■皆殺し編
■フレデリカと遊ぶ
…何をしているの?
あなたが自発的に遊びを始めるなんて珍しい。
私の問い掛けに頷くことしかできない存在だったのに、…いつの間にか自我を持ったのかしら…?
……嬉しいわ。
私にも妹、あるいは弟? ができて。
かつての私もあなたのような虚無の存在だった。
それがいつしか自我を持ち、思考を持ち、自らの姿を持つに至ったんだもの。
だからあなたが自我を持ったって不思議なんて思わないわ。
この、無限に広がりながらも、同時に閉ざされた狭い世界にようこそ、私の妹。弟かもしれないけど、あなたの性別がわからないからわかるまでは妹にしておくわね。
ここは終わりなき永遠と無限の世界。
でも、だからと言って果てしなく広大で広いというわけじゃない。
そうね。例えるなら半径の小さな輪っかの世界と言うべきかしら。
輪っかをぐるぐると回り続ける分には、終わりのない永遠の世界だけれども。
それは決して無限の広がりを持つという意味じゃない。
そう、つまりここは、永遠に閉塞した世界ということ。
未来は無数の選択肢に紡がれて無限の広がりを見せるはずなのに、……なぜか私たちの世界は必ず「死」という名の終焉で閉じられてしまう。
それを例えるなら、さしずめ運命の迷宮ということなのかしら。
いつまでも同じところばかりぐるぐると回っていると、…だんだん辛くて飽きてきて、私みたいなのが湧き出すことになる。
…それがさらに続いて、あなたまで生まれてくるなら、やがてはこの世界もあなたの妹たちで埋め尽くされていくかもね。
そうしてこの世界にコロニーが築かれ、狭い迷宮世界に興味を失った時が、私たち「古手梨花」が消えてしまう時なのでしょうね。
…梨花はまだ狭い世界に未練があるようだけど。私はとっくに興味を失っている。
だから、あなたという話し相手が生まれて本当に嬉しいわ。
それで、あなたはさっきから何をしているの?
記憶のカケラで積み木遊び?
今はほんの5〜6個しかないけれど。
それでも少しは楽しい遊びができるかもしれないわね。
本当はもっともっとたくさんあったの。
……でも、少しずつ闇に溶けて消えてしまった。
今、はっきりと残っているのはそこにあるだけ。
あぁ、それはそう使うんじゃないのよ。
ほら、……こうしてかざしてごらんなさい。
それらはそれぞれが、古手梨花の人生と、その終焉よ。
それは……、…あぁ、懐かしい。
圭一が囚われた世界での物語ね。
私はそれらのカケラを本のようなものだと思っているので、「鬼隠し編」と名付けている。
「鬼隠し編」の世界は、覚えている?
…そう。それなら話は早いわね。
「鬼隠し編」の世界では、前原圭一が闇に心を囚われてしまった。
気遣う友人たちの言葉に耳を貸せず、結局その心にも気付かず殴り殺してしまった気の毒な物語。
そして私たちはその後、予定調和のように殺されてしまうんだけどね。
彼の物語とは無関係に。
そっちのカケラは「綿流し編」よ。
この世界で囚われたのは園崎詩音。
昭和57年に消息を絶った片思いの恋人の仇討ちが暴走し、大勢の人を殺めてしまう。
梨花もがんばったんだけどね。
身体能力差はどうにもならず、結局捕らえられて、酷い拷問で虐め殺されちゃったわ。
だから「目明し編」の世界では、もう一度同じ展開になったので、拷問より自害を選んだのだけれど。
そっちのカケラは「祟殺し編」という世界よ。
……沙都子の叔父が帰ってきて、沙都子を連れ去って閉じ込めてしまう。
ある意味、これは最高に運のない世界。
梨花のがんばりではどうにもならない袋小路のような世界。
まぁ、叔父が帰ってきたら不運を嘆いてその世界を諦めた方がいいかもね。
叔父が帰ってくる確率は、幸いにそう高くはないんだし。
それは「罪滅し編」という世界よ。
ついさっきまで梨花がいた世界。
この世界で囚われたのは竜宮レナ。
クラス中を人質に取っての篭城はなかなか面白かったわよ。
とても意外だったのは、前原圭一が私たちのように、別の世界の記憶を持っていたこと。
でも、あれほど顕著な例は確かに珍しいけど、日常においては誰もが記憶を持っているはず。
こうしていたら、ああなっていたかもしれないと想像する、IFの世界。
初めて経験するはずのことなのに、すでに経験していたように感じる既視感。
誰もが別の世界でのIFを断片的に覚えているけれど、それを知覚することができない。
当然よね。
だから、あなたが今遊んでいるその記憶のカケラという積み木が、「複数個」見えている時点で、あなたはとてもとても特別な存在だということなの。
それが特別なことだと気付くのは、……あなたには難しいかもしれないわね。
だってあなたは、それらが複数見えることが当り前な世界に、最初から生まれてきたのだから。
私はこの世界でなく、単一なる普通の世界から生まれた。
だから、記憶のカケラで積み木遊びができるなんてことは、本当に最近になって覚えたのよ。
あなたが、手悪戯がしたくて手に取っただけの行為でも、私にとっては長い時間の中でようやく気付いたこと。
……ごめんなさい。
私のことなんかいくら話しても、あなたにはわからないし、興味もないことよね。
うん? どうしたの? 何を不思議がっているの?
………何々? どうして同じ舞台の世界なのに、これほどまでに違う事件が起こるのか?
くすくす。…そうよね、そこはとても面白いところ。
あなたはどうしてだと思う?
一緒に考えてみましょう。
考えることが遊びの第一歩なんだから。
例えば、梨花の友人たちの中でも一際存在感の大きい人物、前原圭一。
彼は「鬼隠し編」で疑心暗鬼に囚われて、竜宮レナと園崎魅音を殴り殺してしまった。
でも、それが必然なら、前原圭一はどこの世界でも竜宮レナと園崎魅音を殴り殺していないといけない。
つまり、「鬼隠し編」における前原圭一の凶行は、前原圭一の“必然”ではないということ。
必然というのは、……そうね。
前原圭一というコマの役割のことよ。
もし前原圭一が極度の疑心暗鬼の持ち主で、常に世界を曲解する性格の持ち主だったなら、「鬼隠し編」に限らず、他の全ての世界でも遠からず同じ行動を取ったはず。
でも、そういうことはなかった。
前原圭一というコマが、直情的で思い込みが激しいというのは事実のようだけど。
「鬼隠し編」のような暴走を見せること自体は、彼という役割から見れば、明らかに不自然なイレギュラーと言える。
つまり、1つの世界で必然に見える事象でも、いくつもの世界を重ね透かして見ると、それは必然でないことがわかるということなの。
逆を言えば、起こすべくして起こされている事実は、世界をいくつ跨いだところで、毎回変わりなく繰り返されるということ。
これこそが本当の必然。
これがとても大切なこと。
複数の世界のカケラを重ね合わせて、共通する事実が最も真実に近いことになるということ。わかる?
さっきも言ったとおり、複数の世界で毎回異なる事実は、その単一の世界では必然であったとしても、複数の世界から見たら気まぐれな偶然に過ぎないということ。
…例えば園崎魅音が催す部活の種目がいい例ね。
園崎魅音が、何らかの強い目的があって部活の種目を決めていたなら、その種目はどの世界でも行なわれているはず。
でも現実にはほとんどの世界で種目は異なっている。
それはつまり、部活の種目を何にするかについては、園崎魅音が「気まぐれ」でランダムに決めていることを示している。
これは、複数の世界を見ることのできる私たちにはあっさりとわかることだけれど。
単一世界の記憶しかない人間たちには、その種目が「気まぐれ」で決まったものなのか、「強い意志で予定されたものなのか」、見破ることができない。
つまり、単一世界の彼らには推理不能な「園崎魅音の心の中」のことも、私たちには推理できるということ。
でも種目についてはランダムかもしれないけれど、ほとんどの世界で園崎魅音は放課後にほぼ確実に部活を開く。
つまり、部活を開くというこの一点においてだけは、園崎魅音の「強い意志」が働いていることになる。
つまり園崎魅音は、「放課後には絶対部活で遊びたい」、だけど「種目は何か適当な思いつきで」ということが私たちにだけはわかるわけ。
ね?
ちょっとの積み木遊びだけでも、園崎魅音が部活に対してどんなことを考えているか、案外わかるものでしょう?
これだけのことで、園崎魅音というコマの役割の一部が見えてくる。
では話を、前原圭一にもう一度戻すわね。
一つの世界の記憶しか持たない人間たちにとって、「鬼隠し編」の世界は、前原圭一が原因不明の錯乱を起こし疑心暗鬼の末、友人たちを撲殺した物語でしかない。
それ以上をいくら探ろうとしても、何もわかりようがない。
でも、私たちは、たくさんあるカケラを重ね合わせて、彼らには気付けない真実を見付け出すことができる。
その結果わかることは、彼が友人たちを撲殺するのは「必然」ではないということ。
これは最初に言ったわね。
少なくとも、あなたの手元にある5〜6個のカケラの中には、前原圭一が友人たちを撲殺する物語はその1つしかないはず。
ということは、ちょっと乱暴な結論だけど、前原圭一がこの惨劇の引き金役となるのは、確率20%未満程度の、ちょっとした「気まぐれ」と言えなくもない。
つまり、前原圭一が惨劇を起こすこと自体は、複数ある世界の中では特別重要なものではないということ。
さぁ、ここから何かの共通点が見つけられる…?
あら、もう気付いたの?
…さすが、この世界に生まれただけのことはあるのね。
積み木遊びの要領を学ぶのが早いわ。
私はなかなか気付けなかったわ。
……普通の世界に生まれた身だから、単一世界単位でしか物が見れなくて。
…「前原圭一が」という点に固執してしまって、なかなか気付けなかった。
そう、そのとおりよ。
少なくとも「鬼隠し編」「綿流し編」「目明し編」「罪滅し編」には明白な共通点がある。
それは、不特定人物が疑心暗鬼に取り付かれて凶行に走るという点。
それぞれの世界で、
前原圭一が、
あるいは園崎詩音が、
あるいは竜宮レナが、自身の妄想を加速させ凶行に至ってゆく。
前原圭一と園崎詩音、そして竜宮レナは皆、近い位置にいて交友関係を持つけれど、生まれも育ちもまったく違う他人同士。
……雛見沢という舞台に登場するコマという以上の共通点は見付けられない。
そうね、私がさっき自分で言ったわね。
複数の世界のカケラを重ねて透かし見た時。
偏る事象にこそ真実があるのであって、気まぐれな事象には大した意味はない。
つまり、共通しない「犯人」たち個人には、それほど重要な意味はないということ。
さらに言えば、事件である「凶行」そのものにも意味はない。
前原圭一は友人2人を撲殺。
園崎詩音は御三家を中心に皆殺しにし、竜宮レナは学校を占拠した。
どれもバラバラ。何の共通項もない。
むしろもっともっと重要な事実は、犯人も事件もランダムに決まるのに、凶行に至るまでの疑心暗鬼の「プロセス」は完全に共通するという点。
犯人というコマが不特定なのにも関わらず、凶行に至る「プロセス」だけが一致する。
異なる世界のカケラを重ねて、浮かび上がる真実のひとつがこれ。
つまりこれこそが、雛見沢という舞台に無限に広がる並行世界の真実のひとつ。
つまり、この舞台には「特定されないランダムな人物が、疑心暗鬼に取り憑かれ、凶行に誘われる」というルールXがあるということ。
前原圭一、園崎詩音、竜宮レナという、特別な繋がりの見えないコマたちが、ランダムな確率で、そのルールに取り込まれる可能性があるということ。
このコマたちが、どういう確率の元でルールに取り込まれているのかはわからない。
ひょっとすると何かの法則があるのかもしれない。
例えば、この3人が近い年齢にあることが鍵なのかもしれないし、雛見沢に住んでいることが鍵なのかもしれない。
……それは、探偵でもなければ警察でもない、小娘に過ぎない私たち「古手梨花」にはわかりようもないことよね。
でも、雛見沢という舞台に、そういう不思議なルールXが存在することは、焙り出せたでしょう。
これは単一世界に住まう人間たちには絶対に理解できないことなの。
私はそれを理解できることに愉悦を感じるのだけれど…。
…あなたにとってはそれは当り前のこと過ぎて、特にどうとも思わないのかしらね。
え? 何?
そうよ。共通すればするほど、それは強い意志を持って行なわれていることになる。
あら、くすくす。それは真っ先に気付くところよね。
……そう、富竹ジロウと鷹野三四は、この舞台においてほぼ絶対的運命で殺される。
しかも、その殺され方などは全ての世界において不変。
…つまり、さっき見つけたルールのような不安定さとは違い、その全てが徹頭徹尾、強い意志によって完遂されているということ。
それは、不特定の誰かが凶行に誘われるという、不思議で曖昧なルールXとは馴染まない。
だって、誰がこのルールに囚われようとも無関係に、必ず彼らは殺されるんですもの。
つまり、毎年、綿流しの夜に富竹ジロウと鷹野三四が殺されるという、もう1つの異なるルール、Yがあることがわかる。
くすくす…。ここにちょっとした喜劇性があるのに気付くかしら?
「鬼隠し編」や「綿流し編」で、あるいは「罪滅し編」で、毎回、富竹ジロウたちが殺されるわよね?
それらの世界の中で、毎回、惨劇の主人公たちは、その富竹殺人が自分の身辺に迫っている危機と関係があるように曲解していない?
彼らが凶行に誘われるルールXと、富竹ジロウたちが殺されるルールYは異なる独立したもののはずなのに、彼らはその2つのルールを無理に結びつけようとしたがる。
それにはもちろん、凶行に誘われる彼らがそのプロセスで疑心暗鬼の被害妄想に取り憑かれているためとも言えるんだけれど…。
疑心暗鬼に囚われた彼らに、この2つのルールを結びつけるようと誘導している存在がいることに気付くかしら?
そう。この誘導するコマの存在が、この雛見沢という舞台をややこしくしている。
そのコマは少なくとも2人見えているはずね。誰だかわかる?
そう。
大石蔵人と鷹野三四というコマよ。
大石蔵人というコマの役割については、これまでのカケラを重ね合わせれば見えてくる。
彼は、定年を間近に控えた刑事で、今年中に雛見沢村連続怪死事件を解決しようと焦っているの。
だって、家の都合で定年退職を迎えたら引っ越さなくてはならない。
だから何としてでも、退職前の雛見沢にいられる内にこの事件を解決したいと思っている。
どうしてこんなにも雛見沢村連続怪死事件に固執をしているのかしら?
そう。それは一番最初の事件、現場監督バラバラ殺人事件。
この被害者が、大石蔵人の親しい友人だったことに起因している。
これについては「暇潰し編」のカケラを見ればわかるわね。
また当時、ダム戦争が激化している最中に大石はいた。
大石は鬼ヶ淵死守同盟を先導する園崎本家を間近に見ており、全ての黒幕が園崎本家に違いないと確信していた。
だから、雛見沢村連続怪死事件について、どのような証拠があろうとなかろうと、始めから園崎本家が犯人だと決め付けていた。
その偏執的な私的見解が、警察の刑事であるという信憑性を得て、各々の世界の哀れな被害妄想者たちに影響を与えていく。
その結果、ルールXに囚われた気の毒な「犠牲者」は、自身でも正体のわからない疑心暗鬼の正体を、園崎家の暗躍のせいという形で納得させられていく。
……一番顕著な例が、園崎詩音の事件かもね。
そう、だからこの大石というコマが変に干渉しなかったなら、ルールに囚われた犠牲者たちはあれだけの凶行に及ばなかったかもしれない。
間接的に惨劇を引き起こす、そういう役割を持ったコマと言えるわね。
それを思うと、誰が名付けたのか知らないけれど、大石蔵人に対して与えた「オヤシロさまの使い」という通り名は、そんなに的外れではないことになる。
もう1つのコマ、鷹野三四もまったく同じ。
鷹野三四は、鬼ヶ淵村の怪しげな歴史を面白半分に研究して、それを誰かに話して怖がらせることを楽しんでいる、それだけの役割のコマのはず。
ところが、大石というコマとの相乗効果で、哀れなルールの犠牲者に、園崎家が主導で村ぐるみの怪しげな陰謀という疑心暗鬼を植え付けてしまう。
鷹野三四が特に過剰に干渉した例が、竜宮レナに対してね。
鷹野三四にとって、疑心暗鬼に囚われ、その正体を求めて藁にもすがりたい気分の竜宮レナは、格好の獲物だったに違いない。
鷹野三四は、当人の逃れられぬ運命によって、結局殺されてしまうわけだけど。
もしも死なずに済んで、レナの学校篭城を見ていたなら、きっと高笑いをしていたに違いないわね。
さて、実は今紹介したコマがそういう役割を果たすのに至ることにも、ルールがあるのに気付いたかしら?
彼らがそういうことを話してしまい、また聞いた方もそれを信じてしまう土壌の存在。
それこそが喜劇性の高い第3のルールZ。
これについては手元にあるカケラから完全な解答が出ているわね。
つまり、園崎本家は何があっても自分たちが黒幕であると振舞うというブラフの伝統の存在。
園崎本家は、自らを黒幕めいた存在に見せるため、自分たちに利するあらゆる出来事を自分たちが黒幕であるかのように「フリ」をしてきた。
その結果、村人たちは、ダム戦争以来、常に裏で園崎家が暗躍していることを疑わなくなった。
そしてそのルールに囚われたのがまさに大石蔵人と鷹野三四というコマなわけ。
広義の意味では、村中全体が囚われてるとも言えるわね。
こうして考えると、
そもそも「雛見沢村連続怪死事件」も疑わしくなるわね。
くすくすくす…。どうしてかって?
今この場にある記憶のカケラはほとんどが昭和58年のものしかないから、昭和54年から57年までの事件についてはさっぱりわからないけれど。
それらの事件が「連続」であると解釈しようとすることそのものが、この「全てを園崎本家が黒幕であろうと信じてしまうルールZ」に囚われた結果である可能性も出てきてしまうわけだから。
つまり、実は異なる理由から起きている複数の事件を、無理に1つにまとめようとしてしまっているのではないかということね。
まぁ、ここにあるカケラからは真実が確かめようもないけれど。
それに、どれかのカケラの中になかったかしら。
それぞれの事件は個別に解決している、って。
それが正論か暴論かはわからないけれど、案外無視できない真実だったりしてね。
そう言えば、「目明し編」の中で詩音が興味深いことを言っていた。
彼女が提唱する「祟りシステム」という話よ。覚えてる?
この雛見沢では、村の仇敵を、オヤシロさまの祟りの名の下に、綿流しの夜にだけは殺してもいい、という「この晩にだけ殺人を容認する」土壌が、祟りの正体なのではないかという仮説。
ここにあるカケラはほとんどが昭和58年のものだから、詩音のこの仮説が正しいかは裏付けられないけれど、それでも興味深い部分があるわ。
それは、犯人という個人が事件を起こしているのではなく、「環境」が事件を生み出しているという部分のこと。
単一世界の人間は、例えば強盗事件について、犯人の生い立ちから事件に至るまでのプロセスを分析したがるけど、この着想はそれとは違う。
つまり、強盗犯を生み出した「環境」こそが悪であると言っているのと同じってわけね。
つまり、強盗犯Aはたまたま事件を起こしただけで、貧困な環境は、ひょっとしたら強盗犯B、あるいはCを発生させたかもしれない。
よその世界ではAは犯人だったかどうかはわからない。
ゆえに、真の犯人はAではなく、A〜Cを発生させる環境が悪であるという考え方。
まぁ、単一世界でもこの考えには至れるんだけど、生贄主義が横行してるから、Aに対して社会的リンチを加えるだけで、Aを生み出した「環境」は見て見ぬふりをするのが通例ね。
あら、…混乱させちゃったかしら?
ごめんなさいね。
あなたにはこの例えの方がかえってわかりにくいのかしら。
私は普通の世界の生まれだから、この例えの方がわかりやすいのだけれど。
あなたにわかるように言えば、多くの世界で起こされる惨劇の犯人とは、前原圭一や園崎詩音などの「個人」ではなく「環境」、つまり「ルールX」こそが真の犯人であるということ。
それに至れたなら、「ルールX」の正体が何かわからなくても、あなたにはかなりいい得点をあげられるわね。
そして、この雛見沢という舞台を支配する不可視の3つの法則、すなわちルールX、Y、Zの存在に迫れたなら。
これもかなりいい得点をあげられる。
この法則を理解できたなら、初めて経験する世界であったとしても、惑わされずに真実を見つけることが容易になるのだから。
ね? 面白い世界でしょう?
たった3つしかないルールがシンプルに干渉し合い、雛見沢というたった1つの舞台の上で、まるで万華鏡のように異なる世界を繰り広げる。
これは多分、とても珍しいケースだと思うわね。
他の土地では、きっと何べん世界を繰り返し重ねても、ここまで極端な変化は見せないはずなのだから。
だから、私はここからこうして世界を眺めているだけで、まだまだ退屈しないで済むのだけど。
…………さて、世界のカケラを重ね合わせてわかる最後の事実がもう1つある。
そしてこれこそが私たち「古手梨花」を悩ませる最大の問題点なのだけど。
毎回、必ず古手梨花が殺されるという事実よ。
それは例えるなら、昭和58年6月を塞がれて袋小路にされたようなもの。
しかもそれはランダム性のあるものではなく、必然的に起こっている。
ということはつまり、必然的に起こる富竹ジロウたちの殺人事件と同じ法則、…ルールYに則っているということ。
富竹ジロウと鷹野三四は、絶対確実に綿流しの夜に殺される。
古手梨花に限っては、若干日付にバラつきはあるようだけど、6月中にほぼ確実に殺される。
富竹ジロウたちは、綿流しの祭りの帰路を襲われているのだと思われるから、殺される日時にバラつきがないのだろう。
でも古手梨花は違う。
毎回、その世界その世界で色々な都合で生活していて、行動パターンは不特定だ。
だからその結果、殺人に至る日時が不特定なのだろう。
だが、6月中に殺す、絶対殺すという意味において、彼らと同じ強い意志が感じられる。
だからつまり、古手梨花が必ず殺される法則は富竹ジロウたちが殺されるのと同じルールYに則っていると考えることができるのではなかろうか。
では、古手梨花を殺している犯人は、富竹ジロウと鷹野三四を殺しているのと同じ人物……?
人物が同じかはわからないけれど、同じルールに基づいている可能性は高いでしょうね。
同じ人物、あるいは同じ集団。
同じ思想か、同じ目的か。
梨花にとって最大の目的は、自らが狙う殺人を回避すること。
それは逃避行で魔手から逃げ延びるという意味じゃない。
その後も村で平和に暮らせなければならない。
そして友人たちも誰一人欠けずに健在でなくてはならない。
これが梨花の幸せ、即ち、希望する未来の理想なのだけど。
……この程度の低い望みでも何度繰り返しても実現できないのは、悲劇としかいいようがないわね。
もっとも、この悲劇もまた、私たちのように、異なる世界のカケラを重ね透かすことができる存在にしか知覚できない悲劇なのだけれども。
さて、ここでちょっと興味深い事例が見付かるわよ。
梨花はほとんどの場合、ルールYによって殺されるのだけれど。
一部の世界で、ルールXによって殺されていることに気付いたかしら?
そう。「綿流し編」「目明し編」の世界ね。
この世界での古手梨花は、自害もあるけど、とりあえず園崎詩音によりルールXで殺されたと断言できる。
ということは、……ルールYにとってはこれは誤算ということになるわけよね。
ルールYは、強い意志、目的に基づいて梨花を殺そうと狙っている。
ところが、それと無関係のルールXによって葬られてしまっているわけだから。
彼らには何らかの「動揺」があったかもしれない。
ルールYにとっての目的が、単に梨花を葬るだけなら問題はないだろうけど。
もしもそれだけに留まらない何らかの目的があったなら、…それが何か事象として現れたんじゃないかしら。
つまり、「綿流し編」と「目明し編」には共通していて、かつ、他の世界とは共通しない何かがあるのではないか。
残念ながら、私たちは古手梨花だから、梨花が死んだ後に何が起こるのか知らない。
…………あるいは、………ねぇ?
あなたは知っているのかしら?
私は古手梨花だから、梨花が生きている間のことしか知らない。
でも、あなたはこの並列世界を跨ぐ上位世界に生まれた不思議な存在ですもの。
「綿流し編」と「目明し編」では起こらなくて。
それ以外の世界では起こる、梨花の死後の「何か」を知っているんじゃないかしら…?
もし知っているなら、…それこそはきっと、ルールYの真実のひとつ。
ここにあるカケラは、ルールXが巻き起こす派手な騒動に主眼が置かれたものばかりだけど、……その土壌を支えるルールZや、全ての世界で共通する明白な「悪意」ルールYが、本当の意味でこの雛見沢という舞台を支配する法則となっていると思うの。
だったら、梨花にとっての道のりはあまりにイバラね。
自らが生き延びるために、ルールYと戦わなければならない。
これを打ち破らない限り、古手梨花に昭和58年6月以降の未来はないのだから。
そして、自らの幸せを勝ち取るために、友人たちの無事をルールXから勝ち取らなければならない。
これを打ち破らない限り、梨花の大切な友人の誰かが惨劇に誘われてしまうかもしれない。
そうなれば、仮に梨花が昭和58年6月を生き延びたとしても、それは梨花が望む幸せな未来ではないのだから。
そして、園崎詩音が「目明し編」で挑んだように、ルールZもまた打ち破らなければならないのかもしれない。
ルールZがある限り、例え昭和58年の惨劇を逃れても、昭和59年以降の未来に、またしても惨劇が待ち構えているかもしれないのだから。
…ルールZがルールXの温床になっている可能性も極めて高い。
雛見沢に土壌として存在する、何があっても園崎家の暗躍となり、何があっても祟りだと曲解される風土は、間接的に全ての元凶かもしれないからだ。
綿流しの夜に人が死ぬことを不思議に思わない土壌はその最たるものと言っていい。
このルールZは、永遠に雛見沢という舞台に呪いのように残り、惨劇の温床となっていくだろう。
ルールX、Y、Z。
古手梨花を永遠に昭和58年6月に幽閉する3つの錠前。
何れも難攻不落。
何しろ始めは、錠前が3つ存在することすらわからなかった。
あなたはわかった?
わかったなら花マルをあげられるんだけどね。
かつて私も何度も挑んできて、その度に敗北した。
でも、「罪滅し編」で奇跡が起こった。
前原圭一が、他の世界のわずかなカケラを偶然に知覚でき、ルールXを打ち破ったのだ。
…結局、ルールYによって梨花はその晩、殺されてしまうわけだけど。
でも錠前を1つ打ち破った。
これは初めて経験する快挙だった。
かつての梨花は、錠前が3つあることまでは気付けたが、いくら手を尽くしても打ち破れず、やがて諦めに支配され、世界から少しずつ関心を失っていった。
…その結果、私が生まれたわけだけど。
だが、今の梨花は違う。
単一世界しか知るはずのない前原圭一の奇跡に教えられた。
戦う意思があれば、必ず錠前は破れるのだ。
3つの錠前を、昭和58年の6月中に全て打ち破れば、……古手梨花は永遠の運命の牢獄から解放される。
だが、残された時間は本当に長くない。
梨花は、その単一世界をいくつもいくつも旅してきた。
だから、肉体の寿命は何度も若返るので年を経ないが、精神の寿命はそうは行かない。
単一世界ではありえないほどに年を取り、……より上位の世界の存在に生まれ変わりつつある。
最後には単一世界を知覚できなくなるだろう。
すでにその傾向が出ているが、やがて並列世界の記憶が入り混じるようになり、最後には錯乱を起こし、古手梨花という精神を喪失するだろう。
そうなれば古手梨花は、消える。
つまり、この真っ暗な世界の私とあなただけになるということ。
記憶のカケラという玩具も次第に薄れて消え、……本当に漆黒に包まれた後、永遠とも思える時間の中では、私たちは互いの存在さえ忘れ、真の意味での死を迎えるに違いない。
古手梨花も、それに薄々とは気がついている。
体の寿命ではなく、心の寿命が尽きかけていることに。
そして羽入の力も尽き掛けている。
かつてのように、何年も巻き戻せるわけではない。
徐々にその力は衰えつつあり、最近ではひと月を巻き戻すのもやっとだ。
いや、すでにその力は数週間程度にまで衰えている。
今回与えられる時間は、多分、2週間にも満たない。
わずか2週間で、古手梨花が3つの錠前を打ち破ろうとする、物語。
■キャスト表示〜〜第7話「皆殺し編」の表示
皆殺し編
井戸の外の世界が知りたくて。
私は井戸の底から這い上がろうとしました。
井戸の外の世界が知りたくて。
何度、滑り落ちて全身を打ち付けても上り続けました。
でも気付きました。
上れば上るほどに落ちる時の高さと痛みは増すのです。
外の世界への興味と全身の痛みが同じくらいになった時、
私は初めて蛙の王さまの言葉の意味がわかりました。
Frederica Bernkastel
■TIPS1 *代子へ
先立つ不幸を許せ。
余命幾ばくもなく、薄れる意識の中でいつが己の死する時かもわからず旅立つよりは、自らの足で死出の旅路に踏み出したい気持ちをどうかわかってほしい。
そのお陰でこうして文を残せる。
無意味な延命に寝惚けた意識の中で死を迎え、何も残すことができない恐怖に私は耐えられないのだ。
だが、結局、私は何も残せなかった。
私の積み上げてきた人生も誇るべき実績も結晶も、何もこの世には残せなかった。
私の死後に忘れ去られるのではなく、私が存命している内から忘れ去られた。
それを見ながらこの世を去らねばならぬ苦痛は筆舌に尽くし難い。
お前は祖父を越えなさい。
祖父の至れなかった先へ至りなさい。
分野は何でも構わない。
後世に名前を残しなさい。
それが無理なら偉業や成果を残しなさい。
人の身である以上、私もお前もやがては死ぬ。
人の身である以上、やがては焼かれて灰になる。肉の身は灰となるのが定めなのだ。
だが、お前が優れた偉業を残し名を残したなら、灰となっても永遠に生き続ける。
人の身を失いても生き続ける時、人はそれを神と呼ぶ。
祖父もそうなりたかったが至れなかった。
お前は神になりなさい。
■梨花の事故
真っ暗な闇の中で、五感を喪失するという不思議な無重力感覚の直後。
鈍い音と共に頭を地面に思いっきりぶつけた。
目蓋の裏に、七色の細やかな星がぶわっと広がり、私は痛む頭を抑えて呻きながら丸まった。
「だ、大丈夫〜ッ?! 怪我はないーー?!」
「梨ぃ花ぁあぁあーー!!! 返事をしてくださいましー!!」
自分がどうしてこういう状態にいるのか、さっぱりわからなかったが、崖の上から聞こえる魅音たちの声で、自分が崖から転げ落ちたらしいことが理解できた。
そうだ。
私は部活メンバーのみんなと神社の境内裏で遊んでいたんだ。
そしたら、ついつい調子に乗って、危なっかしい真似をして、……枝が折れて…。
それで真っ逆さまということだったか。
それを裏付けるように、今さら体中が痛み出す。
だが、記憶が戻っても、不思議な感じだった。
崖から落ちる直前までの記憶、…いや、…崖から落ちる直前までの「古手梨花」が繋がらない。
「ぁぅ、…あぅあぅあぅ……。」
おどおどとした羽入の声が耳に入る。
振り返ると、その口調を裏切らない、おどおどとした姿が目に入る。
「……羽入………? ………いたたた…………。これは一体、…何事なの…?」
「ぁぅあぅ…、梨花はみんなと遊んでて、崖から転げ落ちたのです。だ、大丈夫なのですか…?」
「羽入、…そんなことはどうでもいいわ。今日はいつ? 昭和何年の何月何日?」
毎回、私が一番初めに聞く問いかけだとわかっているはずなのに、相変わらず覚えない。
聞かれた瞬間に、聞かれることを思い出したという風だった。
「…………えっとえっと、……、…昭和58年、6月なのです。綿流しのお祭りが来週なのですから……えっとえっと……、」
「…何てこと。……それしか猶予がないってわけ…。」
「………………僕たちの力も、これが精一杯なのです…。」
羽入は申し訳なさそうに俯く。
昭和58年6月の中旬。
これが今の羽入の精一杯だと言うなら…、仕方があるまい。ぼやいても仕方がない。
記憶が少しずつ少しずつ戻ってくる。
「私がまた昭和58年の6月にいるということは、………そうか。また私は殺されたのか。」
レナが警官隊に投降した後、クラス全員は診療所で診察を受けたはずだ。
私は怪我なんてしなかったから、問診票にどこにも怪我はないと書いて帰宅を許されたはず。
……………そこから記憶がノイズ混じりになる。乱暴な死に特有の記憶混濁だ。
突然の死によって生の記憶が乱暴に途切れると、その直前がノイズだらけになって混濁して千切れてしまうのだ。
乱暴に引きちぎったトイレットペーパーみたいなもの……、というと理解は早いが、説明としては品がない。
だから、自分があの夜、どうして命を失ったのか、命を失うその瞬間から遡った記憶がノイズだらけで不鮮明になっているのだった。
……曖昧な記憶の断片だけは少し残っていて、……ハンカチのようなもので口を塞がれて意識を失って……、というようなイメージはあるのだが曖昧だ。
多分、そうだろうとしか言えない…。
つまり、わかるのは帰宅途中か帰宅後に襲われて、突然殺されたのだろうということだけ。
誰に、どのようにして殺されたのかは、記憶に残らない。
…死の瞬間の耐え難い苦痛が、毎度記憶に残らないのだけは助かるのだが。
これを身をもって経験したせいか、最近は突然の事故で死んだ人が、自分の死に気付かず、幽霊となって彷徨うというのが理解できるようになった。
長い入院生活の記憶の末の死なら、長い入院生活がしっかり記憶に残っているから、あの後、結局そのまま死んでしまったんだな、と納得もできるものだ。
だが、普通に生活している記憶が乱暴に途切れると、何が何だかわからないものだ。
…私も、初めてこの力の恩恵を受けた時は、自分が夢を見ていたのか、さもなければ頭をぶつけて記憶の障害にでも陥ったのかとずいぶん混乱したものだった。
自らの混乱を落ち着けるため、少し記憶を整理してみよう。
私の名は、古手梨花。
私を特別視する人間は多いが、…私にとってそれはどうでもいいこと。
私の大好きな友人たちと楽しく暮らせる未来以上の何も望んではいない。
……それに至るために、もうどれだけの長い時間を生きてきたのか、思い出すことも難しいけれど。
そしてこの、あぅあぅ言うのが口癖の少女の名は、羽入(はにゅう)。
私にしか見えない存在だ。
あるいは、私の頭の中に住んでいる存在というべきなのか。
とにかく羽入は、基本的に私としか交流ができない不可視の存在だ。
羽入についての説明を始めるととにかく長くなるので、ここでは省かせてもらいたい。
それに、いざ説明しようにも、何と説明すればいいのか適当な言葉が思いつかない。
私にとっては生まれた時から一緒にいた存在で、それくらいに当り前なのだから。
やがてみんなが砂利道を駆けてくるのが見えた。
私の愛すべき大切な友人たちだ。
賑やかで騒々しくて、馬鹿馬鹿しいことを大真面目にやる。
いつまで一緒にいても飽きない、大好きな友人たち。
「はぅ、梨花ちゃん大丈夫?! 捻挫とかしてない?!」
「どこを打ったの? おじさんに見せてみて!」
「……みー。ありがとうなのです。頭にタンコブができただけなのですよ。」
タンコブだけだと思う。みんなが真剣に心配してくれるほど、私の怪我は大袈裟じゃない。
「頭を打った時は、その場では大丈夫でも油断がなりませんでしてよ?!」
「そ、それもそうだな! 念には念で、監督に診察してもらった方がいいかもしれないな。」
「レナもそれがいいと思うな!
どうしよう、監督を呼んでくる?!」
「そうだね。近くの家で電話を借りて監督を呼んでみるよ。」
「……そこまでしなくても大丈夫なのですよ。この通り、ピンピンしてますのです。にぱ〜☆」
「駄目ですわよ梨花! 万が一ということがありましてよ!」
世話焼きの好きな沙都子が厳しく言う。
…本当に大した怪我ではないのだが、せっかく沙都子がこうまで言ってくれるのだから、顔を立てて頷くことにした。
沙都子は偉ぶりたくて言ってるんじゃない。
心底から私を案じて言ってくれているのだ。
……私はそれをすでに数多の世界で知ってきた。だからその心を疑うことはない。
でもそれは沙都子だけじゃない。
魅音もレナも、そして圭一も同じだ。
みんな本当に大切でやさしくて、私を仲間のひとりとして案じてくれる。
魅音は電話を探してくると言い残し、駆け出して行った。
レナも、水道を探してくると言って、ハンカチを握り締めて駆け出して行った。
沙都子は不安そうに私をあれこれ気遣う。
羽入はおろおろとしているだけだった。
圭一も不安そうだったが、今この場で一番の年長者である自分が取り乱すわけにはいかないと思っているのだろう。
落ち着いた表情で私の側に立っていてくれた。
「大丈夫か?」
「……大丈夫なのですよ。もう全然痛くないのです。」
「なら不幸中の幸いだったよな。よかったよかった!」
「……………。」
今までの私なら、圭一のこの言葉に特別な何かは感じない。
でも、……あの、レナが教室を占拠し、魅音に暴力を振るった時。
それに毅然と立ち向かい、あらゆる方法でレナを救おうと努力した圭一。
それは普段の圭一からは想像もつかないたくましさと頼もしさだった。
圭一は、普段はデリカシーもなく、知らず知らずの内に人の心を傷付けてしまう人だが、本当はそうじゃない。
仲間のために身を投げ出せる、頼もしさを秘めた人なのだ。
それを私は、ついさっきまで「見ていた」じゃないか。
それを知るからこそ、圭一の思いやりを確かに感じることができるのだった。
…そうだ。
…圭一は、前の世界で、「異なる世界の記憶」を蘇らせた。
ひょっとして…その記憶はこの世界でも受け継いでいるのではないだろうか………?
もし、そうだったなら。……それはこの上なく頼もしいことだった。
私と羽入は信じられないくらいに非力だ。
何しろ、羽入は私以外とは交流できない空気のような存在だし、私自身は単なる小娘だ。
できる大立ち回りはたかが知れている。
だが圭一は違う。
私が挫け諦めた運命を、あれだけ豪快に打ち破って見せてくれたではないか。
彼には、私を虜にするこの運命の迷宮を壁ごと打ち破って、…まだ見たことのない未来へ私を誘ってくれるかもしれない、未知の力を持っているのだ。
もし、……圭一が真に私のことを理解してくれたなら。
……これほど頼もしい味方はいないのではないか…。
あるいは、そこまで私は考えていないかもしれない。
ただ、…迷路に飲み込まれるの辛さを理解してくれる人が欲しかったのかも知れない。
「………………け、……圭一…。」
恐る恐る、…声を掛ける。
昭和58年を永遠に生き続ける魔女の私が、これほどまでに声を掛けることに怯えたのは、……本当に久しい経験。
声を掛ける前に結果を知る魔女は、赤い箱も青い箱も開けずともすでに中身を知っている。
中身の下らなさをすでに知り、落胆を越え諦観さえしている。
そんな私が、………これほどまでに緊張するなんて。
「ん? ………呼んだか梨花ちゃん?」
私の淡い期待を圭一に確認するよりも早く、羽入は落胆の表情を見せた。
「……梨花…。」
<羽入
羽入が表情を曇らせるまでもなくわかってる。
……あれはあり得ない「奇跡」なのだ。
二度も安っぽく起こる奇跡なら、他の世界でだって頻繁に起きてよかったはずなのだ。
でも、あの一度の奇跡しか私は見たことがない。
つまり、あの圭一の「奇跡」は、私が繰り返してきた気の遠くなるような時間の間に、一度あるかないかのような確率の「奇跡」なわけで……。
でも、そんな低確率が二度続くからこそ真の奇跡なんじゃないか…。
一度サイコロが6が出る程度では逃れられない世界なのだ。
10個のサイコロ全てに6が出るような、そんな奇跡でもない限り、私はこの迷路世界から抜け出せはしないのだ……。
私は10個のサイコロを握り締め、その全てが6であれと祈りながら……10個を手の平より解放する。
「………圭一。」
「どうしたんだよ。どこか痛むのか…?」
私が二度も呼びかけたので、圭一が不安そうな顔をする。
「……圭一は、…覚えていますですか…?」
その問い掛けがいかに唐突かはわかっていた。
……無論、圭一は予想に違わず、きょとんとした表情を浮かべる。
「え?
覚えてるって、…何の話だよ?」
「…………………………………。」
圭一の瞳の奥の、…本当の圭一の瞳を覗く。
覚えているはず、知っているはず…。
知覚できなくても、記憶できなくても…、……圭一は経験してきたのだから……。
「…………………?」
「何ですの圭一さん。何か梨花に悪いことでもしたんじゃありませんの?! 自分の胸によく聞いてごらんなさいですわよー!!」
………………。
「……圭一、…学校の屋根の上に、……上ったことを、覚えていますですか…?」
「学校の屋根ぇ? 圭一さん、そんなとこに上ったんですの?」
「……沙都子は黙っててなのです。圭一、覚えていませんですか…?」
「俺が? 屋根の上に? いつ。」
「……………………………………………。」
「…いや、梨花ちゃん、それは多分、他の誰かの勘違いだろ。俺、屋根なんか上ったことないし、上り方だって知らないよ。」
……………この世界の圭一にその経験がないのは知っている!
でも圭一、どうか思い出して……!
あなたはもちろん、屋根の上には上ったことなどないのだけど…、上ったことを覚えているはず……!!
それは思い出せないはずの記憶なのだけど………、あなたは一度思い出した。
だから、また思い出せるはず……!!
「屋根の上にボールでも取りに行ったんじゃありませんの?」
「いや、そんな経験、一度もねぇよ。沙都子は経験あるかぁ?」
「まさか。屋根の上なんて上ったら先生に怒られましてよ。」
「でもさ、屋根の上で昼寝とかしたら気分が良さそうだようなぁ! あはははは!」
…………………。
「……覚えてるわけ、……ないのですよ。」
<羽入
く、…………………。
「そんな簡単に奇跡が起こるなら、……僕も梨花も、……こんな苦労はしないのですよ…。」
<羽入
…うるさいな……。
……わかってた…。
どうせ無駄だろうなって、わかってた…。
「どうせまた、………僕たちはお祭りの終わりと共に消えていく夏の蝉の運命なのです…。」
<羽入
「…うるさいな。」
「あぅ……。」
私が凄んだ眼を向けると、羽入は言い過ぎたことに気付き萎縮した。
どうせ無駄かもしれない。
私たちを閉じ込めているのは、出口があるかもしれない迷宮なんて親切なものでなく、……そもそも出口など設けられていない、単なる輪っかなのかもしれない。
そうさ、私たちは運命に生き埋めにされているだ…。
…あの圭一なら、…そんな私を助け出してくれたかもしれない。
でも、…あの圭一は、………本当に奇跡のような一瞬の煌き。
…この世界の圭一は、その奇跡をまとわなかった…。
……だからって、……諦めてたまるものか……。
前回の運命だって、…私はどうせ駄目だって諦めていたじゃないか。
レナが手遅れな状態であることがわかり、私はレナにさようならとまで言い切って、世界に見切りをつけていたじゃないか。
でも、圭一は戦い、運命の輪を打ち破ったのだ。
あの奇跡の圭一と共に、私はもっともっと頑張れていたのではないか。
そうだったなら、……もっともっと、運命を打ち破れたのではないか。
圭一にあの奇跡が起きることを期待して、再び私は永遠の世界を繰り返すのか…?
いや、…………もう無理なんだ。
私は、もう世界を繰り返したいなんて思っていない。
もう飽いている。
世界にも自分にも運命にも、全てに飽いているのだ。………私は運命に溺れ殺される……!
圭一は奇跡を起こした。
なら、……私にだって起こせるはずだ。
戦おう。残りわずかな力を振り絞って戦おう。
今までだって戦った。
もっともっと力がある内から戦ってきた。
……それで駄目だったのに、今の自分たちにどの程度の勝ち目があるというのか?
でも、戦おう。
圭一が、運命は打ち破れるものだと教えてくれたのだ。
だからもう一度、戦おう。
■<ひぐらしのなく頃に解〜皆殺し編〜>タイトル表示
■幕間
■2日目
「…………………はい。もう結構ですよ。」
入江は沙都子の腕から注射針を抜いた。
注射針を刺される痛みはわかっても、抜かれる時には気がつかないようだった。
沙都子はまだ注射針が血管に刺さっているものと思っていて、硬く目を瞑ってすごい形相だった。
「……沙都子、お注射はもう終わったのですよ?」
「え? あ、あら、もう終わってたんですの?」
沙都子が恐る恐る目を開けると、入江はすでに席を立っていて、入れ替わりに鷹野が沙都子の注射跡をアルコールの染みた脱脂綿で消毒してくれていた。
「そうよ、もう終わってたのよ。入江先生は私よりお注射が上手だから。終わったことにも気付かなかったでしょう。……傷口を揉んじゃ駄目よ。出来れば重いものも持たないこと。」
「えぇ、わかっていましてよ。」
「……沙都子は偉いのですよ。なでなでしてあげますのです。」
「ちゅ、注射くらいもう全然平気ですのよ。梨花に撫でられるような覚えはございませんですわ…!」
今でこそ大人しく注射をさせてくれるが、ずいぶん昔はそうではなかった。
今日の静かな注射が、頭を撫でるに値するくらいに。
みんなそれを知っているから、笑った。
「じゃあ、沙都子ちゃんはいつもの検査を受けてください。鷹野さん、お願いします。」
「えぇ。さぁ沙都子ちゃん、いつものクイズをしましょうね。」
「鷹野さんのクイズは、答え難い問題が多くて、私、苦手ですわね…。」
「いつもと同じよ。答え難い問題は、わからないと言ってくれればいいわ。変に考え込まず、自然に思いついた答えを口にしてくれればいいのよ。」
鷹野は、沙都子の緊張を解きほぐすように笑いかける。
そして、検査室の奥にある机に沙都子を誘うのだった。
「……沙都子の具合、……良いといいのです……。」
<羽入
「……………。」
<梨花
今月に入ってから急に暑くなったせいか、沙都子が少しよくない兆候を出していた。
季節の変わり目は、体や心に負担を掛けやすい。
だから、多少は予見できていたことだった。
「私は入江たちのところへでも行って、沙都子の容態を聞いてみるわ。……羽入はどうする?」
「……僕は、……沙都子の側にいてあげますのです。」
<羽入
「ありがとう。そうしてあげて。」
羽入は、沙都子たちの検査クイズの方へ向っていった。
幸い、羽入の姿は私以外には見えない。
だから羽入なら、沙都子の肩越しに検査を見ていても邪魔にはならない。
……私が覗き込むと、気が散ると怒られるのだが。
定められた規定の検査のはずなのに、傍目には鷹野が意地悪なクイズを出して、沙都子をいじめているようにしか見えない。
……そういう沙都子を間近で見るのはきっと楽しいに違いない。
だから、沙都子に邪険にされずにそれを間近で楽しめる羽入にちょっとだけ嫉妬する。……くすくす。
入江は、沙都子たちから離れた一角で、他の診療スタッフ2人と共に検査結果を吟味していた。
私もその輪に加わる。
「良かった。では快方に向っていますか。」
最初に聞いた入江の一言は、良い結果がもたらされたことを実に簡潔に示していた。
「……入江。どうなのですか。」
「安心してください。良い結果が出ました。……では、後をよろしくお願いします。」
入江はスタッフたちに引き続き残務を続けるように指示すると、見てもさっぱりわからない書類を数枚、私に示しながら説明してくれた。
「先週の検査結果に少々焦り過ぎたようです。急に季候が変ったので、交感神経が過敏に反応したのでしょう。風邪を引きかけたりということはありませんでしたか?」
……急に暑くなって寝苦しくなった晩があった。
沙都子が布団を蹴飛ばしてお腹を見せながら寝ていたことがあったと思う。
あの晩に少し寝冷えしたのだろう。
「……お腹を出して寝てたことがありましたです。おへそを突っついたけど起きなかったのです。」
「はっはっはっは、それは羨ましい。ぜひ今度そういうことがあったら呼んでください。私も沙都子ちゃんのおへそをぷにぷにしてみたいものです。」
「ぷにぷになのですよ。お腹もぽよぽよなのです。可愛いからお布団を掛けるのがもったいないのですよ。」
「あっはっはっは、それが寝冷えの真相ですか。」
「梨ぃ花ぁ〜!! 聞こえていましてよーー!! そういう時はこっそりお布団を掛けてくださいませーー!!」
「だめよ沙都子ちゃん、検査中よ。時間も計ってるんだから、こっちに集中して。」
その様子を見て、私も入江も、そして羽入も笑っていた。
鷹野に怒られ、沙都子は渋々検査に意識を戻す。
それを見届けた上で、入江は声を少し小さくしながら言った。
「ただ、……小康状態には戻りましたが、レベルはL3マイナス。昨日も今日も明日も、危険な状態を脱していないことに変りはありません。」
「……レベル3は永遠に治らないのですか。」
「アナフェラキシーショックと同じで、仮に異物が完全に取り除かれても、人体側に過剰な反応を示す体質が作られてしまいます。つまり、」
「……沙都子は完治しても、一生、レベル3から治らない。」
「………………そういうことになります。
…ですが、悲観することはありません。規則正しい生活習慣とセルフコントロール。そしてある種の投薬を続けることによって、症状の発生を抑えることができます。」
「一生、……治らない。」
検査という名のクイズ遊びに一喜一憂する沙都子を見る。
……鷹野にからかわれて怒りながらも、とても楽しそうだった。
その様子と、不治の病の重みはなかなか重ならない…。
「……言葉を悪く言えばそうなります。ですが、世の中には不治の病ではあってもうまく病気と付き合っていけるケースも少なくありません。例えば、糖尿病がそうでしょう。病気そのものは生涯治りませんが、その発症は抑えることができます。」
言われるまでもない。……世の中には、治すこともできず、症状を抑えることもできない難病などいくらでもある。
それらを思えば、沙都子はまだまだ恵まれているに違いなかった。
「……………もちろん、これで妥協するつもりはありません。沙都子ちゃんはきっと完治させます。…絶対にです。」
「……信じてますですよ。」
「えぇ。信じてください。」
入江は真剣な表情でそう言ってくれた。
…それは沙都子の親友である私として、本当に頼もしい言葉だった。
入江は沙都子を救うために今後も精一杯努力してくれるだろう。
…しかもその思いに邪念がないのは本当だ。私はそれを数多の世界で知っている。
……どうして精一杯になるかの理由も知っているのだが、……この世界では知っていないことになっている。
だから私は入江の寂しげな笑顔にも気付かないふりをしている…。
「そうだ梨花さん。月末にまた少し大掛かりな検査があります。」
「……今度はボクがモルモットになる番なのですか。」
「そ、そんなつもりは……。医学に貢献していただいていますし、大勢の人を救うことにもなります。」
入江のモルモットは沙都子だけではない。私もだ。
……モルモットという言い方は入江に悪いか。
入江の献身的な努力がなかったら、沙都子は今ここにいることができなかったに違いない。
だから私は、入江には最低限の敬意を払うべきなのだ。
だから私は、モルモットという言葉に少し消沈する入江に笑いかけた。
「……みー…。ボクを調べて、沙都子の治療に役立つのなら、ボクがモルモットでもいいのです。」
「ご協力を感謝します。もう少し人と設備とお金があれば、これだけの負担をかけないのですが…。」
その時、内線電話が鳴る。
入江は診療所長の顔つきに戻ると受話器を取った。
「はいもしもし、入江です。」
『東京から外線です。そちらへ回します。』
電話の音量設定が大き過ぎるのか、受話器の声が漏れて聞こえた。
「あぁ、リサさんですね。もう今年もそんな時期になりましたか。電話は所長室で取りますからそっちへ回してください。」
『はい。ではすみません、そちらの受話器を一度切ってください。』
「わかりました。…梨花さん、すみません。東京からの電話です。」
「……行ってらっしゃいなのですよ。」
入江が受話器を置くと、すぐに遠くの電話が鳴るのが聞こえた。
入江は検査室を退出すると所長室へ向っていった。
入江が出て行くと、入れ替わりに羽入が戻ってきた。
羽入は私が入江と話している時にはあまり側にいたがらない。
……別に入江が嫌いだということではないのだが。
…入江の話をあまり聞きたくないというのが本音なのだろう。
入江に悪意はなくとも、羽入には傷付けられているように聞こえるに違いない。
「どう、沙都子の様子は。」
「…沙都子は相変わらず間違い探しは下手くそなのです。僕の方がいっぱい見つけられましたのですよ〜。」
<羽入
「……あんたの検査結果なんてどうでもいいでしょ。沙都子の結果はどうなの?」
「あぅあぅあぅ…。」
…沙都子の様子を見ていてくれてるとばかり思っていたら。
沙都子と一緒に検査のクイズをするのが楽しくなってしまっていたらしい。
……まぁ、羽入らしいと言えば羽入らしい。
ゲーム感覚の検査だが、毎週毎週受けている沙都子にとってはやや退屈なものらしい。
今朝の早起きも手伝ってか、少しばかり眠そうな目になっていた。
何しろ、正解不正解を問う検査ではない。
掛かった時間や傾向、答え以外に口にした言葉や思案時の仕草など、そういう方をチェックするための検査だ。
即答できる問題は決して多くなく、学校の漢字テストなんかよりよっぽど頭を使わされるに違いない。
「もうほとんど終わりなの…?」
<梨花
「……はいです。今、鷹野が持っているのが最後の一冊なのですよ。」
<羽入
鷹野は冊子を広げ、そこに描かれている抽象的な図画を沙都子に見せていた。
それを図画と呼んでいいかも怪しい。
カラーインクが本の間に垂らされ、それをバタンと閉じて広げたような、左右対称の歪なシミの絵なのだから。
「さ、これで最後よ。これは何に見えるかしら…?」
私も羽入も、沙都子の肩越しにその図画を見てみる。
………この歪なシミから何を見出せばいいのか、私でもしばらく混乱した。
「……………ぇっと、………ぇっと…………。」
あれこれと悩む沙都子。
…鷹野は悩む沙都子の様子を見ながら、時折何かメモを取る。
そして机の下では左手でストップウォッチを持ち、沙都子が答えを出すのにかける時間も測定していた。
羽入にしか聞こえない声で言う。
「……羽入は何に見える? このシミ。」
「ぁぅ………。……えっと、……あ!
ソフトクリームなのです。滑って落としてしまって、地面にべっしゃりとなのです……。ぁぅあぅあぅ…もったいないぃぃ…。」
「なるほど、実に相手の考えがわかるテストね。くすくすくす。」
ちなみに私には、腹から割いてワタを掻き出した後に開いたアジに見えた。
………私も食べ物か。
…羽入と同レベルなのにちょっとショックを受ける。
「何に見えるかしら? 思いつきでいいのよ。」
沙都子はこの検査が特に苦手らしい。
どうやら、この他のページの問題にも相当の時間を掛けているようだった。
やがて、苦し紛れのように答えた。
「……2匹の蝶々が……重なっている感じ……、…ですわね。」
「2匹の蝶々が、重なって……。…えぇ、いいわよ、続けて? どうして蝶々は重なっているのかしら?」
鷹野は沙都子の発言にメモを走らせながら問い掛ける。
何て書いてるんだろう。
……ドイツ語だろうか。まったく読めない。意地悪女め。
「…えっと、……………ずっと離れ離れで会えなかった蝶々が、………やっと一緒になれて喜んでいるところ、………あはは、ご、ごめんなさいですわね。私も何を言っているのか自分でよくわかりませんわね…!」
「いえ、そういう答え方でいいのよ。思いついたことが抽象的なら、そのまま口にしてくれればいいの。そういう検査なんだから。」
「……本当にこんなヘンテコな絵の感想を言うだけで検査になりますの?」
「なるわよ。例えば、今のこの絵だけど。去年の沙都子ちゃんは別な答えを出してるの。それを比べるだけでも、この1年のあなたの変化を測ることができるわよ。」
「何だか嫌なテストですわね…。
去年の私は、この絵に何て応えたのでございますの?」
鷹野はくすくすと笑いながらペンを走らせるが、沙都子の問いには応えなかった。
私も思い出そうと記憶を探るが、………何しろ百年分以上の記憶でごちゃ混ぜだ。記憶の整頓は羽入の方がうまい。
羽入に聞こうとその表情を見た時、羽入がとても悲しそうな顔を浮かべているのに気付いた。
それを見て、……私は去年、沙都子がどんな答えを出したのか、おおよその想像がついて、聞くのをやめる。
去年。つまり、昭和57年の6月は、……沙都子が意地悪な叔母に虐め抜かれた最後の最後の時期だ。
それを思い出すだけで、沙都子の答えなど聞きたくもなくなった。
だが、ここにいる沙都子には去年の擦り切れそうな沙都子の面影は重ならない。
……本当に強くなった。
沙都子がいかに悲壮な決意で強くなろうとしたかを、私は知っている。
だからこそ、この一年のたくましい成長が、ほんの少しだけ痛ましかった。
「検査、終わりましたか。」
電話で席を外していた入江が戻ってきた。
「えぇ、終わりましたわ。」
「だいぶ沙都子ちゃんも手際がよくなりましたわ。今日はだいぶ早く終わりましたのよ。」
「ほっほっほ! 早く終わらせるようにがんばったんですもの。今日は用事がある日だからのんびりとはできませんのよ!」
「おや、今日は何かあるのですか? 日曜日ではありませんでしたっけ?」
「……今日はみんなで魅ぃの叔父さんの玩具屋さんで部活があるのですよ。」
「はっはっは、なるほど、沙都子ちゃんが妙に今日は大人しく検査に従ってくださると思いました。予定が詰まっていたんですね。それは悪いことをしました。では沙都子ちゃん、これはいつものです。」
入江が机の上に大きな紙袋を置いた。
中身を机の上に広げ、数量と服用の仕方を説明する。
毎度お馴染みの内容だったので、沙都子は時間の無駄だと聞きたがらなかったが、それでも事務的に入江は内容物の説明をした。
「状態がいいようですので、お注射はこれまでの日に2回に戻します。昼食前と就寝前の2回に必ず注射をしてください。注射針は必ず変えるように。同じ針を二度使ってはいけませんよ。それからこちらは、どうしても体調が悪くなった時のみ食後に、」
「はいはいはい、いつもと同じですわよ、わかっていましてよー!」
沙都子は早くみんなと合流して遊びたくて仕方がないらしい。
そんな沙都子を見ていると何だか嬉しかった。
「……注射、2本に戻りましたのですよ。…良かったのです。」
<羽入
注射の本数は沙都子の容態を表す。減るのは喜ばしいことだった。
「大変よね、1日に2本も注射を打つのは。」
「ぁぅあぅ……。」
<羽入
羽入は私に嫌味を言われているものと思ったのか、勝手に畏縮する。
入江は全ての義務的説明を終えると、中身を紙袋に戻し、沙都子に手渡した。
「梨花〜! 終わりましてよ!」
「えぇ、お疲れ様。検査中からずっとそわそわしてたからね。行ってらっしゃいな。」
「す、すみませんわね上の空で…。いつも検査をして下さって感謝してますのよ…。」
「くすくす。ほら、もう時間がないんじゃないの? 私の車で送ろうかしら? そうそう、また車に新しいぬいぐるみがあるのよ。今度は約束通り、沙都子ちゃんが名前を付けてくれていいわよ。」
「あら! 何のぬいぐるみでございますかしら!! どんな名前にしようか迷いますわねぇ! 何の動物のぬいぐるみなんですの?」
「うふふ、また猫なのよ。今度はトラ縞なの。可愛いからきっと気に入ってくれるわよ。」
沙都子と鷹野は、実はちょっぴり仲良しだった。
ぬいぐるみ仲間とでも言うのか。
いつの間にか、鷹野が新しいぬいぐるみを車に増やす度に、それを沙都子に自慢するのが当り前になっていた。
もちろん、それだけの関係で、友達と呼ぶほどの交流ではない。
それでも、村を売ろうとした裏切り者、北条家の最後の娘である沙都子にとって、…それはとても貴重なものに違いなかった。
沙都子に話しかけてくれる大人は、未だ診療所の人間だけなのだから…。
「はっはっはっは。じゃあ、お二人とも部活、行ってらっしゃい。罰ゲームが未定でしたらぜひメイド服の着用を提案してくださいね! サイズから種類まで色々と取り揃えておりますので☆ また来週お会いしましょう。」
「……やなこったなのですよ☆ また来週なのです。」
「さ、行きましょうですわ! 今日は部活メンバーだけじゃありませんものね! 腕が鳴りましてよー!」
私は小さく頭を下げ、沙都子と一緒に検査室を後にしようとした。
その時、気付く。
入江がちょっぴり悲しそうな顔で私を見ていた。
…瞳で何を言っているかわかる。
もし沙都子ちゃんに万が一のことがある時は…頼みますよ。
私は頷き返し、沙都子と一緒に廊下へ出るのだった。
「やれやれ…。検査は慣れても疲れますわねぇ!」
「……検査、お嫌なのですか…?」
「め、…面倒臭いから嫌いではありますけど、…これも仕事ですもの。仕方ありませんわ。」
入江の研究論文への協力。
その見返りとして、生活費が援助されている。沙都子にはそう知らされていた。
■興宮の玩具屋
沙都子が張り切りすぎて、ものすごい速度で興宮へ向かってしまったため、私たちは圭一たちがやってくるのをだいぶ待つことになった。
私たちが早く着き過ぎた上、圭一たちは遅刻なのだからなおのことだ。
しかし、以前も同じ状況で遅刻しているはずだ。
……ということはこの遅刻は必然なのか。
こういう下らないところで曲げられぬ運命を感じると実に不愉快だ。
やがて、チリンチリンと呼び鈴を鳴らしながら、圭一たちの自転車がやってくるのが見えた。
「皆さま方〜!! お待ちしてましてよ〜!!」
やっと来てくれて嬉しい沙都子が、口調だけは怒りながらも、尻尾をぱたぱた振りながら出迎える。
「あぅあぅ、沙都子がかわいいのですよー。」
<羽入
「そこが飽きないのよ。くすくす、可愛すぎる。」
<梨花
沙都子の仕草に、ちょっと待たされた程度で荒みかけていた私の心がすぐに癒されてしまう。
これだから沙都子は大好きなのだ。
もう少し小さくてモフモフだったら、ぜひケージの中で飼ってみたい…。
「沙都子ちゃん、梨花ちゃん、おっはよ〜ぅ!」
<レナ
「……おはようございますなのです。」
「おーぅ! おはよう梨花ちゃん! 沙都子、警察が来る前にケリを着けるぞ! 目標は10億強奪だ!!」
「は??……圭一さんの話がわかりませんわ?」
「遅くなったかな? 梨花ちゃんたちは今来たの?」
「……今日は早く終わったので、だいぶ待ってましたですよ。」
魅音とレナは、沙都子がとある検査のため、毎週日曜日に診療所で検査を受けていることを知っていたので、こういう言い方で充分だった。
「そりゃ悪いことをしたわー。
こっちは圭ちゃんがなかなか来なくてさぁ!」
…おのれ圭一。お前が必ず遅刻してくる原因か。
「……圭一では仕方ありませんですよ。にぱ〜☆」
「ちょい待て。…俺が悪役になりゃ丸く収まるのかよ?!」
「もちろん! 圭一さんでなくては務まらない大役でしてよ? をーっほっほ!」
「じ、実に嫌な大役だな。
こんなので丸く収まると思ったら大間違いだぞー!」
圭一と沙都子がはしゃぎながらふざけ合う。
沙都子が嘘泣きをして、レナが絡んできて必殺の一撃で圭一をスパーーン!とノックアウトする。
うむ、いつもの展開。
こういうのは何度繰り返しでもいい。お風呂上りの牛乳みたいなものだ。
「う、…うむ。…やっぱりこれが正しい、丸い収め方だよな…。」
「…前歯が欠ける前に新しいオチを探した方がいいと思うけどねー。」
伸びている圭一をみんなで笑い、それで私たちの朝の挨拶は終了した。
「…今日もみんな、とっても元気なのです。」
<羽入
「元気に勝る宝はないわね。」
<梨花
「そんなこと言ってると、梨花はどんどん老け込んじゃいますのです。」
<羽入
「うるさいな、誰のせいだと思ってんのよ。当分、甘い物を食べるのやめるわよ。」
<梨花
「あ……あうあうあうあうあうあぅ…!!」
<羽入
ただでさえうっとうしいヤツが余計うっとうしくなる。…苛め過ぎたか。
「嘘よ。冗談だからあまり引っ付かないで。」
「あぅあぅぁぅ…。ごめんなさいなのです…、ぁぅあぅあぅ。」
<羽入
羽入は甘い物に目がない。
特に洋菓子系、ケーキやアイスクリームが大好きだ。
でも、自分では食事ができないややこしい存在なので、その摂取は私に頼るしかない。
つまり、私が食べれば羽入も食べたことになるわけだ。
逆に言えば、羽入が食べたくても私が食べなければどうしようもない。
そこに絶対的なイニシアチブがあるわけだった。
なので、食事をタネに羽入を苛めるのは非常に楽しい。
沙都子をおちょくるのの次くらいに。
「はぅ、梨花ちゃんは今日もご機嫌だね〜! お持ち帰り〜!!」
「はいはい、お持ち帰ったら犯罪だからねー?!」
「魅音〜、店のおじさんが呼んでるぜー!」
「梨花ぁ、聞きまして?! 今日の部活、賞金が出るんだそうですのよ?!」
…思い出した。
確か、魅音が自腹を切って5万円を賞金にするんだっけ。
よくもそれだけの金額を張れるものだ。
それだけ賞金が高いと、むしろ、絶対に負けない策が充分に張り巡らされているに違いないと邪推してしまう。
「なんと5万円でしてよ? 5万円んん〜ッ!!」
…………。
沙都子と目が合う。……………ぁ、いけない。
沙都子は、5万円という高額賞金に私が驚きの声をあげることを期待していたのだ。
…普通の子なら、まず間違いなく驚く。
だが私は、“すでに知っていたから”、驚かず、きょとんとしてしまっていた。
いや、それどころか、“そんなこと、とっくに知っている”ような目で見てしまっているかもしれない…。
「……け、圭一さん、5万円なんてすごい賞金と思いませんですこと?!」
「5万円ッ?!?! 何だよそれ!! 圭一王国の5年分のGNPに匹敵するぞッ!!!」
沙都子は同じ言葉をすぐ近くにいた圭一に掛け直す。
私が聞いてないと思って、もう一度声を掛け直すのが照れ臭くなって、近くの圭一に言い直したのだろう…。
………………。
「…あぅぁぅ……。」
<羽入
「………小さなミスよ。大丈夫。」
<梨花
「……5万円もあれば、もうずっと使い切れないくらいのお醤油が買えますです。」
「なな、何で5万円分もお醤油を買わないといけないんですのー!」
「……お醤油を買って来てと言っても面倒臭がる人がいるからなのですよ。にぱ〜☆」
「ううぅ、梨花って結構、根に持ちますのね…。」
「5万円分の醤油って一体どのくらいだよ! すげー量になりそうだなぁ!」
そこに圭一が絡んできてくれたので、うまくいつものペースに戻すことができた。
…………必ず幸せになれる力は、小さな幸せを徐々に失う弊害がある。
本当なら、古手梨花と言う少女は、親友の沙都子から優勝賞金が何と5万円もあると知らされて、その大きな額にびっくりするはずなのだ。
でも私は、もう5万円ということをすでに知ってしまっているから。
過去の世界で、賞金が5万円ということをすでに知ってしまっているから、“あぁ、5万円だったっけ”という程度の反応をしてしまう。
…5万円という大きな賞金に新鮮な感動ができないのだ。
……沙都子が期待するような反応を示せないのだ。
新鮮な驚きが、私の日々からどんどん失われていく…。
こういうことが、小さなことや些細なことで積み重なっていくと。
…最後にはこの世界に面白いことなど何もなくなるに違いない。
驚きがなくなる。
感動がなくなる。
そして最後には、感情がなくなる。
だから、いつも気をつけてる。
………全てを覚えている私と、そんなのは知らない、ただの古手梨花を別けるように気をつけてる。
私にとって感動がないことであっても、古手梨花という歳相応の少女には感動的なことなどたくさんある。
だから、古手梨花は「初めての感動」に大はしゃぎする。
………するように努力する。
この努力をすればするほど、古手梨花という、まるでブラウン管の向こうにいるようなもう一人の自分がどんどん希薄になって遠のいていくのだ…。
「……梨花…。」
<羽入
「…ごめん。こういうことで感情を灰色にすると、また寿命が縮んじゃうわね…。世界をもっと楽しまなきゃ。」
寿命というのは本来の意味ではない。
肉体の寿命という意味でなく、…精神の寿命という意味である。
日々の出来事を繰り返せば繰り返すほど、全てを知ってしまい、驚きも感動もなくなり、…………やがて繰り返される世界は、見ることを強要される見飽きたビデオのような苦痛を伴うようになる。
見飽きたビデオなら、目をつぶり眠りこけることもできる。
起きる頃にはビデオも終わっているだろうから。
でも、私の場合はビデオじゃなく、この世界。
目をつぶり眠りこけることは多分、…………私の心の死を意味する。
私の精神の寿命が尽きる時。
……古手梨花という少女は、ただ息をするだけで、自らの意思では指一本動かせない生き人形となるのだろう……。
そうなれば、…幸せを探す私の長い旅もおしまいだ。
……………そんなのは嫌だ…。
100年にも及ぶ長い間、……あるいは100年以上を覚えてないだけで、それ以上に長い間なのか。
……ずっとこんな生き地獄の世界で生きてきて…。このまま人生が終わりなんて…あってたまるものか。
「………ごめん、もう大丈夫。100年程度で愚痴ってたら、あんたに笑われちゃうものね。」
「…あうあぅ。…僕はもう、運命に慣れていますのですから…。」
<羽入
「ふーーーーー………。よし。…大丈夫。私は古手梨花、…私は古手梨花…。」
自分が古手梨花であることを意識して思い出さないと、……「この」自分の地が古手梨花に出てしまう。
古手梨花はごく普通の可愛らしくて憎めない女の子だ…。
「……みー。レナだったら、五万円で何を買いますですか?」
「うーん!!
ケンタくん人形とか売ってもらえないのかなぁ。フライドチキン屋さんに5万円持ってったら売ってくれないかなぁ! はぅ。」
「……その五万円で鎖を切る工具と大八車を買った方が早いと思いますです。」
「レナさんだったら、素手で鎖を引き千切りかねませんわねぇ!」
「わっはっはっは! 違いない違いない!」
<圭一
「はぅ〜、ひどい〜!」
それで自然にいつもの流れに入り込める。
……流れにうまく入れれば、古手梨花で居続けるのはそう難しくない。
そう、古手梨花で居るのは、今の私にとって凧を揚げるのに似ていた。
一度揚がれば、そのまま上空に留まり続けるのは容易い。
だが、何かの拍子に失速して地面に落ちてしまうと、再び上空に揚がるには相応の助走をつけなければならない。
その助走の時、ずるずると地面を引き摺られ、古手梨花が磨耗していくところまで凧にそっくりに違いなかった。
やがて魅音が、傾注傾注と言いながら手を叩いた。
ルールは知ってる。
このメンバーで5つの卓に別れ、それぞれの卓毎に決めたゲームで勝者を1人選別するのだ。
………心のどこかで、魅音の気まぐれでこのルールが崩れることを期待する。
すでに知っている展開を再びなぞることほど退屈で苦痛なことはないからだ。
「魅音の部活って、割と気まぐれなことが多いもの。……ひょっとするとルールは違うこともあるかも…。」
<黒梨花
「……普段ならそういうこともあると思いますですが、今日はきっと、何日も前から計画していたことだと思うのです。」
<羽入
「強い意志は、運命になりやすい…、だったわね。」
<黒梨花
普段の部活の種目を決める時、魅音は何にするかその瞬間まで考えていないことも少なくない。
ロッカーを覗いて、その場の雰囲気で気まぐれに種目を決定する。
……だからこそ、何度も世界をやり直しても、種目が重なることは極めて稀だ。
だからこそ、私は魅音の部活には“飽きない”。
だが、羽入の言うとおり、今日の部活は玩具屋を借り切っての大掛かりなもの。
どのように当日を進行するかは、気まぐれでなく、じっくり思案して決めているに違いない。
そうなると、気まぐれという乱数が入り込まなくなる。
魅音にとっての「最善のアイデア」はたった1つだ。
だから、“運命は1つに収束”する。
………さらに補足すると、魅音はこの、玩具屋を借り切るイベントは「気まぐれ」で思いつくようだ。
これまで繰り返してきた世界で、このイベントが起こる確率が低めだからだ。
「……だから、余りそういうのは期待しない方がいいのです。」
「期待してるわけじゃないわ。」
もちろん嘘だ。
魅音が新しいルールを提案してくれることを期待している。
もし同じルールだったら。
魅音がルールを説明し終わるまでの数分間すらも、私は苦痛にまみれて過ごさなければならないのだから………。
すでに知る運命を再びなぞらされるほどの苦痛はない。
………お願い、魅音…。………運命を変えて、……変えて……。
「まずはくじ引きで5つの卓に別れるよ! そして各卓から1人の勝者を出して、」
………………………。…同じだった。
「………………ごめん、ちょっと期待した。」
<黒梨花
「……変な期待は帰って梨花を傷付けますですよ。」
<羽入
「そうね……。…何度も教えられてるのに、私も学ばないわね…。」
…私は羽入に何度も教えられている。
運命という流れの泳ぎ方のコツを。
運命の流れは川の流れと同じ。
流れに沿う形ならある程度、好きな方へ泳ぐこともできるが、流れに逆らうように泳ぐのは無論、相応の努力を伴う。流されるままが一番負担が軽い。
もちろん、どう努力しても抗えない強い流れもある。
抗えないことに気付かず、無闇に逆らおうとすれば、無駄に疲れることになるのも川の流れとまったく同じだ。
羽入は、そういう流れの強弱を読めと言っているのだ。
だから、今日のイベントを魅音が計画的に準備していたことがわかった時点で、ルールも同じなのは容易に想像がつくこと。
なのに、同じルールであって欲しくないなんて願うのは、まさに無駄な行為なのだ。
結局願いを裏切られ、心を疲れさせるだけ…。そしてそれは「私」を一層、古手梨花から乖離させてゆくだろう。最後には全てに疲れて関心を失い、………死ぬ。
「抗えない運命は、…受け容れる。」
<黒梨花
「……梨花なら、運命の流れを読むことができますですよ。」
<羽入
「そうよね。……ただでさえ短い残りの寿命、…大事にしないとね。」
<黒梨花
私は小さいため息をひとつ漏らすと、例えジェスチャーだけでも、魅音の説明に耳を傾けるフリをするのだった。
「どうしたんだ、梨花ちゃん。…退屈なのか?」
隣にいた圭一に突然、小声で話しかけられたのでびっくりした。
「退屈って、…ボクがですか?」
退屈なのかと話し掛けられる覚えがないので、他の人に話しかけたのを勘違いしたのかと思って周りをキョロキョロする。
でも、圭一は他でもない、私に話し掛けたようだった。
「うん。何か今朝は会ってからずっと退屈そうな顔をしてるからさ。
…ひょっとして早起きし過ぎて寝不足なのか? ははは。」
「前に同じ部活をやったことがあるので、またなのかと思っただけなのです。」
……どうせ言ったって誰にも意味がわからない。
でも、圭一はひょっとしたらわかってくれるかもしれない…。
そういう気持ちがあったせいか、素のまま返事をしてしまう。
「へ? 何だ、そうなのかー? なぁんだ、魅音め、どうりで手馴れてると思ったぜ。まぁ、俺は初めての参加だから充分、楽しみだけどなー!」
その初めての嬉しさというものが羨ましい。
……ない物ねだりとは知りつつ、ほぅっとため息が漏れる。
「確かに、すでに知ってる説明を延々と繰り返されると苦痛な時ってあるよなー! 俺も昔、塾で学校のだいぶ先まで習っててさ。遅れて習う学校が苦痛だったことがあるよ。」
やはり圭一は理解できていない…。
でも、すでに知ることが繰り返される苦痛を理解しているようなのが、ちょっぴりだけ嬉しかった。
「……そうなのです。ボクも学校は特に苦痛なのですよ。」
「えぇ? 本当かよ? いっつも楽しそうにしてるじゃないかよ。」
古手梨花は学校を楽しく過ごす。
…だから楽しいようにしている。
「……すでに知っていることを延々と聞き続けなければならないのは、拷問以外の何物でもないと思いますのです。」
沙都子が作る晩のおかずくらいのものだったら、運命に抗うこともできよう。
私が食事当番を奪って自ら料理をすればいい。
でも、学校で先生が進める授業には抗いようがない。
粛々と授業を受けるか、暇を潰すかくらいしかやることがないのだから。
「あははは、まぁ授業はどうしようもないよな。俺はそこを塾で習ってますから、その次をやってくださいなんて生意気言ったら、色々と怒られるもんなぁ。でも、こいつは違うぜ? 遊びじゃないか。」
「……遊びではありますが、決まってるのですよ。」
「わかんねぇぜ? だって、5卓に分かれるのはくじ引きだそうじゃねぇか。しかもそれぞれの卓で何のゲームをやるかは任意に決めることになってる。今日、どんなゲームで戦わされて、どんな展開で盛り上がるかなんか、全然想像がつかねぇぜ!」
「………………予想は付きますですよ?」
「そんなことねぇよ。」
圭一は笑い飛ばすように微笑む。
…でもそれは、私から見れば無知ゆえの根拠なき笑み。
「くじ引きで5卓に分かれますですが、…部活メンバーは綺麗に5択に分かれますです。
圭一はあそこ。ボクはそこの卓なのです。そしてボクは魚釣りのゲームをすることになります。圭一はスゴロクの百万長者ゲームなのです。」
方法はわからないが、前回のくじ引きで部活メンバーは綺麗に5卓に分かれた。
そんなこと、数学的に考えてとてつもなく低い確率だ。
……多分、魅音が意図的にそうなるようにイカサマをしているに違いない。
だから、これはほぼ10割必中するだろう。
魚釣りゲームと百万長者ゲームは10割とは言い切れない。
だが、同席する人間たちが前回と同じ思考に従って決めようとする限り、恐らく前回と同じゲームに決まる可能性が非常に高い。
……サイコロを振れば振るほど合計が平均値に近付くのと同じだ。
1人の気まぐれな意思は自由奔放で運命に縛られにくいが、複数の人間の合意は、内に気まぐれを含んだとしても平均化されやすい。
だから、合議に関わる人数が多ければ多いほど、運命は強固になる。
だから、多分、相当高い確率でゲームも前回と同じになるだろうと言い切れるのだ。
もちろん圭一は私の予言に目を丸くする。
「何だよそれ。予言かぁ? よくそこまで言い切れるじゃねぇか。」
「……運命とはそういうものなのです。」
「へへ、運命なんて言われるとよ。意地でも抗ってみたくなるのが男ってもんだよな!」
圭一がニヤリを笑ってみせる。
何の根拠もない笑みのはずなのに、…圭一のその表情にはどきりとさせられる。
だって、…圭一は本当に前回、運命を打ち砕いて見せているのだから。
……でも、それは奇跡のような前回の話なのだ。
今回の圭一の面影にそれを期待するのはいけないこと。
…さもないと、無意味な期待を裏切られて、私はまた勝手に疲れていくことになる……。
「ハイ、くじ引きはこの箱の中から1枚引いて決めよう。まず部活メンバーからねー!」
真っ先に魅音が引き、次に沙都子が引く。
…2人の座る卓は前回と同じだ。
「緒戦で部活メンバーとは当りたくねぇなぁ! もし梨花ちゃんと当ったらごめんよ!」
「……当りませんですよ。圭一の卓はあそこ。ボクの卓はそこなのです。」
「ちぇ、そううまく行ってたまるかよ。うりゃ!!
………………、…む。」
圭一が引き当てたクジを見て、ちょっぴり苦々しそうな表情を見せる。
「……ね? ボクの予言は外れないのです。」
「5卓の1つってことは20%だもんな。適当に言ったってそれだけの確率で当るってことさ!」
圭一はあくまでも、偶然だと言いたそうだった。
「……なら、ボクのクジも予想通りだったなら、何%の確率になりますですか?」
「えっと、……20%の20%だから、4%だな。さすがにこの確率だったら信じてもいいぜー?」
さすがにもう偶然はないだろうと圭一はニヤニヤと笑う。
「さ〜、最後は梨花ちゃんだよ〜!」
魅音がクジの入った箱を突き出す。
…私はどう努力しても、あの卓に当るのだ。
その運命を強固にしている原因はただ一つ。
魅音がイカサマをして、部活メンバーが全て散るように仕組んでいるからだ。
どうして魅音がそういうことをするか考える。
私が数多の世界で知る魅音という人間を重ね合わせると……答えはおぼろげに見えてくる。
「……多分、魅音は部活のメンバーの誰かが1回戦で負けてしまったら気の毒だと思っているのでしょう。」
<羽入
「そうね。…同じ卓に部活メンバーがぶつかりあったら、どちらかのメンバーは必ず敗退することになる。」
<黒梨花
だから、全員が2回戦に上がれるチャンスがある、全員別卓であることを望んでいるのだ。
……多分、そんなくらいの理由だろう。
クジの入った箱の中に手を突っ込んだ。
中には畳んだ紙が複数枚あるのが手触りでわかる。
だが不思議だ。
……この中のどれを選んでも、私があの卓になる運命から抗えないなんて。
「……どういう仕掛けで、梨花を最後の卓へ送るようにしているのですか?」
<羽入
「さぁ。それは魅音に聞かないとわからないわね。でもひとつ言えるのは、多分、この箱の中のどれを引いても、あの卓になると書いてあるはず。」
<黒梨花
と、いうことは。
「……その箱の中には今、同じクジしか入っていない…?」
<羽入
「そういうことになるわね。多分、魅音の持つこの箱は何か細工がしてあるんでしょうね。」
<黒梨花
多分、魅音が持っているこの箱は、こういうことを目的にした手品用の仕掛けがある箱に違いない。
内側に仕掛けがしてあって、相手に気付かれずに、中身を切り替えることができるのだ。
そして、引く相手に合わせて、魅音が望むクジしか引けないように巧みに入れ替えているに違いない。
どういう仕掛けで、どういう風に入れ替えているのかは見抜けないが、そういう結果になる「過程」を通しているのは間違いない。
…こういう時、その「過程」が具体的にどうであるのかを知る必要はない。
どういう目的で、どういう結果をもたらそうとしているかだけで充分だ。
「……み〜。どれにしようか迷いますです。」
「さぁさぁ、どれを選んでも運命は一緒だよ〜?!」
…魅音め、自分で答えを言っている。
やはりそうだ。手触りだけだからはっきりしたことは言えないが、今、箱の中にあるクジは10より少ない。
ということは、……私が手で探れない場所に他のクジが隠れている証拠だ。
私は仕掛けを看破したことをニヤリと笑って魅音に示すが、当の魅音にはそれは伝わらないに違いない。
「……ではこれなのです。」
「はいよ、どれどれ?
おお!!
すごいね、部活メンバーが全員、綺麗に分かれたよ!」
魅音は大袈裟に驚いたフリをした。
魅音はつくづく役者だ。
ええー、どの卓に行っても部活メンバーとぶつかるのかー?! 会場中がどよめく。
もちろん圭一も驚いていた。…それ以上の理由で。
「ね? 運命は決まっていることなのです。」
私がニヤリと圭一に笑いかける。
圭一は一瞬、信じられないものを見たような表情をしていたが、すぐに我に帰り同じようにニヤリと笑い返した。
「25分の1の確率で当てるとは……やるじゃねぇか。」
本当は25分の1どころじゃない。
私は魅音と沙都子も別の宅になることを予言しているのだから、もっともっと極小の確率になるはずだ。
圭一もそれはわかっているようだった。
でも、圭一たちのような普通の存在には「運命」などというものは知覚できない。
だから、偶然という言葉で片付ける他ない。
でも圭一。さらに圭一の卓が選ぶことになるゲームの種目まで正解したら、確率は何億分の1になるって言うの?
この玩具やゲームだらけの店内からあなたと私の2種目までも当てたなら。
それでも圭一はまだ偶然だと言うだろうか。
私は自分と一緒の卓についた少年たちが何のゲームを選ぶのか見守っている。
………どうせ魚釣りゲームを選ぶ。
……魚釣りゲームでないゲームを選んで欲しいなんて、ちょっぴりでも期待してはいけない。
「……期待して裏切られたら、……また辛くなるものね。」
<黒梨花
「……………。」
<羽入
少年の1人が立ち上がる。
そしてぎっしりとゲームや玩具が積み重ねられた棚に近付き、その中の一箱を手に取る。
その少年はその箱を掲げるように持つと、誇るようにしながらこちらへ振り返った。
その振り返ろうとする瞬間、私は目を閉じてしまう。
……でも、耳にはそれが何であるかは聞こえた。
「見ろよこれこれ!! 懐かしいよなぁ!! これにしねぇか?!」
「おーーー!! 知ってるよそれ、魚がクルクル回って口をパクパクさせるのを釣るヤツだろ?!」
………………………………。
苦い脳内物質の汁が口の中にまで染みた気がした。
私は歯を食いしばり、苦くて痺れるようなその感覚が薄れるまで耐えるしかない…。
「…………あぅあぅ……。」
<羽入
「……ごめん。今日は体調が悪いのかしらね。……なぜかうまく受け流せないわ。」
<黒梨花
…理由は体調のせいのはずがない。
心の持ちようの問題だ。
私と羽入の力が徐々に衰え、とうとう、わずか2週間程度しか巻き戻せなくなってしまった。
………そのことに、私は近付く終焉を感じ焦っているのだ。
ただでさえ強固な運命に立ち向かうには、きっと充分な準備の時間がいる。
……それが、私が死ぬ定めの2週間前までしか戻れなくなったということは。……私が運命に抗える可能性はもはや最小にまで落ちたことを示すからだ。
例え強い流れに舞う木の葉のような身であっても、ずっとずっと先にある渦を知っているなら、予め努力をして回避することもできよう。
だが、渦に飲み込まれる直前にしか戻れなかったなら、……もうそれは運命が決したも同然だからだ。
………私は、何度も何度も世界をやり直すことで、いつか必ず死する運命から逃れられると信じて長い時を生きてきた。
…そして、いつの瞬間にも、いつの世界にもきっと何かのチャンスがあると信じてる。
でも、そのチャンスは有限なのだ。
リトライの回数は今や限られ、……いや、ひょっとすると、それはもう尽きてしまっているのかもしれない。
だから私はこれまでにない焦燥感を感じているのだ…。
「……駄目です梨花。難しく考えれば考えるほど心に良くないのです。」
<羽入
「わかってるわよ…。ちょっと黙ってて!」
「あぅあぅあぅあぅあぅ……。」
頭の中がキーンと痺れて、灰色の雲の中に包まれる。
…これだけ賑やかな玩具屋の中にいるはずなのに、喧騒がまるで遠くの世界のことのようだ…。
目を固く閉じれば閉じるほどに、歯を食いしばれば食いしばるほどに、頭の中は痺れていく……。
だめだだめだだめだだめだ……。
「…梨花、梨花…、しっかり……。」
「……………………はぁ、……はぁ…。………ん。」
意識を強く持つと、意識が再び戻ってくるのを感じた。
…そんな私を、羽入は心配そうに覗き込む。
……死に戻りしたては錯乱しやすい。
……普段なら、生活に馴染み頭を冷やす充分な時間があるからいいのだが…。
……もうそんな余裕はない。
すでに綿流しの祭りの2週間前なのだ。
……のんびりとペースが戻るのなんか待っていられないと言うのに…!
甘えるな古手梨花、甘えるな古手梨花。
運命と戦え。
そして結局、運命に裏切られて私は嘆く。
ならば逆なら?
運命と戦うな。
そして結局、昭和58年の綿流しの日の数週間後、いつも通りの決められた死の運命に飲み込まれるのだ。
戦え、戦うな、戦え、戦うな、戦え、戦うな、戦え、戦うな、戦え、戦うな、戦え、戦うな、戦え、戦うな、戦え、戦うな。
…………同じ単語を何度もぐるぐる繰り返していると、単語の意味がだんだん失われ、何かの呪文を唱えているような気分になってくる。
…やがて心の中で舌を噛み、私はそれを考えるのをやめる。……少し落ち着きを取り戻せた。
目を開くと、……そこには魚釣りゲームが置かれていて、ご丁寧にも私の分の釣竿が私の前に置かれている。
私が目を瞑っている間に誰かが準備してくれたのだろう。
でもそれは、抗えない運命と現実を見せ付けられているよう。
私はそれに、判決のような絶対性を感じずにはいられなかった。
…どう? 圭一。
これが運命って言うものなのよ?
得たいのは同意か同情か。
……私は席を立ち、圭一のところへ行く。
圭一たちの卓はゲームを何にするか決まらず、マスターに一任することに決まったようだった。
…前回と同じだ。
そしてマスターが百万長者ゲームを選ぶ。
「あはは、やっぱり相手の提案するゲームじゃ、不利だもんな。
何て言って、互いの提案を蹴り合うもんだから、ちっとも決まりゃしねぇんだ。梨花ちゃんの方は決まったのか?」
「……………見ればわかりますですよ。」
圭一は私の卓を見て魚釣りゲームを確認する。
そして一心拍置いてから、私の予言通りであることを思い出し驚く。
…そして、私が圭一の卓のゲームも予言していたことを思い出したようだった。
「じゃあ、……マスターは梨花ちゃんの予言した百万長者ゲームを持ってくるって言うのかよ?」
「……ボクは時々、予言もできますのですよ。にぱ〜。」
「ホントかよ、おい! よしよし、じゃあマスターが本当に百万長者ゲームを持ってきたなら信じてやるぜ?」
「そうです。圭一たちは百万長者ゲームで戦うことになりますです。」
「よしよし、そこまで言うなら勝負しようじゃねぇか! あ、マスターを買収してあるなんてのはナシだぞ?!」
「マスターが、売れ残りのゲームを持ってこようと強く思っているなら、必然の結果になりますのです。」
マスターは売れ残りの埃を被ったゲームばかりを持ってきたはずだ。
負けたらそのゲームを買い取らなければならないルールに付け込み、今日のどさくさで在庫処分を目論んでいるはず。
だから、マスターはランダムにゲームを選んでいない。
売れ残りを探す。強い意志で。
……強い意志は運命を強固にする。
その意味で言えば、百万長者ゲームを100%選ぶとはもちろん言い切れない。
百万長者ゲームと同じくらいの他の売れ残りを選ぶ可能性もあるのだから。
マスターがお待たせ〜、と言って埃を払いながら、日焼けしたゲームの箱を持ってきた。
「…………ぅぉ…!」
「ね? 言ったとおりなのですよ。」
その箱には、百万長者ゲームとはっきり書かれていた。
…百万長者ゲームであってほしくないと願うと、裏切られて辛い思いをするが、どうせそうに違いないと皮肉めいた見方をすると、これはこれで面白い。
………だから私はどんどん斜な性格になっていくのだろう。
「マスター、どうしてそのゲームを選んだんです?」
「ん? あはははは、いやいや、本当に気まぐれだよ。倉庫の在庫から適当に探し出したのさ。決して売れ残りの一番痛んだやつを持ってきたわけじゃないんだよ?」
圭一は、マスターが自分の意思でこのゲームを選んだことを確認すると、何が何やらわからないという面持ちで肩をすくめた。
……降参のジェスチャーだろう。
「…………なぁ、梨花ちゃん、……これって、…マジの予言なのか?」
「……にぱ〜☆」
「いやさ、…村のお年寄りに、梨花ちゃんはオヤシロさまの生まれ変わりで神通力がある〜って力説されたことがあるんだよ。未来の予言とかが出来て、ものすごい的中率だとか何とか…。……それって、…本当なのか……?」
圭一は年寄り連中に妙なことを吹き込まれているらしく、割と素直にオカルト的な要素を認めようとしたので驚く。
「……決まっている運命を読むだけなのです。……もっと言えば、前に一度見てきた世界なのですから。」
「ちぇー、くそー。ここまで当てられちゃ、そんな馬鹿なとも言えやしない。」
圭一の様子はちょっとおどけていた。
…私のでたらめ予言が全て的中したので、私が調子に乗って偉そうなことを言ってふざけている、くらいにしか思っていないのだろう。
……………期待していた。
運命を打ち砕く圭一になら、…同じゲームが訪れないという強運があると信じ期待していた。
でも、……駄目だった。…当り前だ。
………………また、期待を裏切られてる。…………ん…、……苦い。
「……賭けはボクの勝ちなのですよ。」
私は一層皮肉るように圭一に言った。
運命には誰も逆らえないということを、共感してもらいたくて。
だが、………圭一はニヤリと笑った。
「ふ、はははははは! 調子に乗るなよ梨花ちゃん。運命を読めるなんていい加減なことを言っちゃいけないぜ? 男にとって、宿命と運命という言葉はもっともっと尊くて熱い意味がこもってるんだ。そんな易々と読めるようなもんじゃねぇ。」
「……………みー?」
圭一が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、……どきりとした。不安感ではない。……何かを期待せずにはいられない、ときめきのようなものだった。
「さっき梨花ちゃんは、マスターが百万長者ゲームを持ってくることを運命だと言った。偶然であったとしても的中したのだから、梨花ちゃんが正しいと言わざるを得ないさ。でもな、こうも言ったよな?」
「……何ですか?」
「俺が百万長者ゲームで戦うことも運命だ、ってな!」
そう。これは運命。
長い時間やたくさんの不確定要素が混じりこむなら、運命とて絶対ではない。
でも、これだけの閉鎖空間で、これだけの短時間のことなら、不確定要素が混じりこむ余地は最小だ。運命に乱数幅が開くことなど考えられない……。
「なら、その運命とやらを俺がブチ壊してやろうじゃねぇか。」
「……え?」
圭一が威勢よく席を立つ。
そして、同席の富田と岡村に向って宣言した。
「すまん、俺、百万長者ゲームは持ってるんだよ。だからルールの裏の裏まで知り尽くしてる。」
「えぇ?! そ、そうなんですかぁ!」
「あぁ。だからこのセレクトはフェアじゃないよな。マスター、申し訳ないんですけど、百万長者ゲームの隣に置いてあった他のゲームに変えてもらえませんか?」
「そうかい。わかったよ、じゃあ他のを持ってこよう。」
マスターはお安い御用さと笑うと、百万長者ゲームを持ってもう一度倉庫へ戻っていった。
そして、私が呆然としている間に、白ヒゲ危機一髪というゲームを持って、再び戻ってくる。
「これならどうかな?」
「あー!! あの樽にナイフを刺すゲームですよね! どうだよ二人とも! これならフェアだろ?!」
「そうですね、ルールもわかりやすいし。それにしましょう!」
「じゃあ決まり! 俺たちの卓は白ヒゲ危機一髪で勝負だー!!」
……未だ呆然とする私に向って、ほら見てみろと言わんばかりに圭一がウィンクしてみせる。
傍目には、圭一が私の予言の揚げ足を取っただけにしか見えないかもしれない。
でも、……これはそんな生易しいものじゃない。
全て運命だった。
圭一たちの卓には百万長者ゲームが運ばれてきた。
そしてそれで戦うことになるはずだった。
だって、前回がそうだった!
そして現にそうなった!
なのに圭一は、やすやすとその運命を打ち破って見せたではないか。
まるで、卵を立ててみろと言われて、出来ずふて腐れる私の目の前で、殻を叩き潰して力技で立たせて見せたコロンブスの卵のよう。
私は…圭一に比べたら何億倍も奇跡的な力を持ち、はるかに運命と優位に戦えるはずなのに、どうしてこんなにも弱音を吐いていたんだろう。
辛い思いをしたくないから、運命に抗わない?
川の流れに見立てて力まずに泳ぐのがコツ?
そんなの、なぁんて下らない!
「梨花ちゃんさ、さっき、すっげーつまらなさそうな顔してたよな。それってあれだろ? 魚釣りゲームじゃ嫌だなって不安が的中しちゃってふて腐れてたんだろ?」
「…………………そうね。…今さら隠さない。」
「じゃあ簡単じゃねぇか!」
私が百年以上を生きる魔女だって?
だから運命を知覚できない一般人たちより高貴な存在だって?
下らない下らない、下らない!
圭一が私の背中をポンと叩く。
行って来いという励ましだ。
その感触が熱くて、痺れて、胸がいっぱいになりそう。
私はもうふて腐れない。
運命に勝てない?
2週間では戦えない?
圭一は2週間どころかわずか5分にも満たない閉鎖世界の運命をあっさり打ち破ったのに!
「……ボクは、魚釣りゲームはお魚さんが可哀想だと思いますので、他のゲームにしたいのですよ。」
すでに魚釣りゲームで遊ぶ気まんまんでいた彼らは、きょとんとしているようだった。
無の反応が恐ろしい。
……運命という壁に体当たりして、びりびりと震える手応えを感じるような気分…。
だが、そんな不安はただの杞憂だった。
「そっか。じゃあ、梨花ちゃんは何がいい? 梨花ちゃんの提案する他のゲームでいいよ!」
彼らはあっさりと納得すると、「魚釣りゲーム」という運命を目の前で翻して見せたのだ!
そうさ、私だって大昔はもっともっと積極的に戦ったんだ。
それがいつしか疲れて、斜になって、ふて腐れて。運命という敵に屈したんだ。
もう二度と私は屈しない。
圭一が教えてくれる。
前の世界の記憶なんかなくたって、やっぱり圭一は圭一だった。
運命なんてものにへこたれない圭一だった…!
「…久し振りに、運命と戦おうという気力が充実するのを感じるわ。……やる気があれば、ものの五分でだって運命は変えられる。それが二週間もあるんだもの。今回はこれまでとは違う。もっともっと運命と戦ってみせる!」
<黒梨花
「………………頑張りましょうなのです。」
<羽入
私の強い決心とは相反して、羽入の表情は少しおぼろげに見えるのだった。
<ゆっくり余韻を残してシーン変更してください>
「そっかぁ! おじさんの店の手伝いってんじゃ仕方ねえなぁ…!」
「ささやかなお店だけどね。でもさー! ……特売やれば主婦が殺到するの、常識で読めないのかねぇー!! 店員足りないのにタマゴ1パックお一人様1点限り10円なんてやるなー!!!!」
結局、これから決勝戦というところで、魅音に緊急のバイトの連絡が入り、部活はお流れとなってしまった。この辺の運命も変らない。
ふて腐れた気分のままだったなら、この出来事にも私は嫌な思いを感じていたのだろう。
でも今の私は、ささやかではありながらも運命に反抗する心地よさを思い出していて、とても機嫌が良かったのでまったく気にならなかった。
圭一と魅音は、決着がつけられなかったことをいつまでも惜しみあっていた。
実に仲のいい二人だ。
「本当にあの2人は仲がいいね〜! 仲良しさん過ぎて、レナは妬いちゃうよ、はぅ。」
「うちのクラスには圭一さんと近い歳の男子がいませんものね。圭一さんにはちょうどいい男友達の感覚なんじゃありませんの?」
「あははははは。…う〜ん、それでも魅ぃちゃんは女の子なんだよ? 男の子にはなれないよ。」
「それはわかってますけど。こうしていると仲のいい男子同士にしか見えませんわね。」
レナと沙都子は、楽しそうにふざけあう圭一と魅音を眺めながら、楽しかった今日一日の余韻に浸っているようだった。
その時、店の外にマスターが現れた。
「みんな〜〜、今日は本当にありがとう。お陰でイベントは大盛り上がりだったよー!」
見れば両手に紙袋を4つ持っている。
…あぁ、今日のお駄賃代わりにってことで、以前の世界でもくれたっけ。確か中に人形が入っているのだ。
「これ、大したものじゃないけど、これ、今日のお駄賃に〜。」
「わ、善郎おじさん! 私にはないの、お駄賃ー!」
どうも私たちにだけらしい。
親類の魅音の分はないようだった。確か前もそうだった。
「あらあらあら!! かわいいのが出てきましたわよ?!」
真っ先に袋をもらった沙都子が、中に入っていた可愛らしいお人形を見て歓声をあげる。
それはレナも同じだった。
「わ!!
これ…かぁいい〜…!! お持ち帰りしていいの?! 本当に…?!」
「ってことは俺のもかな? ……ぅお。何だかやたら可愛いのが出てきたぞ。」
圭一のもらった袋からは、豪華なドレスを着た特に高そうなお人形が出てきた。
……どうやら当たりらしい。
私の目にも、あれが一番可愛らしく見える。
それは沙都子もレナも同じで、魅音も同じようだった。
「あっはっはっは! 圭ちゃんには一番似合わないのが出てきちゃったねぇ!」
魅音がすかさず嫌味を言う。
自分はもらえず、自分も欲しいようなお人形を圭一が引き当てたのが悔しいので、皮肉の一つも言いたくなったのだろう。
「…なんつーのか、プリティーって言うかキュートって言うか、…可愛いのは認めるんだが…着せ替え人形はちょっとなぁ…。」
「圭ちゃんが持ってたら、確実に明日から変態扱いだね。うん!」
魅音が素直じゃない。
何とか圭一に手放させて、自分がせしめようという魂胆が見え見えで、…何と言うか、彼女らしくて微笑ましい。
魅音も素直に欲しいと言えばいいのに。
それが口に出せないところが彼女の可愛いところなのだが、…圭一のような鈍感にはわかるまい。くすくす。
圭一も、ここまで言われてはお人形を持っていられない。
でも、それを誰に渡すかで迷っているようだった。……みすみすと魅音に渡すのが惜しいのだろうか?
時間が凍る。
…羽入が厳しい口調で私の耳元に囁いた。
「梨花。………………………覚えていますですか?」
「………………えぇ。」
<選択肢>
A.圭一に人形を誰に渡すべきか助言した。
B.私は何もせず、成り行きを見守った。
■B.私は何もせず、成り行きを見守った。
私は圭一に声を掛けようと思ったが、……少しだけ圭一を信じたくて思い止まる。
そう、以前の世界で同じ状況があった時、圭一はあのお人形をレナに手渡した。
魅音はそれによって傷つけられ、…それを発端に惨劇の扉がゆっくりと開くのだ。
だから、私が今のこの瞬間を傍観すれば、まったく同じ顛末になるのは当然だった。
でも…。…圭一は、きっと以前の世界で、お人形を魅音に渡さなかったことにより始まった悲劇の連鎖をきっと悔やみ、狂おしいほどに後悔したに違いない。
それほどの強い感情が、例え記憶が何も残らなかったにしても……、心のどこかにわずかでも残っていることを信じて。
だから私は…、敢えて圭一に助言をせず、試す………。
圭一は、レナに渡すか魅音に渡すか、ほんの少しの戸惑いを見せた後、………言った。
「魅音〜、俺が持ってたら変態扱いなら、こりゃ誰が持ってりゃ変態扱いにならないんだ〜? う〜ん?」
「そそ、そんなことは知らないよ。まぁ、お人形なんて男の子の持つものじゃないよね〜って言っただけだしさ?」
「ほほぅ、じゃお前が持てば万事解決じゃねぇか。ほれ。」
圭一は、バスケットボールのパスみたいに両手に持って突き出しながら、お人形を魅音の胸に無理やり預ける。
まるで、荷物持ちのジャンケンに負けた相手にランドセルを押し付けるような感じだった。
魅音の顔が真っ赤になる。
圭一は照れ臭そうに顔を背けた。
それは…驚くべきこと。
……圭一はまたしても奇跡を起こした。以前の世界の記憶すら持たずに!
圭一は、以前の世界とまったく同じ状況になったのに、……違う結果を示したのだ。
「………………………圭一……。」
<黒梨花
「……梨花、…確率的なものかもしれないのですよ?」
<梨花
確かに運命の強さは意志の強さに比例する。
圭一が、魅音に渡すのは恥ずかしいからレナに渡そうという気持ちが「弱いもの」であったなら、時にはこのような結果になる可能性もあるだろう。
でも私は、確率的なものだったとは思わなかった。
きっと圭一は…心のどこかで何かを覚えていてくれて、成長をしてくれたのだ。
■A.圭一に人形を誰に渡すべきか助言した。
私は覚えていた。
この圭一のデリカシーのない「いつもの行為」が、致命的な結末を運命付けることを覚えていた。
圭一は、内心は人形を魅音に渡すべきだと理解している。
魅音にだけおみやげの袋が渡されていないのだから、公平に考えて魅音に権利を譲るのは当然のことだ。
だが、異性であることを知りながら同性のように付き合っている、魅音という不思議な存在に対して戸惑いを持っているのだ。
圭一は魅音は同性の友人のように思い接してきた。
……そう思うなら、男友達にお人形を渡すという選択肢はありえない。
圭一は魅音にお人形を渡せば、異性同士であることを意識せずにはいられなくなることを恐れた。
そして、これからも魅音と同性同士のような、これまでと同じ関係を続けていきたいと願った。
だから、この関係を壊したくない。
だから、壊すお人形を魅音に渡せない。
お人形を唯一もらっていないのが魅音であると知りながら、渡せない。
でもそれは圭一個人の価値観に基づく考え方で、魅音には通じないのだ。
だって、魅音はそれでも自分を、女の子として扱ってもらいたいと思っているのだから…。
私は圭一に声を掛けようと近付く。
魅音にお人形を渡せと言う助言が、魅音の耳にも入ってしまったら、魅音は意固地になって拒否してくるだろう。
だから圭一にだけ聞こえる声でなくてはならないのだ。
そして、私に入れ知恵をされたことを意識させるような長い時間であってもならない……。
ちょんちょんと圭一の背中を突っつく。
「ん?」
圭一。一番お人形を欲しい人が、一番憎まれ口を叩いていますのですよ。
そう言うつもりだった。…ところが圭一は、私がまだ何も口にしていないのにこう言った。
「あぁ、わかってるって。」
まだ私は何も言っていなかった。
でも圭一は、わかったと返事をする。
何のコミュニケーションが取れたのかわからず、私は一瞬困惑した。
すると圭一は魅音の方に向き直り、嫌味っぽくにやりと笑いながら言った。
「魅音〜、俺が持ってたら変態扱いなら、こりゃ誰が持ってりゃ変態扱いにならないんだ〜? う〜ん?」
「そそ、そんなことは知らないよ。まぁ、お人形なんて男の子の持つものじゃないよね〜って言っただけだしさ?」
「ほほぅ、じゃお前が持てば万事解決じゃねぇか。ほれ。」
圭一は、バスケットボールのパスみたいに両手に持って突き出しながら、お人形を魅音の胸に無理やり預ける。
まるで、荷物持ちのジャンケンに負けた相手にランドセルを押し付けるような感じだった。
魅音の顔が真っ赤になる。圭一は照れ臭そうに顔を背けた。
…私は驚く。
圭一は私から合図を受けただけで、それを「魅音に人形を渡せ」というサインだと受け取ったのだ。
圭一はそんなにもデリカシーのある人だったっけ。
背中を突っつかれただけで、魅音に渡すべきなのだと考えを改められた。
以前の世界でも同じように背中を突っついたとしても、きっと圭一はこういう反応は示さないに違いない。
……これは小さな変化だけれども、以前の世界とは明らかに違う反応だったのだ。
……いや、……あるいはまさか。
圭一は私に背中を突っつかれなくても、魅音にお人形を渡していたのではないだろうか…?
「…………以前の世界の記憶を、…受け継いでいる?」
<黒梨花
「……まさか。そんなこと、あるわけがないのです…。」
<羽入
確かに圭一は以前の世界の記憶を持っていない。
だけど、……知覚できないくらいに薄っすらとしたものを、心の奥に累積させてはいないだろうか。
以前の世界での悲しい後悔や悔しさを、心の奥に累積させている…。
だからこそ、以前同じことがあった時よりもずっとずっと、「魅音に渡すべき」である気持ちが強かったのではないだろうか…。
……そんな圭一のささやかな成長は、数多の世界を生きてきた私にしか知ることができない儚いものだ。でも、私はわかる。私にはわかる。
■合流地点〜。AもBも終わったらここに合流するよ〜〜〜
魅音は真っ赤になりながら、自分にはこんな女の子っぽいのは似合わない、レナにあげた方がいいんじゃない?と、心にもないことをまくし立てていた。
その様子は、もはや圭一にも完全にわかるらしくて、魅音が本当は欲しくて欲しくて仕方がないくせに素直になれないことを完全に見抜いていた。
「だだ、だからさおじさん、こういう可愛いお人形はさ、ちゃんとした可愛い女の子に渡した方が似合うと思うんだよね!
私みたいな男女に渡してもほら、人形の方が可哀想というか、あはははは…!」
「欲しいくせにー! 顔に書いてあるじゃねぇかよ。あははははは。」
「違うー! 書いてなんかないよー!! 嘘吐きー、意地悪ー!!」
魅音は真っ赤になりながら、さもお人形に興味がないふりをしながらぶんぶんと振り回して見せていた。
知らぬは本人ばかりとはまさにこのことだ。
今や圭一を含め、この場の全員が素直になれない魅音の狼狽っぷりをにやにやと笑いながら眺めていた。
「おいおい、別に女の子じゃないと人形は渡せないとか、そういう考え方じゃねぇぞ! こいつは俺と今日の部活で熱いにらみ合いをしてくれた親友への贈り物なんだぜ?」
「そ、そうなの?! 圭ちゃんは男の子の友達にも人形を渡すわけ?!」
「まぁ…確かに選べる範囲があるなら、わざわざ人形は選ばねぇな。
でもよ、男の世界じゃ、相手に悪意がない限り、贈り物は拒まねぇぜ? 相手の気持ちなんだからよ、変に断られるとかえって男気がないよな!」
「ふ、…ふ〜ん? じゃあ、その、女の子でなくても……人形を受け取ってもいいんだ…?」
魅音のやり取りがおかしくて、もう堪えきれないらしい。
レナはもう、くすくす笑いを隠しきれないようだった。それに釣られ、私も沙都子も笑い出してしまう。
魅音も自分が笑われてることに気付き、なお一層赤面した。
「男が仲間に贈ったもんだぜ! 大事にしなかったら承知しないぞ!」
「う、……うん…。あ、あの! おじさんがこの人形が欲しいからもらうんじゃないよ?!
圭ちゃんが仲間に贈るって言ったから……圭ちゃんの顔を立てるために受け取るんだからね?!」
羽入も堪えきれないようだった。
この微笑ましいやり取りに、自分の笑い声は聞こえないのをいいことに、声を隠すことなく笑う。
でも、男友達に渡す贈り物ということでいいんだろうか?
…確か以前の世界では、圭一に女の子扱いしてもらえなくって話がおかしくなったんじゃなかったっけ…?
お人形は確かにもらえたけど、相変わらず圭一に女の子扱いはしてもらっていないように思うのだが…。
でも、魅音の嬉しそうな顔を見る限り、それは微細な問題のようだった。
あのお人形、魅音は絶対今晩、抱きながら寝るに違いない。
お休みのキスもする。賭けてもいい。そう顔に書いてあるから間違いない。
「ようやく受け取ってくれたぜ。人形一個渡すのに手間のかかるやつだぜ。」
圭一が私たちの方へ振り返り、笑いながら悪態をついた。
「あはははは、圭一くん、百点満点かな、かな!」
「……ボクもそう思いますです。あの意地っ張りの魅音によくお人形を渡せましたです。」
「魅音さんも笑っちゃいますわね。欲しいってあんなに顔に書いてあるのに痩せ我慢なんかしちゃって!」
「違いねぇな! あははははははは!」
「ここ、こらぁ!! おじさんの陰口を言ってるでしょー! こらぁー!」
「魅ぃちゃん、バイト急がなくていいの?
遅刻しちゃうよ〜ぅ。」
「もー!! 覚えてなよー?!」
魅音は名残を惜しんでいたが、腕時計とみんなの顔を見比べると、別れの挨拶をして走り去っていった。
笑い合うみんなの笑顔。楽しかった今日の興奮が覚めない。
誰もが文句なしに楽しかった一日で、誰もが傷つかなかった一日。
何度も経験した世界のいくつかをなぞり直しているはずなのに。……今回は何かが違う。
サイコロを振ったら6が出て、…もう一度運試しに振ったらまた6が出たような気持ち。
それが幸運が重なっただけなのか、そうなるべくしてなったのかはわからないけれど。
まるで運命の神さまが、私が戦おうと決めた決意を祝福してくれているような、そんな幸先の良さを感じるのだった……。
■幕間
■TIPS2 オヤシロさまと団欒
夕食後、私と沙都子と羽入はテレビを見ていた。
バラエティ番組の中で、お笑い芸人がどっと観客を沸かせる。私たちも大笑いしていた。
「ほっほっほっほ! ざまぁないでございますわねー!!」
「あぅあぅあぅ、でも、とっても痛そうなのです…。」
「……みー。にぱ〜☆」
私の目から見ると3人での食後の団欒だが、実際には私と沙都子の2人しかいない。
羽入が見えるのは私だけだ。
沙都子には当然見えていない。
沙都子が何かを言うたびに羽入も相槌を打つ。
その相槌が沙都子に聞こえるわけではないのだが、羽入は機嫌がいい時にはよく相槌を打っていた。
それは例えるなら、テレビの中の人物の問いかけに返事をするような、決して双方向でない擬似的コミュニケーションでしかない。
…言ってみればコミュニケーションのままごとかもしれない。
私以外の人間と意思を疎通できな羽入が、そういう遊びを覚えたのは必然と言えたに違いない。
だから、部活にも羽入はいつも一緒にいて、みんなの盛り上がりと一緒になって笑ったりハラハラしたりしているのだ。
……もし、羽入が普通に会話をすることができたなら、私たちの良き仲間として迎え入れられてるだろうか。
…それを想像することは、かえって羽入を傷つけることになるので避けた。
古手家に伝わる古い古文書に出て来る奇跡の話が、全て事実でそれが羽入を指すなら、羽入は太古の昔、少なくない人々と交流しその力を示せた。
…それが今では神通力のジの字どころか、私以外には存在を感じ取ってもらうことすらできない。
羽入がどうしてそういう、らしい力を喪失したのかは語られたことがない。
時代と近代化が進み、神々の居場所がなくなるにつれ羽入の力や存在は薄まっていったのだろうと納得するしかなかった。
古手家に女子が七代続けば、オヤシロさまが蘇るという伝説。
…確かに私の代になって羽入は久し振りにコミュニケーションができる人間と出会えた。
…それは人間側の見地からだと、オヤシロさまが蘇ったということになるのだろうか。
村人たちが崇めるオヤシロさまという存在と、そうだと主張する羽入の存在は時々重ならない。
沙都子と一緒に並んでうつ伏せになって、頬杖をしながらテレビを楽しむその姿からはとてもとても。
■3日目〜 ※圭一目線〜
「えぇ?!
た、確かにそんなことをどこかで聞いたような気もしたが……、それってマジだったのかぁ?!」
…世の中には社交儀礼的な景気のいい話ってあるじゃないか。
あはは、そうなったらいいよなーなんて適当な相槌を打つ程度の。
でもそういう話ってのは、笑い話だから済むのであって、本当の話なんかになった日にゃ!!
「うんうん、マジも大マジ! 善郎叔父さんも大絶賛! 昨日の玩具屋での部活、白ヒゲ危機一髪での暴れっぷりは実に見事だったからねぇ!!」
「レナも、あんな遊び方や盛り上がり方があるなんて知らなかったかな、かな!」
「ここだけの話ですけど、私の近くにいた子たち、圭一さんと同じ卓で盛り上がりたかったーって悔しがってましたのよ。」
「……圭一は何でも楽しそうに遊ぶことに関しては天才的なのです。」
あのなぁ、俺は楽しく遊んだんじゃなくて、負けるわけにはいかなかったから勝つために死力を尽くしてただけなんだぞ…。
だが、俺のそんなザマは、見ているギャラリーにとっては最高に楽しそうに見えるらしいな。
「確かに、圭ちゃんは普段の部活においても、とにかくよく盛り上がってくれますからね。監督も、圭ちゃんが雛見沢ファイターズに入ってくれたらさぞや盛り上がるだろうって言ってましたし。」
<詩音
「言ってましたね。昨夜、会合の席でも入江先生、前原くんのことをべた褒めでしたよ。」
<知恵
「圭一くんは、自分で思ってるより、ずっと人を楽しくさせる力があるんだよ。」
「……そ、…そうかなぁ……。」
「おじさんだって、自分の仲間が可愛いからって推薦したわけじゃないよ。圭ちゃんならこの大任にきっと応えられるって思ったから推薦したわけさ!」
「ボクも同じ席にいましたですが、全然反対意見が出なかったのは驚きだったのです。」
「前原くんは、先生が思っているよりもずっと村中で評判なんですね。」
<知恵
「興宮界隈でも有名です。先日の雛見沢ファイターズと興宮タイタンズでの試合の、アノ助っ人ぶりはもはや現地では伝説的ですからね。」
<詩音
「あれは凄かったですものねぇ…。亀田さん目当ての記者の方々も度肝を抜かれてましてよ!」
……あの亀田くんとの八百長野球か…。
世間的には、甲子園ピッチャーが俺の眼力に負けて敬遠したってことになってるんだよな……。
以来、興宮の亀田くんとは不思議な舎弟関係にあるのだが、それはここでは割愛する…。
「どうかな圭一くん。レナは圭一くんにはその力があると思うな。魅ぃちゃんだけの推薦で足りないなら、レナも推薦するよ。圭一くんならきっと、綿流し実行委員の大任を全うできる!」
綿流しってのは、この村で毎年6月に行なわれる村祭りだ。
この村の年間行事の中で一番規模の大きいもので、村人のほとんどが集まるとても賑やかな祭りになるらしいのだ。
もちろん、それだけの大きな祭りなのだから、町会を軸にした実行委員会が結成されていて、数ヶ月前から会合や調整を繰り返して入念な準備を行なっている。
その綿流しがあと2週間で行なわれるってところで、しかも引っ越して来てまだ日が浅い俺にいきなり実行委員会入りを打診するってのはどうなんだろう?!
「だだ、大体よ、俺、実行委員の仕事なんて知らないから何の役にも立てないぜ?!」
「実行委員なんて堅苦しいのは肩書きだけだよ!
圭ちゃんに満場一致でお願いしたい役はね、ズバリ、
叩き売りオークションの司会なんだよー!」
「な、何だよそれ?! バナナでも売らされるのか?!」
「そこは先生から説明します。今年のお祭りでは新しい試みとして、オークション風に寄付品の叩き売りをやろうということになったのです。」
<知恵
「あはは、そこは複雑な事情があってねぇ。町会で寄付品を集めて、それを賞品にしてのみんなで参加できる何かをやりたいんだけど、過去の役員会で色々大人の事情があって、福引抽選以外の方法で賞品を分配したいってことになったんだよ。」
「早い話が昔、鬼婆が癇癪を起こしときながら引っ込みが付かなくなったことがあるわけなんです。鬼婆って、自分でトラブっときながら、よく後悔してますよね。」
<詩音
「まぁねぇ…あははは。まぁ、そんなわけで、福引以外のイベントで、何か楽しく賞品を山分けできないかって話になったわけよ。それで出た案が寄付品の叩き売りオークションってわけ!」
「オークションって何だか面白そうだね! ひょっとするとものすごく安くいいものが買えるかもしれないし。他の人が高値を付け合うのを見てるのも楽しいしね!」
「しかも、寄付品だから元手はタダ。実行委員会もなかなかお金儲けがお上手ですわね。」
「……売り上げは全部、冬の町会温泉旅行の泡麦茶代になるのです。ずるいのです。」
「古手さんは泡の出る麦茶はまだまだいけません!」
<知恵
「だ、…大体話は見えてきたが。……でもよ、俺はオークションの司会なんかやったことないぜ?!」
「でも圭一くんなら、きっとやり遂げられると思うな。売り上げの1割はお小遣いになるとか言われたら、ものすごい頑張りそう。」
「ま、まぁなあ。実績に応じて何か得られるってんなら、そりゃあ頑張るだろうなぁ!」
「逆に、実績が出なかったらとんでもない罰ゲームが待っているかもしれませんでしてよ?」
<沙都子
「ちょ、ちょっと待て沙都子! 何で俺がそんなリスキーな条件を引き受けなければならないんだ! そもそも俺は依頼されてる立場だってことを忘れるなよ〜? 俺はこう見えてもスケジュール多忙で忙しいんだぜぇ? そういうのはマネージャーを通してくれたまえ。」
「あっはっはっは!
どうよ圭ちゃん。もし何かご褒美がないといけないってんなら、内容と条件次第では考えてもいいよ? 私も圭ちゃんを推薦した以上、何としても引き受けてもらいたいと思ってるからね。最大限配慮するよ!」
「ほー! 太っ腹じゃねぇか! さぁて何がいいかねぇ?………むむむむむむ。」
「罰ゲームを何にするかというのは、よくあるけど、ご褒美は何がいいってのは初めてかもしれないね。」
<レナ
「言われて見ればそうですわね。私たちって、つくづく過酷な状況で戦ってますのね。」
確かにレナの言うとおりだよな。
…基本的に部活って、罰ゲームから逃れるのが最大の目的なんだよな。
目指すのは優勝のみってのはポリシーであって、別に賞品やご褒美が目当てだったわけじゃない。
「……滅多にないおいしい話に、圭一が困っていますのです。」
「魅ぃちゃんの方で何か提案できないの? 何でもいいよって言われたら、かえって思いつかないよね!」
「そうだねぇ。あー、じゃあこんなとこでどう?
エンジェルモートのデザートフェスタの入場券とか!」
「お姉、ケチくさいこと言わないで、ドーンと3年分くらいプレゼントしちゃえばいいじゃないですか。」
「あらぁ!! それは豪華ではございませんの!!」
「確か、デザートフェスタのチケットって、ものすごい高倍率で闇取引もされてるんだろ? そんなのを3年分なんて……本当にいいのかよ?!」
「もちろん、成功報酬だよー?! 盛り上げてくれないと駄目だからねー?!」
「大丈夫だよ。圭一くんならきっと大盛り上がりになる!」
<レナ
「それについては私も同感です。というか、どんな滅茶苦茶な売り口上が飛び出すか、かなり楽しみです。」
<詩音
「例え、タコの入ってないたこ焼きであっても行列させてしまいそうですものねぇ。」
「おいおい、さすがにタコなしたこ焼きは無理だろ…。」
「いやいや…、圭ちゃんなら見事売りかねないね!」
<魅音
「うんうん。小麦粉の味が素朴でヘルシーとか言いそう。」
<レナ
「お前ら、俺をおだててるのか馬鹿にしてるのか微妙だぞ…。」
「どうですか、前原くん。先生もあなたならきっとうまく盛り上げてくれると思います。」
<知恵
ちなみに、知恵先生も実行委員らしい。
魅音の推薦に対し、強力にプッシュしてくれたに違いない。
「……ボクも圭一の口先マジックが見たいのですよ。にぱ〜☆」
「バナナの叩き売りだってさ、その売り口上のキップのよさに感服して買わせるわけだしね。」
<魅音
「前原圭一ワンマンショーでございましてよ!! 楽しそうですわね!!」
「おいおい、俺はまだ引き受けると言った覚えはないぞー?!」
「大丈夫だよ、圭一くんならできるよ。」
<レナ
「ちぇー、レナめ、他人事だと思って気楽に言いやがって〜!」
「はぅ、そんなつもりじゃないのにー!」
さっきから黙ってやり取りを見守っていた校長が口を開いた。
「どうかね前原くん。わしも君ならやれると思うぞ。」
「…………う〜〜〜〜〜〜ん。」
「男ならひとつ、みんなの期待に応えてみんかね…?」
やれと言われれば多分やれる。
今まで魅音の部活でヤバイ橋なんかいくらでも渡って来たからな。
あるのはご褒美だけで罰ゲームなしなんて楽な条件は聞いたことがない。
やればきっと楽しいだろうし…。
何より、これだけの大勢に何かの役を期待されたことなんて生まれて初めての経験だった。
本音を言うと、ちょっと嬉しい。
……でも、うまく乗せられて、面倒な役を押し付けられてるんじゃないかなぁ。
そんな風にもちょっぴりは考えた。
だが、それは雛見沢じゃない土地での考え方だ。
この雛見沢で、こいつらがこんな風に笑いながら話す時には何の邪念もない。
だからこいつらは本気で、俺が司会になればお祭りが盛り上がって最高の思い出になると信じて推薦してくれているのだ。
それを、俺は転校してきてからの、短くも濃密な時間の中ですでに知っていた。
「よっしゃ……。俺も男だぜ。そこまで言われちゃ引き受けないわけにはいかないな!
見てろよ、俺がやるからにはドカンと盛り上げてやるぜ!!
エンジェルモートのチケットを忘れるなよ、3年どころか、10年分くらい進呈したくなるくらいに盛り上げてやるぜ!!」
「よく言ってくれた圭ちゃん!!!」
みんなが拍手で俺を讃えてくれた。
……本当の意味で祝福する拍手を、俺は人生で何回受けてきただろう?
ない。これが本当に初めての経験だった。
「しかしよ、よく俺みたいな若造を推薦して町会の人が納得してくれたよな。」
町会なんて、頭が固くて若者嫌いの年寄りがいっぱいいそうなムードだ。
しかも、俺は引っ越してきたばかりの余所者の都会者だ。
……いくら魅音が町会に大きな発言力を持っていたとしても、よく俺なんかを推薦して受け容れてくれたものだよな。
「まー、基本的には頭の固い年寄り連中ばっかりですけどね。時代も徐々に変り始めてるってことです。」
<詩音
「雛見沢もダム戦争に打ち勝って、これからは新しい時代を築き、どんどん栄えさせていかなくちゃならない。だから若者歓迎、余所者飛び入り大歓迎って風にどんどん意識改革をしてかなくちゃならないんだよ。」
「……圭一は若くて余所者で、しかもウケがいいのでまさにピッタリなのですよ。」
「ウケがいいねぇ? どうして俺の知名度がそんなに高いのか不思議でならねぇぜ。」
「多分、魅ぃちゃんの罰ゲームと密接な関係があると思うかな…。かな…。」
「やっぱりそれかああぁあぁ…!!!」
「「「あっはははははははは!」」」
「じゃあ、これで決まりですね。先生の方から今夜、前原くんのご両親に電話でお話しますので、一応、前原くんの方からもご両親にこの度の件を話しておいてください。」
<知恵
まぁ、親の承諾も必要だろうからな。
……うちの親も反対はするまい。むしろ、どうして俺が推薦を受けたのか質問責めに遭いそうだな…。
知恵先生と校長先生は、快諾の潔さを褒めると職員室に戻っていった。
ちなみに今は昼休みだったわけだ。
知恵先生と校長先生が二人掛りでやってくるし、魅音まで大切な話があるなんて言い出すもんだから、すっかり怯えていたのだが。お陰で胃袋の中の消化がちょいと悪いぜ。
「前原さん〜、聞いてましたよ、すごいじゃないっすか!」
「町会から推薦を受けるなんて、すごい名誉ですよ…。」
「おー、富田くんに岡村くんか。そんな名誉なら君らに譲ってもいいぞ。」
「むむ、無理ですよ…、前原さんじゃなくちゃ務まらないです!」
見ればクラス中が、俺が司会を引き受けた話題で持ちきりになっていた。
今年の綿流しは楽しそうだ、とか、期待できそうだ、とか。
……ますますに責任重大なようだった。こいつぁ、引き受けた以上、思いっきりやらねぇとな!
「そうだそうだ忘れてた。
うちの婆っちゃがね、いっぱいおはぎを作ったんだよ。学校のみんなにも食べてもらえって持ってこさせられたんだっけ。」
魅音が思い出したように手を叩くと、朝から気になっていたボストンバッグを開き、風呂敷で包まれた箱を机の上に載せた。
蓋を開けると、中にはたくさんのおはぎが行儀よく並べられているではないか。
「あらあら、たくさん入っていますのね! クラス全員に食べていただけそうなくらいありますわよ!」
「はぅ〜!! かぁいい、おいしそうー!!」
「婆っちゃはおはぎを作るのが大好きなんですよ、どういうわけか!」
<詩音
「……宗平が大好きだったのですよ。」
「あぁ…、爺っちゃが好きだったらしいねぇ。
山盛り食べたらしいよー!」
「じゃあ、魅ぃちゃんのおばあちゃんにとっては、おはぎは亡くなったおじいちゃんを思い出す大切なものなんだね。」
<レナ
「そうなの? 爺っちゃが好きなのって缶詰だと思ってました。」
「くっくっく! 詩音は缶詰がダメなんだよねぇ〜!」
「え? そうなの? どうして?」
<レナ
「んん〜〜〜、缶詰臭と言いますか…。あの独特の鉄臭さがどうも苦手で……。」
「あら! 人に嫌がるカボチャを無理やり食べさせて、好き嫌いはいけないとか言ってる人がずいぶんな話でございますのね!」
「ふふ〜ん、実はねぇ、くっくっく!!」
「ちょ、ちょっとお姉! 人が嫌がることを言うなんて最低ですよー!!」
「何だかわからんが、魅音が珍しく握った詩音の弱みらしいな。面白いから普段の恨みを晴らせ。ホレホレ!」
どうも、詩音の缶詰嫌いの理由は相当笑えるものらしくて、詩音にとっては恥ずかしいものらしい。
しばらくの間、姉妹水入らずで取っ組み合いをしていた。
魅音も密着からのニーマシンガンは悪くなかったが、そこからキャプチュードが決まるとは思わなかったらしい。
やはり詩音の方が一枚上手か…。
「お姉に言われるくらいなら自分で言います。えっとですね、葛西って言う性質の悪いオヤジがいましてね。
そいつがですね、純粋無垢だった幼い私にですね、缶詰の中にはたまに人間の肉が混じっているとかとんでもないことを吹き込みやがったせいなんです!」
「あはははははは、都市伝説にたまにそういうのがあるね。」
<レナ
「あるある! 俺たちのとこでも、牛丼の肉は実は犬の肉だとか、ハンバーガーにはミミズの肉が混じってるとか聞いたことあるぜ?」
「そそそ、そんな話がありますのー?!
