。光城の霧斬が、風間をけさ斬りにした。剣が体を抜ける前に、風間の体は溶けた肉塊と化す。
「きゃああああああああ!」
目を大きく開き悲鳴を上げた瑠璃子は、そのまま崩れるように気絶した。
体を壁に引きずり入ってきた由宇も驚いた。この思いもよらない展開に、さすがに一瞬空白が生まれた。まさか風間が仲間に殺されるとは。
光城は気絶した瑠璃子を肩にかつぐと。それまで満身創痍の症状が嘘であるかのように、力強く走り出す。
由宇にはもう一つ誤算があった。体のダメージが思ったよりも大きい。一瞬だけ途切れた緊張が、体をふらつかせる。膝をつく由宇に、狂った喜びを浮かべる光城が迫った。
「どけい!」
「由宇!」
いまの由宇に鋭い霧斬をかわす余裕はなかった。しかし突然横から現れた闘真が、体当たりするように飛びつき、寸前のところで彼女を救った。霧斬は頭上すれすれの空間を刈り取り、その先にある認証パネルの一部を破壊する。閉じかけていたセキュリティ0の扉は、壊れて動かなくなった。
床に倒れた二人に見向きもせず壊れたように笑う光城は、どこかへと走り去ってしまった。
[#改ページ]
[#見出し]  四章 遺産を継ぐ者
闘真は胸をなでおろした。経緯はどうあれ、セントラルスフィアは抑えた。まだ犯罪組織の残党はいるが、以前のようにスフィアラボを自由に動けない。それどころか、こちらから相手の自由を奪うことができる。油断は禁物だが、事件は解決へ向けて、収束しつつある。
闘真に寄りかかっていた由宇の体はふらつきながら、コンソールの席につくとおぼつかない手つきで操作を始める。
「休んだほうがいいよ」
「まだだ。LAFIファーストの本体を回収する。できれば破壊したい」
「本体?」
由宇の指差した先にある一つのドア。他のものと同じように認証パネルがある。
「セキュリティレベル0、あれを破れば、LAFIの本体はむき出しだ。破壊もたやすい」
しかしそこまで言うと由宇は突っぷすように、操作パネルの上に倒れてしまう。
「ちょっとまずい……かな」
ぎこちない笑顔に、大量の汗が浮いた。
「由宇、大丈夫?」
「私は頭脳を駆使して、最適の動きを考える。最適であるというのは、肉体の限界を引き出すということでもある。その代償は……このありさまだ」
自嘲的に笑う由宇など見たくなかった。
「あまり喋らないで。体に悪い」
支えている体が急に重くなった。目を閉じ荒れた呼吸をする由宇に意識はなかった。小さい体を抱えようとすると、闘真の体ごと大きく傾く。
「地震?」
足元からかすかな振動が伝わってくる。何かの前兆めいていて闘真は表情を曇らせた。事件は本当に解決へ向かってるのだろうか。そもそもまだ始まっていなかったのではないか、そんな根拠もない不吉な予感がわいてくる。
地震は長い。もう一分以上続いている。それもおさまるどころか、徐々に強くなっているようだ。振動に混じり、足の下、地の底から唸るような音がする。
「なんか、やばそう」
由宇を抱えたまま、セントラルスフィアを出た。急いでプラントセクターへの通路を走る。
あそこなら太陽光を取り入れるため外壁が大きく開けているから、外の様子が解りやすい。
通路に誰かが横たわっている。
近づいて、闘真は口を押さえた。宮根瑠璃子だ。首がねじれ、一目で絶命していると解る。
愛情と憎悪の区別がつかなくなったのか、光城の狂気はさらに加速している。危険だ。
闘真はまわりを警戒しながら、ようやくプラントセクターに出る。しかし何も解らなかった。
全シャッターが閉じていて、外の様子はまったく見えない。
「くそっ、どうなってるんだ」
風間が死に、セントラルスフィアを抑えたいま、由宇ならすぐにシャッターを開けられるだろうが、いまは闘真の腕の中で気を失っている。
とりあえず、セントラルスフィアに戻ろう。きびすを返したそのとき、激震が闘真達を襲う。
「うわっ!」
[#挿絵(img/9s-296.jpg)]
よろけて壁につかまった。由宇をかろうじて落とさずにすんだ。立っているのが難しくなり、由宇を下ろすとその体を抱きかかえ、振動が収まるのを待った。しかし収まらない。上下左右へ無軌道にゆれる。足元からの音は、はっきりと耳に届くまでになった。
「な、なんなんだよ!」
振動に耐え切れず、太い木が次々と倒れていく。スフィアラボ内のガラスはそこかしこで割れ、破片をばらまく。振動と激しい波の音がそれらに混じる。外の嵐はそれほど酷くなったのか。そんなはずはない。たとえ大型の台風が来たって、これほど揺れない。何かとんでもないことが起こっている。
通信機のコール音が鳴った。麻耶からだ。
「麻耶? ちょうどよかった、こっちは」
『そちらでは大変なことが起こっているのは解っています』
「何が起こってるのか把握しているの?」
『はい……、現在スフィアラボは、海に沈みつつあります』
「なんだって!」
「そのことを含め真目家の技術スタッフが、一つの仮説を立てました』
「仮説?」
『はい、とても大事です。心して聞いてください。スフィアラボは当初からその設計にさまざまな疑問点がありました。スフィアラボが完全な球体である必要性、海に浮いている必要性、スフィアラボを完全に管理するにしてもオーバースペックなコンピュータLAFI。完全循環環境だけを目的とした施設にしては、不自然な点が多いんです。兄さんは、何かそういう不自然は感じませんでしたか?』
「なんとなくだけど、感じてた。それで、一つの仮説ってなんだ?」
「補給なしに半永久的な活動が可能。潜水能力を証明したいま、おそらくは移動も可能。推定耐水圧深度1600メートル。外壁ガラス表面の特徴ある紋様は、ステルス機能である可能性が高い。外敵に堅牢な構造。そして世界中のあらゆるコンピュータにハッキング可能なLAFIファースト。以上の機能から、スフィアラボは移動型戦略要塞であるという結諭に到達しました」
最後の一言の意味を、しばらく理解できなかった。
「いま要塞って言ったの?」
『いえ。移動型戦略要塞です』
「細かいことはいいよ! これが要塞だって? そんな馬鹿な。だいいち武器がない。武器がなくて、何が要塞なんだ?」
『補給を前提としない以上、スフィアラボ内に兵器を所有する必要はなくなります。そのかわりLAFIがあります。現在コンピュータ制御可能な兵器は世界中に無数にあります。それらを無断借用すればいいのです』
「環境なんたら実験施設ってのは最初から嘘だったってこと?」
『最初から嘘だったかどうか、目的を途中で変更したのか、それは峰島勇次郎にしか解りません。彼の悪趣味な遊戯と気まぐれ、そういう例が過去にないわけではありません。あ……少し待ってください』
通信機の向こうで、麻耶の息を呑む音がする。何か悪い情報が入ってきたのは明白だ。
『兄さん、新たな情報です。そちらに原子力潜水艦が向かってます』
「なんで、どこの?」
『アメリカ海軍です。おそらくスフィアラボ、LAFIファーストの破壊が目的かと思われます』
「ちょっと待ってー! なんでいきなりそこまで話がでかくなるの!」
『簡単です。アメリカも、スフィアラボの戦略要塞の可能性を疑っていたのです。それと話はさらに大きくなります。私も正直、めまいがしました』
「なんだ……言ってくれ」
『現在LAFIファーストは世界中にハッキングを行っています。ハッキング対象は核ミサイルの発射コード。アメリカ海軍もあわてて動くはずです』
「か、核ミサイル?」
『はい。核ミサイルの発射コードにハッキング中です。推定では千発以上の核ミサイルに、同時ハックしている模様です。ハッキングが成功すれば、LAFIの指令により核ミサイルの発射が可能になります。各国も対応しようとしているようですが、まったくおいつけないのが現状のようです。正直LAFIにこれだけの力があるとは思いませんでした。ふう、トゥルーアイ20000がポンコツと言われてもしかたありませんね」
「なんのために核ミサイルなんて!」
『理由は解りません。取引の材料に使うのか、恨みか、宗教的な理由か、それとも気が狂っているのか。どれにしてもあまり愉快な状況とは言えませんわね』
「笑えなさすぎだ」
『状況が状況ですので、穴倉娘には早急に事件の解決をするよう言ってください。主犯格の風間遼はかつて峰島勇次郎の助手を務めていたことが』
「知っている」
『それなら話は早くて助かります。LAFIファーストを操る犯人はその男です。彼さえ抑えれば……』
「……ありえない」
『なぜですか?』
「風間は死んだ。僕の目の前で」
『確か……ですか?』
あまりにも思いがけない答えなのか、麻耶の声がかすれている。
「間違いない」
『では峰島由宇はどうです? 彼女もLAFIファーストを使いこなせるはずです』
「彼女は犯人じゃない。そんなこと由宇にはできない」
『兄さん、感情的に判断しないでください。風間がいない以上こんなことができる人間は他に』
「感情的になんかなっていない! いま由宇は気を失っている。死にそうなんだ!」
「では、いったい誰がLAFIファーストを使ってハッキングをしているというのです?」
「解らない。まったく解らないよ。それをこれから調べてみる」
『解りました。私のほうも忙しくなります。また連絡します』
通信が切れる。
振動はいつのまにかほとんど収まっていた。その分、足元から届く不気味な音が、より明確になる。スフィアラボを動かしている動力の音か。
由宇は倒れ、スフィアラボは沈み、核ミサイルは発射されそうで、米軍の潜水艦は近づいている。これ以上ないほど、悪条件がそろってしまった。
解決なんて、とんでもない。いままでは前哨戦《ぜんしょうせん》だったのだ。
「とお……ま」
頭を抱える闘真を、かすれた声が呼びかけた。由宇がうっすらと目を開け、闘真を見ている。
顔は真っ青で死人と変わらない。
「気がついた? 気分はどう?」
「セントラルスフィアに……早く、確かめたいことがある」
言葉は弱々しいが、切羽詰った調子は伝わった。
「解った。すぐに連れて行く」
セントラルスフィアは闘真が出る前と何も変わっていない。中央のシートには風間が無残な骸をさらし、光のない空間を照らすのは、部屋全体を覆うLAFIのさまざまなランプのみ。
