デジタル文庫
第38回文藝賞受賞作
インストール
綿矢りさ
女子高生と小学生が風俗チャットでひと儲け
押入れのコンピューターから
ふたりが覗いた(オトナの世界)とは!?
河出書房社
インストール     綿矢りさ
自称変わり者の寝言。
「私、毎日みんなと同じ、こんな生活続けてていいのかなあ。みんなと同じ教室で同じ授業受けて、毎日。だってあたしには具体的な夢はないけど野望はあるわけ。きっと有名になるんだ。テレビに出たいわけじゃないけど。」
光一にそう言い終わった後私は、これは甘ったるいなあ、とぼんやり興ざめした。光一はそんな私を世の大人の代表として散々なじってくれた。「バカだねみんなと同じ生活が嫌なんて一体自分をどれだけ特別だと思ってるんだ努力もせず時間だけそんな惜しんで、大体あんたにゃ人生の目標がない、だからそううだうだと他の何百人もの人間が乗り越えてきた基本的でありきたりな悩みをひきずってんのさ。」
眉をひそめ八重歯を唾液で光らせた光一は喋る喋る、痛烈な批判を私に向かってまだまだまくしたてた。このカツを最近有難く感じる、五臓六腑に沁みる、目をぎゅっとつぶって「もっと言って」とお願いしたら、光一はひるんで口をつぐんだ。その瞬間隣の席で全然別の話題で盛り上がっているクラスメイトの女の子達が、地面を揺るがすくらいの大爆笑をぶちまけた。光一はそれに負けじとすぐまた声を張り上げてお喋りを始める。「そんな無駄なこと考えちゃうのはね、あんたが疲れてるせいだよ。朝子この頃忙しそうにしてたじゃん、予備校のかけもちのせいで。あれもうやめなさい、勉強は一人ででもできるんだから。あと、忙しい自分が嬉しい、好きって思えるようになれればさらに楽になれるかもしれないね。口では、私この頃ハードスケジュールなの〜なんて言ってため息つくけど実はそんな充実した日々を送っている自分に満足してる、そういう愚か者に自分を人格改造したら疲れてんのが快感になってきっと朝子のそのくだらん野望も消し飛ぶって。なんで言い切れるかっていうとその生き方を実践してるうちのナツコが幸せだからだよ。あいつハードスケジュールが自分の有能さと人気の証だって勘違いしてて、それが唯一の娯楽さ。利用されてるだけなのに、それに気づかないでつまらない粒々の仕事全部押し付けられて緊張して、それで本格的に疲れがたまってきたらスポ根みたいに、私負けないっ、て涙溜めだすんだから、本当いつも自分が主人公で真性マゾ、」
光一はどんな話題で話をしていても、気がつけばナツコの悪口話にすり替えている。いつもなら聞いてやるのだけれど睡眠不足極まれる今は我慢ならなくて、私は頭を机に鈍くぶつけて、その音で光一を黙らせた。光一はまたひるんだ。私はうつろな目のまま辺りを見回した。昼ご飯の時間が済んですぐの教室は、誰かのお弁当の具だった酢豚の匂いと春の温かい陽気がこもっていてまるで人間の胃の中のようである。クラスメイトの女の子達はおしゃべりおしゃべり、ヒステリックさを感じるほどの元気な笑い声は教室中の窓ガラスをしびれさせている。平和? 違う、みんな騙しあいっこをしている。受験勉強シテル? マッサカー私昨日九時ニ寝チャッタ、本当ダヨウダカラコンナニ元気ナノ。じゃあその目の下の隈は何だと聞きたい。まあ私がこんなつっこみいれなくても、みんな相手の嘘八百はちゃんと見抜いている。じゃあ何故皆、競いあうように頑張ってない自分、をアピールするのか。やはり自分を天才だと思わせたいし思いこみたいからだ、そしてその反面すごい平和主義で、ああ可愛い、でも汚い、朦朧としていたら光一はやさしい口調になって言った。
「まあもし疲れてるんなら、一回学校休んで休養とったら? あんた今まで無遅刻無欠席だから知らないと思うけど、人が働いている時に休むと、皆が休んでいる時に一緒に休むのより二倍充実した一日が送れるよ。なんとなく焦るから自由時間の密度が濃くなるんだ。」
「休みたいけど、一回休んだら、次の日も、また次の日も学校行けなくなる気がする。」
「いいじゃない休みたいだけ休んだら。さては、あんたあの母親にビビッてるんだね。大丈夫、おれがナツコに言ってあんたが欠席中なのをあの恐い母さんの耳に入れさせないようにしてあげる。」
光一は、英文系の私のクラスでただ一人の男子生徒なのだが、ずばり彼の彼女のナツコ先生はうちのクラス担任の女教師である。
「大丈夫だって、ナツコは教師である前にマゾだから、おれがこんなお願いしたらとびつくよ。恋人の哀願か教師としてのモラルか、どちらを選ぶ!? っていう板ばさみの快感をあいつが逃がすとは思えないね。というわけだから、朝子、安心して休みなさい。そしてそのありがちな悩みに自分なりの答えを見つけ出せるよう励みなさいね。」
光一は強引にそう言って笑顔を見せた。平和主義、この子だって。男子でも同じである、ライバルに勉強させないようにしようと、必死だ。私はそんな光一が可愛いと思う。まあこのように話が流れるように進んで、疲れている私は受験戦争から脱落することとなった。
そして私は学校早退、早速登校拒育児となり、ただ家でこんこんと眠り続けた。家についた後すぐ寝て、嫌な夢を見た後、夕方に起きた。目覚める前に軽い金縛りに遭い、それと長く戦っていたせいでだるい頭痛がした。二日酔いの気分で起き上がり汗ばんだ髪の間から前を覗くとちょうど夕暮れで、ぎらぎら煮えたぎって揺れ落ちる地獄の落陽が、部屋を有害な蜜色に染め上げていた。またその照らされた部屋の汚さがホラーで、参考書の山や湿った汗臭い服、緑の綱タイツに二日前のお好み焼、プラス何故買ったのかイギリスの国旗、の転がった奇怪な阿片窟、私はゴミに囲まれたまま呆然とした。眠りで回復したせっかくのHPをこの部屋の光景に根こそぎ吸い取られて動けなくなってしまった。さらに外から、豆腐屋のプー…アー…というやるせない笛の音色が段々近づいてくるのが聞こえてますます歯がゆく、弱り、このまま私、廃人になってしまうのではないかと本気で怯えた。しかし私は大掃除、という愉快な企画をふっと思いつけたのでなんとか救われた。単なる掃除だけじゃ物足りない、全部捨ててやろうと、ただ単純労働を求めてうずうずしている体のために巨大な本棚を部屋から運び出す。破天荒なり。これを捨てたら困るって分かってはいるのだが、起床時に見たあの夕日を浴びた部屋の映像が強迫観念となって何度も目の前にフラッシュバックし、その度に恐怖を感じ、全部捨てなければ! という衝動が掻き立てられてしまう。
夜を越え、一睡もせず一心不乱に掃除しているうちに朝になってしまった。
ちょっと一服、と朝日を拝みながら台所でキャロットジュースを飲んでいたら、母と目が合った。休日出勤の母は髪をきつく束ねていた。
「夜中、部屋で何してたの?」
と母は私に質問した。
「掃除……を、してた。うるさかった?」
「探夜に掃除機をかけていたわね。ここがマンションだということを忘れているんじゃない?」
母のその静かに軽蔑するような声を聞いて、私はいつも通り何も言えなくなった。
母はドアがしっかり閉まっている私の部屋を一瞥したが何も言わず、玄関で靴を履いた。ほっとした。私達母子はきっとプライバシーの意味を勘違いしている。ドアのばたんと閉まる音を確認してから私は部屋へ戻り片付けを再開した。
結局夕方までかかって、私はやっと部屋にある全ての家具と小物をゴミ捨て場に運び終えた。あと部屋に残るのは学習机とピアノ、この二つは後で業者に連絡して運び出してもらとして、最後に残ったこのコンピューターを捨てる勇気が出ない。この機械は両親の離婚がやっと決まった六年前に、おじいちゃんが買ってくれた思い出探い品物だ。大阪に住んでいるおじいちゃんと埼玉に住んでいる私は、このコンピューターを使ってEメールを交換しあう約束をした。しかし当時小六の私は、コンピューターと電話回線を繋ぐのさえスムーズにできず四苦八苦、私と同じ機種のコンピューターを持つおじいちゃんもカタカナだらけの説明書にてこずって愚図愚図、そんな二人、ついにEメールを一度も交換できぬままにおじいちゃん天国へ逝ってしまった。
おじいちゃんの死後も私はコンピューターに搭載されているEメールおよびインターネットの機能を使えるようになろうと引き続き努力したが、失敗。無闇にいじくりまわしたせいでエラー発生表示ばかり点滅するようになってしまったこの機械は、もはや廃品だ。でも、おじいちゃんが孫のためならと年金から大枚はたいて買ってくれたこのコンピューター、そもそも私が小六になってから彼に定期的に手紙を出すことを億劫がり始め、それを淋しく思ったおじいちゃんが自分への関心を薪らせようと苦肉の策で私に買い与えたこのコンピューター、申し訳なくて捨てるに捨てられない。しかしその一方でむらむらと捨てちまいたい欲望がくすぶっていた。私の中で不意に目覚めたずるい完璧主義が、塵一つない完璧な、シャープに四角い部屋をいたずらに欲しがる。
長い時間迷っていたが、埒があかないので、とりあえずコンピューターの電源を入れてみた。軽く錆をこするようなひきつり音が内部から聞こえ、画面に弱々しい白い光がヴンと灯り、機械が目覚める。おんぼろコンピューターは機体を細かく震わせながら起動していき画面の光もそれにあわせてぶるぶる震える。その震え方は、昔親戚一同でカラオケBOXに行った時に聴いたおじいちゃんのあの歌声、肺活量が弱ってる年寄りならではのあのビブラー卜がききすぎた歌声を私に思い出させた。のらりくらりと途中で眠ってしまいそうなほどのとろい速度で、機械は少しずつ起動していく。しかしやっと画面にアイコンが並んだと思ったその瞬間、いきなり白衣を着た男のイラストが画面中央で微笑み、それを合図に星が落ちるような音と共に、光が突然画面から消えた。それきり、コンピューターは完全に沈黙。慌てて電源ボタンを何度も押す、が状態はなにも変わらず、画面はがらんどうに暗いままである。おじいちゃんコンピューター昇天、してしまったらしい。合掌。私は機械に向かって手を合わせた。ごめんなさい。私はコンピューターもおじいちゃんも好きなように振り回すだけで、彼らのもろさを認めようとしなかった。
動かなくなったものを部屋に置いたままにしておくのはつらいので、やはりもう捨ててしまおうとやけっぱちに決意し、私はコンピューターを持ち上げた。それは、ずんと息が詰まるほどに重く、腰に電気が走った。でもこれを素手で運ぶくらいの誠意はもたなきゃ絶対ダメだねと光一口調で自分を叱りつけ、私は機械抱えてゆっくり歩き出した。最新のコンピューターより一回りか二回りも大きいそれは、何度も私の手からずり落ちそうになる。慌てて体勢を立て直し顔を機体に押し付けるとたくさんの埃が舞い、目の前で夕陽を受けてきらめいた。
機械を抱えたままなんとか外に出て、エレベーターを使って1階まで降り、キーボードを何回も落としながらマンションの住人専用の駐車場を通り抜け、目的地のゴミ捨て場にやっと着いた。2階建ての巨大な駐車場に陽の光を遮られているゴミ捨て場である。マンションの中にいた時は健やかに息づいていた物も、ポリ袋に包まれてここに落とされた途端、光を失い音楽を失い、淋しく死ぬ。無機質なコンクリー卜の厚い壁が、マンションに溢れている自然の爽やかな空気を全て遮断してしまうのだ。陽の光と同様に、公園につながっている右の道から吹き込んでくる春風も、すぐに左どんつきの自動車専用スロープの長く暗い坂に吸い込まれてしまい、その間にあるゴミ捨て場を少しもかすめない。この灰色の墓場をしばらく眺めていたら、機械を持つ腕が震えた。
この廃墟の隅に私の部屋がそっくりそのまま移っていた。即席で作られたドラマのセットのように、私がぶっとおしで運び続けた家具たちがゴミ捨て場の端でコの宇型のちいさなバリケードを作っている。その見慣れた家具の城の中に入っていき、椅子の上にコンピューターを置く。と、その途端なんだか途方に暮れてそのままアスファルトの地べたに座り込んでしまった。地面が冷たい。学校へちゃんと行っていると母に思わせるために着てきた制服のスカー卜に、車が垂らしていったガソリンの油が染み込んでいくのが分かる。けどそれが? それよりこれからどうしましょう。駐車場から車が出てきて私の後ろを通った。地面からの振動が背中に伝わり脊椎が細かく揺れる。不意に大きな風が吹き、そのせいで沢山並んでいるタンクに山積みされた薄汚いゴミ袋の一つから、結び目がほどけているのか、黄ばんだ紙が次々と飛んだ。それらは宙を舞いながら駐車場の方へ転がっていき、隅っこの暗がりに積もっていく。それより、これからどうしましょう。その紙の動きを眼球だけで追っていたら、紙の一つがこちらに飛んできて私にへばりついた。ぞっとして振り払うと、紙にこびりついていた砂がぎちぎち落ちてきて私の靴下を汚した。その砂を払う自分の手も、ゴムのきつい靴下に締めつけられているその足も、ゴム人形のような艶の無い朱色をしていて、掃除の時の精気はどこへやら、私もゴミ化している。それを見た私は死にたーい、と思った。しかし私はそれが嬉しいのである。ほのかにそんな落ちぶれた自分を格好良く思いながらわくわく、私はさらに寝転がってみた。ポーズ。私はこうやってすぐ変人ぶりたがる。あさましく緊張しながら奇抜な行動をやらかす。こんなふうに地べたに横たわるのが私の表現できる精一杯の個性なのだ。アスファルトに頬を押しつけると、油臭い地面の上に私のほつれた黒髪が広がった。軽い風が吹いて、何度もスカー卜がはためき、その度にいちいちパンツが見える、けどそれが? 腐ったようにじっとしていた。
