罪《つみ》滅し編オープニング詩 ※本編使用バージョン
一度目なら、今度こそはと私も思う。
避けられなかった惨劇《さんげき》に。
二度目なら、またもかと私は呆れる。
避けられなかった惨劇《さんげき》に。
三度目なら、呆れを超えて苦痛となる。
七度目を数えるとそろそろ喜劇となる。
Frederica Bernkastel
罪《つみ》滅し編オープニング詩 ※開発中作者公開バージョン
運命に泣かず、挫けることを知らない。
そんな彼女は美しかった。
誰にも媚びず、最後まで1人で戦った。
そんな彼女は気高かった。
彼女は眩しくて、ただただ神々しくて。
私には、そんな彼女が必要だった。
Frederica Bernkastel
■オープニング(レナの告白直前シーン)
……いつの間にか、セミたちは合奏をひぐらしに委ねていた。
遠くから湧き上がっては薄れ、湧き上がっては薄れを繰り返すその合唱は、とても弱々しく儚くて。
そしてそれはレナの声も同じで、……ひぐらしの声と同じように、湧き上がっては薄れを繰り返す。
……気を許せば、その姿さえも掻き消えてしまうのではないかと思うくらいに儚げに。
でも、誰も何も急かさなかった。
魅音《みおん》は、廃車《はいしゃ》のボンネットの上の埃を払うとそこに腰掛け、リラックスをアピールするような仕草をした。
その表情は柔らかで、まるで初めからここに夕涼みが目的で来たかのような、そんな雰囲気を感じさせた。
その様子を見て、沙都子《さとこ》もまた腰掛けられそうな場所を見つけて腰を下ろす。
でも、沙都子《さとこ》の表情は魅音《みおん》ほどにはくつろいで見えなかった。
俺もそれに習おうかと思ったが、座れる場所を探すためのわずかの時間であっても、レナから逸らすのがとても失礼なことではないかと感じ、そのまま立ち続けていた。
梨花《りか》ちゃんもまた座らなかった。
でも、レナの方を向いてはいなかった。
他の仲間《なかま》たちがみんなレナを見ているのに、梨花《りか》ちゃんだけは見ず、……朱が混じり始めている高い空を見上げていた。
その表情は、……とても例え難い。
とても荒涼としていて、喜怒とか、哀楽とか、そういうものが全部抜け切った後に残るような、そんな表情だった。
そして、そんな表情が、一番レナのそれに似ているのだった。
レナは何度も言葉を出そうと繰り返しては喉に詰まるのを繰り返していたが。
……梨花《りか》ちゃんが空を見上げているのに気付くと、同じように瞳いっぱいに大空を映しこむのだった。
それを見て、魅音《みおん》も空を見上げる。
……俺も見上げる。
沙都子《さとこ》も皆に習って見上げる。
そして、訪れる静寂。
ひぐらしたちの合奏だけで満たされた、世界で最も天井の高いコンサートホールにたたずむ俺たち。
……通り抜ける涼しい風が、日中の暑さでかいた薄い汗《あせ》をくすぐるのが気持ち良かった。
こうしていると、……俺たちはここへ夕涼みをするために集まったのだと、信じてしまいそうになる。
いや、………今からでもそういうことにしないかと、提案すらしたくなった。
時折、空を横切る鳥たちの影だけが、この静寂のコンサートに無粋さを添える。
……なぜなら、鳥が飛ぶのを知る度に、時間が止まっていないことを思い出してしまうから。
レナを、誰も急かしたくなかった。
だから、時の刻みでさえ、レナを急かすことを許せなかった。
レナが心を落ち着けてくれるまで、いくらでもこの涼しい夕暮れの空を、無限の時間の中でそのままに留めておいてほしかったのだ。
その時、ボコンというつまらない音がして、俺たちは現実に引き戻される。
…魅音《みおん》が足の組み方を変えたら、座っていたボンネットが音を立てたのだ。
その音が偶然なのか故意なのかはわからなかってけれど、…その音は残酷にも、それでも時間は流れていることを思い出させてくれた。
その音が切っ掛けで、みんなは空を見るのを止め、目線を再び地上に戻す。
その無粋な音は、結局、レナに覚悟を促す後押しとなったようだった。
レナは小さな息を吐き出して、何かを飲み込むように俯く仕草をした後、俺たちが普段よく知るレナの表情に戻った。
「…………話す前に、……一個だけ言いたいことがあるの。」
全体に向けて言ったことだろうが、みんなの中心にいた俺を見ながら言ったので、…俺は代表する意味で頷き返して見せた。
「……レナは、正しい努力をしたと思ってる。」
声はもう擦れていなかった。
だから、それは普段レナが口にするのと同じような、毅然とした響きを含んでいた。
「人って、幸せになるために、どれだけの努力が許されるのかなぁ…。」
問い掛けにも聞こえたが、誰も口を挟まなかった。
「だからね、私。魅ぃちゃんの部活《ぶかつ》って好きなの。……ほら、優勝のためには何でもしようっていうの。そういうのって、素敵だと思うの。…だって、世の中が綺麗事だけで縛られてて、やっていい努力がわずかだけに決められていたら、……幸せじゃない人たちは、ますます幸せを勝ち取れなくなっちゃうじゃない?
不幸ってね、連鎖するものだと思うの。一度続き始めると、なかなか抜け出せない。そこから抜け出すには、運とか人の助けとか、そういう他力本願なものだけじゃ到底足りない。自分でももっともっと努力しないといけないと思うの。それも、本当の本当に精一杯。そこまでして、やっと掴めるのが、……幸せってものじゃないかなって。」
レナはそこで一度区切り、空を見上げて一息ついてから、再び口を開いた。
「でも、………だからってみんなにもそれを受け入れてもらおうなんて、甘えるつもりもないかな。…だって、本当に汚らしいもの。みんなだって、ついさっき、呆然としたでしょ? それはつまり、そういうことだよね…。」
レナが、……こんなにも自虐的な笑い方をするなんて、知らなかった。
その笑顔は信じられないくらいに痛々しい。
…そして、この上ない距離感を感じさせる。
俺たちとレナの間には何も遮るものはないはずなのに、……まるで鉄格子か金網越しに話しているかのような、そんな遠さを
「………でも、それでもいいよ。仕方ないもんね。そういう風に出来てる世の中だもん。多分、私が逆の立場でいられたなら、……同じように唖然として、無責任で無慈悲な同情を浮かべていたに違いないもの。」
その言葉は多分、……俺たちに対するレナの反撃。
同情という名のマスクを被って、舞台の上のピエロを眺めて楽しんでいるだけの他人事な俺たちへの、たった一つだけの反撃。
俺たちに何かの言い返しを期待したのだろうか。
…もちろん、俺たちの誰にも、言い返す言葉など思いつきはしなかった。
レナはほんの一瞬だけ残念そうな顔をすると、軽やかに廃車《はいしゃ》を駆け上り、屋根《やね》の上のステージに乗った。
そして両手を広げて、ふわっと回転してスカートをなびかせた後、スカートの両端を摘んで、優雅そうなお辞儀の真似をする。
「じゃ、………始めるよ。竜宮《りゅうぐう》レナの一世一代のがんばり物語を。」
緞帳もなければスポットライトもない。
ゴミ山の廃車《はいしゃ》の上の特設ステージで。
俺たちはせめてレナが話そうとする全てを聞き漏らすまいとした。
それだけは絶対に、レナを傷つけない行為だと信じて。
■罪《つみ》滅し編スタート
■スタートダッシュ!
