ひぐらしアウトブレイク 竜騎士07
■昭和58年6月27日(月) day1
「こちらは陸上自衛隊です! 本日0400より雛見沢地区以下、県知事が定めた地域は防疫隔離されました。住民の皆さんはご自宅へ待機をお願いいたします。防災無線やテレビ、ラジオ等での情報収集に努めてください。防疫上の安全が確認されるまで、当地区からの離脱はできません! 繰り返します、当地区からの離脱はできません! これに従わない場合、国内法によって処罰されます! どうか皆さん、自宅に戻り冷静な対応をお願いいたします!」
荒いスピーカーの声は、迷彩ヘリコプターの爆音が混じり、とても聞き取りにくかった。
「……ィルスが検出されたのこととです。これはWHO、世界保険機構が指定するウィルスの中でも最も危険な分類に入るもので…、」
「アメリカ政府よりワクチンの緊急援助の申し出があったことをすでに複数の政府筋が認めており、政府は受け容れの対応に入ったものと思われます。」
「このウィルスは潜伏期間が30日から50日ほどで、隔離された住民2000人分のワクチン確保が急務となっています。」
「現在、雛見沢地区へは電話が殺到しており、ほとんどが不通となっています。県防災本部では、事態把握に支障が出かねないとして…、」
「なお、水道水、井戸水の使用を厳禁します! 飲料水は自衛隊給水車によるもの以外は使用しないでください! また路上への違法な駐車は災害救援を妨げます。直ちに移動させてください!」
「社明党の海原代表は、自衛隊の災害派遣命令に対し適切な手順が省かれた問題を指摘し、これを軍国主義へ回帰するものとして激しく非難、アジアでの一層の孤立化を招くものとして…、」
「こちらは××県災害対策本部です! 本日12時より、以下に定める場所にて一斉診察が行われます。町会、自治会の指示に従って参集してください。特別な事情がない限り、必ず受診してください! 体調に異常が認められる方は必ずその旨、」
「こちらは陸上自衛隊です! 当地区は防疫上の理由から県知事の判断により緊急に隔離されました。隔離地区からの離脱はできません! 皆さんへの食料、飲料水、生活必需品、電力、通信の自由は保障されます! どうか冷静な対応をお願いいたします!!」
退屈で平凡な日常は、ある日突然に打ち破られた。
誰もがいつもと変わりない初夏の朝を疑わずに起床しただろう。空の青さだっていつも通りだったし、登ってきた太陽だってそれを疑わなかったに違いない。
だが、低空を飛びまわりスピーカーで怒鳴り続けるヘリコプターと、町への幹線道路が封鎖され渋滞している光景を見て、人々は今朝がこれまでの朝とあまりに異質であることを知るのだった。
早朝の混乱は、朝のニュースが放送される頃には一定の収まりを見せていた。
雛見沢の住人たちはその非常放送を、どこか遠くの町での出来事のように感じずにはいられなかったが、…それは紛れもなく、自分たちの住まう郷里に起こった異常事態だったのである…。
俺はそのニュースを、いつものようにもそもそと寝床を抜け出して、食堂に下りてきた時、テレビに釘付けになる両親の肩越しに見て知った。
俺と同じ第一声を口にした村人は、果たして何人いたのだろう。
「………な、…なんだって…? 何このニュース……。」
「圭一! 大変よ! あのね、雛見沢がね、悪いウィルスが見つかったとかで隔離されちゃったんですって!」
「困ったなぁ…、これ、いつ解除になるんだ? 明日、大阪のイベントの打ち合わせに出なきゃならないってのになぁ…。」
「隔離って、……んじゃあ、町へも出られないってこと?」
「そうみたいね…。食料の援助はあるそうだけど…、困ったわぁ! 今日、興宮で特売があるからって、冷蔵庫はそんなに在庫がないのよ。」
「それより、この何とかってウィルスはどういうもんなんだ…! 隔離ってくらいだから相当恐ろしいモンなんだろ?! そのウィルスはどうなってんだ! ウチにも感染してるってのか?!」
「………シ! 今テレビでその説明してるよ!! ……発症すると、1週間ほどで以下の症状がって、…………ぅ、」
家族全員が、……いや、その映像が流れた瞬間、村中が絶句した。
…アフリカの小さな村を全滅させたというその惨状は、あまりに惨たらしく、……遺体のあまりに変わり果てた姿があまりに恐ろしかった。
我が身に危険が及ばない無責任な視聴者にとって、謎の危険なウィルスがどんな害をもたらすのか映像を見たいというのは、率直な野次馬感情だろう。……だが、実際にその危機に直面している俺たちには、……あまりに笑えない、恐ろしいものだった…。
ふと、時計を見上げると、レナとの待ち合わせの時間をとっくに過ぎ去り、すでに遅刻している時間だった。
普段のレナだったら、約束した時間を5分過ぎれば直接迎えに来る。…でも今朝はそれはなかった。
……当然だ。きっとレナだって今頃、家族と一緒にテレビに釘付けになっているに違いない…。
それともまさか、……この怪しげなウィルスにやられて苦しんでいるのというのではないだろうか…。
そう思った瞬間、レナだけじゃなく、魅音や沙都子、梨花ちゃんの安否が心の底から気になった。直情的に俺は廊下へ駆け受話器を取りダイヤルするが、普段のようなコール音すら聞かせてはもらうことはできなかった。
…無理もない。村中が、そして村に親類を持つさらに大勢が、今の俺と同じように一斉に受話器を握っただろう。電話回線がパンクしているだろうことなど容易に想像がつく。
なら、直接訪問してその無事を確かめたい。……だが、危険なウィルスが村の中に満ちているかもしれないというのだ。そんな戸外へわざわざ飛び出すのは自殺行為ではないのか…?
「圭一! ちょっとこい! 大至急だ!」
親父がアトリエから出てくるところだった。ダンボール箱を抱えている。見ると、中身は未開封のビニールに包まれていたガムテープがぎっしり入っていた。親父が画材か何かに使うためにストックしていたものらしい。
この緊急時になぜガムテープ、とは思わなかった。…すぐに何のために親父が俺を呼び出したのかを理解する。
「圭一は2階を頼むぞ! 窓をぴったり閉めてガムテープで目張りをするんだ! クーラーも外気とつながってるかもしれんな! クーラーは噴出口を新聞紙で覆ってそれからガムテープでしっかりと止めるんだ! 父さんは1階をやるからな! 母さんは台所を頼む!!」
「お父さん、今さらそんなことをしても仕方ないでしょ。ガムテープなんかじゃ極小のウィルスを防ぐ効果なんて全然ないわよ…!」
「それでも少しは違うだろうが!! いいから母さんもやりなさいッ!」
親父が回答を許さない強い口調で怒鳴りつける。…でもこういう事態においても比較的冷静なお袋の言い分ももっともだと思った。
埃なんかよりも遥かに微小な存在であるウィルスの侵入を、こんな市販の布ガムテープで目張りして回るだけで防げるなんて、迷信もいいところだ…。
だが同時に、親父の言い分も理解できた。……今は、あまりに突然の自体に誰もがショックを隠せないのだ。科学的根拠があるなしじゃなく、たとえ迷信や気休めでもいいから、何かの備えをせずにはいられない。……何もせずテレビの前に居続けるより、よっぽど心が安らかでいられるに違いないのだ。
こういう時には妙に頑固なお袋と親父の感情的な罵り合いを避けるように、俺は2階へ上がった。
お袋の言うように、防疫上の効果が期待できないのはわかってる。…でも、気休めのおまじない程度でも、何かをしたい気持ちはきっと親父と同じだったからだ。
窓から外を見る。…その雄大な光景は、引っ越してきたばかりの頃、深い感動をもたらしてくれた自慢の眺望だった。
その雄大な光景は、昨日までの美しい伝統的建築物を連ねる雛見沢と何も変わりない。
だが、村人の人影はなかった。
野良仕事している村人の姿を、水田の中に一人たりとも見つけることができなかった。
……こういう事態でも、頑固なお年寄りは野良仕事をさぼらないに違いない、等という浅はかな予想はあっさりと裏切られた。……実は、そういう光景に普段通りの日常を見出して安心したかった自分がいたことを知る。
今やどんなに頑固なお年寄りであっても、野良仕事には出なかった。
それはウィルスに感染するかもしれないことを恐れたのではない。ウィルスに感染したと思われ、村人から村八分にされることを恐れたのである。
その意味においては、防疫上の効果があるかどうかを問う母親より、素人思考の父親の感情的なウィルス対応策の力の方がずっと正しいと言えただろう。