例えばこの若さ、新鮮な肉体。やがて消えゆく金で買えない宝物の一つ。私は大人になってから、あるいはもっと近い将来に、今のこの時間を無駄遣いだったと悔やむんだろうか。あの五月の時の私、受験生になった途端登校拒否してさらに自宅勉強もせず、何やってたかというとこんなふうにゴミ捨て場に転がり異端児気取りで、くそっと思うのだろうか。思うような気がする、いや絶対思う。こんな、ほら、目の前のゴミの間をネズミが、もりもり太ったネズミが走って、こんなこと、絶対良い思い出なんかにはならない。
まだお酒も飲めない車も乗れない、ついでにセックスも体験していない処女の一七歳の心に巣食う、この何者にもなれないという枯れた悟りは何だというのだろう。歌手になりたい訳じゃない作家になりたい訳じゃない、でも中学生の頃には確実に両手に握り締めることができていた私のあらゆる可能性の芽が、気づいたらごそっと減っていて、このまま小さくまとまった人生を通るのかもしれないと思うとどうにも苦しい。もう一七歳だと焦る気持ちと、まだ一七歳だと安心する気持ちが交差する。この苦しさを乗り越えるには。分かっている、必要なのは、もちろんこんなふうにゴミ捨て場へ逃げ出すのではなく、前進。人と同じ生活をしていたらキラリ光る感性がなくなっていくかもなんて、そんなの劣等生用の都合の良い迷信よ、学校に戻ってまたベル席守ることから始めなさい! 光一口調で自分を叱ってみたが、しかし、やっぱり私は動けなかった。自分にほとほと呆れ、仰向けになってさびれたコンクリー卜の四角の切れはしからのぞいている暮れかけの空を見上げる。
光一の言葉、時々母にも言われる言葉を思い出した。
あんたにゃ人生の目標がないのよ。
「大丈夫ですか?」
背後で突然そんな声が聞こえて私は飛び起きた。声のする方へ振り返ると、一人の男の子が少し遠くから私を見つめていた。小学生くらいの子で、傍らに自転車を携えて心配そうな顔をしてこちらを見ていた。転がっていた私を気づかってくれたのだ。
「あー私なら大丈夫、軽い貧血だよ。心配ありがとう。ね、それより今ここでフリーマーケットやってるんだけど見て行かない?」
口からそんなでまかせを言うと子供は信じたのか、自転車を引きながらこっちへ近づいてきた。猫と子供はたとえ警戒心丸出しであっても寄ってきてくれると異様に嬉しいものである。私ははりきって周りの粗大ゴミを子供に見せ始めた。
「この扇風機とかいらない? まだ季節早いけど酢飯冷やす時に使ったら便利だから、母の日のプレゼントとしてママにあげなさい。」
商売人よろしくあぐらをかいて座り直して、扇風機を子供の目の前まで掲げる。すると子供は強張った顔をして身を引いた。
「逃げるな逃げるな。じゃあマンガは、どう? ほらこれバガボンドの一から九巻。このサイズのマンガは上等なんだよ。」
子供は遠慮がちに笑い、それもう持ってますと答えた。それから少し興味がわいたのか落ち着いて私のゴミの山を眺め始めた。私一人わくわくしてもっと良いゴミがないか探し回っていた。しばらくしてから、子供は椅子の上のあの廃品を指さして言った。
「このコンピューターを買っていいですか?」
私は驚いて言った。
「それ? それはもう死んでるからダーメ。ね、そんなのよりこれどうMDウォークマン。豪華でしょびっくりしたでしょ、しかもねあのね、これ無料であげる。だって実は私ここの周りにある物全部捨てるつもりだったから。」
子供は、コンピューターに触れた。
「これ故障してるんですか?」
「多分。さっき久しぶりに電源入れたら、すぐ画面の明かりが消えた。」
「うーん。でもやっぱり、これ欲しいなあ。」
「それはね、」私は粘った。
「ほんとにぶっ壊れてるし、それにもし直ったとしても、六年も前に作られた化石電脳機械だからすごい使いにくいよ。」
子供は真面目な顔で機械を長い間見つめた後言った。
「大丈夫だと思います。」
私は大きく口を開けてまた反論しようとしたが、そのときふっとこのおじいちゃんのコンピューターが昔のように快活にキュインキュイン起動している姿が目の前に浮かんだので、あ、それはめでたい、
「本当に直せるのなら差し上げます。」
私はきっぱりと言った。子供は礼を言い、コンピューターを持ち上げようとした。が、重すぎたのか、子供は機械に抱きついたままの格好で動かない。中腰のまま石のように固まってしまった子供を見て、私は心配になり、そんなんで家まで持って帰れるの? と聞いた。
「大丈夫です、僕の家はここのマンションだから、自転車のカゴの上にこれを乗せることさえできれば、そのまま自転車を引いてマンションの中に入ってすぐエレベーターに乗って、それだけで家に帰れます。」
それを聞いた私は機械にへばりついている子供をはがし、機械をすぐ持ち上げて自転車のカゴの上に乗せてやった。子供は礼を言い、不安定な機械を支えつつ自転車を前に進め始めた。しかし数歩歩いてから思い出したように私に言った。
「あとの残った粗大ゴミはどうするんですか?」
あーまだ欲しいのあるなら持っていっていいよ、と私が気を利かしたつもりで軽く言ったら子供は、
「あ、そうじゃなくて、ここに大型ゴミ捨てちゃうと管理人さんが家まで来て怒るって聞いたことあるから、大丈夫かなと思って。ここはゴミ捨て場だけど普通のゴミを捨てるところで、粗大ゴミ捨てる場所じゃないから。」
私は後ずさって巨大なゴミ捨て場を眺めた。ギターなんかも片隅に捨てられていたが、他は確かに青いポリ袋の玉ばかりで、目立つ大型ゴミは私の捨てた一ヶ所にしかなかった。本当いうと私だって運んでる途中で大型ゴミの置き場所が間違っていることくらい気づいていた。でも私のゴミの城は、駐車場とゴミ捨て場で構成されているこの巨大なコンクリートジャングルの中で、ただ一つ命あるものとして咲いていたから、惜しくて撤去する気になれなかったのである。しかし管理人さんがこのゴミの問題で家に押しかけてくる事態はなんとしても避けたい。万が一管理人さんが私の母にこれだけのものを娘さんが捨てていたなんてチクッたりしたら大変な事になってしまう。それにしてもこのゴミの量、また移動させなくちゃいけないと思うと思わずため息が洩れた。子供は自転車の上のコンピューターを手とあごで支えた危なっかしい格好で「僕も片付け手伝います」と言ってきたが、こんなひょろい子使えるか、私はその申し出を断り、空を見上げた。空は、端から端まで薄暗くなっていた。マンションの全11階分もの廊下に隙間なくついてる黄色い蛍光灯が、間もなく訪れる夜の闇に備えて流れる雲の下で既にこうこうと光っていた。
今からこのゴミ達を指定の粗大ゴミ置き場へ全部移動させるとなると、これは夜中までかかってしまうかもしれないなと私は思った。でもいいのだ。一人でやり遠げる、昨日みたいに懐中電灯を口にくわえて、何時間でも好きなだけ頑張れば良いのだと感じた。だって今の私には明日の学校に備えて早く寝る必要がない。つまり、こういうのを自由と言うのだろうか、自転車をマンションに向かって引いていく子供の細い背中を見送りながら考えた。明日の予定がないため夜を境として一日一日を区切っていく必要がなくて、明日が今日の延長線上にあるということを実感できるこの生活は、自由? まさか。光一が聞いたら滅茶苦茶怒りそうな思想である。しかし私は、心の中でわめく光一に必死で刃向かう。でもその生き方が良いか悪いかなんてそれぞれの価値観じゃないか、明日に続くものがないっていうのを自由って呼ぶのはカチカンだよ。幸福。結局それなのだと思った。どんな生活でもどんな生き方を選んでも、その人が毎日を幸せに送れているのならその人の勝ち。さて、じゃあ私の場合なら、明日に備えるために今日の夜を少し削る前みたいな生活と、明日と今日に区別をつけない今みたいな生活と、どちちを選んだ方が人生をより濃く、より能率的に生きられるのだろうか? 真性怠け者の私はやっぱりまだまだ得して生きたい、たとえその探究に時間を費やしすぎて、自滅するというマヌケな結果を迎えることになったとしても。
どっちを選んだ方が、幸せ?
学校に行かなくなってから六日間が経ち、私にもようやく大まかな新しい生活スタイルが確立されてきた。私の登校拒否の一日は母を騙すことを中心に動く。朝、私はこれまでと変わらず制服を着て、何食わぬ顔をして家を出る。しかしその後もちろん登校はせずに、かわりにマンションの物陰に隠れ、母が出勤する午前八時半をじっと待つ。そして母が家を出てエレベーターに乗り会社へ向かうのを見届けてから、また家へ戻ってきてそれからはその一日をずっと家に引きこもって過ごす。昼に電話がかかってきても取らないようにしたり、母が家にいる間はバレないようにと鍵を閉めっぱなしにしている私の空っぽの部屋の換気を行ったりして日中を過ごし、そして夜に仕事から帰ってきた母を澄まし顔で迎える。こんな方法であの母からこれからも長い間逃げ切れるとは思っていなかったが他に何も思いつかなかったので、私はその生活スタイルを冷や汗垂らしながらも繰り返した。しかし今日は土曜日である。学校は授業があるが母の会社は休みの、ややこしい日だ。母がずっと家にいるせいでいつものようにすぐには家へ戻れない私は、じゃあ気晴しに街へ服買いに行こうか! などと意気込んだりもしてみたが、結局勇気が出ず、仕方なしに人が全くといっていいほど通らない屋上に続いている階段に座って午前中を過ごすことにした。ここは穴場だ。屋根が無いこの場所には、太陽の光が何にも遮られることなく直接この階段の白いコンクリー卜の上に降り注いでくる。風通しも抜群で髪はばさばさとはためき、頭上の高く青い空まで吹き飛ばされそうなほどの強い風が薫る。そして何より目の前のこの絶景、といっても下に広がるのはマンションについてる平和な大きい公園だが、11階建てのマンションの屋上の高さから下を見下ろすと、それだけでぐらっとくるような迫力があるのだ。ここはそんな、人を雄々しくさせるような爽快な場所なのであるが、しかし私以外の人がこの階段を使っているのを見たことは本当に少ない。こんな屋上があるということにまだ気づいてない住民が多いから、というのが一番の理由だと思うが、もう一つ、ここで飛び降り自殺者が出たというのもこの場所の過疎化の大きな要因となっていると思われる。つい最近、今年の四月に大学生の男が自分の意思でここから落ちた。春を、越せなかった。その大学生も最期掴んだであろう肩までの高さのコンクリー卜から大きく身を乗り出してみたら、恐怖で一気に力が萎えた。開けっぱなしになっている口からよだれが垂れて、それが糸を引きながら果てしなく下へ落ちていく。身体が震え、頭の重みが気になった。死んだ学生はこの本能の怯えを我慢できるくらいに現実に怯えていたのだと思うと、私なんか全然だ。と真面目な気持ちで思った。ふと下界を見ると、午前中だけの本日の授業を終えた小学生達がぞくぞくとマンションに帰ってきており、公園は子供達の様々な色のランドセルで埋め尽くされていた。かれらの帰宅でマンション内はにわかに活気づいていく。どの階からも子供の歓声と廊下を走り回る足音が聞こえるようになり、そしてその子達の帰宅時間を計算して用意されていたのであろう昼ご飯のチャーハンの匂いが、こんなはずれの場所にまで流れてきて鼻をくすぐる。
マンションのいいところ。それは、この建物には幾百の別々のドアがあり、そのそれぞれのドアの奥にはまた別々の人間が住んでいるのにもかかわらず、こんなふうにマンション全体で今のように賑やかになったり、光ったりやわらいだりと潮の満ち引きをするところだと思う。マンションは一つの大きな生命体だとも思う。同じ波のリズムが誰も気づかないうちにここに住む人全員に浸透している。私もそのやわらかな流れに乗って、家へ帰ることにした。
階段を離れ、まっすぐ続く長い廊下を歩いていると母が家の前で女の人と立ち話しているのが見えた。こんな近距離に母がいたとはと内心冷や汗の気分で母に近づいていくと、母は私に気づき、あらお帰りと声をかけた。私はただいまと母に言葉を返し、ついでに母の横にいる、母よりは若いかぼそい感じの見知らぬ女性にも挨拶をした。女の人は私に小さく頭を下げて会釈したけれどそれだけで何も言わず、大人のくせに私と目を合わせることができないのか、戸惑ったように目をそらして地面に視線を落とした。沈黙が流れる。
私が立ち去ろうとすると女の人が口を開いた。
「高校生さん? 素敵な制服ね。」
「ええ高校三年生ですよ。」
私が言う前に母が早口でそう答えた。
