書斎の中は積み上げられた書物と資料でいっぱいだった。
それに埋もれた席に座り、一心不乱に書き物をするふくよかな老人と、絨毯の上にいっぱいに広げられた資料を分類する少女の姿があった。
一見すれば少女のそれは、いたずらかお遊びのように見える。だが、その表情はとても真剣で、単なる遊びではないようだった。
「おじいちゃん。資料の分けっこができたよ。」
「うむ。ありがとう。…さてさて、どういう結果になったかな?」
「うん。同じ症例の人がこれだけ集まった。全国平均と比べても明らかに異常なくらい。」
「ふむ…! やはりな。こっちも興味深い論文を見つけたところだ。精神外科と文化についてまとめたものでな。前頭葉に寄生する存在を予見したものだ。」
「前頭葉は人間が人間らしくあることを司る部分…。」
「そうだ。人の感情は心が生み出すのではない。脳という名の器官が分泌物を生み出して与える副産物に過ぎん。その器官に特定の干渉をする寄生虫が存在し、ひとつのコロニーに蔓延したならば、そのコロニーの思想はひとつに統一されるだろう。」
「イデオロギーが広がるのは、寄生虫感染が広がっているから? イデオロギーが激突するのは、異なる寄生虫同士が自分の生息圏を拡大するためにぶつかりあっている?」
「おじいちゃんと同じことを考えている人が外国にもいたんだね。」
「もちろんいるとも。地球上には無数の寄生生物がいて、宿主と共存し、時には宿主を支配したりすることが広く知られている。そして、人体に寄生する存在をたくさん発見してもいる。……にも関わらず、人体に寄生し、その宿主を支配する存在については頑なに否定してきた。仮定すらも含めてな。」
「……どうしてだろうね? 人間だけ特別な存在のわけはないのに。」
「それを仮定することは即ち、イデオロギーの蔓延を、疫学的見地の蔓延と置き換えられるからだ。イデオロギーの対決は議論で行なわれれば平穏だが、その対決が疫学的に行なわれた場合、恐ろしいことになるからだよ。」
「悪い思想や文化が蔓延するのを食い止めるのを、疫学的に治療する…?」
「中世ヨーロッパのペストなどを想像しなさい。悪い伝染病が大流行する。伝染病患者を強制的に入院させ、完治するまで退院させない。完治できずそのまま病院で死んでしまうこともある。その死体は焼き捨てる。患者が触れた物にウィルスが感染しているかもしれないから、それらを全て没収して焼き捨てる。家族にも感染の疑いがあるから強制的に入院させねばならん。」
「個人の思想を理由に、病気でもないのに入院させるの…?」
「思想を病気と置き換えなさい。後はまったく同じだ。完治するまで退院させない、触れた物は感染の疑いがあるから全て焼き捨てる、家族にも感染の疑いがあるから強制入院まで同じだ。」
「思想なんて個人の自由なんでしょ? ペストとは違う。」
「人間の思想が、ある種の寄生虫によって生み出されていると仮定した場合、ペストとまったく同じ意味になるのだよ。つまり、思想は治療不可能な伝染病と置き換えられるわけだ。」
「つまり……、異なる思想を持った人を、えっと、疫病患者と同じに扱う?」
「そういうことだ。この考えを延長すると、人種単位、あるいは宗教単位の大量虐殺が起こる。……そうすると、再び人類は大量虐殺を肯定してしまう論調になりかねん。だから、脳内寄生虫を語ることは、戦後はタブーになっているのだ。」
「タブーって…?」
「触れてはならない、考えてもならないということだな。だから、誰も研究せん。いや、それどころか、脳内に寄生する存在がいると考えることすら忘れられている。…万物の長たる霊長類を支配する寄生虫などいるはずがないと頭から決め付けている。」
「あははは。何だかお粗末な話。いないことの証明なんて“悪魔の証明”。絶対に不可能なのに。」
「その通り。悪魔がいることを証明することは容易い。悪魔を連れて来ればいいのだからな。だが、いないことを証明することはできん。“いない”を連れて来ることなどできんのだからな。」
「あはははは。何だか、脳内寄生虫が、自分たちの存在を秘密にするために、寄生している人間たちを操っているみたい。」
私と祖父は、愉快に笑い合った。
「人間も自然界の生き物のひとつに過ぎん。食物連鎖の頂点にいるだけで、それを以って神格化された存在であると思い込むなど愚かしいことなのだ。人とてあらゆる寄生虫に支配されうるのだ。その存在が、今日まで発見されていないからと言って、それを以って存在しないという証拠にはならん。……絶対に存在する。必ず存在するのだ。」
「科学の世界にもたくさん、存在が仮定されていて、そのずっと未来にそれが証明されたものがあるんだもんね。」
「そうだ。それらの仮定をした科学者が全て、生きている内に評価を受けられたわけではない。世迷言だと呆れられ、その正しさを証明できなかった科学者も大勢いたのだ。」
「でも、大丈夫だよ。神さまは努力する者を見捨てたりはしない。努力は必ずいつか結実するのだ。」
「いつかって、それはいつ…?」
「神がいつ降臨されるのかは誰も知らない。それは例えるなら、泥棒がいつ訪れるのかわからないように。だから予期せずしてその時を迎えて、不信心であったことに歯軋りすることがないよう、常に目を醒ましていなさい。」
祖父が好んで口にする言葉だった。
成果がいつ結実するのかは誰も知らない。
だが、いつか必ずその時がやって来る。
だから、その時が訪れて、努力が満たなかったことを悔やまぬよう、常に努力を惜しまないでいなさい。
いつかは必ず実るのだから。………そういう意味らしかった。
「でも、おじいちゃんが生きてる内に絶対に努力が実る…? 生きてる内に認められなかった科学者がたくさんいるのに…?」
幼さゆえの残酷な言葉だったと思う。ただ、言った私はそんなつもりはない。
祖父の努力と勤勉を間近で見て知っていたからこそ、短いであろう寿命の中できっと評価されてほしいという願いを言ったつもりだった。
「お前は、イエス様の復活を知っているかな?」
「うん。磔にされて殺されてから、三日後に復活したという話。おじいちゃんがよく聞かせてくれた。」
「イエス様は、どういう風に復活したと思うかな。」
「……朝が来たら目を醒ますように、むっくりと起き上がった…?」
「処刑された後に亡骸は埋葬された。だから体は土の中に埋まっている。」
「……………じゃあ、
「はははは、違う違う。そんなのを復活とは言わん。そして、イエス様を殺した罪人たちも、まったく同じことを想像したのだ。」
キリストは処刑される直前に、自身は三日の後に復活すると予言した。
罪人たちはキリストを埋葬し、その墓を厳重に封印し、キリストの体が蘇ることがないよう、兵たちに監視させた。
だが、キリストの言う復活とは、肉体が蘇るという俗的な意味ではなかったのだ。復活とは、教えが蘇るということ。
三日の後、キリストの正しい教えは復活し、人々は信仰を取り戻した。
正しく導かれようとする人々の心に、その教えは蘇ったのだ。
それこそがつまり、キリストが復活したということなのだ。
信仰する人々の心の中にキリストは蘇る。
その時、キリストという存在はすでに地上にはない。心の中にある。
…………つまり、キリストが人間以上の存在となって復活した瞬間なのだ。
「例え死後であっても、正当な評価を受けられたなら。その偉業は必ずや蘇る。その時、私の体が朽ち果ててしまっていても、私の存在は蘇って評価を受けるのだ。」
「それはおじいちゃんが、イエス様と同じように、神さまになったということ…?」
「そうだよ。私の研究はいつか必ず認められる。その時、おじいちゃんは神さまになれるということなんだよ。だから、自分が生きている内に評価されることに焦る必要はないのだ。その時が訪れるのが、私が生きている内なのか、そうでないのか。それは神さまにもわからない。だが、その日は必ず訪れる。だから、その日の訪れを疑うことなく、ひたすらに努力を続けなくてはならないのだよ。」
「……………。」
祖父の口から直接、祖父の寿命が長くないことを言われると、
別に特別な病気にかかって余命を宣告されているわけではないが、平均的な寿命を考えれば、祖父の寿命がいつまでも続くことは考えられなかった。
私には祖父しかない。
だから、祖父がいなくなってしまうことを想像したくなかった。
祖父は、私がそういう話を好まないことを思い出したのだろう。
やさしそうに微笑むと、私の頭をそっと撫でてくれた。
「もちろん、おじいちゃんも、自分が生きている内に研究を認めてもらいたい。だから、精一杯がんばるよ。」
「うん。私も、おじいちゃんが世界中の人に褒めてもらえるように、いっぱいいっぱいお手伝いする。」
おじいちゃんが生きている内に褒めてもらえるように、…というのは省く。
珍しく、自分の失言を口にする前に気付けた。
「うむ。ありがとう、嬉しいぞ…。」
祖父は満足そうに笑ってくれた。
宇宙の神秘を解き明かそうなんていう、途方もない研究じゃない。
私たちが求めるのは、人体寄生虫が人体の行動を支配するかもしれない可能性という、本当にささやかなものなのだ。突飛なものでもなんでもない。
しかも、それは単なる想像ではない。その尻尾はすでに掴んでいるのだ。
××県鹿骨市、雛見沢。
この村の出身者が持つ、偏執的なまでのホームシックと帰巣本能。
そして、それが果たせない時に発現する、祟りに憑かれたと称する一連の異常行動。
そして、この村に太古の昔より根付く土着の信仰に見え隠れする異常なルール。
それらを重ね合わせた時、祖父は雛見沢出身者のある共通項に偶然気付き、村を支配する何かの存在を仮定した。
そして、今日まで長い間ずっと研究を続け、その外郭を固めてきたのだ。
昭和中期。
日本全国で、大昔から風土病だと思われていた数々の奇病のベールが剥がされていた。
それらの多くが寄生虫感染症であることがわかり、忌避されがちだった分野が、にわかに脚光を浴び始めているところだった。
祖父の研究も、そんな奇病研究の中のひとつに過ぎず、…だからこそ、それらに混じって、当然のように発表され、正当な評価を受けられる日が遠くない内に訪れると確信していた。
それでも、もし。……祖父の研究が、存命の内に実らなかったなら。
私は、
祖父が教えてくれた。
復活とは、肉体が蘇ることではない。
評価され、偉業が蘇ることなのだ。
……そしてその時、
そうなれば、祖父が例え寿命を尽きさせてしまっても、常に私と共にいてくれる。
私はもうひとりぼっちにならなくていい。ずっと、おじいちゃんと一緒なのだ。
そして、祖父と私が二人で成した偉業が認められ、
■昭和32年の脱走劇
…キーホルダーに括り付けられたカギがたったひとつ。
それには鶏小屋と書かれていたが、今、恵理子がカギを刺そうとしている錠前は鶏小屋のものではない。
すんなりと開くはずだった。そういう約束だった。
だが、開かない。
恵理子の額に玉の汗が浮かぶのがわかる。
言い出したのは恵理子だ。
その恵理子の表情に浮かぶ焦りは、すぐに私たちにも広がった。
「や、
「静かに!!」
本当は私たちは、中庭で鶏小屋の掃除をしなくてはならないのだ。
それがここにいることが知られたなら。
…そして、私たちが何の目的で、この裏口の錠前を開けようとしているのか、知られたなら。
……私たち4人は「手足をもがれた豚の刑」を免れないに違いないのだ………!
「恵理子、焦らないで…! だって、そのカギで開くんでしょ? 試したんでしょ?!」
「………だから静かにしてって言ってるでしょ?! カギは合ってるのよ! 硬いだけなんだから……!!」
それはもはや悲鳴すれすれ。
……私たちの心臓は、廊下中に響き渡っているのではないかと思うほどに、ばくんばくんと高鳴っているのだった…。
その時、明らかに子供のそれとは違う足音が響いてきた。
「静かに…ッ!! 誰か来た…!」
3人は慌てて息を潜めて気配を殺すが、…恵理子の耳には入っていなかった。
まるで、この錠前を開けさえすれば、それで全てが決するかのように、がちゃがちゃと錠前とカギをいじり続けていたのだ。
「恵理子、誰か来るから静かに!!」
「……このカギで開くんだから…!! 夢じゃないの、私は確かに試して、…そして開いたんだからッ! だから開いてよ、何で開かないの?! 開けば幸せになれる、こんな地獄からおさらばできる!!」
「恵理子ッ、誰か来るんだってばッ!!!」
■両親の死
父さんと母さんが死んだ。
享年が何歳だったかも、よくわからない。
私はそれくらいに幼かったから。
私ひとりを留守番に残し、両親の二人だけでお出掛けをしたからバチに当たったに違いない。
鉄道の事故だったという。
ひどい惨事だったという。
大勢の人が犠牲になったという。
でも、まだ父さんは幸運な方だったかもしれない。
……生きて病院に担ぎ込まれて、私にいくつかの言葉を残すことができたのだから。
お母さんなど、原型を留めてもいなかったらしいから。
「……お、…お父さん、お父さんお父さんお父さん…!!」
その、あまりに憐れな変わり果てた姿を、私は父さんだと認めたくなかった。
父さんと呼びながら、それが違う人であって欲しいと願った。
だが、本当は父さんを起こすべきではなかっただろう。
…父さんは、私にまどろみを破られることによって、
「………うぅうぅ………。ぅぅぅ………。」
父さんはきっと、泣きじゃくる私の頭を撫でたかったのだろうと思う。…だって、右の腕を動かそうとしたから。
でも、その腕は包帯でぐるぐる巻きにされていて、
私の頭に被せるべき手の平は、ベッドの上には見当たらなかった。
父さんの右手は、本当は怖い思い出しかない。
私がいたずらや嘘をついた時、平手で打つのが主な役割だったから。
でも、だからといって、なくなって欲しいなんて願ったことは一度もない。
それに、平手で打たれた回数に比べたら本当に微々たるものだけど…、……たまには私の頭を撫でてくれた。
大きな手の平で、それ自体がご褒美であるように、…私の頭をやさしく撫でてくれたんだ。
私がどんなにちゃんと早起きをしても、
いや、
緊急手術の時間は迫っていた。
手術の成功率は高くないと、予めお医者様には釘を刺されていた。
本当なら面会謝絶なのに、会わせてくれたのもそういう意味なのだ。
父さんは、私の頭を二度と撫でられないどころか、
「…お父さん、手術できっと良くなるよね?! お父さん、きっと元気になれるよね?! なれるよね?!」
「………よ、よく聞きなさい。…お父さんは駄目かもしれない。もしもお父さんが死んでも、お前はしっかり生きるんだよ。」
「嫌だ嫌だ! お父さんは元気になるよ! お医者様がちゃんと手術してくれるもん!! だから死んだりなんかしないんだよ!!」
古い時代の人らしい頑固な父さんだった。
痩せ我慢が美徳で、絶対に辛いとは口にしない人だった。
だから、自分が死ぬかもしれないなんて弱気な言葉がその口から出て来ることが信じられなくて……、私は必死にそれを否定しようとした。
……だが、私の願いごときでは、父さんの残された時間を延ばすことはできない。
父さんは、自分が言葉を残せる時間がすでに限られていることを知っていて、私に、本当に大切なことを伝えようとしていた。
そんな父さんの必死の努力を、私は否定するように泣きじゃくって掻き消す。
…いっそのこと、そんな私を平手打ちしてほしかった。
泣いてわがままを言う私に、いつも父さんがそうしたように。
……でも、父さんは私に平手打ちをすることはもう二度とない…。
「よ……、
それを改めて言われる必要はなかった。
父さんも母さんも日頃からそれを口にしていたから私はそれをよく知っていた。
……つまり、私にとって、父さんはこの世に唯一残る肉親なのだ。
「もしもな、
「そうだ。高野一二三先生だよ。…高野先生はお父さんの恩師なんだ。
「お父さん、お父さんお父さんお父さん!!!」
お医者様たちが大慌てでなだれ込んで来る。
お父さんはまだ何かを伝えようとしていたが、それはしゃべらないようにと制止するお医者様たちのせいで聞き取ることはできなかった。
私は弾き飛ばされて病室を追い出される。
そして病院の廊下でおろおろするばかり。
……父さんがどういう状態なのか、手術はいつ始まるのか、誰も教えてはくれなかった。
そして、父さんともう永遠に言葉を交わすことができなくなることも、
;■私設擁護施設
……父さんの言い残した「高野先生」の名前を、お役所の人とか色々な人に言ったと思う。
そうすると必ず、連絡先は? と聞かれた。
私は、知らないと答える他なかった。
すると決まって、その話はそれで終わってしまい、あるいはたまに「調べておく」という返事がもらえたが、それでも結果は大して変わらなかった。
私の後見人は現れず、私は社会的な権利を享受するため、施設へ生活の場を移すことになった。
当時は、まだ戦災孤児が少なくなく、公立の施設もたくさんあったがどこも満員の状態だった。
また、善意の個人による民間の施設も多く存在していた。
私が送られたのも、そんな民間の施設だった。
そもそも、孤児を引き取っても何の儲けにもならない。
だから、敢えてそれをやろうという人間には、私財を投げ出しても孤児を救おうという、尊敬に値する博愛の精神があったに違いない。
だが、そんなに世の中は甘くない。
親に自分を育ててくれた恩を、自分が幼い内に示せる子供が一体、世の中に何人いるというのか…?
子供は両親の愛で育てられるようにできている。
だから、そんな環境を引き裂かれた子供たちは皆、心に深い傷を負っていた。
増してや、子供の個性など子供の数だけあるのだ。
……等しく慈愛を受けたからといって、誰もが天使のように育つわけじゃない。全員の心の傷が癒せるわけじゃない。
だから、子供たちの中には少なからず問題児もいた。
……いや、問題児と呼ぶのが適当だったかどうかもわからない。
それは、両親を失ってしまったことへの悲しみであったり、その悲しみを覆い隠すためのやり場のない怒りであったり。
……ひとりひとりと向かい合って話をすれば、きっと分かり合えることだったに違いない。
だが、…少なくとも私のいた施設では、そこまでの時間を職員が割いて、理解しようとする努力はしていなかった。
少ない人数の職員が、規律に反しないよう見張り、統制するので精一杯だった。
だから、子供たちが心の傷の痛みに呻くのを、問題行為としてしか括れなかった。
見返りを求めない愛など、この世に存在しない。
この施設を創設した人間も、結局は見返りを求めていたのだ。
…子供たちの感謝という見返りを。
だから、そんな淡い夢は現実にあっさりと引き裂かれた。
子供たちは、施設を収容所呼ばわりし、職員たちの献身的努力に一切感謝せず、不満ばかりをぶつけた。
………だから、次第に職員たちも夢が醒め、慈愛だけではやっていけないことを悟ったに違いない。
子供たちが収容所呼ばわりするように。…職員たちも次第に、収容所であろうとするようになっていった。相互の不信感による悲しい連鎖だった。
そして、子供たちを規律で縛りつけ、問題行為を抑圧する体制へとなっていく…。
この施設の設立者の額縁は飾られているが、その顔が訪れたのを見たことはない。
彼は、施設に対して私財を投入しているだけで社会奉仕の悦に浸っているのか、…それとも、天使のように育った子供たちに囲まれて祝福されるという現実感のない夢がようやく醒めたのか。…どちらかはわからない。
とにかくひとつ言えることは。
私がいた施設は、そんな夢はとうの昔に醒めてしまっていたということだった。
規律はたくさんあり、もっともらしいことをいくつも定めていたが、何よりも尊ばれているのは、沈黙だった。
子供のおしゃべりは、近付けあったマイクのように、互いが互いを増幅して大きくなる一方。その挙句に喧嘩などが起こり、規律が乱れる。
そのため、子供たちの間での私語は禁止された。私語さえなければ、全てはうまく行くと思ったのだろう。
にも関わらず、施設にはいつも人の声が聞こえていたと思う。
その聞こえる声は概ね、二つ。
職員の怒鳴る声か、子供の泣き声かのどちらかだった…。
施設の中を自由に歩き回ることは許されていなかったから、どこで誰が泣いているのかを知ることもできない。
泣き声と怒声に混じって聞こえる、ガンガンと叩きつける金属音。
…何かしらの仕置きを受けているに違いないが、それがどんなものなのか想像もつかず、私たちは震えながら俯いて、聞こえないふりをしながら漢字ドリルを続けるしかない。
同室の誰かがそれを、「棺桶の刑」だと教えてくれたが、それ以上を教えてはくれなかったし、私もそれ以上を知りたいとは思わなかった…。
昨日までとまったく同じに過ごしていても、職員の機嫌が悪ければ何にケチをつけられるかわからない。
…だから、私が知ろうとしなくても、「棺桶の刑」がどのようなものか身をもって知らされてしまう日が、突然訪れるかもしれないのだから…。
廊下を職員の足音が近付いてくる。
それに私たちは気付き、背筋を伸ばし、より一層、勉強に集中している風を装った。
実際に勉強しているかどうかより、職員が見て勉強しているように見えるかどうかが重要だったからだ。
私の隣の子がうつらうつらとしていたのに気付き、私は肘で小突く。
…それだけの合図でその子は気付き、周りの子と同じように背筋を伸ばすのだった。
夕方が近い。……この時間が一番眠くて辛くて、
ガチャリと私たちのグループ室の扉が開き、不機嫌そうな形相をした職員が姿を現す。
そして、全員が居眠りをしていないかをジロリと見回すのだ。
例え、本当に真面目に勉強していたとしても、職員が居眠りをしていると感じたら駄目だ。
…だから私たちは、必要以上に真剣さをアピールしなければならない。
私たちの席の間を職員が見回る。
…その足音が自分の脇をすんなりと通り抜けてほしい……。
私たちはそれだけを祈りながら、同じ漢字を何度も何度も何度も繰り返し書き続ける。
そうやって勉強のふりをすればするほど、どこかの誰かの気の毒な仕置きの金属音がより一層耳に染み込んで来るのだった。
ガンガンと金属と金属をぶつけ合うような嫌な音と、その度に聞こえる金切り声のような悲鳴…。
一体どんな目に遭っているのか。そしてそれはどれほど恐ろしいことなのか。
…そして、「棺桶の刑」以上に恐ろしい刑罰がまだまだあるのではないか。
私たちはその恐ろしい想像を少しでも紛らわすために、より一層、画数の多い漢字を何度も何度も繰り返し書くのだった。
かりかり、かりかりかりかり…………。
…金属音と悲鳴が、いつまでも聞こえていた。
ルームメイトと言葉を交わせる貴重な時間は、消灯後だけだ。
施設は田舎の山の中にあったから、都会と違い、夜は本当に静かだった。
シンと静まり返り、職員の気配がずっと彼方へ遠のいてしまったことを充分に確認した上で、私たちは私語を楽しむ。……それだけが私たちの娯楽だった。
もっとも、私語を楽しむなどという洒落たものなどではなかった。
なぜなら、話の内容は、陰口が一番多かったからだ。
あの職員は誰々にだけ厳しいとか、不公平だとか、陰湿だとか。そんな話を、誰かが眠気に耐え切れなくなるまで延々と繰り返していた。
そして、どうやったら陰湿な職員に仕返しができるのか、という話になり、…皆、妄想の中でだけ、職員に対し陰湿な復讐をする。……それを口にしながら泣き出してしまう子がいるくらいに、感情的に。
こんな後ろ向きな話題でも、それは私たちにとってとても大切なガス抜きに違いなく、今日と変らない明日に絶望しながらも、眠気に身を任すことができるのだった。
……だが、たまにそれとは別の話題が出ることもあった。
それが、
「……うん。慈愛の家ではね、昼寝の時間の他に、おやつの時間もあるんだって。それで、そこは院長先生がとてもやさしい人でね…。」
慈愛の家も、ここと同じ民間の施設らしかった。
だが、そこはこことは違い、とても温かな施設で、…今の境遇と比べれば夢のような場所ということだった。
何年か前、もっともっとこの施設が酷かった頃、何人かの子供たちが集団脱走を企てたという。
(とんでもない話だ。今よりももっと酷かった頃があったなんて…)
逃げた人数は3人か4人。
正確なところはわからない。
そして彼らが目指した先が、その慈愛の家だったのだ。
脱走は成功だった。
不幸な1人を除き、残る全員が無事に慈愛の家の敷地に逃げ込めた。
他所の施設の敷地の中まで、職員は追いかけることができなかったのだろう。
つまり、ここの職員にとって、他の施設の敷地は治外法権に当たるに違いない。
職員たちはまんまと逃げられたことを悔しがりながら、……それでも捕まえた1人を引き摺って帰ってきた。
きっと職員たちは、逃げ延びた彼らを連れ戻したかったろう。
誰一人逃がさないのが職員たちの意地に違いなかったから。…その意地は、その後の偏執的な施錠ぶりから容易にうかがえた。
だが、逃げ延びた彼らが連れ戻されることはついになかった。
職員たちがどれだけ悔しがろうとも、彼らを連れ戻して懲罰を与えることはかなわなかったのだ。
つまり、慈愛の家まで辿り着ければ、この地獄のような施設の魔手から逃げ切ることができる…。
それに比べ、…捕まった1人のその後はあまりに悲惨だった。
……だが、どのような仕打ちを受けたかは、具体的には伝わっていない。
残されているのは、当時を知る者の残した奇怪な単語だけ。
それらがどんな刑罰なのか想像もつかない。
ただひとつ言えるのは、私が知るもっとも酷い刑罰「棺桶の刑」よりも、もっともっと過酷なものらしいということだ。
……私は、その不気味な刑罰名から、その恐ろしさを推し測る他なかった。
……その後、その子は念願叶い、
彼は、この施設を無事出ることができて、
噂によるならば、
だからボイラー室に入ってはいけないと、その直後に施設の子供全員に訓示があったというが、
……ボイラー室が常時施錠されていることを誰もが知っていた。
そう、誰もが理解した。
その子は殺されてしまったのだ。
ただ殺されたのではない。
ありとあらゆる責め苦の果てに、殺された。
脱走すればこの世の地獄を見せられるという、見せしめのために殺された。
だが、そのリスクを負って逃げ延びた子たちは、その名の通り、慈愛に満ちた「慈愛の家」で、ごくごく普通の、
…本当に慈愛の家が天国かはわからない。
どこの施設だって、似たようなものかもしれない。
……だが、それでも、ここの地獄に比べたら、どこだってマシに違いないのだ。
ここをただ脱走しても、やがては警察の浮浪児狩りに捕まる。
そうすれば、すぐに身元が割れて施設へ送り返されてしまう。
それは殺されることと同じ意味だ。
だが、慈愛の家に辿り着くことができれば、そこで引き取ってもらえる。ここには送り返されない。
私たちは、いつかここを脱走してそこへ辿り着きたいという夢を語ることで、何とか辛い現実を忘れようとするのだった……。
私たちのグループのリーダー格だった恵理子が、さらに声を小さくして私たちに言った。
脱走したくない人間などいるはずもない。
これは言葉通りに受け取るなら愚問だった。
……実際はそうじゃない。
…もしチャンスがあったら、捕まったら恐ろしい目に遭わされる恐怖を乗り越えて脱走に踏み切れる度胸があるか? と聞いているのだ。
だから誰もが、即答できずにいた。
もしも、昔の集団脱走の時、全員が逃れきることができていたなら、それがどれほど心強い実績になったことか…。
しかも、その事件を受けて、以来、施設は脱走を警戒して色々と警備を厳重にしているという。
確かに、外へ通じるあらゆる扉や窓は厳重に施錠されていて、容易には逃げられない。
…同じ集団脱走がもう一度企てられたとしても、失敗する確率はずっと高くなっているだろう。
3人が逃げて1人が捕まったなら、……今度は3人の内の2人が捕まる?
いや、…全員が捕まる可能性だって否定できない。
「……逃げられるものなら逃げ出したいよ。」
「でも、慈愛の家は近くない。橋だって長い。きっと捕まっちゃうよ…。」
「そもそも、お外にだって出られないよ。どこもみんな鍵がかかっている…。」
偏執的と言えるまでに施設内は鍵だらけだった。
外からも内からも鍵が必要で、消灯の時間ともなれば、廊下ごとに区切られて施錠までされてしまう。
……間違いなく、ここは監獄だったのだ。
噂では、施設は引き取っている子供の人数に応じて国から補助金をせしめているという。
だから、私たちが脱走してしまうことがあれば、その金額が減ってしまうというわけだ。
しかも、私たちがここでの境遇を外に漏らすようなことがあれば、この施設に査察が入り、色々と大変なことになるらしい。
だからこそ、ますます偏執的に私たちを閉じ込めるのだ。
「チャンスがあったら、それはもちろん脱走してみたいけど…。でも、実際のところ、脱走できるところなんてないよ。どこもみんな鍵が掛かってる。」
「………えっとね。…知ってた? 中庭の鶏小屋の鍵…。………階段裏のドアを閉めてる錠前と同じ鍵なんだよ…。」
「…え? それって本当…?!」
「しッ!!」
私たちの驚きの声を、恵理子が制す。
量販されている錠前は、同じ鍵で開くことが多い。
この施設には、同じ鍵で開く2つの錠前が存在していたのだ。
無論、鍵は子供たちに触れさせてもらえるものではない。
……だが、そんな鍵の中に、ほんのいくつかの例外があった。それが、鶏小屋の鍵だったのだ。
グループごとに毎週当番がある。
鶏小屋の当番になったら、職員室で鍵を借りて、小屋の掃除や世話をしなければならない。
そして、決められた時間内できっちりと終えて、それを返却しなければならない。
その当番の間、鍵は子供たちだけの手に委ねられる。
職員はたまに見回りに来るが、ずっと監視しているわけではない…。
「…恵理子ちゃん、
「や、やめようよ…! 危険だよ……!」
「…もちろん、ひとりなら危険だよ。……でも、みんなでなら少しだけ話は変ってくる。」
「どうして…?」
「昔の集団脱走の時、どうして捕まったのが1人だけで済んだか知ってる…?」
彼らも、必死だった。
…だから、犠牲者を最小限に抑えることができたというのだ。
「何をしたの?」
「…彼らはね、全員、バラバラに逃げたの。異なる方向へ、バラバラに。施設に職員が少なくなる日を狙って、3人バラバラの方向に逃げたの。」
そうすれば、
1人では逃げ切れないだろうが、…もし、職員が別の仲間を追ってくれれば、自分が逃げ延びることができる確率は高まるのだ。
つまり、……恵理子は、私たちを集団脱走に誘っているということだった。
この話は、乗る人間が多ければ多いほど有利だ。
………だが、子供たちの中には、職員に内通することでご機嫌取りをしている連中もいる。
だから、むやみに声を掛けることもできない。
その意味では、恵理子が私たちを脱走に誘ってくれたのは、信頼の証でもあった。
恵理子に、私。そして智美に菊子。…4人。
「………ここに、一日でも長くいたいなんて子、いる?」
3人が首を横に振る。……だからといって、この計画に乗ると即答もできない。
「確かに…、私たちはこんなところに一日どころか一時間だっていたくないよ。」
「昨日とまったく同じことをしているのに、明日はそれを怒られるかもしれない…。もう耐えられないよ私…。何をすれば、あるいはしなければ怒られないのかわからない生活なんて、一秒だって耐えられない…!」
それは全員同じ思いだった。
厳しい規律に耐えることはできるかもしれない。……でも、曖昧な規律に耐えることがどれほど辛いことか。
この施設のルールは、職員たちの機嫌だけで決められているといっても過言ではない。
これをやっていれば大丈夫、これをやらなければ大丈夫。
そんな境界線が、まるで潮が満ちたり引いたりするように、曖昧に変るのだ。
…そして、それを口にしようものならば、より恐ろしい目に遭わされてしまう…。
「私は、賛同者がいなくても脱走する気。……説明したように、一緒に逃げる人間が多ければ多いほど、私たちは助かる確率が高くなる。それによく考えて? 鶏小屋の鍵を使った脱走が起これば、裏口の鍵は必ず別のに変えられちゃう。つまり、この方法は一度しか試せないということ。……後から、やっぱり賛同すればよかったなんて思っても、もう手遅れっていうことよ…?!」
「……でも、
「私も怖いよ…。捕まったらきっと殺されちゃう…!」
智美と菊子が特別に臆病だということはない。
でも、恐れる気持ちはよく理解できた。
…実際に脱走の話を持ちかけられ、捕まったら恐ろしい目に遭うらしいという話が、一気に現実感を帯びたからだ。
それは恵理子も同じだったと思う。
…でも、彼女はその恐怖を勇気でねじ伏せたのだ。
そして、私たちにその話を打ち明けてくれた。
「……なら、いつまでもここにいる気?!」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ…!!」
「怖いのはわかる。でも、一度しかないチャンスなの。一度だけの勇気でいい! 美代子はどう? 私と行く?」
私は智美や菊子とは違い、過剰に震え上がってはいなかった。
…もちろん、私なりに震え上がってはいたが、取り乱している2人に比べれば、幾分か冷静に見えたに違いない。
「…………絶対に、逃げ切れる……?」
それを恵理子に保証できるはずもない。だが、聞かずにはいられなかった。
「…保証なんかないよ。でも、あんたが一緒に来てくれるなら、私が1人で逃げ出すよりも逃げ切れる確率は高くなる。もちろん、あんたにとってもね。」
恵理子は打算っぽく言ったが、…実際は同意してくれる仲間が欲しかったに違いない。
…逃げ切れる確率が増えること以上に、それは大切なことだっただろう。
「智美と菊子は、怖いなら無理には誘わないよ。脱走は私と美代子だけでするから。2人だけでも充分。」
「……えっと、えっと……!!」
恵理子が締め切るような口調で2人を追い詰める。
それは一見冷ややかだが、2人に勇気を振り絞らせるための彼女なりの檄だったのだ。
仮に私たち二人が成功失敗を問わず脱走に及べば、同じグループである二人にも何かの連帯責任を求められるかもしれないのだから…。
「何も、明日すぐに実行するわけじゃない。鶏小屋の当番は1週間続く。その間に、チャンスをうかがえばいいし、もし危険だと判断したら次の当番の週まで待てばいい。……慎重にやれば大丈夫。」
職員のローテーションとタイミングも大事だが、私たち各自が慈愛の家までの道を知っていなくてはならなかった。
全員がバラバラに逃げる作戦なのだから、この辺りの多少の地理を理解していなくてはならない…。
私は決断する。
「………うん。……私は一緒に行く。でも、脱走のタイミングは慎重に計ろうね…?」
「もちろんだよ。捕まったら殺されるんだからね! …私だって下手なんか打ちたくないんだから…!」
「わ、私も行く…。」
「私も私も…!!」
置いてきぼりを嫌うように智美と菊子も同意し、私たちは突然の脱走計画に乗ることとなったのだ……。
慎重に機会を待った。
職員が少ない日を狙った。
…そして私たちは運を天に託したのだ。
「………あ、………開いた……!」
ちょっとした力の加減だったのかもしれない。
…恵理子が何度試しても開こうとしなかった錠前は、ちょっとした角度を加えた時、拍子抜けするくらいにあっさりと開いたのだった。
裏口の扉がゆっくりと開くと、
そこは、まだ自由の世界ではない。
……むしろ逆。そこにいることを知られたら、ただそれだけで恐ろしい目に遭わされてしまう、危険な世界。
だが、…その世界を潜り抜けなければ、その先へは辿り着けないのだ…。
「………よし、
恵理子はそう言おうとしたんだと思う。
私たちもそれを合図に一斉に駆け出すつもりだった。
…だが、恵理子より先に聞こえた声は、彼女のものではなかった。
「お前たちッ、そこで何をしているッ!!!」
私たちは弾かれたように走り出す…ッ!
外は雨だった。
あっという間に雨粒が全身を濡らし、衣服を張り付かせてしまう。
それは普段なら、とても気持ちの悪いことだったろうが、今はそんなことをまったく気にしていられなかった。
ただただ、降りしきる雨と鮮烈な外気の中を、ひたすらに駆けた。
砂利の上を駆け抜けるだけなのに、なぜか田んぼの中に足を突っ込んで走っているような感触がした。
…足がずぼずぼと泥田にはまり、思うように足が上げられないあの感じ。
いくら走っても走っても、ちっとも速度が出ないようなもどかしさ…! 体より心が急いている証拠だった。
後で職員が脱走だと喚くのが聞こえる。もうあとはがむしゃらに走るしかない…!!
「きッ、決めた通りに……バラバラの方向にッ!! 散って!!!」
恵理子の合図で、私たちは思い思いの方向に散る。自分を職員が追ってこないことを祈って…!
あぁ、私たち4人は全員、無事に慈愛の家で再会できるだろうか…?
4人が無事揃えるか、……それとも、辛い時を共に耐えてきた誰かが欠けるのか。
いや、それともあるいは…、
祈るような願いは、後から聞こえてくる職員の声で断ち切られる。
「待ちなさい、待ちなさい待ちなさいッ!!!」
追ってくる職員は私たちの人数より少ないはずだ。
だから、運が良ければ自分には追っ手がいないはず。
遠くから聞こえてくる職員の声が自分に対してでないことを祈りつつ、後を一瞬だけ振り返る。
あぁ、そんな振り返る余裕があるならば、どうしてさらに一歩先へ足を踏み出さない? どうしてもう一歩先へ逃げ延びないッ?!
振り返った私の顔に覆いかかる分厚い手の平。荒い息をするために開かれた私の口に、その手の小指が紛れ込むのがわかった。
私は顔面を引っ掻かれるように掴まれると、砂利混じりの水溜りに押し潰すように突っ伏された。
もちろん大人しくなんかするわけがない。私は暴れてもがく。その瞬間、職員の表情が目に入った。
それは、…何て憎悪の表情ッ!! そうさ直感する。見せしめにするために私を生かして捕らえたいだけなのだ。そして、見せしめにした後のことを考えるならば、今この場で殺してしまったとしても、何の問題もないではないか。…そうさ、今この場で息の根を止めてしまおうとするこの世のものとは思えない憎悪を私は見る…!
私の口の中に入ったままの小指は雨粒にまみれ、私の舌に触れた。
……形容のできない嫌な味と感触が、悪寒となって私の全身を駆け巡る! あぁ、思った!! この味は、私が殺される味だッ!! この無骨な指をそのまま私の気管にまで捻じ込んで、私をこの場で窒息させて殺してしまおうという、殺しの指なのだッ! だから、私は生きるために戦った!!
「ぎやおおおっぉおおおおぅうッ!!!」
口の中いっぱいに生暖かい気持ち悪いのが広がる。
たくさんの鼻血を出した時に、それを飲み込んだような感触。
私はそれをブゥ!っと吐き捨てると、小指を押さえて転げまわる職員に、今度こそ振り返りもせず背を向けて駆け出した。
「ぐおのやろおおおぉ、ブッ殺してやるぅううッ!!!!」
背後で、激昂する声が聞こえた。追ってくるのはもう職員じゃない。きっと野獣だ。捕らえたりなどしない。今この場で私を噛み殺そうとしている野獣なのだ…!!
靴はいつの間にか脱げていた。
スニーカーなんて上等なものじゃない。
死に物狂いで駆けたら、こんなものあっさり脱げてしまう。
剥き出しになった素足は、そのヤワな足の裏で砂利をがりがりと食う。
もちろんそれはとても痛いものだったが、今だけは気にならなかった。
……足を止めれば、その痛みを楽しむ余裕さえ与えられないのだからッ!!
木立が私の顔を擦り、腿に引っ掛けた有刺鉄線が一文字の傷痕を残す。砂利を食った足の裏は血塗れになり、石を蹴り続けた爪は割れて血を滲ませていた。職員の指を噛んだ時に口の中を満たした血が、私の口から涎と共にぼたぼた吐き出され、私の口元と胸元を真っ赤に汚していた。
幼い少女が、全身を生傷や擦り傷だらけにし、血を真っ赤にこびり付かせながら、ただただ自由を求めて、走る。捕まれば殺される。追っ手に理性があれば、恐ろしい刑罰で虐め殺されるだろう。理性がなければ、今この場で殺されるだろう。殺されたくない、殺されたくない…!!
肺と心臓が爆発しそうだった。恐怖と酸欠で頭は真っ白だった。意識が途切れそうだった。そうさ、いっそ途切ってしまいたかった。……後から執拗に追ってくる職員の声さえ聞こえなくなっていたならば!!
膝ががくがくする。
両足がきちんと動かない。
糸の切れた操り人形のように転んでしまいそうだった。それでも、転んでは駄目なのだ。駄目なのだ駄目なのだ…!!
あ……、
鼻にツンと来る、転んだ時、特有のあの嫌な感触! そして間髪を入れずに野獣の咆哮が私に圧し掛かる…!!
「この野郎ぉおおおぉ、よくも俺の指を、指を指をぉおおおぉッ!!!!」
「うわああああああぁああああぁあッ!!!」
;■鷹野は車中で仮眠中だった。
跳ね上がった時、腿をハンドルにぶつけたらしい。
ジンジンとした鈍痛が少し遅れてから襲ってきた…。
私の全身は汗まみれだった。
額の汗を拭い、胸に手を当てて、自分の心臓がどれだけ高鳴っていたかを知る。
痛む腿をさすった。すっと、一文字に。
そこはハンドルにぶつけた、今、痛んでいる場所ではない。
でも、今はそちらの方が痛む気がした。
わずかな月明かりが照らす車中には、私を脅かす恐ろしい野獣はいない。
靴を履いているし、血にも塗れてなんかいない。もちろん爪だって割れてはいない…。
突然、窓が叩かれ、私はぎょっとした。
「三佐。時間です。」
「ぁ、
仮眠を取るから、1時間したら起こせと言っておいたのだった。
1時間という区切りは長すぎたかもしれない。仮眠は長すぎるとかえって体を愚鈍にさせる…。
リクライニングを起こし、私は車を降りた。
涼しい外気が、私の全身を心地よく冷ましてくれるのを感じる。
月明かり以外、何もない山道。
その路肩に私の車とトレーラーに偽装した指揮車が停められていた。
口の中が気持ち悪いのでいっぱいだ。……私はそれを路肩にぶぅっと吐き捨てた。
それでも、口の中に広がるあの嫌な気持ち悪さは拭えなかった。
血と唾液と、そして雨の味。
額から流れ落ちる汗と雨粒が私の口に忍び込み、それらを飲み込むことも満足にできず、だらだらと零し続ける。あの、口の周りの感触を思い出し、鷹野は口の周りを拭うような仕草をした。
「……………………はぁ、…………ふぅ…。」
自分らしくもなく緊張しているのかもしれない。だから夢見が悪かったのだろう…。
指揮車にはコーヒーメーカーがあったはず。
…悪い夢にうなされたこの体を醒ますには、まずいコーヒーがぴったりに違いない。
「どう? 何か動きは?」
「いえ。何も。先ほど岐阜から定期連絡が。問題なしとのことです。」
「そう。……ねぇ、どなたかコーヒーを淹れてくださらない?」
「はい。ミルクと砂糖は?」
「ミルクだけ。…あ、やっぱり砂糖も入れてくださる?」
口の中が何だか気持ち悪い。
……小指を噛み潰した時の、汚らわしい血が口中を満たしたあの感覚。
甘ったるいコーヒーで口の中を洗わなければ、私は悪い夢から完全に醒めきることはできないようだった…。
;■鷹野と東京
「…ハイ、バンケットより後方〜! スピーチあと1人で乾杯に入ります。準備できてるねー?!」
「後方OKですー。内部、全然聞こえないんでスピーチが終わるタイミングでコールをお願いしますー!」
「いいかい、各卓にビールは10本ずつだよ! ちゃんと自分の縄張りにスムーズに運んでね!」
蝶ネクタイをすっきりと着こなした若いホテル従業員たちが、ビールケースから次々とビール瓶を抜き出し、乾杯の準備に備えていた。
時折、インカムから内部の進行状況が伝えられ、彼らは宴会場にビールを運び込むタイミングを今か今かと待ちかまえている。
通常の宴会ならば、ビールは先に並べておけるのだが、宴会に先立ち講演などがある場合はそういうわけにはいかない。
客人たちは長引く講演で、ラップをかけた寿司がどんどん干からびていくのには耐えられても、ビール瓶が汗をかいてテーブルを濡らすことを嫌うし、それ以上にぬるくなったビールを飲ませられることに耐えられなかった。
だから、乾杯に入る直前に配膳しなければならないのである。
だが、乾杯の前にはスピーチが入る。
決まってそれは冗長だ。
しかも、このような規模の大きい宴会ではスピーチの来賓も多く、乾杯のタイミングは非常に分かり辛かった。
その為、冷蔵庫から出されたビールケースはこうしてバンケットルームの外で野ざらしにされ、結局、彼らはぬるいビールを飲ませられるわけである…。
とても広い会場内には、純白のテーブルクロスをかけられた白いテーブルが何十と並んでいた。
それらのテーブルには8人近くが座っているのだから、この空間に数百人にも及ぶ人間がひしめいていることになる。それは大変な熱気だった。
テーブルの上にはラップをかけた色とりどりの料理皿が並ぶ。
寿司や刺身舟、美しい果物皿。
また、壁際には料理人たちがまな板を並べ、新鮮な刺身を振る舞う準備をしていた。
そんなテーブルにつく客人たちは、いずれも身なりの良い老紳士たちで、にじみ出す雰囲気から、それぞれが各界で知られた名士であろうことをうかがわせる。
そして、天井にぶら下がる巨大で美しいシャンデリアの迫力は、そんな賓客たちを迎えるに充分な格がこのホテルに備わっていることを無言で物語っていた。
壇上では、乾杯前のスピーチにしてはあまりに長い大演説を、威厳ある老紳士がまくし立てていた。
普通、この手の大演説は嫌われる。
乾杯の直前ならなおさらだ。
だが、客人たちは、時にそうだそうだと叫び、時には大きな拍手がわき、熱気で盛り上がっていた。
熱気、というのは好意的な言い方かもしれない。
異様な盛り上がり方、と言う方が恐らく言い得ているだろう。
「大体ですね、自分の国の国旗に敬意を示すなという教育をしている国が、世界中のどこにあるというんですか!! ないよ、そんな国はどこにもない! 日本だけなんです、そんなおかしい教育をしているのは!!」
「国旗や国歌を強制されることは心の自由への強制? 馬鹿言っちゃいけない! いいですか、国旗や国歌を愛するというのはですね、自然に沸いてくるもんなんです。自分を知り、郷土を知り、歴史や国家を学ぶ。そうしていく中で自然に自らが日本人であることを自覚していき、日本社会の一員を担う国民としての役割を理解していく。その結果、自然と沸いてくるのが国を愛するという心なんです!!
ところが反日教師どもは、それを軍国主義の洗脳だと、こう言っている。馬鹿言っちゃいけない!! そう言ってる連中がやってることはなんですか?! これから日本を背負っていく子供たちに反日妄想をすり込み、自虐教育で洗脳している! 日本は恥ずべき国で、貴様らはその国に生まれた恥ずべき人間であるとッ! 国家を蔑ろにし自分の生まれた国を否定せよと!! そんなことを吹き込んでいるわけです! 無垢な子供たちはそれをそのまま鵜呑みにし、何の裏付けもなく信じてしまう。そりゃ当り前です! 学校は学ぶところなんですよ? そこで教師がそうだと教えれば、子供たちは何の疑いもなく信じるんです。こんな卑劣な話がありますかッ?! 今こそ、日本の教育を私たちは体を張って守らなければならない時なのですッ!!」
万雷の拍手が会場に溢れ出した。
会場の老紳士たちは口々に肯定を連呼し、自らが同じ思いであることをアピールし合っていた。
その壇上へ、たすきを掛けた1人の男が招かれる。
会場から再び万雷の拍手が沸き起こり、彼の登壇を歓迎した。
流行のドラマの勇ましいBGMがその登壇を演出していたが、その圧倒的な拍手の前には、まったく不要なものだったに違いない。
登壇した男のたすきには本人の名前が大きく筆書きされていて、××県知事選挙立候補予定と添えられているのがよく見えた。
「憂国の同志、○○○○君を皆さんにご紹介いたします!! 彼、○○君は、長年、前知事の下で知事室長を勤め、その懐刀として長いこと××県政を支えて参りました。この度、前知事が高齢により勇退を決意され、その後任として指名されたのが、ここにいる○○君なのであります!!」
「私の県にも、実に悔しいことに反日教師が何人もおります! 教育の自由、心の自由などと宣いながら、子供たちに反日教育をしゃあしゃあと強いている!! 正しい歴史を伝えず、連中お得意の捏造と歪曲で、日本は悪かったの一点張り! 大東亜共栄圏の真の意味や、アジアを白人支配から解放しようとアジア各国のために血を流してくださった勇士たちのことは伝えようともしない!
戦前、どれだけのアジアの国が白人植民地であったか、そして日本がアジア開放に立ち上がり、戦後、どれだけの国が自治を回復したか、その意味すらも伝えようともしない!! 情けない!! そんな連中が、真剣に教育を考える教師たちの中に混じり込み、神聖な学舎を汚し続けていることには、もう我慢がなりませんッ!! 私、○○○○は××県知事に就任し、そういった屑どもを全て追放しッ! ××県の教育を正しッ! 日本の将来を担うことができる健全な若者たちを育てることができる環境を取り戻すことで、日本再生百年の計の礎を築いていく覚悟でおりますッ!」
「彼、○○○○君は、来年の××県知事選挙に立候補いたします! どうか皆さん、温かい応援とみなぎるお力で、彼、○○○○君をどうか男にしてやってくださいッ!!」
「○○○○ッ、日本の教育を正して参ります!! どうかよろしくお願いいたします!!」
会場は三度、万雷の拍手が満たされる。
誰もが立ち上がって拍手を送り、同志の決意にエールを送るのだった。
誤解がないように、先にこの会合を説明しなくてはならない。
この会合は決して、政治結社の集会でなければ、立候補者講演会でもない。
信じ難いだろうが、大学の「同窓会組織」の会合に過ぎないのである。
学校の同窓会組織は、誰にとっても馴染み深いもののはずだ。
小学校から中学校、高校、大学。
それらを卒業すれば、ほとんどの場合は自動的に同窓会組織に組み込まれる。
そして数十年を経て同窓会の招待状が届き、旧交を温めて当時を懐かしむ、乙な経験をさせてくれるに違いない。
だが、同窓会組織にも様々なものがある。
前述の、単なる同窓会の幹事を務める程度のものから、より結束した「勢力」と呼ぶに値するものまで様々だ。
同窓会組織の結束が特に強くなったものは、同窓会とは呼ばない。
これは「学閥」と呼ばれる立派な勢力になるのだ。
日本社会では、同門の出身者が所属する組織を超えて結束する習慣がある。
また、出身校が優秀であればあるほど、その傾向は強くなるのが知られている。
中でも、大学の最高峰である「旧帝大」出身者の結束が特に強固であることは戦前から有名だ。
なぜ、優秀な人間ほど結束したがるのか。
自分たちが高い倍率を潜り抜けてきたというプライドによるものとも、もちろん言えるかもしれないが、やはり最大の理由はコネクションによるところが大きいだろう。
旧帝大出身者はエリートとして各界に散っていく。
そして、高い確率で将来、要人に成長していくだろう。
その際、同窓会の結束は計り知れない意味を持っていくことになるのだ。
実際、平成の今日にあっても、旧帝大の出身者たちは強力な学閥・同窓会を有しており、各界に軽んじることのできない影響力を維持している。帝大間での交流も盛んで、その卒業生たちの結束は今日でも非常に固いのである…。
さて、旧帝国大学と言えば、普通は東京大学のことを指すが、単に帝大といった場合、それは特定の大学のことではなく、帝大の名を冠した7つの大学のことを指す。
その内訳は、東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋の7つ。……いずれも劣らぬ最高学府である。
これら七帝大の出身者たちが集う、言わば学校の枠を超えた同窓会組織は、実際に存在している。
……この会場にひしめく老紳士たちも、そんな七帝大の同窓会組織の中のひとつの団体なのである。
ただし、この会合の団体は単に帝大卒業生であれば自動的に入会が許されるものではなかった。
入会に当たっては、会員の推薦や社会に対する貢献度、品格など様々な条件を満たして初めて入会が許される「選ばれた紳士の同窓会」なのである。
ゆえに、会員たちは各界の要人たちがひしめき、明らかに単なる同窓会組織を超えた政治力を持っていることが容易にうかがえた…。
だが、この会にはもうひとつ、重要な入会資格があった。
それは、国家への貢献と日本再生、国を憂う心や強い愛国心。
その結果、非常に右傾化した国粋主義の団体となっていた。
壇上では依然、××県知事選に打って出るという男が熱弁を奮っており、戦後日本がいかに憂うべきものに落ちぶれたかを説き続けていた。
その熱弁に熱心な相槌を打つ老紳士たちに混じり、鷹野の姿があった…。
鷹野はこの会合に慣れているようで、今日のこの会合も、普段に比べて特別、異常だという感じでもなさそうだった。ではあるが、相変わらずの過剰な熱気に、ややうんざりした表情を浮かべているのだった。
鷹野がこの会合に席を与えられている以上、彼女がこの「同窓会」の会員であることは明白だった。
ということはつまり、彼女は非常に優秀な学歴を持ち、
だが、鷹野が満たしてる入会資格は学歴のみで、その他の諸資格は実は満たしていなかった。
様々なコネクションから推薦を受け、特別に入会を許されたのだ。
…つまり彼女は、この会の人間たちほど偏った思想を持ってはいなかったのである。
にも関わらず、なぜ鷹野はわざわざ好んで、このような会合に席を持ち出席しているのか。
その理由は恐らく、今、壇上で熱弁を奮っている知事選候補予定者の男と同じに違いない。
同じように、壇上の男も鷹野と同じく、本来はそれほど偏った思想を持つわけでもない。
今日の会合に合わせ、彼らが好みそうなスピーチを用意してきただけのことである。
政治家が一番欲しいのは票だ。
票は個人が投じるものだが、1人1人に支持を訴えていたら時間がいくらあっても足りない。
……となると、統一した意見や意思を持つ集団に対して支持を訴えていく方がずっと効率がいい。
つまり、壇上の男は、この会の趣旨に賛同する内容のスピーチをすることで、自分を同志だと認めさせ、彼らの有する強力な支援を受けたがっているということなのだ。
会場の老紳士たちは、自分と志を同じにする同志を最大限に応援するだろう。
様々な便宜や応援、そして援助。
それも計り知れない規模で。
今日の議事がそのまま進めば、会は彼を応援することを正式に承認し、政治資金団体を通じて多額の資金を援助することになろう。
もちろん、資金以外の形でも何かの協力をするに違いない。
もちろん、壇上の男だけが利するわけではない。
壇上の男は、この圧倒的な応援を受けて、恐らくきっと、来年の××知事選に勝利を収めるだろう。
同窓会は会員に現職知事を迎え、ますますに政治的発言力を強めていく。
そして、無視することのできない強力な勢力へと成長を続けていくのだ…。
今、ここをお読みになられている読者諸兄は恐らく、こんなものはもはや「同窓会組織」ではないとお感じだろう。
それは間違っていない。
この段階にまで至れば、これは立派な「結社」だからだ。
いや、その団体や活動をオープンにしていなかったなら、それは「秘密結社」とさえ呼ぶことができるのだ。
一部の諸兄は恐らく、こんな怪しげな団体が日本に存在するわけがないとタカを括られているに違いない。
だが、この説明に関してだけは一切のフィクションはない。
私たちの社会にも、こういった勢力や組織がいくつもあり、強力な政治力を発揮して、国家の施策に影響を与えていることを理解する必要がある。
また、そのスタンスも右派左派、タカ派ハト派と様々である。
……それらの具体的な団体名は、ここでは挙げない。
しかし、丹念に新聞を読んでいるならば、時には目にすることもあるはずだ…。
日本では、こういった勢力を示す単語があまり一般的ではない。
秘密結社などという単語を耳にすれば、恐らく諸兄の中には、白い三角頭巾を被った怪しげな組織を連想してしまい、失笑してしまう方もおられるだろう。
だが、それは残念ながら大きな間違いだ。
日本よりもはるかに巨大な国土と国民を有するアメリカでは、もちろんこういう団体もずっと多く、また絶大な影響力を持つ無視できない勢力となっている。
そのため、こういった勢力を示す単語も、結社などという規模では示さない。
時にはホワイトハウスよりも力があると囁かれ、シャドーガバメント(影の政府)と呼称されることも少なくないのである…。
我らの日本にも、戦前は「財閥」という名のシャドーガバメントが存在していた。
敗戦により、GHQによって解体されたが、戦後すでに40年が経過している。
馴れ合いと根回し、寝技が得意な我が国に、再びシャドーガバメントが生まれていない保証などないのである…。
そんな、シャドーガバメントの内のひとつの会合に、鷹野三四の姿はあった…。
;■小泉翁との面会
その景色を漠然と見たなら、広大なゴルフコースとゲストハウスのように見えたかもしれない。
ホールを回るゴルファーの姿こそ見えないが、きっとそう思うに違いない。
だが、それは間違っている。
なぜなら、これはゴルフコースではなく、広大な芝生の庭だったからだ。
そしてゲストハウスに見えるものは、とてもお洒落な豪邸なのだ。
……これが個人の敷地と家であることに気付いた時、一般的な市民は驚きを隠せないだろう。
もちろん、内装も外観に劣ることはない。
贅沢な絨毯。壁には様々な動物の剥製が飾られ、棚には値段を聞きたくもない高級酒がずらりと並ぶ。…そんな客間に鷹野はいた。
ノックがあり、車椅子に座った老人と、それを押す若い女が入って来た。
鷹野が立ち上がって会釈をしようとすると、老人は、立たなくていいとそれを右手で制した。
「いい、いい、立たんでも。久し振りだの〜〜。いつでも遊びに来なさいと言っとるのに。」
「そのお言葉だけで光栄ですわ、小泉先生。」
小泉と呼ばれた老人は、杖と女の手を借りながら、ソファーに腰掛ける。
深いしわが刻まれ、自分ひとりの力では満足に腰掛けることもできないほどに老衰している。
……だが、そこまで老いてなお、彼は絶大な影響力を持ち続けているのであった。
「相変わらずお盛んですわね。首筋、口紅がついておりますわよ。くすくす…。」
「ほっ? そりゃ本当かね、はっはっはっは。やれやれ、こりゃお恥ずかしいの〜〜。」
老人の首に口紅の跡など付いていない。
車椅子を押してきた女が、ヘルパーというには美人過ぎ、仕草が妙に艶かしかったから、はったりを掛けてみたのだ。
そしてどうやら、鷹野の想像通りらしかった。
明日にもお迎えが来てもおかしくないような老いぼれなのに、下半身だけは棺に入る直前まで現役のつもりらしい。
これでは死神も呆れて、もうしばらくは迎えに来そうもなかった。
「三四ちゃんも、いつの間にかすっかり美人さんに成長したの〜。いつまでも小さいと思っとったらいつの間にの〜〜。」
「ご冗談を。本当にそう思われていたら、私のおしりを撫でようなんてなさいませんわ。」
「はっはっはっはっは! 老い先短い年寄りに触らせても、減るもんではないに〜。」
「私よりももっと柔らかいおしりをさんざん撫でておいでのくせに。くすくすくすくす。」
鷹野と老人は、しばらくの間、品のない話で盛り上がった。
その様子から、二人の関係が短くなく、気の置けない仲であることがうかがえた…。
やがて、先ほどの女がお茶の用意に戻ってきた。
それを済ませて退室すると、その足音が遠のいたのを聞き届けて、老人は言った。
「………しかし。三四ちゃんは本当に立派な子だの〜。…高野くんも、これほど立派に育ってくれて、きっとあの世で鼻高々だろうなぁ。」
「そうであればいいのですが。…祖父の偉業には、私など足元にも及びません。」
「高野くんも、色々と運がなかった。時代にも恵まれんかった…。もし、何もない時代に研究をしておったなら、あんたに引き継がせることもなく、見事、研究を完成させておっただろうの〜…。」
「ですが、そういう時代だったからこそ、皮肉にも祖父は雛見沢症候群の存在に気付くことができました。」
「…………世界は、もう核の時代だ。アメリカとソ連が山ほどの核で睨み合い、列強が核を以って発言権を得る。……しかし日本は、非核三原則で核を永遠に放棄しちまった。核なくして国もない時代なんだ。…悲しいこったの。」
昭和中期。東西の緊張は高まりつつも、核を突きつけあった均衡は冷戦と言う名の仮の平和を与えていた。
国連常任理事国は核武装する大国で占められた。
彼らは核による優位を不動にするため、核不拡散の条約で世界を縛り、日本を含む非核国の台頭を永遠に封じた…。
日本が再び、世界と対等に渡り合える国家になるためには、核武装、もしくはそれに匹敵するカードが必要になる…。そう考える人々もいた。
「現実的に考えて、我が国の核武装は永久にありえないでしょうね。」
「だろうの〜。国民の理解を容易には得られんな。それを無視して核武装したとしても、外交カードにはなりえん。」
日本は核武装を放棄する代わりに、アメリカの核の傘に入ることで抑止力を得ている。
そのアメリカと対等な関係になりたいと願う人々にとって、その鍵は核武装をおいて他にないと考える者も少なくなかった。
だが、現実問題として日本が核武装することはあり得ない。
それに、核武装すれば直ちに日本が列強に加われるかと言ったら、それもまた微妙な問題だった。
鷹野と老人は、しばしの間、核を巡る世界の均衡について、思い思いの持論を述べ合うのだった。
鳩時計の音で、話が大きく脱線していたことに気付き、二人は笑いながら本題に戻ることにした。
老人は、鷹野がこの部屋に通される前から置いてあった、机上のアタッシュケースを指差す。
鷹野は、小さく頷くと、それを開けて中身を晒した。
……中身はぎっしり詰められた新札の壱万円札だった。
この大きなアタッシュケースをいっぱいに満たすには、一体、どれだけの金額が必要になるのだろう。
新札の百万円の束がちょうど厚さが1cmになるというのだから…、
しかも、鷹野が今、開けているアタッシュケースと同じものが、見ればあと2つ、脇に置かれているのだ。
だが、鷹野も老人も、その凄まじい中身に特別驚いたりはしない。
鷹野はアタッシュケースを閉じると、頭を下げた。
「ありがとうございます、先生。このご恩は忘れません。」
「はっはっはっは。金は人生の長い若者が持つべきだの。年寄りがあの世まで持っていくもんじゃない。金はあるだけ物を言うが、現金はさらに物を言う。大事に使いなさい。」
「もちろんですわ。祖父の夢を実現するためだけに使います。」
「高野くんが羨ましいの。よいお孫さんを持たれた。きっとあの世で、あんたを自慢しているだろうの〜。」
「まだ自慢されるようなことは何もしていません。祖父の研究を完成させたとき初めて、私は祖父に褒めてもらえる資格が得られるのだと思います。」
「………本当に羨ましい。ウチのせがれたちは全然ダメだ。金儲けのことしか頭にない。…金は儲けてからが大切なんだ。その儲けた金で、御国のために何を貢献できるかが大切なんだ。それこそが、今日まで自分を育んでくれた御国へのご恩返しっちゅうもんなんだがの…。」
「あら、たくさんの愛人たちに気前良くおごるのも御国へのご恩返しなんですの?」
「もちろんだとも。あいつらが買い物をすれば、金は巡って御国に戻る。金は天下の回り物だ。」
だが、その気前良くおごられた愛人たちは、おそらく海外ブランドを買い漁るだろう。
…老人の思惑通りになるかどうかは怪しい。鷹野は、それも含めてくすくすと笑った。
「だが、女どもにバラ蒔く金と、三四ちゃんに託す金は意味がまったく違う。」
「えぇ。存じております。」
「三四ちゃんは今日までよくがんばってきた。礼を尽くし、大勢の人たちの信用と支持を取り付けた。今だから話すが、晴山くんも望月くんも、最初は君のことを若過ぎると批判的だったんだがね。はっはっはっは。だから私も、三四ちゃんのその努力を認めて、その金を託すんだ。」
「はい。」
「…そしてな。その金を私が託す、つーことはの。私が三四ちゃんを、高野くんの研究の正式な後継者だと認めたということなんだ。」
「ありがとうございます。私ごとき若輩に委ねてくださったことに、深く感謝いたします。」
「いやいや! これは高野くんと君の研究だ。彼も三四ちゃん以外が引き継ぐことを望まなかっただろうの〜。だから、三四ちゃんがここまで上り詰めたお陰で、他の年寄りたちをより説得しやすかったわけだ。」
「……祖父の完成できなかった研究を、私が完成させることだけが、私ができる祖父への唯一の恩返しですから。そのために求められる努力ならば厭いません。」
鷹野は、積み重ねてきた苦労を思い出すように、ほんの少し自虐的に笑った。
言うまでもなく、鷹野は目の前の老人から見れば孫世代、いや、それ以下かもしれない。
それだけ年齢の離れた世代の人間たちから信用を得るために、鷹野がどれだけの苦労をしてきたか。
その苦労を想像することのできない者に説明するのは難しかろう…。
そして、鷹野は勝ったのだ。
味方を増やし、
長い時間を掛けて己が信用を築き上げ、長老たちと歓談できる格にまで成り上がったのだ。
だからこそ、今日の場こそが、鷹野の短くない苦労の日々の集大成なのである。
彼女は今や、強力な勢力の後ろ盾を正式に得、祖父の果たせなかった研究を完成させるために羽ばたこうとしていたのだ……。
「さて。………高野くんの研究を正式に引き継ぐことになったなら。…三四ちゃんにも話しておかなきゃならんことがある。」
「何でしょう。うかがいます。」
そこで老人は一度言葉を切り、卓上の煙草入れから高級煙草を一本、抜き取った。
鷹野は、慣れた仕草で老人の煙草にライターの火を貸す。
鷹野には喫煙の嗜好はない。
……老人が煙草を嗜むことを知っていて、ライターを懐に忍ばせているのだ。
こんなささやかなこともいくつも積み重なって、今日の彼女の信用を築き上げている…。
「……高野くんが雛見沢症候群の存在に気付いたのは、日本ではなく、満州だった。」
「はい。祖父の手記によるならば、昭和15年頃から、当時、主に関東軍に多く送られていた雛見沢出身兵士による末期症状事件の存在を知り、雛見沢に存在する未知の寄生虫症の存在を予想した、とあります。」
戦争と言う過酷な状況下にあっては、時に人は精神を壊す。
そんな中、雛見沢から遠く離れた戦地に送られ、緊張した毎日を強いられていた雛見沢出身者たちは、時に末期症状を発症し、錯乱して歪な事件を引き起こした。
ただ、広大で混乱を極めた戦地でのこと。
個々の事件は個別に扱われ、その裏に潜む何かに気付く者はいなかった…。
「当時、高野くんは軍医少佐として関東軍に行っており、現地の防疫研究所で各種伝染病の予防対策について研究していた。そんな中で偶然、いくつかの錯乱事件が全て同じ出身地の兵士によって起されていることを知った。高野くんは、雛見沢出身者に特有の症状ではないかと仮定し、個人的にこの研究を始めたのだ。……そして、雛見沢出身の兵士を研究所勤務にして集め、色々と調査した。そして雛見沢独特のオヤシロさま信仰の存在を知り、特異な性質を持つ寄生虫症の存在を確信したのだ。」
それだけのことで寄生虫症と断言することは、今日の諸兄には短絡に過ぎるように思われる方もおられるだろう。
だが、20世紀初頭。当時の最先端医学であるドイツ医学によって、未知の病気の数々が細菌や寄生虫の仕業であると解明されている時期でもあった。
未知の病気の裏にはきっと、未知の病原体がいるに違いないというのは、決して短絡的思考ではなかったのである。
例えば、今日ではビタミンB1の欠乏が原因であると解明されている脚気も、20世紀初頭においては声高に未知の病原体の仕業であると叫ばれていた事実がある…。
「はい。祖父はその研究が軍にとって価値のあるものになるのではないかと予想し、予算を求めましたが一笑に伏されたとか。」
祖父は研究者としてはとても熱心で優秀だったが、それをアピールし理解を得る政治力については生涯、皆無だった。
雛見沢症候群。
…いや、人の脳に寄生し感情をコントロールできる可能性の存在。
…誰も解き明かしたことのない謎に初めて気付いた快挙を成し遂げながらも、祖父はその快挙を他人にアピールすることについに成功できず、支援者を得られないまま、快挙に対する正当な評価を得られないまま、孤独の内に人生を終えた…。
研究は、個人の力では限界がある。
人材、資金、バックアップ。
それらがそろって初めて成し遂げられるのだ。
私は祖父の失敗がそこにあったと思い、そこを蔑ろにすることがないよう、今日まで積み重ねを続けていたのだ…。
「………当時の軍部は、低予算で且つ即効性のある兵器を期待していた。高野くんの研究は、非常に興味深いものではあっても、当時の軍には期待されなかったということだの…。」
「ですが、先生は唯一、祖父の研究に理解を示してくれたと聞いています。祖父は先生のことを無二の親友と記していました。」
「高野くんとは同郷だった。同じ蕎麦屋を知る人間と、遠方の戦地で会えるというのは奇跡的なことだったの〜。彼とは年は離れていたが、私たちは固い友情で結ばれていたのだ。だから、高野くんからはよく話をされたの。画期的な研究になるに違いない、本格的な研究のために予算を付けられるよう根回ししてほしいと何度も相談を受けた。」
「祖父の手記にも、先生が色々と各方面に掛け合ってくださったことが記されています。……結局、祖父の研究が認められることはありませんでしたが、先生だけが理解者でいてくれたことは、きっと存命中、大きな心の支えになっていたものと思います。」
「だが、結局は何の力にもなれんかった。……だから、高野くんにしてやれなかった協力を、三四ちゃんにするんだ。三四ちゃんに協力するのは、高野くんに対する私の罪滅ぼしでもある…。」
「…ありがとうございます。祖父は、良い親友に恵まれたと思っています。……軍上層部に、先生のように理解を示してくれる方が少しでもいてくれたなら。祖父の人生はもっと違ったものになっていたかもしれないと思うと、とても悔しく思います…。」
そこで老人は、目を閉じて少し考え込むような仕草をする。……そして、ほんの少し遠くを見るような目をしながら言った。
「………………実はな。真実はそうではない。上層部は高野くんの発見に少なからず関心を持っていたのだ。」
「……え? それは初耳です。でもそれならなぜ祖父の研究を認めなかったのですか…?」
「ある事情により、高野くんに雛見沢症候群を研究させたくない都合ができたのだ。その理由は、私と一部の高級将校しか知らん。私を除き、全員が他界した今、
「…………研究させたくない都合とは、…何ですか。」
私は今日まで長いこと、祖父の研究は、みんなが馬鹿にして無視しているから日の目を見ないのだと信じてきた。
戦時中に雛見沢症候群の秘密を暴こうと思った祖父は、自分の所属する組織である軍に研究予算を求めた。
だが、さっき老人が言ったとおり、軍は即効性のある兵器を期待したため、祖父の研究に関心を示さなかったと、…そうだと信じてきた。
それが実は、軍は関心を示していたなんて、本当に初耳だった。
「それを話すには、当時の満州における関東軍のことを話しておかなければならん。当時、関東軍は満州にあったが、北進するか南進するかで意見が分かれ、対立しておった。」
当時、日本は満州に軍隊を構え、北に進みソ連を牽制するか、南に進み領土を拡張して資源地帯を確保するかで意見を二つに分けていた。
ソ連とその前身であるロシアは厳寒の国土の都合上、冬場に凍結しない不凍港を常に求めており、領土を南に拡張しようとする南下政策を採り続けていた。その南下政策との激突が日露戦争だったと言われている。
日露戦争は、歴史的評価では日本の勝利ということになっているが、実際はポーツマス条約で講和した痛み分けの戦争であり、疲弊した双方が矛を収めあっただけに過ぎない。
ロシアが降参し、全面的に降伏したわけでは決してないのである。その為、ロシア脅威論は燻り続けることになる。
その後、帝政ロシアは革命で倒れるが、日本としては新生ソ連の南下に対する脅威が払拭できていない状況にあった。
「歴史的には南進しますね。日ソ不可侵条約を結んで北進を放棄。その結果、独ソ戦開始後、押されていたソ連軍は極東の戦力を対独戦線に集中。一時はモスクワ直前にまで迫っていたドイツ軍に対し猛反攻を開始し、戦局を逆転させます。」
日ソ不可侵条約は結んでいても、いつ日本が攻め込んでくるかわからない。
そう思うからこそ、ソ連は極東に戦力を割かざるを得ず、対独戦線に充分な戦力を集中できずにいた。
そもそも、ドイツとソ連も独ソ不可侵条約を結んでいた。
ドイツはそれを破棄してソ連へ攻め込んでいる。しかも日本とドイツは軍事同盟を締結している。
それを思えば、ソ連がたとえ日本と不可侵条約を結んでいても安心できなかったのは当然に違いない。
(皮肉にも、そのソ連側から日ソ不可侵条約は破られるのだが、その歴史的評価はここでは割愛する)
「その通り。ヒトラーが三国同盟を結んだのも、日本がソ連の反対側を牽制することを期待したものだ。だが日本は結局、北進を放棄する。ドイツの攻勢が優勢だったため、経緯を見守ろうという意見が支配的だった。仮に北進するとしても、ドイツがモスクワを陥落させるのが最前提だと考えられとった。…それをゾルゲにすっぱ抜かれ、ソ連は極東国境の重戦車を全て独ソ戦線に送ったのだ。そしてモスクワ戦は敗北が確定し、クルスクの戦い以降、ドイツは大敗走を迎えることになる。」
「…歴史のターニングポイントですわね。」
冷戦時代になればこそソ連は世界を二分する強国という認識だが、少なくとも昭和15年の直前までは関東軍にそういう認識はなかった。
日露戦争で一度勝利を収めていたし、帝政ロシアが革命で倒れて誕生した新生ソ連政府がまだまだ磐石ではないとタカを括っていたのだ。
結局、その過小評価は昭和16年のノモンハン事件で改められることになる。
高度に機械化されたソ連軍と短期間とはいえ激戦を繰り広げ、大きな損害を受けた関東軍は、ソ連とは戦うべきではないと知り、日本は日ソ不可侵条約へと傾いていく…。
「だが、少なくともノモンハン事件の直前までは、関東軍はソ連を強く意識しており、北進と南進で意見は真っ二つに分かれていた。そのため、対ソ戦への軍備増強の見地から中国との全面衝突は避けるべきであるという慎重意見もあったのだ。」
「でも確か、盧溝橋事件を境に、日中戦争へと展開していきますね。」
昭和12年7月。
北京の盧溝橋にて日本軍と中国軍が睨み合っていた。
7月7日の深夜。
訓練中の日本軍に対し銃撃があり、両軍は戦闘状態に突入。
この事件が切っ掛けとなり、長い日中戦争が始まることとなる…。
「うむ。歴史的には、あの事件が日中戦争の幕開けのように言われとる。……だが、当時、北進と南進で意見の分かれた軍部では、中国と全面衝突するべきか否かでも意見が分かれておったのだ。いや、それどころか事件がこれ以上大きくならんよう、参謀本部が穏便な解決を指示したほどだった。」
北進派は、対ソ戦略の見地から日中の激突は無意味であると主張し、盧溝橋事件を穏便に終わらせることを望んでいたという。
だが、内地の南進派は、この事件を切っ掛けに中国へのさらなる派兵を決定。
中国に対する強硬政策を打ち出し、かくして日本と中国は盧溝橋事件を切っ掛けに全面戦争へと突入していくこととなるのである。
その後、ノモンハン事件で辛酸を舐めた日本は対ソ戦略を大きく転換。
日ソ不可侵条約を締結して、南進へ路線を確定。
ますます日中戦争は泥沼の様相となっていく……。
仮にモスクワを占領できただけでドイツが大戦の覇者となれたかは怪しい。
ドーバー海峡を隔ててイギリスは依然、健在だったし、アメリカは虎視眈々と開戦の機会をうかがっていた。
それに、あのナポレオンも一度はモスクワを占領している。でも結局、冬将軍には勝てず撤退していったのだから。
「…あの戦争が、枢軸国の勝利で終わったかもしれない、IFの世界ですわね。」
「うむ。盧溝橋事件での一発の弾丸が、世界の歴史を変えてしまったかもしれん可能性もあるということだの。」
「……確か、その弾丸を、どちらが発砲したかで、歴史解釈が日中で異なっていましたわね。」
「日本側の主張では、中国軍陣地に近付きすぎた日本兵に対して中国軍の一兵士が、恐怖心から発砲してしまったのではないかと言われとる。だが中国側は、発砲は日本軍の陰謀であると主張しとる。」
「でも、銃撃はあった。誰が撃ったかはわからずとも、それが日中戦争の引き金になった。」
「うむ。それだけが、歴史の真実だの。」
「…………しかし先生。その話と祖父にどんな関係が?」
「盧溝橋事件の時。深夜、訓練中の中隊に対して銃撃が行なわれ、ただちに全員が集合し点呼を取った。その時、1人だけ兵士がいなかった。この兵士はその後、戻って来るのだが、彼が伝令に出て中国軍陣地に近付きすぎたことが原因ではないかと囁かれた。…………ところで。…この兵士が雛見沢出身の兵士だったことは知っているかね…?」
「……え…。そうなのですか…?!」
「高野くんから雛見沢症候群の話が出て、雛見沢出身者には突如として錯乱する可能性があることが出た時。…私たちは関東軍に配属されている雛見沢出身兵士のリストの中に、盧溝橋事件のその兵士が含まれているのを知った。」
「では、……盧溝橋事件の発砲とは…、」
「真相はわからん! だが、雛見沢症候群を末期発症させた錯乱兵士による発砲の可能性が否定できなかった。その兵士は事件の際、戦死している。当時の資料がなく、どういう状態で死に至ったのかは記録がない。」
「……………………。」
その後の日本軍側の主張と交渉は、中国軍側からの発砲を前提に進められた。
事件のわずか数日後には、中国側からの謝罪を求めて、示威行為としての三個師団の増派が決定。
中国側はもちろんこれに反発。一気に情勢を悪化させていったのである。
「そんな中で雛見沢症候群の研究がなされれば、日本側の主張に悪影響を与えかねないとの懸念が起こったのだ。政治的グレーゾーンに踏み込む危険性を配慮し、高野くんの研究は却下されたのだよ…。」
「………………そのため、…戦争が終わった後も、祖父の研究が顧みられることがなかったと…?」
「そうだ。……戦争は終わったが、歴史認識の溝を巡っての対立は続いとる。高野くんにその気はなくとも、雛見沢症候群の研究が公になれば、終った戦争の諍いを蒸し返すことになりかねん。……そう危惧した重鎮たちが、戦後も高野くんの研究を黙殺するよう、根回しをしておったのは今だから言える話だ。…私にも、高野くんに協力しないよう、長く釘を刺されておった…。」
「…………………………。」
鷹野は努めて冷静を装ったが、…口の端が苦々しく歪むのを隠しきることはできなかった。
祖父の研究に誰も関心を示さなかったのは、それを良しとしない黒幕たちの暗躍があったからだというのだから。
……黒幕たちがそれだけ危惧するということは、
………祖父の孤独な生涯が悔しくて悲しくてたまらなかった。
「だが、そういう連中は他界し。もう当時を知る者は私しかおらん。もし今、まだ高野くんが生きていたなら、私はそれを謝って全面的な協力を申し出るつもりだった。だが、彼はもういない。だから、私は三四ちゃんに謝り、高野くんにするはずだった協力を、君にしようと思ってるのだ。」
「………よろしいのですか? 私が雛見沢症候群の研究をすることで、蒸し返しになるということはありませんか…?」
「もう当時とは時代が違う。それに、……雛見沢症候群の研究には、単なる風土病では済ませないものが潜んでおる。研究によっては、戦後日本を再び列強の末席に返り咲かせる切り札になるやもしれん。」
「当時とはもう風向きが変わった、ということですわね。」
「そうだ。不幸にも、高野くんは風向きが変わるまで存命することができなかった。……だが幸い、三四ちゃんという後継者に研究を託せた。だから私は、この命ある限り、三四ちゃんの研究を最大限応援する。私は高野くんに協力を約束したのに、様々なしがらみから力になれず、彼を失望させた。その償いを命ある限りしていこうと思ってる。それが、高野くんが無二の親友と呼んでくれた私の、この世に残された最後の仕事だと思っとる…!」
「先生……。本当にありがとうございます…。」
「いや、いい。私も死ぬ前に洗いざらいを話せてすっきりした。とにかく、私の目が黒い内は三四ちゃんの研究に一切の不自由はさせん! 何かあったらいつでも頼りなさい。助力は惜しまないからの〜!」
祖父と、かつての上司で親友でもあるこの老人に、どんな絆があったのか、鷹野には想像することしかできない。
……でも、その絆のお陰で、鷹野は強力な後ろ盾を得られたことは間違いない。
涙さえ薄っすらと浮かべ、感傷的な表情を浮かべる鷹野は内心、老人の全面協力の約束に躍り上がりたい気分だった。
老人と鷹野はしばらくの間、互いに相手の感謝を否定しては頭を下げ合っていた。
そんな頭の下げ合いがひと段落したところで、老人はほんの少しだけ表情を真剣にし、あまりに長かった前置きの果ての、本当に言いたかったことを口にした。
「そういうことだ。私が言いたいのはつまり。……雛見沢症候群には、歴史すらも作りかねない魔力が宿っているということだ。それは国の運命すらも捻じ曲げかねない。……そこのところをよく肝に銘じて、慎重に研究をしなさい。」
;■高級料亭
上品な小料理の配膳を終えると、女将は毎度の利用を深々と感謝した後、しずしずと姿を消す。
上品なお茶室のような室内は、とても落ち着きがあり、下手に飾らず、それでいて本当の贅沢が尽くしてある、素晴らしいものだった。
この高級料亭で、財界の要人や政府高官が人目を忍んで会合するのによく使われる、その道では有名な料亭だ。
そこには、よく肥えた壮年の紳士たちが5人ほど。そして、その中には鷹野の姿も混じっていた。
鷹野は、一歩引いた位置でかしこまる様に座っていた。
その様子から、鷹野にとってかなり目上の人間たちとの会合であることがうかがえた。
ダブルの高級スーツに身を包んだ男は、そんな鷹野に、硬くならなくていいですよと声をかける。
「どうぞお楽に、鷹野さん。今回の件、非常に興味深く読ませていただきました。このような研究が、数十年に渡り眠り続けてきたとは…。」
「うーむ、驚きです。旧日本軍が戦時中に行なっていたBC兵器の研究は、ほとんどが実らず、研究基礎も全て米軍に接収され、何も残っていないと思っておりましたよ。」
「……この研究は、軍上層部にもほとんど相手にされなかったと聞いております。」
「なるほど。ゆえに、誰にも知られず、そしてGHQの追求も受けなかったというわけですな。その意味においてだけは、本当に幸運でした。」
「ふぅむ。高野先生の研究をタカノさんが引き継ぐとは、面白い。これも因縁ですかな。まるで、あなたの体を借りて、故人が研究を完成させようとしているかのようです。」
「くすくす。本当にそうかもしれませんわね。私も奇妙な因縁を感じます。」
鷹野は、高野一二三を祖父と呼び、慕っているが、対外的にはその関係を説明してはいなかった。
高野の研究を自分が受け継ぐことに、私情が混じっていると思われることがプラスにならないと判断したからだ。
だから表向きは、鷹野はかつて高野一二三と交流があり、高野の死後、その遺品の中の資料からこの研究を見つけて引き継いだ…、というようなことになっていた。
「それで、先生方。…いかがでしょうか。」
「うむ。防衛庁がね、非常に強い関心を持ったよ。はっはっは! 中川くんが言うには防衛庁技術研究本部が強い関心を示してくれてね。研究のスポンサーを名乗り出てくれた。」
「おお、それは朗報じゃないですか。おめでとう、鷹野さん!」
「あ、ありがとうございます…!」
「何でも、向こうが言うにはね。いくつかの省庁間での有識者による、次世代抑止兵器の研究会があってね。この中でアルファベットプロジェクトというのがあるらしい。鷹野さんはご存知ですかな?」
一個人に過ぎない鷹野が知るわけもない。
……だが、日本社会の中核に紛れ込む、国粋主義者の超党派勢力が、国民の与り知らぬところで物騒な研究をしていても、それはありえないことではなかった。
社会とは、人と人のつながりで編まれた網のようなものだ。
人は、同調する人間と手をつなぎ、同じ思想を持つ「網」を作り上げていく。
それは世間によく知られているものもあれば、誰もその存在を知らない秘密のものだってある。
今日のこの会合に参加している面々だって、個々の肩書きではまったくその関係を想像できないに違いない……。
次世代抑止兵器の研究会。
そこで研究されている、アルファベットプロジェクト。
この単語の羅列だけでも、おおよその想像は可能だった。
まず、抑止兵器という単語。抑止兵器は普通、核兵器のことを指す。
兵器というものは普通、敵に対して使用し、打ち滅ぼすことを目的とする。
だが、抑止兵器の概念はまったく異なるのだ。それは敵に対して使用することを前提にしない。
使用したら大変なことになるぞ、と脅すことによって、相手の侵攻そのものを抑止する。
米ソは大量の核兵器を持ち合い、互いを牽制している。
だが、双方ともそれを使用することはない。
そうなれば全面核戦争となり、共倒れになるからだ。
ゆえに、抜かない伝家の宝刀となるのだ。
もちろん、この伝家の宝刀は互いが持ち合うから意味がある。
もし、片方しか持たなかったら、そこに軍事的交渉の余地は一切なくなる。
つまり、核を持たぬ国は核武装国の前にまったく無力なのだ…。
そんなはずはない、日本は核を放棄していても国として今日も成立しているではないか、と考える方もおられるかもしれないが、それは間違っている。
日本は核を放棄したが、アメリカとの同盟によって、その核の傘に入っている。
つまり、アメリカの核によって国を成立させているのだ…。
だが、それはつまり、永遠にアメリカの属国であることを甘んじなければならないことでもある。
……それを脱却し、アメリカと対等な関係の強い国家に生まれ変わるためには、その核の傘を出て、日本独自の抑止兵器を持たなければならない。……そう考える有識者たちの会合に違いなかった。
そこまで至れば、アルファベットプロジェクトという言葉も何となく察しがついた。
核兵器は大量破壊兵器とも呼ばれる。
だが、大量破壊兵器と言った場合、核兵器だけのことを指したりはしない。
その内訳は、核兵器を筆頭に、生物兵器、化学兵器と続く。
そのABCで、アルファベット。
つまり、アルファベットプロジェクトとは大量破壊兵器研究の隠語ということに違いない…。
鷹野のその想像はどうやら正解のようだった。
「本来は、日本が核武装をするのが正しいのです。戦後、平和国家として確立し、多大な国際貢献を果たした我が国は、常任理事国入りを果たし、核武装してこそ初めて一人前の国家として認められる。それこそが、戦後日本百年の悲願なのです。」
「左様です。だが、現実には核不拡散条約により、核は大国だけが独占。また、国内世論は核アレルギーに染まり、内外からの締め付けで実現を不可能にしております。」
「生物化学兵器は、別名、貧者の核兵器とも呼ばれる。核を持てない小国はすでに熱心に研究を進めているという話です。」
「はっはっは、鷹野さん、誤解しないでくださいよ? この度の研究は細菌兵器の保有が目的ではありません。同種の兵器が他国によって国内に持ち込まれる危険性について、事前に充分な対処を行なうための研究です。自衛のための研究であることを誤解しないようにお願いいたしますよ。」
「はい。存じております。」
日本人のこういう方便を鷹野は嫌っていた。だが、それを表情には出さない。
彼らは何だかんだと言いながら、この研究に生物兵器の価値を見出した、ということなのだろう。
だが、実はそれすらも方便だった。
生物兵器研究をするなら、雛見沢症候群などという未知の奇病を研究するよりは、天然痘や炭疽菌などを研究した方がよっぽど手っ取り早い。
だから実は、防衛庁が生物兵器として興味を持った、というのは正しくないのである。
つまり……。……鷹野が研究するためには、予算や人材、施設などのバックアップが欠かせず、強力なスポンサーが必要となる。
それへの渡りを鷹野は政財界の裏の長老に頼み、方々への根回しをして、生物兵器転用を口実に防衛庁から無理やり予算を引っ張った、というのが本当のところだった。
だから、この話が防衛庁公認というわけではない。
…正確には、防衛庁を牛耳る黒幕たちに認めてもらった、ということなのだ…。
黒幕たちは、防衛庁からアルファベットプロジェクトに予算を落とす。
黒幕たちはそこへ鷹野の研究を推薦して割り込ませる。
鷹野は予算を得、黒幕たちはリベートを得ることで公金を吸い上げていく。
……こうして考えると、このプロジェクトが本当に真剣に次世代抑止兵器を研究しているか疑わしい。
単に、黒幕たちが公金を吸いだすために使っているトンネルプロジェクトなのかもしれないのだから。
まぁ、そんな難しいことは、鷹野にとってどうでもいいことだった。
黒幕や長老たちの思惑など知ったことではない。自分の研究のために予算を引き出せればそれで充分なのだ。
どちらにせよ。鷹野はもっとも欲しかったスポンサーを得た。
しかも、自分に思いつく組織の中でも最大の機関からだ。それはまさに、祖父にとっての念願でもあった。
彼女は努めて冷静を装っていたが、内心は躍り上がりたいくらいの気持ちだった。
「中川くんとしては今回の件、充分に研究が進んだら、丸ごと買い取って構わないと言ってくれてる。まだまだ未完の研究だが、その未来性については充分に理解できてるようだ。」
「仰るとおりです。この研究はまだ道半ばで、充分な資金と施設、人材が欠かせません。」
鷹野の有頂天は、そこで少しだけ醒めた。
「わ、私はお金が欲しくて研究しているのではありません。ひとりの研究者としての知的探究心からです。私に必要なのはスポンサー。先方が求めるのは成果。そういう関係に期待したかったのですが。」
少し興奮し過ぎたことにすぐ気付き、鷹野は自分の胸を撫でて心臓を落ち着かせた。
……仮にも、研究助成ということになっている。
予算に見合った成果を期待しようと思えば、彼らにとって、鷹野はまだまだ若輩に感じられた、ということなのだろう。
「わかってますわかってます。鷹野さんが今日まで積み上げて来た研究を、横から掻っ攫われたんじゃそれはあんまりですからね。そこは私もよ〜くわかってます。もちろん、向こうにもそれは伝えました。それで出てきた折衷案がこれです。」
「まず、アルファベットプロジェクト内の新規事業として鷹野さんの研究を立ち上げます。理事会の承認を経れば正式に予算をつけることができますからね。鷹野さんには客員という形でプロジェクトに参加していただき、研究に携わるという形になります。」
資金を得ようとしたら、相手の傘下に入るのは当然だろう。ここまでは異論はない。
「ただ、研究会は今回の研究に予算をつけるに当たり、いくつかの条件を挙げています。ひとつは、先ほど先生が申し上げた、この度の研究に関する分野で優秀な才能を持つ人物に研究筆頭を委ねることです。」
「お言葉を返すようですが、私以上にこの研究に詳しい人物が、故高野先生を除いて存在するとお思いですか?」
「まままま! そこは鷹野さん、抑えて抑えて! お気持ちはごもっともです。」
「それでは、その人物に私が研究を売り渡すのと何も変らないではありませんか。まったく話が違います。」
「わっはっはっは。落ち着きなさい、鷹野さん。」
鷹野の表情からわずかに零れた怒りの表情を、老獪な彼らは見逃さなかった。
そして、この程度のことで表情に出してしまうようでは、やはりまだまだお若いなぁとでも言うかのように、はぐらかす笑いをする。
もっとも、その笑いは鷹野を見下したものではない。
どちらかというと、話は最後まで聞きなさいというような、少し頼もしさを感じさせるものだった。
「もちろん、そこはあなたのやりやすいように手を打ちます。小泉先生から、あなたをよろしく頼むと念を押されているんです。大恩ある小泉先生に託されたあなたを、私が蔑ろにするとお思いですか…? 大丈夫です。ここはひとつ、私に任せてください。あなたも、そして連中も納得するうまい妥結点を用意します。」
「と、申しますと…?」
「その人物の人選は私が握っているということですよ。わはははははは!」
鷹野を除く一同はげらげらと大笑いした。鷹野も遅れて笑いに混じる。
つまり、これはその、骨抜きということだ。
防衛庁側は、鷹野ひとりでは少々心細いので、専門家をリーダーに据えろと提案した。
だが、そのリーダーの人選は、鷹野の後ろ盾の人物が掌握していたのだから。
鷹野は実感する。……あぁ、これが後ろ盾を持つことの頼もしさなのだな、と。
「万事、私に任せてください。あなたがやりやすい候補者をこちらで探します。鷹野さんはその中から、組みやすいと思う相手を選べばいいということです。」
これならば何の不安もない。
表向きの代表は私ではないが、研究の実質は私の手元に残る。
……もちろん私とて権威ではない。
研究の上で頼れるパートナーがいてくれればそれに越したことはないのだ。
「この件、しばらく先方と私の方で調整します。もちろん、鷹野さんの満足の行く形で決着できるようにしますので、しばらく朗報を待ってください。」
「はい。お世話になりますが、どうかよろしくお願いいたします…!」
「そうだそうだ、防衛庁の話だけじゃないよ。厚生省の永田くんも一枚噛んでくれるそうだよ。国立感染症予防研究所の伊藤くんを紹介してくれてね。機材や技術についてのバックアップを名乗り出てくれてる。」
「ほ、本当ですか…! あ、ありがとうございます…!」
「わっはっはっは! もうこれは立派な国家プロジェクトですなぁ。おめでとう、鷹野さん! これも今日までのあなたと、そして故高野先生の地道な研究が評価された結果です。」
「い、いえ! 全て高野先生の努力の成果です。私などまだ何も…!」
「はっはっはっは。謙虚なのは実に良いことです。小泉先生も仰っておられましたが、本当に鷹野さんは良い方ですなぁ。可愛がられているというのも頷けます。」
「それでですね、向こうとしては鷹野さんの身分を防衛庁で預かってしまいたいようです。幸い、鷹野さんは医師免許をお持ちですからね。研究本部の医官として身分を保証するようです。」
「それは、えっと……、公務員になれということですか? これは意外な話ですね…。」
「アルファベットプロジェクトに携わる研究機関のほとんどは公的機関です。今回の研究は陸自も強い関心を寄せており、職員を陸自から派遣したいと強く要望してきています。ですので、場合によっては身分は陸自の扱いになるかもしれません。」
「まぁ、この辺は役人の縄張り争いだと思ってください。その役人たちの上に立つには、役人の身分が必要になってくると、そういうわけですな。もちろん、どういう形になろうとも、鷹野さんが不快に思うようなことにはしませんから、安心してください。」
「わかりました。その辺りはお任せいたします。…しかし、高野先生がかつて旧日本軍にこの研究の援助を求めた時には断られたことを思うと、自衛隊が興味を示されたのが意外と言うか、遅いというか、複雑な気持ちですね。」
「それは……仕方ありますまいな。戦況が悪化していた日本軍が求めていたのは、即効性があり、瞬時に戦局を引っくり返せるものだったのでしょう。決して、高野先生の研究を見下していたわけではないはずです。」
それは真実ではない。そのことをすでに鷹野は長老の告白から聞いている。
鷹野はふっと意識が途切れるような気分を味わうと、目の前の会合が遠くの世界の出来事のように感じるのだった。
この日を望み、こうなるように努力してついに至った今日なのだ。
ついに私と祖父の研究は認められ、第一歩を記す。それは夢にまで見た日なのだ。
だから、実はこれが夢なのではないかと想像することが恐ろしかった。
本当に嬉しいという喜びは、すぐその場では理解できず、時間が経ってから初めて理解できるということも少なくない。
……鷹野は、まさにこれがそういう気持ちなのだろうと思っていた…。
「…ると思います。多分、佐官クラスの階級が与えられるのではないでしょうか。となると鷹野さんは副隊長の地位になりますから、恐らく、三佐ではないかと。」
「これは素晴らしい…! 鷹野三佐ですか。いやいや、羨ましいですなぁ! 男に生まれたからには、一度くらいは自分のことを階級で呼ばれてみたいものですが。いやはやいやはや、鷹野三佐ですか、ふむふむ!」
「三佐? 何ですか?」
「あぁ、自衛隊の階級のことで、三等陸佐のことです。企業でいうところの、副部長くらいでしょうね。おそらくその階級が、プロジェクト発足時に鷹野さんに与えられることになるかと思います。」
「旧日本軍で言うところの少佐ですよ。……そう言えば奇遇ですなぁ。高野先生も、旧軍では少佐の階級にあられたそうではありませんか。」
はっとする。
そうだ。…祖父もかつて日本軍にあって、少佐の階級を持っていた…。
祖父が果たせなかった研究を自分が引き継ぐため、今日まで重ねてきた努力。
そして揃ったお膳立て。……そしてその末に私に与えられるだろう階級が、当時で言うところの少佐で、祖父と同じもの。
祖父の研究を引き継ぐことが、血のつながっていない自分にとっての、血縁にも勝る関係だと信じて頑張ってきた。
そして与えられた階級がおじいちゃんと同じだなんて。まるで運命か何かのよう。
………これは、おじいちゃんのメッセージなの…?
