向う岸からの世界史
良知 力
[#表紙(表紙.jpg、横90×縦130)]
目 次[#「目 次」はゴシック体]
T
向う岸からの世界史――ヘーゲル左派とロシア
一 ゲルツェンとマイゼンブーク
二 スラヴ人は人類の敵
三 世界史の針は西向きか東向きか
四 ヘーゲル的=東洋的自己完結性
五 西欧的世界史の解体
四八年革命における歴史なき民によせて
一 エンゲルス的世界史と非世界史
二 ロシア的ないしアジア的野蛮
三 パラツキーとフランクフルト国民議会
四 「反革命」としての人民戦争
U
一八四八年にとってプロレタリアートとは何か
一 ベルリンとウィーンの流民
二 大衆的貧困としての死霊
三 賤民かプロレタリアートか
四 労働者暴動と革命の死
ウィーン革命と労働者階級
一 意識されざるプロレタリア革命
二 ウィーンにおけるマルクス
三 マッセン・プロレタリアート
四 特権的労働者と下民労働者
五 ブルジョア革命擬制批判
V
もう一つの十月革命――歴史家とプロレタリアの対話として
一 ラトゥール吊し首(十月六日)
二 武装せるプロレタリア(十月十二日)
三 皇帝と議会
四 プラーターの星(十月二十八日)
五 最後の銃声(十月三十一日)
ウィーン便り
一 赤マント
二 革命版画
三 賤民支配とは何か
四 革命と古本屋
五 ハンガリー革命と西欧
ガスト・アルバイターとしての社会主義
あとがき
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向う岸からの世界史
――ヘーゲル左派とロシア
一 ゲルツェンとマイゼンブーク
世界史はしばしば私にとっての世界史であっても、彼にとっての世界史ではありえないこともある。そのとき、世界史は彼にとっては虚妄である。それにもかかわらず、世界史が私にとっての世界史であるとき、私はその世界史を担うことによって、あるいは担うと自覚することによって、みずからの現在的存在が普遍的なものだと感じる。なぜなら、そのとき私はもはや私だけではなく、私の生は共同的なのであるから。精神はさまざまな辛酸をへて、人倫の諸規定をとおりぬけ克服して、この現在にまで達した。だから、われわれが世界史を担うという自覚は、自然拘束的で狭隘なエゴイズムではなく、自由を求める人類的意志の表現であり、人類そのものを担う民族のヒロイズムにほかなるまい。
われわれは世界史を担っている、われわれの作業には人類そのものの運命がかかっている、だが君たちは世界史の外にある、君たちが君たちの世界でなしうることは、せいぜい世界史に歯止めをかけ、それを逆行させることだけだ、だから君たちが世界史や人類のためにいささかなりとも貢献したいと思うなら、それは君たちがわれわれの世界のなかにはいって、われわれの世界の前進に力をかすかぎりにおいて可能なのだ。――こんなことを外国人に言われたら、とりたてて愛国者ならずとも自分の民族や国民に想いを馳せるだろう。ときによってはこの発言をファシズム的発想に結びつける人もあるかもしれない。だが、あいにくと相手はファシストではない。むしろ、右の文章がすでに示唆しているように、それはヘーゲル主義者である。しかも、それはヘーゲル主義者がヘーゲル主義者にたいして述べた言葉である。二人のヘーゲル主義者の違いは、一人が亡命ドイツ人であり、他の一人が亡命ロシア人だということにある。ここですでにグレーチェンの問いは、東か西かである。
さしあたって一八五六年頃のロンドンから話を始める。当時のマルクスとエンゲルスの手紙や論説やパンフレットなどからも推測されるように、ロンドンには、革命に破れ、故国を追われた亡命者がひしめいていた。しかも亡命者諸組織は分裂に分裂を重ね、たがいに誹謗と中傷を投げあって生きていた。アレクサンドル・ゲルツェンもそれらの渦の外にいたわけではなかった(もっとも私はゲルツェンについては無知にひとしく、またロンドンの亡命者たちが織りなすドラマについては関心はあるものの、ここではそれは描くべき対象のそとにある)。ゲルツェンはその頃妻をなくし、二人の子を抱えて、男やもめをかこっていたのであろうか。当時ゲルツェンの家に同居して子供の養育にあたっていた女性がいた。当時三五、六歳のはず、名前はマルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク。名前の示すとおり、ヘッセンの名門貴族の娘である。この女性はのちにリヒァルト・ワーグナーやニーチェと親交を暖め、さらにまた若きロマン・ロラン(1)の知的出発点の一つともなるから、その意味で名を知る人も多いであろう。だが、それはのちの話。私が彼女に関心をもつのは、このマルヴィーダもまた「四八年の人々」の一人だったからである。さらにまた私がここで彼女に興味を抱くのは、貴族出身でありながら革命に参加した女性が、亡命者とはいえロシア人にたいして、知的という以上の好意を寄せたのはなぜか、という問題があるからである(一八四八/四九年革命史について知る人はウィーン革命の悲劇的崩壊にあたってスラヴ人がはたした役割を想い起してほしい)。
本題から多少はずれるが、マイゼンブークについてふれることはこの一文のモティーフをふくらませるために必要である。彼女がわれわれに遺してくれたものに『ある理想主義者《イデアリステイン》の回想録(2)』という三冊からなる自伝がある。マルヴィーダは敢て貴族の親兄弟との不和と葛藤のなかに身を置いた。理由は彼女自身にもよくわからぬ、ただ自分が自分であろうとしたから、と言えないこともない。三月革命の勃発と共に彼女はベルリンで革命の渦中に身を投じた。なぜそうしたのか。彼女自身の記述が明らかにする。――彼女はしばしばパンフレットを抱えて貧乏人の家を訪れた。
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「ある貧しい婦人は子供をたくさん抱えて、ほんとうの穴ぐらみたいなところに住んでおり、病気、飢え、ありとあらゆる貧困のため骨と皮だけになっていましたが、涙をほとばしらせながら私に言いました。『ほんとうにそうなら、私の子供たちがもっとましな暮しができそうなら、私はどんな目にあってもいい(3)』。」
[#ここで字下げ終わり]
民主主義者のパンフレットのなかに、マルヴィーダは貴族の娘としての自分の現在性を乗りこえた人間そのものを見たのだろうし、労働者の女はパンの幻を見たのであろう。実のところ、三月革命を支えたのは、あのケーテ・コルヴィッツが描いたような黒い衣服を身にまとった労働者の女たちであったろう。だが、彼女たちは革命史のうえで勲章はもらわない。みずから革命の回想を書いたマルヴィーダについてさえ、多くの四八年革命史は黙殺する。貴族の娘が描いた革命の回想などはとりあげるに値しないのであろうか。さすがにファイト・ヴァーレンティンの革命史はほんの数行マルヴィーダについてふれているけれども。だが、それはここでの話の本筋にはかかわりない。いずれにしてもマルヴィーダは「追放者」として、つまり国家市民であることをやめて、漂泊の地にあらためて自分なりの「祖国」をつくろうとする。さしあたって彼女の祖国はロンドンにおけるゲルツェンとの共同生活であった(4)。
ゲルツェンの作品『向う岸から』をマルヴィーダが読むのは、ハンブルクにおいてである。「読んでみな、こいつはおれたちの仲間だ」、ハンブルクでは労働者が彼女にそう言ったという。その後彼女はロンドンでゲルツェンに会う機会を持つ。仲立ちになったのはマルクスとの関係では悪名高いキンケル夫妻である。
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「そのときまで私はこのロシア人について何も聞いたことがありませんでしたし、またそもそもロシアは私にとって、また多分西欧社会の大部分にとってもそうだったでしょうが、未知の国だったのです(5)。」
[#ここで字下げ終わり]
少くともマルヴィーダのそれまでの世界では、というより西欧の教養の場では、ロシアの詩人プーシュキンの名が挙げられることもなく、ハックスタウゼン男爵の著名な本が出るまえにロシアの農村共同体が人の口にのぼったことはなかった。「向う岸」の人々は、河のこちらにも文化があり歴史があり生活があることに思い至らなかった。「向う岸」の人々は、彼ら自身「自覚的」であればあるほどそうだった。なぜなら、自覚的世界には向う岸などないのだから。対象性の論理と向う岸という絶望的響きとはまったく異質なのだから。「教養」としての歴史は向う岸だけのものであった。しかし、マルヴィーダはゲルツェンの作品と思想に、そしてまた彼の人間に酔うのである。彼女はそれによって錯誤した。彼女は祖国こそ棄てたものの、「西欧」を捨ててはいなかった。ゲルツェン一家と共に「祖国」を築き、それによって理念的西欧と同一化しうると、愚かに彼女は考えたのである。破局は遠くなかった。ゲルツェンはそれまで暮し方も考え方も「非ロシア的」、つまり西欧的だったのに、いつしか「ロシア的」な暮しの調べを求めるようになる。その変化はオガリョーフ夫妻がロンドンに着いて間もなく生じた。マルヴィーダは悲しみに打ちのめされながら、荷物をまとめ、ゲルツェンの家を去る。――「涙と共に私はあなたの手紙を読んだ。決して、決して私たちはこんな別れ方をしてはならなかったのに(6)。」――ゲルツェンの手紙をマルヴィーダのもとに届けるのはオガリョーフである。それからまた遠くなく、オガリョーフの妻がゲルツェンの妻となる。マルヴィーダの「祖国」ははかなく破れた。
二 スラヴ人は人類の敵
ゲルツェンの伝記研究では――繰り返し弁明しておくが、ゲルツェンについて何一つ知らぬ私が彼についてふれるのは、ヘーゲル左派論を展開するための足がかりとしてである――いわゆる「ヘルヴェーク事件」は当然掘り下げられて描かれているはず。ルーゲもまた『新しい世界』(一八五六年)という諷刺劇をこのスキャンダルに寄せる。革命に破れることによってみずからの理念に破れ、反革命のまえで物も言えなくなった多くの人びとにとって、残されたものは自己保全のための裏切りと中傷だった。それはまたそれとして描くにたりる。しかしまた革命の経過のなかで人びとの心に刻みこまれたのはスラヴ人にたいする不信であった。より正確に言えば、いっそうの不信であった。反革命をみずから担うことによって、スラヴ人は西欧の理念を裏切った。そうした意識はゲルツェンにたいするドイツ人革命家の評価にもあらわれる。たとえばユリウス・フレーベル。三月前期ドイツの運動史にとってはフレーベルの名は欠かせない。少くとも三月前期について言えば、ヘスのつぎの評価もあながち過大ではなかろう。――社会主義を擁護する者がまだだれ一人としてなかったときに、
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「フレーベルこそ、決然として社会主義のために闘う勇気を示したただ一人の人物であった。……彼は雑誌『シュヴァイツェリッシャー・レプブリカーナー』の筆者かつ編集者として、また『二一ボーゲン』や『独仏年誌』の刊行者として、社会主義のために測り知れない功績を挙げた。これらの著作は、哲学と社会主義、理論的人間主義と実践的人間主義との結合を、一言で言えば急進的社会主義の立場を、もはやこれに対してはいかなる動揺、いかなる空文句もありえぬほど直截かつ明確に宣言した(7)。」
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ヘスがあとの方で言っていることは、そこで挙げられた論集についてはともかく、民主主義者フレーベルには必ずしもあてはまらない。フレーベルは革命後アメリカに逃れ、一八五七年ふたたび祖国にもどるが、そこで官途につくため疑いもなく転向する。しかし、ここでは彼のゲルツェン観について一言述べればたりる。二人が会ったのは一八四九年ジュネーブにおいてである。――
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「ときどき顔をのぞかせるモスクワ的下品さといやらしく結びついた急進的ニヒリズムの語り口のせいで、私はこのロシアのアジテーターを好きになれなかった。見かけは洗練されているし、批判的教養も身につけてはいるが、彼が会話の途中まちがいなく上機嫌でつぎのような話をしたとき、そこには教育を受けた野蛮人が姿を現わしていた。その話というのは、酒盛りをしながらピョートル大帝は仲間の一人の喉首をむんずとつかんで、こう言ったというのだ。『この野郎、さあおまえがおれの父親だということを吐いちまえ、さもなけりゃ絞め殺すぞ』と(8)。」
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酒のさかなとしてはおもしろい話ではないか、などと考えるのは私も「野蛮人」だからだろうか。
ではルーゲの場合はどうか。彼がゲルツェンと最初に会うのは一八四九年パリにおいてである。「ゲルツェンは夢想家で、『いまは革命です、まごまごしていると革命は過ぎてしまう、家に帰るどころじゃありません』ということで、朝の五時か六時まで話しこむ、私では三日ももたぬ」、とルーゲは呆れるが、しかしゲルツェンに好意を持つ。だがそれも、ゲルツェンが「ロシア人というよりドイツ人といった方がよい」ような人間だったからである(9)。やがてルーゲにとっては「野蛮さと共産主義」が同義語となり、共産主義的専制とロシア的専制が彼の意識のなかで重なりあうのである。一八五四年ゲルツェンは『ロシアの社会状態』をルーゲに贈るが、それにたいするルーゲの返書がそのことを示している。ルーゲは述べている。――
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ロシアとロシアの農民コンミューンを喧伝しようとする限り、「あなたは人類のもっとも危険な敵だ。」「あなたやバクーニンのようなもっとも自由なロシア人までが、ロシア的・民族的であり」、この陰惨な祖国を誇りにし、「この卑しくて自我を持たぬ賤民」を自由な個人になぞらえようとするとは。「ロシア人に関してあなたは、成立このかたずっと不毛なままであったロシア共産主義の動きのない倦怠のなかに偉大な未来があると考えている。」だが、「ロシア人やマジャール人やポーランド人がわれわれゲルマン人を無視し、われわれを歴史から引き離そうとするなら、それはまちがっている。われわれがまず自由になって、そのうえであなた方は自由な人間になれるのだ(10)。」
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一八四〇年代後半以降のドイツ語の慣行からすれば、フレーベルもルーゲも「ヒューマニスト」のカテゴリーにはいる。といってもそれは、とりたててフォイエルバッハの人間学を意味するわけでもない。四十年代の前半には、しばしばわけもわからぬままに「ヒューマニズム」とか「共産主義」とか言われ、共和主義者が私は共産主義者だと口走ったりもする。四十年代後半にはいると、共和主義=ヒューマニズムと共産主義との対立図式がはっきりしてくる。共産主義はコレクティヴだから個を圧殺する、デスポティズムと共産主義は仲の良い双子のようなものだ、共産主義は政治的な志向をどれもこれも否定し、真に内実ある国家までも廃棄する、だからそれは反動にたいする以上に共和主義と敵対するのだ――このような考え方が共和主義者にとって一般的だった(たとえば、政治的にルーゲらと同じ地平に立つカール・ハインツェン、とりわけ彼の『ドイツ革命』所収の「共産主義的なるもの(11)」を見よ)。共和主義者のこのような共産主義観はそれはそれとしてわかる。だが、それは、理論的にはどうにも整理しにくい屈折を経て、ロシアにはねかえっていく。多くの――というよりほとんどの――ドイツ人革命家がロシアを批判し嫌悪したのは、たんにツァーリズムが侵略的であり、トルコで勢力を伸ばそうとし、ポーランド革命を弾圧したから、というだけではない。スラヴ派的発想によってとらえられているかぎり、共産主義であろうと、あるいは共産主義であるからこそ、スラヴ人は人類の敵だったのである。三月革命期にあっては、フレーベルもルーゲも当然のことながら急進派、つまりラディカーレであった。社会主義者も共和主義者も立憲的妥協の線を歩もうとしなかったかぎりにおいて、一様にラディカーレだったのである。ヘーゲル主義者ルーゲにとってはプロイセン国家は国家としての内実をともなわぬ非国家であった。世界史の絶対的審判のなかで現実性をあらわす国家理念は、共和主義者ルーゲにとっては民主制であったろう。しかもその民主制は西欧的教養の諸段階をとおりぬけたうえではじめて獲得されるものであった。
三 世界史の針は西向きか東向きか
ルーゲやフレーベルの共和主義にとってはそうだったかもしれない、しかし、同じヘーゲル左派の出であっても、社会主義者や共産主義者の場合は世界史的構想の内実が異なる、と人は言うだろう。そこでさらに若干の吟味が必要である。
一八三九年ライプツィヒのオットー・ヴィガント書店から『ヨーロッパ・ペンタルキー』という匿名の本が出る。反響も大きかったが、ドイツ語圏の読者の多くは拒絶反応を示す。筆者はカール・エドゥアルト・ゴールトマンと称するロシア政府のひもつき、という以外よくわからないが、あるいは外交当事者であろうか、ロシアの対西欧外交史には精通し、詳細な分析を加えている。著者の主張はヨーロッパに「ペンタルキー」的体制を確立せよということである。ペンタルキーというのはイギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシアの五大国による指導体制のことであり、大国主義のはしりである。この五大国はほかの中小諸国より「高い立場」にあり、正義を維持し、文明をひろめる課題を担っている。「ヨーロッパの支配、世界の支配はこれら諸国全体に帰属するのであり、また実際そうなっている(12)。」だから、西欧もロシアをそう毛嫌いしないで、いっそ五大国が協調して平和なヨーロッパ共栄圏をつくろうではないか、というのが筆者の言い分である。それにたいして西欧側から議論を買って出た者の一人がモーゼス・ヘスである。ペンタルキーでは味噌も糞もいっしょではないか、われわれの世界史からすればやはり「トリアルキー」、つまり英仏独の三国同盟でなければ、ヨーロッパの名を冠しがたいというのがヘスの『ヨーロッパ・トリアルキー』(一八四一年)である。――ロシアについてのヘスの見方を知るには、この本のなかからロシア人を形容した言葉を拾い出すだけで十分である。――ヨーロッパ、とりわけドイツにたいする「ひどく恩知らずの弟子」「この征服欲にみちた[#「征服欲にみちた」に傍点]西方の中国人」「スラヴの侵入者たち(13)」等々。
では、ヘスのヨーロッパ・トリアルキーの思惟構造はどうか。彼はさしあたってつぎのように図式化する。――かつてのヨーロッパでは西がフランス、ドイツが東という形で東西の分極化が表現されていた(たとえば『人類の聖史』第二章三二節を見よ(14))。そしてそれぞれの極はイギリスのなかにより高次な統一を見いだしていた(『人類の聖史』ではこの両極の統一こそ「新たなイェルサレム」であった)。ドイツにとってイギリスはみずからの未来であった。このトリアーデのなかにヨーロッパ・トリアルキーはみずからの自己完結的図式を見いだした。ところがいまや、この西欧トリアルキーを代表するイギリスにたいして、ロシアが東方勢力として対峙するにいたる。ドイツは自国の未来として西か東かを、イギリスかロシアかを、トリアルキーかペンタルキーかを、三大国支配か五大国支配かを選ばなければならぬ。だが、歴史・文化・習俗・言語・血縁を考えてみれば、そこに選択の余地はない。オリエンテーションの針は逆にまわって西を指している。
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「われわれはヨーロッパの世界憲章からロシアを削除したがっている人びととはちがう。気位の高い処女であるヨーロッパをその老いた母親であるアジアにふたたび連れ戻すのにうってつけであり、またそうしたことがお手のものなのは、ロシアぐらいのものであろう。だが、いずれにしてもロシアの立場はヨーロッパにたいしては受動的である。――アジアにたいしてのみそれは能動的であろうが(15)。」
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ロシアはペンタルキー的構想によってヨーロッパの支配勢力に割り込もうとしているが、ロシアは処女のヨーロッパを古い停滞したアジアに引き渡そうとする女衒のようなものだ。どだいスラーヴィシュ(スラヴ的)はスクラーヴィシュ(奴隷的)だ、ロシアなどはヨーロッパ的教養に達するまでには何百年もかかるのだから(16)。
ヘスのヨーロッパ・トリアルキーの構想は、もちろん彼の意識のなかでは、西欧エゴイズムではない。むしろそれは、ヘーゲル左派的世界史構想から必然的に導き出された帰結なのである。私自身すでに別な機会に何度か指摘したことだが(17)、彼らの考えは、というより彼らの「理論的批判」はすべて現状に起点を持ち、現状に照準を定める。彼らの現状とは当然ドイツであり、プロイセンである。しかも、これまた当然のことだが、ドイツであろうとプロイセンであろうと、現状は彼ら自身を包みこんでいる。それは彼らにとって自分そのもの、自分の実存そのものなのである。たとえばルーゲはヘーゲル左派の記念碑的論文「ヘーゲルの法哲学と現代政治(18)」において、ヘーゲルの「理論的」立場を批判する。――ルーゲらによれば、ヘーゲルの法哲学は思弁として、絶対的理論としてふるまうことによって批判性をうしなっている(ルーゲのみならず、ヘーゲル左派にとって批判とは概念の実存にたいする関係であり、理論によって歴史的実存を測ることであった。若きマルクスにとってもそれは例外ではなかった)。ヘーゲルの法哲学においては、実存つまり歴史的規定性が論理的規定性に高められ、歴史的なものと形而上的なものとの意識的な区別が完全に欠落している。だが、歴史的実存は永遠で必然的な規定性でも、円環の担い手でもなく、自由で類比しえぬ規定性であり、精神的個性である。歴史的実存を永遠の規定性としてわれわれに押しつけようとする理性は、いわば奇妙な手品を演じているようなものではないか。――
ルーゲのこの周知の批判は、ヘーゲル的思弁の欠陥を正しく衝くと同時に、批判自身ヘーゲル的思弁の枠を抜けきっていない。批判は敵の肯綮に当れば当るほど、いよいよもって敵自身があらかじめ設けた前提にとらえられる。ルーゲはヘーゲルの「一面的に理論的な立場」を批判しながら、彼自身理論的であることをやめるわけにはいかない。バウアー然り、ヘスもまた然りである。たしかに彼らは、ヘーゲルのように現在性に踏みとどまる学的禁欲は持たない。プロイセン国家であれキリスト教であれ小商人世界であれ、現状は一つの歴史的実存であり、乗りこえられるべきものとしてある。それは未来の契機である。現状が乗りこえられ展開さるべきものとしてとらえられるかぎり、彼らはいずれも――チェシュコフスキーやヘスのみならず――「行為の哲学」論者だったのである。たしかに彼らの「理論」は自由への意志であり、「実践」理論であった。
だが彼らはなお依然として理論的であった。彼らが理論的であらざるをえなかったのは、彼らの発想が世界史的だったからである。あるいは、彼らは世界史的であったために理論的であらざるをえなかったのである。彼らの理論が「真の理論」であるためには世界史的であらざるをえず、あるいは、「真の現実」を構成するかぎりで、彼らの立場は理論的、すなわち自覚的たりえたのである。たとえばヘスにとって、ドイツもまたヨーロッパ・トリアルキーの一角を占めて世界史的たりうるのは、ドイツが特徴的に「精神」と「思想」の国だからである(19)。中世的・キリスト教的影を背負ったドイツがなお社会的にも政治的にも世界史的でありえないことは、だれの目にも明らかである。だが、そのようにドイツ的現状が世界史的現在でありえないにもかかわらず、あるいはありえないからこそ、ドイツは理念的に世界史的たりうるのである。現実がいつわりの現実であるからこそ、それは理論的批判の結実として真の現実を生み出すことができる。それにしても、そのことが精神の思いこみ、ないし錯誤であってはならぬ。そうならぬためにはドイツの精神はフランスとイギリスという世界史の実体的規定性をかいくぐる必要がある。精神的であるドイツが世界史的であるためには、トリアルキー的構造が不可欠なのである。
解放が「普遍的・人間的解放」であるためには、現状の諸矛盾もまた極限にまで突きつめられていなければならない。つまり人間的本質[#「本質」に傍点]そのものの存否が現状において[#「現状において」に傍点]問われているのでなければならない。現状を矛盾の全面的展開の場としてつかむことは、ヘーゲル左派の基本的特徴である。その点については敢て例証を挙げる必要はあるまい。たしかに彼らは現状を歴史的におさえようとする。彼らにとって現状は歴史の一段階なのである。だが、たんに一つの段階というだけではない。現状は歴史の一つの段階でありながら、同時に理論化されて普遍的段階に高まっている。矛盾や「対立がその頂点にまで達し」(たとえばヘス『人類の聖史』第一章三六節(20))、「大衆的貧困と貨幣貴族制の対立」が「革命の高み(21)」に達するのが現状である。バウアーにとってのキリスト教も同様である。矛盾がトータルとなり、そのかぎり全面革命を準備する。そして、そのことによって、現状は歴史に規定されるだけでなく、むしろ現状が歴史に意味を与える。歴史は現状の意味が過去に投げ返された投影図なのである。だから、彼らにとっても歴史の弁証法的観点はあり、歴史の発展が発展段階的にとらえられているにもかかわらず、彼らの歴史は自覚的であり、構成的なのである。さらにまた、彼らの哲学は未来へ向って展開しようとする。未来だとて認識可能だ、と彼らは言明する。だが、その未来も、現状の意味と価値を一八〇度転回させて天空に映し出した七色のユートピア以上のものではない。こうして、過去も未来も現状の投影である。現状が過去の諸矛盾の総括であるかぎり、現在までの歴史は「前史」である。認識が現在性から足を踏み出し未来へ向うかぎり、未来こそが「真の歴史」である。
四 ヘーゲル的=東洋的自己完結性
ヘスの観点からすれば、現在性から一歩も踏み出そうとしない円環的認識構造は「なによりも盲目な運命論」にすぎなかった。それでは現状批判は不能である。自由で意識的な行為は現状の泥沼に足をとられたまま動きがとれぬ。ところがまた彼にとって、自分自身のなかから進歩を生み出すことのできないこの運命論こそ「オリエント」の特徴であった(22)。だから、ヘスの言葉を多少押し進めて考えれば、ヘーゲルの認識が自己完結的であり、教養の総括であるかぎり、それは西欧的でありながら西欧的であることをやめて、東洋的たらざるをえないのである。その点を示唆しているのが、なによりも彼のゲルツェンあて書簡である。
ラインの革命家で『ゲゼルシャフツシュピーゲル』誌の編集者でもあったフリードリヒ・シュナーケの言葉を借りれば、ゲルツェンらは「ヨーロッパに倦んだ人びと」であった。革命に破れた直後、シュナーケは、「地理のうえでは『スイス』と呼ばれているヨーロッパの中国[#「中国」に傍点]」に滞在するヘスに手紙を送る。――ここ数年の革命活動で僕はたしかにへとへとだ。とはいえ、
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「ヨーロッパのより良い未来にまったく絶望し、ヨーロッパ人種に自由を獲ちとる能力はないなどと託宣をくだすヨーロッパ疲れの連中とは、僕はちがう。ただ僕は、ここでうんざりするような無為徒食を続けざるをえないことに飽き、僕らの巨大な理念をいますぐ実現するのはその一部だけでもとてもむりだと考え、アメリカにあこがれている者の一人なのだ(23)。」
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これはドイツ人革命家の一般的気分をあらわしている。革命に絶望しても、ヨーロッパに絶望していない。かりにヨーロッパに絶望しても、海の向うにもう一つの西欧がある。ゲルツェンに代表されるような絶望的な西欧観とははっきりちがう。『向う岸から』の一文を引用してみよう。
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一八四八年、つまり「多くの者がなお希望をつないでいた時に、われわれは彼らに言ったものだ。これは回復ではない、胸の病から来るあの頬の赤らみなのだと。勇み立った思想と思い切った言葉で、われわれは恐れることなく病弊を学び知り、それを表明した。だがいまとなると、冷い汗がひたいににじむ。近づく夜の闇を前にして、わたしは誰よりも先に蒼ざめ、身を震わせる。われわれの予言がこれほどすみやかに的中し、その実現がこれほど不可避であることを思うと、氷のようなものが背筋を突きぬける。……さようなら、消え去りゆく世界よ、さようならヨーロッパよ!(24)」
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それは、革命自身を圧殺した六月のパリへの絶望的な別れであった。だがヘスはなお革命的楽天主義につらぬかれている。「ロシア語原稿『向う岸から』の著者へ」と題された彼の一八五〇年二月頃の長文の書簡がある。その一部を引用してみよう。
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「あなたの場合、哲学的要因のほかにさらに別な要因がつけ加っていて、それによってあなたの歴史的見方は私のそれとどうしても食い違わざるをえないのです。あなたは、前述のようにその観照的本性のためにどちらかというと哲学的に考えるのを得手とする北東諸民族の一人なのでしょうが、それだけではなく、さらにあなたはヨーロッパの歴史的運動とは昔から縁のない諸民族に生れついています。――あなたはロシア人なのです。もっともあなたは、『他人』の方が家族の一員より『家庭内のごたごた』についてよく判断できると、お考えのようです。他人は『公平な観察者』です。それはたしかでしょう。ただ、その『非党派性』が歴史においても正当だといえるのかどうか、歴史において党派の立場を『超えた』立場がありうるかどうか、疑わしいでしょう。この点についての私の考えはこの手紙の冒頭で申しあげたとおりです。あなたはわれわれの『家庭内のごたごた』にたいして自分が他人だとお考えになっているのですから、あなたの一段高い立場は外的な立場だということを認めていただきたいものです。なにぶん他人とは外部のものですから。――だが他人は外部のものだというだけでなく、対立的、敵対的なものとなることもあります。――あなたの立場をよくよく眺めてみますと、どうみてもまったく公平なものとは思えません。哲学者であるあなたは歴史的運動の真只中にはいりこまず、それをいくぶんか超越しています。ロシア人であるあなたはヨーロッパ史にいくぶんか敵対してさえいます。哲学者であるあなたは未来に介入しようとはせず、予言することを好まれません。ロシア人としてあなたは、ヨーロッパ諸民族は老いぼれはてて、自分のなかから新しい生命を生み出すことはできないのだから、スラヴ諸民族がヨーロッパ諸民族のあとを継ぐだろうと予言します。哲学者としてのあなたにとって未来は無数の可能性を胎内に秘めており、ロシア人としてのあなたにとってはスラヴ人の侵入という一つの可能性しか秘めていません。――私も予言は好みません。それは結局は、意志や行動力を麻痺させる運命論的世界観を生み出しますから。古い文明と同様に現代の文明がそれ自身のもつ野蛮人とは別な『野蛮人』の侵略に屈することは考えられます。だがまた、われわれのプロレタリアが現代文明に死と没落と――さらに復活とをもたらす『野蛮人』であることも考えられるでしょう。いずれにしても私はわれわれ自身の野蛮人のために、また彼らと共に闘います。というのも、われわれの未来が進歩主義的社会主義のものになるのか、それとも反動的社会主義のものになるのかは、私にとって決してどうでもよいことではありませんから。だが、スラヴの侵入はわれわれに反動的社会主義をもたらすだけのことだと私が考えているのはなぜなのか、あなたは疑問に思われるかもしれません。――この点についてはすでに十年前に私は自分の考えを述べました。北東諸民族はキリスト教を世界支配の座につけるのにうってつけな存在でしたが、彼らをしてそうさせたものこそ、今日では彼らに新しい世界を創ることをできなくさせているのです。あなたがロシアの共同体について報じておられるものを読んで、これら諸民族は観照的・非歴史的・固定的性格を持っているという考えを私はますます強めています。たしかにスラヴ民族が近代的ビザンティンであり、西方の中国であることはたしかでしょう。だが、ヨーロッパが自らを解放しなくとも、彼らがわれわれのヨーロッパを社会民主主義的共和国にしてくれるとは、とうてい思えません(25)。」
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ヘスにとってゲルツェンは二重にまちがっている。第一に「哲学者」として、第二に「スラヴ人」であることによって。「哲学者」というのはもちろんヘーゲルを指しているから、哲学者にたいする批判が行為の哲学の立場からなされていることは言うまでもない。哲学者であるよりも、むしろ使徒でありたい、とヘスは言う。ただ「知る」だけで何になろう、「知る」ところのものを「欲する」のでなければ。一八四八/四九年が敗北のうちにいちおう総括されようとしているいま、哲学者の知的機能はどのように働くのか。彼らはつねに現在に足をとどめ、自己完結的円環のなかでひたすらおのれを知ろうとする。過去は現在のなかに総括されてしまったから、すでに御用ずみである。かといってなお実体なき未来は知的主体にとってはユートピアである。だから哲学者は、真理を精神的私有財産として自分のなかにしまいこみ、現在の自分に甘んじ、そこに収まりかえっている。自覚的であるということは、実は精神の退嬰ではないか。これら哲学者の知的自省心にくらべれば、あのバーデン蜂起の指揮をとったアウグスト・ヴィリヒの妄想の方がはるかに立派だ。それは知的には妄想であっても歴史的には正当だった。それは「生によって動機づけられた妄想」であった。歴史は矛盾にみち、現状は敵対に渦巻き、そのなかから無数の可能性が展開しようとしているのに、哲学者はそのなかに身を投じることなく、むしろそれから超越し、「客観的認識」という抽象的世界を構成することによって、歴史を棄てる。この知的自己満足の世界のなかでは歴史はその歩みをもはや歩まない。歴史はもはや歴史ではない。――
ヘスはこのようにヘーゲルを批判し、その批判のなかでヘーゲルをゲルツェンに重ねあわせる。しかもそれはゲルツェンというスラヴ的回路をとおることによって、東洋的(オリエント的)精神のなかにヘーゲル的思弁の墓場を見いだすのである。「哲学者」は世界のなかにおのれを認識することによって世界と理論的に結婚する。だが、彼はそれによって現実世界をおのれの姿にあわせて抽象的に整合させる。そこで彼は、なお出来あがらぬものよりも出来あがったものを、争闘する動物の世界より調和的な植物的世界を好む。先を争って発展する社会的動物界よりも閉塞的・自足的な自然的世界の方が彼のお気に召す。要するに彼は歴史よりも自然を選びとる。こうしてヘスによれば、停滞的オリエント(東洋)の方が自己活動的オクツィデント(西欧)より「哲学者」向きではないか、ということになる。さらにおまけもついている。つまり、東洋的世界のなかでも、ヘブライ人やマホメット教徒より中国人やインド人の方が東洋的だ、というのである。日本人のことはふれていないが、中国人よりもっと東だということはまちがいない。いずれにしても、ヘーゲル哲学の思弁的構造はヘスの頭のなかでは東洋的共同体の閉塞性・停滞性とオーバーラップし、つまりは非歴史的なのである。それだけではない。この東洋的自己完結性のなかには歴史の発展法則がない、とヘスは説く。未来への出口のない円環的自己完結性は、それ自身のなかにいかに精密な弁証法が準備されていようと、それはしょせん論理的なものでしかなく、未来への意志に裏づけられた運動論は出てこない。さらにそれは理論的に整合的であろうとすることによって、現状の矛盾に目をつぶる。未来認識を排除しようとする学的禁欲が現状批判の断念としてあらわれる。そのかぎり、「哲学」は護教的であり、イデオロギー的に作動する。革命と反革命の戦場においては、それは裏切り的であり、少くとも現状追随的である。だからヘスは「イスカンダーへの手紙」(イスカンダーはゲルツェンの筆名)においてこう述べる。
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「私はよく知っているが、あなたはただヨーロッパ革命に絶望したものだから、スラヴ的幻想を抱いて、みずから慰めているのです。ヨーロッパ、フランス、パリの出来事が革命に有利な方向に動けばすぐ、あなたのスラヴ的幻想も影をひそめます。――だが、あなたがそのように簡単にヨーロッパ革命に絶望するのは、あなたがヨーロッパ革命をもっぱら、あるいは主としてそのイデオロギー的側面でつかんでいるからです。あなたが、プルードンやドイツ人哲学者たちと声を合わせて、『自由を圧殺する』共産主義に反対しているのも、それと同じ理由からです(26)。」
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五 西欧的世界史の解体
現状の意味から歴史を問い直し、現在的地点から歴史を読み変えていけば、現状の世界は実は歴史を排棄し、歴史から自立化する。この実存的立場で、ヘーゲル左派的思考をもっとも純粋につきつめていったのがブルーノ・バウアーである。彼にもたしかに歴史感覚はある。いわゆる「批判的」立場からする政治史的著作がいくつかあることを別にしても、彼の批判的宗教史はそれ自体自己意識の弁証法的展開にほかならない。だが、すでに述べたように、彼にとっての「現状」とはキリスト教ないしキリスト教国家であり、その現状は歴史の一段階でありながら、しかも矛盾を普遍的に表出させた段階である。ヘーゲル同様、それは過去の諸矛盾の総括なのである。だが彼はそれら諸矛盾の展開を自己意識の展開として主観的に遂行した。そして、それが主観的に遂行されるかぎり、過去の総括ないし成果としての現状が自立的な生命をもって歴史に向きなおる。それは、過去の総括でありながら、なおかつ過去の諸前提から身を断ち切ろうとする。過去の諸契機は自己意識の展開のなかで抹殺され食いつくされてしまった。いまや自己意識は批判の対象として自らを措定する。批判する主体も批判される実体も自己意識であり、したがって批判の場は実存であり、批判的批判はもっぱら自己批判なのである。矛盾が人間的・主観的矛盾であり、しかもその全面的・極限的展開であるとすれば、その止揚のあとに現われるものは普遍的・人間的解放である。ここでは、すべての歴史は普遍的解放の「前史」である。前史としての歴史はここで完成し、同時に解体する。ヘーゲル主義者バウアーにとっては歴史の完成と解体は同時に「哲学」の完成と解体を意味せざるをえなかったのである。
私自身バウアーについてはすでに何度か論じた。言及が多少重複することは避けがたいが、ここでのモティーフに沿ってしばらくバウアーの跡を追ってみよう。まず、「オリエント的」という規定を用いてバウアーがユダヤ教を批判している箇所から始める。彼はユダヤ人の民族精神の頑迷さをなじりながら、つぎのように言う。
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「それは歴史的発展能力の欠如であり、この民族のまったく非歴史的な性格を証し立てているが、それはまたこの民族のオリエント的な在り方のなかにも基礎を持っている(27)。」
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東洋では、人びとは理性や自由とは縁がない。そこにあるのは無自覚のまま自然に拘束され、自然からみずからを区別しえない精神である。そこには普遍的・人間的自由の内的展開は存在しない。つまり、東洋ないし東洋的なものは歴史を持たないのである。その意味でオリエント的であるユダヤ人は、諸国民の生活の「隙間」に生きるのであり(資本論にも同様の規定がある)、ひたすら自分たち民族の制限と狭隘性を表現し、「世界史的進歩」とはつながろうにもつながりようがない。それはそもそも国民ではなく、幻想的にしか民族と言いえない民の集団、つまりマッセである。このマッセは、
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「普遍的法も持たず、普遍的意識も持つことが許されぬため、偶然がつくり出し規定する多数の特殊な諸層に分解する。これら諸層は自分たちの利害、特殊な情欲や偏見によってたがいに区別され、たがいに閉鎖的にふるまうための許可を特権として手にいれ、こうして確実に自分たちの特殊な利益を――もっともこれらのマッセのあいだには特殊な利益しか存在しない――はかるのである。彼らは普遍的問題など持たない、いや持つことができないし、持つことが許されないのだ(28)。」
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ここではバウアーのユダヤ人批判の論点を全面的に展開することはできないし、またその必要もあるまい。バウアーの意識のなかで、ユダヤ人的なものと東洋的なものとが重なりあうことをここで指摘しておけばたりる。
では一八四八/四九年革命後のバウアーはどうだったか。『ドイツにおけるブルジョア革命』(一八四九年(29))について彼は冷たい歴史家の目でいちおうの総括はおこなった。絶対主義的反動勢力は当然批判にさらされる。だが、彼はそれ以上にリベラルな市民層の妥協と癒着にたいして批判の目を向ける。革命のなかでまさに立憲主義のかなえが問われたのであり、国民議会のむなしさが示された、と彼は考える。それはフランス革命に続く現代史の、すなわち同時代的な市民的教養史の崩壊であり、それがほかならぬ西欧「哲学」の失墜と重なったとしても、決して偶然ではない。三月前ドイツのリベラリズムの――そしてまた急進主義の――最大の誤認は、敵を批判するさいに自分もまた敵の前提にすでにとらえられていることを知らなかった点にある。というより、彼らの「自覚」そのもののエレメントがすでに批判対象と共通していたのだ、その意味で精神は没精神的な大衆《マッセ》のなかに堕していたのだ――すでに一八四四年段階で明確に表明されていた彼のこの姿勢は、四八年段階をとおって、西欧的教養の伝統との絶縁に彼を導く。かつてカール・レヴィットがとりあげた彼の一書『ロシアとゲルマン』(一八五三年)は、その意味でのバウアーのマニフェストだともいえる。この書のモティーフはその冒頭を一読するだけで明白である。
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「不注意と錯誤もまた運命のなせるわざである。ヘーゲルが、ゲルマン的世界が逢着すべき危機をなんら知らず、ロシアを彼の体系のなかにとりこまなかったとすれば、まちがいなくそれは西欧文化が生み出した最後の哲学体系の理論的弱点の正当な帰結にほかならなかった。彼の知が実際には伝承の認識でも決着でもなく、その反覆にすぎないために、キリスト教的・ゲルマン的世界がその自己認識のなかで、つまりかつて歩まれた歴史の不毛で同義反復的な追憶のなかでみずからを完成させ、人類の発展の目的や究極目標となることが可能だ、と彼は考えたのである。創造する力を持たぬ彼の体系は、旧来の全文化との断絶を予感することさえできなかったのだ(30)。」
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この人類史とその円環的追憶はヨーロッパの未来にはなんら関与しない。むしろ「東方勢力」こそヨーロッパの未来と結びつくのだ、とバウアーは断言する。ヘーゲル思弁哲学の建物はいまや音を立てて崩れ、それと共に旧来の文化の形式もすべて滅び去る。哲学の終焉と共に西欧のカタストローフが訪れる。
バウアーの実存的批判は西欧のあらゆる文化的前提、あらゆる伝承形式を否認し、その解体と没落を宣告する。フランスもイギリスも没落するだろう。だが、ロシアはちがう。それは西欧的世界史とはそもそも関係なかったのだから、その没落のしわ寄せも受けぬ。「キリスト教がその偉大な表現を見いだしたゲルマン人の宗教生活は誇り高く力強い個性の自分自身との闘争であり、自己否認と自己制御の闘争であり、内的自己分裂である。」ところが、ロシア人の宗教生活にはこうしたことは薬にしたくともない。「それは内的分裂も内的闘争も知らないのだ。それは自足的にまとまった一つの全体をなしている(31)。」もはや個人の魂の内的分裂や葛藤に導かれて前進する意志の自由への旅は、異邦から吹きよせる季節風のまえにその軌跡を失った。バウアーはもちろんこのロシア的専制のなかに自分たちの未来を求めたわけではない。だが、ヘーゲルの「形而上学的絶対主義」と共に西欧の普遍史は解体した。つぎに必然的に来るのは「現代帝国主義的絶対主義」であり、そのかぎりでのロシアかゲルマンか、それが新たなグレーチェンの問いなのである。西欧的世界史が解体し荒涼とした実存の場にロシア人と向いあったゲルマン人(すなわちドイツ人)が残る。それが世界史の新たな、そして唯一の舞台である。なぜなら、「ゲルマン人は世界史の貴族的民族である(32)」し、ドイツ人こそ「本源的人間であり、民族としてみるならば、原初的民族、民族そのもの(33)」なのであるから。
同じヘーゲル左派といっても、ヘーゲルの思弁的構成にたいする批判から導き出された実践的帰結はさまざまである。バウアーの右の立言は後年の彼のビスマルク主義をあきらかに先取りし、ヘスのゲルツェン批判はその西欧対ロシアの対立図式の把握にかんするかぎり、またその西欧的世界史を資本主義的世界市場論の展開と重ねあわせるかぎり、一八五〇年代におけるマルクスの基本的観点と共通項を持つ。だが、ここではもはやこれ以上の論証は避ける。展開すべき論点はなお多く残されていることを自覚しながら、この一つのヘーゲル左派論はここで未定稿として閉じる。
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四八年革命における歴史なき民によせて
一 エンゲルス的世界史と非世界史
歴史なき民が歴史のおもてに現われる。歴史なき民がいまや歴史に積極的にかかわるかもしれぬ。歴史が、というより歴史の価値が崩れたのである。歴史を担った――そしてまた歴史の価値を自覚的に構成した――選ばれた民からすれば、これは歴史にたいする冒涜と反動である。乱世か革命か、一八四八年のヨーロッパがそれである。
「歴史なき民」とはエンゲルスから借用した文句である。そこでまず、エンゲルスの悪評高き一文の引用から始める。「ヘーゲルが言っているように、歴史の歩みによって情容赦なく踏み潰された民族のこれらの成れの果て、これらの民族の残り屑は、完全に根だやしにされ民族でなくなってしまうまでは、いつまでも反革命の狂信的な担い手であろう。およそ彼らの全存在が偉大な歴史的革命にたいする一つの異議なのだ。」(ディーツ版全集六巻一七二頁)。ここでエンゲルスの頭にあるのは、汎スラヴ主義の担い手たち、すなわちポーランド人をのぞく西スラヴ人と南スラヴ人、それにヴァラキア人(ロマン人、すなわちルーマニア人)などである。エンゲルスの目から見れば、これらの諸民族には未来もなければ、歴史もない。「自分たちの歴史を持ったことが一度もなく、もっとも未開な文明段階にやっと到達するときにはもう異民族によって支配されている民族、あるいは異民族の圧制をとおしはじめて最初の文明段階にむりやりひきずりこまれた民族」(六巻二七五頁)、こういう民族は自立して生きていく能力をもたない、とエンゲルスは言う。これらの民族は、放置しておけばトルコ人に侵され、回教徒にされてしまうであろうから、そのくらいならドイツ人やマジャール人に吸収同化してもらえるだけありがたく思わねばならぬ、ともエンゲルスは別のところで言っている。
アジア的遊牧民だろうと、家父長制的共同体内のスラヴ人だろうと、ルンペン・プロレタリア化した棄民だろうと、だれでも歴史はもっている。自分の生きた過去を経験として総括する能力はなにも西欧のものだけではあるまい。だがそういう世界史のアウトサイダーの歴史はここでは歴史ではない。彼の歴史が歴史として公認されるためには、それはなによりも「世界史」の印可を得た系図につながらねばならない。この世界史的現在において、その系図をもっているのはブルジョアジーである。これまでの人類の物質的生産諸力の各発展段階が「文明」の進歩として彼の系図のなかに位置づけられている。いまや、彼のあとを追って、プロレタリアートも系図争奪戦に登場してきた。ブルジョアジーの胎内から生れるプロレタリアートは母を葬る鬼子として系図に書きこまれるべき世界史の正統である。だが、プロレタリアートの世代が来るためには、まず母親の影響が全面化し、普遍化しなければならぬ。ブルジョアジーの政治的支配をとおして、資本主義的世界市場の支配もまた確立されなければならぬ。エンゲルスにとって、ドイツのブルジョアジーはなお非近代と雑居しているうえ、革命にはいるや封建的諸勢力に屈従し、それと癒着してしまったから、もはやあてにはならぬ。ブルジョア的発展の担い手はイギリスである。少くともイギリスを起動力とした西欧である。「西」欧を担い手としたこのブルジョア的諸関係の普遍化こそ「文明」であり、「世界史」の道筋である。だからまた、この世界史的な文明の進歩に身をもって貢献することのない民族は、歴史そのものによって踏みにじられ、切り捨てられる。その存在そのものが歴史を構成する意味とかかわりを持たないのだから。いうまでもなく、ここで歴史の意味は、歴史の有機的発展のなかに、歴史の自己実現のなかに現われるから、歴史のもつ意味とかかわらぬ民族は自己発展なく、停滞する。たとえ西欧と隣りあわせに同時代に生きようと、彼らはアジア的専制を一歩も出ず、西欧にたいしては非同時代的同時代に生きているのであり、たとえ数のうえで西欧をはるかに凌駕しようと、歴史を押し進める担い手たりえないかぎり、その存在はひたすら自然拘束的であり、人間的、自覚的には無にひとしい。それも世界史の裁きなのである。
歴史がこのように限定的であり選択的であるのは、歴史が担い手によって知的に構成されていることの帰結である。意味づけられた構成的歴史は、当然に意味づけの主体と同一化するから、歴史は自己意識であり、自己意識の客体化である。歴史はその担い手たる人類の諸契機の総体を自覚的にとりこんで構成されるから、世界史は哲学者の自己意識以外のものではなく、無自覚な「大衆」を裁くのである。歴史が知的につかみとられ、自覚的に再構成されるかぎり、歴史は人間的である。それはもはや自然的拘束性にとらわれず、自然的狭隘性を脱している。そして、このような直接的自然を乗りこえたという意味で人間的であることの意味を普遍化することが、ヨーロッパ的近代の証しなのである。だがまた、歴史を自覚的に再構成するためには、現在性の持つ意味を逆に歴史に投影する以外にないから、ここでは全歴史がヨーロッパ的近代から投げかけられた意味を担うのである。だから、世界史が西欧的だ、というのではなく、世界史が西欧そのものなのである。そして西欧と逆な意味で非人間的であることは、ヨーロッパ人にとっては「アジア的」ということであった。
私はハンガリー語はあまりよくできないが、四八年革命史を読むと、人にたいする蔑称に nem ember という言葉が出てくる。「人間でない」という意味、日本語で人でなし、人非人というと、あまりにも道徳的すぎてニュアンスが違うかもしれない。あとで述べるように、マジャール人もまた自国内のスラヴ人にたいして差別感情と偏見を持っていたから、たとえば民衆がスロヴァキア人の名を口にするときには必ず名のまえにその「人でなし」をつけたというのである。それと意味が符合するかどうか知らないが、マジャール人もまた西欧的であろうとした。世界史的な歴史の歩みを歩まない者、文明の進歩に参加せずその普遍化に貢献せぬ者、自然的に拘束された狭隘な場をぬけきれぬ者、その意味で非自覚的な者、人間としての共同的な類的使命を知らぬ者、その意味でなお共同体に自覚的に参加する個性をもたず、社会に自分を対自化できず、分立的利害にしか行動動機をもてぬ者、したがってまた普遍的・人間的価値を知らぬ者、これらの民は人間であって人間でない、なお動物なのである。マルクスの価値観もまたそうではなかったか。
だが、だからといってスラヴ人の民族としての没落が必然的であり、その抹殺が世界史の名において正当化されねばならぬということはない。マルクスですら「全ルーシの専制君主が臣民に与えるロシアの勅令」を簡単に「アジア的」という烙印でかたづける。こうした言葉の使い方は時代のならわしであった。二十世紀にはいっても、マルクス主義の正統的な歴史家フランツ・メーリングは、プロイセン史、とりわけ東エルベのユンカー史の批判的論述においてしばしば「アジア的」という定義を用いる。たとえば彼は、プロイセンのツァーにたいする妥協を批判しながら、こう述べる。「スラヴ的世界にたいする軍事的防壁として樹立された古プロイセン国家は、アジア的専制の地方太守としてその古典的高みに達したのだ。」古プロイセン国家の社会機構についていえば、「それは階級国家というより、むしろカスト国家である。それは農民、市民および貴族という三つの生れながらの身分のなかに詰めこまれて、ヨーロッパ的状態よりも、むしろアジア的状態を想起させる(34)。」もちろんここでもアジア的という規定によってロシアのツァーリズムを指している。
エンゲルスのスラヴ民族の没落にかかわる論述があやまりを含んでいることは明らかである。しかし、スラヴ人が一八四八/四九年において反革命に加担してたたかったことも明らかであり、そのかぎり反革命にたいするエンゲルスの非妥協的観点は正しかったとする論者も多い。――たとえばメーリング(35)。だが、エンゲルスの歴史の見方そのものが内在的検証を必要とするのではないか。彼にとって、非世界史民族は、世界史的=西欧的民族の自己実現のための「非有機的身体」、つまり一つの自然ではなかったのか。ここではドイツ語でいえば(日本語にはそれに対応する言葉がない)、ナツィオーンよりも、むしろナツィオナリテートが問題である。後者、すなわち、多民族国家において政治的に自立してない被抑圧民族にとって、ブルジョア革命の世界史的進展と自分たちの民族的解放の運動方向が一致しなかった場合、彼らは普遍史的理念のために自分たちの特殊的・民族的要求を殺さねばならないのか。だがまた、特殊的な定在を離れ、民族や個人を捨象した普遍史がありうるのか。四八年革命における「世界史」もまた、つねに特定の民族なり国民なりによって、したがって個別利害を媒介にしながら、担われていたのではなかったか。