村は今、静寂の恐怖に包まれている…。
それを打ち破るのは防災無線の声と、それを掻き乱す自衛隊のヘリコプターの爆音だけ。
それらはむしろ、静寂によって一層、不気味に引き立てられるのだった。
…普段通りにセミたちは合唱を始めているのに…。その合唱が村人の耳に届くことはなかった…。
■6月28日(火) day2
水道が遮断されたため、水洗トイレが使用できなくなった。
自衛隊の救援部隊が、仮設トイレを設置してくれたらしいが、親父は使用に強く反対していたため、前原家は水の出ない水洗トイレを使用し続けていた。洗濯に使うために風呂水を残していたため、それを洗面器にすくって流せばしばらくは何とかなるわけだ。親父が言うには、保菌者の排便はウィルスの塊みたいなものなのだという。公衆便所へ出かけるのは感染に行くようなものと言い、家族に絶対使わないよう言っていた。
だが風呂桶の水だってそう多くはない。いつまでも水のでない水洗トイレなど使えない。それに問題のウィルスの潜伏期間が一ヶ月以上もあることを考えれば、雛見沢の隔離がそれ以上に続くだろうことは容易に想像がつく。
お袋はその隔離期間を、軽く見積もって3ヶ月は続くだろうと見込んだ。
………3ヶ月間。
今は6月末だから、…隔離が解かれるのは、9月末、下手をすれば10月を越えるだろう。
つまり、…雛見沢からは昭和58年の夏が、ごっそり切り取られてしまったことになる。
それはあまりに悲しいことだった…。
初日こそ、家の外にはウィルスが蔓延しているという恐怖にも苛まれたが、給水車の応援や、自衛隊による救援物資の到着、医師団による集団診察が始まると、戸外にまったく出ないわけにも行かなくなった。
父親を初めとする一部の人間はそれでもなお戸外に出ることを拒んだが、生活のためや、医師に診察を受けて自分が感染しているという恐怖を払拭したい人間は、次第に戸外へ出るようになっていた。
それは俺もだった。家族だけでガムテープで目張りをしてシャッターを下ろした不気味な家の中で、テレビの前で無言で過ごし続けるなんて神経が持つわけもない。それより、表に出て知り合いの安否を確かめたい気持ちの方が強かった。
親父は引き篭もりを決め込み、呆れたお袋は、俺と一緒に集団診察に出掛けた。
前原家の属する町会は学校校庭に集まることになっていた。
校庭には大勢の村人が集まり、町会の回覧板区分に従い列を作らされている。
普段着姿の村人と、真っ白な雨合羽のようなものをすっぽりと被った医師団との対比が、なぜかとても不愉快だった。…それは、俺たちを怪しげなウィルスの感染者だと疑っているというこれ以上ない明白な証拠だからだ。
「あ、圭一くーん!!」
「おぅレナ!! よかったぜ、無事だったか!!」
「う、うん! さっき魅ぃちゃんに会ったよ。魅ぃちゃんも元気そうだった!」
「そうか!沙都子や梨花ちゃんは?!」
「梨花ちゃんたちは町会区分が違うと思うから他の場所に集合してると思うよ…。何度か電話してるんだけど繋がらないの…。」
「俺も何度か電話してるが全然ダメだ…。やっぱり電話が殺到してパンクしてるんだろうな…。」
「自衛隊の人の言うことを聞かないで暴走した車が、事故で電柱を倒しちゃって、それで電話線を引き千切っちゃったって噂を聞いたの。…でも別の人は、行政が関係者専用に設定を変えたので、一般市民は使用不能になってるとか言ってた。」
「…早い話が、情報が錯綜してて誰もが混乱してるってこと…。」
その時、背中を強く叩かれる。魅音だった。
「圭ちゃん!! よかった、無事だったんだね!!」
「俺のセリフだぜ!! お前も無事でよかった!」
魅音は涙を拭くような大袈裟なフリをしながら、ほんの数日振りの再開を喜んでくれた。
今さら説明するまでもなく、雛見沢は古い慣習により、御三家と呼ばれる旧家によって統率されている。今やその筆頭家は魅音の園崎家だ。
魅音によると、園崎家は連合町会を指揮して事態の沈静化を図ろうと率先して動いているらしかった。また、行政や自衛隊とも協力していて、一般の村人が知り及んでいない情報についても知っているようだった。
「魅音、ぶっちゃけた話、どうなってんだ! そのウィルスってヤツは本当に村人全員に感染してんのか?」
「早朝にあった説明では、その可能性は極めて薄いってさ。話では、感染者が出たのは高津戸の方らしいんだよ。あっちはほとんど人が住んでないからね。素早く隔離封鎖がされたから、雛見沢地区には及んでないんじゃないかって言われてる。雛見沢地区の全員がシロであることが確認できたら、段階的に解除になるんじゃないかって楽観論も出てるよ。」
「そ、そうならいいよね…。高津戸に住んでる人には悪いけど、雛見沢地区だけでも、早く隔離が終わるといいよね…。」
そこで魅音は目つきを一度鋭くし、俺とレナの頭を引っ掴んで、魅音と俺たちの頭をぶつけて近寄せた。そして俺たちにしか聞こえない小声で言う。
「………でも、私はそう楽観的だとは思えないね。おじさん、無線使えるんだけどさ。警察や自衛隊の回線にも入れるように改造してあるんだよ。…そこで傍受してる限りは、そんな簡単な話じゃないみたい。何しろ、雛見沢は山間部の寒村でリクの孤島。どういう経路で海外からこの村へウィルスが伝播したのか経路がさっぱりなんだよ。…現在、行政が把握している発症者は海外渡航歴がないらしくてね。他に潜在保菌者がいるんじゃないかって疑われてて、村人全員の海外渡航歴を調査中らしいよ。」
「つまり、誰かが海外で感染してこの村へ持ち込んだ、ってわけか…。」
「うん。何しろ潜伏期間に幅があるらしいからね。持ち込んだ本人が未だ潜伏期の可能性が否定できないらしいんだよ。それに、その人物に海外渡航歴がある保証もない。村の外で保菌者に接触して持ち込んだ可能性もあるからね。……おじさんの睨んだところじゃ、隔離地区は雛見沢だけに収まらない。下手をすれば県内、あるいは地方レベルにまでも及びかねないね…。」
「…………………………何てこった……。」
「あとは、……ここだけの話なんだけど。………このウィルス、テレビで言ってるアフリカの殺人ウィルスってのとは別物らしいって噂もあるんだよ。」
「…どういうことだよ。」
「……私もよくはわからにんだけど、傍受できた無線の一部から、今回のウィルス騒ぎを雛見沢土着の風土病を疑うような内容が聞けたんだよ。」
「この殺人ウィルスが昔から雛見沢に眠ってたってのか?!」
「私もよくはわかんないけど…。ただ、雛見沢の古い伝承には、沼から不浄な何かが湧き出して村を襲ったという話が残ってる。それが再び湧き出したのではないかって疑えないこともないね。」
「でも魅ぃちゃん。だとしたらまだ安心できるね。だって、その大昔の時には、村が滅んだわけじゃないんでしょ? ということは、テレビで言ってる村を全滅させるようなウィルスよりはずっと毒性が弱いってことだよ。」
「…鬼ヶ淵村の伝承では、沼より湧き出した不浄に取り憑かれると鬼と化したらしい。結局、人の手では何もできず、オヤシロさま降臨まで人々に打つ手はなかった。」
「………つまり、伝説に残るような奇跡が起こるまで、村はその災禍から逃れられなかったってことだな。」
「そうだね。…奇跡が起こらなければ、村は全滅したってことだね…。」
今回のウィルス騒ぎを、オヤシロさまの祟りだと捉えるお年寄りは多いようだった。あちこちで数珠を揉みながら祈りを上げ、許しを請い続ける姿が見つけられた。
「オヤシロさまの生まれ変わりである梨花ちゃんが、それを否定してくれれば騒ぎは落ち着くんだろうけどね。婆っちゃが今、自衛隊の人にそれを説明してるところだよ。…まぁ、他所から来た連中には、梨花ちゃまのこの村における意味は理解できないだろうからねぇ。」
「…だな。………迷信の話は抜きにしても、俺も早く無事な梨花ちゃんと沙都子の姿を見て安心したいぜ…。」
そう。雛見沢はオヤシロさまという守り神を崇拝する、独特の信仰がある。
その信仰が描く終末、「オヤシロさまの祟り」。それを今回の騒ぎに重ねる村人はとても多かった。
だからこそ誰もが、そのオヤシロさまの生まれ変わりとして崇められる古手梨花の元気な姿を見て、今回の騒ぎがオヤシロさまと関係ないことを宣言してもらいたいと思っていた。
村が初めて経験する異常事態。誰もが心のショックから未だ立ち直れず、何かにすがりたいと思っている。