それはきっと、天国の祖父からのエール。
そして、研究だけでなく、その想いも継承したことを示す証。
鷹野は、三佐という階級に、何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「……おじいちゃん。………私、……ようやくここまで来たよ。」
その独り言は、男たちの笑い声の中では誰の耳にも届かない。
でも、祖父の眠る国にはきっと届く。そう信じての呟きだった。
まだまだ、道半ばに過ぎない。この研究が偉業となるには、これから長く険しい道を乗り越えなくてはならない。
そうでなければ、祖父は神にはなれないのだ。私も神になれないのだ。
……………。
祖父の残した遺書にあった、お前は神になりなさいの一文。
そして、その一文の前にあった、私は神になれなかったの一文。
それこそが、唯一の祖父の遺志。
祖父は、私に託したのだ。自分の研究の全てを。
神の復活は、肉体が蘇ることではない。
…残された人間の心に蘇ることなのだ。
祖父はまず私の心に蘇るだろう。
そして、その偉業を知られ、学会の人間たちは争って祖父の資料を読むだろう。それこそ奪い合うように。
そして、このような研究がすでに戦時中から行なわれていて、誰の理解も得られずに孤独に研究に生涯を捧げた高野一二三の生涯を知り、その偉業をようやく讃えるのだ…。
;■入江所長就任
「ご紹介します。鷹野三佐です。……三佐、こちらは入江京介先生です。」
初対面の入江は、非常に緊張した様子だった。
恐らく、私が怪しげな組織の黒幕だとでも思ったのだろう。
「くすくす。畏縮しなくて結構ですわ。鷹野とお呼びください。」
「恐縮です。この度はお引き立ていただき、深く感謝いたします。」
「どうぞ、お掛けになってください。」
入江京介という男の雰囲気を言い表すならば、典型的な小市民と言えただろう。
老獪な年寄りたちに年功序列でいびり続けられ、都合よく使い捨てられていく典型的なタイプと言えるかもしれない。
その辺の狡猾さは私にだいぶ劣るようだった。
…だからといって、何の野心もないわけでもない。
彼も、ひとりの若者として、何か功績を残して自分の名を後世に留めたいという夢は持っていた。
また、人前ではこうして謙虚なのだが、その論文はどちらかというと革新的かつ攻撃的で、そのギャップはとても激しいものだったのである。
「……雛見沢症候群の資料を読ませていただきました。」
「いかがでしたか?」
「その、………非常に驚くことばかりでした。…確かに今日の医学の暗部に踏み込みかねない内容ではありますが、未だ世界で誰も解明していない神秘という点で、知的興奮を抑え切れません。」
鷹野はくすりと微笑む。
入江が雛見沢症候群に対し、絶大な興味を示してくれたことが、その言葉だけで充分わかったからだ。
彼女は今日まであまりに大勢の人間の中で揉まれて来た。だから、そこで培われた直感でわかる。
……この男とはうまくやって行けそうだった。
仮に薬にならなくとも、決して毒にはならない。
…私とスポンサー、双方の都合を満たす最高の人材に違いなかった。
「私こそ驚いております。入江先生ほどの博識かつ経験豊富な方が、責任ある地位も仕事も与えられず、医局の片隅で飼い殺されているなど。これは医学界の重大な損失と言わざるを得ませんわ。」
「……ははは。」
入江が曖昧に笑ってはぐらかす。
本人は知られていないつもりだろうが、私は彼について詳細な資料を得ていたので、彼がどうして稀な才能と実績を持ちながら、表舞台から放逐されているかを知っていた。
彼は脳外科の権威の下で稀有な才能を発揮し、将来を期待されていたという。
……だが、倫理を巡る論争に破れ、中央を追放されたのである。
この世には生まれつきの悪人など存在せず、彼らは全て治療すべき哀れな患者である。
彼らは、生まれた時は正常であったが、その成長の過程で心因性や外因性等の何らかの理由により、脳に疾患が起こり、それによって人は悪人になる、というのである。
つまり、悪人に必要なのは懲罰ではなく、治療であり、彼らを悪人たらしめている疾患を治療できれば、彼らを善人に戻せると考えたのだ。
儒教の考え方のひとつである、人間性善説に則った考え方だろう。
この考えによるならば、人は生まれながらにして同族に対し互助の精神を持っており、その後、後天的に、悪意を学んでいくというのである。
……入江は、この後天的な部分を疾患と考えたのである。
人の考えは脳が生み出す。
だから、心が病んでいる人は脳が病んでいるわけで、つまり脳を治療すれば、その人は善人に戻ることができるという考え。
これを、精神外科という。
平成の今日では廃れてしまっているが、昭和中期までは絶賛されていた外科手法だった。
特に、従来は一切の治療方法がなかった重度の精神病患者に対して絶大な効果を上げたと言われ、その発案者にはノーベル医学賞さえ送られている。それくらいに画期的なものだった。
人間は考える生き物で、考えるが故に「病む」。
ゆえに考えすぎる人ほど心を病みやすいのは、誰でも知る話だ。
その考えたり、悩んだりする部分が病むと、社会行動を逸脱するようになる。その部分を「前頭葉」という。
平たく言えば、精神外科手術とは、この前頭葉を切除する手術のことなのである。
手術も、頭蓋をまるまる外しての大手術ではない。
頭蓋骨に小さな穴を開け、そこから特殊なメスを刺し込み、前頭葉の大切な部分を、すっと切断するだけの手術で、決して大手術というわけでもなかった。
その手軽さもまた、画期的だったのだろう。
ほぼ治療が不可能だった数々の精神病患者に奇跡的な成果を示し、戦前に発見されたこの手法は瞬く間に世界に広がった。
難治で重度の精神病も。
そして解放されることのない深い悲しみに囚われた心の重病人も。
それら全てをこの手法によって救うことができたのだ。
人類は心の傷を癒すために、様々な宗教やまじないを生み出してきた。
それを、外科的手段で解決したという快挙。…これがどれほど画期的なことだったか、おわかりいただけるだろうか。
入江は精神外科に心酔し、人の心の外科的治療に邁進したのである。
だが、今日の人権感覚で言えば、心が病んでいるからといって脳の一部を切除するなど言語道断に思えるに違いない。
徐々に世間の意識が変わるに従い、精神外科は次第に非人道呼ばわりされていくことになる…。
前頭葉は、悩みを司る部分である以上に、人を人らしくする「人間」そのものを司る部分でもある。
…そこを切除するのだから、患者には取り返しのつかない大きな変化が起こることが少なくなかった。
悩まなくなるゆえの、根拠なき幸福感。
性格の変化。
物事に対する興味の喪失。
感情の抑制がなくなり、周囲には理解不能なほど感情の変化が大きくなったり。
時には記憶の一部を失うことすらある。
…もちろん、死に至ることも少なくなかった。
昭和も40年代に差し掛かると、精神外科は下火になり、また、向精神薬の開発もあって、徐々に行なわれなくなった。
だが、一部の肯定派はその後も手術を続け、臨床データを集め続けた。
そして、その有効性を再び世間に知らしめようと活動を続けていたのである。
また、手術は患者に同意なく行なわれることもあった。
全身麻酔をかけられ、気付いた時にはもう脳の一部を切除されていた、という事例が、一説には(日本だけで)数万人に及んだと言われている。
今日の感覚では、患者の同意なくの脳切除手術など非人道の極みと思えるだろうが、当時はそういう考えはなかった。
そもそも、患者に事前に同意を求めるという考えが平成近代のものであることを重ねて追記する。
よって、当時はそれが非人道という評価は受けなかったのである。
それに対する風当たりが急に強くなり、人道的であるか否かで論争が起こった。
そしてとうとう決着がつき、精神外科を否定することで幕を下ろすこととなった。
その後、日本精神神経学会は、「精神外科を否定する決議」を可決することになる。
以後、日本では精神外科は禁止され、日本医学会のタブーとして封印されていくことになる…。
入江は精神外科界の若き急先鋒だった。
その有効性と実績をアピールし続けていた。
……ゆえに、非人道的行為の戦犯として扱われ、表舞台から追放されたのである。
だが、追放されたからといって、持論をそうそう翻せるものでもない。
入江にとって、人の悪行の根源は脳であり、そこにこそ治療すべき秘密が隠されているという考えに変わりはないのである。
そんな入江にとって、人の脳に寄生し感情をコントロールする雛見沢症候群の存在は、持論を肯定してくれるものだったのだ…。
「私如きでよろしければ、
当然だ。入江の履歴を考えれば、この話を断るわけはない。
彼は温和そうな表向きとは異なり、胸の内には若さ相応の野心がある。
自分を追放した学会を見返す大きな研究をしたいという欲求がなかったわけがないのだ。
そして、その機会が破格の待遇で与えられた…。
「ありがとうございます。入江先生ならば、きっと良いお返事をいただけると信じておりました。当方も、あなたのような専門家を迎えられ、とても助かります。」
「し、しかし、私などが所長などでいいのでしょうか…。それは鷹野さんがやられた方がよろしいでしょう。私は単なる医者に過ぎません。人の上に立ったことなど…。」
「ご安心ください。それにつきましては私も全面的にサポートいたします。トップは制服ではなく背広からというのが上の希望でもあります。お気に召しませんか? 入江所長という呼び名は。くすくす。」
「い、いえいえ…! いやしかし…、あはははは…。」
入江は、実はまんざらでもないとでも言うように、照れ隠しに笑った。
「現在、雛見沢に研究施設を建設中です。表向きは診療所ということになっています。入江先生にご快諾をいただけましたので、入江診療所という名前にいたしましょう。」
「い、一国一城の主とは……、
「あと、身分を陸自で預かることになりますので、先生の籍は陸自の医官という扱いになります。私の上司ですので、二佐の階級になりますわね。入江二佐という呼び名はいかがでしょう?」
「あ、あはははは! 私は軍人じゃありません。二佐という呼び名はご遠慮させていただきたいものです…。所長だって恐れ多いくらいです。いやいや……あははは…。」
未知の脳内寄生虫の研究のチャンスを与えられ、しかもカモフラージュとして、新設診療所の所長の身分付き。しかも部下も予算も付く。防衛庁と厚生省のバックアップが付き、最新機材の研究施設も与えられる。
…入江が上擦った声で笑ったとしても、それは無理もないことだった。
もちろん、リスクもある。
この秘密研究に携わる以上、入江には数々の守秘義務が課せられる。
また、未知の奇病の土地に足を踏み入れるのだ。自らが罹患しない保証はまったくない。
だが、それに躊躇するには入江はまだまだ若かった。
それらを充分納得した上で、入江はもう一度、自分の人生に花を咲かせようと意気込み、宣誓書にサインをするのだった。
鷹野はそれを見届け、ようやく緊張が解けるのを感じた。
入江がほぼ間違いなく話に乗ってくれるとは思っていたが、1割くらいの確率で拒否する可能性も考えていた。
所長の人選に思った以上に難航し、鷹野にとって組みやすい候補者は入江ひとりだった。
…なので、入江に所長就任を断られたら、正直なところかなり状況が悪くなるところだったのである。
入江が所長就任を引き受けたことによって、いよいよ雛見沢症候群の研究が始まる。
研究所兼診療所は来春には完成する。
厚生省と防衛庁から最高の機材と人材が用意され、潤沢な予算が与えられる。
そして、いよいよ本格的な研究がスタートするのだ。
全てが順調だった。
いや、順調は当然だ。
順調にことが運ぶよう、今日までどれほどの努力を重ねてきたのか…。
「以上です。就任おめでとうございます、入江所長殿。三佐、宣誓書へのサインを終わりました。」
「ありがとう。これからよろしくお願いいたしますわ。入江所長。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。鷹野さん。仲良くやりましょう。私も全身全霊をかけてがんばります!」
「こちらこそ。お互い、最善を尽くしましょう。」
これで所長のポストは埋まり、全ての問題をクリアした。
;■宴席
「わっはっはっはっは! それはよかったよかった。おめでとう、鷹野さん。いえ、鷹野三佐でしたかな? わっはっはっはっは!」
「これも全て先生方のお力添えがあったからこそです。鷹野三四、皆様に心より感謝させていただきます。」
「まぁまぁ! 鷹野さんに本当の意味でおめでとうが言えるのは、研究が成功に終わった時ですな。ようやく入口に辿り着いたに過ぎませんよ。」
「仰る通りです。寝る間を惜しんで研究に身を投じていく覚悟です。」
「高野先生が成し遂げられなかった、さらにその先へ至られることを私ども一同、楽しみにいたしておりますぞ! わっはっはっは!」
「まぁまぁ先生! 今日はそういう堅苦しい話は抜きにしましょう! 今日は鷹野さんのこれからと入江機関の設立を祝って、乾杯と参りましょう!」
「乾杯の前にご挨拶申し上げます。厚生省の永田と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
「あぁ、鷹野さん、彼をバシバシこき使ってやってください! 彼のところの研究所は入江機関のバックアップをしてくれます。技術的に困ったことがあったらいつでも頼ってやってください。」
「こき使うだなんてそんな…! こちらこそお世話になります。鷹野と申します。どうかよろしくお願いします。」
「鷹野さん、こちらも紹介しましょう。陸自から出向の富竹くんと小此木くんです。陸自側からのバックアップをします。ぜひご挨拶させてください。」
「初めまして。富竹と申します。この度のプロジェクトの監査役を仰せつかりました。どうかよろしくお願いいたします。」
研究予算は陸自から出ている。適正な研究がなされているか、陸自からお目付け役が付くのは当然と言えるだろう。
……だが、本来、監査役というのは私の敵の立場であるはずだ。
…その立場の人間が、こうして内々の宴席に呼ばれているというのはどういうことなのか。
つまり、この監査役もこちら側の人間ということ。
どこまでもされている根回しに、私は改めて後ろ盾の頼もしさを感じずにはいられなかった。
「私は直接は雛見沢に赴きませんが、定期的にお伺いして、研究の進捗管理等をさせていただくことになります。」
「あら、それは残念ですわね。雛見沢は空気もよくて自然も素晴らしいところですのよ。ぜひ仕事以外でも気軽に遊びにいらしてくださいね。」
「あはははは…。ありがとうございます。そうさせていただきます。」
監査役という肩書きがある以上、この富竹という男とは仲良くした方が得だろう。
今後、陸自から予算を引き出し続ける上で、その額面の調整は全てこの男の胸の内ひとつということになるのだから。
「…小此木と申します。よろしくお願いいたします。」
「彼は不正規戦部隊のひとつ、山狗の隊長です。雛見沢に常駐し、三佐を直接サポートします。」
「ボディガードみたいなものと思っていいのかしら…?」
「要人護衛、機密保持が主な任務です。三佐の直接の手足となりますので、どうかこき使ってやってください。」
「…よろしくお願いします。」
富竹という男が、軍人にしては表裏のなさそうなタイプだとすると、この小此木という男は正反対のタイプに見えた。
機密保持が主な任務だと言ったが、防諜や情報操作等、スパイ的なことを得意とするのだろう。
なるほど、この雰囲気は納得だった。
雛見沢症候群に陸自が出資している以上、軍事色は色濃い。
そうである以上、この研究は誰にも知られることなく水面下で行なわれなければならないのだ。
このような部隊が必要となるのも無理もないことだろう。
それに、荒事をこなせる部下がいてくれるのは、何にしても心強い。これまた、仲良くして損のない相手だった。
「さぁさぁさぁ! 挨拶はこれくらいにして早く乾杯に移りましょう! ささ、富竹くんも足を崩して! 今日は入江機関の前途を祝して無礼講に参りましょう!!」
入江機関設立祝いなのに、入江本人が呼ばれていないというのはなんとも滑稽な話だ。
だが、それが入江の役目だ。
スポンサーの条件を満たすだけのカカシの所長役。
もちろん、専門家として多少の協力を期待しているが、所詮は外様に過ぎないのだ。
今日の宴席は、入江機関設立に尽力してくださったお偉方への感謝の席のつもりだったが、いつの間にか、一番の功労者である鷹野を労う会になっていた。
普段は自分がお酌をする立場なのに、今日は逆で、代わる代わる人がやってきてはお酌をしてくれる。
新しい関係者は自分の機嫌を取ろうとうやうやしい態度を取り、普段は最敬礼のお偉方は、今日は無礼講だと気さくに接してくれ、これまでの地道な積み重ねを讃えてくれた。
私の研究はあらゆる機関に承認され、大きく羽ばたこうとしている。
…そこから成果が出た時、恩返しを期待したい連中は、ここぞとばかりに私に恩を着せてくるということなのだろう。
思惑はともかく、それは今の私にとってとてもありがたいことだった。
「それでは入江機関の設立と、鷹野三四くんの今後ますますの発展を祈願して乾杯に移りたいと思います。荒井先生! 音頭をお願いいたします!」
夢のようだった。
わかってる。
夢を叶えるための舞台作りがようやく終わっただけで、まだまだこの段階で満足してはならないのだ。
でも、今日この場だけは喜んで、祝いの酒に溺れてもよかった。
鷹野は元々、特別お酒に強い体質ではなかったけれど。今夜のお酒はこれまでに一度も味わったことのない美味なもので、飲めば飲むほどに上機嫌になれる、最高の宴席だった……。
富竹たちが自分を三佐と呼んでくれるのも心地よい。
その階級は戦時中の少佐のことで、祖父と同じ階級でもある。
…つまり、ようやく祖父と同じところにまで上ってきたことの証。
ここからが正念場だ。
ここからいよいよ、祖父が至れなかったところを目指す。
鷹野にとって、人生最高の夜だった……。
化粧直しに行ってくるといい、鷹野は席を外した。
幸せな気持ちで胸がいっぱいで。
少し夜風に当たって自分を落ち着けないと、幸せで胸がはち切れてしまうような気すらしたから。
宴席は母屋から離れた離れで行なわれていた。
化粧室は母屋の方なので、渡り廊下を渡っていかなくてはならない。
渡り廊下からは、手入れの行き届いた素晴らしい日本庭園が目を楽しませてくれた。
すっかり忘れていたが、今日は雨だった。
いつもなら、雨にはうんざりするところだが、…今日に限っては、それすらも私を祝福してくれているように感じられる。
火照る体には、雨粒を少し感じさせるひんやりとした空気が心地よかった…。
こうして歩くと、思った以上に体がぐらつく。
……やはりいい気になって少し飲み急ぎすぎたのだろう。
自分の飲める分量を忘れてしまうなんて、私らしくもない。
いくら宴席とはいえ、醜態を見せるのは恥ずかしく、私は酔いが醒めるまで雨の庭園を眺めていることにした。
近くに、緋毛氈のかけられた上品な椅子があるのを見つけ、それに腰を下ろす。
さっきまでは関係者の中にいたため、みっともない姿は見せられないと常に緊張を強いられてきたが、こうしてひとりになると、それが解けて本当の意味でリラックスできる気がした。
空を見ると、雨は相変わらず強いが、向こうの空がどことなく明るい。
……この雨も、そういつまでも降り続けているわけではなさそうだった。
……そう。止まない雨などない。
どんなに冷たくて、身を強く叩き続ける風雨の中に放り出されたとしても。止まない雨などこの世にないのだ。
ふと見ると、サンダルと傘が置いてあるのが見えた。
……何となく誘われて。鷹野は庭へ出る。
宴席から聞こえてくる品のない笑い声が少し遠のいた気がした。
傘を少しだけずらし、空を見上げる。
その顔に雨粒が容赦なくぶつかってくる。
鷹野は髪が濡れるのも忘れて、しばらくの間、空を見上げるのだった…。
;■逃走中
赤紫に腫れあがった無残な素足は、ジンジンと鈍痛を感じさせ、実際の足よりももっともっと腫れあがってしまったかのような錯覚をさせる。
砂利道はどこまでも続く。
……自分がどちらの方角へ歩いているのか、そんなものはとっくにわからなくなっていた。
職員がもう追ってくる気配はない。
がむしゃらに林の中をいくつも駆け抜けたことによって、追っ手を巻けたのだろう。
その時、梢の先などで体のあちこちを摺っていたらしい。
それが今頃になって痛みを伴ってそれを教えてくれていた。
体は冷え切り、空腹感も感じるようになっていた。
雨を避けるための屋根も見付からない。
ただの森の小道。
今一番恐ろしい想像は、がむしゃらに逃げる内に方向が引っ繰り返ってしまい、自分は実は、逃げてきた施設の方向に戻るように歩いてるのではないかというものだった。
あの職員の指を、私は噛み潰している。
…千切れたとは思わないが、きっと歪な傷痕をずっと残すに違いない。
……それを思えば、私が施設に連れ戻されたらどんな酷い目に遭わされるか、想像に容易だった…。
……だから、私は絶対に慈愛の家に辿り着かなくてはならないのだ…。
せめて、太陽があれば、それから方角の検討をつけることもできるのだが…。
このいつ止むとも知れない雨の中ではそれすらもどうしようもなかった。
だが、ここで足を止めても何もない。
…私に出来るのは、何かに辿り着くまでひたすらに歩き続けるだけだった……。
恵理子たちは無事に逃げ切れただろうか。
何人の職員が追いかけてきたかはよくわからないが、少なくとも1人は私を追ってきたのだ。
…その分だけ、逃げ延びた可能性は高いだろう。
無事に、慈愛の家へ辿り着けただろうか。
そして、ふかふかのタオルを与えられ、雨に濡れた体を拭いて暖を取ることを許されているだろうか。
そして、…もし私のことをまだ忘れないでいてくれるなら、私の分のタオルを用意して待っていてくれればいい…。
それくらいに、今の私は体が冷え切っていた。
雨の当たらないところをもしも見つけられたなら、そこに腰を下ろしたかった。
…でも、そんな場所はどこにもない。
木陰の下は一見、雨粒がしのげそうに思えたが、たっぷり枝葉が吸った雨粒が大粒になって落ちてくるため、むしろ木陰の方が居心地が悪いくらいだった。
やがて、空が少しずつ暗くなり始めているのを感じた。
雨のまま、今日は日が落ちてしまうのだろうか。
辺りには街灯ひとつない。
このままでは真っ暗闇に閉ざされてしまうだろう。
そうなれば、一歩も歩くことなどできなくなってしまう。
…たとえ雨ざらしでも構わないから、腰を下ろして足を休めることができたらという欲求が強くなる。
でも、もし腰を下ろしたなら、二度と立ち上がる気力などなくなってしまうに違いない。……だから歯を食いしばって、その欲求を堪えた。
もし恵理子たちと一緒に脱走することを選ばなかったなら、雨に濡れて寒さに凍えることはなかったろう。
でも、…あの施設の理不尽な生活に比べれば、これしき大したことはないのだ…。
……そう自分を納得させて、悲鳴をあげかかっている両足を騙すしかなかった。
だが、軋む足が言い返す。
確かに施設での酷い生活に比べれば、冷たい雨の中で凍えるのだってまだマシなことかもしれない。
……でも、それは施設に比べればというだけの話。
…ごくごく一般的な、自分と同い年の子たちと比べてもマシなことだと言えるのか。
……そんなこと、自分の足に言われたくなかった。
お父さんとお母さんと一緒だった頃は、特別、裕福ではなかったにしても、町内でも普通の、平均的な生活をしていたと思う。
やさしい笑顔や、許してもらえるわがまま。
朝、台所から聞こえてくるまな板の温かな音や、居間から聞こえる新聞紙を畳む音がただただ懐かしい。
何の不足もない生活だった。
近所にも学校にも友達はたくさんいたし、学校生活も楽しかった。
嫌いな先生の授業は苦手だったけど、勉強そのものも充分楽しんでいた。…充分、満ち足りていた。それで充分な生活だった。
不平不満など言ったことはない。
誰かに後ろ指を指されるようなことなんかしたこともない。
ならば、これは一体、何の天罰だと言うのか。
あの鉄道事故の日から、私は転がり落ちるだけ転がり落ちた。
運命のサイコロは常に1の目だけが出続けた。
私にサイコロの目が微笑むことなど一度だってなかったのだ。
せめて、あの鉄道事故が私のせいだったならまだ受け容れられる。
……でも、あの事故は私のせいでもなんでもない。…いや、事故の現場すら私は見ていないのだ。
お父さんとお母さんがいつまでも帰ってこなくて、ずっと家で待っていた。
デパートに買い物に行くのについて行くのは大好きだった。
行けば必ずデパートのレストランでおいしい食事をすることができたから。
だから、デパートに行くなら私にも声をかけてほしいといつも言っていたのに。
…なのに、あの日、両親は私が遊びに行っている間に、私に内緒でデパートに行ってしまったのだ。
遊びに行った友達はいなくて、肩を落として帰ってきたら、家は誰もいなくて、デパートに行ってきますという書置きだけが残っていたんだ。
それで私は、あぁ遊びになんかいかなければよかったって後悔しながら、留守番をしてたんだっけ。
夕食の時間になっても帰ってこなくて。
私はお腹を空かせながら、私を置いていって出掛けた両親を恨んだんだ。
きっと、自分だけを抜きにしてデパートのレストランでおいしいものを食べてるに違いないって思いながら。
もし遊びに行かず家に残っていたなら、きっと今頃、レストランでお子様ランチを食べていた。
チキンライスの山の上にちょこんと立った、爪楊枝の国旗が、何だかとても嬉しくて嬉しくて。
そういえば自分には、お子様ランチに刺さっている爪楊枝の国旗を集める趣味があったんじゃなかったっけ。
…そうだ、集めてた。
お子様ランチの旗が20本集まったら、何か素敵なことが起こると願掛けして、集めてた。
でも、その旗は揃わなかった。
あと1本で20本だったのに、…届かなかった。
あと1本があったなら、……両親の事故はなかったことにできたのではないか。
……想像するだけでも虚しくて悲しくなる、…お子様ランチの旗の、思い出。
いつまでも、両親がデパートから帰ってくるのを、じっと待っていた。
…お腹が空いたので、煮干を食べて待っていた。
あまり食べると、摘み食いしたのがバレるので、バレない程度に気をつけながら。
そうしたら、……電話が鳴ったんだっけ。
私は、両親からの電話に違いないと思った。
一人娘を空腹のまま放ったらかす両親に悪態をつきながら受話器を取ったんだ。
でも、出たのは両親じゃなかった。
…………………………。
私の家はどうなっているのだろう。
借家だったから、もう他の人が入居してしまっているのだろうか。
私の部屋はどうなったのだろう。
学習机も、その右側の真ん中の引き出しにしまっていた、貯め込んだお子様ランチの国旗は捨てられてしまっただろうか。
あの家がもう我が家でないのなら。私はどこを居場所にすればいいというのか。
…いや、仮にまだ私の家だったとしても。私を迎えてくれて、そして守ってくれる両親はもういない。
両親に守られないというだけで、世界はこれほどまでに残酷になるのか。
両親を失い悲しみに暮れる少女を、どうしてわざわざ住み慣れた我が家から連れ出すのか。
どうして私をそっとしておいてくれなかったのか。
……確かに、色々と聞かれたさ。確認をされたさ。
…でも、心に深い傷を負って呆然とするひとりぼっちの少女に、難しい書類を出されたら、その内容の吟味なんかできるわけがない。
はいかいいえかと聞かれたら、よくわからないけれど、はいと答えるしかない。
そうしたら、いつの間にかこんなところに連れて来られた。…あまりに無慈悲だった。
私には何の落ち度もない。……ただ普通の女の子だっただけ。
確かに何かの書類に色々とサインさせられたけど、
私にとっての温かな世界は、何の予告もなくぶっつりと途切れてしまい。
そして私を、あまりにも残酷で無慈悲な世界へ、たったひとりで放り出す。
これが世界なのか。
この世界には私の味方は存在しないのか。
…両親が死に、親類がひとりもいないというだけで、これほどまでにも世界は悲しくなるのか。
運命のサイコロは、いつになったらこれまで続いた1の目に見合う6を見せてくれるのか。
「………うう…ッ…。」
いつしか、熱い涙がぼろぼろと零れていた。
そのしょっぱさが、何だか無性に苛立たしくて悲しくて。私はさらに涙を零すしかできなかった…。
でも、いくら泣いたって、悲しんだって。
今、自分がどこを歩いているのかもわからないし、どちらへ向えばいいのかもわからない。
施設から慈愛の家までの道順は、脱走計画を練る時に恵理子たちと一緒に地図を見て覚えていた。
…でも、それは最短の道順でしかない。
私は完全に道に迷い、途方に暮れていた…。
人の涙は目のゴミを洗い流すためにあると習ったけれど。…それだけではなかったのだ。
…心の中にある何かも洗い流してくれるのだ。
私は両の拳をぐっと握り締めると、再び、軋む足を交互に動かし、自分が正面だと信じる方角に、砂利道をひたすらに歩き続ける。
……雨は一向に止む気配はない。どんどん、どんどん暗くなってくる。
私は雨の中、天に向って吼えた。
悲しみは、いつしか怒りに変わっていた。
「神さまのばかッ!! …どうして!! どうして私がこんな目に遭わなくちゃならないの?! 私が何をしたの? 何もしてない!! ただ普通に生活してただけ。そんな私がどうしてこんな目に遭わなくちゃならないのッ!! 人生はいいことも悪いことも2つあって、どちらも長続きしないってお父さんが言ってた! なら、これだって長続きしないんだよね…? いつまでも私は、こんな酷いところにひとりぼっちじゃないんだよね…? ねぇ、そうなんでしょ…?」
天を仰いでも、私の顔面を冷たく大粒の雨が叩きつけるだけだ。
神さまなんていないって、もちろん理屈ではわかってる。
…でも、そんな不信心で、今の自分が救われるわけがないのだ。
いてくれるならば、いる。いや、“いろ”。
…私の言葉がもしも天に届いているならば、それは相槌なのだろうか。
天にごろごろと雷鳴が轟いた。
私は確信した。…神さまはいる。
いてくれて、私の嘆きを聞いてくれているのだ。
そして、全ての人は神さまの下、公平であるというルールのはずなのに、その恩恵から漏らしている私の訴えを聞いてくれているのだ。
天は再び相槌を打つ。
私の嘆きをしっかり受け止めてくれていた。だから言ってやった。
「もし!! 私の運命が神さまの何かの間違いだと言うのならッ!! もう私を解放して!! これで私の不幸を終わりにして、私を今日までの不幸に見合う幸福に導いてッ!! でももし!! これが私に与えられた運命で、このまま私に生涯を終えろと言うのならッ! こんな人生いらないッ!!! 私を殺してよッ!! その雷で私を打ち付ければいいッ!! 落雷で殺されてしまうという最後の不運を私に見舞えばいいッ!! さぁ、試してみなさいッ!!! 私の人生を無慈悲に奪ったように、その雷で無慈悲に私を打ち据えればいいッ!!」
天はもう一度、唸り声をあげる。
びりびりと全身に震えを感じるくらいに大きな雷鳴を轟かせる。
普段なら、恐れて家に閉じ篭って雷雲が過ぎ去るのをじっと待つだろう。
……だが、今の私は雷雲に何の畏れも感じなかった。
「さあ!! 殺せッ!! 田無美代子はここにいる!! 私のお父さんとお母さんを奪ったように、私の命もここから奪えッ!!!」
天は私の挑発に乗る。
そして、人間の分際で身の程を弁えない暴言を吐き続ける私に、その天の矛の狙いを定める…。
私もそれを望み、大きく手を広げる。
まさか神さまほどの存在が、私を外すということはあるまい。
でも、神さまだって万が一ということはある。…等しく公平なはずなのに、私にだけ不公平な不幸を与えるのだから…!
「さぁ狙え、殺せ!! 私を天に連れて行けッ!!!」
だがもし、私を殺し損ねたなら。
「私の運命を、ひっくり返してみろッ!!!!」
天の閃き。
直前に空気が乾くような、いや、焦げた臭いを嗅いだような気がした。
私はとてつもない何かに弾き飛ばされ、いつの間にか仰向けになって倒れていた。
…それはとても不思議な経験。
たった今、ものすごい力で放り出されたにも関わらず、
…私は、いつからここで仰向けに倒れているのか、わからなかった。
鼻を突く異臭。
…その妙な臭いに、やっと私は正気を取り戻す。
見れば、私が背にしていた大木が、ざっくりと割れ、枝葉がチリチリと焦げた臭いをさせていた。
見上げると、闇の中に火種の赤い光がちらちらと見え隠れするのが見える。
私はしばし、何が起こったのか理解できず呆然と立ち尽くした…。
落雷があったのだ。
……そして、それは私を打ち抜かず、私の背負っていた大木を貫いたのだ。
……つまり、私は死に損ねたわけで。
私はまだまだ、この冷たい雨に打たれて闇の森の中を裸足で彷徨えということなのだった。
でも、……私は神さまとの賭けに勝ったのだ。
私は確かに賭けた。落雷に我が身を賭けた。
貫けば、それで終わり。
でも、もしも私を殺し損ねたなら、…私のこの不幸な運命を引っくり返してくれと。
私は強がるように笑いながら天を見上げ、自分が未だこうして生き残っていることをこれ見よがしに示して見せた。
天は遠雷で唸ると、私との賭けに破れたことを認めたようだった。
さぁ、神さま。私を救って。私は賭けに勝ったんだから、この不幸から今すぐ救い出して。
…………………。
短くない時間を立ち尽くした。
天が、私に何を応えてくれるのかを、雨に打たれながらひたすらに待った。
…でも、天はもう一度応えることはなく。
……待てども待てども、雷鳴ひとつ聞こえることはなかった…。
もう一度、頬を熱いのが伝う。
……当り前じゃないか。
……天に神さまがいたら、…こんな理不尽な運命など許したりするものか…。
私の不幸な今日までが、まさにこの世に神さまなど存在しないことの証拠じゃないか……。
いよいよ暗闇に沈む森は、私を無慈悲に包み込もうとしていた。
私は、このままここに眠らなければならないのか。
……落雷で一気に命を奪われるのではなく、雨に凍えさせられながら雨水が私を溺れ殺すまで、じっとここで待ち続けなくてはならないのか…。
太陽など消えてしまえ。二度と登るな。……そして、この森が闇に閉ざされ、私の視界の全てを闇で塗りつぶしてしまうように、私の存在も塗りつぶしてしまえ。……そして、どうかこのまま私を消して欲しい……。
……………永遠なのか、わずかなのか。…時間の単位すら喪失した闇の中で。私は何かが見えた気がした。
……それは、
森が闇に閉ざされたからこそ、…木立のずっと奥から漏れてくるわずかな灯りに気付けたのだった。
…でも、そうだろうか。
…さっきまであんなところに灯りがあっただろうか。
私は、まるで灯りが誘っているように感じた。
…あの白い灯りはきっと蛍光灯。
蛍光灯の白い灯りは、電球のほんのり黄色い灯りに比べるとどこか冷たい感じがするのが好きではなかった。
……でも、あの白い灯りからはそういう冷たさは感じなかった。
私はその灯りを、神さまが示した道標だと信じることにした。
信じなきゃ、救ってくれないに違いないと、最後に信じて…。
蛍光灯の灯りが水溜りに映る。
それは泥の中の水溜りではない。
…歪んだアスファルトの上に溜まった水溜りだった。
……私は森を抜け、舗装道路に出たのだった。
灯りは、忘れられたようにぽつんと立つ街灯だったのだ。
でも、道路に出られたからといって、何かの解決になるわけじゃない。
ただの田舎の道路だ。
森を貫く一本の道路で、民家も商店もなければ、通りがかる車さえない。
街灯も疎らで、私を闇夜から解放してくれるほどではなかった。
ぺたりと私の素足がアスファルトに乗り上げるのを感じた。
それは砂利を踏んでいた時とはまったく違う、慈しみさえ感じるやさしい感触だった。
ずっと砂利の上を歩き続け、痛みすらも麻痺してしまっていた足だったが、……アスファルトのやさしさを覚えてしまうと、二度と砂利の上を歩きたくないと言い出す。
…私はこの舗装道路の右へ行くか左に行くかのどちらかしか選べないようだった。
もし神さまが、砂利の上を歩き続けて足を痛めきってしまった私を哀れに思って、ここへ誘ったなら、それはそれで嬉しいことだったが、……さらにもう少し導きがあってもいいように思った。
これだけの幸運では、私の今日までの不幸とはあまりに見合わない…。
……そう思った時。…灯りによる導きを私は感じた。
見れば、遠くに灯りが見える。それは右側にだけだ。
私はそれを目指して歩く。
そして少しも歩かない内に、その灯りの正体に気付いた。
…それは、何でこのようなところに、と不思議に感じずにはいられない、…電話ボックスだった。
このような森の中で、一体誰がわざわざここまで出向いて電話など掛けようと思うのか。
いや、…そもそも当時、電話ボックスはとても珍しいものだった。
タバコ屋の軒先にあるような赤電話はよく見掛けたが、独立した電話ボックスは都会にしかないものだと思っていた。
…まるで、この電話ボックスが悪いことをして、罰としてこのような暗い森にひとり放り出されているのではないかと錯覚してしまうくらいだった。
そう思うと、……このひとりぼっちの電話ボックスは私と同じ境遇のように感じられ、…私は一層の親近感を感じるのだった。
電話ボックスに辿り着いたところで、今の私にとって何の解決にもならないはず。
それを理屈ではわかっていても、……私は電話ボックスへ向うことに何の疑問も感じなかった。
きぃ、と扉を押し開けると、……中は灯りに集まる蛾や昆虫でいっぱいだった。
普段だったなら、気持ち悪いと感じるかもしれないが、…今の私には雨から逃れようとここに集まった仲間のようにも感じられた。
…暖房など何もないはずなのに。…でもなぜか、電話ボックスの中は温かだった。
四方を鋼鉄製のボックスがしっかりと守り、私を冷たい雨から守ってくれる。
いつしか私はそこにへたり込むように座り込んだ。
蛍光灯の灯りが温かく包み込み、もう泣いてもいいんだよと囁いてくれてるような気がした。
……でも、あの落雷の瞬間から、涙は干上がってしまって、もう一滴も零れてはくれなかった。
体中の傷が痛む。そしてふくらはぎの筋肉が痛む。
…体中の骨が軋み、もう二度と立ち上がりたくないと騒ぎ立てた。
電話ボックスの中で、雨から守られながらこのまま眠ってしまいたいという欲に駆られる。
……でも、もしもこのまま寝てしまったら、…その間に、私を探す職員たちに見つけられてしまうかもしれない。
確かに、窓の部分は高いから、しゃがみ込んでしまえば外からは見えないだろうけども。…このような暗闇の森にある唯一雨宿りができる場所なのだ。
職員が中を確かめないわけがない。…私はいつまでもここにいられないのだ。
(当時の電話ボックスは今日のような全面ガラス張りではなかったため、電話ボックス内に隠れることが可能だった)
疲れきり、やつれきってしまった心は、その現実を理解していたが、…ここを今すぐに立ち退かなければならないという焦燥感には駆られなかった。
………達観と言おうか諦観と言おうか。
…初めて経験する不思議な落ち着きだった。
まるで自分が自分ではない感じ。……とても不思議な感覚だった。
私はひょっとすると、あの落雷の時、死んでしまったのではないだろうか。
…今の自分は、田無美代子だと思い込んでいるだけで、別の存在なのではないか。
…そんな妙なことを大真面目に考えてしまう…。
そして、そんな妙な感覚は、この電話ボックスには何か意味があると考えさせた。
なぜなら、神さまが私をここに導いたのだ。
………雨を一時しのげるだけの意味で、この場所へ私を誘ったはずがない。
意味があるのだ。ここにはきっと何か私を救う意味があるのだ…。
……でも、一体、何の意味があるのだろう。
電話ボックスは、電話を掛けるためにあるのだと思う。……でも、私はお金を持っていない…。
そう思った時。……さっきまでは何もなかったところに、…鈍い銅の輝きがあるのを見つけた。
……どきりとする。
だって、そこには十円玉などさっきはなかったはずだ。いや、私の勘違い…?
でも、私にはそうは思えなかった。
……さっきまでなかったところに、十円玉が忽然と現れたように感じられるのだった。
なら、…この十円玉は神さまのお導きだ。この十円玉を使って、電話をしろと言っているのだ。
でも、………どこへ?
ここには電話帳などない。
ということはつまり、
………いや、私の知っている番号に掛けろということなのか…。
だが、十円玉は一枚しかない。
掛けられるところは一箇所しかない。
そして、話せる時間も長くない。
……神さまを試すような真似をしたものだから、…神さまも私に対し、試すような真似をするらしい…。
……このたった1回のチャンスで、もう一度、私の運を試せということらしかった。
私は思わず外へ飛び出して、雨粒に再び打たれながら天を仰いだ。
そして心の中で叫ぶ。
この味な勝負を受けてやると叫んでやる。
この十円玉で、どこへ掛けろというのか。どこへ掛けろというのか。
自分の家?
両親はすでに死んでいるし、親類もいない。
掛けたって、誰も受話器を取らないだけだ。
………いや、電話料金をずっと滞納しているのだから、不通にされてしまってるのではないだろうか。
私の自宅は、私の失ってしまった人生そのもの。
いや、人生の残骸でもある。
…そこへ掛けようと思うのは単なる未練で、……人生を引っくり返そうという前向きな姿勢とは相反するものだ。
だから、自宅へ電話をするために十円を投じるのはきっと間違っている。
なら、……このたった一枚の十円玉は、私の未来に投じなければならない。
未来。…未来? 私の未来って……?
その時、…まったく予期せず、再び巨大な雷鳴が轟き、私の耳をつんざいて意識を真っ白にさせた。
そして、無音の真っ白な世界で、…目蓋の裏に浮かぶのは、今となっては懐かしき記憶。
それは最後の父の光景。
病院のベッドの上で、苦しそうにしながら、私に大切なことを託す、最後の時。
「もしもな、
「高野、
「そうだ。高野一二三先生だよ。…高野先生はお父さんの恩師なんだ。きっと、
「お父さん、お父さんお父さんお父さん!!!」
お医者様たちが大慌てでなだれ込んで来る。
お父さんはまだ何かを伝えようとしていたが、それはしゃべらないようにと制止するお医者様たちのせいで聞き取ることはできなかった。
……聞き取ることはできなかった、なんてことはないんだ。
私は聞いていた。
聞こえていたのに、お父さんの苦しい声をそれ以上聞くのが痛々しくて、聞こえないふりをしただけなんだ……。
お父さんは苦しい咳の中、最後に確かに言った。そうだ、私は確かに聞いている…!
それは数桁の数字。
……私は固い唾を飲み込む。
そうだ。……それは、
………親類がなく、誰も私を引き取ってくれないことを知っている父が、
その先生に連絡を取れと、電話番号を私に伝えようとしたのだ…。
ああぁ、私は何て大切なことを聞き流していたのだろう。
父が苦しい咳の中で、人生で最後に許された言葉を使って、娘に伝えようとした本当に大切なことなのに…!!
あの時のことを、……さっきの雷鳴ははっきりと思い出させてくれた。
今まで、一度も思い出せなかったはずの……その数字が、自然と口から零れだす。
私はそれを、……ダイヤルしてみる。
…間違いない。
これは、お父さんの恩師、高野先生の電話番号なのだ…。
だが、十円玉を投じようとする瞬間、その手が止まる。
もし、自分の記憶にわずかの歪みがあったなら、それまでだ。
……逡巡するな。
間違いないんだ。
間違いなく、その番号なんだ。
…早くダイヤルしないと、忘れてしまいそうなくらいにか細いけれど。
私は意を決して受話器を取り、十円玉を投入口に入れる。
ガチャリ、ツーーーーーーー。
私のダイヤルを待つ電子音が聞こえてくる。
この十円玉が駄目だったら、……死ねばいい。
再び森に戻って、落雷を待とう。
あるいは雨の森に寝そべり、雨水が私を溺れ殺すのを待とう。
アスファルトの上で眠り、深夜の車が私を轢き殺してくれるのをじっと待とう。
………私の不幸を全て引っくり返す。この十円玉で…!!
躊躇せず、ダイヤルする。一気に。
でも焦ってはいけない。ダイヤルはゆっくり確実に回さないと、番号が変わってしまう。
………その確実さが私を苛立たせ、さっきまであんなにも鮮明だった数字の記憶を嘘のようにおぼろげにしてしまう…!
電話番号が間違っていないことを、天に祈るしかない。
そして、仮に高野先生につながったとしても、何を話せばいいのか、全然わからなかった。
ここがどこなのか。
どうすればいいのか。
何を頼めばいいのか、話せばいいのか。……何もわからなかった。
電話の料金は決して安くはない。
十円玉で話を許される時間などほんのわずかだ。
向こうの電話に届いたらしい。呼び出し音が繰り返される。
どうしよう、相手が受話器を取ったら、わずかな時間しかない。
……今からでも受話器を置こう。
そうすれば十円玉が戻って来る。
よく話す内容を吟味して整理してからもう一度掛け直すんだ…。
そう思った時、……受話器が取られた。
「もしもし。高野です。」
「…………ぁ、」
息が詰まりそうになる。
………私の記憶に残っていた番号は正しかったのだ…。
電話に出たのは、年齢はわからないが大人の男性の声だった。
……お父さんが恩師と呼んでいたのだから、きっと年配に違いない。
そ、そんなことはどうでもいい。早く何かをしゃべらないと…。…早く早く…。
「ぁ、
「………? そうですが、どちら様ですか?」
相手は相当、怪訝に思ったようだった。
無理もない。
名乗りもしない相手に名前を確かめられたら、普通なら薄気味悪い。
「ご、ごめんなさい…! 私、田無って言います。田無美代子と申します。」
「田無さん…? はい。」
「あの、私の父に高野先生に電話しろって言われたんです。父は、田無武光と言います。」
「……田無。……田無。………あぁ、田無くん! あぁあぁ!」
怪訝そうだった声色が、思い出したような声で一気に変わる。
…高野先生は古い教え子を思い出してくれたようだった。
「私、娘です! お父さんに電話しろって言われて…。」
「田無くんに何かあったんですか…?!」
あぁ、これでは行けない。
十円玉で話せる時間なんて本当にあっという間なのだから…!
「お父さんとお母さんが……電車の事故で死んじゃって…。それで、高野先生に電話しろって言われたんです。」
「田無くんがお亡くなりに…! そうですか…。二人とも? …それは本当にお気の毒です。田無くんは、私が大学で講師をしていた時、しばらく交流があったことがあります。何事にも勤勉なよい青年でした。結婚式に呼んでもらった時に会ったのが最後だったような気がします。」
どうやら、私が生まれたことまでは知らなかったらしい。
でも、お父さんを覚えていてくれた。それは本当に幸運なことだった。
「それで、田無くんは私に何と…?」
「あの、…えっと、………、」
何て言えばいいのか、咄嗟の一言が出てこない。
高野先生に電話しろと言われただけだ。
…何をどう伝えればいいのか。
十円玉で話せる残り時間がもうわずかに違いない。
そう思えば思うほどに、焦りが募る…。
…普通、電話が切れてしまう瞬間に予兆はない。
でも、その時、私は神懸った何かで、その予兆を悟った。
つまり、たった一言しか許されなかった。
だから、一番伝えたい一言を最後に託す…!
「た、助けてくださいッ!!!」
その言葉を伝えきる前に、電話は無常にも切れた。
向こうには、助けての、タスケ、くらいまでしか伝わっていないかもしれない。
声色から、私の必死な思いを汲み取ってくれるのを祈るしかなかった。
もう受話器からは何も聞こえない。
でも、……私はほんのわずかだったけれども、高野先生と話をした。
高野先生は架空の存在じゃない。
実際に存在して、お父さんのことを覚えていてくれた恩師だった。
もし、彼がかつての教え子の死を悼んでくれたなら、きっと私の自宅を訪れてくれるだろう。
そして、私に引き取り手がなく、施設へ連れて行かれたことを知ってくれるに違いない。
そして、私を迎えに来てくれて、引き取ってくれるに違いない…?
その時、……枯れ切ったと思っていた涙が、ほろりともう一度だけ零れた。
何の希望もない人生だと思っていた。
その中で一粒の希望を見付けられることが、こんなにも嬉しくなれて、勇気をもらえることだなんて知らなかった…。
電話の向こうに聞こえた声は、とても頼もしく温かい声だった。
お父さんは病院のベッドの上で、後にたったひとり残される私のことをずっと考えていてくれたに違いない。
…そして、私を託せる一番信頼できる人の名を口にしたはずなのだ。
そして、それが高野一二三先生なのだから。
だから、高野先生はきっと信頼できる。きっと私を探し当ててくれる…!!
でも、それは明日にはすぐにやってきてくれるというものではないだろう。
…来てくれる日まで待ち続けなくてはならないだろう。
ほんの数日か、一ヶ月以上先か。……とにかく、じっと待っていよう。
電話ボックスにいつまでもいると、追っ手に見付かってしまうかもしれない。
私は再び冷たい雨の中に身を晒す。
さっきまでと同じ雨のはずなのに、…なぜかほんのちょっぴりの温かみを感じた。
あの雷雨の中で死を望み、いつ自分に雷が落ちてもかまわないと思っていたのに。
…今はまったく逆だ。生き延びたいという強い力がみなぎるのを感じた。
生きたい、と思ったからこそ、今は全身の痛みをより鮮烈に感じることができた。
……死んでも構わないと諦めることは、こんなにも痛みを忘れさせてくれることだったのだ。
私は、高野先生が助けに来てくれるまで、じっと待たなくてはいけない。
慈愛の家へ行こう。
慈愛の家へ行って、高野先生が来るのを待とう。
施設は、私が慈愛の家へ逃げたとは言わないかもしれない。
…でも、慈愛の家は私に電話を禁止したりはしないだろう。
電話で改めて、自分が慈愛の家に保護されていることを伝えればいい…。
……でも、慈愛の家はどこにあるのか。
ここがどこかを示すものは何もなく、慈愛の家はおろか、逃げ出してきた施設がどちらの方向かすらわからない。
でも、ここに立ち止まっているわけにはいかなかった。
歩かなければならない。
そして、雨宿りできるところを探さなければならない。
人を見つけ、道を尋ね、慈愛の家を目指そう。
失ってしまった人生を、もう一度取り戻す、たった一本のか細い蜘蛛の糸が、私の前にようやく垂らされたのだから…。
冷気と鈍痛が全身を苛む。高野先生に出会うまでは、絶対に死ねない…。
せめて、車でも通りかからないだろうか。
それが地元の人だったなら、道を聞けるかもしれない。
…逆に警察はまずい。
きっと私たちが脱走したことは警察には通報されてるし、警察は浮浪児に対して何の容赦もしない。
…私を捕らえて施設に送り返すはずだ。
どちらにせよ、…誰かに現れてほしかった。
でなければ、私は果てしなく続く、この暗闇のアスファルトを永遠に歩き続けなくてはならないのだから……。
……どれだけ歩いただろうか。
…車などまったく通らない。
私ひとりを残して世界が滅んでしまったのではないか、などと妄想し始めた頃、初めて車が一台、現れてくれた。
後方に車の音を感じ、振り返ると、はるか彼方からヘッドライトが近付いてくるのが見えた。
…どうしよう。道路に立ち塞がって、車を停めてもらおうか。
こんな闇夜だ。
手を振るくらいじゃ、気付いてもらえず通り過ぎてしまうだろう。
でも、道路の真ん中に立ち塞がったら、下手をしたらはねられてしまうかもしれない…。
………そんなことをぼんやりと考えている間にも、車はどんどん近付いてくる。
さっきの電話の時は、よく考えずにダイヤルしてしまい、咄嗟に何を話していいかわからなくて混乱してしまった。
…だから今度はよく考えてから行動しよう。
それが思いつかないなら、とりあえずこの車は通り過ぎさせてしまって構わないだろう…。
そんなことを漠然と考えていたから、その車が鋭い悲鳴のような音でブレーキを掛けながら停まってくれたのが、ものすごく意外だった…。
…落雷を間近に受けるという、神秘的な経験をしてから、私は足が地に着いていなかったかもしれない。
……あの真っ暗な森の中で、私は半ば正気を失い、正常な思考を失ってしまっていたかもしれない。
だって。
私の姿を見て停車したということは、私のことを知っている人間が乗っていたというわけで。
……そんな人間がこの土地にいるとしたら、それは…、
そこまで考えが至って、ようやく私の全身に恐怖が駆け上った。
私は脱兎の如く駆け出す。
その背後に、待ちやがれッという乱暴な声が浴びせられた。
でも、もう脱走した時のような瞬発力は失われていた。
右足も左足もがくがく震え、ちっとも協調しようなんてしやしない。
…あぁ、やっぱり電話ボックスで座り込んでしまったのがいけなかったんだ。
座ってしまったから、足がもう挫けてしまったのだ…。
後襟を掴まれ、自分の服の襟元に喉を潰されそうになる。
服の縫い目がどこか裂けたらしい音がした。
アスファルトの上の水溜りで私は転倒し、職員に圧し掛かられるような形で組み伏せられた。
……指は私の口の中にない。できる抵抗はもがくことだけだった。
こんな状況下になって、私は恵理子たちに聞かされていた、恐ろしい話を電気的に思いだす。
脱走に失敗して捕らえられた子が、他の子への見せしめに受けたという様々な責め苦。
「水を飲めないアヒルの刑や」や「潰れた芋虫の刑」、「手足をもがれた豚の刑」。
……忘れることのできない、不気味な刑罰の名前が次々に頭に過ぎる。
私はあらん限りの金切り声をあげながら、逃れようと死力を尽くしたが、そんなものは全て手遅れだった。
職員に挟み込まれるようにして、車の後部座席に連れ込まれる。
どうして自分を見逃してくれないのか。
…それはきっと、施設での数々の悪行が私の口から外部へ漏れるのを恐れているからに違いない。
職員たちは、私を追いかけた時には、その口から恐ろしい声を吐き出していたのに、…私を車に詰め込むと、後は逆で信じられないくらいに沈黙を守った。
それはまるで、死神たちにあの世への舟に無理やり乗せられたかのよう。
私は自分の命運が尽きたことを、否応なく自覚しなければならなかった…。
でも、………でも。
高野先生に電話した。……高野先生はきっと助けに来てくれる。
それがいつかはわからないけれど、…きっと何日か後には助けに来てくれるはずなのだ。
だから、……それまで生き延びたいと思った。それまで生き延びることができれば、私は救われるのだ…。
私をどんな責め苦が待つのか、…想像もつかない。
でも、……死ぬものか。…絶対に生き延びてやる…。
もう私は地獄から抜け出す蜘蛛の糸を掴んでいるのだ。
……あとは、それを引き上げてもらえるまで堪えるだけなんだ……。
車が停まった。
……私の期待を一切裏切らず、そこは施設の正門前だった。
両脇の職員は、私を二度と逃がさないというのを握力で示すかのように、私の両肩を握り締めていた。
……骨と皮しかない私の肩がきりきりと痛む。
……怖くないと言ったら嘘になる。
自分はどんな目に遭わされるというのか…。
通用口を潜らされ、…私はようやく、冷たい雨から解放された。
……もっとも、解放という例えが正しいとは思いたくない。
こんなにも深夜なのだから、消灯時間はとっくに過ぎている。
…施設はシンと静まり返っているはずだった。
でも、……音はあった。
それはとてもおかしな音たち。
止めるのを忘れたシャワーの音。
私の大嫌いな金属をずっと叩きつける音。
それに混じる職員たちの奇声、怒声。
…背中を悪寒という名の蛆虫たちが這いずり回る。
…あぁ、私は何をどう書き記せばこの恐怖を伝えきれるというのか…。
用具室の扉を職員がノックすると、その扉が開かれた。
…開くと同時に、用具室の中の怒声が溢れ出す。
その中の光景が、私の瞳に飛び込んでくる。……その異様な光景を、私は受け止めきれずにいた。
2人の職員が、暴力的な言葉を吐き出しながら、……竹刀で、体育用のマットを叩いているのだ。
そのマットは、
…でも、こんなにも太く巻かれていただろうか…?
そして、その巻かれたマットは紐で縛られ、そして用具室の隅に立て掛けられていた。
…それを、職員たちは竹刀で打ちつけているのである…。
言葉と言うのは普通、人に対して掛けるもの。
…なのに、マットという人でない存在に、まるで人であるかのように暴言を吐きかけて竹刀を振るうその様は、一言で言うならば狂気の体現に他ならなかった。
そのマットの上から、…何かがはみ出ているのが見えた。
それは、
頭が恐怖の霜柱でいっぱいになり、何の思考も許さなくなるのを感じた。
私の前に、ぬっと男が立ちはだかる。
…その男の小指には、ぐるぐる巻きの包帯がされていた。
私の目線が、
……私の瞳を食い破ろうとするくらいに覗きこんでいる野獣の目と、ぶつかる。
声なき悲鳴が私の喉の奥から振り絞られた…。
でも、声なんか出ないからそれはきっと…、金魚が息苦しくて口をぱくぱくさせるような…そんなものにしか見えなかっただろう。
野獣は私に小指を突き出し、吼え猛った。
それが言葉なのか咆哮なのかはわからない。でも、きっと暴言か何かに違いないことはわかった。
私は怖かった。死にたくなかった。生き延びたかった。生きて待てばきっと高野先生が助けに来てくれる。そう思ったから、生にしがみ付きたかったから、だから恐怖に屈服した。
「ご、…ごめんなさいごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!! あぁあああぁぁぁあぁッ…!!!」
その小指に包帯をした手が、髪を鷲掴みにして私を引き摺る。
私は泣きじゃくりながら、野獣の心に、わずかでも慈悲が蘇ることを祈って、謝罪の言葉を重ね続けるしかない。
それは、まるで壊れた謝罪人形。
ネジが切れるまで、ごめんなさいを紡ぎ続ける狂った人形。
ぜんまいの音の変わりに、涙を零し、血を吐くくらいに、謝り続ける、…彼らの玩具。
途中、シャワー室が見えた。
扉が開いていて、中から怒号があふれ出しているのが見えた。
それもとても異様な光景…。
出しっぱなしにされたシャワーの滝の下に、
横倒しにされたロッカーに冷水のシャワーが浴びせられ、そのロッカーを2人の職員が竹刀でガンガンと打ちつけている。
あの嫌な金属音は、彼らがロッカーを叩く音だったのだ…。
私にその光景を見せるつもりはなかったらしい。
乱暴な腕が私の髪を引っ張って首を捻り、無理やり逆側を向かせる。
そして思った。それは、私にその光景を見せないために振り向かせたんじゃない。
…シャワー室とは別の光景を見せるために振り向かせたのだ…。
そこには窓があり、中庭があった。
……普通なら真っ暗闇で何も見ることなどできない。
…でも、なぜか灯りが付けられていて、中庭は煌々と照らし出されていた。
そして、見てしまう。
鶏小屋の中で、****った、*****を。
……な、……なんて、ことを…。****ったら、*****、********…、*******!!/
死にたくない死にたくないッ!! 生きてれば必ず高野先生が助けに来てくれる、必ず助けに来てくれるッ!!!
私が引き摺られた先は、職員用便所だった。アンモニア臭がツンと鼻腔を突く。
でも、そこに置かれていたのは、あまりに便所には不釣合いな****…。
…何でこんなものが便所なんかに置いてあるの…?
まさか****で私を***る気なんじゃないよね?
そんなの**だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ!!!
「田無。これは施設のルールを守らない悪い子へのお仕置きなんだからな? みんなちゃんとルールに沿って生活してる。それを守らなかったらお仕置きを受けなきゃならないのが法治国家のルールなんだからな…?」
「ごめんなさいごめんなさい!! もう悪いことしません、言うことは何でも聞きます! ちゃんと守ります、従いますから!! 許してください!! ****は許してくださいッ!! やだ、痛い痛い痛い痛いッ!! 嫌ああああぁああああぁあぁああぁあッ!!!
;■高野三四
「えっえっ…!! えっくえっく…!! うっくうっく…!!」
…いつから私は泣きじゃくっていたのだろう。
……そして、いつからこうしてもらっていたのか、わからなかった。
泣きじゃくる私の頬に、祖父がそっと手を当てていてくれた。
…私はその手を愛おしく抱きながら、涙に濡れる頬を押し付けている。
「……落ち着いたかな?」
「お、……お…じいちゃん……。ひっく……! うわあぁあぁぁぁ……ぁぁ…。」
祖父は、もう片方の手を私の頭にそっと乗せる…。
祖父の両手の温かさに、私は少しずつ平静を取り戻していった……。
見れば、…私は整頓中の資料の山の中。
ふかふかの絨毯の上で寝そべりながら資料整理をしていたのが失敗のようだった。
…私は単純作業にいつしか眠くなり、…うつ伏せになってうとうとしてしまっていたのだろう。
そして、……思い出さなくてもいい辛い夢を見たのだ。
「うつ伏せに寝ると、胸が苦しくて悪い夢を見やすいんだよ。…もうこんな時間だ。美代子は部屋に帰って寝なさい。」
「全然平気。あはは、居眠りしちゃってたから、眠気がなくなっちゃった。もうすぐで終わるの。だから終わらせちゃうね。」
「明日も学校がある。もう寝ないと、また先生にあくびを怒られてしまうよ。」
ここのところ、私の就寝時間は遅くなっていた。
だから、学校では最近、あくびばかりしていた。…それを先生が連絡帳に書いたわけだ。
「大丈夫。ちゃんと終わったら寝る。だから続きをさせて…? それに、おじいちゃんも私に構ってちゃ駄目。早く書斎に戻って、論文の続きを書くの。」
研究を発表する日が近付いているらしかった。
祖父は自身の研究に、とても精力的に打ち込んでいたが、できる努力には個人としての限界があった。
これ以上に踏み込んだ研究をするためには、協力者が欠かせない。
この研究が、人類の謎を解く大きな鍵になるということを説明し、その偉大さを理解させなくてはならない。
ただ、この研究はその内容が非常に難しい。……だから、誰に見せてもいいわけではない。
でも、いつか見せるに値する協力者が現れるに違いない。
そう祖父は信じて、今日までたった一人で研究を続けてきたのだ。
その研究を、もちろん私も手伝いたかった。
でも、私にできるのは資料の整理と文房具の整頓。
あと家事を極力代行して、祖父が研究に専念できるようにしてあげるくらいだった。
祖父はそれを、とても助かっていると言ってくれたけど、私はこれくらいでは助けをしているつもりになれなかった。
…将来はきっと、もっともっと勉強して、良い大学に入り、良く学んで、真の意味で研究を手伝ってあげられるようになりたい。
もし。祖父が心臓の病気にかかり、研究を続けられなくなるようなことがあったなら。
私は迷うことなくこの胸を裂き、祖父に私の心臓を差し出すだろう。
肺の病気なら、肺を差し出す。
内臓の病気なら、内臓を差し出す。
…それは狂気染みたことでもなんでもない。
とても当り前なこと。
だって、……祖父が私を探し出してくれるのが、あと1日も遅かったなら。
……私は生きていなかったかもしれない。
…あるいは生きていても、人の形をしていないか、…生きていても、人の心を失っているかのいずれかだった。
つまりそれは、祖父が来てくれたから生きられるということ。
………祖父が私を生かそうと駆けつけてくれなかったら、…私は生きていられなかったということ。
だから、私はこの生を祖父に捧げることに何の抵抗もない。
むしろ、…私の命を捧げることで、祖父の命の一部となれるなら、それは本望なのだから。
永遠に一緒にいたくても、……人の存在は永遠じゃない。
しかもそれは、私の両親が突然の事故で死んでしまったように、…あまりに儚く、
両親を失った悲しみは生涯癒せない。
…でも、今は祖父がいてくれる。だから、悲しくない。
でも、……その祖父とて、永遠の存在ではない。
突然、予期せぬ理由で私の前から永遠に消え去ってしまうかもしれないのだ。
…私の両親がそうだったように。
だから、……祖父の命の一部になりたいと心の底から願った。
そうすれば、…どんな不幸も鉄道事故も、私と祖父を永遠に引き裂くことなどできないのだから。
もう一生、ひとりぼっちになりたくない。
いつまでも、おじいちゃんと一緒。
いつまでも、…おじいちゃんのお手伝いを、していたい。
「…わかった。じゃあ、この資料の整理が終わったら、ちゃんと寝るんだよ。約束。」
「うん。約束。」
指きりげんまんの仕草を交し合う。
そして笑顔を交し合い、祖父は書斎に戻っていった。
私は乾いた涙が少しだけ痒くって。
洗面所に顔を洗いに行って、それから歯を磨いた。
そして、鏡に映る自分の顔を見る。
……何度見ても、…その顔に祖父の面影はない。
当然だ。血などつながっていないのだから。
祖父にも血のつながった家族がいるに違いないのだが、今日までその話を聞いたことはない。
…祖父もあまり触れたがらなかったので、私も無理にそれ以上を聞こうとはしなかった。
……祖父に、本当の孫がいるかいないかなんか、問題じゃない。
私は、例え血がつながっていなくても。…高野一二三の孫なんだ。
孫なだけじゃない。
…それ以上の存在でありたい。
親子関係とか恋愛関係とか、そんな程度のものじゃなく。
私は、高野美代子。高野一二三の孫娘。
……高野美代子というより、高野美代かもしれない。
…祖父は、私の名を呼ぶ時、よく「みよ」と呼ぶから。
一二三の魂を継ぐ者でありたい。
祖父の名が、三までを数えるなら、…私は祖父と共にその三を数え、そして続く四を数える人間でありたい。
私はその日から。名乗る名を変えることにした。
濡れた指先で、それを鏡になぞる。
高野、三四。
新しい私に相応しい名前だった。
;■小泉大佐
「大佐殿! ご無沙汰いたしております!!」
「高野くん〜〜!! だからもう大佐はなしだよ、なしなし! 暮れに具合を悪くしたと聞いてから心配してたんだよ〜! でも元気そうで何より!!」
「「わっはははははははははは!!」」
祖父は日頃から、自分には友人はひとりもいない、みんな戦争で死んでしまった、と私に言っていた。
だが、実際にはそれは正しくない。
一人だけとても親しい友人がいたからだ。
それがこの、祖父が小泉大佐殿と呼ぶ壮年から老年に差し掛かる紳士だった。
この紳士がどこで祖父と縁があったのかはよくわからないが、二人は出会うといつも軍隊の話や戦争の話ばかりをしていたので、きっと軍隊で一緒だった友人だろうと想像するしかなかった。
「みよちゃんも大きくなったね〜〜! 今、身長は何cmくらいになったんだい?」
「ん……、
「そうかそうか! 育ち盛りはいいの〜! いっぱい食べていっぱい運動して、いっぱい大きくなるんだよ! いいなぁ、高野くんはこんなに可愛いお孫さんに恵まれて。」
小泉氏は、私と祖父に血のつながりがないことを知っているのに、私のことをいつも孫と呼んでくれた。
…それがとても嬉しくて、私は少しだけ多めに紅茶を注いであげた。
給仕を終えると、私はぺこりと一礼してからその場を去る。
本当はその場に留まって話を聞いていたいのだが、…祖父は戦争中の話をあまり私に聞かせたいとは思わないらしく、その場に留まろうとしているといつも追い出されてしまうのだった。
だから、追い出される前に自分から立ち去る。
……でも、それは祖父の側を離れるという意味ではない。
この広い客間の向こうに行くというだけの話だ。
祖父たちの場からは離れるが、話が聞こえるソファーで、行儀良く耳を傾けていようということだったりする。
そして、何か彼らが求めることがあったなら、ささっと現れてそれをお手伝いする。
……そんなところでポイントを稼いで、少しでも自分が役に立っていることをアピールしたかったのだ。
私は離れたソファーで、クッションを抱きながら百科事典を読み始める。
そうしながら、祖父たちの会話に耳を傾けるのだった…。
「それは良かった。教授たちは都合が合えば再来週の日曜日にもさっそく来たいって言ってくれたよ。」
「本当ですか…! ありがとうございます、小泉さん…!」
「いやいやいやいや! 高野くんが書いたレポートがそれだけ興味深かったことの証左だの! かなり関心を持ってくれてね。ノーベル賞ものの研究になるかもしれないと、非常にウケが良かった。」
「ノーベル賞だなんてそんな…! はははは、お言葉だけでも恐縮です…!」
祖父が照れ隠しに笑う。
…こんなにも上機嫌に笑うなんて。よっぽどいいことがあったに違いなかった。
…恐らく、祖父が発表しようとしている論文を小泉氏が、学会の権威に見せて反応を見たのだろう。
それで、どうやらかなり強い関心を示してくれたらしい。
それはつまり、祖父の研究を認めてくれたことでもある。
まるで私のことを褒められたかのように嬉しくなってしまうのだった。
「しかし、いつも心配なのは、君自身が雛見沢症候群に感染してしまってやしないかということだねぇ。…君が自分の首を掻き毟るようなことがないよう、気をつけてくれよ?」
「ひょっとすると、私もすでに感染してるかもしれませんな。でも、雛見沢症候群は、普通に生活する分には決して危険な病気ではないのです。村人たちがオヤシロさま信仰を作り出し、厳しい戒律で自らを縛った頃は、かなり危険な病気だったかもしれない。…でも、時間と共にそれは薄まり、今ではよっぽどのことがない限り発症することはないようです。」
「……あれだけの発症例があったのに?」
「雛見沢症候群の発症には、特に精神の状態が重要なのです。普通に、心穏やかに生活している分には、なぁんにも悪さをしない病気なのです。」
「戦争という、異常な状況下で精神が追い詰められた時のみ、発症する…。」
「そうです。……なぁに。恐れることなどないのですよ。初期の自覚症状は鬱状態に似た疑心暗鬼。それを自覚したら、高野式呼吸法等により心身のリラックスを図り、かつ、9時間以上の睡眠を1週間以上取る! これで発症など未然に防げてしまうのです。実際、私の指導下にあった雛見沢出身兵士はひとりも怪死しませんでしたぞ。」
そう得意気に語ると、祖父は高野式呼吸法なる、怪しげな体操を披露し始める。
……なんでも、体をほぐすことによって血液やリンパの流れを良くし、結果的に心にまでリラックス効果があるとかないとか。
でも、その体操の仕草が、ちょっとかっこ悪いので、私は祖父がこれを始めるとわざと見ないように目を背けるのだった。
………この一点においてのみ、ちょっと負い目を感じる…。あぅ。
この体操は、たまに私にも強要される。
…嫌がると祖父が悲しそうにするので、言われた時には大人しくやるのだが。
「ふむ。ならばいいんだがね。野口英世も研究対象が元で死に至っている。君も気をつけての。」
「だが、野口先生の偉業は死後も揺るがない。研究者としては本懐でしたでしょうな。」
野口英世の話は祖父によくしてもらう。
貧しい農家の生まれだったが、よく勉強して医学の道へ進んだ。
だが学歴を理由に差別を受け、日本を脱出。
アメリカに活動の場を求めた。
そして、様々な研究で功績を挙げ、黄熱病のワクチンを発見するという偉業を成し遂げたという。
祖父は、自分の生い立ちが野口英世に重なるところが少なくないらしく、しばしば、もっとも尊敬する人物だと口にしていた。
結局、野口英世は北アフリカの地で亡くなった。
自身の輝かしい実績である黄熱病ワクチン。
それが、北アフリカの黄熱病には効かないという話が出て、彼はそれを研究すべく北アフリカへ飛び、…研究対象の黄熱病にかかり世を去ったのだ。
研究者が研究対象に命を奪われる。
…それはしばしば研究者の勇気を試そうとすることでもある。
その意味において、自ら雛見沢に足を運び、様々な研究や資料集めをする祖父は、とても勇敢だったと言えるだろう。
祖父は自分がすでに雛見沢症候群に感染していると自称しているくらいだった。
もっとも、祖父は雛見沢症候群という病気が猛威を奮ったのは、古文書から推定するに数百年以上も昔の話で、今では人間と共生している普通の細菌と変わりないと言っている。
……戦争中に不幸な発症者を出したのは、戦争と言う極めて異常な状況下に置かれたからであって、平和な現代においては発症はまず考えられないとも言った。
非常に楽観視しているようだったが、私を決して雛見沢へ連れて行くことはなかったので、実際は口にしているほど楽観していなかったのかもしれない。
もっとも、その祖父と生活を共にしている以上、私がすでに感染していたとしても何の不思議もない。
でも、だからといって、不安もなかった。
祖父から、雛見沢症候群はしっかり自己管理ができていれば決して発症することはないと教えられていたためだ。
だから私は、雛見沢症候群に対して、その恐ろしい末期症状を知りつつも、過剰な恐怖感は抱いていなかったのである。
小泉氏との雑談はその後、終始、上機嫌なものだった。
当然だろう。
祖父の書いたレポートに強い関心を持ってくれた人たちがいた、という話があったのだから。
しかも、再来週の日曜日にはここへ直接訪れ、祖父から直に話を聞きたいというのだから。
近代医学の急激な進歩により、未知の領域は次第に狭まりつつある。
……祖父が発見した雛見沢症候群が、果たして新大陸となりえるのか。
全ては再来週に決まるということだった。
再来週にやってくる客人たちはどうやらひとりではないらしい。
また、学会でも名のある重要人物たちばかりらしい。
…富も名声もすでに充分あり、それだけでは満足できなくて、世界的な賞を受賞できる研究に携わりたいという、知的探究心の衰えない人間たちばかり。
…協力者とスポンサーが一気に得られる未曾有の大チャンスだった。
「では、再来週。私も様子を見に来ます。ぜひ頑張ってください。」
「これも全て小泉さんのお陰です。本当にありがとうございます…。」
「はははは。それは無事、賛同者を集められてからにしましょう。その折にはぜひ、秘蔵のワインを開けて乾杯と行きましょうの。」
それが別れの句となった。
祖父は、小泉氏の後姿が見えなくなるまで頭を下げ続けていた。
どうやら、この大チャンスのお膳立てをしてくれたのは彼らしかった。
だから私も、祖父と同じように頭を下げてその後姿を見送るのだった…。
「聞いてたかい? ようやくチャンスが巡って来たよ。私のレポートに関心を持ってくれる人が現れたのだ。」
「うん、聞いてたよ。これでおじいちゃんの研究に、協力してくれる人やお金を出してくれる人が現れるんだね。」
「まだそうと決まったわけじゃないさ。ははは。」
とは言いながらも。非常に好意的な感触であったのは間違いないらしい。
祖父のこれまでの孤独な研究がようやく認められようとしていたのだ。
「再来週の日曜日なの?」
「うむ! 忙しくなるぞ。プレゼンテーションで第一印象の全てが決まる! 資料を読みやすく作り直したり、いやいや、人前でキチンと説明できるよう少し練習をした方がいいかもしれない。とにかくとにかく、手落ちがないようにしっかりやらないとな!」
「資料の作り直しは大事だね。おじいちゃんの字は読みにくいから、少し大きめに書いた方がいいと思う。」
「むむむ…。と、とにかく忙しくなるぞ! 再来週か、うかうかしていたらあっという間だ。」
「そうだね! 私もお手伝いするよ。ホルマリンの容器とかの埃も拭き取らないとね。あと、丸まった資料の反りを直さないと。絨毯の下に敷いて一晩も置いたら直るかな?」
「うむむむ…! やらなければならないことは山ほどだな! みよ、手伝ってくれるかい?」
「もちろん! 学校を休んでお手伝いする!」
「それはいかん!」
私たちは笑い合ってから、空に向って拳を突き上げ、再来週へ向けてがんばろうと意気込みあった。
その日から、祖父はますますに書斎に閉じこもりきりになった。
人に見せるための資料というのは、簡単に作れるものじゃない。
増してや、コピー機などない時代のことだ。全ての資料は手書きでしか作れない。
あるのは間違いないが、どこにしまったか思い出せない資料の発掘や、その他にもあれやこれや。
私の場合は、…そうだ、来客のおもてなし用のカップが足りるかどうか、まず数えてみなくちゃ。
そうそう、お紅茶の葉っぱも残り少ないんじゃなかったっけ?
お茶請けにも少しは気を遣った方がいいかもしれない。
こういうのは祖父はちょっと無頓着な人だから。
それを言い出したらきりがない。
窓を拭いて、少しでもこの部屋が明るく見えるようにしなくちゃいけないし、あれやこれや!
それは目まぐるしいほどに忙しくて、そして矢のように過ぎ去ってしまう、あっという間の2週間。
私にとって、もっとも祖父の研究を手伝っているという充足感が得られる、素晴らしき2週間の日々だった。
祖父にとって記念する日になってほしい。
だから、そんな日は清々しいくらいにはれわたってほしいと願うのだった…。
;■発表会
その日は、私の願い通り、とても清々しいお天気に恵まれた。
夕方。
涼しい風がとても気持ちいい中、祖父は普段めったにしない正装をし、緊張した面持ちで、書斎を所在なく歩き回っていた。
私も、祖父に習い、ピアノの発表会の時にしか着たことのない素敵な服を着ておめかしさせてもらった。
でも、祖父と違って私は緊張していない。
…目の前の祖父の緊張ぶりがあまりに滑稽だったので、かえってリラックスしてしまったくらいだった。
そろそろやって来る頃かもしれない。祖父が窓から外をうかがう。
すると、黒い車がやってきて、門の前に停まるのが見えた。
この時代、車は存在自体が高級品だ。
自家用車を持っている家庭など、1クラスに1人いるかどうかという時代だった。
だから、車から降りた数人の紳士たちが、非常に立派な身なりだったとしても、それは当然に思えた。
私と祖父は慌てて駆け出し、彼らを出迎えるのだった。
「ようこそおいでくださいました。高野と申します。今日は本当にようこそ…。」
「お召し物をお預かりします…。」
私もかねてからの役割分担に従って応対をする。
だが、祖父が滑稽だったのでリラックスしていた、なんて話はさっきまでの話。
…祖父も私も、いざこの場になって緊張の峠を向かえ、カチンコチンになりながら応対をした。
「初めまして先生。そして初めましてお嬢さん。いえ、お孫さんですかな?」
「孫です。みよ、ご挨拶なさい。」
「初めまして。高野三四と申します。」
「賢そうな子ですね。……本日は小泉先生の代理で参りました。小泉先生は急な用事が入ってしまい本日は出席をすることができなくなってしまいました。そのことを大変残念がっておりました。」
「…そうですか。それは残念です。」
今日の場のセッティングをしてくれた立役者が欠席。
…先々週の約束通り、秘蔵のワインを用意していた祖父にとっては少し残念なことだった。
「皆さん、ご紹介いたします。こちらは高野一二三先生です。高野先生は戦時中、満州の防疫研究所におられ、伝染病予防分野の第一人者として活躍されておりました。また、戦地での栄養失調、食糧難対策として、合成食品や合成酒の研究に特に顕著な功績を残されました。」
「…よろしく。」
「初めまして。」
「お邪魔いたします。」
祖父よりもさらに高齢と思われる老紳士たちが、代わる代わる帽子を取りながら挨拶した。
彼らの蓄えられたヒゲや、凝った意匠の杖や眼鏡などから、無知な私であっても彼らが学会の重鎮であることをうかがえる。
祖父はそれらに最敬礼のお辞儀をして丁重に迎えていた。
「それでは皆さん、どうぞ書斎へ。埃臭い場所で大変恐縮です。どうぞこちらへ…! みよ、皆さんにお茶の準備を。」
「はい。」
一番緊張していないつもりだったのに。
気付けば、今や一番緊張しているのは私だった。
私が何かを発表し、私が評価を受けるわけではないのに、一番緊張しているというのは何だか滑稽な話だった。
それを言い訳にしていいかわからないのだが。
…緊張しきった私はせっかくお湯をなみなみと満たしてあった魔法瓶を引っくり返してしまい、せっかくこの日のために選んできた紅茶でもてなせなくなってしまったのだった。
祖父に謝り、私は慌ててやかんをガスにかける。
とりあえず、来客分の紅茶が入れられる分だけでいい…。
そんなだったから、私が紅茶とクッキーを配膳台に乗せて書斎に入る頃には、祖父の発表会はまさに佳境なところであった…。
「血管もしくはリンパ管を破って脊髄へ侵入し、髄液を通って脳内に至るものと思われます。また、死後の解剖結果、脳炎を起こしたものを複数件、確認しています。好酸球性髄膜脳炎は住血線虫でも起こすことが知られており、その生態は限りなく酷似するものと推定されます。」
祖父はそう言いながらホルマリン漬けの標本瓶の間を歩き、いくつかを指し示しながら説明をしていた。
脳みそをばらばらに分解してホルマリンの中に吊り下げたその瓶は、百をゆうに超えるだろう。
皆、埃にまみれてひどい有様だったので、私が数日かけて瓶の外側を綺麗に拭き取ったんだ。
…だから、ぴかぴかの標本瓶をずらりと並べることができて、ちょっぴり嬉しかった。
「ただし、住血線虫症はその症状が非常に多岐に渡ります。頭痛、昏睡、錯乱。住血線虫特有の症状が出るわけではありません。雛見沢症候群はそれとは違い、極めて特有の症状を有しています。」
「……それが、喉を自ら掻き毟る自傷行為だと仰るのですね?」
「左様です。これについては死亡直前を知る兵士たちの目撃情報からわかっています。この自傷行為はこれまでに知られてきたどのような病状にもありません。雛見沢症候群独自のものです。また、末期患者にしか見られない行為であることから、これは一部の寄生虫症に見られるのと同じ、エクソダスであると考えられます。感染者の体内で十分に成長し幼虫を繁殖させた後、寄生虫は体外へ脱出し次なる感染者を探すのです。」
「……では、その血液には寄生虫卵もしくは幼虫が満たされているわけであり、防疫の知識のない現地の兵士がそれに触れていたならば、彼らも感染していた可能性があるわけです。……にも関わらず、雛見沢出身者以外の兵士に感染例がないことをどうお考えですか。」
「これについては潜伏期間その他を疑ったのですが、雛見沢と言う地域だけに限定していることから考え、現地の特殊な気候その他があると考えられます。また、次章で詳しく取り上げておりますが、雛見沢の古い土着の信仰から考え、」
「……ありえないですよ高野先生。寄生虫に社会性があるなど聞いたこともない。」
「いえ、ですから、これこそが雛見沢症候群の画期的な発見のひとつでありまして…、」
老紳士が、資料を示しあいながらぼそぼそと言葉を交し合う。
この頃になってようやく鈍感な私にも、この場が決して和やかではないことに気が付く。
「高野先生のご高説を賜りながら、先の資料を拝見させていただきました。まず申し上げて、寄生虫が人間の思想をコントロールするなどまったくにもってありえないことです。……人間の思考は極めて高度な神の芸術とも言える脳で作られます。また、思想というものは、人間の思考の中でも非常に上位のものであり、現在の地球上においては人間にのみ許された高度な能力です。それに介在する寄生虫がいるなど、は! 考えられませんよ。」
「…同感です。思想とはつまり、個より全体を優先した考え方とも言えます。つまり、社会性を維持する最前提条件なわけですな。それが、遺伝子を残すこと以上の欲求を持たない寄生虫如きに宿るわけがない。生物学的にもいって、寄生生物に社会性、真社会性が発見されたことは一度たりともありません。」
「し、しかし、寄生虫が宿主の行動に干渉するケースは非常に多く報告されており…、」
「高野先生はひとつ、誤解をされていますな。寄生虫が宿主の行動を支配する原理は常に生殖・繁殖のためという極めて原始的理念に基づくものだけです。先ほど引用されましたトキソプラズマ原虫が寄生した鼠が猫への忌避性を失うのも、上位宿主に宿主を捕食されやすくするためであり、単なる宿主乗り換えのための行為に過ぎません。」
「ハリガネムシに寄生されたバッタの入水自殺も同じ話ですな。ハリガネムシは充分に成長すると水棲となります。その際、宿主であるバッタを水辺へ誘導して溺死させ、その体内から水中へ脱出する。」
「…そ、その通りです。私は雛見沢症候群における、自殺的な喉の掻き毟りもそれに当たると考えまして…。例えば、ギニア虫でも同じように、患部を痒みで掻かせて体外へ脱出するというケースが…、」
…寄生し、人間の思想に影響を及ぼすなんて、はっきり申し上げて妄言です。いや危険思想と言ってもいい。」
「雛見沢という村が閉鎖的文化から独自の信仰を生み出したこと自体は、そう不思議には思いません。日本各地に散見するよくあるケースです。だとしたら、日本中のそれらの文化は全て寄生虫によるものなのですか? それらは文化的なものであって、雛見沢の件に限っては寄生虫によるもの。その区別をどう立証されたのですか。」
「い、いえ、
「失礼だが高野先生。信じるに足る臨床データだと語るには、少々先生の収集されたケースは少なすぎます。しかも、ご自身で言われたように、戦場と言う異常な状況下の話です。」
「いえ、ですから、
「喉を掻き毟るという特徴的かつ異常な自傷行為が複数件あったならば、何かの共通性があるに違いないと疑われるのもユニークかとは思います。ですが、だからこそアテにならないのですよ。戦地という異常な状況下で、たまたまレアなケースが重なっただけのことなんです。高野先生は重なった偶然を見て、ゲシュタルト的な構成主義に囚われ法則性を見つけたように錯覚してしまったのではないかと考えます。」
「そうでないことを証明するには、雛見沢症候群の感染者に対する膨大な臨床データが必要です。ですが、倫理的に考えてこりゃ立証は不可能でしょう…!」
「出身者が祟りだと了解する行為は、どちらかというと文化依存症候群の範疇です。それに対し、寄生虫妄想症を重ねられることは、
「「はっはっはっはっはっは……。」」
……祖父の顔がどんどんと青ざめて行く。
私もまた、呆然としているしかなかった。
そんな寄生虫は聞いたことがない、ありえない。
単なる偶然の一致であり、客観的に考えるには資料が足りなすぎる。
…そんな話が延々と続けられ、祖父がたまに意見を返すと、一に対し十が返ってくるような有様だった。
…いつしか祖父は、彼らの批判の前に沈黙せざるを得なかった…。
「ただ、どんな発見も最初は理解されないものです。高野先生の研究もその内のひとつでないかと考えます。当時、どんなに馬鹿馬鹿しいと思われていた研究でも、その後、真実が解き明かされ、評価を改められるというのも、これまたよくある話です。」
「……わ、……私は皆さんに比べれば素人です。個人の研究家に過ぎず、一流大の出でもなければ、学閥にも属していません。もちろん権威や研究所へのコネクションもありません。ゆえに、個人の研究ではこの程度のことまでしか調べられないのです。…果たして雛見沢症候群が真実なのか、
「…もちろん、これが世紀の大発見になるならば、一大センセーションを巻き起こすでしょう。何しろ、人間の文化や思想は全て寄生虫の意思によるもので、前頭葉は彼らを住まわせるだけの場所に過ぎないという、ははは、大胆な説なのですから。」
「雛見沢症候群が存在し、その感染者が感染によってその、オヤシロさま信仰というものに組み込まれることがもし立証できたなら。地球上に存在する全て宗教、
「その話の壮大さはとてもユニークです。高野先生は、我々のような人間にひっそりと論文を読ませるより、それで本を書かれて一般大衆に発表された方がよろしいでしょうな。」
俯く祖父の握り拳がわずかに震える…。
だって、…それはあまりにひどい暴言だったのだから。
私は学問のことはよくわからない、ただの小娘に過ぎない。
だから難しい話はよくわからないけれど…。
……祖父は個人でここまで研究し、色々と積み重ねてきたのだ。
でもそれを立証しさらに踏み込んでいくためには、協力者が欠かせないのだ。
なのに、その協力者たちが、祖父の研究を個人的妄想と切り捨てるのだ。
そんな滅茶苦茶ってない。
まるで卵と鶏がどっちが先かみたいだった。
第一、この高慢ちきな連中が要求するくらいに研究が進められたなら、祖父は助けを求めようなんてしない。
でも、彼らは個人レベル以上の成果を見せないことには協力できないと矛盾したことを言っているのだ。
それに、どんな学問だって、最初はちょっとした思い付きから研究が始まるんじゃないのか?
研究する前から、充分にその存在を立証できているなら、何それ、研究の必要なんて初めからない。
…妄想だから研究の余地がないなんて言い出したら、今日の学問はどうやって切り拓かれてきたというのか…。
……そんなことよりそんなことより…。
先々週、小泉氏が来た時の感触では、彼らは非常に興味深い研究だと絶賛していたんじゃなかったっけ…?
まるで話が違う、全然違う…!
;■どこぞの料亭
「はい。非常に興味深い研究だと思っとります。脳はまだまだ未知の領域です。」
「この高野氏の論文は非常にユニークです。特に、優生学的見地からは無視できないものが感じられます。」
「人は神の子などでは断じてない。人も進化の洗礼を受けた動物に過ぎません。ならばダーウィンに従い、各地の環境に応じて進化には差が出てくる。…つまり、人類にはすでに優劣があるのです。国家として如何に優秀な血統を守り、よりよい遺伝子を未来に残せるか。…これを国策として掲げ研究せねば、来世紀において人類は、致命的な序列を与えられることになるでしょう。」
「高野氏の研究は、単なる寄生虫症の域を超えるだけのポテンシャルを秘めていると言えるでしょうな。」
「次世代に残すべきでない劣悪な人間が、もし遺伝子によるものでなく、感染症によるものであると解明できたなら、外科的手段によって更生が可能になるということになる。結果、我が国は未来に素晴らしい人間を残すことができるでしょう。優生学的見地から、高野氏の研究は早急に取り組まれるべきです。」
「これはモニス氏のロボトミー手術以来の大発見になる可能性がありますぞ。もし、感染症疾患と個人の資質の因果関係が立証できれば、ノーベル賞どころでは済まんでしょうな…!」
「小泉先生、この度の貴重な機会に深く感謝いたします。」
「高野くんは昔から一途で熱心な男での〜。だが、人付き合いがヘタクソでな。ずっと独りで研究してきたのだ。だが、独りでできる限界を迎え、ようやく人に助けを求めることを覚えたんだな…。どうか先生方、高野くんの話に耳を傾けてやってください。」
「畏れ多いですよ、先生…! むしろ、この度のご縁にこちらが感謝したいくらいです。」
「私どもとしては、もう協力させていただくことは前提です。むしろ学会での縄張り調整の方が今後の急務ですなぁ。」
「このようなユニークな研究を、世界に先駆けて研究できるとは…。この年になって、このような貴重な幸運に恵まれたのを感謝したいです。」
その時、控えめなノックが聞こえると、すっと襖が開き、女将が顔を覗かせた。
「…失礼いたします。お客様がお見えになっておりますがお通ししてよろしいでしょうか。」
「客? はて、どちら様ですかの。」
女将が耳打ちをすると、その表情から血の気が、さっと引く。
「お、お通ししてください。いやいやいや、私もお迎えにあがります…!」
小泉が立ち上がろうとすると、もう廊下をドスドスと歩いてくる足音はすぐそこまで迫ってきていた…。
「せ、先生…! このようなところへお越しいただけるとは…。」
「小泉くん、ご無沙汰だな。今日はちと、どうしても君にしておきたい話があってな。」
「はい。大恩ある先生の話とあっては聞かぬわけには参りません…! 何でも仰ってください!」
小泉と名乗る老紳士も、決して軽んじられる立場の人間ではない。
表舞台からすでに退いているとは言え、強力な影響力を持ち続けるフィクサーのひとりだった。
その彼が、ここまで低姿勢に出るのだから、相手の男がどういう人間なのかうかがい知ることができた。
ボディガードの屈強な男に肩を借り、もう片方の手には高級な杖を突きながら歩く老人。
すでに自分ひとりでは満足に歩くこともできないくらいに老衰しているのに、
「単刀直入に言う。君の友人の研究な、
「は…? と、申しますと…、」
「小泉くん。雛見沢症候群は、墓穴まで持ってかなきゃならん。あれに手を付けちゃならねえんだ。……あれを調べるとな。藪を突いて蛇を出すかも知れん。しかも太くてでかい蛇がな。……君がこのままガブリとやられるのを黙って見とるには忍びないのでな。ちょいと君の小耳に入れてやろうと思って今日は来たんだ。……連れの先生方にはちょいとお待ちいただいて、
「は、はい…! お供させていただきます…。」
小泉はすぐに、これが圧力だと悟った。
……どういう方面からの力かわからないが、雛見沢症候群の研究を快く思わない長老たちが、この研究のバックアップをしようとしている自分を煙たがっているのだ…。
「……小泉くんは、覚えてるかね。………盧溝橋事件は。」
;■高野書斎へ戻る
「まったくの世迷言ですな。本日、私どもがお邪魔したのは、資料になかったそれ以上の客観的何かが開示されるかもしれないことを期待したからです。本来ならば、本日お邪魔するにも値しない内容だったのを、小泉先生たっての願いということで義理を尽くさせていただいたまでです。」
「徒労ではありましたが、来て正解でした。あなたに適切なアドバイスをすることができるのですから。……あなたは余生をこんなことに費やされるくらいなら、盆栽でも始めなさい。いいですぞ、盆栽は。」
「同感です。こんな書斎に、ホルマリンの瓶を並べていても不健康なだけですな。」
「しかし、実にユニークな内容でした。あなたさえ良ければ、出版社の社長を紹介しますよ。大衆にはこのくらいの刺激があった方が受けるでしょうからな。」
もう彼らは悪意を隠さなかった。
へらへらと笑い、祖父を扱き下ろし、研究のみならず祖父の人格までも否定するような雑言を浴びせかけた。
それがもし挑発だったなら。
それに乗ることは祖父にとって彼らの見下す人格であることを認めるようなものだ。
……祖父はこの瞬間にあっても、孤高の研究者であり、…誇り高き存在であり続けようとした。
だから、……もう拳は震えていなかった。
…それどころか、貴重な時間を割かせてしまったことを詫び、もうこれ以上、拘束するつもりはないなどと言い出すのだった。
「この論文はお返ししますよ。もっともこれを論文と呼んでいいなら、学会もどれだけ気楽なことか。」
老紳士のひとりが論文の束をぞんざいに祖父に突き返す。
祖父はそれを咄嗟に受け取れなかったので…。……祖父が今日までがんばって書き連ねてきたそれは、バサリと音を立てて落ち、絨毯の上に舞うように散らばった。
だが、彼はそれを詫びもせず、書斎を後にした。
その後に付いて皆、退室しようとした。
………だから、彼らは祖父の努力が紙の形となって散らばったその床を、ぐしゃりぐしゃりと音を立てて踏みにじった。
祖父の表情は、変わったようには見えなかった。
……でも、…私には歪んで見えた。
祖父の背負う書斎の壁が、ぐにゃりと悲しく歪むのが確かに見えた。
「……………………ッ!!!」
私は飛び出していた。
…そして老紳士の足に組み付く。
彼が憎いんじゃない。
いや、憎いか憎くないかと言われたらもちろん憎いのだが…、そんなことじゃない、そんなことじゃない。祖父の論文を踏みつける足が許せなかったのだ。
「踏まないで…!! 踏まないで…ッ!! おじいちゃんが頑張って書いたんだから、…足で踏んだりしないで…ッ!!」
私は未だ踏みにじり続ける、その足を、散らばった紙面から退かしたかった。
…でも、それは根が生えたように頑丈で、私ごときが押したり引いたりするだけでは決して退こうとはしなかった。
その私の背中が、むんずと掴まれる。……掴んだのは祖父だった。
「孫が失礼をいたしました…。ささ、どうぞこのままで結構ですので…。後片付けは私どもの方でしますので……。」
「踏まないで!! 踏まないでぇ!! おじいちゃんのを踏まないでったらッ!!」
私の叫びなど何の意味もない。
……結局彼らは、
後には私と祖父だけが残された。
私は祖父に後襟を掴まれたまま。
もう何の言葉も口から出せず、わんわんと泣いているだけだった。
祖父は、意地でも感情を表情に出したりはしなかった。口元を歪めさえしなかった。
だから、私が祖父の代わりに泣くべきだと思ったのだ。
なのに、祖父にぴしゃりと頬を打たれた。
私は祖父のためを思って泣いていたはずなのに、どうして頬を打たれたのかわからず、一瞬だけ困惑した。
でも、…なぜか理解した。
本当に泣きたいのは祖父なのだ。
…でも、その祖父は堪えたのだ。
…だから、私も泣いてはいけなかったのだ…。
だから私はごしごしと涙と鼻水を拭いて、……祖父がそうしているように、黙って俯いて、絨毯の上に散らばった論文を見ているしかなかった。
どうして祖父が謝るのか理解できなかった。
てっきり祖父は、彼らのあんまりな振る舞いについて文句を言い、その同意を求めるものとばかり思っていたから。
…何て祖父は健気だったのだろう。
あれだけの暴言を浴びせられて、…なお私を気遣えるのだから。
私は、首を浅く横に振りながら、…床に両手をつく…。
そして、散らばった論文を集めようとして、
全部全部、…祖父の手書きの文字なのだ。
自分の研究にようやく理解を示してくれる人が現れて、
それが、ぐしゃりと足跡の刻印が付けられ、歪められていて…。
それは祖父の心を踏みにじり、足跡の刻印を残したのとまったく同じこと…。
「……私の研究がまだまだ足りなかったんだ…。もっともっと研究を重ねていたなら、こんなことにはならなかったんだ。……ごめんな。本当にごめんな。…おじいちゃんはもっともっと研究を重ねるからな。これくらいのことじゃ、
その言葉は、私に言ったものなのか、自身に言い聞かせるために言ったものなのか、わからない。
「…大丈夫。神さまは見ておられる。そして、…自分が評価されることを疑ってはならんのだ…。いつか、必ずきっと評価されるから。その日まで努力を怠ってはならんのだ…。」
祖父は、普段からよく口にする言葉を再び口にした。
……でも、私は知っている。
…神は人の運命を気まぐれに弄ぶだけで、決して好意で救ったりはしない。
今日までこれだけ慎ましやかに努力を重ねてきた祖父にこの運命を与え、……何の罪もなかった幼かった私にあのような無残な運命を強いたのだ。
…祖父は繰り返している。……でも、私は知っている。
確かに神はいる。
祖父が信じる存在は実在する。
でも、そいつらには慈悲など何もない。
理不尽な運命を気まぐれに与え、それを試練だと呼ばせ一方的に与え続けるだけ。
そんな残酷な現実を、もちろん祖父に言えるわけもない。
…………私はあの雷雨の日以来、再びもう一度だけ神に言う。
……どうして。
…どうして、祖父のこの努力や頑張りに正当な評価を与えないのか……!
祖父は、散らばった論文は自分が集めるから、紅茶のカップを片付けてくれと言った。
…私は無言で頷き、一口も口を付けられることなく冷めたカップを配膳台に片付けるのだった。
それを押して書斎を出る。
その私の背中に祖父が声をかけた。
扉を閉めていってほしいと。
普段だってちゃんと閉めて退室している。
…わざわざ言われることじゃない。
でも、祖父がそれを望んだのだから、私は口答えせず扉を閉めていった。
そして、……配膳台を押しながら廊下を去る私は聞いてしまう。
書斎から漏れ聞こえてくる、祖父の嗚咽を…。
それを聞くうちに、再び目が潤むのを感じた。
悲しさと悔しさと、…こんなにも身近にいながら、何の力にもなれなかった自分の不甲斐なさに怒りすら感じた。
……その時、濡れた頬にとても涼しい風が当たった。
換気のために細く開けた窓から入る風だった。カーテンがとてもやさしくはためいている…。
外から聞こえてくるひぐらしの声。
…その声を聞いている内に、私は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
…もし、
でも、実際は違う。
…むしろ逆で、私が泣いたからこそ、祖父も涙を堪えきれなくなったのかもしれない。
私は、祖父の何の役にも立っていないのだ。
…………あの日を思い出す。
…私が今を生きていられる理由を思い出す。
祖父が助けに来てくれなかったら、…私は便所の片隅で人の形をした肉のままで生涯を終えていたかもしれない。
……それを、祖父が助け出してくれたのだ。
私が失った権利を取り戻してくれた。
…歩く権利を。立ち上がる権利を。服を着る権利を、食事をする権利を、
…それはつまり、人間として、生きることができる権利…。
祖父は、私からの助けを求める電話ですぐに動いてくれたのだ。
私の自宅を探し当て、私がどこの施設に送られたのか、お役所のずさんな書類管理に苦しみながら探し当て、…そして、助け出してくれたのだ。
もちろん、その時にあっても、祖父は研究に全てを捧げていた。
祖父はその時間を削り、見ず知らずの私を救うために費やしてくれたのだ。
…祖父が心臓を患ったら、自らの胸を裂き、心臓を差し出そうと誓った。
だが祖父は心臓を患ってなどいない。
……だから心臓は必要ないが、でも、今の祖父は大切なものを必要としている。
…そしてそれは、世界中の誰でもなく、私にしか与えられないもの……。
自然と、私は両手で拳を作る。
そして、…爪の跡が残るくらいに…、
私は、…高野三四として新たな生を受けて、ようやくすべきことを知ったのだ。
……あぁ、やっとわかった。「私」が生まれてきた理由。
高野三四がやるべき、目的…!
; それは小さな胸に宿る、大きな決意。
; 人の命が、もしも地球より重いなら。
; 私の小さな決意は、地球よりも重い。
私は祖父の偉大さを知っているつもりで、その実、ちっともわかっちゃいない。
祖父を本当の意味で手伝えるようになるには、その高みに及ばなければならないのだ。
あらゆる教科は、祖父の元へつながる。蔑ろにしていい教科などありはしない。
今の私にとって、勉学に勤しむ以上に祖父に協力できることはあるはずもない。
「…教師生活をして長いが、君ほど弛みなく勉学に勤しんできた生徒は見たことがない。かといって、決して勉強のみに視野が狭くなることなく、社交性も身に着け多くの友人を作った。」
「勤勉なのは、勉強することでしか至れない私の目標があるからです。社交性を疎かにしないのは、孤独な天才があまりに無力であることを知っているからです。」
まだ、足りない。
「私はまだまだ、自分の望む姿に至れていないんです。大学に入るのなんて、私にとっては単なる経過に過ぎない。そこで何が学べるかなんです。」
全然足りない。
私を、祖父を手伝える存在に至らせるには全然足りないのだ。
「…………うむ。…先生は君を教え子に持てたことを誇りに思う。東大でも御茶ノ水でも好きに選びなさい。今の君にとって倍率など何の意味もない。君にとって、学ぶに値する学校であるかどうかだけが大事だ!」
; 願いを成就し、望む未来を紡ぐ力。
; 紡がれる糸の強さは、意志の強さ。
; 気高く強き願いは必ず現実となる。
雛見沢症候群を真に理解し、祖父の研究を本当の意味で手伝えるようになるには、まだ何が足りない?
妥協も言い訳も必要ない。
私の求める高みははるかに高く険しいのだ。
まだまだ足りない、何もかもが足りない。
同期たちの、一流大学入学を以ってまるで人生の勝利者であるような振る舞いが実に馬鹿らしい。
大学など、私に必要なものを学ばせるための場所でしかない。
もし、この自称最高学府が私が学ぶに足りないなら、私には関心などありはしない。
「まさか、才女のあなたが寄生虫研に来られるとは思いませんでした。貴女ほどの方なら、引っ張り凧だったでしょうに…。てっきり、もっと見栄えのいい研究に関心を寄せられると思っていました。」
「私が学びたいこと、研究したいことが、寄生虫だからです。私は、今日、ここで学べる資格を得るために勉学に勤しんできました。……私如きでは学ぶ資格はありませんか?」
「そんなことはありませんよ! 入学試験を第一位で突破した貴女を拒むはずもありません。ようこそ、寄生虫研へ。嫌われがちな学問でね。研究者はまだまだ少ない。だから他の学問に比べて未知の分野が多いのです。」
そう。寄生虫の世界は未知の世界。いや、無知の世界。
寄生虫が人を支配するなどあり得ないという先入観が横行する無知の世界。
そんな無知な奴らが祖父を嘲笑い、祖父の結晶の論文を踏みにじった…!
「寄生虫の世界には、まだまだ解き明かされていない未知があります。私は、それを解くために。……それを解こうとする人の力になるために、ここまでやって来たのです。」
; 実現の約束された願いは、もはや願いとは呼ばない。
; それはつまり、もはや運命。
; 私が紡ぐのは、運命。
; 運命は個人だけじゃなく、人を世界を支配する絶対の力。
私は学ぶだけではまだまだ足りない。
祖父と共に穴倉に篭って研究をするだけでは意味がないのだ。
祖父が得られなかった、「協力」を得る力を私は蔑ろにしない。
祖父の研究は、机上で完成するだけでは終わらない。
それを発表し評価を受け、祖父の偉業が真の意味で讃えられるには大勢の人の力を借りなければならないのだ。
「えぇ、そうです。当会は帝大主席卒業生にのみに入会資格を与えている同窓会組織です。毎年7人の入会者のみしか認めておりませんので、一般的な同窓会組織と比べると小規模ですが、その結束は比べようがありません。」
「そのような会へお誘いいただき、とても光栄です。私如きでよろしければ、ぜひ末席を賜れればと思います。」
「いえいえ、貴女ほどの実績と経歴をお持ちの方を末席など、とんでもない。先輩方も貴女を歓迎されるでしょう。会の名簿には、現役大臣、高級官僚、大企業の社長や顧問などが名を連ねています。彼らはあなたを必要とし、あなたが必要とする協力を与えるでしょう。」
「……小泉先生もこの会におられたのですね。私の祖父の親友だった方です。まさかここでまたご縁があるとは…。」
「そうでしたか。きっと小泉先生も貴女の入会を歓迎されることでしょう。」
孤高の天才など何の意味もない。
……人は社会に生きる。
社会とは人と人のつながり。
それを蔑ろにしてはいけないのだ。
私は個人としてできる最大の努力をする。
そして、個人では至れない個人以上の力を得るために、社会とのつながりを否定したりしない。
全ては私の目的のため。
高野三四の生きるたったひとつの願いのため。
そうだ。私の身に許された全ての努力を惜しむな…!
私の絶対の意思が、絶対の未来を紡ぎだす。
誰にも邪魔できない。
誰にも覆せない。
サイコロの1なんて認めない。
健気な努力が、電車事故だけで打ち消されるなんて認めない。
全てのサイコロを6にしてやる。
サイコロを神になんか委ねない。
運不運になんか委ねない。
神に祈るのは自らに努力を尽くさぬ愚か者のすることだ。
私は神などに委ねない。
全ての結果は私が紡ぎだす!
私の強固な意志が、神にさえ介在できない絶対の未来を作り出す!
それは、祖父が教えてくれた神になる方法とは違う。
それは、生きながらにして神に至る方法。
それに気づいた時、私はようやく解放される。
それは、両親を失った時の悲しい記憶。その後の辛い生活。
そして、論文を踏みにじられた時に見せた、祖父の涙。
そう。私は神の域を超えるのだ。神の気まぐれなどに負けない存在に!
祖父の研究を、認めさせてやる。
それは私が望む未来。約束された未来。
人々は祖父の論文を奪い合って読み合う。
かつて蔑ろにされ、踏みにじられたその論文を、うやうやしく手にとって読むのだ。
例え、その日を待たずに祖父に死が訪れたとしても。
その程度の運命に私が泣くことなどないのだ。
だって、祖父はすでに私に教えてくれている。
例え、死んで土中に埋められた身であっても、復活できることを。
私が、祖父の偉業を完成させ、世界中が祖父を讃える。
その時、祖父は復活を遂げ、神となり永遠となる。
それは永遠の絆。
どんな電車事故でも千切れない。
神がいくらサイコロの1を並べようとも!
あの電車事故の日から、私の人生は全てサイコロの1だった。
でも、私はそれに負けず、ここまでやって来た。
サイコロの目など私は超越する。
サイコロの目は私が決める。
運命すらも、私が決める。
挫けぬ絶対の意思で…!
;■雛見沢
「診療所はいつ開くんかいねぇ。クーラーが付いてるとえぇんの。」
「来月んにゃ診療開始っちゅ、書いてあったん。すったらん、若い先生だとえぇんの〜、ひゃっひゃっひゃ!」
境内への階段途中ですれ違った老婆たちの会話だった。
入江診療所はすでに工事を終え、オープンを間近に控えていた。
研究区画には最新の機材が運び込まれ、本格的な研究のスタートを待っている。
もちろん、入江もすでに最高のコンディションでスタンバイしており、私の次に雛見沢症候群に情熱を燃やしていると言っても過言ではなかった。
そして、この研究を影から支える防諜部隊の山狗も、すでにダミー会社の隠れ蓑で興宮近辺に潜伏している。
現在は有事に関係する公共機関への工作を進めているらしい。
全てが順調だった。
あえて懸念をひとつ挙げるとしたら、雛見沢ダム基本計画の噂くらいか。
建設省内で、雛見沢一帯を水没させるダム計画が進行中であるという噂があり、数方面から圧力をかけているところだ。
私の後ろ盾たちにとって、建設省は影響力の少々及びにくいところらしく、やや難航していると聞く。
万一、圧力が不調に終わっても、まだ数手用意しているので、どの道、いずれは頓挫するだろう。
楽観視してるわけじゃない。そうなることは決まっているのだ。
“私が、この雛見沢で、研究をする”
それを絶対の意思でやり遂げるのだ。
…だから、神が雛見沢を水没させるダム計画というサイコロの1を見せたとしても、何も恐れることはない。
神にサイコロなど委ねない。
私がそのサイコロを掴み、6を上にして叩きつけるだけなのだから。
別に、私がこの神社を訪れたのは、そういう意味でこの地を守る神に宣戦布告がしたかったからじゃない。
単に、この境内からとても見晴らしのいい場所があるのを知っていたからだ。
社の脇をさっさと抜け、以前、訪れた時に見つけた取って置きの場所へ行く。
そこは……、まるでこの村の全景を見下ろすためだけに設けられたような特別の場所。
突き抜ける強めの風が、私が今いるこの位置がまだまだスタート地点に過ぎず、私の目的に至るまでにまだまだ逆風が満ちていることを教えてくれる。
だから私は、この程度の風などにたじろがず、悠々と村を見下ろしてやるのだった。
祖父は雛見沢症候群に至る上で、医学的見地からも迫ったが、同時に民俗学的見地からも迫っていた。
この村に伝わる奇怪な信仰は、この地が太古の昔から雛見沢症候群の存在を知っていたことを伝える最大の証拠だ。それを研究することの意味は計り知れない。
第一、祖父とて百年も研究しているわけではないのだ。
だが、この地は数百年間にわたり、雛見沢症候群と共にあった。
この地が生み出した信仰や伝承自身が、最高の研究者でもあるのだ。
それを、昔話の戯言と切り捨てるのは愚かの極みと言えるだろう。
少しずつ調べ始めているが、……なるほど、祖父を虜にするだけのことはある。
雛見沢症候群は、非常に面白い側面をいくつも持っている。
それはさながら、わずかに角度を変えるだけで無限の煌きを見せてくれる万華鏡のよう。
祖父の研究をなぞるのはとても楽しいことだ。
……自分なりに研究したことなのに、後に祖父の手記から同じ内容が見付かると、自分が祖父と同じ道を進んでいることを一層強く感じられて嬉しかったから。
……村の守り神、オヤシロさまを祀る神社。
だが、彼らが神だと崇め奉るその対象は、実際は寄生虫症が生み出した幻に過ぎない。
それの秘密を私が解き明かし世界に発表した時。…この地の神は、神の座を追い落とされ地に堕ちる。
……私に不幸を与え続け、運命を試すような真似をする連中に初めて一矢報いることができる瞬間なのかもしれない。
そうか、
私は社の前に戻って来た。
……賽銭箱があるとつい小銭を放りたくなる衝動に駆られる。
でも、賽銭は神にご利益を期待して投じるものだ。
でも、私は運命を神に委ねないのだから、賽銭などする必要は何もない。
いずれ私が化けの皮を剥ぐ。
…だが、その瞬間の直前まではこのオヤシロさまも神に列せられているのだ。
ならば、今だけは敬ってやるか。くすくすくす。
半ば、宣戦布告にも似た気分で私は財布にちょうど余っていた十円玉を取り出す。
……あの電話ボックスで拾った十円玉が、私の人生の転機だった。
もし、あそこに十円玉が落ちていなかったら、……私の生涯はあそこで閉じていただろう。
「…あの1枚の十円玉に関してだけは、あなたに感謝するわ。」
あなた、とは言っても、それはこの神社が祀る神に言ったわけではない。
「でもね。…あの程度で、私はあなたを許したつもりなんてない。…そして私は、あなたのご利益なんか期待せず、自分の努力だけでここまでやって来た。……今後あなたがどんな理不尽な運命を与えようとも、サイコロの1を出し続けようとも。…そんなものにはびくともしない、絶対的に強固な意志の力で。…私は私の理想を勝ち取ってみせる。」
そしてこの地での研究で、…祖父の偉業は讃えられ、神となる。
私はこの地に崇められる神を蹴落とし、神を超えた存在となる。
「…いつから私は神という言葉に拘るようになったのかしらね。……祖父がいつも神さまを引用した話ばかりするからかしら? ……くすくすくすくす。」
さぁ、あの時にあなたに借りた十円玉を私は返す。…これで貸し借りは一切なしだ。
あなたは人を意地悪に試し続ける座に執着しなさい。
私はそんなあなたを蹴落とすために、これから戦いを挑む。
私は、あの日、神に借りた十円玉を賽銭箱に放って返した…。
「…………………………ぇ。」
…一瞬、何が起こったか理解できなかった。
私が賽銭箱に向けて放った十円玉は、放物線を描いて賽銭箱の中に放り込まれるはずだったのだ。
賽銭箱から外したわけじゃない。
賽銭箱に小銭を放るのに外す人なんているもんか。
そうじゃないそうじゃない…。
だって、十円玉は、
そして、それは逆に私側に放られるように弾かれ、…私の足元に転がった。
まるでそれは、…賽銭箱が私の施しを拒んで弾き返したかのような錯覚。
……当然だ。賽銭箱は神を敬う気持ちを入れるもの。
だが、私の放ったのは敬いじゃない。むしろ挑戦なのだから。
ということはつまり、
私はびくっとする。なぜなら、この場にいるのは私だけだと思ったからだ。
なのに、何の気配も感じさせずに、実はもうひとりが身近にいたことを知ったなら、きっと誰だって驚く。
…その少女はいつからそこにいたのだろう。
まるで社の中から出てきたかのように。
……いつの間にか、その不思議な雰囲気の少女は、賽銭箱を挟んで私と対峙していた。
巫女装束を見れば、この神社に関わる者に違いないと思う。
もちろん、私もそうだと思った。……でも、心のどこかでさらに思った。
関わる者ではなく、
なぜなら、
私は思わず不敵な笑いを返してしまう。
…私が心の中で言っていた、神への挑戦の言葉。………それが聞こえていて浮かべている表情に思えたからだ。
だから、……その言葉は私の口から自然と出た。
「あなたが、……ここの神さまね。」
少女は頷かない。でも、私はその無言を肯定だと受け取った。
何て矛盾した感情なのだろう。
…私はこの地の神を否定し、その存在に対して挑もうとしているのに、…この少女が神であることを疑わないのだから。
少女は、言った。
「……強い意志は、運命を強固にします。」
「………………。そうよ。」
それは、私が心の中でよく呟く言葉だった。
この言葉を人に聞かせたことはないし、何かから引用したつもりもない。
…だから、普通に考えたら、この少女がその言葉を口にするのに驚きを隠せないはずだった。
でも、……この少女は、人間の少女ではないのだから、それをおかしいとは思わない。
今度は私から言ってやる。
「神は運命のサイコロを振り、その出目で人間を弄ぶ。でも、人間には意思の力があるわ。その力が強ければ強いほど、サイコロの目などに人は縛られないの。…わかる? 人は極限まで努力を積み重ねることで、誰にも挫かれることのないくらいに強固な意志を持つことで、サイコロの目に左右されない力を得るのよ。」
「……はい。よくわかりますのです。揺るがない信じる力は、どんな運命もサイコロの目も打ち破りますのです。」
「そうよ。それはつまり、サイコロにて弄ぶ神々への人間の復讐。………神々の干渉を排して自ら運命を切り開く人間の讃歌。どんな不運にも耐えて、今日を努力で獲得した私の神々しさを知りなさい。」
くすくすくすくす…!