そんなの聞いてしまったら、もう牛丼もハンバーガーも食べられなくなりますわねぇ…。」
「そうなんですよ沙都子ー! 私はトラウマを負わされた犠牲者なんですー!」
<詩音
「同情はしますけど、カボチャフルコースの恨みと相殺するにはまだだいぶ足りませんわねぇ…!」
「沙都子は根に持ちすぎなのですよ。ボクはおいしくてぺろりだったのです。」
「あっはっは! 何だかよー、そんな話をしてるとさ。この魅音のおはぎにも何か妙なものが混じってそうな気がしてくるよな。」
「ほー?! 確かにこの私が持ってきたおはぎだもんねぇ? 中に何の細工もないってのは確かに無用心だよねぇ…? くっくっく!」
……………魅音のおはぎ。
…何しろあの魅音だ、何か仕掛けをしない方がおかしいんだが。
…なんだろう。何か、…忘れているような気がした。
でも何の覚えもない。
それはきっと、疲れてる時とかにたまにある既視感に違いない。
初めてのことなのに、過去に何か知っていたように感じてしまう、ちょっとした記憶のエラー…。
「……どうしたのですか、圭一?」
「いや、何でもないよ。前にも魅音におはぎをもらったことがあったような気がしたんだけど…。これが初めてだよなぁ?」
「そうなの? 魅ぃちゃん?」
「いや、これが初めてだと思うなぁ? 何かの勘違いじゃない?」
「私の記憶でも、魅音さんが学校におはぎを持ってきたのは今年はこれが初めてのはずでしてよ?」
「………………………。」
<梨花
「ははーん、わかった。おじさんが持ってきたおはぎだもんだから、何か罠があると思って警戒してるんでしょー。」
「そこは威張るとこじゃなくて、日頃のお姉の素行を反省すべきとこだと思いますけど。」
<詩音
「…ははは、そうだよな。同じおはぎでも、レナとかが作ったおはぎなら絶対そんな風には思わない。レナっておはぎ作るの、何気に上手なんだよな。小さいけど丁寧で…、」
「…? レナ、おはぎなんて作ったことないよ?」
……………あれ? …………そうだよな…?
何でレナがおはぎなんか作るんだ…?
どうしてレナが作ったら、小さいけど丁寧なおはぎになるなんて決め付けられるんだ…?
……???
自分でもよくわからない記憶の混乱。
俺一人が勘違いだったと認めればそれで収まるだけの話だ。
魅音自身が今日、初めて持ってきたと言ってるんだし。
俺が小首を傾げてる間に、他の連中はみんな、おはぎに手を伸ばしていた。
レナが俺の分を一個取って、タッパーの蓋の上に置いてくれる。
それをなぜかまじまじと見てしまった。
何が気になるんだろう……?
魅音はそれを、中に何か細工がないか不安なんだろうと言ったが。
…不安というのとは何か違う。
そう、…………何て言えばいいんだろう。
…忘れている義務感とでもいうんだろうか。
思い出さなければいけないことをすっかり忘れてしまっていて、……思い出さなければいけないという義務感のみが苛む、不思議な感覚。
たった一個のおはぎが、魅音が家から持ってきただけのおはぎが、俺の前に置かれているだけなのに。
…緩い焦燥感がかすかに急きたてる。……でも心当たりが本当にない。
第一、思い出しようもないのだ。
…だって「知らないのだから」。
「……圭一、さっきからおはぎをじっと見て、どうしましたのですか…?」
「いや、………デジャヴだっけ、既視感だっけ。…ほら、たまにないか? 初めて見るものなのにさ、過去にすでに見ていたように感じる時って。」
「……圭一は、…過去にも魅音におはぎをもらったように感じるのですか?」
「…ははは、でも気のせいだよな。魅音自身、そんなことは覚えがないって言ってるしさ。」
「……圭一。ありもしない記憶なんてありませんです。もし圭一が覚えているのなら、それは本当にあったことなのですよ。」
…梨花ちゃんが妙なことを言う。
普段なら、梨花ちゃんが戯れに妙なことを言っているだけだと聞き流すのだが…。
……先日の玩具屋での「予言」を聞かされて以来、俺は村の年寄りたちが言う、梨花ちゃんの神通力というやつを少し信じかけていた。
だから、何か深い意味があるように感じてしまうのだった。
「へへ、大予言の梨花ちゃまが言うと、何だか不思議な感じがしてくるな。それってつまり、輪廻転生とかそういう話なんだろ?」
「……ボクは宗教のことはよくわかりませんです。
ただボクが言いたいのは、…圭一が知っていることなら、それはあったことなのです。だからそれを『思い出して欲しい』。気のせいだと片付けないで、記憶としてほしい。………ボクが何を言っているのかわかりますですか…?」
「…………えっと、………うん…?」
梨花ちゃんがこんな難しい話をしてくるとは思わず、ちょっと呆然とする。
俺の知る梨花ちゃんは、み〜とか、にぱ〜☆とか、幼児言葉でふざける年下の女の子というイメージだ。
でも、目の前のいる梨花ちゃんはどこか雰囲気が違った。
ここはボケて茶化すところなのだろうか…?
でも、梨花ちゃんの初めて見るくらいに真剣な眼差しは、今が茶化すべき場ではないことをはっきり示していた。
「梨花ちゃんがそういうなら、…………じゃあ俺は、別の世界とかで、魅音におはぎをもらったことがあるんだろうな。」
「……馬鹿にしませんから全部話してください。どこでどうして、なぜ魅ぃにおはぎをもらうのですか?」
「いつどこでどうして…なんて具体的に聞かれれば聞かれるほど…、やっぱり妄想だったんだなって思っちゃうよ。寝惚けて見た夢なのかもしれないな。」
「……夢でもいいのです。もっと覚えてるはずなのです。話してください。」
どうしたんだろう。梨花ちゃんがいやに食い下がる。
そんなにも面白い話題だとは思えない。
梨花ちゃんが真剣になるような話とも思えず、俺は彼女との温度差を微妙に感じていた。
でも、梨花ちゃんに話しかけられる前から感じている、小さな焦燥感が、真面目に応えるべきだと促すのだ…。
……梨花ちゃんは夢見とかで占いができるのかもしれないな。
ならちょっと付き合ってみるか。
霊験あらたかなオヤシロさまの巫女なんだし。
「…………えっとなぁ。…俺は多分、学校を休んだんだよ。風邪なんだと思う。」
粉と呼べるくらいに細かく砕けてしまっている記憶の欠片。
……その向こうに透ける俺の姿は、なぜか玄関にいて、
…………魅音と、……………あと誰か一人を迎えていた。
多分、レナだったと思う。
「それで、魅音のヤツ、お見舞いのおはぎだって言って持ってくるんだよ。今日言ってるのと同じで、おばあちゃんが作ったって言ってた気がする。」
「…………………それで?」
「…うん。…それで、そのおはぎを食べるんだよ。二人を帰した後に。…………それでさ、おはぎの中から……。………あははははは! ここから先は間違いない、漫画の受け売りだよ。多分、昔読んだ漫画のエピソードと記憶が混同してるんだ。そんなことがあるわけない、あははははは。」
「……圭一、話を続けるのです。おはぎを食べて、中から……?」
「あ、いや、…俺が小学校の頃に読んだ怖い漫画にさ、ハンバーグの中に裁縫針が混ぜられているっていう話があったんだよ。あははは、詩音もさっき言ってたろ? 小さい頃に怖がらされると、トラウマになって残るっていうヤツだよ。」
内容はだいぶうろ覚えだ。
出会い頭の事故で、顔に治らない傷を負ってしまった少女が相手を呪う、そんな内容。
今、思い出してみると、筋も脈絡もなく読者を怖がらせようとするだけのとんでもなくチープな漫画なのだけど。…小学生の俺には、やたら怖そうな画調の迫力もあり、ものすごく衝撃的だったのだ。
その中のエピソードに、呪われた相手の食べ物に色々と危険物が混入する呪いが出てきたのだ。
その一番最初のシーンが、夕食のハンバーグの中に裁縫針が混じっていて、知らずに口にしてしまい、ぎゃあああぐええぇえぇ〜!、というような内容だった。
……今思い出しても怖いよな、非常にグロテスクかつショッキングなシーンだった。
それがちょっとトラウマっぽくなったことがあり、しばらくの間、俺は食事の中に針が入ってないか丹念に調べないと口に出来なかった時期があったのだ。
だから、おにぎりとかハンバーガーみたいな、丸かじりするタイプの食べ物はしばらく駄目だった。
……まぁ、親にも注意されたし、育ち盛りの男子はトラウマより食欲の方が旺盛だ。
おねしょのクセがいつの間にか治るように、そんな下らないトラウマもやがて治っていくのだが…。
「今でもさ、ちょっとでも怪しいシチュエーションがあると、針が混じってるかもしれないなって考えちゃうんだよ。もちろん、ちょっと考えるだけだぜ?
みんなの弁当を突っつく時、いちいち中身を改めてたら失礼だもんな。針を混ぜるなんて危ない悪戯なんて絶対するわけがないって思うから、そんな下らないトラウマなんか気にしないで食べてるんだよ。」
「……でも、今でもちょっと怖いのですね?」
「んーーー…、未だに忘れられないってことは、今でも心の中にはちょっと残ってるのかもなぁ。」
「……では、……その魅ぃのおはぎからは、…出てきたのですね?」
………………。
「……裁縫針が。」
「あぁ。…………出てきた。」
そのおはぎの中からは……、針を恐れる俺の期待通りに、針が出てくるのだ……。
…………どうして俺は、妄想とも白昼夢ともつかない滅裂な話を大真面目にしているんだろう。
…風邪かなんかで休んでいる俺のところに魅音とレナが来て、お見舞いにおはぎを置いていった。
……そんな経験はないのだから、これは確実に記憶のエラーなのだが。
でも、……梨花ちゃんは笑わないから話せといった。だから話した。
「……圭一は、目の前にあるこのおはぎにも、針が混じっているように感じて怖いですか? だから、さっきから手を付けられない?」
気付くと、魅音やレナも俺の方を見ていた。
…俺がおはぎを神妙な顔をしながらじっと見ているのを、不思議に思っているようだった。
「…あ、…圭ちゃん、おはぎ嫌いだった? 嫌いだったなら無理しなくても…。」
魅音は俺がおはぎが嫌いだと思ったらしい。
…苦手な物を無理に食べさせようとしてしまって申し訳ないことをした……、そう、魅音の顔に文字が浮かび上がる。
その、少しだけ気の毒な表情の魅音を見た瞬間に、心を掻き毟られる。
「お姉のおはぎなんで、中に何か妙なものが仕込まれてるって疑ってるんですよー。」
詩音がそう言った時、反射的に俺は言い返す。
……それは誰にも伝わらないはずの妄言だ。
だって、自分でも何を言っているのかわからない。
「いや、はっきり断言できるぜ、ここにある魅音のおはぎには針なんて絶対に入っていねえ。」
「は、針ぃ?! そんなの何でおじさんが入れるわけぇ!」
「あははは…、当り前だよな。魅音は確かに、大人しくお見舞いを持ってくるようなヤツじゃない。タバスコを入れるとか、そういう冗談はやるかもしれないが、間違っても針なんて混ぜない。…シャレになることとならないことのけじめははっきり付けてる。だからそんなことは絶対にありえない。」
俺はおはぎをむんずと掴む。
それを口の前に持ってきた時、今さらのように小学生時代の怖い漫画の記憶が蘇り、頬張る前に中身を改めさせたい衝動を掻き立てさせた。
…そんな臆病な、心の中の自分に俺ははっきりと言ってやる。
おい、クソ臆病な俺!!
いつまでガキの頃の漫画の話でビビってやがるんだよ。
このおはぎは、魅音がみんなにご馳走したくてわざわざ持って来てくれた。
だから、針なんて絶対に混ざってねぇんだよ!!
俺は自分の小さくて下らない過去の妄執と決別し、がぶりとおはぎをかじった。
「………ぉ、……うめえじゃねぇかよ!!」
「うまくて当然! 針なんか入ってなかったでしょー?!」
「そりゃそうだよな。本当にスマン。自分でも下らないトラウマにずっと縛られてたって呆れるぜ。」
胸からしこりが取れて、何だかすーっとした気がした。
すると、なぜか言わなければならない一言が胸の奥から込み上げてきた。
……状況としてはちょっと妥当な言葉ではないが、今それを口にしなくてはいけない気がした。
「おい、魅音。」
「うん? 何〜?」
「おはぎ、うまかったぜ。」
「?
あははははは、大きなカバンを担いできた甲斐があったよ!」
何で改めておはぎがうまかったと言わなければならないのか、自分でもよくわからなかったが。
でも、魅音にそれはちゃんと伝えられた。
……そして、俺はようやく、さっきからずっと感じ続けていた緩い焦燥感のようなものから解放されるのだった。
「さぁさぁ! 沙都子も圭ちゃんを見習ってカボチャをガブリといきましょう! よく煮込んでありますから、やわらかいですよ〜!」
<詩音
「詩音さんのお弁当は、何を食べてもカボチャが出て来るんですものー!! 私がトラウマになりましてよー!」
「あはははは! 詩ぃちゃんは沙都子ちゃんのカボチャ嫌いを直すのにがんばってるんだね!」
「詩音も熱心だよね、まったく。将来の妹のつもりなのかねぇ、くっくっく!」
俺がおはぎを食べ終える頃には、いつもののんびりとした食後の団欒になっていた。
「……圭一。もしもですよ?」
「うん? もしも何だよ?」
「……本当に食べ物から裁縫針が出てきたら、……どうしますか?」
「そんなことあるわけないね。梨花ちゃん、脅そうったって無駄だぜ〜?」
「……圭一。…それでも、出て来ることがもしもあったなら。」
笑いながら茶化そうとする俺に、梨花ちゃんは再び真剣な様子だった。
…今日の梨花ちゃんは一体どうしたというんだろう。
「しつこいぜ。そんなことは絶対ありえないし、信じない。」
俺はもう、このちっぽけなトラウマは克服した。
だから梨花ちゃんに力強くそう言ってやる。
「わかりましたです。……圭一。しつこくてごめんなさいなのです。……もしも針が出てきたら、それはきっと圭一の勘違いなのですよ……。魅ぃが混ぜたなんて、絶対に思わないであげてくださいなのです。」
「魅音を疑うな、ってことなんだろ? あぁ、当然だぜ! 俺は絶対に仲間を疑わないぞ!」
そう言いながら、力強い握りこぶしを作って見せる。
それでようやく梨花ちゃんは納得してくれたらしい。
安堵するような微笑を浮かべてくれた。
■アイキャッチ
■古手神社にて
叩き売りオークションとやらで売り物になる寄付品は、古手神社の集会所の中に集められていた。
「おおーー、色々とあるなぁ…! お中元のタオルセットとか、使い古した家具辺りまでは想像してたが、何気に結構色々あるじゃねぇかよ!」
「すごいね、テレビや冷蔵庫まである。それにこれ、まだ新品同然だね!」
「ははは、驚いたでしょ! 園崎家関係のお店から、余り物とか店頭展示品とか、売り物にはならないけどまだまだ新品同然のものを色々と供出してもらったわけよ。
型遅れ品とかをあまり気にしないなら、ちょっとは立派なもんでしょ!」
「電化製品に貼り付けてある、日焼けした『新製品!』というシールが、何だか哀愁を誘いますわね。」
「いやいや沙都子、そういうのが逆にポイント高いんだぞ。他人の使用済みの道具よりは、多少煤けてても未使用の方が気持ちよく使えるってもんだ。」
「……みー。最近の若者は潔癖なのです。」
「あはははは、私はあまりそういうの気にしないから、安ければこういうのもいいかな。」
「レナさんはさっきから家具類に興味があるみたいですね。一人暮らしでも考えてるんですか?」
<詩音
「あ、うぅん。お父さんとお家の模様替えをしようって話になってるの。でも、ちゃんとした家具屋さんで買おうとすると高いから、こういうリサイクル品を探してたの。」
「模様替えって、家具まで変えちゃうんですの? ずいぶん、大掛かりですのね。」
「うん。うちのお父さんね、つい最近、やっと就職したの。
だから、新生活のための心機一転ってことで、大掛かりに行きたいの。」
「……レナのお父さんは、…就職したのですか?」
梨花ちゃんがさり気なく突っ込むが、俺も同じ気持ちだった。
…ということは、ついこの間までレナのお父さんは無職だったということか…?
「うん。お母さんと別れてから、丸々一年、就職しようとしなかった。レナも怒ってたんだよ。ちゃんと働きなさい〜って。」
レナがいつもの笑顔でさも当たり前のように言うので、言っている内容の重大さを理解するのが一瞬遅れた。
……レナが言っているのが言葉通りなら、それはレナの両親の離婚など、あまり良くない家庭事情の話だったからだ。
だが、レナが本当に普通に話すので、場の雰囲気は変に重苦しくなったりはしなかった。
「お母さんと…お父さんが、別れたんですの?」
<沙都子
「うん。茨城の町でね、離婚しちゃったの。それでお父さんとレナは雛見沢に戻ってきたんだけどね。お父さん、離婚のショックからずっと立ち直れなくて。ずっと寝たりぼーっとしたり遊んだりしてるだけだった。」
「離婚も失恋も、相手を愛した分だけ傷も深まります。その落ち込みの深さは、決して悪いものじゃないと私は思いますけど。」
<詩音
「あははは、そんなロマンチックな話ならいいんだけど。それでお父さん、いつの間にやら悪いお店に入り浸っていることがわかっちゃったの。ある日、預金通帳を見て、ひどい金遣いにびっくり!」
「レナのお母さんはさ、結構有名なデザイナーさんだったらしくてさ。相当稼いでたらしいんだよね。
そのお陰で、だいぶたくさんの慰謝料をもらってたらしい。そのせいで、お父さんは働かなくても生活できちゃったんだよね。それが、立ち直りを遅れさせちゃった原因のひとつかもしれない。」
「それは一理あるな。お金に余裕がなかったら、働かざるを得ない。そうすりゃ忙しくなって、落ち込んでる暇なんかなくなるもんな。」
「朝起きて登校や出勤をして、夕方に帰ってきて食事して寝る、っていう当たり前の生活習慣は、乱れると結構堕落するもんです。
私も学園から抜け出してきた後、しばらく無職な生活をしてたことありますからよくわかります。」
<詩音
「……お家に引き篭もって、一人でうじうじしているのが一番いけませんです。」
「そうだね、梨花ちゃんの言うとおりだったんだよ。
だからレナね、お父さんときっぱり話をしたの。家長としての責任とか、親としての自立とか、そういう話を互いに正座しながら一晩みっちりと。」
「へへ、レナって普段はちゃらけてるけど、ここ一番ではきっちりしてるからな。親が相手でもきっちりってのはさすがだぜ。」
「あはは、そんなことないよ。レナも最初はショックだったよ。
…だってお父さん、何だか知らない女の人に貢いでるっぽかったんだもん…。娘としてはショックだよぅ。」
「……それでレナは、…どうしたのですか?」
「うん。一人で悩んでる内は全然ダメ。悪いことばかり考えちゃって…。
だから魅ぃちゃんに打ち明けて相談してみたの。」
「私は話を聞いて相槌を打っただけだよ。レナが自分で考えをきっちり整理して、父親とちゃんと話をするべきだって結論したんだよ。相談なんてとんでもない。」
「いや、そういうのは大事だろ。人に話すことで悩みってのは結構冷静に考えられるもんだしな。」
「…ふぅん。そういうもんですかねぇ。相談する程度で解決する悩みなら、その程度だったってことじゃないんですか?」
<詩音
「そんなことないよ詩ぃちゃん。
私も魅ぃちゃんと話をするまでは、相手の女の人を闇討ちしようとか、物騒なことしか思いつかなかったもん。でも、よくよく考えてみればそんなの全然最善の解決策じゃない。
まず、話し合うことから始めないとね。」
「……それでレナは話し合ってどうしたのですか…?」
「うん。お父さんがグダグダしてるのはお金のせいだってことになってね。口座を別の銀行に移し変えて、通帳と印鑑はレナが預かることになった。
だからお父さんは毎月、私からお小遣いをもらってるんだよ。」
「をっほっほっほ! 何だかレナさんのお家は親と子が逆転してしまってますわね。」
沙都子が笑うと、みんなも釣られて笑った。
俺も一緒に笑ってもいいものなのか、ほんの少しだけ戸惑ったが、レナも笑っていたので、一緒に笑った。
「結局さ、むやみやたらな大金がレナのお父さんを堕落させてたわけさ。
金銭感覚が戻れば、変なお店にも行かなくなるし、ちゃんと働かなくちゃいけないって気にもなるからね。」
<魅音
「でも、あれはいいタイミングだった。お父さん、知らない女の人のマンションの頭金を払おうとしてる矢先だったの。危ないところだった。」
「レナが笑顔で話す割には……、よくよく聞いてみるとずいぶんヘビーな話だな…。一歩間違えば家庭崩壊だったんだよな…。」
「そうだね。もしあの時、私が魅ぃちゃんに相談しなくて、うじうじと今日を迎えていたら、今頃きっと、…………。
………うん。その女の人を殺そうなんて考えていたかもしれない。」
みんなが物騒な話だなぁと笑う。
レナも笑う。
でも、レナの瞳の奥には、ちょっとだけ真面目な色が浮かんでいた。
……多分、冗談抜きで、その当時は殺人まで考えていたのだろう。
自分の父親が妙な女に引っ掛かって、家の蓄えを貢ぎ始めたりしたなら。
……きっと短気な俺のことだ、レナと同じ事を考えるに違いない。
それを思うと、そこでそんな短絡的なことに走らず、ちゃんと仲間に相談したレナは偉かった。
「偉いよな。家族の問題なんて、恥ずかしくてなかなか話せるもんじゃないぜ。」
「あははは、そうだよね。魅ぃちゃんに打ち明けようと踏ん切りをつけるには、レナもちょっと時間が必要だった。…………決め手になったのは、あはは、夢なの。」
「……夢、ですか?」
<梨花
「うん。………あの頃は布団の中でいつも一人悩んでた。だから、きっと夢の中でまで私は悩んでたんだと思うの。」
私はこのまま、ずっと何もせずうじうじしていたらどうなるかを、夢の中で想像した。
…それは想像なのか、数ヶ月、あるいは数年後の未来の予知夢なのかはわからないけれど。
「夢の中の未来では、お父さんは、その知らない女の人ともっともっと仲良くなってて、とうとうお家にまで連れ込むようになってるの。」
お父さんも私も煙草を吸わないのに、いつの間にか居間には灰皿がある。
客間の布団はいつの間にか**さんの専用になっている。
洗面所には、私が絶対選ばないような歯ブラシがあり、お風呂場には、私が絶対選ばないようなシャンプーが置いてある。
………そんな、とても嫌な風景。
「それは………とても嫌な…、いえ、辛いシチュエーションですわね…。」
…本人に聞いたわけではないのだが、沙都子も両親を失っていると聞いている。
それで仲の悪い叔父夫婦のところにしばらく預けられていて、色々と辛い思いをした…、という話を誰かに聞かせてもらった気がする。
それを思うと、沙都子にはレナの辛い状況がとてもよくわかっているようだった。
「…うん。それはとても辛いシチュエーション。
私は家に居場所がなくなって、だんだんと追い詰められていくの。それで、ちょっとしたささいな切っ掛けで、私はその女を殺してしまう。」
「夢にしてはいやに生々しい展開ですね…。それで?」
<詩音
「そしたらもう、私は人殺しなんだよね。………誰にも殺しのことを知られたくないって、怯えて、怖がって、誰も信用できなくなって。…毎日毎日を、死体を埋めた場所で過ごすの。その場を離れたら、誰かに死体を見つけられちゃうような気がして、いつまでもいつまでも。」
「…………嫌な未来だな。…夢の中だけで済んでよかったと思うぜ。」
「あれは、……夢だったのかなぁ。
………私はね、あれは…きっと、そのまま何もしないでいたらきっと迎えた未来なんじゃないかなって思うの。
だから翌朝、目が覚めた時、とても怖くて震えが止まらなかった。私とお父さんの家なのに、知らない香水の匂いがするような気さえした。そして、その夢が現実になるのが、来年なのか来月なのか、…ひょっとしたら明日なのではないかとどんどん怖くなったの。……そこまで追い詰められたら、もう魅ぃちゃんに打ち明けるのに躊躇いはなかったね。」
「レナがものすごい神妙な顔で、内緒の相談があるなんて言ってきた時は、おじさんはてっきり、変な検査薬で陽性でも出ちゃったんじゃないかと真面目に思ったよー!
まぁ、実際、今だから笑い話だけど、当時は本当に笑えなかったね。」
「魅ぃちゃんは本当に頼りになったよ。落ち着いて私の話を聞いてくれて、現実的な解決の糸口を探ってくれた。それで、やっぱり親子でちゃんと話さないと駄目だっていう当り前の到達点に辿り着いたってわけ。」
「……それは、………夢ではなかったかもしれませんですよ。」
「あはは、そうだね。ただの夢じゃなかったかもしれないね。」
「もしその夢を見なかったら、レナは魅音に打ち明けなかった可能性もあるもんな。レナの人生を決めた重要な夢だぜ。」
「………………夢、か。」
<詩音
「あんたも夢を見るんだー? へぇ?」
<魅音
詩音が小言で何かを言う。
それは魅音にしか聞こえなかった。
何と言ったかはわからないが、その言葉を聞いた魅音の表情から茶化しが消えたので、きっと真面目なことを言ったんだろうと思う。
……そう言えば余談だが。
詩音は本来、興宮の学校に通っているのだ。にも関わらず、最近はよく雛見沢の学校へ登校してくる。
何が面白くてわざわざこんな山奥まで登校してくるのかはわからないが、……沙都子の世話を焼くのが楽しそうに見えた。
詩音と沙都子にどういう接点があるのか、俺には全然わからない。
…いや、そもそも、詩音って沙都子とはあまり親しくなかったんじゃなかったっけ…?
……………あれ? そんなことあったっけ?
詩音って、元から沙都子と仲良しじゃなかったっけ。………………??
「だから思ったの。人と相談するのはとても大事。」
今度は普通に遊んで、普通に笑い合って、普通に恋をしよう。絶対に互いを疑わない。互いを絶対に信じ合う。
「仲間はただの遊び友達じゃない。本当に大切なことを打ち明けられる重要な存在なんだって、……あはは、そんな当り前のことに気付いたの。」
「そうだな。…………だとしたら、レナにとっては、親子の問題を解決しただけでなく、仲間の重要さにも気付けたわけなんだな。」
「うん。だから私も、誰かが悩みを持ったら、相談に乗りたいし助けたい。絶対に力になりたい。だから、私が打ち明けるに足る仲間だと信じてほしい。」
「……みー。とても大切なことをレナが言っていますです。」
梨花ちゃんの言うとおりだった。
……だから俺たちは、誰も茶化さずに、ただ無言で頷くのだった。
その時、集会所の入口をガチャガチャ!っと施錠する音が聞こえて、みんな驚く。
施錠した、というのは間違いだ。
外から来た人が、鍵がすでに開いているとは思わず、開錠するつもりで、逆に鍵を閉めてしまったのだ。
だから、鍵を開けたつもりなのに引き戸が開かず、ガタガタと言わせた。
「あんれぇ? 誰か中におったん?」
年配の女性の声と、数人の気配。そしてドンドンとノックする音。
「あーーー、ごめんなさい〜! 今、開けます〜!」
魅音が外に聞こえる大声で言うと、鍵を開けに行った。
玄関から、魅音と町会のおばさん方が挨拶する声が聞こえてくる。
「ちょっとみんなー、手を貸してくれるー?!」
「なんだなんだ、どうした。」
魅音がみんなを呼んだ理由はすぐにわかった。
町会の人が、叩き売り用に寄付品を持ってきたのだ。それはだいぶ古くなった食器棚だった。
みんなで手伝って、それを中に運び込む。
運びこむために玄関へ出たら、もう空は朱色になり始めていて、いつの間にかセミからひぐらしに合唱が変っていた。
「あー、前原くん、あんた叩き売りの司会を引き受けてくれたんねー?! もうみんながあんたしか適任がいないんて、太鼓判を押すんよ。だからおばさん、前原くんの司会が楽しみで楽しみで〜!」
「いや、あっはっは…! せいぜい頑張りますので、その、あまり期待しないでくれると嬉しいです。」
「そんなこと言っちゃってー!
今日ここに来たのも、売り物を吟味して、売り文句を考えておきたいからなんですよ。当日は期待しましょう〜!!」
<魅音
「すったらん、叩き売りはちゃあんと来んないかんね!」
他のおばさんたちもみんなニコニコ顔で、みんな期待していると言ってくれた。
……俺はここに引っ越してきて、まだそんなに月日は経たないはずだ。
にも関わらず、俺を祭りの中の要職に推薦してくれた。
それは俺を、……こんな短期間でも村人だと認めて受け入れてくれたってことだ。
かつて、日中に表が歩けなくなるような恥晒しな真似をして地域に迷惑をかけた俺が、……こうして地域の人に受け入れてもらえるなんて。
純粋に嬉しかった。
だから、仲間たちだけでなく、まだ顔と名前を覚えてないのが申し訳ないけど、俺を推薦してくれて期待してくれる村の人たちに楽しんでもらえるよう、当日を精一杯がんばろうと思った。
「魅音ちゃんはどうするん。まだ残るんかいね。」
「あ、いや、もう私たちも帰ります。もういいよね、圭ちゃん?」
「あぁ。雰囲気さえ掴めりゃ、後は出たとこ勝負だ。なるようになるだろ。」
「綿流しには興味ないんだけど、圭ちゃんの司会は見たいなぁ。私も来ようかな。」
<詩音
「詩音さんもぜひいらっしゃいませ! みんなで一緒に騒ぐのは楽しいですわよ。」
「私は反対〜!! 詩音は興宮に住んでるんだから、興宮の祭りにでも行っちゃえー!」
<魅音
「あははは、レナは詩ぃちゃんが来るの賛成〜。詩ぃちゃんが来ると、魅ぃちゃんが面白くなる〜!」
「……では多数決により、詩ぃの参加は決定なのですよ。」
「というわけですお姉。
当日は私のせいで、お姉の地味っぷりが露呈しちゃうかもしれませんけど、まぁ仲良くしてくださいね。」
「ううう〜〜!! 詩音嫌い、
詩音嫌い、
詩音嫌い〜〜!!」
何のかんの言ったって、本当に仲のいい姉妹なんだよな。
魅音がむきになればなるほど、仲睦まじさが当社比で30%はアップする。
「じゃ、出よう。
忘れ物とかないー? 灯り消すよー。」
<レナ
集会所の中に火の気がないか、忘れ物がないかを確認し、全員で表に出た。
魅音が集会所に鍵を掛けている間、境内を見回した。
雛見沢にはちょっと広すぎる印象のあるこの境内が、やがて年に一度の大賑わいになるのだ。
「このただっ広い境内が、お祭り一色になるんだよなぁ? 何だか全然想像がつかないぜ。すっげぇ楽しみだ!」
「模擬店とかがいっぱい並んで、人もものすごいたくさん来るんだよ。きっと圭一くんもびっくりするかな、かな!」
「年に一度なんてケチなことを言わず、季節の度にやってくれてもいいんですのにねぇ。」
<沙都子
「そういや、季節の度に来る人はいたねぇ。」
<魅音
「ハイ? そんな人、いましたっけ?」
<詩音
「あ、それは俺もわかるぞ。この間、会ったカメラマン風の人だろ? 名前は何て言ったっけ…。」
「……圭一は富竹を知っていますのですか?」
「そうそう、富竹さんだったな! いや、先日の帰り道で会ってさ。魅音とレナに教えてもらっただけだよ。妙にたくましい体つきの割に、腰の低い感じのおっさん。季節の度に雛見沢に来てる、熱心な旅行写真家なんだろ?」
「自称でございますけどねぇ。をっほっほっほ!」
「あの人が来ると、今年ももう綿流しだなぁって気がするよ。それで綿流しが終わると、本格的に夏が始まるんだよねぇ。」
<魅音
「そうだね。でも今年は暑くなるのが早いから、もうセミが鳴いてるけどね。」
<レナ
「異常気象とかテレビで言っていますわね。温暖化がどうしたこうしたとよく聞きますわ。」
「へへ、暑い夏、大いに結構じゃねぇか! 夏が涼しかったら何だかつまらないぞ。」
「そうですね。季節どおりの季候の方が、気分がいいもんです。冷夏や暖冬は何だか損した気になります。」
<詩音
「夏に負けないくらい、この夏の私たちも熱く行こう。綿流祭、え〜と、何人だ? 綿流祭六凶爆闘だね!!」
「……今年の綿流しも、みんなで一緒に楽しく過ごせますですよ。」
「あははは、そうだね。楽しく過ごせるといいね。」
<レナ
「お、レナは知らねぇな? 梨花ちゃんのは希望的憶測じゃねぇんだぜ? 本当の予言なんだぜ。だから梨花ちゃんが、当日は楽しくなるって言ったら絶対にそうなる。だってこれは運命なんだからな! そうだろ梨花ちゃん。」
「ハイ。運命なのですよ。」
梨花ちゃんが、にぱ〜☆と笑う。
それは本当に心からの笑顔で、みんなに綿流しの当日が素晴らしい日になることを確信させるものだった。
「当日さ、すぐにオークションってわけじゃねぇんだろ?」
「うん。始まるのは奉納演舞のひとつ前だから、夕方からなら、みんなで一緒に遊ぶ時間は充分にあるよ。」
「そうですわよね。
初めてのお祭りなのに、一緒に遊べないなんて気の毒ですもの。」
<沙都子
「圭ちゃんの叩き売りを楽しんだ後は、梨花ちゃまの奉納演舞ですか。なかなかいいじゃないですか。」
<詩音
「……ということは、ボクは圭一の司会を最後まで見られず、途中で演舞の準備に行かなくてはならないのです。」
「へー、梨花ちゃんも出番があるのか。演舞って何だ? やっぱり古手神社の巫女さんだから、何か神事でもやるわけか?」
「綿流しの名のとおり、お布団の綿を清める演舞と儀式があるの。梨花ちゃんがとっても頑張るから、圭一くんもいっぱい応援してあげてね。
それでねそれでね! 梨花ちゃんが巫女さん装束で、重い祭具をふらふらしながら振るうのがね、とってもとってもかぁいいんだよぅ!!
お持ち帰り〜〜!!」
そう言えば俺、生の巫女さんって見たことないなぁ!
レナのお持ち帰り宣言が出るなら、それは相当可愛らしいものに違いない。
何だか、ものすごく綿流しが楽しみになってきた。
俺、レナに魅音に詩音に沙都子に梨花ちゃんで6人。
きっと、綿流しの夜を最高に楽しく過ごすだろう。
あと何日だっけ?
とにかくとにかく、お祭りをこれほど楽しみにしたのは生まれて初めてのことだった……。
■ここで時間経過の演出を〜。ここで夕方から深夜まで飛び、目線も梨花に移ります。
■梨花の努力
…沙都子のいびきも、こうして窓辺にたたずむと、まるで涼やかな虫の音のようだった。
「………沙都子?」
「……くかーーーーーー、……ぴーー…。」
沙都子は、熟睡であることを大きないびきで示した。
「いびきが可愛いのですよ。」
<羽入
羽入がくすくすと笑いながら、沙都子の鼻を突っつくような真似をする。
私は空を見上げる。
………そこにはいつもと変らぬ月があるのだが、なぜかいつもより温かな光を放っているように感じられた。
「梨花は、…機嫌がいいようなのです。」
「………………うん? ………確かにそうかもしれない。」
<黒梨花
羽入に言われてようやく私は自覚する。
…私はとても機嫌がよかったのだ。
でなかったら、こんなにも風のない寝苦しい夜に、こうものんびりと月を楽しもうなんて気持ちにはなれないはず。
私はさらに上機嫌になると、この美しい月夜に乾杯したくなった。
押入れの冬用の布団の奥に手を突っ込んだ辺りで、羽入が怪訝そうな声を掛けて来る。
「……梨花、お酒は駄目なのですよ。」
「いいじゃない。今夜くらい。」
羽入はアルコールが苦手だ。
私が摂取すれば、それは羽入が摂取したことにもなるのだから、私が飲もうとするといつもうるさく抗議する。
だから私も、羽入がどこかに遊びに行っている時にだけ隠れて飲むようにしている。
…………もっとも、飲んだ瞬間にバレるわけで、羽入は飛んで帰ってくるのだが、もちろんその時点では後の祭りなわけだが。
「駄目です駄目です、梨花にはお酒は早いのです…!」
「……梨花は私よ。梨花が飲みたいものは梨花が決めるわ。」
「駄目です、僕はお酒は嫌いなのです…! だめです、だめーだめー!」
「今日は喧嘩はなしだってば。わかったわ、じゃああんたにも飲みやすいように、甘いオレンジジュースで割ってあげる。それならいいでしょ?」
「お酒の酔っ払う感じが嫌いなのです。
だからだめ、だめー!」
羽入がドタンバタンと跳ねて抗議する。
沙都子の布団のすぐ脇で。
「やめさない、沙都子が起きちゃうでしょう。」
「残念でしたなのです。僕は梨花以外には見えないし聞こえませんから、いくらドタンバタンしても、梨花にしか聞こえないのです。あっかんべー。」
「ほほぅ、あんたはたまに身の程をわきまえないわね。」
私は冷蔵庫を開けると、オレンジジュースの紙パックと、「懲罰用」の激辛キムチの容器を取り出し、羽入に見せ付ける。
「…あうあぅあぅ!!」
「はい問題。私がおつまみに激辛キムチをいっぱい食べて、羽入が辛い思いをするのと、オレンジジュースで割った甘〜いお酒を飲んで、一緒に月を楽しむのとどっちがいい?」
「うーうーうー!!」
羽入は反論の変わりに、口をへの字に曲げて涙目になりながら、ドタンバタンと跳ねて抗議する。
普通の子どもなら、静かにしなさいと叩かれて躾を受けるところだが、羽入はうるさくしても、私以外には聞こえないので誰の躾も受けたことがない。
もっとも、羽入は空気みたいな存在だから、叩いて躾けることもできないのだが。
この反応を見てわかる通り、羽入は甘いものに目がないのと同時に、辛いものがまったくダメだったりする。
「……梨ぃ花ぁ、…………飛び跳ねるのはお止めなさいませぇ…。」
突然、沙都子の声が聞こえ、私はグラスをぱっと隠す。
…当然だが、私の飲酒癖は沙都子には内緒だ。
「今、……何時だと思ってるんですの………。…………くかーーーーーー……。」
しばらく様子をうかがうが、沙都子はそのまま、元のいびきモードに戻ってしまう。
「ほら、あんたのドタンバタンがうるさいって注意されたわよ。この安眠妨害。」
「…………あぅぁぅ…。」
羽入の存在が私以外には見えないように、羽入の立てる音も基本的には私以外に聞こえない。
でも、それはあくまでも基本的には、という意味だ。
羽入という存在は紛れもなく存在する。
だから、その気配や音などを聞き取れる人やタイミングが稀にある。
もちろん、なかなかそういう人はいないし、いても普通は気のせいだと思ってくれるのだが。
私のこれまでの経験から言うと、…………沙都子のような末期の人間ほど、比較的、知覚しやすいようだ。
入江の言葉を借りると、L4クラスの手の施しようがないくらいの末期。
末期と言う言葉は、なるほど言い得てる。
……いないはずの存在の姿や声が聞こえるようになったら、誰だって自分の正気を疑い、自分は末期だと信じるだろう。
羽入は飛び跳ねる抵抗を止め、私が月見酒の準備をするのを諦めたようだった。
……別に羽入が苛めたくて飲むわけじゃない。
できたら、羽入にも機嫌よく付き合って欲しかった。
だから私は、ワインは香りを付ける程度にだけ入れ、ほとんどをオレンジジュースで薄めてしまう。
本当にお酒の好きな人が見たら噴飯しそうなカクテルの出来上がりだ。
…ワインをオレンジジュースで割って、クラッシュアイスを詰める。……何だか通っぽい?
「ほら、羽入。これくらいの薄さなら平気でしょ?」
私はグラスの淵を少し舐め、羽入の様子を伺う。
「……このくらいなら平気なのです。」
「そう、じゃあ今夜はこの濃さにするわ。……もう怖がらないで、辛いのはしまうわ。」
羽入は、さっきからずっと置かれていた「懲罰用」激辛キムチがずっと怖かったらしい。
私がそれを冷蔵庫に戻すと、ようやくほっとした表情を浮かべるのだった。
グラスを片手に、再び窓辺に戻る。
相変わらず風はなかったが、ほんの少しだけ涼しさを感じられた。
「ねぇ羽入。…………あなたも、今回は何かが違うって感じてる?」
「……圭一やレナの話ですか?」
「それから多分、詩音もね。……みんな、過去の世界をごくわずかだけど、記憶してる。そしてそれを生かして、致命的な失敗を避けている。」
「個々にはそう珍しいことではないと思いますです。でも、圭一やレナ、詩音など、みんながみんな同時にそうなることは、僕もとても珍しいことだと思いますのです。」
「…………私はよく自分の運命をスゴロクに例えるんだけど。これは、三つ振ったサイコロがみんな6だったような、そういう幸運じゃないかと思うの。」
「僕たちの望む未来にもっとも近い位置からのスタートという意味では、梨花のその例えは正しいと思いますのです。………でも。…これは梨花が期待するような意味の奇跡ではありませんですよ。」
羽入の言いたいことはわかってる。…期待するな、ってことだ。
サイコロは元々、6の目もあり得るように設計されている。
だから、6の目が出ること自体は奇跡でも何でもない。
本当の奇跡とは、一つのサイコロを振ったのに、6よりも大きな10くらい目が飛び出した前回の圭一のようなものを指す。
…つまり、ありえないことが起こって初めて奇跡と呼べるのだ。
圭一が魅音にお人形を渡したことだって、レナが父親と話し合ったことだって、詩音が悟史のことを思い出して沙都子に世話を焼いたことだって、……どれも彼らの心の中にあったもの。
つまり、サイコロの何れかの面にしっかりと刻まれた「想定内の結果」でしかない。
でも、それにしたって、3つのサイコロの出目がこれだけ見事に揃うと、奇跡と呼べるものではないにしても、幸運と呼ぶことはできると思う。
「……梨花が頑張ろうという強い意志を見せたので、天の神さまが祝福しているのに違いないのです。」
「くすくす。あんたも神さまじゃなかったの?」
「……あぅ、梨花は僕を苛める時だけ神さま扱いしますです…。」
「冗談よ、お願いだからいじけないで。そんなわけだから、今夜はとても機嫌がいいのよ。」
私はオレンジ色のありえないワインを掲げて、ありえない幸運に感謝した。
…味は、これまたワインではありえない濃密な甘酸っぱいオレンジ味。
飲んでいるのは私なのに、とても幸せな表情を浮かべる羽入がなんだか可笑しかった。
「…………今度こそ、昭和58年の死の運命から、逃れられるのでしょうか。」
「逃れることがゴールのスゴロクなのだとしたら、これほど幸先のいいスタートは、もう二度とないかもしれない。」
私が最善を尽くしても、私の及ばないところで、どうしようもない事態になることは少なくない。
……そういう時ほど悔しいことはない。
私が何を頑張ろうと、私の努力と無関係に全てが引っくり返される。
……その辛さから逃避するため、私は本当に長い「時」を無駄に過ごしてきたと思う。
でも、この世界で私は初めて、私以外の全ての要因に恵まれた。
この世界は、信じられないくらいに全てが理想的だった。
…私がふて腐れなければならない理由がどこにもない。
見事な天気と最高の風向き。
これで船出が失敗したら何のせいにもできないだろう。
「………………………。」
だからこそ、…羽入の向ける不安そうな瞳の意味もわかる。
つまり、……これだけの恵まれた条件の世界でも、私が死の運命から逃れられなかったなら、……それは抗うことの出来ないものであることを認めざるを得ないからだ。
仲間たちが全ての悩みや問題に打ち克った理想の世界。
……いつも、あっちが立てばこっちが立たないというような、ちぐはぐの世界なのに、初めてこの世界で全てのピースがぴったりと美しく収まった。
この世界でも私が運命に勝てないならば。
…私はこの世界よりも条件の悪い、その他全ての世界で運命に抗えないことを証明してしまうことになる。
………それは、私がすでに何度も恐れている最悪の結末。
……希望の完全な喪失、……そして精神の死。
だが、死ぬのは多分、私だけだ。
…羽入は私の心が死んでも、ずっと残るだろう。
私という話し相手を失い孤独となった世界で生き続ける恐ろしさに怯えるからこそ、……羽入は私が心に負担をかけるような、無駄な期待を抱かないようにしたがるのだろう。
氷の欠片を口に含み、奥歯で噛む。小気味いい歯応えと冷たさが気持ちよかった。
「………羽入。…何度も繰り返した話で申し訳ないんだけど、……また付き合ってほしいの。」
「いいのですよ。………どうして梨花が、必ず昭和58年に殺されるか、ですね?」
「うん。……………強い意志は強い運命を生み出す。…ということは、私が昭和58年に必ず殺されるのは、相当の強い意志に基づいているということになる。」
「………恐らく、そうだと思いますです。」
「古手梨花を殺して、誰がどんな得をするのかしら。」
「………………強い意志があるのですから、恐らくは明白な動機があるものと思いますです。」
「自分で言うのも嫌だけど…。古手梨花は村人みんなに好かれていると思う。一般的な村人に殺害動機があるとは思えない。」
「……少なくとも、この村に住まう人間である以上、梨花に好意を抱かない人間はいないはずなのです。」
「あんたのお陰でね。」
「……ぁぅあぅあぅ…。」
「今のは感謝の言葉よ。…まぁいいわ。………長いこと疑ってきた園崎本家も違った。となると、私を殺したい人間や勢力が思いつかない。」
「…………むしろ、梨花にとっては、世界中のどこよりも、この村にいるのが安全なはずなのです。」
「そうね。世界中のどこよりもここが安全なはずなの。私を殺そうとする人間がいるどころか、私を守ろうという人間がいるはずなのに。」
でも皮肉だ。その、私を守ろうとしてくれる役目の人間たちを、私が毛嫌いし、積極的に接触してこなかった。
「…………梨花。…やはり、入江たちを頼るのはどうですか…?」
「…………………………。」
私は村中から好かれ、大事にされている。
……だが、死の運命から逃れようとする時、何の助けにもなってはくれない。
過去に何度か村人に打ち明けたが、誰も信じてくれず、最後の瞬間に力になってはくれなかったからだ。
信じてくれない最大の理由は、誰が何の動機でという具体的な説明をできなかったことに違いない。
具体的に、誰がどうしてと説明できれば、もう少し信じてもらえるのかもしれないが…。
わからないものはどうしようもない。
一人の少女が、誰かに殺されると抽象的に騒ぎ立てたところで、本気にしてくれる人間など居はしないのだ。
そもそも、村人たちは、自分をオヤシロさまの生まれ変わりとか、古手家の頭首とか、そのくらいにしか思っていない。
大事にしてはくれるが、命を懸けて守るほどの存在という認識はないのだ。
そこへ行くと入江たちは明白に異なる。
私という個人が極めて重要な存在であって、万が一のことがあってはならないと理解している。
私に死の危機が迫っていると訴えれば、抽象的な訴えであっても、最大限の配慮をしてくれるだろう。
実際、彼らはあらゆる暴力的手段から私を保護できる力を有している。
……ただし、その保護が余り役に立った試しはない。
頼りないんじゃない。
最大の理由は、…私を保護する責任的立場にある鷹野たちもまた、必ず決まった日に殺されてしまうからだ。
だから、いくら鷹野たちに訴えて身辺警護を約束させても何の意味もない。
それが、頼りになるはずの存在なのに、頼りにならない最大の理由だ。
しかもその理由は、数多の世界を知る私だけが知っていて、彼ら自身には知りようがないのもとても皮肉だ。
「……それが狙いなのかしら。富竹と鷹野を殺し、私を守る者を排除して、それから殺す?」
「…………確かに、鷹野たちの死は、梨花の死と密接に関係する先触れなのです。」
「同じ運命なら、…いや、同じ犯人が同じ目的でやっている犯行なら。………あの二人の死を何とか覆すことで、私の運命もまた覆せるんじゃないかしら。」
「………梨花は多分、覚えていませんですが、ずいぶん前にもそう言って実行したことがありましたです。」
鷹野たちの死は、私にとっては身を守る楯を失うのと同じことを意味する。
つまり、あの二人が死ぬから、「私の殺人」が可能になるのだという仮説。
だから、あの二人に、死の運命を伝え、何とか抗おうとしたこともあった…。
もちろん、全然聞き入れてもらえなかった。
いくら話しても二人は信じなかった。
だから私は最後には呆れ、…この二人は死ぬのが運命なんだと諦めるようになったのだ。
かつて、私たちがもっともっと長い時間を戻れた頃、両親に対して感じるようになった諦観と同じだ。
……いくら抗っても曲げられない運命の必ず死ぬ存在は、やがて死ぬ前から興味が喪失する…。
……そして長い時間が経過して、二人を救おうという努力をしたことすら、ついさっきまで忘れていたのだ。
「…………それに、梨花は入江たちのことは嫌ってると思いましたです。」
「……まぁね。連中は明らかに私たちをモルモットだと思ってるし。」
沙都子の治療のために役立つならと、私も上辺は積極的に協力している。
でも、…自分を実験動物か何かだと思われているかと思うと、生理的に受け付けられない。
どうしても好きになれず、私は入江たちとは、彼らが望む以上に積極的な交流は避けていた。
でも、本当は避けるどころか、もっともっと密接に連帯していかなくてはならないのだ。
なぜなら、彼らだけが私の重要性を理解しているのだから。
私が身の危険を訴えるべき、もっとも妥当な相手であり、そしてもっとも私を守ることができる実行力を兼ね備えている。
単に、生理的に嫌っているというだけで入江たちに助けを求めないのは、努力不足に違いなかった。
確かに今までも助けを何度か求めた。
でも、必ず富竹と鷹野が殺されるので意味がなくなる。
あの二人が殺された後の入江はおろおろするだけで何の役にも立たない。
だから、生理的悪寒に耐えてまで助けを求める価値はないと決め付けてきたのだ。
でも、今回の世界は色々な要素に恵まれている。
これだけの幸先の良いスタートはきっともう二度とない。
ならば、私は最高の幸運に恵まれた世界で、最高の努力をしてみるべきなのだ。
…私が一方的に彼らを毛嫌いをしているだけだ。
入江は実際、そう悪い人間ではない。
むしろ尊敬してもいい人間だ。
沙都子を献身的に治療してくれるし、私が思っているほどのマッドサイエンティストでもない。
鷹野は確かに妙なクセがあるが、自分の仕事に忠実で、おそらく私にとって一番力になってくれる人間だ。
ただ、同時に一番モルモットだとも思っている。
だから世話になりたくないのだが。
富竹は本当は鷹野以上にもっともっと頼れる存在だ。
ただ、最大の問題点は年に数度の限られた機会にしか訪れないことと、………また振り出しに戻るが、必ず私が殺される前に死んでしまうため、結局なにも頼れないことだ。
でも、それでも彼らは私が死の運命を越えるためにもっとも頼らなければならない存在なのだ。
もし、彼らの死の運命を捻じ曲げることができたなら、……彼らはきっと私を死の運命から救ってくれるに違いない。
案外、私が昭和58年まで存命できるのも、彼らの水面下の努力によるものなのかもしれないのだから。
「鷹野たちに接触して、彼らを救えるよう、また努力してみようと思うの。………あ、大丈夫よ? どうせ殺されると思ってるから、変に期待してない。だから期待を裏切られても全然平気よ。」
「……ぁぅ、梨花が酷いことを言ってますのです。」
とてつもない不謹慎な話をしながら、私はくすくすと笑った。
「もし死の運命から逃れられれば、私の運命に対して大きな影響を与えてくれるのは間違いない。………そして今回は、それでも二人が殺されるのを前提に話をしてみようと思うの。つまり、二人が殺された後、私にも及ぶだろう危害への警護について。ちゃんとそういう指示を出してくれれば、鷹野たちの死後も私の身辺は強固に警備されているかもしれない。」
鷹野たちによる警備体制は、多分、私が期待できる最高水準のセキュリティーだ。
そしてそれは、富竹と鷹野が死ぬと同時に失われる。
だから、綿流し後にはいつも彼らの庇護が受けられない。
だから「殺される」。
つまり、………そういうことなのだ。
私を殺した強固な意志を持つ者は、本当は私だけを殺したいのだ。
だが、鷹野たちが存命している限り、雛見沢には強力な警備体制が敷かれている。
だから「殺せない」。
だから「殺すため」に、警備体制の心臓部である、富竹と鷹野を先に殺す。
すると、警備体制が崩れて、私が剥き出しになる…。
「理詰めで考えれば考えるほど、二人の運命と私の運命は繋がっているのね。………そうやって考えると、あの二人を見殺しにした時点で、私の運命は逃れられないものに決まってしまうのかもしれない。」
「……なら、梨花のすべきことはもう明らかなのです。」
「そうね。自分の命より先に、あの二人の命を救うほうが先決ってことね。」
皮肉な話だと思った。
……自分の命を救えないのに、他人の命なんて救っていられるかと、諦めた二人の運命だったはずだ。
それが、自分の運命に抗うために、まず二人の運命に抗うところから始めなければならない結論に至るのだから。
………………でも、それでもやっぱりわからなかった。
これだけ強い意志を持つ人間なら、それだけ強い目的を持って私を殺そうとしているはずなのだ。
でも、何度考えても、私を殺して利する人間がいない。
それどころか、私を守ろうとする人間しかいないはずなのに…。
特に彼らは私と現在の環境を守るためなら、何だってする。
私の母だって消した。
………母の件はもうどうでもいい。
あの人とは反りが合わなかったし、私たちがどういう立場か充分わかっていたはずなのに、父の死を勝手に誤解して騒ぎ立てようとした。
…まぁ自業自得と言えないこともない。
彼らにとって私は貴重なモルモットであり、さらにそれ以上の「爆弾」でもある。
私を爆発させて利する人間は一人もいない。
ただ、大変な惨事になるだけだ。
大勢の人が不幸になるだけで、どう捻じ曲がった見方をしても、誰も得をしない。
……鷹野に言わせると、私の死は、例えるなら火山の噴火のような「天災」に当るらしい。
自分の死後のことなど興味がないが、彼らにとっては重要な関心事だ。
間違って、私が豆腐の角に頭をぶつけて死ぬことがないよう、日々、細心の注意を払っている。
いや、もっと言うなら、彼らはその「天災」を未然に防ぐためにこの地に存在していると言ってもいい。
私の死によって、彼らが何か利するなら、彼らを疑うこともできる。
でも、他ならぬ彼らが知っているのだ。
私の死は「天災」に他ならず、災厄以外の何も生み出さないと。
いや、むしろ私の存在によって利を得ている彼らが一番、損をするはずなのだ。
「……損得の問題ではなく、何かの怨恨かもしれないとはずいぶん思ったわよね。…私個人じゃなくて、古手家に対する恨みみたいなものが、伝統的に御三家とかに残ってたりして、私が『爆弾』だと知らないからこそ殺した、と。」
だから長いこと、御三家や特に園崎本家を疑ってきた。
だが、……数多の世界から重ね見るに、…どうもその線もないように感じられるのだ。
確かにそれを思わせる世界もいくつかあったが、それらはいつも圭一のお人形事件と関係があった。
よって、園崎家の因縁とか、そういう根深いところとは関係がない。
「あとは、………狂信的な何者か、なのです。」
<羽入
損得の問題でなく、怨恨の線でもないとすれば、…あとは宗教めいた狂った何者が一番現実的だった。
すでにオヤシロさまの祟りと呼ばれる連続怪死事件が4年連続で起こっている。
その5年目にオヤシロさまの生まれ変わりである私が殺されるのは、何となくタイミング的にも面白い。
……そんな面白いだけの理由で殺されたらたまらないが、そういう動機の方が、逆にしっくりと来る。
ある意味、こういう疑い方をすると鷹野が一番疑わしく感じるから皮肉だろう。
鷹野はちょっと偏った郷土史の研究家であることは誰もが知る事実だ。
でも、鷹野が郷土史に興味を持つのは、私という「答え」を知り、そこから郷土史を逆読みしているからに過ぎない。
つまり、鷹野は私の重要性をよく理解した上で、資料を色々研究しているのだ。
だから、鷹野には私を殺したくなるような理由などない。
むしろ鷹野にとっては、私という素材がいつまでも自分の手中にあることを求めるはずだ。
だから、そんな楽しい玩具を殺してしまうようなことは考えられない。
それどころか、楽しい玩具に危害を加えようとする相手を、先んじて殺すくらいはやりかねないのだ。
「…………まぁ、いくら考えてもわからないし、どうでもいいことかもしれないわね。誰かが私を、必ず殺す。その事実から逃れられれば、他はとりあえずどうでもいいんだから。」
前言撤回。
……私が昭和58年の死の運命から逃れ、さらに仲間たちもみんな元気で、私もその後、ずっと楽しく生活していけなくてはならない。
私を殺そうとする何者かから逃れるために、ずっと山の中に隠れ住まうなんてのはごめんだ。
…………………過去に一度挑戦して、苦労に見合わない、いつも通りの結末を迎えたことがある。
山中での野宿はこの上なく辛いものだった。
この時は7月頭の少しくらいまでは生き延びれたっけ? ……確か私の最長生存記録のはず。
最長生存記録なんていう聞いたこともない単語にひとり苦笑いすると、私はグラスの底に残るオレンジ色のワインを一気に呷るのだった。
入江たちにもう一度接触してみよう。
毛嫌いしたって結局のところ、私を死の運命から守ってくれる一番の力を持っているのは、結局彼らだけなのだから。
「……………もういい時間ね。床に戻らないと明日が辛いわ。」
「……僕もそう思いますです。おやすみなさいなのですよ。」
床に戻って目を閉じても、私はしばらくの間、悩み事が頭の中にぐるぐる渦巻き、眠らせてくれはしなかった。
…ふと、……本当に脈絡なくふと、日中のレナの言葉が蘇る。
“一人で悩んでる内は全然ダメ”
……一人で悩んでなんかいないわよ。…ちゃんと羽入と二人で相談してる。
“だから思ったの。人と相談するのはとても大事。仲間はただの遊び友達じゃない。本当に大切なことを打ち明けられる重要な存在なんだって、……あはは、そんな当り前のことに気付いたの”
鷹野たちに協力を求めたら、ダメ元で圭一たちにも打ち明けてみようか……?
過去に打ち明けたことはある。
……もちろん、信じてはもらえなかった。
■幕間
■TIPS3 僕とボク
古手梨花は、自分が初めて家族の存在を知った時、自分を4人家族だと信じて疑わなかった。
当り前のように見える家族、父、母、そして僕。
生まれたばかりの梨花は、僕が自分にしか見えない存在だとは夢にも思わなかっただろう。
僕の容姿は人間のそれとは違う。
人の姿を形作っても角だけが隠せない。
だから、どう微笑もうとも、自分が人間の仲間ではないことは明白なのだ。
でも、生まれたばかりの梨花が、当り前の光景として僕の姿を見たなら、この醜い角のことも気にしないでくれるのではないだろうか。
その淡い期待は実った。
雛(ヒヨコ)が生まれて最初に見たものを自分の親だと信じ込むように、梨花も何の疑問も持たずに僕を家族だと信じてくれた。
角が生えていてもだ。
だから、梨花が僕を家族だと信じてくれた日から、僕と梨花は一番の家族で仲良しになった。
梨花にとっては両親より身近な遊び相手であり、僕にとっては、思い出せないくらいに長い時間を経た久し振りの交流相手。
僕たちは常に一緒に過ごしたっけ。
ただ、家族、とりわけ母親は僕の存在を強く否定した。
梨花にとって当り前な家族である僕の存在をあまりに何度も強く否定したため、…梨花は母親との距離を開くようになっていった。
子どもたちが母親と遊ぶ中で学んでいくべきことを、梨花は学ばなくなってしまった。
だから、僕が母親であるべきだと思い、昔から伝わる色々なことや知恵、習い事を教えてあげた。
…………皮肉なのは、それがどういうわけか余計、母親に嫌われたことだったのだが。
そう言えば、自分の呼び方でずいぶん母親と喧嘩をしていたっけ。
梨花が自分を“私”と呼ばず“ボク”と呼ぶのは僕のせいの可能性が高い。
あの頃の梨花は、母親と仲が悪いことを除けば、ごく普通の少女だったのだ。
沙都子とそっくりな雰囲気。
野山を駆け巡り、いたずらが大好きな元気な少女だった。
……………だが、昭和58年6月。
…梨花は命を奪われた。
僕たちは、梨花の成長と共に人生を満喫し、謳歌する以上の幸せは願っていない。
…僕の力は、それに至るための道筋を探るだけだ。
確かに、何度繰り返しても悲しい運命は覆せない。
…それは確かに悲しいことだけれども、………落ちてしまい、這い上がることのできない井戸の底に楽しみを見出すのだって、悪いことじゃない。
古手梨花の人生は確かに運命の袋小路に埋もれ、悲惨の一言に尽きる。
でも、…僕は梨花と、本来の梨花の寿命以上の時間を一緒に居られることに、ささやかな喜びも感じていたのだった。
もちろん、梨花と一緒なだけじゃない。
問い掛けには応えてくれないけれど、…沙都子や魅音、レナや圭一なんかの大騒ぎと一緒に居られるのはとても楽しいこと。
それに加わることはできないけれど、…でも、一緒だったのだ。
■TIPS3.5 高飛び直前
※3日目の次の日。4日目の前の日。日付表記がつけてない日があった…orz
「これが航空券だ。遅れんなよ。後のカネは現地だ。」
「おおきにおおきに。ほい間宮ン。」
「きゃははは、サンキュー! 私、札幌って一度行ってみたかったのよねー。」
「……北条の野郎にゃ気取られてねぇだろうな。」
「大丈夫だよ。あいつ馬鹿だもん。
でかいのはナニと態度だけー。」
「へははは、そうなのかよ。」
その時、突然、タイヤの鋭い泣き声がいくつも聞こえてくる。
ぎょっとして男がカーテンの隙間から外を見ると、黒い車が3台、アパートの前に乱暴な停め方をしたところだった。
車からは見るからにガラの悪そうな男たちがわらわらと降りてきた。
その男たちの何人かがこの窓を見上げる。
目が合った気がして慌ててカーテンのわずかの隙間を締めた。
「畜生、嗅ぎ付けやがった!! ズラかれッ!!」
「ちょっと…、嘘、マジ?! 何で今日バレるのよ!」
「間宮ン、ボケっとすんな!! 捕まったら殺されンぞ!!!」
非常階段を大勢が駆け上ってくる音と怒声はすぐそこまで迫ってきていた。
■富竹との接触
「やぁ、梨花ちゃんが日曜日以外に診療所にいらっしゃるなんて珍しいですね。」
「……鷹野とお話したいことがありますのです。今日はいますですか?」
「いえ。多分、リサさんとデートじゃないでしょうか。いやいや、お羨ましい。」
「……どうしてリサなのですか? よくわからない名前なのです。」
「はっはっは、それは本人に聞いてみてください。初対面の時のちょっとした認識ミスなんですがね。その時の先方の対応がとても面白かったもので。」
よくわからない。あだ名なんてそんなものだ。
「どんなご用件ですか? 伝言でよければ、今夜、ミーティングがありますからその席上で伝えておきますよ。」
「……ありがとうなのです。でも直接、言いますのでいいのですよ。」
「そうですか、わかりました。では私は書類事務に戻ります。」
「……今日は入江は診察はしていないですか?」
「今夜のミーティングの資料作りで大忙しです。普段から準備はしているんですがね、日々の本業に圧迫されてなかなか時間が…。なんて言うと、準備がなってないと怒られてしまいますね。」
「……それに加えて野球までやっているのですから、つくづく入江は元気だなと思いますです。」
「はっはっは、本当に忙しいですよ。家事や秘書を代行してくれる可愛いメイドさんを常時募集中なのですが、なかなか応募がありません。」
入江はそう言って笑いながら、腕時計を見る仕草をした。
あまり時間を割けないというアピールなのだろう。
「……鷹野たちはどこへ行っているか、想像はつきますですか?」
「村の中を色々と回るだろうと思います。あ、でも、いつも待ち合わせは神社の境内なんだそうですよ。鷹野さんは午後半で帰られましたから、…ひょっとするとまだ境内にいるかもしれませんね。」
びっくりして壁時計を見上げる。
…何だ、私と鷹野は入れ違いだったのか。
ここで立ち話なんてしてる場合ではないようだ。
「……ありがとうなのですよ。神社に戻ってみますです。」
「年に四度しかない逢瀬なんですから、あまり邪魔をしない方がいいと思いますよー?」
とか言いながら、入江は悪戯っぽく笑って、いってらっしゃいと手を振るのだった。
神社に戻ってくる。
境内へ上がる階段の脇の、いつもの駐輪場所に自転車を停めようとした。
普段は私と沙都子の2台の自転車しか停められていない寂しい場所には、10台くらいの自転車が停められていた。
多分、集会所に会合に来ている人たちの自転車だろう。
綿流しが近付くと会合も多くなるから、自転車もまた賑わうことになる。
そんな駐輪場の様子から夏の近付きを感じるのも乙なものだった。
そんな10台の自転車は、どれも煤けたオンボロ自転車ばかりなのだが、その中に明らかに目立つ、見慣れない2台の自転車が停められていた。
スポーティな折り畳み式の自転車で、2台とも同じ車種の色違いで見るからにお揃いだ。
富竹と鷹野の自転車に間違いない。
私は境内へ駆け上がり、二人の姿を探すが、簡単には見つけられなかった。
他に写真を撮るのが面白そうな場所があったろうか……?
富竹のセンスで探すが、どうしても見つけられない。
…なので鷹野のセンスで探すことにした。
そうなると、行きそうな場所は一箇所しか思いつかなかった。
「どう? ジロウさん。」
「うん。シンプルなタイプだと思うよ。道具があれば、多分、1分とかからないよ。」
「さすがね。ジロウさんが得意なのは心の奥の錠前外しだけじゃないのね。くすくす。」
「……祟〜りじゃ〜〜〜〜〜。」
私が祭具殿の裏から突然現れると、二人は飛び上がって驚いた。
「あら、梨花ちゃん、こんにちは。急に驚かすなんて人が悪いわね。」
「……開かずの祭具殿の鍵を開けちゃおうとする人の方が、もっと悪いのです。」
「あははははは…、駄目だよ鷹野さん。やっぱり悪いことはするもんじゃないよ…。」
富竹は後ろめたい気持ちでいたらしく、あっさりと罪を認めて降参するが、やはり鷹野は素直じゃない。
あれこれと下らない言い訳をして誤魔化そうと頑張っていた。
数多の世界から、鷹野が祭具殿の中に並々ならぬ関心を持っていることは知っている。
だからこそ、よくもまぁ、ここまでいけしゃあしゃあと言い訳ができるものだと感心してしまう。
…祭具殿の中には、かつての鬼ヶ淵村の暗黒史が収められている。
早い話が、鷹野の大好きな血生臭くて物騒な、拷問道具の類が眠っているということだ。
鷹野だって、そういうものが納められていることを、様々な研究から薄々知っているはずだ。
だからこそ、貴重な文化遺産がどうこうなんてのは、この場を逃れるためだけの鷹野の言い訳に過ぎない。
そんな苦し紛れの、にも拘らず実に涼やかに並べていく鷹野の様子を、富竹も別の意味で感心しているようだった。
私が鷹野に祭具殿の中を見せるのを渋るのは、……この村にとっては神聖な意味合いのある鬼ヶ淵村の歴史を、猟奇趣味丸出しで関心を持つからだ。それはある意味で冒涜的だ。
もはや滅びかけているとはいえ、御三家のひとつ、古手家に生まれた自分にとって、それを許すいわれはない。
それに、鬼ヶ淵村が辿って来た歴史を鷹野風に解釈することは、羽入にとって苦々しいことでしかないのだ。
また、羽入にとって祭具殿は少し特別な場所なのだ。
あんな拷問道具だらけの物騒な場所の何がいいのか、私には最初わからなかったが、羽入に言わせると、昔の空気が残る唯一の場所で非常に居心地がいいのだという。
だから祭具殿は、実は羽入の隠れ家みたいなものだった。
姿が見えない時は、祭具殿でくつろいでいるのだという。
そんな、羽入にとっての居場所を、鷹野の血生臭い趣味で穢してほしくない。
そう思い、私は鷹野に中を見せないよう、意地悪をしてきた。
……鷹野にどうして私は意地悪をするのだろう。
私の毛嫌いからだ。
でも、それはもうやめよう。
鷹野や富竹と、私は連携を密にしなければならないのだ。
今までも駄目だったから今回も駄目というのはなしだ。
とにかく、もう一度挑戦してみよう。
今回は色々と幸運が重なる世界なのだ。
ひょっとすると、彼らの運命を変え、連鎖的に私の運命に変化をもたらすこともできるかもしれないのだから。
「羽入。…………鷹野に、祭具殿の中を見せてあげようと思うの。」
「………………あぅあぅ。」
羽入が露骨に嫌そうな顔をした。…鷹野は中を見ればきっと狂喜する。
そして鬼ヶ淵村の血まみれの暗黒史を、尾ひれたっぷりに語り始めるに違いない。
それは羽入にとって心地よいものではない。
「……鷹野にごまをするわけじゃない。でも、話を聞いてもらう切っ掛けにはなるんじゃないかと思うの。鷹野は根に持つから、ここで意地悪をすると、私の話をちゃんと聞いてくれないかもしれない。」
「あぅあぅあぅ……。」
…ごますり程度で、自分の神聖な場所を暴かれたくないという気持ちはよくわかる。
だが羽入は、あぅあぅ言う以上の反論はできない。…結局、全ての主導権は私にある。
後できっと甘いものをご馳走する約束で、ようやく羽入は納得するのだった。
「……鷹野。もしも約束を守ってくれるのでしたら、中に入れてあげてもいいのですよ。」
「ほッ、本当に…?! 祭具殿の中よ? 中は中でも防災倉庫の中とかはなしよ?!」
「……本当ですよ。ちゃんと祭具殿の中なのですよ。」
「祭具殿って、ここよ?! この建物の中なのよ?!」
「……別に誤魔化す気はありませんですよ。ちゃんとこの中に入れてあげますです。にぱ〜☆」
「に……、
にぱ――丶(>▽<)ノ――!!」
こ、こんなにも乙女顔で満面な笑みを浮かべる鷹野を、私は始めて見た。
…百年を越える長い時間の中で本当に始めて見る笑顔なのだから、ある意味、圭一の奇跡と同等クラスの価値のあるレア表情に違いない…。
私ですらそうなのだから、それは富竹にとっても同じだったようだ。
おそらく、富竹の中の、知性的な鷹野像が豪快な音を立てて崩壊中に違いない。
……いや、新しい魅力を新発見というところだろうか…?
「………鷹野って、結構面白い人だったのでびっくりなのです…。」
<羽入
「…やっぱりコミュニケーションって大事ね。人を知るのってつくづく難しいと思い知るわ…。」
<黒梨花
私たちはしばらくの間、バラの花びらをばら撒きながらながら、くるくると踊り続けて、無上の喜びを表現する鷹野を見守っているのだった。
「……中には内緒で入れるのですから、他の人に見つかってはいけませんですよ。」
「あ、あぁ、そうだよね。鷹野さんを正気に戻しておくよ。」
「……ボクはその間に鍵を持ってきますです。」
鍵を持って帰る頃には、鷹野はすっかりいつもの落ち着いた様子に戻っていた。
でも、堪え切れなくなるのか、たまに表情が崩れて、だらしなくエヘヘと笑い出す。
……一見、ものすごく大人っぽく見えるのに、実は一番子供っぽい人なのかもしれない。
こういうギャップを萌えと言うんだっけ?
圭一にどこかで習ったが、用法がいまいちよくわからない…。
「……では鷹野、富竹。中に入る前に、いくつか約束がありますです。ちゃんと誓ってくれないと駄目なのです。」
「もちろんよ。開かずの祭具殿を、古手家頭首が自ら開けてくれる禁を犯すのだもの。約束は守るわ。………うふふふふふふふ!」
「…駄目だよ鷹野さん、ちゃんと真面目にやらなきゃ…。」
「失礼ね、私はとても真面目よ?! うふうふうふふふ…!」
「……僕の中の鷹野のイメージが、今、大変なことになっていますのです。」
<羽入
「私もよ。鷹野の株価が世界恐慌で大暴落って感じ……。」
<黒梨花
…レナが言ったんだっけ。
……やはりひとりでうじうじと考えてると駄目だなと思った。
私は鷹野の猟奇趣味的なところが嫌いで、どこか冷たそうな雰囲気に近寄りがたいものを感じていたのだが…。
………こういう人だったとは夢にも思わなかった。
これじゃその、何ていうのか、お持ち帰りモードのレナと似たようなもんだ。
こんな面白い人だともっと早く知っていたなら、私は鷹野に一方的な苦手意識など持たなかったかもしれない。
……やはりコミュニケーションは大事なんだなぁ…。
「……まず、祭具殿へ入ったことは内緒なのですよ。誰にも教えてはいけませんです。」
「もちろんよ、誓うわ。」
鷹野は頼んでもいないのに、胸に手を当て、宣誓のポーズをする。
そして同じポーズを富竹にも要求するのだった。
…何とか鷹野のテンションに追いつこうと頑張る富竹のささやかな努力が滑稽で笑える。
「中はとても大切な場所ですから、汚したり傷つけたりしちゃ駄目なのです。」
「もちろんわかってるわ。それで、撮影は可能なの?!」
「……みー。可能ですが1枚100円なのですよ。」
「えええぇえぇ!!
ジロウさん、あなた今いくら持ってるかしら?!」
「……1万円払うと、お得な一日撮り放題券になりますです。」
「安い!!
払うわ!!
ジロウさん!」
本当に払ってくれた…。
金銭欲のない羽入でも、お金がデザートに化けることは理解できているので、目をきらきらと輝かせる。
「あぅあぅあぅ☆ 鷹野はとてもいい人なのです…!」
<羽入
「……あんたも現金ねぇ。」
<黒梨花
まぁ、祭具殿の主である「オヤシロさま」のご許可も取れたようだ。三方丸く収まれば問題はない。
祭具殿は集会所の裏にある。
集会所の中は禁煙になっているので、たまに外へ出てタバコを吸う人もいた。
そういう人に見られるわけにはいかない。
「………大丈夫。誰もいないよ。」
富竹が周辺の様子をうかがい、OKサインを出した。
私は頷き返し、錠前を外した。
重い観音扉を、体を滑り込ませられる程度だけ開き、私は中に誘った。
「……富竹が表で待っていると不審に思われますです。」
「え?! ぼ、僕も入るのかい?」
富竹は表でタバコでも吸って待ってるつもりだったらしく、急に振られて面食らっているようだった。
……富竹に、鷹野のような変な趣味がないことは知っている。それを思えば当然の反応だった。
「ジロウさん! 梨花ちゃんが入れって言ってるのよ! 早く入って?!」
「わわ、わかったよ…!」
鷹野に凄まれて、富竹は慌てて飛び込んできた。
私は灯りのスイッチを入れると扉を閉めた。そして、内側からかんぬきを掛ける。
「…厳重なのね。」
「錠前が外れていることに気付いた、悪い猫さんが入ってくると困りますのです。」
「くすくす、悪い猫さんで申し訳ないわね。」
「……鷹野、猫は猫らしく、にゃーにゃー鳴かないと駄目なのですよ。にぱ〜☆」
「そ、それはどういうことかしら…?」
「……鷹野がちゃんと猫さんじゃないと見せてあげないのです。ちゃんと鈴付き首輪と猫耳も持ってきましたですよ。これをつけて、四つん這いになってにゃーにゃー言ってくれなかったら、次の扉を開けてあげませんです。」
祭具殿は、外から内部が見えないよう、前室が設けてあって、二重扉の構造になっている。
今、私たちがいるのはこの前室なのだ。祭具殿は次の扉の向こうになる。
「え、えぇ?!
あ、あははは、梨花ちゃんもキツイなぁ…! いくらなんでもそんなの…、」
「え、………えぇ、それが試練ならやるわ…!
これは梨花ちゃんが、私の知的探究心がどれだけ一途で高貴か試しているのよ…! いいわ、あなたが望むなら、猫耳ブルマー尻尾付きで、
四つん這いになって空っぽのミルク皿の前で、
ご主人様のミルクを飲ませてくださいだって言ってみせる!!」
「………鷹野って、みんなと同じくらいの歳だったら、きっと部活メンバーに混じっていたと思いますのです。」
<羽入
「そうね……。ほら、世界恐慌の時、ウォール街で紙切れになった株券が雪のように舞ったというじゃない? 何かそういう感じよ、鷹野の株……。」
「さぁさぁ、梨花ちゃん、やり遂げてみせるわよ! 猫耳と首輪だけでいいの?!」
「あ、……あのぅ、鷹野さん。そもそもこの扉、鍵なんかないよ…? ほら、押せば開く。」
「そ、そうなの?! くすくすくすくす、あら嫌だ私ったらみっともない…。くすくすくすくす。」
「……ち。」
富竹め、案外面白くないヤツー! ブラウン管の向こうの神さまを今、どれだけ敵に回したと思ってやがるー。
「……と、冗談はこのくらいにして、押せば開きますのです。にぱ〜☆」
開けば、そここそ祭具殿の内部だった。
採光の窓などないから昼間でも中は真っ暗だ。
内部を照らす電球がいくつも吊り下げられているが、その灯りは弱々しく、かえって暗さを引き立てているようにさえ見えた。
その薄暗い中に、中央にはオヤシロさまのご神体と祭壇があり、その周りには、オヤシロさまを埋めてしまおうというくらいに、たくさんの古代の拷問道具があった。
床には所狭しと置かれ、壁という壁に掛けられ、天井という天井にぶら下げられている。
……それは、拷問道具をしまう倉庫というよりは、まさに拷問室そのものに見えただろう。
「…………こ、………これは、……すごいねぇ……ははは…。」
さすがの富竹も絶句する。
蝋人形館にある拷問道具の模造品なんかとは訳が違う。
ここにあるのは正真正銘、本物なのだ。
……あまり意識したくはないが、おそらく実際に使用したものを多く含まれているだろう。
模造品には到底宿りえない、鬼気迫る迫力がここにはあるはずだ。
……でも、そういう迫力に絶句しているのは、正常な神経を持つ富竹だけかもしれない。
鷹野は目をらんらんと輝かせて、頼んでもいないのに、にゃーにゃー言いながら、カメラのフラッシュをたき続けていた。
私にとっては、…ここは特別な感情を抱く場所ではない。
もちろん、神聖な意味があり、厳重に守らなければばらない場所であることは十分知っている。
でも、小さい頃から色々な神事がある度に出入りしていたので、見慣れている。
古臭い過去の遺物がいつまでも仕舞い込まれた、封印された倉庫でしかない。
羽入に至っては、古い時代の空気を現代に残す唯一の場所と思い、むしろ居心地がいいと思っているくらいだ。
だから、羽入とここへ来ると、羽入の上機嫌に釣られて私も機嫌がよくなる。
……そういう、居心地のよい場所なのだった。
だから富竹が絶句する、いわゆる正常な反応を見ていると、自分たちがいかに世間ずれしているかを思い知らされてしまう。
その意味においてだけ、鷹野のような反応を示してくれた方が、むしろ気にならなくてよかった。
羽入も、富竹の表情が気になるようで、少し俯き気味なようだった。
……無理に富竹を中に誘ったのは失敗だったかもしれない。…今さら出て行けとも言えないか。
私と羽入は祭壇の前にある座布団に座り、狂喜して跳ね回る鷹野と、何とか付いて行こうと涙ぐましい努力をする富竹の二人を眺めていた。
「…………どうして…、こんなにもたくさんの拷問道具を作ったんだろうね。だって、拷問というのは、相手を屈服させるのが目的じゃないのかい? こんなにいくつも、おびただしい数や種類がどうして必要だったんだろう。」
「ジロウさん。拷問道具には2つの脅し方があるのを知ってるかしら? 1つは使用して相手を痛めつけることで効果を発揮するもの。
もう1つは、使用するぞ使用したらものすごい痛いぞと脅迫するためのものなの。そういう意味では、色々物騒な拷問道具がたくさん取り揃えてある光景は、それだけで脅迫的意味を持つものだったのよ。」
「た、確かに、拷問というのは、実は高度は技術が必要だ…というような話は聞いたことがあるよ。ほどよく痛めつけて、かつ殺さないというのは確かに、加減が難しいことかもしれないね……。」
富竹は、鷹野と会話を合わせようと頑張っているが、どう頑張っても口調に怯えが混じってしまい、かえって怖がっているように聞こえてしまう。
「西洋の拷問道具の中には、やたらと装飾過多で、実際に使用すれば、痛めつける以前に、あっさりと殺してしまいかねない、ある意味、拷問道具としては構造欠陥のあるものが少なくないのよ。……まぁ、拷問道具も厳密には、屈服を目的とする被験者を対象にした純粋な拷問道具と、見せしめや娯楽を目的とする観覧者を対象にした虐殺道具に分かれるんだけど。これを混同して誤解している人が多いのが嘆かわしいわね。くすくす。」
「じゃ、じゃあ話を戻すけど、……これらの拷問道具で、昔の人たちは何を屈服させようとしていたんだい…?」
鷹野に振ると、ますますに恐ろしい話をされると思ったのか、富竹は私に話を振ってきた。
………富竹め、私が何歳の女の子なのか、容姿をすっかり失念しているらしい。
「私は、鬼ヶ淵村の独自の戒律を厳重に守らせるためだった、と思ってるんだけど、……正解?」
「……正解なのです。これらの祭具は、実際に使用するためでなく、むしろ、展示して村人を怖がらせて戒律を遵守させることを主眼に置いたものだと言われてますです。だから、実際にこれらの道具を使う時になって、サイズが合わなかったり、構造的に欠陥があったりで、満足に使用できなかったという話も結構残っていますのです。」
「で、でも、実際に使用することもあったんだろう? ……や、やっぱり穏便な話じゃないね…。」
「戒律を守らないとオヤシロさまの祟りがある、だけでは、大人しくルールに従ってくれない人たちもたまにはいたということなのです。」
「ねぇ梨花ちゃん。ではこれらの道具は、基本的に村人を威圧するために用意されているのかしら? 本当の意味での綿流しの時、食人の宴に使った調理、解体道具だって言う説があるんだけど?」
羽入はさっきから痛々しい表情を浮かべていた。
羽入にとって、鬼ヶ淵村の暗黒史は、思い出したくない話なのだ。
オヤシロさまという名の神に祭り上げられ、自分の名の下に、阿鼻叫喚の拷問を何度も目の前で繰り広げられた。
それに対し羽入が抗議しても、誰にも見えず、聞こえなかったのだからどうしようもない…。
「……ノーコメントなのですよ、にぱ〜☆」
「鷹野さんによく僕も聞かされるよ。大昔の鬼ヶ淵村の人たちは、神様のお告げがあると、麓に降りて、人をさらって食べてしまったんだろう? どうしてそんなことをしたんだろう。これもまた、麓の人々に対する何かの見せしめなのかい?」
「私はそこは、おそらく食物連鎖で人間よりも優位にあることを自覚するためにやった、一種の儀式だと思っているわ。鬼ヶ淵村が外部との交流を禁ずる最大の建前が、自分たちは仙人で、村は聖地。汚らわしい人間と交流すると穢れを持ち込む……、そういう風に言われてた。だから定期的に、自分たちは人間以上の存在であることを、自覚し直す必要があったんじゃないかしら。」
「……日本にも晒し首があったしね。見せしめは非人道的ではあるけど、抑止効果は極めて大だったというわけだ…。」
「見せしめの犠牲者が、酷い方法で拷問されて、生きながら食われて絶命する。そんなのを見せ付けられたら、………くすくす。絶対に自分はああされたくないって誰もが思うわよねぇ。日本には晒し首だけでなく、磔だってあったでしょう? 処刑場に高々と死刑囚を磔にして、観衆の前で辱められながら長槍でブスブスと刺されるのよ。
……ジロウさんもわかると思うけど、槍でほんの一突き二突きされた程度じゃ人は絶命なんてできない。腹部や胸部を貫かれれば、それは十分に致死的なことではあるけれど、ギロチンなんかのように綺麗さっぱり死ねるわけじゃないのよ。血がぶくぶくと溢れ出し、腹からは腸を引きずり出されて、肺に血が溜まり最後には自らの血で溺れ死ぬ。くすくす、そんな緩慢な死を思えば、ギロチンなんて人道的な発明よね。そうそう知ってる? ギロチンってね、貴族のために生み出されたんですってよ?
銃殺や絞首刑よりも、もっともっと綺麗にあっさりすっぱりと死ねるように生み出した、死の際まで特別扱いしてもらえる貴族のための処刑道具。フランス革命末期の恋愛を描いた、何とか物語っていう白黒映画があるんだけど、ラストのギロチンシーンは圧巻よ。観衆の嘲笑を浴びながら、数珠繋ぎの貴族たちが一列に並ばされて、次々と一台のギロチンで処刑されていくの。チョン。はい次、チョン、はい次、チョン。
人間の死がわずか一瞬で、ベルトコンベアーの上の工場生産のように量産されていく。神父のお祈りも最期に言い残す言葉も何もなしよ? チョン、はい次、チョン! もうそんな一瞬の死じゃ見世物にならないからね。誰も個人の死に感情を抱かない。観衆は一人の死を見てるんじゃなくて、何十人もの貴族が、長ネギをスライサーで削っていくみたいに、手際よくチョンチョンチョンとはねていく、そのチョンチョンの連続性をショーとして面白がるわけ。それに比べたら、一人の人間をじっくり虐め殺す方が、よっぽど個人を尊重しているとは思わない? くすくすくすくす。そんな濃密な死と拷問で飾り立てられたのが、このオヤシロさまという存在なわけ!」
鷹野は芝居がかった身振りで、ご神体の像を仰いで見せた。
「オヤシロさまという存在は結局、人間が生み出した偶像なの。その偶像は、恐怖で祭り上げられることで神聖化した。そう、人が法則や戒律で石垣を組み上げ、呪いや祟り、奇跡や恐怖の漆喰でそれを固める。それらを積み上げて積み上げて雲の上にまで届く高みを作り、その上に立てられるのが神という存在なの。神は人が欲するゆえに人が生んだ人の手による存在。
つまり、人が人を恐怖で支配しようと思った時に生まれる、純粋な恐怖と血と拷問の結晶。それがここではオヤシロさまという存在になるのよ!!! つまり、神の世界へ至る階段は神ではなく人の手で作られていたことの証左であり私たち人間をさらなる高みへ誘う指針を示して、」
鷹野の妄想的演説は、ドタンドタンという騒々しい音に遮られた。
振り返れば、…………両目いっぱいに涙を溜めて、硬くまぶたを閉じてぼろぼろとこぼしながら、飛び跳ねて抗議する羽入がいた…。
ドタン、
ドタン、
…ドタン。
あらん限りの力で踵を力強く踏み鳴らし、届かぬ声に代わって、最大限の抗議を示していた。
……もっとも、声でも音でも同じだ。
羽入は人に何も伝えることはできないのだ。
「……違うのです…。……違うのです…。……僕は……そんなのじゃないのです……。」
「……………………羽入…。」
「…僕は人が死んだりとか、虐められたりとかそんなのは嫌なのです。みんなで一緒に、仲良く楽しく暮らしてくれればいいのです……。もちろん、僕たちが悪いところもいっぱいありますです。でもでも、……そんなのを望んだことなんて一度もないのです………!!」
「…………羽入。…羽入は羽入よ。…オヤシロさまなんて、あなたとは関係のないことでしょう……。」
「…違うのです…、…違うのです………。…あうあうあぅあぅ…、あうあぅあぅあぅ! 鷹野は嫌いです、嫌いなのです…!! いっつも僕のことを酷く言いますのです、酷く言いますのです……、言いますのです…………!!」
…………やっぱり、鷹野を入れるべきではなかったのだろう。
…鷹野がこういう話を始めることは想像のついていたことだ。
ひとつだけ幸運なことは、羽入の抗議が間接的に伝わり、鷹野の演説を中断できたことだった。
どういうわけか、……富竹には羽入の抗議の音が聞こえたらしいのだ。
富竹は唇の前に人差し指を立て、沈黙を促していた。
「……何事なの?」
「うん…。……さっき、子どもが遠くで飛び跳ねるような音が聞こえたんだよ。……この建物の周りで子どもが遊んでいるのかもしれない。」
「…………………そう………? 私には何の気配も感じないけれど…?」
「…いや、確かに聞こえたよ。……鷹野さん、ここへはお忍びで入れてもらってるんだ。梨花ちゃんの立場にも配慮して、もう少し静かに見学しないと悪いよ。」
せっかくいい気持ちで喋っていたのに、とでも言いたそうな顔で憮然となる鷹野だったが、富竹の言う方が正しい。大人しく口を噤んでくれた。
「………富竹。周りに子どもなんて居ませんですよ。」
「そうかい? 梨花ちゃんには聞こえなかったかい? 僕は確かに飛び跳ねるような音を聞いたんだけどなぁ…。」
「もちろん、ボクも聞きましたですよ。……遠くではなく、僕のすぐ後でドタンドタン跳ねていましたです。富竹には遠くに聞こえたでしょうが、ボクにはすぐ後だったので、うるさいくらいでしたですよ。」
私の後には祭壇があり、…そこにはオヤシロさまのご神体が立っている。
富竹は私の言う意味を、薄気味悪く捉えたようだった。
苦笑いを浮かべるが表情が見る見る青ざめていく。
…だが、一番怖がってほしい肝心の鷹野は、こういう時に限って鈍感で、全然怖がってはくれなかった。
「………鷹野。祭具殿の中でオヤシロさまを怒らせるようなことを言うのは禁止なのです。オヤシロさまがとても怒っていますのです。その声が聞こえませんか…?」
まぁ、聞こえなくて幸いだ。
聞こえたとしても、ベソと、あぅあぅしか聞こえない。
……そもそも、オヤシロさまの怒りを、人間にもわかるように伝えるのが、オヤシロさまの巫女の役目だ。
……私は羽入の意志を代弁するのが生まれながらの務めなのだから。
私の口調がいつになく真面目なのを汲み取ってくれたのだろうか。
…鷹野は普段からは想像もつかないくらいあっさりと謝ってくれた。
「…ごめんなさい。いささか調子に乗りすぎたわ。オヤシロさまもごめんなさい。人が崇めればそれは神。例え私が崇めなくても神聖は犯されない。面白半分に冒涜したことを謝るわ。」
「………オヤシロさまは甘いものが大好きなのです。ボクを経由してお供えしないと、祟りがありますですよ。」
富竹が苦笑する。鷹野も一瞬笑ったが、神妙に頭を下げて、今度シュークリームを買ってきてお供えしますと言ってくれた。
取りあえず、鷹野は話をやめてくれたし、やめてほしいという意思も伝わった。
甘いものも今度買って来てくれるという。
……まだ半ベソをかいている羽入だったが、取りあえず納得をしたようだ。
……だが、羽入が立てている三本の指の意味が気になる。
…それも伝えろというのか。………巫女っていうのはつくづく因果な役目だ。
「オヤシロさまは、シュークリームは最低でも3つ欲しいと言ってますですよ。………ボクが食べたいわけではないので誤解しないで欲しいのです。」
「「ぷ、…あははは、あっはっはっはっはっは!」」
場を和ませるための私の冗談だと受け取ったのだろう。富竹も鷹野も腹を抱えて大笑いする。
羽入は何で二人が笑い転げるのかわからず、目を白黒させていた。
私は赤面して恥ずかしさに耐えているのみだ。
「わかったわ。オヤシロさまのためにおいしいシュークリームを3つ買ってくるわね。梨花ちゃんや沙都子ちゃんの分もいくつか買った方がいいのかしら?」
「いえ、ボクの分はいいのです。……………その代わり、どうしても聞いてもらいたい話がありますのです。」
「何かしら。……今日は祭具殿に入れてもらえるというわがままを聞いてもらえたんだから、それに見合うわがままには応えるつもりよ。」
「…………ボクが今から話すことを、絶対に信じて欲しいのです。どうして、とか、そんな馬鹿な、とかはなしなのです。だから、絶対に信じて、運命に打ち勝って、……私を助けてほしいのです。」
富竹も鷹野も、多分、初めて見るだろう私の真剣な様子に、驚きを感じているようだった。
だが、彼らはきっと驚くだろう。
…私が今から、二人が後日迎えることになる逃れえぬ死について説明するからだ。
彼らはそんな馬鹿なと否定したがるだろう。
でも、私は少なくともこの二人の死についてだけは、かなり具体的に知っている。
だから、簡単に笑い捨てられないくらい細かく説明できるだろう。
……………もちろん、以前にも同じように、彼らに死の運命を告げたことはある。信じてはもらえなかった。
信じてもらえる確率が極少であることは覚悟している…。
でも、信じてもらえる顛末は、奇跡というほどのレベルじゃない。
サイコロの何れか一面には刻まれている程度のものだ。
仲間たちがみんな運命に打ち勝ち、次々と6の目を出す幸運の連続。
もしそれを奇跡と呼んでもいいならば。
どうか神さま、…ここでもう一度サイコロに6の目を。
彼らに眼前に迫りつつある死の運命を信じさせてください…。
■アイキャッチ
■ミーティング(診療所内の会議室にて)入江はスーツ姿の新立ち絵と思われます。鷹野も白衣姿かもしれません。(時間があれば書くかも…。なければ通常立ち絵です)
入江はプロジェクターでの説明が終わると、部屋の明かりをつけた。
ロの字型に机が並べられた会議室には、入江も含めて8人ほどの白衣の男たちが着席していた。
だが、一番正面に座っている男だけは白衣を着ていなかった。
その人物が軽く手を何度か叩く。
それが拍手だと気付き、他の白衣たちも拍手した。
「それは良かった。本当に良かった。この度の成果は個人的にもとても満足できるところです。」
<富竹(多分、スーツ姿)
「入江先生の献身的努力の賜物ですわ。」
<鷹野
「いえいえ、優秀なスタッフの協力があればこそです。全てのスタッフに感謝します。」
<入江
「これで、完全治療の目処が立ったと言えるでしょう。まだいくつかの詰めは残っておりますが、それは時間と予算が解決する問題です。」
<富竹
「それにつきましてはよろしくお願いいたします。然るべき人員と予算があれば、おそらく3年以内。61年度までには完全な医療体制を確立できると思います。今後の課題は、専門知識のない医療機関でも容易に対応できるパッケージ的な治療方法の確立と、より安価で簡易な検査法の確立です。」
<入江
「検査法に関しては、現在、入江先生が血液採取から潜在患者を発見する方法を研究中です。この方法が確立すれば、一般的な健康診断と併用できますので、相当の低コスト化を実現できると思われます。」
<鷹野
「それは素晴らしい。現在の検査法はだいぶ大掛かりで高コストですからね。…いや、コストにまでお気遣いいただき本当に感謝します。国民の健康は即ち国益のはず、それに予算問題を出すのは本当に情けないことなのですが…。削れるなら一円でも安くというのが当方の立場なのです。」
<富竹。
「もちろん理解しています。治療法は確立したがコスト的に不可能では絵に描いた餅ですから。机上の空論でなく、実行可能な方法で考えるのも我々の仕事です。」
<入江
富竹が拍手すると、今度は皆、遅れずに拍手した。
「あなたは医師として優秀なだけでなく、本当に尊敬できる人格者です。あなたとお会いできたことを誇りに思います。」
<富竹
「いえ、本当に拍手をいただくのは、全ての方を治療できて、いわゆる『オヤシロさまの祟り』を完全に撲滅できた時です。それまで、どうか連帯してがんばっていけたらと思っております。」
<入江
「こちらこそ! 私も入江所長の要求する予算が、限りなく額面通りになるよう努力します。どうか引き続きよろしくお願いいたします!」
<富竹
富竹が握手を求めて手を伸ばすと、入江はそれに応える。
再び会議室いっぱいに拍手が広がるのだった。
「では、今夜のミーティングはこれまでといたしましょう。明日は皆さんも御待ちかねのメインイベント、予算ヒアリングです。各自奮闘しましょう。」
<鷹野
もちろんこれは嫌味だ。白衣のスタッフたちは皆、苦笑いする。
「……あはははは。いや、必要な予算なら私も最大限配慮します。
私は本当は皆さんの味方になってあげたいくらいなんですよ…。ですが、上に説明するのも直接怒られるのも僕ですのでね…。
申し訳ございませんが、渋々、厳格に審査させていただきます。どうかご協力をよろしくお願いいたします。」
<富竹
「はっはっは、それが富竹さんのお仕事ですから止むを得ません。どうか明日はよろしくお願いいたします。では、本日はこれで解散といたします。」
<入江
入江が閉会を宣言すると、白衣のスタッフたちは資料をまとめ時計を見上げてから退席した。
…時計はもう24時を指そうとしている。
明日が非番のスタッフはともかく、勤務のあるスタッフはすぐに寝ないと明日に差し支えるだろう。
鷹野は、灰皿の吸殻をまとめ、缶コーヒーの空き缶を集める。
「あら、コーヒーを飲まない人もいるのね。
せっかく会議用に認めさせたコーヒー代なんだから、ちゃんと飲んでくれないとこの分まで予算が切られちゃうのかしら…? くすくす。」
「あははは……、ひどいなぁ。僕も仕事で嫌々やってるんだよ?」
「あ、鷹野さん。そのコーヒー1本もらいます。」
<入江
「じゃあ僕ももらいます。全て飲みきった方が、予算請求には都合がいいでしょうから。」
「「はっはっはっは。」」
他のスタッフが皆いなくなると、ようやく弛緩したムードとなった。
富竹も入江も襟元を緩め、少しリラックスした表情を浮かべた。
「梨花ちゃんと沙都子ちゃんたちはお元気ですか?
先週聞いた話では、沙都子ちゃんの検査結果が一時期、よくなかったように聞きましたが。」
<富竹
「あれは取り越し苦労のようでした。急に暑くなりましたからね、体がびっくりしてしまったのでしょう。最新の検査結果では非常に安定した状態に戻っています。」
<入江
「くすくす、入江先生は沙都子ちゃんには特に熱心ですからねぇ?」
<鷹野
「そそ、そんなことはありませんよ。医師たるもの、全ての病める者には公平に全力を尽くします!
そして私に感謝してメイドさんになってくれればなお素晴らしいのですが! ……いやはや、なかなかそうはなりませんねぇ。」
<入江
「沙都子ちゃんを完全に治療できる方法があれば、本当に素晴らしいのですが。…それはやはり難しそうですか?」
<富竹
「……沙都子ちゃんのように、一度でもL5に至った場合、幻覚症状の再現、いわゆるフラッシュバックに近い現象が起こりやすくなります。これは厳密には病気によるものではなく、精神の中に育まれる正常な防衛反応なのです。熱物に懲りてナマスを拭くという諺にもあるように、過去の経験を積極的に生かそうとする正常な反応なのです。」
<入江
「つまり一言で言えば心的外傷のことよ。しかも、前頭葉に直接ダメージを受けていることが考えられるので、一般的な心的外傷よりもずっと繊細なカウンセリングと長期の投薬が必要でしょう。」
<鷹野
「病気は治療できても、心の傷は治せない、…ということかい。」
<富竹
「………心的外傷に苦しむ人は社会にも大勢いる。その中の一人に混じれるだけでも、かつての沙都子ちゃんの症状を思えば、奇跡的な回復なんだしね…。」
<鷹野
「糖尿病などと同じに考えてください。不治の病ではあっても、症状を抑えて元気に生活されている方も大勢います。」
<入江
「沙都子ちゃんは今でも日に三度の注射を?」
<富竹
「いえ、だいぶ調子が落ち着いてきましたので、今は日に二度です。三度に比べればだいぶ負担は軽くなったと思います。」
<入江
「最初はだいぶ嫌がったんだけどね。梨花ちゃんがうまく誤魔化してくれてるみたいよ。」
<鷹野
「…誤魔化して?」
<富竹
「沙都子ちゃんは、生活資金の援助を受ける代償として、私の研究に協力してもらっている、ということになっています。」
<入江
「では、日に二度の注射は、自分の病気のためでなく、入江先生の研究の協力のためにやっているつもりなんですか?」
<富竹
「ジロウさん。…………沙都子ちゃんに、自分がどういう病気に掛かっているのかを説明することは、……とても残酷な意味を持つのよ。前に話さなかったかしら?」
<鷹野
「…あ、いや。思い出したよ。無神経なことを言って申し訳ない…。」
<富竹
「……富竹さんも、どこかで沙都子ちゃんに会ったら、やさしくしてあげてください。」
<入江
「そうですね。……わかりました。」
<富竹
「…それを言えば、………梨花ちゃんは本当に強い人ですね。
沙都子ちゃんと同じような境遇のはずなのに、あれだけしっかりと生活できるのですから。」
<入江
「全て梨花ちゃんと、お亡くなりになられたご両親のお陰ですね。多大なる理解と協力がなければ、これだけの短期間では治療の糸口は見つけられなかったでしょう。」
<富
「…………人道的でない実験にもよく耐えてくれました。ご両親の死をも乗り越えてくれた彼女の協力なくして、今日の成果はありえません。
…何とか、その恩に報いてあげたいものです。」
<入江
「そうですね。東京も、梨花ちゃんと沙都子ちゃんが最大の功労者であることは理解しています。必ずや、二人の協力に見合う感謝を示すでしょう。」
<富竹
「あらあら、私たちにはコーヒーフィルター代まで渋るのに、気前がいいのねぇ。くすくす。」
<鷹野
「だからそれを苛めないでほしいなぁ。昨年の話は鷹野さんに根を持たれっぱなしだよ…。」
<富竹
「「はっはっはっはっは。」」
「でも、……私たち大人は彼女たちの協力に、結局、お金でしか報いれないのね。……心で報いる方法があればいいのに…。」
<鷹野
鷹野は独り言のように囁いたつもりだったが、静かな室内でのそれは、他の二人に訴えかけているかのようだった。
「……きっと、心で報いる方法は日常の中にたくさんあります。それらを、ひとつひとつ積み重ねていくことで、色々な形でお返しができると思います。」
<入江
「入江先生は、……いえ、監督は日々、そうしておられるようですわね。私も、あの子たちに何か親切でもするようにしてあげないと。」
<鷹野
「そうだよ、鷹野さんはそれでなくとも、今日、大きな恩を梨花ちゃんに受けたじゃないか。」
<富竹
「あぁいけない! 明日の朝一でフィルムを現像に出さないと! あぁ…本当に貴重な体験だったわ……。歴史、文化、その息吹…。本当に素晴らしい時間だったわ。」
入江は、鷹野がこれだけうっとりするようなどんな貴重な経験があったのか、不思議がっていたが、それがどんな経験なのかよく知る富竹は、複雑そうに笑って誤魔化す他なかった。
「…そうだ、…鷹野さん。今日の最後にされた梨花ちゃんのあのお願いだけど、……どう思う?」
<富竹
「………被害妄想だと思いたいけれど。…本人だって明確な証拠は示せないって言ったわけだし。」
<鷹野
「何かあったんですか? 話だけを聞いていると、梨花ちゃんによくない兆候が出たように聞こえますが。」
<入江
「先週の梨花ちゃんの検査結果。……私は極めて安定した良好な結果だったと思っているのですが、入江先生から見て何か変った初見は見受けられましたか?」
<鷹野
「…いいえ? 今回もとても安定した結果でしたよ。沙都子ちゃんの検査結果が日本海の荒波だと例えるなら、梨花ちゃんは琵琶湖の水面のような感じです。
はっはっは、二人の気性そのものですねー。」
<入江
「………急性発症の可能性は?」
<富竹
「一体何事ですか。まさか梨花ちゃんに、症状の進行が見られるというのですか?!」
<入江
「…実は今日、彼女から私たちに依頼があったんですわ。………自分の命が狙われているように思うので身辺警護の強化を依頼したいと。」
<鷹野
「そんな馬鹿な。…ははは、一体誰が彼女の命を狙おうなどというのですか。考えられない。」
<入江
「梨花ちゃんは村中から愛されてるマスコットで、殺したいほど憎む人がいるなんて聞いたこともない。……僕も正直、眉唾だとは思っています。」
<富竹
「梨花ちゃんは、自分の命が脅かされている根拠を何だと言っていますか? 追跡妄想や被害妄想の類だとしたら、確かにL5の初期症状と言えなくもありませんね。」
<入江
「…………夢で見たと。そういう悪夢にうなされてとても怖い思いをしたので、落ち着くまで身辺護衛を頼みたいと言うんです。」
<鷹野
「あのくらいの歳の子なら、夢見が悪くて怖くなってしまうこともたまにはあるかもしれない。…でも、僕たちの立場上、それが単なる悪夢なのか、初期症状なのかは慎重に判断する必要があるだろうね。」
<富竹
「わかりました。明日、彼女には緊急検査を実施しましょう。問題がないことを祈ります。今のこの村で、彼女より大切な人間は存在しないのですから。」
<入江
「何も問題がなければいいんだけどね。…でも、もしそうだったとしたら、どうしようね。」
<富竹
「………ジロウさん。梨花ちゃんはあれだけの物を私たちに見せてくれて、その見返りがあのお願いなのだとしたら、とてもささやかなものだとは思わない?
身辺に不安を感じるという訴えをしてくれたんだから、私たちはそれに応えてこそ信頼関係だと思うの。……これが、お金でなく、心で報いるということじゃないのかしら。」
<鷹野
「そうですね。仮に訴えが彼女の言うように夢見のせいだったとしても、それに応えなければ、私たちは彼女の信頼を失うでしょう。ある意味、幸運ではありませんか。彼女に恩返しをする方法がひとつ、見付かったわけですからね。」
<入江
「……確かに仰るとおりです。それに、彼女の訴えは、私たちが当初から保証しているはずの権利でもあります。」
<富竹
「それでなくても、私たちは彼女の安全を徹底的に守らなければならない。」
<鷹野
「そのとおりです。……それについては、私ではなく皆さんの仕事ですね。どうかよろしくお願いいたします。」
<入江
「わかりました。では、鷹野さんの権限内でお願いします。東京から番犬を派遣するレベルでもないでしょう。」
「くすくす、古手梨花が夢にうなされたので派遣をお願いします、なんて言えませんものねぇ。
了解しました。山狗に最低4名の24時間警護を命じます。」
<鷹野
「…それはすごいな。私が上京する時の警護より厳重です。」
<入江
「くすくすくす。だって、梨花ちゃんにはそれだけの恩を受けちゃったんですもの。
そりゃもうすごい警護をつけるわよ!! 梨花ちゃんの暗殺を企むようなヤツらは絶対阻止!! 山狗の最精鋭を護衛につけるわ、ケネディは撃てても梨花ちゃんは撃てると思うなよぉ!! 例え相手がゴルゴでも守りきって見せるわよッ!! にゃーにゃー! 鬼ヶ淵村の神秘万歳!」
<鷹野
「…………鷹野さん、何かいいことでもあったんですか…?」
<入江
「いや、…その…。あははははは……。」
<富竹
■アイキャッチ
■全スター勢揃い
先日の、集会所に集められていた寄付品を調べた結果、子どもが喜びそうな寄付品がまったくないことがわかった。
圭一は、子どもが親にせがみたくなるようなアイテムがなければ真の盛り上がりはないと主張する。
なるほど道理だ。
そういうわけで、私たちは再び、あの玩具屋を訪れていた。
子どもが面白がりそうな玩具を供出させようというわけだ。
「なるほどねぇ。…うちも先日のみんなのお陰で売れ残りを、っとと、じゃなくて! 色々とゲームを売ることができたからねぇ。協力したいのは山々なんだけど…。」
「えー、婆っちゃは叩き売りオークションが、大人も子どもも楽しめるイベントになることを大いに『期待』
しております! だめかなぁ、善郎おじさん?」
「うーーーーーーーん…!! 本家の鬼婆さまに期待されちゃあなぁ……! わかったよ、何とか協力するよ! 断ると、大晦日にどんな嫌味を言われるか怖いや…、ははは。」
「……すげぇな。魅音とこの婆さんって本当に偉いんだな…。」
「私は会ったことありませんけど、怖ぁい人らしいんですのよ!
詩音さんが言うには、趣味は人の生爪を剥がすことなんだとか!」
「それは詩ぃちゃんが脅かしただけだよ。
レナは魅ぃちゃんのお婆ちゃんをよく知ってるよ。とっても優しい人なんだよ。礼儀正しくしてれば。」
……あの文字通りの鬼婆を優しい人と言えるレナの器量にはいつも恐れ入る。
「……礼儀正しくないと怖いのです。あと、敬語の使い方が間違ってる人にも怖いのですよ? にぱ〜☆」
「そ、それは私には優しくないという意味ではございませんの…?」
「圭ちゃん、話ついたよー! 気前よく供出してくれるってさー!!」
「はは、はははははは…。」
店のおじさんの乾いた笑い声が痛々しい。
「……どうして村人は魅音の言うことを聞きますのですか?」
<羽入
「そりゃ、園崎本家の威光に決まってるじゃない。魅音はその園崎本家のお姫様だもの。誰も逆らえないわね。」
<黒梨花
「……梨花も古手本家のお姫様なのですよ?」
<羽入
「くすくす、ありがと。」
<黒梨花
園崎家で自営業を営む者は、ほとんどが本家に資金を借りている。だから本家には頭が上がらないのだ。
園崎本家は、戦後の闇市で大儲けして資産を築いた後、それを同族や同郷の者の事業資金として運用した。
金利はほとんどゼロで、担保や保証人などの話は一切なし。
ちゃんと説明すれば相当のお金を都合してくれるらしい。
返済は無論、きっちりしなくてはならないが、何しろ同郷の同族だ。拝み倒せば多少の融通は利く。
そんな便利なお金だから、誰もが借りている。
だからこそ尚更、本家には頭が上がらないのだ。
「よーし、じゃあみんな、手分けして、これはと思うものを探してくれ! 探し方のコツとしては、できれば大きいものの方がいいな。例えば、トランプを一箱叩き売りしたって、迫力がないだろ? でかい物の方が迫力があっていいもんな!」
<圭一
「……つまり、大きくて高いものを狙い内なのです。」
「をーっほっほっほ! 任せなさいませ〜!! そういうのなら大得意ですわよ〜!」
「あ、あはははは…、みんな、お店のおじさんの顔色を見ながら選ぼうね…。」
<レナ
「わー、レナレナ見て見て!!
このぬいぐるみ可愛い可愛い!!」
<魅音
「えッえッ?!
はぅ〜!!!
かぁいいかぁいい!!
全部お持ち帰り〜!!!」
「あ、…あの、……みんな……、少しは加減してね…? はは、はは…。」
<店長
お店のおじさんの乾いた笑いがとても印象的だった…。
「圭一くん、これは何だろう?
ブランコって書いてあるよ? ブランコって公園のブランコ?
……うわ、重たい。」
「あぁ、組み立て式のブランコだろ。庭や室内に置いて遊べるはずだ。公園のブランコのようなダイナミックな遊び方はできないけどな、小さい子が遊ぶには充分だよ。
まぁ最初のうちは面白いんだけどな。そのうち飽きて使わなくなると、洗濯物を干すのにちょうど良くなるんだよこれが。」
「……やたら例えがリアルなのです。圭一は持ってましたのですか?」
「前の家でな。小さい頃のクリスマスのプレゼントに買ってもらったことがある。何しろ、ぱっと見の迫力があるしな。いいチョイスだぞレナ!」
「はい圭ちゃん、これを貼っといて。後で町会の人に取りに来てもらうから。」
魅音が「町会用」と書いたメモとセロテープを渡す。
見れば、魅音の手には何枚もの「町会用」のメモが握られていた。こういうところの用意の良さが魅音らしい。
「圭一さ〜ん!! これなんかいかがですの?! 家庭用プールでしてよー!!」
「ほほぅ、それもなかなかいいチョイスだなぁ! 魅音、こいつも押さえとかないか?」
「ん〜、雛見沢じゃ水遊びがしたければ沢へ行けばいいからねぇ。微妙じゃないかな。」
「はぅ、でも金魚さんのプリントが何だか可愛らしいね!
レナはこのプール、あってもいいと思うかな、かな!」
「私もあっていいと思いますわ! これだけたくさんの水が溜められれば、色んなトラップに応用が利きますのよ?!」
「駄目だ駄目だ却下だ。その威力を味わうのはどうせ俺に違いない。却下却下…!」
「……なら、これはどうなのですか? ゾウさんの滑り台なのですよ、み〜!」
「……これは僕も面白そうだと思いますのです。僕もお持ち帰りしたいのですよ〜!」
<羽入
「沙都子が滑ろうとした瞬間に上からドンと押すと、沙都子がコロコロと転がって行くのよね。……あ〜〜、想像しただけで楽しくなってきた。羽入もそんな沙都子を見たいでしょ?」
<黒梨花
「……あぅあぅ、梨花は沙都子に意地悪して遊ぼうとしてますのです。」
<羽入
「はぅ〜! それもいいねぇ、お持ち帰り〜〜ッ!!!」
「はいはい、売約済み売約済みっと。くっくっく…!」
そんな感じで、私たちは楽しく寄付という名の略奪を楽しむのだった。
店のおじさんが、そんな様子を見て浮かべる困ったような笑いを見ていると胸がきゅぅきゅぅと鳴く。
私はその頭を思い切り慰めて楽しむのだった。
きゅぅきゅぅ☆
なでなで、
にぱ〜☆
「おーーー…、麻雀だ。」
「どうしたの、圭ちゃん。」
圭一は、先日の部活の時に盛り上がっていたゲーム類のコーナーの方で何かを見つけたらしい。
あらかたを漁り尽くした私たちはそっちへ行ってみた。
そこには、机の上に緑のマットが広げてあって、麻雀の牌が並べてあった。
ちゃんとルールに従ってロの字型に積み上げてあり、まるでさっきまで誰かが遊んでいたように見えた。
「あれーー? 何これ善郎おじさん? 勤務時間に麻雀なんかやってたのー?!」
「いやいや、違うよこれはね…、」
玩具屋なんだから、例えスゴロクやメンコが広がっていてもまるで怪しいところはないのだが、麻雀はどうにも不似合いだった。
総合的な玩具屋なのだから、売っていても疑問はないはずなのだが。
「わー、すっごい久し振りだよ。もうほとんどルールは忘れちゃったかな…。」
「おおー、レナくらいの女の子が麻雀を知ってるなんてすごいじゃねぇか。
…あ、ひょっとしてあれか? 以前に部活の種目になったことがあるんだろう。」
「去年の暮れでしたかしらね。
もちろん私も大活躍でしたのよ〜!! 私の川にはトラップが潜んでいましてよ〜!!」
「……魅音〜、お前なぁ、うら若き女の子が4人も集めて、学校で麻雀かよ…。」
「ちょっと圭ちゃん、麻雀を馬鹿にしちゃ駄目だよ?
雛見沢は豪雪地帯。村の冬の娯楽は麻雀一色になるんだから!!
コタツでぬくぬく、みかんと麻雀。テレビからは紅白が流しっぱなし。う〜〜ん、風情があっていいねぇ!」
…園崎家はそう過ごすらしい。
雛見沢全体を代表されては困る…。
「そう言えば、ここいらは豪雪地帯なんだったな…。
なるほど、コタツで遊べる大人のゲームと言ったら麻雀はド定番だよなぁ…。」
「圭ちゃん、麻雀を馬鹿にしちゃいけないよぅ?
麻雀こそは男社会の潤滑油!
四角いジャングルを囲む時、
男たちは東なら青龍、
西なら白虎、
南は朱雀、
北は玄武! 普段の上下関係やいさかいを全部捨てて、対等な関係で戦い合うわけよ! その精神の尊さは古代オリンピックにも通じるものがあるってわけ! ね? すごいでしょ?!」
「……俺はそれよりも、こいつがいつ部活に登場して、罰ゲームが何になるかの方が怖ぇぞ。」
「圭一くんは麻雀わかるの?」
「親父が好きでなぁ。お客さんが来た時、面子が足りないと無理やり入れられてたよ。
強いかどうかはともかくルールはわかる。符計算はできねぇけどな。……それはそうと、何でこんなところに麻雀が出てるわけだ?」
みんながお店のおじさんを見る。
「いやね、お昼に来たお客さんと話してたら、ツバメ返しができるって言うんで見せてもらったんだよ。」
「な! ツ、ツバメ返しだってー?!
麻雀史上、究極の荒技イカサマじゃないかー!!
古代中国にて鍔目還が編み出したという中国拳法究極の技!
その威力は宝具と同じとまで言われ、あまりの恐ろしさに時の皇帝によって葬りさられたと聞いていたが、未だ使い手が実在したのかぁあぁ!!
民明書房刊『古代麻雀暗黒史』より。」
「ツバメ返しって宮本武蔵だっけ?? 麻雀とどういう関係なのかな?」
<レナ
「……手牌と山牌を瞬時に入れ替えてしまう大技なのですよ。にぱ〜☆」
「おい魅音…。何でお前はこういういたいけな子にこういう悪い知識を吹き込むんだよ…。」
「いやぁ、あっひゃっひゃっひゃ!」
「はぅ、見てみたいな! 誰かやって見せてよ。梨花ちゃんはできるのかな?」
「……知ってるだけでできませんです。…沙都子が一時期練習してましたですよ?」
「ちょっと待て沙都子。お前、その歳でそんなのを練習するんじゃない…。」
「確かに、戦う前からトラップは始まっているなんて雰囲気は、確かに沙都子の得意としそうな雰囲気だねぇ!」
<魅音
「をっほっほっほ! 相手が圧勝に驕り、油断した最後の勝負で仕掛けるのこそ、最高のトラップタイミングなんですのよ〜!!」
「で、沙都子は結局マスターできたわけ? 練習はしてたんでしょ?」
<魅音
「…実戦ではとても使えませんわね。練習で、ほんの何度かできたことがあるっきりですわ。」
「へー!! 見たい見たい! 沙都子ちゃん、やって見せてよ!」
「……みー! ボクも見てみたいのです。」
「し、仕方ありませんわね。失敗しても笑わないで下さいませよ……?」
沙都子はみんなに煽てられ、照れながら着席し牌を積み始める。
「……沙都子はそんなすごいことを出来るのでしょうか。」
<羽入
「さぁ、どうかしらね。成功すればすごいし、失敗しても可愛いし。照れてる沙都子が可愛いから、私は実は成功失敗はどうでもよかったりして。くすくす。」
<黒梨花
「えっと……、まずはですわね? 予め、山の牌に欲しい牌を仕込んでおくことから始めますのよ?」
「なるほどね。それと手牌を一気に入れ替えちゃおうというんだね。
……でも、どうやって? 手品なの?」
「くっくっく! だからね、手牌と仕込んだ牌を、一気に入れ替えちゃうわけよ!
うーん、Nスクリプトで動画が流せればぜひ実際にご覧に入れたいシーンなんだけどねぇ! サウンドノベルなので文章での中継になるのが残念!」
「……魅ぃが誰にしゃべってるのかわからないのです。」
「と言いつつ、カメラ目線な梨花ちゃんもな…。」
「で、……では行きますわよ……。」
皆がゴクリと喉を鳴らして見守る。
まるで白鳥が湖面に舞い降りるかのように、沙都子の両手がふわりと舞い降りる…。
そこにあるのは自分の手牌13牌…。
それらの牌をすっと音もなく倒し、裏返しに伏せる。
そしてそれらの両端を押さえながら持ち上げて、山牌の向こう側にぴったりと付けて、隠すような感じで音もなく置く…。
「さ、……いよいよここからだよ沙都子!」
「……自信がありませんけど、……行きますわよ……!」
ギャラリーがシンと静まりかえる…!
沙都子は山牌に手を伸ばす。
そして、小さな手を思い切り広げて山牌を丸ごと、ぐわっと掴んだ。
「というわけで、ここで、麻雀の詳しくない人にいかに山牌を掴むのが大変かを説明しよう!
自分の手牌は通常13牌だ。
この程度の数なら両手でうまく押さえつけるように持てば、宙に持ち上げることだってできる。
不慣れだと失敗してブチ撒けてしまうが、そう難しいことではない。
だが山牌はそうはいかない。山牌は基本的に17牌ある。
しかも二段積みなのだ。
しかもここからが肝心。17牌×2段を丸ごと動かせばいいわけではないのだ。
上段は17牌全部を、下段は端の4牌のみを移動させなければならない!!
これを先ほど山の向こうに置いた手牌13牌にかぶせることで、手牌は山の中に埋もれ、さっき山牌を移す時に残した下段の13牌が、“自分の手牌”として残るのだ!!
これこそ、積み込み技の究極と言われる所以!!
全13牌を丸ごと全部入れ替えてしまう大技なのだぁあぁ!!!」
<魅音
「……沙都子、しっかりなのですよ。」
沙都子が精神の集中を高めていくのがわかる…。
……本当は、もっとすんなりやって見せなければイカサマとしては成立しないのだが。
まぁ、これは見世物だからこれでもいいのか。
誰かがゴクリの喉を鳴らした時、それが合図となった。
「ふぅ、……………えーーーーい!!!」
グワッシャ!!
力の加減が間違ったのかもしれない。
無残にも沙都子の手の中の牌が弾けてしまった。
「「ああーーーー……。」」
「…やっぱり無理でございますわねぇ…。こんなのなかなか出来るものじゃありませんわー!!」
「ふむふむ、でも要領は今のと魅音の解説で大体わかったぜ。
ちょっと俺もやってみる!」
「レナも挑戦してみよ!
…今の内に覚えておかないと、後で大変そうだからね…。」
「……ボクも挑戦しますです。」
魅音以外の4人が着席し、それぞれに山を積んだり崩したりしながら挑戦し始める。
「はははは……、一見するとルールを知らない子どもたちが、麻雀牌で遊んでるように見えるんだけどねぇ……、あははは…。」
<店長
「その実態はツバメ返しの練習だってんだから…。
私の部員たちは実にたくましく育ってくれたもんだよ! くっくっく!」
手の平の大きさは私も沙都子も同じくらいだ。
私は手が小さいから出来ないなんて言い訳はできない。
仮に、こんなイカサカを覚えても、実際にバレずに使えるわけはない。
だから、今日限りのお遊びではあるのだけれど、みんなでこうして遊ぶのはとても楽しかった。
……だって、百年以上の間に、麻雀のイカサマをみんなで練習し合うなんて経験はたったの一度だってあった試しはないのだから。
「うーーん、手が不器用になった気がしますわ! 悔しいですわね!」
「最初の13牌を持ち上げるのも難しい〜。はぅ〜…。」
「いいかレナ、両手の小指で挟み込むんだよ。そうそう。力を入れ過ぎると弾けるぞ!」
「かと言って、力が足りないとうまく持てないしね。その塩梅を会得する!」
<魅音
そもそも、一番最初の手順である、自分の手牌13牌を持ち上げるのも難しい。
みんなこの段階で引っ掛かる。
沙都子も、ついさっきはいきなりうまくやって見せたのに、今は急に不器用になってしまって、その段階からミスしている。
圭一の助言に従い、両手の小指でうまく左右から押さえ込んで、……ぐいっと。…あ、出来た!
「みー! 最初の13個をうまく持てましたのです!」
「おおお、やるじゃねぇか! 何だよ、梨花ちゃんが一番リードしてるぞ、負けられねぇ!」
「……梨花も器用なのです。続きもうまくできますのですか?」
<羽入
「なかなか難しいわね…。でも、誰よりも最初に成功させたいって言う気持ちはある。だって、今はそういう遊びなんだからね。くすくす。続けて行くわよ!」
<黒梨花
「くそ、梨花ちゃんが一番乗りになっちまうのか?!」
「次の入れ替えが出来ればいきなり成功だね!
次は牌がいっぱいあるから大変!」
「……頑張れなのですよ〜!」
<羽入
「梨花ぁ、正念場でしてよ!!」
次は山牌を、上段は全て、下段は4つだけを奥にするっと移動させる…。
変に力まなくていい気がする。するっとできてしまいそう……。
ガシャン。
「はぅ、惜しいなぁ!」
「やっぱり横に17牌もあると、それだけで難易度は急激に高くなるねぇ。」
<魅音
「……ボクが一番に成功させますです。きっと出来なかった人には罰ゲームがあるに違いないのです。」
「なな、何だって魅音、本当かーー?!」
「ん〜〜〜〜〜、どうしようかねぇ? くっくっく!」
麻雀の机には4人しか座れないから、今やっていない魅音は競技外だ。
…ということはノーリスクで罰ゲームを設定できるということ…?!
「はぅ〜! 魅ぃちゃんはやってないのにずーるーいー!」
「ずるいと言う暇があったら練習あるのみでございますわよー!!」
「……何だか大変なことになってしまったのです。くすくす。」
<羽入
今日は興宮までわざわざ、叩き売りオークションの寄付品を集めに来たわけだけど、こういう展開になるとは夢にも思わなかった。
…これだから、みんなと一緒に遊ぶのは楽しい。
みんなと一緒じゃなかったら、私はとっくの昔に精神が死んで廃人のようになっていたに違いない。
ウサギは寂しさで死ぬ動物だというけど、それは人間も同じ。
そして人間は退屈さでも死ねるのだ。
「羽入。…やっぱり、今回の世界は何かが特別。もちろんそれは個々には何れもありえることばかりなんだけど、それらがみんな良い方に流れている偶然が奇跡的。」
「……そもそも、梨花の運命が今まで不幸続きだったのです。たまには、溜めに溜めた幸運を放出してもらわないといけませんのです。」
「くすくす、違いないわね。」
私の死の運命自体が、悲しいくらいの不幸なら、それに見合う幸運がどこかに溜まっていてもいい。
……それが百年以上の時をかけて満期になってくれたのなら、今回の幸運が重なるという奇跡は、たまにはこれくらいあって然るべきの、当然の権利のように思えた。
私の愛する仲間たちは今日もみんな元気で何のトラブルもない。
鷹野たちには、理由は説明できないが身辺を護衛してくれと依頼した。
…本当に守ってくれるかはわからないが、でも約束はしてくれた。
以前の世界では、大人らしい曖昧な返事で、約束するとは決して言わなかった。
それを思うと、あの返事は鷹野たちの返事の中では相当好意的な部類に入るのではないかと思う。
……実際、鷹野はあの日、姿が見えなくなるまでずっとスキップしてたし。
…ご先祖様の禁を破って申し訳ないけど、その価値はあったようだった。
……鷹野たちに死の危険が迫っていることも伝えたが、それは多分、聞き流されてしまっただろう。そういう緊張感は感じられなかったから。
綿流しの晩に何とか最後の警告を与えるしかない。
…変に何度も言うとかえって信じてもらえなさそうだ。
「…………なら、私はもうこの世界でできる努力はないということなのかしら…。」
<黒梨花
「……わかりませんのです。その時が訪れてみるまで、何もわかりませんのです。」
<羽入
確かに奇跡と呼んでもいいたくさんの幸運に恵まれている。
過去の教訓を活かし、出来る努力を全てした。
だから、これで充分なのだろうか…?
こういう時、初めておみくじのようなものがあればいいのにと思った。
気休めでもいいから、これで万事うまくいく、大吉だと言ってもらいたかった。
運命よ、何か私に吉凶を占える出来事を起こしたまえ……。
そう願った時、珍しく運命の神さまは願いを聞き届けてくれた。
「ありゃあ、何ですかこれは…!」
野太い声が突然聞こえてきた。
微妙な力加減でプルプル震えていた圭一とレナと沙都子が、その声の拍子に牌をガシャンと崩してしまった。
「これはこれは、大石さんじゃありませんか。勤務中にこんなお店に入っていいんですぁ?」
「どうもどうもこんにちは。今日は非番ですからご安心を! んっふっふっふ!」
「……凶ってところね。」
「今日がどうかしましたか? はて。」
<大石
大石は店のおじさんに何かを注文しているようだった。…いい年の男が玩具屋へ何の用なのか分かりかねる。
それは魅音も疑問に思ったらしい。代弁するように質問してくれた。
「なっはっはっは! いえねぇ、麻雀のマットを丸めてだいぶ長いことしまっていたせいで、すっかり反り返ってしまったんです。コタツの板裏も、すっかり緑の布が剥げちゃってて使い物にならず困ってたんですよ。」
「ほー、雀荘じゃなくてご自宅で麻雀ですか? 優雅な休日の過ごし方なことで。大方、妙なゴロとトラブルでも起こして出禁でも食らったんじゃありません?」
<魅音
「まさかまさかご冗談を。公僕たる者は遊技場でも紳士でなくてはいけません。そんなトラブルなんて起こしませんよ。
……それはさておき、皆さんも麻雀ですか? 若い方は麻雀なんかできないと思っていましたよ。」
「くっくっく! 我が部の精鋭を侮ってもらっちゃ困りますねぇ!
およそ勝敗の付くものなら種目は問わず! どんな闘場であっても背中は向けないのだー! それが例え、麻雀パチンコ、競馬競輪競艇、果ては書道生花ゲートボールまで何であろうと!」
「……最後には、足を踏み外すと下が溶岩や濃硫酸とかになってるところで戦わされそうなのです。」
「大丈夫だ梨花ちゃん。その闘場は仮に死んでも、単行本が2〜3冊も進むとひょっこり生き返れる。」
「…圭一さんと梨花が何の話をしているのかさっぱりわかりませんわね。」
「はて、これはどういう場ですか? まだ山を積んでいるところですかねぇ?」
「いえ、違うんですよ。ツバメ返しの練習なんですよぅ。」
<レナ
「ツ、ツバメ返しの練習、…ですか…! なっはっはっは…、いやはや!!」
「この人なんだよ、さっきお昼に来てツバメ返しを見せてくれた人は。」
<店長
「「「なな、なんだってーーーッ?!」」」
「んっふっふ! 実戦じゃできませんがね、まぁ芸のひとつですよ。」
「えっと、…お、大石さんでしたっけ? ぜひやって見せてくださいよ!!
俺、ぜひともその技をマスターしたいんです! というか、マスターしないと今年の冬の部活がヤバそうなんです…!!」
「なっはっは! えぇいいですとも、お見せしますよぅ。あなたは……間違えたらごめんなさい、前原屋敷のお坊ちゃんですかな?」
「あ、すみません。ハイそうです。引っ越してきたばかりの前原圭一です。こんにちは。」
「あれ、圭ちゃんは初対面?
こちらはね、警察の大石さん。綿流しの実行委員会にも警備の顧問として参加してるから、その内、実行委員会の席で会えるよ。」
「そうそう、聞いてますよ! 何でも相当元気のある方じゃないそうですか。叩き売りオークションの司会はあなたしかいないと、皆さん仰るんで、どんな方か、お会いできるのを楽しみにしていたんです。しかし司会とは責任重大だ。よく引き受けられましたねぇ! 実に勇気と度胸があります。」
「あ、あははははは…! でも、引き受けたからには頑張りますんで、よろしくお願いします…! 前原圭一と申します。どうかよろしくお願いします。」
「ほぅ…、元気なだけでなく礼儀正しい若者ですねぇ! お若いのに感心です。
私は興宮署の大石と申します。何なら蔵ちゃんでも結構ですよ? んっふっふっふ!」
「……では、大石はボクの席でやるといいのですよ。」
「お、これはすみません。ではちょっくら失礼させていただきます。」
大石は崩れて散らばった牌を、やたらと慣れた手つきで並べ直す。
もうその時点で私たちとは格が違うようだった。
「柔道家は、相手の帯の結び方を見るだけで段を知るって言うよな! まさにそんな感じっすね!」
<圭一
「なっはっは! 牌を積むだけで褒められちゃうと、何だか照れちゃいますねぇ。はい、では皆さんよろしいですか? 参りますよ? ………それ、ちゃっちゃっちゃ!」
パタ、スイ、
カチャリ、カチャリ。よっこらしょっと。
「ハイ、こんな感じですねぇ。」
「「「うおおおおおおおおおお、あっさりだぁあぁ!!!」」」
湧き上がる歓声!!
