◆入江京介(解除条件:なし)
市民健康診断は、私たちの研究を進める上で非常に有意義なものであった。
一定年齢以上の住民のみが対象とは言え、大勢の雛見沢住民を同時に検査することができる。
……研究所が表向き、診療所をやっていることの最大の利点であった。
また、色々な根回しから、村人の遺体を独占的に検死解剖することもできた。
……医学を学問と捉える者にとって、これほど恵まれた環境は他にないに違いない。
故高野氏が残した研究資料の追試は順調に進んでいる。
……個人の研究とは思えないくらいに先見性のあるその内容は、徐々にその全貌を明かしつつあり、改めて故人の研究の偉大さを思い知らされるのだった。
「失礼します、所長。」
「……あぁ、鷹野さん。お疲れ様です。」
「先ほど東京から、残りの検査結果が郵送されてきました。こちらに置きますわね。」
「ありがとうございます。……いよいよ面白くなってきましたね。」
「くすくす。この面白さを共有できてとても嬉しいですわ。」
…鷹野さんは、私の補佐を努めてくれている陸自から出向している人間だ。
でも、その雰囲気は、私が知る自衛官のイメージとは程遠い。
……私たちの研究が、外見的にも事務的にもあらゆる面から隠蔽されているように、…彼女の正体もまた隠蔽されているのかもしれない。
…この鷹野という名前も、おそらくは偽名に違いないのだろう。
私は一介の医師であり、研究者に過ぎない。
鷹野さんのサポートがなければ、入江機関の長などとても務め切れないのだ。
彼女は「東京」のクライアントたちとのパイプ役であり、私の補佐であり、…また、雛見沢症候群について、非常に精通した研究者でもある。
……彼女の存在は、必要不可欠だった。
…そう思えば思うほど、入江機関ではなく鷹野機関にして、彼女が所長の座に着いた方が正しかったのではないかという気になってくる。
だが、そもそも、私が声を掛けられた時に説明されている。
…私のクライアントは、機関の長に民間人を据えたがったからだ。
そのため、彼らはその条件を満たせる私を探し出し、所長に祭り上げたのだ。
……自分が雛壇に飾られているだけの存在の自覚は、多少はある。
だが、私だってただ飾られているわけではない。
極めて珍しい奇病の研究を預けられたのだ。
私だって研究者だ。知的好奇心が疼く。
クライアントの目論見は別にして、雛見沢症候群の謎を解き、人類が初めて知る神秘に最初に辿り着く人間の一人になりたいという欲求はあるのだから。
「…雛見沢症候群という寄生虫感染症がほぼ間違いなく存在するという、浮かし彫りの情報はいくらでも集まるのに、…原因となる病原体が発見できないのはとても悔しいですね。」
「そうですわね。電子顕微鏡を使えばあっさりと見付かるだろうという期待も少しはしていたもので。」
光学顕微鏡では見ることのできない、極小の存在、ウィルス。
それを知ることのできる電子顕微鏡の発明は、医学界にとって非常に重要なことだった。
だが、非常に高価なものなので、個人が所有できるものでは断じてない。
故高野氏は手記の中で、電子顕微鏡なら発見できる存在に違いないと予言していたが、それは外れたということになる。
鷹野さんも電子顕微鏡があっさりと正体を暴いてくれると楽観していたらしく、数々の検死体から何も発見できないことに落胆していたこともあった…。
実はここに来て、私たちの研究は最初の山を迎えたらしく、数週間前から研究は座礁していた。
……そのため、今後の進め方を少し考える必要があった。
「……となると、極小の極小なのか。あるいは、検体そのものに問題があるのかもしれません。」
「と、申しますと?」
「例えばですが、野生のネズミの体に多数のノミが寄生していることはご存知と思います。ですが、ネズミの死体を調べたところでノミを見つけることはできません。宿主が死んだ時点で寄生虫であるノミの生活基盤も崩壊するからです。」
「宿主が死ねば、寄生虫にとってそれは、地球が滅んでしまうのと同じこと、というわけですわね。」
「そうです。滅びた後の地球を調べても、人類を見つけることができないのと同じです。」
「……ということは、滅ぶ前の地球を調べればよい、という話になりますわね。くすくす。」
「そうですね…。ただ、滅ぶ前の地球には人権があります。生きている内に調べることは難しいでしょう…。」
生きている人間の脳を調べる。
…例え隠語で語ったとしても、それはとても重い意味を持つものだ。
医学的に言えば、調べればわかること。
……だが、人の世に生きる私たちには、人の世のルール、倫理がある。
その狭間で、私たちは医学に貢献していかなくてはならない…。
かつて、私が人類の幸福のためにと、精神外科の道を突き進んでいたことを思い出す。
……過ちだったとは思わない。
…だが、倫理という概念が果たして私を許すのか。
それはわからなかった。
いつの日にか地獄の閻魔が私を裁くだろう。それが無罪であっても有罪であっても。…私は甘んじて受け入れるつもりだ。
私は遠い目をしながら、そんな過去のことを思い返していると、
それは鷹野さんの声。
…とても明快でわかりやすい、
「わかりました。滅ぶ前の地球を用意させましょう。」
「………え?」
私はぎょっとする。
……医学の発展という言葉はしばしば、生贄も辞さないという悪魔の囁きに通じる。
その、悪魔の声を私は聞いたのだ。
「くす。そんなに難しいことではありませんわ。雛見沢の住民で、すでに重篤の状態で市内病院に入院しており、いつ死んでもおかしくない患者を探させるだけですもの。」
「……しかし、…いくら余命幾ばくとはいえ、自らの体を、生きている内に検体に差し出される勇気のある方がいらっしゃるでしょうか…。」
「そんな必要はありませんわ。いずれ亡くなる方に、ほんの少し早くお休みいただくというだけの話ですわ。書類上ね。くすくす。」
存命中の患者に死亡宣告を出し、
「む、無理でしょう…! 第一、頭蓋を切開するような大手術となれば絶対に痕跡は残ります。遺体を遺族の方が見られたら不審に…、」
「そういうところを何とかできるのが私どもではありませんの。山狗に至急、条件を満たす患者が存在しないか市内病院を調べさせます。先生は、お皿の前でナイフとフォークをお持ちになって待っているだけでいいんですわ。すぐに料理をお持ちいたしますから。……くすくすくすくす。」
「は、……はははははは…。」
鷹野三四さんが、私の実質的パートナーであることは疑わない。
だが、…どうしても心を許すことが出来ないのだ。
……彼女は研究者としてのある一面が、私のそれと大きく異なるようだからだ…。
……あぁ、だが私が彼女とどう違うと言うのか。
私は結局、彼女の言うように、皿の前でナイフとフォークを持って待っているだけなのだ。
…魚を卸すところを残酷だから見たくないと綺麗事を言っているだけ。
彼女がこれから用意しようとしてくれているディナーこそ、
何たる偽善。……彼女がじゃない。私がだ。
かつての私が彼女とどう違ったというのか。
患者の同意を得ずに、…その人の一生を左右しかねない手術を幾度と施した私が、今の彼女とどう違ったというのか。
……私は今日まで、自分の実績に疑問を持ったことは一度もない。
なのに、……なぜか彼女を見ている不安になってくるのだ。
鷹野さんが、所長席の内線電話で小此木さんに連絡をしている。
…今、立案した計画を説明するために呼びつけているのだろう。
私は、…それを止めることもせず黙って見ている…。
◆富竹ジロウ(解除条件:なし)
確かに天気予報は、夕方に土砂降りになるかもしれないと予告していたが…、まさかここまで降ってくるとは思わなかった。
僕たちは、廃線になったバス停跡の小屋で、雨雲が過ぎ去るのを待っていた。
「…ごめんよ、鷹野さん。」
「あら、いいのよ気にしないで、ジロウさん。私も、土砂降りになるかもしれないことを覚悟の上で出掛けたんだから。くすくすくす。」
鷹野さんがくすくす笑う。
天気が崩れるかもしれないという彼女に、大丈夫大丈夫といって連れ出したのが僕なのだ。
…彼女の貴重な休日を無理に付き合わせ、こんなザマでは男としてみっともないったりゃありゃしなかった…。
今夜が帰京なので、また当分、雛見沢には来れない。
そう思ったら、今日を興宮の安宿で過ごす気になれなくて、彼女に散策に行こうと誘ったのだ。
「いや、………ははは…。本当に申し訳ない。」
「くすくすくすくす。」
彼女はしばらく、小さく悪態をつくフリをしてはチクチクと僕をからかった。
決して追い詰めるのを楽しんでいるわけではない。
そんな彼女なりのコミュニケーションをとてもチャーミングに思っていた。
…僕は多分、…いつの頃からか彼女の虜なんだと思う。
でも、彼女にとって僕は東京から来る査察官でしかない。
…そういう立場を認識して、僕に好意的に接してくれているだけで、決して僕個人を好いていてくれているわけではないはずだ。
……そう思うと、自分は職務上の立場を使って、彼女を無理やり連れ出したのではないかという気持ちになり、少し憂鬱になる。
僕のこの微熱は、恋心でなく風邪か何かだと思い込んでおいた方がいいだろう。
でも、彼女は嫌な時はきっぱりと嫌だと言う人だ。
……もちろん「嫌」という言葉は使わないが、あらゆる間接的表現で、「嫌」に準じることをきっぱり言う人だ。
…だからこそ、彼女が僕に付き合ってくれるのは、わずかでも好意があるからだと信じたい。
「………はぁ。」
そんな自己中心的な考えに苛まれ、僕は軽く首を横に振るのだった。
僕のそんな様子を見て、まるで胸中を見通しているかのように彼女はくすりと笑うのだった。
そんな仕草に、思わず赤面してしまう。
「ジロウさんも不思議な人ね。東京ではさぞや女性にもてるでしょうに、なぜわざわざ私みたいなおかしな女に付き合ってくださるのかしら…?」
「お、おかしななんてことはないよ…。鷹野さんは充分、魅力的だよ…! むしろ、僕みたいな男のために貴重な休日を割いてもらったのが、申し訳ないくらいだよ。」
「確かに私は、とても大切な研究のために生涯を捧げたつもりだけど。それだけじゃ人生は潤いがないもの。たまには、頭を切り替えて遊ぶことも大事だし。……それに、異性とのコミュニケーションは脳の活性にもとてもいいんだから。くすくす。」
「あははははは…。僕ごときで、鷹野さんの頭の気分転換のお役に立ててるならいいんだけどね…。」
「あなたには、私と一緒に居ても気分転換にはならない…?」
鷹野さんが、どきりとさせる小悪魔的な笑顔で微笑みかける。
僕は、耳まで真っ赤になっているかもしれないのを悟られないように、誤魔化すので必死だった。
「そんなことないよ…! 僕も鷹野さんと一緒に過ごせると、こう、…その、色々と気分転換になるよ! それにほら、鷹野さんに野鳥撮影のことを布教すれば、僕も撮影の同志を得られるわけだしね…! も、もしよかったら、次に来る時は僕の古いカメラを持ってくるよ。買うと高いからね、はははは…。」
「ありがとう。あなたを虜にする野鳥撮影が、どれくらい楽しいのか、くす、ぜひ教えていただけると嬉しいわ。ぜひ、次の機会には野鳥撮影の散策にご一緒したいわね。じゃあ私、自分では買わなくていいのかしら?」
「あ、あ、うん! 僕のお古で少し挑戦してみて、馴染めそうだったら新しいカメラを買う方がいいんじゃないかな! と、東京に戻ったら送るよ!」
「ありがとう。次に来て下さる時は、ぜひ私の写真の批評をお願いするわね。」
「う、うん…! ははは、どんな写真か、楽しみだなぁ!」
「くすくす。きっとジロウさんみたいにはいかないわ。本当に初めてですもの。」
涼やかに笑う彼女と、真っ赤になって頭を掻きながら笑う僕の暑苦しさではまったく対照的だった。
でも、…僕の自意識過剰なのだろうか…。
鷹野さんは、僕と一緒にいることを苦痛に思っていないように感じてしまう。
……社交辞令だったら、ここまでは付き合ってくれないはず。
………あぁあぁいかんいかん。
女の人の社交辞令を真に受けてしまって、勝手に傷つくのが僕の悪いところじゃないか…。
彼女が僕に好意を持っているかもしれないなんて、誤解しちゃ駄目だ駄目だ…。
「……そう言えば、こうしてジロウさんと二人きりでゆっくりおしゃべりをするのは初めてね。」
「そ、そうだね。いつも、所長とか他の研究員の人とかがいたりするからね。」
「私、あなたのことを全然知らないの。あなたが東京でどんな仕事をしているかとか、今までどんなことをしてきたのかとか。自衛隊ではどんな活躍をされているのかしら…?」
「あは、あはははは…。昔ちょっとだけ教官の真似事をしてたけどね。怪我をした時に目をやっちゃってね。普段の生活には支障はないんだけど、大事に受け取られちゃって、それ以来は事務屋の仕事ばかりやらされてるんだよ。あははは…。」
鷹野さんは、きっとドジを踏んで怪我をしてしまったのでしょう、みっともないとくすくす笑う。
「それでね、隊内の広報誌を作る仕事を手伝った時に、イベントの写真撮影で初めてカメラの魅力を知ったんだよ! カメラには人を幸せにする力があるのさ。あはははは、何を言ってるんだろうって思ってるだろうけど、これは本当なのさ。僕はカメラに触れるようになってから、日々に幸せを感じるようになったと思ってるよ。」
「………カメラで、どうして幸せになれるのかしら…?」
「うん。カメラというのは、日々の生活を切り取って写真にして残すものなんだ。残すくらいなんだから、幸せなものを写したいというのは当然だろう? じゃあ、幸せなものはどこにあるんだろうと、ファインダー越しに自分の周りの世界を覗いてみると。…そこには、今まで当り前だと思っていたものが、実はとても幸せなものだったんだと気付くことでいっぱいなんだ。
…例えば、路肩のアスファルトの隙間から健気に生えている一輪のタンポポだって、忙しく通り過ぎる時にはただの雑草に過ぎないけれど、ファインダー越しに覗いた時、それは春の訪れを教えてくれる、季節からの素敵な贈り物であったことに気付けるんだよ。それを写真に収め、アルバムに残す。…そしてアルバムを再び開く度に、その時の幸せな気持ちが蘇ってくるんだ。」
「ジロウさんは風景や野鳥の撮影をしながら、そんな気持ちに浸っているの…?」
「うん。その写真が芸術的かどうかとか、賞を取れるような劇的瞬間かどうかなんていう野心的なことは、僕にとってあまり重要じゃないんだよ。僕たちが気付かない、小さな幸せに気付かせてくれる、そこにこそカメラの魅力があるんだと思っているんだ。だから、そんな気持ちでこの雛見沢をファインダーで覗けることはとても楽しくて幸せなことなんだよ。」
「…………………………ふぅん…。」
僕に、たまに雄弁に語り過ぎてしまうことはよくあったが、多くの場合、鷹野さんに揚げ足を取られて茶化される。
…だから、彼女がこんなにも素直に話を聞いてくれるのはとても珍しいことだった。
鷹野さんは、ちょこんと僕の脇に座ると、…僕が手に持っているカメラをいじる仕草をする。
…僕の演説でどの程度の感銘を受けてくれたかはわからないけれど、カメラというものに、多少の関心を持ってはくれたように見えた。
半ば、馬鹿にされることを覚悟していたので、彼女のそんな素直な仕草が、何だかちょっぴり嬉しかった。
「ちょっと試してみるかい?」
「………私にもできるかしら。」
「簡単だよ! 最初は、ピントの合わせ方とシャッターの押し方だけ覚えれば充分さ。持ってごらん? あぁ、レンズには絶対に触れちゃ駄目だよ…!」
「ぶう。簡単じゃないじゃない。/
……くすくす。」
せっかくカメラに関心を持ってもらえたのだから、彼女と一緒に被写体を求めて雛見沢の雄大な自然の中を散策できたら最高だったのだけれど。
……意地悪にも、雨は一向に止みそうな気配がない。
でも彼女はとても面白がってくれて、この雨の中の小屋の中で、色々と目に留めてはフィルムに収めていた。
だから、彼女が撮った初めての写真は、全てこの薄暗い小屋の中の、妙なものばかりなのだ。
それ以来。…僕と彼女は、再会する度に、村の中をカメラ片手に散策している。
◆おやっさん(解除条件:バラバラ殺人事件)
「………………………………。」
言葉など出ない。
…何かを口にしたいのだが、何を口にすればいいか言葉が思いつかず、…私はため息に似たものを吐き出す他ない…。
「あ、……大石さん! 探したんすよ!! 課長から手配写真の、」
「静かにせい! ここは騒ぐ部屋ではないぞ。」
騒がしく飛び込んできた熊谷に、鑑識のじいさまがぴしゃりと言った。
「…す、
「……あー、
「ぇ、
熊谷は来た時と同じように、騒がしく検死室を飛び出していくのだった。
「賑やかな男だの。」
「おやっさんだったら、やかましいって言ってゲンコツのひとつも食らわしてるところです。」
「…お前さんも、少し上に戻った方がいいぞい。ここの空気は慣れんヤツには合わん。」
「そうですねぇ。あんまりサボってると、私もゲンコツをもらっちまいそうです。」
「……かっかっかっか。鹿骨界隈じゃ、チンピラも避けて通るお前さんを、ツモの切り方が悪いとゲンコツ食らわせられたのは、後にも先にもこいつだけだったろうの…。」
「容赦のない人だったなぁ……。ホントの親父よりゲンコツもらった気がしますよ。」
「ホントもウソもないわい。…お前さんがホントの親父だと信じてたなら、こいつもホントの親父だ。」
「………………………。」
私の本当の親父は、名古屋で死んだ。
…運がなかった。
名古屋の工場への用事なんか仰せつからなければ、空襲に巻き込まれることもなかったのだ。
……もう半年ものらりくらりとやっていれば、終戦を迎えられたのだから。
当時の私は、もうしっかりとした成人だったから、…もちろん悲しかったが、母のように床に伏せて涙を流すほどには落ち込まなかった。
でも、……悲しさってのは、人によって違う。
一気に押し寄せる人もいれば、いつまでもじわじわと苛まれる人もいる。…多分、私は後者だった。
生きている頃は、うるさい親父だとしか思わず、どうして徴兵から漏れたんだと心の中で悪態をついたこともあった。
自分でも、その程度のものだと思っていた。
そして終戦。
戦地から引き上げて来た人々が、駅で家族と再会するのをうんざりするほど見せ付けられ、
あぁ、私は親父を失ったのが、悲しかったんだな、悔しかったんだな、と。
日本中に辛い人や悲しい人が溢れていた。
私ひとりが辛い思いをしたなんて甘えるつもりはない。
……でも、とてもとても悲しかったことを覚えている。
終戦を境に、国はがらっと変わり、警官であった自分を取り巻く環境も急激に変化した。
私にできることは、日々の仕事に没頭して、忙しさで悲しみを忘れることだけだった。
「……当時、私ゃ闇米の取り締まりばかりやらされてましてね。鉄道主要駅で、旅客を抜き打ち検査するんですよ。そりゃあもうぞろぞろ引っ掛かりましたっけ。穀倉の辺りはこの辺じゃかなりでかい闇市が立ちましたからね。大阪界隈からはるばる買いに来てる連中も大勢いましたよ。」
戦後、日本の食糧事情は致命的に悪化した。
そのため、国は食料の公平な配給を謳い「食料統制法」を制定する。
だが、国の配給する食糧はまったく足りず、人々は日々の糧食を求めるため、非合法の闇市で高額な闇米を買い求める他なかったのである。
国が配給する食糧はまったくないのに、…あるところには唸るほどにあった。
それを法外な金額で売りさばき、一部の黒幕たちが濡れ手に粟のように荒稼ぎする時代でもあった。
…園崎家が財を成したのもこの闇市でだが、それはここでは割愛する。
国は、そんな黒幕たちを逮捕しようとはしなかった。
黒幕たちは警察上層部に充分な鼻薬を嗅がせていたからだ。
……むしろ逆に、嫁入り道具を質に入れてまで闇米を買い求めた庶民の方を取り締まり、その米を没収していたのである。
「そんな時代もあったの…。どこぞの判事が餓死したなんてこともあったの?」
「ありましたねぇ…。闇米は一切食わないと公言した判事が餓死したのが、…昭和22年でしたっけ? ………酷い話でした。法律に従ってたら生きていけないことを、法の番人である裁判官が自ら示したんですからねぇ…。」
生きるために必死な庶民ばかりを次々に検挙する国に嫌気がさし、ある判事が、自分は今後一切、闇米を口にしないと宣言。
……昭和22年に、まだ30代半ばという若さで飢えて死んだ。
闇米を買うことは法律で禁じられている。
でも、それでも闇米を求めなければ生きていけない。
なれば、この食料統制法は悪法ではないのか。
これは、彼が命を賭して訴えた必死のメッセージだったと伝えられている。
「……米の袋を抱えた連中を、次々と引っ立てて、駅脇の臨時の検問所に並べましてね。まるで戦時法廷みたいな感じなんですよ。次々ポンポンと没収してひっ捕らえていく感じです。……ご婦人方はみんな泣かれるんですよ。その米を買うために、彼らは家財を売り払ってるんです。それを没収されたら何も残らないと。どうやって飢えた子供たちを食わせればいいのかと。」
「道理だな。それで、闇米を売りつけた側は取り締まらんのだから、庶民はたまったもんではないの。」
「皆さんも敏感でしてね。駅で検問があるかもしれないと察知すると、途中で列車から飛び降りたりして逃れるんですよ。…そういう連中も逃さんと、私たちは駅近くの、飛び降り名所に重点的に警官を配備してましてね。……何十キロもある米袋を抱えたご婦人をよく追っ掛けましたっけ。」
……おやっさんとの出会いはそんな中でだったと思う。
「いやぁ…驚きましたよ。…私の親父にね? あまりにもそっくりだったんですよ! 私ゃね、てっきり、親父は名古屋の空襲を奇跡的に生き延びて、帰ってきてくれたんじゃないかって本気で思いましたよ。」
検問所から逃走した人間を追っていた。
重い米を担いで逃げ切れるわけもない。
だから彼らは、米を抱いたまま捕まるか、家財を売り払ってようやく得た大切な米を捨てて逃げ延びるかを選ぶしかできなかった。
……つまりどの道、警官に追われたら、家族に米を食わせることなどできないのだ。
もちろん私にも負い目はあった。
闇米を買うのが生きるためにどうしても仕方がないことだとわかっていた。
…だからせめて、米を捨てて逃げる人間は見逃すのが暗黙の了解だったのだ。
だから、…追いながらいつも思っていた。早くそれを捨ててくれと。
捕まえたくない。
…窮状を訴える泣き声を聞かされたくなかったから。
そんな時、おやっさんが現れたんだ。
…死んだと思った親父に瓜二つ。私は面食らった。
そしたら、その親父が突然、私の頭をゲンコツで小突いたのだ。
親父に叩かれたら、大人しく頭を垂れるのが子供の役割だ。
でもとにかく、死んだと思っていた親父が生きていてくれたので、込み上げる嬉しさが抑え切れなかったんだ。
おやっさんは言った。見逃してやれと。
声を聞いてすぐに、親父ではないと気付き、私は警官への暴行の現行犯でしょっぴいてやろうと思った。
だが、喧嘩慣れしてるおやっさんに、ようやく青二才に毛が生えた程度の私がかなうわけもない。
「…いやぁ、たっぷり説教をもらいましたよ。大通りの真ん中でぶちのめされた挙句に。なっはっは、普通に考えたら、そんなのに耳なんか傾けないですよねぇ? でもあの時の私ゃどうかしてたんです。どうしてもおやっさんが親父に見えちゃって。大人しく言うことに耳を傾けることしかできなかったんです。」
「まぁ、そこで小突いただけじゃなく、男の器量もきっちりと見せられたのが、こいつの大したところだったの。今時じゃすっかり珍しくなっちまった、古き良き時代の生き残りじゃった。」
いい年にもなって、私にはまだまだ親父が必要だったのだ。
酒を酌み交わし、男の器量を伝授してくれる目上の存在が、まだまだ必要だったのだ…。
だから言える。
………私には親父が二人いた。
おやっさんは、間違いなく私の親父であり、兄貴であり、
……そのおやっさんは今や、頭部、胴体、両手両足をブツ切りにされ、
男の義理も、酒の飲み方も博打の打ち方も教えてくれて、道を外れたらゲンコツで教えてくれたその右腕が、
「…ホシの目星は?」
「えぇ、もちろんついてます。…………おやっさんの右腕ももちろん取り返しますし、…この借りもきっちり返します。」
雛見沢を影から牛耳り、ダム戦争と称する集団犯罪を煽り立てて来た、
私は心の中で宣戦布告する。
…私の敵は、すでにはっきりしていた。
◆ダム計画撤回作戦(解除条件:なし)
「…いやぁ、遅くなって申し訳ございません。今日はどういうわけか患者さんが多くて多くて。」
「お疲れ様です、入江二佐!」
くつろいだ様子だった富竹は、入江がやって来るのを見ると立ち上がり背筋を伸ばした。
「あぁあぁ、その二佐というのはどうか止めてください…! 私は医者です、どうもその軍隊的な階級には馴染めません。せめて所長でお願いします…。」
「了解しました、入江所長。あはははは…!」
それはもはや、入江が二佐と呼ばれることをあまり好まないことを知っていての、冗談のようなものとなっていた。
富竹たちは気さくに笑い合う。
もっとも、鷹野としてはうんざりとした様子。
同じネタを何度も繰り返すというのがどうも好きになれず、機会があれば富竹に、もうその二佐というのを止めろと言うつもりだった。
……言えば、柄にもなく傷つくだろうなと思うので、言い出し損ねてしまっていたが。
あと、富竹の発音のせいなのか、二佐がどうしても「リサ」と聞こえてしまう。
一度そう聞こえてしまったら、彼が言う度に「入江リサ」「入江リサ」と聞こえてしまうのだ。
鷹野がこっそりそれを入江に話したら、それは大いに受けたのだった…。
今日は単なる挨拶で、明日がミーティングの日になっていた。
富竹は今日から来ているが、明日、東京から監査が何人かやって来て合流し、機関の研究進捗状況について説明を受けることになっている。
「それはそうと、ダムのことで村中が盛り上がってるみたいですね。」
「えぇ、それはもう…! 村中、大変な騒ぎですよ。私も、役員として自治体の地元説明会に参加してきたのですが、…怒声と罵声のそれはもう賑やかな説明会となりました。」
雛見沢ダム基本計画の発表後、当然、雛見沢は大騒ぎとなった。
政府は割りと早期の内に譲歩案を撤回。
攻撃的姿勢を明白にする。
交渉の余地を見せることが、かえって相手を付け上がらせることになるという考えらしかった。
だが、その目論見は裏目に出ることになる。
地縁による結束が歴史的に強いこの雛見沢の地では、そういう態度に対し逆に団結を招く結果となり、政府も村も、互いに一歩も引けぬ泥沼の様相を示していたのである。
「くすくすくす。雛見沢の人は気性が激しいですものねぇ。やっぱり鬼の血が流れてるからなのかしら。」
「笑い事じゃないですよ…。あの説明会に、夜中まで付き合わされた方の身にもなってみてください。」
「それはお気の毒でしたね。はっはっはっは…!」
「いや、…本当に笑い事ではないですよ、富竹さん。ダム計画はどうなってるんですか? 本当にこの村はダム湖に沈められてしまうんですか?」
「それについては、東京の方でも圧力を掛けています。表向きは騒ぎになっていますが、実際の裏方ではかなり屋台骨がぐらついているはずです。」
「……その圧力が早く効くといいんですがね。村は朝から晩まで賑やかで、村人の心もこのところ、荒んできたように思います。診察に来るお年寄りに捕まって、たっぷりと反ダム論争を聞かされる時がありますよ。」
「くすくす。付き合わなければいいのに。入江所長は人がいいから。」
「そうも行きません。私は研究所長である以前に診療所長でもあります。話を聞くのもケアの一環ですので。」
「それはとても良いことです。感服いたします。」
「私は、東京の皆さんがうまく圧力を掛けてくれて、いずれはダム計画を撤回してくれるものとわかっているからいいですが。村人にとっては、先祖代々から住んできた土地を追い出されかねないと、本当にすごい騒ぎです。」
「立ち退けと言われても、引っ越せるほどのお金もなく若さもなく。立ち退き補償金の額の吊り上げが狙いだったのかもしれないけど、…急にお役所の態度が変わっちゃって全面衝突。……こうなってしまったら、穏便に決着というのは無理かも知れませんわね。」
「かつては、補償金に納得して立ち退きに応じようという人たちも少しはいたんですが。御三家の園崎家さんが強硬意見で村人をリードしてましてね。国との対決姿勢を煽っているようなんです。街宣車みたいなのがよく騒がしくしてますし、ビラやらチラシやら機関紙やらが回覧板と一緒によく回ってきますよ。」
「ここに住む人にとっては大変な問題ですからね。気持ちはわからなくもありません。」
「……そういう意味では、思惑は多少違うかもしれませんが、そんな皆さんのためにも、このダム計画は早く撤回になるよう交渉を進めてほしいものです。撤回されれば、この村もすぐに落ち着きのある元の村に戻るのでしょうから。」
「もちろんわかってます。それについては東京の方で交渉を進めておりますので、もうしばらく私どもにお任せください。」
「…東京の方で噂を聞いたんですけれど、建設省の方になかなかうまく圧力を掛けられるコネクションがなくて苦労してるとか?」
「いやぁ…、はっはっは…。私如きでは詳しくは知りませんが、水面下調整がうまく行っていないのではという話も少し聞きます。」
鷹野の持つ後ろ盾は非常に強力な勢力ではあるが、だからと言って日本全てを網羅しているわけではない。
得意とする方面もあれば、不得手とする方面もある。
……建設省に圧力を掛けられるコネクションについては、あまり得意ではないに違いない。
「冗談抜きで。ダムができますからここを立ち退いてくださいなんて話には、本当にならないんですわよね…?」
「も、もちろんです。それだけは絶対に問題ありません。時間が掛かっているだけですので、皆さんはどうかそこは任せて研究を進めてください。穏便に済ませることが出来ない場合は、最終的な荒療治も辞さないことで意見はまとまっておりますので。」
「荒療治、…とはなんですか、富竹さん。」
「そこは我々の領分です。入江所長は気にされなくて結構です。どうかお任せください。」
「………そうですか。…わかりました。よろしくお願いいたします。」
「大丈夫ですわよ、入江所長。ダム計画は絶対に撤回されますわ。……だって、そう決まっているんですもの。…くすくす。」
鷹野がくすくすと笑うと、富竹もそれに習い薄く笑った。
…入江だけがその笑いについて行けず、わずかの疎外感を味わう…。
…………後に入江は、村で見掛けない1人の少年の診察を求められた時、その荒療治の意味を知ることになった。
◆地元説明会(解除条件:なし)
「でして、ダムの建設事業に伴う地域振興や地域産業の育成などですね…、」
「俺らの誰の断りがあって、ダムなんか作ろうって言い出したかって聞いてんだ!」/
「おう、わしらから税金絞るだけ絞っといてそれに対する返事がこれっちゅうんか?! おんどりゃあ、誰の税金で給料もらっとんじゃあ!!」/
「ですから! 先ほどから申し上げておりますように…!!」
「大体おどれら、人さまの税金で仕事しとって、何でわしらより高い段で話をしとるんじゃ。目線で話さんかい目線で!!」
体育館の中は怒号に満ちていた。
雛見沢ダム基本計画地元説明会。…表に出ている立て看板にはそう書かれていた。
壇上で、役人の男が何かを言おうとする度に、満場の住民たちは一斉に怒号を浴びせ掛け、それを塗りつぶす。
それでは進行にならないので、それらを聞こえないかのように振る舞い、ダムの有用性をパネルで説明すればするほど、住民の声を聞かない政府の横暴という図式になり、ますますに彼らの怒りを焚きつけた。
壇上と住民の席の間には空白地帯が設けられ、警官隊がスクラムを組み制止線を作っていた。
…もし、これがなかったら、住民たちはすぐにでも壇上に駆け上がり、取っ組み合いに発展していたに違いない…。
……そんな光景を、僕はみんなの後から見守っていた。
彼らが、怒りの感情に飲み込まれているのが、はっきりと色で見える。
…血の赤に徐々に飲み込まれ、
…怒りは決して不要な感情ではない。
人は生きるために様々な障害にぶつかる。
それと戦い乗り越える力の原動力が怒りなのだ。
…その意味において、怒りは人の生きる力そのものと言える。
だから、怒りそのものを否定したりはしない。
だが、度を越えた怒りは、時に目的を忘れさせる。
…それはすでに、生きるための力ではない。
頭に血が上り、自分が何をしたかったのかも忘れてしまった、まさに暴走の状態なのだ。
…………このような感情は、僕たちにとって辛く悲しく耐え難いもの。
……村人と共にある僕たちが、少しずつ怒りの感情に飲み込まれて、「鬼」に染まっていくのを、私は色を見るようにはっきりと見えているのだった…。
人間の世界のルールはわかる。
国の政策に立ち向かうには、個人の力はあまりに無力だ。
……それに立ち向かうためには、個人の域を超えた力と結束が必要になる。
だが、その力を正しい方向に導くのはとても難しいこと。
…怒りの連鎖は怒りのために怒りを生む。
生きるために怒るのではなく、怒るために怒る。……それは、ただの鬼でしかない。
そして、……この感情は、永い間、静かに眠ってきた僕たちを乱暴に起こすものにしかならない…。
みんなが、…怒りに塗りつぶされていく。
僕たちは平和に村人たちと共存することを知り、静かに眠りながら過ごしてきたのだ。
……それが、起こされ、
僕はみんなに、どうか落ち着いてと叫ぶ。
でも、怒りが怒りを増幅しあうこの悪循環に、私の声無き声など誰にも届きはしない……。
それでも誰かひとりの耳に届くことを信じて、僕はみんなに、どうか落ち着いてと何度も叫ぶしかないのだ。
このままでは、………鬼が目覚めてしまうかもしれない。
眠りにつき、二度と蘇ることなどないはずだった鬼たちが、……この騒ぎで目覚めてしまうかもしれない…。
その時、騒ぎの雰囲気が変わった。
見れば、壇上と住民の間の対決だったのが、いつの間にか住民と住民の間の対決に移っていた。……一体、何事だろう?
「じゃかましいわッ!!/
そりゃおんどれの都合やんね、勝手に総意にせんといてんなクソババアッ!!」
「あんじょう、すったらんわッ!!/
ようも言ったん、抜かしよってからにこんの輩ぁああぁッ!!!」/
「おうおうッ!! てめぇお魎さんと知っててその口聞いとるんかいな、上等きっちゃら、おあああッ?! 名乗らんかいおおぅッ!!」
「やっかましいわぁ!! 園崎がなんぼのもんじゃい、わしゃあ北条じゃ、腰巾着は引っ込んどらんかいッ!!」
「おぉう北条んの! 何ば抜かしよったんようも村を沈めちゃる言えるのぉ!! お前ぇ何ぼで村を売ったんッ?!」
「黙らんかい死に損ないがぁッ!! いいんか、雛見沢には貧乏人も大勢おるん、お前んとこみたいに、山に畑に唸るほど持ってる地主とはわけが違うんッ!!
わしゃあの、国の補償金で充分満足しとったん、町の公営住宅も手配してくれちょうゆぅし、なぁんも不足はなかったん!! それをおんどれが全部ちゃぶ台引っくり返しよったん、台無しにしよったんじゃボケぇッ!!! おどれら地主の都合で人まで巻き込むなや! そんなに国と喧嘩せぇんかったらおどれがひとりでやれ!! したらん、ゼニが誰が払うんね、おどれかいな!! うちはな、貧乏だし育ち盛りが二人もおるん。おとなしゅう、国からゼニをもろぅて職を斡旋してもろぅて、人生再設計ちゅうとこなんや。それをおどれは何じゃ、いつからお前はわしの代表になったんじゃ!! お前、そんなに偉いんか、おああああッ?!」
「おうおうおう、北条の!! ようも抜かした、この裏切り者がぁッ!! んなら村から出てけ出てけッ!!」
「おう、出ていったら! もちろん、それに見合うゼニはお前が払うんじゃろうな?! わしが国からもらい損ねたゼニ、きっちり都合つけてくれちゃるんじゃろなぁッ?! 村から出たぅともゼニがないんじゃ。おどれが払うんならすぐにでも出たっるわ!!」
「……北条の言う通りだ! 立ち退いてもいいと思ってる住民もいるんだぞ! 御三家は俺たちを巻き込むな!」
「おうおう何じゃい? 今抜かしたのは誰じゃい?! 名乗らんかいボケッ?!」
「残りたいヤツは勝手に残ればいいだろが!! 立ち退きも権利じゃ、勝手に人様の権利に干渉するなやこんのダラズがッ!!」
「そうじゃそうじゃ!! 園崎のクソババアはすっこんどれッ!!」
「…あーー、
「黙れ役人!!/
おんどりゃあ、村ン真っ二つに裂こう魂胆かいッ!!」
「死ねや北条!! 村の空気を吸う資格はねぇ、今すぐ息止めて死ねッ!!」
「なめんなボケが!! ぶッ殺してやるわ、前に出ろクソババア!!! おおおお、引っ込まんかいデカポリ!!」
「よーーう抜かした。…よーぅ抜かしたわ北条の。……この園崎お魎、ひっさびさに頭に血ぃ登って来よったんわ。きっちりケジメ取らせてもらうかんの。あんじょう、楽しみに待っとれやッ…!!!」
「北条、やれやれッ!! 国は俺たちに仕事と住処とカネを与えろー!!」
「こらこら!! やめなさい暴力は!! お互い、やめてやめてッ!!」
「すったらんたぁ上等じゃああ!! おんしが出てこんかいなッ!!」
みんなが、真っ赤な怒りにどんどんと染まっていく…。
僕はそれを、黙って見ているしかできない………。
せめてできるのは、
そして………、この日がきっかけなのだ。
……この日を境に北条家と園崎家は決定的に対立し、北条家は村の中で孤立を深めていく。
それは沙都子と悟史を辛い運命へ突き落としていくということなのだ……。
◆古手梨花(解除条件:地元説明会)
※北条家と園崎家の対立が必要です。
お母さんに買い物を頼まれ、スーパーへ買い物に行く途中、沙都子に出会った。
聞けば、沙都子も同じような買い物を頼まれたという。
ならば一緒に行こうということになった。
買い物メモを見せっこすると、お互いの家の今晩のメニューが想像できて楽しい。
沙都子の家はどうやら魚と煮物らしい。
ちなみに私のうちはハンバーグのようだった。
「あら、ハンバーグとは羨ましいですわね…!/
私、魚はともかく、煮物というのがちょっと怖いんですのよ? 先日買ったカボチャがまだ、だいぶ残ってるみたいなんですもの。」
「……きっと今夜もカボチャの煮物三昧なのです。かわいそかわいそなのです☆」
「予めカボチャが出て来るとわかってるのも憂鬱でございますわね。はぁ。」
「……み〜☆ 突然カボチャを出されても怒るくせに贅沢な沙都子なのです。」
「り、梨花にだって少しは嫌いな食べ物があるはずですわよ?! そういえば梨花、大福とかシュークリームとか、甘い物が嫌いだったんではございませんこと?!」
「……別に嫌いではないのです。意地悪で食べないだけなのですよ。食べる気なら何個でも食べられちゃいますのです。パンプキンパイだっておいしくいただけますのですよ、にぱ〜☆」
「ぅうぅぅ、梨花だけ好き嫌いがないなんてずるいですわー!!」
そんなやり取りがとても楽しい。
沙都子はボクにとっての一番の親友。
面倒臭いと思っていたお買い物も、沙都子と一緒になれただけで、楽しい夕方のお散歩に早変りするのだった。
スーパーの近くは他にもお惣菜屋さんとかが並び、雛見沢のちょっとした商店街になっていた。
夕飯の買い物に一番繁盛する時間だ。
雛見沢の主婦たちが集まり、賑やかな買い物をしていた。
とりあえず、私と沙都子では買うものが違うので、それぞれ分かれて目的の物を買うことにする。
「ぇい、いらっしゃいいらっしゃい!! おや、梨花ちゃま、いらっしゃい! お買い物かい? 偉いねぇ!」
「……にぱ〜☆ ボクはお買い物ができる偉い子なのです。」
「そうかそうか、梨花ちゃまは偉いなぁ! ほら偉い子のご褒美にこれをあげよう。」
軒先に吊るしてあるお釣り用の小銭入れのザルの中には、時折喘息を患う主人のために飴がいくつか入れてあった。
それを1つ取り、ボクに放ってくれる。
苺ミルクの味がする、ボクの大好きな飴だった。
あとで沙都子の前で、自分だけがもらえたと自慢するために、今は食べず、わざわざポケットにしまう。
ボクにとって、沙都子をからかったり、羨ましがらせたりするのはとても楽しいこと。
沙都子はそれらに対して、いつも過剰なまでにリアクションをしてくれる。
一緒にいれば退屈に感じることなどない、最高の友人だった。
「おや、梨花ちゃまのところは今日は何だい。豚の挽き肉だと、う〜ん、」
「……ハンバーグなのですよ。お花の形の目玉焼きを乗っけて、ケチャップでお絵描きをするのです。」
「おっほっほっほ! それはいいねぇ!」
そんなやり取りを楽しみながら、私は買い物袋の中を少しずつ満たしてく。
…その時、主婦たちのひそひそ話がふと耳に入った。
それは、…少しだけ冷たい内容。
………買い物に訪れている沙都子に対するものだった。
村を国に売る裏切り者のくせにいつまで村に居座るつもりなのか。
早く出て行けばいいのに。
そして、堂々と買い物に来る度胸もなく、娘に買い物をやらせるとは。…ぐちぐち、ぐちぐち…。
……ダム計画の地元説明会で、北条家と園崎本家が徹底的に対立することになる大喧嘩をして以来。北条家は村の中での孤立を深めていた。
当初こそ、北条家に同調する立ち退き派も少なからずいたのだが。
園崎本家が主導で村中の徹底的な意見調整が図られ、全体主義的な論調に固められていくと、徐々に立ち退き派は鳴りを潜めていった。
また、園崎家や公由家などの、村に大きな影響力を持つ御三家筋からの露骨な嫌がらせも大きく作用していた。
園崎本家は、北条家を見せしめに苛め抜くことで、同調する立ち退き派が現れないようにする戦略に出たらしい。
それは、先祖から何代にもわたって住み続け、そして自分たちも恐らくはこの村で骨を埋めることになるだろう住民たちにとって、とても圧力のある嫌がらせだった。
かつて地元説明会で、鼻息荒く北条家に同調し、立ち退き派のリーダーとして煽り立てるような威勢のいいことを言ったのはどこの誰だったやら…。
そのような者はすっかり鳴りを潜めてしまい、踏み絵的に北条家への冷遇に参加していった…。
北条家への苛めは、今や村全体からかけられる圧力となっていた。
北条家は裕福な家庭ではないから、町会費を長いこと滞納していた。
平和だった頃は、互助の精神でそれを大目に見て、いつかまとめて払ってくれればいいと寛容だったのだが、ここに来て一気に風向きが変わり、滞納分の町会費を一括ですぐに払えと北条家に迫ったのだ。
払って払えない額ではなかっただろうが、こういう風に売られた喧嘩は、北条家も買ってしまう。
挑発に乗るように町会を脱退してしまった。
……だが、これはまんまと悪意ある策に乗ってしまっただけだった。
町会を敵に回すというのは、陰湿ないじめが行なわれることを意味する。
例えば、北条家がゴミを出していた場所は、清掃局と町会が掛け合って設けられた仮設のゴミ捨て場だった。
町会の規約では、町会員の家庭だけが使えることになっている。
…北条家が町会を脱退した次の日から。
北条家がゴミ捨て場に捨てたはずのゴミ袋は全て、いつの間にか玄関先へ送り返されていた。
しかも、袋が破れて散乱した状態で。
また、北条家のすぐ近くにある垣根道に看板が立った。
「私道につき通り抜け禁止。町会員以外の通り抜けを禁ずる」。
そこには頑固親父が朝晩立ち、北条家の人間を一切通さなかった。
…私道とは、私有地を道路にして開放したもので、外見は普通の道路と何の違いもない。
だが、立派な私有地であり、土地所有者以外の通り抜けを禁ずるのは決しておかしいことではないのだ。
他にも他にも。……陰湿な村ぐるみの苛めは重ねられた。
その村八分のような恐ろしさが村中に蔓延し、…北条家に同調すれば同じ目に遭わされるかもしれないと怯えさせ、…ますますに北条家を孤立させていく。
……大人たちは、そういう泥臭い暗闘を子どもたちには話さなかったから、沙都子が学校で苛めに遭うということだけはなかったが。…窒息しそうなぐらいの緊張感を毎日強いられていただろうことは想像に難しくない…。
今、ぼそぼそ陰口を言っている主婦たちも、別に沙都子に直接言ってるわけではない。
……でも、だからといって、時折零れて聞こえる内容と、冷たい目線に沙都子がまったく気付かないわけもない。
……いつから村は、こんなにも沙都子に冷たくなったのか。…沙都子の親友としてとても悲しかった。
こうして見てみれば、沙都子の買い物はボクの和気藹々としたものとは全然違う。
私が挨拶したり買い物したりすれば、オマケがもらえたりお得にしてもらったり、色々あるのに、…沙都子にはない。
いや、それどころか、
…ごった返す主婦たちの合間を縫って、ずっと魚屋の主人にほしいものを言っていたはずなのに、最後の最後まで後回しにされた沙都子。
……沙都子は強気な笑顔を浮かべて、全然気にしない風を装っているが、……ボクにはわかる。
それはあまりに痛々しい痩せ我慢…。
その時、沙都子が小銭を地面にばらまいてしまった。
渡されたお釣りを財布に戻そうとして、ちょっと指に引っ掛かったのかもしれない。
ボクは沙都子から少し離れていたので、主婦たちの間を潜り抜けて、一緒に小銭を拾ってやろうとする。
………でも、そこではっとした。
……沙都子が、たくさんの小銭を落としてしまって、右往左往しながらそれを拾っているのに、
いや、手伝わないというより、…まるで沙都子がそこにいないかのように振舞っているのだ。
…自分のミスで落とした小銭なのだから、沙都子も誰かが拾うのを手伝ってくれるのを期待しているわけじゃない。
…………でも、……それでも…。…これだけの人が行き来しているのに、
「……沙都子、ボクも拾いますですよ。」
「あ、
そのわずかな仕草だけで、私には彼女の傷ついた心の痛みがわかる。
しかも、…私が沙都子の小銭拾いを始めたら、他の主婦も一緒に小銭を拾い出したのだ。
そうするのが当然であるとでも言うような顔で。
……古手家の巫女のボクが拾い出したなら手伝ってもいいのか。
ボクが拾わなかったら、最後まで見て見ぬふりをしていたくせに…。
そして、……「ボク」が拾えばみんなが手伝ってくれるというのが、沙都子の心をどれだけ傷つけているというのか…。
私は主婦たちが拾ってくれた小銭を礼も言わずに奪い取る。……礼どころか唾を吐いてやりたいくらいの気持ち。
「ぁ、……ぁりがとうございますわ。梨花。皆さん。」
…感謝の言葉を述べないと、またどこかで、北条の娘は礼儀知らずだ、みたいなことを言われかねないのだろう。
沙都子は、苦々しくその感謝の言葉を口にした。
それを見下ろす主婦たちの、さもどうでもいいような淡白な表情が、
…沙都子が今、負っている心の痛みが、耐えられない…。
「……お買い物が終わりましたら行きましょうです、沙都子。」
「え、……えぇ…。」
私は沙都子の腕を掴んで、そこを抜け出す。
…悔しい、悲しい、辛い。
沙都子に何の罪があるというのか…。
その冷たい現実が、悔しくて悲しい。
自分はマスコットのように可愛がられている。
でも、それと同じものを沙都子に分け与えることができない…。
……沙都子は今頃、…どうして同い年の自分と梨花で、ここまで対応が違うのかと呆然としているに違いない…。
………こんな思いを沙都子にさせるくらいなら、一緒にお買い物になんて来なければ…、いや違う。私が沙都子の分まで一緒にお買い物をしてあげればよかった…。
「……沙都子。」
「…な、……なんですの、梨花。」
「……小銭をばらまいてしまって、かわいそかわいそなのです。…なので、これは沙都子への残念賞なのですよ。」
私は、せめて沙都子の心の傷を、ほんのわずかでも癒してあげたくて、
でも、…沙都子は受け取らなかった。
「……その飴は、梨花がもらったものではありませんの。」
私の手が、びくっと凍える…。
…沙都子は見ていたのだ。
この飴を私が受け取るところを……。
「…渡した人だって、梨花に食べてほしいと思って渡したんですわ。………だから、私が食べたら失礼ですわよ……。」
…沙都子は私に背を向け、別れ道に至るまで、ずっとそのままだった…。
別れの挨拶すらなく、……沙都子は買い物袋を持ってとぼとぼと去っていく。
……私は、
こんな自分がどうして沙都子の親友だなんて?
もし私に握力があったなら、…そのまま飴を手の中で握り潰してしまいたかった………。
◆園崎魅音(解除条件:古手梨花)
※苺ミルクの飴が必要です。
「魅音さん〜〜〜〜。お友達がいらっしゃってますよー。」
うちのお手伝いさんの声が聞こえた。
我が家は家も庭が広いから、普通の家のように、呼び鈴を鳴らしたり、
「あー、はいはい、ありがとうございます。どなたです?」
「古手の梨花ちゃまですよ。」
「あー来たね来たね。婆っちゃに、梨花ちゃまが来たって伝えてもらえます? 多分、あっちの縁側にいると思います。私ゃスイカを引き上げてきますね。」
婆っちゃが、ずいぶんと立派なスイカをいくつも送ってもらったので、お裾分けをしようということになったのだ。
それでついさっき、古手家に電話したので、梨花ちゃんが取りに来たということだろう。
…自転車で来たのかな。梨花ちゃんの自転車の前カゴ、スイカが入るほど大きかったっけ?