自然と私の口から悪意ある笑いが溢れ出る。
だが、少女の強い意志を感じさせる表情はわずかにも歪みはしなかった。
「…………僕はようやくわかりましたのです。……何度繰り返しても、決して覆せぬこの運命は、……あなたの強固な意思の力ゆえ。」
「そうよ。“強い意志は、運命を強固にする”。鋼のように鍛えられた運命は、如何なるサイコロの目にも動じない。それは即ち絶対の未来。」
「………それを、幾百年を生きる僕たちでなく、人の身であるあなたが知るとは。……認めますです。……あなたは限りなく、“神に近い場所”に居る。」
「それは光栄ね。くすくす………。」
そして、少女は目を細めるようにして私を睨みながら、……いや、自らの意思の強さを示しながら、私に「布告」した。
「……………………僕は、…あなたに負けない。かつて僕たちは、どう戦ってもあなたに勝てないと思った。……だから僕は、…あなたに屈した。地に堕ち、輪廻の中を這いずりながらみすぼらしく生きた。………でも教えられましたのです。…信じる力が運命を切り開く奇跡を起こすと。」
「私の強い意志が作り出す運命に、あなたの強い意思がそれを打ち破る奇跡を起こすというわけ……? くすくす、道理ね。」
だって、それが人の世の法則なのだもの。
思いの強さが願う未来を実現する…!
「僕たちは、……あなたの意思の強さに負けないのです。」
「古き神の座に執着するのも大いに結構。あなたの意思が私の意思に勝てるか、試してみなさいな? 神は人を試すが、人が神を試してはならない不条理。……だから敢えてあなたを試してあげるわ? お前の意思の強さが、私の意思の強さに勝てるかどうかを、試して御覧なさい…!!」
それは、はっきりとした私から神への宣戦布告。
私を数々の不幸で弄んだ神々への復讐の始まり。
そして、神である少女も私の挑戦を正面からしっかりと受け止めてくれる。
「…僕はあなたに比べてあまりに非力だけれども。あなたに比べてあまりにできることが少ないけれど。……例え、僕の意思の強さがあなたに及んだとしても、それくらいでは覆せないくらいに圧倒的な力の差ではあるけれども。」
「そうね。私は圧倒的な力を得たわ。その力を得るために、今日までどれほどの強い意志を持ち初心を貫徹してきたか。貴様如き小娘では私に指一本触れることも叶わないでしょうね。くすくす…!」
「……わかってる。あなたの強大さはわかってる。それに比べて僕や僕の仲間たちの力はあまりにか細いかもしれない。でも、私は諦めないことを選ぶことができる。…………三途の川原で永遠に石を積み続けるように、あなたのサイコロに1が並び、僕のサイコロに6が並ぶその日まで決して負けを認めず諦めない。気が遠くなるほどの長い時間、あなたに屈しないことで意思の強さを示して見せよう……! そして、川原に石が積みあがった時、…僕たちはその川を越えることができ、あなたの前に対等な存在として現れるでしょうッ…! その時こそ、この永きにわたる運命の戦いに決着がつく!」
「くすくすくすあはははははは! ならば結構、かかっておいでなさい!! どちらの想いが強いか! 強かった方が未来を作る。強かった方の望んだ未来が訪れる。私は私の未来を一歩も譲らない! その未来では祖父の偉業は讃えられ神となり、かつて私を不幸にて試すような真似をした神に対して復讐をする。」
くすくすくす、あっはははははははっはっはっは!! 間抜けなチビ神め! 身の程を思い知らせてやる!
「貴様を神の座から引き摺り下ろしてやる!!」
;■カケラ紡ぎ
ようこそ。
『ひぐらしのなく頃に〜祭囃し編〜』の世界へ。
この世界では、あなたは羽入の視点から物語世界を再構築することができます。
最大の目的は、あなたにとっての理想である「昭和58年6月」を作り上げることです。
その理想を実現するためには、様々なカケラを集めていく必要があります。
ただし、鷹野の理想もまた強固です。
それを覆すためには相当の苦労とカケラが必要となるでしょう。
予め警告しますが、この作業は非常に緩慢かつ苦痛です。
羽入はこの作業を百年以上も行い、一度は挫けて運命に身を委ねてしまったのですから。
鷹野の理想に打ち勝つのは容易なことではありません。
この世界の試練は、あなたに羽入のそれに準じた苦痛を与えるでしょう。
あなたは無数のカケラによって何度も繰り返される世界に精神を磨り減らされ、かつて羽入が屈服したように、あなたも屈服することがありえます。
あなたが屈服を認める場合。あなたはいつでもこのゲームを終了することができます。
その場合、あなたとあなたの仲間たちの運命を巡る世界は「鬼隠し編」から「皆殺し編」までの世界で閉じられます。
あなたはこの世界のことを忘れ、本作品をアンインストールすることによって、この世界での「死」を迎えることができます。…やがて梨花がそうなるように。
あなたの理想の「昭和58年6月」は、この世界に散らばる50個ものカケラを結び合わせることで組み立てていきます。
カケラを結び合わせるには、それぞれのカケラに合ったカケラが必要です。
……それが50個もあるのですから、あなたはその膨大な量にきっと眩暈すら覚えるでしょう。
ですが、この世界はそこまで無慈悲ではありません。
あなたの苦痛をほんの少し和らげるため、ささやかな手助けが与えられます。
あなたが、まだ結び合わせることができないカケラを選んでしまった時。
あなたの唯一の味方である彼女は、そのカケラに、まだ結ぶことができないことを示す印を付けてくれます。
この印がある内は、そのカケラは結ぶことができないということです。
他のカケラを探しに行くのが良いでしょう。
ですが、あなたが他のカケラを結び付けていく内に、さっきは結び合わせることができなかったカケラが、いつの間にか結び合わせることができるようになっていることがあります。
そんな時、彼女は、それを知らせる印を付けてくれます。
さっそくそのカケラを結び合わせてみましょう。……そうすることで、また別のカケラが結べるようになるかも。
そうして、50個もの膨大な数のカケラ全てを結び合わせ、1つのカケラにした時、…そこには理想の「昭和58年6月」が生まれるでしょう。
その時こそ、私たちがもっとも欲する「祭囃し編」が始まるのです。
一個一個のカケラを覗く前に、まずは50個のカケラの様子をずらりと見てみた方がいいでしょう。
ほとんどのカケラは、結び合わせるのに他のカケラを必要とするため、恐らく、あなたが満足に覗くことができるカケラは、ほんのいくつかです。
まずはそのカケラを探してみましょう。
そのカケラを結び合わせるための条件は、マウスポインタを合わせれば教えてもらえます。
ですので、まずは条件なしで覗くことができるカケラを探してみると良いでしょう。
……これは非常に長く険しい試練になります。
もう一度繰り返しますが、羽入は百年以上これに挑み、しかも一度は挫折しています。
仲間たちが奇跡を信じるのと同じ気持ちを、もしもあなたも持っていてくれたなら。
たとえ、羽入の住まう世界が違っても、彼らのことを信じることができたなら…。
ようこそ。
『ひぐらしのなく頃に〜祭囃し編〜』の世界へ。
この世界では、梨花たちの信じる世界をあなたも信じてくれているかどうかを試します。
奇跡は、全員の力が集まった時にのみ起こります。
鷹野の組み上げた昭和58年6月はあまりに強固です。
彼女は国家権力の中枢に入り込んで後ろ盾を得、一般人の常識を超えた様々な力を得ています。
それに打ち勝てる勝算など百のサイコロが全て1を示してもありえません。
つまり、奇跡を起こす以外に勝算は考えられないのです。
全員の力が集まった時にのみ、奇跡は起こります。
そして、その全員には、あなたも含まれているのです。
;■フレデリカの挨拶
……覚悟は出来た?
もちろん、私は出来てるわ。永い旅のコツは根詰めすぎないことよ。まぁ、のんびり行きましょう。私はいつものワインを飲みながらやらせてもらうわ。
では、始めましょう?
ここでの時間は無限にあるのだから。
;■第三部スタート!
;■羽入ターン
信じるというのは、希望という名のコインを賭けることだと彼は例えた。
つまり、…信じるということはリスクを負うということ。
勝てば得るものがある代わりに、負ければ失うものがあるということ。
多くの博打がそうであるように、私たちは絶対勝てる勝負を探してコインを賭けようとする。
だが、多くの博打がそうであるように、絶対勝てる勝負など存在しない。
時には勝ち、時には負ける。
そうしながら、希望というコインを増やしていくのだ。
だが、負けが込めば賭けるのが嫌になることもある。
……そうして気付くのだ。何も賭けなければ、何も失わなくて済むことに。
何も賭けないということは、何も信じないということ。
何も信じないということは、何も関わらないということ。
何も関わらないということは、いないのと同じ。
だから彼女は、“いなかった”。
胸の中に残るコインは最後の1枚。
それを失えば自分は消える。
……それを恐れればこそ、賭けることに怯え続けた。
無意識の内にそれを賭けてしまわないよう、あらゆる勝負に関わらないよう、逃げ続けた。
でも、ポーカーというゲームがそうであるように。…降りることでも失うコインがある。
彼女は最後のコインを失うまいとして、……その最後の一枚を緩慢に失おうとしていたのだ。
そして、…彼女はもうひとつ知らないことがあった。……いや、それは私も知らなかった。
賭けるコインが多ければ多いほど、……私たちのしているゲームは、勝率が上がるというのだ。
つまり、私たちが怯えれば怯えるほどに、目の前のゲームはいつも負け続けるというのだ。
御神輿担ぎだってそうじゃないか。
あんなに重いものを個人が持ち上げることなど不可能だ。
だが、大勢の人たちが力を合わせた時、それは信じられないほど軽々と上がる。
重くて持ち上げられないのと、軽々と持ち上がるの境目はきっとあまりにはっきりしている。
天秤の均衡が、わずかの重さで決壊するのと同じに違いない。
目の前にある大きく重い御神輿が、どうしても担ぎ上げられない。
みんなが懸命にそれを担ごうとしているが、それが出来ない。
私はそれを見て、どうせ担げないからと手伝おうとしない。
勝てないゲームだからと参加しようとしない。コインを賭けようとしない。
……そう。それは間違っているのだ。
私が担ぐのに加わることで、御神輿は軽々と持ち上がるかもしれないのだ。
私は永いこと傍観者を気取ってきた。目の前の出来事が乗るか反るか、賭けるに値するか、それを眺めるだけの存在だと誤解してきた。違うのだ! 私は傍観者なんかじゃないし、そうであってはならない。自らも参加すべきなのだ!
目の前のゲームは、一見勝てない勝負だ。
一見それは賭けるに値しない。
だが、それに賭けることで、加わることで、信じることで、勝敗は変わるかもしれないのだ!
何かに賭けるということは、何かを信じるということ。
何かを信じるということは、何かに関わるということ。
何かに関わるということは、いるということ。
だから彼女は今こそ、“いた”。
「はい皆さん、朝のホームルームを始めますよ!! おしゃべりはおしまいです! 委員長、号令!」
「きりーーーーーーーーーーつ! 礼!」
「「「おはよーございまーーす!」」
「着席〜!」
ガタガタガタガタ。
いつもの朝だった。
少しだけ違ったのは、始まるのがほんの少し遅れたことだ。
時間に几帳面な知恵先生は、いつも決まった時間びったりに教室にやって来るのだが、今日は珍しくほんの少し遅れた。
ホームルームが遅れる理由。その噂は先生が来る前から教室内で飛び交っていた。
先生が、どうぞと廊下に声をかけると、おずおずと1人の少女が顔を覗かせた。
「…………ぁぅぁぅぁぅ…。」
「新しい転校生の古手羽入さんです。今日から皆さんと一緒にお勉強することになりました。」
歓迎と喜びと驚きと、そういうのをごっちゃにした声が教室中から上がった。
「古手? あれ、梨花ちゃんの親戚なの?!」
「……そうなのですよ。ボクの遠縁の親戚なのです。」
「もー、私もびっくりでございますのよ?! 梨花に親戚がいたなんて知りませんでしたわ。」
「いやいや、おじさんも知らなかったよー!/
まぁ、御三家筋は結構、ややこしいからねぇ。私の知らない遠戚がいたとしても、あり得ないことじゃないよ。」
「でもやっぱり梨花ちゃんの親戚だよね!/
はぅ〜、かぁいいよ〜!!」
「………ぁぅぁぅぁぅ…。」
妙に盛り上がるクラスメートたち。
その盛り上がりに、新しい転校生はちょっと押され気味なようだった。
梨花ちゃんって、結構、飄々としていてマイペースなところがあるんだが、この羽入って子はそれとは正反対のように感じられる。
内気と言おうか、小動物系と言おうか。
……早い話がレナの食指が動きまくりのタイプだ。
…ほら見てみろ。レナのやつ、丸飲みしてお持ち帰りしようとしているぞ…。
「では羽入さん、自己紹介をしてください。皆さんは静かに聞くように! はい、それでは羽入さん、どうぞ。」
先生が壇上を譲り、真ん中へ来るよう促す。
シンと静まるとかえってプレッシャーを感じるらしく、しばらくの間、おどおどしていた。
…まぁ気持ちはわかる。こういうのって緊張するもんだよな。
「……み〜! ボクの親戚なのですよ。みんな仲良くしてあげてほしいです。」
彼女が緊張して自己紹介できないことは、梨花ちゃんが一番よくわかっているようだった。
そうだよな。沈黙でプレッシャーを与えるなんて気の毒だぜ。
だから、俺たちはさっそく賑やかにしてやることにした。
「梨花ちゃんと同じ古手さんなんだね〜。はぅ、古手さんが2人になっちゃった。」
「なら、羽入さんでいいじゃありませんの。古手さんって呼んだら、梨花も振り返ってしまいましてよ?」
下の名前で気安く呼び合うのが俺たちのルールだ。
彼女も今日から俺たちの仲間なんだからな、そのルールに混ぜてやるべきだ。
「なら決まりだね!/
今日からあんたのことは羽入って呼ぶよ! 私はクラス委員長の園崎魅音! 魅音でいいからねー!」
「をっほっほっほ!! 北条沙都子でございますわよ? よろしくですわよ羽入さん!」
「あ、あの! 富田大樹です! 豆腐屋なんで、よかったら来てください!」
「お、お、岡村傑です! 何かわからないことがあったら聞いてください…!」
「こんにちは〜! 仲良くしようね! 何年生?」
我先に挙手しては先を争っての自己紹介が続く。
少しでも早く自分の名前を覚えてもらって、新しい友達になってもらいたいという微笑ましい空気が教室に充満していた。
俺もついこの間、転校してきたばかりなんだが、俺の時もこんな感じで実に和やかだった。
緊張しまくっている俺にとって、とてもありがたかったのを思い出す。
転校生の緊張感は、転校してきたばかりの俺が一番よくわかっているはずだ。
俺も少しは気を遣ってやらないとな!
「そうだね。早くクラスに馴染めるようにしてあげないとね。」
「そっか、レナも去年は転校生だったんだよな確か。レナも転校してきたときは緊張したか?」
「うん。でも、魅ぃちゃんたちがすごく親切にしてくれたから、すぐに馴染めたんだよ。」
「まぁね! ニューカマーを迎えるのも御三家の大切な仕事だからねぇ。」
「都合のいい時だけ御三家になるなお前は。でも、魅音なんかに世話になって馴染めたってのは確かにそうだ。」
「なら、今度は圭ちゃんたちがお世話をする番、ってことになるんじゃないかな?」
「そうだな! レナだって転校生だったのに、その次に来た俺に世話をしてくれたもんな。なら、今度は俺が新しい転校生に親切にする番ってことだな!」
転校生がひとり来るだけで、こんなにも教室の雰囲気が変わるもんなんだな。何しろ、俺の心構えまで変わった気がする。
俺たちは、さっそく昼休みに羽入を取り囲んでやることにした。
「はーい!! それでは羽入への質問は1人一個ずつだからねー!!/
彼女の本質に迫るディープな質問をズバリ行ってみよう〜! さーさー一番は誰〜?! よーし、岡村!」
「え、え、え、え〜と! あの…、好きな食べ物は何ですか?!」
「…ぁぅ、甘いお菓子はみんな大好きなのです。一番好きなのはシュークリームなのですよ。」
「あぁら、それは素敵ですわね!! 私も大好物でしてよー! 興宮においしい洋菓子のお店があるんですの。今度案内してさしあげましてよ。」
「はいはい、男共聞こえたね〜?! 羽入の好意値を稼ぐにはシュークリームだよ〜! 安いやつより、高級店の高くて美味しいやつが効果的!/
さぁ次の質問は誰かなぁ?! ないならおじさんが今日の下着の色とか聞いちゃうよ〜?!」
「……ぁぅぁぅぁぅ!」
みんなから色々と質問攻めにされてうろたえる羽入。
まぁ転校生の通過儀礼みたいなもんだよな。
俺も転校してきた当日がこうだったことを思い出す。
魅音と沙都子が面白おかしく絡むのも、俺の時と同じだ。
レナを見てみると感慨深そうな顔をしている。きっとレナの時もそうだったに違いなかった。
「レナも転校してきた時を思い出してるのか?」
「……え? ……あ、うん。/
あははは。」
「他のことを考えてたなぁ? 羽入をお持ち帰りする算段でもしてるんだろう。」
「は、はぅ?! そんなこと考えてないよぅ〜!! 羽入ちゃんがシュークリームが大好きなこととか、レナの家においしいシュークリームがあるんだよ、食べにおいで〜とか全然考えてないんだよ〜ぅ?!/
はぅ〜!! お持ち帰り〜!!」
「あははははははは、明日からいきなり不登校になったら、こりゃレナのせいに違いないなー!」
「はぅ、そんなのひどいよ〜。あははははは。」
羽入とクラスメートの微笑ましい交流を見て、俺とレナは笑い合った。
「……ねぇ圭一くん。…何だか、うれしいね。」
「嬉しいよな。新しいクラスメートを迎えるのは。」
「えっと、
「羽入をか? 引っ越し前の下見とかで来た時とかかな? レナって記憶力いいなぁ。」
「……うぅん…、そういうのじゃなくて…。………羽入ちゃんはもっと前から居て、…私たちのすぐ近くで、私たちが遊んでるのをずっと見てた気がするの。……ずーっと。/
……あれ? 私だけ? 圭一くんも気付いてたよね?」
「……いや、俺は全然見たことはないんだが。レナは面識があるってことなのか?」
魅音や沙都子の様子を見る限り、羽入はまったくの初対面のように見えた。
レナの言うように、俺たちの遊んでいるすぐ近くにいたなら、誰も覚えてないなんてことはないように思うんだが。
「気のせいじゃねぇのかー? 第一、羽入は転校生なんだぜ? 村にそんなにしょっちゅういたはずないじゃないか。」
「……うーーん、…………そうかなぁ…。たまに見掛けたような気がするんだけどなぁ……。」
「気のせい気のせい。羽入だってついさっき、転校前は遠くに住んでたって言ってたじゃないか。」
「……うーーん…。……でもレナは見たんだけどなぁ……。……はぅ。」
レナは諦め悪く、おぼろげな記憶を辿っているようだった。
多分、既視感というやつだろう。
初めて見るはずのものなのに、過去にすでに見ていたように感じることがあるという、あれのことだ。
「別にどうでもいいだろ。今はここにいるんだからさ。」
「そうなんだよね。うん。……あんなにも私たちの輪の中に入りたそうにしていたから、………仲間に加われて良かったね、って。…あははははは。」
なぜかレナは少し涙ぐむように微笑んでいた。
ふと見ると、…梨花ちゃんもレナと同じ表情を浮かべている。
…俺にはどうして二人がそんな表情を浮かべるのかわからない。
そんなささやかな疑問は、沙都子に絡まれて大騒ぎになるとすぐに薄れるのだった…。
「「「さよーーならぁーーー!!」」」
学校で一日の中でしゃべる言葉の中で、これほど気持ちのいいものはないだろう。
授業から開放された途端、教室からクラスメートたちがどどどっと溢れ出すのだった。
羽入はクラス中にモテまくりの一日だった。
年齢が梨花ちゃんたちくらいということもあって、低学年の子たちにずっと囲まれていて、俺や魅音のような上級生はなかなか接触を持てなかった。
「ま〜、クラスとしてはさ、強面の上級生が転校してくるよりは、自分たちと同い年くらいの可愛い転校生の方が嬉しいだろうしねぇ〜。」
「あははは。圭一くん、最初の頃は緊張してたのか、何だか怖そうな顔をしてたもんね。」
「おいおい、そりゃひどいぜ?! 俺だって、クラスに早く馴染もうとフレンドリーに接してたってのによー!」
「どこがフレンドリーでございましたの! 私、転校してきて早々に、いきなり圭一さんにデコピンを食らってますのよー?!」
「それは転校初日の、教室デビューの出鼻をトラップで挫かれたからだろーがー!! しかも椅子の背には画鋲で机の中にはカエルまで入ってたぞ!」
「……転校生が職員室にいると聞いて、様子を見に行った時、圭一がとても緊張してるように見えたのです。だから沙都子が、緊張を解してやろうと思ったに違いないのです。」
「をっほっほっほ! 雛見沢の先輩として、気を利かせてさしあげたんでしてよ?」
「ちぇー! 絶対それだけはありえねぇなー!」
…とは言いつつも。俺にとってあの黒板消しトラップは、緊張を解きほぐす力があったのは事実だ。
しかしそれを認めると沙都子がつけ上がる。だから断じて認めん。
「羽入ちゃんはみんなと帰ったね。放課後は誰と遊ぶか、今頃、引っ張りだこなんじゃないかな。」
「あははは。でもやっぱり初日は疲れるもんだよな。きっと帰ったらバタンキュウだぜ。」
「違いありませんわね。をっほっほっほ!」
「さてさて皆の衆〜!! このところ私のバイトのせいでだいぶ長いことご無沙汰だったねぇ!
部活メンバーの招集だぁあぁ!!」/
「待ちかねてましてよー!! ご無沙汰が過ぎると鈍ってしまいましてよ!」
「……みー! 誰かの罰ゲームをかわいそかわいそしないと、ボクも退屈してしまいますです。」
「はぅ〜! レナは負けないんだよ。久しぶりだから手加減なんかしないんだよ〜!」
「くっくっくっく! どうやらみんな、欲求不満でだいぶエネルギーを持て余してたようだねぇ…! そうでなくっちゃ、おじさんも叩き潰す甲斐がないってもんだよ!!」
「へへ! やる気満々みたいじゃねぇか。だがな、生憎、俺の今日の調子は絶好調だ!! しくじったな魅音、今日もバイトに行ってた方が良かったと後悔することになるぜ!!」
魅音の叔父さんの店で人不足があったらしく、ここしばらくの間、魅音はずっとバイトに引っ張りだこだったのだ。だから久しぶりの部活になる。
なにしろ、俺たち部活メンバーにとっては、学校に来る最大の目的は部活なんだからな!
ある意味、放課後になってからが本番ってわけだ。で、その部活がなしってんじゃ、まるで学校の意味がない。
そんなわけで、久しぶりの部活に、メンバーは全員、興奮を抑えきれないようだった。
「こりゃあ、生半可なゲームじゃあみんなの乾きを癒せそうにないねぇ…。くっくっく! 何のゲームで料理してやろうかねぇ…!!」
魅音が部活ロッカーを漁り出す。
…いつも思うが、あの中には何がどれだけ詰まってるんだろうな。絶対、ロッカー内の容積よりも詰まってると思う。
その時、ガラリと教室の扉が開く音がした。
「……あれ? 羽入ちゃん?」
;<レナ
「………ぁぅ、
「あら、どうなさいましたの? 忘れ物でございますの?」
とっくに帰ったと思った羽入だった。
弁当箱でも忘れてしまったのだろうか。
教科書は忘れても何とかなるが、弁当箱はまずいもんな。
「…あぅぁぅぁぅぁぅ……。」
「ん? 羽入、どうしたの? 何か捜し物?」
俺たちの方を、何だか申し訳なさそうに見ている。
……何だろう。
俺たちのいる場所が何か邪魔なのだろうか。
用があるならさっさと済ませばいいものを、なぜかおどおど、おずおずと、俺たちの方をじっと見ているのだ。
あれ? ひょっとして俺たちが座ってる席って、羽入の席だっけ? いや、違うしな。
「どうしたの、羽入ちゃん…? 何か困り事かな、かな?」
「……ぁぅぁぅぁぅ……。」
レナが話し掛けるが、コミュニケーションが成立していない。
まるで捨て猫と会話しているような感じだ。……何なんだ一体?
羽入がじっと見ている。
……視線の先に何があるんだろうと思ったら、それは梨花ちゃんだった。
…羽入は、申し訳なさそうにしながら、梨花ちゃんをじっと見ていたのだ。
「……みー。」
「…ぁぅぁぅぁぅ…。」
「……ボクは何も言いませんです。羽入がそうしたいなら、自分のお口で言うとよいのです。」
「………ぁぅぁぅぁぅ…。」
ようやく状況が掴めてきた。
羽入は何かを伝えたいのだが、それをうまく言葉にできないので、梨花ちゃんに代弁してもらいたがっているのだ。
ところが梨花ちゃんは、それは自分の口から言えと突っぱねているらしい。
となれば、羽入が一体、何を言おうとしているのか、聞かなければならない。
みんなでじっと、羽入が何を言い出すのかと待つ。
……だが、よくよく考えてみれば、羽入がこういう沈黙をとても苦手とするのは、朝の自己紹介からわかっている。
レナもすぐにそれを察して、やさしく話し掛けた。
「どうしたの羽入ちゃん。レナにこっそり話して? 相談に乗ってあげるよ…?」
「……ぁぅぁぅ…。」
「ん? 何? もう一回言って?」
「……ぁぅぁぅぁぅぁぅ。」
「うんうん。/
………って、
レナが素っ頓狂な声を上げて驚く。
「何よ、おじさんにも教えてよ。何なのよ一体。」
「えっとあの、……本当にいいの?!」
「どうしたんでございますの。もごもご言われては気持ちよくありませんでしてよ。」
「えっとね、その…!」
「……ぼ、………僕も部活に混ぜてもらいたいのです………!」
羽入は恥ずかしさをこらえるような感じで、吹っ切るような大声でそう言った。
「は、ははははははは!! こりゃまた驚いた…! どこで誰におじさんたちのことを聞いたやら。」
「あぅあぅあぅ…! 僕も入れてほしいのです…。僕も部活に混ぜてほしいなのです…。」
「……よく自分で言えましたです。ぱちぱちぱち☆」
梨花ちゃんは、羽入が部活に加わりたいのを最初から知っていたようだった。
魅音はニヤリと笑い腕組みをすると、値踏みをするように睨み付け、不必要に羽入を萎縮させる。
「…ふぅ〜〜ん、
「あ、あのね羽入ちゃん…。魅ぃちゃんの部活は見てる分にはとっても楽しいかもしれないけど…。その、…はぅ、大変なんだよ?」
「……ぁぅ、覚悟の上なのです…。」
「勝って当然。負けたらとんでもないことになってしまいますのよ? その覚悟はおありですこと?!」
「……ぁぅ、僕も負けないのですよ…。…そ、それに……、」
そこで羽入はぐっと息を呑んで、一番言いたかったに違いないことを言った。
それは彼女にしてはとても饒舌で、…そして何か深い意味を感じさせる内容だった。
「かつての僕は、負けるのが嫌で全ての勝負から逃げていましたのです…。でも、…逃げることは負けることにすら劣ること…。負ける痛みに挫けず戦い続けて初めて、勝ちを得られるのだと、
「……羽入。」
見掛けは内気そうだが、…羽入にも一丁前の度胸があることがわかると、魅音はとても嬉しそうにニヤリと笑うのだった。気に入ったに違いない。
「へー。なかなかどうして大した根性じゃないかよ! どうだよ魅音、せっかくだから試してやったらいいじゃねぇかよ。入部試験!」
「うう〜ん、
やたらとねちっこくもったいぶる魅音だが、値踏みして遊んでいるだけだ。
本当に混ぜるつもりがなければさっさと門前払いにしている。
実際、この程度でおたおたするようじゃ、とっても我が部ではやっていけないだろうからなぁ。
「レナと沙都子が今、話したと思うけど。うちの部は厳しいよ! 勝って当然。狙うは一位のみ。間違って最下位になった日にゃ、生まれてきたことを後悔するような大変な目に遭わされるんだよ?!」
「………あぅあぅあぅ! でも僕もがんばるのです…。」
「あはははは。でも、罰ゲームだってとっても楽しいんだよ。」
羽入ちゃんだって、ずっとずっと見てたんだもんね。
…ずっとずっと、みんなの輪に加わりたいと思って、見ていたんだもんね。
…そうレナが囁いたような気がした。
「魅音、もったいぶらないで試してやればいいじゃねぇかよ。俺だって、そいつを潜って入部を許可されたはずだぜ?」
「そうですわよ。ひとつ、羽入さんの腕っ節を見てやろうじゃありませんの!」
「あはは、羽入ちゃん、がんばろ! レナは手加減しないからね!」
「…ぼぼ、僕だって手加減しないのです…!」
「……ボクは羽入にだけ手加減しないのです。」
「…あぅあぅあぅあぅ!」
「よぅし気に入ったぁ!! 古手羽入、あんたに我が部の入部試験を許可するッ!!/
となりゃあ話は変わるね! 羽入にもわかるゲームにしてあげないとねぇ……。ん〜〜、どれがいいかな?/
……お、
魅音が大袈裟なアクションを繰り出しながら机の真ん中に叩きつけたのはトランプのケースだった。ってことは……つまりあれだな?!
「誰でもわかるゲームで行こう!! トランプのジジ抜きはどうかなぁ?!」
「……ぁぅ、の、望むところなのです…!」
ガン牌トランプだ!!
「をっほっほっほ! なかなか威勢のいい返事でございますわね! でも……、我が部のジジ抜きはひと味違いましてよ〜?」
何しろ、ほとんどのカードの裏には傷がついてるので、その傷を暗記することでカードの裏を見破ることができる。
つまり、このトランプで遊んだ年季がそのまま強さに跳ね返る、新人イジメとしてはこの上ないゲームなのだ…!
「は、羽入ちゃん、がんばってね…。これは試練なんだよ…、
「……ファイト、お〜なのです。」
懐かしいな。俺もこの入部試験を潜ったんだ。
ついこの間のことのはずなんだが、妙に感慨深くなってしまうぜ。
「だが! それと手加減は別の次元だぜ。あの時、みんなが手加減なしで全力で俺を叩き潰してくれたように!! 俺も全力で叩き潰してやるからな! なぁみんな!!」
「お覚悟なさいませですわよー、羽入さん!!!」
「さぁさぁ!! 部活メンバーの末席を望むなら、それに相応しいかを自ら示してみなッ!!!」
「……は、はいなのです…!!」
「くっくっく! その手札を右から言うよー?!
3、/
4、/
7、/
J、/
Q!!」/
「今更、手で隠したって見え見えですわよー!!」/
「あぅあぅあぅあぅ!!」/
「ごめんね羽入ちゃん、これがスペードのAだよね…?/
あっがりぃ!」/
「うわはははは、思い知ったか羽入ぅん!!/
入部試験の洗礼を思い知れぇえ!!」/
「……みー。圭一は自分の入部試験の恨みが混じりまくりなのです。」
「ほらほら圭ちゃん、そんなこと言ってていいの〜?/
羽入、圭ちゃんの右のカードで上がれるよ〜。」
「……ぁぅ! あがりましたのです!」
「おわあああ、きったねえぇええぇ!! こうなりゃ本気モードで行くぜ! よくもこの俺を怒らせたなぁあぁ!/
羽入、お前、初日の下校からいきなり尻尾付きブルマの首輪付き四つん這いで帰宅したいのかあぁあ!!」/
「あらあら!/
それはむしろ圭一さんにこそ似合いましてよー!!」
「はぅ〜、いいねいいね!!/
それをレナがお持ち帰りぃいいぃ!!」/
「ぼ、僕も圭一に恥ずかしい罰ゲームをしてやりますのです…!」
「くっくっく! いい提案だね、おじさんはそいつに乗るよ!!」
「なな、何でいつの間にか俺包囲網が完成してるんだよ!! 上等だー!!てめえら全員、四つん這いで下校させてやるぜええぇえ…!!」/
ズギャーン、ドカーン、ドコーン。
「…ハイ、バンケットより後方〜! スピーチあと1人で乾杯に入ります。準備できてるねー?!」
「後方OKですー。内部、全然聞こえないんでスピーチが終わるタイミングでコールをお願いしますー!」
「いいかい、各卓にビールは10本ずつだよ! ちゃんと自分の縄張りにスムーズに運んでね!」
蝶ネクタイをすっきりと着こなした若いホテル従業員たちが、ビールケースから次々とビール瓶を抜き出し、乾杯の準備に備えていた。
とても広い会場内には、純白のテーブルクロスをかけられた白いテーブルが何十と並んでいた。
それらのテーブルには8人近くが座っているのだから、この空間に数百人にも及ぶ人間がひしめいていることになる。それは大変な熱気だった。
テーブルの上にはラップをかけた色とりどりの料理皿が並ぶ。
寿司や刺身舟、美しい果物皿。
また、壁際には料理人たちがまな板を並べ、新鮮な刺身を振る舞う準備をしていた。
そんなテーブルにつく客人たちは、いずれも身なりの良い老紳士たちで、にじみ出す雰囲気から、それぞれが各界で知られた名士であろうことをうかがわせる。
そして、天井にぶら下がる巨大で美しいシャンデリアの迫力は、そんな賓客たちを迎えるに充分な格がこのホテルに備わっていることを無言で物語っていた。
壇上では、乾杯前のスピーチにしてはあまりに長い大演説を、威厳ある老紳士がまくし立てていた。
普通、この手の大演説は嫌われる。
乾杯の直前ならなおさらだ。
だが、客人たちは、時にそうだそうだと叫び、時には大きな拍手がわき、熱気で盛り上がっていた。
熱気、というのは好意的な言い方かもしれない。
異様な盛り上がり方、と言う方が恐らく言い得ているだろう。
「大体ですね、日本は無条件降伏を受け入れ、その受託をした日に太平洋戦争は終了したのです。つまり、戦後処理だの撤兵だのがそれからあるにせよ、国際法的にはその日で戦争は終わり、戦時は終わって平時に戻ったのです! ですから、その平時に軍隊を進め日本の国土を侵したならこれはあなた、侵略ですよ、戦争ですよ?! ソ連が如何に煙に巻こうとも、北方四島は日本の領土であり、ソ連による不法占領は明白なのでありますッ!!」
「「「そうだそうだッ!!」」
「二島返還で決着? 馬鹿言っちゃいけない! いいですか、歯舞、色丹、国後、択捉は日本の領土なんです。それらの総面積は1つの県にも匹敵する。ソ連軍が攻めて来て、県が1つ占領されたらどう思いますか?! 県の半分を返還して決着? 違うでしょう、全部返還して当然でしょう!! ところがソ連はしゃあしゃあと居座り既得権を主張している! 冗談じゃない!! 断固徹底抗戦です!! 北方四島は全て一括返還!! この一点で我が国は揺ぎ無い決意を持たなければならないのであります!!」
万雷の拍手が会場に溢れ出した。
会場の老紳士たちは口々に肯定を連呼し、自らが同じ思いであることをアピールし合っていた。
そんな熱気の中、壁際に控える2人だけは冷静で、この会場内ではむしろ浮いて見えた。
ぱりっとスーツを着こなす2人は、若者と呼ぶには年季の入った顔つきだったが、会場内の老紳士たちに比べれば、青二才程度の年齢だったに違いない。
「……どうして政治家って、こう右翼化というか、愛国主義というか、…こう、偏るんでしょうね…?」
「簡単なことさ。政治家が一番ほしいのは票だ。票は有権者が投じる。だが二十歳以上が全員投票するわけじゃない。投票率のほとんどは退職して時間にゆとりがあり、その分、政治に関心の高い高齢者が占めている。」
「……となれば、高齢者層をいかに取り込むか、というのが選挙のポイントになるわけですね。」
「戦争があったのは、つい40年前なんだ。つまり、投票に熱心な高齢者層は全て戦前世代ということになる。」
「うちのお袋、よく空襲の話をします。昔は水道橋の辺りに住んでて、空襲で家族を全員失って、焼け野原をひとり彷徨った…なんて話をいつも。」
「そうさ。俺たちの親世代は全員、あの戦争を潜ってる。お国のためと信じ、血を流して苦労を強いられてきたんだ。敗戦したが、あの戦争で何かを変えられたからこそ、今の平和を築く礎になったと信じてる。」
「あー、よく言ってますね。もし日本が戦争を起こさなかったら、アジアは今でも白人の植民地だったとか何とか。…勝てない戦争だったが、必要な戦争だった、みたいなことを今でも言ってますよ。」
「となれば、いくら戦後は平和主義を訴えようとも、戦前日本を蔑ろにして高齢者の票が取れるわけがない。戦争はよくない、二度としてはいけない。でも、あの戦争は必要不可欠だった。そう言わなきゃ、彼らの人生の否定になる。」
「…なるほど。政治家も票を取るのに大変なんですね。」
「そういう主義主張も、本心でしてるなら一意見の主張として立派だと思う。だが、彼らの票が欲しくて、表向きだけ調子を合わせてる卑劣な政治家もいる。そういう、戦前の亡霊たちのご機嫌を取って、彼らのおこぼれを預かろうという者が後を絶たない限り、この国の戦後は永遠に終わらないのさ。」
「そうして、戦後の亡霊の遺志は次の世代に受け継がれ、多分、千年経っても相変わらず、20世紀初頭の戦争について、選挙の度に正義だった遺憾だったと繰り返すんでしょうね。その連鎖から、我が国はいつになったら解放されるんです?」
「簡単さ。若者がちゃんと選挙に行け。そして戦争の話で誤魔化さず、ちゃんと政策を考えてるヤツに投票しろ。実現可能な政策だぞ?」
「あぁ、いますね。明らかに実現不可能な公約を掲げてる候補者っています、はははは。あ、
「あのご婦人だな。…行くぞ。」
壇上の挨拶が終わり、老紳士たちは皆、立ち上がって拍手を送っていた。
その中をぬうように2人が、着物姿の老婦人に近付いていった。
「はい? 私ですけれども、どちら様です?」
「…昨日、お電話で約束させていただきました者です。赤坂と申します。」
「………うっうっ…!! ううぅっ! ひっく!! 主人はね、ずっとずっと日本のためにと、身を粉にして働いてきたんですのよ…!! それなのに……、それなのに……!」
「奥さんの胸中、深くお察しします。」
…よくある話だった。
献金があった、なかった、記憶にない。
それでは話にならぬと証人喚問になり一部の政治家連中が追い詰められた。
その結果、悪巧みの得意な連中が口裏を合わせ、すでに政界から引退していた、とある病弱な老人に全てをなすり付けたのだ。余命はわずからしい。極めて好都合だった。
トカゲの尻尾にされた老人はすでに病床にあり、かつては弟分でもあった同僚たちに裏切られたショックも重なって、すでに生きる気力は失っているらしかった。
それを間近で見る婦人は、無念この上なかったに違いない。
婦人は、夫のかつての功績を繰り返し口にし、それに対する仕打ちがこれなのかと泣き続けていた。
「ご主人の無実が間違いなければ、必ずや裁判官は正義の判決を下すでしょう。大丈夫です。濡れ衣は必ず晴らせます。」
「………そんなのはわかっています…! だって無実なんですから…!! でもね、判決が出るまで主人は持たないんです…! お国のためにとあれだけ働いてきて…、こんな気持ちで死ねなんてあんまりじゃないですか…。あれじゃあ、死んでも死にきれません…!!」
赤坂は小さく頷き、同情する言葉を慎重に選んでいた。
…その後では、赤坂の後輩が分厚い書類束を漁っている。
書類は細やかな字がびっしりと書き込まれ、何が書かれているのか、一見ではわからない。
だが、それを見る彼の興奮した眼差しから、ただならぬ重要なことが書かれていることだけは想像できた。
「……赤坂さん、こいつはすごい資料です。金の動きが完全に網羅されてます…。」
今この場で書類を漁るのは不謹慎だと、赤坂は身振りで注意した。
「奥さん…。この他には書類束のようなものはありませんね?」
「……えぇ。主人の金庫に入っていた文書はそれで全てです。…どうかそれで、……恩知らずな連中に一泡吹かせてやってください……!! あれだけ主人に世話になっておきながら……! ううぅッ!!」
「………奥さん。この文書の内容には、一部、ご主人にとって不利益な内容も含まれていますが、それはご存じですね…?」
「えぇ…、それはわかっています。政治はね、綺麗事だけじゃないんです…! 私だって政治家の妻ですのよ…。」
「ご協力を感謝します。この書類は必ず、巨大な不正を暴くために使用します。」
「………ひとつだけ…。ひとつだけよろしいですか…。それを公表するのは、主人が亡くなるまで待ってもらえませんか…。」
本来、赤坂たちが手にしている書類束は、彼女の夫が彼岸まで持って行かなくてはならないものだ。
そして、書類の形でこの世に存在していてはならないものでもある…。
この書類を外部へ公開するだけでも、彼女の夫の名誉はある程度、汚されてしまうのだ。
赤坂はそれを理解し、小さく頷いて答えた。
「わかりました。誓ってお約束します。」
霞ヶ関から動く巨額の公金。それらは国家の施策のため、下部組織へ交付されてゆく。
だが、その中に様々な思惑が入り込み、うまい汁を吸おうと、その公金にストローを突き刺して、蚊のように啜る連中が後を絶たなかった。
自分に利する組織への利益誘導や手厚い保護、過剰な配当。
…それを得るために政治家や役人に近付く財界人たちの接近、癒着。
それにどこまでも甘える官僚たち。日本の腐敗の構造だった。
そんな利益誘導の不正なパイプが何本も何本も霞ヶ関からバイパスし、公金を零し続けていた。
そのパイプを見つけて潰すことは国益につながるはずである。
…だが、不正な支出が減らせて良かった良かった…では必ず済まないのだ。
必ず、パイプに携わった人間への追求が起こり、大きな政変が起こる。
政治の闇が、こういった不正支出を追求しない最大の理由は、既得権益を守るだけでなく、波及する政治的打撃を意識していることも少なくない。
早い話が、膿みを出す痛みに政府が耐えられないということなのだ。
暴かれた病巣が中枢に近ければ近いだけ大きな痛みとなって政府を襲い、それは内閣支持率に跳ね返る。
…病巣が中枢に近ければ近いほど、心臓は膨大なダメージを受けるのだ。
赤坂たちが今回、極秘捜査している病巣は、心臓に限りなく近く、政権のショック死すら考えられるものだった。
七帝大出身者で構成され、各界要人が多数在籍する某同窓会組織をバックに、莫大な公金漏出が行われているとの情報が寄せられ、長い間、赤坂たちは内偵を続けてきたのである。
敵の結束は固かったが、組織長老の1人がトカゲの尻尾切りに遭ったことに婦人が強い不満を持っているとの情報を得て、接触に成功。
見事に重要情報の入手に成功したのだった…。
「みんなご苦労さん! だいぶ外堀が埋まってきたようだね。特に赤坂君が入手した資料は相当ショッキングなものだよ。ずいぶん苦労したでしょ、お疲れさん!」
「いえ。」
狭い会議室内には所狭しと書類箱が積まれ、汚れたホワイトボードにはびっしりと細かな字が埋められていた。
そんな中、捜査官たち数人が、紫煙の立ちこめた狭い会議室内で、膨大な量の資料を睨んでいる。
男たちからはベテランだけが醸し出せるある種の凄みが感じられ、ここにいる男たちが最前線で戦う、経験豊富な中堅捜査官であることは明白だった。
そんな席の中に、違和感なく溶け込む赤坂の姿があった。
赤坂衛が現部署へ配属されてすでに短くない年数が経過している。
かつて「犬飼大臣孫誘拐事件」の時には、まだ未熟さが感じられるルーキーだった彼も、荒波に揉まれ、幾多の修羅場を潜り、逞しい一線の捜査官に成長していた。
ノックがあってから、上司の風格を感じさせる年配の男が入ってきた。
ややだらしなく座っていた彼らは一斉に姿勢を正した。
「室長! お疲れ様です!」
「お疲れさん! 立たなくていい、楽にしてくれ。諸君に今日は素晴らしいプレゼントを持ってきたぞ。嘉納、お前を息子の授業参観に行かせてやる。」
会議室内に呆れと諦めの入り交じったため息が流れた。
…息子の授業参観に行かされるのが嫌だから、なんて理由のわけはない。
「やっぱりなぁ……。そろそろ頃合いだと思ってたんですよ。…クソ!」
赤坂の後輩が愚痴る。
強力な資料を得て、一気に核心に斬り込める足場を得たところだったのに…。
だが、赤坂はそれほど動揺してはいなかった。
過去にも何度かあったことだし、資料の内容のヤバさから十分、想像できることだった。
本件の捜査は、突然、別の部門に移管されることとなった。
つまり、この捜査はここでおしまい、ということである。
移管先が引き続き不正を暴くことになるのだが、…暴かれた試しは一度たりともない。
移管というのは表向き。つまりこれは、天から圧力が掛かり、捜査中止になったということなのだから。
「くそったれ! 私たちが今日まで捜査してきたのは何のためだったんでしょうかね。」
「……膿を出す痛みがどの程度か測るためだろうな。その結果、痛みに耐えられない規模だということがわかり、荒療治を断念した、ってことだろう。」
その意味では、彼らの仕事は決して無駄だったわけではない。
彼らの仕事ゆえに、この中止が決まったのだ。
赤坂はそれを理解していたが、後輩はそれを理解するにはまだ少々、年季が足りないようだった。
無論、赤坂の正義心はこんな中止を喜びたいはずもない。
不正を暴き、それを摘出することに躊躇する上層部に苛立ちを覚えないはずはなかった。
…だが、それを口に出して苛立つほど、彼はもう若造ではなかったということだ。
「資料の整理と引き継ぎについては、今後向こうと調整していく。とりあえず、みんな長く休んでないだろう。5時を待たなくていいぞ、引き上げて体を休めてくれ。残務整理は明日話し合い、あと振り替え休暇の消化をしよう。ちゃんと消化してかみさん孝行しろよ! 主査は俺と来てくれ。以上だ!」
「「うおっす!!」」
こうして、長かった秘密捜査は実に後味の悪い形で終わりを告げ、赤坂は次なるキナ臭い仕事が訪れるまで休暇を得ることになるのだった。
「…じゃあ、室長のお言葉に甘えますかね。みんな、今日は早く帰って休みなー。」
「こーゆう時、早帰りすると不倫の現場に出くわしたりしちゃうんですよね〜!」
「馬鹿だな、お前知らないだろ。赤坂さんとこは熱愛夫婦だぞ? 毎晩、別棟の公衆電話からラブコール掛けてるの知らないのかよ。」
「赤坂んところはいいよなぁ。うちの女房なんて、そりゃあ素っ気ないもんだよ。たははは。」
赤坂は適当に苦笑いを返しながら、手元の資料を揃える。
…その時、はらりと書類が1枚こぼれ、床に落ちた。膨大な不正支出の資料の1ページだった。
防衛庁内に設けられた、次世代戦略研究会、通称アルファベットプロジェクトと称するものの不正支出を暴いたものだった。
このプロジェクトそのものが不正支出のトンネルのために作られたものである可能性が高い…。
その1枚を拾った赤坂は、そこにひしめく文字の中に、引っかかるものを感じた。
それを拾い上げてまじまじと見、
この資料は公金の零れ先の一覧だ。
老いてなお金銭欲旺盛な官僚OBたちが巣くう天下り先の一覧でもある。
………そんな連中と赤坂に縁があろうはずがない。にも関わらず、たったひとつ、そこだけが記憶に引っかかった。
……………………。
口に出した瞬間、記憶がぶわっと蘇った…。
そう。入江診療所だ。
かつて「犬飼大臣孫誘拐事件」で、雛見沢を訪れた時、誘拐犯たちと乱闘になり、負傷して診療所に担ぎ込まれたのだ。
その診療所の名前が確か、入江診療所だったはず……。
次々と溢れるようにあの日のことが思い出される。
自分が初めて潜った修羅場の経験。
それは鮮烈な記憶となって焼き付いていたようで、当時のことをありありと思い出すことができた。
娘の出産日に重なる出張で、雛見沢に行くのが非常に嫌だったっけ。
そして大石氏に出会い、とても貴重な勉強をさせてもらった。
……そうだ。そして私はあの村で、一人の少女に出会ったんだっけ。
名前は、……そう。古手梨花。そうだそうだ、思い出した。あれから何年経っただろう。彼女は今、いくつくらいになっているだろうか。
だが、愛くるしい笑顔を思い出すと同時に、彼女にされた不吉な予言のことも思い出す。
彼女は私に、東京へ帰らねば不吉なことが起こると予言した。
…その時、私はなぜか、それは少女の世迷い言などではなく、何か神懸かったものを感じたのだ。
そして、不吉な何かを考えた時、出産を控えた雪絵のことが浮かんだ。
……何か雪絵に不吉なことが起こるのではないかと。
だが、仕事を放り出して東京へ戻るわけにも行かない。
だから私はすぐに雪絵に電話したんだ。君に何かが起こる。
だから、自分が東京に戻るまで身の回りに気をつけてほしいと。
雪絵は心配性だと笑ったが、
後日、東京に帰って産後に容態の安定しない雪絵を見舞った時、私はそれを知った。
……私が電話をした日の後日。屋上へ上る階段で、タイルの剥離による転倒事故があって、清掃員が大怪我をしたと聞いたからだ。
しかも聞けば、雪絵には毎日、屋上へ散歩に行く習慣があったと言い、私からの電話を境にそれを一時、控えていたと言うのだ。
…私が電話をしなかったら、事故の原因である剥離タイルを踏んでいたのは雪絵だったかもしれない………。
つまり、……古手梨花の予言は当たっていたのだ。
根拠は何もない。でも、私は彼女の予言によって救えたと、そう信じている。
……思えば、私はあの時点ですぐに彼女に連絡を取り、雪絵を救ってくれたことを感謝すべきだったのだ。
だが、すぐに訪れた多忙な日々は、それを長いこと忘れさせてしまっていた…。
…梨花ちゃんか。
……今も変わらず元気で居て、その愛くるしい笑顔を振りまいてくれているのだろうか。
その笑顔と一緒に、
そうだ。…彼女は言っていた。
毎年、祭りの晩に誰かが殺され、……そして5年目には自分が殺されると予言していなかっただろうか…?
そうだ、確かに言っていた。
あれから5年目って、……そうだ、今年じゃないか…?
祭りの日は確か…、
記憶が正しければ……、
カレンダーを見る。昭和58年6月。
……日にちに多少の余裕があるとは言え、彼女の予言した自らの死期はすぐそこに迫っていた。
………雪絵の事故を予言できた彼女は、その後、5年続く奇怪な事件も予言していた。
それらがもしもことごとく当たっていたなら、…それはきっと今年も当たる。
大石氏は今でも興宮署にいるだろうか。
彼女の予言する事件が毎年起こっているなら、それは必ず耳に入っているはず。
……つまり、大石氏に電話を一本掛けるだけで、古手梨花が本当に殺されるのかどうかを確認できるのだ。
かつて、自分が殺されると予言した少女は最後に、死にたくないと私に呟いた。
……呟いた…?
違う。それは明白な救いの求めだ。
底の見えぬ奇怪な因習に囚われた村から逃れられない少女が、外の世界から来た私に助けを求めたのだ。
……その代償は先払いで支払われている。雪絵の事故を予言するという形で。
私は救いに駆け付けなければならない。彼女の元へ。
…………何か、万感の思いが込み上げるのを感じる。
…忘れてはいけないことを、ようやく思い出せたような、そんな気持ち。
そうだ。……私は、……雛見沢に行かなくてはならない。
私に助けを求めた少女の下へ、駆けつけなければならない。
「はい、興宮署でございます。」
「すみません、そちらの捜査課に、現在も大石蔵人氏は在籍されておりますでしょうか? もしもいらっしゃったならお願いしたいのですが。」
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「警視庁の赤坂とお伝えください。」
元気な人だったが、見掛けより高齢だった。
ひょっとすると異動しているかもしれないし、退職しているかもしれない。
…でも、もしもまだ居てくれるなら、きっと飛び切り元気な声を聞かせてくれるに違いないのだ。
…そう言えば、ずいぶん特徴的な笑い方をする人だったっけ。
「大石さん〜! 外線からお電話です。東京の警視庁からですよ。」
「東京? そりゃまた遠くから遙々どちら様ですかね。はいもしもし、大石です。………え?/
こりゃあ懐かしい! どうです、お元気にしてましたかッ!! なっはっはっは!!」
;■羽入とみんな
もう、羽入はすっかり俺たちの輪の中に馴染んでいた。
梨花ちゃんや沙都子たちに歳が近いせいか、特によく溶け込んでいるようだった。
もちろん、レナだって放置しないし、魅音だって新しい友人を放っておかない。
…以前、レナが俺に話してくれたことを思い出す。
羽入が、実は割りと近くにいて、いつも俺たちに加わりたくてじっと見ていた、という話。
……俺はやっぱり、どうしても羽入の顔を見かけたことはないのだけど…。
……でも、彼女が俺たちの輪に加わりたかったのかもしれないというのは、不思議と納得できた。
俺が最初、面食らったはずの様々なことを、羽入は初めから知っていたかのように受け入れるのだ。
どんな厳しい部活の掟も、日が暮れるのも忘れてしまうような楽しい時間も、全て全てよく知っていて、…ようやくそれに混じることができた喜びを噛み締めているように見える。
「……羽入もすっかり、ボクたちの仲間に溶け込みましたのです。」
「だなぁ。何だか、ずっと前からそうだったように感じるよ。そんなはずはないのにな。」
「……そんなことありませんです。ずっとボクたちの側にいましたですよ。」
「あれ、梨花ちゃんもそんなこと言うんだな。…レナも言ってたよ。俺だけが気付いてなかったのかなぁ。」
「……圭一は鈍感だから、きっと気付かなかったに違いないのです。み〜☆」
「ちぇ。どうせ俺は鈍感ですよーだ。」
「あぅあぅあぅ。梨花と圭一が座り込んでいますのです。疲れましたですか?」
「……羽入が疲れ知らずなだけなのです。ボクたちは遊びすぎてヘトヘトなのですよ。」
「だって、僕はずっとずっとみんなと一緒に遊びたかったから、これくらいでは遊び足りないのです。もっともっと遊びますですよ。あぅあぅあぅ☆」
「ははは、元気だなぁ。……ところで羽入さ、その頭のそれ。遊んでて落ちちゃわないのか?」
「…………あぅ?」
羽入が頭の角を押さえる。
彼女なりのアクセサリーみたいなものだと思ってたので、激しく遊んでいて落としたら気の毒だろうと思い、預かってやろうと思ったのだ。
だが、羽入は角を押さえたまま、申し訳なさそうに表情を曇らせる。
「……圭一。羽入のは取れませんのです。」
「え? あ、そうなのか…? あはは、変なこと言ってごめん。」
「……ぁぅ
「あはははは、おかしくなんかないよ、キュートで可愛いよぅ。」
「そうそう! 圭ちゃんなんか股間に角が生えてるしねぇ? 硬くて反り返ったのが、
ぐえッ?!」
「は、はぅ!! 股間の角って何だろ、何だろ…!」
「……相変わらずレナさんのパンチだけは見切れませんわね。大丈夫ですの魅音さん。顔面がへこんでますわよ。」
みんなで楽しそうに笑ったが、羽入だけが曖昧な顔で笑い損ねていた。
…多分、俺が失言してしまったんだと思う。
彼女は多分、角のことを言われるのがあまり好きじゃなかったのだ。
でも多分、変に謝ろうとするとかえってこじらせてしまいそうだし…。
何と言えばいいのか窮していたら、レナが続きを遊ぼうと彼女らを誘い、再び鳥居の方へ戻っていった。
「……気にしなくていいのですよ圭一。…羽入も、気にしないようにしているのですが、まだ修行が足りないということなのです。みー。」
「やっぱ気にしてたんだな。すまん、これからは気をつけるぜ。」
「……羽入は大昔に、この雛見沢にやってきました。」
「あ、やっぱりそうだったんだ? だよな、村の中のこと、転校生にしちゃずいぶん詳しかったしな。」
「…………羽入が、雛見沢に住む前、どこに住んでいたのかはよく知りません。」
教えてはもらったけど、…私には理解できないところとしか、言い様がない。
そこに、羽入は、
そして、自分たちの住める場所を求めて、長い長い時間をかけて旅をして、……この地にやってきたのだという。
そこは美しく澄んだ沼で、羽入たちにとって求めて止まなかった目的の地でもあった。
…でも、その地はすでに村になっていて、……先住の村人たちが住んでいた。
先住民を敬うのは羽入たち流浪の民の唯一の掟。
羽入たちの一族は、村人たちと平和に共存することを選んだ。
だが、
村人たちは、新しい共存者を受け入れるにはまだ未熟で、幼くて。
……それらを強く強く拒絶したため、
羽入は、それを治めるために、彼らの姿を模してこの地に降臨したという。
しかし、どういうわけか角だけが隠せなくて。
今日の羽入の姿で古手神社に降臨したと、禁じられた古文書は伝える。
羽入たち流浪の民は、この村以外では生きていけないこと。
そして村人との共存でしか生きていけないことを訴えた。
古手神社の神主は、流浪の民が血に混じることにより、村人たちが鬼に駆られてしまうならば、それは共存にあらずと、一度はそれを拒否した。
だが、…古手神社の若き跡取りが羽入を見初め、子宝を授かるに至り、神主は再考を迫られることになる。
角を隠せぬ流浪の民たちよ、この地に留まりこの血に留まるのが願いならば、それを叶えることも考えよう。
だが、鬼の血に侵された村人たちは、人であるか鬼であるかの見分けも付かず、村人たちは互いに互いを疑い合い、疑心暗鬼に取り憑かれてしまった。
まずはそれを払ってくれぬことには、共存の道も開かれぬ。
……私たちとあなたたちが共存するには、いくつか守らなければならない掟を設けなければなりません。
それはとても厳しく、今まで平和に暮らしてきたあなた方に強いるのはとてもとても申し訳なく思います。
ですが、それら掟を守って下されば、村は鬼の災禍から解放されるでしょう。
良かろう、その掟を守ろうぞ。
…しかし、村はすでに多くの血を流してしまった。
人々の怒りや罪、穢れが祓えない。
人の世では、罪は命で償うのが唯一の掟なのだ。
なるほど。あなたたちの世界では、誰かに責任を全て負わせ、その人ごと罪を葬るのが流儀というならば、それに従いましょう。
しかしそれでは、命惜しさに誰もが罪を否定し、永遠に罪の押し付け合いにはなりますまいか…?
……左様。それこそが人の世の醜き鬼なり。
…誰もが自らの罪を認めず、互いに罪を押し付けあう。
自らの命でしか清算できないから、誰もが清算を拒み、罪だけがただただ積もっていく。
清算されることなく、澱み、いつまでも押し付けあって、人同士が疑りあい、押し付け合い…。
なるほど、それがこの世界の抗えぬ掟であり、あなた方を悩ませる掟でもあるならば、私は共存の引き換えに、人が罪を押し付けあわぬ世界を授けましょう。
……それはどのような世界なのか。
人の世である限り、必ず罪が起こり、穢れが生まれる。
それを誰にも押し付けずに消し去ることができるというのか。
人より生まれ出でる罪と穢れを、全て私に負わせなさい。
そして私の存在を祓いなさい。
全ての罪は人に在らず。我が身に負わせれば、人同士が罪を押し付けあうことはありません。
何と言われるか。…それでは、あなたが人柱になられると仰るのか。
誰かが罪を負わねば清算できない、あなた方の世の掟にも沿うというもの。
……別の古文書はこうも伝える。
…無論、これも禁書だ。
御三家は愚か、古手家頭首以外は触れることも許されない。
人心乱れ、村人たちの悪しき心が沼に溜まり、そこより鬼たちが湧き出したと。
古手神社神主は、人心を惑わす諸悪の根源は、沼より現れし鬼神(オニガミ)にありと説き、村の若者たちを引き連れて、沼を目指した。
沼の畔には、人心の乱れを嘲笑う鬼神の姿があり、若者たちは勇敢に戦いを挑み、傷つきながらもこれを打ち据え、召し捕らえて古手神社に引き立てた。
神主は、鬼神を祓い、その腹を割いて腸を引き出し、千切って沢に流し、遺骸は沼に沈めて葬ったという。
するとたちどころに人心の乱れは収まり、互いに疑いあい蔑みあっていた人々は互いに手を取り合って、訪れた平和を喜び合ったという。
………つまり、禁じられた古文書が真実なら。
私たち村人の信仰の対象であるオヤシロさまは、……私たち村人の手で捕らえられ、全ての罪を負わされ、裂き殺されたのだ。
しかも、鬼たちが現れるのは、人心が乱れた後、とはっきり書いてある。
つまり、……鬼たちは、自分たちが現れる前からあった人の不和の罪を、背負わされているのだ。
オヤシロさまとは、人に代わって罪を背負い、人と人の争いを赦す神。
それが、やがて敬われるようになり、オヤシロさま信仰の祖となったと伝えている。
……私には、それらが何を意味するのかわからないけれど。…でもひとつだけわかることがある。
それは、私たち人間が、誰にも引けぬ貧乏くじを、代わりに引いてくれる存在だったということ。
その証拠に、…今日の綿流しがそうであるように、私たちは体に染み付いた穢れを、綿に押し付け、それを沢に流すことで禊としている。
その過程には、醜さも、罪の押し付け合いも何もない。
そのシステムが生まれるまで、私たちは穢れと責任を人間の間で押し付けあう鬼であったということだ。
誰かのせいにし、誰かを生贄にし、誰かの腹を裂くことでしか、起こってしまった罪を清算できなかったのだ。
だが、それを人ではなく、羽入が背負った。
人の命を用いない、禊。
人の罪を、赦せるシステム。
人の罪を人に求めず、祟りに求める、オヤシロさま信仰の原点。
これらの書物は深く深く封印された。
でなければ、…私たちが祀るべき対象は、実は自分たちが全ての罪を押し付けて葬っていたのだということが、わかってしまうから。
……羽入は、謝る。
人の罪を、常に自分が引き受けて、謝り続ける。
人が、自身の罪に耐えかねた時、その罪を引き受けてくれる。
羽入が罪を引き受けてくれることで、人の罪は祓われ、人は生きることを赦される。
…………鬼が、全ての罪を、自らが綿となって吸い取り、……退治されて沢に流され、村は許される。人自身が生み出した罪から。
それが本当なら、
そう羽入に言ったことがある。
そうしたら、羽入はどこかで聞いたことがあるような、こんな話をしてくれた。
………雪山の小屋に4人が閉じ込められ、小屋の四隅に座って伝言ゲームをしたという、割と有名な話だ。
そこは極寒の山小屋だ。彼らはそのままでは眠ってしまう。
眠れば死んでしまう。
だから、誰かがこう提案した。
自分たちは四隅に座っているから、まず最初の1人が、時計回りに次の隅へ歩いていき、その隅にいる男を起こす。
起こした男はそこに座り、起こされた男は立ち上がって次の隅へ時計回りに歩き、そこの男を起こして交代する。
…これをぐるぐると繰り返せば、朝まで誰も眠りこけずに済むはずだ、という話。
この話のオチを知っている人には説明は不要だろうが、
一番最初に立ち上がって歩いた男の隅は空白になる。
だから、ぐるっと回って一周したら、4人目の男が次の隅に行った時、そこは空白になってる。
…そしてそこで座り込み、眠ってしまうから、そこでこの伝言ゲームは途絶えて、全員は凍死してしまう。
つまり、4人では足りない。もう1人がいないと、彼らは救われないのだ。
この話は怪談として語られることが多い。
…彼らは実は5人のパーティで、1人がすでに凍死していて、彼の霊がこのゲームに加わってくれたから、彼らは朝まで伝言ゲームを続けられたのだ、というオチになることが多い。
………羽入は、自分はこの5人目みたいなものです、と私に言ったことがある。
自分が1人、人間の輪に加わることで、円滑に全てを回すことができたなら。
それは、この山小屋の伝言ゲームが、ぐるぐると回って成立するというたとえに、とてもよく合っている気がした。
人間だけでは成立できない輪の隙間に、羽入のような存在が入ることで、人間の輪を成立させる。
……そうすることで、全ての人は温和に暮らすことが出来る。
それを成立させる、…途切れた輪を埋める存在。
……彼女が角を気にするのは、自分が鬼と呼ばれ全ての罪を背負い、成敗された時の記憶が蘇るからなのか。
角の生えた存在は迫害すべき存在だという無意識が、未だ彼女をちくちくと苛むのか。
「……あの角は、生まれつきです。それを忌み嫌われ、苛められたこともありましたのです。」
「そ、…そうなのか?! …そりゃますます悪いことを言っちまったな…。」
「そして、……羽入は、その角があるがゆえに、全ての罪を引き受け、清算するというとてもとても大きなお役目を引き受け、…全うし、………神と崇められたのです。」
「へ? 神??」
「……ボクの独り言なのです。忘れて大丈夫なのですよ。」
「???」
羽入が何者なのか、…私ですらわからない。
彼女が、人の世よりはるかに高い次元から降臨された神々しい存在なのか。
それとも、…生まれつき角が生えていただけの理由で、生贄にされてしまった不遇の少女だったのか。
わからない。でも、その少女の血は、古手家の血に混じり、私にまで代々受け継がれたのだ。
……古手家に、八代続けて第一子に女子が恵まれれば、それはオヤシロさまの生まれ変わりであるという伝説。
これが何を意味するのか、私にもよくわからない。
私がその八代目に当り、……そして、私にしか羽入が見えなかったという事実は何を物語るのか。
八代以上も経る気の遠くなるような時間。
……それは多分、羽入が引き受けた罪や穢れが、清められるのに必要な時間だったのではないだろうか。
八は末広がり。とても縁起のいい数字。
呪い文句のひとつに、七代祟ってやるというのがあるが、八代はそれを超える。
……つまり、七代にも及ぶ遠大な罪や呪いをも許す、縁起のいい数字なのだ。
それは呪い(まじない)の数字。
…羽入が人間に代わって背負ってくれた罪を祓うために、必要な時間。
……羽入たちの願いは、共存だった。
なのに、そのために人柱となり、羽入ひとりだけが、穢れと共に腹を裂かれ沢に流され、沼にて沈(鎮)められた。
だから、
気が遠くなるような時間の中で、羽入が抱いて眠ってくれた罪が祓われて、……再び帰ってきてくれるのを、伝承に残し、ずっとずっと待っていたのだ。
だって、…古手家という名は、伝承が伝えるなら、占い手の「占」の一字に、鬼の角を加えたから「古」という文字になったと言うじゃないか。
古手家は、羽入の血を混じらせた時に興ったのだ。
羽入こそが、古手家の祖であり、
幼い頃、羽入は私に、母が教えてくれるよりも多くを教えてくれた。
…それもそのはず。
私は、だって、…羽入の子孫なのだから。
そして、……古手家が絶えようという最後の代になって、その末裔の私と対面したのだ。
それを考える時、……私に課せられたこの数奇な運命が、何か大切な意味があるのではないかと感じる時がある。
私の運命を閉ざす障害を打ち破る試練は、……羽入と古手家の、千年以上にも及ぶかもしれない呪いに、
…もっとも、その願いや思いを正しく伝えるには、千年の時は長すぎたということだ。
羽入の存在はオヤシロさまという祟り神になり、…全てを許す存在は、いつの間にか全てを縛る存在に変えられていた。
共存のためのルールが、村人を縛るルールに曲解され、明治に至るまでそれに縛られ続けた。
そして、再び、ダム戦争をきっかけに歩み始めた閉鎖と誤解への風向きの中、……羽入と私が出会い、この数奇な運命に閉ざしたことにはどんな意味があるのか。
…………それを理解するには、私という人生はあまりに短すぎて……。
ひとつ言えるのは、……羽入の血が混じって始まった古手家が、最後の代で、祖と再び廻り合えたということ。
古手の血は、母に人の罪すべてを背負わせ葬った呪いの歴史。
その始まりと、終わりが、出会う…。
みんなの輪に、ずっと加わりたかった羽入。
でも、どうしても隠せなかった角。
それでも、欠けた輪を補う存在でありたいと願う彼女。
親を葬るは子の務め。
しかし母上。子が親を殺し葬らなければならぬとは聞いたことがありませぬ。
聞くな、子よ。
我は人にあらず。角を持つは鬼の証。鬼の役目は人の世の災厄を背負うことよ。
ならば我は、乱れし世の災厄を引き受け、人心の乱れをその身で祓うのがその使命。
なぜ人の世の罪が、母上ひとりに背負わされなければなりませぬか。
人の罪は、人の罪。母上の罪ではありませぬ。
聞け、我が子よ。
人は罪に溺れながら生きていく。それを誰かに押し付けねば生きてゆけぬ。
その押し付けられる一人になりたくないから、互いに罪を押し付けあう。
それこそが鬼、人の世を乱す、真の鬼。
我がそれを背負い、人が祓うことで、人は人を疑い争う宿命から解放される。
全ての罪と穢れを、業と呪いを我が身に。
そして我を討ち、祓い、沢に流し、沼に沈めなさい。
それは人の身であってはならぬ。人の身でない者が引き受ける宿命。
人の身に負わせるようなことがあっては、人は疑心の鬼から解放されぬのだ。
わかりませぬ。わかりませぬ母上。
母上には確かに隠せぬ角が。
しかしながら、角があるだけで人ではないと申されますか。
人であっても、角があればそうではないと申されますか。
母上に角があろうとも、私にとって母は人以外の何者でもありませぬ。
我が子よ、お前だけがそう言ってくれる…。
皆が私を****、****と罵ろうとも、お前だけが私を人だと言ってくれる…。
……祭具殿の祭壇に奉納され、他御三家の頭首たちには存在も知られていない、古手家の数々の禁書は、何を伝えるのか。
それを理解するには、…私が繰り返してきた時間に及ぶほどの遠く長い時間が必要だろう。
………そして、それを理解したならば、…無邪気にみんなに混じって遊ぶ羽入の笑顔が、もっとよく理解できるのかもしれない…。
「ああああ!!! だ、大丈夫?!」
魅音の素っ頓狂な声が聞こえてきた。何かアクシデントが起こったことが、声色からわかる。
「な、何だ何だ、どうしたんだ!」
「羽入さんが、そこでふざけてて転んで、斜面を転げ落ちていったんですわ…!!」
「羽入ちゃーーん!! 大丈夫〜〜?!」
「綺麗に転がってったけど…、捻挫とかしてないかな! 行こう行こう!!」
羽入は斜面で遊んでいて、そこを転がり落ちていってしまったらしい。
このすぐ下には道路がある。魅音たちがそこへ行く階段を駆け下りていく。
とにかく行ってみよう。
怪我をしてないといいんだが…!
駆け下りていくと、そこには富竹さんと鷹野さんがいて、羽入を介抱してくれているところだった。
「これはどういうことなんだい?! 急に彼女が転がり落ちてきてね!」
「ずいぶん綺麗に転がってきたわね、くすくす。でも頭をゴチンとやってしまったみたいだから、あとでコブになってしまうかもね。よく冷やしておいた方がいいわよ。」
「……羽入、羽入!」
「私たちの声が聞こえます?! ほら、指は何本に見えますのー?!」
「………ぁぅ……ぁぅ…。」
ちょっと朦朧とした感じの声だったが、捻挫したとか骨折したとかそういうことはないようだった。
俺たちはほっと胸を撫で下ろす。
多分、ごろごろとだいぶ転げたので、目が回ってしまっているのだろう。
「はぅ、でもよかったね。怪我がなくて。」
「いやはや! しかし、転がってった先に看護婦さんがいてくれたなんて、出来すぎだねぇ。」
「あら、非番の時の私は、野鳥撮影家なのよ? ねぇジロウさん。」
「ま、まぁねぇ、そういうことさ! わっはっはっはっは!」
「まぁ、雛見沢っ子なら、このくらいで怪我はできねぇよな!/
羽入も、もう立派な雛見沢の仲間ってことだぜ。」
「羽入ちゃん、って言うの? 見掛けない子ね。新しいお友達?」
「えぇ、そうですわよ。月曜日に転校してきたばかりなんですのよ。」
「コレ、…何? 変わってるわね。玩具?」
鷹野さんが、羽入の角をぐいぐいと押すような仕草をする。
……確かに、アクセサリーとしては変わってると思うだろうなぁ。
「あはははは、それは羽入ちゃんのチャームポイントなので、取っちゃ駄目なんです。」
「あらそうなの? 私はあまり可愛くないと思うんだけど。…だってほら、
バ ケ モ ノ
みたいじゃない?」
「…………………ッ…!」
突然、羽入が息を詰まらせたみたいな感じで呻いた。
「……鷹野。羽入はバケモノじゃありませんです。二度と言ったら許さないのです。」
「そうだよ鷹野さん、人の趣味に、…悪いよ。」
「くす。ごめんなさいね、決してそんなつもりはなかったんだけど。」
…梨花ちゃんの言い方が少しきつかった。
多分、羽入にとって、それはとても傷つくキーワードに違いない。
鷹野さんはたまに、悪意はなくとも貶すような言い方をする。
でも、言っていいことと悪いことがある、ってことだろうな。
羽入は、何だか複雑そうな顔で鷹野さんを見ていた。
その表情を見て、傷つけてしまったかもしれないことに気付き、鷹野さんは軽く謝ると、富竹さんと共にその場を去ってくれた。
「……大丈夫? 羽入? 綺麗に転げ落ちたから大して怪我はないそうです。」
「……今の人? 鷹野ですよ。」
「………鷹野。…………鷹野…。」
羽入が鷹野さんの名前をうわ言のように繰り返す。
…頭の妙なところを打ったとかいうことはないだろうか、急に不安になる。
突然、羽入はがばっと跳ね上がり、梨花ちゃんの襟首を揺するように掴んだ。
「り、……梨花…!! あぅあぅあぅ!!! 鷹野です、鷹野! 鷹野!!!」
「……そうですよ? 鷹野ですよ?」
「ち、……違う、梨花!!! 鷹野です、鷹野!!! 覚えてないのですかッ?!」
「……知ってるわよ。鷹野三四でしょう? 入江診療所の。」
「…思い、……出せないのですか…………。」
「……ごめん、羽入。何の話…?」
「…………り、
……最後の、……最後なのに……。
生きながら腹を裂かれる苦痛に耐え、ようやく焼き付けた真の敵の名前なのに……ッ!!
……それを……覚えられなかったなんて……………。
古手梨花は、
;■赤坂再び
「ぬおぉおおおぉおぉ、赤坂さああぁん!! ご無沙汰しておりますよ〜〜!!!」
「大石さん! その後もお変わりなく!」
「んっふっふっふ! お変わりなくなんてひどいですなぁ! 最近、リンゴダイエットってのを始めましてね? ちょいと体重が絞れてきたつもりだったんですがねぇ! そういう赤坂さんは、こりゃまた見違えるくらいに逞しくなったじゃないですか!」
「この程度には鍛えてないと、体が持ちませんので。」
「あれ、蔵ちゃん。その人、あの人かい? 何年か前にウチにきた東京の公安の!」
「本田屋さん、ご無沙汰しております。その節はお世話になりました。」
「あんた、ずいぶんとまぁ立派に成長しちゃったじゃないですか。かぁ〜、若いっていいねぇ!!」
「ささささ、せっかく来てくれたんです。もうお店に行っちゃいましょう! 馴染みの店ですから、のれん前でも入れてくれるでしょう。さぁさぁ行きましょう!」
「大石さん、い、いいんですか? まだ勤務時間中じゃないんですか?!」
「何言ってんですか! 東京本庁からいらっしゃられた特命刑事との特別研修ですよ! さぁさぁ行きましょう!! あぁ、ちょいと先に電話してきます。赤坂さんに比べたら鴨ネギみたいな連中ですがね? ちょいと面子を揃えまして! あー、いいところに! 熊ちゃぁあん!! 今夜、バチッ!とポンチーしに行きませんか!」
「お、大石さん、…本当に変わっておられませんね…、ははははは。」
当時の赤坂は、大石のこういうフランクさを不真面目に思い嫌っていたが、…社会経験を積み、そのような先入観はすっかり払拭されていた。
数々の経験に鍛え抜かれた上で、今日の彼を形成しているのだ。
肩肘を張って愚直に正面からぶつかるばかりが刑事ではない。
むしろ、フランクな方が世の中うまく行くことだって多い。
…赤坂の場合、むしろ肩の力を抜けとよく諭されるくらいだ。
ただし、大石の場合はもう少し襟元を正してくれてもいいだろうが。
「ささ! 赤坂さん、行きましょう!!」
「えぇ、参りましょう!」
「うん、いい返事です。だいぶベテランの余裕が出来てきました。そうでなくっちゃ!」
これもまた、かつての赤坂なら、それを小馬鹿にされたと受け取ったろうが、今の赤坂には、ベテランの大先輩からの素直な評価だと受け取ることができた。
「赤坂さんもずいぶん強くなりましたねぇ。何だか、お酒じゃあ勝てない気がしてきましたよ。いやぁ、老いると酒に弱くなるってのは本当ですなぁ…!」
「ご謙遜を。それに私が強いのは、情報収集がゲコでは務まらないからです。ちゃんと予算を切って、常に若手と特訓してますから。日本酒洋酒紹興酒! のれんを潜ることもあれば、ミラーボールのお店の時もありますよ。」
「なっはっはっはっは!! そりゃあいいそりゃあいい! 今度ぜひ私もコーチに参りますよ!」
「えぇ、ぜひ教授してやってください。最近の若いのは、自分は生まれつき飲めないとか、ヒヨったことばかり言ってますよ。私だって最初は全然駄目でしたがね。酒は飲めば飲むほどに強くなり、ますますに旨味がわかるようになるんです!」
「そうですそうです!!! 聞いてますか熊ちゃぁん?」
「め、面目ないっす…。これでもだいぶ強くなったんですよー。」
「わっはっはっは!! そうだのぅ。大石と組まされたばかりの頃はお前、乾杯からウーロン茶だったからのぅ!」
「それはいけない! 乾杯は重要な意味があるんです。そこでアルコールを飲まないというのは、自分はこの飲み会に不服があるって言ってるようなもんなんです。だから私はそんなことする若手どもにはきっちり指導してますよ! 一気飲みしろって言ってんじゃない! とにかく最初の一杯だけは中ジョッキ!!」
かつて興宮を訪れた赤坂は、かちんかちんに緊張していた。
だが、今の赤坂にそんな様子はない。
……その余裕こそ、叩き上げで培われたものなのだ。それを大石は感じていた。
「なっはっはっはっは!! いよッ、赤坂さんかっこいい!!! いやぁもう、本当に頼もしくなっちゃいましたねぇ! 私にとっては定年までの残り数年でしかなかった間に、赤坂さんはこれほどたくましく成長したんですから。いやいや、老兵は去るべきだと痛感します。」
「そんなことはないです! 私も、嫌になるくらい経験が物を言う世界というのを勉強しました。力仕事や現場仕事なんかは私たち若造に任せて、大石さんのようなベテランには、ぜひデスクで胸を張って扱き使ってもらいたいもんです!」
「ですってよぉおぉおおぉ、聞いてますか熊ちゃあああん!!!」
「い、いてててて、すんませんすんません!!! 頑張るっすー!!」
「わっははははは! 大石、熊谷くんもがんばっちょるぞぃ。面倒臭がりのお前さんに代わってよくマメに歩きまわっとる!」
「大石さんは滅茶苦茶な人でしょう。私が大石さんと組んだのはほんの数日間だったんですが、あなたの気持ちもよくわかりますよ。でもね、大石さんがきっとあなたを鍛えてくれますから。最後まで信じて付いて行ってください。」
「わ、わかりました! 頑張るっす!! でも、お酒は鍛えられても麻雀までは無理っすよぉぉ!! カミさんに給料渡す前に大石さんに取られるんですー!!」
「いいや、麻雀も経験なんです! 打った場数が強さと自信になるんですよ! 後でご一緒しましょう、まずは負けない打ち方を伝授します!」
「…大石、いい若者だのぅ。お前さんが無茶やってた頃にちょっとだけ似とるの!」
「まさかまさか! 私ゃこんな二枚目じゃありませんでしたから。んっふっふっふ!」
大石をよく知る者にとって、彼がこんなにも上機嫌に客を迎えるところを見たのは初めてだった。
大石にとって赤坂は、かつて数日間を組んだだけの仲でしかない。
その後、年賀状等のやり取りは多少あったが、その程度の関係だったはずだ。
でも、かつては青白い新米だった若者が、逞しく成長して帰ってくるというのが、これほどに嬉しいものだと大石は知らなかった。
大石はかつて、生涯現役でいるつもりだったが。後輩がこんな頼もしく成長してくれたなら、後進に席を譲り、引退して活躍を見守るのもオツなものかもしれない、なんて思い始めているのだった…。
大石も赤坂も、二人が思っていた以上に再会の酒を楽しみ合うのだった……。
店の主人が、表の電気看板を店内にしまっていた。
他の席の椅子は机の上に上げられていて、女将がモップで軽く床の掃除をしている。
気付けば他の客はもういない。
時計の針は午前の3時に掛かりかけていた。
「蔵ちゃんたちは久し振りの再会なんでしょ。ゆっくりしてっていいよ。帰る時だけ起こしてくれねぇかなぁ、カギしなきゃなんねぇから。」
「すんませんなぁ、気を遣わせちゃって。」
こんな時間じゃ河岸を変える店もない。
まだまだ話したりなかった大石たちは、主人の好意に甘えることにした。
熊谷は眠気に勝てなかったのか、舟を漕ぐようにうつらうつらと頭を揺らしていた。
話題は今の赤坂の仕事に移っていた。
赤坂は公安の中でも特に普通ではない部署にいる。
その戦いのような日々と危険な綱渡りの武勇伝は、大石たちの興味を大いにそそっていた。
「……それで、実はこちらに来たら、古手梨花という少女に会いたいと思っていたんです。」
「古手梨花って、古手家の忘れ形見の梨花ちゃまですか。」
「忘れ形見…? ………ということは、彼女の両親は?」
古手梨花はかつて赤坂に、雛見沢で5年連続して起こるという奇怪な事件を予言している。
その予言の中の1つ、確か3年目の予言に、彼女の両親が殺されるというものが含まれていたはずだ。
「えぇ、あれはオヤシロさまの祟りの3年目ですから、
「……3年後…?! わ、私が雛見沢を訪れてから3年後の、6月のことなんですか?!」
「えぇ、そうです。…どうしました? 何か気にかかることでも?」
赤坂は脳内からアルコールを追い出そうと、ぎゅっと目を瞑り、少女の予言の全てを思い出そうとする。
…そうだ、私はこれを確かめるために来たんじゃないか…。
「私が訪れたのは昭和53年です。その翌年に、ダム建設の監督が亡くなられたということは? …そうだ、彼は私と麻雀を打った方のはず。あの方はその後どうなさっていますか?」
「……新聞にドンと載ったと思ったんですが、こっちの地方だけなのかなぁ。…えぇ、その翌年に、作業員たちとの喧嘩で殺されてしまいまして、」
……恐ろしい殺され方をした後、体中をバラバラに引き裂かれて捨てられてしまいます。
「その遺体を、バラバラにされた、ということは?」
「何だ、知ってるじゃないですか。…その通りです。未だ右腕が見付かりませんでね。お気の毒なことです…。」
…その翌年の昭和55年の6月の今日。
………沙都子の両親が突き落とされて死にます。
……あるいは、事故というべきかもしれない。……不幸な事故。
「つ、続けて確認します。さらにその翌年。監督の殺人事件の翌年です。………確か、
「おや、お詳しいですねぇ。そうです。ダムの賛成派だった北条夫妻が、旅行先の展望台から転落しましてね。事故か事件か未だにはっきりしませんが。」
そして、さらにその翌年の昭和56年の6月の今日。
…私の両親が、殺されます。
「……そして、…その翌年には。」
「はい。古手梨花のご両親がお亡くなりになります。…ですが、どうもこいつも今ひとつ腑に落ちない事件でしてねぇ。」
「お前さん、ずいぶんとオヤシロさまの祟り関係に詳しいのぅ。この事件、地元の圧力であまり公にされとらんはずなんだが、東京にいながら、よくそれだけ知れたもんだわい。」
「………………何て、ことだ……。」
「だが、いくらお前さんでも、次の年は無理だろうの。何しろ、4年目から秘匿捜査指定がかかっとる。」
「…いえ、
そしてさらに翌年の昭和57年の6月の今日。
沙都子の意地悪叔母が頭を割られて死にます。
「その翌年ですから、つまり昨年です。…先ほどの、沙都子さんの叔母に当たる方が、頭部撲殺のような形で殺されてはいませんか。」
「そ、
「………多分、…私はさらにその翌年に殺される人物も知っています。」
「お、お前さん、
……私が殺されます。
「昭和58年6月。つまり、今月です。……古手梨花が、
大石たちは絶句した。
赤坂は4件の連続怪死事件を語った。
長いこと遠方にいたとはいえ、公安の、それも特殊性の高い部門に所属する赤坂のことだ。
秘匿捜査指定が掛かっていたって、耳に入れることも可能だろう。
…だから、数年間雛見沢を離れていた赤坂が連続怪死事件を次々に語っても、それほど不思議には思わなかった。
だが、自分で口にしている内容が当たっていて呆然とした表情を見せる赤坂の妙な様子と、わかるはずもない今年の祟りの犠牲者の名前を口にするのを見るに至り、彼らの酔いは完全に吹き飛ぶのだった…。
「赤坂さん、………もう夜もだいぶ更けました。これ以上はお互いしんどいんで、単刀直入に行きましょう。…今の話は、一体どういう意味ですか。」
「はい。今の話は、私が雛見沢を訪れた昭和53年6月に、彼女から聞かされたことなんです。」
「……………何ですって……。」
大石はその後に、そんな馬鹿な、と言葉を続けるつもりだったが、…あまりのことに、あんぐりと開けた口からそれ以上の言葉が出ることはなかった。
「信じられない気持ちはわかります。それを聞いた当時の私も、幼い少女の気まぐれな予言遊びくらいに思いました。……ですが、彼女は5年目に自分が殺されることを私に訴えました。それはつまり、…自分を助けてほしいという明白な助けだったと思うんです。……今回、雛見沢を訪れた最大の目的は、彼女を訪ね、本当に今でも私の助けを必要としているのかを確かめるためだったんです。」
「……赤坂さん、
「私は真実しか言っていません。古手梨花は、昭和53年6月に今の話を私に語ったんです。……ただ、当時の私はそれを重要な話とは思わず、それを大石さんに伝えませんでした。それは申し訳なく思います。」
「い…いや、それは無理もないぞい。そんな話、突然されても鵜呑みにできん。4年連続した今だから聞ける話だわい。」
大石にしてみれば、赤坂がその話を聞かせてくれれば、おやっさんの死を回避できたかもしれないという苦い思いもあるのだろう。
…だが、鑑識のジジイの言い分も正しい。
当時言われていても大石は信じなかっただろう。
そして結局はおやっさんの死に至って、何もできなかったことを後悔しただけに違いないのだ。
「………そうですね。いえ、すみませんでした。………しかし、
「今の雛見沢の状況は私も詳しくありません。一応、当時の新聞で、ダム計画の無期凍結が決定されたというのは読みました。ですから、ダム戦争は終わって、平穏な生活を取り戻していると信じていたのですが。」
「うむ。ダム戦争は確かに終わった。……だがな、その翌年からな、通称、オヤシロさまの祟りと呼ばれる連続怪死事件が毎年起こるようになってな。…その詳細については、まさにお前さんが今言った通りの内容なんだわい。」
「………どうやら私は、彼女に大変な何かを託されたような気がしてきました。…大石さん、ずばりお尋ねします。……今年、古手梨花が殺されるのは、ありえる流れだと思いますか?」
「……古手夫妻はダム戦争当時、消極的だったことを理由に後ろ指を指されていたという話があります。それで3年目の祟りに遭ったというのが定説です。…その流れから言えば、
「……ありえるんですね?」
大石は無言で、ゆっくりと頷いた。
「………明日、古手梨花に接触を試みるつもりです。どうやら、彼女に直接話を聞くしかないようですからね。」
「赤坂さん、それ、私もご一緒させてくれませんか。…古手梨花の話は、どうやら私にとっても重要なものになりそうです。」
「……こりゃあ、
「しかし、疑問もありますね。どうしてこんな重要な話を私だけに打ち明けたのでしょう。助けを求めるなら、東京から出張してきた私ではなく、地元警察のはずなのですが。」
「…………んんん。…多分、地元警察を信用しきれないところがあったのでしょう。/
私も泥臭い人間です。梨花さんの信用を得ていなかったのかもしれない。…それに、興宮署にはS号の息の掛かった連中も少なからず潜んでいます。」
「つまり、東京から来た私が、一番信用できたということですね…?」
「悔しいですが、そういうことになるでしょうな。」
「…だとしたら、大石さん。この件、他には内密に。」
「もちろんですとも。…とにかく明日、雛見沢に行って、梨花さんに直接話をうかがってみましょう。話はそれからです。」
;■羽入が伝える記憶
「………信じられないわ。…………でも、
聞こえるのは虫の声と、沙都子のいびきだけという静かな深夜。
梨花の姿は、お気に入りの窓際にあった。
「……そうなのです。梨花を殺すのは、……鷹野なのです。僕も梨花もはっきりと見ましたのです。梨花は、あれだけ鷹野の顔を目に焼き付けようと…。生きながらお腹を裂かれても、なお歯を食いしばってその顔を見ていたのです…。」
「…………………いやな死に方ね。…毎回記憶に残ってなかったのを感謝したいわ。………でも、何となくわかる。鷹野の好みそうな殺し方だもの。」
「……あぅあぅあぅあぅ……。」
「でも、わからない。………どうして鷹野が私を殺すの? だって、私は女王感染者で、私が死ねば大惨事になるんでしょう? だから入江機関や山狗たちが私を守ってくれてるんじゃないの? その天辺にいる鷹野が、どうして私を殺さなくちゃならないの?」
「……ぁぅ…、ぁぅ……。」
「ごめん、意味のない質問ね。……鷹野が私を殺す。それが真実なのであって、その動機なんか大した問題じゃないものね。…しかし、…だとしても。…………よりによって、なぜ鷹野なの…。」
動機など大した問題じゃないと口にしながら、それでもすぐに口にしてしまうその疑問。
鷹野が女王感染者を守ろうとするのは、雛見沢を全体が集団発症する大惨事から守ろうというだけではない。
……変質的研究狂である彼女の、極めて貴重な研究対象だからだ。
その、彼女にとって、彼女の研究にとって、何よりも大切な女王感染者を、なぜ自らの手で殺すのか。
「敵は鷹野ひとりなの?」
「……あぅあぅ…。山狗の人たちも敵でした。入江が敵かはわかりませんでしたが、
「鷹野と山狗が敵…? …………冗談じゃない、私たち小娘にどう立ち向かえっていうの。無理よ。…奇跡でも起きない限り、あんなヤツらに私たちが勝てるわけがない。しかも綿流しは次の日曜日。私が殺されるのは22日。あと1週間ってところ? そのわずかな時間でどう戦うの? 鷹野を金属バットで闇討ちにでもしてみる? 意味ないわ、鷹野は所詮、連中の1人。鷹野ひとりを返り討ちにしたって、山狗たちに取り囲まれておしまいよ! どうすればいいのよ、どうすれば!!」
「そ、……そんなの僕だってわからないのです…! でも、
羽入が、これほど強く言い返すのは初めてだった。
私は一瞬、面食らい、
……私が混乱している最大の理由は、犯人が鷹野だったことによる。
鷹野の個人的な性格はともかく、私はずっと彼女を頼もしい味方だと信じてきた。
鷹野が私を大切にする理由はいくつも思いつく。
……だが、彼女が私を殺したい理由がまったく思いつかないのだ。
でも、薄気味悪いことを考えているヤツだ。
………常人には理解できない狂った思想が動機にならないという保証もない。
「……ということは、
「た、…多分、味方だと思いますです。…そうですよ梨花。富竹に相談すればいいのです!」
………鷹野が山狗を従える背景には、「東京」なる組織の存在がある。
ということは、その「東京」に通じる人間にしか助力を頼めないということなのか。
…だとしたら、富竹はこの件で唯一相談できる相手に違いない。
それを言ったら、入江にだって相談する価値があるに違いない。
だが、
どうして鷹野が私を殺さなければならないのか、その動機が…!
それを説明できない限り、彼らは私の話に聞く耳を持たないだろう。
しかも富竹は鷹野に一方的に惚れ込んでさえいるんだ。
並大抵のことでは鷹野を疑ってはくれまい…。
入江は鷹野と一定の距離を置いているように見える。
富竹よりは話を信じてくれやすいかもしれない。
………でも、入江はただの医者で、「東京」についてはとても疎い。役に立つかは微妙だ。
警察に通報する?
馬鹿な、そんなの絶対に無理だ。絶対に信じてくれるわけがない。
「東京」というおかしな組織が自分の命を狙っています、なんて電話したら、確実に正気を疑われる…!
じゃあどうすればいい、どうすれば自分を救える?
この雛見沢で、もっとも敵に回してはならない連中が、私を殺しに来るのだ。
どうすれば逃げられる? どうすれば立ち向かえる? どうすれば、どうすれば…!!
……羽入の言う、鷹野が私を殺す光景を、私も記憶していたなら、ここまで混乱はないだろう。
百聞は一見に如かずなのだから。
……でも、私は覚えてない。
羽入が見てきたと言っているだけだからこそ、まさかあの鷹野たちが私の敵だなんてという、受け容れなくてはならない真実を、羽入の世迷言と決め付けてしまう現実逃避に陥りそうになる………。
「…お、……落ち着くのです、梨花。前の世界で僕たちは学んだはずなのです…! 覚えていませんですか、前の世界のことを。」
「……前の世界って、……あれでしょ? レナが学校にガソリンをまいて立て篭もって、」
「違いますです…! その次にもうひとつ世界があったのです…! 本当に覚えてないのですか…?! その世界では、あいつが帰ってくるのです。北条鉄平が!」
「……最悪の世界ね。何をやっても相談所は様子見で、沙都子は数日で廃人同然。どうせ、仲間の誰かが発症して鉄平を闇討ちにするんでしょ?」
「違います違います!! そこではみんなが力を合わせて相談所に陳情してちゃんと沙都子を救ったのです! その世界で梨花は圭一にあれだけ教えられたじゃないですか。奇跡は信じなきゃ起きない。そして、みんなが信じれば必ず奇跡は起こる、って!!」
「……確かに圭一が言いそうなことね。…でもすごいわね。今まで一度も退けられなかった鉄平の帰宅する世界を、打ち破るなんて…。」
「その世界の圭一たちはどうやって奇跡を起こすか知ってますですか?! みんなにですね、ちゃんと相談したのです! どうせ駄目だとか、ひとりで悩んだりとかしないで、みんなに相談したのです…!! だから、奇跡が起こせたのです…!!」
「みんなに、って。…圭一たちに、鷹野のことを相談しろと? 「東京」という怪しげな組織に狙われているから助けてって、相談して、信じてくれると思ってるの…?」
「信じてくれますです!! 前の世界では信じてくれましたのです!!! 何で梨花は、僕が言うのを信じてくれませんのですか…!!」
「……ごめんなさい。信じないわけじゃないの。…羽入が見たんだから、それは真実なんだものね。………………自分の記憶に残らないというのが、
「とにかく、梨花と僕が2人で悩んでも何も解決できませんです。僕たち2人の力ではあまりに非力なのです…! でも僕たちには武器があります。それは真実です! 動機はよくわかんないけど、……でも犯人は鷹野だってわかってます…!! だから、これはこれまでの世界で、一番有利なスタートのはずなんです…!! ……何で、……何で最後の最後で…梨花だけ記憶がつながらないのです……!!」
羽入は本当に悔しそうに歯軋りをした。
……ついさっき「正解」を見てきた彼女にとって、記憶を持たず、本当の正解にきょとんとしている私が信じられないのだろう。
自分が見たことなら、動機などなくても簡単に信じられる。
でも、自分が見てないことが、こんなにも飲み込みにくいなんて…。
なぜ羽入の記憶がつながっていて、私の記憶は途切れてしまっているのか……!
もう私たちの長い旅が終焉に近付いている、ということなの?
あるいは、…私にとって無限に繰り返す旅はすでに終わっていて、…これが最後の旅だということなの…?
「………………………ふーーーーー……。………羽入がみんなにも見えて、しかも転校までしてくるなんて、何だか変な世界だなとは思ってたけど、
「……おかしくも何もありません。……ただ、最期の世界なだけなのです。」
「…………………………………。」
「……僕は、その最期の世界で、みんなと力を合わせるためにやって来ました。……僕はここでは傍観者じゃない。梨花の、みんなの仲間で味方なのです。」
「…………………そういえばそうね。…あんた、
「…………僕はもう、傷つくことを恐れて舞台に上がらないなんて嫌なのです。それを恐れずに、みんなと信じる。だから、奇跡が起こせる…! これは昭和58年6月を賭けたゲームの世界なのです。戦っているのは、梨花と鷹野。期限までに梨花が敵を倒せないと自動的に負けになる。鷹野たちは山狗という強力な駒をいくつも持っている。少々の駒を集めたくらいではとても太刀打ちできないのです。だから梨花は、あらゆる人に助けを求め、対等な数だけ駒を揃えなければ、そもそもゲームが始まらない…!!
このゲーム盤のルールを、僕たちは何度も繰り返しながら学んできましたです。それはまるで説明書のないゲームのよう。でも僕たちは何度も学び、そしてようやく戦い方を知り、
「………わかったわ。…私が覚えていないことの不幸を嘆くより、あなたが覚えていてくれた幸運を喜ぶべきね。……あなたまで忘れていたら、この最期の世界も、右往左往している内に終わってしまったに違いない。……それに、圭一たちへの相談も、うまく話し方を考えれば、何かいい知恵がもらえるかもしれない。……何しろ、学校大爆発がほぼ確定したあの世界で、レナと大立ち回りをして正気に戻させるという、奇跡を成し遂げた男なんだから。」
「そうです! とにかく、話せる人に相談しましょうです。僕たちだけではあまりにか弱いのです。仲間を集め、どうするかを考えましょうです…! 奇跡の道も一歩からなのです!!」
「しかも、…それをたったの1週間でね。」
羽入が、ここまで私を励ましてくれたことがかつてあっただろうか。
彼女は常に傍観者気取り。
……期待して失敗する痛みを嫌い、何も期待しないのがスタンスだったはずだ。
その羽入が、こんなにも熱心に、積極的に、この世界に介入しようとするなんて。
………羽入が言うには、レナが学校を占拠する世界の次に、もうひとつ世界があったらしい。
………その世界で、…どうやら圭一にずいぶんとアツイことを吹き込まれたようだ。
…どうせ駄目で元々だ。…信用できそうな人から相談してみよう。
努力しようともしなくとも、終末の日まであとわずか。
ならば、せいぜい存分に悪足掻きを見せてやる。
魔女を気取ってワインを飲んで迎える終末なんて、かっこいいなんて思うものか…!!
;■終末への秒読み
「もしもし。ご無沙汰しておりますわ。野村です。…………えぇ、先日は詳細な資料をありがとうございました。厚生省のお歴々も、貴女の丁寧な資料のお陰で、雛見沢症候群の恐ろしさを理解して下さりました。…………ふふふふ、全て貴女と故高野先生の研究の成果ではありませんか。私は正当な研究が正当な評価を受けられるようにしたに過ぎませんわ。……………それはもちろん。…貴女の資料を、やがては総理の手にも取らせて見せましょう。総理は一国の長。我が国でもっとも上席にある人物に、貴女と貴女の祖父の論文を読ませ、それが如何に優れた研究であり、そして雛見沢症候群が如何に特別なものなのか、そしてその研究を蔑ろにし、無惨にも貴女と貴女の祖父の論文を土足で踏みにじった現理事会がどれだけ愚かかをわからせてお見せします。
……………えぇ。ふふふ、そんな貴女に朗報があります。終末作戦が終わった後、現地は隔離閉鎖され、陸自の別部門が研究を引き継ぐこととなりました。貴女はそこへ迎え入れられ、派閥や予算に悩まされることなく、心行くまで研究をすることができるのです。……………ふふふふ、貴女の献身的努力に報いたいと仰られるクライアントの好意としか申せませんわ。\貴女はそこで所長の地位を与えられ、今度こそ思うままに存分に研究に勤しむことができるのです。
ふふふ、それはとても素晴らしいことではありませんか。そして貴女は雛見沢症候群の研究をステップの一つにし、故高野先生が求められていた本当のステージ、人の思想を支配する寄生的存在についてさらなる研究を重ね、人類の常識を根底から覆す偉業を成し遂げられるのです。…………いいえ、これはお世辞でも何でもありませんわ。貴女に対する私どものクライアントの正当な評価です。……………そうですか。長電話を失礼してしまいましたわ。それでは失礼いたします。また追ってご連絡いたします。」
女は車載電話の受話器を一度置くと、すぐに取り直し、別な相手へ電話する。
「内線1001をお願いします。……えぇ、渡邊とお伝えを。………………………渡邊です。えぇ、先日の件はつつがなく終了しました。……………はい。鷹野三佐の資料は素晴らしいものです。さらに国立研究所の職員を同行させましたので、背広連中はそのまま鵜呑みに。………………ふふふふ、えぇ、はい。そちらも問題ありません。20日以降から敵対派閥のほとんどの閣僚は外遊、もしくは静養で東京を離れます。
…………はい。不確定要素はいくつか残りますが、恐らく、6月23日には官邸の堀は全て埋められているはずです。………………はい。ですので、現地作戦は6月22日深夜に決行、23日に総理に緊急決裁を求める日程となると思います。………………はい、当日、総理を補佐できるブレーンは全て我々側の人間です。総理は万に一つの疑問も抱かないでしょう。
……………えぇ。それは間違いなく。………………総理は必ず、緊急マニュアル第34号に署名します。…………その後は、アルファベットへの責任追及となり、奥野・千葉派、旧小泉派は発言力を大きく失うこととなるでしょう。……………えぇ。そうです。アジア友好再建計画会議の成立は時間の問題です。
………………ですわね。国産核兵器開発に回すカネや、太平洋をまたがねばならない日米同盟如きに回すカネがあるなら、中国へODAをした方がよっぽど国益にかないます。21世紀は世界人口の数割を一国が占める中国の時代ですもの。日本はすでに米国に尻尾を振っても旨味はありません。
………………えぇ、まったくですわ。21世紀を間近に控え、未だに共産主義は悪魔だなんて、米国の性質の悪いプロパガンダ戦争映画の見過ぎです。ふっふふふふふふふ。…………………はい、わかりました。………では、来週、澳門(マカオ)にてよろしくお願いいたします。……………ふふふ、えぇ、私、カジノは大好きですので。…はい、それでは失礼いたします。また追ってご連絡いたします。」
女は車載電話の受話器を置いて、一息をつき、……彼女の仕事が順調に進んでいることに対しほくそ笑んだ後、再び受話器を取った。
「官房長官席を。……えぇ、舞沢とお伝えを。…………………………………。……………はい、私です。奥野長官。」
;■入江に相談
「…どうしたんですの。何だか今朝の梨花は様子がおかしいですわね。」
「……そうですか? どうおかしく見えますですか?」
「う、うまく言えませんけど、
「……あぅあぅあぅ。梨花は大人なのですよ。あぅあぅあぅ☆」
「羽入、今日は茶化すのは無しにして。……沙都子もごめん、今日はふざけるのは無しにしてね。そういう気分じゃないの。……今からあと1週間くらいね。」
沙都子は怪訝そうな顔をする。体調不良とでも思われたかもしれない。
……沙都子も含め、圭一たちみんなに話そうとは思うが、…どう切り出せばいいか、わからない。
みんなは基本的にふざけるのは大好きだから、冗談だと思われてしまったらどうしようもない。
……どうやれば、真剣に私の相談に乗ってくれるのか…。
「先生、おはようございますですわー! あら、監督もですわね。おはようございますですわ!」
「はい、おはようございます、沙都子ちゃんに梨花ちゃん。おやおや?/
頭にメイドさんのカチューシャがありませんねぇ? 校則違反です、おしおきおしおき〜〜〜!!!」
「入江先生! 学校でそういうのはやめてください!」
「監督。梨花が朝から体調が悪いみたいなんですの。ちょっと様子を見てあげてほしいのですわ。」
「…おや、どうなさいましたか。風邪ですか?」
…………みんなにはどう切り出せばいいか思いつかないが、入江は始めからこちら側の人間だ。
単刀直入に相談できるかもしれない。
このままじゃ、何と言って相談すればいいか悩んでる間に今日が終わってしまいかねない。
…なら、まずは入江に相談してみるか。
羽入も、それはいい考えだというように頷いてくれた。
「あぅあぅ、沙都子沙都子、圭一が来る前に、お席にいたずらをしましょうです。」
「をっほっほっほ!! いたずらじゃありませんわよ、より優雅に、トラップとお呼びなさいませですわよ! 羽入さんに、対圭一さんトラップの妙技を伝授してさしあげますわー!!」
「あぅあぅあぅあぅあぅ〜!」
羽入と沙都子は上機嫌に教室へ駆けて行った。
……多分、羽入が気を利かせてくれたんだと思う。なら、せっかくの好意と好機を無駄にしてはならない。
「……入江、ここでは何ですので、保健室でお話してもいいですか?」
「えぇ、構いませんよ。では保健室へ参りましょう。」
入江は、雛見沢症候群に関わる話かもしれないと思ったようで、保健室に移ることに同意してくれた。
私に体調の変化がわずかでもあれば、何かの大事の前兆の可能性もあるからだ。
たとえ風邪だったとしても、入江は私の体調変化は敏感に扱う。
「どうしたんですか。どこか体調でも悪いのですか?」
「……入江。妙な話をしますけど、ふざけないで聞いてほしいのです。とてもとても真剣な話なのです。」
私は、これまでで入江に見せた表情の中で、一番真剣な顔をしながら言った。
入江は、普段はふざけているが、真面目な時とちゃんと使い分けることができる人間だ。
私の真剣さを汲み取り、それに見合う真剣な表情を浮かべてくれた。
…まずは、……どう切り出すか。………………………よし…。
「……入江。僕は、女王感染者というものなのですか。」
「はい。梨花さんの寄生体だけは、村中の誰とも違う特別なものです。」
「……その僕が死ぬと、どうなりますですか。」
「…………前にもお話したと思いますが、とても大変なことになります。…いえ、正確には、とても大変なことになると“思われます”、が正しいですね。何しろ、梨花さんが死ぬまで検証不能なのですから。……ただし、雛見沢症候群に酷似した社会型脳内寄生虫の例で、女王感染者の死を引き金に、集団自殺や暴動などを引き起こすケースが複数あるというような話です。……この辺は鷹野さんの専門です。彼女に直接聞いた方がいいでしょう。私は少々疎い辺りです。」
……ということは、私が死ねば大変なことになるというのは、他でもない、鷹野自身が一番知っているということになるではないか。
……ますますに、鷹野がどうして自分を殺そうとしているのかが、わからなくなる…。
私がひとりで考えてもわからないのは当然だ。
今は目の前に入江がいる。
入江にならわかることかもしれない。…ひとりで悩む前に聞いてみよう。
「……入江。話の腰を折らずに聞いて答えてくださいです。……そんなボクを殺して、誰かが何かを得するということはありますですか。」
「えぇ? 梨花さんを、殺す?! 誰が…!」
「入江、話の腰を折らずに答える約束です。」
「…………ん、失礼。……いえ、考えられません。あなたを殺して得をする人間など存在するわけがない。繰り返しになりますが、もし女王感染者に万一があれば、一般感染者は全員、48時間以内に末期発症に至るのです。それこそが、雛見沢症候群のもっとも危険な一面と言えるでしょう。被害妄想の拡大や錯乱などの個人症状とは比べ物にならない規模の大事態です。」
「……その大事態を起こして、誰かが得をするということは?」
「絶対にありえません。梨花さんを殺すということは、村人2000人を殺すのとまったく同じことです。例え冗談でも絶対に考えられないことです。」
「……私が死ねば、雛見沢の人たち全員が被害妄想に取り憑かれて錯乱し、あるいは殺し合う。………鬼の血を引く末裔たちの村の終焉としては、これ以上ないフィナーレね。」
……それこそが、ひょっとして鷹野の狙い…?