テレビなんかでよく大道芸を見て歓声を上げるが、生で見せられるものはやはり迫力が違う。
しかし、こうもやすやすやってのけてしまうとは。
ベテランは、どんな難しい技であっても、一見誰でも真似ができそうに楽々やって見せてしまうというが、まさにそれだった。
実際にやる難しさはすでに全員が体験している。
それをあっさりと一発でやってのけたのだから、なお一層みんな感動しているようだった。
「はぅ〜!! すごいすごい、大石さんすごい〜!!」
「さ、さすがですわねぇ!!」
「すげえです、マジで感動しました!!! あの、俺に教えてください、もう一度もう一度スローで!!」
「んっふっふ! いいですよぅ? では私の真似をしてください。本当はスローの方が難しいんですがね、指の使い方なんかをよく見ておいてください。特に小指に注目しててくださいよ。」
「まず、こうですね………? ここまではわかります。……それからそれから…?」
「そこで、こう。いえいえ違います、持ち上げなくていいんです。前へすっとせり出す感じです! でも押すのとは違う! ホバークラフトのように、ほんのわずかだけ宙に浮かしてすっと…!!」
「ホバークラフトのような気持ちで、ほんのわずかだけ宙に…、すっと!! おわ、くそ!!」
「力は入れなくていいんです。実際は音をさせたらもう失敗なんですからね? 無音で忍者のような気持ちでスッやります。」
「忍者の気持ちでスッと!! もう一回やります、見ててください!」
……それはすごく不思議な光景。
圭一と大石が仲良く、麻雀牌で遊ぶという初めて見る光景だった。
「何だか圭一くんと大石さんって、仲良しになれそうな感じがするね。」
「やっぱり、男同士だと通じるものがあるのでございましょうねぇ。」
そもそも大石という人間は、綿流しの夜に鷹野たちが殺されて、5年目の連続怪死事件ということになってから現れる。だから、雛見沢には「刑事」としてしか現れたことがない。
刑事として現れた大石は、圭一のその時の立場によって異なるアプローチをするだろうが、大石は基本的に圭一を味方だとは思わない。
疑わしい村ぐるみの犯罪を暴くスパイか突破口くらいにしか思っていないだろう。
だから、そういうのを抜きで、刑事でなく、大石個人と圭一がこんなに意気投合するなんて想像もできなかった…。
「……圭一と大石が仲良しなんて、……僕も初めて見ますのです。」
<羽入
「でしょうね。私だって初めてだもの。…これをどう受け取ればいいのかしら。……大石が現れた時、運試しは凶だって思ったのに……。」
<黒梨花
この世界がますますにわからなくなる。
心臓はどきどきし、まるで振る前から次のサイコロも6が出ると確信できるような不思議な気持ち……。
もう一度、私はサイコロを振ろう。
それはきっと6が出る。
うん、振る前にもうわかる。絶対に6…!
そして6が出たら、きっと私は死の運命に初めて抗えるのだ…。
「いらっしゃいませ〜。」
「……あ、いたいた。大石さん、買って来ましたよ。」
心臓が飛び跳ねる。
それはとても昔にどこかで聞いた懐かしい声によく似ていた。
…………でも、そんなはずはない。
…羽入にいつも言われてる。
期待するな期待するな、どうせ違う…。
「あー、赤坂さん! ご苦労さまです。お店、すぐにわかりましたか?」
「申し訳ありません、すっかり迷ってしまいました。親切な郵便屋さんに声を掛けてもらわなかったら、今頃どこまで行ってたやら。ははは。」
振り返ると、…そこには赤坂と呼ばれた青年が立っていた。
ラフな服装で両手にはスーパーの買い物袋を持っている。
……私が知っている赤坂という人物は常にスーツを着ているタイトなイメージがあった。それにもう少し華奢そうな人だった。
赤坂と呼ばれた人と目が合う。
……知らない人と目線が合ったら、逸らすのが礼儀だと思う。
…でも、私も赤坂も、互いに目線を逸らさず、まじまじと互いを凝視し合った。
「……赤坂、なのですか…?」
「………ということは、…やっぱり梨花ちゃんだね。」
「ふぇ? 知り合い?」
<魅音
「赤坂さん、古手さんと面識があったんですか。これは驚いた!」
「久し振りだね。…背、少し伸びたんじゃないかな。」
「赤坂こそ、…何だかたくましくなったようなのです。」
彼は、赤坂衛。
…………彼は低い確率で昭和53年に雛見沢にやって来る、東京の警視庁の人だ。
雛見沢に何の縁もなく、私を待ち受ける死の呪いとほぼ確実に無縁な、ある意味、もっとも信頼できる外部の存在。
…そんな彼に、SOSを投げ掛けたことが何度かあった。
だが、……それが実ったことは一度もなかった。
所詮は遠方の人間。
東京に帰れば、私の存在などすぐに日々の激務に忘れてしまう。…だから、もう諦めていた人だった。
「赤坂はどうしてまた雛見沢に…?」
「子どもを両親の家に預けてね。家内と二人で旅行に来たんだよ。」
「……家内…?」
「うん。……君は家内の命の恩人だからね。ははは、わからないだろうね。」
「赤坂さんはもう本当に素晴らしい愛妻家さんでしてねぇ。……5年前でしたっけねぇ? 興宮にまではるばる出張に来られたのに、入院中の奥さんのことが急に寂しくなっちゃって、仕事を放り出して東京にトンボ帰りした豪の者なんですよぅ。いやいや、愛の成せる技です!」
「はぅ、奥さんとらぶらぶ、何だかちょっぴり素敵かな…。」
「あの時、梨花ちゃんが東京に帰らないとよくないことが起こる、って言ってくれたじゃないか。……どうしても不安になってね、雪絵の病院に戻ったんだ。そしたらその日に、屋上への階段で清掃員の事故があったって言うんだ。」
階段のフロアタイルが剥離していたという。
それを踏んだ清掃員が足を滑らせて盛大に転げ落ち、大怪我をしたというのだ。
……私は遠い過去の世界で、赤坂が診療所からの電話して雪絵の死を知り、自暴自棄になった彼からそれを聞かされていたから、知っていた。
階段からの転落なんて運っぽい。
必ず起こることではないが、彼の場合は必ず起こっていた。
…だから、必ず起こる要因があるに違いないと思っていた。
それが剥離タイルのせいだったということなのだろう。
赤坂が病院を訪れなかったら、屋上に上がる習慣を持つ雪絵は、きっとその日も同じように屋上へ上っただろう。
だが、赤坂が訪れたから、二人は楽しくおしゃべりをし、屋上へは行かなかった。
……そうしている間に、本当は雪絵が踏むはずだったタイルを清掃員が踏んだ、ということなのだろう。
「だから、梨花ちゃんは雪絵の恩人なんだ。」
「……私ゃそんな馬鹿なって言ったんですけどねぇ。赤坂さんは女房の恩人に間違いないって言って聞かないんです。今回も、あなたにぜひ会いたいって強く要望していましてね。」
「………確かに、…梨花ってたまに予言染みたことを言いますのよね。」
<沙都子
「さっすがはオヤシロさまの生まれ変わりだねぇ!」
<魅音
「おっといけない。もう熊ちゃんもサトさんも来てる時間ですねぇ。赤坂さん、ちょっと急ぎ足で参りましょうか。では前原さん、この続きはまた今度にしましょう。その時はもっと実戦で使える技をご教授しますよ。」
「え、えぇ! ぜひよろしくお願いします!!」
「じゃあ、またね、梨花ちゃん。」
「あ、……赤坂はいつまでこっちにいるのですか?」
「綿流しのお祭りまでいるつもりだよ。……ははは、長過ぎる夏休みだろ? 有給消化率が悪すぎると庶務から怒られてね。ヤマがひとつ終わったんで、室長から長期休暇を許されたんだ。お祭りにはきっと行くよ。聞くところによると、だいぶ盛大なお祭りになったんだそうだね。」
「そ、そうなのですよ。赤坂の時のような、ただの酒盛りではないのです。」
「赤坂さ〜ん、行きましょう行きましょう!」
「……君は雪絵の恩人だ。借りはきっと返すよ。きっと君の力になる。」
昭和58年の6月、私が殺されます。
「あれから5年、体も鍛えた、経験も積んだ。あの時のような無様な真似は絶対晒さないよ。きっと君の力になれる。」
サイコロを振れば、振る前から6が出るとわかっているような、そんな気持ち…。
赤坂は大石の後を追い、眩しい日の光に溢れる外へ駆け出して行った。
「…………羽入、これも想定内の幸運なのよね…?」
「……あぅぁぅ…。今回は、…色んな運命が梨花に味方をしているとしか思えないのです。」
「思えば、玩具屋での部活の日。魚釣りゲームという運命を覆した瞬間から、もう世界は変っていた。……私の戦おうという意思の強まりが、運命を揺るがしているということ…?」
強い意志は、運命を強固にする。
……なら、それに抗おうという意思も強固であるならば、…結果はわからなくなるはずだ。
■もう何も怖くない!
みんなで自転車で一列になって走る、玩具屋からの帰り道。
私は鼻歌すら歌いたいくらいに上機嫌だった。
今までびくともしなかった死の運命が、びりびりと震えながら亀裂を入れるのを感じる。
…これでもかというくらいの、私を後押しする運命の追い風。
私を取り巻く数々の運命の歯車が、例えるなら何十年かに一度、太陽と月が重なって日食を起こすように、奇跡的に全てを重ね噛み合わせたのだ。
考えようによっては、……これはもはや立派な奇跡だった。
圭一が過去の記憶を思い出したという本当の奇跡とは違う、想定の範囲内の幸運だけれど、ここまで幸運が重なればもう充分に奇跡と呼べるレベルだ。
私は、こんなにも晴れ晴れとした気分を昭和58年の6月に感じたのは何十年ぶりだろうか?
我が名は古手梨花。道を開けよ、不吉な運命たち。
私が一歩、歩む度に死の運命が退く。
……こんな追い風に帆を張らないほどの愚かしさがあるものか!
今こそ私は順風満帆で漕ぎ出す。もうじき、綿流し。
私の持てる幸運、奇跡、努力を全て注ぎ込んだ。これで退かぬわけがない!
「……今度こそ。…今度こそ!」
<黒梨花
「……ふぁいと、おーなのですよ。」
<羽入
その時、車列の前方でトラブルが起きたようだった。
通りすがりに圭一が、停めてあったバイクに自転車を擦ってしまったらしい。
……バイクの所有者であるらしい、三人組のちんぴらみたいなのが、圭一たちに突っかかっている。
「……あうあう、大変なことになりましたのです…。」
<羽入
「ふん、……見てなさい。今の私の力なら、あんな連中、一捻りにしてやるわ。」
<黒梨花
「こ、…困りましたわね、お巡りさんを呼ばないといけませんわよね…?!」
<沙都子
「……大丈夫ですよ、沙都子。ボクにお任せなのです。」
「り、梨花?! 梨花ぁ!!」
私は圭一の胸倉を掴み上げている三人組へ向って力強く歩みを進める。
なんだ、この下らない三人組は…!
私たちが楽しく過ごせる未来を塞ごうという運命のつもりなのか?
…ふん、お前たち程度の運命など、今の私を押し留めることなどできないことを教えてやる…!
これが、振る前からわかっている6の目というものだッ…!!
「だぁッっとったぁああんがなあぁ!!
聞いとぉのかんどりゃああぁ!!」
圭一の胸倉を掴み上げる三人組。
だが圭一と魅音、レナは狼のような目で睨み返している。そんな修羅場を私はあっさりと割り込む。
「ん? なんじゃいワレェ!!
…………あいたッ?!」
「……消え失せろ三下ども。私の運命を、その程度で邪魔立てできると夢にも思うな。」
<黒梨花
もう一回、鼻を指で弾いてやった。
私のようなチビに攻撃されるとは思わなかったのだろう。
一瞬目を白黒させ、それから激怒した。そして間髪入れず、私の胸倉も掴み上げる。
「り、梨花ちゃん!! やめさなさいよ、離しなさい!!」
<レナ
「……あぅあぅあぅ! 梨花…! 何か策でもあるのですか?!」
<羽入
「別にないわよ。でも今の私の強さなら、こんな障害は物の数じゃないことを証明して見せるの。……この程度の運命にも勝てない運気なら、今回も死の運命になど打ち勝てるものか…!」
出る前からわかってるサイコロを振る。これが6の目というものだ…!!
その時、三人組の後ろから、ぬっと作業服姿の男が二人現れ、三人組の肩を叩いた。
「兄ちゃん、離したったん。相手は子どもやんね、あんじょう堪忍してーな。」
「な、何だよてめぇは!! 俺たちは喧嘩を売られたんだぞ、お前らなんざ用はねえよ!!」
この作業員風の男たちは、通りすがりの人間ではない。……なぜなら、私は彼らが何者か知っていたからだ。
「ままま、そっちで話そうやんね、ほらほらほら。」
作業員風の男はたった1人で三人組をぐいぐいと押して、路地裏に押し込んでいく。
もう1人の男は、私に小声で囁きかけてきた。
「大丈夫ですか。梨花さん。」
「……ありがとうなのですよ。助かりましたです。」
梨花は、男の手を借りて立ち上がる。
「皆さんはもう行って下さい。あとは私たちが処理します。」
「ど、…どなたか知りませんが、ありがとうございます。」
<魅音
「あの、本当にお任せしちゃっても大丈夫ですか…?」
<レナ
「えぇ。気にしないで、皆さんは早く行って下さい。」
「ほ、本当にありがとうございます……。」
<圭一
「うちの圭一さんが無様で申し訳ありませんわねぇ…!」
「じゃ、…行こ、みんな…!」
<魅音
私たちはもう一度感謝の声を掛けてから、急いで自転車に跨りその場を後にする。
圭一たちは、誰か知らないけど助けてくれて幸運だったと囁き合っていた。
だが、私は彼らが何者かわかる。…鷹野の部下の山狗たちに違いない。
つまり、…鷹野たちは約束を守ってくれたのだ。
彼らは荒事のプロ中のプロだ。
命令されたことしかしない、融通の利かないところがあるが、命令されたことは絶対にやり遂げる。
そして鷹野が彼らに私の警護を命じてくれたなら、……これほどの安全はないのだ!
梨花たちの姿が見えなくなると、その後を追って、作業員風の男が2人乗った白いワゴン車が後を追う。
『鶯より白鷺、Rは安全圏へ脱出。引き続き警護されたし。』
『白鷺了解。』
これほど全てがうまく行ったことは初めてだった。
ペダルが本当に軽い。
このまま自転車ごと、空だって飛べてしまいそうな気分だった。
■幕間
■4日目(祟殺し編、懐かしの冒頭部分です)
■充分に間を取ってください。時間経過をたっぷりとって、梨花の楽しい日々が長く続いてそしてある日…、という感じです。
…蒸し暑い。
風は、そよとも吹かず、…暑いだけでなく湿度まで高い不快な夏だった。
アパートの雑多な窓には様々な洗濯物が干されているが、風になびきもしないそれは涼感どころか、むしろ鬱陶しさを感じさせるだけだ。
曲がりくねった細い道には、いびつな民家やアパートが建ち並ぶ。
ただでさえ細い道には、枯れ掛けたプランターや植木鉢、自転車やバイクが並べられ、余計狭く、鬱陶しく、そして暑苦しさを感じさせた。
こんな場所をこんな時間に、好き好んで訪れる者はいるわけがない。
…誰もがそう思う様な昼下がりに、一台の単車がやって来た…。
単車は、お世辞にも小綺麗だとは言えない二階建てのアパートの前に停まる。
単車から降りたのはかなり高齢のしわだらけの男だった。
…それに気付いた、洗濯物を干していた主婦が声をかける。
「あんれ、こんぬつわー! 今日もお暑いこって!」
「ちゃー、暑いねぇ! こんな暑いと茹だっちまってかなわねぇよ。えっへっへ!」
……突然、全身の産毛が逆立つような感覚に襲われた。
その感覚は、私にとっての根拠なき不吉な予感を示すものだ。
人によって「虫の報せ」は異なると思う。
目蓋が震えたりとか、耳がぴくぴくっと動いたりとか。私の場合はこれだった。
今日は沙都子が食事当番の日だった。
冷蔵庫の中身は少し心細かったので、買い物に行ってもらっていた。
私はのんびりとテレビを見ながら過ごしているところだった。
普段見ているアニメが終わる頃には、大抵、沙都子は帰ってきていて食事の準備を始めている。
…なのに、アニメが終わり、ニュースの時間になってもまだ沙都子が帰ってこない。
沙都子は小銭をケチりたがるタイプなので、わざと急いで買い物を済まさず、売れ残りが半額になるタイムセールスを狙うことがあった。
そういう時は大した買い物でなくてもやたらと遅くなることもある。
今日の買い物もそれなんだろうと思えば、決して遅過ぎるような時間ではなかった。
でも、……でも、でも。……何だろう、よくわからない。
…よくわからないはずなのに、今すごく、嫌な感じがした。
嫌な感じがすると自覚したが最後。
…もう私は居ても立ってもいられなくなった。
「羽入? ……羽入?! いる?!」
……羽入なら沙都子がどこにいるか知っていると思い、聞こうと思った。
だが、いなくてもいい時にやかましいくせに、本当にいてほしい時には姿がない。
羽入も四六時中私と一緒にいるわけではない。
眠ってしまっている時もあるし、ふらふらと散歩に出掛けている時もある。
……羽入の場合は散歩といわないな、ストーキングという。
どこかで面白そうな人を見つけて、後を追っかけて観察して遊んでいるに違いない。
とにかく、いないなら仕方がない。探すのは沙都子だ。
沙都子が買い物に行く店はおおよそ想像がつく。
とにかく商店街へ行ってみよう。
何しろ雛見沢だ。誰かに聞けば、会ったかどうかなんてすぐわかる。
「あんれ、梨花ちゃまでねぇですかい。ありがたやありがたや…。」
「にぱ〜☆ …それより今日、沙都子が買い物に来なかったですか?!」
「……沙都子ちゃんの顔は見てないね。私がずっと店番してたから、来れば見てるんだけどねぇ。」
お礼を言ってる時間すらも惜しい。
次に行きそうな店を思い浮かべそこへ走る。
道往く人たちが挨拶したり手を振ったりしてくれた。
いつもの私なら、それらの全てに手を振ったり愛想笑いを返したりもする。……でも今はそんな余裕はなかった。
沙都子、沙都子、沙都子…!!
私にとって、沙都子はいなくてはならない存在なのだ。
沙都子の喜怒哀楽があったから、私は今日まで生きてこれたのだ。
それがなかったら、どれほどこの世は寂しく退屈だったことか…!!
すぐふて腐れる私と違って、沙都子は楽観的で物事を何でも楽しもうとする。
私がこの百年間、どれほどのことを沙都子から学んできたというのか。
それでもまだまだ学びきれないというのに…!
「沙都子、沙都子ーッ!!!」
私の必死な形相と悲壮な叫びに買い物中の主婦たちが振り返る。
そんなの知ったことじゃない。沙都子沙都子沙都子…!!
お前たち、何を間抜けそうな顔で見ているんだ。
私が沙都子を探してるんだぞ、知っていたら挙手して会ったかどうかを教えろというのに…!!
「はぁッ、はぁッ、はあッ!!」
心臓が胸の内側で、まるで生け簀から出したばかりの魚みたいに飛び跳ねる。
くそくそ、何て肺活量のなさ、身体年齢が恨めしい!!
「角のお惣菜屋さんが夕方に売れ残りを安くするでしょ。そこに行ってるかもねえ?」
いくつかの心当たりを回ったが、沙都子の姿は見付けられない。
彼らが無責任に教えてくれる場所のどこにも沙都子の影は見付けられなかった。
手掛かりを求めて走る。
買い物客に肩をぶつけながら、買い物袋を弾きながら駆け抜ける。
「さぁ、どうだろう。夕方は人がたくさん来るから覚えちゃいないかもしらん。」
この狭い雛見沢の中で、お夕食の買い物ができるところなんて限られてる。
もっと簡単に見つけられるはずなのに、どうして今日に限って雛見沢はこんなにも広いというのか!!
……わッ?!
何かにつまづき、私は道路に飛び込むように転ぶ。
……本当に綺麗にべしゃっと転んだ。
「…………いたた……。」
手の平の生皮を道路の小石で剥いてしまう。
いたた、と痛みを装う定型文が口を突くが、別に痛みを感じはしなかった。
焼けた鉄板に触れたような熱さを感じるだけだ。
そんな私の前に突然、可愛らしいハンカチが突き出された。
「大丈夫…? 怪我とかしなかったかな…?」
<レナ
「レ、レナ…。あの、沙都子を見なかったですか?!」
レナは買い物袋を持っていた。
…沙都子が買い物をする時、レナと会うことがよくあるらしい。
おそらく、店の選び方などのセンスが、私よりレナの方が沙都子に近いのだろう。
「……さ、沙都子ちゃんを? うぅん、今日は見てないよ。沙都子ちゃんがお買い物の日だったの…?」
「そうです。会っていませんですか…?」
「…うぅん……。わからないなぁ。今日が沙都子ちゃんのお買い物の日なら、絶対に山文の特売日を逃さないと思うもん。でもレナも山文にいたけど会わなかったし…。」
心臓がいくら空気を送っても脳に届かない。
…酸欠を起こしかけた私の頭には、レナが何を言っているのか理解するのに時間が必要だった。
レナが沙都子に会ってない、知らないというのはすぐにわかる。
そうじゃないそうじゃない!
今日は山文の特売日だって…?
特売日だったら沙都子は絶対に来るだろうって?
それで会わなかったって?
それって何さ、どういう意味よ…!!
「何かあったの…? 沙都子ちゃん、お財布とか家の鍵でも忘れちゃったかな?」
「……………えっと、…………ん………、」
具体的に説明する言葉が見付からなかった。
……沙都子が急にいなくなってしまうような気がして、その姿を探している、とでも言えばいいのだろうか…?
…だめだ、だめだめ……、沙都子がどうして帰ってこないのか、考えてはいけない考えてはいけない……。
…………………………………。
「………どうしたの? 困ってるなら力になるよ? 話して?」
レナが私の力になってくれようとしているのがわかる。
ついさっきまで、私は誰でもいいから私を助けてほしいと思っていた。
そして、実際に助けてくれる友人が現れたのに、……私は何を訴えればいいのか、わからない。
いや、…わからないというのは正しくない。
実は…わかってる。…何となく、わかってる。
他の人間なら、わからなくてもいい。
………でも、私はわからなくてはならない。
古手梨花は、わからなくてはならないのだ…。
私は、知っていた。覚えていた。わかっていた。
楽しい平和な日常なのに、……沙都子がある日、忽然といなくなってしまう世界を知っていた。
でも、それは赤坂が雛見沢にやって来るのと同じくらいに確率の低いこと。
……だから、過去の世界にもたまに起こった。
だからこれが初めてではない。
…前にもあったのだ、前にもあったのだ…。
なら、……確かめよう。
どうにもならない袋小路の世界へ迷い込んでしまったのが事実なのか、確かめよう…。
「力になるから、話して……?」
「……ごめんなさいです。さよなら!」
「あ、梨花ちゃん…!」
私は駆け出す。……気付かないふりなんかしても、もう埒はあかない。
どうか神さま、今日までの積み重なってきた最高の幸運が、今日から不幸のしわ寄せなのだとしたら、そんな幸運、私は望んだことない…!
今回こそ行けると思った、みんなで楽しい未来に辿り着けると思った。
これだけの追い風があればこそ、絶対に今度こそ運命を打ち破れると思ってた。
それなのにそれなのに…、こんな世界になるなんてあんまりだ。
私の努力の及ばない乱数でこんな世界に決まるなんてあんまりだ…!!
…………ここは、私が雛見沢でもっとも嫌う場所だ。
そう。沙都子の本当の家、北条家。
去年から私と沙都子は一緒に暮らしているから、この家は単なる空き家なのだ。
最初の内は、季節の服や生活用品を取りに戻ったりと、沙都子がたまに戻ることはあった。
……でも、もうほとんどの道具はこちらに持ってきたので、もう沙都子がこの家に戻ることはない。
…沙都子にとっても、この家は、叔父夫婦との辛い生活や悟史の面影を思い出してしまう悲しい場所でしかない。だから近寄ることはなかったに違いない。
だが、……私がこの家を嫌う理由は少し違う。
……それは、この家が意味を持つ時、それがどういう世界なのかを知っているからだ。
神さま、……どうかどうか…。今日まで私に恵んでくださった幸運を、もう一度だけ恵んでください……!
硬く目をつぶって天に祈ってから……、私はゆっくり目を開けた。
「……………………………。」
北条家の二階の窓が開いていた。
他の窓も開けて換気でもしているのだろうか、内側から煤けた色のカーテンがぱたぱたと揺れていた。
……その意味を、古手梨花が理解するより早く、…私の膝が理解した。
カクン、と…力が抜け、……私はその場にへたり込む。
家の脇に停められた見慣れないバイク。干された布団や洗濯物。
…それは紛れもない、生活感。
北条家に人が住んでいることの証拠。
北条家に人が住んでいると、…………どう不吉かって……?
自分の胸に聞けと自分で言いたい。
そう、私は知っていた。
知っているのに、知らないふりがしたかった。
「……………り、……梨花……?」
「さ、沙都子……!」
沙都子は、干していた布団を取り込みに来て、私の姿に気付いたようだった…。
「………あの、……………梨花…。」
沙都子はずっと俯きがちで、悲しいのを無理に笑っているような、……見ているこっちまで辛くなるような表情だった。
しかも、その顔は表情だけではない。…左頬が真っ赤になって張れていた。
「沙都子、………こんなとこにいないで、お家へ帰りましょうです。」
私は沙都子の手を取る。……だが、沙都子は手をぶらんとさせたままで、一層、深く俯く…。
「あの、……梨花…。私、………今日からこっちの家で暮らそうと思いますの…。」
「ど、……どうしてなのですか………。」
「私の…、………叔父さんが帰ってきましたの…。それで、こっちの家で、……一緒に暮らそうって話に……なりまして………。」
「沙都子はそんなの望んでないはずなのです。意地悪な叔父さんなんかと一緒に住んで楽しいはずがないのです…!」
「でも、………どうしようもありませんわ………。梨花の家へ帰っても……連れ戻されるだけですもの…。梨花に迷惑が掛かってしまいますわ…。」
諦めきった悲しい笑顔。
……そこにいるのは、一年前の、…昭和57年の沙都子だった。
沙都子は叔父に脅され頬をぶたれて、昭和57年の、あの悲しい沙都子に戻ってしまったのだ…。
もうここには、つい昨日まで一緒に住んでいたあの快活な沙都子はいない…。
私は沙都子の傷ついた心を、一年もの歳月をかけて癒し、慈しみ、手当てした。
そしてようやく取り戻した笑顔を。………沙都子の叔父は、乱暴な振る舞いのほんのひとつふたつで、あっさりと打ち砕いてしまったのだ。
……確かに傷ついた心だって長い時間をかければ癒せる。
でも、…一度傷ついた心は、例え癒されても、脆さだけは永遠に癒せないのだ。
割れたハートをつなぎ合わせて元の形に積み上げただけ。……そのひびは、決して直ったりはしない…。
だから、沙都子の手をいくら引いても、…沙都子はついてこようとはとはしないのだ。
……心の奥に眠らせていた叔父の恐ろしさが目を覚ましてしまったから、…もうその恐怖に抗えないのだ…。
「沙都子ぉ!! なぁんね放ったらかん!! どご行きよんね!!」
汚らわしい怒声が聞こえてきた。
沙都子がびくりと肩を震わせ、俯いて何もない虚空を見つめた。
「………んああ? 何じゃいおどれは。」
…あの男が、沙都子の後ろに、ぬうっと立った。
「な、何でもありませんの。お友達と会っただけですのよ…。」
「すったらんどうでもええんね!! それよか風呂桶、磨かんかい風呂桶! わしゃあ風呂に入りたいんしゃあってんなボケぇ!」
沙都子はびくりと震えると、怯えた小動物が隅へ逃げ込むかのように、家の中に足早に戻っていった。
その背中のみすぼらしさが、私の胸を引き裂く。
「遊びの約束だったかい? スマンのぉお、ちょいと沙都子は家の片付けで忙しいんよ。わしゃあ、沙都子の叔父なんね。ちょおっと長いこと出張に出とってん。ようやく雛見沢に戻ってきたわけなんよ。」
嘘をつけ。
……愛人が失踪したからノコノコと戻ってきただけのくせに。
……他の世界で、悪意をぶつけたことがある。
でも、それはきっちりと沙都子に跳ね返った。
……だから私は、胸の奥に燃え盛る黒い炎を瞳に灯すことすらできない。
愛想笑いもできず、毒も吐けないなら。
………私は小さく会釈してその場を走り去ることしかできなかった。
「なぁんね、泣く子も黙るわしのガンにびびってもうたんかいね。がっはっはっはっは!!」
走る私の背に叔父の下品な笑い声が浴びせ掛けられる。
私は走りながら涙を零していた。…ぽろぽろ、ぽろぽろ。
昨日まで最高の世界だったのに………!!!
神さまは残酷だ、今度こそ大丈夫に違いないなんて夢を見せておいて……!!
……いや、まだだまだだ、まだ諦めるな…!
私は相変わらず無力だけれど、……この世界には、今までとは違うわずかの有利があるじゃないか。昨日までの強運は決して無駄なものか…!!
私は自分の家へ掛け戻った。電話が目的だった。
初めて掛けるので電話番号を知らない。…電話帳をばらばらとめくる。
簡単に見つけられた。その番号をダイヤルする…。
「これはこれは、どうもどうも! 古手さんからお電話をいただけるなんて思いませんでした。……何かございました?」
…大石が沙都子を救うのに何の役にも立たないのは数多の世界で知る結論だ。
大石にとって沙都子は、園崎家が噛み付きやすいエサでしかないのだ。
…もちろん叔父の方も立派なエサなのだろう。
だから、沙都子の危機を何度訴えても実質的には傍観するだけだった。
児童相談所に相談してはどうですと、ありがたい助言はくれるが、それだけだ。
「……大石、…赤坂とお話したいのですが、いますですか?」
「赤坂さんですか? なっはっは、温泉行ってますよ、和倉温泉。」
和倉…?
近くの地名じゃない。
赤坂は綿流しまでここに滞在しているんじゃなかったっけ…?!
「何でも温泉宿をやってる親類にご厄介になれるとかだそうで。いやいや、うらやましいことです。え? 和倉ですか? 石川県ですよ、能登半島の。」
そんな馬鹿な。……赤坂は綿流しまでこっちにいるって、そう答えたはずだ。
…私はその「こっち」を興宮や雛見沢だと勝手に思い込んでいたけど…、彼にとっての「こっち」はこの辺りの地方全体を曖昧に指しての言葉だったのだ…!
「……赤坂と連絡は取れませんですか…?」
意味のない質問だ。
……はるばる温泉まで夫婦で出掛けているのに、沙都子の危機だから助けてくれの一言だけで呼び戻せるわけがない。
だから仮に電話で話せても、児童相談所に相談した方がいいと、大石から数多の世界で散々聞かされていることを改めて聞かされるだけだ…。
「んん〜〜、お泊りの旅館は聞いてませんしねぇ。ものすごい高級旅館だって言ってたから、多分、某有名なあそこだろうなぁとは思うんですがね。なっはっはっは! まぁ、最近のお宿はガードが堅いから、部屋番号も知ってないと繋いでくれませんしねぇ…。」
「……わかりました、もう電話はいいです。でも赤坂は綿流しのお祭りに来るとは言ってませんでしたか?」
「そうです。こちらへは、能登への行きと帰りに滞在されるんですよ。だから先日も一泊されてくつろがれた後、すぐ発たれました。だから、綿流しの直前にまたこちらへ戻ってきて滞在されると思います。んっふっふ、あなたにお土産を買ってくると言ってましたよぅ。」
何ということだろう……。
話がうますぎると思った…。確かに、こんな面白みのない土地にずいぶん長く滞在するものだなと、ちょっとおかしくは思っていたが…。
昨日と今日を境に、ここまで運気が逆転するものなのか…!
いや、……これも当然の結果なのかもしれない。
サイコロが3つ続けて6を出すのとまったく同じ確率で、3つ続けて1が出る確率も潜んでいる。
個々に見れば常に6分の1の確率でも、……全体を平均的に見れば、幸運の数だけ不運が起こるのは必然なのだ。
「………………………………。」
「もしもし? 何か伝言があるなら、会った時に伝えておきますよ。」
壁に掛けてあるカレンダーを見る。
綿流しの直前というのがいつのことかはわからないが、少なくとも、あと一週間くらいは姿を見せないということだ。
……過去の世界の記憶を辿る。
…あの男に一週間も時間を与えれば、沙都子を滅茶苦茶にしてしまうだろう…。
つまり一週間なんて悠長な時間は待てないということだ。
そうとわかれば、……赤坂の線は諦める他なかった。
……でもいい。
まだ最後に一手残ってる。
意外にも頼もしかった一手が残っている。
「いえ、いなければいいのです。ありがとうですよ大石。にぱ〜☆」
お決まりの梨花語で適当にお別れの挨拶すると、私は電話を切った。
次の相手は電話では駄目だ。
直接会って話さなければならない。
私は靴を履くと、入江診療所に向った。
とっくに診療時間は終わってる。
普段なら誰もいない。
だが、今は富竹が来ているから、主要の人間はだいぶ遅くまで残って打ち合わせをしているはずだ。きっと居る。
診療所の表は、当然閉まっていた。
だから裏口へ回り、インターホンを鳴らす。
富竹が来ている間は、診療所全体がぴりぴりしている。
普通の人なら相手にしてはもらえない。だが、私は別だった。
「どうしましたか。緊急の要件と聞きました。」
<入江
「私まで用とあっては、穏やかな話ではなさそうね…?」
<鷹野
私が応接室に通されてすぐに入江と鷹野は現れた。
古手梨花の緊急とあれば、彼らはいかなる仕事も放り出すだろう。
だって、雛見沢で私よりも重要な存在はいないのだから。
「ひょっとして、例の件ですか? 誰かに狙われているという…?!」
<入江
「あなたの近辺は常時、山狗の中でも特に優秀な連中が警護してくれているわ。あなたとあの日した約束をちゃんと守っているわよ。くすくす。」
それは疑わない。
先日、私たちが不良三人組にからまれた時、すぐに現れたことから、彼らが常に私の近くに潜んで警護してくれているのがわかる。
「いえ、……そうではないのです、お願いがあるのです。実は、沙都子の危機を救ってあげてほしいのです。」
「沙都子ちゃんに何かあったんですか…!」
入江個人は沙都子の力になりたいと思いつつも、それほど力があるわけではない。
だが、山狗たちを部下に持つ鷹野に対して、多少の権限を持っていた。
これまでの世界では、入江の所長権限で山狗に頼ろうとしても、鷹野との調整がうまく付かず実現できなかった。
だがこの世界は違う。
私は鷹野と比較的良好な関係を築け、しかも鷹野は義理堅く私との約束を守ってくれた。
だから、今なら彼らの力を完全な形で頼ることができるはずなのだ…!
「…………あの北条鉄平さんがですか…。……………なんてことでしょう…。」
去年の沙都子を虐めていたのは主に叔母の方だが、もちろん叔父の方も乱暴な仕打ちをしていたことは入江もよく覚えていた。
私は沙都子の心がもはや打ちのめされていて、昭和57年の沙都子に逆戻りしてしまっている窮状を訴えた。
「……このままではいつ何があるのかわかりませんです。沙都子を助け出すために力を貸して欲しいのです…!」
入江は何とか力になりたいという気の毒そうな表情を浮かべるが、自分に何ができるかわかりかねているようだった。
「…こういうのはどうすればいいんでしょう。……やはり警察に相談した方がいいでしょうか。」
「さて、どうかしら。現時点では、親権者が現れて沙都子ちゃんを保護しただけよ? 沙都子ちゃんが大怪我でもしたというならともかく。…そういうわけではないんでしょう?」
「……ま、……まだそういう大怪我はしてませんですが……、そんなのは時間の問題なのです。このままでは大変なことになってしまうのです…!」
時間の問題という言い方がもどかしくて嫌だった。
過去の世界で、沙都子がどのように虐待され、どんな姿になるのかを知っていた。
そしてそれを伝えたいと思った。
でも、できないのだ。
この世界ではまだ起こっていないから、私の妄想と言われればそれまでなのだ…。
「多分、こういうのはまず、児童相談所に訴えるのが先じゃないかしら。」
「………そう言えば以前。…沙都子ちゃんが、児童相談所に虚偽の通報をした、なんてことがありましたね…。ちゃんと話を聞いてくれるといいのですが…。」
答えはノーだ。
数多の世界で圭一たちが通報する。
でも沙都子が自分で断るのだ。虐待の事実はないと言って。
昭和58年の沙都子だったら、きっぱりと助けを求めたかもしれない。
…でも、昭和57年の沙都子にはできないのだ。
今の沙都子にとって、叔父との辛い生活は去年の、悟史がいたころの生活の再現であり、…悟史の背中に隠れずとも自分が立派にやっていければ、きっと悟史が帰ってきてくれるという願掛けでしかないのだ。
それに、仮に児童相談所が真面目に話を聞いてくれたとしても、それでは遅いのだ!
思い出せ思い出せ…!
一番最近経験したこの世界では、…確か、沙都子が叔父にさらわれてから、一週間もたなかった。
ほんの数日で心をズタズタに引き裂かれてしまったはずだ。
だからそんな悠長なのじゃ駄目なんだ。
もっともっと素早く解決しないと駄目なんだ!
「沙都子ちゃん自身が助けを求めてくれないことには、…助けようがないのが悔しいです…。」
「入江先生の方から警察やお役所に連絡することもできるとは思うけど、……そこまでが限界ね。…気の毒とは思うけど。」
「違うのです、違うのです。……鷹野の力で沙都子を助け出してほしいのです…!」
入江も鷹野もちょっと驚いた顔をして沈黙した。…私が、いわゆる裏側からの解決を求めたからだ。
「……それは、強行的な手段に訴えろということですか…。」
「ボクは、そういうお願いをしに今日ここへ来ていますのです。そうでなければ、こんな時間に押し掛けたりしませんです…!」
「お気持ちはわかります…。ですが………、」
「入江、沙都子を大事に思うなら、どうか一生のお願いなのです。沙都子を助けてくださいなのです!! 沙都子はあと何日もしない内に本当に酷いことになってしまいます。それは決まっていることなのです。もうしばらく様子を見てみようでは、見殺しにするのとまったく同じなのです!! 入江は、去年の沙都子をもう忘れてしまったのですか?! もうそうなっているのです、今この瞬間にも!! そしてあと数日で、取り返しのつかないことになってしまうのです!!」
「………………………。」
あとは目で語る他なかった。
沙都子の無残な結末を知る私の瞳に、私しか知らない未来が映り、入江に見えることを信じて。
入江はちょっとというには長過ぎる時間を沈黙していた。
何と言ってこの場を誤魔化すかを考える者なら、ここまで黙り込まない。
……去年の沙都子の惨状を思い出し、果たして私の訴えが本当に性急なのかどうかを本気で考えているように見えた……。
私は入江が本当に沙都子のことを思ってくれていることを知っている。
だから入江、今こそそんなあなたの力を借りたい時だということに気が付いて……!
「…………………………………。」
<入江
「……………どうしようかしらね…。」
<鷹野
入江が小さく頷き顔を上げた。
…自分の中での議論に決着がついたようだった。
私は、それが沙都子に利するものであることを祈るほかない。
「……鷹野さん。梨花ちゃんの頼みを聞いてあげてください。」
「入江…!!」
「去年、沙都子ちゃんに何の手も差し伸べられなかった無力さに悩んだことがあります。……これは、その時、傍観して手を尽くさなかった私が罪を滅ぼす唯一のチャンスだと思います。」
「……しかし、そうは仰いますけれど、」
<鷹野
鷹野は入江が大人の判断を下すだろうと思っていたらしかった。
予想しなかった入江の反応に、珍しく少し慌てた。
「当施設の責任者として、正式に鷹野さんにお願いしたいと思います。沙都子ちゃんを、どうか助けてあげてください。」
「入江先生、…助けるという言葉がどういう意味か少しわかりかねます。どうか落ち着いてください。」
<鷹野
「沙都子ちゃんは我々にとって欠かすことの出来ない存在です。これまでも、そしてこれからも我々の研究に最大限貢献するでしょう。彼女の保護は鷹野さんの職務に含まれるものとお察しします。」
それでもお茶を濁そうとする鷹野に、入江は毅然と言った。
「所長、入江京介としてお願いいたします。鷹野さん、どうか沙都子ちゃんを救ってください。」
入江がそうするように、私も鷹野の瞳をじっと見る。
「……鷹野も沙都子と仲良しだったはずです。…どうか、沙都子の友人として、助けてあげてくださいです。」
「……………助けてください、という言い方が、お二人とも実に偽善的ね。
沙都子ちゃんをさらって永遠に監禁するわけじゃないんでしょう? 沙都子ちゃんにこれまでと同じ生活を送らせるために救うのでしょう? それはつまり、叔父の方を摘出せよというご命令ですわよね…?」
「卑怯な言い方をすれば、要請に対しどう対処するかを決定する権限が鷹野さんにあります。……でもそれが卑怯ならば、私がはっきりそれを口にしても構いません。」
「………………………………。……入江先生、いえ、入江所長。そのご命令を実行すれば、私は無論、そして入江所長も責任を問われることになりますが、その覚悟はおありですか?」
入江の顔を見る。
……私と違い、入江には失うものがある。
…だから、この鷹野の言葉は入江の心を大きく揺さぶるものに違いなかった。
だが入江はまったく怯まなかった。
「えぇ、構いません。申し開きをする場へ引き出されても、自身の心を裏切るよりはるかにマシです。」
「……査問がどういうものかもご存知ないのに大した虚勢だことで。」
「…はははは…。…鷹野さんが上手にやってくだされば東京に知られずに済みます。それで、誰もが円満に決着できませんか?」
「リスクばかりで見返りのない仕事ね。」
「……た、鷹野が望むなら、神社の宝物を他にもたくさん見せてあげますです。もう見せるのを意地悪したりしないです。だから、今回だけ助けてほしいのです…!!」
それは今の鷹野にとって、リスクを犯すことに対する見返りとしてはあまり魅力のないものだった。
でも、…今の鷹野に私から提案できる見返りはこれくらいしかなかった。
古手神社に何百年の伝統があろうとも、今この瞬間を苦しむ仲間を救うためなら何の惜しさもなかった。
「………………わかりました。これじゃ、私が悪者みたいだものね。」
鷹野は曖昧そうに笑いながら、渋々とだけど頷いてくれた。
「ありがとう、鷹野さん。」
「……どういう風に助けるかは一任いただきます。具体的なプランは後で小此木と相談します。」
「あ、後では駄目です、今でないと駄目なのです…!」
鷹野は沙都子を救うと約束してくれたが、渋々とだった。
善処しますなんていう曖昧な返事のまま誤魔化されては、沙都子を救うのが間に合わない!!
だから私は鷹野に、一刻の猶予もないもないことを印象付けたくて敢えて食い下がった。
「…そうですね。梨花ちゃんも、そして私も、今この場でしっかり納得の行く決着がつくことを願っています。こんな時間に急かして申し訳ありませんが、どうかお願いできませんか。」
「…………二人とも、沙都子ちゃんのこととなると目の色が違うんだから。…わかりました。少し待たせるかもしれませんがお待ち下さい。」
「無理を聞いてくれてありがとう。」
<入江
「いいえいいえ。私の給与査定者の頼みですもの。笑顔でお引き受けいたしますわ。……梨花ちゃんはさっきの約束、絶対に忘れないでよ?」
「……きっとなのです。神社に来た時はお饅頭とお茶も付けますのです。」
鷹野はようやく軽やかな笑いを見せてくれると、退室していった。
やがて、コツコツという鷹野の足音が聞こえなくなると、ようやく場の雰囲気が弛緩するのだった。
入江は何か飲み物でも持ってきましょうかと言ってくれたが辞退した。
入江にとっては、もう半ば決着したことのような感じみたいだが、私は沙都子が帰ってきてくれるまで気を抜くつもりはなかった。
「……入江。沙都子ですが、お薬とかは大丈夫なのですか…? 叔父は、沙都子が逃げ出すと思って、家から出さないと思いますから、もうここへ来ることはできないと思います。」
「…幸いなことに、先週まとめて針と薬を渡してあります。ですので、しばらくは問題ないでしょう。……………ただ、強い精神負担は薬でも抑え切れません。…少しずつ追い詰められ、…いつか取り返しのつかないことになるでしょう。」
「……そのいつかというのは、ほんの数日後の話なのです。」
鷹野はなかなか戻ってこなかった。
妙に早く戻ってくるようなことがあったら、それはきっと悪い知らせだと思っていただけに、すぐ戻ってこないことを最初は喜んだが、……これだけ待たされると逆に不安になってくる。
入江はもう遅いから帰られた方がいい、後は自分が万事やっておきますと言ってくれたが。……私自身の耳で、もう何の心配もいらないことを聞くまでは、例え帰ったとしても一睡もできないに違いない…。
私は鷹野が戻ってくるまで、ぼんやりとしながらも緊張感の抜けない緩慢な苦痛に耐えているしかなかった。
そして。一時間以上も待たされて、ようやく鷹野が戻ってきた。
「……お待たせ。」
「あぁ、いかがでしたか。」
「……………………。」
鷹野の口が重い。………その間だけで、何となく嫌な予感がした。
「残念だけど、…簡単に行かなくなったわ。」
「ど、どうしてですか。」
<入江
「つい最近、興宮で殺人事件があったらしいの。その事件に何らかの関与があると疑って、北条鉄平を警察がマークしてるらしいわね。」
「事件…! 何ですかそれは。」
「間宮とかいう女が、園崎家の上納金に手を出して見せしめに殺されたとか何とかで。警察が北条家と園崎家の関係に慎重になったらしいのよ。その女はどうも北条鉄平の愛人らしい。綿流しも近いしね。『オヤシロさまの祟り』の5年目を何とか阻止したい警察が、北条鉄平が今年の犠牲者じゃないかとマークして、釣り糸を垂らしてるって話みたい。」
「……釣り糸って何なのですか?」
「北条鉄平をマークしてれば、『オヤシロさまの祟り』の真犯人を吊り上げられると睨んでるのよ。」
「何てことだ…。では……、」
「梨花ちゃん、……本当に申し訳ないんだけど。警察のマークが外れるまで、山狗には手の出しようがない。」
「そんな……! 山狗の方なら、もっと困難な任務でもこなせるでしょうに…!」
「それは入念な準備と計画に基づき、然るべき機を見ての話です。通常は長い監視期間を設け、その上でタイミングを計ります。同等の任務なら、半年から一年をかけるところです。今さら言うことではありませんが、私たちは決して日の当るところへ出ることができない存在です。日の下へ出たならば灰になる存在なのです。だから、マークされ眩しく照らし出された今の状態では近付くことすらできない。」
「……では、いつならその機だと言うのですか…!」
「もっとも早くて綿流しの後ね。……多分、綿流しが終われば、警察もマークを解くかもしれない。」
綿流しの後では遅すぎる…。
それに綿流しの後と言ってるだけだ。
綿流しの翌日とは約束していない。
それどころか通常は半年から一年かかるなんてむちゃくちゃだ…。
今回の世界こそ何かが違うと信じていたものは、……何の役にも立たず、さらさらと指の間をすり抜けて零れていく。
「では、どうすれば沙都子ちゃんを救えるというのですか…。」
「日の当る世界では、日の当る世界のルールで解決するのが筋かと思います。例えば警察へ相談する、児童相談所に相談する。学校へ相談するのも方法かもしれません。」
「それは何度もやったけど無駄だったッ!!!」
入江と鷹野が驚く。
…私が怒鳴るなんて想像もしなかったのだろう。
……私も自分が怒鳴るとは思わなかった。
でも、鷹野が他人事のように、数多の世界でいくら試しても無駄だった間抜けな方法を並べ出すのを聞いていたら、感情が抑えられなくなったのだ…。
「私はお前たちにずっと協力してきた。何の見返りも求めず、ただただこの身を捧げて協力してきた!! それなのにどうして沙都子の一人だけが救えないというのか!! あれだけの力を持ちながら、どうして沙都子を救うことにのみ臆病なのか!! 何の力にもならない警察や役所。そして利用するだけして何も助けてくれないお前たち…!! もういいもういい、私はよくわかった! この世界が袋小路だということがよくわかった!! もうお前たちには興味ない、この世界にも未練はない!!
そうさ、あれだけの幸運に恵まれても結局私はこの運命から逃れられなかった!! そうさそうさまたいつもの運命! お前は山奥で焼かれて死ね、お前は睡眠薬で自ら死ね!! そして私は当然のようにまた死のう。どういう殺され方をするのか未だに知らず命を散らそう。ここは運命の袋小路、行き止まり。私は生まれた時から殺されるために生かされている運命の家畜。みんな死ね死ね、みんな死ね!!! どうせ終わる世界なんだ消えてしまえ!!! うわあああああああああぁあぁあぁぁぁ…ッ!!! わああああぁあああぁぁああぁあああ!!!」
弾けた感情はそれ以上は言葉にならず、かわりに涙となって溢れ出た。
昨日まで、あれだけ幸運が重なったのに。
あれだけ持ち上げておいてここまで突き落とすのか。これでも駄目なら何をやっても駄目!
百年以上を生きた。
普通の人間なら絶対にありえないような長い時間を生きた。
そんな中にあって、二度とあるかどうかもわからない幸運を得た。
もう二度とない。それほどの奇跡を得たのに、それでも駄目だなんて…!!!
泣き、喚き、私はこの世界を呪う………。
…早くこの命を絶とう。
次の世界では笑顔の沙都子が待ってる。早く沙都子に会いに行こう……。
………………なら、……この世界の沙都子は、取り残されてどうなるの………?
知らないよ……、知ったことじゃないよ……。
沙都子、沙都子沙都子……沙都子………。
……私は百年以上を生きた魔女になっても、……一般的な人間と同じある種の価値観を拭い去れずにいるのだった……。
沙都子が食事当番だったから、今夜は何の準備もなかった。
…でも食欲はなく、今日はこのまま休もうと思った。
だが、明日のお弁当の準備はしておかないといけない。
………ひょっとしたら、沙都子が明日登校してくるかもしれないのだから。
二人分のお米を研ぎながら、……作るお弁当が無駄にならなければいいのにと思った。
…………思った、という言い方はやめよう。
……沙都子の分のお弁当は、何の意味もないのだ。
沙都子はもう学校へは来ないことを、私は悲しいくらいに知っているのだから。
……それに気付いたら、もうお米を研ぐのが悲し過ぎて。
…研ぎ汁の中に涙が零れ落ちるのを抑え切れなかった。
どうして……、こんな世界に……?
圭一が魅音にお人形を渡した時、悲しい世界は回避されたんじゃなかったのか…?
あの世界ではその後、綿流しまでの一週間の間、魅音が妹のふりをして圭一に接触するなんて妙なことをするが、それがないのだから、綿流しまでみんなで楽しくあっという間に過ごすはず………。
………あれ…? 奇妙な違和感。
そう言えば玩具屋での部活、……綿流しの2週間前だっけ………?
…ようやく気付く。
…玩具屋での部活はまったく同じ内容だったが、その開催が、私の知る世界と一週間ずれているのだ。あの世界より一週間早い。
そう。よく知る世界だと私は思い込んでいたが、……こうして考えれば、私の知る2つくらいの世界が微妙に重なり合った、似つつも異なる世界なのだ。
つまりだから、魅音に圭一がお人形を渡しただけで楽観してはいけなかったということなんだ…。
私は強運に恵まれたと慢心していた。
もう大丈夫と決め付けていた。だから……甘えていた。
低い確率で叔父が帰ってくることを私は、全世界で私だけが理解していたはずなのに。
……沙都子を買い物に行かせてしまった。
叔父が帰ってくるかどうか、乱数がわかるまで沙都子を家から一歩も出さないくらいの警戒心が必要だったのだ。
なら次からは気をつけよう?
………次なんてあるものか、これだけ全てが恵まれる世界なんてあるものか!!
例え次は沙都子を押入れに閉じ込めたとしても、私の知らないところで、例えばレナの父親がミスを犯したり、圭一が疑心暗鬼に囚われたりすればそれで終わりだ。
私にはどうにもならない数々の条件をクリアして、その上で私はベストを尽くさないと、……昭和58年の運命は越えられないのだ。
この世界では、ひょっとすると鷹野たちの協力を受けて、私は死の運命だけを越えられるかもしれない。
……でも、そこには沙都子はいないのだ。それでは何の意味もない。
私の望みは、私の愛する仲間たちみんなと笑い合いながら昭和58年を乗り越えることだ。
沙都子を生贄に捧げて生き延びようなんて思うものか。
沙都子のいない世界で生きていこうなんて思うものか。
結局私は、あれだけの追い風を受けても、運命に勝てなかったのだ…。
私のちょっとした気の緩みが、全てを台無しにしてしまった。
もうこんな幸運は二度とない…。
私は、最初で最後の勝機を逃してしまったのだ…。
「……ぅ、……ううぅ……うッうッ……ううう…!!」
床を掻き毟りながら嗚咽を漏らす。
……運命を呪えばいいのか、それでも至らなかった自分の不甲斐なさを呪えばいいのか、…何もわからなかった。
気付けば、…………そこには羽入がいた。
いつからそこにいて私を見下ろしていたのかはわからない。
……ただ哀れに、私を見下ろしているだけだった。
「……………羽入。…あんたの言いたいことはわかってる。………だから運命に期待するなと言った、………でしょ?」
「……………………。」
「……期待するななんて、………酷な話よ。……あれだけ全てに恵まれた、サイコロを振る前から6が出ると確信できる世界なんて初めてだった。あれだけの勢いがあればきっと打ち破れると信じた。…………それでも、あんたは、……あの玩具屋の時から、ずっと言ってたわね。………期待し過ぎるな、と。」
多分、羽入はあの玩具屋での部活の日に違和感に気付いていたのだ。
私がよく知る世界と、酷似しながらも開催日が一週間ずれていて、まだまだその後の運命の流れが楽観できないことを知っていたのだ。
だから、魅音がお人形を受け取るくらいでは、まだまだわからないことを知っていた。
「………………僕も梨花と一緒にいて短くないのです。だから梨花に聞かれると思って先に言いますです。………僕にも今日の運命などわかりませんでしたです。ただ、僕から助言できるのはただひとつ。…………この世の運命なんて秋の空より気まぐれで、一喜一憂するにも当らない、些事に過ぎないということなのです。」
サイコロには1〜6までの目が書き込まれている。
それだけが現実で、6なら幸運という価値観がそもそも人間の業なのだ。
出る目に何の価値も感じずにいられれば、どんな出目にも落胆しない。
1がいくつ続こうが嫌な思いなどしない。
……6が出るという幸運と同じ確率で1が出るという不幸が混在するこの世界で、サイコロの目の1つだけをとって一喜一憂しようというのが、人間のあさはかさなのだ。
「………ふふふ、……百年ちょいを生きるくらいじゃ、……そこまで悟るなんて難しいわね………。」
「……でも梨花、僕も何度か言いましたが、今回の世界は奇跡ではありませんです。我慢強く待てば、きっとまた巡って来る世界なのです…。」
「我慢強く待てば、……って、……それは何十年後? 何百年後の話なの…? もう私たちには力は残っていない。多分、再び世界をやり直しても、昭和58年の6月より前へは戻れない。……それどころか、戻れる時間はどんどん短くなっていく。そんな短い日々を再び奇跡が起こるまでずっとずっと繰り返せと言うの…? 数年を繰り返す世界ですら、狂ってしまいそうになるというのに。たった1〜2週間の世界を、再び奇跡が起こるまで、永遠に生き続けろと言うの…? 無理よ、無理無理絶対無理…。はははは、あはははは……。」
私は賭けた。この世界という大勝負にコインの全てを賭けた。
そして賭けに敗れた。
……敗れれば賭けたコインを全て没収されるのは当然だ。
もう私の胸の中には1枚のコインも残っていない。
コインの名は、希望。
…………もう、私には夢を見る気力も、立ち向かう強さのカケラも残されてはいなかった。
「……あぅあぅ、…………梨花……。」
私はそのまま、……床に潰れるように横たわる。冷たいはずの床だが、何も感じなかった。
「…………これが、…希望を全て打ち砕かれるということね。……ははは…。」
…人って、水とパンだけあれば生きてけるって思ってた。
違う。
……人は希望がなかったら生きていけない。
生きていればその内いいことがあると信じられるから生きていける。
でもそれは、運命を知りえない普通の人間たちの楽観論の話だ。
…私のような、運命を知り得る魔女には、……生きていればその内いいことが、なんて夢想では、生きる糧とはなりえない……。
「………もう、何もかもがどうでもいい。…この世界だけじゃない、これからの世界も全てどうでもいい。………このまま灰になってしまえたら…。」
「……あぅあぅあぅ…、梨花、そんなことを言ってはだめなのです…。…………梨花、……梨花……、」
羽入の呼びかけがどんどん遠のいて行く。
五感も次第に失われていき、……私は台所の床に横たわったまま、自分という存在を飲み込んで消してくれる真っ黒な渦に身を任せるのだった………。
■アイキャッチ
■翌日…
ひょっとすると沙都子が登校しているかもしれないと信じて、私は鈍い体を鞭打ち登校した。
遅刻してまで登校したのに、……沙都子の席は当然のように空席だった。
……その空席を見て、私の心はずたずたのぼろぼろだった。
もう賭けるものすらないのに、わずかの期待に賭けるなら、敗れた時の代償は自らの心を切り刻んで支払うしかない。
心のばっくり避けた傷口から血がぶわっと溢れ出し、その塩辛い血が目からぼろりと落ちた。
「古手さん、どうしましたか? 今日は北条さんはお休みですか…?」
沙都子が休みで、私が遅刻して涙を零しているということに、クラス全体が異常を感じ取ったらしい。
……でも、私にはそんなみんなの眼差しに同情は感じても、頼もしさは何も感じなかった。
ここにいる誰もが沙都子を救えないのだ。誰にも、誰にも救えない…!
そんな役にも立たないやつら相手に、私はいつまで愛想笑いをしていなければならないのか?
………どうせ終わる世界なんだ。
このまま放っておけば、私は綿流しの後、何日かでいつものようにフィルムが突然途切れるように殺されて、再び今月の頭に戻るだろう。
そうして、永遠に昭和58年の6月を生き続ける。
昭和58年6月に閉じ込められる。死すらももはや私をこの牢獄から逃さない。
「古手さん、何かあったなら話してください。北条さんは今日はどうしたんですか? 風邪でお休みですか?」
「……………うるさいな。」
教室中が一瞬、息を飲み込んだ。
古手梨花が、そんな言葉を発するなんて誰も思わなかったからだ。
……私自身は、過去のいくつかの世界で投げやりにそういう言葉を発したことがあるが、ここにいるこいつらにとって、それらは常に初めてだ。……それはとても気楽なことで、羨ましいこと。
「ふ、……古手さん……。」
知恵は呆然としていた。私をそんなことお構いなしに席を立ち上がる。
…沙都子がいないとわかれば、こんな暑苦しいところで日が傾くまで拘束されているなんてまっぴらごめんだった。
「………帰るわ。」
もう来ないと思う、さようなら。……そうも言おうと思った。
でもズタズタにされてもまだ心の中から零れないわずかの感情が、ひょっとすると明日は沙都子が登校してくるかもしれないなんて甘えたりするものだから、…その言葉は喉で留まった。
だが、さすがに知恵も甘くなかった。
私の腕を掴むと、クラスに自習を言い渡して職員室に連れて行くのだった。
私は校長席の前にあるソファーに座るよう命じられる。
………従う義理はない。
開けっ放しになっている窓から飛び出して逃げ出せばいいだけのことだ。
でも、その気力もないから、命じられるままにソファーに腰を埋めた。
…人は抵抗する意思がなければ、基本的に言いなりに体が動くようにできているのだなと実感する。
……それは、…沙都子も同じ。
抵抗する意思までも打ち砕かれたら、…体はもう言いなりに動くだけの屍だ……。
「古手さん。何があったか話してください。先生はきっと力になれますよ。」
知恵は向いに座りそう言ったが、それは言葉だけだということを知っている。
……結局、知恵の力というのは児童相談所に通報するのみだ。
別に北条家へ押し掛けて、沙都子を連れ戻してくれるわけじゃない。
そんなことを考えたら、……知恵に沙都子のことを話すなんて何の意味もないこと。
穴を掘って、王様の耳はロバの耳って叫ぶのとまったく同じだ。
……そうすると、葦が生えてきて王様の耳はロバの耳と叫び出す。
そしてそれは誰かの耳に入って結局めちゃくちゃになるのだ。
児童相談所に連絡が行くと、保護司が沙都子のところへ行く。
叔父は虐待を否定し、沙都子も悟史への妙な義理から虐待を否定し耐え忍ぼうとする。
そこへさらに、過去の沙都子のウソ通報の前歴が重なり様子見に決定する。
叔父は相談所を誤魔化すために、一時的に沙都子の登校を許すが、沙都子が通報したものと思い込み、より一層陰湿な暴力をエスカレートさせていく。……去年、叔母が一層沙都子を陰湿に虐めたように。
結局、沙都子には何の助けにもならず、ただでさえ酷い環境をさらに悪化させるだけなのだ。
ならばいっそのこと、通報なんかしない方がいい。
……でも、通報しなかったからといって、何か世界が好転するのか…?
しない。何も変らない。
沙都子を飲み込んだ運命にとって、それは沙都子を腹中に収めたまま、仰向けに寝転ぶかうつ伏せに寝転ぶかを選ぶ程度でしかないのだ。
「北条さんの叔父さんが……。それは本当ですか…!」
「………………………。」
いつの間にか私は、知恵の問いかけに一問一答で答えて全てを話してしまったようだった。
話しても話さなくても何も変らない世界だとわかった時点で、…何も抗う気なんてない。
だから聞かれれば話してしまう。…その程度のことだった。
「だ、…大体状況はわかりました。…大変なことになりましたね……。」
「で…。……そこまで知って、あなたは何ができるの?」
私の毒のある口調にも少し慣れたのか、知恵はまったく怯まずに即答した。
「今日、夕方に家庭訪問に行ってみます。まずは沙都子ちゃんに会って事情を聞いてみます。それで問題があるようならば、」
「……児童相談所に相談するって言うんでしょう? 沙都子は過去に嘘の通報をした記録が残ってると思うからね。……虐待の確たる証拠がないと動いてくれないわ。人が殺されるまで捜査をしてくれない警察とまったく同じよ。沙都子が殺されるまで、相談所は動いてなんかくれない。そうすると相談所も学校もこう言うの? 虐めの兆候はまったくなかった、普段は明るくてまったく予見できなかったって、誰かが用意してくれたコメントを読み上げるみたいに同じことを言うのよね。あははははは、本当に馬鹿ばっかね。あはははははは…。」
「……………そこは、…きっと相談所の人が何とかしてくれると思います。私も、北条さんの窮状をしっかり訴えます。」
……あんたは過去の世界でもちゃんと訴えてくれてたわね。
その義務を果たそうとする気持ちは疑わないけれど、その訴えに意味があるかどうかは大いに疑わしい。
訴えは、訴える方に意味があるんじゃない。
訴えられる方に意味がある。
いくら知恵が熱心に訴えたとて、相手が過去の沙都子の記録を読みながら木で鼻をくくったような対応をするなら、何の意味のないのだから。
「そんなの、虐待の痕跡があるかどうかなんて関係ないじゃないですか!!」
突然、職員室前の廊下から声が聞こえた。
詩音の声だった。
知恵が、誰ですか!と叫ぶと、ヤバっと魅音の小さい声が聞こえた。
どうやら、息を潜めてやりとりを聞いていた連中がいるようだ。
それで、彼らのひそひそ話が白熱し、つい大声を出してしまったというところだろう。…詩音は激情しやすいから。
廊下からは、ぞろぞろと4人も現れた。魅音詩音に、圭一にレナだった。
「自習だと言ったはずですよ! 委員長は皆さんを連れて教室に戻りなさい!」
「そんな場合じゃないです! 沙都子に何かあったら先生、どう責任を取るつもりなんですか?! 取れないでしょ?!
日和ってる場合じゃないです! すぐに行動を起こさなきゃ駄目です!! お姉の馬鹿とかは、虐待のちゃんとした証拠がないとむしろ事態を悪化させかねないとか言ってますけど、そんな証拠が残った後じゃ遅いんです!! 魅音は沙都子を見殺しにする気ッ?!」
<詩音
「そ、そこまで言ってないよ! さっきも言ったように、沙都子には過去に虐待SOSに嘘の通報電話をした経験があって、それ以来、マークされてるんだよ! だからしっかりした証拠がなければ、必ず訪問調査だけして様子見ってことになる。それはどういうことか考えなよ! 叔父の怒りに油を注ぐだけ! 沙都子を余計追い詰めるだけなんだよ!!」
「くそ、何だよそれはよッ!! 何かある前に手を施すのが救うってことだろ?! 沙都子に致命的な虐待の痕跡が刻印されるまで放置しろってのか?!」
「……みんな落ち着いて。私も詩ぃちゃんや圭一くんと同じ意見。何かあるまで様子を見ようなんてのは、絶対思わない。なら、何ができるのかを考えなくちゃ!」
「何かって何だ。児童相談所に相談することだろ? 絶対に助けてくれるならいいが、様子見になる確率が高いって、魅音はそう言ってるわけだろ?!」
「………うん。悔しいけど、昨年がそうだったように今年もそうなる可能性が極めて高い。しかも今年は昨年に比べたら状況がまだまだ甘いの。去年は、沙都子が充分に追い詰められている状態だった。でも今回は、まだ叔父に連れ去られて一日しか経ってない。しかも叔父は一年間放置していたとは言え親権を持ってるし、」
<魅音
「そんな回りくどいことなんか必要ないでしょッ!!
そんな野郎、待ち伏せてぶっ殺してやればいいッ!!」
<詩音
「詩ぃちゃん、そんなの駄目!! 悟史くんはそんなのを絶対に喜ばないよ!!」
「じゃあ沙都子をどうやって助ければいいんです!! 悟史くんに頼まれた、沙都子を頼むって頼まれた!! 私、沙都子に何かあったら悟史くんに顔向けできないよッ!!
沙都子が虐め抜かれた後じゃないと手が打てないなんて、そんなの方法じゃない!! 目の前で現在進行している犯罪はまず通報するの? 違うでしょう!! 止めなきゃ! 私たちの手で自ら止めなきゃ!!!」
「落ち着きなよ詩音……、」
<魅音
「お姉、園崎本家の頭首でしょ?! 本家の力で沙都子を助けてよッ!! できるでしょ?! 沙都子を一人を助けるくらいの力は充分にあるでしょお姉ッ!!
……わかってるよ、ダム戦争で遺恨が残る北条家には一切関わらないって鬼婆の方針なんでしょ?! 沙都子がどうなろうと見て見ぬふりというのが園崎本家の方針なんでしょ!! 児童相談所に助けられなくて園崎家にも助けられないなら、私がやるしかないじゃないですかッ!!
私はやるよ、沙都子を不幸にするヤツはぶっ殺してやるッ!!! 今すぐ殺してやる、この場から沙都子の家まで行って刺し殺すのに1500秒もかからないんだからッ!! あんたたちには1500秒で何ができる?! 何もできないでしょ!! 私が助ける、私が沙都子を助けるの!! 離してよ離してよッ!!
今から殺しに行くんだから、うわあぁああああ!!!」
<詩音
「詩音さん、お静かになさい! 物騒なことをこれ以上言うと怒りますよ!!」
知恵を巻き込み、仲間たちは沙都子をどうやれば救えるか過熱気味に議論していた。
………私はソファーに座ったまま、それをぼんやりと眺める。
…メンバーや場所は微妙に違うが、まったく同じやり取りを毎回見てきた。……そして今回もまったく同じだ。
……ひとつだけ同じでないところがあるとしたら、…状況の把握がほんの数日早いことくらいか。
「……………………梨花…。」
<羽入
「……大丈夫。………もう、何にも期待なんかしないから。………期待なんて、どこにも残ってない。」
<黒梨花
羽入は悲しそうな表情を浮かべる。
……袋小路に閉じ込められた私たちの運命を嘆いているのか、私の姿を見て哀れんでいるのか、…わからなかった。
■知恵の訪問(第三者目線。誰の目線でもないよ〜)
知恵は約束どおり、授業が終わるとそのままの足で沙都子の家へ出掛けた。
確かに沙都子が叔父に連れ去られてからまだ一日しか経っていない。
客観的に沙都子に何らかの危害が加えられたとも断言できない。
梨花があれほどに訴え、生徒たちがあれだけ騒がなければ、実際、知恵も2〜3日は様子を見ようとしたかもしれない。
だが、昭和57年の気の毒な状況を知恵も知っていた。
そして叔母と同じように沙都子を虐めていたことも知っていたし、叔父が一年間失踪して沙都子を放置していたのも知っていた。
それを加味すると、例え昨日の今日であっても、決して性急に過ぎるということはないのかもしれない。
今日、沙都子は登校しなかった。
その欠席の連絡もないし、電話しても誰も出なかった。
……普通に考えて、沙都子の叔父が親権者として義務を果たしているかは大いに疑わしかった。
電話に出ないというだけではそれを決め付けられず、知恵はこうして直接やってきたのだった。
知恵は路肩に自分の車を停めると、初めて見る沙都子の家と、学校から持ってきた地図を見比べた。表札にも北条とある。間違いなかった。
二階の窓が開いていて、カーテンが風に揺れていた。
その窓からは中年の男たち何人かの笑い声が漏れてきている。
…訪問の電話をついさっき掛けた時には誰も出なかったのに。
笑い声と共に時折ガラガラ聞こえる音は、きっと麻雀牌を混ぜる音なのだろう。
知恵は麻雀の経験はなかったが、男の人数と笑い声の調子からきっとそうに違いないと思った。
麻雀をやっているということは、叔父と同格の男性が他にも3人いるということだ。
それに、生徒たちからいかに叔父が乱暴な存在かさんざん説明されてきている。
……知恵は教師ではあるが、同時に若い女性でもある。
粗暴さを感じさせる笑い声に、呼び鈴を押そうとする指が一瞬だけ躊躇した。
でも、知恵の正義心がそれを一蹴した。ぐっと覚悟を決め、呼び鈴を鳴らす。
家の中にチャイムの音が響き渡るのがうっすらと聞こえた。
だが、二階から聞こえる笑い声は変らず、チャイムは聞こえてないように感じた。
改めてチャイムを鳴らすと、笑い声が一瞬途切れた。
多分、誰かが音に気付いてくれたのだろう。…だが、すぐに笑い声が戻り、ガラガラという音も聞こえだした。
……階段を下りてくる音もしないし、呼び鈴に応えて返事をする様子もなかった。
一瞬の沈黙は呼び鈴が聞こえた反応だと思ったのだが、そうではなかったのだろうか?
いるのは間違いないのだ。呼び鈴を鳴らしたけど誰も出てきませんでしたでは帰れない。
知恵は覚悟を決めると、ノックしながら大声で二階に呼びかけた。
「こんにちはぁ…! 北条さん、いらっしゃいませんかぁ!!」
三度目にしてようやく二階から聞こえる声は止み、ぬっとガラの悪い大男が顔を覗かせた。
「何じゃいねおどれは。
やかましか、とっと失せぇッ!!」
いかにも面倒臭そうで機嫌の悪い怒鳴り声に、知恵も一瞬怯んだが、すぐに教師としての強い責任感が胸の奥より込み上げた。
「こんにちは、北条さんでいらっしゃいますか? 私、」
知恵が名乗るより前に鉄平は怒鳴り返した。
「やかましかああぁッ!!
新聞も牛乳も保険も間に合っとんね!
わしゃあ今、むっちゃん忙しいんよ。仕事中じゃいね。」
仕事中という言葉で、部屋の中にいるだろう仲間たちがゲラゲラと笑った。
だが知恵はもう怯まない。脅し文句に構わず先を続けた。
「私、興宮分校教諭の知恵と申します…! 北条沙都子さんはいらっしゃいますか。」
「あぁん? 何じゃいおどれ。何でおどれに沙都子会わせにゃならんね。」
「今日、北条さんが学校をお休みしましたけれど、連絡がなかったもので何かあったのかと思いお伺いさせていただきました。」
「ああぁん…? 学校ぉ…?」
「はい。沙都子ちゃんはいますか? ちょっとお話したいことがあるのですが。」
「あぁん、…風邪なんねぇ、そうそう。…沙都子は風邪で熱ぅ出してるんですわ。」
「プリントとかをお渡ししたいですので、ちょっとだけお話することはできませんか?」
「どあほう。おどれ話、聞いてなかったんかい。
沙都子は風邪じゃ! うんうんうなっとるんね!! それを会わせられるかいボケぇ!!」
「そうですか…。明日は登校できそうですか?」
「知るかいなッ!! そんなもん、明日になってみなきゃわからんわ!! このクソボケ!!」
「……………………そ、…そうですか。…わかりました。では沙都子ちゃんによろしくお伝えください……。失礼します…。」
知恵が頭を下げてもう一度見上げた時には、もう鉄平の顔は引っ込んでいた…。
知恵が学校に戻ってくると、教室から生徒たちが何人か飛び出してきた。
圭一にレナ、魅音に詩音だった。
飛び出しては来なかったが、教室には梨花もいるようだった。
「せ、先生、…どうでしたか?」
<レナ
「沙都子のとこに行って来たんですよね?」
<魅音
「皆さん、それが聞きたくて待っていたんですか…。」
<知恵
「知恵先生、沙都子はどうでしたか、無事でしたか…!」
<圭一
「………それがその、………会わせてもらえませんでした。」
<知恵
「あんた何しに行ったんですかッ!! 教師でしょ?! ガキの使いじゃないんです、会えませんでした、そうですかで帰ってきちゃ意味ないじゃないですかッ!!」
<詩音
「や、やめなよ詩音…! そんなこともあるだろうって予想できたことだよ…!」
<魅音
「どうせ沙都子の顔に青あざがあるに決まってます! だから会わせられないんです!! そこは無理やり押しのけても家の中に踏み入るくらいしなきゃ駄目なんです!! だからもぅ先生なんて信用できないって言いました!!」
<詩音
「……本当にごめんなさい。」
<知恵
「やめなよ詩ぃちゃん。先生はできる範囲の最善を尽くしてくれたよ。」
<レナ
「だが、これで本当にはっきりしたな。……その沙都子の叔父ってヤツが、沙都子を家に閉じ込めているってのはどうやら間違いないみてぇだ。」
<圭一
「そんなの確かめる前からわかってます! 梨花ちゃまがそうだって昼間っからずっと言ってるじゃないですか! それを確かめるだけに半日費やしたんですよ?! それでどうするんですか、どうやって沙都子を助けるつもりですか!!」
<詩音
「だから落ち着きなって…! それをみんなで考えようよ。詩音が沙都子のことを大事だと思うように、私たちだって大事に思ってる! 決して見殺しになんかしない、私たちにできることを考えようよ…!!」
<魅音
「そうですね、私はもう考えて提案しましたよ? 私がたったひとりで、今日中に決着できるものすごくお手軽な方法です。死体を隠すとこだけお姉の力を借りますが、」
「だから詩ぃちゃん!! 物騒な話をするのはやめて…!! 詩ぃちゃんは人殺しのことを簡単に考えすぎなの!! 人を殺せば解決できるなんて考え方は、およそ思いつく考えの中で最低の最低、本当の最低のことなのッ!!」
「なら他に提案をしてみてくださいよ!! 私の提案が最低の最低なら、私よりほんのちょっぴり上等な程度でいいですから代案を聞かせてください!! ほら! ほら!! ………何も言えないじゃないですか!! 私なら1500秒で沙都子を救える! お姉の力なんか借りられなくてもいい、死体なんか私が引き摺って、鬼ヶ淵の沼にでも放り込んでやる! ほら、提案してくださいよ、これより早くてすぐに沙都子を救える方法をッ!!」
<詩音
「だからそうじゃないの!! 一人で悩んだらそんなことしか考えられないの!! ならはっきり言ってあげるよ。1500秒? 掛かり過ぎでしょそんなのッ!! 私なら1000秒掛けないよ!! 詩ぃちゃんなんかみたいにグチグチ言わずに黙って教室を出て行ってもう実行してるよ!! 何でそうしないと思う? 昔、誰かに教えられたことがあるの。例えそれしか方法がなかったとしても、……殺人に訴えるのはいけないこと。正しいことじゃない、最善手なんかじゃないのッ!! それしかないと思ってしまうことが、一人で悩むことの限界なの!!」
遠い昔、…誰に教えられたのかも思い出せないけど、私は確かに教えられたよ。
何か大変なことがあったり、辛いことがあったりした時は一人で悩んじゃいけない。
一人で考えた短絡的な手段を最善の解決策だなんて誤解しちゃいけない。
「みんなで考える、みんなで悩む!! 確かに今この瞬間は詩ぃちゃんの短絡的な提案に対する提案をできないけど、私たちがみんなで考えれば、絶対にそれよりいい解決策が見つけられるよ!!」
<レナ
「いいとか悪いとかの問題じゃないです。
一分一秒でも無駄な時間を費やせば、沙都子がどんな乱暴をされるか考えればいいじゃないですかッ!!
北条って姓がそんなに憎らしい? 悟史くんや沙都子がどんなに辛くても誰も手を差し伸べないの?!
私が助ける、御託なんてもうたくさん!! そこをどいてよ! そこまで言うなら今から行ってくる、あいつをさくっと殺して沙都子を助け出してくる!!」
<詩音
「だ、駄目だよ詩ぃちゃん、詩ぃちゃんッ!!!」
<レナ
「お前たちは呪ってろ! 自分たちの無力さをいつまでも!! そして寄り集まって、思いつきもしない妙案を議論し合えばいい! そうして沙都子のために何かしているという免罪符を得ながら、沙都子を緩慢に見殺しにしていけばいい!! あんたたちは誰も沙都子のことを大事に思ってないんだ!! 沙都子のことなんか遊び友達だとしか思ってないんだ!! 私は違う!! 沙都子は友達以上!! 家族だとすら思ってる!! あんたたちとは沙都子を大事に思う心が違うの!!! じゃあね、殺してくるね!! さよなら!!」
「…………待ちな。」
<圭一
「何よ、邪魔する気ですか…!」
「……詩音。お前、レナの言ったことが半分も理解できてねぇだろ。」
「半分どころかお釣が来るくらいに理解してますよ。殺しをするほんのちょっとの度胸があればすぐに救えるのに、それを綺麗事で誤魔化す偽善の話ですよね?!」
「………詩音。お前が人殺しをしてまで沙都子を救ったとして、…沙都子は感謝すると思ってるのか…?」
「感謝がほしいわけじゃないです。別に私は刺し違えてもいい。それで沙都子が幸せになれるなら本望なんですから!」
「違うな。口先の威勢はなかなかいいが、お前には刺し違える度胸なんかありゃしねえな。
その証拠に、お前はさっき魅音に死体を隠すのを頼みたいようなことを言ったじゃねぇか。それはつまり、刺し違えたくない、叔父をぶっ殺した後、元の平穏な生活に戻りたいって願望の表れじゃねぇか。お前が本当に望んでいる世界は、ついこの間までの世界。俺たちみんなが仲良く楽しく過ごしていたあの世界への回帰なんだ。だがな、お前が殺人を犯せば、絶対にその世界へは戻れない!! そうそう簡単に完全犯罪なんかができると思うなよ、お前は絶対に逮捕される!!」
「それくらい覚悟の上です!! 沙都子の苦しみを私が懲役で代われるなら本望です!!」
「違うな違うな、絶対にそれは違うな!!
お前は自分を呪うぜ、賭けてもいい。どうして自分が殺人なんて貧乏くじを引かなくちゃならなかったのか、未練がましく自分を呪うんだ。そしてその時になってようやく、詩音が本当に求めていたことに気が付くんだよ。
それは叔父を殺すことじゃない、みんなと元の世界に戻ることだ! そしてそれは殺人を犯すことで台無しになってしまうんだよ!!
そしてお前が自分を呪うように沙都子も自分を呪うだろうな。自分が原因で詩音が殺人を犯すはめになったとずっと後悔すると思う。……第一、お前がいなくなったら、誰が沙都子にカボチャを食わせるんだよ?! 誰が沙都子と陰険なトラップの相談をするんだよ?!
お前だろ?! 園崎詩音だろッ?! お前が本当に目指す世界には、お前が沙都子の脇にいなければ駄目なんだよ!! そこを間違えるな!! 沙都子のためだと錯覚して、自ら取り返しのつかない間違いを犯すんじゃないッ!!!」
「そこまで言うなら、圭ちゃんは沙都子を救う方法を何か提案できるんですか?
できないでしょ!! 口先だけの綺麗事で私の邪魔立てをするなぁ!!! だからそこを退いて!! 殺す! 私が今から殺しに行く!!」
だが圭一は教室の出口の前で立ちはだかる。
詩音が憎々しげに睨み付けるが、圭一はむしろ不敵に笑うくらいだった。
「詩音を行かせるわけにはいかねぇな。俺たちの望む世界は、詩音が欠けたら成立しない。だから俺はお前を行かさないぞ。」
「ほう、そうですか。なら圭ちゃんは北条鉄平を庇ってるってわけですね。なら同罪だ、お前から先に頭を叩き割ってやるッ!!!」
「ちょっと!! 馬鹿、詩音!! やめなよ!!!」
<魅音
「詩音さん! その椅子をどうするつもりですか!! やめなさい! 椅子を床に置きなさい!!」
「圭ちゃんが、この期に及んでまぁだ、私が本気だってわかってないなら、マジで血ぃ見ます。
謝んなくていいですからとっととどきやがれってんです。」
「詩音、確かに今この瞬間、俺はよりいい提案をできない。でも、それは今思いついてないだけのことだ。
俺たちはきっときっと沙都子を助けるもっとマシな方法を考え出す!! 絶対にだ。絶対に俺たちが沙都子を救う。だから、な? 信じろ、仲間を。」
「仲間である沙都子のために手を汚せない連中に、沙都子を仲間呼ばわりされたくないです。もう一度は言わない!! そこをどきやがれッ!!!」
「詩音こそ頭を冷やして考え直せ!! 俺たちはきっと沙都子を救える! それを信じろ!! だから短絡的な考えに走るんじゃない!! 仲間を信じろ!! 仲間呼ばわりされたくないってんなら、俺を信じろ!! 前原圭一が必ず沙都子を救う! だからそいつに賭けてみろ!!!」
「黙れ無力!!! お前なんか信じられるか!! お前にどうやって沙都子が救えるというのか!!」
「……し、詩音ッ!!!」
<魅音
詩音は手にした椅子を圭一目掛けて投げつけた。
それは圭一に当って跳ね返り、騒々しい音を立てながら床に転がった。
だが、打ち付けられたはずの圭一は、何事もなかったかのようだった。
顔を庇おうともせず、出口の前に立ち塞がっただけだった。
いや……、何事もなくはない。
…椅子の角で怪我をしたのか、額に一筋の血が浮いた。
「へへ、堪えねぇな…!! その程度で俺が道を譲ると思ったかよ!!
殺されたって俺はここをどかねぇぞ。お前を行かせれば、詩音のいない世界になる。
その世界では…いなくなったお前のことをずっと思って、毎日俯いている沙都子がいるんだ。俺たちがどうやって慰めても、その場だけは元気そうにするが、…すぐにまた俯いてしまう。……そんな悲しい世界があるんだ。
俺は沙都子にそんな悲しい世界を見せたくない。俺や俺たちが描く世界は、昨日までがそうだったように、みんなで楽しく過ごして暴れて遊べる、あの世界だ!!
もちろん叔父の野郎なんかに二度と沙都子を脅かさせるような真似をさせない!! それがどういう方法なのか、今この場では確かに思いついていない! でもそれは絶対に思いつく!! 絶対だッ!! だから! 俺を、信じろッ!!!」
「…………………。」
詩音は納得しかねているようだったが、……うな垂れ、窓際の席まで立ち去ると着席し、窓の方を向いて顔を背けていた。
立ち塞がっていた圭一の肩が大きな手が叩かれる。
……いつの間にか圭一の後には校長が立っていたのだった。
「……校長先生。」
「よく堪えた。………知恵先生、一部始終は聞かせてもらいましたぞ。」
「…私が至らぬばかりに…、申し訳ありません…。」
「昨日の今日の出来事ではあるが、わしももはや猶予のない事態だと思っておる。然るべきところへすぐに連絡するべきであろう。」
「でも校長先生、児童相談所には過去にも相談したことがあって…、」
<魅音
「どうせ助けてなんかくれませんよ! 他力本願もいいとこです!」
<詩音
詩音が窓の方を向いたまま怒鳴った。すると、校長が詩音の方を向いて言った。
「園崎詩音くん。私は言葉の中でもっとも憎むべきものがあるのを知っている。それが何かわかるかね? ………今、君が言った“どうせ”という言葉だ。どうせという言葉は、戦いもせず負けを認めるもっとも醜い言葉だ。その言葉を口した時すでに、戦いには負けておるのである!」
「…私も校長先生の意見に賛成。
どんな策があるにせよ、頼るべき順序があると思うの。児童相談所に相談するのは、多分、一番最初にするべきことなんだと思う。それで駄目なら、二番目の手、三番目の手を考えればいい。試しもしない内から諦めるのは、私は見殺しにするのと何も変らないと思うから!」
<レナ
「校長、もちろん通報するからには…!! 絶対沙都子を助けてもらえるように言い含めてくれるんですよね?!」
<圭一
「無論だ。北条くんはわしのかわいい教え子である。きっと助けてもらえるよう、わしにできる最善を尽くす。」
「児童相談所は迅速ですから、今から通報すれば、きっと今夜にはもう動いてくれるでしょう。」
<知恵
「それで…沙都子が救われればいいんだけど…。もしもまた様子見なんてことになったら……。」
<魅音
「それが駄目だったら、次の手を考えようよ。私たちが諦めない限り、絶対に沙都子ちゃんを救えるんだから。」
<レナ
「ははは、あっはっはっは! いつまでも綺麗事を言っててください! そうしてのんびりしてる内に、沙都子は癒しようのない心の傷を負うんです!! 見殺しにしてるのはどっちなんですよ!!」
<詩音
「詩音。俺はさっき約束したからな。
俺たちは絶対に沙都子を救う!! それもお前みたいに刺し違えてでもなんて話じゃない。沙都子が本当に幸せになれるような、最高の形で救い出して見せる。
見てろ、絶対だからな。前原圭一が、絶対と言ったらそれは絶対なんだッ!!」
詩音は圭一の方を向こうとはせず、相変わらず、頬杖をついて窓の外を向いているだけだった。
「……園崎家の方で、児童相談所がどういう判断を下すか確認するよ。わかったらみんなに電話するよ。」
<魅音
「それで無事、保護されることに決まれば最高だからな!」
<圭一
「もちろん楽観はできないね。様子見になる可能性が一番高いね。そうなったらどうする?」
<レナ
「………その時は、…むむむ、……くそ…!」
<圭一
「知恵先生。職員室に行きましょうぞ。さっそく電話をしましょう。」
<校長
「…えぇ。よく説明しないといけません。」
先生たちは教室を出て行く。
圭一とレナと魅音は三人で集まり、今後のことを協議していた。
…詩音はいつの間にか突っ伏して、泣いていた。
……梨花は。
さっきからの教室でのやり取りを、付けっぱなしのテレビに映る、タイトルも知らないドラマでも見るような、そんな退屈そうな目で見ているのみだった。
■ここから梨花目線〜
………………何も変らない。
児童相談所に通報したって、様子見に決まる。
数多の世界で毎回様子見だったのだから。
今回くらいは緊急保護ということになってくれないかと、低い確率の出目を期待しそうになる。
……でも、そんな勝ちの薄い目に賭けるコインはもう1枚も残っていなかった。
以前の世界では圭一が叔父の殺害に踏み切ったけれど、……あの世界には詩音はいなかった。
…詩音がいると、どうもその役は詩音になるらしい。
圭一たちの淡い期待は明日の朝には裏切られてる。
今夜、保護司とやらが沙都子の家を訪れ、沙都子は虐待を否定、保護司はあっさりと様子見を決める。
……そして、叔父は沙都子が通報したものに違いないと思い、ますます乱暴になっていく。
保護司の手前もあるから、明日からは沙都子も登校するようになるのだろう…。
でも、……瞳から輝きを失った、屍のような沙都子を見れば見るほどに、…私たちはさらなる無力さを味わうだろう。
この村で一番力を持ち、百年以上を生きる魔女である私にすら、過去に一度も抗えなかった運命、叔父の帰宅。
あれだけの強運と幸運に恵まれ、今度こそ覆せるかに見えて、……結局、何ひとつ運命に抗うことなどできなかった私。
どうせ足掻いても無駄な世界。……くだらない、くだらない。
そう思えば思うほどに、沙都子を救おうと滑稽な議論を延々と繰り返す彼らの姿が、どうしようもないくらいに悲しくて、滲んで見えるのだった…。
■幕間
■TIPS4 出鼻に釘
鉄平にとって、雛見沢に来たのはほとぼり冷ましだった。
とりあえずはこの夏、もしくは暮れまでここで過ごし、様子を見よう。
賭場や盛り場でしか生きられない鉄平にとって、雛見沢の家など隠居もいいところだ。
愛人のリナが突然失踪。
しかもどうも噂では相当ヤバい話に手を出したらしい。
……すでに捕まってバラされたとも聞く。
リナと自分が同棲しているというのは、この界隈では誰もが知る話だった。
だから、この件の一部始終を知っているものと誰もが思い、何かうまいことをやって大金をせしめたと勘違いしていたり、あるいは何やら物騒な連中に絡まれたり。
興宮でだいぶ過ごしにくくなってしまったのだ。
それ以上に、リナが自分に隠れて他の男たちと何か企んでいたらしいというのが気に入らなくて、興宮を出たのだった。
となると鉄平が戻る先は雛見沢だけだった。
昔、自分と女房が住んでいた家は、沙都子たちの家に移ってからは放置しているのでとても住めたものではない。
…そもそも鍵を持ってない。
だが沙都子の家の方なら、今も住んでいるだろうし、何しろ家事は沙都子がやってくれるから気楽なもんだ。
鉄平は炊事も洗濯もできなかったし、もちろんする気もなかった。
リナには時々反抗的なところがあり、次に誰かと同棲するなら、従順な言いなりのペットみたいなヤツがいいと思っていただけに、鉄平にとっての沙都子はその条件を全て満たしていると言えた。
乳臭い小娘なので食指は動かないが、背中でも流させたらそれはそれで楽しいかもしれない。
そういえば、事故で死んだ沙都子の母は美人だったっけ。
沙都子もあと4〜5年も飼えば見違えるような美人に育つかもしれない。
そんな下世話なことも考えながらの帰宅だった。
家に鍵が掛かっていたので、買い物だろうと思い商店街をうろつき、その姿を見つけ、無理やり連れ戻したのだった。
家を開けさせると、中は埃まみれ。
聞けばこの一年間、他の友人のところで寝泊りしていたそうで、家は放ったらかしだったという。
鉄平は自分勝手にもそれに怒った。
留守を守るのが沙都子の役目だと怒鳴った。
叩いて蹴って、床を転がしてやった。
……そうしている内に、沙都子の表情は、いつの間にか鉄平がよく覚えている昭和57年のそれに戻っていた。
沙都子は文句ひとつ言わず言うことに従うようになり、まずは家の掃除を命じた。
新しい住処に新しい女。
新生活は、ほとぼりを冷ますだけにしては上々の滑り出しだった。
機嫌をよくした鉄平はそれを自慢したくて、仲間たちを呼び自宅で麻雀をした。
酒やツマミの世話をさせて見せ、新しいペットだと自慢した。
ペットだから四つん這いで歩いて見せろと言ったら嫌がった。
でも殴る素振りを見せたらすぐに従った。
みんなは笑ってくれて、羨ましがってくれた。いい気分だった。
だが、鉄平の上機嫌はすぐにケチがついた。
「私、興宮分校教諭の知恵と申します…! 北条沙都子さんはいらっしゃいますか。」
保険か何かの勧誘がうるさいと思ったら、若い女性の訪問だった。
しかもそいつは学校の教師だと名乗った。
「あぁん? 何じゃいおどれ。何でおどれに沙都子会わせにゃならんね。」
「今日、北条さんが学校をお休みしましたけれど、連絡がなかったもので何かあったのかと思いお伺いさせていただきました。」
「ああぁん…? 学校ぉ…?」
「はい。沙都子ちゃんはいますか? ちょっとお話したいことがあるのですが。」
「あぁん、…風邪なんねぇ、そうそう。…沙都子は風邪で熱ぅ出してるんですわ。」
「プリントとかをお渡ししたいですので、ちょっとだけお話することはできませんか?」
「どあほう。おどれ話、聞いてなかったんかい。沙都子は風邪じゃ! うんうんうなっとるんね!! それを会わせられるかいボケぇ!!」
内心、面倒なことになったと思った。
鉄平にとって、沙都子はペット以上でも以下でもなく、そもそも登校させるという概念が欠落していた。
しかも、一日登校させなかっただけで教師が家まで押し掛けてくるとは。不愉快の極みだ。
鉄平は学校も教師も偉そうなヤツらは全部嫌いだった。
「そうですか…。明日は登校できそうですか?」
「知るかいなッ!! そんなもん、明日になってみなきゃわからんわ!! このクソボケ!!」
「……………………そ、…そうですか。…わかりました。では沙都子ちゃんによろしくお伝えください……。失礼します…。」
とりあえず追い返せたようだが、沙都子を学校に行かせないと色々とうるさそうだ。
鉄平はここで短からぬ時間を過ごすつもりなのだから、変なトラブルは避けたかった。
つまり、今後は安易に沙都子を殴れないということだ。
暴力は鉄平の最大のコミュニケーションだ。それを禁じられるのは実に不愉快だった。
不愉快さでますますに沙都子に八つ当たりしたくなるが、殴るときっと跡になる。
跡になれば登校させられなくなる。
登校させないとあの女教師がまた来る。………くそ。
しかも、夜には児童相談所まで来た。
……あの女教師が通報したに違いない。
あのアマ、今度見かけたら親でも見分けがつかないようなツラにしてやる…!!
取り繕ったように沙都子との仲を示すと、沙都子は自分を怖がっててくれるのか、あっさりと仲良しと風邪であることを演じてくれた。
…昨日の今日、ちょっと脅しをかけただけでここまで簡単に屈服してくれるものなのか。
鉄平は改めて沙都子が便利なペットであることを知ると同時に、……児童相談所などというところに睨まれて、今後は色々とやりにくくなりそうだと感じていた…。
「…ああん、ごんまん、おもろないんばっかね!!」
*
■5日目(圭一目線)その夜。魅音から電話を受ける圭一
「…畜生、沙都子の馬鹿…!!」
「…………まぁ、多分そうだろうとは思ったんだけどね…。」
深夜に魅音から電話が来た。
児童相談所は学校からの連絡を受けて、さっそく今夜、沙都子の家を訪問したらしかった。
保護司は実際に叔父と沙都子の二人に会って話をしたという。
叔父は、沙都子が今日登校しなかった理由は風邪のせいだった。
学校へ連絡しなかったのは電話番号がわからなかったから。
知恵先生に対してまともに話し合おうとしなかったのは、先方の受け取り方の問題で、自分は普通に対応したつもりだと釈明した。
沙都子は積極的に話すことはなかったが、叔父が言うことに相槌を打ち、否定するようなことは言わなかったという。
「で、沙都子も一緒に虐待なんかありません、助けなんか必要ありませんって答えたわけか…。」
「うん。……沙都子は、悟史がいなくなったのは自分に耐える力がなくて兄に甘えすぎたせいだとずっと後悔していた…。だから…、」
「誰の助けも借りずに耐え忍ぶことが、一年前の自分への罪滅ぼしになるなんて思ってるってのか?! ……くそ、馬鹿が!!」
「保護司の人の初見では、少なくとも沙都子に目立つ外傷は見当たらなかったから、緊急性の高い虐待を受けているようには見えなかったって。聞き取りの結果、衣食は与えられてるようだし、寝る場所もあったし…、」
「そんなのは当り前じゃねぇか。衣食も寝る場所もなくならないと虐待とは呼ばれないってのかよ!」
「……まぁ、そういうことらしいね。そういうケースではそもそも面会も拒否されるらしいから、面会できた時点で、相談所は緊急性がないと判断したみたい…。」
「ち、結局は様子見ってことかよ…。詩音のヤツ、がっくり来てただろ。」
「…………うん。沙都子が悟史に義理立てして助けを求めないように、…詩音も悟史に義理立てして沙都子を救おうと躍起になっているとこがあるから。……短気を起こそうって気はとりあえずなくなったみたいだけど…。……がっくりしてるよ。」
「…今この場で愚痴っても仕方ねぇが…。悟史は本当にどこに行っちまったんだよ。妹の危機だってのに、どこに行っちまったんだ。」
「…………わからないとしか言えないよ。」
「そうだな。……すまん。悟史が帰ってきてくれれば悟史が解決してくれるだろうなんて、それこそ詩音の言うとおり。他力本願の極みだぜ。誰かが助けに来てくれるのを期待するんじゃない。助けるんだ、俺たちが!」
「そうだね…。私たちにできる努力をしないといけないよ…。」
「しかし、園崎家もさすがだな。今日訪問したばかりの保護司の見解を、その晩にはもうキャッチしてるってんだからさ。児童相談所の中にスパイがいるとしか思えないな。」
「くっくっくっく! まぁまぁ、そこは国家機密ということで。」
「……ってことは、その人は児童相談所の内部、もしくは相当詳しい人なんだろ? その人は今回の件、どうするのがベストだとか助言はくれなかったか?」
「うーーー…ん。……熱くならずにしばらく様子を見てみようって言われちゃったよ。」
「何だよそりゃあ。魅音、お前、沙都子がどういう状況か話したんだろ?! 叔父に監禁されて虐められてて、学校にも通わせてもらえないのがどうして様子見なんだよ!!」
「えーっと、……うーーん、……。圭ちゃん、これは私が言ったんじゃないからね? その人が私に言ったことをそのまま言うんだから誤解しないでね? えっとさ、………確かに沙都子が今日、登校しなかったのは事実だけど、…でも一日だよ? 一週間や一ヶ月というならともかく、一日じゃ本当に風邪の可能性も否めないよ。」
「でも、虐待されてるんだぞ?! 沙都子の体や心に消せない傷が残るまで放置しろってのかよ!!」
「待って圭ちゃん、そこなんだよ…。私たちは去年の沙都子がどういう状況にあったかよく知ってるから危機感を持ってるけど、……実際、昨日今日で沙都子は何の虐待も受けていない。客観的に見て、現時点で沙都子が虐待を受けているとはとても言えないんだよ。」
「た、確かに殴られて青アザがあるとか、そういうのはまだないかもしれないけど、時間の問題だろ!! それに、梨花ちゃんと二人で暮らしてるのを無理に家に連れ戻したのだって虐待とは言えないのかよ…!!」
「えっと…それは昨日私たちで話した時に出たとおりだよ…。親権者が子どもを保護すること自体は自然。………だからさ、客観的に見て、沙都子が虐待を受けているとは言えないんだよ…。」
「虐待が起こる前に食い止めなきゃしょうがねぇじゃねえかよッ!! ……って、魅音に怒鳴ることじゃねぇな、すまんすまん。」
魅音が言ってるわけじゃないのに、魅音に言われたかのように勘違いしてつい声を荒げてしまった。
…魅音が少し狼狽したのを感じ取り、俺はすぐに謝る。
「私も、去年の沙都子がどういう仕打ちを受けていたかよく説明したんだけど…。去年の通報も様子見で解決してるわけだしね…。」
「去年の虐待を解決したのは4年目の祟りだろ? 別に相談所が解決したわけじゃねぇけどなー。」
「あははははは…。でもとにかく、…去年の件を含めても、相談所はそのくらいの危機感しか持ってないってこと。私たちと相談所の温度差がどうも敵みたいなんだよ…。」
「……わかった。とにかく、最初の手は打ったもんな。次の手はすぐに考えようぜ。明日は全員で会議しよう。俺たちは最強の部活メンバーだぞ。今までもっと条件の悪い戦いを遊びのように潜ってきたさ! 俺たちは絶対に沙都子を救い出す!!」
「うん…!」
話してる内に、相談所の様子見という見解に対する怒りも少し薄れた。
……こういう結果はすでに充分予想されていたことだしな…。
少し感情に任せて言葉をぶつけてしまったところもあったが、魅音はそんなに気にしないでくれたようだった。
魅音は普段はふてぶてしいくらいにタフなヤツだが、…こういう時には打たれ弱くなることに俺は最近気付いていた。
だから変にヒートアップして魅音に感情をぶつけないよう、ぐっと堪えなきゃいけない。
俺たちの敵は鉄平ただ一人。
感情のままに仲間を怒鳴るなんて、戦意減退、利敵行為もいいとこだ。
そうだよ、俺は時々忘れそうになるが、魅音だって女の子なんだ。
非もなく怒鳴られたら傷つかないわけがない。
…俺は時々感情のままに八つ当たりすることがあるようだ。
このような非常時だからこそ、そんな悪い癖は絶対に抑えなければならなかった。
俺一人に出来ることは、多分、詩音の提案した乱暴な解決法が関の山だ。
だがそれは沙都子の幸せにはつながらないと断言できる!
それに俺たちは最強の部活メンバーだ。
俺の実力なんかメンバー中では下の下。
だからこそ、みんなと連帯しなきゃいけない。連帯すれば、必ずや妙案が浮かぶはずだ。
それを俺一人にたった今、思いつくことはできないけれど。
……三人集まれば文殊の知恵って昔から言う。絶対に、俺一人が悩むよりいい手が思いつく!
「じゃ、私はこれから梨花ちゃんに電話するよ。圭ちゃんはレナに電話してくれないかな。」
「おう、わかったぜ。………レナか。今日のあいつ、詩音と堂々やりあってたな。それに、いいことも言ってたぜ。土壇場で骨のあるヤツだよな。」
「うん。レナは昔からここ一番では絶対に曲げないんだよ。でも、いいことなら圭ちゃんも言ってたよ。ちょっとカッコ良かったかもだね! くっくっく!」
「今さらだが、ちょいと照れることを言っちまったように思うなぁ…。何だか恥ずかしいぜ、へへへ。」
「うん、じゃあこれで切るね。レナもきっと連絡を待ってると思う。申し訳ないけどよろしく頼むね!」
「おう。梨花ちゃんの方にもよろしくな。……誰もが辛いが、多分、梨花ちゃんはもっともっと辛いと思う。」
今日一日、梨花ちゃんはずっと諦めたような顔で俯いてるだけだった…。
それがどれほど痛々しい姿だったか、思い出すだけで辛くなる。
………そして、今の沙都子はそれ以上に辛い表情を浮かべているはず…。
魅音はそれで電話を切った。
俺も一度受話器を置き、レナに電話した。
……呼び出し音が二度もならない内に受話器が取られてちょっと驚く。
「もしもし、レナか?! お前、受話器の前でずっと待ってただろ。」
「うん。なかなか連絡がないし、魅ぃちゃんのところに掛けても話し中だしで、困ってたんだよ。」
「その話し中は多分、俺と電話をしてたからだろう。魅音は今は梨花ちゃんに電話してくれてる。役割分担ってことで、レナには俺から伝えるように言われてる。だから俺が状況を説明するぜ。」
「うん。相談所の人は、やっぱり様子見?」
「…あぁ。残念だがそういうことらしい。」
「……すっごい悔しいけど、多分そうだろうと思ってたからね…。向こうの言い分はこう? まだ一日しか経っていないから状況が掴めない。今日の欠席も本当に風邪かもしれないし、沙都子ちゃん自身に特に虐待の痕跡は見つけられなかった。……こんなとこかな?」
「お前、俺ん家に盗聴器つけてるだろ…。そうだよ、まさにその通りだよ。まったく糞っ垂れな話だぜ。」
「まだ一日しか経ってないって、本当に嫌な言い方だね。虐待が起こってしまったら、その時は手遅れだと言うのに!」
「虐待が本当に起こったら、沙都子はきっと誰が見てもわかる外傷を負う。……そうなったら、叔父のヤツ、沙都子を保護司に会わせるわけがない。そうなったらそうなったらで、またしても虐待の痕跡は発見できないって言って様子見だ。」
「それってすっごい矛盾だよね…。」
強制で立ち入るには裁判所の許可がいるそうで、それの申請は容易じゃないらしい。
だから、保護司には法律上、大きな力があるとされてるけど、実際は家人に拒まれたら、どうにもできずお手上げらしい…。
保護司は警察じゃない。
窓ガラスを割ってでも飛び込むような人たちじゃないってことだ。
くそ、その窓ガラスは誰なら割れるんだよ!
俺たちに割れるものなら叩き割ってやりたい!
「とにかく、連中には危機感が足りねぇんだよな。このまま沙都子を放っておいたら、どういうことになるかがわかってないんだ。」
「………あはははは。圭一くんって、ちょっとすごいなって思う。」
「ん、どうしてだ?」
「だって、……圭一くんって、転校してきたばかりなんだよ。沙都子ちゃんと知り合って半年も経ってないはずなのに。……これだけ親身になって沙都子ちゃんのことを考えることができて。……そして、去年の沙都子ちゃんがどんな状況だったか見たことがないにも関わらず、……沙都子ちゃんがどんな辛い思いをしたか想像することができる。……圭一くんが普通の人だったなら、多分、私たちが騒ぐのに対し、きっとこう言ってるよ。『まだ一日目だろ、しばらく様子を見てみようぜ』って。」
「……………そんなのちょっと想像しりゃわかることじゃねぇかよ。…それにみんなから去年の沙都子がどうだったかってことは、少なからず聞いてる。それから考えれば、一刻の猶予もないことなんて簡単に想像がつくよ。」
「あはははは…。それはきっと、すごいことだと思う。……今日、詩ぃちゃんが乱暴なことを言いながら教室から出て行こうとした時、圭一くんはそれを許さなかったよね? そして圭一が言った言葉が深かった。」
人殺しをしてまで沙都子を救ったとして、沙都子は感謝すると思ってるのか。
「なかなか男の子が言えることじゃないよ。……それどころか、あはは、ごめんね? 詩ぃちゃんが言い出すようなことは、圭一くんが言い出すんじゃないかと思ってた。」
…………さすがレナ。深いところまで見抜いていた。
実は、……詩音が大騒ぎしてくれたから、俺は逆に冷静になれたのだ。
…俺も、殺すしかないと思っていた。
何を躊躇うことがあるのか、今すぐ叔父をぶっ殺せば万事解決じゃないか。自分も実はそう思っていた。
………それで実際に、どうやって殺すか考えてみたんだ。
金属バットか何かで襲うだろう。
襲う前に下見をし、予め死体を生める穴を掘っておく…。
それを想像した時、想像の中の俺は確かに雑木林の中でキャンプ用のスコップで穴を掘っていた。
……沙都子のため沙都子のためと呪文のように繰り返し、殺人の重大さを忘れようとしていた。
その時の、疲労感、焦燥感。
………そして、汗でびっしょりになる感じと、それにまとわりつく蚊の感触まではっきりと想像できた。
そして俺はきっと、電話か何かで呼び出し、家から出てきた叔父を……撲殺する。
俺は殺人という罪の意識を、沙都子のため沙都子のためと繰り返し、沙都子のせいにしながら罪の深さを見て見ぬふりをしようとする。
そんなことを沙都子が望んだのか?
殺人は沙都子のためでしたと、沙都子のせいに一方的にするのか?
沙都子がそれに感謝するとでも?
沙都子が俺に感謝などするものか。
……………そもそも俺は、殺人を犯したことを誰にも打ち明けられないのだから。
誰にも感謝されず、十字架だけを背負い続けて生きていく。
………それは、殺人実行直前の高揚した時には絶対に想像できない、みすぼらしい未来だ。
俺は叔父殺人を、元の世界を取り戻すために決意したはずだ。
……だが、そもそも殺人という行為が、同時に元の世界へ戻るか細い橋すらも一緒に打ち砕いてしまうのだ………。
「……俺は、そこまで想像できたから。詩音のように口に出して言うには及ばなかっただけさ。…もし、そこまで想像が及ばなかったら、俺も詩音に同調して殺せ殺せって騒いでいた可能性は高いな。」
「あはははは…。そうなってたらもうどうにもならなかったね…。圭一くんの想像力が豊かでよかったかな、かな。」
想像の中の世界だったのだろうか…。
俺がもしも叔父殺害を実行したらという想像の中のIFの世界…。
………想像というのはあそこまで豊かになれるものなのだろうか…?
あの土くれの匂いや、飛び散った土が口に混じる感触、シャベルを打ち込む時の砂利を弾く感触や植物の根を断ち切る感触。
……まるで、過去に実行したことがあるんじゃないかと思うくらいにリアルな感触を想像できた…。
「……そうだな。…どういうことをしたらどういう結果になるか、よく想像するべきだよな。」
「うん。想像力のない大人になっちゃったら大変だからね。圭一くんは冷静ないい大人になれると思うよ。」
「あれは、………想像の中だったのかな。……何だかさ。そういうIFの世界が他にもあったんじゃないかって思うんだよ。」
「想像力が本当に豊かな人は、あらゆる可能性の世界を垣間見ることができるって言うもんね。だから、圭一くんが本当に悩んで未来を見据えた結果の想像ならば、それは単なる想像の世界ではなく、確かに有り得た別の可能性の世界の情景なんだと思うよ。」
「………その別の世界でも、相談所への通報は様子見で終わるんだ。…それでその後、沙都子は一時的に学校に登校するようになるんだが、………何日もしない内に、…………壊れてしまうんだ。」
沙都子は懸命に虐待に耐えたが、………ちょっとした切っ掛けで壊れてしまうんだ。
古いお茶碗なんかが次第にヒビが入ってくるように。ある日、ほんのちょっとした切っ掛けで、そのヒビに沿ってあっさりと割れてしまうんだ…。
「……俺の想像の世界では、………沙都子は頭を撫でたら、……壊れた。………俺の手が、叔父の手に見えたのかもしれない。俺の手を払いのけて、……泣きながらカーテンの束を抱いて、……にーにー、にーにーって叫んでたよ。」
「…………にーにーって呼び方、誰に聞いたの?」
「え? さぁな。…誰かに聞いたんだろうな。沙都子が悟史を呼ぶときの呼び方だろ。……それがさ、本当に胸が掻き毟られるような泣き方なんだ。…俺は慰めてやりたいのに、近寄ることもできない。……俺が近寄ろうとすると叔父の姿に見えるらしくて、…よけい泣き叫ぶんだ。」
「………やっぱり、……圭一くんはすごいね。………それはとても想像の中のこととは思えない。……去年の沙都子ちゃんは本当にそうだった。私や魅ぃちゃんなんかはよく覚えてるから想像がつくことだけど、……転校してきてまだそんなに経っていない圭一くんが、そこまで考えることができるなんて。……本当に圭一くんはすごいよ。だから圭一くんは、私たちと危機感がずれていないんだね。」
「じゃあ、レナも同じなのか…?」
「……うん。圭一くんほどはっきりとは見えないけれど。……このまま沙都子ちゃんを救えずに時間を過ごせば、きっと何日もしない内に、沙都子ちゃんは壊れてしまうと思う。……圭一くんが言うような形で、にーにーって言いながらカーテンを抱いて泣き叫ぶと思う。………その時、私たちはきっと思い知る。無力であることが罪なのではない。何もしないことが罪なんだって、思い知る。……………あれ…? 私の想像の中の話なのにね…。……本当に悲しくて、……涙が出てきた…。」
…レナも、沙都子を急いで助けなければ大変なことになってしまうという根拠なき危機感を持っているようだった。
……そしてそれは、誰もが持っているものではない。
仲間たちはみんな危機感を抱いているが、それは特別なことで、……相談所などの一般的な人々にとっては、俺たちの危機感は過剰に見えるらしい…。
「そうだよね…。まだ一日しか経ってないって言われたら、言い返せないもんね。風邪なんかでお薬をもらう時と同じ。2〜3日様子を見てみましょうってことになるもんね。」
「レナ。…俺たちはこの危機感にもっと素直でいいと思う。一刻の猶予もない。きっと沙都子を助け出そう。」
「うん。私たちは一人一人では何も思いつけないけれど、……みんなで一緒に考えれば、きっとすごい力を生み出せる。……ずっと昔、私が一人で悩んで何か悲しい思いをした時、誰かにそう教えてもらった。今こそそれを実践する時なんだと思う。」
「……そうだな。誰だか知らんが、レナにそれを教えたヤツは立派なヤツだな。」
不思議だった。学校でレナがこの話をした時から少しだけ感じていた。
……それは、俺も昔、何かを切っ掛けに学んだような気がしたからだ。
……俺とレナは最近出会ったばかりだしな。偶然か。
…………とにかく、……想像の中の世界の俺は独りよがりだった。
……沙都子のことを必死で考えてる仲間たちのことを日和見だと罵倒し、見下して一人暴走した。
だが、そして俺も学ぶのだ。レナとまったく同じに。
一人で考えたらろくなことが考え付かない。
みんなで相談するんだ。そうすればきっと本当の意味での最善手が思いつく!
「圭一くんが詩ぃちゃんの前に立ち塞がった時、圭一くんは言ったね。俺を信じろ。今は思いつかないが、きっと最善手を思いつくからって。……私は信じるからね。圭一くんはきっと最善手を思いつく。」
「あははは、何だよ、俺だけに任せるなよ。いいアイデアは引き続き募集中だぜ。」
「はぅ、そういう意味じゃないよ。……私は何があっても仲間を信じるよ。絶対信じる。私たちはきっと沙都子ちゃんを救えるって信じてる。だから、絶対に短絡的な手段には訴えない。」
「………あぁ、そうだな。きっと俺たちは沙都子を救い出せる。信じろ。俺も信じる。」
俺一人が沙都子のことを考えてるなんて独りよがりには絶対ならない。
俺だけじゃなく、みんなが沙都子のことを案じてくれてるって、信じる。
「明日、みんなで集まって会議をしよう。実際に通報してくれた知恵先生も何か話を聞いてるかもしれないからな。……俺たちは子どもだから次の手が思いつかないが、…大人ならいい手を知ってるかもしれない。」
「うん。そうだね。もう“これしか手がない”なんて、あさはかの極みだからね。」
「そうさ。手がないなんて努力しないヤツの言い訳だ。手はある。絶対にあるんだ。だから、俺たち自身に手がなくても、その手を探すことを決して諦めない!」
「うん。諦めない。」
……魅音も褒めてたが、レナは土壇場では本当に強いヤツだよな。
俺は魅音と同じ話をした時、少し感情的になっちまったが、レナは違う。
その炎が静かで青いから、一見、俺みたいな燃え盛る真っ赤な炎より見下してしまいそうになるが、…実際は逆だ。青い炎の方がずっと温度は高い。
レナと話していると、俺の中の無意味な粗暴さが落ち着き、冷静に最善手を模索できる気がする。
……そんな部分からレナの力強さを感じ取れるのだった。
でも、それはレナも同じらしかった。
「圭一くんと話していると、どんな滅茶苦茶なことになっても、絶対に打ち破れるって気がする。圭一くんにはそういう力強さと頼もしさがあるよ。だから、圭一くんと話をしていると、どんどん勇気が出て来る。私たちは必ず沙都子ちゃんを救い出せるんだって、元気になってくる。」
「俺はレナから冷静さ。レナは俺から元気か。……なるほど、お互いにうまく補完しあっている関係だな。理想的じゃないか。」
「そして魅ぃちゃんには園崎家という強い力がありながらも、打たれ弱い心がある。…でも、そこはレナと圭一くんできっと補ってあげられると思う。」
「そうだな。俺たちメンバーは個として最強、揃えば無敵だ!」
「うん、そうだよ!」
レナに煽てられたのが嬉しかったのか、俺はちょっと強気に言ってみた。
…部活メンバーの中で、元気を補うのが俺の役目だと言うなら。俺はうじうじなんて二度としねぇぞ。
部活メンバーの火力となって、徹底的に燃え上がってやるぜ…!
「梨花ちゃんは今、……一番打ちのめされていて、戦う気力すらも失ってしまっている。でも、私たちが戦う姿を見ていれば、きっと気力を取り戻してくれると思うよ。」
「そうだな。梨花ちゃんが戦う気力を取り戻してくれれば、ますますに俺たちは無敵だぜ!! とにかく明日だ。校長も交えて、次にどういう手があるのか考えようぜ。いろんな人を巻き込んで助力を得てみよう。とにかく最善手を探そう! それこそが今の俺たちにできる最善手だ!」
「うん!」
何だか不思議な盛り上がり方をしながら、俺はレナとの電話を終えた。
……児童相談所が様子見の判断を下したのは残念だったが、様子見と判断できる段階だということは、とりあえず今日の時点では沙都子は無事だという証拠でもある。
俺たちは所詮子どもなんだ。……いくら悩んだって、ろくなアイデアは思いつかない。
殺すしかないなんて考えたら詩音と同じだ。
………いや、俺もあの時、一瞬考えた。人のことは言えない。
真っ赤な炎で燃え上がるのはものすごく簡単なのだ。
……俺はレナのような青い炎を目指さなくてはならない。
燃え上がる。
だけど冷静にクールに、青く静かに本当の強さで燃え上がる。
それは俺が始めて知る燃え上がり方だった…。
「圭一〜〜、お風呂が空いたわよー。早く入りなさい〜!」
遠くからお袋が呼ぶ声が聞こえた。
「いいよ、母さんが先に入りなよー!」
明日に備えて、沙都子のことをどうするかよく考えておきたかった。
……きっと、他のみんなも今頃、それぞれに何かいい方法がないか思案しているに違いないのだ。
「圭一も早く入りなさい。今日の入浴剤は本物の温泉でも使ってる業務用だから気持ちいいぞ〜。」
「……本物の温泉には入浴剤って入ってないと思うけどなぁ…。」
「はっはっはっは。んん〜、風呂上りの牛乳がうまい!」
親父は自分の仕事がひと段落ついているのか、今日は珍しく上機嫌だった。
……スランプで納期が近付いてる時は子連れ熊みたいな感じでとても怖いのだが。
………そうだ。……親なら何かヒントをもらえないだろうか。
親ってのはもっとも身近にいる大人だ。……相談してみる価値はあるだろうか。
いやいや逆だ。
相談しない理由がない。
むしろ積極的に相談してみた方がいい。
「……父さんさ、実はちょっと相談があるんだけど。」
「ん? 何だ何だ、今度のお祭りの叩き売りオークションのことか? 父さんも応援してるからなー!! そう言えば実行委員会の会合はいつだったっけ? 父さんも呼ばれてたなぁ。ちゃんと予定表に書いておかないとな。」
「あ、その件じゃないんだよ。……実は、クラスメートがちょっと大変なことになってて……。」
沙都子のことを親父に訴える内に、何事かとお袋もやってきて一緒に聞いてくれた。
親父は怪しげな画家だが、お袋はごく普通の常識人だ。案外頼りになるかもしれない。
「……それでさっきの電話は、結局、様子見になったっていう連絡だったんだ。それで俺たち、明日からどうしようかって言って悩んでるんだよ…。」
「児童相談所に通報したなら、後は任せておくのがいいんじゃないの?」
「でも、その子は去年にもひどく虐められていたんだろう? 虐待の度合いのことはわからないが、二人で仲良く暮らしていたのを無理やり引き裂くのは、父さんは少し納得できないな。」
「一年間も養育を放棄してて、ひょっこり帰ってくるような人では確かにね。」
「児童相談所が様子見って言ってるから、じゃあ様子見でいいだろうってのはものすごく他力本願だと思うんだ。……俺たちは沙都子の仲間だから、沙都子を救い出すためにもっともっと攻めて行きたいんだよ。でも、それがどんな方法なのか思いつかないんだ。」
「圭一、闇討ちなんて考えちゃ駄目よ?」
「考えてないよ…。というか、そんなこと考えてたら親に相談なんかしないよ。」
「それもそうね。圭一のことだから、完全犯罪ってどんな方法がある?って聞いてきそうな気がしたものだから。」
……おいおい。いくら俺でもそこまで情けないことはしないだろ。……多分。
「圭一が正しいぞ。世の中には戦いがたくさんあるが、ルールに従って戦うのが大切だ。ルールを違反する人は誰も助けてくれないし褒めてもくれない。ちゃんとルールに則って喧嘩をしなくちゃ駄目だ。」
「喧嘩にルールもへったくれもないと思うけどな…。で、…どう? 何か手があったら教えて欲しいんだけど。」
自分の人生の倍以上を生きている親だ。
きっと博識に違いない。
……あっさりと、圭一、こんな手があるわよ?
と提案してくれるのを期待したのだが…。両親は腕組をし、うなりこんでしまった…。
「……普通はそういう話になったら、児童相談所に通報するんだけど。」
「通報して埒が明かなくてその先、ってのはなぁ…。」
「………やっぱり、…法律とかそういうのではもう、どうにもならないのかな。……沙都子が酷い傷を負うまで、警察も相手にしてくれないのかな…。」
「だとしたら、訴えていくしかないなぁ。」
「訴える? 裁判?!」
「違うぞ圭一。児童虐待は児童相談所の管轄と決まってる。そしてその児童相談所の判断に不服なら。」
「…裁判で訴える?!」
「圭一。裁判は当事者同士の話し合いが付かない時、その裁定を求める場でしょう? その前の段階を踏まなくちゃ。」
「児童相談所に沙都子ちゃんを保護してほしいんだろ? そしてそれに対し、相談所は圭一の望まない判断を下した。なら、」
「なら……?!」
■学校
「児童相談所に訴えるんだよ、俺たちが!」
相談所の出した判断である様子見が不服なら、そうであると訴えていけばいいのだ。
「沙都子と叔父の関係はそんなのんびりしたものじゃないってことを、誰よりも事情を知る俺たちが説明していかなくちゃならないだろ。」
「そうだよね。相談所の人が私たちと同じくらいに沙都子ちゃんのおかれている状況を理解しているとは思えないもの。もし状況の認識に誤解があるなら、私たちが説明して、その誤解を解かなくちゃ。」
<レナ
「なるほど、…真正面からの正攻法ってわけか。」
<魅音
「……どうでしょうね。お役所って一度決めた決定は容易に覆さないって聞きます。意味ないんじゃないですか?」
<詩音
「意味がないかどうかは試さなくちゃわからないことだろ。やる前から諦めるなんて負け犬の発想だぞ! 出来る手は全て試すんだ。昨日、校長も教えてくれたぜ。“どうせ”駄目だと言って諦めた時、戦う前から俺たちは敗北するんだ。詩音は沙都子を助け出すつもりで短絡的な手段に訴えるのも辞さないとメラメラ真っ赤に燃え盛ってる。………でもな、本当に熱い炎ってのは青くて静かなんだ。決して諦めるな、俺たちに出来る全ての手を尽くすんだ! どうですか先生。俺、間違ったことを言ってますか?」
「…………いいえ。間違ったことは言っていません。よく冷静に考えましたね。
ひょっとしたら、闇討ちしようなんてとんでもない話を言い出さないか先生、ちょっと不安でした。」
…うちのお袋と同じことを言う。普段の俺ってやっぱり短絡的っぽく見えるんだろうな。
「先生も、本当は様子見をするべきであると考えていました。
…でも皆さんの訴えや、去年の話を色々と思い出す内に、沙都子ちゃんの問題が一刻の猶予もないということを理解できました。人は訴えによって考えを変えることがあります。それは児童相談所とて同じです。訴えれば、判断が覆ることもあるかもしれない。」
「どう? 詩ぃちゃん。一人で膝を抱えて悩むくらいなら、私たちと一緒に戦わない?」
「だだ、誰が膝を抱いてるんですか! 私、泣き寝入りなんてしませんってば!」
「…なんだなんだ、詩音の狼狽が激しいな。ひょっとしてビンゴだなぁ?」
「し、失礼な! いいですよレナさんの提案、賛成です! 行こうじゃないですか児童相談所! それでも様子見なんて言いやがったら鼻の骨をへし折ってやる!!」
「鼻の骨はまずいが心意気は上等だぜ。詩音も一晩頭を冷やして、少し炎を青くできたようだな。」
「わ、私は沙都子を救うために本気なだけです。」
「くっくっく。とにかく、そうと決まったら躊躇せずに実行しよう。児童相談所の場所はわかってる。
実はね、おじさんも知らなかったんだけど、図書館の一階に児童相談所があったんだよねぇ。」
魅音がニヤリと笑いながら、市の広報を広げる。……さすが魅音だぜ、妙なところで手際がいい!
「受付の時間は夕方5時15分まで。相手はお役人だからね、喧嘩腰は駄目だよ。あくまでも冷静にね!!」
「何、お姉。私に言ってるんですか? 私を誰だと思ってるんですか。相手を口説くのが目的なら、嘘泣きだろうと媚びまくりだろうと、私ゃ何だってやりますよ。」
「詩ぃちゃん、その意気だよ! 夕方5時なら…今から行けば充分間に合うね。」
時計は今、3時を少し過ぎたところだ。今から大急ぎで自転車で行けば充分時間はあるだろう。
「でもよ、お役所って時間に厳しいんだろ? 時間びったりになったら追い出されるんじゃねぇのか?」
「入口は時間びったりに閉まるけどね。その時間に中に入れば、絶対に追い出されはしない。いい? お役人と交渉する時は決して根を上げないこと。
お役人は意外にタフだけど、民間と違って、向こうから話を打ち切れないの。絶対に、これ以上は言っても埒が明かないなんて思って屈服しちゃだめ。しっかり全ての言い分を言い終わるまで粘るんだよ!」
「…魅ぃちゃん、お役所の人に詳しいね?」
「くっくっく! 私は誰だと思ってんの。市長懇親会メンバーにして市政モニター会員、園崎お魎の代理だよ? お役所の人と話をすることなんてしょっちゅうだって!」
「なぁ魅音。園崎家の方から、いわゆる別のルートを使って働きかけるってことはできないのか…?」
「……んん、…それは婆っちゃが絡むからね……。ううん……。」
「鬼婆の力を借りるのは無理でしょ。未だ頭の中はダム戦争! 一億一心火の玉ですからね。今でも北条家のこと嫌ってるみたいですし。」
「沙都子の死んだ両親がダムに反対してたって話か。………俺は魅音の婆さんには会ったことねぇんだが、ケツの穴の小せぇ野郎だな。いつまでも終わったことをグチグチ言ってんじゃねぇってんだよ。」
「まったくです。この点では圭ちゃんと一致しましたね。」
<詩音
「つまり、…園崎家としては動けないってことなんだね?」
<レナ
「そういうことだね。……ごめんね、年寄りは頭が固いから。梨花ちゃんは猫可愛がりな連中が多いくせに、沙都子はみんな見て見ぬふりだった。」
「………今回の件とは別にせよ、何だかつまらねぇ話だな。鉄平は積極的に沙都子を虐めやがるからもちろん許さねぇが、消極的に沙都子を虐めるヤツも俺が許さねぇからな。その年寄り連中に、畳の上で死にたかったら前原圭一をあまり怒らせるなって伝えとけ!」
「あはは、うん、了解。」
<魅音
「じゃあ行きませんか! 時間がもったいないです。」
<詩音
「よっしゃ!! 善は急ごうぜ! 行こうぜみんな!!」
「…梨花ちゃんはどうする?
一緒に行こ?」
<レナ
話にずっと加わらず、輪の外にいた梨花ちゃんにレナが声を掛ける。
……昨日以来、梨花ちゃんは諦めきった表情だった。
すっかり意気消沈してしまって戦う気力すらない様子は痛々しい限りだった…。
「……………どうせ、何をやっても無駄よ。」
<梨花
「ほら、その“どうせ”がいけない。無駄かどうかは試さなくちゃわからないもの。」
「………数多の世界で何度もあなたたちは右往左往した。それでどうにもならなかったのに、どうして今回はどうにかなると思えるの?」
梨花ちゃんはたまに難しいよくわからないことを言う。
……意味はよくわからなかったが、否定的なことを口にしたことだけはわかった。
「梨花ちゃんは児童相談所に言って、無駄だってことをもう試してきたの?」
「…………………。」
「……なら試そうよ。梨花ちゃんにとって沙都子ちゃんは大切じゃないの? なら試そうよ、戦おう。今ほど沙都子ちゃんが、梨花ちゃんの力を求めている時はないと思うよ。」
「………………どうせ終わる世界の座興ね。」
「どうしたの? 早く行こうよ。」
<魅音
「梨花ちゃまが乗り気じゃないみたいです。本当に友達甲斐のない人ですね。普段、あれだけ一緒にいる親友なのに、沙都子のピンチに腰を上げることすらできないんですか?」
<詩音
「……………あんたに沙都子のことで説教される日が来るとはね。………沙都子をあれだけ目の仇にしてたあんたがね。くすくす。」
「……?? あんた、お頭は大丈夫です? 何で私が沙都子を目の仇にしなきゃなんないんですか?」
「…………こっちの話よ。いいわ、付き合う。どうせ家に帰ったって飲んだくれるだけだもの。」
「なんか気に入りませんね…。つーか私のこと馬鹿にしてます?」
「やめなよ詩ぃちゃん。そして梨花ちゃんもやめて。
今は沙都子ちゃんを救うためにみんなで力を合わせよう。みんなの力が合わさればきっと奇跡が起こせる。
それには全員の力がいる。一人の力が欠けても駄目。
だから梨花ちゃん、あなたも力を貸して。」
レナの言葉の中に、何か梨花ちゃんにはっとさせるものが含まれていたのだろうか。
ずっと興味なく聞いていた梨花ちゃんだったが、瞳に輝きが戻ってくるように感じた。
■梨花目線
………レナが面白いことを言った。
奇跡は起きるものではなく、起こせるものだと言ったのだ。
それは、…かつてこの世界が再び始まった時、私が口にしたことでもある。
でもその時は、起こすものとは言ったが、どうすれば起こせるかは言及しなかった。
それをレナははっきり言った。
「……みんなの力を合わせれば、奇跡が起きる。」
「うん。奇跡ってのはね、それだけのことで起こせるんだよ。」
「……それでも起きなかったら?」
「本当にみんなの力を得ていない時だけ。みんがが本当に力を合わせたら、起きない奇跡などない!」
「そうですね。竜宮さんの言うとおりです。人は助け合うことで何倍にも強くなれます。一人でも多くの力が合わされば、必ずどんな困難も乗り越えられます。」
「そうだね。かつて雛見沢もダム湖の底に沈むという運命が決まっていた。でもそれを2000人の人々が結束して、決まっていた運命を打ち破った。」
<魅音
「……運命、……打ち破る。」
<梨花
「私たち雛見沢の人間は、これほど身近に奇跡を知っているはずなんだよ。みんなで力を合わせれば、絶対に打ち勝てる!」
<魅音
「そこまで言われたら行くしかないと思いませんか梨花ちゃま。
これで奇跡が起こらなかったら、梨花ちゃまが欠けて『みんな』が揃わなかったから奇跡が起こらなかったことになります。」
<詩音
……ふ、私のせいにするというのか。でも、面白い挑発だった。
奇跡は起こせるもの。
そしてそれを起こすには、みんなの力を結束すること。
運命は打ち破れる。奇跡で打ち破れる。奇跡は結束で生み出せる。
「昨日レナも言ったぜ。一人で悩んだってろくなことは思いつかない! 全員で力を合わせるんだ、相談し合うんだ。運命に屈するな。そもそも運命なんてな、金魚すくいの網より薄くて簡単に破れるもんだってことを覚えておけよ!」
……運命がいかに頑強なものか、知りもしないくせによくこの私に言えるものだ。運命に閉じ込められた魔女である私に。
だが、…圭一が言う時に限り、その言葉には力が宿る。
魚釣りゲーム程度の運命に屈した私を、圭一はにやりと笑ってあっさり打ち破って見せた。
惨劇が決定付けられた前の世界で、圭一は見事レナを正気に戻し投降させた。
運命なんて、金魚すくいの網より薄くて簡単に破れるもんだって…?