そんないらない心配をしながら、私は裏庭の井戸の中に吊るしてあるスイカを引っ張りあげるのだった。
冷たい井戸水の中で冷やされていたスイカは、涼やかな水滴にまみれ、とてもおいしそう。
古手家の3人家族なら、二晩はたっぷり楽しめるに違いなかった。
「……みー? お持ち帰りだったのですか。ボクはてっきり…。」
「あれぇ? おじさん、そう言わなかったっけー?!」
電話に出た神主さんに、スイカがあるから取りに来てくれ、と言ったつもりだったのだが…。
言い方が悪かったのか伝言ミスなのか、スイカのお裾分けでなく、スイカをご馳走するからいらっしゃい、という話にすり替わってしまっていたようだった。
梨花ちゃんの自転車の小さな前カゴでは、こんなスイカなど到底入らないし、それを片手で持ちながら自転車をこぐというのも危ない話だ。
「魅音、お前、梨花ちゃまん家までちょぉ持ってったらぁな。スイカ片手んなぁ、自転車なん漕がれんて。」
「……みー。ボクだってスイカくらい持てますのですよ?」
「危なぁ危なぁ危なぁ! 梨花ちゃまに何かあったら、オヤシロさまに申し訳たたんね。うちの魅音が運ぶんね、任せったったらぁ。」
「あいあい、任せられったったらぁ。じゃあついでに神主さんにご挨拶でもしてこようかねぇ。」
自転車に乗るにせよ押すにせよ、梨花ちゃんの両手は空かない。
なので、私がスイカを持っていってあげることになった。
空はほんのり茜色。…とても涼しい風が吹いていて、素足にサンダルが心地いい。
私の持つスーパーのビニール袋の中には、先ほどのスイカと、せっかく園崎本家まで来てくれたのだから、そのお駄賃にと、金平糖の小袋をいくつか入れてもらった。
お母さんに見付かると没収されるらしいので、先に食べてしまおうと言うことになり、私たちはさっそくそれを開け、金平糖の素朴な甘さを楽しむのだった…。
別に梨花ちゃんに限ったことではないが、近所の子供がお使いに来た場合、お駄賃として何かお菓子を上げるのが婆っちゃのルールだった。
いや、雛見沢と言う田舎では、そういうルールは割りとある。
だから、ご近所への回覧板を、家族が見てもいない内に、兄弟が争って次の家へ持っていったなんて笑い話もたまにあるのだ。
…この金平糖も、そんなお駄賃のひとつなわけだ。
もっとも、普通はお駄賃に金平糖をこんなにもあげない。
せいぜい、飴玉をひとつが相場だ。
…だからこれは、婆っちゃの梨花ちゃまに対する特別の甘やかしということなのだろう。
「……ボクだけ、こんなに色々お駄賃をもらうと、他の人に悪い気がしますです。」
「別に気にすることないんじゃない? お駄賃は好意みたいなもんだもん。変に断るよりは、子供らしく、ありがとうと言って笑顔を見せる方がよっぽどいいと思うけどねー。」
「……魅ぃはお駄賃をよくもらいますですか?」
「んーー、昔はね! でもさすがにこの歳になったらもらわなくなったなぁ。今もらうと、何だか子供扱いされてるみたいで、かえってカチンと来るかな、なんてね!」
「……みー。ボクは子供扱いなのです。」
「あははははは、いいじゃんいいじゃん! もらえる内にもらっとけばいい。私くらいになれば欲しくてももらえなくなるんだからさ。」
他愛もない話をしているつもりだったのに、どういうわけか梨花ちゃんの表情が曇りがちであることに気付く。
「どうしたの?」
「……………ボクはお買い物に行っても、
「……………………。」
梨花ちゃんが、どういう意味でそれを私に言ったのか、…深読みしたらきりがない。
沙都子に限らず、北条家が村中から冷遇されているのは雛見沢では知らない者はいない。
……そして、そうなるように煽ったのは園崎本家なのだから。
しかも、ダム賛成派の2人は転落事故ですでに死んでいる。
なのに、北条家に対する風当たりは収まらず、……子供である沙都子と悟史、…そして、沙都子たちを引き取っている叔父夫婦まで冷遇されているのだ。
確かに、ダム計画の地元説明会で、北条家と園崎家が大喧嘩をしたのが対立の始まりだ。
………でもそれは、北条夫妻であって、子供や叔父夫婦とは関係がないはず。
…にも関わらず、「村の裏切り者=北条家」という言葉がいつの間にか独り歩きして、…北条の苗字を持つ者を、未だに冷遇しようという空気を生んでいるのである…。
叔父夫婦はダム賛成派ではなかった。
だから、時間が経てば、叔父夫婦に対する攻撃は止むべきだったのだ。
……ところが、叔父夫婦がちょっとまともな連中でなく、
ゴミ出しのルールを守らなかったり、持ち回りの当番を忘れてたり、隣近所の洗濯物に気を遣わずに庭木の消毒をしたり。
…町会やご近所でもよく言い争いをしているらしく、ダム戦争の一件がなくても嫌われている夫婦だった。
…そんなこともあって、北条家冷遇はそのまま維持されてしまったのだ。
でも、それにしたって、沙都子と悟史には関係がない…。
私も学校で、沙都子や悟史が辛そうな顔をしているのをよく見かける。
……せめて学校では、北条家とか園崎家とかそういうのは抜きにしてあげるのが親切だと思い接しているが、
沙都子たちから見れば私は、自分たちを苛め抜く園崎家の一員に過ぎないだろうから…。
「…せめて学校には、そんな苛めを持ち込ませたくない。だから私は、そういう風に振舞っているつもりだよ。」
「……それを、学校の中だけでなく、外にも広げるには、どうしたらいいのですか…?」
………それはとても難しいことだ。
御三家を敵に回した北条家。
村の裏切り者の烙印を押され、今なおそれを払拭できていない。
………もうダム戦争は終わりましたから仲良くしましょう、なんて誰かがひとり言ったところで、焼け石に水にもなりゃしないのだ。…それどころか後ろ指をさされかねないのだから。
…沙都子たちには気の毒だが、……ひたすらに耐えてほとぼりが冷めるのを待ってもらう他ない。
私にできるのは、その日まで耐え忍ぶ心の拠り所のひとつくらいを提供してやりたいと思うことだけだ。
「……では、沙都子たちはいつまで耐え忍べばいいのですか…?」
「……………わかんない。ダム戦争は数年に及んだ。その時に押された烙印を払拭するんだから、
「……それはつまり。沙都子たちが大人になるまで、誰にも許してもらえないということですか。沙都子が子供のうちは、ずっとずっと村中から冷たい目で見られていろということですか。」
「それは、
「……魅ぃ。ボクたちは沙都子や悟史の仲間なのですよね?」
「そうだよ。私にとってだって、二人は友達だよ。仲間だよ。」
「……なら、ボクたちの仲間を救うために、ボクたちに何かできることはないのでしょうか…?」
「…………私たちに、
仮に園崎本家が、ダム戦争はもう終わりました、北条家と仲良くしましょうと宣言を出したとしても、そんなことくらいで解決するものじゃない。
…そもそも、婆っちゃは未だに北条家を毛嫌いして、北条家の北条と口にすることもタブーなくらいだ。
誰かひとりが許す許さないという問題じゃない。
…人と人が複雑に絡み合った、村というコミュニティの問題なのだ。
………それを敵に回すのは恐ろしいこと。
それを誰もが知っているから、ご近所付き合いを蔑ろにしないのだ。
…それをわざわざ敵に回そうとするならば、相応の報いがある。…それが日本のコミュニティの不文律というものだ。
そして、…その不文律には園崎家も組み込まれている。
北条家を敵視する風潮が一度根付いてしまったら、園崎家にだって、そうそうこの悪弊を断ち切れるものじゃない。
「……雛見沢のことは、…雛見沢の人間にはどうしようもないということなのでしょうか。」
「……………悲しいけど、…そういうこともあるかもしれない。…もし、沙都子を救う人が現れてくれるとしたら。…それは村のしがらみに囚われない、そういう人なんだろうね。…でも、そんな人、村にはいない。」
「……村の外から、…誰かが助けに来なければ救われない、ということですか…?」
「………………………。」
梨花ちゃんの言うような、白馬の王子さまが村の外からやってきて、
そんなのあるわけがない。結局いつもと同じ。……時間がいつか解決する。
それまで、せめて自分だけは味方で居てあげること。
それ以上のことなど、今の私には思いつかなかった。
私と梨花ちゃんは、金平糖をがりりと噛みながら、……早くみんなが沙都子たちを許してあげればいいのにと祈ることしかできないのだ……。
そんな、苦々しい沈黙を、梨花ちゃんがそっと破る。
「……きっと。」
「え…?」
「……きっと、…村の外から、しがらみに囚われない人がやって来ます。」
「そうだね。ダム戦争も終わったんだから、また分譲地に外から人が引っ越してきてくれるといいね。近い歳の転校生とかくれば楽しいだろうに。」
「……来ます。きっと。そして、彼と力を合わせて、私たちは村の悪弊を打ち破るのです。……それが、私たちの未来を閉ざす3つの錠前に対する、最初の鍵。」
「…………え? 何それ。何かの小説??」
梨花ちゃんはたまに謎めいたことを言うことがあった。
そういう時の彼女はとても大人びた雰囲気がしていて、……私より年下であることを疑いそうになる。
理不尽な、北条家に対する村八分…。
……しがらみに縛られない何者かが現れて、打ち破ってくれるのだろうか……。
◆兄の苦悩(解除条件:スイカ+生贄第二号)
※お駄賃の金平糖が必要です。
※北条沙都子の精密検査結果が必要です。
真夏の太陽を思わせるような強い日差しの中、野球少年たちが無心に白球を追いかけていた。
暑さをより一層引き立てるセミたちの合唱も、今の子供たちには応援の歓声のひとつでしかなかった。
もちろん、基礎練習もしっかりするし、体力をつけるため運動もする。
でも、子供たちはそういう体育の授業みたいなものは本当は苦手で、練習の最後にやらせてくれる自由試合の方が楽しみだった。
雛見沢の学校は、本来は営林署で、その敷地を間借りしているに過ぎない。
そのため、校庭は砂利で、あまり激しい運動をするには向いていない。
それに比べ、この興宮の学校のグラウンドはちゃんと整備された運動用のグラウンドなので、子供たちは一層元気にはしゃげるのだ。
もっとも、雛見沢っ子の元気さは、校庭が砂利であろうとお構いなしだが。
子供たちの試合の方は、他の指導者の人が見てくれているので、入江はその間に、子供たち用のジュースを買いに行くことにした。
「監督、どこへ行くんですか?」
;<悟史
「皆さんにジュースを買って来ようと思いまして。もしよかったら、悟史くんも手伝ってくださるととても助かるのですが。」
「あ、はい。お手伝いします。」
悟史くんは素直な返事をしてくれると、私と一緒に買い物に付き合ってくれた。
大人の感性でジュースを選ぶと不評なことがあるので、付き合ってくれるのはとても助かる。
私は悟史くんと一緒に、車で近くのスーパーまで出掛けた。
「……監督。沙都子の具合はどうなんですか…?」
「えぇ。経過は良好ですよ。本当にゆっくりとですが、沙都子ちゃんの心の傷も癒えてきています。もう少しだけ安静にしてあげた方がいいでしょう。」
悟史くんが心配するのは当然だ。
沙都子ちゃんの入院がすでに2週間以上にわたっていたからだ。
もちろん彼は、自分の妹が雛見沢症候群にかかり、しかもいつ錯乱してもおかしくない瀬戸際のL5にいることは知らない。
だから、両親の事故のショックで何日も寝込んでいると思っているのだった。
そんな妹を元気付けようと、連日見舞いに来てくれていたのだが、……沙都子ちゃんの情緒が最近、不安定になり、かなり危険な兆候を見せたため、その見舞いを謝絶していたのだ。
正直なところ、……沙都子ちゃんの容態は芳しくない。
沙都子ちゃんが示すL5という状態は、すでに尋常なレベルではないのだ。
同じレベルにあった去年の男は、末期の麻薬患者も裸足で逃げ出すような異常な状態にあった。
…沙都子ちゃんが、わずかの拍子にそうならない保証などまったくないのだ。
確かに、去年の男の解剖で私たちは雛見沢症候群の正体を知り、そのメカニズムを大きく解明した。
………治療薬開発につながる貴重な発見もしている。
だが、治療方法は依然確立しておらず、…もし沙都子ちゃんが回復不可能な状態に陥った場合、…去年の男同様、解剖されてしまうことだってある…。
そんな、妹の生きるか死ぬかの瀬戸際を、…私は悟史くんに話すことができず、こうして曖昧に、順調に回復していると嘘をつくことしかできない。
もし、彼女に何かがあったなら。
……私は悟史くんに対し、許されない嘘をついてしまっていることになるだろう。
…私の心の中にわずかに残る良心が、ちくりと痛む。
「………もし監督の診療所のご迷惑でなければ…。…もうしばらく、入院させてもらった方がいいかもしれません。」
「……それはどういう意味ですか?」
妹の一日でも早い退院を願っているとばかり思っていたので、少しだけ驚く。
「いえ。……実は、沙都子。……あまり、叔母さん一家とも馴染めていないんです。」
「沙都子ちゃんが、ご両親とあまり良い関係ではなかったと聞いていましたが、……新しく預けられた叔母さん夫婦ともなのですか…?」
「………………。沙都子は、……大人にはあまり心を開かないので。」
悟史くんから、沙都子ちゃんの恵まれない生い立ちについては聞かされたことがある。
……何度も繰り返されたお母さんの再婚が、子供たちに心の傷を強いていたのだ。
悟史くんはそれを乗り越えられたが、沙都子ちゃんにそれを期待するには、当時の彼女は幼すぎた。
それがトラウマとなり、血のつながっていない保護者というものを過度に嫌う傾向があるのだと言う。
……いや、血のつながっていない人間が保護者なんて、誰だって嫌なはずだ。沙都子ちゃんに限ったことじゃない。
ただ、普通は心の中で嫌だと思っていても、それをぐっと抑える。
……でも、沙都子ちゃんにはそれがどうしてもできないということだろう…。
「叔父さんはあまり家に帰ってこないし、…居ても寝てるかテレビを見てるかなのでそんなに問題はないんですが…。……叔母さんがものすごく沙都子に絡むんです。」
「……どうして、そんなに嫌われてしまったんでしょうね…。」
一応の想像はついた。
……沙都子ちゃんの両親がダム賛成派だったせいで、叔父叔母も北条家というだけの理由で、とばっちりを受けていたはずだ。
さらにその上、事故でぽっくり他界して、子供を2人も押し付けられたのだから、仇はあっても恩はない、というところなのだろう。
それでも、悟史くんのように、表向き大人しくしていればそうそう波風は立たない。
……でも、沙都子ちゃんは大人しくできない。
それを態度や表情に出してしまい、大喧嘩になってしまうのだ。
「……僕も叔母さんに、沙都子の事情を説明してはいるのですが…。なかなかわかってもらえなくて……。」
「その度に、沙都子ちゃんを庇ってあげる悟史くんは、お兄さんの鑑だと思いますよ。……今や沙都子ちゃんにとって、唯一の肉親は悟史くんだけなのかもしれませんからね。」
「…そうですね。……そんな気がしてます。」
ほんの少しため息を混じらせならが、悟史くんはそう言った。
…口に出しては言わないが、…悟史くんも、沙都子ちゃんが叔母と喧嘩する度に、それを庇うために巻き込まれてしまうのに、疲れを感じているようだった。
彼は良い人間で良い兄だ。
だから妹を庇うためにいつでも戦うだろう。…でもそれはとてもとても疲れることなのだ。
悟史くんは、前のご両親の時からずっとそういう生活を送ってきた。
そして、それに心のバランスが耐え切れなくなって病んでしまい、私のところへ訪れたのだ。
私は、その状況の根源であるご両親が亡くなったので、それは改善されたものだと思っていたのだが…。
状況はどうやら、当時以上に深刻なようだった…。
「わかりました。……そんな状況で沙都子ちゃんを退院させたら、また心の症状がぶり返してしまうかもしれませんね。…入院費のことは気にしないでください。沙都子ちゃんが本当の意味で回復するまで、私が責任を持ってお預かりします。」
……彼の願いを聞き入れた風にしながら、自分の都合をつらづらと言ってしまう自分の狡猾さに、ほんの少し嫌気がさした。
何が、責任を持ってお預かりなのか。
……鷹野さんは彼女の解剖計画案を着々と進めているというのに…。
「………お願いできると、
「はい…?」
「それは、…どういう意味ですか?」
「………沙都子が帰ってきたら、
「………悟史くん…。」
悟史くんは、常に妹を庇う良い兄だ。…でも、だからといって何の負担にも感じていないわけもない…。
「……そんなことを考えてしまうなんて、…僕は何て悪い兄だろうって思います。……そうだと思えば思うほど、…自分が嫌になって。…………………………。」
そう言い、悟史くんは鼻をひとつすすった。
その表情は苦悶に満ちていて、…自らに罪の意識を感じているかのように見えた…。
模範的な兄であろうという気持ちが、彼を追い詰めていく。
………沙都子ちゃんも不憫だが、…それとは別な意味で、悟史くんも不憫だった。
私は、二人をよく知る者として、……誰も顧みてくれない二人のために、味方でなくてはならないのだと、ひしひし感じるのだった…。
◆北条兄妹(解除条件:地元説明会+北条沙都子)
※北条家と園崎家の対立が必要です。
※北条沙都子の自己紹介が必要です。
北条家と言えば、ダム戦争時に村全体と対立していた名物一家だ。
夫婦共に気性の激しいタイプで、特に園崎家と敵意剥き出しの喧嘩をしていた。
反ダムで結束していた村中から冷たい目で見られていたが、夫婦は共に蛙の面に水といった感じで、実にふてぶてしく戦っていたことが知られている。
ある意味、実にたくましい夫婦だった。
だが、それに付き合わされる子供は大変だったに違いない。
沙都子ちゃんも、悟史くんも、親のとばっちりで村中から冷遇されていたのだから。
さらにそれに加え、血のつながっていない父親と沙都子ちゃんの不仲というトラブルもあって、2人の精神的ストレスは限界まで高まっていたに違いない。
私は診療所の所長という、厚かましく言えば、村の名士的立場だったため、色々な人から話を聞けた。
……だから、2人がどれだけ冷遇されていて辛い目に遭っているかは、実際に会う前から知っていたのだった。
北条兄妹との縁は、沙都子ちゃんより悟史くんの方が先だった。
日々のストレスに耐えかねて体調を崩し、悟史くんが診療所にやってきたからだ。
彼自身は最初、自分の症状を風邪か何かだと信じていたようだった。
だから本人も、多分、風邪だと思いますと私に自己申告した。
……その時の、ため息の多い様子や、疲れ切った目。
悟史くんの体調不良が、風邪などという単純な理由によるものでないことを、私はすぐに感じ取ったのだった。
多少の薬を与えれば、今この場の症状を癒すことはできるだろう。
だが、それは一時の誤魔化しにしかならない。
本当の意味で治療するには、彼の生活環境そのものを治療する他なかった。
だが、口で言うのは容易い。
…彼を取り巻く村や家庭の環境は複雑に絡み合い、薬を飲ませて三日も安静にすればすっきり治る、などという状況では決してない。
北条家を冷遇する村の気質は、おそらく時間にしか解消できず、しかもそれはとてもとても長い年月をかけることになるのは間違いなかった。
………だからこそ、村中から冷遇されている彼を救うため、私がこの村で最初の味方になってあげなくてはと思った。
ストレスを与える環境を治すことができないなら、彼が受けるストレスを、何とか緩和できるようにするしかない。
それには、彼にストレスの発散方法を教えるのが一番だと考えた。
ストレスを発散するならば、適度な運動に勝るものはない。
私は自分が監督を務める少年野球チームに彼を誘った。
もちろん、私は若い研究の徒であり、時間の限りを雛見沢症候群の研究に捧げていたわけだが、それだけでは気が滅入る。
少年時代に野球をやっていたこともあり、地域の少年野球チームに指導者として参加するようになっていた。
……それがいつの間にやら、雛見沢の子たちで分離独立することになり、その監督に祭り上げられてしまったのだ。
医師は薬だけで健康を守るのではない。
健全な魂は健全な肉体に宿る。
スポーツを通じても健康を守ることができるはずだ。
だが、新造チームではメンバーが足りない。
…そこで、悟史くんを野球に誘うことを思いついたのだった。
悟史くんは自他ともに認める文学少年で、スポーツにはそれほど関心がなく、現在の窒息しそうな状況が、野球チームに加わることでどう解消できるのか疑問なようだった。
どうしてスポーツがストレス発散に効果的なのか、スポーツ医学を延々と説く必要はない。
彼自身が実際にスポーツで汗を流し、その効果を実感してくれればそれに勝る説明はないのだ。
彼もそれを次第に実感していったに違いない。
…最後の最後まで渋々ではあったけど、チームの行事や試合には、熱心に参加してくれたのだから。
私は少しずつ溌剌さを取り戻していく悟史くんを見て、自分の指導は間違ってなかったと、ひとり悦に浸っていた。
だが、悟史くんがこれほどのストレスを抱えていたならば、同じ家庭環境を持つ沙都子ちゃんだって、まったく同じに違いない。
浅はかにも、この頃の私は沙都子ちゃんのことまでは考えていなかった。
………だから、沙都子ちゃんが私の前に患者として運ばれてきた時、沙都子ちゃんの境遇を失念していたことをひどく後悔した。
悟史くんが、私の指導のもとで次第に元気さを取り戻していく間にも、沙都子ちゃんはストレス環境にひとり置き去りにされていたのだ。
また、この時期、沙都子ちゃんが倒れるに値するだろう事件もあった。
それは、両親の事故だった。
村祭りの意味の他に、ダム戦争の勝利記念日の意味合いも強かった当時は、北条一家にとって綿流しの当日は、非常に居心地の悪い時期だった。
その時期に家族旅行の予定を入れ村をしばらく離れようとしたのは、とても理解できることだった。
その旅行先の公園で、沙都子ちゃんの両親は転落する。
本当に運の悪い日の事故だった。
……綿流しの日であったばかりに、それはやがて、オヤシロさまの祟りとして語り継がれることになるからだ。
そして、北条家はオヤシロさまの祟りを受けた呪われた一家というレッテルを貼られることにも…。
村中から後ろ指を指されているのは両親だった。
だから両親が死んだなら、それで冷遇はおしまいになるはずだったろうに。……本当に運の悪いことに、綿流しの日に事故があったばっかりに…。北条家への冷遇は、清算されることなくいつまでも残り続けることになる……。
転落事故の現場には沙都子ちゃんだけがいた。
(その日は私の野球チームの行事に参加していたため、悟史くんは旅行に行っていなかったのだ)
その為、警察の事情聴取などは沙都子ちゃん1人に集中した。
……警察の大石は、村の組織犯罪を疑っているとか何とかで、唯一、現場に居合わせた沙都子ちゃんを質問攻めにしたという。
悟史くん以上のストレスを持ち、これだけのことが一度に押し寄せてどうにかならない方がおかしい。
警察の事情聴取中、感情が高ぶり呼吸困難を起こした、とのことだった。
運び込まれてきた時の沙都子ちゃんの、苦悶に満ちた表情は、とてもとても痛ましいものだった。
この華奢な体で、どれほどの辛い思いを受け止めてきたのか、それを測るだけでも胸が痛んだ。
「……監督、沙都子は大丈夫ですか…!」
「えぇ、安心してください。一時的に混乱してしまっただけですよ。」
「会っても大丈夫ですか?」
「やっと薬でぐっすり眠れたところです。できれば起こさないであげたいところです。しばらくゆっくり休ませてあげましょう。様子を見て、数日入院させてあげるのもいいかもしれません。…大丈夫。私に任せてください。」
「…あ、ありがとうございます。」
悟史くんがとても妹思いな尊敬できる兄であることは知っていた。
そして、妹の心の痛みを共有できる感受性があることも。
……つまり、悟史くんが持つ悩みもストレスも、全て沙都子ちゃんを映す鏡だったのだ。
不謹慎だからと思い口にしなかっただろうが、…悟史くんは両親の事故を悲しむと同時に、安堵したところもあったかもしれない。
なぜなら、これでもう、妹は心を追い詰められることがないからだ。
悟史くんのような、血のつながらない父とうまくやれる世渡り上手さは、沙都子ちゃんにまったくなかった。
だから、母はともかく、最大のストレス源である父がいなくなったのは、沙都子ちゃんの環境に、大きな変化をもたらすに違いなかったのだ。
…………しかし何ということ。
…この後に2人は、さらに劣悪な環境である叔父夫婦のところへ預けられることになってしまう……。
この時点では、新しい生活環境が兄妹にとってやさしいものであればいいという、少し楽観的な印象を持っていた…。
◆北条沙都子(解除条件:なし)
私は北条沙都子と言います。
でも、北条は今のお父さんの苗字です。
だから、違うお父さんだった時には、畠沙都子だったり、吉澤沙都子だったり、松浦沙都子だったりしたこともあります。
だから、北条さんと呼ばれても、何だかしっくり来ません。
沙都子と呼んでもらえれば、違和感なく自分の名前だとわかるのですが。
だって、沙都子という名前だけが、私が生まれた時から一貫して呼ばれている唯一の名前なのですから。
お母さんが離婚と再婚を繰り返す理由は、私にはよくわかりません。
離婚するくらいなら結婚しなければいいのに。
結婚するくらいなら離婚しなければいいのに。
それを何度か聞いたことがありましたが、聞いた時の状況に応じてお母さんの対応は異なりました。
結婚している時に聞くと、怒られました。
離婚している時に聞くと、泣かれました。
私には結婚というものがよくわかりません。
だから同い年の子たちがよくクレヨンでお絵描きする花嫁さんやウェディングドレスにも全然興味がありません。
多分、私は結婚しないと思います。
生んだ子供の苗字をくるくる変えて困らせたりしたくないから、結婚したくないと思います。
お母さんは好きですか、と先生に聞かれました。興宮の幼稚園の時だったと思います。
それはとても難しい質問でした。
だって、お母さんは大好きな時と大嫌いな時があって、どちらと決め付けることができなかったから。
やさしいお母さんは、いつもニコニコ。私たち家族を楽しく盛り上げてくれます。
私に、生まれてきてありがとうと言ってくれます。
やさしくないお母さんは、いつもイライラ。私たち兄妹に辛く辛く当たります。
私に、あんたなんか生まなければと言ってくれます。
お父さんは好きですかとも先生に聞かれました。
これはとても簡単な質問でした。
だって、お父さんは大嫌いな時と大嫌いな時しかなくて、どちらであっても大嫌いだったから。
再婚したばかりのお父さんは、いつもニコニコ。私を実の娘のように可愛がってくれます。
私に、自分のことは本当のお父さんだと思っていいよと言ってくれます。
でも、本当のお父さんのわけなんかありません。第一、私は本当のお父さんの顔だってよく知らないのですから。そんな人にお父さんだと呼んでほしいなんて言われたって、言えません。気持ち悪いだけです。
離婚する直前のお父さんは、いつもイライラ。私をゴキブリみたいに嫌ってくれます。
私に、お前に食わせてやる食費はないと言って、物を投げつけたり、ベランダに追い出して鍵を閉めたりします。
でも、それは昔のことなんだから忘れていいんですよと言われました。多分、別の学校の先生だったと思います。
それは正しいかもしれません。
だって、北条のお父さんになってから、ずっとお母さんはニコニコしています。
離婚する前には必ず何度も起こる夫婦喧嘩がなかなか起きません。……たまに仲違いするけれど、なぜか離婚にならず、元通りの仲良しに戻ります。
でも、多分その内また、離婚の話になるでしょう。
家庭裁判所とか離婚調停とか夜逃げとか養育費とか、すぐそういう話になるに違いありません。
だから、北条のお父さんも、いつまでお父さんなのかわからないから、お父さんと呼ぶ気が全然しません。
最初はお父さんも、私のことをとても可愛がってくれました。
でも、お父さんが何度私にお父さんと呼んでほしいと頼んでも、私がそう呼ばなかったので、どんどんイライラになって行きました。
多分、もうすぐ離婚です。お父さんがこんな感じになってきたら離婚です。
離婚すれば、今度はお母さんもイライラになります。
そして、私を生まなければよかったとか、お前がいるから私は幸せになれないんだとか言われます。
どうして、私が生まれるとお母さんに迷惑が掛かることがあるのでしょうか?
兄に聞いたら教えてくれました。
子供がいると、再婚が難しくなるらしいのです。
お母さんにとって再婚はとても大切なお仕事ですから、子供がいると大変なのは納得できます。
私が邪魔だという理由がやっと少しだけわかりました。
だからもうひとつ、兄に聞きました。
どうして子供は、新しいお父さんにも嫌われるのでしょう? と。
それも簡単でした。家族の役割が違うからなのです。
お母さんは子供を愛するのが仕事。
お父さんはお母さんを愛するのが仕事。
ということはつまり、私は、お母さんにとってもお父さんにとっても邪魔な子だったのです。
兄は私よりずっとしっかりしている人なので、私ほどは邪魔にされません。
でも、私はきっと絶対、多分それでも、いや必ず、邪魔者です。
だからわかりました。
お母さんもお父さんも、私なんか死んでしまえと思っているのです。
でも、私を殺せば警察に捕まってしまうから簡単には殺せません。
だからといって、絶対に私を殺さないとは思えません。
もし私が崖下を覗き込むようなことでもあったなら。そしてそれを誰も見ていなかったなら。お母さんとお父さんは、私の背中をどんと突き落とすに違いありません。
お父さんが最近、気持ち悪いくらいにやさしくなりました。
嘘の電話をした後から、急に気持ち悪くなりました。
きっと、私を殺すために油断させようという作戦に違いありません。
だから私は、絶対に騙されないようにしようと思います。
…ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…。
最近、耳を澄ませば、誰かがずっと謝っているような声が聞こえます。
きっとその子も私と同じで、お母さんに生まなければよかったと言われてるに違いありません。
でも、私はその子みたいに謝りません。
絶対に生き延びます。逆に返り討ちにしてやっつけるつもりです。殺される前に殺し返してやります。
◆北条悟史(解除条件:なし)
梨花ちゃんに聞いたら、ひょっとするとまだ裏山にいるかもしれないという話だった。
沙都子はあそこが大好きなのだ。
木々が生い茂り、ツタが絡まり、枯木が横たわり、アケビも食べられる、そんな裏山が大好きなのだ。
子供なら誰もが憧れる秘密基地。……沙都子にとっては裏山が秘密基地なのだった。
でも、裏山は未開の山なので、うっかりすれば迷い込んでしまいかねない危険な場所だ。
…そんな場所を遊び場にしていることに、兄としては少し不安もあったけれど、……どちらかというと、普段から裏山で遊んでいる沙都子より、普段あまりここに来ない僕の方が迷ってしまう可能性は高そうだ。
夕方になると森の中は暗くなるのが早い。
これ以上、探して見付からないなら、他へ行った方がよさそうだった。
「沙都子〜〜〜〜!!! 沙都子〜〜〜!!」
思い切り大声で呼んでいるつもりだけど、森の中では声などそうそう届かない。
梨花ちゃんの話によると、最近はこの辺に秘密基地を作っているらしく、ひとりで出掛けては色々と基地を拡張して遊んでいるらしい。
基地の拡張って何だろう…?
秘密基地ってくらいだから、人には知られたくないんだろう。
だったら、人を近付けない仕掛けとかを作るのかな……?
…そこまでわかっていたなら、沙都子がこの裏山にどういうものを仕掛けているのか、気が付くべきだった。
「ぅ、うわッ?!」
突然、足が地面にずぼっと落ち、枯葉の下に隠すように貼られていた縄跳びのようなものを引っ張ってしまう。
頭上の木立からカサカサ、バリバリと騒々しい梢の音が聞こえたかと思うと、僕のすぐ横に枯れ枝を丸めて大きな玉にしたようなものが降って来た。
……沙都子の大好きなトラップ遊びに違いない。
目論み通りに仕掛けが動いていたら、僕の頭に見事命中していたのだろう。
「…あらあらあら。どなたが現れたかと思えば! にーにーではありませんの。」
「沙都子…!! 駄目だよこんな遊びは、危ないじゃないか…!」
「この先は危険だから入ってはいけないって、営林署の看板がちゃんとあったはずでございましてよ?/
それを無視する方には素敵なトラップの大歓迎がお待ちしておりましてよ? をっほっほっほ!」
…危険な遊びはやめなさいと、兄として注意するべきなのだが。…本当に久々に見た、沙都子の明るい笑顔に、僕は注意の言葉をそれ以上口にするのをやめる。
「それより沙都子。今日は家族みんなで食事に出掛けるから、夕方までには家に戻りなさいって言われてたじゃないか。」
「……別に私、お食事なんか行きたくありませんわ。お母さんとお父さんが2人で行けばいいじゃありませんの。行きたければにーにーも一緒に3人で行けばいいんですわ。」
「………まだお父さんのこと、怒ってるのかい?」
「……違うだろ…。それは前のお父さんの時だよ。今のお父さんはそんなことしてないよ。」
「…私をベランダに追い出して鍵をしましたわ。お昼ご飯を抜きにされましたわ。煙草の種類が違うと言われましたわ、好き嫌いは駄目だってほっぺたを叩かれましたわ! それからそれから…!!」
……それらは全て、今の義父の話じゃない。
それどころか、別々の義父の話が入り混じっている。
僕たち兄妹は、お母さんの再婚の度に、違う人をお父さんと呼ばされてきた。
…お父さんという言葉は、決して安っぽい言葉じゃない。
……心の底からその人のことを父だと認めなければ、冗談だって言えない、…そんな重い言葉なのだ。
それでも僕は、ぎこちない家族関係を少しでもスムーズにするために、その言葉を口にできるだけの分別があった。
………だが沙都子の歳にそれを求めるのは、あまりに酷な話だった。
沙都子は幼少の頃から、何人もの義父とトラブルを起こし、……今の義父とも初対面の時から心を許していない。
沙都子にとって、……「お父さん」という存在がすでに、心を許すべきものになっていないのだ。
確かに、…今の義父は自分の子供を持った経験はない。
だから、沙都子に対して多少、感情的に接してしまったことも少しはあった。
でも、沙都子の虐待電話事件以来、義父はそれを反省し、沙都子と心の交流を持とうと、本当にささやかだけれど努力を重ねている。
……お母さんも、沙都子の心の傷を保護司の人に諭され、沙都子への家族としての接し方を少しずつ模索しているところだった。
…なのに、沙都子がそれを受け容れない。………それは無理もないことなのだ。あまりに沙都子の幼い時代は、悲しさに満ち過ぎている…。
沙都子は、…多分、僕にしか心を開かない。
だから僕だけが唯一の肉親として接してあげなければ、……沙都子の家族はこの世からいなくなってしまう…。
でも、それは兄妹の関係であって、家族とは呼ばない。
どんなにぎこちない仮の家族であったとしても……、
「沙都子…。今のお父さんはだんだんやさしくなってきたよ。……沙都子と仲直りしたいっていつも言ってる。」
「……そんなの聞いたことありませんわ。」
「お父さんがそれを言おうとすると、沙都子が逃げちゃうからだよ…。お父さんももっと沙都子と話をしたがってる。………もうカボチャを無理やり食べさせたりはしないって言ってたよ?」
「…………嘘ですわ。カボチャを食べるまでは食卓から逃がさないって言われて、イスにビニール紐で縛られましたわ。」
…それも、今の義父の話ではない…。
「沙都子。とにかく、にーにーと一緒に家に帰ろう? せっかくお母さんが福引で当てたお食事券が無駄になっちゃうよ。予約制だから、今日行かないと無効になっちゃう。」
「………………………にーにーだけで行けばいいんですわ。私はひとりでお留守番してるのが好きなんですの。」
沙都子は普段、こんな時間までひとりで遊んでたりはしない。
……今日が、家族と出掛ける日だと事前に知らされていたから、…わざとひとりでこんな時間まで裏山で遊んでいるのだ。
いつまでも頑なな沙都子に、もういい加減にしろと言いたくなる短気な自分を必死に抑える。
……僕だけが沙都子の拠り所なのだ。…沙都子を怯えさせちゃいけない…。
「とにかく沙都子、帰ろ? 食事に一緒に来るかどうかは、帰ってから決めてもいいんじゃないかな。……………それに、
「………にーにー…。あれだけ何度も一緒に連れてってあげましたのに、まぁだここが覚えられませんの?/
まったく、しょうがないにーにーですわねぇ?」
沙都子が、手を差し出す。
人前では、にーにーと手をつなぐなんてもう恥ずかしいと言うくせに、自分から手を出してくる。
僕はその手を取る。
沙都子の華奢な手。…………まだまだ、兄の僕が守らなければならない。
「帰ろ、沙都子。」
「…………えぇ。」
◆バラバラ殺人事件(解除条件:地元説明会)
※感染住民全体の症状進行が必要です。
;昭和54年初夏
「…はぁ…はぁ、
「………くそったれ、……やべぇよ、やべぇよ…。…監督…? 監督、……返事してくださいよ。……監督ぅ………。」
「ぁ、……あほんだらぁ…。し、死んでるに決まってンだろが…!」
がらん。……大きな音がして、全員は我に帰ったようにはっとした。
誰かが、手に持っていたシャベルを落としたのだ。…そのシャベルの先端は、どす黒い血がべったりと染み付いている…。
いや、それはシャベルだけにではない。…その場にいる6人の作業員風の男たち全員の衣服にも染み付いていた。
一人が、監督と呼び声をかける先には、全身血塗れでぴくりとも動かない無残な死体が転がっていた…。
「…監督ぅ……、
「やっかましい…! 死んでるに決まってンだろ! …仕方ねぇじゃねぇか! 正当防衛だろ、正当防衛…!!」
喧嘩の原因は、自分たちが事務所内でビールを開けているのを監督に咎められたからだ。
あちこちに飲酒禁止だの喫煙禁止だのと標語をべたべた貼りつけていた。
そのルールを破る者には容赦のない雷が落ちたのだ。
確かにルールを破ったのは彼ら6人が悪い。
でも、住民運動の敵意に日々晒され、ストレスが限界まで溜まっていたからなのだ。
…だからつい監督を挑発するようなことを言ってしまった。表に出やがれ、と。他の人間も、やれやれと囃し立てた。
辛いばかりの工事で面白いことなど何もない。
だから、つい喧嘩を囃し立てるように言ってしまったのだ。
せいぜい罵りあいか取っ組み合い程度を期待していた。
…だが、次第にそれはエスカレートしてきた。
いや、…厳密には監督が異様に感情を爆発させだしたのだ。
……監督だって普段、住民のやかましい運動の矢面に立たされている。
自分たちがストレスを溜めているように、…監督だってストレスが溜まってても当然なのだ。
でも、…それでも常軌を逸していた。
監督は初め、確かにシラフだったはずだ。
……でもどんどんおかしくなっていって錯乱状態になり、
後で囃し立てていた彼らでも、その異常な様子に酔いが抜けてしまったほどだった…。
そして……。監督はいきなり傍らのシャベルを拾い上げると、何の躊躇もなく口喧嘩の相手の頭を叩き割ろうとしたのだ。
…咄嗟に、転ぶように避けたから脳天で食らわずに済んだが、もし避け損なっていたら、絶対に頭をカチ割られていた。
そして、転がりながら避ける男に対し、何の躊躇もなくシャベルを何度も打ちつけた。
それを男は必死に転がりながら逃げる。
……この頃には喧嘩の次元を越えていることに気付き、囃し立てていた男たちは取り押さえに行った。
だが、監督はその男たちに対し、シャベルを振り上げたのだ。
振り上げられた男は、それを腕でバツを作るような形で防ごうとした。
……縦に振り下ろされるシャベルを腕で防げるわけがない。/
鮮血がほとばしり、苦痛のうめき声が漏れ出した。
この頃には誰もが理屈抜きで直感していた。…監督は普通じゃない。今の監督には何の手加減もなく、…もしこちらが防いだり避けたりしないなら、容赦なく脳天を割ってくる…!
シャベルを持つ相手に対抗するには、…いや、シャベルの攻撃を防ぐにはこちらも何か持たなくてはならない。
隙を見て一人が大型ハンマーを手に取った。
…それを見て、他の人間たちも皆、得物を手にするべきだと気が付いた。
今の監督を取り押さえるには、得物が不可欠だと自然に思った…!
「……こんなつもりじゃなかったのにぃ…。…ぅわぁぁぁぁぁ…。」
監督の狂気が6人に感染するのは時間の問題だった。
…そして、取り押さえが、いつの間にかリンチにすり替わるのだって、時間の問題だった。
気付けば監督は血塗れの肉塊だった。
…顔面は腫れ上がり、肉や皮が削げ、頭蓋骨が覗いているのがわかった。…誰もが、すでに絶命していることを悟った…。
「ふ、ふざけんじゃねぇよ…!! 俺たちは殺されかかったんだぞ! こいつが襲い掛かってこなけりゃ、俺たちだって反撃しなかったんだぞ!! なぁ?!」
6人のリーダー格の、一番最初に口喧嘩を買った男が仲間に同意を求めるが、誰もが青ざめていて、返事をしたりはしなかった…。
それが、…男には面白くなかったのかもしれない。
…自分が喧嘩を売った。他の仲間たちは後から加わったに過ぎない。
……自分が主犯扱いなのだ。
だからこそ、自分をトカゲの尻尾のように見られているかもしれないことに耐えられなかったのかもしれない…。
「い、いつまでもナヨナヨしてんじゃねぇ…!! 仕方ねぇだろ! 殺ッちまったもんは仕方ねぇだろ!! 俺たちゃな、もう殺人犯なんだよ!! 覚悟を決めるんだよ! まさかおめぇら、自首して懲役食らいてぇなんて思ってんじゃねぇだろな?! 冗談じゃねぇよ!! ムショなんかこの年で行ってられっかよ!! 隠すんだよ! こいつの死体を隠してスッとぼけるしかねぇんだッ!!」
……その男が、実は過去に暴行事件で執行猶予判決を受けていることを、何人かは知っていた。
だから、…もし警察沙汰になれば、罪はこの件だけでは済まないのだ。
だからこそ、…顔を真っ赤にして、何とかこの状況から逃れようと喚きたてているのだ。
…もし、この場にいたのが監督と男だけだったなら、彼はこうまで息巻く必要はなかった。
…ただ冷静に、監督の死体を隠してとぼけるだけで良かったのだ。
だが、ここには彼も含めて6人いる。
共犯という名の目撃者がいるのだ。
この内の誰かひとりでも良心の呵責に負けて自首なんかしたら、それは自分にも及んでしまうのだ…。
「で、……でも、
「それより…、正当防衛ってことでちゃんと主張して…、
「甘ったれたこと言ってんじゃねぇ!! これだけズタボロに殺しちまってンだぞ!! 過剰防衛で済むかよ?! 親が見たって見分けがつかねぇくれえに殺っちまってんだぞ馬鹿野郎ッ!!!」
「で、…でもよぅ…、どう隠したって、監督がいなくなったのは明日の朝にはバレちまうんだ。どうしようもねぇよ……!」
「どうしようもねぇのは、おんどれの頭じゃいボケぇッ!!!」
弱音を吐く男の頬を張り倒す。……いつの間にか、リーダー格の男の形相は鬼のようになっていた…。
「いいかボケども?! 俺たちゃな、殺人犯なんだ殺人犯!! グズグズ言ってりゃ、5年6年食らい込まれちまうんだよッ!! 俺らン中にひとり裏切り者がおってみろ!! 全員が捕まっちまうんだよッ!! 懲役を舐めんな? どうせ捕まる覚悟だっちゅうんなら、死ぬ気で逃げまくってやるんだ!! 年貢の納め時になったら好きなだけ覚悟決めりゃええんだ!!」
どんどん……、男の形相が鬼のようになっていく。
それは、ついさっきまで監督が浮かべていた表情でもある。
……何かに取り憑かれたように豹変した監督と、同じものが彼に取り憑いたのではないか……。彼らは本気でそう思った。
思えば、…その表情はデモ活動で吼え猛るこの村の住民たちと同じ形相なのだ。
この村の本当の名前は鬼ヶ淵村なのだという。
そして、そこには凶悪な鬼が住んでいたといい、人に乗り移ることもあるのだと。
……デモ隊がうそぶくそんな話を、今は本気で思い出していた…。
この形相がさらに行き着いた時、…監督はシャベルを振りかざして殺意を剥き出しにした。
………目の前の男もそうならない保証などないのだ。
実際、彼は得物のハンマーを握り締めたまま、ぎょろぎょろと睨みつけて威圧してくる。
……もし、誰かが一言、自首しようと口にしたなら。…多分、その男の頭を一撃で叩き割るだろう…。
「…そうだ。…………裏切り者を出さんためにな。いいこと思いついたわ。…へっへっへ。死体も隠しやすくなって一石二鳥だぞ…。」
「ど、…………どんな手だい…。」
「へっへっへ…。この野郎の死体をな。………みんなで仲良く、この人数で割り算するんだ。」
「そ、……そりゃあ……、」
そんなのはまずいよ、と反論したかった。殺しただけでも重罪だ。…その上に遺体損壊までやるなんて、いくら何でもやり過ぎだ…。
…だが、反論したらこの場で殴り殺しかねない雰囲気だった…。
だから、それ以上の言葉を喉から出すことはできなかった…。
「全員でバラすんだ。この野郎が日頃言ってンだろ。共同作業だよ。全員、共犯だ。それで、バラした部品は各自が責任を持って隠すんだ。………な? これなら全員仲良く主犯だろ? へっへっへ、自分だけ罪が軽いから自首しようなんてズル抜けは許さねぇってわけさ。…へへへへへへ!」
「……ぅ………………。」
5人は、もうその鬼気迫る形相に完全に飲み込まれ、……鬼ヶ淵村を支配する鬼の真の恐怖が背中を這い上がってくるのを、ぞわぞわと感じているのだった………。
◆生贄第一号(解除条件:入江京介+バラバラ殺人事件)
※研究には生きた検体が必要です。
※その検体は末期発症者であることが必要です。
寝惚けるということは、こんなにも間近でけたたましく鳴る電話の音にも関心を示さないということらしい。
私はしばらくのまどろみの後、ようやくそれが電話の音で、このような時間に連絡を取りたがっている緊急性の高いものであることを理解した。
時計を見れば、深夜の2時。こんな時間に一体何事だというのか。
「………もしもし、入江です。」
「お休みのところ申し訳ございませんわ、入江所長。」
鷹野さんだった。
…彼女が私用で電話を掛けてきたことは一度もない。
…また、彼女は入江機関という組織においては私の次の序列者であり、事実上、機関運営を完全に任されている立場である。
……その彼女がこんな時間に電話を掛けてきたのだから、それはきっと相当不穏で、さらにその上、緊急性の高い事態に違いなかった。
「……遅くなりました。末期患者が出たというのは本当ですか。」
「えぇ。生きた検体がほしいと思っていたら、本当に運良く。くすくすくすくす。」
私は最初、哀れな犠牲者を、彼女が強引な手段で誘拐してきたのではないかと思っていた。
診療所地下にある研究区画に、すでにその男は移されていた。
拘束台の上でもがき、暴れるその様は、抵抗というよりは錯乱状態に見えた。
口にする言葉は支離滅裂で、怒っているようにも悔やんでいるようにも、あるいは子供が駄々をこねているようにも聞こえた。
……一見して、普通の状態でないことは明白だった。
「…とにかく、麻酔で眠らせましょう。このままでは自分の舌を飲み込んで窒息しかねません。」
「もう少し状態を観察したかったのですけれど、仕方ありませんわね。」
白衣のスタッフがすぐに麻酔の準備をする。
正常な状態の人間であっても、このような怪しげなところへ連れ込まれ拘束台に縛り付けられたなら、少なからず暴れるはずだ。
しかし、それを加味しても、この男のそれは異常なレベルだった。
……捕らえたのは山狗の小此木さんたちだろうが、よくもこのような状態を捕獲できたものだと感心するほかない…。
彼女の説明によると、診療所からの帰り道に偶然、末期患者と遭遇したというのだ。
診療所に連れ帰って簡易検査をしたところ、陽性の可能性極めて大と判断した、とのことだった。
……もちろん、そんな都合のいい説明を鵜呑みにする気はなかった。
…でも、この男が末期患者であることは疑いようがなく、雛見沢症候群の研究を進める上で渇望して止まない、生きた検体でもあった……。
「一体、この男は何者です…?」
「くすくす。あの男が持っていた新聞の包み。…中に何が入っていたと思います?」
「………う…、…これは何です……?」
ステンレスの皿の上に置かれた血塗れの新聞紙の包み。
べっとりと血が滲み出すそれは、開ける前から何かおぞましい物が包まれていることを想像させた。
にも関わらず、鷹野さんは面白いもので驚かそうというような表情を浮かべる…。
「う………、これは、…ひどい……。」
そこには、血塗れの……、
拘束台の男にはちゃんと右腕がある。…ということは、この男のものではない。……では一体これは…?