でも、迷信が支配する村とはいえ、20世紀を迎えた現代日本の村でもある。
右往左往せず冷静に事態に対応したいという気持ちももちろん持っている。
だからみんな、古手梨花の姿さえ見れたなら、すぐにでも冷静を取り戻そうと心に決めていたのである。
それはつまり、古手梨花の姿を見られなかったなら、いつまでも迷信に取り憑かれて混迷したままでいようということの裏返しでもあった……。
■7月6日(水) day 10
学校がなく、曜日感覚を完全に失った最近は、テレビの番組編成によってのみ辛うじてその感覚を保たせる脆弱な日常の上に成り立っていた。
テレビが、いわゆる「雛見沢ウィルス騒動」を取り上げたのは、隔離封鎖の初期だけで、10日目を迎えると、特別な動きがない限りニュースで取り上げられることはなくなっていた。
世間では、どこぞの大臣が雛見沢の騒ぎの時にゴルフを切り上げなかったとか何とかで、そこからケチがついて秘書の給与疑惑に発展してどうのこうの。…実にどうでもいい方向へ話題が転がっていっていた。
世間はニュースが取り上げなければ、もうウィルス騒ぎが解決してしまったに違いないと錯覚するのだろうか。
人の不幸に飽食する世間の冷たさを思い知らずにはいられなかった。
この頃には、配給などの用事があれば戸外へ出歩くことに対する抵抗は、ほとんどの村人から払拭されたようだった。
最近の魅音などは隔離されたのは村じゃなくて、むしろ興宮の方ではないのか。町まで買い物に行かなくていいし、水も食料もみんなタダで配給してもらえるので気楽ではないかと軽口を叩いてみせるようになっていた。
それに苦笑いで応えるが、すでに十日にも及んでいる隔離の閉鎖感は拭えるものではなかった。それは魅音も同じだ。言葉だけなら余裕の軽口にも聞こえるが、魅音自身、その表情から不安感は拭えていなかった。
こんな昨今だからこそ家でうじうじとしていても仕方がない。せめて誰かと話している方が気が紛れる。俺も飲料水のポリタンク運びを積極的に手伝い、給水所で仲間たちと再開できるのを楽しみにしていた。
だが、楽しいというのとはもちろん違う。
会えば互いの不安を吐き合うだけだ。…でも、それでも、ひとりで布団を被っているのに比べたらずっとマシだった……。
「……圭ちゃん! 具合はよさそうだね。変な斑点とか出てない?」
「魅ぃちゃん、それ冗談になってない…。」
「魅音! レナもか! よかった、相変わらず電話が通じないからな。こうして会えるとほっとするぜ…。」
「だね。レナも最近は、学校が再開してくれないかなって思うくらいだもん。…はぅ。」
…学校が再開してくれたなら、皆、平穏だった頃の日常を思い出しながら、精一杯いつものように元気に振舞うだろうか。……でも、…ダメか。知恵先生は確か興宮に家があるはず。隔離されているから学校に来られないのだから、俺たちのクラスは再開できない…。
「はは、せっかく未曾有の大災害で休校なんだからさ。たまにはこういうライフを満喫するのも悪くないけどねぇ〜!」
こういう時、魅音の軽口は本当に貴重だった。そこから、まるでいつもの日常のような気楽な話が次々とつながっていく。
「そうだ、…………レナ、圭ちゃん。…気を悪くしないで聞いて。ここだけの話だから。」
魅音が俺たち二人を物陰に引き込むと声を潜めた。
「…何?どうしたの魅ぃちゃん。」
「また何か情報でもわかったのか。」
隔離の初期にこそ自衛隊から充分な説明があったが、最近はどういう状況になっているのか対外的な発表は一切なくなっていた。
そうなると口コミの噂話しかなくなるが、各町会ごとに細かく隔離されていたため、村人の交流は限られており、その噂話すらも満足に疎通できない状態だった。
だが幸いなことに、この村にはアマチュア無線の愛好家が少なくなかった。彼らはそれらを使い、連絡を取り合っていたのである。
魅音は無線を使って、別の隔離町会の状況などを確認し合い、雛見沢全体の状況把握に努めているらしかった。
「何しろ、未だ電話が回復しないからな。こういう時、本当に無線は貴重だぜ。…それで、何がわかったんだ?」
「………………うん。というか、………………梨花ちゃんが収容されて容態不明ってのは本当らしい。」
ここで話は少しだけ遡る。
オヤシロさまの祟りを疑い不安感を拭えない人々のために、古手梨花の村内巡回を園崎家は強く要望していたのだが、なぜかその要望は無視され続けた。
保菌者が村内を闊歩することで感染を拡大することがないよう、町会区分ごとに厳しく自衛隊が隔離していたため、古手梨花の近況を知ることができず、そのことはさらに村人の不安感を掻き立てていたのである。
もし、オヤシロさまの生まれ変わりである彼女の身に何かあったなら、…それが意味するところはただひとつ。伝承が伝える、村の終末に他ならないのだから。
その不安はとうとう行き着くところまで行き着き、古手梨花の情報が入らないのは、彼女の身に何かがあったからで、自衛隊はそれを隠すためにわざとはぐらかしているのではないかというデマが生まれるまでに至った。
誰もがそのデマを否定したが、そのデマを払拭する方法は古手梨花の無事な姿を村人が見ることしかない。だがそれは叶えられず、さらに村人の不安感を掻き立てることになっていた…。
「梨花ちゃんが容態不明ってどういうことなの?! 梨花ちゃんがウィルスにやられちゃったってことなの?!」
「シー!! 声が大きいよ! ……ウィルスかどうかは知らないけど、とにかく防疫部隊に収容されて、その後、戻ってこないらしいの。安否は不明。連れてかれたのは何人かが目撃していて間違いないって。」
「それはいつの話だ?」
「隔離の当日だって。」
「…聡子ちゃんは?! 梨花ちゃんと一緒に住んでるんだから、……その、…、」
梨花ちゃんがウィルスの犠牲者なら、同居している沙都子も……。
「そこまで詳しくは…。」
「……だろうな。村の年寄り連中は、梨花ちゃんのことに関心はあっても、沙都子のことはまったく無関心だからな。」
「沙都子ちゃんも収容されたのかな……。」
「………沙都子は収容されたわけじゃないみたい。…感染者が出たら、同居人だって疑うのが防疫の基本だと思うんだけどね。…無線で聞く限りは、収容されたのは梨花ちゃんだけで、沙都子はそういうわけじゃないみたい。………それでね、…なんだか妙な話になってるんだよ…。」
「妙な話・・・?」
「…うん。…………ほら、沙都子の両親がダムの誘致派だったのは知ってるでしょ? それで、オヤシロさまのバチが当たって事故死しちゃって…、」
「……沙都子ちゃんの北条家が、オヤシロさまに祟られている、呪われている、というような話?」
「うん。……罰当たり者の沙都子が、オヤシロさまの生まれ変わりである神聖な梨花ちゃまと同居すると穢れが移るかもしれない、みたいな酷いことを言っている連中が前からいたんだけど、……そういう連中が、今回の『オヤシロさまの祟り』を沙都子のせいだと言い出してるみたいなんだ。」
「何だって?! 馬鹿な話しやがって!! 連中は箸が転んでも沙都子のせいだな!!」
「もちろん、冗談だと信じたいけど。……沙都子を簀巻きにして鬼ヶ淵に沈めれば、オヤシロさまのお怒りが治まるんじゃないかって話が、向こうの町会でまことしやかに流れてるらしいよ…。」
「そんな…!! ねぇ私たちって、そんなにも未開人なの?! もうそんな迷信が蔓延ってるの?!」
レナの憤慨はもっともだった。…だが、思い返せば、雛見沢が迷信に取り憑かれていたのはウィルス騒ぎのずっと前からだ。
雛見沢は文明の地であった試しなどないのだ。文明人のふりをしているだけで、ちょっと化けの皮が剥がれれば、すぐにでも無知蒙昧な迷信が顔を出す…。
「………魅音の表情を見る限り、…どうも冗談で済まそうって話にはなってないらしいな…。」
「…………………。」
魅音の俯きは返事なくしてそれを肯定した。
「も、もちろん私も無線で冷静になるように言ってるよ?! でも、なかなか治まってくれない…。」
「く、くそ…! 梨花ちゃんが収容されたということは、沙都子は今、一人であの倉庫小屋に暮らしてるわけあ。………万が一を考えると危なくないか?!」
「そうだね。沙都子ちゃん一人じゃできることにも限界もあると思う。…私たちのところに匿う方がいいんじゃにかな、かな。」
レナの提案はもっともだった。このまま沙都子を一人きりにしたら、迷信に取り憑かれた何者かにいつ襲われるかもわからない!
だが、沙都子を誰の家に匿うんだ?