常々、物騒なことを口走っている鷹野に、ある種の残酷趣味があるのは誰もが知るところだ。
鬼ヶ淵村の暗黒史を漁り、人食い鬼たちの凶行を自らの目で見て見たいと漏らす鷹野が、それを現実のものにするために、私を殺して村人全員を末期発症させようとしているとしても、まったく考えられないことじゃない…。
「もちろん、それが想定される最悪の事態です。…ですので、もしも万一、梨花さんが死ぬようなことがあった場合、ある緊急措置が取られることになっています。」
「……緊急措置? 初耳ね。」
「多分、初めてお話すると思います。…物騒な話でしたので、私も話さなかったと思います。入江機関にとって、雛見沢症候群治療の中で最優先事項は、女王感染者の保護です。ですが、万一、女王感染者が死亡し、感染者全員の急性発症が見込まれた場合、それを未然に防ぐ緊急措置が取られることになっています。」
…妥当な話だ。村人2000人が錯乱すれば、被害が村だけに留まる保証はない。
その事態が先に予見できているなら、先に対策を用意しておくのは当然だ。
「非常時用の緊急マニュアルというものが存在しまして、その中でもっとも危険度の高い事態、…つまり、梨花さんが死んだ場合に適用されるものが、緊急マニュアル第34号というものです。」
「……それが適用されると何か起こるの?」
「村人が錯乱する前に、……全員を処分するという恐ろしい内容です。具体的には、自衛隊の緊急時専門の部隊が雛見沢を封鎖して、毒ガスか何かで皆殺しにしてしまうのだそうです。」
「…………それも、…初耳ね。」
「すみませんでした。私もあまり好きな話ではなかったもので…。」
これまで、自分が死ぬ前のことに関心はあっても、自分が死んだ後に関心を持ったことはなかった。
後は野となれ山となれだった。
しかし、…私が死ぬ度にそんなことが起こっていたとは。いや、…そんなことを起こしていたとは…!
地図から、村を丸ごと消し去れるような相手なら、私ごとき小娘を1人消すのは造作もないだろう。
……羽入はみんなに相談しろと言ったけど、…本当にこんな相手に立ち向かえるのだろうか……。
そして、この緊急マニュアルなるもののせいで、さっきまでうまく繋がったと思っていた鷹野の動機が潰えてしまった。
村人たちが錯乱して、文字通り鬼のようになり村中で殺し合いが起こる阿鼻叫喚。
それを鑑賞したいというのが動機なら理解もできたが、入江の話によるならば、それは起こらないというのだ。
それが起こるより前に、村人をガスで皆殺しにしてしまう。
…私は鷹野じゃないから断言はできないが、…これでは鷹野は面白くないと思う。
これを目的に私を殺すというのは、これまでの気の遠くなるような長い付き合いから考えて、…少し無理があるように思う。
「……鷹野と山狗が、私を殺す、というのはありえること?」
「馬鹿な…! 絶対にありえないことです。いや、それどころか、鷹野さんは梨花さんの保護に一番気を遣っていますし、山狗の最大の任務のひとつはあなたの護衛です。そんなことは絶対にありえない。」
「……入江。それでもなお鷹野が私を殺すとしたら、どんな動機が考えられる?」
「か、考えられません。女王感染者の危険性について一番知っているのが彼女なのですから。……それに、ご存知でしょう。彼女は雛見沢症候群の研究に並外れた情熱を注いでいます。あなたを殺してしまうことは、その情熱と矛盾する行為です。」
「……でも入江。雛見沢症候群は確か、三年以内だかに撲滅する計画になってるんでしょう? 撲滅というのは症候群を滅ぼしてしまうこと。……研究を続けたい彼女の情熱にとって、それはどうなの…?」
「ん、
「……つまり、…鷹野はもっと研究を続けたいのに、雛見沢症候群は三年以内に撲滅してしまい、鷹野は研究対象を失ってしまう…?」
「………そういう言い方もできるかもしれません。」
少しだけ、…何かが垣間見える気がする。
入江機関というのは決して小さな組織ではない。
少なくない人間と莫大な予算が投じられて運営されている。
そこまでしなければ研究できないのが、雛見沢症候群というものなのだ。
………ということは、入江機関が研究を三年で終わらせると宣言した以上、鷹野は個人的に嫌でもどうしようもない、ということになる。
「……どうせ終わらせられてしまう研究なら、最後に盛大にひっくり返してやりたいとか…?」
「ば、馬鹿な……。そんなこと、あってはならないことです…!」
「でも、入江も鷹野の性分は知っているでしょう? あいつならやりかねない、あいつなら、私を殺しかねないって、…あるんじゃない…?」
「……ありえない……。ありえません……。そんな恐ろしいことは、…絶対に…。」
鷹野の動機の尻尾をわずかに探ったかに感じたが、……どうもこれだけではない気がする。
なぜなら、研究は少なくとも三年は続くのだ。
その間に、鷹野の言い分が認められて研究が延長される可能性だってあるわけだし、少なくとも、その三年間については研究が保証されているという意味でもある。
なら、まだ三年たっぷりある昭和58年の今、自暴自棄になる理由がわからない。
しかも、私は必ず昭和58年6月に殺される。
日にちに多少の揺らぎはあっても、月が変わることはほとんどない。
…それは強固な意志に基づく証拠だ。
研究が即時打ち切りになるならいざ知れず、…まだ3年の猶予を残した昭和58年に自暴自棄になるには、少々動機が緩いと思うのだ。
もっと、昭和58年の6月でなければならないという強い意思があるはずなのだが…。
それ以上は、いくら入江に鷹野が私を殺す可能性を問い詰めても、そんな馬鹿なとありえないを繰り返すのみで、大して役に立ちそうにはなかった。
鷹野が私を殺す動機をしっかり説明できるなら、味方になってくれそうではある…。
とりあえず、私が入江に対しアプローチできるのは、今はここまでが限界のようだった。
……同じ話を富竹にもしてみよう。富竹は入江よりもはるかに「東京」寄りの人間だ。
入江とはまた違った話が聞けるかもしれない。
……そこで何か重要な事実を知り、鷹野が私の命を脅かす充分な動機を説明できればいいのだが…。
富竹は、もうこの時期には雛見沢に訪れているはずだ。
鷹野と一緒のことも多いが、割とひとりで散策して野鳥撮影を洒落込んでいることも多い。
鷹野と一緒にいない時を捕まえて、話をしてみよう。
……もっとも、富竹は鷹野に対し強い好意を抱いている。…入江のように、真面目に話に乗ってくれるか不安だが…。
「……ありがとうでした。ボクは教室に戻りますです。何か鷹野のことでわかったら、ボクに教えてくださいです。」
「り、梨花さん…! どうして、鷹野さんがあなたの命を狙っているなんて思うのですか…! まさか、…急性発症…?!」
「……それを疑うなら、今、簡易検査をしてみますですか?」
私が突然物騒なことを言い出すのだから、入江がそれを疑うのも無理はない。
だが、そうでないことを立証するのは、入江が今日までに開発してくれた簡易検査用の注射器のお陰でとても容易だ。
私はその注射に付き合い、自分が末期発症を起こしていないことを示す必要があった。
結果はシロ。当然だ。
「…………鷹野さんがなんて、
入江に、鷹野が私を殺す可能性があることを意識させることができただけでも、収穫かもしれない。
私は保健室を出る。
…鷹野に関心を持った入江が、何かを調べてくれるといいのだが…。
;■部活メンバーに相談
「……どうですか梨花。何か収穫はありましたのですか。」
「あったと言えばあったし、なかったと言えばなかったし。…微妙なとこね。でもいくつか面白いことがわかったわ。1つは、入江機関は三ヵ年計画で雛見沢症候群を撲滅しようとしていること。これは研究を続けたい鷹野にとって不愉快なこと。彼女は単身上京し、「東京」の連中に研究の継続を訴えたけど退けられたんだとか。……これがきっかけで、何か自暴自棄になるようなことがあるかもしれない。もう1つが面白いの。緊急マニュアル第34号とかいう物騒なやつよ。私が死ぬとそれが執行されて、この村は丸ごと毒ガスで抹殺されるそうなのよ。」
「……あぅあぅあぅあぅ…。」
「私が死ぬと、村人全てが末期発症するというのがあるでしょ。鷹野はそれが見たくて私を殺すのかとも考えたんだけど、緊急マニュアルとやらがあるから、それを見ることができる前に村は滅んでしまう。…だから、これも動機ではなさそう。いくら入江に聞いても、そんな馬鹿なばっかり。…彼に言わせると、事態の重要性を一番理解しているのが鷹野、ということらしいわね。ゆえに、一番殺す理由がないと。」
「………あぅあぅあぅ…。」
「わかってるわ。まだ入江1人に聞いただけよ。他の人から情報や知恵をもらえる可能性もあるんだしね。」
「そうです。みんなの力を合わせないと、奇跡は起こせないのです。」
「奇跡でも起こさなきゃ、絶対に勝てない相手だものね。」
「……もうすぐお昼休みなのです。みんなに相談するいいチャンスだと思いますです。」
「とは言え…。どう話せばみんなが真剣に聞いてくれるかが問題よね…。「東京」という秘密結社が、なんて話をしたら、それ何て漫画?って言われちゃうに決まってるわ。…誤解のないようなうまい言い方を考えないと。」
「……あぅ☆ 多分、深く考えず、そのまま話した方がうまく行くと思いますのです。」
「本当に………?」
「そうなのですよ。まぁ試してみるのです。僕が言うような言い方をすれば、茶化さず聞いてくれるどころか、ものすごく真剣に相談に乗ってくれると思いますです!」
私は訝しげな顔をするが、羽入はあっけらかんとそう言う。
何だかんだ言って、羽入も色んな人の人間観察をしている。
魅音と直接話をしたことはなくても、彼女については私以上に詳しく知っているのだ。
私は羽入の教えてくれた言い方で、昼休みにみんなに相談を持ちかけた…。
「ふむふむ…! そりゃ面白いね。それでそれで?!」
「はぅ〜! 梨花ちゃん、すごいね! そんなのよく思いつく!」
「だよなぁ! 意外な才能にちょっと驚きだぜ。確かにもうちょい煮詰めりゃ結構、面白い漫画が描けそうだ!」
「私は呆れましてよ! 今朝から調子が悪そうなんで、どんな悩み事があるかと思ったら! そういうことなら、まずはイの一番にこの私に相談あそばせ!」
「……ね? みんなとても頼もしいですよ。あぅあぅ!」
「た、……頼もしいわね。…物は言いようなのね…。」
ペン入れにトーンに背景に、
写植に校正、
入稿、
出版、
頒布にサポートまで全部できるからねぇ。私に相談したのは実にナイスだよ!」
「あぅあぅ! 魅音がすごいのです! 漫画家も編集者も出版社も本屋さんも全部1人でやれてしまうのです!」
「へー?! ウチの親父もそんなこと言ってるぜ? そういう全部自前でやるのって流行りなのか?」
「はぅ…。レナはそんなことより魅ぃちゃんのジャンルが気になるかな、かな。」
「ほらほら! 話が脱線してましてよ! みんなで梨花に協力しましょうですわ!」
……私は彼らに、雛見沢を取り巻く状況を素直に話した。
そういう漫画を描こうと思っていて、設定を煮詰めているから協力してほしいと言って。
普通に状況を話せば正気を疑われるが、ちょっとこんな前置詞を付けるだけでここまで変わるとは……。
…羽入、あんたやるわね。
「何しろよ、その女王感染者が死ぬと、その緊急措置が発動になって、村がまるまる全滅させられてしまう、っていうのが最大のポイントだよな。」
「そんなすごい人がいらっしゃったら、…もう要注意ですわね! 豆腐の角に頭でもぶつけられたら、それだけで村が全滅ですもの! 捕まえてぐるぐる巻きにして土蔵にでも放り込んでおいた方がいいに決まってますわ!」
「でも、そうしないで殺しちゃうんだよね? そんなことしたら大変なことになっちゃうってわかってるのに、何で殺さないといけないのかな、かな。」
「……そうなのです。秘密の研究所の中にいる、その悪役は、大変なことになると知っていてボ、…じゃない、女王を殺そうとするのです。でも、もっともらしい動機が思いつかないのです。」
……その動機の輪郭らしきものはおぼろげに見えたり見えなくなったりするのだが…。
詳細な事情のわからない彼らに、それのヒントが見つけられるだろうか…。
「わっはっはっは! そんなの全然楽勝じゃぁん! 女王を殺せば村中が滅ぶという設定だけで、もう充分に動機は構築できるよ。」
魅音はからからと笑いながら、私が昨夜からずっと頭を悩ませることを、あっけらかんと笑い捨てた。
「……でも魅音。その悪役は病気のことをもっと研究したいと思っているから、それがおしまいになってしまうようなことを自らやるはずがないのです。あぅあぅ。」
「そんなの大した問題じゃないって。その悪役にさらに黒幕を設ければいいんだよ。あるいは、その悪役を利用しようとするさらに悪役というか。」
鷹野を利用しようとする、悪役…?
「いい? 女王が死ねば村が大混乱に陥る。それを隠蔽するために大掛かりな抹殺作戦が決行される。これはね、基本的に最悪の事態への対応策であって、決して抜いてはならない伝家の宝刀な作戦ってわけ。抜いてしまったら、取り合えず事態は収拾できるだろうけども、ただでは済まされない大事になるんだからね!」
「ふむ! 確かに。政治家の世界って、必ず責任追及とか辞任要求とかそんなのになるもんな。そんな何千人も殺すような作戦が実行されたら、その後に必ず、そういう事態を招いたのは誰の責任だーって騒ぎになるだろうからな。」
「まぁ、秘密作戦だからその騒ぎは表沙汰にはならないだろうけど、その「東京」という組織内でかなり強烈な責任追及が行なわれるのは間違いないだろうね! ってことは、それだけで充分、女王を殺す動機はあるってことじゃな〜い。」
「……あぅ? どうしてなのですか? そんな大騒ぎになって、何か得をする人がいるというのですか…?」
「いるよいるよ、いるに決まってるじゃん! いい? 世の中に吹く風は必ずどちらか一方に流れる。それはある人にとっては逆風になるけど、必ずいる反対向きを向いてる人には追い風となる! どんな出来事だって、必ず損をする人と得をする人がいるんだよ。」
「…なるほど。ほっほっほ! 私のトラップ脳がギンギンしてきましてよ〜! つまり、そんな大事になれば、責任を取らされる人たちがいる。その人たちと対立している人たちにとっては、とてもおいしい事態というわけですわね?!」
「そうだね。どんな組織にも勢力や派閥があって意見を違えてる。増してや、「東京」なんていう巨大な黒幕組織だったら、その強力な力を巡って色々な人たちの思惑が入り混じってるはずだよ。」
「ってことは、誰かを蹴落として成り上がりたいって思ってる連中にとっては、女王を暗殺して大騒ぎを起こすことは、充分価値があるってわけだ。」
「……つ、つまり、鷹、
「くっくっく! そういうことよ! あ、でね、秘密研究所の悪役はこういう設定にするの! 本当は研究をもっと続けたいんだけど、それが3年で打ち切られるって話が決まっちゃってるわけでしょ?/
だからさ、その研究員は自分がこれまで研究してきたことを全部、無に帰されようとしている。つまり、自分が半生をかけて築いた成果が台無しにされそうなんで、非常に辛い思いをしている。いや、それだけじゃない。ものすごくプライドを傷付けられていると思うんだよね。」
「そうだな。その悪役が半生をかけるに値すると信じた研究が、上位の組織に認められず、3年でおしまいにしろなんて言われたら、自分の人生を否定されたように思うだろうからな。」
「それは、きっと辛いだろうね。自分の積み重ねてきたものを全て否定されるのは、きっと傷つくね…。」
「………梨花…。」
「……う、何てこと…。……やっぱり、……私の仲間たちは最高じゃないか…。鷹野の輪郭に少しずつ近付いてきた…。
「…あ、あぅあぅ! となるとその悪役は、その、どういう行動に出るのでしょうか。」
「そりゃあ、最初にやるのは陳情だろうね! 研究を中止しろと言った「東京」に、自分が研究している奇病はこんなにも重要で興味深い! だから研究中止を撤回してくれと訴えるだろうね。 まぁそれでさ、あっさり「東京」が、ハイ了解、研究続行、予算も増やしますって言っちゃったら、漫画にならないよねぇ!/
くっくっく! そこはさ、きっと「東京」のボスたちに、こてんこてんに扱き下ろされるわけよ! お前の研究など下らない、こんな予算の無駄遣いの研究などとっととやめてしまえってひどいことを言われちゃうわけよ!」
鷹野は研究の延長を求めて上京したと入江が言っていた。…そして、それを却下されたとも言っていた。
「ほっほっほ! 自分の人生をかけた研究を否定されたら、その怒りは凄まじいですわよ〜? となれば、やることは2つしかないですわ!」
「……さ、沙都子。それは何?」
「決まってるじゃねぇか! 泣き寝入りか復讐、だろ?!」
圭一と沙都子がパチンと手を打ち合う。
「まぁ、そこで泣き寝入りじゃあ面白くないよね! となればさ、誰よりも慈しみ研究してきたその悪役研究員はさ、他の人の手で自分の研究成果が破棄されるくらいなら、せめて自分の手で、なぁんて自暴自棄なことも考え始めるわけよ! プライドが高いゆえにね!」
「をっほっほっほ! そこでさっき考えた話の、「東京」の何者かの思惑が出て来るわけですわ!」
「……ま、まさか! 村が大事になれば、誰かが責任を取らされ、誰かが得をするというさっきの話なのですか…!」
「まさにそれですわ!! 悪役の研究員は研究の生涯を否定されて落ち込んでいる。それをうまく焚きつければ、自分の手を汚さずに村は大惨事! 自分は後から悠々と責任追及に加わってウマウマー! でございましてよ!」
「そういうこと! くっくっく! だからね? 自分の生涯を否定された悪役は落ち込んでるわけよ。そこへ、「東京」の中で誰かを蹴落として出世を目論む若き幹部がさ、その悪役に工作員を派遣して籠絡するわけよ。」
「…自分の存在を否定されて落ち込んでるんでしょ? ……なら、その研究を私は信じてるよ、がんばって、なんて励ましたら、簡単に取り入れちゃうかもしれないね。…プライドが高い人ほど、もろいものだから。」
「ってことはつまり、その悪役も、もっとド汚ぇ黒幕に利用されてるだけってことなんだな。あぁ、戦隊モノの悪の幹部にもそういうキャラっているな! 今までがんばって悪の組織に貢献してきたのに、1つの失敗だけで手の平を返したような仕打ちを受けて、処分されてしまう気の毒な感じのやつ!」
「というか、このトラップにおいては、実行役の悪役研究員の始末は絶対でございましてよ? 黒幕にとっては、生かしておく価値がありませんもの!」
「くっくっく! そういうことだねぇ。その悪役も、チョイ悪を気取ったつもりだろうけど、結局は、人生を否定されるし黒幕に利用されるし、しかも最後には口封じで消されちゃうんだろうから、悪役とはいえ、ちょいと同情を誘いそうだよね。/
まぁそういうキャラの立て方もありじゃないかなぁ! …いや、むしろありだよね? 次の新刊では考えてみるかな…。」
………私も羽入も、ただただ唖然としてみんなの話を聞いている。
やっぱり、すごい。こいつらは、すごい。
それはとても考えられることだし、鷹野の性分を考えてもありえないことじゃないという気がする。
…そういえば入江は、ありえないありえないと、否定の言葉をやたらと重ねていたっけ。
…それはつまり、…ひょっとするとありえるんじゃないかということの裏返しなのではないか。
今のみんななら、私の疑問の外堀を埋められるに違いない。……聞いてみよう、聞いてみよう…!
「……あぅ。では、なぜそれを3年も猶予が残っているこの今に自暴自棄になるのでしょう。」
「猶予なんか問題じゃねぇだろ。今日死刑になるのも、3日後に死刑になるのもまったく同じだぜ? 要はその猶予幅の問題だってだけだろ。3年の猶予じゃなくて、3年後に死刑って言われたように感じてるわけさ、その悪役は。」
「そこは、多分、黒幕たちの都合だね。彼らの都合で悪役を操ってるわけだからさ。この時期に村を滅ぼしたい都合は、悪役じゃなく黒幕の方にあるんだと思うね。/
…何しろ、これだけの大作戦なんだからさ。起こしたら成功以外はありえない。成功させる鍵は、女王の暗殺だけじゃないよ。暗殺後、緊急マニュアルの執行をトップに決断させなきゃならない。他にも作戦後の責任追及についての事前準備とか、いやいや! この作戦で一番ダメージが与えられる効果的な時期とかね! そういうのを計った上で、3年の猶予を余した今、大作戦を実行させるんじゃないのかい?」
「結局、その悪役は、何から何まで利用されて、しかも最後はトカゲの尻尾切りなわけだ。悪役とは言え、気の毒なヤツだぜ。」
「……な、
「…で、では、一番重要なことに話を移しますです。それに立ち向かうために、女王の少女はどう戦えば良いのですか? その子が主人公なのです。」
「ほうほう! そりゃあ面白そうだな! つまり命を狙われてる女の子が何とか魔手から逃れられればいいわけだな。」
「連載形式によるねぇ。長期連載ならダラダラと逃げ延びて、次々新しい追っ手や刺客が現れた方がネタ切れにならないよ。」
「……あぅ、できれば短期集中連載がいいのです。」
ぷ。羽入の例えに思わず噴き出してしまう。
「となれば、何とか悪役をやっつけて、ハッピーエンドを目指すしかねぇよな。逃げるより戦う展開の方が熱いってもんだぜ!」
「でも、主人公はただの女の子なんでございますわよね? どうやって戦うんですの?」
「くっくっく!/
今時の少女主人公は無力なんかじゃないよ!/
一見、しおらしい可憐な少女なんだけど、/
秘められた秘密の超パワーを隠していて、/
実は王家の血筋を引くSランクのハンターで、/
二つ名は漆黒の堕天使とかってのはどうよ!!」/
「はぅ。何だか痛い中学生の創作みたいだねー。」/
「…どうしたよ魅音。お腹でも痛ぇのかよ?」
「うぐぐ…、ど、どうせおじさんは永遠に孵化しないピッキなのさ…。」/
…魅音、超頑張れ。その漫画、十年後とかに読み返すと甘酸っぱくて悶絶できるかもね…。
「……あぅあぅ。魅音が何を言ってるかよくわかりませんが、とにかく主人公の少女はか弱くて、特別な必殺技とかはないのです。…強いて挙げれば、…………猫かぶりがうまいです。あとすごく意地悪で、よく僕を辛い物で苛めますのです。」
「…それはいい設定ね。さっそく今夜から実践するわ。」
「あぅあぅあぅあぅあぅ!!」
「なるほど、等身大の主人公だってことはわかったぜ。……でも、その主人公がこの陰謀に打ち勝つストーリーってのは、こりゃ難しいな。」
「無理無理絶対に無理ぃ〜! 最低でも武器全般が扱えて、無線技術にヘリの操縦くらいはできないと勝てるわけないー! さもなきゃソ連の軍事顧問団に特訓を受けたサバイバル技術のプロとかね。ジャングルに潜り込めば、わずかの武器とトラップだけで敵部隊をまるまる混乱させられるくらいのヤツとか!」
「……その主人公に、魅音と沙都子が友達だったなら、それで解決の気がしますのです。」
「ふぇ? おじさん?!/
……くっくっくっく! そりゃあ、おじさんがいりゃあ話は変わってくるねぇ。私はあらゆる戦闘技術、指揮技術がランクS。加えて、この村がその漫画の舞台だってんなら、土地勘もランクSだしね! さらに沙都子を敵に回すってのはなお致命的だよ。ねぇ?」
「その悪役がどんな秘密部隊を従えてるのか知りませんけど! 私のトラップ技術の前には物の数ではありませんでしてよ! その主人公がどんな敵に追いかけられましても、私と一緒に裏山へ篭城してくだされば、指一本触れさせませんわ!」
「うん。沙都子と裏山に篭城すれば、攻め手側は、裏山をまるごとえぐるくらいの艦砲射撃に、ハノイクラスの重爆撃は最低限必要だね。そこまでやってからの裏山突入でも、なお手痛い損害を被るだろうねぇ。しかも作戦指示は私!/
……まぁ、攻め手側には硫黄島上陸戦クラスの損害を覚悟してもらうことになるだろうねぇ! くっくっく、ねぇ沙都子ぉ?」
「をっほっほっほっほ!! 私の芸術的裏山を破ろうと思ったら核弾頭でもお持ちあそばせー!!」
「……確かに、沙都子の裏山はすごいですが、
「奇襲とトラップってのはね、相手が誰であっても非常に効果があるんだよ。ベトナム戦争がいい例でしょ。世界最強の米軍が最高の装備で挑んだのに、あの密林には通用しなかった。土地勘のある人間が十重二十重に張り巡らしたトラップというのはね、どんなベテランも絶対に侮らない恐ろしい防御力があるんだよ。」
「……その沙都子のトラップは、彼らにも通用するということ…?」
「もちろん! いや、それどころか、ベテランゆえに足止めの効果が大きいかもしれない。トラップは引っ掛けるだけが効果じゃない。引っ掛かるかもしれないと怯えさせる効果も大きいんだよ。ベテランゆえに慎重になる。ゆえに、裏山への直接侵攻に彼らの指揮官は及び腰になるだろうね。それはつまり、相手が素人である時より時間が稼げるってことだからね。」
「へへ! 攻略には艦砲射撃くらいは必要ってわけだ。まさか、戦争中じゃあるまいし、敵にはそこまではできないんだろ?」
………さすがに、そこまでは無理だろう。
とにかく、魅音は戦術判断については逸脱してプロフェッショナルだ。
その彼女が、山狗相手にも沙都子のトラップは充分効果を発揮すると太鼓判を押すのは心強い。
「トラップの弱点は、防御にしか使えないことと、設置に時間が掛かること、そして無差別に発動してしまうことにあるんだけど、その点、沙都子の裏山は全ての条件を満たしているね。」
「そ、そうだね。裏山に立ち入る人はいないし、すでに沙都子ちゃんのトラップでいっぱいだし。逃げ込むだけですぐに篭城できるのは、その主人公の大きな強みになるね。」
「そこにおじさんもいるわけなら、その篭城をただの立て篭もりには使わないね! 敵の主力を引き付ける何らかの陽動に使って、その隙に敵を叩く奇襲作戦で行く!/
敵を深く誘い、手薄になったところを背後から叩くのは、迎撃・反撃戦術の初歩だよ。水際で絶対撃退なんて、石頭の極みだからね!」
「はぅ〜! 魅ぃちゃんと沙都子ちゃんすごいすごい…!/
でも、はぅ、レナと圭一くんだけ置いてきぼりだ…。」
「……なら、僕たちが主人公ということにしましょうです。みんなで仲良くやっつけるのです。」
「よっしゃ!! そう来なくっちゃな! へへ、何だよ、俺たちまで加わるってことは、それって部活メンバー対、悪の組織ってことになるわけかよ。」
「…くっくっくっく、ひっひっひっひ! どんな悪役だか知らないけど、その悪役たちはツイてないよ。どの程度の手勢か知らないけど、くっくっくっく!/
正面からぶつかり合うならいざ知れず、私たちに地の利を使わせちゃったら、この村じゃ勝てないよ。雛見沢で私たちに勝とうと思ったら、オーバーロードクラスの大作戦がほしいとこだからねぇ! もっとも、我が部ならそれすら撃退するけどさぁ…! くっくっく!」
魅音が頼もしくみんなに笑いかけると、みんなも頷いて返した。
……すごい。我が部が策を尽くしたなら、例え山狗が相手でも何とかできるのではないかと思ってしまう。
確かに、正面からぶつかれば、例え不意打ちをしたとしても、あっという間にやられてしまうだろう。
……でも、仕掛けるのはこちらで、仕掛けも充分に用意できているとなると、……話はまったくわからなくなる。
「……ね、梨花? みんなはとっても頼もしいのです。」
「…………まったくね。…こんなにも頼もしい味方に、どうして私は今まで打ち明けなかったのか。」
「……ひとりでは出来ないことでも、みんなでなら出来るのです。」
ひとりでは奇跡でも起きなかったら絶対成しえないことでも、…みんなでならあっさりできる。
……つまり、それは奇跡ってことだ。
胸の奥がわくわくしてくるのがわかる。
……この感情は何だろう? 今の彼らと一緒なら、不可能などないような気持ちになってくる。
……羽入が教えてくれる、私の知らない世界では、彼らはあの鉄平の帰宅という最悪の不幸すら打ち破ったというではないか。
……それを私は覚えていないのに、
「……み、魅ぃ。それにみんな。……もっともっと、アイデアがほしいのです。私たちがどうやったらこの陰謀に勝てるのか、…もっともっとボクに教えてほしいのです…!」
;■富竹に相談(神社、境内裏で富竹と秘密相談〜)
私が呼び出したのは富竹だけのはずだった。
だがそこへは入江も一緒に来た。
……入江としては、今朝、私に言われたことが気になって仕方がないが、自分だけでは判断がつかないので、富竹にもぜひ話を聞いてもらいたいという様子だった。
自分は口を挟まないと先に断ると、私たちから少し離れたところに腰を下ろすのだった…。
「入江所長に聞いたよ。………どうして君は鷹野さんを疑ってるんだい? だって、そんなことをしたら、大変なことになるのを一番よく知っているのが鷹野さんじゃないか。/
…それに、鷹野さんは君や沙都子ちゃんにあれだけ親切にしてくれたんじゃないのかい…? それに対し、命を狙ってるように感じるなんて、…ちょっと鷹野さんに悪いようには思わないかなぁ…。」
富竹のこの反応は充分に予想していた。
今日の午前中までなら、この先を続けることもできないのだが、私は富竹がこう切り出してくるのを完璧に予想していたので、うろたえず続けることができた。
「……富竹。正直に答えてください。そして、真剣に考えてください。……正常な鷹野なら、ボクを殺すようなことは絶対にないと思いますですが、
「…そ、それはどういう意味だい…?」
「鷹野は雛見沢症候群の研究に生涯をかけてる。それは事実?」
「……う、うん。…ここだけの話、雛見沢症候群の研究は彼女が中心なんだよ。入江所長は表向きのトップで、研究の一番の中心は鷹野さんなんだ。/
…………これは内緒だけど、
「……そんな鷹野にとって、研究の方針が変わり、3年で研究を終了と宣言された現在の状況はどんな気持ちなの? ……鷹野は単身上京して、研究の続行を訴えたけど、却下されたんでしょう? …それは鷹野にとって、自分の人生を否定されることと同じ。とても傷ついたんじゃないの…?」
「……………梨花ちゃん、君はどこでそれを…。」
そこで富竹は一度沈黙する。
私の言っていることが的外れでないことがわかったからだろう。
「…………た、
「でしょう? そんな鷹野が、どうせ打ち切られる研究ならと、自暴自棄にならないなんて、絶対に言えるの?」
「い、
入江と同じだ。
ありえないと連呼しながらも、それでも完全に否定できないのだ。
だから、恐ろしい想像を否定しようと、何度もそれを口にしてしまうのだ。
………実際のところ、敵が鷹野だとわかっていても、…鷹野がどうして私を殺そうと企むのかは、私たちにとって想像する以上のことはできない。
鷹野をふん縛って、カツ丼食わせながら白状させる他に知る方法はない。
しかし、富竹に鷹野を疑わせる意味はあるのだ。
……富竹に鷹野を疑わせ、私の味方につけることが大事なのだ。もちろん、これも我が部の部長の作戦だが。
「………確かに、少々恐ろしい想像ではあるけれど、
「……傷心の人は、誑かされやすいということはありませんですか?」
「たぶらかされる、
「富竹。ボクが死んだら大変なことになりますね? 緊急マニュアルが執行され、村が丸ごと抹殺される。」
…何ともヘタクソな誤魔化し方だ。
バレバレというか、裏表がないというか、隠し事ができないというか。………ゆえに、いい人なのだろうが。
「入江に聞いていますから知ってますです。時間がもったいないので、誤魔化しっこはなしにしましょうです。……その緊急マニュアルは、あくまでも最後の手段ですから、それを実行すれば、大変なことになりますですね?」
富竹はほんのしばらくの間、緊急マニュアルの存在を認めていいものか迷ったが、入江が話したという事実と、私が女王感染者という当事者の一人であることを加味し、その存在をおずおずと認めた。
「……あぁ、大変なことになるよ。村をひとつ消し去るなんて簡単なことじゃない。危険な橋をいくつも渡らなければならないし、仕方がないとはいえ、人道的に許されることじゃない。本当に大変なことになるよ。」
「単刀直入に言います。その緊急マニュアルで得をする人間がいるはずなのです。」
「まさか! いるはずがないよ…! それどころか、責任問題やら何やらに発展し、場合によっては東京だけでなく、政府内の問題にも発展しかねない…!」
「……となれば。その騒ぎで得をする人がいるのではありませんか? 緊急マニュアルが執行されるようなことになれば、執行はやむなく行なうが、その後、そうしなければならない状況に陥らせた人間たちへの責任追及が始まる。…具体的に言うと、入江機関を統括している上の連中ね。その黒幕たちが責任を追及され、「東京」で失脚するということは?」
「…………………ん、
「ポストは有限。狙う人間は常にいる。それを奪うために、緊急マニュアルという危険な爆弾の導火線に火をつけてみようという人たちが、いてもおかしくないんじゃないかしら…? 自分は安全な場所に隠れていて、全て吹き飛ばした後、空いたポストにちゃっかり座る。」
「………………………ぅ………。………むむむ………。」
この辺りはすべて魅音の受け売りだ。
「東京」のことなど欠片ほども知らないはずなのに、当事者の富竹をこれほどうろたえさせる核心を突くとは……。
……魅音は確かに、我が部の誇れる最高の指揮官であり、参謀だった。
富竹はいつしか腕組みをして落ち着きがなくなり始めていた。
…私の話が、ただの世迷言の域を出ていると気付き始めたようだった。
「……………確かに最近、東京である大物が死去してね。それに伴い、後釜を巡って派閥抗争がとても激しくなっているんだ。入江機関のクライアントであるアルファベットの理事会も粛清と呼ばれるほどの人事の大刷新があってね…。それで、旧派閥の庇護を受けていた入江機関は槍玉に挙げられて、研究の即時中止が決められた、みたいな話はあるんだよ…。」
「……そんな中、もし私が死に、緊急マニュアルが執行されなくてはならなくなったら、入江機関とその黒幕の理事会、
「……創作ですか? 事実ですか?」
「…………………………ど、どうだろう。でも、今の東京のごたごたを見ていると、
「…富竹。……富竹はいい人です。親しい友人のことを信じる、とてもいい人だと思います。…だから、そんな富竹にこう言えば、受け容れてもらえないことはわかってる。…………でも、入江機関への監査役である富竹二尉にボクは訴えねばなりません。」
「……………………まさか、……それで、
「はい。……研究の継続を却下され自分の人生を否定された鷹野は、のみならず理事会から扱き下ろされてとても傷ついています。…それはいつも側にいる富竹ならわかっているはずです。」
「……………………………。」
「……その傷心の鷹野に、彼女を利用したい何者かが接触し、唆すというようなことはありませんですか。………傷ついた人は、自分を理解してくれる人に心を許してしまいやすい。……鷹野に、「東京」での混乱を目論む何者かが接触して取り入り、何かを焚きつけたかもしれないのです。」
富竹は、鷹野さんに限ってそんなことは……、と何度か繰り返したが、やがてそれも治まり、再び沈黙した。
富竹だって大人だ。
傷ついた人の心について思いを馳せるだけの人生経験はある。
……だからこそ、今、鷹野がとても傷ついていて、……それを利用してもおかしくない何者かがありえることがわかる…。
「…………梨花ちゃんの言い分はわかったよ。…僕も、鷹野さんを本当の意味で信じるために、…そういう疑いがないことを先に晴らしておく必要があるね。」
「富竹…。」
「すぐに山狗の小此木くんと東京に連絡して、鷹野さんの近辺に不審な動きがないか確認させるよ。山狗は防諜が専門だから、」
「駄目です。山狗も鷹野の手先です。」
「な、……何だって……。」
「……鷹野を懐柔するような相手です。もちろん山狗にだって手を打っています。」
「富竹。鷹野と山狗に内緒で調べてください。入江はボクの味方ですが、「東京」については詳しくありません。」
「……はい。私は一研究者に過ぎません。所長という肩書きも、彼らの都合でもらったお飾りに過ぎないことを認めます。……ですから、私では梨花さんの疑念を晴らしてあげることができません。」
「…………わかりました。…万が一、入江機関が謀反を起こす可能性だって、予見されてないわけじゃない。…そのために僕が送られてきているんだからね。………鷹野さんと山狗の近辺について、至急、調査させるよ。」
「……………ボクの話を信じてくれてありがとうです。…ボクの話を信じてくれたのはこれが初めてなのです…。」
数多の世界で笑い捨てられた。
…それが、…ついにとうとう、富竹に話を聞いてもらえたのだ。
……富竹は、鷹野たちと戦う上で強力な味方となるはず…。
そして、その富竹に話を聞いてもらえるよう私に仕込んでくれた部活メンバーたちには大感謝だった。
入江から状況を聞き、それを部活メンバーに話して分析してもらい、だからこそ富竹に話を聞いてもらえる…!
羽入の言う通りだった。
ひとりでうじうじしていたら何もできなかった。
でも、みんなに相談したら、あっという間に状況が変わり始めている…!
「……実は今日から、しばらくの間、身を隠そうと思いますです。魅音の家には秘密の地下があり、好都合なのです。」
まだ魅音には、このことは相談していない。
……でも、今の魅音なら多分、私の話を信じてくれると思う。
「なので、何かあったら、魅音に連絡してください。……僕は今日から当分の間、行方不明ということにしてくださいです。」
「……了解したよ。僕もそれが安全だと思う。僕は普段通り振舞うよ。不審がられないためにね。もちろん用心はする。…入江所長も普段通りにしてください。ですが、常に用心を。」
「わ、…わかりました。せいぜい用心します。」
「……富竹、気をつけて。あなたは近日中に暗殺される気がしますです。」
「……………………………。」
この一言が、これまで一度も真剣に受け止めてもらえたことはない。……頼む、
「………わかった。特に用心するよ。ありがとう。」
その時、富竹がはっとして振り返った。
その様子から何か異様なものを感じたので、私と入江は焦り、身を硬くする。
すると、
何と言う無用心なのか、私たちはこの話を誰かに聞かれていた?! まさか、…鷹野たちに?!
「…………………んっふっふっふっふっふ。」
そのクセのある笑い声には聞き覚えがあった。
「………こんにちは。これはこれは、珍しい面々ですねぇ。入江先生に富竹さんに、梨花さん。……私も雛見沢に出入りして長いですが、何とも珍しい取り合わせです。」
「…こ、
入江がこの場をはぐらかそうとするが、一部始終を大石に聞かれてしまったのは明白だった。
……「東京」の人間である富竹たちはともかく、
……話がややこしくなりかねないばかりか、鷹野たちの裏をかこうというこのタイミングで…、とにかく、……なんてツイてない…!
「いえね? ご自宅にお伺いしましたら、北条さんに、こちらにおられるとお聞きしたもので。そうしたら、皆さんの密会にばったりと出くわしてしまったというわけだったのです。……いや、お邪魔をしてしまったようで、申し訳ございませんですねぇ。…んっふっふっふ!」
場が凍るように沈黙する。
大石のこの言い方は探るような言い方だ。
…大石自身、話の一部しか聞いていないので、その内容を把握しきれていないのだろう。
…だから、私たちの方から白状させるような回りくどい言い方になる…。
「皆さん、そんなおっかない目で見ないでください。照れちゃいます。…いえね? 今日来た理由は他でもありません。梨花さんに、懐かしいお友達を連れてきたのですよ。/
んっふっふっふ! 梨花さん、覚えててくれるかなぁ。忘れられちゃってたら、彼、はるばる来てくれたのに、泣いちゃうかもしれません。んっふっふっふ!」
……え? ………え??
その回りくどい言い方が示す人物の名を、私は1人しか知らない。
でも、彼が昭和58年6月に来てくれたことなんて、…あったっけ……?
で、でも、
「ささ、どうぞどうぞ。」
大石に促され、……現れた精悍な男は、
「あ、……………赤坂………………。」
「覚えてくれていてありがとう、梨花ちゃん。…はははは、今度は東京へ帰れなんて言わないだろ?」
「……あ、
「君の助け、…ちゃんと覚えてたよ。………あるいは、一度は忘れてしまったのかもしれない。でも、……それを忘れたらきっとものすごく後悔するに違いないんだ。/
…だから、ちゃんと思い出したよ。…君が教えてくれたから雪絵に電話して、雪絵が事故に遭わなかった。だから君は雪絵の恩人なんだ。………だからその恩を、私は今、返しに来たんだ。…………………本当に長いこと忘れていた気がする。…でも、ようやく思い出したよ。……長いこと、待たせてすまなかったね。」
「…ほ、
「私は無条件で君の味方だ。君のどんな不思議な話も信じるよ。そして、君の命を狙うという敵を必ず打ち砕いてみせる!!」
…赤坂はそれを口にしながら、とてもとても不思議な記憶を思い出していた…。
それは、誘拐事件で雛見沢を訪れている間に、妻を事故で失い、……その悲しみから少女の助けを忘れ、………それを手遅れになった後に思い出して、自分の無力さを嘆く、辛く悲しい世界の記憶。
そんな、ここじゃない世界の記憶が、赤坂をここへ招いた。
その言葉が、……自分には味方がいないと長いこと信じてきた梨花にとってどれだけ染み入るものだったのか。
…赤坂の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らす様子から、それをうかがうしかない…。
「……いや、私ゃ見ていませんよ? 東京に奥さんがいるのに、雛見沢にこんな幼な妻の現地妻がいたなんて知りません! えぇえぇ知りませんよ〜?」
「お、大石さん、
ひとりでは鷹野に打ち勝てないと愚痴った。
それを羽入に諭された。
みんなに協力を求め、1つのことを信じれば必ず奇跡が起こると諭された。
…内心、そううまく行くものかと思ってた。
なのに、入江に話し、みんなに話し、富竹に話し、どんどん、どんどん流れがよくなってきて、………そこにさらに赤坂が帰って来るという奇跡まで重なるなんて………。
赤坂は帰って来るべくして帰ってきたのか。それとも、……これが奇跡なの?
起こるんだ、奇跡は。
…今まで一度も助けに来てくれなかった男が、それでいて一番頼もしいかもしれない男が、
「………………ね? 起こるのです。奇跡は。」
「……起こるね。起こせるね…。まだまだ、まだまだ力を合わせたなら、もっと奇跡は起こるのかな。…そしたら、……昭和58年の呪いを打ち破れるくらいの奇跡を、起こせるのかな……!」
「起こせますです。だって、…昭和58年6月は、みんなが手を取り合わないと、破れないのですから。」
………かつて傍観者だった羽入に諭される。
戦うふりをして、実は一番不貞腐れ、一番傍観者だった私に諭す…。
「……大丈夫かい、梨花ちゃん。」
「…………ご、…ごめんなのです。…ちょっと……、懐かしかったので取り乱してしまいましたです。……みー。」
私はそう誤魔化しながら、感涙に潤んだ目を擦る。
ひぐらしの声は、さっきから何も変わっていないのに。
私に最初からとても大切なことを訴えていたような気がして。……私は大切な何かを教えられたような気持ちになり、もう一度だけ目を潤ませるのだった…。
「は、はははは。これは、驚いた。梨花ちゃんに素敵な彼氏がいたものだね。…はははは。」
「…自己紹介します。私は赤坂衛。警視庁公安部の資料室第7室に勤めています。」
「………東京の公安部資料室は確か、内調別室並みの極秘部門ではありませんでしたか。…秘密警察の批判もあるような極秘の強硬捜査部隊だったはずです。」
秘密部門にわざわざ秘密と冠する馬鹿な部署はありえない。
本当に秘密の部門は、一般を欺くために、一見、下らなさそうな名前をしているものなのだ。
それは赤坂の部署も同じだ。
資料室という名前を持っているが、彼らが資料室の管理人であるわけもない。
「…お詳しいですね。公安部資料室の正体を知っている方がいらっしゃるとは思いませんでした。……先ほどのお話から察するに、どうやら訳ありの方とお見受けします。」
「……いや、はっはっはっは! ちょっとマニアでしてね。たまたま知っていただけなんですがね。…はっはっは…。」
「富竹さん、この際だから、本当の自己紹介をしちゃいません? 私も、あなたがただの旅行写真家ってことはないだろうってずっと思ってきましたから。」
「い、いえ、
どうせ最期の世界だ。こんな腹の探りあいなんて時間の無駄だ。
「……富竹はボクたちと東京の間をつなぐ連絡のお仕事なのです。でも、ボクの味方なのです。」
「「り、梨花ちゃんッ…!!」」
富竹と入江が同時に驚いた声を上げる。
…彼らにとってそれは重要な秘密だし、…それが部外者に知られたら、山狗に処分させなければならないからだろう。
だが、もういい。疑ったり訝しがったり。そんなのはたくさんなんだ!
富竹はもう誰が見ても嘘の上塗りにしか見えないのに、あわあわしながらそれを否定している。
「……入江所長さん、でしたね? 5年ほど前、私が誘拐犯たちとの乱闘で怪我をした時、お世話になりました。あの時は丁寧な治療を本当にありがとうございました。」
「あ、
「そして、入江診療所には、入江機関という別名もある。……そうですね?」
「い、
「んっふっふっふ! 入江先生〜、もう隠しっこはなしにしましょう。私たち、さっきしっかりと聞いちゃってるんですから。」
「……先ほど、入江機関のクライアントのアルファベット、と仰いましたね? 実は、皆さんがお話になられなくても、その一部始終を存じております。つい最近まで私の第7室は、巨額の裏金ルートとそれを牛耳る黒幕たちを内偵していました。アルファベットプロジェクトとは、その裏金ルートの内の1つです。」
それこそが、赤坂があの日、手に入れた極秘書類なのである。
そこには、省庁の公金をプロジェクトに援助する形で、特定の人物たちの私腹を肥やす実態が全て暴かれていた。
……彼らはその裏金で、裏金でしかできぬことで裏から日本再興を図る、と主張していたようだが、それは彼らの中ですら欺瞞。
プロジェクトを牛耳る黒幕たちの莫大な権益となっていたのである。
それを暴けば、日本の中枢が引っ繰り返りかねないくらいの政変が起こる。
…表向きはそういうことになり、その捜査は強力な圧力を受けて中断されたのだった。
「最初にお断りしておきますが、第7室のこの調査はすでに中断され、私たちはその任を解かれています。……ですので、私は業務上知りえたことを勝手に口外しているに過ぎません。もちろん、私は雛見沢へは休暇として訪れています。…そこだけ、誤解がないようにお願いいたします。」
「…………………………………。」
富竹は何とか言い逃れようと、ある意味、職務に忠実に悪足掻きを続けているようだったが、…入江はそうではない。アルファベットプロジェクトの名まで知るなら、もはや何の言い逃れもできまいと腹をくくったようだった…。
「その、裏金ルートから毎年、巨額の裏金が、入江機関という鹿骨市内にある研究機関に流れ込んでいることが、すでにわかっています。…そして、入江機関という機関名にはカッコ書きで、入江診療所との補記までされています。…そして入江機関トップは、自衛隊から出向している二等陸佐、入江京介氏とも。」
「……二佐ぁ! い、入江先生、あんた、…自衛隊の人だったんですかッ!」
「ち、違います違います! 私は自衛隊なんかではありません…。……富竹さん、もうお話しましょう。それに、私たちのクライアントはともかく、私たち自身は別にやましいことをしているつもりはないんです。これ以上をしらばっくれるのは、かえって大石さんたちを疑わせるだけだと思います。」
「……入江の言う通りなのです。大石は、きっとボクたちの味方になってくれますです。」
…あぁ、もうこの期にまで至ると、あの大石ですら味方になってくれるのではないかと思えてしまう。
そうなればどんなに心強いことか…!
富竹は、ここまで話が進んでしまった以上、もう言い逃れはできまいと思ったのか、ここだけの話だと何度も断った上で、…半ば、もうバレていることを認めた。
私はそれを引き継ぎ、…雛見沢症候群という風土病の存在、それの研究のために設立された入江診療所の存在。
…そして自分という特殊な存在と、……それに及ぼうとしている何らかの陰謀についてを全て話した。
大石はそれら全ての話に大仰に驚いていたが、さすがに最後には赤坂に静かにしてくださいと言われ、大人しく話を聞いてくれた。
赤坂は、警察でも特殊な部門にいるというだけあり、私たちの話に特別驚きはしなかった。
…そういうこともあるかもしれない、なるほど…、などと頷き、かなり高い理解力を示してくれていた。
……これは、私にとってあまりに嬉しいことだ。
「…………確かに、梨花ちゃんの言う通り、…恐ろしい陰謀を企む連中がいてもおかしくない。大石さん、これらの話は全てありえる話です。」
「……はあ…。……私ゃ、何かの小説の筋書きみたいな気分ですが…。………いや、
頭の柔らかい赤坂に比べると、大石の頭は少々固いようで、現実離れした話の数々を理解するためには、少なくとも3本以上の吸殻を踵ですり潰さなければならなかった…。
「……ボクは鷹野が怪しいと思っています。ですがその証拠はありません。それを確かめるために、富竹に調査をお願いしていたところなのです。」
「大石さん。その鷹野という女を別件逮捕で拘留することは?」
「………むむむ。退職金が吹っ飛びそうですが、…やってやれないことはないですなぁ。」
「興宮署にも、山狗の防諜要員が入り込んでいるはずです。多分、大石さんがそれを実行しようとしても、署内で圧力がかかるはずです。」
「鷹野さんの調査はこちらでするので、それまでは変に警戒されるようなことは慎んでいただきたいのが本音です。」
「…そうですね。鷹野氏の調査は、富竹さんの機関の人間にしかできないなら、警察が余計なことをしない方がいいかもしれません。/
………それに、どうも関わるヤマが大き過ぎる気がします。……大石さん。冷たい言い方をしますが、…あなたはここで引かれた方がいいかもしれません。」
「…赤坂さん、そりゃどういう意味ですか。」
「先ほども言われました通り、…大石さんは今年で定年じゃないですか。長かった危険なお仕事がようやく終り、その労いとして退職金を得られる直前にいる。……お金は大事です。家のローンの完済や老後の蓄え、そして第二の人生の支度金。ですが、今回のヤマは危険すぎる。……私の勘から言って、このヤマは多分、最後にはなかったことにされる。つまり、」
「全てを失う覚悟がなきゃ、今からでも遅くないから引き返せ、
「…………そうです。大石さんほどの方にこんなことを言うのは、若輩の身には過ぎたこととわかってます。……ですが、私は今日まで一般警察とは次元の違うヤマにいくつも関わってきました。だから、…その経験の上で、大石さんにご忠告させていただいてるんです。」
「……………………………………。」
大石は馬鹿じゃない。…そして大人で、本当の意味で頭がいい。
男としてのプライドだけなら、先輩を馬鹿にするなと赤坂を殴りつけたい気持ちもあるだろう。
だが、赤坂が言っているのは真実であり、退職金というのはそれほど重い。
人は定年退職で三途の川を越えたりはしない。
そこからまだまだ十年二十年と新しい人生が開けていくのだ。
……その第二の人生の基礎となるのが、退職金。
退職金は、ただのカネじゃない。
それはとてもとても重く、あまりに尊い。
雨の日も風の日も、上司や先輩のいびりに耐えて歯を食いしばった。
こんな職場やめてやる、転職して自分にあった職を探してやる、若者なら口走りそうなことを大石だってこの歳になるまで何度呟いてきたことか。
それに耐え理不尽な仕事を黙々とこなした。
給料ではとても報われない仕事をずっと堪えてきた。
そんな思いを、定年まで何十年も!
その末に、やっと与えられるのが退職金というものなんだ。
額が大事なんじゃない。
それまでの人生を評価してもらえるという、心の問題なんだ。
それが、もし不祥事などがあれば、退職金に対する懲罰となって現れる。
……それは、ひとつの不祥事が、大石の警察人生そのものを否定してしまいかねないということだ。
それは、軽くない。
赤坂ならまだ若い。
仮に警察を懲戒されても、まだ再就職を捜せるだろう。
だが大石の歳ではそれは見込めない。
退職金を当てにしたローンの返済計画もある。
……本当の本当に大人だからこそ、
赤坂は、そこまでを加味して大石に言った。
それを大石もわかっていた。
……だから、………今ここで辛い問い掛けをして、
「…………私がお小遣いを残したいばかりに、ずいぶんのんびりしたローン返済をしちゃいましてねぇ…。もっと繰り上げ償還とかしてりゃあ、利子の分、得をできただろうに。…博打やらお酒やら、そんなものに使うお金が残したくてね。……もし私が、ツケを退職金に回すような人生を選ばず、もっともっと賢く生きてきたなら、
大石の握る拳が震えている。
……それは、流し方を忘れた大石なりの、落涙なのかもしれない。
「でもね…、
私が、仇を取るその日まで、たとえ懲戒を食らったって刑事魂を忘れないっていうことなんです! その私が、
雛見沢村連続怪死事件の真相を暴く! 夢にまで願った真相の扉が今ここにあるってのに……!! くそおおぉ、畜生おおぉ!! 警察手帳を叩きつけりゃいい! 警察なんていつでもやめてやるって、何で言えないんだッ!! くそくそ、畜生おぉおぉおお!!」
…誰も大石を安っぽく励ませない。
……それは、人生をここまで堅実に積み上げて来た大石だからこその、岐路。
……積み重ねの及ばない若者風情に何の言葉が掛けられるというのか。
「………大石さんは確か、
「…………………えぇ。友人であり兄貴であり、親父でした。」
「…私は、形式だけとはいえ入江機関の長です。…多分、梨花ちゃんを巡る陰謀が暴かれれば、必ず私にも飛び火し、何らかの形で責任を取らされる日が来るでしょう。…そうですよね、富竹さん?」
「…………………………。」
そのための、形だけのトップ。
…入江機関にとって、入江という存在は、鷹野の研究のために用意されたトカゲの尻尾でしかない。
…それを富竹は知っていたし、…入江だって薄々と気付いていた。
たとえ入江に何の非がなくても、監督責任を問われ引責することになるだろう。
……それが、誰かに責任を取らせて更迭しなくてはならない、組織の禊だ。
そのために、長は多くの手当てをもらっているのだから。
「……全てが終わったら、
「…はははは。/
…………私は、何も聞いていませんので。」
律儀な富竹は、いいとは言えない。だからこういう言い方になる。
「………いやいや、
あれだけ欲した連続怪死事件の真実が目前にあるのに、
……その重みの全てを理解するには、大石と同じだけの人生の苦労を重ねなければならない。
……それは、深く、
「…私に、考える時間をもらうことはできませんかねぇ……。真相を暴き、…悪を討ちたい気持ちはあるんです。……そのために勇気を持つ時間を、
それは誰に問い掛けたものなんだろう。
……大石に性急な決断を迫る資格など、この場にいる誰にもない。
…もちろん、
でも、……大石は誰かに許しがもらいたかった。
一日たりとも冷ましたことのない刑事魂を未だ持ちながら、勇気を見せることに躊躇する自分の不甲斐なさを、誰かに許してもらいたかったのだ。
……でも、それが誰にもできないから、大石の嗚咽を止められなくて……。
「……はい。その時間を、僕は許します。」
羽入? いつからそこに…?
羽入はいつの間にか、そこにいた。
…いや、いつだっている。だって羽入は雛見沢の守り神なのだから。
「……あなたが決心するのに必要な時間を、僕は許します。……あなたは今日まで自分に素直であり、そして厳しくもありながら今日までの人生を積み重ねてきました。そんな、決して軽くない人生だからこそ、決断を求められる時にも、その選択肢は重みを得るのです。軽々しい選択や蛮勇は決して誇らしいものではない。……真に誇るべきなのは、あなたのような真に重い人生を歩んできた者が、本当に重い選択をした時なのです。」
私たちには横柄に聞こえるその言葉も、
そうさ、……大石という最年長者にそれを諭せる人間が、どこにいる?
いない、いるはずがない。
……たった一人いるのは、
「……あなたが冷静で落ち着きある選択をしようとも、勇敢で男らしい選択をしようとも。私はあなたを讃えましょう。それが、あなたの悩みぬいた選択である限り。」
「……………初めて会うお嬢さん、
……私が声を掛けたなら、大石に味方になってくれとか助けてくれとか、そういう言葉を掛けていたに違いない。
…でも、きっとそれは心に届かなかった。
助けてほしいなんて言葉は私の都合だけの言葉。
大石の重い人生に何も思いを馳せない、届かない言葉だったろう。
だから、羽入の言葉は届く。
羽入の口から聞いたことはないが、……羽入は大石が生まれてきてから、今日までの重く長く、辛くもあり楽しくもあった日々の全てを見てきているのだ。
……だから、言える。届く。……羽入だけが、許せる。
「…………入江先生。…たったひとつだけでいいんです。…教えてください。」
「…えぇ。何でも聞いてください。」
「………私ゃ、おやっさんをバラバラにして殺した連中を裏で糸を引いていたのは、園崎家だと信じて追ってきました。…それは正解ですかね…?」
「…………いいえ、
大石は頭を掻くようなフリをする。
……長いこと、そうだと信じて追ってきたことが、…当事者から的外れだと指摘されたのだから、…少なからず悔しい気持ちもあるだろう。
でも、入江の言葉だけでは少し足りない。
それを私が付け加える。
「……大石。オヤシロさまの祟りと呼ばれる事件は、どれも、村人の暗躍によるものではありません。園崎家も御三家も、そして村人も、一切が関係ないのです。」
あったのは、誤解と勘違いとすれ違いと、
散らばった点を無理やり集め、全て村の陰謀に思わせてしまう勘違いこそが、オヤシロさまの祟りの正体と言ってもいい。
「……それじゃあ、私が今日まで集めてきた、園崎家が裏でどうこうってのは、ぜぇんぶガセだったって、そういうことですかね。……ははは。」
「……園崎家頭首には、如何なる天災も全て自らの差し金であるように振舞うべしという秘密の家訓がありますです。……園崎家は何も知らない。いや、それどころか、毎年起こる事件に怯えてすらいる。…でも、それを家の威厳に組み込むため、黒幕を装っているだけなのです。」
「そんな家訓があるのですか……。…なるほど、
「……本当なのですよ。古手家頭首の秘密巻物にも書いてありますです。見ますですか?」
「…ははははは、
大石は何が可笑しかったのだろう…。
多分、この場にいる誰にも大石の胸中はわからない。
…………千年以上、人間を見守った少女を除いて。
「……大石が嬉しい気持ち、
「おや、……何がわかるって言うんですか…?」
「……誰かを憎まなくていいというのは、……とてもとても幸せで、気持ちいいことだって、わかりますから。」
「はっはっは、まさかまさか。…園崎家が鹿骨市内を牛耳る性質の悪い暴力団組織であることに変わりはありません。……連中のとこのチンピラに刺されたこともありますからねぇ? 別に怪死事件の黒幕でないとわかったからと言って、私にとって敵対的な存在であることが変わるわけではありません。…まぁそれだけのことなんですが、なぜか愉快になっちゃいましてね。…なっはっはっはっは。」
羽入の言うことが正しいのかどうか、私たちにはわからない。
だって、大石はずっと園崎家が黒幕だと信じてここまで来た。
それが実は違っていたなんて言われたら、それまでを全て否定された気持ちになってがっかりするのではないかと思う。
………でも、羽入はそうでないと言うなら。人を憎み続けるというのは、それだけ辛いことなのかもしれない。
……私は大石の、自嘲的にも見える笑いから、それだけでは説明できないものをわずかに見つけ、そう想像するしかない…。
大石は少しだけ頭を冷やしたいと言い残すと、煙草をくわえながら向こうの方へ去っていった…。
「……鷹野さんがシロかクロか、それがわからないことには話が進みませんね。富竹さんの方の結果を待ってからしか動くことはできないでしょう。」
「梨花ちゃんが、なぜ鷹野さんをそこまで疑うのか…、個人的には鷹野さんに悪い気がするけども…。でも、梨花ちゃんの言うことにも一理はあった。……梨花ちゃんは大切な身なんだ。その周りには、疑わしい存在はわずかほども存在してはならないからね。」
富竹は、あくまでも鷹野がシロであることを確かめるために調べる、という言い方をした。
彼女に好意を寄せる彼なら、こういう言い方になるのは無理もない。
……私だって、鷹野がシロであればと思いたい。
鷹野は私の理解者のひとりで、心強い味方の1人だったはずなのだ。
…それを信じて、百年間にもわたり交流してきたのだから。
だが、羽入は言う。鷹野はクロなのだ。
…………叩けば埃が出るのなら、
私以外の人間の力を借りるには、鷹野がクロである証拠は欠かせない。
…だから、今は富竹に全てを委ねるしかない。
「富竹さん。くれぐれも身辺にはご注意を。もし相手がクロならば、あなたの身に最初に危険が。」
「……わかってます。すぐに宿を入江機関に内緒で変更します。…本当はすぐに雛見沢を離れた方がいいのでしょうが、もし鷹野さんがクロならば、それはかえって逆効果です。」
「難しいところですね。…内偵中は普段通りに装うのが初歩ですから。もしよろしかったら、私の宿に入りますか?」
「いえ、それには及びません。大丈夫、充分に注意します。」
「……梨花ちゃんの身が一番不安だよ。どうしたものか…。」
「……………どうしよう。……羽入、どうしたらいいと思う…?」
「……将棋に例えたら、梨花は剥き出しの王将です。梨花さえ抑えれば、このゲームは鷹野の勝ちになりますです。」
「将棋の定法は、まず王将の守りを固めてから。…よね…?」
「……はい。今日は木曜日。綿流しは明々後日。……最低でも、綿流しの日まで、誰にも知られず、そして一番安全なところに避難するべきかもしれないです。」
「そんなうまい場所、あるかしら。」
「……僕は、そこは魅音に頼るべきだと思いますです。」
「そうね…。園崎本家の地下祭具殿は立て篭もるにはとても理想的。」
「そこへは、沙都子も連れて行くべきだと思いますです。」
「……沙都子を残して私だけが消えれば、その行方は沙都子が知っているに違いないということになる。………残せば沙都子にも危険が及ぶものね。」
…となれば、沙都子と魅音には真実を話さなければならなくなる。
…漫画の筋書きの話という騙しじゃなくだ。
……でも、彼らの想像をはるかに超える頼もしさを、私はいつも過小評価している。
話そう。……彼らは私を馬鹿にしないで話を聞いてくれる気がする。
そうすれば、最高に頼もしい味方になってくれるに違いない。
「……ボクたちはしばらくの間、身を隠そうと思いますです。魅音の家なら身を隠すことができる場所がありますのです。」
「そこはとても安全?」
「……はい。秘密の防空壕みたいなとこなのです。中には何でもあって、一ヶ月くらい篭ることもできるに違いないです。」
地下祭具殿は、園崎家の物騒な事情に絡み、いざという時、隠れ住まうことができるよう、色々な設備が隠されていると聞いている。
…昔、魅音に聞いた話では、ちょいとオツなセカンドハウス感覚なのだという。
…もっとも、あんな薄気味悪い拷問室兼地下牢獄みたいなとこが、どうオツなのか、そのセンスを微妙に疑うところだが。
「鷹野さんの調査が、すぐわかるか当分かかるか、やってみないとわからないけど、何かわかったら、魅音ちゃんの家に連絡する、ということでいいかな?」
「……それが助かりますです。」
「今だから白状するけど、…山狗は保安上の理由から梨花ちゃんの家の電話を盗聴できるようにしている。…その方が都合がいいね。」
「……みー。ボクの恥ずかしい話は全てみんなに聞かれていたのです…。」
「い、いや、聞ける設備が設けてあるだけで、普段の会話を全て聞いてるわけじゃないんだ。年に数回ある保安訓練の際にそれをしているだけなんだよ…。」
「……多分、診療所の私の電話も盗聴されてるんでしょうねぇ。」
「…えぇ。そこは施設の性格上からご了承いただきたいところです。」
「失礼。その盗聴の具体的方法は?」
「梨花ちゃんの家に引いてある電話線が分岐してあります。それが、神社の裏側の、沢の近くに掘っ立て小屋があるでしょう。そこへ引かれていて、そこで盗聴をすることができます。通常は無人ですが、山狗に対し要人警護命令が出ると、常時2名の通話監視員が常駐し全ての会話を録音します。もちろん、普段は録音していません。」
「近日中に、保安訓練の予定は? また、要人警護命令が出る予定は?」
「……保安訓練は、1月、4月、7月、10月に行なっています。ですから今月はありません。…要人警護命令は、何か緊急事態が起こると予想される場合に発令されますが、機関設立以来、発令されたことは一度もありません。」
「発令の権限者は?」
「所長、つまり私ですが、鷹野さんは事実上の所長代行なので、私に代わって発令することが可能です。」
「……もし、鷹野氏が本当に梨花ちゃんを狙う黒幕なら、その要人警護命令を逆手に使い、彼女を監視する手段に使うでしょうね。」
「その可能性は、充分に考えられます。」
「……ということはつまり。その小屋に何者かが出入りするようになったら、それは鷹野氏が動き出したという証拠であり、梨花ちゃんの近辺に緊張が増した証拠であると読み取っていいわけですね?」
「…………鷹野さんが黒幕である証拠になるかはわかりませんが、…梨花ちゃんの周辺に危険が迫っている可能性が高いと読み取ることはできるでしょう。」
「確かに。鷹野氏がクロであろうとシロであろうと、そういうことになりますね。……その小屋を監視しながら、実際の梨花ちゃんは他の場所に避難しているというのは、…なるほど、うまい手かもしれない。」
「……でも梨花、ひとつだけ問題が。夜に灯りも点かなかったら、家が無人なのはすぐにバレてしまいますです。鷹野たちは盗聴などしなくても、夕方か夜頃にその様子を見るだけで、学校を休んでいるのは仮病で、僕たちが気付いて逃げ出したのだと知ってしまうに違いないのです。」
「それもそうね。…そしてそれは、鷹野のことを調べている富竹にとっては都合が悪い…。…………確かに、どうにかしたい点ね。」
「さっき赤坂が言っていた、盗聴の小屋の監視。それから大風邪で寝込んでいることを装うための灯りの点け消し。それから、いざという時、赤坂が村の中に居てくれる方がいいというのを3つ合わせて、あうあうしますと、
あぅ
あぅ
あぅ。
ひとつの提案が浮かびますですよ。」
「……って、まさかあんた。…あ、赤坂を私の家に泊まらせようってこと?! だだ、だめだめだめだめ、絶対だめ!! 全然片付けてないし、臭いし汚いしみっともないし、赤坂なんか絶対に入れられない、だめだめだめだめ!!!」
「あぅあぅあぅあぅ、赤坂がお泊りなのですよ〜、あぅあぅあぅあぅ☆」
「駄目だって言ってるでしょ!! だめだめやだやだ、だめだめやだやだ〜!!!」
「梨花ちゃんは何をはしゃいでるんだい?」
「……み、み〜。ちょっと取り乱してしまいましたのですよ。にぱ〜☆…。」
も、…もう、羽入が言うんだから仕方なくだからね?! あぅあぅあぅあぅ!!
「確かに、梨花ちゃんの家がもぬけの殻になれば、夜の灯りとかですぐにバレてしまいますね。点けっぱなしにしても、未明まで点きっぱなしではすぐ怪しまれてしまう。」
「あ、
「………なるほど。それはうまい手かもしれない。梨花ちゃんさえ良ければ、その手で行きましょう。」
赤坂は事も無げにいうと、妙案だとでも言うようにポンと手を打った。
……少しは恥らったり、照れたりしてほしかったというのは、私のわがままだろうか。
………恥ずかしいヤツだな私は…、
話は全てまとまった。
富竹は東京の部下と連絡を取り、鷹野の近辺を洗わせる。
…これが全てだ。こちらから打って出るには必要な最前提なのだ。
入江は普段通りに生活してもらう。
…ここまで話が進みながら、普段通りを装うのはとても難しいことだが、今は何もすることがない。
狡猾な鷹野は、診療所内の入江に尻尾を掴ませるわけもない。
…入江はむしろ、鷹野の尻尾を掴んだ後に出番があるのだから。
大石は協力するとは最後まで言ってくれなかったが、少なくとも私たちの足を引っ張ることだけはしないと言ってくれた。
…実際、警察にも山狗の息のかかった人間が入り込んでいるという。
大石も入江と同様に、今は普段通りを装ってもらうのが一番だろう。
私は沙都子に真実を話し、今日からしばらくの間、魅音の家に身を隠す。
……それがいつまでなのかはわからないが、取り合えず何かの進展があるまでだ。
赤坂はその間、私の家に泊まり、私が病気で寝込んでいる風を装ってもらう。
何かあった時、興宮の宿から飛んでくるのでは遅すぎる。村の中に居てくれるのはとても心強いことだ。
……全ては富竹が何かを掴み進展があってからだ。
入江は、その進展がすぐにあるといいのですがと言うが、……多分、それは大丈夫だ。
だって、ヤツらは綿流しの日、つまり明々後日の日曜日の晩には、富竹を殺そうとする。
数多の世界でそれが変わらない以上、それはヤツらの計画だ。
つまり、富竹が何も調べずとも、…明々後日には無理やり進展があるということだ。
私は口が酸っぱくなるほどに富竹に忠告し、身辺に注意するよう伝えるのだった。
………これでも! これでも殺されたら、私はあんたの一族を七代祟って死んでやるぞ!
もうすっかり薄暗い時間になっていた。
赤坂以外のみんなはそれぞれ帰途に着き、…私は赤坂のことや、これからのことを沙都子にどう説明したものかと悩んでいた。
「……悩んでもしょうがないのですよ。梨花の悪い癖は、仲間を過小評価しているところだと思いますです。」
「とは言うものの…。今日、学校でみんなで楽しく話していた漫画の話が、…実は本当でした。下手をすればあなたも殺されますなんて急に言って、信じてくれると思う? それに沙都子にとって初対面の、こんな男まで急に連れて来て…!」
「……沙都子が信じないと思いますか?」
「…それはわかんないけど、
「なんだ。沙都子は友達じゃなかったのですね。」
「…え、………?」
羽入が、普段の穏やかな笑顔を崩さないままに、何か恐ろしいことを言ったような気がしたので、私はぎょっとした。
「僕は、沙都子は仲間だと信じていますから、沙都子に話せばきっと信じてくれて味方になってくれると信じています。……でも、梨花は沙都子を信じられないと言っています。それは梨花にとって、沙都子が友達ではないということです。その程度の存在なら、話しても時間の無駄なのです、あぅあぅあぅ。沙都子なんか放ったらかして、私たちだけで魅音のところに行っちゃいましょうです。」
「ば、……馬鹿、あんた、何を言ってるの…! そんなわけないでしょ! 沙都子は私の一番の親友で、」
「梨花が真実を話す価値がないなら、それはその程度のものです。梨花の言う一番の親友なんて、野良猫に毎日エサをあげてるだけと同じ程度です。梨花は、沙都子のことをそんな程度で住まわしていたとは、僕も驚きです。」
「誰もそんなこと言ってないでしょ! 沙都子は親友よ! 私の一番のね!! そうよ、あんたよりも!!」
「でも、信じてくれると信じてない。野良猫にエサをやって、日々を一方的に愚痴るだけの関係。猫さんは何もできないってわかってるから、その上で愚痴ってるだけの、それだけの関係。/
あぅあぅ、沙都子は可哀想に! 梨花の一番の親友だと信じてるのに、その梨花にはそうだと思われていないのです。あぅあぅあぅ!」
「こ、この…!!」
平手で打ってやろうとしたが、羽入に触れられない。
その頬を突き抜けて、手が虚空を泳いでしまうだけだ。……こんな時だけ元の透明なのに戻るとは、ずるいヤツ…。
羽入は、私を馬鹿にするように、あぅあぅを繰り返しながら姿を消す。
……腹立たしいけど、…何を言われたかは理解していた。
「梨花ちゃんの同居人は、納得してくれるかい…?」
「な、…納得させますです。沙都子はこの陰謀に何の関係もないですが、僕と一緒に住んでいる以上、絶対に巻き込まれますです。……沙都子のためにも、…ボクが説明しないと。」
「……私は、外で待ってた方がいいかな。」
「いいえ。赤坂が一緒に居てくれた方が、冗談ではないとわかっていいかもしれないです。……ボクにうまく説明できない時には助け舟を出してください。」
「うん。わかったよ。」
私は赤坂を伴い、二階へ上がった。
正直なところ、最初に何と切り出すか、その言葉も思いついていない。
……でも、羽入にまで馬鹿にされた。ここで悩んでいても仕方ない。
覚悟を決めて部屋に入ると、…………ちょっと驚く。
散らかった部屋が、申し訳程度にだが、片付けられていたからだ。
沙都子は、ボストンバッグに寝巻きやタオルを押し込んでいた。…まるで、臨海学校か何かの前日準備みたいだ。
「沙都子…? ただいまなのです。」
「はい、梨花の分の荷物もできてますわよ! まさか魅音さんにハブラシやタオルまで借りるわけにはいかないでございましょう?/
それに、見ず知らずの男性の方を、こんな散らかったお部屋に入れるわけにも行きませんし! だから私、普段からもう少しお片付けをしましょうって言ってたではございませんの!」
私は目をぱちくりとする。
……何で沙都子が全てを納得してくれているのかわからない。
……私が入江や富竹たちと境内裏でずっと話をしていて、さらにそこに大石やら、見たことのない男が現れれば、何の話をしているやらということになるだろう。
……沙都子は、私たちの話の一部始終を聞いていたに違いない。
いや、それどころか、荷物の準備や部屋の片付けまでしてくれたということは、赤坂がこの家に篭ってくれるという辺りまで丸々聞いてくれていたことになる。
……そこで大慌てで家に戻り、準備をしてくれていたということなのか。
「………漫画なんかの話じゃ、なかったんですのね。」
「……みー。」
「私、梨花のそういうところは嫌いなんですのよ。」
「…………。」
「私が梨花の話を信じなかったことがありまして? 私こそが、梨花に一番最初に頼ってもらえる親友でいるつもりでしたのに…!」
「…………ごめんなさいなのです。」
沙都子は心底怒っているというわけではない。
……どちらかというと、学校でのとんでもない漫画話が実は本当だったということに驚いているだけで、…言葉通りの意味で私に怒っているわけではなかった。
でも、羽入に言われたとおりだ。
……私は、沙都子のことを親友だと思っていながら、
それを、私は今こそ認め、謝る。
沙都子はそんな時間はないんではありませんの? と背中を向けるが、私の気持ちは受け止めてくれたようだった。
何よりの証拠は、…こうして、魅音の家へ避難する準備をしてくれたこと。……………ありがとう、沙都子。
「えぇと、赤坂さんでございましたっけ? 梨花とどういうご縁かは存じませんけど、梨花の味方なら、私の味方でもありますわね。北条沙都子と申しますわ!」
「よろしく。赤坂と言います。……梨花ちゃんを取り巻く陰謀は、あまりに深く、容易に説明できるものではありませんでした。それを打ち明け、拒絶されるかもしれないことに怯えていた彼女の気持ちを、どうか汲み取ってあげてください。」
「そんなことはわかってましてよ! 私は梨花の一番の親友なんですのよ? その私に信じてもらえなかったら、世界中で誰にも信じてもらえないということですのよ? なら、もしかするとと臆病になるのもわかろうというものですわ!」
「…沙都子ちゃんは、本当に大人です。そんなあなたに親友と呼んでもらえる梨花ちゃんが羨ましいです。」
沙都子はお節介モード全開になり、赤坂に家の中をあれこれ説明していた。
給湯器の着火レバーにくせがあるとか、テレビの映りが悪かったらこう叩くと直るとか。
果てには、神社一帯に仕掛けたトラップを示した秘密地図まで説明していた。
……それを、性分なのか大真面目に聞く赤坂。
…2人の妙な組み合わせに、私は状況も忘れ微笑んでしまいそうになった。
その様子と私を見て、いつの間にか側にいた羽入がにこにこと笑っている。
…でも私にはそれが、それ見たことかとニヤニヤ笑っているように見えて今はちょっとシャクだ。
わざと気付いていないフリをしてやる。
「……ひねくれ者の沙都子がこれくらい簡単に信じてくれるんだから、
羽入は返事を返さなかったが、私の小さな成長を喜ぶかのように微笑むのだった。
「冷蔵庫の蓄えも充分ですわね。梨花ぁ! せっかくお留守をお願いするんですのよ。今夜くらい、ご馳走しないと失礼に当たりましてよ。それに万が一ということがありますもの。魅音さんの家へは、もう少し遅くなってからお伺いした方がいいですわね。」
「そんな、どうかお気遣いなく。こう見えても食事くらいなんとかできますので。」
「……あぅあぅ、梨花の手料理をご馳走するチャンスなのですよ。あぅあぅあぅ☆」
「きょ、今日のあんたは調子に乗りすぎ…! そうね沙都子、おいしい食事をご馳走しないとね! そうそう、冷蔵庫に入ってる徳用激辛キムチの大瓶を出してもらえる?/
それじゃない、懲罰用じゃなく死刑判決って書いてある方よ。今日はキムチチャーハンにしましょうです。赤坂、辛いのは大丈夫ですか?」
「あぁ、うん! 辛いのも大好きだよ!」
「あぅ!! あぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅ!!」
「それと冷蔵庫のシュークリームはもう賞味期限が切れてるから捨てちゃいましょうです。あぁ残念残念。穀倉の高級店のおいしいヤツだと聞いてたのに残念なのです!」
「…今日はあぅあぅうるさいのが聞こえるわね。野良犬でも吼えてるのかしら!」
6月16日の夜が更けていく。
私たちにとって、最後の挑戦であるゲーム盤に、次々と頼もしい駒が並んでいく。
………うぅん。駒なんて言い方が最初っからおかしいんだ。
6月16日の夜が更けていく。
私たちにとって、最後の挑戦である戦いに、頼もしい仲間が増えていく。
その中で最初の鍵となる富竹はあと3日で殺される。
運命は、…この3日で動く…!
;■6月17日朝
「古手さんと北条さんは、今朝、風邪を引いたのでお休みと連絡がありました。今、季節の変わり目で大変、風邪を引きやすい時期です! 暑いからと言ってお腹を出したりして寝ないように。いいですね。」
「「「はーーーーーーい!!」」」
「はぅ。二人とも一緒に住んでるから、一緒に風邪引いちゃったんだね…。梨花ちゃん、明後日の綿流しだけど、巫女さんの役、大丈夫なのかな、かな。」
「祭りはみんなで遊ぼうって話なのに、二人とも風邪ってんじゃなぁ。明日にはケロっと治ってほしいもんだぜ。なぁよ、帰りにみんなでお見舞いにでも寄らないか? 何か冷たいものの差し入れでも持ってさ!」
「その必要はないよ。それより二人ともさ、今日の帰り、おじさんの家に寄ってもらいたいんだけど、いいかなぁ?」
普段の魅音なら、こういう話なら乗ってくれるだろうに。
……なぜか今日の魅音はほんの少しだけ素っ気なかった。
…というか、今朝から魅音の様子がほんの少しだけおかしいのだ。話しかけて上の空の時があるというか。
そんな中で魅音は、俺とレナに、帰りは自宅へ寄れと誘う。
「魅ぃちゃんの家? 何かあるの?」
「うん。…ちょっと大切な話があるんだよ。ここではできない。」
魅音の目が、普段よりずっと落ち着いていて、それが不真面目な話でないことを教えてくれていた…。
午前の診療時間に滑り込みでやってくる患者さんが大勢いるため、お昼頃が一番忙しくなる。
だから、診療所のお昼は、世間のお昼の時間よりもうひとつ後にずれていた。
もっともそんなのはただの中休み。すぐに午後の診療が始まる。
スタッフたちは、出前の昼食を取りながら、中休みを楽しんでいた。
衛生に注意しなければならない場所でなく、来院される方に見苦しい場所でなければ、どこでも好きなところで食事をしていいことになっている。
この時期は蒸し暑いので、キンキンに冷房をかけた会議室が流行っているらしく、スタッフたちはそこに出前を持ち込んで食べているようだった。
私はここの長なので、みんなと一緒に食事をすると、みんなが気を遣ってしまい、休憩にならなくなってしまう。
だから、気を利かせているつもりで、食事はいつも所長室に持ち込んでひとりでしていた。
今日はそば屋さんの出前だった。
私が頼んだのは大盛だ。……大盛というのは、もりそばの大盛のこと。…なぜか大盛もりそばとは言わず、大盛と言う。
だから注文の時、ややこしくなり、大盛とキツネうどん、なんて注文すると、キツネうどんの大盛が来たりして困ったことになったりする。
……しかし、大盛ってこんなもんだっただろうか? 普通のもりそばの量に見える。
あそこも女将さんが腰を悪くしてから大変だなぁ、なんて勝手に納得しようとしていたら、鷹野さんがやって来た。
その手に持っているのは、本当の大盛。
どうやら私が間違って、彼女が頼んだ大盛でないもりそばを持ってきてしまったらしい。…………あぁ、ややこしい。
「くすくす、本当に判り辛いですわよねぇ。何か目印になるものでも付けてくれればいいのに。」
「同感です。例えば、大盛って書いたお子様ランチの旗みたいなのが立ててあるとかね。」
「ぷ、……あははははははは。」
お子様ランチの旗というのが彼女のツボに入ったらしい。しばらくの間、小気味良さそうに笑っていた。
「よかったらご一緒にどうです?」
私は応接のソファーを勧めた。
「ではせっかくですので。すみません、冷房をちょっぴりだけ弱めてもらってもよろしいですかしら。」
「えぇ、それは失礼しました。よいしょ、ピッピと。」
鷹野さんと私は、思えばコミュニケーションを交わしたことはそう多くない。
入江機関という後ろめたさのある機関らしい、なんと言うかよそよそしい関係だった。互いの立場や真意に深入りしないのが暗黙の了解というか。
研究を巡る互いの姿勢の違いから、ずいぶんと疎遠だった気がする。
………だから、お昼に他愛もない話を交わすくらいのことは、もっとしてもよかった気がするのだ。
しかし、鷹野さんが食事中に好む話題は何なのか。
……健全な話題を先にこっちから振らないと、サナダ虫の話でもされて、当分、きし麺が食べられなくなってしまうかもしれない。それは困る、好物なのに。
そんなことでひとり焦っていると、彼女の方が先に話題を振ってくれた。
「さっきの、お子様ランチの旗の話。……懐かしいですわね。今時のお子様ランチにはまだ旗は立っているんでしょうか。」
「さぁ、どうでしょうねぇ。ああいうのはひとつの様式ですからね。案外、もっと未来になって、宇宙旅行が実現するような時代になっても、宇宙船の機内食のお子様ランチには旗が立っているような気がします。」
「くすくすくす。それは何だか面白い話ですわね。そんな未来になっても、子供たちはあの旗を夢中になって集めるのかしら。」
「旗を? おやおや、そんなことをされていたんですか。」
「あら、所長は子供の頃にしませんでした? お子様ランチの旗集め。」
「まさかまさか。私たちが子供の頃のお子様ランチといったら、裕福な家庭でなければなかなかありつけませんでしたよ。私の家ではとてもとても。」
「そんなことありませんわよ。うちは貧乏でしたけど、たまにデパートに家族で行くと、必ずデパートの最上階のレストランに入りましたもの。くす、当時の私にとっては、デパートに連れて行ってもらえるのは、お子様ランチが食べられるというのと同じ意味で。だから、両親が私の留守の間にデパートへ行ってしまうと、とてもヘソを曲げたのを思い出しますわ。」
「ははははははは…。鷹野さんの子供時代もとても素敵そうですね。」
「……でも。私ひとりを残してデパートへ出掛けて、二人とも電車の事故に巻き込まれて死んでしまいましたわ。……その連絡が来るまで私はずっと両親を恨んでて。今頃、デパートのレストランで私を除け者にしておいしいものを食べてるに違いないって憤慨してて。……くすくす、あと1本で旗が、確か20本になるはずで。20本が小さな目標だったので、それを達成する機会がまた遠のいたとずっとむくれていて。……ひどい話ですわね。」
お子様ランチの旗に興味を示す歳で両親を亡くした、というのは、彼女が言うほど軽いことではない。
……それは未だに癒せぬ傷であることは明白だった。
「……そうですか。それは知りませんでした。……ひょっとして、
「は? くすくす、どうして?」
「あ、…いえ。私が医師を目指したのは、自分の家族に関わることが理由だったので、…てっきり鷹野さんもそうだったのかと。」
「私が医師免許を取ったのは、雛見沢症候群により近付くために必要だったからですわ。失礼な言い方をすれば、研究のためについでに取った免許ですわね。」
それは興味深いことだった。…医大に通っていた頃にはもう雛見沢症候群の名を知り、その研究に生涯をかけていたことになるからだ。
「……そう言えば、こんな初歩の初歩のことも私は知りませんでしたが、……鷹野さんはどこで雛見沢症候群に触れられたのですか? 故高野先生の研究を掘り出す内に発見された、というような話を聞いていますが、医大に通われていた頃に、医師の勉強と並行して、もう症候群の研究に入られていたとは驚きです。私など凡才でしたので、医師の勉強だけで精一杯でしたから、尊敬しますよ。」
「くすくす。雛見沢症候群の研究に携わったのは、もっともっと前ですわね。」
それは、若い内にという範疇を超えかねない。
…一体、彼女はいくつの時にもう雛見沢症候群を知っていたのか。…いや、どうして知っていたのか。
「私の実家は、沙都子ちゃんや梨花ちゃんたちと同じで、親戚がいませんでしたの。それで施設に引き取られて、……くす、それがもう本当に劣悪な施設でして。あの頃、戦災孤児ってまだまだいたでしょう? そういうのを集めて補助金だけをせしめるのを目的にしたような本当にひどい施設で。そこを脱走した時に助けてくれたのが、…祖父、
「………では、あなたは高野先生と生活なされていたのですか…。…なるほど、研究資料に若くして触れられていたのも納得です。しかし、なぜそれを伏せられていたのですか?」
「……まぁ、大人の事情ですわ。奇病研究のために予算を求めるのと、死んだおじいちゃんの研究のために予算を求めるのでは、少々事情が変わってきますから。」
「なるほど…。長いことの疑問が氷解しました。あなたが高野先生を語る時の尊敬の眼差しは、一研究者に対するものとしては説明できないものでしたので。……しかし、そこまで鷹野さんに尊敬させるとは、よほど人徳のある素晴らしい先生だったんでしょうね。」
「…さて、人徳はどうだったでしょう。誰にも理解してもらえず、ずっと孤独に研究して、そのまま病死してしまいましたもの。祖父は孤独を愛する悪い癖がありましたので、協力者を得られなかったんですわね。」
「でも、鷹野さんという優秀な助手がいたじゃないですか。……そう言えば、鷹野さんも先生も読みは同じタカノですね?」
「……えぇ。本当の苗字じゃありません。祖父に敬意を表して同じ名を。本当は、漢字も同じにしたいのですが、クライアントに説明する時に誤解されたくないと思い、読みだけを残して漢字を変えたんですわ。」
…………鷹野と高野という二つの苗字がようやく重なる。
そして、三四と一二三という二つの名がようやく重なる。
あとは彼女が言わなくてもわかった。
……幼くして両親を失った少女が、自分の両親に勝るとも劣らない愛情を注いで育ててくれた高野先生に、親愛と尊敬の念を込めて祖父と呼んだのは想像に難しくない。
…………………だから、今さらわかった。
彼女が雛見沢症候群の研究に、異常なほどのめり込むわけを。
そして、祖父が完成できなかった研究を受け継ぎ、その研究が打ち切られることになって、どんな気持ちでいるかを。
…………梨花ちゃんが話してくれた、研究の打ち切りが決まり傷心する彼女の像が、今こそくっきりと浮かび上がる…。
……知らなかったとは言え、私の言葉が彼女を傷つけていたことも多いのではないだろうか。
私は今日まで、研究は治療と撲滅だけできれば充分で、あとはさっさと破棄してしまって構わないという主張だった。
……それは、彼女の祖父に対する冒涜になるに違いない。
…その度に彼女が私に食って掛かってきたのがなぜか、今はよくわかる。
彼女が説明に使った資料は、地下にある要溶解の重要書類用ダストボックスにあった。
それらはとても丁寧に作られた資料で、この研究を知識のない人間に説明しようと工夫した痕跡が随所に見受けられた。
その資料が、あるものは捲った形跡すらなく、……あるものは資料に対するものとは思えない扱いを受けた跡が残されていた。
…私が気付かなかっただけで、涙を吸った資料もあったのではないかと思う。
私に東京から来た連絡では、……理事会は鷹野さんについて非常に悪い心証を示したという。
…素人の心証は容易には引っくり返せない。
……つまり、研究の継続を求めることは、もう二度とできないということだ。
彼女は、研究継続が望めないとわかるその瞬間に、立ち会った。
そして、尊敬する祖父の研究を、必ず完成させると墓前に誓ったに違いないにも関わらず、……続けられなくなることが確定する瞬間に、
「…………鷹野さんは、…入江機関閉鎖後にも個人研究を続けられますか?」
「入江機関が閉鎖する時には症候群は撲滅されていますわ。病原体をシャーレに残し、誰かをさらって感染者にして研究しろと? 個人で? 機材も予算も施設もなく? 誰にも顧みられなかった祖父のようにホルマリンの臭いの篭った書斎で、誰にも評価されず戯言だと笑われるためだけに研究を続けろと? もう若さもなく、気力もなく、…ただの負け犬に過ぎない私に、何を続けろと仰るんです…?」
「……………………………………。」
入江機関は、本当は鷹野機関になるはずだったのだと、富竹さんに聞かされたことがある。
でも、若い女性がトップということに難色を示したクライアントから、男性トップを要求され、私が呼ばれたのだということも。
…初対面の時から、彼女が私によそよそしかった理由がよくわかる。
………私などが雛見沢症候群について語り、自分の価値観と道徳観で研究方針を決めるなど、…彼女からすれば全てが冒涜だったのだろう。
雛見沢症候群は、鷹野さんの祖父なのだ。
きっと彼女は、症候群の研究に打ち込んでいる時だけ、祖父が身近にいるのを感じられるのだろう。
……彼女がいつも深夜までひとり研究施設に残り、セキュリティ担当の山狗職員を辟易させていたのは、そういうことなのだ…。
「……蕎麦湯、お飲みになります?」
「あ、…そうですね。いただきましょう。」
蕎麦湯を注ぐ彼女の両肩が、初めて小さく見えた。
……そして、梨花ちゃんの話を確信する。
鷹野さんは、研究中止に言葉では語りきれないほどの悲しみを抱いている…。
そこに、彼女の理解者を装った何者かが接触してきたなら、気丈な彼女でも、籠絡されないことはないかもしれない…。
彼女から見た私の立場では、……多分、どんな慰めも傷をえぐることにしかならないだろう。
……言葉は、どう掛けても傷つける時があるのだから。
それでも、口にしてしまうのは、私の人生修行が足りないからだ。
「……せめて、今後の予算配当を、鷹野さんのやりたい研究に優遇しましょう。少なくとも三年の継続は勝ち取れたんです。その三年間で精一杯の、」
……全て失言。言いながら私は、早く口をつぐまねばと後悔する…。
「お気持ちだけで結構ですわ。……死の病にかかり、痩せ衰えていくのを三年も見守るのも辛いものですわよ。」
確か高野先生は、急性の認知症にかかり、自分がもう研究を続けられないことに悲観し、自分の頭がまだ聡明である内に死を選びたいと言って自殺したはずだ。
…私の不用意な失言は、彼女にまたしても辛い記憶を強いてしまう…。
「最後には眠ったままになり、…生命維持装置の電源を切ることをいつかは選ばされる。……………ねぇ、入江所長。その電源を切るのを、所長がその患者の担当医だったら誰にやらせますか? まさか、所長がその電源を切ったりはしませんわよね…?」
鷹野さんが、さも当然であろうというように私に問い掛ける。
彼女の瞳は、私にあるひとつの答えしか期待していない。
「…………………もしそういう状況になるのなら、…………最後のスイッチは、
「ですわよね。くすくすくす。まさか今生の別れの日にその場に立ち会わないわけがない。………私は、雛見沢症候群の最期に、立ち会いますわよ。絶対にね。」
コンコンというノックの音がして、スタッフの声が聞こえた。
「所長、午後の診療が始まります。準備をお願いいたします。」
「……あぁ、申し訳ありません。今、参ります。」
「私が片付けておきますわ。所長は診療室へお急ぎくださいな。いつものお年寄りたちが、四方山話をしたくて大勢お待ちでしてよ。くすくす。」
鷹野さんはそう笑うが、……今の私には、そんな彼女が、深い悲しみを隠すために無理に笑っているようにしか見えないのだった…。
私は彼女と親しいわけではないが、仕事の上ではパートナーの関係だったはずだ。
………仕事以上に親しくする必要はないと交流を避けてきたが、……それは誤りだったのではないか。
私が、せめてもう少し話を聞いてあげられる関係を作れていたら、……彼女の心の痛みをもう少しだけ和らげてあげることができたのではないか。
……全てが、遅い。
そんな中、富竹さんは彼女の潔白を証明するため、秘密で調査を進めている。
…彼女は、クロか、シロか。
……どちらであっても、彼女の深い悲しみは、変わらない。
入江が退出すると、鷹野は再びソファーに腰を下ろし、しばらくの間、遠くを見るような目をしているのだった。
やがて、何かを思い出したように体を起こすと、卓上の内線電話を取った。
「……………鷹野です。小此木はいる? …………………私よ。20日からのつもりだったけど、今日からRの周辺監視を開始して。……え? 別にいいでしょう。それとも今日は暑いから嫌だとでも言う気? ………えぇ、お願い。決行日まであと5日。慎重に慎重を重ねてもバチは当たらないわ。………えぇ、よろしく。」
「はい。失礼しますんね……。」
小此木は受話器を置いた後、ため息を漏らした。
鷹野の気まぐれに振り回されるのが仕事とは言え、この蒸し暑い不快な日にそれを命じられると、嫌味のひとつも言いたくなるものだ。
……もっとも、鷹野にひとつ嫌味を言えば、必ず倍返しになるのだが。
そこは、興宮にある小此木造園という名のダミー会社の事務所だった。
雛見沢の中での造園業を実際にやっていて、彼らの作業服が雛見沢に出入りすることへの、村人の不信感の払拭を狙っていた。
「…やれやれ、参ったんな。鶯と雲雀の休暇を取り消して呼び戻せ。R監視を3日前倒しにしろと我らのお姫様のご命令だ。監視体制を全て3日前倒しにする。初日は白鷺だったな。4名体制、通話監視1、サポート1、R宅監視1、サポート1。白鷺リーダーはただちに指揮に入れ。あと、電話設備工作も前倒しにするぞ。鶯の予定だったが召集には一日かかるだろ。鳳でやる。鳳7、工作チームを編成して今夜中に完了させろ。可能か?」
「もちろん。電気工作要員の訓練は充分です。」
山狗はいわゆる戦闘部隊とは異なる。
工作のためのあらゆるスペシャリストが集められた技術部隊だ。
今、小此木が命じたような電話施設への工作や、盗聴監視、情報収集、情報操作、あるいは警察などの公的機関にネットワークを構築する諜報要員など、さまざまな分野に特化した隊員が集められている。
母体こそ自衛隊だが、それぞれの出向元は、ある者は消防であったり、警察であったり、あるいは民間の技術者であったりバラバラだ。
…もちろん、戦闘訓練に特化した戦闘のエキスパートも含まれていた。
ただ、小此木は戦闘職の出身なので、厳しい訓練を潜り抜けていない技術系のやや軟弱な隊員たちを過剰に期待してはいなかった。
…彼らにも義務として最低限の訓練は施されているが、戦闘職から見れば飯事遊びだ。
腕立て伏せの百も出来ぬ程度の隊員が大多数を占める部隊の隊長。…小此木はそこだけが少し気に入っていなかった。
どうせ同じ不正規戦部隊なら、山狗より番犬の隊長がやりたかったのだが、……どういうわけか自分の慎重かつ大胆?な一面が評価されたらしく、こんな妙な部隊の隊長に納まってしまったのである。
戦闘職出身の小此木としては、……自分たちの出番である荒事が起こることに期待をしてしまう。
5年前の誘拐事件の時、警察に踏み込まれて抵抗するも犯人は人質を残して現場を逃走、という絵を描くことになった時、私服警官たちとの格闘で非常に歯痒い思いをしたことを思い出す。
太ったオヤジがいい気になってやがったが、本気だったら秒殺だった。
あそこで手など返さず、そのまま首をへし折ってる。……こう回して、……こう。ボキリ! これで一丁上がりだった。
若い方の警官も肩を撃ってやったが、本当は耳たぶを飛ばしてやるつもりだった。
手を抜けと言われていたので、調子が狂ったのだ。
二発目で耳を飛ばそうと思ったが、そういう流れじゃなかったので次は撃たなかったが、俺の実戦の最後の発砲はあの不本意な一発ってことになっている。
あんな茶番が戦闘職の最後の仕事だったのでは、たまったものじゃない。
小此木は、いつか訪れるだろう戦闘命令を心待ちにしながら、今日まで体が鈍ることがないよう、厳しい訓練を課して体を維持してきた。
……だが、終末作戦というキナ臭い作戦が動き出し、どうやら本気で自分の出番がありそうな気がする。
結果的に、たとえ引き金ひとつ引くことができなくてもいい。拳ひとつ繰り出すことができなくてもいい。
俺に戦闘職としてのプライドを満足させる、本当のキナ臭い仕事を与えてくれれば、それでいいのだ……。
「はい、少々お待ちください。………隊長、外線からお電話です。隊長宛なのか、社長宛なのかはわかりません。」
小此木は表向きは小此木造園の社長ということになっている。
だから隊員たちは平時は彼のことを社長と呼んでいた。
「ちょっと待て、訛りに戻す。………あーーーあ〜〜〜〜! あぁん、すったらんね、ああんもしよったんね、ほんまん! こんなんでどうよ。んで、どちら様んね?」
「女性です。野村と名乗ってます。小此木社長を指名してます。」
「……………隊長宛だ。社長室で取る。向こうに回してくれ。」
;■赤坂ターン
ドンガラ、ガッシャン。/
まるでたらいがいくつも落ちてくるような賑やかな音が遠くで聞こえた。
その音は恐らく、沙都子ちゃんが仕掛けたというトラップの1つに違いない。
彼女が昨夜教えてくれたトラップ地図によると、盗聴のための小屋に近付くとかなり賑やかな音をさせるトラップが発動すると描かれている。…それに違いなかった。
昨夜、彼女たちがここを脱出する前に周りは偵察しておいた。
…あの小屋は彼らが使おうと思うだけあり、ひと気もなく、人が近寄る理由も特に思いつかない死角のようなところだった。
……だからこそこの音が、重要な意味を持つことがわかる。
今以降、この小屋は監視下に入ったということだ。
中に梨花ちゃんたちがいないことを絶対に気取られてはならない。
彼らは多分、在宅の確認を確かめるため、虚偽の電話や訪問をするだろう。
…それらは高熱で寝込んでいるので気付かないというフリをして切り抜ける。
カーテンが閉まっているので、室内を外からうかがうことはできないが、念には念を入れ、梨花ちゃんたちが布団の中にいるように見えるよう、そういう工作がしてある。
だが、今後は一層に気を引き締めなければ。
…自分というありえない存在がここにいることを気取られないように。
そして、確実に迫りつつある有事の時に、自分のベストが引き出せるように。
すると突然、電話が鳴った。
予想通りだ。連中の在宅確認だろう。
連中は、学校に二人の欠席届が出ていることを知り、家で大人しく寝ているものと信じてるはずだ。
…だから、ここで確かに寝ているという証拠がほしいのだろう。
ずいぶん長く電話は鳴り続けた。…その執拗さに、これが間違いなく在宅確認であるとの確信を強める。
電話で駄目なら、恐らく次は訪問だろう。
郵便屋かご近所でも装ってノックしてくるに違いない。
だが、それに出る必要はない。
電話にも出られないくらいに寝込んでいるのだ。ノックにだって気付くわけがない。
面倒が増えるとバレる危険も高まるが、…それは逆に、確かに敵が迫っている証拠となる。
むしろ、事態が緊迫していることを測れて好都合だった。
それに、入江機関の入江氏はこちらの味方で、梨花ちゃんがすでに他所へ避難している作戦を知っている。
…梨花ちゃんたちが欠席したとの噂を聞いて、不安になり自宅を訪問する。
二人は大人しく寝ていました、しばらくそっとしてあげてください。
そう言う手はずになっている。……彼らは入江氏を疑っていない。在宅を信じるはずだ。
…これは、高度な騙し合いだ。
入江氏を騙し切っていると信じている彼らが、実は入江氏に欺かれている。
だが、連中はこの手のプロであり、こちらは自分を除けば素人の集まり。
……いや、自分を除けるかもわからない。
相手と対峙するまでその実力を測ることは不可能なのだから。
条件は互角じゃない。
……こちらが向こうを騙して先手を打っている、このか細いリードだけが勝機。
それが失われれば、勝ち目は一気に失われるだろう。
私は梨花ちゃんのことを無条件に信じると約束した。
だから、証拠がなくとも戦う決意はできている。
だが、私ひとりの力ではこの陰謀は覆せない。
他の人間の協力を得るには、富竹氏が証拠を掴む必要がある。
…富竹氏こそが、こちらの先制攻撃の切り込み隊長なのだ。
……その分、危険が一番最初に及ぶ。梨花ちゃんが、富竹氏に再三注意を促すのも納得だった。
そして、富竹氏は早ければ昨晩、遅くても今朝、動き出したはずだ。
…それを受けて監視体制が動き出したのだとしたら………。
富竹氏の無事と調査の成功を祈るしかない…。
その時、声が聞こえてきた。……あれは入江氏の声だ。
「…沙都子ちゃんに梨花ちゃ〜〜ん、ご主人様が回診に来ましたよ〜〜〜。」
そして階段を上ってきて、ノックをした。
「……大丈夫、私ひとりです。」
「もう少し小声に。この家はすでに敵の監視下にあります。」
私は入江氏を迎え入れ、すぐに扉を閉めた。
「お疲れ様です。…窓も満足に開けられないとあってはまるで蒸し風呂ですね…。これは差し入れです。」
スーパーの袋の中にはアイスやジュース、すぐ食べられて保存性の高い軽食のパッケージ、…そしてビールも入っていた。
…梨花ちゃんたちへの差し入れでないことはバレバレだ。
これはさすがに無用心だと思うが、彼なりの気遣いだ。ここは感謝して受け取っておくことにする。
「…いかがですか、こちらは。」
「さっき、この家の電話を盗聴する監視小屋に何者かが近付いた形跡がありました。それから、呼び出しの長すぎる電話が一件。恐らく、学校を欠席したことを知り、在宅確認のために電話してきたのでしょう。あなたの方にも、梨花ちゃんたちの様子を見て来いと誰かに言われたのではありませんか?」
「…えぇ、まったくその通りです。鷹野さんから、梨花ちゃんたちが学校を欠席したのに病院に来ないから不安だと、様子を見てきてほしいと言われたのです。」
「………ふむ、
「……梨花ちゃんと沙都子ちゃんの欠席を不審に思われたのでしょうか。」
「いえ。多分、富竹さんが内偵を開始したことと関係があるんじゃないかと思います。…もしなかったとしても、今回の動きは彼にとって尻尾を掴むチャンスになるかもしれません。」
「……どちらにせよ、もう何かが始まっているということなんですね。」
「そう見て間違いないでしょう。……私たちの敵が鷹野と山狗なのか。そうではないのか。どちらにしても、もう敵は動き出しているのは間違いありません。」
「雛見沢村連続怪死事件。………最初の2年は偶然が重なっただけでした。…しかし、3年目から鷹野さんはそれを面白がり、……綿流しの夜に何かが起こり続けることを期待し出したように思います。」
「…綿流しのお祭りは明後日。……敵が動き始めるタイミングとしては妥当かもしれませんね。………そして、5年目に梨花ちゃんを狙う。…鷹野か、恐ろしい女です。」
「……………梨花ちゃんがしていた鷹野さんの話。…あれはどれも本当だと思います。………今日、初めて知ったんですが、彼女は雛見沢症候群の第一発見者、故高野先生の養女だったんです。」
「同じタカノですね。…なるほど。」
「……彼女にとって、雛見沢症候群の研究を受け継ぐことは、尊敬する祖父との絆だったんです。……その研究が打ち切られることが確定した。…それは、彼女にとって、祖父を冒涜するものなんです。」
「全て梨花ちゃんの言っていた通り、ということですね。」
「…はい。…………それと、…鷹野さんがこんなことも言っていました。3年で打ち切られることが決まっている研究を、寿命が幾ばくもない眠ったままの患者に例えるんです。…そして、その生命維持装置のスイッチを切るならば、それは残された家族の権利だ、というようなことを。」
「……………………………………………。…どうせ打ち切られる研究ならば、
「……………はい。そういう意味で言ったものと思います。」
ほぼ状況証拠は揃いつつある。
間違いなく敵は鷹野だ。
昨日の時点ではまだわずかに信じきれていない様子のあった入江氏も、今では完全に梨花ちゃんの話を信用しているようだった…。
「あとは富竹さんが、鷹野さんが何かを企んでいる証拠を掴んでくれるだけです。………そうしたら、関係者を一斉に拘束するための鎮圧部隊を呼び寄せるそうです。」
「…鷹野は山狗なる特殊部隊を配下に持ちます。それを鎮圧できるような?」
「はい。私も名前しか知らないのですが、番犬という部隊がいるそうで、本当の非常事態が起こった時、武力で強襲する戦闘部隊だとか。山狗はどちらかというと、機密保持などの情報部隊の性格が強いので、多分、それよりはるかに強い部隊なのでしょう。」
「……表に出せぬ研究をする機関の万が一の造反に対応する鎮圧部隊となれば、…多分、相当の強さを持つでしょう。……つまり、その番犬部隊を雛見沢に呼び寄せることが、我々の勝利条件になる。」
「そういうことになるのでしょうか…。ただ、ひとつ不安なのは、緊急マニュアルには、機密保持のために村を封殺することも認める記述があることです。番犬という部隊が来ても、やることは彼らと同じで、結局は村ごと証拠を隠滅するのではないかという不安も残ります…。」
「いえ、それはないでしょう。敵の狙いが緊急マニュアルの執行にある以上、それでは何の意味もありません。この陰謀が派閥抗争によるものならば、入江機関のクライアントたちの派閥は絶対に穏便に済まそうと思います。おそらく、敵を急襲し、村人たちが何事かと目を白黒させている内に決着させてしまうに違いありません。」
そういうヤバイ任務に経験のある自分だからこそわかる。
疾風のように通り過ぎて迅速に目的をこなす作戦で行くはずだ。
そして、それを山狗相手に可能とする部隊なら、それは相当強力な部隊に間違いない。
「とにかく、富竹さんからの連絡を待つしかありませんね…。」
「えぇ。これは持久戦です。ですが、一度有事となればそれは電撃戦に様変わりする。……緩急の差の激しい、辛い戦いになります。入江先生は敵の腹中にいる心強い存在ですが、同時にもっとも危険な場所にもいます。常に油断せずにいてください。…私たちは、梨花ちゃんの味方になろうと決めた時点で、すでに彼らの敵なのですから。」
「……………はい。」
この家の電話はすでに監視下にあるため、私への連絡は入江氏が直接来て伝えるしかない。
だが、それでは緊急時に動くことが出来ない。やはり電話に勝る連絡方法はないのだ。
だから私はあるメモをすでに用意してあった。
監視下にあると疑われる電話での連絡方法だ。
異常な状況下に置かれることもある私の本職が編み出した方法だ。
「これは?」
「緊急時用の私への電話連絡方法です。絶対に敵に奪われないでください。危険な時には必ず飲み込んで処分するように。」
「盗聴されているのに、どうやって電話で連絡を? あなたが受話器を取れば、たとえ無言であっても疑われかねないのに…。」
「受話器を取らなくても連絡することはできます。少々コツのいる不便な方法ですが、一番重要な連絡をすることができます。そして、それは敵の動きを最初に察知できるあなたにしか発することができない。」
「……わ、わかりました。それで、やり方は?」
「メモに書いてあります。簡単に説明すると、電話の呼び出し音の長さで連絡するのです。相手に電話をする時、1分以上呼び鈴を鳴らし続けることはほぼありません。それを利用した呼び出し音による連絡方法です。1分鳴らし続けて切れば、そこは危険、脱出せよ。1分半なら、緊急事態、直ちに園崎邸へ急行せよ。…こんな感じで30秒区切りで緊急性の高いメッセージが仕込んであります。他のメッセージはメモを見てください。でも、この1分と1分半の2つだけは絶対に暗記してください。私の命が掛かっていますので。」
受け手側に危機を知らせる合図ほど短く設定されているのがミソだった。
ただ、あまりに短すぎると一般の電話の呼び出しと混じってしまう。
そのため、この連絡をする合図として、3秒以内の短い呼び出し音を事前に1回入れ、緊急連絡開始の合図とすることになっている。
30秒単位という長い波長でメッセージを区切っているのは、連絡の誤受信を防ぐためである。
電話は掛けた側の呼び出し音と受ける側の呼び出し音には若干の誤差がある。
その誤差でメッセージが変わることがないよう、これだけの長い波長が設けられているのだ。
「まず短く1回鳴らし、1分なら逃げろ。1分半なら梨花ちゃんたちのところへ迎え…。はい、覚えました。」
「少々面倒と思いますが、あくまでも緊急事態用ですので、くれぐれもよろしくお願いいたします。」
「えぇ、わかりました。危険な時の連絡は任せてください。」
「最後に、もう1つだけ暗記してください。………とても嫌な暗号ですが、これも忘れないでください。この連絡に限り、短い1回は不要です。連絡方法は、3分以上呼び出し音を鳴らし続けること。……電話を掛けたまま受話器を外し、そのまま放置するのがいいでしょう。」
「その暗号の意味は…?」
「連絡員に緊急事態。以後連絡不能。」
「…………………それは、
「はい。緊急時にはこの家へ電話し、そのまま受話器を外し安全な場所に身を隠してください。……ただ、自らの危機を測るのはとても難しいことです。まだ大丈夫、多分大丈夫などと思っている内に連絡の機会さえ逃してしまいかねません。…少しでも嫌な予感がしたら緊急時と判断していいでしょう。…陰謀の度合いから考えて、敵は私たちを生かしはしません。くれぐれもご用心を。」
「わ、…わかりました…。その場合、あなたはどうするんですか?」
「その際は、状況によりますが私もここを脱出します。あなたに危機が迫る以上、梨花ちゃんの身にも危険が迫っている可能性が高いですから。私は園崎邸を目指し、梨花ちゃんたちとの合流を目指します。………あくまでもこれは最悪の事態です。このような事態に陥ると決まったわけではありませんので、緊張することはありません。どうか気を楽に持たれて下さい。」
「…ですが油断せずに、ですね。」
「そうです。」
入江氏は深く頷く。
………いよいよだ。いよいよ、何かが始まる…!
