TITLE : みだれ髪・附みだれ髪拾遺
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。
本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。
本文中に「*」が付されている箇所には注釈があります。「*」が付されていることばにマウスポインタを合わせると、ポインタの形が変わります。そこでクリックすると、該当する注釈のページが表示されます。注釈のページからもとのページに戻るには、「Ctrl」(Macの場合は「コマンド」)キーと「B」キーを同時に押すか、注釈の付いたことばをクリックしてください。
目次
みだれ髪
臙脂紫
蓮の花船
白百合
はたち妻
舞 姫
春 思
みだれ髪 拾遺
注釈
臙 脂 紫
夜の帳《ちやう》にささめき尽きし星の今を下《げ》界《かい》の人の鬢《びん》のほつれよ《*》
歌にきけな誰れ野の花に紅《あか》き否《いな》むおもむきあるかな春《はる》罪《つみ》もつ子
髪《かみ》五尺ときなば水にやはらかき少女《をとめ》ごころは秘めて放たじ
血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな
椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色《いろ》桃《もも》に見る
その子二十《はたち》櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
堂の鐘のひくきゆふべを前髪の桃のつぼみに経《きやう》たまへ君
紫にもみうらにほふみだれ篋《ばこ》をかくしわづらふ宵の春の神《*》
臙《えん》脂《じ》色《いろ》は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命《いのち》
紫の濃き虹説きしさかづきに映《うつ》る春の子眉《まゆ》毛《げ》かぼそき
紺《こん》青《じやう》を絹にわが泣く春の暮やまぶきがさね友《とも》歌ねびぬ《*》
まゐる酒に灯《ひ》あかき宵を歌たまへ女《をんな》はらから牡丹に名なき《*》
海《かい》棠《だう》にえうなくときし紅《べに》すてて夕《ゆふ》雨《さめ》みやる瞳《ひとみ》よたゆき
水にねし嵯峨の大《おほ》堰《ゐ》のひと夜《よ》神《がみ》絽《ろ》蚊《が》帳《や》の裾《すそ》の歌ひめたまへ
春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅《ばい》花《くわ》のあぶら
今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御《み》裾《すそ》さはりてわが髪ぬれぬ
細きわがうなじにあまる御《み》手《て》のべてささへたまへな帰る夜の神
清《きよ》水《みづ》へ祇《ぎ》園《をん》をよぎる桜《さくら》月《づき》夜《よ》こよひ逢ふ人みなうつくしき《*》
秋の神の御《み》衣《けし》より曳《ひ》く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ
経《きやう》はにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ
山ごもりかくてあれなのみをしへよ紅《べに》つくるころ桃の花さかむ
とき髪に室《むろ》むつまじの百合のかをり消えをあやぶむ夜《よ》の淡《と》紅《き》色《いろ》よ
雲ぞ青き来し夏《なつ》姫《ひめ》が朝の髪うつくしいかな水に流るる
夜の神の朝のり帰る羊とらへちさき枕のしたにかくさむ
みぎはくる牛かひ男歌あれな秋のみづうみあまりさびしき
やは肌のあつき血《ち》汐《しほ》にふれも見でさびしからずや道を説く君
許したまへあらずばこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき《*》
わすれがたきとのみに趣《しゆ》味《み》をみとめませ説かじ紫その秋の花
人かへさず暮れむの春の宵ごこち小《を》琴《ごと》にもたす乱れ乱れ髪
たまくらに鬢《びん》のひとすぢきれし音《ね》を小《を》琴《ごと》と聞きし春の夜の夢《*》
春《はる》雨《さめ》にぬれて君こし草の門《かど》よおもはれ顔の海《かい》棠《だう》の夕
小《を》草《ぐさ》いひぬ『酔へる涙の色にさかむそれまで斯くて覚めざれな少《を》女《とめ》』
牧場いでて南にはしる水ながしさても緑の野にふさふ君
春よ老いな藤によりたる夜《よ》の舞《まひ》殿《どの》ゐならぶ子らよ束《つか》の間《ま》老いな
雨みゆるうき葉しら蓮《はす》絵師の君に傘まゐらする三尺の船
御《み》相《さう》いとどしたしみやすきなつかしき若《わか》葉《ば》木《こ》立《だち》の中《なか》の廬《る》遮《しや》那《な》仏《ぶつ*》
さて責むな高きにのぼり君みずや紅《あけ》の涙の永《やう》劫《ごふ》のあと
春雨にゆふべの宮《みや》をまよひ出でし小《こ》羊《ひつじ》君《きみ》をのろはしの我れ
ゆあみする泉の底の小《さ》百《ゆ》合《り》花《ばな》二十《はたち》の夏をうつくしと見ぬ
みだれごこちまどひごこちぞ頻《しきり》なる百合ふむ神に乳《ちち》おほひあへず《*》
くれなゐの薔《ば》薇《ら》のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな
旅のやど水に端《はし》居《ゐ》の僧の君をいみじと泣きぬ夏の夜の月《*》
春の夜の闇《やみ》の中《なか》くるあまき風しばしかの子が髪に吹かざれ
水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君
誰ぞ夕《ゆふべ》ひがし生《い》駒《こま》の山の上のまよひの雲にこの子うらなへ《*》
悔いますなおさへし袖に折れし劒《つるぎ》つひの理想《おもひ》の花に刺《とげ》あらじ
額《ぬか》ごしに暁《あけ》の月みる加茂川の浅《あさ》水《みづ》色《いろ》のみだれ藻《も》染《ぞめ》よ
御《み》袖《そで》くくりかへりますかの薄《うす》闇《やみ》の欄《おば》干《しま》夏の加茂川の神
なほ許せ御国遠くば夜《よ》の御《み》神《かみ》紅《べに》盃《ざら》船《ふね》に送りまゐらせむ
狂ひの子われに焔《ほのほ》の翅《はね》かろき百三十里あわただしの旅《*》
今ここにかへりみすればわがなさけ闇《やみ》をおそれぬめしひに似たり
うつくしき命を惜しと神のいひぬ願ひのそれは果してし今
わかき小《を》指《ゆび》胡《ご》紛《ふん》をとくにまどひあり夕ぐれ寒き木蓮の花
ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鶯
ふしませとその間《ま》さがりし春の宵衣《い》桁《かう》にかけし御袖かつぎぬ《*》
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
しのび足に君を追ひゆく薄《うす》月《づき》夜《よ》右のたもとの文がらおもき
紫に小《を》草《ぐさ》が上へ影おちぬ野の春かぜに髪けづる朝
絵日傘をかなたの岸の草になげわたる小川よ春の水ぬるき
しら壁へ歌ひとつ染めむねがひにて笠はあらざりき二百里の旅
嵯峨の君を歌に仮《か》せなの朝のすさびすねし鏡のわが夏姿《*》
ふさひ知らぬ新《にひ》婦《びと》かざすしら萩に今宵の神のそと片《かた》笑《ゑ》みし《*》
ひと枝の野の梅をらば足《た》りぬべしこれかりそめのかりそめの別れ
鶯は君が声よともどきながら緑のとばりそとかかげ見る《*》
紫の虹の滴《したた》り花におちて成りしかひなの夢うたがふな
ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清《きよ》滝《たき》夜の明けやすき《*》
紫《むらさき》の理《り》想《さう》の雲はちぎれちぎれ仰ぐわが空それはた消えぬ
乳ぶさおさへ神《しん》秘《ぴ》のとばりそとけりぬここなる花の紅《くれなゐ》ぞ濃き
神の背《せな》にひろきながめをねがはずや今かたかたの袖ぞむらさき《*》
とや心朝の小《を》琴《ごと》の四つの緒のひとつを永《と》久《は》に神きりすてし《*》
ひく袖に片《かた》笑《ゑみ》もらす春ぞわかき朝のうしほの恋のたはぶれ
くれの春隣すむ画《ゑ》師《し》うつくしき今《け》朝《さ》山吹に声わかかりし《*》
郷《さと》人《びと》にとなり邸《やしき》のしら藤の花はとのみに問ひもかねたる《*》
人にそひて樒《しきみ》ささぐるこもり妻《づま》母なる君を御《み》墓《はか》に泣きぬ《*》
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな《*》
おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る
ゆあみして泉を出でしやははだにふるるはつらき人の世のきぬ《*》
売りし琴にむつびの曲《きよく》をのせしひびき逢《あふ》魔《ま》がどきの黒百合折れぬ《*》
うすものの二尺のたもとすべりおちて蛍ながるる夜《よ》風《かぜ》の青き《*》
恋ならぬねざめたたずむ野のひろさ名なし小川のうつくしき夏
このおもひ何とならむのまどひもちしその昨日《きのふ》すらさびしかりし我れ
おりたちてうつつなき身の牡丹見ぬそぞろや夜《よる》を蝶のねにこし
その涙のごふゑにしは持たざりきさびしの水に見し二《は》十《つ》日《か》月《づき*》
水十里ゆふべの船をあだにやりて柳による子ぬかうつくしき
(をとめ)
旅の身の大《おほ》河《かは》ひとつまどはむや徐《しづ》かに日《に》記《き》の里の名けしぬ
(旅びと《*》)
小《を》傘《がさ》とりて朝の水くむ我とこそ穂《ほ》麦《むぎ》あをあを小《こ》雨《さめ》ふる里《*》
おとに立ちて小川をのぞく乳母が小《こ》窓《まど》小《こ》雨《さめ》のなかに山吹のちる
恋か血か牡丹に尽きし春のおもひとのゐの宵のひとり歌なき
長き歌を牡丹にあれの宵の殿《おとど》妻となる身の我れぬけ出でし《*》
春三《み》月《つき》柱《ぢ》おかぬ琴に音たてぬふれしそぞろの宵の乱れ髪《*》
いづこまで君は帰るとゆふべ野にわが袖ひきぬ翅《はね》ある童《わらは*》
ゆふぐれの戸に倚《よ》り君がうたふ歌『うき里去りて往きて帰らじ』
さびしさに百二十里をそぞろ来ぬと云ふ人あらばあらば如何ならむ《*》
君が歌に袖かみし子を誰と知る浪速《なには》の宿は秋寒かりき《*》
その日より魂にわかれし我れむくろ美しと見ば人にとぶらへ
今の我に歌のありやを問ひますな柱《ぢ》なき繊《ほそ》絃《いと》これ二十五絃《げん*》
神のさだめ命のひびき終《つひ》の我世琴《こと》に斧《をの》うつ音ききたまへ
人ふたり無《ぶ》才《さい》の二字を歌に笑みぬ恋《こひ》二万年《ねん》ながき短き
蓮の花船
漕ぎかへる夕《ゆふ》船《ぶね》おそき僧の君紅《ぐ》蓮《れん》や多きしら蓮《はす》や多き
あづまやに水のおときく藤の夕はづしますなのひくき枕よ
御袖ならず御《み》髪《ぐし》のたけときこえたり七尺いづれしら藤の花
夏花のすがたは細きくれなゐに真《ま》昼《ひる》いきむの恋よこの子よ
肩おちて経《きやう》にゆらぎのそぞろ髪をとめ有《う》心《しん》者《じや》春の雲こき《*》
とき髪を若《わか》枝《え》にからむ風の西よ二尺足らぬうつくしき虹《*》
うながされて汀《みぎは》の闇《やみ》に車おりぬほの紫の反《そり》橋《はし》の藤《ふぢ》
われとなく梭《をさ》の手とめし門《かど》の唄《うた》姉がゑまひの底はづかしき《*》
ゆあがりのみじまひなりて姿見に笑みし昨日《きのふ》の無きにしもあらず
人まへを袂《たもと》すべりしきぬでまり知らずと云ひてかかへてにげぬ《*》
ひとつ篋《はこ》にひひなをさめて蓋《ふた》とぢて何となき息《いき》桃にはばかる《*》