たとえばマキシミリアン・バッハのウィーン革命にかんする大著(36)(もっとも大きいだけで、用いている資料のほとんどは二番煎じか孫引きだが)をのぞいてみよう。著者は言う、民族問題は近代の特産物であって、それが理念として登場するまえに、まず近代ブルジョア的発展が少くとも萌芽的に存在しなければならなかった、だからオーストリアの場合、ブルジョアジーが未発達であることから、そもそも民族問題は表面化しなかったのに、四八年革命に触発され誘導されて現われてきたのだと。だが、ただそれだけのことなら常識である。多民族国家オーストリアにおける民族《ナツィオナリテーテン》問題はたしかに三月革命を起爆剤として生じたし、反革命的なスラヴの諸民族すら、その民族的運動の出発点を三月のブルジョア的諸要求のなかに求めたのである。だが、それにもかかわらず、あるていどのブルジョア的発展を前提にもつボヘミアなどを別として、クロアティア、ヴァラキア、セルビア、ダルマティアなどの民族問題は、ブルジョア革命一元論の立場からはおそらく処理できまい。ナツィオナリテートではなく、ナツィオンの問題として、つまり一定の版図内の民族と国民が重なりあうものとして考える場合には別である。たとえばドイツのブルジョア革命は、民族的統一=国民国家形成という運動契機を内包して、ライン人でもブランデンブルク人でもない「ドイツ人」という国民形式を成立させたであろうし、その場合にはブルジョア的中央集権と統一的国内市場の形成が民族統一と結びついたであろう。だが、この観点をそのまま無媒介につきつめていけば、クロアティアにもセルビアにもヴァラキアにもガリツィアにも、民族問題は成り立ちえない、ことになる。なおヘソの緒にとらえられた家父長制的共同体のなかに生きる彼らは、まだ民族ではない、ことになる。エンゲルスのいうところの「没落する民族」どころか、そもそも民族として認められないことになるではないか。
前述のバッハはこう述べている。――国家意識も国家的紐帯もなかったオーストリアが国家になるためには、なによりもドイツ国家とならなければならなかった、「だがそれはまた、オーストリアの非ドイツ民族を文化のなかに導きいれ、彼らが民族として精神的に誕生し再生することを許す唯一の可能性であった(37)」と。フランクフルト国民議会の構想どおりに、ドイツ・オーストリア人をふくめてドイツが統一されれば、たしかにドイツ国民国家は成立する。そしてドイツ人にとっては「民族」と「国民」、ナツィオーンとフォルクは一致する。だが、そのなかに含められた非ドイツ系は国民ではありえても、もはや民族ではありえないであろう。この時期の民族問題にとって最大の争点の一つは言葉であった。保存され伝承された民族語を教育や文化形成のなかでどう生かすか、それは民族にとっての死活問題であった。われわれ自身の言葉があるかぎり、われわれは「民族」なのだ、と彼らは主張した。だが、民族語ならぬ「国語」(ドイツ語でもこの用法はないわけではないにしても、この概念は日本的である)を使わねばならぬとすれば、それは一定の政治的版図での普遍性を求める共通語であるだけでなく、同時に地域的共同体のゆたかな可能性を圧殺する「支配語」でもある。この時期のオーストリアにとってドイツ語の占める位置がそうであったように。
こうして、歴史にとって民族でありえぬ民族もある。ブルジョア的近代の成立のなかで、他の民族に吸収されることによってはじめて「精神的に」民族たりうる(と、歴史家の御託宣を受ける)民族もある。そこで民族ならぬ民族についての史的「救済論」がこの断章的ノートのささやかなモティーフとなったのである。
二 ロシア的ないしアジア的野蛮
一八四八/四九年ヨーロッパ革命の血の序幕が六月のパリだったとすれば、ウィーンの十月はその第二幕であった。最後の幕がおりぬうちに、ここですでに反革命の拍手のなかで革命的運命劇のカタストローフは決まった。ヴィンディッシュグレッツ指揮下の反革命軍の無差別砲撃のもとで、またイェラチッチに率いられた赤マント兵の肉弾突撃のまえに、ウィーンは落ちた。マルクスはウィーンの十月をパリの六月に対比しながら言った、「パリではモビーレが、ウィーンでは『クロアティア人』が、つまりどちらでもラッツァローニが、武装し買収されたルンペン・プロレタリアートが、労働し思考するプロレタリアートに立ち向ったのだ」(五巻四五七頁)と。たしかにウィーン十月革命の最終段階でバリケードに立った主力部隊はプロレタリアからなるモビールガルデ(守備区域が特定されていない遊軍)であった。これまた、賃金をもらい傭われていた。革命のスローガンは依然としてブルジョア的であったにもかかわらず、ウィーン革命の夏以降の内実は、プロレタリアートが生み出す諸矛盾が前面に出たことで、パリの六月段階に似ていた。
だが、おそらくはマルクスの見落した特徴がもう一つある。バリケードに突撃し、ウィーンを攻め落した反革命の「ルンペン・プロレタリア」がスラヴの兵であったとすれば、革命ウィーンのために生命を捨てたプロレタリアもまたおそらくはかなりの部分スラヴ系の民であった。ウィーンのプロレタリアの実状にくわしかった左派議員エルンスト・フィオラントが指摘しているように(38)、ウィーンに流入したプロレタリアの温床はボヘミアであった。彼らは、じゃが芋しか食べるものがなく、飢餓、チフスに追われて、群をなして他国へ流出した農民であった。一八四八年ドイツ革命の栄光は十月のウィーンの戦いによって辛うじて支えられたといえよう。そしてまた、事実ウィーン革命は掲げるスローガンからしてブルジョア的であると共にドイツ的であった。それにもかかわらず、瀬戸際で銃をとりウィーンを守ろうとしたのは、日頃市民によって白眼視された「下司《ゲジンデル》ども」、あるいはドイツ的理念などにはまったく縁のないスラヴの棄民であった。
エンゲルスは四八年のオーストリア諸民族を二つにわけ、一方の側に「進歩の担い手」ドイツ人、ポーランド人、マジャール人を、他の側に生れながらにして反革命的で「没落する使命をもつ」スラヴ人を、すなわちチェック人、クロアティア人、スロヴァキア人、スロヴェニア人、ルテニア人、セルビア人、それにロマン系のヴァラキア人をおいた。エンゲルスの前提のうえに立てばこの敵味方の分類は正確である。スラヴ人にたいするドイツ人革命家のこのような見方は、たんにロシア・ツァーリズムにたいする西欧の防衛本能に裏打ちされていただけでなく、彼らの伝統的な歴史観や人間観に基づいていた。数多くのパンフレットや新聞論説にもとづいてそのことを例証するのはむずかしいことではない。さしあたりウィーン国民軍の総司令官ヴェンツェル・ケーザー・メッセンハウザーをとりあげてみよう。三月前期のガリツィアに軍人として駐留しながらポーランド革命に共感を寄せ、軍を辞職し、革命の敗北後銃殺されるこのウィーン革命のリーダーは、軍人であると共に文筆家であり、とりわけ一八四八年には小説、新聞論説、パンフレットを数多く公表する。その一つにロシア論がある。そのロシア分析はどうにも単純である。だがまたウィーン民主主義者の発想様式をあらわしている。「ロシアは戦争準備をしている。……だれにたいしてか。今度は全西欧にたいしてである(39)。」これもまた四八年西欧の一般的発想である。だが問題はツァーリズムだけでなく、ロシアの人間の在り方にかかわる。ロシア人は「人間」でもなければ、人間の「心」も持たない。彼らは「奴隷」である。「彼らには意志というものがない。ツァーが万人に代って意志を持つ。彼らは神の真のおきてを知らないから、真の宗教を持たない。彼らはツァーのおきてしか知らず、ツァーのおきてだけに従って暮す。……彼らは家族のなかにおいてすら自然の感情を持たない(40)。」人間的な心もなければ、親しい者への愛も持たぬ、それは「深海の魚のような唖の民(41)」であり、ツァーの飼っている「畜生」でしかない。だから「ロシアは人類古来の敵なのである。」注釈は不要であろう。この考えは彼ひとりのものではない。
フランクフルト国民議会の一人で、途中ウィーンの憲法制定議会に乗りかえたフランツ・シュセルカの場合はどうか。シュセルカもまた当時多くの時論を書くが、そのパンフレットの一つにロシア論がある。まずロシア人の侵略熱はなにが動機なのか。そもそも「世界制覇の考え」は東方の野蛮な遊牧民の発想だが、今日ではロシア人の「固定観念」になっている。昔の野蛮人もいまのロシア人もとりつかれたようにヨーロッパへ向うが、その動機は同じだ。つまり、それは専制のもとで抑えつけられている隷従の身のうさ晴らしなのだ。それは「貧乏なうえに野蛮な自分のところでは到底考えられぬような持ち物を持ち、享楽にふけろうという欲望であり、自分が理解することも到達することもできない教養にたいする蔑視と嫉妬の憎しみ(42)」である。ロシアはいまや暴力的に未曾有の「世界帝国」を樹立しようとしているが、それはヨーロッパの国家や文化を支える人道的原理にきびしく敵対する。つまり「ロシアは完全にアジア的な国家を樹立しようとしている(43)。」「ロシアはヨーロッパの敵である(44)。」
同じ著者がドイツ主義を礼賛した別の本のなかにもスラヴ論がある。スラヴ民族は数百年ものあいだ受動的な暮らしをしてきたから、その「生の発現はおよそネガティヴ」である。大衆は奴隷であり、つねに鈍感なまま同じ状態から一歩も踏み出そうとしない。このスラヴ的世界には貴族と奴隷しかいないから、「市民生活」などあるわけがない。「市民生活がないところでは国民的教養も問題になりえない。……今日までなお固有のスラヴの文化、スラヴの学問は発達せず、これはと思うスラヴの文学も中途半端にしか発達していない(45)。」ここには四八年におけるドイツ人民主主義者の、そしてまたおそらくは西欧的近代主義者一般のスラヴ観ないしアジア観が浮彫りにされている。専制的絶対主義の支配下では奴隷制もまた普遍化し絶対化している(その意味でロシアに中産階級はない、としたヘーゲルの規定を想起せよ。――法哲学二九七節。中産階級の欠如は、とりもなおさず法治国家を支える教養と知性の欠如にほかならない)。だからまた、ヘーゲル的に言えば、奴隷は自分の本質を知らず、自分を知ることなく、自分について考えることがないから、他者のなかに自分を見出すこともない。人間的自覚にもとづき、人間的類の実現をめざす創造的労働もそこにはない。そこでは専制君主の意志が一方的に不感症の奴隷を支配するから、個が個でありながら、しかも類的・共同的なものを追求する西欧的市民社会の構造は欠ける。そしてこの市民社会の欠けるところでは、民族文化も生じえない。こうして、「スラヴ人は民族的な市民階級をつくりだすことができず」、そこでの教養はもっぱらドイツ的であったというエンゲルスの断定(46)(六巻一七〇頁)が、「ロシアはヨーロッパ文化史になんら貢献せず」と結論するシュセルカの論述と一致する。
ウィーン革命はその理念からしてドイツ的であるから、「世界史」の語もまた彼らの好むスローガンとなる。この民主主義革命においては多くの場合、世界史的現在性を担うのはフランス共和制である。フランス共和制=普遍的自由=フランクフルト=ドイツ系オーストリアという世界史の道筋に、スラヴ系オーストリア=絶対主義的貴族制の停滞と反動のコースが対置される(47)。ウィーン革命のなかでつねにもっともドイツ的であった学生の場合、「冷血な野蛮人」の「専制」が主要敵であったことはいうまでもない(48)。さらに十月革命直後の報復的軍事テロのなかで銃殺されたヘーゲル主義者ヘルマン・イェリネックは、ロシア軍のヴァラキア侵略という十月の緊迫した事態をまえにして、「古いロシアの絶対主義対西方の自由」のたたかいを緊急課題として提起し、フランスの『ナシオナル』紙から次のような「ヨーロッパ的」情勢認識を引用する。「いずれにしても、ロシアの兵が一兵たりともオーストリアに踏み込めば、疑いもなくそれはヨーロッパの蜂起の、自由と絶対主義の決戦の合図となろう(49)。」それをさらに煽り立てるように、ウィーン的サン・キュロットの新聞は、ロシア皇帝のウィーン宮廷あて返書を掲載する。その返書によれば、わがロシア軍は「すでにガリツィア国境に七万集結しており」、それらはオーストリアが北鉄道線で運んでくれさえすれば、二四時間でウィーンに着く、しかも後続として十万のコザックが控えている(50)、という。
スラヴにたいするこの図式的思考はもちろんウィーンの特産物ではない。南ドイツの民主主義運動のもっともラディカルな代表者グスターフ・フォン・シュトルーヴェを例にとろう。彼は、その直接行動的傾向のゆえに『マンハイマー・ジュルナール』をくびになったあと自分自身の新聞として『ドイチャー・ツーシャウアー』を刊行した。ここでもフランスの共和制とロシアの絶対主義がヨーロッパにおける基本的対立として(51)、人民のまえにおかれた二者択一として提示される。――「コザックか共和制か(52)」と。この基本的発想はマルクスやエンゲルスと共通する。だがもちろんマルクスにとっては、西方対東方、文明対野蛮という定式(六巻一四九頁)は、資本主義的世界市場の成立という世界史の必然的で冷厳な歩みのなかでとらえられる。しかも、社会革命は、この世界市場の支配者イギリスにたいするフランス労働者階級を前衛とした「世界戦争」によって遂行される。だがそのまえにツァーリズムにたいする世界戦争がある。
さらにエンゲルスの場合には、この世界史的認識に「ロシア人憎悪」がつけ加わる。彼にとってこの憎悪こそ「ドイツ人のあいだでの最初の革命的情熱」(六巻二八六頁)であった。革命的汎スラヴ主義が生死を賭けて自由をたたかいとろうというのなら、「そうなれば闘争だ、革命を裏切ったスラヴ人との生死を賭けた仮借ない闘争だ、皆殺し闘争と容赦ないテロリズムだ」(同頁)。周知のように、そしてしばしば非難されるように、エンゲルスはスラヴ諸民族が歴史的に存在する権利を積極的に否認する。「フランスのプロレタリアートの蜂起が最初に勝利することになれば、オーストリア・ドイツ人とマジャール人は自由となり、スラヴの野蛮人に血の復讐をとげるであろう。そうなれば全面戦争が始まり、このスラヴの分離同盟を粉砕し、これらの融通のきかぬ小民族をすべてその名すら残さぬまでに抹殺するであろう。次の世界戦争は、反動的諸階級や諸王朝だけでなく、反動的な諸民族をも跡形もなく地上から消し去るであろう。そして、これもまた一つの進歩なのである」(六巻一七六頁)。近代のブルジョア的諸関係の普遍化とそれに伴う中央集権化に積極的に関与しない民族は抹殺されてしかるべきだというのだから、事はスラヴだけにかかわることではない。エンゲルスは別な箇所では、アメリカのメキシコ「征服戦争」を例にとる。たしかにここでスペイン系住民の「独立」や「正義」は侵されたかもしれないが、しかしヤンキーの手による流通手段、交通、商業の発達にくらべれば、つまりヤンキーの侵略と引換えに与えられた「文明の利益」にくらべれば、この「世界史的事実」とくらべれば、弱小民族の独立の侵害などとるにたりぬ、と断言する(六巻二七三頁以下)。
しばしば民族的エゴイズムをまる出しにしたフランクフルト国民議会はポーゼン分割を決議し、ポーランド領土の掠奪に公然と加担したが、そのとき、ベルリン選出の左派議員ヴィルヘルム・ヨルダン(53)もまた「英雄的=世界史的=ヘーゲル的」立場に立ち、「歴史は、必然によって定められた歩みを歩むあいだに、もはや諸国民と肩を並べて自分を維持していくだけの力を失った民族を、つねに仮借なく、鉄蹄のもとに踏みにじる」と断じ、この民族の悲劇をポーランドに適用する。エンゲルスにとってポーランドだけはスラヴのなかでも例外である。彼は皮肉をこめてこのヨルダンを嘲り去る(五巻三四四頁)。だが、ヘーゲル的世界史の立場はブーメランのようにエンゲルス自身にたちかえるのではないか。エンゲルスにとって、革命的世界戦争は世界資本主義の牙城イギリスを相手に始められるのではなく、砲口はロシアに向けられねばならない。「ロシアとの戦争だけが革命的ドイツの戦争」(五巻二〇二頁)だからである。それのみがドイツを解放し、ドイツの名誉と利益を救う。
四八年革命期においては、民衆にたいする情報伝達手段は新聞、ビラ、掲示であったから、無数の、そして大きさも内容もさまざまな壁新聞が街頭に貼り出される。私の手もとにあるその一枚には次のような反スラヴの檄が記されている。「ツァーの夢は残念ながら現実になりつつある。このうえなく美しく実りゆたかなロマン人の国モルダウは、破壊と劫掠の手にゆだねられ、住民は非道きわまる抑圧と掠奪にさらされ、ヨーロッパ貿易は全面的に破滅し、ドイツ系オーストリア人の産業部門や文明は根だやしにされ、自由に呼吸しているが故にモスクワ人には共感しえない者はすべて残酷きわまる迫害にさらされ、その財産はロシア軍の戦利品とみなされている。モスクワ的隷従が兵隊どものテロリズムと野蛮な暴力によって持ちこまれている。トルコ征服とコンスタンティノープル占領のために、まず近隣の地方をすっかり搾りとってから、二十万の兵のために無料の糧秣がととのえられている。ヴァラキアも同じ専制的革鞭の権力の兵によって国土をずたずたにされている。ブルガリア、セルビア、マケドニアおよびアルバニアは口約束や金でつられてだまされ、近々サルタンにたいする蜂起を準備している。……ツァーはラデツキーとその軍の幕僚を報酬で釣って味方にひきずりこんだ。セルビア人とクロアティア人は使嗾されてハンガリー劫掠に手を貸し、オーストリア政府さえも巧みにだまして、汎スラヴ化の目的を押し進めるために、ペーター大帝以来ツァーが飽くまで追求してきた世界王国をかちとろうとしている。真に生死の問題であるこれらの重大事態のもとでは、次のような問いかけがふさわしかろう。オーストリアの自由だけでなく、ヨーロッパの自由もまたいまどのような事態にあるのか、文明は、商工業は、そしてオーストリア王制はどうなるのか(54)。」
三 パラツキーとフランクフルト国民議会
ドイツ人民主主義者にとっては、汎スラヴ主義はツァーを後楯に、またプラハとアグラムを中心にして西と南のスラヴ諸民族を糾合してスラヴ帝国を樹立しようという野望であり、それはたんに革命からの分派行動を意味するだけでなく、人間的「文明」にたいする敵対であった。だからたとえばウィーンの民主主義派の代表的機関紙『ディー・コンスティトゥツィオーン』は、三月革命突発直後に出された創刊号において、スラヴ人を「野蛮人」と呼び、「動物とエスキモーの合の子」と罵る(55)。同じく民主主義的傾向の新聞『デア・フォルクスフロイント』は、南スラヴ諸民族の一斉蜂起が決定的になった九月中旬、ハンガリー南部バナートのヴァイスキルヒェンについての報道を第一面で大きくとりあげる。筆者によれば、この町は当地で「シュヴァーベン人」と呼ばれるライン、ナッサウ出身のドイツ人が建設したものであった。ところが「南スラヴ国家の樹立」をねらうセルビア人が五千の兵を率いてこの町を襲った。彼らは「ドイツ人の女子供に髪の毛の逆立つような蛮行を加えた。多くの例のなかから一つだけ挙げておこう。一人の婦人は生きながら切り刻まれて、この肉は犬に放り投げられたのだ(56)。」もちろん真偽はわからない。しかし、この種の報道がドイツ人のスラヴ憎悪を異常なまでにかきたてたことはたしかであろう。
ドイツ革命を志向する者は、スラヴ諸民族と絶対主義権力との反革命的癒着をなによりも警戒かつ敵視し、スラヴの運動に内包された民族解放闘争の諸契機には意識的に目をつむった。だから、クロアティアのバヌス(太守)イェラチッチは、革命派にとっては、インスブルックの皇帝派に内通するかぎり「反革命」であり、バヌスと称するかぎり「簒奪者」であり、南スラヴ帝国樹立の野望をもつ(57)かぎり「裏切者」であって、クロアティア民族解放の指導者では決してありえなかった。泣く子を黙らすには、イェラチッチが来た、と言えばよい。これは当時のウィーンの笑い話である。汎スラヴ主義の陰謀という点では、ボヘミアについても見方は同様であった。周知のように一八四八年六月蜂起直前のプラハにおいてバクーニンも参加したスラヴ人会議が開催され、フランティセク・パラツキーのイデオロギー的指導のもとに、ヨーロッパ諸民族、スラヴ諸民族、オーストリア皇帝にあてた三つの声明が決議された。そこで打ち出された傾向をただ皇帝勢力に癒着した反革命というのは当らない。彼らの運動もまたメッテルニヒの反スラヴ民族的・絶対主義的政策にたいする時代の反動から出発している(メッテルニヒもまた西欧の子であった)。会議の皇帝あて上奏文は、スラヴ各民族の抑圧された現状を具体的に述べたうえで、ボヘミアやモラヴィアまで自分の版図に加えようとするフランクフルト国民議会の大ドイツ主義に抗議する。「それはオーストリア王国の主権を侵害し、上述の諸民族を外国の立法議会に従属させるものであろう。」彼らスラヴ人は、ドイツ人やマジャール人との同権を要求するが、しかし「われわれの敵が言っているように、スラヴ人国家の樹立など決して意図していない(58)」と明言する。この会議がパラツキーによって主導されたものである以上、会議は、パラツキーやカレル・ハヴリチェックらの構想、すなわち諸民族同権の連邦国家としてオーストリア全体王制を維持するという構想を確認したのである。王制を維持するのであるから、そのかぎりでこれも反動であろう。だが、それが、たとえばアンドリアン=ヴェルブルクの構想したような地方自治への分権を強めたうえでの連邦王制であれば(59)、ドイツの共和主義者ユリウス・フレーベルの主張した「民主主義的王制」あるいは「王制的民主主義」とさほど距離はなかったであろう(60)。
民族問題の焦点は民族語だから、スラヴ諸民族のあいだでも、言語の集権化にたいする抵抗がたえず生じる。オーストリアにおける「普遍語」であり、「支配語」であるドイツ語ないしマジャール語を排して、民族語をどう活用するか、それが問題であった。だが、クロアティアの民族的リーダー、リュデウィット・ガイらの努力にもかかわらず、スラヴの共通語は存在しなかった。『ディー・コンスティトゥツィオーン』紙の一論説は皮肉をこめて次のように述べる。「だがスラヴ語とは何だろうか。パラツキー氏がたしかにご存知のとおり、チェック語、ヴァラキア語、クロアティア語、スロヴァキア語、ポーランド語、ルテニア語、それにまたロシア語がある。だが、一般的なスラヴ語などどこにあるだろうか。チェック人はこれらの言語のうちのどれを議会用語にしようというのだろうか。どれが多数を占めるというのだろうか。スラヴ民族会議と称するものがたしかプラハで開かれたはずだ。しかもそこに参集したのはスラヴ人だけではなかっただろうか。ところが、そこで何語がしゃべられたか。そこではチェック人に雅量があるおかげで、全スラヴ人がドイツ語をしゃべったのだ(61)。」エンゲルスの言い方もさらに強烈である。共通のスラヴ語などというものは二、三のイデオローグの幻想以外に存在しない、それにスラヴの方言はまったくの粗野なパトア(百姓言葉)だ、その点からしても汎スラヴ主義による統一などはロシアの鞭による以外にない、と(六巻一七一頁)。エンゲルス的世界史からすれば、「ボヘミアもクロアティアも民族として自立していけるほど強くなく」、「不可避的により強大な諸民族に併呑されていく」のだから、「今後ボヘミアはドイツの一部としてしか存在しえない」のである(八巻五二頁以下)。ボヘミアが民族として成り立たなければ、その文化も言語も消滅する運命にある。「一握りのスラヴ人の歴史学ディレッタントの書斎のなかで、その笑止千万な反歴史的運動がつくりあげられた。それは、文明化された西方を野蛮な東方に、都市を田舎に、商工業や精神生活をスラヴ農奴の原始的農耕に隷属させることを目標にしたのだ」(同巻五三頁)。
このような近代主義的発言にたいして、革命期のウィーン議会の一員でもあった保守的歴史家ヘルファートのスラヴ的反駁をつきあわせてみよう。彼は言う、ドイツ語系住民にたいしては初等から大学まであらゆる教育の可能性が与えられているのに、非ドイツ系住民にとっては村の小学校をのぞいて自民族語による教育の機会は皆無である、だからもし両者を比較するなら、現に身につけている教養ではなく、潜在的な教養能力を見るべきなのだ、また現に持っている能力にしても、四千万のドイツ人と四百万のチェック人を公正にくらべてみよう、はたしてドイツ人はパラツキーに匹敵する歴史家を、ドブロフスキーやシャファリクに比肩する言語学者を、スコダやロキタンスキーほどに開拓的な自然研究者を現に持っているだろうか、と(62)。事実、パラツキーがその学問的生涯をかけた『大部分原資料と手稿にもとづいたボヘミア史』全八冊(63)の叙述を見るなら、あるいはまたコンスタンティン・フォン・ヘフラーの「ドイツ的」フス研究にたいするパラツキーの完膚なきまでの資料的批判(64)を見るなら、「歴史学のディレッタント」というエンゲルスの評こそがディレッタント的であることは明らかである。パラツキーはボヘミア史をとおして、決してドイツに吸収されない、民族の文化的伝承を示したのである。
周知のようにパラツキーは、フランクフルトで五十人委員会に選出されながら、公開状を送って出席を拒絶した。パラツキーはここで拒絶の理由を挙げる。フランクフルト議会の目的は「ドイツ民族を現実に統一する」ことにあるようだが、あいにくと私はドイツ人でなく、「スラヴ系ボヘミア人」である。ボヘミア人は小たりとはいえ昔から自立した民族であり、ドイツとのつながりにしても、純然たるレガーレ、つまり王侯の統治権以上のものではなく、「人民と人民との関係ではなく、支配者と支配者の関係」にすぎなかった。またフランクフルトの案によれば、オーストリアは独立国として存続しえなくなるが、それは「全ヨーロッパのため、いやそればかりか人道性と文明のため」の一大事である。オーストリアはロシアの「新しい世界王国」の野望にたいする防壁なのだから。だからドナウを生命線とするスラヴ人、ヴァラキア人、マジャール人、ドイツ人が平等な立場で結束し、「ありとあらゆるアジア的人種からヨーロッパを守る楯」とならねばならない。最後にパラツキーは共和制を嫌う。「考えていただきたい、オーストリアが解体して、数多くの共和国や小共和国になれば、ロシアの世界王国にまったくおあつらえ向きの礎石ができるではないか(65)。」
パラツキーのオーストリア・スラヴ主義的構想は革命期のボヘミアの動向に大きな影を落した。ドイツ側からもおそらく多くの反駁が出たであろう。私の気づいたものに、モーリッツ・ヴァーグナーのパンフレットがある。パラツキーの五十人委員会にたいする拒絶理由をドイツ人的立場から反論しているが、内容貧しく、次の一文を引用するだけで十分である。「チェック人はドイツ系の諸国民によって囲まれ、ドイツの心臓部に触れ、地理的にも歴史的にもわれわれに結びついているのであるから、われわれから分離したスラヴ国家をつくろうなどという考えを捨てねばならない。彼らは自然と運命が定めた途を歩まねばならず、惑星が太陽から離れられないように、その政治的発展においてドイツから離れるわけにはいかないのだ(66)。」もしドナウ帝国などできたら、ドイツ系住民は「スラヴ人の圧制のもとで民族的に苦しむ」ことになるというのが、この「ドイツ的回答」の本音であった。結局パラツキー問題は「ドイツ派かチェック派か」、汎スラヴ主義か汎ゲルマン主義か、という二者択一に帰着したのである(67)。
フランクフルト国民議会は一八四八年十月十九日ドイツ帝国憲法草案の審議にはいった。連邦国家的構想につらぬかれたこの草案では、オーストリアにかかわる懸案の問題は、第一章第二条「ドイツ国のいかなる部分も非ドイツ諸国と合併して一つの国家となることはできない」、および第三条「ドイツ国が非ドイツ国と同一の国家元首をいただく場合には、両国の関係は純然たる同君連合の原則によって調整さるべきである」であった(68)。それによれば、ハンガリー、ダルマティア、ガリツィアをのぞいたオーストリアの諸部分がドイツ帝国に属し、しかもオーストリアの連邦君主が同時にハンガリー、ダルマティア、ガリツィアの支配者となることになった。だが、フランクフルトの一つの基本特徴、民族的ファナティシズムがここにも顔を出していた。この大ドイツ主義的「ドイツ帝国」の構想は、シュレースヴィヒのデンマーク人、ポーゼンのポーランド人、ケルンテン、クライン、南シュタイアのスロヴェニア人、ボヘミアとメーレンのチェッコスラヴ人を当然のごとくその版図にとりこみ、スラヴ系諸民族の「民族」を犠牲にしたうえで、ドイツ「国民」を実現しようとしたのであるから。ウィーンの新聞を見ても、その大ドイツ主義的発想は随所に顔を出す。革命期ウィーンのもっともポピュラーな新聞『ゲラーデアウス』の日曜版『グックカステン』がその一つ。スローガンは「自由とドイツ」である。――プラハのスラヴ人会議の目標は「大スラヴ帝国」の樹立にあるのだから、われらもそれに対抗して、フランクフルト国民議会をとおしてドイツ人の「強力な大帝国」をつくらねばならぬ。「強力な溌剌とした帝国との合体のみがわれわれとわが祖国を救う。」「皇帝と国民はドイツ人であらねばならぬ。最後の血の一滴までドイツ人であらねばならぬ(69)。」
四 「反革命」としての人民戦争
ヘーゲル歴史哲学における世界史は「東から西へ向って進む」。世界史はアジアから始まり、ヨーロッパで終る。だが、アジアから来た、といわれる民族のなかにも、自覚的な西欧派がいないわけではない。マジャール人がそれである。創世記のアダムはマジャール人の名だ、だからアダムはマジャール人だったにちがいない、誇り高きマジャール人はそう信じていた、といわれる。「マジャール人にとって、スロヴァキア語は干し草人夫か日傭いの言葉であり、それに反してマジャール語は主人の言葉であった。彼にとってスロヴァキア人は『人間ではない』。だが、ドイツ人だとて大同小異である。彼らは『乞食』、『寄せ集め』、『渡り者』である。……マジャール人にとって、『ヴァラキア人』とか『ラーツ人』(セルビア人)はまったく嫌悪の対象である(70)。」これはチェック派のヘルファートの言うことだから、割引きして聞かねばならぬが、一定の事実を示してはいるだろう。ハンガリーでは、マジャール人が「政治をおこなう」民族であり、マジャール語が「外交語」であり、ラテン語に代って公用語となった。一三〇〇万のマジャール人が一七〇〇万の他民族にたいしてマジャール化政策を押し進めたのである。
このハンガリーにおけるマジャール化政策をマジャール主義と呼ぶとすれば、マジャール主義は革命の遂行過程において、理念的に、また戦術的にフランクフルトと結びつく。フランクフルトの大ドイツ主義がハンガリー独立を可能にするものであった以上、マジャール人はフランクフルト以上にフランクフルト主義的であった。彼らは当然ウィーンとも共同歩調をとった。一八四八年九月のウィーンの街頭には、ハンガリー行義勇軍を募集する赤色の檄文が貼り出される。そこにはこうある。「問題は、今後人間の顔をするか、動物の顔をするかだ、奴らはただ、殺戮するために殺戮し、虐殺するために虐殺し、掠奪するために掠奪する。暴政の権力によって飼育されたヴァンダル人の軍勢が、長きにわたって自由な諸国民から搾りとった金で傭われ、破壊欲に駆られてハンガリーの美しい国土を荒らし、自由な人々を皆殺しにしようとしている。……偉大なドイツが存在している。いまも将来も、このドイツの誠実な前哨で忠実な戦友であるものは、志操堅固なハンガリー人である(71)。」もちろん義勇軍の募集対象は市民軍のナツィオナールガルデか学生のアカデミー軍団か、どちらかであった。スラヴ人が大半を占めるプロレタリアは除外している。だが、すでに七月段階で、蔵相コシュートは、ホンヴェード(国防軍)二十万の結成を呼びかけた下院演説で、フランクフルトとの連帯を呼びかけた。「ハンガリー国民は自由なドイツ国民と、またドイツ国民は自由なハンガリー国民と内的な友好関係をもち、手をたずさえてドイツ東方の文明を守る使命をもっている(72)。」九月になると、ハンガリーはフランクフルトとの軍事同盟までも希望する。スラヴの侵略に備えてたがいに十万の軍を編成しようではないかというのである。もちろん実現しなかった。フランクフルトに実行力皆無というだけでなく、「文明の使命」を意識したハンガリーの一人相撲であった。フランクフルトのドイツ人はハンガリーなどを対等の相手として扱う気はなかった。
ハンガリーは、「スラヴ軍人にたいするヨーロッパの防壁」であるから、イギリス、フランスに次ぐ西欧の第三勢力たるべき使命をもっている、と考えたマジャール人もいた。マジャール人の問題はハンガリーの問題であり、ハンガリーの問題はヨーロッパの問題だ、というのである。当然に反駁の声もスラヴのなかから挙がる。――マジャール人だけが民族として認められる権利をもっているのはおかしい。彼らはたった一握りの「アジアからの新参者」、われわれスラヴ人やロマン人こそ「ヨーロッパの原住民」だ、文化にしてもスラヴ人の方がはるかに進んでいるのに、この「東方的民族」がわれわれを従属させ同化しようとするとは。「スラヴ人にとっては、マジャール主義、すなわち自分らと無縁なアジア的=ウラル的シベリア主義などより、ゲルマン主義、すなわち彼ら自身のヨーロッパ主義の方が何千倍も好ましい(73)。」マジャール人と張りあう場合には、南スラヴ人のゲルマン起源説が誇り高く頭をもたげるのである。
ハンガリー革命も三月のブルジョア的理念から出発している。したがって当然コシュートは自国内の非マジャール人、とりわけクロアティア人にたいするマジャール人の差別迫害を否定する。クロアティア人は、「あらゆる権利をわれわれと分ちもっただけではなく、われわれ自身の犠牲のうえで特別な特権までも手にいれた」、公共生活でも彼らの内政にかんしては彼ら自身の言葉を使うことを許したし、彼らの行政区域内では「クロアティアの民族的自立」を保障し、彼らのバヌスをも国家顧問官にしてやったではないか(74)、と。それにもかかわらず、――別のハンガリー革命リーダーは言う――バヌス・イェラチッチは皇帝側近派の陰謀の「傭兵」として、クロアティア人の民族的要求を巧みに反革命の勢力立直しに利用したのだ、と(75)。
クロアティア人を先頭とするスラヴの兵が、ウィーン革命やハンガリー独立闘争の軍事的抹殺に主役を演じたかぎり、たしかに彼らの反革命性はぬぐいようがない。だが、クロアティア人はクロアティア人で、自分たちが反革命だなどとは夢にも思いはしなかった。彼らだとて自由・平等・民族自立の理念を担って立ったのであるから。革命は古い社会基盤を変えた、いまやハンガリーとのわれわれの関係も「自由・自立・平等の精神にのっとった新しい基盤」に立たねばならぬ、と最初に同胞に呼びかけたのは、イェラチッチその人である(76)。クロアティア人は民族として反革命勢力にだまされ、利用された、としばしばいわれる。だが、だまされたのかどうかわからない。だいいち、革命の当初から皇帝派とイェラチッチが手を握っていたわけではない。多少冗長でも皇帝とクロアティアのやりとりを追ってみよう。五月六日付ハンガリー太守《パラティン》シュテファンあて、七日付イェラチッチあての皇帝書簡では、むしろクロアティアの「分離主義的運動」が非難されていた。しかし、クロアティアは「マジャール人の際限なき干渉にたいする民族的自由と自立」のたたかいを公然と提起し、ダルマティア・クロアティア・スラヴォニア地方議会を六月五日アグラムで開くことを決める。皇帝は五月二九日この地方議会は「違法」かつ「無効」だと宣言する。だが、地方議会は「自由」宣言を発する。自由・平等・友愛は政府と人民、国家と国家、人民と人民のあいだで基盤とならねばならぬ、「抑圧者」、「マジャールの暴力支配」をのぞかねばならぬ、しかしわれわれは国王や王国全体に敵対しているわけではないのだ、と(77)。さらに議会は皇帝にたいして十一項目の決議をふくんだ書簡を送る。「われわれの国にかんしては現ハンガリー政府を認めない」、したがってクロアティアにたいするハンガリーの布告は「違法」である、現在のわれわれの臨時政府は将来責任政府とするが、しかし、財政・軍事・貿易などは帝国全体の中央内閣に委ねる、公用語はスラヴ語、内政は地方議会で処理する、等(78)。しかし、六月十日付皇帝のクロアティア人およびスラヴォニア人あて布告は、なおハンガリー的立場に立つ。ここで皇帝は、賦役の廃止、隷農の「自由な土地所有者」への有償転化、しかも償却費用の国家負担を約束すると共に、さらに「民族性や自治権」は侵害されるどころか、拡大されつつあり、「ハンガリー国民が彼らの言葉を抑圧したり、その発達をさまたげている」などというのは、悪質な噂にすぎない、と述べ、イェラチッチを反乱者として断罪し、バヌス位を剥奪する。しかし、イェラチッチは皇帝にとって「好ましき謀反人」であった。だから事実は六月二十日段階ですでに、イェラチッチはインスブルックで皇帝派と反革命的共謀劇の筋書をつくっていた。九月になると反革命は公然と動き出し、ハンガリー=クロアティア関係にたいする皇帝の態度は表向きも百八十度変る。いまやマジャール人が非難される。コシュートらの手による皇帝の裁可なき紙幣発行と徴兵は「違法」かつ「裏切り」であり、「専制政治」をとおして「一民族が他民族を抑圧することは許されない(79)」と。
クロアティアの議員や知識人は、六月五日の地方議会決議に基づいて、革命ウィーンにおいてもクロアティアの立場を主張し続けた。議員たちが出したタブロイド判四頁の訴えもある。彼らは「われわれスラヴ出身の民族を奴隷的民族とみる傾向に人間的尊厳から抗議」し、全体王国=中央政府のもとでの連邦主義的自治と民族同権を主張する。「マジャール人は共に暮す諸民族を圧迫し迫害し、彼らのマジャール語をむりやり押しつけることをやめない。彼らはハンガリーでマジャール人以外の民族をいっさい認めようとしなかった。彼らはスラヴ人という呼び名に侮蔑的意味を与える(80)。」さらに、匿名のクロアティア人が六月から七月にかけて執筆した小冊子『クロアティア問題とオーストリア(81)』もある。もちろん全面的なハンガリー批判である。この筆者はオーストリア全体王国支持の立場に立ちながら、「ウィーンでのプラハ・チェック派ウルトラ分子の愚行」を、つまりパラツキーらを批判し、あるいはハンガリーの貴族的反動性を批判もする。革命の看板のもとで実は大貴族のマグナートやプレラートに支配されているマジャール人の「貴族的官僚制」こそ、いつ皇帝と手をにぎってウィーンの共和主義を弾圧するかわからぬではないか、と。とはいえこの筆者も、「自分たち同様国王に臣属する民族」すなわちマジャール人への従属を拒否するが、「正統の国王」にたいしては忠誠を誓い、行政も司法もハンガリーから自立した一七九〇年以前の状態の復活を要求する。これもオーストリア・スラヴ主義に帰着するといえよう。
ハンガリーでのマジャール人と非マジャール人の関係に似た問題は、ポーランド人とルテニア人のあいだにもある。周知のようにエンゲルスは、スラヴの運動のなかでもポーランドの独立闘争だけは熱烈に支持した。エンゲルスの世界史的観点からみてポーランド人だけは前進的能力をもったからであろうか。その点も疑わしいのである。ただエンゲルスにとってポーランド人が革命的なのは、彼らが「ロシアとの戦争」のなかで自己を解放する機会をもっていたからだ、ということはたしかである(八巻五一頁を見よ)。他面エンゲルスはポーランドを民族的に解放する道筋として、「家父長制的=封建的絶対主義にたいする農業民主主義」(五巻三三三頁および三五七頁を見よ)、あるいは「農民民主主義」(同巻三四六頁)の闘争を提起する。農民民主主義とは、大貴族の擡頭によって歴史的に葬りさられた貴族民主主義に代って登場するものであり、また農業民主主義とは「農奴や賦役義務を負った農民を自由な土地所有者に転化する農業革命」(同巻三三三頁)であった。だが、この農業民主主義ないし農民民主主義とポーランド民族解放とは、そのそれぞれの担い手からするかぎり、一致するどころか、決定的に矛盾していたのではなかっただろうか。一八四六年のクラカウの蜂起では、オーストリア軍にたいして蜂起したポーランド人小貴族に向って、ウクライナ人農民が大鎌や打穀棒をもって襲いかかり、シュラハチッツ(貴族地主)を処刑したのではなかったか。一八四八年四月のクラカウにおける反乱でも、ガリツィア太守シュタディオンはポーランド人にたいするウクライナ人の民族運動を反革命に利用しなかっただろうか(82)。ポーランド民族解放の担い手であり、パリやドイツで支持された革命的小貴族は、祖国では農民の直接の階級的収奪者であると共に、貧しいスラヴの農民の民族的憎悪の対象ではなかっただろうか。この点にかんするかぎり、ヴェルナー・コンツェ的な疑問を私も共有せざるをえない。ハンガリーやポーランドの場合、マグナーテンが反動的絶対主義につながった反面、小貴族の運動は革命的方向に作動したとする図式主義だけでは、事態を正確につかめないように思える。だが、私はポーランド史については門外漢であり、この点は専門研究者の教示を仰がねばならない。
一八四八年七月三一日レンベルクでガリツィアの全ルテニア人の代表集会が開かれ、ポーランド人の専制支配に抗議が送られる。集会で決議された建白書にいう。ルテニア人は、十三世紀モンゴールによる支配、十四世紀後半以来ポーランドの支配、一七七二年以降オーストリア支配のもとにあったのに、言語も風習も民族性も失いはしなかった、ところが、「移住してきたポーランド人、ルテニア人から補充されたポーランド人は、民族貴族を駆逐することによって土地所有のなかにはいりこみ、土地の主人気どりで、いまや東ガリツィアでポーランド民族などと称している。だが、こうした事態が生じたのも、ガリツィアでは村はルテニア人のものなのに、地主はポーランド人だからである(83)」と。大学もドイツ人、ポーランド人に独占され、学ぼうとするルテニア子弟はギリシャ・カトリックの僧院へはいった。ポーランド人にとって、「ルテニア民族などは歴史上知られもせず、存在したこともなく」、「ルテニア語など習うのにふさわしいのは犬だけ(84)」であった。ルテニア人はポーランド人の「テロリズム」を避けるために一八四八年十月下旬ガリツィアを西(ポーランド人)と東(ルテニア人)に分割する請願書を出した。だが、ルテニア人はルテニア語を公用語とするためには、なお文法上整備の要があるため、暫定的にドイツ語を使う、しかしポーランド語だけは絶対に使わぬと決議した。他方ポーランド人はただちに皇帝に長文の上奏文を送り、この分割に反対する。とりわけ言語問題についてはこう述べられている。「社会の全ヒエラルキーは(聖職をのぞいて)、少くともこれまでのところ例外なく、血統や信仰の相違にかかわらずもっぱらポーランド語をしゃべる住民部分から成っている。それというのも、ポーランド語は数世紀来、ポーランド人であろうとルテニア人であろうとすべての教養人の用語だったからである。この国の全文学はポーランド語のなかで、もっぱらこの言葉のなかで育てられてきた。この言葉のなかでこの国の歴史は生きている。この言葉は住民の教養ある層の教育手段である。ルテニア人はすべて、畑仕事をする階級に属さないかぎり、この言葉を使う(85)。」ポーランド人の言い分は事実であろう。だが、それが事実であることのなかに「西欧的」ポーランド人のルテニア人にたいする差別が映し出されている。
ウィーンの十月の残虐行為によって全西欧にその名をとどろかせた「赤マント」の兵は、反革命の職業的傭兵にすぎなかったのだろうか。クロアティア=スラヴォニア地方議会は、この軍事的辺境の民の基本権のために「グレンツ憲法(86)」をつくる。そこで描かれた生活規範から推測するかぎり、たしかに彼らの生活は市民社会の「文明」とは縁遠い。その社会生活の細胞は「家共同体」であり、「家父」ないしは「家母」のつかさどる「家父長制」がスラヴの守るべき歴史的習俗として明文化される。最低限の生活を守るために、どの家も三ヨッホの土地を譲渡しえない世襲地としてもち、家共同体の成員は、共同体の外で土地をもったり、収益を得てはならない。農民は革命によって封建的諸負担から解放されたから、森や牧草地は村《ゲマインデ》の規制下で共同体の全員に開放される。例外なく貧しい辺境の民が生きぬくために、ここでもまた一種のスラヴ共同体をつくったのである。だが、共同体のたたかいうる男子はすべて辺境兵士であり、「傭われたルンペン・プロレタリア」として国外にも駆り出され、イタリア反革命戦線の主力部隊ともなった。それにもかかわらず、南スラヴの民が、とりわけセルビアの民がハンガリーにたいして遂行した戦闘は、往々にして、女子供を含む共同体全体の「人民戦争」の様相を呈した。革命ハンガリーにたいするこの「反革命」は、同時に被抑圧民族の民族解放闘争でもあった。だがまたハンガリー革命もまた、ポーランドやイタリアと同様、民族自立のたたかいであったことは明らかである。こうしてここでは、民族闘争の諸契機は内包的に限りなく重層化する。しかも民族闘争を重層化させる諸契機が、貧農、ルンペン・プロレタリアないしは潜在的プロレタリアのたたかいにふたたび重なりあっていくことによって、民族闘争は、一八四八年のブルジョア民主主義革命としての性格を内部的に突きくずし、変質させ、止揚していくのである。
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一八四八年にとってプロレタリアートとは何か
一 ベルリンとウィーンの流民
ベルリンは湖とハイデ(針葉樹林)の都である。一八四八年のこの時期には、市を囲む壁はすでに軍事的防衛の用をなしていないが、それでも十五の城門は残っている。その一つ、オラーニエンブルク門は、ウンター・デン・リンデンからフリードリヒ・シュトラーセを真北に向い、シュプレー川を渡るとすぐのところにあった。この門を抜けると、ベルリンの東北の市外に出る。実はこのオラーニエンブルク門の東隣の門、ハンブルク門の外は、ベルリン・プロレタリアの巣窟であった。たとえば「Familienhauer」――ベルリン方言のアイロニーは訳しようがないから、原語のままにしておくが、要するにベルリンめがけて押し寄せる宿なし流民のドヤ街に建てられた営利的宿である。その大きなものは四〇〇の部屋をもち、二五〇〇人も収容したといわれる。狭苦しい部屋は通例一本のなわで仕切られ、二家族が住んだ。この貧民窟については、エルンスト・ドロンケ、ハンス・ベータ、ベッティーナ・フォン・アーニム、フリードリヒ・ザスら同時代人のそれぞれ著名な描写があるから、ここではふれない。いま私が問題にしようとしているのは、オラーニエンブルク門を抜けてから、さらに北西に道をとって約一マイル、いわゆる「レーベルゲ」(直訳すれば、のろしかの山)である。パリ同様に、そしてのちに述べるウィーンと同じく、革命期のここベルリンにおいても、対プロレタリアの失業対策として公共土木事業が起こされていた。そしてまたパリやウィーン同様、ベルリンにおいてもこの公共土木事業が二月、三月のブルジョア革命の命とりとなり、この土木労働者がブルジョア革命のとりつくろった革命的体裁を無惨に引き剥ぐのである。
レーベルゲで地ならしをしていたこれらの労働者は「レーベルガー」Rehbergerと呼ばれて、「ベルリンの『アナーキー』の歴史のなかで主要な役割を演じる」(ローベルト・シュプリンガー)。ベルリンの公共土木労働者は、市が雇傭した者二五〇〇、国家が傭った者三〇〇〇(87)、市の雇傭した者のうち六〇〇から七〇〇人がレーベルガー、そのほかの一八〇〇人が運河掘りの労働者である(88)。この後者は市の南東のはずれにあるシュレージエン門からケペニッカー・フェルトをとおってシャーロッテンブルクにいたる運河を掘っていた(この運河掘り労働者がのちに述べる十月の衝突の立役者となる)。ついでに言えば、当時のベルリンはいまの東ベルリンだが、市内もなかば農村的で、城壁のなかにもなお多くの野菜畠や麦畠があって、宿なしプロレタリアが巣を定める場所には事欠かなかった。いずれにしても、ヴァレンティンの表現によれば、レーベルゲは「ベルリン革命の一種の本営」であり、「レーベルガーが来たぞ」といえば、市民は震えあがったのである(89)。だが、あいにくと通例のベルリン革命史のなかでは、これらの労働者はほとんど描かれない(90)。一八四八年に燃えあがったベルリンの労働運動史のなかにも、彼らはまともな形では取りあげられない。だからレーベルガーはベルリン革命秘史の部類に属するのである。同時代人のなかで彼らをもっともよく描いたのは共和主義的著述家ローベルト・シュプリンガーである。彼は次のように述べる。「この連中ときたら、何一つ働かず、ふだんは仲むつまじく暮し、呑気に殴りあい、組長に反抗したものだ。夜ともなると彼らはオラーニエンブルク門をとおって帰るが、背にずっしりと薪をしょいこんでいる。彼らはそれを内々認められた追加給として家のかまどまで運んだのだ。……日焼けし酒焼けした顔をして、ひげをぼさぼさとはやし、ボロボロの上衣を着、上っ張りなどはめったに着用せず、羽根飾りのついた黄色い麦藁帽子をかぶり、手には威嚇的な棍棒を持ち、なかば馬で、なかばワニのようなこの荒くれ男たちは――長期にわたって『煽動家』の支柱であり、反動や臆病者たちの恐怖の的であった(91)。」何一つ働かぬ怠け者の集まり、ということで彼らを嘲弄した戯れ歌もできる(92)。
土木事業の方はお留守にして、彼らは朝となく夜となく隊伍をつくって市庁舎のまえに現われ、賃上げ等々を要求する(93)。ウンター・デン・リンデン界隈でしばしば開かれた政治クラブの集会にも顔を出し、多少弁の立つ者が一席ぶち、立往生した場合には、あとは棍棒をぶち鳴らして、弁舌の才の不足を補う。なにか行進でもあれば、色あせた三色旗やら赤旗やらを持って、意気揚々と参加する。この無邪気な暴徒たちのなかに「民衆の友」を見いだしたのは、未熟ながら一途にこの革命に殉じたグスターフ・アードルフ・シュレッフェルである。
示しあわせたわけでもあるまいに、ベルリンと同じ状況がウィーンにも現われる。三月革命が燃えあがったときも、ベルリンではオラーニエンブルク門の外に鋤や斧をもって集った労働者に対して、市民軍は門をかたくとざし、銃をもって対峙した。ウィーンでも市外区の外から押し寄せる「工場下民」を市内に入れまいとして、城門はとざされ、城壁のうえから砲口が労働者に向けられた。この三月の問題をうけて、ここウィーンでも不急不要の公共土木事業が起される。働きたい者の働く権利を保障するのは、革命政府の義務だ、ということで、市にも金がないのに、苦しまぎれの失業対策が始まる。なんとかこの仕事にありついた労働者の数は二万に近い(94)。念のためにいえば、当時のウィーンはドーナツのように二重の壁に取りまかれている。まず城壁にかこまれた市内があり、城壁のすぐ外はグラシーという緑地帯、その外が市外区、市外区はさらにリーニエ(ライン)という土塁でかこまれる。城門からはリーニエに向けて放射状に街道が走る。土木労働者の多くはプラーターや、ヴェーリング、マッツラインスドルフのリーニエ近くの仕事場に小屋を建てて住みつき、共同炊事まで行っていた。ところが、オーストリア帝国の全土から砂糖にむらがる蟻のようにウィーンめがけて流民がぞろぞろと流れこむ。「毎日毎日何千もの他国者が流れこんでくる(95)」と市委員会は悲鳴をあげ、労働者委員会は他国者拒否の声明を出し、十グルデンもの旅費を与えて帰郷させようとするが、効目はない。一八四八年にとってプロレタリアートとは何かウィーン市当局は他国から、とりわけボヘミアとモラヴィアから流れこんでくるスラヴの民をなんとか追い帰そうとする。たとえば『ウィーン新聞』のなかからそれにかんする記事を拾ってみよう。「地方では日給はふつう十二クロイツァーであるが、とくにボヘミアとモラヴィアではさらに低い。したがって、当地の公共労働者について定められた二五クロイツァーというはるかに高い日給にひかれて、この二つの地方から多くの日傭労働者がウィーンめがけてやってくるとしても、おどろくにはあたらない。この流入を防ぐために、もともと大部分着のみ着のままの他国労働者には転入を許さないよう、リーニエ監視所は命令されている。そこで六月の一日から月末までの期間に、五七〇人の無職者がリーニエのところで突きもどされた(96)。」八月のある週には、職もなくウィーンに滞在していた一六八名が追放され(97)、八月三一日には、失業者や刑期満了者一〇六名が故郷へ送還された(98)。
仕事が楽で怠け放題、というのはレーベルガー同様である。そこで現に仕事のある工場労働者までこの失業対策事業に移ってくる。親労働者的な左派議員エルンスト・フィオラントすら、次のように述べる。「彼らは全社会制度について不平を鳴らし、いたるところに不満をひろめ、働こうとする者にはいやがらせをし、棍棒で脅しさえした。この連中の影響が及んでいた時期に、プラーターとかヴェーリンガー・ガッセの泉の近くにある仕事場へ行ってみると、そこに繰りひろげられている光景には実際びっくりさせられたものだ。ほぼ全員が数名ずつかたまって、話をしながら時をまぎらしていた。あちらこちらに、よい身なりをして、手に本をもった人間がすわりこみ、彼らをうながして仕事につけようとする監督に文句をつけている。近くの酒場では、いつも大勢が酒を飲み、トランプ遊びしていた(99)。」
これらの労働者に対する市民の憤懣は、他国者に対する本来的市民層の偏見といりまじって、六月にはいるといよいよたかぶってくる。労働者は治安委員会にデモをかけ、三六クロイツァーへの賃上げを要求する。その言い分はこうである。――まえに工場で働いていたときには、いつだっておれたちは、朝はコーヒーを飲み、昼は二品か三品食べ、一サイデル〔ウィーンでは〇・三五リットル〕のワインを飲み、ヤウゼ〔午後の間食〕と夕食には半リットル・ビールを何杯か飲み、ちょっとしたものを口にした。それに少しはましな住居に住んでいた。そのためには、いまの二五クロイツァーでたりるものか、と。治安委員会は本気になって腹を立てる。治安委員会議長で医者のフィシュホーフすら日給四十クロイツァーではないか、分を知れ、と。治安委員会をはじめとするウィーンの民主主義派は、このプロレタリア騒動を汎スラヴ主義の陰謀、チェック人の煽動とみなし、首謀者の逮捕に踏み切る(100)。これらの流入プロレタリアはスラヴ人、ツンフト業者は土着のウィーン子と(101)、人々の頭のなかでは無意識に色わけがなされていたのである。騒ぎは一時収まったが、ほどなく再燃する。今度は休みの日や雨の日にも賃金を払えというのである。さらに労働者は肉屋やパン屋を襲撃する。肉屋は一ポンドの肉をはかるのに骨をつけてハカリにのせるし、パン屋はおれたちには腐ったパンをよこす、というのが彼らの言い分である。だが、このパン屋自身潰れかかっていたのだから(102)、「恩知らずな」彼ら労働者に対する市民の不満と憎しみは、暴発寸前となる。ほどなく、この「意識せざる反動」国民軍は労働者鎮圧のために、小銃どころか大砲まで引きずり出して、グラシーで労働者と対決する。しかし、学生が労働者のなかにはいって、かろうじて六月のパリの再現は回避された。だが、ここにはすでに、ヨーロッパのだれもが知らぬ間に、「ウィーン・コミューン」の可能性が成立していた。革命の執行機関治安委員会が、市民的反動を切ることによってそれに踏み切る、ことができなかっただけである。