魅音が言うには、沙都子はすでにウィルスに感染しているという噂がまことしやかに囁かれているという。
今の雛見沢は、口コミという原始的通信手段で支配されている。この通信方はあまりにデマが紛れ込みやすい。集団心理がそうだと決め込んだある種の思い込みを、尾ひれを付けて拡大し既成事実にしてしまう。
そうなれば、真実と無関係に沙都子は感染者ということになってしまう。そうなれば、沙都子を引き取った家も同じ扱いだ…。
言うまでもなく、魅音の園崎家は当初から沙都子の北条家と仲が悪い。……その魅音の家が沙都子を匿うというのは非常に難しいことだろう。
俺の家ならどうか。……お袋は理解してくれそうだが、偏執的なまでに未だ外部との接触を嫌う親父の理解を得られるとは到底思えなかった。
「……うん。みんなの家じゃどうせ無理だろうってのはわかってるよ。だから、もし沙都子ちゃんを匿おうってことになったらレナの家で匿うよ。……大丈夫。お父さんには文句なんか言わせないから。」
よくは知らないが、レナは家の家計を握っていて、本気になれば父親にもぎゃふんと言わせることができるらしい。
胸を張ってウチも大丈夫だと言えない自分が悲しかったし、どうせそうだろうと見下されていたことも悔しかったが、どうにもならない。…それに、今は下らないプライドは必要なかった。
「わかった。沙都子と接触できたら、レナの家に行くよう伝えよう。いや、むしろ何とか沙都子と接触をして、こちらへ呼びたいくらいだな。……魅音の話を聞く限り、沙都子のいる町会周りはどうもヤバそうだからな…。」
「あっちは信心深くて過激な神社部の幹部が多いからね……。でね、……実は、沙都子だけの問題じゃないんだよ。………場合によっては圭ちゃんやレナも危ないかもしれないんだよ。」
魅音の目がさらに鋭くなり、俺とレナを見比べる。
その目線の冷たさは、沙都子の心配をしながらも、自分だけは蚊帳の外だと思い込んできた浅ましさを、引き裂くものだった。
「先日も話したよね。例のウィルスが雛見沢土着のものかもしれないって噂。その話がね、だいぶ信憑性を帯びてきててね。古来から村人全員が感染してたんじゃないかって言うんだよ。」
「だから、それじゃおかしいだろ…! だったら昔から連日死者が出てなきゃならないぞ!」
「それでその、…そうだと言ってる連中の言い分が面白いんだよ…。そのウィルスは、この村の中にいる限りは安定していて無害だって言うんだよ。さらに言うと、この村にずっとずっと長く住み続けている一族には、生まれつきの免疫みたいなものがあって大丈夫だって話らしいんだよ。」
「…さっぱりわからねぇぞ。つまり何だ。……まさか、例えば他所から引っ越してきた俺やレナは、その免疫がないからとか言い出すんじゃないだろうな。」
「まさにそれだよ! 近年、雛見沢に引っ越して来た人間のせいで、そのウィルスの調和が崩れて、……その、村人全員のウィルスがおかしくなって、……えぇっと、……うぅん、」
「…まさか、魅ぃちゃんまでそのとんでもない話を信じてるわけないよね…?」
「もちろんだよ! こんな訳のわかんない話が通用するわけない!! でも、…なぜかみんな信じてるんだよ!! 私も訳がわかんない!! 普段だったら絶対こんな馬鹿な話は誰も信じないのに! なぜかここ数日、妙な話やデマが当り前のように通用して飛び交ってる! 私は初日からずっと無線を聞いてるんだけど、最近の村人はどんどんおかしくなってるんだよ…! 異常な生活で心の緊張がとかトラウマがとか、そんな甘っちょろいレベルじゃない! 明らかに嘘だろうデマだろうと思うことが当たり前のように横行し、それを誰も覆せない! 誰かがそれを否定すると、感染者扱いをされそうになる! すっごく気持ち悪いことになってるんだよ! 何かが変!! だから用心して!」
その魅音の必死な形相に、俺とレナは絶句する。
彼女が傍受したという無線を、俺たちは耳にすることができなくてさぞ幸運だったに違いない。
異常環境に置かれ、頂点までに達したフラストレーションと信仰を基礎にする不安感と恐怖は次々にデマを生み出し、生贄に誰かを担ぎ上げることでしか払拭できない段階に至りつつもあるのだ…。
魅音の形相を見る限り、それは今や致命的なレベルに至りつつあるようだった。
…………その時、俺は初めて知る。
俺たちが話している姿を見る村人の眼差しに、明らかに悪意が含まれていることを。
それは俺の気のせいではないらしい。レナもまたその気配を敏感に感じ取る。
「…………………圭一くん。…用心しよ。」
「そ、…そうだな。下らないデマのせいで疑われるのは気に入らねぇが、李下に冠ってこともあるしな…。」
「…うん。レナも圭ちゃんも無用の外出は避けた方がいいと思う。あと、くれぐれも一人で外出しないように。家のシャッターは閉め切ってね。……心無いことを言ってくる人があっても、どんなに悔しくても買い言葉を返さないこと。……いいね…?」
今や、時折感じられる悪意の眼差しは、すでに気のせいでは済まされるものではない。
外部との交流を断ち数百年を経た村の呪わしき習慣は、ほんの数年の文明開化ごときでは払拭できないということなのだ…。
俺とレナは、表情を堅くしながら魅音の忠告に頷くしかなかった…。
58本総一エ−34号
昭和58年7月7日
雛見沢地区災害派遣本部長
撤収命令(緊急)
災害派遣本部長は、直ちに災害派遣部隊を緊急撤収せよ。
ただし撤収に当たっては、国立感染症研究所の指示に従うこと。
1.命令
災害派遣部隊を国立感染症研究所の定める方法により、隔離地域外の指定された地域へ撤収させること。
2.理由
隊員4名の定時採血よりη173型ウィルスの陽性反応が検出された。
災害派遣部隊の現防疫装備では当該ウィルスに対して効果を持たないことが明らかとなった為。
58本総一エ−34号
昭和58年7月7日
第738装備実験中隊長
出動命令(緊急)
第738装備実験中隊は、第13種防疫戦装備にて直ちに雛見沢地区災害派遣本部長の指示する作戦地へ出動すること。
1.命令
第738装備実験中隊を、本日付で雛見沢地区災害派遣本部長の指示下に編入する。
実験中隊は本部長の指示する作戦地へ直ちに出動すること。
2.任務
隔離地域の治安維持活動。
3.備考
別紙規定に従い実弾射撃が許可される。
昭和58年7月6日
アルファベットプロジェクト理事会
雛見沢地区生物災害対策本部長
η173型ウィルスについて
本件ウィルスは、丙種脳寄生型ウィルスに区分されるものです。
ここで、丙種脳寄生型(以下丙種)についてご説明いたします。
丙種は、人体の脳に寄生するウィルスの仲でも非常に親和性が高く、また症状が特定しにくい為、近代までその存在が確認されていませんでした。
1948年から行われた国連の非公式調査では、人類の99%以上がこの丙種を脳内に寄生させているとしています。また、その存在は人類の起源にまで遡る可能性が指摘されています。
上記でも申し上げましたように、丙種は人体に非常に馴染み、宿主がその寄生を意識することはありません。ですので、今日一般でもよく知られるような、大腸菌などの体内微生物同じようなものと考えてよいでしょう。
ただ問題なのは、丙種は宿主の脳に対してある種の干渉を行う可能性が指摘されている点です。
丙種は、同じウィルスを寄生した宿主にはより友好的になり、異なる種類の丙種ウィルスに寄生した宿主には敵対するよう誘導すると言われています。
国連調査の結果、丙種に区分されるウィルスは数百種にも及び、その分布図は奇しくも、人種固有と言われてきたいくつかの傾向は寄生する丙種の個性によって生み出されているとすら考えられています。
つまり、各国・各人種の文化や性格等、社会的生活の規範は全て、丙種の間接誘導によって作られていると考えられるのです。
丙種の存在を世界で最初に発見したのは、ナチス政権下のドイツ人医師で、この発見を元に特定の人種への虐殺が主導されたと言われています。
国連の丙種秘密調査委員会は、丙種の撲滅を掲げましたが、その目標は民族浄化の引き金になりかねないという声が上がり委員会は混乱。その末、1955年に丙種の研究を永遠に禁じ、その研究記録を永遠に破棄するという採択がなされました。つまり、人類は丙種の寄生を永遠に受け入れ、その存在を知ること自体をも永遠に禁じたのです。
ではありますが、各国は秘密裏に独自で丙種の研究を進めていると言われています。研究交流はないため、各国の研究水準については不明です。我が国でも1960年代後半から、一部の医大グループ間で秘密の研究会が発足して研究を再開。それが今日の研究の母体となっています。
米国は今回の事件の原因が丙種によるものであることを嗅ぎ付け、研究を横取りする気でいます。米国の救援の名を借りた研究搾取には断じて応じるべきではありません。
また、この度のη173型は、丙種の中でも非常に劇的な症状を示す稀なものです。
すでに申し上げておりますように、本来、丙種は非常に穏やかに人体に馴染むものですが、η173型は感染から数十日以内に、劇的な人格変容を発症させます。
その最たるものは、攻撃性・不安感の助長です。
しかもそれを、心理的に自然に誘導していくという丙種の特徴を残したまま発症させるのです。
雛見沢地区の感染住人には、すでにその傾向が色濃く出ており、長い期間を置かずにある種のカタストロフ(集団暴動・集団虐殺)の傾向を示すでしょう。
本件手動を直ちにアルファベットプロジェクトに移管し、我が国の財産として慎重に調査すべきです。本件の研究は必ずや国益に貢献するものと確信しております。また本件による暴動の鎮圧は、超法的権限を持つアルファベット理事会にしかできません。
以上、ご勘案の上、明日の採択に望まれますよう深くお願い申し上げます。
国立感染症研究所
第13室 担当・長谷川
■7月7日(土) day 11
前原家などの、いわゆる外様を包み込む気持ち悪い雰囲気が色濃くなっていく中、さらに村人の不安感を煽る異変が起きた。
村人の不安な生活を、それでも支えてくれることで精神的な支えになってくれていた自衛隊が突然、村から姿を消したのだ。
給水車の前に長く並ぶのが嫌なお年寄りたちは、早い時間から列を作っていた。……だが、いつまで経っても給水車は現れない。
初めは何かの都合で遅れているのだろうと多少は寛容だった。
だが、今日までの自衛隊の配給が、いつも時間通りぴったりだったことがかえって仇となり、彼らの不安を掻き立てていった。
そして定刻をずっと過ぎても現れず、朝の行列はみるみる長くなり、……給水車がやって来ないことに対する怒りはやがて不安に変わり、最後にはある恐怖を突きつけた。
この噂にほとんどの人はショックを免れなかった
異常事態の村で理性を保つ最後の防波堤だったのが自衛隊の活動である。それが忽然と消えたのだから、それはつまり、この村が日本から切り捨てられたと見えてもおかしくなかった。
だが、自衛隊がいなくなったことを、不安に思うのではなく、隔離が解除されたということではないのかと楽天的に解釈した村人もいた。
彼らは村からの脱出を試みようとした。しかし、封鎖線のバリケードには異常が起こっていた。
バリケードの前で風さを行っていた白い雨合羽の隊員達に代わり、迷彩模様のもっとももっと厳めしい、まるで宇宙服のようなもので身を包んだ兵士たちが立ち塞がっていたからだ。しかもその背後には、なんと装甲車までがいた。
なぜ、村人たちはその姿を隊員でなく兵士と呼んだか。…それは、彼らの持つ銃があまりに物騒だったからだった。少なくとも災害救援の自衛隊員たちは銃など持っていなかった。
しかも彼らは、兵士たちの銃だけでなく、装甲車の上部ハッチにも重機関銃が設置され、その銃口を躊躇なく村人に向けていた。そしてその上で警告する。
「こちらは陸上自衛隊です。隔離地域内からの離脱は認められていません。速やかに自宅に戻ってください!」
それを見て、聞いて、彼らは確信した。
事態は激変したのだ。危険なウィルス騒ぎは今や自衛隊の手に負えないレベルまで進行し、彼らは村の救援を放棄して村を封じ込めようとしている…!