「いい色のスカー卜だわ、スカイブルー。」
「そうですかね。」
母がまた早口で答える。そして女の人は顔よりずっと年老いた手を頬にあててしばらく私の制服に視線を漂わせていたが、恥ずかしくなったのか、またふっとうつむいてしまった。沈、黙。母が意図的に作り上げた威圧的な沈黙である。母は話を早く切り上げたい時によくこの必殺技を使う、母は貴重な時間を潰す世間話の類が大嫌いな人である。私は段々小さくなっていく目の前の女性を不憫に思っていたが、早くずらかりたがっている母の妖気を肌にビシビシ感じたので恐ろしくて新しい話題を持ち出す勇気を出せなかった。沈黙が、続く。
うーん、静かだ。息づまる。廊下から見渡せる平和な天上界と下界は今、私たちを見放してぐんと遠くになってしまった。ただ雲だけがうすい青空の中を流れ、その淡い影が女の人の白いカーディガンや白い顔の上をすべっていく。その自然の空間の広さに私はもう押し潰されてしまいそうだ。私を含むクラスメイト達は教室で毎日これだけの空間を他愛ないおしゃべりで埋めることに成功しているのだから、すごい。しかもそれに気づいてない振りして安心を成り立たせているのだから、健気である。それが母の言うように愚かなことだというのは十分分かっているが、私達は今みたいな沈黙はもう息苦しくてたまらないのだ。よくこんなふうに会話が途切れる状態のことを、天使様がお通りになったなどと言うけれど、私はそいつが友達との会話のなかにやってくる度逃げ出したくなるほどぞっとする。そしてその話題の途切れにできた変な間を無理矢理埋めようとして、急いである事ない事いい加減な話を作り上げ、それをしどろもどろのうちに披露してしまう。一見すると相手を気づかっているように見える私のその場取り繕いの癖であるが、もちろんこの行為は人のためにやってるのではなくただ自分のせり上がってくる恐怖を鎮めるためにやっている行為で、第一私のそんな姿はすごく見苦しいから友達もいい加減迷惑に思っているはずだが、分かっているのだが、でもやめられない。沈黙って嫌だ、どっと疲れる、息苦しい。母と一緒にご飯を食べるのを私が避けがちになってしまうのはこれが嫌なせいである。あのお喋りな光一が側にいてくれたらと切実に思った。母にびびらず喋り続けてくれる私専用のマシーンが欲しい。
「……ソナチネっていう下着メーカー、知ってますか?」
女の人の独り言のような囁き声が聞こえた。天の助けだ、私はぱっと顔を上げた。そう、こういうのこそ、″天使様がお通りになった″。
「知ってます。」
私が意気込んで答えると、女の人は無表情のまま、でも頬を紅潮させて一気に喋った。
「あの私、デパートの、その会社の下着を販売しているコーナーで仕事をしているんですけど、そのせいで、下着の試着品、呼び方が違うかもしれないけれど、その試着品みたいなものをよくもらうの。でもその下さる下着っていうのが、若い人向けというのかしら、言い方が違うかもしれないけど、私なんかにはとうていつけられないような代物なんですね。あの、だからもしあなたが下着という物なんかに興味のある人なら、若いわけだし、それらをもらって下さらないかしら?」
その言葉を聞き私は知らない人からもらった下着を肌につける瞬間を想像して鳥肌が立ったが、なんとかそれを顔に出さずに「私下着に興味あります嬉しいです。」と答えた。私の言葉を聞くと女の人はさらに顔をほてらせ、無言のうちに手でここで待っててという動作をしたかと思うとすぐに廊下を小走りに走りだし、そのままエレベーターの中に消えた。残された私と母はあっけにとられた。しばらくの間の後、母が、
「変わった人ね、よりによって下着を″お隣さんにおすそわけ″なんて。」
と低い声で言った。しかし表情は穏やかだった。私はというと女の人の年不相応のひたむきさに不思議な感動を覚えてその場にしばし立ち尽くしていた。
しかしその数分後、母は激怒し、私は脱力していた。
「何考えてるのあの人は!」
母は吐き捨てるように言ったが、まあ、その怒りももっともだと言わざるを得ない。私は途方に暮れて女の人が持ってきた段ボールの中身を見つめた。その中にはパンツパンツ、パンツばっかり。恐るべき量のパンツが詰め込まれている。しかも全てのパンツは、OLが勝負下着と呼ぶような高級エロ下着で、レースがたっぷりついていたりシルクであったりTバックであったりと、確かに″若いヒ卜用″の物ではあるが、母はヒモパンをつまんでため息をついた。
「マンションの自治会の席が隣同士になっただけの私に、しかも私の娘にどうしてこんな物をこんな沢山プレゼントしなきゃならないのよ……。」
母の話によると、あの人は青木さんという名で最近このマンションに引っ越してきたばかりの人なんだそうだ。母がマンションの自治会の席で義理で話しかけたら彼女はなぜか家までついて来てしまい、母いわく、
「最初から変だった。」
母は段ボール箱を覗きながら冷たく言い放った。
「好意も行き過ぎると不気味だわね、あの人には常識がない。私、ああいうおどおどした不器用な人は生理的に受けつけないわ。」
青木さんほどではないにしても、かなりの不器用である私は後ろ暗い気分で母のその言葉を聞いていた。高倉健のようなプラスの不器用さではなく、この青木さんのような、相手の人間を思わずのけぞらせてしまう程の異様な一途さをぶっつけてくるマイナスの不器用さを持った人は、実際迷惑だ。怖い。よくクラスのみんなは、自分を可愛く見せるためにわざわざ不器用なふりをしてドジッ子を装う娘達をぶりっこなどと呼んで嫌うが、この本物の不器用よりはそのぶりっこ達の作られた不器用さの方が余程マシだと思う。媚びの武器としての不器用は軽い笑いを誘う可愛いものだけれど、本当の不器用は、愛嬌がなく、みじめに泥臭く、見ている方の人間をぎゅっと真面目にさせるから。
母は何も言わず家を出て行った後、マンション近くのチケットショップにでも行ってきたのか、包装された金券サイズの代物を手にしてすぐ帰ってきた。
「これ図書券よ。青木さんにもお子さんがいるらしいから、あなた、下着のお礼としてこの図書券を青木さんちに持っていきなさい。あの人の家は8階の812号室よ、早めに行ってきて。まったく、余計な手間だわ。」
母のその言葉に私は無言でその金券を受取り、足どり荒く家を出た。
青木さんの家は廊下のどんつきにあった。ネームプレイ卜のAOKIの文字を確認してからチャイムを押す。そして家の人が出てくるまでの間、私は気晴しのためにこっそり図書券の包みを開けて額を数えてやった。わあなんと一万円分もの図書券である、券に印刷された二〇人もの清少納言がこちらに向かって微笑んでいた。それらを扇形に広げて見とれていたらドアの向こうから足音の近づいてくるのが聞こえ、急いで図書券を包み直す。が、その時慌てすぎたのか、一枚の図書券が指の間をすりぬけてひらりと飛んだ。それに気をとられた瞬間包みをおさえていた手をゆるめてしまい、他の図書券も見事に全部落としてしまった。桜色の手切れ金達が次々宙を舞い廊下の上を滑る。それらを必死で掻き集めている時にドアが開いた。とっさに顔に愛想笑いを張り付けて、しゃがんだまま上を見上げる。
………。
「あ、ひさしぶり。」
子供の方が先にそう言った。私は年上なのに出遅れて、悔しかった。目の前に現われたのは、あの三日前ゴミ捨て場で会った子供である。私は何故かおもしろい気分になってしまって、不意にだらしなく笑い始めた。
「なんで笑ってるんですか?」子供が聞く。
「だってあんた、またあたしのこと見下ろしてるんだもん。」
私はそう答えてまだ笑い続けた。最近私が会話した唯一の人間である子供は、けげんそうな顔で私を見つめている。
「あんた名前、青木なの?」
「そうですけど。何の用でしょうか?」
子供は少しずつドアを閉めていきながら言った。
「用? あーそうだった、私あんたにじゃなくてあんたのママに用があるんだよ。青木さんからさっきもらったプレゼントのお礼を渡すためにここへ来たんだ。だから、ねえ青木さん呼んで。」
「はあ。あいにく今母はちょうど出かけてて家にはいませんけど。」子供は私を不審そうに見て言った。
「なんだ。」私はがっかりした。じゃあせめてこの図書券を渡してから帰ろうと決めて立ち上がる。が、その時ふと、この子供にコンピューターをあげたことを思い出し、子供にもう一度話しかけた。
「そういえば、あんたあのコンピューターちゃんと直せた?」
すると子供は言いにくそうに答えた。
「すいません。あれ直せなくてもう一度捨てさせてもらいました。」
それを聞き、あの機械がスクラップになって廃棄物処理場で日にさらされてる光景が目の前に浮かび、私は大きく口を開けた。が、かろうじて叫ばずに聞いた。
「どこに捨てたの?」
「このマンションの大型ゴミ捨て場。」
私は口を閉じた。居心地悪そうにうつむいている子供を、じっと見る。清潔そうな紺色のシャツからのぞいている、子供の細い手首に視線を注ぎながら私は言った。
「そう。コンピューター重かったのに8階まで上げたり下げたりと大変だったね。直そうと努力してくれてありがとう。ねえ気になってたんだけどあんたあの夕方、言ってた通り本当に最後まで自転車を使ってコンピューターをこの家まで運んだの? 自転車のままエレベーターに乗ったの?」
「はい。そんなことしたら駄目って分かってたけど、重くて。」
「そうだよね、持ち上げることすらできてなかったもんね。でもそれならコンピューターを捨てる時にも自転車使わなきゃ、ゴミ捨て場まで運べないよね。なのにどうしてまだあんたの自転車、8階のここにあるの?」
私は青木家のドアの横の隅にたてかけられてある自転車を指さして言った。子供はそれをちらっと見た後すぐに答えた。
「お父さんが。ぼくの父親が大型ゴミ捨て場へ素手で持っていってくれました。」
「いつ?」
「昨日。」
子供のその返事を聞いた私は、はしゃいで言った。
「うーそー。昨日大型ゴミ捨て場にはコンピューターなんか一台も捨てられてなかったよ。昨日だけと言わず、私があんたにコンピューターあげた日から今日までずっと、あの大型ゴミ捨て場にあの機械が捨てられていたことはありませんでしたよ。私さ、あの粗大ゴミの山を大型ゴミ捨て場に移動させるのに、実は結局今日の早朝までかかってたんだ。だからずっとあのゴミ捨て場を出入りしてたということになるけど、コンピューターのゴミは確かになかった。……怪しいな、本当にコンピューター持てました、か?」
「捨てたよ、」
子供の語尾が乱れる、私は子供の顔を意地悪く覗き込んだ。子供は無表情である。が、しばらくして照れたように笑ったかと思うと、顔を上げて、子供らしい水分を多く含んだ瞳で私を見て言った。
「捨ててない、実は。しかも直せた。」
私は脱力して、思わず大声を出した。
「なんだよやっぱりなあ! へえ、あれ直ったの! めでたい話じゃない、なんで隠すのさ。ね、じゃあ直ったコンピューター見せてよ、これあげるから。」
そう言って私は子供の背後にまわり彼の服の後ろについてるフードに図書券の束をねじこんだ。子供はフードの中身を見ようとしてそれをひっくり返し、金券を頭から浴び一気に金まみれになった。くだらないことに大喜びの私は手を叩いて笑った。それを拾い上げながら子供が聞く。
「この図書券どうしたんですか?」
「だから、それが青木さんからもらったパンツのプレゼントのお礼よ。青木さんの子供、つまりあんたにあげることに初めっからなってたの。驚異の一万円分だよ、大事に使いたまえ。青木くんって、私からコンピューターもらえるは金券もらえるは、得してるね。」
私のその言葉を聞いて子供は意外そうな表情をした。
「本当にお礼のために来たんだ。」
「そうよ。私はあんたからコンピューター取り返すために来たわけじゃないよ。」
私がそう言うと子供は軽くうなずいた。そして家の中へ入り、カーペットのしきつめてある廊下を歩いていった。私もそれに続く。
家には私達以外は誰もいなかった。子供がリビングの横の和室に入ったので私もそこの畳を踏ませてもらう。和室の様子はシンプルで、小さい箪笥と部屋の中央に積まれている洗濯物があるきりで、あのごついコンピューターの姿はどこにもない。ので、分かったこの中にあるんだなとふざけて洗濯物の山をつついたりしていたら、子供は部屋の正面にある押入れの前に行き、その襖を開けた。目の前に現われた異様な押入れの中を見て驚く。押入れには何も収納されてなくて、上下共何も入ってないすっからかんの押入れの上段の左側の奥に、ただコンピューターだけがぽつんとある。その寒々とした薄暗い空間の迫力に押されて私は押入れってこんな広い収納スペースだったんだ……と思わず感心した。
コンピューターに近づいてみると背部からケーブルが伸びているのが見え、その管は目立たないように壁の角に沿ってテープ貼りされてコンセントまで続いていた。私は唖然として「なんでコンピューターこんな所に置くの?」と聞いた。機械に触れてみると、以前私の部屋にこれがあった時のような埃は舞わず、きちんと磨かれているのが分かった。