医者としてこのような痛々しいものは多少は見慣れている。
……しかし、それでも目を覆いたくなるのは、あまりに暴力的で無残なその断面だった。
…とても医学的処方に則ったとは思えない、乱暴な切断方法。
…この右腕が、いかにして切り取られたか、その経緯を想像させるには充分な惨たらしい痕跡であった…。
「状況から考えて、この男が切り取った物と考えていいでしょうねぇ。くすくすくす。」
「……つまり、彼は近隣で起こった何らかの死体遺棄事件の犯人、ということですね。」
その時点では、この腕が何者のものなのか理解不能であった。
だがその翌朝、ダム工事の現場監督のバラバラ殺人事件が発覚し、その右腕が見付からないという情報が入り、この右腕の持ち主を知ることになるのだった…。
「この男、前科者だそうで、しかもその上、執行猶予期間中だとか。…にもかかわらず、また罪を犯してしまうなんて。それで殺人の発覚を恐れて遺体を隠そうと思ったのでしょうね。」
「…状況にもよるでしょうが、懲役数年で済むというものではなさそうですね。」
「くすくす。入江所長も、こんな社会の屑が相手なら、解剖に躊躇はないのでは?」
「………社会の屑がさらに犯罪を重ね、さらにその上、雛見沢症候群で凶暴化したのか。それとも、前科を悔いる善良な小市民が雛見沢症候群で凶暴化して罪を犯したのか、どちらかはわかりません。…前者ならともかく、…後者ならば彼には何の罪もありませんよ。」
それが雛見沢症候群の恐ろしいところだ。
……自らの人間性に問題があって行なった犯罪なのか、雛見沢症候群に駆られた末に犯した不幸な事故なのか、…区別が容易でない。
………いや、そもそも、その人間性の欠陥は何に起因するものなのか。
それこそが、入江が追い求めるところでもあった。
罪を憎み、人を憎まず。
……犯罪者は、懲役を与え懲らしめることでしか矯正できないのか。
…もし、脳の疾患により犯罪に無意識に駆り立てられたのだったら、…それを治療することで、人は矯正できる。
つまり、…この世には罪などなく、あるのは治療を待ち誰からも理解されない哀れな患者だけなのだ。
中世の時代には、脳に障害を持つ患者たちが、患者と理解されず、悪魔憑き呼ばわりされて、幽閉されたり処刑されたりした時代があった。
…それから数世紀が経ち、今や彼らは治療を受けるべき患者として認識されている。
………時代で認識は変わりえるのだ。
今、罪人と呼ばれて蔑まれ逮捕される人々も、数世紀の未来には、患者として認められ適切な治療と人権が認められる時代が来るかもしれないのだ。
罪を、悪意でなく疾患で説明すること。
…これこそが入江のライフワークだった。
雛見沢症候群は、それを極めて端的に説明できる奇病。
…これを解明することは、入江にとって、極めて重要な意味を持つ…。
それを解明するためには、
それはとても罪深いことだが、………その覚悟なくして、解明はありえないことも理解していた。
…入江機関は初めからそれを前提としている。
私も所長就任を求められた際、その覚悟があるか何度も確認されているはずだ。
そして、……ようやくその機会を得た。
…これは奇病研究の、極めて重要な第一歩になるのだ…。
しかし、………この期に及んで私には躊躇があった。
確かに、私は様々な手術で人の体を開いてきた。
…この男に施すのも、限りなく近い行為だ。…………だが、根本的に違う。
私が今までしてきたのは治療行為だ。
生かすためにやった。
より良い将来が送れるよう、患者のためを思ってやった。
だがこれからしようとしていることは治療行為ではない。…彼を最終的には殺してしまう。
しかも、その死は人道的な見地からかけ離れる。
………生命を、摂理に逆らって無理やり維持しながら、…生きたまま脳を開いていくのだから。
「入江所長? 聞いてらっしゃいます?」
「…ぇ、
「解剖計画書を提出し、東京に応援を要請した方がよいかと思います。何しろ、単に生きてるだけでなく、末期症状を起こしている大変貴重な検体ですもの。慎重な解剖が求められますわね。」
「…そうですね。仰る通りです。そのようにしましょう。」
「それまでに数日の猶予があると思います。そこで、麻酔を解いていくつかの反応実験をしてみたいのですが。」
「……危険ではありませんか? たとえ拘束を解かなくても、何が起こるかわかりませんよ?」
「ようやく手に入った活きのいい検体なんですもの。ただ脳を覗くだけじゃ勿体無いですわ。くすくすくすくす…。」
鷹野さんの妙なまでの浮かれぶりが、とても気持ち悪い…。
……だが、よくよく考えれば鷹野さんの反応の方が正しくて、…温度差のある自分の方がおかしいのかもしれない。
ここにいる目的は研究のためでしかない。
…ならば、初めての解剖の機会に、胸をときめかせるのが正常な反応に違いないのだ。
……にも関わらず、私は躊躇が抜けきれずにいる。
自分の研究者魂はこの程度のものだったのだろうか。
医学を切り開いてきた先人たちが、その時代の倫理観をはるかに超えた勇気を示すことで、いくつもの偉業を成し遂げてきたというのに。
…何人もの脳を見てきた。手術をしてきた。
…時には死に至らしめてしまったこともあった。
でも、自分は正しいことをしてきたのだからと、それを気に病んだことはなかった。
……後に、私のしてきたことが一切、否定されたとしてもだ。
気に病むくらいなら、そんな彼らの死を無駄にしないためにも、ますますに医学の道を邁進するべき。
…それこそが医学の道を切り開く者の姿のはず。
なのに、……治療ではなく、解剖という名に変わっただけで、これほどまでに心が苛まれるものなのか。
…所詮、私は過去の偉人たちが切り拓いた道をなぞることしかできない器で、…自らその先を切り拓く力などないということなのか。
「…あら。どうなさいましたの、所長。お休みのところを無理に起こしてしまったので、ご気分が優れませんのかしら…?」
気遣うような言葉を掛けながら、
…私の心に迷いがあることを見抜いている。
…そしてそれが、未知の奇病を研究する第一人者として恥ずかしいことだと嘲笑っている…。
…………………軽く頭を振り、少しだけ残っていた眠気を追い払う。
私がどれだけの決意をして今日に臨んでいるかを思い出せ。
……私の手はすでに血塗れだ。
だが、ここで立ち止まったら、その血は無駄なものになってしまう。
…偉大なる研究のための礎にして初めて、その血を流してくれた人たちが浮かばれるんじゃないか…。
……もう一度だけ頭を振り、私は研究者としての魂を覚醒させた。
「いえ。考え事をしていただけです。…鷹野さんは東京との調整をお願いいたします。日程が決まりましたら教えてください。」
「えぇ、了解いたしましたわ。……くすくすくす! 眠気も吹っ飛んでしまいますわね。」
私にできるのは、せめてこの男の犠牲が無駄にならないよう、最高の仕事をするだけだ。
…もし血が流されるなら、…それは一滴たりとも無駄にしてはならないのだから。
私は、解剖について物騒な話をして盛り上がっているスタッフたちに、不謹慎だと一喝すると、所長室に戻るのだった…。
◆入江の生い立ち(解除条件:入江京介)
※入江京介の過去の回想が必要です。
医者になろうという動機は、子供の頃にありがちな非常に不純なものだった。
お医者さんになれば儲かる。尊敬される。…そんな程度が原点だった気がする。
だから、近所の子供たちと遊ぶ時にも、自分は常に医者として振舞った。
付け焼刃の知識で、転んだ子の傷口を洗ったり、捻挫を冷やしたりしてあげていたっけ。
自分も周りも、京介くんは将来、きっとお医者さんになると信じていたんだ。
家は貧乏だったから、私のその志をとても喜んだらしい。
医者になるにはたくさんの勉強が必要だと教えてくれ、貸本屋さんから医学書もどきを借りて来ては読ませてくれたっけ。
一冊の借り賃も決して安くない。
だから、借りた一冊を一日で斜め読みし、翌日に両親がそれを「以前に借りた本と重複してしまったので、本を変更したい」なんて言って、タダで二冊目を借りて来てもらったりしたっけ。
もっとも、そんな知識は、実際には大して役に立たないのだが、将来はきっと医者になるというモチベーションを盛り上げる意味では、とても有意義だったと思う。
近所ではお医者の京介くんと呼ばれたし、クラスでも必ず保険委員に推薦された。
先生も、医者になるためにはどう進学すればいいか相談に乗ってくれた。
もちろん、夢だけで医者になれるほど現実は甘くない。
勉強も大変だったし、決して楽な道のりではなかった。
医者の門を叩くには大学に入るのが欠かせない。
だが、家が貧乏だったため、学費のかかる私大は認めないと言われた。となれば、国立大学しかない。
私の成績は決して悪くはなかったが、国立大学は極めて狭き門だった。
その上、医学部ともなれば、その門はさらに狭まる。
…懸命に勉強した。
原動力は、子供の頃の夢。
自分はお医者さんになって、みんなに尊敬されるんだ、という本当に安っぽい子供の頃の夢だけが私の背中を押してくれたのだ。
……そして合格。
順位は決してよくなかったが、それでも辿り着いたのだ。子供の頃の夢を叶える、そのスタートラインにようやく。
両親は大喜びだった。
…父も母も学歴は低かったから、自分の息子が医学部合格を成し遂げた快挙に、親類中を呼んでお祝いしてくれた。
たとえ国立と言えど安くない学費を承知の上で、盛大にお祝いしてくれた。
父は、感情を表に出さないタイプだった。
何があっても仏頂面。自分の意見を述べることもなく、率先することもない。
母に促されお膳立てをしてもらい、最後に現れて無言で去っていく、あの時代に多かった無言頑固タイプだった。
その親父が、涙を浮かべながら歓喜する姿がとても嬉しくて、自分も涙をもらってしまったことを思い出す。
私の背中を何度も叩きながら親類に、こんな息子を持てて俺は幸せだと何度も繰り返し、私に面と向って、これまでの努力を讃えてくれたのだ。
そして、それは私を東京へ送り出す壮行会ともなった。
駅で父は、辺りに構わず万歳を連呼して見送ってくれた。
それが見えている内は、恥ずかしくて嫌だったのだが、
それからは永く険しい勉強の日々だった。
ハイカラな都会の生活に溺れ、自堕落になりたい日もたまにはあった。
でも、その度に田舎から届く両親の手紙に励まされ、何くそ、俺は挫けないぞ、と頑張ってきた。
この頃は、自分の将来の夢は開業医で、田舎に帰り、内科や小児科を開いて地域に貢献したいと思っていた。
だから、まさか夢にも、脳に関わることになるとは思わなかった…。
ある日、私をいつも励ましてくれる田舎からの手紙の雰囲気が、少し変わった。
文面はいつもと変わらぬ田舎の近況と、こちらの生活を気遣う内容だったが、…追伸部分がいつもと違う雰囲気だった。
「最近、お父さんがとても乱暴になりました。ひどい時には家中が散らかるくらいに暴れて困っています。」
…その粗暴な振る舞いと、寡黙な父の姿がどうしても重ならず、私は驚きを隠すことができなかった。
何かよほどのことがあったのだろうか。
…だが、そのような心当たりがわからず困っていると、母の追伸は結ばれていた。
母は父の伴侶だ。私が生まれるよりずっと前から、ずっと父と共に過ごしてきた。
…実の息子に気付けないようなことにも気付ける人だった。
…その母にも思い当たらぬ父の乱暴。…………一体、何があったのか。
父母は本当に仲が良いおしどり夫婦だった。
幼い自分が母を困らせると、父はゲンコツで制裁したものだ。…そんな父がどうして母に辛く当たるのか。
父母の間で何か仲違いがあったのではないか。
……元旦には帰る。その時に父と腹を割ってみようかなんて思っていた。
……だが、私が考えている以上に状況は深刻だったのだ。
ある冬の寒い日。…私の下宿先の鍵が開いていた。
泥棒にやられたかと驚いて入ると、……そこには荷物を抱えた母の姿があった。
…そう。母は父の暴力に耐え切れなくなり、私のところへ逃げてきたのだ。
女、三界に家なしなんて言われた時代だ。
父と同郷の母は実家にもおめおめ帰れず、上京した私のところへやって来たのだ。
そして、母の口から知らされる父の暴行の日々。
あんなにも物静かな人だったのに、なぜ人が変わってしまったのかわからないと母は泣いた。
そして、もう二度とあのような乱暴な人のところへは戻らないと決別を口にするのだった。
息子の私は、おろおろとするしかない。
…もう一度父を話し合うことはできないのかと言ったが、…それは母の体中に残るアザの前には無力だった…。
その後のことは、……思い出すのも辛いから掻い摘む。
母が家を出た直後、父はそれを浮気だと思い、ご近所の家に木刀を持って押しかけて暴れ、
すぐに釈放されたが、近所の誰かが逃げた母を匿っていると疑い、同じようなことを数度繰り返した。
誰彼の見境なく喧嘩を吹っかけ、…最後には路上で愚連隊もどきに袋叩きにされて死んだ。
…葬儀の喪主は親類が務めてくれたが、母は参列しなかった。
死人に鞭は打たない。
だから誰も父の蛮行を今さら批判しなかったが、…誰もが、どうしてあの寡黙だった人がああも豹変してしまったのかと不思議がっていた…。
そこで親類たちから聞いた、晩年の父の様子は、母から知らされている以上の奇妙な実態がわかった。
母から聞いているのは、突発的な暴力や激昂のことばかりだった。
…だが、それは極めて目立つ一面に過ぎなかったのだ。他にも、笑ったり、落ち込んだり。
…様々な感情が突然に発露しては切り替わっていたらしく、特に晩年はそれが著しかったという。
そして、ある事故を境に強い頭痛に悩まされるようになっていたこと。
…父は土建職人だった。
仕事先の事故で建築用の角材で頭部を強打したことがあったらしい。
……意識はすぐに戻ったらしく、本人もぴんぴんしていたため、それだけのことで片付けられてしまったが、…その事故以後から、父の頭痛や異常が徐々に始まっていくというのだ。
私はこの事故と父の豹変に因果関係を感じ、帰郷後、教授に打ち明けた。
「…ふむ。断言はできませんが、その様子から、入江君のお父さんに何らかの精神障害が起こっていた可能性は否めません。その頭部打撲事故の際に脳に障害が起こり、脳器質性精神障害を起こしたのかもしれませんね。お父さんの晩年の状況は、そんな患者さんに多い、意識変容や譫妄(せんもう)に酷似していると思います。」
人の行動は脳から作られる。……その脳が疾患することで起こる、行動の異常。
つまり、父は異常者でもなんでもなく、…気の毒な患者に過ぎなかったのだ。
「お父さんの遺体を検死できるなら、脳をよく調べてみるといいでしょう。…ひょっとすると腫瘍のようなものが見付かるかもしれません。」
だが、父の遺体はすでに火葬されている。それを確かめることは永遠にできない。
でも私は、父の状況から間違いなくそうだと断言できた。
それしか、あの寡黙で家族思いで、…母に静かな思いやりを寄せていた父の豹変を説明できないのだから。
………私は、父の名誉を回復するため、親類たちにそれを説明したが、ほとんどの人たちは納得してくれなかった。
脳が傷つくようなことがあれば死んでしまうはず。
だが父はぴんぴんしていた。
だからあの事故で脳が傷ついたわけがない。
それに、あれらは父の人間性に起因するもので、脳ではなく心の問題に違いないと、心という都合のいい言葉で無理やり片付けられてしまった。
…それが、一般人の持つ脳に関する知識の限界だった。
……彼らのいう心は、脳という器官で作られるものに過ぎないという考えがないのだから。
親類たちのほとんどは信じてくれなかったが、
………それが母だった。
母は老衰が進むと、心も少し狭くなり、
…口を開けば父の批判ばかり。
そして最後には必ず、どうしてあのような人のところへ嫁いでしまったのかとさめざめと泣くのだった。
……あれだけ仲のいい夫婦だった。
…家族仲の良い最高の家族だった…。
だから母の、父に対する誤解だけは絶対に解きたかったのだ…。
父のあれらの行為は、脳障害による症状に過ぎない。
…母に対する辛い仕打ちの数々はとても悲しいものだが、それは本当の意味で父が望んだことではないのだと、
…でも、……母はその説明にはついに納得してくれなかった。
母が息を引き取る最後の瞬間、…私は母に、父を許してやってほしいと最後に頼んだ。
だが母の最後の言葉は、……自分の骨は決して父と同じ墓に納めないでほしいというものだった…。
………父に罪は無かった。
ただただ、…父は脳障害という悲しい疾患の犠牲者だっただけなのだ。
風邪をひき、咳が止まらない人にうるさいと言う人などいない。
それは症状なのだから仕方がないことで、むしろ同情を与えるべきなのだ。
父の場合は、それが咳というわかりやすい形ではなく、……性格の変容というわかりにくい形だっただけなのだ。
もし私が、もっともっと脳のことを勉強していたなら、母にもっと詳しく説明して、…父への誤解を解き、……せめてあの世では元通りのおしどり夫婦に戻れたのではないか。
…それを思った時、……私は自分の無力さに泣いた。
そして、……世の中には私の父と同じに、
そして、私は知る。
難治の精神病や脳疾患に対する画期的な治療法として脚光を浴び、研究が進められていた「精神外科」を。
その日から、…私は生涯をかけて「脳」を学び、誤解された人々を救おうと誓ったのだ。
もう父はいないけど。……もし、あの日の父がそこに現れたなら、自らの手で治療できるように。
…そして、母と仲直りできるように。
それが、私の。……入江京介がこの道にかける情熱の原点。
◆生贄第二号(解除条件:北条沙都子+北条姉妹)
※北条沙都子の殺意が必要です。
※北条沙都子の入院が必要です。
悟史くんは本当に妹思いな良い兄だった。
学校が終われば必ずそのまま沙都子ちゃんのお見舞いに訪れ、彼女が一日でも早く元気を取り戻せるよう、温かく言葉を掛け続けてくれていた。
悟史くんの話を聞くまでもなく、…沙都子ちゃんはこれまで、家族とよい関係を築くことができなかった。
……特に義父との対立は激しく、沙都子ちゃんが虐待SOSに嘘の通報をして騒ぎになるまでに至ったという。
そんなところへ、さらに両親が二人揃って転落事故で死んでしまったのだから、……心がそれらのダメージを受け止め切れなかったに違いない。
まだまだ年端も行かない沙都子ちゃんにとって、それはあまりに辛い出来事だったに違いないが、…………彼女には悟史くんという素晴らしい兄がいてくれたのが、不幸中の幸いだった。
傷ついた心は容易には治せない。
でも、肉親の愛に勝る治療薬は存在しないのだ。
……私は、きっといつの日にか沙都子ちゃんが笑顔を取り戻してくれると確信していた。
まだまだショックから立ち直れないようだが、悟史くんとのコミュニケーションにより、少しずつ笑顔を取り戻しつつある。
…警察の大石は、相変わらずしつこく彼女への面会を求めてくるが、もうしばらく私が防波堤になってやる必要があるだろう。
……あの男には警官としての情熱はあるのかもしれないが、人の心を思いやるやさしさはない。
あの男が無神経に両親の事故を思い出させれば、彼女は再び心の傷を開いてしまうに違いないのだ。
………その点だけが、沙都子ちゃんを巡る心配だった。
コンコンとノックの音。/
…鷹野さんだった。
…しかし、彼女の看護婦姿は、…どういうわけか似合わない。
医師免許を持っているのだから、白衣を着て医師らしく振舞えばいいのに。
……彼女なりの遊び心なのかもしれないが、正規の看護婦に対し失礼な気もする。…それをわざわざ口にしたりはしないが。
「入江先生、ちょっとよろしいですか?」
「あぁ、はい。それでは悟史くん、私は失礼します。」
「あ、はい。」
「悟史くん、こんにちは。沙都子ちゃんと遊んであげててね。ずっとひとりでいるから、きっと寂しいと思うの。…ね?」
「そ、そんなことございませんわよ…。」
「むぅ。」
「では悟史くん、よろしくお願いします。」
私は席を外し、悟史くんに沙都子ちゃんを預けた。
「ところで、何かありましたか…?」
「ここでは何ですので、所長室で。……くすくす。」
鷹野さんは、時々意味深に笑う。
多くの人にとって笑顔は幸せを共感させてくれる良いものだが。
…この頃には、鷹野さんに限り、笑顔はそういう意味にならないことに気付き始めていた…。
「…それは本当ですか。」
「えぇ。簡易検査の結果、L3以上と思われる高い発症レベルの可能性が指摘されました。彼女をさらに入院させ、より精度の高い検査を行う必要があります。/
……結果待ちですが、私の見たところ、L4の可能性すらありえるかと。」
鷹野さんの目がいやらしく笑うのがわかった。
それには理由がある。
…………末期発症者を生体で得ることが、私たちの研究を進める上でもっとも価値のあることだったからだ。
実際、去年の、……バラバラ殺人犯を検体とした非人道的解剖の結果、私たちの研究は飛躍的進歩を遂げていた。
つまり、私たちはとうとう、病原体の特定に成功したのである。
宿主の人間が死ぬと、その死後数時間以内に溶解する特徴も発見した。
溶解後は体内に存在するごく普通の成分となってしまうため、その痕跡の発見はほぼ不可能に近いこともわかった。
……これで、これまでいくら検死解剖をしても病原体が発見されなかった理由も説明がついた。
そこからの研究は、それまでとは次元が違うほどに進んだ。
この1年で、故高野氏の数十年分の研究を凌駕したと言っても過言ではないだろう。
今では、病原体の性質や及ぼす影響、症状、治療薬や予防薬等、様々な研究に展開していた。
つまり、…生きた末期発症者の検体なくして、私たちの研究に進歩はない、ということなのだ。
だが、末期発症者、通称L5が自然発生するのは稀だ。
太古の雛見沢症候群はL5をもっと大量に発生させたようだが、今日にその猛威はない。
となれば、L5、もしくはL5に限りなく近い重度発症者の確保が急務となってくる。
………沙都子ちゃんは、その条件を満たす、一年ぶりの生贄の可能性がある、ということだった。
奇病の機密保持のため、L5の恐れがある患者は野放しにできないことになっている。
…まずは精密検査をし、
何しろ、沙都子ちゃんはあれだけ落ち着いているのだ。…去年のあの殺人犯のような錯乱は見られない。
……簡易検査は時に大きな誤差を出す。
沙都子ちゃんが重度発症者かどうかは精密検査の結果を待ちたいところだった。
「……わかりました。経過観察のため入院ということにしましょう。スタッフの皆さんへの手配をお願いいたします。」
それは形式的な返答だが、……もし検査の結果、クロだったなら、直ちに解剖に移れ、ともつながる返答になる。
沙都子ちゃんとの面識はそんなになかったが、
その悟史くんが、目に入れても痛くないほどに可愛がる妹を、
そこまで至って初めて、私は恐ろしい想像が足元から登ってくるのを感じるのだった…。
「くすくす。ご安心を。万事すでに手配させておりますわ。」
解剖手術の手配まで済ませているとでも言いたげな、邪悪な笑みだった。
だが、それは彼女だけの笑みなのだろうか。
…私の口元は醜く歪んで笑みを湛えてはいないだろうか………。
去年の解剖の時。…解剖前は確かに罪の意識があった。
だが、覚悟を決めて解剖に臨むと、
故高野氏が断片的に残した先見性溢れるピースがみるみる収まり、あるいは裏切り、とにかくとにかく興奮の連続だった。
誰もが解き明かしたことのない神秘に、自分たちが人類で初めて踏み込んだ興奮…。
この麻薬のように虜にしてしまう興奮の味を、味わったことのない人間にどう説明すればいいというのか。説明できる言葉などない。
一言だけ言えるのは、……その知的興奮は一年を経た今になっても忘れることができないということだけだ。
だから、もし検査の結果、……悟史くんの大切な妹が解剖の対象となることがわかったら、…………私は舌なめずりをせずにいられるのだろうか。
だが、…それは人間としての失格を意味することだ。
北条家がどれだけ村で冷遇され、沙都子ちゃんがどれだけ辛い思いをしてきたか、私はそれをよく知っているのだ。
…そして、悟史くんがそんな妹を唯一の肉親として大切にしていることも。
そんな沙都子ちゃんを、私は知的興奮だけで生きながらに解剖することなどできるのか………。
去年の男には大して罪の意識は感じなかったのに、……沙都子ちゃんには重い罪の意識を感じる。
……そのことは、私が忘れようとしていた去年の罪を改めて思い出させた。
面識のない男なら死んでもいい。
沙都子ちゃんなら死なせたくない、という道理はない。
命の重さは誰だって等しいはずだ。
それに、罪の意識を薄れさせた理由の、……あの男が凶悪殺人犯であるというのも、末期発症によるものだったかもしれないじゃないか。
……私は、錯乱する前のあの男のことは何も知らない。
ひょっとすると模範的な尊敬できる人間だったのかもしれない。
……それが不幸にして発症してしまい、その結果、反社会的行為に及んでしまっただけの、哀れな犠牲者なのかもしれないのだ…。そう、私の父のように…。
私は他の誰よりも雛見沢症候群について知っていた。
この病気は、人を望まずして奇行に駆り立てる。本人に違和感を感じさせることさえなく。
…だから、この病気の末期発症者が、いかに凶悪な奇行に走ろうとも、それは同情すべきことのはずなのだ。
そんなことは、この道を進もうと決意したあの頃に、もう知っていたはずなのに…!
そんな、私にとっては当り前だったはずのことを、私は今さらのように思い出し、…本当に今さらのように、自分がいかに罪深き研究に身を投じているのかを知るのだった。
やがて、北条沙都子の精密検査の結果が出た。
結果は、
それはある意味、とても驚くべき結果だった。
去年のケースの場合、末期発症者は重度な錯乱状態にあった。
鷹野さんの観察記録によると、全身のリンパ腺に激しい痒みを訴え、故高野氏が指摘するよう、喉を掻き毟りたがったという。
だが、沙都子ちゃんにその症状は見られない。
故高野氏の資料でも、喉の掻き毟りは極めて特徴的な末期症状だとしながらも、患者の全員に必ず発症するとは記していない。
それに、感情の発露は個人差がある。
同じ感情であっても、激しく発露させる人もいれば、内に秘めて隠してしまえる人もいる。
初見でそれを測ることなどできない。
でも、沙都子ちゃんの精密検査結果は末期の末期、L5を示している。
つまり、…去年の男のように錯乱した様子を見せないだけで、……心の中には、まったく同じ狂気にも似た異常な感情が渦巻いているはずなのだ。
雛見沢症候群は、人間の前頭葉に作用し、…人としてもっとも原始的感情のひとつ「疑い」に特に強く働きかける。
……その結果、末期発症者は極めて重度の妄想的疑心暗鬼に囚われ、その結果として恐ろしい凶行を犯してしまうことになる…。
お見舞いの悟史くんと温かなコミュニケーションを交わし、一見、回復の兆しを見せている沙都子ちゃん。
………だがその胸の内には、いつ錯乱してもおかしくないくらいの疑心暗鬼が、ずっと渦を巻き続けている……。
……沙都子ちゃんを、このまま退院させることは出来ない。
だが、…このまま、対応マニュアル通りに進めば、私は北条沙都子の解剖プランに決裁を求められることになるだろう。
……そうなれば、私の決裁など形式だ。
私にそれを拒むことなどできない。
鷹野さんは解剖のスケジュール作りにすでに着手しているらしかった。
その案が私のところへ回ってくる。
………沙都子ちゃんを生きながらに解剖したならば。…再びあの知的興奮を味わえるのだろうか。
恍惚の境地に再び至ることができるのだろうか。
…いや、…私はその誘惑に打ち勝てるのか。
自問自答するふりをしながら、鷹野さんが勝手に進めてくれるのを放置しながら、消極的に沙都子ちゃんの解剖に同意しているのではないか。
…できるなら沙都子ちゃんを救いたい。研究のための生贄にしたくない。解剖など絶対にしたくない。
でも、それならば去年の男はどうだと言うのか。
私は知人の命にだけ重さを感じる差別主義者なのか。
解剖しないなら、生かして退院させるのか。
彼女が錯乱して恐ろしい事件が起こるのを漠然と待つのか。
…そして、去年の男のように錯乱状態になった彼女が担ぎこまれ、
去年の男は、
頭蓋を外された状態で、数ヶ月間も死を許されず、残酷な実験のためだけに延命されたのだ。
彼女にそれを強いたくない……!
どうしたらいいのか…。
悩むことすら、葛藤することすら、彼女の解剖に消極的に同意していく…。
◆女王への協力依頼(解除条件:入江京介+ダム計画撤回作戦)
※研究の座礁が必要です。
※大臣孫の誘拐作戦指示が必要です。
その夜。古手家頭首である神主は、家族会議があるといって妻と梨花を和室に集めた。
御三家が集まり、村について合議するのが雛見沢の伝統だ。
それに伴い、園崎家や公由家のような大所帯なら、意見調整のために予め親族会議や家族会議をすることもありえるだろう。
……だが、古手家は分家筋が途絶え、今や本家の一家族3人しかいない。
だからこれまで一度も、家族会議なるものを開いたことはなかった。
「どうしたんですか、改まって。……ひょっとして、ダムに関わるお話ですか?」
今この村で一番重要な問題はダム問題しかない。
妻は神主が切り出そうとしている話は、それに絡むものに違いないと思った。
…そして、家族を集めてまで話すのだから、きっとそれは大きな決意を伴うもの。
……例えば、立ち退きに応じるとか、そういう話になるだろうと思っていた。
「……いや、ダムの話ではない。…………だがこの村に関わる、いや、この村のご先祖さまたちにも関わるとてもとても大事な問題だ。」
古手家は代々、神職にあり、村の守り神であるオヤシロさまを祀ってきた。
…その頭首がこう切り出すのだから、それはよっぽどの話に違いなかった。
にも関わらず、ダムの話ではないというなら、一体何の話なのか…。
「…私は入り婿だ。だから、古手家の本当の血を受け継ぐ、お前と梨花にはよく聞いてほしい。……………お前たちは普通の人間ではないのだ。」
「……ボクはオヤシロさまの生まれ変わりなのですよ?」
「梨花、そういうのは口にしてはいけません! …あなた、そういう話は梨花のいないところでしましょう。それでなくっても集会所のお年寄りたちが梨花に妙なことばかり吹き込んで、」
「その、オヤシロさまの生まれ変わりというのが、
「はぁ…?!」
「……少し長い話になる。二人ともしばらく黙って私の話を聞きなさい。」
妻は何の話が始まるのかと怪訝な表情を浮かべていたが、梨花はいつものきょとんとした表情で、まったく平静だった。
神主は、妻が落ち着きを取り戻すまで待った後、語り始めた…。
「この村には、大昔からある病気があるのだ。……それはこの地にだけある特別な病気、風土病というものらしい。…それには、この村に住むものが全員かかっている。今、この村に住んでいる者だけではない。大昔から住んでいたご先祖さまたちも、みんなみんな、ずーっとこの病気にかかってきたのだ。」
「そんな…。だって、私たちはみんな普通に生活していますよ。この村だけの病気なんて、聞いたこともない…!」
「落ち着きなさい。……その病気はな、この村にいる限り、何も問題はないのだ。だが、この村を出て遠くの地へ行くと発病してしまう。…わかるか?」
「わ、…わかるわけないでしょう、何のことだかさっぱり!」
「……オヤシロさまの祟りと同じなのです。」
取り乱しかける妻とは正反対に、落ち着いた声で梨花が言った。
「そうだ。この村から離れると祟りがあるのと同じなのだ。……つまり、オヤシロさまの祟りだとご先祖さまたちが代々恐れてきたのは、この村だけにしかない風土病のせいだったのだ。」
「そんなことあるわけないです。だって、私たちだって時には村を離れることもあるじゃないですか。村の人だって、仕事で遠くへ出掛ける人だっているし、海外に出掛ける人だって!」
「うむ。それは長い長い時間を経て、病気が徐々に弱まってきたかららしい。だから、このままさらに長い時間を掛ければ、消えてなくなってしまうものだったのだ。……だがそれが、ダム戦争のせいでおかしくなったらしい。……ダム戦争で、今、村中が熱に浮かされたように興奮している状態にあるのは、みんなもわかっているだろう。…そういう興奮状態や情緒不安定な状態は、この病気を悪化させてしまうらしいのだ。」
「よく…話がわかりませんけど。…つまり、この大昔から祟りだと呼んできたものは全て、…その病気の仕業だと仰るんですね?」
「そうだ。オヤシロさまの作った決まりは全て、この病気から村人を守るための決まりだったのだ。」
「……そんな…! それじゃオヤシロさまは神さまではなく、…病気が正体なんですか! そんなこと!! 古手家代々のご先祖さまたちに説明できますか!!」
「落ち着きなさい。オヤシロさまの信仰は変わらない。オヤシロさまが雛見沢を見守ってくださることに何の変わりもない。……オヤシロさまの祟りを再現する病気が、この村には大昔からあったということ、それだけなんだ。」
「そんなのは認められません!! そんなこと、亡くなった先代や先々代に説明できますか?! 古手家数百年の伝統に対する、いえ! オヤシロさまに対する冒涜ですッ!! そんなことをあなたに吹き込んだのは誰ですか? 失礼極まりない!! 第一、そんな変な病気が実在するという証拠があるんですか!!」
「…………ある!」
「それはどんな? 誰が!」
「厚生省と国立感染症予防研究所の方からだ。病原体もすでに特定され、現在、治療方法などを研究している最中だという。…先週、実際にその資料や標本などを見せてもらった。厚生省の方はこの病気を雛見沢症候群と呼んでいるらしい。」
「………そんな……!!」
「雛見沢症候群は、普通に生活している分には何も影響のない無害なものらしい。だが、雛見沢を遠く離れたり、精神や情緒が不安定になったりすると発病しやすくなるという。発病すると、妄想などに取り付かれ、最悪の場合、発狂したりすることもあるらしい。……この病気は、戦争中に発見されたんだそうだ。戦地で雛見沢の兵隊だけ異常な病気を起こすことがあるのに偉い学者の先生が気が付いて、研究がずっと進められてきたんだと言う。……その辺の話はだいぶ詳しくしてもらったんだが、…すまん。難しい内容だったので私の口からはこれ以上うまく説明できん。もし私の説明では納得できんというなら、お前も直接話を聞いてみればいい。……私だって最初は、何を馬鹿なことを、オヤシロさまを冒涜する気かと憤慨していたのだから。」
「…………………………。」
「その病気を研究するために、入江診療所が作られたというんだ。あそこは表向きはただの診療所ということになっているが、実際は病気を調べるための隠し研究所らしい。」
「秘密で研究しているなんて、胡散臭いじゃないですか! それも厚生省がやっていることなら、堂々とやればいいじゃないですか!」
「いや、そうはいかんらしい。例えば、ハンセン病の人たちが長い間誤解を受けて隔離され、今なおその誤解が解けきれず勘違いした差別を受けていることを考えなさい。…雛見沢の人間は皆、怪しげな病気に掛かっていて、突然、発狂してとんでもないことをするかもしれないなどと言うことが日本中に知れ渡ったら、大変なことになってしまうだろう。厚生省もそのことを反省していて、この病気については厳重に伏せた上で治療を目指すらしい。
勘違いするな、私たちを見世物にするというんじゃないぞ。この病気を根絶させ、この村を病気から解放しようとしているのだ。……自給自足ができていた大昔ならともかく、現代では村から一歩も出ずに生活などなりたたん。村から出るだけで発病するかもしれない病気など、村人にとってどれほど危険なものか、わかるだろう。……繰り返しになるが、昨今、反ダム闘争で村全体が強い興奮状態にあって、雛見沢症候群にとって、非常に良くない状態にあるらしい。」
「……もし村人がおかしくなって大変なことをしたら、きっとマスコミがパシャパシャでいっぱいなのです。」
「そうだ。そうなってからでは手遅れなのだ。」
「……………そんな。…いきなり言われても信用できませんわ…。本当に相手は国の人? 変な詐欺に騙されてるんじゃないですか?」
「信用できんのも無理はない。……先方は研究所はいつでも見に来ていいと言っている。私はもう見せてもらっているが、あれは詐欺とかそういうレベルではない。……穀倉の大病院でもあんな大掛かりな設備はないぞ。………お前も、私の話に納得できないなら、研究所で詳しい話を聞かせてもらうといい。私よりもっと詳しく説明してくれるだろう。向こうは、研究所の説明でも納得できないなら、東京の国立研究所で説明してもいいし、厚生省の本庁舎で直接説明してもいいと言ってる。」
「…………………………。…でも、信じる信じないは別にして、…それが私たちにどういう関係があるんです?」
「古手家は代々、オヤシロさまの血を受け継ぐと言われている。そして、八代続いて女子が生まれれば、その八代目はオヤシロさまの生まれ変わりであるとも。」
「……みー。」
「そうですわ。私が七代目。梨花が八代目。でも、それとその病気に何の関係があるというんです?」
「うむ。………この雛見沢症候群という病気は、ある種の寄生虫によるらしい。虫といってもものすごく小さい。人の目には決して見えんくらいに。……その虫たちには親分格がいるというのだ。」
「ま、
「その親分格の寄生虫は、代々古手家の直系だけに受け継がれるらしい。つまり、…先代はお前。今は、梨花だ。」
「……みー。」
「ば、馬鹿馬鹿しい!! そんな話やっぱりおかしいですわ?! 大体ですね、寄生虫なんてそんな気持ち悪いもの!!」
「だから落ち着きなさい!! 私では説明が下手だ。専門の人に説明を受けなさい。そして、彼らが言うには、この病気の治療を研究するためには、親分格の研究が不可欠だと言うのだ。」
「嫌です!!! そんな怪しげな研究、まっぴらごめんですし、梨花だってそんな研究には関わりません!!」
「だから落ち着きなさいと言うのに!! 彼らの研究では、雛見沢症候群は、村から離れると発病するのではなく、親分格から離れると発病するということらしいのだ。……お前も小さかった頃、村人から神通力があると言われていたことがあるだろう? 遠方に出掛け、偏頭痛などにかかったお年寄りが、お前に払ってもらうとたちまち頭痛が消えたという神通力。…それこそが親分格の証拠でもあるというのだ。古手の血には、発病者を救う力がある。それを研究するのは治療薬を見つけるためにも、とても重要なことなのだそうだ。」
「……ボクを研究すると、村のみんなが助かるのですか?」
「先方はそう言っている。」
「……その病気は村の全員が掛かっているのですか? ボクも? みんなも? 沙都子も?」
「…うむ。村に住む人間全員だけでなく、興宮に住む親類なども全て含むそうだ。多分、何千人という規模になるだろう。それだけの大変な病気だから、厚生省がわざわざたくさんの予算を投じて専門の研究所を作ってくれたのだ。」
「わ、私は反対です! 梨花をそんな怪しげな研究の生贄にするだなんて!!」
「……ボクはいいのですよ。ボクが生贄で沙都子が助かるなら、全然平気なのです。」
「梨花は黙っていなさいッ!! とにかく絶対反対です! あなたにそんな妙なことを吹き込んだ人たちには、私が直接会ってはっきりとお断りをします。梨花を変な実験で殺されてたまるものですか!! 大体、梨花は古手家のたった一人の跡継ぎなんですよ?! もしものことがあれば古手の血はここで絶えてしまうかもしれないじゃないですか!! あなたはもっとですね、古手の家のことを考えていただかないと!! そんなだから村の人たちに日和見主義とか何とか言われて…!! 大体、おかしいじゃないですか!! 建設省は村をダムに沈める。厚生省は村の病気を治す。何が何だかさっぱりわからないです!!」
「厚生省は、この病気は環境の変化で大変発病しやすいと警告していて、建設省に対しダム計画を中止するよう働きかけてくれているそうだ。…だからお前も研究所を見せてもらいなさい。あれだけの大設備を、ダム湖に沈むかもしれない土地に建てるわけがない。」
「……くぁぁぁあぁぁ…。」
梨花が大きく欠伸をする。
梨花のような少女には、もう堪える時間なのだろう。
「……ボクはもう寝ますです。……父さん、ボクはいつでも協力すると、その人たちに言っておいてくださいなのです。」
「り、梨花!! そんなこと私に断りなく勝手に決めちゃいけません!!! 梨花ッ! 待ちなさい梨花!!!」
◆谷河内の採石場(解除条件:女王への協力依頼)
※女王感染者の協力が必要です。
雛見沢症候群を研究する上で、実は一番最初に協議しておかなくてはならない重要な問題があった。
それは、女王感染者に万が一のことがあった場合に発生する、村の大崩壊についてだった。
これは祖父も論文の中で、もっとも危険な事態であると警鐘を鳴らしているものである。
祖父によるならば、もしも女王感染者が死亡するようなことがあった場合、急性発症の平均的時間から見て、48時間以内に一般感染者全員が末期発症するものと考えられていた。
これは一見するととんでもない話のように聞こえるが、世界中に伝わる怪しげな地方宗教の崩壊や集団自殺などを丹念に研究していくと、浮き上がってくる真実でもある。
世界の怪事件の中には、雛見沢症候群に類似したコミュニティを支配する寄生虫症によるものと思われるものがいくつも散見する。
…祖父はその中からさらに、雛見沢症候群に酷似しているケースを抽出し、さらに丹念に調査した。
その結果、教祖やリーダーの死亡を引き金に、コミュニティが暴走の後、全滅するケースを複数確認。
その平均時間が48時間以内であるとしたのである。
実際、一般感染者が女王感染者から何らかの影響を受けているのは間違いなく、女王感染者の健康状態が、村全体に影響を及ぼしているという統計的事実もある。
梨花が体調を崩し通院した週は、普段に比べて格段に高い通院者が出ることが、すでに統計でわかっているのである。
風邪程度の症状でこれだけ顕著な結果が出るならば、……もしも梨花の身に何かがあれば、48時間以内に大変な事態になることが考えられたとしても、決して逸脱した話ではなかった。
そのため、入江機関は雛見沢症候群を研究するという使命に匹敵する最大の任務として、女王感染者、古手梨花の身柄の保護を掲げる必要があった。
女王感染者の研究協力をすでに取り付けているが、もちろん間違って生命に支障があるような事態を招いてはならないし、…悪意ある何者かが彼女の存在を聞きつけ、殺害するようなことも防がなければならない。彼女の命は、村人二千人の命とまったく同じものなのだ。
それでも。……それでも何かの間違いが重なり、致命的事態として女王感染者の死亡を許してしまった場合。
……入江機関はその事態についても対応策を用意しておく必要があった。
そのため、入江機関設立の初期に私が緊急マニュアルの草案を作った。
もしも万が一。女王感染者が死んだり、あるいはその他の理由によって、一般感染者全員に急性発症が起こるような事態が発生した場合。
一斉急性発症の起こる48時間以内に執行しなくてはならない緊急措置。
…………被害を近隣に拡大しないための最終手段である。
それが、自然災害を偽装したガスによる抹殺作戦…。
実際の作戦詳細については、私のクライアントであるアルファベットプロジェクトが全面的に担当してくれた。
核だの細菌兵器だのを研究する物騒なプロジェクトだけあって、実に手馴れたもので大変助かった。
…私如き素人には、村人二千人を効率よく抹殺するプランなど提案できないのだから。
陸自は、雛見沢の上流にある谷河内地区にて、ダミー会社を経由して閉鎖された採石場を取得。
そこを封殺作戦用機材の秘密備蓄基地とした。
人間を眠るように殺してしまう、危険な殺人ガスの装備が備蓄され、緊急マニュアル発動時には、これらを使用して、陸自の特殊部隊が村を封殺するという手はずになっていた。
だが、村人を抹殺する装備を用意するという事実だけでも、政治的な危険が伴う。
それでもなお用意させようとするからには、クライアントたちに雛見沢症候群がどれほど危険な側面を持つか、封殺作戦の必要性を理解させなくてはならないのだ。
私は彼らに封殺作戦が必要であることを資料で示さなければならなかった。
そのためには、祖父が長いこと温め続けてきたこれらの資料は最高に役に立つことになった…。
クライアントたちは祖父の論文のコピーを読み、雛見沢症候群が最悪の場合、どのような大惨事をもたらすかについて衝撃を受けているようだった。
「……つまり、女王である1人の少女に何かがあれば、村人二千人以上が全員、錯乱するということなのですね…?」
「はい。雛見沢症候群に極めて類似するいくつかのケースでは、集団自殺を示すものが少なくありませんが、雛見沢症候群の場合、強い疑心暗鬼や過剰なまでの危機意識から、何かの過剰防衛を行なう可能性があり、被害は感染者二千人に留まらないものと推定されます。それらは無政府状態の暴動から始まり、猟奇的な、あるいは宗教的終末観にも似た異常な状況を作り出すでしょう。これに対する事前の鎮圧策を用意しなかった場合、世界の注目を浴びることは避けられません。また、その猶予は、事態発生から48時間しかありません。」
「…つまり、いざことが起こったらもう誰にも防げないということですな。」
「感染者全員を48時間以内に全員治療することは不可能なのかね?」
「無理だろう。それに治療方法すら確立していないし、研究所の規模では村人全員の救済は物理的に不可能だ…!」
「…しかし、このような恐ろく珍しい病気があるとは…。世の中わからんもんですな。」
「常に最悪の事態に備えることは、国防にも通じますし、我々アルファベットプロジェクトの理念でもあります。そして、使うことが目的なのではなく、備えることそのものが肝要なのです。」
「確かに。仰るとおりですな。運用規定については決裁区分の強化などまだ検討したいところはありますが、最悪の事態に対応する準備が必要だということは理解できました。」
「都市沈黙戦の研究班に、雛見沢地区沈黙戦のシミュレーションをさせましょう。これは至急行なわれる必要があると思います。…こうしている間にも、女王感染者の少女が車にはねられて死んでしまう可能性だってあるのですから。鷹野三佐、ありがとう。また質問しますので、着席してくださって結構です。」
私の後ろ盾のひとりが、さり気なくプッシュしてくれたお陰で、ほとんど問題なく決着できた。
ほぼ丸一日をかけての説明となったが、異論はわずか。
誰も祖父の論文を、そんな馬鹿ななどといって批判したり、頭ごなしに否定したりはしなかった。
……今日、彼らに読ませている資料の中には、
にも関わらず、ここにいる一同は誰もそれを馬鹿にせず、
それは一見、とても小さなことだが、……祖父の研究が初めて認められた瞬間でもある…。
私は、祖父の残した資料を手にしながら、時にその紙面を指差し、掲げながら議論を続ける彼らを見て、胸の内が満たされていくのを感じる。
……あぁ、私はこの日のために努力してきたのだと知った…。
天国のおじいちゃん、……この光景、見えてますか…?
◆研究快調(解除条件:生贄第一号+女王への協力依頼)
※L5発症者の検体確保が必要です。
※女王感染者の協力が必要です。
「古手さん、お待たせしました。今、最後の検査を終えたところです。もうすぐ戻って来ると思います。」
「娘が村のために役に立てばいいのですが…。」
「とんでもない! 梨花さんの協力は村を救うことにもなります。お陰でようやく治療方法にも目処がついてきたところです。仕組みはまだ調べているところですが、梨花さんの存在がやはり、村人にとってとても大切なものであることがわかってきました。レベルの進んでしまった一般感染者は、自力ではそのレベルを下げて症状を安定させるのが非常に困難です。ですが、女王感染者に接近することで脳内にある種の物質が作られることがわかっています。その物質には鎮静効果があり、また、進んでしまった症状のレベルを抑え回復させる力もあるようなのです。この物質を処方できるようになれば、治療の強力な決め手となるでしょう。」
「そうですか。……梨花にそのような力が。」
「くすくす。驚かれるには値しないのでは? 古手の巫女には荒れた心・鬼を鎮める神通力があると代々伝えられているんではありませんでしたっけ? 私たちが解明しなくても、村の数百年にわたる歴史はすでにそれを知っていたわけですわ。」
「そうですね。……大昔の方の聡明さは、時に現代医学から見ても感心させられます。」
「……みー。検査が終わったのです。」
「梨花、大変だったな。疲れただろう。これで自動販売機でジュースを買ってきなさい。」
「……み〜! 血をいっぱい抜かれたから補給なのです。」
梨花は神主から百円玉をもらうと、廊下へ飛び出していった。
「………本当に、梨花さんの協力のお陰です。彼女がこれほどまでに献身的に協力に応じてくれなければ、これほどまでに研究が進むことはありませんでした。」
「梨花は、自分の友達もその病気に掛かっているということを気にしていて、友達のためにも協力したいと常に言っていました。……どうか先生方、梨花の心意気を汲んでやってください。」
「もちろんです。毎週日曜日に貴重な時間を割いていただいているのです。必ずや成果にして見せます。……今後も梨花さんに過酷な実験を強いることがあると思いますが、どうかお許しいただければと思います。」
「彼女に危害を加えることは絶対にありませんわ。彼女はとてもとても大切な身なのです。……くす、何しろオヤシロさまの生まれ変わりなんですから。」
「………大昔の村人は、どのようにしてこの病気のことを知り、古手家にその女王の血が流れていることを知ったのやら…。……ご先祖さまたちにはつくづく頭が下がります。」
「……それで、実はまた辛いご協力をお願いしなくてはなりません。……彼女の脳脊髄液の採取のご許可をいただきたいのです。また、…場合によっては彼女の頭蓋に穿孔を空け、直接頭部の中を検査させていただくことになるかもしれません。」
「ず、頭蓋骨に穴、ですか……。」
「もちろん安全性には最大限注意します。梨花さんはたった1人しかいない女王感染者なのです。間違っても危害を加えることがないよう、私どもでもっとも安全な方法を模索した上で提案させていただいています。」
「もちろん、梨花ちゃんは女の子ですもの。頭部穿孔周辺の頭髪には気を遣いますので、丸坊主にしてしまうようなことはありません。ただ、経過を慎重に見るために、しばらく入院をしてもらうことになりますが。」
「もちろん、その間、面会謝絶ということはありません。検査にもぜひ立ち会ってください。お父さんが身近におられた方が梨花さんも安心するでしょう。」
「…………その検査はどうしても必要なもので、
「脳脊椎液の採取も頭蓋穿孔も、どちらも100%の安全を保証することはできません。常に1%の危険があります。また、梨花さんに身体的、あるいは精神的苦痛を与えるでしょう。……いくら重要な検査と言えども、ご家族の同意なしには行なえません。」
「……………………。」
「梨花ちゃんには、実はもう同じ話をしていますわ。」
「……梨花はなんと?」
「自分は構わないと、それはもうあっけらかんと。くすくす。」
「…梨花さんには危険や苦痛が伴う可能性があることをもちろん充分に説明しています。ですがやはり、保護者の方の承諾をいただかないわけにはいきません。」
「………梨花は、自分のことを本当にオヤシロさまの生まれ変わりだと信じている時があります。……だから、村人のために自分の身を捧げるのが、自分の義務だと思っているところがあるのかもしれません。」
「……立派なお子さんだと思います。」
「一応、家内とも相談させてください。納得はしてくれてるのですが、…やはりことがことなので、話をしないわけにもいかない。」
「えぇ、ご家族の同意は不可欠だと思います。よくご相談なさってください。」
「その検査は、病気の根絶のために重要な意味があるのですね…?」
「はい。雛見沢症候群のベールを剥ぐ決定的なものになるでしょう。」
「決定的なものの第一歩に、ですわね。」
「……すでにご説明しておりますように、…女王感染者に万一のことがあった場合、感染コミュニティに致命的な崩壊をもたらす危険性が予見されています。…平たく申し上げると、村人全員が突如として末期発症を起こす可能性もあるということです。」
「えぇ。急性発症の平均から見て、女王感染者死亡から48時間以内に全感染者が末期発症を起こします。それだけは絶対に防がなくてはなりません。」
「………梨花が死ぬようなことがあれば、…村中が発狂し、恐ろしいことに…。」
「はい。それを防ぐのも私たちの役目です。そのために危険を冒さなければならないのはとても皮肉なことですが、
「……入江先生。……必ず、その検査を成功させていただけますか…?」
曖昧な言い方をする鷹野を制して、入江が真剣な表情で頷きながら言った。
「私、入江京介が命をかけて、必ずや。梨花さんを救います。村人も救います。絶対にです。」
「……わかりました。家内と相談させてください。…その上で後日、改めてお返事させていただきます。」
「はい。よろしくお願いいたします。」
「くすくすくす、
梨花たちが帰った後、鷹野は奇妙な声で笑い出した。
「どうしましたか? 何か愉快なことでも…?」
「くすくす…。いえいえ。………患者とご家族に律儀に事前承諾を取られていたのが、何だか可笑しくって。」
「……梨花ちゃんには、本来無用の苦痛を強いています。それくらいは最低限の礼儀だと思いまして。…………去年の男も、正常な状態にあれば、事前承諾を取りたかったところです。」
「入江所長は、ここの研究を始められてからずっと、罪の意識に苛まれているのではありません?」
「…………それはどういう意味ですか?」
鷹野がからかうような口調なのはいつものことだが、…少しだけその度が過ぎたように感じ、入江は不快感を示しながら足を止める。
「雛見沢症候群の研究は、生きた検体を捌くことでしか進められない。それがわかってなお、あなたはこの研究を進めることに罪の意識を感じている。」
「……罪の意識は必要です。殺人であれ解剖であれ、相手に死を強いる点で変わりません。私たちはその罪を受け止めてなお、その死を無駄にしないために最大限の努力と研究を重ねなくてはなりません。」
「ご高説ですわね。くすくす。……では入江所長? あなたはこれまで、人の脳を切り取ることに何度の事前承諾を取られたというんですの?」
「………………………ぅ。」
…それは鷹野には知られていないと思った過去。
「あなたの、人の罪は脳の疾患によるものという独り善がりで、一体何人の患者が事前承諾なく脳を切除されたんですの? くすくす。」
「……………それは、」
「常識は時代で変わる。当時は医者が治療をいちいち説明することなどなかったし、事前承諾なんて大したものではなかった。だから、当時のことは気にしなくていいんじゃないですかしら? 今は倫理上問題があっても、当時は問題なかった。ならばいいじゃありませんの。くすくすくす。……でも、それに罪を感じているから、梨花ちゃんや、あの男にさえも、事前承諾が取りたかった?」
「それは誤解です…。そもそも治療と解剖では患者、」
「ねぇ坊や。あなたが欲しいのは事前承諾という名の免罪符。そうでしょう? あなたが欲しいのは、過去の罪を贖いたいという心を満たすだけの欺瞞、そのためだけの免罪符。後悔しているならば二度と脳に関わらなければいい。なのに、だらだらと後悔しながらあなたはいつまでも未練がましくこの世界で脳に関わっている。その罪の意識が本物なら、あなたはあの時、所長就任の話を断ればよかったはず。そうでしょう、坊や?」
「………とても不快です。私は失礼させていただきます。」
「聞きなさい。医学は常にその時代の倫理や価値観との戦いから勝ち取られるの。かつて高野先生が雛見沢症候群の存在を予見した時、その時代の権威たちは自分たちの無知を棚に上げその先見性を嘲笑った。でも病に倒れる直前まで研究を捨てなかったわ。必ず自分がいつか評価される日が来ると信じて。そしてその日が自分の死後であったとしても、必ず来ると信じて! それは強い信念と揺らぎのない鉄の意思があるから成し遂げられること。そうでなければ時代の無理解に高野先生は屈していたはず。
研究はね、意思の力で成し遂げるのよ。絶対的に強固な意志だけが、結果を紡ぎだす! でもあなたにはそれがない。あなたは自分の実績を、誇るべきか恥じるべきかすら自分で決めかねている臆病者よ。そんな中途半端な覚悟で、よくこのような研究の所長を引き受けられたものね…! 血塗られた両手を、さらに血に浸すことでしか明かせぬ研究だと、最初からわかっていたはずなのに!!」
「……………………否定はしません。私は、中途半端かもしれない。」
「ならば所長を辞任なさっては? 守秘義務は残るでしょうけど、あなたはこれ以上、罪の意識に苛まれなくて済むでしょう。私にとってあなたはパートナーである以前に、クライアントが要求した人事上の駒でしかない。こうして研究機関が成立した今、あなたの存在はもう重要ではないの。…しかもその上、研究に対する覚悟が足りず、研究のパートナーとしても役立たずなら、あなたは無能の用無しよ。私は一人でも研究をやめない。どんな罪も後悔も恐れない。強固な意志だけが未来を紡ぐ。…かつて高野先生が高潔な精神で成し遂げたように、私もたったひとりでも成し遂げてみせる…!」
「………………立派な決意だと思います。…ですが、私にもあなたに及ばないにしても、わずかの決意があってここへ来ています。…そして、あなたの言う通り、私の手はすでに血に塗れています。そして雛見沢に来て、さらに血に浸しました。……だから、その責任を全うするまでは、私は逃げることはできません。……相変わらず私は罪を清算できず苛まれ続けるでしょう。でも、逃げない。…必ず雛見沢症候群の研究を決着させます。それだけが、この研究に命を捧げてくださった方、そしてこれから捧げることになるかもしれない方への最後の誠意だと思っています。」
いつの間にか入江の表情にはある種の決意が浮かんでいた。
ほんの少し前まで、鷹野に思い出したくない過去を指摘されていた時のうろたえた様子とは違う。
しばらくの間、その意思の強さを目で示した後、入江は踵を返す。
「……恐らく、梨花ちゃんの検査は承諾が取れるでしょう。準備をお願いします。」
「えぇ、心得ましたわ。………所長。」
翌週、その承諾は得られた。
◆定期監査(解除条件:研究快調)
※脳脊椎液採取の事前承諾が必要です。
スライドによる説明が終わり、会議室に灯りが着くと、監査スタッフたちは誰からともなく拍手を始め、入江機関の劇的快挙を讃えたのだった。
「素晴らしい、実に素晴らしい! 本音を言わせてもらえば、私はこの雛見沢症候群の研究はあまり期待していませんでした。仮に進むとしても10年単位で三歩進んで二歩下がるような研究になると思っていました。」
「いやいや! それがこれだけの短期間の間にこれだけの成果を挙げられるとは! 入江所長の努力と指導の賜物です!」
「そんなことはありません。私を支えてくださる優秀なスタッフと、そこの鷹野さんのお陰です。」
「ご謙遜を。くすくすくす。やはり脳に関しては入江所長は天才ですわ。何しろ、脳に関しては誰も及ばない実績をお持ちなのですから。」
「そうですなぁ! あなたと同じ歳の医者で、あなたほど大勢の脳みそをご覧になってきた方はおりますまい!」
「おめでとうございます、入江二佐。私もこれで東京に胸を張って報告に帰れます。」
「富竹さんによいお土産が持たせられて光栄です。あと、二佐というのはご勘弁を、どうしても馴染めませんので…。というか、リサさんって聞こえるんですよね。」
「あっはっはっは! まるで女性の名前みたいに聞こえますねぇ!」
「くすくす。でも、ジロウさんも影の立役者ですわね。なかなか成果の出せない私たちの予算を、ジロウさんが懸命に努力して維持してくださったお陰ですわ。」
「いや、…はっはっはっは…! でも、今回の成果は劇的です。雛見沢症候群の病原体を特定し、今後の研究計画に具体的道筋をつけることができました。以後の進捗監査がとても楽しみになります。これだけの成果があれば、東京はねちっこく予算を削減しろとは言いますまい。」
「くすくす。何しろ、皆さんにお出ししている缶コーヒーの予算まで削られそうになったんですものねぇ?」
「「「どわっはっはっはっはっは!」」」
「富竹くん、東京にしっかり報告して祝杯が上げられるくらいの予算はつけるよう具申してあげなさい。」
「ムチばっかりではいかんね、アメもないとね!」
「ははははは、そのアメは予算で還元していただけると一番嬉しいのですが。」
「「「うわっはっはっはっはっは!!!」」」
そんな和気藹々とした雰囲気の中、定期監査は終了した。
監査スタッフに混じっている国立研究所の人間たちは、入江を取り囲んで質問攻めを続けていた。
「鷹野さん、おめでとう。/
みんなの前では言えないけれど、今日の成果は全て鷹野さんの積み重ねによるものだよ。」
「くす。ありがとう、ジロウさん。」
今この場にいる人間の中には、入江機関設立を巡って黒幕たちが人事で暗躍していたことを知るのは鷹野と富竹しかいない。
……だから、富竹だけが鷹野の苦労をねぎらってくれた。
「でも、これでようやく研究の舞台に立てたというところね。私の挑むべき相手がようやく同じ土俵に上がってくれただけ。正念場はこれからよ。そして、ここからがもっとも楽しいところになりそうだけれど。」
「あはははは。それでね、今回の件で中川本部長の方から、ぜひ東京で報告会をしてほしいと伝言を託ってるんだ。アルファベットの理事会も、ぜひ君と会合を設けたいって言ってたよ。みんな君に直接話を聞いてみたいようだねぇ。」
「あらあら、ジロウさんを経由した報告じゃあ物足りないのかしら?」
「いや、あっはっはっは! そ、そういう意味じゃないとは思うけどなぁ…! き、きっと噂の美人研究員を直接見てみたいんじゃないかなぁ、なんて、あっはっはっは…!」
「あらいやだ、ジロウさんったら。くすくすくす。」
「失礼します。鷹野三佐、東京からお電話です。」
「お待たせしました。鷹野です。」
「お〜〜〜、元気にやってるかの〜?!」
「こ、小泉先生!! わざわざお電話をいただけるなんて、とても恐縮でございます…!」
「わっはっはっは! いやぁな、三四ちゃんの研究が大金星を挙げたという話が来てなぁ〜。お祝いを言おうと思って電話したんだ。」
「ありがとうございます…!! はい、お陰様で研究の第一段階であり、最大の目標でもあった雛見沢症候群の病原体特定に成功しました。」
「ん〜〜ん〜〜、
「まだまだですわ。祖父は、雛見沢症候群の病原体特定などという段階を超えて研究していました。人の思想や意思が、実は人以外の寄生的存在によって支配されていた可能性。…それを暴いて初めて祖父の研究は偉業と讃えられるのです。くすくす。世界中の思想や宗教が、全て寄生虫で説明できたなら、
「わっはっはっは。それは愉快だの〜!! 偉そうに振舞っとる宗教家連中が、単なる寄生虫の親玉に過ぎんと立証されたら、それは本当に愉快だろうの〜! ぜひ、そんな愉快なのを見せてくれ。三四ちゃんがそれを見せてくれるまで、私ゃ天国のお迎えを断り続けてるからな。」
「縁起でもありませんわ。でも楽しみにしていてくださいね。きっと、世界中があっと驚く発表をして見せますから。その時に初めて、世界中が祖父の偉業を知り、祖父が残した資料を奪い合って読み合うことになるでしょう。……そこまで至って、私はようやく祖父への恩返しを終えるのです。」
「……高野くんが羨ましいの〜。私ゃな、カネなんかこんなにいらんかった。この半分は捨ててもいい。あんたみたいな、自分の志を継いでくれる孫がひとりいてくれたらと思うよ。」
「ありがとうございます。身に余るお言葉です。」
「あとな、小泉のおじいちゃんからのプレゼントだ。三四ちゃん宛てにな、祝杯用のワインを一本送らせた。三四ちゃんの家の住所がわからんかったから、診療所宛てにしてある。取り寄せに時間が掛かってるらしいからちょっと時間が掛かるかもしれんが、届いたら、三四ちゃんの研究を手伝ってくれた人たちを集めて、それを振舞ってあげなさい。」
「祝杯用にワインなんて。はてさて、小泉先生からどんな高級ワインが届くやら!」
「そんな高級酒と違う。三四ちゃんも覚えとらんかね。高野くんが、いつも一本のワインを大切にしておったのを。」
……鷹野ははっとする…。
そうだ。祖父は一本の古いワインをとても大事にしていた。
買った物なのか、もらった物なのかはわからないけれど、とても大事にしていて、自分の研究が認められたらそれを開けようと日頃から言っていた気がする。
当時は幼かったから、それが何というワインなのかわからないけれど、…その話を聞いていた小泉氏なら知っているはずだ…。
…その、祖父縁のワインを、この記念すべき節目に贈ってくれるその心遣いに。
……鷹野は久し振りに、祖父と一緒だった頃に感じていた日溜りのような温かさを感じるのだった。
「ありがとうございます…。……小泉のおじいちゃん…。」
「うむうむ。やっぱり三四ちゃんにはそう呼ばれた方がしっくりくるの〜! どうも三四ちゃんに先生と言われても自分のことだと思えなくてな! わっはっはっは!」
自分まで一緒に苦笑いしてしまう。
ついさっきも、富竹と入江がそんなやり取りをしていたように思うから。
「そう呼ばれる方がお好きでしたら、人前以外ではそう呼んでも結構ですわよ。くすくす。」
「う〜〜む、できれば人前でもそう呼んでもらえると喜ぶんだがの〜! わっはっはっは。」
今年でいくつになるんやら。未だにこれだけ快活にしゃべって笑うことができるなら、お迎えなんか当分来ないだろう。
…何とかは長生きするというのはどうも本当らしい。
「私も高野くんも、三四ちゃんのような子が本当の家族だったらと思うよ。本当になぁ…。」
……祖父にももちろん、家族はいた。
だが、研究に打ち込むあまり、別居状態になり、籍だけは残している半離婚状態にあった。
その家族とは私は少女時代に一度も会ったことはない。…会ったのは、祖父が自殺してからだった。
晩年の祖父は心が弱っていて、自分の人生について非常に悲観的だった。
さらに急激に進みだした呆けにショックを受け、自分の意識が次第に薄れていくのを恐れていた。
そして……、病院の屋上から飛び降りて死んだ。
遺書にあった名は私だけ。
そこには実の家族の名などなかった。
その段階になって初めて家族や親類と称する一団が現れ、祖父の残した全てを奪い去っていった。
連中は、私に遺産が持っていかれるのを非常に嫌がっていたっけ。
弁護士やら何やらを立てて嫌らしく争ってきそうな雰囲気だったので、私から辞退したのだ。
その代わり、祖父の書斎に残した物だけは全て引き継ぎたいと言った。
凡庸な連中は祖父の研究の価値など知りもしない。
書物の山や気持ち悪い標本瓶を片付けてくれた上に相続権を放棄してくれるならと大喜びで手を打ってくれたっけ。
あれだけの長い間、一度も祖父の前に現れず、その死後にだけ現れるハイエナのような連中に、……祖父の魂である研究を、例えメモ1枚とて許したくなかった。
だから祖父の魂は、連中にわずかほども穢されずに済んだのだ……。
「うむ。それでは長くなると悪いからこれで切るな。困ったことがあったら、いつでもおじいちゃんに頼りなさい。孫娘のために、いくらでも一肌脱ぐからの〜!」
「ありがとう、小泉のおじいちゃん。三四はもっともっと頑張りますね。」
◆C103投与実験(解除条件:生贄第二号+研究快調)
※北条沙都子の精密検査結果が必要です。
※入江京介の決意が必要です。
沙都子ちゃんの解剖スケジュールがちゃくちゃくと進んでいく。
…悟史くんを悲しませたくないという気持ち。
沙都子ちゃんの辛い境遇への同情。
……そして、この研究のために非情なる責任を全うしなくてはならないという気持ちが、私の中で何度もせめぎあっていた。
「……入江。」
「え? あぁ、すみません、うっかりしていました。どうなさいましたか梨花ちゃん。」
「……ボクの友達がずっと長く入院していますが、その子は雛見沢症候群ではないのですか?」
「それを誰に聞きましたか?」
「……ボクがそう思っただけです。どうなのですか、入江。沙都子は雛見沢症候群ではないのですか。」
梨花ちゃんはすでに私たち側の人間だ。
何も隠すことなどない。
むしろ、隠し事をしてはいけないというのが、私なりの誠意の不文律だと思っていた。
「…………はい。両親との不仲と、その両親の突然の死。…彼女の心には、それは一度に受け入れるにはあまりに大き過ぎる出来事でした。……それが引き金になったのかもしれません。」
「……検査の結果は?」
「L5です。上辺は非常に安定して見えますが、情緒は非常に不安定です。先日から悟史くんの見舞いも謝絶にしました。」
「……悟史に聞きましたです。沙都子の心の傷がなかなか癒えないと気にしていましたです。……入江。沙都子はどうなるのですか。」
「………………………………。」
沙都子ちゃんは、梨花ちゃんにとって親友だ。
その沙都子ちゃんを解剖するためのスケジュール作りがすでに始められているなど、口にできるわけもない…。
だが、結局、無言で誤魔化したって、沙都子ちゃんを巡る状況は極めて悪いことの肯定にしかならない。
「……入江は、ボクの体を調べて、たくさんのことがわかったのではないですか?」
「えぇ、それはもちろんです。………症状を抑える効果が期待される試薬も現在、色々と試しているところです。」
「……それを沙都子に与えることはできませんのですか?」
「一度は考えました。…しかし、かなり危険です。体力や精神力に余裕がある検体に試し、少しずつデータを集めていこうという段階です。……沙都子ちゃんのような、もう後がない人間に試せるようなシロモノではありません。」
「……では入江。その薬を試さないなら、沙都子はどうなってしまうのですか。」
まるで、沙都子ちゃんの末路は解剖だと知っているかの口調だった。
……いや、知っているのかもしれない。
私は彼女に研究のほとんどを明かしている。
……彼女が見掛けより大人なら、少し考えれば解剖のこともわかるだろうから。
「……ボクは、沙都子が1%でも助かる可能性があるなら、それに賭けるべきだと思いますです。」
「非常に危険な賭けです。…最悪の場合、彼女は即座に末期発症し錯乱するか、さもなければ人としての心を失い、一生を焦点の合わない目で壁を見て過ごす体になってしまうかもしれない。……どちらも、それはあまりに過酷な運命です。」
「……全身麻酔で痛みを感じさせずに、眠ったままを殺す方がずっといいと言うの?」
「…………………………。」
「……入江。よく鷹野が言う通り、医学に100%はない。でも、このまま放置すれば沙都子を待ち受ける運命は100%の、絶対の死しかない。ならば、どちらに賭けるかは明白なはず。」
「……そうですね。その通りです。」
だが、所長である私は誰よりも理解している。
開発中の試薬C103は使い物になるかどうかもわからない段階のものだ。
その成功率は百分率に直せば一にも満たないに違いない。
しかも、試薬が体に合わなかったらどのような悲惨な最期を遂げるか、まったく想像もつかないのだ。
……悔しいが、鷹野さんの言う通りなのだ。
自分は、未だ覚悟さえ決まらない中途半端。
…そんな人間の作り出すものがどの程度の効果を持つというのか。
……そんな自分の作り出した薬だからこそ、…コンマ1%の成功すら信用することができない…。
「……ボクは、入江の作った薬なら信用できると思いますです。」
まるで、私の心を見透かしたような言葉にはっとする。
驚き、俯いていた顔を上げて彼女を見ると、……年齢からは想像もつかないような、しっかりした表情が浮かべられていた。
「……入江は、人の命を左右するとても辛い仕事に耐えている。本来、人の生き死になど、人間がどうにかしようというのがおこがましいこと。その重圧は、背負った者にしかわからない。」
声は同じなのに、…なぜか私は、私の知らない梨花ちゃんに諭されているような錯覚に陥る…。
そして、その梨花ちゃんは、人の命を背負う重さをすでに充分知っているかのような口ぶりにさえ。
「……その重さは、罪の意識と後悔の重さを加えて決められる。…だから入江は、まだまだ危険な薬を沙都子に試せない。そうでしょう?」
「………………………。」
かつて鷹野さんにも、同じようなことを言われて責められた気がする。…僕は再び、それを責められている…。
「でも。……だからあなたになら、沙都子を託せると思う。」
「……え…?」
「人の命はとても重い。その重みに耐えかねるのは、あなたが人の命を大切にしたい心があるからこそよ。………そんな心がなくして、どうして人を病気から救えるというの?/
鷹野みたいに、人をモルモットとしか思ってないヤツの治療薬なんか試せると思う? くすくすくす。」
「……は、…ははははは…。」
とても笑ってはいけない話なのだが、なぜか笑ってしまう。
……そこで笑うのがいいように感じられたのだ。
「鷹野とあなたが、それぞれに薬を差し出したなら。私は入江の薬の方が治るように思う。だって、薬は人の心から生み出されるんだもの。……自分の身から滴り落ちる雫で、人を救いたいという気持ちが、人の病を癒してくれる。」
「……仰る通りです。……医者が薬のことで諭されるとは…。」
「私は自分の体を、他でもない沙都子のために差し出した。私の体から注射針で抜き出したものは全て、私から沙都子に捧げる薬の雫。その雫から、命の本当の重さを知り、日々後悔と自責を忘れないあなたが何かを抽出してくれたなら。……それが沙都子に効かないわけがない。」
……神社の巫女という存在は人の悩みや懺悔を聞くこともあるのだろうか?