ふたたびベルリンに話をもどす。三月の変以後、八月にかけてベルリン市内の情景もまた一変した、といえる。貴族やブルジョアジーは「アナーキー」を恐れて姿を見せない。以前なら、王宮近くに現われただけでたちまち警官につかまったような連中が、ウンター・デン・リンデンをわがもの顔に徘徊し、パイプをくゆらしながら街角の壁に貼られた公示文や檄文を読みふける。紳士淑女の街ウンター・デン・リンデンがいまや「政治的街角」として喧騒に包まれる。警察国家の信奉者はこの「アナーキーな賤民のふるまい」に激怒する。ベルリン国民議会の議長ウンルーも言う、「ときどき労働者が辻馬車に乗っているのを見かけた、彼らは国や市の作業場でたいして苦労もなく多くの金をかせぎ、つけあがっていたのだ(103)」と。労働者に対するこうした一般的反感と憎悪のうえに乗って、やがて市民軍自身の手による自主規制的しめあげが始まる。市民といっても別に金持ではない。素朴な民衆のなかから、意識的に警察の下請機関が登場する。四八年のドイツの新聞記事をしばしば賑わす「コンスタープラー」がそれである。ベルリンのコンスタープラーは、イギリスの原型のように短い棒をもつのではなく、青い上衣を着て、サーベルをぶらさげている。ついこのあいだまで律儀な働き者だった靴屋のおやじが、ある日何を思ったか、いきなりコンスタープラーの身なりをして街頭に乗り出す。こうしてベルリンはいたるところコンスタープラーだらけ、四歩も歩けばコンスタープラーにぶつかる。ベルリン中が、どこに行ってもこの人民警官に見張られた監獄となる(104)。たとえば三月十八日のバリケードの英雄、旋盤工グスターフ・ヘッセも、やがて国王への忠誠をコンスタープラーの制服で示そうとする。
だが、この小論では、ベルリンとウィーンの市民と労働者の破滅的衝突を描くまえに、ひとまず、四八年におけるプロレタリアートの一般論を扱っておかねばなるまい。
二 大衆的貧困としての死霊
ウィーンの十月革命の敗北後銃殺されたローベルト・ブルムは二巻からなる政治学辞典を編んでいるが、そのなかの「大衆的貧困」(Pauperismus) の項目でこう述べている。「この死霊、すなわち全階級の貧困化は、いまや老いさらばえたヨーロッパをすみずみまで忍び歩く。この貧困化はイギリス、フランスおよびベルギーでもっともひどい形で現われたが、困ったことにドイツにも、とりわけ工場の多い地方に現われている(105)。」人々の背に忍び寄る「死霊」は、ここでは「共産主義」ではなく、「大衆的貧困」である。そしてとりわけここで私がとりあげねばならないのは、一八四六年秋から一八四九年にかけてのヨーロッパをとらえた飢餓状況である。シュターデルマンなども言っていることだが、「近代的意味での工業プロレタリアート」はここには、少くともドイツには、なお存在していない(106)。それにもかかわらず、「大衆的貧困」は一八四〇年代後半のドイツ社会をとらえ、「プロレタリアート」もまた新たに吹き出た社会の癌として識者の口の端にのぼる。この時期には、大衆的貧困とプロレタリアートという新たに生れたこの双生児を論じたパンフレットもまた、次々と世に送られる。しかもそのなかで、プロレタリアの生活実態を具体的に描き出した文章は無きにひとしいのに、その存在と弊害を外から抽象的に論じたものは、それこそいくつあるか、その数を正確につかむことすらできない。目には見えぬが、しかしその存在だけは疑えぬ死霊の出没に、人々はおののき、脅えるのである。では、そのプロレタリアートの正体は、いったい何だったのか。
フライリヒラートにならって言えば、大衆の奴隷となって詩やドラマを書こうと、学問的賃仕事でギリシャ語やラテン語を教えようと、ひたいに汗するかぎり、「彼もまたプロレタリアだ」(一八四六年)ということになるが、もちろんこの詩人的定義はここでの論の展開には関係がない(107)。だが、この時期のプロレタリアートにかんする世人のイメージもまた決して統一的ではない。もっぱら肉体労働によって糊口をしのぐ無産の労働者、世人はプロレタリアという言葉のもとに必ずしもそのように了解していたわけではない。たとえばディトリヒは、そのプロレタリアの定義を古代ローマの場合から出発させる。周知のように古代ローマではプロレタリアは第六の最下層の階級であり、一五〇〇小ゼステルツ以下しか財を所有せず、金銭や現物ではなく子弟《プロレス》を兵として差し出すことによって国家にたいする義務をはたす。ディトリヒは一五〇〇小ゼステルツを十九世紀中葉の七五ターラーに換算している。これだけあれば、十九世紀初頭の貧民なら、五人家族でちょうど一年暮す(ディーテリツィの計算によれば、一年間一人当りの消費量を貨幣額になおすと、一八〇五年は十四ターラー十八ジルバーグロッシェンである)。一年食えるだけの財を持ったプロレタリアートなど、本来の貧民とはいえない。ディトリヒはこの定義のうえに立って、現代のプロレタリアを肉体労働によって賃金をもらい生活する者と規定したうえで、それを「貧民」から区別する(108)。ここでいう貧民とは、廃疾者、労働不能者、怠け者、放浪者、乞食、やくざ、売春婦、犯罪者等々である。
しかし、プロレタリアートを手工業職人や工場労働者とほぼ同視したこの規定は、当時の人々のプロレタリア観と一致もしなければ、また当時のいわゆるプロレタリアートの実態にもそぐわない。むしろ、ディトリヒが「貧民」と呼んだものこそが、実態的にはこの時期におけるプロレタリアにほかならなかった。ここでは工業化はまだ本格的に始まってはいない。それにもかかわらず、五十年代以降急速に発展する工場にやがて吸収されるべき労働人口が、ここでは一種の産業予備軍として大量に滞留していた。その意味でそれは「潜在的・可能的」プロレタリアートだったのである。プロレタリアートは、部分的には手工業者層から、つまり都市内部から形成されるだろうが(たとえばゾンバルトのいう「プロレタロイデ」として)、しかし賃労働の圧倒的部分はその温床を都市共同体の外部にもつ。そして、よりよい暮らしをあてにして都市に流れつく彼らは、手工業からはもちろん、工場からも閉め出される。したがって、「開始されつつある労働運動はもっぱら職人的労働者の、すなわち『肉体労働階級』のうちでも資格をもった少数者の仕事であった。この少数者はその自覚においてプロレタリア的ではなかった(109)。」たしかにベルリンでもウィーンでも、そういえたのではないか。
コンツェの著名な論文によると、この時期の社会的階層転換は「賤民」P喘el から「プロレタリアート」への展開ということになる。だが当時の状況にあわせて別な言い方をすれば、それは「ゲジンデ」(僕婢)から「ゲジンデル」(下民)への転換と言えるだろう。「賤民」が共同体のなかでいかに下層であろうと、ともかくも身分的な、しかも共同体にとって不可欠な存在として、伝統的な身分制秩序のなかに位置づけられていたように、「ゲジンデ」もまた、とりわけ農村の身分的共同体においてははみ出しものであるどころか、むしろなくてはならぬ労働力であった。だがそれら賤民や僕婢が既成の共同社会にとって不可欠な構成員でありうるのは、それらが共同社会にとって「適量」に存在するかぎりにおいてである。だから、身分制社会は多くの場合、家庭をもちえず、独身を続けざるをえないという形で、彼らの生殖を制限する。しかし、彼らがなおかつ数的に増大し、しかも生存の権利を要求するとき、この自足的で自己完結的な生活圏は破れる。こうしてたとえば革命期のウィーンでは、身分的都市共同体の内部から生じたのではなく、むしろその外部から既成秩序のなかへなだれこもうとした労働者が「下民」と呼ばれ、さげすまれ、差別され、そして恐れられる。そもそも下民すなわちゲジンデルとは、主人のもとから逃亡したゲジンデのことであった(110)。そしてこのゲジンデルが当時の人の目には「プロレタリア」と重なりあって映じたのである。――「フォルク」という言葉すら、ベルリンにおいてはしばしば同種の蔑称であった(111)。
したがってこのプロレタリアートは「内的にいかなる階級にも属さない」「社会的に故郷を失った中間層(112)」である。それは流民となり、棄てられた農村労働者である。彼らの状態を描いた記録は少ないが、その数少ない例外的文献からいくつかの情景をぬき出してみよう。ここで描かれているのはオーストリアのルンペン的下民、いわゆる「ラッツァロニ」である。著者はいう、この連中ときたら、農民層にはいるのか、それとも市民的身分に属するのかさっぱりわからない、戦野にある兵士のように明日をも知らぬ暮しを続けており、二日も食べないでいればたちまち泥棒の仲間入りをする、その数はヨーロッパのどこの国でもおそろしいほど増えている、彼らの大多数は放浪癖が体にしみつき、たえず奉公口を変えては転々とし、稼ぐためならどんな仕事もいとわない、かせいだ金は飲み屋や女郎屋で使いはたす、等々。こうした「乞食、プロレタリア、貧民」は「大規模な機械工場、工場、鉱山、精錬所、鉄道、蒸気船等によって」職を失った者であり、ペテン師、泥棒、人殺しの予備軍である。かといって、少くともいまのところは、農村を脱け出したこれらの過剰人口を工業に吸収することはできない。だから乞食も大量に生れる(113)。――ウィーン近郊の乞食がどんなにあつかましく金をまきあげるための手練手管をそなえているか、よその人々には想像もつくまい、「強健な若者たちの集団」がぞろぞろと列をつくって流れ歩く、なかには農民とすっかり顔なじみになって綽名までもらった奴もいる、乞食はときには「組織的におこなわれ、怠け者の手工業徒弟までもが金曜ごとに仕事を休んで」仲間入りしたりもする。乞食とならんで売春があるのはいうまでもない。売春婦のなかには貴族だっていないことはない。彼女らは商売用に官吏の住所録まで備えつけ、毎朝新聞のニュースを読んで、金のありそうな外国人のウィーン来訪を調べる等々(114)。
おそらくはこれらの漂泊的「下民」とかなりの程度重なりあって、ウィーンを含むニーダー・エスタライヒ州(当時のウンター・デル・エンス)に流入する他国者は、オーストリアの他の地方にくらべて圧倒的に多い。ベッヒァーの人口統計によれば(115)、一八四三年のウンター・デル・エンスの場合、現住する土着民の男女総数は一、一九四、二三七人、他国者の男女総数は二二一、四五八人、したがって住民中流入した他国者の比率は約十五・六パーセントである。しかしオーバー・エスタライヒ州(当時のオプ・デル・エンス)の場合、その比率は約四パーセント、まったくの農業地帯ガリツィアにいたっては約一パーセントである。他方他国ないし他州へ流出する者の数が多かったのは、つまりプロレタリアートの温床の一つであったのは、ボヘミアであった。以後革命期にかけて、ここで示された傾向はおそらくは急激に鋭く表われることになろう。
フィオラントはウィーンのプロレタリアを次のように描く(116)。ウィーンになだれこんだプロレタリアの温床は、土地所有と領主権がもっとも強く結びついていたボヘミアであった(したがって、ベルリンのプロレタリアのかなりの部分がシレジア、ポーゼン出身であったように、ウィーンではプロレタリアの過半数はスラヴ人農民であった)、ボヘミア農民は賦役、十分の一税等々の負担にあえぎ、しばしば「じゃがいものみで暮し」、次男以下の農民子弟は僕婢ないし農村プロレタリアートとしてすら、もはや故郷に生存の場を見いだすことができない。こうして彼らは各地の工場や鉄道建設工事場に溢れ、池掘り、取入れ等の雑役人夫として、楽師として、群をなしてさまよう。ウィーンの市外区には「餓えきってやつれはてた労働者が密集し、夜ともなれば、うら若い、まだ子供ですらあるような工場勤めの不幸な少女たちがグラシーや堀端に溢れ、数グロッシェンでだれにでも身をまかせる」。これら「工場奴隷」の陰惨な貧困はとくに冬期には信じがたいほどのものとなる。フィオラントは下水道に住む貧民について述べている。「夏だろうと冬だろうと身にまとうものがないにひとしいものだから、昼間はずっと下水道に身をひそめ、夜ともなると、新鮮な空気を吸いこみ、いくばくか稼いで飲み食いするために、押込み強盗を働らき、それからプラーターや貧しげな飲み屋をうろつきまわる、そうした寄るべなき人間が大勢いた。私は以前厳寒期にある警部を勤務先にたずね、その控え室にちょうどいっしょにつかまえられたばかりのこうした穴居人種をおそらくは二十人ほど見かけた。彼らは垢と汚物でかさぶたでおおわれたようになった体にぼろぼろのシャツと亜麻布のズボン下をはいているだけだった。体のどこもかしこも素肌がのぞき、足には防寒用にボロが巻かれ、頭をおおうものは何一つなかった。これまでウィーンではこれに似た身なりをした者は見かけたことがなかったが、警部の話を聞いて、このような不幸な人々が下水道にはまだ多数ひそんでいることを知った。彼らがこのような暮しにどうやって耐えていけるのか、とても理解できることではなかろう。」有毒ガスが充満して死の危険もある下水道にもぐりこみ、底をさらって散歩用ステッキだのスプーンだの金目のものを拾い集め、あげくのはてに警察に「詐欺罪」でつかまった労働者もいる。「プロレタリアートは法の庇護をなんら受けなかった。自分たちに課せられたくびきのもとで彼らは歯ぎしりしていた。抑圧者にたいする憎しみがその胸をみたしていた(117)。」
やがてモビール部隊として(つまり居住区をもたないから、どこにでも配備される兵として)ウィーン革命の武装勢力の中核となるこのプロレタリアが、主として(つまり零落した手工業者をのぞいて)都市の伝統的な手工業者でもなければ、また、さしあたってまだ、都市周辺に新たに定着した工場労働者でもなかったことは、明らかである。それはむしろ、フリードリヒ・ハルコルトの規定に近い存在だったのだろうか。「私がプロレタリアと言うのは、子供の頃両親にほったらかしにされ、体を洗ってももらえなければ、髪をすいてももらえず、しつけられもしなければ、教会や学校に行けと言われたこともない者のことです。彼は自分の手職も身につけず、文なしのまま結婚し、自分と似た子を世に送り出します。この子供は子供で、隙あらば他人の持ち物に手を出そうとし、自治体の癌となっています。どうして自治体がみずから、この囚人予備軍をなくすためにもっと心をくばらないのでしょうか。さらに私がプロレタリアと言うのは、立派な両親に育てられながら、大都会の誘惑でだめにされた者たち、日曜日よりもブルー・マンデーの方が神聖だと考えるようなぐうたら者や大酒飲み、法や秩序など大嫌いな改悛の情なき放蕩息子のことです(118)。」もちろんこれは身分秩序に組み込まれた「律儀な労働者」とははっきり区別された存在である。多くの場合このプロレタリアは、過渡的かつ流動的存在として、都市の生活秩序から排除されているだけでなく、農村の最下層の生活圏からすら閉め出されている。それはもはや「僕婢」ですらなく、あるいはまたしばしばアインリーガーなどといわれるような農村の日傭労働者ですらない。たとえば当時のもっとも依拠するにたる統計学者ディーテリツィが、「労働のみで暮す者」の数の増加についてふれながら、「わが国では農村にプロレタリアはいない(119)」と言う場合、このプロレタリアは自分の故郷にすら生活基盤を失った流民を指しているのであろう(120)。
三 賤民かプロレタリアートか
この時期においてプロレタリアートがなお工場労働者のカテゴリーにはいらず、その賃労働がなお資本制的生産諸関係のなかに直接組みこまれていなかったとしても、だからといって彼らが「前近代的な」プロレタリアートであったとは必ずしもいえない。プロレタリアートが当時はなお近代的大工業に吸収されていなかった以上、大衆的貧困もまた工場制工業の発達や産業革命の展開に直接的原因をもつものではなかったかもしれない。しかし、だからといって大衆的貧困の発生理由が都市の外部に、また工場制工業生産とはまるで無縁であるかのような自足的経済圏のなかに求められるわけではない。この点でいくつかの意見を例にあげてみよう。たとえば前述のディトリヒは、プロレタリアートと大衆的貧困層とは必ずしも同じではないけれども、工業発展と貧困の増大は同じ軌道を進んでいる、と考える。つまり、貧困指数は工業発展の指数と正比例し、農業発展のそれとは反比例する、だからまた大衆的貧困は都市の特産物だ、というのである。もっとも彼はそこから議論を脱線させる。大衆的貧困と工業化が結びついている以上、それに悩むのも文明諸国なればこその話で、主人が農奴を食わせるロシアなどには貧民も乞食もいない。しかし、「全国民が乞食のように貧しい。専制君主以外だれ一人として所有をもたない硬直したアジア的専制主義の諸国でも同じである(121)。」だから西欧文明諸国の課題は、専制でも奴隷制でもない人道的な途をとおって乞食や貧民をなくすことだ、と彼は主張する。
だが、議論をもとの軌道にのせよう。多数意見は、ディトリヒとちがって、大衆的貧困の理由を工業化の進展のなかに求めるのではなく、むしろそれが未発達であることのなかに見いだす。その意見を代表するのは、たとえばヴェルナー・コンツェであろう。彼は、この大衆的貧困が工業労働の低賃金に起因するものではなく、むしろそれは、工業化以前にすでに別な条件のもとで進行しつつあった過剰人口を、当時の工業が吸収しきれなかったことによる、と指摘する(122)。たしかに、工業化が本格的に展開されはじめた一八五〇年代にはいれば、大衆的貧困にたいする怨嗟の声も世人の耳から遠ざかる。前に引用したオーストリアの「大衆的貧困」にかんする匿名の著者もまた、ベッヒァーの人口統計にもとづきながら次のように指摘する。「オーストリアにふたたび目を投じてみよう。統計の示すところによれば、最近の数十年間に人口増加は比較的上層で豊かな階級よりも下層の貧しい階級からはるかに多く生じたのであり、とくに農村でも都市でも私生児の数が増大した。……過剰数はほとんどプロレタリアから成る(123)。」しかし、今後工業が吸収力をもちさえすれば、これらの過剰人口も恐れるにたりない、というのが、この著者の結論である。
まえにもふれたように、身分制社会においては賤民はきわめて狭隘な――なお自然的に制限された――生活の場しかもちえず、その増殖もまた社会的に制限されていた。たとえ営業の自由や移動の自由が与えられたとしても、少くとも都市における賤民が生殖をとおして他の諸身分とくらべて急激に増え、市民社会の胎内に市民社会そのものの命とりの癌をつくりだすことは、まず考えられない。「賤民」が市民社会の内部で「プロレタリアート」に転化するのは、ごく一部の話である。言うまでもないことだが、本来的なプロレタリアートは農村の自己完結的循環体系の崩壊をとおして、つまり農民の生産手段からの分離をとおして創り出される。「共同体の諸条件は一定量の人口とのみ調和しうる」(『経済学批判要綱』四九八頁)ものである以上、いまや自由な労働者となった過剰人口は、大衆的貧困を背に担って故郷を離れる。だが、問題のこの時期においては、たしかに彼らはその意に反して資本にとらえられない。しかしそれにもかかわらず、彼らが「プロレタリアートの温床」を追い立てられたのは、商品経済の浸透による農民の階層分解によってであり、また彼らが故郷を棄て、流民化したとしても、当初から無目的ではなく、多くは都市の工場で労働力を売るためであった。そのかぎりでは、彼らもすでに近代的存在だったのである。
もちろん同時代のパンフレットのいくつかは、大衆的貧困と工場制工業との不可欠の関連を指摘する。たとえば一八四五年の一パンフレットはこう述べる。「ゆたかな中産層が衰えていくと共に、貧富の対立がいよいよ鋭くあらわれてくる。もちろん、それが目に立つ度合もところによって異なる。とくに工場地帯においては、それはますます度を増し、少数の金持の工場主とならんで無数の貧しい工場労働者がしばしば極度の貧困のなかで見いだされる。そしてかの自立的中産層はまったくといってよいほど消えてしまったのである(124)。」さらに革命期ウィーンで刊行された一パンフレットの筆者は、プロレタリアートを「賤民」と同視しながら、しかもまた「大工場のないところにはプロレタリアートも存在しない(125)」と明言する。
もっとも、大衆的貧困が近代的工業から生じたことを否定する見解とつながって、四十年代における大衆的貧困そのものを否定する考えもある。たとえばシュターデルマンは、「およそ一八三〇年から一八四五年にかけての時期は世界史上もっとも幸福な時期だった」という一牧師の記録を「理由のないものではない」としたうえで、十九世紀の労働者の生活が精神的に改善されたばかりか、物質的にも目に見えて向上したと指摘する。彼によれば、たしかに一八四六および四七年には物価騰貴、人口増加、失業によって都市の労働者や農村の日傭労働者の賃金水準が最低線を割ったという報告が各地から出てはいるけれども、「しかし工場労働の領域では賃金は一般的に急速に上昇し、手工業や手間賃労働者の場合よりはるかに生計費に見合っていた。したがって生活諸条件の全般的悪化の責を工業の出現のせいだと主張する人があるならば、それは見当ちがいであろう(126)」というのである。労働者の生活状態を統計的に扱った同時代資料もいくつかあるが、ここではそれにはふれない。しかし、工場に吸収されることのできた労働者は、この時期の大衆的貧困のなかでは幸福な例外だった、ということは指摘しておかねばならない。
同時代文献のなかにも、シュターデルマンと同じ論旨が見いだされないことはない。ドロンケの『ベルリン』やエンゲルスの『イギリスにおける労働者の状態』における共産主義的プロレタリア論を批判したシャイトマンの小著がその一つである。彼はイングランドの統計的数字に例をとりながら、「工業が労働者を犠牲にして進歩したなどということはない」、実質賃金は下ったどころか、むしろ上ったではないかと主張する。たとえば一八一六年から一八四四年にかけて織工の賃金は二十パーセントしか下っていないのに、生活必需品、たとえばキャラコの値段は七十パーセントも下った、実質賃金についていえば、一八〇四年には七四労働時間で一一七ポンドの小麦と六二・五ポンドの肉が買えたのに、一八三三年には六九労働時間で二六七ポンドの小麦と八五ポンドの肉が買える、捺染綿布の生産量は、一七九六年を一とすれば、一八一四年は六、一八三〇年は十七である、「それでもなお共産主義者は、プロレタリアの衣料が半世紀前よりわるいなどと、われわれを非難するのだろうか(127)」。もっともこの著者の数字の出所も明らかでなく、それにこの数字はイギリスを対象にしているから、この大衆的貧困否定説をそのまま受けいれるわけにはいかない。それよりも、大衆的貧困=過剰人口=プロレタリアートの定式を多少なりとも数字的に検証しなければならない。
多分に短絡的だが、大衆的貧困の直接の理由としてしばしば挙げられるのは当時の異常な人口増加である。まずその点を検討しよう。レーデンやディーテリツィによれば、プロイセンにおける人口は一八一六年を一〇〇として一八四三年で一四九・三となる。つまり、その約二七年だけで約一倍半に増える(128)。あるいはディーテリツィの数字にしたがって計算してみると、一八〇五年を一〇〇として、一八一六年一〇五・八、一八三一年一三五・六、一八四三年一六一、一八四六年一六五・六となる。オーストリアの場合も、人口増加の趨勢は基本的に同じである。たとえば、一平方マイルあたりの人口密度は一八一八年を一〇〇として、一八四三年ボヘミア一四〇、モラヴィア一四五となっている(129)。あるいは一八三四年から四三年にかけての増加率を百分比であらわすと、ガリツィア十一・二、沿海諸国十・八、ハンガリー八・四、ボヘミア八、ニーダーエスタライヒ七・三である。同じ十年間に帝国全体については三四、〇四七、五八三から三七、四九一、一二〇へ、すなわち約十パーセント増加している。では都市についてはどうだろうか。まずウィーンの場合、人口は十八世紀においてもたえず増えているが、一八二〇年代にはいると増加テンポははげしくなる。一八一六年の二四万が一八三七年には三三万に、一八四三年には三七万に増える。(130)しかし、統計によって部分的に見られるかぎり、市内(城壁内の本来的都市共同体)の人口は増加どころか、むしろ減少している(一八四〇年頃、市内人口は全市の人口の十四ないし十五パーセントにすぎない)。当然にそのマイナス分をふくめて三四の市外区で住民は増える。しかも市外区の住民のうち、近年地方から転入した者の比率は一八三七年で四十パーセント、一八四〇年には四三パーセントにのぼり、しかもこの傾向は革命直前の飢餓の年に向けておそらくは雪崩的につよまる。そのうえ、地方から来る流民がまず住みつくのはリーニエの外、つまり市外区の外の周辺地域であって、この頭数は都市の人口統計のなかにはいってこない。「リーニエの近くの、というよりしばしばリーニエの外の、はるか辺鄙な市外区に、屋根の低い建物が立っている。みすぼらしい、小さな、天井の低い部屋があって、その雰囲気は、吊された洗濯物、台所からはいりこんでくる煙、不潔な幼児等々でひどくすさんでおり、外壁は濡れ、窓は破けて風が吹きこみ、外を馬車がガタガタ通り過ぎるたびに天井からすぐにほこりが落ちてくるし、すぐに雨もりがしてくる。家具はみすぼらしく、ガタガタで、テーブルが一つ、椅子が二つ三つ、ベッドが一つか、せいぜい二つ(131)」等々。
ベルリンの場合も一八二〇年代以降急カーブを描く人口の増加傾向は同様である(132)。ここはウィーンのように市内、市外区、周辺地域がはっきり分けられてはいないが、流入民が城門の外に貧民街をつくっていた点ではウィーンと同じである。したがってベルリンの場合もまた、十九世紀の人口増は自然増よりも、むしろ外からの流入による。革命後ではあるが一八五一年についてみれば、転入三〇、五一七、転出一六、九八七、差引増一三、五三〇となり、また転入者のうち約九三パーセントは「非自営民」つまりプロレタリアである(133)。
もちろん五十年代にはいるや急速に展開する資本制的生産を支える賃労働の担い手は彼ら以外になかった。しかし多くの同時代人の眼は彼らを近代化=工業化の担い手としてはとらえない。彼らの眼からすれば――コンツェらの見方も結局は同じだが――大衆的貧困=人口増加という社会の癌は、下層民の異常な繁殖力によってつくり出されたのである。都市であろうと農村であろうと、プロレタリア的下層民は身分的共同体の維持にあたって不可欠な要素であると共に、必要以上のその増殖はこの共同体に対する内部反乱を意味した。ところがいまやこれらプロレタリアは農村から離脱して、都市の市外区や周辺地域に住みつき、市民的共同体の存立そのものを脅かし始めた。こうしてたとえばギーセンの一経済学者は、自治体《ゲマインデ》の自由と自治を守る鍵はプロレタリア問題にあると説き、他国者にたいしては転入税(自治体で生計を営むための一種の資本)を課し、財産および生業によって生計を立てうる能力の証明を提出させ、また転入者で結婚しようとする者には家族扶養能力を証明させるよう提案する(134)。またディトリヒは、一八四二年に新聞紙上で「プロレタリアの若年結婚の禁止」を提案し、さらに、「プロレタリアは他の身分層よりはるかに増え方がひどい」のだから、やがてはその数が他の諸身分をあわせたものと同じくらいになってしまう、そうなれば社会のピラミッドは崩されるではないか、だからこのふしだらな連中に対しては男三十歳、女二四歳まで結婚を制限せよ、と主張する(135)。一毛織物工場主も負けじとばかり提案する、このような飢餓が国民全体にひろがらないために、定職のない「のらくら者や柔弱者」などは、南欧か、アメリカ、オーストラリアに送り出すか、少なくともこの連中に夫とか父などと呼ばれる資格を与えてはならぬ(136)、と。さらにもう少し例をあげよう。一八四八年九月ベルリンに「社会政策的改良協会」が発足する。これは、賦役の廃止を打ち出そうとする国民議会に反対するための地主の圧力団体である。彼らの認識は地主的であるかぎりで一貫している。彼らは言う――いまの有産者社会を、そしてまた「所有」を根底から脅かしているのはプロレタリアートと大衆的貧困であろう、だが、この両者を生み出したのは「流動資本のとめどもない支配」ではないか、つまりそれらは農民の賦役の廃止や農業における自由な賃労働の創出の結果、あるいは農業生産が貨幣流通や商品流通にまきこまれた結果生れたのではないか、だが、ともかくもふくれあがった貧民を始末せねばならぬ、そのために「結婚は自治体首長の許可をまってはじめておこなってもよい」こととし、「肉体的・精神的・道徳的に堕落した住民」が「無制限に自由移動したのではすべての自治体の存在が脅かされる」から、それを当面禁止すべきだ、と。(137)ドイツにも貧乏人の子沢山という議論はある。「これは永遠の循環であって、高賃金のせいで結婚することになり、そのせいで何人か子供ができ、そのせいで賃金が下る、貧困の最初の環に他の多くの環が鎖のようにつながる。」「子沢山こそプロレタリアの死活問題である(138)。」
この人口増加と関連して私生児の出生がいちじるしく増加する。フンメラウアーは、人口約三十万のドイツのある鉱山地域で庶出子が出生総数の約三分の一であることを示している(139)。彼は言う、父を知らず、しばしば母の愛にさえ欠け、教育も受けず、人を愛し、尊敬し、感謝することを知らぬこれらの不幸な者たちこそ、社会を破滅させる因子である、と。ディトリヒの数字もプロレタリアートの出生率の高さを示そうとする。一八四三年のプロイセン全体では、新生児十三人中一人が私生児、さらに十三人の産婦の内訳はプロレタリア八、プロレタリア以外の諸身分五となり、五のうち四は中産階級(すなわち市民、農民)、一は上流階級、しかしこの上流階級の種はしばしばプロレタリアの畑に蒔かれる。そして私生児を生むのは通例下女(僕婢)かグリゼッテ(女工など、貧民出身の女を妾にしたもの)である、等々。もちろん大都市においては私生児の出生率は高い。同じくディトリヒによれば、一八四三年のベルリンの出生数一一、六三四(ただしレーデンによれば一一、九四〇)のうち、嫡出子九、八〇八を一〇〇とすれば、私生児一、八二六は一八・六二となる。他の都市について同じ百分比を求めると、ブレスラウ二五・二五、ボン一八・七一、ケーニヒスベルク三〇・八八となる(140)。オーストリアはどうか。地方によってその差は歴然とする。南スラヴ人が一種の家共同体のなかで生活していた地方では、私生児の比率は三ないし四パーセント、軍事的境界地方などはわずか一パーセント強であった。ところがニーダーエスターライヒは私生児一に対し嫡出子三ないし四の比率、一八四五年のウィーンにいたっては、私生児一に対し嫡出子一・〇八、つまり生れる子二人に一人が私生児であった(141)。
さらにこれらの社会現象と売春は密接につながっている。ある警察官の調査に基づいた『ゲゼルシャフツシュピーゲル(142)』誌の論説によれば、ベルリンには売春婦は一万人いる。ベルリンの全人口は約三五万、そのうち女は十七万、しかしそのうち売春可能な十七歳から四五歳の女は八七、三〇〇だから、ベルリンの女性の八人に一人は売春婦だということになる。この著者によれば、ベルリンには一万人の売春婦のほかに、梅毒患者一万、下女一万八千(内四分の一は売春とはいえなくとも身をゆだねる)、私生児二千(嫡出子一万一千)、犯罪者一万二千(内一一、六〇〇は現在警察の監視下にある)、もぐり滞在者一万二千、授産所寄留者一千、救貧院から月額二ターラーの扶助を得ている者六千、保護児童二千、孤児一、五〇〇、貧窮病人六千、乞食三千から四千、刑務所囚人二千等がいる。総計すると、市の全人口の四分の一となる。しかもその数は年々激増する。地方からベルリンにやってくる女性は、一八三五年には一、五〇〇だったのに、一八四五年には五、八二四人に達した。売春の形態もさまざまであり、公認の娼家のほかに、ダンス喫茶、非公認娼家、酒場、浴場が客をとらえる場となり、さらに街娼、副業的売春婦(主として下女)がそれに加わり、こうしてベルリン的ウィットをこめて「私講師」Privatdocentinnen と呼ばれる女性たちが横行することとなる(143)。
プロレタリアート(ないしは賤民)の弊をのぞくために、最後に論者たちはプロレタリア追放を主張する。ウィーンの一論者によれば、彼らの増殖の原因は、首都の均衡を失した拡張(禁令(144)を犯してウィーン周辺部に多くの工場が建てられた)、その拡張地域をめざした地方からの人口大量流出(とりわけ無産の農民)、工場建設と機械導入の結果増大した大衆的貧困、過剰人口、教育の欠如等にある。こうして論者は、工場こそ大衆的貧困の元兇だという認識に立って、「遊堕で、あぶなかしく、生業のない流れ者を取り押え、追放」せよと主張するにいたる(145)。追放せよ、とまでは言わなくとも、多くの識者は、流出したプロレタリアートを再度農業へ連れもどす手段を講じる。当時しばしば提案された植民もその一つである。「貧民耕地」の提案もある。自治体が耕地を確保し、貧民に無償で耕作させるか、あるいは救貧局が貧しい労働者に耕作させ、その収穫物を貧民に分配せよ、というのである(146)。またみずからオーストリアの農場主であったフンメラウアーは、僕婢や労働者の状態の改善のために現実的な、しかも部分的には革命的な政策提案をおこなうが、しかし彼が、賦役などの強制労働の廃止、大農地の分割による適正規模の自作農ないし小作農の創出、工場および工場労働者の農村への分散、失業工場労働者の農業への吸収を主張するとき(147)、それが現実的効果をもち得たとはいえない。植民、分割地、労働人口を中心とした都市と農村の再編、こうした提案や施策がすべて無為に終ったことは、同時代にベッヒァーの指摘したところであった(148)。
この未定形なプロレタリアートについて、これ以上あれこれと論じることはあるまい。それはもちろん若きマルクスが頭に描いたような、あの理論化されたプロレタリアートではない。だが当時のマルクスはドイツのプロレタリアートの実態などおそらく何一つ知らなかっただろうに、彼がプロレタリアートをとらえて、「市民社会のいかなる階級でもないところの、市民社会の一階級」と規定するとき、それはプロレタリアートの歴史的な存在形態を天才的に予示してはいる。
四 労働者暴動と革命の死
さて八月二三日、ブルジョア的スローガンのうえに打ちたてられたウィーン革命はこの日音を立てて崩れ去る。市民がプロレタリアを大量虐殺することによって、革命そのものを窒息死させたのである。八月にはいり、「下司ども」の「けしからん」要求すら抑えられぬ治安委員会などあてにならぬと、役所や市委員会はいまや明らかに面従腹背の姿勢をとる。ドブルホフ新内閣の成立と共に民主的ジャーナリスト、エルンスト・フォン・シュヴァルツァーが公共労働大臣を引き受け、八月十八日公共土木労働者の五クロイツァー賃下げに踏み切る。事実、市の財政もまた崩壊寸前だったのである。
賃下げはさしあたり女と子供(十二歳から十六歳まで)を対象としたから、さっそく二一日市内で「女のデモ」が始まる。革命機関に接収されて公共労働省となっていたリグオリ派修道院のまえに集ったプロレタリア女は、昼をはさんで十時から一時まで暴れ廻った。サルヴァトーア・ガッセから市庁舎を突き抜けて、これまた民衆憎悪の的のユダヤ人広場に出、武器庫に沿ったフェルバー・ガッセをとおって、十月に軍事大臣ラトゥールが吊されたアム・ホーフ広場に出る。大臣の内意を受けて説得に馳けつけた学生運動のリーダー、フュスター教授もまるで相手にされない(149)。二〇〇人の治安衛兵に騎兵まで出動する。いうまでもないが、ここで騎兵というのは市民階級のエリート中のエリートである。プロレタリア女たちはあらんかぎりの悪態を並べる。揚句のはてに騎兵めがけて体当り、さしもの騎兵も後退する。そのうち石や煉瓦が飛ぶ。彼女らは衛兵のサーベルを奪おうとし、なかにはナイフを持ち出す者もいる。事態がここまできた以上、国民軍が堪忍袋の緒を切って、サーベルの鞘を払ったのも当然ではないか、と保守系各紙は口をあわせて報じている(150)。学生の手になるある檄文には次のように書かれる。「労働者事を起す!――アム・ホーフすでに突入さる――ショッテン門襲わる――どの家からも国民軍飛び出し、集合地点へ向う、警報鳴る――暴動だ――市の城門は閉鎖――グラシーには五万人集まる――一部は見物人、一部は市へ入らんとする人びと、市は戦時のようなおもむき、しかもバスタイ〔城壁上の稜堡〕からは、とくにショッテン・バスタイからは、いまにも火を吹かんとする砲口が、どれもこれも大口をあけて民衆をにらんでいる(151)。」大臣シュヴァルツァーは女たちの要求を拒否、いつでもスコップとつるはしを持ってやって来い、と見得を切る(152)。
こうして二三日を迎える。事件の舞台は土木労働者のたむろするプラーターである。運河をへだてた市外区レオポルトシュタットは、十七世紀までは、市に居住することを許されなかった「ユダヤ人の街」であり(153)、プラーターはそのさらに東北にある。この日の午後、労働者の暴動を警戒して、プラーターとその近くのターボアへ六名ずつの治安衛兵が出動する。ところが、ターボアで突然彼らは石と棒で労働者に襲われ、一名重傷を負った(といわれる)。やったな、ということで一六〇名の歩兵と十五名の騎兵、さらに第五区の国民軍四十名が加わってプラーターへ勇躍出動する。彼らはそこで荒れ狂った「野獣」に迎えられた。それ以前にブリギッテナウで労働者は墓を三つ立てた。真中の墓は賃下げされた、かわいそうな五クロイツァーを弔うため、両側の二つの墓は国民軍の偉い人に生きたまま入ってもらうため、ということで丁重に花を供えた(154)。そのうえでプラーターに押し出し、まず労働大臣シュヴァルツァー閣下にそっくりの藁人形をこしらえ、口に五クロイツァー貨をくわえさせて、ロバに乗せて引き廻し、最後に火葬に付した。さて次に大衆請願だ、ということで二時頃市内へ向おうとイェーガー・ツァイレ(現プラーター・シュトラーセ)の入口へさしかかったところで、国民軍にぶつかった。これからあとも諸説紛々である。労働者は何一つ手出しせず、武装してもいなかった、と民主主義派が言うと、いや彼らは蜂起を計画していた、ほとんどのスコップの先は鋭く研がれていたではないか、多くのつるはし、スコップのほか、矛状の鉄具のついた棍棒四〇〇本が発見されたではないか、と保守派は反駁する。三十歩から四十歩の距離で対峙し、デモ中止を命じる国民軍に石が投げられる。悪口の言いあいのなかで、この野郎黙れということで、労働者は市民の一人の口をこじあけて、例の五クロイツァー貨を突っこんだ。こうして騎乗した市民はやむをえず、あるいは武者震いして、サーベルを抜き、労働者のなかに斬り込んだ。くもの子を散らすように逃げまどう労働者に一斉射撃が加えられた。プラーターは皇帝の猟場だったところだが、これは「人間狩り」ではないか、と「一労働者ヒルシュ」は絶望的な筆致で書いた(155)。イェーガー・ツァイレに住むある馬具師の伜は、「見てろよ、いまあいつにトンボ返りさせてやるから」と言いながら、逃げまどう老婆を射ち倒した(156)。ある者は泣き叫んで哀願する子供の指を三本はねた(157)。乳飲み子を抱えたまま命乞いする母親も容赦なく斬り倒された。七人の子を持った母親も民兵の狙い撃の的となった。ターボアまで逃げ帰った労働者を衛兵は追撃し、彼らの作業場まで突入して、暴行と逮捕を続けたのである。市民の連中は女や子供まで虐殺したではないかという非難に対して、『ウィーン新聞』は反論を加える、彼らの作業場には五月末からいかがわしい女どもが多数出入りしていたから、今度の負傷者のなかに女がいてもふしぎではない、しかもそういうことであれば、七十歳のばあさんや乳飲み子を抱えた女など、作業場にいるはずがないではないか、と(158)。国民軍は、ぶんどった労働者の旗を振り、血にまみれたサーベルをかざして、レオポルトシュタットをとおり、市内に凱旋した。市内の女たちは、窓からハンカチを振り、熱狂的に万歳を叫んで夫や息子たちの勇気をたたえた(159)。――念のために言えば、ウィーン革命の死活をかけた十月のバリケードにはこれら市内の市民は参加しない。
労働者はいったい何人殺されたのか、それについても、さまざまな臆測や報道が飛びかう。(160)帝国議会の大臣報告や地方に流された公示文によると死者六名、また『ウィーン新聞』紙上の公式発表によると、病院に収容された負傷者数は男五四、女十、死者六であった。うち二十歳代が大多数で、約五十名、十五歳以下はゼロ、職業は日傭労働者と自称職工が大部分、あとは雑役、治安衛兵の側は負傷十三、うち重傷二であった(161)。だが、それから三日後、労働者の屍体が十八もドナウ河からあがったと報じられる(162)。そこで別な発表によると、労働者側重傷一五二、軽傷一三〇、死者十八、治安衛兵および国民軍側重傷八、軽傷四八、死者一となる(163)。
翌二四日、治安委員会はなすことなく茫然自失、みずから解散した。こうして革命の執行機関は失われ、「ウィーンの暫定的・共和制的統治形態(164)」はここに終った。フィオラントがのちに議会批判の一書で、「この日、八月二三日から民兵と労働者のあいだに分裂が生じ、この日ウィーンにおいてはじめて Bourgeoisie と Ouvriers が問題となった(165)」と述べるとき、彼もまた、ウィーンを訪れたさいのマルクス同様、パリの階級闘争を思い描いたのであろう。だが、八月のウィーンに六月のパリの再現を望むことはできなかった。なによりプロレタリアに武器がまだなかった。帝国議会では、ドブルホフの国民軍の行為を正当化した報告に対して、フィオラントが市内民兵の暴力を弾劾し、むしろ市委員会こそ解散すべきではないか、と迫る(166)。他方その市委員会は、国民軍の「断乎たる、また慎重な措置は賞讃に値する」と考えるが、いま文書で国民軍を表彰などしては火に油を注ぐようなものと考え、口頭で国民軍にその意をつたえた(167)。内閣は三万もの労働者を遠い僻地の鉄道建設現場に流した。このとき以後、ウィーンでは公共土木労働者の話題はもはや人の口にのぼらない。しかしもちろんウィーンでは、このプロレタリア劇の終幕は「十月革命」の「賤民支配」をまたねばならない。十月革命についての叙述はのちに譲る。
ウィーンの数万のプロレタリアが最初に武装し、バリケードの戦列についた十月十二日、まるで合図が送られたかのように、ベルリンのプロレタリアの陣営にも火の手があがる。ケペニッカー・フェルトで運河掘りをしていた労働者が三〇〇〇ターラーもする水揚げ用の蒸気機関をぶちこわしたのである。このベルリン・ラダイットも、機械で自分たちがくびになると思ったからである。そこで市民軍が一人十発ずつの弾を与えられて作業場近くの訓練所に配置される。衝突が起るのは十月十六日である(この事件についてもくわしく報じた資料は少なく、しかも報道の内容はまちまちである。ここではシュプリンガー、ルーゲ、シュトレックフース、『新ライン新聞』による民主派の側からのとぼしい材料を利用する)。シュトレックフースの多分に手前勝手な推測によれば、反動は市民(中間派)が民主主義者に接近するのを警戒し、労働者に金をつかませて煽動し、市民と左派の分断を計ったというのである。その真偽のほどはわからない。この日労働者は午前中は静かに働いたが、昼休みに組長の誕生祝いだということで、(別な記事だと、新任組長の就任を祝って)「団結は力だ」という旗印をつけた赤旗を先頭にデモを始める。彼らは市民軍の姿を見ると、万歳とか何とか、一応友好的に歓声を送った。ところが市民軍は労働者などのげびた連中にからかわれたと思って怒り出す。あるいは、ルーゲの『日記』によれば、労働者が示した親愛の情を彼らはにべもなく拒否する。「おまえたちがおれたちの仲間になりたいだと。ルンペンじゃないか、おまえたちは(168)。」言い争いは小ぜりあいとなり、市民軍大尉のパン屋親方シュルツがサーベルを抜いて労働者に斬りつけ、手に傷を負わせる(169)。シュルツ親方もしまったと思ったのだろう、最初は金で示談にしようとするが、それでは収まらず、ついに全面衝突となる。続々と応援に馳けつけてくる労働者の武器は石であった。銃剣では支えきれず、市民軍はついに発砲した。労働者は、夫に昼食を運ぶ途中の女性をふくめて十名とも三十名ともいわれる多数の者が倒れ,そのうち三名は息が絶えた.労働者はいったんは逃げたが、ふたたび戻ってきた。彼らは大急ぎで棺台をつくり、それに屍をのせて、口々に復讐と呪いの声をあげながら、仕事を放棄して市内へ向けて繰り出した。
労働者暴動起すとの報で市内に警報が鳴り渡り、市民軍総出動となったのは午後二時である。どの店も戸をとざし、野次馬が街に飛び出した。死体を担いだ労働者の群は王宮の裏をとおって市内を練り歩いた。彼らはモンビジュ広場に出ると、カール大公の城を守る二四連隊の衛兵を取りかこんだ。衝突寸前で、リッペルトという下士官が労働者を説得するのに成功した――私たちは職務上ここを守らねばならないのだが、ほんとうは君たちの仲間なのだ、と。それなら死者に弔意を表わせ、と労働者が要求すると、リッペルトは兵に命じて、労働者の棺に捧げ銃の礼を払った。よほどの劣等感の裏返しなのだろうか、労働者はすっかりいい気持になり、口々に二四連隊を賞めそやしながら、オラーニエンブルク・シュトラーセをさらに進んだ。ボルジックの機械工場では、機械製造工にも仲間にはいれと呼びかけたが、彼らは丁重に断った。しかし、あとで彼らは次のような声明を檄文で発表した。「市民と労働者のあいだに新たな争いが生じる場合には、われわれは全員武装せずに、兄弟の団結の守護者として、争っている党派のあいだに割ってはいろう。われわれの屍をこえないことには、同士討ちへ導く不幸な道は通じない。だが、もし反動が自由の大義に対して公然たる闘争を挑んでくるならば、――そのときこそ、市民および労働者諸君、われわれは武装して君たちの戦列に加わるであろう(170)。」たしかに機械製造工は間もなく約束を実行した。その日からいくらもたたない十月三一日,革命ウィーン包囲砲撃さるの報でベルリン市内が騒然としたとき、市民軍と民衆の衝突が再発した。そのとき機械工は白旗をもってなかに割ってはいり、市民軍の暴行によって一名の死者まで出した。だが、それは後日談である。この日労働者が仲間の遺体を、市民軍によって占領されていた王宮に運びこんだのは、午後五時頃であった。
他方、市民軍の攻撃に対抗するために、労働者もバリケードをつくった。場所はケペニッカー・シュトラーセ、ドレスデナー・シュトラーセ、ノイエ・ロス・シュトラーセ、アルテ・ヤーコブス・シュトラーセであった。いずれもケペニッカー・フェルトから市の中心部へ向う途中にある。バリケードといっても、五月と十月につくられたウィーンのそれは、大砲にも崩れないものが多かったが、このベルリンのバリケードは子供だましの代物だった。なかでもましなのは、ノイエ・ロス・シュトラーセとアルテ・ヤーコブス・シュトラーセの角に、労働者が糞尿車と大樽でつくりあげたバリケードである。労働者は武器商を襲い、あるいは市民兵を脅して剥ぎとるなどして、わずかながら銃を入手していた。ヴァルデックやベーレンツら議員の説得も効なく、また民主主義者の調停もむなしく、市民軍の第十大隊がこのバリケードの攻撃に移った。バリケードに勇敢に赤旗を押し立てた若い労働者は市民軍の弾に仆れ、赤旗を奪おうとしてバリケードに突入してきた市民軍の大尉で、宮廷御用の金メッキ工シュナイダーまでも、うしろから飛んできた味方の弾で頭を射抜かれて死んだ。この日の負傷者は何人かわからない、少くとも死者は労働者十一名、市民軍一名であった。遺体はすべて王宮に運びこまれた。冷たい雨が降ってきたのが幸いしたのだろうか、やがて群衆は街から姿を消し、バリケードは夜の十時頃までに労働者自身の手で撤去された。
衝突はこれで終った。翌十七日昼頃、約二〇〇〇人の土木労働者が黒・赤・金の旗二二本を掲げ、ジャンダーメンマルクトに集まった。何本かの旗は赤と金の部分が切り裂かれ、黒地のみを残していた。ここでも銃をもった市民軍がまわりを固めた。労働者は議会に請願し、市民軍の犯人の取調べと処罰、公費による葬式、遺族の生活扶助、負傷者手当、この二日間の賃金支払いを要求した(171)。二十日、労働者、国民議会左派、市民軍、民主クラブ等の共催で、また市の費用負担のもとで合同葬儀がおこなわれた。棺はオペラの正面階段におかれ、その下に旗と銃の森ができた。行列はフリードリヒ・シュトラーセ、ハレ門をとおって、フリードリヒスハインの墓地へ進んだ。この日もまたベルリンは暗く曇り、濡れるような冷たさであった。
ウィーンにおいてヴィンディッシュグレッツの無差別砲撃にさらされて数千のプロレタリアがバリケードの石を赤く染めて仆れたのは、このベルリンの葬儀の数日後であった。そしてそれからさらに十日後、ウランゲルの軍隊が、人を小馬鹿にしたように、軍楽隊を先頭にベルリンの城門をくぐった。さあ決戦だ、と思った者も多かったが、あにはからんや市民軍は一発の弾も射たず、プロイセン軍を迎えた。そしてそのあと、私がここで描こうとしたあのプロレタリアートは、歴史の表層に二度と姿を現わさない。
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ウィーン革命と労働者階級
一 意識されざるプロレタリア革命
一八四八年ウィーン革命は、プロレタリアの血を内包した暴力的民主主義革命である。スローガンはブルジョア的である。だが、その文字はプロレタリアの血によって書かれている。だからウィーン革命の歴史は「下民」の屍のうえに立てられた記念碑だといわざるをえない。さらに、ウィーン革命のスローガンはドイツ的でもある。それはドイツ人によるドイツ革命であることを欲した。だが、「下民」は血統などに縁はない。事実ウィーン革命は、敵も味方も非ドイツ的なスラヴの血によって塗られていたのである。「西欧的」ドイツの歴史家が眼をそむける事実こそ、われわれの観点の土台石とならねばならない。
マルクス自身がはっきりと感じとっていたように、ウィーン革命とハンガリー革命は一八四八年のヨーロッパの運命を決めた。一八四八年十月ウィーン革命が数千人のプロレタリアの死をもって終わったとき、そして全西欧の革命勢力がウィーンを見殺しにしたとき、反革命は全ヨーロッパの革命勢力に致命的なくさびを打ちこむことができた。一八四九年八月ハンガリーの祖国防衛軍がロシア軍を主力とする国際的反革命勢力のまえに屈せざるをえなかったとき、ヨーロッパにおける革命の可能性は幻のように消えた。では、ウィーン革命の内実はいったい何だったのか。革命をこの局地的条件のなかに限定するかぎり、それは自覚的なブルジョア革命であると共に、すでに「意識されざるプロレタリア革命」でもあった。ウィーン革命史の常識に逆って、私は敢てこのように断定することからこの小論を始めねばならない。
一八四八年五月二六日、ウィーン全市は文字どおりバリケードの要塞と化した。皇帝がインスブルックに逃走したあとのこのウィーンを、ラディカルな議員エルンスト・フィオラントは人びとの意識せざる共和制と呼んだ(172)。だが、意識せざる共和制が事実存在していたとすれば、それはすでに「意識せざるプロレタリア革命」の可能性をはらんでいたのである。少なくとも一八四八年のウィーンにおいては、立憲君主制の枠をくずさずに遂行しようとする民主主義と共和制的民主主義のあいだには原理的断絶があった。一八四八年のブルジョア革命のスローガンは主として前者であった(173)。革命が君主の中立性を認容し、君主制の枠内での権力移動に終始しようとしたかぎり、革命は依然として「合法的」途を歩んでいると、ブルジョアジーはみずから慰めることができた。その場合何をもって合法としたのか。人民の意志か。もちろん違う。皇帝という一人格の裁断である。しかもこの場合、精神薄弱な皇帝の裁断が、すなわち人格的決断能力をもちえない人格の裁断が合法か非合法かを定める物指しとなったのである。こうして側近政治が革命の帰趨に大きな影響を与えることとなった。このように人民主権の原理を徹底させえなかったブルジョア革命は、その非一貫性のゆえに、それ自身の内部にみずからを否認する分子を育てざるをえなかった。こうして、ブルジョア的原理にもっとも忠実なものが実は非ブルジョア的なものとして現われてくる。だから、ブルジョア革命内部でブルジョア革命を否認したものはもはや共和主義者ではない。「無自覚な」、したがって「非人格的な」プロレタリアートでなければならなかった。
このブルジョア革命の出発点である三月においてすら、革命を革命たらしめたものはプロレタリアではなかったか(174)。住むに家なく、最低賃金を得るための職もなく、パンも買えず、果実を主食に餓えをしのいだ彼らをのぞいて(175)、革命の担い手はどこにいただろうか。しばしばパンと水で餓えをしのいだ学生とプロレタリア化の瀬戸際に立った手工業者が彼らの同盟軍ではなかったか。運動の表面に浮かび出たスローガンのみによって革命の実態を規定することはできない。
一言をもっていえば、ブルジョア革命を遂行することはそれ自体ブルジョア革命の否認を意味したのである。さらに、ブルジョア革命の否認的要素が東欧と南欧における民族解放闘争と切り離しがたく結びついていた点については、分析を他の機会にゆずらねばならない。
二 ウィーンにおけるマルクス
では、マルクスは一八四八年のウィーンをどう見ただろうか。彼は八月末から九月にかけてウィーンに滞在する。彼が正確にいつウィーンに着き、いつウィーンを発ったか不明である(176)。ウィーンでの彼の活動のうち、はっきりわかることはただ二つ、すなわち民主主義協会と労働者協会に出席した事実である。