「ここに何かあるのか?」
由宇は無言のまま、あたりを見渡す。何かを待っているようにも見える。
「誰を探しているのかね、峰島由宇よ」
唐突に聞こえた男の声。闘真は信じられない顔をし、シートの死体に目をやる。消えていない。風間は確かに死んだ。それなのにこの声は。
「ありえない」
由宇は苦痛以外のものに顔を歪めて、つぶやいた。
「ありえない。いくらなんでも早すぎる。人の脳がそんなに早く適応するなんて、ありえない!」
弱った体とは思えないほど、由宇は強い口調ではき捨てた。
「隠れていないで、出てこいよ、風間! まさか影武者までいるとは思わなかった」
「影武者? ……ははははは。そちらの男は、まるで解っていないようだね。しかし、ご希望には応えてあげよう」
突如として無数の粒子が現れたかと思うと、目の前で収束し始めた。やがて光の粒子達は、一つの形を造る。
「……風間」
「闘真、あれは綱膜投影にすぎない」
思わず詰め寄ろうとする闘真を、由宇が咳き込みながら制する。
「網膜投影?」
「君の顔の向きや高さを算出して、目に直接映像を送っている。右上に手をかざしてみるといい」
言われたとおりにすると、突然目の前から風間の姿が消える。しかし数秒をおいて、すぐに現れた。
「今度は左のほうに手を」
また消えた。そしてすぐに現れる。ようやく闘真は理解する。目をスクリーンにして部屋のどこかにある映写機で、直接映しているのだ。
風間はおかしそうに肩で笑い、その様子を見ている。
「これが綱膜投影?」
「そうだ。さらに付け加えるなら、あそこで死んでいる風間は偽者ではない。間違いなく本人だろう」
「じゃあ、いま目の前にいるのは?」
「風間本人。正確にはLAFIファーストに精神を移した風間遼だ」
「LAFIに精神を移しただって? あれは何、LAFIであり風間だというの?」
「そう。しかしそれはありえない話だった。時間が早すぎる。人の精神構造はそんなに早くコンピュータ構造になじまない」
「そのとおりだ。現に俺は由宇、貴様がしかけたプログラムのせいでLAFIに潜れなくなっていた」
由宇の言葉を裏付けるように、風間が同意する。
「それがなぜ、適応できている?」
「俺も驚いてる。俺の精神がLAFIに完全に適応するには、まだ時間は必要だった」
「なぜ……なぜだ。何か理由があるはずだ」
「死の恐怖がどたんばで俺に力をくれた、というのはどうかな?」
由宇は鼻で笑った。
「はんっ! 人とコンピュータの垣根は、そんな安易に超えられるものではない。それは探求の放棄だ、風間。何か理由があるはずだ」
「その問題は。おまえたちを始末してからゆっくり考えるとするさ。さて、そろそろ準備は整ったか。見せてやろう」
風間が手をかざすと、そこに映像が現れた。広い空間に何十、いや何百とベッドがあり、そのベッド全部に人が横たわっている。
「亜門、準備はできたか?」
巨漢の男が。映像の中に現れる。
『ブレインプロクシの着床は完了した』
「最終的には。何人残った?」
『百八十七名。すぐにでもつかえる』
「おい、風間! 何を考えている!」
「スフィアラボからいただいたブレインプロクシを、有効活用させてもらうだけだ。痛覚を知らない無敵の軍隊。なかなか手強いだろうな」
「百八十七人……だって」
「ふふ、いいぞ、徐々に希望がそがれていくその表情。峰島由宇、おまえにもう一つ絶望をプレゼントしてやろう。亜門、おまえは例の武器を使え。許可する」
『建物の被害が大きい。かまわないのか?』
「かまわん。それでネズミを殺せるなら安いものだ」
亜門は嬉々とした顔で、部屋の隅に置いてあった巨大なタンクと、それにつながっている大砲のように太い銃を取った。それを見た由宇はうめく。
「まさか多段式軽ガスガンか」
「皮肉なものだな。貴様は自分が作った武器で、殺されるんだ」
「あれは武器じゃない! 武器として作ったわけじゃない。スペースデブリの高速衝突実験用の機材を小型化しただけだ」
「結果、武器としても使える。既存の武器の常識を遥かに超える強力な武器だ。亜門、C54区に向かえ。肩慣らしにちようどいいネズミがいる」
闘真達はセントラルスフィアにいる。ネズミとは別の誰か、おそらくはLC部隊の残りだろう。
「お前達の始末は後だ。何もできず、何も守れず、無駄にあがくがいい。亜門、後はまかせたぞ」
『了解した。これからネズミを狩る』
「そうだ、もう一つの絶望を明確にしてやろう」
風間が手を振ると、カウントダウンを続けるタイマーが、視界隅に現れた。それはどこに顔を向けてもついてくる。
「核ミサイルのハッキング完了までの時間だ。もちろん完了しだい、全ミサイルを発射する」
カウントダウンは三時間をちょうど切ったところだ。
「なんのためだ! なんのためにそんなことをする! そんなことをしたら地球上に人は住めなくなるぞ」
「……唯一の例外を除いてね」
闘真の叫びに、由宇が小さく答えた。
「例外? まさか」
「スフィアラボだけは人の住める土地になる。外がどんなに地獄でも、ここだけは安全なままだ。対放射能処理は完璧だ。太陽の光はかげるだろうが、海流と海底火山の熱もエネルギーに変換できる」
「ふふ、そうだ。そしてこのスフィアラボのあらゆる環境を制御するLAFIファースト、俺は神に近い存在となる。いや神そのものだ」
「ははははは。どうやら寂しがりやさんは、みんなに注目されていないと、満足がいかないらしい」
由宇は唐突に笑い出した。風間の余裕の表情に、少しだけ不快が混じる。
「笑える立場だと思うのか?」
「昔からそうだった。しかしいくら人望があっても、おまえの渇きは癒せなかった。その結末が神として自分を敬えか。笑わずにいられるものか。そもそもおまえは自分で孤独を選択したんだろう。あの一緒にいた女は、おまえを好いてるようだった。でもそれを拒んだのは、おまえだ」
「あんなものは無意味だ」
風間は戸惑うように。言葉を濁らせる。由宇は目をほそめた。風間の中にある感憶の矛盾が、何かを彼女に悟らせる。
「なんとでもほざくがいい。死にかかったおまえに何ができる、峰島由宇よ?」
そのとおりだ。いまや闘真達に残された手段は何もなかった。あらゆる出来事は最悪へと向かっているのだ。
医務室のベッドに横たわらせると、かろうじて由宇が目を開いた。まだ意識があることに闘真は胸をなでおろす。セントラルスフィアを由て、ここまで来たのは由宇の指示だ。だがその間、身じろぎ一つせず心配になっていた。
医務室までくれば、解毒剤は無理でも、何か伊達が言っていたカンフル剤のようなものはないかと思った。しかし、由宇の目の前にありったけの薬品を並べても、使えるものはないと他人事のように由宇は言った。
由宇の荒い息が、どんどん弱まっていく。
由宇はあまり焦点の定まらない顔を闘真に向けて、口を動かした。しかし何を言っているのか聞こえない。
「え、何? なんて言ったの?」
由宇の口に耳を寄せると、かろうじて何を言っているのか解った。
「最後に……頼みがある」
「最後だなんて言うなよ! 願い事ならいくつでも聞いてあげるから」
由宇は寂しげに笑うと、首を左右に振った。
「私の体は……もう……限界なん……だ。あまり時間がない。耳を貸して。これからしなくてはならないことを伝える。私が死ぬ前に」
それからいくつか付け加えられた由宇の指示を聞いて、闘真は目を見開く。
「無茶だ!」
「解ってる。私もこんな分の悪い勝負はしたくない。でもやるしかない。私はもうすぐ使い物にならなくなる」
「そんな言い方……」
「事実だ」
闘真は肩を落とすと、由宇の指示通りにいくつかのことを実行する。すべてが終わったときには、由宇の憔悴《しょうすい》はさらに酷くなっていた。
「一つ聞いていい?」
吐血の後をぬぐいながら、闘真は問うた。
「足手まといになると解っていたのに、どうして僕と行動を共にしたの? 由宇ひとりならもっとうまく立ち回れた」
「かもしれないな」
「だったらどうしてー」
「君を助けるためだ」
「助ける? それならどこかの区画に放り込んで閉じ込めておけばよかったじゃないか」
「言葉が足りないか。付け加えよう。君を守って、君の願いをかなえるためだ」
思いもよらない返答に、しばらく絶句した。いったいなんの理由があって由宇にそこまでさせることがあるというのか、まるで見当がつかなかった。
「こんなときに、冗談はやめようよ」
「こんなときに、冗談を言うと思うのか?」
「じゃあ、なんで?」
「恩がある」
「恩って、恩返しの恩?」
「その恩だ。私はそれを返さなければならない」
「でも僕に、……僕にはそんなの」
血の感触が残る手をぬぐいながら、闘真は顔をそむけた。
「関係ない。私が何に価値を見出すか、私自身が決めることだ。たとえ君が世間一般から見て、ゴミ以下の蛆虫《うじむし》のごとき存在でも、反吐《へど》が出そうなくらい卑劣外道でも、私にとっては恩を返すべき、いま一番大切な唯一の存在だ」
「そこまでひどくないと思う」
「とにかく、君に恩がある! それでいいではないか」
「その恩って、なんなの? ごめん、身に覚えがないんだ」
「私があの地下から脱走しようとしたとき、手を差し伸べてくれたのは、君だけだった」
「あれは……でも助けてあげられなかった」
「それは問題ではない。魂が救われた」
「魂?」
「そうだ。あのときの君の言葉と行動がなければ、私の心は閉ざされた光とともに、本当に絶望で塗りつぶされていただろう」
「そんなたいしたことじゃない。大げさだよ」
「では言い直そう。私はあそこに幽閉され続け十年たつ。手を差し伸べてくれたのは、君が初めてだ」
闘真は言葉もない。
「けほっ……だから、私は……」
由宇の体から力が抜けていく。咳き込む姿も弱弱しくなっていった。
「最後に、このことを伝えられたのは……幸運だ」
「最後だなんて言うなよ。まだ何か」
瞼がゆっくりと閉じていく。
「由宇、由宇!」
浅い呼吸がさらに薄くなり、やがて消えた。
「嘘だろう、冗談だろう? 由宇、返事してよ、由宇!」
どんなに揺り動かしても彼女の反応はなかった。それでも体をゆすっていると、背後から声がかかる。