そこに生まれる感情は、救援を放棄した国への怒りより、そこまでに悪化している事態への恐怖の方がずっと強かった。
状況を説明してほしいと村人が食いかかろうとしたが、彼らは威嚇のために実弾を容赦なく発砲し、直ちに退去しなければ次は足を狙うと宣告。村人たちは蜘蛛の子を散らすように村に逃げ帰るしかなかった。
その後、噂には尾ひれが付き、実際に撃たれて怪我をした村人がいる、あるいは撃たれて死んだ、等と混迷を極めていった。…いや、下手をすると威嚇射撃をしたという話すらデマなのかもしれないが、もはやそれを確認することはできないし、する必要もない。それは拭えないデマ、つまり「事実」に昇格してしまったからだ。
しかも何かの妨害電波で村内の無線が突如、使用不能になってしまったのである。…よって、口コミ以外に連絡手段がなくなり、ますます事態は混迷を深めていく…。
その日、村内で初めて銃声が聞かれた。
噂が言うように、封鎖している隊員が村人に発砲したのものなのか、それとも村人が猟銃を発砲したものなのかはわからない…。
だが村中に轟き渡ったその一発の銃声は、村が昭和日本のモラルと治安から脱落したことを知らしめた…。
町会経由の連絡網で、自衛隊側の都合で救援体制にミスが出たこと。その為、救援の再開に時間が掛かるため、村人同士の互助で助け合うよう連絡が流れた。
この連絡が、これほど村に不安感が蔓延するまでに流れたなら、もう少し事態を改善できたのだろうか。今となってはもう遅いことだった。
自衛隊の食糧配給が途絶えたとはいえ、各戸には多少の蓄えもあるだろう。だが、今後どれほどの間、配給が滞るのかわからない。……村に充満するキナ臭い瘴気は、人々から次第に正気を奪っていく。
食料を求めて暴徒が押し寄せるかもしれないという恐怖に、商店街は連帯して店舗の武装化、自警団の結成に踏み切った。
商店街の入り口にはダム現場から拾ってきたバリケードが並べられ、「無期限休業します。御用のない方の立入を禁止します。どうしてもご入用の方は個別にご相談下さい」と張り紙が出され、昇天の主人たちが猟銃を構えて立ち番に入った。
さらにその脇には別の張り紙も出された。
「高津戸にお住まいの方はご遠慮下さい」
これは、高津戸に感染者がいるらしいという噂に基づくものだった。……だが、この張り紙の横には、これから感染の噂が増える度に、その地域を断る張り紙が増えていくことになる…。
自衛隊による町会区分の隔離がなくなったことにより、多少の交流が持てるようになったと思ったのも束の間。すぐに各町会青年団によってその隔離は引き継がれることになった。皆、自分の町会にはまだ感染者がいない、他所から人を来させなければ大丈夫と思っていたためである。
雛見沢は基本的に農業の村だが、古くに狩猟で生計を立てていた者たちもいて、猟銃を持つ者も少なくなかった。……あるいは、彼らの被害妄想を現実のものにするため、妄想と現実の境を打ち崩す力の強さなのか。
そう、今日は7月7日。七夕の日。
テレビをつければ、短冊に願い事を書いて笹に吊るそうと背伸びする園児達の可愛らしい姿が映し出されている。
なのに、雛見沢の七夕は、物々しいバリケードに感染者を拒絶する張り紙を貼り付け、男たちが猟銃を手に睨みを効かせる。……同じ日本の中のこととは思えなかった……。
深夜、お袋がやって来た。手には封筒が握られていた。
「圭一…。今ね、圭一宛の手紙が来たのよ。
「手紙? 俺宛…?!」
それをお袋から引ったくる。そこには、”圭ちゃんへ、魅音より”と記されていた。
こんな真っ暗な時間に何だろう。お袋が言うには、チャイムがあり、玄関へ行ってみたら扉の隙間に差し込まれていたのだと言う。
家までわざわざ来たなら上がっていけばいいのに。……それを避けて、手紙だけ置いておくというやり方に、一抹の不安感を覚えずにはいられない。
でも、最近の村を取り巻く異常さを思えば、魅音が慎重に連絡を取ろうとするのも何となく頷けた。
土着のウィルスがどうのこうの、オヤシロさまのお怒りがどうのこうの、という話はいつも最後には、引っ越してきた外様の家への疑いの目で締めくくられる。それを前原家も痛いぐらいに最近は理解していた。
園崎家の魅音といえど、白昼堂々と前原家に接触できないような、そういう状況になってしまっているということを、この封筒を開けずとも理解できた。
そして、その中身はそれでもなお現状認識が甘いことを鋭く教えてくれた。
「圭ちゃんへ、気をつけて! ウチの町会で、前原家と竜宮家を槍玉に挙げようという意見が強くなってる。もう本当に馬鹿げてることだけれども、彼らは誰かを生贄にあげないと恐怖感に押しつぶされてしまうところまで追いつめられている。そんなことしたって何の解決にもならないって反論できたのは最初の内だけ。数日前からそうであるように、少しでも反論すると、感染者を庇うのはお前も感染者だからだろうなんておかしな論法になっちゃって、リンチ話に誰もストップがかけられない! ウィルス派とオヤシロさまの祟り派が互角だった内は、双方が支離滅裂な論争をするだけだから良かったんだけど、最近、オヤシロさまの祟り派が伸してきてね。全体をリードするようになりつつある。婆っちゃが元気だったらこんな暴走は許さないんだけど、実は数日前に高熱を出しちゃって起き上がることもできないんだよ。一部の親類はそれを感染ではないかと吹聴していて、私の発言力もすでに危うい。いや、私自身、下手をすれば生贄にされかねないよ! そんな立場の私には、これ以上、圭ちゃんやレナの家を庇う発言は難しい。」
……魅音の、文字が次第に焦り気味になり歪み始めるのがわかる。どんな心境でこれを記したのか、その胸の内を聞かずとも理解できた。
「これ以上、雛見沢に留まることは危険だと思う。少なくともこのまま自宅に閉じこもっていれば私たちはいずれ必ず殺される! だから明日の夜に村から脱出しようと思う。周囲は自衛隊に封鎖されているけど、園崎家は秘密のトンネルを持っていて、その内のひとつが封鎖線の外に出口を持ってるの。このトンネルは私と婆っちゃしか知らない。婆っちゃの回復を待ちたかったけど、もう無理みたい…。さっき婆っちゃに、自分を置いて逃げろと言われたところ…。……婆っちゃはこの事態は、古代の伝承の、鬼ヶ淵の沼より鬼があふれ出し〜の再来だと言ってる。今に村人たちに鬼が取り憑き、村人が村人を殺し出す地獄絵図になると! 伝承ではオヤシロさまがそれを治めてくれるんだけど、治めてくれるまでの間、血みどろの争いが繰り返され、大勢の死者が出たと伝えてる!
私 た ち は 殺 さ れ る よ !
それで本題。今夜中に圭ちゃんの家族に話して準備をさせて。明日の夜、迎えに行くからみんなで脱出しよう。持ち物は現金、保険証や通帳、印鑑類。あと、重すぎない範囲でリュックサックに着替えや日用品を詰め込んで。手荷物は厳禁! 絶対に両手は空けること。靴はスニーカー等の履きなれた歩きやすいもの! 同じ手紙はレナにも送ってある。……圭ちゃんにはあまりに突拍子もないことで、多分現実感が伴わないと思う。…でも信じて! 私は御三家の集まりや町会の会合、そして無線で情報を集めていたからこの村を取り巻く異常さがどれほどおかしいかよくわかってる!! 私と同じ危機感を持って! 圭ちゃんが私を信じて全ての行動を供にしてくれても、私は自分と圭ちゃん、レナ、その家族が全員無事で雛見沢を脱出出来る確率は10%なら高い方と見積もってる。」
魅音の手紙はそこで終わりだった。
な、……何なんだよこれはッ…!!
飲み込めない事態の大きさに両手で頭を抱える。だが魅音はそれを見越した上で、自分を信じてくれとこの手紙に託している…!