ほの見しは奈良のはづれの若《わか》葉《ば》宿《やど》うすまゆずみのなつかしかりし
紅《あけ》に名の知らぬ花さく野の小《こ》道《みち》いそぎたまふな小《を》傘《がさ》の一人《ひとり》
くだり船昨《よ》夜《べ》月かげに歌そめし御《み》堂《だう》の壁も見えず見えずなりぬ
師の君の目を病みませる庵《いほ》の庭へうつしまゐらす白菊の花
文字ほそく君が歌ひとつ染めつけぬ玉《たま》虫《むし》ひめし小《こ》筥《ばこ》の蓋《ふた》に
ゆふぐれを籠へ鳥よぶいもうとの爪《つま》先《さき》ぬらす海棠の雨
ゆく春をえらびよしある絹《きぬ》袷衣《あはせ》ねびのよそめを一人《ひとり》に問ひぬ《*》
ぬしいはずとれなの筆の水の夕そよ墨足らぬ撫《なで》子《しこ》がさね《*》
母よびてあかつき問ひし君といはれそむくる片頬柳にふれぬ
のろひ歌かきかさねたる反《ほ》古《ご》とりて黒き胡蝶をおさへぬるかな
額《ぬか》しろき聖《ひじり》よ見ずや夕ぐれを海棠に立つ春《はる》夢《ゆめ》見《み》姿《すがた》
笛の音に法華経うつす手をとどめひそめし眉よまだうらわかき
白《びやく》檀《だん》のけむりこなたへ絶えずあふるにくき扇をうばひぬるかな
母なるが枕《まくら》経《ぎやう》よむかたはらのちひさき足をうつくしと見き《*》
わが歌に瞳《ひとみ》のいろをうるませしその君去りて十日たちにけり
かたみぞと風なつかしむ小扇のかなめあやふくなりにけるかな
春の川のりあひ舟のわかき子が昨《よ》夜《べ》の泊《とまり》の唄《うた》ねたましき
泣かで急げやは手にはばき解くえにしえにし持つ子の夕を待たむ《*》
燕なく朝をはばきの紐《ひも》ぞゆるき柳かすむやその家《や》のめぐり
小川われ村のはづれの柳かげに消えぬ姿を泣く子朝《あさ》見《み》し《*》
鶯に朝寒からぬ京の山おち椿ふむ人むつまじき
道たまたま蓮月が庵のあとに出でぬ梅に相行く西の京の山《*》
君が前に李春蓮説くこの子ならずよき墨なきを梅にかこつな《*》
あるときはねたしと見たる友の髪に香の煙のはひかかるかな《*》
わが春の二十《はたち》姿《すがた》と打ぞ見ぬ底くれなゐのうす色牡丹
春はただ盃にこそ注《つ》ぐべけれ智慧あり顔の木蓮や花《*》
さはいへど君が昨日《きのふ》の恋がたりひだり枕の切なき夜半よ《*》
人そぞろ宵の羽織の肩うらへかきしは歌か芙《ふ》蓉《よう》といふ文字《*》
琴の上に梅の実おつる宿の昼よちかき清水に歌ずする君《*》
うたたねの君がかたへの旅づつみ恋の詩集の古きあたらしき
戸に倚りて菖蒲《あやめ》売《う》る子がひたひ髪にかかる薄《うす》靄《もや》にほひある朝
五月雨《さみだれ》もむかしに遠き山の庵通《つ》夜《や》する人に卯《う》の花いけぬ
四十八寺《じ》そのひと寺《てら》の鐘なりぬ今し江の北雨《あま》雲《ぐも》ひくき《*》
人の子にかせしは罪かわがかひな白きは神になどゆづるべき
ふりかへり許したまへの袖だたみ闇《やみ》くる風に春ときめきぬ《*》
夕ふるはなさけの雨よ旅の君ちか道とはで宿とりたまへ
巌《いは》をはなれ谿《たに》をくだりて躑躅《つつじ》をりて都の絵師と水に別れぬ
春の日を恋に誰れ倚るしら壁ぞ憂きは旅の子藤たそがるる
油《あぶら》のあと島田のかたと今《け》日《ふ》知りし壁に李《すもも》の花ちりかかる
うなじ手にひくきささやき藤の朝をよしなやこの子行くは旅の君
まどひなくて経ずする我と見たまふか下《げ》品《ぼん》の仏《ほとけ》上《じやう》品《ぼん》の仏《ほとけ*》
ながしつる四つの笹《ささ》舟《ぶね》紅梅を載せしがことにおくれて往きぬ
奥の室《ま》のうらめづらしき初《うぶ》声《ごゑ》に血の気のぼりし面《おも》まだ若き《*》
人の歌をくちずさみつつ夕よる柱つめたき秋の雨かな
小百合さく小草がなかに君まてば野末にほひて虹あらはれぬ
かしこしといなみていひて我とこそその山坂を御手に倚らざりし《*》
鳥辺野は御親の御墓あるところ清《きよ》水《みづ》坂《ざか》に歌はなかりき《*》
御親まつる墓のしら梅中《なか》に白く熊《くま》笹《ざさ》小《を》笹《ざさ》たそがれそめぬ
男《をとこ》きよし載するに僧のうらわかき月にくらしの蓮《はす》の花《はな》船《ぶね》
経にわかき僧のみこゑの片《かた》明《あか》り月の蓮《はす》船《ぶね》兄こぎかへる
浮葉きるとぬれし袂の紅《あけ》のしづく蓮《はす》にそそぎてなさけ教へむ
こころみにわかき唇ふれて見れば冷かなるよしら蓮の露
明くる夜の河はばひろき嵯峨の欄《らん》きぬ水色の二人《ふたり》の夏よ
藻の花のしろきを摘むと山みづに文がら濡《ひ》ぢぬうすものの袖
牛の子を木かげに立たせ絵にうつす君がゆかたに柿の花ちる
誰が筆に染めし扇ぞ去《こ》年《ぞ》までは白きをめでし君にやはあらぬ
おもざしの似たるにまたもまどひけりたはぶれますよ恋の神《かみ》々《がみ》
五月雨《さみだれ》に築《つい》土《ぢ》くづれし鳥《と》羽《ば》殿《どの》のいぬゐの池におもだかさきぬ《*》
つばくらの羽《はね》にしたたる春雨をうけてなでむかわが朝寝髪
しら菊を折りてゑまひし朝すがた垣間みしつと人の書きこし
八つ口をむらさき緒もて我れとめじひかばあたへむ三尺の袖
春かぜに桜花ちる層《そう》塔《たふ》のゆふべを鳩の羽《は》に歌そめむ
憎からぬねたみもつ子とききし子の垣の山吹歌うて過ぎぬ
おばしまのその片袖ぞおもかりし鞍《くら》馬《ま》を西へ流れにし霞
ひとたびは神より更ににほひ高き朝をつつみし練《ねり》の下《した》襲《がさね》
白百合
月の夜の蓮《はす》のおばしま君うつくしうら葉の御《み》歌《うた》わすれはせずよ《*》
たけの髪をとめ二人《ふたり》に月うすき今宵しら蓮《はす》色まどはずや《*》
荷《は》葉《す》なかば誰にゆるすの上《かみ》の御《み》句《く》ぞ御《み》袖《そで》片《かた》取《と》るわかき師の君
おもひおもふ今のこころに分ち分かず君やしら萩われやしろ百合《*》
いづれ君ふるさと遠き人の世ぞと御手はなしは昨日《きのふ》の夕《*》
三たりをば世にうらぶれしはらからとわれ先づ云ひぬ西の京の宿《*》
今宵《こよひ》まくら神にゆづらぬやは手なりたがはせまさじ白百合の夢
夢にせめてせめてと思ひその神に小百合の露の歌ささやきぬ
次のまのあま戸そとくるわれをよびて秋の夜いかに長きみぢかき
友のあしのつめたかりきと旅の朝わかきわが師に心なくいいひぬ《*》
ひとまおきてをりをりもれし君がいきその夜しら梅だくと夢みし《*》
いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人《ふたり》と一人《ひとり*》
もろ羽かはし掩《おほ》ひしそれも甲斐なかりきうつくしの友西の京の秋
星となりて逢はむそれまで思ひ出でな一つふすまに聞きし秋の声
人の世に才秀でたるわが友の名の末かなし今《け》日《ふ》秋くれぬ
星の子のあまりによわし袂《たもと》あげて魔にも鬼にも勝たむと云へな
百合の花わざと魔の手に折らせおきて拾ひてだかむ神のこころか
しろ百合はそれその人の高きおもひおもわは艶《にほ》ふ紅《べに》芙《ふ》蓉《よう》とこそ
さはいへどそのひと時よまばゆかりき夏の野しめし白百合の花
友は二十《はたち》ふたつこしたる我身なりふさはずあらじ恋と伝へむ《*》
その血潮ふたりは吐かぬちぎりなりき春を山《やま》蓼《たで》たづねますな君《*》
秋を三人《みたり》椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手と手つめたき
かの空よ若《わか》狭《さ》は北よわれ載せて行く雲なきか西の京の山《*》
ひと花はみづから渓にもとめきませ若狭の雪に堪へむ紅《くれなゐ》
『筆のあとに山《やま》居《ゐ》のさまを知りたまへ』 人への人の文さりげなき《*》
京はもののつらきところと書きさして見おろしませる加茂の河しろき
恨みまつる湯におりしまの一人《ひとり》居《ゐ》を歌なかりきの君へだてあり
秋の衾《ふすま》あしたわびし身うらめしきつめたきためし春の京に得ぬ
わすれては谿へおりますうしろ影ほそき御《み》肩《かた》に春の日よわき《*》
京の鐘この日このとき我れあらずこの日このとき人と人を泣きぬ
琵琶の海山ごえ行かむいざと云ひし秋よ三人《みたり》よ人そぞろなりし
京の水の深み見おろし秋を人の裂きし小《を》指《ゆび》の血のあと寒き
山蓼のそれよりふかきくれなゐは梅よはばかれ神にとがおはむ
魔のまへに理想《おもひ》くだきしよわき子と友のゆふべをゆびさしますな
魔のわざを神のさだめと眼を閉ぢし友の片手の花あやぶみぬ
歌をかぞへその子この子にならふなのまだ寸《すん》ならぬ白百合の芽よ《*》
はたち妻
露にさめて瞳《ひとみ》もたぐる野の色よ夢のただちの紫の虹
やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな《*》
何となきただ一ひらの雲に見ぬみちびきさとし聖《せい》歌《か》のにほひ
袖にそむきふたたびここに君と見ぬ別れの別れさいへ乱れじ《*》
淵の水になげし聖書を又もひろひ空《そら》仰ぎ泣くわれまどひの子
聖書だく子人の御《み》親《おや》の墓に伏して弥《み》勒《ろく》の名をば夕に喚《よ》びぬ《*》
神ここに力をわびぬとき紅《べに》のにほひ興《きよう》がるめしひの少女《をとめ》
痩せにたれかひなもる血ぞ猶わかき罪を泣く子と神よ見ますな
おもはずや夢ねがはずや若《わか》人《うど》よもゆるくちびる君に映《うつ》らずや
君さらば巫《ふ》山《ざ》の春のひと夜《よ》妻《づま》またの世までは忘れゐたまへ《*》
あまきにがき味うたがひぬ我を見てわかきひじりの流しにし涙
歌に名は相《あひ》問《と》はざりきさいへ一《ひと》夜《よ》ゑにしのほかの一夜とおぼすな
水の香をきぬにおほひぬわかき神草には見えぬ風のゆるぎよ《*》
ゆく水のざれ言きかす神の笑まひ御《み》歯《は》あざやかに花の夜あけぬ
百合にやる天《あめ》の小蝶のみづいろの翅《はね》にしつけの糸をとる神
ひとつ血の胸くれなゐの春のいのちひれふすかをり神もとめよる
わがいだくおもかげ君はそこに見む春のゆふべの黄《き》雲《ぐも》のちぎれ
むねの清水あふれてつひに濁《にご》りけり君も罪の子我も罪の子
うらわかき僧よびさます春の窓ふり袖ふれて経くづれきぬ
今《け》日《ふ》を知らず智慧の小石は問はでありき星のおきてと別れにし朝
春にがき貝《ばい》多《た》羅《ら》葉《えふ》の名をききて堂の夕日に友の世泣きぬ《*》
ふた月を歌にただある三本《ぼん》樹《ぎ》加茂川千鳥恋はなき子ぞ《*》
わかき子が乳《ちち》の香まじる春雨に上《うは》羽《ば》を染めむ白き鳩われ
夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘
見しはそれ緑の夢のほそき夢ゆるせ旅人かたり草なき
胸と胸とおもひことなる松のかぜ友の頬を吹きぬ我頬を吹きぬ
野《の》茨《ばら》をりて髪にもかざし手にもとり永き日野辺に君まちわびぬ
春を説くなその朝かぜにほころびし袂だく子に君こころなき
春をおなじ急《はや》瀬《せ》さばしる若鮎の釣《つり》緒《を》の細うくれなゐならぬ《*》
みなぞこにけぶる黒髪ぬしや誰れ緋鯉のせなに梅の花ちる
秋を人のよりし柱にとがぬあり梅にことかるきぬぎぬの歌《*》
京の山のこぞめしら梅人ふたりおなじ夢みし春と知りたまへ《*》
なつかしの湯の香梅が香山の宿の板戸によりて人まちし闇《*》
詞にも歌にもなさじわがおもひその日そのとき胸より胸に
歌にねて昨《よ》夜《べ》梶の葉の作者見ぬうつくしかりき黒髪の色《*》
下《しも》京《ぎやう》や紅《べに》屋《や》が門《かど》をくぐりたる男かわゆし春の夜の月《*》
枝《し》折《をり》戸《ど》あり紅梅さけり水ゆけり立つ子われより笑みうつくしき
しら梅は袖に湯の香は下のきぬにかりそめながら君さらばさらば
二《は》十《た》とせの我世の幸《さち》はうすかりきせめて今見る夢やすかれな