だとしたら、彼女はこの歳ですでに、立派な古手神社の巫女だった。
「…………これは、
「沙都子に伝える必要はありません。沙都子にとって、雛見沢症候群を知ることは、心の深い傷をもう一度えぐる事にしかならないのだから。」
彼女が口にしたこの意味。
……私は後にそれに気づき、改めて彼女の思慮深さや洞察力に驚くことになる。
「……………解剖計画を中止させましょう。北条沙都子に対するC103投与実験に変更します。……せめて1%でもうまく行く確率があがるように、努力します。」
「……大丈夫ですよ入江。絶対にうまく行きますです。」
「ははははは…。そんな、楽観してはいけません。」
「……大丈夫なのです。もう決まってることなのですから。」
「これは、…古手神社の巫女さまの心強いお告げです。」
◆白川公園転落事故(解除条件:C103投与実験+北条悟史)
※北条悟史の見舞いの謝絶が必要です。
※北条悟史の兄としての使命感が必要です。
沙都子ちゃんへの解剖計画は中止され、まったく安全性のない試薬、C103の投与実験プランが実行に移されようとしていた。
この試薬は、ある種のホルモンの分泌を抑えることで、雛見沢症候群が沙都子ちゃんを錯乱へと導こうとする伝達を防ぐのが目的だ。
雛見沢症候群のメカニズムは、前頭葉を支配する病原体が、疑心暗鬼に対し特に過敏になる状態に誘導し、その結果、患者が“自発的に”過剰な防衛行動(問題行動)に出ることがわかっている。
その誘導を絶つ事ができれば、末期発症者を錯乱から救うことは可能なのだ。
ただ、誘導を絶つだけで根源的な治療に至るものではない。
…皮肉にも、脳は学ぶ器官だ。
雛見沢症候群によって、過度に疑心暗鬼を学ばされた脳は、例え病原体を完全に駆除したとしても、脳はすでに疑心暗鬼に対する抵抗を学び終えている。
つまり、病原体が錯乱を誘導しなくても、患者が自らの意思でそちらに感情を誘導してしまうのだ。
……ゆえに、錯乱直前であるL5の状態をきれいさっぱり脱出できることにはならないだろう。
(羹に懲りてナマスを吹く、という諺はこれをよく示している。舌の火傷が治ったとしても、熱い食べ物で再び火傷するかもしれないという「恐怖」は治らないということだ。良い意味の時はこれを「学習」と呼ぶが、悪い意味の時はこれを「トラウマ」と呼ぶ)
その治療は恐らく、向精神薬などの投薬治療と、心のケアのようなカウンセリングを両輪に、相当長い時間をかけていかなくてはならないものと想像された。
雛見沢症候群の錯乱誘導を抑えつつ、錯乱直前までに凝り固まった心の疑心暗鬼を少しずつ解きほぐしていく…。
……沙都子ちゃんのような末期発症者に対する治療プランはこんな見通しだった。
とはいえ、彼女の脳の、感情を司る部分を病原体と私たちで交互に刺激をしようというのだ。
予期せぬ副作用も考えられる。……成功率の鍵は、彼女の体力と精神力が握っていた。
彼女の、心の安定と体力の回復を慎重に見極めたところで、実験を開始する手はずとなっていた…。
そんな中、そんな彼女の心の安定を乱そうという輩が、連日のように私のところへ押し掛けていた。
…興宮署の老獪なる刑事、大石である。
彼は、ダム戦争から昨年の現場監督バラバラ殺人事件までを、村の御三家が暗躍する組織犯罪と捉えており、今年の祟りと称されている沙都子ちゃんの両親の転落事故も何かの事件性があるのではないかと確信し、渦中の人物である沙都子ちゃんにしつこく付きまとってくるのだった…。
「…何度いらっしゃられても、沙都子ちゃんへの面会を許可することはできません。彼女は両親を亡くしたショックで打ちのめされているんですよ? それを汲み取ることはできませんか。」
「いやいや、本当にちょっとだけお話が聞ければいいんです。そうお時間を取らせるつもりはないんですがねぇ。……令状が必要だってんなら申請しないことはありませんが、そうなるとかなり本格的なことになってしまいますよ? 私も北条さんの容態を気遣ってるからこそ、令状を取るなんて無粋を避けてるんじゃあありませんか。」
「令状を取ってまで、一体、何を沙都子ちゃんに聞こうとしているのか、私にはさっぱりわかりません。」
「………ん〜〜、実はですねぇ。今回の転落、事故ではなく事件の可能性もありまして。」
「北条夫妻がダム戦争以来、村中から嫌われているという話は知っています。ですが、わざわざ旅行先まで追いかけて突き落とすというのは、少々、突飛過ぎはしませんか?」
「ん〜〜〜。まぁ、事故でもいいんですがね? ならば、どうしてもよくわからない嘘があるんです。どうして嘘が必要なのか、って考えるとですね。こりゃあ事故ってことはありえないんじゃないかなぁって思うんです。」
「…嘘、とは何のことですか?」
「いえね。北条沙都子さんの言う、事故当時は車で眠っていたっていう話。…ちょいと話がおかしいんじゃないかなぁって、そう思うんです。」
沙都子ちゃんは当初から、転落事故当時は車の後部座席で眠っていたと主張していた。
その為、事故現場の展望台には降りてもいないらしい。
目が覚めた時には、両親の姿がすでになく、途方に暮れ、
「それのどこに嘘があるというんです? まさか沙都子ちゃんが、実は眠っていなくて、両親と一緒に展望台へ行ったと、
「そうです。北条沙都子さんは眠ってなんかいなかった。両親と一緒に車を降りて展望台へ行ったんです。」
…………この頃、私はある最悪の想像に襲われていた。
もしも、大石の言うことが本当で、沙都子ちゃんが、実際は両親と展望台に行ったにもかかわらず、行っていないと嘘をつくならば。…ある恐ろしい想像が形を成すためだ。
「な、何を根拠にそう仰られているのかわかりません。それに、なぜ沙都子ちゃんに嘘をつく必要があるのです?」
「それなんですよ。なぜ北条沙都子さんは嘘をつかなければならないのか。それの本当のところを教えていただけないと、
「どうして沙都子ちゃんが嘘をついているとお思いなんです?」
「……今回の事故は所轄が違いますので、白川署さんが関係者から事情聴取をしているんですがね? その調書を読んでみると、どうにも引っかかるところがある。」
「引っかかるところ、…とは何ですか。」
「北条沙都子さんの主張によるならば、彼女は両親に展望台へ行こうと誘われたが、眠かったのでそれを断り車を降りなかったという。そして彼女はそのまま熟睡してしまい、相当の時間が経ってから目を覚ました。そして、いつまでも戻ってこない両親に不安感を募らせ、泣き出した。その声を聞いて巡回中の公園作業員が話し掛けて事故が発覚したことになっています。
この時ですね? 公園作業員の証言では、両親が崖下に転落したと彼女が先に言ったというんですよ。ところがこの時、北条夫妻が停めた車の位置からは問題の事故現場ははっきりと見えたわけじゃないはずなんです。いや、注意深く見れば柵が破損していたのを気付けたかもしれない。
でもですよ? 目が覚めたら両親がいないのを知って、真っ先に崖下へ転落したと言うのは尋常ではないと思うんです。普通は、両親は自分を置いてどこかへ散歩に行ってしまい戻ってこないと言うはずなんです。転落する直接の現場を見てもいないのに、両親が転落したと第三者にいきなり言うのがね、私ゃどうしても腑に落ちないんですなぁ! …この辺り、どうして彼女は両親が転落したと確信したのか、その経緯を教えてもらいたいと思いまして、通い詰めているところだったんですよ。入院前に私も何度かお尋ねはしているんですが、記憶にない、当時は混乱していたとまぁ、まるでどこかの政治家みたいな答弁でしてね。私ゃ、じっくり話をしてみる価値があるかなぁと思っていたんですよ。」
その時点で、…私の中の恐ろしい想像は確実に形となった。
私は、彼女の末期症状発症は、両親の事故によるショックが引き金と漠然と考えていた。
…だが、違う。
………沙都子ちゃんはすでに末期症状の状態にあり、事故の直前から心の中を狂いそうになるくらいの疑心暗鬼で満たしていたのだ。
彼女は血のつながらない義父と不仲で、相当のストレスを持っていたという。
また、義父といつまでも打ち解けられないことを母に咎められてもいたという。
……そこから疑心暗鬼に取り付かれ、両親が自分を邪魔者だと思っていて、殺意を持っているのではないかと誤解したなら…。
そして、彼女は展望台に連れて行ってもらった時、自分を事故に見せかけて突き落とすに違いないと思ったのだ。
そして、……彼女にとっては正当防衛という名の悲劇が、両親を崖下へ転落させたのだ…。
雛見沢症候群をもっとも知る自分だからこそ、
この転落事故は「事故」ではない。
…そして、大石が睨むような「事件」でもない。
ただただ悲しいだけの、
後に悟史くんに家族の話を聞き、私はますますにその確信を深めた。
なぜなら、沙都子ちゃんは心を開こうとしなかったが、義父の方は、沙都子ちゃんとのコミュニケーションを取ろうと、不器用ながら努力をしていたと聞けたからだ。
確かに最初はうまく行かない関係だったという。
沙都子ちゃんと幾度となくトラブルを起こし、沙都子ちゃんが市の虐待SOSに嘘の電話を掛けるという事態にまで及んだ。
この段階で児童相談所から指導を受け、義父と娘の交流不足が問題であるとの指摘を受けたという。
そして義父は保護司の指導を受けて市の育児カリキュラムを受講し、不器用ながらも交流を持とうと努力していたのだと言うのだ。
それを悟史くんはよく知っていて、それでもなお心を開こうとしない沙都子ちゃんを諭そうとしていたと言う…。
なのに、沙都子ちゃんはそんな努力に気付くことはできなかった。
極度のストレスから、末期発症を招き、………義父の反省と努力を汲み取れなかったのだ。
…いや、それどころか、義父の対応の変化に、かえって不信感を募らせていったに違いない……。
………なんて悲しすぎるすれ違いだろう……。
不貞寝して車に残った娘が、のそのそと起き出して、足音を殺しながらやって来る。
それをおそらくは義父も聞こえていたに違いない。
…背後からワッ!と驚かすつもりなのだろうな、
………その時の義父の心中を思うと、あまりに悲しくなってくる。
……ようやく心が通じたと思っていたら、
しかもそれは沙都子ちゃんの本性によるものではない。
沙都子ちゃんを冒した病気のせいなのだ。
沙都子ちゃんが気の毒なだけでなく、…突き落とされた両親もあまりに気の毒だった……。
さらにその上、彼女は今や、大石に突き落としの実行犯でないかとまで疑われているのだ。
……悪意ある罪には裁きと懲役が必要だろう。
…だが、…彼女に必要なのは哀れみと理解だけなのだ。
……そして、その理解は、雛見沢症候群のことを知る私以外には絶対にできない…。
私は、入江機関の長だが、そう振舞ったり、権限を行使したりすることはこれまでにない。
だが、ここの長に就任して初めて、私はそれを行使することにした。
それは秘密研究機関、入江機関の長としてではない。
……沙都子ちゃんを守るため、医師として必要と思ったことだ。
「白川自然公園の、沙都子ちゃんの両親の転落事故ですが。……この件、事故で決着するように、山狗の小此木さんにお願いしてもらうことはできますか?」
「えぇ、そんなこと、お安い御用ですわよ。山狗はそういうものの隠蔽や捏造にもっとも特化した部隊ですもの。…確かに、早くあの転落事故が事故ということに決着しないと、警察がウチの実験体に近付いて邪魔ですものねぇ。」
「……そういうことです。特に、大石さんがこの件から早く引き上げるよう、よろしくお願いします。……試薬投与実験のデリケートな時期です。不要な心労をかけるのは適当ではありませんので。」
「まったくですわね。山狗にそのように伝えますわ。警察にもすでにコネクションがあるとのことなので、圧力をかけるよう指示しましょう。近日中に、白川転落事故は事故として確定することになると思いますわ。」
事故ということで、確定。
……あぁ、本当に事故だったなら、沙都子ちゃんの心はまだ幾ばくか救われるだろうに…。
病原体を駆除しても、傷ついた心は治らない。
…そして、起こってしまった悲しい悲劇も。
せめて、……彼女が笑顔を取り戻せる日が一日でも早く訪れるよう、
◆H170(解除条件:C103投与実験+入江の生い立ち)
※北条沙都子解剖計画の中止が必要です。
※入江京介の医者になる動機が必要です。
北条沙都子に対する試薬投与実験は順調に進んでいた。
私としては、実験が早々に失敗してくれても一向に構わなかった。
だが、入江が並外れた集中力で実験に没頭した結果、北条沙都子が実験途中に錯乱、もしくは廃人になるということは回避され、……なんと、L5に至りながら社会生活に復帰できる目処さえ立ちつつあった。
C103にはまだまだ検討課題を多く残しながらも、きめ細かく検体の体調を見ながら投与を調整することで、L5に至った人間ですら生還できるという快挙を成し遂げたのである。
…これについては、半ば馬鹿にしてはいたが、入江の努力を認めなければならない。
いや、入江ゆえにか。
甘えたヒューマニズムに苛まれ、両手を汚すことに未だ抵抗があるからこそ、北条沙都子を死すべき運命から救いたいという使命感に直結したのだろう。
私が入江を嫌っているのは、非情に徹しきれない甘さであって、その実績や能力についてではない。
……その意味において、私は彼を初めて讃えなければならなかった。
「入江所長のレポートを拝見しましたわ。…脱帽と言わざるを得ません。」
「いえ。私の研究者としての職務を果たしたに過ぎません。…その結果、医者としての職務も果たせたなら、私にとってはそれに勝ることはありません。」
「今や沙都子ちゃんは、私たちにとってもっとも重要な検体になったと言っても過言ではないでしょう。何しろ、L5に至りながら生還した初めての人間なのですから。」
「…その通りです。彼女を社会生活に復帰させ、経過を見ながら長期観察に切り替えていきます。彼女には毎週日曜日に、こちらに来てもらって検査を受けてもらえるよう話をするつもりです。」
「しかし、C103を日に3回も注射する義務と、毎週日曜日に検査に訪れる義務を、彼女にどう説明されるおつもりで? 彼女には何の病気の自覚もないのに。」
「…そこは今、うまく納得してもらえる話を考えています。……今、考えているのは、私の研究論文に協力してもらう、というものです。栄養剤の注射を毎日してもらい、毎週日曜日にその効果を検査する。その代わりに研究協力費としていくらかを支払う、という感じです。」
……どうやら入江は、意地でも北条沙都子を完治させるつもりのようだ。
…意地でも彼女を解剖の食卓に上げるつもりはないらしい。
私と立ち位置は違うが、どんな甘い思想にせよ、それが研究への情熱に直結しているなら文句など何もない。
彼のプランが実行に移されるなら、解剖とはまた違った成果を出し、雛見沢症候群の全貌解明に役立ってくれるだろう。
私は、北条沙都子が憎いわけじゃない。
研究のために、食えるものは何でも食うというだけのことだ。
北条沙都子が解剖以外の方法で充分に役立つなら、私はそれで一向に構わない。
「日に3回もの注射となれば、これは本人だけでなく保護者の方の同意も不可欠です。確か、ご両親が亡くなってからは、叔父夫婦に親権が移っていましたね。そちらに一度、相談にうかがおうと思います。姪への怪しげな研究協力を承諾してもらえればいいのですが…。」
「くす、大丈夫ですわよ。そのための研究協力費ですもの。月に10万か20万も振り込んでやれば大喜びしますわ。」
「それだけの予算はありますか?」
「もちろん。ジロウさんを納得させる資料を作りさえすれば。」
「わかりました。それは私が作ります。あと、沙都子ちゃんに心労を掛けないよう指導しておく必要もあります。L5をぶり返すことになったら大変ですからね。……噂では、叔父夫婦はとても現金な方だとか。金銭で丸め込むのは可能かもしれません。それらの指導も私の方できっちり行なうつもりです。」
沙都子ちゃんの新しい親である叔父夫婦との関係が、あまり良好ではないらしいという噂は聞いていた。
しかし、それは私たちとは関係のないことだと思っていた。それに入江がこうまで熱心に関わろうとするとは。
何かのきっかけで、彼女の保護者であろうという使命感にでも目覚めたのかもしれない。
それも一向に構わない。使命感に燃えてくれれば研究は一層進む。それは私にとっても助かるのだから。
「……それはそうと。…H170番台についてのレポートを拝見しました。」
「えぇ。入江所長の成果に比べれば足元にも及びませんが、一応の研究成果を出せましたわ。」
「…本当に皮肉ですね。彼女を錯乱から救う治療薬を作っていた研究所で、その傍らでは彼女を直ちに錯乱させる危険な薬が作られていたのですから。」
H170に入江は関わっていない。
私が主導で研究した。…いや、入江に関われと言っても、関わらなかっただろうが。
この危険な試薬は、北条沙都子の脳を支配する病原体が、如何にして宿主を疑心暗鬼や錯乱に駆り立てていくかのメカニズムを解き明かす過程で作られたものだ。
平たく言うと、H170は雛見沢症候群の感染者に投与することで、末期発症を強制的に引き起こせる。
擬似的に脳に興奮状態を与え、病原体を意図的に不安定にするのだ。
この危険な試薬の研究をさらに進めれば、我々は一般感染者を好きな時に末期発症させることが可能になるだろう。
末期発症のメカニズムを解明することが、雛見沢症候群を解明することにも繋がるため、このH170は今後の研究をスムーズに進める上で非常に心強いものとなるに違いない。
また、この薬は、クライアントが求める軍事的効能も期待できるかもしれない。
現時点ではまだまだ使い道は皆無と言えるだろうが、研究が進めば、無害な状態の病原体を対象とするコロニーに予め蔓延させ、意図的なタイミングでH170を散布することである種のアクションを起こすことができるだろう。
殺人ウィルスに比べれば手間のかかる間抜けな病原体だが、死体からの検出は不可能で、しかも自発的に錯乱したように見える点で、おそらく何らかの用途があるに違いない。
かつて雛見沢症候群の研究を封印しようとした元凶である、盧溝橋事件。
……あのような、歴史の分岐路となりかねない重要な事件は、殺人ウィルスのような不器用なものでは作れない。
…でも、雛見沢症候群になら可能なのだ…。
……この辺りはスポンサーであるアルファベットプロジェクトの老人たちが勝手に考えればいい。
使い道なんて、私にはどうでもいいことだ。
私にとっての目的は、雛見沢症候群の神秘を解き明かすことで、この研究がどれほど重要なものであったかを知らしめることだ。
そして、祖父の成果を偉業と認めさせること。
…軍事的転用はその途中の副産物に過ぎず、どうでもいいことなのだから。
「クライアントにとっては、鷹野さんの成果の方が喜ばれるでしょう。来期の予算取りが楽になるかもしれませんね。」
「くすくす。情熱だけでは研究は続けられませんものね。先立つものがなければ。」
「……これだけの潤沢な資金を提供してくださるスポンサーさんには頭が上がりません。……これだけのお金が公費から出ているのですから…。日本という国は、私が想像しているよりずっと豊かなのかもしれませんね。」
「公費は公費でも、表に出せない黒い公費でしょうけれどね。くすくす…。」
そのカネを得るために、私がどれだけの苦労をしてきたかなど、…入江にはわかるまい。
……とにかく、研究は極めて順調。
雛見沢症候群は私たち人類に何を示すのか。
まだ見ぬ神秘が教えてくれるに違いない、知的快感に胸が躍る。
人間は単なる空っぽの器に過ぎず、私たちが自らの意思だと信じているものは、前頭葉に住まう特殊な寄生虫たちによるものかもしれない可能性を、雛見沢症候群は示してくれるのだ。
それを解き明かせたなら、………人類はこれまでに解き明かしてきたどんな神秘にも勝る衝撃を得ることになるだろう。
誰もが、そんな馬鹿なと言いたくなるような、真実。
それをあの時代にすでに予見していた祖父の、偉業。
あぁ、今ならはっきりわかる。
この研究が、なぜ祖父をあれほどまでに魅了していたのかを。
◆女王の母の不信(解除条件:H170+白川公園転落事故)
※C103とH170の研究成果が必要です。
※白川公園転落事故の真実が必要です。
梨花が高熱を出した。それも相当な。
インフルエンザのような伝染性の病気が流行っている季節でもない。
…私はすぐに、つい最近、梨花が受けたという怪しげな実験を思い出した。それの影響なのかもしれない。
梨花は同い年の子たちに比べ、やや発育が遅れている。
毎週毎週、怪しげな注射やら実験やらを施されたら、体が参ってしまうに違いないのだ。
少しは加減してほしいと言っているのだが、当人の梨花はまるで怖い物知らずで、どのような実験にもほいほい応じてしまう。
それを諭すべき夫も、村人二千人以上に関わる大事だからと吹き込まれて鵜呑みにし、自分の娘を毎週、診療所に連れて行っている。
…私だけが、梨花の体のことを本当に心配しているのだ。
だから、入江先生に対し、もう少し梨花のことを気遣って欲しいと文句を言ってやりたかった。
とにかく、この責任をどう取るのかと彼らに釈明させることにする。
電話してすぐに診療所の人が車で駆けつけ、梨花をすぐに診療所へ入院させることになった。
それに、私も保護者としてついて行くことにする。
「落ち着いてください、お母さん。必ず救いますから、もうしばらくお待ちになってください。」
「これが落ち着けるかと言うんです! 急にこんな高熱が出るなんておかしいじゃないですか…!! これも先週にやったという何とか何とかという怪しげな実験の影響じゃないんですか?! 梨花はね、歳相応の小さな女の子なんですよ?! 梨花は友達思いだから、病気にかかった友達のためにと、」
「わかっております…。それに私たちの研究が、間違っても梨花さんに悪い影響を及ぼすようなことはありえませんし、万一そのようなことが起こらないよう、常に注意をしています。」
「だったらこの梨花の熱は一体どういうことなんですか!!」
「恐らくは季節の変わり目ですので、」
「風邪のわけないでしょう?! あなたたちが妙な薬を注射したからに決まっています!!」
入江先生は、落ち着けの一点張りで、梨花の熱が自分たちのミスだとは決して認めないようだった。
…夫に、村の一大事だからと言われ、私は今日まで心の中の不信感を抑えて来たが。正直なところ、それももう限界だった。
大体、彼らの存在は一番初めから不審過ぎるのだ。
プライバシー保護だか何だかの観点から秘密に研究。
…これだって十分疑わしい。そんなのあるわけがない。
実際、私は厚生省に電話を掛けてみたが、そんな事実はないとあっさり言われてしまった。私が古手梨花の母だと名乗ってもだ。
彼らはそれを、自分たちは特別な機関なので、一般職員は存在を知らないこともある、などとはぐらかすが…。
絶対におかしい。疑わしい。
それに、研究所の中には研究員とは明らかに違う人間たちがいる。
……一見するとそれは警備員だが、一般的な病院のそれに比べてあまりに違和感のある人間たちなのだ。
私は以前、見てしまっている。彼らが実は拳銃で武装しているということも。
「……それはですね、……。」
「あの人たちは警察なんですか? とてもそうには見えません! 大体、あなた方は何者なんですか! 厚生省の人間だなんて、私は今さら信じませんよ!」
入江先生は、すっかり私の気迫に飲まれてしまって、満足な返事もできないようだった。
彼らはまだまだ私たちに何かを隠しているのだ。
そしてそれは、梨花を巡るこの研究が、まともなものではないことを示しているのだ。
「とにかく、私は梨花の保護者です! 梨花はまだまだ子供です。あの子が何をどう返事しようとも、今後は一切、研究を手伝わせるつもりはありません!」
「…あらあら。梨花ちゃんのお母さんではありませんの。どうもこんにちは。……………あら、どうかなさいまして?」
「いえ、…その。…お母さんが、梨花ちゃんをこれ以上、研究に関わらせたくないと仰ってまして…。」
「……それはどうしてですか?」
「うちの子はあなたたちの実験動物ではないからです!!」
「…………そう扱ったことなどございませんわよ? それは大きな誤解ですわ。」
少しだけぎょっとする。
…入江先生は少し押したら引いてくれる気の弱い人のようだった。
だが、この鷹野さんという人は、……私が怒鳴る側だというのに、まるで怖気づかないのだ。
いや、それどころか、目をぎらぎらさせて、私に食って掛かろうという風にすら見える…。
「梨花ちゃんの熱は風邪によるものですわ。私たちのせいだなんてとんでもない。私たちは安全や衛生には国立研究所クラスの注意を払ってます。失礼ですが、アルコール消毒もしない手で、梨花ちゃんの手を引いて歩いているあなたより衛生的なくらいですわよ?」
「………そ、そんなことは聞いていません!! とにかく、梨花はあなたたちの玩具じゃないんです!! 梨花はもう二度とここへは連れて来ません!」
「あなたの一存で決められては困りますわね。ご協力をいただくことについて、ご両親には誓約書にサインをしてもらっているはずではございませんの? 研究に協力していただく見返りに、決して少なくない額を毎月お口座に振り込ませていただいてるはずですわ。」
「そ、…そんなお金、私は知りませんよ?! 聞いたこともないです!!」
梨花が研究に協力することでお金が出ていたなんて初耳だった。
…夫の性分から考えて、私に内緒で小遣いにしていた、ということはあるまい。
恐らく、村人のための無料奉仕とか考えて、お金が振り込まれているなんて話はとんと忘れているに違いない。
……普通預金にはそんなおかしな入金はないから、…定期預金の方だろうか…。
…とにかくとにかく、そんな話は私は知らない!
「契約を反故にされる場合には、それまでの振込み額を全て返還していただくことになっているのはご存知ですわね? 他にも一方的な反故についてそちらに非がある場合、」
「鷹野さん…! 落ち着いてください。お母さんもどうか…。雛見沢症候群は以前にもご説明させていただきましたように、村人たちが安心してこれからも生活していくために、絶対に治療していかなくてはならないものなのです。その為には梨花さんにどうしてもご協力が必要なのです…!」
「治療のためって、じゃあその治療薬はいつになったら出来上がるんですか?! 大体おかしいじゃないですか!! 梨花の友達の沙都子ちゃんのためということでしたけど、その沙都子ちゃんはもう退院して元気に生活しているというじゃありませんか。確か、先々週にうちの人が話を聞いた時にも、もう治療の目処は立ったというようなお話をされていたはずですわよね?!」
「え、えぇ。目処はついた、というような話はしたと思います…。ですが、雛見沢症候群の全貌を解明するためには…、」
「全貌の解明なんか最初の話で聞いていません! 梨花が協力するのは村人の病気を治療するためのはずです。ならもう充分ではありませんの!! 皆さんが梨花に怪しげな研究やら検査やらをしているのは、あなた方の興味本位であって、治療とは何の関係もないんじゃありませんの?!」
「そんなことはありません、
「とにかく、もう結構です! お金の話もあるみたいなので、私も帰って夫と相談しますから! それでは失礼します!!」
…大体、この連中は初めから胡散臭かった。
何だか大仰なことを言われて、うちの二人はすっかり丸め込まれてしまったけれど、私はそうは行かない。
とにかく、ここできっちりと清算しなくては。梨花はあいつらの玩具なんかじゃない。
…特に気に入らないのは、あの鷹野という人だ。
……入江先生はまだ医者という感じがするが、あの人にはそういう感じがない。
……何て言えばいいんだろう。
……そう、眼に宿る光が嫌らしいとでも言おうか…。
梨花のことを実験動物としてしか見ていない。そういう残酷さがひしひしと感じられるのだ。
それを、うちの人も梨花もまったく気付いていない。
私が守らなくては。母として梨花を守らなくてはいけない…!
「…鷹野さんらしくもない。あそこで喧嘩を買ってしまったら、余計に話がこじれてしまうではありませんか。……あなたらしくもないですよ。」
「………そうですわね。ごめんなさい、取り乱してしまって。」
何か不機嫌になることでもあったのだろうか。
先ほどのやりとりは、鷹野さんらしくもなく感情的だった。
◆神主の憂鬱(解除条件:古手梨花+女王への協力依頼)
※梨花と沙都子のお買い物が必要です。
※神主と入江機関の接触が必要です。
古手神社の境内の中にある集会所こそ、鬼ヶ淵死守同盟の本部事務所であった。
本来は閑静であるべき境内の中は、あちこちに「ダム反対!」と書かれたノボリが立てられており、まさに反ダム勢力の本陣であることを物語っている。
事務所内には、死守同盟の幹部たちが30人以上、ぎっしりと座っており、今後の方針などについて熱心な意見交換をしていた。
集会所は古手家の敷地内にあるとは言え、村人共有の施設なので、使用時間は午後の9時までという規則が定められていた。
もちろん、議論が過熱すれば、それを超えてしまうこともあるが、基本的には会合は午後の9時で終えるのが流れになっていた。
もし話し合いが早くに終わってしまえば、午後の9時までは雑談をして過ごす。それが彼らの基本的な流れだった。
もっとも雑談と言っても、ダム戦争の真っ最中であり、その内容は大抵、ダムに関わるもの。
……どこどこへ陳情に行って門前払いにされたとか、誰々が警察に不当逮捕されたとか、ダム現場事務所の対応が乱暴であるとか、そんなものばかりだった。
雑談のため、やや感情的な話も多く、そのためか、北条家に対する陰口も少なくなかった。
「…そしたらさぁ、回覧板捨てちゃったっとか言い出すんだよ! 普通に考えてそんなことするかねぇ?!」
「あそこの奥さんはさ、チョイと頭のネジがイカレちまってんだよ。この間もさ、ゴミ置き場で牧野さんとこの婆さんとすんげー口論してて!」
「大体、何て言うかね。本当に粗暴だよね、あそこのご主人は。理性がないというか!」
「あぁ、お前さんは地元説明会の時を見てないのかい? あれはすごかったよ、なぁ?! あそこまで言うからにゃもう村にはいられないよ。さっさと出てけばいいのにさ! カネがもらえないのどうのこうの! 浅ましいったらありゃしないね!」
「いやいやいやいや! 理性のなさで言ったらあそこの奥さんも相当のもんだよ! わはははははは!」
「それでやっぱり遺伝なのかしらね! あそこのお嬢さん、買い物によく見掛けるんで挨拶するんだけど、向こうから挨拶は絶対に返さないのよ? だから私たち馬鹿馬鹿しくなっちゃって、以来、見掛けても知らないふりしてんだから。」
「それ言ったら、あそこの坊主も、いーっつも暗そうな顔してるよなー! うっははははは!」
いつの間にか、北条家は村の敵、裏切り者という図式が出来上がってしまい、北条家の陰口話なら、誰もが気軽に乗れる最大公約数的話題になってしまっている。
…この村で御三家、特に今や園崎家がどれだけの影響力を持つのか。
そしてお魎さんがどういう気性の人かを理解していたなら、ああいう喧嘩を吹っかけることは絶対にない。
北条夫妻とて村の住人。
町会活動にそれほど熱心でなかったとはいえ、お魎さんがどういう人か知らなかったはずはない。
……それを公衆の面前で罵倒するようなことをすれば、必ずや何倍にもなって跳ね返ってくることが想像できたはずだ。
…にも関わらず、一時の感情に任せて暴言を口にしてしまった。
その意味で、今日の北条家の孤立は、気の毒だとするよりも自業自得だとする論調の方が強い。
…立ち退きで国と交渉したければ、水面下でこっそり個人的にやればよかったのだ。
あのような場で堂々と口にしたこと事態が愚かしいと言えば愚かしい。
そういう意味でも、北条家に対して同情する者は少なかった。
あの説明会の大喧嘩のせいで、園崎家は北条家を目の仇にし、徹底的な攻撃を加え始めた。
…そのせいで、北条家以外にもいた立ち退き派は声を大にできなくなり、自分もスケープゴートにされることを恐れて、渋々、立ち退きを諦めなければならなかった。
…そんな人たちにとっても、あそこで北条夫妻が軽率な喧嘩をしなければ、立ち退きの補償金をもらい損ねることはなかったのだと批判する声もあるという。
ダム反対派からも、元立ち退き派からも嫌われ、文字通り村で孤立を深める北条家…。
しかも、北条夫妻は気性が荒く、嵐が過ぎ去るまで頭を垂れていればよかったものを、売られた喧嘩は買うとばかりに息巻いたため、わずかにいた同情する人たちもいなくなってしまい、…今や北条家批判に対し異論を挟む者はひとりもいない。
それは、この集会所の中のあちこちでされている陰口を聞けば一目瞭然だった…。
梨花は、湯飲み茶碗の後片付けを手伝っているが、その陰口はきっと耳に入っている。
……彼らが陰口を叩く内の1人は、梨花の友達の沙都子ちゃんでもあるのだ。
…梨花がどんな思いでそれらを耳にしているか想像すると、胸が痛む…。
…古手神社の神主として、私はこれらを放置していていいのだろうか。
オヤシロさまは本来は、敵対する者すらも融和し仲を取り持つ縁結びの神さまだ。
相容れぬ存在である人と鬼が戦った時、天より降臨されて、その仲を取り持ったはず。
……その神社を祀る自分がこのような状態を放置していることは許されないのでは…。
私は、唾を散らしながら口汚く北条家批判をしているお魎さんの脇に座った。
「すったらん、だぁほが抜かしよるんよ、あのボケはッ!! ならんしゃもあーもないんかいね、ほんまに恩を知らんやっちゃいな!! あんの裏切者には絶対、オヤシロさまの祟りが下るんね、許されなかといな!!!」
そうだそうだと持ち上げる老人たち。
………これだけ気持ち良さそうに話しているところに割り込むのだ。穏便な話にはならないかもしれない…。
でも私は覚悟を決める。
…古手神社の神主として。
そして、梨花の友達である沙都子ちゃんのために。
「……お魎さん。…北条さんの悪口を言うのはそろそろこれくらいにしませんかね…?」
「はぁあぁあ?! 何ね、何ば言いよりおるんかいな…!!」
「…いや。北条さんもそんな悪気はなかったと思うんだが。あまりいつまでも尾を引くのは可哀想だと…、」
……お魎さんは園崎家頭首。
鬼を継ぐ者だ。自分に敵対した者は絶対に許さない。
その耳に、もう許してやったらなんて言葉は届くはずもない…。
お魎さんたちは、もうすっかり激昂してしまい、話は聞いてくれそうになかった。
また、私は話の中で、ダム計画などその内なくなってしまうから、もう少し落ち着いたらどうか、ということを口にしてしまった。
……これは、入江診療所の人たちから、政府の裏側ですでに圧力が掛けられていて、ダム計画は近いうちに必ず中止されるのを聞かされていたからである。
それが、彼らには私が日和見的に見えたらしい。
…いつの間にか、私に対する批判も始まっていたようだった。
…この日以降、私はいつの間にか、日和見主義者の烙印をもらっていることに気付く…。
………鬼とて、話を聞いてくれる余地があるならば仲も取り持てよう。
…だが、聞く耳を持たない人々の仲を、どうやって取り持つというのか。
すっかり彼らの機嫌を損ねてしまい、私は諦め顔で口をつぐむしかない…。
そんな私の背中に、そっと掛かる小さな手があった。
「梨花か。………もう遅い時間だから家に戻っていなさい。」
「………私たちがいくら努力しても、…届かない。」
梨花は遠い目をしながら、そう言った。
「……この澱みきった村の悪弊は、その澱みに住まう私たちにはどうしようもないのかもしれない……。でも、……希望をなくすものか。……今にきっと、…こいつらを打ち破ってくれる人がやってくる。今に、…きっと…。」
その目には、……古手の巫女にしか見えない未来が映っているようだった…。
◆生贄第三号(解除条件:神主の憂鬱+女王の母の不審)
※梨花の父に日和見主義者の烙印が必要です。
※梨花の母に入江機関への不信感が必要です。
状況が、変わった。
研究に協力的だった梨花の父親が方針を変換したのだ。
先日、梨花が高熱を出した一件以来、もともと納得していなかった母親の不信感が爆発したらしい。
……それを、研究に対し理解を示している父親がうまく治めてくれると期待していたのだが…。
むしろ逆に、父親側が感化される結果となったようだった。
父親は母親と違い感情的な対応はしなかったが、梨花に対する今後の研究計画を明らかにし、長くとも3ヶ月以内にその研究を終えること、という非常識極まりない条件を突きつけてきた。
…研究に刻限が切られるなど論外だ。
私たちは知識と工夫と時間をすり潰して成果を醸成する。
…そこから時間を抜くのは、水と塩さえあれば生きられるという人から、水を奪い塩だけで生きろという暴言にも通じる。
ド素人のくせに何を言うか、おのれおのれおのれおのれ……。
…古手夫妻が研究について何も知らない素人だからこそ言える暴言だが、…女王感染者の保護者である事実は重く、私たちはどう対応すべきか、考えあぐねていた…。
女王感染者への様々な実験や検査は、今や雛見沢症候群の研究に欠かせないものになっていた。
彼女の存在はまさに研究の羅針盤。彼女を失うことは、大海原で方角すらも失うことと同じなのだ。
梨花本人は研究への協力を申し出てくれているが、保護者の同意を失うことは研究の頓挫につながりかねない。
……事態は非常に深刻だと言えた。
古手夫妻は、治療薬さえできればいいの一点張りだが、
こんなところで手を引かれてはたまらないのだ。…ここに来て、双方の思惑が食い違ってきたということか。
………そして、とても悔しいことにそれは、私と入江においてもそうらしい。
あの男は、古手夫妻の非協力を理由に研究が頓挫するのも止むを得ないと考えているようだった。
………それはそうだ。入江には元々、雛見沢症候群を解き明かしてやろうという決意などありはしない。
積極的に研究を降りるようなことはしないが、夫妻に同調し、消極的に研究を降りようとしているのだ。
……何てこと、それが神秘に挑もうとする研究者の態度なのか…。
このような男が祖父の論文に足跡を刻印する前例主義者になるのだ…!
所詮、あの男は、中途半端に興味を持ち、実際に跳ね返る血を浴びて、過去の実績にまで罪の意識を感じ出した小心者でしかない。
雛見沢症候群という神秘に触れる資格などもともとなかったのだ。
……クライアントの都合でやむなく混ぜた部外者でしかない。
……私が女でさえなかったらきっと必要とはされなかった程度の、便宜上の代表。
確かに、治療薬を開発できたことは素晴らしい成果だが、…入江の中では、それをもって研究を畳んでしまってもいいのではないかと思わせているようだ。
自分だけ小さな成果を出して、それだけで満足して全てをドブに捨ててしまうつもりなのか。
……貴様に祖父の研究を破棄する資格などありはしないのに…。ぐつぐつと腸が煮えくり返ってくるのがわかる…。
いやいやいや、入江が一番悪いわけじゃない。
一番悪いのはあの女なのだ、梨花の母親なのだ。
あいつが我が侭を言い出さなければこのようなことには……!
…ある意味、自分に非があるかもしれない。
私は今日までにあらゆる人間の縁や義理を重んじて信用を積み重ねてきた。
…だが、梨花の母親とはどうしても反りが合わなかったので、私は積極的に交流をしようとしなかった。
……梨花本人と、父親と交流ができているから問題ないと考えていた。
だが、ここにきてその母親は影響力を持ち、父親の方針を変換させてしまったのだ。
…なんたる油断! なんたる逆転! なんたる失態ッ!!
入江は、今後をどうするか東京の判断を仰いで欲しいと言い、私に調整を任せている。
……だが、東京に素直に相談すれば、安全第一で研究を中止せよと言ってくるに決まっている。
この研究は、私が様々な方面に働きかけて無理やり成立させたものだ。
…もっともらしい大義名分ができれば、すぐにでも終了させられてしまうに違いない。
祖父の研究を完成させるためにようやく軌道に乗り始めたというのに、
私が本件を預かり、……こうして迷っていられる内だけが猶予なのだ。
…落ち着いてよく考えてみよう。
お気に入りの紅茶を飲みながら、こうして爪を噛んでいればいつだって妙案が思いついたはず…。
軽く天上を見上げ、目蓋を閉じる。なるべく柔らかく。
………私にとってどうしようもない問題でも、…他の立場の人間に相談したら、あんまりにもあっさり解決してしまったということが少なくなかった。
そうしていつも難問を乗り越えてきたのだ。
あの施設での地獄のような日々だって、私は耐えて生き延びてきた。
…この程度の、あの程度の女の我が侭で全てを引っくり返されるようなことがあってたまるものか…!
…………心を落ち着けろ。
冷静に考えよう。
クールになれ、鷹野三四。
…私とは違う立場の人間なら、私には思いつかないアプローチが見付かるのではないか。
でも、…それは誰?
もちろん私ではないし、入江でもない。
…当然、村の人間でもないだろう。
…東京の誰かに相談する? いやいやそれは駄目だ。
悩みの相談は足元を見られるし借りを作る。
…小泉先生にだってこの程度のことを相談したら見限られるに決まってる。
…もっと身近に相談できる人間がいた。
…私の部下ということになっているのだから、話だけでも聞いてみるのがいいかもしれない。
私は入江機関直属の防諜部隊、山狗の隊長、小此木を呼びつけた。
山狗は組織上、私の直轄の部下だが、元々彼らは自衛隊、私は研究者。
立場の違いから、これまで積極的に交流することはなかった。
彼は彼。私は私の仕事に専念しているのがほとんどで、何か相談してみようと思うことなどなかったのだ。
だが、山狗は本来、私たちの研究を守り、研究とは違う形でサポートするためにいる。…それを使わない手はなかった。
「そらぁ、難儀なこってすなぁ。へっへっへ。」
かつては標準語でしゃべっていた小此木も、今ではすっかり雛見沢訛りになっていた。
…地元に溶け込むのが防諜の基本らしい。
「このままだと、女王感染者の協力が受けられなくなるばかりか、騒ぎ立てる母親によって研究所の存在が暴かれる危険性もある。………山狗で何か手は打てる?」
…フランクな受け答えをする小此木に、私は半ば投げ遣りに聞いた。
…正直なところ、返事は期待しなかった。……だが。
「了解しました。山狗で処分しますん、お時間をいただければ綺麗にやりますよ。」
「……処分?」
「警察沙汰にならんようにしますんね、少々の準備は必要ですが。難しい仕事じゃありませんね。」
私はぎょっとする。
………私にとって梨花の母親は確かに敵で、どうやったら説得できるかと考えていたのだが…。
………この研究所の機密保持を担う防諜部隊、山狗の隊長は、実に山狗らしい提案をしてくれたのだ。
「……それは、……殺すということ?」
「入江機関の機密保持に当たっては、最悪の場合、それも辞さんっちゅう話のはずですが? もちろん、ご命令があって初めて実行するこってすが。」
そう。…彼らにとってはあまりにシンプルな問題だったのだ。
梨花の母親がトラブルを起こし、私たちの研究を妨害するのみならず、研究所のことを外部に漏らしかねないなら、………処分するまでなのだ。
「…………そ、
「そのために来ている我々ですんね。大仕事は大臣孫の誘拐以来、久々の大仕事になりますわ。」
そうだ。
……建設大臣の孫を誘拐し、脅迫するということを易々とやってのけた山狗じゃないか。
あれから数年が経ち、すっかりそれを忘れてしまっていたが、彼らは当時、実に素晴らしい仕事をやってのけていたではないか。
そうだそうだそうだ…。私には山狗がいたのだ…!