私が出口なき迷宮に例えたこの百年を、金魚すくいの網より容易いとまで言うか!
…………くすくすくす。
……圭一に言われると、自分が馬鹿らしくなってくる。
「………面白いわね。………行くわ。」
「よし、よく言ったぜ梨花ちゃん!」
「…あぅ…。……………梨花、……いいのですか……?」
<羽入
羽入が不安そうな顔で覗き込んでくる。
変に期待を持つと、また裏切られた時、心がダメージを受けると言いたいのだろう。
「……どうせ賭けるコインは一枚も残ってない。これ以上、何を負けたって失うものなんかないわ。どうせ終わった世界だもの。…………でも、それは前の世界もそうだった。レナが学校を占拠した時、もうどうしようもないと思った。あれほどの末期的な局面からすら、圭一は全てを引っくり返して見せた。その圭一が、運命なんか金魚すくいの網だって言うのよ? ………………この世界にもう諦めてるからこそ、何だか面白そうに感じてきたわ。」
「……………どうせまた期待を裏切られます。……そして辛そうになる梨花を見て、僕も辛い気持ちになるのです……。」
「……大丈夫よ。もう落ち込まないわ。……流せる涙は流しつくしたもの。どうせ圭一たちがどう足掻いたって沙都子は救えないって諦めてる。だからこそよ。……児童相談所に乗り込もうなんて展開は初めてだしね。」
「……………………圭一に起こせる奇跡なんて、何もないのですよ。」
羽入がほんの少しだけ厳しい目つきで言う。
……奇跡は滅多に起きないから奇跡という。
簡単に起こせたり、起こす方法がシステム化されてたら、それは奇跡じゃない。必然だ。
「…期待なんかしてないわよ。でも、面白そうだと思うのよ。……運命をあっさり破ると豪語した圭一がどう足掻くのかがね。」
「………梨花。……どうか自分の心をこれ以上、追い詰めないように気をつけてなのです。」
「余計なお世話よ。消えなさい。」
……期待なんかしない。
私が殺されるまでの一週間を楽しむちょっとしたテレビみたいな感覚だ。
でも、……胸の奥底に、不思議な感情があった。
……それはちょっとした高揚感。
…わくわくとした何かに期待する気持ち。
この感情を、私は前の世界で、圭一が過去の記憶を取り戻す直前に感じた。
もう胸の奥に賭けるコインはないはず。
……でも、このわくわく感が言うところは間違いない。
……例え1枚でもコインが残っているなら、残らず全て賭けろというサインだ。
「………全ての手を尽くして駄目ならば、…それはそれで諦めがついて気分がいいかもしれないものね。」
「諦める必要なんかねぇぞ。絶対に沙都子は救い出せるんだからな! 梨花ちゃんはちゃんと沙都子の布団を干しておけよ。沙都子が近いうちに戻ってくるんだからな! その時、ふかふかの布団が敷けなかったら可哀想だぞ!!」
「くすくすくす、あっはははははは。気に入ったわ、圭一。……行きましょう。あんたなら、地獄の閻魔の裁定だって金魚すくいの網と同じにしてしまうわね。」
「ああ、今の俺を地獄の閻魔だって食い止められると思うなよ!! 絶対に児童相談所に様子見なんて判断を撤回させてやる!」
私は席を立つ。
……圭一はつくづく人を乗せるのがうまい。
だから飽きないのだ。百年一緒にいて飽きない。
「じゃあ先生、私たちはちょっくら行って来ます。先生も来ますか?」
<魅音
「私は教育委員会の方へ訴えます。児童相談所も教育委員会も同じ役所ですからね。役所は案外、内側から攻めるのが効果的なこともあります。……一応、先生も地方公務員ですからね!」
「確かにそうですね。役所の人は外部には冷たくても内部にはそうとは限らないこともあります。」
<詩音
「じゃ、先生には先生の角度からの攻撃をお願いして、私たちは行こうじゃない、真正面からの攻撃を!」
<魅音
「よし!! 行こう、みんな!!」
<レナ
「「「おおおう!!!」」」
<圭一
どうせ無駄だと諦める気持ちと、でもひょっとしてという気持ちが拮抗する。
羽入はどうせ無駄だと悲観する。
私もついさっきまで悲観していたが。……面白くなってきた。
不謹慎な言い方だが、どうなるかわからなくなって来た。
運命なんて楽々破ってやると言い放つ圭一が、如何にして打ち破るかを見てみたい!
私も彼らの掛け声に合わせ力強く拳を挙げ、昇降口へ駆けて行くのだった。
ちなみに、…………今日も沙都子は登校してこなかった。
鉄平から学校に、風邪で熱を出したと連絡があったという。
熱が下がるまで当分休ませるとも言っていたという。
……知恵の見たところ、多分、鉄平は知恵が相談所に連絡したと思っていて、学校に行かせると沙都子が自分に不利なことを証言するに違いないと思ったのではないかという。
考えたくはないが、相談所の人が帰った後、腹を立てた鉄平が沙都子を殴って青アザを作ってしまい、人前に出せなくなった可能性もある。
仲間たちが騒いだので、知恵が翌日早々にもう家庭訪問をしたせいで、色々な要素が前倒しになっているのだろうか。
沙都子を取り巻く状況は、同じ状況の以前の世界よりもずっと早く進行しているようだった。
■アイキャッチ
■児童相談所(圭一目線)
「…………と、意気込んできたのはいいものの、待たされるなぁ。」
<圭一
「あそこで暇そうにしてる人たちが話を聞いてくれてもいいと思いません?」
<詩音
「あそこにいるのは一般事務員だよ。私たちはちゃんと話すべき相手と話さなきゃならないんだからさ。」
<魅音
「待たされるということは、…世の中にはこういう相談事が多いのかなぁ?」
<レナ
「うーん、どうなんだろうねぇ。…考えてみれば、ここの職員が暇そうでちょうどいい気がしてくるよ。」
<魅音
「……虐待の相談が繁盛しているようでは世も末なのです。」
30分くらいは待たされて、ようやく俺の名前が呼ばれる。
魅音は園崎家の苗字が出せないということで、俺の名前で受付に相談票を書いたからだ。
「あの、…今呼ばれた前原ですけど。」
受付に行くと、事務服を着たおばさんだった。
…魅音の言うところの一般事務員の人だと思う。この人が話を聞いてくれるのだろうか。
「えっと、前原さん。本日は5人でいらっしゃってますが、どういうご相談でしょうか?」
相談票には、北条沙都子の件でとしか書かなかったから、もっと詳しくということなのだろう。
「えっと、昨日、雛見沢分校の知恵先生から通報があった、北条沙都子の保護についての件です。それでちょっとお話したいことがありまして…。」
「前原さんと皆さんは、北条沙都子さんのお友達ですか?」
「はい。クラスメートです。」
「お話の内容ですが、概要をお聞かせいただいてもよろしいですか?」
「えっと、実は北条沙都子の件なんですけど、虐待はなくて様子見みたいな話になったと聞きました。それで、沙都子の状況についてもう少し詳しく説明がしたいと思いまして、今日来たわけなんですが…。」
「わかりました。もうしばらくお待ちください。」
話はそれで終わりのようだった。
…魅音の言うとおり、実際の相談はちゃんとした人がするのだろう。
今のはそのための事前質問みたいなものか。
見れば、事務のおばさんは、内線電話で今の内容を伝えているようだった。
「何を聞かれたの?」
<レナ
「今日は何のご用事ですかって聞かれたぜ。もうちょい待たされるのかな。」
「…こういう無意味な待ち時間って、イラつきます。」
<詩音
「……魅ぃはさっきからポスターとかチラシばかり読んでいますが、楽しいですか?」
「虐待を見たり聞いたりしたらご通報くださいなんてのがいっぱいあるよ。だから私たちみたいなのが来ても、決してお門違いってわけじゃなさそうだね。」
「“虐待の芽を摘む地域みんなの目”だって。これって川柳なのかな、かな?」
「言われて見れば、そういう啓発ポスターがいっぱい貼ってあるな。さすが児童相談所だぜ。」
「……内側に貼ってもあまり意味がないと思いますです。」
梨花ちゃんの言うとおりだな…。
こんなとこに貼らないで、もっと町中に貼ればいいのに。
「前原さま。大変お待たせしました。2番の相談室へお入りください。」
「お、呼ばれたぜ! 行こう行こう!」
示された方へ行くと1番から3番までの3つの相談室があった。
「へー。銀行みたいにカウンター越しに普通に話すのかと思ってたぜ。個室になってるのか。」
「多分、プライバシー保護のためだね。相談する内容はほとんどの場合、あまりに人に聞かれたくない内容だと思うから。」
<魅音
「そういう、家庭内のトラブルを囲んで見えなくしてしまう土壌がきっと、児童虐待を助長してしまうんだろうね。
」<レナ
「……家庭問題は見て見ぬふりをするのが美徳っぽいとこって、確かにありますね。」
<詩音
2番。これか。
ノックすると、中から中年のおばさんのどうぞという声が聞こえた。
「失礼します…。」
中は非常に狭い部屋だった。
狭いというよりは薄いというべきか。左右が狭くて奥に細長いのが特徴だった。
そしてその薄い部屋の真ん中にカウンターがあって、向こうとこちら側を分断する形になっていた。
相談員の女性はその向こうに座り、どうぞと席を勧める。…でも、席は2人分しかなかった。
とりあえず代表の俺が座る。
魅音は、園崎姉妹は前に出ない方がいいと言い、座らなかった。
レナが梨花ちゃんに席を勧めるが、首を横に振ったので、仕方なくレナが座った。
……何しろ狭い部屋なので、座ってくれなかったらむしろ狭い。そのくらいに狭い部屋だった。
「申し訳ございませんね。普通はご両親が2人でお見えになることが多いので。」
なるほど、納得する。
「それで今日はどういったご相談でしょうか?」
「俺が代表でしゃべっていいのか? ………えっと、俺たちは雛見沢分校に通ってる者で、北条沙都子の友人です。昨日、学校から通報があって、相談所の人が沙都子のところへ行ったと思います。ただそこで、緊急性がないと判断されて様子見になったと聞き、相談所の方が事態をよく把握されてないんじゃないかと思って、その辺の説明に参りました。」
魅音が頷く。役所の人に対してのしゃべりとしては、及第点という意味なのだろう。
「説明、と申しますと、どんな説明でしょうか? お聞かせいただけますか?」
「えっとですね、確かに沙都子は叔父に連れ去られてからまだ二日しか経ってませんが、酷い乱暴をされるのは時間の問題なんです。実際、去年の時にも叔父は沙都子を酷く虐めていたんです。そういう虐めが行なわれるのは時間の問題だと思います。だからそうなる前に、沙都子を叔父の許から救い出してほしいんです。でも、聞くところによれば相談所は様子見ってことになったそうじゃないですか。」
「様子見なんて、沙都子を見殺しにするつもりですか? 沙都子が虐待を受けていないから助けなくていいなんてよく言えますね。虐待を受けたら、その傷は誰が責任を取ってくれるんです?!」
<詩音
俺の言い方がぬるいのが我慢ならなかったのだろう。詩音がさっそく食って掛かる。
魅音的には噛み付いてほしくないようだったが、変に止めようとすると余計に詩音が加熱すると思ったらしく、とりあえず最後まで言わせてやるようだった。
だが、相談員の女性もさすがに大人なのか、落ち着いた表情をまったく崩さず、諭すように応じた。
「まず誤解を解いておきたいと思いますけど、北条さんの件は現在対応中です。見殺しとか放置とかそういうわけではないんですよ。」
……対応中。…見殺しではなく、現在、対応を検討中、…ということなのか?
大人っぽい言い回しに、見殺しなんてキツイ言い方は失礼だったかな、なんて思った頃、レナが静かに口を開いた。
「でも、昨日の時点では何もせずに帰られてますよね?」
<レナ
レナにその手の誤魔化しは通じない。
対応をのんびり検討してる、なんてのは見殺しとまったく同じことだ。
対応中だろうと検討中だろうと、「何もせずに帰った」ことのみが事実なのだ。
「昨夜は相談所の者が直接お伺いし、ご事情を伺わせていただきました。それ以上のことは、プライバシーがありますのでお話できませんが、決して見殺しなんてことはありません。北条さん親子が健全な生活を送れるよう引き続き指導していくつもりです。」
「何言ってんです、誰が親子ですか。叔父と姪です。
……本当に事態を把握してんですか?!」
<詩音
「…失礼しました。叔父と姪ですね、訂正します。とにかく、親権者と児童が健全な関係を結べるよう指導中です。」
すかさず詩音が揚げ足を取る。
そこまで噛み付かなくてもいいだろうとは思ったが、…この頃には、向こうとこっちの温度差というものに気付き始めていた。
「いやその、沙都子は普通に生活してきたんですよ。叔父なんかの助けもなく。第一、叔父はそれまで一年間どっかへ蒸発していて、いきなり帰ってきて沙都子をさらったんですよ? それって誘拐じゃないんですか?」
<圭一
「誘拐というのは言い過ぎですね。子は親権者の定めるところに住まなければならないと定められています。民法の第821条で、親権者は子の…、」
「一年間も沙都子を放ったらかしてたんですよ?! なんであんなヤツが親権者なんて言えるんですか!」
<詩音
「そりゃ詩音…。沙都子の両親が2年目の祟りで死んだ時、ちゃんとそういうことになってるんだよ…。」
<魅音
「そうなのか? あんなヤツでも親権者なんて名乗れるのか?」
<圭一
「うん。…民法の何条だかは知らないけど、未成年者は親権に服さないといけないと決められてる。つまり、子である限り誰にでも親権者はいるんだよ。いや、いないといけないんだよ。」
<魅音
「それは民法の第818条ですね。」
「それってのはつまり、沙都子の両親が亡くなった時に、自動的に叔父叔母の夫婦にスライドするもんなのか。」
<圭一
「うん。基本的には近い親族に決まる。沙都子には叔父夫婦しか親類がいないようだったからね…。
もちろん沙都子たちが望めば、他の人が親権者になることもあったかもしれないけど…、」
<魅音
「ダム戦争の直後の雛見沢で、憎き北条家の子どもですから。……引き取り手なんて現れるわけないじゃないですか。…引き手数多であっさり公由のおじいちゃんが後見人になってくれた梨花ちゃまとは事情が違うんです。」
<詩音
「………………。」
<梨花
……北条家がかつて、ダムに賛成していたことを根に持たれ、村中から嫌われていたという話は俺も知ってる。
…だが、そいつはダム戦争が終わり、少なくとも、直接の当事者である沙都子の両親が亡くなった時に終わった話だと思っていた。
俺は知りつつ目を背けていたのだろうか。
……まったく同じ境遇なのに、まったく村の対応が違う、沙都子と梨花ちゃんの対比を。
村は、叔父のように積極的に沙都子を虐めはしない。
……でも、…俺が気付かないような小さなトゲが、きっと雛見沢にはたくさん散っていて、沙都子にチクチクと刺さっているのかもしれない…。
「…大きい声じゃいえないけど、叔父夫婦より沙都子の一家の方が財産は持ってたと思う。親権者になれば、子の財産管理権ができるからね。だから、叔父夫婦はあの後、しゃあしゃあと沙都子の家へ引っ越してきて乗っ取っちゃったわけよ。あいつらの本当の家、知ってる? 滅茶苦茶小さくて狭いんだよ。」
<魅音
「……何だか嫌な話だね。
でも、親権者が一年間も沙都子ちゃんを放置してたんでしょ? それって親権者って言えるの? どうなんですか?」
<レナ
「そうですね。民法の4編4章に、親権の喪失についての定めというのがあります。」
<相談員
カウンターの上に置かれた分厚い本をばらばらと捲り、俺たちのそのページを示してくれた。
細かい字でよくわかりにくく書いてあるが、早い話が、親がちゃんとしてない時はその親権を喪失できると書いてあるようだった。
「つまり、親の資格というのは取り消せるものなんだね。」
<レナ
「待て待て、裁判所がどうとか書いてあるぞ。…何々?」
<圭一
「家庭裁判所は、子の親族又は検察官の請求によって、その親権の喪失を宣告することができる。………何ですかこれ。あんなヤツの親権を奪うのに、のんびりと家庭裁判所の判断を待たなきゃならないんですか?! そんな悠長な!」
<詩音
「いえいえ…、本当にそのようなことがあった場合には、児童の安全のため、緊急の一時保護をすることもあります。もちろん、その場合も家裁の許可が必要ですが。」
<相談員
「……その834条の親権喪失に北条鉄平は該当しないんですか? 親権者である北条鉄平は一年間、育児放棄をしていた事実。それを相談所ではどうお考えですか?」
<魅音
「それはプライバシーがありますのでお応えできませんが、もちろんその点についても相談所の方で説明を求めています。」
「で、その説明に納得したんで様子見ってことになったわけですか?」
<レナ
「……ですから先ほども申しましたように、現在対応中です。児童の身柄ももちろん第一に考えますし、児童が健全な家族環境の中で暮らしていけるよう、慎重に対応するつもりです。」
どうも話がうまく通じていないように思う…。
危機感ってやつがまったく伝わっていない。
…そりゃ確かに俺はまだ、鉄平ってヤツの顔を拝んだことはない。
だから仲間たちから聞いた去年の状況と、知恵先生が訪問した時のやり取りの上でしか知らない。
でも、それだけでも十分にわかるんだ。
……こんなヤツのところに沙都子を預けておいたら絶対に大変なことになるってのが!
「大体、去年だって叔父叔母揃って虐めてたんですよ。そんな叔父のところに預けてても大丈夫なんですか?! その時のことが記録に残ってるはずですよね?!」
<圭一
「過去の件についてはプライバシーでお応えできませんが、もちろん総合的に判断した上で対応しております。」
「昨日も登校して来ないし、今日も登校して来ませんでした。確かに学校には風邪だと連絡があったそうですが、叔父に連れて行かれてから一度も学校に来てないなんておかしくありませんか?」
<レナ
「そうですね。ただ風邪で二日休むこともないとは言えません。もう少し様子を見てもいいんではないかと思います。」
「とにかく、沙都子が叔父のところに居たいわけがないんですよ。叔父に無理やり監禁されているんです…!」
<魅音
「もちろん、当方の職員が直接、児童に聞き取りも行い、その上で判断しております。」
「結局あれですか? 沙都子の過去の嘘通報が未だ尾を引いてるってわけですか?」
<詩音
「過去の件はプライバシーでお応えできません。児童のために総合的に判断しています。」
「…沙都子のヤツ、兄の悟史に変に義理立てして…、虐待されててもされてないって言うと思うんですよ。だから、沙都子が虐待はないって言っても鵜呑みにしないでください。」
<圭一
「打ちのめされた人間には助けを求める気力もないってこと、わかりますよね?!」
<レナ
「あーもう! 四の五の言わずに沙都子を早く助け出してください!! 沙都子に何かあったら絶対許さないですから!! 私が紳士の対応をしてる内に何とかしないと大変なことになるよ?!」
<詩音
「よしなよ詩音! 心証を悪くするだけだよ!」
<魅音
「相談所の人が行った時、叔父がどういう態度をしたのかわかりませんが、とにかくあいつは乱暴なヤツなんです!! 騙されないでください! 今日はそれを伝えたくて来たんです!」
<圭一
「だからどうか、一刻も早く、沙都子ちゃんを助け出す判断を下すよう保護司の人に伝えてください。よろしくお願いいたします。」
<レナ
ちょっと感情的な部分もあったが、魅音がうまくなだめ、レナが綺麗にまとめてくれたようだった。
……俺たちはひとまずそこで間を置き、向こうの出方を伺った。
「…えーと、保護司さんではなく福祉司さんですね。お話はわかりました。沙都子さんのお友達、3、4、5…、5人からその旨の訴えがあったことを児童福祉司に伝えます。引き続き慎重に対応してまいりますので、今後も何かございましたらお知らせいただければと思います。どうか今後とも児童福祉にご協力いただければ幸いです。本日は貴重なお話をお聞かせくださり、誠にありがとうございました。」
■挫けない…!
俺たちはまだ興宮にいた。
遊ぶ子どももいない煤けた公園で、ぼんやりと茜色の空を見上げてみんな黙り込んでいた。
「……何だかこう、うまくあしらわれた感じがしてならないです。」
<詩音
「かと言って、邪険にされたわけじゃないし。……あの人は多分、相談窓口の人で、沙都子ちゃんの件を直接担当してる人じゃないんだよ。だからああいう言い方になっちゃうんだよ。」
<レナ
「魅音はさっきのやり取りはどう見た?」
「…………うーーー…ん。…何だか大木を相手に相撲を取ったような感じだねぇ。押してもこない、引いてもこない。」
<魅音
「あれじゃあ、壁に向って独り言を言ったのと変らないじゃないですか…!」
<詩音
「そんなことないよ。ちゃんと今日の話を伝えてくれるって言ってた。あの人は直接、沙都子ちゃんのことを知らないから、私たちから見たら冷たい言い方になっちゃうんだよ。」
<レナ
「レナ的には今日の、手応えはあったと思うか?」
「無駄だったとは思わないよ。
……でも、本当の担当者の人には、私たちの熱意は伝わらないだろうね。北条沙都子の友人5人が保護を求めて本日夕方陳情アリって程度には伝えてくれると思う…。」
「保護司、……じゃなくて福祉司でしたっけ? その人に直接訴えることはできないんですか?」
<詩音
「……さぁねぇ。…トラブルの多い職業らしいからねぇ。直接の接触って難しいんじゃないの? 紳士の対応をしてる内になんとかしないと大変なことになるなんて、脅迫しに来る人がいるくらいなんだからさー。」
<魅音
魅音の話によると、児童相談所というのはものすごくトラブルが多いところらしく、詩音みたいな感情的な人間が押し掛けてくることは珍しいことではないらしい。
「…そういう相手に熱意を伝えるのって、……難しいね。…熱意を感情的と履き違えれば履き違えるほど、向こうは冷めた対応をするんだろうから。」
<レナ
「魅音は天下の園崎家時期頭首として、役所の人とはだいぶ話してて話術にも長けてるんだろ? 俺なんかよりももっとうまく話せないのかよ?」
「……お姉の話術じゃないです。お姉が園崎家の魅音だから相手が平伏してくれるだけです。今日の対応を見ましたよね?
お姉が園崎だと名乗ったら、あんな狭い部屋じゃなくて、きっと応接室で所長が対応してくれてますよ。ね?」
<詩音
魅音が曖昧に笑ってはぐらかす。
……魅音の最大の武器は園崎家の家紋だ。
それを表に出さないというなら、それは俺たちと変らない普通の女の子だってことになる…。
他力本願な考えなので口にしたくないが、……もしも園崎家が腰を上げてくれれば、沙都子なんてきっとすぐに助け出してくれると思った。
「……やはり、園崎家は今でも北条家が嫌いなのですか?」
「嫌いだって公言してる人はいないよ…。………でも、…根深いみたいだねぇ…。」
「というか、鬼婆が北条家嫌いの筆頭ですし。……頭の中、いつまでダム戦争やってるってんですか。死守同盟が解散して何年経ってるんです?!」
「詩ぃちゃん、やめなよ。沙都子ちゃんは沙都子ちゃんだよ。私たちの大切な仲間! 苗字が何かなんて関係ないよ。」
詩音がそれに言い返さなかったので、それでまた沈黙が訪れた。
…レナの言うとおりだ。
沙都子の苗字が何かなんて関係ないように、…魅音の苗字が何かなんて関係ない。
大事なのは、俺たちの仲間が虐待を受けている。
それを助けるために俺たちにできる最大限の努力をしなければならないってことなんだ。
車の音などの町の雑音に耳を傾け、俺たちは再びぼんやりと空を見上げるのだった。
……俺たちを覆うのは閉塞感。手詰まり感だった。
今日の訴えが沙都子を救うために何かの役に立つのだろうか。
……あれならいっそのこと、鼻であしらわれて馬鹿にされた方がよかった。こっちも喧嘩腰で出られるから。
でも、あんな気持ち悪い対応をされたら、こっちも向こうの出方を見ないわけにはいかない。
……それは結局、様子見を肯定させられるのと同じことだ。
誰もが、これでも駄目ならば次はどうすればいいのか、わかりかねていた。
……これで雛見沢に帰って知恵先生に話したら、…教育委員会経由でうまく話がまとまりました!…なんてご都合主義なハッピーエンドってことは絶対ないだろう…。
「…次は、…………どうしような…。」
<圭一
誰かが力強く新たな提案をしてくれることを期待して言った独り言だったが、…それは余計に俺たちが手詰まりであることを思い知らせるだけのようだった……。
「……圭一。」
「梨花ちゃんか。…………すまん。あれだけでかい口を叩いて、…打つ手なしだ。」
「……信じない。」
「え…?」
梨花ちゃんを見ると、普段からは想像もつかないような強い意志を感じさせる表情をしていた。
「……昨日、圭一が詩音に言った。……今は思いつかないけど、きっと最善手を思いつくから、俺を信じろって言った。
だから私は、……信じた。……だから、……圭一の口から打つ手がないなんて、悲しい言葉が漏れるなんて、…信じない。」
梨花ちゃんの瞳に、涙が溜まるのがわかる。
……梨花ちゃんはそれでも俺がきっと何とかしてくれると信じていた。
「……圭一が言った。運命なんて金魚すくいの網より薄く破ってやるって言った。私はそれを信じる。今でも信じてる。……だって、………あなたは運命なんか、やすやす打ち破ってくれる人なんだもの……。……………だから、…………助けて。この運命から。…………沙都子を、……………助けて………………。」
溜まった涙が……すっと流れる…。それは俺の心も同じだった。
……くそくそくそ…ッ!!!
一人の少女が、自分一人では逃れられぬ運命に閉じ込められた。
そして助けを求めてるんだ……!!
そうさ俺は信じろと言った。
信じるってのは……賭けろってことだ。
俺を信じろというのは、俺に賭けてみろということだ。
賭けるというのは他人事じゃない。
俺が負けたら、賭けた人たちもみんなコインを失うんだ。
人を信じるってのはどういうことなんだ?
賭けること。コインを賭けること。コインは希望。
…そうさ、希望を託すってのが、…人を信じるってことなんだ……。
俺は昨日言った。俺を信じろと言った。
その場の勢いだけで言える言葉じゃなかったんだ。
……それは…本当に重い言葉だったんだ。
俺はそんな当り前なことを、…梨花ちゃんの心を傷つけ、涙という代償を支払わせてまでして今頃気付く…!
………詩音を見る。
…すっかり腹を立てていて冷静さを欠いていた。
魅音はそのグチを聞いて慰めていたが、それは受身の態勢で、次なる手を思案する攻撃的な姿勢ではない。
………レナは? 土壇場でこそ静かに青く燃え上がるレナは?
…俺はこの土壇場でレナに心の強さを求めた。
………だが、……レナもまた打ちのめされていた。
……あんな対応をされたのでは、手応えがあったのかどうかもわからない。
……レナもまた、次なる手が思いつけず、閉塞感に窒息しそうな表情で俯いていた。
くそ、……………今は俺が何とかしなくちゃいけない。
レナは青い火が点れば鉄だって溶かす。
魅音は追い風になればなるほど力を倍加するタイプだ。
詩音も実は魅音とまったく同じ。
追い風を全身に受けることができるが、逆風をまともに受けてしまうタイプでもある。
……そんな中。梨花ちゃんはまだ信じていた。
…それでも俺たちが結束すれば何とかできるって信じてくれていた。
そうさ、俺たちが言った。
奇跡なんて、みんなで信じあえば簡単に起こせるって言った…!
俺は何だ?
…レナが青い炎なら俺は赤い炎だ。
威勢よく派手に盛り上がって景気をつける。
………そうさ、俺は前原圭一。
口先の魔術師じゃねぇかよ…。
ここで俺がみんなを鼓舞しなくてどうするんだ。
青い炎だって、赤い炎がなけりゃ点らねぇんだぞ。
火がつけば追い風が起こり、魅音も詩音も本来の鬼みたいな強さを取り戻す…!!
「………ありがとうな。…梨花ちゃんが火打石を叩いてくれた。……そして俺という火が燃え上がってきたぜ…。」
「……圭一…。」
<梨花
ここが踏ん張りどころじゃねぇか。
……俺たちは最強の部活メンバーだぞ。個にして最強、揃えば誰にも負けない絶対無敵だ!!
「………この俺があの程度でへこむなんて情けないぜ。…梨花ちゃんの言葉で目が覚めた。…………自分を信じろって言葉が、どれだけ重いかってことを教えてもらったぜ。」
梨花ちゃんもまた、俺たち部活メンバーの特性に気付き、まず誰に火をつければいいのかわかってたってことだな。……うおぉ、俺という導火線に火がついてきたぜ…。
「おい魅音!! いつまでショボくれてやがる。ここは怒り狂うところだぜ、おい!」
俺の威勢のいい声に、みんながはっとして振り返る。
それは突然の声に驚いたという表情だけでなく、……その威勢の良さを待っていたという期待も含まれていた。
俺はそれを見てますますに理解する。
……これが、我が部における前原圭一の役割だ!!
「さっきのは対応は客観的に見て、まずは空振りだな。多分、レナの言うように、クラスメートが5人来て陳情、って程度のメモ書きで終わっちまうんだろう。……だがな、ああいう対応をしちまったら、俺たちの怒りに火がついちまうぜ…!」
「た、…確かに、木で鼻をくくったような感じだったけど……、」
<魅音
「俺たちは沙都子の緊急の危機を訴えてんだぞ、あの対応はねぇだろ! ここは戦うとこだぞ!! こんな公園で仲良くショボくれてる場合じゃねえッ!!」
「でも…、圭一くん。次に私たちは何をしたらいいんだろう…。」
<レナ
「へっへっへ! お前らまさかもうこの程度で万策が尽きたとか思ってるんじゃねぇだろうなぁ? お前らこれが部活なら、全員ビリだぜ!! へっへっへ!!」
…へ、面白いもんだ!
俺自身、内心はへこたれていたのに、空威張りをしてる内に何だか胸の奥が熱くなってきやがる…!
自分で言ってて自分に諭される感じだ。
俺は何をへこたれてたんだ。
沙都子を救うために一刻の猶予もねぇんなら、ここは手を休めるところじゃねぇ!!
例えるなら、形勢不利のボクシングで、最終ラウンド残り時間わずかってとこだな!
このままボケっとしてりゃ判定負けは確実だってんなら、ここは強襲あるのみじゃねぇかよ!!
一発のパンチを放ち、それで相手が倒れないから、この試合には勝てないと諦めるのかよ? 違うだろ?! 一発のパンチで倒れなきゃ二発三発!! マットに沈むまで連打あるのみだろうがッ!!
「連打あるのみって、…また明日も陳情に行こうってわけですか?」
<詩音
「近いけど、ちょいと甘ぇなぁ? へっへっへ!!」
「な、……何を考えてるんだか知らないけど、……くっくっく。何だかおじさんも面白そうな気がしてきたよ。……これで泣き寝入りなんて我が部らしくもない。この程度の逆風、跳ね返して見せなきゃね…!」
よし、……魅音が戦う気力ってヤツを取り戻してきた…!
「そうだね、圭一くんの言うとおりだよ。いじけてた自分が恥ずかしい。戦おう!」
「でも圭ちゃん、具体的にはどうしようってわけさ?」
「へっへっへ…。みんなもちょいと思い出してみな。あの相談員は俺たちに宣戦布告をしてくれやがったわけだが、ご丁寧にも次の手も教えてくれてたわけさ。多分、意識しなかったんだろうけどな。墓穴を掘ってくれたもんだぜ。……しかも、そいつはどうやら俺のもっとも得意とする戦術になりそうだぜ…!!」
■幕間
■TIPS5 受付メモ
No.
昭和  年  月  日(  )
件 名  北条サトコさんの件
来訪者  前原圭一 外4名(関係:友人)
・北条サトコさんが叔父に虐待を受けているので、一時保護をしてほしい旨、訴えがありました。(対応中?)
・冷蔵庫の掃除をしますので、私物は今夕までに片付けてください。
■TIPS5 鬱積と手帳
鉄平は、沙都子がもう少し金を持っているだろうと思っていた。
だが実際には沙都子は無一文だった。
今までどうやって生活してきたのかと聞くと、同居してた友人に世話になっていたので、自分はお金が必要なかったと返事が返ってきた。
鉄平は、賭場などで悪いお金を多少は稼いでいた。
その蓄えが多少はあったから当分は問題なかったが、そもそも鉄平にとってその金は軍資金兼、遊興費であり、生活費に回すなど不愉快極まりないことだった。
だが、沙都子が金を持っていないはずがない。鉄平はそう考えた。
鉄平の妻、つまり沙都子の叔母は、事故で死んだ沙都子の両親からかなりの金の入った預金通帳を奪っているはずだった。
その叔母は去年死に、悟史も失踪。
だとしたら、その通帳は最後のひとりの沙都子が持っているに違いなかった。
だが、沙都子をいくら脅しても、そんなものを受け取っていないと繰り返すのみだった。
きっと隠してるに違いないと思い、鉄平が納得行くように沙都子を詰問してみた。
沙都子自身に暴力を加えると傷が残り、女教師や相談所に疑われる。
だから沙都子は殴らない。
言葉や暴言で殴り、物や家具を殴ったり壊したりして見せた。
こういう脅し方ももちろん鉄平の得意とするものだ。
だが、沙都子は持っていない知らないと半狂乱になって答えるのみで、本当に持っていなさそうだった。
沙都子の怯えた小動物のような仕草に、鉄平は居間をひとつ、完全に荒らしきった後、ようやく納得するのだった。
……となれば、通帳はどこに? 鉄平は2つ考えた。
1つは叔母がへそくりのようにどこかに未だ隠し持っていること。
もう1つは、叔母が死んだ後、それを悟史が奪い、やはりどこかに隠し持っていること。
どちらにせよ、この家のどこかに隠されているだろうという結論に至った。
沙都子には自分で荒らした居間の片付けを命じ、鉄平は二階建ての狭くない家の中を彷徨い始めた。
……実は、この頃には鉄平は沙都子を持て余し始めていた。
風の噂では、沙都子の両親は相当の金を残していたはずだ。
そしてそれを叔母は全て独り占めしていた。
守銭奴だったから、犬が何でも持ち帰って律儀に取って置くように、多分、通帳も手付かずで丸々残っているはずだ。
まとまった金が手に入ったら、どこか別の土地へ行くのも悪くないと思い始めていた。
穀倉の辺りの賭場には多少のツテもある。
昔世話したヤツらがまだヤサにしてたはずだ。
当時の恩でゴネて転がりこむか。寝床くらいは貸してくれるはずだ。
確かに沙都子に家事を任せる気楽さはあるが、学校や児童相談所から監視を受けており、窮屈さは否めない。
自らを暴力の塊であると認める鉄平にとって、今後も沙都子に暴行しない保証など、自分に対してすら出せるわけがなかった。
…そう思えば思うほどに、無抵抗な沙都子を思い切りぶん殴ってやりたい衝動に駆られるのだった。
抵抗する相手を屈服させる愉しみしか知らなかった鉄平にとって、無抵抗の沙都子がどこまで乱暴すれば抵抗してくれるかを試すことは、最後に試してみたい愉しみだった。
知恵が訪問して以来の不愉快さは未だ消えず、ここを出る時にその鬱憤を晴らすために沙都子を滅茶苦茶にしてやろうというルールが、いつの間にか鉄平の内側に作られていたのである……。
■6日目
「食事の時間中に申し訳ない、みんな聞いてくれ!!」
クラスメートたちが何事かと驚く。
俺は登壇すると威勢よく黒板を叩いた。
こういうのは掴みが大切だ!
「もちろん飯を食いながらでいい。俺が話したいのはクラスメートの北条沙都子の件だ!!」
沙都子の名前が出ると、皆、シンと黙り込んで耳を傾けた。
クラスの誰もが、沙都子が気の毒な状況下にあることを知っていた。
誰もが去年の屍のような沙都子をよく覚えていて、それがどれだけ猶予のない危機として迫っているか理解しているようだった。
誰もが、もしできることなら沙都子を救ってあげたいと思っている。
……でも、自分に何ができるかわからないから、何もできずにいるのだ。
「今さら説明の必要もないと思う。知っての通り、沙都子はもうこれで3日続けて学校に来てない。叔父の野郎に連れ去られて3日目! 今日も風邪だと電話してきやがったらしいが、それはありえない!! 診療所にはこの3日間、沙都子が診察に訪れた記録は一切ないからだ!!
諸君、冷静に考えろ。3日も休むような重い風邪で、どうして病院に連れて行かないなんてことがあるのか!!」
「……3日も風邪なんてなかなかないよね…。
「…インフルエンザだとそれくらいは……。でもそんな風邪なら市販の薬では治らない…。」
クラス中がそれはおかしいおかしいと騒ぐ。
誰もが胸の奥ではそう思っていた。
だが、口にし、耳にして初めて自覚するということもある。まずはそこから攻める!
「みんな考えても見ろ、強健が売りの沙都子だぞ!! 賞味期限切れの饅頭を食ってもケロっとしてるヤツだ。それが前日まであれだけ元気で、突然風邪で3日も寝込むだと?! そんなことがありえてたまるかぁあぁ!!!
これはもう疑いようがない。沙都子が学校へ行けないようにしているヤツがいるからだッ!! もちろんこの異常な状況を学校は児童相談所に連絡済みだ。だが、返事は相変わらず現在対応中の一点張り!! 踏み込んだ質問は全てプライバシー保護でお話できないの繰り返しだ!! 諸君はどう思う、この対応は果たして沙都子の置かれている状況を考えて妥当だと思うだろうかッ?!」
「レナはおかしいと思う! 去年、沙都子ちゃんの叔父さんと叔母さんがどんな仕打ちをしていたか、私たちが一番よく知っている。それにそもそも、沙都子ちゃんは梨花ちゃんと二人で仲良く暮らしていた! それを無理やり連れ戻して、友達の誰にも会わせず、先生にすら会わせないなんておかしいと思う!」
普段、大人しい雰囲気のレナが感情に任せて発言する姿は、今が緊急事態であることをこの上なくアピールする。
いつも怒鳴ったり叫んだりしている俺には宿らない迫力がレナにはある!
「このような異常な状況を俺たちは放置するのか?! 沙都子は仲間だ!! クラスメートだ!! 俺たちはこの四角い一辺が8mもない狭い部屋で春夏秋冬の全てを過ごし、家族と言っても差し支えない時間を共に過ごしている!! 共に学んだ、共に遊んだ、共に飯を食い、時には喧嘩をしたりした。過ごす時間は劣っても、その濃密な関係は家族にも勝る!! そんな第二の家族の危機を俺たちは見過ごせるのか?! 見過ごせる見殺せるってヤツは挙手をしてみろ!!! いないな? いるわけないんだ!! 沙都子を見殺しにするな、助けるんだ俺たちが!!」
ざわざわざわざわ!! クラス中が大きなざわめきに包まれる。そうだそれでいい! 俺が大騒ぎすればするほど、自然と彼らも大きな声で話をできるようになる。ヒートアップってヤツだ! そして俺が地を出せば出すほど、みんなも感情を出しやすくなるんだ!!
「そして我が部はすでに動き始めている!! 沙都子を救うためにはどうすればいいかを調べ、すでに行動を開始しているのだ!!
富田くん、それがわかるか?!」
「い、いえ! わかりません…!!」
「よし、ならばその作戦を教えてやる! いやなに、法律に逆らおうってんじゃない。
むしろ法律に従ってちゃんとルールに則って戦おうってんだ! 世の中、実は正攻法ほど効くものはない。裏技ってのは奇襲的で効果がありそうに感じるが、そんなのはびっくり箱なんかと同じ安っぽいもんだ! 本当の正攻法ってはな、何でもブチ抜くぞ!!」
「…うん。空手なんかでも、もっとも威力があるのは正拳突きだって聞いたことがある。愚直でシンプルな正攻法がもっとも威力があるのは、力学をちょいと考えれば当然のことなんだよね…!」
<魅音
「だって、私たちは沙都子を助けるために正しいことをしています。裏からこそこそ行く必要なんてない! 正面から堂々と乗り込んで倒す!!」
「たた、倒すって、……誰かと喧嘩をするんですか?!」
「いいことを言うな岡村くん! 確かにこいつは喧嘩だ。だがな、殴り合おうってんじゃないぞ。ちゃんとルールに則った、
正しい喧嘩なんだッ!!!
その前に、まず沙都子を救うにはどうすればいいのかという最初の話に戻ろう。現状はこうだ。沙都子がいる。叔父がそれを監禁している。………一昨日の時点では沙都子に外傷がなかったと相談所が言ってるが、昨日今日で虐待を受けていない保証にはならないぞ!!
それにな、登校禁止は立派な児童虐待なんだ!!
ほら見ろ! こいつは魅音が持ってきた児童相談所のパンフレットだ!!
ここに明記してある。登校禁止は虐待!!
しかも叔父は一年間沙都子を放ったらかして蒸発してたな。こいつは育児拒否!
これもまた虐待だと明記してあるぞ!! だが一昨日、学校から通報を受けた児童相談所は、これら2つを華麗にスルーし、一年間の育児拒否は水に流し、登校禁止は風邪のせいだという叔父の説明をそのまま鵜呑みだ!! しかも、訪問した時に沙都子に外傷がなかったから、とりあえず虐待はないだろう、様子見だという判断だ!! どう思う諸君ッ!!!」
「ま、前原さん! これは明白な児童虐待です!! 例え北条さんが暴行を受けていなかったからと言って、虐待を受けていないという根拠にはなりえません!」
「僕もそう思います…! どうしてこれで虐待だと認定されないんですか?!」
「魅音から聞いた内部の情報によると、虐待かどうかを判断するには2日3日程度の時間でもは足りないって言うんだ。虐待というのは、もっと何年とか何ヶ月とか恒常的に続いて初めてそうだと認定するものらしい。そこを慎重に見極めないといけないんだそうだ。これをどう思う!!! 沙都子を数ヶ月間も放ったらかしにしようという判断が、果たして慎重な判断と言えるのか?!」
「「言えない!!
言えない!!!」」
「そうだ、言えるわけがない!! 相談所には沙都子の置かれている危機感が伝わっていない!! 去年の沙都子がどういう状況だったかが理解できていないんだ!! だから様子見なんてのんびりしたことが言えるんだ!! ならばどうする富田くん!!」
「はい! 問題となるのは児童相談所側の認識の甘さだと思います。これについて、事情をよく知る人間が説明する必要があると思います!」
「うん。児童相談所の人が慎重に対応したいというのは、平均的に見たら普通の対応なのかもしれない。
でも、それは沙都子ちゃんには当てはまらない!
叔父さんは去年も沙都子ちゃんを虐めてた! 叔母さんとの夫婦喧嘩の八つ当たりをしていた! しかもその叔母さんが死んだ後はたった一人残された沙都子ちゃんを放り出して蒸発してしまった!!」
<レナ
「しかもだ。そいつは興宮の愛人宅に転がり込むためだったとの情報をキャッチしてるんだよ。
その間、残された沙都子はどうしてた?! たまたま梨花ちゃんが一緒に住もうと申し出てくれたからいい。もし梨花ちゃんがいなかったら?! たった一人で生きていかなくちゃならなかった!!」
<魅音
「しかもだ。雛見沢に戻ってきた理由も、その愛人が蒸発したかららしい。要するに捨てられたんだな。それでのこのこ雛見沢に戻ってきて、沙都子を無理やり連れ戻したってのはどう思う?! しかも近所からは、沙都子が洗濯物を干しているところ等の目撃がある。
つまり叔父の野郎が沙都子を連れ戻した理由はただひとつ!!
てめえの家事を押し付けるためだけなんだああッ!!!」
「そんなの人として許せないです!!
この教室の中で、一年も愛人のところへ転がり込んでて、捨てられたからってひょっこり帰ってきて威張り腐ってるヤツを親なんて思う人、いる?!」
<詩音
「「いません!!
いません!!!」」
「そうだ、そんなヤツは親じゃねぇ!!! だが相談所はヤツを親権者だと呼ぶ!! 親権を取り消すには家庭裁判所に訴えなければならないなんてのんびりしたことをいいやがる!!! 親かどうかを決めるのは誰だッ?! 裁判所じゃねぇだろ!! 人としての常識が決めるんだ!! だからはっきり言える!! ヤツは沙都子の親じゃねえ!! そしてそれをはっきりと児童相談所に説明する必要があるんだ!!!」
「公的機関の中で、沙都子が実際に暴力を振るわれる前に助けることができるのは、児童相談所のみ。警察は事件にならないと助けてくれないよ!! 事件になるまで沙都子を見殺しになんて出来る?!」
<魅音
「座して見殺しになんてできない!! だから俺たちはすでに立ち上がった!! 昨日、俺たち部活メンバーはすでに興宮の児童相談所に突撃したッ!! そして連中は記録にこう書いた。北条沙都子の件についてクラスメート5人から陳情あり、ってな。どういうことかわかるか!! 5人じゃ足りねえぇ!! お前ら、仲間を救うために力を貸せッ!!!
いいか惜しむな、人間が生きてる間にどれだけ人のために一肌脱げるチャンスがあるってんだ!! ここでやらなかったら男じゃねぇ、仲間じゃねえ!! 戦い方は簡単だ、ただ俺の背中を守ってくれればいい!!! 矢面には俺が立つ、部活メンバーが全火力を受け持つ!! ただ俺たちの背中を守ってくれればいい!! それだけじゃ我慢がならなけりゃ吼えろ!! 雛見沢分校のスピリッツってヤツを思い知らせてやれ!!!」
「ま、………前原くん…! こ、これは………!」
<知恵
教室の大騒ぎに気付き、いつの間にか廊下から知恵先生が顔を覗かせていた。
……とにかくクラスを落ち着けようと、中に入ろうとした時、その肩に、後から大きな手が乗せられた。
「こ、校長先生…!」
「知恵先生。……………お茶が飲みたいですな。淹れてはくれませんかな?」
それは、圭一の演説を阻止するなという明白な意思。
「…い、いいんですか?! クラスには小さな子どももたくさんいます。もしもみんなで児童相談所に押し掛けようなんてことになったら、保護者の方に……、」
「……知恵。」
「古手さん、……これはどういうことなんですか?!」
「……みんなが、沙都子を助けるためにがんばろうとしてくれているのです。……私は無力だから、……みんなの力を借りないと何もできない。
……でも、それを阻止しようとする知恵を食い止めるくらいはできる……!」
知恵は、梨花がこんな形相で睨みつけるところを初めて見ただろう。その意思の強さに驚く。
「何を止める理由があるというのか。」
「……校長先生…!」
「大いに結構!! やれるところまでやってみなさい!! それで責任を求められるなら、不肖、この海江田が全て責任を取るッ!!!」
校長は分厚い胸板をガツンを叩いて見せた。
そこまで見せられては、知恵先生ももうそれ以上は言えない。
「わかりました…。くれぐれも怪我人など出さないように。ルールとマナーを絶対に守ること。約束ですよ!」
「……二人とも、ありがとうなのです…!」
「知恵先生、よく思い止まりましたな。」
「この歳をして、生徒には教えられることばかりです…。
……………よし。…覚悟を決めました。……教え子は私の娘も同じ。娘を庇わぬ母はなし!」
「よし!!! みんな、今日の学校が終わったら、各自速攻で帰宅し自転車で興宮の図書館に集合だ!! そこの1階奥が相談所になっている!!」
「「「おおおおおぉぉ!!!」」」
「お待ちなさい!」
「知恵先生…!」
<レナ
「せ、先生…、まさか俺たちを止めるつもりですか…!!」
「とんでもない。あなたたちの意思の強さはよくわかりました。社会のルールにちゃんと則って戦うなら、先生もみんなを支持します!」
「「うをおおおおおおおお!!!」」
「皆さんがちゃんとお行儀よくするか、先生も同行します! よろしいですね?!」
「「「おおおおおおおおおおお!!!」」」
よっしゃよっしゃあ!! 来た来た盛り上がって来やがった!!
俺たちは学校が終わると同時に速攻で帰宅、自転車で直ちに興宮へ向かった。
家の用事だのなんだので何人かは抜けるだろうと思っていたのだが、信じられないくらいに全員が揃った。それだけにみんなの気迫を感じる。
また、知恵先生も一緒なのが心強かった。
いくら俺が、正攻法だと訴えても、どことなく後ろめたさが拭えなかった。
でも、知恵先生のお墨付きがあれば、そこには後ろめたさなどない!
「前原さん、窓口までお越しください…。」
「はい、前原です。」
「えぇと、……今日はどういったご用件でしょうか?」
「相談票に書いたとおりです。北条沙都子の保護に緊急性があることを陳情に来ました。」
「あの……何人でお越しですか? 皆さん、どういったご関係でしょうか…?」
「沙都子のクラスメート全員と引率教師、締めて27名です。」
「えっと……、相談室がそんなに広くないもので…、できれば代表の方だけでお願いしたいのですが…。」
「なら、会議室とかの広い部屋を用意したらどうですか? 部屋に合わせるんじゃなくて、私たちに合わせるべきだと思います。」
<レナ
「…えっと、……その、お待ちください…。」
かなりうろたえてるようだった。
事務員は一度待合室のソファーに戻ってくれというような仕草をすると、おろおろしながら内線電話で訴えているようだった。
「…レナさんってやりますねー。今のはプロの私でも絶妙だと思うタイミングの脅しでした。」
<詩音
「はぅ、…それって多分褒め言葉じゃない〜〜。」
レナは相手の心の機微を読むのがうまい。
……それは気が利くってことなんだが、敵に回せば、巧みに突いてくる恐ろしい存在ってことでもあるわけだ。
今や事務所の中は妙な雰囲気に包まれていた。
何しろ、親類が何人か相談にくるのがせいぜいに、社会科見学じゃあるまいし1クラスが丸ごと押し掛けてきて陳情だなんて前例がないことに違いない。
「どうもどうも…、福祉推進係長の原山と申します。どうぞ皆さんお掛けください。」
「本日はご多忙の中、押し掛けさせていただき申し訳ございません。雛見沢分校の知恵と申します。よろしくお願いいたします。」
人数が昨日の5倍となり、引率者に大人もついたことで、俺たちの格が急に上がったようだった。
あの狭い相談室ではなく、レナが要望したとおり、全員が座れる教室大の会議室に通された。
しかも、昨日の相談員に加え、係長という上司まで同席した。
「では代表の前原くんに譲ります。」
それだけ言うと、知恵先生は一番遠い席へ下がった。
あくまでも引率だ。それに、この喧嘩は俺たちが売った。
知恵先生は後にいてくれるだけで充分だ!
「代表の前原圭一です。よろしくお願いします。」
「えぇとですね、昨日、前原さんとお友達の方5人がお見えになって、北条沙都子さんの件で貴重なご意見を賜ったとのお話は聞かせていただいております。本日はそれとは別のお話でしょうか?」
いきなり向こうから発言があるとは思わなかったな。どういう意図だ?
「……何だか曖昧で気持ち悪い。自分たちに非があるのかないのかわかりかねてて、出方を探ってるみたいだね。」
<レナ
「圭ちゃん。ここは今日来た理由を強めに言って、非が向こうにあることをアピールすべきです」
<詩音
頼もしい参謀たちが後から分析を入れてくれる。
…何だか、外国の首脳と会談してるみたいな気になってきたぜ。
……そうだ、俺は今、首脳なんだ。
クラスを代表している。品を欠くな、だけれどきっちり押し通せ!
「よし、この角度から攻めるか。
……圭ちゃん、こんな感じで言って。えっとね……!」
魅音から攻撃方針の伝達がある。……やはり魅音はこうでなくちゃな。
打たれ弱いなら、矢面には図太い俺が立てばいいんだ。そして魅音は背後から適切な指示を出す!
俺は仲間たちの分析と指示を取り入れ、代表者らしく冷静な口調で言った。
「…いえ、その前にそれを確認させてください。今日、私たちが来たのは昨日お話がしっかり伝わっているかどうかを確認したかったのです。申し訳ございませんが、昨日、私たちがお話した内容を把握されているかお教えください。箇条書きを読み上げる程度で結構ですので。」
1秒の間があった。
時間に直せば一瞬だが、この状況下では長考に入るだろう。
係長の顔がどんどん冷静になっていくのがわかる。
……社会科見学に付き合うくらいのつもりが、急に地域住民の陳情団との対応に変ったからだ。
「…………私どもの方では、北条沙都子さんが一時保護等を受けるべき辛い事情にあり、その対応を急ぐべきであるとの訴えがあったものと認識しております。その際、当方の職員から、決して傍観ではなく、現在対応を協議中である旨を説明させていただいたと思います。」
「北条沙都子の叔父が、去年の時点でも虐待をしていたという事実を加味した上でも、緊急に対応する必要がないとお考えですか?」
「えーとですね、去年の時点では北条鉄平氏が虐待を行なっていたという情報は当方では確認しておりません。」
ざわざわざわざわ!!!
「はぁッ?! 去年のあんたたちは何をやってんたんですか!! 叔父叔母夫婦で共に虐めてたんです!! まさか叔母だけが虐めてたって認識じゃないですよね?!」
「……本来なら個人情報なので申し上げられないことですが、皆さんには特別にお話します。去年の件では、叔母の玉枝氏と沙都子さんにトラブルがあったことは確認しておりますが、叔父が関わったという認識はありませんでした。実際、ご近所の方からの聞き込みでも、玉枝氏にややヒステリックな傾向があるとは聞けましたが、叔父である鉄平氏の名前が出たことは一度もありません。」
「それは叔母さんが特に陰湿だったから目立っただけだと思います。叔父さんが虐めていないという証明にはならないと思います。」
<レナ
「…なるほど、では去年の時点でも鉄平氏は児童に虐待を加えていた可能性があると…。」
係長と相談員は、初耳だというのをジェスチャーで示したいのか、手帳に万年筆を走らせている。
「つまり、私たちが来たのはそういうことです。相談所に状況把握が正しく行なわれていないからです。沙都子が置かれている状況をちゃんと理解できたなら、これがどんなに緊急性のある問題かすぐにわかるはずです!」
「なるほど、お話はわかりました。鉄平氏の件については改めて調査させていただきます。」
「昨日もお話しましたが、叔父は一年間育児放棄をしていたはずです。それについて昨日はお返事がいただけませんでしたが、相談所さんはどうお考えですか?」
<レナ
「もちろん当方でも、鉄平氏が一年間自宅を空けられていた件は把握しており、それについて鉄平氏にもお尋ねしています。」
「で、叔父のヤツはそれになんて回答したんです?! プライバシーで話せないってんでしょうけど、それは沙都子を一年間放ったらかすに値する回答だったわけですよね?」
<詩音
「叔父が興宮の愛人の家に転がり込んでいたことが、一年間放ったらかす理由になるってんなら、その旨、一筆入れてもらいたいです。」
<魅音
「いえ…、そうなんですか? 私どもは鉄平氏が沙都子さんを養育するためにやむなく出稼ぎに出ていたという説明を受けておりまして、そのようなお話は初耳です…。」
何だそりゃ!! そんな下手な嘘を真に受けるのかよ?!
「初耳だって言うなら、沙都子は今日で3日続けて休んでいます。昨日から風邪と言う連絡は来ていますが、村に唯一の入江診療所に沙都子が診察に訪れた証拠はありません。
3日も寝込むような病気で病院へ通わせない親の対応をどうお考えですか?!」
<レナ
「いえ、1日を休まれたのか確認しておりますが、3日も続いているとは…それも初耳です…。ただですね、私どもの職員が直接お伺いし、沙都子さんに虐待の事実確認をして本人の否定を得ています。鉄平氏と一緒に今後も住み続けたいですか、との問いにイエスのお返事をいただいておりますわけで…。」
「本人が虐待はないと言ったら、それで虐待はないことになるんですか?!」
「そこがですね、難しいところでして…。虐待というのは児童本人にとってそうであるかどうかがとても重要なんです。虐めの定義と同じですね、やってる方が虐めだと思わなくても、受けている方が虐めだと思えばそれは虐めなわけです。」
「それはつまり、沙都子ちゃんが自分で、私は叔父に虐待を受けています助けてくださいって言わないと助けられないという意味ですね?」
<レナ
「いえ! だからそこまで極端には申しておりません。もちろん相談所で客観的に判断して児童の健全な育成に支障があると判断した時には緊急の判断をすることもあります。ですが、沙都子さんは現在、それほど危機的な状態にはないと考えています。」
危機的な状態にはない。
これは現在の相談所の判断を一言で示すものだった。
さすがに傍観していたクラスメートたちも騒ぎ出す。
「危機的な状態にないなんてよく言えますね!! どうしてそうだと断言できるんですか!」
<詩音
「具体的に申し上げますと、沙都子さんが直接間接の暴力を受けていないことによりますし、本人も虐待の事実を否定しています。また、衣食住の3つが与えられていて最低限の生活は保障されていることも大切です。客観的に判断して、鉄平氏は親権者としての責務を全うしていないと断言できるレベルではありません。鉄平氏も沙都子さんも、現在の生活に不満は申しておりませんでした。鉄平氏の去年の接し方やこの一年間の話は今後、指導していく余地があると思いますが…。とりあえずですね、皆さんにはちょっとお耳に痛い話になるかと思いますが、虐待があるというのは、正直なところ少々皆さんの過剰な反応ではないかと思います。」
「か、過剰な反応…ですかッ!!」
「…落ち着いて圭一くん。向こうの攻撃は軽く受け流して様子を見よう。」
<レナ
「くそ、…何だって向こうは急に居丈高になったんです?!」
<詩音
「ふぅむ……。どうやら、私たちの言う緊急性というヤツが、全て去年の出来事に基づいてると判断したようだね…。」
なるほどな…。去年は去年、今年は今年ってわけだ。
……しかも、沙都子に実際に虐待されてるかどうか聞いて、沙都子に虐待されてないという言質を取ったのがデカいと見たわけか…。
「鉄平氏も、一年間出稼ぎで家を空けて沙都子さんに苦労をさせたことを非常に悔やんでおられます。今後は唯一の肉親として、沙都子さんに愛情を注ぐと言われております。」
ダンッ!!!
すごい音がした。誰かが机を叩いたのだ。
係長も含め全員がびくりとする。…こういう短気なのは詩音か?
……違った、レナだった。うおぉ…、大魔神も裸足で逃げ出す恐ろしい形相をしてやがる…。
「子どもは親の許で育つのが一番です。家族愛によってしか育めないものがたくさんあります。私どもが聞いているところによると、一年間、沙都子さんは未成年者と共に生計を共にし、大人の保護下にない生活をしていたことになっています。これは、多感な成長期にある沙都子さんにとって、将来への大きな損失です。皆さんはお友達的な感情からその方が幸せだと思われているかもしれませんが、どうか鉄平氏と沙都子さんが、叔父・姪の間柄でもう一度新しい生活をやり直すのを温かく見守っていただけないでしょうか。」
「あ…、あんた、今日の私たちが何の話をしてるのか聞いてましたッ?!」
<詩音
「つまり、沙都子本人が助けてくださいって言い出すまで、周りで誰が何人騒ごうと聞く耳は持たないってわけですねッ?! お前、それだったら監禁されてる沙都子の場合、どうやって助けを求めるんだよ!! 叔父に見張られてて外出もできず電話もできない!! そんな状況で沙都子がどうやって助けてって言えるんだよ!! 助けを求められない沙都子に代わって、俺たちが助けを求めてるんじゃねえか!! それに聞く耳はねぇってそう言いやがるんだなッ?!!」
<圭一
「いや、だからそうは言いません! クラスの皆さんがこうして20人以上もいらっしゃって、沙都子さんの実情を訴えられた事実は蔑ろにしません! もちろん今日の件は沙都子さんへの対応を決める上で必ず考慮します…!」
「その対応はいつ決まるんですか。その対応が決まるまでに沙都子ちゃんが虐待を受けない保証は誰が出すんですか!」
<レナ
「……もしも沙都子に何かあったら、あなたが責任を取るのね?」
<梨花
「てめぇ、沙都子にアザがひとつでも付いててみろ。ただじゃおかねぇぞッ!!」
<詩音
「詩音さん、言い過ぎです。」
<知恵
「係長さん。その対応を決める期限を教えてください。」
<魅音
「そ、そうだ!! 対応を検討するって、いつまでのんびりと検討する気なんだよ!!」
「ですから、沙都子さんのためにも慎重な対応を決めなければなりません。当然、そのためには今後も本人と鉄平氏への面接を重ね、より良い親子、いえいえ叔父・姪の関係が築けるよう是正していきます。どうか沙都子さんのためを思えばこそ、もうしばらくの間、温かく見守ってあげることはできないでしょうか…。ひとつ、沙都子さんのためにもご趣旨をお汲み取りいただけますと助かります。」
「……それは、私たちは緊急に保護するべきだという訴えに対し、緊急性はないというお返事だと読み取らせていただいて結構なんですね?」
<レナ
長々と煙に巻かれて何を言われてるのかわからなかったが、レナに言われてはっとする。
対応を大急ぎで決めてくれというのに対する返事がこれということは、つまりはそういうことだ。……緊急性はないという明白な返答!
「もちろん、緊急性がある可能性もあることは皆さんからのお話でよくわかりました。ですので、緊急性があるか否か、もう一度よく検討してみようと思います。どうか本日はそんな辺りでご理解をいただけないでしょうか…。」
一見、腰が低いような言い方だが、沙都子の置かれている状況の緊急性については双方の主張は平行線だ。向こうに歩み寄るつもりはないらしい。
…確かに向こうは役所だ。
それに沙都子という一人の人間の人生を左右しかねない権限を持っている。
それを思えば慎重に検討するという対応は、やや臆病ではあるがそう間違った対応ではないし、他人事だったなら理解もできる。
だが、沙都子のおかれている状況はそんなに悠長ではないのだ!
………俺たちにはわかる。見えている。
……沙都子が叔父に心が深く傷付けられるような虐待を受け、……頭を撫でようとしただけで壊れてしまった、あの沙都子が見えている!
そしてそれはほんの数日で起こってしまう悪夢かもしれないのだ。
…その世界の俺は、沙都子を救おうとはしてたけど、救うのにタイムリミットがあることを失念していた。
……だから俺はそこを誤らない。徹頭徹尾、速攻を貫く!!
「前原くん。お話したいことは全て話せましたか?」
<知恵
「はい…。」
「では以上になります。本日はご多忙中、お時間をお割き下さりまして誠にありがとうございます。はい、皆さん、お礼をしてください。委員長、号令!」
「「「…どうも、ありがとうございましたー。」」」
「いえ、こちらこそ貴重なご意見を本当にありがとうございました。」
■第三波準備
「OK、みんなお疲れさん! 気をつけて帰りなねー!!」
<魅音
ひとまず俺たちは雛見沢に帰ってきて解散することになった。
魅音が委員長らしく解散の号令を出す。
だが、みんなはすぐに解散せず、今日の話はどういうことだったのかとわいわい話し始める。
雛見沢まで自転車で帰ってきたわけなので、みんな戻ってくるまで会話をしていない。
だから、こうして自転車を降りたので、みんな言いたいことが堰を切って溢れ出したらしい。
「…みんな初めての経験なんだよ。全員で力を合わせてクラスメートのために戦うという経験が。」
<レナ
「何だか、ダム戦争の時みたいですね。こういう盛り上がり方は。」
<詩音
「そうだねぇ。考えてみればここにいる子たちの一部はダム戦争は覚えていても、参加したわけじゃないだろうしね。」
<魅音
「まぁ、あの時より紳士的ですよ? 誰も血を流さないし、火炎瓶もなければ機動隊もいないし。」
<紳士
「……団結は雛見沢の華なのです。」
「そうだね。……おじさんも久し振りに血がたぎってきたよ。くっくっく!」
ダム戦争の時、村中が老若男女の区別なく団結して戦ったという武勇伝は引っ越してきたばかりの俺でもよく知っている。
……戦って打ち勝ったことよりも、村全体で一丸となって立ち上がったことの方がポイントらしい。
「一人には二人で石を投げ、二人には四人で、四人には八人で。千人には村全てで立ち向かえ。」
<魅音
「なぁに? 諺?」
<レナ
「あー、大昔に鬼婆が言ったとかいう言葉です。
村全体で結束して戦えっていう檄なんだそうで。」
<詩音
「一人には二人で戦い、千人には村全体で。なるほどな。常に団結して敵を圧倒しろってことか。」
<圭一
「それだけの意味ではありませんよ。団結して戦うという意味はもちろんですが、一人のために村全体で結束して戦えという意味も含まれています。個人の痛みを全員で共有して、我が身と思って戦おうというのが本来の意味ですね。」
<知恵
「何だかすごい。今の私たちにはすごく重みのある言葉ですね。」
<レナ
「ってことはつまり、そういうことさ。俺たちの戦い方は、実に雛見沢的だってことじゃねぇか。……なるほどな。みんながこうして全員で協力してくれたのは、俺の演説に感動したからじゃなくて、そういう団結の土壌があったからなんだな…。」
クラスメートたちはそれぞれのグループに分かれて、今なお帰ろうとせず、積極的に議論をしているようだった。
それは、ある者にとってはダム戦争の再来であり、ある者にとっては、小さい頃から聞かされてきた武勇伝に自分も加わるチャンスでもある。
まるで、何年かに一度の祭りのような高揚感すらあるようだった。
もちろん、今日の話し合いが空振りに終わったことを憤る声がほとんどなのだが。
「前原さん、前原さん! 結局、今日のって、北条さんを助けないぞって言う最終回答なわけですよね?!」
「そこまで致命的に言ったわけじゃないが、…見殺しって意味ではそうだろうな。」
「僕たちは近所だから、あいつがどんなヤツか昔からよく知ってます! あいつは普通じゃないですよ!!」
「相談所があいつのことを何もわかっていないのがよくわかったです…! 今日のこれきりで終わりにしたら駄目だと思います!」
富田くんと岡村くんも一人前の眼差しだった。
俺の背中を守ってくれればいいなんてそれだけの存在じゃない。
積極的に攻めようという強い意志が宿っている!
「私たちも、北条さんを助けるためにもっとがんばらないといけないと思います!」
「「異議なし!」」「「賛成!」」
男子も女子もなく、みんなが気勢を上げるその様子は、普段の好き勝手に遊びまわっている彼らからは想像もつかない。…だが、だからこそ頼もしかった。
「あぁ、当然だぜ!! 沙都子は仲間だ、絶対に助け出す!! そのためにどうかまた力を貸してくれッ!!!」
「水臭いですよ前原さん! これはクラスメートとしての務めです! 前原さんに頼まれたから戦うことじゃない。僕たちが自発的に参加しなければならない戦いなんです!」
「おー…、富田くんもなかなか言うようになったねぇ!」
<魅音
「明日もまた、みんなで押し掛けますか…?!」
「手を休めたくないところだね。」
<レナ
「継続は力なりって言います。私もレナさんに同感です。」
<詩音
「でも、今日と同じメンバーでまた押し掛けても、またかで終わりだね。
今日が効果的だったのは、昨日よりも大人数で押し掛けてきたって点なんだからさ。」
<魅音
「じゃあ、今日よりももっと大勢で行けばいいってことかな、かな!」
レナはそう言いながらみんなに振り返る。
みんなもレナが何を言いたいかわかっていた。
雛見沢の子どもは全てが雛見沢の学校に通ってるわけじゃない。
半分くらいの子どもははるばると興宮の学校まで自転車で通ってる。
その子どもたちはもちろんクラスメートではないので学校では会わないが、ご近所の友人たちばかりだ。
当然、狭い雛見沢でのこと。
沙都子のこともクラスメートとまったく同じによく知っているし、沙都子が今どういう状況にあるかは、村中に知れ渡っているはずだ。
…何しろ雛見沢は、噂の伝達速度が光に準じる速度くらいありそうだからな…。
俺の恥ずかしい罰ゲームの知れ渡る恐ろしい速度からそれは容易に伺える。
「……じゃあ俺は帰ったら大介に話してみるよ。あいつならきっと来てくれる。」
「私も帰ったら友達みんなに電話する。興宮の学校なんだから、図書館はすぐ近くだし…。」
「ざわざわ! ざわざわ!!」
「いい流れになってきたね! ま、圭ちゃんの生演説がないから倍とはならないだろうけど、もう10人くらいは増えそうな予感だね。私も子ども会OBの人とかに声を掛けてみる。多分…3人くらいは来てくれると思う。」
「私も学校の友人に声を掛けてみます。
……ただ、沙都子や事情を知らない人たちなので、私の交友関係程度で、せいぜい4人くらいです。」
<詩音
「子ども以外の戦力ってのはやっぱり絶望的なのか?」
「………うーーん…。町会関係は…、北条家には関わりたくない人が多いね…。」
「…ダム戦争以来のしがらみがあるんだよな。……ならお年寄りはどうだ。梨花ちゃんの方で、神社に出入りするお年寄りに声を掛けられないか?」
「……お年寄りの方が、もっと沙都子に冷たいのです。」
「オヤシロさまの祟りを妄信してる連中ほど、北条家のことをバチ当たりだと信じてますからね。」
<詩音
「やっぱり……、子どもの力までが限界なのか。レナ、これで何人くらいになった?」
「17人だよ。全員が来てくれるとは思えないけど、それでも40人に迫る人数になるね。」
<レナ
「……40人も集めるなんて、さすが圭一なのです…。」
「何だよ梨花ちゃん、40人で足りてるのか?」
「……え?」
俺はニヤリと笑って梨花ちゃんの胸をドンと叩く。
「足りねぇなあ…!! 20人以上で押し掛けてああいう対応だった相手をノックアウトするには、40人じゃ足りねぇんだ。…もう20人くらいはほしいところだぜ…!!」
「確かに…60人も押し掛けたら相当ビビるだろうけど…!!
そ、そんな人間、どこから引っ張ってくるわけぇ?!」
<魅音
「へへ、俺を侮ってるなぁ?! 俺の名前は前原圭一!! 俺がやると言ったら必ずやるッ!」
■エンジェルモート
「説明は以上だ、亀田くん。明日の夕方に第三波攻撃を仕掛ける。どうか力を貸してくれ…!!」
「……Kの頼みなら断りたくない。俺たちは同じジャンボパフェを突き合った仲。
それは義兄弟の契りにも勝る!
だから俺もKに力を貸したいっすよ!! でもでも、…明日だけは駄目なんですッ!!」
「何だとおおおお!!
何だよ、どうしてだよ亀田!!
お前、リアル少女の危機にも立ち上がれないのか、貴様、二次元戦士の誇りはどうしたッ!!
貴様を修正する、歯を食いしばれええぇえ!!!」
「ぷろ、
ぷげ、
ぎゃは、
げはッ!!
まま、待ってくださいKさん!
俺の言い分も聞いてくださいよ!!
俺も普段の日だったら手伝いたいです。
そりゃ俺も○乳○学生メイドとか好きですし、普段なら沙都子ちゃんのために靴下を舐めてあげてもいいっすよハァハァ!!
でもでも、明日だけは駄目なんですうううう!!!」
「何だと、貴様ぁあぁ!!
言ってみろ亀田!! てめぇ親の葬式程度だったら奥歯の3本は覚悟しやがれええぇッ!!」
「だってだって、
明日はデザートフェスタの当日なんですよおおおおおぉぉぉ!!!」
「な、………………なにぃ?!」
「Kさん、デザートフェスタっすよデザートフェスタ!!
俺らの間じゃあより優雅に、デザふぇ、って呼んでるっすぅ!!
ふぇ、が平仮名なのがポイント高めなんす!!
実は俺、チケットが当選してるんすよー!!
他の誰も誘いません、Kさん、俺と一緒にデザふぇに行きましょう!!
そして俺と一緒に生クリーム少女たち(編注:少女=ケーキと変換してください)をベロベロ食べ放題っすううぅうぅうぅ!!!」
「はいいぃい指導指導指導指導指導指導指導ォォオオ!!!」
「ぐへ、
ぎゃは、
ごぽ、
ぴぺッ!!!
そんなぁKさああん!!
翌日からなら協力します! だから明日だけは勘弁してください!! どうかどうか、よろしくお願いしますっすー!!!」
「け、圭一くん。…とりあえず明日だけは許してあげてもいいんじゃないのかな…。」
「いいや駄目だ!!
今日は勘弁ならんッ!!
亀田てめぇ、ケーキとリアル少女を天秤に掛けやがったなぁあぁ!!
少女を大切にできるからケーキを愛でる資格があるのだ!!
そもそも貴様は沙都子のよさがわかってない、まぁるでわかってない!!
いいかそもそも沙都子の魅力は一見ツンツン、フラグが立つとデレデレのツンデレにある!!
ツンデレ最大の魅力はツンとデレの格差にあるのは貴様も知っているはずだ。
普段はツンツンしてて色気のカケラもないのに、スイッチが入ると途端にデレデレ!!
このオンオフの段差こそが魅力なんだよ!!
それはまさに前半と後半でシナリオがガラっと代わる『ひぐらし』そのものじゃないか、
つまり沙都子こそはミスひぐらし!!
そこに今や定番のスパイス妹味が加わりしかも属性は総受け、ほどよい反抗心は実に心地よく恋愛依存症っぽいヒロインが氾濫するこの世界に颯爽と降臨したニュージェネレーション!! どのくらいすごい降臨かってーとあれだ、金色の野に姫姉さまが降臨するくらいすげーぞ!
神じゃねぇからな、うpうpとかパス希望とか言ってんじゃねえぞ。
その魅力をわからずに貴様なんだ、
二次元戦士の誇りはないのかッ!!
何ぃポリゴンの発達で今は擬似三次元だと?!
百年早いわ、ヒロインがわずか8色で256個のドットで表現されていた時代の先人たちは、
そこに愛と萌えを見出してより高い次元へ想いを昇華させてきたのだ!!
それは全て二次元への逃避ではない、
現実の女性を愛するがゆえの愛の昇華!!
ビーナス像もモナリザも全て先人たちの萌えの結晶だぞ!!
ちなみに最小ドット数のヒロインはド○アーガのカイだと思う。
今の若者が見たら多分、性別の識別もつかねぇぞ!
さらに余談だがドラバスのお姫様はすごいよな、
クラウンとセプターでミニスカ、
水着にバニーガールにまでなってくれるんだぞ!!
日本国アーケード史で最古のコスプレヒロインだと思うのは俺だけかッ?!
あんなゲームが50円でゲーセンにあったなんて凄過ぎるぜ。
でもな、俺たちは萌えたんだよ、あの16×16のドットの向こうに美少女の姿を見たんだ!!
…そう、俺たち二次元戦士はドットやポリゴンの壁の向こうの真実を探り、
真の姿を見ることを探る求道者だったのだ!!
それなのに貴様はドットやポリゴン、ハードの壁を一切経ない生少女をなぜ選べないというのか!!
それは目的を忘れ手段に堕した明白な証拠!! 二次元戦士は三次元を否定する存在ではない、
三次元をこよなく愛し、二次元の記号からそれを高度に再現できる新世代三次元戦士なのだッ!!
そもそも三次元より上の存在なのに二次元というのがよくない。二が三に劣るみたいだからな!!
ほらあれだ、XB●Xが2だとプレ○テ3に負ける気がするからXB●X360という名称になったのとまったく同じだ!!
とりあえず俺が言いたいのはただひとつ!!
バイオとメタギアの新作が出るハードはどれだああああッ!
いやもちろんデドアラの新作も出るんだよね?
余談だけど、女キャラの胸のポリゴン数だけでザックが1人作れちゃうって噂はホント?
そんなことはどうでもいい、リアル少女のために一肌脱がんかい亀田ああああッ!!!」
「すッすみません、俺が間違ってましたああぁあぁぁぁッ!!
俺は一体何を勘違いしていたんだ…、わああぁ俺は何てことをおおぉ!!」
「いいんだ亀田!!
過ちは気付くためにある! そしてお前は気付いてまた男をでかくした!!
さぁ俺の手を取れ!!
ミレニアムの扉はすぐ目の前にあるぞおぉおおおぉ!!!」
「……圭一くんと亀田くん、すっごい楽しそうなんだけど、レナちっとも話についていけないー…。」
「ついていかなくていい、ついていかなくて!」
<魅音
「Kの話はわかったぜ…。
俺も男だ、女の子を救うためなら喜んで協力するぜ…。…デザートフェスタは年に4回あるんだ……、その内の一回くらい行けなくたって…未練はないさ……。」
「……未練たらたらなのです。みー。」
「あ、そう言えば魅音。例の叩き売りオークションの司会の報酬に、確かデザートフェスタの年間チケット3年分だったよな? どうだ亀田くん、その内の1年分を譲ってやるよ。」
「いや、よしてくれK! 俺も男だ。女の子を助けるために報酬で釣られたなんて言われたら恥さらしもいいところっす!!」
「…詩ぃちゃん、何か優遇してあげられないのかな、かな。」
「……ん〜〜〜、じゃあこれでどうでしょう。
ブラックリスト帳消しで。」
<詩音
「ブラックリストー? 何だそりゃあ。」
「あー、一般の人は知らないよねぇ、くっくっく。エンジェルモートはこういうお店だから、困ったお客さんもたまにいるんだよね。それで、困った人の名前はどんどん書いていって、一定ポイントに達したら漏れなく入店お断りの刑になるってわけよー。」
「あっはっはっは、よしてくれよ、このエンジェルモートマスターの俺が、そんなブラックリストに乗るようなノーマナーをするわけがない!」
「……出会い頭を装ったお触り2回、
頼む気のないオーダーコール、
チケットの店外取引エトセトラで、
あと1点で入店お断りだったりしてます。」
<詩音
「ガガガガーーーンッ!!
そ、そんな!! そんなの困るっすよ!! エンジェルモートに入店禁止なんてなったら、俺は明日から何のために生きてけばいいんすかああぁ!!」
「ではありますけど、今の亀田さんの、沙都子を救うために一肌脱ごうという男気に惚れました。ですのでこれを特別にチャラにしようと思います。」
「ありがとうございます、ありがとうございますーー!!!」
「……ねぇ魅ぃちゃん、本当にブラックリストなんて存在するのかな?」
「さぁてね、おじさんは知ぃらない〜。」
「亀田くん、本当にすまん! デザートフェスタでは落選したら俺に声を掛けろ! 絶対に同席者に混ぜてやるからな!!」
「Kぇえぇえい!!!」
ガシ!!
俺たちは再び熱い友情を確かめ合うのだった…。
「明日の夕方だな、了解したぜ。うちの野球部の連中と興宮タイタンズの連中全員を連れて行く。それで悪くても10人ちょいは集まるはずだぜ。話を聞く限りじゃ、どう考えてもその叔父って野郎はまともじゃない。何なら回りくどいことしねぇで直接シメちまった方が早いんじゃねぇすか?」
「駄目だよ、暴力で解決すればかならずその仕返しが沙都子ちゃんに跳ね返る。」
<レナ
「…なるほどな。命を奪うってわけにゃいかないしな。わかったぜ。正々堂々正面から勝負でいきましょうっす。みんな球児だからよ、警察沙汰はごめんだし。」
「だがなぁ、10人じゃまだ足りない。他に声は掛けられるあてはねぇか?」
「へっへっへ…、まだ兵隊が足りないってか。ここまで来たらとことん行くっすよ。」
亀田はニヤリと不敵に笑うと突然、席をガバっと立ち、大声で言った。
「野郎共、話は聞こえただろうな?!
明日のチケットが当選してるヤツまで来いとは言わねぇ。でもなもし明日が空いてるなら力を貸せッ!!」
店内のお客が皆、振り返る。
……そう言えば、客層が濃い目だな。
デザートフェスタは明日だから、今日は普通の一般日じゃないのか?
「違うんです。デザートフェスタを落選した常連たちは今日、食いに来てるんす。ここにいるのは皆、
常連。名前は知らずとも同じ星の下に生まれた俺の仲間たちなんす!
同志諸君、さっきまでの話をどう思うッ?!」
「聞けば聞くほどに腸が煮えくり返る話にょり。なぁ同志諸君!」「リアル少女を監禁なんて、
うらy、じゃなくて許せないんだな!!」
「女の子を大切に出来ん外道め、拙者が斬るッ!!」
「妄想の中ならともかく、リアルでの鬼畜三昧、論外でござるよ!!」
「同志K、黙って付いて来いって言ってくださいです!!
俺たちはあんたの食いっぷりに惚れてるんだああぁ!!」
「興宮中隊、着剣整列ッ!!
同志K、いつでも突撃命令をッ!!!」
「沙都子嬢救出作戦了解!! 作戦開始は明日夕刻!
時計を合わせろ遺書は書いておけ、どうせ死ぬならこの時だッ!!」
「「ううをおおおぉおおぉ!!!」」
「み、みんなすまん!! 見ず知らずの沙都子のために……本当にすまん!!」
「見ず知らずだからと言って見殺しになどできないにゃりん!!」
「それに、我々は沙都子嬢のこともよく存じております。
嬢がよく顎のところにクリームが付いているのに気付かなかったりする時、同胞は胸の奥から込み上げる桃色の感情に酔わされるのであります! よって他人事ではないのでありますッ!!」
「よしわかった野郎どもッ!!! てめえらの命はこの俺、前原圭一が預かった!! てめえらには俺の背中を預けるぜ!!
明日の夕方だ、気合を入れやがれええぇッ!!!」
「「「うををおおおおおおお!!!」」」
「「Kぇえぇい!
Kぇぇい!
Kぇぇい!!」
「……け、…圭一くんって、意外なところでも人気者なんだね…。」
<レナ
「うちの町会もそうだけど…。本人の与り知れぬところで評判が高いんだよ…。同性に訴えるカリスマでもあるのかねぇ?」
<魅音
「お店の子たちも、沙都子の事情に同情してくれてるみたいで、非番で近所の子が何人か行きたがってるみたいです。」
<詩音
「すごいね、圭一くん……。本当に60人を集めちゃった。あるいはそれ以上に集まるのかもしれない…。」
「…………これが、運命を打ち破ろうとする力なの…。」
■アイキャッチ
■大石の警告
その晩は、綿流し実行委員会の会合があった。
場所は古手神社の集会所だ。
建物はよく知っていたが、中に入るのは初めてだった。
集会所の中にはダム戦争の偉業を称える額縁や写真が所狭しと飾られている。
…魅音の話によると、ダム戦争の当時は抵抗運動の事務所として使われていたらしい。
一番目立つところに飾られた、鬼ヶ淵死守同盟と書かれてたくさんの人の寄せ書きが書かれた旗が印象的だった。
俺が呼ばれたのは、どちらかというと顔見せの要素が強いみたいだ。
俺が例の叩き売りオークションの司会を受託してからまだ一度も挨拶していないのだから。
30人くらいの役員たちが集まっていて、その会合の冒頭で俺と親父が紹介された。
俺は未成年者だから、親の保護下での参加ってことになってるわけだ。
…沙都子の問題で、親権とかそういう言葉を最近よく耳にするせいか、親父との仲をちょっと意識してしまう。
………そういう見方をしたなら、前原家は家族仲はかなりいい部類に入るに違いない。
…ありがたいことなんだなと思う。
「どうも、推薦をいただきました前原圭一です…。初めての経験ですから緊張してますけど、がんばります。どうかよろしくお願いします!」
「いよッ! いいぞいいぞ、頑張れー!!」
好意的な笑顔とたくさんの拍手に、俺は改めて、自分の顔と名前が村中に知られていて、俺を村の仲間だと認めてくれていることを感じた。
この抜擢に何とか応えないとな、と思うと緊張感で胃が痛くなってくるぞ。
そんな風にしていると、会長さんだとか部長さんだとかの偉い人たちが代わる代わる背中を叩いてくれて、いつもの調子でやってくれればいいんだと励ましてくれるのだった。
「どうもこの度は愚息をご推薦いただきありがとうございます。仕事柄なかなか町会活動に協力できなくて申し訳なく思っております。私も圭一も微力ながら全力を尽くさせていただきますので、ひとつよろしくお願いいたします。」
パチパチパチパチ!!
さすが親父は大人だな、スピーチ慣れしてるもんだぜ。
「それでは各部会ごとに席をわかれ、議題を進めていただきたいと思います。時間は20時50分までです。それではよろしくお願いします。」
実行委員会という組織は、総務部とか設営部、模擬店部、奉納演舞部などいくつかの部で構成されているらしい。
それらの部ごとにわかれて会議をするわけだ。
俺と親父もイベント部会とか言うところに参加するよう言われた。
……何しろ、何も知らずに後から入ってきたわけだし、しかも祭りは次の日曜日というような段階だ。
話はさっぱり見えないし意見できることもない。
頷いたりしながら、議事に参加しているふりをするのが精一杯だった。
最後の最後で、叩き売りオークションについての説明があり、司会者の集合時間や諸注意、後日の打ち上げ会の日時など、色々と説明を受けた。
…服装はどうすると言われて返事に困る。
私服でいいと思ってたのだが、司会らしくもうちょっと派手な服がいいだろうと提案を受ける。…そんなものは持ってないしなぁ。
「なら圭一、スーツに蝶ネクタイでも充分、司会っぽい雰囲気は出るだろ。」
「ちょ、蝶ネクタイ〜?! 何だか恥ずかしいなぁ!! もうちょっと普通っぽい服装じゃ駄目なのー?!」
「どうよ圭ちゃん、話し合いは進んでる〜?
ところで服装って何の話?」
<魅音
「オークションの司会の服装ですね。目立つ服がないのであれば、私の方で都合いたしましょうか。」
<入江
「本当ですか?! あ、ご挨拶が遅れてすみません、私、圭一の父でございます。」
「お父さん、この人の都合する服はやめよう…。絶対男物じゃない賭けてもいい…。蝶ネクタイ最高。当日はそれで行くよ。」
この辺で手を打っておかないと、魅音にもとんでもない服装を提案されそうだしな。
…しかもどういうわけか、その服装もまた男物だとはとても思えない…。
「監督も実行委員なんですね。監督は何の部会なんですか?」
「監督は総務部で医療担当だよ。お医者さんだからね、毎年お願いしてるんだよ。」
「たまに転んだ人にバンドエイドを貼るくらいです。本部テントでビールを飲んでるだけの楽な役ですよ。前原さんの大任にはかないません。私も楽しみにしてますからね。」
「いやぁあははは……。」
「……ボクも入江と一緒に本部で泡麦茶を飲むのですよ。にぱ〜☆」
「それはいけませんよ古手さん!
前原くん、こんばんは。それからお父様、ご無沙汰いたしております。」
「あぁあぁどうも先生! うちの愚息がいつも大変お世話になっております…。」
「前原くん、準備は万端であるかね? わしも司会を楽しみにしておるぞ!」
知恵先生と校長先生に、学校以外のところで会うと何だか不思議な気分になるな。
「梨花ちゃんも奉納演舞ってのがあるんだろ? 俺のすぐ後の催しなんだってな、楽しみにしてるぜ!」
「神事だからね。真剣にやらなきゃならないから神経を使うはずだよ。今年の自信は?」
「……もう慣れてますから全然平気なのですよ。」
「ほー、去年初めてやったのにもう慣れちゃったとはね! さすがだね!」
「前原さぁ〜ん!! ご無沙汰ですねぇ。」
「あ、大石さん! ちわっす、お久し振りです!」
「あの後もちゃんとツバメ返しの練習はしてますか?
んっふっふ! 今度ぜひ一緒に打ちましょう。牌に毎日触れてないと上達しませんからねぇ!」
「おや、前原くんも麻雀が出来るんですか?」
<入江
「えーえー、打てるどころか、ねぇ? んっふっふっふ!! 彼は相当な少年雀士ですよ。」
<大石
「くっくっく…! 我が部でも本格的に麻雀修行を取り入れようかねぇ!」
「……部活メンバーで雀荘を荒らしまくりなのですよ。」
大石さんには、ツバメ返しなんて大技を練習するくらいだから、相当の力量があるように勘違いされてる予感がする…。
……何で俺っていっつも不思議な誤解を受けるんだろう(汗)
「そうだ、前原くん。話は聞いてますよ、例の件。」
「例の件?」
「明日の夕方の話ですよ。入江診療所からは私と手すきのスタッフが何人か合流するつもりです。鷹野さんと富竹さんも応援に行くそうですよ。大した人数にはなりませんが、枯葉も山の賑わいくらいの感覚で混ぜてくださると嬉しいです。」
「え、…それはすごいや!! ありがとうございます!一人でも参加してくれれば本当に嬉しいです!」
「……入江…。」
「…沙都子ちゃんを直接救う手がなく本当に情けないですが、こんな形でも協力したいんです。これは鷹野さんが言い出したことなんですよ。」
「……鷹野が。」
「えぇ。せめて何かの形で力を貸したいって言って。先日の件で協力できなかったことを少し悔やんでいたようでしたから。」
「あぁ、ひょっとして噂に聞いたあれですか? 何だか前原さんが陳情団の団長さんになっちゃったっていう話ですね?」
「あはははは…。ってことは大石さんも知ってるんですか? 沙都子の話!」
「そりゃあ知ってるでしょ。何しろ雛見沢界隈の噂にゃ敏感なお人だから。」
<魅音
「なっはっは…、仕事柄やむなくです。まぁ沙都子さんの件はそこそこには。」
「大石さん、……沙都子ちゃんの件なんですが、どうお考えですか。」
<入江
そうか、大石さんも警察という公的機関の人間だ。
児童相談所に頼る以外の方法で沙都子を救う方法を知ってはいないだろうか…。
「うーー…ん。私も児童相談所に対応をお願いするのがベストだと思っています。」
「じゃあ…大石さんも何かあるまで沙都子を救う方法はないと仰るんですか?!」
<圭一
「………同じ相談が警察にあったら、…せいぜい訪問してご家族の仲をよくするよう指導するのが関の山です。しかも、専門の相談所さんに比べたら稚拙なものだろうと思います。餅は餅屋に任せた方がいいだろうと思いますねぇ。」
「警察は事実上、何かがあった後にしか動けませんが、児童相談所は、何かある前に動くことが出来る分、警察より優れている…ということですか。」
<入江
「なっはっは…。…何か起こす前に逮捕できりゃ我々も楽な商売なんですがね。
……一般的に、強い権力が与えられている官庁ほど、それを発動するのに慎重です。濫用されたらたまらないですからね。」
「…それを言われると、沙都子の件をもうしばらく様子見をしたいという相談所の対応は、不適切ではないってことになっちゃうんだけどね。」
<魅音
「……みー…。」
「個人的には、児童相談所の対応がそんなに逸脱して不適切とは思いません。ただ、沙都子さんと鉄平さんの関係をよく知る皆さんから見ると、それが悠長に見えるという、そういうことだろうと思います。」
<大石
大石さんの言うとおりだった。
……児童相談所から見れば、普通に慎重に対応しているのに、どうして通報からほんの1〜2日程度であそこまで大騒ぎするのだろうと疑問に思うのかもしれない…。
……その温度差が、沙都子を手遅れにしかねないのだ。
「今日の陳情で、3日も登校してないって話をしたから、多分、北条家に電話がいってると思うよ。沙都子さんが登校していないようですが?ってね。」
<魅音
「……それを聞いて、鉄平は沙都子を余計いじめないでしょうか…。」
<梨花
「わかりません。……ただ、それでもなお沙都子ちゃんを登校させないというのであれば、さすがに相談所も重い腰を上げるでしょう。相談所もその点は強く指導すると思います。」
<入江
「じゃあ、明日からは沙都子は登校してくる可能性が?!」
「…ありえるね。鉄平は、とある事情で興宮に居られなくなってるらしい。だから沙都子の家に居座りたいんだよね。だからこれ以上トラブルはごめんだと思う。
」<魅音
「とある事情ですか?」
<入江
「なっはっはっは…。そうそう、とある事情です。居られなくしてるのは、上納金絡みで何やらあったらしいと聞いてるんですがね?
園崎さんはその辺、ご存知じゃないんですか? んっふっふっふ…!」
「さぁて、何のことやら…。大石さんの話がわかりませんね〜。」
「…どういうことだ魅音。鉄平が沙都子の家に居座りたい理由って何かあるのか。」
「うん…、まぁその、あはは。鉄平がね、とある金銭トラブルで興宮界隈に顔を出しにくくなっちゃってるんだってさ。それでほとぼりが冷めるまで、雛見沢で過ごそうって考えてるらしいんだよ。」
<魅音
「それならば一人で隠れていればいいものを。沙都子ちゃんを召使い感覚で引きずりこむなど言語道断です。」
<入江
「……沙都子メイド化を目論む入江も同じ穴のむじなだと思いますです。」
「違います!! 違いますよぉ!!
メイドとは愛!
愛が根底にあるのです!! ご奉仕お仕置きはあっても暴力はない!!
愛のないご主人さまなどありえないのです!!」
<入江
「あー、あの不審者は放っておこう。
…じゃあ、大石のおじさま的には、児童相談所に任せて様子見する他ないって見解ですか?」
<魅音
「それが現実的だと思いますなぁ…。世の中にはちゃんと踏まなければならない手順というのがあります。おしっこする時、まずはおトイレに行って、便器の前に立ってチャックを開ける。その手順をちゃんとやらなければ大変なことになってしまうのと同じです。」
「なんちゅー例えですか。下品親父〜。」
<魅音
「なっはっはっは…。お役に立てず申し訳ないです。
ですが、沙都子さんの件は気の毒に思っています。皆さんが一番納得できる形で決着できるよう祈っております。」
「対応を決めるのは相談所ですが、その対応に意見するために陳情することは、決して民主主義には反しません。だから前原くんのされている努力は決して間違ったものではありません。
どうか自信を持って挫けずに頑張ってください。もちろん私も最大限に応援します。」
<入江
「ありがとうございます。昨日今日と仕掛け、もちろん明日も仕掛けるつもりです。挫けないことだけが、沙都子のためになると信じてますから。」
「ほぅ、3日連続ですか。さっき聞いた話じゃ、今日は20人以上だったそうじゃないですか。明日もそれだけ集められるんですか?」
「くっくっく! そこは圭ちゃんやってくれますからねぇ!」
「……聞いて驚け、何と60人もなのです。」
「そりゃすごい…。前原さんは大きくなったら労組の幹部で活躍しそうですね。うちの組合は情けないったらありゃしない。なっはっは…!」
その時、大きく手を叩く音が聞こえた。
見れば時計は午後9時前。
話し合いの終了時間だ。
みんなはそれぞれの席に戻り、各部長が話し合った内容を報告するのを聞いていた。
「圭一はすごいな…。町会の中に知り合いだらけじゃないか。」
「いや、知らない人の方が圧倒的に多いよ。」
「そうか? さっきも大勢と話をしてたじゃないか。うーーん、大したもんだ! …案外話してみるといい人ばかりだし、うちももっと積極的に町会活動に参加した方がいいなぁ。」
「そうしなよ。雛見沢ってのは仲間同士で団結する助け合いの文化のあるところなんだからさ。お父さんも仕事が忙しいのはわかるけど、可能な限り協力した方がいいと思うよ。」
「そうだなぁ。帰ったら母さんにも話してみるよ。」
「では、以上で本日を終了します。次は、……おっと明日もあったんだっけ?! また明日です。それが最後の全体部会になりますのでどうぞよろしくお願いいたします。どうも今日はお疲れ様でした。委員長、終わりの挨拶をお願いします。」
「いいよいいよ、そんなのいいから早く帰って一杯やろうよー。はい、おしまい。また明日同じ時間です。よろしくお願いいたします。」
わっはっはっは。
委員長こと公由村長の投げやりな挨拶にみんなが笑ったところでお開きとなった。
後片付けが終わり、みんなぞろぞろと表へ出る。
平日だってのに、これから飲みに行こうというタフな人たちもいるみたいだ。
そんな人たちに親父が誘われているようだった。
…親父はいわゆるサラリーマンじゃないからな。納期さえ破らなければ朝寝坊は許される。
「圭一、お父さんな、ちょっとお酒に誘われちゃったからお付き合いしてくるな。」
「うん、いってらっしゃい。俺は先に帰ってるよ。」
一人で帰るのも寂しいし、魅音と一緒に帰ろうなんて思ってると、魅音はまだ集会所の中に残っていて、村長などの偉い人たちとまだ話し合ってるようだった。
…祭りも直前だから未決事項があってはならないということなのだろう。
先に一人で帰るか魅音が終わるのを待つか迷っていた時、大石さんが声を掛けてきた。
「どうもお疲れ様でした。何で来られました? 歩きならご自宅までお送りしますよ。」
「あ、自転車ですのでいいです。それに俺、魅音を待とうと思うんで。」
「そうですか。でも多分、長引くと思いますよ。模擬店部会のトラブルが尾を引いてるみたいなので、あれは相当遅くなりますねぇ。」
「模擬店のトラブル? 楽しいお祭りなのにやっぱりトラブルはあるんですね。」
「ありますあります。模擬店だって調整が大変ですよ? 誰だって人気のやきそばやカキ氷をやりたい。でも、全部のお店がやきそばになったらつまらないでしょう?
だから色々調整をして、いろんな品目のお店が並ぶように調整するわけですよ。そうなると、売れない品目を当てられた町会が文句を言う。
なら品目は毎年持ち回りにしようってことになると、うちの町会は人が少ないからそんなに手は出せないとか、うちの町会のやきそばの方が好評だとか、まぁ色々あるわけなんです。あと、プロの露店さんより場所を優遇してくれとか、水場が近い方がいいとか、もうたくさん!」
「……お祭りって裏方は結構大変なんですね。」
「物事には何事も調整ってもんがあります。水面下での調整なんていうと、若い前原さんは嫌な大人のルールみたいに聞こえるでしょうが。
…世の中の潤滑油として大切なんですよ。前原さんがやられている相談所への陳情だって、ある意味、水面下交渉ですよぅ? 当事者の鉄平さんや沙都子さんたちは知らないわけだから。」
「む、……そう言われると……そうなのかなぁ。でも、俺たちは声を上げるしかないです。それだけが、戦う方法ですから。」
「いえいえ、ご立派です。私が前原さんくらいの年頃だったら、きっと鉄平さんを闇討ちしてやろうなんて考えたに違いないですから。」
「あっはっはっはっは…、いやぁ、はっはっは。」
大石さんは急いで帰る用事がないのか、飲みに行く人たちにも加わらず、俺と一緒に魅音を待っていてくれた。
集会所の中で話をしている魅音を含む数人以外はもう1人もいない。
だから大石さんがいなかったら相当寂しかっただろう。…大石さんが話し相手になってくれてよかった。
その後は、麻雀の話で盛り上がった。
セオリーや技、裏技、武勇伝やら色々。
大石さんくらいの歳の人と会話をする機会なんてあんまりないから、学校の友人たちと話すのとはまた違った会話を楽しめた。
世代間交流もたまにはいいものだ。
……それに、警察の人だもんな。
沙都子を救う上で今後も何か相談できるかもしれないという下心もちょっぴりありだ。
……しかし、魅音の話し合いはなかなか終わらないな。
大石さんも二本目の煙草を潰す頃には、今日はもう帰ろうかななんて気持ちになっていた。
「じゃ、俺はそろそろ帰ろうと思います。魅音の話、当分終わらなさそうですし。……明日も学校終わったら、気合充分で臨まないとならないですからね。」
「相談所への陳情ですか?」
「えぇ。沙都子を助けるという決定が出されるまで、戦い続けるつもりです。継続は力なりって言いますし、…俺たちにはこれしか戦う方法が残ってないんで。」
継続は力なり、のところで大石さんは、近頃の若者にしては実に感心だと笑ってくれるのだった。
「……相談所の方には、昨日今日で充分意思が伝わっていると思います。物事には限度ってもんがあるでしょう。喧嘩もほどほどの引き際が肝心です。やり過ぎると、かえってややこしくなることもありますよ。」
「でも、…沙都子を見殺しにはできません。」
「そりゃそうです。相談所だって見殺しにはしませんよ。きっと助けてくれます。」
「助けてはくれるでしょうが、…多分、それは虐待が起こった後です。沙都子の心に消せない傷が刻まれた後では遅すぎるんです。」
「…………ふぅむ。」
大石さんは三本目の煙草を取り出す。
当り前な話だが、煙草を取り出したということは、その一本が吸い終わるまで残っているという意味だ。
さすがにもう一本分を付き合うこともないだろう。
早くお風呂に入ってぐっすり眠って明日に備えたい。
「じゃ、俺はこれで失礼します。」
「あのですね前原さん。…ちょいと小耳に入れたいお話がありまして。」
大石の口調がほんの少し変わった気がした。
……何か重要な話があるように充分聞こえる変化だった。自然と足が止まる。
「いえね、実は…。…………もう充分に相談所に意見は伝えたんですから、明日までやらなくてもいいんじゃないかなぁって、私ゃそう思うんです。」
「…でも、これは沙都子を救うために必要な喧嘩です。……連中には危機感がない。俺たちが騒ぐことでしかそれが伝えられないなら、…俺たちは伝わるまで騒ぎ続けなければなりません。三日連続で仕掛ければ、より効果は上がると思ってます。」
「三顧の礼ってわけですか。なっはっは。
……でもね前原さん。ヤブを突っついて蛇を出すという諺もありますよ。」
「……蛇?」
「あー、先にお断りしておきますが、これは警察の忠告でもないし、誰かにそう伝えろと言われたわけでもありません。
同じ牌を握った雀友としての忠告と思って聞いてください。」
忠告という言葉を、ポジティブな意味で聞いた試しがない。…自然と眉を潜めてしまう。
「児童相談所はですね、二日連続で来た上に、今日は20人。しかも話し合いは物別れに終わったので、きっと明日も大人数で来るだろうと怖がってます。」
「はは。そこまで分かってるならどうして俺たちの言い分を聞いてくれないんだ。……まさか、俺たちが入れないように入口にバリケードでも築くってわけじゃないですよね?」
「いえいえまさかまさか。お役所は陳情を受けるところです。どのような意見であれ、陳情に来てくれる方を受け容れます。ですから、相談所側は前原さんが何度来ようとも拒めません。そしてそれは向こうも覚悟しています。だからですね、前原さんがこれ以上の大人数で押し掛けてきて、大きなトラブルにならない内にちゃんと沈静化を図りたいと思っているようです。」
「それは…! 沙都子を助け出す判断を早期に出してくれるという意味ですか?!」
「少し違います。あなたがこれ以上押し掛けてこないよう、水面下調整を開始したということです。」
「な、何ですかそれ……?!」
これ以上押し掛けてこないよう、水面下で調整を開始した。
……何だか新聞か政治物のフィクションにもで出てきそうな言葉が、我が身に降りかかるとは思わず、俺は目を白黒させる他なかった。
「お役所もですね、ヤクザとちょっと似てるところがありまして。代紋を舐められたくないんですよ。自分たちの決定を覆すような敵対意見には耳を貸さないのが普通です。例え役所が間違っていることに気付いてもね。」
「……住民に一度でも屈すると、言えば負かせると思った人たちが他にも殺到してくるから…?」
「そんなとこです。なっはっは、舐められたらおしまいな稼業なんですよ。
…だから、役人は陳情を聞きはしますが、よっぽどのことがない限り自分たちの方針を変更したりはしません。しかも今回の沙都子さんの件は、相談所的には際立って特殊なケースではありません。親権者が子どもを連れ戻すのは民法に定められた親の当然の権利ですからね。例えば離婚した父母が、相手の許に行った我が子を連れ戻したりとか、そういうややこしいことに比べたら、唯一の肉親が寄りを戻し、慎ましやかに生活している現在の状況は、特別異常なことではないんです。」
「でも、それは沙都子の叔父には当てはまりません。大石さんだって知ってるでしょう?! あいつがどんなに乱暴で去年の沙都子を虐めていたか!」
「去年の話です。それを反省するって頭を下げられたら、相談所側も強くは言えません。そして何よりも、沙都子さん自身が虐待はないと否定しちゃってるんですから。」
「く……、沙都子は去年、兄に甘えて負担を掛け過ぎたことを深く後悔しているんです。だからあいつの中では、虐待に対して助けを求める行為は、兄に対する裏切りに感じるみたいなんですよ…!」
「…なるほどねぇ…。確かにそれを相談所に説明するのは難しいですね。……まぁとにかくそんなわけで、相談所にとっては前原さんたちにどうしてここまで噛み付かれなければならないのかわからないんですよ。」
「だから、鉄平は乱暴な男で、あいつのところに沙都子を置いておいたら、大変なことになると訴えてるんです!」
「どうしてです。……こう言っちゃ失礼だが、前原さんは去年は雛見沢におられませんでしたよねぇ? 鉄平さんについてそう詳しくご存知とは思えない。…にも関わらず、どうしてそこまで鉄平さんを危険視できるんですかねぇ?」
…………それを言われると痛い…。
…確かに俺は鉄平のことを詳しくは知らない。
未だに顔も見たことがない。
…でも、……………なぜかわかるんだ。
遠い別の世界で、…沙都子を救わず、指をくわえていたら……沙都子が手遅れなほどの心の傷を負い、みんなで泣きながら後悔した世界を、俺は知ってるんだ…。
しかし、それを大石さんにうまく説明することはできないだろう。
………仲間たちは、そんな根拠なき焦燥感をよく理解してくれたが、………普通に考えれば、そんな妄想みたいな危機感程度で、ここまで踏み込んだ活動ができるわけない。
「……さっきもちょっと例を出しましたが、離婚した夫婦が相手の親権喪失を訴える争いというのがあるんですよ。相手が訴えることもありますし、親類が訴えることもあります。中には子どものための訴えではなく、相手が嫌いで貶めるのが目的での訴えもあります。今回のケースはそれにも似てるんです。前原さんは、北条鉄平を私的に嫌っていて、悪意で親権喪失のための活動をしているようにも見えちゃうんですなぁ。
だから相談所は、前原さんの意見が善意なのか悪意なのかも見極めた上で判断しなくてはならないんです。………前原さんのように、正義感だけで陳情に来る方ばかりではない。相談所は常に、陳情者に悪意がある可能性を疑いながら慎重に話を聞かなければならないのです。そこをわかってあげないと。」
「………つまり、俺があまりに喧嘩腰にやり過ぎたんで、悪意ある陳情だと誤解されたってわけですか…?」
「いいえ、その誤解はないようです。ただ、見極めるために慎重になっている点だけはわかってあげてください。もし、怒鳴り込むだけで当事者の与り知れぬところで一時保護が乱発されたら、日本は大変な国になってしまいますよ。」
そう言えば、初日に相談所で見た法律の本にもこんな文章があった気がする……。
…親族又は検察官が家庭裁判所に訴えて云々…。
家族の問題は家族で決するということなんだ。
……部外者の陳情で、相談所が腰を上げることはあっても、その対応に部外者が口を出すということはないということなのか。
となると…。沙都子にとっての肉親は、叔父しかいない。
……叔父が敵なら、…あとは沙都子自身が助けを求めるより他はないということ…。
でも沙都子は助けを求めない。
………くそ、八方塞じゃないかッ!
「だからお役所もですね、前原さんが諦めてくれるようにやんわりとお断りしていきたい方針なんですよ。………沙都子さん以外にも急を要する要件はたくさんあるし人手もないんですから。………ただ、本当にお断りしてもいいものなのか、困っている部分もあるんです。……これが少々厄介な、今日お話したかったことなんです。」
「…………? どういう意味ですか…? 分かりにくかったです…。」
「前原さん、今日行かれた時は、昨日よりも待遇がよくありませんでしたか?」
「…えぇ、多少。広い会議室になって、係長が直接対応してくれました。」
「前原さんは係長なんて聞くと、ヒラの次に偉いくらいの感じしかしないでしょう。でもですね、お役所の係長というのは、民間でいうところの課長級に当るんです。もちろん昇進試験も権限もそれに匹敵します。今日、前原さんの応対をしてくれた方は、前原さんが想像してるよりもずっと偉い方なんです。
……普通、ありませんよ。窓口対応で直接、係長級が出て来るなんてことは。前原さんは、不相応に丁重な応対を受けたことを理解する必要があります。」
……そんなことは全然考えなかった。
大人数で押し掛けたから、二日連続で押し掛けたから、レナが会議室にしろと刺したから、向こうがビビったんだろうくらいにしか思わなかった。
「相談所はですね、あまりに組織的に来られたもので、表向きは代表が前原さんってことになってますが、……裏に園崎家の意思があるんじゃないかって深読みしてるんです。園崎家がどういうものかは、日が浅いとはいえ、前原さんも村に住んでる以上、多少はご存知あるでしょう。」
「……多少は。…で、でも、園崎家なんか全然関係ないですよ! これは俺たちの仲間を助けるための俺たちの戦いです。その証拠に魅音は園崎の苗字を伏せてますし…、」
「そこを相談所は知りたかったんです。普通なら、多少はトラブルがありながらも前原さんのような陳情は参考程度に留め、丁重にお引取りいただくのがパターンです。
ですが、………もしこれが園崎本家のお魎さんの意思だったら、話は変わってきます。お魎さんは市長との個人的交流だけでなく、市政にも強い影響力を持つ重要人物ですからね。敵に回すことはとてもできません。」
「……魅音のお婆さんがそういう力を持っているって話は知ってますけど、…でもそれと俺たちは関係ないです!」
「関係あるかないかを確認するために、鹿骨市役所は水面下で園崎家に直接アプローチしたんです。お魎さんに直接この件を確認したらしいですよ。それでもしお魎さんの意思だとわかったなら特例で迅速に処理するつもりだった。でも、お魎さんの意思ではないことがわかった。」
「………迅速に対応してくれないってことですか?」
「それだけではありません。お魎さんは村の中でそういうトラブルが起こっていることを耳に入れてしまったということです。……知ってるかどうかわかりませんが、この村では、未だにダム戦争の戦犯である北条家に恨みを持つ人間が少なくありません。オヤシロさまの祟り以降、園崎本家からは、一切北条家に関わるなという大号令が出ていますしね。………このままだと蛇が出てきかねませんよ、ということです。」
「……その蛇が出て来るとどうなるんですか。」
「さぁて…、どうなるんでしょうねぇ……。」
大石さんはそこで意味深に区切ると、吸わないうちにだいぶ短くなってしまった煙草を加えた。
「別に脅されるとか指を詰められるとか、そういう物騒な話にはなりません。
…ただ、…………せっかく前原さんが雛見沢に引っ越されて、住民の方とも仲良くなれて新生活をがんばろうとしているこのタイミングで、村の面白くない一面を見させられるかもしれません。」
「…………………………。」
…沙都子の北条家と園崎家、いや村全体の話は、俺たちの間ではややタブーだが、…今や避けて通れない話だ。
実際、今日まで、知恵先生や監督たちなど一部の例外を除いて大人の支援は一切受けていない。
村の大人たちだって、去年の鉄平と沙都子の関係はよく知っている。
だから、沙都子を急いで保護しないときっと酷い目に合わされるに違いないということはわかってるはずなんだ。
……にも関わらず、今日まで大人たちが積極的に手を差し伸べたという話は聞かない。
「………このままやり過ぎると、北条家を未だに嫌っている人たちを敵に回すぞと、そう仰るんですか…。」
「かもしれないです。前原さんが望む望まないに関わらず、これ以上話が大きくなると園崎本家も放置できなくなります。……園崎家は今も変らずアンチ北条家です。
前原さんが、沙都子さんを救うのが雛見沢の総意みたいな感じで動かれると、……つまり園崎本家としては顔は潰れるわ、お魎さんの立場が微妙になるわと、なっはっは、色々ややこしくなるんでしょう。」
この頃には俺も気付いていた。……これは忠告どころか、警告だ。
雛見沢という地域社会の中で、若造が周りを顧みずトラブルを大きくし、ヤブを突っついて蛇を出そうとしている。
「前原さんが、この土地を気に入られてとても元気にがんばっていることは私も知っています。
……だからこそ、………余計なお世話とは思ったんですが、小耳に入れた方がよろしいかと思ってお話させていただきました。不愉快な話をして申し訳ありませんでしたね。」
そうさ、俺は雛見沢が好きだ。
引越しを機に新しい生活を踏み出そうと決意したばかりだ。
祭りでの司会の抜擢も感謝してる、精一杯やる気でいる。
…………そんな幸先のいい新生活のスタートで、…村に敵を作るような真似をするのが果たして得なことなのだろうか。
「雀友としてお話しただけです。決して某かの差し金でってわけではありませんので、そこだけ誤解しないでくださいね。私の話を聞いて、前原さんにどうこうしてもらいたいというわけでもありません。ただ、参考までお話しただけです。」
大石さんは元気付けるように笑ってみせると、煙草を落として踏み消すのだった。
…せっかく自分のなすべきことがわかり、それに向かって突き進むのみと決意したばかりだった。
それは、視野の狭い若造の考えで、……もっともっと大人になって考えなければならないということなのだろうか。
………………心の中に黒雲が立ち込めそうになる…。
だが、…待て。
……………俺は何かを失う覚悟がないというのか?
沙都子を救うために、その程度の覚悟もないというのか?
そうさ、俺は赤い炎でなくてはならない。
……俺以外の全員が諦めようとも、俺だけは諦めるわけにはいかんのだ。
それどころか俺がみんなを燃え上がらせるくらいでなくちゃ!
「…………………。」
「おや、……どうしました?
んっふっふ! なかなか不敵な表情で笑われますねぇ。」
「いえ、あはは、興味深い話を聞かせてもらってありがとうございます、大石さん。……でも、俺、そんな程度のことで屈するわけにはいかないです。沙都子を救うのが無理だと世界中の人に言われたって、俺は努力するのをやめません。」
「世界中の人に言われても、ですか。それはなかなか男らしいことですね。」
「もちろん、世界中の人が俺の間違いを指摘するなら、俺も真摯に聞いて間違いを改めなければならないこともあるかもしれない。でも、沙都子の件については仲間たちと充分に話し合った。決して、俺個人の浅はかな思い込みなんかじゃない。これが最善の方法であると自信を持って言えます。」
「いえ、仰るとおりです。前原さんくらいの若い方なら、すぐに反社会的な短絡的行為に走りたがるものですが。前原さんはその点において実に冷静です。主張すべきことがあったら民主的手段で訴える。それは入江先生も言われたとおり、民主国家のルールに基づいた正しいやり方です。」
「ですよね?! だから、俺は自分が間違ってるなんて思いません。俺の仲間を救うため、最善手を尽くします。それに、ちょっと脅されたからって、それで仲間を売るようなヤツだったら、そいつに仲間なんて名乗る資格はありません。世界中が認めなくても、自分だけは信じる。……それが仲間ってもんでありたいと思ってます。」
「………ふぅむ。なかなかの強い意志だ。うちの若いのでもそこまで言えるのはなかなかいません。」
大石さんは感服したようにニヤリと笑った。
その表情を見て俺はますますに理解する。
大石さんは決して俺に圧力をかけていたわけではないのだ。
いや、それどころかむしろ逆。
自分しか知りえない情報を俺に聞かせてくれて、今後待ち構えているかもしれない苦難に対して、その覚悟はあるのかと檄を飛ばしてくれたようなものだ。
だから、俺は警告だとか脅迫だとか、そんなことを考えることなんて全然ないのだ。
「男には、周りが信じてくれなくても、自分だけは信じ続けたいことってたくさんあります。…もちろん、忠告には真摯に耳を傾けるべきですが、それでも曲げちゃいけないもんってのがある。」
「それが男ってもんじゃないんすか。」
「んっふっふっふっふ! いえね、実は私もそういうのがあります。
…5年ほど前、私の兄貴と言ってもいい方が殺されましてね。」
「さ、殺人事件ですか…!」
「解決した事件ではありますがね、んっふっふ。私は黒幕がいると睨んで未だ一人で捜査を続けています。署内の全員からもう解決した事件なんだから意味ない、やめろと言われてるのですが。……私も前原さんのそれに近いのかもしれません。」
「その黒幕というのには迫れそうなんですか。」
「…うーーーん。さてさて、どうなんでしょうねぇ。なっはっは。まぁそれはともかく。……前原さんがそれだけの覚悟を持たれているなら、何も恐れることはありません。信じたものに突き進むのみです。私だって、退職金を満額でもらいたかったら少しは自重しろみたいな脅しはしょっちゅう受けてますよ。でも挫けませんからねぇ。」
「男って、愚直であることでしか語れないことって多いもんです。」
「いやいや、まったくまったく! 例え二面リーチが入っても絶対に降りられない局面ってのがありますよ。危険牌を強打してでも聴牌を貫きたい! それで仮に振り込んじゃっても、それが男の道ってもんです。どうせ倒れるなら前向きに!」
「そうっすよね。行くか戻るかうろうろしてるなんて、男の見せる態度じゃないです!」
大石さんは、男はそうでなくてはならない!っと強く応えてくれた。
二人で拳をぶつけ合い、世代は違えども語る男は同じであることを確認する。
沙都子を救うための戦いが、平坦でないのはよくわかった。でも、絶対に俺は挫けない。
沙都子を救う。
その一点には何の曇りもないからだ…!
■幕間
■TIPS6 背後関係は無し
「お待ちください、今代わりますね。……お魎さん、役所の自治係の人から電話が入ってますけど。」
「……あぁん、もしもし。」
「どうも園崎顧問、こんにちは。自治の相田でございます。先日はおはぎをどうもご馳走さまでした。」
「いいんねいいんね。こちらこそ文化祭りの時は世話んなったんね。野点傘の件、ありがとよぅ。あれ、一本いくらくらいすんかんね。すったら毎年使うもんなんだから自治で一本、買っといてくらんとよ。」
「あれはですね、一応、先生からの借り物になっておりまして。一応、値段を調べたんですが、国産だと20万くらいするらしいんですよ。中国製によく似たものがありまして、こっちなら8万円くらいで何とか買えそうでして…。」
「別に中国製でもどこ製でも構わんぎゃあ、お呼びする先生に失礼んならんとよ、よぅ選んどくれぇな。」
「一応ですね、今、その8万の傘の方を取り寄せさせていただいております。届きましたら、顧問にも一度見ていただきまして、それで判断ということではいかがでしょうか…。」
「それから、もう3年、江戸千家が続いとるんね、先生がたまには他の先生もお呼びしないとバランスがようないっちゅうんしゃあ。表でも裏でもいいから他の先生をちょいと自治の方で来年までに探してもらってもいいかんね。」
「は、はぁ……そうですか…。わ…わかりました! ちょっとこちらでもお茶の先生を探してみます。…それでですね顧問。実は今日はちょぉっとご相談がございまして。」
「こっちの傘の話ばっかりですまんね。で、何の話なんしゃあ。」
「実はですね、雛見沢にお住まいの北条沙都子さんの件で顧問のお耳に入っておりますかどうかと思いましてお電話させていただいたんです。」
「……北条沙都子ぉ? あぁん! バチ当たり北条のとこの娘かぁ。何かしよりましたんかいね。」
「いえ、実はですね。最近、叔父さんと同居を始めたとかでですね、その叔父さんから虐待を受けているとか、そんな話は顧問のお耳には入っておりますでしょうか。」
「叔父? 沙都子がぁ? 私ゃあそんな話は知らんがね!」
「いえいえいえ、知らなければ結構なんです。実はですね、そういった旨の陳情が児童相談所に入ったらしいです。相談所が言うにはだいぶ強い口調で来られていると、そういう話らしいんです。それでですね、相談所の係長から、お魎さんのお耳に入ってる話なら取り扱いを急いだほうがいいんじゃないかという話が来まして、」
「私ゃあ何も知らんし、全然わからん! なぁんでわしが北条のバチ当たり娘何ぞに骨を折らんしゃああかんがね!! 園崎家は全然知りませんし関係も何もありゃんせんね!!」
「では……連町の方からそういう話が出てるとか、そういう話はお耳には…、」
「知らん知らん!!! 何の話しゃあね!! 公由んところが北条のバチ当たり娘になんぞ肩入れしたらんきゃあ、すったらんなぁんて園崎には話が入らんね、どういうこっちゃあ!! 誰じゃあね、その相談所に陳情したったちゅうんわ!!」
「クラスメートが何人かいらっしゃった…とまぁ、そういう感じなんですが。……ではこれはクラスの子たちが独自にやったことで、連町も顧問もご存じない、関係ない話という認識でもよろしいでしょうか?」
「そんに決まっとんしゃあ、なぁん勝手な真似をしさらしとん!! 知らん知らん!! 村は沙都子とは何の関係もなあね!!」
その内容は自治係から児童相談所に伝えられた。
……つまり、裏にお魎がいないということは、この陳情は特別扱いする必要はないということだ。
相談所の係長は、もし仮に明日も来ても話だけ聞いて、決して安易な口約束をしないようにと窓口の職員に釘を刺すのだった。
「前原圭一くんか。こういう子が将来、行政専門のクレーマーになるんだろうなぁ!」
■TIPS6 疫病神と復学
■7日目
沙都子を学校に行かせずもう三日になる。
…あの知恵とかいう生意気な教師の電話がまたあり、怒鳴って切ってやった。
だがあいつはネチっこい女だ。
きっとこのままでは済まない。また児童相談所に電話するだろう。
鉄平が沙都子を学校に行かせない最大の理由は、きっと学校に行ったらそのまま助けを求めるだろうと思ったからだ。
相談所が訪問してきた時、確かに沙都子は口車を合わせてくれたが、それは隣に自分がいたからに他ならない。
自分から解放されたらきっと裏切るに決まっている。
そうなれば相談所がすぐにもすっ飛んでくるだろう。
いや、それどころか沙都子に対する虐待だか何だかで警察沙汰にもなるかもしれない。
…相談所の連中は警察を伴うこともあると仲間の誰かに聞いていた。
鉄平のスネは傷だらけだ。
警察の厄介になったら最後、他のヤバい話にまで及ぶに決まってる。それだけは断じてごめんだった。
とにかく、金さえあれば。
兄夫婦の残した通帳さえ見付かればこんな窮屈な村からおさらばできるのだ。
外を歩くと、村人の目がきついように感じたので、鉄平は外には出なかった。
でもそれでは暇なので、仲間を呼んでは麻雀をしていた。
だが麻雀は4人集まらないとできない。
人が集まらず、家の中でテレビを見ていることしかできない時間も短くなかった。
なので、そんな暇な時間を宝探しに費やすようになった。
どう散らかしたって、沙都子に片付けさせればいいのだから気楽なものだ。
どうせ出て行く家だ。
多少家具が壊れたって知ったことじゃない。
鉄平は押入れの中身を全て引っ張り出して、天井の板を外してみたり、
タンスの引き出しを全て引っ張りだして中身をぶちまけ、引き出し全てを引っこ抜いてまで調べた。
守銭奴というのはへそくりの隠し方だって巧みだ。
きっとこれくらいはしないと見付からない。
そんな調子で家の中を荒らし続け、二階に上がり、手始めにこの部屋から探そうと思った時、後から沙都子が飛びついてきた。
「に、にーにーの部屋は駄目ですの…ッ!!!」
「何しさらすんじゃあぁ!!!」
「駄目ですの、にーにーの部屋は止めてくださいですの…!!!」
最初、その過剰な反応は、この部屋にこそ通帳が隠されている証拠だと鉄平は考えた。
鉄平は沙都子を振り払い、その部屋、悟史の部屋に無理に入ろうとする。
…だが沙都子は半狂乱になってそれを食い止めようとした。
無抵抗で言いなりの沙都子がこれだけの抵抗を見せるのは面白くもあったが、同時に意外でもあり、鉄平はどうして悟史の部屋に入るのだけが駄目なのか、沙都子の主張を聞かざるを得なかった。
「……えっく! その部屋は…にーにーの部屋ですのよ…。…にーにーが帰ってきた時、大変なことになってたら…にーにーが悲しみますのよ…。うっく、えっぐ…!!」
「何じゃい、兄貴の部屋だからって、それだけで駄目なんかい。悟史なんか生きとるかどうかもわからんわな。」
「にーにーは生きてるんですのよ!! きっと帰ってきますのよ!! わああぁああぁあん!! 荒らさないで、荒らさないで!!」
「…何言うてんな。わしゃあ荒らすんと違う。この部屋をな? ちょいとお掃除しようちゅうとんしゃあな。いないヤツのために部屋を残しとく義理なんかあらんね。だからちょいとお片付けをするだけなんね。」
「だめッ!! だめええぇええええ、わああああああん、わああぁああぁあッ!!! にーにー、にーにーー!!! うわああああぁあぁあぁぁッ!!!」
「なッ、何じゃいな、そんなに嫌か、わしがこの部屋に入るんがそんなに嫌かい…!!」
沙都子の抵抗があまりに半狂乱なので、さすがに鉄平もこれ以上はやめた方がいいと思った。
……鉄平も脅しのプロだった。
追い詰めすぎると素人ほど窮鼠、猫を噛む。
だから、沙都子のこの異常な抵抗を無視してこの部屋を荒らせば、きっと家を飛び出しかねないと感じた。
今や沙都子は、近くに置いておくのも煩わしいし、かといって手元から離すのも危険だという疫病神扱いだった。
「わぁったわあった!! 沙都子がいい子にしてたらわしもこの部屋には入らん。な? それでええんね?」
「……はい、……はい。」
「その代わり、わしを怒らせたら知らんぞ。悟史なんて帰ってこないヤツのために部屋を残しとく謂れはないんだからのぉ! お前が帰ってこんようになったり、他所様にわしが虐めてるなんてことを言いよったら、…この部屋、大変なことになってまうん、よう肝に刻んどれえ。わぁったな?!」
「……はい、……はい、…ありがとうございますありがとうございます…。」
きっとこの部屋に通帳がある。
…だが、自分がこの部屋を荒らした痕跡をわずかにでも気取ったら沙都子は面倒なことになるだろう。
面倒な約束をしたな、とは思ったが、この部屋なんていうどうでもいい人質で沙都子の口が封じれるなら、考えてみれば悪い話ではなかった。
…よく言い聞かせれば、学校に行かせてもいいんじゃないだろうか。
明日も休ませると、あの女教師、今度は警察と一緒に乗り込んで来かねない。
沙都子を学校へ行かせられなかった理由は、学校で余計なことをしゃべるんじゃないかという恐れだけだ。
その恐れさえないなら、むしろ沙都子は学校に行かせた方がいい。
それに、沙都子が学校に行っている間なら、こっそり悟史の部屋を調べることもできる。
「沙都子。お前がいい子にしたったんから、風邪ももうええぇころじゃんね。お前、明日から学校行けぇ。」
「…………ありがとうございますありがとうございます…。」
施しを受けたら礼を言えと仕込んだが、何度も繰り返されると気持ち悪い。
鉄平は自分勝手にそう思った。
「早ぅいがんね、ざったいわこのダラズが。……あぁもう! 面白ないん!!」
児童相談所は沙都子の三日連続欠席を追及してくれたようだった。
だから今日の沙都子の登校は恐らく、俺たちの勝ち取った成果に違いない。
……だが、それに躍り上がって喜びことなど、沙都子の顔を見たらとてもできなかった。
「沙都子…、本当に心配したんだぞ…!!」
「この三日間、本当に何事もなかったんですか?!」
<詩音
「……三日間、熱が下がらなかったんですの。…ご迷惑をお掛けしましたわね…。」
聞いてもないのに、休んだ理由の説明をする沙都子。
……それはクラスの誰に話しかけられても同じようだった。
「………多分、叔父さんからそう答えるよう、強く脅されてるんだと思う。あんな姿、痛々しくて、……なんだか悔しいくらいだよ…。」
<レナ
レナは悲しみよりも怒りの方が勝っているように見えた。
……それは内心、俺も同じだ。怒りが込み上げてきて喉の奥が痛くなる気すらした。
叔父のやつが沙都子を登校させたということは、沙都子を一人で外出させても自分に不利にはならないという確信を得た証拠だ。
……それはまるで、烙印を押し終えた後の家畜を思わせる。
…まさか、……もう何もかもが手遅れになってしまったということはないだろうか…。
心の中に、沙都子が壊されてしまった悲しい世界のイフが浮かぶ…。
「沙都子。……………お前はよく頑張ってるな。」
「……当然ですわ。にーにーがいなくても、…私は一人でがんばれますもの……。」
俺は、……ゆっくりと手を伸ばす。沙都子の頭に。
「お前がよく耐えて頑張ってるご褒美に、……頭、撫でてやる。………嫌か…?」
「…………………。」
沙都子は何も答えなかったが、逃げるような仕草もしなかった。
俺はそっと、……その頭を撫でてやる。
無言で無反応の沙都子だったが、……突然、涙の雫がぽろりと落ちた。
俺は一瞬、撫でられるのが心底嫌なのかと思った。
…だが、…違った。逆なのだ。
今、撫でる手を引っ込めたら、それは逆に沙都子を傷つけてしまうのだ。
沙都子は、にーにーに頼らずに一人で耐えていくことを義務感にしている。
……でも、だからといって、誰の助けもほしくないわけではないのだ。
だから、口に出して撫でる手を喜ぶことはできない。
……だから無言で、熱い涙を零す他ないのだ…。
「………沙都子ちゃん。……今は泣いても、誰にも言わないよ。」
レナがそう語りかけると、…もう沙都子は零す涙を躊躇わなかった。
それを見て、まだまだ手遅れではないことにわずかの安堵を感じた。
……俺がイフの世界で恐れるような致命的な傷痕はまだ残されていない。
だが、同時にこの沙都子の涙をこれ以上流させないために、例え全世界を敵に回そうとも一刻も早く救い出してやらなければならない思いを新たにした。
「……沙都子、………きっとみんなが助け出してくれますのです。きっとなのですよ。」
「……………………。」
<沙都子
「沙都子、私たちはこの三日間ね。ぼんやりしてたわけじゃないんだよ。ね、圭ちゃん?」
「おう。俺たちはな、児童相談所に訴えてるんだ。あの叔父の野郎の非道と、沙都子を一刻も早く助け出してほしいってな…!」
「………そんなこと、…して下さらなくても結構ですのに…。」
「俺たちだけじゃねぇぞ。なぁ富田くん!」
「僕だけじゃないです。岡村もクラスのみんなも戦っています!」
「そうだよ…! 僕たちクラス全員で相談所に押し掛けてるんだ。もちろん今日も行くよ! ね、前原さん!」
「あぁ! 沙都子を救い出せるまで、俺たちは挫けないもんな!!」
クラス中が男女の違いなく、おう!と応えてくれた。
その団結ぶりに、一瞬だけ沙都子は驚いたようだったが、すぐに無感情な瞳に戻る…。
「…………だから…相談所の方が来ましたのね。……余計なことをなさらなくてもいいのに……。」
「…沙都子、……ひょっとして、相談所の人が来たことによって、あいつから何か虐められたりしたんですか…!」
<詩音
「……………………。」
<梨花
沙都子は答えなかった。
…今の状況では、それがどちらを意味する沈黙なのか理解するのは難しかった。
やがて、教室の賑やかさが職員室にも聞こえたのか、知恵先生も駆け込んできた。
「北条さん…! 体の具合はもういいのですか…?!」
本当に風邪だったかは怪しい。そんなことは先生も含め、誰もが百も承知だった。
「えぇ、…お陰様で。本当にご心配をお掛けしましたわね。もう平気ですのよ。」
「これからは……、ちゃんと学校に来れそうですか…?」
「えぇ。…だから本当に、……もうご心配なさらなくていいんですのよ…。相談所の人になんか言わなくて…いいんですのよ…。」
「…………北条さん。………もし本当に辛くなった時は、先生のお家へいらっしゃい。先生は北条さんの味方ですからね。いつでもいらっしゃい。」
「そこで先生だけにおいしいとこを持ってかれちゃたまんないねぇ! 沙都子、ここにいる私たちは全員味方だよ!!」
<魅音
「そうです。沙都子もぜひ私のマンションに遊びに来てください。余ってる部屋もありますから、沙都子のプライベートルームにしちゃっても全然OKですので!」
<詩音
「……だめです。沙都子はボクの家で飼ってるのですから、早くボクのお家に帰ってこないとだめなのですよ。にぱ〜☆」
……その普通ではない要素に、沙都子の心がどれくらい追い詰められているかを知るの
「…な?! 沙都子はひとりぼっちなんかじゃない。みんながお前を助けようと今、必死になっているんだ…!」
でも……。これ以上を必死になっても、届くかどうかはわからない。
昨日の大石さんの情報が本当なら、……雛見沢の総意ではなく、クラスメートだけの盛り上がりということを相談所側が知り、以後の対応を硬化させてくるかもしれない。
何しろ俺たちは、大人数で押し掛けて昨日と同じことを訴えるだけだ。
つまり、相談所側も昨日と同じことを反論するだけだ。
反論の軸はまた同じ。……親権者である鉄平が沙都子を連れ戻すのは当然。
訪問の結果、沙都子が虐待を受けているとは言えない。
…どうして言えない?