;■部活メンバー集合(園崎家にて)
「……というわけよ。質問のある人、いる?」
質問してもいいというなら、いくらでも質問はある。
何しろ、真顔で信じた次の瞬間には、実はドッキリでした〜!
なんて言われてもおかしくないくらい、…途方もない話だったから。
…だが、今の時点で興味本位の質問など時間の無駄だ。
魅音は、梨花ちゃんを巡る全ての状況について、充分に説明してくれたのだから。
「まぁ、私も園崎家頭首代行として色々と聞きたいことはあるよ。…連続怪死事件について、どうやら少なからぬ関係があるようだからね。でも、今はそれはなしにする。/
しかし、ウチに避難してきたのはいい判断だね。ウチの地下なら核戦争だってしのげるよ。電気もある電話もある。もちろん食料だってあるしね! 山狗って連中がそんなにも厄介な相手なら、ますますにこの村の中で梨花ちゃんたちを匿えるのはウチしかありえないよ。」
「………みんなを巻き込んでしまって、申し訳ないと思いますです。」
梨花ちゃんが、心の底から申し訳なさそうに言う。
…梨花ちゃんは今日まで、雛見沢症候群というおかしな病気や、「東京」とかいう怪しげな連中との関係を、ひとりで背負ってきたのだ。
俺たちを巻き込むまいとして、たったひとりで背負ってきたのだ。
その胸中が想像できるから、俺たちの誰もが梨花ちゃんにかける言葉を思いつかずにいた…。
沈黙が耳に痛いと思い始めた時、羽入が威勢よく梨花ちゃんの背中を叩いた。
「梨花は昨日から申し訳ないばっかり言いすぎなのです。もう一回入ったら、梨花は毎日僕にシュークリームをおごる罰ゲームなのですよ! あうあうあう!/
それに、みんなだって申し訳ないなんて思ってないですよ? ねぇ、圭一。」
羽入が俺に突然振ってくる。
…その瞳からは、俺に何かを期待していることがうかがえる。
そうだ、俺の役目は部活メンバーの火付け石じゃねぇか。
威勢よく真っ赤に燃えて、みんなを盛り上げる役だぜ! その俺が何をぽかんとしていたんだか!
「へっへっへ! そうだぜ梨花ちゃん。ちょいと事がデカかったんで面食らっちまったが、…なぁみんな? どいつもこいつも内心は、面白くなってきやがったとか思ってんだろ? 沙都子、どうもこいつは、俺たちに本気でやってもいいってことみたいだぞ。お前、だいぶ温存してるんだろ? シャレじゃ済まない秘蔵のトラップを、だいぶ隠し持ってるんだろ? へっへへへへへへへ!! そいつを食らわせてやるまたとないチャンスじゃねぇか!」
「をっほっほっほっほ!! 部活メンバーに私がいたことに感謝なさいませですわね! 相手が何様だか存じませんけど、本気でやっていいとなれば、たとえ部活メンバーが相手でも使用を躊躇ってきた奇跡の大トラップの数々が惜しげもなく飛び出しますのよ!!」
「あはは、そうだね! 沙都子ちゃんのトラップは魅ぃちゃんのお墨付きだもんね! たとえ相手が本物の軍隊でも、沙都子ちゃんのトラップはみんな蹴散らしちゃう!!」
「と、沙都子をヨイショしてるが、もちろんレナだって容赦ねぇからなぁ。レナは普段はおっとりしてるが、俺はこいつの本気の時を知ってるぜ。レナは本当に戦うべきここ一番では誰にも屈しない強さを持ってる。そいつはかなりハンパない。……多分、俺でも勝てないと思うぜ?!」
「……そんなことないよ。圭一くんだって、ここ一番の時の爆発力と瞬発力はすごいよ。私では打ち破れない運命を打ち破れる気がするもの。」
「……圭一が赤い燃え上がる炎なら、レナさんは青く静かに燃え上がる炎という感じなのです。」
へへ、真っ赤に燃える男、前原圭一!!/
青く燃える女、竜宮レナ! 我が部にその人ありと天下に知らしめる絶好のチャンスだぜ!! そして、その最強のメンバーを最強のリーダーが従える。へへ、だよな、魅音! 個にして最強、/
揃えば無敵!!/
それが俺たちの部なんだよなッ!!」
「……くっくっくっく。いやはや、
これだけの獲物をよくぞ知らせてくれたッ!! くっくっく、この雛見沢で我が部に挨拶なしで上等を決めてくれようとはね! きっちりケジメを取らせてもらうよ!!」
梨花ちゃんがみんなに申し訳ないと謝り、場が沈んでからものの5分と経ってないのに、俺たちの士気は今や最高潮だ。
…とてつもない陰謀が相手なのに、みんなと一緒なら全然負ける気がしないんだ。
……こいつぁ、最高の気分だぜッ!!
その切っ掛けを作ってくれたのは羽入だった。
……こいつ、なかなか見所のある新人だぜ。
この曲者揃いの部活メンバーの中で、最初に誰に火をつければいいかを一目で見抜きやがったんだからな。
…いや、それどころか、先輩メンバーたちですら、心のどこかで、あまりにデカ過ぎる相手に少しの戸惑いがあったのを、こいつだけがビビリもせず気勢を上げて見せやがった。
今後が末恐ろしいヤツだぜ!!
「あ、……ありがとうみんな。信じてくれてありがとう……。」
「信じてくれるとずっと言ってますし、信じて当然! 信じないヤツなら仲間じゃないのです! だからお礼なんていらないのですよ梨花!」
「ああ、そうだなッ! 羽入の言う通りだ! お前、いい根性してるぞ、気に入った!」
「あぅあぅあぅあぅ!」
羽入の頭を、わしわししてやる。羽入はくすぐったそうに笑うのだった。
「さて、そうとなりゃ作戦会議だ! 状況をもう一度整理しよう。/
まず、梨花ちゃんと沙都子は病気欠席のフリをしてしばらくここに身を隠す。これは万が一に備えてだね。まさかここに二人が隠れてるなんて誰も知らないよ。留守番をしてくれてる赤坂って人に感謝だね!」
「でもよかったね。5年も昔にした約束を覚えてて助けに来てくれるなんて、本当に素敵な人だね。/
……はぅ、ちょっと羨ましいかも…。」
「……私の好みじゃありませんけど、梨花にはちょっと嫉妬しましてよ…。」
「み、みー、赤坂は別にそういうわけではないのです…。」
「しかも、東京の警視庁の公安部の人で、それも秘密部門所属なんだろ? すげぇ頼もしい人だよな! 秘密部門ってのが痺れるぜ!!」
「赤坂はきっととても強いと思いますです。とても頼もしいのですよ!」
「ただ、赤坂さんの役割はどちらかというと緊急時の防御役。むしろ重要なのは、相手の尻尾を掴む大任を帯びてる富竹さんだよ。彼こそが真の攻撃役。…しかも、敵を鎮圧できる番犬部隊を呼ぶことができるのは富竹さんだけ。つまり、富竹さんこそがこの戦いに勝利できるキーマンってことなんだよ。/
……ふーむ! ヘタクソカメラマンの富竹のおじさまが私たちの命運を握っている超重要人物とは、不思議な感じー!」
みんなが、富竹さんに悪いんだーとか、ヘタクソって言ってたって言ってやろー! と茶化して囃す。
「…富竹のがんばりを期待しないわけではありませんが、万が一に備え、他の手も考えておいた方がいいと思いますです。」
「……でも羽入、富竹に頼る以外に何か打てる手などあるの?」
「いや、…羽入の言うのも一理あるよ。何しろ、敵から見ても富竹さんはキーマン。自分たちを内偵していると気付いたら、暗殺することだってあるかもしれない。ここは何しろ彼にとって敵地も同然なんだからね! 富竹さんだけに頼りきらず、私たちに打てる手を探すのも大切だと思うよ。」
「そうですわよ! トラップだって、たった1つで綺麗に決めるのは難しいですもの。いくつも仕掛けてあらゆる可能性に対処して初めて完璧になるんですのよ!」
「そうだね。攻撃の手を1つに限る必要なんてない。富竹さんとは違う形で他の攻撃ができないか探してみるといいんじゃないかな。」
「でも、「東京」についてわからない私たちがどんな手を…?」
「富竹さんの重要性のひとつが番犬部隊を呼び寄せることだってんなら、
「そうだね。富竹さんの最大の価値はそこにあるからね。同時にそこがこちらのアキレス腱でもある。………事情を話して富竹さんに彼らとの連絡の取り方を教えてもらおう。…ただ問題なのは、富竹さん自身が市内に身を隠しちゃっててこっちから連絡を取る方法がないって点なんだよね。」
「でもいい手だと思いますです。富竹と次に連絡を取ることができたら番犬への連絡の仕方を聞きましょうです。まずこれが一案。他にはないでしょうか?」
羽入が何だかいつの間にか俺たちの議事進行役に納まってるな。
それはレナも気付いてるようで、俺たちの6人目の仲間に加わろうと頑張る様子を微笑ましく見ていた。
「今の手は、富竹さんに万一があった時のための保険だよな。……また別の角度の攻撃を考えたいな。富竹さんの調査に貢献できるような攻撃ってねぇか?」
「面白いですわね。何かのトラップを仕掛けて尻尾を掴み、黒幕に言い逃れできない証拠を突きつける! 最高のトラップシチュエーションでしてよー!!」
「………ヤツらの狙いがボクなら…。ボクを何かの囮にするのはどうですか? 危険だけど、鷹野たちは私が目的なんだから食いつかざるを得ないのです。」
「かなり危険な一手だね。……でも確かに、鷹野さんが梨花ちゃんを追っているという大きな証拠を掴める手だよ。」
「わざと姿を見せて、騒ぎを大きくして逃走戦にすれば、
「あぅあぅあぅ! あそこに逃げ込めば、追っ手は大変なことになりますですよ〜!」
「だよなぁ!! へへへ! こいつぁ最高の見物だぜ!! 面白くなってきやがった!!」
「でも、やっぱりそれは最後の一手だと思うかな。裏山に篭れば篭城戦になって、状況はだいぶ変わる。この手に訴えるのは、本当に最後の最後だと思う。」
「そうですわね。裏山のトラップは防御効果が非常に高いでしょうけども、あくまで防御ですわ。敵に対し攻撃するものとは違いますもの。」
「うん。裏山篭城は追い詰められた最後の切り札になるだろうね。これは本当に最後の手段。ここが敵に襲われ、ここを捨てざるを得ない時だけのね。/
ちなみに、ウチの地下には隠しトンネルがあって、山中の井戸に抜けられるようになってるんだよ。」
敵は謎の組織で、
秘密作戦に秘密基地、
秘密の地下道、
うおおおぉおぉおおぉ!!/
これで燃えなきゃ男じゃねぇぜッ!!」
「あぅあぅ! 男でなくても燃えまくりなのですよ! さぁ、これで二案でましたです。/
僕たちはまだまだ思いつきますですよ! もう一案くらい出ないですか! あぅあぅあぅあぅ!」
「そうだな。もう一案欲しいぜ。今の案もどっちかと言うと防御的な案だからな。もっともっと攻撃性の高い、我が部にぴったりの案は出ないのかよ。……何て言うのかなぁ!! 相手にガツンと一撃が入って、連中の陰謀が頓挫しちまうくらいのすげえヤツだよ!」
「……ボクたちにそんな方法があるのでしょうか…。」
「うん。きっとあるよ。私たちは梨花ちゃんが思ってるほど無力じゃないし、切り札だってないわけじゃない。…彼らにとって重要な、梨花ちゃんというキーマンが私たちと共にいる。これが重要な切り札になるんだから。梨花ちゃんを囮にするっていう意味じゃなくてね。」
「確かに。女王感染者が私たちのところにいるのは、彼らに対して大きなアドバンテージになるね。……連中の目的は何? 梨花ちゃんを殺して、緊急マニュアルとやらを発動させ、この村を丸ごと抹殺して、それを組織内の派閥争いに利用すること! そうだね?」
「そうなのです。梨花はヤツらにとって全てを吹き飛ばす爆弾みたいなものなのです。」
「……それを爆発させて大騒ぎを起こし、それに乗じて何かを得するのがヤツらの狙い。」
「それを爆発させないのが私たちの勝ち、ということになると、
「確かに。こちらはいつまでもずぅっと守り続けなくちゃならないけど、向こうは形振り構わず梨花ちゃんを殺せば勝ちになる。……まるで、片方にしかゴールがないサッカーだよ。」
「その片方にしかゴールがない異常なサッカーを告発して、番犬部隊を呼び寄せるのが、いわゆる富竹作戦の骨子だねぇ。………ヤツらの陰謀を砕く、私たちのゴールは何かない? …あるはずだよ。こういう時は立場を逆にして考えると見えてくる。/
…………………お? あれ、あれ?! くっくっくっく、その手があったかぁ!」
魅音が妙な声を出しながらニヤニヤ笑い始める。
……やっぱりさすがだぜ魅音は。ますますに追い風が吹いてきて、絶好調がさらに絶好調になってやがる!!
魅音は頭がいい。状況の分析能力はずば抜けてる。
……だからこそ一番最初、梨花ちゃんが全てを打ち明けた時、即座に勝てないと判断し、意気を消沈させてしまったのだ。
だが、魅音には挫けやすい部分がある反面、追い風に対しものすごい力を得る部分もある。
その追い風を俺たちが吹かし、魅音の帆がバンバンに張ってきてみなぎってきやがったってわけだ!
「梨花ちゃん、もう一度確認するわ。…その緊急マニュアルってのは梨花ちゃんが死ぬと村人が48時間以内に全員発狂するっていうから、そうなる前に村を鎮圧するために発動されるんだよね?」
「……はい。そうなのです。」
「あぅ? どうして梨花が死んだこともないのに、48時間でそんなことになるとわかるのでしょうか?」
「た、確かにそうだね…。うん、おかしいよそれ。何で48時間で村人がみんな発狂するなんて決め付けられるんだろ。」
「ボクにはよくわからないのですが、……鷹野が言うには、他の国の例でよく似たケースがあり、それが48時間だか何だかの根拠らしいのですが、ボクにはちんぷんかんぷんなのです。入江も実はちんぷんかんぷんだと言ってましたです。」
「……あッ!!!、
「…………!! あ、俺もわかったぜ!! そうかそうか、そうだよなぁ?! これは確かに盲点だったぜ!!」
「……え? …え? ふ、二人とも何がわかったのですか? ボクにはわからないのです。」
「わかんないわかんない! レナにもわかんないよぅ!!」
「くっくっくっく! あれあれぇ、レナと梨花ちゃんはわかんないのぉ? 最後までわかんない方は恥ずかしい罰ゲームってことにしようかねぇ? くっくっく! 羽入はどう? あんたならとっくにピンと来てそうだねぇ?!」
「はい、わかってますですよ! だからこそ、梨花は鷹野にとっても重要人物だったのです。あぅあぅ、これは梨花とレナへのヒントなのですよ。」
「をっほっほ! 私からもヒントですわよ。敵の狙いは派閥争いのために雛見沢で大騒ぎを起こすこと。そしてそのための手段として緊急マニュアルを使おうとしているわけですわ。ということは、この緊急マニュアルこそ、敵の陰謀のアキレス腱になるということですわ!」
「えっとえっと、うーん、うーん!!」
「……み、みーーー、
「あぅあぅあぅ〜☆ 梨花ぁ、僕に今まで意地悪してごめんなさいと謝ったら答えを教えてあげますですよ〜。」
「ま、まっぴらごめんよ。そのあぅあぅ、気が散るから黙らせてー!」
「何だ何だ、鋭いレナまで気付かないのかよ。いいか? 俺たちの攻撃が富竹さん1人に委ねられていて、それがアキレス腱であるように、敵の攻撃も緊急マニュアル1つに委ねられているんだよ。ってことは、緊急マニュアルの根底を打ち砕いてやればいい。わかるか? 緊急マニュアルの意味を失わせてやればいいんだよ!」
「あぅあぅ! 緊急マニュアルの意味はなんですか? それは雛見沢症候群の大騒ぎを災害のフリをして隠すためなのです。だから、村人たちがおかしくなる48時間以内に村を丸ごと抹殺してしまおうとする。そしてそれが敵の狙いなのです。」
「……ボクを殺さなければその48時間は始まらないんだから、
「何よ、二人とももう答えを口にしてるじゃない。くっくっく! いい? じゃあ答えを教えてあげよう。みんないい? せーーの!!!」
狙ったかのように俺たちの声がハモる。…いや、つくづく俺たちって神懸ってるよな。こういう時は絶対に外さない!
レナも梨花ちゃんも同時に手を打つ。
ようやく気付いたようだった。何でこんな面白ぇ作戦を思いつかなかったんだろうな俺たちは!!
「あぅあぅ。やっとみんな思いつきましたです。こんな案、一案目でさっくり出してほしいものなのですよ? さっきから後ろ向きな案ばかりだったので、ひょっとして思いつかないのかと焦ってましたのです。あぅあぅあぅ!」
「ほ〜〜〜〜〜?! 言ってくれるじゃなぁい!! 羽入、あんたますます気に入ったよ! この功績を認め、あんたには後で我が部謹製特別十字章を授与しよう!! まぁそれは後に置いといて、今は作戦の説明に入ろう。やつらのゴールの最大の拠り所である緊急マニュアル。これにはでっかいウィークポイントが隠されてる。/
それは、雛見沢症候群は、女王感染者の死後に48時間で村人が全員発狂するからそうなる前に抹殺せよ、というそもそもの根拠の部分。つまり!! 梨花ちゃんが48時間前にすでに死んでいるのに、村に何も起こらず平和だったら、このマニュアルの根本が崩れるってことなんだよ!!」
そういうことなんだよ。
誰だってこんな恐ろしいマニュアルの執行なんかしたくない。
でも、執行しなければ村人が全員発狂してもっともっと恐ろしい事態になる。
だから、より被害の少ない収拾方法として、渋々と緊急マニュアルを許可するわけだ。
だが、そこでひょっこりと、死後48時間以上の梨花ちゃんの死体が見付かったりしたら。
女王感染者の死後48時間で村人は全員発狂する、だからそうなる前に全員抹殺を、という緊急マニュアルの最初の大前提が崩れてしまうということなんだ!!
「幸い、梨花はここに隠れているのですから、梨花が死んでしまったという嘘をつくのは可能なのです。」
「梨花ちゃんが世間に目撃されたのは昨日の学校が最後。だから、それから48時間だから、明後日の早朝くらいに死体が見付かったということになるととても好都合だねぇ!」
「……そうか、警察の大石さんの助けがあれば、梨花ちゃん死亡の偽装は可能なんだね!!」
「その通りですわ! 大石さんにうまくやってもらって、梨花の死体がみつかり、それが死後48時間経過してるって、嘘を発表してもらうんですの!!」
「まぁ、公式発表にすると色々余波がありそうだから、入江機関にだけ嘘を流せば充分だろ。しかも監督がこっちの味方なんだから、連中をコロっと騙すのは可能なはずだ!」
「…………これは、
「緊急マニュアルの信憑性が失われれば、こんなひどい作戦が承認されることなんてありえない。つまり、連中にとって最大の弱点は緊急マニュアルであり、そして梨花ちゃん自身だったというわけなんだよ!」
「大石は、協力するとまだ言ってくれたわけではありませんが、……僕はきっと力を貸してくれると信じていますです。あぅ。」
「をっほっほっほっほ!! これは、愉快なトラップになりましてよ?! 鷹野さんが慌てふためく姿が目に浮かぶようですわ!」
「……鷹野は私と沙都子が風邪で寝込んで家にいると信じ込んでる。でも、姿を見たわけじゃなく、きっとそこにいるだろうという想像でしかない。…それが実は、他に居て、そして明後日に突然、私の死体が見付かり、しかも48時間前には死んでいたなんてことになったら…、」
「あっはははははは! 何だかすっごい痛快なことになりそうだね!!」
「となれば、黒幕たちはこの緊急マニュアル作戦が失敗したと判断して撤退するだろうね。ここで私たちの攻守が逆転する!! ここまで至ればきっと、敵の動揺の隙を突いて富竹さんが何かを掴む。」
「そして、陰謀を鎮圧するために富竹が番犬のわんわんを呼び寄せて敵をやっつけてくれるのです! これが、私たちのゴールなのです!!」
「よっしゃあああぁあ!! 見えてきたじゃねぇか、俺たちの勝ち方がッ!!! しかも最ッ高に俺たちにぴったりの騙し方だぜ!! 気に入った気に入った最高に気に入ったッ!!!」
俺たちは、えいえいおー!!と気勢を上げる。
あぁ、面白くなってきた、最高に面白くなってきた!!
…だが、この作戦で重要になるのは、敵を騙せるだけの「梨花ちゃん死後48時間」の信憑性だ。
それには大石さんの協力が絶対不可欠となる。
大石さんにその作戦を相談しよう、と思ったら、何とも都合よく、その本人が園崎家を訪れてくれたのだ。
大石さんは、梨花ちゃんがここへ隠れたことを知っている。
そして、山狗の手先が警察にも食い込んでいることを知っている。
…しかも、梨花ちゃんの家を盗聴するような真似までする相手だ。
電話連絡は無用心だと思い、直接来てくれたのだった。
「先ほど、入江先生にお会いしましてね。赤坂さんはうまいことやってて無事ですと伝えてほしいと言われました。/
……あの人は5年前とは比べ物にならないくらい成長してます。あの砦は彼なら守りを務められるでしょう。」
大石さんは差し出された麦茶を飲みながら、ネクタイを緩めてそう言った。
…まさか、宿敵園崎家で麦茶を飲む日が来るとは思わなかったろうなぁ。
「それで大石! この48時間作戦なんですが、どう思いますですか。」
「えぇ、なかなか面白い作戦だと思います。敵に対する強力な揺さぶりになるでしょう。恐らく、敵は動揺し焦ってミスを犯すはずです。それは富竹さんにとって掴むべき尻尾となるに違いありません。いや、実にうまい作戦ですよ! 三人集まれば何とかって言いますが、若い皆さんがこれだけ集まると、いいアイデアも出て来るもんです!」
大石さんは感服したように笑い、作戦の効果について太鼓判を押してくれた。
だが、大人の事情としてわずかにも渋る。
「…こいつぁ大勝負になります。勝っても負けても、私はこの作戦の責任を取らされるでしょう。うまく誤魔化すつもりですが、下手すりゃちょいと痛い目にも遭うでしょう。……ちょいと覚悟が必要です…。」
この48時間作戦で一番の責任は大石さんが受け持つことになる。
……警察は厳しい組織だ。大石さんが強い追求を受けない保証なんかない。
聞けば、大石さんは今年で定年退職。
…退職金で家のローンを全て返す予定を立てているという。
人生でとてもデリケートな時期にいるのだ。
……梨花ちゃんの一大事とは言え、全てを投げ出す覚悟を強いるのはとても申し訳ないことだった。
「くそ…。私もこの48時間作戦、かなりいい手だとわかってるんです! しかし、
「………大石。難しければ、無理に頷かなくてもいいのですよ。僕たちは大石の犠牲を踏み台にして勝利を勝ち取りたいなんて思ってないのです。」
誰も言葉が掛けられない沈黙を、羽入がやさしく破った。
……羽入は、部活の時はあぅあぅと賑やかなのだが、…こういう、何というのか、迷ったり弱ったりしている人の心を癒す力がある。
…例えるなら、不思議な包容力。
外見と年齢がもし伴ったなら、それは母の姿にも似ているのかもしれない。
「それに! 僕たちは最強の部活メンバーなのです! 48時間作戦が駄目なら、もっともっと効果的で面白い作戦をすぐに考えちゃいますのです!! ねぇ魅音!!」
「あ、…ああ、そうだよ! 大石さん、無理なら断ってくれて全然OK! むしろ私たちも大石さんの迷惑も考えず勝手に盛り上がっちゃって悪かったと思ってるもん!」
「…そうですわね。困らせてごめんなさいですわ、大石さん。」
その様子を見て、レナが俺にそっと呟く。
「……羽入ちゃんって、結構うまいね。年下の子にこんなこと言われちゃったら、一肌脱がずにはいられなくなっちゃうもん!」
「え? …え? って、羽入が慰めてるのって、そういう意味があるのかよ?!」
「……みー。だって羽入は本当はボクよりずっとタヌキなのですよ。」
大石さんが、何とか力になりたいとうんうん唸っている横で、ニコリ(ニヤリ?)と笑っている羽入。
前言撤回…。……こ、こいつぁ、…なかなかのタヌキだぜ!!
やっべぇ羽入最高!!
次の部活からはこいつ超要注意のダークホースだ!!!
「んんんん…、
大丈夫、絶対に信頼できる人間です。私も引き受けたなら失敗しましたじゃ済みません。なので、やる前に勝算を測らせてください。」
大石さんはできない約束をする人じゃない。
だから慎重な言い方をするが、その立場を思えば、とても勇気ある決断に違いなかった。
「大丈夫ですよ大石。もし退職金がなくなっちゃっても、きっと魅音が何とかしてくれるのです。/
ね? あぅあぅあぅ!」
「……みー。部活メンバーに協力する以上、そうじゃないと大石が可哀想なのです。…みー。」
「ふぇ?! あ、あはははははは!! ま、まぁねぇ! おじさんの家はこう見えてもお金持ちだからねぇ! あはあははははははは…!!」
タヌキが2匹か…。
我が部も今後はますますに混戦を極めそうだぜ…。
これでその日の会合は終わった。
大石さんが、48時間作戦の発動が可能かどうかを探り、明日それがわかる。
富竹さんから連絡はないが、すでに鷹野さんの身辺調査に着手しているだろう。
監督と赤坂さんは敵の腹中で今はひたすら待つ時だ。
…同時に危険な立場でもある。無事を祈るしかない。
…そして、鷹野さん。
あの人がこんな恐ろしい陰謀に関わっていたなんて、…今でも、実は嘘でしたと言われたらそれを受け容れてしまいたい心の弱さが少しある。
だから、そのためにも富竹さんにそれを調べてもらいたい…。
……ミステリアスでちょっと冷たい感じの人だが、たまに見せるお茶目な一面もあった。
………それに、やっぱり彼女も村の一員なのだと思う。
その一員を、敵だと疑うのは、…本音を言うと、少し心苦しいことだった。
富竹さんの気持ちも少しわかる。
……彼女がクロだと掴むための調査じゃなくていい。
……彼女の潔白を、早く証明してほしいと思った。
人が、人に、疑いを持つというのは、こんなにも辛いことなのだから。
;■富竹ターン
「もしもし。あぁ、何度もお電話をさせてしまいすみませんでした、富竹二尉!」
「いえ、それより、何かわかりましたか。」
身辺調査は、数ヶ月の単位で行なうものだ。
昨日の今日ですぐに何かがわかるほど簡単なものではない。
だが、富竹は梨花たちに言われ、……何か大きな陰謀が動き出していることを感じ取っていた。
その気配は確実に迫りつつある。
……そして、それが迫ったときにはもう手遅れなのだ。
だから、こうしてマメに進捗を確認している。
「……鷹野三佐については現在、調査を続けています。アルファベットの客員に迎えられる時に、別の部署ですでに身辺調査を行なっていたらしく、その資料の引渡しを要求しています。アルファベット後については今、総員体制で当たらせてるところです。もうしばらくお時間をください。」
「わかってます。…ですが事態は切迫しつつあるように感じていますので、くれぐれも緊急にお願いいたします。」
「はい、もちろんです。それから、富竹二尉の依頼とは別に、本日付で入江機関への緊急内偵が命じられました。優先度最大。命令書は幕僚長名です。」
「……幕僚長が?! 私の調査依頼とは別に?」
「はい。あくまでも別件となっていますが、私の見たところ、これは富竹二尉の調査に対するトップからの強力な後押しではないかと。」
「……幕僚長が、協力…。」
それが何を意味するか、と言われると難しい。
だがひとつ言えるのは、入江機関を巡る陰謀に陸自トップが充分な危険性を認識したのは間違いない。
梨花ちゃんが主張するように、この巨大な陰謀が、緊急マニュアルの執行にあるなら、…彼らと対立する陣営はその執行を何とか食い止めようとするはずだ。
私の調査依頼は、食い止めるための第一歩となる。
……だから、もし幕僚長が、陰謀の黒幕の息が掛かっていたなら、この調査に圧力をかけるはずだ。
……それが後押しということは、
…いや、それどころか多分、陰謀とは逆側の陣営に属していると考えられるだろう。
…いや、属しているかも怪しい。
逆側の陣営に属する黒幕に、そうするよう命じられただけなのかもしれない。
…ということは、陰謀側の陣営に嗅ぎ付けられ、逆に圧力を掛けられる危険性も高まっているということだ。
……そうなる前に、どこまで嗅ぎ付けることができるか。
……自分の身には雲の上の話などわからない。しかし、幕僚長が絡むとは……。
………鷹野さんがクロかシロかは別にして、…やはり入江機関を巡って何かとんでもないことが動き始めているのは間違いないようだ。
「入江機関についての調査も急ピッチに進めています。まだ分析は終わっていませんが、入江機関内の予算の動きに不審があるようです。単なる書類のミスなのか、何かの工作なのかは現在、腕利きに洗わせています。」
「口座に不審とは何です?」
「はい。入江機関の運営資金用に分配口座があるのはご存知と思います。そこの数字が微妙に合いません。プール金への流出、もしくは不明金の流入の可能性があるとのことです。また領収書の日付にも不審な点があり、捏造の疑いが持たれています。」
予算というのは普通、一年間の運営に必要な分だけを配当するものだ。
例えば、一年間に100万円掛かるという予算書が通過したら、4月に100万円が配当され、それで一年間のやりくりをすることになる。
だから、うまくやりくりができれば、一年間を90万円で過ごし、10万円を余らせるということもあるかもしれない。
すると、翌年の予算書は、今年を90万円で過ごせたのだから、90万円あれば充分だろうということになる。
そしてさらに、10万円はすでに余ってて残ってるのだから、プラス80万円あればいいだろう、ということになり、次の4月には前年より20万円減って、80万円が配当されるわけだ。
となると、……勘のいい諸兄はお気づきだろうが、お金を余らせば余らすほど、どんどん予算は切り詰められていき、自分の首を絞めていくことになる。
……だから、予算は綺麗にピッタリ使い切るのがコツだ、とされている。
そのため、年度末までやりくりできるようにうまく切り詰め、それで10万円余ってしまったら、その10万円を使ったように見せかけ、こっそり金庫に取って置くという荒技が出てくる。
そして一年間にピッタリ100万円を使ったと報告して、翌年に100万円の予算をまた受領する。
……そして金庫の中にはあるはずのない10万円が残る。
この10万円を、プール金、通称、裏金と呼ぶ。
一年間を90万円で運営するのを毎年続けていけば、金庫の中に裏金は毎年10万円ずつ増えていく。
そして、そのカネの存在は一部の人間しか知らない。
これが、公金着服、あるいは私物化の仕掛けだ。
すでに何度も紹介しているアルファベットプロジェクトも、この仕掛けによって、莫大な公金をある特定の黒幕が吸いだしているのだ。
こういう事態を防ぐために、毎年、会計事務監査があり、裏金を作って誰かが私腹を肥やすことがないよう監視しているのである。
ちなみに、この10万円を余さないために、年末に土木工事が増えるという話だが、その辺はここでは割愛する。
予算取りは大変なのだと彼らを弁護しておくに留めよう。
……さて、ここまでは予算が余るという幸せな例だが、
何しろ、一年間の分しか配当されないのだから、私たちの生活のように定期口座を解約して……、
よって、予算報告は支出が収入を上回ることだけはありえないのである。
もしそれがありえたとしたら、……予算配当した分とは違う、存在しないはずの現金が存在することになる。…つまり裏金の発覚である。
まだ調査中というが、入江機関の予算の動きには不審な点があり、そのどちらも疑えるという。
前者ならまだ可愛い。よくある公金横領だ。
……だが、後者なら、場合によっては何かとんでもない大蛇の尻尾の可能性がある。
つまり、入江機関に、正規のスポンサー以外の資本が入り込んでいる可能性。
……もうひとつ噛み砕こう。
つまり、入江機関に何者かがカネを出し、介入している可能性が疑えるということなのだ。
富竹は、鷹野と山狗が造反している可能性を調査させていた。
鷹野が研究を巡る個人的理由から陰謀に加担することはあるかもしれないが、山狗がそれに共感して加担することは考えられない。
山狗が寝返るには、……それに見合うだけの大きなカネが動いたはずなのだ。
その痕跡がそれである可能性は否定できない。
「あ、もしもし? 失礼、今、一件報告が来ました。富竹二尉は小泉先生をご存知ですね? 旧小泉派のトップです。近年お亡くなりになって派閥は瓦解したそうですが。……そのトップと鷹野三佐の個人的親交についてはご存知でしたか?」
「えぇ。一応は。」
「では小泉先生と故高野先生に個人的親交があったことはご存知でしたか?」
「…え? いや、……。……なるほど……。小泉先生が鷹野三佐を可愛がっていた理由がようやくわかりました。」
「……ん、
「それは、入江機関設立の根回しに小泉先生が使ったのでは?」
「いえ、その根回しのカネは弁護士が管理を任されていました。ですから、その支出ではないと思われます。…腹心の金庫番を素通しして支払うというのは、よほどの個人的支出です。」
……小泉氏と鷹野さんとの個人的親交が、それに重なる…?
「では、鷹野三佐に対し、小泉先生が個人的に資金を提供した、ということでしょうか?」
「はい。こちらでも、そう分析しており、現在、裏付けを進めています。小泉先生による機関設立の根回しとは別に、鷹野三佐に対し個人的に、設立工作のための現金を提供したのではないかと考えています。」
「……ということはつまり、鷹野三佐は造反工作を行ないうる現金を多額に持っている可能性がある、ということですか。」
「鷹野三佐は機関設立に当たり、各方面への調整に当たりましたが、それは全て表ルートの接触で、裏ルートからの接触はありませんでした。ですので、設立工作に当たり、その提供を受けた資金を使用していないなら、それは丸々残っている可能性があります。」
「…話が前後しますが、その提供を受けたと思われる額はいくらですか。」
「10億。」
「そッ、…そんなに…!」
…鷹野さんと個人的な親交を重ねてきたが、…彼女が特別お金持ちだと感じたことはないし、贅沢どころか、どちらかというと几帳面なタイプだった。
10億円なんて大金を持っていたとはとても思えない…。
…………いや、それは彼女にとってお金ではない。
祖父と親交のあった人物からもらった、応援のエールであり、…彼女にとっては、ここ一番で使うために取って置く切り札だったに違いないのだ。
新しい理事会に対し、現金で買収できる程度の魚心があればきっとそこに使っただろうが、新理事たちはその研究を嘲笑った。
……だから鷹野さんは彼らの買収を諦めた。
そして、……雛見沢症候群の研究終了というこの最後に、
10億円もあれば、山狗を買収することは可能かもしれない。
…鷹野さんの背後にいる何者かの後ろ盾があれば、それはさらに容易だ…。
……果たせなかった祖父の意思。
それに対する壮大な最期を、彼女は演出しようと企んでいる…。
………………くそ、
心の弱い彼女を誰かが利用しようと誑かしたのだ!
僕は君の側にいながら、
;■6月18日(土)
古手神社の境内では、明日のお祭りの準備が進められていた。
ワゴン車や軽トラックが、次々にテントの材料を運んできて、村の青年団の、青年と呼ぶには無理のある年齢の方々が、それを下ろしていた。
「梨花ちゃま、だいぶ具合が悪いらしいんね。大丈夫かいのぅ。」
「今日も学校を休んだっちゅ、聞いたんね。長引かんといいんねぇ……。」
「あぁ、入江先生〜! 梨花ちゃまの具合はどうですんね…。」
「はい。ちょっと性質の悪い風邪だったようですが、峠は越していると思います。ただ、風邪は治り際が肝心です。本人たちにも、今日は治ったとはしゃがず、布団の中で大人しくしているように注意してきたところです。」
「あ〜、そうかそうか、沙都子ちゃんも一緒に風邪を引いてるんかぁ。ふったりで仲良く風邪だもんで、ついつい遊んじゃうんだろぅの、はっはっは!」
「風邪まで一緒とは、梨花ちゃまと沙都子ちゃんは本当に仲良しだんねぇ。」
「あー、村長さ〜ん! 入江の先生がね、梨花ちゃまたち峠は越したって言うてんねぇ。」
「へー、そうかいそうかい! それは良かったぁ。それで明日の奉納演舞なんだけど、
「……う〜ん、本人はやるといって聞かないんです。皆さんがやってくれと頼めば、多分、喜んでやってしまうでしょう。ただ、医者の立場としては、例え今日、熱が下がっていても、明日は大役はお休みさせてあげたいところです。」
「う〜〜〜〜〜ん、困ったねぇ。あ! あ! お魎さん。梨花ちゃまの具合ね、良くはなってきたけど、まだまだ安静なんだってよ。」
「……そんら仕方ねぇな。…無理にやらせて祭りの日に倒れられた日にゃ、まぁたオヤシロさまの祟りだなんて言われちまうんよ。」
「いや、…村のみんなも心配してるよ。また5年目の祟りもあるんじゃないかって言ってね。……んで、北条家の沙都子ちゃんと梨花ちゃまだろ…? 物騒な想像してる連中もいるらしいんだよ。」
「あっほらし! 梨花ちゃまはオヤシロさまの生まれ変わりよ。その梨花ちゃまが祟りに遭う時は村が滅ぶ時よ。縁起でもねぇこと言うんでね!」
「いやはや、まったくだよなぁ…。」
「入江先生。二人を見舞うことはでけんかいね。」
「しばらく遠慮してあげてください。治りかけで遊びたい盛りなんです。外部との接触があると興奮してしまい、また床を抜け出そうとしてしまいますから。」
「はっはっはっは、そうかそうか、それなら無理はでけんな。入江先生、あの二人を頼むな。梨花ちゃまだけじゃね、沙都子ちゃんも頼むんな。」
私は、え? と思った。
お魎さんは、梨花ちゃんと沙都子ちゃんがいれば、沙都子ちゃんだけはまるで目に入らないかのように振舞う人だった。
その彼女が、沙都子ちゃんの名を直接呼んでまで、私によろしく頼むと言ったのだ。
「…えぇ、もちろん! 梨花ちゃんも、もちろん沙都子ちゃんも、絶対に元気にしてみせますよ。お任せください。」
「………もし間違いがあったら、まぁたオヤシロさまの祟りなんて言われちまう。……なぁ入江先生。昭和も50年にもなって、人類が月にまで行っちまったような時代にもなって、まぁだ祟りなんてあほ臭いとは思わんかいね。」
「思いますね。」
「……ダム戦争の頃は、確かにうちらはそれを煽ったし利用もした。…でもな、ダム戦争はとぉっくに終わっとるん。……いつまでも祟られてばっかりでは、いつまで経ってもダム戦争が終わらんのよ。」
「沙都子ちゃんが死ぬと、ダム戦争の祟りだと言われるから、
「………………………………………。…ダム戦争はもう終わったんよ。…村の子が風邪ひいたら、心配するのが年寄りの仕事だっちゅうんだけやんね。」
入江はすでに、お魎が言いたいことを理解している。
それを言葉として出させたいという欲に駆られたが、
……お魎の言葉なら、ここまで出れば充分なのだ。
お魎の言うダム戦争とは、…単にダム計画を跳ね返す戦争だけのことではない。
ダム戦争以来、ずっとこじれている北条家への村八分のことも指しているのだ。
そこまでの意味を含めて、ダム戦争はもう終わってるといい、……私に沙都子ちゃんを頼むと言ったのだ。
「……沙都子ちゃんも、お見舞いの気持ちを汲み取ってくれると思いますよ。」
「はっはっはっは! あぁんないたずらボンズに、年寄りの心なんざわぁらんわぁらん!」
お魎は甲高い声でカラカラと笑いながら立ち去る。
その後姿を見送っているのは、入江だけでなく、その場に居合わせた公由やお年寄りたちもだった。
そして、彼ら全員が、お魎の言わんとすることを理解していた。
ダム戦争は、もう終わったのだ。
「……あの元気な沙都子ちゃんにも熱を出させるんだから、性質の悪い風邪だねぇ。入江先生。二人をよろしく頼んます。面会謝絶だからしゃあないけど、二人に、年寄りがみんな心配してるから早ぅ元気になれと伝えてください。」
「えぇ。二人ともきっと喜ぶと思います。」
私は、心に誓う。
多分、明日という日に何かの形で祟りを起こそうと鷹野さんは企んでいるに違いない。
……それを、許すわけには行かない。
オヤシロさまの祟りは、5年目で断ち切る。
絶対に。
;■大石ターン
彼らの提案する48時間作戦を実行するには、大石ひとりではどうにもならない。わずかでもいいから協力者が必要だった。
大石は、鑑識のジジィと熊谷の二人を呼び出し、全てを打ち明けた。
「重ねて申し上げますが、こいつぁヤバイ橋になります。…諭旨ならいいですがね、懲戒だったら退職金も吹っ飛びます。」
「かっかっかっか! なぁんだ大石。お前、ヤバイ作戦の前にはいつも、隣の雀荘に部下を集めて、そう脅してるそうじゃないか。いつもと変わらん変わらん。のぅ?」
「えぇ、そうっすよ大石さん! いつものようにもっと元気に、退職金が惜しいヤツは10数える間に出てってくださいってやってくださいよ。そうじゃないと調子狂うっす!」
「………いや、本当にヤバイ話なんですよ熊ちゃん。その覚悟は本当にあるんですか…?!」
「試しに10数えてみればいいじゃないっすか! なら今日は俺が数えるっす!! 退職金が惜しいヤツは10数える間に退出してください。
「わわ、わかりましたわかりました! 熊ちゃんの覚悟はよくわかりました! いやしかし、本当にいいんですね?」
「えぇ! 俺、あの日、赤坂さんの武勇伝を聞いてる内に熱くなってきたんす!/
やはり刑事になったからには巨悪と戦いたい! それに、俺もやがては赤坂さんみたいに、武勇伝を誇れる男になりたいんですよ!! ヤバイ橋、上等じゃないっすか! それに大石さんの提案する作戦で俺たち一度も失敗したことないです。だから俺、その大石さんがイケると思って誘った作戦なら、ビビりませんよ!」
「かっかっかっか! 若いというのはいいのう! こいつな、あの日以来、赤坂くんにだいぶ感化されおっての? 秘密捜査や秘密事件に関わりたいと息巻いとったんじゃ。」
「…は、……はぁ…。いや、なはははは…、
…それで、爺さまはどうします?」
「ハ! わしも乗るぞい! というか、わしが乗らんかったらその作戦はまず成功せんからな。今日までさんざん不養生を重ねてきた。そうそうこの老いぼれが長生きすることもないだろ。なら、男に生まれたからには最後くらいデカイ花を咲かせたいもんじゃい!」
「…やれやれ…。爺さまも熊ちゃんも、とにかく怖い物知らずだなぁ…。だからドラが3つも捲れてても強気でリーチ入っちゃうんだなぁ。」
「何言ってんすか大石さん! 男なら降りられない時がある。どうせ切るならど真ん中! ってのは大石さんの口癖っすよ!」
「うむ。違いない違いない!」
「わかりました。……お二人のクビ、私が預からせてもらいます!」
「…そうと決まればわしの方も少々準備がいる。何しろ、早けりゃ明日の朝にはおっ始めようって話だからの! それに鑑識や検死の連中にも挨拶がいる。……大石、全部終わった後は、ちょいとデカくおごってもらうぞい!」
「えぇえぇ!! そこは任せてください。ですが、打ち明ける相手にはくれぐれも注意してくださいよ…? 署内にスパイ、混じってるそうですから。」
「わかっとる。わしも伊達に人は見とらん! 任せとけい!」
「いよおぉし、燃えてきたっす!! 刑事魂、本懐っすよぉおぉおぉ!!」
……大石は、自分が決断するのに丸一晩かかったのに、先輩と後輩に即決されて、ひょっとして俺ってダメなのかななんて思ったり思わなかったりしたそうな…。
「では、私はこのままちょいと用事があるんで出掛けます。熊ちゃんは爺さまを送ってあげてください。今日は非番なのに済みませんでしたね。」
「何、構わん! 久々に男の血が疼いてきよった。男が試せる大舞台、わしの人生でもこの歳になって初めてじゃわい。ビビるどころか、ここは楽しませてもらうぞい!」
「……ありがとうございます、爺さま。熊ちゃん。」
大石は二人の車が去るのを見送り、聞こえるはずのない感謝を口にするのだった。
それから大石は近くの花屋に寄った。
買ったのは桔梗(ききょう)の花束だった。
桔梗は青紫色のものが一番有名だ。
大石もこの涼しげな色は好きだった。
だが、大石はこの日だけは必ず青紫を選ばない。珍しい白い桔梗を頼んだ。
その白い無垢な花束を持ち、大石は花屋の向かいにある、寺裏の墓地に入った。
今日は、6月18日。
本当の命日は明日だが、毎年、綿流しの警備のためその日は丸一日張り付くから、一日早くお参りをしていた。
…大石が、親友とも兄貴分とも、そして親父とも思い慕ってきた、おやっさんの、一日早い命日だった…。
「……毎年毎年。私ゃ今年こそはおやっさんの右腕を見付け出すと誓ってますが、
大石は墓石に呟く。
先ほどの白い桔梗が飾られていた。
「ですが、…………ようやくおやっさんの死の真相に近付く機会を得ました。……ただね? それが笑っちゃうんですよ。…園崎家は関係ないって言うんです。……私ゃ毎年、ここにお魎の婆さんを連れて来て土下座させるって誓ってきたのに、
…勝手に当たり牌を誤解してベタ降りしまくった挙句にドカンと痛い目に遭う。…決め付けないで、キッチリ手を進めてりゃあ、でっかい手がちゃんと出来てたかもしれないのにです。…………私ゃ全然進歩してません。麻雀も相変わらずですよ。…こんな一度思い込んだら疑うことも知らない頭の固いヤツは、多分、馬鹿って言うんだろうなぁって思います。たっはっはっは…。」
大石は漠然と、予感していた。
………入江のあの少し遠慮した言い方から、何となく想像がついていた。
おやっさんのバラバラ殺人の裏には、……何もないのだ。
その後に続く事件はその後の都合。
……あの事件自体はそれひとつの事件で、
主犯格だけが未だ捕まらず、憎む相手が欲しかった大石にとって、怪しげに振舞う園崎家はとても都合がよかったのだ…。
……多分、大石がそうだと信じる復讐劇は、最初から存在しない。
「……………私ゃ今、ヤバイ橋を渡ろうとしてます。リスクの割に大した見返りはありません。…せいぜい、…私という馬鹿の思い込みを解いてくれるだろう、真実ってヤツを教えてもらえるだけです。……ですが、
大石は墓石に向って深々と頭を下げ、黙礼を捧げるのだった…。
その時、…誰かの足音が近付いてくるのが聞こえた。
……おやっさんの関係者だろう。
どうもその人も、毎年綿流しの日は都合は悪いらしく、大石と同じように前日に墓参りをしてくれるのだ。
その人は決まって、青い紫陽花の花を飾ってくれていた。
……その青と桔梗の青紫では少々、色の取り合わせが悪い。
だから、大石はわざわざ白い桔梗を選んだのだった。
普段はその紫陽花が先に飾られているが、…今年は熊谷たちとの早朝に密談をし、そのままここへ来たので、その人より先に墓参りができたらしい。
墓参りは競争じゃない。心だ。
……それより、あの日から欠かさず命日に花を捧げてくれるのが誰なのか、気になり、大石は顔を上げた。
「………………これは、……これは。…皆さんもどなたかのお墓参りですかな?」
大石はつい白々しいことを言ってしまう。
でも、…………全てを察した。
彼女が持っている紫陽花の花束を見て、全てを察した。
「おやおや。あんた、勤務中じゃないのかい? 悪いお人だねぇ、まったく。」
悪態をつくように笑いながら、園崎茜は紫陽花の花束を、娘の詩音に手渡した。
詩音は、母親と大石の距離を測るようにしながら、どうすればいいのか戸惑っているように見えた。
「…ほら、いつまでもお墓の前で突っ立ってんじゃないよ。そこをおどき。」
大石は墓前を譲りながら言う。
「………まさか、あんたが毎年、おやっさんに紫陽花を?」
「綺麗だろう? ウチの庭のヤツなのさ。やっぱり6月は紫陽花さね。あんたの桔梗も珍しいね。白いのもあるのかい。それも涼しそうで良さげだよ。」
「あー、大石のおじさま、ちょっとすみません。お花生けますんで、お邪魔します。」
詩音は墓前にしゃがむと、手馴れた様子で花束を開き、すでに桔梗の花の飾られた花立てに紫陽花の花を添えていった。
白い桔梗と青い紫陽花はとても映え、初夏の訪れを感じさせるとても涼しい色合いを見せてくれる。
「偶然にしちゃ、いい取り合わせじゃないかい。白に青に、よく引き立てあってるよ。」
「……毎年、私が来ると紫陽花がありましたからね。青い花じゃ相性が悪いと思いまして。」
「なぁんだ、なら私たち、相性はばっちりじゃないかい。」
「………そうですねぇ。…なっはっはっは。」
「どうしたんです、おじさま。レントゲンに妙なモンでも映ったんです? 何か今日は嫌に神妙で気持ち悪いですね。」
「おや、それは本当かい? あんたにゃ色々世話になったねぇ。あんたの墓にもちゃんと紫陽花を飾ってやるから安心しな! あとうちの組の店にツケが残ってるだろ。そいつの請求書を供えに来てやるよ。」
「なっはっはっはっは…。やれやれ、親子揃って口の減らない一家です。生憎、まだ当分、お迎えは来ないみたいです。定年までもうラストスパートですが、まだまだ行きますよう?」
「なら結構! 興宮の一市民としては公僕の頼もしい一言で安心だねぇ。はっはっはっは!」
それは、社交儀礼で塗り固められた会話のはずなのに、…何か、ちょっとだけ違うような気がした。
「………しかし、ひとつ教えちゃくれませんかね。死守同盟と現場監督のおやっさんは犬猿の仲だったはずでしょ。そのお二人が、どうして花を供えてくれるんです…?」
「そりゃあ犬猿さね! 私たちゃ敵同士! ねぇ詩音?!」
「えぇそうです! こんにゃろーはとにかくむかつくジジイでしたからね! 噛み付いてやったし、鳩尾に肘をくれてやったし、あと車のボディを十円玉で削ってやったり!」
「……詩音、時効前だよー。」
詩音はぺろりと舌を出して母の後に恥ずかしがるように隠れる。
「…それだけ仲の悪かった詩音さんまでが、どんな経緯でここへ墓参りに来てるんですか。」
「ってか、ダム戦争はもう終わりましたし。…まぁその、敵とはいえ、色々シャレにならないこともしましたしねー…。」
「……………………。」
「何だい、納得いかないのかい? 終わった戦争さね。ラグビーだって終わったらノーサイド、敵味方ナシなんだろ。そういうことさ。」
茜はさも当然のように言うが、大石は納得しかねていた。
第一、あれだけ対立してきたのだ。
……憎み合い、唾棄し合うべき関係で、…墓前に花を供えようという気持ちになるわけがない。
でも茜は、そんなのは当然のことだという。…………茜と大石の価値観が合わない。
「私にゃあんたの方が理解できないねぇ。私の中ではダム戦争は終わったことになってんだけど、あんたの頭の中ではまだ続いてるってのかい?」
「んっふっふ! まさか。ちゃんと終わってますよ。…あの騒々しいスピーカーが未だ頭の中から鳴り止まないなんて、冗談じゃないです。」
「なら、園崎家が墓参りしてもおかしいことはないだろ? ほら、どきなどきな。私もお供えを持ってきたんだから。」
そう言いながら、茜は巾着の中から小さな包みを取り出し、それを墓前に供えた。
「……その包み、毎年見かけてましたが、中身は何なんです?」
「鬼婆特製のおはぎです。酒飲みは甘いのは苦手だろうからって、砂糖抜きだそうですが。」
;<詩音
「…お魎の婆さんが、ダム監督の命日のために、おはぎを握ったと仰るんですか。」
「毎年握って供えてるよ。あんた、毎年見てるって今言ったじゃないかい。」
大石は半ば、呆然とするしかない。
……お魎は鬼ヶ淵死守同盟のタカ派のタカ派。
…そして、おやっさんを殺した真の黒幕だと信じてきたのだ。
それが、毎年命日におはぎを供えてくれていたなんて、…信じられない。
「そんな顔しなさんな。……もうさ、そういうのはおしまいにしようじゃないかい。」
「……そういうの、とは何のことですかな?」
「園崎家が、ダムの監督の墓前に花を供えちゃいけないとか、そういうのさ。」
「……………………………。」
「もう昭和も60年になろうってんだ。下手すりゃ数年もしない内に元号も変わるかもしれない。……そんな時代にまで、あんたは終わっちまった戦争をずるずる引き摺りたいってのかい?」
「…ご冗談を。もうあんな戦争はごめんです。平和が一番ですよ。」
「国にも悪いところがあった。反省が必要だね。でも私たちにも悪いところがあった。だから私たちは反省するよ。そして、それはそれでおしまいになったなら、あとはいつまでもぐだぐだ言ってても仕方ないだろ。古い時代を片付けて、新しい時代を作るのが若者の仕事さね。………不幸な事件があって、この御仁は死んじまったけど。…もし生きてたなら、私ゃ一緒に酒を飲んで全部水に流したいと思ったさ。…でも死んじまった。だから、この御仁とはもう仲直りできない。…………悲しいことさ。」
「……………………………それが、死別というもんですからねぇ…。」
「……でも、あんたは生きているじゃないかい。」
「そうですね。私は生きてます。あんたらも生きてます。」
「……なら、あんたともいつか、仲良くできる日も来るかもしれないねぇ。」
「なっはっはっは…。さぁて、どうでしょうねぇ…。」
「詩音、こいつを住職さんに渡してきて。そしたら表の車で待ってな。」
「…うん。」
茜は懐から何か封筒を取り出すとそれを詩音に渡す。
詩音はそれを受け取り、大石にぺこりと会釈すると駆けていった。
「…………ダム戦争の時は、小生意気なお嬢さんだと思ってましたが。…いつの間にか成長されたもんです。」
「ダム戦争から何年経ってると思ってんだい。その間に赤飯も炊いたし、一緒にブラも買いに行ったよ。いつまでも小娘じゃないのさ。それだけの時間が経ってる。」
「……それだけの時間が経ったんですねぇ。…時間は若者ほど濃密で、…年寄りほど希薄になる。」
「変わらないのは年寄りだけさ。……でも、時代と若者は絶えず成長してる。そして、ぼんやりしてる間に私たちを追い抜いて行っちまうのさ。で、私たちは隠居して若者を見守るのさ。オツなもんだろ?」
「オツなもんですなぁ。……あの鹿骨の鬼姫、園崎蒐に、いつの間にか説教をされるようになったんですから。」
「嫌だね、そんな通り名、まだ覚えてるのかい? 今じゃ鹿骨のレディーで通ってるんだよ? そいつぁ内緒にしてくれるとありがたいねぇ。」
「んっふっふっふっふ! ダム戦争も終わったんですしねぇ。」
「そうさ。もう終わったことなのさ。」
本堂の前で住職と詩音がやりとりをしているのを、二人は見守る。
無言だけれども、なぜか心地がいい時間。
風は吹かないけれど、…モンシロチョウがひらひらと舞い、涼感を誘ってくれた。
「………勤務中だろうけどさ。どうだいひとつ。ひんやり冷酒でも行かないかい?」
「今日は遠慮しましょう。私も車ですし、あなたも車じゃないんですか?」
「くっくっくっく。そりゃあ残念だね。またの機会にしようかい。」
「そうですなぁ。またの機会にしましょう。」
大石の中の、…長いこと居座っていた何かが解けていく。凝り固まった何かが、解けていく。
「そろそろ戻ります。あなたもお嬢さんを待たせているでしょう。」
「そうさね。お開きにしよう。…………あんたとは色々あった気がするけどさ。これで一度、ぱーっとチャラにしちゃいたいね。」
「その辺りの清算会は、また後日に改めてやりましょう。いずれ、きっと。」
茜は、晴れ渡った空に負けないくらいの笑顔で、それに頷き返すのだった。
だが突然、その表情が媚びたものに変わる。
「それでねぇ、大石の旦那! …私たちのわだかまりがぱーっとなくなったところでさ。えっへっへっへ〜! 昨日、反則切符もらっちゃったんだけど、
「……そいつは最寄の警察署へどうぞ。私に声を掛けてくれりゃあ、順番待ちを優遇するくらいはしますよ。んっふっふっふ…!」
「ちぇー。サービスの悪い人だよ。くっくっくっく。」
「なっはっはっはっはっは…!」
真っ青な空の下で、二人の小気味のいい笑い声が響くのだった……。
;■鷹野ターン
「お待たせしましたわ、野村さん。………………いえいえ、失礼しました。」
鷹野が取る受話器の相手は女性のようだった。
「その後のお加減はいかがですか?」
「えぇ、万事つつがなく。明日が、祭りになりますわ。」
「そうですか。それは良かったです。ふふふふふ。」
「明日の夜、富竹二尉は哀れな事故に。全て廃棄したはずのH173が投与された痕跡を残し、どういう形であれ、哀れな最期を遂げるでしょう。くすくすくす。」
「それはとても楽しそうな幕開けです。こちらではすでに議事録の捏造が終了しています。入江二佐が研究継続を求めて、他国に研究を売り渡そうとして独走し始める痕跡です。」
「……富竹殺しは、それに組み込まれる。」
「そうです。理事会に対し入江機関への疑問を抱かせる最初の布石になります。その辺りの工作は全てこちらが受け持ちますので、どうかお任せください。」
「……………それから、
「もしもの時と申しますと?」
「あ、……いえその、……。……富竹二尉が買収に応じた場合です。」
「富竹二尉の買収は作戦には含まれていないのではありませんでしたか?」
「いえ、…だって、彼は理事会の監査役です。もしこっちの味方になってくれれば、色々利用できることも多いかと。」
「こちらの分析では、今回の作戦に富竹二尉が寝返ってくれても、リスクの割に得るものはありません。作戦に不安要素をわざわざ加味する必要はないのではありませんか?」
「仰るとおりですわね。失礼しました。何かに使えるかと思ったもので提案しただけです。……当初予定通りに行きます。」
「それがよろしいでしょう。それではまた連絡します。失礼します。」
……私はしばらくの間、切れたままの受話器を握ったまま放心していた。
そして、一度受話器を置きなおしてから、
「………………………………。」
「……ハイ! エコノミーホテル興宮でございます。」
「あの、
「ハイ、今、お取次ぎしますので少々お待ちください。」
内線取次ぎ中の、電子音楽の心休まらぬ童謡が流れ出す。
1分くらいは待たされてから、…出たのはさっきのホテルの従業員だった。
「申し訳ございません。406号室のお客様はただいま外出中でございます。お電話があった旨、ご伝言いたしましょうか。」
「…もう何度も伝言を頼んでるから結構です。………あの、
「あ、…申し訳ございません。それにつきましてはお答え出来かねます。」
「……わかりました。また掛けます。」
そう言い、相手の挨拶を最後まで聞かずに受話器を置く。
………これで三度電話を掛けた。
…連絡が欲しいと伝言を頼んでるのに、…連絡がない。どうしてだろう…。
…ひょっとすると、ひとりで写真撮影をしているのではないだろうか。
………それとも、…私たちが待ち合わせ場所にする、あの境内裏の見晴らしがよいところで待っていてくれるのだろうか…。
そんな淡い期待に誘われて、私が実際に神社まで足を運ぶなんて、誰が考えただろう…。……私だって、驚いている。
神社は明日の祭りに備えて、準備の真っ最中だった。
模擬店のテントや様々な催しの準備がされている。
作業する人々の声と、模擬店のバッテリー駆動音がうるさくて、今の私にそれはとても不快なものだった。
気付けばそこは境内の裏。……多分、この村で一番風景の美しいところだ。
…そこでよく、私とジロウさんは待ち合わせをする。
ひょっとして……そこで私を待っていてくれるんじゃないか………。
もちろん、そんなのは都合のいい甘えだ。
……わかってはいたが、……神さまは期待に応えてなどくれない。…連中は、人を試して遊ぶくらいしかしないのだから。
私は少し強い風に髪を散らせながら、ぼんやりと村を見下ろすのだった。
普段なら、…彼は雛見沢にいる間中、私に付きまとう。
…少ししつこいと思うくらいに、食事に行こう、散歩に行こう、撮影に行こうと、しつこく誘ってくる。
…なのに、…なぜか今回の彼の来訪では、それがまるでない。
彼の、私に対する接し方が、変わったように感じる…。
いや、彼の雰囲気が変わったのは、
……やっぱり、彼の目にはあの一件以来、私がいわゆるマッドサイエンティストに見えてしまったのだろう。
…彼の関心が私から、潮が引くように退いているのを、ちくり、ちくりと感じていた。
愚痴りたい気持ちもある。
……普段のどうでもいい時には、あんなにもしつこいのに、…………たまに胸の内を吐き出したいと思えば、
でも、
彼を暗殺する計画を打ち合わせたその舌の根も乾かない内に、
……こんな女の電話なんか、取る義理は全然ないじゃないか。
……………こんな、地獄行き以外にありえない女に、誰が、何を許すのか。
彼が、私を同情して、
……そんなはずない。
…彼は大仰に驚き、
私の身分は一応、自衛隊なのだから、…よくわからないけど、国家反逆罪とかそういうのでもあるんじゃないだろうか。
「……………はぁ……。」
………この数日、…彼のことばかり考えている。
…そしてわかったことがある。
彼には、男性としての魅力などまったくないこと。
そして、ジョークのセンスもなく、お洒落のセンスもないこと。
ないないない、何にもない。
かといってお腹の肉はちゃんとある。いいとこなしだ。
こちらの都合なんかお構いなしだし、しつこいし、たまに機嫌がよくてやさしくしてやると、必要以上に増長する。………全然、ダメダメ。
いい年して、最後に女性と手を繋いだのが、林間学校のフォークダンスなんて言ってるんだからなおさらだ。
…しかもこれが笑って欲しい話らしいのだから、輪をかけてダメダメだ。
でも何がダメと言ったら、彼が私の気持ちなんか全然お構いなしな自分勝手なところだろう。
私にだって、ひとりになりたい時もあれば、気分が乗らない時もあるというのに、そんな表情を汲み取ろうともせず、いつもいつも無理やり私を連れ出すのだ。
だから、どんな疲れてる時でも、気乗りしない時でも、
……それは疲れることなんだと、ずっと思ってたのに。
そんな彼に、
私は、彼に連れまわされるのを、本当に苦痛だと思っていたのだろうか。
………ひょっとして、…彼からもたらされる、溢れるほどの好意を、…湯水か何かと同じに考えていたのではないだろうか。
…気分の乗らない日に連れ出されると、
…………彼が今、居てくれたなら。
…私をいつものように野鳥撮影に連れ出し、…聞いてもないノウハウを楽しそうに説明してくれるのだろうか。
それはきっととても退屈で面倒なことなのに、………今はそれが欲しいと、素直に思えた。
……結局、私は彼の好意におじいちゃんの代わりを求めているだけではないのか。
祖父に甘えた。祖父が私の生きる目的を教えてくれた。それに甘えた。
小泉のおじいちゃんに甘えた。私の夢をかなえるために協力してくれた。それに甘えた。
二人のおじいちゃんが亡くなり、
……私は保護者に飢えているのか…。
幼い頃に両親を突然亡くしたトラウマが未だ癒せず、
……………幼い私が、…完成できない玩具に癇癪を起こし、どうせ壊すなら私がやると息巻いている。
…それは、私だけの問題では済まない。……とてもとても大変な、取り返しのつかない大惨事を伴うだろう。
………そうしなければ、祖父の論文の正しさを証明できない。
そう信じてここまで準備を進めてきた。
あと何日もしない内に、祖父の論文を政府首脳部は穴が開くほどに読み、祖父の警告する最悪の事態に恐れおののき、充分な対策を怠り、その研究を中止した愚かさを悔やみながら、…最終解決を承認するのだ。
その時、祖父の論文は真実となり、その偉業は昇華され、祖父の名は歴史に刻まれる。
そして、神になる。それは永遠の存在。
私はオヤシロさまと呼ばれ、神と崇められる雛見沢症候群を暴き、その存在を地に堕とす。
そして、5年目のオヤシロさまの祟りを、ジロウさんの死と私の死で完成させ、祟られる側から祟る側へ、…試される立場から試す立場へとその身を移す。
それは、私の神への昇格。
祟りを自らの意で自在とし、この地の神を蹴落としその座につくのだ。
そして、私と祖父は共に神として、永遠に一緒にいるのだ…。
神は、試されない。運命に、試されない。
もうどんな不幸も私たちを引き裂けない。
永遠に、私はおじいちゃんと一緒なのだ。
そして、…あの懐かしいホルマリンの臭いのする書斎で、いつまでも仲良く、
それはあの懐かしき日の原風景。
おじいちゃんは、書斎机の前で私に背中を向け、ずっと書き物をしている。
私はその大きな背中を見ながら、絨毯の上にうつ伏せになりながら、足をこう、ぱたぱたとさせて鼻歌混じりのご機嫌。
研究の手伝いという名の、書籍を積み木に見立てた整理ごっこで遊んでいる…。
……そこへの回帰が、私の、唯一の願い。
もちろん、そこまで遡れるなら、……死んだ両親が生きていてほしいとも思う。
おじいちゃんの背中を見ながら分厚い本で遊び、……母がまな板を包丁で叩く音と、父が新聞をめくる音が聞こえたなら、
それは、…理想の子供時代。
でも、その理想の世界は屋内で、…外へ出る扉はない。
……だから友達の家へは遊びに行けない。
…なぜなら、
だから、お外なんていらない。……ずっとずっと家の中で、両親や祖父に囲まれていたい……。
…私だって医者の端くれだ。自己分析くらいできる。
………それが、いつまでも幼いままのみっともない心の表れであることくらいわかってる。
……そこまでわかっていて、……なお、この期に及んでジロウさんに、保護者の姿を求めるのか。
彼の死を含む計画を進めながら、…都合よく彼の背中にすがろうというのか。
…神を目指す反逆児のつもりなら、最後の最後まで悪党らしく小憎らしく。
…寂しがりやの少女のつもりなら、最後の最後まで少女らしくしおらしく。
そのどちらであろうとも、それが自分の生き方だと言うならば、誰にも責めることなどできないだろう。
だって、自分が正しいと信じているのなら、誰が批判しようとも耳を貸さず、その道を突き進むのみなのだから。
でも、私はそのどちらの道も、…未だに選べていない。……だから、誰かに責められたい。
誰にも自分の道を批判されなかった。
だから、誰かの批判に耳を貸したい。その道は間違っていると叱咤されたい。
…ジロウさんに、君は何て馬鹿なことをしたんだと罵倒されて、…頬をぶたれたい。
そんな被虐的な願いが、……今の私を、自身が否定していることを物語る。
……それすらも結局は、保護者に対する甘えなのか。
私は、自分を幼いと呼ぶにはもうあまりに歳を取りすぎた。
……私が自らを幼いと称しても、誰もそうとは認めないだろう。
内なる私がどんなに幼くとも、……世間は私を、一人前の大人として扱うのだ。
そして、大人に相応しい責任と判断力を持ち、それに従ってここまでやってきたのだと言うだろう。
……やがて私は閻魔の前で裁かれて。…その時にもなお、幼い私を大人として裁かないでくれと主張するのか。
…………私は、閻魔の前にまで来ても、…まだそんなザマなのだろうか。
地獄行き確定のくせに悪魔にすらなりきれず、地獄が嫌なくせに悔い改めようともしない。
………私の心は血の池に浮かび、溺れながら彷徨するのみだ…。
ジロウさんさえ居てくれたら………。
いつもの無神経なおしゃべりに付き合っている内に心も晴れただろうに……。
……なんでこんな気持ちの、…そして彼と過ごせる最後の時間に限って、
彼がいないだけで、ここまで自分が不安定になるその幼さが、…今はただ憎かった…。
私は、いつのまにか賽銭箱の前に来ていた。
かつて、入江診療所の工事が終り、入江機関の研究がいよいよ始まるという時、私はここへ来た。
あの時、……私はこの地の神に対し、とても勇ましく挑戦を叩きつけた気がする。
希望と野望に満ち溢れていたあの頃。
私は幾多の困難の積み重ねを経てこの地に城を築き、……神にすら至ろうと誓ったのだ。この地の神の社を前にして。
……何だか、似たような話を祖父にしてもらったような気がする。
そうだ、……バベルの塔の神話だ。
まだ世界に人の言葉が1つしかなかった頃。
全ての人は同じ場所に住み、1つの意思に基づき暮らしていた。
そんな彼らは、自らの威光を掲げるため、天に届く巨塔、バベルの塔を建て始める。
神に対する敬いを忘れて天に至ろうとする傲慢な人間に対し、天は怒り。
彼らの言葉が1つであるから、彼らの意思が1つであるから、全ての人間が集い、このような暴挙に至ると考え、…言葉を砕き、混乱(バラル)させ、人々の言語が互いに通じ合わぬよう、無数の言語を与えたという。
人々は意思の疎通ができなくなり、次第にその地を離れ、天に挑んだ塔は朽ちるに任された…。
そんな話。……昔話にありがちだが、何を教訓にしろというのか少し判り辛い。
祖父は、この話を私にこう読み解いた。
天にも届く塔は、人類最大の挑戦であり、同時に神への挑戦でもある。
それは罪深いことでもあるが、人として生まれた以上、挑まずにはいられない処女峰であると。
しかし、巨塔を天に至らすのはあまりに容易ではない。
塔を建てる間に、必ず人の和が乱れたり、当初の意思疎通ができなくなったり、
これは、大勢の人間にだけ言うことではなく、1人の人間に対しても言えることなのだ。
どんな鉄の意志を持とうとも、天に近付けば近付くほどに、神は人としての限界を与える。
……つまり、どんな鉄の意志も、必ずいつかは心乱れる。
…最後まで初心を貫けると思うことが人の傲慢であるのだ、…とか。
それは祖父の内心だったのだろう。
誰にも認められぬ研究に、何度も挫けかけたに違いない。
でも、いつか必ず評価されると信じて、その日まで歯を食いしばると誓っていたのだ。
…………評価されることが願いで、…天に至ることではなかったのかもしれない。
祖父は研究を完成できないことを悟り、…自分の身に妥当な評価があればそれでいいと、妥協点を見つけていたのかもしれない。
人の身に、天に届く塔など作れない。
…しかし、バベルの塔は神話に残った。
天に届かぬ塔だが、…天に挑んだ塔として、神話に残された。
神話では、塔はやがて放置されて無人で残ったという。
だから、その造りかけの塔はその地に長く残り、決して天には届いていないわけだけど、……見る者があったなら、かつて偉大な挑戦をした勇者がいたことに感銘を受け、讃えるに違いない。
私は、祖父からこの塔を受け継ぎ、……天まで届かせると意気込んだが、同じ末路を辿る。
そして、どうせ崩される塔ならば我が手で崩そうとする。
私が祖父の研究を引き継ぎなどしなければ、…雛見沢症候群の名を記した論文は永遠に残った。
訪れる者も久しい廃墟の塔だろうが、
しかし、…私がそれを引き継ぎ、
塔は瓦礫の山となる。
…入江機関が閉鎖された後には全ての記録が抹消され、地上から消し去られる。
祖父の願いだった、人からの評価は、永遠に受けられないようになる。
……私は、祖父とその研究を永遠の存在にしようとして、……永遠にそうなれないよう、道を、閉ざしてしまっていたのだ。
何が高野三四なのか。祖父の一二三の後を継ぎ、三四を数えるどころか、……零にしてしまっただけ。
……私なんて存在がなかったら、…祖父の論文は廃墟の塔となって残れた。
この地に永遠にその痕跡を残せた。
…それを、私が台無しにしたんだ。……私が……。
全身に、何のためにかいてるのかわからない汗が滲み始めるのを感じる。
……それは、…取り返しのつかないことを私がしてしまったことを初めて知る、汗。
私がどこの段階から間違っていたのか。いつから間違っていたのか。
ここへ来た時じゃない。もっと。…もっともっと、前の時から、私は道を間違えている。
……あぁ、祖父の身になって考えればわかるじゃないか。
祖父は偉大な挑戦をしていた。そして偉大な塔を築いた。その塔は祖父の死後も威厳を持って立ち続け、いつかそれを評価する者を待ち続けるはずだったのだ。
祖父は、自分の死後であっても評価されればいいと、はっきり言っていたじゃないか。
それを、…どこかで私が履き違えた。どこかで私が、
祖父の理念をどこかで履き違え、………全てを無に返し、台無しにしただけ。
祖父を永遠にしようとして、……闇に葬ってしまうだけ。
祖父が永遠に残る塔を築いたのに、それを闇に葬ってしまう。
どこからが間違い? 何が間違い?
決まってる!! 祖父は、1、2、3、までを数え、……それで完成をさせていたんじゃないか! 私が余計なことをしてさらに石を積もうとしたから、…全てが崩れて台無しに…!!
私が4を数えようとしなければ良かった。余計なことをしなければ良かった。
それに、祖父は一言だって私に、研究の続きを頼むなんて言わなかったじゃないか……!!
……女の子が、こんな暗い書斎でひとりで遊んでいないで、表に行って友達と遊びなさい。
………そんなことも祖父が言っていた気がする。
でも私は、…そんなことよりおじいちゃんの研究のお手伝いをする方がいいと言って断り、書斎に居座るのだ。
誰にも顧みられぬ研究に、理解を示す義理の孫娘の気持ちの心地よさに、…次第に祖父は私に表へ遊びに行けとは言わなくなってしまったけど…。
でも、……出会ったばかりの頃は言っていた。確かにそう言っていた…。
では、…何?
私が、おじいちゃんのところへ来たことが、そもそも一番最初からの間違いということじゃないか。
では、何? 私が施設を脱走した時、……あそこでおじいちゃんに電話しなければよかった! 十円玉を見つけなければよかった! おじいちゃんに助けてもらわなければよかったッ!!
ああぁ、わかったわかったよ思い出した。私が本当にいるべきところを思い出したよ…!!
ガン、/
ガンッ、/
ガンッ!!!/
金属音が近付いてくる。近付いてくる…。私には眠る時間なんて許されてないんだ。あぁぁあぁぁ寝てたわけじゃないんです、目を瞑ってただけなんです、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!!!
「******ッ、***のくせに****ってんじゃ*****!!!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、気をつけます、ごめんなさいごめんなさい!!!」
「*****!!! もっと*****、*****だろぉがッ!! ****、************!!!」
ガツ、/
ガン!!!/
ガンッ!!!/
蹴らないで、蹴らないで…!! その金属の音が怖いんです。お願いですから蹴らないでください。私が直接蹴られてるわけじゃないかもしれない。でも音が、私を蹴るんです。だから蹴らないでください、お願いですから金網を蹴らないでください…。
全身にひびが入ります。体中にひびができた気がします。私の全身のひびに、汚い痒い痛いのがいっぱい染み込んできて、それが汚くて痒くて痛くて気持ち悪いです。それがだんだん胸の奥にまで染みてきて、溜まってきて、……私はそれが心に付かないように必死に背伸びしてそれを持ち上げています。でも、どんどん、どんどん汚くて痒くて痛いのが溜まっていきます。もう胸まで浸かって、……その内、私の顔も飲み込むでしょう。……私はその汚くて痒くて痛いのに溺れそうになっても、…それでも心がそれに浸からないよう、必死に必死に息を止めて背伸びをして………。
ガン!!/
ガン!!/
ガンッ!!!/
……………もう、
私は…汚物の海に溺れていく。………そして、………汚物を飲み込みながらも、それでも一滴たりとも染みを付けまいと抵抗して持ち上げてきた自分の心ごと、……汚物の海に沈んでいく…。
……溺れ苦しむのは、陸に帰りたいと喘ぐ陸の生き物だけ。…海に住む生き物なら、溺れて苦しんだりはしないんだから。
…………………おじいちゃんは、
私は****れ、……******の***で…*****ていく……。も******、*い******…。
……ほら、
…雄叫びか、…咆哮か。
私は現世に帰って来るために叫びの力を借りなければならなかった。
全身は汗でべっとりだ。
…それは汚くて痒くて痛くて…。あの日を思い出させる。
汚物のような汗が全身を這うと、這った後がみみず腫れのように腫れあがって痒くなる錯覚がする。
……いや、幻覚だ。痒いわけなんかない。だって、あれは終わったことじゃないか! 毎日お風呂に入っている、体が擦り切れるくらいに磨いてる。だからあの汚いのがわずかほども残ってるはずないじゃないか…!!
でも、思い出してしまう。あの汚らわしさを思い出してしまう…!
私は、痒みの幻覚に爪の跡が残るくらいにぎゅうっと腕を掻き、現世の痛みでそれを払うほかなかった。
……全身の痒みを、払えない。
……全身の穢れを、祓えない。
祓えないのは当然なんだ。私は汚らわしい存在なのだから。
そんなのをおじいちゃんが助けなければよかった…。
おじいちゃんと私が出会った事が、おじいちゃんを不幸にしてしまったんだ。
私がいなければよかった。生まれてこなければよかった。
あの金網の中で、一生を汚らわしく生きてればよかったんだ…!!
あの金網の中に帰らなくちゃ。あそこから出ちゃ駄目なんだ。あの中が、あの中だけが、…こんなにも穢れた私の、唯一の居所で帰る場所だったんだ…!
あの嫌な金属音で私を追い詰めて。
あの汚いので、あの痒いので、あの痛いので私を潰してしまって。殺してしまって。
…私がおじいちゃんと、出会うことがないように。
………それがあなたの願い?
そうよ、……崩れるバベルの塔の頂上に取り残され、天にも届かず墜落するのみの、イカロスのような私の、最後の願いよ。
私をあの金網に戻して。そして、この汚らわしい私にぴったりの末路へ送り返して。
………嘘つきの願いは、叶えない。
私は、…嘘なんか………………………。
あなたは本当の願いを一度は口にしたけれど、まだそれが一番の願いだとは気付いていないようだから。…私はまだまだそれを叶えてあげない。
………それが、神に挑もうとした罪深い人間への仕打ちだってこと…?
あなたも知ってるはず。願う強さが未来を作ると。
その強さが足りない。
……………く……。………私には、
私のような中途半端ものには、…地獄の扉すら開かれないって言うの……。
;■入江ターン
「……梨花ちゃん、沙都子ちゃん。容態はいかがですか〜? 私です、入江です。」
赤坂に注意されたので、入江は用心をするようになっていた。
赤坂は無言で鍵を開けた。
「お疲れ様です。外は賑やかですね。」
「えぇ。明日のお祭りの準備で大賑わいです。これは模擬店部会さんからお見舞いにと持たされたカキ氷です。せっかくなのでいただきましょう。」
「これはありがたい。いただきましょう。」
赤坂はTシャツ姿で汗まみれになっていた。
カーテンを閉めっぱなしで窓もろくに開けられないとあっては無理もないが、それでも汗をかきすぎだと思った。
「すごい汗ですね。確かにこの暑さでは無理もありません。」
「いえ、トレーニングを少ししていただけです。ドタバタするわけには行きませんので、もちろん気をつけながらですが。……いつ有事が起きてもいいように、体を常に臨戦態勢にしておくためのウォーミングです。」
「…ふむ。適度な運動は気分転換にもいいですからね。このようなところでずっと緊張を強いられていては、精神的にも参ってしまうでしょうに。」
「いえ、慣れてますから。でも、先生の差し入れはとても助かります。」
赤坂は子供っぽい笑顔を浮かべるとイチゴのカキ氷を口にするのだった。
「何か動きはありますか? 富竹さんから連絡は?」
「いえ、まだ何も動きはありません。/
……あ、…鷹野さんが富竹さんと連絡がつかないと言っていました。」
「身の安全のために宿を変えているはずでしたね。…勘付かれたのでしょうか。」
「いえ、そういう不信感を持ってはいないようです。私も、写真撮影に飛び回っているのではないかとフォローしています。」
「怪しまれるのも時間の問題ですね。……風向きはどちらにせよ、近いうちに強い風が吹きそうです。入江先生、くれぐれもご用心を。」
「えぇ、もちろんですよ。……あぁそうだ。先ほど、大石さんにお会いしまして。こんな話が進んでいるので伝えて欲しいと頼まれました。」
入江は、48時間作戦について赤坂に説明した。
赤坂はなかなかの妙案だと感心し、そのアイデアが年端も行かぬ少女たちが考え出したと聞き、さらに感心するのだった。
「…うまい手ですね。連中に相当のゆさぶりをかけられるでしょう。そのうろたえぶりから、富竹さんが敵の尻尾を掴める可能性は充分にあると思います。で、その作戦の始動は?」
「それは今夜、大石さんと皆さんが打ち合わされて決められるようですが、やはり時間は掛けられないということで、早ければ明日の早朝には決行するそうです。」
「……そうですね。長い時間、臨戦態勢でいるのはかなりの消耗を強いられます。打てる手があるなら早い内の方がいい。」
「赤坂さんが雛見沢に滞在できる休暇の限界もありますしね。いつまでなんですか。」
「家内には一応、日曜日の深夜には帰ると言いましたが、事情が変われば止むを得ません。…雪絵も刑事の妻です。わかってくれると思います。」
「……ここでは奥さんに電話をすることもできませんね。…それは辛い役を押し付けてしまったものです。」
「大丈夫です。新婚時代じゃあるまいし。毎晩電話しなきゃ三行半ってわけじゃありません。」
とは言いながらも、もし電話できるなら電話したい未練も感じさせているところに、入江は若さを感じて微笑むのだった。
「赤坂さんの方では何か変化はありましたか? 何か必要なものがあれば持って来ますので。」
「必要なものは特にありません。変化は、……難しいところです。何しろ祭りの準備でこれだけの出入りがありますからね。その中に不審な気配が混じりこんでいても、とても私にはわかりません。むしろ逆に、この人ごみの中に、ここを監視する敵も混じりこんでいると思って警戒するくらいがちょうどいいでしょう。」
「……そうですね。……そうそう、山狗ですが、やはり赤坂さんが仰られるように動き出しているようです。小此木さんに予定を聞いたところ、5年目の祟りに便乗した愉快犯が梨花ちゃんを狙う可能性を考慮して、祭りの前後に警護体制のレベルを上げた、というのです。」
「………ふむ。現在の状況と一致しますね。…まるで、明日の祭りに合わせて、表も裏も、全ての準備が同時に進んでいる気がします。」
「明日は、色々な意味で祭りになる、と仰るわけですね。」
…もし明日の早朝に48時間作戦が決行されれば、
昭和58年6月19日。
数多の世界で平和な時間と惨劇の時間を分けた、その分水嶺となる激動の日。
この日に、……この世界の命運が、動く。
入江は赤坂との接触を終え、不審がられないよう、2階の窓に、ちゃんと寝てるんですよ〜〜、と声をかけてからその場を立ち去る。
その様子を見て、祭りの準備の村人たちが、容態はどうですかどうですかと声をかけて来るのだった。
それが、梨花1人に限ったものでなかったので、入江は小さな嬉しさを感じていたのだった。
昨日のお魎の言葉の意味は、いつの間にか村の老人の間に知れ渡っている。
それはつまり、……オヤシロさまの祟りは、明日を待たずにすでに解かれていることを示すのかもしれない。
これで明日、…恐ろしいことが何も起こらなければ、
……その戦いにこれから挑む自分たちの責任は、…あまりに重い。
入江は下腹に力を入れて無言の決意を示す。
本部テントの役員たちに挨拶してから診療所に戻ろうとした時、…鷹野さんに会った。
彼女がひとりでこんなところに来るとは珍しい。
富竹さんと二人で撮影というならわかるが、ひとりでこんなところに来るような人ではない。
…一瞬、自分と赤坂の接触を気取られたのではないかとひやっとしたが、鷹野の様子がそんな感じではなかったので、少し安心した。
「珍しいですね。こんなところでどうされたのですか?」
「うぅん、別に。ちょっとした気まぐれの散歩ですわ。」
「そうですか。今日は気持ちいい風が吹きますからね。散歩も気持ちがいいと思いますよ。」
「……ジロウさんも、そんな風に誘われて、ひとりで散歩に行ってるのかしら。」
不思議な語感の言葉だった。
鷹野は、富竹のことなど興味もない、社交儀礼で付き合ってるフリをしているだけだ、というのが体面だったはず。
……普段そんな様子の彼女がこんなことを言うとは思わず、入江は少しだけ驚く。
「そうかもしれません。彼は東京の人ですからね。雛見沢の自然や空気は、とても貴重なものだとわかるのでしょう。」
「……所長。ジロウさん、どこに行かれてるか、
「いえ、存じませんが。…はて。」
「……昨夜の会合にも欠席してますわね。他のスタッフが進行してくれたからいいですけど、…本来ならジロウさんの役目じゃないんですかしら? …くす、職務怠慢でしてよ?」
……入江は話題の方向性がよくないと危惧する。何とか話題を富竹から逸らさないと…。
「ま、まぁ、彼もたまには羽を伸ばしたいこともあるんじゃないでしょうか。彼にもあるんですよ。ひとりになりたい時が。あなたと同じにね。」
「…………………そうですわね…。私ったら、……。」
うまい言い方で丸められたと思う。
彼女はそれ以上、富竹の行方について問おうとはしなかった。
ここから境内の様子を見下ろすと、明日の盛大な祭りの様子が浮かび上がってくるようだ。
年に一度の村で一番のお祭り、綿流し。
毎年その規模は大きくなり、ダム戦争後から本格的になった村祭りは今年にその最高潮を迎えた。
きっと、村中の老若男女が、明日の祭りを盛大に楽しむだろう。
そんな微笑ましい光景を、入江と鷹野は見下ろしている。
「……明日は、楽しいお祭りになるでしょうねぇ。」
「……………………えぇ。楽しい祭りになりますわね。」
それはとても皮肉な会話。二人とも、別の意味で言っている…。
「祭りの幕開けが、楽しみですね。」
「えぇ。………楽しい祭りの、幕開けですわ。」
入江は鷹野の表情に浮かぶほんのわずかの、形容できない歪みや苦笑、感情を読み取る。
「……明日は晴れるといいですねぇ。ここまでせっかく準備して、雨で中止なんて気の毒です。」
「くすくす。ここまで大々的に準備した盛大なお祭りですもの。……雨天如きで中止になるわけありませんわ。」
「……そうですね。明日はどんな天気になろうとも、必ず祭りになりますね。」
「えぇ。…盛大なお祭りになりますわよ。きっと…!」
;■48時間作戦発令
大石さんからの回答は極めて明快だった。つまりはGOサインだ!
「やるね。さぞや話をまとめるのは難しかったでしょ。」
;<魅音
「いや、それがね? 私が呆れるくらいあっさり皆さん、舟に乗ってくれちゃいまして。いやぁ、若さっていいなぁ。私ひとりだけがうじうじと見っとも無いったりゃありゃしないです。/
……もう後にゃ引けません。この大石蔵人、切るならど真ん中、最後まで突っ張りますよ!」
大石さんは元々貫禄のある人だ。
その人が気合を見せるというのは、若輩の俺たちにとってこの上なく頼もしいものだった。
行ける。この作戦はうまく行く!
敵は途方もないくらい巨大だが、先制奇襲はこちらからなんだ。相撲だってそうだろ?
どんな巨漢力士が相手だって、立会いの一瞬の変わり身でうっちゃって瞬時に決着がつくことだってあるんだからな!
「ね、梨花。味方が多いというのは、こんなにも心強いことなのです!」
「……もうあんたに口を挟む気はないわ。…ほんの数日前まで私は運命に屈しかけていたというのに、それから数日を経ただけで、ここまで変わるなんて。……これは本当に、…運命を引っくり返せるかもしれない。」
「梨花、そんな弱い気持ちでは駄目なのです!」
「……そうね。引っくり返せるかも、じゃない。引っくり返す。勝つ。私たちは運命を、打ち破る!」
「となれば、次に重要なのはトラップのタイミングですわね!」
「タイミングも何もねぇだろ、即時発動だろ! 今夜には梨花ちゃんが姿を消してから48時間が成立する。待てば待つほど相手を利するんだから、すぐに仕掛けるべきだと思うぜ!!」
「……そうだね。慎重さは今回に限り相手を利するだけというのは同感。守りは慎重であるべきだけど、責めは大胆であるべきだと思う。」
「圭一とレナの太鼓判がもらえれば、とても心強いのです! どうですかみんな!」
「私は異存ないわ。もう覚悟は決まってる。いつだってOKよ。」
「……ふむ…。期はすでに熟してる? どう見る沙都子。」
「急ぐのはもちろんですけど、今すぐというのは性急ですわ。/
相手の虚を突くなら、もう少し冷静に引き金を絞るべきでございましてよ!」
「奇襲なら夜だろ! 今を除いて最高のタイミングがあるのかよ!!」
「まぁ落ち着きな。……沙都子の言うのも一理あるし圭ちゃんの言うのも一理ある。奇襲の定番は夜襲。/
…でもね、今の私たちを見てごらん? ほら、こうして深夜でも血気盛んでしょ? 夜襲が効果的だったのは電気がなかった時代の話だよ。近代戦では深夜は奇襲になりえない。もっと最適な時間帯がある!」
「奇襲により適した時間帯があるのですか? あぅあぅあぅ?」
「………わかったわ。……払暁奇襲ね。」
「ほほう? 難しい言葉をご存知ですねぇ! 確かに人間、どの時間に一番電話がもらいたくないかと言ったら、深夜よりは明け方です。何しろ寝惚けているところでは正常な判断ができませんからね。」
「夜明け前の奇襲…。うん、いいタイミングだと思う!」
「……うん。私もそれが一番効果的だと思う。……鷹野さんの性格から考えて、5年目の祟りを装う形で何かのアクションを起こす可能性は極めて大だと思う。…なら、今夜はそれの前夜に当たる。」
「前夜ほど、逸る心を抑え、充分な睡眠を取ろうと思うのが人なのです。」
「をっほっほっほ!! 見えてきましたわね、最高のトラップタイミングが!!」
「夜明けの奇襲か、……くぅうぅう、何だよそれ!! 男として生まれたからには一度はやってみたいシチュエーション!! 燃えてきたあぁあ!!!」
「前原さんもうちの連中と同じですねぇ…。…おや、ということは、男で燃え上がらないのは私だけ、ってことですかねぇ。……やれやれ…。
……………ぃよおおし!!/
「よぉし!! 部長、園崎魅音の名において、48時間作戦の発動を命ず! 決行は明朝4時!! 一気に慌しくなる可能性が高い。総員は何があっても即応できるよう、心身のコンディションを最高で保つこと!/
そして忘れるな!! 雛見沢の興廃はこの一戦にあり!! 敵の陰謀を許せば村が滅ぶかもしれないんだよ!!」
「け! んなこと、我が部の目が黒い内には許すかってんだ!」
「さぁ、相手がどう出るか。鬼が出るか、大蛇が出るか…!」
「……みー。にゃーにゃーが出て来るかもなのです。」
「ほっほっほっほ! そうだったら可愛いですわねぇ!」
「それはないです。絶対に、大きな動きが起こります。…例えるならこれは微震。大きな津波が押し寄せる前の予兆のよう。」
「そうだね。私もその微震を感じてるよ。/
……さぁ、私たちでその津波を起こしてやろう!! 飲み込まれるのは村か、連中か!!」
「俺たちはその波で波乗りと洒落こんでやるぜッ!!!」
48時間作戦は、敵に大きなショックを与える。
慌てだし足並みが乱れて必ず何かのボロを出す!
それがどんな形かはわからないけど、…それをすでに予見して体制を整えている俺たちに全て利がある!
雛見沢という巨大なゲーム盤の上に、敵を取り囲むように十重二十重に俺たちが配置されている。
このゲームは、祭りは、俺たちの包囲から始まるんだ。
さぁ、…明けてきやがれッ!!!
昭和58年6月19日ッ!!!
ねぇ梨花…?
これだけのたくさんの思いが、この一日に集まったことなんてあったっけ…?
うぅん、いつだってたくさんの思いがこの世界にはあった。
私たちが投げやりに過ごしてきた6月19日に、いつだって無数の思いが集まっていたのだ。
私たちはこの世界を個人の主観で見ることが多かったから、ついつい忘れてしまっていたけれど。
この世界には気が遠くなるほどたくさんの人がいて、それらのひとりひとりにものすごく大切な思いがあって。
それらがたくさんたくさん集まってこの世界を、カケラを形作っている。
あぁ、これだけのたくさんの思いが集まったなら、私たちはどんな世界を見るのか。どんなカケラを許されるのか。
勝つのは鷹野か、私たちか。
さぁ、今こそその時は来た。
開こう。昭和58年6月19日の扉を…!!
;■6月19日
深夜から早朝に移り変わる時間帯。
夜更かしと早起きがどちらも混じらぬ、……本当の意味での静かな夜。
…それは小此木造園の事務所内であっても同じだった。
当直の2名だけが起きており、応接机で花札を興じていた。
戦場の歩哨というわけではないので、常に緊張感を維持している必要はないが、それでも居眠りなどは許されない。
テレビが終わってしまう深夜以降の時間帯には、花札やトランプで遊ぶ隊員も多かった。
そんな中、唐突に電話が鳴った。
彼らはすぐに受話器を取れるよう、近くの電話を応接席の脇まで持ってきていた。
「…毎度、小此木造園でございます。………………はい。…………えッ?!」
男の形相が変わって姿勢が伸びる。
その時、膝がぶつかって机を弾いたが、男は気にしなかった…。
鷹野は髪を乱しながら、地下のセキュリティルームに駆け込んできた。
「お休みのところ申し訳ございません、三佐!!」
「コーヒーは後よ。状況を! 本当なの?!」
「ハイ。午前4時15分、興宮署内で、身元不明死体がRであるということが確認されたという情報が入りました。」
「そんなわけないでしょう! だってRは風邪で寝込んでいるんでしょう?! それをあんたたちが監視してたんでしょう?!」
「その、三佐。…話に続きがありまして、
鷹野は、足元からざらざらと凍った血液が登ってくるのを感じた。
…ありえないありえない。48時間前に死んでいた?!
女王の死後48時間経っている?! だってそれじゃあ!!
「そんなことありえない!! だって、じゃあ村人はどうして平然としてるの?! 早ければ36時間の段階で、つまり昨夜の時点でかなりの末期発症が出ていてもおかしくないじゃない!!」
「し、しかし、
「か、か、確実性が高いってんなら、あんたたちが見張ってたあの家の古手梨花は誰なのよ!!」
「三佐、監視体制は完璧です。古手梨花は間違いなく現在、あの家です。監視体制が布かれて以来、彼女が外出したことはただの一度もありません。中にいたことも入江所長が確認なさっています。絶対にありえません!」
「ならどういうことよ!! 警察が、死体は梨花で48時間前に死んだって言ってるのよ!! それがデマだって言うの?! ………デマ、
鷹野が焦っていたのは、何も寝起きで混乱しているからだけではない。
……鷹野は何よりも恐れていた。
女王感染者が死んで48時間経ったら、村人は全員末期発症することになっている。 そう祖父が論文に書いた。
……それが、嘘だったことになってしまうッ!