「…実行はすぐにでも可能?」
「ただ殺すだけなら今夜にでも。ただ、それでは騒ぎが大きくなりますんね、周到に監視してから、綺麗に蒸発してもらうようお膳立てします。そのための時間さえもらえれば。」
猫が眩しいところでは瞳孔が開くように。………私の瞳の奥にある何かが、ぐわっと開いたような感じがした…。
私はこれまで、邪魔者を如何にして味方に取り込むか、あるいは屈服させるか懐柔させるかに頭を痛めてきた。
それを、…この男に命令するだけで、こんなにも簡単に解決できるなんて…!
それはまるで、自分が今まで空を飛べることを知らなくて、初めて羽ばたいた大空のような驚き…。
…あぁ、あのヒステリックで腹立たしい梨花の母親を、…私はこうして口頭で命令するだけでいつでも消し去ってしまうことができる……!
このような部下をつけてくれたのは全て、小泉先生が取り計らってくれたからだ。
……あぁ、小泉先生はこんなにもすごい力を私に授けていてくれたのか…!
人と人は平等だと、生まれた時から教えられてきた。
だが、私に人の生き死にを自由にできる力が与えられているということは、…人より上の存在であることを認められているということになる。
……それは、自分が人間よりヒエラルキーの上位に位置することを知る快感。
「消すのは、古手梨花の母親だけでいいですんね?」
「え? ぁ、………いや、……ちょっと待って……。」
古手梨花の母親“だけ”でいいかって?
…ぞくぞくとしたものがさらに全身にみなぎっていくのがわかる。
他にも消せるなら、
梨花は元々、協力的だ。
それに古手家は親類がいない。
両親が揃って死ねば、誰かに頼らざるを得ないはずだ。
…それを、入江機関ならサポートすることができる。
身分、生活費、保護、全てを与えることが可能だ。
いやむしろ、そうすることで梨花を協力者ではなく、完全にこちら側に取り込んでしまうことも可能かもしれない…。
私の悩みが見る見る氷解していく…。全てはとても下らない…。
初めから全部杞憂だったのだ。
……私にはこんなにも強力な部下がいたのに、それに気づいていなかったなんて…。
すると、私の切羽詰った感情はゆっくりと解け、……徐々にリラックスを取り戻し、普段の冷静な私が戻って来るのを感じた。
…………消してしまおう。梨花の両親を。
…女王感染者は私のモルモットであればいい。
モルモットに保護者など不要だ。
そうだ。…………もうすぐ、綿流しのお祭りじゃないか…。
もし、…その日に死んだなら、きっと、オヤシロさまの祟りと呼ばれるに違いない。
……一昨年のバラバラ殺人も去年の転落事故も、…個別の事件のはずなのに、綿流しの日に起こったばかりに祟りと呼ばれている。
…なら、両親の死も、この日に重なれば、それは実に綺麗に、オヤシロさまの祟り三年目として積み重なるのだ。
オヤシロさまが示す、奇跡。祟り。………それを、ワタシが築く。
運命のサイコロにて人間を試す高慢な存在である神の領域に、ワタシが踏み入ることができる最高の機会…。
二年連続で起こった事件は祟りと呼ばれているが、まだまだ一部の人間の不謹慎な冗談の域を出ない。
でも、それが三年目も起こったなら、誰もが祟りであることを疑わない。
…つまりそれは本当の祟りであり、……しかもそれは私が示した祟り。
ワタシが、オヤシロさまとして神として、示した祟りになるのだ。
私の持つ、神に対する復讐心が……少しずつ首をもたげて来る…。
「……ただ、消すだけでは何だか面白みがないと思わない?」
私がくすくすと笑い出すと、小此木も何を思いついたやらとニヤリと笑って興味を示してくれた。
「私たちで、オヤシロさまの祟りを作ってみるの。……くすくすくすくす。」
ただ殺すなんて勿体無い。
鬼隠しにして、あのヒステリックな女を生きたまま、たっぷりと解剖して楽しんでやる…。
もちろん、ただ楽しむだけじゃない。
それはこの上なく研究に役に立つ。何しろ一人は先代女王感染者なんだから…!
◆古手夫妻怪死事件(解除条件:生贄第三号+大石蔵人)
※三年目の祟りの実行命令が必要です。
※大石蔵人の宣戦布告が必要です。
心の中で、…ひょっとすると今夜、再び何かが起こるかもしれないという覚悟はあった。
1年目には作業員たちをそそのかして、おやっさんをバラバラにして殺し、2年目には何らかの方法によって、北条夫妻を事故に装って殺した。
…ダム戦争の時、村に仇敵として嫌われた人物ばかりが、雛見沢にとってもっとも意味のある、綿流しの祭りの日に死ぬ。
村の中では一部の人間がこれを「オヤシロさまの祟り」と呼んでいるらしいというのは、無論、私の耳にも入っていた。
ダム戦争が終わり、その戦犯を祭りの夜に殺して清算することで何かの意味を持つのではないか。…私はそう考えていた。
だとしたら、ダム戦争の時の戦犯はまだ何人かいるはずだ。
……それはひょっとすると三年目の祭りの夜にも起こるかもしれない。……その勘は当たった。
ただ、それは最初、あまりに自然で事件にはまるで見えなかった。
祭りも終わりに近付き、本部テントには町会幹部たちが大勢ひしめいていた。
そして、ビールをかぱかぱ空けて、模擬店の売れ残ったモツ煮込みやトウモロコシを肴に大いに盛り上がっていた。
私もその時は、町会の連中にもてなされていて本部テントにいた。
……だから、この三年目の事件の一番最初に、私は立ち会っているはずなのだ。
…にも関わらず、私は事件の始まりに気付けずにいた…。
「あんれ、古手さん、どうしたよ。気分悪いのかい?」
村の老人たちは皆、酒豪だが、中には弱い人間もいる。神主もその内のひとりだった。
綿流しの祭りの中において、神主は代表でもありホストの役目でもある。
来賓が来る度に挨拶するし、その度に返杯を受けるので、夜が更けた頃にはくたくたになっているのは想像に難しくなかった。
だから、神主が喧騒から外れてパイプ椅子に俯くように腰掛けていても、特におかしいとは思わなかった。
そんな神主に、大丈夫かいと肩を叩いたのが公由村長だった。
「…大丈夫? あっははははは、飲みすぎだよきっと! 何、胸が苦しいの?」
「……うむむ…。すみません、ちょっと疲れたようです。」
「あれぇ、あんた心臓やってたっけ? 急に痛くなるのはよくない兆しだよ! 入江先生! 先生ぇ〜!」
「どうしましたか? ……胸ですか。それはよくないですね…。」
「…むむむむ……、……ぅぅぅ。」
見れば神主は嫌な汗をべっとりとかいており、とてものんびりと椅子に座って夕涼みを洒落込んでいるようには見えなかった。
……顔色も悪く、すぐにでも横になった方が良さそうに見えた。
「……ちょっと診療所にお連れした方がいいかもしれません。大丈夫ですか? 私の肩に掴まれますか?」
「おいおい、誰か手伝ってやれー!」
「神主さん、調子が悪いらしいぞ…。」
「うちの人、どうかしたんですか? あなた、大丈夫…?!」
「鷹野さーん!! ちょうどよいところに。神主さんの具合が悪いようなので診療所に連れて行きます。すみませんが、境内の下に車を回してもらってもよろしいですか?」
「えぇ。お安い御用ですわよ。…くすくす。」
そうして、神主と奥さんは入江先生たちと一緒に診療所へ向っていった。
……若者ならいざ知れず、老人は自分の体について熟知してる。
具合が悪くなるまで無理をすることなど滅多にない。
神主ほどの人に限って、飲みすぎて具合が悪くなるなど、なかなか考えられないことだ。
長年、培ってきた嗅覚が何かを知らせる。……私は念のためと思い、入江診療所に向った。
車で後を追おうとしたが、祭りの終わり際で、模擬店の撤収などで車がかなり出入りしており、臨時駐車場をなかなか抜け出せなかった。
なので、神主が担ぎこまれてから二十分以上も過ぎてから私は診療所に辿り着いたのだった。
この二十分。
この二十分がなかったなら、この年の事件に対する私の関わり方はもっと違っていただろう。
…車がなかなか出られないとわかった時点で、徒歩で向うべきだったと後悔する。
………あとは、事実のみを記すしかない。
神主たちが祭りの会場から姿を消し、私が診療所に辿り着くまでのたった二十分間に、今年の祟りは全て行なわれてしまったのだから。
神主は、診療所に運び込まれた直後に容態が急変。死亡した。
……後日の検死の結果、心不全ということになったが、それを鵜呑みになどとてもできない。
神主が体調を崩していたという話は聞いていないし、誰にとってもそれはあまりに唐突なものだったのだから。
そしてさらに、付き添いをしていたはずの神主の奥さんが消えていた。
診療所の人間が言うには、神主が死んだ直後には間違いなく側に居たのだが、ふと気付いたら姿が見えなくなっていたというのだ。
もちろん、自宅にも帰っていない。
私はこの時点で、神主は何者かに毒のようなものを飲まされたのではないかと疑っていた。
……神主は、ダム戦争の当時、大騒ぎしなくてもいずれダム工事はなくなると日和見的な発言をしてひんしゅくを買ったことがあったからだ。
…根に持ちやすい村の老人たちはそれを忘れておらず、そんな神主はオヤシロさまを祀る神社に相応しくないと陰口を言っている、というのは私の耳にも聞き及んでいた。
すぐに応援を呼び、失踪した奥さんを探させることにした。
……昨年の夫妻転落事故の例のように、夫婦が丸ごと犠牲になるのは考えられないことではなかったからだ。
村の青年団も集められ、村から山までを探した結果。
……鬼ヶ淵の沼のほとりで、揃えた草履と遺書が見付かった。
遺書には、夫の死はオヤシロさまの祟りであり、自分の身をもってオヤシロさまの怒りをお鎮めする…というような内容が書かれていたといい、沼に入水自殺したことをほのめかしていた。
鬼ヶ淵沼は大昔から沈めば二度と帰ってくることのない、鬼の国へつながる底なし沼ということになっている。
警察のダイバーが慎重に調べたが、ついに遺体を見つけることはできなかった…。
過去の2つの怪死事件は、警察の上層部が押し付けがましく言うように、個別の事件ですでに解決しているようにも見える。
……だが、この三年目の怪死時件だけは、何かがおかしいのだ。
とにかく、具合が悪いと訴えた神主が診療所へ運び込まれた。妻がそれに付き添った。
そして、わずか二十分の間に、神主は病死し、妻は沼に入水自殺、あるいは失踪したのだ。
神主の病死については急性の発作で亡くなったのだろうと納得することもできる。
だが、奥さんがそれを祟りだと思い、神様に詫びるために入水自殺を決意したというのが二十分間の出来事というのはどう考えても不自然を極める。
古手家には親戚はいない。
残される一人娘のことを考えたら、いくら熱心なオヤシロさま信者であったとしても、娘を残して自殺などしないはずだ。
……入江も何かを隠している。
だが、入江は単なる村医者に過ぎず、どちらかというと駒に過ぎない。
…これが陰謀で、神主が暗殺なら、裏で糸をひく黒幕がいるはずなのだ。
過去二年の事件を無理やり村と結びつけるのは、やや強引かもしれないと思いかけていた私にとって、…この事件は、雛見沢村連続怪死事件が紛れもなくあるひとつの意思に基づいて行なわれている連続事件だと確信させるに充分なのだった…。
……この事件は数えたらキリがないほどの不審点を山積みにしていたが、村の何者かが上層部に圧力を掛けたらしく、過去の事件と同様、この事件も個別の事件として、無理やり忘れさせられていくのだった……。
三年連続し、今や村の誰もがオヤシロさまの祟りに違いないと噂する。
…これこそが犯人の目的のような気がする。
戦後に一度は廃れたオヤシロさま信仰。
……その威厳か何かを取り戻すために、何者かが儀式めいた殺人を犯しているのではないか。
その黒幕は、
それから数ヵ月後。
この事件について園崎お魎が、神主はオヤシロさまに祟られて当然だった旨の発言をし、雛見沢村連続怪死事件、通称オヤシロさまの祟りに神主の事件を組み込むことを決定するのだった。
最初は、おやっさんの仇を討ちたいだけだった。
…だが、今やその事件は、村の信仰をなぞる奇怪な事件に成長し、異様な輪郭を見せつつある。
…くそったれ。おやっさんの仇は人間なのだ。
……わけのわからない祟りなどにすり替えられてたまるか…!
◆一二三四(解除条件:女王の母の不信+富竹ジロウ)
※古手梨花の高熱が必要です。
※富竹ジロウの微熱が必要です。
鷹野さんは、僕が訪れる度に一緒に撮影の散策に付き合ってくれた。
彼女なりにカメラの楽しみ方を見つけたらしく、僕も同好の仲間を作れてとても嬉しかった。
だが、彼女には実はそれ以上に没頭させる趣味があった。…それが、雛見沢の古代史などを調べることであった。
彼女はまめに図書館や郷土資料館に足を運んでは、様々な文献を読み漁り、特に雛見沢に関しては、相当博識な郷土史家になっているようだった。
彼女は機嫌がいい時、僕を捕まえては雛見沢がかつて鬼ヶ淵村と呼ばれていて、オヤシロさま信仰に基づく残酷な儀式をいくつも執り行っていた話を聞かせてくれた。
どうも彼女は物騒な話が大好きらしく、それがかえってミステリアスな魅力を感じさせるのだった。
…生憎、僕にはどちらかというとグロテスクな話は苦手なので、実は相槌を打つのが精一杯。
彼女が胸をときめかせる残酷な儀式の話には、実はあまりついていけてなかった。
それでも、そんな話を聞かせる時の彼女の輝く瞳が好きで、僕は彼女のそれに付き合うのがそんなに嫌いではなかった。
「鷹野さんはそういうのを調べるのが好きだねぇ…!」
「あら、だって楽しいわよ? 封印された過去の暗黒史を紐解くなんて、とてもわくわくすることだとは思わない?」
そう言いながら微笑む鷹野さんを見ていると、暗黒史というものがとても楽しそうなものに見えてきてしまう。
…だがもちろんそんなことはない。
彼女が好んで調べる雛見沢の暗黒史は、中世の魔女狩りを思わせるような残酷かつ無残なものばかりだ。
「それに、雛見沢症候群を調べる上でもとても役立つことなのよ? 何も顕微鏡を覗くことだけが調べることになるとは限らない。この寄生虫と、長い時間を過ごしてきたこの村の伝承の方が、よっぽど重要な何かを教えてくれることもあるんだから。」
「それもそうだね。…うん、鷹野さんは本当に研究熱心だよなぁ。」
「くすくす。だって、研究こそ私のライフワークだもの。未知の神秘に踏み込み、誰も知らなかった秘密を暴くことって、とっても楽しいことだとは思わない? 知的好奇心をうずうずさせてくれる。それは多分、考えることに悦を感じることができる、人間だけに許された最高の娯楽だと思うの。この研究の第一人者だった高野先生も、雛見沢症候群の研究に生涯を捧げるだけの何かを見出し、その魅力に取り憑かれていたに違いないでしょうね。……多分、私だけが、そんな高野先生の気持ちを理解してると思うの。……研究者でないジロウさんには難しいかしら。くすくすくす。」
彼女は雛見沢症候群の存在に初めて気付いた個人研究家、故高野氏について語る時はいつもとても雄弁だった。
それは多分、研究者としての尊敬の念以上のものがあるのではないかと思う。
…そう言えば気付いた。
高野先生は確か、フルネームが高野一二三だ。
…そして鷹野さんは、鷹野三四。
どちらもタカノで、123と34。…何だか不思議な関連性があるように感じた。
鷹野さんの素性は僕も全てを知らされているわけではないが、多分、鷹野という名前は偽名である可能性が高い。
……となると、尊敬する研究者にちなんだ名前を自らに付けている可能性もありえた。
「なるほど。……ひょっとして鷹野さんは、だから三四という名前なのかい?」
「……え?」
「いや、鷹野さんが尊敬しているその先生の名前が確か、高野一二三。そして、鷹野さんの名前が三四。…123の後を引き継いで、34。彼が成し遂げられなかった研究を引き継いだから、そういう名前なのかなって思ってね。」
「……………………それを誰かに聞いたの?」
「…え? いや、あはははは、今、僕が適当に考えただけなんだよ…。別に誰かが言ってたわけじゃ、」
「くす。……正解よ。鈍いジロウさんにしてはよくわかったわね。」
「いや、鷹野さんが、その高野先生をとても尊敬しているのは知ってたし、まるで自分が実の娘か孫で、研究の正当な後継者だというような感じで言っていることがあったからね。何となくそんな気がしただけなんだよ。……作家のペンネームだって、ほら、江戸川乱歩みたいに、尊敬する作家のオマージュで名前を付けることもあるし。なら、鷹野三四って名前もペンネームみたいなものなのかなぁって思って。」
「そんなことはないわよ。鷹野三四は本名よ。……もっとも、鷹野のタカは、鳥の鷹じゃなくて、高い低いの高が正しいけれど。」
「え? じゃあ、高野先生とは本当は同じ苗字なのかい? それはますますびっくりだね…! しかも三四が本名とは…。高野一二三の研究を高野三四が継ぐ…。何だか運命的偶然を感じるね…!」
「くすくす。ジロウさんったら、運命的だなんて大袈裟な。別に運命でも何でもないのよ。だって、私の祖父だもの。」
「…………え?!」
それは初耳だった。
鷹野さんが高野先生の死後、残した文献から雛見沢症候群についてを見付け出し、研究を引き継いだということになっていた。
あくまでも高野先生とは他人であって、血縁であるという話は一度も聞いたことがなかった。
「祖父の研究を引き継ぐために予算を、というと、まるで身内贔屓のために予算を引っ張ろうとしているように見えて、印象がよくないという風に助言をしてくれる人がいたので、タカの一文字を変えたからなの。だから人前で高野先生が私の祖父だと話したのは、
「…………そ、……そうだったのかい。………なるほどね。君が雛見沢症候群の研究に、入江所長も驚くほどの情熱を見せる理由がちょっとだけわかったよ。」
今ならはっきりと理解できる。
……彼女は、祖父が完成できなかった研究を引き継いだのだ。
「祖父も、医学的見地からだけでなく、古文書などの文献からも雛見沢症候群を探っていたの。……雛見沢症候群と何百年にもわたって共にあった村の文献を調べることは、何百倍もの倍率を持つ顕微鏡を覗くより価値がありえるというのは、祖父が私に教えてくれたことなの。」
「……なるほどね。だとしたら、自分の完成できなかった研究をこれだけ立派に引き継いでくれたお祖父さんは、きっと喜んでいるだろうね。こんなに熱心な孫に引き継げて、とても嬉しいはずさ。」
「くすくすくすくす。そうだといいわね。」
普段の鷹野さんになら茶化されてしまうようなことを言ってしまったが、鷹野さんは茶化したりせず、普通に頷いて微笑んでくれた。
……間違いない。彼女は本当に高野先生の孫娘なのだ。
「祖父が一二三で123。私は三四で34。……私は祖父を継ぎ、ようやく3を共に数えたに過ぎない。そして、祖父の次の4を数え、
「それで三四という名前なんだね。素敵な名前だと思うよ。」
「ありがとう。私が孫だという話は内緒にしてほしいの。クライアントの人たちにも言ってないから、彼らの耳に入って、痛くもない腹を探られたくないから。」
「あはははは、うん。わかったよ。これは僕と鷹野さんの秘密ということで。」
こんなささやかな秘密でも、僕しか知らないというのには小さな優越感を感じずにはいられなかった。
「…………私はようやく3を数えただけ。まだ4にすら至っていない。研究の道のりはまだまだ険しく長いけれど、…私は最後までやり抜くわ。必ず雛見沢症候群の秘密を暴く。」
「僕もそれを応援するよ。………あはは、元々、それが僕の役割だしね。」
「もう。そういう余計なことを言わなければ充分かっこいいのに。一言、応援するって言ってくれればいいのよ。」
「あ、あははははは…! するよ、君を応援する。」
「二度言い直しても駄目ね。一回で言えなくちゃかっこよくはならないわね。くすくすくす。」
僕たちは朗らかに笑い合うのだった。
そして笑い終わると、最後だけ釘を刺すように、彼女は少し真顔になって言った。
「だからジロウさん。……くれぐれも私が孫だって、言わないようにね?」
「言わないよ。約束する。」
「孫だからいけないということはないけれど。……クライアントがそれを知って不快に思ったら、予算を切られるようなことがあるかもしれない。」
「そんなことはないと思うよ。第一、僕はしゃべらないしね…!」
「絶対よ? 本当の本当に絶対よ…? 私はこの研究のために命をもらったの。祖父の研究を完成させることだけが私の使命。踏みにじられた研究が、世界を驚かす偉大なものであったことを証明し、土の下で朽ちる祖父を讃えさせ、…神に昇華させること。それだけが私の生きる理由であり目的なの。…………ジロウさん。…もし、それを邪魔するような不用意な言葉をあなたがうっかり漏らして、研究に支障が出たならば…!!」
「………だッ、大丈夫だよ、ここで聞いた話は忘れるよ。」
「…………………………………。」
「…本当さ。…いや、絶対に口外しない。」
「………………………。」
「僕は約束は守るよ。……絶対に言わない。」
「…絶対よ、ジロウさん……?」
ほんのわずかだけ、彼女に鬼気迫る何かがあった。
僕は、彼女がそれに染まりきってしまうのが怖くて、先に秘密を守ることを誓う。
研究者としての知的好奇心と、祖父の研究を完成させたい気持ちの2つが、彼女を雛見沢症候群の研究への情熱を掻き立てているのはわかる。
……だが、もう1つ、彼女を掻き立てている理由があるようだが、
それにしてもさっき。
…彼女が言った言葉。「研究に支障が出たならば…!!」の先は一体何と続けるつもりだったのか。
………僕には、その後に何か恐ろしい言葉、容赦のない言葉が続いたような気がしてならない。
僕は彼女との約束を守り、
◆サイコロの1(解除条件:定期監査+一二三四+谷河内の採石場)
※祝杯のワインが必要です。
※富竹ジロウの約束が必要です。
※緊急マニュアル草案が必要です。
…………それは突然のことだった。
小泉のおじいちゃんが、亡くなった。
具合が悪いとか、体調が優れないとか、そんな話は一度も聞いたことがなかった。
…胸が急に痛くなって眠れない。
明日の朝が待てそうにないと、生まれて初めて救急車を呼んでみたという。
すぐに救急治療室に運び込まれたが、朝まで持たなかった。
急性心筋梗塞だという。
………でも、ある意味、幸せな最期だったかもしれない。
病床に伏せり、数年かけて痩せ衰えてから死に至るのに比べれば、死に至る直前まで元気に過ごせたのだから、その分、生を満喫できたと言うべきだろう。
しかし、…それでもあまりに呆気ない最期だった。
もっと彼のことをおじいちゃんと呼んであげればよかった…。
そう後悔しても、もう遅い。
……小泉のおじいちゃんは、もう私が何度そう呼んでも、はにかむような笑顔を返してくれることはないのだ。
……今日まで彼は私の後見人で居てくれた。
私の努力が正当に評価されるよう、常に見守ってくれていた。
祖父が存命中、研究に協力できなかったことへの罪滅ぼしだったにせよ、私にとっては掛け替えのない人で、…………大切な人だった。…単に後ろ盾という意味でなく。
でも、それは存命中には気付かなかったこと。
彼の持つ強大な権力を自分の目的のためにうまく使ってやろう、そんな失礼極まりないことを平気で考えていたこともある。
だが、……彼がいなくなって初めて知った。
小泉のおじいちゃんは、……おじいちゃんだった。
…私が祖父に求めていたものを、温かく見守ることで与えてくれていたのだ。
私は本葬に駆けつけ、焼香する時に、…………祖父が死んだ時以来、流し方も忘れていた涙を、…再び零すのだった………。
「…おじいちゃん……。今までありがとう……。もっと、………もっと、おじいちゃんって呼んであげればよかったね……。………………うぅうぅぅぅ………。」
…もう何度呼んでも、それに応えてくれることはない。
私にできる恩返しは、お膳立てしてくれた研究を完遂すること。
………つまり、私の目的をきっちりと成し遂げることだけだ。
祖父の研究を認めさせた時、その唯一の理解者であった小泉のおじいちゃんの名前も共に蘇らせる。
……それだけが多分、今日までの恩に報いる方法に違いなかった。
…私は、ますますに日々の研究に全精力を注ぐことを遺影に誓うのだった…。
だが、
それはまるで、…今日まで順調に吹いていた追い風が止み、
……あまりに突然な、風向きの変化。…強く、
「………え? どういうことなの、ジロウさん。」
「…うん。小泉先生が入江機関設立の立役者だったのは、鷹野さんも知ってるよね。……関係機関でなかなか承認の取れなかったのを、小泉先生が強力に押さえ込んで無理やり通させたって話なんだよ。……何しろ、医薬品業界で絶大な功績を挙げられた戦後日本復興の重鎮だからね。政財界に絶大な影響力を持たれていたし。」
「…その小泉先生が亡くなって、小泉先生が通した無理やりが通らなくなったということ…?」
「あくまでも噂なんで本当のところは僕にもわからないんだけど…。……一部の予算配当やプロジェクトの見直しが行なわれるらしいというのを聞いたんだよ。」
「……入江機関が廃止されるということ?!」
「いや、入江機関を見直すというのは聞いたことないけど…。ただ、小泉先生の死後、長老たちの派閥や勢力、後継者争いがややこしくなっているってもっぱらの噂なんだ。すでにクライアントの人事にかなりの影響を与え始めてるらしいんだ。それで、小泉派が主導していたプロジェクトや聖域予算に対し、締め付けが行なわれるんじゃないかって、憶測が飛び交ってるらしいんだよ…。もちろん、それらは全て僕にとって、雲の上の話だからね。伝え聞いた噂話でしかないんだけれど…。」
ジロウさんは噂に過ぎないと何度も断ったが、
いや、…あるいはジロウさんはもう全てを知っていて、…風向きが急激に変わることを私に警告してくれたのかもしれない…。
そして、…次の定期監査の時。
それははっきりとジロウさんの口から告げられた。
その定期監査には、ジロウさんだけでなく、これまで一度も訪れたことがないような高官たちが混じっていた。
…その面々だけで、私は転機が訪れていることを知った。
「ご存知のとおり、アルファベットプロジェクトは戦後日本の国際的地位向上を抑止兵器の観点から探るものです。ですが、すでに昭和も50年代に至り、西暦は21世紀を間近にしております。今や時代は、戦後を脱却し21世紀を迎えようとしているのであります。」
それはそのままの意味。
日本がすでに戦後を脱却しているということ。
そして、戦前の日本を軍事的優位で取り戻そうという過去の亡霊との決別を意味する。
「戦後40年間、我が国は世界への平和的貢献を模索し、アメリカの最大の同盟国として充分な国際的地位を確立するに至りました。日本は世界に先駆けて核と軍隊を放棄した平和国家として成熟し、来世紀にはますますにその存在感を強めることでしょう。」
入江機関のスポンサー団体であるアルファベットプロジェクトは、核が持ちたくても持てない日本が、核に変わる抑止兵器を探そうというのが設立趣旨のはずだ。
…その下部組織である入江機関に出向き、今や日本は核を放棄したと言うのだから、……入江機関に対して今後、向い風が吹き、しかもそれが強くて冷たいものになるのは明白だった。
あの雷雨の日で終わったはずの、サイコロの1が、再び私に、その出目を見せるようになりつつある…。
………サイコロの目程度で挫けるものか…。
神々の弄ぶサイコロ如きに、私の意思の力が負けてたまるか…。
「よって、現在、時代に即した形になるよう、アルファベットプロジェクトの見直しを進めています。新生アルファベットプロジェクトは、国際的にも世論的にも理解の得られない軍事的見地からではなく、国際交流と経済発展の2軸からなる平和外交の見地から日本の地位向上を模索していくことになるでしょう。」
…日本の政財界に絶大な影響力を持つ黒幕たちは皆、戦前の生まれ。戦前日本回帰が念願だ。
新型爆弾で負けたから、それを研究すれば今度こそ勝てるという発想自体が、すでに戦争の亡霊なのだ。
……いや、そんなことは誰でも思ってた。
だが、大恩ある長老たちが気炎を上げるそれに、誰も意見することができなかっただけだ。
いずれ古き世代は老いて去り、新しい世代が長老と呼ばれるようになる。…
小泉のおじいちゃんはその古い世代の、最後の砦だったということなのだろう。
その死をきっかけに、黒幕たちの世代交代が行なわれるというだけの話だ。
表だって批判できなかったものが、次々と批判され見直されるようになっている。
アルファベットプロジェクトは、一部の人間により私物化された諮問機関との指摘が当初からあり、省庁の予算を不正に吸い出しているとの批判が尽きなかった。
そうして、古い世代の利権を奪い、
「よって、アルファベットに関わる全てのプロジェクトで今後、大幅な予算の見直しが図られていくことになります。これはもちろん、入江機関も例外ではありません。どうかご了解をいただけますよう、よろしくお願いいたします。」
「…………わかりました。私たちもスポンサーあっての研究です。どうかよろしくお願いいたします。」
入江が儀礼的な返事をするが、戸惑いは隠せないようだった。
入江機関には最高の機材と最高の人材が当てられている。
はっきり言えば、金食い虫の研究だ。
………雛見沢症候群に興味のない人間から見れば、気持ち悪い寄生虫の研究に、なぜこんな莫大な予算を投じるのか理解できないだろう。
だが、予算の引き締めならまだ何とかなる。
…これまでの予算が潤沢過ぎたのだ。
それが適正な額に戻されるだけ。
………確かに痛いことだが、まだ何とか耐え凌げる。
…そう思っていた。………だが、耐え凌げる程度ならば、サイコロの1とは言えない。
……その意味においても、
「…でありまして、この4月に新体制の理事会が発足し、全プロジェクトに対する新方針が示されました。これにつきましてはお配りします資料をご覧ください。」
時計回りに資料が回ってくる。
…資料の内容について進行役がのんびりと読み始めるが、私はそれよりも早く読み進み、この資料がどのような暴言を言おうとしているのかを一秒でも早く知ろうとしていた…。
「入江機関はこれまで、先進的な研究において数々の目覚しい成果を挙げられ、未知の奇病であった雛見沢症候群の全貌解明、そして治療薬の開発を成し遂げました。理事会でもこの成果は大変に高く評価しています。これも全て、入江所長以下、入江機関全職員の弛みない努力によるものと思っております。」
「いえ、…恐縮です。」
褒め言葉のはずだが、私も入江も緊張は抜けない。
…物事の伝え方は、本題の前に逆の方向へ持ち上げるのが常套手段だからだ。
良い話だったら、先に悪い話をして後の話の良さを引き立てる。…悪い話でも同じだ。
「入江機関の研究目的は2つありました。奇病研究と治療法の確立。そして軍事的運用の模索です。新生理事会はこの後者の、軍事的運用の模索については即時の中止を決定しました。生物兵器の研究開発が日本国内で行なわれていた事実と痕跡は、今後の日本にとってむしろアキレス腱になりかねません。入江機関は直ちに、これに関わる全ての研究を中止し、一切を破棄してください。」
「わかりました。ご指示に従います。」
入江は即答する。
治療には積極的だが、その他については極めて消極的だった入江にとって、軍事的運用の研究など、元から何の興味もなかったことだ。
渡りに船とばかりに、それを了解した。
もちろん、これは私にとってはとても歯痒いことだ。
なぜなら、入江機関の研究目標を、雛見沢症候群の治療のためのみに限定しかねないからだ。
…私にとって治療の研究など、全容を暴く過程での副産物に過ぎないのだから。
「また、入江機関につきましては、最長3年以内を目処に、研究の収束を図ってまいります。予算もそれに合わせ、段階的に縮小する方針です。」
「ちょ、ちょっと待ってください…! 近年ようやく雛見沢症候群の全貌がわかり、今まさに治療法の研究を進めているところです。確かに研究は日々、進んでおりますが、3年という短い期間で確実に完成させられることをお約束はできません…!」
「理事会では、入江機関はすでに治療薬について充分な研究を完成させているという認識です。すでに入江機関は治療薬C117を完成させ、その臨床データを多数、」
「いえ、完成なんてとんでもない…! まだまだ試薬の域を出ず、村人全員を治療できる目処はまったく立っていません! このような段階で、研究終了ありきでの議論はまったくにもって無謀としか言い様がありません…!」
さすがに、これには入江も反対してくれた。
そのお陰で、私が騒ぎ立てずに済む。
……もしも入江が反対していなかったら、私は金切り声を上げて反論していたに違いない。
「それでは、入江機関には現時点では、感染者全員を治療し、雛見沢症候群を撲滅することは不可能だということですね?」
「そうです。もちろん村人全員の治療と雛見沢症候群の撲滅は将来的には不可能なことではありませんし、私もそれを最大の目標としています。ただ、それには充分な時間が必要で、そのためには無論、予算も必要です。私たちは調べ、実践し、確立する仕事をしています。設計図に従って物を作り、期間があれば必ず決まった成果が出せる仕事とは事情が違います。どうかそこを誤解なさらないようにしていただきたいです。」
意外に、入江も言うべき時は言う。
そして、言っている内容は至極もっともなことだ。
研究は、カネと時間があれば、必ず成果が挙げられるというものではない。
…ただ、入江の言うこと全てが承服できるわけではない。
……入江は、予算と期間については反論しているものの、研究方針が雛見沢症候群の治療のみに限定されることについてはほぼ納得している。
………それでは駄目だ。神秘を解き明かせない。雛見沢症候群の発見が、祖父の偉業にならない…!
「なるほど、入江所長の仰ることもごもっともと思います。私どもにとっての最大の目的は、軍事目的の研究が行なわれていたことの完全な破棄です。よって、雛見沢症候群という奇病が研究されていた痕跡と、そもそも存在していた事実についても隠蔽すべきであると考えます。最終的に、雛見沢症候群が世間に知られることなく、撲滅されるならば、そのための期間と予算は必要不可欠なものでしょう。…それについては、今後、協議を重ねていくということでよろしいでしょうか?」
「はい。異存ありません。」
「では入江機関は、できるだけ早急に、雛見沢症候群撲滅を秘密裏に行なえるプランと予算案を作成、提出してください。極力、ご趣旨を汲み取れるよう努力します。」
「わかりました。早急に提出いたします。」
「誤解ないようにしていただきたいのは、私どもはあくまでも研究を直ちに中断させようというのではなく、円満な形で研究を終了させようということです。この違いをご理解ください。」
「えぇ、もちろん理解しております。」
……そんなやり取りがされている間、…私は彼らが口にしたある一言に呆然としていた。
雛見沢症候群を、秘密裏に撲滅する。
それはつまり、雛見沢症候群をなかったことにするというのと同じだ。
…それでは、祖父の偉業が讃えられないじゃないか…………。
書類の擦れる音と議事の進行の声だけが聞こえる会議室内で、…私は時計が秒を刻む音だけを耳に入れながら、手の平に滲む汗を、ただぐっと握り締めていた……。
◆失意(解除条件:サイコロの1)
※小泉先生の死が必要です。
「……今日はこれくらいにしようか。気が乗らないみたいだからね。」
「え? ……あら、そんなことはないのよ。そう見えたならごめんなさいね。」
さっきから鷹野さんは、ファインダーを覗いてはいるが、シャッターを切っている様子はまったくない。
僕に付き合ってくれているだけで、とても野鳥撮影などに興じる気分ではないらしい…。
鷹野さんは、先日の新理事会による方針転換以来、気を落としているようだった。
…無理もない。そもそも入江機関は彼女が作った。
雛見沢症候群の研究に生涯を捧げるために作ったものだ。
それを否定され、数年以内に研究を畳むよう求められては、気落ちするのも無理はない…。
しかも、残された期間を精一杯研究に使えるわけじゃない。
予算は段階的に削減され、最後には研究どころか、残務整理しかできなくなるだろう。
……彼女は、故高野先生の孫娘だという。
…そして、祖父の果たせなかった研究を自分が完成させようと意気込んで今日までやって来た。
しかも、今日までむしろ順調だった分だけ、…突然の風向きの変化に衝撃を隠せないに違いない…。
黒幕たちの政変は相当のレベルらしい。
新生理事会は総入れ替えになり、かつての小泉派の息の掛かった人間や企画には見せしめ的な人事が横行しているとも聞く。
また、一気に変わった風向きは、もう当分変わりそうもない。
……小泉派が再び返り咲く望みは薄く、入江機関がどう訴えようとも、かつての支援を期待するのは不可能だった。
「……もう、どうにもならないのかしら。」
鷹野さんが独り言のように呟いた。
……それは悲しいことだが、…その通り。どうにもならないことなのだ…。
「…………最初、理事会では即時研究を中止という話も出たんだ。…それを、何とか納得させて数年間で段階的に終了というところまで勝ち取ってくれたんだよ。……入江機関発足で僕たちを世話してくれた人たちがね。」
「……くす。…なるほど。一見、最悪と思えるこの状況も、それでも影で誰かが勝ち取ったぎりぎりの成果なのね…。」
「それで勝ち取った期間が、…せいぜい3年なんだ。僕も一応努力はしたんだよ。鷹野さんが今日までに作った資料を理事会に説明し、とても重要な研究であることをアピールしたつもりなんだけど…。」
「……それでも、3年でおしまいなのね。」
鷹野さんには、僕が新しい理事たちにどれだけの苦労をして説明をしたか、わからないかもしれない。
…今の言葉には、何年勝ち取ろうと終わらせられることに変わりはないという響きがあったから。
…彼女の期待に応えられず、失望させてしまっているのがわかり、
「僕にできることは、…せめて研究が畳まれるまでの数年間を、心残りがないよう研究できるだけの予算を付けられるよう根回ししてあげることだけだ…。…………ごめん。こんな程度のことしかできなくて。」
「いいのよ。それがジロウさんにできる精一杯なら、…それでとても嬉しいもの。」
……彼女の言葉が少し、痛い。
…もう少し角を丸めてもらいたかったが、傷心の彼女にそれを期待するのは、男としてみっともない。
…こういう時こそ、彼女の痛みをわかってやらなければならないのだから。
それに、亡くなった小泉先生のことを、彼女がおじいちゃんと呼び親しんでいたことも知っている。
彼女にとって、小泉先生の死は、単なる政変の勃発や風向きの変化だけじゃない。
……自分を見守ってくれていた保護者を失った悲しさもあるはずなのだ。
彼女は、どう背伸びして悪ぶって見せたところで、
それが、雛見沢症候群に魅せられ、自分の力以上の力を得なければ研究が続けられなくなった。
……そこに手を差し伸べたのが、…本来、彼女が交わってはいけなかった、裏の世界だったのだ。
そんな世界に、今やたったひとり置き去りにされ、気丈を装っている彼女…。
鷹野さんは僕のことを、きっと頼りない男だと思っているだろう。
…実際、僕は彼女の期待に応えられるような器じゃないし、
せめてできるのは、……最後まで彼女の味方でいてあげたいという誠意だけだ。
彼女には行動力がある分、…追い詰められた時、どういう行動に出るのかわからないところがある。
……彼女に限ってまさか、と思いたいところだが、……最後の最後に何をするかわからない不安はあった。
その最後の最後の時、それに踏み切る前に、せめて僕が心の支えになれればいいのだが……。
……それだけの信用を勝ち取れていない、自分の不甲斐なさが情けなかった…。
男として、彼女に頼ってもらいたいという気持ちは、…もちろんある。
でも、そうじゃない。……たったひとりで、こんな世界に放り出されてしまった彼女に、せめて誰か味方がいなくちゃいけないんだ。
そして、それを知っているのが僕ひとりしかいないなら、
彼女が決して助けを求めない性分であることを、僕は今日までによく知っている。
…例え、余計なお節介だと疎まれても、近くに居てあげる人がいなくちゃ駄目なんだと、わかってる。
その任に僕が相応しいとは思わない。
…きっと僕より相応しい、頼りがいのある人間はたくさんいると思う。
でも、だからといって、その誰かが現れるまで、彼女をひとりぼっちにしていていいということはないんだ…。
「……鷹野さん。僕は全然頼りがいもないし、みっともない男かもしれないけど…。」
「ん? 何、突然。どうしたのジロウさん。」
「それでも、頼ってもらえたら、きっと力になれることもあると思うんだ。だから、」
「ありがとう。でも私、しゃべるだけでも心が軽くなるっていうの、あまり信じてないの。ごめんなさいね。気にしてもらえるだけでも、とても嬉しいわよ。」
「……そ、そうかい。ならいいんだ。…僕はずっと味方だから、それだけは信じていてほしいな。」
「もちろん信じてるわ。……理事会をうまく説得できる方法があったら、ぜひ、教えてね。」
「うん…。僕なりにも努力してみるよ。」
なぜだろう。
……彼女の方がずっとしっかりしていて、僕の助けなど何の役にも立たないのはわかっているのに。
……今の彼女には助けや支えが必要な気がする。
…普段の気丈な彼女と一見、何も変わらないのに、
だって、ファインダーは心を覗く窓でもあるのだから。
…そんなことを言うと、また柄にもないと言われるので、口にしない。
とにかく。…今ほど、彼女に支えが必要だと思うことはなかった…。
◆デジャヴ(解除条件:サイコロの1)
※治療薬C117の完成が必要です。
「やぁ、中川くん! ずいぶんの久方ぶりになるね。最近はやってるのかい? アレ。わっはははははは。」
「いえいえ、もうさっぱりです。歳は取りたくないもんですなぁ。」
「クレイやる時は集中してやらないとダメだよ。あんまり間を空けすぎると勘が鈍っちゃって意味ない意味ない!」
「先生、ご紹介します。鷹野三佐です。」
「初めまして。本日はお忙しい中、お時間をお割きくださいまして、ありがとうございます。」
「あぁ、別に君のために時間を割いたわけじゃない。うまい生ウニが食わせてもらえるって話でねぇ! ウニはいいんだよ君、ビタミンAが豊富でね、お肌に特にいいんだとか。女性は大好きでしょ、ウニ! わっはははははは!」
ウニにビタミンAが豊富なのは認めるが、それでもほうれん草なんかに比べたら騒ぐほどではない。
……いや、そんなことはどうでもいいか。
…何となく不快そうな男だったので、揚げ足が取りたくなっただけだ。
今日の男たちは、入江機関の予算を握っている、アルファベットプロジェクトの理事。
もしくはその理事に意見できる立場の人間たち。
…早い話が、入江機関の新しい飼い主たちだ。
……だが、それ以上に、小泉のおじいちゃんほどではないにしても、各界の重鎮たちや黒幕たちでもある。
粗相のないよう気をつけなくてはならない…。
そんな相手だから、私がごときが彼らを呼びつけることなどできるはずもない。
かつての小泉派のツテを使って、何とかこの機会を設けてもらったのだった。
かつて、何から何まで私の思い通りになるよう、尽力してくれた小泉のおじいちゃんはもういない。
……ここからは、本当の意味で私ひとりで切り拓いていかなくてはならないのだ。
だが、今日とて私の独り舞台ではない。
今日の場を設けてくれた人たちの顔を潰すことはできないので、私の出番が与えられるまで、じっとお酌して待っているしかない。
今日の私の最大の目的は、雛見沢症候群がどれだけ優れた研究対象であることかを説明し、研究の無期延長を求めるためだ。
彼らはカネのことしか見えていないから、雛見沢症候群がどれだけのポテンシャルを秘めるかわかっていない。
それだけの高額な研究費を費やすべきものだとわかっていない。
この研究は単なる未知の寄生虫の存在だけに限らず、さらに人類学の常識すら覆しかねない。
ノーベル賞だって讃えきれないほどのものなのだ。
……それを無学な彼らに説明するのは難しいかもしれないが、やらなければならない。
そのために、素人を煙に巻くことがないよう、わかりやすい資料を今日まで相当の時間をかけて作り上げてきた。
……私たちは無知との接触を嫌うため、時にわざと煙に巻く資料を作ることがあるが、今回はそうではいけない。
彼らを見下さず、真の意味で理解を求めなくてはいけないのだから。
そのために、わかりやすく作った資料は相当な量になってしまった。
…本当は、こんなのんびりと懐石料理を摘んでいる暇も惜しい。
早く本題に入って、彼らに理解できるよう懇切丁寧に説明したい。
……だが、慌てる乞食はもらいが少ないという諺もある。…今はじっと伏して待つしかない。
「うん。正直ねぇ、これまでのアルファベットはあまりよくないと思うのです。結局こいつは、未だ頭ん中が大東亜戦争な年寄りどものね、お砂場みたいなもんだったんですな。年寄りどもが自分のじゃないカネで、大日本帝国復興の夢を描くお砂場です。そんな年寄りどもの妄想のために、一体どれだけの公金が垂れ流されたやら!」
「聞いた話じゃ、奥野先生辺りが検察を突っついて、旧理事会を横領で追わせてるらしいですなぁ。」
「わっははははははは。年寄りたちをヨイショしてウマイ汁を吸っていた連中の末路ですな。もっとも、表沙汰にゃ出来んでしょうから、別件で引責、左遷といった形になるんでしょうが。…いやはや、これも戦前の亡霊をずっと野放しにしていた日本のツケですな! いやぁ、この焼きウニの汁もたまらない! うっはははははは!」
「これは手厳しい…。そんな中で先生にこんなお願いをするのは非常〜に何ですが。ひとつ、お時間を頂戴できればと思いまして…。」
「えっと、入江機関さんでしたっけ? 確か、長野だか岐阜の方で風土病の研究をされてるんでしたなぁ。えっと、どういうことになってましたっけ?」
「理事会の決定で、軍事転用研究が中止に。あと、研究そのものも三年以内に段階的終了に決定しています。…あ、いえ、これは継続協議中でした。まぁその、いずれにしましても、数年以内に閉鎖になる予定です。」
「あぁあぁ! 思い出した思い出した。入江機関さんは旧理事会でも評判が悪かったみたいですなぁ。何しろ莫大な予算をほとんど無審査で吸い取ってましたからねぇ。某大先生がどういうわけかこのプロジェクトをやたら後押しされてたみたいでしてね。その絡みもあって、結局、誰も文句が言えず放置されてきたってのが実際のようです。……まぁでもなぁ! 某大先生は女癖が悪かったから、それもあったのかもしれませんなぁ、わっははははははは!」
私が小泉のおじいちゃんを体を使って籠絡したとでも言いたいのか。
…私たち二人に対する侮辱も同然だった。
……だが、それをぐっと堪える。この程度のことで表情に出してはいけない。
「……それで本日は、当機関の研究内容について説明させていただき、当機関に対する理事会の決定について、どうかご再考をお願いしたいと思いまして、お時間を頂戴させていただきました。本日はこのような場へご多忙な中、お越しいただきましたことを深く御礼申し上げます…。」
「まぁ、タダでウニが出て来るわけはないってことですな! わっはははははは!」
私は、雛見沢症候群の存在が、どれだけ重要な意味を持つかを性急にならないよう注意しながら説明した。
雛見沢症候群のポテンシャルは、軍事転用などという瑣末なレベルに囚われず、もっともっと重要な意味を持つということ。
…イデオロギーや宗教などすらも説明しかねないこと。
そもそもの人類の定義すらも揺るがしかねないということを。時間をかけてゆっくりと説明した。
それらの全てが、この品のない男たちに伝わった自信はないが、理解してくれるならば何割でも構わない。
…雛見沢症候群がどれだけ偉大な発見なのかが理解してもらえればいいのだ…。
「ありがとう三佐。…………ふぅむ、なるほど。……ふぅむ。」
「ちょっと検討をしたいので、三佐には一度下がってもらってよろしいですかな?」
「…はい。それでは失礼させていただきます。」
当事者の前では議論できないのは当然だろう。
…資料は全て預けた。後は彼らがそれを好意的に汲み取ってくれることを期待するだけだ。
私は退室して襖を閉めた。……隣に控え用の部屋を取ってあるのでそちらへ行く。
が、…足を止める。……本当はマナー違反なのだが、襖越しにそっと耳を澄ました…。
「こりゃあ…、わはははは、何と言いますか。前理事の皆さんも気の毒としか言い様がありませんなぁ。」
「…いや、はははは。小泉先生がですね、非常に強く推されていまして…。」
「小泉先生には、××製薬の初代顧問に就任された時に一度お会いし、とても聡明な方だなぁという印象を強く持っていたのですが、
「人間、歳には勝てないということですな! 人間、引き際が肝心だと思い知らされますよ。」
「ただですね、雛見沢症候群という非常に珍しい病気があるのは事実でございまして。決して全てが全て妄想というわけではありませんでして…。」
「入江機関はすでに病気の解明と治療薬の開発に成功しているというじゃありませんか。それで充分ですよ。」
「現代日本にとって、周辺諸国を過敏にさせる件については厳に慎むべきです。中でも軍事分野はもっとも敏感と言えるでしょう。少なくとも、数年間にわたり軍事目的の研究がされていた事実は直ちに抹消しなくてはなりません。」
「それは軍事研究の中止とは別に?」
「そうです。雛見沢症候群は生物兵器開発のための研究という事実は、直ちに研究を中止したとしても残ります。雛見沢症候群を、目的は何であれ研究した事実は厳重に隠蔽されなければなりません。…できれば、雛見沢症候群そのものがなくなってしまうのが好ましい。」
「ですな。病気が残れば、やがては関心を持つものが現れ、せっかく埋めた穴をわざわざ掘り返す輩が現れないとも限りません。理事会の決定通り、入江機関は病気を撲滅させ次第、研究の痕跡を全て消した上で解散させるのが良いでしょう。」
「ふむ。やはりそういう結論に行き着きますな。ノーベル賞が取れるかどうかが問題ではなく、戦後日本にとって無用な研究だということです。」
「そもそも、大昔から存在し、特に異常もなくやってこれたわけでしょう。藪を突っつく研究なのではと当初から思っていました。」
「同感ですな。雛見沢症候群という病気の存在自体は疑わないが、
「私も資料を読みながら、ユニークな発想をする人だなぁと思っておりました。第一、寄生虫で人の思想が染まるなんて、聞いたことがない。そりゃいくらなんでも、酷すぎる。」
「宗教もそれで説明できるなら、お釈迦様もキリストもみんなその、何でしたっけ、女王感染者ということになってしまう。そんなこと世界に発表したら、世界中からとんでもないバッシングに曝される。」
「今時の宗教は怖いですからなぁ。わっはっはっは。」
「動物の脳に寄生する寄生虫がいるなら、たまには人間の脳に寄生する寄生虫がいてもいいとは思う。しかし、その寄生虫が思想や人格までもコントロールする可能性なんてのは、わっははははは! さすがにこりゃちょっとユニーク過ぎます。」
……襖の隙間からそれを覗いていた私は、……不思議な既視感に囚われていた。
初めて経験することのはずなのに、…初めてじゃない気がする。
よくわからないけれど、その思い出はとても悲しくて、
気付けば、…襖の向こうはいつの間にか畳みの部屋じゃなく、
埃の臭いと、何かの薬品の揮発した臭いの混じった、へんてこだけど、とても居心地のいいあの空気が漏れ出してくるあの部屋に。
そこには、…………本当に懐かしい祖父の姿が。
心を込めて書いた論文を扱き下ろされ、…涙を見せることも許されなかった、祖父の姿が。
それは幻なんかじゃない。
……だって、今日、彼らに託した資料の中には、祖父が書いた論文の引用がたくさん含まれている。
…だから、そこに祖父がいて、彼らに説明してくれていたとしても何の不思議もなかった。
…そして私は、祖父の懐かしい姿に涙すると共に、
確かに一度あった光景。
そして一度で終わった光景のはず…。
なのに、なぜか同じ光景が再び目の前で繰り返されていて…。
私は現実と幻が重なり合う、その奇妙な世界を襖越しに覗き、呆然としているしかない。
「あの三佐もちょいとおかしいし、こんな世迷言を信じた小泉先生もおかしいが、…やはりこの第一発見者の論文が一番おかしいですな。」
「期待と妄想が入り混じっていて、これは論文というより創作の次元ですな。というか、これはこのままどこかの出版社に持ち込んで本にした方が受けると思いますよ。」
「確かに確かに! 私の友人に出版社の社長やってるのが居てね。きっと面白がって読んでくれると思いますよ。わはははははは!」
「笑い事ではありませんぞ、皆様方。このとんでもない研究がまかり通って、巨額の予算が数年間にもわたって投じられていたのですからな。…特に酷いのは、ハザード時に村をガス殺するための装備を用意した、という点です。これは絶対に国民に知られてはならないことです。」
「計画が存在しただけでも恐ろしいのに、実際に実行可能な装備が準備されているというのは国外は愚か、国内世論も敵に回すことになるだろうねぇ! しかも、そのガス殺のための装備の維持費がすごいことになってるじゃないか…!」
「そんなの、本当に維持費にしてるわけないじゃないですか。そういう名目にしてトンネルしてる架空プロジェクトでしょ、どうせ。大体、何でしたっけ? 少女が1人死ぬだけで村人が一斉に発狂する病気なんてあなた、どこの漫画の話ですか。」
「まったくまったく! こんな子供騙しを鵜呑みにして巨額の予算を垂れ流すとは、つくづくイカンと思いますなぁ! こんな資料を真に受ける連中がいるというんだから、実に馬鹿馬鹿しいことです!」
そう言いながら、大袈裟なジェスチャーをしながら乱暴に資料を置く。
……置いたというよりは、叩き付けたというのが正解かもしれない。
だって、資料の束が綺麗に置かれず、周りに舞うように散ったから。
「ですよなぁ、わははははは! あ、ちょいと失礼。お手洗いに!」
そう言って立ち上がった男が、
それは、畳の上の資料ではなく、
そこには……、胸が張り裂けんばかりの悲しみで満たされた祖父がいた。なのに、それを表情に出せない祖父がいた。
祖父の表情は、変わったようには見えなかった。
……でも、…私には歪んで見えた。祖父の背負う書斎の壁が、ぐにゃりと悲しく歪むのが確かに見えた。
「……………………ッ!!!」
私は飛び出していた。
…そして老紳士の足に組み付く。彼が憎いんじゃない。
いや、憎いか憎くないかと言われたらもちろん憎いのだが…、そんなことじゃない、そんなことじゃない。
祖父の論文を踏みつける足が許せなかったのだ。
「踏まないで…!! 踏まないで…ッ!! おじいちゃんが頑張って書いたんだから、…足で踏んだりしないで…ッ!!」
「……っと、……ぅわ、……失礼………。」
私は未だ踏みにじり続ける、その足を、散らばった紙面から退かしたかった。
…でも、それは根が生えたように頑丈で、私ごときが押したり引いたりするだけでは決して退こうとはしなかった。
だからその足にしがみ付いて、懇願した。
足の裏から踏まれた論文を引き抜こうとして引っ張った。でも、足が退かせない、論文が引き抜けない…。
「踏まないでぇ……、
シンと静まり返った部屋には、私のすすり泣く声だけが響き渡っていた。…あの時と同じに…。
◆終末への誘い(解除条件:サイコロの1)
※生ウニにビタミンAが必要です。
……祖父の論文を穢された。
雛見沢症候群の病原体という、明白な証拠まで見つけているのに、…なぜその生態までを信じることができないのか。
…そんなの聞いたことがない?