まず民主主義協会の議事とマルクスの発言についてふれてみよう(177)。八月二八日マルクスはユリウス・フレーベルと共に民主主義協会へ顔を出す。当日の議題は五日前の、つまり八月二三日の労働者虐殺事件であった。事件の詳細はあとで述べる。要するに、ウィーンのブルジョア的市民が労働者を大量に殺傷し、そのことによってブルジョア革命としてのウィーン革命は、みずからの胎内の「毒素」を摘出しようとしてみずから生命を断ったのである。民主主義協会の議事を進めたのはヘーゲル主義者ヘルマン・イェリネクだった(彼はのちに銃殺される)。イェリネクは最初にサン・シモン主義者シュティフト男爵を指名し、意見を求めた。シュティフトは次のように述べた。公共労働大臣シュヴァルツァーは以前はたしかに私たちの同志だった。だがひとたび大臣になってからはシュヴァルツァーの心はもはや民主主義のうえにない、と。彼を大臣の椅子からひきずりおろさねばならぬ、その点では全員意見が一致した。だが、彼をやめさせる手続について意見がわかれた。一つは議会に請願する途、一つは皇帝に代表団を送って皇帝の決裁を仰ぐ途である。この意見の分裂こそ、革命末期において革命の命脈を断ったのである。すなわち人民主権の原理を議会において貫徹させるかぎり、議会こそ人民革命の合法的基盤であらねばならない。それにもかかわらず、議会はたんなる立法機関であり、行政的執行機関である内閣は皇帝によって任命される以上、皇帝の意志に合法性の基礎をおくべきだ、という主張もあった。むしろそれが多数意見だった。ベルリンの民主主義を代表したフレーベルは、「皇帝にお願いにあがったからといって、必ずしも非民主的とはいえないでしょう」と述べることによって、ブルジョア的非一貫性をみごとに体現した。マルクスはおそらく鼻でせせら笑っただろう。彼は発言した。「だれが大臣だろうと、どうでもよいではないか。パリ同様、いまここで問題なのは、ブルジョアジーとプロレタリアートとの闘争ではないか。」
マルクスに反論したのはイェリネクである。――パリとウィーンはちがう、ウィーンの労働者は社会的見解など持たず、八月事件においてもただ五クロイツァーの賃下げに抗して闘ったにすぎないのだと(178)。イェリネクのみならず、当時のほとんどすべてのブルジョア民主主義者は、労働者を無自覚なものとしてとらえる。彼らによれば、四八年革命は徹頭徹尾ブルジョア民主主義の理念につらぬかれており、労働者はただその餓えを革命の動力に転化させただけだ、理念的には労働者は没存在である。しかも、このブルジョア民主主義革命一元論(179)は、当時の民主主義者が共有した虚偽の意識だっただけではない。その後の革命史家もほとんどそれを継承する。一八四八年におけるウィーンの労働者はなお組織も階級意識も持っていなかった、彼らの念頭に階級闘争はなかった、とする見解が現段階における四八年革命史家の多数意見であろう。ウィーンの労働者が、一部の手工業的労働者をのぞいて、なお組織を持たなかったことは事実である。だが、階級意識をはたして持たなかったかどうか。方向性が与えられていなかっただけではないか。ウィーンの「十月革命」を描き出し、それに色彩を与えれば答えはおのずから出てくる。十月、彼らが主戦部隊として編成され銃を与えられたとき、それだけで革命はブルジョア革命のスローガンと内実を乗りこえてしまったではないか。保守的革命史家のいう「賤民支配」がそこにみごとに出現したではないか。たとえ三日天下であったにしても。
いずれにしても、そしてまた当然のことながら、ウィーンの民主主義協会ではマルクスの意見は受けいれられなかった。次にマルクスは八月三十日と九月二日の両日にわたって労働者協会に出席する。彼は最初の日は「労働者、とりわけ国外のドイツ人労働者について」、パリの労働者革命、イギリスのチャーティストについて講演し(180)、二度目の機会に賃労働と資本の講義をおこなう。いずれも労働者協会のメンバーにはまったく理解されなかった。(181)というより、彼の考えは意識的にはねつけられた(182)。協会機関紙『労働者新聞』や民主主義者の代表的機関紙『コンスティトゥツィオーン』は、マルクスの講演内容を正確に伝えなかったのみか、彼の名を揃いも揃って Marks ないし Markes などと誤記する始末だった。革命の都ウィーンで組織的足がかりを、ないしは『新ライン新聞』の財政的支援を得ようとしたマルクスの意図はむなしかった。
三 マッセン・プロレタリアート
ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争こそいまのウィーンの問題なのだ、とマルクスが語るとき、彼は八月段階において異常に尖鋭化した状況を、言いかえれば革命そのもののプロレタリア化を感じとっていたにちがいない。だが、マルクスは誤認してもいた。というより、一八四八年八月段階のマルクスが右のような単純なテーゼのみを語るわけはないから、ウィーンの民主主義的新聞によって報じられたマルクスの発言はあまりに無媒介だった、ということになろう。かつてマルクスが「ドイツ的みじめさ」として定式化したドイツの非近代性・階級的雑居性は、ドイツ以上にオーストリアにあてはまった。そこではなお近代的二大階級の対立として社会的矛盾が展開されてはいなかった。たしかにウィーンに数万のプロレタリアは存在した。しかし工業化がなお展開されていないこの時期には、産業の予備軍は永久的予備軍であった。その多くは日傭労働者であり、ルンペン・プロレタリアであり、地方からウィーンに流入した流民であった。プロレタリアートが一つの「産業的定在」としてブルジョアジーと階級的に対立する場はなお未成熟であった。そのうえ、マルクスがウィーンにおいて足がかりとした労働者協会は、のちに述べるが、エリート労働者の特権意識に支えられた組織であった。それは市民層と対等合併する権利を主張しこそすれ、プロレタリアを自分たちの仲間と認めることを嫌った。
マルクスがそれらの事態を認識していなかったわけはない。だが、経済恐慌と政治革命が跛行的に進むなかで、権力側のもっとも恐れたマッセン・プロレタリアがその幽鬼のような姿を現わしてきた。多数の手工業者がプロレタリアに転落した事実もあろう(183)。だがそれ以上に、砂糖を求めるアリのようにこの革命の都にプロレタリアが流入したのである。その多くはおそらくは非ドイツ人である(この点を論証する一次資料を私は持たないが、この事実はウィーン革命の性格を解明する一つのキー・ポイントである)。政府は苦慮する。そして財政難にもかかわらず、ウィーン近郊(とりわけプラーター)に公共的土木事業を起こし、そこにプロレタリアを吸収しようとする。後年の歴史家はこの政策を致命的失政と考える(184)。だが、ほかにどのような途があったか。商品販路の閉塞、資金難、異常な物価上昇、食糧難、失業、家賃高騰等々を伴う経済恐慌のなかで成立したブルジョア革命は、当然にそれ自身の命とりとなるべき鬼子を胎内に抱いていた。しかも、人民の「労働する権利」もまたブルジョア的平等理念の礎石である。だから、五月のバリケードのなかから生まれた革命の実質的執行機関「治安委員会」にとっては、たとえ国費の濫費であろうと、労働者の働く権利を擁護することは彼ら自身の存立要件だった。
五月、公共労働省が設置され、また治安委員会と市委員会――両者は決定的に対立していたが――の双方から八名ずつ委員が送られて、労働者問題委員会がつくられた(185)。六月二八日には、賃率と労働細則(186)が定められた。要するに政府、市当局、革命執行機関の三者共、このプロレタリア対策に全力をあげて取り組んだし、取り組まざるをえなかったのである。この公共事業の労働者数は五月始めには六〇〇〇人から七〇〇〇人であったのに、五月末には二万人に達した。それ以後も八月にいたるまで増加し続けた。市民の目から見れば、彼らは怠け者の群であった(187)。その存在そのものが社会悪であり、切除せねばならぬ病毒であった。苦しまぎれに五月三十日市委員会は、ウィーンの外から流入した者まで市が世話するわけにはいかないから、それらの者は追放すると言明し、治安委員会すら、理由もなく従来の勤め先をやめて公共事業に申しこんだ者は処罰すること、手工業者、工場主、農民に呼びかけて労働者を傭わせ、それを拒否した労働者は公共事業から締め出すことを決議した。だが、決議したものの、実行は不能だった。六月にはいると、しばしば騒動が起きた(188)。パン屋と肉屋――彼らはユダヤ人と共に餓えた民衆の憎しみの直接的対象となる――襲撃は日常茶飯事であった。六月末には賃上げを要求した労働者と、それを鎮圧しようとした武装市民軍が衝突寸前の状況を呈したのである。
七月、内閣がかわる。新政権で公共事業を担当したのは、民主主義的ジャーナリスト、エルンスト・フォン・シュヴァルツァーだった。法務を担当した「バリケード大臣」バッハと共に、シュヴァルツァーはこの不徹底なブルジョア革命の矛盾を一身に背負うこととなる。国家財政の破綻をとりつくろうため、八月十八日彼は公共事業労働者の賃下げに踏み切った。裏切りとも言われ、挑発ともみなされた。労働者、学生、急進的民主主義者は揃って批判のほこ先を彼に向けた。二一日のデモに続き、二三日労働者はプラーターで集会を開き、シュヴァルツァーの人形に賃下げ分の五クロイツァーをくわえさせ、ロバに乗せて引き回し、焼きすてたのち、隊伍を組んで市内に向かおうとした。プラーターを出る間もなく、市民軍との衝突が生じた。どちらが先に手を出したか、それは問題ではない。動かしがたい事実は、手工業者をふくむ市民が銃を持たぬプロレタリアに発砲し、逃げまどう労働者を馬に乗ったブルジョアがサーベルで斬りまくったということである。彼らは女も年寄りも、子供も見境いなく斬った(189)。「血も涙もない悪魔の狩り」ではないか、と労働者ヒリシュは書いている(190)。イエスの名を呼びながら絶望的に逃げまどう「人間ウサギ」を「畜生め、この生れ損い」と罵りながら、あるいは鼻歌まじりに斬ったというのである。労働者側の死者十八名(191)、重傷一五二名、軽傷一三〇名であった。このとき、ウィーン革命はその理念において、すなわちブルジョア的理念において死んだ。唯一の人民的革命機関治安委員会はその責任を問われるまえにみずから解散した。この死の屈辱のなかでプロレタリアはただ耐えるのみで立たなかった。
四 特権的労働者と下民労働者
マルクスがウィーンに着いたのは、ウィーン革命のこのような転機においてであった。この転機において、ブルジョア的市民層と労働者とのあいだに憎しみを秘めた対立が生まれてきたであろうことは疑い得ない。ウィーン革命内部における本質的矛盾はそれであろう。だが、それだけではない。労働者内部においても水と油の要素があった。それは、ウィーン革命史とそこでの労働運動史を理解するための一つの鍵であろう。
最初に、労働者協会(正式には「最初の全ウィーン労働者協会」)の機関紙『労働者新聞』に植字工ヒリシュが書いた特徴的な文章をとりあげねばならない。彼は「ウィーンの四万の労働者の名において」労働者が他の階層と「等しい尊敬と等しい権利」を受けるべきだと主張する。
「三月以前だけでなく、八月二三日以降においても、労働者は貴族連中によってばかりか、ウィーンのブルジョアジーの一部からも『下民』とさげすまれてきた。」「彼らは『労働者』という言葉を聞くと、公衆のまえでつばを吐きかけてきた。……彼らは飲食店や喫茶店で、市内や市外で、『労働者新聞』の売子を心理的にいびり、侮蔑し、この新聞を買った者までも、それによって彼らのいう労働者下民[#「労働者下民」に傍点]を援助したということで侮辱したのだ(192)。」下民すなわちゲジンデルという言葉は、市民的秩序のなかに受けいれられていない流民にたいする差別の響きを伝えている。ヒリシュは、ブルジョア革命の枠内で労働者の市民的同権を、すなわち人間的同権を要求したのである。だが、問題はむしろ次の点にある。
すなわちヒリシュは、他の労働者新聞『ダス・ヴィーナー・アルゲマイネ・アルバイターブラット』の創刊号に次のような呼びかけをのせる。「仲間たちよ、ここ数日来『下民』(プロレタリア)と呼ばれる者のうちの正真正銘の[#「正真正銘の」に傍点]下民が、市内や市外で戸別訪問し、近く催そうとしている大行進のさいの旗を買うのに使うという嘘八百の口実で、金を集め、ねだり、ゆすっている。」君たち労働者ならびに手工業者はいまや困窮のためやむなくこれらの「正真正銘の下民」と肩を並べて日傭いの身になっているけれども、また「これらの粗野で卑賤で唾棄すべき人間」と同類とみなされて肩身のせまい思いをしているけれども、しかし君たちはいつかまた君たちの手職にもどるのだ。「労働者身分を恥じさらしにするこの正真正銘の下民を君たちはこれ以上のさばらしてはならぬ。その恥じさらしなふるまいを続けさせてはならぬ。放棄しておけば彼らを助ける[#「彼らを助ける」に傍点]ことになるのだから。君たちはこれらの連中を抑える道義的な力なのだ。そうした力として君たちは勝利するだろう(193)。」ここに示されている労働者間の矛盾はウィーン革命の副次的矛盾かもしれない。しかし、それはオーストリア労働運動史の出発点を形づくった組織の性格を明らかにすると共に、おそらくはウィーン革命の悲劇的性格を強めたものではないか。革命のなかで最初の労働者組織をつくり、機関紙(194)を創刊した労働者は、政治的権利においてブルジョアの仲間入りしようとしながら、「正真正銘の」プロレタリアを一段も二段も見下していたのである。しかも、おそらくは民族的偏見と重ねあわせながら。
特権的意識がもっとも強かったのは印刷工であった。印刷工はオーストリア労働運動史における最初の組織を「自分たちの力で」結成する。三月前期においては、労働者の自立的な、しかも個々の企業の枠をこえた産業別組織は、唯一の例外――これまた印刷工の相互扶助組織――をのぞいて存在しなかった。したがって、三月革命がオーストリア労働運動の事実上の出発点である(195)。四月三〇日、印刷工によって「最初の労働者協会が結成された」。だが、大会の報告のなかにわれわれは次のような言葉を見いだす。「植字工、書籍印刷工および活字鋳造工は、その技術によってウィーンの労働者のなかでもっとも知的であり、今回の前進によって他の労働者仲間にたいして、ちょうど学問研究者が他の市民にたいして持っているのと同じような地位を占めるにいたったのです(196)。」もちろんこの大会はオーストリアの労働運動史にとって画期的意義をもった。それは泥沼のような隷従のなかからはじめて労働者の「統一と団結」を呼びかけ、王制を全面的に否定はしないまでも、人民統治の原理を打ち出したからである。「人民が統治する国家では、事を決めるのはもはや個人ではなく、大衆であります。大衆が考え、大衆がかじをとり、大衆だけが何事かを遂行するのです。」だが、彼らの民主主義的発想はこっけいなほどブルジョアにこびることによって成り立った。彼らの規約を見れば明らかである。彼らは「人民武装」を打ち出しているけれども、それは「われわれの先輩が中世においては学者なみに扱われ、きわめて重要な諸特権を与えられていた」という事態をとりもどすために、われわれも市民なみに武装したいというのである。さらに大学にお願いして自分たちは「アカデミー兵団」に編入させてもらおうと主張する(四四条)。しかも彼らの協会は、少なくとも規約においては、「雇主」をも会員のなかにふくめていたし(三〇条)、「雇主諸氏と友好的に協調していく」(二〇条)ことが協会の任務の一つであった(197)。
もちろん職人のすべてが「協調」精神にみちていたわけではない。三月末から四月にかけて、ほとんどすべての業種の労働者が労働時間短縮(十時間労働へ)、賃上げ(週に七グルデンへ)、徒弟数の制限、機械設置の制限、日曜祝日労働の廃止、婦人労働の制限、組合基金の職人管理等々を要求し、デモやストライキ予告などによって、少なくとも一時的にはほとんどすべての要求を獲ちとる。労働者組織だけでなく、運動の実質的内容からみても一八四八年は労働運動のあけぼのであった。
五 ブルジョア革命擬制批判
四八年ウィーン革命における労働者組織のなかでは、社会主義や共産主義は実践的にも理念的にも定着しなかった。六月二四日靴職人フリードリヒ・ザンダーをオルガナイザーとして結成されたオーストリア最初の労働者教育協会「最初の全ウィーン労働者協会(198)」にしても、その基本性格は前述の印刷工協会と大差ない。「われわれは正しくないこと、不当なことを望んでいるのではない。われわれは共産主義を望みはせず、正当な権利をもって要求しうることだけを望んでいる。すなわち他のすべての諸身分と等しい尊敬、等しい権利を望んでいる(199)。」『労働者新聞』創刊号のこの文章がウィーンの労働者協会の傾向を明白に語っている。さらに七月二二日金細工工アントン・シュミットが講演したように、彼らは「もっとも完全な憲法」のもとで万人の法的同権を望みこそすれ、「掠奪的・共産主義的理念を実行することによって幸せな人民をアナーキーの腕にゆだねる(200)」ことは欲しなかった。しかし、人民の立場から「もっとも完全な憲法」を追求すれば、国家体制の内実は人民一色に塗りつぶされ、君主制と人民主権の二人三脚は倒れざるをえない。ウィーン革命期のもっとも前進的な労働者と知識人は、こうしてまず共和主義に到達する。たとえば工場労働者の組織「急進的・自由主義協会」について、フィオラントは述べている。
「彼らが十月に向けて一歩一歩近づいていった最高の頂きは、純粋な民主主義的共和制であった。もっとも彼らはこうした願望をところかまわず吹聴したりはせず、仲間でない者のあいだでは民主主義的君主制を口にしていただけだった。しかし彼らは、民主制が勝利すれば君主制は崩壊せざるをえないことをはっきりと知っていた。いずれにしてもこの時代にはまだ民主主義的共和制を他の住民のまえで口にすることはできなかったが、彼らがこの共和制から期待したものは、たんに完全な正義だけではなく、万人が自由かつ平等の統治権をもつ以上自明のこととして、労働とパンだったのである。社会主義とか、いわんや共産主義など彼らは口にしたことはなかったし、少なくともそれに関連した考えは彼らのなかからは聞かれなかった(201)。」
おそらくはこの共和制はその原理の延長線上にアナーキズムをもったであろう。反革命と反動はもちろん不正確な意味で革命ウィーンをしばしば「アナーキー」と規定したが、事実八月から九月にかけてアナーキズム的変革構想がさまざまな衣裳をともなって革命の舞台に登場する(たとえば九月事件の原因となったスヴォボダ構想)。しかし、たんに共和主義というだけでも、ウィーンにおいては合法的基盤の排棄による革命の徹底を意味したのである。たとえば、ウィーンにおける「サン・キュロット」の言葉を聴いてみよう。彼は言う、われわれは反動が好きだ、なぜなら中途半端が大嫌いだからだ、われわれは反動を欲する、それは反動を皆殺しにすることができるためにだ(202)、と。社会革命の構想に欠け、暴力的路線に反対しながらも、少なくともこの「大逆罪的共和思想」は、「多年にわたって人民が諸侯の悦楽や不品行のために犠牲に共してきた数百万グルデンは、公共学校、労働者年金、芸術・文学のために使った方がましだ(203)」という考えまでは行きつく。
ウィーン革命期には数多くの労働者パンフレット(204)も出る。その大多数は現社会体制の枠内で労働者状態の改善を鋭く訴えてはいても、社会的諸関係の変革構想とは無縁である。だが、私の知るかぎり唯一の例外がある。テオドール・レークナーの『貨幣なき世界』がそれである。この小冊子はウィーン革命史研究のなかでまったく特異な文献であるにもかかわらず、従来の研究のなかで取りあげられたことがない。著者は従来の社会主義文献をなんら引用してはいないけれども、おそらくは本書をヴァイトリングの影響(205)のもとに執筆したと思える。著者はまず貧富の階級対立を描いたうえで、他人の「血の労働」を収奪する手段を貨幣のなかに見いだす。貨幣は「集積された他人の労働」である。ところが歴史的にみて、金銀が「一般的交換手段」として登場すると、それは「不自然に高い価値」をもち、貨幣の発生と共に交換の不平等が生じる。「貨幣は人類の不平等の原因であり、あらゆる害悪の原因である(206)。」(著者には価値形態論はむろんのこと、価値尺度としての貨幣機能の分析もない)。したがって、この著者にとってもまた、多くのユートピア社会主義者と同様、貨幣の廃止が問題解決のキー・ポイントなのである。私的所有(とりわけ不動産)や私的経営はしだいに国有化され、累進的所得税、司法の人民化が確立されれば、「貨幣なき世界」への展望が開かれるだろう。万人が等しく働き、生産物を等しく分配する「ゲマインシャフト」が実現されるだろう。著者のこの一般的構想は、ウィーンにおいてこそ例外的であれ、三月前期のドイツ初期社会主義思想を知る者にとっては別に目新しくない。しかし、彼が次のような現状に即した要求を提示するとき、部分的には「ドイツ共産党の要求」のウィーン版といえないこともない。一、下民(労働者)問題を担当する最高の審議機関を設置せよ。二、労働者の要求をとりあげ失業問題を扱う委員会を各地に設けよ。三、僧院を廃止し、その土地建物を貧民に解放せよ。四、労働者階級の教育・医療を無料にせよ。五、税は、有産者にたいする累進所得税以外廃止せよ。六、賦役、十分の一税を無償で廃止せよ。七、労働時間を最高十時間にせよ。八、議会は一院制にせよ。九、全人民に選び選ばれる権利を与えよ、等々(207)。
だが、この小冊子がウィーン革命の諸資料のなかで特に個性的なのは、それがウィーンにおけるブルジョア革命の擬制批判をおこなっているからである。彼は言う、国家は「すべての現存する不平等を維持することを主要任務としている」、現に在ることが、また現にあるものがそのまま権利となり、守るべき法の基礎となっている、だから、不平等を維持し拡大するものが法たらざるをえないと。――事実ウィーン革命においても、「私有財産の不可侵性」(たとえそれが貴族の財産であっても)、「秩序と平穏」ということがブルジョア的・小ブルジョア的指導者のスローガンであった。この著者はさらに進んで次のように分析する。「権利は平等である。だが国家においては権利は不平等である。『現実的な平等ではなく、可能的な平等』だと国家が言うとすれば、国家は次のように主張しているわけだ、『平等は現実的ではなく、不平等が現存する。それにもかかわらず平等(可能的平等)は存在する』と。つまり不平等が平等なのだ(208)。」つまり国家の言い分からすれば、「可能性における平等」、「法的平等」、「権利」(たとえば所有権)ではないが「権利をもつ権利」は万人に与えられている。「自由意志」にしても、「国家の法的意味」からすればだれにも与えられている。だが、パンも金もなく身の支えようのない労働者に意志の自由があるだろうか。この国家論がブルジョア国家批判であり、一八四八年のウィーンにおけるブルジョア的革命政府批判であることは一目瞭然である。「出版の自由、憲法、国民軍などで、餓えた者が一片のパンでも食えるというのか。……憲法のもとで暮らせるしあわせだと! 貧乏人は憲法草案を読んで、昼飯のかわりにするわけにはいかないのだ(209)。」
革命が進展していくなかでブルジョア革命の法的擬制は見るもむざんにばくろされた。十月末、反革命軍による数千発の砲弾の雨のなかで、革命ウィーンは死んだ。しかも実質的「下民」支配のなかで赤旗までもひるがえしながら。プロレタリアにとっては、プログラムも組織もなく、展望に欠けたアナーキーな革命だったかもしれぬ。しかし、ウィーン革命はその死の瞬間においてまがいもなく「プロレタリアの革命」に転化していたのである。
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V
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もう一つの十月革命
――歴史家とプロレタリアの対話として
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なおひざまずけるものなら ひざまずきもしましょう
なお祈れるものなら ウィーンのために祈りもしましょう
でも私たちは ひざまずき祈ることをやめてすでに久しい
私たちには 毅然と立つ夫こそだれより優れ
剣と槍をふるう手こそいともいとしく
戦いの歌を唱う唇こそこよなく好ましい
なぜになお哀願などするのでしょう 夫に銃をとらせなさい
いまはひたすら拳をかため 二度と手などあわすまい
手をあわすなど いまどきはやらぬ仕草
左手はさやに 右手はつかにかけましょう
左手は奴隷と悪者ののど首にかけ
右手で剣を高くふりかざしましょう
壮大な蜂起を 大胆不敵なたたかいを
世界史に ウィーンの切なる願いをかけるのです
さあドイツよ 決起するのです さあドイツよ 行動するのです
赤マントのクロアティア兵が突撃してくるというのに
ひづめの音がドナウの岸辺をふるわすというのに
シュテファン塔から白煙が立ちのぼるというのに
奴隷の臼砲からロケット弾が飛ぶというのに
行かないの そこへ もったいぶった北国の人たちよ
おっとり刀で行かないの
救援に 援護に そこへ赴かないというの
ウィーンを救うために 総員持場につきましょう
身のまわりをかたづけましょう 長期戦の構えで
イェラチッチを逐うために おまえの[#「おまえの」に傍点]イェラチッチを撃つのです
北でぶちかませば南でも打撃です
私たちの[#「私たちの」に傍点]オルミッツを倒せ オルミッツを背後からおどしましょう
もう秋となり 冷たい冬が近づいています
さあドイツよ 決起しなさい さあドイツよ 行動するのです
鉄路に汽笛が響き 電信は飛びかいます
なのにおまえは素知らぬ顔 なのにおまえは眠りこけたまま
巨人の死の闘いを横目で見て おまえはさながらでくのぼう
勇をふるっておまえが唱えるのは あわれげなブラボーの声だけ
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(フライリヒラート「ウィーン」
[#地付き]一八四八年十一月三日ケルンにて)
一 ラトゥール吊し首(十月六日)
―そう、あの日はウィーンには珍しく、空が透きとおるように晴れた秋日和で、どちらかといえば暖かな日だったよ。朝の四時半頃だったかな、戸をどかどか叩く奴がいる。だれだ、うるせえな今頃、起きなさいよ、あたしよ、なんだスーシーか、どうした、始まったわよ、何が、何だかわからないけれど、とにかく始まったわよ、警報の太鼓の響きが聞えないの、あんた寝ているひまなんかないわよ、というわけで、いよいよ来たかと思って、ドタ靴はき、ボロ・マントひっかけて外にとび出した。
―いよいよ来たかなどというところをみると、君はウィーン十月革命の突発をあらかじめ予想していたのかね。
―十月革命だかなんだか、そんなこと知らなかったけどね、何かが起る、それもどえらいことが起らなけりゃ、とうてい収まらねえ、ということは、八月の末頃からだれにもわかっていたさ。それにイェラチッチの手紙が街角に貼り出され、新聞にもくわしくのったし、ラトゥールが裏切りやがったというんで、街中大騒ぎだったからな。
―軍事大臣ラトゥールは議会でもイェラチッチとの結びつきを否認していた。ところが、革命ハンガリーを攻めているクロアティアのバヌス(太守)イェラチッチにラトゥールが軍資金を送っていたことが、暴露された。イェラチッチが九月二三日ラトゥールにあてた手紙が押収されて公表されたわけだ。暴露戦術に出たのは多分ハンガリーのアジテーター、プルスキーだろうな。革命政府の大臣が反革命と手を握っていた、陰謀だ、ということでみんないきり立つ。革命期にはデマ中傷をまじえた数多くのビラやプラカードが出るが、私の手もとにも、多分にセンセーショナルな筆者不明のプラカードがあるよ。
イェラチッチ、ラープにてルードヴィヒ・コシュートを射殺
[#ここから1字下げ]
われわれの首都に毎朝のように流れている流言蜚語は、われわれ善良なウィーン人の心をかき乱し、不安におののかせるのに少なからず役立っている。
フェルメンツェでクロアティアのバヌスが敗北したという報は、大きなセンセーションを呼び起した。だが、それは確かめられたわけではない。すべての事の真相は、ある党派が鶴首して待っているバヌスの作戦が当初の見込みどおりの急速な成果を収めず、クロアティア軍の右翼が適切に働かなかった、というだけの話である。
聞くところによれば、バヌスは声明を発し、彼自身は自由に反対する運動に手をかす気はまったくなく、彼の遠征の唯一の目的は、クロアティア人とスロヴェニア人をマジャール人の圧制から解放することであり、したがってイェラチッチがヴィンディシュグレッツと手を組む共同作戦などは、いま数多く巷間に流れている作り話の一つであるという考えを明らかにした、といわれる。
総司令官イェラチッチは、自由の敵貴族派に一大奉仕しようなどとは露ほど思わず、自分の民族のための愛国的目的を念頭においているだけだと、われわれも思いたい。しかしわれわれは、彼が悪しき幻影に心を奪われて、目的達成の手段を誤っていることをも指摘しなければならない。なぜなら流血の戦争は、それが王制の連邦のなかで生じるかぎり、民族の独立を戦いとるための確実な手段ではないからである。
第二の噂は次のようなものだが、われわれはまだ信じる気にはなれない。
ルードヴィヒ・コシュート射殺さる。熱狂的マジャール人、刺客の手に仆る。
ほんとうなら恐るべきことだが、いま述べたとおり、ほんとうだとは思わない。
自由の大義はいくぶんかぐらつきだしている。
だが、希望は依然としてわれわれの目のまえにある。望みを持とうではないか、望みを。(後略)
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]ウィーン、一八四八年十月
コシュート射殺などとはもちろん大デマだが、このプラカードの筆者は、この時期のウィーンには珍しく親クロアティアだな。
―まあともかく外に出てみると、民兵の連中が鉄砲持って駆け出していた。その一人をとっつかまえて、手っとり早く聞いてみた、火事はどこだってね。火事じゃないよ、ハンガリーに行けと命じられた軍隊が命令を拒否して、ごねだした、それでおれたちも反抗部隊を応援に行く、というわけだ。軍隊はターボアの北駅から出発するから、北駅をおさえようというのだ。そこでおれも北駅へすっとんで行った。
―君も小銃を持って行ったのか。
―おあいにくさま。そのときまでは「最下層の下賤の徒」には鉄砲持たせてくれなかったよ。もっとも、かっぱらって持っている奴はずいぶんいたけどね。おれたちはツルハシやスコップかついで行ったのさ。北駅へ行ってみると、みんなぶちこわせというのさ。そうと決まりゃ、こっちの独壇場だよ。ツルハシ使ってね、駅のそばのガードをぶちこわし、線路をひっぺがし、電信線をぶち切った。駅はもう使えねえ。そこで軍隊の指揮官はドナウのターボア橋を渡って、一つ先のフローリスドルフまで兵隊を歩かせようとしたわけだ。それもさせちゃならないというわけで、ターボア橋の橋板をひっぺがし、橋の上にバリケードをつくり、砲兵や騎兵を通れなくしたうえで、橋の向うの岸に国民軍がさあ来いと陣を張ったわけだ。歩兵の一部は指揮官の命にしたがって、バリケードを乗りこえて橋を渡ろうとしたけれど、向う岸に銃を構えた国民軍がいるのを見て、また引き返してしまった。ここで出発拒否の兵隊と国民軍が合体してね、ワイワイと大騒ぎだ。もっともおれたちはこのときはまだ軍隊と射ち合いまでするとは思わなかった。そのうち偉い人たちがなんとかするだろう、と思ってたけどね。学生はやる気だったね。
―資料によるとそうらしいな。『学生クリエ』紙のファルケとブーフハイムが中心になって煽ったんだろう。彼らは三月段階から事あるごとにビラを出す革命の双生児だった。のちに革命史の本も出したが。しかし、アカデミー兵団の司令官アイクナーは始めから逃げ腰で、その日も途中から消えたらしいね。私の手もとに革命敗北直後に出た軍事中央調査委員会の判決文が何枚もあるが、それをみると多くのリーダーが情状酌量されて死刑をまぬがれている。アイクナーの判決文をサンプルに挙げてみようか。
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告示
ヨーゼフ・アイクナー、ウィーン生れ、三十歳、カトリック教徒、既婚、肖像画家、元アカデミー兵団司令官は、起訴事実どおり、ハンガリー反乱軍と連帯せんとして全王政と立憲的王座の安泰を脅かした本年十月突発の蜂起に積極的に参加し、しかもとりわけ皇帝軍に逆ってターボア・シュトラーセの防衛を指導したことを自白し、明らかにした。
したがってヨーゼフ・アイクナーは、本年十月二十および二三日付公爵ヴィンディシュグレッツ元帥閣下の布告にしたがい、本月二一日付、二三日公布の軍事裁判により、刑法五三条および六七条を適用され、大逆罪および皇帝軍にたいする武力抵抗のかどで、絞首刑の判決を受けたが、この判決は本月二三日付シェーンブルンの勅令の意を体した元帥閣下によって減刑され、被告が九月騒動および十月騒動にさいして反省の色を明らかにしたことを考慮し、さらに彼がウィーン市外区の武装解除の実施に身の危険を冒して貢献したことをも斟酌して、判決された刑を無条件に許し、彼は釈放されることとなる。よって恩赦は本月二三日午前九時実施された。
ウィーン、一八四八年十一月二三日
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]軍事中央調査委員会
これが、もっともラディカルだった大学兵団の最高リーダーの判決文だ。もっともアイクナーだけではなく、議会もこの時点で武力革命など毛頭考えていなかった。ハンス・クートリヒすらそうだ。この農民解放のシンボル的人物すら、ターボアにかけつけはしたものの、民衆がなんとか「合法」の途からはずれないようにと、なだめて回った。ラトゥールのやったことはたしかに「非立憲的」だ、つまり議会の意志に反している、しかし軍隊のハンガリー出動を阻止しうるのは議会の合法的決議だけだ、反動に軍事介入の口実を与える「革命はもっとも愚かなことだ」と。
―おれたちだって、別に法に反することをしようと思ったわけじゃねえ。でも十一時頃かな、新しい軍隊がやってきた。ガリツィアの歩兵部隊、重騎兵と軽騎兵の中隊、それに工兵、大砲三門だ。司令官はブレディという少将だ。奴ら砲を橋に向けた。反射的に大勢の労働者が砲めがけて体をぶつけていった。あっという間に砲と弾薬はこちらにいただきだ。それと同時に、鉄道の土手の上にいた民兵、学生と、ナッサウ連隊の兵隊が射ち合いを始めた。一時間ぐらい続いたかな、猛烈に射ち合ったよ。両方で百人以上死んだかな。司令官のブレディも学生の弾にあたって死んじまった。兵隊の方がよけい死んだろうね。結局おれたちが勝ったわけだ。ぶんどった大砲のうち一門は、みんなワッショワッショと水の中にぶちこんだ。もう昼はまわっていたが、学生の兵団、グンペンドルフの国民軍が先に立ち、こっちに寝返った歩兵をなかにはさんで、市内へ向った。ぶんどった兵隊の帽子やサーベルを振りかざしながらね。おれたちプロレタリアも一団となって市内へ向った。スコップ、ツルハシ、先のとがった鉄棒などをかついでね。ブレディの帽子を鉄棒の先にひっかけて、それが勝利のトロフィーというわけだ。市内のブルジョア共、おれたちが市内へ向うのを見て、例によってたまげて城門を閉めようとした。でも、おれたちはさっさと市内へはいっちまったさ。
―市内に住む市民の多くにとっては、軍隊よりもプロレタリアの方がよっぽどおそろしかったろうからな。革命に火がついた三月十三日だって、市外区に住む君たちプロレタリアを市内に入れまいとして、城門を閉めたわけだからな。それに、君たちがターボアで戦っていた頃、市内でも戦闘が起っている。ただしこれは市民軍の同士討だ。午前十一時頃、シュテファン教会の近くでケルンテン地区市民軍がヴィーデン市外区の民兵に発砲したのがきっかけだ。
―その二つは同じ市民軍でも犬と猿だからな。ケルントナー・シュトラーセなんていうのはブルジョアどもの巣だし、ヴィーデンは労働者や職人の住むところで、ここの連中はウィーンの国民軍のなかでいちばん勇敢だったからな。
―ケルンテン地区市民軍は軍の工兵部隊と手を組んでやったのだが、たちまちやっつけられて、手近のシュテファン教会に逃げこんだ。そこでヴィーデンの連中は教会の入口を固め、袋のネズミにしたうえで、なかに突入し、わきの方にある説教台の下ではいつくばっているケルンテンの大尉だか中尉だかを射殺した。このときの戦闘の死者十五、負傷九五名だそうだ。革命のあいだずっとくすぶり続けた市内と市外区の対立、ブルジョア的市民と労働者の対立がここで爆発したわけだ。そのあと、あっという間にバリケードができた。五月以来バリケードづくりはお手のものだからな。さらに、シェーン大佐に指揮された工兵部隊と国民軍のあいだで戦闘が生じた。シュテファン広場、グラーベン、シュトック・イン・アイゼン等、市の中心部でだ。ここでも軍隊が負けて、結局軍隊はほぼ全員ブルク門をとおって市外へ出てしまい、残ったのは軍事省にいた少数の衛兵と砲四門、それに武器庫の守備兵だけということになる。
―そうだ。おれたちは市内へはいると、アム・ホーフ広場の軍事省に押しかけた。軍事省のまえはもう人波でうまっていたよ。ラトゥールを出せ、ラトゥールを殺せ、と口々にわめきながらね。衛兵はもう蒼くなって逃げ腰さ。衛兵司令すら、ラトゥールとおれは関係ない、という顔つきだった。
―その日の帝国議会のことは君たち知っていたのか。
―議会のことなどおれたちが知るわけねえだろう。ただね、おれたちが軍事省の中庭にはいりこんでワイワイ騒いでいると、カーテンをちぎった白旗持って、議会の代表がやってきた。ボロシュ、ゴールトマルク、ルボミールスキー、みんな顔の売れた連中だ。それにクートリヒやフィシュホーフもいたかな。中庭にはいっていたのはだいたい職人と労働者で、学生は少しだった。建物の右の方に入口と階段があって、おれたちはそこからなかにはいろうとしていたんだ。そのときボロシュがおれたちの前に立ちふさがった。彼はなにかしゃべり出したが、うしろまでは聞えない。そこで何人かが肩車つくって、彼をのっけてやった。彼は真心こめて熱烈にしゃべった、という感じだったが、何をしゃべったか、おれはもう忘れたよ。とにかく暴力は思いとどまれ、と言ったんだろう。彼は人気のある人だったからね、みんなまあ彼の顔を立てよう、ということになった。ところが、そのあとしゃべり出したゴールトマルクにみんなおこってしまった。これも何言ったか忘れたけれどね、だいたい日頃からいばっている奴だから、命令調にしゃべりやがった。「よう、三月の英雄、奴の首もついでにはねちまえ」なんて声もかかった。
―ゴールトマルクも左派議員で、フィオラント、フュスター、クートリヒなどと共にのちに亡命したような人だが、本質は鎮撫派だったのかもしれないな。
―そこでまたボロシュが登場だ。彼がしゃべると、みんな拍手したよ。結局ボロシュに説得されて、みんな議会へ行こうということになった。みんなデモ行進の形で議会へ行ったけど、おれは様子を見ようと思い、残っていた。するとしばらくすると、ラトゥールが出てきたじゃねえか。何人かの民兵と副議長スモルカに守られていた。その頃はまた、さっきと違う新しい連中が集まってきていたんだ。ラトゥールだ、やっちまえ、というわけで、みんなラトゥールを取りかこんだ。このときもスモルカは必死でとめた。ラトゥールは軍事相を辞職するとか、あとで議会で弾劾するからとか、いろいろ言って説得しようとした。でも、むだだったね。一人の男がスモルカの胸に剣を突きつけて、おまえも死にたいのか、と言った。サーベル持った奴が、ハンマー斬りとでもいうのかね、上から斬りおろした。ラトゥールはこの最初の一撃はかろうじて体をかわしたけれどね、あっちからもこっちからも剣や槍で突かれたからたまらない、ばったり倒れて死んじまった。あとでラトゥール殺害犯人を出せ、なんて軍が要求したけれど、だれが殺したかわかりゃしないさ。ともかく死んじまったから仕方ないよ、アム・ホーフ広場のガス灯の下まで引きずっていき、だれかが手廻しよく梯子持ってきたから、麻縄をラトゥールの首にまいて、とむらい代りに街灯にぶらさげたというわけだ。そのうち死体から上着とズボンまでひっぱがされた。
―だれが計画したわけでもない、組織者、指導者がいたわけでもない。個人の意志をこえた運動の流れのなかでこうなった。運命かな。
―おめえたちインテリは、自分の気にいらねえことや、わからねえことがあると、みんな運命のせいにしちまうんだな。しかし、ラトゥールが殺された殺されないは別として、こういうひでえことが起ることは、皇帝側近の反動、いわゆるカマリリャにはわかっていたんだろう。びっくりし、うろたえたのは議会と市評議会の連中だけじゃねぇか。
―そうかもしれない。議会の審議の模様は議事録もあるし、また当時のいろいろな新聞にくわしく報道されているから、よくわかるが、それによると、議会は議事日程では七日午前十時開会の予定だった。しかし、六日の午前十一時半頃には、急を聞いた約八十名の議員が駆けつけてきた。とくに左派の面々だ。シェルツァー、スモルカ、アムブロッシュ、ポトレヴスキー、クートリヒ、ゴールトマルク、ウムラウフト、レーナー、シュセルカ、ツェフルらがそうだ。彼らが即時開会を迫ったのだが、議長のシュトローバッハは承知しない。この議長は黒黄派だからね。議事日程に反するという理由だ。しかし、その日の五時開会ということで妥協した。そこで議員は非公式の会議をもって、市内の情勢に一喜一憂していたわけだ。その間にラトゥール救出の使者を出したりもした。ところが約束の五時になると、今度は議長は定足数にたりないと言い出した。定足数は過半数の一九二なのに、出席者は一二〇だ、というのだ。左派は憤激した、いまは非常事態だ、ウィーン革命が生きるか死ぬかという瞬間ではないか、手をこまねいていてよいのかと。すると議長は、あとまで尾をひく形式論を持ち出す、わが議会の任務は憲法審議である、いま市に起っている騒動はこの立法府には関係ない、それは行政的執行機関である内閣に任せればよいことだと。しかし左派にとっては、内閣は革命の執行機関であるどころか、反革命的陰謀の操り人形であることがしだいに明らかになりつつある以上、その形式論を受けいれるわけにはいかない。そこで左派は副議長のスモルカを議長にし、開会を強行する。それでは私はここにいられない、ということで議長のシュトローバッハは退場する。裏切者という罵声を背に浴びながら。ところが、それから間もなく、ラトゥール虐殺の報が議場にとどいた。全員にひどくショックを与えたようだな。フィシュホーフは泣いていたそうだ。
―だらしがねえな、三月革命の立役者だろう、彼は。それに五月以降は治安委員会の議長だ。つまり革命の執行機関の最高リーダーだろうに。
―いや、君たちプロレタリアが前面に出てくるにつれて、ウィーン革命の性格は徐々に変ってきたのだ。三月十三日に大衆のまえでオーストリア最初の政治的檄をとばした彼も、君たちのやることにはついていけなくなったのだ。しかし、それでも議会は治安維持のためにパーマネンツ(常設の執行委員会)をつくり、さらにシェーンブルンにいる皇帝に使者を送り、人民的新内閣を任命するよう、またイェラチッチをハンガリー総司令官に任命した十月三日付の勅令を撤回するよう、皇帝に要請することにした。
―議会の連中は事あるごとに、皇帝へのお願いの使節ばかり送っていやがったからな。うすばかの皇帝へお願いしてもしようがなかったろうに。戦う準備は何一つしないで。
―そう、その点がウィーン革命の茶番劇、ウィーン的オペレッタの序幕かな。ドクター・タウゼナウに指導された学生委員会がこの時点から革命の実質的指導機関となるわけだ。
―ドクター・シュッテなんて変な奴もいたな。
―例のクラビストか。集会やクラブにせっせと顔を出してアジる。学生間では有名人物だった。出身も職業もわからない、ある教授がおこって、おまえはいったい何者だ、ウィーンはおまえみたいな奴はいらない、というビラを出す。ロシアのスパイじゃないかとか、貴族お抱えの革命家じゃないかなど、いろいろと言われもしたが、十月革命が敗北すると芝居の人物のようにあざやかに変装して戒厳令下のウィーンから姿を消す。さんざんアジりまくったくせに、あとで『ウィーン十月革命』について日記体の本を書き、おれは革命とは関係ないみたいなことを言っている。
―ヴィルナーという学生もそうだな。一時は「労働者の王様」だなんていわれたのに、十月にはどこかにもぐっちまった。まあ、そんな連中はどうでもいいさ。おれたちはラトゥールを吊しといて、すぐ武器庫を襲った。軍事省の斜め向いにある建物だ。三、四十人の連中が大砲をひっぱり出して、武器庫めがけてぶっ放そうとした。ところが、そのまえに武器庫の方から霰弾をお見舞いされた。それで何十人もひっくり返ったよ。なんとかいう公爵もこのとき死んだけどね。とにかくこっちはほうほうの態で退却さ。そこで国民軍も、フライウング広場のバリケードや城壁のバスタイから大砲をお見舞いしたよ。そうこうするうち、だれだか議員が一人、白旗持って武器庫に交渉に出かけたがね、向うに着かないうちに、これも武器庫から射撃されて逃げ帰った。そのうち、武器庫には軍隊だけじゃなく、ケルンテンやショッテン地区の裏切り民兵が八百人も隠れているという噂が流れた。あとで革命機関が否定したけれどね、実際に少しはいたんじゃないか。そのうちクートリヒがやって来た。彼はなんとか学生を集めて、学生の手で武器を管理させ、おれたちプロレタリアの手には武器を渡すまいとしたらしいね。ところが、学生はなかなか集まらないし、やっと集まったものの数が少ない。しかも反動民兵が八百人もいるというんで、びくびくして役に立たない。やがて夜が明けた。兵隊は兵隊でもう持場放棄さ。そこでおれたちは武器庫の主玄関から堂々とはいりこんで占領したさ。武器庫は通路に面して窓がたくさんあるだろう。だから窓からどんどん銃やサーベルをくばってやったさ。朝から昼頃まで配給したかな。そのうちスーシーもやってきた。そこできれいな模様が彫ってあるピストルをやったよ。そうしたら、ばあちゃんの分もくれというから、これもとっときの金ピカのサーベルと銃を束にしてくれてやった。
―それまで武装を許されなかったプロレタリアがここで事実上武装したわけだ。反動だけではなく、一般市民がもっとも恐れていた事態が生じたわけだ。野卑な賤民による「無秩序とアナーキーの支配」だ。
―かってなこと言いなさんな。三月にはたしかにぶちこわしや掠奪もしたけどね、それからあとはブルジョアのものを奪ったり、殺したりはしなかったぜ。
―その点は十月革命の全経過のなかではっきりいえることだな。ともかくここで十月革命に火がついたのだ。内閣も分解した。七月ピラースドルフが倒れたあと、ドブルホフを事実上の首班とする内閣ができたわけだが。六日も午前十一時半軍事省で閣議が開かれた。議員が行ってみると、内相ドブルホフ、商工相ホルンボステルは一言も発言しなかった。とくに後者は壁に頭をもたらせかけて、目をとじていた。おそらくは泣いていたのだろう。蔵相クラウスは小さな体をあちこちに運んでは、にこにこしながらお世辞をふりまいていた。名目上の首相兼外相のヴェッセンベルクは身心共に老いぼれ、この日の事件が何を意味しているかわからなかった。強硬な発言で内閣を事実上支配していたのは軍事相ラトゥールと法相バッハの二人だった。だが、そのラトゥールは死に、ヴェッセンベルク、バッハは去った。残された三人を楯にして、ともかく帝国議会が革命遂行の責を負う以外になかったのだ。
ウィーン住民に告ぐ
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本日早朝当地駐屯軍の一部に出撃を命じたところ、これらの軍の一部にその命令にたいする反乱的動きが現われ、しかもそれは、下民の群をまじえた国民軍の一部によって支援された。
現在までのところ最初の誘因は明らかにされていないにしても、武器が使用されたのである。
軍隊間の衝突を停止させるために、ただちに適切な措置がとられたが、同時に秩序を守るウィーン全住民や国民軍の全部隊にたいして、これ以上のいかなる衝突も防ぎ、秩序と治安を維持せんがためのこれらの措置を強力に支持するよう、要請するしだいである。
同時に平和を守るウィーン全住民にたいして、不必要に騒ぎを大きくしないために、できるかぎり街頭に出ることを控えるよう警告する。
ウィーン、一八四八年十月六日
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[#地付き]内閣
―あの晩おれたちは一睡もしなかった。街中一晩中あかりがつき、銃で武装した連中が歩き廻っていた。シュテファン教会の鐘は鳴り、ウィーン周辺の農民に急を知らせるロケット弾がたえず打ちあげられた。ラトゥールが下着一枚で吊されたガス灯のまわりは野次馬でいっぱい。八の字ひげを生やした奴さんの顔はガス灯に青白く照らされていたな。アウラ、つまり大学には十人から十五人の学生委員がつめきりで、すべての情報はここに集中された。そのうち労働者が、朝の戦闘で水のなかにぶちこまれた大砲をわざわざ引きあげて、大学まで運んできた。
―その頃アウアースペルク伯を司令官とする軍は、シュヴァルツェンベルク庭園とベルヴェデーレに集結していた。人民側にも革命を遂行する統一的指導機関はまだ存在しなかった。何がどうなるか、だれ一人としてわからなかった。しかし、八日付の『デア・ラディカーレ』紙で、ベッヒァーは熱烈に「勝利」と題してこう書いている。「昨日『ラディカーレ』紙は出なかった。昨日われわれは銃と弾丸で世界史の新聞を書いたのだ。――ペンと印刷は休まざるをえなかった。民主主義は輝かしい勝利をたたかいとり、人民は真に英雄的に行動した。絶対主義はその最後の支柱を失い、軍は部分的に離反した。人民はついに自覚するにいたり、武装した軍は崩壊した。」
ここで当時のウィーンについて説明しておく必要がある。ウィーンの城壁がなくなったのは一八五八年だから、革命の頃はドナウ運河に接した北側をのぞいて市内は城壁にかこまれていた。城壁の外は空堀で、さらにその外側にグラシーという緑地帯が設けられていて、市民の散歩道だった。グラシーの外に三四の市外区がある。城壁には十の城門があったが、それぞれの城門から街道が放射状に出ていた。街道は市外区をとおって、リーニエにぶつかる。リーニエというのは、市外区をかこむ土壁(一部は煉瓦)のことだ。深さ三メートル、幅四メートルの堀を掘って、その土を高さ四メートルの土塁に積みあげたのだ。だからウィーンはいわばドーナツのように二重の壁に取り巻かれていたわけだ。リーニエはまた、市に持ちこまれる食糧等に税を課す検問所のことでもある。リーニエをとおらなければ、ウィーンに出入りすることはできなかった。
二 武装せるプロレタリア(十月十二日)
―モビールガルデ、つまりおれたちプロレタリア部隊が結成されたのが十二日だ。いまのいままで、やれ賤民だ下司だとぬかして、おれたちを革命の仲間入りさせまいとしてきた連中が、てめえたちだけでは凌ぎのつかねえぎりぎりのときになると、今度はおれたちに革命のため命をくれとぬかしたのだ。ブルジョアのために命までやれるかと言った者も多かったが、それでも給与も欲しかったし、たいして大事な命でもねえから、とにかくおれたちは応募した。それぞれの地区でも募集していたが、大学広場じゃ派手だったね。トランペットを吹き、ティンパニーを鳴らし、ラ・マルセイエーズというやつかね、あのフランスの歌を流してた。はじめは四大隊できた。大隊長はシュテルナウ、ヴィッテンベルク、フランク、ヴシェルだ。あとの二人はアカデミー兵団の出さ。十七日には一万二千になり、最後は三万こえたろうな。
―君たちを描いた版画など見ると、ずいぶんまちまちな服装していたようだな。帽子一つとっても、国民軍の帽子、学生帽、すりきれた山高帽やシルクハット、赤いジャコバン帽、もとは白かったと思えるような夏帽子等々。靴もそうだ。長靴からドタ靴から、はだしまでいたようだな。皮の前掛けした徒弟がいるかと思うと、シャツ一枚の若者もいるし、武器庫から持ち出したブカブカの軍服をひきずるように着ている男もいる。脱走兵も大勢いたようだし、十二、三歳の子供もいたんじゃないか。特徴的なのは、ほとんど例外なく頭になにか飾りをつけているね。それも赤い飾りが好きだったようだな。リボンか花か、鳥の羽か、真紅のダリヤとか。
―そうさ、みんな身にボロはまとっても、根はシャレ者だったからな。おれだってシルクハットのまわりに薄桃色のエリカの花をさしていたさ。それに子供だけじゃない。女も大勢いたよ。女だってバリケードづくりしただけじゃない、銃を持って戦ったんだ。大学でも婦人部隊ができた。
―そうそう、武装したプロレタリア女を描いた版画もいくつかあるな。
―なんといっても、最後の土壇場で戦いぬいたのはおれたちだからな。もちろん市外区の民兵や学生にも勇敢なのは大勢いたが。それと、ウィーンの外から来た義勇軍が勇しいことで目立ったな。そのなかでもポーランド兵団、イタリア兵団、エリート部隊など。義勇軍の先頭に立ったのは、六五歳のグリッツナーというじいさんだ。若い頃スペインで戦った人らしいな。
―グリッツナーは十月の重大段階で『ディー・コンスティトゥツィオーン』紙に、十月革命にかんする大論文を書いている。ところでモビールガルデというのは遊軍のことか。資料を見ると、まず市評議会が十一日に勤務中に死んだ者の遺族の恩給を決め、十二日には国民軍のなかで無収入の者のために、二四時間勤務で二五クロイツァー、十二時間で十五クロイツァーの給与を決め、さらに十四日には前者は四十、後者は二十クロイツァーに賃上げしている。それとは別に十四日に各大隊から公示が出ている。それによると、モビールガルデは最低十七歳、健康な者、日給二十クロイツァー、下士官、将校は一部は兵の互選、一部は軍事的知識を持つ者ということだ。しかし、二十日に出たベムの告示が決定版だな。
ウィーン国民軍に告ぐ
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最近の内閣の反動的企ては、王国の首都に解放戦争を呼び起すにいたった。
私は、ガリツィアのレムベルク国民軍の一員として、帝国憲法と議会の作業を全力を挙げて支持しようと、固く心に決めている。
したがって私は、戦闘にさいして国民軍を指揮せよとの委任をうけたが、それがどうしても必要であるならよろこんで引き受けることにした。
この名誉ある使命のなかで私が最初に着手したことは、家長の時間と生活をできるかぎりいたわる措置をとることである。
全国民軍をシュタビールガルデとモビールガルデに分けることは、上述の私の目的にもっともよくかなっている。
家長はシュタビールガルデとしてウィーン市の治安維持のみにあたればよく、若く独身の者はモビールガルデとして、議会に反乱した軍隊と戦うために、外の勤務につくことになろう。
私は戦闘員としてよろこんで後者の先頭に立とう。したがって私は、モビールガルデに勤務しようとするすべての者にたいして、ただちにオーベレス・ベルヴェデーレの私の本営に出頭し、その勤務を開始するよう要請する。
勤務につく者すべて、毎日ワインとタバコの配給を受けるほか、次のとおり給与を受ける。
モビールガルデは一日二五クロイツァー、下士官三十クロイツァー、少尉二グルデン、大尉四グルデン。
砲兵隊では各砲手もまた日給として二五クロイツァーを受けるほか、特別手当十五クロイツァーを受ける。
下士官は一律に三十クロイツァーのほか、特別手当三十クロイツァー。
将校も右に準ずる。
幕僚はその勤務内容に応じて余分の給与を受ける。
特別手当は、野戦勤務が必要であり、またそれが行われるかぎり、支給される。
勤務の契約は一カ月である。
この期間におけるすべての違反行為、とりわけ逃亡は現行の規律にしたがって罰せられる。