「僕、あなたからこれ貰ったことを親に秘密にしてるんです。で、ここに置いておけばバレないから。」
子供は私の問いにそう答え、次に、コンピューター起動させてみたらどうですかと私に勧めた。私は早速押入れの上段によじ登りそこに座って、機械のキーボードについている起動のための三角ボタンを押した。すると機械はジャーン! と予想外に盛大な起動音を押入れに響かせてから起動し始めた。
音が大きい! と驚いて言うと子供は、
「インストールし直したせいで起動時の音量も初期の大きさに戻ったんだと思います。」と答え、押入れの外から手を伸ばしマウスを手に取った。
「インストールって何?」
「ディスクなんかを使ってコンピューターに新しい機能を取り入れることです。でも僕は、インストールをしたんじゃなくて、インストールをしなおした、つまりリセッ卜しただけです。」
「Eメールはできる?」私は気になっていることを聞いた。
「できます。インターネットも。」
子供はマウスの上で人指し指をカチリと動かし、すると画面の様子が素早く変わり、YAHOOという赤の文字がすぐさま浮かび上がった。ハイスピードで色とりどりになっていく画面を見て私は息を呑む。このおんぼろにこんな才能があったとは、どうやら私のコンピューターは生まれ変わっていた。キレイでスピーディーで私の知らないカタカナ語も理解できるようになったらしい。昔の面影まるでなしである。
「あんたはこれをすぐ直せたの?」
「はい。直したっていうかケーブルつなげたら普通にすぐ起動しましたよ。」
ということはつまり、私のやり方がまずかっただけで、機械は少しも壊れてなどいなかったわけだ、ただ死んだふりをしていた。そして賢き子供に拾われて見事この押入れでデビューを果たした。おじいちゃん、やり手である。強い光を放つ画面に触れてみたら、指の先で、パツと静電気のはじける音がした。
「あの、僕気になってたんですけど、あなたどうしてあの日あんなに一気に沢山のゴミを持ててたんですか? 引っ越しだと思ってたけど、今ここにいるってことは、そうじゃないですよね。」
コンピューターの華麗なる変身を見てなんだか意気消沈した私は、その問いに押入れの壁にもたれながら答えた。
「心機一転のためよ、部屋にある物気晴しのために全部捨てて学校やめて部屋空っぽにして、それだけの事を発作的に済ませて、それで何が残るのかなあと思ってたけど、何も残らなかった。私を追い越してコンピューターの方が先に生まれ変わってるんだもん、うらやましいぞコノヤロウ。」
私はそう言って機械の角を指ではじいた。機械はつんと澄まして冷たい微風を内部から出し続けていた。子供が驚いて聞く。
「学校やめたんですか? でもその服、制服ですよね。」
「あー違う、違うの、私まだやめてはいないの、登校拒否児なだけです。そんでこの制服は、あんたの押入れと同じよ、学校行ってないの親に秘密にしてるから登校してるって見せかけるために着てるのよ。カモフラージュ。あーあ、私もコンピューター買おうかなあ。電脳の世界に飛び込めば人生の目標やら生きがいやらを見つけられるかもしれないし。」
情けない気持ちで画面を覗いていると、黙っていた子供が急にぽそりと言った。
「働くっていうのはどうですか? 僕と組んで、働く。」
私は子供をけげんな顔をして見た。何を言ってるんだこの子は。すると子供は、はっとして、「嘘です。」と言った。私は意味が分からなくて眉を寄せた。
「嘘って、なにがよ。あんたと組んで働くって、それどういう意味?」
「……僕、一つ仕事を知ってるんです。」子供は遠慮がちに言った。
「あなたみたいに平日の昼間が自由な人と、学校が早く終わる僕みたいな小学生とでできる仕事。その仕事で働くことを生きがいにしてみたら、どうかなって思って。」
私はあっけにとられて、私に仕事を紹介してくれようとしている小学生の職安員をまじまじと見つめた。どう見ても小学生の青木くんは、緊張しているのか伏し目になっている。その生真面目な様子を見ていたら私は不意におかしさがこみ上げ、
「あんた、私のこともインストールしてくれるつもりなの?」とふざけて言って自分で笑った。子供は、そんな大げさなものじゃないけどと言ってため息をついた。
「おもしろいね、話聞かせてよ。それってどんな仕事なの?」
子供はうなずき、押入れから離れた。
「今から紹介する職は、仕事っていうより、コンピューターを使ったアルバイ卜と言う方が正しいのかもしれません。一時間働いて一五〇〇円の収入がある、バイトです。」
子供はテーブルの向かいに座ってから言った。既にリビングの席についていた私は驚いて子供を問いただした。
「一五〇〇円!? それ絶対間違ってるよ、今アルバイ卜の給料なんてマクドナルドで立ちっぱなしで働いても七〇〇円しかもらえないんだよ? なのにコンピューターをいじるだけでそんな額をもらえるなんてそんなイイ話ってあるもんか。」
子供は私の言葉を聞いて、かなり迷った後、こちちをうかがうようにして言った。
「……でも、テレホンレディの人とかは電話で喋ってるだけなのに時給三〇〇〇円くらいもらえてますよね。」
私はテレホンレディという横文字がどんな職業だったかすぐ思い出せず、一瞬阿呆面になった。しかしすぐテレクラという言葉が頭に浮かび、次に横断歩道でいつも手渡されるあの派手なティッシュを思い出した。でも、と私は思った。でもテレクラのおねえちゃんの給料がイイのは当り前、だってあれって、「フウゾクなんですよね。」子供が独り言のように言った。
「チャットっていうインターネット上のシステムを使って男の人と、文字でエッチな会話をするっていうのがこの仕事の内容なんだけど、こういうのもテレクラ嬢と同じでチャット嬢って呼ぶのかなあ。」
子供は他人事のようにぼんやりとつぶやく。私は呆れて言った。
「私に紹介してくれる職業ってフウゾクだったの!?」
子供はきまり悪げにうなずく。
「ちょっとー。進路で悩んでるいたいけな登校拒育児に、何勧めるのよ青木くんは。大体、あんたみたいな小学生のお子さんがどこでそんないかがわしい仕事見つけてこれたの?」
「携帯のメール友達が紹介してくれたんです、けど、やっぱりもういいです。変なこと言い出してすいません。」
子供はそう言い、逃げるように席を立った。でも私は憤慨した顔をしながらも実は興味津々だったので、
「逃げるな逃げるな。まだその仕事を引き受けないとは言っておらんだろう。詳しい話聞かせてよ。」
と子供を呼び止めた。子供は苦い表情で言った。
「詳しい話をするとなると、恥ずかしいことまで話さなくちゃいけなくなるんですよ。」
残念ながら、私は男の子の恥ずかしがっている顔を見るのが大好きである。子供を無理矢理もう一度座らせ、好奇心丸出しに眼を輝かせて聞く態勢に入った。子供は仕方なく話し始める。
「僕には去年の春からメールを交換し続けている女性がいるんです。その人の職業が風俗嬢なんですけど、」私はその時点で吹き出してしまった。ドラえもんに出てくる出木杉くんみたいな子から風俗嬢なんつう言葉が聞けて、IT社会、世も未だなあと思った。青木くんもしょうがなく私と一緒に笑った。
「興味があったんです、そういう職業ってどんなことしなきゃいけないのか知りたくなって。携帯で見ることのできるホームページで、雅さんという、主婦でありながら売春している女の人と知り合ってメル友になり、もう一年間ほどずっと彼女とメール交換しています。その雅さんが二日前に僕にチャット嬢の仕事を勧めてきたんです。その時のメールはもう携帯じゃなくてあのコンピューターに来たんですが、見ますか?」
もちろんと私は答え、そして二人でまた和室の押入れに戻った。
子供がマウスを使って短い操作をすると、コンピューターの画面に長い活字の文章が並んだ。
☆DEAR かなこさん☆
ハロー――かなこさん元気? 毎度おなじみみやびです。今、子供と一緒にアンパンマン見ながらメール書いてんの。安らぐわあ。
それであの、突然なんだけど、かなこさん、私の代わりに風俗のバイトやってくれない? いきなりでビックリ? まあ風俗っていってもいつも私がやってる本番のやつじゃなくて、チャットでHな会話するだけの、しかも土日まるまる休みのすごく軽いバイトなんだけどーどうかな? 実は私の勤めてる店が最近ホームページ開設してさ、そんで店で働いてる私のような風俗ジョウにチャットでも稼がせようとしてるの。チャットで釣った客を店に勧誘して二倍儲けようという計画みたい。でも私人妻でしょ子持ちでしょヤンママでしょっ!(笑)忙しいんだよ夜の勤めで精一杯で、Hチャットまでしてられねんだよ! という訳なのです。でもそんなこと言うとオーナーは恐いのです。不況の中に裸の私を放り出します。かなこさん、あなただって子供の世話大変なのは私百も承知だけど、頼むから私のふりして店のHPでチャットしてくれない? びっくり? とりあえず返事ちょうだいね。
☆FROM みやび☆
「かなこって誰?」と聞くと子供は恥ずかしそうに、
「僕です。男っていうと客にされそうだから、かなこという名の専業主婦として雅さんとメールしてました。」
と言った。オ力マーと私がはやしたてると子供は、こういうインターネットの中で性別を偽る人はネカマって言うんですと教えてくれた。
子供の話によると、チャットとはインターネットでできるコミュニケーションの一つで、相手と文字を使って会話するというシステムなのだそうだ。文字を使って相手とコミュニケーションするという点はEメールと同じだけど、チャットはリアルタイムで、また一度に何人もの人間と文字会話ができるので沢山の人達に人気があると子供は語った。
「あの、」私は子供に何気なく聞いてみた。
「そういう、チャットとかいうやつに関する知識って知ってて当り前、つまり現代人にとって常識のことなの?」
「いや、常識って訳じゃないと思います。インターネットに馴染みのない人なら知らなくて当然だと思います。」
私はそれを聞いて安心した。子供が雅のホームページを見せてくれると言って、またマウスを動かし始めた。すると雅のEメールの文面が消え、代わりに画面中共に「コケティッシュチャット館」という丸文字が、いやにファンシーな花のイラストに包まれて登場した。それからその絵柄とはまるで正反対の厳しい赤字、[This Sight is Adult (At The Age of Over 20) Only]の文字が画面下に出現した。しかし子供は顔色一つ変えずその赤字の上をクリックする。あんた何歳よ、と聞いたら子供は、十二歳です、と答えて苦笑した。
「このコケティッシュチャット館は、客が一度に一人しか入れない二ショットチャットのシステムを導入している有料ホームページです。客は風俗嬢とのチャット接続料として一〇分間に約六〇〇円を支払っています。客と同じ額の接続料金を取られないようにするため、チャット嬢はこのすみっこのアイコンをクリックし、その後パスワードを入力してから入室します。」
子供の説明の間にまた画面は変わり、次に、みやびのおへやという文字が中央に浮かんできたのだが、それと同時にその下に現われた写真の画像を見て私は息を呑んだ。色白の、太腿の大きい女の人が、裸にエプロンを腰に巻いただけの姿でだらしなく座っている。なるほど人妻仕様、この写真の人が雅さんだと私は確信した。雅さんは手を招き猫のようにくにゃりと曲げ、目尻に笑い皺を作ってこちらを見上げていた。彼女のフリルからはみ出たおっぱいが日本人特有にしんなりしていて、当り前
だけど私のと似ていて、その生活臭に力が抜けた。
「にゃーん。」
「この人が雅さんです。雅さんは人妻の設定だから、平日の朝一〇時から夜六時、旦那さんの帰ってくる時間帯とされている夜六時まで、このチャットルームで営業するというしきたりになっています。でもさっき読んでもらったメールから分かるように雅さんは多忙なので、ここに来ることをさぼり倒しています、今だって営業時間内だからこのルームに入室してなくちゃいけないのに彼女はいません。もしあなたがこの仕事を引き受けてくれるということになると、僕の母が働きに出かけるため僕の家が無人になる時間帯の土日除く平日の午前から僕が戻るまでをあなたが、夕方を僕が、それぞれここの家でこのコンピューターを使い、このチャットルームを埋めることになります。……どうしますか?」
「どうするって、」私は戸惑った。
「あんたさっき文字で会話するのがチャットとか言ってたけど、あのさ、実は私ワープロさえ打てないんだよね。人指し指だけ使って一分かけて、やっと自分の名前入力できるっていう、そんな感じ。」
私の言葉を聞いて、ここまでとは予想外だったのか子供は絶句した。が、「僕教えるし、慣れたら、なんとかなる……かも。」と付け加えた。