想像もつかない?
そんな馬鹿なこと、あるわけがない…?
そんなの聞いてない…。
凡人どもの理解の限界なんかどうでもいい…。
入江機関が、今日まで立証してきた祖父の論文の真実を、どうして誰も信じてくれないのか。
そして、どうして人間という存在を特別なものだと思い込めるのか。
人間なんて、単なる動物の内の一種類じゃないか。
そして、宿主を操る寄生虫がいくつも確認されていながら、人間を宿主にする寄生虫だけは存在しないと、どうして断言できるのか。
……いや、そうじゃないそうじゃない。そんなわけじゃない。
だって、今までずっと、祖父の論文をみんな信じてくれていたじゃないか…。
皆、祖父の論文に感銘を受けたからこそ、厚生省や防衛庁が協力を申し出てくれたんじゃないか。
……それが急に手の平を返したように冷たくなって。
つまりそれは、…全部、小泉のおじいちゃんの後ろ盾のお陰だったということで。
…じゃあつまり、…誰も祖父の論文なんか真剣に読んでなかったということなのか。
小泉のおじいちゃんのご機嫌取りで、論文を評価してみせるふりをしただけなのか。
私の今日までの積み重ねは一体何だったのか…。
私は今日まで、何かを成し遂げたような気がして、一体何を成し遂げていたというのか。
…もう、何が何やらわからなくて、私は悲しみに暮れるしかない。
考えれば考えるほど、私の人生が何だったのか、わからなくなる。
鷹野、
……だとしたなら、私は何も成していない。
おじいちゃんと共に3を数え、その続きの4を数えるなんておこがましいにもほどがある…。
……嫌だ嫌だ…。
思考する余地をわずかでも残せば、そこに自己や人生への批判が入り込む…。
私は、心の隙間が開きそうになる度にアルコールを加えては、それをわずかに埋めるのだった。
…人間の思想や思考を支配する余地のある存在の予見がそんなにもおかしいのか。
確かに雛見沢症候群自体が原因でイデオロギーが生まれてるわけじゃない。
せいぜい患者が錯乱するのが関の山さ。そこから社会主義やら資本主義やらが生まれてるわけじゃない。
祖父が生きた時代はイデオロギーを抜きには世界を語れない時代だった。
そんな時代に生まれた論文だから、多少、誇大したところや偏ったことがあることは、百歩譲って認めたとしても、それでもその先見性を否定する理由にはならない。
……そんな馬鹿なことがあるものかの一言で片付けられていいわけないのだ。
祖父は、雛見沢症候群研究の初期から、女王感染者の存在とその重要性、危険性を予見し続けてきた。
だが、女王感染者が死ねば感染コロニーが大崩壊を起こすという仮説は、立証不能なパンドラの箱なのだ。
古手梨花が死んだ後にしか確認できず、そして死んだ時にはもう手遅れなのだから。
…しかし、古手梨花が女王感染者という特殊な存在であるのは客観的事実として間違いないし、彼女がその他の一般感染者に対し、何か特殊な影響を与えていることも数々の実験から明らかになっている。
彼女の死は村全体に崩壊を引き起こす引き金になる。
……それは絶対に間違いはないのだ…!!
だっておじいちゃんがそう予見した、そう書いた!
なのにそれを、漫画のような話だなんて、あんまりに酷い…!
その最悪の危険を回避するために彼女の保護や、万一の事態に備えた準備の数々を、予算をトンネルするための架空プロジェクト呼ばわりするなんて…、そんなのあんまりに……。
私がやっていることは、祖父がやろうとしていたことの継承なのだ。
だから私の研究を侮辱することは祖父を侮辱していることと同じなのだ。
祖父は研究に当たって、一番最初にやることは、女王感染者の保護だと論文に残してる。
だからそれは事実で正しくてもっとも大切なことのはずなのに、それを一番馬鹿にされた…!!
思い出せば出すほどに、屈辱的な言葉の数々が蘇る。
……その声は、まだ聞こえるような気がして、私は両耳を塞ぎたい衝動に抗うことができなかった…。
………きっと、理事たちは私のことをおかしいと思っているだろう。
私は入江機関の存続を訴えるつもりだったのに、……まったくの逆効果。
理事たちはますますに雛見沢症候群を滑稽なものだと思い、より厳しく研究の終了を迫ってくるだろう。
そうなれば、私はまた個人の研究に戻る。
それはつまり、祖父と同じこと。
…個人の情熱では、研究できることなど限界があるのだ。
……いや、それどころか、個人の研究に戻らせてもらえるかも怪しい。
入江機関が解散する時には、関わった全業務への終世の秘匿義務が生じる。
私はそれを記した承諾書にサインをしている。
…それは口約束のレベルではなく、
……仮にそれがなかったとしても。
入江機関は今後数年以内に雛見沢症候群を撲滅し、一切の痕跡を研究結果も含めて埋葬してしまうという。
これは研究と治療ではない。…初めから何もなかったことにするという隠蔽でしかない。
…私は、祖父の研究を受け継ぎ完成させると意気込みながら、……実際は全然の逆。
…むしろ、祖父が大切に温めてきた研究を、この世から抹殺してしまいかねないことに手を貸してしまっているのだ。
もう治療薬は完成している。
入江は卑劣にも、その他の研究には消極的なくせに、治療薬の研究にだけは私に勝るとも劣らない情熱を向けている。
…しかも、…悔しくも彼の実績と才能は充分なのだ。
…彼はきっと、新生理事会の要求通りに、三ヵ年で雛見沢症候群を撲滅する計画を立案してみせるに違いない。
……理事会も、雛見沢症候群を葬るためだけの予算は充分に配当するに違いない。
そして入江は喜んで、雛見沢症候群が存在していた事実までも葬ってしまうだろう。
……理事会の命令を受け、あっさりとH170番台の試薬と研究資料全てを破棄したように…!
私は、入江たちが雛見沢症候群を撲滅するのを、
そして、永遠に発表できず、全てが終わった時、破棄を求められるに違いない論文を書き…。
………それを胸に抱いて、せめて祖父にだけは発表できるよう、身を投げて見せるのか…?
…そんなことをしても祖父は喜ばない。
……それどころか、半生を費やした研究をドブに捨ててしまうような真似をした私に呆れ果てるだろう。
…間違っても、私をその胸で抱きとめてはくれないのだ……。
雛見沢症候群を世間に発表したかった。
偉業だと認めさせたかった。
…祖父の名を歴史に刻み、………神に昇華させたかった。
祖父はその時を待ち、ひたすらに信じ、…眠りについた後もその日を待ち焦がれているというのに……。
……それを、………私が台無しにした…………。
祖父を神にするつもりだった。
私も神になるつもりだった。
…そうすれば、私たちは永遠に一緒で、もうずっとひとりぼっちにならなくて済むと思った。
神になれば、神に試されない。
どんな不幸も訪れないし、突然の列車事故も訪れない。
祖父もいなくならないし、小泉のおじいちゃんもいなくならない。
……もう私は二度とひとりぼっちに戻らなくていいのだ…。
…私はひとりぼっちだ。
私の味方など誰もいない。
私はひとり有頂天になって誰も見ていない舞台で踊っていただけ。
気付けばそこには拍手はなく、あるのはただただ嘲りだけ。
………いや、そもそも私以外の誰かが見ていてくれたのかすら怪しい…。
両親が死に、祖父が死に、そして小泉のおじいちゃんが死に…。私は三度、神にサイコロで弄ばれている。
その度に実力で乗り越えてきたような気がしていたが、実は違う。
……その度に、次の保護者に守ってもらっていただけだったのだ。
そして、今度こそ私を守ってくれる保護者はいなくなってしまった…。
かつて、神に挑み、蹴落とすくらいの勢いで雛見沢へ訪れたあの強気な日々は一体どこへ行ってしまったのか…。
今の私は、神に挑むどころか、弄ばれるだけの負け犬なのだ……。
全てが急激にどうでもよくなる。
……どうでもよくならなければ、悲しみに飲み込まれてしまうから、どうでもよくなるように、私は心をアルコールで浸し続けていく…。
私のすぐ近くに、黒塗りの立派な車が急に停まる。
…その光景が、施設から脱走した時に私を捕らえに来た車と被り、私の酔いは一瞬で引いた。
助手席と運転席から降りてきたのは、黒いスーツにサングラスをした、見るからに怪しそうな男たちだった。
……咄嗟に思う。…きっとこいつらは、私のクライアントの黒幕たちの誰かから遣わされた者だろう。
生物兵器開発という、存在自体が抹消されなくてはならないプロジェクトに関わり、しかもその主要人物であり、その上、正常な精神状態にないと来たら、私を野放しにしておくわけなどない。
…拉致して、コンクリ詰めにでもして私の存在を消してしまうつもりに違いない。…………そう思った。
だからきっと、…彼らは私の両腕を羽交い絞めにでもするようにして、乱暴に車に押し込むつもりだろう。
…そう思い、覚悟を決めていたから、彼らが私に対し丁重に頭を下げた時、ちょっとだけ意外に思った。
「入江機関副所長、鷹野三四三等陸佐でありますね?」
「……普段はね。…今はただの飲んだくれの負け犬よ。」
「お会いしたい方がいらっしゃいます。どうか私たちにご同行いただけないでしょうか。」
「………拒否しても、どうせ無理やり連れて行くつもりなんでしょう?」
どうせ殺されるし、……生きていても、祖父の願いはかなえられない…。私は自嘲気味にそう言った。
すると、車の後部座席に座っていた人物が言った。
「無理にとは申しません。…ですが、きっと三佐のお力になれると思っております。」
私に近い歳だと思う。だが、その若い女性に面識はなかった。
入江機関のことを知っているのだから、クライアントの関係者であることは間違いないだろう。
…まさか、あの若さでクライアント自身ということはありえまい。
……恐らく、姿を現したくないクライアントの何者かが遣わした使いというところなのか。
……どうせ、もう生きていても、祖父を神にできない。私も神になれない。
なら、負け犬などどこでどう殺されたって、…どうでもいいことだ。
私は覚悟を決めて、彼らの勧める後部座席に乗り込んだ。
…それを見届けると、車は高級車独特の滑り出すような快適さで発進する。
しばらくの間、車内は沈黙に包まれていた。
……誘ったのは彼らだ。私から話すようなことは何もない。
「…ご無沙汰しております、と言っても、恐らくご存知ないでしょうが。…鷹野さんとは、小泉先生の本葬の時、すれ違っております。」
「……あら、そうでしたの。…覚えていなくて申し訳ないです。」
あれだけの大勢がいた葬式会場だ。誰の顔も覚えていない。
…しかし、それを挨拶代わりに口にするとはどういうことなのか。
……つまりそれは、…彼女が小泉派であるということ……?
「小泉先生は戦後日本復興のオピニオンリーダーの1人として長く活躍されてきました。今日の平和日本を語る上で、小泉先生の功績に触れずして説明することは難しいでしょう。」
「……………………。」
「戦後の焼け野原から復興する時は、我が国の有志たちも一枚岩でしたが、残念ながら今もそうであるとは言えません。……平和な時代が進み、焼け野原を知らぬ世代が国の中枢に入り始めるにつれ、当初の高貴な志を知る者は次第に減っていってしまいました。………小泉先生は、そんな高貴な同志の最後の長老として、21世紀へ我が国を導いてくださる大黒柱だったのですが。」
「……小泉先生の死後、小泉派は急速に没落。代わって、他の派閥が勢力を伸ばし、色々と大変なことになっている、でしたっけ?」
その辺のことはジロウさんから聞かされていたので知っている。
そして、それは戦国の時代から変わらない。主君や名将が死ねば必ず後継者争いが起こって国が乱れる。
…私たちの国はこの数百年間、何も変わってはいないのだ。
「その通りです。……残念ながら、平和日本は住みよい国造りを実践してきましたが、同時に、発足当時の高貴な志を忘れさせてもしまいました。現在、東京は各派閥が小泉先生の空けた席と利権を巡って争いが絶えない状態です。小泉先生を始め、すでに他界されている復興の功労者たちが知ったら、きっとお嘆きになられるに違いありません。」
「………………それと私に、何の関係が…?」
「あなたは、それの最大の被害者ではありませんか。今日までに、風向きが突然変わるような体験を充分にされていると思いますが…?」
「……………………。」
確かに、小泉先生の肝いりで始められた研究だ。
…それに対するアンチ小泉派の風当たりは確かに冷たく激しい。
…彼らにとっては、研究内容がどうこうであるよりも、小泉先生が残した計画が全て目障りなのかもしれない。
…それはつまり、…研究の内容を純粋に否定したという意味ではない…?
……そう言えば、……祖父の時にもそんなことがあった。
当時の小泉先生が、各界の権威を連れて来てくれた時。
…彼らは事前の評価とは手の平を返したように祖父をなじった。
……その裏には、当時の黒幕の圧力があったと、後に小泉先生に聞かされたじゃないか…。
「雛見沢症候群の研究は、アルファベットプロジェクトで最大のもので、予算、体制その他、プロジェクトの目玉だったと言っても過言ではありません。ゆえに、アルファベットの権益を独占したい連中によって、貴女の研究はそのスケープゴートにされたのです。」
「…………スケープゴート。」
「決して、雛見沢症候群の研究が否定されたという意味ではない、ということです。彼らにとって重要なのは、そのプロジェクトの派閥であり内容ではありません。……本日、鷹野さんに特にお伝えしたかったのはそこでした。」
「……結局、…私は見せしめの羊ということなのね。……私が何の研究をしていようとどうでもいい。…この研究が小泉派のものであったということだけが彼らの関心…。」
「そういうことです。派閥は風向きそのもの。順風な時もあれば逆風となる時もあります。その変わった風向きを取り戻すのは、残念ながら容易なことではありません。」
「私のクライアントたちが敵対的になったのを元に戻すのは容易ではないということ…?」
「そうです。アルファベットプロジェクトは完全に乗っ取られてしまいました。理事は全て変わり、彼らの私欲を肥やすためだけに決定をします。……あなたの捨て身の説明など、始めから彼らには耳を貸す気もないのです。」
…私は、ぎゅっと膝に爪を立て、あの屈辱の日を思い出していた…。
「…………ここで一度、話を折ります。鷹野さんにとっての研究の目的は何ですか?」
「え? ………それは、研究者としての知的な好奇心から…。」
「あなたが祖父と呼び敬愛していた故高野先生との約束、ではないのですか…?」
…ぎょっとする。
そのことを知られると何かの不利益になるかもしれないと小泉先生に言われ、私はそれをクライアントたちに話したことはないはずだ。
……どこでそれを知ったのか。
いや、彼らがそれを知るなら、
「どこでそれを知ったんですか。」
「小泉先生からです。」
「え?!」
「私たちはあなたの敵ではありません。どうかお楽になさってください。私たちは、貴女の本当の力になりたくてやって来たのですから。」
「…………………………………。」
彼女が何者かはわからないが、…私に何かを求めてやって来たのはもう疑いようもない。
…一体、私に何の交渉を求めるつもりなのか。
私と祖父の関係まで知る以上、油断できそうになかった。
「ただ、私たちが貴女の力になるには、貴女に本当のことを話していただかなくてはなりません。つまり、腹を割っていただきたいということです。」
「………仰る意味がわかりません。」
「鷹野さんが雛見沢症候群を研究する、本当の目的は何ですか?」
…祖父の研究を偉業として認めさせ、…神にしてあげること。
「…………………………。」
「故高野先生の研究を世間に認めさせること。……貴女の祖父が心を込めて書き上げた論文を踏みつけて蔑ろにしたことへの復讐、ではありませんか?」
私は、ぎょっとする気持ちを表情に出さないようにするので精一杯だった。
この女は、……私のことをどこまで知っているというのか。
…いや、この女は一体何者…?
どうして私の考えていることが何もかも手に取るようにわかっているのか。
「…………………………………。」
だが、それを口に出して認めることができるはずもない。……それが、体面というものだ…。
だが、この優美に笑う女は、天使の微笑を浮かべながら、
笑う(ワラウ)と嗤う(ワラウ)は意味が違う。
笑うは善意を表すが、…嗤うはまったくの逆を意味する。
この女は、私の心の奥底までを全て読みきり、…その上で私がどこまで素直になれるかを測っているのだ。
私が真実を語るかどうかなどすでに問題ではない。
…それを、打ち明けられるだけの信用を示すことができるかどうかだけを測っているのだ。
「もしも、私の言っていることがまったくの勘違いでしたら、どうかお許しください。お好きな駅までお送りさせます。この近くですと、穀倉駅がいいでしょうか?」
「…………ぇっと、……………………。」
「でも。……………もし、私の言っていることが、あなたの本当の気持ちに少しでも近いのでしたら。……私と貴女は力を貸し合える関係になれると思います。どうですか? 高野三四さん?」
「……………………。」
私は言葉を返せないが、この無言はすでに返答と同じ意味を持つ。
……私はこの女の申し出を、聞きたがっているのだから。
私は今日まで、祖父を神にするという抽象的な表現で自分の目的を曖昧にしてきた。
だが、…私の本当の目的を、彼女がはっきりと教えてくれた。
私の目的は、……祖父の無念に対する復讐だったのだ。
彼らが嘲笑い踏みにじった論文を、奪い合って読ませたい。
そして祖父が残した一言一句を信じさせ、崇めさせたい。
それこそが、私の本当の目的だったのだ…。
そして、…この女は、私が心の中だけで呟いたはずのそれを、口に出して復唱し、それに間違いないかと私に尋ねた。
……私が人間を名乗るなら、…彼女はそれ以上の何かなのか………。
「あなたの不幸は、自分の目的を具体的に理解していなかったことなのです。…だから、いつまでも惰性で研究を続けても至れない。雛見沢症候群の神秘を探る、という抽象的な目的を掲げ、いつまでも達成できず、自らの人生に疑問を抱かざるを得なかったのです。……そうでしょう? ふふふ? そう、それは違う。貴女の真の目的、いや、夢はそんな抽象的なものじゃない。思い浮かべることができますか? それはこういう情景。……この国の中枢を預かる真の頂点たちが、貴女の祖父の論文を読み、その内容に驚きながら一片の疑いもなく信じてくれること。…彼らは、裏側に足跡が残るその論文をうやうやしく読み、その先見性溢れる研究に敬意を示し、恐れおののく。……どう? 想像できましたかしら…?」
…………それは、初めて想像するものだった。
…そして、…それこそが私の夢だったのかもしれない…。
「雛見沢症候群という言葉は、貴女の祖父が作られたのでしょう? …その言葉が、この国の津々浦々にまで響き渡り、……貴女の祖父の生み出した言葉が、永遠に刻まれて残る。」
「永遠に刻まれて、
「そう。それは貴女の祖父が、その偉業が、…永遠の存在に昇華されるということ。………ふふふふふふ? それが、貴女が高野三四として生涯を捧げる夢、……じゃないのかしら…? ふふふふふふふ…?」
祖父の偉業が、永遠に刻まれて、…残る。残る。…永遠に…。
「なのにッ!! その偉業をまったく理解できない豚たちはあなたのその夢を、単なる派閥争いや権益の奪い合いの生贄とし、無残に踏みにじろうとしている! …………貴女の祖父の論文を…
「………………………………ッ…。」
「貴女は悔しい、とても悔しい。貴女が一生懸命作った資料は、そう、貴女のおじいちゃんが一生懸命作った論文と同じもの。それを踏みにじり嘲笑った彼らが許せない。おじいちゃんの偉業を、馬鹿にした豚どもが許せない、そうでしょう? そうじゃないですか? …うぅん、本当はそう。それを心優しい貴女は、人を罵る言葉を知らなくて、考え至らなかっただけ。…………ね?」
「………………………………。」
わけのわからない感情が込み上げてきて、…息が苦しい。
警戒心と安らぎと、信頼感と不信感が入り混じる。
……心臓がいつの間にかばくばくと鳴り、指先は落ち着きなく震える。
なぜ……、安らぎを?
私がこの歳にもなって、自分の言葉で表現できなかった本当の夢を、彼女が教えてくれたから。
そして、私のやり場のない怒りを、彼女が教えてくれたから。
なぜ……、疑いを?
私がこの歳になるまで、誰にも言ったことがなかったはずのそれを、いや、自分自身にすら言ったことがないはずのそれを、彼女が教えてくれたから。
「ねぇ、…三四さん? ……………もし、
「ふふ、どうなさったのかしら…? お具合が悪いのかしら。なら、もうこれ以上お話に付き合わせるのも悪いですわね。最寄の駅へ送りましょう。」
「……ち、…………ちが……………。」
私の口から、小さな声がみっともなく零れる。
……それはまるで、小さい頃にしてしまったいたずらを、隠しきれなくてつい謝ってしまうような、そんな感じ。
「……何か、仰ったかしら? ふふふ?」
…それが聞こえてるはずなのに、………もう一度口にさせようと、女が笑う。
「………違います…。ぐ、具合、…悪くないです…。」
「ふふふふふふ。ならよかったです。話を続けましょう。」
「……私の夢がそうなら、
「貴女の2つの復讐をお手伝いします。1つは貴女の祖父のための復讐。貴女の祖父の論文を嘲笑った者たちに、もう一度うやうやしく手に取らせてやりましょう。彼らが土足で踏みつけたその論文をね。……もう1つは、貴女と祖父の約束であり心の繋がりでもある症候群研究を、派閥争いだけを理由に踏みにじり、研究を彼らの権益のためだけに終わらそうとする理事会への復讐。貴女の目の前で資料を踏みにじり、貴女の人生さえも踏みにじろうとした豚どもへの復讐。」
「…………祖父の論文を手に取らせ、
「こちらも腹を割りますと、もちろん、お手伝いするのは私たちの利害が一致するからです。小泉先生が日本の未来のために立ち上げられたプロジェクトを、先生亡き後に食い物にしようとする輩を放置することはできません。……私たちにもっと力があれば、そのような輩の介入を許しはしないのですが。風向きは変わり、もはやプロジェクトは小泉先生の理想には戻りません。豚どもが私欲を肥やすための豚小屋と成り果てました。…そのようなプロジェクトをこれ以上放置することは、アルファベットプロジェクトの名付け親でもあられる小泉先生も望まれません。プロジェクトは、小泉先生の理想を離れた時点で、畳まれるべきなのです。」
「……………派閥争いの生贄羊を、今度は狼にしようというつもりですか。」
「貴女が今のまま、生涯公開できぬ祖父の論文を胸に隠居されることを選ぶおつもりでしたら、無理にとは申しません。」
私一人は地に堕ちてもいい。
でもせめて、……おじいちゃんだけは…。おじいちゃんの論文だけは……。
「貴女とおじいちゃんの結晶である論文を、永遠のものにはしたくないですか……? ふふ、それはだって、
「…………そうよ…。それが、……私の、生きる目的…。」
「貴女の本当の夢を叶えるチャンスを、私たちがお手伝いします。」
…人生の負け犬であることを認め、……全てから見放されて涙と酒に溺れた夜に、私は天使とも悪魔ともわからぬ何者かの助けを得る…。
それは天の助けか、悪魔の囁きか…。
私は、研究の継続を求めて新理事会と戦った。
でも、…それは全然的外れなことだったのだ。…私の本当の目的とは全然違った。
私の目的は、雛見沢症候群をこれ以上研究することじゃない。
…祖父がした研究を認めさせること。
……そのための手段が、いつの間にか目的にすり替わり、私を勘違いさせていたのだ…。
私の生涯は、祖父の研究を受け継ぐためにあったんじゃない。
……祖父の無念を晴らすために、……復讐するためにあったのだ。
女は言ってる。
祖父の研究を永遠にすると約束してくれてる。
そして、それを嘲笑った奴らへの復讐の機会まで約束してくれてる。
小泉のおじいちゃんが死んだ時、私は神に、再びサイコロで弄ばれたと思っていた。
でも、…私の強い意志が、サイコロなどを超越した力を呼び寄せたのだ。
…だから、この出会いは当然だったのかもしれない。
……おのれ、神め、またしてもサイコロで私を試すようなことを…。
私は小泉のおじいちゃんの死を乗り越える。
そしてきっときっと、祖父を永遠の存在にして、
私は、
◆分譲地下見(解除条件:竜宮レナ+北条叔母撲殺事件)
※竜宮家のお引越しが必要です。
※四年目の祟りが必要です。
……正直、困った。
私、前原伊知郎は今、極めて絶好調に素晴らしく、
この雛見沢へは、別荘地分譲のための見学ツアーでやって来た。
それで不動産屋さんの説明が終わり、皆さん、お時間までどうか散策を楽しまれてください、なんて言われて。
集合の時間までまだ少しあるが、……完全に迷ってしまっている。
田舎とは言え、人里だ。
適当に歩いてれば誰かに会えるだろうし道を聞けるだろう。
焦らない焦らない、
しかし、誰かに会えるだろう、道を聞けるだろうというのは、少し楽観が過ぎたかもしれない。
…だって、さっきから誰にも出会わないのだ。
…私は、都会人特有の無用心さで、実はいつの間にか人里を離れてしまっていて、遭難直前な状態なのでは…。
だから、人の声が聞こえたので、とてもほっとしたのだ。
それは小さな女の子たちが、遊ぶような声。
……子供が遊んでいるような場所なのだから、そこは安全な場所に違いない。私は自然とそこへ足を誘われた。
手入れされていない生え放題のススキの茂みを回りこむと、そこはとても美しい野原だった。
そこには、2人の少女が戯れていた。
無垢な野草の花々が祝福する中で、くるくると踊るように遊ぶ2人は、
どうして、無垢な少女がこうして踊っているだけで、私たちは神々しい気持ちになれるのか。
…それは多分、私たちが罪に塗れて生きているからだ。
生きることは綺麗なだけじゃない。…生きているだけで、必ず罪を被っていくのだ。
だから私たちは、まだ穢れていなかった幼い頃の姿に、幻想的な神々しさを見出す。
生きるために成長を余儀なくされたのに、
「……みー。とか何とか小難しいことを言いながら、変な不審者がボクたちをじっと見ていますのです。」
「あぅあぅあぅ。…梨花、あれは不審者ではありませんのです。」
「…え? ぉわ!! わわわ、もも、申し訳ない! 決して不審者じゃないんだよ。わはははは…!」
「……とか言いながら、ボクのお胸やお足から目が離せないのです。にぱ〜☆」
「みみ、見てないよ見てない! 見てないから駅員さんに突き出すのはやめてー!! この鏡は髪型を直すために使ってて…!!」
「……あはははははは。何言ってるかわかんないのですが、とっても面白いことを言っている気がしますのです。」
「……何と言うか、血は争えないという気がしますです。」
少女たちは、不意に現れた私をさんざんからかうと、やがてそれにも飽き、私が来る前からそうしていたように、再び二人で踊るように遊び始めた。
私は、それ以上、どんな言葉を掛けても無粋になると思い、少女たちをそっとしておくと、切り株に腰を下ろして、そっと様子を見守った。
……彼女たちはいくつくらいだろう。
幼そうな雰囲気ではあるけれど、…圭一といくつかしか違わないかもしれない。
もし、ここに引っ越してくることになったなら、圭一が学校で出会うかもしれない子だ。
学校で出会う子というのはつまり、
…もし、この雛見沢の学校に通っているのが、彼女たちのような子たちばかりなのだとしたら、…………例え、田舎での暮らしがどれだけ困難だったとしても、…今の我が家には引っ越す価値があるのではないか。
……私たちは、駄目な親だった。
圭一のことを何も理解せず、その心の悩みを何も汲み取れずに、最後の最後まで放置してしまったのだ。
教育書によるならば、…どんな悪い子の不良行為だって、最初のそれは家族への何らかのSOSなのだと言う。
行為そのものが何かではなく、その行為を起こすことで、コミュニケーションを得たいという、子供のもっとも原始的なアピールだと言うのだ。
……人は、なまじ言葉が話せてしまうから、…かえってそれを読み取れない。
言葉しか耳にできず、息子が発する心のサインに耳を傾けられない。
圭一は、……自分が全て悪いと思っているだろう。
…もちろん、圭一も悪い。
人は犬猫じゃないんだ。
していいことと悪いことの区別はつけなくてはならない。
…でも、…親である私たちも悪い。
そこまでのことをしなければ、わかってもらえないと思わせてしまった、親としての不甲斐なさが、本当に情けない。
私たちが圭一のことを真に理解し、追い詰めるようなことをしなかったなら、圭一はあのようなことを無意識にすることで、アピールすることはなかったのだから。
だから、あれらの事件は圭一だけが悪いんじゃない。…私たち前原家全員が悪い。
……圭一にそれを説明したかったが、それを理解させるには圭一はまだ幼く、直情的だ。
…今は罪の意識に潰されながら、生きる気力さえ失っている。
母親も同じだ。…自分が成績偏重の教育を強いたため、こんな事件を引き起こしてしまったと自分を責めている。
……それは私もだ。私が子供の教育に無関心だったからこんな事件を引き起こしてしまったのだと、自分を責めている。
その十字架は、怪我をした子に許してもらい、退院した後であっても、私たちの肩から降りることはない。
ならば、十字架に潰れて死んでしまえと言うのが世間の冷たさだろう。
……でも、私たちは生きていく。
罪を反省し、十字架を背負いながらも、生きていく。
この村でなら、私たちはもう一度新しいスタートを切れるのではないだろうか。
…あの戯れる少女たちを見ていて、思う。
圭一に必要な友人たちとは、あのような子たちなのだ。
…塾の話や、模擬試験の結果のことばかりが話題に上るような子たちでは与えられない何かを、きっと圭一に学ばせてくれるに違いない。
さっきの少女たちは、この野原には場違いな立て看板のところでふざけあっていた。
それは分譲地の看板で、今日、私を案内してくれた不動産業者の名前が書かれている。
…ということは、
そんな私の心を再び見透かしたように、少女は言った。
「……ここはいい村なのですよ。きっと、都会にはなかったものがあるのです。」
「そうだね。私もそんな気がするよ。」
「……でも、この村にないものを、きっと、都会のあなたが持ってきてくれる気がするのです。」
「そんなもの、…私たちにあるのかな。」
「ありますのですよ。あぅあぅ。」
「……ボクたちは、この村で何百年間もこうしています。そこには誰も訪れず、何も起こりませんです。…だから、何も起きないし、何も変えられない。」
「何も変わらないのが、この村のいいことじゃないのかい。」
「……何かを変わりたいと思うから、この村に来たのじゃないのですか…?」
「確かに、
「……ボクたちも新しい人を迎えたい。それは例えるなら水の流れ出ぬ沼の堰を破るようなもの。水は出入りがあるからこそ清水となる。流れを得ぬ湖は沼に過ぎない。」
「確かにこの村は、明治のついこの間まで沼の名前がついた村でしたのです。……でも、それが変わり、雛見沢という地名に変わりましたのです。……沼の水は流れず澱む。でも、沢の水は澱まない。」
「……くす。それにね、あなたたちが教えてくれるのよ。堰は破れるものだ、破るものだ、ってね。」
…それは少女たちのナゾナゾ遊びなのだろうか。
私には言っている意味はほとんどわからなかった。
でも、ひとつだけわかるのは、……彼女たち村人は外から来る新しい人間を心待ちしていて、交流を通じて村の新しい歴史を築きたいと願っているということだ。
私はもう一度、少女たちの後にある看板を見る。…この場所を覚えておくために。
…私の心は、もう決まっていた。
「……引っ越してくるのを、待っていますですよ。…前原。」
「ぁーー!! いたいた! お客さんん! こんな遠くまで行っちゃダメですよー!」
突然、遠くより聞こえてきたガラガラ声が、この無垢な時間を終わらせる。
…不動産屋の案内の人だ。
私が戻ってこないので探してくれていたのだろう。
「すみませんすみません…! すっかり道に迷っちゃって…。」
頭を掻きながら謝罪する私。
…後を振り返り、少女たちの姿を探すと、…なぜかもうその姿は見えなくなっていた…。
◆新しい風(解除条件:竜宮レナ+スイカ)
※竜宮家のお引越しが必要です。
※園崎家のスイカが必要です。
「それじゃ、俺はそろそろお暇しますわ。どうもご馳走様でした。」
「えぇんねえぇんね。また来たってぇな。」
「ただいまー! って、あれ、弘叔父さん。お久し振りですー!」
「おう、魅音ちゃん。今、帰りかい。叔父さんは今から送迎だよ。」
「送迎? あぁ、不動産屋さんのお仕事?」
園崎家は雛見沢屈指の大地主だ。
もっともこんな田舎の余った土地だから、荒れるに任せているだけで有効利用しているわけじゃない。
そんな村内の園崎家地所を、最近は分譲地として売りに出していた。
ご先祖様から受け継いだ土地を余所者に切り売りしていいのかという批判も、一応、親族会議では出たが、婆っちゃが、しゃあらしいわぁ! と一喝してそれにて決着。
休耕地のいくつかが更地にされて、分譲地として解放されることになったのだ。
…これに関しては、私も疑問があった。
だって、園崎家は大金持ちだ。
土地も余ってるがお金だって余ってる。
わざわざ土地を切り売りしなければならない理由がない。
いや、それどころか、先祖の土地を余所者に売るなんて話、婆っちゃが言い出すなんて。
それどころかむしろ、血管を浮かせるほどに怒鳴って反対しそうなのに。
「じゃあね、駅前に寄った時はぜひ遊びにおいでよ。麦茶くらいご馳走するから。」
「はい、ありがとうございます。お仕事はどんな感じですか?」
「都会の人が案外、興味を持ってくれたからびっくりだわ! 便利な都会に住みながら、わざわざこんな田舎に別荘が持ちたい小金持ちばっかりだね。」
「やれやれ、物好きなことで!」
「一軒、別荘じゃなくて、引越しで検討されてるお宅があったね。アトリエが持ちたいとか言ってたから、画家さんとかかねぇ?」
「へー! そりゃすごいや!」
「おっと、いけねぇわ! じゃ、叔父さんはバスに戻るわ!」
分譲地の見学ツアーを企画したらしく、それの送迎バスの運転をしてきた、ということらしい。
そろそろ見学や説明が終わる頃合なのだろう。
叔父さんは松の枝をくぐって、ぱたぱたと駆けて行った。
「…ねぇ、聞いていい? 余所者嫌いの婆っちゃがさ、どうしてわざわざ分譲地なんかにしたの?」
「私ゃあ余所者なんか嫌いだし都会者も大嫌いだ。……だが、村にゃ必要なんよ。空気の入れ替えみたいなもんさな。」
「外の人が来ることで、…何か村にいい影響があるということ?」
「ここはいい村だぁね。……今は忙しい世の中だから、一日たりともそったぁしといとくらんがな。昔だったら、十年二十年住んでてもなぁんにも変わらん、変化のない静かな村だったんよ。」
「まぁ、それが田舎ってもんだしねぇ。この村じゃ、昨日と今日と明日に、何の違いもない。……私ゃ退屈だけどねぇ!」
「でも、友達ができたろ。外から竜宮のレナちゃんが引っ越してきて友達になってくれたんだろが。近い歳の友達ができて嬉しい、言うとったがな。」
「うん。予期せぬ友達が突然できるのは楽しいね。」
「レナちゃんが来んとな、魅音、学校が退屈だぁ退屈だぁ言うとったんね。よぅお、覚えとる。くっくっくっく!」
「それが、外から引っ越してくることによる効果だって言いたいわけ?」
「…どんな寒い冬場にかて、たまには換気をせんとな、囲炉裏の悪い空気が溜まって窒息しちまうん。寒くてしんどいのは承知で、窓をがらりと開けることもあるんよ。」
「……外から人を迎えることが、村の換気になる?」
「あぁ、なるん。そして綺麗な空気を入れて、私らみたいな悪い空気はとっとと追い出されるべきなんよ。」
北条家のことを一言でも出せば、婆っちゃは烈火のように怒り出してしまうから言えないが。
……多分、婆っちゃは北条家に対する、いつまでも消えない村八分の気風とか、そういうのを全部総括して言ってると思う。
北条家と大喧嘩をした説明会の時のことを思い出すと、今でも腸が煮えくりかえるが、……それでも、そろそろ鞘に収めた方がいいと思っているのだろう。
もっとも、安易に許すとは言えない難しいお年頃だ。
対外的にはもう勘弁してやるとは言えない。
…………本当は嫌いじゃないくせに、面と向うと邪険にしてしまう、小学生女子なみの感情表現のような気がする。
…人って、歳を取ると、どうやら一周回ってきて、子供に戻るんじゃないだろうか。
それは婆っちゃだけじゃない。村のお年寄りたち全体。
……いや、村に染み付いた悪弊と言うべきか。
それは多分、婆っちゃの例えた、澱んだ悪い空気とそっくりなものだ。
締め切った室内でいくらばたばたと扇いだって、何の意味もない。
窓を開けて、新鮮な空気をたっぷり入れなきゃ、室内の空気は澄まないのだから。
「実際に引っ越してくる人があるかはわからないけど。その人にそこまでを期待しちゃうのは気の毒じゃない? くっくっく!」
「レナちゃんが1人転校してきても魅音は変わるんね。誰が引っ越してきても、きっと村は変わる。……願わくば、それが元気な若者で、わしら年寄り連中が安心して村を任せられるくらい、大暴れしてくれよると嬉しいんだが。それこそ年寄り連中が、もうやっとられんね、あの世に退散するわー言うくらいにな。」
「くっくっく…、何それ。死んだおじいちゃんの話?」
「あほんたれ、誰が爺さまの話をしたんよ…!! ほれ、お手伝いさん言って、縁側のお茶を片付けさせてくれな。」
「へいへい。了解了解。」
「……………魅音。」
「ん?」
「…………北条悟史が消えた日。…お前、私に詰め寄ったろが。」
「…あぁ、そんなこともしたね。…あはは。」
「私ゃな。…あれで目が覚めたんよ。……北条家がどうのこうの言う問題は、年寄り連中が死ねば時間が解決してくれるなんてんじゃあかんね。……そんなの待たず、早ぅ解決せんとなあかん。」
「でも、自分にはそれができないから。…余所者にそれを託す?」
「………それが、私にできる精一杯だんね。」
「どんな悪い手札だって、次のドローで良い札が入れば、流れが変わるきっかけになることもある。………それに期待して山から札を引くのも、ありかもしれない。」
「新しい風は、魅音、お前らの世代になる。……外の風を迎え入れたれな。…そして、お前は内からの風となって、交じり合いながら村の澱みを吹き飛ばしてくれ。」
「他力本願の極みだね。自分が火種を作ったくせに、孫にその尻拭いをさせるとは。」
「……そう言うなや。新しい風を、
「…それが、次期頭首の仕事だってんなら。」
「………頼むわ。魅音。私ゃあ老いたんね。もう憎まれ役しかでけん。」
風鈴がチリンと、弱々しく鳴った。
それは涼風がこれから吹くことを知らせる先触れだったに違いない…。
◆部活結成(解除条件:兄の苦悩+古手夫妻怪死事件)
※北条悟史に罪の意識が必要です。
※古手夫妻の怪死事件が必要です。
学校は子供の世界だ。
大人の世界のどんな価値観もここには入り込めない。
子供たちは自分たちで価値を決め、自分たちだけの世界を築くのだ。
だから、……村という大人の世界でどんな理不尽なルールが蔓延っていようとも、こことは関係ない。
村の中で北条家が孤立していて、大人たちが陰口を言っていることをそれとなく知っていても、学校の中にそれが持ち込まれることはなかった。
子供の世界では、その価値観は子供が決める。
……彼らが理不尽だと思ったルールはここには及ばないのだ。
だから。私は子供の世界の代表として、委員長として、その理不尽なルールをわずかほども忍び込ませないと誓ったのだ。
学校の中では、北条兄妹に対するどんな苛めも許さない。
本当に初期の初期、男子がふざけて沙都子にちょっかいを出そうとしたことがあったが、容赦なく制裁してやったので、それ以来、そういうことは一切なくなった。
それが、私にできる村の理不尽へのささやかな反抗だった…。
だから、少なくとも学校の中でだけは、悟史と沙都子にとって安心できる空間であったと思いたい。
悟史は、私のそんな気遣いに気付いてくれたようで、学校にいる時はやわらかな笑顔を浮かべてくれるようになった。
でも、沙都子の表情に同じ笑顔が浮かぶことはなかった。
……沙都子を元気付けようという同い年のクラスメートたちは、やがてそっとしておくのが一番だという結論に達し、沙都子に近寄らないようになった。
私も最初は積極的に声を掛けていたが、
自分は園崎の人間なのだ。
沙都子にとって、近寄られるだけで不快な思いをさせることもあるかもしれない…。
私にできるのは、影からそっと見守るだけなのだ。
だから、教室ではいつも沙都子はひとりぼっちだった。
しつこいと言われても、つきまとうように側にいる梨花ちゃんと、必ず隣に居てあげようとする悟史。
……この二人だけが、沙都子の側にいてくれる例外だった。
沙都子に限らず、
ヒステリックな叔母が、敵対感情を剥き出しにして近所に角を立てているため、誰も同情するものがいないのだ。
……喧嘩には、買うべきものと控えた方がいいものがある。
叔母にわずかの自制心と我慢があれば、北条夫妻が被っていた村八分を引き継ぐこともなかったのだ。
……もっとも、兄夫婦のとばっちりを無関係な自分たちに引き継がされるという理不尽を最初に強いたのは村側なのだが…。
でも、…じっと頭を垂れていれば、ここまでおかしなことになることはなかった。
叔母ひとりの喧嘩ならともかく、…生活を共にする家族まで巻き込んでいる。
叔父は元々叔母とは仲が悪かったらしく、あまり家に帰ってこないで出歩いてばかりいるらしい。
悟史も沙都子も、肩身の狭いとても辛い思いを強いられている。
叔母はストレスのはけ口を沙都子に求めてしまっているようで、沙都子は叔母から陰険な苛めをずっと受け続けているらしい。
……これについても同じだ。
…仮にも保護者である叔母に、沙都子は明らかな嫌悪感を示し、表向きだけでも大人しくしていようという素振りすらしなかったのだから。
悟史を見習い、慎ましやかに過ごしていれば、叔母に目の仇にされることはなかったのだ。
…なら、沙都子が今、こうして光の宿らぬ瞳で俯きながら日々を過ごしていることを、自業自得だなどと言ってしまえるのか。
………そんなことはなかった。
でも、同情したくても助けたくても、
もう、誰かが誰かに謝ったくらいじゃ、…この状況は変わらない。
出来てしまった流れは、変わらない。
北条家が、村中から苛められているという仕組みが、風向きが、変えられない。
そんな恐ろしい状況が、私たちの生活のすぐ裏には潜んでいる。
そういうものを敵に回せば、…世界はここまで残酷になれる。
……それを古来、日本人は知ってたから、ご近所に対し礼を尽くす義理と人情を育んでいったんじゃないか。
それを、誰かのせいにしたって、沙都子の顔に笑顔は戻せない。
…私にできるのは、せめて学校にいる時くらい、心安らかに過ごせるよう見守ってやることだけだ。
「………ありがとう。魅音。」
「…え? あははは、ごめん、何?」
「うぅん。…沙都子にいつも気を遣ってくれて、ありがとうって。」
悟史はぼんやりしているようで、…たまに人の心を読むようなことを言う。
私は、柄にもないことを見抜かれたことを慌てながら否定するが、そんな私の気持ちまでお見通しなようで、くすりと笑ってくれた。
「沙都子は、笑顔の浮かべ方を忘れてしまっただけなんだよ。……学校にいる時は、…本当に少しだけ、肩の力を抜ける時間を得られてる。それはきっと、沙都子にとってとてもやさしい時間になってるって思ってるよ。」
「あははははは…。……おじさんに気を遣えるのは、せいぜいこの程度だしね。」
「………そんなことないよ。僕も感謝してるよ。」
「よしてよ。……感謝されることなんかないって。迷惑掛けてるのは、多分、ウチなんだしさ。」
「………そんなこと、思ってないよ。全然。」
…私は人の機微を読むのがそんなに得意な方じゃないが、悟史のこの言葉だけは嘘だとわかった。
悟史も、…自分たちを村八分にしている元凶が園崎家にあり、
悟史が大人だから、私に当り散らさないだけで。
………もし、悟史が叔母のように短気だったなら、私を露骨に毛嫌いしていたとしても、何の不思議もない。
ならばせめて気を利かせて、私は彼らに近付かないようにするのが正しい気の利かせ方なのかもしれない。
………でも、私はお節介だから、暗く沈む沙都子や、…健気に笑顔を装う悟史を、見過ごせないのだ。
…それがかえって、悟史や沙都子に余計な気を遣わせているかもしれないのに。
「…………………私、
「……どうして?」
「沙都子が辛い思いをしている一番の原因はウチにある。……そこの娘の私が、沙都子の周りをうろちょろすることは、その、
「そんなことはないよ。魅音はそれくらいがちょうどいいと思うけどな。」
「何よそれ。私ゃ無神経な方がぴったりだっていうの?」
「むぅ、そういう意味じゃないよ。…………その空気というのが、沙都子から笑顔を奪っているのなら。…そんな空気なんか全然気にしない人じゃなきゃ、沙都子に笑顔は戻せないって思ってるから。」
「……う、うまいこと言ってるけど、さり気なくおじさんのこと馬鹿にしてるでしょー? ひどいなぁ、あははは!」
「馬鹿にしてなんかいないよ。………助けてほしいだけなんだよ。」
「…ぇ?」
「………僕ひとりの力じゃ、沙都子に笑顔は戻せない。……魅音みたいな、力強い人の助けがいるんだよ。」
「で、でも…。私、……園崎家の魅音だよ…? 私なんかが無神経なことをやったら、かえって沙都子を傷つけるかも…。」
「その空気が、沙都子をひとりぼっちにしているのに…? だから魅音も、沙都子をひとりぼっちにするのかい…?」
「………………………。」
悟史が、こんなにも積極的に私に何かを求めるなんて、…初めての経験だった。
彼にとって、沙都子は大切な存在。
……その沙都子に笑顔を取り戻すには、私の協力が必要だと、そうはっきり言っているのだ。
でも、……。……いや…。……そうかもしれない。
園崎家と北条家のいさかいなんて、大人の都合であって、
私たち子供の世界には、そんな理不尽な大人のルールなんて関係ない。
…私には、私の世界のやり方で、大人の世界の理不尽に対し抗議することができるんじゃないか。
「……沙都子は、本当に私のこと、迷惑に思わないかな。」
「初めは少しは思うかもしれない。でも、僕も一緒だから。魅音と一緒だから。すぐに打ち解けるよ。」
「そ、そうかな…! ………………今日、学校が終わったら、沙都子を遊びに誘ってみる?」
「…家に帰ると叔母さんに色々言われて、表に出られなくなってしまうかもしれない。」
「あは、なら簡単だね。家に帰らずに遊べばいいんだ。」
「でも、帰りがあまりにも遅くなると、何の道草を食っていたんだと……。」
「えっと、ならさ、あれだあれだ! 部活動に加わったっていうのはどう?」
「部活?」
「うん。部活ってことにして、学校で遊んでから帰ればいいじゃん。だって、学校から帰らないでそのまま遊んでる男の子だって大勢いるんだしね。全然、問題ないよ!」
「あ、でも、服を汚すとまた叔母さんに…、」
「ふふん、ならさ、アウトドアじゃなくてインドア中心にすればいいわけよ! それなら服も汚れないしね。」
「インドアってことは教室? でもあんまり暴れると知恵先生に…。」
「くっくっく! インドアで暴れずに、だけれども熱く遊ぶことは可能なんだよ。おじさん、こう見えてもゲームが大好きでね! 海外物の貴重なものとか、結構集めてたりするのさ。マニュアルが英語だったり難しかったりで、対戦してくれる相手がいなくって死蔵しちゃってるのが多いんだけどね。」
「それ、沙都子にも遊べるかな。」
「もちろん! あはは、ルールなんてね、わかんなかったらその場で作っちゃえばいいんだよ! 全員が同じルールに従う以上、どんなルールだったって公平なんだからね!」
威勢よく言ってみたものの、ウチからゲームを持ってきてそれに誘うだけで沙都子に笑顔を取り戻せるだろうか。
……駄目で元々。…明日、何かスゴロクみたいなものでも持ってきてみようか。
「あ、…あとさ、魅音。相談があるんだけど。」
「何? おじさんで乗れる相談なら何でも聞いてよ。」
「僕、
◆赤いカプセル薬(解除条件:古手夫妻怪死事件)
※三年目のオヤシロさまの祟りが必要です。
記憶にすら残ろうとしないその奇怪な薬は、
いや、それとも楕円状の大きめの錠剤だっただろうか。
毒々しい赤い色が特徴的で、……あぁ、ならカプセルに違いない。
あんなひどい赤をした錠剤なんて考えられない。
きっとカプセルだったに違いない。
…それも、普通のカプセルよりほんの一回り大きいものだったような気がする。……気がする。気がする。…思い出せない。
こんなにもおぼろげな記憶でも、私は再びあの薬を見せられたなら、昨日のことのように思い出すに違いないのだ…。
あの薬は、人間を奪う。
…心を奪い、記憶を奪い、感情を奪い、体を鉛のように重く愚鈍にする。
何も考えられず、何も興味がわかず、起きていたいとも眠っていたいとも思わない。
時間の経過すらも曖昧になり、ある時は気が遠くなるほどの時間を過ごしたにもかかわらず時計の秒針が1つ進んだだけだったり、ある時は時計の時針がぐるりと回って行くのが目で追えるくらい早く進んだりする。
…そのどちらであっても、特別な感情は抱かない。抱かせない。
……ただ布団の中に入って天井を見上げているだけにしてしまう薬なのだ。
それがどれだけ恐ろしく辛い薬かは、飲んだ人間にしかわかるまい。
しかもこの薬のもっとも恐ろしい点は、服用中にはそれが恐ろしいものであることに気付くことができない点なのだ。
……おぼろげな状態で日々、恐ろしい薬であることにも気付けず、次々と飲まされ続け、私は永遠に私を失い続けるのだ。
だから、…何かの拍子か偶然で、その薬の薬効が切れた時。
私は二度とあの薬を飲んではいけないと気付いた。
……そう。これは治療薬なんかじゃない。私を緩慢に殺すための毒薬なのだ。
きっとこのまま飲み続けていれば、いつか私は、生きているのか死んでいるのかもわからない状態に陥ったまま、永遠に私を取り戻せなくなるに違いない。
……ただただ、無感情に天井を見上げ、時計の針が回り続けるのだけをじっと見つめる永遠の日々に。
再び薬を飲めば、私はやっと取り戻せた思考を失う。
…そして二度と自分を取り戻せないかもしれない。
…それを自覚した日から、私は薬を、飲んだふりをして捨てるようにした。
「お医者で薬をもらったら、症状が回復しても最後まで飲みきりなさい。」
それは母の声。
私が幼い頃に病院で薬をもらう度に言われた、母の声。
薬がなくなる前に大抵、元気になってしまい、残りの薬は飲まなかった私に諭した、母の声。
でも、この薬は違う。
私がいくつの時に言われたのかも思い出せない母の声が、この毒々しいカプセルも最後の一粒まで飲み続けるように言うのを、私は頭から追い出していく。
両肘でしっかりと頭を抱え、頭が痛み出すくらいにぐっと押さえつけ、…薬を飲み続けなければならないという思い込みと、母の声を追い出していく…。
そう。…頭のもやが薄れるに従い、やさしかった母の醜い正体が思い出された。
母は家族を裏切った。
……帰りを家で待ち、3人分の食事を用意していた私と父を裏切った。
私たち家族の信頼を裏切り、その裏では別の男と密会を重ね、仕事が忙しいと称しては私たちと違う家族に身を置いていた。
それだけでも重大な裏切りなのに、さらに母は甲斐甲斐しく世話をしてくれていた父に絶縁を突きつけるという大罪を犯したのだ。
でも、それよりももっともっと許せなかったことがある。
…それは、私とは相容れない家族に、私を誘ったということだ。父を誘わず、私だけを誘った。
父と私は家族だ。
家族とは一緒ということだ。
その家族を割ろうとした。自分の浮気だけでは飽きたらず、さらに私と父の関係まで引き裂こうとしたのだ。
そうだそうさ、こうして思い出せばそれはとても許せないこと、腹立たしいこと、憎んでも憎み足りない……。
眼球の奥がきりきりと痛みだし、激しい憎悪の感情が形相を歪めていることが自分でもわかった。
溢れ出して止まらない憎悪は、母を憎むだけでは収まらず、その浮気相手である男にも向けられた。
……浮気相手の男。
アキヒトおじさん。
私をよくからかうので苦手だったが、お小遣いをよくくれる人で、私を喜ばせようとする楽しい人だった。
大好きなおじさんだった。
でも、そのやさしさは全て打算。
私と父と母で作られた家族という結束を砕こうとするための打算なのだ。
……だから私はアキヒトおじさんのことを大好きなおじさんなどと言ってはいけなかったのだ…!