将校となるためには、兵員を応募させることが必要である。しかも、五十名で少尉、一〇〇名で大尉、二五〇名で少佐、四五〇名で中佐である。
一八四八年十月二十日、ベルヴェデーレ本営にて
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[#地付き]将軍ベム
―市民はシュタビールガルデ、つまり動かないで自分の居住区だけ守ればいい、モビーレはもともと家なしの浮き草なんだから、まずベルヴェデーレの宮殿に集めておいて、どこでも作戦上必要なところに、つまりリーニエの最前線に配備しようというわけだ。それだから市内の民兵は最後まで戦わないですんだわけだ。もっともベムがそうした気持はわかるよ。市内の連中などがバリケードにいたら、前ばかりか後から弾が飛んでくるのまで気をつけなくちゃいけねえ。それにしても、兵隊を集めれば将校になれるというのも、苦しまぎれとはいえ感心しねえな。国民軍はもともとブルジョア育ちだからね、財産と金のある奴が将校になった。これじゃまた同じだよ。だから司令部の将校は立派な服を着て、何十台も馬車を常傭いにして乗りまわしていたものだ。とにかく気にいらねえことも多かったけれど、まあベルヴェデーレへ出かけたよ。
―あそこに三千人も泊れたのか。
―だからバラックを建てて寝起きしたのさ。十月のなかばともなりゃ、石畳は菩提樹の黄色い落葉でいっぱいだ。池の上には海ネコみたいな渡り鳥が何百羽もギャーギャー鳴きながら飛びかっていたな。もちろんこうと決ったからには戦ってやろうという気はおれたちには十分あったんだが、ところが最初のうちは指揮系統も何もありゃしねえ。司令官はもちろんベムだが、じいさん十二日にウィーンに着いたばかりで、ドイツ語をうまくしゃべれない。最初のうちは副官もいなかったしね。だいたいあのじいさんが司令官だなんてこと、だれも知らなかった。じいさんしょうがねえから、一人で部屋でぽかんとしていたらしい。しばらくすると、民主主義協会のグリューナーが様子を見にやって来た。何か私でもお役に、と彼が聞くと、ベムは憤然として、私はだれに命令したらいいのかね、とたずねたそうだ。そのときベムが、大砲はベルヴェデーレに置いてもしようがないから、リーニエに配置すべきだと言うと、大砲のそばにいた砲手が怒った。その大砲はよそにはやらねえぞ、将校もいねえのに、おれはもう三日も交代なしでこの大砲守ってきたんだ、いまさらかってなことをぬかすな、このじじい、ってね。それでも、このじじいがベムだとわかると、びっくりして敬礼したらしいがね。
―プロレタリアはベムの命に忠実に従った。ベムの命令遂行を妨害した人間が指導層に大勢いたようだな。それはそれとして、君たちが武装した日の翌日十三日には、公共財産や私有財産に手をつけるな、「所有は神聖なり」というウィーン革命のモットーにもとづいた告示が議会から出ているな。十五日にはメッセンハウザーの同じ趣旨の告示が出る。プラーター云々の最後の文句は傑作だな。
告示
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市評議会から私のもとに達した報告によると、武装した労働者および民兵があちらこちらと徘徊し、自分や仲間の糧秣をふやそうとして各戸で集めているとのことである。
民兵諸君、モビール部隊の諸君、約束どおりの食糧を渡すことによって、すべての無産の戦士の生計はこれまで差別なく配慮されてきた。諸君の上官には、諸君のための日々の給与をどこで受けるかが指示されている。諸君におわかりのとおり、現在の窮迫した財政事情のもとでは、市と国家の金庫は、ぬきんでた献身、だれの目にも明らかな功績にも、ぜいたくな報酬を払うことはできない。
民兵諸君、モビール部隊の諸君、
今後このような苦情が生じないよう、諸君の司令官は期待する。ウィーン住民は、中傷好みの党派によってとかく誹謗されているが、司令官は彼らの精神を知っている。労働者諸君、あの記念すべき日に「所有は神聖なり」という言葉が諸君の心に刻みこまれたのではなかったか。諸君はもはや八月二六日の人間とは違うのではないか。さらには、次の点をつけ加えておこう。武器をもつからには、規律ある隊の軍紀を守ってもらわなくては困る。諸君が芸術家と学者を尊敬していることを身をもって示せ。宗教を保護し、よるべなき女や老人をいたわれ。われわれが国家の栄誉にかけて保護すべきすべての建造物とすべての個人の家のまえには、衛兵を立てることにする。プラーターの森で動物を見境いもなく屠殺するなど、まことに憂慮にたえない。これではいたずらに人騒がせをするだけのことではないか。
全部隊の民兵諸君、諸君の指導者の警告と懇請を尊重せよ。
一八四八年十月十五日、ウィーン
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[#地付き]臨時総司令官メッセンハウザー
―まるで泥棒飼っているような言い方だな。せっかく鉄砲もらったんだ、プラーターへ出かけてウサギ射ったぐらいで、大げさなこと言ってもらいたくないね。だから、小説家あがりの司令官なんかいただけないよ。だが、そういわれて思い出したが、プラーターの森には皇帝の鹿がたくさんいてね、そいつらを射って番小屋で肉をあぶって食ったが、うまかったなあ。革命もわるくないと思ったのはあのときだけだね。
―十月二十日にはフェンネベルクの名で、バリケードで物乞いするな、という布告が出ている。
―この時期にはおれたちは自分の巣を捨てて、いちばん危険なリーニエ周辺に配置されていたんだぜ。それに、革命史やっているおめえたちなら知ってるだろうが、おれたちはもう何年も飯らしい飯は食っていなかった。ジャガイモどころか、スモモやリンゴで飢えをしのいできたんだ。ついに一度も腹一杯食えないまま死ななけりゃならねえと思うと、なさけなくなったもんだ。フェンネベルクなんかも軍人あがりの三文文士で評判のわるかった奴だからな、おれたちのなさけない気持はわからないさ。もっともおれたちの仲間にも銃を質屋に持ちこんで金を借りた奴がいたけれど、こういうのはよくないね。
―皇帝軍によるウィーンの包囲が完成してヴィンディシュグレッツが降伏要求をつきつけた二三日には、メッセンハウザーがすさまじい布告を出す。これも君たちモビーレあてのものだ。
掠奪にかんして
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(前略)モビール部隊の民兵諸君、われわれはいま包囲された都市の状態におかれている。どんな時代でも、戦争状態下で武装兵によって掠奪が行われる場合には、死刑をもって罰せられた。ところが公に警告が発せられていたにもかかわらず、国家建造物にたいする掠奪が行われた。犯人はつきとめられ、相応の重刑が科せられるであろう。(中略)軍事裁判は非常事態が続くあいだ常置される。判決を受けた者にたいする刑は銃殺によって執行される。判決は二四時間以内に執行され、総司令部といえどもそれを停止させることはできない。(後略)
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もっとも君たちが掠奪したという記録は資料にはない。それどころか、パン屋で掠奪しようとした仲間を君たちは自分の手で射とうとした。司令部は、プロレタリアの掠奪を気にするよりも、ブルジョア的市民の敵前逃亡や露骨な裏切りをこそ罰すべきだったのだ。
―それそれ、それを言ってもらわなくちゃ、おれたちの腹の虫が収まらない。だいたい市内の国民軍なんか戦うまえから潰れていたのさ。メッセンハウザーが登場してくるまえの国民軍司令官だったシェルツァーにしても、ブラウンにしても退役軍人で心の底は黒黄派だった。市内の国民軍も同じようなもの。たとえばショッテン地区中隊二〇〇名のうち十月に残ったのは十六人だけ、ケルンテン地区はもともと六中隊あったのに、十月段階では残ったのをかき集めてやっと一中隊にしかならなかった。金持の市民は十日頃からぞろぞろとウィーンを逃げ出したんだ。馬車をやとったり、定期馬車に乗ったりしてね。黒黄派の親玉とかウィーン市民を苦しめたユダヤ商人を逃していいのか、と怒った民兵も多かったが、市民の退去を妨げてはいけないという司令部の命令が出たんだ。聞くところによると、ウィーンの南のバーデンは、こんな連中でいっぱいだったらしいな。連中はゆっくり保養しながら、ウィーンの新聞取り寄せて、おもしろがっていたんだろう。イェラチッチがここを通るとき、一夜宴会をはった。それに呼ばれたブルジョア共、名誉なことだというわけで、鼻を高くしたそうだ。
―ウィーンにはスパイも大勢いたようだな。
―いたいた。警察の親玉セドルニツキーの網はまだ残っていたのさ。
―資料を見ると、スパイのことはフェアトラウテといったらしいな。つまり腹を打ちわって話しあえる人という意味だ。
―毎日のようにスパイがつかまって大学へ連行されてきたな。もっともなかにはスパイにまちがえられた奴もいたけれど。郵便配達のおやじが手紙を持ってうろうろしていたものだから、それスパイだというわけで、ぶんなぐられたうえ、大学まで連れて行かれたこともあった。奴さん、赤い妙な服を着てたからいけなかったんだ。
―決定的なことは、民兵や君たちプロレタリアが戦う意志を固めて攻撃計画までねっていたときに、肝心の指導部は連日アウアースペルクの軍と連絡をとりあっていたということだ。交渉だけじゃなく、情報交換もしていたのではないか。それにヴィンディシュグレッツは、ウィーンのだれが何年生れで、何の職業で、どの家に住み、どんな活動をしていたか、何百人ものリストをつくっていた。
―十六日頃まではリーニエの出入りも自由だったものな。
―リーニエの出入りができなくなってからも、市評議会の連中は食糧調達という口実でリーニエの外に出て、アウアースペルクの本営に報告に通っていたんだ。しかし、なによりも決定的なことは、指導部の連中が土壇場に追いつめられるまで戦う決断ができなかったということだ。決定的時点での不決断が裏切りに通じてしまったのだ。たとえば、七日の時点でアウアースペルクの軍は混乱しきっていた。司令官のアウアースペルクはもともと無能で有名な男だから、このときは部下を統制する能力をまったく失い、一度は司令官をやめようとさえした。兵もまた戦う目的を失い、市民軍の攻撃をひたすら恐れて、暴動を起しかけていた。それに軍は莫大な火器弾薬を持っていた。いわゆるノイゲボイデにも、散在する各分遣隊にも、ヌースドルフの火薬庫にも、シンマリングの空地にも、守備隊はきわめて弱体、火薬庫の守備兵などはわずか三十名だった。ウィーン革命が敗れた理由の一つは弾薬がなくなったからだが、このとき莫大な弾薬を奪い、ウィーン駐屯軍を解体しておけば、半月後のウィーン包囲もできなかったかもしれない。国民軍や学生の民兵は当然それに気づいて攻撃準備をした。ところが国民軍司令部はそれを抑えたどころか、軍が弾薬を移送するのをお手伝いさえした。
―弾が少ないから、おれたちはずいぶん苦労した。だいぶあとになってから、司令部の許可をもらって、学生といっしょにあちこち家捜しした。三日間で弾が一万五千発、火薬数袋、銃八百梃見つかった。ところが、そこで市評議会が待ったをかけた。家捜しなどは「憲法違反」「私有財産の秘密」を侵す、というわけだ。ところがブルジョアの連中は武器弾薬をまとめて水の中に隠したりしたんだ。あとで水の中からずいぶん見つかったものだ。馬車でウィーンの外にそっと持ち出した奴もいたし。
―たしかに十八日メッセンハウザーはこんな布告を出している。
武器の売却について
[#ここから1字下げ]
大量の武器が売却され送り出されているという情報が各方面からはいっている。いまや祖国が最大の危機に立ち、武器をとりうるすべての者がなにを犠牲にしても勤務につくべきであり、進んで戦う意志がありながら武器を持たぬ者が明らかになお多くいるというのに、脅かされているわれわれの市から武器を送り出すことは犯罪である。(後略)
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]
[#挿絵(fig.jpg、横×縦)]
―プロレタリアのかっぱらいを死刑だなんていうまえに、こういう連中を吊せばよかったんだ。
三 皇帝と議会
―ラトゥールが虐殺された翌朝、アナーキーの支配するウィーンにはもはやとどまれないという声明を残して、皇帝はシェーンブルンを離れた。五月のインスブルック行に続いて、二度目のウィーン逃亡だが、今度は逃亡というより、皇帝側近派の公然たる陰謀の開始、革命ウィーンに手袋を投げた、といってもよいだろう。ウィーンの市民や議員にとっては、内心大きなショックだったろう。皇帝一行はいったいどこに行こうとしているのか、ブリュンか、クレムスか、それすら議会にはわからなかったのだ。彼らは必死になって皇帝と連絡をとり、できることならウィーンにもどってもらう、それがだめなら、せめてウィーンでとられる措置を追認してほしいと考える。
―逃げた女のまえにひざまずいて、どうか戻ってくれというようなものじゃねえか。ますます嫌われるのがオチだろう。
―議会が皇帝に何度代表団を送っても、色よい返事はもらえない。ところが、そのあいだにチェッコにいたヴィンディシュグレッツが軍備をととのえて南下を開始し、ハンガリーを逐われたイェラチッチのクロアティア軍もウィーンに向い、ウィーン郊外にとどまっていたアウアースペルクの軍と連絡して、ウィーン包囲網をつくってしまう。この包囲網の完成こそヨーロッパの全反革命勢力が待ちに待った瞬間なのだ。ウィーンにたいする皇帝の態度もガラリと変る。
―議会はなんでまたあんなに皇帝の袖にすがりつく必要があったのかね。偉い人たちのやることはわからないね。だいたいウィーンの革命議会は普選によって選ばれたなんていうけれど、おれたちプロレタリアだけはちゃんと有権者からはずしたんだからな。つまり労働者にも選挙権を与えたなんて大宣伝したが、日給・週給の労働者、公共授産場で働く労働者はのぞくというわけだ。労働者にも二色あったんだよな。だから、議会はおまえたち人民の代表だなんてこといわれたって、ぴんとこないよ。
―まあ、さかのぼればその辺から問題があったわけだが。とにかく議会は八日次のように決議する。
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一、帝国議会は、そもそも憲法作業の完了以前に解散するものではなく、いかに切迫した事態のもとでも、またいかなる条件のもとでも解散しようとは思わず、その義務を忠実に果し続けることを声明する。
二、帝国議会は一つの分割しえないまとまりを持ち、議会を選出したオーストリアのすべての民族を代表する。
三、帝国議会は、六月六日の勅令に基づいて自由な諸民族の自由選挙によって選ばれ、立憲王制と人民主権を結ぶ唯一の立憲的・合法的機関である。
四、帝国議会は、オーストリアの自由な諸民族の自由な代表によって構成され、残留すべき道徳的強制を議員に課すことはない。
五、帝国議会は立憲的・合法的基盤を固持し、立憲的・合法的方策によって祖国、世襲王座および人民の自由を守るであろう。
六、帝国議会は、許可を得た者であろうと得ない者であろうと、議会を離れた全議員にたいして、おそくとも二週間以内には本会議に出席するよう要請する。
[#ここで字下げ終わり]
この決議自体、革命の全期間をとおして議会が抱き続けたさまざまな矛盾をあらわしている。だれにもわかることだが、少くとも十月のこの段階では、「立憲王制と人民主権を結ぶ」ことはもう夢物語になっていた。世襲王座と人民の自由はもはや現実に両立しうるものではなく、それは王制か共和制かという二つに一つ、どちらかを選びとらねばならぬことになっていた。当時の一部の急進主義者が認めていたように、五月末以降、ウィーンは事実上共和制になっていたのだから。立憲王制と人民主権をつなぐものがもしあるとすれば、それは議会ではなく内閣だが、ラトゥールの死によってその内閣も事実上潰れてしまった。いまやウィーンに残された権威は帝国議会だけだ。市評議会はもちろんその権威を全国的に及ぼすわけにはいかない。だから議会がいっさいの執行責任を負わざるをえない。しかし、まえにもふれたが、議会が行政的な執行権限まで持てるのかという疑念は当然に生じた。だから皇帝になんとか「人民的新内閣」を任命させようとしたのだが、その皇帝はいまや側近政治と軍部の掌中にある。議会の決議に基づいて事を行うことがはたして「合法」であるかどうかという合法論議で、議会は決定的時点での数週間をむざむざと失った。左派のバロッシュは憤激して言っている、何が合法かなどという論議をしているひまはない、人民の自由が圧殺されようとしているいま、その事実からわれわれは出発する以外にないではないかと。さらに議会はオーストリアのすべての民族の代表であるかどうかも疑わしくなった。歴史家パラツキーをリーダーとするチェック派議員は故国に引きあげて別行動をとり、汎スラヴ主義の旗印をかかげた。人民の自由すなわち統一ドイツ、ウィーン革命イコールドイツ革命ということが、ウィーンのスローガンであった以上、スラヴ系の反撥は必然的だった。それでも議会はかろうじて過半数の一九三から二〇六名ほどの議員を確保することはできたが。
―もういいよ、聞いてもよくわからねえ。六日の騒ぎで軍隊は市内や兵営を引き払ってシュヴァルツェンベルクに集まったわけだが、その頃学生を何人かつかまえて、さんざんいためつけて、手足を切り取り、なぶり殺しにして吊したんだ。レンヴェークの運河からも民兵のバラバラ死体が三つもあがった。おれたちはそいつをタイマツで照らしながら、議会まで運んでやった。チェック派と通じていた議員のルボミールスキーはそれを見て狂言自殺しようとしたものさ。議会やお偉方はそんな軍隊となんのつもりで交渉したのかね。ウィーンに武力的脅威を与えないでほしい、などと書いた手紙を何度も何度も使者にもたせて、アウアースペルクのところに送ったんだろう。返ってくる返事はいつも決っていた、ウィーンに敵対する気は毛頭ない、クロアティア軍とも連絡などとっていない、ただウィーンに武装した賤民がいる以上、こちらとしても自衛せざるをえないだけだ、なんてね。しらっぱくれていたわけだ。その実、ときをかせぎながら、裏じゃヴィンディシュグレッツともイェラチッチとも作戦をきちんと打ち合わせて、ウィーン攻撃準備を遠まきに完成させていたんだろう。
―そのとおりだった。十日にはブルック・アン・デア・ライタをとおって、クロアティア軍がオーストリア領にはいった。これだって、ハンガリー軍に追いまくられて、ほうほうの態で逃げてきたのだから、数は千から二千、ボロボロの赤マントをひっかけたり、赤や紺のたっつけばかまをはいたりして、制服もない混成部隊で、みんな疲れ切っていたらしい。それが、議会がもたもたしているあいだにオーストリア領内で力をつけ、兵力も一万二千にふやしてしまった。
―皇帝なんかさっさと見切りをつけて、ハンガリーのコシュートと力をあわせて最初からやる気になれなかったのかね、議会は。そうすりゃ勝っただろうに。
―勝ったかどうかはわからないが、ウィーンが破れなければ翌年夏のハンガリーの敗北もなかったろうし、ハンガリーとウィーンを中心に四八年革命の帰趨はまったく変っただろう。しかし、そんな予想屋の愚痴みたいなことを言っても仕方ない。当時の議会の苦労もわからないわけではない。だいいち、皇帝を相手にしないで人民主権の原理に徹するとすれば、結局ウィーンとハンガリーのみ共和制の途に踏み切ることだ。「ドイツ的」なウィーンがそうした場合、ボヘミア、クロアティアその他の地方の離反は目に見えている。それにウィーンでは君たちプロレタリアの妖怪が白昼公然と現われてきていたし、共和制的な政治原理をつきつめていけば社会革命にぶつからざるをえなかった。ウィーンのブルジョアだってそれを予感していただろう。賦役の廃止のお墨付を皇帝からもらって大喜びの農民を味方につけることもむずかしい。ウィーンの労働者だって、少くとも手工業者たちは、多分に家父長制的な考えに染っていたじゃないか。皇帝は慈愛にみちた父である、人民は皇帝の子供だなどと書いた労働者パンフレットもたくさんある。さらに決定的なのは軍の動きだ。軍がウィーンをいつ攻めるかわからない。軍と話しをつけ、事を合法的かつ平和的に解決するには、皇帝のお墨付をもらう以外になかった。議会は最後のぎりぎりのときまでその方向で努力した。
―そこで最後の最後まで日和見だった。だから十八日頃かな、議会に爆弾しかけたなんて情報が流れて一騒ぎしたのさ。デマだったけどね。
―皇帝側近カマリリャの連中は議会の弱みを見こして、皇帝がつかまって人民的内閣の任命書にうっかりサインなどしないように、彼をウィーンから連れ出したのだ。
―カマリリャの親玉はソフィー公妃とかいう皇帝のあによめだろう。相当なやり手のばあさんだったらしいね。もっともばばあといっても、四十過ぎたばかりだから、まだ色気は残っていたろうが。亭主を完全に尻に敷いて、最後には自分の子供を皇帝にしちまうんだから。それで学生はこの夫婦を二年間オーストリアから追放しろなんて要求したわけだ。ついでにおもしれえ話をしてやろうか。ある日皇帝にメッテルニヒがこぼしたそうだ。「一国の政治はむずかしいものです」と。皇帝いわく「そんなことなんでもないじゃないか。それよりサインするのがほんとにむずかしい」。皇帝のサインはメッテルニヒがつくってやったってほんとうかね。
―そんなこと歴史の本に書いてないから知らないね。十日にはクロアティア軍の先鋒はリーニエ間近までやって来た。議会はイェラチッチのところに何度も使者を送り、ウィーン進撃に待ったをかけようとする。しかし、十日のイェラチッチの返事は事実上ウィーンにたいする宣戦布告だった。「私の軍をここに進撃させてきた動機は、ひろい意味では国家に仕える者としての、せまい意味では軍人としての義務感である。国家に仕える者としての義務によって、私は全王国を維持するためにつくし、あらゆるアナーキーを抑えようとする。軍人としては、砲声が進撃すべき道筋を決めたのだ。」メッセンハウザーが例によって長ったらしい美文の手紙をイェラチッチに送ったら、彼は十六日に口頭でこう答えた、あなたの言うことは十行もあればたくさんじゃないのか。
―おれが女だったら、イェラチッチの方にほれたろうね。だが、いまもってわからねえのは、どうしてハンガリー軍が助けに来なかったんだろう。十六日に一度国境を越えながら、またもどってしまい、最後に来ることは来たが、本気で戦う気はなかったんじゃないか。
―これもまだ十分に解明されていない歴史の謎だな。ハンガリー側はウィーンにあてて何度か武力援助を約束している。たとえば上院と下院の副議長が連署してウィーン議会あてに連帯を表明してもいる。
[#ここから1字下げ]
(前略)ハンガリー国民議会はハンガリー軍にたいして、イェラチッチがどこへ行こうと、彼を追撃せよ、と命令をくだした。
だがハンガリー国民は神と世界のまえで次のように誓う。わが軍が逃げる敵を追ってオーストリアにはいらざるをえないとしても、オーストリア領の侵犯などは意図していないばかりか、その場合でもハンガリー国民は恩義の念に駆られてそうするのであって、共同の敵にたいして高邁なウィーンの住民をなんとしてでも支援することをわれわれの名誉ある義務と考えるからである。
(中略)
ハンガリー国民は声明する、もし勇敢なオーストリアの高貴な議会がハンガリー軍の司令官にたいして、共同の敵の武装解除は自力によってなしうるし、共同の自由の勝利のためのわが軍の協力はもはや必要ないと通告される場合には、ただちにわが軍は進撃を停止し、ハンガリーにもどるであろうと。(後略)
ペシュト、一八四八年十月十日
[#ここで字下げ終わり]
ハンガリー側にも軍に内紛があったようだが、ただはっきりしているのは、ウィーンの議会がハンガリー議会にたいしてハンガリー軍のオーストリア進撃を要請する手続きが必要だったのに、議会はそれをついにしなかったということだ。議会がだめなら市評議会がやれと突きあげられたが、市評議会と議会は責任のなすりあいをした。苦しまぎれに議会は次のような布告を出した。
布告
[#ここから1字下げ]
帝国議会が、ハンガリー軍がオーストリア国境を越えることを禁止したという噂が市内にひろまっている。このような禁令が帝国議会によって発せられた事実はない。
一八四八年十月十一日、ウィーン
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]帝国議会委員会副委員長R・ブレステル
つまり、これで皇帝に遠慮しながら、ハンガリー軍よ、来てもかまわない、とウィンクしたわけだ。内心はすがりつきたい気持だったくせに。他方イェラチッチの質問にたいしては、十四日こんなことを答えている。「帝国議会はハンガリー軍を呼んだことはないし、またそのような決定をくだすことはできない。」ただハンガリー議会がハンガリー軍に命令を出し、あなた方を武装解除しようとしているのだ。平和的に解決するにはあなた方が故郷に帰ればよいのだと。
―議会や市評議会は皇帝にも代表を送ったんだろう。
―何度も。議会のある代表団は十二日夜、ブリュンから三時間ほど先のゼーロヴィツという旅先でやっと皇帝一行をつかまえた。ところが、一時間以上も前庭で立たされたまま待たされた。やっと皇帝に会うには会えたが、皇帝はウィーンを去るときに発した声明をもう一度繰り返しただけでひっこんでしまった。
―そりゃそうだろう。皇帝はいつだってだれかが書いた紙を読むか、教えこまれたことをしゃべるだけだろう。ほっといたら、何言い出すかわからねえものな。
―そのあとラプコヴィット公爵が代表団の相手をした。軍はウィーンを攻撃しない、皇帝は議会の信頼を知り、およろこびである、と彼は言う。ウィーンを攻撃しないというのは皇帝の意志かと聞くと、いや私の個人的見解だという。それでも文書で答えてほしいというと、口頭で十分だろうという。
―それじゃ子供の使いじゃねえか。
―皇帝がオルミッツに着いたのは十四日の四時半だ。百人の農民が馬に乗り、黒黄の帽章をつけ、同じく黒黄の旗を持ってつき従った。市内にはいると、数名の農民が皇帝の馬車から馬をはずし、彼ら自身が馬代りに車をひいたといわれる。もっとも領主の命を受けたのだろうが。
―議会がラントシュトルム、つまり農民軍に呼びかけろという声も強かったんじゃねえか。ウィーン革命の名物女ペリン男爵夫人が署名をたくさん集めて議会に請願したという話も聞いたぜ。農民が解放されたのは議会のおかげなのに、野郎共知らん顔だ、恩知らずだ、という声も強かったね。議会もとうとう呼びかけを出さなかったしな。農民が何万もウィーンに来たら食い物に困るという口実でね。
―クートリヒなどはみずから地方へオルグに出かけたのだが。しかし、農民が土地を放棄してウィーンまで来るのはむずかしかったろう。家父長的共同体のしめつけもあった。それになにより鉄道は軍によっておさえられていた。
―田舎じゃ坊さんが警察代りににらみをきかしていたんだろう。ウィーンでもジェスイット、とくにリグオリ会というのは反動の代名詞だったものな。ブリュンにザンクト・エリーザベトという修道院があってね、そこにシャーフゴッチュという司教がいて、修道女がカナリヤ飼うのを禁止したそうだ。カナリヤだってオスだっていうんでね。これも革命パンフレットで読んだんだが、この司教はてめえもオスだってこと忘れたんじゃねえかな。
―それでも地方からの応援も数千にのぼったろう。九日グラーツ義勇軍、十日同じくグラーツから六〇〇、同じく十日シュタイアーマルクから四〇〇、十三日ザルツブルクから学生三六、シュタイアーマルクから五〇〇、二三日チロルから一五〇、さらにブリュンからも多数。皇帝はオルミッツに着いてすぐ、十六日付で決定的な呼びかけを出した。ここで彼はウィーンを「暴力支配」「反乱」「アナーキー」「殺人犯」ときめつけたうえで、「治安、秩序、合法状態をとりもどすため」「反乱の本拠ウィーンに王国のさまざまな地域から軍勢をさし向け、わが元帥ラデツキー伯の指揮下にあるイタリア軍だけをのぞき、わが諸邦の全域にある全軍隊の統帥権を、わが副元帥ヴィンディシュグレッツ公に与える。同時に私は、同公爵がみずからの判断でできるかぎり短時日にわが帝国に平和をきずきうるために、彼に適切な全権を与える」と言明する。同時にここで、出版、結社の自由の剥奪、国民軍のしめつけも予告されるわけだ。
―頼りにならないことは始めからわかっていたようなもんだが、フランクフルト国民議会の連中のやり口もひどかったな。フランクフルトでの連中のおしゃべりも、革命のうちにはいるのかね。
―まあそう言うなよ、歴史家にとってはフランクフルト国民議会の討議は大事なことらしいのだから。フランクフルトからはヴェルカーとモスレの二人が、帝国摂政ヨハン公から帝国特命使節として派遣されてきた。平和的調停のためだ。しかし彼らは二一日声明を出し、まずオルミッツへ行って話しをつけ、それからウィーンへ赴くと述べたまま、結局ウィーンには来なかった。ウィーンが燃えている頃、皇帝の側近にお世辞を並べながらコーヒーでも飲んでいたのだろう。しかし、十七日にはフランクフルト左派代表ブルム、フレーベル、ハルトマン、トラムブッシュがウィーンに到着した。フランクフルト国民議会はブルムによってかろうじてウィーン革命史に列することができた。
―たしか十九日頃から市内も市外区もいちだんとあわただしくなってきたな。郵便も来なくなった。来ても開封して検閲されている。なにより一大事はミルクをはじめ食いものが入ってこなくなったことだ。兵糧攻めだな。トマトはふしぎに入ってきたけどね。ヌースドルフ・リーニエの水道管もこわされて、市外区は井戸水でしのがなけりゃならなくなった。
―二三日にはヴィンディシュグレッツの軍がクロスターノイブルクとヌースドルフでドナウを渡った。二四日にはシェーンブルンのすぐ南ヘッツェンドルフに彼の本営がおかれた。ここでウィーン包囲完了。包囲軍七万、砲二百門以上。ウィーンの食糧はわずか二週間分。二一日夜、市評議会も知らぬ間に何者かの手によって、市内、市外区の街角にヴィンディシュグレッツの布告が貼り出された。
布告
[#ここから1字下げ]
(前略)ウィーン住民よ、諸君の生命、諸君の財産は一握りの犯罪者の恣意に委ねられている。勇を奮って、義務と理性の声に従え。諸君を彼らの暴力から解放し、平穏と秩序をとりもどす意志と力を私が持っていることを、やがて諸君は知るであろう。
この目的を達成するために、ここに市、市外区およびその周辺は戒厳令を宣せられ、全市民的機関は軍事的権威に従属し、私の指令にたいする違反者は軍事裁判にかけられる。(後略)
一八四八年十月二十日、ルンデンブルク
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]元帥ヴィンディシュグレッツ公
ここまで追いつめられてはじめて、議会は決然たる態度に出た。遅きに失したけれども。しばしば日和見的だったシュセルカがここで報告と提案に立った。三月を体験したオーストリアは、まだ憲法を生み出してはいないけれども、いや生み出していないからこそ、立憲的原理を守りぬかねばならないのだ、しかし、あらゆる法的権威の停止をふくむ戒厳令と軍事裁判はこの原理に反する、さらに市の軍事的包囲は自由な憲法審議を不可能にしており、これまた立憲的原理を損っている。シュセルカは決議を提案した、ヴィンディシュグレッツがウィーンに課した措置こそまさに「違法」である、と。椅子にすわったままの議員は一人としていなかった。拍手と歓声が議場の外で待っている人びとの耳にまで達した。多くの議員は外にとび出し、この決議を全市に知らせて歩いた。これまで中立的立場を守り続けた多くの者が、ここで黙って武器を手にしたのだ。
―二三日には、ヌースドルフで砲声がとどろき、市外区ではあちこちで鐘や太鼓の音が狂ったように鳴り出したな。外国大使はシェーンブルンに移ったし、残っていた金持共も市のそとに出て行った。
―ヴィンディシュグレッツの降伏要求が出たのもこの日だ。
布告
[#ここから1字下げ]
さきに私は本月二十日付の最初の布告においてウィーン市、市外区、その周辺にたいして戒厳令および軍事裁判を宣告したが、それに引続き、さらに次の条件を課すべきだと考えるにいたった。
一、ウィーン市、その市外区および近郊はこの布告を受けとってから四八時間以内に降伏を申し出で、兵団ないし中隊ごとに定められた場所で委員会に武器を引き渡さねばならず、同時に国民軍に編成されていない個人も全員武装解除されねばならない。私有財産の武器には印しをつけること。
二、すべての武装部隊および学生兵団は解散すること。大学は閉鎖され、アカデミー兵団の長および学生十二名は人質として引き渡されること。
三、さらに私が指名する数名の人物が引き渡されること。
四、戒厳令が続くあいだは、新聞はすべて停刊となる。ただしウィーン新聞はのぞくが、その記事も公式の報告のみに限定されねばならない。
五、首都在住の外国人はすべて、その滞在理由の合法的証明を提示しなければならず、旅券なき者は即時追放を宣せられる。
六、戒厳令の期間、全クラブは廃止され、閉鎖される。
七、次の者は全員軍事裁判にかけられる。
a みずからの行為によって、また他の者を煽動しようと企てることによって、
上記の措置に違反した者
b 反乱および反乱への参加が明らかになった者
c 武器を手にとった者
これらの条件はこの布告が発表されてから四八時間以内に実施されねばならず、それに違反した場合には、私は市に降伏を強いるためにあらゆる精力的措置をとらざるをえないであろう。
一八四八年十月二三日、ヘッツェンドルフ本営
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]元帥ヴィンディシュグレッツ公
―それから二五日か、ヌースドルフはもう燃えていたな。
―この日、ヴェッセンベルクからの議長あて書簡で、皇帝の勅令が明らかになった。ウィーンでの憲法審議を中止し、議会はあらためて十一月十五日クレムジールに召集するというのだ。ここでやっと猿芝居の幕はおりた。即座に学生委員会は「緊急の呼びかけ」を発した。
[#ここから1字下げ]
(前略)馳せ参ぜよ、男も女も子供も。老いも若きもあらんかぎりの力をふりしぼり、自由を救うために準備をととのえよ。ウィーンよ、世界に愛国心の範を示せ。追いつめられた日々のパリやワルシャワがやったように、そしてブダペストがやったように。そこでは虚弱な年寄りも馳せ参じ、幼い子供も馳けずり回り、ビロードや絹を身につけた上流婦人も馬車から降りて、石や木や梁を運び、鋤や金挺子を手に作業し、わずかな時間に開け放たれた市を塞いで難攻不落の砦をつくりあげたのだ。……力をふりしぼれ、いまをおいてときはない。(後略)
[#ここで字下げ終わり]
四 プラーターの星(十月二十八日)
―朝から霧の深い、いやな日だったな。この日おれたちは「星のバリケード」にはりついてはいたものの、正直いって体はくたくただったな。ヴィンディシュグレッツのつきつけた期限を計算してみると、本格的戦闘は二六日の午後五時、どんなに早くともその日の昼頃に始まるはずだったが、敵はそんなに待っちゃあくれなかった。二五日の朝になると、まずヌースドルフへ、それからアウガルテンやターボアへドカンドカン大砲をぶちこんできやがったからな。午後の三時頃には歩兵が突っこんできた。あっちでもこっちでも家が燃え始めた。敵は二段構えの砲列を敷き、数千の歩兵に数百の騎兵を投入してきた。それでもヌースドルフじゃ、敵の大砲六門ぶちこわし、銃剣で突っこんで一門ぶんどったりはしたけどね。じりじり退却、夜にはアウガルテンまで押しこまれた。ベムのじいさん、もうこの日からおれたちモビーレの陣頭指揮だ。彼の馬の腹に弾が当ってね、馬もろ共、ひっくり返ったりはしたけれど。この日ポーランド兵団の連中が勇敢だったのにはおどろいたな、ほんとうなら勲章ものだね。
―二五日、ラムベルクとヴィスの軍が北から攻め、南からはクロアティア軍が舟まで使って攻めのぼってきたわけだな。どれも主目標はプラーターか。「プラーターの星」などというと、ここで戦いぬいた革命戦士を讃えているみたいだな。
―冗談じゃねえよ。プラーターで死んだ「賤民」や「下司」のことなど、だれも気にしちゃあいねえよ。ここの広場から星のように七本の広い道路が放射状に出ているから、それでプラーターの星といわれるんだ。いずれにしても二六日には「星のバリケード」の鼻先まで敵は来ていたわけだ。この「星のバリケード」はウィーン最大のバリケードだった。二段構えに鋪石を積みあげ、隙間には砂利や泥をつめこんで、鉄壁のようにつくりあげてあった。二六日からはここでベムが直接おれたちの指揮をとったんだ。
―ベムも最後にはウィーンを棄てた裏切者だ、という者もいるが。
―言いたい奴には言わせるがいいさ。彼がポーランド人だからそんなこと言うんだろう。ベムはドクター・シュッテやプルスキーと共にヴィンディシュグレッツの指名犯人だ。ウィーンの負けが決って、指導部の連中が降参する気になったとき、彼がずらかったのはあたりまえだろう。
―ベムがどうやって包囲下のウィーンを脱出したかわからないが、十一月の末にはハンガリー東部のジーベンビュルゲンでホンヴェード(人民軍)の指揮をとっている。そして翌年三月までにジーベンビュルゲンを解放してしまったのだ。ベムは勇敢なだけではなく、暖かな心の持主だったようだな。詩人のシャンドール・ペテーフィがハンガリーの戦野でコシュートやクラプカ将軍から冷たい仕打ちを受けたとき、ベムがいつも彼をかばってやったものだ。二人はほんとうの親子のように信じあった仲だった。ペテーフィの手紙を読むとそれがよくわかる。ウィーンと切っても切れないハンガリー革命についてのメモアールは、コシュート、プルスキー、プルスキーの妻、クラプカ、ゲルゲイ、ヴィルヘルミーネ・フォン・ベック、その他いくつかの匿名のものが残っているが、ベムはメモアールを書くひまもなく、戦って死んでしまった。
―ベムはいつでもプロレタリア部隊の親分だったからな。手記とか回想録なんか遺しはしねえよ。生きるあいだはともかく生きて、死ぬときが来たら黙って死ぬ、それが貧乏人のせめてもの心意気だからな。
―そんなものかな。それはとにかくとして、二六日中にウィーン攻防戦のゆきつく先はもう決ったわけだ。ターボアやプラーターだけではなく、南の市外区のマッツラインスドルフやレルヒェンドルフでも、またブルムが指揮をとったソフィー橋でも、革命軍は肉薄する敵を何度か撃退し、執拗に戦いぬいたけれども、結局は敵の物量作戦のまえに屈せざるをえなかったわけだな。
―二六日の夜には軍隊はターボア・リーニエを占領し、鉄道の土手とアウガルテンに砲列を敷いた。このときもベムが先頭に立って一時間以上応戦したんだが、そのうち弾がなくなってしまった。それで仕方がねえから、「星」の向うにあるバリケードから撤退した。ソフィー橋も同じような状況だったらしいな。ブルムの陣頭指揮で五時間もがんばりぬいたのに、弾がなくなってしまった。メッセンハウザーに弾をよこせという伝令を何度も出したが、返事もよこさなかったらしいな。
―この夜はバスタイから見ると、市外区の十七カ所から大きな火の柱がたちのぼり、空は真赤に焼けていたそうだな。砲声がたえずとどろき、警鐘が乱打される。みろ、いま燃えているのはウィーンじゃない、ハップスブルクの皇室だ、と呪いの声をあげる者もいた。この日は内部の裏切りも露骨になってきた。民兵がしばしば家の窓から射たれたといわれる。フェンネベルクも裏切者についての告示を出している。「外の敵」だけではなく、「内の敵」とも戦わねばならぬ、市の壁のなかに「少数の、しかし裏切的な分子」がいる、「武器、弾薬、食糧の隠匿横領」を罰せよと。
―二七日は静かだった。そしてとうとう運命の二八日を迎えたんだ。前日の夜、国民軍の将校が二人馬に乗ってプラーターの敵の陣地にもぐりこんだ。二人とも皇帝軍の服を着ていたから、歩哨も簡単にだまされた。ちょうどイェラチッチのところから来た伝令にぶつかってね、伝令の持っていた指令をうまうまとまきあげたというわけだ。そこに二八日についてのヴィンディシュグレッツの作戦命令が書いてあった。それによると、二八日中にターボア、プラーターはなにがなんでも占領しろ、これが主目標だ、ラントシュトラーセもできたら占領しろ、しかしその他の全地区にも一斉攻撃をかけろ、ただしこれは敵の兵力を分散させるための偽装攻撃だ、いずれの場合もまず砲弾をいやというほど射ちこんで、敵が弱ったところで歩兵を突撃させろ、偽装攻撃開始は午前十時、本攻撃開始は十一時、というのだ。ベムはこれを見るまえから敵の手の内は読んでいた。二八日、砲撃は実際には朝の八時頃から始まり、時間がたつにつれて烈しさの度を加えてきた。十一時になると、二段構えの全砲列が全市めがけていっせいに火蓋を切ってきた。またまたシュテッフェルの鐘、市外区のすべての鐘が鳴り出し、警報太鼓がとどろいた。伝令が目まぐるしいほど往き来しだした。おれたちのバリケードのすぐうしろの建物も燃え出した。
―君たちが陣を張ったウィーンの北部はドナウがいくつもの枝になって流れているせいで、地形がだいぶ変っているわけだな。つまり北側の城壁に沿ってドナウ運河が流れ、運河の向うのレオポルトシュタット、その右側のプラーターはちょっと低地帯になっているうえに、ほかの市外区とちがってリーニエの壁がない。おまけにプラーターの向うはアウ、つまり一種の水郷地帯だから、攻めやすく守りにくいところだった。
―おれたちの星のバリケードへの直接攻撃が始まったのは午後の二時前だったかな。それまでにアウガルテンやターボアのバリケードが一つ一つ潰されていった。労働者協会「コンコルディア」の連中もここで猛抵抗したんだ。ところで、星のバリケードへの攻撃が始まるとすぐ、そこを棄ててすぐうしろの主バリケードへ撤退しろという命令が出た。主バリケードはイェーガー・ツァイレの入口を完全にふさいだ、これも大きなバリケードだから、こっちの方が守りいいと思ったんだろうな。しかし、さがったのがよかったかどうかはわからないね。星のバリケードがからになったのを見て、敵はすぐ前進してきて、星のバリケードのすぐうしろに砲列を持ってきたのだから。バリケードとバリケードのにらみあいになったわけだ。こっちにも大砲は五門あった。その一つにベムがどっしりと腰をおろし、パンをかじりながら敵の動きをじっと見ていた。肝っ玉のふとい人だったな。霰弾や擲弾がそれこそあられのように降ってきた。おれたちはバリケードにはりついたまま、じっと動かずに待っていた。このバリケードも二十センチ角の鋪石を積みあげて、車や角材でがっしり補強したやつだ。バリケードには黒・赤・黄、白・緑・赤の二種類の三色旗がひるがえっていた。もちろん一つは統一ドイツの旗、もう一本は革命ハンガリーの旗だ。守っていたのはおれたちのほか、エリートコルプ、学生のモビーレ、リンツとグラーツの義勇軍だ。
―プロレタリアと地方の義勇軍、要するに革命ウィーンの最精鋭部隊だな。それにしてもこわくはなかったか。
―おれもあまり度胸のある方じゃないけれど、こうなるとふしぎに腹がすわってきてね、来るならいつでも来い、という気になってきたよ。二時間近くも石の壁にへばりついて砲撃にさらされているあいだ、いろいろなことが頭に浮んではきたよ。おれたちの仲間が大勢、市内のブルジョア国民軍に畜生扱いされて殺されたり片輪にされたのも、ちょうどここだったなあ、ということも。あれからちょうど二月たつのに、まるで昨日のことのようだった。鉄砲持たねえおれたちに弾の雨を浴びせたうえ、逃げまどうおれたちを、ばあさんや子供まで、いやそれどころか乳飲み子抱いたかみさんまで、馬で蹴倒したうえ斬りやがった。「この生れ損い」なんてほざきながらね。あとで学生や民主主義協会が盛大な葬式をやってくれたけれど、死んだ者は還っちゃこない。こんな革命があるものかと、おれたちはくやし涙をためながら、それでもとうとう手は出さなかった。やりかけた革命は最後までやるよりしようがねえ、そのためにはおれたちががまんしようと思ったんだ。でもなあ、おれたちの仲間を斬り殺した連中が血のしたたるサーベルを振りかざしながら市へ帰ると、奴らの女どもは窓からハンカチを振って迎えたそうじゃねえか。
―君たちがプラーターのバリケードでがんばっていたとき、市の南部ファボリーテン、ベルヴェデーレのリーニエの防衛軍も赤マントと文字どおり白兵戦を演じていた。ところが、プラーターとベルヴェデーレの中間にあるラントシュトラーセの国民軍はほとんど戦わず、持場を放棄した。ここには恩給官吏、退役軍人、小金を持った俗物が多かったせいもある。こういう連中はみんな家にひっこんだまま、銃を手にするどころか、窓から白旗を出し、なかには皇帝軍を迎えるために男はフロックコート、女はアフタヌーンドレスの支度をしている者までいた。ここのリーニエが放棄されたために、両どなりの地区は側面ないし背面からも攻撃を受けなければならなくなった。ラントシュトラーセでは、四時にはもうクロアティア軍の先鋒がグラシー、つまり城壁の下の緑地帯に達していた。
―グラシーといえば、バリケードのなかでスーシーのことも思い出したな、ちょっと陽気がよくなると、彼女ら、いつもベンチを小脇に抱えてグラシーに出かけたもんだ。
―散歩に行くのに、わざわざベンチかついで行くのかね。
―ばかじゃねえか、おめえ。四八年革命史やるなら、そういうことも知っとけよ。ベンチは天国の商売道具だよ。ベンチにひっくり返って、星を見るのさ、あたしの星はどれかしらって。
―ああ、そうか。四八年ウィーンのいわゆる「自由な娘」のことだな。そういえばここに「自由な娘」にかんする二冊のパンフレットがある。最初のパンフレットは男が書いたのだろうな。「自由な娘」はいつだって白いストッキングをぴっちりはいて、男の食欲をそそるよう精一杯心がけているのに、世の普通の女ども、とくにブルジョアの娘などは、舞踏会でちやほやされて思いあがり、一度結婚すると、これでいつまでも愛されると錯覚して、男に気にいられる努力をいっさい放棄する、男が女房族に愛想をつかすのはあたりまえである、というわけだ。それにたいして「フランスの一女性」が「全ヨーロッパ」の女を代表して名乗りをあげる。世の「抑圧された女性」は家事その他に追いまわされ、「自由な娘」のまねをしている時間などないわよ、というのだが。
―「自由な娘」がなんで「自由」で、なんで「娘」なのか、よくわからねえが、どっちにしたってプロレタリアの女だよ。そうそう、バリケードのなかで聞いたおもしろい話をしてやろうか。四八年の春、ある男がウィーンに女郎屋を開こうとして、開業願を内務大臣に出した。すると内務大臣自分で決めねえで、わざわざ皇帝にお伺いを立てた。すると皇帝即座に言ったそうだ、「そんなもの許可するまでもないでしょ。城壁から大きな大きな屋根をつくって、市にすっぽりかぶせれば、ウィーン全部が女郎屋になるじゃないの。」
―君たちはバリケードのなかでも、そんな冗談ばかり言いあっていたようだな。いわゆる「バリケードのだじゃれ」か。ところでプラーターはそれからどうなったのだ。
―急に敵陣のなかで熊皮帽や赤頭巾があわただしく動き出した。来るぞと思ったら、案の定突撃してきた。クロアティアのほか南スラヴの連中が先頭だ。なかには青竜刀をふりかざした奴もいたな。こっちも家々の窓から猛烈に射った。しかし、バリケードからはベムは射たせなかった。奴らの顔がのしかかるようにこっちの目に映ってきたとき、はじめてベムは、射てと命令した。五門の大砲をいっせいにぶっ放し、銃を射ちまくった。敵はまるで将棋倒しのように倒れ、たちまちバリケードのまえに屍の山ができた。敵はとうとう背中を見せて逃げ出した。ざまあ見やがれとおれたちが歓声をあげると、ベムもニヤリと笑った。突撃に失敗した敵は、ここでまた砲撃に戦術を切りかえた。霰弾が街灯の柱をへし折り、はずみにバリケードの二本の旗もふっとばした。ハンガリーの旗はどこかにいってしまったが、ドイツの旗は見つかったので、拾ってきて、また立ててやった。頭のてっぺんから腹の底まで響くような砲声、耳をかすめる銃弾、両側の建物が焔に包まれ崩れ落ちていく音、仲間のわめき声、死んでいく者が最期になにかを求める声、なんだか自分がまわりの世界といっしょにぐらぐら揺れながら地底に沈んでいくような感じのなかで、おれたちは必死にバリケードを守った。敵はこっちと違って弾薬がありあまるほどあるから、気違いみたいにぶっ放してきた。だがおれたちのバリケードは敵の砲弾の乱射にもとうとう持ちこたえた。それじゃいけねえと敵の大将も思ったんだろう、おれたちへの正面攻撃を中止して、迂回作戦に出てきた。つまり、イェーガー・ツァイレの両側の家に裏側の通りから侵入し、壁を突き破ってこちら側に出て、バリケードを前と後からはさみ撃ちにしようというわけだ。三時頃だったかな。こうなると家の窓と窓からも射ち合った。弾がどこから飛んでくるかわからねえ。二階が占領されても三階でがんばり、手をあげる奴は一人としていなかった。なにしろ銃をすてて手をあげたって、ぶち殺されることはわかりきっていたからな。やるかやられるかの二つに一つだった。仲間も一人二人と減っていった。リンツ義勇軍の司令官もとうとう倒れた。そのうちまた頃合いだと思ったんだろう、バリケード正面の敵が突撃してきた。今度もバリケードから、家の窓から、屋根裏や地下室の隙間から射ちまくってやった。敵はまたしっぽをまいて退却さ。このプラーターは敵にとっての主目標だからな、それがまだ落ちないということで、司令官のラムベルクもさすがに焦ったんじゃねえか。
―そう、彼はこの時点でヴィンディシュグレッツに増援を求めている。
―それでも、おれたちのプラーターは落ちなかった。いやプラーターの星だけはついに落ちなかった。プラーターはプロレタリアの星だ。
―もっともターボアの大通りも、ザルツブルクの学生、労働者、民兵が敵の三度にわたる突撃をはね返して、がっちりと守りぬいたようだな。
―ベムは戦いがここまで烈しくなっても悠然としていたね。一人乗りの小さな車を馬につけて、それに乗ってアウガルテン方面まで出かけて、指揮をとったものだ。だが、六時頃になると、ベムもついに退却命令を出した。おれたちが負けたからじゃねえ、おれたちのうしろの地区が占領されたため、どうやら敵中に孤立しそうになってきたからだ。ベムは引揚げ命令を出しておいて、自分も流れ弾で負傷していたから、敵兵のなかを馬で突っきって市内へ帰った。その夜どこかで悠々と飯を食っている彼の姿を見かけた者はいるけれど、そのあと消えちまった。おれたちも一目散に逃げたわけじゃない、戦いながらゆっくり引き揚げてきたさ。エリートコルプのハウク大尉、これもまた豪胆な男だが、彼などはフェルディナント橋を渡り、わざわざ大砲まで引っぱって帰ったものだ。
―ところでこの日の非戦闘員の民衆にたいする掠奪、暴行、虐殺も歴史に残るすさまじさだったようだな。とくにクロアティア兵。
―クロアティア兵だけじゃないけれどね。わるいことはみんなクロアティアのせいにする傾向もあるからな。それにしてもレオポルトシュタットじゃ、ある食堂のかみさんは丸裸かにされて、乳房を切りとられ、陰部に剣を突っこまれて、腹を切り裂かれた。もっともおれが見たわけじゃないけれど。それをとめようとした亭主も、おめえも地獄へ行きたいのかと火のなかに放りこまれた。どこの家も徹底的に家探しされ、現金や貴重品ばかりか、ベッドのカバーからシーツまでまきあげられ、地下室やたんすのなかに隠れていた女は引きずり出されて兵隊の餌になり、男は男で若かろうとじじいだろうと、かたっぱしから射ち殺され、銃床で殴り殺された。もっとも兵隊共が掠奪、暴行に夢中になっていたおかげで、おれたちが逃げる時間は十分にかせげたが。
―南部のリーニエ付近も猛抵抗したから、それだけ兵隊の掠奪、暴行もひどかったようだな。軍隊がどのように暴行したか、ウンターライターやドゥンダーが回想録でくわしく書いている。
―ドゥンダーか、あいつは国民軍の将校だが、札つきの反動だぜ。
―そこがまたおもしろいところだ。彼はたしかに反動だが、事実にたいしてはやけに忠実なのだ。たとえばマルガレーテン地区にヨハンナガッセという長さが二、三百メートルしかない裏通りがある。リーニエの近くだから、職人や労働者の貧乏人ばかり住んでいたところだが。ところがこの裏通りも軒並み兵隊に荒され、ここだけで住民が五七人虐殺された。兵隊が一軒一軒荒したあとを、ドゥンダーもまた一軒一軒追跡調査して、彼の回想録に書きこんだ。それによると兵隊の暴行は明らかに、上からやれといわれたか、少くともやってもかまわないといわれたもののようだ。暴行者のなかに将校もまじっている。反動ドゥンダーがいささかの遠慮もなく軍隊の残虐行為を明らかにし、革命直後に公表しているのだ。ヘルファートだってそうではないか。彼も保守派のごりごりだ。なにしろ八月の議会で農民賦役の無償廃止に頑として反対し、「農民に告ぐ」などという檄文で「もっとも安い補償」という自分の現実的政策を明らかにしている。しかし、彼があらわした多数の革命史、四八年ウィーンで出た二六〇種以上の新聞研究、二一七〇種のビラの集大成、それを無視したらウィーン革命史研究は不可能だ。ある意味ではあたりまえのことだが、真に保守たらんとするには過去の事実の上に忠実に立たねばならない。
―そんなお経みたいなことおれたち貧乏人の知ったことか。でもまあ事実といえばね、おもしろいことに赤マントの連中は、むやみやたらに銀貨を欲しがったのだ。だいたい二十グルデン貨だけれどね。指輪や時計をかっぱらうと、すぐ銀貨引換えに投売りだ。百グルデンの札を二十グルデン貨三枚か四枚で取り替えたりした。なかには国民軍の制服の銀ボタンを握りしめて死んでいた、あわれなクロアティア兵もいたよ。銀貨とまちがえたんだろうな。奴らにとってはハンガリー遠征は民族独立の戦いだったのだろうし、銀貨を何枚か握って早く故郷へ帰りたかったのだろうな。
五 最後の銃声(十月三十一日)
―二八日夜すでに、メッセンハウザーは降伏を決意した。この夜は指導者格の面々はおそらくベッドにはいらず、夜を徹して意見を交し、対策を協議したのだろう。メッセンハウザーは同夜おそく、防衛各部隊と市評議会の代表を召集し、これ以上無益な流血を避けるために、ここでヴィンディシュグレッツに代表団を送ろうと提案した。労働運動のリーダーの一人シェーゼスなど、屈辱的条件をのむことに反対した者もいたが、大勢はメッセンハウザーの提案に声なく従ったのだろう。
―だが、ヴィーデン、ショッテンフェルト、ノイバウ、ヨーゼフシュタットなどまだ占領されていない市外区の労働者や、おれたちプロレタリアはこのときも降伏する気など毛頭なかったぜ。代表団の奴ら、白旗つけた馬車に乗ってマリアヒルフからリーニエの外に出ようとした。労働者が馬車をとりかこんで、口々に叫んだ。「市評議会の犬をぶち殺せ、奴らはおれたちを裏切り、売りとばそうとしているんだ。」だが、なかに割ってはいった大学兵団の顔を立てて、なんとか通してはやったが。
―代表団は前哨線から目隠しされて本営まで連れて行かれた。馬上から見下したヴィンディシュグレッツのまえで市民代表がとった卑屈な言動については、くわしい記録もあるが、ここではもう話す必要はない。市評議会の一人は、プロレタリアが暴行したり放火したりするのを防ぐために一刻も早く軍が市に進駐していただきたい、などとわざわざお願いに及ぶ。