例えば今が12月、暦の上では冬だとしてもだ。
連日、セミが鳴くような蒸し暑い日が続いたらどうなる?
それでも律儀にコートにマフラーで生活するだろうか?
そんなはずはない。
だから6月であっても、これだけ暑い日が続けば、俺たちにとってはそりゃ夏だ!ってことになるわけだ。
で、これだけ暑い中で部活《ぶかつ》をしようってなれば、そりゃこういう種目もありえるわけだ!
体育の時間は、みんな好き勝手に過ごすのがうちの学校の慣わしだが、今日は例外でクラスメート全員が校庭に集合していた。
全員が雁首を揃えたのを確認すると、魅音《みおん》が大声を張り上げた。
「さぁてみんな、今日の主旨はよくわかってるねぇ?!」
「「「おおーーーー!!!!」」」
全員が突き出す手には、みんな水鉄砲が握られている。
これだけ蒸し暑い日が続けば、例え6月だろうと水鉄砲は使用できるのだ!
しかも、クラス全員で銃撃戦となれば熱くなるなという方が無理な話ってもんだぜ!
「さすがクラス全員で部活《ぶかつ》だと、何だか盛り上がりますわねぇ!」
「そうだね! 全員で表ではしゃぐのって何だか楽しそうかな、かな!」
「……みんなは楽しいですが、ボクたちは例によって負けられないのです。」
「ま、そういうこったな!…およそ勝負と名のつく以上、俺たち部活《ぶかつ》メンバーは常にリスクを背負ってるからな。」
「くっくっく! まぁそういうこと!
部活《ぶかつ》メンバー諸君は迂闊に負けたりしちゃうと大変なペナルティが待ってるからねー。せいぜいしっかり戦うことー!」
「よしよし、盛り上がってきたぜー!! 生徒諸君、武器点検は充分か?! 弾倉は満タンか?!」
「任せて下さいよ前原《まえばら》さん! 銃撃戦は僕たちのもっとも得意とするところですからねー!」
「……富田たちはよく水鉄砲で遊んでますから、かなり強敵かもなのですよ。」
「ふっふっふ!
今日の僕たちは少し違います!」
富田くんと岡村くんは、普段とは違って自信たっぷりに笑い合うと、手馴れた様子で水鉄砲を構えた。
実力は自信となり、面持ちさえ変えるというのが、彼らの顔から見て取れる!
「魅音《みおん》は言うに及ばず、沙都子《さとこ》も梨花《りか》ちゃんもかなり強敵になりそうだぜ…! レナはどうだ?! ちょこまか動いてイの一番にやられないように頑張れよ!! そう言えば最近のレナは罰《ばつ》ゲーム常連だな。」
「はぅ…。さ、最近、不得意なゲームが多かったから…。で、でも、圭一《けいいち》くんも最近、私と同じで罰《ばつ》ゲームが多いと思うかな、かな。」
「はっはっはっはっは!! 罰《ばつ》ゲームでブラを付けたまま帰宅して、さぁ脱ごうとしたところでお袋に見つかった俺の哀愁などわかるものかーー! むがー!!!」
「わ、私だって…、先週のはひどいよ、普通の女の子ならお嫁に行けなくなっちゃうよーー!!」
最近の負け常連の俺たちが、互いの壮絶な罰《ばつ》ゲームを思い出してワナワナ震えていると、それを沙都子《さとこ》の甲高い声が嘲笑った。
「ほーーっほっほっほ!! 覇気や運気にも偏りと言うのがございましてよー!
その意味から言えば! ここしばらくのレナさんや圭一《けいいち》さんは、いわゆる負け組というヤツでございますわねー!!」
「くっくっく!! 確かに負けグセってやつはあるねぇ〜!
闘志ってやつは負けが続くと挫けてくる。絶対勝てるという信念が砕けると、まったく同じことをやっても裏目裏目に出るもんだからねー!」
「…て、てめらぁ〜!! たまったま、俺とレナがちょいと罰《ばつ》ゲームを哀れに思って引き受けてやってたのを感謝もせずにその言い草かー!!」
「あぁら、そうでしたの? それは感謝の気持ちが足りず申し訳ないことでございましてよー!!」
「うおーー!!! 沙都子《さとこ》てめー!! そのセリフは俺の怒りに火を注いだぜ!! 後悔させてやらああぁー!!!」
「くっくっく!! その意気だよ圭ちゃん。
まぁせいぜい足掻いておじさんを楽しませて頂戴よね。
レナもがんばって。あぅあぅ言ってる間にクラスで一番最初に脱落したら、さすがに恥ずかしいからねー? でもその可能性も高いかなぁ? くっくっく!」
「一番最初に脱落するのがレナさんだと思いましてよー! どんな目に遭うか、今からお覚悟なさいませなー! をーっほっほ!!」
「うう、ひどいよ魅ぃちゃんも沙都子《さとこ》ちゃんも……。」
「……レナも圭一《けいいち》も、ファイト、お〜ですよ☆」
魅音《みおん》たちは俺たちを一通り笑うと、他のクラスメートを冷やかしに去っていく。
取り残された俺は地団太を踏んで悔しがるしかない!