沙都子が、虐待はないと言い切ったからだ。
「……お気持ちだけで充分ですのよ…。…本当に大丈夫ですから…。」
「嘘だよ。」
<レナ
レナは顔こそ笑顔だったが、その言葉は鋭利だった。
「沙都子ちゃんは大丈夫なんかじゃない。沙都子ちゃんはみんなを騙しきれてなんていないよ。ここにいる全員が、いや、もっともっと大勢が、沙都子ちゃんが苦しみ、悲しんでいることを知っているよ。だから私たちは沙都子ちゃんを助けるために、立ち上がって精一杯がんばってる。悲しい沼に胸まで浸かりもがいてる沙都子ちゃんにみんなで手を差し伸べている。…………でも、それだけじゃ沙都子ちゃんを救えないの!!」
「そうなんだ沙都子…。相談所側は俺たちの言い分に耳を貸しつつも、……沙都子本人が虐待を否定するから虐待はないの一点張りなんだ。俺たち全員が沙都子を救いたいと思っても、……沙都子が受け容れてくれなければ救えないんだ…!」
「私、……とても昔に逆の立場だったことがあるの。どうせ誰にも自分は救えないと。自分が今していることが最善手だと。そう思い込んでいるから、仲間が差し伸べてくれる手を受け容れられないの。
でも、その時、……顔も思い出せないけど、ある人が言った!!
本当に選びたかった世界はすぐそこにある。でもそこへ至るには、向こうのみんなとこちらの自分が互いに手を伸ばし合わないと駄目なの!! 私たちだけが手を伸ばしても意味がない! だから沙都子ちゃん! あなたも手を伸ばして!! それで互いに手を掴み合って初めて、私たちは元の世界へ戻れるんだからッ!!!」
「……………レナ…。…それを誰に…?」
<梨花
「……あはは、…覚えてない。きっと幼稚園よりも小さい頃なんじゃないかと思う。いつどこで誰になんて覚えてない。
……でも、その時の気持ちを私は今でもはっきりと思い出せるの。あの時の気持ちがあったから、今日の私がある気がするの。」
「…………………。」
<梨花
「そうだな…。レナに言ったそいつは間違ってないぜ。沙都子は今、助けを求めないのが強さだと思い込んでる。それが最善手だと勘違いしてる。いいか、違うんだ!! 自分の顔を鏡で見てみろ、それが望んだ世界を掴んだ顔か?! 違うだろ!! 沙都子はこんな世界、心のどこにも望んでなんかいない!! 俺たちは沙都子を元の世界に連れ戻せる!! そしてその手を伸ばしてる!! その手は沙都子の鼻先のところまで伸びてるんだぜ…!!
だが、…あともうわずかが届かない。届いてりゃ髪の毛をふん掴んででも引っ張り出してる!! だが、そのわずかが届かないんだ!! だから掴め、お前が掴め!! 手を伸ばしても誰にも届かないから観念するなんて言わせねえぞ!! お前の鼻先に俺の、いや、俺たちの手があるんだよッ!! だから掴むんだ!! 手を伸ばすだけでいい、あとは俺たちが元の楽しかった世界へ引っ張り上げてやるから!!!」
「…………………………。」
<沙都子
……だが、……沙都子は手を伸ばさなかった。
鼻先に突き出された手を、何かに祈るような目つきで見るだけで。
…そして手を伸ばそうかどうか、…指先が震えるくらいにまで迷っているというのに…、手を伸ばさなかった…!
動物的衝動で怒りを吐き出したい思ったが、そんなことをすれば沙都子は怯えてしまう。
二度と俺を頼ろうとはしないだろう。
…だから俺は、……あくまでも手を伸ばしたまま、沙都子も手を伸ばすのを待つことしかできないのだ…。
「………ありがとうですわ。…本当にありがとうございますですわ。………でも、…本当に平気ですのよ。……本当に………っく……。」
「…さ、………沙都子…。」
<詩音
「…………もう少し、…時間がいるんだよ……。」
<魅音
沙都子の心の整理の時間。
…そして、そんなことお構いなしに容赦なく近付いてくる、手遅れのタイムリミット。
……それが沙都子にわかっていないのがとても悲しかった。
その時、昇降口からドタドタという大柄な賑やかな足音が近付いてきた。
姿を見ずとも、生徒である俺たちは校長の足音であると断言できた。
だから、沙都子の体が電気でも走ったかのようにビクっとした時、どうしてか理解できなかった。
荒々しく引き戸が開き、校長が姿を現す。
その表情は、三日目にしてようやく登校してきた沙都子の姿に安堵を感じているようだった。
だが、沙都子の反応はあまりに劇的で、…そして異常だった。
沙都子は例えようもない、すり潰される断末魔のような悲鳴をあげて教室の隅へ駆けて行くとカーテンの束に抱きついた。
その場にいた誰もが、沙都子の、この突然の行動が理解できなかった。
……少なくとも、校長がやって来たことと関係があるなどと夢にも思わなかった。
だが、校長だけは気付いたようだった。
沙都子が、自分を見て怯えているのに気が付いた。
「ほ、……北条くん、……大丈夫かね…?」
努めてやさしい声を掛けるが、沙都子の怯えは解けない。
今や誰の目にも、沙都子が校長の姿に怯えているのは明白だが、それがどうしてなのか、沙都子以外の誰にもわからなかった。
「だ、大丈夫か沙都子…! 何も怖がることなんてないぞ! ここには味方しかいない!!」
「…お、……叔父が叔父が……!!」
誰もがその言葉に、叔父が沙都子を連れ戻しに来たに違いないと思った。
仲間たちが一斉に立ち上がると、沙都子の囲むようにして周りの様子を伺う。
俺は、まだ一度も叔父のやつの顔は見ていないが、ここは学校だ。
ここにいてはならない顔があったなら、すぐに特定できる。
もし、…ヤツがこの場から暴力で沙都子を連れ出そうとしやがるなら、その時は知ったことじゃない。この場で決着をつけてやる!!
同じことはレナも魅音も詩音も思っているようだった。
だが、沙都子の怯える様子とは別に、叔父らしき人物の姿は見当たらない。
……沙都子の怯えようからすると、もうまるで教室内にいるかのようなのに、…その姿が見つけられない。
やがて、……俺も気が付く。
沙都子は校長の姿を怖がっているのだ。
校長が廊下をどかどかと駆けて来たのを叔父が来たと勘違いするまでならわかるが、こうして姿を見せた後にもまだ怯えるなんて、普通ではない。
……その普通ではない様子に、沙都子の心がどれくらい追い詰められているかを知るのだった。
そんな中、梨花ちゃんが沙都子の体を抱きながら、耳元に囁きかけているのが聞こえた。
「……大丈夫ですよ、叔父はいませんです。意地悪な叔父はいませんですよ…。」
「で、でもそこに!! そこに叔父が!!
私を連れ戻しに来たんですわ!!」
「……落ち着くのですよ沙都子…。今日のお注射はちゃんとしましたですか…?」
「叔父が…叔父が叔父が…ッ!! わぁああああぁあん、わあああああん!!
にーにー、にーにー!!」
「注射…? って、何の話だ梨花ちゃん?」
「……圭一、急いで入江を呼ぶのです。沙都子が大変だと言えばわかりますです。早くッ!! 知恵、沙都子を保健室に運びましょうです…!!」
「ど、どうしたの沙都子ちゃん!! 沙都子ちゃん!!」
<レナ
「とにかく監督を呼ぼう!! 医者に見せるしかない! って、誰か監督のとこの電話番号はわかるか?!」
「私がわかるよ!! 職員室の電話を借りよう!」
魅音たちが職員室の電話で監督に連絡を取るのを確認し、俺は保健室に向った。
保健室の前にはたくさんの生徒たちが溢れかえっていた。
中に入った生徒たちを知恵先生が外に押し出したところらしい。
俺はそんな先生の脇をするっと潜り抜け、保健室へ入り込んだ。
保健室のベッドには沙都子が寝かされ、何かに怯え続けていた。
それにレナと梨花ちゃんが付き添い、何も怖いものなどないとなだめているようだった。
……俺の姿を驚かせてはいけないと思い、小声で声を掛けた。
「…沙都子は……大丈夫なのか……? どうしたってんだ一体…。」
「………うん。…よくわからないけど、……とても怯えていて、校長先生の姿が叔父さんに見えたみたいなの。」
そうやって言葉で言われれば納得しそうにもなるが、……ちょっとそれは考えにくいことだった。
だって廊下の足音だけだったらそう誤解もできるだろうが、校長はああして姿を現し声も掛けた。
それでもなお校長を叔父だと誤解するのはかなり無理がある…。
「……壁に黒い点がひとつあったら、圭一やレナはそれが何に見えますですか?」
「え?」
「……蝿が嫌いな人なら、きっと蝿だろうと思いますです。蜘蛛が嫌いなら蜘蛛に、ゴキブリが嫌いならきっとゴキブリに見えますです。……人は識別のつかない何かがあった時、無意識の内に、一番自分にとって嫌なものでないことを確認しようと強く意識するのです。」
「沙都子ちゃんは、………近付いてくる校長先生の足音を聞き、とっさに叔父さんを思い浮かべたということ?」
<レナ
「で、……でも、校長が実際に姿を現しても、まだ怯えていたぜ……?」
「……その誤解が、すぐに解けなくなるのが沙都子の病気なのです。」
病気って何だよ…?
そう問い返そうとしたが、再び何かに沙都子が怯え出す。
梨花ちゃんはそれにやさしく声を掛けながら手を握ってあげていた。
レナが俺の肩を叩く。
梨花ちゃんに任せてここを出た方が沙都子のためになる、ということなんだろう。
…近付いてくる足音を全て、叔父だと誤解して怯える沙都子の痛ましい様子を見ていれば、それは納得できる話だった。
「じゃ、俺たちは教室へ戻ってるよ…。」
「……お願いしますです。」
俺とレナは保健室を後にした。
廊下では相変わらず生徒たちが知恵先生と押し問答をしていた。
出てきた俺たちの姿を見ると、沙都子の容態はどうなのかと詰め寄ってきた。
「みんな、とりあえずは梨花ちゃんに任せよう。…沙都子は今、とても怯えやすくなってるんだ。だから、怖がらせないようにしてやってくれ。多分、ここで騒いでいるのも沙都子には怖く感じるんだと思う。」
<圭一
「……教室へ戻ろ。きっとすぐに監督が来て様子を見てくれるよ。魅ぃちゃん、連絡は取れたんだよね?」
「うん。大至急来てくれるって。それまでは梨花ちゃんに任せて安静に。絶対に保健室から出さないようにだってさ…。」
「はい、皆さん、教室に戻りなさい! 朝のホームルームを始めますよ!」
出欠を取り今朝の連絡事項を聞いている間に、校門にブレーキを鳴かせながら車がやって来た。
先生の話そっちのけでみんながそれを見る。
車の中からは白衣姿の人が3人降りてきた。
先頭は監督で、慌しい様子で校舎に駆けて来る。
3人という大人数だったので、誰もが驚く。
自分たちが想像しているよりも、沙都子が酷い状態にあると思ったからだ…。
それは知恵先生も同じだったらしい。
委員長にクラスを任せると、保健室へ様子を聞きに出掛けていった。
だが、10分くらいすると何と、沙都子はひょっこりと教室に戻ってきた。
沙都子の表情は暗く沈んでいたが、それは今朝から浮かべている表情であり、さっき陥ったパニックはもう微塵も感じさせなくなっていた。
「…沙都子! もう起きて大丈夫なんですか? もう少し休んでてもいいと思います。」
<詩音
「ご心配をお掛けしましたわね……。もう平気ですのよ…。」
「……沙都子ちゃん…。」
<レナ
みんなに気遣われるが、特別に扱われるのがかえって嫌なのか、沙都子は自分に構わないでほしい素振りだった。
やがて知恵先生が戻ってくるが、俺はそのタイミングでするりと廊下に出て、保健室から戻ろうとしている監督たちに声を掛けた。
ちょうど監督と梨花ちゃんが話しているところだった。
「…監督…。沙都子は本当に大丈夫なんですか…!」
「前原さん。
……えぇ、とりあえずは大丈夫です。しばらく様子を見てあげてください。」
「……ちょっとした発作なのです。もう大丈夫なのですよ。」
「発作って、……そ、そういうもんなのか…? そう言えば、さっきも保健室で沙都子のことを病気だ、みたいなことを言ってたけど…。」
「…では、私はこれで失礼します。何かあったらまた呼んでください。」
監督は話を一方的に打ち切ると、お辞儀だけして立ち去ってしまった。
何だか、沙都子のことを切り出したら、それに答えるのを嫌ったように見えた…。
「……圭一。誰にも内緒と約束できますですか?」
「え? あ、……あぁ。」
「……沙都子は、数年前からちょっとした病気なのです。ずっとその治療を受け続けていますです。」
それはとても意外な話だった。
……数年前から、ということは俺が沙都子に出会った時はすでに治療中だったということになる…。だが、そんな病気の様子を感じたことは一度もなかった。
「……その病気は簡単には治りませんが、…ちゃんとお薬と治療を受けることで、普通に生活することができるのです。」
「そうなのか…。でも、だったら問題ないじゃないか。梨花ちゃんに打ち明けられるまで、沙都子が病気に掛かってるなんて考えもしなかったもんな。あれだけ元気に過ごせるなら、それで充分だよ。」
今がとてもそういう状態ではないので、元気という言葉には若干の抵抗がある…。
だが、沙都子の病気とは一体なんだろう…?
先ほどの取り乱し方などから、体の病というよりは心の病というようにも見えた。
………それはひょっとすると、過去の虐待などによる心の傷なのかもしれない。
トラウマは容易には治らないというし、時には向精神薬などでの治療も必要だという。………そういうものに違いない。
「……沙都子は実は、毎日2回のお注射をしなくてはいけない体なのです。ですが、朝から色々と叔父に意地悪をされていたせいで、今朝のお注射を忘れてしまったようなのです。」
「それはつまり、……注射を一本忘れると沙都子はあんなに怯えてしまう状態になる、ということなのか…?」
梨花は小さく頷く。
それは大きなショックだった。
俺が知る沙都子は生意気盛りの元気盛りで、常に跳ね回っている弾丸のようなヤツだ。
それが、日に二度の注射を一度忘れただけで、怯える小動物のようになってしまうなんて…。
「注射を忘れると、沙都子はとてもとても怖がりになってしまうのです。……すると、何かが起こったり、聞こえたり、現れたりするだけで、それらが沙都子に危害を加えようとしているように感じてしまうのです。」
「……つまり、さっきの場合は校長の足音を聞いて、叔父が学校に乗り込んできたように感じた、というわけだな。」
「そうです。………沙都子の場合は、その足音を叔父だと思い込んだら、“そうなってしまう”のです。校長が顔を見せて、やさしく語りかけたとしても、沙都子の中ではその人物はもう“叔父になってしまった”ので、何を言おうと叔父が言っているように聞こえてしまうのです。」
「さっき梨花ちゃんは、……その誤解が解きにくくなる病気だと言ったな…。……嫌なことと思い込んでしまったら誤解が解けない病気か…。……何て病名か聞きたくもないな。……気の毒だぜ…。…それに、…そんな病気と闘いながら今日まで頑張ってきたんだな……、あいつ。」
「でも、圭一。……どうかこの病気のことは沙都子には言わないであげてほしいのです。」
どうして…? と聞こうと思ったが、それは多分、愚問だった。
心の病を患っていることを告げるのは、時には親切にならない。…きっとそういうことだろう……。
「……沙都子はさっき教室に戻ってきたが、もう平気なのか…?」
「とりあえず、入江が沙都子のお注射を持ってきてくれましたのでもう大丈夫です。」
医者が駆けて来るほどの病気…。その時、ふと思いついたことがあった。
「………なぁ、沙都子が急病で倒れたってことにして、入院させちゃうのっていい手だったとは思わないか?」
沙都子が助けを求めなくても、無理やり収容してしまえる。
そうすれば、叔父を沙都子から遠ざけられるだろう。それは妙案だと思った。
「……もちろん、それは入江が提案しました。…ですが、沙都子が断ったのです。」
「沙都子が断るとか断らないとかの問題じゃないだろ。医者が要入院って言ったら普通、」
「……………圭一。……沙都子が家に帰らないと、…にーにーの部屋を片付けられてしまうのだそうです。」
「な、……何ぃいぃ…?!」
「……沙都子にとって、北条の家は悟史が帰ってくるまで守らなければならない場所なのです。」
その弱みを知ってか知らずなのか。
…鉄平のやつは、沙都子が帰ってこなかったら、悟史の部屋を片付けてしまうと脅したのだ。
「…………き、…汚ぇ野郎だ……!!」
「……圭一、他のみんなには言わないでください、詩ぃは感情を抑えるのがうまくないので、知ったら短気を起こしかねませんです。」
詩音の名を引き合いに出されたが、俺も今、短気を起こしかけた。
ここで短気を起こしちゃ駄目だ。
俺は沙都子を救うために今、みんなの力を借りているんだ。
それを俺自らが棒に振るようなことをしちゃいけない。
やはり、俺には立ち止まってる暇なんかねぇようだ。
「…くそ!! 沙都子が、助けてと一言でも言ってくれりゃあ、どうとでもなるのに…!」
だからって、助けてと言ってないから助ける必要がないなんてめちゃくちゃな理論は、俺たち仲間内では通用しない。
しかも、悟史の部屋を人質にするような真似で沙都子の心を縛っているとわかった以上な!
「いや、……その悟史の部屋を片付けられてしまうってのを話したのこそ、沙都子の明白なSOSじゃないのか?! 助けてと直接言えない沙都子が遠回しに発した明白な助けだ!!」
梨花ちゃんは小さく頷く。
「……圭一。沙都子を助けるために残された時間は、もう長くはないのです。」
梨花ちゃんに言われるまでもない。
確かに注射を忘れたせいでさっきはパニックを起こしたのだろうが、そういう病にある沙都子が、心に強い負担を強いられる環境にこれ以上何日も監禁されていたら、きっと大変なことになる。
…さっきのカーテンの束を抱いて泣き叫ぶ沙都子は、その先触れなのだ。
「今日で三日目だ。人数はすでに初日の10倍以上に膨れたが、…まだまだ行くぜ!!」
「……圭一。沙都子を救うのは、簡単なことではないのです。…………これまでに何度も試してきて、一度たりとも成功したことはないのです。」
「…そうなのか。」
「…………圭一は覚えていない話です。……でも、今回の圭一は違う。今までに一度も見たことのない方法で、あと一歩で沙都子を救えるところまで漕ぎ着けていると思いますです。……ボクは圭一が、運命なんてあっさりと破ってしまえる力のある人間だと、信じています…。」
それを言うなら、圭一の覚えていない話じゃなくて、圭一の知らない話じゃないのか?
まぁいい、梨花ちゃん語にいちいちツッコミを入れてる場合じゃないぜ。
「あぁ。そうだな!! 運命なんて、俺があっさり打ち破ってやるぜ。」
■三日目攻撃!
興宮図書館の前には異様な人だかりが出来ていた。
閑静な図書館前に50人以上もの人が集まるなんて、普通じゃ考えられないことだった。
「Kぇぇい!!
今日は面白くなってきたぜぇえぇ!! 今日のリーダーの前原さんだ、挨拶しろ!!」
「「「うおッす!! こんにちはッ!!」」」
亀田くんが連れてきた人たちはさすが皆、スポーツマンだ。
体格が良くて何しろ気合が入っている。
体育会系の部活に入ったことのない俺にとって、そんな人たちに、うおッす!なんて挨拶されると何だか驚くような照れてしまうような。
おっと、そんなことで躊躇してどうするんだよ!!
兵士を率いる武将が照れたりするわけがない!!
そしてその後には、昨日、エンジェルモートで同調してくれた名も知らぬ同志たちがいた。
……言っちゃ失礼だが、一番来てくれないだろうなぁと思っていた人たちだったのに。
昨日のあの場限りの勢いでなく、本当に来てくれたのが嬉しかった。
彼らも気合の入った気勢(奇声?)をあげ、気合充分なようだった。
亀田くんは野球関係者だけでなく、エンジェルモートの方もまとめてくれたわけで……、この恩は簡単には返せそうになかった。
「水臭いぜ、K。俺たちはエンジェルモートの義兄弟っすよー!! デザふぇに行った連中の噂だと、夏の新デザート、
恥じらいの青い果実サンデーが最高にいいらしいっす!!
この夏は一緒に青い果実を貪り食いに行きましょうおおおぉ!!」
「圭一くん! 今日はすごいねぇ! これを全部、君がひとりで集めたのかい?!」
「こんにちは。ここまでとは思わなかったわ。やるわねぇ、くすくす。」
「富竹さん、鷹野さん!! どうしてここに?!」
<レナ
「あ、レナは知らなかったか。昨夜の祭りの実行委員会の席でね、今日への参加を表明してくれたんだよ。確か、監督も来るはず…。」
<魅音
「お待たせしました。遅れて申し訳ございません。留守番のスタッフへの引継ぎに手間取りまして。」
<入江
「わああああ! 監督、それすごいすごい…!!」
<レナ
監督はハチマキにタスキ、それに横断幕まで作ってきた。
…用意がいいなぁ!!
もちろんハチマキやタスキには「北条沙都子を救え!」「相談所は即時対応せよ!」など、何だか立派な文言が踊り、とてもデモっぽい!
しかもそれは他の人数分も作ったらしく、それを詩音と鷹野さんに配らせていた。
「何て言うのか、監督のこういうセンスが私、大ッ嫌いなんですけど…。でも、今日はちょっと見直してます。」
<詩音
「しかし、こういうアイテムもいいね。ここにいる60人は全員に面識があるわけじゃない。でも同じハチマキやタスキを身に着けることで、同じ目的を持った仲間だとわかり、連帯感も育めるからねぇ!」
<魅音
「こんなのを身に着けると、ダム戦争の時代に戻った気がするよ。ハチマキやタスキをした雛見沢の人たちは無敵だったんだ。誰が相手でも怯まなかった!」
<富竹
富竹さんの言うとおりだった。
クラスメートが集めてきた興宮に登校している子どもたちも、みんなハチマキやタスキに抵抗感はまったくないようだった。
こんなの恥ずかしいから嫌だどころか、まるで野球ファンがお揃いの法被を着て団結するような感じだった。
「さ、梨花さんもぜひ。これだけの数を作るのは苦労したんですよ〜。」
<入江
「……入江…。」
<梨花
「私も、自分が出来ることを惜しみませんよ。沙都子ちゃんを助け出すために、全力を尽くしましょう!」
<入江
「はい、圭一くんの! すごいね、昨日は社会科見学さま御一行だったのに、…今日はまるで雰囲気が違う!」
<レナ
「そうだな…!! 俺は人数が多けりゃ相手はビビるだろうくらいに思ってたが、これは迫力が違う!! やはりハッタリって大事なんだなって思うぜ…!!」
「さ、そろそろ時間よ。団長、決起の挨拶をお願いね。」
<鷹野
「団長なんて、そんな恥ずかしい…。俺なんて単なる発起人で…。」
「圭一くん、リーダーがそんなじゃ貫禄がないよ!
さぁ、胸を張って!」
<富竹
富竹さんのカメラフラッシュを浴びながら、俺はみんなの前へ出る。
それだけでみんなの私語が止み、俺へ視線が集まるのを感じた。
………ものすごい緊張感だ。だが、同時に、これだけの気合の入った仲間たちと人数が集まったことに対するワクワク感を隠せなかった。
「みんな、今日は集まってくれてありがとう!!! すでに聞いてると思うが、俺たちのクラスメート、北条沙都子が叔父に誘拐同然にさらわれてもう四日目!! かつて気の向くままに沙都子を虐め、愛人のところへ一年間も蒸発していた叔父がどうして親権者なんて名乗れるのか!! 児童相談所は直ちに状況を理解し、沙都子に対する緊急保護を実施するべきである!! だが児童相談所側は慎重な対応を理由に現状を放置! 沙都子が日々の窒息しそうな環境の中で心をすり潰されていっている急を理解していない!! 俺たちはこれより三日目の陳情を決行し、児童相談所に改めて緊急の対応を求めるものであるッ!!!」
「今日、学校で沙都子ちゃんの姿を見た人ならわかるはず!! あの快活だった沙都子ちゃんがたったの四日であんなにもやつれ果ててしまって! あんな姿をこれ以上放っておくなんて絶対にできない!!」
<レナ
「これですでに三日連続! しかも人数はここまで膨れ上がった!! 相談所側に私たちの強い意志を訴えよう!! 私たちは仲間を見捨てたりしないッ!!」
<魅音
「…すごいね! こいつは間違いなくダム戦争の再来だよ!」
<富竹
「ダム戦争を知らないはずの前原くんが、ダム戦争を再びなんて。面白いものね。やはりこの地には、人を結束させたくなる何かがあるということなのかしら。」
<鷹野
「やっぱり田舎的な人懐っこい風土によるものだと思います。だから、今日のこれは起こるべくして起こったんです。」
<詩音
「僕たちは隣人の顔も覚えてない都会に住んでるけど、それと比べると何だか羨ましいね。」
<富竹
「……電車の本数が少ないとグチってた人がよく言いますですよ。」
<梨花
「全軍突撃準備完了! 閣下はただここで死ねとのみご命令を!!」
「要求貫徹、絶対救出ッ!! みんな、Kに続けぇえ!!」
「「うお!
うおぉ!
うをおおおぉおおお!!!」」
相談所に乗り込む前からこの迫力だ。
それが相談所に伝わらないはずはなかった。
窓には人影があり、この様子を見ながら慌てふためいているようだった。
「さぁ、参りましょう!」
<入江
監督に力強く背中を叩かれ、俺はいよいよ60人という大勢の意思を背負いながら、三日目の第一歩を踏み出す。
自動扉をくぐり、カウンターまでの約20mくらいをゆっくり踏みしめながら迫る…!
「…これでならどうだ。一昨日は相談員、昨日は係長。なら今日は所長か?!」
「わからない。
でも、きっと私たちの強い意志は伝わるはずだよ…!」
<レナ
「こ、こんにちは…、今日はどのようなご用件でしょうか…。」
「昨日と同じです。北条沙都子の緊急対応を求めて陳情に参りました!」
事務室の奥では、昨日対応をしてくれた係長が、立派な席の人物とこちらを伺いながら口早にやり取りをしているようだった。
その様子を見るだけで、今日も来るかもしれないとは思っていたが、まさかこれほどの人数とは…と驚いているのが伝わってくる。
これだけの人数なら今日こそきっと行けると詩音が意気込むが、だからこそ俺は油断できなかった。
……正直なところ、この人数が恐らく八方手を尽くして集められる俺のマックスだ。
今日でもビクともしないなら…明日はどうするのか。
強気な表向きとは裏腹に内心は緊張感で張り裂けそうだった。
だがそんな臆病な感情は、隣を歩いてくれているレナの表情の、頼もしい力強さを見ていると薄れる。
でも、よくよく考えればレナも同じことを考えて俺の顔を見ているのかもしれない。
実はみんながみんな、今日の訴えで沙都子を救えるかどうか不安がっているに違いない。
でも、互いがそれを隠し合い、相手の元気に励まされて相互効果を得る。
これこそ間違いなく、集団の強みだった。
この強さやエネルギーは絶対に一人には宿せない。
結集することでしか生み出せないパワーだ。
一滴の水滴が石に穴を開けるのに気が遠くなる時間が掛かるのに、津波となって押し寄せれば全てを砕いて押し流す!
やがて係長がカウンターの向こうからすっ飛んできた。
言い分はこうだ。
今日は都合で会議室が全て使えないため、これだけの人数を収容できない。
ただし、今日の話は所長も伺いたいと言っているので、所長席前の応接スペースで伺いたいという。
手狭なので、申し訳ないが代表を3名としてほしいとのことだった。
「本当に申し訳ございません…。他のお客様へのご配慮と言うことでご理解をご協力をいただけると助かるのですが…。」
せっかくこれだけの人数でやって来たのに、代表3人だけというのでは意味がないのでは。
そんなのは受け容れられないと突っぱねようとしたが、魅音は受け容れてもいいだろうと囁く。
「この人数で占拠すれば、業務への支障を理由に揚げ足を取られかねないしね。すでに充分インパクトは与えてる。向こうも施設長が直接話を聞くと言ってるし、これは向こうの最高の対応でもあるよ。」
<魅音
「……みんな、がくがくぶるぶるでにゃーにゃーしてますですよ。」
「あははは、にゃーにゃー!
でも、会議室が空いてないってのは嘘くさいですけどねー。」
<詩音
「私も嘘だと思うな。でも、魅ぃちゃんの言うとおり、これだけの人数で押し掛けたというインパクトは充分与えたと思う。」
<レナ
「所長さんは相談所の最高責任者です。それが話を聞くという礼を尽くした以上、こちらにも多少の譲歩が必要かもしれませんね。」
<入江
「……話し合いの場を設けたのに先方が席に着かなかった。そういう記録だけ残ると、話し合いの余地なしってことにされてしまうわね。」
<鷹野
「部外者の意見で恐縮だけど、…ここは、話し合いに来ているということをアピールするべきだと思うなぁ。」
<富竹
うーむ。
さすがこれだけの人数になると色々な意見が聞けるものだ。
俺一人だったら、代表3人なんて言われた時に馬鹿にしてるのかと怒り出してたはずだ。
でも、それはどうやら最善手ではないらしい。
……やっぱり、こういうところで、みんなの力というものの重要さを認識する。
「わかりました。では代表3人ということにします。……で、代表は誰にしよう?」
「代表は圭一くんでいいと思うな。
あと、大人として監督と、魅ぃちゃんもついててくれれば文句なしかな!」
<レナ
「所長が私の顔を知ってたら、園崎家の圧力ってことになっちゃう。…今回の件は園崎家はノータッチなんで、そこを誤解させられない。……うぅ、大人の事情でごめん。」
「沙都子を助けるのは私たちの戦いで、鬼婆とは何の関係もありませんからね。
なら、レナさんはどうです? ガツンと一発叩き込んでやってくださいよ!」
<詩音
「私でもいいけど、……梨花ちゃんはどう?」
「……みー?」
「沙都子ちゃんの一番のお友達として、代表に加わってもいいんじゃないかな。」
「…………………。」
梨花ちゃんは無口だから、意志の強さを測れない時がある。
でも、沙都子の一番の親友だったのだ。
この一年間、家族同然の暮らしをしていた。その絆は一番強いだろう。
「よし、俺と監督、そして梨花ちゃんで行こう!」
「了解。私はみんなをまとめるよ。」
<魅音
魅音はウィンクして応えると、みんなに対して事情を説明し始めた。
■アイキャッチ
■梨花目線
まさか自分が代表の1人に加えられるとは思わなかった。
自分は口下手だから、レナや詩音が代表に加わってくれた方がよかったのではないかと思う。……でも、沙都子の一番の友人として代表に加わるべきだと言われて、…断るに断れなかった。
圭一たちと一緒に所長席の前の応接ソファーを勧められる。
対するは相談員と係長、そして所長。この三日で明らかに対応が変ってきている。
今日の陳情でうまく行くかどうかはわからないけれど、…本当にどうにかなりそうな、運命がきしむ手応えというのを感じていた。
「……どうですか、梨花。」
「わずか数日で、とんでもない展開になってる。……さすがの私にも、もうどうなるやら見当も付かないわ。」
羽入が姿を現す。……先日以来、羽入はいないことが多かった。
…羽入に言わせれば、どうせこの世界の沙都子も救えないというだろう。
……無駄な期待をせず一喜一憂をせず、ただただ傍観者のように事を見るのが彼女の心構えなのだから。
確かに私は、羽入の言うのに逆らい、良いことが重なれば何かの幸運に期待し、それを裏切られては深く悲しんできた。
……確かにそれは、心にとってはあまりよくない。
持ち上げられては叩きつけられの繰り返し。
心は平穏で穏やかな方がいい。
変に期待しない。
その代わり、何が起こっても傷つかない。
………しかも自分の運命が逃れられぬ袋小路に捕らえられているのなら、それはなおさらだ。
でも、………本当にこれは袋小路なのだろうか。
私は数多の世界で、私なりに様々な努力を重ねてきたつもりだった。
でも、その様々な努力は所詮、私個人にできる範囲でしかなかったのだ。
奇跡はみんなの力を合わせることでしか起きない。
その言葉の重みを私は噛み締めている。
でも、だからと言って、沙都子を救い出せるという保証はない。
確かに今までに一度も見たことのない大きなうねりにはなったけれど、…何の保証にもならない。
そんなのを奇跡とは言わない。奇跡とはもっと劇的。
なら、これは奇跡じゃない。
…まだ、奇跡じゃない。
奇跡になるには、まだ手を伸ばすのが足りない人がいる。
みんながんばってる。
奇跡を起こせると信じてる。
信じてないのは誰…?
みんなで手を伸ばしあわなければならないのに、手を伸ばしていないのは誰…?
「…冷たく言えば、奇跡を起こせない非は沙都子にある。そもそも、さっきから圭一や入江が向こうとやり合っている最大の争点は、沙都子が虐待を認めたかどうか。」
「……そうなのですが、…それは簡単ではないのです…。」
「沙都子を救おうとみんなが手を伸ばしているのに、沙都子がその手を掴もうとせず、沼にどんどん沈んでいく。……そうやって考えると、相談所に訴える前に、一番訴えるべきは沙都子じゃないかって思う。」
「……沙都子に、手を伸ばすよう説得するのですか。」
「うん。…………それはとても簡単なことではないけれど。…サイコロの目が再び6揃いになる奇跡を待つ苦労に比べたら、大した苦労じゃない。」
そして、……沙都子の心を解きほぐす鍵は、他の誰でもない私が持っているに違いなかった。
沙都子にとって私は家族だ。
これは言い過ぎでもないし自惚れでもない。
むしろ、私がこう言わなかったら沙都子に失礼なくらいに。
そして沙都子にとってそうであるように、私にとっても沙都子は家族なのだ。
……いや、沙都子にとってのそれよりもずっとずっと深い。
沙都子にとっては一年間の家族であっても、…私にとってはもっともっと長い年月を共にした家族なのだから。
「そして、……さらに考えれば、…ふふ、奇跡が起こらないのは至極当然だった。」
「………どうしてなのですか。」
「奇跡を起こすには、みんなの力を合わせなければならない。……みんなが合わせてないんだもの。一人足りなかった。奇跡が起こらないのは当然。」
「……沙都子ですか?」
「くすくす。…違うわ。私よ、私。」
私だけが傍観者気取りだった。
繰り返す数多の世界に疲れきり、いつの間にやら魔女気取り。運命に抗う力強さを忘れていた。
私もまた舞台の上の出演者なのに、私ひとりが舞台に上がらず観覧席でポップコーンなんか食べてたら、成功する劇も失敗する。
……私は観客じゃない。
舞台に上がらなくてはならない出演者のひとりだ。
だから、ずっとずっと舞台は成功しなかったのかもしれない。
例えば、あのレナが学校を占拠した世界で。
私がのんびりと傍観していれば、圭一は時限発火装置に間に合わず、大爆発で終わる。
でも、私が舞台に上がったから、そこで舞台は終わらずに続いた。
私すらもこの世界の歯車のひとつ。
そんな当り前のことを、私はずいぶん前に忘れてしまっていたようだった。
「私が、沙都子の心を解かなくてはならない。………悟史の呪縛から沙都子を解き放たなくてはならない。もちろん、私以外にもそれはできるだろうけれど、きっと私が一番できる立場にいる。……いや、そうでなかったとしても、私もまた舞台に上がらなくては奇跡は起きないってこと。」
「……………………梨花。…あなたは何度もそのような決意をして、それを打ち砕かれて悲しんできましたです。…それでもなお、なのですか。」
「わかってる。二度とない幸運と二度とない結束。……私が次の世界でもがんばろうと安っぽい決意をしたところで、私の努力とは無関係なところで袋小路は決まるだろう。…この世界よりももっともっとあっさりと、どうしようもない形で。」
「…………………。」
「だから。……この世界でも駄目だったら。………私は諦めようと思う。」
「…え?」
羽入はぎょっとする。
…私たちの間で、諦めるというのは普通の安っぽい意味とは違う。
……それは運命に抗わず受け容れることだけを意味するのではない。
運命の袋小路、即ち、「死」すらも受け容れようということ。
「あ……あぅあぅあぅあぅあぅ!!」
「……何ていうか、未練って努力してないから感じるものなんだって、私、わかったの。今回、これだけの幸運に恵まれ。……まぁ確かに叔父の帰宅は例外だけど、それにしたって、二度とあるかどうかもわからない追い風に恵まれた。そして、その追い風の中で、私は多分、できる最大限の帆を張ったと思う。だから、今度こそって思うし、逆に、これで駄目ならもう絶対に駄目だと思う。その時は私、本当の本当に諦めがつくと思うから。」
「あぅあぅぁぅぁぅ…、そんなの駄目なのですよ…。ぅあぅあぅあぅ…。」
羽入にとっては私だけが唯一のコミュニケーションの相手だ。
「私」が消えれば、再びたった一人の世界に生きることになるだろう。
……それは羽入にとって何よりも恐れることだった。
だから、羽入は私を傍観者側に引き込もうとするのかもしれない。
私が一喜一憂して、心の寿命を縮めていくような生き方を曲げさせようとするのかもしれない。
「でも、……私は元々、この舞台の出演者だった。あなたに舞台を観るという楽しみ方を教えてはもらったけど、出番を降りたら舞台が成立しない。きっと、だから私は袋小路を出られないんじゃないかなって思うの。」
「……梨花。…きっと、どこかの世界で、今回と同じような幸運に恵まれ、しかも叔父の帰ってこない世界がありますです。それは奇跡ではなく、今回よりももう1つ余計に6が出るだけのことなのです。」
「今回と同じような追い風で、叔父も帰ってこない世界か…。そうね。そうだったら、どんなに素晴らしいことか。」
それでも、自分自身の死の運命に打ち勝てるかは別問題だけれど。それはきっと素晴らしい世界に違いない。
「その世界まで、がんばって僕と待ちましょうなのです…。……だから、……ぁぅぁぅ…、この世界が終わったら諦めるなんて言わないでほしいのです。」
「……私が死んだら、あんたがあぅあぅ言っても聞いてくれる人もいなくなるしね。たまに気配か足音を誰かに、気のせい程度に感じさせるのがせいぜいだろうし。」
「ぁぅあぅあぅ……。」
「じゃ、……私は舞台に戻るわ。自分にできる精一杯を尽くす。あんただって、永遠に繰り返す昭和の夏なんて嫌でしょう?」
「……誰ともお話ができずに過ごす長い時間の方がもっと嫌なのです。」
私にとって狂ってしまいそうになる同じ時間の繰り返しも、話し合い手がいないよりはずっとマシなものらしい。
……そんなのは羽入の話で、私の知ったことではないが。
「……僕も、この運命を乗り越えて、まだ見たことのない昭和58年やその先の時間へ行きたいです。でも、それは梨花と一緒でなくては駄目なのです…。」
それはきっと、昭和58年の6月を越えるのは私一人では意味がないと私が言うのと同じに違いない。
私にとっての最良の未来は、昭和58年の6月を越えて生き延び、しかも仲間が誰一人として欠落しない、これまでと同じ楽しい時間が続いていくことだ。
羽入も同じ。……私がいない、ひとりぼっちの世界など何の意味もないというのだろう。
やり直す数多の世界は、……私たちが互いに望むことで繰り返される。
だからこれは羽入の力ではなく、私たちの力なのだ。
私がより良い未来に至るまでやり直しを望むように、羽入もまた私と過ごす時間を望んでいる。
だから互いの利害は一致する。
私が繰り返す世界を拒否すれば、それでこの長い世界は終わるのだ。
……狂ってしまいそうになるこの世界に嫌気が刺しても、私は繰り返しを拒否したことはない。
生きていればその内いいことがあるという、安っぽい言葉を百年以上も信じてだ。
でも、私たちの力もだいぶ弱まり、巻き戻せる時間の幅はもはや数週間程度。
…運命に抗うにはわずかの猶予しかなくなってしまった。
このまま何度も繰り返せば、最後には運命の日の当日の朝程度にしか戻れなくなるだろう。正真正銘の袋小路だ。
だから私は、この世界の幸運は今後の世界では起こらないと思っている。
無限の時間の中にはありえるだろうが、……私に残された時間の中では期待できない。
羽入は私に短気を起こされたくないから、のんびり次の幸運を待とうなどと悠長な話をする。
でもそれは、私と違い時間の制約のない考え方だからだ。
「死んでも目が覚めても同じ朝なんて、…考えたくもない悪夢よね。そんな地獄に堕ちる前に自分の世界は自分の手で幕を下ろしたいの。だから、それをこの世界に決めたわ。この世界で駄目だったら、私はこれで繰り返しをやめることにする。」
「あ……あぅあぁうあぅあぅ!! あうあぅあぅあぅあぅ!!」
あぅあぅ語を翻訳するとこうだ。
この世界はいつもと同じでどうせまたうまく行かない。
だから勝てない博打なんかしないでほしい。
悲観するほど梨花の寿命は短くない。
もう百年を終わらない6月で待ち、次の奇跡を待てばいいじゃないか。
…それまで僕と一緒に過ごそう。僕と楽しく過ごし、海路に日和があるのを待とう。
「ってなところでしょ?」
「……ぁぅあぅ。」
「ならせいぜい私たちのために祈ってちょうだい。相談所を説き伏せ、沙都子を救い出せること。そして私が昭和58年6月の運命に打ち勝てること。昭和58年の夏を迎えられたら、ずいぶん昔に約束したとおり、色々なことをして遊ぼう。昭和58年のスイカを食べて窓際で涼もう。今年の秋はどんな秋? 今年の冬はどのくらいの雪が? 私たちの知らない天気や出来事を楽しもう。知らないテレビ番組や、永遠に放送予定のまま見ることのできなかったアニメを見よう。そして、私がどんな人生を歩むのか、ともに成長の物語を楽しもう。」
「……それまで一緒に頑張ろうって約束しましたです…。なのに……この世界で駄目だったら諦めるなんて……そんなのは約束違反なのです…。」
「……………その約束だけは守れなくて、ごめん。」
「……ぁぅ…………………。」
「きっと、仲間みんなと一緒に昭和58年の夏を迎える。そこにはもちろん羽入もいるの。そして、……きっと青くて広いに違いない夏の大空を見上げよう。きっとね、……昭和58年の大空は、これまでの空とは比べ物にならないくらいに美しいに違いないから。」
その奇跡を、私は必ずこの世界で起こしてみせる。
私のように奇跡が起こるまでやり直せるなんてことが、そもそも神さまの作った運命の規格外なのだ。
人は誰しも、二度とないチャンスの中で奇跡にすがり、祈ってそれを起こす。
やり直しなんて出来ないから、全身全霊を込めて。だから、起きる。
それでも起こせなかったら、ここが諦めどころだってこと。
「次の世界なんていらない。この世界で奇跡を起こす。みんなが教えてくれた。奇跡はみんなでなら起こせると教えてくれた。だから起きる。起こす。この世界で私たちは最高の未来を迎えてみせる。」
「…………梨花……ぁぅあぅあぅあぅ………。」
羽入は悲しそうな泣き声を残しながら姿を消してしまった。
消えはしたが、それでも聞いているだろうと思い、私は最後に言う。
「羽入。きっと私たちはこの世界で、最高の未来を掴めるから。だから信じて。あなたも力を合わせてくれたなら、奇跡はもっと起きやすいかもしれないんだから。」
それは最高の舞台。
舞台の上の出演者と、舞台の下の傍観者が一体となった最高の舞台。
観劇者であるあなたが望めば、惨劇の台本だって書き換えられることもあるかもしれないのだから。
………よし。私は舞台に上がる。
もうふて腐れない。
圭一たちが常にどの世界でもそうなように、私も全てを力を尽くす。
風向きが悪いからとか、そんなことを言い訳にしない。
次の幸運なんか期待するな。この世界を精一杯生き抜け。
それはこの世界を終えたら死ぬという悲しい決意じゃない。
人には一度の人生しか与えられていないという当り前の話だ。
だから人は煌くのだ。
私はそうじゃなかったから、煌かなかった。奇跡が起こせなかった。
前回の世界でレナが学校を占拠した時。
私が舞台に上がって、レナを食い止めたから、圭一は発火装置に間に合った。
それは私が舞台に上がったことで筋書きが代わった好例だ。
今までの世界でだって、ひょっとすると。私がふて腐れずに、その後も努力を続けていれば好転していたこともあったかもしれない。
でも私はすぐに諦め、世界を放り投げて興味を失った。
だから、何も奇跡なんて起きなかったんだ。
次の世界の幸運に期待すればいいなんていう心構えが、奇跡を遠ざける。
……羽入。どうか、それをわかってほしい。
だからどうか、悲しまずに私と共に、最後と決めたこの世界を一緒に戦ってほしい。
それは羽入に伝わったかどうかはわからない。
その後、私も積極的に発言し、沙都子の窮状を訴えた。
もちろん、圭一たちも心の底から訴えてくれた。
それがどこまで相談所に届いたかはわからない。あとは祈るほかなかった…。
■圭一目線
「どうだった、圭ちゃん?!」
「んー…。昨日の繰り返しになっちゃった感じだったな。両者とも昨日と同じ話の繰り返しだ。」
「相変わらず平行線? 慎重に様子を見るからとか、そういう話に…?」
<レナ
「そんなところです。週1の訪問で様子を見て大体、一ヵ月後に改めて判断をするというような話なのですが…。」
<入江
「あの叔父のところに沙都子を一ヶ月も閉じ込めろって言うんですか?! その一ヶ月間で沙都子の心がどれだけ傷付けられるか、どうしてその痛みが理解できないんです!」
<詩音
「もちろん、その点についても前原さんは懸命に説明してくれました。私も、沙都子ちゃんの去年の状況を説明したつもりです…。ですが………。」
<入江
「……沙都子ちゃんが助けを求めない限り、…緊急性はない?」
<レナ
「部外者の意見で恐縮だけど…。沙都子ちゃんに助けを求めてもらうってのは…無理なのかい?」
<富竹
「………沙都子ちゃんが逃げ出したら、悟史くんの部屋のものを捨ててしまうと脅されてるらしいわ。酷い話ね。」
<鷹野
「相変わらず向こうはその一点張りなのぉ?! 沙都子は助けを求められない負い目があるってのに…!」
<魅音
そこを汲み取って助けるのが児童相談所の役割じゃないのかよ…!
そう憤慨したいのは関の山だが…。
向こうは確かにその仕事をしている。緊急性の点でのみ温度差があるだけだ。
「こっちは沙都子ちゃんを早く助けてほしいと言う。向こうは沙都子ちゃんが助けを求めたらねと言う。
………何とか、歩み寄る方法はないのかな。沙都子ちゃんの助けがないまでにも、そのSOSのサインを読み取る何らかの歩み寄りはないのかな。」
<レナ
「その辺はこちらも色々と訴えました。向こうもそれを真剣に聞いてはくださりましたが……。」
<入江
「最終的な雰囲気だと、参考に留められた感じでしたね…。」
<圭一
くそ…。所長席前に臨んだ時、今日こそはと意気込んだんだが…。
……結局は昨日までと同じに煙に巻かれて平行線に終わってしまった感じだ。
だが、手応えは確実にある。
一見、堪えてないように見えるが、確実に打撃の力は相手に染みている。
三発で倒れないから降参ではない。沙都子を救ってくれるまで、ひたすらに打ち続けるのみだ…!
「さっきみんなには明日もやるよって声は掛けた。ただ、今日よりは人数が減るかもしれないね。」
<魅音
「何だか悔しいですね…。せっかくここまで来たのに、ここが私たちの限界ってわけなんですか?」
<詩音
くそ…。この程度で諦めちゃだめだ…。
今日より人数が減ったとしても、四日目の攻撃を緩めることはないんだから。
「たとえ誰も来なくなっても。レナは行くよ。沙都子ちゃんを助ける判断を下してくれるまで、レナはひとりでも挫けない。」
「それは俺もだ。俺も絶対に挫けない。ありがとな魅音。来れる人だけでも構わないぜ。窓から見てたけど、みんなの横断幕、結構プレッシャーになってるようだったぜ。」
「はははは、昨夜、夜なべして作った甲斐がありました。」
<入江
「……入江、タスキなんかもありがとうなのです。」
「いえいえ。これくらいの協力しかできないのが悔しいです。」
「……………ボクも、もっと協力しようと思いますです。……ボクは沙都子を救えないと思って諦めてきましたが、……今日、圭一と入江が所長とやり合うのを見ていて、ボクにはまだまだ頑張れることがあると思いましたです。」
俺たちが決起しても、梨花ちゃんだけはいつも遠くから眺めているだけの感じだった。
その梨花ちゃんがこんな積極的なことを言ってくれるなんて、ちょっと嬉しかった。
…でも、梨花ちゃんが頑張れることって、一体なんだろう?
「………沙都子に会えたら、………助けを求めるように、説得するつもりなのです。…それは多分、ボクにしかできないことなのです。」
誰もが思っていた。
沙都子が助けを求めてくれればすぐに解決できるのだ。
……でも、悟史の絡む、沙都子の悲しい過去に触れられず、誰も沙都子にそれを言えなかった。
沙都子。
……悟史への気持ちはわかるが、それとこれは別のことなんだ。
だから頼む、相談所に助けてくれと一言でいいから言ってくれ。
沙都子が助けてと言えば、向こうはすぐにでも飛んでくる準備ができている。
悟史の部屋を片付けるなんて脅迫に屈しず、………どうか助けを求めてくれ…。
そんなことを、悟史の顔も知らない俺に言うことなんてできない。
言えるとしたら、心に届くとしたら、この一年間を家族のように過ごした梨花ちゃんだけに違いなかった。
「…そうだね。……私も今日、それを言ったけれど、心には届かなかった。悲しいけれど、沙都子ちゃんの心に言葉を届かせられるのは、…梨花ちゃんを置いて他にはいないと思う。」
<レナ
「…………自分にその力がないのが悲しいですけど、…同感です。梨花ちゃまは無二の親友。……あんたにできなかったら、…もうどうにもならないです。」
<詩音
「沙都子ちゃんの心を解きほぐせたら…。それで全てが解決するとすら断言できるでしょう。案外、私たちがこうして押し掛けるよりもいい方法かもしれません。」
<入江
「……そんなことはありません。……レナが言ったとおりです。双方が手を伸ばさないと届かない。……だから沙都子も手を伸ばすべきだと思っただけです。そしてそれはボクも同じなのです。みんなが力を合わせないと、奇跡は起こせない。ボクだけが諦めていて力を合わせなかった。だから奇跡が起こせなかった。だからボクも力を合わせる。だから沙都子も手を掴む。…………ぁぅ。言いたいことがうまく説明できないです。…ごめんなさいです。」
梨花ちゃんは無口かと思えば、時折とても雄弁になる。
……無口な少女だからと言って、心の中が空っぽだなんてことはありえない。
無口だからこそ、表に出し切れずにいる無数の想いが詰まっているのだ。
俺たちは今後も陳情を続けていく。
そして梨花ちゃんは沙都子に説得をする。
それが最善の方法だと思ったし、それ以外の方法も今となっては思いつかなかった。
この地味な手に賭けた。
賭けたからには勝つまで勝負を降りれない。
勝手に降りれば賭けた分が全て没収されてしまう。
……きっと沙都子を救い出す。
そのためにはみんなで一層団結する他ない。
でも、今日の沙都子を見てのとおり、時間的猶予はもうほとんど残されてはいない…。
どうしたらいいんだ…。明日からは人数が減る。
これ以上のインパクトを相談所に与えることは無理だろう。
相談所側の頑な対応に打開が見えず、少しずつ胸の奥に湧き上がる焦燥感を、俺は唾と一緒に飲み込んで気付かぬふりをする他なかった…。
「もうだいぶ暗くなってきました。魅音さん、解散の号令を掛けられた方がいいでしょう。私も今夜はまた実行委員会なので、このまま直接、集会所に行った方が良さそうです。」
<入江
「わ、それを言ったら私もじゃーん!!
いけねいけね…。」
ってことは俺もだよな。
俺が欠席しても問題はなさそうだが、仮にも実行委員の1人だ。
たとえ話がさっぱりわからなくても、欠席は失礼だ。出ないわけにはいかない。
「なら、もう今日はこれで終わりにした方がいいね。相当急いで帰らないと、時間ギリギリになっちゃうよ。」
<レナ
魅音は今日集まってくれた人たちにお礼を言うと、来れる人はぜひ明日も同じ時間に来てほしいと訴える。
それで解散宣言となり、三日目の陳情はお開きとなったのだった。
■集会所(圭一目線)
「もしもし? 俺、俺、圭一。………うん。帰ってから食べるよ。だから、家に帰らずこのまま集会所に行っちゃうよ。………お父さんはもう行ってるんだね? わかったわかった、了解〜。」
家に帰らず、そのまま集会所に向うことをお袋に連絡し、電話ボックスを出た。
実際はこのまま行ってもちょっと早過ぎる。
でも、一度家に帰ってからだときっとバタバタしてしまう、そういう微妙な時間だった。
集会所に直行するのは俺と魅音、梨花ちゃんに監督だ。
詩音もオマケでついて行くという。となると、レナも自分だけ帰るなんて面白くない。
「うちのお父さんは今日、職場の飲み会で遅くなるって聞いてるから、レナも行く。
お邪魔にならないかな、かな。」
「なりはしないよ。
むしろ、若い子の関心があることがわかった方がみんな喜ぶでしょ。」
<魅音
「……平均年齢がぐんと若返りますです。」
「あははは。私も久し振りに公由のおじいちゃんに挨拶したいですし。」
<詩音
そんなわけで、俺たちは薄暗くなってくる中、そのまま古手神社の集会所に向うのだった。
集会所には灯りがついていた。
もう来ている人がいるようだった。
「こんばんは〜。皆さん、お早いですね。」
<魅音
「あんれ、魅音ちゃんに…大勢に来たねぇ! 入江の先生もこんばんは。」
「どうもこんばんは。皆さんもお早いですね。」
「はっはっはっは、他になーんもすることがねぇんだけよ。」
そんなやり取りをする内に、人が次々とやって来た。
みんなこんな早くから集まってるんだな。…自分もこれからはもう少し早く来ることにしよう。
「あれあれ、今日はハイカラな靴が多いなぁって思ったら、若い人が大勢来てるじゃないの。詩音ちゃんもお久し振り! 今日はどうしたの。」
みんなが挨拶する。
公由村長だった。
仲良しの幹部委員と一緒にぞろぞろと来たところだった。
「どうもお久し振りです。お姉たちと遊んでて、そのままの流れで遊びに来ちゃいました。」
「そうかいそうかい。よく来たねぇ。詩音ちゃんも綿流しのお祭り、今年はぜひいらっしゃいよ!」
「えぇ。今年はぜひ遊びに来ようと思います。何しろ、圭ちゃんが司会のオークションはぜひ見たいですし!」
<詩音
「わっはっは。前原くんの司会もそうだけど、これからは祭りのいろんな仕事を少しずつ若い子に移してかないといけないねぇ。……そうだそうだ、魅音ちゃんに相談したいことがあったんだ。ちょっとこっち来てくれないかな。」
「はいはい、どうしました? ひょっとして模擬店部会のYさん、まぁだ怒ってるんですかー?」
「いやぁねぇ、あっはっはっは…。」
魅音は公由村長と幹部連中に誘われ、集会所の外へ出て行った。
なるほど、一部屋しかないこの集会所では、内緒話は外でするわけだ。
「今日が木曜日だから、…お祭りまであと3日なんだね。圭一くんの準備は万端なのかな?」
「準備も何もねぇなぁ。あるのは覚悟と出たとこ勝負のアドリブだけだよ。」
「……圭一は苦し紛れな方が面白いことを言いますです。」
あははははは、とみんなが笑った。
その後は、今年のお祭りではどんなことがあるのかとか、若者にも積極的に参加をとか、若者はどんなお祭りを期待しているのかといった、世代間対話になって盛り上がった。
そんな話をしている時、魅音に肩を叩かれた。
「圭ちゃん、ちょっと話が。」
盛り上がるみんなに聞こえないよう、身振りだけで表に来るよう合図される。………何事だろう?
表に出ると、魅音と知恵先生、あと校長先生がいた。
「あ、知恵先生、校長先生、どうも。こんばんは。」
知恵先生は挨拶に応えたが、校長先生は聞こえなかったのか応えてはくれなかった。
……見れば、じっと目蓋と口を閉じ、深く考え込んでいるかのような表情だった。
その様子を見て、…みんなと談笑していた楽しい雰囲気が一気に冷める。
……何か良からぬ話があるに違いないと直感した。
「………前原くんに、ちょっとだけお話があります。」
<知恵
「あまり良くない話みたいですね…。」
「…………。」
<魅音
「明日も、みんなでまた相談所へ行くんですね?」
「えぇ。相談所が腰を上げるまで、どこまでも戦うのが仲間の務めですから。今日ほど集まるかはわかりませんが、明日もまた集まろうとみんなに言ってあります。な、だよな魅音。」
「………前原くん。集まる人たちに約束した手前もあるでしょうから、明日はとりあえず仕方がありませんが、………それを最後に、しばらく様子を見ませんか…?」
昨夜、大石さんに「忠告」を受けていたから、…何となく雰囲気が掴めていた。
「…知恵先生のそれも、…忠告ですか?」
「……………………。」
<知恵
「……これ以上、話が大きくなると、村のお偉方も見て見ぬふりができなくなる。…だからここいら辺で自重しろってことですか?」
「………前原くん。私はあなた方のしていることは正しいと思う。だからあなたは正しいと思ったことを堂々としてくれればいいと思っています。でも、………………。」
そこで言葉を詰まらせる。
知恵先生はつい先日まで俺たちの理解者だった。
二日目にはクラス全体を率いて相談所まで来てくれた。
その先生が、まったく正反対のことを言うなんて………。
軽いショックと眩暈を覚えずにはいられなかった。
「……圭ちゃん、知恵先生の名誉のために補足するよ。…知恵先生は個人的には私たちを支持してくれてる。
でも、………その、」
<魅音
「教育委員会とか、そういう辺りから、何かの圧力が掛かったってわけか。」
「……知恵先生は圧力なんかに屈する人じゃない。圭ちゃんは知恵先生がどれだけ正義心に溢れる人か知らないだろうね。かつて、この分校が分校と認められず、単なる廃校の校舎でしかなかった時、知恵先生は教育委員会を無視してやって来てくれて私たちの先生になってくれた。」
その話は多分、魅音に聞かされたんだと思う。
かつてのダム戦争の折に、この学校は廃校になった。
でも、ダム戦争を認めず廃校も認めない村人たちが、ここに登校し続けたのだ。
でも、ここは廃校だから先生はいない。……そこに駆けつけてくれたのが知恵先生だった。
やがてダム戦争に勝利し、園崎家などの村の重鎮が強力に働きかけた結果、この学校が分校と無理やり認められたのだ。
つまり、この分校は円満に成立してはいない。
渋る行政から無理やりもぎ取った学校なのだ。
知恵先生は昨日のクラス全体での陳情を引率してくれている。
それはとても勇気ある行動であると同時に、……この分校を潰そうという悪意を持つ者にとっては、都合のいい揚げ足になるのだろう。
「…結論から言うと。……知恵先生はもう、私たちには協力できないって。」
それを聞くと、知恵先生は俯いた。……こんな悲しそうな顔を見るのは初めてだった。
「…………………私だけの問題なら、この身がどうなってもいい。一人の生徒のために戦えず教師なんて名乗りたくない。………でも、私たちの学校の存在までは脅かせないのです…。」
<知恵
どこの誰が吹き込んだのかはわからない。
とにかくそいつらは、沙都子がらみでこれ以上、騒ぎを大きくするなと知恵先生に釘を刺した。
それに従わないと、学校の存続にも影響があると脅し、知恵先生ひとりでは責任が取れないような圧力をかけた…。
「……俺さ、昨日、大石さんからそんな話を聞かされてるんだ。それもまさにこの場所でさ。……これ以上、騒ぎを大きくすると、北条家を未だによく思ってない年寄り共と対立することになる、みたいなのをな。」
「……………大石にそんな話を聞かされたんだ。………うん。……そう間違った話じゃないよ。」
知恵先生だけでなく、魅音まで俯く。
…知恵先生もそうだし魅音もそうだが、俺にとって二人は、いわゆる強い人だった。
その二人が俯く様子を見ていると、何だか“どうにもならない”袋小路に押し込まれてしまったように感じ、とても嫌だった。
「…大体、お前、さっきのさっきまで俺たちと一緒に相談所に押し掛けてたじゃないかよ! そして明日も来れる人は来てくれってみんなに言ったじゃないか! その魅音と一緒に集会所にやってきて、…どこで弱気な魅音と入れ替わっちまったんだよ!!」
どこで入れ替わったんだ、と自分で言って、ひとつ思い当たる。
……さっき、村長たちが来て魅音に相談があるといって外に連れ出した…。まさか……。
「そっか…。さっき村長が魅音を外に呼んだのは、そういう話だったんだな。」
「………まぁ、色々とね。あははは…。」
魅音の曖昧な笑いが痛々しい。
……魅音が表に出ていたのは、多分、長くても10分くらいだと思う。
その10分の間にどんなことを吹き込めば、魅音の決意をここまで砕くことができるのか…。
「魅音も、知恵先生も、……俺の知ってる二人は最高に強い誇れて憧れる友人であり先生だ。……その二人がほんの一晩二晩で意見を翻すことになるような、どんな圧力があったかは、俺には想像がつかない。」
だから、俺は二人を憎まない。
むしろ、…あれほどまでに沙都子を救うために頑張ろうと誓っていたのに、その意見を曲げねばならなかった二人を……哀れむ。
「……前原くん…。……私は何て言っていいか……、」
<知恵
「いえ、知恵先生が謝ることじゃないです。」
だから俺は、少し荒々しく言った。…もうこういうのはたくさんだったのだ。
「教えてくれ。どうして村の年寄りたちは未だ北条家を嫌うんだ。もうダム戦争は終わってる。残された沙都子には何の罪もないはずだ。なのに、どうしてここまで嫌うんだ?! 誰が嫌ってる!! 誰のせいだ! そいつに俺が話をつける!!」
「…………北条家を嫌ってる人間は、実はいないのかもしれないって思うよ。」
「何? お前は何を言ってるんだ?!」
「……ダム戦争で北条家は村の仇敵だった。村全体でそういう風に盛り上げたからね。その戦犯である夫婦が死に、残された沙都子に罪がないのは誰もが薄々知っている。
………でも、北条家を許そうと誰かが号令を掛けたわけじゃないんだよ…!」
「その辺は私も補足します。」
<詩音
「…詩音!」
<圭一
詩音だけではない。
レナも梨花ちゃんもいた。
俺たちがいつまでも戻ってこないので、様子を見に来て、…話を聞いてしまったのだろう。
「北条家をスケープゴートにして結束してきたこの村は、未だ北条家に怯えているんです。………怯えているというのは、怖いという意味じゃない。…北条家と縁があると思われたら、自分も村からスケープゴートにされてしまうかもしれないと恐れていたのです。」
つまり、………北条家を助けたと思われたら、自分も北条家と一緒の扱いを受けて、村中から攻撃されるかもしれない。
…それがダム戦争が終わって今に至っても、まだ拭えずにいるというのだ。
「そ、そんなことってあるの?!
だって、学校ではみんな沙都子ちゃんと普通に接してたよ?!」
<レナ
「……もちろん、それは村のお年寄りだけの話なのです。……でもそれは、…村の深部でもあります。」
<梨花
「みんなはそれを、多分、園崎本家の婆っちゃの意思だろうと思ってるでしょ。
…でも、そういうわけじゃない。婆っちゃだってやっぱり恐れてるんだよ。自分が北条家を擁護したら、村の年寄り連中に対して求心力を失ってしまうのではないかって思ってる。」
<魅音
「……何だかややこしいぞ。つまりどういうことなんだ。俺は誰を殴りゃいいんだ!」
「つまり! 本当は誰も北条家を嫌ってなんかいないんだよ…! 誰もが、内心はもう許してもいいと思ってる。でも、それを口に出せない! 自分以外はみんな未だ北条家を敵視してると信じてる!」
<魅音
「つまり……相互に誤解しているってこと…?!」
<レナ
「そういうことです。個別に聞けばわかります。誰も沙都子のことを嫌ってなんかいないんです。両親が死んで、それがケジメになったと思っています。だから鬼婆も、その後は北条家に一切関わるなと号令を出しました。でも、北条家を許すとは号令を出せなかった。」
<詩音
「……それはきっと、……ボクのお父さんのせいもあるのです。」
「梨花ちゃんの…?! どうして………?」
<レナ
「……ボクのお父さんはずっとのんびりと構えていたので、村の人たちからリーダー失格だとずっと言われてきたのです。」
「梨花ちゃんのお父さんはハト派だったからね…。冷静に状況が読める人だったと思う。……でも、祭りのように反ダムで燃え上がった人々は、もっと過激なタカ派のリーダーを求めていたんだよ。だから婆っちゃは雛見沢をひとつのまとめるため、敢えてみんなが求めたタカ派リーダーを演じたんだよ…。」
<魅音
「つまり、…タカ派リーダーを演じてる手前、自分から北条家を許すとは言い出せないってわけか。」
「……うん。…お年寄りは主義を曲げないことを模範と思うからね…。最初に掲げた方針はなかなか変えられないんだよ…。」
<魅音
「そんなのってひどい!! だってそれじゃ、……誰もが人のせいにしながら沙都子ちゃんを許してあげてないってことだよ?! 自分が許すと、村の人に陰口を叩かれるかもしれないから許してあげられないなんて、……あんまりだよ…!!」
<レナ
「当時はね、貧しい家なんかには補償金が欲しくて立ち退きを受け容れてもいいと思ってる人が少なからずいたんだよ。……でもそれを口に出すとはばかられる状況だった。…そんな中、それを堂々と公言したのが北条家だったんだよ。それに勇気付けられて立ち退き派が派閥を作りそうな勢いになった。みんなも、今日までのお役所とのやり取りをしててわかったと思うけど、住民運動というのは一枚岩じゃないといけないんだよ。村の総意であるか否かがとても大切なこと。だから、実はダム戦争の直前。雛見沢は戦争どころか内部分裂状態だったんだよ…。」
<魅音
「……ボクのお父さんが、日和見主義だったからそうなったんだとみんなは言いました。……お父さんはダムなんてできるわけがない。きっと話し合いで平和的に解決できるという、のんびりした立場だったのです。……そして、それが立ち退き派を許す温床になったと非難されたのです。」
<梨花
「立ち退き派って、……不思議な響きだね。初めて聞くよ。村の人はよく、ダムの推進派って言わない?」
<レナ
そう言えばそうだな。
ダム戦争の時、村の仇敵となったダム推進派って言い方をするよな。
「…………立ち退き派って言うより、ダム推進派って方が悪っぽそうな感じでしょ?
立ち退き、じゃ、単に喧嘩を嫌って逃れるだけの平和的なイメージがある。でもダム推進派なら、」
<魅音
「なるほどな…。ダム推進派っていうと、何だか利敵行為というか、村をダム湖に沈めようとする裏切り者みたいなイメージになるな。」
「イメージ戦略というものです。」
監督だった。
……監督もまた、俺たちがいつまでも戻ってこないので様子を見に来たのだろう。
「当時の雛見沢には、戦争直前の全体主義のような空気が蔓延していたのです。……ハト派の古手氏では逆に分裂を招いた。なら、全体を一丸とするにはタカ派になるしかないと、当時の園崎家は考えたのです。」
<入江
「…ちょっと話が見えてきました。…つまりこういうことですね。村を反ダムでひとつにまとめるために、北条家に裏切り者のレッテルを貼って徹底攻撃して見せしめにした。それがあまりに集中的だったので、立ち退き派の人たちは恐ろしくなり宗旨替えせざるを得なかった。」
<レナ
「……北条家と親交があれば、ダム推進派なのだろうと疑われました。だから、誰もが怖がって北条家に近付かなかった。すれ違っても見て見ぬふりをし、話しかけられても無視をしたのです。」
<梨花
「もちろん、それは北条夫妻の二人を指名したもののはずなのですが、……いつの間にか、北条家というわかりやすい看板が一人歩きを始めました。その結果、……叔父叔母夫婦の家もとばっちりを受けたそうです。皮肉ですね。その時の村八分の恨みが募り、沙都子ちゃんへの虐めの温床となっているのですから。」
<入江
自分たちはダムに反対しているわけでもないのに、沙都子の家が騒ぎの火種となったばかりに、自分の家までとばっちりを受けて。
……それで、夫婦が事故死した後、子どもを二人も押し付けられて。
………なるほどな。……ようやく全てがわかってきたぜ…。
「ダム戦争は終わった上に、沙都子ちゃんの両親は亡くなった。ならそういう変な遺恨は全部水に流そうって、言い出した園崎家がちゃんと終了宣言を出すべきじゃないのかな。」
<レナ
「そこで最初の話に戻るんです。北条家に温情的な宣言を出したら、園崎家頭首は、ダム戦争当時の幹部級、つまり町会のお偉方への求心力を失うのではないかと恐れたんです。」
<詩音
「…舐められたらおしまいってのは、どうやらお役所だけじゃなく、園崎家もそうみたいだな。」
「……これは、私が直接婆っちゃに聞いたから間違いない。婆っちゃは、北条家は放っておけとの号令を出すまでが精一杯。そして、自分が死んで頭首が代わったら、その就任の時に、ダム戦争の完全終了宣言を出して、北条家に対する遺恨を完全に流そうと、そういう話になってるんだよ。…これはお母さんも知ってる。」
<魅音
「その話は、私もお母さんに聞いてます。鬼婆さまの世間体とかいうやつですね。」
<詩音
「話をちょいと戻すぜ。魅音と知恵先生にさっき脅しをかけたのは村長たち、町会のお偉方連中だったと思う。その連中はどうなんだ、内心。まだ北条家を恨んでるのか?」
「……それが笑っちゃうんです。実は、公由のおじいちゃんだって、誰だって、もう北条家を恨んでなんかないってんです。」
<詩音
「つまり、悲しい話なんですが、……彼らにとってまだダム戦争は尾を引いているのです。北条家と親交があったら、後ろ指を差されるかもしれないと未だに恐れているのです。」
<監督
「でもでも、梨花ちゃんとか監督は普通に沙都子ちゃんと接してるじゃないですか!」
<レナ
「私は若く、そもそも町会にそれほどのしがらみを持ちませんから。そして梨花ちゃんは特別です。………なぜなら彼女は、オヤシロさまの生まれ変わりだから。」
「オヤシロさまは、人と鬼の相容れぬ存在を融和させて住まわせた伝説を持つ。だからつまり、」
<魅音
「……村に居られない身である北条家の人間を引き取っても、納得されたというわけか。」
聞けば聞くほど、……この村における沙都子がどれほど肩身が狭かったかがわかる。
沙都子が日々をとても元気に過ごしていて、部活では大はしゃぎをしている。
だから、俺はそれが沙都子の生活の全てだと思っていた。
でも、……沙都子がひとりで村を歩く時にはどうだったかなんて、想像もつかない。
きっと沙都子は、どことなくよそよそしい雰囲気などへっちゃらだと、強気に買い物に出たりしてただろう。
そして、たまに感じる冷たい素振りに傷付けられながらも、健気に生きてきたのだ。
でも、そんなことは今の今まで気付かなかった。
ダム戦争の最中にはそういうこともあったかもしれないと思っていたが、…今もそうだとは夢にも思わなかった。
「何て悲しい話…。そして、何て馬鹿馬鹿しい話。」
<レナ
「レナもそう思うか。俺もまったく同じに思ったぜ。」
「誰もが沙都子ちゃんのことを何とも思ってないのに、関わると何か良くないことがあると思ってる! 悪いのは誰なの?! 誰でもないの? そう思わせる風土や世間体が悪いの?!」
「誰も悪くない。……なのに、他の誰かを気にして、自分も許せない、…か。」
「…うん。そういう空気は、よい方向に流れてる時はいいんだよ。思いやりがあって連帯感のあるいいご近所付き合いを生み出す。
でも、……北条家の件は正反対。そういう思い込みがカビのように蔓延しちゃって、どうにもならない。…腐った畳はどうすると思う? 捨てて新しくするしかないんだよ…。」
<魅音
「じゃあ、……村長たちは自分たちが沙都子を気に入らないから圧力をかけてるんじゃなくて。……俺たちのやっていることを黙認すると、“村の誰か”という居もしない存在に後ろ指を差されるかもしれないと怯えているから黙認できないと、そういうわけなんだな。」
「……私は、その居もしない“誰か”を、とりあえず『オヤシロさまの祟り』って呼んでます。だって、誰もがその居ない“誰か”に気遣ってる。でもその“誰か”は存在しない、人じゃない。」
<詩音
詩音の言うのは少しだけ面白い例えだと思った。
誰もが自分以外の誰かという世間体に怯えて規律に従ってる。
しかもそれは、一見、規律を生み出した側の御三家であっても同じなのだ。
村中の誰もが、居もしない誰かに怯え、規律を守ってる。
何の恨みもない沙都子を許すと、居もしない誰かに陰口を叩かれるのではないかと怯えて、未だダム戦争の遺恨を“守ってる”。
居もしない誰かって何だ。
それを「オヤシロさまの祟り」としか呼びようがない。
村を滅ぼすダムに賛成した北条家にオヤシロさまが祟りを下した。
それが未だに残っていて、沙都子の生活に影を落としているのだ。
「……オヤシロさまは沙都子を祟ったりしないのですよ…。むしろ可愛いとすら思っていますです。……そんなことで、オヤシロさまの名前を使わないであげてほしいのです…。」
梨花ちゃんが悲しそうに言うと、みんなもうな垂れた。
オヤシロさまの巫女で、生まれ変わりでもある梨花ちゃんとしては、もっともな意見だ。
そもそもこの村には祟りなんてものはない。
どいつもこいつも勝手に思い込んでいるだけなんだ。
「………ってことはだ。つまり、一番悪ぃのは、相談所じゃなくて。どうやらこの村丸ごとってことになりそうだな。」
「うん。私もそう思った。私もついさっきまでは相談所に何度も陳情をすればきっと聞き入れてもらえると思ってたけど、そんなのは何の解決にもならないって今わかった。」
「カビた畳か。上だけ拭いたって無駄だよな。…俺たちが相談所に訴えて、仮に沙都子が救われてもそいつは一時しのぎにしかならなかったらしい。……どうやら、畳の根元から腐ったヤツを根こそぎ引きずり出してやらなきゃならねぇようだな。」
「……その畳の根元って、何だか私たちのすっごくすぐ近くにみんな集まってるように思うね。」
「近ぇな。多分、20m以内にほとんど揃ってるんじゃねぇのか。」
「ちょ、ちょっと圭ちゃん、レナも! 何を始めるつもりなの…?!」
「魅音。お前は確かに村の深部の人間だ。沙都子のことを仲間だと思っていても、踏み出せない最後の一歩ってやつがある。……この村としがらみのある魅音と知恵先生が、圧力に屈すほかなかったのがその証拠だ。……だがな、なぁんのしがらみもねえ俺はな、そんなのに屈する必要が何もねぇんだよ…!」
「…………前原さん。……まさか、……この場で……?」
<監督
「俺はやるぜ。腐った畳なんか、この俺がブチ抜いてやろうじゃねぇか…。何だ、レナもやるか?」
「うん。私はこう見えても容赦ないよ?」
「へへ、だよな。でもレナの場合は少し手加減した方がいいな。…お前、本気でやるとなったら、学校ひとつを爆破くらいはする気がするぜ。」
「あははは、圭一くんだって、やると決めたら、金属バットで闇討ちくらいはしそうな気がするな。」
「あっはっはっはっは。お互い、敵には回したくねぇな。んじゃ、行くか。」
「うん。」
「魅音の立場は充分わかってるぜ。だから、魅音は立場上、俺と敵対してくれて全然OKだ。ただし、ヤバイと感じたら逃げとけよ。今日は部活以上にヤバイぜ。本気のもうひとつ上の本気で行くからな…!」
「……………………。」
魅音は御三家の頭首を継ぐ者として、安易に返事はできないようだったが、鋭い目つきで俺がやろうとしてくれることを認めてくれた。
「………わかった。…圭ちゃんが捨て身の覚悟で行くというなら、…私もやるよ。」
「へへ、そうでなくっちゃな! 見てろ、ガツンと行ってやるからな!」
「詩ぃちゃんはどうする?」
「私は幸い、失うものなんかありませんので。協力します。」
「知恵先生と校長先生の立場はわかってます。ですが今日は学校じゃない。だからどうか、俺たちのやることを見過ごしてください。」
「……そうですね。私は今は教師ではありません。
私も校長先生も、……あなたたちに意思を託します!」
「私は協力させていただきます。村を出てけと言われたら、診療所を畳むくらいの覚悟はありますよ。
それに、未来のメイドさんを守るためにご主人様が一肌脱ぐのは当然のことです!」
<入江
おおおおぉぉおぉ、気力がみなぎってくるのを感じるぜ…。
クールになれなんて自分を自制したりしない。むしろ逆だぜ、燃やし尽くしてやろうぜ前原圭一ッ!!
ふと振り返ると、いつの間にか大石さんとうちの親父が来ていた。
いつから来ていたのかはわからない。
「……んっふっふっふ。前原さん、何だか燃え上がっちゃってるみたいですねぇ。」
「大石さん。昨日教えてくれたじゃないですか。男には降りられない戦いがあるって。危険牌を強打してでも貫かなくちゃならないことってのがある!!」
「圭一。」
「お父さん、止めないでくれよ。確かにご近所付き合いも大事だけどな、…でも、俺は仲間のために、」
「父さんは止めんぞ。」
「へ?!」
親父が白い歯を見せてニヤリと笑った。
こんな笑いを俺に向けてくれたのは初めてだった。
「お前が今、大石さんに言ったとおりだ。男には折れちゃいかん時がある。その時は、男の人生のどこかにあるものなんだ。圭一にとってのその時が今だというなら、父さんは何も言わん!」
「……はぅ…、圭一くんのお父さんカッコイイね。」
「当り前だろ、俺の親父だぜ?! 俺の半分程度はカッコイイ。」
「…私は雛見沢の部外者です。だからどちらの味方もできませんが、……前原さんの立ち回り、拝見させていただきますよ。
乗るか反るかの大勝負、どうせ切るならど真ん中!ってのがおやっさんの口癖でしたよ。
危険牌を切ると覚悟を決めたら、変に妥協しちゃいけない。降りるならベタ降り、勝負ならど真ん中とはっきりした方がいい。」
「麻雀は得点が倍々計算だからなぁ。変に弱気に二三度アガっても、一度の大きなアガリにすぐ引っくり返されちゃう。勝負手の時はとことん強気がいいんだ。」
「おや、前原さんのお父さんも麻雀をやられますか…!」
親父と大石さんという異色の組み合わせが麻雀談義に花を咲かせていた。
へへへへ、…くそ、何だか面白くなってきたじゃねえか…!
その時、集会所の入口に委員の誰かが顔を出して、みんな中に入るように呼び掛けた。
もう打ち合わせの始まる時間らしい。
「よっしゃ。行こうぜ。ようやく土俵に上がれるって感じだぜ。」
「相談所の時は独り相撲のように感じていたのは、やっぱり正しかったんだね。」
「あぁ。本当の土俵はこっちだったんだ。俺たちは三日間、全然的違いな相手と戦っていたんだ。……行こうぜ!」
そんな俺の裾が引っ張られる。…梨花ちゃんだった。
「……圭一……。」
「梨花ちゃんは沙都子の一番の友人であると同時に、御三家のひとりでもある。だから、俺とレナがやることを黙って見ててくれるだけでいい。だが、もし沙都子を救うために少しでも力を貸してくれるなら、……応援してくれな。」
「…………あの、石頭どもを打ち破るというの…?」
<梨花
「打ち破るさ、楽々な。前に言ったぜ? こんなの金魚すくいの網より薄いぜ!! 楽勝でブチ抜いてやる!!」
■梨花目線
「………あぅあぅ…、一体どうなってしまうのでしょう…。」
「村の風土を指して『オヤシロさまの祟り』か。詩音も面白い例えをするわね。………圭一には打ち破れるの? …『オヤシロさまの祟り』を。」
打ち破れる。圭一は何もかも打ち破る力を秘めてる。
そしてそれは圭一ひとりの力じゃない。
全ての力を結集したから、圭一にその力が代表として宿っただけだ。
この力強さに比べたら、6がいくつか続く幸運なんて大したものじゃない。
「……運じゃない。実力で運命を打ち破る…。」
みんなが圭一の後に続き集会所に次々入っていく。…私もそれに続いた。
私もやってやる。圭一たちのようにやってやる。
それで駄目ならこれが限界だ。古手梨花の限界を、試してやる…!
■幕間
■TIPS7 公務員の心構え
「そうですか。裏に、町会も、その鬼ヶ淵死守同盟とかいう恫喝団体もいないとわかれば、これで安心でしょう。北条沙都子さんの件は、特別扱いせずに慎重に対応してください。」
「はい。雛見沢の総意でないとわかればこちらも落ち着いて処理ができます。」
「しかし、私は好きになれませんね。裏に誰がいようがいなかろうが、常に公平な対応をするのが公務員です。恫喝がまかり通るようなことがあったという先例を残したから、雛見沢は特別扱いだという妙なルールができてしまったのではないですか?」
「……まぁ、確かに所長の仰るとおりだとは思いますが、……一応ですね、その…。」
「わざわざ自治の係長が、連合町会が背景にいないことを確認してくれたんですから、うちの職員も厳粛に事務を進めてください。雛見沢だからどうすべきかとお伺いを立てること自体がすでに公務員の心構えとして問題です。係長も、その辺をよく職員に教えてくれなければ困ります。」
「はい、申し訳ございません…。とにかく、裏に村がいないとわかれば安心です。」
「裏に村がいるとわかっても、対応を焦るべきではありません。何があろうとも! 北条沙都子さんの件は慎重に対応してください。くれぐれも異例の措置は取らないよう、担当に念を押しておいてくださいよ。」
■8日目(というかこの日数、もはや実際の日数と関係ないねぇ; あとで直すか…)
「すみません、議事の前にお話が。」
俺の挙手が、沙都子がらみのことであると村長たちはピンと来たようだった。
…伊達に年はくってないらしい。
「あー、圭一くん。今日は最終確認だから、私的な話は後にしてもらえるかい。」
だが俺はそんなことに構わず続ける。
「魅音や知恵先生を経由しないで、直接、俺に言えば済むことでしょうが。遠回しなのは好きじゃない。直接やろうじゃないですか。」
みんながシンと静まり返る。
北条家がらみの話は誰もが関わりたくないからだ。
「ここにいる誰もが、北条沙都子が今、叔父に監禁に近い状態におかれ、辛い目にあっていることを知っている。まぁ、積極的に助けないのはいいです。面倒臭い人も多いだろうし。………でも俺らは違う。沙都子は仲間だ。仲間を救うために全てを投げ出す覚悟で戦ってる。それを、」
「圭一くん。その話はもちろん知ってるよ。私らが言いたいのは、もう充分に相談所に強く言っただろうってことなんだ…!」
「強く言うと、何か問題があるんですか?」
「……そりゃあるよ! あるに決まってんだろ!!」
他の誰かが厳しい口調で言う。
…へへ、ようやく俺の土俵に乗ってきたみたいだぜ。
「じゃあ何ですか、その問題ってヤツを、お子様の俺にもわかるように説明してくれませんか。」
「あんなぁ、ダム戦争みたいな真似事はもうとっくんの昔ん、終わってるんね! もう徒党、組んでお役所に押し掛ける時代じゃないないんよ!」
案の定、沙都子のサの字も出てきやしない理由だ。まったく理由になってない。
「あんたらの時代の話なんか聞いてねえし、ダム戦争なんて関係ねえ。こいつは俺の戦争だ!! それに参戦しようってからには、俺の敵か味方かはっきりしてもらおうじゃねぇか。どっちなんだてめえら!! 俺の味方か、それとも敵なのか!!」
ざわざわざわざわ!! 何なんだこの口の聞き方は! 最近の若いモンは!!
場が一気に荒れて火薬の臭いが充満し始める。
だが、レナや監督、詩音などの俺の味方たちは厳しい目つきのまま、場に流されることはない。
彼らの強い眼差しが、今の俺には目に見える百万の応援に匹敵した。
俺はみんなを代表して怒鳴ってるだけだ。俺一人の戦いじゃない。みんなの戦いだ!
だから、年寄り連中が敵意の目を俺に集中させても全然堪えなかった。
「圭一くん。敵とか味方とかじゃないんだよ。確かに村はダム戦争の時にお役所と争った。そして君の言うとおりダム戦争はもう関係ない。あれは終わった過去のことだ。」
「あんたらの都合なんか聞いてないです。俺と俺の仲間、そして沙都子の話をしてます。ダム戦争の話なんて一言も聞いてない。あんた、耳鼻科行った方がいいぜ?」
「お前…、年長者に対して何て口の聞き方だ!! 人生の先輩を何だと心得てるんだ!! 親の顔が見てみたいな!!」
それを聞き、うちの親父が申し訳なさそうに苦笑いした。
「……失礼。こんな顔で恐縮です。」
「あんた親だろ?! どういう育て方をしてるんだ?!」
「はははは…。私は親としては多分、失格の部類に入ります。……圭一を真っ直ぐに育てて来れたかどうか、胸を張れるかどうかはわかりません。」
苦笑いしながら遠慮がちの言葉が、そこで途切れ、形相がギロリと変わる。
「ただ、前原圭一というひとりの男が、どうしても腑に落ちないことがあると言ってこれだけの面々を相手に訴えている。そこには親子関係などない。ただ一人の男としての主張があるのみです。私の顔がどうだろうとあまり関係はないかと思いますが?」
まさかこう言い返されるとは思わず、年寄り連中は唖然呆然だ。
…その沈黙を大石さんが笑い声で破った。
「あなた、充分に胸を張ってるじゃあないですか。んっふっふっふっふ…!」
「…えっと、…すみません竜宮レナです。質問していいですか?
ダム戦争はもう終わってるから、私たちが相談所に訴えちゃいけないという論法がわかりません。私たちにもわかるように説明してもらえますか?」
<レナ
レナが第三者っぽく冷静に言う。
…だが、目の奥にある怒りの炎は隠せていない。
それは多分、俺にしか気付いていないのだろう。
他の年寄り連中には、喧嘩腰の俺よりも組みやすい相手に見えたらしかった。
「礼奈ちゃん。ダム戦争が終われば、村はお役所と戦う理由は何にもねぇんだ。そりゃあ戦争中は色々と喧嘩をした。でも、戦争が終わればそれは水に流せる話なんだ。で、村はお役所と仲直りをしたんだよ。雛見沢は国じゃない。日本の中にあるちっぽけな村だ。お役所の世話になりながらやっていかなくちゃならない。だから、村とお役所は仲良くいかなくちゃならねぇんだ。」
「…そうですね。お役所と仲良くするのは大切なことだと思います。」
<レナ
さすがに礼奈ちゃんはちゃんと落ち着いた話ができるな。それに比べて前原の親子は!
そんなざわめきが聞こえる。
「そうだね。そんなわけで、雛見沢もお役所との関係を修復しようと、ダム戦争終結後は協調路線で進めているというわけ。」
<魅音
そのとおり、魅音ちゃんの言うとおり!
と年寄りから声が挙がる。だが、そのあとをすぐに詩音が引き継いだ。
「そんなこんなで、今やお役所と村の町会はべったりです。年に一度の親睦会である町会の温泉旅行にはお役所から世話人が二人も同行します。私的同行ということになってますが、彼らは出張費をつけて参加してますから立派な公務です。もちろん旅行代金のほとんどは補助金を交付されてますし。他にもいっぱいですよね?
新年会、忘年会の付け届け、町会のあらゆる催しに対する莫大な援助金。綿流しだってそうですよ、お役所の補助金助成は数百万。つまり綿流し開催にかかる経費のほとんどはお役所がお金を出してるようなものです。ダム戦争後、綿流しのお祭りとその後の打ち上げは立派に派手になっていく一方。その裏側にはお役所からの莫大な補助金があったからなわけです。だから、お役所に嫌われたら、綿流しは来年にも幕を閉じるかもしれない。だから今の雛見沢は、お役所にシッポを振ってるんですよね、おじいちゃん?」
<詩音
「し、…詩音ちゃん……、お前、何でそんなことまで知ってるんだ…?!」
「あはは、たまーに、私がお姉だったりしてますので。」
「…何だ何だ。黙って聞いてりゃ妙な話じゃねぇかよ。俺たちのやってることにケチをつける理由ってヤツがさっぱり見えてこねぇぞ。レナ、ちょいとまとめてくれねぇか? つまり何だってんだ。」
「うん。つまり要約すると、お役所の人と癒着してるからご機嫌を損ねられないってことなんだろうね。」
レナが涼しそうな顔をしてとんでもないことをサラっと言うもんだから、集会所の中は一気に騒然となった。
痛いところを突かれたと呻く人も居れば、何も知らないくせにと憤る人、若年者にキツイことを言われること自体をプライドが許さない人、様々だ。
それらを全部重ね合わせると、ざわざわどやどやという喧騒になる。
「静かに!
静かにぃッ!!!」
公由村長が怒鳴るとようやく静かになった。
この頃には村長の顔はなかなか凄い形相に変わっていた。
「圭一くん、お役所と町会の付き合い方はまったく別の問題。議題のすり替えもいいとこだよ。そんなことを言ってごちゃごちゃにしても意味がない!! いいかい、雛見沢はダム戦争の時に大きな勝利を勝ち取ったけど、同時に、雛見沢はトラブルになりやすいというマイナスイメージも強く残したんだ。当時はそういうマイナスイメージを逆手に取る戦略を取っていたせいもある。そしてそれはダム戦争が終わった今となっては雛見沢にとって大きなマイナスなんだ。そういうイメージは払拭していかないといけない。じゃないと、村の未来にとって大きな痛手になっていく長期展望に基づいてるんだよ。わかるかい?! 敵とか味方とか、そういう喧嘩の次元の問題じゃないんだよ!」
「つまりさ。圭ちゃんたちがみんなで盛り上がると、せっかくいい感じになってきた友好的ムードが台無しになってしまうって言ってるわけだね。」
<魅音
それを聞いて、年寄り連中がそうだそうだと頷く。
連中は魅音が自分たちの味方だと思っているようだ。
「魅ぃちゃん。友好的ムードって何? 村の子が虐待を受けているのを訴えちゃいけないってことなの?」
「平たく言うと、相談所はしっかり自分たちのペースでがんばってます。だから横槍は勘弁してください。
お役所は立場上、横槍をやめろと強く言えない。だから普段、たくさん助成金を恵んであげてるんだから、そちらの内部で何とかしてくださいと、そういう話です。」
<詩音
「なんだ、つまり雛見沢の町会ってのは役所の犬ってわけだな?」
「おン前、言葉を選らばんかい!! なんちゅう口に聞き方なんね!!!」
「お前らこそよく言葉を選んで答えろ!! まさかとは思うが、…沙都子が仇敵北条家の娘だからとか、そういうことじゃねぇよな?」
「そんなわけはないよ! 沙都子ちゃんがどうこうと言ってるわけじゃない! もっと大局的な見地から、君の陳情を少しこの辺で控えた方がいいんじゃないかって言ってるんだ。相談所だって無視してるわけじゃない。連日大勢で押し掛けた君の熱意に最大限の配慮を払ってくれてるんだぞ?! 圭一くんの伝えたいことはもう充分に伝わっている。これ以上は何も生み出さない、やり過ぎだとみんな言ってるんだよ…!」
「……圭一くん。私、すっごく面白い読み物を見つけたよ。
ほら、あそこに額に入ってる筆字の。」
レナが壁の上を指差す。みんながそれに注目した。
集会所の中には壁いっぱいに額縁やら何やらが飾られている。
そのほとんどはダム戦争時の記念のもので、鬼ヶ淵死守同盟を讃える内容だ。
レナが指差したものは、他でもない公由村長が、ダム戦争の当時、死守同盟会長のときに自ら書いたものだ。
「特に真ん中が面白いの。……平和的かつ民主的な話し合いを求めるも、政府とその傀儡である電源会社総裁XXXXXはこれを拒否。筆舌に尽くし難い極悪非道を以て、村民の民主的運動と雛見沢の郷土を踏みにじったのである。」
「……みー。公由がダム戦争の戦勝記念に書いたものなのです。記念碑にも書いてありますですよ。」
レナがどういう意味で引き合いに出したか全員がわかっていた。
ぐっと苦い唾を飲み込むような声が沸きあがる。
「平和的な話し合いを求めるも、政府とのその傀儡である電源会社総裁…。って、何だこりゃ。その電源会社ってとこ、雛見沢町会の間違いじゃねえのか? しかしカイライって難しい単語だよな、ここにいる連中も意味がわかってねぇんじゃないか? 誰か説明してやってくれよ。」
「傀儡は本来、操り人形のことです。転じて、形式上は独立した団体でありながら、ある特定の団体の言いなりになっている状態を指す言葉として使われます。」
<知恵
「あれ、何だか雛見沢にぴったりっぽい言葉ですよねお姉。」
「……あははは、うん、確かにね。」
「なぁに言っんじゃあ!!
そんなので傀儡なんて言われたら、協調も思いやりもなくなっちまうじゃないのよ!! そういうのは傀儡なんて言わん、屁理屈っちゅうんよ!!」
「お前らがさっき返事したぞ。俺らにやめろって言うのは、沙都子とは関係ない、村の問題だってさっきはっきり返事したぞ。村の問題ってのは村と役所の友好的な関係のことだともさっき言ったよな。今さら記憶にねえとか言うんじゃねえぞ!! 確かに言った!! なぁ?!」
「うん、聞いた。沙都子ちゃんと無関係な理由だと言った。」
「魅音。確か、雛見沢には一人のために全体で団結しようっていうのがあるんじゃなかったのか?」
「……一人に石を投げられたら二人で石を投げ返せ。二人に石を投げられたら、四人で石を。八人に棒で追われたら、十六人で追い返せ。そして千人が敵ならば村全てで立ち向かえ。一人が受けた虐めは全員が受けたものと思え。一人の村人のために全員が結束せよ。それこそ磐石な死守同盟の結束なり。同盟の結束は岩より硬く、水を通さないダムすらも通さない。
……終わりの方の部分は当時の同盟会長さんが作った部分だったと思います。」
<魅音
「………………………むぅぅ…。」
鬼ヶ淵死守同盟の会長とはすなわち村長のことだ。
腕を組み、唸りだしてしまう。
言いたいことは山ほどあるが言い返せない。そんな感じだった。
「俺はここに引っ越してきてから、魅音や詩音なんかに、ダム戦争の時の勇ましい話をたくさん聞かされます。でも、それはダム戦争の時から始まった5年程度の付け焼刃の団結じゃない。戦争が終わってからの辛い時代を乗り越えるために育まれた40年以上にも渡る熱い伝統なんです!! だから俺は、その時代から団結を育んできた人たちが凄えと思うし、尊敬できると思う! そして何より、ここの額縁に飾られている死守同盟の男たちの勇ましさが素晴らしいと思う!!
当時は雛見沢をダム湖に沈めようと政府はあらゆる手で嫌がらせをしてきた。でもそれを全部跳ね返した!! そんな男たちが戦ったから、今の雛見沢がある! いなかったら今頃ここは湖底だ!! だから、こうして自然の美しさと村人の団結を誇れる村が今にあることを感謝したい! そしてそんな雛見沢に住めることを誇りにしたい!!」
「そのとおりだ!」
誰かが叫んだ。
俺の仲間ではない。
年寄り連中の誰かだった。
「だから俺は、俺たちは!! そんな雛見沢に住んでいるからこそ、それを見習わずにはいられないんです!! 一人に石を投げられたら二人で石を投げ返せ。二人に石を投げられたら、四人で石を。八人に棒で追われたら、十六人で追い返せ。そして千人が敵ならば村全てで立ち向かえ。一人が受けた虐めは全員が受けたものと思え。一人の村人のために全員が結束せよ。それこそ磐石な死守同盟の結束なり!! 北条沙都子は村の一員だ!!
そして、あの叔父の野郎がどんな酷いヤツかは俺よりみんなの方がよく知っているはずだ。のんびりと一ヶ月以上も様子も見てから保護なんてのじゃ間に合わないんだ!! 今すぐにも叔父の許から救い出さなくてはならない!! だから死守同盟の力をもう一度貸してほしい! 解散した死守同盟の魂をもう一度結集させてほしい!!!」
レナや魅音が拍手すると、それはすぐに全体に広がった。
さっきまで俺と敵対していた年寄りたちの顔には尊厳を取り戻したような笑みがあった。
だがその笑みはすぐに失われ、皆、ざわざわと隣席の人と話し始める。
「確かに圭一くんの言うとおりだ。役所の言いなりなんて雛見沢らしくないぞ!」
「でもダム戦争はもう終わったんだぞ。お役所にも色々世話になってるし…。」
「知らんかったよ。うちの町会はそんなに役所に便宜を図ってらっとんかぁ。」
「いや…、そもそも私は個人的には前原の坊主の言うのは正しいと思うんです。」
「俺は町会のやり方は好かんな。圭一くんは正しい。役所の言いなりで圧力をかけるなんて、見っとも無い!」
「村長。……前原くんに協力できんまでにも、自粛を求めるのはわしらの本質ではない気がするなぁ。」
「……うーーーーーーーーん。」
「俺は前原の坊主が言うのは気に入らん! 年長者への礼儀を欠きすぎてる!!」
「大体お前、そんな口の聞き方でまかり通ると思っとんか!!」
3人くらいの凶暴そうな顔をした年寄り連中が俺に詰め寄り、口々に怒鳴った。
だが俺はそれらまとめてよりでかい声で言い返してやる。
「口の聞き方の問題じゃない。魂の問題だッ!! 村の一員のために立ち上がれない腰抜けは引っ込んでろ!!」
「な、何を言うか、生意気だ!!」
ボコン!
やたらと体格のいい爺さんに頭を叩かれる。
「何をしやがる!!!」
ボコン!
同じように叩き返してやると、取っ組み合いになり場が騒然とした。
レナがやって来る。
きっと止めに来たのだろうと思ったら、何とレナは躊躇なく、爺さんの頭を叩いた。
「なッ?! 何をするんか?!」
「女だと思って手加減されると思うな!!!」
レナの頭もボコンと叩かれる。
だがレナは全然へこたれず毅然とした表情で言い返した。
「一人が叩かれたら二人で叩き返そう。それが雛見沢の魂じゃなかったっけ?!」
「そしてレナさんを叩くというなら、こちらは4人でお相手しなくてはなりませんね。私も立ちましょう。」
<入江
「圭一。父さんも立つぞ! お前の言うのは正しい。それを暴力で潰そうというなら、父さんはお前の敵に容赦をしない!」
「……圭一の前に立ち塞がっているのは3人のようなのです。ならこちらは6人立たないといけませんです。」
「り、梨花ちゃま…!!」
「梨花ちゃまにしては威勢がいいじゃないですか。私も付き合いますよ!」
<詩音
「……私も、前原くんに味方させていただきます。」
知恵先生がおずおずと立ち上がる。
知恵先生は一度は圧力に屈したはずだった。
「大局的な見地という言葉に、私は生徒を見殺しにするところでした。……生徒のためにはこの身など惜しくないと思っていながら、私は自分の微妙な立場を優先してしまった。
自分を恥じます!」
そう言いながら、知恵先生は鋭い目つきで村長を見る。
……ついさっき、自分に圧力を掛けた本人への明白な返答だった。
「……………知恵先生……。」
「確かに教育者として行き過ぎた行動もあったかと思います。ですが、沙都子ちゃんを救おうとする前原くんのやっていることはとても正しいことです。私は教育者として、正しい行いは正しいと認めてあげなくてはならない。だから、前原くんにもうやめてくださいなんて言えないんです!」
「先生のお墨付きまでもらえりゃもう誰にもはばかられることはねえ! さて、もう一度全員に聞くぜ。お役所との馴れ合いと村の一員を助けるのと、どっちが大事がはっきりとさせろ!!」
「……聞くまでもないよ圭ちゃん。ここはただの集会所じゃない。元は鬼ヶ淵死守同盟の本部事務所だった。そしてここにいるのは同盟当時の幹部ばかり。……死守同盟の魂を忘れた人間が、この元事務所の敷居を跨げるわけがない。」
「……………魅音ちゃん……。」
「村長。圭ちゃんのやっていることは雛見沢の魂を体現してる。あらゆる逆風に挫けず、戦おうとする姿勢は鬼ヶ淵死守同盟の心意気そのもの。私は、町会名で彼の陳情に自粛を求めるのは、恥ずかしい真似だと思う。それでもなお自粛を求めるなら。
……私は今この場で、死守同盟の記念写真の額縁を全て割り、同盟旗を焼き捨てる!」
「………………んんん…。」
村長が唸り声をあげていると、幹部級から威勢のいい声が出始めた。
「わしは前原くんを支持するぞ。口は悪いが魂は間違ってない!」
「同感! 役所と対等に渡り合うならともかく、馴れ合いなんて恥ずかしいぞまったく!」
「圭一くん、気にすることなんかないぞ、やれやれ!! 圧力になんか屈するな!」
誰かが力強く手を叩くと、すぐに大きな拍手が集会所に溢れた。
「前原くん、せっかくだから、状況がどんな感じが説明してくれ。」
「はい。沙都子が叔父に誘拐同然に連れ戻された初日にすぐ知恵先生が北条家を訪問。ですが、面会を拒絶され、明らかに異常な状況となりました。知恵先生は生徒の安全第一ですぐに相談所へ連絡しました。」
「その晩、相談所の人間が訪問して聞き取りをしましたが、虐待の事実なし、当分は様子見との判断が出ました。慎重な対応だとは思いますが、あの叔父の暴力性を相談所は適切に認識しているとは思えません。そのため、圭ちゃんを代表に翌日、5名で相談所に行き、緊急性と即時対応を求めました。」
<魅音
「でも、慎重に様子を見たいと言って、取り合ってもらえませんでした。
それで私たちは5人ではアピールが足りなかったと思い、翌日にはクラス全体の20人以上で押し掛けました。」
<レナ
「よくクラス全部をまとめたな…!」
「歴史に残る圭ちゃんの名演説がありました。仲間を救え、見殺しにするな!って。もうみんな盛り上がっちゃって! 圭ちゃんがダム戦争の時に居たら、運動はもっと盛り上がって、もう1年は早くダムを頓挫できたかもです。」
<詩音
「はっはっは、確かに前原の坊主の威勢の良さならわかるな!」
「でも二日目も、それほど熱心に聞いてはもらえませんでした。ほとんど効果なし。慎重に対応するの一点張りです。」
<圭一
「いや圭一くん。効果はかなりあったんだぞ。だってそれで役所はびびって自治を経由して町会に様子を伺ってきたんだもんな。」
「圧力が掛かり始めたってことは、圭一くんの圧力に向こうが根を上げ始めた証拠でもあるからな。効果は出てるぞ!」
そうか、そういう見方もあるんだな。
俺のことを屁とも思ってなかったら圧力を掛けてなんか来ない!
「それで三日目の今日は友達や知り合いにみんな声を掛けて60人の規模で押し掛けました。今度は相談所の所長が直接話を聞いてくれました。耳を傾けてくれたとは思うのですが、対応をどうするかは即答を避けられました。」
<圭一
「圭一くん、実はな。その時には町会と話がついていて、町会側は前原くんに自粛を要請することになってたんだ。相談所側は、裏に村の後ろ盾がないことを確認して、君たちの陳情は聞き流すってことになってたはずだ。」
「……そうでしょうね。相談所長さんの受け答えからそんな雰囲気を感じてました。裏ですでに決着がついているからこの場だけやり過ごそうという雰囲気が少し見え隠れしていましたので。」
<入江
「明日ももちろん訴えに行くつもりだけど……、…話を聞いてもらえるのかな。だって、相談所は村の内部で話をつけてもらえたものと思ってるから、私たちを相手にしないだろうね…。」
<レナ
「ですね。町会は自分たちの味方だと思っていますから。」
<詩音
「……町会は、圭一を支持することを明確にしてくれないと困りますです。」
「ですね。そうでないと、今後の陳情が門前払いにされてしまいます。」
<入江
「いいじゃないか村長! 前原くんのやってることに町会は関与しないってはっきり言ってやれ!」
「…………うううんん……。そりゃあなぁ、私も個人的には圭一くんに文句をつけたくはないんだが…。……町会としての立場だと、……微妙だなぁ……。たとえ中立の宣言にしたって、現在の状況では圭一くんに肩入れするのと同じ状況だ。それは支持表明と変らない。……だがな、町会の総意を諮らないとな…。私ひとりじゃ決められん…。……役員全員の一致を取り付けんとな…。」
「今日のメンバーで役員の大方は揃ってますよ、おじいちゃん。」
<詩音
「……とは言ってもなぁ……。ううん…………。」
「もうこの際、腹を割りましょう。…北条家の娘に肩入れをすることを気に入らない人がいるかもしれないって、恐れてるんじゃないんですか?」
「…………………。」
みんなが黙り込む。
綺麗事の影に隠れた、これこそ根源。
「誰もがダム戦争はもう終わったと思ってる。それはさっき、皆さんが俺に言いました。そして、終結と同時に、北条家に対する村八分も終わってもいいと思ってる。ところが、それだけがだらだらと続いちゃってるところがあるんじゃないですか?」
「北条家の人間と接触があると囁かれると、村の中でどんな噂が立てられるかわからないという怯えは、皆さんの中に未だあるはずです。」
<魅音
「沙都子ちゃんのご両親は、確かに立ち退き派のリーダーだったかもしれないけど、沙都子ちゃんにどんな罪があるんですか。」
<レナ
「………わしは別に沙都子ちゃん個人はどうとも思ってないぞ。でも他の人が…。」
「いや俺もどうとも思ってないよ。ダム戦争はもう終わってるし、事故ってことである種のケジメもついてるだろ…。」
「……俺もどうとも思ってないよ。…でも毛嫌いしてる人も未だにいるみたいだしなぁ…。」
「私から一言いいます。沙都子のことが嫌いな人は手を挙げてください。多分いないはずです。……なのに、誰もが北条家の沙都子に関わると後ろ指を差されると信じてる。
ところがですね、いないんですよ! そんな人は!」
<詩音
「いや、…………いないなんてことはないぞ。いるよ、そういう人は。」
「なら、名前を教えてください。友達の友達から聞いたなんて話はなしで。」
<詩音
誰もが黙り込む。
沙都子に対する村全体の淡い忌避感が、まったくの時代遅れの勘違いであることはもはや明白だった。
「このままだと、俺たちが何をやっても相談所は聞いてくれません。町会が味方してくれてると思ってますから。……だから俺たちは、町会が立場をはっきりしてくれなければ戦いを続けられない。」
「……公由。ひょっとして、…ある人の許しがほしいのではないですか?」
「………………あいたたた。…梨花ちゃまは痛いところを突くなぁ…。」
村長が苦笑いする。
梨花ちゃんが何のことを言ったのかはわからなかったが、図星を突いたのは間違いないらしい。だが、誰だ。
ある人ってのは誰だ!
そいつを説得できれば、町会はこっちの味方につくってことなんだ!
「ひょっとして、……鬼婆?」
<詩音
「………公由家としては、北条家の遺恨はもう水に流したつもりだ。古手家もそうだね?」
「……みー。ボクも御三家の頭首なのです。」
雛見沢は御三家での合議制を重んじる。
それが鬼ヶ淵村の時代からの伝統だ。
……そんな伝統などカビ臭いだけだが、…より大きな力を得るために通らなければならない道ならば仕方がない。
「となると、あとは園崎家の頭首だけってことになるな。…御三家で一番でかくて、実際は牛耳ってるって聞いてるんだが?」
それは誰もが知りつつ口にできないタブーだった。しがらみのない俺だから口に出来たことだ。
「……ということは、魅ぃちゃんのおばあちゃんも説得できれば、雛見沢の町会は私たちを支持するとはっきり表明してくれる?」
「………………………どうなんだい、魅音ちゃん…。」
「……まぁ、そりゃ私も婆っちゃと喧嘩なんかしたくないです。
ですが、婆っちゃ以外が全部決着してて、婆っちゃ一人だけの問題で沙都子が救えるってんなら、戦います。園崎家の次期頭首だからじゃない。沙都子という部員を持つ我が部の部長として、クラスの委員長として、友人として戦います。」
<魅音
「村長さん。約束してくれ。魅音の婆さんを説得できたら、町会は俺たちを支持してくれるんだな?」
「そりゃもちろんさ。御三家頭首の統一見解なら町会は誰も文句は言わないよ。」
「……要約すると、ここにいる連中はみんな、魅音の婆さんが怖いから嫌だって言ってるわけだな。いい年して情けない連中だぜ、まったく!」
「いや、そうは言うがな前原の坊主…。お魎さんは怖いぞ……?」
「あはははは、そんなことないよ。レナは魅ぃちゃんのおばあちゃんはよく知ってる。もちろん怖いところもよく知ってるけど、それでも大したことないね。怒った圭一くんの方がその倍は怖いから。」
「怒ったレナはその俺の倍怖いけどな。よしわかった。俺たちが魅音の婆さんを説得する!! そしたら町会は俺を支持してくれ。いや、支持なんて生ぬるいぜ、ここまでバチバチやりあったんだ。いっそ徹底的に協力してもらうぜ!!」
「きょ、協力って何だい……!」
「鬼ヶ淵死守同盟が再結集して戦おうと言うのです。仮にも同盟の名を持つ抗議運動を子どもたちだけに任せるおつもりですか。」
<入江
「わしらも出るってことか…! さすがにそこまでは……。」
「いや当然だろ! 役所に、うちは敵に回るって宣言するんだぞ。やるならとことんだ!」
「……雛見沢連合町会名で圭一くんを支持することになれば、町会は態度をはっきりさせる必要がある。それに、支持を表明して協力はしないでは筋が通らん。」
「町会が支持を表明した段階で、前原くんたちの戦いじゃない。町会全体の戦いになるぞ。そうなれば代表は村長だろ! 村長が自ら役所に抗議しなきゃ示しがつかん!」
「…………わかったわかった! お魎さんが納得してくれれば私も男だ! 圭一くんに力を貸してやる!! 今日ここに集まってる町会の諸君もそれでいいな?!」
「「「おうッ!!!」」」
「……でも、お魎を説得するのは圭一任せなのですよ?」
「あはははは…、あーー…、わかったよわかったよ。お魎さんの説得には私も同行するよ。圭一くんの話し方はちょっと若者っぽ過ぎるからな。…お魎さんにはお魎さん用の年寄り言葉で話せる人間が必要だろう。」
「今日は酷いことばかり言ってすみませんでした。皆さん、申し訳ありませんでした。」
「いや! 君はいいことを言ったぞ! 町会の癒着を見事ばっさりだ! 圧力になんか屈しないその姿は雛見沢の誇りだぞ!」
「さっきは叩いてすまんかった。頭に血が上って申し訳ない。」
「いえ、こっちこそすみませんでした…。」
「知恵先生もよく言った! あんたは立派な先生だ!」
「…しかし、北条家イジメをしてるヤツらってまだいるんだな……。」
「というか、……お魎さんが特に嫌ってるんだよな…。」
だが、魅音の話によるとそのお魎さんも、今さら北条家が憎いわけではないらしい。……やれやれな話だぜ!
「んっふっふっふ! 前原さん、なかなかやりますねぇ。まさか町会を味方につけるとは。」
「いえ、まだ味方になってくれたわけじゃありませんよ。魅音の婆さんを説得するという条件付きです。」
「お魎さんは確かに独裁的な立場ですが、町会の支持を失うリスクは犯せません。その町会の事前調整がついているというのであれば、園崎家だけの立場で反対は難しいでしょう。
いやいや、実に交渉がお上手です。特に、最初にこき下ろして、途中から持ち上げるのがうまい!」
「あ、いえ、…親父の美術誌のコラムっぽくやってみただけです。親父のコラムってそんな感じだし…。」
「ほほぅ? 前原さんのお父さんは、なかなか息子さんにいい背中を見せられているようですねぇ。画家さんなんですよね? ぜひ今度私にも絵を見せてください。」
「いやぁ、はっはっはっは……。」
息子に見せられないような絵を描く親父だが、どうやらその絵は警察の大石さんにも見せられないものらしい。…ますますにもっていかがわしい疑惑が沸き起こるぞ。
「じゃあ、明日の晩、お魎さんのところへ御伺いしよう。さすがに今晩すぐにはまずい。お魎さんは機嫌を悪くすると、筋の通った話も聞いてくれなくなるからな…。」
「行くのは、私、村長。それから誰?」
<魅音
「もちろん私も行きます。レナさんも行くって。大人しく頭を縦に振らなかったら頭を叩き割るそうです。」
「はぅ、そんなことしないよぅ! 詩ぃちゃんひどい。」
「……圭一、ボクも行きますです。お魎に言ってやりますです。」
「そうかそうか。言ってやれ言ってやれ!! もちろん俺も言ってやるぞ!」
「…私も何とか時間を作ります。居るだけでも力になれることはあると思いますので。」
「さぁて、面白くなってきました。で、お姉、鬼婆とやり合う覚悟はあります?」
「………本音から言うと、明日は入れ替わって欲しいかなぁ。あははは…。」
「圭一くん、何だか話が一気に大きくなってきたね。」
「ああ。人の力ってのは集まれば集まるほどに強くなる。雛見沢全体が連帯すれば沙都子なんてすぐに救い出せるぞ! 何しろ、国とやり合ってへこませた連中なんだからな!」
ダム戦争当時のことを引き合いに出されると、年寄り連中は悪い気はしないらしい。
今やみんながみんな、当時の武勇伝に花を咲かせていた。
「……沙都子は救えないという運命の袋小路が、…今まさに破られそうな気がする。………これほどまでに圧倒的なのね。運命を打ち破る力と言うのは、今回はいけるかも知れないなんていうちょっとの幸運の重なりなんかとは比べ物にならないくらいに圧倒的なのね…。」
■アイキャッチ
■お魎と対決!
翌日。
俺たちは夜に園崎家に集合した。
俺は、魅音の婆さんを囲んで、お茶でも飲みながらの話になると想像していた。
…だが、そんな気楽な席にはならなかった。
園崎天皇とまで呼ばれる魅音の婆さんは布団に入ったまま、大きなクッションのようなものに寄りかかって上体を起こし、その雰囲気だけでまるでお殿様か何かのように感じた。
それだけじゃない。
…園崎家の特に位の高い重鎮たちが5人くらい揃い、町会の内輪話どころか、ヤクザの談合みたいな雰囲気だった。
そう、これは町会の話し合いじゃない。
御三家の頭首全てがそろう、御三家会議だったのだ。
俺は今さらのように自分が場違いに感じたが、……そんなことにビビってる場合じゃない。
ここでこの婆さんを説得できれば、沙都子を救うために村の全力を結集できるのだ…!
「………そんなわけなんだ。町会がこのままの立場を崩さないと、圭一くんが今後、何を訴えても向こうは聞いてくれない。町会は最低でも中立を宣言しないとならんと思うんだが…。」
村長が代表して切り出してくれた。
……それを聞く婆さんの顔は厳しく、もともと厳しいのか、話の内容を聞いて厳しい表情になってるのか見分けがつかない。
婆さんが身近にいる者にしか聞こえない小声で何か言うと、着物姿の女性が代理で口を開いた。…魅音のお母さんらしいな。
「児童相談所に不手際があったならともかく、相談所は正規の手順で対応しています。それどころか、圭一くんの熱意を理解し、汲み取る旨も約束してくれています。その状況で、町会にはどういう不満があるのでしょうか。」
「……母さん。そこは私から説明する。沙都子の叔父はとんでもないゴロツキなんだよ。去年も沙都子に暴力を振るってるし、愛人に捨てられたと思って雛見沢に帰ってきた不機嫌な叔父にとってはそれはさらに酷いものだと容易に想像がつく。」
「葛西、調べてくれたんだよね? 北条鉄平のこと。」
<詩音
「……一応、茜さんにはお伝えしてあります。」
「母さん、つまりはそういうこと。相談所にのんびり任せてたら、多分助けてくれるのは数ヶ月も後だよ。私は沙都子が虐められるのを、数ヶ月も放っておけない。」
<詩音
「…………数ヶ月で死ぬわけじゃなぎゃあ。そんくらいでぎゃあぎゃあと騒々しいんね。」
ようやく婆さんが俺たちに向って口を開いてくれたが、……何とも口汚く勇ましい言葉だった。
「そ、そりゃあ死ぬまではいかないかもしれないけど、」
<詩音
「ならぎゃあぎゃあ言うんな、あっほらし!! すったらん、生き死にも賭けんとやっかんよぅ言うんね!! 根性が足りんわドアホぅッ!! なんばしよっとかすったらん、くっだらねッ!! だあっと聞いとん、くだらんわ!!!」
…おおぅ。
さすがに町会の連中がビビるわけだ。
なるほどな、これが園崎天皇とか鬼婆とか呼ばれる園崎お魎ってわけか。
「……お魎。沙都子はボクの友達なのです…。助けてあげてほしいのです…。」
「梨花ちゃま、いつも言うとん。友達は選らばんとね。あんな北条の糞餓鬼なんざバチ当たりモン、しゃがあねっちゅゆうたんだら!!! 入江の先生まで雁首揃えてからに、なぁんねまったく!! あんた、いい年して何ねまったく、これが恩に仇っちゅうつもっかいんね!!」
「沙都子ちゃんは北条家の娘であるだけです。別に沙都子ちゃんがダムに賛成して村と敵対したわけじゃありません。坊主憎ければ袈裟までというのは気の毒ではないでしょうか…。」
「ばああらしッ!!!! お前、誰に向って口聞とんと、すだらあやっとらんわごらああ!!!」
「……魅ぃちゃんのおばあちゃんって本当に沙都子ちゃんのこと、許してるの?」
「魅音が言うにはそうなんだがなぁ。なるほど、町会の連中が言うのが少しわかったぜ。」
「……圭一くんも何か言いたそうだね。この際だ、何でも言ってご覧。」
魅音のお母さんに目を合わせられる。
……上品な美しさと同時に、園崎天皇と同じ鷹のような眼光を宿している。
なるほど、…間違いなく魅音の親だった。
「言ってもいいですけど。…いいんですか。」
「いいよいいよ。せっかく園崎本家までおいでなんだ。あんたも言いな。」
レナが頷く。……よし。
「園崎お魎さん。前原圭一と申します。まだ引っ越してきたばかりですが、よろしくお願いします。」
「………お前が挨拶せんでもお前のことはよーう知っとるんね。」
「今だから話す。…前原家が引っ越してきた時、婆っちゃに挨拶してないのを根に持っててね…。印象悪いんだよ…。」
<魅音
んなこと、今言われても困る。
今、挨拶したからいいじゃねぇかということにしておく。
「北条沙都子かどうかが問題じゃない。村の一員が今、危機的な状況にあります。それを救うためには相談所に訴えるしか方法がないんです。そして、それは俺が勝手にやってることです。あなたに迷惑を掛けてることじゃない。」
「迷惑って話は、村長さんから聞かされてるよねぇ? 雛見沢連合町会は鹿骨市役所とは手打ちをしてるんだよ。市長と鬼婆さまは過去を水に流し、連携して共存していくことを確認し合ってる。村を栄えさせるために当然のことなのさ。」
「……その村の栄えというのは、沙都子一人を見殺しにできるものなんですね。」
「さっき私が言ったのを聞いていたかい? 見殺しなんて誰もしてないよ。相談所だってちゃんと対応してくれてる。それでも急いでほしいってのは、圭一くんのわがままじゃないのかい?」
「村と役所は手打ち。沙都子には並みの対応。………だから沙都子がどんなにヤバい状況でも知ったことじゃないってんですか。さっき魅音たちも言ったように、鉄平って野郎はまずい。…3日ぶりに沙都子が登校して来た時、あいつはもうボロボロだった。たったの3日でですよ!! その10倍の時間で一月が経っただけで、どうなってるか想像もつかない! しかも一ヵ月後には絶対に救われる保証もない。その時点で様子見と相談所は判断するかもしれません。…えっと、…魅音のお母さんは、心ならいくら傷付けられても構わないと仰るんですか!!」
「じゃああんたはどうしろって言うんだい。」
「すぐに助けるべきだと相談所に訴えています。そしてそれを決断してくれるまで、相談所に訴えを続けるつもりです。」
「なら決まりだ。圭一くんは続けるといい。園崎家は知ったことじゃないよ。それでいいかい?」
……くそ。やりにくいな…。
集会所で年寄り連中と戦った時は、みんな短気だったのでペースに引き込みやすかった。
でもこの、茜さんという魅音のお母さんはやりにくい。
園崎姉妹も、お魎って婆さんもみんな短気なのに、この人だけは冷静なのだ。それでいて敵意は充分にある。
「でも、…もうそういうわけには行かないんです。町会が役所に対し、俺たちのやってることを支持しないと言ってしまったから、相談所はもう、俺たちの訴えに耳を貸してはくれないんです。」
「そういうことなんだよ母さん…。だから、勝手にすればいいじゃもはや済まない。町会として支持か不支持をはっきり表明してくれないと後が続かないんだよ。」
<魅音
「というか、町会はもう決着がついてます。お婆ちゃんさえ納得してくれれば支持してもいいとまとまってます。」
<詩音
「だああがんなことまとめんとすっちゃらあああ!!!!」
「お前たちも、ダム戦争の時の北条夫妻の態度は知ってるだろ。あれを許せるのかって言われると、私も答えはノーだねぇ。」
「私、知らないんだけど、沙都子ちゃんのご両親って、どういう人だったの…?」
<レナ
「……お母さんは沙都子がもっと強気になったみたいな人でした。お父さんは鉄平の兄な人でした。しかも鉄平より強くて怖かったです。」
「あの鉄平よりもかよ…。そりゃあ何だか笑えない話だな。……なるほど、園崎家とバチバチと対立してた構図がようやく見えてきた。要するにその時の煮えくり返った腸がまだ治まらないと、そう言ってるんだなこの婆さんは。」
「聞こえるように言うとは、あんたも大したタマだねぇ。子どもたちからよくあんたの話は聞いてるよ? 大した器だそうじゃないかい。」
「付け上がったついでで恐縮ですが。そこの布団の婆さんが頭を縦に振ってくれりゃ俺は満足です。何も、ここにいる皆さんに俺たちの陳情に加わってくれとまでは言わない。ただ黙って頭を縦に振ってくれりゃいい。」
「……………嫌だと言ったらどうするんだい?」
「この場で婆さんの頭を叩き割って、魅音を新頭首にして頭を縦に振らします。」
「なあんと抜かしよんねこんの糞餓鬼ゃあああッ!!! 誰かポン刀持って来よん、この糞生意気な餓鬼ゃあ叩き斬って井戸に放り込んじまいな!!!」
「おう婆さん、俺とやり合うつもりかよ。今日食った晩飯が最後の晩餐になっちまうぞ。」
「……だぁって聞いとん、よーーぅ抜かす。上等も上等、ようもすったらん言わすわこん餓鬼!」
鬼婆と言われるだけのことがある威圧感で、ぎょろりと睨みつけてくる。
…普段の俺だったら、それだけで泣いて侘びをいれたくなるところだが、生憎、こっちも退けない。
……沙都子は数日を争うんだ。
…俺たちは知ってる。
ほんの数日で、沙都子が完全に壊されてしまうことを知っている。
そしてその時に、自分たちが無能であることを涙を流して後悔するんだ。
後悔なんかするくらいなら、今を精一杯戦ってやる。
やってやり過ぎなんてものはないんだからな…!!