そうなったら、その論文を信じてくれた…あの人たちが……、
「失礼します三佐! 東京の野村さまよりお電話です。」
「…………く…。………どこで嗅ぎつけてるのよ、あの女は………! 私が電話をしている間に、大至急、興宮署の死体を調べさせなさい!!」
「現在は非常に困難です…! 協力員が明朝に出勤すれば、興宮署へアプローチを掛けさせ、確実に状況を確認できます!」
「その早朝というのは何時?! 午前5時?! 6時?! 大至急よ!! 急がせなさいッ!!!/
…………くすくす、おはようございます。鷹野です。」
興宮の山狗駐屯地である小此木造園には隊員たちが非常招集されていた。
「あぁ、わかった。興宮署の方がわかり次第、俺と三佐に連絡しろ!/
それより! R宅の監視体制だが、Rの在宅確認をなぜ怠った!!」
「風邪だったということで、受話器を取らなかったものと思いました。その後、入江所長が訪問し在宅を確認したため、それを以って在宅確認としておりました。」
「…甘ぇぜ…。………R宅に少なくとも誰かがいるのは間違いないんだな?!」
「はい! それは間違いなく!」
「……隊長。R宅に突入しては。まだぎりぎり可能な時間帯です。」
「そいつは三佐の許可がなけりゃできん! 三佐も、興宮署の件が判明するまで突入許可は出すまい。突入命令に備えて、R宅監視を増員。8人体制に増やせ!」
「隊長、今日は境内で祭りがある日です。監視は出来るでしょうが、突入は恐らく、本日深夜まで不可能です。」
「……ち、うまいタイミングだ!! うま過ぎる。……うま過ぎるんじゃねえのかコイツは?」
小此木の、長く錆び付いていた野生の勘が警鐘を鳴らす。
…これは何かの攻撃だ。敵の攻撃が始まっている。
……こちらが先手を打つつもりで、逆に先手を取られたのだ。
人は、攻撃に踏み切る直前に一度深呼吸をする。
その、打って出る直前こそが一番危険なのだ。
……そこまで読みきったなら、……どうやら敵が何者であれ、相当の名将らしい。
「………そういや、富竹二尉。先日の診療所での会合に欠席したってな。」
「でしたでしょうか…、確認させます。」
「……三佐、俺にヤツがどこに行ったか知らないかとか聞いたよな。…………………。」
「まさか、富竹二尉が?」
「鶯で富竹の寝床を確認しろ!! こいつぁ一杯食わされたかも知らんぞ…!!」
;■興宮署
「…さぁて、もう後戻りはできんぞい。」
「へっへへへ、さぁてこれで大山鳴動して何が出るっすかね…。」
熊谷は、武者震いをして見せた。
「熊ちゃん。私は通信センターの方へ様子を見てきます。ここは絶対に死守してください。」
「うおっす!! 死んでも誰も通さないです!!」
「……後のわしの役目は、掛かってくる電話を誤魔化すことだの。わしもわしの持ち場へ戻るぞい。熊谷、ここは頼むぞ!」
「任してくださいッ!!!」
熊谷は、そっと扉を閉め、その前に仁王立ちになった。熊谷勝也、一世一代、男の見せ所なのだ。
その頃、大石は通信センターへ行っていた。
無線や電話は、まず最初にここに集められる。
昼間の時間帯なら代表窓口も電話を取るが、窓口が閉まってる時間は通信センターが取る。
「どうですかこちらは。」
「はい。ついさっき外線経由が鑑識課の直通番号に一本。」
「相手は。」
「県警本部、大高警部です。」
「………………あぁ、大高くんかぁ。…へぇ〜。」
大石はにやりと笑った。
どうやら敵が動き出したらしい。
敵は警察内部を買収してスパイを持つという。…そいつがどうやらまんまと動き出したらしい。
しかし、それがまさか、あの大高くんだったとはねぇ。
大高はインテリを鼻にかけたようないけ好かない男で、現場経験第一主義の大石とは真っ向から対立している男だ。
かつて大石が県警にいた頃も犬猿の仲だった。
「通話が終わったようです。」
「……爺さまに聞いてみよう。ピ、ポ、パ!と、…もしもし? おおぉっと、大丈夫、私ですよ。いかがでしたか?」
「かっかっかっか! 青二才が粋がりおってからに。鼻であしらってやったわ。奴さん、トサカに来とる。署長の出勤を待って朝一でこっちに直接踏み込んでくるぞ。」
「相変わらず、事を派手にしたがる性分だなぁ。てめぇの体ひとつで喧嘩もできないんですかねぇ。んっふっふ!」
「わしもますますに面白くなってきたぞい。今の電話で眠気が飛んだわ! やはりいるな! お前の言う、怪しげな連中がぞろぞろと這い出してくるのを感じるぞい!」
さぁて、面白くなってきましたよぅ。次は何が来る? ほらほら鬼さんこちら。もっと踏み込んでいらっしゃい!
;■富竹ターン
「……もしもし、富竹です。」
「おはようございます、富竹二尉。早朝にすみません。山狗に動きがありましたのでご連絡します。つい先ほど、山狗の全隊員に非常召集が掛けられました。目的は不明です。」
「ぇ、……そうですか。動きがありましたか!」
富竹はベッド脇の照明スイッチを入れ、眼鏡をかけながら返事をする。
「それから、そちらの警察内で妙な情報が流れています。まだ裏付けが取れませんが、女王感染者である古手梨花の死体が発見されたというのです。」
「……えッ!!! く、詳しい話を!!」
「収容されていた身元不明死体の身元が古手梨花だった、というものです。死後48時間を経過しているとか。緊急マニュアル第34号の発令基準を超えた事態ですが、現在のところ雛見沢地区は平穏が保たれているとのことです。そちらでは何か情報が入っていませんか?」
「いえ、私は興宮にいますのでわかりませんが、…それはありえないでしょう。多分、女王感染者の死亡は何かの誤報だと思います。」
「こちらも誤報を疑っていますが、分析では情報の精度は極めて高く、ほぼ間違いないとのことです。未確認ですが、鑑識課職員複数が証言しているとも。」
「し、しかし、
富竹は気付く。
そうだ、興宮署は大石さんのテリトリーじゃないか。
これは………、そうか、全て梨花ちゃんたちの作戦だ。
…なるほどな、落ち着いて考えればよくわかる。
敵の正体が掴めずとも、緊急マニュアルが爆弾の導火線であることに変わりはない。
だから、その導火線を役に立たないようにすることを考えたのだ。
緊急マニュアルの根拠は、女王感染者の死亡後、48時間以内に収拾しなければ、村人全員が末期発症するという研究結果による。
だが、48時間経っているにも関わらず村に何事も起きていないということになれば、緊急マニュアルに存在価値はなくなるのだ。
そして、それを受けて山狗が非常召集をかけたということは、
「……もしもし? 富竹二尉?」
「あ、はい、失礼。…どうやら現状を考えると、入江機関に不穏な動きがないと断言することは難しいようです。一佐に、入江機関を緊急査察されるよう進言をお願いします。また、最悪の事態に備え、番犬部隊への予備命令も進言します。」
「了解しました。9時になればもっとまとまった連絡が入ってくると思います。山狗造反となれば、そちらも危険です。充分、ご注意を。」
「もちろん用心してます。」
「では次の定期連絡は9時に。」
時計は午前6時。3時間後だった。
;■山狗ターン
「………鶯1より全員へ。富竹は406号室だ。屋外監視、問題ないか。」
「鶯4、屋外監視問題なし。」
「鶯5、フロア問題なし。」
「鶯3、室内は無音。……多分、就寝してます。」
富竹の部屋のドアノブには、ベッドメイクに知らせる「起こさないでください」の札が掛けられていた。
………夜更かしでもして昼まで寝ているつもりだろうか。
彼らにとっては大きなチャンスだった。
「……いいか、生かして捕らえろ! 三佐のオーダーだぞ。始めろ!」
富竹の泊まる406号室の鍵を、……最小限の音で開錠する。ホテルの部屋の鍵など朝飯前のようだった。
2人の隊員が、手話で突入の合図を出し合う。
相手が寝静まっているとわかってるなら、威勢よく飛び込むのは愚策だ。息を殺し、慎重に扉を開けていく…。
室内は、小奇麗ながらも殺風景な、いかにもな安ホテルだった。
寝るためのベッドと、書き物をする程度の机、そしてコイン式のテレビしかない。
…寝る以外に何も用途がない部屋だった。
ベッドにはすやすやと眠る富竹が……。/
…………いない。
「どうした鶯3、応答しろ!」
「…くそ、もぬけの殻ですッ!」
普通ならまだ寝ていておかしくない早朝だ。それが、空っぽ。
「……どういうことでしょう。…富竹には野鳥撮影と散策の趣味がありました。…まさか早朝からどこかへ出掛けているのでは…。」
「いや、……違う! …こいつぁ多分、やられたぞ…!!」
ドアノブにかかっていた「起こさないでください」の札。
あれがあったら、ベッドメイクは室内に入らないから、部屋が空室でもわからない。
多分、あの札は前日からずっと掛けられている。
ホテル側も、滞在期間内だからと気にしていないのだ。
つまり、……昨日からとっくに空室だった可能性があるということだ。
「……多分、ヤツは襲撃を予見して宿を変えたんだ。/
…そうか、それでしばらく姿を現さなかったのか!! 三佐に緊急連絡! 畜生、こっちの作戦が漏れているぞ!!」
小此木は完全にやられたことを察した。
…緊急マニュアルの根底である48時間が崩れて、終末作戦の最前提が揺さぶられている。
……三佐はかなり動揺していて事態の確認を性急に急がせ過ぎだ。
富竹がすでにこちらを疑って身を隠していたなら、それを見てこちらの尻尾を根元からフン捕まえるに違いない…!
「全てが出来すぎだぜ…。くそ、向こうの計略に綺麗に決まっちまったみたいだぞ…。」
落ち着いて考えるんだ。ヤツはこちらを内偵する役なんだぞ、まだ近くにいるはずだ。
恐らく調べてるのは東京の調査部だろう。
その調査部からの報告を、どこかで待ち受けてるはずだ。
恐らく、変更した宿だろう。おそらく興宮の宿のどこか…。
「……東京班の鴉に連絡を取れ。恐らく、調査部が定期連絡してる相手がいるはずだ。その相手の番号を調べさせろ。そいつが鹿骨市内の番号だったらビンゴだ…!」
小此木はこの想像にかなりの自信があった。
……だが、この想像が当たるということは、自分たちの正体がすでに暴きかけられていて、作戦を開始する以前にすでに作戦が破綻していることを示す。
…だが、まだチェックメイトじゃない。
興宮署の死体がRでないと確認できれば、全て仕切りなおせるんだ。
……富竹を捕らえ、興宮署の死体を確認する。…それだけでだ!
「隊長、鴉に連絡が取れました。通話内容は確認不能ですが、電話番号だけなら何とかできると。ただし時間がほしいそうです。」
「どの程度!」
「ほんの数時間ほどだそうです。」
「ち! ほんの、と来たもんか。……急かしゃしねぇが、可能な限り急げと伝えろ。」
時計は午前6時を少し過ぎたところだ。
……夜はすっかり明けたが、まだセミが鳴きだす時間にはちょっと早い。
……これで真珠湾の第一波は凌いだ。
こちらがどれだけ早く体制を立て直せるかだ。
……ウチの三佐のお姫様が妙な癇癪を起こさなきゃいいんだがな。
「…隊長! 鴉より連絡です。電話番号は調査中。なお、調査部は9時を定時連絡時刻に定めているようです。」
「あと3時間かッ!」
時計を見上げる。
…小此木はすでに3時間に満たないと細かいことが気になり、…そう考えている間にも秒針が刻まれ、1秒ずつその時間が近付いてくるのに焦りを感じていた。
「それから、調査部長の岡一佐が番犬に対し予備命令を発令しました。任務は示されていないとのことです。」
「……ってことは、引っ込みが付くような召集ってわけだな。大事でなけりゃ訓練ってことにして誤魔化そうってらしい。…大丈夫だ、まだ時間があるってことだ…!」
「続報です! 調査部長が幕僚長の自宅へ電話しています。内容は不明!」
「……大丈夫だ、…大丈夫。……まだ、…ぎりぎり大丈夫だ。」
番犬に予備命令が出た、ということは、入江機関造反の可能性をかなり高く見積もっているということだ。
……現場レベルではほぼ間違いないと断定したということだろう。
だが、緊急マニュアルほどではないにしても、番犬に出動命令を出すのは容易ではない。
それを命じることは、ある種のトラブルや失態を彼らが認めるということだからだ。
今回の一件を穏便に決着できる、あるいはしたいと思っている連中は、今回の一連の動きを何かの勘違いということで沈静化したがっているはず。
……そのぎりぎりの妥協点が、番犬への待機命令、ただし任務は示さずということなのだ。
だが、調査部長が幕僚長に電話というのはかなり危険な事態だ。
……つまり、番犬の出動はありえると、陸自トップ、あるいはそれ以上の上層部との調整に入ったということだ。
制服組は血気盛んだが、背広組は事なかれ主義。
その間でまだ揺れている段階、ってことでもある。
……まだ、俺たちの敗北は決まってない。
勝ちも引き分けも、全てが同じテーブルに乗った状態なのだ。
……だとするとその調査部の9時の連絡というのはヤバイ。何の根拠もないが、ヤバイ気がする。…山狗なんて珍妙な部隊の隊長を命じられた俺の野生の勘だ。
多分、東京の連中は、その電話でもう一度詳しく富竹に現地の状況を聞き、最終確認を取るに違いない。
…場合によっては、その電話に調査部長、…下手をすれば幕僚長が自ら出ることすらありえる。
……となれば、その9時の連絡の受話器を置くと同時に番犬に出動命令が下って、こちらの負けが確定することになる。
……まだ東京だって揺れてるんだ。
何かの勘違いだと思ってるし、思いたい連中がいるんだ。
…………その電話を富竹が取れなければ、至急確認せよとこちらに人間を送ることはあっても、番犬を出動させるには至らない。
そうなら充分、引き分けの目はある。
……そして、興宮署のRの死体が真実ではなかったとわかったなら、かなりの追い込みになるが、まだまだ勝ちの目だってなくなったわけじゃないのだ。
しかし、それでももう、完全勝利の目は失われている。
………お姫様のクライアントは完全勝利以外はオーダーしてないはずだ。
…悔しいが、敵の先制奇襲攻撃は完全に成功しちまったってことになる…!
「隊長…。」
「…やかましいんね、落ち着けやダラズが…。……連中はまだ確信してない。疑っちゃいるが、バレちゃいない。まだぎりぎり大丈夫なんだ。………とにかく、先に情報を得た方が勝つ。連中が尻尾を掴むか、俺たちが尻尾を掴むか…! 確かに緒戦の奇襲で徹底的にやられたが、……まだ全滅じゃない。だから白旗を揚げるんじゃねぇ…! ………とにかく待つんだ。…鴉が富竹の潜伏先を暴く。…警察の協力員がR死亡の真偽を暴く。……とにかく今は待つんだ…、耐えるんだ……!」
「失礼します、鷹野三佐からです! …相当、ご立腹の様子です。」
「……くそ、伏してチャンスを待とうって時に、俺はお姫様のお守りかよ…!/
………あ、
笑って誤魔化そうとする小此木の受話器からは、何を言っているかわからないが、ヒステリックな雰囲気だけはわかる鷹野の声が漏れてくるのだった。
時計の秒針が、カチコチと時を刻む。
……果たしてその刻みは、誰に微笑むためのものなのか…。
今日は、長丁場になるかもしれない。…小此木はそう直感していた。
;■大石ターン
「お疲れさんです。今のは誰からです?」
「今度はウチのハナ垂れ署長じゃわい! 段々と手強くなってきたぞい! だが、わしの敵じゃないな! 事務屋風情が技術屋に勝てると思ったか! しかし、署長が今日、署長会のゴルフでよかったわい! 直接来られたら、ちと面倒だったぞ。」
「んっふっふっふ! ゴルフ場から電話とは、仕事してんだかしてないんだか。大高くんめ、署長と一緒に乗り込みたかったろうに、今頃悔しがってるぞぅ!」
「間接攻撃でダメなら、次は直接攻撃ですかね。…乗り込んできますか、大高のヤツ。」
「署長が捕まらないんじゃ、自分で乗り込むしかないと踏むでしょう。もうじき8時半か。下の窓口が開く頃だ。」
もう夜ではなく、完全に朝だった。
セミの合唱はもう始まっている。
…それだけを聞いているなら、今日という日も、まるで普段通りの一日になるように勘違いするだろう。
だが、…今日はただの一日にはならない。ただの日曜日にはならない。
大石たちは、すでに自分たちが巨大な陰謀の尻尾に触れていることに気付いていたのである…。
「……大高くんの性分だと、多分、堂々と胸を張って正面からやってくるでしょう。」
「へ、自分だけが正義だと思ってるヤツにありがちっすね。」
「わしはここで電話を耐える。お前らはそいつを頼むぞ!!」
「……よし、お出迎えと行きましょうかねぇ。熊ちゃんはここを頼みます。」
興宮署の窓口ロビーは、多くの警察のロビーと同じで決して解放的イメージのある爽やかな場所ではない。
フロアタイルもひびがはいったり欠けたりしていて、たまにつまづく人もいるため、ダンボールが被せられていてマジックで転倒注意なんて書かれていたり。観葉植物がすっかり枯れていて無惨な姿を晒していたり。…そんな、まぁサービス業とは程遠いロビーだ。
病院や銀行と違い、警察の窓口は朝一から行列しているということはないが、何人かの人が窓口が開くのをソファーで待っていた。
窓口はもうすぐ開く。
カウンターの内側では事務屋たちが待機していて、始業のチャイムが鳴るのを待っているようだった。
こんな朝っぱらから、あのいけ好かない野郎と揉み合わなくちゃならんのか。
せめて彼が、ボインボインのお姉ちゃんだったら良かったのになぁ。
………大石たちの役目は重大だった。
…ここで簡単に古手梨花の死が偽装だったと暴かれたら、その時点でこの作戦は終わってしまう。
古手梨花の死が拭えない今だけが、敵に揺さぶりをかけることができるのだ。
…その時間を1分1秒でも長く与え、ちょろちょろとはみ出てきた尻尾を富竹が掴む。
だから、彼が尻尾を掴む前に古手梨花の死が偽装だとバレれば、敵はその時点で体制を立て直してしまう。
緊急マニュアルは信憑性を回復し、敵はこの時期の作戦決行を一度は見送るだろうが、再び策を巡らしてより完璧な形で再来するだろう。
……今回は、古手梨花が奇跡的な勘で陰謀を看破したようだが、
元寇の襲来をその奇跡で二度は防いだが、…それに期待した太平洋戦争ではそよとも吹かなかった。
奇跡の女神は何度も微笑んじゃくれない。
その一度のチャンスを掴める者にしか微笑まないのだ。
だから……、次はない。今回の一件で敵を叩きのめさなかったら、次は絶対に勝てない。
…連中の内情に深刻なダメージは与えられるだろうが、……引き分けは最終的に敵の勝ちに結びつく。
………我々は是が非でも敵を暴き、富竹に鎮圧部隊を呼ばせて敵を打ち倒さねばならないのだ。
だから、自分はここで敵の尖兵を食い止めねばならないのだ。
……俺の後にあるものは重い。
……なぜなら、敵の陰謀が達成されたなら、
どう転んでもこの事件は表沙汰にならないだろう。
だが、……今ここで自分が体を張らねば救われない人たちがいる……!!
表向きはあらゆる職務違反だ。
……だが、
そうだ、私はあの若かった日に、おやっさんに殴り倒されて、そいつを教えてもらったんじゃなかったっけ…!!
自動扉のガラス戸がすーっと左右に開閉し、……この蒸し暑い朝にも関わらず、きっちりスーツを着こなした男が入って来た。
…子分どもを2人も連れてやがる。
相変わらず、権威的に振る舞いたがるヤツだ。
「いよう、おはようございます、大高くん!」
「……! これはこれは。おはようございます、大石さん。それから私のことは“くん”と呼ばないでください。もうあなたに“くん”で呼ばれるような立場ではありません。」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに大高くん。同じ卓で麻雀を打ったよしみじゃないですかぁ。」
大高の顔がわずかに歪む。
…かつて麻雀に強いことを鼻にかけていたのだが、大勢の前で大石にさんざん負かされ、プライドを傷付けられたことがあったからだ。
「あなたとゆっくり旧交を温めたいところですが、今日は急ぎの用事がありますので、失礼させていただきます。」
「んっふっふっふ! まぁまぁ、そう言わずに〜! あんたが交流剣道大会で賞状の筆耕委託を忘れてたのを、あんたが私に泣きついたんで、こっそりステージ裏で書いてあげたから無事、表彰式が出来たんじゃないの。」
「………く。そ、その件については感謝していますが、今は関係ないことです。」
「ありゃぁ、感謝してくれてましたの? なっはっは、そりゃ失礼。そういう話はとんと聞いたことがなかったもので。県警では、私が書きたいとわがまま言ったから、筆耕委託を断って、わざわざ書かせてやったんだって話で通ってましたよ? 賞状の文字があまりうまくないので、どういうことなんだと本部長に聞かれて以来のあなたの言い訳のはずですがぁ?」
「………さ、さぁ。どうなんでしょうね。誰かが誤解してるんじゃないですか…? ……私はそんなこと言ってませんよ? …はははははは。」
「県警本部はあんたのシマだろうが、生憎ここは興宮署でね。あんたの思い通りにゃそうそうならんってことです。」
「ほぅ…。それはどういう意味ですか大石さん。」
「あんたがここへ何しに来たか知らんが、あんたのシマは穀倉だ。興宮じゃない。大人しく引き上げてもらいましょう。」
「な、……なんの権限があってだね!」
「そちらこそ何の権限があってですかなぁ?」
「け、県警本部で現在、捜査中のある秘匿捜査事件についてだ。その件に関連があると思われる身元不明死体がこちらにあると聞いてね。」
「んなら電話でお問い合わせを。興宮はね、貧乏人の町ですから。オーダーのスーツなんか着てるボンボンの来るところじゃあないってことです。」
「……なるほど、どうやら鑑識課の連中とつるんでいるようですね。署長から検死報告を全て県警本部に引き渡すよう命令が来ているはずです。」
「その件については鑑識から署長に説明が入ってるはずです。まだ検死中でね。ちょいとうちのミスで、身元が特定されたような情報が内部に流れちまったようですが。ですので、報告書を出すにはちょいとお時間をいただかないとならないわけです。」
「なら、その検死に我々も立ち合わせてもらおう。」
「嫌です。」
「…は、…はぁ?! 私は県警本部の秘匿事件担当として、」
大石の目が、怒りの炎に燃えるように凄みだす。
……大高はその形相を見て、…忘れていた数々の恐ろしい記憶が蘇るのを感じていた。
大石にその怯えを気取られたくないと思ったが、咄嗟に飲み込んでしまった固唾を隠すことはできなかった。
「な、……なら、
「なら、私をその刑事魂で押してどかしてみなさい。ほれ。」
「……な、
「あんたの刑事魂が、私の刑事魂に負けないくらいに重いものなら、私なんか簡単にどかせちゃうはずですよ。ほれ。試してみなさい。」
「……………………く…。」
それは、ここは通さないという明白な意思表示だった。
…こんな滅茶苦茶がまかり通るはずがない! 大高はそう思って混乱した。
自分は県警本部のエリートだ。
信頼を得るのは学歴と勤務評定だけだ。
それを信じて今日まで積み重ねてきた。
この大石という男はそれを一切認めず、自分を尊敬しようともしない、クズのクズだ。
野蛮な人間に多い、自分のプライドを守るために、自分の上位者を全て認めず、粗暴さだけで存在意義を確立しようとする最低のタイプだ。
県警本部にいた時から不思議だった。
なぜこんな男の言うことをみんな信じるのか。
こんな男のことをどうして尊敬するのか。
…こんな男のことを、どうして私よりも評価するのか!
「……ど、
「ほぅ? そりゃどんな捜査ですかな。話してくれりゃ協力もしますよ。」
「………く、
「なるほど、全部話せないなら一部でもいい。……あんたはその仕事に、何を背負ってますか。」
「……背負う…? な、何を言ってるんだ。」
「私はね、背負ってますよ。……私の後には、村の住民の命運二千人分があります。あんたを通せば、二千人、いや、その親戚やご家族も含めればもっともっと大勢の人が悲しむことになる。……………あんた、
「…………何の話か、
「……腹を割ってやる。あんたの飼い主は恐ろしいことを企んでいる。あんたはそこまで想像がついちゃいないだろうが、何千人もの人が不幸になる恐ろしい陰謀を企んでるんだ。……そいつが挫かれる瀬戸際だってんで、多分、就寝中だったあんたを叩き起こして、すぐに調べろと命じたんだ。……いくらの小遣いで頼まれてるか知らんが、…それがあんたの刑事魂より重いってんなら…。」
そこで言葉を区切ったが、
「なな、何を言っているのかさっぱりわからないですよ…! とにかくそこを通してくださ、」
大高のうろたえぶりもまた、口で語るより雄弁に全てを語り、認めていた。
彼が胡散臭い何者かに買収されているのは事実だ。
……いや、彼は買収されているつもりはないだろう。
自分の意思で築いた(と思い込んでいる)情報網から、バーターを求められて、古手梨花の死体の確認を頼まれただけ、のつもりなのだ。
もちろん、秘匿捜査のためなどは嘘っぱちだ。
…でも、県警本部のエリートの自分が秘匿捜査のためと言えば、誰もが平伏して最敬礼で迎えてくれた。
…なのに、なのに! 何でこの男だけは最敬礼をしないんだッ…!!
「は、話になりません…! このことは後日、必ず署長に抗議させていただきます。……ぅわ…?!」
「……おう、待たんかい。話はまだ終わってませんよ。」
大高はその手を振りほどこうとするが、……万力のような力で締め上げられ、とても逃れられない…!
「…ぃぃ、
「ありゃ、大して力を入れてるつもりはないんですがねぇ? あんたに真の刑事魂があったなら、こんなのには屈しない。あんたの揺ぎ無い正義が、私なんかあっさり打ち倒して踏み越えていくでしょう。だが、あんたはこの程度の腕も剥がせない。…………何でかわかりますか。」
「………は、
「てめえには刑事魂がないからだよッ!!!」/
大石がその肩を掴んだまま思い切り放ると、大高はフロアを2m以上も転がりながら吹き飛ばされた。
「な、
大高が子分の2人に命じるが、どうしたものか困惑しているようだった。
目の前の男も警官だし、どうやら二人の間には確執があるようで、とても自分たちの出番とは思えない。
……しかも、………これは子分ゆえの直感だ。
…目の前の男の方が、格上なのだ。けしかけられても、とても立ち向かえない…!
「ど、どうしましたか大石さん…!」
ロビー内の警官が何事かと集まってくる。状況がわからないという顔つきだ。
「いえいえ。県警の青二才が筋の通らんことを言い出したもので、ちょいと先輩として指導したまでです。」
警官たちはどうしたものかと、大石と大高を見比べる。
…ただならぬ事態なのはわかっているのだが、事情がわからず、どちらを止めたものかもわからない。
大石は興宮署に勤める警官たちにとっては頼れる兄貴分だ。
尊敬してない警官はいない。
その大石が、筋が通らないと言っている以上、そこで悔しそうな顔で睨みつけている男に、何か非があるのだ。
それに大石だって分別のある年齢だ。
その大石が、一般客の目もあるこのロビーでこれだけのことをするのだから、……それはよっぽどのことに違いないと思った。
このような視線を集めることは、大高にとってはあまりに耐え難い屈辱だった。
彼は屈辱を怒りで覆い隠しながら、
「……なるほど。あなたの言い分はわかりました。私も子供の使いでここに来ているわけじゃない。」
「いい根性です。胸を貸しますよぅ?/
かかって来い、青二才があッ!!!」
「ぅ、ぅおおおぉおおおおおぉ!!!」/
「甘いわ!! そんなもんか!!」/
「く、くそっおおおおおおお!!!」/
「お前の刑事魂はそんなもんかぁあぁ!!!/
俺は雛見沢二千人を背負ってる!! 所轄管内二千人の命を預かってるッ!! ならば二千人を押し退ける気迫で来んかいッ!!!」
「ぅおおあああああああ!!!」
まるで関取と子供の相撲だった。
大高が何度挑みかかろうとも、ころり、ころりと体が転げる。
大石の足は大地に根を下ろしたようにどっしりと立ち、二千人を背負うと自称するだけの気合を見せていたのである。
三度も床を転がされれば、彼もさすがに挑発に乗せられたことを悟ったようだった。
………彼は髪を整えなおす仕草をしながら、呼吸を整えた。
「ふ、ふふふ…。わかりました。ならばお教えしましょう。私が担当している事件は、あなたもご存知のS号絡みです。………その経由で、とある方面から、真偽を確かめてほしいと依頼されたのです。」
「回りくどい言い方じゃあわかりませんなぁ。もうちょいとわかるようにお願いします。」
「…何しろ、疑われているのは雛見沢地区では信仰上のマスコットとも言える少女の死なのです。それが事実かどうか、すぐに確かめなければなりません。」
「だぁから、電話で説明したでしょ? 現在、調査中。まだまだお時間がかかります。」
「ふ、
「あぁ、あの紋付袴の怖いヒトね。く、……確かに苦手ですねぇ…。あのヒトに凄まれたら、私も、道理引っ込めて無理を通すしかありません…。」
「…ふふふふ、
「……あんた、そういうのは一般の方の耳に入らないところで言った方がいいですよ…。ここ、ロビーですから。」
「……………ん、
大高も、それはちょっとまずいことをしたと思った。
実際、彼の後ろから、一般客のヒソヒソと言う声が聞こえてくる。
…そして一般客のひとりが恐る恐る大高の背中に声をかけた。
「ふ、古手の梨花ちゃまが亡くなったってのは本当なのかい…?!」
「ご安心を、奥さん。まだそうと決まったわけではありません。それを確認するために県警から参上しました。」
「そうです。まだそうと決まったわけではありません。現在、それを確認中なのでお待ちをと申し上げているだけなのです。」
「その確認に立ち合わせろと言っているのです。ふふふ、いいんですか?! 私は園崎議員の依頼でここに来ているんです。その私にここまでの邪魔をしてくれたというなら、それは全て議員に話します。困ったことになるのは、大石さん、あなたの方なんですからね。……ふっふっふ、そろそろ降参した方がいいんじゃありませんか?」
園崎議員はこの辺りでは、非常に強面の議員として名が知れ渡っている。
その事情を充分知っている一般客たちがヒソヒソと囁きあう。
……大高はそのヒソヒソ声に、ニヤリと笑う。
自分の脅し文句が、この興宮では想像以上の効果とわかるからだ。
「…あらやだ。三郎さん、そんなこと頼んだのかい?」
「………そこの県警さんや、すんませんがのぅ。それ、園崎議員さんが本当に頼んだんですかいのぅ…。」
「ふっふっふ、えぇ、そうです。私が議員から直接依頼されたのです。ふっふっふ、どうです? 大石さん。さすがに降参では? ふっふっふっふ!」
後のヒソヒソ声がまたヒソヒソと囁きあう。
……ふっふっふ、やっぱり園崎議員の名前は大きい。
興宮界隈ではこの名を出せば、チンピラだって道を譲るぞ…。ふふふふふ…。
「さぁ、議員が怖かったらそこを開けてもらいましょうか、大石さん。」
反則切符の再交付は、8番の窓口でご相談を。」
「…………は? 私がいつ反則切符などを…!」
大石との会話が急に噛み合わなくなった。
大石の目が自分より後に焦点を合わせている。…何だ? この忙しい時に誰と話してやがるんだ?
私の後には、古風な身なりの老人と、着物姿の女性がいた。
目が合うと、茶目っ気のある笑顔で微笑んでくれた。………ちょ、ちょっと好みかもしれない。
「なぁ、お前さん。本当に園崎議員に直接依頼されたんだね? 秘書とかそういうのじゃなく。」
「そ、そうですとも。はははは、こう見えても園崎議員とは懇意な関係でしてね。直接お電話をいただくこともあるのです。」
それを聞き、老人がキョトンとしながら聞く。
「………お前誰じゃい。」
「…は? はははは、名乗るほどではありません。県警本部に勤める一警官に過ぎませんよ。」
「…………………あまりにも、
「あっはっはっは。なぁんだ、やっぱりこれは笑ってもいいところなのかい? それは私も気付かなかったわ。あっはっはっはっはっは。」
…大高だけが、大石とご婦人の笑いについていけない。
「どうしたんですか、今日はご一緒でお越しになって。」
「いやぁ、それがねぇ? 例の切符なんだけどさ。左折禁止の看板が茂った葉っぱで見えなかったんだよ。その出口に白バイが待ってるーってのは、ちょいとやり口が汚いんじゃないかいって言ったらさ。三郎さんが、それは抗議した方がいいって言って、こうしてついてきてくれたわけなんだよ。」
「……あーーーー…。公道の樹木は市役所の管轄ですからねぇ…。よくそういうのウチに来るんですが、
「うむ。それを知りながら出口で待ち伏せとるっちゅうんがけしからんと思ぅてな。こうして抗議に来たんじゃ。」
「わかりました。そいつは市役所と交通課に私の方から言っときますんで、
「……ふーむ。あんたがそう言うなら、顔を立てようじゃないか。今日は引き上げるとしよう。」
大石の客とわかり、意地悪をしたい大高はネクタイを締め直しながら言う。
「でも違反切符はちゃんと支払うんですよ。規則です。」
「カ、カチンと来るお人だねぇ…。」
「…カチンと来るお人でしょ? …お茶目な一面もたま〜にあるんですがねぇ。」
キラーン。
「あはははは。良い一日をね、県警の旦那も。」
ぐわし。
帰り際の二人が、後から大高の肩を掴む。
ご婦人が大高の右の肩を鷲掴みにし、老人が大高の左の肩を鷲掴みにする。
「……県警の旦那。私ゃ生まれてこの方、嫌いなものが2つある。何かわかるかい。」
「は、………はぁ………?」
「1つはシイタケ!/
生まれた時からこいつだけは苦手でね。食うのも駄目だしダシを取ったのもダメさ! もう1つは嘘!!/
食わされるのも駄目だしダシに使われるのも気に入らないッ!! ここまでコケにされちゃ退けないねぇ!! 鹿骨の鬼姫、園崎茜ッ!!/
売られた喧嘩は値引かないのだけが自慢さぁ!!!」/
「そそッ園崎家のあんたが言うなーーー!! あと、鬼姫って部分を一市民に置き換えれば完璧です。」
「…………は? …………へ? ………?!?!」
警官たちもロビーの人々も、大高の子分も流れについて行けず目を白黒させるしかない。
「……あー、ご説明します。こちらは園崎茜さん。鹿骨市婦人剣友会の副会長さんです。こちらは園崎三郎さん。県剣道連盟の名誉理事さんです。/
…それより前に肩書きがありますね失礼。鹿骨2区選出の県議、園崎先生です。」
「………………ふぇ…。」
「いやぁ! お二人とも、県警剣道部師範代の大高くんに稽古をつけるために本日はお越しくださったんですよねぇ?! なっはっは、朝からホント申し訳ございません…!! ささ、先生方を道場にお通ししてください…!」
「何じゃい。お前さんとは懇意な仲じゃらん、おどれがゆうたんじゃ。……今日はとことん付き合ってもらうぞ…!」
「くっくっくっく…。私も久々に燃えてきたああぁあぁッ!!!」
鷹の爪のように両肩を掴んだ二人が、怪しげに目を光らせて笑う。釣られて大高も笑う。
「……ふふふふふ…? ……ふふふふふふふふふ…?」
「ふふ、ふぎゃぁあぁあぁーーーーーッ!!!」
;■入江診療所
「……確かですわよね?! 確かに昨日の時点で、入江所長は女王感染者が在宅しているのを確認したんですわよね…?!」
「在宅を確認なんてひどい…。夏風邪を引かれたというので、様子を見に行ったのです。…………ですから、梨花ちゃんの死体が見付かるなんて、はははは、ありえるわけがないじゃないですか。」
「そうですわよ、ありえるわけがないんですわ…。で、…でも、
「誰が、何の誤解をするんですか…?」
「……そ、その、
入江は、鷹野の嘘がこれほどわかりやすく苦し紛れだと感じたのはこれが初めてだった。
……もう富竹さんの調査結果を待つまでもなく、確信できる。
鷹野さんの目的は、緊急マニュアルだ。
…その前提を崩されることを狼狽しているのだ。
…彼女に対し、同情的に言えば、……誰も理解を示さなかった研究に、誰かが理解を示し、彼女の拠り所になってくれた。
……その、海原に浮かぶ藁のような儚い拠り所に、切り捨てられたくなくて……、こうして慌てふためいているのだ。
それはこの上なく哀れな姿。
…もし可能で、伸ばすべき手があるならば、…溺れる彼女に手を差し伸べたいと思った。
……だが、手が、届かない。
彼女が伸ばさない限り。
…自分が溺れていて、助けを欲していることを認めない限り、手は届かない。
彼女はそれに気付かない限り、私がいくら手を伸ばしてもそれを払いのけるだろう。
……だが、私のその他人事な想像はすぐに打ち切られた。
梨花ちゃんが在宅しているのかいないのか。
そこに話が及べば、中にいると言ってきた自分に疑いがかかるということだ。………危険が一気に高まったことも意味する。
さっきから受話器に耳を当てていた隊員が、諦めたような顔をして受話器を置いた。
「……三佐。電話に出ません。不在のようです。」
「監視班は何と言ってるの。」
「いえ、監視体制に入った17日以降、外出の形跡はなく、電話の一本もありません。」
「ねぇ、入江先生。…………ということは、まだ中に梨花ちゃんたちはいる、ということですわよね…?」
「……え、…えぇ。そういうことだと思いますが、はは、どうでしょう。もうだいぶ治りかけて元気になってますからねぇ。うまく抜け出して遊びに行ってるのかもしれません。……ほら、今日は綿流しのお祭りじゃありませんか。梨花ちゃんの家の近くには確か、模擬店部会の水場が設けられていたはずです。人の出入りも多いですから、監視の方が見逃してしまった可能性も…。」
「…どうなの? そんなことはありえるの?」
「入江所長が出られた後には必ずシールしています。まさか、窓から出たのでもない限りありえないでしょう。」
「山狗は、あくまでもRは家を出ていないと、そう言うのよね…?」
「そうです。間違いありません。RはR宅内です。そして17日以降、一度たりとも外出していません。絶対に在宅しています。」
「……それを確認したのが入江所長だけで、山狗の誰一人確認していないのに、そうだと言える…、
「……ぇっと、…………………ぅ。」
山狗の隊員が助け舟を求めるように入江を見る。
…入江は一度、固い唾を飲み込んでから、それに頷き返してやった。
「なら、どうして興宮署でRの死体が出てきたりするのッ?!」
「ですからそれは誤報の可能性も…。その後の情報では身元不明死体の検死はまだ終わっておらず、古手梨花であるというのは何者かの憶測に過ぎない可能性が高いと…。」
「もうその話は聞き飽きたわッ!!! その怪情報が流れて、東京にまで伝わってからもう何時間が経過してると思ってるの!! このままでは東京に、
鷹野は入江がいることを思い出し、そこまでで口をつぐんだ。
だが、入江はその先に何を続けるつもりだったのか、想像はついていた。
「三佐、東京の野村さまよりお電話です。」
「……………く…。だからしばらく待てと言ってるのに……!」
普段、あれだけ余裕を見せる鷹野が、人目もはばからず頭を掻き毟る。
彼女の焦る気持ちが、心だけでなく体にも出ていた。
…体に爪を立てるのが癖なのだろう。
彼女が腕を組む時に指が当たる場所は、ぎゅうっと深い爪の跡が残り、彼女の焦る気持ちを如実に物語っていた。
「鷹野さんはお忙しいようですね。私が出ましょう。野村さんですか? 初めてお電話する方ですね。」
「い、いえ、三佐宛てですので…。」
隊員は渋る様子で鷹野の顔と見比べる。
「……入江所長。今、ちょっと立て込んでおりますの。大変申し訳ございませんけど、所長室にお戻りいただいてもいいですかしら。」
「……………そうですか。……そうですね。入江機関の運営はあなたに任せています。私が口を出すことではありませんね。」
「誰か所長室までお送りして。……早く!」
それは露骨な、出て行けと同じ意味の言葉だ。…入江は刃向かわず、セキュリティルームを後にした。
「もしもし、鷹野です。お待たせして申し訳ございませんわ。」
「……何度もお電話して申し訳ございませんです。いかがですか、興宮署の情報については確認できましたか?」
「申し訳ございません。今、急ぐように指示をしているところです。すでに内部協力員を興宮署に向わせましたので、その連絡を待つだけなのですが…。」
「そうですか、ではもうじきですね。では、何時頃までにこちらにご連絡をいただけますか?」
「えっと! もちろん分かり次第すぐにご連絡申し上げます。ただそれが何時になるかはお約束が難しいのですが、……大至急、えぇ、急がせておりますので…、えぇ!」
「……ふふふふ。三佐。飛行機に乗ったことはおありですか?」
「え? あ、あぁ、もちろんですわ…。」
「飛行機が離陸するために加速する時。この時に大きな出力を出すため、エンジントラブルを起こすことがあるのだそうです。その時、まだ大して速度が出ていないならブレーキを掛け、離陸を断念するそうですが、もしすでに充分な速度が出ていた場合は、ブレーキはかえって危険なため、そのまま離陸をしてしまうのだそうです。四発の旅客機なら、内1つのエンジンが壊れていても飛行は可能ですから。それはもちろんこの度の作戦も同じです。エンジンはひとつではありませんから、充分な速度が出ていれば離陸に踏み切るでしょう。後のことはどうとでもなります。………ですが、この度の作戦という飛行機は、まだ充分な速度どころか、これから離陸しようという段階です。お分かりですね?」
終末作戦の第一段階は、監査役の富竹暗殺から幕を開ける。
…それすらまだ始まっていないのだから、それは的を得ている。
「もし、貴女が乗った旅客機が、離陸前からエンジンが故障しているとわかったらどうしますか? 降りるでしょう? 同じことです。離陸前からエンジンに故障が見付かったため、乗客であるクライアントたちが飛行機を降りたがっています。」
…もう後戻りできない段階に至れば、多少のミスに目くじらを立てることはなくなる。
……だが、後戻りができる今の段階だからこそ、彼らはデリケートで、わずかの失態にも過敏になるのだ。
「そ、それが本当に故障なのか、今、点検させているところなのです。」
「えぇ、存じています。貴女は管制塔の管制官。私は彼らをなだめる添乗員。離陸の見込みの薄くなる飛行機から降りたいと言い出すクライアントたちを懸命になだめているところです。…これ以上、事態の改善が遅れると、この飛行プラン自体がなかったことになります。………鷹野三佐? それはつまり、貴女の祖父の論文が、世迷言の狂人論文であったと烙印を押されることですよ?」
「……………く……。」
「1人の少女が死ぬと村人が全員錯乱する? …ふふふははは、ばっかみたい。何を根拠にそんな世迷言を。この分厚い研究結果は全てそんな空想論文だ、
鷹野がぎりぎりと歯軋りをする。
そして受話器を握り潰すくらいにギリギリと爪を立てて…。
「…………と。なってしまいます。おわかりですか…? これは、貴女と貴女の尊敬してやまないおじいちゃんの、名誉を守るためでもあるんですよ…?」
「…え、………えぇ…。お気遣いをありがとうございますわ…。」
「安心してください。私は貴女の唯一の味方です。貴女にとって一番幸せで報われる最後になるよう、最後までお手伝いします。……ですので、どうか私の顔も立てて、興宮署の情報の真偽を確かめてください。私も努力してますけど、機嫌を損ねるクライアントの皆さんのお相手は楽ではないもので。」
「……ご迷惑をお掛けしますわ…。もうしばらくだけご猶予を…。えぇ……。……はい、失礼いたします。」
鷹野は向こうが受話器を置いたことを確かめてから、ガチャンと叩きつけるように受話器を置いた。
「小此木から連絡はまだないの!! 電話して!!」
「三佐、つい10分前に電話したばかりです…。情報が入ればすぐに連絡してくることになっています。少しお休みになられては…。先ほどのコーヒーも、」
気遣うように隊員が差し出した紙コップのコーヒーを鷹野が払いのけると、それは床に叩きつけられて、フロアタイルの上に黒い水溜りを作った。
その様子に、セキュリティルームは、息を呑む音さえ静まり返る。
「………何よ……。ぼけっとしている暇があったら、誰かモップでも持ってきなさい! 10分前に電話してても構わない、もう一度かけて催促して!! 古手梨花の死体のわけないという裏付けと、
もう鷹野も気付きかけていた。
…富竹の行方不明が、何か嫌な意味があることに気付きかけていた。
…富竹を捕まえれば、きっと興宮署のことも知っているに違いない…!
あの一見、間抜けそうな男は、どういうわけか我々の計画を見抜き、揺さぶりをかけるよう工作したのだ。
…そう、全て富竹の差し金に違いない…!!
大人しく今日を過ごしていたなら、せめて死ぬ前に祭りのひと時を楽しませてやろうと、取り計らってやろうと思っていたのに……ッ!!
……一番手っ取り早いのはあの家にいる古手梨花の顔を私が見ること。
でも私はこの場を離れられないし、入江では信用できないし、……祭りで人が大勢出入りしてるから山狗も監視が精一杯で迂闊に近付けないし…。
せめて電話に出てくれればいいものを、なぜか電話に出ないし…!!
これじゃあ、あの家はもぬけの殻で、……古手梨花の死は本当だということになってしまう。
どこで狂った? 誰が騙したッ?!
……決まってる。
…在宅確認をした唯一の人物、
富竹がすでに宿を抜け出してどこかに潜伏しているように、……梨花もすでにあの家を抜け出して別の場所に潜伏しているんじゃないだろうか。
だったなら、………入江は裏切り者で、
「…………い、入江所長に監視をつけるのよ。」
「まさか、所長の在宅確認が、
「……富竹はいつの段階でかわからないけれど、私たちの計画に気付いたのよ。そして、宿を脱出し、Rも秘密裏に安全なところへ避難させた。…私たちはまんまと騙されて、空き家を見張り続けていたのよ……!!」
「あ、空き家ということはありえません。人影が確かに…!」
「それがRだという保証はあるの?! Rじゃない。監視する山狗を騙すだけの役で、誰かがあそこに身代わりとして留守をしている、そうよそうに違いないわ…!! 小此木に、R宅への強行突入を命じなさい! 誰がいるんだか知らないけど、そいつは富竹や梨花に通じてる。そいつを締め上げるのよッ!!」
「……し、しかし、R宅への突入は、本日は不可能です…! R宅前は水場になっており、祭りの関係者が常にごった返しています。今日の祭りが終わる深夜までは不可能です…!!」
「それを何とかするのが山狗でしょうがッ!! 何とかしなさい、何とかッ!!! …何で?! 何で私が言うことじゃ聞いてくれないの?! 私の言うことは聞けないって言うの?!/
……私の…保護者の言うことじゃなきゃ、聞けないって言うの…。…ぅううぅぅぅ……!」
隊員たちは沈黙するしかない。…どんな言葉をかけても今の鷹野の慰めにならないとわかっていたから。
……そんな中、沈黙を切り裂く電話の呼び出し音が鳴る。鷹野がびくっとする。
「…はい。……………え?! さ、三佐、朗報ですッ! 鴉が東京調査部の定期連絡先の、で、電話番号特定に成功したとのことです!! 電話番号は鹿骨市内! 山狗が住所の特定作業に入りました!!」
;■興宮の小此木造園
「富竹だ、間違いない!!! 雲雀、腕利きを集めろ。ヤツは用心してるぞ、ぬかるんじゃねぇ!! 白鷺はバックアップしろ!」
「了解!! 雲雀1より全班員へ。突入先が特定され次第、出動するぞ! 全員、搭乗しろ!!」
「くそぉ…、電電公社の協力員はまだかッ!!!」
「調べさせてます!! 5分です!」
時計は、……午前9時まであと15分足らずだ。
市内のどこに潜伏してるかわからないが、…場所によっては距離上の理由だけでアウトだ。こいつは運頼みになる……!!
「馬鹿野郎ッ、5分じゃねぇ50秒だッ!! 何やってやがんだ、端末に番号打つだけだろうがッ!!」
「来ました!! 住所は市内平坂一丁目XX番、ホテルモデラート! 交換機を経由してるため、部屋番号は不明!!」
「聞こえたな雲雀ッ!!」
「了解、出動ッ!!!」
平坂一丁目なら幸運だ、ここからすぐ近くだ!!
やはり読みは当たっていた。ヤツはすぐ近くに潜伏していたのだ!
小此木造園の業務車両のシャッターが次々開き、白いワゴン車が次々飛び出していく…!
「ぃ野郎…。今度はこっちの番だ。まさか調査部に俺の子飼いが混じってるとは思わなかったろうよ…。……こっちが今度は貴様を奇襲してやるぜ…!!」
ホテルモデラート。…響きの割に安っぽい煤けた看板だった。
場末のビジネスホテル崩れで、潜伏者にとってとても都合のいいホテルだったに違いない。
時代に合わせてラブホテル風に改装すれば少しは客足も見込めたのだろうが、改装工事のための資金的余裕はなく、いつ潰れてもおかしくない。…そんなホテルだった。
その2階の一室に、富竹が潜んでいた。
室内は、最初の富竹の宿に比べてもさらに貧相しく、寝床と内線電話しかないという有様だった。
……だが、その電話が富竹にとって今、唯一必要なものでもある。
定時連絡以外に連絡を取らないならば、富竹は宿を固定せず、常に移動し続ける方が安全ではある。
…だが、調査部の進展を刻一刻と待ち、その内容によって対応が変ってくる現在の状況では、不必要な移動はかえって緊急の連絡を困難にしかねない。
…………まさか、東京調査部の内側にもスパイが入り込んでいるなど、そこまでは富竹も考えが至らなかった。
時計の針の音だけが室内に響き渡る。
もうすぐ9時だ。
……だが、別に9時ジャストに電話がなければいけないわけじゃない。……富竹は焦らず、受話器の前で待ち続ける。
電話で、誰が出て、何を聞かれても冷静に現在の状況を説明できるよう、要点を頭の中でまとめ、呼吸を落ち着ける。
…同時に、何かの手段で敵がここを嗅ぎ付け、襲撃してくる可能性も排除しない。
その時、どこか遠くの部屋で女性の悲鳴が聞こえた。
……何事かと思っていると、また遠くで、別の女性の悲鳴が聞こえた。
ホテルの館内を覆いだす、ばたばたとした気配。
……直感する。何者かが、それも大勢で、マスターキーを使い、全室をチェックしているのだ…!
富竹はカーテンを細く開けて表を見る。
…通りには数人の山狗隊員が立ち、ホテルからの退路を遮断、包囲していた。……いつの間に!!
…やられた。ヤツらは自分の寝床を探り当ててきたのだ…!!
どたどたとした足音はすぐ隣の部屋から聞こえる。いや声も聞こえた。
「空室だ、次!!」
この安ホテルにチェーンはない。マスターキーを拒む手段はないのだ。
退路遮断に割いてる人数と気配から考えて、敵は20人近くいるだろう。
いや、もっとかもしれない。
抗戦は不可能だ。隠れるしかない!!
ベッドの下? 風呂場? 映画のように簡単に天井が開くわけがない。
窓から外へ? ……ここは2階だ。飛び降りられない高さじゃない。
だが向こうもそれは警戒してる。でもここは市街地のど真ん中だ。
脚力に自信さえあれば逃げ切ることも不可能じゃない…!!
ついに富竹の部屋の前に、どたどたという足音が殺到する。……もうこれまでだッ!!
窓から威勢よく飛び出し、階下に降り立つ富竹…!
もちろん、山狗たちが待ち受けていた。
いたぞと指を刺し、6人ほどが猛烈な速度で駆けて来る!
富竹は降り立ったその体制から低い姿勢のまま飛び出す!!
隊員たちは追いながら驚く。
飛び降りたあの体制からすぐにあれだけの速度で疾駆できるとは…!
しかし富竹にとってはそれほど不思議なことじゃない。万が一のこのような事態に備えて日々体を鍛えているのだ。
「雲雀10より雲雀1!! 標的発見! 追跡中!! 応援求む!!」
「雲雀1より白鷺! 標的は裏通りを西に向かい逃走!! 制圧しろ!!」
「白鷺了解!! 白鷺2、3、4!! そっちへ行くぞッ!!!」
「……来たぞ…!! ヤツだ!!!」
富竹の前に、電信柱の物陰から3人の隊員が飛び出し立ち塞がる!
彼らは機関車のような重量感で突進してくる富竹との間合いを計る。
相手は自分たちを倒そうと走ってくるのではない。自分たちを潜り抜けて逃げ去ろうとしているのだ。
ファイティングポーズなど何の役にも立たない。
彼らは腰を低く落とし、一度に飛び掛って重さで圧殺しようと目論んだ。
その低い腰からの飛び掛りを、逆に飛び越えるように! 飛翔する富竹はまるでハードルを飛び越える陸上選手のようだった。
だが、彼は陸上選手じゃないし敵もハードルではない。…だから富竹の突き出された踵が正面の男の顔に、めりりと打ち込まれる!!/
左右の二人は何とか富竹に組み付いたつもりだった。
だが、富竹は突進の重量感からは想像もつかないくらい軽やかに身を翻ると、二人の顔面が互いに勢い込んでぶつかるように頭を抱え、猛烈な力を加えて打ちつけ合ってやった。/
この程度の攻撃で3人を沈黙させるには至らないが、彼らから逃れるには充分過ぎる隙を得る!
「標的、西側阻止線を突破! 追跡中!!」
「馬鹿野郎、何やってんだッ!! 白鷺10!! 車両で回り込め、2つ先のブロックを左折で、9時方向にヤツを捉える!!」
「大丈夫かッ?! くそぉおお!! 逃がすなぁ!!!」
「あンの野郎、何て馬鹿力だ…。クソ、鼻血が止まらねぇ…!!」
富竹の正面の十字路に、スライドドアが開きっぱなしのワゴン車が飛び込んでくる!
それはブレーキで止まりきれず、ブロック塀に側面を打ち付けるように停まると、中からわらわらと4〜5人の隊員が飛び出してくる…!!
「是が非でも止めろ!! 後がないぞッ!!!」
「かかってきやがれ畜生めッ、こっちは5人だ!!!」
富竹の前方に待ち構える5人!
だが、富竹は自分がその5人程度で止められるとはまるで夢にも思わなかった。
……汽車の前方に人がいたら警笛を鳴らすのはなぜ? 汽車が傷つくからじゃない。相手が跳ね飛ばされるからだッ!!
その雄叫びはまさに機関車の警笛! 自分の邪魔だからどけと言ってるんじゃない。
怪我をしたくなかったらどけと警告しているのだッ!!
「こ、こっちはこれだけ人数がいるんだ!! 体重だけ見たってヤツの5倍だぞ!! それだけに圧し掛かられてもなおヤツを止められないってのか?! ありえない!! ありえねぇ、絶対ここで止めろッ!!! かかれぇええぇえええぇえええ!!!!」
不敵に、…いや、笑っていない。機関車は笑わないッ!!!
「ううおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
「富竹の確保に成功しました。」
「本当?! くすくす、あっさりだったわねぇ。色々と聞きたいことがあるわ。殺しちゃ駄目よ、こっちへ連行して! どうせ殺すけど、彼には似合いの死がすでに用意してあるんだからね。…くすくすくすくす。」
その頃、……ホテルの富竹の一室では、部屋の主を失った電話が戻るはずのない主を求めて、いつまでも呼び出し音を鳴らせ続けていた…。
;■入江ターン
両手両足を手錠で拘束され、猿ぐつわまでされた富竹が入江診療所の裏口に運び込まれたのは、それから30分後のことだった。
富竹は薬物でも与えられたのか、ぐったりとしていて動かなかった。
それを隊員たちに抱えられるようにしてワゴン車から運び出されている。
…入江は所長室の窓からその様子に気付き、飛び出してきた。
そこにはもう鷹野の姿もあった。
「……こ、…これは何事ですか鷹野さん。」
隊員たちが、無言だが厳しさを感じさせる目をぎょろりと入江に向ける。
……来てはならぬところに来た、というのを肌で感じるほどだった。
「ジロウさんの姿が見えないと思ったら。何と末期発症をしていたのですわ。不審に思い、山狗たちに探させていて正解でした。」
「ま、末期発症…? 富竹さんがですか…?!」
もちろん、ぐったりとしている富竹がそれに答えるわけもない。
だが、入江はそれ以上を口には出さなかった。
「そうですか……。それはとても不幸なことです。すぐに治療薬を投与してください。」
「もちろんですわ。投与の間に合う段階だといいのですが。…くすくす。」
入江は理解していた。
山狗たちが、内偵していた富竹を見付け出して捕らえたのだ。
富竹は東京と話を付けられたのか。
番犬部隊を鎮圧に送ってもらえるように話をできたのか。
……いや、多分できていない。
番犬が派遣されるという事態になれば、多分、彼らはその情報を察知する。
そうしたらもう言い逃れなど出来る段階ではない。ここを放棄して逃走するはずだ。
富竹を捕らえて地下に担ぎ込むということは、……まだそこまで至っておらず、事態をうやむやにして誤魔化せる程度の段階なのだということだ。
つまり、…富竹に私たちが期待したことが、完遂できなかったのだ…。
彼らは富竹をどうするつもりだろう。
生かして連れてきたのだから、拷問にでもかけて何かの口を割らせようとするのか。
危険だ…。このままでは多分、彼は殺されてしまう。
彼に代わって今度は自分が何とかしなくてはならないんだ…!
入江が富竹を救出しなくてはならない最大の理由は、彼が「東京」への連絡方法を持たないためだった。
鷹野は入江を形骸化させ、機関を牛耳るため、東京への連絡方法は機密であるとし、入江に連絡方法を明かしていなかったためである。
そのため、入江は東京からの電話を受けることはできても、鷹野を経由せずに連絡を取る方法を知らなかったのだ。
つまり、…富竹がキーマンであることに代わりはなく、…富竹を救出する以外に勝ち方がないのである…。
しかし、自分は山狗のような特殊部隊でも何でもない。
ただの医者で研究者だ。
非常召集がかかり、セキュリティが最高まであげられた研究区画から彼を救出するなど、とてもできやしない……。
ここには、診療所警護のため、保安要員の山狗が8名もいる。
……普段は多くても2名なのだが、鷹野さんが非常召集をかけたため、見たこともない人数が詰め込んでいるのだ。
もちろん地下の研究区画は厳重なセキュリティが施されていて、パスカードがなければ入ることも出ることもできない。
……つまり、パスカードを持つ、彼らの息のかかっていない人間、…つまり、入江にしか富竹を救助することはできないのだ。
パスカードの認証の他に指紋による個人認証も並行する最新式のセキュリティだ。
だからこのパスカードを誰かに譲渡しても意味がない。
このカードを持つ、入江にしか、地下区画から富竹を救出できないのだ。
だからこそ、……いくら無理でも、
入江は自らの勇気を振り絞ろうと、両拳を作ってぐっと握り締めたが、自らの震えに気付かされるだけだった。
……………入江。忘れましたですか…?
その時、入江は以前、赤坂に受けた忠告を思い出す。
自らの危機を測るのはとても難しいことです。まだ大丈夫、多分大丈夫などと思っている内に連絡の機会さえ逃してしまいかねません。…少しでも嫌な予感がしたら緊急時と判断していいでしょう。…陰謀の度合いから考えて、敵は私たちを生かしはしません。くれぐれもご用心を。
入江の背中を冷たい汗が一滴、すーっと流れる…。
赤坂に言われた緊急時とは、…今のことではないのか。
まだ大丈夫なんて甘えが、自らの逃げ出す余地さえ失わせる…。
……そうだ。ここで私が勇気を出したとしても、それは蛮勇でしかない。
自分の手元にはパスカードがある。
……だからと言って、自分1人で救出しなければならないわけじゃない。
…みんなが力を合わせているように、自分もみんなの力を借りるべきなのだ。
そして、富竹が捕まったということは、……すでに山狗が自分たちへの攻撃を認識し、反撃に転じていることを示す。
いや、今や自分に疑いの目が向けられていても何もおかしいことはないのだ。
梨花の家に山狗たちが一度踏み込めば、自分がついてきた嘘は瞬時に暴かれる。
……そう。今が赤坂の教えてくれた、緊急時なのだ。
入江はそれを判断する。…すでに自分に危険が迫っているのだ。……今すぐここを脱出した方がいい。
非常時の集合場所は園崎家だ。園崎家に味方は集まる。
状況を話し、富竹救出の作戦を練るべきなのだ。
多分、鷹野さんはすぐには殺さない。
……5年目の祟りになぞらえて今夜に殺すつもりだ。だから時間はわずかだがある。
こちらには他に味方もいるし、パスカードを持つ自分もいれば、まだ救出するチャンスは残るのだ。
なら、自分が脱出することを赤坂にも連絡しないと…。
自分が疑われれば、あの家には誰がいるのか、ということになり赤坂にも危険が及ぶ。
……連鎖的に危険が起こる可能性が高い…!
「…………………………………。」
こうして入江は、見逃しかねなかった、最後の逃走のタイミングを見誤らずに済む。
…逃げる前の最後の仕事だ。
入江は所長席の受話器を取り、梨花の家の短縮番号のボタンを押してから受話器を脇に置き、掛けっぱなしの状態のまま放置した。
……このまま、ずっと鳴らし続けるのが緊急事態の連絡なのだ。
入江は、あと何年この所長室で執務をすることになるのかと感慨にふけったことがあるのを思い出す。
まさか、この部屋を去る日が、こんなにも唐突に訪れるとは思わなかった…。
常に卓上に置いていた両親の写真立てが目に入る。
………父と母の誤解を解き、……家族愛を取り戻すために足を踏み入れたこの世界だった。
…それが、………いつの間にこんなことに巻き込まれるような道に入ってしまったのか。
いや、……またきっと帰って来る。
そして私は再びここで執務をし、…雛見沢症候群という不幸な病気を撲滅するため、戦い続けるのだ。
…私は、その責任を絶対に放棄したりしない…!
「……必ず戻って来るよ。……父さん、母さん。」
入江は最後の別れを残し、所長室を後にした。
「……三佐。所長室の内線から外線へ通話中です。…電話番号は、
「え? ………どういうこと、それは? 盗聴できるの?」
「もちろんです。ここでもモニターできます…!」
隊員がコンソールをいじると、室内スピーカーから電話の呼び出し音が聞こえてきた。
「……一体、このタイミングで入江所長は何をあの家に電話しようというの…?」
「…やはり、Rは在宅していて、富竹を捕らえたことを連絡しようとしているのでは。」
「……………ありえないことじゃないわ。……くすくす、聞かれてるとも知らずに。」
さぁ、何を話すというの入江。
…話してみなさいな、聞いていてあげるから。
…しかし、呼び出し音がいつまでも繰り返される。
もう30秒近くは鳴らしているだろうか。…出ない。……やはり留守なのだろうか。
「………所長も根気がありますね。……必ずいるはずだという強い確信があるのでしょうか。」
「さ、三佐!! 裏口のモニターカメラに所長の姿が!!」
四分割された白黒の監視モニターには、裏口の扉から駆け出していく入江の姿が映っていた。
「……どういうことッ?! じゃあ誰が所長室から電話をしているの?!」
鷹野が混乱している間にも、延々と呼び出し音が聞こえ続ける…。
………まさか…………! 鷹野は自分の瞳孔が開いていくような感触を覚える…。
「罠よッ!!! ヤツは私たちが監視しているのを知ってて、わざと空電話をかけて油断させた!! 入江は裏切り者の仲間よ!! 捕らえてッ!!!」
「い、1階保安室ッ!! 入江所長を制圧せよ!! 標的は裏口から職員駐車場へ!!」
1階保安室でトランプに興じていた2人は、カードを飛び散らせながら保安室を飛び出す!!
彼らの保安室は裏口のすぐ脇にあったから、入江はまだ捕らえられる距離内のはずだった。
……一方、入江のミスは致命的だった。
鷹野たちが電話に耳を澄ませている最初の30秒で診療所を脱出できたのだ。
だが、一度は駐車場まで辿り着いた入江は、車のキーを所長席に忘れていたことを思い出し、取りに戻ってしまったのだ。
キーを忘れたにしても、今さら戻るべきではなかった。
徒歩でそのまま脱出するべきだったのだ。
……だが、入江は赤坂のように緊急事態に慣れているわけじゃない。
生まれてこの方、一度も危機にあったことがない一般人として当然のミステイクだった。
二重にミスを犯しながらも、それでも赤坂への連絡を忘れなかったことを褒めるべきだ。
こういう時に限り不器用になってしまうのは焦る人間の悲しさだ。
普段はただひねるだけのキーなのに、ただそれだけのことができず、焦ってしまう…!
ドルルルルン!!
ようやくエンジンが着火する…!
大丈夫だ、自分が脱出するのはバレていない。
バレたって、ちょっと買い物にでも行くと言って誤魔化せばいい…。
そんなことを考えながら、嫌な汗でぐっしょり濡れた左手でサイドブレーキを下ろした時、バックミラーに裏口が荒々しく開けられ山狗が2人飛び出してくるのが見えた。
彼らはきょろきょろと見回し、……その1人とミラー越しに目が合った気がした。
バックミラーの中の1人がこちらを指差し、2人が駆けてくるのが見える。
その表情はこれ以上なく真剣で、間違っても、拾った落し物のボールペンを持ってきてくれるようには見えなかった。
「……ふ、……ううぅううううぅうぅ…!!」
入江の全身から、これ以上まだ出るのかというほど、嫌な汗がぶわっと湧き出る!
彼らが車に飛び乗る前に、入江の車はホイルスピンしながら急発進した。
もちろん敵はそれで肩を落としたりはしない。
すぐに自分たちも車に乗り込むと追跡を開始した。
「………保安より本部! 所長は車両で逃走中。強制停車させますか、どうぞ!」
「三佐…!」
「……鷹野よ。恐らく行き先は古手神社ね。神社に行かれたら今日は人だらけ、捕らえることは難しくなるわ。多少の怪我も構わない。行かせては駄目ッ!! 強引に停車させなさい…!」
「保安了解。これより強制停車に移る。念のためバックアップを送れ、どうぞ。」
「本部了解。鶯をバックアップに送る! だがバックアップは待つな! 直ちに制圧せよ!!」
入江の車がタイヤに悲鳴をあげさせながら疾走させているのを、追う山狗の車は完全に前方に捉えていた。
あとは仕掛ける場所とタイミングを計るだけだ。
車というのは悲しい。
アクセルを深く踏めば速い速度が出るのは間違いない。
…でも、焦るハンドルでは、必ずしも速く逃れられるとは限らないのだ。
入江はバックミラーに映る追っ手にすっかり取り乱し、大味なハンドルを切っていた。
……このまま追っ手に煽られていれば、彼らが仕掛けずとも単独で事故を起こしかねないくらいに、そのハンドルは乱れていた。
また、恐怖心が頭を真っ白にしてしまい、…こんなにも長く走ってきた道なのに、混乱していつもと違う場所で曲がってしまったのである。
…その1つのミスがますますの混乱を誘い、入江を焦らせていく…!
「へへ、所長、そんな運転じゃ危ねぇぞ。一発で免停だぜ。」
彼らは仕掛けろと命じられているが、このまま追っている内に勝手に事故ってくれるのではないかと思い始めていた。
…できることならカーチェイスの真似事はしたくないのだ。
「ザザ、ザ、……追跡中の保安車両へ。こちら鳳1、聞こえるか。」
「隊長だ! …こちら保安車両。現在追跡中。現在位置は5丁目付近林道、詳細な位置は不明。」
「…本部要請につきバックアップに向ってる。到達予定は15分後。こっちはアテにするな。俺だって間に合うわけねぇと思ってんだ。」
小此木がぼやく。彼の言うところの三佐のお姫様に命じられて興宮から飛び出してきたのだ。
だが、距離的に間に合うはずがない。
それでも出動しろと命令を受けたらしい。
……それを説明してわかってくれるお姫様ではない、ということなのだろう。追跡者の隊員たちはその事情を察し苦笑いする。
「追跡の方角は。」
「最悪の場合、町の方へ抜けます。」
「そいつは許すな。山狩りはしてやる、足を破壊しろ。そこに人目は? 武装は?」
「両脇は深い森林です。人目はなし。武装は保安車両常備の短機関銃が1。」
助手席の隊員がリクライニングを倒して後部座席に行き、シートを持ち上げると、そこから黒く華奢そうな銃が現れる。
角の塗装が剥がれ一部に銀色を光らせていた。機関銃と言う名にしては迫力不足、に見えたかもしれない。
…だが、隊員がショルダーストックを伸ばして構えると、それは雰囲気を一変させ、この上なく凶暴な外見に豹変した。
「保安常備はMP5だな。A5か? SD3か?」
後部座席の隊員がバックミラーに銃を構えて見せ、特異な太く長い銃身を見せる。
「SD3です。サイレンサー付き。」
「発砲を許可する。フルバーストでタイヤを破壊しろ。」
「保安車両了解。攻撃する。」
後部座席の男が運転手の後方の窓を開けて身を乗り出した。
獲物を狙う鷲のような目が、照準と入江の車のタイヤを重ね合わす…。
道は一直線。入江の車は多少の蛇行をしているが、その程度では回避運動になりはしない。まさに追跡者たちは、入江車を完全に捕捉していた。
少しでも集弾するため車間距離を縮めたいところだが、あまり寄せすぎれば、入江の車が横転するなどした時、巻き込まれかねない。
これ以上、詰めるのは危険だった。
「3カウントで発砲する。
シュカカカカカカカカッ!!!/
誰もが期待する銃声とは違う、滑稽なくらい軽い連射音が響き渡った。
だが、軽いのは発砲音だけでその威力と連射力は別物だ。
狙われた入江の後部タイヤが細切れに刻まれていき、見る見る内に白煙を噴いて潰れてしまう…!
瞬時に後輪の片側を潰され、入江は大きくハンドルを取られた。
…焦って大きく切ったハンドルが余計に事態を致命的にする…!
入江の車は大きくスピンしながら路肩を外れ、勾配の浅くない林の斜面を転げ落ちていく…!
「わああぁあ、うわあああああぁあぁあ!!!」
バサバサバキバキと木立をへし折る音と、車体が潰れたりガラスが砕ける音が、斜面の下へと消えていった。
追跡者たちは車を停め、斜面を見下ろすが、草木が深くその状況をここから確認するのは不可能だった…。
「攻撃成功。標的車両は斜面を転落。死亡の可能性もあり。これより徒歩で追跡、制圧する。」
「鳳1了解。鶯が周囲を探し回ってるぞ。運が良ければ合流するだろ。こっちは相変わらず間に合わん。お前らが頼りだ。頼むぞ!」
「了解、交信を終わる。…行くぞ!!」
隊員は降車し、戸惑うことなく茂みの中に飛び降りていくのだった。
;■赤坂ターン
赤坂は、入江が送った電話によるメッセージを聞き取り終えていた。
3分間鳴りっ放しのメッセージ。
入江に危機があり、なおかつ、ここにも危機が迫っている可能性も知らせるものだ。
…鷹野はミスを犯していた。
まさか、呼び出し音だけでメッセージになるとは想像しなかったのだ。
これだけ長く鳴らしているのだから、そこに潜む居留守を使う何者かが緊急事態だと思って受話器を取る可能性を考えていたのだ。
……その読み違いが結果的に赤坂に重要なメッセージを伝えることを許してしまう…!
ぎりぎりの3分ジャストまでその呼び出し音を聞き終えた赤坂は、素早く扉を開けて階下に駆け下りる。
すでに靴を履き終えて電話が鳴るのを聞いていたのだ。
赤坂は電話台にあった町内地図から村のおおよその地理の吸収を終えていた。
ここを出てから園崎家までの最短ルートと、万が一、それが通行できなかった場合の予備ルートを含めて頭に叩き込んである。
ここから家の住人でない男が突然現れれば、見た人たちは驚くだろうが、今はそれに構う時じゃない。
大至急、園崎家に向かいみんなに合流する時だ…!
それよりも、ここを未だ監視し続けている敵に自分の姿を見られることが問題だろう。
追ってくるに違いない。この部屋に誰もいないと知れば、行方を逃げた男が知っていると思うのは当然だ。
ここを飛び出せば、直ちに戦闘態勢。……赤坂は一度肩を回してから、表への扉に手をかけた…。
「……三佐、R宅の監視班からです!! R宅から不審な男が飛び出しました。」
「男? 何者?! ……ど、どうでもいいわ、追って捕らえてッ!!」
「監視班了解、追跡開始。制圧する…!」
時間はまだ午前の10時にもならない。
…今日の祭りのため、出店や催しの関係者が次々訪れ準備を始める賑やかな朝だった。
その人の波を逆走し、境内からの階段を駆け下りていく赤坂。
その後を追い、同じように人の波を逆走する山狗たち…!
楽しい祭りに心を浮き立たせる村人たちと、赤坂たちの真剣な形相があまりに対照的だった。
追跡者が人々の肩を弾きながら追ってくるのを、赤坂は耳にしていた。振り向かずとも追っ手の存在を把握する。
赤坂は呼吸を停止し、五感を最大限まで研ぎ澄まし、全力のさらに上を行く全力で疾走した。
逃走の成功率は相手との距離に応じて二次関数的に高まる。わずかの距離でも有利になるッ!!
突風のような速度で石段を駆け終えると、園崎家とは逆の方向へ向う。
……もちろん、これはミスではない。追っ手の追跡を撒くための計略だ。
「……や、
「ヤツは……韋駄天かよ……!! はぁ、はぁ!!」
監視の山狗たちは心構えが出来ていなかった。
中からこれほどの猛スピードで逃げ出していく成人男性などまったく想定していなかったのだ。
中にいるのは小さな少女。……そういう思い込みが完全に油断を招いた。
増してや赤坂の身体能力は常人とは比べ物にならないのだ。虚まで突かれた彼らに追いつける道理はない。
完全に遅れた山狗たちは、赤坂の引っ掛けにまんまと掛かり、逆の方向へ逃げたと本部へ連絡し後を追う。
赤坂はもう少しの時間がもらえれば、彼らを充分に撹乱した上で撒ける完璧な自信があった。
いや、それどころか彼らを個別撃破し、人数を減らす自信だってある。
追っ手は3人? いや、恐らく4人だ。
………心技体、3つが全て最高のコンディションにある自分なら可能だ。
自分の過大評価は危険だが、赤坂はすでにその未熟なレベルは卒業していた。
目的地と的外れな場所で激しい抵抗を見せ、増援を送らせることは彼らに人員の浪費を強いることができるだろう。
だが、入江の電話メッセージの真意はわかっていない。
緊急度は決して低くないのだ。かくれんぼにかまけていないで園崎家へも急がなくてはならない。
赤坂は疾駆しながら冷静に黙考する。
……彼らを撃退し、さらに園崎家へ急げるか?
背後の追っ手は息を切らせながら縦に長く広がって分散してしまっているようだった。
4人と同時に戦うのは簡単ではないが、1人と4回戦うのは話が別だ。
……赤坂は充分な勝機を算出できると、息を大きく吸いなおしてから、電信柱に掴まり、ぐるりと一回転して今自分が駆けてきた方向へ一気に逆走する!!
「………………んなッ?!」
突然、逃げていた相手が逆走してきたことに山狗は面くらい、応戦の構えを取ったが、……その未熟な構えに対しどう打ち込み、何撃目で沈黙できるか。…赤坂がそれを完全に脳内でシミュレートを終える時には、まだ6歩も間合いを残していた。
だがそのシミュレートは外れる。…徹甲弾とまで恐れられるその鉄拳の初弾を、顔面でまともに受けて、二の太刀が必要だとでも?!
先頭の男が宙に浮いている間に、次の徹甲弾は後続の2人目に火を噴いていた…!!
セミの合唱だけが聞こえる……。
はっと入江は我に返った!
………転落の衝撃から入江が立ち直るには少々の時間が必要だった。
律儀なシートベルトをする習慣が彼を軽症で済ませたのは間違いない。
だが、シートベルトの金具が歪んで解けなかったり、ドアが歪んで開かなくなるといった事態にならなかったのは、大変幸運だったと言えるだろう。
そこは、斜面下の、別の林道の傍らだった。
入江は痛む体に歯を食いしばりながらシートベルトを外すと、車を降りた。
今、自分が転げ落ちてきた斜面の深い茂みを、がさがさと人が降りてくる音が聞こえる。
……追っ手だ…! 自分はここで捕まるわけにはいかない…。
自分が捕われれば、外部から富竹を救出することは不可能になる。
…いや、それどころか、富竹が診療所の地下に捕らえられていることすら、誰にも伝えられなくなってしまう…!
自分に力はなくとも、…あっさりと捕まるわけにはいかないのだ。
悔しいが、……こうしてヤツらに逆らい、1秒でも長く逃げ延びることが…今の私にできる唯一の抵抗…。
だが、こうして駆けてみてわかる。
……すっかりさっきの転落で全身の力が抜けてしまい、膝はがくがく震え、目の前がぐにゃりと歪むような錯覚さえする。
ただアクセルを踏んでいただけなのに、肺は爆発しそうで、頭は酸欠状態だ。
緊張状態が途切れた直後に来る、ある種の脱力状態に違いない。
……理屈でそれがわかっていても、体を緊張状態に戻せない…!
それでも、一歩でも遠くへ逃げようと、のたのたと走る。
背後で、がさがさ、どさどさ! という茂みの斜面を駆け下りる音が聞こえた。
…年貢の納め時だ。…そう思ったが、それでも、奴らに取り押さえられるまで走り続けるのが抵抗なのだ…。
「保安より本部。発見した。負傷している模様。制圧する。」
無線でそう伝える声が聞こえる。…………く、どうすればどうすれば…! 逃げなきゃ…、逃げなきゃ…ッ!!
「む〜ねにき〜ざむは退却魂〜♪」
「詩音さん、さっきから歌ってるその歌は何ですか?」
「あれ、知らない?! 流行ってると思ってんだけどなぁ!」
「すみません。流行には疎いもんで。…………ん?」
前方に無惨な事故車両の姿が見えた。
…しかもまだ薄っすらと白煙を吐いていて、ついさっき事故があったかのようだった。
葛西は念のため速度を落とした。
「どしたの? ぅわ、……ひゃぁ、やっちゃったですねー! って、あれ、監督じゃない?!」
車を停める。そのブレーキ音に入江は過剰に驚き、飛び退くようにして尻餅をついた。
そのヨレヨレの様子から、入江が事故の当事者であるのは疑いようがなかった。
「はろろーん、監督! まさかあれ、監督の車ですか?!」
「……し、………詩音さん…。」
「大丈夫ですか、入江先生。………すぐ医者へ行かれた方がいい。」
「監督を診療所に連れてって、監督が自分で診察するわけですね。あはははははは。」
「さぁ、立てますか? 診療所までお連れしましょう。」
「…し、
「監督?! 監督ぅ!! ちょっとどういうことよ?! まずいんじゃない?!」
葛西は、入江の車両を見てから、辺りの様子を探るようにきょろきょろする。
それから詩音にだけ聞こえるように小声で言った。
「詩音さん、訳ありのようです。」
「……どしたの?」
「入江先生の車に弾痕が。しかも拳銃とは思えません。」
「マジ? ………そっち持って。ひとまず本家に連れて行こう。」
二人は入江を後部座席に押し込むと、すぐに乗り込み、急発進した。
「監督に話を聞かないと状況がわかんないですね。……診療所は困る? どういうことだろ。」
「診療所の何者かに追われた、と見るのが今は妥当でしょうが、話を聞くまでわかりません。ただ、相当のヤバイ事に巻き込まれたのは間違いないようです。」
「…あれッ?! どこ行くの?!」
葛西が、妙な道で曲がったので、詩音はどこへ行こうとしているのか混乱した。
「……敵は先生のタイヤを狙ってました。生かして捕らえるつもりです。私たちのすぐ近くに追っ手が迫っていたかもしれません。」
「ってことは追ってきてる?! …後方に車影なし、上空に機影なし。この地形じゃ密着尾行以外は不可能でしょ。」
「念のためです。もう一度だけ左折したら本家へ直行します。申し訳ありませんが、詩音さんは後方監視をお願いします。」
「了解です!」
「………保安より本部。標的は民間車両に拾われた模様。車両ナンバーと車種を送る。」
「本部了解。捜索中の鶯は民間車両に標的を変更。至急捜索せよ。入江所長は極力、生きたままで確保。接触民間人も制圧せよ。ただし生死は問わない。」
「大丈夫なの、すぐに見付かるの?!」
「ご安心を。所長の白衣には発信機が。鶯の応援車両には測定器が積まれていますので、三角測定法で位置を検知できます。」
後部座席でぐったりしている入江の白衣。
……その後襟の裏側に小型の発信機が取り付けられていたのだ。保安部のかけた、万が一の保険である…。
だから、尾行がないか懸命に目を凝らす詩音の努力と無関係に、彼らの車はすでに補足されていたのだ。
「鶯3、標的車両を発見。……水車小屋の前を小道に入った。」
セキュリティルームの卓上に広げられた雛見沢の地図。
…水車小屋の小道を入れば、……そこはすぐに私有地。園崎本家の敷地で、その先には園崎本家しかない…!
「三佐…!」
「くすくすくすくす…。あらあら、袋のネズミねぇ。」
「こちら鳳1。鶯、まだ突入するな。もうじき鳳が合流する。合流してから一度に突入するぞ!」
「鶯1了解。」
「小此木! 鶯にさっさと突入させないと相手に無駄な時間を与えるわよ!!」
「……ザザ、ザ、感度悪し、…………ザザ…。」
「…く………、誰も私の言うことなんか聞かないんだから…!」
園崎家の地下には、セキュリティ機能も与えられていて、園崎家の敷地内に点在する監視カメラの映像をここからでも見ることができた。
もっとも、入江機関のセキュリティルームのようにハイテクではない。
合掌家屋の中2階のような、膝立ちでなければ頭をぶつける和風な小部屋の押入れの中に、のたくった配線の束とモニターテレビが置かれているという、まるで隠し部屋のような感じだった。
ここには電話もあり、電気もあり、地下でありながら園崎家の基地機能を凝縮した空間だった。
最初の内は部活メンバーもこの部屋で興味深くモニターを見ていたのだが、さすがにこの狭い部屋で全員は暑くて息苦しい。
魅音とレナだけが残り、用心深く監視を続けていた。
「魅ぃちゃん、何だろう、車が入って来たよ?」
「これは……、葛西さんの車だね。多分、詩音でしょ。今日の祭りに合わせて遊びに来たってことだろうね。ったく何でこんな日にー! 空気の読めないヤツ〜!」
婆っちゃは朝一から神社の本部テントに行ってしまっている。だから上の本宅は無人だ。
自分がのこのこと出て行かなければ、詩音は私を留守と思うだろう。
…んー、詩音にも事情を話した方がいいだろうか。
……あの子、いざって時は案外、頼りになるし…。……んー。
そんなことを考えてる間に葛西の車は門の前に停まり、人影が降りてきた。
「……あれ?! 魅ぃちゃん、あれ、監督だよ?!」
「え!」
カメラには、葛西と詩音に両肩を抱えられて足取りもおぼつかない白衣姿の監督が映し出されていた。
どう見ても、何か大変なことがあったのは明白だ!
「い、行ってみよう!! レナに圭ちゃん、一緒に来て!!/
沙都子たちはここでモニターの監視ッ!! 梨花ちゃんは表に出ちゃ駄目だよ! 羽入はそれでも出てかないよう梨花ちゃんの監視!!」
……これは小此木の判断の勝利だったかもしれない…。
もし鷹野が急かすように鶯の追跡隊が間髪入れずに追っていたら、それはモニターに映っていたからだ。
だが、小此木が後続と合流するまで待てと指示したから、すぐに追わなかった。
…そのため、彼らがすでに補足されていて、追っ手が突入してくる直前であることを見誤ってしまう…!
実はこの頃、水車小屋の前には何台もの山狗の車両が待機し、鳳1こと小此木も合流して、まさにこれから突入しようという段階だったのだ。
だが、それでも沙都子をモニター前に残した分だけ冷静だった。
それに、地上へ出なければ入江を見殺しにすることにもなる。
この時点で魅音は知らないが、富竹を救出するためには入江の存在が欠かせないのだ。
…だから結果的にこれはベストだったのだが…。
「お姉ぇ〜〜、お姉ぇえーー!! …もう神社の方かなぁ?」
「詩音んんーーーー!!」
「お姉たち、どっから来てんですか。さては地下にいましたね? あそこで遊んでるって鬼婆に言いつけますよ〜?」
「んなことはどうでもいい!! 監督は?! 監督ッ!!」
「まさか、やられたのか?!」
「……ってことは、お姉たちも訳ありのようですね。何が起こってるんです?」
「し、詩ぃちゃん話すからよく聞いて! えっと、実はね…!!」
「監督…!! 何があったんですか…!!」
「……ぅぅ、…すみません…。富竹さんが山狗に捕まりました。診療所の地下区画に捕われているようです。……私は、逃げる時にヤツらに追われて、事故を起こしてしまい…。」
入江は苦しそうにしながら一部始終を説明した。
みんなは無事を喜ぶが、魅音だけがすぐに表情を強張らせる。そして詩音に聞いた。
「…追われてる?!」
「尾行はなかったッ!」
「……とにかく中へ。良くない雲行きです。」
車が近付いてくる音が聞こえてくる。
それも一台じゃない…!
こんな時間にこんな大勢誰だろう。そんな場違いな想像は今さら無用だった!
「つけられてないもん、お姉のばかーーー!!」/
葛西は、この期に及んでたくましい姉妹を両脇にひょいひょいと抱えると門の中に飛び込む。
「地下へ急ぎましょう。あそこなら安全です…!」
「み、魅音さんん〜〜!! 変な車がいっぱい、いっぱい来ますわよー!!!」
「わかってる!! 地下に戻って!! 扉を閉めるよ!! 梨花ちゃんは?!」
「羽入さんと一緒に、隠し部屋に入りましたわ!!」
「鶯6、標的を発見。Rの友人数人も一緒です。」
「………くすくすくす! 間違いないわ、Rはそこに潜んでいるのよッ!! そうよね? ジロウさん?」
「……………………………く。」
セキュリティルームの床には富竹が寝かされていた。
両手両足の手錠をさらに繋ぎとめるように手錠をされたため、後ろ手にえび反り状態という辛い姿勢でうつ伏せにされている。
この無様な状態では、起き上がることは愚か、寝返りだって満足にできない。
鷹野は勝ち誇ったように笑うと、つま先で富竹の脇腹をくすぐるように突っつくのだった。
塀を軽々と山狗たちが越えてくる。…もうこの段階に至っては何の説明もいらない。
彼らが敵で、何度も梨花ちゃんに聞かされていた山狗であろうことは明白だった。
森の木立の中を駆けぬけ、窪地にある地下祭具殿の入口を目指す…!!
先陣を切った5人の山狗が、彼らを一人残らず捕らえるつもりだったが、
…1人、/
また1人と転んで脱落する。/
隊員の1人は、何をドジっているのかと訝しがった時、自分の足に何かが引っ掛かり、宙に舞うように転倒した。/
「くっそぁあぁぁ…!!!」
立ち上がろうとして再び足を引っ張られる。
…いつの間にか、ロープの輪が足に巻きついているではないか…!
しかも盛大に転んだ勢いでそれは絞まり、容易には解放しないと強い意思を見せている…!
「…ちゅ、注意しろ! ブッシュは対人トラップだらけだッ!!」
茂みの中に偽装した沙都子のトラップがあちこちに仕掛けられていたのだ。
…沙都子ともあろうものが、これほどの敷地を与えられて、丸一日何もしないわけがない!!
部活メンバーたちは地下祭具殿の扉の中に次々飛び込んで行く。
それが見えているのに、何の手も講じられず、歯噛みする罠にかかった山狗たち!
「閉めるよッ!! みんな力を貸してッ!!」
「せぇええぇのぉおおぉぉ!!!」
重い扉も、この人数が力を合わせれば軽々だった。/
魅音は素早く鍵を掛け、さらに重そうなかんぬきも掛けた。
「……これ、大丈夫かな、破られないかな、かな!」
「テレビには5台、6台、いえもっと映ってたかもしれませんわ! 全部、ワゴン車で中には変な男たちがいっぱい!!」
「簡単には破られないでしょうが、荒事に慣れている連中です。過信しない方がいいでしょう。」
それを言い終わらない内に、扉が外からドンドンと叩かれる。/
後続の山狗たちが殺到してきたのだ。
……この重い扉越しであっても、敵のすぐ近くにいるというのは心理的に落ち着かない。
「…私の失態で……。すみません…。」
「監督は何も失敗してないですよ。とにかく奥へ行こう!」
「そうだな、監視カメラの様子で敵の人数を探ろうぜ!」
「あーはいはい、私ゃ除け者で事情もわからずいきなりクライマックスですよハイ。」
「あーも〜!! あんたにゃ5分時間が出来たら全部説明するからッ!!」
「鶯1より鳳1。標的は防空壕のようなところへ逃げ込んだ。扉は鋼鉄製、突破できない!」
「鳳1了解。…この園崎家ってヤツぁとんでもない金持ちだな。敷地が広すぎて包囲は不可能だ。包囲は断念、俺たちも突入に加わるぞ。鶯はその辺の倒木を探せ。槌にして扉をブチ破る。」
「鳳7より鳳1。インドア用のプラ爆があります。準備しますか?」
プラスチック爆弾は工兵などが使う軍用の爆薬だ。
様々な用途に使えるが、彼が言っているのは、開かないドアを破壊するのに特化した形状のもの、という意味だろう。
小此木もそんないいものがあったかと手を打ったが、すぐにその考えを引っ込める。
この谷間の小さな村で爆音がすれば、誰だって何かあったと気付くだろう。
日中、そして地上、本来なら山狗にとってもっとも活動しにくい時間と場所なのだ。
「……さすがに爆破は無理だな…。………ん? いや待て! 今、何時だ?!」
「もうじき10時です。」
「……………使えるぞ…。鳳7、やるぞ、信管を準備しろッ!!」
「は?! 隊長、どうして10時だと爆破が可能なんですか?!」
…小此木は普段の投遣りな様子からは想像もつかないくらい、思考が冴え渡っていた。
そうだ、間違いない。…行けるぞ!!
窮屈な隠し部屋にみんなが殺到する。
「みんな、大丈夫なのですか…!!」
「……あぅあぅ、監視カメラを見てましたのです。敵は多分、30人くらいいますのです…!」
「そんなにかよ…、へへ、やってくれるぜ…!」
「ちょっとスイッチをいじるよ? ははは、連中、立ち往生してるよ!」
魅音がテレビの下のスイッチをいじると、この地下の入口が映る画面に変わった。
何人かの山狗が扉をさすったりしているのが見える。
それは乱暴に打ち破ろうという様子ではなく、開ける方法がなく途方にくれているように見えた。
「……向こうはどう打って出るでしょう。」
「こっちを袋のネズミと思ってますもの。多分、大勢で体当りでもして無理やり破る気ですわ!」
「何だこいつら、丸太なんか持ってきて?!」
「…どうやら、あれで扉を打ち破ろうとしているようです。」
「……今、沙都子が袋のネズミだと言いました。…なら、相手が扉を開けようと苦闘している間にここを脱出するべきだと思います。」
「同感です。それに、…富竹さんも助け出さないと…。」
「そうだね。いくらここの扉が厚くても、敵に見付かったら価値はないと思う。…私も脱出する時だと思うな。」
「お姉、この状況なら、もうとっくに警察に電話できる段階じゃありません?」
「だねぇ。一番最初の市民の権利を忘れてたよ! 仮に警察のスパイに電話を聞かれたとしても、もうこの段階ではバレバレだしね! 大石さんが駆けつけてくれるはずさ!」
魅音は余裕たっぷりに受話器を取る。…今ここで頼れなくて何のための警察なのか!
「……………ん? ……………あれれ?」
「…どうした?!」
魅音の表情に焦りが浮かび、やたらと何度もフックを押してから受話器に耳を当てるが、…その焦りが収まる様子はなかった。
「…電話が、……何で?! ウンともスンとも言わない!」
「……ケーブルが切られたかもしれません。」
「ぅわッ?!?!」
突然、真っ暗になった。
「…………な、…何だろ、停電?!」
葛西がライターの灯りを点ける。魅音も非常用の懐中電灯を点けた。
「地下の弱点を突かれたね…。」
「……でも、これだけ暗ければ敵だって簡単には…。」
「わかんないけど、多分、暗闇でも見える機械とかあるんじゃない? ……持ってそうよね、あの連中…。」
「魅音さん、どうして敵は電気を切断しましたの? ただの嫌がらせ?!」
「…………嫌がらせ以上の意味があるとすれば、
「あいつら、扉を撫でてましたの!! 諦めたんじゃない。あっと言う間に壊す方法を持ってて、それを気取られないためにカメラを殺そうと、それで電気を切ったんじゃ…!」
「まっさか、………爆破する気ッ?!」
「ってことは扉は一瞬で破られて、………ここにもう砦の価値はねぇってことじゃねぇのか?!」
「魅ぃちゃん!!! 今すぐにここを脱出しよう! さっき言ってた隠し井戸の脱出口を教えて!!」
「……こっちです、みんな!!」
魅音のコンピューターがわずかの混乱でノイズ混じりになる。
……魅音は決して山狗を過小評価したわけじゃない。
爆弾を持ってるかもしれないことは想定した。
……でも、真昼間の雛見沢で爆破なんてできるわけがないと思ってた。
絶対に誰かに音を聞かれる!
音を聞かれない爆弾なんてあったっけッ?!
「荒っぽい連中なんだろ…! 多少の危険は顧みないのかもしれないぜ。」
「…確かにこんな事態ですが、……山狗は非常に慎重な方々です。こんな真昼間に爆弾なんて、……鷹野さんならともかく、あの小此木さんが許可するはずない…!」
「それでもブチ抜こうってのかい…!! いい度胸だよ!!」
「レナはわかんないんだけど、音がしない鉄砲があるように、音がしない爆弾ってあるの?」
「ないです! どんな爆弾もみんな似たような音がします!」
「……そうか、わかりましたわッ、やつらの狙い!! 監督は綿流しの本部役員ですわよね?!!! 今日のお祭り、雨天順延の判断は?!」
「今日の、確か10時に決まって、…………ぁ、」
「……あぅあぅあぅあぅ!! まさか、…運動会と同じで…!!」
「木を隠すには、森ってことね…!!」
梨花は入江以上に小此木の性分を知っていた。
自分のことをお姫様のお守りと愚痴る投遣りな男だった。
………その小此木が、こんな鋭さも持っていたなんて! だから梨花が一番悔しかった。
地下への入口の扉には、いつの間にかアーチ状に粘土ブロックのようなものが貼り付けられていた。
…それらは配線で繋がれ、何十mも伸び、その先で山狗たちが伏せて待ち構えていた。
隊員の手には起爆スイッチ。そこに全ての配線が集まっている。
「……もうじき10時です。」
「へっへへへへはははは。……今朝、連中に先制を打たれた時はよ、よりによって今日かよと思ったよ。だが、今は、今日で助かったぜって思ってるぜ。」
…今日と言う日を有効利用できるのは貴様らだけじゃないぜ。
こいつぁ俺の寝起きを叩き起こしてくれやがったお返しだ。
地域ぐるみの大きな行事などでは、決行するかどうかを知らせるため、
朝から行なう運動会などでは、早朝にこの花火を鳴らすことも多い。
…綿流しの場合は夕方からの開催だから、10時で充分なのだ。
……その時、ボン! ボン! と花火が聞こえ出す。
谷間の雛見沢ではその音は残響して、どこから聞こえてきたのかもわかりにくい。
…それがますますに山狗に有利に働いた。
「やれッ!!!」
この歪な地下のあちこちの梁を歪ませたらしく、ぎしぎしと不安感を煽る音が木霊し、天井からはパラパラと砂埃が落ちてきた。
これだけの力だ。
今の爆発で多分、扉は吹き飛んだだろう。村の誰にも不審に思われずに!!
「さぁ入って!! この奥だよ!」
魅音がひとつの岩牢にみんなを誘う。
…そこは入らなければわからない絶妙な隠し方で、縦穴が隠されていた。隠し井戸とは名ばかりの不気味な縦穴だ。
人数分にも満たない懐中電灯では、この不気味な垂直トンネルの全貌はとても照らし出せない…。
「……こいつを降りろってのか。…どこまで続いてるんだ?」
「だいぶ降りると途中に横穴があるの。そこを抜ければ山中の古井戸に抜けられるようになってる。」
「ってことは、それについて一番詳しいお姉が先頭打者決定です。お先にどうぞ。」
「ちょ、私がトップ?!」
「他の誰がトップなんです! 殿(しんがり)は私と葛西が務めます! 早く行ってッ!!!」
「…………わかった。」
魅音は自分が殿を務めるつもりだった。
………でも、多分、魅音と詩音だけが直感していた。
この縦穴をこの人数で降りていこうとしたら、殿は間に合わないかもしれないと。
表の鉄扉と違い、中に入ってしまえばいくつか扉があるとは言え、人の力で破れないものじゃない。
ルートもほぼ一本道。ここまでは大して迷うまい。
だから、詩音は先に殿の役を魅音から奪った。
本当は、自分が姉だから。
姉の役目を必死にこなす妹を、本当の危機の時に守りたかったのだ。
…魅音はそんな詩音の考えを、…彼女らだけにしか通じ合えない生まれつきの直感で悟った。
……魅音もわかっていた。
私たち姉妹の関係は、姉を奪ってしまった自分だけが非を感じているのではない。
頭首の運命を押し付けてしまった詩音も非を感じているのだ。
そして、それを贖罪する機会を、詩音はついに得たのだ。
「魅音さん。武器庫の鍵を。今は開けるべき時です。」
魅音が無言で頭首の鍵を放る。
それを受け取ると、葛西と詩音は岩牢の奥へ駆けて行った。
「みんな聞いて! 横穴までは大体、30mちょっと。落ちたら底なしだよ!! しかも真っ暗なんだからね、慎重に降りて! 待機してる人はちゃんと梯子を照らしてあげること! …一度に、せいぜい一人か二人しか降りられないね。私が先陣を切る! 照らしてて!!」
「…魅音さん、気をつけて…! 照らす人も落ちないように!」
もし電気が絶たれていなかったら、次々と降りればいいだけのことだった。
この暗闇ではわからないだろうが、実はほんのいくつか井戸の中に電球が設けてあって、隠されたスイッチで点灯できるのだ。
……もちろん魅音はすでに試したが駄目だった。地下への電線が切断されているのは間違いなかった。
だから、懐中電灯の灯りしかないこの状況で、登りならいざ知れず、下るのは極めて危険だ。
誰かが降りている間、上と下の人間が照らしている必要がある。
……その魅音の読みは当たっていた。
先陣を切り、わずかの灯りさえもなかったらとても満足に降りられないことを実感する!
降りれば降りるほどに灯りが届かなくなる…。
途端に足元が不安になり、わずか一段下を探るのにも顔から汗が噴き出すほどに緊張させられた。
横穴までだって30m。それだって充分深い。
……でも隠し井戸はそれ以上に底が深いという。間違って落ちたら怪我じゃ絶対に済まない…!
…そ、……そろそろ、…30mくらいじゃないだろうか…?
30mって畳何枚分くらいの長さだっけ……。まさか私、横穴を通り過ぎてしまっている…?
そんな不安を感じた時、ひんやりとした風が全身に吹きつけてきた。
風の流れから大きな横穴の気配を感じ、ポケットから懐中電灯を取り出して辺りを照らした。
……そこに漆黒の口を開く横穴を見つける!
「…………は、…………はッ! …………………えい!! はッ、はぁ、は! OK!! いいよー!!! 梨花ちゃんから降りてきてー!!」
魅音は下から懐中電灯を照らす。
「よっしゃ! 次は梨花ちゃんだ!! その次が監督で、次が羽入、沙都子な! どんどん降りろよ!!」
入江が自分は後でいいと言おうとしたが、レナがきっぱり言った。
入江がいなければ地下区画に入れない。富竹救出は不可能になるのだ。
…人の命に序列はないが、今においてだけは梨花の次に重い!
「気をつけてください、照らしています!」
「……わかってる! みんなも、急いで…、あッ!!」/
「梨花ッ!!!」
魅音と違い、梨花は身長も低い。
魅音のようにひょいひょい降りられるわけではなかった。足の長さが足りず、左足が滑ったのだ。
「だ、大丈夫…! くそ、いつまで経っても成長できない人生なんてごめんよ…! 私は昭和58年6月を超える…! そしてね、もっともっと身長が伸びるのよ…!! 胸だってもっと大きくなる…! いつまでもこんな子供の体なんて、絶対にごめんなんだから…!!」
百年を超えた魔女とて高所の恐怖は拭えない。
梨花は暗闇と不安定な足元の恐怖と戦いながら、それでも1秒でも早く降りようと歯を食いしばって耐えた。
その内、上からの灯りが届かなくなり、下の魅音の灯りの方が照らされるようになる。
あとは魅音の灯りさえあれば充分だ。次の人はもう降りてきていい。
「ボクはもう大丈夫です!! 次、降りてきて!!」
「さ! 次は監督なのです!!」
「大人らしくきりきりお降りあそばせ!!」
「…わかりました。先に行きます!」
扉を吹き飛ばした山狗たちは、暗視ゴーグルを装着した異様な身なりで慎重に歩みを進める。
先頭の1人が沙都子が仕掛け残したトラップに気付き、後続を制止した。
「鶯7より鶯1へ。ワイヤー感応のトラップを発見。突入は慎重を要す。」
「鶯1了解! 鳳1、トラップの痕跡少なからず。通電を検討されては。」
「……馬鹿野郎〜、そんなことしたら連中が逃げやすくなっちまうじゃねぇか。向こうはこの暗闇で逃げるのもままならねぇはずだ。俺たちに有利なフィールドを最大限に使うんだ。この暗闇で追い詰めて捕らえろ。……これほどのデカイ壕だ。別に出口がきっとある。連中は隠れたりしないぞ、必ずそこから逃れようとするはずだ。/
…突入班に火器と防弾楯、スタングレネードを与えろ。園崎家って言やぁヤクザの大御所だ。密輸拳銃くらいの反撃は想定しろよ。……ってことは、そのワイヤートラップもクライモア程度には注意しろってことだ。全身に千個も鉛球食らいたくなかったらな。全身バラバラになるぞ!!」
「了解。」
彼らがプロであるゆえに効果のあったトラップだったかもしれない。
…沙都子は、これらのワイヤーを、プロならもっと危険なトラップだと勘違いしてくれるに違いないと思い、そこら中に仕掛けまわっておいたのだ。
その沙都子の策は的中し、山狗は最大の障壁である鉄扉を打ち破ったのに、未だ拷問室にも至れていなかった。
もっとも、この隠し井戸の大空洞は拷問室と扉1枚しか隔てていない。
敵が来るのは時間の問題だ。
「よっしゃ、次はレナだぜ!!」
「うん! 圭一くんも急いでね!」
「圭ちゃぁん! どんな感じですか!!」
「あぁ、今レナが降りてる!! 割ときりきり降りられるみたいだぞ!!」
「ハイハイ、焦って落ちないようにね。その井戸、歴代園崎家に逆らった連中の死体を捨てるのに使ったって噂もある、底なしの井戸だそうですから☆」
「げ、…し、詩音、お前、何だよ、その持ってるの…?!」
さっきまで姿を消していた詩音の手には、…いつの間にかでっかい機関銃があった。
な、何だっけ…、よく戦争映画で敵兵が持ってる機関銃だ!!
弾倉が前に丸く反り返ったのが特徴の、えっとえっと!