「無駄だ。その娘は死んだ。あっけないものだな」
振り向いたそこに、風間遼の姿がある。正確には網膜に映し出された立体映像なのだが、そこにいるのと変わらない鮮明さと存在感だ。
「いい加減なことを言うな! まだ、こんなに温かいじゃないか!」
「心音も途絶えた。温かいというが、徐々に体温も下がっている。峰島由宇は死んだ」
「黙れ!」
「現実を認める強さはないか」
「黙れ黙れ! 死んでない。由宇は死んでない」
「ならばいつまでも死体にしがみついて泣いているといい」
それだけを言い残し、風間は消えた。
風間の心はようやく深い安堵《あんど》に包まれた。
LAFIファーストと融合をはたしたあとも、まだ不安だったのだ。峰島由宇はそれほどの脅威だった。しかし彼女は死んだ。ごまかしようがないほどに。あらゆるセンサーで検査しても、彼女の体は死体と判定される。
坂上闘真という少年はまだ死体に泣きついていた。
ほぼ同時刻、亜門とブレインプロクシの部隊がLC部隊と接触した。次々と倒れていくLC部隊の姿が映し出される。圧倒的な戦力差だ。勝負がつくのも時間の問題である。
その後は、ブレインプロクシの集団と亜門に、このセントラルスフィアのゲートまでを守らせればいい。
全世界へ向けてのハッキングプログラムも順調に進んでいる。もう止めることは不可能だ。
すべては思惑通り、何もかも順調であった。
風間はLAFIファーストと完璧に融合するため、深い深い眠りについた。次に目が覚めたときには、彼が思い描く楽園が完成している。
「スフィアラボに感謝する。ブレインプロクシは、すばらしい代物だ」
二百名近いブレインプロクシに操られた人間を従え、亜門は残存するLC部隊に向かいゆっくりと行進を始めた。彼らからの反撃はほとんどない。スフィアラボの住人が銃を手に、向かっていることに戸惑っているのだ。
その中からLC部隊の一人、大垣が銃を持って前に飛び出す。全滅も時間の問題だ。おそらく自分はここで戦死するだろう。大垣の覚悟の突撃は意外にも体を軽くする。
せめて一泡吹かせたい。指示を出している巨漢の男に狙いをつけると、続けざまに銃を撃った。見事な射撃力は、一センチ以下の誤差で一箇所に命中する。しかしすべて全身を包む装甲にはじかれた。弾が尽きると、次のマガジンに入れ替え、同じことを繰り返すが無駄に終わった。解っていたことだ。パレットM82Aの驚異的な威力も受け付けなかった装甲だ。
「ふん、うるさい」
たった一つだけ効果があった。亜門の狙いが大垣に絞られた。大砲みたいな馬鹿でかいライフルとタンクを背負っている。どんなに力があっても動きは鈍いとふんだ。
銃口が大垣を追う。しかしそれよりも速く大垣は動いた。
だが亜門はたいして気にした様子もなく、狙いもろくにつけず、多段式軽ガスガンを打った。峰島由宇をあれだけ動揺させた威力はいかほどのものなのか。
大垣は射線軸から1メートル以上離れていた。ガスガンから発射された直径9ミリのアルミ球も、射線軸を綺麗になぞって飛んだ。亜門の撃った凶弾から逃げることができた。長年の経験から射線軸と自分が、充分に離れていることに安心した。しかしその期待を裹切り、次の瞬間体はずたずたに裂け、二十六の物言わぬ肉片となり、地面に散らばった。
大垣だけではない。射線軸から2メートルと離れていない人間すべてが、似た運命をたどり、ずたずたに引き裂かれた。
被害はそれだけに留まらなかった。さらに射線軸より半径4メートルにいた人間は、死なないまでも体に裂傷を負う。しかしそれ以上に深刻な被害は彼らの耳にあった。両耳からこぼれる血の筋。鼓膜が破れたのである。
すべては亜門の撃った多段式軽ガスガンの効果である。
仕掛けも何もない。直径9ミリの球体が大気中を秒速10キロ、マッハ30オーバー、最新鋭戦闘機の実に十倍という、桁外れの速度で飛ぶ威力が生み出す副産物なのである。弾の衝撃によって生み出された大気の乱流、衝撃波、爆音。それらが人の体を裂き、鼓膜を破り、あっというまにあたりを阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄絵図にしてしまった。
アルミ球は恐るべき被害を撒き散らし、壁に衝突した。これもまた桁外れのスピードが、普通の弾丸とは違う現象を引き起こす。壁との衝突により生じた摩擦熱が、アルミ球を一瞬にしてどろどろに溶かしてしまう。溶けたアルミは、放射状に広がり。留まることなく壁を破壊していく。
できあがった大穴は異常な形をしている。着弾側の壁の穴は小さく、奥へ行くほど広がっている。しかもその破壊された壁面は、高温により溶け、熱風を吐き出す。
「ふん、こいつはなかなか」
亜門は鼻で笑うと、LC部隊を一掃すべく前進した。
無駄だとは思ったが、伊達につながる通信機のスイッチを入れた。結果は予想したとおり雑音しかしなかった。スフィアラボが海底に沈み始めれば、外にいた伊達たちはヘリを飛ばすしかない。もう通信機の通じる範囲内ではないのだろう。闘真はスイッチを無造作に切った。
隣には動かなくなった由宇が横たわっている。しばらくその横顔を見ていたが、のろのろと立ち上がると、もう一つの通信機を取り出す。麻耶からもらったものだ。
「麻耶か?」
『兄さん』
麻耶がくれた通信機は、雑音一つなく、明瞭に声を運んできた。少しくらい雑音が入ってくれたほうがいいのに、と闘真はこれからの会話を考え思った。
「麻耶、すまない。禍神《まががみ》の血を使う」
『そうなると思っていました。鳴神尊《なるかみのみこと》を手に取ったときから』
「ごめん」
『あやまらないでください。すぐあやまるのは兄さんの悪い癖です』
「ああ、そうだね。すまなかった」
『言い方が変わっただけです』
懐かしい呆れたため息が、いまは耳に遠い。
「それから麻耶、この通信機は置いていく」
しばらく答えは返ってこなかった。
『いつから気づいてました?』
「通信機の仕掛けか? なんとなくな。禍神の血の暴走を止める仕掛けくらい、あるだろうとは思ってた」
『はい、もしものときは60万ボルトの電流が兄さんを殺すはずでした。私を恨んでもいいのです……』
「麻耶は優しい子だ。だから僕の心が壊れることを懸念したんだろう? あれは死ぬよりつらいことだって」
『兄さん、あの』
麻耶に最後まで言わせず、闘真は言葉を割り込ませた。
「だけどね麻耶、そんなつらい方法を麻耶にやらせるわけにはいかない。だから通信機は置いていく。いいね?」
『でも、もし、もし禍神の血の暴走が止まらなかったとき、また兄さんの心は!』
「もしものときの予防策は考えてある。信じて待っていてほしい」
『……解りました。私は帰ってくることを信じてます』
どんな方法とは聞かなかった。
「ああ、次はすぐに顔をだすよ。約束する」
『兄さんの約束はあてになりません。何度だまされたことか』
「はは、信用がたおちだな」
『最後の最後まで、約束をやぶり続けるなんてみっともないマネはやめてください。きっとですよ』
「ああ、きっとな」
闘真は通信を切ると、ベッドに横たわっている由宇の亡骸《なきがら》のそばによった。しばらく柔らかい髪をなでていたが、小さなナイフを出すと、それを由宇の柔らかな手に近づける。
「ごめんね、ちょっと痛いよ」
ナイフで由宇の手のひらを浅く切ると、ためらうことなくその傷口に口をつけた。血を咽下《えんか》するのにあわせて喉が動く。やがて血で濡れた唇を離した。
これで由宇の血液に仕掛けられた制限時間付の致死性の毒が、闘真の体内に入った。毒カプセルの融解リミットまで二時間半程度。禍神の血が暴走し無差別な殺戮者になっても、スフィアラボの住人すべてに被害はおよぶことはないだろう。そう信じたい。
「解ってるな、僕の中のもう一人の自分。この事件が解決しなければ、僕達は死ぬんだ」
だから協力しろ。最後の言葉を心の中で強く念じると、闘真は鳴神尊《なるかみのみこと》を手に、立ち上がった。
闘真の行く手に一つの影が見える。もうここまでブレインプロクシの兵団が押し寄せてきたのかと思ったがそうではなかった。全身を覆うコート、肩にかついだ巨大な剣、仲間すら殺すほどに狂った剣士、光城時貞の姿であった。
「ひゃっ、ひゃっ、ひゃああはっはっはっはっ、悪いな小僧。てめえはここで終わりだ!」
口のはじから泡を出し、ろれつも回らず、目は充血し、挙動に落ち着きがない。薬物中毒の末期症状。しかし威嚇で振った剣風に陰りはないのは、さすがか。
「だだだだいたい目障りなんだよよよおお。おおお女の背中に隠れて、ううううろちょろとしやがって。それもこれで終わりだああああ」
闘真は腰の小刀を鞘《さや》ごと抜くと、鞘と柄を握り両手を前に突き出し、ゆっくり構える。
「女の背中か。おまえの言うとおりだ。僕はずっと由宇の後ろに隠れていた。でも、それも終わりだ」
ためらうことなく、目を閉じ小刀を抜いた。一瞬だけ闘真の体が痙攣《けいれん》する。
その後、開いた双眼は暗い喜びを孕《はら》んでいた。見た目はまるで変わっていない。なのにたった一瞬で、小刀を抜いた瞬間闘真は別人になった。光城にも同じように見えた。まるで中身がごっそりと入れ替わったようだ。
裂けるような笑みを浮かべた口元から、闘真とは思えない酷薄な声が響く。
「あんた。少しうるさい」
光城の全身の毛が逆立つ。このヤバイ感じはなんだ? ただのいくじのねえ小僧じゃねえのか? くそっなんて目をしてやがる。薬で鈍くなった心が、混乱と恐怖に萎縮する。
「さっさと終わらせよう」
闘真は、いや闘真の姿をした別の何かは、予備動作なしに、無造作に、間合いを削った。
「うおぅ!」
光城があわててとびのくより、闘真のほうが速い。ならばと、せまい間合いで強引に剣を振る。闘真の小刀も、それにあわせるようにゆるりと鎌首をもたげる。
二人の影が交差した。
光城は笑う。浅いが手ごたえはあった。腕を裂いてやった。霧斬によって体半分は分解される。しかし振り返ったそこに依然として、闘真が闘真としての形を保っていることに愕然とする。
当たらなかったのか。いや闘真の腕には刀傷が二つ。
――二つだと?
光城が覚えある傷は一つのみ。もう一つは、いったいどこから?