二《は》十《た》とせのうすきいのちのひびきありと浪華《なには》の夏の歌に泣きし君
かつぐきぬにその間《ま》の床の梅ぞにくき昔がたりを夢に寄する君《*》
それ終に夢にはあらぬそら語り中《なか》のともしびいつ君きえし
君ゆくとその夕ぐれに二人して柱にそめし白萩の歌
なさけあせし文みて病みておとろへてかくても人を猶恋ひわたる
夜の神のあともとめよるしら綾の鬢《びん》の香朝の春雨の宿
その子ここに夕《ゆふ》片《かた》笑《ゑ》みの二十《はたち》びと虹のはしらを説くに隠れぬ
このあした君があげたるみどり子のやがて得む恋うつくしかれな《*》
恋の神にむくいまつりし今日の歌ゑにしの神はいつ受けまさむ
かくてなほあくがれますか真善美わが手の花はくれなゐよ君
くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる
そよ理《り》想《さう》おもひにうすき身なればか朝の露《つゆ》草《くさ》人ねたかりし
とどめあへぬそぞろ心は人しらむくづれし牡丹さぎぬに紅き
『あらざりき』そは後《のち》の人のつぶやきし我には永《と》久《せ》のうつくしの夢《*》
行く春の一《ひと》絃《を》一《ひと》柱《ぢ》におもひありさいへ火《ほ》かげのわが髪ながき
のらす神あふぎ見するに瞼《まぶた》おもきわが世の闇の夢の小《さ》夜《よ》中《なか》
そのわかき羊は誰に似たるぞの瞳《ひとみ》の御《み》色《いろ》野は夕なりし
あえかなる白きうすものまなじりの火かげの栄《はえ》の咀《のろ》はしき君
紅梅にそぞろゆきたる京の山叔母の尼すむ寺は訪はざりし《*》
くさぐさの色ある花によそはれし棺《ひつぎ》のなかの友うつくしき
五つとせは夢にあらずよみそなはせ春に色なき草ながき里《*》
すげ笠にあるべき歌と強ひゆきぬ若葉よ薫《かを》れ生《い》駒《こま》葛《かつ》城《らぎ》
裾たるる紫ひくき根なし雲牡丹が夢の真《ま》昼《ひる》しづけき
紫のわが世の恋のあさぼらけ諸《もろ》手《で》のかをり追《おひ》風《かぜ》ながき
このおもひ真昼の夢と誰か云ふ酒のかをりのなつかしき春
みどりなるは学びの宮とさす神にいらへまつらで摘む夕すみれ
そら鳴りの夜ごとのくせぞ狂《くる》ほしき汝《なれ》よ小《を》琴《ごと》よ片袖かさむ
(琴に)
ぬしえらばず胸にふれむの行く春の小琴とおぼせ眉やはき君
(琴のいらへて)
去《こ》年《ぞ》ゆきし姉の名よびて夕ぐれの戸に立つ人をあはれと思ひぬ
十《つ》九《づ》のわれすでに菫を白く見し水はやつれぬはかなかるべき
ひと年をこの子のすがた絹に成らず画の筆すてて詩にかへし君
白きちりぬ紅きくづれぬ床《ゆか》の牡丹五山《ざん》の僧の口おそろしき《*》
今日の身に我をさそひし中《なか》の姉小《こ》町《まち》のはてを祈れと去《い》にぬ
秋もろし春みじかしをまどひなく説く子ありなば我れ道きかむ
さそひ入れてさらばと我手はらひます御《み》衣《けし》のにほひ闇《やみ》やはらかき
病みてこもる山の御堂に春くれぬ今《け》日《ふ》文ながき絵筆とる君
河ぞひの門《かど》小雨ふる柳はら二人《ふたり》の一人《ひとり》めす馬しろき
歌は斯《か》くよ血ぞゆらぎしと語る友に笑まひを見せしさびしき思
とおもへばぞ垣をこえたる山ひつじとおもへばぞの花よわりなの《*》
庭下駄に水をあやぶむ花あやめ鋏《はさみ》にたらぬ力をわびぬ
柳ぬれし今《け》朝《さ》門《かど》すぐる文づかひ青《あを》貝《がひ》ずりのその箱ほそき
『いまさらにそは春せまき御胸なり』われ眼をとぢて御手にすがりぬ
その友はもだえのはてに歌を見ぬわれを召す神きぬ薄黒き
そのなさけかけますな君罪の子が狂ひのはてを見むと云ひたまへ
いさめますか道ときますかさとしますか宿世のよそに血を召しませな
もろかりしはかなかりしと春のうた焚《た》くにこの子の血ぞあまり若き
夏やせの我やねたみの二十《はたち》妻《づま》里《さと》居《ゐ》の夏に京を説く君
こもり居《ゐ》に集《しふ》の歌ぬくねたみ妻五月《さつき》のやどの二人《ふたり》うつくしき《*》
舞 姫
人に侍る大《おほ》堰《ゐ》の水のおばしまにわかきうれひの袂の長き
くれなゐの扇に惜しき涙なりき嵯峨のみぢか夜暁《あけ》寒かりし
朝を細き雨に小《こ》鼓《つづみ》おほひゆくだんだら染の袖ながき君
人にそひて今《け》日《ふ》京の子の歌をきく祇《ぎ》園《をん》清《きよ》水《みづ》春の山まろき
くれなゐの襟にはさめる舞《まひ》扇《あふぎ》酔のすさびのあととめられな
桃われの前髪ゆへるくみ紐《ひも》やときいろなるがことたらぬかな
浅黄地に扇ながしの都《みやこ》染《ぞめ》九尺のしごき袖よりも長き《*》
四条橋《ばし》おしろいあつき舞姫のぬかささやかに撲《う》つ夕あられ《*》
さしかざす小《を》傘《がさ》に紅き揚《あげ》羽《は》蝶《てふ》小《こ》褄《づま》とる手に雪ちりかかる
舞姫のかりね姿ようつくしき朝京《きやう》くだる春の川舟
紅梅に金糸のぬひの菊づくし五枚かさねし襟なつかしき
舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻《わた》廊《どの》
まこと人を打たれむものかふりあげし袂このまま夜をなに舞はむ
三たび四たびおなじしらべの京の四季おとどの君をつらしと思ひぬ
あでびとの御《み》膝《ひざ》へおぞやおとしけり行幸《みゆき》源《げん》氏《じ》の巻《まき》絵《ゑ》の小《を》櫛《ぐし*》
しろがねの舞の花櫛おもくしてかへす袂のままならぬかな
四とせまへ鼓うつ手にそそがせし涙のぬしに逢はれむ我か
おほづつみ抱《かか》へかねたるその頃よ美《よ》き衣《きぬ》きるをうれしと思ひし《*》
われなれぬ千鳥なく夜の川かぜに鼓《つづみ》拍《びやう》子《し》をとりて行くまで《*》
いもうとの琴には惜しきおぼろ夜よ京の子こひし鼓のひと手
よそほひし京の子すゑて絹のべて絵の具とく夜を春の雨ふる
そのなさけ今日舞《まひ》姫《ひめ》に強《し》ひますか西の秀《す》才《さい》が眉よやつれし
春 思
いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春
春みじかし何に不《ふ》滅《めつ》の命ぞとちからある乳《ち》を手にさぐらせぬ
夜《よ》の室《むろ》に絵の具かぎよる懸《け》想《さう》の子太古の神に春似たらずや
そのはてにのこるは何と問ふな説くな友よ歌あれ終《つひ》の十字架
わかき子が胸の小琴の音《ね》を知るや旅ねの君よたまくらかさむ
松かげにまたも相見る君とわれゑにしの神をにくしとおぼすな《*》
きのふをば千とせの前の世とも思ひ御手なほ肩に有りとも思ふ
歌は君酔ひのすさびと墨ひかばさても消ゆべしさても消《け》ぬべし
神よとはにわかきまどひのあやまちとこの子の悔ゆる歌ききますな
湯あがりを御《み》風《かぜ》めすなのわが上《うは》衣《ぎ》ゑんじむらさき人うつくしき
さればとておもにうすぎぬかつぎなれず春ゆるしませ中《なか》の小屏風《*》
しら綾に鬢の香しみし夜《よ》着《ぎ》の襟そむるに歌のなきにしもあらず
夕ぐれの霧のまがひもさとしなりき消えしともしび神うつくしき
もゆる口になにを含まむぬれといひし人のをゆびの血は涸《か》れはてぬ
人の子の恋をもとむる唇に毒ある蜜をわれぬらむ願ひ
ここに三とせ人の名を見ずその詩よます過すはよわきよわき心なり《*》
梅の渓の靄《もや》くれなゐの朝すがた山うつくしき我れうつくしき
ぬしや誰れねぶの木かげの釣《つり》床《どこ》の網《あみ》のめもるる水色のきぬ《*》
歌に声のうつくしかりし旅人の行手の村の桃しろかれな《*》
朝の雨につばさしめりし鶯を打たむの袖のさだすぎし君《*》
御手づからの水にうがひしそれよ朝かりし紅《べに》筆《ふで》歌かきてやまむ
春《はる》寒《さむ》のふた日を京の山ごもり梅にふさはぬわが髪の乱れ《*》
歌筆を紅《べに》にかりたる尖《さき》凍《い》てぬ西のみやこの春さむき朝
春の宵をちひさく撞《つ》きて鐘を下りぬ二十七段《だん》堂のきざはし《*》
手をひたし水は昔にかはらずとさけぶ子の恋われあやぶみぬ
病むわれにその子五つのをとこなりつたなの笛をあはれと聞く夜《*》
とおもひてぬひし春着の袖うらにうらみの歌は書かさせますな
かくて果つる我世さびしと泣くは誰《た》ぞしろ桔《き》梗《きやう》さく伽《が》藍《らん》のうらに
人とわれおなじ十九のおもかげをうつせし水よ石津川の流れ
卯の衣を小《を》傘《がさ》にそへて褄《つま》とりて五月雨わぶる村はづれかな《*》
大《おほ》御《み》油《あぶら》ひひなの殿《との》にまゐらするわが前髪に桃の花ちる《*》
夏花に多くの恋をゆるせしを神悔い泣くか枯野ふく風
道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る
魔に向ふつるぎの束《つか》をにぎるには細き五つの御《み》指《ゆび》と吸ひぬ
消えむものか歌よむ人の夢とそはそは夢ならむさて消えむものか
恋と云はじそのまぼろしのあまき夢詩《し》人《じん》もありき画だくみもありき《*》
君さけぶ道のひかりの遠《をち》を見ずやおなじ紅《あけ》なる靄《もや》たちのぼる
かたちの子春の子血の子ほのほの子いまを自在の翅《はね》なからずや
ふとそれより花に色なき春となりぬ疑ひの神まどはしの神
うしや我れさむるさだめの夢を永《と》久《は》にさめなと祈る人の子におちぬ
わかき子が髪のしづくの草に凝りて蝶とうまれしここ春の国
結《けち》願《ぐわん》のゆふべの雨に花ぞ黒き五尺こちたき髪かるうなりぬ《*》
罪おほき男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ
そとぬけてその靄《もや》おちて人を見ず夕の鐘のかたへさびしき
春の小川うれしの夢に人遠き朝を絵の具の紅き流さむ
もろき虹の七いろ恋ふるちさき者よめでたからずや魔《ま》神《がみ》の翼《つばさ》
酔に泣くをとめに見ませ春の神男の舌のなにかするどき
その酒の濃きあぢはひを歌ふべき身なり君なり春のおもひ子
花にそむきダビデの歌を誦せむにはあまりに若き我身とぞ思ふ《*》
みかへりのそれはた更につらかりき闇におぼめく山吹垣根
ゆく水に柳に春ぞなつかしぎ思はれ人に外ならぬ我れ《*》
その夜かの夜よわきためいきせまりし夜琴にかぞふる三とせは長き
きけな神恋はすみれの紫にゆふべの春の讚《さん》嘆《たん》のこゑ
病みませるうなじに繊《ほそ》きかひな捲《ま》きて熱にかわける御《み》口《くち》を吸はむ
天の川そひねの床のとばりごしに星のわかれをすかし見るかな
染めてよと君がみもとへおくりやりし扇かへらず風秋《あき》となりぬ
たまはりしうす紫の名なし草うすきゆかりを嘆きつつ死なむ
うき身朝をはなれがたなの細《ほそ》柱《ばしら》たまはる梅の歌ことたらぬ
さおぼさずや宵の火かげの長き歌かたみに詞あまり多かりき
その歌を誦《ず》します声にさめし朝なでよの櫛の人はづかしき
明《あ》日《す》を思ひ明日の今おもひ宿の戸に倚る子やよわき梅暮れそめぬ
金《こん》色《じき》の翅《はね》あるわらは躑躅《つつじ》くはへ小《を》舟《ぶね》こぎくるうつくしき川《*》
月こよひいたみの眉はてらさざるに琵琶だく人の年とひますな
恋をわれもろしと知りぬ別れかねおさへし袂風の吹きし時
星の世のむくのしらぎぬかばかりに染めしは誰のとがとおぼすぞ
わかき子のこがれよりしは斧のにほひ美《み》妙《めう》の御《み》相《さう》けふ身にしみぬ《*》
清し高しさはいへさびし白《しろ》銀《がね》のしろきほのほと人の集《しふ》見し《*》
(酔茗の君の詩集に)
雁《かり》よそよわがさびしきは南なりのこりの恋のよしなき朝《あさ》夕《ゆふ*》
来し秋の何に似たるのわが命せましちひさし萩よ紫苑よ
柳あをき堤にいつか立つや我れ水はさばかり流とからず
幸《さち》おはせ羽やはらかき鳩とらへ罪ただしたる高き君たち