私は気を動転させたまま、画面の中の雅の艶姿に視線を注いだ。そしてこれが私の職となり、生きがいとなるのかよと考えてみると、呆然となった。子供に、あんたはこのバイトやりたいの? と聞いてみる。すると子供は案外はっきり、やってみたいですねと答えた。私は、やってみたいのだろうか。興味はある、が、私はやはり、自分の若さを気にしていた。女子高生一七歳、肉体みずみずしく、良くも悪くもマスコミにもてはやされている旬の時期である。そんな短い青春の時間に何故、学校へ行かず、代わりになにやら不審な子供と手を組んで人妻に化けて、軽い売春行為にいそしまなければならないのか。私はどれだけ眠らなくてもへっちゃらの強い身体と、歴史上に存在する何百人もの偉人達の名をすべて記憶できる新鮮な脳ミソを持っているのだ。それだけの最高素材をこの押入れの中に閉じ込めてしまうチャット嬢になるという行為は、つまりこれこそ、私が今の大切な時期に最も切り捨てたいと思っていた″無駄″である。道の踏み外しである。こんな寄り道を気の迷いで選んだら、何者にもなれそうにない予感が確信、確定に変わってしまうことは間違いないだろう。冗談じゃないなと思った。
私、女子高生として、旬は旬なりの決断を下さねばならない。
「嫌、ですか?」
子供が目を伏せて聞いた。
「やらせていただきます。」
すんなり言った。口がそう動いた。もういいや。コンピューターを見る。その中で光るエロチックな写真と、そこから広がる私の知ちない世界。
おもしろそうだった。
そして私は早速翌日から働くことになり、青木くんにコンピューター及びチャットの基本的な操作を教えてもらった。青木くんはバイトを引き受けるOKの返事を雅さんに出しておくと言い、私はこれから朝一〇時から無人の青木家に忍びこみ昼二時までチャット嬢として働くと彼に約束した。子供は私に合鍵を渡した。
しかし翌朝、私は約束した時間よりも五時間も早い、夜明けの五時に出勤した。まだ人の息の混じってない、清澄な朝の空気を吸い込みながら廊下を歩く。なぜか朝風呂にまで入ってきた私は、8階へと落ちていくエレベーターに乗り、湿った髪をいじくりつつ静かに興奮していた。8階へ降り立ち廊下を小走りして、AOKIの家の前に着く。目の前のドアに昨日もらった鍵を差し込むと確かな手応えがあり、その後がちゃという開錠の音が廊下に木霊した。初出勤、慎重にドアを押す。私は静かに家の中にすべりこみ、これ以上できないというくらいひっそりドアを閉め、鍵をゆっくりとかけ、玄関に立ちつくして中の様子を探った。薄暗い青木の家の中は少し寒く、物音一つ聞こえずしんとしている。青木家の朝はまだ始まっていないようである。もっとも始まっていたら、これほど怪しい自分をどう説明したら良いのか分からない。制服を着た幽霊のフリでもしようか。靴を脱ぎ、その靴を手に持ってから玄関のマットを裸足で踏む。浮かれすぎで靴下をはくことさえ忘れてきた私の足がマットのふかふかの毛に包まれて、足の爪に塗られた赤いペディキュアがその中で女泥棒の雰囲気を気取っていた。入ってすぐの左側にドアがあった。多分ここがあの子供の部屋のはずである、昨日ポケモンの学習机が置いてあるのが見えたから間違いはない。決心してドアを開け、ベッドに近づいてみると、案の定その中では青木くんが眠っていた。星座柄の青いブランケツ卜にくるまって、目を閉じていた。音楽を聴きながら寝てしまったらしく、コンポから伸びているイヤホンが耳に差し込まれたままである。私はその片方を彼の耳から外し自分の耳に入れて
から、MDのプレイボタンを押した。すると平井堅のバラードが静かに流れ、私と子供の耳に薄く染み込んだ。そのメロディーにVo.の声が乗った時に子供はゆっくり目を開けた。私が耳元で、パンツ何色ですか〜、と寝起きドッキリリポーターの口調で囁くと子供は眠そうな目で私を見つめ、なぜかうっすら微笑み、ブランケッ卜の中で丸まった。それからいきなり一気に起き上がり、寝起きの不機嫌な顔で私を見上げて小声で言った。
「野田さん困ります、こういうのは。親が隣の部屋で寝ています。正気ですか?」
「正気、ではない。昨日から今日の朝までずっとヤケ酒を呑んでましたからな。学校への未練を振り落とすため、ひな祭りの時から冷蔵庫に入ったままになってた白酒を全部、あおっておりましたからな。かなり酔うておりまして、正気というより、ピンぼけうつろですな。」
ろれつの回らない口調でそんなことを言ったら、子供が本気で迷惑そうな顔をしたので、私は慌てて元の調子に声を戻して言った。
「はは、嘘です、私はコンピューターの操作をもう一度あんたと一緒におさらいしたかったからこんなに早くやってきたの。仮にもお金もらうんだから、念には念を入れて不手際のない仕事をするために昨日の復習がしたいと思って、来たんだよ。偉いよね。」
それを聞くと子供は寝ぐせのついた髪のままアンニュイな動作でベッドから起き上がると、部屋のドアを開け、押入れに向かった。私もこそこそとそれに続く。
気温の低い押入れの中に乗り込むと、私は子供の監視のもとコンピューターを操作し始めた。まず起動音が昨日のように響かないようにヘッドホンを画面下の小さな穴に差し込んでから、キーボードの三角ボタンプッシュ、起動、完了、NETSCAPEクリック、ダイヤル音、終了、ブックマーククリック、コケティッシュチャット館の文字、みやびのおへやをクリック。
「完壁じゃないですか。」
「ねえ。」
不平をこめた子供の声にそう答えると、子供は力なく襖にもたれかかった。
「でもここからが本番、チャットの会話速度でのワープロ打ちができるかどうか。」
私がそう言い終わるか言い終わらないかのうちに、子供部屋の方から、かずよし、もう起きたの? という声が聞こえた。子供は素早く「両親と僕が家を出るまで絶対にここで静かにしといて下さい。」と言い、押入れを閉めようとした、が、私ははっとしてそれを遮った。
「ねえパスワードは? まだ教えてもらってない。」
「″ゆい″です。」
「何それ、人の名前?」
「雅さんの子供の名前だそうです、漢字の、唯一の唯です。じゃ。」かずよしは走り去った。
子供の名前、か。あの雅さんのエロ写真を思い出しながら私はパスワードに唯と打ち込んだ。職業、それは暮らしをたてるためにする仕事。つまりこれはもしかしたら人助けなのかもしれない。私は気を引き締めてがんばろうと心に決めた。だからまだ営業時間前だけど初日のサービスとして入室してやろう、そう思って早速チャットシステムに入室したのだが、あいにくまだ客は来ていなかった。暇にしてると外のリビングで人の気配がし始めた。食器の触れ合う音とテレビから流れてくるCMソングのメロディーが聞こえてくる。押入れの戸を少しだけ開いて和室の正面に隣接しているリビングを覗くと、家族三人が背の低い方のテーブルで朝食をとっているのが見えた。朝日に包まれたその空間の中で、こちらからは背中しか見えない、多分父親と思われる人が素朴な明るい
声で話をしており、青木くんとあのパンツをくれた青木夫人がご飯を食べながら、その父親を何気なく見つめていた。良いなあ。私は白酒の酔いが残るとろんとした目でその光景に見とれた。しばらくして襖を静かに閉め、ふと前を見るとコンピューターの画面に変化が起きていた。さっきなかった文字が並んでいる。
タカ>ミヤビちゃんお早よう
タカといいます 出勤前の俺の相手して!
客が来たのだ。私は悠然と背筋を伸ばし、気分は博打女郎で、かかってきなさい、楽しませてあげるわ。
早速返事の言葉を打ち込むにあたって、チャットでの会話は一行程度の文を交互に交す方が良いというかずよしのアドバイスを思い出した。良い文を作るというより何よりもテンポが大切です、そうとも言っていた。それらを考慮し、手始めにまあ、おはようとだけ打ってみることに決め、キーボードをひたと見つめながら軽やかにキーを叩き、満足の気分で顔を上げ画面を見た。
みやび>OhA¥
なんだこれは、予想外のその文字を見て私は絶句した。意味不明な私のチャット初言葉が、雅さんのエッチな写真の横で奇怪に光っているのだ。キーの打ち間違いである。画面を確認しつつキーボードを叩かなければこのような失敗をしてしまうのだ、そう気づき、手元を見ないように気をつけながら汗ににじんだ指を動かしてみた。けれどそうすると当り前だがより一層言葉は作れず、しかも何を打ってもアルファベットばかり出てきてしまう。ので焦りを通り越して、虚無の気怠さが脳に押し寄せてきた。そうして呆けている間にも客のタカさんは次々と言葉を画面に送り込んでくる。
タカ>ハイ?(^^;)
タカ>ちょっと何? みやびいる??
タカ>なんか言ってよ、ねえ
みやび>GO,M
タカ>は!? 意味分からん!
私はたまらなくなり、また押入れの戸を少し開け、子供の姿を必死で探した。すると運よく子供が一人でソファに座り、靴下をはいていた。
「かずよし、」
私が小声で呼ぶと子供は顔を上げ、速やかにこちらへやってきた。
「ねえこれローマ字から日本語に変換できないよ、昨日教えてもらった通りにやってるのにごめんって打とうとしても、ほらGOって表示されてしまう。」
私の上ずった声を聞くとかずよしは周囲を見回してから素早く押入れに上がった。そしてちらと画面を見て、手早くキーボードを叩いた。新しいメッセージが画面に浮かぶ。
みやび>ごめんなさーい ミヤビ、今 一人エッチしてたあ
私は目を見開いた。悔しいが、かずよしの方が私より数倍優秀な人材のようだ。
「これで大丈夫、日本語打てます。あと、頑張って下さいね。」
かずよしは爽やかにそう言い残し、廊下を走っていった。
生まれては消え、また生まれては消えていく、有料の文字会話。
みやび>なんのお仕事してるの?
ARASHI>コンピューター関係のサラリーマン
このところ忙しかったから すごい精力たまってるわけ
みやび>みやびのところに来てくれてウレシイ!
ARASHI>満足させろよ
晴れてチャット嬢となった私は、みやびの名で、会社でハラハラしながらコンピューターを開いているサラリーマンや昼に自由な時間がある浪人生、探夜に高速に出て働くトラックの運転手などの相手をした。私がチャットルームにいるのは朝と昼のみだから、やってくる人達の職種はそれくらいに限られているように思われた。が、もっともそれは推測で、嘘つき放題のチャットの世界だから職業を偽られている可能性は大だ。私自身だって、そりゃもう年齢も名前も嘘だらけ、インターネット上の匿名性を思う存分利用させてもらってここにいるので生意気なことは言えないが、″いつもは忙しいビジネスマン″と名乗る男があまりに
多いのには呆れる。
のりひろ>突然やけど聞かせてもらう みやびが一番感じる卜コってどこ!?
みやび>あのね、あそこの、でっぱったところ。
のりひろ>クリトリス?
みやび>やあだ
のりひろ>クリトリス
ぬれた。一つHな言葉を書かれるたびに、一つHな言葉を書くたびに、下半身が熱くたぎって崩れ落ちそうになり、パンツが湿った。その会話の内容に感じるというより、自分が今やっていることの不健康さに感じてしまうのだ。昼間に他人の押入れの中で制服着たままエロチャット。かずよしに、あんたはなんでわざわざこんなお古のコンピューター拾ったの? お金なかったの? と聞いたら彼は、お金がどうとかじゃないです、なんていうのかなあジャンクのコンピューターを使って押入れでぼろもうけ、そういうのに憧れたからでしょうか。と答えたけど、そのかずよしのこだわりが効いているのか、この押入れの仕事場は変に情緒がある。その薄汚いロマンの零囲気に押されぎみだった私は、緊張のため、反対にエロに対して頑なな態度を取ってしまい、興ざめな返事を返して客の男を怒らせた。しかしそれはチャット嬢になりたての頃だけの話であって、二週間が経った今ではそのようなウブさは全くない。慣れた。一日の約三分の一をチャットに費やしているのだから当り前ともいえよう。自分で作ったお弁当をつっつきながらキーボードを叩く。コケティッシュチャット館には他にもいくつか風俗嬢のおへやがあるのだが、二一歳OL桐子のおへやは女王様系、二〇歳家事手伝いマリコのおへやは清純系などと暗黙の了解で種類分けしてあり、どうも二六歳みやびのおへやは頭の軽いエロ妻系という役割のようなので、漢字を使わずなるべくバカッぽい言葉を書くように、というのにだけはいつも気をつけていた。他は特に何も意識せず、ただ流れる水にたゆたうが如く客の男の興奮の勢いに乗って言葉を作るだけである。すると段々日本のどこに住んでいるかも分からない、画面の向こうの男が可愛く思えてくる。
しんすけ>雅ちゃんは何歳ねんや
みやび>26さい***
しんすけ>もうおばはんやないかー俺は乳首ピンクの女子高生と話したいねん
みやび>みやびもぴんくだよお
しんすけ>ほんならええわ
みやび>ありがとっ
実はホンモノの女子高生ですと名乗りたくなるようなチャットの会話は、幾度となく繰り返された。このバイトをし始めて改めて気づかされたが、やはり女子高生というのはブランドらしい。しかし私はそれを喜ばず、反対に、26だって十分若いのに、と雅の気持ちで憤慨してしまう。
明>雅さんは本当に結婚してるの?