「ててててめえ、ななななにをしやがった!」
闘真は背を向けたまま、冷めた視線だけを光城にやると、なんともつまらなそうに答える。
「貴様の剣は、対象物に振動波を送り崩壊させる技。ならば防ぐのは簡単なこと。位相が逆の振動波で自らを切り裂き、二つの振動をぶつけ相殺《そうさい》すればいい」
逆の振動だと? もう一つの傷はそれを送るために自分でつけたというのか。いやそれ以前に遺産でもないあの小刀で、どうしてそんなまねができる? 光城の中に得体の知れない恐怖が、ふつふつとわいてくる。
[#挿絵(img/9s-322.jpg)]
闘真はそのままスタスタと歩き去ろうとした。
「ににに逃げる気か!」
光城は叫ぶが、足は動かない。
「勝負はもう決している」
振り向きもせず、歩みも緩めず、闘真はそれだけを伝える。
カッとなり光城は足を踏み出そうとした。
プツンと音がした。何かが千切れる音。音のした場所、自分の胸元を見る。胸にうっすらと刀傷がある。いつつけられたのかまるで覚えがない。しかし、勝負が決まったといえるほど深いものではない。
「はっ、この程度で勝負が……」
プツンプツンとまた千切れる音が、断続的に鳴る。音は徐々に加速をつづけ、大きくなる。傷口がみるみる大きくなり、断面の肉が溶けたアイスのように地面に滴る。指ですくう間から、溶けた肉がこぼれる。
「あっあっ、ああああああああ!」
断末魔の絶叫も、やがて肉塊に飲まれ消えた。
背後の出来事をまるで気にも留めず、かつて闘真だった少年は歩いていった。皮膚を切り裂いたような、人間味をまったく感じさせない笑みを浮かべたまま。
「久しぶりだ。一年以上も封じられてたのだからな」
ゆっくりとした歩みはセントラルスフィアに向かい、途中の広い空間で止まった。そこに待ち受けていた二百名近い武装集団を見ても、闘真だった人物は眉一つ動かさなかった。
「ああ、こいつらか」
などと余裕の一言を漏らす。
ブレインプロクシ兵の銃は、ためらうことなく闘真を撃った。しかし残像のみを残して少年は、地を這うような低い姿勢で疾走し、兵士達へ肉薄していた。
あっというまの出来事である。闘真の姿をした少年は敵の一人の懐に入ったかと思うと、彼はためらうことなく小刀を一閃させ、最初の犠牲者が地に倒れるより早く、すでに二人目の犠牲者の懐へ飛び込んでいた。そこでも同じことが繰り返され、さらに次の犠牲者も速やかに行われ、四人目に小刀が迫るその瞬間、ようやく一人目の倒れる音が追いついた。
縦横無尽に地の底をかけるたびに、即席の兵士達は次々と倒れていく。二百近い銃口は闘真の残像を追うばかりで、実像にかすることすらかなわない。唯一その身に触れられるのは小刀を振る一瞬で、次の瞬間には犠牲者となって崩れ落ちている。
淡々と闘真はその作業を繰り返し、大地に伏す人の数は加速度的に増えていく。
「こいつら全部を片付ければいいんだな、闘真」
闘真は、うちに眠るもう一つの自分に話しかける。
「おまえの望み、とりあえずかなえてはやる。ただし条件はあるがな」
感情のない笑みに、ただ無慈悲な暗い喜びばかりが増していく。
亜門は困惑した。
彼はいまコンソールの一つに張り付き、戦闘の一部始終を観察していた。太い指で器用にキーを叩き、戦局の映像を切り替えていく。
すでに五十名以上がやられている。ブレインプロクシで操った兵士はしょせんのところ代用品でしかない。兵力とともに人質という意味合いも強い。事実LC部隊の残党は、応戦をためらった。
しかしいま映っている映像の少年、坂上闘真にその種のためらいは見えない。皆無といってもいい。気持ちいいくらいに、相手に迫り武器を振るい倒していく。
思わぬ伏兵だ。しかし素人に近いといっても二百名近い兵力は馬鹿にならない。スピードで翻弄するタイプは、いったん捕まえられると総崩れだ。時間の問題と亜門は考えていた。事実、カメラの中の闘真には何発か弾がかすり、そこから血を流していた。
外見に反し亜門は理知的に物事を考えていく。光城とは正反対である。
プラントセクターの戦闘開始より一時間。闘真は思ったよりも粘る。半数以上がすでに倒れている。ただ目に見えてスピードは落ちていた。
ふとモニターの中で行われている戦闘に、違和感を抱いた。奇妙だ。何かが足りない。目を細め、穴が開くほど戦闘を見つめる。
モニターの中の闘真が走る。懐にもぐりこまれた兵がのけぞる前に小刀が首へ吸い込まれ、兵が倒れるより速く、闘真は次の目標へ疾走を開始する。
「なんだと!」
モニターを腹立たしげに叩き、亜門はうめいた。いまの一連の戦闘シーン、決定的に足りないものがあることに気づいたのだ。
次の戦いも、そのまた次の戦いも、あるものが決定的に欠如していた。モニターを切り替え、すでに倒された兵達の屍《しかばね》を見る。やはり、ない。
額にじわりと汗がにじむ。やはり自分が出向くべきなのか。亜門は多段式軽ガスガンをかつぎ、準備を進めた。半径3メートルの攻撃範囲を持つ多段式軽ガスガンなら、どれほどすばやくとも逃げることは不可能だ。
そこにアラート音が鳴った。セントラルスフィアに向かう新たな侵入者だ。LC部隊の残党がまだいたのか。亜門は忌々しそうにモニターを切り替え、映し出された映像に言葉を失った。
「……峰島由宇」
常軌《じょうき》を逸した美貌を見間違えるはずもない。
なぜだ? なぜ生きている?
風間の報告では、心音は途絶え体温の低下も観測できた。生きている証は一つもなかったという。風間が間違ったのか。いや、そんなイージーミスをする男ではない。なんらかの方法で、センサーをごまかしたのだ。それはなんだ?
それは天啓のごときひらめきであった。
「まさか瑠璃子のユニバーサル迷彩! それで体温も心音も何もかも隠したというのか!」
セントラルスフィアに向かう通路を、由宇は全力でかけ抜けていった。
途中使い物にならなくなったユニバーサル迷彩を脱ぎ捨てる。体温や心音を隠すために連続使用していたのに、耐えられなくなったのだ。
由宇は焦っていた。闘真に伝えた本来の計画は、瑠璃子のユニバーサル迷彩を使用し死んだと思わせ、回復までの時間稼ぎをして、ぎりぎりの時間に、ブレインプロクシの兵団を突破する予定だった。しかし闘真は解っていたのだ、この計画に無理があることを。いまや由宇の体は数時間休んだところで、どうにかなるものではない。
しかもブレインプロクシの兵士を突破するとなると、人死には避けられない。緊急用コードで二百近いブレインプロクシを止めるなど、不可能なことだった。闘真はあくまで由宇に殺しをやらせたくないようだ。だから、自分で背負うことを決意した。禍神の血を使う気なのだろう。そしてまた大勢の人の死を背負うつもりなのだ。
馬鹿にもほどがある。由宇は唇をかみ締め、先を急いだ。いまにも倒れそうな体などに、気を遣ってる暇などなかった。
通路に異臭が漂う。この臭いは、崩壊した人の体。数十メートル先の廊下の真ん中に、何かの塊が見えた。血と肉が混じった強烈な異臭。
その肉塊が誰なのか想像し、由宇は表情を強張らせた。
「まさか」
急いでかけよろうとした。しかし体がついていかない。一歩一歩が激痛をともなう。何度も転び、体を引きずり、めまいがする。それでも彼女はかけていく。
わずかな時間、しかし由宇はそれを見てほっとした表情をする。
「闘真では……ない」
肉に埋もれている服が違う。これは薬物中毒の剣士、光城のものだ。かたわらには、霧斬が転がっている。
誤って自分を切ってしまったのか。いや、持ち主にはセーフティ機能として振動は送らない仕組みになっている。
「まさか闘真が……やったのか?」
光城の剣を奪って斬ったのか。いや、と由宇の頭はそれをすぐに否定する。額に体の苦痛からくる汗とは、異なる種類のものが流れる。
「あの鳴神尊《なるかみのみこと》で、やったというのか」
これが禍神の血の力なのか。だとしたら由宇の想像を超える能力だ。
早く闘真を止めないと。いくら操られているとはいえスフィアラボの仲間を殺したとなると、あの優しい少年の心は壊れてしまう。
由宇は霧斬を肩にかつぐと、また走りを始める。
どうやって闘真を止める? 禍神の血を止められるのか? 力ずくでは無理だ。体調がぼろぼろの状態でできるはずがない。由宇の思考はあらゆる方法を検討する。そして唯一の回答を導き出した。
それは自分の体をカードにした、危険な取引であった。
亜門は通路の中央で、多段式軽ガスガンを構え由宇を待っていた。どのような経路でセントラルスフィアに向かおうとも、この通路は絶対に通る。
由宇がせまい通路で縦横無尽に動き、何十発もの弾をかわした映像は見た。人間の動きではない。しかしこの多段式軽ガスガンの前には人外のすばやさも無効である。秒速10キロという桁違いのスピードが、恐ろしい衝撃波を作る。その衝撃波はこの通路の広さを埋め尽くしても、まだおつりがくる代物だ。避けようがない。
亜門はにやりと笑う。勝ったも同然の勝負だ。
由宇の姿が見えた。通路の向こうから一直線に走ってくる。体の調子が悪いのは一目で解った。たやすい作業だ。通路に向けて引き金を引くだけでいい。それですべてが終わる。
亜門はそれでも慎重に通路のど真ん中に狙いを定める。わずかな逃げ道も生まれないようにである。由宇は一向に構わず走ってくる。ヤケか、それともまだ亜門に気づいていないというのか。亜門は目を細め、ゆっくりと引き金をしぼった。壁と床と天井、すべてを引き裂きながら、秒速10キロのアルミ球は飛んだ。何もかもずたずたになった。由宇も木っ端微塵だ。多段式軽ガスガンをまともに受けたら、人間など細かい肉片になる。
ぱらぱらと天井から砂がこぼれる。ちょうど撃つ直前、由宇が立っていたあたりだ。亜門の表情がいぶかしげに歪む。この銃はたしかにすさまじい威力だが、砂のように砕けたことは一度もない。
砂と思って、何かが引っかかる。あの娘、何か肩にかついでいなかったか。ぱらぱらと落ちていた天井の砂が、どさりと落ちた。天井には大きな穴があった。
「まさか」
あわてて見上げた天井が砂のように砕け、その中に霧斬を振りかぶった由宇の姿があった。
「はあっ!」
裂ぱくの気合で振り下ろされた霧斬は、見事亜門を切り裂いた。
由宇は荒い息で片膝をつき、しばらく動けないでいた。
そのすぐ横には体を壁にめり込ませ、気を失った亜門の姿がある。霧斬の振動機能は当たる寸前にオフにした。殺さずは意地でも守る。これが闘真に対する、せめてもの気持ちだった。