打ちますにしろがねの鞭うつくしき愚かよ泣くか名にうとき羊《ひつじ》
誰に似むのおもひ問はれし春ひねもすやは肌もゆる血のけに泣きぬ
庫《く》裏《り》の藤に春ゆく宵のものぐるひ御《み》経《きやう》のいのちうつつをかしき
春の虹ねりのくけ紐たぐります羞《はぢろ》ひ神《がみ》の暁《あけ》のかをりよ
室《むろ》の神に御《み》肩《かた》かけつつひれふしぬゑんじなればの宵の一《ひと》襲《かさね》
天《あめ》の才《さい》ここににほひの美しき春をゆふべに集《しふ》ゆるさずや
消えて凝《こ》りて石と成らむの白《しろ》桔《ぎ》梗《きやう》秋の野《の》生《おひ》の趣《しゆ》味《み》さて問ふな
歌の手に葡萄をぬすむ子の髪のやはらかいかな虹のあさあけ
そと秘めし春のゆふべのちさき夢はぐれさせつる十三絃よ
みだれ髪 拾遺
明治三十二年八月より 三十四年八月まで
明治三十二年
よしあし草詠草《*》
里《さと》川《かは》の清き調《しらべ》をたえずききてしづかに眠る塚の主《ぬし》やたれ
折 に
うら若き読《ど》経《きやう》の声のきこゆなり一もと桜月に散るいほ
七 夕
今宵こそハイネと二人わがぬると友いひこしぬ星《ほし》合《あひ》の夜に
折 に
合《ね》歓《む》の木の小暗き奥の青《あを》簾《すだれ》琴ひく人の影すぎて見ゆ
折 に
うき人を月にはさすが待たれけん伽《きや》羅《ら》の香残るおばしまのあたり
恋の歌の中に
あだにかく黒髪おつと封じこしぬたけにあまれる玉《たま》章《づさ》の裡に
明治三十三年
新星会《*》詠草
白 梅
百《もも》敷《しき》の大宮守る衛《ゑ》士《じ》が袖にこぼれて匂ふ白梅の花
山門に白椿咲くししが谷談合渓に鶯の啼く《*》
春や昔の《*》
すま琴をかかる折々かなでてしなき人遠き春の夜の月《*》
春 夕
手すさびの琴の緒《を》きれて此夕誰としもなく人うらめしき
春 風
御幸橋花にと渡る都人の裾《すそ》濃《ご》の衣に春風ぞ吹く
春 水
紅筆の文がら渡る貴《き》船《ぶね》川《がは》春の水上ゆかしくもある哉《*》
春 暁
鳰《にほ》の海月ほのしろきあけ方に花の香送る比《ひ》良《ら》の山風
某の君に
忘れてはうらみにやせんそのかみをさすが恋しとしのばるる哉
春の歌の中に
九重《ここのへ》のみ園の花のおぼろ夜に若き宮人長《ちやう》恨《ごん》歌《か》よむ
君をして楊貴姫桜咲く蔭に舞はせてしがな羽衣の曲を
源氏の絵をみて
花の下に遊子たたずむ朧《おぼろ》月《づき》梅壺わたり琴の音《ね》細し《*》
折 に
愛宕《あたご》山《やま》春ゆく夕清滝の川添茶屋にひとり泣くかな
人も世も恨まじ泣かじの我身なるに紅《も》絹《み》の袖裏何にしめるぞ
わぎもこが頭巾ときつつ忍び音に夢かとぞ思ふと口ずさむかな《*》
松の露やら泪やらと横町を誰やらのうたひゆく声かなしき夕
つらかりし高《たか》師《し》の浜の松原の暁月夜忘らるべしや
小雨ふる夜のまとひに艶なるをのみよみ給ふ人口にそむきて
花といへば椿が赤き高野山伽《が》藍《らん》さびしく春雨ぞふる
廃庭春色
琴の音に忍びよりてし跡かこれ荒れし筑《つい》地《ぢ》に菫《すみれ》花さく《*》
折 に
琴うりて涙せきあへぬ夕暮を散りそめにけり軒の紅梅
後の世恐ろしと思さずやと
ももとせをそれにあやまつ命ありと知らでやさしき歌よむか君《*》
花がたみ《*》
春の歌の中に
ゆく春を山吹さける乳母が宿に絵筆かみつつ送るころかな
小松原なきてむれたつ雉《きじ》の尾を更にいろどる夕日かげかな
すみれ
しろすみれ桜がさねか紅梅か何につつみて君に送らむ
折にふれて
肩あげをとりて大人になりぬると告げやる文のはづかしきかな
世のために君なく涙たもともてぬぐひまつらん時はいつぞや
春の野の小草になるる蝶見ても涙さしぐむ我身なりけり
小 扇《*》
さゆりさく小草が中《なか》に君待てば野末にほひて虹あらはれぬ
木《こ》下《した》闇《やみ》わか葉の露か身にしみてしづくかゝりぬ二人組む手に《*》
文にまきて紅きリボンを送りきぬ逢はで二とせねびにたる身に
ものかきて君がたまひし薄《うす》葉《えふ》にあなはしたなし口紅のあと
露 草《*》
わか草にしばしは憩《いこ》へあたらしきこの恋塚のぬしを語らむ
京 扇《*》
夏の野を絵にする君が肩によりひともとさける姫百合の花
夕野ゆき折らで帰りし姫百合のなよび姿を夢に見し哉
白百合のちさきが一つゆく水に流れていにぬ物もいはずして
朝顔を絵絹にすりて袖ひきて口とき君が歌を乞ふかな
新星会近詠《*》
殊更に淋しき小路人のもとへ急ぐ袂《たもと》をひくやからたち
君のせて宇治橋渡る若駒のたてがみ払ふ朝の風かな
たつ鷺《さぎ》の上羽の色を見ずや君あくた流るる濁江《にごりえ》にして
しどけなくなりにけるかな吾日記墨にひと日をぬりけしてより
夏草の中をながるる忘れ水に小《を》櫛《ぐし》ぬらしてほつれ毛をなづ《*》
衣《きぬ》更て田のくろづたひくる君を椎《しひ》の若葉のはざまより見る《*》
けさ咲きし一重のけしの花のもとにくるふにはとりわりなくもあるかな
裏町や行方も見えぬ蚊《か》遣《やり》火《び》の煙の中に三味の音ぞする
雁《がん》来《らい》紅《かう*》
血潮みななさけに燃ゆるわかき子に狂ひ死ねよとたまふ御歌か
知らずとて罪にやはあらぬ恋がたり君に病む子のかたはらにして
この日頃あやしきくせのつきそめてあらぬ反《ほ》古《ご》にも胸さわぐかな
細筆に我手もちそへ書かせましぬ遂げなば斯《か》くと羞しき名を
つよきつよき君にならひて人の世に朽つる我名をほほゑみて見む
人なかにたまはる御歌人や見ると小扇もちておほひぬるかな
男つよし別れの今をうさもなげにざれ歌おほき君にもあるかな
かならずぞ別れの今の口つけの紅のかをりをいつまでも君
君が才をあまり妬《ねた》しと思ひながら待たるる心神ならで知らじ
(人々と鉄幹の君のみやど《*》に集ひけるとき山川登美子の君のおくれて来給ひければ《*》)
いくたびも家相に悪しとききながらぬきがてにするくね柳かな
新星会詠草《*》
たまひしをはさみおきける紅のはなあらぬ匂ひの歌につきたる
ひとしれずぬすみかへりし歌反古にわかきおもひを泣く夕かな
ワイマルの野にさく百合に姿かりきみがみむねにふれてくだけん
高師の浜《*》
君がふみひとめわびしみ中のまの衣《い》桁《かう》のきぬのかげによりてよむ
清 怨《*》
あたらしく湧く我胸のましみづにふるき愁《うれひ》を洗ひませな君
おにあざみ摘みて前歯にかみくだきにくき東の空ながめやる
人の世ぞ何をなげくとつよく云へど君も少女子《をとめご》われも少女子
(登美子の君を訪ひて)
夕庭の石にまどろむ秋の蝶のつばさうるほすしら露もがな
さもなきにほゝゑみ見せて口にする金《きん》の扇をいやしと思ひぬ
たゞならぬ君がなさけを聞くものか火焔《ほのほ》のなかに今死なむ時
おとうとにわが筆とらす返し文かきたき歌のなきにしもからず《*》
つよくつよくかくて四とせをすぐしけり十とせ二十とせなどたゆむべき
姉ぎみのとがめわびしくはなむけに贈りわづらふ紫りぼん
女郎花《をみなへし》はかなく折れし夕ぐれを桐のおち葉に恋せじと書く
それと知らば袂とらへて人の手の月の歌反古うばふべかりき
片がはは紫《むらさき》繻子《じゆす》のふくさ帯べにの紅葉のなつかしきかな《*》
わが歌のなかの一つに墨ひきてあらぬうらみを負ひにけるかな
まだ知らぬ友の名よびて浜寺の松に泣きし子君しりますか
わが歌に君が筆乞ひ君が歌を小琴にのせん月清きころ《*》
(以上二首中浜糸子の君に)
恋としてかたみのなかを歌ひなばものぐるほしと君おぼさむか
吾妻葡萄《*》
新《にひ》星《ぼし》のその世ながらの君もあるにわが鬢《びん》ぐきよなど色あせし
ひたすらにその日その人なつかしみ歌ならぬ子を許させませな
鳥籠をしづえにかけし桃か是れ君がたけよりやゝ高きかな
その人のかたみと語るすみれぐさ君がすさびのあまり優しき
ふたりして祈るをよそにすみれぐさ紫ならぬ花さかばいかに
新星会詠草《*》
かきそへしちひさき文字をしるや君その小《こ》扇《あふぎ》のなつかしき名に
つまむとてぶどうにのべし妹のかひなまばゆき夕やけの雲《*》
白百合を君手にとりて浪あらき磯にたたすとよべ夢に見し
君とはぬこのゆふぐれをひとむらの紫《し》苑《をん》の花に秋の雨ふる
ことさらにつよき情はよそほへど甲斐なきものよ乙女子のむね
秋風にむねいたみなばつげこせといひしそのひと梅渓の君《*》
小町踊《*》
夕野急ぐ若き旅人わがかみにかざさせ行きぬしろ百合のはな
忍び音に夏のたのしさ歌ふかな笛吹く君がかたはらにして
君が庭の葡萄のかげに身をよせて若きなやみを泣くゆふべかな
ほつれ髪そむくる顔にみだれよるよ君が手にせる扇のかぜに
なでし子を君ことさらに床夏とかき来しこゝろ知るよしもなし
吾を置いてとばりかゞげて外にいでて星のわかれを歌ひます君《*》
さは言へど夜《よ》半《は》の火《ほ》影《かげ》のそゞろ書にひとの手ならふ吾身なりけり
君がため祝ひの夜半に高砂を舞はんとかつて云ひし身にして
東都の某詩人の君《*》のすずしき消息に封じ
こめましたる白萩の花に涙せきあへずて
清かりしむかしのおもひ忍ぶかな罪の子ひとりしら萩を見て
新星会近詠《*》
白がさね上は水色をしどりの金糸のぬひの美しき哉
恋のために人のしづみしふちの水に花束ながしほほゑむ夕
素《そ》蛾《が*》
秋雨のおとかと琴の手をとどめ細き火かげに君を見しかな
おもひなくゑまふわが身と見るや君ものみなかかる秋の夕を
ほこりかに笑めるむかしのすがた絵を裂きてやぶりて憂き思ひあり
なき人のたくみになりし観音の御《み》像《ざう》の前に菊たてまつる
うなじをばあつきかひなにまかせしは夢なりけるよ松おひし処
前髪のみだれし額《ぬか》をまかせたるその夜の御胸ああ熱かりし
おつるなみだ友よあやしむことなかれうつつに似たる恋物語
ロセッチの詩にのみなれし若き叔母にかたれとせむる舌切雀《*》
組みかはすかたみの歌をまもる神の赤き縄もちて訪はば如何にせむ《*》
さもあらぬ赤き縄もつ神ならば君が歌だきて門《かど》より逐《お》はむ
(以上二首某の君へ返し)
君により見ぬ恋うたふ若き子をゆるせゆるさせ道をよそにして
むねのひゞき聞けとはさすが云ひかねてまたせしほどの君が歌みる
濃く深きわが帯《おび》上《あげ》の紅《くれなゐ》をその夜のやみは紫と見せし
紫とそれよ彼の夜はやみなりき今はた知らむ歌のこるはしに
紫かくれなゐかあらず情《なさけ》もゆる血しほを見する帯上の色
裂きし指の血潮にじみて紫と御《み》歌《うた》にのこる帯上のはし
男とはおそろしからぬものゝ名と云ひしきのふのわれなつかしき
新星会詠草《*》
けやすきをいとはむいまか虹となりて君のひとみにうつりてやまむ
たゞきよきわれらふたりとあるみうたいだきてゆかむ星にかへるとき
姉君のその日めしますうちかけの錦のつまのむつかしきかな
わが恋をみちびくほしとゆびさして君さゝやきし浜寺の夕
わすれてもしろきさ百合の花ならでみ口ふきそとわかれにし君
世のつねに似たる涙はみせまじとおもわそむけぬ星かげにして
新詩社詠草《*》
絵すがたに添へて秘め置く花もがなと朝あけ森をさまよひぬ吾
色白き石を河原に得し日より胸ゆらぐよと恋をいつはる
八千草の色よき花によそはれて柩《ひつぎ》にねむる友うらやまし
恋人のやさしき胸に恁りそひて笑みつつ逝《ゆ》きし君は幸《さち》あり
夕ぐれを忍び音《ね》に泣く女の身みだれごこちに唯堪へかぬる
白百合を産《うぶ》衣《ぎ》に染めて送らせぬ泣きて別れしむかしの人に
この後は妹《いもと》とだにと書きしふみ裂きて捨てけり血しほ涌《わ》く手に
鬢《びん》ごしに君が片《かた》頬《ほ》の触れし時よむしろけものにならんと思ひし
星くづ《*》
うら若き胸あふれ出づる息の香を紅のかをりと君きくらむか
たまはりし君が歌のみ口なれておもふ返しもならぬころ哉