―弱虫臆病で戦えないというならわからないこともないし、公然と革命に反対する奴がいてもふしぎはない。だが、陰でこっそり革命を売り買いした奴だけは許せねえな。二九日はちょうど日曜で、この日も朝から霧が深かった。まるで街全体が教会になったみたいにひっそりとしていた。
―ヴィンディシュグレッツの示した停戦期限は三十日午前零時。メッセンハウザーは二九日午後四時各中隊の代表約二百名を集めて、降伏か否かの票決をさせる。降伏賛成が過半数を占めた。午後九時半、ふたたび代表団がヴィンディシュグレッツをおとずれ、正式降伏の意を伝える。「ウィーン無条件降伏、皇帝軍本日市を占領」と、ヴィンディシュグレッツはただちにオルミッツに電報を送る。メッセンハウザーは次の呼びかけを発した。
市民諸君
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私は各中隊の代表を集め、絶望的闘争をおこなうべきか、それとも、いまや否定しえない圧倒的な敵の優勢のもとに屈服するかについて話しあった。兵士としてありのままに真実を述べれば、絶望的闘争は現状のもとでは住民の血をむざむざ流させるだけのことである。心を痛めつつ自分の胸のなかに秘めておくべき外交的秘密がもはや何一つとしてないいま、私はわれわれの弱点をあからさまに述べることができる。すなわち、われわれは日夜奮闘し費用を投じもしたが、多くの弾薬をつくることができず、いまや四時間全面的に防衛するだけの貯蔵分しかない。(後略)
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―学生委員会も解散してしまったしな。夜七時頃大学へ行ってみたが、ガランとして人気はなく、何人かの学生が荷造りしていたよ。ガスもこわれて来なくなってしまったから、どこの家もロウソクをともし、その光が街にぼんやり反射してくるだけだった。それでもあちこちで何人ずつか集まって、口々にメッセンハウザーを裏切りだと罵ってはいたが、みんな声に力がなかったな。その夜おれは武器庫に寝た。武器庫では何人かの男がなおも徹夜で弾丸つくりに励んでいた。翌朝、つまり三十日の朝、街へ出てみたらおどろいたね。革命の代名詞のカラブレーザー、つまり例の幅広いツバのついたフェルト帽は街から完全に姿を消した。リーダーだった連中は市民服を着こみ、シルクハットをかぶって、ステッキなど持って歩いていたよ。五月以来みんな髪をのばし、ひげをはやしていたのに、髪を短くし、ひげもみんな剃り落してしまったから、だれがだれだかわかりゃしねえ。コーヒー店は満員だった。それに今頃になって国民軍の騎兵が出てきたのにもおどろいたな。急にまたいばりかえって、学生らしい若者を見つけると、どやしつけたりしていた。そんな雰囲気のなかでも、銃で武装した連中が少しずつ大学に集まってきた。メッセンハウザーもやめてしまったというのに、かなわぬまでも弾のあるかぎりは、と思った連中も多かったのだ。もちろんプロレタリアだ。
―そのときだな、モガに指揮された二万五千のハンガリー軍がウィーンに接近してきたのは。もう全然やる気のなかったメッセンハウザーが民衆に突きあげられて、しぶしぶ見張台のシュテファン塔にのぼって行った。そして高い塔の上からビラをまいて、下に集まった民衆に戦況を知らせたわけだ。ところが十二時四五分頃の第二報、二時の第三報が刺激的というか煽動的な内容をふくんでいた。霧ではっきりは見えないが、ハンガリー軍が押し気味で、「三十分前からは戦闘は明らかにしだいにこちらへ近づきつつある」というのだから。だが事実は、その直後ハンガリー軍はツァイスベルクの軍に中央突破されて総崩れになったのだ。ハンガリー軍は数のうえではるかに劣っていたし、オーストリア領内で皇帝軍と決戦する意志があったとは到底思えない。しかし、ウィーン市内の民衆はそんなことは知る由もなかった。
―おれたちはみんな湧き立った。そこで警報太鼓をドカドカ鳴らして、さあみんなもう一度武器をとれ、と市内を煽って歩いた。おれたちのほかに学生も多少は集まってきた。それでもメッセンハウザーはもう戦う気はなかった。市評議会はなんとかおれたちに銃をすてさせようとして、銃と引換えに金までまこうとしたけれども、一度命を捨てたおれたちだ、いまさら金などいるものか。三一日には「降伏は完了している」なんて掲示を市評議会が貼り出したが、みんなビリビリに破いてやった。ヴィーデン市外区の労働者も全員また武器を手にした。あの長いマリアヒルファーシュトラーセが端から端までまたバリケード化されたんだ。
―ヴィンディシュグレッツは、シュテファン塔に黒黄の旗と白旗を掲げること、全員武器を引き渡すこと等を要求してきたわけだが、それが守られるどころか、この時点から歴史家のいうプロレタリアの「暴力支配」が始まったわけだな。プロレタリア独裁か、しかし指導も組織もなく、しかもたった一晩だけの。
―乱暴なことなどおれたちは何もしなかった。ただね、市民の連中は大多数武器を市に引き渡して、家のなかで震えていた。たまに白い手袋などはめて外に出てくる奴を見つければ、なぜおめえも戦わねえんだ、といって多少傷めつけたりはしたけれど。武器をすてないおれたちの数はまだ三千人、大学広場を埋めつくしていたさ。バスタイにももちろんいたし、グラーベンでも百人ほど集まって銃を構えた。司令部はもうどこかにすっとんだ。将校もろくにいやしねえ。議会もそっぽを向いた。市当局はもちろん軍の手先だ。革命中鳴りをひそめていた警察スパイがこのときとばかりうろつき出した。メッセンハウザーのあとがまに推されたフェンネベルクさえ、「モビール部隊に告ぐ」という公示文で、闘争の継続は「不可能ではないにしても、無益で破滅的だ」などとぬかす始末だ。もっともインテリのなかにもおれたちといっしょに最後までやろうとした奴がいなかったわけじゃない。たとえばベッヒァー。
―ベッヒァーだとて、すでにウィーンの運命が決ったことを知らなかったわけではないだろう。ただ彼らにとってはウィーン革命は世界史を担っていたのだ。だからベッヒァーはウィーンと共に死ぬことによって「世界史」に殉じようとしたのだ。
―その世界史とかいう代物がくせものだな。なにしろドイツ的であることが世界史的だというんだろ。断っておくけど、おれたちウィーンのプロレタリアのなかにはドイツ人はあまりいなかったんだぜ。
―むずかしい問題はまだある。四八年ウィーン革命は世界史的にはブルジョア革命だ。プロレタリアートはここでは「まだ」世界史のなかに組みこまれていない。しかし、プロレタリア賤民をぬきにした四八年革命はまったくありえない。まあ、抽象的な話はやめておこう。ウィーンの指導部がここで降伏を決意した理由も私にはよくわかる。ただ、同じように降伏に賛成した指導者のなかにもいろいろあるな。追いつめられたときにはじめて、その人間の性根がわかる。指導部から出された二つの最後の告示の文章にそれがはっきり出ている。
告示
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われわれウィーン国民軍司令部は、十月三一日午後若干のモビール部隊の側から皇帝軍にたいして開始された敵対行為が司令部の命によってなされたかのような理不尽な言いがかりにたいして、ここに厳重に抗議する。
それどころか司令部は、早朝来休む間もなく民兵の武装解除につとめ、作業員の生命の危険を冒してまで若干の砲をバスタイから撤去し、平和と治安の確立のために全精力を傾けたのであって、その証人となってくれるよう、われわれは市評議会に要請する。
したがって司令部が降伏の破棄をそそのかし、命令すらしたかのようなすべての言いがかりにたいして、われわれは再度はっきりと反対する。
一八四八年十月三一日、ウィーン
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[#地付き]臨時司令官メッセンハウザー
[#地付き]司令官代理フェンネベルク
しかし、この弁明の甲斐もなく、おまえはシュテファン塔から煽動したではないかということで、ヴィンディシュグレッツは武人の断をもって、自首したメッセンハウザーを銃殺する。もう一つの告示は国民軍参謀長ハウクのもの。
首都ウィーンの国民軍諸君に告ぐ
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(前略)すでにここ三日というもの弾薬は不足していた。その一部は若干の個人によって裏切り的に横領されたのである。食糧の不足も目立つようになり、あと二日もすればひどい窮乏が生じたであろう。使用しうる砲は日毎に減少していった。訓練を積み習熟した軍隊は不足し、危険に瀕した地点に援軍を派遣することはできなかった。それというのも、これまで民兵は自分の地区だけで防衛にあたる任務しか持たなかったからであるが、その点で私は、勇を奮ってわが身を犠牲にしつついかなる地点にも赴いた民兵諸君に感謝を捧げる。
皇帝陛下によって保証された人民の諸権利は侵されないという約束は繰り返しなされた。招かれざるハンガリー軍が現に包囲中の軍とくらべて数的に劣勢であり、市に代って戦い得なかったことがはっきりたしかめられた。武力抵抗の続行によってわが栄光ある市の幸福は否でも応でも破壊されるだろうし、迫りくる冬には貧しい階級の困窮はどん底に落ちるだろう。交易商業は阻害され、予想しうる市民戦争の惨事はおそるべき結果を伴うだろう。人間性と理性にもとづき、公正な確信と良識ある判断にもとづき、私は降伏に賛成せざるをえなかった。(中略)
ウィーンの民兵諸君、血で書かれた紅の文字によって歴史に刻みこまれた十月の日々を、私は諸君のもとで耐えぬいた。もしもこの二十日にわたる辛苦にみちた日々や眠らざる夜が、また諸君に奉仕しようとしたまっすぐな意志や多くの障碍によって妨げられた努力が、なにほどかの価値を持つのであれば、諸君、私の言葉に耳を傾け、敵の銃弾にたいして示したような勇気をもってのしかかる運命に耐えてはくれないだろうか。
忠実に義務をはたしたと自覚しながら私は自分の困難な部署を退く。私を信頼し、人民と人民の権利のために英雄的に献身してくれた諸君、仲間よ、ありがとう。
一八四八年十月三一日、ウィーン
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[#地付き]ウィーン国民軍参謀長エルンスト・ハウク
いずれにしても三一日ウィーン市内無血占領というわけにはいかなくなった。まず市外区ヴィーデンを掃討せよという命が出る。猛烈な抵抗を排除して、軍がブルク門のまえまで到達しえたのは午後三時だった。この日のヴィーデンについては、軍は多くの犠牲を払ってやっとヴィーデンを占領したと革命側のメモアールは言っているのに、軍の一将校が上に出した報告では、市民の抵抗なし、わが方の損害もなしとある。ウィーン革命の場合も、軍の報告や発表は多くの場合まゆつばものだな。
―この日もウィーンは霧に包まれていたよ。数十メートル離れた家々の赤い屋根が霧のなかにぼんやりと浮かび出ていた。城門はすべて開けられないようにしてから、戦う者はもちろんバスタイにのぼった。使える大砲はバスタイに並べ、シュテファン広場にも二門配置した。この二門は敵に向けたんじゃない、内部の裏切りに向けたんだ。午後の三時頃か、ブルク門の下でこっちの議員と敵の将軍が交渉を始めた。そこに、頃合いを見はからって、小銃を何発かぶちこんだ。一発が偉そうな奴の馬の腹に当ったものだから、馬は竿立ちになり、乗っていた奴は馬から落ちて気絶した。そいつはツォリヒ大元帥だ、という奴もいるし、砲兵大尉のバンデネッセだ、ともいわれるけど、それはどっちでもいい、とにかく敵の気違い砲撃が始まった。霰弾、榴弾、焼夷弾、六ポンド弾、十二ポンド弾等、市内のすべての建物が揺れ出した。ついに戦わなかったブルジョア共、このときだけは生きた心地がしなかったろうな。宮廷図書館の屋根やアウヴスティン教会の塔も燃え出した。あとで軍は、図書館に放火したのはプロレタリアだなんていうデマのプラカードを貼り出しやがったが。おれたちもバスタイから射ちまくった。敵はそのうち大工まで動員してブルク門のこじあけにかかった。どっちみち勝ち目はない。おれたちも逃げ出した。逃げながら、王宮の建物のかげに隠れて、持っていた弾を一発残らず射ちはたした。相手は正面から突っこんでくる軍だけじゃねえ、うしろから国民軍の連中もおれたちを射ってきた。
―七カ月半続いたウィーン革命を弔う最後の銃声か。
―ブルク門には白旗が掲げられた。市内じゃ市民は軍隊を歓呼の声で迎えたもんだ。どの窓からも白いテーブル・クロスがぶらさげられ、男も女も家からとび出して将校のまえにひざまずき、兵隊の手を握りしめ、なかには兵隊に金までやる奴もいた。それはまあいいとして、「善良なる」国民軍が軍におべっかを使ってプロレタリア狩を始めたのには、さすがに頭にきたな。いっしょに革命をやった仲じゃなかったのか。城門は全部閉められ、おれたちは袋のネズミだ。
―「鳥は巣でつかまえる」ものだ。この夜最初にアム・ホーフで五八名プロレタリアが逮捕された。ブルク門でプロレタリアと戦った国民軍の二中隊は、なお二四時間軍と共に王宮を守る栄を与えられ、その将校はサーベルを保持する名誉を許された。翌十一月一日早朝、ヴィンディシュグレッツの新たな布告が出る。軍事支配の開始だ。市、市外区、ウィーン周辺二マイルまでは戒厳令施行、アカデミー兵団と国民軍は解散、四八時間以内の全面的武装解除、政治的結社の活動停止、十人以上の集会禁止、飲食店、コーヒー店は市内十一時、市外区近郊十時閉店、滞在理由の証明なき者は外国人のみならずオーストリア人も追放、家主は全居住者を申告のこと、軍当局が最高機関となる、等々。議会は閉鎖され、議員といえどもこの時点で身の安全は保証されなかった。市評議会からもラディカルなメンバー、ヴェセリー、フロイント、シュティフト、シンヴェスターの四名が強制的辞職勧告を受け、他方ブルム、フレーベル、グリッツナー、フュスターは逮捕された。
―軍は城門を閉鎖したうえで、かたっぱしから家宅捜索を始めた。プロレタリアは市内に知合いなんぞもっているわけがないし、かりに友だちの部屋にいたところで家主が密告する。なにしろ密告しなけりゃ、家主自身が軍事裁判にかけられるのだから。ホテルに泊っても、身分証明書がなければすぐ逮捕だ。路地やコーヒー店にいた奴はまとめてもって行かれたしね。一日にもモビールが二百人も一度につかまり、銃剣を突きつけられて市内をひき回された。降伏後いったい何人殺されたのか、記録もねぇからわかりゃしねえが、グラーベンの石畳は銃殺されたプロレタリアの血で染まったんだ。つかまった奴は殺されないまでもひどい目にあった。地下の穴倉に四十人も詰めこみ、食い物もくれずに四八時間立たせておいたなんていうのは、まだいい方で、ウルマイヤーなんて男は、検挙されて本営まで連れていかれる間に、首を吊るされて気絶したり息を吹き返したりを九回もやられ、おまけに四回試し射ちされた。
―逮捕指名者のうち主な者、プルスキー、ベム、メッセンハウザー、フェンネベルク、シュッテ、ハウク、ブラウン、クーヘンベッカー、ブリアン、ヴチェル、ハンマーシュミット、ベッヒァー、エングレンダー、タウゼナウ、グリッツナー、ドイチュ、マーラー。結局逮捕者総数二三七五、軍事裁判にかけられた者二〇四五、有罪判決五三二、死刑判決七二、死刑執行された者二五。非公式に虐殺され暴行された者はもちろん含まず。ブルム銃殺についてはよく知られているから、彼についてはここでは言わない。最後はこれまた銃殺されたベッヒァーについてだけ少しふれておこうか。マンチェスター生れ、父はフリードリヒ・リストの友、ウィーンの音楽サークルでもっとも名声をはくした批評家、ウィーン革命においてもっとも一貫したラディカリスト、メンデルスゾーンをけなし、ベルリオーズを熱狂的に礼賛。さらにペリン男爵夫人とのあいだにウィーン革命の愛の秘史を持つ。十一月二四日公布の判決書にいわく、「合法的政府および尊厳なる皇室の打倒」を呼びかけ、「革命的執行権力の樹立を提起」すと。まさにそのとおり。
―ペリン夫人はね、戦死した貧しい労働者の子供のために金を集めようとしてつかまった。警察じゃ、衣服をはぎとられたうえ、殴る、蹴るの乱暴を受けたそうだよ。なにしろ彼女は三一日にもおれたちといっしょにバスタイに立ったんだから。
―そうはいっても、彼女はいわゆる「解放された女性」のタイプではなかった。ベッヒァーとの愛におちいるまえは、四人の子の母として政治とは縁の遠い暮しだった。だが後半生は社会から閉め出され、まったくの孤独のうちに世を去った。「不潔なアマゾン女」「メゲーレ」「政治的市場女」「デマゴークの男まさりの情婦」等々と世人に罵られながら。
―気の毒にな。なまじっかおれたちにきもいれしたばっかりに。
―最後にウィーンの十月革命で何人死んだか、これがさっぱりわからない。まず六日の死者一四六名、下旬の死者は市民側で氏名を公表された戦死者二二六名、ただし非戦闘員のぞく。軍の公表された死傷者数一一九五名。
―ふざけるなよ。市民側はプラーターだけでその何倍も死んでいるよ。五万人が武装し、三万の女も参加して戦った革命だよ。
―だから、軍の戦死者だけで四千人という者もいる。市民側の死者は少くとも二、三千人。たしかなことは、そして問題は、軍の死者の大多数はクロアティア人ないしスラヴ系の兵士であり、市民側の死者のほとんどがプロレタリアだということ、それからもう一つ、バリケードを守って死んだプロレタリアのかなりの部分もまた非ドイツ人だったこと、それなのに人はこれをただブルジョア革命と呼ぶのみで、理念的スローガンにしたがってもっぱらドイツ革命の一環としてのみとらえることだ。どうやら、歴史をつくる人民は、理念的に構成された「世界史」などとはあまり関係ないかのようだ。
口をつぐむヨーロッパ
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
ヨーロッパは口をつぐむ 運を天まかせにして
革命――もう知ったことか、だと
君たちの呼び声は消えた――なんと汚れはてた屈辱
自由は呻く、昔どおりのくびきにつながれ
いまや頼るものなきマジャール人
なお手をさしのべる国民の一つとてなく
卑怯者は鎖につながれ
われらのみなお抵抗を続ける
[#ここで字下げ終わり]
(シャンドール・ペテーフィ、
一八四九年七月二九日
[#地付き]ジーベンビュルゲンの戦野にて)
[#改ページ]
ウィーン便り
一 赤マント
ウィーンの秋は短い。十月の声を聞くとすぐ部屋を暖める算段をしなければなりません。空はいつもどんよりと曇り、みぞれがちらつきます。ドイツ語にいうナースカルト、いわば冷たさに濡れるのです。十二年ぶりのウィーンで目だつのは車の激増、それから犬がふえたこと、知人の話だとウィーンに約五万匹いるとのこと、部屋のなかで飼うせいか、ほとんど黒のプードルです。おかげで街は犬の糞だらけ、僕の妻はひどい近眼ですから、踏んづけて帰ってきます。しかも自分の過失に気づかず、床のよごれを発見して娘にどなりました。「やよい!」やよいというのは九歳の娘です。「家にはいる前に靴をよくふきなさい。」娘は実証主義者ですから、さっそく各自の靴を検証し、検事こそ真犯人であることをつきとめました。犬のつぎにふえたのが日本人と日本商品。これはウィーンだけでなく、ヨーロッパ全体について言えることでしょうが、どこを歩いても、自分と似た顔にぶつかります。
こんどウィーンに来た主目的は一八四八年革命のデッサンを描き、原資料をできるだけ集めることです。日本にいるときから考えていたことですが、民族問題をぬきにして四八年革命は理解できないという想いがいよいよ深まってきました。
ここに来て間もないころ、買物に出かけた妻がドングリ眼をグリグリさせて戻ってきました。「いま入り口に変な二人づれの女がいて、働かせてくれというの。掃除でもなんでもいいというの。ノーと言ったら、そのあと、ゴミ箱を探していたわよ。」「オーストリア人じゃなかったから、ガスト・アルバイターよ、きっと」と妻は言いました。ガスト・アルバイターというのは外国からの出稼ぎ労働者です。イタリア、トルコ、ギリシアをはじめ中近東の諸国から来ていますが、オーストリアの場合ユーゴスラヴィアが圧倒的に多いようです。これも十二年前にはいまほど目につきませんでした。もっとも、これまた西欧の大都市ではどこでも生じている現象ですが、ウィーンではそれが特殊な民族問題と結びついています。そして、僕が学ぼうとしている四八年革命史とも一筋の糸でつながっているのです。
数日後、図書館に出かけようとしていると呼鈴が鳴りました。郵便配達の来るころで、さては日本のだれか親切な人がうまいものでも送ってくれたかとドアを開けると、女が一人、うちの娘と同じ年ごろの子供をつれて立っていました。肌は茶褐色で髪も目も黒く、ケバケバしいプリント柄のスカートをはいてます。一目で例のガスト・アルバイターの仲間だとわかります。女はすごいスピードでしゃべるのですが、なにを言っているのか、さっぱりわかりません。さてこれは何語かなと思案していると、彼女、いきなりスカートをまくりあげました。そういうときいささかもたじろぐ僕ではありませんが、この人はなにを始めたかといぶかりました。彼女はストッキングの破れたところを指さして、子供がどうしたこうしたと言っているらしい。最後に十シリング(約一六〇円)くれと言いました。そのドイツ語だけは、はっきりわかりました。
後日、僕らの旧い友人であるグレーテ小母さんがわが家を訪れたとき、その話をしました。彼女は正義感が強く、親切で人間味のある女性ですが、「ガスト・アルバイターなんかウィーンに来なけりゃいいのさ」と、にべもなく言いました。彼女はオーストリアを愛し、しかもドイツ系オーストリア人であることを誇りにしている生粋のウィーン子です。その言葉はガスト・アルバイターにたいするウィーン人の平均的見方を表わしているとみてよいでしょう。
注意して新聞を読めば、ガスト・アルバイターの記事はしばしば出ています。ウィーンの北の場末に、かつて四八年革命の主戦場だったレオポルトシュタットという地区があります。この地区の話ですがユーゴのガスト・アルバイターだけが住んでいる家のことが記事になっていました。家賃は九〇〇から一八〇〇シリング(約一万四千円から二万八千円)の一部屋に、九人から十五人が住む。ひとたび彼らに貸すと、やがて数家族が入りこみ、台所は屑の山、ネズミが横行、下水とガスはストップする。貸すまではきれいだったと家主は苦情を言い、解約しようとしても契約者はすでに行方知れずというわけで、市の衛生局が強制立退きに乗りだしたというわけです。これらの報道がどこまでガスト・アルバイターの実態を表わしているか、僕にはわかりません。しかし、大きなズダ袋をせおってゴミ箱をあさって歩く女たちや、寒空にコートも着ないで金をねだる子供たちは、ほとんど彼らの家族のようです。
一八四八年ウィーン革命史を調べてゆくと、「赤マント」という呼称がよく出てきます。『赤マント』というタイトルの新聞もあります。もっとも、この新聞は一号しか出ませんでした。「赤マント」というのはクロアティア兵のことで、彼らはさきがうしろにたれさがった赤いずきんをかぶり、赤いマントを羽織り、しばしば赤いたっつけ袴をはいていたのです。ウィーンの歴史博物館には彼らを描いた油絵があり、僕自身も彼らと革命軍との戦闘を描いた同時代の版画を手に入れました。稚拙な絵ですが、かなり珍しいものだとのことです。ここで問題なのは赤マント、つまりクロアティア軍はウィーンやハンガリーの革命を圧殺した国際的反革命勢力の手先だった、といわれていることです。
ハプスブルク王朝支配当時のオーストリアは多民族国家で、現在のチェコ、ハンガリー、ユーゴ、イタリアなどを含んでいました。チェコの著名な社会学者で政治家でもあったT・マサリクの表現によると、オーストリアは「中世的遺制」であり「人工国家」でした。ドイツ人とマジャール人(ハンガリー人)はそのなかの少数者のくせにオーストリアの二つの主柱となって多数者のスラヴ系諸民族を支配し、抑圧しているというのです。このマサリクの批判は、いくつかの限定はつきますが、大筋としてスラヴ的立場からの「西欧オーストリア」批判であるということができます。
もう一人、チェコの代表的意見を紹介しましょう。それは、これまた学識ゆたかな歴史家フランツ・パラツキーがフランクフルト国民議会に送った意見書です。彼は国民議会から招待され、いわゆる五十人委員会で意見をのべるように求められますが、きっぱり断ります。そのかわり長文の手紙を送り、彼の考えをのべます。それは非常に複雑な背景をもち、簡単にまとめにくいのですが、無理にまとめると次のようになります。フランクフルト国民議会は従来の領邦的諸国家のかわりにドイツ民族の統一的連邦国家をつくろうとしている。結構な話だ、おやりになるがよい、しかし、そのなかにボヘミア(今のチェコ)まで含めてお考えだとすれば筋違いである。ボヘミアはスラヴ系の独自の文化と歴史をもった民族だ。過去において神聖ローマ帝国やドイツ連邦に組みいれられたことがあったとしても、それは支配者間の純粋に法的な関係にすぎない。ボヘミア民族がドイツ人のなかに吸いこまれてしまったわけではない。
彼はこのようにのべますが、かといって、ボヘミアの独立を求めるわけではない。むしろ、オーストリア全体国家を保持し、その枠内での諸民族の同権を求めるのです。しかし、メッテルニヒ的旧体制を支持するわけでもない。メッテルニヒこそオーストリアにおけるスラヴ系諸民族の敵であり、反動の権化であったにもかかわらず、なおかつ「西欧的啓蒙」の子だったのです。ところが、パラツキーによれば、そのメッテルニヒの仇敵であるハンガリーの革命政府もまた、スラヴ系諸民族の敵なのでした。ハンガリーはオーストリア全体国家を解体し、共和国として独立しようとしている。しかし、ハンガリーは自国内で民族的同権を守っていないし、いまオーストリア帝国を失うことは、ロシアの世界帝国建設の野望のまえに西欧を屈服させることではないか。オーストリアこそ「ありとあらゆるアジア的要素を防ぐヨーロッパの楯」だというわけです。
コシュートによって代表されるハンガリー革命の性格についてはあとでのべます。ただハンガリーは、そしてハンガリーだけは、きわめて「西欧的=ドイツ的」であったこと、のちにあのルカーチにみられるような西欧的教養があったことを、ここでは指摘しておきます。一方、パラツキーにみられるようなボヘミア的立場は、クロアティア人らの考え方と基本的に同じです。パラツキーらの立場は「黒黄派」と呼ばれます。黒・黄はオーストリア帝国の旗をさし、革命史のなかで、それは反動ないし反革命を意味します。
クロアティア人は現在、オーストリアに隣接したユーゴ北部のクロアティア地方に住み、一部はユーゴに隣接するオーストリア南部のブルゲンラント地方に住んでいます。南スラヴ人のなかでもゲルマン系といわれる彼らは固有の言語をもち、小学校でもクロアティア語の教育が行なわれています。しかし、彼らが差別を受けているという訴えは決して消えず、当地の新聞の表現によれば、「クロアティア文化協会の過激分子」が、クロアティア語週刊誌発行のために政府に二十万シリングを要求し、もし政府が受けいれなければ、ユーゴスラヴィアに保護と援助を求めると言っています。こんなこともあって、いまオーストリアとユーゴのあいだには一定の外交的緊張関係が生まれており、あるいは日本の新聞にも報道されているかもしれません。しかし、政府側(オーストリア社会民主党)の代表者はブルゲンラントには差別も迫害もないと言っています。僕自身はウィーンに来てまだ三カ月、クロアティア人が実際に差別されているかどうか知りません。僕が語れること、そして語ろうとしていることは四八年革命におけるクロアティア人の役割です。
四八年ウィーン革命は十月末イェラチッチ指揮のクロアティア軍と、ヴィンディシュグレッツ指揮のオーストリア軍に包囲され、数千人の犠牲者を出して敗北します。このウィーン攻防戦も「十月革命」と呼ばれますが、この革命史の資料を調べてゆくなかで、僕は一つの象徴的事実を知りました。それはバリケード攻防戦で血を流したのは、主として、革命側ではプロレタリア、反革命側ではクロアティア人だったということです。
二 革命版画
ウィーンも車がふえたと前回に書きましたが、それでも東京のようではありません。いまでもガタゴトと走る市電が主要な交通機関です。いかにも古都ウィーンにふさわしい「歴史的文化遺産」で、信号などで電車がとまったり徐行したりすると、停留所でなくても、乗客はかってに乗り降りします。車掌は素知らぬ顔、怪我したら本人の責任だよというわけでしょう。あるときなど運転手が曲るのを忘れて走りすぎ、あわててバックしたこともありました。かといって、乗客と乗務員のあいだが、日本にくらべてよそよそしいというのでもありません。このあいだは、おばあさんの客がキャンデーを一個、車掌にすすめている光景を見ました。車掌は、「なんでくれるの」といいながら、ポイと口に放りこみました。
以前チロルにいたときの経験ですが、ここらあたりの田舎の駅に、普通列車が時間どおり来ることはあまりありません。乗客はサバを読んで駅に行くのが常ですが、僕らが土地っ子の娘といっしょにインスブルックに行ったとき、たまたま定刻に汽車が来てしまいました。サバ読み組はあわてて走りながら、「なぜ時間どおりに来たんだ」と、怒っていました。
僕はそんな調子に合わせながら、南駅からD系統電車に乗って市の中心部に出かけ、図書館に通ったり古本屋あさりをしたりしています。ウィーンには古本屋が何十軒もありますが、いい店は旧市内の一区に多いようです。値段も西ドイツのカタログにくらべると三、四割安、ものによっては半値です。いちばん大きいのは取引所の裏のハスフルターという古本屋で、通りからトンネルのようなせまい入り口をとおって中庭に出たところに、地下室のような店があります。主人は三十歳前後、使用人ゼロで、ときどき美人の女子学生とじいさんをアルバイトに使っています。美人のアルバイト料は一時間二五シリング(四〇〇円)です。僕はいまやこの店はツケで買える身分となり、おかげでつい買いすぎて、かなりの借金をしょいこんでいます。僕の集める資料文献はさしあたって四八年革命にしぼっていますから、すでに小さなコレクションができました。一八四八年から五十年頃に出た、革命の記録やメモアール、新聞、パンフレット、ビラ、プラカード、版画などで、これまで僕は約五五〇枚のビラ、檄文、布告文のほか、六十枚の版画、約六十種の革命期の新聞を手に入れました。
ウィーン革命の資料コレクションといえば、なんといってもヘルファート・コレクションでしょう。ヘルファートは革命期の憲法制定議会の議員だったし、貴族の歴史家ですから、そのコレクションは完璧に近いものです。といっても、これは見たわけではなく、彼の多数の革命史研究書から推測したもので、現物はモスクワにあります。ウィーンにも国立図書館にビラ、プラカード類のコレクションがあり、戦争文書館にサイス・コレクションが、市立図書館にはフランクル・コレクションがあり、その他国家アルヒーフ、アルバイターカンマーの研究図書館、ウィーン市歴史博物館などに所蔵されているものでほぼ資料はカバーできます。ひとの話では『一八四八年ウィーン革命』という英語の本を書いたR・ジョン・レスがウィーンでコレクションを集めたそうですが、たしかなことは知りません。またハーヴァードのホートン文庫のなかにもウィーン革命にかんするコレクションがあるようです。これは、ウィーンのミヒァエル・クリークのコレクションをアメリカ人がそっくりそのまま買いとったものです。
ウィーンにはいま四八年革命の資料マニアは三人しかいません。三人のひとりは大学に所属しない教授で(こちらでは大学に関係なくても教授資格があれば教授です)、労働運動史の資料収集家として著名なヘルバート・シュタイナーですが、彼はダブって集めてしまったものを僕に譲ってくれました。なにしろ僕が調べただけでも一八四八年ウィーンで刊行された新聞が二一九種、同系統で紙名が変わったのを加えると二七一種あります。もっとも数号でダウンしてしまうものが多いですから、革命の全期間をとおして刊行されたものはいくらもなく、半年くらい続いたものをいれて十数種です。ビラ、プラカード(各種布告文)の数は少なくとも四桁になるでしょう。パンフ類になると図書館のカタログもあてにならず、自分でこんがらかった糸をたぐりながら、図書館やアルヒーフを調べあげていくほかありません。
ウィーンには、版画の歴史があります。繁華街には観光客めあてに古い版画の複製を麗々しく額に入れ、高い値段をつけて売っています。たとえばギルファートのような古本屋や古物商をたんねんに探せば、原版が手にはいるだろうと思いながら、横目でにらんでとおりすぎます。もっとも芸術史は僕にとってお門違いですから、ここでは四八年革命の版画だけとりあげることにします。
いまのウィーンでもときたま入手しうるものに、当時の日刊紙『演劇新聞』の下絵の版画があります。ガイガーという画家のものです。三月革命のあと、四八年の五月末から十月末までのウィーンは実質的に市民コンミューンの支配下にあり、ほとんどの新聞が市民的自由の擁護をとなえますが、『演劇新聞』も封建的勢力に対する批判と諷刺を基調としています。この新聞の版画は技巧に走った感じであまり感心しませんが、当時の風俗を知る手がかりにはなります。
たとえば市民軍、いわゆるナツィオナールガルデの制服ですが、なかなか凝ったもので、銀色の飾りのついたヘルメット、えりと肩が赤くふちどられた緑の上着、一本の赤い線がはいった白ズボン、黒い革バンド、それに立派なサーベルをつっています。市内に住む市民たちはもともと銃もサーベルも持っていたのです。
それから学生、経済的には彼らも貧しかったのですが、社会的には当時の特権層です。彼らは「アカデミー軍団」という大部隊を結成、膝の上までくる黒革の長靴、黒背広、白の開襟シャツ、白ズボン、それに黒・赤・金(これはドイツ統一の、したがってフランクフルト国民議会の旗印です)のタスキをかけています。ほとんどの市民や学生は、みごとな長いひげをたくわえます。もっとも十月末にウィーン落城が決定すると、いっせいにひげを落とし、革命と関係なかったような顔をします。彼らは三月革命の段階ですでに武装していた、というより武装を許されていました。もちろん武装を許した側の意図は、市外に住む賤民=プロレタリアの蜂起を抑えさせるためです。
革命を描いたリトグラフィーの作者は多数いて、ここでいちいち名をあげるわけにはいきません。フランツ・コラーズ、J・ランツェデリ、いくつかの画名を用いたアウグスト・フォン・ペッテンコーフェンなどの名が思い浮かびますが、当時のプロレタリアを描いた版画のなかでもっとも芸術性に富むのはアントン・ツァンピの作品でしょう。ツァンピは一八二〇年生まれの版画家で、ユーモアと諷刺をこめてウィーンの民衆生活を描きました。民衆的風俗画家といえるでしょうか。『ウィーンの諷刺的記録』という十六巻本のイラストを描いています。彼が四八年革命の人々を描いた作品は、おそらく二十枚以上あるでしょうが、プロレタリアをリアルに、しかもなんとも人間的体臭を感じさせるタッチで描いた何枚かの作品もあります。つぎはぎだらけの上衣、よれよれのズボン、先が割れた靴、どこかで拾ってきたような山高帽、肩には全財産をいれたズックの袋をさげ、生まれてはじめて持った鉄砲をしっかりと抱いています。それでもオレンジ色のマフラーを首に巻き、帽子に木の葉をさしたのは、精一杯のおしゃれでしょう。もう一枚はひとりのプロレタリア女が後向きになり、巨大なお尻を突きだして靴のひもを結んでいる図です。赤ちゃんの帽子のような、ぴらぴらのついた頭巾をかぶり、やはり肩に銃をかけています。
プロレタリアは三月から十月にかけての全革命期をとおし革命の実質的担い手であったのに、理念的にも組織的にも革命の仲間にいれてもらえなかったのです。十月、イェラチッチ指揮下のクロアティア軍がウィーンに迫った段階ではじめて、市民軍はウィーン防衛のため彼らを募集し、日当とパンとタバコと銃を与えたのです。そこでも彼らは「動員部隊」だった。市内に住む富裕な市民はもちろん、市外区の市民も自分の居住区の部隊に属し、そこだけ守ればよかったのですが、プロレタリアは居住区などあるとはみなされず、危険な地点のどこにでも派遣されたのです。かっこよく言えば、すべての激戦地区の前衛だったのです。
十月革命におけるいわゆる「動員部隊」、つまり武装したプロレタリアの総数は正確にはわかりませんが、少なくとも三万以上、そのうち死んだものは、いろいろな記録から推測するかぎり、二千ないし三千人ではないでしょうか。クロアティア兵も一千人以上死にます。市内の部隊はほとんど戦うことなく部署を放棄します。ウィーンは皇帝軍によって敗れたのではなく、内部の裏切りによって敗れたのだと、革命家はその回想録のなかで歯ぎしりをしています。
三 賤民支配とは何か
ウィーン攻防戦で血を流したのは、主として革命側ではプロレタリア、反革命側ではクロアティア兵でした。おそらく朝鮮やヴェトナムにおけるアメリカの黒人兵のように、クロアティア兵はバリケードに突撃する部隊の先頭に立たされたのでしょう。そして、最後までバリケードを死守し、市民と学生によって構成された司令部が降伏を決定したのちも抵抗を続け、最後に大量虐殺されたのはプロレタリアでした。もっとも彼らは近代的な意味でのプロレタリアであるかどうかは問題があり、当時は「賤民」とよばれていた存在でしたが。
十月末、ウィーン総攻撃が行なわれるまえに、包囲軍と防衛軍とのあいだで小競合がくりかえされます。そのときクロアティア兵が捕虜になって、市内につれてこられます。革命軍はヒューマニズムをスローガンにしていますから、虐待はしません。珍しい動物でもみるように、「君たちは何を食べるのかね」と例外なくたずね、彼らもまたパンを食べ、ワインを飲むことを知って安心します。しかし総攻撃が開始されると、「赤マント」はまるで野獣のようにウィーン人を虐殺し、掠奪するのです。すくなくとも、当時の革命家の回想録にはそのように描かれています。
ところで、ウィーン革命について、多くの回想や記録が革命参加者によって残されていますが、クロアティア兵やプロレタリアの手になる回想は一つもありません。記録類を読んでいくと市民や学生の革命指導者の名はわかるし、それぞれの個性もある程度つかめます。しかし、プロレタリアはプロレタリアという分類で一まとめにつかむ以外にないのです。彼らの名が歴史に残るのは死刑判決文のなかだけです。
二〇〇をこえる新聞が革命期に出たといいましたが、『オーネホーゼ(ズボンなしの意、サンキュロットのこと)』などプロレタリアに同情的な新聞はあっても、プロレタリアの手になる新聞はありません。労働者新聞と銘打ったものは数種類ありますが、ほとんど職人の新聞です。むしろ『コンスティトゥツィオーン(憲法)』、『ラディカーレ』、『ゲラーデアウス』(まっしぐら、とでも訳すか)といった知識人の手になる新聞の方がしばしばプロレタリアと貧困の問題をまっこうからとりあげます。では、当時のプロレタリアとはいったい何だったか、ぼくにもまだはっきりとはわかりません。もちろん職人ではありません。とくに書籍印刷工などは職人中のエリートで、革命前から相互扶助組織をもち、賃上げ、労働日短縮、機械制限などを要求しており、革命にさいしては学生組織の仲間にいれてもらえたほどです。鉄道従業員も一定の組織をとおして労働争議を行なっていますし、六月二四日には全国第一労働者協会という会員二千の労働者教育協会もできます。
しかし工場労働者は彼らとは別で、「労働者」とはよばれず「労働賤民」とよばれていました。だがそれでも当時工場で働けた者は恵まれていた存在で、そのほか革命期に公共的土木工事に従事した日傭労働者がいて、その数は二万人をこしていました。失業者がいたのはもちろんです。この「賤民」と「日傭」の労働者は、「職人」の労働者と区別され、明らかにプロレタリアにふくまれます。「労働賤民」が従事したのはおもに織物、染色、製革などのしごとで、その工場は市外、とくにリーニエの外にありました。
当時の市内はいまの一区、つまり城壁のなかです。城壁のまわりは幅六〇〇歩の緑地帯でグラシーとよばれ、その外が市外区で、さらにその外周をリーニエといわれる高さ四メートルの壁が取巻いていました。むかしのウィーンは二重の防壁にかこまれていたわけです。市内は端から端まで歩いても二十分くらいですからせまいものです。城門から市外区をとおってリーニエまでは、屋根のない箱型の馬車が走っていて、バスのような役割をはたしたようです。
市内にアム・ホーフという広場があります。昔からの広場で中世のウィーン図にものっているし、ローマ時代の遺跡もあります。ここは十月革命の発火点といってもよい場所で、十月六日軍事大臣ラトゥールが群衆によって殺され、この広場のガス灯につるされます。広場の周囲の建物も当時のおもかげを残しています。正面がもと軍事省、その右向いが武器庫で、民衆はここから武器をもちだして武装したのです。いまは消防署になっています。さらに市の中心近くにグラーベンという広場があります。ペスト終焉記念碑があり、高級商店などもあって、ウィーンの観光名所の一つですが、十月革命が敗れた直後、ここで多数のプロレタリアが銃殺され、血の海となったことを知る人はすくないでしょう。
ウィーン人も四八年革命などにあまり興味をもっていません。ある男に、なにを研究しているかと聞かれて、四八年革命だと答えたら、変な顔をしました。「四八年に? ウィーンに革命だって?」――彼氏、一九四八年と思いちがいをしたわけです。もっとも彼は理工系の大学出のドクターでしたが。
同時代の文献だけでなく、現代の革命史研究家のなかにも、落城直前のウィーンを「賤民支配」と名づけるものが多いようです。無知で卑しい連中が武器をもって、ウィーンをアナーキーな状態におとしいれたというのです。たしかに、死に直面したプロレタリアが、戦わない市民をおどしたということはなくはなかったでしょう。しかし、いままで資料を読んできたところでは、プロレタリアは十月段階ではほとんど掠奪をしていないと言いきれます。
市民軍の総司令部はプロレタリア部隊にたいし、敵前逃亡は軍法会議、掠奪は死刑であると布告します。しかし、プロレタリアが現実に何千人と戦い死んでゆくときも、市民たちはなんら抵抗せず、男はフロック・コートに身を固め、女はアフタヌーン・ドレスを着て、皇帝軍の将校のまえにひざまずいたのでした。しかも十月になると、武器弾薬を地下や水中にかくしてしまい、最後の一発を射ちはたして、プロレタリアがつぎつぎと虐殺されていくのを見殺しにしたのでした。
プロレタリアが革命期に武器を不法に使用したという事実はただ一つだけ記録されています。それは、連中、生まれてはじめて鉄砲をもったうれしさのあまり、ドナウ河の川向うにあるプラーターへ出かけて、敵前でウサギやカモをねらってバンバンやらかし、総司令部から戒告をうけたという事件です。プラーターはもと帝室の御猟場で、廷臣貴族の遊歩したところでしたが、十月の段階で、ここに革命軍最大のバリケードが築かれ、三日間にわたる砲撃にも耐えぬきました。また八月二三日には、富裕な市民の騎兵隊によって、プロレタリアが女子どもにいたるまで、まるで合衆国騎兵隊のインディアン狩りのように斬り殺されたのでした。
プラーターといえば、映画『第三の男』で有名になったリーゼンラートとよばれる例の大観覧車は、いまも毎日ゆっくりとまわっています。こんにちのプラーターは庶民の遊楽地として知られ、四八年革命とはなんの関係もないようにみえます。ここにはお化け電車やほんもののロバのメリーゴーランドがあるので、子どもたちは大喜びですし、ぼくもまた、むかしの浅草のような泥くさい雰囲気をもつこのプラーターが好きです。
ぼくの通信は、十月革命におけるクロアティア人や労働賤民の役わりを強調しすぎているようにみえるかもしれません。もちろんぼくは、この革命をたんなる民族闘争としてつかもうなどとは思っていません。ただ革命を実質的に担ったプロレタリアが、まだ近代的意味でのプロレタリアではなかったことと考えあわせてゆくと、四八年革命における少数民族や賤民の立場を切りすて、革命をブルジョア的要求の爆発としてしかつかまない、あるいはつかめない歴史家の感覚がものたりない、というより、むしろ腹立たしくなってくるのです。結局、描かれる歴史というのは、歴史家の心のなかのわだかまりの表現なのかもしれません。そのわだかまりがなんであるのか、それは彼にも説明できないでしょう。
今日もタバコを買いに外出したら、凍てつくような小雨のなかを、ガスト・アルバイターの子どもたちが五、六人、ジャンパーも着ないで遊んでいました。どこの国から来たのか、彼らはいつも彼らだけで遊ぶようです。
四 革命と古本屋
たしかウィーンの冬はもっときびしいはずだった、十二年前の記憶の糸をたぐりながら、私はそう思いました。さらさらした雪が石畳をおおい、市電の窓ガラスには氷の花が咲く。三十分も外を歩くと、いつしか顔面がこわばり、どうしようもなく鼻水が流れる。そんなウィーンが私にとってのウィーンの冬でした。だが、今年のウィーンは私の予想を狂わせました。日中気温がマイナスを数えることはめったにないのです。この調子ならこの冬はどうやら私にも耐えられそうだ。穴にこもって復活祭をじっと待てばよいのです。もっともそうはいっても、ウィーンはやはり北国なのだろうか。外気がいつも濡れるように冷たい。ときとして家々の赤い屋根が霧に包まれてメルヒェンのように遠くかすみます。
四八年革命の軌跡をたどってみよう。それが私をヨーロッパに誘いよせた理由でした。しかも私にとって出発点はいつしかウィーンでなければならぬこととなったのです。別にいま自分がウィーンに住んでいるから、ウィーンが好きだから、ということではありません。四八年革命の軌跡を私自身の心の構造と重ねあわせてみるためには、ウィーンが選ばれねばならなかったのです。理由はあとで多少述べます。いずれにしても、ウィーンに来てみて、やはりよかったと思ったことは、古本が、それも原資料といってよいものが比較的安く手にはいることです。西ドイツやスイスの古本屋について私はあまりくわしくないが、少くともカタログなどで見るかぎり、ウィーンは格段に安い。もっとも、カタログになると、比較的高い値をつけられ、掘出し物がなくなるのは一般的なことです。それにウィーンの古本はしばしば西ドイツに持っていかれてしまう。だから正確に言えば、自分の足で探しまわるかぎりではウィーンは安い、ということになるでしょう。もっと正確にいえば、ウィーンの古本は、私のような人間にとっては安いのかもしれない。つまり、ウィーンでウィーン革命史の資料を探しているから安いものがみつかるのでしょう。
もっとも歴史家の関心のあり方もその点で、だいぶお手伝いをしてくれています。まず英語を話す国民にとっては四八年革命はヨーロッパ「大陸」の局地的事件にすぎない。それはイギリスの後塵を拝した市民革命ということになる。だから、英語で書かれた四八年革命研究はあまり多くない。ところがフランス人はフランス人で、四八年革命はなにより二月革命で、大陸の他の諸国民はフランスの余波を受けたにすぎないと考えているのではないか。フランス語で書かれた四八年ドイツ革命研究はこれまたきわめて少ない。しかしまたドイツ人の自負心だとてフランス人に負けず劣らずです。ドイツ語で書かれた四八年ドイツ革命研究は個別研究をふくめて何百冊にもなるでしょうが、ドイツ人はベルリンやフランクフルトの事件をたんにドイツだけの問題だとは思っていません。もちろんそれは、ブルジョア的要求から発すると共に、統一ドイツ国民国家の形成をめざしていたから、ドイツ人によるドイツ革命だといえます。しかし、ドイツの歴史家や法律家たち――フランクフルト国民議会には彼らが大挙して参加した――の意識のなかでは、ドイツ革命は「世界史」をになっていたのです。ドイツの舞台で世界史が演じられていたのです。他の諸民族、とりわけ東欧系の諸民族は「ドイツ革命」の仲間入りするかぎりにおいて、かろうじて世界史に参加するパスをもらえたのです。ドイツ革命を支持せず、それと違った路線で民族的自立を求めるかぎり、彼らは世界史の進行を阻む「反動」であり、世界史の進行とは無縁な「歴史なき」民族だったのではないか。ところでそうした歴史なき民族はオーストリアが一手に抱えこんでいました。この多民族国家で主導権をにぎっていたのは反動側も革命側ももちろんドイツ人です。だが皇帝派はフランクフルトの理念に歯どめをかける反動でした。チェコ人(わかりやすくするために現在の国名で言うことにしますが)はドイツに背を向けました。クロアティア人(現在のユーゴ、一部はオーストリア)は宮廷派に仕える反動の道具でした。ウィーンの革命派とハンガリー革命政府だけがドイツ的でした。だから、ドイツ的なものと反ドイツ的なものが革命と反動の色わけに重なりあいます。だからまた四八年ドイツ革命は、ベルリンとフランクフルトの二つの議会が軸であり、ウィーン、ハンガリー、プラハ、イタリア、ポーランド等々はドイツの主軸の回転に左右される部品的歯車だと考える歴史家が多いことになります。おかげでまた、ウィーン革命やハンガリー革命の資料が相対的に安く手にはいることになります。
ウィーンに古本屋が何軒あるのか、私はよく知りません。数十軒あることはたしかです。新刊と兼業の古本屋もかなりあります。そういう古本屋は多くの場合一階(日本流に言って)が新刊、古本は地下に置いてあります。したがって店の外からのぞいても古本は見えず、なかへはいって聞かなければならないから、通りすがりの旅行者ではわからない場合も多いでしょう。ほとんどの古本屋は一区(旧市内)にあります。場末の古本屋には概してろくなものはありませんが、それでもフランシス・ハチソンのドイツ語訳(一七六二年)が子供の本にまじっていたりします。値段もひどくまちまちです。たとえば、ウィーンのシンボルであるシュテファンスドームの裏の方に、ハスバッハという古本屋が二軒あります。一軒の方は地下が古本の倉庫になっています。店番は二十代のチョビヒゲをはやした人のよさそうな青年です。古本を見たいと言うと、地下へ案内してくれます。ただし、カバンは上に置いていかなければいけません。薄暗い電気の光を頼りに、ハシゴによじのぼって本棚から一冊一冊とりだしてみると、なかにはこれはと思うものもあります。ただウィーンの古本屋は多くの場合本に符丁で値段をつけている。たとえばLが二、Tが〇、LTTとあれば二〇〇シリング(一シリング一六円ぐらい)、LETとついていれば二五〇シリングです。しかしまためんどうなことに、この符丁はウィーンの全古本屋に共通ではない。店によってちがいます。だから、本を探しながら、それが掘出し値であるかどうかすぐわかるためには、その店の符丁を覚えておく必要がある。もちろん聞けばいくらか教えてくれます。本に値段をまったくつけていない本屋もあります。そういうところでは値は交渉しだいということになります。だから安く買えることもあります。例をあげると、ビスマルクの書簡、アナスタジウス・グリューンの詩集(一八四七年)、ハインリヒ・ラウベの『ブルク劇場』、パスカルの書簡(パリ、一八六五年)等を一冊五〇シリングぐらいで買ったこともあります。もちろん高いものもあります。著名な詩人の初版本は往々千シリングをこえます。金がなくて買っていないが、いまある古本屋の倉庫で眠っているものにワグナーの『芸術と革命』の初版本があります。これは九〇〇シリングです。もう一軒のハスバッハは新刊と兼業です。古本は全部カード化されており、カードによって在庫を調べることができます。
古本はどこにしまってあるのかわからない。私が欲しいもののカードを示すと、一冊一冊奥から持ってきてくれます。はじめてこの店に行ったとき、私の希望も聞かないうちに、おやじはマルクスとエンゲルスは残念ながらあまりない、と言いました。日本の客はみんなマルクスしか欲しがらない、と思っているかのようです。
まえに言ったように、カタログ化されると本が高くなる、というよりカタログをつくるような本屋は値が高いのでしょう。ヴィーデンの場末のライヒマンという古本屋がタイプ印刷のカタログをつくりましたが、あまりにも安くて二、三日で売り切れてしまいました。買いそこなった私が店の主人に聞くと、それを買ったのは市内の同業者でした。いずこも同じです。オペラの近くにあるヴェーゲンシュタインはしばしばカタログをつくりますが、四八年ウィーン革命期の代表的な民主主義的新聞『コンスティトゥツィオーン』紙を全号揃いで八〇〇〇シリングで売り出しました。私は同紙の前半部分と後半部分を別々に買い、ただ最後の約一月分が欠けてコンプリートではないのですが、その数分の一の値で入手しました。四八年革命期のウィーンには二百数十種類の新聞が出ます。そのなかには女性のモードの新聞などもふくまれていますが、大部分は多かれ少かれ民主主義的傾向を持ちます。政府の御用新聞だった『ウィーン新聞』さえ五月以降は多少は民主主義的ポーズをとります。一八四八年五月下旬以降のウィーンは、「事実上」共和制的であり、市民・国民軍(手工業者をふくむ)・学生のコンミューンが成立していたからです。新聞・ビラ・プラカード等が無数に出たもう一つの理由は、ウィーンの労働者のなかで印刷工がもっとも前進的であり、彼らが最初の労働者組織をつくっていたからでしょう。シュテファン教会(通称シュテッフル)の裏にグーテンベルクの立派な銅像がありますが、これは労働者のなかの知的エリートを自負していたウィーン印刷工のシンボルといえるでしょう。もっとも二百数十種類出ていたなどといっても、大部分は全革命期(すなわち一八四八年三月から十月まで)をとおして出ていたわけではありません。ほとんどは、数号で潰れたり、せいぜい一カ月ぐらいでやめたりします。ウィーンの革命的理念を代表していた新聞は、前述の『コンスティトゥツィオーン』のほか、『ラディカーレ』『ゲラーデアウス』『フォルクスフロイント』『ヴィーナー・シャリバリ』などでしょう。ウィーンの街々を男や女の売子たちが、のぼりを立て、声をはりあげて売り歩いたのです。これらの新聞は、まとまっていないバラであれば、ウィーンの古本屋でまだ入手できないことはありません。といっても、簡単に見つからない。古本屋にあらかじめ頼んでおいて、ときたま少しずつ入手できるだけです。もちろん図書館にはだいたいそろっています。国立図書館《ナツィオナール・ビブリオテーク》、市庁の二階にある市立図書館、さらに軍事アルヒーフのコレクションをあわせれば、完全に近いといえます。しかし、それらの図書館ですら見つからないものもあります。ヴィトラツィルの編集した『コンコルディア』は工場労働者の組織化をめざした新聞なのですが、どこにもありません。もっとも一号で尻切れとんぼの新聞です。個人でこれらの新聞を集め、名著『一八四八年におけるウィーンのジャーナリズム』を発表したのはヘルファートですが、彼の作製したきわめて綿密なリストにすら穴はあります。たとえば『デア・エスターライヒシェ・フォルクスボーテ』という新聞についてヘルファートは、前述の著書の本文のなかで、このような新聞が出たといわれているが私は見ていない、と言い、文献リストからはずしています。しかし、一号だけだが、私はその現物を入手しました。