3つも深呼吸をすれば、魅音の言っている異常事態が決して的外れでないことは理解できた。最近の雛見沢を包む空気の澱み方を思えば決しておかしな話ではなかった。ここに書いてあるのは紛れもない事実なのだ…!
そして同時に、沙都子はという不安感も持った。
自衛隊に収容された梨花ちゃんはともかく、ひとり村に残されている沙都子についてが、この手紙には一言も出てこない。出てくるのは俺とレナの名だけだ。
……魅音が部活メンバーのことを忘れるわけがない。沙都子のことを書き漏らすわけはないのに! 何でだ?! 嫌な想像が次々と襲い掛かり俺を窒息させようとした。
そうだ、魅音は言ってた。沙都子を生贄に捧げればオヤシロさまの怒りが鎮まるとか本気で思ってる連中がいると言っていた。
まさか、……沙都子……?!
がばっと立ち上がった時、本棚の脇に立てかけてあった金属バットが倒れて俺の足下に転がった。まるで、自分も連れて行ってくれというかのように。
…その時、銃声を聞いた。
平穏な普段なら、子供がふざけて鳴らした爆竹かロケット花火だとでも思うだろう。だが、こんな異常状況下だからこそ、俺は平和ボケした勘違いなどしなかった。
カーテンを開け、夜の闇に目を凝らすと、再び銃声を聞いた。音はさっきより近い気がした。それに混じり何を言っているのか分からない怒号も聞こえた気がした。
突然、連打されるチャイム音!
ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポン!!
俺の頭の中から不要なノイズが全て消え去りクリアになる。呼吸の必要すらなくなった気がして、その真空状態の中、足下に転がる金属バットを拾うと玄関へ駆け下りていった。
玄関前には、怯えるお袋と、台所から包丁を持って駆けて来るの姿があった。
……このような物騒な対応をする親父を、ついさっきまで異常だと思っていたが、今の瞬間に限ってだけは逆に、状況を適切に理解できていると思った。
お袋が扉を開けてもいいものかと親父の様子をうかがう。親父は下がっていろとお袋を下がらせる。
チャイムは門のところのボタンを押したものだ。その押した人物は、そのまま門内に入り今や扉の前にまで至っているようだった。
そして、ダンダンダンダンダンダン!と激しいノック!
「だ、誰ですか!」
親父が叫ぶ。返事はすぐにあった。
「こんばんは、竜宮です! 助けてください!」
「レナだ!!」
俺は親父の後から飛び出す。レナのその声色から、今すぐにここを開けなければならない緊急事態を感じ取ったからだ。
たとえ村人が、互いを疑い合い殺し合うような異常事態になっても、……俺たち部活メンバーは互いを絶対に疑わないッ!!
扉を開けると…、
「ぅ、うわ?! み、魅音?! 大丈夫かッ?!」
「大丈夫なんかじゃない! 早く止血を…!」
レナに背負われているのは、血塗れになって息も絶え絶えの魅音だった。それを見て、大丈夫か等と問い掛けるのは時間の無駄、社交辞令もいいところだ。レナはそれを一喝すると、魅音を玄関に運び込んで床に寝かせる。魅音は左肩に大けがをしていて服を血で真っ赤に染めていた。
…その服の色は本当は黄色だった。私服の魅音が好んで着るシャツで、学校を終えてからこの清々しい黄色いシャツの魅音に会うことは、学校での時間に負けないくらいに楽しい時間が再び始まることを感じさせ、とてもうきうきとした気持ちにさせてくれたはずなのに…。その黄色が、真っ赤に染まって塗りつぶされている。
「か、母さん!! 手当をして! 何かタオルを…!!」
魅音はハンカチで傷口を押さえているが、血は溢れ続けているようだった。…絞ればぼたぼたと血を滴らせるに違いないそのハンカチが、本当はどんな色でどんな柄で、魅音のお気に入りだったかどうかんて、もうわからない。
「い、一体何があったんだ…?! レナちゃん、これは一体…!!」
親父が包丁を隠さずに言う。レナは、何から説明したものかと面倒そうに顔を歪ませる。口で悠長に説明している時間すら惜しい、そう表情が語っていた。…だが説明は必要だろうか。魅音を背負った際に全身を汚した真っ赤な血は、彼女が語ろうとするどんな言葉よりも事態の急を教えてくれた。
そして、その説明はレナが想像するどんな説明方法よりも短く説明される。玄関の扉に凄まじい音がして銃痕ができたからだ。
銃痕ができた?
1秒の間髪を入れずに事態が理解される。撃たれた…!! 誰かが、この玄関へ向けて発砲したのだッ!!!
「「ぅ、うわあああぁああああぁッ!!!」」
その発砲に弾かれるように、レナが身を翻す。魅音を背負いながら、もう片方の手で持ってた大きな鉈を振り上げながら。
俺もバットを手に裸足のままレナを追うように飛び出す。その背に親父が俺の名を呼ぶが聞かなかった。
「レ、レナぁああぁッ!!!」
レナが、門の前に立つ誰かに飛びかかり、鉈で容赦なくその脳天を叩き割った。
それが信じられないような、それでいて呆気ない光景。さらにレナはもう一人いた男に対し、大きな鉈を軽々と振り上げ、凄まじい投擲で投げつける! それは月の明かりに銀色の反射を閃かせながら飛んで男の顔面に叩き込まれる。小さなドス黒い飛沫を散らしながら。男が短い悲鳴をあげる。
俺の脳には、何をするんだレナ!という。通常時の社会モラルから紡がれる言葉と、…レナにここまでの反撃をさせるに値するどれほどの脅威だったのかということを探る2つが入り混じった。
レナは顔面に鉈を受けてのた打ち回っている男に歩み寄ると乱暴に鉈を引き抜き、何度も何度も東部に鉈の肉厚の刃を叩き込む。男は何度かやめてやめてと言葉を吐いたが、レナはまったく耳を貸さなかった。
そして動かなくなったのを見届けた後、言い放つ。
「……ひ、…人を殺すってことはね、自分も殺されることを覚悟するってことだよ! 甘えるんじゃないッ!!」
まるで、その言葉は俺に対して言われたかのようだった。
…多分、レナから見たら、俺の表情はこの緊急事態をまるで理解していない平和ボケが浮かんでいたに違いないのだ。その時、レナが振り返り叫ぶ!!
「そっちの男、生きてるよ!」
「…え、……ぁッ、」
最初にレナが倒した男、…つまり、家の玄関に銃を放った男が額を押さえながら立ち上がろうとしている。
あれだけの大怪我を負わせたならもう許してもいいのでは…。そう思うのは俺の平和ボケのせいなのか。…レナはまったくそうは思わなかった。男は片手で額を押さえ、もう片手には未だ猟銃を持っている! 銃の引き金を引く力があるならば、この男の脅威は未だ拭われていない…!!
「うらああああああああぁああぁッ!!!」
再び、肉厚の鉄塊が振るわれた。それは今度こそ男の頭部を叩き割る。
きッとレナが振り返り睨む。それは俺に向けたもの。……この男に近いのはレナではなく俺だった。レナは、俺にその男を打ち倒せと言ったつもりだったのだ。それを俺がぼんやりしていたからレナが襲ったのだ。
相手は銃だった。相手が素早かったら、レナの位置からは何もできなかった。だから俺に託したのに、俺は事態を未だ飲み込めてなくてぼんやりしていた…。
それが、その険しい表情からわかるから、咄嗟に謝ってしまう。
「ご、………ごめん……!」
「いいよ! それより早く!」
レナは男の頭部から鉈を引き抜き、もう片手で猟銃を拾う。
「銃はね、例え撃てなくても相手を怯ませることができる。」
「ぅ、………そ、そうだな…。」
「それより、速く逃げる準備を!!」
…え、魅音の手紙には明日と書いてなかったっけ…?そんな平和ボケはもうたくさんだッ!
「あ、…あぁ!! でも教えてくれ、一体何があったんだ?!」
レナと玄関に駆け戻りながら聞く。
「…圭一くんのところにも手紙が来たでしょ? 魅ぃちゃんは私の家にも同じ手紙を持ってきた。そこで夜回りの自警団に見つかって撃たれたんだよ! 魅ぃちゃんが何かしたわけじゃない。ただレナに手紙を持ってきただけなのに撃たれた…! 竜宮家は感染患者だから、そこに接触するのは感染者の仲間だって勝手に決め付けられて、一方的に撃たれた!! 魅ぃちゃんが彼らに対し何かしたわけじゃないのに、構わずに撃たれたッ!!」
レナの目は怒りと悲しみでいっぱいになって、涙をぽろぽろと零していた。そんな激情のレナに掛けられる言葉などない…。
玄関に戻ると血塗れの魅音にはタオルが与えられ、お袋と一緒に傷口を押さえているところだった。
お袋はおろおろするばかり。…家にある常備薬は、せいぜいバンドエイドと頭痛薬、風邪薬が関の山だ。銃で撃たれた傷の治療ができる薬なんてあるわけがない!