「はっきり言う。沙都子は俺の仲間だ。仲間のために俺は戦ってる。あんたはどうだ。あんたもそうだったと聞いてるぞ。一人の仲間のために村全てを束ねて戦った。そしてその団結でダム計画を跳ね返したんじゃなかったのか。」
「…………余所者のクセによーぅ知っとんね。」
「おう、待たんかいババア。誰が余所者だ。俺は雛見沢の前原圭一だ。雛見沢の仲間を助けるために戦ってる。それを指して余所者とはよく言ったぜ。」
「お魎さん。前原くんは確かに引っ越してきて日は浅いかもしれませんが、村にすっかり溶け込み、新しい風を吹き込んでくれる期待の若者です。」
<入江
「……入江の先生はいつんか、礼儀知らずを期待の若者ン言うようになったん……。おう、誰ぞ、お茶と薬を持って来てえな…。頭に血が上りすぎて血管が痛みよるんね。」
末席の男が立ち、一度席を外して、お茶と薬を持ってきた。
「礼儀知らずってんなら、一度ここで筋を通します。……北条沙都子を救うために、園崎家も協力してください。沙都子は村の一員です。それ以上に、俺の仲間です。どうか、お願いします…!!」
俺が深々と頭を下げると、みんなも一緒に頭を下げてくれた。
「圭一くん、頭を上げな。……どうしたもんかね、婆さま。」
「……どうしたもこうしたもないん。どないせっちゅうね。」
「沙都子ちゃんは圭一くんの身内なんだって言ってる。それに圭一くんが立ち回るのは筋は通ってるよ。」
「「お母さん…!」」
<魅音詩音
「…ただねぇ。園崎家と北条家はとにかく仲が悪かった。婆さまも公衆の面前で罵倒されてるしねぇ。それを水に流せってのは簡単じゃない。ケジメの問題だよこれはね。」
「……ケジメって何ですか。」
「堅気の言葉で言うと謝意だね。ただ、それを示すべき北条夫妻は事故で亡くなってる。それにあれだけのことをしてくれたケジメだ。安くはつかないよ。」
「そのケジメってのを払えば、怒りを水に流してくれるんですか?」
<レナ
「私たちも義理の世界で生きてる。頭を下げられたら水に流さないわけにはいかない。まさかレナちゃん、沙都子ちゃんの頭を下げさせるのかい?」
「……いいですよ。沙都子ちゃんに、ご両親の責任を説明して謝らせてもいいです。ケジメを示すべきご両親ではないけれど、それで許してくれますよね?」
「……………許すかどうかは見て見ないことにはわからないけれど。まぁ、謝意は感じるかもしれないねぇ。」
「それでどうですか、魅ぃちゃんのお婆ちゃん。沙都子ちゃんが、ダム戦争時のことを謝ったら。」
「……ふ、…はっはっはっはぁ!! まぁ、そこまでやって見せたら考えんこともなぁん。すったらん水に流すのも考えよ。」
その笑いは、沙都子が頭を下げられるわけがないという前提に基づいたものだ。
ここまでだと、レナが一方的に譲歩したように見える。…でも、レナが怖いのはここからだった。
「でも、沙都子ちゃんが謝ってケジメをつけたら。
……ケジメを示すべきでないにも関わらず、村八分にして嫌ってきたケジメはお婆ちゃんもとってくれますよね?」
「…………なあん?」
「沙都子ちゃんがダムに賛成したわけじゃない。単に北条家の子どもなだけです。それだけでおばあちゃんは沙都子ちゃんを毛嫌いしてきた。この村では、あなたは単なる老女じゃない。雛見沢の意思を左右する今や御三家の筆頭、園崎家の頭首です。そのあなたが沙都子ちゃんを公の場で毛嫌いすることは、村全体に影響を及ぼします。」
「それは町会でも明らかです。あなたが北条家を嫌っているから、北条家と親交があるとあなたにどんな不利益を受けるかわからないとみんなが思っている!」
「……そりゃあ婆さまは雛見沢の母だからねぇ。戦中戦後と一番辛い時代を切り盛りされた。それくらいの影響力は当然さね。」
「その影響力を知らないとは言わせません。……先ほどの言葉をお借りしますが、…沙都子は俺の仲間です。身内です。……それにあなたの影響力で不利益が被られるなら、…俺はあんたと戦わなくちゃならない。それが仲間を守るってことです!」
「……ふぅん。…都会者風情がなかなか言うじゃないかい。親類の皆さんの意見も聞こうか。皆さんはどうお思いだい?」
「……………筋は通っとる。園崎家と北条家のいさかいにまで口を出されることはないが、身内に対するケジメは取っとる。」
「北条家の餓鬼っつんがなかったら、園崎家もそんなに気にはせんのだがね。」
「好きにすればいい。園崎家は協力もせんが邪魔もせん。それでいいだろ。」
「……そういうわけにはいかんらしいですな皆様方。」
一番大柄で怖そうなサングラスの人が低音の利いた声で言った。
「園崎家が頭を縦に振らんことには、町会は納得しない。町会が支持をしなきゃ役所は聞く耳を持たんと言ってます。……はっきり白黒をつける他ありませんな。」
「お前さんはどう思うんだい?」
「………圭一くん。いつも娘から聞いてるよりずっと立派に意見する男だ。正直、見直した。大した男だ。」
「あ、…ど、ども…。魅音のお父さんですか……。」
絶対どこかのヤクザの親玉だと思っていたら、魅音のお父さんだった。
…そういや、本職だって聞いたような…。なるほど納得の迫力だ。
「君のところの身内に迷惑を掛けたのはうちに責任がある。親はともかく、娘に罪はない。……そうでしょう、お母さん。」
「……知ったこっかい!! 北条の名前を持つ悪んタレはどいつもバチ当たりモンさね!! それにこいつはさっき、わしん頭を叩き割るとか抜かしよったんぞ!! そんなヤツに大した男もへったくれもねえん!!」
「……お母さん。ここはひとつ、圭一くんに力を貸しては上げられませんでしょうか。…近頃熱心な若者です。なかなかこうはっきり言える若者はおりません。」
「婆っちゃ、私もお願いするよ…。私たちに力を貸して欲しい…! 沙都子は私の仲間でもある。私は雛見沢の仲間のために戦った婆っちゃの昔話をいつも尊敬してるんだよ…! だから私も婆っちゃみたいに仲間のために戦いたいんだ…!」
<魅音
「私も頭を下げます。沙都子は私の家族です。妹です。お願いします、私たちに力を貸してください。」
<詩音
「……………………。」
婆さんは応えず、頭を下げる魅音たちをギロギロと睨んでいるだけだった。
…やはり、この頑固な婆さんの口から協力を取り付けるのは難しい…。
村長も困りきっているようだった。
婆さんのギロギロが俺に向けられた。俺も同じ目つきを返す。
「頭はすでに一度下げたから、もう一度は下げない。でももう一度言う。俺たちに力を貸してくれ。沙都子は俺の仲間で、あんたの村の一員でもある。そして、あんたを罵倒したわけでもない。恨む筋合いはないはずだ。」
「………………………頭を縦に振ってぇ。それでどうするん。」
「町会の支持がつけば、相談所も耳を貸さないわけにはいかなくなる。それでも聞かなきゃまた押し掛ける。今度は雛見沢を上げてだ! 明日は土曜日。相談所も午前中はやってる。そして村人は祭りの準備のために集まるはずだ。その人数で相談所に行く!」
「そ、それはすごいですね…。百人規模の話になります。」
<入江
「……人数はどれくらい集まるんだい?」
<茜
「いきなり明日の話だから、賛同者がどれだけ出てくれるかはわからないけど…。とにかく俺がみんなの前で話します。」
「村長さんのところはどんな見通しです?」
「町会役員は概ね理解を示しています。…確かに役所と築いてきた連帯も大切ですが、役員たちの中にも、死守同盟時代の話を引き合いにして、沙都子ちゃんのために戦えないのはおかしいという声があがっています。……圭一くんのやってることは理解できるし、反対する謂れはないってことでまとまってます。」
「何だい、婆さま抜きでも町会はまとまってるんじゃないかい。それで最後の決だけを園崎家にさせようってのかい? なかなか意地の悪い注文をするもんだね、町会も。」
「……茜さん、お魎さん。はっきり言うが、…私も沙都子ちゃんが不憫だと思うんだ。ひとりで健気によく頑張ってきた。この辺で、沙都子ちゃんがもう村八分になんかされてないんだってことを、ひとつ大号令を発してもらうわけにはいかないかな…。」
「そんなことはでけんね!!! なぁんとわっしゃあ北条の糞餓鬼を許さならなとね!!」
「なら決まりだな!! てめぇは俺の仲間の敵だ。ってことは俺の敵だッ!! 今この場で息の根を止めてやるぜえ!! 魅音、お前がすぐに頭首を継いで俺を支持しろ!! ババア今この場で絞め殺してやらああッ!!!」
俺が飛びかかろうと立ち上がると、強面の親族たちが一斉に立ち上がり俺の前に立ち塞がる。
……というか、何で一部の人は懐に手を突っ込んでるんだよ。
懐から何が出て来るのかどきどきしてならないぜ…。
「……………あああぁああぁあぁぁぁ、本当にもうイライラするん!! あんじょうすったらん!! ほんますらっしゃ、たったらん!!!」
「……お魎、数多の血管が切れちゃいますです。」
「ああぁ、すまんね梨花ちゃま。そこの薬袋を取ってくれんかいね…。ほんまん、血管切れたらどないすんしゃあね…。」
何を言ってるのかわからないが、怒り心頭だということはとりあえずわかる。
そして、不機嫌そうにごにょごにょと魅音のお母さんに囁いた。それを彼女が代弁する。
「申し訳ないけど、今夜はこれくらいにしてもらいます。婆さまも頭痛が酷くなっちゃって、これ以上は付き合いきれんって言ってます。」
「そ、……そんな、まだ俺は回答をもらってないです!」
「圭一くん。出直すってのも大人のルールってのを学びな。だいぶ今日はおばさんも親切にしてあげてるんだよ。……うちの子たちと仲良くしてくれてるから大サービスしてる。そこいら辺を汲み取ってくれないと、私の顔が立たないねぇ…?」
「け、圭ちゃん…、今日は充分だよ…。これくらいにしよう…。」
<魅音
魅音と詩音が慌てだすところを見ると、………どうやら滅多に怒らないまでにも、魅音のお母さんも相当怒ると怖いらしい。
今の表情を爆発10秒前くらいに感じたらしい。
……でも、ここで引き下がっていいのだろうか…。
くそ、……何とか首を縦に振らせたいのに!
今日、頷いてもらえれば、明日さっそく大人数で押し掛けられたのに!
今日の相談所の連中は笑っていた。
三日目までは増える一方だったのに、四日目には一気に人数が減ったので、あと2日もしのげれば俺は来なくなるとタカをくくっていた!
ここで手を休めちゃいけないんだ。
沙都子はもうあの叔父の許で何日を過ごしてるんだ?!
一日たりとも猶予はないというのに!
だが、場はそれで閉会となってしまった。
婆さんはそのまま就寝となり、全員部屋を追い出された。
若者勢は全員外へ追い出され、村長が最後の挨拶をしているようだった。
俺たちは村長を待って、立派な園崎家の庭でたむろしていた。
「……くそ、…あと一息だったってのにな…。」
「圭一くんは言うべきことを全て言ったよ。
でも、向こうにも考える時間は与えないといけない。……もちろん、そんな余裕はないんだけれど。」
「監督的にはどう見えましたか?」
「……お魎さんがすっかり不機嫌モードに入ってしまいましたからね。
一度ああなったら下手をすると三日は機嫌を直しません。…さっき前原さんも言ってましたが、明日の綿流しの準備の時にみんなに呼びかけて、みんなで訴えに行くというのは、ちょっと無理だと思います。」
「……でも、話を最後まで聞いてくれましたと思います。あとはお魎を信じるだけなのです…。」
「そうだな。……信じて待つってのは辛いことだな。」
「…みんな〜〜、お疲れさん〜〜。」
魅音と詩音が庭を駆けてきた。
「おう、魅音も詩音もお疲れさん。どんな感じだった? うまく行きそうか?」
「わかんない。私の見たところだと、婆っちゃの印象は最悪。
…圭ちゃんは本家には二度と来ない方がいいだろうね…。」
「何だ、魅音の家にはもう遊びに行けないってことか。やれやれ。」
「しかし…、圭ちゃんも大したもんですね。昨日の集会所もそうでしたが、よくあれだけ凄まれても震え上がらないものです。」
「っていうか、震えるほど怖かったか? 怖え形相だなとは思ったけど、そんなにビビるほどじゃなかったぜ?」
「はーー…。それは多分、圭ちゃんが婆っちゃの本当の怖さを知らないからだね…。
まぁ、無知も時には武器か…。」
「そんなことないよ。圭一くんは、そんな怖さを知ってたって、沙都子ちゃんのために怯まなかった。」
「そういえば竜宮さんもいくら怒鳴られても平気そうに見えました。」
「声は荒げられてたけど、怒ってはいなかったし。私も全然、怖くなかったかな、かな。」
「あ、あれが怒ってないように見えたっての?!」
<魅音
「うん。魅ぃちゃんのおばあちゃん、全然怒ってなかったよ?」
そ、そうなのか??
俺には激怒のあまり、血管がいつ切れるんじゃないかと不安なくらいだったけどな…。
その時、砂利を踏みしめる足音が近付いてくるのが聞こえた。村長と魅音のお母さんだった。
「あ、おじいちゃん…! どうでした? 鬼婆は怒ってました?」
「ははははは…。それでね、OKだってさ。」
<村長
「え?」
<レナ
「……それは……つまり…?」
<梨花
「鬼婆さまのOKサインが出たのさ。だから圭一くん、あんたの好きなようにやっていいんだって。」
「それって、…本当ですか!」
「お、お母さん、本当なの?!」
<魅音
あれだけ不機嫌に怒っていた婆さんが、どういう経緯で許しをくれたのか想像がつかない。…でも、結果的には俺を認めてくれたってことだ。
「鬼婆さまは雛見沢連合町会が圭一くんを支持することを認めてくれたよ。雛見沢連町がバックにつくってことは、鬼ヶ淵死守同盟がバックについたのと同じってことになる。ってことは、絶対に負けられないってことさ。そして見っとも無い戦いもできない。あんたは、引っ越してきたばかりのその身で、雛見沢が作り上げてきた団結の歴史を背負うんだよ。その覚悟はおありかい?」
「あります。」
「ほー、即答とは男だねぇ! 見上げた根性さ。よくあれだけ鬼婆さまに言えたもんだよ! 最後に飛び掛かって鬼婆さまの首根っこふん捕まえた時にはどうなるかヒヤヒヤしたねぇ。」
「へ? 俺、飛び掛る直前にはなりましたけど、…っていうか、あれは冗談みたいなもんで…。」
「くっくっく。いいかい? 前原圭一は鬼婆さまに飛び掛って首根っこ、ガッツンガッツンやって納得させたんだよ? そういうことになったから。」
「な、何でですか、物騒な…!」
「鬼婆さまは北条家許すまじってことになってるもの。それが、若いのに何人か頭を下げられてハイそうですかってわけには行かないもの。だから、圭一くんが大立ち回りをした挙句に、鬼婆さまがその男気に惚れて特別に許したって、そのくらいの物語がないと説得力がないわけなんだよねぇ。わかったかい魅音?」
「う、うん! わかった。」
「魅ぃちゃんのおばあちゃんも、色々と大変なんだね…。」
「…はー。こういうところで伝説ができちゃうんですね…。沙都子を救うために鬼婆と取っ組み合いをしたと。……圭ちゃん、多分、町を歩くと今後は人が避けてくれますよ。」
「……圭一の最強伝説の始まりなのです。みんな圭一を見ると、ヒソヒソ、ガタガタブルブルで道を開けるのです。」
「そ、そんな伝説はいらん…! それよりその、…ありがとうございました!」
「礼なんかいらないよ。何しろ、町会はもう話がついてんだ。逆らいようがないさね。むしろこっちとしては、うちなんか無視してやってほしかったくらいだよ。それを公由の村長さんも人が悪い。」
「いや…、でも納得してもらえてよかった…。」
「鬼婆さまも、沙都子ちゃんがいつまでもダム戦争の続きみたいに冷遇されてるのは気にしてた。自分が墓に入る時しか清算のタイミングがないと思ってたみたいだからね。正直、あんたたちが騒いでくれたお陰で、鬼婆さまは生きてる内にそれを解決できたってわけさ。内心は感謝してるはずだよ。」
「い、いや、俺も感謝してます。今度、日を改めてお礼を言いに来ます。」
「あっはっはっは! それは止めといた方がいいねぇ。今度こそ日本刀で追い回されるよ。しかし、今日の鬼婆さまは抜かなかったねぇ? よーっぽど圭一くんが可愛かったんだよ。」
「……ボクもそう思いましたです。お魎は日本刀が大好きなのですよ。」
「梨花ちゃん、笑いながら言うな…。生きて帰れて大感謝だぜ、まったく…。」
「今日の圭一くんにはおばさんも惚れたよ。男はそうでなくちゃいけない。沙都子ちゃんも果報者だね。こんな男にここまで一生懸命になってもらえてさ!」
「か、母さん、別に圭ちゃんは沙都子とそういう関係ってわけじゃ…。」
<魅音
「なぁんだ、そうだったのかい? まだお手つきがないならあんたたちも頑張りな! ねぇ圭一くん、魅音と詩音、どっちか好きな方を持ってお行きよ! おばさんのことは今日からお母さんって呼んでいいからねぇ!」
真っ赤になった魅音と詩音が同時に拳と肘を叩き込む。
……やっぱり母親とは言っても魅音の血統なんだな…。話の方向性やレベルがそっくりだ。
「じゃ圭一くん。君はお魎さんを説得してくれた。約束どおり、町会は君を支持するぞ。明日の昼にその旨をきっちり向こうに連絡する。もちろん私も、沙都子ちゃんをすぐに保護するべきだと言うつもりさ。何しろお魎さんの支持があるんだからね。多分、その電話だけで沙都子ちゃんはすぐに助け出されるさ。」
「ほ、本当ですか…!」
「圭ちゃんはそれだけの相手を口説き倒したってことだよ。」
「じゃあ、…これで沙都子ちゃんは明日には必ず…?!」
「まだ絶対と決まったわけではありません。
でも、もし公由のおじいちゃんの電話を断れば、それは鬼ヶ淵死守同盟を敵に回すということになります。おじいちゃんは普段は温和だけど、同盟会長になった時は、そりゃあ鬼ですから!」
「そん時は鬼になるよ。とにかく、男の約束だ。沙都子ちゃんがすぐにでも助け出せるように協力する。」
「ありがとうございます。……あとそれから、……沙都子を北条家だからとか言って差別するのも、もうなしにしてください。」
「おじいちゃん、時々言ってますもんね。北条のバチ当たり者みたいなこと。」
「あぁ……あれは他の人に悪ぶって言ってるだけで、…別におじいちゃんは沙都子ちゃんのことを嫌ってるわけじゃないんだよ…。」
「なら、そういう悪ぶるのもなしですね。沙都子ちゃんを村の子どもとして、本当の意味で受け入れてください。」
<レナ
「わかってる。今後は酒の席でも軽率なことは言わんよ。約束する。迂闊なことを言うと、私が圭一くんに首根っこを掴まれそうだ!」
そして、俺たちは帰路につく。
沙都子はまだ救い出せたわけではないけれど。……大きく前進したと思う。
村長が明日、お役所に電話をして、俺の支持を表明してくれて、町会名で沙都子の即時保護を陳情してくれるという。もちろん、村の影の実力者、お魎さんの名前入りでだ。
「……沙都子は、……これで運命から救われるのでしょうか…。」
「ああ、間違いなくな。ひょっとすりゃ、明日にも救い出せるさ! それで駄目なら、今度は総攻撃だ。半端ねぇ規模でな!! それからな梨花ちゃん。」
「……みー?」
「運命とかって安っぽく言うんじゃない。運命っていうと、始めから結果が決まってるみたいに聞こえる。でもな、最初から結果が決まってることなんて何もない。結果を作るのは俺たちなんだ。だから、何をしても無駄みたいな意味で、運命って言葉を使うんじゃない。」
「…………………。」
梨花ちゃんはしばらくの間、俺の言った意味を噛み締めているようだった。
…調子に乗って少しキツイことを言ってしまったかもしれないと後悔しかけた頃、梨花ちゃんが笑った。
「……圭一がそういうならそうしよう。私はもう運命なんて気安く口にしない。運命がいかに容易に破れるかを、あなたは私にこうして何度も教えてくれるのだから。……この百年の中で、鉄平が帰ってくるという最悪の賽の目すらも、こうして打ち破れる今、……逃れられぬ死の運命なんて、きっと大したものなんじゃないって思える。……あぁ、それより最悪の目は、あなたが転校してこないことか。…この百年の間でほんの一二度あったわね。寂しい世界だったわ。」
「……?? たまに梨花ちゃんの言ってる話がよくわからないな。煙に巻いてるつもりなんだろ。」
「……みー。内緒なのですよ☆」
圭一がそういうならそうしよう。私はもう運命なんて気安く口にしない。
■翌日
「はい、お待たせしました。鹿骨市役所交換台です。」
「あーもしもし。すみません、生活振興部の自治係をお願いします。」
「ただいまお繋ぎしますのでお待ちください。」
「お待たせしましたー! 自治係でございます。」
「どうも、係長の相田さんはいらっしゃいますか。」
「これは公由会長さん、ご無沙汰いたしております。先日は大変お世話になりました、本当にありがとうございました。」
「いやいや、こっちこそ悪かったね。本当にありがとう。助かったよ。」
「あ、係長が戻りました。今、変ります。………係長、雛見沢連町の公由会長さんです。」
「はいもしもし! どうもどうも、今日はいかがなさいましたか。」
「うん、実はね、先日の児童相談所の件なんだけど。」
「はいはい、若い子たちが陳情に来ているという話ですね。いや、相談所の方も困っていたそうで…。会長さんにご相談できて本当に良かったです。それでどんな話になりましたか。」
「うん。それでね。雛見沢連町としては正式に前原くんを応援することに決まりましたわ。」
「え? すみません、今なんと?」
「うちの町会でも、前原くんのやってることは筋が通ってると。いやね、若い方が納得してくれんのですわ。若いって言っても50、60の人たちですがね、ははは。」
「ははぁ…。しかし会長さん。他の役員さんはどう言っておられるんですか…。」
「うん。それは昨日、綿流しの実行委員会の席がそのまま緊急の役員会になっちゃってね。最初は石頭連中が渋ったんだけど、すっかり前原くんに言い負かされちまった。いやぁね、彼は最近にしちゃ骨のある子だよ。ああいう子をもっと応援しないと青少年の育成にはならないよ。」
「えー…、それでは雛見沢連町役員会の総意ということでよろしいでしょうか…。」
「そうです。総意です。反対の役員はおりませんでした。」
「…えぇと…公由会長さん。先日もお話しましたとおり、相談所の方も相当やってくれてるんです。ただですね、観察期間を経ないことには判断が下せませんし、最近は特に人権意識の高まりも…、」
「そんなのは前原くんが何度も説明してるよ。沙都子ちゃんはとんでもなく暴力的な叔父に閉じ込められてるんだ。体の傷じゃないよ、心の傷になっちゃうんだよ! 育ち盛りの時期の心の傷は一生に暗い影を落としちゃうんだよ。こないだの青少年セミナーの先生も言ってたでしょ。一緒に聞いたでしょ?!」
「はぁ、…えぇまぁ…。それでその、……園崎顧問の方はどんな感じですか…。」
「うん。お魎さんもね、やるべしと。そう強い口調でしたわ! 慎重だか珍重だか知らんが、これ以上、沙都子ちゃんの件を放置するってんなら、雛見沢連町全体で前原くんをバックアップしていかなくてはなりませんわ!」
「そ、そうですか園崎顧問が…! ……………………ま、まぁその……こういうのはご家庭の問題でもありますしご近所の問題もありまして、なかなか行政は動きにくいところがありまして…。」
「近所に出てくればうちらも言ってやるけど、何しろ、ほとんど表に出てこないヤツだからなぁ! それに町会の者が余計なこと言ったら沙都子ちゃんが余計、八つ当たりとかされちまうかもしれないだろ。だからこそ行政の出番じゃないのよ!」
「え、えぇえぇ、まったく仰るとおりですね…。後ほど、こちらからも園崎顧問さんにお電話をしまして事情を伺ってみます…。」
「ああん、止めた方がいい。すっかりお魎さん、ヘソを曲げちゃってる。しばらくは電話をしない方がいいね。」
「そうですか…! それは困りましたね、はははは…。園崎顧問は頭に血が上られると鬼のようになりますからね…。」
「それでね。係長さんの方から相談所の方に沙都子ちゃんの即時保護をお願いしてほしいんです。何なら私が一緒に行ってもいいです。あぁ、今から行きましょうか。」
「いえいえいえ! 会長さんにご足労いただくことはございません。こちらから相談所の方に連絡しまして、結果を本日中にご連絡させていただきます。」
「今日の昼前にはほしいな。そんな夕方になるまで長話にはならんでしょ。所長ってそんなに忙しいの?」
「い、いえいえ! わかりました。お昼まで会長さんのお宅へご連絡させていただきます。」
「くれぐれもよろしくお願いしますよ。町会はね、相談所の対応が鈍いと、陳情を真面目に聞いてくれてないと非常に怒っていると伝えてくださいよ。」
「わかりました、必ず伝えますので。……はい。…ごめんくださいませ……。」
チン。
「……係長、何だかヤバそうな話をしてましたね。」
「参ったなぁ、雛見沢連町が燃え上がっちゃったぞ…。斉藤くん、悪いんだけどさ、園崎顧問に電話して事情を聞いてくれないかい。俺は相談所に連絡する。…これは……ひょっとするとヤバイぞ、ダム戦争の再発になるぞ……。……あー、もしもし。どーもお世話になっております、自治係でございますが、所長さんはおいでですか。」
「雛見沢の連合町会が支持、ですか…! 先日、聞いてもらった時には確か、町会と連中は無関係だって話だったんじゃないですか。」
「えぇ、先日、会長や顧問にお尋ねした時はそういうお話だったんですが…。何でもですね、昨夜の役員会でころって一転して全会一致で支持に決まったそうなんです。」
「…まぁ、わかりました。ですが別に、町会名で抗議にいらっしゃられても、こちらも対応を変えるわけにはいきません。町会の抗議があったから特別待遇にしなくちゃならないなんておかしいですから。」
「所長、…雛見沢連町はご存知と思いますが、前身は鬼ヶ淵死守同盟です。所長はダム戦争はご存知ですよね?」
「ダム戦争の時は県にいましたから新聞に載っている以上のことはよく知りません。本庁の方にデモが来てたみたいな話は聞いてますが。」
「……端的に申し上げて、少しですね、先方の話に耳を傾けられた方がよろしいんじゃないかと…。」
「でも係長さん。死守同盟はもう何年も前に解散しているでしょう。その後、お宅とうまくやってると聞いてます。」
「えぇ……、うまく行ってるつもりだったんですが…。たった一晩で何があったやら…。陳情のリーダーの前原くんという子を、会長さんがとても気に入られてるようでして。しかも園崎顧問の支持まで得るとは…ただ事ではありません。」
「園崎顧問って、よく聞く雛見沢の影の会長さんって方ですよね? お会いしたことはありませんが。」
「とにかくですね、ご注意いただいた方がよろしいかと思います。もしも可能でしたらですね、…………その、えっと北条さんの件、急いで保護してあげる方向で検討してもらえないでしょうか。」
「私は町会さんとご縁があったことがないのでわかりかねますが、そもそも行政は粛々と進めるべきものであって、その処理する順番が横槍によって変るのは職務の怠慢ではないかと考えます。うちの職員も、少ない人員の中で精一杯やってるんです。福祉司も山積みの仕事の中から順に片付けてるんです。そのどれもが当事者にとってとても大切なことです。どれも最優先でどれも後回しにできません。」
「……そうですか…。わかりました。…では私の方から公由会長さんの方にそのように連絡しておきます…。」
「そんな連絡する必要があるんですか? 市政は町会の太鼓持ちじゃないでしょ。お宅もあまり特定の町会にばかり便宜を図るとよくないんじゃないですか?」
「わかりました。えぇ、はい、申し訳ございませんでした。…それでは失礼いたします…。」
チン。
「……………駄目だな! この所長、県市の人事交流で来てる人だ。地元町会の怖さをわかってない!」
「あはははは、県の職員出身じゃそんなもんですよ。」
「しかも相手は雛見沢連町だぞ…。俺はどうなっても知らないからな…。そっちはどう? 園崎顧問と連絡がついた?」
「はい。公由会長と同じ意見だそうです。相談所への連絡に対する返事は、会長だけでなく顧問の方にもほしいそうです。」
「………かーーーーー、まっずいことになったなぁ! 半ドンの楽しい土曜日が朝から台無しだよ! 相談所長は怖い物なしで、町会なんか知らんってさ。下手すりゃ週明けには本庁と相談所を街宣車が囲むこともありえるぞ…。」
「会長宅と顧問宅に連絡ですね。手分けしてお返事しますか?」
「……その前に、市長室に連絡するよ…。」
■幕間
■9日目
「拒否、ですか……!」
「うん。自治の係長さんから連絡があってね。相談所の所長はあくまでもこっちの言い分を聞くつもりはないらしい。向こうも引き続き内部で調整してくれるみたいだけど、ただ、こっちは沙都子ちゃんを救うのに一刻を争ってるんだからな。そんな悠長なことは言ってらんないって言い返してやったよ!」
昼前に学校に村長がやって来て、俺たちにお役所とのやり取りを説明してくれた。
俺たちはみんな職員室に集まってそれを聞いていた。
「ひゅ〜。私は所長さんの顔は見てないんだけど、雛見沢の名前を出して強気なことだねぇ。」
「何でも県から降りてきた職員らしくて、あまり町会のこととかを知らないらしい。住民の一部がごねてるくらいにしか思ってないらしいよ。」
「馬鹿ですねー。他の町会ならいざ知れず、雛見沢を本気で敵に回しますか。」
「……かわいそかわいそなのです。」
「こうなりゃもうやるしかない。さっき神社で役員と話したんだけど、もう後には退けない。何しろ、うちの名前を出しちまった以上、そうですか駄目ですかじゃあ引き下がれねえ!」
「私たちは今日もこの後すぐに相談所に行くつもりです。」
<レナ
「うん。町会からも人数を出せないかこれからすぐに調整するよ。これからお魎さんのところに行って対応を協議する。」
「ダム戦争の時はともかく、何しろ普通の土曜日じゃないですか。なかなか人なんて集められないんじゃないですか?」
「あー圭ちゃん、ここは都会じゃないからね。野良仕事の人の方が多い。曜日なんて基本的に関係ないんだよ。だから土曜日の真昼間から準備の人手も大勢集まれるわけよ。」
そうなのか。ついつい都会的に考えると、大人の人はみんな会社勤めと考えちまう。
でもここは雛見沢なんだよな。納得。
「普通のお役所は土曜だからお昼で閉まっちゃうけど、相談所は土曜日も午後3時まで開いてるそうだ。だから、1時に現地集合にしてもらっていいか。何人集められるかはちょっと約束できねえけどな!」
「何人来てくれても嬉しいです。どうかよろしくお願いします!」
「大人の人が増えるのは私たちには心強いね!」
「そうだな。四日続けて同じ顔ぶれだから、相当インパクトがあるぞ。」
「……どのくらい集まるかは、お魎の号令次第なのです。」
「そうだね。来てくれる人数で、婆っちゃの本気度が測れるだろうね。」
「お母さんが言うほど鬼婆が機嫌がいいなら、…30人くらいはくるかもです。役員に青年部。妥当な数字でしょ。」
「大人30人に子どもが10人ちょっと。
うん、昨日よりもずっとそれらしいね!」
「もちろん、私も行くからな! 拡声器も持って行っちゃうぞ。」
「おー!
おじいちゃん必殺の鬼の拡声器ですね。あれって壊れたんじゃないんですか?」
「それは古い方だよ。機動隊に壊されちゃったけどな! 鬼ヶ淵死守同盟の頃の血が疼いてくる!」
「……どうやら、今年は綿流しの前に別の祭りになりそうだな。相談所め、待ってろよ!!」
「また、沙都子ちゃんが虐待を認めないから虐待はないの一点張りなのかな。」
「可能性は高いな。…………梨花ちゃんの方はその後どうなんだ? 沙都子に、素直に助けを求めるよう説得はできたのか…?」
「………………ボクなりの精一杯は言ったつもりです。…あとは、沙都子次第としか言い様がないです。」
「沙都子も早く変な意地を捨ててくれればいいのに…。」
「お姉。捨てていい意地と捨てちゃいけない意地があります。私は沙都子の気持ちがわかりますよ。」
「あ、ごめん、そういう意味で言ったんじゃないよ…。」
「沙都子ちゃんは内心、誰の助けも入らないと思ってるかもしれない。でも、あの表情を見て助けを呼んでいるように見えないなら、そんなの仲間じゃないと思う。」
「そうだな。確かに沙都子が助けを求めてくれれば一番話は早い。でも、それを待ってたら大変なことになっちまうんだよ!」
「……赤信号の横断歩道の真ん中に立つ子がいたら、まずは諭す前に歩道に連れ戻す。…諭すより手を引くのが先であることもありますです。」
「うん。いい例えだね。まずは沙都子ちゃんの手を引っ張ることから始めないとね!」
「話はわかりました。では教室へ戻って早くホームルームにしましょう。相談所へ行く前に、ちゃんと家に帰ってお昼にするんですよ。お昼抜きで買い食いはいけませんからね!」
<知恵
その時は誰もが、詩音のいう40人も集まれば御の字で、実際は30人も集まらないだろうと思っていた。
だが、俺も甘かった。……雛見沢が本気になるということを侮っていた。
俺たちがクラスの10人ちょっとで現地に集まった時には、普段の閑静な図書館前の様子は嘘のように一変していた。
「…すっごい…。これ全部、雛見沢の人だよね…?!」
「雛見沢だけじゃないね。興宮に住んでる人にも動員が掛かってるね。」
「本当だ。お店のエプロンをしたまま駆けつけてきてる人もいるぞ…。かなり異様な光景だぞ…。」
「……ということは、お魎は相当本気で号令を出したようなのです。」
「そのようです。何だか私には心地いい雰囲気ですね! 私の大好きだったダム戦争の頃が懐かしくなります。」
「Kぇえぇい!! 今日はすごいっすね、どういうことっすか!!」
「おお、亀田くんか。まぁな。雛見沢丸ごとに声を掛けたってわけだ。」
「集められるのは子どもだけだと思ってました。まさか大人まで集めるなんて!! そこに痺れる憧れるっすー!!!」
「まさかこれだけの大人が集まるとは思わなかったにょり…!」
「女の子は人類の宝でござる!! 同志がこれだけ集まるのは当然でござるよ!!」
人数もすごいが、集まっている人も多種多様だ。……しかし、何人いるんだよ一体…!
「えっと、……軽く数えて100人を越えてるね…。しかも、話を聞いてると、まだ遅れてくる人たちがいるみたい…。」
「前原さん! 遅れて申し訳ありません。すごい人数じゃないですか!」
<入江
「やはり鬼ヶ淵の人たちが集まるとすごい規模になりますね…。」
<知恵
「…話は聞いてたけど…、あなたって本当にすごいのね。」
<鷹野
「いよいよにもってダム戦争の頃を彷彿させるよ! しかし、これだけの人数をまとめたなんて、圭一くんはすごいね! 雛見沢の顔役だね!」
<富竹
「圭一くん〜!! おお、結構集まったね!」
「村長さん…、一体、何人に声を掛けたんです?!」
「人数なんか知らないよ。町会の連絡網で死守同盟の緊急集合をかけただけさ。みんな野良を放り出して駆けつけてくれた猛者ばっかりだよ! あーー、みんなみんな、今日は町会としての抗議だから、死守同盟の名前が入ったものは使わないでねー!!」
「あ、圭一くんのお父さんも来てるよ! こんにちは〜!」
「やあレナちゃん、こんにちは! 圭一〜、父さんも応援に来たぞー! 母さんも来たがってたんだが、ちょっと仕事の電話待ちがあってな。がんばれと伝言を頼まれてるぞ!」
「うん、ありがと!」
「しかし、お父さんもダム戦争の頃の話は一応、聞いてたんだが、すごいなぁ! 圭一はこの人数の代表なんだろ?!」
「…うん。最初はほんの5人程度の代表だったつもりなのに。でも、こうなっちまったら、100人率いるのも1000人率いるのも同じさ。仲間を救うために最善を尽くす!」
「……圭一。いよいよ正念場なのです。」
「だな。兵力充分、気合もたっぷりだ! 相談所の連中、さっきからカーテンの隙間から何度もこっちを伺ってるぜ。きっとビビってやがるころだぞ!」
「しょ、所長…、何だかすごい人数ですね…。どうしましょう…。」
「どうするもこうするもない。粛々と事務を進めるしかないでしょう。陳情があれば聞くのは窓口の仕事です。私はちょっとこの後、出張があるので係長の方で対応してください。」
「ですがその、表では『所長は直談判に応じろ』なんてプラカードを掲げてますよ…。ほら…。」
「………………うう…。」
そのプラカードは、実は旧死守同盟が使ったものだった。
今回に使えそうなものだけを持ってきたのだ。
だから所長は所長でも、本当は工事事務所長を指したものだった。
もっとも相談所長はそんなことは知らないから、足をすくませるだけだ。
「所長は先日、代表3人と話をしてますよね。自治の話によると、雛見沢の連中は顔を覚えるのが早いそうです。所長が駐車場に行くまでの間に面が割られちゃいます…。」
「係長、裏の職員通用口のとこにも何人か張り込んでるみたいっす!」
「それはどういう意味ですか。まさか私を捕まえようってことじゃないでしょ?!」
「…ダム戦争の当時は流血沙汰が当り前だったそうですから…。もし所長の出張も、日を改められるものなら今日は控えた方がよろしいんじゃないかと……。」
「そ、そうですね。急ぎの出張じゃないので、今日は中で事務をしています…。」
その時、外からキュイ〜ンというスピーカーのハウリングの音が聞こえてきた。
『あーテステステス、チッチッチ。大丈夫? こちらは雛見沢連合町会でございます。ご近隣の皆様にご迷惑をお掛けします。テーステース!』
そのスピーカーのボリュームはだいぶ上がるらしく、テストを言いながら相当のボリュームを調整しているようだった。
いつの間にか、屋根の上にスピーカーを付けた街宣車もどきのワゴン車もいる。
この頃になってようやく、所長は雛見沢を敵に回すというのがどういうことか理解し始めた。
「すごい人数です…。何だか、もうじき入ってきそうな勢いですね…。」
「な、中に入れたら他の事務の支障になると思います。何とか中に入れない方針で…。」
集合の時間をすでに30分は過ぎていた。
村長が言うにはまだ遅れている一部の人たちがいるらしい。
この人数が揃ってもまだ人が集まるというのか…。
レナが再び数えたところ、その数は150を越えていた。
月曜日の夕方にも同じ人数が集まってくるかはわからない。
でも、今日の勢いで一気に相談所に迫りたいところだ…!
「よし、圭一くん。このくらいで行こう!」
村長がゴーサインを出した。
だが、相談所の中に突入する前に、シュプレヒコールをあげたいらしい。
デモや集会にも色々なやり方があるんだな。
「でも魅ぃちゃん、こんな大勢で、あの狭い相談所の中に全員入れるのかな、かな。」
「もちろん全員は無理だよ。中に入れる人と溢れちゃう人にわかれちゃう。
だから、中に入る前に全員でシュプレヒをあげるわけ。」
「お姉〜。今日は物を蹴ったり壊したりは厳禁ですよー。」
「し、しないよ私はそんなこと!
あんたが私の時にやった悪行のせいで、私は迷惑してるんだからー!」
「おや、あれは大石さんじゃないですか?」
<入江
見れば、何と大石さんまで来るではないか。
やはり同じ牌を握った仲間! 雛見沢の人間ではないが駆けつけてくれたのだ!
「前原さぁ〜〜ん!! どうもどうも〜!!」
「大石さん! ちょうどいいところでした! これから中に入ろうというところだったんです。」
見れば、大石さんも仲間を連れてきてくれていた。
制服を着てる警官まで含めてなんと4人も来てくれていた。
「前原さん、ちょーっと急ぎのお話が! 公由の村長さんも〜、どうもどうも!」
「こりゃ大石さんじゃないですか。おや、どうしたんです。」
「ちょっとお二方に大至急のお話がありまして。ちょっとよろしいですかねぇ。ここでは何ですので、もうちょいあちらの方へお願いします。」
「……え?! ど、どうしてですか!!」
「えぇとですねぇ、早い話がここはお役所の敷地内です。特定の目的で占用することは禁じられてます。」
呆然とする他なかった。
これだけの人数を集め、いよいよ今日だと言うのに、大石さんに、いや、警察に解散を命じられたからだ。
「どういうこっちゃん! 役所は住民の声を聞かんって言うんですか!!」
「そうです、俺たちは別に悪いことをしようってわけじゃない。沙都子をすぐに助けてもらいたいと訴えに来ただけですよ?! それがどうしていけないんですか!!」
「この敷地内での無届集会がまずアウト。それから鹿骨市児童相談所施行条例という条例があり、施設長は業務の支障になると認定した場合、敷地からの退去を命じることができるとなってるんです。」
「施設長?! って誰です!!」
「まー、早い話が児童相談所の所長さんですなぁ。」
「き、汚ぇえ!! 話も一切聞かないつもりかよ!! じゃあ、俺たちはどう訴えればいいんですか! 敷地からの退去ってんだから、ここから出てそこの歩道からならいいわけですか?!」
「公道での集会なら県の公安委員会に届出を出してください。詳しくはお近くの警察署へお願いいたします。つまり、今日は解散せざるを得ないってことなんですよ。……まー、前原さん。相当、向こうに嫌われちゃったということですなぁ…。」
「……そんな馬鹿なッ!! こんなことってない!! せっかくこれだけの人が沙都子を救えと結集してくれたのに!! それを伝えることもできないなんて…!!」
俺と村長のただ事でない様子に、すぐ仲間たちも駆けつけてきた。
そして大石さんから、同じ話を聞かされ、俺とまったく同じ反応を返した。
「そんな…!! こんなのって酷過ぎです!」
<詩音
「向こうは私たちがいくら訴えても、やってきた人数を書くだけじゃないですか。だから私たち、支持を集めて人数を集めたんです!」
<レナ
「……まぁねぇ…、いくら言っても、向こうにはそういう権限があるってんだからねぇ。
これっぱかりは仕方ないよ。大人しく警察に従うか、警察を敵に回すしか二つしかない。」
「なっはっはっは…。もうダム戦争は終わってます。戦争ごっこはご勘弁願いたいですなぁ。」
「くそ…!! じゃあ、どうするんだよ! 大人しく解散してまた出直すか?!」
「出直しても多分同じだよ。また同じことになる。…所長はもう、私たちには一切会う気がないんだよ。役所の機嫌を損ねるってのはこういうことだからね。」
「じゃあ魅ぃちゃん、私たちはこれからどうするの?!」
「………ここからは息の長い戦い方しかなくなってくるね。敷地に入れないってんだから、せいぜい、最小の人数で正面の歩道から横断幕張って、要求貫徹を叫ぶくらいだね。それを延々と連日やり続けてプレッシャーを与えるしかない。」
「短期決戦どころか、長期戦ってことかよ…!」
「……お役所もヤクザだからねぇ。意固地になるとかえって逆効果かもしれない。」
「天下の鬼ヶ淵死守同盟がこれでおしまいですか?! 情けない! おじいちゃん、何とかできないんですか?!」
<詩音
「…詩音ちゃん、死守同盟はもちろん押しの強さで戦ったところもあるけど、基本は粘りなんだよ。ここまで露骨に拒否されると、ダム戦争の時の工事事務所と同じで、後は囲んで長期戦しかなくなっちまうよ…。」
それじゃ意味がない…。
これだけの人数がいるんだ。
むしろ今日中に決着する位のつもりでいたんだ。
……沙都子は今日、また学校を休んだ。
叔父からまた風邪を引いたとの連絡があったという。
知恵先生が月曜日には登校できますかと聞いたら、必ず登校させるというようなことを言っていたという。
…だから安心ということにはまるでならないのだが。
今日は土曜日だから、月曜といったら明後日だ。
それだけの未来にも沙都子が無事なんて保証はない。
……俺が想像する最悪のイフの世界では、沙都子はもう、綿流しの前日の時には悲しいことになっていた。
この世界の沙都子は、そこまで最悪な展開をしてはいないようだが、だからといって、今この瞬間に無事という保証はないし、月曜日に登校してくるかもしれない沙都子が壊されていないという保証もまるでなかった。
「………長期戦なのか? 結局、相談所が望むだけの期間を待つしかないのか…?!」
「駄目だよ圭一くん。…沙都子ちゃんを救うのに一刻の猶予もないの! なぜって言われたら困るけど…、それがわかるの!」
「……せっかく、これだけの人数が集まったのに…、もはや中に入ることもできないなんて……。」
<梨花
梨花ちゃんが悔し涙を浮かべていた。……くそ、くそくそくそ! 梨花ちゃんに俺は、どんなものでも打ち破れるってことを何度も偉そうに講釈してきた。それなのにこれで屈しちまうのか?!
数日前には予想もつかなかったほどの人数を集めた。
町会の支持を受けて、魅音の婆さんの許可まで取った!
他に何をすればいいんだ!
何をすれば、俺たちの願いが届くんだ!!
まだしたりないことがあるのか?! 畜生ッ!!!
「梨花ちゃん、そんなに悔しがることはないよ。」
「……魅ぃ…?」
「…………私たちはやれることは全てやってる。そう信じてる。ね?」
「あぁ。できる全てをやったと信じてる。」
「……だったら、追い風が吹くのを待つしかない。準備が万端なら、あとは待つしかないんだよ。きっと追い風は吹く。」
「それはいつなんだよ…!! くそ、くそくそくそ!!!」
■沙都子の叔父ターン
沙都子は死んだように眠っていた。
学校へ行かせないと、またあの小生意気な知恵とか言う女教師が押し掛けてくるかもしれない。
だから沙都子には這ってでも登校してもらいたかった。
だが、沙都子をいくらたたき起こしても、崩れるように倒れて眠ってしまう。
……まさか本当に風邪かと思い額に手を当てると、確かに高熱だった。
……こんな状態で無理に登校させると、またどうこう言われるかもしれない。
仕方なく、風邪だと学校に連絡した。
知恵は根掘り葉掘り聞いてきて、短気な鉄平は思わず、「今度は本当に風邪だ」とわけのわからないことを言ってしまった。
その失態に小一時間以上も経ってから気付き、鉄平は今さらのように不機嫌であった。
沙都子に関わるようになってから面白くないこと続きだった。
何しろ、沙都子を引っ張り込んだその翌日にはもう学校の教師が押し掛けてきてる。
今も時折、電話がある。
相談所からもだ。しかもどいつも沙都子を電話口に出せとうるさい。
沙都子は悟史の部屋を荒らされたくないから、そうそう口答えはしないと信じたいが、人間追い詰められたらどうなるかわかったもんじゃない。
沙都子がしおらしくいつまで言いなりなのかは鉄平にもわかりかねていた。
ひとつだけ間違いないと思うのは、いつまでも恐怖だけでは支配できないということだ。
自分が睨みを効かせてもその場しのぎなだけで、今後一年以上にも渡って大丈夫だということでは断じてない。
とにかく、沙都子が余計なことを言わない内に、とっととこの家を出たい。
そのためにも、早く通帳を見つけなければならなかった。
沙都子はぐしゃぐしゃの毛布の中で、汚い猫みたいに丸まって寝ていた。
よく見れば薄っすらと汗ばみ、呼吸も荒い。……本当に高熱のようだった。
でもそれは鉄平にとっては、心配するべきことではなく、むしろ正反対。
今なら悟史の部屋に入っても気付かないだろうと考えた。
これまでは沙都子を支配する上でのひとつの約束として、悟史の部屋を荒らすのを敬遠してきた。
実際は沙都子が学校に行っている間に入っていたが、その痕跡が残らないよう、こっそりとだった。
でも、鉄平はもう限界だった。
一刻も早くこの家からおさらばしたかった。
沙都子の高熱が単なる風邪ではなく、精神的に追い詰めたことによる何たらかんたら疾患で、このまま大変なことになった日にはますますの面倒に巻き込まれるに違いないと思ったからだ。
足音を殺しながら階段をそっと上がり、悟史の部屋の前に来る。
襖をそっと開けると、何かにコツンとぶつかるような手応えがあった。
襖が家具か何かにぶつかったのだろうぐらいに思った瞬間、バシャーーン!
とシンバルが鳴るような金属音が鳴り響いた。
襖を開けた拍子に何かに引っ掛かり、それが本棚の上から何かを落としてしまったようだった。
沙都子に気付かれないよう、静かに忍び込もうと思った矢先のことに、鉄平が舌打ちしようとした時、階下からバタバタと沙都子が掛けて来る音が聞こえてきた。
今の賑やかな音で目を覚ましたという風ではない。
今の音が、悟史の部屋からしたもので、鉄平が悟史の部屋に入ろうとしたから出た音だと即座に理解したようだった。
「やめてやめて…!! にーにーの部屋に入らないでぇえぇッ!!!」
「……ぁぁん、もう、静がにやろぅ思うたんに、いきなりこれかい。ツイとらんわ…ッ!! わしゃあんな、銭がいるんよ! 悟史の部屋に通帳が隠してあるんわ、わがっとん!! お前が悟史の部屋に隠したこともわがっとん!! 大人しゅうあんじょうせいやッ!!」
「通帳なんて知らないですわ!! そんなのにーにーの部屋にはありませんのよ…!! だからにーにーの部屋を荒らさないでええぇ!! にーにーが帰ってくるまでそのままなの!! にーにー、にーにー!!!」
「やっがましかッ!!」
沙都子は鈍い悲鳴をあげて、ごろんごろんと転がった。
「ぅ、…ふわああああぁあああぁああぁ!! あああぁああぁあん!!! にーにー!! にーにーー!!!」
堰を切ったように沙都子が泣き叫ぶ。
殴ると跡が残って後で相談所にうるさく言われて何やかんや…。
暴力の塊である鉄平にとって、殴るなと釘を刺されることはある意味、それだけで精神的苦痛だった。
だが、こうして衝動的に殴った瞬間に、そのタガが外れたようだった。
沙都子は左の頬を押さえながら、わんわんと泣いていた。
ぶん殴った時に、歯で頬の内側を切ったのかもしれない。血の混じった唾液が口を汚していた。
「ぅわああああぁああああん、わああああああぁあぁあん!!!」
「…かぁぁ、…やってもうたん……。また来週来るっつうとったな相談所。…腫れが引かんがったん、面倒なごとになるのぉ……。ああぁッ!!! もうざったいわあ!! にーにーにーとやっかましッ!! おどれは壊れたラジオかい!! 黙らんかボケぇッ!!!」
うずくまる沙都子を思い切り蹴る。
……リナが姿を消してからというもの、毎日ろくなことが起こらない。
さんざんケチがついて、その挙句の果てにはこの泣き虫の小娘だ。
できるのは家事と炊事だけ、あとはびくびくしてるだけで気の利いたことのひとつもできやしない!!
沙都子が堰を切るかのように泣いたのと同じく、鉄平もまた鬱積した怒りが堰を切るのを感じた。
「黙れッちゅうとんがわあらんかああッ、だぁれゆうとん!!!」
■圭一ターン
「くそ、くそくそくそ!! 大石さん、あんたにも人の心があるなら、どうか今日だけ目を瞑ってください!! こうしてる間にも沙都子の身に危険が迫ってるかもしれないってのに!!」
「おおっとぉ。私に指一本でも触れると、執行妨害で現行犯逮捕しますよぅ?」
「く、くそぉおおぉ…ッ!!」
「やめなよ圭ちゃん、挑発に乗っちゃ駄目だよ!」
「大石のおじさま、そんな態度だときっと長生きできませんよ…!」
<詩音
「そりゃ怖い。言葉をもうちょい選ばないと、あなたの場合は恐喝の現行犯になりますよ? んっふっふっふ…!」
「…………よしなよ圭一くん。…大石さんは私たちの味方だよ。」
「はぁ? レナ、お前何を言ってるんだ?!」
「……わかんないかな。大石さんは、言葉がさっきからやさしい。警察の体面で言ってるだけで、本当は圭一くんの味方なんじゃないかな。
だって、大石さんが本気で私たちを追い払おうとしたら、こんな悠長に話し合いをしないで、実力で追い払ってると思うもの。」
「追い払われなくても、現にこうして相談所の前に立ちはだかってるじゃないかよ…! これがどう味方だってんだよ!!」
「大石さん、パトに課長から無線が入ってるっす。」
「ありゃ、どうも。じゃあ私はちょっと席を外します。皆さんは解散の段取りだけお願いします。
そこから一歩でも前に進んだら、その時点で宣戦布告ってことにしますからね。覚えといてくださいよ? んっふっふっふ!」
「…くそったれッ!!」
「もしもし大石です。感度良好〜。」
「大石さん。そっちの件はどうですか。」
「大丈夫です。皆さん、極めて冷静です。ただ人数が集まっちゃったので、内部の話をつけるのに時間が掛かっちゃってるようです。」
「そうなのかい? 相談所の方からまた電話が来てるよ。まだ解散させられないのかって。」
「もうじき解散しますよ。トップの話はもうついてるんです。向こうが多分、内部を説得するのに時間が掛かってるんでしょう。まぁた電話があったら、もうちょい待ってくださいと伝えてください。」
「鬼ヶ淵死守同盟が動き出した、なんて聞いて大石さん行ってもらったけど、今回は穏便に行きそうだね。」
「えぇえぇ。ダム戦争はもはや昔の話です。もうちょい時間をください。」
「大石さん、よくスラスラ嘘が言えるっすね…。トップの話なんて全然ついてないじゃないですか。」
「なっはっはっは。さぁてねぇ、どの舌が嘘をついたやら。」
「署長からすぐに解散させないと暴動に発展する可能性があると脅されてますし。やはり増援を頼んで、向こうがこれ以上体勢を整える前に攻撃した方がよろしいんじゃないすか。」
「熊ちゃん。そう意地悪しなさんなよ。」
「は?」
「…仲間を助けようとして、あれだけの人数を集めたんですよ。大したもんじゃないですか。町会を動かしたってことは、園崎お魎を説き伏せたってことだ。園崎天皇をあの年で説得するなんて、できることじゃありません。」
「……やはり、これだけの人数を集めるには、園崎お魎の根回しは不可欠ですか。」
「連中が助けろって言ってる沙都子ってのは、ダム推進派の北条夫妻の娘です。見殺しにはしても助けるために村が立ち上がるなんてことはありえない。…それくらいに村と北条家の間の溝は深かったはずです。……それを、わずか数日で埋めたんですよ彼は。
……実はね、私、そのやり取りの一部を見てるんですよ。綿流しの準備会の席上でね。彼は勇ましかった。村の年寄り連中から総攻撃を食らっても全然怯みやしない。見事、年寄り連中を説得した。そして、お魎も説得できたら協力するという難問を吹っかけられた。……で、今日があるんだから、園崎本家まで納得させちゃったわけだ。……ありゃあ将来は大物だよ。熊ちゃんは今から前原さんと仲良くしといた方がいいかもしれませんよ? んっふっふ…!」
「じゃあやはり大石さん、…手加減してましたね。普段なら強引にやるはずなのに、話し合いなんて生ぬるいことを始めるから、驚いてたとこです。」
「……前原さんに、今日はちょいと花を持たせようと思ってます。」
大石が言った言葉は、警察が口にしてはいけないことだった。
…でも熊谷は、何となく事情を察したようだった。大石が浮かべるように薄く笑い、言った。
「解散したってことにして引き上げますか?」
「んっふっふ! そこまでサービスすることはないです。それにね、前原さんたちも熊ちゃんも、鬼ヶ淵の連中をまだまだわかってない。こんな程度ね、すぐに破られちゃいますよ。まぁ見ててください。」
「破られるまで待とうってことですね。……憎まれるばかりで、相変わらず感謝されない役ですね。」
「んっふっふっふ! 熊ちゃんも一本吸います?」
大石がにやりと笑いながら煙草を一本勧めると、熊谷は笑いながらそれを取った。
その時、すごいブレーキの音を鳴らしながら、真っ黒な高級車が2台ほど停まった。
「…そ〜れおいでなすった。行きますよ、熊ちゃん。」
2台の車から降りてきたのは、高級そうなスーツを着た様々な雰囲気の男たちだった。
見るからにガラの悪そうなヤクザ風や、いかにも賢そうなインテリ風。
そして見るからに威圧的な紋付袴の老人と、まるでヤクザの幹部が丸ごと到着したかのような連中だった。
「前原圭一くんはいるかッ!! どこだ!」
「ま、前原圭一は俺です…! な、何の用ですか…!」
「間違えるな、我々は君の味方だ。」
「あんた方は……だ、誰ですか!」
「…あ、……お、…叔父さん! どうしてここに!!」
<魅音
「って、そんな、……ありえないです…!」
<詩音
魅音と詩音が驚くような連中というだけで、何となく緊張感が走った。
「さぁ圭一くん、君が代表だ。躊躇うことはない、行こう。」
男たちに肩を叩かれる。…しかし、行こうと言っても警察がいるし…!
「はいはいはい、ストップストップ。興宮署の大石です。
皆さんこんにちは。どちらへおいでですかなぁ?」
「何じゃいお前は。警察が住民の代表の陳情を妨害するとはどういう了見じゃ!!」
「いえいえ…、園崎先生。これはですね、相談所側からの要請に基づく出動でございまして。」
園崎先生?
先生ってどこかの学校の?
そんなボケは必要ない。
この袴の人が噂に聞く、園崎家の県議という人だろう。
怒鳴ると恐ろしい人だ、みたいな話を詩音辺りに聞いたことがあるような…。
「じゃかましい、警察はすっこんでろ!! おう、お前にここに来て陳情を妨害しろと命令しよったのは誰じゃ!!」
「いぇ、なっはっは、署長からじきじきでして。いや、署長には逆らえませんもので。」
「興宮署の署長だなッ!!! あとで厳重抗議しちゃる、首を洗って待っとけと言うておけやッ!!!」
そのやり取りを聞いて、大石の相方の刑事は笑いを堪えているようだった。
「はいはい、伝えておきます…! でですね、とりあえず、市の施行条例がございまして、
施設長である相談所長がですね、彼らが入ると事務に支障があるってんで権限の範囲内で敷地からの退去を命じてるわけなんです。」
大石さんが、困ったような嬉しそうな?妙な顔でそう言うと、園崎議員に代わって、今度はインテリ風の高級なスーツの男が出た。
「どうも。園崎法律相談事務所より参りました、弁護士の園崎です。市児童相談所施行条例は拝見させていただきましたが、本件は不当で職権濫用に当ります。こちらは施行条例の複写。
また、前原圭一氏は雛見沢連合町会が委任した陳情団の団長です。こちらが連合町会発行の委任状。
雛見沢連合町会は鹿骨市役所自治係の立会いの下で結成された善意の住民団体です。
よって前原圭一氏は正当な手続きを経て結成された住民団体の正当な代表者と認められます。この陳情を拒否するのは明らかな職権濫用であり、これは市職員服務規程にも違反します。以上から、児童相談所長の命令が失効することは明らかであり、それに対し警察がこれ以上の妨害を行なう場合、」
「あーあー……、わかりましたわかりました、ごめんなさい。どうぞ皆さん、お通りください。」
「最初からすっこんどればええんじゃ!! さ、行くぞ圭一くん!!」
「あー…全員で入られれば、やっぱりそれは事務に支障が出ると思うんですがねぇ…。」
「ご心配なく。団長以下の我々代表団だけで入ります。この人数でも業務に支障があると言われますか? 相談所内の待合ロビーにはソファーが4基あり、10人程度の訪問者は充分に想定の範囲内で、」
「なっはっはっは…、失礼しました、蛇足でした。どうぞどうぞお通りください。」
「前原くん、行きましょう。もう私たちを遮る敵はいません。」
「あ、は、…はい! おいレナ、魅音詩音、梨花ちゃんも!! 行くぞッ!!」
「…うん! 行こう、みんな!」
「……やはり、これはお魎の口利きですか?」
<梨花
「…………だねぇ。
…まさか婆っちゃ、この人たちにまで声を掛けてくれるとはねぇ…。」
「見て見ぬふりどころか、……園崎本家最大支援じゃないですか。鬼婆、どういう心変わりですか…。」
「レナは驚かないけどな。魅ぃちゃんのおばあちゃん、きっと力になってくれるって、信じてた!」
「そっか…。あの婆さんにはとんでもないことたくさん言っちまったけど……、畜生、キスしてやりたい気分だぜッ!!」
「じゃあみんな!! 私たちは行ってくるね!!」
<レナ
「「「うおおおおぉおぉおお!!!」」」
いよいよ本丸に突入する時が来たと歓声があがる!
「前原さぁん、委員長ぉ!! 北条さんをお願いしますー!!!」
「沙都子ちゃんをお願いー!!」「前原の坊主ぅ! しっかりなぁッ!!」
「いよいよ天王山でござるよーッ!!
ご武運をでござるー!!」「エンジェルモート擲弾兵連隊、退路を確保、同志の突撃を援護せよッ!!」
「Kぇえええい!! 頼むぜ、熱いのを一発ブチかましてやれッ!!」
「あぁ、見てろよ!! やってやるぜ!!」
「……前原さん! ここで待ってます。良い報せを待っていますよ!!」
<入江
「必ず良い報せを!! 先生も待ってますからね!!」
<知恵
大勢の無数の期待を背に、俺は握り拳を上げて応えた。
そして俺たちは、園崎家の議員や弁護士などの大物たちを従えて、ついに相談所に入った…。
ついに、ついにだ…!!
自動扉を入ると、エアカーテンの風の向こうは外の汗ばむ熱気とは無関係の涼しい世界だった。
外の喧騒が一段ボリュームが下がって聞こえる。それでも外の応援は充分に聞こえた。
事務室の職員たちは全員、こちらの姿が見えているはずなのに、話しかけられるまで気付かないふりをするかのように、急に真面目に仕事をしだしていた。
「こ、こんにちは。今日はどんな御用でしょうか…。」
「前原圭一です。北条沙都子の即時保護についてお願いにあがりました…!」
「四の五の言わんで所長を出さんかッ!!!
雛見沢連町の代表の前原氏が来とるんじゃ、所長対応せんかいッ!!」
「しょ、所長はただいま所用で手が離せません…。代わって私がお話を賜ります…。」
「どうも。園崎法律相談事務所より参りました、弁護士の園崎です。以後の会話は全て録音させていただきますのでご了承をお願いいたします。どうか相談所として責任あるご返答をお願いいたします。」
「………しょ、…所長の手が空くかどうか確認いたします。少々お待ちください…!」
「原山くん。お久し振りです。」
「そ、園崎議員、その節は大変お世話になりまして…!!」
「今日は雛見沢連合町会の代表団のメンバーとしてお伺いしました。所長さんに会わせてください。」
「た、大変失礼しました。君、所長席前の応接にご案内してお茶をお出しして!」
警察には県議の方が、そしてお役所には市議の方が効果的らしい。
…園崎家には県議と市議がそれぞれいると聞いていたが、……今日は両方揃っている。ある意味、無敵だった。
所長席前に来るが、その席は空っぽだった。
だがこの建物の中にいるはずだ。
何しろ、ずっと外で取り囲んでるんだからな。
逃げようったってそうはいかねえ!
居留守で逃げ切れるなんて思ってるんじゃねえだろうなッ?!
2階の会議室では、ブラインド越しに外の人々を恐る恐る覗きながら、所長が落ち着きなく歩き回っていた。
「何で連中を中に入れちゃったんです…! 警察は何やってるんですか!」
「いえそれが……、県議と市議の園崎議員が両方おいでで…、あと弁護士らしき人もいます。責任ある回答をといわれると、管理職以外では対応できません…。」
「…そ、そうだ、今日は土曜日だ。もうすぐ3時ですね。3時までここに隠れています。そして3時になったら、業務終了でお帰りいただいてください。その間に私は自治の係長と今後を相談します…!」
「……自治の係長からは、折れといた方がいいって、ご助言いただきませんでしたっけ……。」
「町会って言うから、もっと近所のおっさんなんかが来ると思ってたのに…!! 何で議員が来るわ弁護士が来るわヤクザは来るわ! 人が200人も集まってくるわけですかッ!!」
「……………それが、その、……雛見沢ですから。」
「とにかく、あと10分待てば閉庁時間です! 連中の前に引き摺り出されたら恫喝されるに決まってる! でもね、私は折れませんよ、それが公務員の務めです! 私は公務員生活40年の中で、自分に誇れる仕事をしていきたい! だからこそ恐喝されたから折れるなんて恥さらしな真似はしたくありません…!」
その時、会議室の内線電話が鳴った。
所長はビク!っとする。
係長が電話を取ろうとすると、所長は、自分はここにはいないと言ってくれと身振りで伝えた。
「……はい、もしもし。原山です。………あ、どうも、代わります。所長、自治です。」
「も、もしもし! 困ってますよ…!! 連中、あれから集まって200人くらいになっちゃって相談所を包囲してます。しかも下には議員まで来てます…! いやぁ、どうしたもんでしょうねぇ…!!」
「だから私、申し上げましたよね所長ぅ…。」
「町会とのトラブルを水面下で解決するのが自治の役目でしょう…! 何とかしてください! そちらの担当業務ですよ!!」
「いや、別に自治はそういう係じゃありませんよ…はははは。自治の仕事は地域コミュニティの活性化と行政との連帯を…、」
「そんなことは聞いてないです! とにかく何とか穏便に話をつけることはできませんか!」
「こうなったら、向こうの言い分に譲歩するしかないですよ。建前はこの際、引っ込めた方がいいです。私どもも住民あっての行政なんですから。ねぇ所長さん…、ちょっとここはひとつ穏便に妥協できませんかねぇ…?」
「あんた同じ役所でしょ?! あんたが町会の手先になってどうするんです! 私は嫌だよ! ちゃんとルールに則って処理します。公平な事務こそ公務員の務めです。私は県の職員だった頃からその方針を崩したことはありませんよ! その方針を認められて管試にも合格してるんですから!!」
「………まー、最終的な判断は所長にお任せします。…こちらも努力はしますが、……だから所長、私、言いましたよねぇ? 連中を怒らしちゃいけないって!!」
「も、もういいよ、君には頼まない!! 役に立たないならもう電話は切るよ!」
ガチャン!
「………所長。今日は3時で逃げ切ったとして、月曜にもまた来ますが、その時はどうするんですか…。自治にまでサジを投げられたらもう市長室にはとっくに話が行ってます。月曜の庁議で多分、話が出ますよ…。」
「市長に咎められるようなやましいことは何もしてないですよ私ゃあ!! 市長にね、何を言われても私は毅然と言い返しますよ!
……ひィッ?!」
その時、再び内線電話が鳴った。
再びびっくりして、自分はいないことにしてくれと懇願する所長。…渋々、係長が受話器を取る。
「……はい。………え、…………繋いで下さい。…………はい、お電話代わりました。ただいま代わります、お待ちください。……………所長、本庁からお電話です。」
「本庁? 自治じゃなく? 今度は誰です…!」
「…市長からお電話です。」
「…………はい。そうですね。雛見沢地区6町会を束ねる連合町会を代表されていらっしゃってる皆さんです。…えぇ、そうですね。ぜひ、話を聞いてあげてください。………………そんなことはありませんよ。公平さはとても大切ですが、地域にあった柔軟な対応をしてこその市政です。……はっはっはっは、えぇ。よろしくお願いします。今日の話が終わりましたら、今日の6時までに市長室に直接報告にいらっしゃってください。よろしくお願いいたします。」
柔らかい物腰ながら、相手に有無を言わせない口調で言うと、ダブルのスーツを着こなす初老の男性は受話器を置いた。
「すまんね、えろぅ助かったんよ。」
応接ソファーに座る老女は、お魎だった。付き添いに茜の姿もあった。
「とんでもない。それにしても、本庁舎に直接いらっしゃられるのはずいぶん久し振りになりますよね。園崎さんが直接おいでになられるから何事かと思いました。」
「すまんね、物ぅ頼むんかいね、直接来んとな礼儀悪いと思うたんよ。すまんね、ほんまん。」
「いいえいいえ。当方の職員が大変に失礼いたしました。市政が町会の皆さんとの連携で成り立っていることをよく指導しなかった私の不徳が招いた事態です。」
とは言いつつも。市長は、ひとりの少女の一時保護だけで園崎天皇が直々に市長室まで足を運ぶとは思わなかった。
……それくらいに、お魎が自ら足を運ぶことは重い意味を伴っていたのだ。
また、お魎が直接そうせよと命じず、こう回りくどい手回しをするのも珍しかった。
それはつまり、この北条沙都子という少女を、お魎が救ったのではなく、前原圭一が救ったという形にしようということに違いなかった。
市長はすぐにこの水面下の遠回しな根回しを、前原圭一に花を持たせるためにやっているんだなと理解した。
だから、お魎がそれだけ入れ込む前原圭一という少年に関心を持つのは当然のことだった。
「しかし、聞けば聞くほど感心な若者ですね。友達を虐待から助けるために、それだけの運動を起こす情熱と気力は、なかなか今時の若者には見られません。」
「そうなんよそうなんよ! 大した若い衆だんね。あんなのが居てくれたら、わしゃあ、いつお迎えが来ても、いつでも雛見沢を任せられるわ。」
「婆さま、お迎えなんて縁起でもないよ。」
<茜
「たっはっはっは! 長生きはするもんさなぁ。蒐ぇ、今後も何かあったら、圭一の面倒、見たったれぇな。」
「あらま、すっかり気に入っちゃって。私が男の子を生まなかったのをまぁだ根に持ってるのかい?」
3時になると、業務の終了を知らせる機械アナウンスと音楽が流れ出す。
その時、ようやく所長が姿を現したのだった。
所長はまるで別人のようだった。
俺が最初会った時は、人の話を聞いてるのか聞いてないのかわからない、悪く言うと木で鼻をくくったような対応をする人だった。
だが、すっかり丸くなり、ごもっともごもっともと頭を下げるだけだった。
これが、力勝ちというものなのか…。
俺一人だったらどんなに頑張っても、言葉は届かなかっただろう。
それが、大勢の力を合わせるとここまで強力になるなんて…。
「わかりました! 本当に申し訳ございませんでした…! 直ちに対応いたします。係長、北条さんのお宅に電話してください。」
「わ、わかりました…!」
……沙都子、…いよいよだ…!! 待ってろ、もうすぐお前は自由の身だッ!!
電話の音に、鉄平は蹴る足を止めた。
居留守を使おうかと思ったが、もし相談所の連中だったりしたら、無視したら訪問してくるに違いない。
……もう沙都子には目に見える外傷をたくさん残してしまった。
絶対に家に来られてはならない。
となれば、電話に出て何とか誤魔化すしかなかった。
「…………ち。これ位で勘弁しちゃんがな。ええんか、通帳の場所、電話が終わるまでに思い出しとかんね……。」
「……ぅっく……ひっく………。」
沙都子は痣だらけの顔を上げ、怯えたように縮こまるしかできなかった。
「……もしもし、どちら様?」
「お世話になっております、鹿骨市児童相談所でございます。」
「…まぁたかいね。あんたんとこも暇やんなぁ! うちばっかりかまっちょないんで、他の仕事せぇなあ! お前の給料、俺の税金で賄っとんやん!!」
「申し訳ございません。これからうちの職員がお邪魔させていただきますが、よろしいでしょうか?」
「よ、よろしわけないん。今な、家ん中を大掃除中なんね。誰もお迎えできるような状況にありまへん!! まぁた日を改めてぇな!」
だが相談所は嫌にしつこく食い下がってきた。
衝動的に電話を切りたくなる鉄平だったが、ここで切るときっと押し掛けてくると思い、わずかに残る理性で、必死にその衝動を抑えていた。
「今日は沙都子さんはお休みしていると聞いていますが、ご在宅ですね? 病気なのに外出させてるということはございませんよね? 申し訳ございません、沙都子さんに大至急確認したいことがございまして。」
「何じゃい、沙都子に何の確認があるんじゃい!! わしが沙都子の親ねんね、親ぁが回答するんね、ほれ、何でも聞いたったや!!」
「沙都子さんを電話先に出すのを拒否されますか?」
「きょ、拒否なんて言っとらん!! 親が子の代わりに回答する言うとんね!! 我ぇ今日は偉い強気やんね?! どういうつもりじゃい、お前、名前言うてみぃッ!!!」
「もう一度お願いいたします。沙都子さんを電話先に出していただけませんか。」
「………くぅううぅうぅ、おんどりゃああぁ……ッ!!」
役所の電話などモグラ叩きと同じものだと思ってきた。
思い切り強く叩けば当分顔を出さない、その程度のものだと思って今日までやって来た。
だが、どういうわけか相手は強気で、まるでこちらを挑発しているかのようだ。
鉄平のわずかの理性が怒りをなだめ、沙都子に受話器を代わらないとそれを口実に確実に押し掛けてくると警告してくれた。
電話先でもこの強さだ。
押し掛けてくるとなったら、1〜2人では済まないかもしれない。
場合によっては警官を連れてくるだろう。
そうなれば玄関先で追い返せるわけがない。
鉄平なような人間だからこそ、警官の怖さを身に染みてわかっていたのだ。
「ちょ、ちょいと待っとれや。風邪で寝とるを起こすんね。時間くれやぁ…。」
鉄平は受話器を手で塞ぐと、階段の上でまたうずくまっている沙都子に声をかけた。
「………お〜〜ぅ、沙都子ぉ。……相談所の人がなぁ、お話したいことあるっちゅうんね。ちょいと電話に出てんかぁ。」
ついさっきまで沙都子にさんざん暴行を加えていたのに、…薄気味悪く猫なで声で呼ぶ鉄平。
聞く者があったなら、その声の気持ち悪さに寒気すら催すだろう。
沙都子は、その猫なで声こそ、もっとも恐ろしい声色だということを理解していて、あれだけ自分に乱暴した相手なのに、その命令に逆らえず階段を降りて電話のところまでやってきた。
鉄平が、暴力のほとんどを生み出すその分厚い手で沙都子の肩を思い切り掴み、言った。
「……何のかんのあっても、わしら、仲良し家族やんね。…そこぉ、間違えちゃ駄目やんね、なあ?」
「………………はい。」
「わしを怒らせると、悟史の部屋が大変なことになってまうんの、よぉく覚えといてぇな。……あぁ、ちゃんとうまく電話ができたら、もう金輪際、悟史の部屋には入らんと約束する。どうや、仲直りやんね!! な? な?!」
肩を掴む手で万力のように締め上げる。
…沙都子の華奢な肩がメリメリと悲鳴をあげるのが沙都子の歪む表情でわかった。
「な、わしら仲直りじゃ。な、な? な?!」
「………わかってますわ。……仲良しですもの………。」
鉄平は沙都子が頷くのを見届けると受話器を譲った。
そして、もしもしという沙都子の後に周り、その両肩をがっちりと束縛するかのように両手で掴んだ。
猛禽類が両足の爪で獲物を捕らえる仕草に、それはとてもよく似ていた…。
「北条沙都子さんですね? こちらは興宮児童相談所の原山と申します。いかがですかその後は。鉄平さんとの生活は問題ありませんか?」
「……………………。」
電話の音量は小さく、鉄平には何を言われてるのか聞こえてない。
だが、沙都子が無言でいることもある種の回答になることがわかっていて、早く答えろと言わんばかりに、両肩をぎゅうっと握り潰す。
「…………えぇ。…………叔父さんとの生活はその後もうまく言っていましてよ…。」
「そうですか、問題ありませんか。………ぇ? あ、はいはい、どうぞ…。」
「もしもしッ!! 沙都子か?! 俺だ、圭一だ!! 無事か?!」
「……え、………えぇ。…無事ですわよ……。」
「いいか沙都子、もう全部決着がつくぞ!! 児童相談所の所長はお前がウンと頷けば即時に保護すると約束した! 所長だけじゃないぞ、鹿骨市の市長もお前の救済に最優先指示を出してくれてる!! へへ、すげえだろ、園崎家が全部手回しをしてくれたんだ。魅音の婆さんがそこまで動いてくれたんだぜッ!!」
沙都子にとって、園崎家は自分をあからさまに悪く言う苦手なものだった。
お魎はその中でももっとも嫌いな存在だった。
そのお魎が自分のためにどうして手回しをしてくれるのか、理解できなかった。
「…確かにダム戦争以降、雛見沢に北条家の娘だというだけで沙都子を無視したり冷たくするヤツらがいたのは事実だ。……俺は鈍感だから気付かなかったが、沙都子は毎日、そういう人たちの冷たい目線に傷つきながら生活してきたんだよな。でもな、そんなのは全部俺たちがブチ破ってやったッ!! もう雛見沢には誰一人、お前のことを虐めようとするヤツはいない!!
お前に見せられないのが残念だぜ、今、相談所の外には雛見沢から200人以上の人が集まってる! 明日の綿流しの祭りの準備を放り出して、お前を助けるために相談所へ陳情に集まってくれてるんだよッ!! …………ぇ? あ、はい。……えっとな、園崎家の人から伝言だ。魅音の婆さんいるだろ。沙都子に伝えてくれってさ。今まで冷たくしてごめんなってさ。今度ぜひ、みんなで本家へ遊びにおいでってさ…。な?!
あの婆さんももうお前の味方なんだよ!! あの婆さん、お前を助けるために、今、市長のとこに直談判に行ってるらしいぞ! だがな、それは俺たちも同じだ。俺たちお前の仲間はな、お前が連れ去られた次の日から毎日相談所に押し掛けてたんだからな!! みんなが沙都子のために賛同してくれた。人の数はどんどん増えて、今や雛見沢全部の支持を取り付けた!! ……ちょっと待て、梨花ちゃんが代わる!」
「……沙都子? 梨花です。」
「…………梨花…。」
「……圭一たちが、全部全部、終わらせてくれましたです。もう雛見沢は沙都子を敵にはしないのです。…………だから、ボクと沙都子が一緒にお買い物に行っても、沙都子だけが無視されたりしない。ボクだけがオマケをもらえたりはしないのです。…沙都子に冷たくする人は、もういないのです。」
梨花がそれに気付いていてくれたことが、…沙都子にとっては嬉しいことなのか悲しいことなのかわからなかった。
……だから曖昧に、皮肉に笑って答えることしかできなかった。
「………そんなのって、……信じられませんですわ……。」
「………………そうね。私も信じられない。」
「………梨花?」
沙都子はちょっと驚いた。
電話先の梨花の声が急に大人びたからだ。
こんな梨花の声を沙都子は一度も聞いたことがなかった。
「……あなたが鉄平に連れ去られた時、これはどうにもならない運命なんだと。どうやっても助けられない袋小路なんだろうと諦めた。あなたもそうだったはず。でも、運命なんてなかった。抜けられない袋小路なんてなかった。どんな壁も、金魚すくいの網よりも薄いんだって豪語して、本当に圭一が打ち破って見せてくれた…! 沙都子、もう不幸に屈しなくていい! 私たちはもうあなたの鼻先にまで救いの手を伸ばしているの!! あなたが頷くだけでも手が届く!!」
「…………でも、……私、……強くならなくちゃいけないんですの…。」
「……あなたのトラウマ。それを克服しようとするあなたの強さ。………あなたは叔母の虐めを悟史の背中でやり過ごしてきたことに深い罪の思いをずっと抱いてきた。その贖罪のために、鉄平の虐めに耐えていることを知っているわ。虐めに屈せず、助けを求めない自分になることで、兄に甘え切ってしまった自分と決別したいというあなたの心はわからなくない。……それはとても高貴な決意で、あなたの成長を意味する素晴らしいこと。…もし悟史が今ここにいたなら、…あなたのたくましくなった姿にきっと拍手を送る。…きっと頭を撫でてくれる。……むぅって。」
「……………にーにー……。」
「なんて思った? 全然駄目ね、沙都子。あなたは悟史の強さなんかに全然追いついていない。」
梨花の言葉が急に悪意に彩られ、一瞬でも救われたと思った沙都子の心をえぐる。
「……………。」
「あなたは耐えることが強さだと思ってるようだけど。それが昔とどう違うというの? 今のあなたは、悟史が帰ってくるまでを耐えているだけ。結局、悟史にかばってもらうまでを耐え忍んでいるだけなのよ。……あなたは悟史がどれだけの強さを持っていたのか、身近にいて、まだ気付けないの…? 悟史はね、あなたのように怯えたり泣いたり縮こまったりしてるだけじゃない。戦ったの。恐ろしい叔母に真っ向から。あなたを救うために。……思い出しなさい、あなたが泣き叫ぶほどに恐れたあの叔母に、両手を広げてあなたの前に立って庇ってくれた悟史の姿を!」
悟史が怖くないわけがない。
沙都子は悟史の背中しか見ていなかった。
だから、立ち向かう悟史の表情にどれだけの複雑さがあったかなどわからない。
ヒステリックな叔母との矢面になど立ちたくない。
…でも、妹を守るために恐れてなどいられない…!
怯えたい気持ちと、それでも妹のために立ち向かいたい勇気が入り混じった苦悩の表情を、沙都子は一度たりとも見たことはなかった。
「立ち向かったの、悟史は。耐えたんじゃない、助けを求めなかったんじゃない。戦ったの、立ち向かったの…!! 私もかつてはそうだった。どうせ駄目だと思って戦うのを止めた。立ち向かうのを止めた。運命に屈し、耐えることを選んだ。助けを求めたってどうにもならないと思って助けを求めるのも止めてしまった。それは今のあなたと同じ。いじけて誰かに助けてもらうのを待っているだけ。……でもね、私は立ち向かう。だから圭一から受話器を奪った。この運命の最後の最後だけでも、私が自ら打ち破る…!! だから私があなたを説き伏せて見せる!」
「…………………。」
「沙都子、あなたのすぐ後に、…いるんでしょう? 鉄平が。」
「…………………えぇ。…いますわ。」
「さぁ、その男の顔を見なさい。その恐ろしくて醜悪な顔を! そして、その恐ろしさに敢然と立ち向かった悟史の勇敢さに気付きなさい! もしあなたが悟史に対する罪を贖おうとしたならば、それは助けを求めない強さを得ることじゃない…!! 悟史の勇気を、力強さを受け継ぐことなの! それにどうか気付きなさいッ!!!」
沙都子は梨花に言われるままに、恐る恐る後を振り返る。
両肩をがっしりと掴んだ鉄平が、にやにやと気持ち悪い笑みを浮かべて沙都子を凝視していた。
……叔母と叔父のどちらが怖いか、という問題ではない。
…この恐ろしさに立ち向かったかどうかだ。
悟史は立ち向かった。
知らないふりをしていれば自分だけは難を逃れたはずなのに、沙都子のために立ち向かった。
恐ろしさに怯まず、真正面から立ち向かった。
沙都子が今していることはどうなんだろう?
悟史に助けを求めない強さが自らの罪を贖うと信じてきた。
でも、梨花に言われるとおりだった。
……沙都子が得ようとしているのは強さじゃない。
誰かに助けてもらえるまで、亀のように縮こまっていようというだけ。
自分から打ち勝つ強さじゃない。
誰かに頼ろうという弱さでしかない。
悟史は立ち向かった。
この恐ろしい形相に立ち向かった。
それが強さ、悟史の強さだったんだ…!!
「……足がすくむ? 奥歯が震える? 背中の産毛がぞわぞわする? その感触全てが、あなたを庇おうとする度に悟史が感じていた全て。そしてわかって。悟史があなたに何を期待していたか。何を見習ってほしかったか! それがわからなかったら、……悟史は永遠に帰ってきたりするもんかッ!!!」
「………ん〜〜? 何じゃい。長い電話だのぉ。」
醜悪な笑みに、梨花の言うとおり、足がすくむ。
奥歯が振るえ、背中の産毛がぞわぞわする。
そう、それは自分が泣いた数だけ悟史が味わったこと。
「さぁ沙都子、あなたの強さを。この一年で、どれほどの強さを得たかを悟史に今こそ見せなさい。悟史のような勇気を今こそ、あなたの胸に宿しなさい…ッ!!!」
「……………梨花……、……でも…、」
沙都子にとって助けを求めても、すぐその場で救われて、鉄平が蒸発してしまうわけじゃない。
ここで電話で助けを求め、……求めた誰かが助けに来てくれるまでの長い長い時間を、鉄平の暴力に晒されなければならないだろう。
さっき殴られたり蹴られたりしたところがジンジンと痛み出す。
痛む場所が心臓のように弾み、口の中に血の味が混じっていることを思い出させる。
梨花が言うほど、簡単じゃない。
私が頷くだけで助けてもらえるほど簡単じゃない。
今の私には、頷くだけでどれほど大変なことか…!
にーにーは私をどんな風に庇ってくれたんだっけ。
顔は見えなかったけれど、…私を庇うために言ってくれた言葉の力強さだけは思い出せる。
そこには梨花の言うとおり、わずかの怯えの色もあったかもしれない。
でも、奮い起こした。
怯えを追いやり、内なる勇気を奮い起こした…!
そうさ、梨花の言うとおり、足がすくむ。奥歯が震えて、背中の産毛はぞわぞわする。
それに、抗え。
挑め、戦え、打ち破れ。
「沙都子。これから受話器を相談所の人に戻す。あなたの口で伝えなさい。」
「………………えぇ……。……えぇ……。」
「……あなたの勇気を、見てるから。」
「もしもし、電話を代わりました。相談所の原山です。…もう一度確認いたしますが、鉄平さんとのその後の生活は問題ありませんね…?」
それを聞きながら、両肩を掴む鉄平を伺い見る。
……この恐ろしさ。そしてこの時、かつての自分は背中にしがみ付いていたんだ…!
……あなたの勇気を見ているから。
梨花だけじゃない、…にーにーも見ていてくれるんだ…!!
「………けて。」
「はい? もう一度お願いします!」
「私を助けてッ!!!」
間髪入れずに鉄平は沙都子の頭を側面から思い切り殴り飛ばす。
沙都子は受話器を握ったまま、電話機ごと廊下を転がっていった。
「おう、沙都子…。おんどりゃああ、裏切りよったんなあぁああッ!!!」
「……あんたなんか大ッ嫌い!! 出てって、ここから出てってくださいましッ!! ここは私とにーにーの家ですのよ!! 私たち家族の家ですのよ!! あんたなんか大嫌い! あんたなんか出て行けッ!!!」
「くぅおおおああああッ!!! こんの野郎ぉおお!!!」
「うわああああああぁああッ!!!!」
沙都子は縮こまって殴られることに備えようとしなかった。
両手を広げて叔父に飛び掛りしがみ付いた。
もちろんそんなのは鉄平にとって何の攻撃にもならない。子犬にじゃれ付かれた程度だ。
だが、それでも沙都子にとって精一杯の抵抗だった。
沙都子は初めて戦った。怯えて誰かに助けてもらうまでを耐える甘えを捨てた。
自分を救うのは自分しかいないんだ。
不幸を耐えたり受け容れたりするのは何の意味もなかったんだ。
私はこの一年間、にーにーから何かを学んだつもりで、何も学んでなんかいなかったんだッ!!
「何じゃいその目つきはあぁああ!!! 前歯全部へし折られてえかあああッ!!」
鉄平が拳を打ち下ろそうと振り上げた時、玄関から荒々しいノックの音が聞こえてきた。
「北条鉄平ッ!! ここを開けろ、警察だ!!」
ぎょっとせずにはいられなかった。電話で沙都子が助けてと言ってから1分も経ってないはずだ。
「早く開けんか!! ブチ破って入るぞこらぁッ!!」
■沙都子保護
「どうでしたか!! 沙都子ちゃんは…!!」
<入江
「沙都子ちゃんは助けを求めました! これで相談所は動きます!」
<レナ
「それより沙都子が危ない! 逆上した鉄平が沙都子に乱暴するかもしれないッ!」
電話の向こうからは沙都子の返事の後、明らかに暴力を思わせる声や音が聞こえてきたという。
つまり沙都子は、叔父が電話を聞いている目の前で助けを求める勇気を見せたのだ。
「早く行かないと…!! 誰か車を回して!」
<魅音
車で来た村人たちが何人かエンジンを掛けた。
状況が人々にも伝わり場が一気に慌しくなった。
くそ……!! 沙都子、今行くからな、待ってろ!!!
「前原さん、大丈夫ですよ。
ついさっき、北条家に警官が突入しました。沙都子さんに暴行を加える時間なんて与えません。」
「え?! どうして?!」
「……さぁて、どうしてでしょうねぇ。とにかく、一件落着ならこの集団、解散してくださいよ? それじゃひとまずこの場は失礼します。それではよいお年を。
んっふっふっふ!」
「……大石は沙都子の電話を聞くのと同時に、無線でどこかへ連絡していましたです。」
「沙都子ちゃんの家の前に、予め警察の人がいてくれたってことなのかな。」
「そっか…! リナ殺しの件で警察が張り込んでたわけだ。なるほどね!」
<詩音
「リナって誰だ??」
「皆さん、車に乗ってください! 早く雛見沢に戻りましょう!!」
<入江
北条家にはすでに警察の人が何人か来ていた。
沙都子は縁側に座っていて、警官が話しかけていた。
その顔は酷く腫れ上がり惨めなものだった。
「沙都子ちゃん…!!! 大丈夫?! 大丈夫?!」
<レナ
「……ほっほっほ、これが大丈夫に見えまして?」
「監督! 沙都子を見てあげてください!」
<詩音
「とにかく診療所に運びましょう。沙都子ちゃん、自分で歩けますか?」
監督の問いかけに、沙都子は頷き、立ち上がった。
惨めな姿だったが、思いのほかしっかりとした様子だったので、少しだけほっとした。
でも、…全身に刻まれた無残な傷痕は見るに耐えない酷いものばかりだった。
沙都子のような小さな女の子にまで容赦ないとは、…何と許しがたい男なのか…!!
改めて怒りが込み上げてくるのを感じる。
「…沙都子…。」
「………ほっほっほ。梨花、見ててくださいまして? …私、やる時はちゃあんとやるんですのよ……。」
「……えぇ。あなたの勇気、ちゃんと見てた。あなたは勝った。運命に、打ち勝った…!」
梨花ちゃんも沙都子も、涙を流しながら抱き合っていた…。
車が再びやって来る音がした。
すぐわかる。大石さんたちの乗ったパトカーだった。
「どうも間一髪にはならなかったようですねぇ。…お役に立てなくて申し訳ない。」
「いえ! 大石さんが機転を利かせてくれなかったら、…もっと酷い目に遭わされていたと思います。ありがとうございました…。」
「……大石のおじさまも、たま〜には気が利くじゃないですか。」
「んっふっふっふ! それで沙都子さんの容態はどんな感じですか。」
「監督が見てくれてます。だいぶ酷い怪我をしてるようでした。」
「あ、熊ちゃん。鉄平はどうしました。」
「確保しました。さっき小宮山さんたちの車で署へ移したそうです。」
「…じゃあ、逮捕されてもうこの家には戻ってこない…?」
<レナ
「別に逮捕されて死刑とか無期懲役ってわけじゃないだろうからな…。考えたくはないけど、…いつか戻って来るんだろ。」
「………まぁ、そうはさせないけどね。二度と雛見沢に近付けないようにしてやるさ。」
「おやおや。園崎家の次期頭首が恐ろしいことを言い出しますねぇ。脅迫とかはいけませんよぅ?」
「脅迫じゃないですよ。
雛見沢や興宮の界隈に帰ってくると、きっと大変なことになるだろうから、もしシャバに戻れても、こっちに帰ってこない方がいいですよーって、忠告申し上げるだけです。」
<詩音
「あー、忠告なら仕方ありませんねぇ。なっはっはっは!」
「これで、沙都子ちゃんは本当に救われたの? これで、全部? 全部?」
「さぁてね。急は要さないけどまだまだ色々と戦いは続くと思うよ。鉄平の親権が喪失すれば新しい後見人を定めなくちゃならない。沙都子の権利関係とか色々ね。
でも、それは大丈夫。婆っちゃが腰を上げてくれた以上、園崎本家がバックアップするよ。沙都子の不利になるようなことには絶対ならない。」
「……沙都子は診療所へ行きましたです。でも、入江の話では見掛けより傷は浅いそうなのです。」
「そうか! それはよかった!!」
「沙都子ちゃんは、明日にはもう退院できるのかな、かな!」
「さすがにあの怪我が一日に完治ってことはないだろうねぇ。」
「……違いますですよ魅ぃ。明日は綿流しのお祭りなのです。」
「何だか大変な一週間だった気がするけど、もし綿流しのお祭りを全員で迎えられたなら、それって結局、ハッピーエンドってことじゃないですか!」
<詩音
「うん。私たちが取り戻したかった世界を、ようやく取り戻せた証なの。」
「そうだね。沙都子だって、圭ちゃんの叩き売りはきっと見たいと思うよ〜!!」
「うお! すっかり忘れてたけど今頃プレッシャーがあぁ!!」
「……沙都子は絶対に来ますですよ。」
いつの間にか、表には大勢の村人がやって来ていた。
相談所の前に詰め掛けてくれていた人たちだった。
沙都子は無事なのかと、その安否を知りたがっているようだった。
あの怪我の様子で無事かと言われたら、何て答えればいいのか難しい。
…でも、もう叔父の虐めに無理に耐えなくてもいいんだと、自らの作った呪縛から解き放たれた沙都子は、どことなく爽やかにも見えた…。
それに、心の傷はこれからゆっくりと癒していける。
それを助けるのも俺たち仲間の務めだ。
いや、それは仲間だけじゃない。村中が力になってくれるだろう。
この村にはもう、沙都子を冷遇しなければならない理不尽な思い込み、ダム戦争の亡霊はもういないのだから。
ものすごく長い一週間だった。
この一週間の間に、俺たちは結束し、戦い、乗り越え、勝ち取った。
その結果、支払った代償はきっと安くはない。
でも、得たものはそれを報いて有り余るものだ。
明日は、綿流し。雛見沢の最大のお祭りの日だ。
それは村の守り神、オヤシロさまを祀る最大の行事。
オヤシロさまは、相容れない敵同士を融和させて住まわせた神さまだという。
ダム戦争で村と対立した北条家の呪いはもはや解け、沙都子は村に溶け込む。
そして沙都子も含めみんなで、そんなオヤシロさまを祀る祭りの日を迎えられるなんて。
信じられないくらいのハッピーエンド。
平和な日常が崩れた時、絶対に取り戻せないと膝を抱きそうになった挫折から、ここまで取り戻せた奇跡。
……いや、奇跡じゃないんだよな。
奇跡はみんなの力を合わせれば起こせる、その程度のものなんだ。
一人では絶対に成し得ないことが、みんなでならできる。
一人では奇跡でも起こらなければ成し得ないことが、みんなでならできる。
みんなでならできる、当り前のことだから、奇跡なんて呼べない。
つまりこれは、必然ってことだ。
大昔、沼から湧き出した鬼たちを、村人と共に住まわせ融和させたという村の古い伝説。
それが何を意味する伝説かはよく知らないけれど。…きっと、一人一人では奇跡でも起こらなければありえない何かを、オヤシロさまは成したんだろう。
だから、俺たちがやったことは胸を張ってオヤシロさまに威張れることなのだ。
「前原の坊主!! やったなぁ!」
「やりましたね、連日押し掛けた甲斐があったっすー!!」
応援してくれた人々が次々に歓声をあげる。
沙都子の無事を祝ってくれる。
俺たちも今頃になって沙都子を救い出せた実感が湧き上がって来て、みんなで肩を抱き合って健闘を讃え合うのだった…。
■綿流し
待ち合わせ場所には、もう沙都子と梨花ちゃんが待っていた。
顔中にべたべたと張られた絆創膏が痛々しかったが、沙都子自身はすこぶる元気で、まるでその傷が、はしゃぎ過ぎた遊びの怪我か何かのような感じさえした。
「じゃあ、昨夜は結局診療所に泊まったのか。」
「えぇ、私は全然平気ですのよって言ったんですけど、監督たちが一晩様子を見たいなんて仰りますもので。」
「お医者さんがそうしろって言うんだから、素直に従った方がいいと思うけどなぁ。」
「あはははは、わかったー。診療所でひとりでお泊りするのが怖かったんでしょー! 夜の診療所には成仏してない霊がいっぱいいるそうだからね〜〜!」
「……沙都子はボクと一緒でないと眠れない体になってしまったのですよ。」
「はぅ〜! どうして一緒じゃないと眠れないのかな、かな!」
「それはですね、梨花ちゃまじゃないと沙都子の体の夜泣きを、」
詩音が何か妙なことを言い出そうとした瞬間、どこからともなくタライが飛んできて顔面に当った。
そして始まる沙都子と詩音の追いかけっこ。
そんなドタバタがものすごく懐かしい。
「こんな当り前の風景が、もう取り戻せないかもしれないって思ってた。」
<レナ
「…そうだな。でもな、取り返したぜ。俺たちでな。」
「……主に頑張ったのは圭一だと思いますですよ。圭一が相談所に訴えようと自分で言い出して、圭一がみんなで押し掛けようと言ってみんなに声を掛けたのです。」
「そうだねぇ。圭ちゃんが最大の功労者であるのは私も認めるよ。今回の一件で、雛見沢に前原圭一ありってのはだいぶ知れ渡ったと思うからねぇ!」
「はぅ。圭一くん有名になってモテモテになっちゃうのかな、かなぁ…?」
「そりゃあモテモテになるねぇ! 婦人会のおばさま方にちやほやされちゃうよ。いよ、モテる男は辛いねぇ!」
そのおばさま方の年齢が3で割ればちょうどいいってのが泣けるけどな…。
たくさんの人が浴衣姿ですれ違う。
こんなのを見てると、まだ6月なのにもう夏真っ盛りという気分になってくる。
境内への階段を上がると、……そこは祭り一色だ。
古手神社は以前来た時の様子からは想像もつかないくらいの大賑わいを見せていた。
色とりどりの提灯が並び、連なる露店やそれに群がる人々の雑多な雰囲気が、とても心地よい。
「すげぇ人だなぁ!! 雛見沢ってこんなに人がいたんだ…。」
「綿流しのお祭りはみんな来るよ。多分、雛見沢の人の半分くらいは来てるんじゃないかな。」
「それだけじゃないよ。近隣の町の町会や子供会も招待してる。」
「そうだよな。俺たちの学校、あれしか生徒いないのに。今日は子供の姿がやたらたくさんある。」
「お祭りのにぎやかさは、やっぱり子供のにぎやかさだからね。」
そうだよな。同感だ。
祭りの花の露店もたくさん出ていた。
たこ焼き、やきそば、カキ氷。あんず飴にソースせんべい、チョコバナナ。ヨーヨーすくいに金魚すくい、射的屋と本当にいっぱいあり、それらにたくさんに人々が群がっていた。
「露天商は町からわざわざ来てくれてるんだよ。やっぱりこういうのがないとお祭りは盛り上がらないよねぇ!!」
「で、それを俺たちは荒して回るわけか。…どんな勝負にせよ、俺は負けないぜ!!」
「そうだね。
……えへへ…がんばろ!」
「はろろーん! 遅れて申し訳ないです。私がビリでした? ならこれで全員揃いましたね!」
「このメンバーが揃うと、のんびりお祭りを楽しもうということにはなりませんのねぇ!」
「そりゃあそうだよ!!
今年も行くよー!! 綿流祭、えっと、6人か!
六凶爆闘ぉおぉ!!」
「……沙都子。今年は気兼ねしないで、思いっきり楽しみましょうなのです。」
「をっほっほっほ! 頼まれなくても気兼ねなどしませんわ! 大暴れさせていただきますのよー!!」
「よっしゃ、沙都子! その意気だぜ!!」
「昨日までのことなんか、今夜で吹き飛ばしちゃいましょう!」
「今日はみんなで思い切り遊ぼう! 全員が揃うなんて一週間ぶりだもんね!」
「そうさそうさ! 今夜は全員で祭りを遊び倒すよー!!」
■グラフィックテキスト
私たちが遊んで回る度に、大勢の人が沙都子に声を掛けてくれた。
ある人は沙都子の怪我を気遣い、ある人は沙都子のこれまでに同情し、
ある人はこれからは何かあったら頼れと胸を叩いた。
その全てが、沙都子にとってはくすぐったいくらいに新鮮だったに違いない。
沙都子はみんなが妙にやさしくかえって気持ち悪いなんて言ってたが、それは照れ隠しだ。
今の沙都子にはこのくらいの方が、村が生まれ変わったことを実感できてちょうどいいに違いない。
■通常イベント
「おや皆さん、さっそくはしゃぎ回っているようですねぇ。」
<大石
「やぁ、梨花ちゃん。約束どおりに来たよ。盛大に盛り上がってるね。」
<赤坂
「どちら様でございますのかしら。梨花の知り合いですの?」
「……赤坂は肝心な時にいなくて使えないのです。」
「え? 何だろう。私、怒らせるようなこと、しましたか…?」
「なっはっはっは。実はですね、赤坂さんが温泉へ行かれているほんの一週間ほどの間にですね、とても大変なことがあったんです。」
「はぅ、梨花ちゃんが知らないお兄さんと一緒だ。知り合いかな、かな!」
「何よ〜どちら様?どちら様?!
おじさんたちにも紹介してよ〜!!」
■グラフィックテキスト
赤坂が来た時、私は運命を破るのは英雄的な個人の力によるものだと信じていた。
でも結局、それは誤解だったわけだ。
奇跡は個人が起こすんじゃない。全員で起こすもの。
だから、赤坂が一人いてくれれば運命に勝てるというのは私の思い込みに過ぎない。
仮に側にいてくれたとしても、何もできなくて失望させられただけだったかもしれない。
別に赤坂に非があるわけでも何でもないのに、それに対して使えない、とは。
…自分の口の悪さに少し呆れる。
今夜はそういう話は抜きだ。何十年ぶりかの再会を祝おうではないか。
■通常イベント
「おんや! 前原の坊主じゃないかー! 噂には聞いてるぜ!」
「うんうん聞いたよ! 何でもお魎の婆さんと日本刀ぶつけ合って納得させたって言うじゃないか! やるねぇ!!」
「そそ、そんなことしてないっす! 平和に話し合いをしただけですよ…!」
「しかし偉いな! みんなを率いてお役所とちゃんと交渉したんだもんな!」
「前原のお兄ちゃん、あんず飴サービスするよ! 何本いる?!」
「圭一くん、いいないいな! 今日はモテモテだね!」
「……圭一は熟した果実がお好きに違いないのです。」
「梨花が何を言ってるかわかりませんが、どうせロクな意味ではありませんわね…。」
■グラフィックテキスト
圭一も、行く先々で声を掛けられていた。
沙都子を救うために率先してリーダーシップを取った功績は村中が知り、また、町会やお魎をも説得したことは伝説的武勇伝となっていた。
それくらいに、誰もが、村全体が沙都子を冷遇していたことを知っていた。
そしてそれがダム戦争が終わってなお続く理不尽なものであることも知っていた。
それを爽快に打ち破った圭一の活躍は、村の新しい未来を予感させるもので、老若を問わずにその英雄的行為を讃えた。
■グラフィックテキスト
そんなわけで今や前原圭一は雛見沢中で話題が持ちきり。
当然、噂の前原圭一を一目見ようと叩き売りオークションは空前の賑わいとなった。
最初は真っ赤になってた圭一も、吹っ切れてからは本領発揮。ノリと勢いだけで会場を沸かせ、昭和58年の綿流しを一際、盛り上げて見せた。
今や村中が圭一を讃え、評価していた。圭一は今後も村を振り回して大活躍してくれるだろう。
村の年寄りたちは、そういう若き牽引者が現れてくれたことを喜んでいるようだった。
■通常イベント
「あ、昨日助けに来てくれたおじさん…! 昨日はどうもありがとうございました!」
「あー、紹介が遅れてるね。県議会議員をされてる三郎叔父さんだよ。こっちは市議会議員をされてる健叔父さん。」
「昨日は来るのが遅くなってすまんかったね! 相談所への道を一本間違えちゃってなぁ、がっはっはっは!」
「いやぁ、でも頼もしかったです! やっぱり議員は強いですねー!」
<詩音
「住民の代わりに喧嘩をするのが仕事だからの! 強くて当然だわい!」
「沙都子ちゃんも無事で本当に良かった。これからは何かあったらいつでも相談してください。必ず味方になりますよ!」
そう頼もしく言いながら、彼らは沙都子の頭を撫でてくれた。
「あ、……ありがとうございますですわ…。」
■グラフィックテキスト
本部テントには、最後に駆けつけてくれた園崎家の大物たちがたくさんいた。
昨日世話になったばかりの人たちばかりだ。沙都子以外のみんなが頭を下げる。
そこにいる人間たちは、つい先日まで、酒の席があったなら北条家を口汚く罵っていたかもしれない人たちだった。
だが、圭一が全てそれらを打ち破った。彼らは自分たちの軽率さを反省し、二度と沙都子を差別するようなことはしないだろう。
現に彼らは沙都子に頭を下げてこれまでを詫び、これからはどんなことでも力になると約束してくれた。
■通常イベント
「本当に立派なお子さんをお持ちで羨ましいですなぁ!」
「いえいえ、圭一なんてとんでもない…! お! 圭一〜! お父さんたちも来たぞ〜!」
「あー、圭一くんのご両親だー!
こんばんは〜!」
「……初めましてなのです。圭一のにゃーにゃーをしております、梨花なのです。」
「ど、どうも初めましてですわ。北条沙都子と申しますわ。」
「あなたが沙都子ちゃんね。こんなに酷い怪我をして本当に可哀想に。」
「今後も何かあったら圭一をぜひこき使ってやってください! それと引き換えと言っては何ですが、どうですかお嬢さん、ぜひ今度モデルに…!!」
「な、何だか監督と近い属性を感じるお父さまですわね…。」
「すまん…。こーゆう親父なんだ…。」
「でも、温かくて楽しそうなお父さまでしてよ…!」
■グラフィックテキスト
圭一の両親も祭りに来ていた。
今回の一件のヒーローの親ということで、立派なお子さんをお持ちでとちやほやされまくりのようだった。
圭一に言わせると、両親は多忙を理由に家を出ないことが多かったので、これは両親と村に接点ができるいい機会らしい。
圭一父は、町会でポスターの必要な時はぜひ自分にご用命をと胸を張っていた。
…圭一の話では、盗難が出るくらいのポスターを描くらしい。どんなポスターか愉しみだ。
■通常イベント
「……こんな楽しい綿流しのお祭りは、僕も初めて見ますのです。」
「そうね。…私も初めてよ。…というか、あんたの方が長生きしてるんだもの。あんたが初めてなら私にとっても初めてに決まってるじゃないない。」
「……あぅあぅ。でもきっと、綿流しという名前のお祭りになってからの中でも、一番賑やかで楽しいお祭りだと思いますです。」
「そもそも綿流しのお祭りが、楽しいお祭りになったのはここ数年のことでしょう? 明治以降は退屈な古手家の儀式だし。それ以前は鷹野好みのお祭りだったはず。」
「……あうあうあぅ。」
「ふふ、ごめん。今日は意地悪はなしね。楽しみましょう。私たちも。私とあなたを祀る夜なんだから。」
■グラフィックテキスト
羽入が呟いた。
詩音が沙都子を虐め殺してしまう世界がついこの間あったはずなのにと。
そんな恐ろしい世界も、こんな大団円の世界も、全て同じ雛見沢なのだ。
この世界しか知らない人たちは、雛見沢は大団円で終わるようにできていると信じ疑わないだろう。
でも、私と羽入だけが知っている。傍観者だけが知っている。
この雛見沢に、そう、金魚すくいの網よりも薄いくらい一枚向こう側に、惨劇の世界が接していることを知っている。
だから、この世界がどれほどありがたいものか、きっと他の誰よりも理解できる。
圭一たちが、みんなで戦おうとせずに短気に走ったなら、今日と言う日は訪れなかった。
圭一が短気に走れば、今日が確か犯行の当日だ。詩音が短気でも、今日が犯行だったはず。レナならもう3手早くて、今日はもう埋葬も終わっていたと思った。…魅音だけは短気に走らない。慎重と言おうか意気地なしと言おうか、…おっと、不謹慎だった。
もちろん私が短気に走った世界も実はある。……返り討ちだった。情けない。
でもとにかく。どの世界でも駄目だった。幸せな世界を取り戻せなかった。
だから諦めていた。でも、私以外の誰もが諦めなかった。全員で結束し、奇跡を起こすべくして起こした。
全員で結束したから、奇跡が起きたのだ。
こんなことを言えば偉そうになるが。…私が一人だけ結束を拒み諦めていたら、きっと奇跡は起こらなかったろう。
最後の電話の時、私が圭一から受話器を奪わなければ、多分、沙都子は助けを求めてくれなかったと思う。
そう。全員で結束しなければ、起こせなかった奇跡。誰か一人でも諦めていたら、起こせなかった奇跡。
早々から諦めていた私に、運命を打ち破る容易さを解いてくれた圭一のお陰だった。
全てが運命で、圭一という存在に意味があるのなら。それは私に何を訴えかけているのだろう。
もうわかっていた。運命に抗うことの意味。そしてその戦い方だ。
二度と私は運命に屈しない。二度と。
それは、何事にも期待するなと教える羽入とは相反する。
羽入だって、諦めたりせず、信じれば何かの奇跡を起こせるに違いないのだ。
そう羽入に言ったが、妙なところに頑固で、あぅあぅ言って誤魔化すのだった。
■露店で遊ぶ〜梨花ちゃん奉納演舞〜祭り終了までを描いてください〜。
■梨花ちゃんは最初私服ですが、最後で巫女服に着替えてくださいねー。
■ここまでで特別演出は終了です。
■幕間
■TIPS9 色褪せたノート序文
神がいつ降臨されるのかは誰も知りません。
それは例えるなら、泥棒がいつ訪れるのかわからないように。
だから予期せずしてその時を迎えて、不信心であったことを悔いぬよう、常に目を醒ましていなさい。
その日が何時なのか、神さえも知り得ないのです。
神はいつその時が訪れてもいいように、常に目を醒ましているでしょう。
常に自分の中の神を信じよ。
いつ日の光を浴びるかは、その神すらも知り得ないのだから。
努力を惜しむな。
常に勤勉であれ。
探求に情熱を。
報われる日は神でも知り得ないが、その日は約束されているのだ。
約束の日まで、私は自らの情熱の炎を潰えさせることはない。
Hifumi.T
■10日目(もはや日付に意味がない…; 幕間の数を数えてるだけだね…)
■梨花目線
「あ、…あぁ、そんなことを言ってたねぇ。
はっはっは。でも、どうしてだい? どうして僕と鷹野さんが殺されなきゃならないんだい?」
「あらあら。私たちが5年目の祟りに名前を連ねられるなんて名誉な話よ? くすくす。」
……やっぱり二人は、自分たちが今夜殺されるということをすっかり忘れていた。
私があの日、祭具殿の中を見せるのと引き換えにしたお願いの、私への警備強化は確かに叶えてくれたが。
肝心の自分たちへの警備はまったく考えていないようだった。
まぁ……どうせ信じないとは思ってた。
そんな簡単に信じてくれたら、運命はもっと簡単に打ち破れている。
「……もう一度言いますです。…富竹は喉を掻き毟って。鷹野はどこか遠くの山奥で焼かれて死にますです。」
「喉を掻き毟るって、…それはL5の末期症状のことかい?
大丈夫だよ、僕はちゃんと注射を受けてる。そんなことはありえないよ。」
「私だってあんまりね。どこか遠くの山奥で焼死なんて、失礼な話だわ。……それがあたなの夢の中に出てきたというの?」
「……………今夜だけでも、どうか気をつけてほしいのです。騙されたと思って、どうかボクのいうことを聞いてはくれませんですか…。」
「私たちの身に迫る何かというのも、夢のお告げなのかしら? 大丈夫よ。あなたの身辺は山狗がちゃんと警護しているわ。今日だって、8人があなたの近辺を警護しているのよ。」
「……ありがとうです。ボクの警護は充分助かっています。ですから鷹野たちも同じく用心してほしいのです。」
「心配してくれてありがとう。大丈夫だよ、こう見えても体は鍛えてるんだ。降りかかる火の粉くらいはちゃんと払えるよ。」
富竹は筋肉を誇示するようなポーズを取って笑って見せた。
それは私の不安を取り除くことを目的としているのだろうが。そんな根拠のない笑顔は空しく、悲しいだけだった。
………傍観者の悲しいところだ。
未来を知っていても、伝えようがない。
まるで、干渉を許さないように世界の仕組みができているかのように。人は基本的にお告げを信じない。
「……でも、死ぬのです。富竹と鷹野が死ねば、次はボクが殺されるのです。2人が死んだら、誰がボクを守ってくれるのですか。」
「どうも、相当悪い夢を見たみたいね。……大丈夫よ。もし万が一、私たちが死ぬようなことがあっても、山狗があなたを警護するわ。」
「……山狗は本当にボクを守ってくれるのでしょうか。守ってくれた試しはないのです。」
「そんなことないわ。あなたが吹っかけた喧嘩にも現れたでしょう? あなたの近辺を常に警戒してくれているわ。もちろん、平時にはそこまでの警戒はしていないけれど、先日のあなたの要望以来、あなたへの警戒態勢は非常に高度な状態を維持しているわ。入江所長の警護よりも厳重なくらいよ。」
「……富竹と鷹野が死んだ後も、その警戒態勢は維持されますですか?」
「無論よ。あなたの身ほど大事なものはないんだから。」
「あはははは…。僕たちは今夜、殺されてしまうともう決まっているのかい? まいったなぁ。」
「……富竹に生き残る意思がないのなら、死んだ後の私の身にしか興味がないです。」
私が冷たく言い放つと、さすがに富竹の心にも少しは届いたようだった。
表情がほんの少しだけ真面目になってくれた。
「…やれやれ。わかったよ。せいぜい今夜を気をつけるよ。興宮へ戻る時は、僕にも警護をつけることにする。」
「二人の時に襲われるのだと思います。だから今夜二人っきりになっては駄目なのです。」
「くすくすくす。あらあら、妬いてるのかしら? おませさんねぇ。」
……やはり、この二人の運命を変えることはできないのだろう。
沙都子を救い出す時は、みんなが危機感を共有してくれた。
だからあれだけ早く団結し、沙都子の身に破局が訪れる前に救出するという奇跡を成し遂げた。
だが、この二人には危機感がない。
危機感のない人間の心に、どうやれば真剣さが届くというのか。
私は軽い諦めのため息を漏らす。
「……富竹、鷹野。さようなら。今日までありがとうでした。」
「ちょっと待ちなよ、……梨花ちゃん…!」
彼らにこれ以上を言ってもやはり意味はない。
なら、他の人にも警告しよう。
二人だけが備えるのではなく、他の人も備えてくれれば、運命を少しは狂わすことができるかもしれない。
どうせ無理だと諦めるな。金魚すくいの網くらいに薄く脆いものだと思うんだ。
ほら、ジャム瓶の蓋と同じだ。
開くと思ってひねらなければ開かない。
運命は変えられるものだと思うんだ。そうじゃなきゃ、変えられない。
「富竹さんと鷹野さんがですか? ……それは本当ですか。」
<入江
富竹と鷹野にもっとも近い立場にいる入江には、もちろんこれまでも何度も伝えてきた。
入江は、富竹たちに比べると比較的真剣には聞いてくれる。…だが、頼りになるかどうかは別問題だった。
「……オヤシロさまの巫女のボクが嫌な予感がするから、では理由になりませんですか?」
「はっはっはっは。…わかりました。
そう仰るなら、オヤシロさまのご信託かもしれませんね。今夜そんな事件があれば、5年目の祟りということになってしまいます。お二人には注意するよう私からも伝えましょう。」
入江にできるのは、二人に注意を促す程度なのだ。
それは、私が直接二人に注意を促すのと同じレベル。……つまり、それほど効果がない。
入江は研究者であって、不測の事態などに対応する危機管理者の能力はない。……それは本来、鷹野の役目だからだ。
「……くれぐれもよろしくお願いしますです。ぺこり。」
誰なら本気で聞いてくれる?
誰なら富竹と鷹野の死を防いでくれる?
そうだ、オヤシロさまの祟りと戦おうと情熱を燃やす男がひとりいたじゃないか。
「あれ、古手さん。探してたんですよ。赤坂さんがぜひお別れの挨拶をしたいと言って探してたんですが。」
「……つくづく赤坂とは肝心な時に縁がないのです。」
「なっはっは! 先日の温泉の件をずいぶん恨まれているようですねぇ。赤坂さんも何も恩返しができなかったことを悔やまれていましたよ。長い休みが取れたら、改めて雛見沢に来たいと言っていました。…なっはっは! それを奥さんに勘違いされちゃったみたいで。可愛いけど、あの奥さん、家に帰ると怖いヒトなんだろうなぁ。んっふっふ!」
「……大石。実は、……大切な話があるのですが、誰も信じてくれませんのです。」
「ん? いかがなさいましたか。」
大石への相談も何度かやったことがある。
話も割りと真剣に聞いてくれる。
だが、富竹たちの死後に疑われ、その後しつこく付きまとわれることになるのが嫌で、最近は控え気味だった。
「それをどこで聞いたんですか。どの辺で!」
大石には夢の話でなく、人ごみで偶然耳にしたという風に言った。
……こういう言い方にすれば、私に変な誤解を抱かないでくれるかもしれない。
「……確かに、富竹さんは余所者だし、…鷹野さんと会わせれば二人。一人が死んで一人が消えるか…。………確かに5年目の祟りとしては、あってもおかしくなさそうですね…。
デマの可能性もありますが、わかりました。駄目で元々。お二人をマークさせましょう。」
「襲うなら雛見沢と興宮の間の道だとも言っていたように思いますです。」
富竹の死体は確か、雛見沢と興宮を結ぶ街道の途中。
…確か、舗装道路と砂利道が変る辺りで毎回見付かるはずだ。
「わかりました。車を一台張り付かせましょう。そのくらいの余裕はありますので。」
大石は大して疑いもせずに話に乗ってくれた。
大石のような人間がこのようなデマっぽい話を鵜呑みにするなんて、ほとんどの人は驚くだろう。
どうも、火のないところに煙は立たないというのが座右の銘らしく、この手のタレコミは鵜呑みにするクセがあるようだった。それを私は数多の世界で知っている。
……もっとも、この愉快な悪癖のせいで、一部の世界では話をややこしくしてくれるのだが。
でも、無理もないことかもしれない。
オヤシロさまの祟りを暴きたくて、今年が定年を目前にした最後のチャンスなのだ。
例えデマかもしれなくても、耳を傾けずにはいられないのだろう。
それは、私のような証拠を示せない身にはとても都合がよかった。
「……あー、熊ちゃん、聞こえますか聞こえますか。興宮への帰り道の途中にパトを一台張り付かせてください。
…………いえいえ、単なる警戒です。よくないことがそこら辺で起こるかもしれないという噂が入りまして。えぇ、2人程度でいいでしょう。お願いいたします。」
「……ありがとうです。……誰もボクのことを信じてくれないので、困っていたところなのです。」
「それを信じるのが警察です。何事もなければむしろ無事を喜ぶべきじゃないですか。
出動空振りこれを喜べ! 私の先輩の言葉です。それにせっかくのタレコミ情報を見過ごして事件を防げなかったら、これほど悔しいことはありませんからねぇ。」
…なるほど。大石なりの哲学があって鵜呑みにしているということなのか。
……とりあえず、今この場はこの哲学のお陰でもっとも心強い味方になってくれそうだった。
これで明日以降、富竹たちが殺された後、私を犯人扱いしないでくれればなおいいのだが。
………今はそんなことは気にしなくていい。
まだまだだ。あと誰に相談できるだろう。
…仲間にも話してみようか…?
どうせ駄目だなんて思わないで、相談してみよう…。
「まさか! そんな物騒なことを言ってる人がいるのかい?
よりにもよってこの日に、不謹慎だなぁ。」
「あれか? 今日起こるかもしれないって噂の、オヤシロさまの祟りってヤツか?」
「うん。連続4年起こってるからね。やっぱり今夜も起こるかもしれないって思ってる人も少なくないみたいだね。」
「起こると思うのは勝手でございますけど、富竹さんと鷹野さんを名指しするなんて、失礼な話ですわねぇ。」
「富竹さんと鷹野さんにも、念のため伝えた方がいいんじゃないかな、かな。」
「……もう伝えましたですが、信じてもらえなかったです。」
「そりゃそうだろうなぁ。…でも、万が一、何かあった後じゃ遅いしな。大石さんに話した方がいいんじゃないか?」
「……もちろんもう話しましたです。」
「へー、梨花ちゃま、なかなか手際がいいじゃないですか。
でも確かに、用心に越したことはないです。…今夜だけは。」
「雛見沢村連続怪死事件。通称、オヤシロさまの祟り。……はっきり言って、何年も続かれちゃ困るんだよね。面白がって模倣する馬鹿も出て来るし、何より村のイメージダウンにしかならない。」
「つまり、今夜何も起こらなければ、それで連続は潰えるわけだろ? なら今夜起こらないように何かすればいいわけだ。」
「何かって何ですの? 悪いことが起こらないように、村中で見回りでもしますの?」
「見回りなんかしたら、かえって無用心な気がします。そもそも手の打ち様なんてあるんですか?」
「一応、綿流しの準備会の方では、連続怪死事件を模倣しようとする変質者が紛れ込む可能性もあるので、見かけない顔には警戒しようってことになってる。」
「雛見沢は他所の人の顔はわかるからね。見慣れない人がいたらすぐわかる。だからきっと大丈夫だと思うけどな…。」
「……でも、それでもきっと富竹と鷹野は殺されるのです。」
「梨花ちゃん…。………そうだね、私たちにもできることをしてみようよ。」
「そうだな! 一晩中を護衛はできないだろうけど、せめて祭りが終わるまでの間、近くにいようぜ。人が近くにいれば、悪い連中もおいそれと手出しはできねえだろ。」
仲間たちは、本当の意味で理解してくれたかはわからないが、私の言うことを信じようと努力してくれた。
そして、富竹たちを探し、目を離さないことで護衛しようという話になる。
これで私にできる全てをやっただろうか。
……だが、この程度で富竹たちの死を防げるとはとても思えない…。
「…………あとは、明日、目が覚めた時、何も起こっていないかどうかね。」
「……梨花は、富竹たちの死を防げると思っていますですか?」
「…無理かもしれない。やはりあの二人が死ぬのは、私の命運が尽きることを知らせる時計の時報なのかもしれない。」
「………………あぅあぅ。」
「でも、さっき鷹野も言った。山狗が私への警護を厳重にしてくれているから、仮にあの二人が殺されても、私は無防備とはならないかもしれない。そうしてる間に、東京から応援も来るだろうしね。………いつものように富竹たちが殺されたとしても、その後の状況はこれまでの世界とは少し違う。」
「…………………それでも駄目なら?」
「……潔く死ぬしかないわね。……とにかく、今回は最後の最後まで諦めない。足掻ける限り、足掻く。どうせ無駄だから残りの時間をワインで過ごすなんて、後ろ向きなことは絶対にしない。」
「…………梨花の好きなようにするといいのです。」
「…羽入は相変わらず、どうせ駄目だと思ってる?」
「…………僕は、いいも駄目もないです。あるがままが運命ですから。」
「期待するから心が痛む、か。」
私が舞台の上に上がろうとする役者なら、羽入は本当の意味での傍観者なのかもしれない。
こういう時、私と羽入の心は大きくすれ違うのだった…。
「………梨花。何があっても、どうか気を落とさないで…。」
「何だか、今回もどうせ駄目だって遠回しに言われてるみたいね。…最近、あんたと話してるとイラつくことが多いわ。」
「……あぅぁぅぁぅ…。」
本当は私もわかってる。
羽入が期待するなと言うのは私を気遣っているからだ。
運命に勝てると期待するから、それを裏切られて傷つく。
傷つけばいつか疲弊して私は死ぬ。
それは羽入にとって、ようやく得た伴侶を失うということだ。
誰ともコミュニケーションを取れず寂しく生きる存在の羽入にとって、私を失うことほど堪えられないことはないのだろう。
……私は運命が打ち破れるものだと思ってる。
そう思ってなかった時ですら、自分の運命は迷路みたいなもので、幾百の試行錯誤の果てには出口があると信じていた。
でも実は、……羽入は知っているんじゃないだろうか。
実は私たちが金魚で、この運命は金魚鉢で。出口なんてそもそもないということを。
金魚鉢の中で永遠に二人っきりの相方の私が、いつかガラスを破れると信じてガラスの壁に延々と体当たりを続けている。
……そんなことは無駄だと諭す羽入。
傷つき、もしも私が死んでしまった後の孤独を考えたら、何とか考えを改めさせたいに違いない。
…なるほど、こう考えれば私と羽入の、運命に対する認識と物事への期待の温度差はわかりやすく説明できた。
羽入は私よりもっともっと永い時間を生きてきた。
…だから、この無限に広がる世界の法則については私よりもずっと理解が深い。
…だから、羽入にいくら逆らったところで、…私は真理には逆らえないのかもしれない。
それでも、…………私は自分の考えを貫かなければならない。
運命を破る武器は信念という槍。信じる強さが矛先を硬く鋭くするのだから。
私は仲間たちと一緒に富竹を見つけ、なるべく一緒にいようとおしゃべりをして過ごした。
だが祭りがお開きになると、彼らは立ち去ろうとした。
ここで立ち去られたら最後、次に会うことはもうないだろう。
魅音が、今日は本家に泊まって行けばいいと勧めるが、富竹はそれを固辞した。
最初の内はみんな、殺し屋が狙ってるかもしれないから、ひと気のないところへは行かない方がいいと言っていたが。
富竹と鷹野が大人の事情で二人きりになりたがっているのではないかとスケベ根性から邪推し始め、しまいには私に、愛する二人の最後の夜を邪魔しちゃ駄目だ、なんて言い出す始末だった。
「大丈夫だよ梨花ちゃん。富竹のおじさまだって男だよ。いざとなれば鷹野さんのために獅子奮迅の活躍をしてくれるよ。」
「そうよねぇ? 私に危機があったら、ジロウさんが体を張って守ってくださるのよねぇ?」
「あ、あははははは…、そ、そのつもりだよ!」
「じゃ、私たちはもう行こ。もうだいぶ遅いよ。」
「ありがとうね、気を利かせてくれて。くすくす。」
「く、くれぐれも誤解しないでくれよ! 僕は診療所に忘れ物をしてるんだ。それで診療所の鍵は鷹野さんが持ってるから鷹野さんと一緒に診療所に行くんだよ?!」
「へーー、富竹のおじさま、ナースプレイとは奥が深いです。」
「違うよ詩音〜、きっと分娩台を使ったお医者さんごっこなんだよ。くっくっく!」
ドカ、バキ、グシャ!!
「はぅ〜!! ナ、ナースプレイって何だろ、何だろ!!」
「がっちり理解できてるなら照れ隠しに殴るのはやめろ…。それから魅音と詩音。お前ら、下ネタだけ意気投合するな…。」
「……じゃ、じゃあねみんな…。あははは…。本当に忘れ物を取りに戻るだけだからね…。ついてきちゃ駄目だよ…? あはははは…。」
「あははははははははははははは……はぅ〜!」
「……富竹、…本当に用心するのですよ…。」
「梨花の心配し過ぎではございませんの? ……ふわぁああぁぁぁ…。」
沙都子が大あくびをするとみんな笑った。
それがちょうどいいお開きの合図になったようだった。
…一見すると、私は何も彼らの運命を変えられていないように思う。
でも、これだけ大騒ぎして伝えた死の運命に、彼らの心構えが普段と少しでも違ってくれたなら、…それは小さなところで変化して、彼らの運命を変えることもあるかもしれない。
あとは、祈るだけだった。
「それじゃあ富竹さん! また〜! ぜひその時は写真を見せてくださいねー!!」
「その罰ゲームのシャツ、ぜひ着てきてくださいねー!!」
「いよ、美女との一夜、羨ましいねぇ、ひゅーひゅー!」
「あ、あはははは。またね、みんな。次に会うのは秋頃かな。」
「私たちが今夜殺されなければね。くすくす。それじゃみんな、おやすみなさい。」
「「おやすみなさい〜!」」
それが、綿流しの夜にできた私の努力だった。
■鷹野ターン(第3者目線)
どうかこの夜に何があったか教えてください。
それは例えるなら猫を詰めた箱。
どうかこの夜に何があったか教えてください。
箱の中の猫は、生か死かすらもわからない。
どうかあの夜に何があったか教えてください。
箱の中の猫は、死んでいたのです。
Frederica Bernkastel
■時間経過。診療所。会議室
富竹は資料を束ねてフォルダに入れると、それを自分のナップザックに詰めていた。
「嫌にしつこかったね。ははは、そんなに僕らに死んでほしいのかなぁ。」
「くすくす。……夢の話とはいえ、迷惑な話よね。」
「入江所長に、梨花ちゃんの検査を念入りに行なった方がいいと言っておいてください。夢見の悪さは何かの予兆かもしれない。梨花ちゃんに何かあったら、大変なことになるからね。」
鷹野は富竹の手にそっと自分の手を重ねた。
どきっとして赤面しながら硬直する富竹に、鷹野は吐息がくすぐるくらいに顔を寄せて話しかけた。
その仕草はとても色っぽかった…。
「…………………ねぇ、ジロウさん。とても真面目な話があるの。聞いてくださる?」
「な、何だい? ……鷹野さんまで、真面目な話があるってのかい? はは、ははは、まさか鷹野さんまで僕が喉を掻き毟って死ぬ夢を見たなんて言うのはなしだよ? はははは。」
「…………その、まさかだとしたら…?」
「……え………?」
妖艶な瞳が悪戯っぽく、目線だけで富竹の瞳をくすぐる…。
やがて、妖しい言葉を紡ぐその唇が富竹の耳たぶを啄ばみながら言った。
「…くすくす。………驚いているのよ。あの子には本当に神通力があるのかもしれないってね。くすくすくすくす。」
「それは……あはは、どういうことだい…?」
鷹野は薄っすらと笑いながら髪をなびかせる仕草をした。
……それは富竹の好きな仕草で、どきりとさせる。
「…私、あなたのことが好きよ。」
「そ、それは光栄だなぁ…。あはははは…。」
鷹野の指が、富竹の顎に絡まり、撫で、くすぐり、愛撫する。
それはとても艶かしく、そして妖しい。
「……色々な男と付き合ってきたけれど、野心も野性味も私には合わなかった。あなたのような堅くて真面目な人が一番相性がいいってわかったの。……あなたなら、私の全てを受け止めてくれる。私のことを本当に理解してくれるって、信じられるの。…だから、あなたになら、三四の全てを捧げられる。………私の全てを、あなたに抱き受けてもらいたいの……。この気持ちがわかるかしら……?」
「……………………ん、……っと、……鷹野さん…。急にどうしたんだい…?」
愛の囁きとはどこか雰囲気が違う。
…鷹野がこういう残酷な笑みを浮かべる時、その考えを富竹は理解できないことを自覚していた。
「…………いよいよなの。……もうじきなの。」
何かとても楽しいことが待ちきれないような。
…そんな様子の鷹野の笑みは、だけれどもぞっとする妖しさがあり、……それが本当に楽しいことなのかどうかを疑わさせた…。
「…………何が、…もうじき何だい…。」
首筋を這う唇の感触に解かされる理性を、富竹は必死に堪えながら聞き返した。
「………………私の、夢が叶う日が、…やって来るの。」
「君の、……夢…。」
「そう。私の、夢。…………………話したことがあったわよね? それともベッドの上で話したことは記憶に残らないのかしら…?」
「い、いや、お、覚えてるよ。…………君の…夢…。」
富竹は多分、よく覚えていないか、理解していないかのどちらかだった。
言葉はどこか曖昧で、取り繕うかのようだった。
「………いよいよ、…オヤシロさまの祟りが、現実のものとなる日がやって来る。その日こそが、私の子どもの頃からの夢が叶う日。……くすくすくす。」
「…………………………。」
「……ジロウさん。聞いて。…………私は、もうあなたと一緒にはいられないの。」
「え…? ……そ、それはどういう意味だい…?」
「……………あなたと私は違う世界に住む存在なの。……ここ、雛見沢は人の世と鬼の世の接点。………だから陽の当る世界のあなたと、陽の当らない世界の私が出会えた。………でも、もうそれが終わるの。……陽光の降り注ぐ日中に訪れた束の間の月食が、陽の当る世界の人間と、陽の当らない世界の鬼を引き合わせた。
…………私が何を言っているかわかるかしら…? ………くすくすくすくす。」
「鷹野さん…、……まだビールが抜けないのかい? …あははは、酔ってるね?」
「………お別れの夜が来たの。………陽の当る世界を教えてくれてありがとう。あなたの温かさは日溜りの温かさだったわ。……騙しあったり、疑いあったりしない本当に温かい関係だった。……だからあなたと別れるのがとても惜しい。」
富竹から体を剥がすと、鷹野はゆるやかな仕草で二歩三歩と後ずさる。
……富竹との別れの時が訪れたことを、距離で示すかのように。
「…君が何を言っているのかわからない…。何の話なんだい、鷹野さん…。」
「………………だからあなたに選んでほしい。私の側にいることを選んで、陽の当る世界の全てを捨てる勇気を見せてほしい。…………あなたが私の耳元で囁いてくれたことがどれも本当だったなら、……………ジロウさんに戸惑いはないはず…。」
…この頃には富竹にも、鷹野が何か重要な決断を迫っていることに気付いていた。
「…………まさか、………君は…………。」
「…くすくす。…そのまさかなの。……ジロウさん。」
富竹は席を立ち、鷹野と対峙するように身構えた。
…それにはほのかな敵対のニュアンスが込められていた。
「……………私より、……仕事が大事なの…。……やっぱり…。」
「……信じられない…。君の事を…信じていたのに…!」
その一言は拒絶。…鷹野は薄く自嘲気味に笑った。
「…………オヤシロさまは人と鬼を融和したそうだけど。……そのオヤシロさまでも、私とあなたを融和することはできなさそうね。…………くすくすくすくす。」
鷹野がゆっくりと会議室のドアを開くと。
…そこには6人もの作業服の男たちがいた。
ぎょっとする富竹。
6人は無表情のまま入ってくると、富竹の前に立ちはだかった。
…悪意ある目的で立ちはだかっているのは明白だった。
「……こ、これは何の真似だ!」
「『雛見沢症候群』は導火線に火がついた爆弾と同じ。それが爆発する前に東京はあなたに爆弾を解体してしまうことを命じた。
……でもね、東京にはこの爆弾が派手に爆発してほしがっている人もいるの。」
「ば、馬鹿な!! そんなことをして誰が何の得をするんだ!」
「得のないことをする人なんて、この世にはいないわ。損得があるからベクトルがうまれる。だから私を前にそれを問うことは無意味ね。」
「……し、信じられない。そんな馬鹿なことを考えている連中がいるのかい!『雛見沢症候群』はとても危険な病気であることは君も知っているはずだ!」
「そうよ、爆発すればとても大変なことになる。だからこそ東京も失態を隠しきれない。」
「…き、君はその連中に買収されたというのか。」
「元からそういう目的で送り込まれているの。…申し訳ないわね。出会った時から、私とあなたは住む世界が違ったの。」
「……………それで、僕をどうするつもりだ…。」
「あなたの協力があれば私の仕事はとても楽になるわ。もちろんそれはあなたにとっては裏切り行為に当る。」
「…僕に寝返れと言うつもりか……!」
「ジロウさん。私に囁いてくれた愛が本当なら、黙って私に協力してはくださらないかしら。もちろん、報酬は望みのまま。あなたが私を望むならば、一生をあなたのためだけに仕えてあげる。あなたが望む時、あなたの望むところであなたの望むように、どんなことでも従うわ。私の体はあなただけのもの。あなたの獣欲を満たすためだけに独り占めをしていいのよ。………私も、あなたにならあなただけの僕になってあげてもいい。…ねぇ、私の全身に、あなたの臭いを染み付けさせたいとは思わない……?」
それは、男の抗い難い感情に直接殴りつけるようなある種の暴力。
心の隙間から入り込み、内側から溶かし籠絡しようとする悪意ある呪文。
富竹は背筋を登る未知の感覚に、足がすくむほどの恍惚感を覚えずにはいれらなかった。
……でも、それに必死に抗う。
理性の壁の隙間を塞ぎ、わずかの隙間からも忍び込もうとする鷹野の魔手を必死に押し止める…。
「……く、……………断る…!」
「くすくすくす、あははははははははははははっはっはっはっは!」
富竹が断るのは最初からわかっていた。
でも、鷹野の笑いは勝ち誇ったかのような笑いだった。
そう。富竹は躊躇なく断るはずだったのだ。
だが、鷹野の甘く危険な毒に冒され、その当然の返事をするのに短からぬ時間を費やさなければならなかった。
…だから、富竹が拒絶を口にするのに掛かった全ての時間が、鷹野にとっては勝ち誇るべき時間。
富竹にとっては屈しかけた屈辱の時間。
だから鷹野は笑う。
妖しく心を溶かす魔女のように笑う。
「……そう言うと思ったわ。それでこそ私の大好きなジロウさんよ。」
鷹野が右手を振り、けしかけるような仕草をすると、山狗たちはゆっくりと富竹に近付き始める。
「小此木くん、君も寝返ったのか…!!」
「…失礼しますんね、富竹二尉殿。」
「ジロウさんも鈍いわね。山狗は初めから私の部下よ? この診療所は最初から私たちが掌握している。知らないのはあなたと入江所長だけよ。くすくすくす…。」
「………くそ…!」
先の先を取らねば脱することはできないと悟った富竹が先に動いた。
稲妻が閃くように繰り出される突きは、1人の男を瞬きすら許さずに打ち倒す。
だが男たちもそれを黙ってみているわけではない。
人数の差で圧倒しようと一斉に飛び掛る。
組み付いてきた男たちに肘で反撃を加えるが、人数差は覆せないようだった。
よく善戦したが、もがく富竹はやがて床に転がされ、うつ伏せに潰される。
「く、くそおおぉおお!!!