この歌になほもなげかばあきたらぬ女ごころを卑しと思ひぬ
星うたを口ずさみつゝ広庭に花束つくる新《しん》発《ぼ》意《ち》の君《*》
新詩社詠草《*》
その朝よ知らずとすねて山をくだり池の緋《ひ》鯉《ごひ》に椎の実なげし
新星会詠草《*》
與謝野様うたひ給へとばちとりて火影にゑみしひとの名しらず
人はあれど二条の后《きさき》こゝに見ず海のかなたよ君がすむくに《*》
つよきとはつらきにあらぬ詞《ことば》ぞとをしへ給ひし君にやはあらぬ
この日ごろ夢おほかりしおばしまに身はよりながら君もありながら
うれしかりし情はむねに人まへを恋かこつうた君をうらむ歌
新詩社詠草《*》
はなむけの歌にやさしき情見せて別れむほどの恋ならば君
かしまさじ吾が手まくらに人を忍ぶ涙かゝらばつめたくや有らむ
この月のやがて円《まど》かにかへらんは百三十里君恋ふる夜か
わが兄の初子は白く美しと日記にかきて百合をはさみぬ
このたびを頼むおもひに弱かりし有りし別れに似ずとおぼすな
若き身のまださめやらず夏の夢小百合白百合あともなき世に
笑ふなよ君詩になやむ夕ぐれをなぐさむとする八《や》雲《くも》小《を》琴《ごと》ぞ
濁りたる恋かあらずか罪の子も咽《むせ》ぶ涙はくれなゐにして
星くづ《*》
唇に涙をかみて読む文のはしひるがへす秋の風かな
こがれわび今日まち得たる玉《たま》章《づさ》よたまもけぬべき薄《うす》墨《ずみ》の色
歌一つ只さりげなき文かきて人前つくる胸さわぐかな
明治三十四年
紫《*》
さば君も琴の絃《いと》きれな画《ゑ》筆《ふで》をれな泣けな狂へなのろへな打てな
おぼし出づる春もおはすや二人して川に小橋につけし優し名
なかば身を琴にもたせてよむは文かねたき姿よ誰がおもひ人
あへて問ふ恋とはそれに似たる味か林檎もつ君年五つ上
千とせ後《のち》にまた人の世に生れきてのこれる御名に逢はむ我がねがひ
すねてすねてみことばきかずよそを向き椎の実ひろひ野菊つみし朝
水にうけし歌を手づからすくふとき恋なきわが世さびしと思ひぬ
わが恋はある夜のくしきまぼろしに白馬むちうち雲に入りし君
紅き星ひとつふえたる夕より君がなさけを解くべくなりぬ
細みちをわれにゆづりて南せし人の手の花紫なりき
わがために琴うた賦《ふ》すと竹によりひそませまする眉うつくしき
君が詩にとはのいのちをのこす身は泣かじかこたじ人の世の情《なさけ》
ふりにたる都ごのみの染小袖ぬぎすてがたき我に思あり
衣《きぬ》筥《ばこ》のはだぎをさぐる指にふれし襟は紫えやは忘るる
前をよぎる嫁《とつ》ぎ車の花のむれただなにとなく面《おもて》掩《おほ》ひぬ
誰かよくこころ解かむと相笑みぬ君がかきし絵わが染めし歌
ふけてなほ筆とる君がうしろよりかけんしろにと袖ぬひかへぬ《*》
かたれ君ただ中指にかがやくぞ玉の環《わ》のあとねたましきかな
岩におふる梅はつめたし行く水に君はながるるしら桃の花《*》
(のぶ子の君に)
いく百《もも》千《ち》よろこびの歌よまばよき其ぬしえたるしら梅の花《*》
(まさ子の君に)
おもふたびにわかき血さわぐ君が御名よ春ゆく宵のしら藤の花
さはいへどその紫もあだならずやさしき歌にそむかせますな《*》
(この二首しら藤の君に)
くれなゐにみながら染めん歌あれな小百合しら藤しら桃の花
白とこたへ神におほひし梅ひと枝ふかくは色を君とひますな《*》
(この二首窪田の君に)
大小我我《*》
かたりますは後ののぞみか来しかたか熱海の三月われまどひあり
矢合せ《*》
罪の子はひとりならずとかき抱き薄き火かげに君さゝやきし
其まゝにすてゝいにたる都人の細き画筆にしたしむこの子
袖ひきて今一度とおなじ歌をくりかへしきく薄月夜かな
美しくもろき望ににたるよと夕雲見つゝといきつくおもひ
紅梅に薄藤いろをかさねたるきぬのはづれぞゆかしと思ひぬ
岩の上《へ》に恋歌えむと立つ吾の裾にまつはる紅《くれなゐ》の蛇
おち椿《*》
けふと云へど涙のいろにかはりあらじわかさの人よ鎌倉の人よ《*》
いつの春か紅梅さける京の宿にわかき師の君うつくしと見し
色くさの恋はようなき身なりけりときぬにかけるを誰が手と問ふな
うなじだく人つらからぬこのゆふべ星はちひさき空のものなり
四つの袖に紅梅かをる京の山ふみがら塚をつかむと云ひし
西のかたへ人の名のろひはなちたる鳩おもやせて帰りこし夕
ことば皆いまのいたみのそれにあはずむしるわが髪いつみどりなりし
恋うせぬ空にてる日のあるか今わが恋うせぬ恋うしなひぬ
よぶ名きゝて鸚《あう》鵡《む》のぬかにゆびをかけうたむとせしも人恨むこゝろ
湖《みづ》の神ゆるす口びるつめたからばその時人はわれおもひ出でむ
少女《をとめ》ふたりおもへば恋よ恋なりき恋とつたへむ白百合の花《*》
君がかくすみれをかしと肩ごしにみ手もちそへてさてためらひぬ
をしへ給へ虹の七いろうつくしき恋とはとはに見てあるものか
詩にうみぬ恋にうみぬと云ひし君われにあらずやあたらしき歌
雨の日をたてしままなる琴のどうへ二つそめたる紅梅の歌
恋を知らでわれ美を神にもとめにき君にけふ見る天の美地の美
とことははわするゝまでをさすとききしそれよからずや御歌に酔はむ
うき人のかどにたつ梅夕さめのそぼふるなかにほの白かりし
こもりゐのひと日は嵯峨の人の上すくせをかしとゑみてきく今
しらずわれいま君なかばかきませしその名のぬしに歌とひ給へ
人の子の紅《べに》によごれし口に入るか網のしら魚さだめかなしき
それよそはさぎりの中の君なりきいみじうわれの今を泣きませし
三とせ前のわが身なりせばわが身ならばそのみこゝろよそのみなさけよ
琴だきて三とせを京の扇をりわが世の恋のさておもしろき
梶《かぢ》の葉の君へとのみのうす墨のざれがきにくゝぬしなつかしき
春さむき宮のとびらに身をよせて筑紫の君がけさの歌ずす
村はづれひもゝ花さく板橋のはしのたもとを右へわかれぬ
山にねてしら梅しろき朝君に星となる世をさびしと泣きぬ
こゝろぼそき夕みもとへおくりけりふりしさし櫛《ぐし》きぬにつゝみて
四とせ泣かず四とせを笑まぬこのおもひ恋と云ふにはあまりさびしき
落 紅《*》
きぬ黒き神のその名を死といへり都の春の風つらきつらき
そのことば聴くに堪へずとわかき耳を掩《おほ》ふにあまり人のやさしき
歌ふではさても折るべし智慧の神いまだ勝ち得し春とおぼすな
朱 絃《*》
梅の花に渓《たに》へおりますうしろ影ほそき御肩に春の日よわき
敷居ごしに筆とりまつる朝の歌草《さう》のみだれよなめしかしこし
とまではこれ梅にしのびし情なりわかれの御袖眼にやはらかき《*》
さばかりの清き御胸にしのび入りし罪の子この子こらしめたまへ
あひおもふ二人はとはの春の子よ寒きみそらの星いま説くな
紀伊の海を東へわしる黒じほに得たるおもひの名にかりし恋《*》
そよ菫しろきは人のなやみ知らむ春やむ神の胸にさく花《*》
(玉野花子の君にその花にそへて)
埋草二《*》
その宵の神のみをしへ人のうた琴は裂くとも恋はげしかれ
二十とせのうつつにかへしまぼろしよその磯松の若葉のかざし
その日入りし四つのわだちの跡さむき山のしら梅宿みえずなりぬ
御手御手にしひても白き花もたせ一の兄上なかの兄と云はば如何に
白百合《*》
こよひ誰れ枯れ木に似たる人の指にちかひあたへて祝《ほ》ぎ歌うくる
埋草三《*》
ほほゑみて見むと云ひしは是なりき悔いじ恨みじ無き名いとはじ
白鴿《しろばと*》
花のせてながれゆく水ささやきぬ「君むらさきの袖をつくへる」
それならば朱《あけ》にてあらむ紫に恨の色は問ひますな君
金《きん》翅《し*》
きけな春を真白の鳩《われ》の羽のうらにみだれし文字のなからずや詩《き》人《み》
はづす柱《ぢ》にもしわが指のわななかば春ゆく宵のさだめ知り給へ
枕それし小夜のひびきの寒き閨《ねや》よさめしは今かあらず春の夢
画《ゑ》師《し》の君やみのさだめの神のきぬの新《にひ》紫《むらさき》を知りますや否《いな》
かならずの聞かむの声は何なりし百合さく園に罪わかうなりぬ
めぐる血潮さるはゆらぎのなつかしきさしもこの歌いだきてさあれ
春のゆふべ夢に似たりは雲か水か指します南あらずと思ひぬ
唇に子の得む罪を知るや神あをき覆《い》盆《ち》子《ご》に乳そそがざれ
と云ひしそれはやさしの一人《ひとり》なりかざしかざしのしら花きよき
花とは何もろしとは何ちるとは何秀でたる子に絃《いと》いと低き
限りなきいみじう清き美しき見しは覚えはわれかを惑《まど》ふ
名残なきはあけ紫の色のさがぞ三人《みたり》に泣きし人の申しき
夕月に人とつれだつ川づつみ野薔薇に白きちか道避けぬ
次の間の衣《い》桁《かう》すべりし衣《きぬ》のおと春のひびきと人筆に笑む
山吹にあらはなるよと出でがての出でがての袖をただにとどめぬ
御《み》手《て》のきぬにながれ藻《も》の花からまりぬ朝うつくしき水性《みづしやう》の君
血につつむ胸さば何のひめどころふくらみ袂けふを咎《とが》むな
黒 髪《*》
ねたみもつ女神はばかる黒髪のかひなにかろき夕の人よ
文より
あひやどの人近江路へ立ちし宵をおばしまによる春の神の子《*》
舟なるは恋の二人とさすゆびのつまべにうすきはづかしの朝《*》
おもひたちつとばかりつよく云ひし夜の夢の月ヶ瀬朝《あした》を泣きぬ《*》
注釈
みだれ髪
臙脂紫
*夜の帳に…の歌 「夜の帳に」は、夜のとばりの陰にの意。また「星の今を」は、星(の子)が今は、の事。すなわち、夜の帳の陰で睦語を交した星の子が、下界に降ろされた今は、かなわぬ恋に煩悶して空しく鬢をほつれさせることよ、というもの。『晶子短歌全集』(大正八年十月刊)では「夜の帳にささめきあまき星も居ん下界の人は物をこそ思へ」と改作、天上と下界とを対比させたが、これは作者が分り良いように改作したのである。明治三十三年当時、與謝野鉄幹を中心とする新詩社同人達は、自我の目覚めと解放とに先鞭をつけようとして、自らを「星」「星の子」と称していた。雑誌「明星」の名はこれに由来すると思われる。この歌の「星」の意味も、こうした考えを踏まえて解釈されねばならない。
*紫にもみうら…の歌 「もみうら」は紅色の無地絹を使った裏地。それが宵闇に紫に見えること。「宵の春の神」は、春の宵の神の倒置的用法で春の宵(を司《つかさど》る神)の意。集中頻出する「神」という表現は、晶子のアニミズムの現れである。
*紺青を…の歌 「やまぶきがさね」は表が薄朽葉、裏が黄色の襲《かさね》のこと。ここは山吹襲の良く似合う友の意で、春の連想から山吹を用いた。作者の平安朝趣味をうかがわせる。「ねびぬ」は老成したこと。三版ではこの歌の代りに「紀の海をひがしへわしる黒潮に得たるおもひの名に仮りし恋」を収録している。
*まゐる酒に…の歌 「女はらから」は、あでやかな牡丹に匹敵する自分の女友だち。「牡丹に名なき」は牡丹にふさわしい銘がないのは残念ではありませんか、の意。
*清水へ…の歌 「桜月夜」は桜咲く月夜のことで、晶子の造語である。
*許したまへ…の歌 「あらずばこその今のわが身」は、居りさえしなければむしろ良かろう今の吾が身、の意。「あらずばこそ」の後に「よけれ」を補って解釈する。
*たまくらに…の歌 「たまくら」は、手枕、腕まくらのこと。作者自注に「転《うたた》寝《ね》の夢の中へ琴の音が聞えたと思つて目を覚ますと、一人寝てゐる自分の手枕に触れて、今、鬢の毛が一筋ピンと切れたのであつた。艶な趣きの春の夜である」(『歌の作りやう』)とある。
*御相いとど…の歌 「廬遮那仏」は毘《び》廬《る》遮《しや》那《な》仏《ぶつ》の略。大日如来のこと。ここは鎌倉の大仏をさす。後の「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」(『恋衣』明治三十八年一月刊)の歌は、この「御相いとど…」を下敷にしていると思われる。ただし、鎌倉の大仏は釈迦牟尼ではない。
*みだれごこち…の歌 「百合ふむ神」は、花を求める神。