「くっそぉ!! 絶対ぇ負けねえ、あそこまで言われたら負けられねえぜ!!」
「あははは、そうだね。
あそこまで言われると悔しいよね…。」
「って言うか、悔しいどころじゃねえぞ、プライドの問題だぞ! くそッ!」
「魅ぃちゃんの言うように、負けグセってやっぱりあるかもしれないよね。
…だから今日は絶対に勝って、みんなを見返してやろ!」
レナを見ると、いつの間にか普段と違う目つきをしていた。
普段、ふざけている一面ばかりが目に付くが、ここ一番の時、揺ぎ無い決意をする一面があることを俺は知っている。
そう、この目をした時のレナは、ちょっと手強いかもしれない。
「今日は私も、部活《ぶかつ》の規則に則り、手加減なしで行く。」
「おおぅ、何だかかっこいいこと言うじゃねえの。まるで、普段の自分はわざと手を抜いているって言わんばかりだぜー?」
レナは笑う。
多分「にやり」と呼ぶのが相応しい笑い方だ。
…参ったな。
こいつ、本当の本当に、本気でやるつもりだぞ。あの笑い方は容赦なしだ。
レナは多分、部活《ぶかつ》メンバーで一番の良識派だと思う。
やっちゃいけないことは何もないはずの部活《ぶかつ》で、おそらく一番モラルに気を遣うタイプだ。
だから吹っ切れた時はともかく、普段は苦戦することが少なくない。
そのレナが、手加減しないって言うのはなかなかあることじゃない!
「ちっくしょう…、そんな笑い方されたら、俺も超本気で行くしかねえじゃねぇかよ!」
「いつも本気で戦うのが部活《ぶかつ》だけど、それでもやっぱり、それ以上に本気じゃないといけない時ってあるよね。今日は多分、それだね!」
「だな!!」「うん!!」
何の予備動作もなく二人で互いの掌を叩き合う。
普段の俺たちだったら、負けたくない時は、どちらからともなく共闘を申し出るもんなんだが、レナはそれを言い出さない。
そりゃつまりどういうことかって言うと、こいつ、自分ひとりでクラス丸ごと殲滅するつもりなんだ。いや、つもりなんてもんじゃない。クラスを丸ごと殲滅“する”、ひとりで!
だけどそんなやたらとかっこいいレナを見ても、俺は臆さない。
レナがここまで本気で“やる”って言ってんだから、俺がそうならないわけにはいかないだろ。
このところ、負け続きでふて腐れていた俺の闘志が、今頃になってめらめらと燃え上がってくる!
「圭一《けいいち》くんも、なかなかいい顔してるね。怖いな、全員と1人で戦っても勝てるつもりでいる顔だね?」
「レナだってそのつもりだろ。」
「じゃあぶつかるのは最後だね。」
「互いにクラス全員を全滅させたら、最後にゃそうなるな。」
「最後の戦いの時、そこにいるのが圭一《けいいち》くんなのを期待してるね。」
「おう!!」
もう一度俺たちは互いの掌を叩き合う!
「交戦規定はちゃんと覚えてるね? 被弾時の申請だけは正直にねー! 被弾した人は撃っちゃだめだよ、仮に当てても無効ね!」
「魅音《みおん》、被弾の定義を再確認したいぜ。」
「水鉄砲で撃たれたら被弾。
…くっくっく、ひねくれた圭ちゃんのためにさらに補足するなら、水鉄砲というこの容器から出た水が最初に触れたものが標的であった時、被弾とするわけ。つまり、水鉄砲を経由した水をバケツに貯めてぶっかけても無効ってわけ。」
「直接攻撃以外は有効じゃないってことだね。沙都子《さとこ》ちゃんの脅威が少し薄らいだかな?」
「ほっほっほ!! トラップにも色々ございましてよー? レナさんなんか一番最初に餌食にしてさしあげましてよー!」
「あははははは、それは無理。私を仕留めようとしたら、沙都子《さとこ》ちゃんじゃまだまだ役不足だね。」
「…な、なな、なんですってぇえぇ?!」
「おおー! レナが売り言葉とはねぇ。
こりゃあ面白くなりそうだよ! くっくっく! ねぇ、圭ちゃん?」
「大して面白くねぇと思うぞ。俺かレナか、どっちにやられたいかを選ばされるだけなんだからな。」
「……圭一《けいいち》もやる気満々なのです。」
魅音《みおん》は俺とレナの表情から、ただならぬ闘志を嗅ぎ取ったようだった。
……上等だね、こっちこそ手加減無用で行かせてもらうよ!! そう表情に書いてありやがる!
「よっしゃ!! いい面構えだよ気に入った!! じゃあ始めるよ?! 全員散開!! クジで決められた場所に移動してねー!」
予め俺たち全員はクジを引かされていて、各々決められた場所からスタートするのだ。
互いが至近距離でいきなりスタートしたら、面白くないもんな。
ちなみに俺は校舎裏からのスタートになっていた。
…この場所が当たった時、前にやった鬼ごっこと同じで、隠れてやり過ごして、頭数が減ってきたところでひょっこり現われて…なんて考えていたが、そんな消極的な作戦はもう興味なかった。
何だかこう、久しぶりに熱くなってきたぜ…!
足元からゾクゾクするものが込み上げてくる。
武者震いってやつを俺は初めて経験していた。
遠くから魅音《みおん》のカウントダウンの声が聞こえてくる。
「…3、…2、…1、」
パァンと運動会の時に使う合図用のピストルの音が響いた。
その音に弾かれるように、俺は校舎を大回りする。
校舎裏には何人か、下級生の小さい子たちが配置されていたはずだ。
そんな小兵はわざわざ俺が潰さなくても誰かが潰してくれる、そんな甘えはなかった。
「うおおおおぉりゃああああぁああぁ!!!」
彼らは、俺が凄まじい雄叫びをあげて突撃してくるのを見て、さすがにすくみ上がったようだった。
戦おうか逃げようかの判断に迷っているその一瞬の間に、次々と撃ち抜いて行く!
「悪ぃな! 俺の隣が当たった時点で運がなかったと思ってくれ。」
ゲーム開始後、一瞬にして敗北した後輩たちの頭を軽く撫で、彼らの銃を没収する。
そう、銃が大事なのだ。
水鉄砲の水は大して多くない。
それが10人以上と乱戦になって撃ち合ったらすぐに空っぽになってしまうからだ。
俺は彼らを撃った最初の銃を投棄すると、彼らの銃を二丁両手に構え、校庭の様子をうかがった。
そこは予想を裏切らず、阿鼻叫喚の戦場だった。
俺が校舎裏を駆け抜けた一瞬の間に、ほとんどの連中は射殺されていたからだ。
その光景はもちろん予想できていた。
何もない広大なだけの校庭は実力勝負だ。
他の部活《ぶかつ》メンバーのほとんどが校庭にいる以上、アリを踏み潰すゾウの如く蹂躙するはず!!