そうだそうさ。どんどんわかっていく、思い出されていく。私の本当の敵がわかっていく。
母が浮気をし出したのはアキヒトおじさんのせい。
だって、母は本当はとても良い母だったのだ。
それを悪い母にしたのはアキヒトおじさんなのだから。
だから一番悪いのはアキヒトおじさん。
そのアキヒトおじさんが私の前に初めて現れたのはいつだったっけ。
母と一緒にお出掛けして、……どこかのデパートでお昼を食べた時に、会社の友人だと名乗って同席したのが最初じゃなかったっけ。
あの時。…思えば一番最初のあの時。
私は、母のアキヒトおじさんに対する接し方に、違和感とある種の気持ち悪さを感じたんじゃなかったっけ?
そうだそうさ、確かに感じた。おかしいと思った。気持ち悪いと思った。……あの直感を疑わなければよかったのだ。
…アキヒトおじさんがショートケーキの苺をくれただけで、良い人だなんて思いこんでしまった自分は何て浅はかだったのか…!
父には何の責任もない。
父はアキヒトおじさんと会ったことは一度もなかっただろうから。
でも私には責任がある。
…敵であるアキヒトおじさんと何度も会い、そして敵であることを知れる様々な機会があったはずなのだ。
つまり、私が今の幸せを守ろうという強い意志を持っていたなら、ちょっとしたごまかしなどに惑わされることなく、あの男を敵だと認識できたかもしれないのだ…!
あの日のお父さんを忘れられない。
おっとりとしていて人のいいお父さんが、……自らの膝に爪を立て、涙をぼたぼたと零して泣いていたあの日のお父さんが忘れられない。
アキヒトおじさんのことを知っていたか?
とお父さんに聞かれて、私は、うん、知っていたよと答えた。
そして、お父さんに平手で打たれた。
……打たれて、私はようやく気付けたのだ。
私が、あの男に懐柔されていたのが、どれほど愚かなことだったのかを。
そうだそうさ…、私のせいなのだ。
…私がいつまでも続くことを願っていた小さな幸せは、私が自分の手で打ち砕いてしまったのだ。
私が愚かでなかったら、あの日にお父さんが涙を流すこともなかったし、お母さんも良い母のままでいてくれたのだ。
私が愚かでなければ……! 私のせい、私のせい…!!
母が許せない、アキヒトおじさんが許せない。
あぁ、これほど呪いながらも、未だに「おじさん」と愛称を付けて呼んでしまっている自分がそれ以上に許せない…!!
自分のせいだった、全てが自分のせいだった!
私が愚かで間抜けだったからこのようなことになってしまった!!
憎くて悲しくて、悔しくて怒りが覚めなくて!
母が再びこの家に戻ってくることがあったなら、この爪で引き裂いてやろうと思っていた!!
でも母が再び戻ってくることはなかった。
行き場のない私の怒りは、手に触れることができる母の痕跡全てに向けられた。
家の中に残る、母が残していったものを片っ端から打ち壊してやった。
打ち付け、叩きつけてやった。
でも、私の怒りはその程度では収まらない。
家中がひっくり返ったみたいになるまで荒らしても、私の行き場のない怒りはちっとも収まらなかった。
怒りはどこに集う? 胸の奥から沸き出し、腕を通って、指先に集まって、爪からほとばしる。これ以上、怒りを叩きつける対象がどこに? ……そう思った時、私の爪は自然に我が身へ向けられた。
そう、今や私の体自身がもっとも呪わしくて穢らわしかった。私が全ての元凶で私が一番悪い。いやいやいや、私は悪くない、
そんなある日、私はとうとう知ってしまう。
私を満たす血液の中に、血管の中に、いっぱいのウジ虫が蠢いていたことを知ってしまう。
そうさ、穢れた私は腐っていたのだ。体の内側から腐っていたのだ。腐って当然、腐ってしまえ…!!
お風呂場で、腿を走る太そうな血管に、ずぶりとカミソリを突き立てる。
ぶくりと血があふれ出た。
赤黒い気持ちの悪いウジ虫が溢れ出てきた。
生理的悪寒に耐えながら、私は両手の親指でぐっと開き、血管をこじ開けてみる。
左の腿の血管だけでこんなにもウジ虫が溢れ出すのだ。ならば右の腿の血管にだって同じくらいに詰まっているに違いない。いや、ふくらはぎの血管だって、
不思議なもので、これほどまでに狂気の熱に浮かされながらも、私には同時に冷静な気持ちも残っていた。
あぁ、このまま全身の血管を開いていったなら、最後には死んでしまうなと、割と冷静に思っていた。
でも、全ては私の責任で、私が一番悪くて。
母のせいにしたとしても、母を穢すためにはもう私の体以外に残っていなくて。
……あぁ、そうかなるほど。
私の怒りを終焉させるためには、これが最善なんだなって。…ものすごく冷静に考えていたような気がする。
私が私の身を許すには、
痒いところをいくら掻きむしっても満たされないように、私の体をいくら切り裂いても満たされない。お風呂場は私の穢らわしい、粘ついた血で真っ赤に汚れ、客観的に見たらきっとそれは恐ろしいまでに凄惨な光景だっただろう。
冷静を装いつつも、全身に走る裂傷の鋭い痛みは決して誤魔化せない。血が溢れすぎたせいなのか、湯気のない風呂場で裸体を晒し続けたせいなのか、全身が奥から凍るように冷たい。でも、全身がじんじんと疼き、心臓が早鐘のように鳴る。寒くて暑くて、痛くて悲しくて腹立たしくて。
……自分を許すための何かを、心の底から求めた。
そしたらその時、
それは神々しい光の中に訪れたように思う。
とても神秘的で、現実感をまったく伴わない、とてもとても不思議なナニカ。
それは、謝った。
ごめんなさい、ごめんなさいと、謝った。
どうして私にナニカは謝るのだろう………?
謝罪は罪を認めた時に告げるもの。
…私が初めて出会うこのナニカは、私に対して犯した罪を認めてくれたのだ。
つまりそれは、
あは、
力なくカミソリを落とす。
それは粘っこい血の海に落ちた。
全身の痛みが押し寄せてくる。
全身を自ら切り裂いた痛みが押し寄せてくる。
……さっきまではこの痛みを、自らへの罰なのだと言い聞かせてきた。
でも、私は悪くなくて、このナニカが本当は悪いのだから、私はこの痛みを罰として受け入れなくていい。
……だから、もう自分の体を穢さなくてもいいのだ。
彼女は、鮮血にまみれた私に、いつまでもいつまでも謝り続けてくれた。
私が自分を責めたくなる度に謝ってくれて、私が悪いのではないとずっとずっと囁いてくれた。
オヤシロさまは、居る。
いつも私についてくる。ぺたぺた、
そして私が自分の罪に耐えられなくなりそうになる度に、礼奈は悪くないと、謝って教えてくれた。
全て、オヤシロさまの祟りだった。
…雛見沢から出てはいけないという禁を破ったから、全てが狂いだしたのだ。
…やっと思い出す。雛見沢から引っ越す時、近所のおばあさんがお守りをくれたじゃないか。雛見沢から出るとオヤシロさまの祟りがあるから、この厄除けのお守りを持って行きなさいって。そうだ、くれたくれた、確かにくれた。筆字で難しそうなことが書かれた奉書のようなものを確かにくれた。でも引っ越した後にあれを見た覚えがない。きっと引っ越しの時にどこかになくしてしまったのだ。
ならば仕方がない。雛見沢の人間は雛見沢から出たら、祟りに遭うのが決まりなのだ。
私も母も、あるいはひょっとするとアキヒトおじさんも、全てオヤシロさまの祟りでおかしくなっていたのだ。
誰も誰も初めから悪くなかったのだ。
全てオヤシロさまの祟りのせいだったのだから。
誰も悪くない、誰も誰も誰も誰も! 私はようやく全てを許せた。全てを打ち壊し、
お父さん。……私はやっとわかったよ。
お母さんが出て行ってしまったのも、私もお父さんもこんなにも悲しくなってしまったのは、全てオヤシロさまの祟りなの。お父さんは覚えてるよね、オヤシロさま。雛見沢の守り神のオヤシロさま。……うん、そうだったよね。雛見沢の人間は、穢れた俗世に出てはいけないって、そういうことになっていたよね。だからお母さんは穢れてしまったの。だからこれはオヤシロさまの祟りなの。
私たち一家は、雛見沢から出て行かなければ、きっと今でも幸せだったに違いない。
それをね、オヤシロさまが私のところへ来てね、教えてくれたの。
思い出せば、オヤシロさまはずっと私にそれを教えてくれようとしていた。お母さんが出て行ってしまって、何のせいでこうなったのかわからず、何に怒りを向ければいいのかわからなかったあの頃から、私にそれを伝えようといつもいつも付いてきていたんだもの。
ずっとついてきてた。ひたひたぺたぺた。でも私はそれに気付かないふりをしていた。…あはははは、私は鈍いんだね。全身をこんなにも刻んでしまうまで、オヤシロさまの声が聞こえなかったんだからね。
もっともっと、オヤシロさまの声に耳を傾けることができたなら。
……きっとアキヒトおじさんが現れた頃から、オヤシロさまは警告してくれてたんじゃないかなって思う。
だってだって、雛見沢に家族みんなで戻れば、お母さんが浮気なんてしなかったんだもの。
雛見沢で一家三人、楽しく暮らせていたはずなの。
それをオヤシロさまがずっとずっと、そうだそうさ、オヤシロさまはきっと、
いつだって私と一緒だった。いつもいつも、どこまでも私に付いてきた。それを気のせいだと切り捨て、気付かないふりをしていた私が愚かだった。……そう、私が愚かだったばかりにこんなことに。…私がオヤシロさまの声に気付いていれば私たち家族が祟りで不幸になるなんてことはなかったのに…! 私が愚かだった愚鈍だった、全ては私のせい!! あぁああぁオヤシロさまが謝ってる謝り続けてる、こうなってしまったのは自分のせいだって謝り続けている…!!
そうだそうさ、私のせいじゃないよね? これは全てオヤシロさまの祟りのせいだもんね? 謝ってる謝ってる、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! オヤシロさまがたくさん謝っているよ!! だから私もごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! あなたの声を聞くことができなくてごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! 私たちは雛見沢の人間、あなたの声を常に聞き続けていなければならないのに!! あぁ、居るよ居る居るオヤシロさまは居る!
お父さんには聞こえないの?見えないの? 今もそこで謝ってるよ謝ってる、ごめんなさいごめんなさい!! 私も謝る、
ごめんなさいごめんなさい!! ごめんなさいごめんなさい! 嫌よ嫌だよ、その薬は飲まない!! それはお母さんが私を殺すために用意した毒のカプセルなの、だから私は嫌だ、飲まないよ!! 飲まないって言ってるでしょ、やめてよやめて!! これは祟りなんだから薬なんかでは治せない! 私の体のウジ虫は薬では治らないの、だって祟りなんだもん!! 注射も嫌だ、やめてよやめて!! 痛い、痛い痛い痛い痛いッ…!!!
………世界が灰色に落ち込んでいく。
お父さんやお医者さんが騒ぐ声が遠くの出来事のよう。
いや、つい先ほどのことさえ、遠い昔のことのよう。
…そして私はまたあのカプセルを与えられ、たった今の鮮烈な記憶さえ、忘却の彼方に葬られてしまうのだ…。
………私は再び天井だけを眺めて布団の中。
目に入るもので動くもの、関心のあるものは時計の針だけ。
……チクタク、チクタク。
分針がぐるりと回って、時針がゆっくりとぐる〜り回るのを目で追うだけ。
他にも見えているものはある。
それも時計の針と同じで、ずっとずっと同じことの繰り返し。
ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいでごめんなさい。……オヤシロさまがずっと謝り続けている。
チクタク、
…それだけがずっとず〜っと、繰り返している………。
窓の外から忍び込んでくる、夕暮れ時のひぐらしのなき声が、なぜか一際大きいように感じられた…。
◆竜宮レナ(解除条件:赤いカプセル薬)
※赤いカプセル薬が必要です。
「ごめんくださぁい。」
「はいはいはい、あらあらこんにちは。…あれ、どちら様?」
「あ、どうも。私、お隣に引っ越してきました竜宮と申します。引越しのご挨拶にお伺いしました。どうかよろしくお願いします。」
「あらあらあら! こんな田舎の村にこんな若い子が引っ越してきちゃったのかい? そうかいそうかい、よく来たねぇ! お母ちゃん! お隣さん、引越しのご挨拶来られたわよー!!」
「でっけぇ声出さんでも聞こえてぇんな! すったらん、わんざわざ丁寧に挨拶、すまなっしゃろなぁ。」
「竜宮さんだって。お隣の空き家に引っ越されてきたって。」
「…………ああぁああぁ!! あんた、礼奈ちゃんかいな! 大きゅなって!」
「あ、あはははは。はい、礼奈です。よく覚えてましたね、はぅ。」
「なぁんね、お母ちゃん、知ってるのかい?!」
「知ってるもなぁんと! あー、お前興宮に住んどったから知らんかぁ。ずいぶん前に住んでたお隣さんね。…そうかいそうかい、戻ってきたかい! やっぱり都会よか村の方が落ち着くんねぇなぁ。」
「住んでたのは小さい頃なんて、あんまりよくは覚えていないんですけど、……でも、ここが私の帰ってくるところだったんだなって。とても懐かしくなります。」
「なら馴染むのは早いねぇ! 何かお手伝いできることがあったらいつでも言ってね! 遠慮はしないのがココのルールだから。」
「あ、はい! ありがとうございます。」
少し村の中を歩けば、昔のことを思い出せるかと思ったが、まったく思い出せなかった。
でも、都会のように寝惚けていない鮮烈な空気や風、眩しいくらいの新緑だけは覚えてる。
村のことは覚えていないけど、…ここが私の帰ってくるべき故郷であることだけは、覚えてる。
……まだ体の一部には、赤い線が残っている。
でも、うっすらと残っているだけで、目をつぶってそこを撫でてみても、何もわからないくらいに治っている。
多分、気付かない内にその跡すらも消えるだろう。
こうして雛見沢に戻って来ると、茨城にいた時の自分は一体誰だったのだろうと思う時がある。
…いや、多分、雛見沢から出て行った時から、もう私は私じゃなかったのだ。
そして、雛見沢に戻って来ることで、ようやく私は、本当の私を取り戻したのだ……。
茨城の頃の自分は、もう思い出そうとしてもおぼろげにしか思い出せない。
……きっと、あの赤い変な薬のせいだ。
あの薬は、私の辛かった記憶を消し去ってしまった。
でも、………それでよかったのかもしれない。
あの時の私は、許しが欲しかったに違いないのだから。
母が許せなくて、
誰かに私は悪くないのだと認めてもらいたかった。許してもらいたかった。
……そしたら、オヤシロさまが謝ってくれたんだ。
これはオヤシロさまの祟りのせいだから、あなたは悪くないのだと、教えてくれた。
だから、私は自分を許すことができたんだ。
……だから、体中の血管を裂いて、血を流しきって死なずに済んだんだ。
…人は、穢れることで、死ななければいけないのだと思う。
だから、我が身が穢れないように穢れないように、大切にしながら生きているんじゃないだろうか。
でも、穢れた身の私は、こうして生きている。生きることを許されている。
…私の身に、まだ穢れは残っているのだろうか。
それとも綺麗に清算されているのだろうか。…わからない。
ただひとつわかるのは、…茨城の私と、ここにいる私は別人だということ。
そして、今の私には、穢れに耐えかねて我が身を裂かねばならないという、使命感はもうなくなっているということだ…。
夜、家具の配置や梱包した荷物の開封が何とかひと段落し、遅くなった夕食を取った。
私にとってはおぼろげな記憶しかない雛見沢でも、お父さんにとってはついこの間のように記憶しているらしかった。
「お父さんたちが雛見沢に住んでた頃にもあったんだけど、今は綿流しという行事がとても大きなお祭りになってるらしい。6月の終わり頃にあるらしいね。」
「……綿流し?」
「お父さんも見たことないんでわからないんだけど、体に付いた穢れを、綿に吸い取らせて沢に流す行事らしい。」
穢れを、
「……穢れって、流してしまえるものなんだね。」
「あはははは、そりゃそうだ。人間は罪深い生き物だからね。生きてるだけで日々、穢れが我が身に降り積もっていくものなんだそうだ。それを、年に一回、体をお掃除するように、綿に吸い取ってもらって捨ててしまうということらしいよ。」
人は悪いことをすることで、穢れや罪を背負う。
犯した罪は、懲役などで法律上の清算を受けるが、
つまりそれは、…人の世で、人の手では人の穢れを払うことができないことを示す。
…人に払えない穢れだから、
でも、……綿流しというものは驚きだった。
人の世にいながら、人の手で人の穢れを払う。
穢れを綿に吸い取らせて、沢に流してしまう。……それはつまり、この世に生きていてもいいということだ。
自分を許せなくて、死のうと思った私。
そんな私に謝り、許し、雛見沢に帰ることを勧めてくれたオヤシロさま。
そして雛見沢には、穢れを払う儀式、綿流しがあった。
…これは偶然の一致なんかじゃない。
雛見沢は、
罪を赦す(ゆるす)。
赦す里なんだ。
「そういうのをな、禊(みそぎ)って言うんだ。」
「…あ、
「日本文化というのは、穢れというものにものすごく厳格だろう。穢れを残したまま、表舞台に留まることを許さない。ほら、政治家や社長で汚職があると、すぐに辞職するのもそういうことだ。穢れた人は表舞台を去らなければならない。……悪く言うと、穢れを誰か一人に押し付けて引責させるわけだな。」
罪や穢れは、消し去らなければならない。
だから人は、罪や穢れをとにかく誰かに押し付けて、その人ごと切り捨てることで、穢れを消し去ろうとする。
でも、だとしたら、穢れが生じる度に不毛な責任の押し付け合いが起こる。
…それはとても醜いもので、人の世に鬼を見るものだ。
だから、人でなく、…綿に穢れを押し付けることを考えた。
そうすることで、人々は誰かひとりに責任や罪、穢れを押し付けなくても生きていけることになったのだ。
……全員の罪を肩代わりさせて殺すことは、きっと生贄に通ずる。
誰だって生贄にされたくない。
だから必死に醜悪に、罪を押し付けあう。
その生贄役を、人でない物に代わらせる、禊。
誰かひとりを生贄にして殺さなくてはならないという日本文化に、劇的な変化をもたらした、禊。
それはつまり、
穢れが、人の死以外の方法で、許される。
人を許せる存在は、人以上の存在だけだ。
オヤシロさまに許され、帰ってきた里。そこにある綿流しという禊。
我が身の穢れを綿に吸い取らせ、流して捨ててしまう。
我が身という生贄は必要ない。だから私は、生きていてもいい。
穢れた私は沢に消え、
礼奈じゃないなら、
穢れも、嫌なことも全て洗い流された私は、何て名前なの?
………頭にぼんやりと浮かぶ、ある名前。
それは私の名前、礼奈から平仮名を一文字抜いただけだけど、
“い”やなことはもう全部なしになって許された。
だから私はもう礼奈じゃない。
私の名前は。
◆四年目の足音(解除条件:兄の苦悩+竜宮礼奈)
※北条悟史に罪の意識が必要です。
※竜宮レナに罪を許すナニカが必要です。
僕にとって、
叔母と沙都子は相変わらずだ。
夜毎に叔母は沙都子の些細な何かを怒鳴りつける。
沙都子も、泣き出すくらいならばそれに口応えなどしなければいいものを、してしまう。
だから、いつまでもいつまもで叔母の怒鳴り声が止まない。
いつまでもいつまでも沙都子の泣き声が止まない。
…沙都子が僕の姿を見つけ、しがみ付いて来る。
僕の背中に隠れ、叔母の怒鳴り声をやり過ごそうとする。唯一心を許す僕に頼ろうとする。
……沙都子は僕以外には心を開かない。
…だから、僕が守ってあげなかったら、それはあまりにあまりに悲しいこと。
僕たちのお父さんやお母さんが沙都子に与えなかったものを、唯一の肉親である僕が与えなくてはならないのだ。
沙都子が泣く度に、
……昨日、沙都子が僕に泣きながらしがみ付いてきた時。
……僕は可哀想に思いながらその頭を撫でていて、
駄目だ駄目だ駄目だ…、そんなことを考えちゃいけないッ…!!
いや違う、考えちゃいけないんじゃなくて、気付いちゃいけなかったんだ…!
その日を境に、…僕の中にはもうひとりの僕ができた。
そして胸の内側から僕を食い破って、僕と入れ替わろうとするのだ。
沙都子が泣きながら僕に何かを訴える時、…沙都子を永遠に傷つけてしまいそうな恐ろしい言葉を次々と喉元に突き上げては、口から吐き出させようと企むのだ。
僕にかまうな。僕にしがみ付くな。うるさいからあっちへ行けッ…!! 駄目だ駄目だ駄目だ、いけないいけないいけない!!!
僕はそいつに体を乗っ取られない為、
だが、追い出しただけでは終わりにならなかった。
……そのもうひとりの僕は、…何ということか、常に僕の後を追いかけてきて、再び僕の中に戻ろうとしているのだ。
……でも、僕は再び、このような恐ろしい僕を胸の内に入り込ませたりはしない。
そいつも、僕がこうして心を引き締めている以上、入り込む隙がないことはわかってる。
………だから、無理に入り込もうとせず、
そいつは、僕がひたひたと歩くと、
どこまでも付いて来て、横になれば枕元から僕を見下ろすのだ。
……そして、僕の心に再び忍び込み、沙都子を傷つける機会を窺っているのだ……。
……最近、急に暑くなりだした。
そのせいで、体や心がまいってしまうからこんなことを考えてしまうのだろうか…。
僕は、沙都子のたったひとりの肉親なんだ。
……だから、あの叔母から沙都子を生涯、庇い続けなくてはならないのだ……。それが僕の、一生の義務…。
一生? 生涯、永遠? 僕はずっとこのままでいなければならない…?
せめて沙都子さえ…。
でも僕は唯一の肉親で…。
でもいくらなんでも…。
そもそも叔母が。
でもそれを言ったら村の人たちだって…!
もうすぐ綿流し。
村の無責任な人たちが、今年もきっと祟りがあるに違いないと言っている。
そして祟りがあるなら、それは僕と沙都子に違いないなんて言っている。
……気のせいかもしれないが、それを“期待”する村人たちの目線が、最近、特に痛い気がするんだ…。
何だか僕は、綿流しの日に殺されてしまうような気がする。
いやもちろんこれは根拠なき漠然とした妄想に過ぎないのだけれど。あぁ、ぺたぺた、ぺたぺた。僕の心に入ってくるな…。
沙都子は僕のたった一人の妹で肉親なんだ、だからだからそんな恐ろしいことを僕の心に吹き込もうとするなするな……。ぺたぺたぺたぺた、来るな来るな来るな来るな…!!! その足音が僕の背中にまで近付き、そして僕の肩に手を……!!!
「ぅわッ! …………ぁ、……レナか……。」
「だ、…………大丈夫かな? ……かな?」
どうも僕は、人が見てもわかるくらいに様子がおかしかったらしい。…レナは心配そうな顔をしていた。
…彼女の名は竜宮レナ。最近、引っ越してきたばかりの転校生だ。
覚えている子はいないのだけど、ずいぶん昔に雛見沢に住んでいたらしい。
もっとも、彼女も雛見沢のことはおぼろげにしか覚えていないというが。
歳の近いクラスメートが魅音しかいない僕にとっては、とても貴重な友人だった。
普段は魅音と一緒に楽しそうにはしゃいでいるが、時折、女の子らしい気遣いも見せてくれる。
「具合悪いの…? 保健室で休んだ方がいいんじゃないかな。…かな。」
「ありがとう。大丈夫だよ。……僕、そんなにも具合が悪そうだったかい?」
「うん。」
澱みない返事に、僕は相当に具合を悪そうにしていたことを知る。
「…………沙都子ちゃんのことで、
「いや、…そういうわけじゃないんだよ。」
僕の具合が悪いのが、体調のせいでなく、心労のせいだといきなり核心を突いて来る…。
……これは僕の直感だが、レナはおっとりとしているように見えて、意外に鋭いタイプなのかもしれない…。
「……レナは、転校してきたばかりだから、頼りないかもしれないけど…。話を聞くことはできるからね。……きっと聞いてあげるだけでも、少しは心が軽くなると思うから。」
彼女は転校してきてまだ日が浅いにも関わらず、…僕たち北条兄妹や、それを取り巻く村の事情を敏感に感じ取っているようだった。
でも、……話したって、何の解決にもならない。
…いや、むしろ…。話してしまうことで、僕の心が弱さを認めてしまって、……もう一人の自分に侵食してくる隙を与えてしまうような気がしたから…。
「さっき、声を掛けたらすごく驚いたでしょ? そんなにも考え事をしてるなら、…きっと辛い悩みなんだろうなって思って…。はぅ…。」
「それは、………あははは。なぜか最近、…誰かにずっと後を付けられているような錯覚がしてね。……ひたひた、ぺたぺた。…だからそれかと思って……。…って、あははははは、ごめん。僕は一体何を言っているんだか。」
「……………足音? ……ついてくるの…?」
「……え?」
「…………私、
◆休部届け(解除条件:部活結成+四年目の足音)
※北条悟史にバイト斡旋が必要です。
※北条悟史に背中の足音が必要です。
「……そうですか。…いえいえ届けなんていりません。悟史くんは我が雛見沢ファイターズの頼もしい選手なんですからね。席はちゃんと開けてあります。いつでも戻ってきていいんですからね。」
「わかりません……。当分は戻って来れないと思うので、一度、退部にしてもらった方がいいと思いまして…。」
悟史くんが、雛見沢ファイターズを辞めたいと言い出した。
……悟史くんと沙都子ちゃんを取り巻く環境については、私も事情を知っていたので、…こういうことを言い出すのもあるかもしれないとは思っていた…。
沙都子ちゃんと叔母の仲違いはもはや致命的なものらしく、それはもう苛めというより虐待に近いものらしい。
最近、その絡みで児童相談所の人が指導に来たらしく、その時だけは叔母もわずかに大人しくなったが、……すぐにより陰湿な形での苛めに切り替わったという。
近所の人の話では、叔母の怒鳴り声と沙都子ちゃんの泣き声が聞こえない夜はないらしく、しかもそれは深夜にまで及ぶことも珍しくないという。
沙都子ちゃんに毎週施している定期検査の数値も、じわじわと悪化を辿っており、それに対し、投薬量を増やすことで何とかすれすれを維持させているが、………叔母との関係を改善しない限り、いつか彼女はL5の症状をぶり返し錯乱するだろう。
…いや、確か彼女の末期症状は錯乱するタイプではない。
……心の中に狂気を宿しつつも、表向きにはそれを押し隠してしまえるタイプだ。
……一昨年、両親を突き落としたように、…叔母を沙都子ちゃんが殺してしまうこともあるかもしれない。
山狗の工作のお陰で、あの転落事故は事故ということで決着し、大石も手を引いたが、彼自身は未だ疑い続けている。
……沙都子ちゃんの近辺で再びこのような事件が起きたなら、
……沙都子ちゃんの環境の悪化は、もはや私にはどうしようもないレベルにまで至っている。
それを見かねて、妹思いの悟史くんが野球を辞めて常に妹に付き添っていてやりたいと言い出したとしても、それは不思議なことではなかった…。
「実は僕、アルバイトを始めるんです。それで、あまり野球に出られなくて…。」
「…アルバイト、
「……はい。…もうすぐ沙都子の誕生日なんです。沙都子が欲しがっているぬいぐるみがあるので、それをプレゼントしてやりたいと思いまして。」
そう言えばそうだっけ。
保険証に書かれていた日付を思い出す。
確か、6月の24日。綿流しのお祭りの直後じゃなかったっけ。
「そうですか。……悟史くんは本当に妹思いのお兄さんですね。それはきっと沙都子ちゃんも喜んでくれるでしょう。」
「……喜んでくれると、うれしいです。」
悟史くんの話しぶりから、かなり心労が溜まっているのがうかがえた。
……彼にとって、沙都子ちゃんが苛められるのを見ることは、自分が苛められていることと同じなのだから…。
心労は、スポーツなど適度な運動でのストレス発散、そして規則正しく充分な睡眠時間で癒すのが基本だ。
沙都子ちゃんが夜な夜な叔母に叱りつけられているのだとすれば、…それを庇う悟史くんは充分な睡眠を取れているとは思い難い。
……また、どんなバイトをするのか知らないが、スポーツと違いストレスの発散にはなり難いだろう。
…はっきり言って、身も心も参っている悟史くんに、さらに追い討ちをかけるようなバイトは、あまり賛成できなかった。
私が少し、プレゼント代を出してあげようかと提案したが、もちろん彼の性分からして、それに甘んじるわけもない。
彼は、自分が贈るプレゼントなのだから、そのお金は自分が全て用意して当然だと、模範的に断るのみだった。
アルバイトは、沙都子ちゃんのプレゼントを買うためだけにするので、短期間のみのものらしい。
…それくらいの期間だったら、それほど彼を追い詰めることにはならないか…。
本当は、心が参っている時期に、さらに負担を増やすようなことは避けさせたいのだが、沙都子ちゃんの誕生日が近いと言われれば、妹思いの悟史くんにそれを思い止まらせるのは難しい。
………悟史くんの決意は固い。
バイトをやめろとこれ以上しつこくすると、私と彼の信頼関係を損なってしまうかもしれない。
それを恐れた私は、彼の休部を受け入れて見守ることにした。
「……そうだ、監督。…バット、一本借りて行ってもいいですか?」
その言葉の意味を、私は大きく履き違えてしまう。
…後に、彼がそのバットを護身用のための武器として持ち歩いていたという話を聞き、……この時点で悟史くんには、ある種の危険な兆候が現れていたのだと知る。
彼は、連続怪死事件が四年目の今年も起こり、
……誰かが自分の命を狙っているに違いないと信じる強迫観念。
それは紛れもない、雛見沢症候群のかなり末期に近い症状。
…だが、この時点での私は、雛見沢症候群に関わる人間でありながら、あまりに迂闊だった…。
「バットですか? はて、何に使うんですか?」
悟史くんの私物のバットはある。
だから、借りて行くというよりは持って帰ってもいいですか、というのが正しいのだが、彼は、借りて行っていいかと聞いた。
…それを、私に承諾を得て持ち帰ろうというのは、後から考えれば罪の意識の軽減行為なのだが、この時点ではわかろうはずもない…。
「……いえ、その。……野球にはそんなに来れなくなりますけど、
「それはいいですねぇ! そういうことならぜひ持って行ってください。素振りをする時は、充分周りを確認して危険がないよう注意してからやってくださいね。ご近所迷惑でなければ、タイヤを吊るしてそれを打つのも良い練習になるでしょう。」
バットを振るだけでも、きっとストレスの解消になる。
だから、バットを持たせてやることは彼の心労をわずかでも和らげることになる。…そう思ってしまった。
……………だが、…それは大きな誤りだった。
後に、私は取り返しがつかない段階に至って、それを知ることになる…。
◆北条叔母撲殺事件(解除条件:休部届け)
※撲殺用のバットが必要です。
今年は充分な即応体制を敷いていた。
そのため、ただちに現場を確保して捜査を開始することができた。
被害者は、例の北条夫妻の弟夫婦の妻。
四年目のオヤシロさまの祟りの相手として、極めて妥当な対象だった。
近所での評判は最悪。
事件後、誰もが祟られて当然だと口にする有様だった。
……犯人の目星は、大体ついていた。
恐らく、…北条悟史。あの純朴そうな少年だ。
動機はある。
ホトケは彼の妹を執拗に苛めていた。
それに対しての報復的犯行に違いない。
また、現場検証に立ち会わせた際の挙動も、どこか落ち着きがなく、それでいて無関係な人間だったならあり得ないほど、妙なところで落ち着いていて。…私の短くない刑事生活が育んだ直感が、十中八九、こいつに違いないと教えてくれていた。
彼だと断定する決定的証拠はないが、…任意同行を求めて、少し揺さぶってみれば、自分から犯行を認めそうな気がしていた。
「これだけホトケを滅多打ちにしていれば、ホシも返り血を少なからず浴びただろうと思います。そいつが見つけられれば決め手になりそうですね。」
「まぁ、よっぽどの間抜けでなけりゃあ処分してるでしょうがねぇ。犯行を認めた後に、捨てたと称する場所から発見できれば、検察も納得してくれるでしょう。」
単独の事件としては非常に安っぽいものだった。
……北条悟史がゲロしてくれればそれで解決。
私以外の連中はそう思っただろう。
……だが、連続怪死事件として見た場合、事件はそれでは終わらない。
この事件の背後には村の深部、御三家、
連中が黒幕なら、北条悟史にうまいこと犯行を唆して実行犯に仕立てたに違いないのだ。
………だが、そうならば連中にとって北条悟史は、知り過ぎた人物になる。
園崎家はあくまでも黒幕として君臨する。
そこへつながるカギになりかねない、彼を放置したりするだろうか…?
北条悟史が妹思いな点を突いて叔母殺しを唆し、四年目の祟りを執行させた…。
そして、……黒幕との接点のあった北条悟史も消してしまえば…。
…………北条悟史は単なる犯人じゃない。…仕立て上げられた道化なのかもしれない。
そしてその後、…私の予想は的中した。……彼は突然、失踪するのである。
それもややこしい消え方だ。
事件の発覚を恐れて逃走したのではない。
……事件の犯人は別に現れた。
すでに別件で逮捕され、しかも獄中で死んだばかりのイカレた野郎だ。
犯人しか知りえないことをすでに告白していた。
ゆえに犯人。
しかもすでに死亡しているため、捜査は終了。
そして北条悟史は、綿流しから数日後に蒸発。
………北条悟史と事件を結び付けたくない何者かが暗躍していることは明白だ。
私には上層部から、事件の捜査を終了させるようにと圧力が掛かり、北条悟史失踪事件は、単品扱いとなって担当部署までもが変わることになったのだから。
これほど性急に捜査を決着させる手口は、一昨年の北条夫妻転落事故の時、事件性を強引に否定し、無理やり事故ということで決着させてしまった時とあまりに酷似している。
………警察上層部に圧力を掛けることができる“何者か”の仕業であることは疑いようもない。
そして皮肉にも、……雛見沢界隈で警察上層部に圧力を掛けることができるのは園崎家しかあり得ないのだ。
…うまく尻尾を隠したつもりで、むしろこれ以上ないくらいの形で正体を現したと言ってもいいだろう。
情報屋経由だが、園崎お魎は四年目の祟りについて親族会議にて言及し、自らが黒幕であることを仄めかしたという。
……仄めかすだけでは証拠にはならないが、とにかく、黒幕の一番上に園崎お魎がいることだけは間違いないのだ…。
おやっさんの仇はわかってる。なのに、尻尾がどうしても掴めない…!
未だ逃走を続ける主犯格は、どうせ園崎家がどこかに匿っているから見付からないのだ。
……そいつをひっ捕らえ、未だ見付からないおやっさんの右腕を見付け出す。
おやっさんの墓前に右腕を返し、…主犯格と黒幕どもを墓前で土下座させてやるのだ…。
……もっとも、北条悟史が消えたように、その主犯格もすでに消されているだろう。
きっととっくに殺されて、永遠に見付からない場所に埋められている。でも、ならばそれでもいい。………おやっさんを殺せと指示したババアに、墓前で額を地面に擦り付けさせてやる。絶対に……絶対に……!
オヤシロさまの祟りも四年目を数えると、…気の早い話で、来年の五年目にもきっと何かが起こるに違いないという憶測が、すでに流れている。
私は充分な準備があったにも関わらず、この四年目を有効に活かすことができなかった。
やはり、起こってからでは駄目なのだ。
…起こる前から、村の内部に目を光らせていなくてはならない…。
そして、……私には是が非でも来年で決着を着けねばならない都合がある。
私が、…定年を迎えるからだ。
母は故郷の北海道に帰ることを強く希望しており、ずいぶん前から私の退職に合わせて北海道に引っ越したいと言ってきた。
私も、最後にできる親孝行だろうと思い、退職したら共に北海道へ引っ越すことで承知している。
……だから、来年がおやっさんの仇を討てる最後のチャンスなのだ。
すでに四年うまく行っている事件だ。…恐らく、来年の五年目も起こる。
連続怪死事件によって、ダム戦争以来の村の結束は一層引き締められた。
…裏切り者には祟りという名の制裁があることが、きっちりと示されたからだ。
……黒幕たちにとって、連続怪死事件を起こす意味は充分にある。
噂では、今年のホトケの叔母が祟られたのは、不信心で綿流しの祭りに参加しなかったからだ、というのだ。
そのため、もし来年の祭りに参加しなかったならば、自分が祟られる対象になるかもしれないと考える村人もいるという。………来年の祭りは盛況になるに違いない。
必ず、来年も起こる。
雛見沢村連続怪死事件。通称オヤシロさまの祟り。
……そこでこそ必ず。私はおやっさんの仇を討つ……。
◆生贄第四号(解除条件:北条叔母撲殺事件)
※北条沙都子の叔母の死が必要です。
村は騒然としていた。
誰もが起こると思っていた、連続怪死事件が四度、起こったからだ。
殺されたのは、……沙都子ちゃんの叔母だった。
村人たちは、ヒステリックに近所とトラブルを起こしてばかりいた叔母への祟りに、不謹慎ながらある種の満足感を感じていたようだった。
でも、私だけがすぐに真相に気が付いた。
あの夜、事件が発生し、警察に事件現場に呼ばれて、異様に頭部だけを滅多打ちにした叔母の死体を見た時、
より酷くなっていく沙都子ちゃんへの苛め。
そしてそれを救いたいと悩む悟史くん。
そして、持ち帰ったバット…。
全ての符号は重なり合っていた。悟史くんの口から聞くまでもなかった。
……私は自問せずにはいられない。
味方のいない気の毒な北条兄妹のために、自分だけは味方になろうと思ったはずなのに。
…結局、自分は何の味方にもなれなかったのだから…。
そんな中、私は悟史くんからの電話を受けた。
彼から電話をもらったことは一度もない。
一体何事なのか…。
…今回の事件について、何かの助力を求めているのだろうか。
なら、……せめてそれに協力してやりたい。そう思った。
「あ、監督ですか。お仕事中に済みませんでした。」
「いえいえ、気になさらないでください。どうなさいましたか?」
「あの、……えっと、車を持っている人が、他に思いつかなかったんで…。」
「車、ですか? えぇ、ありますよ。」
「実は、今、興宮のおもちゃ屋さんの前にいるんです。あの、魅音の叔父さんのおもちゃ屋じゃなくて、もう一軒の、歯医者さんの近くにあるおもちゃ屋さんの方です。」
「あぁ、わかりますわかります。」
「それで、沙都子の誕生日プレゼントのぬいぐるみを買えたんですけど、
「大きくって自転車に積めない? あっはっはっは、悟史くん、あなた、どれだけ大きなぬいぐるみを買ったんですか。」
「……むぅ。」
それに気付かずに自転車に乗っておもちゃ屋に行ってしまい、それで途方にくれているというわけらしい。
……何と言うか、悟史くんらしく、ちょっと微笑ましくなってしまった。
つまり、自転車とぬいぐるみ、両方を持って帰れないので、車で迎えに来てもらえないかということだろう。
私はすぐ迎えに行くといい、興宮のおもちゃ屋へ行き、
「…これは…! はははは、大きいですねぇ。確かに、これじゃあ、自転車は無理でしょう。」
何しろ、そのぬいぐるみは抱きかかえる程の大きさがある。
助手席で膝に抱いたとしたら、前が見えなくなるくらいの大きさだ。
自転車は後部座席に積み、ぬいぐるみはトランクに無理やり押し込んだ。
「しかし、これだけの大きなぬいぐるみともなると、高かったでしょう。」
初めは、暑いから汗をかいているのかと思った。
…でも、どうも様子がおかしい。
まるで高熱か何かで朦朧としているように見えた。
「どうしましたか。…具合でも悪いんですか…?」
「……多分、
「それはよくありませんね。診療所に寄って行きませんか? 具合を見てあげましょう。」
「……ありがとうございます……。……はぁ……、
さっき電話をくれた時は、具合が悪そうな様子ではなかった。
……では、急に体調が悪くなったということなのだろうか。
「どうぞ、リクライニングを倒して、楽にしててください。冷房が強すぎませんか? 大丈夫ですか?」
顔色は蒼白。計ってはいないが、熱も相当ありそうだった。
……悟史くんはこのぬいぐるみを買うために今日まで無理をしてきたのだ。
何しろ、これだけ大きいぬいぐるみなのだから、きっと安くはあるまい。
それを長くない期間の間に稼いだのだから、かなり堪えるバイトをしていたのだろう。
念願のぬいぐるみが買えて、気が緩んだのかもしれない。
…目標に向って無理をしていた人は、達成した時、それまでの疲れが一気に出て体調を崩してしまうことも珍しくない…。
「……しかし、…よくがんばりましたね。こんなにも大きなぬいぐるみを。沙都子ちゃん、きっと喜ぶと思いますよ。」
「……………………喜んで、……ほしいです。」
「喜びますよ。私が保証しちゃいます。」
「……………もう、
「そうですね。もう沙都子ちゃんを苛める人はいません。だから、これからはゆっくりと過ごしていいんです…。」
「…………………叔母さんは、
「はい。…確かに死にました。検死には私も立ち会っています。間違いありませんよ。だから、もう二度と沙都子ちゃんを苛めたりはしません。」
「…………本当に…? 本当に叔母さんが死んでるのを、
「はい。間違いなく。」
「えぇ。そんなことはありえません。二度と私たちの前に現れることはありませんよ。」
悟史くんが怯えるように、対向車を指差した。
もちろんその運転手の姿をよく見る前にあっと言う間に通り過ぎてしまったので、どんな顔をしていたかはわからないが、…とにかく、どんなに似ていたとしても、生きているなんてことはありえない。
「ほ、ほら!! あの人も!! あんなにそっくりでも、叔母さんじゃないんですか…?! だって、僕を見ましたよ?!」
「お、落ち着いてください、悟史くん。叔母さんは完全に死にました。だからどんなに似ていてもそれは叔母さんではありません。」
私は冷静に運転を続けるしかない…。
悟史くんはすでに冷静さを失っていた。
…彼には、見えているのだ。…殺したはずの叔母がまだ生きていて、彼の前に次々に現れるように見えているのだ…。
この段階にまで及んでようやく私は悟る……。
悟史くんは、…………末期発症を起こしている…!
…診療所についたら、まず彼の具合を見よう。
沙都子ちゃんの時とは違う。
すでに充分な実験を重ねた治療薬が作られている。悟史くんは治療可能なのだ。
そして、叔母殺しについても、また山狗の人たちに頼めば、うまく揉み消してくれるはずだ。
だから彼を末期症状から救い、沙都子ちゃんとの平穏な日々を取り戻させてあげることは必ずできる…。
さっきまであんなにも取り乱していたのに、今度は急に静かになった。
…眠ってしまったわけではないようだった。
…とにかく、悟史くんが大人しくしてくれている内に診療所につかなくてはならない。
……錯乱して、運転中の私に襲い掛かってこない保証もないのだから。
…そんな恐ろしい想像を見抜かれたかのように、悟史くんは落ち着いた声で言った。
「………監督。……………これってやっぱり、
「祟りなんかありません。どうか気を強く持ってください。」
「無理にしゃべらないでいいですよ。目蓋を閉じて休んでいてください。すぐに診療所につきますからね。そうしたら、具合のすぐよくなる薬をあげますからね…。」
「……僕の血の中にも……蛆虫が湧いてるのかな………。……痒い…。」
「掻かないで! 喉を掻いてはいけません!」
車は診療所の裏口前に到着した。
私は乱暴なブレーキで車を停める。
もう、悟史くんは喉を掻き毟り始めていた。私ひとりでは抑えきれない。インターホンでスタッフに応援を求める。
すぐにスタッフが何人か駆けて来てくれた。
……しかし、一度に大勢の人が現れたことに悟史くんは驚いたのか、急に抵抗を始めた。
………検査を待つまでもなく、悟史くんはL5だ。
完全な末期症状で、心の中は疑心暗鬼と被害妄想でいっぱいのはず。
突然現れたスタッフたちが、自分を殺そうとしているように見えるのかもしれない。
暴れる彼を、スタッフがそれぞれ四肢を抱え込み、眠らせる薬を注射する。
「大丈夫ですよ。すぐに治療しますから、しばらくの間、楽にしていてください。」
沙都子をお願い。
その言葉を何とか口にすると、そこで悟史くんの意識は途絶えた。
「あらあら。騒がしいと思ったら、これは何事ですの?」
「………悟史くんが、急性発症したようです。……彼の日頃のストレスを考えれば、いつ発症してもおかしくなかったでしょう。…いや、………ぬいぐるみを買うまで、自制心でそれをずっと抑え続けてきたに違いありません…。」
「何だか毎年、綿流しになると生きた検体が手に入りますわね。これもオヤシロさまの祟りのお陰なのかしら。くすくす。」
鷹野さんの戯言を聞いている暇は、今はなかった。
◆前原圭一(解除条件:新しい風+分譲地下見)
※縁側のお茶の片付けが必要です。
※前原伊知郎の下見が必要です。
「……こ、…これが学校なのかよ。すげぇな、さすが田舎だな。」
「圭一、そんなこと言っちゃ駄目だぞ。ここの人にとっては立派な学校なんだからな。」
それが俺の、雛見沢の学校への最初の一言だった。
第一、どう見ても学校に見えなかった。雛見沢営林署って書いてあるし。
「わっはっはっはっは! まぁ確かに! 我が校は営林署さんの敷地をお借りしておりますからのぅ!」
と、校長だと名乗った人物は豪快に笑った。
「学び舎は違っても、学校であることは同じです。前原くんがこれまで通われていた学校とは、色々ルールが違うと思いますが、大丈夫ですか?」
;<知恵
「あ、…はい!」
学年無視のバトルロワイヤル状態で、生徒は全員同じ教室というのは、…事前には聞かされていたが、本当の本当らしい。
年齢的に言えば、俺より年下ばかりだろうから、きっと幼稚園か何かのような雰囲気になるんだろうが、それも一興だった。
…どいつもこいつも同じツラした学校より面白そうだしな!
「前原くんが転校してきたら、男子の中では最年長になると思います。ですので、自分の勉強だけでなく、下級生たちの模範になるよう示さなければなりません。下級生は、上級生の悪いクセをすぐに真似ます。先生もそこは厳しく注意していますから、前原くんも下級生に悪い影響を与えないよう、常に襟を正していてくださいね。」
「わ、わかりました。努力します。」
「圭一。勉強は教科書だけじゃないってことなんだからな。クラスの一員として、上級生として背中で示さなきゃならないこともあるってことだ。」
「そ、そんなの言われなくったってわかってるよ…!」
その後、知恵先生は空っぽの教室に案内してくれて、俺の席になる予定の席を教えてくれた。
……育ち盛りの年代だから、下級生と上級生の体格差は大きいのだろう。
俺じゃ膝も入らないような小さい席から、俺にぴったりの席まで、実に大小様々な席が並んでいる。
席数は30もないだろう。
でも、学年も性別もばらばらと来たら、きっと賑やかに違いない。
壁に貼られている習字やプリント、絵などは、実に学年様々なものが貼ってある。
それはとても楽しそうで、俺が今まで通ってきた学校とは全然違う。
……俺が、純粋に学校を楽しんでいた頃を思い出させる懐かしさがあった。
「父さん。俺、気に入ったよ。やっぱり町の学校よりこっちの学校の方がいいや。」
「息子もやはりこちらが気に入ったようです。いえ、私もこちらの学校に通わせたかったんです。」
「そうですか。…興宮の学校の方が設備もちゃんとしていますし、立派な先生方もたくさんおられますのに。」
とは言いながらも、知恵先生は新しい転校生が迎えられるのをとても嬉しそうにしていた。
親父たちは職員室に戻り、書類だか何だかの手続きをするらしい。
俺はその間、教室内に貼ってあるものを眺めることにした。
……本当は、引越しなんかに興味なかった。
自分の犯した罪の重さに、人生への関心を失っていた。
生きている気力もなく、布団の中から抜け出すこともできなかった。
だから、引越しをしようと親に言われた時、そんなことでこれまでの人生をなかったことになどできるものかと、否定的に思ったのだが…。
だが、引っ越してきてその考えは変わった。
もう一回、ゼロから人生をやり直そう。……俺がなりたかった俺になるために、もう一度ゼロからやり直してみよう。
この雛見沢と、学校なら、きっとそれができる。
もう二度と、幼稚な自分には戻らない。
成績さえ良ければ世界で一番偉いなんて馬鹿な勘違いをしたりなんかしない。
俺がそう勘違いし、学ばなければならなかったのに、蔑ろにした、本当に学ばなければならない大切なこと。…それを、この学校でなら学べる気がする。
それは口に出せば恥ずかしいことばかりだ。
…でも、ものすごく大切なことで、
この学校の生徒たちにとってそれは、すごく当り前なことで、とっくの昔に習得しているものなのだろうけど。………俺はこの歳になって、時間を掛けて学ばなければならないのだ。
友達の、作り方。
友達との、遊び方。
遊ぶこと。遊びの中でしか培えないものを、学ぶこと。
心を豊かにすることとか。色々。色々。
一見、簡単そうで。…俺はそれを学ぶのにきっと短くない時間を掛けるだろう。
それを蔑ろにして、中身のない勉強ごっこに現を抜かしてきたのだから。
……勉強が大事じゃないとは言わないが、過度に偏重するのがいけないんだ。
勉強さえできれば、それだけで充分なんていう考えの時点で、馬鹿も休み休み言えって感じに違いない。
…この学校でなら、俺はゼロからやり直せる。
今度こそ、俺のなりたかった、前原圭一になれる。
「……………………?」
校庭が見える窓から、2人の女の子が覗いていた。
校庭は普段から子供たちの遊び場らしく、さっきから数人の子供たちが楽しそうに遊んでいたのだが、……その内の2人が教室内をうろうろする俺に気付いて興味を持った、ということだろうか。
…そりゃそうだよな。今の俺は不審者だ。
次の月曜からよろしくなって挨拶くらいはするべきだろうか。
「……ようやく引っ越してきたのです。ボクは待ち疲れたのですよ。」
「あぅあぅあぅ。でも、これでまた変わってくるのです。……だって、圭一は、サイコロの6なのですから。」
「……6ではありますですが、圭一の振るサイコロは1がよく出やがりますです。」
「あぅあぅあぅあぅ…、圭一が悪いわけではありませんのです。」
「……全部、羽入が悪いのです。お前のせいなのです。圭一に謝れなのです。」
「あぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅ…。」
「え? …お、俺の名前を知ってるのか?」
今、確かに俺の名前を呼んだような。…いや、空耳だろ? だって初対面だし。
「……にぱ〜☆ 転校生なのですか?」
「ぇ? あ、…あぁ! よろしくな! 前原圭一ってんだ。今度の月曜から来ることになると思うぜ。仲良くしてくれよな!」
「あぅあぅあぅ☆ 仲良くしましょうなのです。」
「……圭一に、古手神社の巫女さんがありがたいお告げなのです。転校初日は教室の扉が鬼門なので入る時は注意なのです。あと、椅子の背中に画鋲、机の中にはカエルの玩具まで入ってます。」
「……でも、何度警告しても、圭一は何度でも引っ掛かるのです。月曜日はかわいそかわいそなのです…。」
「くすくす。だから面白いのだけれど。たまにはそんな運命も打ち破ってみて? くすくすくす。あなたがそれを教えてくれるのよ? 数多の世界のひとつで、ね。」
「は? ………??????」
彼女たちの謎めいた予言は、月曜日に、明らかに敬語の使い方の間違った八重歯の小娘によって、とても大切な忠告であったことを思い出させられるのであった。
……その時にゃ手遅れだがな。
何にしろ、気に入った。
俺は前原圭一。
ゼロからのスタートだが、今度は思いっきり、元気にやりたい!