戻ってきたレナの服に増えていた返り血と、それに染まった鉈、そして今の騒ぎと、レナが持ってきた猟銃を見て、親父は状況を全て理解したようだった。
…親父が全て理解したことをレナもまた理解し、言った。
「おじさま、今すぐここから逃げなければ死にます。……私のお父さんはもう殺されました!! さっき! 魅ぃちゃんを助けようとして、…あいつらは躊躇わなかった! カラスか何かを追っ払うかのようにいとも簡単に撃ったッ!! 信じられない…。信じられないッ!!!」
その叫びに、魅音が弱々しく口を開く…。
「…………ごめん……レナ。……私がドジらなきゃ、…………。……本当に………ごめん……。」
「…魅ぃちゃんは悪くないよ。そしてレナは誰も恨んでなんかいない。私が恨むべき人間は、全員然るべき精算をさせたもの。もちろん、魅ぃちゃんを撃った人にもね。」
「………………………。」
…レナは、ついさっき、目の前で魅音を撃たれ父親を殺され、自らの命も脅かされる地獄から自分の力で脱出してきた。
そこを経たレナの、日常では垣間見ることも叶わぬその表情が、…どれほどの地獄だったかを、見ぬ自分にも理解させる。
「………とにかく、…すぐに逃げる準備を……。もうすぐみんな押し寄せてくる…!」
なぜ、どうして、ここに村人が押し寄せてくるのか。そして何をしようというのか。それを問い掛ける必要は、血塗れの魅音の口から出る言葉に限り、なかった。
だから親父は混乱をぐっと飲み込んで押さえ。一回咳き込んでから聞いた。
「に、逃げるって、…どこへ…!」
「魅ぃちゃんの家の秘密の地下に、村人は誰も知らない隠しトンネルがあるんです! そこまで逃げ延びれば、何とかなるかもって…!」
「……げほ、…げほ…!」
レナが魅音に代わって、俺宛の手紙にも書いてあったことを説明する。魅音は説明を引き継ごうとしたのだろうが、咽こんでしまった。
「父さん、母さん、…一刻の猶予もないよ…! 逃げよう!」
「……そ、…そうだな、そうしよう!」
親父は差し迫っている緊急事態を把握し、平均的な社会人として持つ日常のモラルを捨てるために数瞬を経てから頷いた。…だが、お袋は即断できなかった。
「で、でも! 逃げたらこの家はどうなるんですか!? 何が起こるか分からないのよ?!」
暴徒化した村人がやって来たら、放火くらいのことはされるかもしれない。…でも、そこまでわかっているならお袋の躊躇は矛盾していた。放火すらしかねない暴徒がやって来てるというのに、ここに立て篭もって何ができるというのか。自分たちがどういう目に遭わされるのか…!
…お袋は決して馬鹿じゃない。いや、だからこそ頭が空回りして混乱してしまったのかもしれない。今この場においては、隔離の当日から神経質だった親父の方がむしろ冷静といえた。
お袋はそれでも何とか冷静さを取り戻し、通帳類を入れたハンドバッグだけを取りに戻る。親父はレナから猟銃を受け取っていた。・・・・・・よく似たタイプの空気銃を持っていたことがあるから扱いはわかると豪語するが、それが頼もしい言葉なのか、頼りない言葉なのかは聞き手によって異なるだろう。
魅音は、自分が足手まといになるから置いていけと言っていたが、レナはその頬を容赦なく叩く。
「ダメだよ! 魅ぃちゃんじゃなきゃ、秘密の地下はわからない! 軽々しく責任を放棄しないで!! 私たちを導いてッ!!」
「……はは、………レナにかかっちゃ、…おちおち死なせてもらえないや…。」
魅音は悪態をつく程度には気力を回復できたようだった。
だが、傷口をいつまでも放置はできない。然るべき医師に診せなければ大量の出血で大事を免れなくなるだろう。
「…ねぇ、魅ぃちゃん。………問答してる時間はないから素直に教えて。」
レナが乾いた表情のまま、睨みを効かせて魅音に聞く。
「どうして沙都子ちゃんを抜きにして脱出しようなんて言うの?」
「……そ、そうだ! それは俺も思ってた!! 沙都子はどうしたんだよ魅音! 状況的には俺やレナよりもずっとまずいんだろ?! 沙都子だけ置いてなんかいけないぞ!!」
「………………………沙都子は…。」
魅音が言いよどむ。だがレナはその誤魔化しを受け付けなかった。
「死んだなら死んだってちゃんと言って…!! じゃなきゃ私は、沙都子ちゃんは生きているって信じるッ!!」
俺は思わず目を堅く絞るように閉じてしまう…。その最悪の想像は俺の脳裏を一度や二度ならずかすめていた。……魅音は沙都子のことを絶対に忘れやしない。なのに手紙からは沙都子の名が抜け落ちていた。だとしたら、考えられる理由はただひとつ……! そのただひとつは俺だって思いついていた。でもそれを口にできなかった…!!
「……さ、………沙都子は、…………。……さっき、暴徒に連れ去られたらしい…。話では鬼ヶ淵に引き連れてったって…。伝承の生贄の儀に沿って、三日かけて沈めて殺す気らしい…。」
「生きてるのねッ?!」「生きてるんだなッ?! 少なくともまだッ!!」
俺とレナが同時に魅音に食いかかる。
だが、魅音が沙都子を見殺しにしようとしたことを責めようなんて馬鹿な考えはこれっぽっちも浮かばなかった。……魅音は、園崎家の立場として聞き及んだ情報を冷静に判断して、どうやっても教えられないと判断したのだ…! 苦渋の末にだ!
「……どうしようもない…! どうしようもないんだよ…!! ううぅぅ! 町会役員たちが音頭を取って、神社部と青年部、防犯部がさらに村の有志も加えて100人以上に膨れ上がってるらしい!! 防犯部には猟友会も合流してて少なくとも20丁異常のショットガン、ライフルで武装してる! みんなオヤシロさまの名を連呼しながら狂気に取り付かれてる暴徒なんだよ!! 連中は容赦ない! 沙都子を庇おうとした村人を躊躇なく射殺してる!!」
「魅ぃちゃんや、私のお父さんのように…?」
魅音は涙を零しながら悔しそうに頷く。それを食い止められなかった自身の無力さに涙し、そしてこの狂気の村の中で正義を貫いて命を失った村人のためにも涙を流した。
「………何でわかんないよッ!! みんなつい3日前までは普通だった。冷静だったッ!! この72時間でみるみるおかしくなっていった! みんな目が血走ったようになって冷静さを失っていった! 自衛隊がいなくなったからおかしくなったんじゃない! その前からもうおかしかったんだよ!! 今や怖いのは殺人ウィルスなんかじゃない、村のみんななんだ…ッ!! …………私、……思うんだよ。………このウィルスってさ。……人を死に至らしめるんじゃなくて、人を狂気に駆り立てるウィルスなんじゃないかなって。……そして村人を次々、鬼に変えていって、……オヤシロさま伝説をもう一度なぞり直すんだよ…! この事態を何とかできるのはオヤシロさましかいない! そしてその生まれ変わりの梨花ちゃんはいない! それにそもそもオヤシロさまは神さまなんだよ? 人間じゃないんだよ?! 私たち人間には何もできないんだよ、何もッ!!!」
「………落ち着け、魅音……!」
俺はしゃがみ、傷に障るのを承知で、魅音の頭を力強く抱き俺の鼓動を聞かせてやった…。
「…………ありがとうな。…俺やレナが事態を把握できずのんびりしている間にも、魅音は村の裏側で、妙なデマを押さえるために色々と苦労していてくれたんだよな…。……だから、きっと今日までこの村は狂気に飲み込まれなかった…。……魅音の頑張りがなかったら、……いずれ迎えていたかもしれない惨劇の今日は、…とっくに俺たちを飲み込んでいた。…………だからありがとう、魅音。」
「…………………ぁ………ぅ、……………ぅああ…ああぁああああぁあぁあぁ…。」
……園崎家の最深奥に位置し、俺たちを同じ子供の立場でありながら、魅音は今日まで戦った。ぎりぎりの淵まで村が狂気に飲み込まれることに抗い、戦ってきた。
それを認められ、………魅音は圭一の胸で涙を零した。それはさっきまで流していた涙とは少しだけ違うものだった…。
「…レナ。魅音を責めたい気持ちもあるだろうが…、」
「責める気なんかないよ、それどころか朗報だと思ってる。」
レナはあっさりと言う。……不思議なヤツだ。レナってヤツは鉄火場になればなるほど。修羅場になればなるほど冷静になっていく気がする。……例えるなら青い炎。それは一見静かに燃えながら、赤い炎よりもずっと高い温度で燃え盛るという。…だから俺も応えた。
「あぁ、そうだな。間違いなく、こいつぁ朗報だぜ。」
「うん、朗報だね。だって、沙都子ちゃんは生きてる。」
「しかも、72時間は生かしておいてくれるというオマケ付きだ。確かにこいつぁ朗報だぜ。」
ずっと握り締めていたバットが、ぼぅっと熱を帯びた気がした。……それはまるで、バットを灼熱の炎の中にくべ、その熱気が手にまで伝わってくるような、ジリジリと伝わる熱さ。
…あぁ、わかってるぜ、悟史。お前まで本気になられたら怖い物ナシだぜ。コイツでぶん殴られたヤツぁ、頭部が原型留めねぇぞ…!