「…な、なんだ魅音《みおん》のあれは……!」
魅音《みおん》はスタートの時とはまったく違う、大型の機関銃タイプの水鉄砲に変わっていた。
射程も連射力もタンクの容量も桁違い。
確かに今日の水鉄砲は特に制限はないもんな。
水鉄砲なら何でもいいことになっていた。
だからほとんどの連中は、近所の駄菓子屋か文房具屋で標準的な拳銃タイプを購入してきた。
そりゃ魅音《みおん》が持ってるみたいな大型タイプがあれば俺だって買った。
でも取り寄せになるからと諦めたのだ。
…ってことは魅音《みおん》は今日のためにずいぶん前から取り寄せて準備していたことになるな。
つくづく勝つことに対する準備だけは入念なヤツだぜ。
それを最初から持ってれば非難されて使用不可にされるかもしれないと思い、スタートまでどこかに隠していやがったというわけだ。
ほとんどの連中は、スタートからわずかの時間で一掃されたようだった。
わずか数人がそれを生き残り、建設重機を遮蔽物に何とかやり過ごそうとしていた。
それを容赦ない火力(水力?)で魅音《みおん》があぶり出しにかかる!
「あっはっはっは!! そぅらそんなとこに隠れてないで出て来なぁ!!」
遮蔽物越しに抵抗するのは富田くんと岡村くんのコンビだった。
一見すると魅音《みおん》に圧倒されいいところなしに見える。だがそれは大きな間違いだった。
あの2人は水鉄砲の銃撃戦に相当の熟練があった。
だからこそ今生き残っている。
99%、スタートと同時に避けきれなかったはずの魅音《みおん》の猛襲を掻い潜り、今この瞬間にも生き残っている…!!
だが魅音《みおん》はさすがに百戦錬磨だ。
豊富なタンクの水量を生かして弾幕を張りながら確実に2人を追い詰めていく。
制圧は時間の問題だった。
「だ、だめだ、あのマシンガンはずるいよ…!」
「委員長の水が少なくなるまで何とか凌ごう…。
今は手も足も出ないよ…。」
後輩たちは何とかやり過ごそうと、魅音《みおん》の移動射撃に合わせて、遮蔽物を挟みながらぐるぐる逃げ回るしかない。
2人である有利を活かしたいところだが、そのチャンスがないようだった。
無謀な攻撃を仕掛けてどちらかがやられれば、もう勝ちの目はない!
だからこそ最後のチャンスに賭けて慎重になればなるほど、攻め手を欠いているのだった。
もちろん、魅音《みおん》は2人のそんな思考は完全に読みきっている。
2人が焦れて短絡的に攻撃を仕掛けてくるように挑発しているのだ。
魅音《みおん》と2人が建設重機を挟んでぐるりと一周し、魅音《みおん》が俺に背中を向ける形になる。
魅音《みおん》のあの機関銃と正面からやり合えば、おそらく俺に勝ち目はない。
勝てるとしたら…背後からの奇襲だけかッ?!
しかしいくら魅音《みおん》が背後を許しているとしても、…この距離が微妙だ。決して近くない! いや…正面からやり合う勝率に比べたら、今の方が絶対に有利なはず…!
迷うな圭一《けいいち》!! 躊躇したチャンスに二度目はないッ!!
物陰から躍り出た俺は、まさに二丁拳銃を構えた豹となって魅音《みおん》までの距離を疾駆する。気配を殺してゆっくりと、何て悠長なことは考えなかった、思いつかなかった!!
「ううをおおおりゃあぁああああぁ!! 魅音《みおん》んんんんん!!!」
「ッ?!
そこから来たか、圭ちゃああん!!」
魅音《みおん》は俺の奇襲にほんの少しは驚いたようだったが、武装の圧倒的優位を知っていて、すぐに余裕を取り戻す。
ならば即座に撃てばいいものを!!
だが魅音《みおん》は撃たずに俺を引き寄せた。
残りの水の量が決して多くないことを理解しているのだ。
同じ銃同士で戦えば、射程は概ね互角。あとは双方の技量の問題になる。
他の後輩たちが相手なら、同じ銃でも圧倒できるだろう。
だが、魅音《みおん》は即座に、今の俺に対しては、武器の有利すら加味しなければ勝てないことをすぐに弾き出した。
今の俺の気迫が普段のそれとはまったく異なることを瞬時に見て取ったのだ。その電光石火の計算速度には感服する!!
駆け寄る俺が間合いをザクザクと詰めていった。
満タンの俺の銃と、水量の減っている魅音《みおん》の機関銃、間合いはほぼ互角だ。
互いにその間合いを読み間違わない!!
「今日の圭ちゃんの気迫には敬意を表するよ。今日のあんたには正面からぶつかりあって、互角以上の勝率を弾き出せる自信がない!!」
「残念だぜ魅音《みおん》、勝率の弾き方も鈍ったな。
今日の俺に正面からぶつかりあったら、互角どころじゃない。
……てめえの負けだああぁ!!!」
互いの射程圏が重なり合った瞬間ッ!!
俺も魅音《みおん》もコンマ0001の差もなく互いに引き金を絞る!!
走りながら発砲する俺と、一直線に駆けて来る俺に精密に照準していた魅音《みおん》では射線の正確さが完全に違った。
俺の放った水流は魅音《みおん》が避けずとも当たらない、あさっての方角に弧を描く。
だが、魅音《みおん》の水流は俺の胸板と銃口を結ぶ、もっとも美しいカーブを描いて放たれていた。
水流が俺目がけて迸るのを目で追えても、それを避けるには今の俺の身体はあまりに不安定だった。だから、魅音《みおん》は必中を疑わない!
「気合だけではどうにもならない現実がこれだったね!! やっぱり圭ちゃんは最初に脱落だああぁ!!」
「やっぱり残念だぜ魅音《みおん》。今日の魅音《みおん》のコンピュータは一手読みが足りないぜ。」
「ほざくな!! その体勢からかわす術はない!! 水の弾丸で撃ち抜かれろ、そしてどうして私の背後を沈黙して奪わず、叫びながら襲う愚を犯したかを呪うがいいよ!!」
惜しいぜ魅音《みおん》。そこまでわかっているなら、あと1秒も深く考えれば多分読みきれたぜ。
どうして俺が、これだけ盛大に喚きながら、背後を奪えるという利点を捨てて突撃してきたのかってのをな!!
魅音《みおん》は俺の奇襲に気付き、俺に向き直ったってことはつまり、今まで対峙していた方角に対して背後を許したってことだ。
そして、かつて対峙していた彼らは俺の雄叫びを聞いて、魅音《みおん》が背後を晒したことに気付くのだ…!!
「ッ?!……な、なんだってええぇえッ?!」
魅音《みおん》は背中の冷たい感触に気付く。
さっきまで追い詰めていた後輩たちが牙を剥き、逆に自分の背後から襲いかかってきた事実をその感触で気付くのだ!
俺はまさに自分の胸板を貫こうとしていた水流を、
腕で弾き返す!
水流が叩き割られ、無数の水滴となって飛び散った…!