色々大切なことを学び忘れてきたけど、それはここで学ぶ。がんばって身に着ける。
そして、俺が本当になりたかった前原圭一になるんだ。
…それを学ぶには、気の遠くなる時間がいるかもしれない。
でも、きっと学び取る!
◆昭和58年6月(解除条件:終末への誘い+前原圭一)
※鷹野三四の復讐が必要です。
※前原圭一の転校が必要です。
……………これで、集められる駒は全て昭和58年に並んだのかしら。
昭和58年6月に駒を並べるだけでも、…私たちには長い旅で、本当に疲れることね。
でも、これでようやくスタートライン。ここからようやくゼロが始まる。
……しかし、…こうして色々なカケラを見てみると。
昭和58年6月に、どれほどの思いがたくさん集まっていたのかがわかる。
かつての私は、自分に関係のない人間の思いなど何の役にも立たないと言っていたけど。…それはとんでもないこと。
古手梨花は、……昭和58年6月の運命を乗り越えるために、自分にできる全ての努力をする。
彼女がした努力は2つ。
1つは、自分の身に降りかかる災厄から一番身を守ってくれるに違いない入江機関への接触。
…皮肉にも、その入江機関の鷹野が私の命を狙うのだけど、
そしてもう1つは、…前原圭一の一家、前原家が雛見沢へ転校してくるようにしたこと。
実は、前原家が雛見沢へ転校してくるのは絶対じゃない。
……あの、分譲地の下見の日に、私たちと出会い、何かの感慨に浸って初めて引越しを決意するの。
だから、あの野原で私たちが遊ぶのは必然で、前原家引越しのための重要な鍵。
それを見つけるのにどれだけ長い時間を掛けたことか。
様々な条件のオンとオフを繰り返し、あの野原で圭一の父に出会うことが鍵なんだと、ようやく突き止めた。
前原圭一は、…私を縛る鎖のひとつ、ルールZを打ち破る重要な鍵。
この村で何が起こっても、全て曲解して解釈してしまう古きしきたりや悪弊を打ち破る力を持つ、新しく清らかで力強い風。
そんな彼が色々なきっかけを作り出し、……強固な運命に立ち向かうには、強固な意志と、信じる気持ちが大切なんだという、大切な鍵を私に託してくれる。
…でも、そんな彼を欲したのは私だけじゃない。
村の悪弊を払拭したかった園崎家の人間たちも望んでいたこと。
園崎魅音は、北条家や沙都子、悟史への理不尽な村八分に心を痛め、せめて自分だけは2人を守ってやろうと誓った。
そして、北条悟史が消えた夜、園崎お魎に怒りを爆発させ、その強い思いを伝えた。
その思いは、…園崎お魎に伝わる。
お魎だって薄々とは村の悪弊に気付いていて、それを何とかしたいと願っていた。
でも、自分にはその力がないことを悔やみ、
だから、前原家が引っ越して来れる土地が、売りに出される。
私が野原で踊ろうとも、お魎が分譲地を売りに出さなかったら、圭一は来られないのだ。
そして、前原圭一に重要なきっかけをいくつも与える竜宮レナは、両親の離婚で深く傷つき、末期発症を一度は迎えながらも、雛見沢に帰ってくることで救われる。
引越し前の地でのことを、リセットして再びやり直したいという前原圭一の願いは、一年前に、竜宮レナも願っていたのだ。
そんなレナだから、…圭一のことを理解できたのではないかと思う。
それは、あるカケラにおいて、…別のカケラのことを認識させるという奇跡を生み出す。
………別のカケラで学んだことを活かせるなら、人は間違いなど犯さない。
駒は最善の動きを見せ、昭和58年6月というゲームに勝てる可能性を飛躍的に高めるだろう。
つまり竜宮レナは自覚せずして、このゲーム盤の駒の中で重要な働きをするのだ。
北条兄妹を巡る強固なルールZは、そんな彼らの活躍で、やがて痛快に破られるのだ。
もちろん、内側からの沙都子の克己も大きな力となる。
双方が手を伸ばしあったからこそ、互いの手が届いたのだから。
そしてそれを教えてくれたのは圭一とレナ。
…彼らが引っ越してこれるようにし、村に馴染めるようにした魅音。
それだけじゃない。/
入江だって大きな思いと働きのある重要な駒だ。
沙都子を同情する彼は、雛見沢症候群というこのゲーム盤の中でもっとも大きな影響力を持つ、ルールXを打ち破ることができる最大の存在だ。
圭一やレナの決意や覚醒は、ルールXに抗うことができることを教えただけで、打ち破ったわけではない。
真の意味で打ち破るには、雛見沢症候群の治療に強い決意を持つ入江の存在も欠かせないのだ。
入江にも、これほどの色々な思いがあるなんて、知らなかった。
どこかぼんやりした人間くらいにしか思わなかったが、
これらの力を結集したら、……鷹野の思いに勝てるだろうか。
……鷹野の思いも見てきた。
それは悲しいくらいに強固で、…打ち破るのは容易じゃない。
いくら戦おうとも、昭和58年6月の運命が容易には揺るがないのは当り前。
私が募らせてきた思いなど、足元にも及ばないほど、たくさんの思いを持っていたのだから。
……戦うことを諦め、惰性に生きてきた私と、常に人生を賭けて戦いを挑んできた彼女とでは、駒の重みが違う。
……不貞腐れて、ワインに酔い逃避する私の駒がいかに軽かったことか。
…………これだけでは、…まだ鷹野に勝てない。
勝つためには、まだまだ駒を集めなければならない。
警察の大石が、心強い味方になってくれる可能性を示してくれたこともあった。
…だが、大石には尊敬する友人の死が、園崎家によるものだという大きな誤解があって、それが解けない限り、味方とはなってくれないだろう。
…私にはどうやればその誤解を解けるのかわからないけれど、………必ず解けると信じて、サイコロを振り続けるしかない。
そして、……圭一やレナたちが運命を変えるきっかけとなってくれたように、…赤坂にもそんなきっかけを与える力があるのではないか。
昭和58年の呪いは、雛見沢の呪いにも通じる。
……呪いは、内なる力だけでは解けない。外からの力も必要なのだ。
双方が手を伸ばさないと手が届かない、沙都子の時のように。
でも、赤坂が私たちのことを思い出して駆けつけてくれたことはない。
……駆けつけてくれても、それはいつも手遅れになった後なのだ。…遅い。あまりに遅い。
それでも信じてサイコロを振り続けたなら、……いつか赤坂という駒も、味方としてゲーム盤の上に現れてくれるのか。
最後のルールYは、鷹野を駒とする悪しき黒幕たち。
…それを打ち破るには強い強い駒がいる。…それだけの力を持つ駒は、
……まだまだ力を借りるべき駒があるのだ。
それらを全て集めなきゃ、……あの鷹野には、敵わない。
ゲーム盤の準備は整った。でも駒が足りない。
…まだまだ、これからなんだ。
◆鬼隠し編のカケラ(解除条件:昭和58年6月)
※ゲーム盤の準備が必要です。
前原圭一が、みんなを率いる駒に成長してくれるために、…まず学ばなければならない、痛く、辛く、悲しいカケラ。
仲間を学び、疑わないことを学ぶ。
彼は仲間を信じるという言葉の重さを、
わずかの不信感から疑心暗鬼を育て、ルールXに囚われる前原圭一。
圭一は悲しい遺書を残し、
それは辛く悲しいことだけど、
…ねぇ、羽入。
やっぱりあなたは謝らなくてよかったのよ。
彼が親類のお葬式で雛見沢を離れたわずか数日。
…その間に彼が発症してしまったことは確かに悲劇的だけれど。
でもそれは、彼が大切なことを学ぶための第一歩として必要なことだったんじゃないかって思う。
ルールXをあぶり出し、やがては打ち勝つための最初の第一歩として。
このカケラしかなかった頃は、そんなこと、考えもしなかったけれどね……。
◆綿流し編のカケラ(解除条件:昭和58年6月)
※ゲーム盤の準備が必要です。
このゲーム盤の上では、何が起ころうとも全て祟りやら、園崎家の暗躍やらで片付けられてしまうことを思い知らせるカケラ。
いえ、もう少し私風に言うならば、ルールZの存在を気付かせてくれるカケラなのかしら。
このカケラでは気付きにくいことだけど。…ルールXに囚われた園崎詩音が、ルールYに勘違いして翻弄されながら、ルールZの存在に気付いていくややこしいカケラ。
でも、ゲーム盤の法則を全て教えてもくれる重要なカケラでもある。
…そう言えば、園崎詩音という駒も、ゲーム盤の見地からは、外から来た駒という扱いになるのかもしれない。
始めは北条沙都子を毛嫌いしていた彼女も、…このカケラともうひとつのカケラを経て大切な何かを学び取り、ルールXに抗え、ルールZと戦うための強力な駒に成長する。
このカケラがとにかく滑稽なのは、……それがとても狡猾に隠されていて、ぱっと見ただけでは、まるでそう見えないことなのだけれど。
学べよ学べ、過ちを。
そしてどうか、強力な駒となって敵に打ち勝つ力を貸しておくれ…。
◆祟殺し編のカケラ(解除条件:昭和58年6月)
※ゲーム盤の準備が必要です。
このカケラは、沙都子を取り巻く理不尽なルールZの存在と、ゲーム盤におけるもっとも強敵な法則であるルールYがその姿を見せる。
これで、ルール、X、Y、Zの姿が浮き彫りにされたのだろうか。
私たちが戦うべき相手。学ぶべきこと。それらが全て揃い、明かされるカケラ。
この時点ではルールYの存在には至れない。
…せいぜい、沙都子を取り巻くルールZと戦うのが限界だ。
だが、このカケラでは戦い方を誤る。
誤った方法で手に入れた結果は、誤ったものでしかない。
……それを、前原圭一は自らの経験を経て、学び取る。
惨劇に打ち勝つ力は、惨劇じゃない。
暴力に打ち勝つ力も、暴力じゃない。
それを学び取ることができれば、……駒たちは、このゲーム盤の上での、本当の戦い方を覚えることができる。
でも、……鷹野たちはあまりに強大。
カケラの最後に待つ強烈な最期は、
◆暇潰し編のカケラ(解除条件:昭和58年6月)
※ゲーム盤の準備が必要です。
このカケラだけはとても歪。
だって、昭和58年6月より、もっと前のものだから。
だからこのカケラの有無は、私たちのゲーム盤の戦いに何の影響も及ぼさない。
…でも、本当に何の影響も及ぼさない役立たずのカケラなんだろうか。
今やルールYの正体は完全に暴かれている。
それは、とても大きな組織の力で、個人たちのささやかな連帯など丸呑みにしてしまうほどの強大さを持っている。
その理不尽なほどの強さに、私はこのゲームを何度も諦めそうになる。
だからこそ、…思うのだ。……このカケラの中に、そんな強敵に立ち向かうことのできる、駒が潜んでいるのではないかと。
赤坂衛は、東京の警視庁に勤めていて、…大きな陰謀に立ち向かえる力を持っている。
その力はきっと、ルールYが相手であっても、きっと及ぶ。
前原圭一が、ルールZを爽快に打ち破ったように、彼もルールYを爽快に打ち破ってくれるのではないか。
……全ての力がいる。赤坂の力も、必ずいる…。
◆目明し編のカケラ(解除条件:綿流し編)
※綿流し編のカケラが必要です。
ルールXに狂う園崎詩音のカケラ。
同情の余地もなく、哀れむ他ない心の痛むカケラだけれど。
…ルールZという錠前の鍵穴をはっきりとさせることができたに違いない。
その鍵穴には、やがて前原圭一が自ら鍵となって抉じ開けるのだ。
そして、園崎魅音が望んでいたように、…村に立ち込める澱んだ空気を一掃する。
このカケラもまた、学ぶ上での重要な課程なのだ。
園崎詩音はこのカケラで学び、以後、北条沙都子の心強い味方となっていく。
……そう言えば、北条沙都子とは、ルールZの錠前そのものを示す駒なのかもしれない。
彼女を救わなければ、ルールZは破られない。
彼女を救うことで、ルールZが打ち破られたことが示される。
このカケラが示したのは、それだけのこと。
園崎詩音が命を賭して学んだのは、それだけのこと。
でも、それはとても重要なことだったんだと、今は思える。
沙都子と詩音が、カボチャで戯れている姿を見る度に、ね。
◆罪滅し編のカケラ(解除条件:鬼隠し編)
※鬼隠し編のカケラが必要です。
このカケラは私たちにとって、とても重要な意味を持つ。
それは、抗えない運命と諦めていた昭和58年6月に、風穴を開けられるのではないかという可能性を初めて見せてくれたからだ。
結論から言えば、最後にはルールYに取り込まれ、全ては台無しとなる。
でも、このゲーム盤を支配する大きな法則であるルールXに真正面から挑み、…これまでのカケラで学んできたことを活かし、打ち勝てることを証明した。
学ぶことで、私たちは成長できる。
勝ち目のないゲームに、わずかの勝ち目を見出すことができる。
それを、教えてくれたとても大切なカケラ…。
このカケラで、ルールXはほぼ完全に打ち破られた。
前原圭一たちが、雛見沢症候群などという下らないものに惑わされ、惨劇に踊ることは、二度とない…。
ルールは無敵の存在ではなく、打ち破れることも教えてくれた。
それはつまり、ゲーム盤の外にいる私たちに希望を与えてくれたわけでもある。
…全てのきっかけと、そしてターニングポイントとなる、重要なカケラ…。
◆皆殺し編のカケラ(解除条件:祟殺し編)
※祟殺し編のカケラが必要です。
このゲーム盤を影から支配し続け、その尻尾を掴ませることもなかったルールYが、全て暴き出されるカケラ。
……そちらの方の印象が強いので、とても大切なことを忘れてしまうけど。
…このカケラで、ルールZが完膚なきまでに打ち破られたことを忘れてはならない。
かつて古手梨花に、もっともどうしようない運命と嘆かせたルールZは、全てを学んだ前原圭一たちにとって、もはや敵ですらなかったということだ。
彼らは正しい戦い方を知り、ゲーム盤のルールに則って戦った。
その結果、勝ち取った勝利は、……実は私たちにとって何よりも価値のあること。
そして、前原圭一が私に示すのだ。どんな運命にも屈服することはない。信じる力だけが打ち砕くのだ、と。
…私を屈服させる運命もまた、鷹野三四の信じる力によって作られている。……だからそれは、道理なのだ。
信じる力に打ち勝つには、負けないくらいの信じる力がいる。
意思の強さには、意思の強さでしか、穿てない。
ルールXとZに打ち勝ち、最後のルールYに挑むが、
個々の駒はよく奮闘したが、…鷹野三四を筆頭にする敵方の駒は圧倒的だった。
過程など慰めにしかならないくらいに、圧倒的に私たちの駒をすり潰し、再びゲーム盤を振り出しに戻させた…。
でも、……私たちは負けたけれど、心から屈服はしなかった。
なぜなら、……ようやく戦うべき、最後の相手を見つけ、その戦い方を知ったのだから。
今の駒の数では、勝てない。
信じる力や、意思の強さが、足りないから。
でも、私と羽入は何度もやり直す。
あなたも、ここに至るまでに何度か挫けそうになったでしょう…?
でも挫けず、私と共にここまで辿り着けた。
もう一息だから、…がんばろう。
最後のカケラを、作り出そう。
それはとても幸せな最高のカケラだから、次のカケラが必要ない。…だから、最後のカケラ。
さぁ、駒を集めよう。奇跡を集めよう。
あなたの願いと、思いと、夢を、どうか私に託して…。
◆祭囃し編のカケラ(解除条件:前述7つのシナリオカケラの終了)
※7つのカケラが必要です。
7つのカケラを様々な奇跡で結び集め、
…このカケラの中に、私たちの最後の運命が詰まっている。
でも、……覗く前に、少しだけ待ってほしいの。
この中にある運命は、私たちが覗けばそれで決まってしまう。
……猫を詰めた箱の話をしたことはあったっけ?
箱の中の猫は生きているか、死んでいるか。
…開ければわかることだけど、開けるまではわからない。
生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。
つまり、中身のわからない開ける前の箱の中には、
そして、開けて真実を知った瞬間に、ありえない方が消えてしまう。
…このカケラの中身も同じこと。
この中には、私たちの望む未来と、鷹野の望む未来が同時に存在している。
それらは相反していて、互いの未来を否定し合っている。
覗けば、片方の未来は、消えてしまう。
もし、……私たちの駒がこれ以上なく充分に揃っているならば、
…でも。
私たちはゲーム盤の上に、これまでと同じ駒しか、まだ並べていない。
そして、その条件でのゲームもやはり、鷹野たちの圧勝だった。
すでに皆殺し編のカケラで試している。
まだ、…駒がいるのだ。
強い力を持ち、ルールYを打ち砕いてくれる強さを持った駒の協力が。
……その駒が得られるまで、
でも、そんな駒をどうやって得るの? 今まで一度も得たことがないのに?
……それを得るには、もう一度だけ、
奇跡の力が、いる。
◆カケラ屑(解除条件:、祭囃し編のカケラ)
※最後の奇跡が、必要ですか?
………うん?
これは、
こんな小さなカケラ屑、今まで気付かなかった。
カケラも時にはひびも入るし、割れたり欠けたりもする。
……私たちが絶対だと信じる運命にも、時にひびが入るのと同じにね。
欠けた運命は、もはや別の運命だ。……ならば、これは本来は何に欠けていた運命なのか。
私はそのカケラ屑を拾い、
……そうして、最後に手に取ったカケラが、
このカケラは元から歪な形をしていた。
…その、歪な部分に
……………一体、このカケラ屑がくっつくと、
どんな、奇跡が起こるというのか…。
世界がぐにゃりと歪む。
…一度割れたものをくっ付けなおしたのだから、断層で屈折が起こるのだろう。
…でも、覗けないわけじゃない…。
そこは、昭和はすでに60年を過ぎている。
………古手梨花たちの物語が、いつもの通りに昭和58年6月の袋小路に終わった後のこと。
ピー、ザザ! ノイズ交じりの着信音がイヤホンに入る。
「全班へ。室長からありがたいお言葉があるぞ、傾注しろ。」
「ご苦労さん! 所轄署は15分くれることになってる。秒で制圧しろッ!! ひとりたりとも逃がすなッ! ターゲットの1人は外交官だ。警察だと悟られるな、有無を言わせず身柄を確保しろ! ただし間違っても危害を加えるな! 外交問題に発展するぞ!」
「外交官特権で地元暴力団と癒着している外道どもだ。ヤクで荒稼ぎし、借金のカタにはめて人身売買にまで手を染めてやがる。現地大使館の話じゃ被害者には10代未満の少女まで含まれてる。」
「……糞どもが。」
本当ならただの暴力団絡みの事件だ。
……だが、某国の大使館員が関わっていたことがわかった時点で、事態は極めてややこしいことになった。
外交官には特権があり逮捕できない。
…だが、そいつが黒幕のひとりで、某国犯罪組織と日本の暴力団組織の橋渡しをしている大物なのは間違いない。見逃すことは到底できないのだ。
国外に追放するのは容易だろうが、それではトカゲの尻尾切りにしかならない。
大使館に対し協力依頼をしたが、大使館側はこれを拒否。その時点で事態は膠着に陥った。
そんな中、自衛隊のレーダー技術、ミサイル技術に関する機密が売買されるとの情報が入った。
海外への機密漏えいの段階に及んで公安部は強硬解決を決意。
…そして本日、その作戦の決行が決まったのである…。
「正面は階段前に2人。地下入口に2人。裏口に4人。全員帯銃の可能性大!」
「普段より2人多いな。」
「あの人にとっちゃ、2秒余計にかかるだけさ。…容赦ねぇからな、あの人。」
「聞こえるか、赤坂! お前が斬り込み隊長だ。用心してかかれ! よし、開始しろ!」
「……赤坂了解。作戦を開始する。」
繁華街の中、ふらりと曲がり角より現れたのは、…赤坂だった。
だが、かつて梨花と出会った頃のような初々しさはまったくない。
…赤坂が、地下クラブの入口にやって来ると、外国人的なイントネーションで護衛が制止してくる。
「ココ、
「…………………。」
赤坂が無言で懐より会員証を取り出す。
…偽造の困難なタイプで、1枚しか確保できなかった。だから、先陣を切る赤坂に託されたのだ。
会員証を持っていることを確認すると、護衛は行って構わないと顎で示した。
「……赤坂さん、地上護衛突破。地下階段を下りてます…!」
「頼むぞ…、赤坂…。」
地下階段の奥には、高級クラブを思わせる装飾過多な扉があった。
毒々しい色のカクテルライトが照らし出し、そこが魔窟の入口であることを無言で物語る。
「…いらっしゃいませ。会員証を拝見いたします。」
「…………………。」
入口前の護衛が会員証を受け取り、それを壁に付けられたカードリーダーに通す。
……ブー。
エラー音。…赤坂の額に汗が浮く。
…だが護衛は、自分のカードの通し方が悪かったのだと思い、二度三度、カードを通していた。
……ブー。……ブー。
「………赤坂さん、手間取ってます…。」
「まさか、カードの認証が変えられたか…?!」
「……赤坂にトラブルが発生したら作戦変更するぞ。赤坂の安全を速攻で確保しろ…。」
もう1人の護衛が次第に表情を険しくしていく。
右手が、ジャケットの内側に差し込まれ、…恐らく、銃に手を伸ばしているに違いない。
……ピンポーン。
緊張の沈黙に似合わない軽やかな音がして、カードリーダーに緑のランプが点る。
それに呼応して、ガチャリと扉のロックが外れる音がした。
「お待たせしました。どうぞお通りください。」
護衛は懐の手を戻し、重い扉を開いた。
中からは騒がしい音楽と明滅する色とりどりの灯りが溢れ出して来る…。
扉の内側から、正装した護衛が姿を現し、うやうやしくお辞儀をして歓迎した。
…今この瞬間、赤坂の最初の目的は達せられた。
これこそが全班突入の狼煙であり、…同時に、赤坂が単身、敵地に足を踏み入れていて、極めて危険な状態に身を置いていることも示す。
この扉が、突入時の最大の障害だったのだ。
オートロックなので、閉まれば自動的に施錠されてしまう。
堅牢な扉で外から開けるのは困難を極める。
……誰かがこの扉を開き、突入班突入までの十数秒間、この扉を確保していなくてはならないのだ。
そして、その大任は今や赤坂にしか任せられないと室長は判断したのだ。
「……赤坂。入口確保。」
『作戦開始ッ!!!』
赤坂が入ったビルの向かいは、テナントの入れ替わりなのか、作業用のトラックが2台ほど停められていた。
だがそれは偽装だった。
…1台の荷台の扉が開き、中から数十人の私服捜査官が踊り出す!!
もちろん、裏口でも同じことが起こっていた。
地上の護衛がすぐに異常事態に気付き拳銃を抜いたが、すぐ近くに一般人のふりをして隠れていた捜査官が背後より襲い掛かり、瞬きする間に制圧してしまう。
そして数十人が無言のまま、地下階段に一気に押し寄せた。
…この狭い地下階段も作戦の障害だったのだ。
そしてこの光景は監視カメラによってセキュリティに見られている。数秒を待たずに突入はバレるのだ。
セキュリティがボタンを1つ押せば、ロックは外部から解除不能になる。
だからこそ、突入前に扉を確保する必要があったのだ。
大勢が階段を駆け下りてくる異常な足音に、赤坂の両隣にいる護衛は気付く!
出迎えていた正装の護衛も異常事態に気付く…!
3人の護衛の意識の注視が、…赤坂を逸れて、後方の階段へ。それを呼吸で感じ取る赤坂……。……………赤坂は、少しだけ深く息を吸い込むとそこで呼吸を止めた。
停止した空気の世界で、奇妙な姿勢で両脇の護衛が宙に浮かび上がる…ッ!!
赤坂は自分と彼らの立ち位置を理解していた。だから彼らを目で確認する必要がまったくなかった。…だから、にもかかわらず!/
左右の護衛の延髄にミリ単位のズレもなく正確に拳を叩き込んだ。その拳は鍛え上げられ、悪に対して一片の容赦もない、まさに徹甲弾並の破壊力を備えていたのだ…!!
その両腕を、打ち抜いたのと同じ速度で引き戻す…!!
それが明滅するライトに浮かび上がらせられたその様は、…異様の一言…!
その光景を真正面で見ていた男は、何が起こったか理解できなかったに違いない。
二人の護衛が歪な姿勢で宙に浮き上がり、目の前に今、立っていたはずの男が瞬時に姿勢を低くしていて……、
正装の男は天井に叩きつけられ、凄まじい速度で床に叩きつけられる!
彼は後に流動食を食べながら必死に思い出そうとするだろう。自分の顎を砕いたのは、拳だっけ膝だっけ? それすらも理解できずにッ!!
その男がうまい具合に床に転がり、扉の間に入ってくれたので、赤坂はここで扉を押さえて開けっ放しにしておく必要がなくなった。
「……赤坂、突入する。」
「ま、待て!! 後続と合流しろッ!! 赤坂ッ!!!」
店内は騒がしい音楽の海の中であったとしても、入口で起こった不穏な気配はすぐに感知されていた。
赤坂の怒号に、すぐに店中から悲鳴が起こる。
罪の自覚のない自称小市民たちは、自分が蚊帳の外であることを示そうと床に這いつくばった。
だが、店内の護衛たちは一斉に赤坂に向かい対峙する!
そんな中、数人の護衛に庇われるように裏手へ逃げる一団がいた。
赤坂はそこで、初めて停止していた呼吸を一度だけ許し、再び息を止め……狼の如く疾駆するッ!!
テーブルの上へ飛び上がり、一本が月収より高い高級酒や万年氷から削りだしたロックの入ったグラスを蹴散らしながら!!
ボクサー崩れのような外国人用心棒が、無謀にも赤坂の前に立ち塞がる。そして聞き取りづらいスラングで挑発を口にして掛かって来いというような仕草をした。だが、赤坂はそんなのは見ていなかったし、どうでもいいことだった。
その男は、赤坂の拳から繰り出される一撃に対し、ガードを間に合わせたことだけが見せ場だったろう。でも、そもそもガードになんかなってない!! 赤坂の鍛え抜かれた豪拳は、ガードの腕ごと骨ごと打ち抜かれるだけなのだから!!
腕が奇妙に歪み、悶絶の表情を浮かべた次の瞬間、赤坂の左腕が顔面にブチ込まれるッ!!/
赤坂の利き腕は右だ。だから男は感謝した方がいい。眼底骨折程度で済むのだから!!
その背後より組みかかろうとした男は、多分、それでもチャンスだと思ったに違いない。
どんな腕っ節のある男だって、背後を襲われればイチコロなんだ…!!
だって、意識を正面に集中させているんだから、背後から襲う自分は想定外のはず……!!!
でもそれは赤坂が正面の男に集中しててくれればの話であって。…赤坂が正面の男など眼中になかった場合に限り、正しくはないッ!!!
だから赤坂は充分に距離も間合いも理解していた。……今日までのいくつもの修羅場が教えてくれていた。許しがたい悪人たちが、数に飽かせて襲い来る時、背後を襲ってくるタイミングと間合いを充分に体で覚えていた…!!
それは正面のボクサー崩れを左の正拳で打ち抜いた姿勢からの一連の流れ。
その左が引き戻される流れから左足が美しいまでの軌道を持って、背後の男を食らう龍となって襲い掛かる!/
形容し難い鈍い音がして鼻骨をへし折ったことを教えた。……でも、赤坂はそんなことはわかってるッ!
そのまま、姿勢は流れるように捻れ、右の拳が唸りをあげて側頭部にブチ込まれるッ!!!/
無様な男は壁に叩きつけられ、
そこで赤坂はもう一度だけ呼吸を許す。
その時、明滅するライトの中に浮かび上がった、鬼神のような表情に、全部の護衛たちは思った!
あぁ、こいつの進路だけは遮っちゃだめだ!!
自分たちは人間の敵と戦うように言われてる。人間じゃないヤツと戦うのは給料の範囲外だッ!!!
そこへようやく後続の、赤坂の仲間たちが一斉に店内へ雪崩れ込んだ。/
ようやくという表現は彼らのためにも妥当ではない。
…第一、ようやくも何も、一瞬なのだ。
赤坂が5人を沈黙させた時間は、彼にとっての2呼吸の間でしかなかったッ!!
「全員、床に伏せて頭の上で手を組めッ!! 抵抗すると命の保障はしない!!」
赤坂の獅子奮迅の活躍で、もう完全に流れは出来上がっていた。
その圧倒的な迫力に、首魁たちは皆、逃げ切れないと知り観念して床に伏せるが、中の一人は開き直るように笑った。
「私に触れる、良くないです! 外交問題なりますよ!」
だが赤坂はその襟首を掴み上げると、コンクリートの壁に乱暴に叩き付けた。/
「あ、あなた警察ですか。不逮捕特権あります!! 私は外交官です!!」
「そりゃよかったな。給料いくらだ。」
龍のような咆哮と共に赤坂の右拳が男の頭部右脇の壁に打ち込まれる!!
間髪いれずに左拳が頭部左脇へ打ち込まれ、瞬きを2つも許さないわずかの瞬間に7発の連撃が頭部左右スレスレに叩き込まれ、亀裂すら浮かべる!!
それらの破壊力は、たったの一撃でもこの男の頭部を砕きかねないのだ!
失禁しかねないくらいに呆然とした男は、力なくそこへ崩れ落ちる。
「…は、………はひぃいぃぃぃ…………。」
「……赤坂。ターゲット確保。」
後の検分で、公安部が確認していなかった隠し通路からの逃走ルートが発見される。
そこにはソ連製の軍用機関銃もあり、赤坂が店内で制圧していなかったら、取り逃がしていた可能性、もしくは双方が死傷者を出す大規模な銃撃戦に発展していた可能性が高い。
誰にも発砲させずに瞬時に制圧できたのは、彼の手柄であることは間違いなかった。
「……確保しろ。急げ! 地元警察が来るぞ。全員を荷台に押し込め!!」
警察が急襲したことにはできない。外交官が絡んでいるのだ。
表向きは、ヤクザの抗争に巻き込まれたことを装っている。
価値のない連中は、適当なところで放り出し、ターゲットだけは一般警察へうまいことやって引き渡す。
もっともその前に、たっぷりとゲロしてもらいたいことがあるが。
この外交官を名乗るブタは、別室が水面下交渉に使うだろう。
ブタが犯罪組織と密接に関わっている証拠はここに充分あるのだから。
体面上、ノングラータを食らいたくない大使館側はこいつを切り捨てるだろうが、それ以上は別室の仕事だ。俺たちの仕事は一般警察には踏み込めない、社会という家具裏の隙間掃除までなのだから。
「赤坂は無事か?! 応答しろ赤坂!!」
「……こちら赤坂。撤収中。」
「また無茶をしやがって…! あとで室長にこってり絞られろ!」
「やっぱり鬼だな赤坂さんはよ。…秒で5人撃墜だぜ?!」
「…ありゃあ絶対、空手の域を超えてるぜ! 赤坂さんの鉄拳はすでに凶器だね…。」
「しかし連中、銃を抜かなかったのはラッキーだったよな。…赤坂さん、躊躇ねぇからな。蜂の巣にしてたかもしれないぜ…。」
「……聞こえてるぞ。人を殺し屋みたいに言うな。俺は悪党に容赦しないだけだ。」
ひっ捕らえたブタどもが、単に法を犯した犯罪者なだけでなく、…人間として許しがたい数々の悪行を重ねていることを彼らは充分に理解していた。
…赤坂の鉄拳の重みは相手の罪の重さに比例する。
巨悪であればあるほどに、如何なる怯みもなく相手を打ち砕く!
「ブタどもを荷台に詰め込め! 赤坂、急がせろ! 所轄署に通報が入ってるぞ!」
「……赤坂了解。聞こえたな、撤収を急げ。」
「りょ、了解! あー、主任どうぞ。要治療が5名! 手配をお願いします!」
今や赤坂は、かつての初々しさなど微塵も感じさせない。
雛見沢を訪れた当時からは想像もつかないくらいに逞しいエースに成長していた…。
汗とカビの臭いが染み付いた薄暗い道場に、道着姿の赤坂の姿があった。
その道場は、雑多な繁華街の朽ちた低層ビルの一室にあり、広くはないし、トレーニング器具が充実しているわけでもない。
ぱっと見た限り、赤坂ほどの者が師事するに足りるほど立派な道場には見えなかった。
門下生も少なく、稽古に勤しんでいるのは赤坂を含めて、ほんの3〜4人しかいない。
……でも、それでも赤坂が選んだ道場だった。
赤坂にとっての空手は、敵を打ち砕く武器であることに違いないが、…今の赤坂はさらに別の境地を求めていた。
それを求めるには、喧嘩っ早い若い門下生が大勢いる実戦形式の道場は肌に合わなかったということだ。
いくつかの道場を渡り歩き、最後に至ったのが、このおんぼろ道場だったのである…。
時折、聞こえるその重い音と鎖がガチャリと鳴る音は、赤坂が打つサンドバッグが軋む音だった。
…むやみやたらに打ちつけているのではない。深く思案し、練りに練り上げてから、
打つ!/
それは音というよりは、深く低い振動。
汗の粒が飛び散り、埃の浮かぶ空気がぶわっと跳ね上がり、その重みを暗に語る。一撃必殺を体現した見事な正拳だった。
だが、赤坂はどこか納得が行かないらしい。
薄く目を瞑り、……力の込め方や呼吸の深さ浅さを整え、時にはセミの鳴き声を聞く間すら与えるように、
素人が見れば、それはまるで休み休みやっているように見えるのだろうが。
…それを横目に見ながら自らもトレーニングに励む門下生たちは、その練りこんだ一撃に畏怖を超えた尊敬の念すら感じているのだった…。
「……赤坂さんって、警察に勤めてるって噂だぜ…?」
「マジかよ…。あんな人が警官やってるなら、俺は悪いことする気なんかおきねぇぜ…。」
「しかし、……赤坂さんも集中力がすげぇよな。あの人、疲れるってことを知らねぇぜ?」
赤坂は非番の日は、朝の一番から道場にやって来る。そして、黙々といつまでも稽古に勤しむのだ。
それはもはや、肉体のトレーニングというより、精神のトレーニングの領域に違いない。
その途切れぬ集中力こそ、赤坂の強さの秘密だと彼らは見抜いていた。
だが、それを実践するのは簡単ではない。
…人は生きている限り、無数のしがらみや雑念に囚われる。
それから全て自分の精神を解き放つのは、武道の次元を超え、悟りの境地にすら踏み込むかもしれない。
人はその境地を得るために、様々な道を模索してきた。
…そしてわかったのは、それに至る道は一つではないということ。
……どんな道であっても、極めれば至れる、ということなのだ。
そして赤坂が選んだ道が、空手だったということだった…。
「噂に聞いたんだけどよ…。あの人、奥さん死んじゃってるらしいんだよ。それを忘れるために空手を始めたって噂だぜ。」
「あれ? 俺が聞いた話は違うぜ。…任務中に、女の子を救えなかったとか何とかで、それで自分の無力さを痛感したとか何とか…。」
「………おい、聞こえてるぞ。人の噂話なんかしてないで稽古をしろ。」
「「「お、押忍ッ!!」」」
その時、小さな電子音が聞こえた。誰かの時計が昼を伝えたのだ。
「あ、赤坂さん。俺たち、弁当買ってきますけど、赤坂さんのも買って来ましょうか?」
「………助かる。何でもいいぞ。頼む。」
赤坂にとっては、弁当を買ってきてもらえることより、彼らが出掛けて、道場内が静かになることの方が嬉しかったかもしれない。
彼らが靴に履き替え、ぱたぱたと出て行くと、道場はシンと静まり返るのだった…。
「…クソ。人の話なんかしやがるから、集中が途切れちまったじゃないか。」
だが噂話が聞こえた程度で集中が途切れるのでは、それは稽古が足りないということだ。
……まだまだ稽古を重ねなければ、無我の境地には至れない。
気を取り直し、サンドバッグに拳を打ち込むが、その音はさっきまで聞こえていた音に比べると一際軽く、その拳から重みが抜けてしまっていることは明白だった。
赤坂は、一度休憩するべきだと悟り、スポーツバッグからタオルを取り出して、床に座り込んだ。
セミの声が、体に染み込んで行く。
窓は開いているが、この道場は風が抜けない構造らしく、大して風は入ってこなかった。
それでも、今の赤坂にはわずかの涼風を感じることができるのだった。
………赤坂が空手を始めた最大の理由は、
もちろん、あの誘拐事件の時、犯人との格闘で遅れを取ったことも充分動機だったのだが、それ以上に大きかったのが雪絵の死の痛みだった…。
雪絵は、鹿骨市へ出張している間に、…病院の階段から転落して死んだ。
その悲しみがどうしも拭えなくて、空手の門を叩いたのだ。
だが、……昭和58年6月。
雛見沢大災害が起こった時。……私はとても重要なことを忘れていたのに気付いた。
それは、雪絵の死を、ひとりの少女に予言されていたこと。
そして、……その予言と引き換えに少女がした、自分を助けてほしいという願いだった。
…雪絵の死は事故だった。
どうしようもないことだったと割り切ることもできたかもしれない。
だが、あの少女、古手梨花の死は違う。
彼女は自分が殺される5年も前にそれを知っていたのだ。
それを知った途端に、…私は深い悔悟に苛まれた。
古手梨花という少女は、私の人生の分岐点だったのではないか。
私が、彼女の予言を信じ、何かの行動を起こしていたら、雪絵は階段から転落することなんてなかったんじゃないのか。
そして、正義の心を全うするために警官となった自分が、ひとりの少女の助けに気付くこともできず、少女を取り巻く陰謀を、5年もの猶予がありながら見過ごし、殺してしまったのだ。
あの、大臣の孫の誘拐事件で訪れた雛見沢には、
そこで私が、……もう少し少女の言葉に深く耳を傾けていたなら…。
雪絵は死んでいなかった。
そして、古手梨花を助けに駆けつけることができていた。
…その二つが、
大石氏から聞かされた、雛見沢村連続怪死事件は、雛見沢大災害によってうやむやにされてしまったが、…明らかに何か巨大な陰謀を感じさせる奇怪な事件だった。
それに挑むには、数々の複雑事件での経験と、どんな巨悪にも単身で挑める研ぎ澄まされた強さがいる。
……私は今、それを手に入れようと仕事と稽古に明け暮れているが…、
終わってしまったことなのだから…。
それを悩んでいた時、この道場の師範に諭されたのだ。
終わってしまったことはどうしようもない。…ならばせめて。まったく同じことがもう一度起こった時、次こそは必ず救ってやれるよう、自分を鍛え上げるのみだと。
全ては遅い。もう終わってしまっている。
雪絵は事故で死に、雛見沢はガス災害で全滅。…そして、梨花ちゃんは生きたまま腸を引き摺り出されて殺された……。
クソ……!!!
雪絵の死に心を奪われ、救えたかもしれない少女の助けに耳を傾けられなかった…!
いや、耳を傾けていたなら、雪絵の事故だって防げていたかもしれない…!
…諦められない…、諦めきれない…!! くそぉおぉ…ッ!!!
後悔に頭を掻き毟る赤坂が見上げた先には、……道場を見守る神棚があった。
赤坂に、神仏を敬う気持ちはもちろんあるが、苦しい時に神頼みをしたことはない。
……そんな赤坂が初めて神に祈りたいと思った。
自分に出来ることなら祈らない。…自分に出来ないことだから、祈った。
それは、…とてもとても都合のいい願い。
その願いが許されるなら、世界中の大勢がきっと願うに違いない願い。
「……もう一度…。もう一度、あの時に戻らせてくれ…。そうしたら、
…その時、赤坂は、ふっと全身が軽くなって…。
いや、平衡感覚を軽く失うような感じになった…。まるで貧血か何かを起こして倒れる時のような感じ。
激しい稽古の後に、突然大声を出したものだから、頭が酸欠にでもなったのか。
なのに、なぜか神棚から目が離せない…。
「……ありがとう、赤坂。…あなたの思いが私たちにはとても必要だった。」
…………それは、酸欠の時に見る幻なのか。
赤坂は見たことのない、会ったことのない誰かに話しかけられているような気がした。
「私たちが奇跡を願い、
………彼女が何を言っているのかわからないけれど、
「……赤坂。もし、あなたも望んでくれるなら、…あなたに奇跡を。私たちに奇跡を。……それは欠けたカケラを結び合わせ、より大きな大きなカケラを生み出すきっかけになる。……あなたのたった一つの決意が、全員の思いや運命に大きな影響を及ぼすこともあるのだから。」
「あの時に、
「うぅん。そんなこと、私にはできないのです。……私にできるのは、気付かせることだけ。……1つのカケラだけでは学べないことを、他のカケラで学んだことを、気付かせてあげるだけ。…だから、この欠けたカケラをあるべきところへ戻すだけ。……それでもきっと大きな奇跡。…もっとも、その奇跡を、あなたはきっと気付かないだろうけれど。」
……ありがとう、赤坂。
私のことを覚えていてくれて。
あなたにどれだけたくさんの時間、助けを求めたのかわからない。
そしてやっと届いた願い。
だから、もう一度だけ言うわ。
……私を、
私たちを、助けて。
;◆祭囃し編のカケラ
……長かった。…本当に長かった。
大丈夫…? まだ、あなたの精神は生きている…?
これで、私たちが欲しい駒は全てゲーム盤に並んだのかしら。
昭和58年6月を巡る、運命のゲームで、鷹野たちに勝てるだけの駒が並んだのかしら。
……私は、多分、
あとは、羽入。…あなただけね。
あなたが駒として登場できる時間は、もう相当に制限されている。
でも、ゲームに登場できなくなったわけじゃない。
………さぁ、始めましょう?
この日のために、数百年もの時間を賭けたのだから。
;◆お子様ランチの旗
「遊びに行ってくるねーーー!!!」
少女の元気な声が家中に響き渡る。
貧乏長屋なのだから壁は薄い。
その元気な声はお隣にも響いていたが、微笑ましい子供の元気な声に文句を言う無粋な人などいるはずもない。
「美代子。お父さんたちデパートへ行こうと思うんだが…、」
その声は、原っぱに新しい秘密基地を作り、早くみんなとそこで遊びたいと胸をいっぱいにする少女には、届いていない。
父は、少女が家族とデパートへ行くのを楽しみにしていて、両親だけで出掛けてしまうとヘソを曲げるのを知っていたから声をかけたのだ。
…そして、少女にお子様ランチの旗を集める趣味があって、あと1本で20本が揃うらしい、ということも。
少女は、お子様ランチの旗に、幸せの願掛けをしていた。
20本が揃えば、きっと何かの奇跡が起こり、幸せになれると、
仕方ない。
お土産に、お子様ランチの旗を持ってきてあげよう。
大したものじゃない。レストランの人に、頼むよと言えばわけてくれるだろう。
その日、……鉄道のダイヤはちょっとした信号事故で、乱れていた。
寸秒を争うダイヤの遅れを取り戻そうと、運転手が、いつもブレーキをかける場所では少し遅く、いつも加速する場所より少し早く、
田無家に自家用車などあるわけもない。デパートへは電車で行く。
スキップしながら友人の家を目指す少女を、
少女は一目で、この近くの人ではないなと思った。
この辺りはご近所付き合いの深い貧乏長屋だ。ご近所さんの顔はみんな知っている。
だから、知らない人がいたなら、…それは新しい郵便屋さんか、…さもなければ近道ができると勘違いして迷い込んだ余所者かのどっちかだった。
女は少女に言った。
「……生きたい? ………死にたい?」
それだけを聞いたなら、普通の人なら、おかしな人だと訝しがるだろう。
だが、少女には、まだそれを真に受けるだけの純粋さがあった。
だから少女は即答する。
「生きたい!」
「そう。ならお行きなさい。どうせ行っても友達は留守だけど、それでもお行きなさい。」
「……………留守なの?」
少女は、この不思議な女がどうしてそんなことを知っているのか、不思議に思った。
女が立ち去ろうとするのを呼び止める。
生きたい、と答えたことへの答えがこれなら、…ちょっと不気味だけど、もう一方の答えだと、どういう答えが帰って来るのか、子供の無邪気さから興味を持った。
「なら、死にたいだとどうなるの?」
「お子様ランチの旗が、もう1本手に入るわ。」
「……え!! あ、ずるい、私に内緒でデパートに行く気だ!! ずるいずるい!」
もう少女は一目散。今来た道を駆け戻ろうとする。
「いいのね……? ………後悔は、
不思議な女は、念を押すようにそう言う。
「何で後悔するの?」
「…………教えないわ。…意地悪だから。」
「……ふーん…。」
少女は、何かのなぞなぞで試されているのかと思い、あれこれ思案したが、
そして、……なぁんだ、どうでもいいことだとポンと手を打って言った。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。」
「どうして大丈夫なの?」
「何があっても、お父さんとお母さんが一緒だもん。」
「……………………………。」
それを聞き、女は道をあける。
少女はぺこりと会釈をして家へ駆け戻った。
そこには施錠をして、まさにこれから出掛けようとする両親の姿があった。
少女はそれに飛び付き、自分も行くとせがむ。
……少女は、家族と一緒にデパートへ行けることになった。
そして、家族3人で駅へ行って、
運転手は取り返せない時刻表の遅れに焦りを持っていて、
今日は揺れるね。そう少女は、座席の上に膝立ちして外を見ながら言う。
母親は、危ないからちゃんと座りなさいと注意した。でも少女は舌を出す。
電車の中は、その方向に大きく傾き、大勢の人がそちらに押し付けられて押しくら饅頭になった。
その窮屈さに、呻きが聞こえる…。
そして、
少女と両親は、両手一杯に買い物のペーパーバッグを抱えながら、満天の星空の下を、帰宅した。
鍵を開け、真っ暗な家の中に灯りを点し、……少女は荷物を玄関に置くと、自分の部屋へ駆け込んだ。
そして、……学習机の引き出しを開け、
……一度は閉めた引き出しをもう一度開け、少女は畳みの上に、
それは、色々な国の国旗を模した、
日の丸、アメリカ、イギリス、これはえぇとどこだっけ…。三色旗はわかりにくい…。
それから数えるように並べ直す。そして口で数えながら置いていった。
そして少女は嬉しそうに踊りだす。
念願の、20本の旗が揃ったからだ。
これを揃えるのにどれだけの時間が掛かったことか。
その苦労は少女にとって大きなもので、それを乗り越えて達成した偉業の喜びにしばし躍り上がった。
これだけ苦労して集めたのだから、きっと何かいいことがある。
20本集めたら、きっと幸せになれるって願掛けをした。
だからきっと今から何か素敵なことが起こるんだ…。
少女はわくわくしながら待つが、…魔法のランプじゃあるまいし、ドロンと魔神が現われて何かをかなえてくれるわけもない。
今夜じゃなくて明日にいいことがあるのかもしれない。少女は気長に待つことにする。
何しろ、20本も集める偉業を成し遂げたのだ。
きっときっと、素敵な幸せが訪れる。
きっときっと、素敵な奇跡が訪れる。
あるいは、悲しい不幸を退けてくれるお守りになるのかもしれない。
少女は20本の旗を再び引き出しに戻す。
そして、歯を磨いて寝なさいという母親の声に、洗面所へ駆けて行くのだった…。
いいんじゃない? こういうのも。
奇跡に、前借りがあったって。
さぁってと、次は何をして遊ぼうかしらね。
何しろ遊べるカケラはいくらでもあるんだから。
何? あなたも遊んでみる?
くすくす、面白いわよ。神さまにでもなった気分がするものね。
悟史が一緒にいる世界とか、園崎姉妹が入れ替わってない世界とか。
沙都子の両親や、梨花の両親が健在な世界はどうなってるんだろう。
あぁ、こんなのどう?
赤坂が鷹野に籠絡されて敵側なの。あはは、面白そう。
個人的には、あの鷹野が富竹にゾッコンな世界とか興味あるんだけど。
圭一を色々な女の子にくっつけて遊んでみるのも面白そう。私、修羅場、大好きだもの。くす!
さぁて次は何をして遊ぼうかしらね。カケラはいくらでもあるわよ。
ねぇ、いくつかいる? あなたは何して遊びたい?
■禁宝「鬼狩柳桜」
禁宝「鬼狩柳桜」。
古手神社、祭具殿に納められていると伝えられる至宝。
神代の昔。
この地が、人と鬼の混在した「混沌の世」であった時、混沌の根源であった鬼神を討ち倒したと伝えられる宝刀である。
その存在を見た者はこの千年間、存在しない。
伝説では、祭具殿に奉納されているオヤシロさま御神体に封印されているとされ、その構造上から、信仰が続く限り永遠に封印を解くことのできない禁じられた祭具と記されている。
また、その存在はいずれも固く封印された古手神社の禁書にしかなく、その存在を知る者は、歴代古手家頭首以外にはこの千年間、数えるほども存在しない。
複数の禁書の伝えるところによれば、その形状は、枝を垂らす柳の如しという。
その形状を想像した数人の古手家頭首が墨絵を残しているが、どの形も一致せず、想像の域を出ていないことを物語っている。
伝説によれば、桜花という名の穢れなき一人の乙女が、混沌の世の根源を討ち倒すべしと天啓を受けたという。
その根源である鬼神は、人の剣にも、鬼の剣にも殺すことはできない。
人の剣でもなく、鬼の剣でもない、剣。
両者の交じり合った者にしか扱えない剣でしか、討ち取れない。
(※雛見沢の先祖が半人半鬼の血を引くとの記述は枚挙に暇がないが、両者の血を引くと記された最古で最初の人物がこの古手桜花(???年〜???年)と考えられ、この記述はそれを伝えるものだと考えられている)
天は桜花に、一振りの宝刀を託す。
その宝刀はまるで柳の枝の如し。
その枝葉は三つに分かれ、天、地、人の三つの調和を示し、天、鬼、人の三者の融和を象徴していたという。
桜花は啓示のあった鬼神の潜む沼のほとりへ向かい、宝刀にて鬼神を討ち倒した。
(※討ち倒した、の記述が禁書ごとに非常に曖昧である。成敗したとも、退散させたとも、屈服させたとも伝えられ、鬼神のその後については不明な点が多い。最古の書物には、宝刀にて鬼神の角を激しく打ちつけた、という記述があるが、別の書物にそれはない)
鬼神を打ち倒した宝刀は奉納され、後に「鬼狩柳桜(おにがりのりゅうおう)」と名付けられた。
だが、桜花はこの宝刀を神社の奥深くに封印し、その存在を永遠に禁じたという。
(※鬼神であれど、神の身と人の身を結んだ刀は、すでにこの世のものではなく、地上に存在すべきものでなかったため、人の世から遠ざけた、という説もある。だが、桜花こそが鬼神の娘であり、親殺しの剣を禁じたのではないかという異説もあり、この記述がその根拠のひとつとされている)
原始のオヤシロさま崇拝においては、オヤシロさまは鬼神のことを指したのではないかという説もある。
混沌の根源であり、全ての諸悪と不和の根源。
それを崇め慰めることで、人の世への再臨を防ぐというのが、原始崇拝の根底とも考えられている。
(※ある種の邪神崇拝か。加護を求めるのでなく、祟りを治めるために祀るという考え方は今日のオヤシロさま崇拝にもややつながり、近代崇拝の言うオヤシロさまの恩恵、良縁や縁結びを司るという守り神の姿とはやや遠ざかる)
人の不和は全てオヤシロさまの仕業であり、人の世には鬼はなしという、人間性善説の考え方。
ここから神話は、人と鬼の融和という、今日にもっとも広く知られる形に少しずつ姿を変えていく…。
だが、この時代に、オヤシロさま信仰の原点を記した書物や、古手家開祖の書物の多くが禁書となり、封印されていく。
慈愛の存在として神格化された後世のオヤシロさま像と、諸悪の根源という原始のオヤシロさま像が矛盾し、教義の説明が困難になったためと考えられる。
また、禁書を信じるなら、古手家は自らの手で親である鬼神を討ち取った親殺しの一族であり、その血は深く深く呪われていることになる。
それらが全て真実ならば、今日の信仰は、古手家開祖の興したものとは異なることになる。
数百年前の古手家頭首のひとりが、禁書の余白にこう記している。
伝説の宝刀、鬼狩柳桜は古手家と人の世の罪の象徴である。
諸悪の根源を他者に求め、それを討ち取ることでしか罪の禊を知らなかった混沌の時代。
古手家開祖(注1)は、混沌の元凶を全て背負いて我が子に討たせ、この地を混沌より解き放った。
(注1:古手家開祖とは一般に古手桜花のことを指すが、稀に桜花の討った親を指す場合が見受けられる。古手家開祖=鬼神、との考えは古手家の最大の禁忌のはずであり、それでもなお、そう捉えていた頭首が存在していたことは意義深い)
古手家が、人の世が、再び罪を他者に求める愚を犯し、鬼の世に戻ろうとする時。
信仰は消え、御神体は砕け散り、その身に封じた鬼狩柳桜は再び、我らの前に姿を現すであろう。
それは、古手家が忘れてしまった罪の記憶を、再び蘇らせるための再臨なのである…。
鬼神は伝説上の架空なのか。それとも、実在の人物なのか。
非常に稀な例として、生まれつき角を持った人間が生れ落ち、鬼神の子と呼ばれ蔑まれたことがあったのではないか。
これをやがては読むであろう古手家末裔よ。
神話を伝える禁書は数あれど、その記述にはあまりに違いが多い。
しかし、だからといって煙にまかれてはならない。
どんなに記述が違おうとも、それらが伝えようとしていることはたったひとつしかない。
鬼狩柳桜を永遠に禁じた、古手桜花の心を探れ。
それこそが、古手家頭首が悟るべき境地なり。