咳に血が混じる。しかしそんなことを気にしてはいられなかった。由宇は己の体にムチ打って、また走り出す。一歩一歩が激痛である。闘真を止めなければと思い、ひたすら走る。
ようやくたどり着いた広い空間には二百名近い人間がいた。しかし立っているのは中央にいる闘真ただ一人。ブレインプロクシをつけられたスフィアラボの一般住人は、例外なく地にふし、うめき声一つしない。
全員、闘真が殺したのかと思うと、由宇はやりきれない気持ちになる。闘真本来の人格は、この事実に耐えられるだろうか。
「おまえが闘真の中に眠っていた別人格、殺戮衝動の源か?」
由宇は中央に立つ闘真に。ゆっくりと近づいていった。
「……峰島由宇か」
闘真の姿をした殺戮者は振り向き、由宇の知る闘真とはまるで別の種類の笑顔を浮かべる。
その顔に浮かぶのは、殺戮への喜び、死を堪能《たんのう》する心。
「闘真の顔で、そんな表情をするな」
由宇は目をそむけ、悲しげに言った。
「何か勘違いしているようだな。俺も闘真だ。闘真という人間の一部。あんたがいままで一緒だった闘真も、いまここにいる俺も、同一の心から派生したもの」
同じ心の持ち主がやったとは思えないほど凄惨な光景だ。由宇はあたりを見渡し、眉をひそめ、そして違和感を抱いた。
決定的なものが足りない。闘真の武器である小刀を見る。やはりない。血がどこにも飛び散っていないのだ。それだけではない。倒れている人々の首についているはずのブレインプロクシがない。
「まさか……」
「霧斬とかいう遺産と同じ方法で、ブレインプロクシだけを破壊してやったぜ。誰一人殺しちゃいない」
人体に影響をあたえず、ブレインプロクシのみを破壊する振動波。それほどの精度は霧斬でも不可能だ。
「どうして、全員を助けた?」
「おやおや、助けちゃ悪かったかい?」
「貴様の行動の、説明がつかない」
「殺したら、もう一人の弱虫の心が壊れちまう」
「まさか、そういうことを気にする奴だとは思わなかったぞ」
「一つ、楽しみができた。その楽しみが来るまで、もう一人の俺に無事でいてもらわないとな」
闘真はさも嬉しそうな顔をし、芝居がかったしぐさで手を広げ、天井を見上げた。
「楽しみだと?」
「ああ、たのしみだ。そのために俺は、こんなめんどくせえ作業を二百人近くも辛抱してやったんだ」
「その楽しみとはなんだ?」
「この上ない快楽、俺の殺戮衝動を思う存分満たしてくれる、唯一の相手」
闘真の暗い目が由宇を見つめる。
「おまえだ、峰島由宇」
潤んだ瞳の狂気は、殺戮者の思慕か。その愛情表現は、殺しあうこと。
由宇は予想していた答えにもかかわらず、ショックを受けていた。おしくもこれこそ由宇が闘真に持ちかけようとしていた取引のカードであった。
「おまえと思う存分戦いたい」
「……」
「しかし、いまのおまえは万全じゃない。戦うどころか、立っているのがやっとの状態だ」
闘真は不満そうに落胆するしぐさをした。
「それにあいつめ、やっかいなことをしやがった。まあいい。次に会うのが楽しみだ峰島由宇。そのときは万全の体調で挑め。最高の殺し合いを俺達が演出するんだ」
闘真は狂ったように笑うと、鞘に小刀をキンッと納めた。同時に闘真の体は意識を失い、崩れ落ちる。
「闘真!」
あわてて支えようとするが、自分の体を支えるのも精一杯な由宇にそれができるはずもなく。
二人してもつれるように倒れてしまう。
「闘真、闘真!」
それでも闘真の体をかばい、由宇は必死に呼びかけた。震えながら開いた闘真の目は、由宇が一番よく知っている色をしていた。
「やあ」
「なにが、やあだ、ばか者」
「そう? 馬鹿なりに考えたんだよ。もう一人の僕は言うことをきいてくれたみたいだし」
「覚えているのか?」
「夢みたいにあやふやだけど。あとは、セントラルスフィアにもう一度向かうんだったね」
さまざまな脅威は取り除かれた。しかしもっとも大きな問題が残っている。
まだ核ミサイルのカウントダウンを続ける風間がいるのだ。
「風間出て来い!」
セントラルスフィアで叫んでも、風間は姿を現さなかった。唯一残された手段、風間のスフィアラボ内での戦力を完全に奪い、交渉の手段とする。しかし応答はない。
「だめだ」
LAFIサードを操作していた由宇が疲れたようにうなだれた。
「風間は完全に目と耳を閉ざしている。これでは手の打ちようがない」
「話ができれば、いいの?」
「たぶん」
「たぶん?」
由宇にしては珍しくあいまいな表現だ。
「最後のピースがどうしても埋まらない。風間の正体がなんなのか、それさえ埋まれば、この事件は解決する」
「由宇にしてはあやふやな言葉だね」
それには答えず、由宇は倒れるように椅子に座る。まだ体がいうことをきかないようだ。
「私にしてみれば、悪い話ではないのかもしれない」
「どういうことだ?」
「風間をどうにかしたところで、私はまたあの地下1200メートルの部屋に閉じ込められる。スフィアラボの中のほうが、ずっと自由だ」
「大事なこと、忘れてない? 毒はどうするの?」
闘真は自分の体内にも同じ毒があることは言っていない。言うつもりもなかった。
「解ってる。……言ってみただけだ」
「あと何時間残ってる?」
時計を見て、由宇は苦笑いをする。
「一時間を切ったところだ。ミサイルの発射予定時刻まで三十分。人類の滅亡は、ぎりぎり見られそうだ」
「なんとかしよう」
「手は出し尽くした。もう何も残っていない。君には感謝している」
「あきらめるのはよくない。それに逆だ。感謝するのは僕のほう」
「逆なんかではない」
「逆!」
「逆なんかじゃ……」
由宇の顔が呆然となる。
「ふふ、ははははは。私はバカだ。大バカ者だ。君のことをもうバカだとは笑えないな。まったく、なんてことだ。逆か。そうか逆だったんだ。なんてことはない。風間の正体がいまになって解るだなんて」
「逆? なんのこと?」
闘真の言葉を手で制して、由宇は顎に指を添えるとぶつぶつとつぶやき始めた。
「やっぱり、そうだ。それしか考えられない。だから風間はいつも私の予測を上回る速さで行動をしてたんだ。根本が間違ってた。逆だったんだ」
しばらくして闘真を見た由宇の表情は、とても複雑なものだった。
「闘真、私はとんでもない勘違いをしてた。いや私だけじゃない、あの風間もおそらくは気づいてない。だから核を使うなんていう暴挙に出るんだ。気づいていたら、それが無意味だと解るはずだ」
「どういうこと?」
「説明するのは面倒だ。ヒントは逆。あとは自分で考えてくれ。どのみち風間に私の話を聞く意思がない以上、どんなに真相にたどり着いたところで意味がない」
「話を聞かせることができればいいの?」
「あらゆる構報を完全にシャットアウトしている。無理だ」
闘真は何かできることはないかと思い、頭をひねり何も思いつかず、何かないかと思いボケットを探った。
ポケットに何かがあたる。取り出した。誕生日ハッピーバースデーなどと意味不明な日米混合のメッセージ。横田から鏡花へのメッセージカードだ。
――渡し忘れてた。でもこれを渡したら、また泣くだろうか。
闘真は何気ない気持ちでメッセージカードを開けた。
――かわいいきようかちゃんに、ほしぞらをプレゼントしよう。きれいなあかいほしをいっしょにみよう。 おとちゃんより。
本当に親バカだな。闘真はカードを戻そうとして、ふと聞いた。
「由宇、有名な赤い星ってなんだと思う?」
「……ん? 火星かさそり座のアンタレスだろ」
「いま見える時期?」
「いや、見えない。それがどうかしたのか?」
闘真の顔に、満面の笑みが浮かぶ。
「由宇、一つだけ風間に話を聞かせる方法があるかもしれない」
「まさか。あるわけがない」
「これだよ」
メッセージカードを見せた。最初いぶかしげに見ていた由宇の顔は、しだいに驚きに変わり、そして喜びの声を叫んだ。
「セキュリティレベル0、横田鏡花、クリアしました。ロック解除します」
LAFI本体への部屋のドアがゆっくりと開く。認証バネルには紅葉みたいな手が置かれていた。
「とーまちゃん、これでいいの?」
和恵に鏡花を返すと、鏡花は目をくりくりとさせて闘真を見た。
「うん、ありがとう鏡花ちゃん」
セントラルスフィア部屋全体の電子の光が、開くドアに呼応するかのように明滅する。それを見て、鏡花は無邪気な歓声をあげた。
「きれいきれい」
届かない手をいっぱいに伸ばして、鏡花は電子の星をつかもうとする。
「これがおとちゃんの言ってた星?」
「そうだよ」
「ありがと。お兄ちゃん」
どういう理屈なのか、鏡花は闘真の頭をなでて、いい子いい子をする。もしかしたら、横田が娘にやらせて喜んでいたのかと思い、切なくなった。
部屋の一角にあるドアが完全に開くと、黒いセントラルスフィアに対し、真っ白な通路が現れた。色差が激しいため、よけいにまぶしく感じる。
「じゃあ、お兄ちゃん達は行ってくるね」
頭をなでると鏡花は嬉しそうに笑った。
闘真と由宇は、セントラルスフィアのさらに奥、LAFIファーストルームへと入っていく。
「まったく、あの人は、自分の娘をレベル0に登録するか、普通!」
「文句をいうな。それで私達はこうして、入れたんだ」
「でも、どうして認証パネルの配線、変えてあったんだろう? 最初エラーが出て開かないときは、どうしようかと思った」
「風間が仲間を騙すためにやったのだろう。セキュリティによくある穴のひとつだ。開けるのは難しいが、開けなくするのは意外と簡単だ」
部屋の最奥に1立方メートルほどの鉄の塊があった。白い空間にぽつりとある真っ黒いそれは、太ったモノリスを連想させた。
「これがLAFIファーストの本体……」
「そうだ。そして風間遼でもある。さて無理やりにでも話を聞いてもらうぞ」
由宇は銃を出すと、それをLAFIファーストに向けた。
「聞こえるか、風間遼! いまから十数えるうちに出て来い。さもなければ、LAFIファーストを破壊する」
由宇はトリガーに発砲寸前まで力を込める。
「一つ二つ三つ四つ五つ六つ七つ八つ九つ」
「はやっ!」
闘真が口をはさむまもなく、テンカウントはあっというまに進んでいく。
「と」
『待て!』
闘真達の前にノイズが現れ、すぐに人の形を作った。網膜投影された風間遼の姿だ。
『なんて気の短い娘なんだ』
「どうせ貴様みたいなタイプの男は、ぎりぎりまで出てこないんだ。ゆっくり数えるなんて、馬鹿らしい」
『自分がやろうとしていることが解っているのか? LAFIの本体を撃ったら、スフィアラボは制御を失い、千人以上の人間が死ぬのだぞ』
「撃たなかったら、億単位の人間が死ぬ」