「そ、そうだったかぁ! 被弾者の攻撃は被弾しても…無効だッ!!」
「そいつに気付くのだいぶ遅かったぜ!! 伏せろ魅音《みおん》んんッ!!」
魅音《みおん》がはっとして頭を抱えるようにしゃがみ込む。
その瞬間、魅音《みおん》の背後を襲った富田くん、岡村くんの二人が俺と対峙する!!
二人とも反応は決して鈍くなかった。
魅音《みおん》を挟撃すれば、その次は向かい合った俺と銃撃戦になるのは当然のこと!
ピンチを助けてくれた恩など微塵も感じずに、俺を次の標的と瞬時に認識した二人は決して悪くないセンスだった。その残酷なまでの頭の切り替え速度は高評価だ。
そのセンスをあと3年も磨きゃ部活《ぶかつ》のメンバーに加われるかもなッ!!
「次は前原《まえばら》さんだ、このまま撃ち殺すんだ…!」
「こ、こっちは二人だもんね! 負けるわけがない…!」
会話がズレすぎてるぜお二人さん。それでも遅すぎるんだよ!!
こいつらにとっては、魅音《みおん》を倒し、その次の敵が俺だ。
だが、俺は違う。最初っからこいつらが標的だった。こいつらが射殺するだろう魅音《みおん》は初めから
標的にしていなかったんだッ!!
二人が魅音《みおん》に向けていた銃口を俺に向けなおすその時間に俺はすでに、いや、魅音《みおん》に向けて駆けていた時からこいつらだけを照準し続けていた!!
俺の左右の銃が、何のためらいもなく二人を照準していたことに、二人は最後の一瞬で気付けたようだった。
ってことは、もう手遅れってことだッ!!!
「うおおおおおりゃあああぁあぁあッ!!」
しゃがんだ魅音《みおん》の頭の上を飛び越え、地面を転げる!!
俺の両手は左右に大きく開かれ、まるでそれは体操選手が種目を終えた時のような、そんな優雅さをたたえていた。
その翼のような両手の先にはそれぞれ銃が。
そして、寸分の狂いもなく二人を撃ち抜いていた。
「………は、早過ぎる…。」
「ぼ、僕たちが二人掛りで負けるなんて…。」
富田くんと岡村くんがガクリと膝を付く。
「…け、圭ちゃんがこれだけのことをやってのけるなんて…、私も鈍ったってことかなぁ…。」
魅音《みおん》が自分の膝を叩いて悔しがっていた。
「別に魅音《みおん》は鈍っちゃいなかったろ。」
「じゃ、じゃあ何でおじさんが負けたわけよ…!」
「そんなの決まってるじゃねぇか。」
俺はクルクルと銃を指で回しながら言ってやる。
「たまには勝たねぇとカッコがつかねぇからだよ!」
生き残りの生徒はもうほとんど残っていなかった。
…残っているのは、俺と、レナと沙都子《さとこ》だけだ。
そのレナと沙都子《さとこ》は今や一対一で壮絶な戦いを演じていた。
互角? いや、沙都子《さとこ》が押している。そのすばしっこい動きでレナを圧倒していた。
今日のレナは普段のおっとりしたレナとはまったく異なる。
本気のレナだ。
そのレナを圧倒しているのだから、沙都子《さとこ》め、トラップなんて小細工抜きでも恐ろしいやつだぜ…!
「ほっほっほっほ!! 最初の威勢はどこへ行ってしまいましたのかしらぁ?!」
「いい動きをするね…! 私も負けられないよ!」
沙都子《さとこ》め、豊富な運動量で常に立ち位置を変えながら常にプレッシャーをかけ続け、レナを釘付けにしている。
あんな撃ちまくる戦い方をしていたらすぐに水がなくなってしまいそうなのに、沙都子《さとこ》の銃の水流は鋭いままだった。
見れば沙都子《さとこ》の足元にはバケツがあり、その中にはかなりの数の銃が入っていた。
なるほど、負けた子の銃を掻き集めていたというわけか!
この銃撃戦は、実際の銃撃戦以上に弾丸の補充が危険な行為だ。
水鉄砲の給水口は小さい。そこに蛇口の水を入れるのは器用で時間のかかる行為。つまり自殺行為だ。
そこは俺も理解していて、倒した相手の銃を奪っていたわけだが、それでも両手で二丁持つのが限界。
沙都子《さとこ》はその限界を超えるために、バケツという道具を活用したというわけだ…!
レナは銃を一丁しか持っていないようだった。
もちろんレナもかつては二丁を持ち、時に銃を奪いもしていただろう。
だが、沙都子《さとこ》との長い銃撃戦の中で、弾丸である水をだいぶ失っていたようだった。
残りの水量を温存し、チャンスを待っているようだったが、沙都子《さとこ》の圧倒的な弾幕の前に追い詰められるのは時間の問題のように見えた。
だがレナもうまい。
沙都子《さとこ》に追い詰められる風を装いながら、確実に有利な地形に誘い込んでいる。
校舎裏の体育倉庫の辺りは狭くて込み入っているからな。
水量に不安のあるレナは肉迫して一撃で逆転したいはず。そんなレナには逆転が狙えるいい地形だ。
「あれあれ、どうしたのかな? 攻撃の手が鈍ってきたね。疲れてきた?」
「をっほっほ! お気遣いは嬉しいですけど、まだまだでしてよ! それよりそちらのお水は大丈夫ですの? さっきから全然撃ち返して来ませんわよ? ひょっとしてもう弾切れじゃございませんの?」
「そうだと思うなら、お顔を出してみたらどう?」
「遠慮いたしましてよ。最後の一発を温存しているのはわかっていますわ。」
「一発あれば充分だよ。体操服を濡らしちゃ気の毒だからね、額を撃ってあげるね!」
「をっほっほっほ!! まさかレナさんと、こんなにもスリリングなやり取りが出来るなんて思いませんでしたわ! でも、最後の一発分の水量では、大して勢いもないでしょうから射程もほとんどないんじゃありません?」
どうも沙都子《さとこ》の言うことは図星らしい。
レナにはあと一発分のチャンスしか残されていないようだった。
しかも、水鉄砲は水の残量に応じて飛距離が下がってしまう。
その為、最後の一撃は全弾の中でもっとも射程のない一撃になってしまう!
そんな絶対的に不利な状況下でも、レナの顔には焦りはなかった。
くそ、レナのやつ、全然負ける気がしてないぞ。沙都子《さとこ》なんか問題にもしてないらしい!