*旅のやど…の歌 「いみじ」は、いとしいの意。
*誰ぞ夕…の歌 「誰ぞ」は「この子」にかかる。悩めるこの子は誰であるか、占っておくれ、の意。「誰ぞ」と冒頭に置いて意味を強めた。
*狂ひの子…の歌 「百三十里」は晶子の居る堺から鉄幹の住いする東京まで、約五二〇キロメートルの距離をさす。東京―大阪間が約百二十里程である。
*ふしませと…の歌 「ふしませ」は、おやすみなさいませ、の意。「かつぎぬ」は「かづきぬ」の誤りで、三版では訂正されている。身に纏《まと》うて移り香を懐しんだこと。
*嵯峨の君を…の歌 「嵯峨の君」は、嵯峨で一夜を共にした君、「歌に仮せな」は、歌材にしてみたい、の意。また、「朝のすさび」は、朝のとりとめのないすさびごと、の意。「すねし鏡のわが夏姿」は、鏡に写ったすねしわが夏姿、の倒置用法。
*ふさひ知らぬ…の歌 「ふさひ知らぬ」は、似つかわしくない、の意。「しら萩」にかかる。また「新《にひ》婦《びと》」は、新たなる愛人のこと。情熱的な新しい愛人に清楚な白萩があまり似つかわしくないのを、恋人が苦笑したこと。新婦とは作者自身の客観的表現か。ちなみに、白萩とは、新詩社内における当時の晶子の通り名であった。
*鶯は…の歌 「君が声よ」は「君が夢よ」の誤り。「もどきながら」は、さからい反対しながら、の意。明星三十四年三月号に発表されたこの歌は、同号に載った鉄幹の長詩『春思』の第一連「山の湯の気薫じて/欄《おばしま》に椿おつる頻り/帳《とばり》あげよ/いづこぞ鶯のこゑ」と相呼応する。
*ほととぎす…の歌 「嵯峨へは一里京へ三里」嵐山西北にある清滝は清澄な清滝川に臨み嵯峨へ一里、京へ三里を隔てる山里である。ここでは川のせせらぎと鶯の声とに、夜の明けるのが早く感じられるのである。
*神の背に…の歌 「袖ぞむらさき」は「袖こむらさき」の誤り。「今かたかたの袖こむらさき」とは、恋の神の背に掛かっている上の袖が、垂れた下の袖に向って「一緒になって広い世界を眺《なが》め渡したいとは思いませんか、いま一方の濃《こ》紫《むらさき》の袖のあなた」と、恋の成就を呼びかけたもの。
*とや心…の歌 「とや心」のとやとは、鷹の羽が晩夏に次第に脱落すること。鳥屋。とや心は、その様に気持に張りが無くなってゆく様のたとえと思われる。「小琴の四つの緒のひとつを…」の「琴の緒を切る」とは、中国鐘子期の故事から、知己を失うことをいう。ここは恋人に訣別すること。三版ではこの歌は削除されて無い。代りに「誰かよくこころとかむと相笑みぬ君がかきし画わが染めし歌」が収録されている。
*くれの春…の歌 「今朝山吹に声わかかりし」は、今朝山吹について話していらしたその画師の声が若々しかった、というもの。
*郷人に…の歌 「郷人」は同郷の知人。「花はとのみに」は、花は如何とお尋ねしただけで(隣家のあの方については)それ以上の消息を問うことができませんでした、というもの。『鉄幹歌話』では、郷人を家に出入りの市松、となり家敷の若人を鍵屋の総領武之助と実名をあげてユーモラスに解説している(佐竹籌彦著『全釈みだれ髪研究』による)。
*人にそひて…の歌 「人」は愛人、すなわち、鉄幹をさす。「こもり妻」は人知れぬように匿まわれている妻。「母なる君」は、鉄幹の亡母初枝のこと。明治三十四年一月、晶子は鉄幹と共に鳥辺野(西大谷)の鉄幹の父母の墓に詣でている。これはその折作られた『おち椿』七十九首中の一首である。
*なにとなく…の歌 「花野」は花の咲き乱れている春の野のこと。晶子の造語である。「夕月夜」はゆふづくよと読む(晶子自選歌集『人間往来』のルビによる)。後年『みだれ髪』を厭った作者も、これは愛唱した歌で作者の以下の自注がある。「月明りの美しい宵に、私は草の花の咲き乱れた野へほれぼれと出て来た。なんだか恋人が私を此処で待つて居るやうな楽しい気分で出て来た」(『歌の作りやう』)
*ゆあみして…の歌 「やははだに」は「わがはだに」の誤り。
*売りし琴に…の歌 「逢魔がどき」は、夕闇の迫り来る頃。大禍時が正しい。
*うすものの…の歌 「二尺のたもと」は少女の長いたもとのこと。
*その涙…の歌 「のごふゑにしは持たざりき」は、(その涙を)拭ってさしあげる因縁は(この私は)持っておりませんでした、の意。「ゑにし」は「えにし」が正しい。嫉妬の感情がこめられている。この歌を、晶子が山川登美子に与えた詩「紅情紫恨」と、登美子の返歌「その涙のごひやらむとのたまひしとばかりまでは語り得べきも」に関係のある歌だとする説もある。
*旅の身の…の歌 「徐かに日記の里の名けしぬ」(柳に身を寄せていたあの少女の印象が鮮明だから)旅の日記にしるした里の名は自分には必要ない、そう思って静かに消したというもの。前歌「水十里ゆふべの船を…」をうけて、二首で一篇の詩を形作っている。
*小傘とりて…の歌 「朝の水くむ」は「朝の水くみ」の誤り。「我とこそ」は、自分から進んで、の意。
*長き歌を…の歌 「牡丹にあれ」は、牡丹について佳い歌を詠んで下さい、というもの。「妻となる身の我れぬけ出でし」は、やがては妻となる身の自分は(恋人の作歌の邪魔にならないように)その場を抜け出してきました、の意。
*春三月…の歌 「柱おかぬ琴」は、(三月もの間)気が向かぬため使わずに放置してある琴、の意。柱は琴柱のこと。琴の胴に置いて糸を支えるのに用いる。
*いづこまで…の歌 「翅ある童」とは、キューピッドのこと。ローマ神話の恋愛の神。晶子は『歌の作りやう』の中で次のように述べている。「黄昏の野を行く私の袖を引いて“何処へ帰つて行かうとするのか。此処に楽しい世界があるのに”といつたものがある。翅のある美しい童の神―愛の神である」。恋愛への誘《いざな》いを童話風に描いた歌である。
*さびしさに…の歌 「百二十里」は東京から大阪までの距離、すなわち、晶子と鉄幹との間をへだてる距離のこと。従って、「そぞろ来ぬと云ふ人」は鉄幹をさす。「あらばあらば」と重ねた表現は作者のそぞろな状態をそのまま表わしているかの感がある。『晶子短歌全集』では「さびしさに百二十里をそぞろにも来しと云ふ人あらば如何ならん」と改作している。
*君が歌に…の歌 『晶子短歌全集』では「なにゆゑに涙ながして語りけん浪速の秋の寒かりしかな」と改作している。
*今の我に…の歌 「二十五絃」は、中国の楽器瑟《しつ》のこと。形は琴に似て、もと五十絃だったものを黄帝のとき二十五絃に改めたという。絃ごとに柱を置いて弾く。
蓮の花船
*肩おちて…の歌 「をとめ有心者」は、おとめと有心者(僧)と。また「をとめ」と「有心者」とを同一人とする説もある。
*とき髪を…の歌 「風の西よ」は、風の吹いてゆく西の方角よ、の意。「二尺足らぬ」は「二尺に足らぬ」の誤り。東風の吹いて洗い髪を若枝にからませた西の方角に、遠く二尺に足らぬ虹が美しくかかっている、という遠近の対照を描いた叙景歌。
*われとなく…の歌 「ゑまひ」は笑い、えみのこと。
*人まへを…の歌 晶子『歌の作りやう』に「幾人か人の居る前で、私の袂《たもと》から絹の手毬が滑つて落ちたのを、其人達が何とか云つて調《から》戯《か》つた。私は“知らない”と言つて、素早く其落ちた手毬を拾つて抱ヘながら其人達の前を通つて逃げた。幾人かの人は皆若い男。之は私の小娘の頃の思出である」とある。
*ひとつ篋に…の歌 「ひひな」は男女の内裏雛のこと。
*ゆく春を…の歌 「ねびのよそめ」の「ねび」は「ねぶ」の名詞形で年とっている意。「よそめ」は、はた目(を意識すること)。連れ立って外出する晩春のある日、特に選んで着た意味のある(すなわち、恋人の好む)絹の袷衣が、他人には年不相応にふけたものを着てと言われはしませんか、と連れの人に尋ねたもの。ここの「一人」は連れの相手を指す。
*ぬしいはず…の歌 「ぬしいはず」は「ぬしえらばず」に同じ。誰でも構いません、の意。「とれなの筆」は、とれよ、筆を、の意。「そよ」は強めで「それよ」のこと。「墨足らぬ撫子がさね」は、力足らずに良い歌を作れず思案している撫子がさねを着た乙女よ、というもの。撫子がさねは、表を紅、裏を青に襲《かさ》ねて着ること。この歌は三版では削除され、「木《この》下《した》闇《やみ》わか葉の露か身にしみてしづくかゝりぬふたりくむ手に」が収録されている。
*母なるが…の歌 「枕経」は死者の枕許であげるお経のこと。
*泣かで…の歌 「やは手」は、柔らかい女性の手。「はばき」は脚《きや》絆《はん》のこと。
*小川われ…の歌 「小川われ」とは、小川である私はと、作者が小川になったつもりで詠んだ歌である。
*道たまたま…の歌 「蓮月が庵」は、晩年を京西賀茂の草庵に送った江戸末期の女流歌人太田垣蓮月尼のこと。鉄幹の父礼厳法師とは歌を通じて親交があり、鉄幹の本名寛の名付け親でもあった。三十四年一月、鉄幹・晶子の二人は連れ立って京粟田山に遊んだと思われるが、その時の様子を詠んだ歌七十九首は、「明星」第十一号に総題を「おち椿」として発表された。この「道たまたま…」の歌と、前後各一首「鶯に朝寒からぬ…」「君が前に李青蓮…」はその時の所産である。なお「おち椿」の題は、前歌「鶯に朝寒からぬ京の山おち椿ふむ人むつまじき」によると思われる。
*君が前に…の歌 「李春蓮」は「李青蓮」の誤り。唐の詩人李白のこと。漢詩の素養のある貴方に向って李白を説こうという僭《せん》越《えつ》な気持は自分にはありませんが、この美しい梅花の前で詩を書くにふさわしい良い墨がないことを嘆きなさいますな、という意味。梅は漢詩に多く愛《め》でられる花である。また、鉄幹が幼少から漢詩にすぐれた才能を発揮していた事は自他共に許すところである。
*あるときは…の歌 「あるとき」とは、生前のこと。新潮三十三年十一月に発表のおりは、「亡き友の枕辺にて」と詞《ことば》書《がき》がある。
*春はただ…の歌 「木蓮や花」は「花や木蓮」の強調的倒置法。この場合の木蓮は白木蓮であろう。
*さはいへど…の歌 三版では、この歌は削除されて無い。代りに収録されたのは「百とせをそれにあやまついのちありと知らでやさしき歌よむか君」
*人そぞろ…の歌 「人」は恋人、ここは鉄幹をさす。「芙蓉」とは、鉄幹の二度目の妻林滝野のこと。新詩社内では女性の同人に花の呼び名があった。晶子は白萩、山川登美子は白《しろ》百《ゆ》合《り》、そして林滝野は白芙《ふ》蓉《よう》といわれていた。鉄幹は白芙蓉の花を愛でていたところから、滝野の呼び名も彼がつけたものと思われる。別れてからもなお羽織の肩裏へ芙蓉の文字を書く男に、気もそぞろだと女が嫉妬した歌である。また、鉄幹の歌集『紫』(明治三十四年四月刊)には「人と別れて後」として芙蓉の歌三首があり、これも滝野を歌ったものと判断して支障ない。
*琴の上に…の歌 「宿の昼よ」は、三版・四版では「宿の昼」とある。
*四十八寺…の歌 「四十八寺」は、数多い寺社を漢詩風にいった。「江の北」は、大河の北の方角をさす。「雨雲ひくき」は三・四版および『晶子短歌全集』では「雨雲ながる」と改訂した。なおこの歌を唐の詩人杜牧の七言絶句「江南春」(千里鶯啼緑映紅/水村山郭酒旗風/南朝四百八十寺/多少楼台煙雨中)に着想を得た唐の叙景歌だとする説もある。
*ふりかへり…の歌 「袖だたみ」は着物の背を中にして二つ折りし、袖を合わせてそれを袖つけから折って畳む略式の畳み方。取りあえずの袖だたみでお許し下さいと夕闇に振り返った、というもの。三版では、この歌の代りに「朝顔をゑぎぬにすりて袖ひきて口とき君が歌を乞ふかな」が収録されている。
*まどひなくて…の歌 「下品の仏上品の仏」極楽浄土には仏に九等の階位があり、上・中・下の三品にそれぞれ上生・中生・下生の三等がある。ここは極楽浄土の仏たちのこと。
*奥の室の…の歌 「面まだ若き」は三版では「面わかき人」と改訂してある。