みやび>うん! 子どももいるのー
明>いいね。俺、雅さんみたいな人妻を犯してみたいな。
みやび>じゃあお店に来てよう
明>店東京にあるんでしょ? 無理、俺は神戸に住んでるんだから。となると、もうなんだか虚しいね。
さよなら、もう落ちるよ。
落ちる、というのはチャット利用者が最もよく使う用語の一つで、退室するという意味のネット専門用語だ。チャットをやめ、そのチャットルームのページから出る、という意味として使われている。初め私は何がどっからどこへ落ちるのかななどと考えて混乱するばかりだったけれど、何回かその言葉に出くわすうちにいつも会話の最後に用いられていることに気づき、なるほど落ちるは″帰る″の意味だ、と分かった。人が仮想から現実へ落ちてゆくのだ。それにしてもなぜ″落ちる″などという言葉を使うのだろう。会話が一件落着した、という明るい意味で使われているのかもしれないけど、私は客が″落ちる″を使うといつももの哀しい気分になる。私はチャットルームにずっといなくてはならない仕事の立場だから、自分からは絶対に落ちることができない。だからいつも人が落ちていくのを見守る側である。「帰って」ゆく人にはまた会えそうな気がするが、「落ちて」いく人にはもう二度と会えないような気がするのは何故だろう。別に、あの客にもう一度会いたい! なんていう悲愴な情熱はないのだが、それでも共に濃い時間を三〇分くらい共有した人が不意に正気に返り、二人で創り上げた妄想の世界に私を一人置いてぽろりと落ちていく瞬間は、さすがにむなしいものがあるのだ。そして私はそうやって一人の男が落ちた後、入れ替わりでやってきた新しい男と、また自己紹介から始めなきゃいけない。この果てしない一期一会は″落ちる″をキーワードにして私の目の前で繰り返される。
ある日、客が途絶えた合間にコーラを飲んで一服していると、いつもより早い時間にかずよしが学校から帰ってきた。
「お帰り、なんか早いね。」
「家庭訪問週間になったから。」
かずよしはそう答えながら背負っていたランドセルをテーブルの上に置いた。そして、
「チャットは、順調ですか?」と私を見て聞いた。私は押入れから出した脚をぶらつかせながら自信満々に言った。
「順調。チャットのコツ、分かってきた。あんたが初めに教えてくれたように、やっぱ会話のリズムとか画面に文字を乗せるタイミングとかが一番大事だね。特にチャットセックスする時にはね。長い文を作ろうとせず、きゃっとか、ああんとかそういう短い返事をどれだけテンポ良く画面に乗せるか、そこがミソだな。あと『そんな大きいの入らない』とか『ここ噛んでーっ』なんていうあまりにも本物のセックスに近づきすぎている台詞はウケないということも学んだよ。客は、肌と肌のぶつかり合う本当のセックスを疑似体験したい訳じゃなく、あくまでチャットでのセックスをしたがってるのである。だから無理に二人抱き合っているという高度な妄想の世界を作ろうとするより、″今までみやびそんなやらしい言葉を返されたことなかったよ″とか″興奮しすぎちゃって今パンツびしょぬれ″みたいに、画面の向こうでもだえている雅、を想像できる言葉を使った方がウケる。」
かずよしは苦笑いして、野田さんもうすっかり夢中ですねと言った。そんなことを話しているうちに客が入室してきたので、私は歓声を上げてまた画面に向かった。
私が初めてセックスというものが世の中にあると知ったのは、なんと幼稚園児の時である。字を読めるようになってから初めに開いた絵本が友だちの家の本棚にあった『あかちゃんどこからくるの?』だったから、その絵本に記されている性の営みとそれに伴う赤ん坊の出産までのいきさつを一気に知った。『ぐりとぐら』の絵本のとなりにあったその本を、同い年の子と額をくっつけあいながら何度も覗いたものだった。しかし当然その内容に恥ずかしさや神秘性を感じられるほど私の精神は発達していたわけがなかったから、その性に初めて触れた時、私はただ笑った。むっちりとした女と男の裸の絵、大きなペニスの絵、夜お月さまの下ですっぽんぽんのまま抱き合っているカップルの絵、そしてその絵の横の言葉″こうしていると、とてもきもちがよいのです。″その絵本に載っているもの全てが幼い私たちには滑稽に見えて、私と友だちは絵本を放り投げながら転げて笑った。おとなのくせに、はだかで、だきあって「とてもきもちがよい」だって。私は絵本の中の愛し合うカップルを自分よりバカに感じ、そしてそのカップルをなぜか愛しくも感じた。あれからセックスへの価値観は成長するに従って目まぐるしく変化していった。まだ本番のセックスを知らない私は些細な情報にも振り回され、最近ではエログロを極端に嫌う光一から怪談口調で聞かされた外国の猟奇的な性犯罪の話に影響されて、セックスにかなりの警戒心を抱いたりしていた。しかしチャットルームで何人もの盛った男と会っていくうちに、それらのセックスに対する先入観はなぜか取り払われていき、浄化していき、そして最後あの幼稚園の時に絵本を見た際にこみ上げてきた純粋なおかしさだけが私の中に残った。ばかみたい。
私は画面を見て言った。
「ねえかずよし、スカトロって何?」
それを聞いたかずよしが驚愕の表情になる。
「今客がね、ミヤビちゃんスカトロの趣味はある? って書き込んできたの。興味あるなら僕たちの集いにおいでよ、だって。ねえスカトロって一体何なの?」
「……排泄物を食べることにエクスタシーを感じる性的嗜好のことですよ。」
私はコーラをふきそうになった。はじける炭酸が目の奥を刺激して涙がにじむ。
「排泄物って、うんことかおしっこ? へえ! ねえかずよし、それってグルメが極まりすぎた結果なの?」
かずよしはまぶたをマツサージしながら考えこみ、言った。
「うーん、どうなのかなあ。でも、性的快感を求めて彼等は食べるんだから、やっぱりグルメとは違う気がしますね。自分や他人が排泄物を食べている姿にエロチシズムを感じるからこそ食べてみたいのであって、珍味を味わいたいという心理とは違うんじゃないでしょうか。」
スカトロの儀式がどんなのか想像してみたら、ゆるい吐き気と共に、
「宗教?」
という言葉が口をついて出た。
「ねえかずよし、私エロ療法っていうのがあったら流行ると思うんだけど。あんたの悩みなんか、エロのスケールに比べたらちっぽけですよって説いて、癒すの。」
私は突然思いついてそう言った。かずよしは笑って、
「確かにエッチの知識が増えていくと、その幅広さには何ものもかなわないって思いますね。闇の部分を知ることによって漠然と恐かったものが減って、世の中が狭く浅くなっていく。」と言った。そして続けて、
「エロの世界は、大人にぶっつけられる前に自分から飛び込んでいったら、恐くないものなんだ。」
と、厳しい声で言った。私は、おおフーゾク小学生エロ哲学を語る! と叫んで、かずよしに駆け寄り、その猫背な背中に体当たりした。かずよしはされるがままになりながら、野田さん長い引きこもり生活のせいで体力あり余ってますねとつぶやいた。
「あんたの猫背は母親譲りね。」
と、ある日かずよしに話しかけたことがあった。
「あと、その妙に静かな眼差しもあのミステリアスなあんたの母さんそっくり。」
「まさか。血ィつながってないのに。」
かずよしは笑って言った。私は人並みにうろたえ、でもすごいそっくりだよ、と幼く言い張った。かずよしは穏やかに話した。
「血がつながった僕の本物の母親は、僕が赤ちゃんの時に亡くなってます。それでお父さんが去年の冬に今のお母さんと再婚しました。それをきっかけとして心機一転、引っ越してきたんです。」
「そっか。じゃあかずよしはあのよく変な噂が立って怪しまれる、時期外れの転校生の身分になったんだ。大変だったでしょ。あ、あんたそのストレスが原因でこんな怪しい仕事に走っちゃったわけね。かずよしくんは学校に居場所がないし、新婚さんに挟まれた慣れない家庭環境にも耐えられないしで、齢十二歳で風俗チャット嬢になりました、と。一見穏やかそうに見える青木家も、一皮むくと病んでるねえ。」
私の言葉をかずよしは笑って否定した。
「そんな、ちがうよー。学校でも新しい友だちできたし、それに、来年入学する予定の中学校にもすごく近くなったから、転校してラッキーと思っています。このマンションも自然多くて気に入ってるし。田舎だけど。」
じゃああんたは生粋の変態ネカマだよと私はこの話題を軽く流して、読んでいる途中だったハリー・ポッターの本にまた目を落とした。しかししばらくした後、かずよしは「でも、一つだけ慣れないことがあるんですよね。」とぽつりつぶやいた。何が? と私が本から顔を上げずに聞いてあげたら、かずよしは変にはにかみながら、とつとつと喋り始めた。
「新しいお母さんの、かよりさんのことなんだけど。僕、あの人の小さいクセとかを異常に気にしてしまうんです。嫌いじゃないのに。あの人、生理、になると、風呂場の前にパンツと生理用のナプキンの組み合わせを一〇組位、いつもキチンと並べるクセがあるんですよね。そういう、本当に小さい粒々したことを神経質に気にしてしまうんです。″かずよしくんは弟か妹か、どっちが欲しい?″って真顔で聞いてきたりするし、そういうのが。」
それを聞いた私は茶化して、「小姑ー。」と言い、それから思いきりのしかめ面をかずよしの方へ向けようとした。が、彼の表情が妙に暗かったので、やめた。
「小姑。本当そうですよね。心が病んでるんでしょうか。」
かずよしはそう言ってソファの上に転がって背を向けた。
小姑というより、もしかしたら、乙女なのかもしれなかった。
客は結局スカトロについての話だけして落ちていき、私はまだ異世界で回り続ける頭を押さえつつ、かずよしの家を後にした。11階の自分の家に帰ると、ドアの前に光一が座っていた。思わずかけ寄る。
「光一、」
光一は私に気づくと、歓声を上げ、あだっぽい仕草で私に両手を振った。そのひとくせありそうな感じが前と全く変わってなかったので、私は安心して笑った。
「朝子、元気ー? あんたホン卜に学校来なくなっちゃったじゃん、何してたのさ?」
「ああー、自分の部屋の物を全部捨てたりとかしてたねえ。」と私は訳ありげな哀愁を漂わせながら答えた。光一は目を丸くして言った。
「全部捨てたってあんた、母親に怒られなかったの!?」
「そうだ、聞いてよー、お母さん私の部屋の異変にまだ気づいてないんだよ。私がいつも部屋に鍵をかけてるのが功を奏してるのかな。朝から晩まで仕事場にいて、家で過ごす時間が少ないから気づかないっていうのもあると思う。」
「しっかし、いくら忙しいからって子供の部屋に何もないのに気づかない母親は異常だな!」
光一はそう言ってせせら笑った。まったくその通りである。私も、母親がこんなにも長い間私に騙され続けるとは予想してなかった。意外だった。
「それから、ナツコのことなんだけどさ、あいつこの頃″野田さんの長期欠席をお母様に報告する″って、ちょっとうるさくなってきてるんだよな。もうやばいかもしれない。あいつも教師だったんだって感じだよな。そうだ、それより何よりあんた、出席日数がやばいじゃんよ、理由なしの欠席がもう四週間続いてるんだからそりゃやばいよ。まああんたは今までに休んだことがなかったから、大丈夫だとは思うけど。でも気づいたら松本さんみたいな留年生になっていたっていうことになっちゃうかもね。」
光一の言葉を聞いて私はあの一学年上からうちのクラスに落っこってきた先輩を鮮明に思い出し、青くなった。松本さん。クラスの女の子達が、敬語を使って話せば良いのか、はたまた普通に同級生として話せば良いのか未だ迷っている特殊な存在、松本さん。松本さんは少しグレ気味な女子で、そのせいで落ちてきたのだが、事あるごとに「私ダブッたから」という言葉をなぜか誇らしげに私達に言い放つ。留年、という言葉で自分を定義されるのが嫌だから、ダブるというちょっと軽めのシャレた言葉を浸透させようと躍起になっているわけだ。その先輩の強がりは青木夫人と同じ「本当の不器用」の類でとても泥臭い。以前学校で、環境破壊に警鐘を嶋らすビデオをクラス全員で鑑賞し、その後感想文を書くという授業があったのだが、そのみんなが書いた感想文のうちの一つをナツコ先生が褒めたことがあった。
「皆さんの書いてくれた昨日のビデオの感想を、いくつか紹介したいと思います。まず一つめ。
″今日見たビデオは、水洗便所で水を一回流すとバケツ何杯分もの水が使われるとか、くだらない抽象的なことばっか言ってあたしたちを脅かしていた。そんなデータを出してる暇があるなら勝手に便所の水を一刻も早く減らしたらいいじゃないか。それを強制的と文句つける奴はもういないはずだ。あたしたち、地球が危ないというのはもう十分分かっているから、トイレの水が減るくらい、文句言わずに従う。トイレの水の量はバケツ何杯分、なんて間抜けで呑気だと思う。″という、ね、斬新な意見ですね。確かに無駄になっている資源の量をトラック何台分などに換算することは、具体的に見えるけど実はとても抽象的な表現で、私達を無駄に困惑させているだけですね。」
独創的な考えにだらしないほど感心してしまう癖を持っているナツコ先生はそう言い、松本さんに向かって柔らかに微笑んだ。へえ、この感想は松本さんかと私を含めたクラスメイト全員が意外な気持ちで松本さんに視線を注いだ。すると松本さんは、うつむき、ぶっきらぼうな仕草でこれ見よがしに煙草をもて遊んだ。その松本さん独特の古い強がりに、教室中がしいんとなった。しかもその沈黙をみんながビビってると勘違いをしてしまった感じの松本さんには、私達、ますます閉口の状態だった。髪をびっくりするようなオレンジ色に染めてきたり、昔の仲間をわざわざ呼んできて先生に刃向かったり、そのクセ単位取るためにセッセと毎日学校にくる、いじましい松本さん。先輩のその卑屈さを光一と私は散々バカにしたけど、今自分が留年するかもしれないという立場になって、やっと先輩の必死の防御の気持ちが分かり、私は頭を抱えたい気持ちだった。私だって留年したらきっと松本さんと同じようにつっぱってしまうだろう。自分が間違っていたなんて絶対認めたくない。そのためには自分のスタイルに根拠のない自信を持ち続けなければ生きていけない。たとえその滑稽さに内心気づいていたとしても。
「受ける大学決まった?」
光一にそう聞くと、彼は、「早稲田。宇多田ヒカルがおれを焦らすんだ!」と意気込んだ。宇多田ならコロンビア大に行ったと思うのだが、でも邪魔くさいので注意せずに、早稲田大について勢いよく話す光一を、笑いながら見ていた。
新世界突入!
安藤>なんだみやびさんスカトロ趣味ないの
でもノーマルな娘のを飲むのも(笑)なんちゃって
みやび>ねね、いつ自分がそーいうのに感じるって気づいたんですか?
安藤>いつ? いつも何も、いろんなもん一気に試して一番恍惚できたのがコレ
聖璽と書いて、セイジと読ませるつもりらしかった。チャットネームである。こういう風変わりなチャットネームをつける人は、自分をキャラクター化している傾向が強い。新しい自分をネットの中で創造し、それになりきって電脳世界を永く彷徨う。こういうタイプはプライドを持っているから、しよっぱなからH会話をしたら憤慨してしまう。だからとりあえず自己紹介からゆうるりと始めようと、真昼の一時に聖璽が入室してきた時、私は決めた。聖璽さん何歳? などと打ち込みながらも、私は、彼は学生だろうとなんとなく感じていた。すると聖璽から予想外の言葉が返ってきた。
聖璽>昨日浪人生だって、君に教えたばかりじゃないか。僕はお初じゃないよ雅。
初めてではない? 私は首をかしげた。聖璽を昨日相手した覚えはまるでなかった。大半の人は漢字変換さえもどかしいのか、全ひらがなの幼稚園児みたいな名前で入室してくるから、その中にこんな複雑な漢字のチャットネームがやってきたら忘れられるわけがないのだが。ああ、と私はすぐ気づいた。おそらく昨日彼の相手をしたのはもう一人の雅、つまりかずよしなのだ。そう確信した私は少し冷や汗をかいたが、割に冷静に対処を考えた。実は私はこういう事態に出くわしたことは今までに何度もあったのだ。このようにかずよしとチャットした人がもう一度昼の私の時間帯に来たり、その反対で私の客がかずよしの番の時間帯に来て話の続きをし始めたりしてしまうことは、一度や二度ではなかった。しかしいつでも私達はうまくごまかしてやり過ごしてきた。なんと本物の雅さんまでもがチャットから流れて店へ来た客に、自分はチャットをしている雅、ではないというのを見抜かれずに済んでいるという。かずよし宛に送られてきたメールにそう記してあった。なぜ客が、雅は実は三人だ、ということに気づかないかというと、一つは雅がバカキャラだからである。忘れちゃった〜の一言で全て済んでしまうこのおとぼけのキャラクターは便利で、客だってそこが可愛いと思っている節があるからそれ以上つっこんで来たりはしない。そして次の理由として、結局、雅――チャット上のみやびもお店の雅さんも、どの客との関係も根っこはエロにつながっているという所にある。多少強引にでもてっとり早くその根っこに話題を持っていけば、客の理性は飛んで、簡単に疑いは頭の中から消えてしまうのだ。有料会話なので客も早くHな方面へ話を持っていった方が喜ぶ。
そんな今までの経験で学んできたハウツーを私は聖璽にも使用しようと考え、″あなたのこと忘れちゃったあ、昨日みやびをどういうふうにいぢめてくれたか教えてくれたら思い出すかもしんない**″という名文をひねり出し、画面に乗せた。そして私は聖璽がすぐに食いついてくることを少しも疑わずゆったりコーラを口に運んだりなんかしていたが、次に浮かび上がってきた聖璽からの言葉を見てにわかに焦った。
聖璽>何だよその白痴の文体は。雅、いい加減ふざけるのはやめてくれ。
ミスってしまったのだ。私はあの″チャットネームに漢字濫用している人間は唐突エロが嫌い″という法則を忘れてしまっていた。彼らが堪能したい遊戯は高等な言葉嬲りである。早く軌道修正をしなければと思い、聖璽が望んでいると思われるまともな文章をひねり出そうとしたが、浮かれた文体を使い慣れているせいで、私の頭はすぐ対応できずこんぐらかった。どうしても雅口調で物を考えてしまい、しかも昨日聖璽の会った雅が私ではないことをごまかさなくてはいけないのも考慮するとなると、いよいよ私の脳ミソは抱立つばかり、勉強から長く離れているせいで思考回路が鈍り切っているのだ。ええいと私は投げやりになった。聖璽を怒らせて、そして自ら退室してもらおう。見栄っ張りな客が一人減るだけだ。そうしよう、と決めてしまって、文体を少しも変えずにキーをかたかた打った。
みやび>やーんごめんね、みやびホン卜に聖璽くんのこと思い出せない
聖璽>じゃあお前は雅じゃないな。雅が昨日の僕との会話を忘れる訳がない。
聖璽>今お前は動揺しているな。やはり、お前は偽者だ 本物の雅を出せ あの清潔な雅を!