同じ機関銃が葛西さんの手にもあった。
機構をいじって動作確認する様子はあまりに手馴れすぎていて、一瞬の現実離れを感じさせる。
……でも、この懐中電灯の灯りだけで照らし出された異様な世界ではとても当り前に見えて…。
その銃の使い方を知らない自分の方が、ここでは異邦者なのだと思わされた。
詩音と葛西さんは、この隠し井戸のある岩牢に入り、左右の淵に分かれて身を隠し、拷問室への入口を安定して照準できる姿勢を探しているようだった。
…葛西さんだけでなく、詩音もかなり手馴れているように見えた。
「し、詩音、その役は俺がやる。だから次は詩音が降りろ!」
「圭ちゃんの男のプライド、サンキューです。でも、圭ちゃんにカラシニコフの説明をするより、圭ちゃんの番になったらきりきり降りてくれる方がロスタイムは少ないです。/
…気にしないで。いい女は死なないから☆」
詩音がウィンクした時、遠くの扉が打ち破られた音がした。
途端に詩音と葛西さんの目が厳しくなり、岩陰に身を隠しながら銃口を暗闇に向けた。敵は恐らく今、拷問室の中だ。
拷問室の扉の脇にはぽつんと懐中電灯が置かれていた。
…照準代わりにさっき葛西さんが置いたのだ。
……敵はどうも暗闇でも見えるようだが、こっちはそうはいかない。咄嗟の工夫だった。
拷問室から、がさがさごそごそと大勢が息を殺しながら近付いてくる音が聞こえる。
……となれば、…敵とこっちの間にあるのは、あの扉1枚だけ。
「圭一くぅううぅ〜ん!! 早くぅうぅ!!!」
「詩音、お前が先に下りろ!!」
「………詩音さん。」
「んで、圭ちゃんに譲って私だけ生き残ったら。私ゃお姉に一生恨まれますって。/
……私の想い人はもういないけど、お姉にはいるもん。」
「……………は?! お前、この忙しい時に何の、」
「死ぬ気はないけど“詩音”に伝えて。……私たち、また次の時も双子がいいね!! 行けぇえええッ!!!」
詩音は、有無を言わせない意味でこれ以上はない真剣な叫びで、俺に降りるように促す。
何で詩音が「詩音」に伝えてと言ったのかわからない。
……でも、伝えろと言われたから、俺は伝えなきゃならない…。
じゃなかったら、
その時、空間が破裂した。
拷問室の扉から何かが投げ入れられ、それが破裂する音と、葛西さんの機関銃が火を噴く音。
それらがこの洞窟内で反響してものすごい音になった…。
俺は、その壮絶な明滅する光の連続写真を、目に焼き付けて…、……自分が何の役にも立てない無力さに涙を我慢できなくなりながら、……梯子を降りて行くしかない。
下で魅音が早くと金切り声を上げる。俺も降りながら上に早くと金切り声を上げる。
「鶯1!! 攻撃を受けた!!敵は拷問室奥の大空洞内で阻止線を展開。マズルフラッシュは2、おそらくAKだ。」
「集弾がうまいぞ、プロだ。鳳1、指示を乞う。」
「へっへへへはははははははは!! そう来なくっちゃな。相手はプロだぞ。キリングハウスの卒業生以外は突入するな。鶯1、2、鳳7、8、突入準備。火器はいくつある?」
「MP5が4、各種グレネード多数。防弾楯は突撃銃には信用できない、放棄する。」
「入ってのすぐ脇に発光した懐中電灯が落ちている。おそらく向こうは暗視装備がないものと推定。」
「鶯1だ。突入は俺たちでやる。合図と同時にスタングレネードを放り込み突入散開。」
相手が息を潜めた隙に、葛西は弾倉を変える。
「詩音さん、もう充分です。行ってください。」
「私が抜けたら葛西が弾倉を変えてる間に誰が弾幕張るんです。ツーマンセルが基本でしょ!」
詩音の発言には矛盾があった。その論法では、最後に残った2人はいつまで経っても脱出できないのだから。
横穴では魅音が身を乗り出し大声を上げ続けていた。
「詩音の馬鹿ぁああぁ!!! 早く降りてぇえぇえ!!!」
本当はこの場に留まり続けるのは危険なことだと誰もがわかっていた。
…でも、叫び続ける魅音を制止することなど、誰もできない。
「……俺と魅音はここで詩音を待つ。レナはみんなを連れて裏山に逃げてくれ。」
「わ、……わかった。」
「……嫌よ。誰が欠けても嫌。」
「梨花……。」
「……これが、最期の世界なのよ!! ここでひとつ後悔が残ったからもう一度やり直そうというのはもうないッ!! 私は嫌よ、詩音が死んだり葛西が死んだりする未来はごめんよ!! もうやり直せないって知ってるから、嫌よいやいや絶対いやッ!! だから詩音ッ、早く降りてきてええええぇえぇえぇぇッ!!!」
俺たちが見上げた井戸の上が、再び凄まじい轟音に包まれ、激しく明滅した。
それから、耳をつんざくような破裂音。
詩音たちとは違う銃の音。チリンチリンとばら撒かれるのは薬莢の音なのか。
それらは全て俺たちの目には映らない。俺たちに見えるのは明滅と、音だけ。
それが終わった時…。
わずかの静寂を挟んだ後、詩音たちとはまったく違う足音が残響しながら増え、そしてその音は詩音たちがいるはずのところへ響き渡った。
硬い靴が、薬莢をチリンチリンと弾きながら歩くのがわかる…。
「……クリア。鶯1より鳳1、銃眼を制圧。」
その声は、井戸に響きながら、魅音たちの耳にも届いた……。
井戸の上から強力なビームライトが照らされる。
入江が魅音と圭一の襟首を引っ張って引っ込めた。
だが、向こうは暗闇でも見えているのだ。
この横穴に潜んでいることなどすぐバレる。
「…………了解。試みる。………………聞こえるか! 返事をしなくてもいい、聞け!」
井戸の上の男は、潜む彼らに言った。
「女王感染者、古手梨花と、診療所長、入江京介を引き渡せ!! 君たちは誤解している。我々は特別な風土病を撲滅するためにやって来た。今回の件は、所長がある陰謀に加担している可能性があるためだ。君たちには何の関係もない。大人しく、両名を引き渡せッ!!」
向こうに気取られないよう灯りを消したから、誰がどんな表情をしてるのかわからないけれど、……魅音の表情がくしゃりと歪んだのを感じた。
だから、魅音が叫んだとしてもそれは誰にも止められなかった。
「人殺しッ!!! よくも、……よくも詩音をッ!!!」
「この少女のことか。それが問題ならば安心しろ。生きている。気絶してるだけだ。」
「……生きてる、生きてるってよ魅ぃちゃん!」
この状況下で生きていることが何の解決にもならないことを魅音は知っているから、そんな言葉では安堵しない。
「こっちの男も同じだ。生きてる。だが、両名の引渡しを無駄に拒むなら、この2人を交渉に使わねばならないぞ。」
「な、何をする気ッ?!」
魅音が何も見えるはずのない暗闇を見上げると、……井戸の上がぱっと明るくなり、信じられない光景が飛び込んできた。
それは、……ぐったりとうな垂れた詩音が、後襟を捕まれた状態で、……井戸の淵から突き出されているのだ。
襟を掴んでいる男が手を離せば、詩音はすぐにでも井戸を落ちていくだろう。
……底までどれだけあるかもわからない。無事で済むわけがない!
「し、………詩音ッ!!!」
詩音は答えなかったが、確かにわずかに動いた気がした。
生きているのだ。……今はまだ。
「……は、……はったりだ。落とすわけねぇ…。」
「はあッ?! 何を根拠に言ってんのッ?! 人質ってのはね、2人以上いる時に限り、いくらでも殺せるんだよ!! 上には詩音と葛西さんがいる。ヤツは詩音を突き落として、もう一度こっちに同じ選択を迫れるんだよ!! はったりなんかで言ってんじゃないよぉおお!!!」
魅音が圭一に猛然と食って掛かる。
圭一は軽率な言葉を悔いるしかなかった。
「考える時間が必要なら与える。ただし60秒経過したら最初の人質を突き落とす。よく考えて素早く決断しろ!!」
「………どどどどど、どうしよう、どうしようッ!!!」
魅音が半狂乱になりながら声を張り上げる。
「……敵の狙いは私です。梨花さんはすでに脱出に成功してしまっているということにして、私だけが行きましょう。それで多分、許してもらえるはずです。」
その提案は一見、被害を最小限に食い止める最善策に聞こえたが、……レナが静かに言った。
「…………駄目。詩ぃちゃんたちが、私たちを逃げ出す時間を稼いでくれたんだもん。……監督が行ったら、何のために詩ぃちゃんたちががんばってくれたか、わかんなくなっちゃう。」
「じゃあ何ッ?! 詩音に死ねって言うの?! レナあんた詩音が死んでもいいって言うのッ?! あああああんたね、詩音はああああああッ!!!」
「やめてくださいまし魅音さん…!!! 私だって、……私だって胸が張り裂けそうなんですのよ……。だって、……詩音さんは、……私の、ねーねーなのに………!!」
「……ぅううぅああぁああああ、詩音、…詩音んんん…!!」
魅音は沙都子の頭を抱えるように抱き、すすり泣き続けた。
山狗たちが照らすビームライトの光がわずかに横穴に入り込んでくる。
……闇に目がなれ、そのわずかな光でもみんなの様子がわかるようになってきた。
……でも、わかったから、…何だというのか。
事態は絶望的で、すすり泣く魅音と沙都子。
下唇を噛んで何かの感情に耐えているレナ。
俯く監督。
………そして、……そわそわとしている梨花ちゃんと、羽入。
「…………………どうすればいいの、羽入…。どうすればいいのかわからない…。」
「……僕にもどうすればいいかわかりませんです。」
「あんた神さまでしょ? 何とかしてよ…、何とかしてよ…!! 神通力とかで敵をやっつけて、詩音を助けてよ!! 奇跡でも起こらなきゃ救えない!! なら起こしてよ、神様のあなたが起こしてよ!!!」
ぱちん。
妙な音がした。……誰もが驚く。羽入が梨花の頬を平手で打ったからだ。
「梨花。聞きなさい。」
「…………………羽入………?」
「私たちは共に数多の世界を渡り、人の身では知り得ないことを、いくつも知ってきました。ある時はあなたが教えられ、ある時は私が教えられ。いくつもの大切なことを学び、ようやくこの世界でもっとも大切なことを学び取りました。私たちが求めて止まず、そしてようやく得たもの。…それが何かわかりますか。」
「………………………。」
……それは奇跡の起こし方。
奇跡は人の世に起こるサイコロの目の1つ。
結果に一喜一憂する人間の身には天の気まぐれとしか映らない。
奇跡は神の手にある。それを操る資格は人にない。
でも、資格はなくとも、人は悟る。
如何にすればサイコロの目がよくなるか、如何にすれば、奇跡が起こるか。
「……………奇跡の、起こし方。」
「梨花。あなたはもう知っているはずです。私よりも先に知ったはずです。………あなたが本当に大事にしたい、この最期の世界で、………知りつつ、そのやり方を試さないのですか…?」
「………………あ………。」
梨花の口が、ぽかんと開く…。
…そっか。………奇跡の起こし方、………また忘れていた…。
「……みんなは、逃げてください。」
梨花は立ち上がるとみんなに言った。みんなが驚く。
「入江。みんなを頼みますです。出て行くのは僕だけで充分です。……鷹野は入江もボクも殺すでしょうが、
「じょ、冗談じゃねぇ…、でも必ず殺されるってことじゃねぇか!!」
「ボクが出て行かなければ、今すぐ詩ぃたちは殺されます。なら、ボクが捕まっても、ボクが殺されるまでの時間は、きっと反撃のチャンスにもなりますです。」
「……り、…………梨花…ちゃん…。」
「考えてみたら、とっても簡単なことだったのです。」
梨花はそう言いながら横穴を出て梯子に手をかける。……その姿にビームライトが何本も当てられた。
その姿は、………この暗闇の世界では、…………天の啓示を受けたような神々しさを感じさせる。
「だって。……ボクたちは絶対に勝てるって、みんな信じてるから。ボクもみんなも、そして神さままでも信じてるから、…こんなのピンチでも何でもないのです。にぱ〜☆」
梨花ちゃんのその微笑は、
自分が殺される前に必ず助けに来てくれる。
なら、今、自分が出て行くのは大した問題じゃない。
それで詩音たちの命が助けられるなら安い取引だ。……そう言っているのだ。
「………………今、上がります。詩ぃを引っ込めるのですよ。」
上の山狗たちはその取引に応じ、詩音の体を井戸の淵からどけた。
「ボクの仲間に指一本触れてみろ。舌を噛んで死んでやりますです。……鷹野は自分の手でボクを殺したがってますから、お前たちは困ったことになりますですよ。」
「………………わかった。上がって来い。」
「ボクの仲間をこのまま見逃すのです。どうせ、お前たちの計画でやがては全員死ぬのです。」
「…………その条件は飲めない。命は保証するが拘束する。」
「じゃあお気の毒さようなら。舌を噛むよりここで手を離した方が早いわね。この底は深いわよ。………私の死体が出てこないと、それもまたお前たちの計画に困るんじゃない?」
「………………………………………。」
この時、上の山狗たちは、梨花の確保以外は生死を問わないつもりだった。
梨花だけ捕まえれば、あとは抵抗があるなら即座に射殺するくらいのつもりでいた。
だから梨花の条件など飲めない。
……でも、梨花をこの場だけ騙すために嘘をついてもいいか。………そんなことを考えた時。
………羽入が、透き通るような。…それでいて響き渡るような不思議な不思議な声色で、言った。
それは、地の底から聞こえるようでもあり、天から岩の天井を染みて聞こえてくるようでもあり。
羽入は、言った。
「…この私が取引に応じると言っている。ぐずぐず言わずに言う通りにせよ、下郎。」
「…………………………………!」
「古手梨花は上がる。それに対し求めた小さな約束を履行せよ。天は、自ら与えぬ者に与えることはない。人の身に過ぎた考えは不要。身に過ぎた偽りの罪に身の程を知れ。」
「……………………………。」
降伏勧告をしていた隊員、鶯1はさっきから奇妙な感覚に囚われていた。
…こちらが有利な立場で勧告しているはずなのに、
でも、少女の声には、………何だろう。
…人の身では決して醸し出すことができない、何かの神々しさが宿っていて、……それを男は本能で感じ取った。
……………人は人としか交渉できない。……人以上の存在とは交渉してはいけないのだ……。
「ま、…………………待て……。隊長に相談する。そのままで待て。………う、鶯1より鳳1……。」
先ほどまで脅迫めいたことを言っていた男はすっかりうろたえてしまっているようだった。
……俺たちは、梨花ちゃんと、…羽入の不思議な存在感に呆然とするしかない。
レナが涙を噛み締めならが、呟く。
「…………貴様らの条件を飲もう。この場は見逃す。古手梨花は上がれ。鷹野三佐がお前に用があると言っている。」
「では、行ってきますですよ。にぱ〜☆」
「探しましたんね、梨花さん。あなたは大事な身なんですから、急に姿を消されちゃたまりませんね。……こいつぁ、ルール違反ですん。」
「……み〜。」
「では梨花さんは診療所に来てもらいましょう。お前たちは行け。」
梨花を連行してきた突入班たちは再びぞろぞろと地下の方へ戻っていく。
……ルール違反なのはこっちもだ。
「……や、約束を、…破る気ね…。」
「約束? そりゃ何の話ですんね。へっへへへへへへへへへへ。」
「…………………くッ、」
「おおっとぉ!! すったらん、本当に舌を噛まれちゃかないませんわ。…おい!!」
駆け出そうとした梨花の細い腕を小此木が掴む。
抵抗するがこの力強い握力の前には何の意味もない。
隊員のひとりが、ケースから注射器を取り出す。
……命を脅かすものではないだろうが、梨花を昏睡させてしまうようなものには違いない。
鷹野にとって重要なのは生きた女王感染者であって、喋る古手梨花ではない。
……ここで注射をされたら、
「ん、んんんんんんんんんんッ!!!」
梨花が悲鳴をあげようとするより早く、別の隊員が後から梨花の口を押さえた。
「んんんんんんん!!! んんんんんんんん!!!」
「さっさと注射しろぃ。」
小此木が合図すると注射器を構えた男が梨花の腕に迫る。
後から捕まれて口まで塞がれ、梨花にできる身体的抵抗はあらゆる手段を失った。
……信じてる。……………私が例え眠らされても、
きっと私は目を醒まさせてもらえる。
……そして、目を開いて最初に目にするのは私の愛しい仲間たちなんだ………!!!
「………………………ぇ?」
…他の隊員たちは、その不思議な光景を見た。
注射器を持った男が、空中をぐるんと二回転以上回ってから、地面に落ちる。/
小此木も含めて、……この重力法則を無視した突然の現象が理解できない。……それは梨花もだ。
梨花を後から掴んでいた男が言った…。
;「…………間に合った………。」
;
その声は、後悔と苦渋を知る者にしか出せない重みがある。
「……数え切れない世界で後悔した。…いつも、気付くときには手遅れだった…。」
「お、
隊員たちが、梨花と、…梨花を後から掴んでいる男から、後ずさる…!
山狗にはいくつも班があるから、別の班のヤツの顔までは詳しくない。
……いくつもの班が入り乱れていたから、…気にしなかった。
山狗の隊員は戦闘職でなくてもある程度の体格はある。
…それでも立派な体格だと思っていた。
小此木も、こんなヤツうちの隊員にいたっけ?
鳳に引き抜こうかななんて思っていた……。……でも、
「………私が、ずっとずっと、
「……あ、
;「梨花ちゃん、君を助けに来た……!!」
「「や、野郎ぉおおぉおおぉッ!!!」」/
梨花を抱きしめていた手がやさしくその肩を離れる。
………手が離れる時はやさしく。
……そして、やさしさは残像を引くように怒りに代わり、背後から飛び掛った二人の顔面を裏拳で粉砕する…!!!
打たれた二人は確かに宙に浮いた…!!
しかも背後から襲い掛かる二人を振り返りもせずにだッ?!
「……………ッ!!!」
その場にいた山狗たち5人が赤坂を取り囲む。だが、赤坂の眼中に5人はない。……ただただ、ようやく辿り着けた後悔の時への感慨しかない。
……だが5人は感じていた。
…眼中にないのは、
「な、……何をぼさっとしてるん!!/
制圧しろッ!!!」
小此木の声が合図で5人の山狗が一斉に飛び掛るッ!!
梨花が頭を抱えて地面に伏せると、……………そこに残ったのは、…ひとりの少女との5年ぶりの約束を守るために返ってきた、1人の男だけだった。
……だが、この男の約束は、5年などという浅い月日では培えぬ重みがある。
…梨花は知っていた。…そして男も、言葉に出来ない何かで理解していた。
これは、……百年にも勝る約束の誓い。
足して百年間。
あの日この場所にいたなら少女を陰謀から救えたのにと後悔し続け、この日に帰ることができる奇跡をひたすらに信じて我が身を鍛え続けた。
そして、男の強い意思が、そして奇跡を待つ少女の想いが、奇跡を起こす!!
…一度しか起こらぬ奇跡が男を、昭和58年6月の雛見沢に間に合わせたッ!!!
最初の男は小此木が最初の瞬きをするのと同時に撃沈される。組み伏せようという低い姿勢が命取りだったのだ。そんな甘えた隙を見逃すほど、この男は甘くないッ!!
男の後頭部に打ち込まれる手刀は、演舞で氷柱を叩き割り、何枚も重ね合わせた瓦を粉微塵にする威力がある。……でも、そんな普段でも赤坂は怪我をしないために手加減していた。
; その手加減を赤坂は初弾からやめるッ!!!
; だから一撃で撃沈するッ!!!/
; 地面に叩きつけられ跳ね返って宙に浮くくらいに!!
鍛え上げられた無敵の拳が、小此木の次の瞬き、その次の瞬きの間に次々と山狗たちに叩き込まれていく。……いずれも、一打必殺。それこそが空手の真髄の体現ッ!!
その威力を男の同僚たちはこう呼び、讃え、恐れた!!
; その威力はまさに、徹甲弾ッ!!!
いかなる装甲も意味を成さない。
いかなる悪がいかなる非道で身を固めようとも赤坂の前にそれは装甲の意味を成さないのだ。
…だが、彼らがそれを理解するには赤坂はあまりに強過ぎたッ!!!
人が、視界に入りきらない巨人を見上げるために上を向かねばならないように。でも赤坂は、悪党どもにその時間すら与えないのだからッ!!
山狗の誰かがインカムで応援を呼んだらしい。10人以上の山狗が戻って来る!
「……大丈夫だ。梨花ちゃん。私がここにいる限り、君には指一本触れさせないッ!!」
「……み〜☆ ボクはお絵描きして待ってますです。」
地面に伏せた梨花は木の棒で地面に何からくがきをする余裕を見せていた。
…その挑発的な態度に小此木は怒りに我を忘れそうになったが、すぐに冷静さを取り戻した。
そして、……小此木は自分の血の中に眠る戦闘職の直感で悟った。
…人数の問題じゃねぇ。このバケモノに、技術屋混じりの山狗程度が束になって掛ってもかなうもんか。
……唯一かないそうな戦闘職は全員、地下じゃねぇか。無理だぜ無理無理、かないっこねぇ…。
「………へっへへへへはははははははは。ってことはよう、……戦闘職の俺しか勝負にならねぇってことじゃねぇか。/
………それに、…お前の顔、思い出したぜ。…こいつぁ懐かしい顔だ。逞しくなったじゃねぇか。」
「…………………………貴様、
「へっへへへ。標準語じゃ思い出せねぇか? なら訛りで話してやるぜ。…すったらんなっつかしかぁ! あん時の青二才がよくもここまで立派になったもんよ!」
それは5年ぶりの再会。
……大臣の孫の誘拐事件の時、対決した。…だがあの時の赤坂はあまりに未熟だった…!
「あん時は手加減せぇん指示だったん、サービスもしたらった。……だがな、今日はそういうわけにはいかんね。……へっへっへ、あの樽男も助けに来ねぇぞ!」
「………………………………。」
「しかし、…この5年でだいぶ鍛えよったんなぁ…。俺は嬉しいんね。……俺はこういうのを期待しとったんよ、…この5年間なッ! お前らは手を出すな、俺の獲物だッ!!!」
小此木はインカムやごちゃごちゃした装備など邪魔になるものを取り外して捨てると、胸元のボタンを1つだけ外して、半身に構えた。
赤坂はそれを見て多少できるのかと警戒し目を細める…。
小此木はそれを見て屈辱だと思った。
…赤坂は思っている。「多少」できるのかと、その程度に見ている。
その態度はつまり、自分も他のザコと同じ扱いだと言っているも同じだったからだ!!
赤坂は梨花を巻き込まないために、初めて動き、構えを取った。
……思えば、さっきから、梨花の背中にいた時のまま、ほとんどその場から足も動かしていなかったのだ…!
小此木は赤坂の空手の実力を相当に高く評価した。
だが同時にさばきやすいタイプだとも思った。
現代の空手は武術ではあってもしょせんスポーツだ。
自分が培ってきた軍隊格闘とはまったくの別物!
確かに相当の研鑽を重ねたようだが、所詮はお遊戯。動きも全て型に過ぎん。
…それに空手の動きは直線的。空手屋潰しの戦い方だって充分理解している!!
小此木は爪先を使った細かいフットワークを使い始める。
対する赤坂は半身の構えのまま動かない。
…まるで、小此木のそのフットワークが小細工の域を出ないかのような態度。……それが小此木の怒りに火をつける!!
猛然と、だけれども波間を縫うような軽やかな動きは、なるほど先ほどまでの赤坂の愚直な直線の動きとは異なる!!
赤坂は悠然と構える。だが小此木はそれをこう見た!
こちらの動きに対応できないので、肉を切らせて骨を絶つ気だろうと読んだッ!!
「うぅぅううぉおおおおおおぉおお!!!」
赤坂の顔面を狙う鋭く素早い拳を赤坂は防げず顔面で受けるしかなかった。
もちろんそれは素早さだけしかない軽いものだったが、目的は赤坂の目を打ち、一瞬の隙を得ることだった。
動物的本能でガードが上へ上がるのはわかってる! 本命はその浮いたガードの下、下腹に足刀をぶっ込んでやることだッ!!!
もちろん赤坂のガードが間に合うはずもない! その攻撃は動体視力でどうにかなるものではない。日々、鍛錬を重ねた小此木だけが会得できた速度と技なのだ…!!
並みの人間ならその蹴りでゲロをはいてのたうち回る。素人なら内臓破裂ってとこだ!! まともに受けたにせよ膝をつかないだけ赤坂は大した鍛え方のようだった…。
「へっへへっへへへへ!! どうした空手屋! 相手も同じ流派じゃないと戦えないってのか、え?!」
「………………………………。」
「………何?」
赤坂が一言呟いたが、聞こえなかった。
…いや、聞こえていた。
……でも、こんな状況下でその言葉を言い返されるなんて、小此木にはまったく想像がつかなかったから、
;「…………………………軽い。」
「な…………んだとぉ……?」
「…………貴様の一撃は、相手を打ち倒すことしか考えていない。…だから、重さが宿らない。」
「はぁ……?! な、何を馬鹿なこと言ってやがる…?!」
「………空手は心を養う。人を打つ、ということは自らも打たれることを知る、ということだ。自らの一撃が相手に何を及ぼすか、どれだけの痛みや悲しみを与えるかを知った時。……人は打つ意味と、打たれるということを知るのだ。………だから、それに至らない貴様の一撃には重みが宿らない。」
「それは……俺が未熟だと言うことかぁあああぁああぁッ!!!」
再び襲い掛かる小此木だが、今度は赤坂の様子が違うッ!!/
小此木の拳が脚が、赤坂にさばかれる、防がれる!! もちろん小此木が一方的に打ち込んでるだけじゃない。赤坂のさばきに次第に容赦がなくなる。さばくのではなく、小此木の攻撃する手や脚が打たれるようになるッ!!
小此木はヤバイ相手だと直感した。
……こいつ、ただのお巡りじゃなかったっけ? この動きはヤバイ。この容赦のなさはヤバイ! 訓練の量、そして実戦の数が桁違いだッ!!!
しかも、………待てよその馬鹿みてえにダイナミックな踵落しは空手じゃねぇだろッ!!! 紙一重で頭部への直撃をかわすが、チリリと髪の毛が削られた感触がした。
「て、………てめぇ、空手以外にもやってやがるなッ?!」
「いいや。私は空手しかやっていない。」
「う、うそつくんじゃねぇ…! さっきから明らかに空手じゃ見たことねぇ技が目立つぞ!!」
小此木の焦りが募っていく…。
彼がスポーツ武道を馬鹿にするのは、彼らがみんながみんな石頭で、決められた型しか使わないからだ。
空手ならこういう突き。ボクシングならこういうパンチ。柔道ならこういう投げ。
だからあっさり読める、さばける、そして勝てる!
だがこの目の前の男は、空手しかやってないというのに、…そして空手を極めかねないくらい稽古を積んでやがる石頭の空手バカなのに、……型に囚われねぇ柔軟さを持ってやがるッ!!!
それは、精神の会得。
武道の心は形じゃない。
それを得るための道として型を通るだけだ。
………ゆえに達した者に型はない。あるのは達観した精神ッ!!
「……………貴様の未熟さには落胆した。」
「………く、…くそぉおぉおぉ…!!」
赤坂が、……初めて歩く。前へ。小此木との間合いを自らの意思で詰める!!
赤坂の踏み込みにより、赤坂を半径とした、…いわゆる攻撃可能圏がぞわりと小此木に迫る。
……その範囲に入ることは、即ち「死」だッ!!
小此木はそれに合わせて後ずさる…。
これは極めて冷静に間合いを読んだ結果だ…。決してビビって下がってるわけじゃない…!
「…………人を打つ意味のわからない貴様に、本当の重さと言うものを教えてやるッ!!」
「くぅううぅ……!! ………ぅ?」
後ずさった小此木の足が、彼らが乗ってきたワゴン車にぶつかる。……そう、完全に追い詰められたのだ…!!
壁を背にするのは不利なことではないが、背中を密着させてしまうほどではかえって不利になる…。
なら、もう一歩の踏み込みを許せば、自分は有効な迎撃体制も取れなくなってしまうということだ…!!
小此木は即断する。……赤坂が次の一歩を踏み出す瞬間だけが最後のチャンスだ!!
「くたばりやがれぇえええぇええぇええッ!!」
それは、小細工無しの腰を低く構えた渾身の一撃ッ!!
正面から向ってくる赤坂の胸骨を砕き心臓すらも破裂させてしまおうという悪意ある渾身の一撃ッ!!!
;「俺が山狗の小此木だぁああぁあああぁああぁ!!」
;「そりゃよかったな。給料いくらだ。」
「ううぉおおおおおおおおおおおおおッ!!!」/
その場に居合わせていた山狗たちは、音を、聞いた。
……それは人と人が戦う音じゃない。……そうあれは、えぇと、
小此木の渾身の一撃は………、
そこにあるのは、車のスライドドアの淵。…両側のガラスが割れて砕け散り、フレームが、まるで車にでも突っ込まれたように歪み、…………反対側の窓ガラスまで砕け散るなんて、
凍った時間がガラスごとブチ破られ、小此木は食らったわけでもないのに膝をついて倒れる!
赤坂が外したわけではなかった。
渾身の一撃のあまりのパワーを赤坂もまだまだコントロールできていなかったということだ。
……小此木は赤坂に感謝した方がいい。
…もし赤坂の稽古が、さらにさらに深かったなら、……今頃、小此木の顔面は砕け散っていたかもしれないッ!!!
だが、顔面には当たらなくても、その、当たれば砕いた一撃は、小此木の心を打ち砕いた。
「……赤坂〜、ぱちぱちぱちぱち!」
梨花がぱちぱちと拍手を送る。
だが緊迫したこの状況下ではそれは拍手に聞こえない。…まるで、火薬のような赤坂の闘志が爆ぜているように聞こえる…!
赤坂は砲弾のように打ち込まれた拳を引き抜き、…悠然と振り返り言う。
「……次だ。面倒だから一度に来い。」
「「「……………ッッ!!!!!」」」
あぁもう誰も間違わない。
小此木でなくても全員にわかる。この男に素手で挑んで勝てるわけがない!!
こいつを倒すには銃がいる、武器がいる!! 応援がいる、地下にいるはずの戦闘職の応援がいる!!
その時、突然慌しくなる。
地下に行っていた山狗たちがわらわらと戻ってきたのだ。
「地上での発砲は許可されていない、繰り返す地上での発砲は不可!!」
「鳳1、Rを回収して退却許可を!!」
だが、赤坂の戦いを真正面で見ていた山狗たちは、自分たちが逃げる番になったことに気付くと、もう梨花のことなど構っていられない。
あれだけの恐ろしさを見せ付けられて、なおもこの男に立ち向かって梨花をさらおうなどという勇者がどこに?!
小此木も正気に戻ると、ワゴン車に逃げ戻る山狗たちに混じり車に飛び込んだ。
赤坂と戦うため、インカムを外していたため、地下の状況がまったく耳に入っていなかったのだ。
あの後、梨花との約束を無視して部活メンバーへの掃討が行なわれるはずだった。
だが、赤坂が現れ地下と地上に兵力が分散したため、状況が変わった。
じっと伏してチャンスを待っていた葛西が反撃に転じ、どうやってあの井戸の底から這い上がったのかわからないが、その隙をついて部活メンバーが反撃に転じたというのだ。
山狗たちは地上では発砲の許可が出ないため、銃を持って地上に出た葛西たちに発砲させるのは事態を悪化させると判断。
…連絡の付かない小此木に代わって鶯1が退却を指示したのである。
………誰に責任があるかと言えば、赤坂と一騎打ちしようなどとしゃれ込んでインカムを外し指揮官の仕事を一時的に放棄した小此木にあるに違いない。
でもそうしたのは赤坂が現れてくれたからで、小此木の失態によるというよりは、赤坂の功績と言う方が妥当だろう。全てが奇跡的タイミングだった…。
ただ、これで山狗たちが尻尾を巻いて逃げ出したわけではない。
流れが悪くなったので一度引き上げただけだ。
……いや、今度は充分な武装と人数で、殺す気で襲ってくるだろう。
そして、それは間髪を置かずに実行されるだろう。一息をついている暇はない。
「……梨花。無事でよかったのです。」
「……………何とかね。奇跡のおかげで。」
「奇跡じゃありませんです。みんなで力を合わせたから、みんなの内の1人の赤坂が助けに来てくれただけのことなのですよ。あぅあぅ。」
「…………そうね。この程度で奇跡じゃ、…もったいないわね。」
「さぁ、今度はこっちが打って出る番なのです!」
;■救出作戦
地下では部活メンバーたちが、盛大な反撃戦の自分の戦果を誇りあっていた。
梨花は彼らが誇りあう大反撃に加われなかったのが残念だったが、…それよりももっともっと嬉しい言葉を赤坂にもらえたので、それでいいことにした。
梨花により赤坂の大活躍がみんなに伝えられ、赤坂は今さらのように照れるのだった。
葛西さんはほとんど問題ないようだったが、詩音には少々ダメージがあったらしい。
もちろん命に別状はないのだが、至近で爆発があったためか、左の耳がよく聞こえないという。
魅音が試しに左側にまわって、ばーかばーかと悪口を言ってみるが、ちゃんと聞こえているようだった。
…右の耳で聞いている可能性もあるだろうが。
詩音は拷問室の畳で横になり、今、監督が様子を見てくれているところだ。
魅音はずっと心配そうだったが、詩音に自分の心配はいいから今後の作戦を!と追い出され、戻ってきた。
人が心配してるのに〜と悪態付きで。
俺たちは、診療所の富竹さんをどうやって救出するか、相談しなくてはならないのだ。
ここには、赤坂さんと葛西さんという、荒事に非常になれた頼れる大人が2人もいる。
そして誰も知らない、診療所の地下区画について詳細に説明できる監督もいる。
すぐに動き出さなければならないが、最低限の作戦方針は必要だ。
時計を見れば、もうじき午前の10時半だった。
…あれだけの大騒ぎがあったからへとへとになってしまい、もう夕方のような気分だったが、……学校だったらようやく2時間目か3時間目って程度のところなのだ。
こんなんじゃいけない! 気合を入れねぇと!!
入江はペンライトで照らしながら、詩音の左耳を覗いていた。
「耳鼻科の先生でないとわかりませんが、運が悪ければ鼓膜が破れている可能性もあります…。頭痛や眩暈はありますか?」
「いいえ。全然へっちゃらです。」
入江は拷問室の脇にある流しでハンカチを絞ると、煤けて汚れてしまった詩音の顔をやさしく拭いてやった。
「……驚いてます? 雛見沢ファイターズのマネージャーが銃撃戦ができて。」
「……………えぇ、驚いています。……あなたが死ぬ気だったとは。…前原さんに聞きましたよ。」
「……うっわ。ああいう言葉ってその場ではかっこいいけど、生き残っちゃうと滅茶苦茶恥ずかしいですね〜、あはは、やだなぁ!」
“んで、圭ちゃんに譲って私だけ生き残ったら。私ゃお姉に一生恨まれますって。……私の想い人はもういないけど、お姉にはいるもん。”
「……茶化しっこなしです。…あなたの想い人というのは、
「……………さぁ、どうでしょうね〜。……今頃どこにいるやら。…生きてるのか死んでるのかもわかりませんけど。」
「………え。」
入江の即答に、詩音はしばらく思考が止まった。
「北条悟史くんは、生きています。………彼は去年のあの日、
詩音はすでに、魅音たちに現在の状況を聞かされていたから、
「……私は沙都子ちゃんと同じ薬で治療できると思いました。……ですが、沙都子ちゃんが治療できたのは極めて幸運なケースだったようで、…悟史くんの治療は困難を極めました。…そしてその治療は、
「…………悟史くん。……………悟史くん……。…生き、
「……今まで、話せなくてすみません。…悟史くんは地下区画にいます。」
拷問室から詩音と監督が戻ってきた。
詩音の表情が険しい。…いや、戦うための重大な決意を秘めた表情だった…。
その時、俺たちはどうして敵はこの場所がわかったのかという話をしていた。
すると詩音が即答する。
「………入江先生の着衣に、発信機か何かがつけられていることは考えられませんか。先生の私服ではなく、診療所で持たされる物や着せられる物にです。」
「だとすると、……この白衣くらいのものですが…。」
「監督、ちょっとボディチェックします。」
詩音が監督の体を、空港の金属検査みたいな感じで手早く探る。
……すると、後襟の裏側から、ボタンのようなものを見つけた。
学生服のボタンのようなちょっと膨らんだ形のボタンだ。……こんなものを後襟の裏などにつけておく理由がない。
「こいつが発信機でしょ。連中はこいつを信頼してるから直接尾行しなくてもここを突き止められたんです。」
「……やられたわ。となりゃ、このボタンがある限り、陽動作戦が可能になるってことだね。」
「ボタンを持った囮隊が敵を誘き寄せ、その隙に手薄の診療所を襲い富竹さんを助け出す。…それが最善でしょう。」
「をっほっほっほ!! となれば、その囮隊が陽動するには私の裏山が一番でございますわね!」
「そうだな、あそこなら敵を引っ張りまわせるぜ! しかもあれだけの山だからな。敵も相当の手勢を集めるだろ。その分、診療所ががら空きになる!」
「読みきれないのは、どの程度、敵が診療所に残すかだ。……診療所には敵にとっても重要な富竹氏がいる。相応の守備を残すだろう。」
「……となれば、富竹よりおいしいエサを囮と一緒にするのがいいのです。」
「大丈夫ですか、梨花。」
「……はいです。みんなと一緒で沙都子の裏山なら絶対に捕まりませんです。」
「裏山に精通してるのは、この中では部活メンバーだけだね。…囮は部活メンバーが引き受けるといいかもしれない。」
「そうだね。その間に大人部隊は診療所を奇襲。…勝算は大丈夫?!」
「赤坂さんのお目こぼしがあれば。…警察の方と聞いておりますので。」
葛西さんはそう言いながら、これまた手馴れた様子で散弾銃に次々弾を込めている。
「……今はオフですので。」
そう言いながら赤坂さんも、自動拳銃の扱いを確認していた。
…この銃を扱うのは初めてでも、銃そのものは日々訓練している。発砲に当たっての心構えも充分だった。
監督もそれを見習いながら安全装置のいじり方を覚えようとしているが、その手はたどたどしい。
「赤坂さんは機関銃の経験は?」
「ありません。拳銃だけです。」
「では慣れたものがよろしいでしょう。弾倉は充分に。弾詰りに備え同じ銃をもう一丁。」
「葛西さんは、…すごいですね。これはショットガンですか。」
「奇数発目はスラッグ弾です。面制圧も壁抜きもできます。」
「お〜、散弾銃の辰って通り名は聞いてたけど、本当にショットガン使いなんですねー!」
「……散弾銃は恐ろしい武器です。…ですから、相手に当てずとも降伏させることもできます。あと皆さん、防弾ベストがありますので着てください。」
…葛西さんたちの頼もしさを感じる反面、それだけの危険な任務になることも想像させた。
……殴り合いの喧嘩とは違う。
…銃撃戦は、たった一発の偶然で、どんなベテラン兵士も死ぬ。
……だから練度に関係なく常に死の危険が付きまとうのだ。
実際、頼もしいのは葛西さんと赤坂さんだけ。
監督はあまりに危なっかしいので、銃を持たない方がいいと葛西さんが諭していた。
……味方に背中から撃たれたらたまったものではないのだろう。
もう少し人数を割くべきではないかと魅音が提案したが、銃の扱えない人間が来ても足手まといになるし危険だと、断られた。
「なら、私が行くしかないですねぇ? 第一、火力が足りなさ過ぎです。ファイアサポートに私がイングラムでも持ってきましょう。」
「でも詩音、お前、耳、大丈夫なのかよ?!」
「えぇ。もう治っちゃいました。ケロっとね。ご心配かけてすみませんでした。」
「………詩音。今、私が何て言ったか聞いてた?」
「ぇ…?/
………あ、
…それは魅音のはったりだ。魅音は何も言ってない。
…詩音の左耳はまだ調子がよくないのだ。
「…………詩音、危険だよ! 正直に言って、囮に混じるのも危険だと思ってる。詩音はどこかに身を隠してて!」
「………お姉、聞いて。……私、どうしても診療所に行かなければならない用事ができたの。……でも、…それを今話したら沙都子まで来ると言い出す。…それは駄目。こっちは室内戦、向こうも撃ってくる。」
「…………………それって、………………。」
魅音は察した。………詩音がどうしても診療所に行きたいという意味を。
だから、…それ以上を言うのをやめた。
もし自分が詩音だったなら。例え両耳が聞こえなくてもそう言っただろうから。
「き、危険ですわよ詩音さん! 考え直してくださいまし!!」
「沙都子! 詩音は救出隊に回る。沙都子は囮隊のエースなんだよ。自分の仕事に専念して!」
「……詩ぃちゃん。」
「………レナさんならわかるよね? 私が死ぬ気じゃないってこともね!」
「うん。わかってる。…こういう時の女の子ってね、絶対に死なないから。」
「ですよね! 殺されたって死ぬもんか!」
詩音とレナは拳を打ちつけ合うような仕草をする。
「決まったようですね。では、もう動き始めましょうです。」
「……詩ぃ。ボタンをこっちで預かるです。」
「はいこれ。……がんばってね、梨花ちゃま。」
「詩ぃもがんばって。………詩ぃが、強く強く信じてきた奇跡だから、今この瞬間に叶うのです。…だから、きっとこれは、詩ぃのために神さまが微笑んでくれたチャンスなのです。」
「……………信じなかった日もあった気がする。…それを誰かに諭された日もあった気がする。……………信じ続けるって、大変なことだよね。」
「……でもあなたは信じ続けました。信じなかったことを悔い、信じました。だから訪れた今日を、どうか大切に。今日を呼び寄せたあなたの強い意思の前に、…目の前の苦難はもはや苦難ではない。」
「…………あんた、お姉の新しい友達ですか? 名前は知らないけど、ありがとう。…うん、うまく行きそうな気がします。」
「……うまく行きますですよ。オヤシロさまのお墨付きなのです。」
「はははははははは!」
;■鷹野ターン
一度退却した山狗は、体勢を立て直し部隊を再編成。再攻撃の準備を終えていた。
一度はRを確保したにも関わらず取り逃がすという大失態に、鷹野は激怒。
山狗の総力を結集して捕らえるよう命じた。
…そのため、今、診療所には山狗の全ての車両が結集し、攻撃命令は今か今かと待ち構えていた。
激怒していたのは鷹野だけでない。…小此木もだった。
5年前に見下していた新米刑事が、あれほどの成長を見せ、…自分を屈服させるとは……!!
このままでは引き下がれないと、復讐の炎を燃やしていた。
攻撃命令が一度保留されたのは、入江につけている発信機の反応が一度消えたからだ。
これは故障したためでなく、さらに地下に深く潜ったためと判断された。
……彼らは地下に再び戻り、秘密の通路か何かを使いどこかへ逃れるつもりだろう。
だが、そうそう長大な通路のわけはない。必ず地上に現れる。…そこを抑えるつもりだった。
村人たちは祭りの準備に大忙しでまったくこの騒動に気付いていない。
…実はこの頃、すでに山狗によって村の通信網は遮断されていた。
警察への通報等を防ぐためだ。
…町へ通じる唯一の道路にも、こっそり封鎖部隊が配置され、彼らの脱出を厳しく監視していた。
……必ずRたちは地上に現れる。…まさか地下に潜ってやり過ごそうなんて甘えてはいないはずだ。
彼らの生命線である富竹はすでに捕らえてある。
だがまさか、救出にここを襲うという無謀はありえまい。
……なら、徒歩で村を脱出し町を目指すのが妥当だ。
そこで警察なり何なりに応援を頼もうという魂胆だろう。
村の中には偵察班が数台の車両を走らせ、発信機の電波と、あるいは逃走する彼らの姿を見つけようと監視の目を光らせていた…。
今は、待ちなのだ…。戦いは振り出しに戻り、互角になっている……。
「雲雀2より定時連絡。異常なし。」
「……いつまでも息を潜められるわきゃねぇんだ。焦れずに待て、絶対に出やがる…! ……ところでうちのお姫様はどうした。」
「富竹二尉に尋問中です。寝返りを求めているのだと思われます。」
「………こうなっちまったら、穏便に済ませるには監査役を抱きこむ他ねぇからな。/
………生かして捕らえたのはデカかったぜ。へっへへへへ。お姫様はいねぇし、東京からの電話もねぇ。ようやく落ち着いて冷房を浴びられるってもんだな。」
「隊長、東京から無線です。野村さんから三佐宛てでなく、隊長宛てです。」
「…やれやれ、電話が駄目なら無線かよ。さて、東京の女王様がこの期に及んで、俺に何のお話ですかね。…………山狗の小此木です。どうぞ。」
富竹の閉じ込められている部屋は4人も入ったらいっぱいの小会議室だった。
その机の下に富竹は押し込まれていた。
自分の意思では転がることもできないくらいに拘束されたままで。
鷹野はその脇の椅子に座り、前の会議の書き残しのホワイトボードをぼんやり見ていた。
予算縮小に伴い、中止する研究プランについてが箇条書きされている。
…だが、鷹野はそれをぼんやり見ているだけで、別に読んでいるわけではない。
互いに言葉も交わさず、…沈黙だけの会議室だった。
「………………もうすぐ11時ね。…本当に今日は長い日。……あんなにも早朝に起こされてから、まだ半日も経たないのね。」
「……………………………。」
富竹は応えなかった。
「……………ジロウさん。……今からでも、私に協力してはくださらない…?」
「………………………。」
「…………山狗なんかいらない。……あなたさえいてくれればいいわ。…山狗には、私の心を慰めることなんかできない。…………あなたの、一見無神経な心遣いでしか、慰められないって、…この数日でわかったわ。………ジロウさんは、…わかってて私に無神経に接してくれたのよね。…………変に同情しても、何の役にも立たないなら、
「…………………………。」
「……鷹野三等陸佐として話してるんじゃない。……鷹野三四としてジロウさんに話してるの。……それでも、返事をしてはくれないの…?」
「………捕虜は、名前と階級と認識番号しか喋っちゃいけないことになってるんでね。」
鷹野は、しゅんとして俯く…。
「……………その手錠の鍵、持ってないの。ごめんなさい。」
「……いいよ。それを求めたわけじゃないさ。」
「…コーヒー、
「遠慮するよ。……この状態でトイレの世話になりたくないからね。」
それだけのやり取りだけど、…鷹野は富竹が言葉を返してくれたのが嬉しかった。
でも、…だからといって、何の解決にもなりはしない…。
「……僕を殺すしかないなら、それも構わないさ。捕らえられた時に、すでにその覚悟はできてる。」
「……………………そうね。…私も、ジロウさんを今夜、殺すつもりだったから。…あなたにその覚悟があって嬉しいわ。」
「……ならよかったよ。この覚悟が無駄にならなくて済む。」
「…………………ねぇ、
「…………上は、
「知らないわ。……私と接触するエージェントは野村と名乗ってるけど、どうせ本名じゃない。私も素性はよく知らないわ。」
「………でも、手を組む相手に足ると思う程度には話をしたんだろ?」
「数度ね、おしゃべりをしただけよ。…………今にして思うと、私を利用したいという魂胆が見え見えだった。…でも、
「…………わかるよ。……君に、…誰かの助けが必要な時期があったことは知っている。」
「……………………………………。」
「……その時、
「………………そうね。……そこにいたのがジロウさんだったら、…どんなによかったことか。」
「…………………………まだ、
「………これから殺すわ。」
「東京には、君の黒幕もいればそれと対立する黒幕もいるが、…ほとんどの上層部は今回の件をうやむやにして終わらせたいと思っているはずだ。………鷹野さんはもう全てが手遅れだと思っているだろうけど、…まだ何とかなるんだ。まだ、取り返しがつく。なかったことにできる。」
「……そうして、
「……………………鷹野さん。……君は、何がどうなれば満足だったんだい…?」
富竹のその問いに、…鷹野はわずかの間、目を閉じて考える。
踏みにじられ穢された祖父の論文。
………それを、彼らよりはるかに権威的立場の人間の手に取らせ、真顔で読ませたかった。
……野村は、それをかなえてくれる。
…終末作戦が始まれば、この国のトップたちに祖父の論文が突きつけられ、トップはその内容を信じ、それに基づいて緊急マニュアルを決裁する。
……そうすることで取り返しのつかない惨事が起こる。
…だがそれは同時に、惨事という消せない印鑑で、…この国が祖父の論文を認めたことを記すものでもあるのだ。
「………それで、君は満足なんだね…?」
「…………えぇ。満足よ。………それが、
「…前に聞いたね。………なら、君は、この作戦が終わったら、消えてしまうわけだね。……鷹野三四の目的は達せられ、地上からなくなり、
鷹野は…ずいぶん懐かしい名前が、よりにもよってこんな時に出て来るとはと、…目を薄く瞑る。
「…………そうね。……私はもうすぐ。…田無美代子に、帰るのね。」
「田無美代子という少女は、……両親を失って施設に送られた。…………そして、そこで虐待されて死んだ、
「……えぇ、言ったわ。…………私は、あの日のあの金網の中に戻らなければならない。………ジロウさんは経験ある?」
…………鷹野が話したそれは、
「………もう一度あそこに戻って、…………今度はおじいちゃんに助けられずに死ぬの。……そうすれば、……私はここにいない。……私がいなければ入江機関もなく、
「……………君は、………死ぬ気だね…?」
「……作戦が終わったら色々とご褒美があることになってるけど。………あまり信じてない。………ある日突然、ホームでどんと突き落とされるんじゃないかしら。」
「…………君には、……心を許せる味方はいないのか。」
「クライアントは所詮クライアント。…味方じゃないわね。…………でも、山狗は味方よ。彼らが私の靴を舐めたくなるくらいの金を弾んでやったからね。」
「……でも、心は許せないんだろう…?」
「…………………………………。」
「………味方は味方よ。…あなたを捕らえ、今からRたちも捕らえようとしている。…私の役に立ってくれてるわ。」
「…それは、
「…そうね。…今の私に必要な味方じゃない。」
鷹野はそこで沈黙した。
……………鷹野が漠然と思いながらも言葉にできなかった思いを、富竹がほとんど言葉にしてくれたからだ。
…………富竹が姿を消した日から、ずっと心が落ち着かなかった。
………私は、…認めなければならない。……彼が、
「…………ジロウさん。……山狗は何億円かのお金で転んでくれたわ。……まだ私の手元には1億ちょっと残ってる。…あなたは、いくら払えば転んでくれるの…?」
「……君が一番ほしいものが、いくらで買えるかを、考えてみるといい。」
「…………………こんな時にキザな例えだこと。……お金では買えないって、言わせたいのね。」
「……………諦めるんだ。山狗は飼いならせても、僕は飼いならせない。」
「それを、転ばせたいと言ってるの。……あなたが望むなら、
富竹は何も答えなかった。…それは沈黙という名の肯定ではなく、…鷹野に伝えたいことは全て伝えたという意味の、
「……あなたより毎朝早く起きて、朝食を作るわ。……待ち合わせ場所には必ずあなたより先に来る。……二度とあなたを待たせて試すような真似をしない。…………それでも、
もう富竹は、…何も答えなかった…。
……机の下に伏せる富竹には鷹野の表情は見えない。……でも、…わかる気がした。
だからこそ、……今は不必要な言葉をかける時ではない。
…富竹の今かけられるたったひとつの気遣いだった…。
そこへ内線の呼び出し音が響き渡る。
鷹野は一度鼻をすすると、あ、あー、と発声練習の真似事をしてから受話器を取った。
「…鷹野よ。…………………そう。わかったわ。今すぐ行くわ。」
受話器を置くと鷹野は立ち上がる。
「Rが発見されたわ。入江の発信機の反応も一緒。街道が封鎖されていることを知ってて、山中を徒歩で脱出するつもりのようね。山狩りには手こずりそうだけど、人目がないのは私たちに好都合だわ。………………じゃあね、ジロウさん。……何となく、これがあなたとできた最後のおしゃべりになるような気がする。………最後に、あなたに言葉がもらえなくて残念よ。」
それでも、………富竹は言葉を、返さなかった。
鷹野は駆け出し、部屋を出て行く。……それは、急ぎ戻ろうという仕草とは少しだけ違っていた。
「連中は始め、近くの山中に出現し村中に出たようです。村人に接触して助けを求めようとしたのかもしれませんが、偵察車両の一台が逃走者の一部とRを発見、追跡。一時期、Rと発信機は別行動しましたが、地図の山中で合流しました。」
「……散り散りになったのが合流できたということ?」
「えぇ、連中は逃走路について充分な打ち合わせをしてやがったん、ちゅうことでしょうな。……山の中なら、地の利があると踏んでやがるに違いない…。………ブッシュが深ければ武器の効果は激減する。あの空手野郎の考えそうなことですんね…。」
小此木が、今度は遅れを取らない、さっきは油断しただけだと何度も口にし、悔しがる。
「今度はもう逃がせないわよ。雛見沢でならともかく、興宮に入られたら、もうどうにもならない。」
「えぇ、わかってますん!! 向こうに地の利がある山中とあっちゃ、こちらも躊躇したらアウトですわ、全力投球で行きましょう。全班で包囲、圧殺します。/
聞こえてるな、全班!! こいつはサッカーだ。敵はゴールエリアに侵入してる。ゴールは興宮だ!! 絶対に許すな!! 特にあの空手野郎だ、あいつは許さねぇ、俺の獲物だ。絶対に仕留めてやるッ!!!」
「行くぞ、山狗の総力戦だッ!!! こいつがしくじれば、うちらは詰まれてゲームオーバーだ!!」
「その通りよ! もう後がない。私も出て陣頭指揮を執るわ! ……富竹はここに置いていっても大丈夫?」
「大丈夫ですんね。完全武装の保安隊員が8人もおりますんね。その倍の完全武装兵が来ても凌げます。それよりも問題なのは、あの空手野郎です。ヤツを侮ることはできませんぜ。」
小此木が絶大な信頼を寄せる武装保安隊。彼らは、入江機関の心臓部である研究区画の守備を任されているため、山狗の中でもっとも重武装が許されていた。
彼らへの信頼感と、……小此木の過剰なまでの赤坂敵視が、陽動を完全に成功させる。
だがそれは同時に、囮となる部活メンバーに過剰なまでに兵力が集中したことも示していた。
山狗の白いワゴン車が次々村の中を走り抜けていく。
屋外なので発砲はできないが、射出型のテーサーと呼ばれるスタンガンを全員が携帯していた。
射程距離は極めて短いが、近距離戦で瞬時に標的を制圧できる強力な武器だ。
メモリひとつで、生かすも殺すも自由自在、音もせず、これほど彼らに相応しい武器はない。
ワゴン車は班ごとに分かれていき、部活メンバーが潜む裏山に至る道を進んでいく。
……戦略的に包囲し燻し出そうというのだ。
「隊長、全班、作戦開始位置に到着しました!」
「さすがに展開が早いぜ。三佐、全班にありがたい訓示を頼みます。」
「……鷹野よ。Rだけは生かして捕らえること。他は殺してしまってもかまわないわ!! この山から逃がしては駄目! この山で、今日の戦い全てに決着をつけるのよ!!」
「鶯、雲雀、白鷺、山狩りを開始しろ。鳳はゴールキーパーで予備兵力を務める。緊急展開が可能なように常時待機しろ!」
「鳳7了解。」
「さぁ、おっ始めろッ!!!」
山狗の隊員たちが、数m間隔で横列を作りながら進軍を開始する。
この裏山は普段なら村人も出入りしない未開の山だ。
獣道はあっても人が通るための道など舗装されていない。
水も漏らさぬ山狩りを行なうには、相当の慎重さと丹念さ、そして忍耐が求められた。
隊員たちの顔にも緊張が浮かぶ。
敵のほとんどは子供だと聞かされているが、数名大人が混じり、しかも相当の訓練がされているらしいという。
その上、重火器で武装していると思われ、地の利は向こうとなれば、苦戦は始めから必至だ…。
「……小此木。山狩りってのは普通、どのくらいの人数がいるの?」
「一概にゃ言えませんが、多けりゃ多いほどいいでしょうなぁ。…山狗の人数じゃ全員集めてもまったく足りません。」
「…でも、向こうも少人数なんだからそう不利な条件じゃないでしょう? ほら、よく言うじゃない。守備を崩すには3倍の兵力がいるって。こっちはさらにその倍以上いるんだから。」
「まぁ、数万の兵力の場合ならそういう数式になるでしょうが。…もっとミニマムなゲリラ戦ではそうも行きませんね…。米軍がベトナムでそいつを嫌になるほど証明してますん。」
「……なら、今回の山狩り。小此木はどれだけの兵力がいると見てるの?」
「へっへへへ。何でもありってことでですか?」
「何でもありって意味がわからないけど、どのくらいが適正な兵力なの。」
「今朝の政治的奇襲も含めて、向こうの指揮官は相当優秀です。そして、火器取り扱いのベテランが最低2。近接格闘のベテランが最低1。」
「…そこまでは認めるけど、あとは所詮子供でしょ?」
「…あとは子供のようですが、多分、ここに逃げ込んだからには彼らのテリトリーでしょう。地の利が充分な子供1人はよく訓練された強硬偵察隊1個班に匹敵しますんね。……三佐が考えてますより、相当やっかいな相手ですわ。」
「……そ、…それを制圧するのに、どの程度の兵力が必要だって言うの。」
「山岳歩兵が一個師団。あぁ、師団ってのは山狗が3つ4つくっついて大隊。そいつがさらに3つ4つくっついて連隊。そいつがさらに3つ4つで師団ですんね。」
「………さ、30倍の兵力が必要だと言うの?!」
「もちろんそれだけじゃ足りません。砲兵陣地に要請して山ほどの事前砲撃が必要ですわ。航空支援が得られるなら、ファントムにナパームもバラまかせたいところですんね。」
「冗談じゃないわ、そんな兵力ここにはないわ! ……じゃあそれにはるかに満たない山狗で山狩りをしたら、…どうなるって言うの!!」
「まぁ、楽じゃないでしょうなぁ。へっへへへはははははははは…!」
小此木は不敵そうにけらけら笑う。
…楽ではない、と言っているが、それを成功させるのが自分だ、という自負も感じさせる。
「連中のテリトリーでしょうが、逃げ込んだのはついさっきです。陣地もなけりゃトラップ設置の暇もないはずだ。地の利を活かすにゃ時間が足りないはずです。」
「……………………………。」
その小此木の評価を聞きながら、鷹野は一抹の不安を過ぎらせていた。
……かつて、
裏山には自慢のトラップが山ほど仕掛けてあって、
「雲雀より本部、標的の一部を発見。Rは視認できない。現在追跡中!」
「……人質にできれば充分よ!! Rがいなくても捕らえて!!」
「鶯、聞こえるか!! 近隣の班を応援に回して退路を絶て!!」
「鶯了解、バックアップする。」
「くっくくくくくくくく!! そりゃそうだよねぇ。退路を断ちたいよねぇ…!」
太い杉の木に倒木が倒れかかり、天然の櫓を作っていた。その上にベニアの板などで作られた小さな小屋が設けられている。
……沙都子が裏山にいくつも作った秘密基地のひとつである。ここからは非常にいい形で麓が見下ろせ、戦況を見極めたい魅音にとって極めて好都合だった。
「すごいね…。魅ぃちゃんの予想通りだね…!!」
「さぁって、我が部にどの程度かなうか、お手並みを拝見しようかねぇ!!」
「レ、レナたち、
「くっくっくっく! なぁに言ってんだか。向こうの指揮官は無能だね。私たちを攻めるなら山岳訓練を終了したベテラン歩兵が1個師団はいるね! それをせいぜい中隊規模でとはね。未熟にもほどがあるよ!! さぁて、何人が私たちを相手にして、この山を無事に下りられるかなぁ?!」
「くそったれ!! ……雲雀4、攻撃を受けた! くそ、逃がすな!! 丸太を山ほど転がしてきやがった!! 雲雀6が捻挫で追撃不能。残りで追撃する!」
「へっへへへへ、逃がすなよ。追って追って追いまくれ、休ませるんじゃねぇ!!」
「雲雀11、トラップによる攻撃を受けた! 雲雀12、13が多分、脳震盪だ! あんなの当たり所がわるかったら死んでるぞ!!」
「ひ、雲雀16、
次々と混乱した無線が錯綜する。
……小此木は、先ほどの山狗に有利だと評価した部分の修正を迫られなくてはならなかった。
「鶯10より本部!! くそったれが、井戸を偽装した落とし穴だ!! 隊員2名が閉じ込められて救出不能!! 応援を送れ!! って?!/
うわッや、やめ!!!」
「どうした鶯10!! 応答しろ鶯10!!」
「………う、
「本部より鶯、バックアップが奇襲を受けた。行動が読まれているぞ!! 注意しろ!!」
「鶯1だ。聞いていいか、どうして動きが読まれるんだ!! 上空に無人機の陰はないぞ!!」
「雲雀1より本部、追跡に失敗…! 見失った!/
む、無理だ、この山はトラップだらけだぞッ!! この距離を追うだけで何人負傷したってんだ!!」
「白鷺1より本部、Rを含む数名を発見した。追跡している。至急応援を送れ!!」
「……へ、へへへへへ!! 連中め、少人数の利点を活かして分散しやがった。…撹乱してトラップで絡め取ろうってんだな…。白鷺1、用心しろ!! 向こうはお前らをトラップ地帯に誘き寄せるつもりだ!! 敵は各個分散し陽動と奇襲のゲリラ戦術で抵抗してくる気だ! 高度だぞ!! すでに他班でトラップとアンブッシュで負傷者が多発している。用心しろ!! 気合入れてかかれ白鷺1!!/
…………白鷺1?!」
「…し、白鷺2より本部! 白鷺1がトラップに!! 誰か班長を吊るしてるロープを切れ!! 残りは追撃しろ、Rを逃すな!!」
「鶯1より本部。鶯7たちが沈黙した。襲撃にあった可能性が否定できない。応援を送る許可を!」
「白鷺5、隊員3名が上空から振ってきたドラム缶の直撃を受けて昏倒した! 何なんだここは!! こんなのがまだまだあるってのかッ!!」
「……ひ、…雲雀13だ。…やられて倒れてたようだ。…………あ!! 今、1人発見した!! 追跡するッ!!! 野郎、よくもやってくれやがったなあああぁッ!!!」
「よ、…………よせ…、やめろ雲雀13!!! お前がひとりで敵う相手じゃないッ!!!」
「をっほっほっほっほ!! 鬼さんこ〜ちら〜〜ですわよ!!!」
沙都子がするすると逃げていく後を、鬼のような形相で雲雀13が追う。
大柄な彼の体を小さな梢たちがちくちくと痛める。
それらに顔をしかめながら懸命に追う。
…だが沙都子の逃げ方は涼しいものだ。
自分の庭を走っているだけなのだ。自分の庭で怪我をするわけがない!
駆け抜ける途中。トラップに絡め取られて身動きできなくなった隊員たちに何人もすれ違った。
……追えば追うほど、そんな隊員たちとすれ違えばすれ違うほど!! 自分が追っているのは子供ではなく、…子供の姿をした別の存在であると思えてしまう!!
森が切り開かれ、丸太の詰まれた、まるで伐採の途中のような広場に出た。
……そこは、異様な光景だった。
逆さ吊りになっている別の班の班員や、……落し穴から逆さに靴を覗かせて身動きできない隊員。
手錠のようなもので足を木の根っこに拘束され、何とか逃れようともがく隊員。
………そんな隊員たちを抜けて、その広場はあった。
全員から嫌な汗がどっと噴き出る…。
自分は、…今、トラップに誘われている、これは罠だ、俺ははめられているんだ…!!
しかも、……その少女は悠然と広場に立ち止まり、切り株の上に立って、こちらへ余裕の眼差しを送っているのだ。
………くそ、誘ってやがるッ!!!
「雲雀13だ…! 1人を広場みたいなところで追い詰めた! 捕まえてやる、捕まえてやるッ!!!」
「こちら鶯7…、お前の後で吊るされてる男だ…。そいつは少女じゃない、…少女の姿をした悪魔だ…。そいつの後を追えば、地獄まで誘い込まれるぞ…!!」
「本部より雲雀13! それで充分だ! 応援を待て!! 今そこに最寄の隊員を向わせている!!」
「をっほっほっほっほ。どうなさいましたの? 私を捕まえたければ、あともう10mくらいは歩く必要がございますわよ?」
10mだ。…たった10mで、このクソ生意気な小娘の首根っこを掴めるんだ…!!
俺は10mを走破するのに何歩かかる?
適当に10歩と見積もって、…つまり俺は10回、トラップを踏む危険を冒さなきゃあの切り株に辿り着けないってことじゃないか…。しかし、…たった10歩なんだ。…たった10歩で捕まえられるんだッ!!
「そうお思いなら、まずは最初の1歩を踏み出してみればいいではございませんの。ほらほら。」
「……………く、
最初の一歩は、……どう踏み出す?
あの草むらはいかにも何かが潜んでいそうだ。
…いや、あの剥き出しの土も怪しい。
……なら切り株の上に逃れるか?
いやいや!! それこそが向こうの狙いだ!!
全身からじわじわと嫌な汗が滴り続ける…。
くそったれ、たった10歩なんだ。
最初の1歩で俺は何でこんなに緊張してやがるんだッ!!
「……雲雀13、ここから見る限り切り株の上は安全そうに見える。切り株だ。」
「…よせ雲雀13。さっき根っこで足を縛られてた鶯8だ。切り株はきっと罠だ。辺りは切り株だらけというのが胡散臭い!」
「……聞こえるか雲雀13! ブッシュは危険だ! 草むらは踏むな! 剥き出しの土もヤバイ!!」
「く、くそったれぇえぇぇ…。じゃ、どこを踏めばいいんだよ、空を飛んでけってぇのかよ…ッ!!!」
「まぁだいらっしゃいませんの? 私、退屈ですからそろそろ失礼しますわよ? をっほっほっほっほ!」
「……こ、こちら簀巻きにされて転がってる鶯9だ…。今、標的のひとりに、
…そこはトラップフィールドだと言ってるぞ…。………え? ………………その待ち構えてる小娘の、
ふ、……ふざけやがって…、最高傑作だと?
傑作って何だよ!
さっきまでのあのトラップ群が傑作じゃねえってのかよ!!
俺たちはプロだぞ、給料もらってやってる本職の戦闘集団だぞ!!
それが、こんな小娘に翻弄されて、勝てないってのかよ、勝てないってのかよッ!!!
ふざけるなそれははったりだ!! こんなところにこれ以上、どんなとんでもねぇトラップがあるってんだ!! はったりだ、はったりに決まってる!! ふざけやがって、俺がてめぇのバケの皮を剥いでやるぜッ!!!
ま、……まずは右、
その時、待ち構える少女が片手を広げて突き出した。………それは、…待てというサインなのか…?
「……5歩ですわ。」
「何ぃ……?」
「……何事もなく、5歩を無事に歩けたらあなたの勝利ということでいいですわよ。」
「ほ、……ほほぅ、
「そうですわねぇ。私の敗北を認めて降参してさしあげてもよろしくってよ? 私、……今日は最ッ高にトラップ脳が絶好調ですの。……あなたを5歩で絡めとってご覧にいれますわッ!!!」/
「落ち着け雲雀13、挑発に乗るな!!」
「……そいつは悪魔だ、外見に騙されるな。そいつは人の心を読むぞ、俺たちのかなう相手じゃねぇ…!」
「本部より雲雀13! 深追いするな! 充分だ!! 近くまで鶯が応援に来ている。その場で堪えろ!!」
「……そ、
「男が何度もくどいですわね。愛の囁き以外は、男は一言で充分ですのよ?」
「くッ、……このがきゃあああぁああぁああ!!!」
「雲雀13!!! 読まれるぞ、激情は思考を読まれるぞ!!!」
「………落ち着け、クールになれ雲雀13。…そうさ、俺は雲雀の13番。ゴルゴみたいにクールなのが取り得さ。……だから熱くならずによく考えろ。……そうさ、俺の思考はすでに絡め取られていた。……ヤツに向って5歩進まなければならないって時点で、思考を絡め取られてたぜ…!!」
「……ほほう? それはどういう意味でございますの?」
くっくっくっく、はっははははは!! それはなぁこういうことさッ!!!
決まったッ、決まったぜ俺!!
こいつはトンチだったんだ。5歩歩けば俺の勝ちだったんだ!! 前である必要はねぇ、後に下がったってそれは5歩なんだ!! どうだよこの悪魔め!!!!
「ひ、雲雀13、沈黙!!」
「あのバカ…、すっかり乗せられやがって…ッ!!」
獅子奮迅の活躍は沙都子個人によるものではない。
魅音が地形と敵の布陣を完全に理解した上で沙都子に知恵を授けていたからだ。
沙都子は自身の仕掛けたトラップを律儀に地図に落としていた。
その地図と魅音の指揮能力が加われば、それは恐ろしいまでの戦闘力を発揮する!!
沙都子の次に裏山に詳しい梨花と羽入は、魅音からの指示を圭一やレナに逐一伝えては、待ち伏せ攻撃に移る。
罠は踏むと発動するものばかりではない。
圭一たちが潜み、最適のタイミングで発動させることで効果を得るものもある。
圭一とレナは、魅音の指示で次々転戦し、時には潜み、時には自ら攻撃し着実に追撃戦力を削ぎ落としていた。
沙都子のトラップによる撃墜数が一番多いが、多分、圭一のバットによる奇襲も次に多い。
トラップで虚を突かれたところへの強襲は、訓練された山狗隊員でもそうそう対応できるものではない。
人間にはリアクションタイムというものがあるという。
米軍の研究では、平均的な兵士でそれは15秒。
…つまり、奇襲を受けてから15秒間はどんな兵士であっても無力なのだ。
その15秒の空白をいかに短くするかが彼らの訓練の真骨頂なのだ。だが、それはどんなに鍛えてもゼロにはならない!!
彼らが相互通信する無線も、実は混乱をより助長させる一因となっていた。
続々と耳に入ってくる他班のダメージ状況は彼らを不安に落としいれ、ますますに足を遅く、そして思考を単純にしていく。
その心理状態の時点で、魅音にとっては山狗など殻を剥いてまな板に乗せた剥きエビも同然なのだ。
「魅ぃ! 圭一は大成功しましたです。仲良く簀巻きにしてにぱ〜☆なのです。」
「……あぅあぅ!! 沙都子の方もうまく行ったようなのです! みんなみんなやっつけてしまいましたです!!」
「了解。この攻撃での確認戦果は5ね? くっくっく!/
どうするよ敵さん。南部方面軍はこれで戦力の3割は脱落だよぅ? 負傷者の対応に通常1人から2人。ってことは手の開いた兵士はほとんどいないってわけだ。まっとうな指揮官なら本部に撤退を申し入れるねぇ!」
「こちら雲雀1…、隊員に負傷者多数。負傷者への対応で追撃に手が回らない! これ以上の追撃は断念せざるを得ない…!!」
「雲雀1、損害は大きいが我が方は確実に敵の行動圏を狭めているぞ。撤退は認めない。現状兵力で戦線を維持せよ!」
「…く、くそ…!! 雲雀1より全員! 本部から死ねと命令だ。装備を再点検しろ、進軍を再開するぞッ!!!」
「……くっくっく! でも鷹野さんたちは頭に血が上ってるから、それを許可しない。指揮官は撤退を却下され、士気が低下したまま追撃を再開。/
…こいつは叩く絶好のチャンスだね!! 梨花ちゃん! レナと合流して、Z地区に誘い込んで!! あそこのトラップはだいぶごっついよぅ!! 羽入は圭ちゃんに、X地区に転戦しろと連絡を!! くっくっくっく、こんな面白いゲームはないねぇ、くっくっくっくっく!!!」
「あぅあぅあぅ! 魅音が絶好調なのです。」
「……今の魅音が生まれる時代を間違えていたら、歴史に名を残しかねないのです。」
「くっくっくっく!! 私に言わしゃ、ネルソンもトーゴーもまぁまぁってとこだね!! もう裏山全体が手に取るようだよ、くっくっくっく!!!」
魅音は自分の力を二乗するタイプなのだ。
…落ち込む時はとことん落ち込むが、…絶好調の時はとにかく大変なことになる…!
この血こそが、雛見沢御三家頭首の血!!
今の魅音が歴史的合戦の地にいたなら、ことごとく歴史を引っくり返したかもしれない。
…ナポレオンと組んでいたら今頃シベリアはフランス領。
ヒトラーと組んでたら今頃ヨーロッパは千年王国だ!!
そして、魅音にとってこの裏山の戦いは、所詮、陽動に過ぎないのだ。
;■診療所突入
裏山での戦いは魅音の目論見通り大混乱を引き起こしていた。
彼らがもう少し冷静だったなら、大人の姿が未だ発見されていないことに不信感も持てただろう。
…だが、次々と押し寄せる攻撃情報に混乱し、その大切な一点に気付けずにいた。
もちろん、これも魅音の計算による。
陽動の規模の大きさが結果的に富竹救出隊という別働隊がいることを隠蔽し、そのまま彼らへの援護射撃となるのだ。
そのためにも、魅音は徹底的に派手になる戦い方を選んだのである。同時にそれは魅音のもっとも得意とする戦い方でもある。
今や魅音は陽動などで済ますつもりはない。この山で山狗主力を撃滅するつもりでいた。
しかし、…つくづく恐ろしいのは地の利だろう。
防御側は攻撃側の三倍有利であるという定説の大部分は地の利が占めると言っても過言ではない。
ならば、富竹救出隊の方はどうか。………攻める側の不利があるのではないか。
入江を先頭に救出隊4人の姿は、診療所脇の茂みにあった。
「行きましょう。こちら側をフォローするカメラは故障中で、来期の予算で修理することになってますから、大丈夫です。」
「……こんなとこから堂々と? うっわ、怖いね…。」
「敵は監視をセキュリティに依存しきってるようです。問題ないでしょう。」
「行きましょう。まずは、壁沿いに伝い、所長室の裏へ?」
「はい。私が出る時、窓は閉めませんでしたからまだ開きっぱなしでしょう。そこから入ると、すぐ脇が裏口で、そこには監視カメラと1階保安室があり、今日は2名が常駐しているはずです。地下区画前は厳重に監視カメラで見張られていますので、必ずバレるでしょう。」
「…地下に行く前にその1階の2人を制圧しないとね。退路確保は基本でしょ。」
「まずは所長室から入って、1階保安室…。」
入江の案内する監視カメラの死角から建物に張り付き、慎重に窓の下を潜りながら、所長室の窓に辿り着く。
…もし村の子供がこんな光景を見たなら、何をして遊んでいるのかとちょっかいをかけてくるだろう。
……今日が日曜の休診日でよかった。
入江が恐る恐る室内を見ると、……そこは入江が出て行った時のままになっていた。窓も網戸のままだった。
そこから、銃で武装した4人がそろりそろりと入り込む。
赤坂がすぐに廊下への扉に耳をつけた。そして気配はないとサインを送る。
休診日だから、この診療所にいるのは山狗だけだ。…今日が日曜で本当によかった。
診療所の中はシンと静まり返っている。…染み入ってくるのはセミの声だけだ。
所長席の上には卓上時計があり、……もうじき11時半を指そうとしていた。
……こんな時でもお腹は空くんだなと、詩音は人間の偉大さに感服していた。
葛西と赤坂がそれぞれ自分の武器を点検する。
入江が鍵のかかった棚の中から、入江診療所建設計画と書かれた大きな青焼きの図面冊子を持ってきた。
「……ここが所長室です。ここが1階保安室。出てすぐそこです。監視カメラはこの赤鉛筆がそうです。」
「1階保安室の制圧自体は難しくなさそうだ。…問題は地下ですね。」
「……これが地下の研究区画です。ここが入口。図面では表向きは、職員用の2階への階段室になっていますが、実際は地下区画への入口が隠されています。そして、階段で地下へ…。」
「よくもこんな大きな地下を作ったものです。…地上部分よりもよっぽど広いですね。」
「……それは、地下こそがこの診療所の真の姿である証拠です。」
「で、これが監督のパスカードでないと入れない扉、と。……パスカードが封印されて使えなくなってるなんてことは? 万一パスカードが使えない場合にゲートの物理的突破は可能?」
「非常に厳重な扉で、証拠隠滅時にはこの扉を封鎖して内部を注水して封鎖する決まりになっています。」
「……ということは気密扉か。この容積を満たす水圧に耐えるということは、相当に頑丈だ。」
「ってことは、パスカード以外の方法では不可能、ってことだね。」
「一般用のパスカードは個別の登録抹消が可能なはずですが、私と鷹野さんのパスカードは将校用の特別カードと聞いています。登録抹消には各個に設定した8桁のパスワードが必要ですから、事実上、彼らには抹消できません。」
「…将校自らが不法使用することは想定していない、ということですね。」
「それでも駄目な時は、1階保安室の人間に開けさせましょう。保安要員のカードなら、将校の次に強力なはずです。」
「素直に協力してくれるとは思えませんが?」
「くっくっく、
「……そ、そうしたくはないですね。私のカードで開くことを祈るばかりです。」
「地下のセキュリティルームはどれです?」
「パスカードで入ってすぐ脇のこの部屋です。この部屋には空調もテレビもありますから、基本的に保安の方はそこに全て詰めています。上で2人をやっつければ、残りの6人がいるはずです。」
「6人か…。一気に制圧しないと、難しいね。…一瞬で制圧しないとほぼ確実に警報を鳴らされる。先に警報を切断する方法は?」
「……ちょっとわかりませんが、予備電源や予備回線があるはずです。」
「現実的じゃないか。セキュリティルームを制圧する方が現実的ですね。保安の連中の武装は?」
「1階の保安は非武装ですが、1階保安室には一応、銃が置かれているという話です。地下の保安は全員が拳銃を携帯しています。あとセキュリティルームにはもっと強力な連発式の銃が何丁か置かれていたはずです。」
「……屋内での用途から考えて、多分、口径の短い機関拳銃のようなものでしょう。長距離での命中率はひどく落ちますが、小回りが利き、近距離では充分な火力を持つ危険なものです。」
「地下で撃ってきた連中、MP5でしたし。……そいつが何丁もってのはちょいと厄介ですね。…でも、ここを制圧できれば、…地下は私たちの手に落ちる。………監督、悟史くんは?!」
「……本当は動かしたくないところですが、
「悟史くんは、
「………この奥の、監禁病室にいます。…ここは去年から、彼の専用の部屋になってます。」
「……………………悟史………くん…………。」
詩音の目が、使命感で一際強く引き締まる…。
1階保安室の中では、さきほど入江を追った保安の隊員たちが再びいて、さっきうやむやになってしまったポーカーの続きをしていた。
彼らも、山狗が総出動で山狩りをしていることは知っていて、機関存続の危機らしいことは充分知っていた。
だが、今の彼らの役目はここに詰めていることだ。
…彼らはその役得として再びポーカーに勤しんでいるのだった。
もっとも、実際はポーカーは上の空だ。
先ほどの大捕り物の興奮が冷めず、ああだこうだと武勇伝に沸きかえっているのだった。
タイヤを狙えという指示だったが、所長を狙えという指示だったなら面白かったのに。
そうすりゃ元々逃がすことなんてなかったんだと笑う。
……人は緊張感が途切れた時、それに見合う分だけ隙を作る。その好例だった。
だから、制圧は2秒で終わった。
「……両手を頭の上へ。」
彼らはプロだった。…ゆえに、葛西や赤坂、詩音の持つ銃がモデルガンなどではないことが瞬時にわかった。
…そして、園崎家地下で銃撃戦があったらしいという話も聞いている。
……銃を玩具にしている素人ではない。
相手は発砲を躊躇わないベテランなのだ。…ゆえに、彼らは屈するのが早かった。
彼らは拘束用の手錠を各自持っていたため、楽に彼らの自由を奪うことができた。
まさか彼らも、それで自分たちが拘束されるとは思わなかったに違いない。
しかも、拘束されるのが便所とあっては尚更だ。
職員便所の便座に座らせ、後手に配管を通す形で手錠する。
口はタオルを詰めてガムテープでぐるぐる巻き。
……詩音は、一度こういうのをやってみたかったと面白そうに笑い、葛西を失笑させていた。
「ここまでは順調ですね。……問題は、地下です。監視カメラで必ず気付かれます。」
「そのカメラはモノクロ? 画面は四分割?」
「確かそうだったと思います。よくある防犯カメラの画面です。」
「ふ〜ん、ってことは解像度はよくないですね。なら、……くっくっくっくっく、私、いい〜手が思いつきました。」
「……詩音さん、捕虜の虐待はあまりよくないのでは…。」
「むがふが……?!」
……拘束された二人の隊員は、トイレで拘束されるのみならず、さらに気の毒な目に合わされなければならなかった…。
セキュリティルームのスピーカーからは裏山で戦闘を繰り広げる山狗たちの無線が絶え間なく流れてきた。
保安隊員たちは腕を組みながらそれに耳を傾けている。
刻々と入ってくる戦況を聞く限り、明らかにこちらが劣勢なようだった。
…トラップ地帯で次々に待ち伏せや奇襲を食らい、予想外の損害を受けている…。
罠にはめられたのは間違いなく、下手をすれば戦術規模でなく、戦略規模ではめられたのではないかとすら思われた。
……山狗は見誤っていたのだ。
彼らが雛見沢を脱出するために山中に入ったのだと思った。
…実際は違ったのだ。綿密に準備された敵陣地に誘い込まれたのだ。
無線の向こうでは、興奮した隊員たちのやり取りや、怒鳴り続ける鷹野の声、損害を強いられながらも着実に追い詰めようと彼らに檄を飛ばす小此木の声が飛び交い、…文字通り戦場のような様子だった。
「……ザザ! 鳳1より鳳。休憩時間は終りだぞ、俺たちも出撃する! 壊滅した白鷺のポジションを埋めるんだ。味方の損害率はすでに致命的状況だが、敵は確実に後退を重ねてすでに包囲されつつある。もう一息だ! 温存した鳳で一気に圧殺する! 陣頭指揮は三佐が直接取られるそうだ。俺も出るぞ、これで決着させるッ!!」
「……おい、隊長が出るぞ! 鳳も上がる、総力戦だ!!」
「何てやつらだ…。ってことはすでに被害は小隊規模にもなるってのか?!」
「…俺たちは何者を相手にしてるんだよ!! 相手はどこの特殊部隊だってんだ?!」
無線から聞こえる戦況変化に一喜一憂するセキュリティルームの面々。
その時、ピンポーーンという可愛らしいチャイム音が鳴った。
その音は、地下区画の入口に人が入ると自動的に鳴る警告音だ。
この音がしたら、誰が訪れたのかを画面で確認するのが規則だ。
その画面を見た隊員は、一瞬思考が停止してから驚く。
「お、おい! 入江所長だぞ!」
「何?!」
地下区画入口のモニターを見ると、1階の隊員2人が、所長と少女の二人を拘束しているようだった。
「……これ、…所長だよな? どういうことだ?!」
「そういうことか、わかったぜ。……向こうは陽動で、こいつらが富竹救出に忍び込もうとしたってことだ…。」
「さ、三佐に所長を連行したと連絡しろ…! ん…?」
ピーという音がして、端末に使用されたパスワードの情報が出ている。
二等陸佐:入江京介(所長)
パスワード:
指紋確認 :
「…………………?!」
…妙な話だった。
入江を保安が連行してきた。そこまではいい。
だが、何で所長のパスカードを使用するんだ…??
指紋認証まで入江にやらせている。
どうしてそんな面倒な真似を? 自分でやった方が早いだろうに??
「あッ!!!」
隊員が勘付いた時にはもう遅かった。
地下区画入口は開かれ、4人が一斉に中に飛び込む!!
その画面を走り抜けた4人の足音は瞬時にセキュリティルームの前へ疾走してきた。……やられたッ!!
扉が開いた瞬間、保安隊員たちが一斉に銃を抜き発砲するッ!!!
赤坂は、もうわずかに引っ込むのが遅れていたら蜂の巣にされていただろうことにヒヤリとした。
その隙に隊員の1人が机を横に倒す!
机の上の紙コップなどがガサガサ落ち、床にコーヒーをぶちまけた。そして机をバリケードにする!
その間に2人の隊員が誰も顔を覗かせていないことを知りながら銃を乱射した。
彼らが牽制射撃をしている間は、反撃できない。
その隙に他の隊員が、1人は非常警報のスイッチを押し、他は壁に掛けてあった、あの保安隊御用達の短機関銃を取る。
さらに1人は防毒マスクを取った。
わずか数秒でここまでの防戦態勢を取れるとは…さすがだった。
この状態では相当性質の悪い銃撃戦になり、制圧に時間がかかってしまうだろう。
地下区画には警報のサイレンが鳴り響き、奇襲が失敗してしまったことを教えてくれた。
「………ち! 一気に制圧し損ねた…!」
「でも敵は全員この中、袋のネズミです。この部屋に釘付けにしている内に、悟史くんと富竹さんを救出しちゃいましょう!」
多分、警報は表へ出ている山狗にも届くだろう。
となれば、もたもたしていれば敵が戻ってきて彼らは退路を断たれてしまう。袋のネズミはこっちになるのだ。
「……そ、
入江が今頃思い出したようにあたふたしだす。
…そういうことは侵入する前に思い出してくださいと詩音がぼやく。
そして、入江がそれを思い出す前に警告音声がそれを教えてくれた。
「エントランス区画にて緊急事態が発生しました。エントランス区画にて緊急事態が発生しました。問題が解決するまで研究施設内の全区画は緊急閉鎖されます。エントランス区画のスタッフはセキュリティルームに集合し、防毒マスクを着用してください。保安隊員の指示に従ってください。120秒後に研究区画エントランス区画には鎮圧用ガスの自動散布が行なわれます。…繰り返します。」
「……どうやら、2分以内に制圧して警報を解除しないとヤバイことになりそうだな…。」
「鎮圧用ガスって何ですか。毒ガス?!」
「た、確か、ジフェニルイアノアルシンです。極めて高い濃度で吸えば危険ですが、命を直ちに脅かすものではありません。吸入後数分で作用。症状はいくつかありますが最大の特徴は約30分間くしゃみが止まらなくなることです。」
「……あか剤というヤツでしょう。昔、軍が陣地制圧に使った強力なヤツです。」
すぐにここを逃げるかセキュリティルームを制圧するかだが、この区画は閉鎖されたというから脱出はできないだろう。
かといって、中には短機関銃で重武装した隊員が数人もいて、少しでも顔を覗かせようとすると、凄まじい弾数をお見舞いしてくる…!
「…くそ、駄目だ! これでは狙って撃つなんて到底できない!」
「インドアの基本は……グレネードか…。くそ、そんなのないって…!!」
「焦って飛び込めば蜂の巣です…。……どうすればいいんだ…!!」
「…………悟史くんは……目前だというのに……。……悔しい……!!」
詩音は自分の銃に額を押し付けながら、ぎりぎりと悔しがる…。
…それを見て、葛西が立ち上がり、言った。
「皆さん、
セキュリティルーム内の保安隊員も、決して状況は予断を許さなかった。
ガスが吹き出れば全ては決着するだろうが、向こうも座してそれを待ちはしまい。
多少の損害を顧みず、突撃をしてくるはずだ。
それを蜂の巣にはできるだろうが、かなりの至近距離戦になる。
味方にもかなり厳しい被害が予想された。
……だからこそ、ガス噴出の秒読みが減れば減るほど緊張感が募っていく…。
………だから、
その扉に対し、数丁の短機関銃が火を噴き、扉に小さな穴をいくつも開けた。
だが、……それで静まる。
………あいつら、……何を考えてるんだ…?
隠れるところなどない。
ガスが出るまでもうすぐなのに、…何だって扉なんか閉めやがったんだ…? 何の意味があるんだ??
その時、ものすごい爆音がして、扉に握りこぶしほどの穴が出来た。……のみならず、それはさらにブチ抜いて、セキュリティルームの奥の壁にまで同じ穴を開けた…!!
「……マ、マグナム?! ち、違う、スラッグだ!!」
その問いに、扉の向こうから低い落ち着いた声が答えた。
「……………ご名答です。こいつぁ人間を撃つ弾じゃありません。威力は、皆さんほどならすでにご存知でしょう。」
「…………………………く………!」
スラッグ弾の威力は至近距離に限定するとはいえ絶大だ。
……何しろ、散弾銃で発射するのに散弾じゃない。
…本来散弾を放つべき銃で、絶大な威力の巨大な弾を一発だけ撃つ。…それがスラッグ弾なのだ。
それは本来なら狩猟用。人ならざるものを撃つためのものだ。
……人体に使われたなら、…腕や足なら砕け散り、頭部だったら粉砕され痕跡も残らないだろう。それはもはや銃弾とは呼ばない。砲弾と呼ぶのが相応しい…!
そしてその絶大な貫通力は、扉をブチ抜き、彼らがバリケードにする机もブチ抜き、さらにその後に隠れる隊員を丸ごと貫通して壁にまで至るだろう。
……その異常な、あまりに過剰な威力を、彼らは理解していた。
彼らの銃は対人戦を想定した小さい弾丸を多数放つもので、ドア越しでは信頼性に欠ける。
……だが、向こうはドア越しでもまったくお構いなし!! 何もかもをブチ抜くッ!
こうして机の影に隠れていても何の意味もないのだ…!!
「……あなた方を粉々にできることがご理解できたはずです。……死にたくなかったら警報を切っていただきましょう。」
「…………………お、落ち着け。…もうじきガスが出る。それまでの辛抱だ…。」
「……その前に、皆さんが内臓をブチまけることになるとは、お考えが至りませんか。」
葛西の声が、…いつの間にか凄みを増している。
…それは、…散弾銃の恐ろしさを真に理解した者にしか出せぬ凄みだった。
「時間がありません。5秒で決を取ります。……5つ数えて警報が切れなければ、
「……ど、どうする…。ガスまでまだ60秒くらいあるぞ畜生…!」
「焦るな、向こうだってビビってるんだ。飲まれるんじゃねぇ…。」
……その時、腹の底にまで響くような低い声が轟き渡る。
「おい。………人が親切に話してるのに聞いてねぇのか……?」
…それは同じ人物の声であるのは間違いない。
でも、そのあまりの変わり身に彼らは驚かずにはいられなかった。
「この葛西辰由がてめぇらを生かしてやると言ってんだ。…ありがてえとは思わねえのかガキどもが。……お前ら、俺を舐めてんのか。……あぁ? …………………………。
轟音、爆音、破裂音が瞬時に吼え猛り、扉の上半分を一瞬でバラバラに吹き飛ばした。
室内に膨大な数の鉛球が跳ね返り、壁を砕き天井の照明を叩き割って破片やガラスの雨を降らせる!!!
それは、吼え猛る散弾銃が見せるこの世の地獄だった。
鉛の暴風が吹き荒れ、砕き、散らし、飛び跳ねて室内を粉々にしていく!!
彼らは伏せて頭を庇って祈るしかなかった。
その鉛弾が自分にかすらないでくださいと祈って降り注ぐ破片の雨に耐えるしかないッ!!
その最中に扉をブチ破って葛西が飛び込み、彼らが震えて隠れる机を蹴り飛ばして、伏せる隊員の頭を踏みつけて怒鳴りつけた…!!!
「ちち、違う違う!! ここ、降伏する!! 撃つな撃つな!!!」
「何いつまでチャカ、ひけらかしてんだコラ!!/
殺されてぇか青二才ッ!! てめぇとは築いてきた屍の山の高さが違うんじゃボケ!!」
次々と銃を放ると、指示もしてないのに床に伏せて頭の上で手を組んだ。
………あっという間の制圧に、詩音すらも開いた口が塞がらなかった。
何人もいて、全員が充分な武装をしていたはずだった。
確かに葛西は強力な銃を持っていたが、………それ以上の貫禄勝ちだった。
物騒な話だが、例え山狗であったとしても、…命をやり取りする修羅場を潜った数が、葛西とではまったく比べ物にならないのだ!
「何てめぇら昼寝始めてんだコラッ!!/
マスク剥がされてガス吸わされてぇのか!! とっとと警報止めろぃクソガキッ!!」
「てて、停止する停止する、撃つな撃つな…ッ!!!」
隊員のひとりが慌てて立ち上がり、コンソールのボタンのいくつかをいじり警報を解除した。
……葛西は悠然と構えていたが、実際はガスが噴射する数秒前だった。
呆然としていた詩音と赤坂は我に帰り、慌てて室内に飛び込み、彼らの制圧に加わった。
「…………葛西、
「……こんな真似は二度としないつもりでしたが、
そこにいる葛西は、詩音のよく知るいつもの葛西に戻っていた。
…だが、結果的に葛西は誰も殺していない。
園崎家地下で散弾銃を装填しながら、散弾銃は恐ろしい武器だと説いていたことを思い出す。
かつて鹿骨にその人ありと恐れられた、
「急ぎましょう。どの道、すでに警報はならされています。長居はできません。」
「そうですね。急ぎましょう。」
赤坂と葛西は、彼らの腰にある手錠を抜き、それで隊員たちを拘束していた。
「…………さ、………悟史くん、
セキュリティルームが制圧され、悟史を阻むものがいなくなったことを知った詩音は、…もう居ても立ってもいられなかった。
さっき入江に図面で教えてもらったからわかる。確か、この奥の………。
もう詩音は走り出していた。
「私も行ってきます…。悟史くんと富竹さんを助けないと…。」
「すみません、頼みます。」
「……?!
赤坂の全身にぞくりとしたものが走る…。
確か入江は、地下に保安隊員は6人と言ったはずだ…!!!
詩音は……もう上の空だった。……夢にまで見た悟史との再会に心を奪われていた。
……そして、左の耳がまだ聞こえていなかった。
しかも最悪なことに、……その保安隊員は、詩音の左側に待ち受ける形で潜んでいたのだ…!
詩音は自分の油断を後悔しなければならなかった。
物陰から飛び出してきた隊員に、がっちりと背後を取られ、太い腕で首を締め上げられるッ!!
それは完全に決まっていて、詩音単独では完全に脱出不能だった。
それを、遅れてきた入江が見た。
幸いなことに、彼らは入江に背を向ける形だった。だから、入江は今の一瞬だけ敵に奇襲するチャンスを得ていた。
……しかし、
今日一日、色々なことがありながら、自分はいつも何の役にも立たなかった。
……荒事は自分の専門ではないのだから役に立てないのは当然といえば当然なのだが、…それでも、彼は自分が何の力にもなれないことに深い失望を感じていた。
……そんな自分にしか、今の一瞬を救えないなんて…。
もし時間が許すなら、すぐにでも葛西や赤坂を呼んできたい。
どちらもとても頼もしい味方だ。必ずこんなヤツ楽々やっつけてくれる。
だが、状況は悪かった。敵が背後を見せているのは今の一瞬だけ。
これを逃せば、多分、こいつは詩音を人質にし、この場に膠着状態を作り出してしまうだろう。
…敵の応援がいつ来るかもわからない状況下での膠着状態は、座して死を待つのと同じだ。
だからつまり、
それに多分、許されるのはたった一撃。
それで倒せなければこちらに気付き、すぐに膠着状態が始まるだろう。
………でも、自分に、一撃でこの男を倒せる方法などあるのだろうか……?!
いや、…やらねば……。私も男だ。
…それに、…私にしかできない倒し方だってきっとあるッ!!
…入江は白衣の内ポケットからシャーペンを取り出すと、それを握り締めた。
……多分、それが彼が持つ一番の武器だったろう。
「ぇ、…ええぇええぇえいい!!!」
「ぅぎゃッ?! いててててて……、
入江は渾身の力でシャーペンを思い切り首の後に突き立てたが、ちょっと怪我をさせて血を滲ませる程度のダメージしか与えられなかった。……一撃で倒せるわけなどない…!
そして男は銃を抜き、詩音の頭に押し当てて、予想通り膠着状態を作った。
「ご、…………ごめんなさい…………。私、………悟史くんのことで、
詩音が涙を浮かべながら悔しがる。
「さて所長、月並みで恐縮ですが、他の侵入者ともども武装解除してもらいましょう。さっきのとんでもない音は相当デカイ銃を持ち込んでますね。撃たれたらたまりませんので。」
……思い出せ入江、さっきの葛西さんを…。できる、私にもできる……!!
「ふ、……ふふふふふふふふふふふ。/
…笑わせます。この入江機関の、そして研究区画で! この入江京介に取引などできるつもりですか。」
「……な、
「これは、鷹野さんの開発したシャーペン型の偽装注射器です。……薬物については、ふっふふふふ、説明が必要ですか?」
「な、……何だとぉ………ッ!!」
普通の人間がこう言ってもすぐにはったりだと見破られただろう。
………だが、医者が白衣を着て、そして自分のテリトリーの中でそれを発言する時、…それには想像を絶する信憑性が宿る…!!
嘘だ、はったりだ! ……とは思いつつも、もう暗示にかかってしまい、男は自分の首の後が痒いような気がしてならない。
「H178は鷹野さんが生み出した170番台の最高傑作です。如何なる治療手段もなく、わずか数分で錯乱、妄想、頭痛、鼻水、鼻づまり、お通じの不通、数々の劇症を引き起こし、最後には自らの爪でおしりを掻き破って死んでしまいます。治療法はただひとつ。1分以内にこの解毒剤のお注射を受けることのみです!!」
「う、嘘だ、そんなのあるはずねぇ!!!」
「……ふむ。すでに30秒を経過ですね。そろそろ心臓を経由して全身に回り始めてくる頃です。全身のリンパ腺に痒みは出ませんか? 寝る時にいびきやオナラが出ませんか? ふっふふふふふふふふ!!」
…詩音は何てクサイ演技だろうと思い呆れたが、……この怪しげな研究所の職員としては、所長が語るこの怪しげな話を思わず信じてしまうのだ…!
「くそ、
「……はて、言葉遣いがなっていませんねぇ。」
「く、………わかりました、降参します。早く注射をしてください…。」
「駄目ですね。ご主人様への言葉遣いがなっていません。一度だけ指導しましょう、いいですか?! このお注射はお尻に注射しなくてはなりません。まず四つん這いになってズボンをずらしお尻を出します。その際、お尻は突き出すようにし両肩はぺったり床に付けるようにします。右手の親指の爪を噛みながら振り返り、そうそう!! そしてお尻を振りながら、ご主人様、この淫らなメイドにお注射をくださいませと言うのです。/
言えませんかッ!!!/
嘆かわしい、そもそも古来メイドはご主人様への絶対忠誠を誓い滅私奉公によって美徳と文化を築き上げてきたのです!!/
そんな素晴らしい社会を作ったのに近年の日本はどうですか!!/
ルーズソックス、/
派手派手なハワイ装束!!/
お肌をすべすべにお手入れして過剰な日焼けには要注意!!/
/
ソックスはもちろんニーソですが、ガーターベルトも素晴らしい!!
いやでもたまにはハイソックスも素敵です!!
その結果がこの低出産率、超高齢化社会!!
今や熟年人口は増え続け、萌えメディアもその層をターゲットにするのは時間の問題!!/
今までHビデオコーナーではキワモノ扱いだったオバサンシリーズがやがては一大コーナーを築くようになるのです!!/
オバサンとメイドの組み合わせはまさにトイレ用洗剤、混ぜるな危険ッ!!/
それはつまりメイドの絶滅ッ!!/
その時、月は砕け悲しみの雨を地上に降らし、地球をアステロイドベルトが覆う!!/
それこそが預言書に記された最後の審判の日ッ!!/
全世界を偉大なるメイドカチューシャが覆いし時、真のメイド王が復活する!!/
ふはははお静かに、諸君はメイド王の前にいるのだ!!
小僧から石を取り戻せッ!!!/
困った時のおまじない、
ラトバリタ・/
メイドッ!!/イン ヘヴン!!!
ふおおおおおおおおおおお!!!」
「大丈夫かい、詩音ちゃん。」
「えぇ、ありがとです。/
……監督〜? 赤坂さんたち来て、やっつけてくれましたよ〜?」
「……先生、そいつは後ほどに。」
「さ、……悟史くん!!」
もう本当に誰も遮る者はいない。
廊下を、詩音が転びそうになりながら全力疾走で駆け抜けていく…。
その、…正面だ…。
詩音の前には、大きなガラス窓があり、…その病室が覗けるようになっていた。
そのガラス窓に、ぶつかるように詩音は飛びつく。
……そこにはベッドがあり、……腕に点滴をうけながら、眠り続ける悟史の姿があった。
額や胸などに脳波測定用の端末が貼り付けられ、それらが伸びた先の機械には、光の波形が刻まれていて、少なくとも彼が生きていることを知らせてくれた。
だが、その眠りはとても深いのかもしれない。
……生きている、と言われなければそう見えなくてもおかしくないような、…真っ白な顔だった。
「……い、……生きてるんだよね……? 悟史くん、生きてるんだよね…?!」
「落ち着いてください…。入江先生、早く彼を…!」
入江は、悟史を運ぶための担架を持ってきた。…丸めて畳んであるそれを葛西が手早く広げる。
「は、早く悟史くんを、……悟史くんを……!」
「詩音さん……。彼を出す前に、ひとつだけどうしても約束してほしいことがあります。」
入江は、…この期に及んで詩音に条件を突きつけた。
……詩音は何をもったいぶるのかと目に怒りを灯す。
「……今から彼を担架に移しますが、……決して起こそうとしてはいけません。いいですね、絶対約束してください。」
「ど、どうして!! どうして起こしちゃいけないんですか!!」
それは、詩音が一番最初にしたいことだった。
…彼が救い出され自由の身であることを最初に自分が教えたかった…!!
それを、するなと言われて詩音は憤慨した。
「辛いことですが、真実だけを手短に話します。………悟史くんはあの日、末期発症により、脳と心に深刻なダメージを受けました。……幸いなことに生命に異常はありませんが、……悟史くんには、目に入るものの敵味方、真実と虚実の区別がつかないのです。……過度の被害妄想と恐怖に取り憑かれ、…それから逃れるために、窮鼠が猫を噛むように、目の前にいるのが誰であろうと襲い掛かります。……昨年、無用心なスタッフが整形手術を必要とするほどの大怪我をしました。………彼は、例えあなたであっても例外としません。」
そこで詩音はやっと気付く。
…悟史はベッドの上に毛布を掛けられているが、…その上からシートベルトのようなものが2本掛り、彼がベッドから起きられないようにされているのを。
……そして腕にも皮製のベルトが通され。ベッドに固定されるようにされている。
……その皮製のベルトは、…乱暴な何かの痕跡がいくつも刻まれてほころんでいた。
「…………………………………そんな……。それって、
「………………………。」
それは、……あまりに残酷な沈黙。
……入江だって、………力強く治ると言えたなら言いたかった。
……でも、…彼は医者だった。
無責任な言葉が結局は人を傷つけることがあるのを知っていた。……だから、何も言えなかった…。
詩音が涙を浮かべながらガラスをどんと叩く。
「いけません…。……彼のことを本当に大切に思うなら! ……どうか彼を起こさないでください…。それはきっと彼が望むことでもあるのです。……起こせば、
詩音は号泣しながら、ガラス窓をずり落ちるように、……床に伏せる。
そして床を掻き毟り、………悲しい再会と、やり場のない怒りに床を掻いた。
……もし、床の下に悟史の笑顔があるなら、詩音は生爪が剥げるまで掻き続けたろう。
でも、…………悟史は床下でなく、……そこにいるのだ。
………ベッドの上で、眠り続けているのだ…。決して起こしてはならないという眠りに抱かれて…。
「……ですが、決して悪い話だけではないのです。微弱ですが、
…………悟史くんは、帰ってこようとしています。……必死に戦っています。………そして、私も負けない。…帰ろうと戦う悟史くんをこちら側に連れ戻そうと、……私は今後も研究を続けます。/
…………そして必ず、悟史くんを、
……脳が人そのものだ。
…でも、脳も体の一部に過ぎない。
そこに悲しい事故が起これば、…人は望まずして変容する。
…………その姿は、本人を傷つけるだけでなく、本人の親しい人をも傷つける。
……そしてそのことがさらに本人を傷つけるのだ。
入江の脳裏に、仲の良かった両親の顔が浮かび、……父の異常な性格変容と、それを脳の病によるものだと理解できず父を拒否したまま死んだ母の顔が浮かんだ。
………こんな、……悲しいことはもうたくさんだ。
あれが、……私が脳の医者になろうとしたことの原点じゃないか……ッ!!
今、目の前にひとりの少年がいる。…そして少女がいる。
そこにあるのは、あの日の悲しみのカケラ。……あの日の後悔の、
私は父の死後に脳の病気による悲しい誤解があったことを知った。
…だから、全てが手遅れだった。
あと5年早く脳の世界に踏み込んでいればと後悔したが、どうにもならなかった。
……だが、……今、自分は数え切れないほどの勉強と努力を積み、揺ぎ無い実績と自信を確立している。
……そして、……目の前にはあの日の後悔があるのだ。
入江は両手の拳を握り締め、…涙さえ隠さずに言った。
「……絶対ですッ…!! 命をかけてもいい。私は絶対に悟史くんを雛見沢に連れ帰ります…!! この入江京介が絶対と言うのです。そして悟史くんも帰ってこようとしている!! 互いが手を伸ばし合って届かぬわけがない!! ………だから詩音さん。私を信じて、その日まで待ってください。絶対!! 絶対、この入江京介が彼を連れ帰ります!!」
それは、魂からの誓い。入江は今こそ悟る。
この日の誓いのために今日までがあったと悟る。
目の前の二人は自分の両親ではない。
……でも、
「ほ、………本当に………? 本当ですね………? 悟史くん、
本当に………、
「絶対です。私の人生の全てを捧げてでも、彼を雛見沢に連れ帰ります。…だから詩音さん。その日を信じて、私と待ちましょう。そして、…きっと私たちで彼を迎えてあげましょう。/
………その日まで待てますか? この悲しい事実を、…沙都子ちゃんに内緒にできますか?」
「………………ぁぃ。……悟史くん帰って来るなら、
「あれを、
「……………あ………。」
病室の奥の、
………それは、
「彼が、沙都子ちゃんの誕生日のために、
「……っく、……ひっく…。……お見舞いに、
「もちろんです。」
「……彼の脇に座ったり、
「いいですよ。………きっと、彼も喜ぶでしょう。」
「…………………………ぅううぅぅぅぅ…。」
再びすすり泣く詩音。
そこへ富竹を連れた赤坂がやって来るが、何の言葉を掛けることもできなかった…。
「無事でよかったです。あなたに番犬を呼んでもらえれば全ては解決できます。」
「……実はそうも行かないのです。さっきの保安室の銃撃戦で無線装置が壊れたようなのです。…山狗は非常時対応で村全体の通信手段を遮断しているでしょうから、ここの無線装置が損傷した以上、東京へ連絡をするには村を脱出する他ないんです。」
「…となれば、車で強行突破するしかないでしょう。……魅音さんたちもよく時間を稼いでくれています。しかし篭城ですからやがては追い詰められるでしょう。一刻も早く富竹さんを村の外へ脱出させ、番犬を呼び寄せる必要があります。」
「……困った問題がひとつ。彼らが非常時対応で電話線を遮断しているなら、同じ対応で町へ通じる街道を封鎖することになっているのです。車両突破を防ぐため、彼らには歩兵携帯の対戦車榴弾砲が1つ与えられているはずです。」
「……RPG-7ですか。戦車を想定していないでしょうから、弾頭は榴弾でしょうが、……直撃しなくても車が引っ繰り返るかもしれません。…相当厄介な相手です。」
「しかし、街道を車で突破しなかったら無駄な時間が掛かりすぎる…。迂回などしていたら日が暮れます。みんなもよく戦ってくれていると思うが、…暮れるまで持ちこたえられるとは思えません。……急がないと危険です。」
「…………もたもたしてる暇はないです。何が何でも富竹のおじさまを興宮に大至急。監督は悟史くんと安全な場所へ。とにかく大至急出ましょう。ここに敵が殺到するのも時間の問題です。」
詩音は泣き腫らした目をしていたが、もう落ち着きを取り戻していた。
…この悟史くんの無事も、自分たちが勝ってこそなのだ。
そのために、今、目の前にある危機に打ち勝たねばならない。
それに、いくら悲しい状況と言え、
……それを理解した時、詩音の涙に、熱いものが一粒だけ混じるのだった。
お姉、みんな、
;■部活メンバー奮闘
鷹野はこんな山地を歩くほどの体力はなく、息も絶え絶えになりながらも、無線で山狗たちを怒鳴り続けていた。
彼女は他の山狗たちのようなインカムではなく、隊員の背負った通信機で怒鳴るから、背負っている隊員は背中越しに延々と鷹野の怒鳴りを聞かねばならず、辟易としていた。
「…………く! どいつもこいつも頼りないったらありゃしない…! それでも特殊部隊なの?! 天下の山狗はどうしたというのよ…!!」
イラつきながら下唇を噛み、左の腕を握り締めながら爪をぎゅうっと立てる…。
よく見れば、腕のあちこちが爪の跡だらけになっていた。
……その左手には、…父の研究スクラップが一冊。
いつの間にこんなものを小脇に抱えていたのかわからない。
……せめて祖父の助けとぬくもりが欲しいと、無意識の内に手にしていたのかもしれない。
山狗たちはすでに壊滅的な打撃を受けていた。
土地勘のない山中をぐるぐると引っ張りまわされ、十重二十重のトラップ地帯で幾度も消耗を強いられ、強靭な彼らにも根をあげさせるほどだった。
「…………くそ、
「鶯1より鶯13…、
「ふ、…ふざけるなよ、
彼が焦るのも無理はない。……先ほどから繰り返しなのだ。
1人ずつ左から徐々に削られていく…!! そして今度は…自分の番なのかッ!!