「うまい位置に逃げ込みましたわね。私もさすがに慎重にならざるを得ませんわ。」
沙都子《さとこ》は、さすがに直接対峙しているだけあって、レナの最後の一撃の恐ろしさをここで見ている俺以上に敏感に嗅ぎ取っているようだった。
「私、将棋はあまりやらないんですけれど、こういうのを詰め将棋って言うんでございましょうねぇ?」
沙都子《さとこ》は水が満タンの銃に持ち返ると、慎重にレナを追い詰め始める。
満タンの銃なら、射程があるだけじゃない。
勢いもあるから狙いも正確だ。
正面からの撃ち合いになれば、おそらく、9割9分沙都子《さとこ》が打ち勝つ…!
だがそれでもレナの最後の一撃が恐ろしい。
レナを追い詰め不敵に笑う沙都子《さとこ》だが、その胸中は恐れで満たされていることが見て取れた。
…沙都子《さとこ》はさっき詰め将棋に例えたが、これは正確には詰め将棋ではないのだ。
詰め将棋は複数の駒を使って相手を追い詰めるが、ここにはレナと沙都子《さとこ》しかいない。
詰め将棋は敵の王将を詰めるためにいくつかの駒を失ってもいいが、沙都子《さとこ》には駒はないのだ。
王将が単独で詰めることなどありえない!
だからこの勝負は一見沙都子《さとこ》が追い詰めていて絶対有利なように見えて、その実はまったくの互角ッ!!
「さぁ参りますわよ、このままチャイムを待つなんて私たちらしくありませんわ!!」
「そうだね。勝負しよう!!!」
おかしい、沙都子《さとこ》の挑発に乗る必要がない。
レナに何が策が?!
それまでずっと隠れていたレナが大胆にも姿を現す!!
すぐに俺は気付いた。レナの銃がさっきと違ってる?!
沙都子《さとこ》もそれに気付いたようだった。
「ここには弾切れになったら逃げ込もうと考えててね。予め一丁拾って隠してあったの。」
ち、やるじゃねえか!!
最後の最後に仕掛けをかまして逆転するなんて、沙都子《さとこ》の得意手を逆にやり返してやったみたいじゃないか!!
だが沙都子《さとこ》は余裕の表情を崩さなかった。
互いに満タンの銃を向け合っている以上、何の優位もないはずなのにだ。
何だよ、まだこの上何か策があるってのか?!
「その一丁は、私にとっても大切な一丁でしたのよ。」
「……どうしてかな?」
「だって、その一丁がなかったらレナさんは、さっきの銃のまま一撃逆転を狙い続けて、こうして私の前に姿を現れたりはしませんもの。」
その瞬間、俺の脳髄に雷が走り、状況を全て理解させる!!
そうかそういうことかッ!!!
さっきまでの状況は、確かにレナに不利ではあったけど、沙都子《さとこ》にとっても責め崩せない状態だった。
レナが最後の逆転を狙うために慎重になるからこそ、沙都子《さとこ》は攻めあぐねていたんだ。
ならばもし、レナが「最後の逆転」が必要なくなったら?
いや、正しい言い方じゃない。つまり、レナが新しい満タンの銃を手に入れたなら?! 篭城をやめて、一気に勝負に来るじゃないか!!
「つまり、レナさんがここを目指しながら逃げて、その銃を拾うことは最初から読んでいましたってことですのよ…?」
そんなのは沙都子《さとこ》の御託のはずだ。
レナは聞く耳など貸さず、さっさと沙都子《さとこ》を撃ち抜けばいい!
もちろんレナだって迷わない。躊躇なくそうした!
……だがその表情が一瞬だけ歪む…!
どういうことだッ?!…撃てないのか?! あの水鉄砲壊れてる?
いや、壊されてるッ?!
「水鉄砲なんて、ちょっと砂粒を入れて空撃ちすれば、すぐに詰まっちゃうんですのよ? ほっほっほっほ!!」
「…私が切り札をここに一丁持ってることを先に読んで細工したってわけだね…。」
「私、いつも言ってましてよ? トラップは最後の最後でほんのひとつささやかに。これが究極の美徳でございましてよー!!」
トラップだけを取ればやはり沙都子《さとこ》の方が一枚上手なのか…!! 相手の策すら読みきって仕掛けを施すとは…!
だがレナめ、ミスったな…! さっきの銃も持っていればまだ何とかなったはず。
だけど今の状況では拾いなおしている時間はない…!
今のレナはさっきよりも最悪。
何しろ、最後の一撃すら放てないのだから…!!
「さぁて、観念なさいませ。さっきレナさんは私の額を撃つとか言われましたわねぇ? 私が逆に額を撃って差し上げましてよー!!!」
沙都子《さとこ》がじりじりと間合いを縮め、レナの額に銃口を向ける……!
だがレナに達観の様子はない。まだまだ互角の状況だと言わんばかりだ。
「…沙都子《さとこ》ちゃんも、まだまだ甘いね。」
「……な、なんですってぇ?」
「トラップで相手を仕留めたならね、沙都子《さとこ》ちゃんが余裕を見せるのは勝者の権利だと思う。
だけどね、今の沙都子《さとこ》ちゃんは私を絡め捕っただけで、仕留めたわけじゃない。余裕を見せるのはまだまだ早い段階だとは思わない?」
「ほっほっほっほ! 何を言い出すかと思えば。今から仕留めるから同じことですわ。」
「私が逆の立場なら、能書きなんか言わずにさっさと撃つ。じゃないと、負けるから。」
「負ける? 誰が? あぁら、その壊れた水鉄砲でどうやって戦うおつもりで?」
「被弾の定義、覚えてる? 水鉄砲というこの容器から出た水が最初に触れたものが標的であった時、被弾とする。」
「はあ? それが一体何だって言うんですの。」
そこまで聞いた時、俺は駆け出す!!
標的は最後の1人であるレナだった。
もう沙都子《さとこ》はいないも同然だった。
なぜなら…今から数瞬の後にレナに倒されるからだ!!
「レナさんが何を言っているのか、私さっぱりでしてよ。その壊れた水鉄砲で何ができるおつもりだか。」
「水鉄砲の中に水があれば、戦えるんだよ。
わかんないかなッ!!」
レナは銃口の詰まったその銃を思い切り振り上げると、握りの部分を校舎の壁に力強く叩きつけるッ!
華奢なプラスチックのその部分は割れ、中の水が溢れ出した…!!
「水鉄砲から出た水が当たればいいんだよ。
水鉄砲のどこから出たかは問題にしてない。」
そうなんだ、発想の問題だったんだ。
これが本物の鉄砲なら銃口からしか弾は出ない。
だがこれは水鉄砲なんだ。
銃口以外からだって弾である水は出せる…!!
「……………なッ!!!!」
沙都子《さとこ》はその瞬間に、ようやく自分があまりに無防備な姿をレナの前に晒している事実に気が付く。
沙都子《さとこ》のトラップは失敗してはいなかった。だが過信し過ぎた!!