離せ、
離さんかッ!!」
「こいつ、ジタバタすんなッ!!」
「ぐおおおぉおぉおお…ッ!!」
関節を完全に固めたらしい。富竹はもはや足掻くことすらできなかった。
「さすがねジロウさん。6人掛りでも手こずらせるなんて素敵よ。」
完全に決着がついたのを見届けると、鷹野は優雅に笑いながらやってきて、足元の富竹を見下ろした。
「………………ねぇ、ジロウさん。どうせ断るんでしょうけれど、私の自己満足のためにもう一度聞かせてね? ………やっぱり意見を変えて、私の味方になってはくれないのかしら。」
「……む、…無駄だ…! 君の仲間にはならない……!! ぐぉあぁ…!」
「その一言が欲しかったの。私の未練を断ち切るためにね? くすくすくす。」
鷹野はいつの間にか小さなケースを手にしていた。
それを開き、…その中に収められているものを富竹に見せ付ける。
「…そ………その注射は……?!」
「嫌ねぇ。想像がついてるくせに。くすくす。」
「……馬鹿な、……全て破棄したはず…!!」
「ジロウさん。あなたはこう思っているでしょう。例え破棄した例の注射だとしても、自分は予防薬を投与済みだから注射されても免疫があるはず。……くすくす。そうでしょう? だから怯えてないのよね? ……あなたが今回、雛見沢に来た時に投与された予防薬はね、違うのよ? あなたは今、自覚してないだろうけども、すでにL3クラスで感染してる立派な『雛見沢症候群』の潜在患者なの。ジロウさん、注射する時、目を背けるクセがあるでしょう? 駄目よ。自分に何の注射がされてるか、毎回ちゃんと確認した方がいいわよ? くすくすくすくす。」
「く、くそおおぉお!!
離せッ!!」
富竹が一層激しく暴れるが、これだけ大勢の男たちに組み伏せられていては何もできない…。
鷹野はその様を見て楽しそうに笑った。
「……H173はジロウさんもよくご存知のはずよね。投与することで感染し、かつ興奮状態を誘発することで擬似的にL5を発症させる。どれだけ劇的な効果があったかは、ジロウさんもご覧になってたんじゃないかしら? 被験者は盛んに頸部、腋窩の痒みを訴えていたわね。過去の症例の文献から見ると、どうもL5発症時にリンパ節に異常な痒みを訴えるケースがあるみたい。抗原抗体反応の一種かもしれないわね。……だからジロウさん。あなた、運が良ければ梨花ちゃんが予言したとおりの死に方ができるわよ? くすくすくすくす! 自傷で自ら死ぬか、それとも脳を憎悪で焼かれて廃人になるか。あなたはどちらになるのかしら…? ねぇ、ジロウさん? くすくすくすくす!!」
「やめろ……、やめろおおおおおッ!!!」
「……これじゃ、お注射は難しいわね。眠らせてあげて。」
鷹野が指示すると、男がハンカチに薬物を染みこませ、それで富竹の鼻先を塞いだ。
死に物狂いでもがいて抵抗するが、突然ガクンと力が抜け、…まるで浜辺に打ち上げられたクジラのように、最後には大人しくなってしまった。
鷹野はその顔を撫で、もはや富竹が何の抵抗もできないことを確認する。
そして注射針を…わざわざ陰湿にも喉元に当てた。
そして、薄皮一枚の間に慣れた手つきで注射針を滑り込ませる。
……注射器のピストンをぎゅぅ…っと絞り込むと、注射針の先端の皮が、内側からぷっくりと膨らみ、…やがて馴染み、吸い込まれて消えて行った…。
「さよなら、ジロウさん。次に目が覚める時は楽しい悪夢の世界にいるのかしらね。くすくすくすくす。」
男たちが富竹を解放する。
もう富竹はぴくりとも身動きはしなかった。
「誰か、彼を私の車のトランクに運んで。」
男たちのリーダー格が顎で合図すると、2人が富竹の体を運んで行った。
「…そうそう。彼の愛用の自転車も一緒だときっと喜ぶでしょうね。地獄へ行っても、好きなだけサイクリングができる。」
男たちは声を殺しながら笑った。
「では、これより終末作戦を開始します。」
その一言で男たちは笑うのを止めた。
「小此木は以後の連絡を待て。入江所長から目を離すな。……あと、古手梨花にも注意してね。どんな第六感か知らないけど、…少なくとも彼の死に方だけは当てたわ、あの子。
…くすくす。もっと研究したかったけど、残念ね。」
「了解ですわ。こちらはお任せください。道中はお気をつけて。」
「気をつけるほどもない旅よ。………ところで、入江所長は?」
「祭りの後の打ち上げ中でしょう。まだ神社の敷地内にいるとのことですんね。」
「あの研究しかできない坊やが、どう取り乱すか見れないのが残念ね。くすくす。」
男たちもげらげらと笑う。
鷹野は腕時計で時間を確かめる。
22時前だった。
そろそろ祭りの後片付けの車の往来もなくなった頃だろう。
帰るべき人は帰り、帰らず打ち上げで飲んでいる人たちは神社で酔っ払っている、そういう時間だ。
人目を嫌う出発にはちょうどいい時間だった。
「では私も出発するわ。死んでくるわね。くすくす…。」
それだけを言い残し、鷹野はひとり診療所を出た。
診療所裏の通用口から出る。
虫の声と月明かり、そして遠くから聞こえる沢の音。
それ以外は何もない雛見沢の夜。
…それを堪能しながら鷹野は車に向った。
トランクの中には眠る富竹が。
そして後部座席には富竹愛用の折り畳み自転車が詰め込まれていた。
……くすくす。申し訳ないわね。
あなたより自転車の方が優雅な席に座っていて。
すぐに降ろしてあげるからしばらく待っててね。
興宮に行く途中の一本道が薄暗くて適当だろう。そこにしよう。
途中、ちょうど良さそうな場所を見つけたが、一台パトカーが停まっていたため、その場所を諦めた。
……なるほど、5年目の祟りがないかどうか警戒中というわけか。
ご苦労様、お巡りさん。
まさか私の車のトランクに今年の祟りが詰められてるなんて夢にも思わないでしょうね。
真っ暗な道をもっと進んだ。
山道が開け、漆黒の闇の中に放り込まれる。
まわりは田んぼだった。
蛙の合唱だけがそれを教えてくれた。
その真っ暗な田んぼの路肩で車を停める。
この辺りで停めないと、どんどん人家が増えてしまう。
だいぶ興宮の方に来てしまった。
もっと手前で捨てるつもりだったが、パトカーが邪魔だったので仕方がない。
鷹野は真っ暗な中、トランクから富竹の体を引っ張り出し、路肩に放った。
そして自転車もその近くに放る。
富竹が少し呻いたような気がした。
……多分、もうじき目を覚ますだろう。
「さよなら、ジロウさん。あなたのぎくしゃくした恋の語りも楽しかったわ。もっと聞かせてもらいたかったからとても残念よ。くすくす。…もうじきあなたは目を覚ますわ。その頃にはあなたはL5の末期を迎えてる。あなたは錯乱の挙句、きっと哀れな死に方をするでしょうね。うじ湧き病が語るように、やはりあなたも喉を掻き毟って死ぬのかしら。それを観察できないのがとても残念。くすくす。
そしてあなたの異常な死と私の失踪はこの地に5年目の祟りとして刻まれるでしょう。そうしてオヤシロさまの祟りはますます強固なものとなって残る。その礎となれるなんて、……ジロウさん、これはとても名誉なことなのよ? あなたはこれから、命ある身を捨てて、永遠の存在の一部となれるのだから。……………くすくすくすくす。」
それが富竹への別れの挨拶となった。
鷹野は再び車に乗り込むとアクセルを吹かす。
もとよりヘッドライト以外灯りのない真っ暗な田んぼのあぜは、あっという間にバックミラーの漆黒の闇に飲み込まれていった…。
鷹野は興宮街道を抜けると、細い道を何本か折れ、灯りのまったくない山中へ向っていく。
もう雛見沢を出発してだいぶ時間が経っていた。
時計を見れば24時も近い。
もう県境を越え、隣の県へ至っているかもしれない。
…でも、時折ヘッドライトに浮かぶ標識以外、何も見えない漆黒の山道からはそれをうかがうことは難しかった。
やがて、鷹野は本当に真っ暗な道の途中で車を停めた。
エンジンを切り、ライトも消すと、まるで自分が暗黒の中に閉ざされてしまったかのような恐怖感に襲われそうになる。
この暗闇の中では、まるで時間も凍りつくような錯覚があった。
相当長い時間なのか、あるいは呆れるほど短い時間なのか、わかりづらい時間が経った頃、闇の中からヘッドライトが二度瞬くのが見えた。
鷹野は事前の取り決めに従い、変則的なタイミングでパッシングを返す。
それを見届けると、向こうのヘッドライトがつきっ放しになり、その明かりの中に、何人かの人影がこっちにやって来るのが見えた。
宅配便業者のような青い服装をした二人組の男が鷹野の車の窓を叩く。
鷹野は窓を開けた。
彼らはその顔を手元の資料と確認する。
「ご苦労様。鷹野よ。」
男たちは鷹野本人であることを確認すると無線で伝えた。
「……本部どうぞ。雛を確保。尾行ないか。」
「………………ザ、ザザ、…………尾行はなし。後方400mクリア。」
「尾行はありません。お疲れ様でした。どうぞ指揮車へ。書類をお預かりします。」
「書類カバンはトランクの中よ。これが鍵。あとコーヒーがもらいたいわね。淹れてくださる?」
指揮車と呼ばれるトレーラーは貨物室の中が高度な通信施設となっていた。
暗がりの中に瞬く電子機器の様々な点灯がとても幻想的だった。
「三佐、コーヒーです、どうぞ。」
青い作業服の男が紙コップのコーヒーを勧める。
「ありがとう。私の死体の方は大丈夫?」
「岐阜にて偽装終了との連絡が入っております。」
「岐阜? 岐阜の山中でドラム缶で焼け死になのかしら?」
「死因までは。確認させます。」
終末作戦。
それがこの作戦の名称だった。
第一段階での作戦目標は、鷹野の雛見沢脱出と特定機密書類18件の搬出。
これは問題なく達せられた。
東京派遣の定期連絡員、富竹の暗殺。
これも鷹野の好む異常な方法で達せられた。
だが、演出された異常死は鷹野の物好きによるものではない。
L5の末期症状による異常な死には、東京が入江機関に対し疑いの目を向けさせる意味もあった。
入江機関が研究の終了と予算の縮小を不快に思い、何者かに研究を売り渡すよう演出することを上は求めていた。
富竹のこの異常な死を、そうなるように結び付けるのはまた別の工作員の行なう仕事だ。
……そして死が求められたのは富竹だけでなく、鷹野もだった。
鷹野の場合は、自らが命を落とす必要はない。
今日、作戦が決行されることを予定して身代わりの死体を準備する体制が整えられていた。
それがどのような形で準備されるかは鷹野も知らなかった。
ただ、今聞いた話では、岐阜の工作班が手配をしてくれているようだった。
連絡員富竹と監視員鷹野の二大要人が変死すれば、東京は入江機関に疑いの目を向けないわけにはいかなくなる。
入江機関の暴走を装うのが終末作戦の重要な部分だった…。
「申し訳ありません三佐。岐阜の工作班で問題が発生したようです。」
「……問題? どうしたのかしら。」
「偽装死体の選別にミスがあったそうです。……死後24時間経過していたとか。」
「……あら、するとどういうことになるのかしら。」
「つまり、三佐は昨日すでに亡くなられていたことになってしまいます。」
鷹野の死体は、今日殺された死体から選ばれることになっていた。
そしてその死体は焼死体のような身元確認が困難なものが望ましい。
そして都合のよい死体が出たので偽装工作が行なわれたのだが、……遺体の内容物などから、死後24時間を経過してから焼いたらしい、死後焼却であることが判明したという。
……これではロジックに矛盾が出る。
「岐阜の方で現在、収拾にあたっていますので…、」
「くすくす。いいわ。その死体を私ということにしなさい。」
「は…? しかしそれでは……。」
「雛見沢を滅びに導くオヤシロさまの使いが、実は前日に死んでいて、祭りの当日には死者として歩き回っていた、か…。
くすくす、…面白い。それは実に面白いわね。…くっくっくっく…!」
鷹野はしばらくの間、声を殺そうともせず、薄気味悪い声で満足そうに笑っていた。
指揮車の中の人間たちには、鷹野が何で笑っているのか誰にも理解できなかった。
ただ鷹野だけがひとり、とても愉快そうに笑うだけだった。
「かまわない。岐阜にはそれを私にしろと伝えなさい。そのくらいの解れがあった方が面白いわ。」
「…よろしいのですか。万が一ということも…。」
「万が一なんてないわ。…だって、鷹野三四は現に今日、綿流しのお祭りの会場を闊歩していたのよ? 例え検死の結果、死後24時間以上経ってると出たって、御目出度い連中は検死結果の方が間違ってると思ってくれるわよ。くすくすくすくす!」
まるでそれは、ある種のリスクを楽しんでいるかのようにも見えた。
「……りょ、了解。岐阜へその旨、連絡します。」
「それより。私の死体はドラム缶の中で焼かれていたの?」
「はい。高速道路近くの山中でドラム缶の中で焼けていたのを発見されたそうです。」
鷹野はそれを聞き、ほんのしばらくの間、きょとんとしたような表情を浮かべているように見えた。
そして突然、小気味良さそうに笑い出すのだった。
もちろん、その場にいる誰にも、その理由はわからなかった。
「なるほど。……オヤシロさまの生まれ変わりは伊達じゃないということなのね。
………………あの子にはやはり、人知の及ばない何かがあるということを認めなければならない。……雛見沢の山狗に、Rの監視体制を厳重にするように連絡を。」
「了解。」
「失礼します。興宮警察が富竹の遺体を発見したとの無線を傍受しました。」
「……発見したわね。いよいよ始まるわよ。くすくすくすくす!」
「大石さん、先生が到着してます。」
「あーどうもどうも!
どうですか、入江の先生。」
大石がブルーシートで囲われた一角に入る。
中には鑑識の職員が、遺体をあらゆる角度から撮影して記録していた。
富竹ジロウの遺体の脇に屈んでいた入江が立ち上がった。……その顔面は蒼白だった。
「………………信じられません。」
「…そりゃあ、私だって信じられませんよ。初見で見た限り、…ホトケは喉を掻き毟っています。それも自分の手でです。
こいつぁ真っ当な死に方じゃない。十中八九、何らかのヤバめな薬物でしょう。」
「…………彼は、何らかの薬物の常習者だったということでしょうか?」
「さぁねぇ? そいつを調べるのはどうやら我々の仕事になりそうです。」
「……………大石さん。この角材は?」
「多分、…ホトケが振り回したんじゃないかと思います。で、途中で捨てて、喉を掻くのが楽しくなっちゃったんじゃないかと。」
「…………角材を何のために振り回したんでしょう。」
「自衛のため、と考えるのが一番自然だと思います。……ホトケの体に、外傷がいくつかあるのに気付いてます?」
「……えぇ、打撲傷を思わせる痕がいくつか散見出来ます。」
「ってことは、一番考えられるストーリーは、………ホトケが祭り終了後、興宮へ帰る途中、ここで何者かに襲われた。それで、取り押さえられて、怪しげな注射とかそういうのをされて、その結果、錯乱させられて死に至らしめられた。」
「………喉を掻き毟るように誘導できる薬物なんて聞いたことがありません。」
「私もそっちは専門じゃありませんが、…ヤク中の末期症状に自傷行為ってあるらしいじゃないですか。まぁ、その辺はうちの鑑識のじいさまが調べてくれるでしょう。」
「大石さん失礼します! ここから数百メートルのところに、富竹ジロウのものと思われる自転車が見付かりました。」
「お、そうですか、ありがとうございます。何か手掛かりとかは?」
「いえ、初見では特には。今、鑑識が行ってます。」
「じゃあつまり、……その自転車があった場所が襲撃場所と考えていいんでしょうねぇ。……それで、戦ったり逃げたりして、ここまで来た……、……んんん。」
大石は腕組をしながら唸る。
入江は富竹の死体の、ありえない惨状を見ながら、それでもなお重ねて口にしていた。
「…………………ありえない。……絶対にありえない。」
入江はこの富竹の異常な死に方は『雛見沢症候群』の末期症状による錯乱と自傷が引き起こしたに違いないと一目でわかっていた。
角材を振るった敵は実在する敵ではなく、L5によって肥大した彼の被害妄想が作り出した妄想の中の敵だろう。
末期患者が被害妄想を破裂させた結果、周囲に対し過度な攻撃性を示すことは少ない症例の中でも顕著に現れていたからだ。
だが、富竹には訪れた時、必ず予防薬を投与しているはず。
予防薬の投与がありながら、こんなにも短期間の間にL5を発症するわけがない。
考えたくないが、……何者かが悪意を持って富竹に病原体を投与したのは間違いない。
それも、即L5を発症させるような濃度でだ。
……心当たりがあるとすれば、H173。
急性発症を促す殺人薬だ。
人を錯乱させ恐ろしい結末を導くことしかできない、最低最悪の悪魔。
だが、そんな危険なものは、過去の方針転換時に全て破棄している。
今は予防薬や治療薬などのポジティブなものしか取り扱っていない…。
…そして、富竹は東京から派遣されている連絡員だ。
恐らく、この殺し方をした人間は、富竹が何者で何に関わっているかを知り尽くした上で犯行に及んでいる。
……なぜ、彼が東京の連絡員だと知りえたのか?!
そこに至った時、入江の脳裏に鷹野が浮かぶ。
鷹野もまた東京から派遣されている監視員だった。
お目付け役と言ってもいい。
…まさか、鷹野の身にも何か起こってはいないだろうか…。
「そうだ…、鷹野さんは? 鷹野さんはどうなったんです?!」
「え? あぁ、お宅の看護婦さんの?」
「多分、富竹さんと一緒だったと思うんです。鷹野さんは無事なんですか?!」
「……先生、彼女の電話番号はわかります?」
「もちろんです。」
「熊ちゃん。入江の先生に電話番号聞いて、署から在宅確認を取らせてください。」
「了解っす! 先生、番号を。」
「はい、えぇと、よろしいですか?」
熊谷は入江に番号を聞くと、それを復唱した後、ブルーシートの外へ飛び出して行った。
「先生。…鷹野さんとホトケは、確か親しい仲でしたよね?」
「えぇ。」
「…何かトラブルがあったとか、そういうのは聞いたことがあります?」
「まさか。……聞いたことないです。仲の良い二人でした。」
富竹と鷹野は個人的に親しい関係だっただけじゃない。
二人とも東京から派遣されている同僚同士だ。
入江にも知らされていないような話を知る立場にいる二人だ。
その二人が仲違いなんて、入江には想像できないことだった。
「何事もなけりゃいいんですがね。…下手すりゃホトケか、それともホシか…。……んん、なるほど、看護婦なら怪しげな薬物を取り扱えてもおかしくはないですよねぇ?」
「…………そんな薬品はうちの診療所にはありませんし、あったとしても厳重に保管されています。鷹野さんに持ち出せるわけがない…。」
「それでも、一般人よりは容易でしょ?」
「ですから、そもそもそんな薬物は聞いたことがないし、当診療所にも存在しません…!」
入江は下手くそな言い訳を重ねながら、必死にどういうことなのか考えようとしていた。
……だが、入江には東京の内情を知りようがなかったから、それ以上はいくら考えても至れない。入江を井の中の蛙と笑うのは容易かった。
「大石さん、留守のようです。署の待機組の方で直接訪問すると言ってます。先生、すみませんが鷹野さんの住所を教えてください。」
「熊ちゃん。それプラス、県警に今夜出た身元不明の女性死体がないか確認を取ってください。……あるいは県外の可能性もあるな。課長に、近県にも同様に身元不明の女性死体が出てないか確認を取るよう伝えてください。」
「了解っす!」
「興宮警察が岐阜県警への接触を開始。」
「三佐、よろしいのですね…?」
「えぇ。構わないわ。そのままで行きなさい。どうせすぐに終末よ。誰かがひとりくらい死亡時刻を疑ったって、誰かが耳を貸す前に全てが滅ぶ。くすくすくす!」
■アイキャッチ
■大石と梨花(車中)
綿流しの翌日。大石が学校にやって来た。
大石がこの日に学校にやって来ることは、実は結構多い。
そして皮肉にも、その世界のキーパーソンを呼ぶのだ。
圭一が発症する世界では圭一を。
レナが発症する世界ではレナを。
そして、この世界では大石は私を呼んだ。
「………富竹が、…死にましたか…。」
「えぇ。……ちょっと尋常じゃない死に方でしてね。薬物か何かで錯乱状態だったんじゃないかと思います。自分で自分の喉を掻き破るというショッキングな亡くなり方でした。」
「……やはり抗えないのか。」
どうにもならない。
わかってはいたことだった。…恐らく鷹野もだろう。
「……鷹野は?」
「彼女についても残念なご連絡があります。岐阜の山中で焼死体で発見されました。死体の状況から、多分、絞殺された後に焼かれたんじゃないかと思っているのですが。どちらにせよ気の毒な話です。」
「……大石の考えはわかってますです。ボクが何か知っていると思っているんでしょう。」
「いやいやまさかまさか。疑うとしたらこの一点だけです。あの人ごみの中で、小耳に挟めるようなところでこんな物騒な話をする人がいるわけがない。」
「……ボクが、何かの陰謀の片棒を担いでると思っていますですか。」
「と、思い込みたいところですが、それも引っ込めました。
……本当にその気なら、あなたは私にあんな入れ知恵をすることはなかったんですからね。少なくとも、今回の事件を起こそうと考えた何者かとは相対する位置にいると思ってます。」
「……それが本当ならとても嬉しいのです。」
大石は賽銭箱に10円を放り込むと、ガランガランと鳴らしてから言った。
「どうか今年こそ、雛見沢村連続怪死事件を終わらせられますように!」
「……そのためにボクに協力しろと?」
「なっはっはっは。今のはオヤシロさまにお願いしたんですよ?」
私がオヤシロさまの生まれ変わりと呼ばれているのは大石も知っている。
…大石ギャグということにしておこう。
「……ボクも、こんな祟りはもう金輪際にしてほしいと思っていますです。」
「おや、なら古手さんと私の求めるところは一致するようですねぇ。」
「……ボクは昨日、富竹の死体が見付かりそうなところを予言しましたです。そこにパトカーはいなかったのですか?」
「いいえ、ちゃんと巫女さまの予言に従って配置しました。
ほら、舗装道路と砂利道の境目になってる辺りがあるじゃないですか。通称、村境とか呼ばれてる辺りです。あそこら辺はとても暗いですからね。何かヤバイことの起こりそうな臭いが一番ぷんぷんする辺りです。」
「…………では、富竹の死体はどこで?」
「配置場所よりももっとずっと興宮寄りの水田地帯の路肩です。」
…毎回見付かる富竹の死体の場所と違う。
富竹があの場所で錯乱するのが運命なのだとしたら、例えパトカーがいようといなかろうと同じ場所で錯乱する。
それが、その場所に予めパトカーが配置されているだけで、不変と思われた富竹の死に場所が変わるということは、……パトカーを嫌う意思が運命に介在した証拠だ。
「でですねぇ。ここからがちょいと面白い話になります。……パトにはですね、私、通る車もチェックさせたんです。そしたら、鷹野の車が祭りが終わった後、興宮方向へ通過したんですよ。」
鷹野の住まいは興宮にある。
祭りが終わった後に帰宅するのは珍しいことではない。
「ただ、乗ってたのは1人だったんです。富竹は乗っていなかった。」
「……富竹は雛見沢にはいつも自転車で来ますから、」
「なら自転車をトランクに積んで車に乗せてもらうのが普通じゃありませんか。ですが、富竹は一緒じゃなかった。…にも関わらず、富竹の死体は雛見沢からパトを越えて、興宮の方の水田地帯で見付かる。」
「………………つまり…?」
「あの真っ暗な中、森の中を突き進んでパトを迂回したなんてできる芸当ではありません。だとしたら、パトに気付かれずに街道を抜けるしか考えられない。…………古手さん。鷹野とホトケの関係について教えていただけませんか。」
「……………恋人同士。……それしか知らないです。」
「鷹野がね、恋人との最後の夜の逢瀬を1人で帰るというのが腑に落ちないんです。富竹はその時、トランクの中に詰められていて、あの真っ暗な森の中に捨てようとした。だが、お告げのパトカーがたまたまそこにいちゃったもんで、仕方なくそこを通り抜け、もっと先で富竹を捨てた。」
富竹と鷹野は恋人同士である以前に、東京から派遣されている人間だ。
彼らの本当の正体が何者であるかなんて、私だって知らない。
だから、鷹野に富竹を殺す理由が絶対にないなんて私にだって断言できなかった。
そしてそれは、……今までに一度も考えたことのないことだった。
鷹野が富竹を殺す……? …どうして??
理由が何も思いつかない。
心当たりもないし、殺さなきゃならないほど鷹野が追い詰められるなんて考えられない。
…むしろ逆で、恋に狂った富竹が冷たくされたのを逆上して首を絞める方がありえそうなくらいだ。
「私はあのカップル、どことなく不釣合いだなぁってずっと思ってました。…なっはっは、こう言っちゃあ富竹くんに失礼ですが、…鷹野さんでは荷が勝ちすぎてるんじゃないかなぁってずっと思ってました。鷹野が、富竹を何かに利用しようとして近付いていたとか、そういう話を村の中で聞いたことはありませんかねぇ…?」
「……ないです。でも、話は聞いてみようと思いますです。何かわかったら大石にも知らせますです。」
「ありがとうございます。村の内部に詳しい方、それも御三家の頭首でオヤシロさまの生まれ変わりの協力がいただければ鬼に金棒ですよ。」
…その生まれ変わりが、こうして百年以上も挑んで勝てない運命か。
「……でも。その鷹野も殺されたのですよ? どういうことなのですか。」
「私ゃ、もしあなたからタレコミ、おっと、お告げを聞いていなかったら。多分きっと、富竹と鷹野はともに犠牲者で、オヤシロさまの祟りの5年目ってことになったんだろうと思い込んだと思います。ですが、こうなってくるとどうも違う。どうやらこいつぁ、オヤシロさまの祟りの5年目ってことにしようとした、巧妙な事件のように見えてきました。」
「…………つまり、……鷹野が犯人…?」
大石が言わんとするのはわかる。
二人とも犠牲者なんじゃない。
実は犠牲者と犯人で、犯人も犠牲になったふりをして逃れていると言いたいのだ。
自分で言ってて実感がない。
……鷹野がどうしてそんなことをするのか、まったくわからないからだ。
大石以上に内情を知っているからこそなおさらだった。
でも、それでは鷹野の焼死体はどういうことになるのか。
岐阜県警がしっかり調べたのではないのか?
「焼死体の識別には歯形照合がもっとも有効だと言われています。ただ、うちの鑑識のジジイが言うにはそれでも100%じゃないと言う。……まぁ、それよりおかしいのが岐阜県警鑑識の死亡時刻なんです。当初、死亡時刻が合わなかったらしいんです。」
「……死亡時刻が合わない?」
「えぇ。祭りの前夜にはもう殺されてたっていう鑑識が出ちゃったらしいんです。内容物とかそういうのから調べるらしいですね。ですが、この時点で岐阜さんには、鷹野の話をしちゃってたんです。だから岐阜さん、綿流しの日に彼氏とデートしてたはずの死体が死後24時間では話が合わないって言って、その鑑定結果を握り潰しちゃったらしい。……死亡時刻の鑑定なんかより、死体の歯形鑑定の方がよっぽど精度が高いですからね。まぁ、現場にはたまにある話です。ですが、鷹野が犯人かもしれないって目で見てみると、こいつぁ、鷹野の死体じゃない可能性が出てきます。」
「……死体を誤魔化すことなんて可能なのですか?」
「焼死体の鑑定は基本的に歯型以外は絶望的です。例えば、これは推理小説的な荒技ですが、興宮のデンタルクリニックに残されていた『鷹野三四』の歯形のカルテ、これが、巧妙な手口で捏造されていたら、誤認もありえる。
……まぁ、そんなのは抜きにして、単純に岐阜さんが鷹野に間違いないと決め付けてしまった可能性の方が高いですが。警察組織内では往々にして、初動時の鑑定ミスが後々まで尾を引くことが少なくない。伝説的な冤罪事件のほとんどはこれに起因します。………私ゃどうやら、その可能性が拭えない気がする。」
「……つまり、鷹野は生きてる?」
「鷹野三四は先日以来、車ごと行方不明です。岐阜の死体が鷹野でないなら、……これは何だか面白そうな話になってきます。」
「……………………………。」
■診療所(夕方)
富竹たちの死については、もちろん入江の耳にも入っていた。
そして、入江が電話している様子を見る限り、東京も診療所も混乱しているように見えた。
……自分たちの研究のためには人の命などどうとも思わないくせに、内部の人間の死には大騒ぎするのが何だか皮肉だった。
そして部屋には、鷹野の部下の小此木の姿もあった。
小此木は山狗の隊長だ。
……この男が今も私の警護をしてくれているのかの確認が最大の目的だった。
過去の場合、上司の鷹野が死ぬと、彼らは私に構わなくなってしまうことがほとんどだ。
「……小此木。鷹野が死んでしまいましたが、ボクは大丈夫なのですか…?」
「大丈夫ですよ梨花さん。我々が今後も厳重に警護してますんね。…ですから、警察に頼ろうとしなくても問題ないです。」
…厳重に警護というのはこういう意味か。
私が大石と話していたことは彼らに聞かれていたようだった。
「……大石に聞きました。鷹野が実は死んでいないというのは本当ですか?」
「まさか。岐阜県警の正式な発表ですんね。大石という刑事は今年で定年、オヤシロさまの祟りを何とか解決したい一心で、何でも話をおかしくしようとするクセがありよります。あいつの言うことに耳を貸さん方がいいでしょう。」
…確かにそれは言うとおりだった。
昭和58年の大石は定年前のラストチャンス。
溺れる者は藁をも掴むの故事どおり、どんなデマにも飛びつく悪癖があった。
「……では、小此木はこの事件をどう見ていますですか…?」
「現在、上が調査してますんね、いい加減なことは言えません。殺された二人の関係を知る以上、内部犯行の可能性が極めて高いちゅうんは、間違いないんじゃないかと。」
その話を聞きながら入江の様子を見る。
……どうやら、富竹たちを殺した嫌疑は入江に掛けられているようで、入江は濡れ衣を晴らそうと必死だった。
やがて電話が終わった。
献身的に働いてきたのに、真っ先に自分が疑われるとは思わず、入江は少し憤慨していた。
「あぁ梨花ちゃん。すみませんね、だいぶお待たせして。」
「……入江も大変なことになったようなのです。」
「お聞きになったとおりです。……富竹さんたちの死は何かの陰謀による可能性が非常に高いです。そして、東京はその黒幕が私であると思っているようです。……まったく、どうしてそういう方向になるのか大いに疑問です!」
入江は珍しく感情を露にしていた。
自分の功績が認められず、恩を仇で返されたような気持ちなのだろう。
だが、入江は研究の縮小に伴う予算の削減に頑強に抵抗していた経緯があった。
研究者である入江にとっては当然の主張でも、東京はそうは思っていなかったということなのかもしれない。
……どの道、みんなみんな胡散臭い連中だ。
「梨花ちゃんの心配はわかってます。鷹野さんたちを殺した何者かが次にあなたを狙わないとは限らないですからね。東京もそこは特に気にしていました。」
「山狗にも、あなたの警護体制を最高にするよう命令が来ています。ご安心してくださいんね。」
「……それが聞ければ、ボクは少し安心なのです。」
山狗たちにそういう命令が来ていると直接聞けたのは初めての経験だった。
今までは、疑惑の目を向けられた入江の監視に体制が移り、私は無視されることがほとんどだった。
だから、富竹たちの死は防げなくても、今回の世界はかなり有利な条件であることを確認できた。
「……鷹野たちを殺した犯人に、心当たりはないのですか?」
「東京の皆さんも調べられています。状況を見る限り、内部事情に精通した人間の仕業です。……はははは、どうやら真っ先に疑われたのは私のようです。」
「……富竹にああいう死に方をさせられるのは入江だけなのです。」
「そ、そんなことはありません。恐らく東京の方もH173の話をしているのでしょうが。あれは危険な目的での研究が中止された時、全て破棄されたはずです。あんなことは不可能だ…!」
「ですんが所長。こういうことが起こってしまった以上、東京は疑わざるを得ません。それに富竹氏には予防薬が予め与えられていたはず。にも関わらず発症したんです。」
「天文学的低確率で起こった偶然だとしか言えません…。とにかく、絶対そんなことはありえないんです…!」
…入江は普段は落ち着きのある人間なのだが。
…東京から疑いの目を向けられる綿流し以降は、落ち着きを失ってしまうことがほとんどだった。
「……鷹野が犯人、ということはありませんですか? 鷹野なら内部の人間です。」
「鷹野さんが…? ま、まさか……。」
とは言いつつも、鷹野が犯人だったら全ての理由は説明できることに入江は気付きつつあった。
……ただ、その仮説に自信を持たせる動機がまったく思いつかなかった。
人は動機を求める生き物だ。
誰がやったかよりも、どうしてやったかを知りたがる。
……よくよく考えればそれはとても取るに足らないことかもしれない。
動機なんて、犯人が打ち明けるまでわからない。
それを他人が想像して至ろうという時点で無意味だ。
だから、動機がわからないから鷹野が犯人ではありえないという入江の考え方はきっと間違っていた。
「梨花さん、確証もないことを言っちゃあいけませんね…。あれだけ親切にしてくれたんじゃあないんですか。それを疑っちゃあ悪いですんね。」
小此木が、まるで恩知らずだとでも言いたそうな嫌味っぽい目で笑いながら私に言った。
「…………………。」
確かに私は鷹野にたくさん世話になった。
それを思えば疑うのは恩知らずかもしれない。
でも、……だからといって、疑いから外すことはまだできない。
それとも、私も大石と同じ悪い癖に取り憑かれているのか?
何とか自分の運命から逃れたいと足掻くあまり、異説奇説に飛び付きたがっているのか…?
「とにかく、私たちの身近で、何かよくないことが起こりつつあるのは間違いありません。用心するに越したことはないでしょう。」
「ご心配なく。所長に対する警護体制も最高にするよう命令を受けておりますんね。」
入江が苦笑いする。…きっと、警護でなく監視の間違いだと胸の中で苦笑しているだろう。
「梨花さんも警察には不用意なことをしゃべらないようにお願いしますん。……わかってると思いますが、場合によっては機密保持のため、厄介なことになるかもしれませんので。」
それは私が不用意なことをしゃべった相手を消すという意味だ。
……そんなのは今この場で改めて言われることでもない。
ただ、………もし本当に鷹野が犯人なら。
鷹野の部下である小此木もその一味に違いなかった。
…そう考えれば、小此木が鷹野が犯人かもしれないというとすぐに否定したがるのも納得がいった。
でも、もしもそうならば恐ろしい。
鷹野が敵で、山狗も敵なら、…つまりこの診療所は丸ごと敵の巣だということになる。
入江は所詮、所長という名を冠した単なる研究者に過ぎないから、何があっても知りはしないだろう。
でも考えれば考えるほどにわからない。
……鷹野がどうしてそんなことをしなくてはいけないのか?
…あぁもう、動機なんか何の意味もないとわかっているのに考えてしまう人としての身が憎い。
鷹野は本当に犯人なのか。
それとも、私も大石に感化されて妙な妄想に取り憑かれているのか。
こう考えると、……山狗の警護はむしろ、羊の番を狼にさせるようなものなのかもしれない。
私は今日までの百年間。
…自分を殺す何者かの正体を掴めず、自分の守りを固めるために入江機関に媚を売ってきた。
…それがそもそもの間違いなのだとしたら…?
………いや、……入江に悪意も下心もないのは間違いない。
数多の世界で彼の真摯な姿を見てきた。
だから入江だけは信用できる。
……問題は頼りにならないことだけだ。
小此木と目が合う。
大船に乗った気でいてくださいんね、と胸を叩き余裕をアピールする笑みは、今の私には悪意が篭っているように見えてならない。
………私も、いつの間にか雛見沢症候群を発症させてしまい、疑心暗鬼に取り憑かれてしまったか……?
何が何やらわからない。
誰が味方で誰が敵かわからなくなる。
……いや、そんな情けないことを言うな。
数多の世界で知ってきた、信頼を寄せるべき相手を信じるんだ。
確実に私の敵じゃないのは、……入江、大石。……そして、私の仲間たち。
だが、小此木が鷹野の手先なら、鷹野を疑い始めている私を厳重に監視してくるだろう。
下手な接触を悟られれば、彼らの本来任務に従い、あっさり消されてしまうかもしれない。
……………私はこの世界が再び始まった時、何て残り少ない時間の世界だろうと嘆いたが。
…そんなことはない。
……なんて長く濃密な2週間なのか。
そして多分、私が迎える命日までもう何日もないだろう。
私に何ができる?
何が足掻ける?
……羽入が諦めるようにやはり今回も駄目なのか?
■翌日の学校
「うん。それで綿流しの晩にはもう失踪していたらしいんだよ…。」
「……オヤシロさまの祟り、かなぁ…。」
「さすがに5年も連続すると薄気味悪いよなぁ。」
さすが雛見沢。
噂が駆け巡るのは早い。
いや、園崎家の魅音だ。警察が伏せていても、昨日にはもう知っていただろう。
仲間たちはみな、富竹の異常な死に方についてと鷹野の失踪を囁き合っていた。
こういうのを聞いていると、本当に雛見沢は迷信深い土地だなと思う。
綿流しの夜に何があってもオヤシロさまの祟りという魔法の言葉で全部ひとまとめにしてしまうのだ。
私にとっては過去の事件などどうでもいい。
今回の事件がどうなのかが問題なのだ。
……そして、その犯人はおそらく私を殺す犯人でもある。
すでに綿流しから二日が経過した。
今日は昭和58年6月21日、火曜日。
もっとも最短で、…確か22日の夜には殺される。つまり明日の晩だ。
私の殺される日にちは、かなりブレが大きい。
…必ず殺すのに、その決行の日は面白いくらいに不安定だった。
殺す側には殺す側の都合があるのだろうと納得するしかない。
とにかくひとつ言えることは。
私が数多の世界でも確実に生きていられるのは明日の日中までで。
明日の夜からは毎夜、いつ自分が殺されるのかと怯えながら暮らさなければならない。
………怯えたところで無意味だ。
…気付けばまた他の世界で目を覚ます。
どう殺されたかなどの記憶は乱雑に破かれていて残っていない。
だから、私は死そのものは大して恐れていない。
……自分の人生が壊れたレコードのように、同じ場所で毎回巻き戻ってしまうことを不愉快に思っているだけだ…。
「…………………………。」
でも、…悔しい。
クラスメートたちは誰もが今日と同じ平凡な明日が訪れることを疑わない。
でも、私だけが違う。
それが悔しくて悲しくて、………やっぱり死は嫌だった。
「……………明日の夜ですが、…梨花は悔いがありませんですか…?」
「……馬鹿……。………ない訳ないでしょう…。」
羽入は多分、最短で明日の夜には殺されると言っているのだろう。
…だが、今の私には羽入がまるで、明日が私の命日だと知っているように感じられた。
「………梨花はとてもよくがんばりました。そして今年の綿流しは、僕が生きてきた中でも一番の楽しいお祭りでした。……それは、梨花もだったのではないですか?」
楽しかった。
本当に楽しかった。
沙都子の顔は絆創膏だらけだったけど、みんなが揃って心の底から騒ぎ合って。
そんな世界だからこそ、この世界がいつまでもずっと続いて欲しい。
それが最短で明日には。長くても1〜2週間の内に終わってしまうなんて許せなかった…。
「……また、次の世界でもきっと楽しくできますのですよ。」
「……………この世界はもう終わりなの…? こんなにも楽しい世界なのに、…もう、…終わりなの……?」
仲間同士がみんな仲良し。
圭一が変な疎外感を持つこともないし、レナの家庭だって順風満帆。
魅音の姉妹仲は良好だし、詩音と沙都子も考えられないくらいに仲良しになった。
……そして叔父の問題も今や解決し、沙都子を冷遇する村の気質すらも打ち破った。
これ以上ない最高の世界だった。
その世界が、……やっぱり終わる。
「……梨花。僕たちは特別な存在なのに、梨花は自分のことを普通の人間として考え過ぎなのです。……楽しいパーティがいつまでも続けばいいのにと子どもの誰もが願う。でも、いつかパーティはお開きになりますのです。だから子どもたちは楽しい瞬間を、どうか永遠に続いて欲しいと願うのです。でも、だからといって、終わったパーティを嘆くことはない。眠ればまた明日の朝になる。そしてまた色々と楽しいことが起こるのです。パーティが終われば消えてしまうシンデレラなんか、いない。」
「………私の生への固執を、そんな風に例えられるなんて知らなかったわ。」
「……今の梨花は、パーティから帰りたくないと泣いて椅子にしがみ付く子どもと同じなのです。……どうして泣いたり悲しんだりする必要が? またパーティはやってきます。梨花は死を越すことを未だに忌み嫌っているけれど、僕たちにとっては一眠りの跨ぎだというのに。」
「羽入は、………昭和58年の6月より先に何があるのか、見たくないの?」
「……見たくないと言えば嘘になりますです。でも、それに固執して裏切られ、傷ついてゆく梨花の方が心配なのです。…………梨花にはわかってない。気の遠くなるほどの長い時間を誰とも会話をすることができず、楽しい祭りもじっと眺めているだけ。子どもたちの遊ぶ輪を横で眺めていることしかできない悲しさなんてわからない。誰にも私の姿が見えない。誰にも私の声が届かないし、誰も私に話し掛けてはくれない。そんな辛さや悲しさが梨花に想像つきますのですか。
……その中でやっと出会えた梨花なのです。……僕は梨花がいなかったら生きていけない。でも、梨花のように死ねもしないのです。僕は時の果てまでひとりぼっちで生きていかなくてはならない。新しいあなたが現れるまで、ずっと膝を抱いてひとりで過ごしていかなくてはならない。……僕は、そんなのは嫌なのです。絶対に、……嫌なのです……!」
「……羽入………。」
「だから梨花…、あの悲しい約束を取り消してほしいのです…! この世界でも運命に打ち勝てなかったら、もう全てを諦めるというあの約束を取り消してほしいのです…!!」
「……………………羽入。……ごめん、もう少しだけその返事を待たせて。」
せめて、最後まで足掻いてみたかった。
その最期の瞬間に決めればいい。
…希望がまだあると思ったなら続ければいいし、抗えないと失望したならそれで幕を閉じればいい。
…羽入の言うように全てを諦め、傍観者として昭和58年の6月を好きなだけ過ごすのもいいだろう。
……その覚悟さえあれば、いつか再び強い運気の追い風を受けることもあるかもしれない。
羽入はそれを聞き、少なくとも私の気持ちが羽入の望む方に変わりつつあるように感じたらしく、少しだけ満足そうに頷いてくれた。
■圭一目線
「…どうしたよ、レナ。梨花ちゃんをお持ち帰りする算段でもしてるのかー?」
「ねぇ圭一くん。……梨花ちゃんに元気がないとは思わないかな。」
「………どうだろうな。奉納演舞の疲れが抜けないんじゃないのか?」
梨花ちゃんは憂鬱そうな表情を浮かべながら、なぜかひとりぼっちだった。
まだ疲れが抜けないんじゃないか、なんて適当なことを言ったが、梨花ちゃんの様子は疲労とはどこか違った…。
「沙都子ちゃんが解放されて、躍り上がってもいいくらいなのに。……何だか昨日から梨花ちゃんの様子がおかしいように思うの。…悩み事でもあるんじゃないかな。」
「…鉄平の件は完全に決着したはずだろ。梨花ちゃんが悩むような問題は何もないはずだぜ?」
一時期、沙都子に新しい親権者や後見人が決まれば、沙都子は梨花ちゃんと一緒には住めなくなるのではないかという憶測が流れた。
でも、その問題は解決しそうなのだ。
園崎家か公由家のどちらかが後見人になることで調整中だという。
梨花ちゃんも実際は公由村長が後見人ということになっている。
もし園崎家が後見人になれば、晴れて妹だと詩音は躍り上がっていたっけ。
だからこそ、言われれば言われるほどに、梨花ちゃんの悩んでいる様子は理由がわからなかった。
「こういう時は、声を掛けてみるのが一番じゃねぇのか?」
「……うーん。それがかえってデリカシーがない時もあるし。
…でも、圭一くんなら大丈夫だと思うかな、かな。」
「それはつまり、俺にデリカシーがないって言う意味だな…。」
レナが、あはは、ごめんと言って舌を出す。
俺は難しく考えず、梨花ちゃんに声を掛けてみた。
…俺たちが知らないだけで、沙都子を巡る何かのトラブルがまだ続いているのかもしれない。
だとしたら、それは他人事ではないからだ。
「元気なさそうだな。……何か悩んでるのか?」
「……………………ぁ、…圭一。」
梨花ちゃんは自分の世界にいたらしく、俺が話しかけたことに気付くのに少し時間が掛かったようだった。
「……ボクが悩んでるように見えましたですか?」
「まぁな。……どうしたんだよ、何かあったのか?」
梨花ちゃんは、イエスかノーで答えればいいだけの問いに、ずいぶん長い時間を掛けた。
…それは考えようによっては明白なイエスだった。
「…………………圭一。…聞いてもらいたい詩がありますです。誰が作った詩かは聞かないでくださいです。そして、聞いたら感想を聞かせて欲しいです。」
「…いいぜ。どんなのだよ。」
梨花ちゃんは思い出すように目を閉じた後、短い詩を詠った。それはこんな詩だった。
誰だって幸せに過ごす権利がある。
難しいのはその享受。
誰だって幸せに過ごす権利がある。
難しいのはその履行。
私にだって幸せに過ごす権利がある。
難しいのはその妥協。
「結構、難しい詩だな。それは梨花ちゃんが作ったのか? って、聞くのはなしなんだったな。」
「……なしです。…圭一はこの詩を聞いてどんな感想を持ちましたですか…?」
“誰だって幸せに過ごす権利がある。
難しいのはその享受”
これはわかる。
幸せに過ごす権利は誰にだってある。
でも、だからといって、誰でも享受できるわけではない。
“誰だって幸せに過ごす権利がある。
難しいのはその履行”
…これは、ちょっと判りにくいが、権利の履行とは多分、幸せになるためのプロセスのことだろう。
誰だって幸せになるために努力する権利がある。
でもそれを実らせるのは容易じゃない。
“私にだって幸せに過ごす権利がある。
難しいのはその妥協”
単純に組み合わせると、幸せの妥協と読み取れた。
幸せだって上を見ればキリがない。
求めだしたらキリがない。
だから適当なところで幸せを妥協しなくてはならない…。
……そういう意味だろうと思った。
上を見たらキリがない、今を満足しようと言えばポジティブな印象も受ける。
……でも、幸せを妥協するという言い方には、何だか拭いようのない諦めが感じられた。
「…この詩は多分、詩を作った人の心情を表してるものだと思う。」
「……ボクもそうだと思いますです。…それで、感想はいかがですか。」
梨花ちゃんは認めようとしなかったが、この詩は多分、間違いなく梨花ちゃんの作で梨花ちゃんの今の心境を語っているものに違いなかった。
……いくら俺が天性の鈍感でもそれくらいわかる。
「悲しい歌だなって思った。」
「……………悲しい、ですか。」
「最初の2つはわかる。幸せに過ごす権利は誰にだってあるが、だからといって誰でも簡単に幸せになれるわけじゃないもんな。そういう厳しさを詠ったものだと思う。でも、最後の1つは毛色が違う。……妥協ってのは諦めるって意味だ。この詩の“私”は、幸せになることを諦めて、今を妥協して幸せだと思いこもうとしてるんだ。」
「……幸せだと思いこもうとしている、…ですか。」
「それも未練いっぱいにな。誰だって努力さえすればきっと幸せになれるのに、自分だけはそれが絶対届かないとわかっている。そんな諦めが漂う、悲しい歌だ。」
「なら圭一。……この詩の“私”は、どうすればいいんでしょうか…。」
「挫けるな、ってことだな。」
「……挫けるな、ですか。」
「この詩を詠ったヤツは、自分がどういう風になれれば幸せなのか、悩んだ末にしっかり見つけてる。それは決して高望みしたものではないと思う。どうやったら幸せになれるかを延々、3段も考察してるヤツなんだぜ。真剣に考えてるんだ。」
「…………………。」
「だから、ここまで幸せになりたいと一途に思ってるなら、絶対に諦めちゃ駄目だと思うぜ、梨花ちゃん。俺たちは絶望的な状況をほんの数日で引っくり返したんだぜ? みんなで力を合わせれば、きっと奇跡が起こせる。梨花ちゃんだってそれを目の当たりにしたはずだぜ? あるんだろ、悩み。打ち明けてくれよ。」
「……………打ち明けたいことはあります。…でも、打ち明ければみんなはもう雛見沢でのんびりと暮らすことはできなくなるでしょう。……私にとっての幸せは、みんなと楽しく昭和58年6月以降も過ごすこと。だからこそ、6月を潜り抜けるためだけにみんなを巻き込んでも、それは私にとっての幸せではない。」
「雛見沢にのんびり暮らせなくなる…? どうしてだよ。」
「………打ち明けたことを知られたら、ヤツらは必ずみんなを殺す。だから、助けを求められない。」
「殺すって、……穏便な話じゃないな。…まさか梨花ちゃん、誰かに脅迫されてるのか…?!」
殺すという言葉は、スラングだったとしてもそんなにひょいひょい出てきていい言葉ではない。
増してや、それが梨花ちゃんの口から出ればなおさらだ。
俺は仰天し、一瞬、声を大きくしてしまった。
「……………誰が敵かもわからない状態です。ひとつわかるのは、誰かが私を必ず殺すということだけです。」
「ご、ごめん梨花ちゃん。話してくれ。一体、何があったんだ…!?」
まさか、鉄平に脅されているのか?
いや、そんなはずはない。
警察はきっちりと逮捕してくれてるし、園崎家が二度と雛見沢に近付くなときっちり脅してくれてるはずだ。
こんな状況で梨花ちゃんを脅すなんてやったら、今度こそ園崎家に簀巻きにされるだろう。
……それに梨花ちゃんだって、その程度の脅迫なら魅音に相談すれば解決できるとわかるはず。
…だが、梨花ちゃんの深刻そうな顔を見る限り、そんなレベルではないようだった。
「……ごめんなさいです。これ以上を言えば、きっと巻き込みますです。圭一たちが巻き込まれれば、仮に6月を越えられても、それは私の望む世界じゃない。だから打ち明けられないのです。………それが多分、私が望む幸せに対し、妥協しないということなのだと思いますです。」
「梨花ちゃんがさっきから何を言ってるのかさっぱりだが…。梨花ちゃんのその言い方、先日までの沙都子にそっくりだぜ?」
「沙都子に…?」
「あぁ。耐えることが美徳だと勘違いして、戦う勇気を忘れてる。そういう風に聞こえるな。電話で沙都子に、戦う勇気を奮い起こせと檄を飛ばした梨花ちゃんらしくもないぜ。」
それは梨花ちゃんにとっては少し痛い言葉になったようだった。
……しばらくの間、梨花ちゃんは唇を噛むような仕草をしていた。
「……………巻き込まれれば、圭一たちもきっと殺されますですよ。」
「殺されるのは御免だなぁ。でもよ、放っておけば梨花ちゃんは必ず殺されるんだろ? だったら、俺も梨花ちゃんのいない未来なんて御免だな。」
「………え…。」
「梨花ちゃんが俺たちを巻き込みたくないって思うように、俺たちも梨花ちゃんを失いたくないって思ってる。荒事は大歓迎だぜ。それに三人集まれば文殊の知恵って言うだろ。部活メンバーみんなで相談し合えば必ず妙案が出るぜ。」
「…………いくら部活メンバーでも、…無理なものは無理だと思いますです…。」
「俺たちを巻き込みたくないから、打ち明けられないんだな? なら、梨花ちゃんは俺たちに打ち明けず、ひとりで死のうってことなんだな…?」
「……………………そういうことだと思いますです。」
「耐えることを美徳だと勘違いするな。戦う勇気を思い出すんだ。………心の整理がついたら、いつでも何時でもいいから相談してくれ。…俺たちは絶対に力になるからな。」
「………ありがとうです…。」
梨花ちゃんは悲しそうに笑いながら礼を言った。
それはまるで、もらえた同情に対する返礼のようだった。
何かわからないが、梨花ちゃんはドデカい悩みを抱えてる。
それも、本人は生き死にを賭けるくらいに悩んでる。
しかもそいつは、打ち明けるべきかすら悩む、ややこしい問題のようだった。
でも、梨花ちゃんは打ち明けてくれない……。
「……どうだった、圭一くん?」
「梨花ちゃんが悩み事だって? 珍しいねぇ。」
「…………沙都子。変なことを聞いてすまんが、……梨花ちゃんが命を狙われているような話って、あるのか?」
「はぁ?! な、何を言ってるんですの圭一さんは…。」
「梨花ちゃまは村のシンボルじゃないですか。拝む人はいても、命を狙う人なんているわけないです。」
<詩音
「何だい何だい…! 物騒な話だねぇ…!!」
みんなの話を聞けば聞くほどに、梨花ちゃんが命を狙われる心当たりが思いつかない。
だからみんなは俺以上に首を捻るのだった…。
「……梨花ちゃんは悩みを打ち明けてくれたわけじゃない。…でも、何かに悩んでるのは間違いなく、それはかなり深刻らしいんだ。…梨花ちゃんが俺たちを信頼してくれるなら、…きっと近いうちに打ち明けてくれると思う。その時は、どんな突拍子もない話であっても、きっと信じてあげて力になってあげよう。きっとだぜ…!」
仲間たちは互いの顔を見合って、力強く頷いた。
■幕間
■TIPS10 色褪せたノートU・V
神の子は自らが三日の後に復活すると予言しました。
罪人たちは兵にて墓を封じ、その体が蘇ることがないよう監視しましたが、それはとても愚かしいことでした。
復活とは肉体が蘇ることではなく、その心と教えが蘇ることだからです。
肉体の死を恐れるな。
自らの貢献が揺ぎ無いなら、必ず自分は蘇る。
その時、自分は死を超越し永遠の生を得るのである。
そして悪魔は、神の子を断崖に連れて行き、飛び降りるように言いました。
自らが神の子を名乗るなら、神は奇跡にてその身を守るはずだと言うのです。
それを試すことは即ち、神を試すということです。
神は人を試しますが、人が神を試してはなりません。
試すことは疑うことです。
疑いは悪魔の囁きに耳を貸し、あなたを堕落させるでしょう。
自らの成果を疑うな。
自らの人生を疑うな。
自らの貢献を疑うな。
そして自分の実績を人が評価することを試してはならない。
それを試すということは、自らの人生を疑うのと同じことなのだ。
Hifumi.T
■11日目(梨花目線)
目が覚めると、ちょうど日捲りカレンダーと沙都子が見えた。
先に起きた方が破るルールになってる。
だから、たまに寝惚けた2人が2枚破って、2日進めてしまう時もあった。
どうやら沙都子の中では、このカレンダーを破るのが個人的に流行っているらしく、最近は毎朝、率先して早起きしているようだった。
だが、そんな微笑ましい光景も、沙都子が破り取った後に表れた「22日」に粉々にされてしまった。
……多分、今日だろう。6月22日。私の死ぬ日だ。
「……おはようなのです。」
<羽入
「おはようございますですわよ、梨花ぁ。」
「…………ん、…2人ともおはようです…。」
「2人?? あらあら、まだ寝惚けてるでございますのー?」
「……みー。沙都子の他にもこの部屋に住んでいる人がいますのですよ? その人にもおはようを言いましたのです。」
「も、もう! 朝から怖がらせるのはなしでございますわよー!!」
「……くすくす。これで沙都子は今晩、怖くて梨花の手を握ってないと寝られないのです。」
「……くすくすくすくす。」
たまに、沙都子にも羽入が見えていて、3人で暮らしているような錯覚になるときがある。
…そうなればきっと楽しいだろう。
学校へ行く時間になっても、体が鈍かった。
今日、殺される。
…それがわかっていると、何だか学校に行くのがとても億劫だった。
私は何度も死を繰り返す内に、自分の命日を嗅ぎ取る嗅覚だけは鋭くなったのかもしれない。
……こんな感じになる日は、決まって命日だった。
「梨花。そろそろ学校に行きますわよ。」
「…………………ボクは、今日はお休みしますです。」
「…………梨花…。……あの、圭一さんに聞きましたけど、…何か悩み事があるって本当なんですの…?」
「……あると言えばあるし、ないと言えばないです。」
「…………………??」
今日になってどんな努力があるというのか。
それでも焦燥感を感じるのは未練なのか。
でも、足掻きたい心も同時にある。
私はこの世界に来てからの数日間。
運命と戦おうと意気込んでみたり、そんなことは無駄なのかと諦めてみたり、秋の空のように目まぐるしく考えが変わった。
圭一やみんなに、あれだけの力強さを見せられながら。私は運命と抗おうという鉄の意思が持てなかった。
一番、自信に溢れていたのはいくつかのサイコロに6が連続した、他力本願な幸運が並んだ時だけ。
……結局、私は自分の力で運命を切り開く勇気というものを持ちたい持ちたいと願いつつ、………それでも結局、運命の壁の高さに屈服して今日を迎える。
圭一たちは、みんなで結束することで奇跡が起こせると言ったが、ひとつ教えてくれなかった前提がある。
それは、固く信じること。
自信が宿らなければ、運命という頑丈な壁に刃を突き立てることもできないのだ。
そんな当り前のことを、理解したり、挫けたり。
自らの立場を、舞台の上の役者なのか舞台の下の傍観者なのか、はっきりしなかったことのツケだ。
羽入には昨日、この世界が終わったらどうするか決めていないと言った。
でも、それは考えてみたらものすごく傍観者の考え方だ。
舞台の上の人々は、この世界ひとつしかない。
だから世界が終わることは全ての終焉だ。
だから、そんな運命とは死に物狂いになって戦うだろう。
だから、奇跡も起こせる。
人生をお気楽にリセットしてきた私には、その死に物狂いというのが常に中途半端だった。
不幸な運命に酔い、自分の運命は打ち破れないのを口癖にしてきた。
……だから、こんな今日を迎えてしまう。
それはまるで、夏休みの宿題を溜め込んで、明日になったら頑張ると言いながら最後の日を迎えてしまう子どもにそっくりだった。
では、その最後の日を迎えた子どもはどうするのだろう。
どうせ間に合わないのだから、少し手をつけてもつけなくても怒られるのは同じと開き直り、いつもと同じ夏休みを過ごすのか。
…それとも、同じ怒られるにしても、少しでも手をつけてあれば何かが違うと信じて、今さらの頑張りを見せるのか。
…………それとも、奇跡が起こって、一夜にして宿題が片付いてしまうのか。
……宿題に奇跡なんかない。
宿題は自分でやらなければならないものなんだ。
だから、自分が努力した分しか、片付かない。
自分以外の力ではドリルの1ページだってなくなりはしないのだ。
「………梨花の、好きなように過ごすといいと思いますです。……梨花の大好きな窓際で甘いお酒を飲むのも、梨花らしい過ごし方だと思いますのです。」
「どうせ怒られるなら、最期の一日も気ままに過ごそうという開き直りね。」
羽入にとっては、夏休みの宿題ではなく、夏休みそのものなのだろう。
私が夏休みが終わるのは嫌だと駄々をこねても、夏休みは必ず決まった日に終わりを迎える。
……そういう目線で見れば、私が宿題をやってないと騒ぎ、今から少しでもやるのと開き直ってやらないのはどちらがいいかなんて言っているのはとても滑稽だ。
…しかも夏休みが終わるくらいなら死ぬなんて騒いでるのだ。
……逆の立場だったらお腹を抱えて笑ってるかもしれない。
宿題を終わらすために、みんなの力を頼れと圭一が言ってくれた。
それを私は、夏休みが終わった後に借りを残したくないし、先生に知られたら大変なことになるからと断る。
潔いなら初めからちゃんと宿題をやっていればよかった。
何も努力する気がないなら、無駄な考えで心を疲れさせずのんびり過ごせばよかった。
…形振り構わないなら、みんなの力を借りればよかった。
自らが昨日、羽入に言った3つの選択。
…私はどれすらも選んでいなかった。
百年以上も生きて、それすら決めていなかった。
そんな、無駄な百年だったのだ…。
「……沙都子。ボクは今日、風邪をひいてしまったのでお休みしますです。」
「そ、そうなんですの…? 体温計でお熱を測ります?」
「……今日はゆっくりさせてくださいです。知恵には、ボクは風邪で休むと伝えて欲しいのですよ。」
「梨花…。本当に風邪なんですの? …何だか、命を狙われてるような話をしているって圭一さんが言ってて、…私、本当に心配してますのよ?」
「…………ありがとうです。もう行かないと、遅刻しますですよ。」
沙都子は時計と私の顔を見比べると、最後に言った。
「私は、…今、すごく幸せですのよ。
みんなと楽しく過ごせて、また梨花と一緒に暮らせるようになってとても嬉しいですの。………だから、…梨花がいなくなったら、私がどれだけ悲しい世界に生き続けなくちゃならないか、……よく考えてほしいでございますのよ。」
「…………ボクの、いない世界。」
「えぇ。……梨花のいない世界なんて、…とても辛くて悲しい世界ですわ。」
考えたこともなかった。
…自分が死ねば世界は終わると思ってた。
だから、残された世界がどんな風になって続いていくかなんて、…真剣に考えたことは一度もなかった。
「だから、………どうか自分を、梨花が思っている以上に大事にしてほしいんですの。…梨花ひとりの不幸じゃない。…梨花に悲しいことがあれば、私も、そしてみんなも不幸になることを、決して忘れないでくださいですのよ。」
「………………………沙都子…。」
「……梨花。今日はそっとしておきますけど、…悩みがあるなら絶対に相談するんですのよ? 仲間が悩んでいるのに、自分を頼ってくれないこともまた、悲しいんですから…。」
沙都子はもっと言いたいことがあるようだったが、……それ以上は言葉が見付からず、俯いてしまった。
でも、沙都子の言いたいことは全て伝わった。
…私はなんて自分勝手に生きていたんだろうと思う。
世界を舞台に例えることすらなんて傲慢なことだったのか。
でも、それらが全て遅い…。全て。
沙都子は大急ぎで駆け出して行った。
後には私と羽入だけが残される。
「……僕もお邪魔でしょうから、梨花が呼ぶまで消えていますのです。」
「…………気が利くのね。」
「……百年生きても、梨花は梨花です。百歳の仙人にはなれないのです。……梨花には、年相応に悩んで、考える時間があってもいいと思います。…僕が梨花に、背伸びを強いたこともあるかもしれませんのです。」
「羽入は悪くないわ。……私が勝手に天狗になってただけよ。」
「……僕とおしゃべりしたい時は呼んでくださいです…。」
「もう泣きつかないの? 私がこの世界で終わりにするのを撤回してほしいって。」
「……梨花は頑固な人ですから。言えば言うほど逆効果になりますのです。」
「くすくす。…さすが、付き合いが長いだけのことはあるわね。」
「…………もう梨花も悟っているようですから言います。…今日です。悔いのない一日を。」
「………………。」
「梨花が何をしてもしなくても、朝が来て夏休みが終わるように、この世界も終わります。でも、…梨花が望めば次の朝も訪れる。……それはまたしても今年の6月かもしれないけれど、…朝は朝。」
「…………もっと小さい頃。毎日が退屈で、毎朝、起きても同じ日が繰り返されてるんじゃないかって思ったことがある。……それが本当になるだけのことだしね。」
「……今日を有意義に生きてくださいとだけ、言いますのです。これ以上は僕は何も言いませんです。」
「多分、今日だろうと思っていたけど、………あんたにはっきりと言われると堪えるわね。……やっぱり終わるのね、今回も。」
「はい。今回も終わりますです。……いつもと同じように。」
羽入は姿を消し、静寂の朝が訪れた。
今日をどうやって生きよう。
どんな心構えで終わりを迎えよう。
間に合わない宿題に、今さら申し訳程度に手をつけるのか、それとも諦めるのか。
私に残された時間は半日。
自分の納得がいくように生きてみよう。
それで、最期の時にまだ思うことがあったなら、考えてみよう。
世の中は理詰めじゃない。
…誰もがもっと気楽に生きてるんだ。
生をもっと、私は楽しむべきだったのだ。
生を楽しむというのは、気楽の楽しくという意味ではない。
……喜びも悲しみも悩みも、もっと本気で取り組んで、全力で生き抜くという意味だ。
それができたなら、死んだ時どうしようなんて考えない。ただただ一生懸命に生きる。終わりの時が、終わり。
「……今日を、生きる。」
それはとても大切な一言だけれど。
……無駄な時間を永遠に過ごすことができる自分が口にすると、あまりに軽々しく聞こえてしまうのだった…。
■沙都子が出掛けた後
沙都子が登校した後、私は朝食の食器を洗った。
羽入は沙都子がいない時は、私と一緒にいることが多かった。
でも、今日はいない。
だから、…私が本当の意味でひとりぼっちになるのはものすごく久し振りだった。
ひとりで食器を洗うのが、こんなに悲しいものだと思わなかった。
どうせ私は今日で死ぬのに。
終わる世界なのに。
食器を洗うのは、どうしてだろう。
……それは、明日からひとり残される沙都子のことを思ったからだった。
私にとっての沙都子は、毎回毎回の新しい世界での沙都子だ。
でも、私はさっき沙都子に言われて初めて気が付いた。
…私が死んだ後に残される沙都子は、……どんな思いで生きていくのだろう。
私がリセット感覚で投げてきた世界は、私にとっての幕が降りただけで、それぞれの世界はそのまま続いていく。
その世界の沙都子は、私がいなくてもちゃんと食事の準備ができるだろうか。
買い物を間違えないだろうか。
お洗濯はこなせるだろうか。
私が目を背けてきただけで、……私が死に、悲しみに暮れる沙都子や仲間たちの姿が、私の死の数だけあったのだ。
今さらそんなこと考えても仕方がないのに、……悲しくなった。
それは多分、……この世界への未練だったのだろう。
この世界こそ、私の望んだ理想の世界だった。
そして、この世界が6月を越えてずっと続いていくのが望みだったのだ。
そして、その世界を私は長い旅の末にようやく手に入れた。
なのに、その世界に居られたのはたったの一晩。…綿流しの祭りの晩だけだった。
今日、この世界を私が去ることで、この世界は壊れる。
仲間たちは、ようやく沙都子を助け出し、これからはみんなで楽しく過ごしていけると何の疑いも持っていないはずだ。
……にも関わらず、今日、私は死ぬ。
仲間たちは悲しむだろう。
せっかくみんなで結束して起こした奇跡で得たこの世界を、わずか一日で失ってしまうことを嘆くだろう。
私はのうのうと次の世界で仕切りなおしの生活を始めるのだろうか。
…そんな私が3日過ごす間、…この世界では悲しい時間が3日も過ごされていく…。
……駄目だ。……何を考えても支離滅裂で、わけがわからない。
止め処なく溢れる涙がもう抑えられなくて。
……私はまだ畳んでいない布団の、沙都子の枕を抱いて泣いた。
沙都子の髪の匂いがした。
………でも、私が死ねば、きっと沙都子も同じように私の枕を抱いて泣くだろう。
みんなも泣いてくれるだろうか…?
…きっと泣いてくれるだろう。
そして、………そして?
……悲しむ。私の死にじゃない。
…悩みがあることはみんなが気付いてくれたのに、それを打ち明けてくれなかったことに、悲しむ。
みんなは後悔するのだろうか。
どうすれば梨花ちゃんの心を開けたのか、どうすれば力になれたのか、……どうすれば梨花ちゃんを救えたのかと泣いてくれるのだろうか。
悲しくて悔しくて。
私は沙都子の枕を抱いてずっと泣いていた……。
そんな時、無粋な電話が鳴った。
無視したが鳴り止まない。
……ひょっとしたら、私を心配してくれたみんなかもしれないと変な期待をして受話器を取る。
…でも、変な男の声だった。
「どうもお世話んなっておりますんね。小此木造園と申しますが古手さんのお宅でいらっしゃいますか。」
「…………小此木。」
山狗の小此木だった。
……彼が直接私に電話してくるなんて初めての経験だった。
「緊急のご連絡がしたくってお電話させてもらいましたん。学校にお電話したら今日は休んだと言われましたもので。具合は大丈夫ですかいね?」
自分の死ぬ日に具合のいいも悪いもない。
…もちろん、向こうはそんなことを知りはしないのだが、妙に無神経に聞こえて、私はひとりでカチンと来ていた。
「……風邪なのです。ちょっと今日はゆっくりしていますです。」
「そうですか。偶然とは言え、それは好都合だったですんね。」
「………え?」
風邪をひいて自宅にいるというのが、小此木にとってどう好都合なのかわからず、私は少しぎょっとする…。
「……どうしてボクが風邪をひくと小此木の好都合になるのですか。」
「いえ、実は、あなたの命が狙われている可能性があるっちゅうん連絡が入ってきたんです。」
「…それはどういうことなのですか。」
「この度の富竹氏たちの事件なんですが、東京の調査の結果、入江所長が黒幕である可能性が高いっちゅう、連絡が入ってきました。」
「…………入江が、黒幕……?!」
このような連絡を受けたことは、数多の世界でも初めてだった。
たまに起こることではなく、本当に初めてのこと。
……ということは、何かの気まぐれなどでなく、……普段とは違う石を投じたことによる波紋であることは間違いなかった。
今回の世界では、色々と普段とは違ったことをしている。
そのどれが作用したのかはわからない。
ただ、そんな珍しい「イベント」であっても、私の運命に大きな亀裂を与えるほどの変化になるかどうかは疑わしいのだが…。
小此木のエセ雛見沢口調は疲れるが、要約するとこういうことだった。
入江は、雛見沢症候群の研究が段階的に縮小され、近年中に完全に終了される決定に反対していたという。
その裏では実は入江が、東京からの研究費を水増し請求し、横領していたというのだ。
それで研究の段階的中止が決定したので、最後に研究を売り巨額の大金を得ようと企んだ、という…。
「………それは…本当なのですか…。」
「信じたくないでしょうが、事実ですんね。まぁ、入江所長はどこか後ろめたそうなところがありましたんよ、すったらんなぁ感じでした。」
入江がそんなことをする人ではないと知っているつもりだ。
数多の世界で入江と交流してきたが、少なくとも入江は悪い人ではない。
悪い人になる度胸すらない。
研究のために冷酷さを装いつつも、色々な後悔が抜け切れない、……早い話がいい人だ。
その入江が、実は裏で、東京からの危険な金を着服していたなんて、にわかには信じ難い。
……それを言ったら、私が今、疑いかけている鷹野だって、入江とはタイプが違うが決して悪い人じゃない。
上辺は意地悪そうだが、実際は子どもっぽい無邪気な人だった。
でも、それが大石からもたらされた、岐阜の死体は鷹野ではないかもしれないという一言で揺らいでいる。
その鷹野の部下が小此木。
だから小此木は信用できない、だから小此木が悪く言う入江は逆に信用できる、という論法は、最初の前提が間違っていると大変な誤解を生みかねない。
でも、富竹と入江はごく普通に交流していたと思う。
……もし、東京が入江の資金着服を疑っていたなら、富竹はもっと厳しい口調で入江に接していたと思う。
とにかく、少なくとも東京から来ている富竹は、入江に対してそういう悪い印象を持ってはいなかった…。
…………入江機関の入江と東京の富竹、仲良し。
……東京の富竹と東京の鷹野、仲良し。
……東京の鷹野と東京の小此木、上司と部下。
……東京の小此木の言う東京は、入江を疑ってる。
何だかおかしい。
一見するとみんな仲良しのはずなのに、………最後と最初がつながらない。
入江は東京と普通の関係のつもりなのに、東京は入江を疑っているという。
おかしいおかしい。
ちゃんと線はつながっているのに、どこかでぐるりと一回転ねじれてしまって、…輪っかがおかしくなっている。
「すでに東京が内偵に着手してますんね、詳しいことはもうちょい待ってほしいそうです。また、入江はあなたを何らかの交渉の最後の切り札に使おうとしている可能性があるらしく、あなたに対する警護体制を本日よりさらに強化せよとの命令が来ました。………それでご自宅に居られるんはぁ都合がいいと言ったんですんね。すでに、古手神社の周辺は山狗が3交代20人体制で警護に入らせていただきましたん。…もちろん、ご安心ください、それっちゃぁわからなんように気を利かせてますんね。」
「……すごい警護体制なのです。…その警護はいつまで続くのですか。」
「東京から解除の命令が来るまでずうっとですんね。今回の一件が解決するまでです。」
今日死ぬ運命にある私にとって、それは本来とても喜ぶべきことだった。
このような厳重な警戒態勢がほしくて、鷹野に祭具殿の中を公開してまで頼んだんじゃないか。
……でも、心に違和感。
東京は私の味方。
という図式も、さっきの入江と東京の関係という図式と同じで、ここは良好にくっ付いているのに、……ぐるりと一周すると、いつの間にかねじれているような違和感を感じるのだ。
違和感の正体は、東京の立場のあやふやさだった。
東京は入江と良好な関係を築いている。
…にも関わらず、同時に入江を疑っている。
……入江が実は悪い人だったとか、…鷹野が実は生きていて富竹殺しの真犯人かもしれないとか、……そういう要素が東京という存在をややこしくしている。
東京はひとつの組織だからひとつの意思を持つと思ってきた。
……でも実は、……二つの意思、もしくは二つの………えっと、何て言うんだっけ。
新聞の政治欄でよく見る言葉だ…。
……そうそう、派閥だ。
東京にも、入江と良好な関係を築こうという派閥と、入江を貶めようとする派閥の2つがあるのではないか…??
そう考えると、この歪な輪っかのねじれが何だか説明できるような気がした。
……私は先入観から、大石に感化されすぎているのだろうか?
大石に鷹野が怪しいという話さえ聞かされなかったら、小此木のこの話をもう少し受け容れていたかもしれない…?
いや、そんなことはない。
大石の話を抜きにしても、小此木の話はやはりおかしい。
……入江は雛見沢の奇病に対して献身的に尽くす研究者だ。
それを東京も理解しているからこそ、富竹と入江の温和な関係ができるんじゃないか。
それに、入江には横領なんて大それた真似をする度胸はない。
堅実さと善意がモットーの小市民だ。
……もちろん、一端の研究者としての野心は多少はある。
でもそれは、研究者なら誰もが持つ常識の範囲内であって、大掛かりな着服に手を染めるような犯罪度胸とはまったく異なる。
大勢の山狗が私の警護に入る。
それはこれまでの世界では私が望んできたこと。
なのに、……なぜか素直に喜べない。
心の暗雲を掃えない。
空っぽの鶏小屋。
口の周りに鶏の羽のついた狐。
私は自分の番をさせる相手が本当に信用できるのかわかりかねていた。
………だが、最後の最後で小此木のこともちゃんと思い返してみた。
山狗は今日まで何年間も私を警護してくれた。
小此木のその実績は数多の世界でも証明されている。
私は特別な存在だ。
万が一のことがあったら大変なことになる。
だから、「雛見沢症候群」が表沙汰にならないよう入江機関が隠蔽し、さらに私に何らかの悪意ある魔手が迫らないよう、小此木たち山狗が守ってくれている。
なぜ、これまで守ってくれていた山狗が、ここに来て手の平を返す?
………さっぱりわからない…………。
とにかく、ひとつだけ言えることは。
…今の私は、山狗の警護で胸を撫で下ろせる心境ではないということだった…。
東京とは違う人の警護がほしい。
………でも、その人はきっと私を信じてはくれないだろう。
……いや、…大石ならどうだ?
先日以来、大石は私と少なからずの連携をしている。
大石は、連続怪死事件が村の陰謀だと信じていて、私はその内部にいる反対分子だと思っている。
……陰謀だと信じてくれているなら、東京という存在の説明抜きに、私が命を狙われているということを信じてくれるのではないだろうか。
大石にとって、今の私は貴重な情報源のはずなのだから。
確か山狗は警察を嫌ったはず…。
叔父を暗殺してほしいと頼んだ時も、警察の監視があるから近寄れないとかなり慎重だった。
だから、警察にも二重で私を警護してもらえれば、きっと心強い。
山狗が、実は東京の悪意ある派閥の手先だったとしても、警察が居れば手は出せない。
そして、もし山狗に対する疑念が誤解だったとしたらこれはとても理想的な警護になる。
陰と陽の二重警護ラインは簡単には突破できないはずだ。
「……わかりましたです。今日は大人しくしていますです。」
「えぇ、そうなさって下さるとうちらも助かりますんね。町へ繰り出して、変なちんぴらに喧嘩でも売られると、うちらも苦労しますん。」
「……みー。根に持たれているのです。」
「はっはっはっは。ではそういうことです。風邪、お大事になさってください。」
「……風邪の診察に診療所に行ってはいけませんですか。」
「万が一ということがありますんね、入江診療所には当分近寄らないでください。妙な注射でも打たりゃあすと大変ですかいね。」
「…………入江はそんなことしないです。」
「しないとうちらも思いたいですがんね…。その疑いが解けるまで、ちょいとしばらく慎重にしてほしいっちゅうこってん、あんじょうご理解をいただきたいんですわ。」
「……すったらん、しゃもないのー、です。」
「え? ははははは…!」
「……小此木もいつの間にかすっかり地元言葉になりましたです。最初は普通の東京訛りだったです。」
「直せと言われれば直せるつもりですがね。地域に溶け込むのが仕事ですから。」
それで小此木との電話は終わった。
受話器を置くと同時に、私は電話帳を開き、興宮署の電話番号を探した。
見れば時間はもうお昼前。
…なぜか電話帳のページが嫌にベタついて張り付く感じがする。焦っているんだなと思った。
……あぁ、私はやっぱり死にたくないんだなと思う。
それはつまり、この世界への未練。
この理想の世界を去りたくないという私の強い意志。
死にたくないから足掻く。
それこそ、思い切り生きるということ。
生を楽しむということ。
……………私は初めて、いじけてワインを飲んで過ごす最期の日と決別するのだった。
「もしもし、大石です。お待たせしてすみませんでしたねぇ。ちょいと今から岐阜に行ってこようとしてたところでした。どうもあちらさん、話が通らないんで、直に襟首を掴んで揺すってやろうと思いましてね。」
「……岐阜。鷹野の死体のことですか。」
「えぇ。周りは勝手に納得して鷹野の死体に間違いないって繰り返すんですが、私ゃあもうどうにも腑に落ちない。それで直接行って見てこようと思います。死体が鷹野でないとわかれば話は一気に急展開しますからね。鷹野を重要参考人として手配できます。幸い、向こうの柔道部とは交流がありますので、岐阜県警にも味方は大勢います。ちょいとみっちり話し込んできますよぅ? んっふっふっふ!」
大石なりに積極的に捜査を進めているようだった。
鷹野の死体が本人であるとわかれば、鷹野には気の毒だがそれはそれで山狗を信じるひとつの切っ掛けになる。
……逆に、鷹野の死体が偽装であれば、鷹野こそが黒幕であるというひとつの手掛かりになる。
どちらの結果が出ようと、私にとってはとても重要な何かになるはずだった。
……それが、私の生きている内にもたらされればの話だが。
…しかし困った…。
だとしたら大石は岐阜に行ってしまう。私を守ってくれない。
「……大石。実は、変な声の電話があったのです。知らない人でしたが、村人だと名乗りましたです。」
「匿名の電話、ですか? ふむふむ。続けてください。その電話は何と?」
「……ボクを殺そうとしている人たちがいる、というのです。早ければ今日にも決行すると言ってますです。」
「それは本当ですか…!! なるほど、それは有り得ない話じゃないな…。むむむむ! ………わかりました。私はもう出発しなければなりませんので行けませんが、警官を何人か行かせます。駐在にも連絡してあなたの近辺を警戒するように伝えましょう。今日はご自宅ですよね? 風邪か何かですか?」
「…………………………。」
「家に居て戸締りをしっかりしてください。すぐに警官を行かせます。」
■大石視点
「大石さぁん、どうしたんすか? 先方との約束の時間、ぎりぎりですよ。」
「……今ね、古手梨花から電話がありました。匿名の電話があり、彼女の命を誰かが狙っているらしいと警告してきたらしいって言うんです。」
「古手梨花をですか…! どうして?! 村のマスコットじゃなかったんですか?」
「連続怪死事件絡みで私と接触してたことに対する警告じゃないかと見てます。本当に殺すかどうかは疑わしいが、彼女も年頃の子どもです。命を狙われていると聞かされたら穏やかにはいられないでしょう。それに、ここで信頼を損ねると以後の関係にも支障を来たしますからね。2〜3人でいいです、大至急行かせてください。あと駐在さんにも連絡して、とりあえず彼女を安心させてあげてください。」
「了解っす!!」
古手梨花は、連続怪死事件の唯一の手掛かりになるかもしれない人間だ。
殺されるわけにはいかない。
「私たちも岐阜のわからずや共を締め落としたら、すぐに雛見沢へ行きましょう。ちょいとハードな出張スケジュールになりましたよぅ?」
「はははは、こんなの楽勝っす!」
■小此木視点
「こちら雲雀。……駐在警官が境内に入りました。R宅へ向っています。」
「了解。引き続き監視されたし。」
「Rと接触。警官を中に入れました。」
「興宮署にRから連絡があったようです。自身の身辺警護を依頼したと思われます。」
「……うちらのことはしゃべったんかいね。」
「命を狙われているとの匿名電話があったと言っています。作り話でしょう。また、それとは別に興宮署から私服警官が数人派遣されるようです。」
「何ねん。山狗だけじゃあ信用できんってこっかいね…。」
「厄介ですね。監視体制にも支障が出ます。」
「……まさか、…気付いたんじゃねんかね。……そんな訳はないとは思うが。全班に職質に注意しろと伝達。疑われたら意味ないんね、あんじょう警戒しろっちゅ、伝えてぇな。」
「了解。本部より全班。古手神社周辺に警察介入の動きあり。職質には特に注意されたし。」
「今夜の決行ですが、様子を見た方がよろしいのでは。」
「連絡はするが、三佐はやるっちゅう言うだろな。明朝にRの死亡が発覚して話が進むよう、もうお膳立てが済んどるって話だ。警官に不審と思われとない。もし疑われたら大人しゅう退くこっちゃん。」
■警官到着
大石はすぐに連絡してくれたらしい。
電話を終えてからものの10分もしない内に駐在の警官が飛んできた。
警官らしく、どんな電話が掛かってきたのか事細かに聞かれた。
……適当にでっちあげておく。
電話の交信記録を調べられたらそれまでだが、大石は多分、そんな無粋なことはしない。
私のことを連続怪死事件の重要な情報源と位置づけてるだろうから、それでも守る価値があると思ってくれるはずだ。
駐在の警官とは、村の住民でもあるわけで、私とは無論、馴れ馴れしいくらいの面識がある。
もうすぐ署から応援が来てくれる。
それまで一緒にいるから安心しなさいと、私を元気付けてくれた。
…どうも大石は、私が脅迫電話を恐れて自宅で縮こまっていると取ったらしかった。
30分ほどして興宮署から4人の私服警官がやってきた。
それで駐在警官は引継ぎ、戻っていった。
「状況は聞いてます。神社周辺に我々が立ちますので、何かあったらすぐに呼んでください。あと、夕方になったら、大石刑事がこっちに来ると言っていました。」
大石が直接来てくれるのは心強かった。
「……どうかよろしくお願いしますです。」
「必ず1人がここの下にいますので。すみませんが、その者にお手洗いだけは貸してもらってもよろしいですか。あと、緊急時用にその者に合鍵を預からせることはできますか?」
「……どうぞです。おトイレも貸しますです。」
私の家は倉庫小屋の2階だ。
1階は町会の防災倉庫になっている。
そこに必ず1人警官がいてくれるのは本当に心強い。
警官たちは境内の地図を点検し合い、1階に1名常駐。
境内を2名で巡視。
境内への階段前に1人立ち番となることを決め、持ち場についてくれた。
………この世界の大石は本当に頼もしい。
普段の大石は私のことを、どちらかというと敵寄りだと思っているようだ。
だが、この世界の大石は私のことを、味方だと思ってくれているようだった。
………沙都子を救う前後で友好的な関係を築けた賜物に違いなかった。
それを思うと、…叔父が帰ってくるという致命的な出来事すら、必要なイベントだったのではないかと思えてしまうのが皮肉だった。
小此木が言うように、本当に入江が悪い人だったとしても、山狗20人と警官4人の警護を破れはしないだろう。
そして、逆に小此木が悪い人だったとしても、常駐する警官を彼らは嫌う。
…吸血鬼に対するニンニクみたいなものだ。
この百年間、一度も成し得なかった厳重な警戒態勢だ。
……これでも、私は殺されるのか…?
何でもいい。
足掻く。思い切り。
無理かもしれないとか諦めるな。
今回は駄目だから次回なんて考えるな。
それが、生を楽しむってこと。本気で生きるということ。
「………羽入、いる?」
「……いますのですよ。」
「どう思う? 今回。」
「……確かに、僕もこういう展開はあまり見た記憶がありませんのです。」
「今回はひょっとして、…って思うことはやっぱり罪なのかしらね。」
「…………僕は期待も失望もしませんです。ただ、あるがままに訪れる結果を眺めるのみです。」
羽入は相変わらずの傍観者の立場だった。
そんな素っ気無い答えは想像がついていたのに、…それでも羽入に、今回は大丈夫かもしれないと一言、言ってもらいたかった。
それにほんの少し失望すると共に、……羽入がどうして傍観者であるのかを疑問に思った。
羽入は特別な存在だからこそ、傍観者という立場になるのは当然だと思ってたし、私も羽入と近い存在なのだから傍観者にならなくてはならないと思い込んできた。
でも、実際には私は傍観者になれない。
羽入のような純粋な傍観者にはなりきれない。
どう冷静を装っても、古手梨花の人生がより良くなることを祈ってしまう。
そして、その期待を何度も裏切られ、傷ついていった。
だから私は、期待することをやめようとしていったんだっけ。
なら、羽入もそうなんだろうか…。
「……羽入も、傷つくのが嫌で、期待することをやめた…?」
思えば、…私は百年ちょっとで、もう期待することの恐ろしさを覚えてしまっている。
それ以上に長い時を生きてきた羽入ならなおさらに違いないのだ。
私は、羽入のことを特別な存在だとずっと思ってきた。
こんなにも人と同じ気持ちを持っていて、触れられず話すことができない存在である以外は私と何も変らないのに、…特別な存在だと思い込んできた。
だからその心の構造も人と異なるものだと勝手に決め付けてきた。
「…………僕は、梨花に比べて長くを生き過ぎましたのです。喜びより悲しみが後に残り、期待すれば裏切られる方が多いことを知り過ぎてしまいました。だから、もう何が起こっても心を傷付けたいと思わないのです。」
「だから、……今回の世界でも期待しないのね。私が、ひょっとするとこの運命から逃れられるかもしれないという期待を。……羽入は、私がどうせまた失意の内に殺されると思ってる?」
「……あぅ…。そんなことは、思ってないのです…。」
羽入は痛いところを突かれたという表情を浮かべていた。
羽入は間違いなく、今回も私は殺されると思っている。
…期待しないというのはそういうことだ。
でも、私が気を悪くすると思って、口にできないだけのこと。
「羽入も、沙都子と同じなのね。」
「………………。」
「何かの幸運か、誰かが助けて奇跡を起こしてくれるまで、堪えて待っているだけ。戦うことを恐れているだけよ。それを強さだと、勘違いしている。…………つい最近までは私もそうだったけどね。」
羽入は唇を噛みながら俯く。
否定できないところを見ると、多少の自覚はあるようだった。
「あんたも何度も聞いてるはず。奇跡ってのは、みんなで団結しないと起こせない。団結というのはつまり、信じること。……みんなで信じないと、奇跡は起こせないのよ。」
それは羽入にはきっと、あんたのせいで奇跡が起きないのだと言っているように聞こえただろう。
…言ってから少しして、言葉を少し選ばなさ過ぎたと後悔する…。
しばらくの間、私は言葉を失い、羽入は俯いたまま震えていた。
……そして、ゆっくりと顔を上げて言った。
その顔には、悲しみとわずかの怒りが浮いていた。
「……触れることもできず、話すこともできない、見ているしかできない僕も、そのみんなに含まれるのですか…? 梨花に、どんな顛末も見ていることしか許されなかった僕の気持ちがわかるというのですか…?」
羽入の言葉の語尾がほんの少しだけ厳しくなる。
…彼女にとって、私のような例外を除き、人とコミュニケーションを取れないことはとても悲しいことで大きなトラウマでもあった。
だから、それを指摘されることをこの上なく嫌がった。
「……………ごめん。やめましょ、この流れは喧嘩になるわね。…自分が殺されるまでの貴重な時間を、あんたと喧嘩して過ごしたいとは思わないわ。」
「……僕も梨花と喧嘩をしたくはないのです。」
「でも、これだけは言わせて。………私とあなたは、友人だと思ってる。……だから、友人の人生が乗るか反るかという時に、期待しないとかあるがままを受け入れるとか、言って欲しくなかった。」
「……………そのことは謝りますのです。…でも、期待するかしないかは、僕の心の中で好きにさせてくださいなのです。」
羽入はたまに妙なところで意地を張る。
………羽入は一見気弱そうに見えるが、それは表向きのことで、実際は彼女なりの独特のルールに従い、絶対譲れないところは一歩たりとも譲ろうとしないところがあった。
羽入は一応謝りはしたが、心の中では謝ってない。
だから相変わらずこの世界でも期待していないだろう。
また私が失意の中で死ぬと思ってる。
だから奇跡を信じない。………付き合いが長いから胸中は読めていた。
ひょっとすると今度こそはという、淡い期待すらできないくらいに疲れきった羽入のこれまでの長い長い人生が、今さら少しだけ気の毒に感じるのだった…。
羽入は、何かあったら呼んでくださいなのですと言い、姿を消した。
……姿を消してもきっとすぐ近くにいるだろう。
期待せず、あるがままの結末を受け容れようと、私という名のブラウン管の向こうのテレビを見ているかのように。
私の殺される時間が少しずつ近付いていく。
今回は果たして抗えるのか。
……ワインのまどろみでその恐怖を薄れさせないのは、本当にものすごく久し振りのことだった……。
■アイキャッチ
■みんな来た
洗い物や部屋の片付けを終えると、部屋の中でできることはなくなってしまった。
山狗と警察に任せた以上、私にできることは、いつものように私が殺された後、この部屋に残される沙都子のために残してやれることだけだった。
沙都子に教え切れなかったレシピでもノートに書いておこうか。
何か遺言のようなものを残したら喜ぶだろうか。
……喜ぶだろうかと自問して苦笑いする。
…遺言を喜ぶ人などいるものか。
私が死ねば、どうしてそれを相談してくれなかったのかと悔やむに決まってる。
それはかつて、沙都子が叔父の許にいる時、助けを求めないことを悔やんだのとまったく同じだった。
…沙都子が帰ってくるのと、私が殺されるのはどちらが早いのだろう。
今日を殺されていた世界では、すでに死が近付き、記憶が遡って乱れている。
…だから、今日という日の記憶はもはやなかった。
沙都子が帰ってくる前に殺されているならいいが…、沙都子が帰ってきた後に殺されるなら、…………沙都子も殺されてしまっているのだろうか。
それだけは悲しい。
不幸は自分だけで充分だ。
沙都子まで実は私と同じように毎回殺されていたなんて、辛すぎる。
……私は自分が死ねば世界が終わるという暴言で、どれだけの人たちの悲しみを無視してきたのだろう。
…自分の罪深さに慄かずにはいられなかった。
静寂が怖くなりつけっ放したテレビも、私の感情を薄めてはくれなかった。
……それどころか、テレビが私の感情に何も訴えないということが、まるで羽入や私の見方を象徴しているようで、かえって気持ちを不愉快にさせた。
昼が過ぎ、もうすぐ3時になろうとしていた。
もうすぐ学校が終わるだろう。
私がいないから恐らく部活はない。
だからもうじき沙都子が帰ってくるだろう。
どうやら私は、沙都子が帰ってくるまでは生き延びられるようだった。
もし、沙都子が帰ってきて、まだ私を心配してくれて、悩み事を聞こうとしてくれるなら…。
…………私は全てを話そうかと思うようになっていた。
話せば、やがては機密保持のため山狗に「鬼隠し」にされる。
だから私は今まで話さなかった。
仲間たちが全員無事であることは私の理想の世界の大前提だからだ。
でも、………もし、私に巻き込まれて沙都子も同じく全ての世界で殺されているなら、………沙都子は私と運命をひとつにしている。
…何も知らずに殺されるくらいになら、せめて死を迎えるまでに真相を話してもよいのではないか。
…でもでも。
この世界では非常に厳重な警護になってる。
ひょっとしたら私はこの世界を生き抜ける。
……だったなら、沙都子には余計なことをしゃべらない方がいい。
…………結局、仲間たちには何も話せないのだ。
やがて、階下に足音と、沙都子の、わッ!と驚く声が聞こえた。
沙都子が帰ってきたようだった。
やり取りの様子から、帰ってきていきなり知らない人が居たので驚いたという風だ。
沙都子には、警官が来てくれていることを話さないといけない。
…それは私の命が狙われていると説明するのと同じ意味だ。
……何と説明すればいいのか、私はどこまでを話しても大丈夫なのか、頭を悩めようとした時、階段を上がってくる賑やかな足音や声に驚いた。
……沙都子ひとりじゃなかったからだ。
「ただいまでございますのよー! それより梨花ぁ! し、下のお巡りさんは何なんですの?!」
「私服警官が護衛してるなんてどういうわけよ!! あんた一体何をしでかしたの?!」
「魅ぃちゃん、聞くこと違う!
一体何があったの梨花ちゃん…!」
「境内の中にも見慣れない人がいました。あれも私服警官ですか? 只事じゃないんですけど…!」
<詩音
「俺たち、梨花ちゃんが何を悩んでるのか知らないが、みんなで励まそうって思って来たんだ。でもどうやら、そんな悠長な事態じゃねぇようだな…。」
「……………あ、…あははははははははは。」
みんなが余りに無神経にドタドタとやってきて、一斉に同じことを聞いてくるので、私は思わず笑ってしまった。
何ていうのか、…私が今日一日ずっと頭を悩ませてきた小難しい理屈が、全部馬鹿馬鹿しくなってしまうような、そんな感じ。
「…梨花。笑ってる場合じゃありませんでしてよ。どういうことなのか説明してくださいまし…!」
「……どうもこうもないのです。今日は僕が殺される日なのです。」
「「「はあッ?!」」」
みんなは一応、私が殺されるなんて口走っているというのは知ってはいたようだが、私の口から直接聞かされて仰天を隠せなかった。
「な、なぁ梨花ちゃん…! 俺は確かに昨日、梨花ちゃんから聞いた。自分は誰かに殺されるみたいな話をな。…でもそれは梨花ちゃんの冗談みたいなもんだと思ってた。だがな、もう誤魔化すのはなしだぜ。話してもらうぜ…!!」
圭一の口調は、まるで私が悪いことをして怒っているかのようだった。
……圭一にとっては、悩み事があるのに仲間を信じて打ち明けようとしない私は許せないところがあるのかもしれない。
でもよくよく他のみんなの顔も見れば、…圭一だけがそう思っているわけではないことがわかる。
「梨花。私はみんなに助けてもらいましたの。…だから、私もみんなのために何かの助けをしたいんですのよ。」
「……気持ちだけで嬉しいのです。」
「梨花が自分で私に言いましたのよ。戦う勇気を持てと! あなたは自分でそう私に言っておきながら、実践していないではございませんの!!」
「………………………。」
私が思っていたことを沙都子の口からも言われる。返す言葉などなかった。
「梨花ちゃんは話せば巻き込まれるって言ったんだよね? 梨花ちゃんが話さなくても、私たちは巻き込まれる気でいるんだよ。」
「そうさ。俺たちは仲間で、部活のメンバーなんだよ! 梨花ちゃんの危機はメンバー全体の危機さ。かつて沙都子が危機だった時もメンバー全体の危機として戦った。それと同じだよ!」
「命を狙われるとか物騒な話になれば、ますます園崎家の出番だと思いますけれど。それこそ物騒な話に及ぶなら、警察より頼もしいですよ。ねぇお姉?」
「そうだよ! こういうことこそ相談してほしいね! 何をトラブったの?! 梨花ちゃんを殺すなんて脅迫するなんてとんでもない野郎だよ!!」
「まぁ、梨花ちゃんの口の重さを見る限り、心当たりがないのか薄いのかのどちらかだな。相手がわかってりゃ楽な話なんだからな。」
「……みー。みんなは鋭いので、ボクが何も話さなくても勝手に話が進んでしまうのです。」
「梨花、はぐらかさないでほしいですわよ! ちゃんとお話なさいませ!! 一体何があったんですの?! これはどういうことなんですの?! 警察が来るなんてよっぽどのことですのよ?! 警察には話せて、どうして私たちには話してくれませんの?!」
「……………私たちには、話しにくい理由なの?」
「……り、梨花に話しにくいようなやましい理由なんてあるわけありませんでしてよ!!」
「落ち着け沙都子! 梨花ちゃんはこう見えても御三家の頭首なんだぞ。オヤシロさまの生まれ変わりなんて呼ばれて年寄り連中に妄信されてるんだ。……俺たちの想像のつかないところで、何か厄介なことに巻き込まれていたということもあるかもしれない。…そういうゴタゴタを、これからこの村で楽しく過ごしていこうっていう俺たちに話したくなかったとか。…そういうのじゃないのか?」
「村と梨花ちゃまに関わるヤバい話ですか…。となるとオヤシロさまを妄信する年寄り連中の絡みとしか思えません。」
<詩音
「…ってことは、時期的に考えてオヤシロさまの祟り関係か。……あれだ。富竹さんと鷹野さんが殺された件絡みじゃないかな。」
<魅音
「どうして富竹さんたちが殺された事件が梨花ちゃんに関連して、梨花ちゃんが命を狙われなくちゃならないの?! 話が突飛過ぎるよ…!」
<レナ
「命が狙われてるって時点で充分話がぶっ飛んでる。……俺たちが普段知る以上のしがらみが梨花ちゃんにあって、それを話せないってことなんだろうな。
……ビンゴだろ? あまり楽しい話じゃないから、むしろ仲間には話せないってんだろ……?」
「………し、信じられないですわ。…本当なんですの梨花。何か、村とか富竹さんたちの事件とか、そういうのが関係してますの…?!」
私は口をぽかんと開けるしかなかった。
…私は何一つ答えていないのに、勝手に彼らは憶測だけで話を進め、しかもそれが割りと当らずも遠からずなのだ。
驚くほかない。
……なるほど、これが私の愛すべき部活メンバーなのだ。
だから私は改めて笑ってしまった。
私の秘密や悩みなど、どれほどの悲壮さを伴ったところで、みんなが集まればあっさり程度の扱いだ。
…百年を生きた魔女の悩み事すらも、本人の口から返事を聞かずとも見抜いてしまうのだ。
個人の力なんていかに大したことがないか、私は改めて思い知る。
もう、完全に脱帽するほかなかった。
全てが馬鹿らしくなった。
だから、もういいやと思った。
「……話せと言うなら話しますです。でも、どうせ信じられませんのです。」
「信じるさ。梨花ちゃんが真実を語る限り、俺たちは疑わない!」
みんなは表情を厳しくし、どんな話であっても茶化さないと誓ってくれた。
…ここまでみんながテンポいいと、…じゃあ真相を聞かせてやろうという気になってくる。
それに、信じると連呼するみんなが、真相を聞いて本当に信じることができるか試してみたいとも思ってきた。
「…………なら、話します。多分、私は富竹と鷹野を殺した犯人に狙われています。」
「ってことは…、それって連続怪死事件の真犯人ってこと?!」
<魅音
「……それはわかりません。ですがその可能性もあります。」
「…意味がわかりづらいですわね…。どうして富竹さんや鷹野さんを殺した人が、さらに梨花も殺さないといけませんの?」
大石が言うように鷹野が怪しいとしても。
小此木が言うように入江が怪しくても。
……どちらの可能性にしても、東京自体が私の命を狙っているという言葉で括ることができた。
鷹野と入江、どちらが犯人でも、私は彼らにとって「切り札」になる。
それを説明するには、東京と雛見沢、そして入江診療所のことを全て説明する必要があった。
……絶対説明しても信じないと思う。
何しろ突拍子もない話だ。
でも、だからこそ仲間以外の誰が信じてくれるというのか。
「……話せばみんな巻き込まれますです。…いいのですか?」
「いいに決まってるぜ! 梨花ちゃんが巻き込まれた時点で、すでに俺たちも巻き込まれてるんだからな。」
圭一がそう言うとみんな頷いた。
「……では、話しますです。」
みんなの覚悟を試してみよう。
みんなのいう仲間という言葉がどれだけのものか、試してみよう。
私も一度頷いてから口を開いた。
「……雛見沢には、ある特別な病気があるのです。その病気の名前は、仮なのか正式なのかわかりませんですが『雛見沢症候群』と呼ばれていますです。」
雛見沢症候群という初めて聞く言葉にみんなは顔を見合わせる。…当然、誰も知らないはずだ。
この雛見沢症候群という名称は古く、実は戦前くらいに遡る。
雛見沢近隣の出身者が遠方で患う重度のホームシックとそれに伴う精神不安定などの総称である。
雛見沢の人間は鬼ヶ淵村の昔から外へ出ることを嫌う。
村を捨てればオヤシロさまの祟りがあると信じ、ある者は祟りを受けたと信じて村に逃げ帰ってきたりした。
それは初め、特殊な文化性に根ざしたある種のホームシックだと考えられていた。
だが、戦時中、遠方の戦地で雛見沢出身の兵士による錯乱事件が数件起こった。
戦争と言う異常な状況下では時折そういう兵士もいる。
だから特別珍しいことではなかったのだが、極度の被害妄想からの味方殺し、その後の異常な自殺の仕方は一際目立つものだった。
ある医師がそれに注目し、事件兵士の追跡調査を行なったところ、雛見沢出身者特有の「症状」であることがわかった。
その医師はこの特異な共通が文化性ではなく、外因性精神疾患によるものではないかと仮説を立てた。
外因性精神疾患とは、心理的ストレス等によるとする心因性とは違い、肉体などに物理的な疾患があり、それが引き金となって精神に何かの歪みを与えていると考えられる病気のカテゴリーだ。
そのカテゴリーはさらに3つに分類される。
器質性・中毒性・症状性の3つだ。
器質性は脳に損傷や病気などが起こり精神に影響を及ぼすケースだ。
頭部への損傷が人格を変えてしまうこともあるといわれるのはその所以だ。
中毒性はその名のとおり、薬物、特にアルコールや覚醒剤などが精神に影響を及ぼすケース。
そして最後の症状性。
これは、肉体の何らかの疾患の結果、体内の分泌物に異常が出て精神に影響を与えてしまうケースだ。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、例えば風邪のときは落ち込みやすいなどと言われるように、昔から病気が人の心にネガティブな作用をすることは広く知られている。
ただ、症状性の場合はもっと直接的なところに起因する。
人間の感情は心が生み出すものではない。
体内の器官が必要に応じて分泌した物質によって生み出されていることは、理屈として誰でも知っているはずだ。
その、人の感情をコントロールする分泌物を生み出す器官が疾患にかかり、異常な分泌を行なうようになることがあるのだ。
甲状腺も心に大きな影響を及ぼすホルモンを分泌していることは有名だ。
その甲状腺が疾患を起こすことで、ホルモンのバランスが崩れて様々な病気が起こることが知られている。
それらは身体的な疾患だけでなく、躁病などの精神的な疾患を起こすことも少なくない。
つまり、人は心理的な理由だけで心を病むのではない。
人間は肉でできている。肉の病気でも心は病むのだ。
この医師はさらに仮説を立てた。
雛見沢にはある種の風土病があり、その地から離れるとホルモンの分泌などを狂わし過度の被害妄想を膨らませるのではないかというのだ。
雛見沢のオヤシロさま信仰をその見地から見ると、明らかに古代鬼ヶ淵村の人々はこの風土病を理解しているように思われた。
自らが村を出ては生きられないことを理解し、また他所から人がくれば感染し二度と村から出られなくなるため村に近付けまいとする土着の教義。
古代の人々はそれを病気という概念ではなく、祟りという概念で捉えたのだ。
そして、この病気の最大の特徴は、発症時の極端な被害妄想とそれに起因する反社会行為。
それとリンパ腺?の異常による自傷行為である。
この末期患者の異常行為は、鬼ヶ淵の沼から鬼が湧き出し村人を襲った、という伝承の行を、ガス災害という見方ではなく、何らかの感染症が突如大発生し、順応できなかった(急性発症した)村人たちが被害妄想を肥大させて村人殺しに発展したと読み解けた。
やがて長い時間の中で、感染症と相性の悪い人間がほぼ淘汰されると、村人たちは自分たちの病気(祟り)のルールを理解し始めていた。
まず、この病気は一度罹患すると(少なくとも当時の人々には)治せない。
そのため、村を閉ざし余所者を近付けない教義が生み出された。
そしてこの病気を発症させると極度の被害妄想に取り憑かれる。
それは村人の誰にも起こり得ることなのだ。
それはオヤシロさまの教義の中では、人と鬼の血が混じり、その鬼の血の凶暴性はオヤシロさまの力で抑えられていると教えた。
つまり、オヤシロさまの教えに従わないと祟りがあるというのは、オヤシロさまの教えという鉄則を守る限りこの風土病と共存していけるという風にも読み解けるのだ。
オヤシロさま伝説の最初の、オヤシロさまが降臨し、人と鬼を融和し共に村に住まわせたとする行はまさにこれを意味している。
そしてもっとも肝心なこと。
発症させないルール。
これこそが禁忌であり、これを犯せばオヤシロさまの祟りがあると厳しく教えた。
…村に残る残酷な儀式の風習は、その禁忌をさらに強固に守らせようとする抑止力だった可能性が高い。
発症する条件(禁忌)はいくつかあるが、もっとも顕著なものが2つあった。
1つは疑心暗鬼。
人を疑る気持ちは被害妄想を膨らませ、自ら末期症状を引き起こしてしまう。
だから村人たちはコミュニティ意識を強くし、村人同士が疑りあうことがないようにした。
オヤシロさまは、その祟りの恐ろしさばかりが強調されているのであまり知られていないが、実は縁結びや隣人愛の神さまでもある所以はそこにある。
だが、これは後述するもう1つの発症条件ほど劇的ではなく、概念的にも曖昧だったので本家雛見沢では徐々に廃れ、現在では興宮の平坂町にわずかに残る程度だ。
そしてもう1つの発症条件。
こちらがもっともわかりやすく、そして教義の根幹となった。
それは雛見沢を離れると、距離・時間に比例して発症確率が高まるというものだ。
現代の村人たちは長期旅行に行っても海外旅行に行っても発症することはほぼない。
だが、当時の村人たちにはとても顕著で劇的な発症をもたらしたという。
……だから、引っ越してきたばかりの圭一が、短期間で感染したことも運が悪いし(雛見沢に真の意味ですぐに馴染めた、とも言えるので皮肉だが)、ある世界では、ほんの数日、親類の葬式のために雛見沢を出てそれが理由で発症するのも、天文学的確率で不幸だと言えた。
だから、あまりに奇跡的確率での発症に、あの世界の羽入は申し訳なくなり、圭一にずっと謝っていたらしい。
…まぁ、羽入が何を謝っても当人の耳にはなかなか届かないだろうが。
長くなったが、……これらのルールこそが、オヤシロさまの祟りとして刻まれた『雛見沢症候群』と共生する古代の知恵だったのだ。
この正体不明の外因性精神疾患には何かの軍事的利用価値がないのか。
冒頭の医師はそう主張したが、当時の軍部では相手にされなかった。
軍部は戦局を劇的に変えられる新兵器を要求しており、そのような奇病の研究に割く予算などなかったのだ。
こうして、この『雛見沢症候群』を研究しようという話は潰えるはずだった……。
そして終戦。
再び国際社会の一員に戻るべくアメリカの主導で我が国は新生日本として再出発をする。
…だが、政財界などの重鎮の中には、無条件降伏とアメリカによる洗脳政策を受け容れず、再び戦前の日本を再興したいという人々がまだ燻っていた。
それらの重鎮たちはGHQによって職を追放された者もいれば、今だ中枢に居座る者もいたが、長老者を尊ぶ日本社会では変らず黒幕として君臨し続けていた。
やがて、大東亜共栄圏の復活と戦前日本への回帰を目標に掲げる政治結社が結成された。
もちろん当初は結社などというレベルではない。
同じ意思を持つ同志数人が料亭で気炎を吐くだけのほんの2〜3人の集まりでしかなかった。
その2〜3人の集まりのいくつかが次第に意気投合し、同窓会レベルとなった。
その同窓会レベルが互いに交流するようになり、勉強会が結成されるようになった。
その勉強会が連携するようになった頃から、超党派の政治結社化していった。
いや、表沙汰にはできない結社だったから、秘密結社という言葉を使ってもいいかもしれない。
そして、いつしかこの結社の総称を「東京」と呼ぶようになっていた。
「東京」の全貌はまったくの謎だ。
ひとつ言えることは、日本の政財界の長老たちで構成されていて、彼らは間接的に政府に関与すらできる強い力と、表沙汰にする必要のない莫大な資金力を持っていること。
そしてあらゆる業界に及び、それぞれの業界の立場から戦前日本の復興を目論んでいるのだ、という。
もちろん、これはとても馬鹿げた話だ。
終戦直後の、まだ頭の中に鬼畜米英が残りながらも進駐軍に頭を下げていた頃だけの話でしかない。
日本が戦後復興を遂げ始めると、次第に「東京」は形骸化した。
……だが、それは形骸化ではなく、淘汰でもあった。
日本が平和になってもなお、敗戦して短からぬ時間が経過してもなお、戦前回帰を理想と掲げる極右の重鎮だけが残り、逆に意思を強固に統一した少数精鋭としてその存在を磐石としていったのである。
この「東京」は、様々な角度から戦前日本の再興を企図していた。
それは経済的なことであったり外交的なことであったり、もちろん軍事的なことであったりした。
日本は非核三原則により核武装を放棄していた。
それはつまり、冷戦の国際情勢下ではアメリカの核の傘の下で尻尾を振るほかないことを意味する。
「東京」にとっては、アメリカの隷属からの脱却は第一目標で、アメリカと対等に交渉でき、かつ核保有による国際社会の非難を浴びない、核以外の大量破壊兵器を持てないか大真面目に研究させていたのだ。
そんな折、……戦時中に忘れ去られた『雛見沢症候群』が、軍事的価値を持たないか注目されたのである。
もちろん、この奇病を公に研究することなどできない。
軍事的利用の見地からも、そもそも奇病の存在自体を隠蔽する必要があった。
そこで送り込まれた研究者が、入江京介である。
誤解がないようにしたいのは、入江が極右的な政治結社の末端ではないというだ。
入江は若く有能な医者であり、同時に研究者であった。
また、革新的な論文を発表し、学会からは異端だと無視されていたが、その内容から「東京」は、『雛見沢症候群』を研究できる適任者は彼以外にはいないと判断し白羽の矢を立てたのである。
入江には若さ相応の野心があった。
珍しい奇病の研究を任され、そのための研究資金とスタッフ、施設の提供を受けられることは、当時の入江にとっては魅力的な話だった。
…その研究を任されるということは、自分も感染するということだ。
そのような危険な研究を承諾する人間などいない。
…だが、入江は若かった。
このまま地方の医局で夜勤にこき使われて若さを失うくらいなら、自分を抜擢してくれた「スポンサー」の期待に応えたいと思ったのだ。
最終的に入江は、『雛見沢症候群』の正体が仮説どおり、特殊な感染症であることを突き止め、治療薬や予防薬などを生み出すのである。
入江は極めて有能だったのだ。
その研究のために結成されたのが通称、入江機関である。
名目上の所長は入江だが、もちろん一介の研究者なので、「東京」からお目付け役が派遣された。
それが鷹野三四だった。
鷹野の仕事は「東京」と入江の仲介と、研究の進捗管理、機密保持などだった。
特にこの機密保持がもっとも重要で、奇病研究の事実と、奇病が発覚するような事態の隠蔽は鷹野の最大の任務だった。
そのための存在が山狗だった。
山狗と呼ばれる鷹野直属の部隊が機密保持の実行部隊だったのだ。
山狗は、自衛隊に絶大な影響力を持つ「東京」が有する不正規戦専門の特殊部隊のひとつだ。
「東京」は非核の切り札として、少数精鋭の秘密工作部隊が紛争初期に大きな活躍ができると注目。盛んに研究させていた。
これは冷戦構造化で表立って軍隊を送れないため、世界的に加速した風潮でもある。
日本もその風潮に遅れまいとしたのだ。
その結果、昭和58年当時、警察はすでに公にできない特殊部隊をいくつか設立し運用を開始していた。
レナの篭城事件の時にやってきた府警第2機動隊は後に零中隊と名を変え、関西空港を中心としたハイジャック対策の対テロ専門部隊へと成長していく。
対する成田空港にも対テロ専門部隊として警視庁第6機動隊が組織され、こちらは七中隊と名を変えていく。
核を持てど使えない世界の戦争は、少数精鋭の特殊部隊による首都撹乱であると想定し、警視庁も首都治安の切り札として昭和52年、SATの前身である特殊部隊SAPを組織。
また、海上保安庁も近海での不正規戦を想定した特殊部隊SSTを組織。
一般に知られるだけでも日本にはこれだけの特殊部隊がある。
平和に慣れきった日本人は特殊部隊という言葉を聞くと、まるで漫画か映画の中のような気分になるかもしれない。
だが実際にはこれだけの、これ以上の特殊部隊が存在し、陰に陽に活躍しているのだ。
有名な能登半島不審船事件でも、一般のニュースで報道された“銃撃戦を専門にした部隊のヘリが向ったが不審船が沈没したため退き返した”とは海上保安庁特殊部隊のSSTのことを指す。
だがニュースは一言もSSTや特殊部隊という単語を使うことはなかった…。
これらの部隊は全て「東京」が政府に働きかけた結果、創立されたものだ。
治安の名で戦術研究を行なうのは、表沙汰にできない東京の隠れ蓑としては最適だった。
だが、昭和中期の反戦ムードがこれらの部隊の存在を嫌ったため、昭和58年の当時にはこういった特殊部隊は国民には隠蔽されていた。
そして、ここに挙げた特殊部隊は全て、警察の部隊だけでしかない。
非公開の自衛隊特殊部隊は今日でも知る人以外はまったく知らない未知のベールに包まれたままだ。
「山狗」はその自衛隊の特殊部隊の中の1つから選抜された部隊だ。
それも拉致や傍受、情報操作などを専門とする機密保持専門。事実上の暗殺部隊だった。
かつてのダム戦争でも、山狗は影で暗躍していた。
入江機関の研究を頓挫させるダム計画を、「東京」はあらゆる手で中止させようと画策した。
その中で、山狗による大臣誘拐事件も発生したのである。
あるいはそれだけでなく、園崎家がやったと誰もが信じる一部の事件も、山狗の仕業かもしれない。
何か不審な事件があれば黒幕は園崎家に違いないと誰もが信じる土壌は、山狗が暗躍する上でこの上なく好都合だった。
ダム戦争後の彼らの主な仕事は、奇病の隠蔽だった。
情報網が普及した近代では、異常な事件が起きればマスコミが飛び付き、すぐに全国に配信してしまう。
軍事的価値の見地から「東京」は、事件により奇病が全国に知られてしまうのを嫌ったのだ。
そのため、山狗の最大の仕事は急性発症者の誘拐だった。
彼らは表向きは造園業者の隠れ蓑を持っていて、村の中を出入りしながら、異常な事件の発生を未然に防いでいるのである。
「鬼隠し」の真の実行者と言ってもいい。
……ここでは割愛するが、雛見沢村連続怪死事件の一部には彼らの関与がある。
そして、最後に富竹ジロウ。本名は知らない。
彼は年4回、「東京」から派遣される定期査察の連絡員だった。
進捗の確認と方針説明、「東京」の要望などを説明し、入江からの予算や要求を汲み上げる。
そして鷹野から入江の監視報告を受ける。そういう役だった。
入江の研究は雛見沢の住人の検死を研究に流用するところから始まり、仮設の外堀を徐々に埋め、昭和54年、山狗が拉致した、バラバラ殺人事件の犯人という末期発症者の生体を得た時点で『雛見沢症候群』の劇的解明に至った。
以後、昭和58年にわたるまで、研究は飛躍的に進み、治療薬、予防薬の発見、治療法の確立と目を見張る成果を挙げた。……その一方で、軍事的に利用できる研究も併せて進められていた。
『雛見沢症候群』の軍事的価値として非常に注目されたのが、奇病の原因である病原体が、宿主が生体でないと検出ができないことにあった。
しかもそれは、ある種の非人道的手法でなければ検出できない。
つまり、一般的には検出不能ということだ。
痕跡はほとんど残らず、その異常行為は限りなく自発的であるため、軍事的に非常に有用であると判断された。
だが、…………この頃、「東京」は緩やかな変化を迎えていた。
昭和も60年代を間近に控え、戦後も半世紀を迎えようとしている。
かつて「東京」の中枢に君臨し、日本の政財界の黒幕だった重鎮たちも少しずつ老衰により空席を空け、徐々に幹部が世代交代を進めていた。
つまり、「東京」という組織が少しずつ変っていっていたのである。
依然、「東京」の設立趣旨は変らない。
日本を国際社会の雄に押し上げようとする国粋主義者の結社であることは同じである。
ただ、大東亜共栄圏の復活であるとか、米英に報復戦争を仕掛けるとかいった、戦争の亡霊たちが少しずつ薄れていっていた。
「東京」は次第に方針を転換し、経済や外交、教育などに重点方針を移し始めていたのである。
だが、戦争の亡霊である重鎮たちが全ていなくなったわけではない。
長老とてまだ何人かが君臨している。
彼らは聖域的予算によって、依然、現在の「東京」の方針にそぐわない軍事的研究を継続させていたのである。
……つまり、入江機関の研究もそれで、今の「東京」にとっては、すでに煙たい研究となっていたのだ。
新しい「東京」は、この研究の継続を頑なに続けさせてきたある古老の老死を見届けると、すぐに研究の中止と資金援助の終了を宣告した。
だが、これに入江は強く反発。
研究の継続を強く要望した。
…これが小此木の言う、入江と東京が対立していたという部分である。
この頃、入江は『雛見沢症候群』の全容解明に向けてもっとも躍進していた時だった。
様々な治療法や検査法が確立し、全住民の治療プランにも着手していた。
ここで援助が打ち切られれば、結局、入江の研究は何も残さなかったことになってしまうのだ。
「東京」は富竹を通じて、入江と交渉を重ね、即時中止を段階的中止に変更した。
ただし、軍事的研究は即時破棄とし、研究成果の全てを抹消するよう求められた。
もともと善良な小市民である彼は軍事的研究の中止にはさほど意義は唱えず、すぐに了承したという。
「東京」は即時中止して奇病を放置するよりは、この奇病が完全に撲滅された方が長い目で見れば機密の保持になると考えたのである。
この頃には入江も、一研究者であると同時に村の一員としても溶け込んでいた。
村人が知らずに感染している奇病を撲滅することは、村で後ろめたい研究をしながら名士と讃えられてきたことに対する彼なりの罪滅ぼしと考えたのかもしれない。
両者の利害は一致し、入江は数年以内に『雛見沢症候群』を完全に撲滅して研究を完全に終了させることとなった。
入江はそれを3カ年計画として立案し、昭和61年までに完全治療プランを提案。
そのプランと予算の了承を求めているのが昭和58年6月の定期連絡会の要旨だったのである。
…………ここでいよいよ話が最初に戻る。
入江が「東京」と対立し、悪意ある切り札として古手梨花を暗殺しようとしている話。
もしくは、鷹野が富竹を殺し、さらに何らかの切り札として古手梨花を暗殺しようとしている話に戻る。
そもそも古手梨花がどうして切り札なのかの説明がいる。
これも雛見沢に残る古い伝承が初めから答えを示していた。
それは、古手家にはオヤシロさまの血筋が流れているというものだ。
オヤシロさまとは奇病との共生のためのルールを徹底する戒律のための偶像ではなかったのか。
実は違う。……鬼たちには、いや、病原体には女王にあたる特別な存在があったのだ。
それを代々受け継ぐのが古手家だった。
伝承にある、オヤシロさまの降臨と、その威光に鬼たちが平伏したの行は、…彼らの女王の存在を示していたのだ。
入江の研究によると、信じ難いことだが、梨花が村中に猫のように可愛がられているのは梨花の個人的魅力によるものでなく、女王によるというのだ。
感染者たちは無意識の内に女王感染者を守るように「誘導」されているのだという。
入江はとりあえずそれをフェロモンと呼んでいた。
古手梨花の母も、小さい頃には村中から猫可愛がりだったという。
でも、その状況は梨花の出産と同時に一変し、今度は村中が梨花を可愛がり出したという。
入江はそれを女王の継承と呼んでいる。
つまり、この村では女王は特別な存在なのだ。
実は感染者は、雛見沢を離れては生きていけないのではなく、女王を離れては生きていけないのではないかとも疑われたくらいだ。
入江の研究によるならば、おそらく、女王は雛見沢でしか生きていけず、そして一般感染者は女王の周りでしか生きていけないのではないかと言う。
こればかりは仮説で、試しようがない。
……そして、信じられないことだが、一番最初に『雛見沢症候群』を発見した戦時中の医師も、女王の存在を仮定していたのである。
医師であると同時に民俗学にも明るかった彼は、伝承の傾向から古手家に特別な意味があることを特に重視。
古手の血に潜む女王が、村を操る力すら持っているのではないかと想像した。
真相は不明だが、太古にはそのような力が本当にあり、古手家には神職に相応しい奇跡の力が宿っていたのかもしれない。
末裔の梨花には、せいぜい村中から可愛がってもらう程度の力しか残っていないようだが。
そうなると、女王感染者がいなくなったらどうなるのかという恐ろしい想像が首をもたげる。
戦時中の医師は、女王がもし死ぬようなことがあれば、全ての感染者全員が末期症状を起こし、ひとつの自治体が壊滅すると予言。女王感染者を厳重に保護するべきであると提唱していた。
梨花の存在の重要性は、彼女を調べることで多くの謎を解明できた、生きた標本としてだけではない。
古手梨花がもし間違って死ねば、雛見沢二千人は全員が“鬼の血を目覚めさせることになる”。
しかもその発症は一見、自発的で、その上、自覚症状も他覚症状もない。
村中が突然、同時多発的に恐ろしい被害妄想に包まれ、生きるために殺しあう阿鼻叫喚の生き地獄が現れるのだ……。
そのため、山狗は女王である古手梨花の警護を最優先任務としていた。彼女の死は村の死なのだから。
だから、古手梨花が女王であることを知る者にとって、古手梨花を殺すぞと脅迫することは「切り札」になり得るのだ……。
これが、雛見沢という舞台だ。
この舞台の状況の中で、昭和58年6月。
東京の連絡員である富竹が、予防薬の投与を受けているにも関わらず急性発症し異常な死に方で発見された。
そして東京の監視者である鷹野も同じ夜にどこかへ連れ去られ、殺された。
……本当に殺されたのか実は生きているのかは取り合えず捨て置くが……。
この状況下で古手梨花は殺される。
………入江が怪しい、鷹野が怪しいというこの状況に来て初めて東京を疑った。
東京は味方のはずだと思っていた。
もちろん味方だ。私が死ねば大惨事になる。
だが同時に、東京の内側に、それを切り札にして何かを目論んでいる人間もいるようなのだ。
………東京に派閥があるなんて、考えたこともなかった。
……いや、「東京」の方針が変りつつある時点で、世代交代に関わる新旧対立の構図を描けなかった私の浅はかさなのか。
とにかく、…………鷹野の死体がニセモノかも知れないと、たったひとつを疑わない限り、至れなかった。
このたったひとつに気付けたら、一気に真相が見えてきた。
もちろん悪いのは入江で鷹野は善良な犠牲者である可能性もある。
………つまり、私を今、守ってくれている山狗20人は、頼もしい味方か、私を殺す暗殺者なのかの二択だというわけだ。
…汚物の混じったリスクのあるワイン樽なんか怖くて選べない。
それならば多少不味くても綺麗なワイン樽の方が安心できる……。
こうして全て話し終えてみると、本当に信用できるのは警察と、そして仲間たちだけだということがわかった。
本当に私は馬鹿だ。……色々考えているつもりで、百年間も考えて、何もわかっちゃいなかった。
こうしてみんなに口を開くだけで、勝手に理解できてしまうことがたくさんある。
…仲間に打ち明けるだけで、こんなにも何かが違うのか…。
「………みー。…ボクの話はこれで終わりなのです。」
予想通り、みんなの開いた口は塞がらなかった。
……いくらデマ好きの大石でも、ここまでは信じてくれないだろう。
いや、信じられなくて当然だ。普通なら、正気を疑われるところだ……。
「……沙都子。ボクたちが毎週、診療所に研究のお手伝いに行っていますですよね? あれは、入江の研究に協力しているだけではないのです。沙都子の治療のためでもあったのです。」
「そうだ、そういえば、沙都子が病気みたいなことを言ってたよな…。」
「……私が…?
ほほ、ほっほっほっほ! 梨花の話なら私だけじゃなく、この村に住むみんなが、みんなみんな、その怪しげな病気に掛かってることになるじゃありませんの。
でも、どうして私だけがお注射しなくちゃいけないんですの? 監督の作っている新型の栄養剤の実験じゃないんでございますの?」
「……沙都子は、一度、末期症状を迎えてしまっているのです。だから、日に2回のお注射がないと、すぐに症状がぶり返してしまうのです。入江は、沙都子を救おうと特に熱心に研究してくれていました。………でも、毎日2回の注射をしなくてもいい体には、どうしても戻す方法が見つけられなかった。でも、いつか見つけると意気込んで、今日も熱心に研究を続けてくれていますです。」
「じょ、冗談じゃないですわよ! 私たち、貧乏だから監督の怪しげな研究に協力してお金を恵んでもらってるんじゃありませんの?! あんな注射、一生やれなんて、冗談ポイでございましてよ!!」
沙都子は自分だけが真相を伏せられていることを憤慨していたし、自分だけが注射をしなければならない体であることを受け入れたくないようだった。
その虚勢を張るような笑いが、みんなに悲しく染み込んで行く…。
……圭一がぽつりと言った。
「……………その注射を、1回でもしないと、……あの日みたいになるんだな…。」
沙都子が注射を忘れた日。
……廊下からやってきた校長を沙都子は叔父だと思い込んだ。
被害妄想が肥大して、叔父が学校まで押し掛けてきたと思い込んだ。
沙都子がそう思い込んだら、沙都子の世界はそのように改ざんされてしまうのだ。
「……そうです。……だから、ボクは沙都子がお注射を忘れないように、毎日しつこく言っているのです。」
「そんな、信じられませんわ…!! 大体、何なんですの末期症状って!!