「……け、圭一、まさか、……沙都子ちゃんを助け出すつもりなのか…。」
「父さんは、母さんと一緒に魅音を連れて裏口から逃げて。あとは俺とレナでやる。」
「け、…圭一…!」
「おばさま、ごめんなさい。魅ぃちゃんをよろしくお願いします。そして目を離さないでください。魅ぃちゃんはおいしいところだけを持っていこうとするズルっ子だから、のこのこと私たちを追いかけて来るかもしれない。大けがをしてて辛いにも関わらず。」
「……………ちぇ、……人を足手まとい扱いにしてさ……。」
今の魅音の状況を見る限り、とてもそんな余力があるとは思えない。…でも、俺たちの背中を黙って見送るような薄情者では断じてありえない! 必ず魅音は俺たちの後を追い加勢しようとするだろう。例え両足がもげていたとしてもだ…!
だが、魅音は死なせられない。俺たちは仲間一人失わないし、失わせない。魅音は俺たちのリーダー。失えば俺たちみたいなじゃじゃ馬を統率できるヤツはいなくなる。
…それに、村から脱出する方法を知る唯一の人物なんだからな。
「け、………圭一………!!」
「みっともない顔すんなよ母さん。こういう時は火打石で見送るもんだぜ…! 父さん、後で園崎家で会おうぜ…!」
「け、圭一たちも一緒に逃げるんだ…! たった二人で立ち向かったところで…、」
「おじさま、お気持ちはうれしいけど、…もう手遅れなんです。ほら。」
レナが玄関を開け放つと、大勢の人間が近付いてくる雑踏と、不気味な経文でオヤシロさまの名を繰り返す声が聞こえてくる。もたもたし過ぎたのだ…!!
全員が健在で全力で疾走できたなら、親父が言う通りこの場を逃げ出す選択肢もあっただろう。…だが、部活的思考で慣らされていない親父では考えが一手鈍い。
…重傷の魅音がいる以上、その魅音を連れて離脱するには時間稼ぎが必要なのだ。そして、ここまで追い詰められてなお覚悟が決められない一般人の親父たちでは戦力にならない!
魅音に徹底的に鍛え上げられ、瞬時に状況が把握でき、リミッターを解除出来る部活メンバーでなければ戦力にならないのさ…!!
「行こっか。圭一くん…!」
「そうだなぁ、そんじゃちょっくら行ってくるわ!」
レナと圭一が爽やかに掛ける言葉は、まるで朝の登校を思わせる。
でも鞄も持っていなかった。その代わりに鉈と金属バットを持っている。そして二人は制服も着ていなかったが、……いや、制服は充分かもしれない。この紅色に狂乱した血塗れの深夜には、二人の血染めの服はこの上なく相応しい制服だったから。
俺たちは玄関を出て扉を閉める。その隙に逃げろという無言の言葉を込めて。
門の向こうには、怪物たちの吐息を思わせるような懐中電灯の明かりの柱が何本も揺れている。皆、口々にオヤシロさまの名を繰り返しながら、ますます近付いてくる。人数は……。ウチのクラスと同じくらいかもしれない。
「ひゅう…。20人ちょいかぁ。…連中、勝てると思ってるかねぇ?」
「思ってるんじゃないかな。まぁ、素人なら20人も群れればそう思うだろうね。あはは。」
「……馬鹿な連中だぜ。…穏便済ましてりゃ、もう少し永らえただろうによ。」
「でもあいつらは間違いを犯した。」
「あぁ、犯した。魅音を撃った! 沙都子をさらった!
我 が 部 に 手 を 出 し ち ま っ た !!
こいつぁ絶体絶命のとんでもないミステイクだぜッ!!」
俺とレナは滑るように走り、左右の門柱に身を潜める。その軽やかな仕草はまるで豹が獲物を狙うが如し…! それは断じて、襲われる側が窮鼠猫を噛む仕草ではない。この状況では、…いや、二人のこの余裕では、どっちが獲物かわかったものじゃない!!
「何でだろうね。私たち、これだけの人数を相手にするのに、全然怖くないね。」
「それは確かに不思議だな。どうしてだろうな。」
もしや夢や白昼夢の世界が実在するならば。…俺たちはどこか別の世界で、彼らよりももっともっと強大で恐ろしくてはるかに人数の多い相手と戦ったことがある。それでも自分たちは圧勝したッ!! だからこの程度のヤツラに遅れを取る気がまったくしないのだ!
「ねぇ、圭一くん。さっき魅ぃちゃんの話を聞いてさ。圭一くんも朗報だって言ってくれたけどさ。私は他の意味でも朗報だ、って思ったよ。」
「何だよ、他の意味って、面白そうだから聞かせてくれ。…いや、あるいは俺、もう気づいてるか?」
今、俺が浮かべている表情を、レナもまったく同じに浮かべ、不適に笑ってくれた。
「圭一くんの場合は、気付いてるってより、別にそんなのまったくどうでもいいって感じかな。」
「へへへ、教えてくれよ。レナにとってのもうひとつの朗報ってヤツをよ。」
「あは、だってさぁ。敵は町会神社部と青年部と防犯部で、だいたい100人ちょっとなんでしょ? それでさらに猟友会が加わって鉄砲が20丁以上。」
「……やれやれ、まったくこいつぁツイてるぜ。」
敵 が 1 0 0 人 程 度 だ っ て ん だ か ら な !
「まったく足りちゃあいないねッ!!」
「俺ぁ、てっきり村全部が敵でよ、雛見沢2000人を丸々ぶっ潰すつもりだったから、あんまりの少なさに拍子抜けしちまってたところだぜッ!!」
「100人を72時間で? そして今ここにいるのが20人?」
「馬鹿にしてやがるぜ、まったくもって馬鹿にしてやがるぜ! 本気の俺とレナを相手に、100人を72時間でだって?!」
「むしろ足りないね。」
「やっぱりてこずる?」
「…ばぁか。違うだろ?」
くすくす。二人して笑い合う。魅音に上等を決めてくれた暴徒ども20余名が近付いてくる。そしていよいよ攻撃圏へ……!
「さぁてお楽しみだぜッ!! 72時間、たっぷり楽しませてもらおうじゃないかッ!!」
「沙都子ちゃん、待っててねッ!!」
紅色の惨劇の三日間が、今、幕を開ける……!!!
「…と、いう出だしで始まるのよ? ねぇ? 面白そうでしょ? こんなゲームだったら次のコミケも大評判間違いなしなんだから! くすくすくす!」
鷹野の姿はJR武蔵野線吉川駅のマクドナルドにあった。
せっかく熱々の揚げたてポテトは、鷹野の熱弁を聞かされている間にすっかりぐんにゃりとへこたれて香ばしさを失ってしまっていた。
「それでねそれでね! 前原くんとレナちゃんが、それぞれの武器で暴徒化した村人100人相手にバッサバッサ! 今流行りの戦国集団格闘みたいなノリで大暴れするのよ? そうよねタイトルは『ひぐらし無双』とかどうかしらぁ?! きっと受けるわよ!! あぁ、それともどうかしら?! 部活メンバーの力に覚醒してしまった前原くんとレナちゃんは、他人の視界が覗けるようになっていまうの! 名付けて視界ジャック!! その力を使って、ゴルゴ級の腕前を持つ猟友会の狙撃手が徘徊する村の中を潜り抜けて沙都子ちゃん救出を目指すの!! 難易度は激ムズでまさに試練! そうね、タイトルは『ひぐらし試練』 いいえ、『ひぐらしSIREN』とかどうかしら?! うぅん、それよりももっと一般向けに、感染した村人たちが徘徊する村を、理不尽なパズルを解きながらクリアしていくアクションホラーアドベンチャーはどう?! ひぐらしデイブレイクの続編だし、『ひぐらしアウトブレイク』とかどうかしら?! 通信機能を使って、遠くの人たちと連携しながら、村から脱出するのよ!! ね? ねぇ?! 面白そうでしょぉ〜!!」
「……はぁ、…まぁその、……持ち帰って検討してみますので…。」
「えぇえぇ、ぜひね!! きっと黄昏フロンティアの皆さんも面白がってくれると思うわよぅ!! くすくす、もちろん真の最終ボスはこの私、鷹野三四!! この作品の世界で、私は神として君臨して大暴れなんだから〜ン!! 次のコミケでは絶対に話題作になるわよー! きっと2chには私を倒すための攻略スレが立つわね! あぁん、私を倒すためのスレがどんどん伸びていくぅ〜!! くすくす、ゾクゾクゥ!!」
……延々と数時間も押し売り新企画のプレゼンに付き合わされる黄昏フロンティアの秋山の顔にはすでに疲労が色濃く浮かぶ。
ちょっとサントラのブックレットに寄稿をお願いしただけだったんだけどなぁ…。何でこんなにもおかしな話になっちゃったのかなぁ…。この熱弁はいつ終わるんだろう。お腹空いたなぁ……。
「これは素敵な作品になるわよぅ!! 黄昏フロンティアさん!! ひぐらしデイブレイクの次回作、ぜひお願いね?! さもないと、…………吉川一帯が隔離閉鎖されちゃうんだからぁん、くすくすくすくす…!!」
高架下のマクドナルドに響く爆音は、上を走る武蔵野線の音とは異なる。
秋山がふとガラスの向こうのバスターミナルを見やった時、そこには低空に降り立つ迷彩塗装のヘリコプターが、チラシなどのゴミを旋風で掻き回す姿があった…。
「こちらは陸上自衛隊です!! 本日1500より吉川市内の県知事が定めた地域は防疫隔離されました。住民の皆さんはご自宅へ待機をお願いいたします!! 繰り返しますッ!!」
<おしまい>