私はチャット嬢失格の無言攻撃で聖璽が退室するのを待つことにした。が、聖璽はよほど昨日の雅に会いたいようで、必死で一人文章を送り込み続け、なかなか諦めない。次第に聖璽の言葉は熱を帯びてきて、昨日の雅を出せ、お前は薄汚い! などと悪口雑言を撒き散ちすようになった。
そして画面にお前は誰だの文字が三回並んだ時、辛抱しきれなくなった私は聖璽に冷淡な言葉を送った。
みやび>営業妨害なんですけど〜。
静寂が流れる。私はコンピューターの出す小さな掠れた音に耳を澄ませながら、お客様のお帰りを待った。やがて文字が浮かび上がる。
聖璽>いいだろう。望み通り出て行ってやる。ただしお前が僕のホームページにアクセスしてからだ。この文字の上をクリックしろ。
http://...
うさん臭い、と私は思った。コーラを飲み干しながら、聖璽の私に対する呪詛の言葉がまだ残っている画面を眺める。これほどの怒りがホームページを覗いてもらっただけでおさまる訳がない。何かあるとにらんだ私はその指定された文字をクリックせず、言葉も打ち込まず、聖璽を放ったらかしにしておいた。聖璽は不気味にアドレスだけを何回も書き込んだ後、突然ふっと退室した。
このことを話すとかずよしは厳しい顔つきになった。そうか、聖璽君がまた来たのかとうなずいていた。かずよしの話によると聖璽はやはりかずよしの客で、昨日の牛後三時にチャットルームを訪れて、そのままノンストップで夕方の六時までルームを独占していたそうだ。計三時間もかずよし操縦の雅と話していたのなら、忘れられるはずはないと彼が自信を持つのも当然である。私は聖璽の本気さを知って、今日の自分の態度をちょっと反省した。
「もう聖璽君来ないと思うけど、もし来ても彼のホームページには行かないで下さい。そのアドレスに飛んだ瞬間仕掛けてあるコンピューターウイルスに感染してしまうかもしれないから。」
かずよしは浮かぬ顔で私にそう忠告した。
しかし、かずよしの予想は外れ、次の日、聖璽はめげずに再びやってきた。私が入室するよりも早い、朝の八時から入室者の欄に自分のあの寒い漢字の名前を光らせて、むっつりと入室していた。一番乗りを狙っての行動だ。もちろん彼のその待機時間の間にも金は確実に落ちている。こいつ大馬鹿者だと私はそんな聖璽を見下してみたが、心苦しく、なぜかかずよしに嫉妬した。そして後ろめたい気持ちを伴いつつ、いつもの源氏名、みやびで入室した。活字の会話が始まる。
みやび>お早う
聖璽>君は本物の方の雅か?
みやび>そう。そうよ、疑わないで。
聖璽>じゃあ僕と交した数々の会話を覚えているか
その尋問のせいで指の先が少し緊張した。頭がショー卜してしまい、正直に、私は偽者ですごめんなさい、と謝りたい気持ちでいっぱいになった。聖璽にだけ、実は雅は三人いることを話す。そしてこれからはかずよしが担当している牛後の時間帯にここに訪れてもらうよう、お願いするのだ。そんな一番妥当な解決策が思い浮かんだが、私は、なんとか騙し通せないかというギャンブラーな考えを改めようとしなかった。押入れ生活ももう長く、刺激と腕だめしの機会を私は求めていた。私は続けて言葉を書き込んだ。
みやび>覚えてるよ、二時から六時までずっと聖璽とだけ話していたんだから。
聖璽>そうか、覚えているか
みやび>覚えてるわよ 当り前よ。
聖璽>そうか 昨日お前の名を騙る哀しい女に会ったんだ。でもこれで僕は安堵した。
みやび>そう、良かった。
聖璽>今日もあの時の話の続きをしよう。僕はあの時、激情にまかせて君にある言葉を贈ったね。雅、どんな言葉だったか僕に答えてくれ
ぎくりとした。また探られている。私は何か書き込もうとしたが、それは無駄なあがきだった。聖璽とかずよしとの間で交された言葉など知る訳がないのだ。私は聖璽の意地悪さを憎んだ。そして、かなりの静寂の後、またあの文字が浮かんだ。
聖璽>お前は誰だ。
私だって人を欺くのは悪いって分かってるけど。
私の土下座姿を、かずよしは帰ってくるなり笑った。
「ははは、すごい眺め。」
私は仏頂面で言った。
「カリスマチャット嬢様、お客があなたを求めてやみません。どんな話術で聖璽さんを魅了なすったのか知りませんが、とにかく今日は私あなたのお側についてあなたのその華麗なる手管を学ばせて頂きたいと願っております。さあ、早くあのコンピューターどうにかして。」
頭を探々と下げ、私は敗北のポーズを取る。なんでそんなに卑屈になるのとかずよしは気味悪がった。
「画面見れば分かるわよ。」と私はへこたれて言った。
聖璽は私を偽モノだと再び見破った後、また罵詈雑言を活字でぶっつけてきた。そしてたまらなくなった私が逆上し悪口を返して応戦すると、彼は私の性格をどんどん見抜いていき、光一よりももっとひどい言葉で私を批判した。そしてそれはことごとく当たっていた。お前ひとりっこだろう、友達少ないだろう、処女だろう、適確に当てていき、そして最終的に彼は、私が高校生ということまで見抜いてしまったのだ。
「ねえかずよし、私っていう人間はチャット越しで話しただけの人にもバレてしまうほど、くだらなさが溢れている人間でしょうか。」
かずよしは、聖璽君にきついこと言われたんだね、ごめんなさい、と何故か代わりに謝ってため息をついた。かずよしは押入れによじ登り、私もそれに続く。コンピューターの画面は私のいない間に様変わりしていて、今や聖璽のホームページアドレスだけを延々と映し出していた。何がなんでもウイルスアドレスにアクセスさせるつもりらしい。画面を見てかずよしはため息をつき、それから少し姿勢を正してキーボードを叩き始めた。
みやび>聖璽、雅だよ
英小文字ばかり並ぶ画面にかずよしのその言葉がぱっと光った。私とかずよしは、聖璽の返答を息をひそめて待つ。しかしやはり画面には先程から続いているあの見慣れたアドレスがリロードされた。私は苛立って唸ったがかずよしは何も言わずにキーを叩き続けた。
みやび>私は本物よ、大丈夫、信じて。
聖璽>http://...
聖璽>http://...
みやび>聖璽、あなたこの前払にあんな高尚なこと説いたくせに、自分は随分陰険なことするのね。
画面が動かなくなった。聖璽がこちらの様子を窺っているのだ。私は興奮気味に言った。
「かずよし、この前こいつから贈られたっていう言葉をいれて。さっきからそればっかり聞いてくるの、その言葉で雅を本物かどうか判断するつもりらしいの。ねえ覚えてる? 聖璽から贈られた言葉って。」
「覚えてる。」
かずよしはそう答えるとキーを叩いた。画面に文字がリロードされる。
みやび>あなたからの言葉、「死んでも人のおもちゃになるな。」
「こいつ、そんな生意気なこと言ったの!」
私は画面に現われた文字を見て、声を上げて笑った。かずよしは私に合わせて一応笑ったが、
「おかしいね。本当に僕相手に真剣なんて。」と暗い調子で言った。
聖璽>ああ! 君は本物の雅なんだね! 今度こそ、今度こそそうだろ!? 僕が、鏡花のあの言葉を捧げた、雅。
みやび>そうよ、あなた自身の堕落論について延々聞いてあげた雅よ、浪人さん。
聖璽>雅、僕はやっと安堵したよ。
みやび>あなたに言われるまでもなく、私は人のおもちゃじゃないわ。こんな職についていても。
聖璽>あ、雅、僕は分かっているさ。決してこの言葉に軽蔑の意味はないんだ。ただこの横で光る君の写真を、苦しく思っているだけさ。君を本気で好いているのだ。
「むなしくなってきた?」
私は冴えない顔をしてキーボードを叩いているかずよしに何気なく聞いてみた。かずよしは笑いながら、そんなんじゃないと否定した。でも彼の顔には明らかに疲労の色が現われていた。
「むなしいわけじゃないけど、毎日沢山の人達と流れるようにチャットして、どんどん無感覚になってきて、それで突然こういうふうに流れを止める人に会うと、ああ、僕って人間を相手にしてたって気づいてしまいますよね。それに戸惑ってしまうんですよね。うーん、僕は心が病んでるかな?」
聖璽>雅、君に会えて良かったよ。
ああ、もしかしたら僕は君の職業に惚れてしまったのかもしれない、
子を授かった売春婦という、哀しいマリヤ像に。
君に会えて良かった。
みやび>聖璽、今度からは牛後の時間帯に来て。
聖璽>ああ雅 僕はもう嫌だ もう来ない 一度裏切られたから
さよなら
落ちるよ
昼、チャットの客足が跡絶えたのでその隙にラーメンでも食べようと思いついた私は、自分の家へ一旦帰ることを決めた。青木家と野田家の二つ分の鍵をちゃりちゃりいわせながら廊下を歩き、エレベーターに乗る。運動不足の身体は気怠い眠気の中をのろく泳いで、私は半ば目を閉じながら日当りの良い11階の廊下を渡った。鼻歌をうたいながら自分の部屋のドアを開けた。その中を覗いた瞬間、夢見心地の気分が吹っ飛んだ。部屋で、母が昼寝している。とっさに時計を見る、一一時である。加えて今日は平日だ。母が、もちろん私もだが、ここにいるのはおかしい時間帯だ。その上母が今寝ているこの部屋は、私がずっと母から隠していた全ての物を捨ててしまったあの何もない部屋なのである。
私がドアの前で呆然と立ち尽くしていると、薄いタオルケッ卜を身体にかけて眠っている母が寝返りをうった。タオルケッ卜からはみ出た皮膚の張りがない足首と、一本のまっすぐなしわが探く刻み込まれている額を見て、私は初めて母親が年をとったことに気づき、すごく慌てた。思わずしゃがんでその疲れた顔を見ていたら、母がまぶたを閉じたまま声を出した。
「朝子?」
「そうよ。お母さん、どうして今頃の時間にこの部屋で寝てるの?」
私の声は緊張して冷たかった。母はやはり目をつむったまま言った。
「今日はひどい頭痛がしたから会社を休んだの。そして何故ここで寝ているのかっていうと、頭痛がする時はがらんどうの部屋で眠るのが一番気持ち良いからよ。何もない部屋というのは普段は寒くて異常で使い道がないけど、その分清潔だからこんなふうに寝転がるには最も適した場所だわ。」
私は固まった声のままで言った。
「そうじゃないでしょ、すっからかんになった娘の部屋を見て、ここで寝るのが良いわって、それは違うでしょ。もっと、」
心配してよ、という言葉を言いかけて飲み込んだ。零囲気に流されてはいけない。私は母にかまってほしいわけではない。なぜだか怒りが湧いてきて私は母を挑発した。
「お母さん、いいの? 私本当に何もかも捨てちゃったんだよ。お母さんがおばあちゃんの代から受け継いだあのピアノも、業者に無料であげてしまったんだよ。今あれは老人ホームの遊び道真として大活躍だって、それで机は、」その時母が二重の目をがっちり開き怒声を発した。
「部屋のことなんかどうでもいいのよ! 自分の学校のこと考えようと思わないの!?」
私は驚いて言った。
「お母さん、私が学校行ってないことも知ってたの!?」
母は荒々しく寝返りをうち、言った。
「あんたの担任の先生が昨日泣きながら電話してきて知らせてくれたわよ。ぐだぐだ、泣いて。あんな人教師失格だわ、私生理的に受けつけないわ。」
母の背中を見て、はっとした。震えている、泣いているのだ。私は思わずのけぞった。母は小さく言った。
「いじめられてたの?」
私は猛スピードで家を出て、何かから逃げ切りたい一心でマンションの廊下を走った。母が泣くなんて、まるで怪談で、顔面の筋肉が凍りつく。着いた所はかずよしの家の前だった。ポケットから鍵を取りだしもどかしい気持ちで鍵穴にそれを差し込んでいると、なんとも嫌な予感がして、横を見た。右の廊下の角の消火器コーナーの所に、青木夫人が横にスーパーの袋を置いて、隠れるように座っていた。彼女はコーナーにぴたっとはまりこみ、ひっそりとこちらを見ていた。今日はこういう日なんだ、と私は降参した。今日はこういう日、お母さん大登場の日。
「鍵。」
青木さんは両手で頬杖をつき、長い髪を風に流されながら、一言そう言った。私はその言葉を聞いて汗がにじんでいる掌で握りしめていた鍵を、不思議な感覚で見つめた。確かにこの鍵は私のものではない。そしてこれを使って今開けようとしている平和な家も全然私のものではない。しかし、この家には賢い小学生が私のためにこしらえてくれた小さな居場所が存在する。から、
「これは」私は言った。
「これはあなたの鍵です、でも私のでもあるんです。」
「そうね、一ヶ月間使い続けていらした鍵だものね。」
私は力が抜けて座り込み、青木夫人と同じ目線の高さになった。どっちのお母さんにもバレていたのだ。そう分かると気が抜けて私とかずよしが随分滑稽に思われた。
「どうやって私がここに通ってること……」
「コーラ。夫もかずよしも炭酸を飲むことはできません。私だけが、飲みます。でも私の飲んだ覚えのない缶が転がっているのを見たから、それでおかしいなと思いました。それだけ。その後、会社を今日のように休んで今と同じ位置に隠れていたら、あなたが家に入ってゆくのを見て、そしてそれから数時間後、あなたがかずよしに見送られて帰ってゆくのを見ました。」
私は毎日おいしく飲んだ青木家の冷蔵庫のコーラの味を思い出した。喉の奥で爽快にはじける甘い炭酸、あれが私の存在を意味していたとは。
「電線――呼び名が間違っているかもしれないけれど、あれらが押入れからコンセントへ伸びているのも見つけたわ。あなたが関係してると思って、その異変に気づいていたけど、中は見なかった。押入れ。かずよし。あなた。」
青木夫人は私と視線を合わせずに少し震えた声で言った。その表情は年不相応なほど可憐で、張り詰めていた。私はまだまだ強がって、重々しい口調で弁解した。
「青木さんの考えは当たっています、私は青木さんちの押入れの中で沢山の時間を過ごさせてもらっています。でも私はそこでやましいことは決して……してますが、かずよしくんが困るようなことはしてません。」
「私は」青木さんは蒼白の顔で言った。
「かずよしがあなたといる時楽しいのならそれで良いんです。」
青木さんは食料の入ったスーパーの袋を私に無言で託して、立ち去っていった。
私は青木の家に入りスーパーの袋を置いた後、混乱してただうろうろしていた。落ち着こうと思い、部屋にこもった熱気を追い出すために窓を開けてみる。外の涼しい風と、マンションならではの密度の濃い熱気が部屋の中でぶつかりあって、頭上でくるくる混ざり合った。久々に生身の人間から受けたショックのせいで、大いによろけながら台所へ入る。そして冷蔵庫を開けいつものようにコーラを取り出そうとしたが、先程の青木夫人の話を思い出し、伸ばしかけた手を引っ込めた。よく考えれば青木夫人は得体の知れない女である私のために一ヶ月間コーラを買い続けてくれたのだ、私は彼女に何もしてあげてないのに。何かお返しできることはないか。台所を見回すと、コンロの上の鍋の中に中途半端に残っているなめこ汁を見つけたので、それを食べ切ってあげることにした。一杯の水と冷たいままのなめこ汁を注いだお椀を持って、私は一番風通しの良いベランダへ向かった。数本の長い毛がからまった綿ぼこりが点在しているその乾いたコンクリー卜の上に座ったら、その尻の感触
でゴミ捨て場で呆然と座り込んでいた時のことを思い出した。私は今もあの時と同じように呆然としている。何が変わった?