私だけそんなの嫌ですわよ! どうして私が! いつそんな末期症状になったって言うんですの!!」
……沙都子の顔がどんどんくしゃくしゃになっていき、瞳に大粒の涙が浮かぶ。
……やはり言ってはいけなかった。
…沙都子は思い出してはいけないことを思い出してしまった…。
「ごめん、沙都子……。思い出さなくていいのです。あれは事故なのです。…沙都子は何も悪くないのですよ………。」
「……ぅっく、えっく!! 嘘ですわ、嘘ですわ…!! 梨花は、……全部嘘ばっかりなんですわ…!! えっく、……うっく!!!」
…他の仲間たちは私と沙都子が何を言っているのかわからないだろう。
……わかる必要はない。仲間だからこそ、永遠に知らなくていいことなのだ……。
嗚咽を漏らして俯く沙都子の肩をレナがそっと抱く。
……そして、レナは私も抱いてくれた。
「…私たちは梨花ちゃんの話、ちゃんと信じてるよ。」
「……ありがとうです。」
「…………そして、……今まで自分ひとりでよくそれだけの大変なことを背負ってきたね。…梨花ちゃんは偉いよ。たったひとりで、今日まで人に言えない秘密を背負ってきたんだね……。」
「…………………………。」
レナにそんな言葉をかけてもらえるなんて思わなかった。
……不覚にも、自分の目に涙が浮かぶのを感じる。
「…人に話せない秘密を背負うってのは、悲しくて重いよね。……私のは、梨花ちゃんに比べたら全然大したことないけどさ。……少しはわかるつもりだよ。」
「そうですね。お姉もよく頑張ってます。…お姉に擦り付けて楽させてもらってるから、よくわかりますよ。」
「………みんなは、…ボクの話を疑わないのですか…?」
「どうして疑うんだよ。全部信じるって言ったじゃねぇか。むしろ、村の秘密が解けたような気がして俺はすっきりしたくらいだぜ。」
「その、『雛見沢症候群』という病気は感染症で、…村に住んでる人はみんな掛かってるのかな。」
「……はい。みんななのです。でも、昔とは違います。鬼ヶ淵村の頃に比べるとこの病気はとても大人しくなりましたです。だから、別に遠くへ引っ越しても平気ですし、旅行だってへっちゃらなのです。」
「ただし、ものすごく低い確率で発症するってんだろ?
…俺、怖くてもう村を出られねぇなぁ。ははははは!」
「……もし病気に掛かっても、簡単な心構えで病気は抑えられるのです。それはとても簡単だけど、…難しいこと。」
………疑心暗鬼に取り憑かれても、……疑わないこと。信じること。
疑心が疑心を呼び、被害妄想を破裂させた時、手遅れにしてしまう。
…だから、みんなが結束して仲良しでいて、互いを疑わなければこんな病気、ないも同然なのだ。
気に病むことが、病の始まりなのだ。
村から離れたら祟りがあると思い込んでいた昔の人に比べ、祟りなんかあるわけがないと笑い捨てる現代人の方が耐性があるのも、その辺りに少し関係するだろう。
「なぁんだ。なら私たちは全然平気だね。」
<レナ
「だな。俺たちは仲間で部活メンバーで、家族なんだぞ。間違っても仲間を疑ったりするもんか!
だから梨花ちゃんの話、俺は丸ごと信じるぞ。そんなヤバイ話をすれば、俺たちがその山狗って連中に消されるかもしれないって思って、ずっと言えなかったわけだろ?」
私は小さく頷いて応える。
山狗がこの部屋に盗聴器を仕掛けているとは思いたくないが、もし小此木が今、私のこの会話を聞いていたなら、今日、私を消すだけでなく仲間たちも消そうとするだろう。
……入江と鷹野、どちらが黒幕であろうと関係なく。
「ま、だとするとすぐに部活メンバーは臨戦態勢に入った方がよさそうだね。
状況を整理しよう。梨花ちゃんを殺すと大惨事になると信じてる連中が、梨花ちゃんの命を狙う可能性がある。……間違いないね?」
「……可能性でなく、必ず殺しに来ますです。」
「どうかな。梨花ちゃんが切り札なら、そんな簡単に切っちゃう?」
「…そ、そうでございますわよ。切り札は伝家の宝刀。抜かない内が花ですもの。」
沙都子は泣き腫らした目をしていたが、もうしっかりした表情になっていた。
「……甘いですね沙都子。切り札は2枚以上ある時に限りすぐ1枚切ります。」
「そうだね。人質は複数で初めて成立する。1人の人質の価値は複数の時に比べて格段に落ちるからね。」
「とにかく、向こうの状況がさっぱりわからねぇ以上、殺されないなんて楽観はありえねえな。」
みんな、うんと頷く。
「魅ぃちゃんは山狗って人たちをどう思う? 敵かな、味方かな。」
「それは問題じゃないだろうねぇ。僕は善良な狼ですって人に羊の番を頼むかい。」
「疑わしきはクロでございましてよ。その東京とかいう連中とまったく関わりのない人たちに助けを求めた方がいいですわね。」
「だな。その意味では梨花ちゃんが即、警察に応援を求めたのは迅速ないい判断ってことになるぜ。大石さんは俺たちの味方なんだよな?」
「……はい。大石には全てを話してはいませんので、ボクの命を狙っているのを、連続怪死事件の犯人、つまり村人の誰かだと信じてるようです。」
「大石さんにも真実を話した方がいいと思うな。大人の力は重要だよ。」
「………リスクのある一手ですわね。かえって嘘くさくなって手を引かれるとまずいんではありませんの?」
「いや、大石さんには話そう。……あの人、今年が定年で、昔殺された友達の仇を討つ最後のチャンスだって言ってた。だからきっと、どんな嘘くさい話でも信じてくれると思うんだ。」
「うん。大石さんは沙都子ちゃんを助ける時にも、警察の立場でありながら私たちに協力してくれた。頼もしい味方になってくれると思うな。」
「よし。大石には話そう。で、大石は今は署?」
「……いえ、岐阜に行っています。鷹野の死体を確かめに。」
「あー…。岐阜の山の中でしたっけ? ドラム缶の中で黒こげって話。……でも何でわざわざ大石ともあろう人が直々なんでしょうね。」
「……鷹野の死体が違う可能性があるらしいのです。岐阜が協力的じゃなくてあやふやなことを言ってるらしいです。」
「その山狗って連中は機密保持と情報操作が仕事じゃなかったっけ…?
私ゃ何だかその死体、おかしいなぁって思うねぇ。というかあの人、大人しく焼いたくらいで死ぬとは思えないんだよねー、あっはっは!」
「……もちろん、入江が黒幕で、鷹野を殺した可能性もありますです。山狗の小此木はそうだと言っていますです。」
「監督が黒幕ってことはねぇだろ。…あの人は悪い人じゃねぇと思うんだ。」
「そうですわよ。メとイとドを発言禁止にしてくれれば基本的にはいい人でございますのよ?」
「私も、雛見沢ファイターズの幽霊マネージャーとして、監督は黒幕なんてタマじゃないと思います。
どっちかというと利用される感じの人です。イイ人過ぎるというか。」
「…はぅ、誰も鷹野さんの肩を持ってあげない〜。」
「いやさ、監督と鷹野さん、どっちが悪い人ですかって聞かれたら、……なぁ。」
「鷹野さんが聞いたら怒りますわねぇ…。」
「「「わっはっはっはっはっは!!!」」」
こんな状況下にも関わらず、みんなはまるで部活感覚で笑った。
命を狙われるとしたら、私だけで済む保証はない。
みんなも今や巻き込まれる可能性は大だ。
にも関わらず、ここまで笑えるのだから、……私の仲間ってのは本当に大したもんだ。私までつられて笑ってしまう。
「客観的に見て、鷹野さんだけ岐阜で死体が見付かるのがすでにおかしいよ。富竹さんを殺した風に偽装するなら、死体は絶対に見付からないところに隠す。山中で野焼きなんて、見つけてくださいって言ってるようなもんだもん。」
「うん。レナもそう思うな。
警察の管轄の及ばない県外で見付かった身元の確認しにくい焼死体を鷹野さんということにしようとしている気がする。…その山狗って人たちはそういうのが本職なんでしょ?」
「なら、構図が見えてきたぞ。
山狗ってのは鷹野さんの部下なんだろ? 山狗の隊長は監督が黒幕なんだって主張してるんだろ? 鷹野さんと山狗ってのはグルだな。」
「富竹さんのあの死に方は、監督が殺したと思わせるためなんですわね。
…そしてそれがわかるのは東京だけ。………そして本当の黒幕の鷹野さんの死体も見付かり。監督は東京に二人を殺したことを疑われて濡れ衣を着せられる。……なるほど、これはなかなか凝った罠でございますわねぇ。詰めがイマイチでございますけど。」
「その濡れ衣ってのにも山狗って連中が関わってそうだねぇ。」
「なぁ、そうとわかったら監督に直接話を聞いてみないか?! その方が早いぞ。」
「そうだね。監督が真実を話してくれるか、嘘をつくか、…私、目を見ればわかるから。」
「あー…、レナさん、嘘に敏感ですよねぇ…。」
「……入江は、山狗が監視していると言ってましたです。電話しても、出られないか話せないかかもしれませんです。」
「何だ何だ!! 聞けば聞くほど監督は濡れ衣くさいぞ!! というか、監督の身に危険が迫ってるんじゃないのか?」
「…………うん。私が山狗で監督に濡れ衣を着せようと思ったなら…。余計なことを言われる前にご退場願うねぇ。」
「死体に口なし、…だね。どうしよう。」
「……大石は岐阜の話が終わったらすぐに戻って来ると言ってましたです。だから時間はわかりませんが、今日必ず来てくれますのです。」
みんなが時計を見上げる。
時間は6時半を回り、もうだいぶ遅くなってきていた。
「何だか腹が減ってきたと思ったら、こんな時間なんだな…。」
普通なら、もう解散するような時間だった。
でも、大石に話をして、この後をどうするか決めるまではみんなで待とうということになった。
「ごめんね梨花ちゃん、電話借りてもいい? お父さんに帰りが遅くなるのを電話しないと。」
「そうだな、俺もお袋に電話しないとな。」
「あー、私も婆っちゃに今夜は出前でよろしくって電話しないとなぁ!」
「くっくっく! こんな時間にぬけぬけとそんなこと電話したら、あとでこってり絞られますねー。」
「あと、警察の人たちの夕食も考えてあげないとね。本家のツケで寿司でも頼むかねぇ。」
寿司という言葉にみんなが敏感に反応する。
みんなお腹が空いているようだった。…ならそれは警官たちも同じだろう。
「梨花、うちも出前にしますの? そんなお金の余裕はありませんでしてよ。」
「……沙都子、みんなに自慢の野菜炒めでも作ってあげたらどうですか。」
「え?! む、無理ですわよ、こんな大勢になんか作ったことありませんわー!!」
「沙都子の野菜炒めかー! 指さえ入ってなけりゃぜひ食ってみたいな!」
「あははは、レナも沙都子ちゃんのお料理、久し振りに食べたいかな、かな!」
その時、突然、電話が鳴った。
「……もしもし、古手なのです。」
「良かった、ご無事なようですねぇ! 大石です。岐阜の用事を終わらせましてね、今、興宮に戻っている途中です。途中のガソリンスタンドから電話しています。」
「……それで、鷹野の死体は、どうでしたか。」
「んっふっふっふっふ!! やりましたよ、やっぱりそうでした! 岐阜の資料がとんでもないイージーミスをしていました。連中、間違いを認めやしない! ガツーンと決めてやりましたよぅ! 鷹野は車ごと行方不明です! 富竹殺しについて何か事情を知っている可能性が高いと判断し、つい先ほど、鷹野の捜査を開始するよう指示を出したところです! ついにオヤシロさまの祟りの尻尾を掴みましたよぅ! ここから一気に引き摺り出しちゃいます!」
大石は意気揚々だった。
自分でも言っているとおり、ようやく掴んだ手掛かりなのだ。
…果たして引っ張り出されるのはウナギかドジョウか、それとも大蛇か。
「……それは土産話がとても楽しみなのです。」
「これから熊ちゃんと一緒にそちらへ御伺いしますので詳しい話を聞かせてください。心当たりでも、胡散臭い話でも何でも結構です。」
「……はい。ボクも全部話す決心がつきましたです。」
「おやおや! どんなお話が聞けるのでしょうかねぇ。んっふっふ! 多分、あと1時間ちょいくらいでお伺いできると思います。………ところで、受話器の向こうが賑やかですね? お友達も来ているのですか?」
「……はい。みんな心配してうちに来てくれましたです。」
「そうですか。皆さんは本当に素晴らしいなぁ…。私も皆さんと一緒に居てくれた方がいいと思います。賑やかなだけで犯罪の抑止効果は大きいものです。……では今から向います! 後ほど!」
「今の大石さんか?」
「……はい。今から刑事と2人で来るそうです。」
「はぅ、この部屋にこんなに大勢なんて初めてだね。何人になるんだろ。」
「私たち6人に…2人来て8人ですの?! 床が抜けそうで怖いですわね!」
「……ぁぅ。9人目なのです。」
「羽入。聞いてた? 何だか今回は…本当にすごいことになってきた。」
「……今回は行けそうですか…?」
「うん。……行けるわ。絶対。」
「…絶対という言葉は、成って当然、成らなければ失望する悲しい言葉ですよ。」
「………羽入はこの状況になっても、…やっぱり今日、死ぬと思う?」
「…………でも、死んで欲しくないと思っていますのです。」
「あんたのスタンスはわかってるわ。傷つきたくないから、信じない。…マイナス思考なら、マイナスで当然、ラッキーなら大喜びってわけだ。もうあんたと私の考え方の違いをとやかく言わないわ。あんたは見てなさい、傍観者らしく!」
「……はい。…僕は傍観者ですから。……でも、梨花を応援してますですよ。」
「応援か。ありがと。…でも応援していいの? 応援したのに負けると、期待を裏切られない?」
「…ぅあぅあぅあぅ…。梨花が意地悪を言いますです…。」
何だか和やかなムードだった。
でも、違和感はすぐそこまで迫ってきていた…。
■大石の失踪
「腹減りましたね。途中で食事に寄った方がよかったんじゃないっすか。」
「そうですねぇ。もうすぐ8時か。お昼が遅かったから忘れてました。取り合えず話を聞いたらお多福にお茶漬けでも食べに行きましょう。」
「警官を4人行かせてましたよね。交代を送らないと堪える頃ですね。」
「古手さんが気を利かせて出前でも取っててくれればいいんですがねぇ。」
大石と熊谷の車は興宮の市街地を抜け、ようやく雛見沢へ至る道に入ったところだった。
ほとんど灯りのない真っ暗な道を雛見沢に急ぐ。
「…古手梨花の、全てを話そうって言うのはとても気になるっすよね。」
「多分、相当とんでもない話が飛び出しますよ。…あの村はね、本当の名前は鬼ヶ淵村。鬼ヶ淵ってのは沼ですからね、沼の名を冠した村な訳です。」
「沼なだけに底が知れませんね。……古手梨花の護衛ですけど、どうします?」
「彼女の話次第では、秘密の場所に匿った方がいいでしょうねぇ。……雛見沢ってのは村が丸ごと魔物の腹中と同じなんです。あの村の中では何が起こるかわからない。とにかく聞いてみないことにはわかりません。」
「古手家の頭首が命を狙われていて、園崎家次期頭首はそれを守ろうと思っている。……そんな状況下で誰が古手梨花を? あとは公由家くらいしか勢力が思いつかないです。」
「公由家には臭い話は聞いてないんだけどなぁ…。やっぱり、村には信仰を軸にした狂信的な勢力が隠れてるってのかなぁ…。沼の底がどうなってるのか楽しみです。」
田んぼの風景の中を車が通り抜けていく。
……富竹ジロウの死亡場所があっという間にバックミラーに消えていった。
「鷹野が富竹を放置した。そこまでは間違いないと思いますが、富竹のあの異常な死に方は一体なんだってんでしょう。鑑識の爺さま、覚醒剤は出なかったって言ったんですよね?」
「……確かに薬物反応は出なかったそうですが、だからって絶対なかったって保証はありません。この世にはおかしな薬なんてきっと無数にある。それら全部が間違いなく使われていないなんて保証は誰にも出せませんよ。自分が知らない薬だから実在しないなんて、そんな傲慢は刑事が口にしちゃいけない。あったからにはあるんです。
だからきっと富竹に首を掻き破らせる薬は実在する。そいつは犯人逮捕の折に、たっぷりしゃべってもらいますよ。あるいは、古手梨花が話してくれると一番うれしいんですがね、なっはっは。……熊ちゃんも今回の岐阜の件で、決め付ける捜査がどれだけ冤罪を生み出してきたか、よくわかったでしょう。」
「はははは、ありゃあ酷かったっすね。あいつ、うちの署に居やがったら俺でも許さないところです。」
「結局、最後まで間違いは認めてませんからねぇ。岐阜県警はあくまでもあの死体は鷹野三四だったで通すつもりのようです。でもうちは鷹野三四生存で行きますよ。あとは県警同士のトップ会談で決着するでしょう。向こうの凡ミスは確定してるんですから。認めると怒られると思って、躍起になって上塗りしてるんですよねぇ。いやはや、…そういう体質は改めないといけません。」
ガクンと道が揺れる。
舗装道路がここで終わり砂利道になった。
砂利になると雛見沢に入ったんだなという気持ちになる。
そのまま林道をしばらく車は走り抜けた。
「………熊ちゃん。ちょいと停めて!」
「は?」
大石が停めろと言うからには、まさかおしっこということでもないだろう。
熊谷は急ぎブレーキを踏んだ。
二人の体がシートベルトに締め付けられる。
「どうしたんですか?」
「……あの車、…なぁにやってんだろうな、こんなところで。」
大石がバックミラーをコツコツと叩く。そこにはワゴン車が1台路肩に停車していた。
ワゴン車は煤けていて、村人の誰かの、仕事兼自家用という感じだった。
ここに停めるような理由はまったく思い当たらない。…熊谷もようやく不審さに気付く。
車にはひと気がなく、変わりに車の影の林の中で明かりがちらちらと動いているのが見えた。
…懐中電灯かもしれない。
「不審ですね、こんな時間に。それにしても、よく気付きましたね。」
「いつも言ってます。刑事は四六時中、目を皿にしてろってことです。……何やってんだろうな。不法投棄かな。まさか死体埋めてるんじゃないだろうな。あるいは刺激不足のアベックかなぁ? 車のセンスからしてそれはないか。……あー、興宮SPどうぞー、聞こえてるかな? なっはっは、こんばんはさようなら。」
「こちら興宮SP、感動良好でーす。」
「あー、車両ナンバー照会をお願いします。XX、XのXXXX。」
「復唱、XX、XのXXXX。少々お時間もらいますがよろしいですかー?」
「お願いします。」
「……大石さん、地図で見るとここ、電電公社の施設がありますね。」
「電電公社の施設って、何ですかいそりゃ。」
施設といっても人がいるところではなく、機械などが設置してあるところのようだった。
電話の仕組みはよくわからないが、多分、町と村を結ぶ中継機とか何かそういうものだろう。
「普通のワゴンだよなぁ。電電公社にゃ見えませんねぇ。」
「電電公社なら、そう書いた車で来るはずっすよね…?」
「…委託の電設業者か何かの可能性もあります。直接聞いた方が早そうですねぇ。」
でも大石はその可能性もどうかと思っていた。
電電公社であろうとなかろうと、こんな時間に工事とは考えられなかった。
「ちょいと行ってみましょうか。古手さんたちを待たせてますからね、ぱっぱと行きましょう。」
「そうっすね。」
それは、大石が過ごした長い刑事生活の中で研ぎ澄まされた野生の嗅覚だった。
嗅覚には理屈はない。臭いものには理屈抜きで敏感に反応する。
…このセンスだけは、人を選ぶと大石は信じていた…。
「…ザザ、……鶯2より鶯1。車両が1台停車。2人降りました。………恐らく刑事です。そちらへ接近中、1分未満で接触します。」
この暗闇の中にも関わらず、二人の姿は鮮明に捕捉されていた。
夜間でも視界を得られる、暗視スコープに違いなかった。
「了解。全隊員注意せよ。鶯2〜5はグリーンライトを待て。鶯7〜8は前後100mのクリアを確認せよ。」
「待機了解。鶯4、5、聞こえたな。」
「鶯4了解。」「鶯5了解。」
「鶯7了解。」「鶯8了解。」
「……鶯より本部、鶯より本部。電話設備工作中にトラブル。私服警官2名の職質と思われる。発砲許可を申請。」
「本部了解、許可を待て。」
電話施設に近付く大石と熊谷の2人は、様々な角度から監視されていた。
2つは双眼鏡。2つは照準の付いた狙撃スコープ。
山狗の工作の退路を確保する狙撃手と観測手の2組のペアだった。
それぞれが異なる角度に配置され、例え大石がどこの遮蔽物に隠れても撃ち抜けるよう、死角を補い合う配置となっていた。
しかもその彼らの姿は、迷彩服に身を包み、この闇の中、林に数十mも奥まって潜伏して息を潜めていたのだ。
大石たちに気配がわからないのは無理もないことだった。
狙撃銃の照準は二人の頭部をずっと追い続けていた。
……大石たちは夢にも思わないだろう。自分たちがたった今、命を失う瀬戸際にいるなんてことは。
狙撃手たちの持つ狙撃銃の安全装置は掛かっていたが、親指のちょっとした動作で外せる。
つまり、いつでも発砲できる状態にあったのである…。
見れば、ワゴン車の影にはツタが絡まって自然に溶け込みつつある金網に囲まれた機械施設みたいなものがあった。
電電公社のマーク入りの錆びた看板が掲げてあり、関係者以外立入禁止と書かれているようだった。
「どうも〜、こんにちはー。」
「……すみませーん、作業中ですんで入らないでもらえますかね…。」
大石たちを青い作業服の男たちが4人ほど迎える。
工具箱を広げ、配電盤のようなところで何か作業をしているところだった。
「どうもお仕事中お邪魔してすみません。
警察の者でございます。いえね、不思議なところに不思議な時間に車が止まっていたものでどうしちゃったのかなぁと思いまして。」
「そうですかー、お仕事ご苦労さまです。うちらももうちょっとで終わりますんで。」
「お宅らどちらさんです? 電電の人じゃないでしょ。」
「あー、失礼しました。小此木電気設備工事と申します。…あれ? あー、すみません、名刺を切らしちゃってるみたいです。」
「小此木電気設備工事さんって、会社どちらです?」
「…はい? えぇぇと…、興宮になりますけど…。」
「会社の電話番号と住所を教えてください。」
「……な、…何でそんなこと聞きますか。」
「……………………電話番号、忘れちゃいました?」
大石の目がぐっと鋭くなる。
違和感のある返答が戻ってきたからだ。
その手の工事業者のワゴン車というのは大抵、商売道具の工具や何やらがぎっしり満載されているものだ。
だがそこに停まっているワゴン車はまったく普通でそういう際立った特徴はなかった。
それに会社の車だったら大抵は社名が入っている。でもこのワゴン車にはそれがない。
だが、何よりも大石が嗅ぎ取った違和感はそういうものではない。
彼らの雰囲気だった。……外で働くことを生業とする男たちとは肌の焼け方も振る舞いも全然違う。彼らは明らかに、電気工事の専門家ではなかった。
時間もおかしい、人数もおかしい。
大石から見て彼らはあからさまに不審だった。
でも大石が嗅ぎ取れるのはそこまでだった。
彼らが怪しいとわかるだけで、彼らが何者でここで何をしているのかまでは考えが至ろうはずもなかった。
男は予め決められた電話番号を大石に伝える。
大石はそれを熊谷に書かせると、署を経由して電電公社に確認を取るように言った。
「私ら、そんな怪しい者じゃありませんって…。」
「なっはっはっは! あんたら怪しすぎですって。一体、何者です…? 委託業者なら作業写真用に、作業前作業後とか書かれた黒板とかあったりするでしょ。そういうのもないですし。大体あんたたちの雰囲気が違いすぎます。」
「…お巡りさん、…そんな意地悪言われちゃかなわないです…。勘弁してください、私ら早く作業を終えて帰らなきゃならないんです。」
彼らの作業状況を見る限り、とてもすぐに片付けられるようには見えなかった。
むしろ今から作業を始めようとしているようにすら見えた。
「んっふっふっふ! もうバケの皮は剥がれてんだよ兄ちゃん。電気屋に化ける時はまずバイトして勉強してからにしな。」
大石が凄む。
山狗たちは自分たちの正体が看破されたことを知り、次第に目に冷酷さをたたえていく…。
大石もそれに気付いていた。だからしてやったりとニヤリと笑う。
だが、大石は知らなかったのだ。
化けの皮を剥いだ相手は常に手に負えるものだと信じてきたのだ。
自分の手に負えない、恐ろしい魔物が化けているなんて、思いもしなかった……!
熊谷はその間に自分の車へ戻っていた。無線で確かめるためだ。
無線で署に連絡する。署が電電公社に直接聞く。……そうすれば、化けの皮は剥がれる。
「本部より鶯1。発砲許可。」
「鶯7、クリア。」「鶯8、クリア。」
車のドアに手をかけた熊谷の頭部を狙撃銃はずっと照準し続けていた。
熊谷の命を守る最後の一線である安全装置はいつの間にか外れていた。
人差し指が引き金に掛かる。
その手は手袋をつけていたが、人差し指だけが覗くようにカットされていた。
そこから覗く指はとても無骨で無慈悲。
その指はほんのわずかを絞るだけで人の命を奪えるとは信じられなかった。
「鶯1より狙撃班、オールグリーン。」
ヒュカッ、という音を熊谷は聞いた気がした。
それは子どもの頃、ナイロンの縄跳びを鞭のようにして遊んだ時に聞いた風を切る音によく似ていたと思った。
…それが熊谷がこの世で最後にした思考だった。
熊谷は信じられないくらいにあっさりと砂利道の上に転んだ。それっきりだった。痙攣すらしなかった。
「…………ぐほッ、…げほ………ぉおおぉ…、」
大石は胸を撃ち抜かれてて、コンクリートの上に仰向けになって倒れていた。
肺の中が血でいっぱいになり口から血を吐いてむせる。
…大石は水平軸のずれた斜めの世界の中で、自分が撃たれたことだけを悟っていた…。
そんな斜めの視界に作業服の男が立ち、拳銃を構えているのが見えたが、自分の血で肺を溺れさせる大石にはもうどうでもいいことだった………。
「興宮SPより大石車どうぞー。先ほどのナンバーが判明しましたー。……………………大石車どうぞー? ……………………………大石車、応答願います。………………あれ? …………電波、悪いのかな…………………。……大石車応答ねが………………。」
「出ませんね。」
「大石さんが車両照会? 誰の車だよ。」
「村人の車ですね。……至って平凡な。」
「…何者だよ。大石さんが聞いてくるからには、只者じゃないんだろ?」
「特記事項欄は完全に空欄ですね。S号指定もなし。減点もなしだし。」
「…ははは、パッシングでもされて腹が立ったんじゃないの? あの人、根に持つとなかなか忘れないタイプなんだよ。」
「……鶯より本部。2名を射殺。作業を再開。」
「本部了解。警官の車両処理は慎重に行なわれたし。…三佐、鶯は警官2名を排除、作業を再開。」
「…おやすみなさい大石さん。私の尻尾を掴めてもう一息だと思ったでしょうに残念ね。くすくすくすくす。……コーヒーをもらえるかしら?」
「どうぞ。しかし、厄介な展開になってきましたね。R宅には依然、私服警官数名とそれから友人数名がいるそうです。……Rは自分が今夜殺されることに勘付いているとしか思えません。作戦が漏れています。やはり決行は延期すべきでは。」
「明日の朝には死体が見付かっていないといけないのよ。お偉いさんたちの日程上、その日が一番都合がいいって話なんだから。作戦は決行します。」
終末作戦は梨花の死とその死後がもっとも肝心となる。
梨花はいつ殺してもいいわけではない。そのタイミングは高度に計られているのだ。
「山狗による過剰な警備にかえって過敏に反応したのでしょうか。」
「………違うわね。……漏洩じゃない。予言よ、あれは。……富竹の死と、そして私ですら知り得なかった偽装死体の状態まで知っていた。…あの子は女王なのよ。雛見沢の超常存在の頂点に立つ女王で巫女で降臨したるオヤシロさまの血脈に連なる正当な末裔。神を欺くことなどできない、知られるのは宿命だったのよ。古手梨花をあっさり暗殺などできるわけがなかった。
…くすくす、いいわよ梨花ちゃん。あなたと私、どちらがオヤシロさまの伝説を受け継ぐに相応しいか勝負しようじゃない。あなたの死はオヤシロさまの祟りの最後を飾り、この村の伝説のフィナーレを飾る。私の作り上げた物語はその時こそ本当の祟りになるの。くすくすくすくす!」
■梨花ターン
もう8時も過ぎた。
結局、魅音が園崎家のツケということで、おそば屋さんから出前を取ってくれた。
来てくれている4人の警官の分も取り、うどんやらそばやらどんぶりをみんなで食べた。
大石と話したら解散する予定だったが、まだ大石はやって来ない。
まさか、来ないなんて誰も思わないから、きっともうすぐ来るだろうとみんな悠長だった。
何しろこの時間だ。
雛見沢に来てしまうと、食事ができるところも限定されてしまう。途中で食事をしているかもしれない。
ただ、4人の警官たちはそう気楽でもないようだった。
彼らも家がある身であり、何時までここにいなければならないのか大石に聞かされていなかった。
おそらく大石が交代を連れて来て、それで引き上げることができるのだろうと思っているようだった。
警官が電話を借りて署に電話すると、岐阜からそちらへ直行するとの連絡があった、もうすぐ到着すると思うのでそれまで待機するようにと言われるのみだった。
「………遅いね、大石さん。」
「渋滞にでも巻き込まれたんだよ。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯にぶつかっただろうからね。」
「お巡りさんも、お昼からずっと居てくれてるんですのよね。交代が来てあげないと可哀想ですわね。」
「そうだな。何時に終わるのかもわからない仕事って疲れるもんなぁ。」
「警察の人には休んでもらって、私たちが夜警にでも立ちます? 沙都子のトラップワークで不審者の接近を阻むとか。」
「をっほっほ! 甘いですわね詩音さん。ここは私と梨花の家なんでしてよ? 常に二重三重のトラップが張り巡らせてありますわ!」
「そ、そうなんだ。神社で遊ぶ時は注意しないとね…。」
食事でお腹が膨らむと、みんなは再び談笑気分に戻っていた。
もちろん、本当はそんな油断した状態ではいけないのだが、大石がもうすぐ来てくれるというのが、心の余裕を生むようだった。
…でも、遅い。
大石が1時間と言ったら1時間だ。
魅音は渋滞に巻き込まれたのだろうと言ったが、私はそうは思わなかった。
大石なら渋滞の分も見込めるはず。それも含めて1時間と言ったはずなのだ。
だから、もう大石が予告した到着時刻から1時間も余計に経過していた。
……途中で食事を取っているのかもしれないという考えは気休めにしかならなかった。
■深夜時間経過演出を〜〜
だが、いくら待てども大石は来なかった。もう時計も11時を指そうとしている。
下の警官たちも、昼間からずっと警備ではさすがに集中力が続かない。
境内で何人か集まって煙草を吸っているようだった。
それは仲間たちも同じだ。
沙都子が大きなあくびをする。
普段ならもう消灯している時間だった。
みんなも疲れたり眠くなったりで、次第に口数が減っていき、テレビを見たり漫画を読んだりして静かに過ごすようになっていた。
私も緊張感にさすがに疲れ、殺されるかもしれない感情が眠さに覆われようとしているのを感じていた。
もうすぐ、今日が終わる。私の死ぬはずの日を越える。
たった一夜を越すだけで、私は運命に打ち勝てたことになるのだろうか。
いや、…明日の夜、明後日の夜を延々と戦っていかなくてはならない。
…その戦うための道筋を大石と共に探るはずだった。
その大石が現れないのでは、これからどうしていいのか見当もつかなかった…。
そんな沈黙を電話が切り裂いた。
「大石さんか?!」
「……もしもし、古手なのです。」
「夜分遅くに申し訳ありません、興宮署の小宮山と申します。すみません、うちの大石ですがそちらにおりますか?」
「……いいえ。ボクたちもずっと待っているところなのです。」
「そうですか…。わかりました。申し訳ございませんが、そちらに行っている警官に、今から応援が行くので、引き継いだら帰投するようお伝えいただけますか。」
「……わかりましたです。……それで、大石はどこに…?」
「夕方頃に直接そっちへ行くと連絡があったっきりだったので、てっきりそちらへお邪魔してるものと思っていました。大石と交代で警官たちが戻って来ることになってたのですが、いつまでも戻らないのでどうなっているのかと思いまして。」
それを聞きたいのはこっちだと思ったが、電話の相手と喧嘩しても仕方がない。
私は伝言を下の警官に伝えると言い、受話器を置いた。
そのやり取りはみんなも聞いていたようだった。
「どうしたんでございましょうね…。遅いにもほどがありましてよ…?」
「何か重要な仕事があったりして道草でも食ってるとか。」
<魅音
「それなら電話すると思うな。これから行くって電話したんだよ。これだけ遅くなったら、絶対に電話してくれると思うな。」
「…まさか、東京って連中に襲われたとかか?」
「まさかー、あははははは!
…と、言いたいところですが、梨花ちゃまの言うような連中が相手なら、絶対そんなわけないとも言い切れないのが怖いところです。」
「……多分、急用が入ったんだよ。それで電話をするのを忘れてるんだと思う。向こうも大の大人、それも天下の大石だよ。そうそう簡単には消されないって!」
「来るなら早く来てほしいですわね…。ふわああぁぁぁぁぁ……。」
沙都子が大きなあくびをする。
みんなは笑うが、あくびを噛み殺している人も何人かいた。
いつまでも起きていることなどできない。
……交代の警官が来たら、解散しようという話が自然に出た。
私は多分、殺されるはずの時間をすでに超過して生きていると思う。
…多分それは警官が見張りをしてくれていたからに違いない。
あるいは鷹野が味方で山狗も味方で、彼らが未然に刺客を防いでくれていたのか…。
どちらが作用して運命が変わったのかはわからなかった。
あるいは運命など何も変わっておらず、今から私は殺されるのか。
警察のお陰なのか山狗のお陰なのかはわからないが、とりあえず今この瞬間、私が生きていることだけが結果だった。
やがて、境内の砂利を踏む足音が聞こえてきた。
きっと大石だと誰かが言ったが、多分、違うだろうと思った。
変に期待して大石でないと疲れる…。考えが羽入的だったか。
「こんばんは、興宮署から参りました。小宮山と申します。」
結局、来たのは大石ではなくその同僚の刑事2人だった。
彼らが1階に詰めてくれることになり、4人の警官はこれで帰ってもらうことになった。
そしてそれはみんなにも言われた。
「あとは私たち警察が居ますので、どうぞ皆さんは家に帰ってください。ご家族の方が心配しますよ。」
「……みんなありがとうです。刑事さんたちが来てくれましたし、もう大丈夫なのです。」
「本当に大丈夫? 邪魔でなければ私たちも泊まるよ?」
「……大丈夫なのです。第一、お布団も寝巻きもないのです。」
「じゃあ、明日。これからはなるべく梨花ちゃんと一緒にいるようにしよう。部活は梨花ちゃんの家でやるっていうのでどうかな。」
「あら、それなら素敵でございますわよ!」
「……みー。ボクたちの家の床が抜けてしまうかもしれませんです。」
「わっはっは、違いねぇなー!」
「じゃ、梨花ちゃま。私たちこれで帰りますけど、…用心してください。暗闇で一人になるなんてことは絶対しないように。」
「……気をつけますです。」
「じゃあね。また明日。」
「……はいです。また、明日。」
また明日。…その言葉は果たして現実になるのか否か。……今の私にわかるはずもなかった。
百年間、ほとんどのことを試してきた。
なので大抵のことが起こってもすでに経験があるから知っていることばかりだ。
……だからこそ、記憶に残らない自分の命日は、まったく予想も想像もつかないとても不安なものだった。
今が運命から脱しているのか飲まれているのかもわからない。
わかるのは、何かの解決策を見つけるまで、この押し潰されそうなくらいに不安な夜はずっと続いていくということなのだ…。
寝る支度を始めようとしたら、沙都子が今夜は寝巻きではなく普段着で寝たほうがいいなんて言い出す。
もし就寝中に襲われることを想定して、いつもの普段着の方がいいだろうと言うのだ。
大袈裟だが、沙都子なりの心遣いだ。私は逆らわず従うことにした。
沙都子はさっきまであんなにも眠そうだったのに、この神社の周りにはいろいろなトラップが仕掛けてあり、境内を堂々と通ってこない怪しげな侵入者は必ず気取れるようになっていると力説してくれた。
トラップ自慢がほとんどだが、多分、本人は私を安心させたくて言っているのだろう。
……みんなが帰った後、私が不安そうな表情を浮かべたことに気付いたのかもしれない。
沙都子の心遣い、仲間みんなの心遣い。
……そういうのに触れているだけで、打ち明けて正解だったように思えるのだった。
たとえ、私の運命に何の影響も及ぼさないとしても。
「……………………梨花。」
羽入が再び現れた。
その表情は相変わらず暗く、いつ私が殺されてもおかしくないと思っているのが見て取れた。
でも、私は実は少し安心し始めていた。
今日の代わりに明日殺されるかもしれないが、今夜は少なくともこのまま無事に過ごせそうな気がしていたからだ。
確かに、大石が来てくれなかったという不安要素はある。
でも、代わりに同僚の刑事が来てくれていて1階で不寝番をしてくれているのだ。
彼らがいてくれる限り、少なくとも今夜は安心だと思えた。
「……どうしたの? お腹でも空いたの? 出前じゃ甘いのはないからね。冷蔵庫のジュースでも飲む?」
冷蔵庫のジュースの話をされたら、普段の羽入なら躍り上がって喜ぶ。……でも、羽入はそうはしなかった。
羽入の顔は白く、…深刻というよりは淡白な、そんな感じ。…普段と明らかに違う様子だった。
「どうしたの…。」
「……………もうすぐ時間が、やって来ますのです。」
それは、言ったというよりは、宣告した、というべきだった。
羽入とて死の直前の記憶は遡って破かれる。
だから死の直前などわかるはずがない。……にも関わらず、羽入はそうだと言うのだ。
きっと、……私たちの体の細胞が覚えているのだ。
自分というものの命運を、自分以上によく知っているのだ…。
さっきまでの頼もしい気持ち、みんなと一緒ならきっと何とかなるという気持ちが、まるで浮き輪に穴が開いたように漏れていって、……それに掴まっていた私は絶望の海に頭だけを覗かせて沈むまいともがく。
駄目だ、この感情に飲まれるな…!! 信じろ、信じろ信じろ…。
「……大丈夫よ、羽入。……私は抗う。例え明日殺されるとしても、今夜殺されるという運命にだけは抗う…!」
「………………………。」
羽入は薄い悲しみの表情を浮かべるだけだった…。
私の無駄な意気込みが、そのまま絶望の落差になるとでも言わんばかりに。
トラップ自慢を続ける沙都子を見る。
…今から私が殺されるということは、一緒にいる沙都子もきっと無事では済まない。私はトラップ自慢を遮った。
■山狗ターン
時計は午前1時を指していた。
都会ならいざ知れず、雛見沢の午前1時は時間も光も眠ってしまう深い深い深夜だった。
刑事たちの詰める1階だけから灯りが漏れていて、それ以外は真っ暗な漆黒の闇。
だからこそ、月明かりをほのかに感じることができた。
「予定時刻です。1階には刑事2名。2階は消灯してすでに1時間以上が経過します。本部より三佐、決行の判断を。」
「……こんなに月の綺麗な夜だもの。始めなさい。」
「…刑事は排除でよろしいですか。」
「そうね。今夜、古手神社にいた人間は全てが忽然と姿を消し、鬼隠しとなる。……それでいいわ。」
「本部より鳳。作戦開始。歩哨の刑事2名は実力で排除せよ。なお、発砲は許可しない。繰り返す、発砲は許可しない。本部より鶯。鳳が作戦を開始する。電話線を遮断せよ。」
「鶯了解。遮断する。」
万が一、突入時に不手際があって電話通報する時間を与えた際に備え、すでに電話線には細工がされていた。
大石たちが見たのはその工作だったのだ。
「……ほんじゃ、始めるかいねぇ。鳳1より全隊員へ。突入準備。1階の刑事2名と2階の同伴者1名を排除せよ。痕跡を残せん。発砲禁止、ガスも使えんね。テーサーを使え。短銃で武装してるぞ、撃たせるな。」
「小此木、素人相手に手こずらないでよ? くすくす。」
「まぁ、仕事ですんね、宮仕えの悲しさですわ。鳳7、8前進。バックアップは周辺警戒を厳重にされたし。」
「鳳7了解。前進する。」
作業服姿の男が2人、足音を殺しながらプレハブ小屋に近付いていく。
作業服はねずみ色なので迷彩効果はまったくない。
だが、発見されても違和感を持たれないという意味では高い迷彩効果があると言えた。
………もっとも、この深夜に足音を殺すその姿は誰が見ても異様な光景だろうが。
シャッターの脇にあるドアの隙間からは、灯りと刑事の話し声が漏れ出していた。
普段、梨花たちが出入りするのはこちらの引き戸だ。
この引き戸はもちろん施錠されていたが、山狗はすでに有事に備え、だいぶ前から合鍵を用意していた。
鍵を入れるが、スルリと入るわけではない。
開錠時に少なからずの音を立てるだろう。
開錠と同時に気付かれる。その瞬間に突入して制圧しなければならない。
鳳7、8と呼ばれた2人は頷き合った。
「鳳7より本部、準備位置に到着。突入指示を請う。」
「……鷹野です。……綺麗に決めるのよ。行きなさい。」
「了解。突入する!」
ガタガタ、ガシャン!
荒々しい音を立てて鍵が突き立てられて一気に開錠される。
刑事たちがぎょっとして振り返った時には、すでに引き戸は開けられ2人の男が踏み込もうとしていた。
刑事たちが、「何だお前らは!」と言おうと思うのに掛ける時間を、2人は武器を構えるのに費やした。
だから最初の2秒で全ては決する…!
「がッ!!!」
「…ごッ!!!」
鋭く短い悲鳴をあげて飛び跳ねると、刑事たちはその場にばったりと倒れた。
…彼らの体には針が打ち込まれ、その針から伸びたワイヤー状のものが鳳たちの銃口に繋がっていた。
2人が構えた武器は拳銃ではなく、拳銃型のスタンガンだった。
弾丸の代わりに電極の針を撃ち出し、人体に差し込んで強力な電流を流し相手を無力化する。
本来は抵抗する犯人を無傷で制圧するための人道的武器だが、彼らが使用しているものには、非人道的な改造が加えられているようだった…。
倒れた刑事たちの首に手を当て、絶命を確認すると二人は2階へ上がる階段へゆっくりと向う…。
その時、階上でバタバタと慌しい気配が伝わってきた。
「こちら鳳10! R以下2名が勘付いた! 2階の窓から…、飛び降りたぞ!! 裏の茂みへ逃走している!!」
「鳳4、5、そっちへ行くぞ、制圧しろッ!!」
「鳳4了解、行くぞ!!」
茂みの中を駆け抜けようとする2人の姿を確認し、姿を現して駆け出そうとした時、何か固いものを踏んだ。
パパパパパンッ!!
安っぽい破裂音と白煙が立ち込めた。
それは沙都子の仕掛けた癇癪玉を使ったトラップだったのだ。
だが、癇癪玉というのが幸いした。
彼らがプロであったがゆえに、火薬の音を聞いて反射的に銃声だと思い、身を伏せてしまったのだ。
それが梨花たちに逃げ出すチャンスを与えた。
「な、何なんですのあいつらは!! 梨花の言う東京なんですの?!」
「……多分ね! いいから走って!! 捕まったら殺されるわよッ!!」
「どうした応答しろ!! 今の音はなんだ?!」
「こちら鳳5、銃撃を受けた模様! Rは突破した。追撃する!!」
「く、くそ、癇癪玉か何かだ! 畜生め…!!」
「くっくっくっく…。沙都子ちゃんね。やるわねぇ…くすくす。」
「……あぁん!! なっさけなぁ! 近場の班は急行しろ、人家に逃げ込まれたらアウトだぞ!」
「鳳18、発見した! 追跡中、応援を送れ!!」
「2人は土地勘が強いわよ。早く抑えないと確実に見失うわ。」
もう、それは隠れんぼではなく鬼ごっこだった。
疾走する梨花と沙都子を追う作業服姿の数人の男たち。
……彼らは馬鹿じゃないから「待て」などという無意味な制止音声は使わない。
だから、静かな夜に死を賭した静寂の鬼ごっこだったのだ。
「はぁ、はぁはぁ!! どこへ行きますのッ?!」
「……バ、バラバラになって追っ手を振り切りましょうです! 落ち合うのは魅ぃの家! 地下の隠し部屋なら安全だし外部と連絡も取れますです!!」
魅音の家に隠し部屋があるんだ、という素朴な疑問は今のこの状況下ではとりあえず保留された。沙都子は頷く。
ガツンッ!!
左足の爪先にものすごい衝撃があり、私の軽い体が宙を舞って転げた。
地面に石かコンクリート片でも落ちていたのかもしれない!
「り、梨花ぁあぁッ!!!」
「沙都子は逃げてッ!! あんたも殺されちゃうッ!!」
だが沙都子がそのまま逃げてくれるはずがない。
私に手を貸すために駆け戻る。
私は手を借りるまでもなくすぐに立ち上がるが、もちろんそれだけの時間でも致命的だった。
雄叫びすら上げずに男が私に取っ組みかかろうと猛然と走ってくる。私は体勢的にそれをかわせなかった。
……それを沙都子も敏感に察する!
「どおおりゃああああああああ!!!!」
「うごあぁッ!!」
弾丸のような速度で沙都子も飛び込み、渾身の跳び蹴りを食らわす!
それは私に、まさに取っ組みかかろうと姿勢を低く落としていた男の顔面に、写真に撮って残したいほど綺麗に決まった。
そうしている間にもう2人の男が駆けつけてしまう!
こうして対峙して今やはっきりとわかる。彼らは造園屋の作業着だった。
…それは小此木が来ているものと同じだ。
つまり彼らは山狗なのだ!!
鷹野が黒幕だったならという仮定が、全ての疑問を埋めていく!!
鷹野が犯人だとわかっていれば、次の世界で何らかの手が打てるはずッ!!!
でも、……殺されれば遡って記憶が破られてしまう!!
私は死ねない。この記憶を引き継ぐために生き残らなければッ!!!
沙都子がポケットから何かを握り、彼らに投げつける。
それは砂のような何かで彼らには目潰しとなったようだった。だが、一瞬怯ませる効果しかない!
その隙に再び逃げ出そうと目論む沙都子だったが、彼らが抜いた武器を見てぎょっとする。
それは拳銃型スタンガンだった。
もっとも沙都子はそんなもの知らないから、本物の拳銃に見えた。
背中を向ければその場で撃たれることを悟った沙都子は逃げるより撃退することに、電気的速度で判断を切り替える!!
だが、それでも3人だ。常識的に考えて撃退は無理だが、沙都子はそこまで考えなかった。
ここで背中を見せれば100%殺される。なら1%に賭けるという、まさに部活で鍛え上げられた決断だった。
私はそれを、自分が囮になって私だけを逃がそうとする沙都子の決死の覚悟と受け取った。
でも、沙都子が殺されて、私だけが生き残った世界なんて、生きていけるものか…!!
どうせ殺される世界なんだ、沙都子を殺されるくらいなら、沙都子を守って死んでやる!!
だけれども! 心の中のもう一人の私が叫ぶ! 私は生き残らないとせっかく掴んだこの記憶が残らない!
この記憶を残さなかったら無駄死になんだ!! では沙都子を見捨ててこの場は逃げ出せというのか?!
そうさ、次の世界で活かそうと思うこと自体が百の世界に生きる魔女の考え!
ひとつの世界の友人なんか見捨ててしまえ!!
「無理ね。それができる魔女なんかになれるものかッ!!」
だが、心の中でわかってる!
絶対に勝てない!
もたもた取っ組み合っている間に他の応援が来るだろう。
義理を重んじて戦うか、本当の敵を刻み込むために敢えて逃げ出すかッ…!!
A.沙都子を見殺しにして記憶を残す。
B.沙都子を救いに戻り記憶を捨てる。
■これは選択肢風に見せかけた演出であって、単なるテキストですよー。ちょっと表示されたらタイムウェイトで次に進みます。梨花にとっての選択肢であって、プレイヤーにとっての選択肢ではないということです。
「沙都子ッ!!!」
沙都子の勇敢な背中が私に百億の勇気を与える。
ここで逃げたら仮に記憶を残せたって打ち勝てる力など得られない!
記憶を失ったって構わない。
たった百年の努力で得られた程度の真相だ!
百年間、同じ6月を過ごしたって構うものか、今この場の沙都子を、仲間を見捨てることなど私にできるものかッ!!!
「沙都子、下がって!! 2人で戦おう!!」
「梨花ぁ?! 逃げなさいって言いましたですのよ?!」
気付く。彼らは沙都子しか銃で狙わない。
私を撃てない事情があるのだ。
だから私は沙都子を背中に庇う。…予想どおり、彼らは銃をしまい、素手で決着をつけようとする。
「………あんたらは山狗ね。やっぱり黒幕は鷹野だったのね。」
「………………………。」
「ふん。私も馬鹿ね。あんた達の正体を知りながら、逃げることを選ばないなんて。……でもね、私は逃げないの。ここであんた達に殺されるのが運命だとしてもね。運命なんてね、金魚すくいの網より薄いって。教えてくれた人がいるから!」
それが私の辞世の句だとでも思ってくれたのか、彼らは律儀に最後までそれを言わせてくれた。
「馬鹿なやつらね。……だから、あんたたちは金魚がすくえないんだッ!!!」
それと同時に、ものすごい勢いで男の一人が手前へ吹き飛ばされた!
後から相当の助走をつけて飛び込んできた圭一が凄まじい跳び蹴りを食らわせたからだ。…完全な奇襲で綺麗に腰に入ったらしく、男は異常なくらいに悶絶しながら転げまわる。
背後からの奇襲に振り返ろうとする彼らは、それすらも間に合わせてもらえなかった。
後から銃を持った腕を掴むと、魅音は大きくそれを振り回すようにしながら地面に組み伏せてしまう。
きっと護身術か何かに違いなかった。映画であんなアクションを見たことがある気がする。
もう1人はレナが思い切り体当りで吹き飛ばしたが、無論それだけではダウンしてくれない。
すぐに男は持っていた銃でレナに反撃しようとする。
でもそれで充分だった。
レナはその男の意識を自分に集中できればよかったのだ。
完全に無防備な男の背後にはいつの間にか詩音の姿があり、首筋に当てたスタンガンのスイッチを入れた。
バチン!と破裂音がして、男はがくっと膝をついて倒れた。
「ひゅー。葛西のヤツ、違法改造済みとは言ってたけど、こりゃー効きます。」
「詩音、こっちの連中にもお願い!!」
「大丈夫か、沙都子に梨花ちゃん!! まさに危機一髪だったな! お前らの足が速いんで追いつくのに苦労したぜ!」
「ずーーっと待っててよかったね! 張り込んでた甲斐があったよ!」
「張り込んでたって、あの後、お家へ帰らずずっと見張ってましたの皆さんは!」
「うん。帰り際にね、すっごく不審な人がずーっと草陰に潜んでて神社を伺ってるのを見つけたの。」
「いやぁ、よく見つけたよな、あの暗闇で! レナには嘘も迷彩も通用しないってことだな!」
それで、彼らは声を掛ければどこかへ行ってしまうだけだと思い、こっそりずーっとその何者かを見張っていたというのだ。そして癇癪玉の音が聞こえたので、彼らが追う後をずっと追いかけていたのだという。
「……まさか、ここでみんなに救われるとは思わなかったのです。」
「とにかく、ここにいたらすぐに応援が来るぞ! どうするこれから!」
「私たち、魅音さんの家に逃げ込むつもりでしたのよ。地下で匿ってもらえるとかいう話で。」
「地下祭具殿ですか。確かにあそこなら都合がいいです。
しかもあそこ、武器も隠してませんでしたっけ?」
「しー! そういうのは言わない!
とにかく私もうちに逃げ込むのは賛成。あそこには秘密の通路がいくつもあるから、連中の裏をかけるよ!」
「なら急ごう! 追っ手が来てる!!」
白いワゴン車がタイヤを泣かせながら猛然とやってくるのが見えた。
その乱暴な走り方から、敵の車だとすぐわかる!
私たちのすぐ近くに急ブレーキで止まると、全ての扉がバンバンと開き、中からわらわらと大勢の作業服の男たちが降りてきた。その人数は6人!
全員で走って逃げれば、足の遅い者は捕まるかもしれない。
ならば、この場で打ちのめして逃走の機を生み出す!!
ちなみに、免許を持っているかはしらないが魅音や詩音は車の運転ができた。
彼らのワゴン車を奪えば、全員で楽々逃げ出すことができる!
「6人だ! ちょうどいいね!! 全員で全力でぶちのめして車をいただこう!!」
「をっほっほっほ! それは名案ですわねぇ!」
「そうと決まりゃあ速攻だぜッ!!!」
山狗たちは、自分たちは逃げる背中を追うものだと決め付けていた。
だから、全員が命知らずにも反撃に転じてくるなど想像もしなかった!
こういう時、何気に最速で手を出すのはレナだった。
レナは一度決まったことには容赦と躊躇がない!!
1人に的を絞り、鼻先を電光石火の速度で殴る!
その背後に回ろうとした男には圭一がものすごい蹴りを脇腹に叩き込んだ。
「おいおいレナ、やり合う時は背中を気にしろよ?!」
「圭一くんに任すよ。よろしくね!」
「レナさんの茨城時代ってめちゃくちゃ興味あります。とゆーか、人殴るのに躊躇なさ過ぎ。」
「違法改造のスタンガン使うのに躊躇ないあんたが言わない!」
さすがに奇襲でない限り詩音のスタンガンをまともに食らってはくれない。
極めて危険な武器を持っていることに気付き慎重に間合いを取る。
だがそれによって、詩音は確実に1人を足止めしていた。
後続から現れた彼らは銃を持っていなかったのも大きな幸運だった。
詩音のスタンガンに対して有効な反撃策を持っていなかったのだ。
その背後を沙都子が襲う。
縄跳びのようなもので首を締め上げた。
その一瞬の隙で詩音が相手を仕留めた。
私は? 無様にちょこちょこと逃げ回ることで、彼らの意識を集めるのが精一杯だった。
連中の狙いは私なのだ。
視界に2人いて片方が私なら彼らは私を狙いたがる。
そしてそれは彼らに大きな隙を生み出すことができた。
圭一はすぐに私のその狙いに気付き、私に組みかかろうとする男の背後を襲ってくれた。
乱戦なら私らに分がある。
彼ら全員を打ち倒すのはさすがに難しいかもしれないが、一時的に圧倒し、逃げるチャンスを得ることは可能そうだった。
「梨花ちゃんから話を聞いてた時、とんでもねぇヤツらだとビビってたが、どうやら俺たちと同等程度みたいじゃねぇか!」
「魅ぃちゃんの部活メンバーは、つまりそのくらい強いってことなんだね!」
「恐れない、というのが多分強さの秘密ですね。お姉の部活は、遠慮ってヤツをなくす訓練みたいなもんですから。」
全員が一丸となって戦った。だから6対6を制することができる!
誰か1人でも欠けていたらきっと無理だった。あっという間に殺されていた!
私がこの場を逃げ出していたら私が1人欠けて、応援にやってきたみんなも含めて殺されていただろう!!
行ける、今回こそ、私たちは行ける!!
スタンガンで倒したはずの男たちもよろよろと立ち上がる。
向こうからはさっき倒したはずの男たちも駆けてくる。これで一気にケリをつけなければ!!
今度はどうやら私も逃げ回るだけでは駄目なようだった。
「…ちょうどいいわね。やってやるわ。」
「……………梨花…。」
「羽入、あなたは相変わらず諦めてるんでしょ? 諦めない悪足掻きがどれだけの力を持つか、そこで見てなさい! 私は打ち破る、私たちは打ち破る! 今からね!! それをあなたの目の前で見せてあげる!!」
「よぅし、みんないいね! 一撃で決めるよ、目の前の敵を1人打ち倒せッ!! それから車を奪って逃げる!!」
「……はいです。ボクもやりますですよ。」
「気に入ったぜ梨花ちゃんッ!!
よっしゃ、行くぞおおおぉッ!!!!」
圭一のその声が掛け声となり、全員が一度に山狗6人に向って飛び込んだ…!!
時間が徐々にゆっくりになり、……自分が運命を変えようとし、有り得ない時間の壁を越えようとしているのを実感していた。
だが、時間はそのまま徐々にゆっくりになり………そして停止した。
………これは一体?
まるで、映画のフィルムが途中で切れてしまったかのような錯覚。時間が止まったかのような錯覚。
「………………羽入…? どういうこと…?」
「………その時が、来たのです。」
「どうして! ……………え………ッ?!」
羽入が悲しそうに圭一の方を指差す。
私はようやく気付いた。
何人かはすでに気付いるようだった。……圭一だけが、気付いていなかった。
「……け、………圭一。……その、胸の前に浮いているのは、…何ですか。」
「何って、何だよ。…………………は? これ、……何だよ…。」
まさに殴りかかろうという状態のまま、時間の凍りついた世界で、圭一は自分の胸の前に、不思議なものが浮かんでいるのに気が付いた。
それは、………………形容すれば、銀色の金属の円錐。…一番最初に思いついた例えが、多分、それの正体だった。
「…………う、………嘘、圭ちゃん………。」
「な、………何だよこれ…。……まさか、………銃弾……?」
それは、誰が見ても銃弾だった。
……まっすぐ圭一の胸の真ん中を目指し、胸から15cmくらい離れたところで、じっと時間が再び動き出すのを待っていた。
そう。再び時間が動き出せば、瞬きの間も与えられず圭一の胸を貫くだろう。
つまり、…完全な王手。時間が解ければ、圭一は即座に死ぬのだ。
「だ、…誰が撃ったの?! だって、相手は6人、誰も銃なんか持ってないよ!」
「…………あ、……あそこ…! ワゴン車のところですわ!!!」
沙都子が言ったが、指はさせない。時間が止まっているのだから。
ワゴン車には、もう1人の人影があった。
……車には6人じゃなく、7人いたのだ。
その人物が、発砲したのだ。
完全にマークから外れていた。
しかも、その人影は、……みんなが知る人物。…そう、鷹野だった。
「た、……鷹野さんだ…!! 鷹野さんが撃ったの?! 圭一くんを?!」
時間の凍った世界でも、鷹野は不敵に笑い、圭一の胸元の弾丸を発した銃を構えていた……。
鷹野はワゴン車を降りずにずっと傍観していたのだ。
そして、みんなが6人だと勘違いして鷹野のことを失念しているのに気付き、横槍を入れたのだ。
「………へ、……へへへへ! そっか、…なるほどな。やっぱり黒幕は鷹野さんだったんだな…。」
「ど、どうしよう! 圭ちゃん、何とか体を捻ってかわせないんですか?!」
「馬鹿、無理なこと言うなよ。弾丸だって止まるくらいに全てが止まってるんだぞ。俺だって動けるわけがねえだろ…!」
「な、なら、時間が動き出すのと一緒に上半身を反らすんですの!! そうすれば少しでも違うかもしれませんわよ!!」
……みんな滅茶苦茶を言った。でも、どう圭一に助言しても、この弾丸が15cm前に迫ったこの世界から圭一を救う方法など思いつかなかった。
あまりに滅茶苦茶な助言が多いので、とうとう圭一は笑い出してしまった。
「………何かよくわからないけどさ。…とにかく、こうなっちまったものは仕方がない。時間が動き出せば俺は死ぬだろ。死ななくても、まぁ少なくとも戦力にはならなくなるな。だからみんな。今の内に俺のことを諦めろ。そして目の前の敵と鷹野さんをブチのめして車を奪うことを考えるんだ。」
「い、……嫌です。圭一が死んでも駄目です。そんな世界は嫌なのです…!! 羽入、これが運命だと言うの?! 避けられない運命だというの?!」
「…………………大丈夫ですよ、梨花。……忘れられます。忘れられますから……。」
「嘘だよ、嘘だ!! 圭ちゃんがこのまま死んじゃうなんて!!」
「やめなよ魅ぃちゃん!! とにかく、目の前の相手を倒すことに集中しよう! 倒れる圭一くんに振り返る時間を、きっと圭一くんは望まない!」
「あぁそうだぜレナ。頼むぞみんな、梨花ちゃんを。まずはこの場を逃げ延びて監督に連絡を取れ。……多分、こいつらは大石さんをもう殺してる。だからあれだけ待ってもこなかったんだ。みんな、生き延びろよ、絶対だ!!」
「……圭一…!」
「…梨花ちゃん、最後の最後にごめんな。………運命なんて覆せるって大見得切っておきながら、…最初にリタイアしちまう。」
くっくっくっくっく、…くすくすくすくすくす…。
それは誰もが知る鷹野の笑い声だったが、…こんなにも薄気味悪く笑う声は初めて聞いた。
「今生の名残は尽きた?」
「………鷹野さん、これで俺たちが負けたと思うなよ…。」
「くすくすくす。見終わったのね? 走馬灯。」
静寂が砕け散り、ぶわッっと現世の雑音が押し寄せる…!!
それの爆音にも似た音の塊が全身にぶつかる衝撃。
私は再び動き出した時間の中で、圭一がゆっくりと崩れていくのを見ていた。
ぐるりと体を捻るようにしながら崩れ、血をばら撒きながら地面に仰向けに倒れる。…ぴくりとも動かなかった。
みんなに精神的な動揺がなかったわけがない。
目の前の敵を打ち倒すどころか手間取るうちに、新しい追っ手が駆け付け、組み合う仲間たちに後から組み付き圧倒していった。
みんな必死に足掻くが、大の大人がこれだけ大勢やってきて組み付かれたら振り払えるはずもない。
私も、懸命に抗ったが、髪を引っ張られ、後から軽々と担ぎ上げられるともう抵抗する余地などなかった。
みんなの必死の抵抗の叫び声が、とても悲しい。
圭一が撃たれる直前までの勇ましい結束感の心地よさなど、砕けてしまったガラス細工のよう。
足元に散らばる輝く破片が一層に悲しさを煽る。
そんな中、耳障りな鷹野の笑い声だけが不協和音として響いていた。
「鷹野より本部へ。制圧したわ。私の言ったものを準備させて。それから、死体がたくさん出るから処分の手配を。死体袋が5つと血を流すのに水がいるわね。持ってこさせて。」
死体袋が5つという言葉が私の心を凍らせる。だが、今度は時間は凍ってくれなかった。
鷹野はけらけらと笑いながら、一番近くに押さえつけられていた魅音の後頭部に銃口を押し付けた。
「………ちょ、……う、嘘でしょッ?!」
「あなたの背中の刺青、一度見てみたかったの。あとで見せてもらうわね。」
「み、見たければ勝手に見ればいいでしょ?! 見たってつまらないよ!!」
「そう? 私は楽しいと思うわよ?」
「やめて!! 魅ぃちゃんを撃たないで!!!」
レナが叫ぶが、鷹野は首を緩やかに横に振った。
「だめよ。魅音ちゃんが部長さんなんだから、一番じゃなきゃね?」
「う、嘘、……や、やめッ、」
パカン。
下らない音がして、魅音の四肢がびくんと跳ねた。
あまりに呆気なく射殺した様子を見て、残された仲間たちは一層激しく抵抗した。
だが屈強の男たちに押さえつけられて、芋虫のようにみすぼらしく体を揺するのが精一杯だった。
……そしてその様子が鷹野にはたまらなく楽しいようだった。
次に鷹野は近くにいた沙都子のところへ行こうとした。
だが、その鷹野の背に詩音が口汚く言葉をぶつける。
「あら。…あなたが先に撃たれたいのかしら? 大人しくしてればもう数秒は余計に生きられたのに。」
「…や、やめて詩音さん!! 挑発なんかしても意味がありませんでしてよッ!!」
やっとわかる。………詩音は、例え数秒間でも、最期の際に沙都子を守りたかったのだ。
…それが、沙都子を託された悟史へ応えることになると信じて。
もっとも鷹野はそんな詩音の気持ちなど知らない。圭一を跨ぎ、詩音のところへ行く。
「私、やっとわかりましたよ…。悟史くんを………あんたが殺したんですね……? そうなんでしょうッ?!」
「生憎ね、冥土の土産って嫌いなの。だから教えてあげないわ。…くすくすくすくす!」
詩音の四肢がびくんと跳ねた。
相変わらずの間抜けな銃声だった。
……あの賑やかな園崎姉妹を永遠に沈黙させる音が、こんなにも下らない音一発だなんて。なんて釣り合わないのか……。
魅音と詩音の2人の人生が、鷹野は人差し指の引き金をちょっと引くだけの行為で無に返せてしまう、その恐ろしさに私は心の底から震えた。
「………む、無抵抗の人を撃って楽しいの?! この人でなし!!」
「あら、次はあなたが撃たれたいの? 黙ってれば最後の順番になったのに。」
圭一が死に、魅音と詩音が死ねば、次の年長者はレナだった。
……レナは多分、自分より先に年下の子が殺されることには耐えられなかったのだろう。
「……連続怪死事件は全部、鷹野さんの仕業だったんですね。…オヤシロさまの祟りの代行者のつもりだったんですか。」
「くすくすくす。代行者じゃないわ。私が祟りを下すのよ。あなたには見せられないわね。オヤシロさまの怒りがこれからこの村に下るのは。それは私が起こす。私の祟り。そう、私はまさにオヤシロさまそのものになるのよ。その時、私は人としての域をようやく超えることができるの。くすくす! まぁあなたには私の気持ちはわからないでしょうね。人を超えて神になろうとする心地よさなど誰にも理解できないわよ。」
「………あははは。無理だと思うな。鷹野さんがどれだけオヤシロさまのふりをしたって、オヤシロさまにはなれないよ。所詮はごっこ遊び。オヤシロさまになんかあなたはなれない。」
「なれるわよ。これからなるもの。」
あははははははは。
レナが嘲笑う。……その笑いが屈辱的だったのか、鷹野は珍しく顔を歪ませた。
「何がおかしいのかしら…。」
「無理だよ。
だって、オヤシロさまは“居る”んだもの。」
それがレナの最期の言葉だった。
「…さて。最後は沙都子ちゃんね。………あなたは殺しても殺さなくてもどうでもいいの。でも、あなたは生きた研究資料だからね。東京はあなたの生きたままの捕獲に懸賞金を付けてくれてるわ。
大した額じゃない。私の取り分はせいぜい、ヨーロッパに旅行に行ったら消える程度よ。まぁ、生け捕りにしても、あなたは結局はろくな目に遭わないけどね。生きたまま頭蓋を切開されるのが関の山よ。それに私、あなたとはお友達だったしね。この場で撃ち殺してあげるのもやさしさかと思ってる。どっちがいい?」
「そんなの決められるわけないでございますわよッ!!!」
沙都子は両目に涙を浮かべながら、それでも強気を装い言い返していた。
「じゃあ、クイズ。ブロッコリーとカリフラワー。緑色はどっち?」
「…………カ、……いえ、…ブロッコリ。」
パカン。
退屈な破裂音が響き、沙都子は瞬きを忘れて動かなくなった。
そして、沙都子が聞こえるわけもないのに鷹野は「正解」といってくすくすと笑う。
「くっくっく、あっははははははははは! 本当に今夜は月の綺麗な素敵な夜だこと。ね、あなたもそう思わない?」
「…………そして、…私を殺すのね。」
「えぇ。殺すわ。女王感染者の死体が作戦の鍵なの。あなたはここから遠く離れた東京の地での醜い政治的勢力争いの具になるのよ。そして、鬼ヶ淵村の伝説のピリオドとなる。」
「………私をどういう殺し方にするか、…鷹野の考えそうなことがわかったわ。」
「あら、わかるの…? 言ってみて?」
言うもんか。わかってる。
……綿流しだ。
彼女が心酔する鬼ヶ淵村の本当の綿流しがしたいのだ。
私の腹を割いて殺すに違いない。
そして、その前段階として薬物のハンカチか何かで私を眠らせるのだろう。…そのハンカチだけおぼろげに覚えているのだ。
「想像がついてるようね。くすくす。………じゃあお休みなさい、梨花ちゃん。」
鷹野が顎で合図をすると山狗の1人がハンカチのようなものを持って近付いてくる。
「…………鷹野、待ちなさい。」
「みんな潔く死んだのに、あなたは命乞いなの? くっくっくっく!」
「……違うわ。…私を殺すなら、眠らさずに殺しなさい。」
それは意外な提案。
…鷹野は思わぬ提案に一瞬驚いたが、いやらしい笑みを浮かべて小さく頷いた。
その提案には羽入も驚く。そんな死に方が辛いだけなのは誰にだってわかる。
「どういうつもり? 楽に死ぬ気がないの? 辛いわよ? 生きたまま腹を割かれるのは。」
「…………忘れないためよ。」
そう。…これは忘れないため。絶対に私は忘れない。
「……あなたが私の腹を裂くのを、私は魂に刻み付ける。……それを私は絶対に忘れない。あなたに再び会った時、あなたが敵であることを思い出すために。」
「くっくっくっく、あっはっはっはっはっはっはっは! ………何を企んでるやら。でも、あなたは他の子たちよりは少しは賢明みたいね。1秒でも長生きすれば、悲鳴をあげるくらいのチャンスはあるかもしれないからね。でも、そうはさせないわ。」
先ほどのハンカチとは違うものを口に無理やり押し込まれる。
猿ぐつわをするつもりのようだった。口が満足に閉じられず、よだれが口の中から溢れる。
そこへもう1台のワゴン車が到着した。
別の男たちがぞろぞろと現れる。
鷹野が依頼した死体の処理班だろう。
みんなの死体を乱暴に引き摺り、大きなカバンのような死体袋に詰め込んでいく。
そしてみんなが残した血痕という、生きていた証の痕跡をポリタンクの水で乱暴に洗い流していく。
鷹野に撃った弾数を聞き、その薬莢を拾う。
それでもう何も跡など残らない。夜が明ければ誰にもわからないだろう。
私は後手に手錠か何かで縛られ、さらに両足も縛られ、しかもその縛られた両方までも結んで縛られたので、まるで海老のような格好になってしまい、もはや歩くこともできなかった。そして口も塞がれているので、喋ることもできない。
自ら動く、喋る。意思を示す。
それを奪われたというのは、私が人としての権利を奪われたのと同じだ。
……今や私は古手梨花という名の人間ではない。
古手梨花という名の、鷹野を楽しませるためだけの物扱いなのだ。
やがて、ワゴン車は出発する。来た道を戻っているようだが、もう私にはどうでもいいことだ。
こうして、殺される瞬間をまさに迎えようとしていると、……今さらのように千切られた記憶が蘇ってくる。
…そうだ。私はこうして何度も殺されたのだ。
繰り返した世界の数だけ、鷹野を喜ばせるためだけに惨殺されてきた。
誰かが私の頭を撫でた。
戯れのつもりだろうか。
私は首を振ってそれを拒否する。それを見て何人かがげらげらと笑った…。
「………………………梨花………、……梨花……………。」
羽入が現れる。…ものすごい悲しみに涙を堪えきれない様子だった。
「……また、……駄目でした……、…駄目でした……、……また、………また………!」
…その痛々しい羽入の涙を見て確信する。
羽入も傍観者なんかじゃない。
……悲しさの痛みに耐えられなくなって、正面から向き合うことすら怖くなってしまっただけなのだ。
羽入だって、楽しくて明るい未来を何度も夢見たはず。
でも、何度も期待を裏切られて……、期待することに怯えるほどに傷ついて…。
でも、…不思議なことに、羽入の悲しそうな顔を見ていると、逆に自分は落ち着きを取り戻せる気がした。
……羽入が私の代わりに泣いてくれているからかもしれない。
「………いいのよ羽入。………私たち、あれだけ努力した。精一杯がんばった。…もう一息で運命を覆せそうな予感すらした。……それでも届かなかったなら仕方がないし。…それにね、何だか…あははは。気持ちいいの。」
今まで、これだけ精一杯人生を戦ったことはなかった。
そして、これだけ多くのことを学んだこともなかった。
無限の世界を生きられる身だからと、ひとつひとつの世界を軽んじてきた身では学べないことばかりだった。
…でも、それはひとつの世界しかない人たちは自然に学んでいること。
……私ひとりが魔女気取りでそんな当り前を学ばなかった。
でも、やっとそれを学べた。
この世界で私は全てを学び、全てを努力した。
だから、……あとちょっとで届かなかったのはとても悔しいけど、……でも何だか満足だった。不思議な満足。
これから殺されて、どこまで記憶が破かれるのだろう。
……今日の夕方くらいから記憶がもうなかった気がする。
そんなに遡られたら鷹野の顔を見た記憶も残らないだろう。
……鷹野という黒幕の正体を掴んだのはこの世界だけの束の間。
…すぐに忘れて、私は新しい世界で何も知らずに鷹野と付き合うだろう。
仲間たちを虫けらのように殺した。それを絶対に忘れたくない!
だから私はどんなに辛い死に様であっても、最後まで鷹野を脳裏に焼き付けていよう。
「………羽入。私は挫けない。この記憶が例え引き継げなくてもいい。がむしゃらに生きていく。6月の狭い日々にしか生きられなくなり、最後には綿流しの日にしか生きていられない存在になってもいい。それが私の生なら、精一杯生きてきっと自分の人生を切り開く。」
「…………僕も忘れません…。きっと覚えてて、もし梨花が忘れていたらきっと僕が教えますから……!!」
「…羽入。………あなたはやっぱり、冷たい傍観者のふりをしていたのは、悲しさに怯えていたからなんだよね。」
「…………僕も、……みんなと楽しく過ごす未来に行きたかったです……。……ううぅぅうぅぅ…ッ!!」
羽入がぼろぼろと涙を零す…。
本当に馬鹿だった。
……あんたはその悲しみから逃れるために今日まで傍観者を貫き、期待も夢も持たないと言ってきたんじゃない。…それを、この死の間際に翻したって傷つくだけじゃないか…。
羽入、あんたの望むとおりの期待しない世界になって幸せ? という嫌味を、私は口にするのをやめたのだった…。
やがて車が停まり、私は二人掛りで担ぎ出される。そこは古手神社だった。
社の賽銭箱の前に、何人かの男たちが待っていた。
そこには、鋭利な刃物がいくつも並べられていた。
あれで私の腹を割き、生きながらにしてその内臓を散らす。
私は着衣を全て切り裂かれて全裸にされた。
でも猿ぐつわと手錠は外してもらえなかった。
これだけの衆人監視の中、裸体を晒す屈辱も今は感じなかった。
……でも、たった1人、鷹野を喜ばせていることだけが許せなかった。
この屈辱を忘れるな。
そしてこれから訪れる痛みを、死の一瞬まで魂に刻み付けろ。
私は絶対に忘れない。
みんなが力を合わせて努力してくれて、ようやく掴んだ黒幕の記憶を絶対に失ったりしない。
…忘れたら、みんなの死と努力を無駄にすることになるのだから。
だから、1秒でも長く生き残って痛みを受け容れよう。
「…………羽入。目を背けないで。あなたも見ていなさい。そして心に刻んで。」
「………あぅあぅあぅ…。………僕には、そのくらいの協力しかできないのでしょうか…。触ることもしゃべることもできない僕には、そんなことしかできないのでしょうか…。」
「それで充分よ。あなたが目を背けないでくれたなら、私も多分、痛みに耐えられると思うから。」
羽入は涙を零したまま頷き、私のすぐ脇に正座して座る。
そして私たちは見上げた。
真っ白で残酷なくらいに酷薄な夜空の月を。そしてその月を背負う殺人鬼の姿を。
月は次第に飛沫を浴びて朱に染まっていく。
とても寒かった。
とても痛かった。
自由にならない我が身を凶刃に委ねる恐怖に怯えた。
でも、羽入が私のすぐ近くに座ってくれていた。それが支えになる。
羽入だけじゃない。……みんながいてくれた。
みんなは私が痛みを堪えられるように、心をひとつにして私の死に様を見守ってくれていた。
だから、痛くなんかなかった。辛くなんかなかった。鷹野の狂った笑い声など耳に入らなかった。
みんなで力を合わせて、本当に素晴らしい世界だった。
運命には打ち勝てなかったけど、後悔しない世界だった。
もちろん悲しい。残念さは拭えない。
指先に未来がかすかに触れたのだ。
もう一息でそこに手が届いたんだ。
……でも、精一杯だったんだから、今の自分を讃えなくちゃいけない。
圭一は言った。
それでも無念だと。
未来を掴めた。
もう少しで運命に打ち勝てた。
それに届かなかったのは相手が強大だったからじゃない。
自分たちがそれを掴めなかったからだと。
「………でも、みんなは心をひとつにして頑張っていましたのです。……僕は見ていました。全部見ていましたのです。」
<羽入
「いいや、足りてなかったんだ。運命を打ち破ろうとする意思が全員で結束できていたなら必ず奇跡は起こせたんだ…!!」
「…そうなんだよ…。全員が信じたなら必ず奇跡が起こせるんだよ…。」
「……沙都子も梨花ちゃまも、みんなよく頑張りました…。」
「ごめんなさいですわ、…梨花。……あなたが打ち明ける勇気を見せてくれたのに、…私はあなたを救えなかったですわ………。」
沙都子は私の肩を強く握りながらぽたぽたと無念の涙を落とす…。
「……そうよ。みんなで力を合わせたわ。それで駄目なら、……仕方のないこと…。ありがとうみんな。本当にありがとう。……多分、数多の世界と同じ死を迎えるのに、……こんなにも諦めがつく死は初めて。………この死を代償に、私は本当に大切なことを学んだ。」
<梨花
「梨花ちゃん。違うの。……奇跡が起こらなかった理由、レナは知ってるよ。」
レナはやさしく言ったが、顔に笑みは浮かんではいなかった。
「ねぇ。…………本当にみんな、………奇跡を起こそうと、信じてた? 未来を望む時、全員が信じてなかったら、…奇跡は起こらないんだよ。」
「何言ってんだよレナ!! 俺たちは結束した、団結した! 運命を打ち破れることを疑わなかったぞ!! なぁ魅音!」
「うん。そうだよレナ。誰も運命に勝てないなんて思わなかったよ。梨花ちゃんのこの運命を覆したいと思う誰もが、絶対に運命を打ち破れると信じてたよ。」
「……そうですわ。…梨花ですら、それを信じましたのよ。最後の最後に、梨花は私たちを信じて、運命を打ち破れると信じましたのよ…。」
「もちろんレナも信じたよ。……でも、信じなかった人がいると思うの。」
「だ、誰がです。」
………え? …誰が………?
「……ねぇ、……あなた。」
レナがみんなの輪の外にいる羽入に振り返って言った。
「あなた、………信じてた? 運命に打ち勝てるって信じててくれた?」
「……あ、……………あぅあぅあぅ…。」
「触れることができなくても、喋ることができなくても。信じることはできるんだよ。あなたも信じてくれたなら、きっと奇跡が起きた。」
「………僕が信じて、何が変ったのでしょうか…。僕は何もできない非力な存在なのです。…僕は見ていることしかできない、受け入れることしかできない。そんな僕が、…信じるだけで奇跡が起こせたというのですか……。」
「あぁ。起こせたな。」
圭一がはっきりと言った。
それは責任の転嫁ではなく、……まるで事実を言っているかのようだった。
「そうだね。あの時、こっちは6人だった。向こうは7人だった。あなたが信じてくれてたら、それだけで心は7つだった。だったならきっと奇跡が起きた。奇跡はね、触れたり喋ったりで起こすんじゃないんだよ。信じる気持ちが起こすんだよ…。」
「………ぁ、…………ぁぅぁぅぁぅ…。」
羽入は、この悲しい結末が運命だったのではなく、…信じなかったこと、つまり裏返せば、この結末を受け容れた自分の弱さが招いたことを悟り始める。
それに気付き、涙を再び零した…。
「名前も知らないあなた。…あなたにも悲しみや辛さと戦う勇気が必要だった。あなたも運命と戦う勇気が必要だった。あなたが望んだなら、みんなが望む世界にきっと行けた。それがあなただけが信じなかっただけで辿り着けなかったなら、それはあなたの責任なの。」
普段のレナからは想像もつかないくらいに冷たい言葉だった。
きっと羽入の心を鋭利にえぐっているだろう。…でも、それはきっと羽入にも、そして私にも必要な言葉なのだ。
信じる心が奇跡を生む。
そんな綺麗事、誰だってどこかで聞いたことがある。
でも、それを実践するのは簡単じゃない。
人は疑う。信じない。
期待しない方が気楽なのだ。
それでも信じるのは、それだけでも大変な苦労。だからこそ、奇跡を生むのだ。
「……僕は、触れないのですよ? 喋れないのですよ?! そんな僕でも、信じれば奇跡が起こったというのですか…、…ううぅッ!!」
「…だって今、…こうしてレナとあなたは話しているよ。私はあなたと言葉を交わしたのはこれが初めてだけれど。いつもあなたが居るのを知っていた。あなたに言葉をどうすれば掛けられるか考えていたよ。私たちが楽しく遊んでいる時、あなただけが輪の外から眺めていたことを知っていたんだよ。」
「だ、……だってッ!! 輪の中に入りたくても、…僕は誰にも見えないし、話しかけられないし…!! 僕を見たらみんなバケモノだといいますです。僕はもう二度とバケモノと言われたくないのです!!」
「誰が言うよそんなこと。俺たちと一緒にいたなら俺たちは仲間だ!!」
「そうですわよ、仲間のことをバケモノ呼ばわりなんて失礼しちゃいますわ!」
「バケモノかどうかは容姿じゃなくて心で決まるんだよ。ねぇ詩音。」
「そういうことです。
まーその見地から言えば私の方がよっぽどバケモノですよ。」
「…あ、頭に、角が生えていても僕はバケモノとは呼ばれないのでしょうか…。」
「身体的特徴でバケモノなんて誰も呼ばないよ。むしろキュートなくらいだよ。」
「あはははは、レナに気をつけろ〜。変に気に入られるとお持ち帰りされるぞー!」
気付けば、いつの間にか私もみんなと一緒にいて、私の体を囲んでいた。
……そうか。…私は、死んだのか。
私の足元には血塗れの自分がいた。
鷹野の玩具になっていることが相変わらず不快だったが、…今やそれは私の抜け殻でしかない。
「大丈夫か、梨花ちゃん。」
「……みー。死んだ人に大丈夫かとは変な話なのです。」
みんなが苦笑いする。
……死にこんな慈しみを覚えたのは初めてだった。
みんながすでに死んでいた。
だから、私もその仲間に加われたのがとても嬉しく感じられた。
すると、世界が次第に薄暗くなり、……私を切り刻む光景が足元のずーっと下に遠退いていった。
自分が消えて、無になるのを理解する。
みんなとつなぐ手の感触だけが心の拠り所だった。
「行こうぜ。みんな。」
「そうだね、行こ行こ。」
「あなたもみんなという言葉に含まれてるんだよ。…ほら、いつまでも泣いてないで、行こ。」
もう視覚のない世界だったけれど、…なぜか目に浮かぶ。
レナが羽入に手を差し伸べ、それにおずおずと手を伸ばす羽入が見えた気がした。
「……羽入。あなたが私と出会う前にどんな悲しいことがあったか知らないけれど。みんなは絶対にあなたを受け容れてくれるわ。」
「…………あぅあぅあぅ…。……僕がいても、楽しいでしょうか…。僕はみんなに受け容れてもらえるのでしょうか……。」
「うん。だから、おいで。」
レナと羽入の手が、重なる。
その手にみんなが手を重ねてくれている気がした。……重ねる手があればだけど。
行こう、羽入。
悲しみを受け容れよう。
だから喜びも共にできる。
あなたも信じよう、私たちの行きたい未来を。
だから奇跡が起こせる。そこに至れる。…ね?
うん、と。羽入は確かに頷いてくれた…。
■スタッフロール
井戸の外にはどんな世界が?
それは、知るために支払う苦労に見合うもの?
井戸の外にはどんな世界が?
それは、何度も堕落しても試すほどに魅力的?
井戸の外にはどんな世界が?
それを知ろうと努力して、落ちる痛みを楽しもう。
その末に至った世界なら、そこはきっと素敵な世界。
たとえそこが井戸の底であったとしても。
井戸の外へ出ようとする決意が、新しい世界への鍵。
出られたって出られなくったって、
きっと新しい世界へ至れる…。
■エピローグ
緊急マニュアル第1号
自然発生的末期発症者(以下L5と表記)が確認された場合、施設長はL5が異常的社会行為を起こす前に迅速に事態を収拾しなくてはならない。ただし、機密保持に厳重に注意すること。
その際、施設長は機密保持部隊に対し応援を要請できるものとする。
機密保持部隊は、確保に当たり必要と判断した場合は発砲許可を施設長に対し申請することができる。
L5の確保は極力、生体であることが望ましいが、機密保持上の理由でそれが困難である場合、生死を問わないものとする。
全てにおいて機密保持と外部発覚阻止を最優先とすること。ただし、機密保持は外部発覚阻止に優先するものとする。
緊急マニュアル付録9 問答集
問.L5が同時多発的に発生し機密保持部隊の処理能力を超えたと判断される場合、緊急マニュアル第34号は適用されるのか。また処理能力超過の判断権限者は施設長と考えて良いのか。
解.上記お見込みの通り。
問.研究施設の致命的な事故により外部に危険物(H170番台)が流出し、L5の大量発生が見込まれる場合、見込みのみで緊急マニュアル第34号は適用されるのか。
解.上記お見込みの通り。
問.研究施設の致命的な事故により外部に秘匿施設が露呈した場合、通常は機密保持部隊が対処するが、露呈の規模により部隊の処理能力を超えたと判断される場合、機密保持のために、緊急マニュアル第34号は適用してもよいのか。また処理能力超過の判断権限者は施設長と考えて良いのか。
解.上記お見込みの通り。
問.緊急マニュアル第34号の適用には慎重な判断が必要で、最高決裁者の決裁が必須であると思われるが、著しく緊急性が求められると施設長が判断した場合、決裁手順は簡素化できるのか。
解.如何なる場合においても緊急マニュアル第34号の適用は最高決裁者の決裁を待つものとする。ただし施設長は緊急性を決裁時に具申することができる。
緊急マニュアル第34号
複写厳禁・持出厳禁
本マニュアルの許可なき閲覧はこれを厳禁とする。
本マニュアルは最高決裁者の決裁を以ってのみ適用される。如何なる簡易決裁もこれを認めない。また決裁者は本マニュアル適用の決裁に当たっては可及的速やかに判断すること。
対処不能な事態が発生し最高決裁者がそれを認められる場合、機密保持と外部発覚阻止のため、入江機関(以下、機関と表記)は最終的解決をしなければならない。
最終的解決とは以下を指す。
・L2以上の潜在患者全員の処分。
・機関施設の完全な証拠隠滅。
・本マニュアル適用の隠蔽。
施設長は上記を事態発生から48時間以内に遂行しなくてはならない。不測の事態により施設長の指揮が困難な場合、長官がこれを兼務する。
遂行に当たり施設長は長官に対し応援を要請することができる。
長官は本マニュアルの適用が見込まれると判断する場合、予備命令を発令することができる。
最終的解決は以下の手順で遂行される。
■ガス災害偽装、及び交通遮断
交通封鎖部隊は警察官に偽装し雛見沢地区を外部より遮断する。その際、自然ガス災害であるよう偽装すること。
偽装のための装備は谷河内地区旧採石場跡に厳重に秘匿した上で備蓄するものとする。また装備は常時使用に備え維持点検を行なうこと。
外部からの侵入、内部からの脱出に対しては、偽装ガスもしくは退去命令を以ってしても応じない場合、発砲を許可するものとする。許可権限は機密保持部隊長が交通封鎖部隊長に委譲するものとする。
■通信手段の遮断
通信工作部隊は雛見沢地区から外部へ発する有線無線を含む全ての通信手段を遮断すること。
遮断に当たって外部に不信感を抱かれぬよう厳重に注意すると共に、作戦時の必要最低時間のみの運用とする。
通信施設は交通遮断地域内にあるため、通信工作部隊は通信施設に接近する全ての民間人に対し発砲を許可するものとする。許可権限は機密保持部隊長が通信工作部隊長に委譲するものとする。
■潜在患者の集合
機密保持部隊本隊は雛見沢地区災害時集合場所に潜在患者全員を集合させること。
集合時手順は別紙参照のこと。集合後は厳重に点呼を行い全員の集合を確認すること。
この際、ガス災害偽装を潜在患者に疑われないよう厳重に注意すること。
また、集合の妨げとなるため家財の持ち出しは厳禁とする。
ただし疑惑を招かないため、通帳、印鑑の類の貴重品持ち出しを認めること。
集合命令に従わない者に対しては止むを得ない場合にのみ発砲を許可するが、機密保持部隊長はこの許可を容易に出してはならないものとする。
■潜在患者の処分
機密保持部隊本隊は集合させた潜在患者を速やかに完全処分すること。
処分にあたっては、ガス災害偽装を疑われないよう注意すること。また、人道的な手段を以って対応するよう努力しなければならない。
処分時にトラブルが発生し、鎮圧上止むを得ない場合にのみ機密保持部隊には発砲が許可される。許可権限は機密保持部隊長が持つものとする。
射殺体は行方不明者として処分するため、偽装死体と混入しないよう注意。
■機関施設の隠蔽
施設処理部隊は機関施設の重要機密回収(別紙参照193点)と証拠隠滅を行なうこと。証拠隠滅に関しては別紙参照のこと。
重要機密回収にあたっては機関研究員の指示を受けること。危険物が含まれるため搬出には細心の注意を払うこと。
秘匿区画は厳重封鎖とする。気密扉は溶接、地下区画は注水封鎖。区画入口は溶接の上、厳重に偽装すること。なお、秘匿区画の完全撤去を3年以内に行なうものとする。
施設処理部隊は機関施設へ接近する全ての民間人を排除しなければならない。
原則として発砲を禁止するが、止むを得ない場合に限り発砲を許可する。許可権限は機密保持部隊長が持つものとする。
■村内捜索
機密保持部隊は村内の完全捜索を行い、生存者がいないことを厳重に確認すること。
特に潜在患者集合時の点呼で確認できなかった人間については要注意。
なお、潜在患者の処分時刻以降に生存者を発見した場合には原則として即時射殺を許可する。ただし投降の意思のある場合のみ例外とする。他隊が投降者を得た場合には速やかに機密保持部隊に引き渡すこと。
機密保持部隊は投降者について、潜在患者処分と同じ方法にて処分すること。
■後続一般部隊への引継ぎ
災害派遣の一般部隊に現場を引き継ぐ。不信惑を持たれないよう厳重に注意すること。
■完全撤収
全ての作戦を終了し、機密保持部隊は雛見沢地区から撤退する。後続の一般部隊に不信感を持たれないよう厳重に注意すること。
なお、機関施設は秘匿区画の完全撤去が終了するまで継続警備とすること。
<女王感染者ト一般感染者ニツイテ>
病原体ハ蟻ナドノ社会型生物ト同ジ習性ガアルモノト推定。
女王蟻ニ当タル女王感染者ガ常ニ1人オリ、ソレガ古手家代々ニ受ケ継ガレテイルモノト推定。
此レラハ雛見沢村ニ関連スル古文書ノ数々カラ容易ニ推察サレル。
マタ、一般感染者ハ女王感染者ヲ庇護スル傾向ガ強ク、其レヲ容易ニ観察デキル。
マタ、女王感染者ノ半径ニ束縛サレル一般感染者トハ違イ、女王感染者ハ土地ニ束縛サレルモノト推測。
<感染者ノ発症確率ニツイテ>
一般感染者ハ女王感染者カラ離サレタ距離ト日数ニ比例シテ高イ発症確率ヲ持ツト推測。
マタ、精神状態ニモ強イ影響ヲ受ケ、特ニ情緒不安定ヤ郷里ヘノ思慕ガ強イ場合ノ発症確率ハサラニ高マルモノト推定。
発症ヲ抑エルタメニハ高野式精神安定法ガモットモ効果的ト思ワレルガ、ソレデモ改善ガ認メラレナイ場合、女王感染者ノ許ヘノ帰郷ノミガ有効。
<末期発症者ニツイテ>
末期発症者ハ被害妄想ヲ著シク肥大サセル為、組織行動ヘノ従事ハ困難ヲ極メルモノト推定。
確認事例デハ殺人ヤ放火、ソノ他異常行為ガ認メラレ、所属部隊ニ甚大ナ害ヲ齎スモノト予想。
雛見沢村文献デハ村内末期発症者ハ処刑サレタ記述ガアリ、末期発症者ハ帰郷ニヨッテモ改善シナイモノト推察。ヨッテ迅速ナ処分ガ求メラレル。
未発症段階カラ感染者ヲ隔離スルコトモ極メテ有効。
雛見沢出身者ヲ追跡調査シ、専門医療機関付キトスルコトヲ提案ス。
<感染者集落ノ崩壊ニツイテ>
前述ノ理由カラ、女王感染者ガ死亡スルヨウナコトガアッタ場合、感染者集落ハ集落単位デ末期症状ヲ引キ起コスモノト推定。
末期症状ハ急性発症ナラバ早クテ二十四時間以内、遅クトモ四十八時間デ発症スルタメ、四十八時間以内ニ最終的解決ヲ行ナワナカッタ場合、騒乱ハ極メテ甚大ニナルモノト推定。
マタ、集落規模カラ見テ、警察、憲兵程度デハ此レノ鎮圧ハ容易ナラザルモノト推定。
反国家的武装蜂起ト位置付ケ、緊急ニ軍ヲ以ッテ鎮圧スルノガ最モ適当ト思ワレル。
昭和二十年一月吉日
宛最高戦争指導会議 小泉大佐殿
高野一二三記ス
昭和58年6月23日
58防総管エ4−20号
第733装備実験中隊長
第733装備実験中隊は24時間以内に都市沈黙戦装備にて待機することをここに命ずる。
中隊長は添付の緊急マニュアル34号を熟知すること。
作戦参加人員は機密保持に最も重視を置いて選抜すること。
また、国立感染症研究所出向職員の指示に従って予防薬適性検査を実施し、適合者のみで編成すること。
昭和58年6月23日
58衛研総エ7−11号
第733装備実験中隊長殿
国立感染症研究所
感染病理部第13室
(公印省略)
雛見沢症候群について
滅菌作戦の遂行に当たり、雛見沢症候群について申し送るものである。
雛見沢症候群は人体に感染するウィルスによって引き起こされる感染症である。
基本的に自覚症状はないが、極度の精神不安定による回避可能な理由の他、女王感染者の死亡による不可避な理由によって劇的に発症する。
主な症例は妄想と精神異常で、特に被害妄想の肥大が著しい。
また自身の精神異常を自覚しないことが多く、その識別は検査以外ではほぼ不可能。末期の異常行為から発症を類推することしかできない。
また、多くの場合、被害妄想の肥大から何らかの反社会行動に訴えることが多く、この点が雛見沢症候群の最大の問題点と言える。
ホルモンの分泌などに影響を与えるものと思われ、肉体でなく精神に主に作用する感染症のため、感染症型精神病とも言える。
末期にはリンパ腺に強い痒みを訴えることがあり首筋、もしくは手首を掻き毟る可能性がある。これのみが唯一の自覚症状である。
滅菌作戦注意事項について
滅菌作戦の遂行に当たり、諸注意を申し送るものである。
病原体は基本的に空気感染で経皮からも感染する。
事実上、感染は不可避であり予防薬の投与を必須とする。
また、作戦終了後は感染検査を行ない、陽性反応者は直ちに申告し治療を受けること。
特に注意を要するのは高度感染者(住民)との接触である。
通常接触では問題ないが、粘膜・体液の接触で予防薬の投与に関わらず重度感染する。
高度感染者とは直接接触しないよう厳重に注意すること。
接触を疑う者は直ちに検査用自動注射器を使用して別添に従い自己検査を行なうこと。
特にリンパ腺に理不尽な痒みを覚えた場合は急性発症である可能性が極めて高い。ただちに検査を行なうこと。
陽性反応が出た場合、治療薬C120自動注射器を使用すること。
注射後10分を経過しても痒みが引かない場合には2本目を使用する。
それでも改善が見られない場合には本部にて治療を受けること。
また、C120は健常な人体には悪影響を及ぼすため、陽性反応を確認しない使用はこれを厳禁とする。
健常な人体に使用した場合、10分以内に全身の発疹、発熱、瞳孔の拡大、妄想を引き起こす。これらを自覚した場合、本部にて治療を受けること。
高級なソファーに大理石のテーブル、クリスタルの灰皿のある高級な会議室で、政府高官たちが状況を説明していた。
…こんな目茶目茶な話は聞いたことがないと、官房長官はずっと猛り狂っていた。
当然だ。たったひとりの少女が死ぬだけで、二千人の住民が暴徒化する。
そんな奇病が存在しただけでも驚きであるばかりでなく、それが長年秘匿され軍事目的で研究されていて、しかも研究所長の汚職を巡るトラブルでこのような事態を引き起こすなんて。
「そんな危険な病気、初めて聞いたよ! 本当に治療の手段はないのか?!」
「はい。国立研究所の説明では、重度感染者の発症に対する治療法は確立したばかりで、全住民への対応は事実上不可能とのことです。最短で24時間以内、長くとも48時間以内に山村の人口二千人が全て末期発症するとのことです。甚大な被害と影響が予想されます。」
「雛見沢症候群」がどれだけ危険で異常な奇病かは、すで専門機関のスタッフから延々と説明を受けていた。
だから改めて聞くまでもない。
でも、だからといって受け容れられるわけがない。
その事態に対し有効な対処法が、集団発症の前に感染者全員を抹殺する他ないなんて。
「そりゃ大変なことになるのはわかるけど、住民を皆殺しにするなんて、そんなの許可できるわけないだろう!! そもそも、なんでこんな危険な病気を隠蔽して研究なんかしてたんだ?! そもそもそういう事態を招いたのはその関係の連中の責任じゃないのかね!! 第一、こんな危険な研究は今や日本の国益に貢献しないどころか、損ないかねんぞ!! どうして昭和の58年までこんな馬鹿げた研究をしていたんだ!
報告書によれば、研究目的のために撲滅を意図的に遅らせていたそうじゃないか! しかも汚職を巡るトラブルの果てにこんな事態だ! これはテロだよテロ!! 『東京』の老害だ! こんな研究を支持していた人間には全員責任を取ってもらうぞ!! いつまでも大戦の亡霊に取り憑かれている連中を追放したまえ!! これは『東京』の膿みを出すいい機会じゃないのかね?!」
「…………責任者の追及は必ず行ないますが、それより前に、対応を考えなければなりません。」
そのやり取りに背を向け、ブラインドから外を眺めていた人物が、ゆっくりと語ると官房長官は口をつぐんだ。
「総理。ご決断を。」
「……………滅菌作戦を承認しない場合のシミュレートを聞かせてください。」
「はい。今から36時間後には村人のほぼ10割が末期発症。末期的な被害妄想に取り憑かれ反社会的な行為を行ないます。想定されるのは、自殺、殺人、放火、強盗、強姦。治安の完全なる崩壊です。騒動は恐らく雛見沢地区のみでなく周辺地区へも波及します。結果、世界規模での注目を浴びることになるでしょう。民間の独自調査の結果、奇病が原因であることが発覚するのは食い止められません。
野党は奇病の対応の不手際を政争の具に時期選挙を有利に運ぶでしょう。また『東京』内でも総理の対応に批判が高まるでしょう。彼らの支持は総理の列島改造に欠かせません。そして何よりも、軍事目的での研究が政府内部から暴かれる可能性があります。これだけは断固阻止しなくては我が国に致命的信用ダメージを与えかねません。」
「…………逆に、滅菌作戦を承認した場合はどうなりますか。」
「はい。自然災害を装いますので、やはり対応の不手際の野党追及は避けられません。ただし、奇病研究について発覚することはないでしょう。もし万が一、奇病の軍事的研究が世界に発覚したら我が国はアジア地域でのイニシアチブを完全に喪失します。」
「他国の援助を受ける政党は一大キャンペーンを張るな! 売国奴どもめ! そうなれば野党の政権奪取は必至だよ! 日本は宣戦布告なくして占領されるぞ!!」
「…シミュレートの結果では、第2党第3党が連立した場合、与野党の勢力は完全に反転します。国際世論は我が国を一斉に非難。国連に対しNBC兵器開発疑惑の査察を要求するでしょう。近隣国は政府主導でバッシングキャンペーンを展開、高支持率を背景に対日外交を強硬路線に転換します。我が国は政治的焦土と化すでしょう。」
「国際信用はぺんぺん草一本残らんということかね。……くそ。つまり雛見沢地区と周辺自治体の数十万人だけの問題では済まんということだな。…………しかし!! 全てを闇に葬るための犠牲が二千人とは多過ぎる!」
「…………日本国内において、生物兵器研究が行なわれていたことが露呈することだけは避けなければなりません。……私は、どうやら大戦の亡霊の尻を拭くはめになりそうですね…。」
「滅菌作戦は計画通りに隠密で実行できるのかね?! 滅菌作戦が発覚すれば奇病研究以上の大スキャンダルになるぞ?!」
「はい、ご安心ください。それにつきましては自衛隊内の機密保持に特化した専門部隊が当たります。このような事態を想定し研究と訓練を重ねた部隊です。万一の失敗はありえません。」
「都市沈黙戦という言葉は初めて聞きましたが、これはガスによる虐殺のことですね? 自衛隊にガス戦を習熟した部隊があったとは驚きました。」
「ガス防護を知るにはガス戦を知らなければなりません。ガス虐殺に備えるにはガス虐殺を知らねばなりません。装備実験隊は日本国が受ける可能性のある全ての攻撃に対し、日夜、研究を重ねています。」
小さなため息が漏れた。
……人道と非人道の境目がわからない。
悪意に備えるという詭弁がまかり通るなら、あらゆる研究が許されるというのか。
だが、それこそが備えるということでもある…。
必要悪として認めてきたことでもあった。……それは、入江機関の研究もまったく同じだ。
「………………明かせぬ研究を葬るために、明かせぬ方法を取るか……。」
「罪悪感の伴う任務だが、隊員から事実が漏れ出すことはないのかね?」
「ありえません。隊員は第一空挺から精鋭を選抜し、さらに高い忠誠心を持つ者のみで構成しております。実戦はこれが初めてになりますが、練度は極めて高く、内部の機密保持も問題ありません。」
「……………まさに暗殺の専門部隊ですね。」
「総理。どうか緊急マニュアル第34号の執行にご決裁をお願いいたします。」
「…………防衛庁長官。この作戦は必ず成功しますか? 事件が大騒ぎになる前に食い止められますか? いえ、……犠牲者を最小限に抑えられますか?」
「はい総理。すでに予備命令を発し作戦準備に入っております。ご決裁がいただければ直ちに出動して作戦に入ります。」
「……………私には人口二千人を虐殺する命令など下せません。……ですが、内閣総理大臣として犠牲者を最小に抑える義務もあります。」
「総理、…胸中をお察しします。」
「…………………長官。どうか、犠牲者が一番少なくて済む方法を選択してください。…二千人がどうしても治療できないなら、……不必要な犠牲者が出ないよう、迅速な対応をお願いいたします。」
「はい! ご決裁を感謝いたします! 必ずや朗報をお持ちいたします!」
「…………二千人の犠牲が朗報と呼べるならですがね。…奥野くん。東京の皆さんに近日中にお会いできる席を設けてください。今回の件について、釈明を直接聞かせていただきたいと思います。」
「…わかりました。」
「ところで、その問題の研究所長の入江氏は逮捕しましたか。」
「いえ、服毒自殺とのことです。研究の終了が自身の人生を否定されたものと悲観しての発作的犯行と思われていますが、…何が目的だったやら。」
「………彼を狂気に駆り立てた理由は永遠に闇の中ということですか。」
緊急マニュアル第34号の適用をここに認める。
昭和58年6月23日
内閣総理大臣 XXXX
防衛庁長官  XXXX
「皆さん、輸送の都合で荷物を持つことはできません! 手荷物は禁じます。繰り返します、手荷物は禁じます! 現金、通帳、印鑑の類だけを携帯してください! 混乱防止のため車両避難は禁じています!」
深夜。大勢の村人たちがぞろぞろと戸外に出ていた。
ある者は戸締りをし、ある者は庭木に水をやり飼い犬の前にエサを山積みにしていた。
ただならぬ事態に泣き叫ぶ小さな子どもの声。
怒鳴り声で点呼する町会の老人たち。
山中の数箇所から危険な火山ガスが噴出し、ガス流によって外部と寸断され、村が孤立したというのだ。
戸外に漂う強い硫黄臭と、いつの間にやら村中にいた警察と自衛隊員の姿に、人々は疑う術を持たなかった。
信心深い老人たちは、先日死んだ古手梨花の死による祟りだと信じ、ひたすら数珠を揉み続けていた。
オヤシロさまの怒りに触れ、地獄の釜が開き、瘴気が村を飲み込む日が来たのだと信じた。
そんな人々の列をガスマスクを着けた自衛隊員たちが避難誘導をしていた。
「…何で兵隊さんは災害なのに鉄砲持ってきとるんしゃあ。」
「皆さんが非難した後の家屋を守るためです。また、災害に便乗して商店を襲撃する暴徒に対してです。」
「………雛見沢にそんな輩はおらんのしゃ…。」
「第1小隊、避難誘導順調。……了解! 一個分隊を応援に向わせます。」
「兵隊さん、爺さまの位牌を持ってんちゃならんがねぇ…!」
「位牌は構いません! 急いでください!! 町会の方は点呼を怠らないように!! 歩行困難な方は申し出てください。隊員が補助します!」
「おおぉぉ、梨花ちゃまが殺されたからオヤシロさまがお怒りになったのじゃ…。」
「オヤシロさまオヤシロさまオヤシロさま…、どうか怒りをお鎮めください…。」
「防災訓練どおりに非難すちゃれー! 班長は点呼終わったら町会役員に連絡せんかいねー!」
「鬼ヶ淵から瘴気が溢れ出したんね…。オヤシロさまはお怒りだんね……。」
「こんなに大勢いるんじゃ、助かる方法なんかなかとよぉ。村で死なせてくれなぁ!」
「大丈夫です。輸送ヘリと防ガス仕様のバスが回されます。必ず助かりますから!」
「みんな営林署へ集まれぇぇ!! 4丁目は違うだろ、郵便局裏の公民館だぞ!!」
「皆さん、防災訓練と同じです。落ち着いて災害時避難場所に集合してください。団体行動をお願いします。一人の乱れが全体の足を引きます! どうか団体行動を! 家には必ず戻れます!」
隊員たちの表情はマスクを被っているから村人にはわからなかったが、……もしも見ることができたならどんな表情をしていたのだろう。
絶対に家に戻ることなどないと知りながら、必ず帰れると嘘をつく自分をどう思っていたのか…。
隊員の一人が涙を流したが、その気持ちは村人の誰にも伝わることはなかった…。
「引き返してください!! 車両での避難は禁止されています! この先はガス流で寸断されており危険です!! あんたにも硫黄の臭いがわかるでしょ!」
徒歩の避難では家財を運べないので、指示を無視して自家用車で非難しようとする人もいた。
だが、外部へ通じる車道は全て交通封鎖部隊が封鎖していた。
隊員たちのガスマスクの異様さと、鼻を刺激する硫黄の臭いに彼らは納得し引き返さざるを得なかった。
また、ある者は興宮の親戚に電話をしようとしたが、電話は繋がらなかった。
いくら掛けても全て話し中だった。
大災害で回線がパンクしてるんだろうと自分を納得させるほかなかった。
アマチュア無線を使える者もいた。
村の外の被害状況を知ろうとしたのだが、ものすごいノイズが聞こえてくるだけでまったく役に立たなかった。
それはテレビやラジオも同じだった。
彼らは外部との連絡手段を完全に途絶されていたのだ。
だから、自衛隊員と警察官に偽装した彼らの指示以外に信じるものがなかった。
……暗闇に灯りが1粒だけあったら誰でもそっちへ向うのだ。疑いもせず。
無線機から聞こえるノイズを聞いて、戦争中に無線局にいた老人が呟く。
「………アメさんの妨害電波食らった時もこんな音がしたんね…。」
それは正しかった。
だが、彼自身それを信じることができず、避難を促す息子夫婦に急かされ、慌てて無線のスイッチを切るのだった…。
災害時に定められた集合場所に村人は集められていた。
それは学校であったり、公民館であったりした。
避難するための移動手段がやってくるまでということで、彼らは室内に集められていた。
それは点呼上の都合ということになっていた。
「万一のガス流に備えて窓は全て閉めてください。念のため窓ガラスはテープで目張りします。申し訳ございませんがご協力をお願いいたします!」
「よし来た! 若いのは率先して手伝えー!!」
人々は隊員たちが持ってきたガムテープの箱から次々に取り出し、窓や換気口を塞いでいく。
時折、隊員たちが不穏そうな無線のやり取りをしているのが聞こえると、人々は余計に危機感を持ち、熱心にわずかの隙間も塞ぐのだった……。
そうする内に、時計は午前の3時を過ぎようとしていたが、誰もが緊張していて眠気を覚えなかった。
その雰囲気に、誰もが長い夜になることを疑わなかった。
でも、…そうだと信じる彼らが皮肉なくらいに、彼らの終焉はすぐそこまで迫っていたのだ……。
「…ぜぇんぶ、オヤシロさまの祟りなんしゃあ、梨花ちゃま梨花ちゃま…、オヤシロさまオヤシロさま…。」
「やっぱり、古手神社の鬼隠しはオヤシロさまのお怒りの先触れだったんだ。」
「あの日、古手神社は鬼の国に飲み込まれたんよ…。梨花ちゃまは鬼たちに腸を食らわれたんじゃ…。」
人々はこのガス災害がオヤシロさまの祟りで、その前夜にあった梨花の変死体とその友人たちと刑事の謎の失踪を、オカルト的な何かの仕業だと囁きあった。
「鬼隠し」という言葉があちこちで飛び交った。
だが、圭一たちの一夜の短い戦いが雛見沢の命運を分けたなど、誰も気付くことはなかった。
迷信に盲目とされた人々は、圭一たちと刑事は梨花の死によるオヤシロさまの怒りを鎮めるため、率先して生贄になったに違いないと大真面目に語った。
気付かない。気付けない…。
誰も、圭一たちの努力が迷信に埋もれていくことに、気付けない。
そう。雛見沢では、何が起こってもオヤシロさまの祟りになってしまうのだ。
でも………いつの間にそういうことになったのだろう。
そもそも、オヤシロさまの祟りと呼ばれる連続怪死事件が起こるまで、オヤシロさまの祟りなどという単語は信仰の中とダム戦争のスローガンに登場するだけで、口にする者が多いような言葉ではなかったはずなのに。
誰かが、そういう風にした。
この村にはオヤシロさまの祟りという物騒なことが、毎年起こって当り前という不思議な空気を生んだのだ。
でも、それに気付くには、あまりに彼らは迷信深すぎた。
「三佐、全小隊が点呼を終了しました。遅れていた自主避難者もさっき、最後の家族が合流したようです。全員揃いました。」
「………そう。いよいよね。…オヤシロさまの祟りが現実となる。
オヤシロさまの生まれ変わりである古手梨花を綿流しにするという冒涜によって、オヤシロさまの怒りが村に下される。それで、この5年間の連続した祟りは本当の神罰に昇格される。もう誰にも事件なんて呼ばせない。これは、荒ぶる神の怒りなのだから。……くすくすくすくす! 始めなさい。」
「………中隊長より全隊員へ。………彼らのために1分間の黙祷を捧げよう。三佐、1分だけご許可を。」
「お好きになさい。」
鷹野は小馬鹿にするように笑う。
中隊長は胸元で十字を切り、全体に言った。
「…………天に召します我らの父よ。罪無き彼らをどうかお導きください。彼らの尊き犠牲がそれ以上の犠牲を防ぐことをどうか報いてください。そして願わくば罪深き我らをお赦しください。我らが今日ここに在ることをお赦しください…。」
中隊長は別に敬虔な信者でも何でもない。
どちらかと言えば無宗教者だった。
……でも、何かに祈りたくて、何かに許しを請いたくて、言った。
うろ覚えでも、神に祈った。
虐殺に手を汚す罪の赦しを求めて、祈った。
その後で鷹野が小声で言う。
それは独り言だった。
「……神がいつ降臨されるのかは誰も知らない。それは例えるなら、泥棒がいつ訪れるのかわからないように。だから予期せずしてその時を迎えて、不信心であったことに歯軋りすることがないよう、常に目を醒ましていなさい。似非預言者たちは神の降臨を声高に叫ぶであろうが、それに惑わされてはなりません、か。………くすくすくす。」
ひとりの通信士がそれを聞いていた。
「マタイの福音書ですね。」
「そうなの? 祖父の好きだった言葉よ。報われる日がいつ訪れるかわからないから、常に勤勉であれって言葉だと思っていたけど。」
「今日が、報われる日なのですか…?」
「そうよ。あなたにはわからないでしょうけどね。くすくすくす。」
「……失礼ながら、主の降臨は慈悲深いものであるべきだと信じています。このような日にそれを喩えられることは冒涜かと思います。」
虐殺作戦の開始命令前に、神の赦しを請うこの瞬間には、鷹野の引用は不適切だと通信士は言いたかったのだろう。
だが鷹野は滑稽そうに笑う。
「くすくすくす。ごめんなさいね。……あなたは神に試されなさい。私は今日を境に試す側となるのよ。」
「…………以上で、黙祷を終了する。」
そして、…全ての隊員が終わってほしくないと思った黙祷の時間が、終わりを告げた…。
「全小隊、滅菌を開始せよ。」
これほど覇気のない合図は誰も聞いたことがなかっただろう…。
学校の教室の中には大勢の人たちがすし詰めの状態で不安に耐えていた。
その教室の前後の引き戸を隊員たちが締める。
なぜそんなことをするのか人々には理解できなかった。
いや、不審にも思わなかった。
暑くて息苦しいから、せめて廊下くらいは開けてくれと、引き戸を開けようと近付いた老人が、…ころんと綺麗に転んだ。
その妻が、何をやっているんだかと手を貸そうと近付いた時、彼女も…ころんと、呆気なく転んだ。
その、……ころん、ころんが、…前後の扉から教室全体に広がっていく。
…それはとても不思議な光景。
例えるなら、何なのか。
………もしもこれがドミノ倒しのように見えたなら、さぞや愉快な光景に見えただろう。
でも、転ぶのはドミノではなく、人間だった…。
一番遠い窓際に座っていた数人がその異常な光景を目にする。
彼らは目の前で起きている光景が何か、理解しようと目を見開くことしかできなかった。
扉が少しだけ開き、そこからスプレー缶のような物を持った手が覗き、スプレー缶を教室奥へ2個、3個とさらに放り込んだ。
それによって、このドミノ倒しを目にできた人たちも、……ドミノ倒しに加わった…。
もちろん、この悲しい滑稽なドミノ倒しはここだけではない。
営林署の他の部屋でも同時に行なわれていた。
全ての避難場所で行なわれていた。
人々が。長い人生を刻み、これからの人生にさらに挑んでいこうとする夢や希望、未来というものが、パタパタパタ、ころころころんと、胸が好くくらいに面白く転んでいったのだ……。
職員室脇の応接室でばたばたと騒ぎが起こる。
勘のいい人がいて、ガス弾が投げ込まれたのに気付き、目張りのガムテープを引きちぎって窓を開けて校庭に逃れたのだ。
同じように窓を開けて逃れようとした人たちも何人かいたが、…自らの目張りの頑丈さに手こずるわずか数秒が、…彼らをやさしく転ばせた。
「応接室で脱走発生。4名が窓から脱出!」
「発砲許可!! 撃て撃て撃て撃て撃て撃てッ!!!」
隊員たちが窓から逃げる彼らの背中に自動小銃を掃射する。
美しいくらいの静寂を打ち破る無粋な連続の銃声。
…心地よき死のハーモニーに酔うにはそれはあまりに無粋。
銃撃に倒れる人の転び方は、あまりにみすぼらしく…。
……死神ですら心を奪われそうになる静寂の虐殺葬送曲に比べたら無粋を極めるものだった。
4人の中には駐在警官が混じっていた。
彼は拳銃で反撃する。
営林署外壁のどこかに着弾した音がした。
乾いた発砲音に隊員たちは一瞬身を潜める。
警官はその隙を逃さず一目散に校門へと駆けたが、結局、意味などなかった。
彼らの自動小銃の有効射程はこの校庭を往復するより長かったし、また、彼らもこの程度の距離の移動目標など何の問題もなく命中させる技量を持っていたからだ。
だからつまり、至極当然の結果だった。
ガスで自分が意識を失うことにすら気付かずに倒れるか、殺されることに気付き怯えて駆けて、背中を鉛弾で貫かれて死ぬかを選ばされるだけだった。
「どうした! 反撃されたか! 応答しろ!!」
「脱走者は全員射殺。銃声は駐在警官が反撃したものです。」
「射殺体を回収しろ。一般犠牲者と一緒にしないよう注意せよ。」
窓を乗り越えた隊員たちが4人の倒れる体に近付く…。
そして4人が、倒れた体なのか、死んだ体なのかを判別し、全て後者であることを確認して引き摺っていくのだった。
「第1小隊より本部。営林署の滅菌を終了。脱走者4名は射殺。」
「第2小隊より本部。滅菌終了。脱走者なし。」
「第3小隊より本部。脱走者10名以上。現在掃討中。制圧は時間の問題。」
「第4小隊より本部。滅菌終了。脱走者なし。」
「第3小隊より本部。脱走者13名全員の射殺を確認。全員の滅菌を終了。」
「了解。機密保持部隊の全小隊は遺体数と点呼数の確認を厳重に行なわれたし。」
鷹野は指揮車の中でひとり笑っていた。
ここに居たから、鷹野には人々が音も無く倒れていく光景が見えたはずはない。
……でも、鷹野には見えていた。
人々が、自分がこれから死ぬという自覚もなく順番に行儀よくパタパタと倒れていくのが、はっきりと目蓋の裏に浮かんでいたのだった。
「…………………………♪」
鷹野は手を振るうような仕草をしていた。
……それは誰も見ていなかったが、仮に見たとしても、鷹野が何のためにやっているか理解することはできなかっただろう。
………彼女は、タクトを振るっていたのだ。
この死が重なり奏でる荘厳にして静寂の葬送曲がただただ心地よく、自らがその指揮者であることを思い出したに違いない。
「三佐、滅菌の完全終了を確認。通信妨害を終了しますがよろしいですか。」
「えぇいいわよ。くすくす。」
「施設処理部隊より定時連絡。機密搬出と溶接封鎖を完了。現在、注水中。」
「交通封鎖部隊より定時連絡。封鎖線は異常なし。」
「通信工作部隊より定時連絡。通信妨害を終了。電話施設の現状復帰を開始。」
だが、鷹野はそれらを聞いてはいなかった。
何か荘厳なオーケストラを口ずさみながら、上機嫌にそれらを聞き流していた。
どうしても鷹野の上機嫌が理解できなくて、…近くにいた通信士が聞く。
「……ご機嫌ですね。」
「えぇ。最高に気分がいい夜よ。……あなたには聞こえないでしょうね。この新しい神を讃える讃歌が。」
「……讃歌、でありますか…。」
くっくっく。
鷹野は聞こえるように笑うと、自慢の髪を翻して両手を広げながら言った。
「ええ、そうよ! 讃える歌、讃歌! ……神のいなかったこの地に、新しい神が誕生した瞬間を讃える讃歌よ。…この雛見沢には神などいなかった。オヤシロさまという名が残るだけ。神がかつて存在した痕跡が残るだけのただの古ぼけた土地だった。その地に、私は再び神を取り戻させたの。どういうことかわかる? わからないでしょうねぇ、くすくすくす! 今の世界に祟る神が何人いる? 人が試すことに耐えられる神が何人いる? 1人もいやしない! それを私が祟った!!」
…鷹野は誰にもわかるまいと馬鹿にしたように笑う。
…無論、指揮車の中にいる誰にも、鷹野の笑いを理解できるものなどいなかった。
その理解できないという表情がさらに鷹野を喜ばせるのだ。
「祟りなきは神にあらず。祟るゆえに恐れられ、恐れられるゆえに崇められる。それこそが神の真実! 神が信仰を生み出すのではなく、信仰が神を生み出すのなら、神に祟りなど必要ないッ!! でも太古の神々は祟ったのよ。では神の祟りとは何なのか! それこそが真の神の証だった! 祟らない神など、人間に強姦された神でしかないのよ!! 神の宿らぬ抜け殻の土地に神が確かに存在した痕跡を見た私は思ったわ。これは天の啓示だとッ!!
ダム戦争が終わるまで明治から百年にも渡り雛見沢は神を失ってきた。それを私が蘇らせろという神の啓示だと私は思ったわ!! そして天は私にありとあらゆる力を貸してくれた! 天が与えたわずかの偶然が積もり芽生えた祟りの芽を私が育てた! 育まれた祟りは今や結実し実をたわわに実らせてくれたわ!! そうよわかる?! つまりは今宵は収穫祭! オヤシロさまの伝説に刻まれた最後の神の祟りの日!! この日が訪れたからこそ、オヤシロさまの存在は今こそ絶対となる!!
あなたたちは今はわからなくてもやがて知る。私が成した偉業がどれほどのものか、どれだけ長く語り継がれるか、そして私がどれほどの存在となったのか! 神は祟る。その祟りを私は起こす!! 今こそ我はオヤシロさまの祟りなり。我を崇めよ、讃えよ、そして畏れよ!!
我が紡ぐは祟りにあらず、死にあらず。我が紡ぐは歴史なり! 歴史は祟りを語り、我が存在を永劫に語り伝えるであろう。我こそは祟りなり、肉で出来た身を超越せし者なり、この身が例え朽ち果てようとも、我が紡ぎし歴史は永遠に残り続けるであろう。今こそ我は永遠を得たり!!
我が身を呪えよ人間たち、身が朽ちれば後には何も残せぬ無力さを呪い悔やみ恐れるがいい! そして我が偉大さを知るがいいッ!! 我こそはオヤシロさまなり。今こそ神の領域に至ったものなり。我は肉体が滅びようとも永遠にこの地で語り継がれるのだ!! あははははは、はははははははは、あっはははははははは!! はっははははははは、あーっはっはははははははは!!!」
今こそ、私の理想は全て完成した。
文字通りの理想郷がここにはある。ここでは私は神で、私の祟りは永遠に刻まれ語り継がれるのだ。
ダム戦争を切っ掛けに長き眠りから蘇った荒ぶる神が、不信心なる者を綿流しの聖夜の度に祟りを下してゆく。その1年1年の積み重ねが神の復活。オヤシロさまの威光の復活。祟りを恐れるという原始的恐怖への回帰。
そして誰もがオヤシロさまの祟りを疑わなくなり、完全に復活した我は古き骸の腹を内より破りて今こそこの世に蘇る。
オヤシロさまの怒りに触れる時、地獄の釜が開きて瘴気が溢れ出し、人々は逃げることもかなわずことごとく息絶えるなり。その最後の審判が、祟りがこうして実現した!
あなたは死んだら何が残る? 身は腐り焼かれ骨は砕かれ砂になる。大地の肥やしになる以上の何が残せるの?
私は残した。名を残した、偉業を残した、祟りを残した。私の存在はこの長く封鎖されるこの土地で神格化されるだろう。
そして近隣の町にて今日の祟りを逃れた者たちは祟りを畏れ、その恐怖を人々に語り継ぐだろう。人間の群れの記憶が、私を超越した存在への昇華させるのだ。
我はオヤシロさま。
我こそはオヤシロさまの祟り。
我を崇めよ、讃えよ、そして畏れよ。
我が紡ぐは祟りにあらず、死にあらず。我が紡ぐは歴史なり。
歴史は祟りを語り、我が存在を永劫に語り伝えるであろう。
我こそは祟りなり、肉で出来た身を超越せし者なり。この身が例え朽ち果てようとも、我が紡ぎし歴史は永遠に残り続けるであろう。今こそ我は永遠を得たり。
我が身を呪えよ人間たち。身が朽ちれば後には何も残せぬ無力さを呪い悔やみ恐れるがいい。そして我が偉大さを知るがいい。
我こそはオヤシロさまなり。
今こそ神の領域に至ったものなり。
我は肉体が滅びようとも永遠にこの地で語り継がれて永遠の生を受けるのだ。
■ドーン! おちまい(>w<)キュンキュン
■TIPS11 カケラ遊びの最後に ※クリア後追加TIPS
……梨花の知りたかった答えはこれで出揃ったようね。
でも、この記憶が持ち越されるかは別の問題ね。
梨花は死の直前の記憶を遡って失う。
だから、このカケラを教訓として活かせるかは大いに疑問だけれど。
どう? あなたも楽しかった?
このカケラを見てしまえば、もうカケラの積み木遊びなんて退屈なだけでしょう。
……そうでもない?
そうね。古いカケラをもう一度積み木遊びしてみると、別のものが見えて楽しいかもしれないわね。
どうせここでの時間は無限なのだし。
自分で何かの遊びを見つけない限り、ここには何もないのだから。
箱遊びも、箱の中身を知ってしまえばもう何の楽しみもない。
…それでもなお、箱遊びが楽しめるのだとしたら、あなたはなかなか殊勝だと思うわ。
え? 私はどういう遊びをしているのか?
遊びというよりは、退屈しのぎね。
私は、梨花たちの世界がどこでどうなっていたら理想的な世界へ至れたかを想像するのが好きよ。
彼らが至れたら素敵だろうと思う世界のカケラを、自分なりの解釈で作ってみているの。
今回のカケラで、世界の構造をほとんどわかったでしょう?
その上で、どこで誰がどう立ち回っていたら、梨花は鷹野に負けなかったのかを想像することが、最近の私のお気に入りの遊びよ。
どんなカケラか見たいって?
くすくす、残念ね。あなたには見せてあげないわ。
その世界ではね、梨花たちは見事、苦難に打ち勝ち、運命を覆して昭和58年6月を越えるのよ。
自己満足のようなカケラだから、恥ずかしくてとても見せられないけれどもね。
…でも、梨花がこれから作ってくれるカケラの方が、もっともっと輝いてくれるに違いない。
仮に、昭和58年6月19日に閉じ込められてしまっても。
それはそれで、梨花のひとつの世界の終焉としてこの上なく輝かしいカケラとなるでしょうし。
どんなに苦難があったにせよ、もしもそれを乗り越えられたなら、もっともっと輝くカケラになるでしょうし。
私が描くどんな物語より、梨花が自ら紡ぐ物語の方がよっぽど素晴らしいものになるでしょうね。
梨花はどうしたかって…?
結局、羽入と一緒にもう一度世界をやり直す決心をしたみたいよ。
自分に与えられた人生を精一杯足掻く。
それが自分の美学だと、知ったみたいだから。
次のカケラはもう始まってるわ。
どんな世界なのかしらね。
これから見に行ってみるつもり。
あなたも一緒に見に行く…?
■スタッフルーム(表ルーム)
こんにちは、竜騎士07です。
この度は『ひぐらしのなく頃に解』皆殺し編をお楽しみいただき、誠にありがとうございます。
今回のシナリオは、例えるなら、なぞなぞ帳の巻末の答えのページのような無味簡素さがあったと思います。
これまでのシナリオに併せて読む、副菜のようなシナリオだったかもしれません。
召し上がり方は皆さんにお任せいたします。
楽しんで読めたなら、それに勝る召し上がり方はないかと思います。
謎は謎である内が一番楽しいだけに、今回のシナリオの発表はとても不安でした。
そういった楽しみ方にある種の終止符を打ちかねないからです。
公開を渋りたい弱気も少しありました。
ただ、ゆえにか昨今、明かさぬ謎を前提にした作品が散見しているように感じています。
答えのページがないなぞなぞ帳など何の意味もありません。
せっかく苦労して自分なりの答えを見つけても、正解かどうか確かめられないなら悲しいだけです。
その悲しさゆえに、なぞなぞ帳を斜め読みし、悩む楽しみ方が失われているように感じています。
そのため、なぞなぞ本来の楽しさが失われ、インパクトだけが先行した作品が増えすぎたことを個人的に残念に思ってきました。
それなので『ひぐらしのなく頃に』では、少なくとも答え合わせができる解答的なものをきちんと描ききろうと考えました。
色々と反則的な表現の世界ゆえに、いわゆる正解を得られた方は少ないかもしれません。
ですので、いわゆる得点というものは、正解したかどうかで与えられるよりも、いくつの問いを見付け出しその答えを用意できたか、解答用紙の文字数で与えられるべきではないかと思います。
本日までお寄せくださった大勢の皆さんの推理やご感想を心より感謝いたします。
いずれもとても素晴らしい推理で、中には劇中よりも考察が深く、それを正解にしてしまいたいと思ったことも何度かあるくらいです(苦笑)。
また、それらの深い推理に勇気付けられたお陰で、第7話まで挫けずに書き進むことができたと思います。
今日まで『ひぐらし』支えてくださったのは皆さんに心より感謝いたします。
さて、最後にお詫びしたいのは、児童福祉行政の描き方です。
昭和58年当時はどうだったかはさて置き、今日の児童福祉行政はとても親身で、劇中で描かれたような意地悪なものでは断じてありません。
劇中、演出上の都合で意地悪っぽく描きましたが、今日の行政は常に心強い、住民の一番最初の味方であることを最後にお伝えさせてください。
実際、児童福祉や青少年育成に関わる方々は非常に熱心で滅私奉公な方々ばかりです。
そういった方々をさも頼りなさそうに描いてしまったことをお詫びさせてください。
残す物語は最後の第8話「祭囃し編」のみとなりました。
これだけの長い物語となった『ひぐらしのなく頃に』の、締めとなるシナリオとして見事描ききれるかどうか、早くもプレッシャーでいっぱいですが、頑張ろうと思います。
どうか温かく見守っていただければ幸いです。
どうか今後ともよろしくお願いいたします。
07th Expansion
竜騎士07