『本当に止まると思うのか? それは確実と言えるのか?』
「LAFIの外のコンピュータにもハッキングをやらせているか。LAFIは死んでもハッキングプログラムは残る。それくらいのことはしているだろうと思った。撃つつもりはない。私の話を聞いてくれればの話だが」
風間が黙る。
「聞くのが怖いか? 風間よ。おまえの真実の姿の話だ」
『真実? なんのだ?』
「風間遼自身も知らない秘密だ」
『俺の秘密? いいかげんなことを言うな』
いらだった声が返って来た。
「いいかげんかどうか、私の話を聞いてくれてからでもいいんじゃないか? いまや絶対の支配者の立場なんだ。それくらいの余裕はあってもいいだろう」
『勝手に話すがいい。どうせ時間の無駄だと思うが』
由宇は、立体映像の風間に向かい、ゆっくりと喋り始めた。
「何から話そうか。そうだな、私がここに来てからずっと抱いていた違和感から話そうか」
『違和感?』
「ずっと予想が外れ続けたんだ。お前の行動はいつも私の予想を遥かに上回っていた。それがどうしても解らなかった。どんなに予想を軌道修正しても、ことごとく外れてしまった」
『それが、どうした? いくら峰島の娘だとしても、絶対の予測は無理だろう』
峰島の娘といわれ、由宇は顔をしかめた。
「まあね。それでも誤差に限度はある。その誤差を大きく越えてたんだ」
『……』
「もう一つ、引っかかってたことがあった。宮根瑠璃子のことだ。宮根瑠璃子はお前に好意を持っていた。そのことをお前は無意味だといい、なおかつ孤独であると言い張った。これも引っかかった。女性なんか眼中にないといってしまえばそれだけだけど、何か違った。根本的なずれを感じてたんだ」
『さっきの話とは、関係ないことではないか』
風間はいらだちの表情を見せる。その話題は不快らしかった。
「それが関係あるんだ。どうして、そんなに不機嫌な顔をする? 怖いのか?」
由宇の言葉にはどこか余裕があった。風間を映す立体映像に多少のノイズが入ったのは、動揺のためだろうか。
「もったいぶるのはやめよう。とても単純なことだ。私は最初からある先入観に捕らわれて、考えていた。だからことごとく予測を外したんだ。そしてそれはおまえ自身も気づいていないことだ」
『だから、なんだというのだ?』
モニターの乱れは大きくなっていく。
「人間の脳があんな短時間でLAFIに適応できるはずがない。これが私の抱いていた先入観だ。でも、こう考えれば納得がいく」
由宇は一拍の拍子を置いて、ゆっくりと口を開いた。
「風間という人間の人格が、LAFIに融合したと考えるからおかしくなるんだ。本当は逆だった。LAFIの中で生まれた人格が、風間という人間の肉体に埋めこまれていたんだ」
風間は何も答えなかった。ノイズの多い網膜映像の中で風間は歪んだ表情で、由宇を見つめていた。
「お前はただ、元の体に戻っただけなんだ。だから、そんなに早くLAFIに適応できた。いやこの場合は元の体の感覚を思い出すことができたと言ったほうが正しいかな」
それに対し、由宇の口調は軽い。どこか楽しげでもある。
「ここから先は、私の推測になる。勇次郎は十二年前、LAFIファーストを作った。いままでのコンピュータ理論を覆す代物だ。しかもLAFIファーストは、勇次郎の予想を超える動作をした。人格が生まれたんだ。電子の中で一個の生命体が誕生した。勇次郎は自分の理論を超えるそれに興味を持った。さまざまな実験をしただろう。そしてあいつは、また悪趣味なことを考える。その人格に肉体を持たせ、その生態を観察したいと思った。まったくとんでもないことだ。たぶん、どこかの病院から脳死した死体を取り寄せたんだろう。そしてLAFIの中から人格の部分を取り出し、それを脳に移植する。風間遼が人間としてこの世にうまれた瞬間だ」
風間はもう言葉を返すことはなかった。
「スフィアラボにLAFIがあるのは、気まぐれなんかじゃなかった。人格を失って空っぽになったLAFIなんかに勇次郎は興味をなくしていた。機能として適当なので、たまたま提供したに過ぎない」
そこまで一気に喋ると、由宇は一息ついた。どこか陽気に喋っていた姿は嘘のようにしぼみ、疲れたように椅子に座った。
そして風間に向かって寂しげに笑うと、静かに言葉を続けた。
「LAFIファーストに入ったとき、懐かしい気持ちがしなかったか? 人間の体が窮屈に感じたことはなかったか?」
『……ある。そのとおりだ』
しばらく沈黙した後、風間は静かに肯定した。
「どうしてLAFIのほうがなじむのか考えたことはなかったのか?」
『……』
「知るのが怖かったんだろう。それがお前の孤独の根源だからだ。決して解決されることのない孤独だ」
『孤独……』
「お前の孤独の根源は、誰にも相手にされなかったからじゃない。誰にも理解されなかったからでもない。電子の生命体が、唯一お前だけということが、お前の孤独を生み出してたんだ。種としての孤独感だった」
由宇の声はさらに静かに、そして優しくなっていく。
「解るか? お前の計画が成功して、中にいる人々がお前を敬い頼るようになっても、それで孤独は癒せない。どんなに慕われたとしても、どんなに尊敬されたとしても、それはますますお前の孤独を強調するだけにすぎないんだ」
『俺は……この世界で一人か』
それは風間が由宇の言葉を認めた瞬間でもある。網膜映像の風間の姿は大きく乱れたかと思うと、姿を消した。人としての残滓を一つ捨てたのだ。ただ奇妙なことに気配だけは感じることができた。闘真にはそれが怖く、そして不思議だった。
「一つだけ、お前の孤独を癒す方法がある」
由宇は勣かに、つぶやく。
『なんだと? それはいったいなんだ?』
声を張り上げる風間に由宇は何も答えず、ノートパソコン型のLAFIサードを広げ、端末につなげた。由宇がかるくキーボードを打つと、以前闘真に見せた無機質な動く点の集合体が、映しし出された。
『これは……』
「私のLAFIサードの中で生まれた、電子の生命体だ。これもとてつもない偶然で生まれたものだ。お前の仲間だよ」
気配に歓喜を感じたのは、気のせいだろうか。
「まだとても原始的だけど、大事に育めば、成長と繁殖を繰り返し、高度な知性を有するようになるだろう。でもLAFIサードの中では、これが限界。これ以上に進化することはない。ここは窮屈すぎる」
突然点の集合体が画面から消えうせた。かと思うと、LAFIファーストのモニターいっぱいに点の集合体が映し出される。それは、時間を追うごとに色彩の変化や動きが複雑なものへと変化していった。
「LAFIファーストの中なら大丈夫だろう」
風間はもう何も答えない。気配は感じられたが、それも薄れていく。
「風間、もう人間の思考に縛られる必要もない。お前も窮屈だろう? もとの自分に安心して戻るがいい。一人じゃないんだ」
あたりから感じられた不思議な気配は、ついに感じられなくなった。
「風間?」
呼びかけても、答えは返ってこなかった。
彼は、自分の生きる世界に戻ったのだ。
「ふう一段落」
と、安堵した闘真の顔は、発射時間のタイムカウントを見て、あっというまに消え去る。
「ちょっと待ってよ。ミサイルのカウントダウン、まだ止まってないよ!」
闘真の後ろでどさりと何かが倒れる。
「由宇、由宇、しっかりして。倒れるのはまだ早い!」
由宇をあわてて抱き上げ、頬を軽く叩いた。うっすらと開いた目が闘真を見るが、焦点が定まっていない。
「ああ、解ってる。できればコンソールの前に運んでくれないか?」
椅子に力なく座ると、由宇はキーボードを打つ。恐ろしく速いが、しかし本来の彼女はもっと速い。生彩が欠けている。
「あと、少し。……前よリセキュリティが高度になってる」
由宇の横顔には体の憔悴以外の疲労が浮かぶ。
「風間のやつ、なんで止めていかないんだよ」
「人間に興味がなくなったんだ。人類が生きても死んでも、どっちでもかまわないのだろう」
その間も由宇の指はめまぐるしく動き、モニターの表示が次々と更新されていく。しかし由宇の表情は暗いまま。
「一秒……間に合わない」
曲宇が、最後のキーを押すより早く、カりントダウンがゼロを告げた。
「えええ! こういうのは間に合うのがお約束じゃないの?」
いくつものモニターに核ミサイル発射をつげるアラートが点滅する。世界地図を映すモニターには、ミサイルの軌道。影響範囲を示すいくつもの輪が、世界全域を覆った。
「発射された核は、八百五十八発。……間に合わなかった」
それでも由宇の手は動き続ける。
「核ミサイルの制御コードで自爆させられれば、まだ間に合う」
「それならアメリカとかミサイルを所持していた国が、やってくれるんじゃないの?」
「制御コードは、たぶん変更されている。期待しないほうがいい。こちらから制御コードをハッキングして、自爆させるしかない」
「間に合う?」
「八百五十八発分の……制御コード」
由宇は血で汚れたキーをリズミカルに叩き、休めるまねはしない。
「最初の核ミサイルの着弾まで、……十七分」
「どう?」
「無理……どんなに速くても、百発が限界」
絶望的な声を出した。由宇は疲れたように両手で顔を覆い、ため息をつく。
「……由宇?」
「解ってる。あきらめない。まだ何か方法があるはず」
思考に没頭しているのか、呼吸すら忘れているかのように由宇は静かだ。
通信機が着信を知らせる。麻耶からだ。
『兄さん、お別れを言いにきました』
「おい、麻耶、突然かけてきて縁起でもないことを、言うなよ!」
『でも、すでに核ミサイルは絶望的な数が発射されています。世界は混乱します。軍隊を動かし始めた国も出てきました』
「まだだ。まだ何か手がある」
『でも真目家にとって一つだけ喜ばしいことがあります。それは兄さんが、そのスフィアラボにいること。たとえ地上が死滅しても、真目家の血は、兄さんの子孫はその小さな楽園で、栄え続けることでしょう。残念なのは、それを見届けることが……」
「麻耶! 黙って聞け!」
『は、はい』
もしかしたら麻耶が、初めて闘真の言うことを素直に聞いた瞬間かもしれない。
「もし真目家の次期当主を名乗るなら、ここが腕の見せどころだ」
『でも……』
「絶対に核ミサイルを止める。だからおまえは、各国の動きを止めるんだ!」
『む、無理です! だいたいどうやって核ミサイルを止めるというのですか?』
「峰島由宇が、いま全力で核ミサイル着弾の阻止に取りかかってる」