*かしこしと…の歌 「かしこし」は、畏し。おそれ多い、の意。「我とこそ」は自《みずか》ら、自分の力で、「その山坂」とは、鳥辺野の山坂。この歌の発表は既述「おち椿」である。鉄幹と晶子は粟田で再会して結婚の意志を固めると共に鉄幹の両親の墓に詣でてその報告をしたと思われる。七四、一五六、一五七、二一六首などの歌と連作をなすと考えられる。
*鳥辺野は…の歌 「鳥辺野」は京都市東山区の清水寺から西大谷に通じるあたり。鉄幹の母の墓所があることはすでに述べた。注釈「人にそひて…」参照「清水坂に歌はなかりき」清水坂は清水寺西門から産《さん》寧《ねん》坂までの下り坂をさす。恋人の親の墓にはばかって、ここでは恋の歌を交わさなかったというもの。この歌と次の歌「御親まつる…」とは明星三十四年五月に掲載され、同「おち椿」より二月おくれるが同じ時に作られたものと考えてさしつかえあるまい。佐竹籌彦『全釈みだれ髪研究』によれば、この前歌「かしこしといなみていひて…」は往路、「人にそひて…」、「御親まつる墓のしら梅…」、「聖書だく子人の御親の…」(はたち妻)は墓前、この「鳥辺野は…」は帰路の歌としている。
*五月雨に…の歌 「鳥羽殿」は京都市伏見区鳥羽にあった白河・鳥羽両上皇の離宮。城《せい》南《なん》離宮のこと。「いぬゐ」は西北の方角。「おもだか」は、湿地に自生するクワイに似た多年生草本で、夏に白色三弁の花をつける。「築土」は「築地」が正しい。
白《しろ》百《ゆ》合《り》
*月の夜の…の歌 三十三年八月六日、西下して大阪滞在中の鉄幹に初対面した晶子と登美子は三日後の九日、鉄幹と誘い合わせて中山梟庵と共に大阪の住の江に遊んだ。そのときの模様を、晶子は明星三十三年十月号「わすれじ」文中で「九日、住の江のみやしろ近くに傘かりし夜なり、片袖のぬるるわびしとかこちし夜なり。かたみに蓮の葉に歌かきし夜なり。君、
神もなほ知らじとおもふなさけをば蓮のうき葉のうらに書くかな」
と述べている。更に登美子も「鉄幹、梟庵、晶子の君達と住の江に遊びける時」と題して
歌かくと蓮の葉をれば藕《い》糸《と》のなかに小さきこゑする何のささやき(明星三十三年九月)
の歌がある。これに対して鉄幹は、
蓮きりてよきかと君がもの問ひし月夜の歌をまた誦してみる
の返歌を作った。晶子のいう「うら葉の御歌」とはこの時取り交わした歌をさしている。
*たけの髪…の歌 「たけの髪」丈の長い髪の意。晶子も登美子も自分の髪の長く豊かで美しいことを誇っていた。この歌は前歌同様、住の江で同じ時に詠んだものである。
*おもひおもふ…の歌 「君やしら萩われやしろ百合」相思う貴女(登美子)と私(晶子)とは、気持に区別がつかなくなってあなたが白萩で私が白百合でしたかしら、という意。新詩社内の同人間で晶子を白萩、登美子を白百合と呼んでいた事は既に述べたが、晶子と登美子は親友であると共にやがて登美子が身をひいて去るまで、鉄幹に対する恋のライバルでもあった。表題の「白百合」はこの薄幸の佳人登美子に捧げられた章であることを意味している。
*いづれ君…の歌 明星三十三年十月号「清怨」掲載の折に「登美子の君に」とある。明星派の「ふるさと」とは第一首の項で述べた如く、天上界・星の世界である。「御手はなしは」は「御手はなちしは」の脱字である。
*三たりをば…の歌 「西の京の宿」は京都粟田山にある華頂温泉辻野旅館をさす。三十三年十一月五日、八月に次いで再び西下した鉄幹と、晶子・登美子の三人は京都永観堂の紅葉を観賞した後、この宿に投宿した。鉄幹には林滝野との離婚問題が、晶子には実家とのトラブルが、登美子には親類の青年との結婚問題があり、三者三様に「うらぶれ」た気持を抱いていたと思われる。
*友のあしの…の歌 「心なくいいひぬ」は三版では「心なくいひぬ」と訂正してある。
*ひとまおきて…の歌 「しら梅だく」白梅は鉄幹の愛好する花で、『與謝野寛短歌全集』の年譜(明治十八年の項)では「梅花を愛するに由りて自ら雅号を鉄幹と改む」と自記している。因に鉄幹とは梅の枝を指す。従って、ここで白梅とは鉄幹を象徴していると思われる。ただし、新詩社同人の増田雅子を白梅の君と呼ぶことから、「しら梅だく」を、鉄幹が雅子を抱く(夢を見た)とする説もある。
*いはず聴かず…の歌 「二人と一人」二人とは晶子と登美子、一人は鉄幹をさす。西の京の宿に投宿した翌日、すなわち三十三年十一月六日のことである。
*友は二十…の歌 「友は二十」付記に「白百合の君に」とあるので、友は登美子をさす。ただし、事実上は晶子は登美子より一歳の年長で、この時二十四歳であった。
*その血潮…の歌 「その血潮」は、あの苦しみ、すなわち登美子の悲しい思い出のこと。「山蓼たづねますな」とは、今は春であるものを山蓼を探して下さいますな(悲しい思い出の白百合の君を思い出して下さいますな)、の意。山蓼は夏から秋に淡紅色の花をつける。前年三人で住の江に遊んだ折の鉄幹の長詩「山蓼」は登美子の思い出を詠んだものであり、去った人への哀惜の情に満ちていて晶子は心穏かではなかった。この歌の山蓼も登美子を指すと解して間違いない。
*かの空よ…の歌 「若狭は北よ」登美子の郷里若狭は京から北の方角にある。「おち椿」に収録したうちの一首である。
*筆のあとに…の歌 この歌は三版には削除されて無い。代りは、
白百合のちさきが一つゆく水にながれていにぬ物も云はずして
*わすれては…の歌 「わすれては」とは、誓いを忘れては、の意。二七ページの「その血潮ふたりは吐かぬちぎりなりき…」を忘れて鉄幹が山蓼を探しに谿《たに》へ降りて行くことともとれる。
*歌をかぞへ…の歌 三版ではこの歌は記載が無い。
はたち妻
*やれ壁に…の歌 「チチアン」Tiziano Vecellio(一四七七―一五七六)十六世紀イタリアの画家。富裕な市民階級の豊満な婦人像を好んで描いた。
*袖にそむき…の歌 「袖にそむき」は「神にそむき」の誤り。
*聖書だく…の歌  本文「鳥辺野は…」の注参照。
*君さらば…の歌 「巫《ふ》山《ざ》」のルビはフザンが正しい。巫山は中国四川省にある山。楚《そ》の襄《じよう》王《おう》が夢で巫山の神女に逢った故事から、「巫山の夢」「巫山の雲雨」などと言って男女の情愛のこまやかなことをいう。ここは、巫山の春の一夜の甘美な夢のこと。「ひと夜妻」は多く遊女を指す。三十四年二月二日付晶子の鉄幹宛書簡にある「君さらば粟田の春のふた夜妻またの世まではわすれ居給へ」がこの歌の原形である。「またの世までは忘れゐたまへ」すなわち永遠に(昨夜あった事は)忘れて下さい、というものである。三版ではこの歌は削除され「いくたびも家相に悪しとききながらぬきがてにするくね柳かな」を補充した。
*水の香を…の歌 ここで「きぬ」とは霞《かすみ》のこと、また、「わかき神」は春の神のこと。
*春にがき…の歌 「貝多羅葉」は椰《や》子《し》の一種で棕《しゆ》櫚《ろ》に似た葉を持つ。貝葉。古く印度では紙の代りとして貝多羅樹の葉に針で経文を書いた。堺の慈光寺にあったという。
*ふた月を…の歌 「三本樹」は京都市上京区にある荒神橋と丸太町橋との間の町名。鉄幹と知り合う以前から晶子はここにある信《しが》楽《らき》旅館の女主人と懇意であったという。この歌はそこに投宿した折に作ったものであろう。「加茂川千鳥」は加茂川に群棲する千鳥。
*春をおなじ…の歌 「細う」は、初版・三版とも「細う」とあるが、正誤表(明星三十四年九月掲載)では「細緒」と訂正がある。
*秋を人の…の歌 「秋を」は、(去年の)秋にの意。「人のよりし柱にとがめあり」白百合の君が凭《もた》れた柱(から離れようとしないあなた)に罪がありますというもの。「人」は山川登美子をさす。「とがぬ」は「とがめ」が正しい。初版本の誤植である。また、「梅にことかるきぬぎぬの歌」は、梅にことよせて私にくださったきぬぎぬの歌ではあるが(実際は去年の事を追慕されておいでなのでしょう)という意。きぬぎぬの歌は、恋人同士が一夜を共に過した翌朝交わす和歌のこと。
*京の山の…の歌 「こぞめしら梅」こぞめは、濃く染めたもの。ここでは「こぞめしら梅」と続けて紅梅をさす作者の造語。
*なつかしの…の歌 後出第二四八首「しら梅は袖に湯の香は下のきぬにかりそめながら君さらばさらば」と併せ考証できる。初出は三十四年二月十五日付の晶子から鉄幹へあてた書簡で(この頃晶子は〔こもり妻〕である苦衷を切々と訴えている)、「かのとぐちに湯の気のもれて、しばらくして君やみの中にあらはれ給ひしよりを現実のやうにおもひなして、かの『相思』梅といふな 百合といふな といく度かくりかへし給ひし、云々」とあり、この歌も粟田山での思い出を踏まえているといわれる。「相思」は晶子を労った鉄幹の詩(新文芸三十四年二月)のことである。
*歌にねて…の歌 「梶の葉の作者」とは、江戸時代の女流歌人梶女のこと。京、祇園の茶屋の女主人で、家集『梶の葉』がある。
*下京や…の歌 「紅屋」は、化粧用紅の問屋のこと。下京は町家が軒を連ねている地域である。京の紅は古くから有名。「かわゆし」は「かはゆし」の誤り。
*かつぐきぬに…の歌 「かつぐ」は「かづく」の誤り。
*このあした…の歌 「みどり子」は生まれて間もない赤子。嬰児。明星三十三年十月号に「お祝ひまでに」とあって、鉄幹の当時の妻林滝野の男児出産(萃)を祝った歌である。この他に登美子と中山梟庵の歌も各一首の掲載がある。
*『あらざりき』…の歌 「あらざりき」は、うつくしの夢にはあらざりき、の意。「永《と》久《せ》」は「永《と》久《は》」のルビの誤りである。
*紅梅に…の歌 「叔母の尼すむ寺」晶子に京に住む尼の叔母は居ない。作者の虚構と思われる。
*五つとせは…の歌 「みそなはせ」は、ご覧くださいませ、の意。
*白きちりぬ…の歌 「五山の僧」は、本来は印度・中国あるいは我国の京都(天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)、鎌倉(建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺)の五山の僧のことだが、ここは融通のきかない世の道学者を皮肉ったもの。
*とおもへばぞ…の歌 「とおもへばぞ」は、(垣の向う側の美しい花をほしい)と思えばこそ、という意の大胆な省略法である。四句めも同様の用法。「山ひつじ」とは、自らを山ひつじにたとえたもの、「わりなの」は、わりなの(花よ)という省略で、花を求めて垣をとび越えてはみたものの、自分には手の届かないどうしようもできない花であったよ、というもの。三版ではこの歌は削除され、代りは以下の歌である。「雨の日をたてしままなる琴のどうへ二つそめたる紅梅の歌」
*こもり居に…の歌 「集の歌ぬく」は、歌集に入れる歌を選ぶこと。『みだれ髪』へ入れる歌の選択をしているのである。
舞 姫
*浅黄地に…の歌 「扇ながし」は、扇を水に流す様を描いた模様のこと。
*四条橋…の歌 「撲つ夕あられ」は、明星初出(明治三十四年)の時は、「撲つあられかな」。『みだれ髪』収録の際に「夕あられ」と改作した。ただし、三版以降は再び「あられかな」に復帰している。舞妓の額が印象を強めている。
*あでびとの…の歌 「あでびと」は「あてびと」の誤り。高貴な位の人の意。「おぞや」は、おろかにも。まあ、いやだ位の意か。「行幸源氏の巻絵の小櫛」とは、光源氏のような平安朝貴族の外出の様を巻絵に描いた櫛のこと。
*おほづつみ…の歌 「おほづつみ」は、「おほつづみ」の誤り。
*われなれぬ…の歌 この歌は、三版・四版では削除されたままである。
春 思
*松かげにまたも…の歌 注「高師の浜」参照。
*さればとて…の歌 「かつぎなれず」は、「かづきなれず」の誤り。
*ここに三とせ…の歌 「その詩よます」は、「その詩よまず」の誤り。