革命期のビラ、檄文、壁新聞の類になると、すでに散逸し、完璧なコレクションはありえない、といってよいでしょう。それでも、もっともまとまったコレクションは国立図書館にあります。それらのうち皇帝のマニフェストや政府の訓令・布告の類いはまとめて見ることが可能です。それらは一年分まとめられ製本されて、アルヒーフに残されているからです。私もザンクト・ペルテン(ウィーンから汽車で西へ三十分ほどのところにある市)で一八四八年に出された全布告文を入手しました。そのなかには地方的文書だけでなく、中央からの訓令・布告がすべて収められてあります。内閣の布告文は多少複雑です。というのも皇帝がウィーンから逃走していたため、内閣そのものがウィーンの議会派と皇帝派に分裂していたからです。ウィーンの革命陣営のなかでもさまざまな傾向があります。まず議会と市委員会の二つが革命ウィーンを合法的に代表していた機関であり、国民軍も基本的に議会ないし市委員会の合法路線と結びついていました。しかし、学生軍《アカデーミッシェ・レギオン》や民主主義諸協会はしばしばこれらの合法路線を批判し、ラディカルな武装闘争を訴えます。四八年のウィーンにはもちろんラジオはなかったし、新聞もだれもが入手できるものではなかったから、これらの機関の布告・訓令・アジテーション・情報等がすべて入りみだれつつ、壁新聞として街角に貼り出されたのです。さらに個人の檄文やビラがつけ加わります。まちがった情報も流され、意図的な中傷も現われます。ときとして、これらの壁新聞が革命の決定的段階で大衆動員の役割をはたしたのです。
例をあげてみましょう。十月六日ウィーン革命は最後の決定的段階にはいりますが、その直接の誘因となったのは軍事相ラトゥールが反革命的クロアティア軍とひそかに手を握り、彼らを財政的に援助していたことがばくろされた事件です。それもラトゥールの手紙が革命軍の手で押収され、それが檄文として流布されたからです。その結果、軍隊の一部が革命側に寝返り、民衆は軍事省を襲い、ラトゥールを斬殺して、その死体を軍事省前の街灯に吊すのです。もちろん系統的に集まるわけはないが、それでもこれらの壁新聞やビラ等を床のうえにひろげて、あぐらを書きながら一枚一枚読んでいくうちに、少しずつ糸がほぐれて、革命の裏面がイメージ化されていくような気もします。
五 ハンガリー革命と西欧
数週間前から、ウィーンに住むハンガリーの婦人からハンガリー語を習うことにしました。大学のドイツ語授業で私の妻が知りあった人です。ウィーンに住む外国人でハンガリー語を習いたいなどというのは、よほど奇特な存在なのでしょうか。最初から先生の方が乗気になりました。こちらも乗りかかった船です。ハンガリー語の複雑怪奇な動詞変化と相撲をとることになりました。なにしろ先生の方がその日を待ちかねるようにやって来ますから、弟子たる者さぼるわけにはいかないのです。四十代の手習いがものになるかどうかあぶないものですが、それでも思い立ったのにはそれなりの理由があります。第一にウィーン革命とハンガリーはそれこそ切っても切れない相関関係のなかにあるということ、さらに一八四八年十月のウィーンの陥落と一八四九年八月のハンガリー軍の敗北がヨーロッパの四八年革命の命運を決めたのだ、と私が思っていること、です。
四八年当時のハンガリーはハップスブルク帝国の一翼をになっていたわけですから、資料はマジャール語だけでなく、ドイツ語が多い。布告文類だけでなく、革命の回想録も多くはドイツ語で書かれています。ペシュト(いまのブダペスト)で出た檄文やビラ類はさすがに現在のウィーンではめったに手にはいらず、私も数枚入手したにすぎませんが、革命に参加した人びとの回想録はウィーンの古本屋でときたま見つかります。まえに述べたように、歴史学者の意識のうえでは東と西の格差が設けられていますから、西欧でのハンガリー革命の研究は無きにひとしく、したがって資料も相対的に安い。たとえば四八/四九年ドイツ革命史研究の最高峯にあるヴァレンティンの研究を見てみるがよいでしょう。彼の本の巻末には膨大な文献リストが付されています。しかし、その文献リストのハンガリー革命にかんする部分を見てみると、ヴァレンティンは文献的にもまるで無知に等しいことがわかります。もちろん私はヴァレンティンの研究全体についてけなしているのではありません。これはなによりドイツ革命の研究であるし、ドイツの諸領邦について論述した主要部分は見事というほかはない。それにもかかわらず、東欧と触れあう部分はみじめなほど貧しい。これは能力の問題ではない。西欧の歴史家の――同時にその後塵を拝しているわれわれの――精神の在り方にかかわることではないでしょうか。もっとも、ここであまりりきむのはやめておきます。いまは古本の話をしているのですから。
ウィーンの古本屋で蔵書数からいって最大なのはハスフルターです。ふだんは若い主人が一人で切り廻しているのですが、いまは女子学生や年寄りのアルバイトを使ってカタログ作りをしています。ただし、西ドイツからの客も多いせいもあって、あまり安くない。ウィーンに来た当初の私は、ウィーンの古本が相対的に安いということでよろこんでいたが、そのうちウィーンの古本相場がだいたいつかめるようになると、今度はウィーンのなかでも安いものでないと、気がすまなくなってきました。この本屋にはいまのところ日本人の顧客は私しかいないし、私はいつもわが家の米びつと天びんにかけながら本を買っているわけだから、もちろんケチな客です。それなのにハスフルター君の商法に乗せられて、いつの間にかツケで買う身分となってしまったものだから、つい買いすぎる。こうなるとバクチでスッテンテンになって女房に首を絞められる男の気持もわかってきます。支払いのために昨年暮に日本から送金してもらいました。すると、わが家の留守をあずかっている大学院生がハガキをくれました。「預金の残高はあと三千円です。」しかし、ウィーン在住の日本人はもちろん私のような素寒貧だけではない。ほとんどの人は日本の国威に恥じないように立派に暮しています。市の中心には「東京レストラン」という日本料理の店もあって結構賑わっているようです。ウィーンのグラーベンという中心街にトップ・クラスの毛皮屋があります。この辺は東京でいえば銀座にあたるところでしょうが、この毛皮屋にはテレビ・スターとか、デップリした紳士に連れられた女性などが出入りします。この店で珍しいミンクの十数万シリングもする毛皮を十枚ほど仕入れたところ、そのうち三、四枚は日本人が買ったそうです。オーストリア人から聞いた話だから、真偽のほどは保証しません。ほんとうだとしても買った人は多分日本のインフレ対策で買ったのでしょう。ただ万国共通の庶民感覚からすると文句も出るでしょう。こちらの労働者の給料はあまり多くない。私たちのよく知っているウィーン大学生でブリュックナー君という男がいますが、彼の父親は電車の運転士で、勤続三〇年でいま五十代、給料は月に六千シリングです。つまり、月十万円、この辺が標準なのです。それにこの頃はオーストリアもインフレで、公共料金も食料品もいっせいに値上りしているから、ゴミ箱をあさってワインの空瓶(一本二シリングになる)を拾っていく老婆の姿も珍しくないのです。
どうも脱線していけません。いまはハンガリー革命の古本のことを書くはずでした。その多くは革命家たちのメモアールです。回顧録というためにはその多くはあまりにも生々しすぎます。彼らは一八四八年三月バチャーニを首班とし、コシュートを蔵相とする革命政府を樹立し、五月には祖国防衛軍《ホンヴェード》を結成します。そして翌四九年三月には、ヴィンディシュグレッツ指揮のオーストリア軍を見事に撃破します。しかし、夏になるとロシア軍が介入します。プロイセンもまたロシア軍の自国内輸送を許可します。その結果、ゲルゲイに指揮されたハンガリー軍の主力はヴィラーゴシュで降伏し、革命の声は圧殺されます。ハスフルターで私は三巻の著作集をはじめ、コシュートのパンフレットを少し手にいれましたが、そのなかでもっとも痛切な響きを持つのはゲルゲイの降伏の一月後に書かれたコシュートの「政治的遺書」です。「ふしあわせなわが祖国は破れた。しかも敵の軍勢によってではなく、裏切りと破廉恥によって祖国は倒れた。」ゲルゲイもまた二巻本の回想録を出します。私は祖国を裏切りはしなかった、と彼は言うのです。さらにのちに『宛名なき手紙』でも切々と裏切りを否定します。卓抜な軍事指導者であった彼には、戦うまえに戦いの帰趨が判断されたのです。一年余におよぶハンガリー革命の戦いの記録は匿名のものが多いが、私がウィーンの古本屋で集めたものだけでも十冊以上あります。ゲルゲイが裏切ったかどうかは別にして、これらの資料が私に教えてくれることは一八四九年のハンガリーは、四八年革命における「ヴェトナム」だったということです。オーストリア、ロシア、プロイセンの反動勢力が国際的に手を組んで、二十万のハンガリー軍を取りかこんだのです。
祖国を失った革命の指導者たちは主としてロンドンに逃げ、ゲルツェン、キンケル夫妻らと特殊な亡命者集団を形成します。彼ら亡命者のメモアールの代表的なものに、フランツ・プルスキーの『わが時代、わが生涯』(四巻本)、テレーゼ・プルスキーの『ハンガリー婦人の日記から』、クラプカの『メモアーレン』(三巻本と一巻本と二種類ある)があります。これらの原版はすべてウィーンの古本屋で見つけましたが、いずれも革表紙の美しい本なのに値段は新刊本より数割高いていどです。しかし、なかにはかなり高い金を払って買ったものもあります。その一つにこんな表題の本があります。『最近のハンガリー解放戦争期における一女性のメモアール』(ロンドン、一八五一年)。彼女はコシュートの秘かな命を受けてハンガリー、ガリツィア、オーストリア、ドイツ国内を潜行し、祖国の救援を訴えて廻ります。ハンガリーがツァーの軍に破れたあと、動きのとれない男に代って多数のハンガリー女性が身をやつして西欧に赴き、国際的救援を求めたのです。しかし、すべてむだだった。彼女らは例外なく疲れ切って歴史の霧のなかに姿を消します。前述の本の著者は言っています、ウィーンで戦慄すべき殺害がおこなわれていたとき、ドイツは何をしていたか、横になって眠っていたではないか、ハンガリー人が国際的反動勢力のはさみ討ちを受けていたとき、ドイツ人は何をしていたか、パイプをくゆらしながらウィーンから来る新聞を読んでいただけではないか、と。著者の名は男爵夫人ヴィルヘルミーネ・フォン・ベック。実は一八二〇年代から三〇年代にかけて一世を風靡した歌姫に、たった一字違いのヴィルヘルミーネ・フォン・ボックという女性がいます。ボックもドレスデン革命に参加し、四八年革命家の一人に数えてよい存在です。ベックの方はマルクスら共産主義者との関係では、やがて権力のスパイという烙印が押されてしまいます。
ベックが持ち出したような考え方は四八年革命史の理念的筋道には反する、ハンガリーは、革命的ウィーンと共に、東欧におけるドイツ的・民主主義的理念の拠点だった、と考えるのが常識でしょう。たとえばカール・オーバーマンの最近の著書『一八四八/四九年のハンガリー革命とドイツにおける民主主義的運動』などはその典型的例です。著者は四八年革命におけるドイツとハンガリーの実践的かつ理念的連帯を主として当時の檄文や公示文に頼って論証します。ドイツ人のハンガリー救援は実際には微々たるものだったと思われますが、それでもあったことはたしかだし、それに革命のスローガンのうえでドイツとの連帯がうたわれ、西欧的なものが志向されていたことはまちがいありません。ブダペストの城にはいまもその意味での碑が残っています。その点で著者はまちがっていません。だが、東欧諸民族との関連でいえば、おのずから普遍化作用を求める革命理念と、革命はあくまでもドイツ人によるドイツ革命なのだというドイツ人の事実上の感覚とのあいだには、ずれがあったはずです。そのずれをたしかめていかないことには四八年革命の意味はつかめない、と私は考えています。ハンガリーはハンガリーでどうしようもない民族問題を抱えていました。ハンガリーを攻め、革命的ウィーンを包囲したクロアティア人は、ハンガリーのなかでは被抑圧民族の意識をもっていたのですから。ウィーンにも問題があります。十月段階でウィーンは数千の犠牲者を出して反革命のまえに屈します。それらの犠牲者の大部分はプロレタリアでした。だが、問題は、そのプロレタリアがまだ近代的な意味のプロレタリアではなく、事実上はルンペン・プロレタリアだった、という点にあるだけではない。ウィーンで革命の実質的担い手として死んでいったプロレタリアは、おそらく大部分「非ドイツ人」だったのです。この点の資料的論証はむずかしい。だが、おそらくは事実です。それなのにウィーンはその理念・スローガン・指導層についてみるかぎり、まったくドイツ的でした。
かと言って、西欧ないし西欧的なものがだめだ、といってしまえば、四八年革命は元も子もなくなります。無反省に西欧のうえに乗っているだけで四八年革命の「革命的」意味がつかめるものか。さりとて、何にでも「反」の字をのっけて収まりかえっている神経も私自身のものであってはならぬ。西欧でもなければ反西欧でもない。だがまた、西欧的でもあれば反西欧的でもある。そのことをいつか私は歴史そのものに語らせてみたいと思うのです。
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ガスト・アルバイターとしての社会主義
それは、ウィーンでの白黒テレビの映像をとおして展開された事件だった。だからフィクションである。しかしまったくフィクションでもない。ほんとうのことではないけれど、しかしやっぱりほんとうのことだ、という感じの話だった。刑事もののドラマである。
男が殺されていた、血まみれになって。場所はウィーンのどこか。まずガイシャの身元を洗わなければ。ガスト・アルバイターだな、と刑事はいう。ガスト・アルバイター、そう、外国から来たよそ者労働者のこと。服装みればわかる。なんとなく服までがくたびれていて、上から下までチグハグな感じ。少なくとも西ヨーロッパ的じゃない。女だってそうだ。けばけばしい、原色に近い、花模様かなんかのついた、しかも安手でピラピラした、そんなワンピースを着て、ネッカチーフで頭をしばっている、というのが典型的なガスト・アルバイターのおかみさんである。ガイシャがガスト・アルバイターだということになれば、ウィーンの刑事さんはまずどこへ行くか。わかりきった話だ。ガイシャの写真をもって南駅へ直行することになる。
南駅というのは、そう、なんといったらいいか、なんとなく上野駅に似た感じ。南へ行く汽車が出る。シュタイアーマーク州をとおって、ユーゴスラヴィアへ。南へ南へとくだる故郷列車だ。上野の汽車は北へ行くかもしれないが、ヨーロッパじゃ、一般に北は金持で文明人、南こそがスカンピンの庶民の故郷、という相場になっていて、日本の出稼ぎ列車とは走る方向が逆である。そんなわけで、南駅というのは、駅のつくりまで上野に似ている。構内にだだっ広い広場があって、そこにいつも人がざわざわしている。ユーゴ、トルコ、ギリシャから来たガスト・アルバイターが多い。別に汽車に乗るわけじゃないのに、連中はなんとなくこの南駅に集まってくる。頭の毛や目の色の同じ仲間、それになによりも言葉の通じる仲間がいつもここにはいるからだ。それに駅の立ち飲みバーでビールでも飲めば、二百円もあれば充分だから。とくに日曜などは駅は連中でごったがえしている。この南駅と、その東どなりにシュヴァイツァー・ガルテンという、ウィーンにしてはちょっと珍らしい、なんとなく薄汚なくうらさびれた公園があって、連中は駅かこの公園かのどちらかに集まってくる。南駅に来ると、故郷に少しでも近づく気がするんだろうか。
刑事は一人ひとりとっつかまえて、ガイシャに心当りがないか、たずねていく。だれも知らない。あきらめて帰る刑事に、そっと一人の娘の影が寄りそう。実はわたしのパパだ。なぜ殺されたかわからない。出身はユーゴ。教えられたガイシャの住居に刑事は向かう。場所はウィーン二区。ドナウの運河の向こうで、あの回転展望車のあるプラーターの近くである。どこの都市でも労働者の住む地区はむかしから決まっているようだ。それに最近は、オーストリア人の労働者は市外に新しくできた住宅に移ることができるから、古い労働者街にはガスト・アルバイターが住むことになる。だが、たとえば革命のときには、四八年革命のときもそうだが、ここがバリケードのたたかいの主戦場となったこともある。
さて刑事はドアを叩く。老婆が出てくる。家主である。ガイシャの写真見て、こんな人は見たことない、うちの住人じゃない、と彼女はいう。だが、テレビのカメラは、ドアのなかにはいりこんで家の内側をうつしだす。どうしたことか、一部屋に十数名の男女がつめこまれ、息をひそめている。不安に顔をひきつらせながら。一度老婆に撃退された刑事はすぐに令状をもってとって返し、家に踏みこむ。十数人の男女は実は「密輸品」だった。ヴィザもない不法入国者たち、したがって警察の滞在許可もない。警察の滞在許可がなければ、正規に部屋を借りることも、仕事を見つけることもできない。ウィーンでは日常的だが、彼らは別に「密輸品」でなくとも、二Kか三Kのアパートに三家族も四家族もはいりこむこともある。
だれか一人がまず契約して家を借りる。借りてしまえば、あとはこっちのものだ。同郷の連中が二家族も三家族もあとからはいりこみ、やがてそもそも契約した店子はだれやらわからなくなる。重複しないように、昼間働く者が、夜働く人間のベッドに寝ればよい。ベッドも二交代か三交代で、いつもだれか寝ている。イギリスの産業革命期の労働者状態史に出てくるこの話は、西欧人にとっては昔話かもしれないが、西欧で「きたない仕事」を一手に引き受けているガスト・アルバイターにとっては、現実の話だ。警察や保健所はいつも神経をとがらす。たえず手入れをする。昼間踏みこんでも獲物がない場合には、真夜中に警察が踏みこみ、子供でも女でも不法であれば検束する。もちろんこんな話はウィーンだけではない。たとえばミュンヘンなど、西ドイツの大都市もそうだ。トルコ人二十五パーセント、ユーゴスラヴィア人二十パーセント、ギリシャ人十パーセント、スペイン人七パーセント、ポルトガル人四パーセント、これは西ドイツ全体のガスト・アルバイターの国別の割合だ。オーストリアの場合はユーゴ人がふえる。地理的にとなりあわせだし、それにむかしは同じハップスブルク帝国の仲間だから。パリにアラブ人のゲットーがあるように、西欧の大都市や中都市にはしばしば彼らガスト・アルバイターのゲットーがある。むかしはルンペンや売春婦しかいなかったところに、彼らだけの住む「立入禁止地区」ができている。
刑事の仕事はもちろんまだ終わらない。これら「密輸品」のルートをつきとめねばならぬ。目に見えぬ糸をたぐるように、刑事の足はユーゴとの国境いの寒村に向かう。道に沿って十数軒の白壁の農家が並ぶだけの集落だが、それでも村のなかほどにスナックバーらしきものがある。刑事はそこにはいりこむ。店にはおやじがいる。どこからか電話がかかってくる。なにやら品物の売買の話をしているらしい。そっと店を出た刑事は裏庭に目をやる。大きな納屋か牛小屋らしきものがある。女がはいって、また出てきた。戸をしっかりしめておけ、おやじがどなる。やがて日が暮れる。夜のしじまを破って、トラックがやってくる。間髪をいれず、張りこんでいた数名の刑事がおどり出る。トラックに乗っていた連中は逮捕される。刑事は、牛小屋の鍵をあけさせる。戸をあける。まっくらやみのなかに、牛がいた、のではなく、数十人の男女がワラのうえでじっと身をすくめていた。もちろん、国境をこえて密輸された労働力である。
さて、こうしてドラマは大団円に向かう。事件の背後には、大がかりな労働者の密輸組織があった。殺された男はその組織の一員で、組織を裏切ろうとしたのである。このドラマには、最後にどんでん返しがあって、おまけがついていた。この国際的密輸組織の最大のボスはなんとトルコ大使館の書記官だった、というのである。いくらフィクションだからといって、よその国の外交官を犯人にしちゃってもいいのかね。ぼくはつぶやいて、となりでテレビにかぶりついている女房と顔見合わせたものだ。これはシリーズものだったから、翌週の同じ番組の始まるまえに、オーストリアのテレビでいちばん美人のアナウンサーが出て来て、先週は失礼な犯人探しをしちゃってごめんなさい、と言って、にっこり笑った。一昨年の話であった。
そのときぼくは、なにかの都合で、女房や娘より十数メートル先を歩いていた。ウィーンの街なかのことである。ぼくはまったく気がつかなかったのだが、うしろの方で女房と娘が大笑いしていた。どうしたんだい。いまね、あなたは気がつかなかったらしいけれど、ずっとうしろの方からガスト・アルバイターの人が「コレーゲ、コレーゲ」(仲間のこと)と叫びながら、あなたのことを夢中になって追いかけてきたのよ。あれ日本人よ、と教えてやったら、恥ずかしそうな顔して、向こうへ行っちゃった。それだけの話だけれど、ぼくはまんざらでもなかった。ウィーンでガスト・アルバイターにまちがえられる日本人が何人いる! ちょうどあの頃だったろうか。ユーゴで『プラクシス』誌グループにたいする弾圧がまた一段とつよまったという話を聞いたのは。雑誌にものっていたし、ウィーンやブダペストのぼくの友人たちもそういっていた。もっともそういう情報にくわしい人は日本には多いし、そんな話はすでにぼくの知らないところで書かれているかもしれないから、くわしくはくりかえさない。ただ、いまぼくがやりかけている話のつながりでいえば、ベオグラードのミハイロ・マルコヴィチの発言に心をひかれる。彼もまた「イデオロギー的逸脱」とか「学生煽動」とかの疑いで、大学を追い払われようとしている八人の教授の一人である。彼がウィーンのインテリ雑誌『ノイエス・フォルム』に書いた政府批判を一部抜き出してみよう。
――ユーゴでは資本は一九四五年に国有化され、一九五〇年以降は社会化された。つまり、生産手段の国有が社会所有に転化し、国有経営体は自主管理的経営体となった。そして、労働者評議会が生産手段を管理することとなり、その結果労働者はもはや賃労働者ではなく、生産の組織、所得の配分、他の経営体との協力等をみずから決定する意志形成の主体となった。しかし、六十年代にはいると、この傾向は伸びなくなった。それどころか、剰余生産物の大部分は官僚の手に移り、それをだしにして官僚は自分たちの政治的・経済的権力を好きなようにふとらせた。たしかに彼らは、文字どおりの意味では資本を所有してはいないけれども、しかし剰余生産物の使途や、その他生産の基本問題を決定するにあたっては、資本家そっくりにふるまっている。おまけに、六十年代にはいると、市場経済が復活してくる。社会主義の基本理念に反する問題だというのに。
その結果、とりわけ一九六六年以来、経済的・社会的格差がひろがっていく。一方にはプロレタリアートの予備軍が、他方には潜在的な小資本家がつくりだされた。多くの小ブルジョアや新たな中産階級がさまざまな投機によって、生産手段を入手しうるだけの金をためこみ、政府に働きかけて法律を改正させ、株式会社や私企業をつくろうともくろんでいる。こうした市場経済の動きにおされて、労働者評議会までが変質し、収入を目一杯にふやすことにしか関心をもたない集産的資本家となってしまっている。こうして、いまでは百万人ものユーゴスラヴィア人が自分の国では仕事がなく、外国で賃労働者として働いているではないか、等々。
実をいうとぼく自身はユーゴのことはよく知らないし、「赤いブルジョア」とか「社会主義的資本家」を自分の目で見たわけではない。東ドイツには若い頃住んだことがあるものだから、またルカーチと少しばかりの関係があったものだから、東ドイツとハンガリーにはいまも友人や知人がいるが、ユーゴについては四八年革命をかじっている者として歴史的関心をよせているだけだ。またぼくのこの原稿も社会主義について書くようにいわれているのに、いまのところウィーンのテレビ・ドラマの話しかしていない。しかしごまかすわけじゃない。ウィーンや西ドイツのガスト・アルバイターの姿のなかに、少なくともユーゴの社会主義の一面がリアルに映し出されているのではないか。ウィーンのオーストリア人労働者がプロレタリアなら、彼らはプロレタリア以下である。
いまのオーストリアは一種の社会主義政府なので、ある政府関係者はオーストリアにはもはやプロレタリアはいない、と豪語したが、それがほんとうだとすれば、いまやガスト・アルバイターが西欧のプロレタリアートの代役を勤めているのじゃないか。だいたい社会主義というのは、階級としてのプロレタリアートが止揚され解放されたところに成り立つはずなのだが。南欧社会主義の内部から西欧プロレタリアートの代役が送り出されるというリアルな事実から、少なくともいまはまだどうしようもない南北格差が体制のちがいをこえて浮き彫りにされてくる。ぼくがウィーンにいる頃、滞在許可と仕事をもらうためにドイツ人の老人と結婚し、あげくのはてに殺されたハンガリー女の話が新聞にのっていた。こんな話、主人公が殺されでもしなければ、西欧の大都市では別にニュースになるほどのネタじゃない。
ウィーンから汽車に乗って、ブダペストに行ったのは、たしか一昨年の九月。半分は遊び、あとの半分は例の「ブダペスト学派」、つまりルカーチの弟子たちと会うためだった。結局アグネス・ヘラー、ジェルジ・マールクシュ、フェレンツ・フェヘールの三人に会っただけだった。ヘラーにはかわいらしい男の子が一人いた。フェヘールとのあいだにできた子なのかどうか、それは知らない。だいたいヘラー自身は、共産主義者として一夫一婦制などという独占的ないし独善的な結婚のあり方に反対だから、(もっともいまの権力社会ではまだ一夫一婦制が少なくとも女にとっては必要だ、ということは彼女も認めている)たとえ結婚しても、実際に結婚しているのかどうか第三者にわからせる必要は認めてないらしい。それはここでは余談だが、一般に彼らと交わした話はまったく西欧的な主題だったから、ここではどうでもよい。むしろ、ブダペストへの往復の列車のなかの模様の方がぼくにとってはなんとも示唆的だった。
行くときはルーマニア行の汽車だった。あいにくと乗るまえにパンを買うひまがなく、それにヨーロッパの汽車に駅弁はないから、やむなく食堂車へ行くことにした。食堂車は十輛ほども先だった。ところが歩き出してうんざりした。途中の通路が荷物でいっぱい、乗りこえなければ前へ進めない。トランクならまだしも、ダンボール箱をヒモでしばったやつとか、毛布でくるんだ大きな荷物とかが、通路に山積みされていた。敗戦後の買出し列車が頭に浮かんだ。これぞガスト・アルバイターの帰郷列車だったのである。ルーマニアの連中はフランスやベルギーあたりで働いてきたのだろうか。例年なら、夏の休暇やクリスマスの時期に混むのだろうが、一昨年のその時期は不況にぶつかり、西欧諸国はどこでも、自国の労働者を保護するためもあって、「流動的な」、いわば流れ者のガスト・アルバイターをまっさきに首切り、否でも応でも帰国させるように仕向けたのである。やっと食堂車にたどりついたが、ここで食事する客はぼくらだけだった。
ブダペストからの帰りも汽車だった。乗車券は買ったけれど、座席指定券というのはハンガリー語で何というのかわからなかったから、座席指定券を買わずに汽車に乗りこんだ。やはり予約された座席が多かった。ここはどうやら自由席らしいというところに三十歳前後の女の先客が一人いた。例によって派手なプリント柄でピラピラしたワンピースを着こんでいたから、ガスト・アルバイターだと一目でわかった。あいさつの言葉をかけても、固い表情をしてそっぽを向いている。やがて汽車は動き出した。ブダペストとウィーンのあいだはいくらもないから、間もなくハンガリーのパスポート調べの警官と、税関の役人と、車掌がやってくる。それが終わると、今度はオーストリアの警官と税関吏がやってくる。われわれ日本人の調べは形だけである。オーストリアの税関吏が彼女をチラリと見ながらぼくに聞いた。この人はあなたの連れですか。ちがう、と答えると、それからあとの彼女にたいする扱いはひどかった。トランクのなかみを乱暴にひっくり返すどころか、手にもっていたハンドバッグをむりやりとりあげて、なかみをシートのうえにぶちまけた。彼女の泣き叫ぶようなノーノーの声も税関吏には馬耳東風。
結局は禁輸品などなにもなかったらしい。あたりまえのことをしただけという顔をして税関吏は去る。彼女もあきらめたような顔つきで、抗議もしない。その一件のあと、彼女はやっとぼくらにうちとけた。ブカレストの近くから来た、これからパリで働く、家にはあなたの娘と同じくらいの小さな娘がいる、それ以上のことは言葉が通ぜず、おたがいに親しみを笑顔であらわす以外になかった。
ドイツの学生運動のかつてのリーダーにルーディ・ドゥチュケという男がいて、今度レーニン批判の本を書いた。なかみは独創的ではないが、最近の西欧の考え方の一つの流れをあらわしている。簡単にいってしまえば、ロシア革命をヨーロッパ化してつかみ、ロシアの半アジア的性格を認識しなかったところにレーニンの誤りがある、というのが彼の説。かつて一九三〇年頃にもヴィットフォーゲルが「アジア的社会」というマルクスのカテゴリーをロシアに適用し、「左からの」ソヴィエト批判を試みたそうだし、アイゼンシュタットの同じような議論もあるから、ドゥチュケの今度の本も別に新説を立てたわけじゃない。もっともレーニン自身も、一九二一年から二三年にかけての時期に、プロレタリアートとか大工業とかがいまのロシアのどこにあるか、と反問して、ロシアにおけるプロレタリアートの実態も知らないのに、その言葉だけやたらと振りまわす理論家をいましめたし、ロシアにはまだ社会主義の土台はない、ロシアはまだ「半アジア的非文化性」のなかにあると述べることによって、ロシアの特殊性をあきらかにしようとした。しかし、そうはいっても、なおかつレーニンの考えも西欧的発想だ、彼は、「文化」というのは与えられた生産力水準をあらわす以外になく、だから、近代文化の高い水準に達するためにはどうしても資本主義的生産力を踏み台にし、工業化の途をとおることが必要だと考える、そのかぎり彼もまた基本的には西欧的な途をむりやりロシアにあてはめている、というのがドゥチュケの批判。だから、西欧的社会構成体を土台にして出てくる社会主義への「西欧的」な途は、ロシア的(つまり半アジア的)、中国的、ヴェトナム的(アジア的)、キューバ的な社会主義への途とはちがう、むしろそのちがいを批判的にはっきりさせるのが今後の課題だ、と彼は主張する。
ドゥチュケの主張もそれなりにわからないことはない。しかし、彼の場合も、「西欧的」とか「アジア的」とかいう場合、それはあらかじめモデル化され前提されたカテゴリーなのだ。マルクスですらそうだ。彼が「アジア的」生産様式という言葉を使って一定の社会形態をあらわそうとするとき、「アジア的」という言葉の内容までもマルクスが見つけだしたと思う人もいるようだけれど、そんなことはない。あの「アジア的」という言葉の使い方は、あの頃の西欧のなかでかなり一般化していた。「アジア的」というのは特定のアジアを指すのではなく、むしろ「非西欧」という意味だった。人間の暮らしが自然のなかにまだとけこんでいて、人間が自然の束縛や制限から脱け出せないでいる、だからまだ個人が人格として独立し、自覚するにいたっていない。だから彼は専制君主のもとで、またその官僚制のもとで奴隷として過ごすか、家父長制的共同体で没個性的に暮らすか、どちらかだ、こうしてそこでは再生産構造も自足的ではあっても、まったく停滞的だ――こういうモデル社会が「アジア的」という言葉のなかみだった。
西欧的というのはその反対である。それは「市民社会の文化」をとおして生まれてくる。しかも、個人の人間的自覚をエネルギー源とした生産諸力の進歩に裏打ちされて。そこで、ドゥチュケらの言い分のなかには、ただたんにアジア的な途と西欧的な途を区別するというだけでなく、やはり、この西欧市民社会をとおした展開がなければ、社会主義になってもだめだ、あるいは社会主義になってもそれは社会主義じゃない、という発想が暗黙のうちにあるのじゃないか。西欧=個人の自覚、アジア=没個性的官僚制という図式があるみたいだ。だから、マルクス自身がついに考えおよばなかったことは、社会主義のなかで社会主義について語ることがいかにむずかしいか、ということだ、などと西欧派の『プラクシス』派が言い出す。
しかし、西欧的モデルにもとづいた発想に馴れてしまうと、社会主義を考えても結局西欧的社会主義しか考えられなくなってしまう。「アジア的」というカテゴリーだって、アジアの歴史のなかから内発的にみちびきだされたものではなく、たんに「西欧」の反対概念にすぎないのじゃないか。それになんだかんだといっても、文化的で金持の方がいいから、みんなどちらかといえば、「西欧」になりたがる。
マルクスが「アジア的生産様式」とか「アジア的社会」という場合、おそらくは古代の中国、ペルシャ、エジプト、インド、コロンブス前のアメリカが問題になるのだろうが、ハンガリーの中国学者テーケイは、官僚制と「アジア的」ということを重ねあわせる視点から、それらの社会を「官僚的家父長制」と呼んだうえで、しかし東ヨーロッパはそのなかに決してはいらないと強調したものだ。
まえにマルコヴィチの主張にふれたが、西側からしばしば家父長といわれるチトーの側だって言い分があるはず。今年はじめのユーゴの党機関紙『共産主義者』に『プラクシス』グループにたいする批判がのっている。この批判の筆者はわざわざ「共産主義者」と名のったうえで、マルコヴィチらが奨学金や講演料など物質的援助を得て西欧やアメリカに滞在し、こともあろうに西側から「祖国に反対するプロパガンダ・カンパニア」をおこなっていると腹を立てる。西欧から奨学金をもらってもかまわないじゃないか、という発想は彼らにないようだ。ここで腹を立てる彼らの気持をおしはかっていくと、ぼくの想念はどうしてもまたガスト・アルバイターにもどっていく。彼らが社会主義的プロレタリアートであるかどうかは別として、現状ではどうしようもない貧しささえなければ、だれが好きこのんで、西欧市民社会のどぶさらいやごみ集めなどするものか。
ぼくはいま歴史の勉強をかじりかけているので、むかしのことも少しは知っているが、ユーゴスラヴィアの民はむかしから、一種のスラヴ的共同体と出稼ぎのなかで暮らし、西欧のもっとも「汚ない仕事」を押しつけられてきたのだ。彼らが低賃金と引換えに引き受けさせられた「汚ない仕事」のなかのもっとも汚ない仕事は、ウィーン革命やイタリアの民族解放闘争を軍事的に叩きつぶす反革命の尖兵の役割だった。ヴェトナムに駆り出された黒人兵のように。赤い頭巾をかぶり、長い赤マントを羽織って歩く彼らを見て、西欧の人々は「赤マント」と呼んで嘲り、また恐れたものだ。
いずれ歴史研究として実証しようと思っているけれども、社会主義の土台となるプロレタリアートは、そもそも都市共同体としての市民社会のなかから出てきたのじゃない。それは市民社会の外から、しかも市民社会に住む人間の目に見えない深所から、それこそ「死霊」のように姿をあらわして、市民社会の外まわりに住みついた。西欧的市民社会は、いいしれぬ恐れと不安をもって、氷のような冷たさで背中にはりついてくるこの幽鬼におののいたのじゃなかったか。
つまりプロレタリアートはそもそもの存在からして西欧市民社会からはみ出た鬼子であり、市民社会の文化にたいする外からの「挑戦」だったのではないか。社会主義も、多くのスラヴ人のそれは、ブルジョア的生産力やブルジョア的文化を土台にして出てきたものではない。たしかにまだ貧しいかもしれない。家父長的官僚制もあるのかもしれない。だが、そうかといって、西欧的論理を押しつけて、その矛盾を克服できるものではあるまい。
あのガスト・アルバイターの生みだすイメージは、社会主義の矛盾のあらわれかもしれない。しかし、そのまえに、西欧の市民社会自身が市民社会であることをやめねばならぬ。そのときは、ひょっとすると、ガスト・アルバイターの姿に、新しい社会主義の、第二革命の影が重なるかもしれない――などと考えるのは、ぼくの「アジア的」ユートピアだろうか。
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向う岸からの世界史――ヘーゲル左派とロシア
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一 ゲルチツェンとマイゼンブーク
(1) Rolland, R./Meysenbug, M. von, Ein Briefwechsel, 1890-1891. Stuttg. 1932.
(2) Meysenbug, M. von, Memoiren einer Idealistin. 3. Bde. 6. Aufl. Berl. u. Lpz. 1900. さらにその補録として、Der Lebensabend einer Idealistin. 3. Aufl. Berl. u. Lpz. 1900.
(3) Memoiren. 1. Bd. S. 253.
(4) 回想録よりはるかにさめた筆致であるが、次のようなゲルツェンの回想もある。Meysenbug, M. von, Erinnerungen an Alexander Herzen, in : Stimmungsbilder. 3. Aufl. Berl. u. Lpz. 1900.
(5) Memoiren. 2. Bd. S. 86 f.
(6) Ebenda. 2. Bd. S. 321.
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二 スラヴ人は人類の敵
(7) Hess, M., ・ber die sozialistische Bewegung in Deutschland, in : Neue Anekdota.
Darmstadt 1845. S. 217 f.『資料ドイツ初期社会主義。義人同盟とヘーゲル左派』平凡社、一九七四年、三六九ページ。
(8) Frobel, J., Ein Lebenslauf. Aufzeichnungen, Erinnerungen und Bekenntnisse. Bd. 1. Stuttg. 1890. S. 272.
(9) Ruge, A., Briefwechsel und Tagebuchblatter aus den Jahren 1825-1880.
Hrsg. von P. Nerrlich. 2. Bd. Berl. 1886. S. 99.
(10) Ebenda. 2. Bd. S. 147 f.
(11) Heinzen, K., Kommunistisches, in : Teutsche Revolution. Gesammelte Flugschriften. Berl. 1847. S. 359.
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三 世界史の針は西向きか東向きか
(12) Die europaische Pentarchie. Lpz. 1839. S. 438 f.
(13) Die europaische Triarchie. Lpz. 1841. S. 60 f.
(14) Die heilige Geschichte der Menschheit. Von einem J殤ger Spinoza's. Stuttg. 1837. S. 308 f.
(15) Die europaische Triarchie. S. 175.
(16) Ebenda. S. 60.
(17) ヘーゲル左派の原理的思惟構造については、前掲資料集に付した私の解説論文「四八年革命思想の断章」の第二、三章において不十分ながら展開してある。
(18) Die Hegelsche Rechtsphilosophie und die Politik unserer Zeit, in : Deutsche Jahrbucher fur Wissenschaft und Kunst. Lpz. 10.〜13. Aug. 1842.『資料ドイツ初期社会主義』所収。
(19) Die europaische Triarchie. S. 86 u. 151.
(20) Die heilige Geschichte der Menschheit. S. 147.
(21) Die europaische Triarchie. S. 38.
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四 ヘーゲル的=東洋的自己完結性
(22) Die europaische Triarchie. S. 13 f.
(23) Hess, M., Briefwechsel. Hrsg. von E. Silberner unter Mitwirkung von W. Blumenberg. 's-Gravenhage 1959. S. 231.
(24) Herzen, A., Vom anderen Ufer. Eingeleitet von I. Berlin. Munchen 1969. S. 168. 外川継男訳『向う岸から』現代思潮社、一七一ページ。
(25) Briefwechsel. S. 244 f.
(26) Ebenda. S. 256.
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五 西欧的世界史の解体
(27) Bauer, B., Die Judenfrage. Braunschweig 1843. S. 11.
(28) Ebenda. S. 56.
(29) Bauer, B., Die burgerliche Revolution in Deutschland seit dem Anfang der deutsch-katholischen Bewegung bis zur Gegenwart. Berl. 1849.
(30) Russland und das Germanenthum. Charlottenburg 1853.
(31) Ebenda. S. 19.
(32) Ebenda. S. 23.
(33) Ebenda. S. 121.
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四八年革命における歴史なき民によせて
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一 エンゲルス的世界史と非世界史
(34) Mehring, F., Jena und Tilsit. Ein Kapitel ostelbischer Junkergeschichte. Lpz. 1906. S. 4.
(35) Derselbe, Aus dem literarischen Nachlass von Marx und Engels 1841 bis 1850. 3. Bd. Einleitung. S. 14-16.
(36) Bach, M., Geschichte der Wiener Revolution im Jahre 1848. Wien 1898. この本はロシア語訳(モスクワ/ペトログラード、一九二三年)もある。オーストリア・マルクス主義、とりわけオットー・バウアーやカール・レンナーの民族理論は独立した場であらためて論じられるべきであろう。
(37) Ebd. S. 491.
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二 ロシア的ないしアジア的野蛮
(38) 「だから、どの地方にもボヘミア人の下男下女が数知れず見出された。だから彼らは、オーストリアのあらゆる工場に溢れ、どの鉄道工事にも何千となくはいりこみ、池掘り人夫や楽師となり、また収穫時には刈入れ人夫となって、オーストリア全王国を群をなして歩き廻った。」Violand, E., Die soziale Geschichte der Revolution in Oesterreich. Lpz. 1850. S. 44. プロレタリアの出身地を知る正確な手がかりを私はもたない。ウィーンの準官報紙『ウィーン新聞』に、八月二三日の市民と労働者の衝突事件における入院労働者の出身地が述べられている。大部分はウィーン市外および近郊、約二割がボヘミア、さらにライバッハ、シュレージエン、ハンガリーなど。しかしここでウィーン出身とされている者も大部分はウィーン土着ではない。Wiener Zeitung. Nr. 235, 29. Aug. 1848. S. 506 f.
(39) Messenhauser, W., Wie und wo ist Ruァland furchtbar ? Dringende Belehrung fur das deutsche und polnische Volk. [Wien 1848] S. 1.
(40) Ebd. S. 9.
(41) Ebd. S. 12.
(42) [Schuselka, F.] Die orientalische, das ist russische Frage. Hamb. 1843. S. 6.
(43) Ebd. S. 25 f.
(44) Ebd. S. 58. なおここではバルバールを野蛮人と訳す。
(45) Derselbe, Deutsche Worte eines Oesterreichers. Hamb. 1843. S. 203 f.
(46) Ebd. S. 206.
(47) たとえば次の新聞を見よ。この新聞もまた民主主義的で、ウィーン革命の矛盾を一身にになった公共労働相エルンスト・フォン・シュヴァルツァーの編集になる。Allgemeine Oesterreichische Zeitung. Nr. 136, Wien, 16. Mai 1848.
(48) Der Sturmer. Studenten-Zeitung. Nr. 47, Wien, 20/21. Sept. 1848.
(49) Der Radikale. Nr. 107, Wien, 21. Okt. 1848.
(50) Der Proletarier. Nr. 12, Wien, 22. Jul. 1848.
(51) Deutscher Zuschauer. Nr. 21, Mannheim, 19. Mai 1848.
(52) Ebd. Nr. 11, 10. Marz 1848.
(53) ヨルダンとポーランド問題については、[Heller, W. R.] Brustbilder aus der Paulskirche. Lpz. 1849. S. 117 f. を見よ。さらにフランクフルトの議事録Stenographischer Bericht 歟er die Verhandlungen der deutschen constituirenden Nationalversammlung zu Frankfurt am Main. Hrsg. von F. Wigard. Frankfurt a. M. 1848. S. 1144. のヨルダンの発言を見よ。
(54) Flugblatter : Der Czar und seine Knechte auf dem Wege nach Konstantinopel. Wien, Sept. 1848.
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三 パラツキーとフランクフルト国民議会
(55) Die Constitution. Nr. 1, Wien, 20. Marz 1848.
(56) Der Volksfreund. Nr. 120, Wien, 16. Sept. 1848. スラヴ人の残虐行為については、ハンガリー革命を描いた次の小説にもその描写がある。セクラー人は十六歳になる天使のようなヴァラキアの少女を三十人がかりで犯したうえ、錯乱した彼女の鼻、口、耳を切り取った等々。Schlachtfelderbl殳hen aus Ungarn. Lpz. 1850. S. 203 f.
(57) たとえば Wiener Gassen-Zeitung. Nr. 89, 6. Sept. 1848.
(58) Fischel, A., hrsg. von, Materialien zur Sprachfragen in Oesterreich. Brunn 1902. S. 5. なおヨーロッパ諸民族にあてた声明については、矢田俊隆氏の翻訳と紹介がある。『スラヴ研究』三、一九五九年。のちに『近代中欧の自由と民族』吉川弘文館、一九六六年に所収。
(59) フランクフルトの五十人委員会の一人で、副議長でもあったヴィクトール・フォン・アンドリアン=ヴェルブルクは、大きな声望を得た書『オーストリアとその未来』において、オーストリアが「想像的名称」であって、実際はたがいにはっきり分離した諸民族の複合体である以上、「集権化は国家を窒息させる」と説き、地方分権とゲマインデの自由を主張する。[Andrian = Werburg, V. Frhr. v.] Oesterreich und dessen Zukunft. [3. Aufl.] Hamb. 1843. S. 118. 著者の地方分権思想は次の本でも展開される。Centralisation und Decentralisation. Wien 1850.
(60) ローベルト・ブルムと共にウィーン革命に参加したフレーベルは、ドイツ人に珍しく大ドイツ主義者でない。「北アメリカ合衆国のような憲法のもとに統合され、ウィーンを連邦首都とした、全ドイツ、ポーランド、ハンガリー、南スラヴおよびヴァラキア諸国からなる国家連合」を彼は提唱する。もちろんツァーに対抗するためである。Frobel, J., Wien, Deutschland und Europa. Wien 1848. S. 12 f. あるいはまた、ウィーンを中心とした「一つの大きな民主主義的国家連合」ともいわれる。Derselbe, Briefe uber die Wiener Oktober-Revolution, mit Notizen uber die letzten Tage Robert Blum's. Frankfurt a. M. 1849. S. 8.
(61) Die Constitution. Nr. 173, Wien, 19. Oct. 1848.
(62) Helfert, J. A. Frhr. v., Revolution und Reaction im Spatjahre 1848. Prag 1870. S. 149.
(63) Palacky, F., Geschichte von Bohmen. Gr圦tentheils nach Urkunden und Handschriften. 4 Bde. in 8. Prag 1844-1860.
(64) ヘフラーの研究は、Hanler, C. A. C., Magister Johannes Hus und der Abzug der deutschen Professoren und Studenten aus Prag, 1409. Prag 1864. パラツキーのヘフラー批判は、Die Geschichte des Hussitenthums und Prof. Constantin Hanler. 2. Aufl. Prag 1868.
(65) 矢田俊隆「パラツキー書簡とオーストリア=スラヴ主義について」、北大法学部十周年記念法学政治学論集のなかに、この書簡の紹介と英訳からの翻訳がある。ここでは次の版から引用した。Palacky, F., Oesterreichs Staatsidee, Beilage A. Prag 1866. さらにパラツキーの民族問題にかんする見解を知るためには、オーストリア憲法制定議会における憲法委員会の討議が重要である。とりわけFischel, A. hrsg. von, Die Protokolle des Verfassungsausschusses uber die Grundrechte. Wien 1912. にみられるパラツキーの精力的な意見表明、さらに Springer, A., hrsg. von, Protokolle des Verfassungs-Ausschusses im Oesterreichischen Reichstage 1848-1849. Lpz. 1885. S. 26 f. に収められたオーストリア再編提案を見よ。
(66) Wagner, M., Die deutsche Antwort an den Slaven Palacky. Wien 1848. S. 5.
(67) ウィーンの新聞に見られるパラツキー論としては、Der Volksmann. Nr. 3, Wien, 27. Juli 1848. およびWiener Charivari. Nr. 62, 30. Aug. 1848. における「哲学するチェック派、理念的汎スラヴ主義」の記事を見よ。
(68) Mommsen, W., Grosse und Versagen des deutschen Burgertums. Stuttg. 1949. S. 94. オーストリア問題をめぐる討議については、Helfert, S. 227 f. にくわしい。さらに前掲のフランクフルト国民議会議事録二、七一七頁を見よ。
(69) Guckkasten. Sonntagsblatt zum Gerad'aus ! Nr. 4, Wien, 4. Juni 1848. 大ドイツ主義は地域的特殊性を無視した抽象的平準化であったから、労働者や農民の意識には縁がない。ただし、ウィーンの「市民的」労働者の場合は別である。彼らは本来の「プロレタリア」、多くはスラヴ系の「下民ども」を意識的に差別し、学生や市民に仲間入りして、大ドイツ主義の旗を掲げた。たとえば、Arbeiter-Zeitung. Nr. 2, Wien, 10. Sept. 1848. を見よ。さらに学生編集の労働者新聞 Wiener Arbeiter-Courier もその創刊号において「自由・平等・ドイツ」をスローガンとする。
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四 「反革命」としての人民戦争
(70) Helfert, ibid. S. 164.