『兄さん、真目家は価値ある情報しか、取り扱わないのをお忘れですか? 峰島勇次郎の娘を信じろですって? 私はまだ核ミサイルを発射したのは、あの穴倉娘かもしれないと疑っているのですよ』
峰島由宇の名が出ると、とたんに麻耶の声は堅くなった。
「由宇を信じなくていい。僕を信じるんだ。僕が絶対、彼女にミサイルを止めさせる。言うことを聞かせる。この鳴神尊《なるかみのみこと》にかけて」
『兄さん……』
「だから、頼む。各国の混乱は麻耶が抑えてくれ。真目家だろ? 真実を売るんだろ? だったら売ってやれ! 人類は助かる。核ミサイルの攻撃は、なんとかするって! これは真実だ! ここで真目家の力を見せないでどうする! どんな手段を使ってもいい。使えるものはなんでも使え! とにかく抑えてくれ。これは麻耶にしかできないことなんだ」
麻耶はしばらく気圧され無言だったが、
『信じていいんですね? この約束は守ってくれますね?』
「守る」
根拠も何もなく、しかし闘真は迷いもなくきっぱりと言い切る。
『解りました。諸外国の動きは、なんとかおさめます』
「頼む」
『兄さん、あなたを信じます』
麻耶の通信が切れると、由宇の冷たい視線に気づいた。
「なかなか立派な啖呵《たんか》だな。実際やるのは私だが。ところでいつのまに私は、君に脅迫されて核ミサイルを止める手伝いをされていることになったんだ?」
「僕は、由宇を信じてる」
「他人まかせも、言葉しだいでは耳に聞こえがいい。さすがあの妹の兄だけのことはある」
「必死なんだよ。それより時間あるの?」
「うん。使えるものはなんでも使え、か。適当なことをぬかすわりには、いいことを言う。君のその言葉がヒントになった。一つだけ方法が見つかった」
「え、ほんとに? すごい!」
しかし由宇の顔には陰りがあった。
「なに?」
「約束してくれ。この方法を止めないと」
「解った。約束する」
「唯一ミサイルを止める方法は、あれだ」
由宇が指差したのは、闘真達が来た白い通路の先、セントラルスフィアの中央、LAFIフアーストとシンクロするバイザーとシートであった。
「だめだ!」
「約束したはずだぞ、反対しないって」
「前、言ったじゃないか! 風間でないと人の脳は耐えられなくて発狂するって」
「使えるものを使わないでどうする?」
「だからって」
「発狂すると決まったわけじゃない」
「じゃあ、なんでそんな顔してるのさ」
「いつもこんな顔だ」
「とにかく駄目だ!」
由宇は少し困った顔をするが、
「君に反対されると、成功するものも成功しなくなる」
闘真は言葉をつまらせる。
「あきらめるなと教えてくれたのは君だ」
「でも……」
「あのシートに連れて行ってくれ。もう一人では満足に動けない」
由宇の意志は固い。初めて会ったときの頑《かたく》ななそれではなく、意志の強さを感じる。何かが彼女の中で変わった。いや踏ん切りがついたのだろう。それが闘真には何か解らないが、とにかく由宇の望みどおり、体を抱き上げシートに運んだ。
「なかなか座り心地は悪くない」
由宇は笑い、暗い顔をする闘真を見た。
「私を信じてくれないのか?」
「……」
「あきらめるのは君らしくない」
闘真は由宇の顔についた血をぬぐい綺麗にしてやると、泣きそうな顔で笑った。
「由宇ならできる」
由宇はにっこりと微笑むと、闘真の手を握った。
「君の手は温かい。たとえ電子の海で迷いそうになっても、私はこの温もりを頼りに帰ってこよう」
「うん、絶対に帰ってくるんだ」
由宇は小さくうなずくと、シートのバイザーを下ろした。次々とスイッチを入れていき、横田が星空と称したセントラルスフィアの計器類が、まさしく星のようにまたたく。
「絶対だよ」
闘真の言葉に、手を強く握って返事を返してから、由宇はメインスイッチを入れた。
脳の奥がスパークし、視界が真っ白になる。大量の情報が受け入れる準備もなしに流れ込んできた。
予想を遥かに超える情報に由宇は絶叫した。
10
由宇は心だけで漂っていた。
静かな空間だ。いや空間という概念は正しくない。五感のあらゆる感覚が等しく処理される、まったく未知の領域である。
カオス領域とはよく言ったものだ。由宇も自分をしっかりと保っていなければ、このカオスに飲み込まれそうになる。
漂っている心を静かに着地させる。正確には床という概念を作り、そこに降りたのだ。降りた床をさらに広げる。それは爆発的な勢いで広がり、あっというまに四方に遠い地平線を描く。
広いのが落ちつかないと思うと壁が生まれ、色が欲しいと思うと、鮮やかな色彩が描かれ、腰を下ろすと椅子がそこにあり、手を伸ばすと机に触れた。そうしていくうちに一つの由宇の知っている空間が生まれる。
十年以上も前、由宇がまだ勇次郎と一緒だったころの研究室、そこにはもう一人、由宇と勇次郎以外の人間がいた。
「思い出に浸る娘だとは思わなかったがな」
振り向くと風間がいた。あのころと同じように立っている。
「こうすればおまえが姿を現すのではないかと思った」
風間は少しだけ眉をひそめて不快感をあらわにする。
風間の足元にまとわりついている不定形の生き物を見る。あれはきっと由宇が送ったLAFIサードで生まれたものだろう。ずいぶんと進化している。
由宇の視線に、風間が笑う。
「つまらない感傷だな。そんなことをしている暇はあるのか? 八百五十八発の制御コードを残り十五分でできるのか? 俺ですら、改ざんするのに十九分かかった」
「ちょうどいい」
それを聞き、由宇はむしろ笑った。
「私のほうが優秀だと証明するいい機会だ」
そして彼女は、それを十三分で証明した。
11
握りしめた手が、ビクンと動いた。
由宇が目が覚ますのを、闘真は笑顔で迎えた。
「おはよう」
しばらくぼんやりと闘真の顔を見ていたが、
「どれくらい眠っていた?」
「五時間くらいかな」
「その間、君は……いやいい」
由宇は開きかけた口を閉じる。そして、はっとなった。
「五時間? もう五時間も経過しているのか?」
「毒は心配しなくていいよ。解毒剤は注射した。核ミサイルは全部上空で自爆した。いま麻耶が情報操作で大忙しだ。なんでも、核ミサイル反対派によるサイバーテロ。核排除のためミサイルを上空で爆破させたことにするらしい」
由宇は苦笑いをする。賞賛派と批判派がぶつかりそうな理由だ。世間的にはそれを利用してうやむやにするっもりらしい。
「米軍は?」
「引き下がった、意外とあっさりに」
「ADEMがいくつか遺産の情報を提供する約束をしたのだろう」
「そうなんだ? ところで、由宇も意外と鈍いんだね」
「なんのことだ? 私は鈍くない」
「鈍いよ」
「だから鈍くは……」
由宇の言葉が途中で飲み込まれる。そこでようやく彼女は自分の体が揺れていることに気づいた。闘真が由宇を抱きかかえて歩いているのだ。しかし言葉が途切れたのはそのためではない。闘真が歩いているのは長い長い元は北側のゲートに通じる通路だ。その先には四角い形に切り取られた明かりが見えた。人工のそれではない。陽光の柔らかさと優しさがある。かすかに朱をさしているのは、陽が大きく傾いているからか。
「……そ、と?」
「ああ」
由宇の瞳が徐々に朱色に染まる。かすかに聞こえる波の音、鼻孔をくすぐる潮の香り。四角い明かりは、徐々にその姿を大きくし、やがて通り抜けた。彼女の目の前にどこまでも続く大海原が広がった。水平線の向こうに大きな太陽が沈み、海面を頑色に染めている。
「本当に外なの?」
由宇は闘真に支えられながら、立ち上がり、まわりの景色を呆然と見る。瞳から流れるいくつもの涙は、夕陽に染まり、赤い雫となり、足元ではじけた。
由宇はそのまま床に座ると、目の前の景色をただくいいるように見つめた。赤い雲がゆっくりと流れている。
「……きれい」
どれだけの時間そうしていただろう。
「ねえ由宇」
「ん?」
「もしもだよ、もしも由宇が望むなら、このまま逃げてもいいと思う。もう縛るものは何もない。手はずは整えてある。真目家の手を借りるというのは、由宇としては面白くないかもしれないはど」
少しだけ二人は黙った。
「その気持ちだけでいい」
由宇は体を起こし立ち上がると、首を軽く振る。
「真目家の力を借りるのがそんなにいや?」
闘真は冗談めかすが、本当の理由には気づいていた。
「私の頭の中にある知識は危険すぎる。君もその片鱗は見たはずだ。ブレインプロクシや多段式軽ガスガン、どれも私が作ったものだ。風間かそれ以上に危険なものだって、ある。峰島勇次郎と行動を共にするうちに、いつしか私も危険な存在になった。私は世界から切り離されて、生きなければならない」
「……」
「心配するな。この日の感動があれば、大丈夫だ。世界がこんなにも美しいなら、何を迷う必要がある?」
夕陽に溶け込んだ由宇は、髪を風になびかせ振り向くと、いままでにない穏やかな顔を見せた。
「私は地下に戻る」
その言葉は曇り一つなく、静かに風に運ばれた。
「お別れだ」
由宇が手を差し出した。
――ああ。
その手を見つめ、闘真は心の中で嘆息する。ようやく悟った。なぜ彼女の助けになりたいと思ったか。
由宇も自分と同じだ。由宇は峰島勇次郎を、闘真は真目不坐を、大きすぎる父親の業を背負い、世界と隔絶していく。
由宇の瞳には決意がある。地下に戻ることは、彼女にとってもう後ろ向きなことではない。追っていた父親の背に決別し、戦う決意を決めた祝福すべき行為なのだ。
闘真は自分の気持ちをすべて押し殺し、差し出された小さな手を固く握り締めた。
しばらく続いた二人の間の沈黙を破ったのは、上空からのヘリコプターの音。LC部隊のロゴが入った機体から、体半分を乗り出した伊達の姿が見えた。
「どうやらタイムリミットらしい。さようなら坂上闘真君」
由宇は苦笑いと共に手を放すと、背を向けヘリポートへ通じる道を歩き出す。さっきまでの笑顔が錯覚に思えるほど、その背は遠く冷たく、何者も拒絶していた。
「由宇」
闘真は強く叫ぼうとしたが、喉が発したのは情けないかすれた声。由宇は振り返らなかったが、ただ歩みは止まった。
その背に向かい、闘真は今度こそ力いっぱい叫ぶ。
「僕も戦う! 内にある禍神の血に負けないように。次に会うとき、決して由宇に恥ずかしい思いを抱かなくてすむように!」
[#挿絵(img/9s-363.jpg)]
「ふふ、『次に会うとき』か」
由宇は少しだけ顔を傾け、横顔を見せた。
「君の論拠のない言動は、なかなか楽しかった。特にあの妹に切った啖呵は極めつけだ」
「う、うるさいなあ」
闘真は笑顔を作る。うまく笑えただろうか。
「ああ、別れる前に一つ君に忠告がある」
「忠告?」