なら9時方向から敵は来るのか…?!
いやそんなのあの悪魔たちには通用しない…!!
そもそもこの山中じゃ、前後360度でも警戒が足りない!
足元から頭上まで全ての全てに警戒してもなお足りないってんだぞ!!
ど、どこから来やがるんだッ?! くそったれ、来やがれ来やがれ来やがれッ!!!
男はテーサーを構え前後を怯えながら振り向く。
……このテーサーも本来なら強力な武器となるはずだった。
だが、それは元々屋内で使うものだ。この茂みの深い山中ではまったく効果が発揮できない。
男の背後でがさごそッと茂みが動く音がした。
そこに人影を見た気がして、男はテーサーを発砲する!!
電極針が射出され、誰もいない茂みに飛び込む。……き、気のせいか?!
その時、テーサーに妙な手応え。
………そう、テーサーと電極針を結ぶ伸び切ったコードが茂みに絡まり巻き戻せないのだッ!!
だから彼らは武器がまったく役に立たず、丸腰も同然だったのだ。
その時、彼の後に再びがさがさっと音がして、今度こそ人影が飛び出る!! だが、頼みの綱の武器は今や役立たずだ! その人影が吼えるッ!!!
「あうあうあうあうあうあうあうッ!!!」/
それで充分だった!
恐怖に駆られ飛びかかろうとしたその瞬間、彼の思考は完全に単純化し、
頭上の枝の上にいる沙都子が下にブリキバケツを落とす。
…それは、戦略弾頭も裸足で逃げ出す正確さで男の頭にはまるッ!!
「ぅ、うわああぁあぁああ、何だこれ、何だこれッ!!!」
そのブリキバケツには、妙なラクガキがされていた。
……何だろう。妙な謎生物のラクガキだ。
…ほら、あれだ、よく教育番組のお姉さんが絵描き歌で描くような得体の知れないマスコットキャラ!!
「かぁいいよぉおぉおおお〜〜、おッ持ち帰りぃいいぃッ!!!」
別の茂みから飛び出したレナの、萌える拳の一撃がブリキバケツごと男を打つッ!!!
いや、その鋭さは打つと形容するのは妥当じゃない。…穿つというべきだッ!!
後に弾き飛ばされる男の先には、
破壊力は一方だけでは決まらない。双方の衝突の相対速度で決まる!!
圭一の一撃と、レナに吹き飛ばされたそのスピードが、驚異的な破壊力を生むッ!!!
グワァアアァァアン……、あまりに壮絶かつ爽快な快音が響き渡り、レナに吹き飛ばされたのとは180度逆の方向に錐揉み状態で男は空を飛んでいた。
そしてごろごろと転がり、地面に突っ伏した先には、しゃがんだ梨花ちゃんが待ち構えていた。
……もうそこに飛んでくるのが最初から計算済みのような配置だった。
「かぁいそかぁいそなのです。なでなで、みーみー☆」
バケツ越しでもわかる巨大タンコブを撫でてご満悦の梨花。
…隊員を一瞬だけ迎えた癒しの時は本当に一瞬で終りだった。
その尻に魅音がテーサーの針を打ち込むと、隊員は電撃でビクンと跳ねて無力化した。
「くっくっくっく! 一丁上がりぃ!! こいつもフン縛っちまいなぁ!!」
その隙に、待ってましたとばかりに圭一とレナが飛び掛り、後手に針金で締めてしまう。
「あぅ〜あぅ〜!! 完全に決まりましたですよ、部活コンビネーションなのです!!」
「をっほっほっほっほ!! バーッチリですわね!! 次はコンビネーションその7で参りますわよ!!」
「あぅあぅ!! 僕はさっきのその5がもう1回行きたいのです!」
「あらあら、あの爽快感がわかるなら羽入さん、トラップ使いの才能がございましてよー!!」
羽入と沙都子が、いえーい!と手を打ち合わせる。
圭一とレナが隊員を縛り上げる間。
梨花は五感を研ぎ澄まし、四方の気配を探っていた。
「……みー、みー、みー。/
ぴこーん。……向こうの方角から別の気配が近付いてくるのですよ。……みー、みー、みー、反応は2、かなり怯えてるのですよ、にぱ〜☆」
そして魅音に周囲の状況を伝える。まるでレーダー要員だった。
魅音は、すでに倒した男は眼中にない。梨花の検知した敵気配を加味して、沙都子の裏山地図を見ながら次の転戦先の検討に入っている。
みんなが、次はどこへ攻めどうするのかとわくわくしながら魅音の指示を待つ。
「くっくっくっく!! 何だいみんなのその目はぁ。まぁだまだ食い足りないってぇ? 確かにねぇ。我が部としちゃあようやく体が温まってきた程度だしねぇ!! 行っちまう? この山で、みんなやっちまうかあぁあぁ!!!」
魅音の部長としての才能は、指揮能力や作戦能力もさることながら、もっとも評価されるべきなのが士気を鼓舞する能力だろう。
勇将の下、弱卒なし。そして勇敢な兵士は魅音の指揮の下、百万の兵に匹敵する英雄の活躍をするッ!!
今の魅音を、いや、部活メンバーを、…誰が止められる?!
当初の魅音や小此木の見積もりも今ではすでに甘い。
小此木はこの頃、思っていた。
……この包囲戦を始める前、自分は彼ら1人をよく訓練された1個小隊などと例えたが、……もうそれは適当ではない。
…連中は、最精鋭の1個機甲師団に匹敵する。
……機甲師団に歩兵が勝てるわけがない。
増してやこっちはせいぜい中隊規模なんだぞ!!
重爆の航空支援、さもなきゃ艦砲射撃、砲兵陣地はどこだよ?!
この山を野戦砲で地図の書き換えがいるほどに穴だらけにしろ!!
それができないってんなら潜水艦に頼んで戦術核をブチ込んでくれ!! それが駄目なら退却させろぉおぉおぉぉッ!!!
もう小此木は疑わなかった。……敵の指揮官は何者か知らないが天才級だ。
名将の下に全ての兵士は万夫不当の豪傑となる!!
せめて顔を拝ませろ、どんな悪魔なのか名前だけでも教えてくれッ!!
あぁ、雛見沢って鬼の住む村ってぇことになってたんだよな…。
………今ならわかるぜ、
「鶯13、沈黙!」
「鳳4、沈黙!!」
「こ、こちら雲雀10…! こ、子供の笑い声が聞こえる…、
「雲雀10、退却しろ退却しろ!!」
「退却ってどっちにだよ?!/
うッうわあああああああ!!!」
「お、鳳9だ…! Rを発見、追跡している、応援を送ってくれ!!」
「鳳9、どこにいるんだ、所在地がわからない! 周辺の状況を送られたし!!」
「……き、霧が出てる、
「鳳9、地図上ありえない、落ち着いて状況を確認しろ!!」
「そ、そんな……河原の向こうに……、
「鳳9、鳳9!! 応答しろッ!! お、鳳9、沈黙ッ!!」
「無理だ、やつらはこの山の鬼だッ!! 俺は知ってる、これは鬼隠しなんだ!! 俺たちは全員この山で消されちまうんだッ!!」
「ば、馬鹿なことを口走るのはやめろ!! 各班長は再点呼で状況把握と士気高揚に努めろ!! 敵は悪魔なんかじゃない!! ただのクソガキだ!! ビビるな、格の違いを見せてやれッ!!」
「……ぁははははははは、ぁははははははは……。」
「き、聞こえる、誰のインカムから聞こえてるんだッ?! 俺じゃない、俺じゃない!!」
「くッ熊だ!!! うわあああああああああああッ!!!」
「鳳3だ。ここには野生の熊がいるのか?! 聞いていない!! 鳳1、一度撤退し火器の武装の検討を!!」
「ば、馬鹿言うんじゃねぇ、いくら谷河内山系ったって野生の熊がいるはずねぇだろッ!! 連中のはったりだ、乗せられるなッ!!!」
「……人の身に過ぎたるを知らぬ愚かなる人間たちよ。穢すことを許されぬ聖地を踏み荒らす罪を知るがいい……。我に感謝せよ、聖地を穢した罪を償う機会を与えしことを感謝せよ、
「ち、畜生、誰かのインカムを奪ってやがるんだ!! 敵の士気減退戦術に乗るな!!」
「……恐れを知ることかなわぬ哀れな人間どもよ。よかろう汝らがその身でしか知ることができないというなら、我がそれを教えようぞ…。」
「…う、鶯1だ…!! 後衛が来ていない…!! 馬鹿な、どこへ行った、応答しろッ!!!」
「……くすくすくす。哀れな鶯が一羽、踏み込むこと許されぬ地に迷い込む。…そんなにも知りたいか? 鬼の世を知りたいか…? 告げよ人の世に別れを。我が忠告に耳を貸さぬ愚を今より知れ…。」
「……ぐ、
「だ、だだ、誰の悲鳴だ今のは!! 鶯、点呼を取れ!!」
「……………ぐがッ、
「またやられた!! 誰が沈黙した?! それより本部、俺の左肩には誰かいるんだよな?! 俺は孤立してるんじゃないよな?!」
「……くすくすくす、………まだ聞きたいか、痛みを伴う声が。」
………ザザ…ザ…。」
「な、何だよ今の音!! 何がひしゃげたらあんな音になるんだよ…!!」
「俺、昔、電車の飛び込みを見たことある…! あん時と同じだ!! 全身がひしゃげる音だッ!!」
「嫌だ、そんな死に方ごめんだ!!! 死にたくねぇ、死にたくねぇ!!! やめてくれ山の神さま!! 俺も好きでやってるわけじゃねぇんだ、給料もらってやってるだけなんだ!!」
「う、鶯1より本部!! 駄目だ、士気の高揚は困難。隊員の脱落と士気低下は深刻! これ以上の戦線維持は困難!! 損害が増えるだけだ…!!」
「だから落ち着け鶯1…! 他の隊員は野戦の素人ばかりじゃねぇか!! お前はあの地獄の卒業生だろうが!! そのお前が混乱してどうするんだ!! 落ち着け、お前が範を示せッ!!」
「……ほ、本部、鶯1が応答しない…!! そんな、あの人がやられるなんて、
「だ、駄目だ……、くそ!! 敵は心理戦までこなしやがるのかッ!! ガキどもの癖に、プロの不正規戦部隊に士気減退戦術まで仕掛けやがるというのかッ!!!」
無線は本来、連絡をスムーズにして連携を取らせるための武器となるはずだ。
……だが、著しく減退した士気に付け込まれ、それが裏目に出た。
敵は倒した隊員からインカムを奪い、混乱をより深める心理攻撃に出てきたのだ。
落ち着いて考えればチープなそれも、前後左右もわからない敵地の山中で孤立し、徹底的な打撃を受けて消耗している彼らには有効だ。
一番有効な手は全員にインカムの使用をやめさせることだが、それでは敵による各個撃破をさらに招いてしまう!!
小此木は、その全貌も知らぬ部活メンバーに対し、畏怖の念を抱かずにはいられなかった…。
それに比べ、びくびくするなと、ただ怒鳴り続けるだけの鷹野の現状認識の甘さは、今や滑稽なくらいだった。
………ひたすら突撃しか言わず、部下を死地に着き落としてきた指揮官ってのは、こういう背広将校なんだろうよ…。
だが、鷹野のがむしゃらな突撃命令は、皮肉にも多少の効果を上げている。
敵は絶大な戦果を挙げつつも確実に後退し、行動範囲を狭めている。
敵はトラップ地帯に誘い込み、そこから撤退し次のトラップ地帯へ誘い込むのを戦略としてる。
…つまり、自分たちの陣地と引き換えにこちらに出血を強いているのだ。
…………すでに山狗は壊滅状態だが、……連中の行動範囲もかなり狭まっている。
向こうが心理戦に出てきたのは、決着を急いでいることの表れだ。
……ここで撤退すれば、むしろこれまでの損害が無意味になる。
……悔しいがお姫様の言う通りにするしかない。
…もうじきで連中の首根っこをふん捕まえることができるのだ…!!
敵から奪ったインカムの前では、羽入と圭一が交互に出ては、色々と演技していた。
「はぅ〜、羽入ちゃんすごいよ、本当の神さまみたいだった!!」
「っていうか、すごいね羽入。あのドスは並みの人間にゃちょいと無理だよ…!」
「……だって神さまなのですから。にぱ〜☆」
「あぅあぅあぅ! それを言ったら圭一もすごいのです。鶏の首を絞めたみたいなすごい悲鳴を出してましたです。」
「をっほっほっほ! こんなの圭一さんには朝飯前ですわよ? 何しろ我が部の通り名は口先の魔術師でございますもの!!」
「へっへっへ!! 相手が人で耳がついてる限り!! 誰だろうと俺様の圭一マジックで思いのままに操ってやるぜッ!!!」
「将来、圭一は声優になるといいのです。きっとガ□ダムとかでかっこいい役をやれますですよ。にぱ〜☆」
「聞こえる?! 私は鷹野よ、三等陸佐よ!! あんた達の最上位の上司よ!! 聞きなさい、鬼もいないし神さまもいないわ。もしいるなら戦いなさい。神などその座から引き摺り下ろしてやるのよ!! 雲雀と鶯は合流して戦力を立て直しなさい。鳳は白鷺の残存と合流。敵は山頂付近の、営林署の資材小屋あたりを本拠地にしている模様! 高所を取られてるわ、こちらの動きが筒抜けのはず!! 奇襲はあって当り前よ、刺し違えてでも倒しなさい!!」
「三佐、武装に戻る許可を!! やつらを制圧するにはテーサーでは無理です!!」
「許可できるわけないでしょ!! 私たちは今、やつらを完全に包囲して追い詰めているのよ!! ここで退けば逃がすわよ!! 私たちはあいつらの首に両手をかけてる。後は絞めるだけなのよッ!!!」
無線で部下たちを怒鳴り続ける鷹野を尻目に、小此木へ別の回線で連絡が入った。
通常では使用しない回線でわざわざ、ということは、鷹野に聞かれずに隊長と話をしたい、ということに違いない。
小此木はその意味を理解し、鷹野から少し離れて小声で無線に応えた。
「指揮車より鳳1。…緊急事態です。診療所研究区画が襲撃を受けたようです。エントランス区画への侵入者警報を受信しましたが、すぐに解除されました。誤報時の手続きによらない解除です。状況の確認を求めていますが無線に応じません。現在、研究区画の武装保安隊も含め、全員が沈黙しています。」
「……………………………。…………へ、
小此木は全てを理解した。……完璧にやられたのだ。
陽動の可能性ももちろん、多少は考えていた。だが、山狗の中でもっとも重武装の研究区画武装保安隊が、奇襲を目論むような小規模別働隊に壊滅されるとは夢にも思わなかった。
相手が迷彩服を着た兵士の一群だったなら引っ掛からなかった。
心のどこかで、所詮ガキの集まりとの見下しが最後まで抜けなかったのだ。
今こそ、全てを理解する。
この山中の戦闘で、一度も姿を見せていない大人たちの違和感が全てわかる。
「…………わかった。そいつは東京の郭公(カッコウ)に伝えたか。」
「まだです。連絡しますか?」
「………連絡しろ。…富竹は奪還され脱出。………村境で封鎖線を張らせてるが、…無理だろうな。……武装保安隊を秒殺した連中だ。RPG1基では難しいだろ。」
「封鎖線に応援を送りますか。」
「ばぁか、そんな余剰人員があったらお姫様が突撃させてるぜ! 今、手が空いてるのはむしろお前くらいだ。封鎖線に連絡。車両の強行突破に備えろと伝えろ。」
「りょ、了解。」
;■封鎖線突破
「…了解。警戒を厳にする! 各自、聞け! 診療所が襲撃され捕虜を奪われたとの連絡が入った。敵はおそらく車両にて強行突破を試みるものと思われる。RPGを準備。他は一斉射撃で蜂の巣にしろ。射殺許可は出ているぞ。」
隊員の1人が頷き、路肩に止めてあるワゴン車の荷台にある細長いケースを開ける。
……そこには、明らかに戦争に使うものとしか思えない、強力な対戦車榴弾砲、RPG-7が横たわっていた。
…この武器こそが、近代戦の歴史を変えたとまで言われている。
何しろ、この恐ろしい武器の射程は数百mにも及び、地上に存在するほとんどの戦車を一撃で葬ると言うのだ。
…つまり、この武器の登場により、1人の歩兵が、1台の戦車を撃破できる火力を持つ時代が訪れたのだ。
…戦争の歴史すら塗り替えかねない兵器。…それが、このRPG-7だった。
他の4人の隊員たちも、入江の車のタイヤを瞬時に撃ち砕いたあのMP5なる銃を持っている。
……この封鎖線が絶大な火力を持つことは疑いようもない。
彼らはワゴン車の中に待機し、不審車両が来たら車を道路の真ん中に出して封鎖。
全員の一斉射撃の火力で相手を撃滅しようという魂胆だった。
彼らは慎重に後方の、雛見沢方向から不審な車が来ないかを見張っている。
……雛見沢と町をつなぐ街道はこの一本だけだ。
他の道を使い別の人里に出るには、半日掛かりの時間を費やすことになる。
そして、…この砂利道と舗装道路の境目であるこの場所は、通称、村境と呼ばれ、村を出ようとするものを阻止できる最後の場所であることを物語っていた。
雛見沢の方が高いから、敵は坂を下ってくる形になる。
……こちらが車でバリケードを作ることは読めているだろうし、充分な阻止火力を持っていることも理解しているはずだ。
………突破しようと思ったら、強行突破以外にありえない。
さもなければ、この封鎖線を完全に無力化するだけの銃撃戦が必要になるだろうが、それには相当の時間をかけるだろう。
寸秒を惜しむ彼らが取れる戦術ではない。
………ぐるるるる…。
……誰かのお腹がなったが、誰も茶化さない。
生理現象だから仕方ないし、今は臨戦態勢だったから笑おうとも思わなかった。
…時計を見る。……もうすぐで正午だ。お腹が空くのも当然だった。
その時、…雛見沢方向から車の爆音が聞こえてくる。
エンジンの叫び声からして相当の速度を出しているのは疑いようもない。
「来たぞッ!!」
運転手がワゴン車を出し、道路に横向きに停める。
隊員たちは車の影に隠れたり、道路わきの草むらに伏せたりして銃口を、砂塵を吹き上げながら迫ってくる不審車両に向けた。
相当の速度を出しているだろう。
…だが、ここは非常に長く見通しのいい直線だ。いくら速度を出そうとも、完全に捕捉されている…!
その車は葛西のものだった。
高級外車の黒いボディが光り、エンジンの高級さもその音から察することができる。
「ぎりぎりまで引き寄せろ…! 撃てるのは1発だぞ! 一撃で仕留めろッ!!」
RPG-7は無誘導ロケット弾を放つ。
だから高速で移動する目標に当てるのは本来、至難だ。
……だが、相手がいくら早かろうと真正面。車の機動上、急激な動作で回避しようとすれば横転は避けられない。
……それが誘えるなら、何も直撃させる必要もないのだ。
それに、葛西の言う通りの威力なら、その威力は例え直撃しなくても車を引っくり返すくらいのものだと言う。
撃てるチャンスが仮に一度だったとしても、先制攻撃の有利はあまりに山狗に大きかった。
「……富竹さん。不審なワゴンが路上を封鎖してます。伏せてください!」
「注意して! 向こうのワゴンの鼻先に当てるようにするんだ!」
「わかってます! 一度経験してますのでコツはわかってますよ!」
爆走する車を真正面に捉え、全員の照準がびたりと合わされていた…。
「まだまだ引き寄せろ…!! 距離100未満まで引き寄せろ!!」
「わかってる!! 測距してろッ!!」
草むらに伏せた男は、もっとも安定する射撃体勢である匍匐姿勢で発砲体制に入る。
先端の歪なロケット弾が不気味に光り、生涯に一度しか許されない獲物をしゃぶり尽くしてやろうと舌なめずりをしているように見える……!
「距離200、
RPG-7の引き金に指が掛る……!!
「うおおおおおおおおおおおおお!!!」
「赤坂さん、衝撃に備えてください!!!」
「距離100、
……………………。
………?
発射されない。不発?!
その時、脇で双眼鏡で距離を測っていた男はぎょっとする!!
RPGを構えていた男が、肩を撃たれてのたうちまわっていたからだ…!!
「ス、スナイパー!! 銃声はなかった、距離400以上だッ!!」
「そんなのはどうでもいい、撃て撃て撃て撃てッ!!!」
あとは銃の火力で止めるしかないッ!! 他の隊員たちが一斉に銃火の咆哮を浴びせかけた!!!
だが、彼らはすぐに違和感に気付く!!!
この距離で一斉射撃を浴びせれば、普通の車なら穴だらけで炎上するはずだ!!
なのに、しない!! た、ただの車じゃないッ?!?!
「……そりゃあそうです。園崎家御用達の防弾リムジンですから。/
……葛西ッ! RPGを観測手が拾った!! 撃たせるなッ!!!」
「……ふ。…この距離で外すとでも?」
詩音と葛西の姿は、この直線の道路の、ずっとずっと向こう、敵から見ると丘になった向こうの死角にある、捨てられた廃車の屋根の上だった。
詩音は膝立ちで、軍用の高性能双眼鏡で敵の動向を確認している。
そして葛西は屋根の上に伏せて、銃身とスコープの長さの特徴的な……、狙撃銃を手にしていた!
詩音は土地勘から待ち伏せはこの場所だと断定し、狙撃戦で制圧するしかないと判断したのだ。
二人とも狙撃の訓練は、ダム戦争時代に渡米してまで受けている本格派だ!
葛西のスコープには、撃たれた男が落としたRPGを拾い、大慌てで構えようとする男が完全に捉えられていた。
「早く撃て、吹き飛ばせよ!!! …んな?!」
再びRPGは発射されず、それは草むらに転がり、…撃とうと試みた2人が傷口を押さえて呻いていた。
……撃った箇所はいずれも肩。
命を奪うほどではないが、戦闘能力を確実に奪っている!
もう車は至近距離に迫っていた!! 隊員たちは悲鳴をあげて飛び退く!!
赤坂の運転も荒事に慣れたものだった。封鎖するワゴンの鼻先にぶつけて跳ね飛ばし、見事突破したからだ!
跳ね飛ばされたワゴン車はぐるんと輪を描くように回った。
「追撃しろ!! 行くぞッ!!!」
ワゴン車に乗り込もうとする彼らに容赦なく狙撃弾が浴びせられる…!!
「銃声が完全に着弾より遅れてるぞ、長々距離狙撃だ!! 狙撃教練を完全に修了してるベテラン狙撃手だぞ!!」
「あと、それと同格のベテラン観測手がペアだ!! こっちの動きが丸見えらしいぞ!! 狙いが正確すぎる!!」
狙撃銃のスコープは狙撃に特化するあまり、拡大率が高いため視界が極めて狭く、戦況判断に遅れる弱点がある。
それを補うためにペアを組むのが観測手だ。
観測手は視野が広く強力な双眼鏡で戦況を見極め、狙撃手にそれを伝達する。
……狙撃手は1人では活躍できない。
同格の観測手と組んで始めてその真価が発揮されるのだッ!!
立ち上がり車に乗り込もうとするが、それを牽制するように超高速のライフル弾が撃ち込まれる!! その弾丸は空気を切り裂き、何しろ音の速度をも超えるのだ…!
…そんな弾丸があげる唸りは、軽少な銃のものとはレベルが違う。それはまさに、死神が鎌を振るう音にも似た、文字通り空気を切り裂く恐怖の音、“音を超えた音”だ!!
その上、向こうにはこっちが手に取るように見えているのに、こっちは向こうが捉えられない!
この恐怖は、狙撃を受けたことのない者には説明できない…!!
「だ、駄目だ、車に近付けない!! 俺たちはいい、お前たちだけでも追えッ!!」
「わかった、俺たちだけで追撃する!!」
ワゴン車には運転手ともう1人しか乗り込んでいなかった。
でも、今すぐ追わなければ手遅れになる!! 運転手は即断し発進した。
「どうですか、追ってきてますか。」
「…………うん。来てるよ! 運転がうまいね、あんなワゴン車なのに追い上げてくるよ。」
「ははは、それは参りました。…応戦を頼みます!」
「うん、任せて!」
富竹は後部座席の窓を開けるとそこから身を乗り出す。…お昼の暑い熱気を伴う風がざぁっと室内に入って来た。
そして、悪路にガクンガクンと揺られながらも、平然と銃の機構を確認する。
その動作は手馴れているどころか、…富竹の普段と変わらない様子を見ていると、まるでお気に入りのカメラをいじっているようにしか見えないくらいに自然だった。
その銃は地下区画で保安隊員から奪ったものだ。
一方、追い上げてくる車両の隊員の手にも同じ銃が握られている。火力はまったくの互角だ!
道路は直線をやめ、のたうつ蛇のようにうねり始める。
それは時に激しい段差や急カーブを伴って車内を振り回した。
…このような状況下での銃撃戦は相当困難を極めるに違いなかった。
無駄弾を撃てばすぐに弾切れになるのを富竹は理解していて、迂闊に発砲せず、慎重に距離を計った。
…そうすることで相手にまだ射程外だと勘違いさせ、距離を詰めさせようとしているのだ。
逆に山狗の方はもう緊張に耐えられなかったらしい。
こんな振り回されるくらいの悪路で、ほとんど当たりもしない弾を撃ちまくった。
それらの弾は時折、ボディに当たり、不快な金属音を車内に響かせる。
「富竹さん、身を乗り出していては危険です!!」
「大丈夫。あんなヘタクソじゃ当たらないよ。僕の生徒だったらゼロからやり直しだなぁ。…このような状況下では動きを読むんだ。挙動を予測し、弾幕で予測射撃をするんだ。当てようと思わない。弾幕に突っ込ませるようにするんだ。…こういう風にね!!」
富竹が充分な距離と、路上の具合から射撃タイミングを計り、初めて発砲した。
その射撃スタイルはわかる者が見れば惚れるものだった。
がっちりと構えて激しい連射の中でもコントロールを失わない。それでいて力は入りすぎず、ゆとりも残している。
車から身を乗り出すという変則的な構えにも関わらず、富竹は実にうまく応用を利かせ、この不利な体勢の中で抜群の命中率を叩き出していた…!!
それは先ほどの向こうの、下手な鉄砲、数撃ちゃ当たるなんてのとはまったく違う!
当たるべくして当たるところへ刻み込む!! 同じ銃での発砲とはまったく思えなかった!!
ワゴン車のボディに正確に刻み込まれるその嫌な音は、彼らに嫌と言うほど富竹の実力を思い知らせていた。
「……く、……くそ、あいつ滅茶苦茶射撃がうまいぞ!! ただの東京の事務屋じゃねぇのかよ!!」
「…………………俺、噂に聞いたことあるんだ。富竹二尉って、事故で事務屋に移ったらしいが、教官時代は不正規戦部隊の射撃教官だったと聞いたぞ…。」
「な、……何だよそれ…!! ってことはあいつ…、うわッ!!」
富竹は降伏を迫るように徐々に着弾を運転席近くへ集めて行く。
……彼らにはもう、この圧倒的に不利な状況が理解できていた…。
富竹は、この悪路の中でもやすやすと的に当てる技量を持っているのだ。
その上、向こうは防弾リムジン。こちらは普通車。
…しかも運転席を正面に晒している、もっとも不利な追う側だ。
これまでの射撃は所詮、威嚇射撃なのだ。これ以上、引き際を見誤ると、…富竹は今度こそ効力射に踏み切るだろう。…勝ち目などない!
「………鳳1より追跡車両。封鎖線が突破されたなら充分だ。深追いするな。富竹は射撃の名手だぞ! 死に急ぐな!」
「……………ど、
「………く、
「はははは。諦めたようだね。向こうは速度を落としたよ。」
「……ひゅう。あれだけの銃撃戦をしたのに、まったく平静なままですね。…相当の場数をお見受けします。」
「あはははは! 訓練の賜物さぁ!」
富竹は車内に戻るとバックミラー越しにガッツポーズを決めて見せた。
普段の飄々とした雰囲気が、激しい銃撃戦のあとでも変わらない。
赤坂は初めて、富竹という男を知るのだった…。
;■番犬出動
「……富竹二尉!! ご無事でしたか、連絡が取れず心配しておりました!!!」
富竹の姿は興宮の外れの電話ボックスにあった。
ここの電話線は山狗たちが抑えているのとは別系統。通話が可能だった。
富竹は直ちに東京と連絡を取っていた。
東京調査部に山狗のスパイが混じっているらしく、自分の隠れ家が特定されたこと。
つい先ほどまで囚われていて、何とか脱出してきたこと。
敵は陽動にかかり今ある山中にいるということ。
囚われている時、首謀者である鷹野三佐が自分に、黒幕の存在をほのめかした等々、現在知り得る限りのことを全て説明した上で、言った。
「入江機関の早急な鎮圧を。彼らはすでに地上での発砲を繰り返しており、このままでは村人に発覚するのも時間の問題です。番犬の緊急出動を強く要請します!」
「……もしもし、調査部の岡だ! 無事で良かった! 番犬はすで雛見沢地区の南方30kmで空中待機してる! こちらも上層部に鎮圧命令を求めていたのだが、石頭どもが事なかれ主義で渋りやがってな! だが君が無事ならば話が早い! 君の話はすぐにトップに説明する。許可はすぐ出るだろう。20分以内に番犬は到着する! ん、…つい今、鷹野三佐と小此木二尉に逮捕命令が出たぞ! 入江機関の即時制圧と山狗への武装解除命令も出た!! 君のお陰だぞ、でかした!!」
電話ボックスから富竹が出てきた。
「話はつきましたか。」
「えぇ。番犬部隊が鎮圧に緊急出動するそうです。すでに近くに空中待機していて、20分ほどで急襲するそうです。」
「どの程度に強いんですか? その番犬という連中は。」
「山狗が機密保持のための多目的部隊だとしたら、番犬は戦闘のみに特化した精鋭部隊です。装備も人材も比べ物になりません。おそらく、あっという間でしょうね。」
赤坂は腕時計を見る。………正午を30分くらい過ぎたところだった。
あと20分ほどで番犬がやって来る。
空腹感を思い出す。…もうお昼なのだ。
もし、それだけの度胸があるならば。
…今からどこかの蕎麦屋にでも入り、冷えた素麺でも平らげる頃には全てが終わっている。
あれだけの戦いぶりを見せ、…その最後の最後まで戦いを続けた山狗の末路としては、あまりに呆気ない時間だった。
ここは田んぼと住宅が入り混じる、文字通り興宮と村の境目だった。
さっきまであれほど強く太陽は照り付けていたのに、いつの間にか銀色の雲が薄っすら覆って、涼しい風を吹かせていた。
…………軽く、にわか雨でも降りそうな、そんな雲行きだった。
二人とも、今日一日、何度死線を潜ったかわからない。
ここでぼんやりとして、降るかもしれないにわか雨に身を晒したい誘惑に駆られもした。
少しの間だけ、その誘惑を楽しんだ後、
「どうしますか富竹さん。」
「……ん? どうするって、何をだい?」
「私、…雛見沢へ戻ろうと思ってます。……まだみんな、戦ってる。」
「…………そうだね。でも、いいのかい? 一度は潜り抜けた死線だよ。」
「梨花ちゃんが、…待ってる。まだ約束は果たし終えていません。」
「………………なら、戻ろう。僕も用事があってね。ちょうど戻ろうと思ってたんだよ。…赤坂さんはヘリの旅の経験はあるかい? 乗せてもらえることになってるんだ。」
男たちはしばし田んぼの青々とした海が風にそよいで作る波を見詰めた後、再び弾痕の残る車に乗り込むのだった。
車が急発進し、道を逆戻りする。
まだ、昼なのだ。……綿流しの祭りが始まるまでには、まだまだ時間があるのだ…。
;■フィナーレ
空はいつの間にか曇り、急激に涼しくなり始めていた。
……これは少し降るな。小此木は直感した。
小此木はすでに、封鎖線が破られたことを知っていたが、それを鷹野に知らせてはいなかった。
……知らせても今さらどうにもならないし、…山頂へ至りたいという目的において、鷹野と同意見だったからだ。
今の小此木の気持ちはたったひとつ。
………今日と言う、人生最悪の日を作った元凶。
…敵の指揮官の顔を拝むまでは、どうしても負けを認める気にならなかったのだ。
すでに負けた戦だ。…まだ負けてないと思っているのはお姫様だけ。
隊員たちはあの後も様々なトラップや奇襲で脱落し、小此木は自分たちの一団を除いて、全班に戦線を離脱させ車両に戻させた。
息はあがっているくせに相変わらず血気盛んなお姫様と、自分、そして疲労困憊で、もはや歩くので精一杯、たとえ会敵できてもとても戦闘など出来ぬほど消耗した死に損ないの隊員が数名残るのみだった。
やがて、斜面が少しずつなだらかになっていき、……山狗の生き残りたちは山頂付近の、営林署の資材小屋に辿り着いた。
……こちらが壊滅状態なのは向こうも知り尽くしているようだった。
…人数、戦力、…全ては今や向こうに劣る。
…だから全員でお出迎えがあったとしても今さら驚かなかった。
そこには今日一日、山狗を壊滅に追い込んだ子供たちの全員がいた。
彼らも今日を全力で戦った。
終始圧倒していたとは言え、体力を全て使いきり、向こうだって立っているのがやっとのはずだった。
でも、……彼らは気力で立っている。
それは、勝利したものにだけ神が許す、勝者の栄誉という名の気力だ。
「い、……いたわ!! Rよ、小此木、捕らえさせなさいッ!!」
「へへへ、へへ。三佐、よくもこんなザマの我々をこき使えるもんです。」
「何? 私に逆らう気なの?!」
「……まさか。逆らう気なんか最初からありませんやね。へへへ、へっへへへへ。」
小此木は、通信機やテーサーなど、重かった装備の数々を外して捨てた。
そして、ボタンをいくつか外して胸をはだけながら、
…山狗と彼らの真ん中まで、歩み出る。
「…………山狗の鳳1こと小此木だ。……お前らのリーダーに敬意を表する。…名前を聞かせてくれ。」
彼らは顔を見合わせる。その先には、……背の高い少女がいた。
年齢は大したことないだろう。
…だが、その鷹のような目つきは、歴戦のベテランに勝るとも劣らないいい眼だ。
…どういう経緯かは知らないが、日頃から死線を潜っていなければ宿せない眼光だった。
「…………部長、
少女は歩み出て、言った。
「……………いくつだ。……いや、……年齢なんてどうでもいい。…………朝からの興宮署での騒ぎからこの山での戦いまで、
「…………………………。」
魅音と名乗った少女は応えなかったが、…むしろそれは自分たちを完膚なきまでに叩きのめした敵将として、貫禄ある返答だったかもしれない。
「…………この戦はお前らの勝ちだ。…へへ、まだ負けてねぇと思ってるのはウチのお姫様だけさ。……もう今さらどうにもならねぇ。富竹は封鎖線を突破。興宮にすでに到着して東京に連絡を取っただろう。……鎮圧部隊がいつここにやってくるか知らねぇがそれも時間の問題だ。……笑いたきゃ笑え、詰めってヤツさ。」
「小此木、何をやっているの!! その女は敵のリーダーよ、倒しなさいッ!!」
「………お姫様が何か言ってるが気にするな。」
「……望みは何?」
「…………お前も大将。…俺も大将だ。…………わかるな。」
「…………………………。」
「あいつ、……降参してるんじゃないのか…?」
「…レナにはわかる。……あの人は今日、敵の指揮をしていたんだよ。そして部下がみんなやられた。……だからはいそうですかって言って負けを認めるわけにはいかないの。」
「……我が身を犠牲にしてしか、敗軍の将は禊げないというのですか…。」
「…………………いいよ。あんたが納得するようにすればいい。」
「…感謝するぜ…。」
魅音が足を大きく開いて、構えるようなスタンスを取る。
小此木もそれに応じて、身構えた。
…普通に考えれば、小此木は赤坂に及ばないとは言え、近接格闘のスペシャリストだ。
だからいくら疲労が激しいとは言え、魅音に勝てる道理があるわけがない。
鷹野もそう思った。いくら何でも小此木を甘く見すぎだと思った。
だが、……魅音は、理解していた。
そして、それが与えられるのは、彼が認めた自分だけなのだ。
「……行くぜ。……ぅうりゃッ!!!」/
「…………ふん…!」
小此木が腰溜めから鋭い突きを放つが、魅音はその突きの肘を側面から弾き、その腕をぐるんと下に回しこんでそのまま裏へ持って行き、腕をねじ上げる形で抱え込んだ。/
そのまま、ぐるりとひねり…、
小此木は、あぁ折られるなと思った。
いい体捌きだった。突きの力を綺麗に流して腕取りに繋げた。
魅音が付け焼刃程度でない護身技術を持っているのは間違いなかった。
だが魅音は折らず、小此木を地面に転がした。
追い討ちはしない。早く起きて掛って来いとでも言うように悠然と見下ろす。
「…へ、……へへへへへへ! やるな。」
「小此木、何やってるの!! 早く制圧しなさい!!」
「ぅ、うるせえッ!!! 黙って見てろ!! こいつは大将戦だ!!」
小此木は素早く立ち上がると、今度は大きく上段に構えてから手刀を振り下ろす。
でも、その手刀を魅音はさも問題なさそうに避けると、その手刀に手を沿え、…さっきとまるで同じ。
外した手刀が下からぐるんと後に回され、さっきとまったく同じ形に固められてしまう。
…そしてさっきと同じ。
決めても折らず、ごろんと投げると、立ち上がって来いと見下ろした。
「……回転投げか。当て身を入れねぇとこを見ると養神館じゃねぇな、お上品な皇武館ってとこか。…ちなみに腕を決めた時、下がる相手の顔面に膝が入れられるぜ。」
「…………そうなんだ。今度試してみるよ。」
「み、…魅音ってすげぇ…。向こうの隊長と互角に渡り合ってるぞ…。」
「小此木、武器を使いなさい!! 何をやっているの!!!」
「行くぞぉあッ!! ふぁ!!」/
今度の気迫はもっと強かった。半歩多い間合いから中段蹴りで一気に蹴り抜こうとするッ!!
だが、魅音が今度は先に仕掛けるように踏み込んだ。何と蹴ろうとする足に自ら飛び込むように!!
蹴ろうという足を抑え込み封殺する魅音は小此木の至近距離に低姿勢でいた。
…となればその頭上を狙うのが定石だ。
その頭頂部に肘を叩き込んでやろうと右腕を振り上げた時、今度は魅音はがばっと立ち上がり、その腕を振り下ろさせまいと両手で押さえ込んだ。/
さっきまでの、相手の力を受け流すような軽やかさに比べると、それは単なる力比べ。
…体格が圧倒的に劣る魅音が勝てる力比べじゃない。
しかし、魅音はその振り下ろそうとする肘と抑える自分の力の均衡を自ら破り、虚を突いて力を抜き、肘を振り下ろさせた!/
それを側面を回り込み、
しかし、その後が少し違った。/
腕が後方に高く極められ、その弾みで顔面がお辞儀をするように下げられるそこへ向かって、
それは、小此木がさっき指導したそのままの技だった。そして再びごろんと投げ捨てた。
「……そうだ。飲み込みが早ぇじゃねぇか…。/
おめぇ、
「ははん。ごめんだね、あんたらみたいな根暗そうな秘密部隊の隊長なんて!」
魅音が笑い捨てる。
小此木もそれを笑って受けた。
謙遜でなく、それは純粋な反応だと思った。
「……へへへ、そうだな。お前ほどの器なら日本の不正規戦部隊長なんてもったいないぜ…。SASでもデルタでもスペツナズでも、…どこでも最高の人材になれるだろうぜ。何しろ、」
「はははは、あっははははははは!!! SASぅ? デルタフォースぅ? 下らないねぇ! そんな退屈なところじゃあ、私を飼いならせやしないよ!!」
「……へっへへははははは! そうだろうな。そうだろうよ。……なら聞かせてくれ。お前ほどのヤツなら、何の隊長を望む!」
「隊長なんて興味ないね。部長でいいね。」
「……部長…。英国情報部辺りってとこか、…ふ、妥当だな。」
「だめだめだめ、なってないね! あのねぇ、私がやりたい部長はたったひとつ!!
雛見沢分校の我が部の部長だけさッ!!
「…………勝てねぇ…。……勝てねぇよ……。…こんなヤツが隊長だったんじゃ、
「お、小此木ッ!! しっかりなさい!!」
鷹野が檄を飛ばすが、小此木の耳にはまったく届いていないようだった。
「……これでウォーミングアップはいいだろ。次の一撃でブチ抜いてやるぜ。…当たったら死ぬぞ。覚悟しな。」
「………来な。あんたに似合いの最後をくれてやるよ。………あんたが欲しいと思ってる、決定的な最後をくれてやるよ…!!」
「よく言ってくれた…。………へへへ、よく言ってくれたぜぇええええぇ!!!」
小此木は5歩も間合いを取り直すと、大きく息を吸い……体を捻って、右の拳に全ての気合を溜め込む…!
それは本人の予告通り、当たったらシャレにならないに違いない一撃だ…!!
魅音は目を細めて左半身でそれを受けるつもりだ。
空がざわめき始める…。ぱらぱらと小さな雨粒が額に当たるようになる。
「………行くぜ。……殺すからな。……殺しに来いよ…?」
「…………あんたのお祈りが済んだらいつでも来な。」
「うッおおおおおおおおおおおぉおぉおお!!」
まるで陸上選手が走り出すような、
…それが、体の捻りを加えて……、
落雷が、俺たちの時間を一瞬だけ切り取り、その一瞬を俺たちの目蓋に焼き付けた。
その時、……魅音の体勢は何も変わっていなかったと思う。いや、それは落雷の瞬間に閃くように動いたのか。……目蓋に焼きついた光景から、遡って思い出すしかない。
小此木は、…魅音をバラバラに砕きかねない恐ろしい一撃を、その右拳に託して放ったのだ。……つまり、…そのエネルギーを100%の転換率で反撃に返したなら……。
その落雷の瞬間、
日本武道の、柔道と合気道がそれぞれ伝える幻の技、
相手に指一本触れずに投げているように見えることからそう名付けられた、電光石火の神技!!
魅音が持つ武術の中で、……敗軍の将である小此木に与えられる技の中で、もっとも高貴で気高い一撃だった。
その一撃は、地面に叩きつけられる威力以上に、
小此木が魅音の背後の地面に叩きつけられた瞬間、雨がどっと降り、さらに突然の嵐が襲った。
前後に2枚のローターが特徴的な大型のヘリコプターが突如、山陰から圧し掛かるように現われたからだ。
ローターで気流が掻き回され、雨粒が嵐のように吹き荒れる。そのローターの爆音も嵐そのものだった。
ヘリの後方からロープが垂らされ、そこから次々に隊員たちが降りてくる。
……しばらく呆気に取られてから理解した。……番犬だ。富竹さんが呼んでくれた番犬部隊だ!!
小此木は我に帰ると山狗たちのところへ駆け戻る。
状況は一変した。
彼らはぼやぼやせず、そのまま転がるように斜面を降り、森の中に姿を消した。
状況が飲み込めず混乱する鷹野を引き摺りながら。
さらにもう1機のヘリが山を旋回しながら、聞き取りにくいスピーカーで何か言っていた。
「……入江機関の全職員に告ぐ! 本日1230に入江機関の全権限は凍結され、上級司令部の直轄となった。また、同時刻、上級司令部は入江機関全職員の武装解除を命じた。山狗中隊全隊員は直ちに武装解除し、入江診療所裏駐車場、もしくは山頂資材置き場に集合せよ! これに応じない場合、国内法及び自衛隊法に基づき厳正に対処することをここに通告するッ!!」
ヘリからは次々とロープで隊員たちが降りてくる。
それは明らかに山狗とは違う隊員たちだった。
……より武装が重く、彼らが持つ銃は皆、あまりに大きくて長くて、それを見ただけでも山狗とは格の違う部隊だとわかった。
「…これで、
「……わかりませんのです…。……ボクも、
沙都子と梨花ちゃんが呆然としながら、…抱き合ったまましゃがみ込む。
雨にびしょ濡れになりながら、泥の上でも構わず、その場にしゃがみ込む…。
魅音は、勝者の将に相応しい、それでいて敗者を見下しもしない表情で、雨の中に立ち尽くしていた。
……もう山狗はいない。
みんな散り散りに逃げた。
俺とレナは魅音に駆け寄る…。
「…………魅音……。」
「……魅ぃちゃん…。」
「…………終わった、……ね。」
「…あぁ、………これで部活は、
「梨花ちゃんも無事。……みんなも無事。……魅ぃちゃん。私たちは勝ち取れる最高の勝利を勝ち取ったんだよ……。」
「………魅音がみんなを率いたんだ。…魅音のお陰の勝利さ…。」
だが、俺とレナの声は魅音に届いていないようだった。……魅音が誰に言うわけでもなく、呟く。
「………………私さ。……部活の罰ゲームって、
「……え?」
「…………部活ってさ、…残酷だよね。仲間で戦いあってさ、ビリを決める。……つまりそれは、その子がビリだってみんなが見下すことなんだよね。」
「……見下してなんかいねぇだろ。………楽しく罰ゲームをしてそれでおしまいさ。」
「そう。………罰ゲームで楽しく遊んで、それで終り。……………敗戦の将の責任をさ、
「……誰も傷つかない。みんなで楽しく笑って、おしまいにできる。」
「…………あの、小此木ってヤツは、…………………私に投げ飛ばされて、……叩きのめされなきゃ、自分の罪がさ、…禊げないって思ったんだよね………。そりゃさ、今日何度もヤバイ目にあったよ。殺されそうに何度もなったよ…! …………でもさ、
魅音は、あの落雷の瞬間に小此木を投げて、……何か達観したことでもあったんだろうか。
………それを、俺に理解するのは難しかった…。
「…魅音が何を言ってるのかわからねぇよ……。もう忘れろ…。あいつらはもう終わりさ…。」
「…………そうだね。……これでもう全て、おしまいなんだね……。」
「………みんな、生きてる。…誰も怪我してない…。今は、
「……そ、…そうだな…! 誰もやられなかった。最高のハッピーエンドじゃねぇか!!」
この時点では詩音たちの無事をまだ確認していなかったから、これは性急な発言なのだが、……結果的にはそうだ。
……これは俺らが望む最高のハッピーエンド。
…なのに、…なぜか魅音の心は晴れなかった。
………その理由を、魅音は落雷の瞬間だけ悟っていた。
…………でも、…閃きが終わった時にはそれは消えてしまい、
俺たちの周りにもわらわらと番犬の隊員たちがやって来る。
最初はものものしくて、俺たちも敵扱いみたいだったが、富竹さんが現われて俺たちの立場を説明してくれると、すぐに誤解は解けたようだった。
彼らの指揮官がやってきて、今回の一件は政治的なトラブルが云々とのたまい、最後の最後に、どうか内緒にしてほしいと、ぺこぺこ頭を下げる。
その厳しい重装備の姿で謙虚に頭を下げるギャップが何だかとっても妙だった。
…もちろん、しゃべるつもりなんてさらさらない。
…終わった今となっては、……思い出すだけでも、夢の中のような、ふわふわと現実感のない一日だった。
もし明日の朝になってみんなに、昨日は何かあったっけ? …なんて言われたら、俺はあっさりとこれは夢だったのかと納得してしまうだろう。
……それくらいに現実感を喪失した一日だった。
………頼まれたって、しゃべったりするもんか。
「梨花ちゃん! 無事で良かった!」
「赤坂あぁあぁ!! 無事でよかったのです、みーみーみー!!」
「こっちも大成功だったよ。そっちもみんな無事かい? 入江診療所はすでに彼らが制圧したそうだよ。山狗の隊員たちも続々と投降に応じてる。隠れていた入江先生ともうひとりの少年も彼らに保護されたそうだよ。」
「監督も無事ですのね!! よかったですわ!!/
……少年?? はて、どなたでございましょうね? 富田さんか岡村さん辺りが巻き込まれて怪我でもしたのかしら。」
「………沙都子……。……本当に良かったのです……。」
梨花のその微笑みは、……苦難を潜り抜け、疲れきった者が、最後の最後にだけ浮かべることを許されるものだった。
でも、今の沙都子は、その意味をまだ知らない。
………その意味を教えるには、どれだけの時間がかかるのだろう。
……でも、………入江ならきっと何とかしてくれる。
……きっと、…………沙都子のにーにーを村に連れ帰ってきてくれるだろう…。
「……そうだ、沙都子。今日のお注射をしていないのではないですか。お注射をしないと駄目なのです。」
「あ、……そうでしたわね…。こんな時にも注射をやめちゃいけないなんて、面倒な話ですこと…!」
………沙都子はこの期に及んでも、自分の注射が雛見沢症候群に関係があると思っていないように見えた。
…………あるいは、薄々気付いていて、まだ気付いていないふりをしているのか。
……梨花は、…親友が辛い過去と決別するのを、どれだけ長い時間がかかろうとも、絶対に見守ろうと誓うのだった…。
「…このお注射も、日に2回で助かりますわよね。以前の3回の時は本当に大変でしたわ!」
………その、治療薬の注射の進化に、……悟史が関わっていたとは沙都子は気付かないだろう。
悟史という検体は、沙都子の治療薬研究にこの上なく貢献したと入江に聞いた。
………眠りながらでも、……沙都子の負担を和らげてやりたい、悟史の気持ちが、……沙都子の薬に何かを与えたに違いないのだ…。
沙都子は注射をお腹にする。
なので、物陰で済ませるため、すぐそこの木立に駆けて行った。
大丈夫、すでに一帯は安全地帯だ。ヘリからは次々と番犬が降りてくる。
1台のヘリに20〜30人は乗っていたのではないだろうか。
この山頂にさらに1台、他の山腹にも2台のヘリから番犬が降りているようで、もうこの山一帯が番犬の制圧下にあるようだった。
銃声は一発も聞こえない。……すでに戦う気力すら砕かれている山狗には、大人しく降伏する以外、選択肢が思いつかないだろう…。
雨はもうだいぶ弱くなっていた。……あと30分もしない内に晴れるだろう。
暑い時期にありがちな、天気の狂いだ。
沙都子が戻ってきた。そして言う。
「……梨花、羽入さんの姿が見えませんわね…。さっきまで一緒に居ましたのに…。」
「………? ………羽入? ………………羽入? どこ…………?!」
;■鷹野ターン
一瞬でも、東京が増援を送ってくれたのだと思った私だけが馬鹿だった。
彼らの様子では、すでに自分たちの負けがだいぶ前からわかっていた素振りだった。
……私だけに、それが伝えられていなかったのだ…。
「どういうことなの!! 状況がさっぱりわからないわよ小此木ッ!!」
「手詰まりってヤツです。富竹が呼んだ番犬が到着したんですよ。」
「番犬?! な、名前は聞いたことあるけど、…でも山狗と似たようなものでしょう?! どうして応戦しないのよ!!」
「ご冗談を…。山狗は所詮、防諜部隊です。対して番犬はほんまもんの戦闘部隊ですわ。……ハナから勝ち目なんざありませんね。」
わずかに3人残る隊員たちも、それを認めるように疲れきった目を私に向けるのだった。
「だ、大体、どうして番犬が来るのよ! 富竹は捕まえてるのにどうして!! 他にスパイがいるんじゃないの?! それは誰よ!!」
「………三佐、すでに診療所が襲撃され、富竹二尉が奪い返されたことはご存じないのですか…。」
隊員のひとりが恐る恐る言うと、小此木が、余計なことは言うなというような仕草をした。
「そ、そんなの聞いてないわよ!! それはいつよ!! どうなってるの小此木!! それに村から逃げられないよう、封鎖部隊というのもいるんでしょう?!」
「……………………………………。」
彼らは、もう私の問いかけに答えようとはしてくれなかった。
…まるで、私だけが置いてきぼり。
私だけが何も知らない。
私だけが仲間外れにされている…。
隊員たちは小此木を見て、小此木の指示だけを待っている。
私の指示なんか誰も待っちゃいないし、聞く気もないのがもう態度でわかった。
「隊長、指揮車より無線です。」
隊員の1人がインカムを小此木に渡す。
「………鳳1だ。」
「隊長、郭公より最終連絡です。“カッコウを実行せよ”。」
「……カッコウ、了解した。」
「指揮車を番犬が包囲中です。投降を勧告しています。…いかがしますか。」
「……………指揮車、
「……指揮車、了解。」
「各員その場で聞け。指揮車が制圧された。すでに診療所も制圧されているだろう。我々は全てのバックアップと装備を失った。全班は壊滅。個々の隊員たちも武装解除に応じているだろう。山狗の完全敗北だ。」
「………く、……まだよ…! 何とか東京の野村さんに連絡を取るのよ!! 番犬が何よ! 番犬に匹敵する部隊を送り込んでくれるわ!! Rは生きていたのよ?! 終末作戦の実行は可能だわ!! それをすぐに野村さんに連絡しないと! そのためにはまず東京への連絡手段を取り返すことが重要よ! こうなると村の連絡網を遮断したのが裏目に出るわね。指揮車を奪還するしかないわ! 指揮車の無線で東京に連絡して応援を呼ぶのよ!! 幸い、指揮車は今、あっさり降伏してみせたから奴らも油断してるはず。小此木と3人も隊員がいれば充分可能よ!! まだ6月19日!! 作戦開始は…えぇと21日? 22日だったかしら…? まだ間に合う…まだまだ間に合う!! ここから巻き返すわよ、小此木! すぐに指揮車の奪還を実行しなさい!!」
「………………………………。」
「………………………。」
「…く、…………な、…何で誰も私の言うことを聞けないの…!! 私は三佐よ?! 小此木よりずっと偉いのよ!! 小此木の言うことは聞けてどうして私の言うことが聞けないの!!」
「…………三佐。さっきから飛び回ってるヘリが言う通りですわ。このゲームはうちらの負けです。これ以上の往生際の悪さは互いに得になりませんね。」
「な、何を言うの小此木!! まだよ、もう挫けるの?! あなたもRが生きているのを見たでしょう?! 今日の一日が狂いだしたのはRが死んだなんて噂が流れたからよ?! でもRは生きていた!! 今日の一日はなかったことになるのよ!! 緊急マニュアルはまだ生きてるわ。女王感染者が生きている以上、あらためて殺せば、そこから48時間の緊急マニュアル執行可能な時間が…!!」
「三佐、緊急マニュアルがどうこうって次元じゃ、もうないんですよ。もう東京は女王感染者とか、それが死んだら48時間とか、もうどうでもいいんです。終末作戦は完全に失敗しました。………我々のクライアントはすでに証拠の隠滅に走り回っているでしょう。我々の役目もおしまいですわ。山狗なんて面白い部隊を10年ほど指揮させてもらいました。貴重な経験ができましたわ。それも今日でおしまいです。……そして三佐、あんたの役割ももうおしまいです。」
「な、………何よそれ…!! 私の役割?! 何のことよ…!!」
「三佐。あんたの役目は、
「……な、…何の話よ……?!」
鷹野はここで、お守り代わりに持ってきた祖父の研究スクラップのことを言われるとは思わなかった。
「雛見沢症候群って病気があるこたぁ疑いません。だが、女王が死ぬと48時間で村中が大パニックになるってぇのは、へへへへ、見た者がいません。ホントかウソかなんて、わかりゃあしないんですよ。」
「馬鹿なことを言わないで…!! ほ、…ほら、書いてあるわよッ?!/
どど、どこのページかしら…。ほ、ほっ他の類似の脳内寄生虫症の症例から類推して、
うろたえながら鷹野はスクラップ帖を捲る。
…指が震えて、混乱してしまって、どこのページだったか思い出せない…。
そのスクラップ帖を、小此木がぴしゃりと叩くと、それはバサリと、……いや、下は泥の水溜りだったから、…ばちゃりと、音を立てて地面に叩きつけられた。
スクラップ帖が開かれたまま泥の水溜りの上にうつ伏せになり、……その泥の色を吸い取って変色していった…。
「な、何をするの…ッ!! こ、これは大切な……!!」
しゃがんで拾おうとしたそのスクラップを、小此木は目の前で踏みつけて見せた。
……力強く踏んだ拍子に飛び散った泥の飛沫が鷹野の顔を汚す…。
鷹野が、自分の命よりも大切にしてきたスクラップ帖が、…無惨に泥の中に踏みつけられるのを見て、鷹野は呆然とするしかなかった…。
「三佐。………このスクラップに書いてあることが本当だろうとでっち上げだろうと、どうでもいいことなんですんね。真実だろうと虚偽だろうと、実は誰も気にしてませんのですわ。」
「…そ……それは
そう言いながらも、小此木の足の下からスクラップ帖を引っ張り出そうとするが、小此木の踏み付けからそれを解放することはできなかった…。
「東京のクライアントが期待してたのは、そのスクラップ帖の中身を、どれだけの人間が信じてくれるかってことなんです。本当か嘘かはどうでもいい、ただ、信憑性さえありゃよかったんです。」
「……本当か嘘か、
「そうです。どっちでもいいんです。でっかい研究所で、偉い先生方が研究して、これこれこういう結果ですっていう専門用語だらけの難しい資料を作ってくれて、中身などロクにわからねぇ連中を騙せるだけの信憑性ってヤツを、そのスクラップ帖に与えることが、あんたの役割だったんです。」
「嘘なんかじゃないわ…!! 私と祖父が何年にもわたって研究してきて……! …あ、足を、…どかしなさいよ……。」
こうしてる間にも…どんどんスクラップ帖が泥に濡れていく……。
鷹野はせめて泥が染みないようにスクラップ帖の回りから泥を払うような真似をするが、…何の意味もない。
「女王が死んだら村は皆殺し。そういうとんでもない話をお偉方に納得させられりゃあよかったんです。……雛見沢症候群が脳みそに寄生してどうこうとか、んなこたぁ誰も興味ない。政治的アクションに使えるかどうかにしか興味がなかった。……んなことはあんただって充分承知していたでしょうが。…そして、今や誰もこんなインチキスクラップは信じやしません。……このスクラップ帖に大勢が賭けた。そして負けたんですわ。……山狗もこのスクラップ帖に厚く張って負けた。それだけのことですんね。」
「イイ、イイイ、インチキスクラップなんかじゃない…!! これは真実なのよ、全部真実……!! おじいちゃんが調べて、私が調べて、…そして書き上げてきた真実の研究結果なのよ…!! だって、みんな信じてくれた…! だからあんな立派な研究所を作ってくれたのよ?! 信じてくれたからみんなみんな…、そう野村さんだって、だからこそ私に声をかけてくれたのよ…!! この研究の真価をわかってくれるクライアントはきっと他にだっているわ…! だって、この研究は人類の未来の可能性に、きゃッ!!」/
これ以上、鷹野の戯言に付き合いきれないというでも言うように、小此木は鷹野を蹴った。
その体は、…あまりに華奢で軽く、…そこまでしたつもりはなくても、後ろにころんと転んで、鷹野の着衣も泥に塗れさせた…。
無様な姿で尻餅をつく鷹野を見下ろそうとするかのように、あまりに淡白な表情の小此木が歩み出る。
「…………幸いなことに、東京のクライアントも、
……おい。」
小此木が言うと、隊員の1人が拳銃を小此木に手渡した。
小此木は弾倉を確認した後、その銃を鷹野の前に放った。
「…な、
「三佐。そいつで自分の頭ぁ、ブチ抜いてくれませんか。」
「……………え……。」
鷹野は放られた、その無慈悲な金属の塊を見る…。
…銃など入江機関で何度も見てきた。
怖いなんて思ったことなかった。……それに、……初めて怯える…。
「よくあるヤツですわ。…トカゲの尻尾ってヤツです。三佐。敗軍の将の責任ってヤツで、そいつで自分の頭、ブチ抜いてください。」
「……………そ、
人に、本当の意味で死ねなんて言われたことはない。
…自分で死んで見せろなんて言われたこと、…一度だってない…。
「クライアントもうちらも、三佐が死んでくれりゃあ、三佐があることないことやってくれたってことで、うまぁく丸く終わらせられるんです。……すでに東京はその準備に入ってますんね。」
「ばば、
震える鷹野の口からは、…言葉とも嗚咽ともつかないものが零れるだけだ…。
「まぁ、無理ならいいんです。今のあんたにそこまで求めるのは酷でしょ。」
小此木が銃を抜き、鷹野に向けた。
……他の隊員たちは銃を向けなかったが、…鷹野が死ねば全てが丸く収まることを、その無表情な目で突きつけてくれた…。
「……投降を説得するも、頑なに拒否し抵抗。銃撃戦になり、やむなく射殺。…そっちが本当の筋書きなんです。…………自殺用の銃は、…短くない時間、世話になったことへの俺なりの気遣いだったつもりです。」
「そそ、そんな筋書き嫌よ……、
「あんたがさっきから助けを求めたいって言っておられる、
「…………ぇ……。」
「終末作戦が失敗した時に備え、ダメージコントロールを図る作戦ってぇのも、ちゃんと併せて用意してあったんです。………野村さんの暗号名は郭公。そして三佐の暗号名は雛でしたね。…郭公が卵をどこに産むかご存知ですか?」
「………………そ、…………そんな…………。」
「郭公の卵はよその鳥の巣に産み付けられ、そこから孵った郭公はですね、元々の巣の雛を突き落として、巣を乗っ取っちまうんだそうです。……巣から落ちた飛べない雛は、地面でのたくり、
鷹野は…小泉のおじいちゃんにもらったたくさんのお金で、
………小此木は粗野な感じの男だけど、頼れる男だと勝手に思ってきた…。
でも、
「三佐。あんたの味方なんていなかったんです。あんたは、東京のクライアントが描いた絵の通り踊って、緊急マニュアルってヤツを煽ってくれりゃあそれで充分だったんですよ。ですが、その舞台も幕が降りて、
ようやく解放された泥だらけのスクラップ帖を鷹野はようやく取り戻す。
そして、それを両手で抱きながら、
「……ううぅうぅうぅうぅ…。……うううぅぅぅうぅうっぅうぅ……。」
鷹野三四の人生なんて、…最初から最後まで茶番だった。
……今こそ、
震える鷹野の手が、
「弾は1発ですから慎重に。……頭蓋骨は案外、弾を滑らすって話ですわ。…口を開けてそん中に撃つのがよくあるやり方です。………ほら、銃を持って、構えて。………そして、死んでくださいな。」
「……ぅぅ……ぅううううぅ……ううぅぅううう…!!」
…………山中に、銃声がひとつ、
その銃声を聞いて、番犬の隊員たちが殺到する。小此木たちは両手を挙げて投降した。
「へ、へへへへへ…。鷹野三佐も一緒でしたんが、…どうしても投降は嫌だと渋りましてね。……今の発砲は、三佐がこっちに銃を向けたんで撃った威嚇射撃です。」
「レトリバー7よりリーダー! 小此木二尉と山狗隊員3名を逮捕! 鷹野三佐はこのすぐ近くを逃走中の模様! 足跡が南西方向へ消えているがブッシュが濃い、それ以上の追跡は不能! 大至急応援を!! 鷹野三佐は武装している、繰り返す鷹野三佐は武装している!」
「レトリバーリーダーよりオール。重要手配犯の鷹野三佐が現在逃走中。鷹野三佐は武装している模様、注意されたし。逃走地点を中心にパトローリングで封殺せよ。」
鷹野は…ひとり泥に塗れながら、
雨でぬかるんだ悪路に何度も転び、……その度に梢や木の根に苛められながら…。
………途中で転び、靴を片方失ってしまったので、…踵の高さが合わず、もう片方の靴も脱ぎ捨てる…。
………雨の中、誰の助けもなくひとりで走って逃げるなんて初めてじゃない…。
裸足で逃げるのだって初めてじゃない……。
足の裏がこんなに痛いのだって、初めてじゃない……。こんなに涙が出るのだって、……初めてじゃない…。……ううぅううぅ…。
「…り返す。鷹野三佐、武装解除し投降せよ。逃げ場はない。山狗はすでに全員投降した。君に味方はいないぞ。」
頭上を時折通り抜けるヘリが自分の名前を呼んでいる…。
鷹野は朽ちた巨木の洞の中に入って、膝を立てながら小さく身を縮めて隠れていた…。
……昔、裸足で逃げたこともあった。…だが、…それは昔の話…。
鷹野の足はすっかり皮が破れ血塗れに腫れ上がり、もう歩くことも出来なくなってしまっていた…。
…洞に隠れ、スクラップ帖の角を噛みながら、……悔し涙を零すことしかできなかった…。
悲しさと悔しさが交互に訪れ、……悲しい時には涙が止まらず、悔しい時には自分の体に爪を立て怒りを沈めなければならなかった…。
そして、
…………自分は、
死ぬことでしか、全てを清算できない。
自らに引き金を引くことでしか、……あの日へ帰れないのだ…。
でも、左手のスクラップ帖を見ると悲しさと怯えが襲ってくる……。
「……死にたくない……。
死ね。死ぬことで責任を償え。
小此木たちのあの目が蘇る…。
……わかってる。
……私には罪がある。
きっとある。たくさんある。とても償いきれないくらい…。
でも、
泣きじゃくる鷹野の前に、…………いつからいたのか。/
………あの、………少女がそこにいた。
……かつて入江機関が設立され、雛見沢にやってきた時、
神は、哀れむというより、その愚かさを呆れるような、……そんな淡白な眼差しで私を嘲笑った…。
「……それでもまだ、人の身を捨て神の座を求めるというのか、人の子よ。」
「……人の子よ。まだ神の座を追い求めるのか。数々の試練をまだ潜り、それでもなお神の座を求めるのか。」
「………冗談じゃないわ……。神の座なんて、
「人の子よ、聞け。……今こそ、神になる道を、示そう。」
「……………………え………。」
「そなたの右手に持つ鉄の火で。己が生に別れを告げるがいい。………神の座に肉の器は不要。人にその姿を認められようなどと思ってはならぬ。……神とは孤独な存在。それに好んでなりたがる愚かな人の子よ。………それでもなお、神の座を目指すというのか。」
「……これで、
「大勢の人間の罪を、背負った。その大勢の罪を、今こそ己を生贄に捧げることで禊ぐのだ。………その勇気は讃えられ、神の座の末席を許すであろう。」
「………何よそれ……。私に、トカゲの尻尾を引き受けて、
「何故に嫌か。人の世に和を求めるためには、常に1つの穢れに1つの生贄がいる。…それが人の世の理、罪の禊の方法ではなかったのか。………そなたの望む未来に1人の少女を生贄に求めたのはそれを理解していたからではなかったのか。」
「……………………………わ、
「……それがわからぬなら所詮は人の身。神の座を求めた身の程知らずを悔いよ。」
「悔いるわ。……他の人の責任を被って死ぬのが神になる道なんて絶対嫌…、
「なれば、この度の人の世の穢れを如何にして祓うのか。…如何にして代価を払うのか。」
「…………何でよ……、何で誰かが責任を取らされなくちゃならないのよ…!! 誰もが相手を利用してジョーカーを押し付けあって!! 自分の手を汚さずに済むように立ち回り、立ち回り……。……それが人の世なの…? ……違うわ、…そんなの人の世じゃないよ…。
……だって、……お父さんやお母さんや、
「……人の世はそなたに罪の禊を求めるだろう。この度の穢れはそなたを生贄に捧げることで祓われよう。……それが人の世の、祓い方。………なれど、我は人にあらず。人を超える存在にして、…欠けたる和を埋める存在。人の罪を、許す存在。人の罪を人には許せぬ。我こそが、人の子の罪を許そう。」
そなたを、許そう。
生贄を求めて穢れを祓うは人の世の理にあらず、鬼の理と知れ。
この世は人の世にあらず。人と人に巣食いし鬼の織り成す、鬼の世なり。
その理を断ち切るのは人の身ではかなわぬ。
それをかなえるために、…我は神の座に座ったのだから。
それは千年を超える苦痛。……私はこの座を、降りたかった。
神が和を取り持たなくても、…みんなで仲良くやっていける世界を見たかった。
そして、……千年の時の中で、私はようやくそのカケラを見た。
さぁ、…人の子よ。……そなたの罪を、我が名の下に許そう。
跪いて悔いるがいい。そして許しを求めるがいい。さすれば与えよう。神が、人を許そう。人の罪を、許そう………。
少女の姿を借りた神が私に歩み寄り、そして、手を伸ばす。
………膝を抱いて俯く私の頭に、
「…羽入〜〜〜〜、羽入ぅ〜〜〜!! ど〜〜こ〜〜!!」
「羽入ちゃぁん! 聞こえたら返事をしてぇー…!」
遠くから聞こえたその声に、私は我に帰る。
私の、……前には、1人の少女が。
…それは憎き憎き、…魅音たちの部活メンバーの子の1人だった。
……くそ、
いつの間にか雨は止んでいた。
…私は木の洞を出て立ち上がる。
……雨が上がると今度は不快なくらいに湿度が高く感じられ、じめじめとした全身の汗に悪寒を感じた。
全身は汗と泥と雨に汚れ、不潔なことこの上ない…。
それに薮蚊にまで刺され、痒くて痒くて、
「声を上げては駄目よ。」
私は銃を向ける。少女はそんなもの眼中にないように、ただただ静かに私を見ている。
…でも、少なくとも、私の言う通り、声は出さないでくれた。
どうする…、この少女を人質にとって…何とか立ち回る…?
…弾は1発しかない。それでどこまで立ち回れるのか…。
「羽入ぅうぅ!! どこだよー!! 参ったな、マジで迷子だぞあいつ。」
「あ、みつけましたわ! 羽入さん!!」
「……羽入、一体、今までどこへ……、
「…………本当に、
「………くそ、……何て……こと……。」
「魅音ちゃん、…他の誰かを撃たれたくなかったら一歩前に出なさい。」
「……だ、駄目だよ魅ぃちゃん…!」
魅音は大人しくみんなの前へ出る。……リーダーらしい、いい根性だった。
「あなたのお陰で、…私はもう滅茶苦茶よ。私を殺そうとこの山中に怖いお兄さんたちが歩き回ってるわ。………どうせ私は許されない。…でもこのままではあまりに悔しいわ。…だからね、せめてお返しをしてやりたいの。……くすくすくす。」
「…ふん。偉そうに言ってるけど、その銃に弾が1発しかないのは知ってるぜ…!」
「その通りよ? でも、その1発で魅音ちゃんが死んでしまうかもしれないとは、考えない?」
「……た、鷹野! 魅ぃを撃つ気ですか…!!」
「誰も動いちゃ駄目よ? 焦って撃ったら誰に当たるかわかんないんだから。…くすくす。」
「みんな、…動いちゃ駄目だよ…。私の後に隠れてて。」
「…勇敢ね。誰かを撃たれるくらいなら、自分が撃たれようという自己犠牲?」
「……まぁね。拳銃の1発でそうそう人間くたばるもんじゃない。…当たり所にもよるだろうけどさ。」
「………驚くわ。…何て勇気なの…? みんなに代わって、…私に撃たせようってこと? 言っておくけど、銃声がすれば怖いお兄さんたちが殺到するだろうから、それを恐れて私が発砲しないなんてのは、今の私にはないわよ? くすくす。」
「じゃあ、撃てばいいよ。……ただし、その1発を撃った後、私の仲間たちは、あんたを八つ裂きにするよ。」
「……くすくす。望むところよ。人を呪わば何とやら。…小此木を屈服させるほどの名将と相打ちなら、それも悪くないわね。」
「撃ちなよ。……その代わり、絶対私に当てな。/
……私以外の仲間に当ててみろ、
「………こわぁい。くすくすくす。」
「駄目だよ魅ぃちゃん…。鷹野さんは本気…。この人、本当に撃つよ…。」
「…な、…何とか時間を稼ぐんですのよ…。そうすれば番犬の誰かがきっと…。」
「えぇもちろんそれもわかってるわ。だから、一矢報いる機会がなくならない内に、さっくり1発撃たせてもらうわ。……さぁてどこに当たるかしらね。ヘタクソだから、どこに当たっても許してね。くすくすくす!」
「……魅ぃ、
「みんな、動くんじゃないよ…。私は部長さ。/
…みんなを背中に守れるなら、こんなに嬉しいことはないね! ……もし…当たり所が悪かった時はさ、…はは、部活ロッカーの中に神棚を作って、私を軍神と讃えてよ! ……次期部長は圭ちゃんね。…みんな、そん時はあとをよろしく。」
魅音は撃たれる覚悟を決めていた。
……鷹野は追い詰められたネズミなのだ。
どんな言葉も交渉も通用しない。
それを完全に魅音は理解していたから、…自分以外の誰が撃たれても嫌だから楯になることを選んだのだ。
……魅音にとって、それは気楽なことなのだ。
だって、仲間は誰も傷つかない。
…そして自分が怪我程度で済めばラッキー。
……例え助からなくても、…仲間の死を看取るより百倍マシだから。
そして、だからこそ鷹野は撃つ。
…そんな魅音の高潔な心を、…痛いくらい理解できるのに、あまりに痛くて受け容れられないから、
鷹野は絶対に引き金を引く…!
人の世の不条理というジョーカーを、1発の弾丸に込めて、撃つ…!
「………あなたたち、よくゲームはするわよね。………トランプのババ抜きはやる?」
「………………やらないね。うちはジジ抜きばっかだよ。」
「ふ、…同じようなルールよ。………人の世の罪はババ抜きと同じ。誰もが1枚のババを互いに押し付けあう。それは勝者を求めるゲームではなく1人の敗者と生贄を決めるゲーム。……私はそのババを引いた。そのカードをもう渡す相手がいない。……だから、その腹いせに、…あなたを撃つの。…不条理な人の世らしくね。」
鷹野が銃を構える…!!
その瞳の色に躊躇はない。…本当に撃つ、冗談抜きで撃つ!! 魅音は目を硬く瞑り、両手を広げてわずかでも仲間を庇おうとした…。
……その時、魅音の前に羽入が歩み出た。
「は、羽入!! 危ないから下がって!!」
「……勇敢なる魅音。あなたの勇気はそれで充分です。人の世のババ抜きが、必ず人に押し付けられなければならないものならば。…それを引き受けるのが私の役目。」
「……羽入……あんた、何を………。」
「……梨花。この世界はすごく楽しかったです。……私も部活メンバーに加われてよかった。…見ているだけじゃなく、…加わる部活は本当に楽しかった。……ありがとう。もう充分に楽しんだ。………神の身には過ぎたくらいに幸せだった。」
そして羽入は、毅然とした表情で鷹野さんを睨む。
「さぁ、撃て。人の子よ。………人の世の、押し付けずには済まぬ罪を放て。それを受け止めてやる。」
「わかったわ、
なら死ねッ!!!」
……冗談に決まってる、はったりだ、……撃つわけ、
破裂音にも似た発砲音。
………時が水飴のように粘る世界で、
……羽入の直前で、銀色の鉛弾が見えない壁に、……突き刺さるのを…。
それはまるで、羽入の前に透明な壁があって、防いでいてくれるように見えた。
銃弾は羽入の胸を貫きたかったのだろうが、…その目論みは達せられない。
……羽入の額に一筋の汗が浮く。
羽入が、…何かの、目に見えぬ力で弾丸を押し止めていることに、そこで初めて気付いた。
「…………………………………く……。」
「……は、羽入…!」
「……………大丈夫です。人の身でも、これくらいのことはできますです。」
銀色の弾が、……ぎりぎりと震えながら、ゆっくり押し戻され…、
鷹野はこの世ならぬ法則に驚愕し、…その言葉を口にする…!
;……バケモノがッ!!!」
震えていた銀色の弾が、
もう壁はない。羽入の身を弾丸から守ってくれる透明な壁はない。
それを、誰にも止められない、
凍った時間の中で、
…俺たちはこの光景を知っている…。
どうにもならないチェックメイトの光景。
どれだけ悲しい声で叫んでも、……次の瞬間の悲劇が回避できないのを、…ありえない記憶で知ってしまっているッ!!!
「くすくす、くっくっくっく、はっはっはっは!! あなたは死ぬ、絶対死ぬ! 好きなだけ走馬灯を御覧なさい。それが終わったら胸板をブチ抜かれて、血をばらまいて、自分の血で溺れてのたうちまわって死になさい!! あははははははははは!!」
「……………その覚悟がなかったら、
これで、全て丸く収まる。
始めから存在しなかった僕が再び舞台を降り、…舞台の上には本来の出演者が全員、無事なまま残る。
………これが、
その時、
「それを驚くのはおかしいわ。……あんたと学んできたんじゃない。奇跡の起こし方。……今日、何度もすごいことが起こったけれど、
……全て、信じあえば起こって当然のことだった。……だから、……この最後の瞬間に、本当の奇跡を使うわ。……私、オヤシロさまの生まれ変わりだしね、最後にこの程度の奇跡は使わせて。」
梨花は、
「……鷹野も羽入も、…人の話を聞かないヤツだってこともわかったわ。……魅音の話を聞いてた? 私たちはババ抜きなんてやらないわ。ジジ抜きしかやらない。……それを鷹野は同じようなゲームだと笑ったけど、
ババ抜きは、調和の取れた52枚のトランプの世界に、…ジョーカーという不調和を1枚混ぜて、それを押し付けあう。
だがジジ抜きは、調和の取れた世界から1枚を欠き、…余った不調和のカケラを押し付けあう。
それはジョーカーとは違う。欠けたものがあったならきっちりと調和していたもの、なのだ。
同じ押し付けあうゲームだけど、……押し付けあうものの意味が、あまりに違う。
「ジジ抜きも同じ。敗者の手元に1枚カードが残って終わる。……それを鷹野が同じだと例えた気持ちはよくわかるわ。…………でもね、
欠けた1枚のカードが足されたら、
誰かに罪を押し付けねば終わらぬ世界に、羽入という欠けたカードが参加した。だから、敗者の出ないゲームなのだ。
それをわざわざ、1枚欠こうなんて、……愚の骨頂、奇跡の無駄遣いもいいところ。
「………敗者なんか、
答えは、
カードの欠けたトランプでゲームをするから、敗者が必ず出るのだ。
信じあい、助け合うことで欠けたカードを補えたなら、
敗者の出ない、……完成された世界。
仲間外れが出ない、完成された世界。
誰一人、輪の外で指をくわえてなくていい。
誰一人、罪を背負い込んで泣かなくていい。
全員が手を取り合い、罪を赦せる世界。
人が生きる以上、垢が沸くように罪も湧く。
大切なのは罪を沸かせないことじゃない。罪を赦すことなのだ。
罪に対して潔癖であろうとするから、より世界は醜く歪むのだ。
罪を、受け入れよう。
そして、みんなで赦そう。
それが、古手梨花が見つけて至った、完成された世界…。
それは、……1人を敗者にしなくてはならない、人の世の罪からの解放。
梨花は、人の身でありながら、至った。……気の遠くなる時間の果てに、…ついに至った……!
…凍った時間は、いつの間にか解けていた…。
鷹野の銃口から硝煙が立ち上っているから、…鷹野は確かに撃ったのだ…。でも、…誰も撃たれていない…。
圭一は誰かに当たってはいないかと恐る恐る、きょろきょろ仲間たちを見る。
……みんな健在だ。撃たれてなんか、…いない。
「へ、
「…ざ、
精一杯の虚勢を張った魅音も緊張感が途切れたのか、今になってどっと汗が噴出す。
「こ、…この私が、
部活メンバーの誰もが思った。
…この距離で誰にも当たらなかったなんて、
部活メンバーたちは、実は全員が思っていた。
……誰かに当たるくらいなら、…その弾をどうか自分にと。
でも違った。古手梨花はさらに上の奇跡を願った。
それは部活メンバーたちの高潔な自己犠牲よりさらに上の、奇跡。
誰にも当たらず、誰も傷つかない世界。
誰にも当てず、鷹野も傷つかない世界。
すぐにばたばたと慌しい足音が殺到してきた。
鷹野は逃げ出そうとするが、…木の根に転び、スクラップ帖をぶちまけ、……それを掻き集めようとしている間に、番犬隊員たちに包囲された。
隊員たちに銃口を突きつけられ、その先端で小突かれても、……彼女は散らばったスクラップ帖と資料を集めるのをやめなかった。
隊員に踏まれた資料を、その足裏から引き抜こうと、健気に引っ張りながら…。
……踏まないで、……踏まないでと……小さな涙声で言いながら…。
「鷹野三佐。あなたを逮捕します。」
「…………………私が、…全部、…悪いことになるのよね……。ふふふ、
部活メンバーたちが、…その悲痛な泣き声に心を掻き毟られ、俯く…。
「立て! 両手を後に回せ。こら、抵抗するな…!」
「いや、いやよいや…、おじいちゃんのスクラップ、
……鷹野は、足元に散らばったスクラップ帖が拾いたいだけだった…。
でも、……番犬たちは、鷹野が抗おうとしているだけにしか見えず、しゃがもうとする鷹野の髪を引っ張り、無理やり立たせようとするのだった…。
…それは鷹野の末路とは言え、あまりに見ていて辛いものだった…。……その時、凛とした声が響き渡った。
「待てッ!!」
その男は、……神々しい眩しさと共に現われた。
それは……私たちのよく知る人だった。
だが、その表情は私たちが一度も見たことがないほどの、…決意に満ちていた。
「…調査部の富竹二尉だ! 彼女は調査部が保護する!」
「し、…しかし富竹二尉…。司令部からただちに東京へ連行せよと命令を受けています。」
「君たちは彼女を見て気付かないのかッ! 彼女の全身を見ろ!! 掻き毟った後でいっぱいじゃないかッ!! 雛見沢症候群のかなり高いレベルの発症が疑われる!!」
彼女の手首や、腕、首筋に、無惨な引っ掻き傷がいくつも残っていた。
…それは、今日一日、色々なことがある度に鷹野が掻き毟ってできた傷だった。
……それが症候群によるものなのか、いらついた彼女の自傷癖なのかはわからない。
…でも、富竹に言われて見てみれば、…そうでないとも言い切れない…。
「し、しかし、三佐は入江機関で予防薬の投与を受けているはずです。発症するわけがありません。」
「君たちは資料をちゃんと読んでいるのか!! 予防薬は100%の効果を保証するものではないと書いてあるぞ!! 充分読んでいれば、彼女の状態が末期症状であるとわかるはずだ!! 調査部は彼女の尋問に当たり、雛見沢症候群の治療が最優先されると考える! そもそも今回の事件が彼女の意思に基づくものなのか、末期発症による妄想、錯乱によって引き起こされ、それを誰かが利用したのか、慎重な判断がなくては全容解明は不可能であると考える!! 彼女の罪なのか、彼女の病んだ病の罪なのか! この場で断言するのは不可能だ! それを判断するためにも彼女には治療を受ける権利があり、義務がある!!」
「………………ジロウ……さん…………。」
「彼女を直ちに入江機関本部へ移送し、発症レベルの検査に入る! 鷹野三佐の治療体制を準備させるよう入江二佐に連絡を!! ただし、三佐については今後厳重に監視をつけ、全ての行動には制限が加えられるものとする。詳細は調査部長、岡一佐から上級司令部を通して命令があるはずだ!!」
隊員たちは、無線でそれを伝えている。
基本的に異存はないようだった。
逮捕までが自分たちの仕事だ。
そこからの尋問や事件の究明は調査部の仕事になる。
その調査部がそう言うなら、それでいいのだろう。
富竹は、泥まみれでしゃがむ鷹野の元へ歩み寄る…。
「……………ジロウさん
鷹野は富竹の胸に顔を埋めて、……泣いた。
……その涙の意味は、…彼女と富竹にしかわからないだろう。
「………遅くなったね…。…君を迎えに来たよ。」
「ぅわううぅうぅうううぅ…。ジロウさん、…ジロウさん、…わぅううぅううぅ…!」
「君は、君がそうだと思っているような悪い人じゃないんだ。……やり直そう。…今度こそ、君の本当の人生を、……田無美代子の人生をやり直すんだ…。」
「…できない、…できないできない…。…私、…いっぱい罪にまみれた…。やり直したりなんかしちゃいけない、死ななきゃいけない…。……じゃなきゃ、…私は自分の罪の重さで……、」
「……そうだね。君の罪は、ひょっとすると軽いものじゃないかもしれない。でも、大丈夫。…僕が一緒だから。…だから一緒に償おう。鷹野三四の罪を償おう。…そして、僕と一緒に田無美代子を、取り戻そう。その日まで、僕は決して君の側を離れない…!」
「い、………生きてていいの…? 私は……生きてていいの…? みんながお前が死ねば丸く収まるって私に言うよ……? それでも、………それでも、私は生きてていいの……? それでも、ジロウさんは生きててもいいと言うの? それでも、私は許してもらえるの…?」
「……世界は君を許さないかもしれない。でも、それが何だってんだい! 僕が、君を許すよ。だから生きよう。死ぬことは罪の償いにはならない。生きて償い、世界に許しを乞おう。そしてやり直すんだ。そうしたらきっと思い出せる。君が本当はどんな人で、……どんな風な笑顔を浮かべていたかをね!」
……やがて、…鷹野は手錠で拘束され、入江機関へ連行された。
……ただし、手錠は後手ではなく、前で。
…その手には、富竹によって泥の払われたスクラップ帖が抱かれていた……。
昼過ぎに降った突然の土砂降りは、もうその気配もない。
さっきまで隠れていたセミたちはけろりと合唱に戻り、当り前な雛見沢の6月を再び歌い始める。
こんなにも暑い6月だから、天気が夏空のようにおかしくなることだってあるだろう。
……もう、…こんなにも空は晴れ晴れとしている。
誰かが誰かに時間を聞いた。
腕時計を見る。
午後、3時だった。
綿流しのお祭りは、5時からだ。
…なら、……もうすぐじゃないか。
……ここから古手神社の境内が遠くにぼんやり見える。
赤い祭り提灯がいつの間にか飾られていた。
…夕闇が近付けば、それは赤々と灯され、祭りの夜を彩ってくれるだろう。
………もうすぐ、綿流しのお祭り。
そして、
ひぐらしのなく頃に。
数多の世界で繰り返されたゲームは終わりを迎え、
羽入は、…ゲームの終わりに、……この舞台を退く覚悟があった。
なのに、………まだここにいた。…いることを許されていた。
つまりそれは、………彼女が抜かれた1枚のカードではないこと。
ジジ抜きのために抜かれたカードでは、もうないということ。
呆然と立ち尽くし、…汗と汚れでぼろぼろになった髪を風に揺らす。
……そこへ梨花がやって来て肩を並べた。
そして、……言葉などいらない。
…ただ羽入に、…微笑んで見せるのだった。
……傍観者を気取った少女が、舞台に上がる決意をし、
…………舞台の上の輝かしい瞬間を思い出に、
舞台の上に、いてもいいんだよ。
気付けば、自分はまだ舞台の上にいて、
カーテンコールにも自分の居場所があり、
それは、…ありえない奇跡。
……台本にない役なのに、…私はいなくていいはずなのに、…存在が認められる奇跡。
「……あれだけ苦労した旅だったのです。…その程度の奇跡じゃ、ちょっと足りない気もしますですよ。にぱ〜☆」
「あ、……あぅあぅあぅ…。……充分ですよ…。こんな奇跡、僕の身には…充分過ぎて…。」
梨花はもう一度微笑むと、右手の握り拳の中身をそっと…羽入に託す。
羽入の手の中に、ころりとした感触。…それは何だろう。
羽入はそっと手を開き、…それを見た。
それは、………鷹野の放った弾丸。
奇跡の起こったことの、証。
羽入がここにいていいことの証。
そして、……いつまでもいつまでも一緒にいていいのだという、…証…。
「もうすぐ、暗くなってお祭りの時間になりますです。」
「……あぅ。」
「みんなで楽しくお祭りで部活なのです。もう脇で見てることなんかできませんです。きっと新人イジメの洗礼で罰ゲーム三昧でかぁいそかぁいそなのです。」
「………もう、綿流しのお祭り、見てるだけじゃないのですね。」
「そうです。だってお祭りは、見るものじゃなくて、加わるものですよ。」
スピーカーのテストだろうか。
まだ明るいのに、もう祭囃子のBGMが聞こえてくる。
ダビングを重ねた安っぽいBGM集の祭囃子が、遠く見える古手神社から聞こえてくる。
…それはとてもとても楽しそうで、
梨花が、その手をそっと握る。
みんなで一緒に行こうね。
綿流しの、お祭り。
みんなで、
一緒に。
うん。
;■綿流し
……思えば、彼らはあまりに元気だった。
これほどに長い一日を経験して、……さらに祭りにまで出ようというのだから。
でも、…今日の祭りだけは特別なもの。
オヤシロさまの祟りなどという呪いが解かれ、
ダム戦争が終わって以来、雛見沢が初めて迎える、…惨劇なき、綿流しの夜。
村人たちは、日中に一時電話の不通があったことを知っていたが、気付いたら直っていたので大して気にしなかった。
自衛隊のヘリコプターが裏山の方で何か騒がしくしていたが、噂では訓練の山と間違えて迷い込んでしまったらしい。
がんばれ国防の若者たちと老人たちは笑っていた。
聞く話では、何と入江診療所にまで自衛隊が降りてきたらしい。
陽気な村人たちはそれも大して疑問に思わず、きっと入江診療所は自衛隊の健康診断も引き受け始めたのだろうと笑った。
そして村境の路肩には、交通事故でもあったのか車のものと思われるガラス片が大量に飛び散っていた。
こんな見晴らしのいい道路でも、交通事故を起こす間抜けがいるらしい。
慣れた道でも余所見運転はいけないと老人たちは諌め合った。
こんな、交通事故の痕跡もよくある光景。大して珍しいものではなかった。
あとは早すぎる夏の怪談だ。
今日のお祭りの開催を知らせる花火が、一発余計に聞こえたというのだ。残響なんかでなく。
花火業者たちは不思議がったが、梨花が、花火が面白そうだったのでオヤシロさまも鳴らしたくなったのだろうと言ったら、それで村人は納得してしまった。
今夜は一年に一度の、そして最大のお祭り、綿流しの夜。
堅苦しいことは抜きにして、村人たちは今夜を思い切り楽しむのだった。
部活メンバーは、…相変わらず今年も絶好調だった。
どのくらい絶好調だったかと言えば、……まぁ全員、本部テントへ連れてかれて、村長さんにこってり油を絞られたくらい、と言えばわかるだろうか。
; 前日まで風邪で寝込んでいた梨花ちゃまは、病み上がりにも関わらず、奉納演舞を熱演。
; 幼くして貫禄あるその舞いに、村人たちは老若男女を問わずに絶賛の拍手を送るのだった。
それは、村人たちにとって見れば、いつも通りの綿流しの夜だったろう。
ひとつ決定的に違うことがあり、………それを勝ち取るために、少女たちが気が遠くなるほどの時間、数多の世界で戦ってきたことを知ることができる人間は、いない。
……あぁ、大きな変化があった。
古手梨花が、夏になったらプールに行きたいと言い出したのだ。
ややもすると受身な彼女が自分からどこかへ行きたいと言い出すなど、とても珍しいことだ。
そして、天体観測がしたいとか、キャンプに行きたいとか、今年こそひまわりの観察に成功しようとか、夏休み中は学校で肝試し大会をやろうとか。
夏休みにやりたいことの夢が、尽きない。
…そう。古手梨花は初めて、…昭和58年6月以降の予定を建てたのだ。
だってそれは、百年を経て初めて得る夏休みなのだから。
心が躍るのも無理からぬことだった。
古手梨花は今、沙都子よりも早く朝を起き、昭和58年6月を越えた日捲りカレンダーを破くのを一番の楽しみにしているという。
古手梨花の前に広がるのは、無限の未来。
…それは無限の可能性のある世界で、…だけども内の1つしか選べない。
いや、だからこそ輝く素晴らしい世界。
古手梨花と共に戦った他の人間たちにも触れよう。
園崎魅音は、夏休みが終わったら進学のための勉強に専念するように誓わされているらしい。
…圭一に言わせれば、そんな時期からの勉強で間に合うのか疑問だ、とのこと。
もっとも、稀代の名将、園崎魅音がまさか進学で失敗することなんてあるまい。
……とんでもない方法で見事志望校に合格しそうな気がする。
…それが犯罪でないことを祈りたい。
そんなわけで、最後の夏休みを満喫すると、今から遊び倒す予定をぎっしり考えているらしかった。
この夏休みも、部活メンバーは魅音から逃れられそうにない。
彼女に関わったのが運の尽き。
どんなに恋しくても、もうひとりぼっちの退屈な夏休みには戻れないのだ。
前原圭一は、魅音と知恵先生から次の委員長を打診されているという。
ゆくゆくは部活の部長も…なんて言われて大慌てで固辞したという。
だって、前原圭一が好きなのは魅音の部活なのだから。
そこで止めておけばいいものを、魅音の「部活」「部活」と何度も連呼したら魅音にむくれられた。
…圭一にはその理由がわからず、相変わらずのようだった。
まぁ圭一は鈍感だから圭一なのだ。
だから、今日も彼を中心に賑やかなのだ。
今や彼の名は興宮にも馳せ、口先の魔術師はますますに絶好調だという。
竜宮レナもまた、ますます元気になっていく。
お持ち帰りの犠牲者に新たに羽入が加わり、沙都子、梨花、羽入の三人はいつ自分が誘拐されるかと戦々恐々としながら過ごしているという。
…あと、ますますにしっかりしてきた気がする。
後輩の面倒見がよく、クラスのお母さんのようだった。
暴走気味な部活メンバーのお母さんとしても、ますますレナはがんばっている。
…圭一が、なら俺はクラスのお父さんで行くぜ!/
というと、例によって深読みし過ぎて真っ赤に赤面してしまうのだった。
北条沙都子だって、ますますに元気が止まらなくなっていく。
山狗との裏山戦でトラップのほとんどを使い切ってしまったため、再び有事に備えて裏山を要塞化しているという。
…聞くところでは、現場検証の番犬隊員にその高度な技術を驚かれ、ぜひ指導を、なんて求められたとか求められないとか。
富士山の近くの樹海に自衛隊の演習場があるらしく、そこをトラップだらけにしてほしいと言われたらしい。……それはいくらなんでもヤバ過ぎだ。マジで樹海が帰らずの森になってしまう…。
次は番犬と戦いたいなどとのたまう彼女はもう無敵だった。
あと、最近、料理の腕がだいぶあがった。
羽入が料理の指導に当たっているからだ。
…彼女に言わせれば面倒臭がり屋の梨花よりもずっと筋がいいとのこと。
いつか必ず帰ってくる兄のため、兄の大好物だった唐揚げを練習し、それで迎えてあげるのが夢のようだった。
…私だけが知っている。
彼女のその夢は、きっと遠くない内に叶うことを。
……そして、彼女の兄、
変化があったといえば、園崎詩音の方か。
…彼女が休みの度に診療所を訪れるようになったからだ。
何をしに行っているのかはわからないが、…でも彼女はとても幸せそうだったから、誰も特に気にはしなかった。
魅音はそれを、怪しげな豊胸手術に加担しているのだと冷やかすが、詩音はにこにこと上機嫌に笑うのみで、決して喧嘩を買ったりはしなかった。
あと、彼女はどういうわけか、親族の洋服屋に出入りし、男物の様々な服を買い漁っているという。
…最近は男物以外の服も買うようになったが、……どうして診療所へ自分のサイズでないメイド服を持って意気揚々と出掛けていくのやら。…真相は闇の中だ。
……あと、最大の変化は、これまで以上に沙都子を甘やかすようになったことだろう。
最近はことあるごとに沙都子に、ねーねーと呼ばせようとしており、沙都子を辟易させていた。
入江京介は相変わらず、落ち着きある医師とメイドの伝道師の二束のわらじを履いている。
…実は一度、入江診療所が閉鎖になるという話が出た。
でも、彼を敬愛する村中の人々が嘆願し、その話は流れたという。
彼は本来、村の人間ではなかったかもしれない。でも今は、自他共に認める、村でもっとも積極的に貢献する若者のひとりである。
雛見沢症候群に対しては、かつてのような消極性はなくなり、極めて積極的に研究を進めているという。
これほどの情熱を見せるのだ。近い将来、この悲しい病気の犠牲者たちはきっとその悲しみから解放されるだろう。
また、後に彼は脳が及ぼす影響について先進的な論文を発表し学会を驚かせる。
ここでは割愛するが、憎むべきは人か罪かを考えさせられる、とても意義深いものであったことは記しておく。
そして、その論文の引用元には、故高野一二三と、鷹野三四の名が含まれていたという。
富竹ジロウは相変わらず季節の度に雛見沢を訪れている。
戦う旅行写真家の通り名は依然健在で、精力的に村中を歩き回っては撮影ポイントを探しているらしい。
でも、以前に比べると村の中で見掛けない。
診療所の裏に彼の自転車があるということは、診療所で過ごしているのだろう。
村では、病気を患って療養中ではなんて囁かれているが、彼の晴れやかな笑顔を見る限り、それはなさそうだ。
…そして、その連れの鷹野三四は、あの日以来、姿を見掛けない。
…どこに行ってしまったのか誰にもわからないが、……富竹の表情を見る限り、それは心配することではなさそうに感じられるのだった。
………いつか、またひょっこりと帰ってきて、頼んでもいないのに怪談をねっちり聞かせてきて、小さな子供を大いに怖がらせるのだろう。
赤坂衛は、…彼のエピソードがとても笑える。
何と、奥さんと娘さんが赤坂に内緒で追ってきていたのだ。
そして綿流しの祭り会場で偶然を装って再会したのだ。
…そこで梨花がパパ〜☆などと呼ぶものだから瞬時に修羅場化。
奥さんにニコニコ微笑まれながら、髪の毛のおさげで首を締め上げられていた。
両手は組んだままなのに、まるでおさげが尻尾みたいに自由自在なんてすごい。ぎゅいい。
…しかし、素手で特殊部隊を壊滅させる男を絞め落とす奥さんとは。
梨花はますますにからかい修羅場を極めて行くのだった。
でも、家族も雛見沢を気に入ってくれたようで、また来たいと言ってもらえた。
梨花と赤坂の娘はとても仲良くなれたようで、それはまるで姉妹のようだった…。
大石蔵人は、一度は醒めた麻雀熱が再び再発。
しかも、その卓にどういうわけか園崎茜が加わっているらしく、一時期、雀荘の前に機動隊が出動しそうになったとかならないとか云々。
あと、彼の表情が非常に穏やかになったと署内で評判だ。
……長年のわだかまりが解けたからだろう。
でも彼の同僚たちは、それが何なのか理解できなかった。
彼は定年を迎えたら北海道に引っ越す予定だが、夏が来る度に帰って来ようなんて考えている。
彼の前に、今や第二の人生は広大に開かれているのだった。
葛西辰由は、他の大勢と比べると一番変化がなかった。
…一部の人間にとって、後の人生に対する心構えさえ変えかねない大事件も、…葛西の中では武勇伝に新しいエピソードがひとつ追加された程度に過ぎない。
葛西が言うには、今回の事件は、まぁ上の中くらいの事件でしたというのだから恐ろしい。
上の上ってどんな事件だ…。
詩音はそれを教えろとせがむが、葛西は内緒です、の一点張りだった。
あと、往年の片鱗を少しだけ覗かせてしまったことを後悔しているらしく、詩音にまた凄んでよーと言われても知らぬ存ぜぬで通してるらしい。…それも彼らしかった。
最後に、私を語っておこう。
古手羽入は、今日も元気だ。
罰ゲーム常連から徐々に抜け出しつつあり、かつて前原圭一に与えられていたダークホースの称号は今や羽入に与えられていた。
素直な性格で言われたことを鵜呑みにする性分なのを突かれて、魅音たちに妙なことを吹き込まれて、最近どんどん朱に染まりつつある。
よく言えば逞しく。悪く言えば狡猾に。
だってそうじゃなきゃ部活じゃ生きてけない。
彼女は、人の世で人として生きるたくましさを部活を通じて今日も学んでいる。
昭和58年6月19日、日曜日。
この千年で、一番一番長かった一日の夜が、更けていく。
はしゃぐ部活メンバーの声。
大勢の人の賑わい。
模擬店のおじさんの客引き。
スピーカーから流れるざらついた、でもとっても楽しそうな、祭囃し。
どれもすでに充分知ってた光景だけど、それを肌で感じ、耳で聞くことの鮮烈さ。
知ってるつもりだった。
みんなの後にずっとついてきて、物影から見てるから知ってるつもりだった。
でも、そんなの全然、知ってることにならなかったのだ。
知ってはいたけれど、初めて加わるものばかり。
たこ焼きの早食いをやった。
たこが入ってないけどおいしかった。
カキ氷の早食いをやった。
もっとゆっくり食べればおいしかった。
リンゴ飴を初めて買った。
みんなにかじられて穴だらけ。
でも、おいしかった。楽しかった。
射的ゲームをやった。
こんなにも当たらないものなんて知らなかった。でも楽しかった。
あと、胡散臭いくじ引きゲームをやった。
束ねた紐を引っ張ると景品が吊れるというアレだ。
全然いいのが当たらない。
みんなでオヤジにぶーぶー言った。すっごく楽しかった。
そうしてる内に、奉納演舞の時間になった。
もちろん部活メンバーは用意周到。一番良く見える場所を陣取っていた。
私はそれをそっと抜け出し、この時だけいるように求められている私の場所に立つ。
……部活メンバーたちが陣取った真正面より、ずっとずっとよく見える場所。
そこは、彼らが崇める存在がおわすべき場所。
演舞が奉納される対象がおわす、私のいなければならない場所だったところ。
いや、…私がいなければならないと思い込んでいた場所、だったところ。
でも、私はここで見る奉納演舞は楽しくなかった。
だからすぐ戻った。みんなと一緒の場所に戻った。
私の場所がちんまりと開けてあって。
どこへ行ってたんだあれほど迷子になるなと言ったのにー、とみんなに頭をわしゃわしゃされた。
あぅあぅ言って謝った。嬉しかった。
たくさんの人たちに混じって、ぎゅうぎゅうになりながら見る、奉納演舞。
私に捧げられて来た千年の演舞の中で、………一番嬉しくて輝いていて、目が潤んだ…。
それが終わった後、割いた布団の綿が村人に配られた。
私たちは、この一年の罪や穢れを綿に託し、沢に流す。
綿は、綿。人じゃない。人の代わりに流すことで、誰も悲しませない。
それはつまり、誰にも悲しみを強いない、罪の禊ぎ方。
「はいこれ、羽入ちゃんの綿だよ。やり方はわかる?」
「わかりますのです。こうしてポンポンしてから流すのですよ、あぅあぅ。」
私に綿をくれた少女は、去年の綿流しで、自分の名から“イ”の文字を流し、苦悩から解放されて新しい生活を歩みだした。
私たちは罪を、沢に流す。
それは綿に押し付けて流すという意味でなく、自分で自分の罪を流して赦すという、自らに課す贖罪の方法。
そして赦し合い、助け合い、人の世の歴史が築かれていく。
私は、そっと沢に綿を浮かべる…。
それは清流の流れに乗って、………罪の洗い流される世界へ、
私は素足を清流に浸しながら、…いつまでもいつまでも、…人々が流す綿が流れる幻想的な沢の中にいて、……夜の闇の向こうに去って行く綿たちを見送り続けるのだった…。
全てのカケラが紡がれ、完成された世界。
これ以上ない、理想の世界。
まだこれ以上、何を、
あなたは望む?
古手羽入は、
まだ望む。
だって、
もっともっと、私たちは幸せになれるから。
望んだ数だけ、幸せになれるから。
それは遠い未来のことじゃない。
ちょっとすぐ先の未来。
……ならそれは、いつ?
だから割と、すぐだってば。
私たちは、幸せになれるよ。……ほら、
; 誰だって幸せになる権利がある。
; 難しいのはその享受。
; 誰だって幸せになる権利がある。
; 難しいのはその履行。
; 私だって幸せになる権利がある。
; 難しいのはその妥協。
;
; だって、もっともっと、幸せになるんだもの。
;
;          Frederica Bernkastel