*ぬしや誰れ…の歌 作者の自釈がある。「誰れでせう、どんな美しい女でせう。合歓の木間のハンモックから水色のなまめかしい袂が垂れて居る」(『歌の作りやう』)この歌は、三十三年八月六日、浜寺の歌会に於ける「衣」という題の即詠で、作者の初期の作である。第二句は初出「関西文学」―高師の浜―では「ねむの木のまの」とあったが、同年九月の明星では「桐の木のまの」と改作、更に『みだれ髪』収録の際に「ねぶの木かげの」とした。
*歌に声の…の歌 「桃しろかれな」は、三版・四版では「桃あかかれな」。
*朝の雨に…の歌 「さだすぎし君」の「さだ」は盛りのこと。盛りをすぎた者が春を告げる鶯に嫉妬して鶯を打つような所業に出たのであろう。
*春寒のふた日を…の歌 「ふた日を京の山ごもり」は、既に述べたように(「君さらば…」の注釈参照)、「君さらば粟田の春のふた夜妻またの世まではわすれ居給へ」と不即不離の関係にある歌と思われる。すなわち、初めて鉄幹と二人で早春、思い出の粟田の宿に泊った折の歌であろう。『みだれ髪』初出。
*春の宵を…の歌 「二十七段堂のきざはし」とは、堺の慈光寺の鐘楼をさすという。
*病むわれに…の歌 明星正誤表では「をととなり」とあり、三版・四版では「をとうとよ」と改作。初版本の誤植である。
*卯の衣を…の歌 「卯の衣を」は「卯の花を」の誤植。「卯の花」は、うつぎの花。初夏に鐘状の白色五弁花をつける落葉灌木である。多く生垣などを作るのに用いる。
*大御油…の歌 「大御油」とは、大《おお》殿《とな》油《ぶら》をさすと思われる。大殿油は禁中の寝殿でともす台付の燈火のこと。ここでは雛段に飾るぼんぼりのことであろう。
*恋と云はじ…の歌 「画だくみ」は絵の巧者、つまり画家のこと。
*結願の…の歌 「こちたき髪」は、うっとうしい髪。晶子の髪が長く豊かであったことは集中の随所に見うけられる。ここでは、願かけをした最後の日に念願がかなったごとく降り出した夕立に、それまで手入れをしなかった暑苦しい髪も軽く感じられた、というもの。
*花にそむき…の歌 「ダビデの歌」のダビデは紀元前十世紀頃のイスラエルの覇王。音楽と詩に才を発揮し『旧約聖書』にはダビテの歌が多数散見される。ここでは芸術(つまり歌の道)に専心することを、晶子一流のモダニズムでダビデの歌と言ったものと思われる。
*ゆく水に…の歌 「なつかしぎ」は「なつかしき」の誤り。
*金色の…の歌 「金色の翅あるわらは」とは、愛の神キューピッドの事。童話的絵画の世界を描いた歌といえる。
*わかき子の…の歌 「斧のにほひ」は「鑿のにほひ」の誤り。
*清し高し…の歌 「人の集」とは、河井酔茗の第一詩集『無弦弓』(明治三十四年一月刊行、内外出版協会)をさす。ちなみに、晶子のこの歌は明星誌上に発表の折は「無弦の君に」の副題がついていた。
*雁よそよ…の歌 「雁よそよ」は、雁よ、そうよの意。春先、北へ向けて飛んでゆく雁は恋の寂しさに耐えている自分と同じように、南の方角に心が残るであろう、と雁に呼びかけたもの。
みだれ髪 拾遺
明治三十二年
*よしあし草詠草 「よしあし草」は浪華(後に関西と改名)青年文学会の機関誌。晶子はこの会の堺支会会員であった。晶子の初出短歌は、よしあし草十七号(三十二年八月)に見られる。この本文中に採られた詠草は同年十二月迄に同誌に掲載された初期短歌のうち六首である。
明治三十三年
*新星会 明治三十三年一月、関西青年文学会の堺支会会員の発表歌を河井酔茗がまとめて一欄《コラム》としてこの名称をつけた。晶子は前年より関西青年文学会堺支会に入会して、河野鉄南、宅雁月らと知り合った。
*山門に白椿咲く…の歌 「ししが谷談合渓」は治承元年、俊寛僧都、藤原成親、僧西光らが平家討伐の密議を企てた地。また、その跡を談合渓と呼ぶ。京都市左京区大文字山麓にある。
*春や昔の 在原業平朝臣「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我身ひとつはもとの身として」をふまえる。
*すま琴を…の歌 「すま琴」は、在原行《ゆき》平《ひら》(業平の兄)が須磨に配流になった折に作ったと伝えられる一弦の琴。ただし、『日本後紀』桓武八年の項では、延暦十八年に漂着した天竺人によって伝えられたとの記載がある。
*紅筆の…の歌 「貴船川」の貴船は京都市左京区鞍馬の地にあり、貴船神社を置く。傍を貴船川が流れる。
*花の下に…の歌 「梅壺」は、禁中五舎の一つの清涼殿の西北にあり、前庭に紅白の梅と山吹・萩を植える。『源氏物語』では、光源氏は亡母桐壺更衣に俤の通う藤壺女御を梅壺に訪ねて逢えず、弘徽殿で朧月夜君にあうのである。
*わぎもこが…の歌 「わぎもこ」は、男性が女性を親しみをこめて呼ぶ言葉。吾妹子と書く。
*琴の音に…の歌 「筑地」は「築地」の誤植。
*ももとせを…の歌 この歌には「心知る人に玉章しのはせてこの歌に返し来れるもの」と詞書がある。
*花がたみ 三十三年五月、晶子が明星二号誌上に初めて発表した短歌六首の表題である。この前年十一月、鉄幹は東京新詩社を結成し、翌三十三年四月に機関誌「明星」を創刊した。
*小扇 六月、明星三号に掲載。
*木下闇…の歌 「木《こ》下《した》闇《やみ》」は三版・四版では「木《この》下《した》闇《やみ》」のルビがある。
*露草 七月、明星四号に掲載。
*京扇 八月、明星五号に掲載。
*新星会近詠 八月、関西文学一号に掲載。「関西文学」は四月に「よしあし草」が二十五号で廃刊した後、八月からその後継雑誌として創刊された。
*夏草の…の歌 「忘れ水」は、野原などに見え隠れして流れている人知れぬ水のこと。
*衣更て…の歌 「田のくろづたひ」は、田の畔《あぜ》づたい。「くろ」は田畑の畔《あぜ》のこと。
*雁来紅 九月、明星六号に掲載。
*鉄幹の君のみやど 三十三年八月四日から十五日まで西下した鉄幹は、大阪北浜の平井旅館に投宿し、この折晶子・登美子の二才媛に初めて対面した。
*山川登美子の君のおくれて来給ひければ 八月八日、平井旅館の鉄幹の許に梟庵・梅渓・晶子らが参会し、登美子を招いて臨時に歌会が催されたこと。登美子は晶子と共に鉄幹から「近頃短歌で腕を上げたのは(中略)新進の作者では晶子・とみ子の二女史…」(明星四号)と注目されていた才媛であった。晶子と並んで鉄幹へ思慕をよせたが、一族の青年との結婚のため、「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」の歌を残して若狭へ去った。
*新星会詠草 九月、関西文学二号に掲載。
*高師の浜 同関西文学二号に載った中山梟庵筆による高師の浜での歌会(浜寺の歌会)の記で、この中に晶子の歌七首が含まれている。大阪北浜で鉄幹と初対面した晶子は、十五日、岡山からもどった鉄幹とこの地で再会した。第三二五首「松かげにまたも相見る君とわれゑにしの神をにくしとおぼすな」の歌はそのときのものである。
*清怨 十月、明星七号に掲載。
*おとうとに…の歌 「なきにしもからず」は「なきにしもあらず」の誤り。
*片がはは…の歌 「紫繻子」は、三版・四版では「紫襦子」に訂正。
*わが歌に…の歌 「中浜糸子の君」は、白藤の君と呼ばれた新詩社の同人。
*吾妻葡萄 十月、明星七号中にある書簡欄の名称で、ここには晶子・登美子連名の手紙が掲載されている。
*新星会詠草 十月、関西文学三号に掲載。
*つまむとて…の歌 「ぶどう」の歴史的かなづかいは「ぶだう」。原本に従う。
*秋風に…の歌 「梅渓の君」は新詩社同人高須梅渓(芳次郎)のこと。
*小町踊 十月、小天地一号に掲載。小天地は薄田泣菫の編集で大阪金尾文淵堂から創刊された。
*吾を置いて…の歌 「かゞげて」は初版のまま。
*東都の某詩人の君 河井酔茗であるという。
*新星会近詠 十月、文庫九十号に掲載。
*素蛾 十一月、明星八号に掲載。
*ロセッチの…の歌 「ロセッチ」Dante Gabriel Rossetti(一八二八―一八八二)イギリスの画家、詩人。ラファエル前派の中心的存在で文学的傾向の絵を描き、官能的な詩を作った。詩に「ソネット」がある。
*組みかはす…の歌 「赤き縄」は、赤縄。男女の仲だちをする縄。
*新星会詠草 十一月、関西文学四号に掲載。
*新詩社詠草 十一月、小天地二号に掲載。
*星くづ 十一月、文庫九十一号に掲載。
*星うたを…の歌 「新発意」は、仏門に帰依してまだ日の浅い人。
*新詩社詠草 十二月、明星九号に掲載。
*新星会詠草 十二月、関西文学五号に掲載。「関西文学」は六号で廃刊し、神戸の「新潮」に合併される。六号に晶子の歌はない。
*人はあれど…の歌 「二条の后」は、在原業平の恋人でのち清和帝の女御になった方。
*新詩社詠草 十二月、小天地三号に掲載。
*星くづ 十二月、文庫九十三号に掲載。歌壇の選者が鉄幹から酔茗になった。
明治三十四年
*紫 一月、明星十号に掲載。
*ふけてなほ…の歌 「袖ぬひかへぬ」は、明星十一号の「紫」では「袖ぬぎかへぬ」と訂正。
*岩におふる…の歌 「のぶ子の君」は、新詩社同人林のぶ子のこと。しら桃の君の名があった。
*いく百千…の歌 「まさ子の君」は、同じく増田(茅野)雅子。しら梅の君と呼ばれた。
*さはいへど…の歌 「しら藤の君」は、前出中浜糸子の呼び名。
*白とこたへ…の歌 「窪田の君」は、歌人窪田空穂(通治)のこと。
*大小我我 一月、明星十号に掲載。目次には大我小我とある。
*矢合せ 一月、文庫九十四号に掲載。
*おち椿 三月、明星十一号に掲載。七十九首中、四十九首が『みだれ髪』に収録されている。本文には残り三十首を収める。この年一月九日、十日の二日間、京粟田山で鉄幹と落ち合った折の作。
*けふと云へど…の歌 「わかさの人」は山川登美子のこと。登美子の生れは若狭国で、同じ故郷の一族の青年の許へ嫁して行った。「鎌倉の人」は、鉄幹をさす。一月三日、由比浜で新詩社同人達は二十世紀初年を祝す交遊会を催した。鉄幹もこれに出席した後、晶子と落ち合うべく京都へ発った。鎌倉の人とは、この日の鉄幹をさしていると思われる。
*少女ふたり…の歌 「以上六首白百合の君に」の詞書のあるうちの一首で、残り五首は『みだれ髪』に収録。
*落紅 三月、明星十一号に掲載。
*朱絃 五月、明星十二号に掲載。明星はこの号から東京渋谷にある新詩社から発行することになる。
*とまではこれ…の歌 「とまではこれ」とは、かくかくあるまでは、実は梅に託して秘したわが心、の意。「これ」は強め。
*紀伊の海を…の歌 「紀伊の海を」は、三版では「紀の海を」と改訂した。
*そよ菫…の歌 「玉野花子の君」は、新詩社内では、白菫の君と呼ばれていた。
*埋草二 五月、明星十二号に掲載。
*白百合 五月、明星同号の書簡欄の名称である。
*埋草三 埋草二に同じ。ページを異にする。
*白鴿 六月、白虹一号に掲載。白虹は素蛾文学会の機関誌として創刊されたもの。
*金翅 七月、明星十三号に掲載。この一か月前から、上京した晶子は渋谷の新詩社で鉄幹と生活を共にしていた。
*黒髪 八月、小天地一巻十号に掲載。
*あひやどの…の歌 三十四年三月下旬鉄幹宛ての書簡より。(定本『與謝野晶子全集』第一巻)
*舟なるは…の歌 三十四年三月下旬 鉄幹宛ての書簡より。(定本『與謝野晶子全集』第一巻)
*おもひたちつ…の歌 三十四年三月下旬 鉄幹宛ての書簡より。(定本『與謝野晶子全集』第一巻)
(安川里香子編)
みだれ髪《がみ》
與《よ》謝《さ》野《の》晶《あき》子《こ》
-------------------------------------------------------------------------------
平成12年9月1日 発行
発行者  角川歴彦
発行所  株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『みだれ髪』昭和31年12月10日初版刊行