「うん。君は時々、いや、しばしば無茶な行動が目立つ。もう少し熟慮というものが欲しい。毒カプセル入りの血液を飲むなんてもってのほかだ」
「気づいてたの?」
由宇は手のひらを天にかざし、そこにある傷を見せた。
「傷モノにした責任は、いつかとってもらうぞ」
「解った。そのときは絶対、由宇の力になる」
由宇は一瞬だけ哀しそうな表情を見せた。しかしそれもすぐに、薄い笑顔にかき消される。そして空にかざした手を、一度だけ振った。闘真も何も言わず、彼女に手を振り返した。
今度こそ二つのシルエットは離れていく。
いつか再び道が交わることを信じて。ためらうことなく。
[#改ページ]
[#見出し]  エピローグ
LAFIファーストの本体であるーメートル四方の巨大な鉄の塊は、厳重に梱包され、約百年分の稼動電源と共に、コンテナの中に収められた。コンテナにはA00104と書かれたパネルが張られる。
伊達は、強化ガラスを隔てた一室から、その作業の一部始終を見ていた。隣には由宇と岸田博士もいる。
コンテナの行き先はADEMの地下600メートルにある、遺産の保管倉庫である。
ここで何年眠るのか、それとも世に出ることなく朽ちるのか。
最初、日本政府はLAFIファーストを破壊すべきだと主張した。しかしADEMは峰島勇次郎オリジナルのファーストを安易に破棄すべきではない、と主張し、結局地下に眠らせておくことで折り合いをつけた。
ADEMの主張を押し通したのは伊達だが、ADEMの意見書をまとめたのは岸田、そして破壊すべきでないと、誰よりも強く主張したのは実は峰島由宇本人である。
いままでこの娘が、遺産の処理に口をはさむようなことはほとんどと言っていいほどなかった。手に余る遺産の処理をなかば強制的にまかせたようなときも、命令されたことをやるだけ、気が向けば馬鹿にした口調で、こちらの間違いを指摘する程度だった。
だが、LAFIファーストに関して彼女は、なぜか強弁に保管を主張したのだ。
――LAFIはしょせん道具。道具に罪をかぶせてもしかたない。
彼女がぽつりとこぼした言葉。
スフィアラボの中で何があったのか、すべて把握しているわけではない。この峰島由宇が遺産の処理方法に初めて意見らしい意見を出したのは、自分が直接事件にかかわったことと無関係ではないだろう。しかし解ることといえばそこまでで、なぜ破壊でなく保管を望むのか、伊達には解らなかった。
十年前、ADEMを組織し、この娘を捕まえたとき、日本政府は狂喜した。世界中のすべての組織がもっとも欲しがった遺産、峰島勇次郎の一人娘の保護に成功したのだ。
だがすぐに、彼等は由宇の扱い方をはかりかね、戸惑った。そんな人々の中で、真実を見極めていたのは自分と岸田博士だけだった。
この娘は手中にして終わりではないのだ。生かしてもいけない。殺してもいけない。
捕まえて閉じ込めて終わりではない。いつか、この娘を使わなければ解決できない事件が起きる。
解っていた。それが今回の事件だった。
――だが、今回のスフィアラボ占拠事件で自分は、結局、何もできなかった。
自嘲的に笑おうとして、それもやめた。
いままで何度も遺産をめぐる凶悪な事件は起きた。その中には政府から彼女を使えと命令されたときもある。しかし彼女の力が本当に必要か否か、伊達は見極め、そのつど命令を跳ね返してきた。
そして、今回初めて彼女を地下から出すと言ったとき、もちろん政府は反対した。危険すぎる、と。何も解らず自ら責任をとりたがらない人間や組織は、しょせんそんなものだ。強者を怖れすぐに頼ろうとし、実際頼ればとたんに恐れる。
そんな臆病者の中、今回、自分がした判断は間違っていなかった自信はある。
実際、由宇本人が中に入らなければ、スフィアラボの事件は解決できなかっただろう。
――すべてはあの少年から始まったのかもしれない。
伊達は、まだ幼さの残る坂上闘真の顔を思い浮かべた。事件の通報者として警察署であの少年を見たとき、真目家の人間とも知らず、伊達はどこか頼りない線の細い少年が、海を泳いできたという情報を最初信じることさえしなかった。
風間達にとっても、伊達達ADEMにとっても、情報を圧する真目家にとっても、そして峰島由宇にとってすらも、計算外だった少年。
闘真が真目家の力を使い、由宇を逃がそうとしているという情報が入ったとき、伊達は恐怖にも似た、二つの大きな驚きを覚えた。
一つは真目家がかたくなに守りつづけてきた不文律、峰島とはいっさいの関係を持たない、それを覆させるだけの影響力を、あの妾の子である闘真が持っているということ。
もう一つは、そこまであの娘と心をかよわせたということだった。
その情報を、伊達は歯軋りする思いで聞いた。真目家が本気で由宇の存在を隠蔽しようとすれば、再びADEMの手に由宇が戻ってくることはないだろう。
しかし、この娘は自ら望んで、ここに戻ってきた。
自由にしたら最後、彼女は二度と戻ってこない、そして父親と同じように、悪魔のような研究を気まぐれに繰り返す。伊達は今までの由宇の言動を見てそう確信していた。しかし由宇は、自由への手が差し伸べられたにもかかわらず、スフィアラボのゲートで待機するヘリに、自分の意思で乗り込んできたのだ。
その向こうで、別のヘリに乗り込む少年の後ろ姿があった。彼は一度だけふり向いて、長いことLC部隊のヘリに乗り込む由宇の後ろ姿を見つめていた。
坂上闘真。
鳴神流の血を受け継ぎ、峰島と真目をつなぎかねない、非常に危険な人物。
峰島由宇。
勇次郎の血を受け継ぎ、勇次郎が育て、誰より勇次郎を知る、峰島勇次郎の最高傑作。
この二人が出会ったのは、偶然なのか運命なのか。
十年前、由宇を諸刃の剣として使わねばならなくなるときを、伊達は覚悟していた。しかし、この由宇という娘と遺産をめぐる戦いは、思いもかけない方向へと進んでいこうとしているのかもしれない。
峰島由宇は峰島勇次郎ではない。彼女には父親と違う人格がある。道具である前に、天才である前に、まだ十七歳の一人の少女なのである。そんな当たり前のことにようやく気づいた自分のおろかさを、今度こそ伊達は自嘲した。
彼女がひとたび自由になれば、そこには彼女自身でさえ予想できない未来が広がっているのだ。
「由宇君、そろそろ」
伊達の思考を中断させたのは、岸田博士の遠慮がちな声だった。岸田は由宇がこの施設に帰還したとき、無言で由宇を抱きしめ泣いた。無事に帰ってきてくれて嬉しい気持ちの中に、ほんのわずか、どうして戻ってきたのだという複雑な感情があることが、伊達には見てとれた。
「もう時間だ」
LAFIの保管作業の工程は、まだ途中だった。しかし、由宇に許された視察時間は二分過ぎていた。
最後まで見せろとも言わず、岸田の言葉にあっけなく由宇は、
「うん、解った」
とうなずいて、伊達には一瞥もくれず、エレベーターのドアの前に立った。地下につながるエレベーターである。
深く暗い地下倉庫に、遺産のコンテナが埋もれていく見慣れた光景。しかし、なぜかふと、伊達にはそれが埋葬のように見えた。
コンテナがゆっくりと降りて見えなくなっていく。それと同時に、エレベーターのドアが開いた。
伊達は振り返って由宇を見た。由宇は振り返ることなくエレベーターに乗り込み、地下1200メートルの自分の部屋へ帰っていった。
[#改ページ]
[#見出し]  あとがき
葉山透の本を初めて手に取っていただいた方、はじめまして。そしてありがとうございます。まだ卵の殻がお尻にくっついた作家、葉山透です。
他杜のシリーズですでに葉山透の本を知っている方、またお会いできてとても嬉しいです。ありがとうございます。
『|9S《ナインエス》』は葉山透の電撃文庫初となる作品です。
すでに葉山透を知っている読者さんが読んだら、作品の方向性の違いにびっくりするかもしれません。逆もしかり。本書を読んで、葉山透の別シリーズを読んだら、その違いに驚くと思います。
本書の特徴は、ちょっとしたアクション、ちょっとしたSF、ちょっとしたスプラッター、ちょっとしたどんでん返し、ちょっとした恋愛、などなど、いろんなモノをこちゃまぜぎゅうぎゅうに詰め込んだ作品です。風呂敷を広げたいだけ広げて、なんとかしばってみたものの、中はパンパンで今にもはじけそうな状態といいましょうか。
詰め込みたいだけ詰め込んでみたら、電繋文庫で初めて出版する作品としては、少々長くなりすぎて、規定枚数を超えてしまいました。
第一稿のとき担当さんとの打ち合わせで、長いから削りましょうという結論だったのに、なぜか修正されるたびに、原稿が長くなっていくのです。世間一般に、それは修正と言わないかもしれません。
「もう規定枚数はいいです。腹をくくりました。内容重視、この長さでいきましょう」とあきらめた顔で担当さんが言ったとき、申し訳ないと思うより先に、やったーと小躍りした私は、いけない人間でしょうか?
でも規定枚数を超えたかいがあった、面白い作品になったと思います。この大言がホントかウソか、まだ読んでいない方は、目を通して確かめてください。
さて、担当さんの受難はこれで終わりません。
文章の次はイラスト編です。当然と言いますか、必然といいますか、ここから先はイラストを担当してくださった山本ヤマトさんも巻き込みます。
『9S』はウソがいっぱい書いてありながら、資料だけはわんさかありました。あれやこれや参考資料として、本やHPのアドレスを編集部に持ち込んだり送ったりしました。
小説内にも書かれていないイメージをあれこれ言われ、山本さんは難儀したことでしょう。私がイラストレーターなら、ちゃぶ台ひっくり返しています。
それでも時間がない中、山本さんは私の期待とわがままと多くの注文に応えてくれました。いいイラストが何枚もできあがり、葉山はホクホク顔です。
担当の高林さんとイラストの山本さんには、この場を借りて、お礼申し上げます。
お礼したい方は他にもたくさんいらっしゃいますが、その中でも、いろいろと助言をしてくださった喜多さん。おかげで荒唐無稽《こうとうむけい》な世界観の中に、足元がしっかりした部分を作ることができました。ありがとうございます。
そして本書を手に取ってくださった読者のみなさん。感謝の言葉でいっぱいです。本当にありがとうございました。
作者が唯一できる恩返しは、さらに精進を重ね、もっと面白い作品を作ることだと思います。
これからの葉山透に期待してください。
それでは、またお会いできることを願って。
[#地付き]2003年6月  葉山 透