レナが新しい銃が壊れていると気付く前に畳み掛ければよかったのだ、躊躇なく!! 勝ちを確信したその驕りこそが敗因ッ!!
沙都子《さとこ》の銃が引き金を絞るより一瞬早く、レナは割れた部分から迸る水を、
まるで刃でも振るうように思い切り横に振り抜く!!
沙都子《さとこ》の銃が放たれたが、完全に遅かった。
それがレナに命中するより数瞬早く水の刃が沙都子《さとこ》の顔面を叩く。いや、叩いたと言うより、切り伏せるかのようだった…!!
「まだまだ詰めが甘かったね…!!」
「こ、…この私が…ッ!!」
レナは呆然とする沙都子《さとこ》に駆け寄ると、その手の銃を引っ手繰った。
そう、水を放った瞬間に、レナが倒すべき最後の敵は俺だけになり、その俺が肉迫してくることを知ったからだ。
「レナああぁああぁあああぁッ!!!」
猛烈に迫る俺をかわすように、レナも機動力を活かし始める。
撃ち合えば互角。
だが状況を変えることで少しでも勝率を高めようとする努力を怠らなかった。
「最後には一騎打ちになると思ってたよ。やっぱりこうでなくっちゃあね…!」
「見直したぜ、とんでもない根性見せてくれるじゃねえかッ!!」
「見直したより、惚れ直したの方が嬉しいかな!」
「負けてくれたらそれでもいいぜ!」
「ごめんだね!!!」
建設重機を挟み旋回し合いながら互いの虚を狙う。
もう俺もレナも汗《あせ》だくだった。
だが疲労感はない。珠のようになって転げ落ちる汗《あせ》の雫がくすぐったいぜ。
互いの弾丸の激しい応酬。
有利も感じないし不利も感じない。
勝てるかもしれないという高揚感もないし、負けるかもしれないという焦燥感もない。
ただ、レナとの銃撃のやり取りが無性に楽しかった。
例えるならダンスのよう。
それはひとりでは絶対にできない舞い。
自分と互角の力を持った相手とだけ舞えるダンスのよう…!!
「本気のレナはやっぱり冴えるね…。見てるだけで震えが来るよ!」
「そのレナさんと互角に渡り合うなんて、圭一《けいいち》さんもやりますわね…!!」
「……どちらが勝つか全然予想がつきませんです。」
ギャラリーは誰もがそう思っていた。
俺たちだってそう思っている。
どっちが勝つか想像もつかない。いや、決着がいつ着くのかすら想像がつかないぜ…!
でも何だか、レナとのこの伯仲した戦いが何だか無性に愉快で、勝つにせよ負けるにせよ、決着がついてしまうことが惜しく感じるから不思議だった。
互いが牽制し合う度に水の残量が減り、射程が縮まっていく。
必然的にいつしかそれは銃撃戦と呼ぶより、格闘戦と呼ぶのが相応しいやり取りになっていた。
実際、俺たちは撃つというより、銃を振るってその軌跡で相手を斬ろうとしているかのようだった。
勢いのなくなった銃に腕を鋭く振るうことで遠心力を与え、少しでも攻撃力を与えようと互いが同時に思いついた手だった。
飛んでかわし、
舞うように踏み込み! 伏せてかわしてから、
払うように斬るッ!!
今日の部活《ぶかつ》、水鉄砲によるクラス全員での銃撃戦から、こんな一対一の白兵戦が起こるなんて誰が予想できた? ただのひとりだって予想できたはずがない…!
「あははははは!」
「あぁ、やっぱりレナもそう思うか?」
「じゃあ圭一《けいいち》くんもそう思うんだ?」
互いに肩で息を切らしながら踏み込む間合いを計りあう。
それから互いにニヤリと笑い合った。
「やり合うのが楽しくてならねえぜ! 決着がつくことすら興醒めするくらいになッ!!」
「あっはっはっは!
負けても恨まないでね!!」
「あぁ恨まない!!
この勝負を終わらせた自分の不甲斐なさを恨んでやるぜ!!
だが、そいつを恨むのはどうやらレナの方になりそうだなッ!!」
「どうかな?! 圭一《けいいち》くん、足が藁だよ!!」
「くそったれええぇ!!
うをおりゃあああ!!!」
「……すごい。…何だかものすごくかっこいい…!」
「前原《まえばら》さん、がんばれええ!!」
「竜宮《りゅうぐう》さん、しっかりーー!!」
戦いを楽しむ心のゆとりが生まれて始めて、俺たちの一騎打ちがどれほど大勢のギャラリーの応援を受けていたかを知る。
水量は…もうまったくない。
次の一撃で決められなければおしまいだ。
レナの様子を見ると、向こうも事情はまったく同じようだった。
「…泣いても笑っても次で終わりだな。水が有限なのが惜しいぜ。」
「限りがあるから美しい。花も一緒だよ。」
「なるほどな、そういう見方もあるか!!」
「本当に楽しかった。でもこれで終わりだね!」
「だな!! 無粋かも知れんが、勝って決着させてもらうぜ!!」
「上等だよ圭一《けいいち》くん!!」
「負けて泣くなよ!!」
「勝負ッ!!!」
「乗ったああ!! うをおぉおおおぉおおおおぉッ!!!」
「…………ぉ、……おおお……。」
「ど、…どっちが勝ったんですの…?!」
セミたちの合唱は、時計のない校庭で代わりに時を刻む針の音のようだ。
俺も、レナも、……ぴくりとも動かない。
…互いに、最後の渾身の一撃を繰り出したまま、…そのままの姿で動きを止めていた……それはまるで、時代劇か何かの中の一騎打ちのよう。
「…どっちが先に……?」
「……わかんない、全然見えなかった…。」
緊張の糸が最初に切れたのはクラスメートたちだった。
この美しくも激しい一騎打ちが幕を下ろした事にようやく気付いたのである…。
「い、委員長、…判定は…?!」
魅音《みおん》は、自分が判定を下さない限り、決着がつかないことにようやく気付く。
だが、我に返るまで、…魅音《みおん》も呆然としている内のひとりに過ぎなかった。
…魅音《みおん》はどちらが優勢であったか、判定を下せずにいる。
実際、俺たちにもそれはわからなかった。
俺の最後の一振りが、飛沫の刃となってレナの胸元を横一文字に掻っ捌いた。
それは間違いない。
だが、同じ瞬間でレナの一閃もまた、俺を肩から斜めにバッサリと叩き割っていた。
…ルール上、一瞬でも先に相手に当てた方が勝ちだ。
だが、それが自分なのか相手なのか、互いにわからなかった。
だから、誰かにその判定をもらえるまで、身動きが取れなかった…。
「…り、梨花《りか》には…見えまして?」