うつろな眼で空を見た。すると目の端で鮮やかな色のものがちらちら光っていたのでそこに視線を移した。その太陽を反射している光り物の正体は、つってある派手なキャロット色のブラジャーだった。ベランダのすすけた壁と、ありふれた日本の淡い昼景色のなかでそれは異様に目立っており、毒きのこのような雰囲気である。あの青木夫人は派手なパンツははけないくせにブラなら平気なのかと思うと脱力で、強烈なだるい眠気が私のまぶたにのしかかってきた。くだらない。でも悪気はないにしろ、この派手なブラジャーに苦しめられて逆上、幼いながらエロの世界に足を踏み入れた人だっているのだから無神経にこんなブラをつけていてはいけない。やっぱり、不器用は罪なのだ。同情という言葉で彼らに甘えて、安心していてはいけないと思った。そんなことを考えていたら、「ただいま。」という声と共にかずよしが姿を現わした。おう、とだるく手を上げてそれに答えると、かずよしはこちらをちらと見た後、すぐに和室にひっこんだ。その小学生ならではの素早い動作に感心してから私はもう一度前に向き直って、空を見た。白く濁った、熱く甘い夏を含んだ雲が流れている。そして私の横で風を受けて虚ろにそよいでいる、橙色のブラジャー。
何が変わった? 何も変わらない、私は未だ無個性のろくでなし。ただ、今私は人間に会いたいと感じている。昔からの私を知っていて、そしてすぐに行き過ぎてしまわない、生身の人間達に沢山会って、その人達を大切にしたいと思った。忘れていた真面目な本能が体の奥でくすぶっていた。
和室を覗くとかずよしが立ったまま茶封筒に入っている金を数えていた。
「三〇万です。」
数え終わったかずよしは嬉しそうな声で私にそう言った。
「何が?」
「給料、僕達が風俗チャットで働いた分の給料です。今朝、学校へ行く前に廊下で雅さんと会って、直接この給料袋を手渡してもらったんです。Eメールで約束した通りにね。それでね、待ち合わせ場所に子供が来たことに目を丸くしている雅さんに″実はかなこは僕なんです。″って白状したんですよ。そしたら雅さん大笑いして″ネカマの予感はしてた、こんな子供だとは思わなかったけど!″って言いました。やっぱり文字だけのつながりと思って騙していても、鋭い人には、性別とかバレてしまうんですね。」
私は押入れに腰掛けて封筒の中の三〇万円を見た。全てピン札だった。私は大学入試に備えての勉強、または大学入試に全然関係ない家庭科の授業や、体育のマラソンニキロに費やしてきた時間と体力を全部労働力につぎ込んだら、これ程の金が儲かるのか、としみじみ驚いた。
「雅さんどんな人だった?」
私がそう聞くと、かずよしは押入れにとび乗り、私の隣に座って言った。
「普通の人でした。小柄でポロシャツ着て、ノーメイク。笑い声がからからしてて、うん意外だった。普通。」
「そんなもんだよ、だって一ヶ月に一五万稼ぐ小学生だってこんなに普通に学校通ってるんだから。それよりいい加減そのでっかいランドセルを肩から下ろしてよ、邪魔なんだけど。」
かずよしはまだ自分の背中に乗っかったままのランドセルを目を見開いて見つめ、急いで畳の上に放り出した。どうやら彼は彼なりに興奮しているようだ。私はいつもと違って年相応に生き生きしているかずよしをからかってみたくなり、三〇万円を封筒から出し、それを図書券をあげる時やったのと同じようにかずよしのフードの中にねじこんだ。するとかずよしは金を取り出そうと慌てて、フードをひっくり返してしまい、また金を浴びた。万札がひらひら舞って落ち、豪華で、私は手を叩いて喜んだ。
「野田さん、お金で遊ばないで下さい。三〇万円ですよ?」
かずよしは服の中に入りこんでしまったお金を引っばりだしながら言った。
「これでいいんだよ、お金なんて無造作に扱って、万札三〇枚のうち一枚なくなっても″しゃらくせぇ″って言って軽く流すくらいがちょうどいいのよ。」
私はそう言ってスッとした。もう全部無価値だ、時間も若さも金も。
かずよしは少し考えた後で、「……しゃらくせぇ。」と言って金を拾うのをやめた。
「よし、合格!」と私が元気な声で言うと、かずよしはため息をつき、その後手持ちぶさたになったのか、コンピューターの電源を入れた。ジャーン! という起動音がいきなり押入れの中で木霊し、私はびっくりした。しかしかずよしは動じず、私に不自然に背を向けたまま画面の光を見つめる。″これをもってチャット嬢という奇妙なバイトは終了しました″と私に言いだせないのだ。でも私は雅さんからのメールを盗み読みしていたから知っている、給料をもらった時点で私達の風俗バイトは終了だということを。雅さんは、私もう風俗嬢をやめて子育てに専念するから今までありがとー、とメールに素っ気なく書き残していた。
「あんた、青木夫人に″僕男の子の赤ちゃん欲しいな″って言えるようになった?」
とかずよしに聞くと、彼は、それはなあとごまかしてコンピューターの前に向き直った。
「努力しなさいよ。私も学校行くから。何も変われてないけど。」
かずよしは驚いた顔をして私を見つめ、そのまま、おめでとうと言った。そしてしばらく複雑な表情でコンピューターの画面を見つめていたが、ふと思いついたように言った。
「そうだ、親にバレる前にこの現金を品物に代えちゃいませんか。」
かずよしはキーを叩き始めた。
「ネットのオンラインショップで何か買うとか。あっタイムマシンなんていうのがオークションに出てますよ、九万円。」
「また変なロマン追いかけてる。ね、それより机とか扇風機とかバガボンドとか売ってない?」
私は強い光を放っている画面を覗き込んだ。
*初出/「文藝」 二〇〇一年冬号
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また、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。
綿矢りさ(わたや りさ)
一九八四年、京都市に生まれる。
現在、高校三年生。
二〇〇一年、本作で第38回文藝賞を受賞する。
インストール
二〇〇一年一一月一〇日発行
著 者 綿矢りさ
発行者 若森繁男
発行所 株式会社 河出書房新社
http://www.kawade.co.jp/
制 作 デジブックジャパン株式会社
http://www.dbook.co.jp/
*河出書房新社『インストール』に基づいてPDA版は作成ざれました。
*書籍版データ
二〇〇一年一一月一〇日初版発行
装幀 泉沢光雄
装画 黒瀧顕
ISBN4-309-01437-2
*書籍版についての詳細は左記まで
株式会社 河出書房新社
東京都渋谷区千駄ヶ谷二―三二―二
電話 〇三―三四〇四―一二〇一(営業)
〇三―三四〇四―八六一一(編集)
第38回文藝賞
受賞の言葉――綿矢りさ
選評
文藝賞原稿募集
受賞の言葉 綿矢りさ
私たちは日常生活の中で「しらける」瞬間に何度も出くわす。
お金が無い・スケジュールきちきち・よく考えてみれば・じっさいもんだい・結局……。こんな言葉が会話に出てきたらもう楽しい夢も終わりだ。壮大な旅行計画も華やかに活躍する将来の自分も、地味に空中分解して、私たちはまた数学の問題を丁寧につぶしていく我慢我慢の日常に戻る。「しらける」は昼休み中なんかによくある味気ない瞬間だが、私はその瞬間を味わっている時の友達の真面目顔に魅力を感じる。あの疲労とストイックさが入り混じった賢そうな顔の友達は、同級生と思えない程の大人びたきつい瞳をしていて、私はいつもドキッとする。
女子高生自意識過剰ネットチャットエロ家庭内不和、溢れる流行キーワードにまみれながらも、最後はくそ真面目な顔で普通の毎日に戻っていく主人公朝子は、もちろん私が今まで出会ってきた友達のそんな表情をヒントにして作った。真面目はださい。でもその瞬間に光る場違いなドラマティックさを、この物語の朝子を通して感じてもらえれば幸いである。
第38回文藝賞選評より
石川忠司氏
どこか行き当たりばったりでライトかつ心無いスタイルにかえって現実らしさが宿っている。まともな叡智に裏打ちされた真のエンターテインメン卜に仕上がっていると思う。
多和田葉子氏
初めの部分は、読者は、得体の知れない混合物の中をさまよう。目のつけどころが良く、面白いストーリーを作る技があると思ったが、それでも、最初の部分に見られる、あの得体の知れなさ、フィルターを通さない奇妙な言葉の混合をいつまでも忘れないでいてほしい。
藤沢周氏
リズム、文章とも、単純に面白い。プロッ卜という大袈裟なものではなく、さりげない微細な遭遇から物語を進行させていく技はなかなかできるものではない。紛れもなく才能である。
保坂和志氏
「インストール」は、部屋にあった物をゴミ置き場に出し終わって、小学生から話しかけられたところから急に面白くなった。候補作というのはついあら捜しをしてしまいがちだけれど、ここから先は選考委員の立場を忘れて一読者の気分で話の展開を楽しむことができた。
「文藝」二〇〇一年冬号より
文藝賞原稿募集
文藝賞はたえず文学シーンに新しい才能を送り出して参りました。意欲的な作品をお待ちしております。
選考委昌
斉藤美奈子
田中康夫
藤沢周
保坂和志
(変更になるかもしれません)
締切り
毎年三月三十一日(当日消印有効)
発表
毎年「文藝」冬季号掲載予定
応募規定
一、応募原稿は未発表小説原稿に限る
一、枚数は四百字詰原稿用紙一〇〇枚以上四〇〇枚以内(ワープロ原稿は四百字詰原稿用紙に換算した枚数を明記)
一、原稿には題名、枚数、筆名、本名、年齢、生年月日、住所、電話番号、略歴を記す
一、原稿を綴じ、通し番号をふる
一、送り先は東京都渋谷区千駄ヶ谷二―三二―二 河出書房新社「文藝賞」係
一、受賞作には記念品及び賞金五十万円の贈呈
一、応募原稿はいかなる場合も返却しない
一、選考過程に関する問い合わせにはいっさい応じられない
一、受賞作版権は河出書房新社に帰属する