(71) Flugblatter : Auf ! Zum Kampfe nach Ungarn. Wien, Sept. 1848.
(72) Ludwig Kossuth, Dictator von Ungarn. Als Staatsmann und Redner. Nebst seinen funf bedeutendsten Reden. Mannheim 1849. S. 22. オーバーマンは、ハンガリー革命における檄文集にもとづいて、革命におけるハンガリー人とドイツ人との国際的連帯を一貫して強調しながら、そこに当然介在する民族問題については分析を避けている。Obermann, K., Die ungarische Revo-lution von 1848/49 und die demokratische Bewegung in Deutschland. Budapest 1971. 革命に破れたコシュートはいわゆる「政治的遺書」において、ロシアの軍事干渉の政治的意味を明らかにする。「私がハンガリー国民と共にロシア軍を滅ぼし、ポーランドを再建し、トルコに完全な独立を与えねばならなかったか、あるいはロシアの影響がウィーン、ペシュト、トリエスト、プラハおよびオルミュッツにおいて権力的に支配しなければならぬことになったか」、その二者択一を西欧は認識できず、破局に追いこまれたというのである。Kossuth, L., Die Katastrophe in Ungarn. Originalbericht. Lpz. 1849. S. 36.
(73) Helfert, ibid. S. 180. Vgl. auch S. 395 f.
(74) Kossuth, ibid. S. 10.
(75) Pulszky, F., Meine Zeit, mein Leben. 2. Bd. Pressburg 1881. S. 136.
(76) Aktenstucke zur Geschichte des kroatisch-slavonischen Landtages und der nationalen Bewegung vom Jahre 1848. Hrsg. von. S. Pejakovic. Wien 1861. S. 2.
(77) Ebd. S. 29 f.
(78) Ebd. S. 82 f.
(79) Sammlung der fur Ungarn erlassenen Allerhsten Manifeste und Proklamationen, dazu der Kundmachungen der Oberbefehlshaber der kaiserlichen Armee in Ungarn. Ofen 1850. S. 15.
(80) Die Kroaten und Slawonier an die Volker Oesterreichs. Wien, Juli 1848.
(81) Die kroatische Frage und Oesterreich. Wien 1848.
(82) たとえばFischer, E., ・terreich 1848. Wien 1948. S. 145 f. を見よ。また貴族の民族解放運動と農民の反封建運動との矛盾ないし分裂については、Gill, A., Die polnische Revolution 1846. Munchen 1974. がいまや必読文献であろう。なお阪東宏氏の「マルクス、エンゲルスとポーランド問題」『歴史評論』二三七号、『ポーランド革命史研究』青木書店、一九六八年、のほか、「歴史における民族の形成」一九七五年度歴史学研究会大会報告から有益な教示を受けとることができる。山之内靖氏の巨視的分析『マルクス・エンゲルスの世界史像』未来社、一九六九年、においては、私の提示した疑問にたいする教示に接することはできない。また一八四六年のガリツィアの農民的諸関係および「農民の反革命」における農民の意識については、私は次の本を入手し、興味ある記述に接することができた。Briefe eines polnischen Edelmannes an einen deutschen Publicisten uber die jungsten Ereignisse in Polen und die haupts劃hlich bisher nur vom deutschen Standpunkte betrachtete polnische Frage. Hamb. 1846.
(83) Denkschrift der ruthenischen Nation in Galizien zur Aufklarung ihrer Verhantnisse. Lemberg, 31. Juli 1848.
(84) Helfert, ibid. S. 188 u. 276.
(85) Die Frage uber die Theilung Galiziens. Nov. 1848.
(86) Aktenstucke. S. 52 f.
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一八四八年にとってプロレタリアートとは何か
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一 ベルリンとウィーンの流民
(87) Blos, Wilhelm, Die Deutsche Revolution. Geschichte der Deutschen Bewegung von 1848 und 1849. Stuttg., o. J. S. 222.
(88) Valentin, Veit, Geschichte der deutschen Revolution 1848-49. 2. Bd. Koln/Berl. 1970. S. 48.
(89) Valentin, a. a. O. 2. Bd. S. 49 u. 69.
(90) たとえば東ドイツで出た大著 Illustrierte Geschichte der deutschen Revolution 1848/49. Berl. 1973. のなかでも,これらの土木労働者は全然とりあげられない。この本の著者たちの視点からすれば、これらの「プロレタリア」は少くとも正統的な労働運動史のなかに座を占めないのであろう。
(91) Springer, Robert, Berlin's Strassen, Kneipen und Clubs im Jahre 1848. Berl. 1850. S. 62.
(92) Vgl. Bernstein, Eduard, Die Geschichte der Berliner Arbeiter-Bewegung. Ein Kapitel zur Geschichte der deutschen Sozialdemokratie. 1. Bd. Berl. 1907. S. 37. さらに次を見よ。Kladdera-datsch. Organ fur und von Bummler. No. 10, Berl., 9. Jul. 1848. また戯れ歌による民主主義諷刺の特異な小冊子Timotheus, H. F., Leben, Meinungen und Thaten von den Berliner Demokraten, die die Welt mit Ruhm erf殕lt und was sie vollbrachten und wie sie gebrullt. Berl. 1852. S. 90. のなかでも当然レーベルガーが嘲弄の対象となる。
(93) 彼らの日給は十二・五から十五ジルバーグロッシェン。当時の日傭いとしては、決して悪くない。彼らのリーダー、グスターフ・アードルフ・シュレッフェルが編集し、彼らに無料配布した『フォルクスフロイント』は、日給十五ジルバーグロッシェンを獲ちとったことで一応満足したこと、請負給や他国者労働者の採用に反対することなどを述べる。Der Volksfreund. Hrsg. von einer Anzahl Volksfreunde, red. von Gustav Adolph Schloeffel. No. 3. Berl. 12. Apr. 1848.
(94) 五月初めには労働者数は六〇〇〇―七〇〇〇人、五月末には約二万人。Zenker, Ernst Viktor, Die Wiener Revolution 1848 in ihren sozialen Voraussetzungen und Beziehungen. Wien 1897. S. 145. さらに当時の民主主義的新聞Gerad'aus ! Politisches Abendblatt furs Volk. No. 7, 18. Mai. によれば、六〇〇〇人、しかし、『ウィーン新聞』に掲載された公共労働省の公式発表によれば、労働者は十五カ所で道路補修、河川工事、病院建設、洪水用ダムの建設・延長等に従事し、その数はたとえば七月五日一四、五九三、九月十一日一二、三七〇、九月十三日一〇、九七〇人である。Wiener Zeitung. Jahrg. 1848. S. 45, 631, 719.
(95) Aemtliche Verhandlungs-Protokolle des Gemeinde-Ausschusses der Stadt Wien vom 25. Mai bis 5. Oktober 1848. S. 3.
(96) Wiener Zeitung. No. 185, 6. Jul. 1848.
(97) Ebenda. No. 235, 29. Aug. 1848.
(98) Ebenda. No. 236, 30. Aug. 1848.
(99) Violand, Ernst, Die soziale Geschichte der Revolution in Oesterreich. Lpz. 1850. S. 121.
(100) この騒ぎをチェック人の仲間同士の煽動とみた民主主義派の例としては、Gerad'aus ! No. 30,
16. Jun. さらにVioland, a. a. O. S. 127 f. もっとも代表的な、そしてまた労働者的な――この場合の労働者はツンフト的である――民主主義的新聞Die Constitution. Tagblatt fur constitutionelles Volksleben und Belehrung. No. 74, 21. Juni 1848. すら、彼らをボヘミアに送り返せと極言する。また別の民主主義的新聞は、煽動者の取調べのなかで、二人の女が労働者にタバコと金をくばって煽ったことがわかった、と報じる。Der Volksfreund. Zeitschrift fur Aufklarung und Erheiterung des Volkes. No. 40, 21. Jun. 1848.
(101) Zenker, a. a. O. S. 148.
(102) 『ゲラーデアウス』(八月十日付)によれば、パン屋の三分の二は完全に零落していた。パン屋の営業継続のための貸付金庫設立については次を見よ。Aemtliche Verhandlungs-Protokolle des Gemeinde-Ausschusses. S. 16, 28.
(103) Unruh, Skizzen aus Preuァens neuester Geschichte. 3. Aufl. Magdeburg 1849. S. 97.
(104) Springer, a. a. O. S. 132 f.
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二 大衆的貧困としての死霊
(105) Volkst殞liches Handbuch der Staatswissenschaften und Politik. Ein Staatslexicon fur das Volk. Begrundet von Robert Blum. Aus seinem handschriftlichen Nachlasse von Gleichgesinnten fortgesetzt. 2. Bd. Lpz. 1851. S. 364. いまやヨーロッパのいたるところを死霊が徘徊している、という言い方は、当時のドイツ語の慣用的表現であって、別にマルクスのつくりだした表現ではない。たとえばディトリヒもプロレタリアの貧困と共に歩きまわる「暗い死霊」として共産主義を描き、さらに王制主義者ローマーも、「なかばなお死霊で、なかばすでに現実であるプロレタリアートが背後に迫る」状況を認識する。モーゼス・ヘスやローレンツ・フォン・シュタインにも同じ表現がある。いずれにしても、大衆的貧困、プロレタリアート、共産主義が当時の世人にとって三つ子の「死霊」だったのである。Vgl. J. J. Dittrich, Unsere Uebergangszeit, betreffend die Erlosung des Proletariats durch die Organisation der Arbeit und des Armenwesens und durch die Concentration der Hilfen des Staats, der Gemeinden, der Vereine und der Proletarier selbst. Breslau 1847. S. 289. F. Rohmer, Der vierte Stand und die Monarchie. 2. Aufl. Munchen, Ende Marz 1848. S. 3. ヘス「プロレタリア革命の諸帰結」『資料ドイツ初期社会主義』平凡社、一九七四年、一四六ページ。
(106) R. Stadelmann, Soziale und politische Geschichte der Revolution von 1848. 2. Aufl. Munchen 1970. S. 20. 唯一の例外はボヘミアである。ライヒェンベルクの羊毛工場では八〇〇〇人の労働者が働いていた。
(107) もっともウィーンの労働運動のリーダー、フリードリヒ・ザンダーによれば、プロレタリアとは肉体労働者 (Handarbeiter)、日傭労働者、職人、徒弟、工場労働者等、賃金労働者のすべてを含み、著述家や芸術家でも「工場的に」使われる場合にはプロレタリアである。F. Sander, Die Arbeiter-Proletarier, in : Die Constitution. No. 82, 3. Jul. 1848.
(108) J. J. Dittrich, a. a. O. S. 20.
(109) W. Conze, Der Beginn der deutschen Arbeiterbewegung, in : Geschichte und Gegenwartsbewusstsein, Festschrift fur Hans Rothfels. Guttingen, o. J. S. 326.
(110) Volkstumliches Handbuch. 1. Bd., S. 433.
(111) たとえば Springer, a. a. O. S. 22. を見よ。Herumtreiber, Streichjunge などの言葉も、浮浪的労働者を指している。エルンスト・ドロンケが『フォルクのなかから』で底辺の暮らしを描くとき、フォルクは「人民」でも「民衆」でもない、どうしようもなく惨めな語感をただよわせる。これに反して、「アルバイター」といわれる場合には、ベルリンでもウィーンでも、しだいにその社会的存在理由が公認されてきている。以前なら「労働者」は Knote と同義の蔑称であった。
(112) R. Stadelmann, a. a. O. S. 14.
(113) たとえばバイエルン王国において警察に検束された乞食および浮浪者の数も急増する。すなわち一八三五/三六年には乞食男子一五、九二四、女子一一、〇六九、子供四、八七二、浮浪者男子二三、八〇四、女子一三、四一四、子供二、八九〇であったのが、一八三八/三九年には乞食男子一七、七八八、女子一七、七七六、子供七、〇八一となる。一八三六年から三九年の三年間にバイエルンで検束された者の総数は、 乞食約十四万六千、浮浪者約十五万六千である。Zur Verbreitung des Pauperismus, in : Jantke, C./Hilger, D. (hrsg. von), Die Eigentumslosen. Der deutsche Pauperismus und die Emanzipationskrise in Darstellungen und Deutungen der zeitgenossischen Literatur. Munchen 1965. S. 53.
(114) Sociale und politische Zustande Oesterreichs mit besonderer Beziehung auf den Pauperismus. Lpz. 1847. S. 170 f., 190 f., 244 f. und 235 f.
(115) S. Becher, Die Bevolkerungs-Verhantnisse der osterreichischen Monarchie mit einem Anhange der Volkszahl, Geburten, Sterbfanle und Trauungen vom Jahre 1819 bis zum Jahre 1843. Wien 1846. S. 66.
(116) E. Violand, a. a. O. S. 43 f.
(117) Ebenda. S. 50.
(118) Harkort, Friedrich, Brief an die Arbeiter, in : Die Eigentumslosen. S. 392 f.
(119) ディーテリツィによれば、プロイセンにおいて労賃のみで暮す者の数は一八〇五年から一八四六年にかけて絶対的には二倍以上になっているけれども、全住民にたいする比率としてみれば、一八〇五年一七・八パーセント、一八四六年二二・八パーセントにすぎない。その内訳は次のようになる。
(図表省略)
一八〇五年の数はおそらくは過小評価であろう。それにこれは「非自営者」の数字だから、親方などははいらない。親方数は一八〇五年二二五、四九三、一八四六年四四九、三四九である。W. Dieterici, ・ber Preuァische Zust穫de, uber Arbeit und Kapital. Berl. und Posen, 1848. S. 66 f.
(120) ウィーン革命期の前半に宰相であったピラースドルフは、農民の両極分解の進行と共に「恐怖と暴力だけがそれに対する防壁となりうるような、もっとも危険なプロレタリアート」が生れることを警告し、分割地の創設によってそれを防ぐよう提案する。もちろんここで考えられているのは農村プロレタリアートである。Pillersdorff, Frh. von, Handschriftlicher Nachlaァ. Wien 1863. S.370 f.
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三 賤民かプロレタリアートか
(121) Dittrich, a. a. O. S. 274 f.
(122) W. Conze, Vom "Pobel" zum メProletariatモ. Sozialgeschichtliche Voraussetzungen fur den Sozialismus in Deutschland, in : Moderne deutsche Sozialgeschichte. S. 113 u. 133.
(123) Sociale und politische Zust穫de Oesterreichs. S. 200.
(124) Iren隔s, Ueber Pauperismus und Schwanenorden. Lpz. 1845. S. 9.
(125) この著者によれば、プロレタリアートは「労働者」と同義ではない。労働者は手工業職人を含み、プロレタリアは、肉体労働のみに頼るが、しかも工場におけるように、「わずかの一面的な技能」のみに頼る日給労働者である。しかもそれが賤民と同じだというのである。Proletariat und Pauperismus, oder : Taglohnerschaft und Armuth, nebst einigen Gedanken, uber die Aufgabe eines Ministeriums der anfentlichen Arbeiten. Von A. A. B. Wien 1848. S. 3 f.
(126) R. Stadelmann, a. a .O. S. 19.
(127) G. Scheidtmann, Der Communismus und das Proletariat. Lpz. 1848. S. 111.
(128) Reden, Vergleichende Kultur-Statistik der Gebiets- und Bevolkerungsverhantnisse der Gross-Staaten Europas. Berl. 1848. S. 195. ただし、ディーテリツィの記述によれば、一八一六年の人口は一〇、一六九、八九九である。Dieterici, ・ber Preuァische Zust穫de. S. 52. 一八四七/四八年の革命期においてのみ、地域によっては人口増加がマイナスに転化する。Vgl. W. Kollmann,
Bevolkerung in der industriellen Revolution. Guttingen 1974. S. 64.
(図表省略)
(129)
(図表省略)
Becher, a. a. O. S. 16.
(130) ウィーン人口
(図表省略)
Vgl. Reden, S. 166 f.
(131) Langer, Anton, Kasernen fur die Arbeiter ! Ein Wort an die Minister der Arbeit. Wien 1848.
(132) ベルリンの人口
(図表省略)
Vgl. Reden, a. a. O. S. 220. ただしバールによれば、一八二〇年に二十万以上、一八三七年二八三、一四〇、一八四六年三九七、〇〇〇である。Baar, Lothar, Die Berliner Industrie in der industriellen Revolution. Berl. 1966. S. 168.
(133) Baar, a. a. O. S. 171 f. ベルリンの十九世紀前半の人口増加率は約二・五倍、その増加数のほぼ九十パーセントは外からの流入、しかもそのほとんどが貧民であるという論証もある。Kawagoe, Osamu, Die Berliner Arbeiterschaft vor der Revolution 1848/49. (Manuskript).
(134) Schmitthenner, Friedrich, ・ber Pauperismus und Proletariat. Frankf. a. M. 1848, in : Fenske, H. (hrsg. von), Vormarz und Revolution 1840-1849. Darmstadt 1976. S. 308 f.
(135) J. J. Dittrich, a. a. O. S. 18 u. 195 f.
(136) Die soziale Frage im Vordergrund ! oder die drei Hauptforderungen der Arbeiter an den Staat : Arbeit fur jeden Mussigen, Brod fur jeden Invaliden, Freier Unterricht fur jedes Arbeiter-Kind, in ihrer Ausf殄rbarkeit nachgewiesen von einem Tuchfabrikant. Grunberg, Sept. 1848. S. 10, 12 u. 19. 次のパンフレットをみると、 著者はキリスト教的立場から結婚禁止に反対する。しかし、彼とても、ドナウ諸国とテキサスへの移民以外に適切な解決策を見いだしているわけではない。Fischer, L. H., Des teutschen Volkes Noth und Klage, Frankf. a./M. 1845. S. 141 f.
(137) Programm des Vereins fur sozial-politische Reform. Am 20. September 1848. Berl. 1848. S. 36 f.
(138) F. Baltisch, Eigenthum und Vielkinderei, Hauptquellen des Unglucks der Volker. Kiel 1846. S. 120 f.
(139) A. von Hummelauer, a. a. O. S. 58.
(図表省略)
(140) J. J. Dittrich, a. a. O. S. 16 f.
ディトリヒの数字はレーデンを見るとより正確に確認できる。プロイセン全体では一八四三年私生児一につき嫡出子一二・七四であり、この数字は一八一六年来基本的に変らない。都市について悪い例を挙げれば、私生児一にたいして嫡出子はベルリン四・六九ないし五・六三、シュトーラールズント八・一九ないし九・二〇、ブレスラウ八・二五ないし九・三〇、リーグニッツ七・九八ないし九・一五である。Reden, a. a. O. S. 223.
(141) Vgl. Reden, a. a. O. S. 168. さらに同書一八五頁を見よ。ベッヒァーも指摘するようにオーストリア(とくにドイツ人居住地方)の私生児出生率は高かった。私生児一にたいして嫡出子の比は、一八一九―二八年九・六、一八二九―三八年九・一、一八三九―四三年八であり、四十年代に向って私生児の比率は増大していく。Becher, a. a. O. S. 337.
(142) Die Prostitution in Berlin und ihre Opfer. Nach amtlichen Quellen und Erfahrungen, in : Gesellschaftsspiegel. 2. Bd. Elberfeld 1846. S. 144 f.
(143) Springer, R., a. a. O. S. 32.
(144) 一八〇二年ウィーン周辺二マイル以内に工場建設禁止、しかし禁令は一八一一年とけ、一八二二年再度禁止、一八二七年再度廃止。E. Zenker, a. a. O. S. 37 f.
(145) Proletariat und Pauperismus. S. 9.
(146) Iren隔s, a. a. O. S. 28. さらに同様の提案が次に見られる。Bensen, H. W., Die Proletarier. Eine historische Denkschrift. Stuttg. 1847. S. 466 f.
(147) A. von Hummelauer, Von den Ursachen des Zustandes der arbeitenden Klasse, und den Mitteln, denselben, den Erfordernissen des geselligen Seins entsprechend, zu verbessern. Ein Beitrag zu einer kunftigen Organisation der Arbeit. Klagenfurt 1849. S. 67 u. 71 f.
(148) S. Becher, a. a. O. S. 64.
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四 労働者暴動と革命の死
(149) F殱ter, Anton, Memoiren vom Marz 1848 bis Juli 1849. Beitrag zur Geschichte der Wiener Revolution. 2. Bd. Frankf. a./M. 1850. S. 99 f.
(150) たとえば、Wiener Zuschauer. Zeitschrift fur Gebildete. No. 137, 29. Aug. 1848. Wiener Zeitung. No. 240, 3. Sept. 1848.『ウィーン新聞』のこの記事とまったく同文のものに、Beilage zur Geiァel. No. 36, 2. Sept. 1848. がある。他方、労働者の側に立った二一日事件の報道としては、たとえば、National-Zeitung. Politisches Volksblatt fur demokratische Interessen. No. 34, 27. Aug. 1848.
(151) Flugblatt : Die Arbeiter-Unruhen oder die K確pfe am 21. und 23. August und die Zerwurfnisse der Nationalgarden und der Studenten-Legion.
(図表省略)
(152) Unterreiter, Friedrich, Die Revolution in Wien vom Juni bis September 1848. 5. Bd. Wien 1848. S. 77
(153) Vgl. Hauser-Schema im kaiserl. konigl. Polizei-Bezirke Leopoldstadt. Enthant die Vorstadte : Leopoldstadt und J拡erzeile. Hrsg. von A. Ziegler. Wien 1836.
(154) これはおそらく反労働者的檄文である。Flugblatt : Der blutige Kampf wegen der Arbeiter in Prater und der Brigittenau.
(155) Gedanken eines Arbeiters uber den
23. August, in : Die Constitution. Tagblatt fur Constitutionelles Volksleben und Belehrung. No. 127, 25. Aug. 1848.
(156) Wiener Charivari. Katzenmusik. Politisches Tagsblatt fur Spott und Ernst mit Karrikaturen. No. 60, 27. Aug. 1848.
(157) Ebenda. No. 61, 29. Aug. 1848.
(158) Wiener Zeitung. No. 240. 3. Sept. 1848.
(159) F殱ter, a. a. O. S. 107.
(160) 中立的態度をとった学生新聞の一つは、労働者一〇〇名逮捕、六十数名負傷(内女二人)、死者八名と報じ (Wiener Studenten Zeitung. No. 34, [29. Aug.])、ある檄文は死者五八、負傷約二〇〇と述べ、別な檄文は労働者八十名負傷、死者六〜八名とする。別な学生新聞は八月二三日を「反動の最初の偉業」と規定する。Politischer Courier von den Studenten. No. 57, 25. Aug. 1848.
(161) Wiener Zeitung. No. 235 u. 236, 29. u. 30. Aug. 1848.
(162) Wiener Charivari. No. 62, 30. Aug. さらに虐殺については ebenda. No. 66, 3. Sept. 1848. を見よ。
(163) Flugblatt : Nahmens-Verzeichniァ der verwundeten Arbeiter im Spitale bei den barmherzigen Br歸ern und eines Ausweises von der Stadt-Hauptmannschaft.
(164) Violand, a. a. O. S. 142.
(165) Enthullungen aus Oesterreichs jungster Vergangenheit. Von einem Mitgliede der Linken des aufgelosten osterreichischen Reichstages. Hamburg 1849. S. 75.
(166) Verhandlungen des osterreichischen Reichstages nach der stenographischen Aufnahme. 2. Bd. Wien, o. J. S. 36 f.
(167) Aemtliche Verhandlungs-Protokolle des Gemeinde-Ausschusses. S. 39.
(168) Ruge, Arnold, Die Preuァische Revolution seit dem siebenten September und die Contrerevolution seit dem zehnten November. Tagebuch. Lpz. 1848. S. 25.
(169) ただし同じ民主主義者でもシュトレックフースの描写はちがう。反労働者的な彼は、最初に殴ったのは労働者だ、と強調する。Adolph Carl [Adolph Streckfuァ], Die Staats-Umwanzungen der Jahre 1847 und 1848. 2. Bd. Berl. 1849. S. 850. なお同じ著者の次の小説の二五章以下を見よ。Streckfuァ, Adolph, Die Demokraten. Politischer Roman in Bildern aus dem Sommer 1848. 2. Aufl. Berl. 1851.『新ライン新聞』の通信内容はまた異なる。ここでは、労働者に罪はなかったと述べられるが、衝突の発端は、大尉が労働者にピストルをうばわれたからだ、とされる。Neue Rheinische Zeitung. Organ der Demokratie. No. 121. Koln, 20. Okt. 1848.
(170) Bernstein, a. a. O., Bd. 1. S. 67. さらに Springer, a. a. O. S. 214. Ruge, a. a. O. S. 33. を見よ。
(171) 結局議会は第一点をのぞき拒否した。たとえばBrief von Pfuel. Revolutionsbriefe 1848. Ungedrucktes aus dem Nachlaァ Konig Friedrich Wilhelm W. von Preuァen. Hrsg. von K. Haenchen. Lpz. 1930. S. 205. を見よ。
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ウィーン革命と労働者階級
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一 意識されざるプロレタリア革命
(172) E. Violand, Die soziale Geschichte der Revolution in Oesterreich. Lpz. 1850. S. 115.
(173) 当時のウィーンのラディカルな新聞のなかでもっとも代表的な『デア・ラディカーレ』さえも、その創刊号の主張において「われわれは民主主義的君主制を欲する。われわれの欲するものは、共和主義的諸制度によってとりかこまれた王座である」と述べる。Der Radikale, Nr. 1, 16. Juni 1848. ウィーンの議会が「立憲君主制」と「人民主権」に二股かけ、革命の決定的段階でなお合法論議で時を失った諸事情については、次の本にくわしい。C. Gruner, Die Geschichte der October-Revolution in Wien, ihre Ursachen und n劃hsten Folgen, Lpz. 1849, S. 134 f.
(174) たとえば三月革命の死者三五名のうち、職業不詳七名、教授夫人、外科医一名ずつをのぞくと、残りはすべて労働者であった。F. Unterreiter, Die Revolution in Wien vom Marz und Mai. 1. Bd. Wien 1848. S. 101 f.
(175) 労働者の状態についてはここでは述べるゆとりがない。また労働者の状態を具体的に描いた資料はきわめて少ない。フィオラントの前掲書のほか、特異な文献として次のものがある。Soziale und politische Zust穫de Oesterreichs mit besonderer Beziehung auf den Pauperismus. Lpz. 1847. 著者はウィーンの人間と思えるが、疑いもなくフランス社会主義の影響のもとに立っている。労働者パンフレットについてはのちに述べるが、労働者住宅の惨状についてはアントン・ランガーの記述がある。A. Langer, Kasernen fur die Arbeiter : Ein Wort an die Minister der Arbeit. Wien 1848. 一八二七年から四七年にかけてウィーンの人口は四二・五パーセント増大したのに、住宅は十一・四パーセントしか増えなかった。E. V. Zenker, Die Wiener Revolution 1848 in ihrer sozialen Voraussetzungen und Beziehungen. Wien 1897. S. 270. 労働者の生活を映し出す物価騰貴等の統計的数字については、ツェンカーの本書の注を見よ。当時の労働者の賃金は、新聞記事などから推測するかぎり、一日あたり男子最高一グルデン二十クロイツァー、最低二四クロイツァー、女子最高三十クロイツァー、最低十クロイツァーである。工場労働者で三十ないし四十クロイツァー、熟練した職人の場合で四十から五十クロイツァーぐらいであろう(当時は一グルデンが六十クロイツァーである)。労働者および手工業者の困窮について、当時のもっともポピュラーな新聞の一記事を引用しよう。「休みの日に私は何軒かの家庭を訪ねてみたが、彼らはもうだいぶまえから滋養のあるものはまったく口にせず、固くなったパンで命をつないでいる。何人かの者はそれすらないのだ。……零細な親方たちは手間仕事にも行けず、妻子や徒弟に十分食べさせるパンもかせげない。」Guckkasten, Sonntagsblatt zum Gerad'aus ! Nr. 7, 25. Juli 1848.
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二 ウィーンにおけるマルクス
(176) ツェンカーによれば、確認しうるかぎりでのマルクスのウィーン滞在は、八月二八日から九月七日までである。Zenker, S. 213. しかし、G・ヘルマン(カール・グリュンベルク)は、マルクスが九月十一日および十三日のデモをも体験した可能性があると考える。G. Hermann, Karl Marx in Wien, in : Der Kampf, Bd. 1, 1908. 九月事件のあと、匿名の一プラカードが「当地滞在中の二人のドイツから来た人間がこれらの企てとつながりを持っていた」と非難するが、『デア・ラディカーレ』は、「両名共ウィーンの問題に直接介入してはいない」と否認する。Der Radikale, Nr. 79, 19. Sept. 1848. また九月二七日付の同紙は、『新ライン新聞』のウィーン民主主義派にたいする非難 (Neue Rheinische Zeitung, Nr. 105, 17. Sept. 1848) に答えながら、マルクス自身「つい先頃までウィーンにいた」と述べている。その他マルクスのウィーン滞在にふれた文献として次のものがある。E. Priester, Karl Marx in Wien, in : Zeitschrift fur Geschichtswissenschaft, 1953, Heft 5 ; F. Mehring, Aus dem literarischen Nachlaァ von K. Marx und F. Engels. III. Bd., Einleitung : H. Friedjung, ・terreich von 1848 bis 1860. 1. Bd. 3. Aufl. Stuttg. und Berl. 1908. S. 89 ; V. Valentin, Geschichte der deutschen Revolution 1848-1849. 2. Bd. S. 192.
(177) 民主主義協会におけるマルクスの発言については次のものを見よ。Der Volksfreund, Nr. 105, 30. Aug. 1848 ; Der Radikale, Nr. 64, 31. Aug. 1848 ; Bauern-Zeitung, o. J. [Aug. 1848] ; Neue Rheinische Zeitung, Nr. 94, 4. Sept. 1848.『デア・ラディカーレ』と『新ライン新聞』の記事の一部は『マルクス・エンゲルス全集』第五巻、四九〇(原)頁に所収。
(178) Der Radikale, Nr. 65, 1. Sept. 1848.
(179) 労働者にたいしてもっとも影響力のあった『ディー・コンスティトゥツィオーン』紙の主筆ヘーフナーは、革命がプロレタリアのものに転化する危険性を認識していた。「われわれは三月の日々に市民的身分の革命(フランスの七月革命)をおこなった。だがいまやプロレタリア革命(一八四八年パリ革命)をわれわれは迎えようとしているのだとすれば(残念ながらそれは一八四八年のおだやかな性格ではなく、一七八九年の性格をもつことになろう)、いま緊急に必要なことは、政府が時代の警報のなかで労働者身分の大きな政治的重要性を認め、すぐに労働および労働者状態を担当する固有の省を設置することである。」Die Constitution, Nr. 17, 10. Apr. 1848, S. 242.
(180) この日のマルクスの講演は次の各紙に報じられたが、肝心の『労働者新聞』では一言も報じられていない。Die Constitution, Nr. 133, 1. Sept. 1848 ; Der Volksfreund, Nr. 109, 3. Sept. 1848.
(181) 「生産費が労賃を決める」等々の講演内容の要約を見よ。Die Constitution, Nr. 136, 5. Sept. 1848.『マルクス・エンゲルス全集』第五巻、四九一頁。労働者協会の機関紙では、「ドクター・マルクスの講演、賃労働と資本について」と議事録に述べられているだけである。Arbeiter-Zeitung, Nr. 1, 7. Sept. 1848.
(182) 八月三十日のマルクスの講演のあと、サン・シモン主義者シュティフト男爵が自国の現状について、とりわけ労働者の地位と未来について語った。彼の話の内容はわからないが、おそらく民主主義協会におけるイェリネクのマルクス批判と軌を一にしていたであろう。九月二日のマルクスの講演の翌週には、ふたたびシュティフトと、労働者協会の常連ニクリス教授が講演する。とりわけ後者は、「自由な考え方」にもとづいて、「社会主義と共産主義」の「よい面と悪い面」について語り、聴衆の喝采を受けた。Arbeiter-Zeitung, Organ des ersten allgemeinen Wiener Arbeiter-Vereines, Nr. 3, 14. Sept. 1848. この話のなかでマルクスが批判の俎上にのっていたと推測しても、さほどまちがいではないであろう。
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三 マッセン・プロレタリアート
(183) たとえば次の資料を見よ。Statuten fur das Comit・zur Unterst殳zung mittelloser Gewerbsleute in Wien. 内atのきもいりでつくられたこの自発的委員会は、「現在国家および市の費用でおこなわれている種々の土木作業に従事している労働者をその定職にひきもどす」ため、原料、資金(一人十から五十グルデン)を貸し付ける目的を持った。あるいは、手工業者および労働者の負債を返済させ、生活必需品を安く購入させるため協会を設けよ、という『ゲラーデアウス』紙の提案を見よ。Extra-Beilage zu Nr. 80 der politischen Zeitung モGerad'aus !メ
(184) 同時代にももちろん公共事業によるプロレタリア吸収を批判した声はある。たとえば次のパンフレットを見よ。Proletariat und Pauperismus, oder : Taglohnerschaft und Armuth, nebst einigen Gedanken uber die Aufgabe eines Ministeriums der anfentlichen Arbeiten. Von A. A. B., Wehrmann des IX. Bezirkes. Wien 1848. 著者はプロレタリアを、自分の肉体力と一面的な技能のみにしか頼れない工場労働者と規定し、これら「賤民」は「自由のもっとも危険な障碍」であり、社会の「癌」なのであるから、その増大を防がねばならぬとする。そして都市に流入した農村無産人口をただ吸収するだけの無目的な公共事業を批判する。
(185) 「労働者問題委員会」(Arbeiter-Comit・ は市委員会から八名、市民、国民軍、学生から七名、それにフュスター教授がはいって五月末つくられた。その役割は、一、大量失業者の生計を配慮すること、二、土木事業対策を提案し、その実施にあたること、三、土木事業当局と打ち合わせて労働者を配分すること、四、労働者をその特殊技能に応じて適切に使用すること、五、外からの労働者の流入阻止の措置をとること。Amtliche Verhandlungs-Protokolle des Gemeinde-Ausschuァes der Stadt Wien vom 25. Mai bis 5. Oktober 1848. Wien 1848. S. 4.
(186) 労働細則は六月二八日公布され、七月三日発効した。一、十時間労働、二、日給は男子二五、女子二十、十二歳から十六歳までの子供十クロイツァー、三、日曜祭日は休みで無給、四、午前から雨天の日は半額、午後にはじめて雨の場合は全額支給、一日中雨の場合は男女とも六クロイツァー支給等々。Kundmachung. Um Gleichm刊igkeit und Regelm刊igkeit bei allen anfentlichen Arbeiten zu erzielen, wird folgende Arbeiter-Ordnung, welche vom 3. Juli 1848 angefangen zur allgemeinen Richtschnur zu dienen hat, hiermit bekannt gemacht, Wien den 28. Juni 1848.
(187) 親労働者的なフィオラントすら次のように言う。彼らは「骨の髄から怠け者だった」。彼らは「全社会制度に不平を鳴らし、ところかまわず不満を流し、働こうとする者をいびり、棍棒で殴りさえした」。「隣りあわせの酒場ではいつも群をなし、酒を飲み、トランプをしていた」等々。Violand, S. 126 f.
(188) 「秩序治安維持と人民の諸権利擁護のための市民・国民軍・学生委員会」の名で六月段階にはしばしば「労働者へ」の布告文が出る。新聞もしばしば労働者に呼びかける。「煽動」をしりぞけ、「平穏と秩序」を守り、「陰険な裏切者」に耳をかすなと。Wiener Gassen-Zeitung, Nr. 7, 10. Juni 1848. ある記事は、市民や学生が労働者をほめたたえるのは、労働者が五月のバリケードに参加したからではない、労働者の不法行為をおそれているからだと述べる。Wiener Gassen-Zeitung, Nr. 1, 3. Juni 1848. あるいは公共事業労働者をイタリア遠征軍にまわせという提案があるかと思うと、兵士徴募所をぶちこわした労働者に合法的手段を訴えたりもする。Gerad'aus !, Nr. 7, 21, 18. Mai, 5. Juni 1848.
(189) 「市民軍は情容赦もなく、七十歳の老婆や、彼らのまえで膝を折り罪もないのにと命乞いする乳飲み子抱えた母親まで斬り倒した。」National-Zeitung, Politisches Volksblatt fur demokratische Interessen, Nr. 32, 25. Aug. 1848.
(190) Gedanken eines Arbeiters uber den 23. August, in : Die Constitution, Nr. 127, 25. Aug. 1848.
(191) 事件直後に出た一プラカードは死者五八名、負傷者約二〇〇名と述べる。内atから地方官庁へ送られた回状では次のように述べられる。「二三日労働者の不法行為が繰り返され、しかも遺憾ながら憂うべき性格を帯びたため、国民軍が介入せざるをえなかった。到着した報告によると、労働者のあいだの死者六名、負傷者六三名にのぼったとのことである。」Circulare uber die Arbeiter-Bewegung am 21. und 23. d. M. zu Wien, und die hieruber erlassenen h. Ministerial-Verfugungen, 27. Aug. 1848.
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四 特権的労働者と下民労働者
(192) Das Arbeiter-gesindel, in : Arbeiter-Zeitung, Nr. 3, 14. Sept. 1848.
(193) An die brotlosen Arbeiter ! in : Das Wiener allgemeine Arbeiter-Blatt, Nr. 1, 18. Mai 1848.
(194) 労働者自身の手になる新聞としては、本文中で挙げた『労働者新聞』のほか、シュミット編集のもとに十月はじめ二号のみ出た Arbeiter-Zeitung がある。また、Wiener Arbeiter-Courier, geschrieben im Interesse der Arbeiter von Rulke und Waldeck があるが、これは労働者の名を付しながら、労働者とも労働問題とも無縁な学生の新聞である。申訳のように、公共事業労働者の求職、工場主の求人のための一欄を設けているにすぎない。またヴィトラツィルが編集し、一号のみ出た Concordia があるが、私は未見である。市民レオポルト・シックの手になるAn meine Br歸er Arbeiter ! も新聞といえるだろうが、「煽動家」への警戒を労働者に呼びかけた「平穏と秩序」派の文書である。ついでに言えば、一八四八年ウィーンで出た新聞数は、私がこれまでにリスト化したかぎりで、二一九種(同系統で紙名のみ変わった場合も勘定にいれると二七一種)である。ウィーン革命の実証研究の第一人者ヘルファートのリストすらなお多くの穴をもっている。Frh. von Helfert, Die Wiener Journalistik im Jahre 1848. Wien 1877.
(195) ウィーンの印刷工による最初の組織活動については、なによりも次のものを参照。K. Hoger, Aus eigener Kraft ! Die Geschichte eines osterreichischen Arbeitervereines seit funfzig Jahren, Wien 1892. 印刷工の新聞としては次の二つがあった。これまたヒリシュの手になるOesterreichische Typographia, Journal fur Arbeiter von Arbeitern. Nr. 1 u. 2, 2. Juli 1848. ヒューバーの Oesterreichisches Buchdrucker-Organ, Nr. 1, 5. Aug. 1848. ヒューバーは穏健派というより、雇主との協調精神にみちて自分の立場を失っている。
(196) L. Eckardt, Die erste Arbeiterverein ist gegrundet ! Verhandlungen der Wiener-Tipografia.
(197) ヘーガーは次のように指摘する。多くのウィーン労働者は五月以降の革命の意義と本質を社会的前進としてとらえ、八月と十月に勇敢にたたかったが、書籍印刷工はほとんどが「保守的か口舌の徒、モード革命家」であった、と。K. Hoger, S. 88.
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五 ブルジョア革命擬制批判
(198) 六月二四日の結成大会に参加したのは八十名であったが、九月上旬には会員数八〇〇名を数えた。集会では講演、歌、体操、ダンス、朗読、フェンシングなどがおこなわれたといわれるから、協会の性格は労働者教育協会であろう。しかし九月四日ザンダーは、各業種から三名ずつ選出して労働者委員会をもち、議会にたいして次の要求をおこなおうと提案する。「労働者と他の諸身分との政治的同権、雇主と労働者がともに所属する労働省の設置、自由な居住権、自由な営業規則、労働時間の確定、教養施設、疾病金庫の設置、仲裁裁判所の設置、旅券制限の廃止、無制限な結婚許可。」Arbeiter-Zeitung, Nr. 2, 10. Sept. 1848.
(199) Arbeiter-Zeitung, Nr. 1, 7. Sept. 1848.
(200) Arbeiter-Zeitung, Nr. 4, 17. Sept. 1848.
(201) Violand, S. 145 f.
(202) Der Ohnehose, Volksblatt fur unumschr穫kte Freiheit und sociale Reform, Nr. 6, 14. Juli 1848.「ズボンなし」はサン・キュロットの直訳。
(203) Der Proletarier (Neue Folge des モOhnehoseメ), Nr. 8, 18. Juli 1848.紙名は『プロレタリア』であっても、本紙の傾向は社会主義的ではなく、共和主義的である。それでも、さまざまな外部干渉によって、七月二四日から編集者が交代し、紙名も『デア・フォルクスマン』となる。
(204) 労働者パンフレットといっても、内容的に非労働者的なものも少なくない。たとえば、Mayer, Offener Brief eines Arbeiters an seine Kameraden. Wien, 11. Apr. 1848. 表題はペテンであり、これは労働者の手になるものではない。著者の意図は、「われわれの優れた皇帝の大きなすばらしい贈物である憲法」(五月革命で粉砕された四月の欽定憲法を指す)の恩恵について労働者に説教し、「われわれ(つまり労働者)のなかにも若干存在する煽動家や教唆者」の影響を排除しようということにある。J. Neumann, An die Fabriks- Gewerks- und Handwerksgesellen und Arbeiter Wiens. 31. Marz 1848. も非労働者の手で書かれた非労働者的パンフレットである。労働者の賃上げ要求を抑えるのが眼目なのである。革命期の文献を調べていくなかで目につくのが『ヴィーナー・シャリバリ』の編集者レオポルト・エングレンダーのパンフレットである。彼は一応は労働者の立場から高い家賃、高利などを批判する。しかし彼も社会主義を敵視し、共和主義からも縁遠い。彼にとっては憲法すらも、「子供のあいだにわけへだてなさらぬ慈愛深き父上である」皇帝の耳に、人民の声を達せしめるための手段である。彼には私の知るかぎり、次の四冊のパンフレットがあるが、とくにとりあげねばならないような内容をもたない。ウィーン革命の傾向と水準を理解するのに役立つだけである。L. Englander, Die wahre Lage der unteren Volksklassen. Geschildert von einem Manne aus dem Volke. Wien 1848 ; Offener Brief an jene Hausherren, welche unerschwingliche Zinsen verlangen. Wien 1848 ; Der Nachtw劃hter oder die wahre Lage des Volkes, seine Gesinnungen, seine Wunsche, seine Hoffnungen und seine naturlichen Rechte. [Wien 1848] ; Statuten des Vereines zur Aufhebung und Aufrottung des Wuchers. . . und zur allgemeinen, jeden Menschen mit Liebe umfassenden Hilfe und Rettung, Wien 1848. あと一冊だけ、ツェンカーの激賛しているパンフレットを挙げておこう。A. von Hummelauer, Von den Ursachen des Zustandes der arbeitenden Klasse, und den Mitteln, denselben, den Erfordernissen des geselligen Seins entsprechend, zu verbessern. Ein Beitrag zu einer kunftigen Organisation der Arbeit, Klagenfurt 1849. 刊行されたのは一八四九年だが、執筆されたのは革命の直前である。著者は農村および都市における労働者の状態を描いたのち、その改善策を具体的に提示する。要点はこうである。労働者階級の所有権を認め、公民権を拡大する。工場、労働者の集中を防ぎ、工場を地方に移す。労働者階級を他の階級に移すため、大農地を分割して小作制度を設ける。労働者の年金、保険、貯金制度を確立する。賦役を廃止する等々。ただし著者の基本的立場は、労働と所有の対立を認めながら、その両者は相互補完的に市民社会の基礎になっていると考える点にある。一言でいえば、資本と労働の協調思想がその基礎である。だがそれでもこの時期においては前進的だった。ここでは労働者の存在を社会的に公認させることがまず問題であったのだから。
(205) チロルの職人にたいするスイスからのヴァイトリングの影響については、J. Marx, Die wirtschaftlichen Ursachen der Revolution von 1848 in ・terreich. Graz-Koln 1965. S. 81. 社会主義や共産主義の思想がオーストリアの労働者のなかに浸透しなかった理由の一つは、職人のスイスおよびフランスへの遍歴が禁止されていたことにある。オーストリア国内における義人同盟の組織については、なんら知る手がかりがない。しかし、メッテルニヒ=セドルニツキーのオーストリア警察体制はヴァイトリングの著書と活動の影響関係を執拗に追求した。それについては、Brugel, L., Geschichte der osterreichischen Sozialdemokratie. 1. Bd. Wien 1922. の序章を見よ。
(206) T. Regner, Die Welt ohne Geld, Buch fur die Arbeiter. Wien 1848. S. 13, 22 u. 26.
(207) T. Regner, S. 65 f.
(208) T. Regner, S. 28.
(209) T. Regner, S. 68.
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あとがき
本書には、一九七四年から約四年間にわたって雑誌等に寄稿された文章が集められている。論文もあれば、回想録風の文章もあり、またウィーン便りなどもあって、雑多な印象を与えるかもしれないが、しかし、これらの文章のなかを流れているテーマもモティーフも、ほぼ一貫している。筆者として言いたいことがあってはじめてこれらの文章が書かれたのであるから。とはいえ、筆者の心底を流れている言いたいことというのは、当の本人にとっても必ずしも明確な姿をとってはいない。それは、思想化された主張というよりも、むしろ自分の心のひだに積み重なってきた一つのわだかまりだからである。そしてそのわだかまりは、私なりの精神の現象学を展開しようにも展開しえないいらだちとつながっている。私の両親は故郷をはみ出て東京に流れてきた貧民の部類に属するから、本書のなかで私なりのモティーフをふくらませていくなかで、私もいつしか自分の心の生誕の地に発する経験の軌跡を描いていたのかもしれず、この小さな本をとおしていつしか自分の育った古巣にたちもどろうとしていたのかもしれない。
だが、このような場所で個人的感慨は禁物であろう。むしろ、本書のなかで私が意図したものを多少なりとも述べておかねばなるまい。私がここでやろうと思ったことは、一八四八/四九年革命史の諸問題を論じるなかで、これまで自分が無自覚に依拠してきた歴史の見方や歴史的概念を根底から洗い直すことであった。もちろんこの小さな本のなかでは、この洗い直しはまだ部分的にしかできておらず、それにいくら洗ったところですっかりきれいになるわけもない。だが、ともかくもこのなかで私は、民族問題にみられるエンゲルスらの近代主義的史観の批判的検討をとおして、世界史と民族の問題、とりわけ大国主義的史観と弱少民族の問題を考え、また一八四八年におけるウィーンとベルリンの状況を描くなかでこの革命――いわゆるブルジョア民主主義革命――におけるプロレタリアートの存在理由と存在形態を求めてみた。当時の言葉でプロレタリアートと呼ばれていたこのなお未定型な流民を多少なりとも具体的に形象化し、それを「歴史なき民族」と部分的に重ねあわせるなかで、図式主義的史観にたいする一つの批判基準が見いだせる、と思えたからである。だからまた、本書を一読していただければわかることだが、ここで描かれた一八四八年の――しばしばスラヴ的な――プロレタリアートは、西欧への出稼ぎ=ガスト・アルバイターのなかに自分が現代に生れかわった姿を見いだすのである。どちらにしてもそれらは、転換期の歴史的存在形態として、「向う岸」への、つまり「西欧」的「市民」社会への挑戦ではなかったろうか。
だからといって、本書のモティーフがたんなる反西欧で、たんなる反市民社会論だ、などと速断されても困る。「向う岸からの世界史」は、依然としてわれわれにとっての世界史でもある。ただ、世界史を自覚的にとらえうる能力が向う岸だけのものだという発想こそが、せまくるしく(マルクスが市民的俗物性との関連でしばしば用いる borniert という言葉の意味を想い起してほしい)、なお自然的制限からぬけきれず、無自覚であり、したがって人間的たりえないのではないか。それこそが普遍的精神と縁遠い発想ではないか。普遍性とは自己を限定しうる能力のことだ、ともいえよう。他者のなかで、他者をとおして自己限定しうる能力こそが普遍性につながるのであろう。だから、普遍性は川の向う岸からもこちら側からも、どちらからもそれとしてとらえることができる。こうして普遍性は歴史のなかで限りなく重層化する。そのような普遍史の重層性をそれとして認識しうる力こそが、世界史を知的に構成しうる能力となる。
向う岸などと言わなくとも、川向うという使いなれた言葉がある。もちろん相手をばかにした言葉である。おまえたちは川向うじゃないか、なに言ってやがる、こっちから見りゃてめえたちこそ川向うじゃねえか、というわけで、悪童どもは罵りあい、石を投げあう。だがここでは、自分が川向うの住民だからといって、川をはさんで石を投げあうわけにはいかない。むしろ、自分が川のこちら側に身を置いているからこそ、自覚的には、そして理念的には向う岸に達しうるのだということ、そのことをひたすら主張しなければならぬ。向う岸にいて向う岸の教養を誇る者が、どうして世界史的に自覚的たりうるだろうか。いまや川向うのあちらこちらで、世界史を自覚的にとらえかえす力が育っている。――このようなことは、いまさら言うまでもないあたりまえのことかもしれない。だが私は、そのあたりまえのことを具象的な歴史をとおして何度でも主張しなければならぬ。もしそんなことでもなんらかの取柄といいうるのなら、本書の取柄はそれしかないのだから。
ところで、ここに収められた文章が最初に発表された場所を示しておく。
T
「向う岸からの世界史」『思想』六〇一号、一九七四年七月に発表。今回文献的な注をつけ加えた。
「四八年革命における歴史なき民によせて」『思想』六二八号、一九七六年十月に発表。今回修正は加えていない。
U
「一八四八年にとってプロレタリアートとは何か」『思想』六四五号、一九七八年三月(四八年革命特集号)に発表。これも一、二の小さな技術的誤りをなおしただけである。
「ウィーン革命と労働者階級」もともと宇佐美誠次郎教授還暦記念論集として編まれた加藤睦夫・古川哲・良知力・鷲見友好編『現代資本主義と国家』有斐at、一九七六年に所収。今回いくらか本文の表現をあらためた。
V
「もう一つの十月革命」『知の考古学』第四および五号、一九七五年九/十月、十一/十二月に、「一八四八年ウィーンの秋」という原題で掲載された。この小文は、かなり自由な対話形式をとっているので、筆者の勝手な創作をふくむかのようにみえるかもしれないが、叙述はすべて同時代資料にもとづき、そのかぎりで客観的である。その意味で、注をつけて資料的裏づけを示せばよかったのだが、今回もまた怠慢のためそれをする余裕がなくなってしまった。
「ウィーン便り」そのうち一、二、三は『月刊百科』一四九―一五一号、一九七五年二―四月に、また四と五は『書斎の窓』二四二および二四四号、一九七五年五/六月、八月に寄稿したもの。今回ここに収めるにあたって若干補筆した。
「ガスト・アルバイターとしての社会主義」『思想の科学』七九号、一九七七年八月に寄稿したもの。
実は、一九七五年春、ウィーンに滞在していた私は、突然病いに襲われた。若い友人たちや私の妻が真夜中に私を病院に担ぎこんでくれ、長時間の手術の後、九死に一生を得ることができた。本書に収められた文章の半分はこの命拾いのあとで書かれたのである。このとき病気にさえならなかったなら、もう少しましなものが書けたろうに、などと愚痴をこぼしても仕方ないのだが、この病気のために本書は資料研究的な側面で決定的な制約を受けることになった。新聞や檄文、パンフやビラ、種々のメモアール等、同時代の印刷物資料にかんしてはほぼその全体像を自分の視野に収めることができたけれども、手稿書簡や公文書等については、現物を目の前にしながら、いくらも手にしないうちに調査を途中で打ち切らざるをえなかった。しかし、私にとっての困難はもっと別なところにもあった。大きな手術をこれまでに三度も受けて、体がずたずたにされてみると、なによりも、自分を襲ってくる索漠たる想いとたたかうことなくしては、一言半句といえどもものが書けなくなってしまった。人間の本質的価値への確信をぬきにした歴史研究などありえぬと、いま私は自分の実存の崩壊感覚をとおして感じとることができる。
最後に、この数年の病気とのたたかいのなかで私を援助し励ましてくれた多くの友人たちに感謝する。またこの本をまとめるにあたって西谷能雄氏をはじめとする未来社の方々にいろいろとご配慮いただいた。とくに今回は小箕俊介氏にお世話になった。さらにここでいちいちお名前は挙げないけれども、本書所収の文章が最初に雑誌等に発表されるにあたっても、多くの編集者の方々のご鞭撻を得ている。ここに感謝の念をあらわしたい。
一九七八年八月二六日
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[#地付き]著者
良知 力(らち・ちから)
一九三〇年、東京に生まれる。東京商科大学大学院修士課程修了。専攻は社会思想史。一九六八年、法政大学教授。一九七一年、一橋大学社会学部教授。初期マルクスおよび青年へーゲル派に関する社会思想史的研究で日本におけるマルクス研究の水準を一挙に引き上げるとともに、一九四八年革命史研究を通じて西欧近代中心主義的歴史像への批判を展開した。一九八五年歿。著書に『ドイツ社会思想史研究』『初期マルクス試論』『マルクスと批判者群像』『青きドナウの乱痴気』『一九四八年の社会史 』『魂の現象学』『ヘーゲル左派と初期マルクス』などがある。
本作品は一九七八年十月、未来社より刊行され、一九九三年十月、ちくま文芸文庫に収録された。