「……ボクにだってわかるわけないのです…。」
「委員長、……どっちの勝ちなの……?」
皆、固唾を呑んで魅音《みおん》のジャッジを待つ…。
俺もレナも、互いに相手の瞳をにらみ合ったままだった。
勝敗なんて観覧人の関心であって、…俺たちにはそれほど重要なことではなかったかもしれない。
でも、互いが相手を上回ろうという強い意思が拮抗していたからこそ、あれだけの戦いが舞えたのだ。
多分、俺もレナも引き分けを一番望んでいたに違いない。
引き分けという評価だけが、俺たちの最後の一騎打ちに対する唯一にして最上の評価だと思ったから。
つまり、…この一騎打ちは勝敗を決める「戦い」ではなかったということなんだ…。
それはどうやら俺たちだけでなく、クラスメートみんなも同じ考えのようだった。
「……魅ぃ?」
「…ん…。」
「……判定が出ないと2人とも動けませんです。」
「……ぁ、……うん…。」
優劣をつけることを好む魅音《みおん》は引き分け同着を嫌う。
罰《ばつ》ゲームの人数が増える分には楽しいから、ビリの同着だけは好むようだが、……こと1着に関してだけは、引き分け同着を許した試しはない。
魅音《みおん》がナンバーワンという言葉に特別な意味を感じているからこそだろう。
クラスメート全員が魅音《みおん》のジャッジが下されるのを、固唾を呑んで見守る…。
…どうか引き分けにしてほしい…。
そういう懇願をみんなが目で訴えていた。
魅音《みおん》も迷っていた。
互いにわずかの優劣でもあれば、それを理由に僅差で勝敗を分けることも出来よう。
…だが、仮にそのわずかの優劣があったにせよ、引き分け以外のあらゆる決着がこの上なく無粋に感じられた。
「今日の二人は、……見事だったよ。」
魅音《みおん》がようやく口を開く。
「…圭ちゃんもレナも、ここしばらくの連敗に発奮し、最高の力を発揮してくれた。その瞬発力は…評価の高低の段階を超えてもはや美しいと呼べるまでに昇華されてたよ。…私は二人の最高の戦いぶりに評価を惜しめない。」
「じゃ、………じゃあ、…決着はどうなるんですの………?」
「……会則の精神から、1位を2人に認定するのは好ましくない。
……でも、二人にはわずかの優劣もなく、どちらを降着させるかの判断もとてもつかない…。
よってッ!! 本日の戦いを預かり勝負とし、
後日改めて決着をつけることといたしたいッ!!」
引き分けまでは読めたが、再勝負とはな!
考えなかった…!
「前原さん、すごかったですよー!!!
カッコ良過ぎます!!」
「竜宮《りゅうぐう》さんにもシビレましたー!!
何かこう、なぁ?! 見てるこっちまで熱くなるというかー!!」
クラスメートたちが、どっと駆け寄り、俺たちを賞賛する。
そこでようやく俺もレナも金縛りから解かれ、がくりと膝をつき合った。
「残念。決着をつけ損なったね。」
「まぁな。次の機会を楽しみにしようぜ。」
「肩を貸してほしいな。」
「先に言うな。俺が借りようと思ったのに。」
二人して笑い合う。
レナとこんなにも意気投合したのは始めての経験だった。
「それはそうと。」<レナ
「うまいことやったよな。」
「……?? うまいことって、何がですの?」
「魅ぃちゃん、うまいこと言って今日の罰《ばつ》ゲーム、うやむやにする気だー。」
「………ぎく。」
「かっこつけときながら、保身第一って辺りが魅音《みおん》っぽい。うん。
あ! 逃げたぞ!………ず、図星かよ…わかりやすいヤツだなぁ…。」
みんなが大笑いする中、授業の終わりを告げる振鈴の音が鳴り響くのだった。
オチ。
「……二人ともお疲れさまなのです。タオルをどうぞなのです。」
「……………………。」
梨花《りか》ちゃんが満面の笑みでタオルを差し出してくれた。
だが俺とレナは一歩後退ると、二人して水鉄砲を向ける。
「……みー。…もうみんなにいっぱいいっぱい撃たれましたのです。もう撃たれてると言っても誰も信じてくれないのですよ。」
梨花《りか》ちゃんだけがやたらとずぶ濡れだ。
……まぁなぁ。
梨花《りか》ちゃんのことだから、撃たれたふりをして、最後まで居残ってそうだもんなぁ。
「普段が普段でございますものねぇ…。信じろというのが難しい相談でございましてよ。」
「……みーーー。…みんながいじめるのです。ボクはもう独りぼっちなのです。……ダンボール箱の中でみーみー鳴いて、誰も拾ってくれないかわいそかわいそな猫さんなのですよ。……みーみー…。」
ぽん! と音がしたのはレナの頭だ。丸い輪っかの煙が立ち昇っている。
…どうやら、梨花《りか》ちゃんがダンボールの中に捨て猫状態で入っていて、みーみー鳴いているところが想像できたらしい。
「はぅ〜〜!!!
梨花《りか》ちゃん捨ててあるよ捨ててある、レナが拾うよ、お持ち帰りいいいーーー!!!」
むが、
むぐ、
ぎゅいぎゅい、
みーみー!
きゅい、
すぽん!!
かっこいい余韻も台無しだー!
レナはいつものレナに戻ると梨花《りか》ちゃんを瞬時に、カメレオンばりの速度で捕食する。
梨花《りか》ちゃんはそれから逃れようともがくのだった。
「はーーい、皆さん、早く教室に戻りなさーーい!!」
知恵先生が職員室の窓から手を叩きながら大声をあげている。
「行こうぜ、みんな!」
全員が笑顔で応え、昇降口に向かって競争のように駆け出していくのだった。
■幕間
TIPS
1■いいお天気
風通しの良さだけは自慢だった。
少なくとも風が吹いている時は、冷房などなくても充分に涼めるのだった。
大きく開けた窓に干してあった布団を引っ込めると、私はそこに座布団を敷いて、縁側の夕涼みと洒落込むのだった。
日めくりのカレンダーは昭和の58年、6月であることを示していた。
6月にも関わらず、今年は空梅雨でもう夏本番の到来のようだった。……異常気象というやつらしい。
百年に一度の異常気象だったとしても、それが昭和58年に必ず起こることなら別に珍しいことでもなんでもない。
それは必然だということ。
そんなことより、下校時に突然振り出す夕立の方が、どれほど予想不能で珍しいことか。
全てが何から何まで予定調和の日々だけど。
何だか今年は色々と幸先がいい気がする。
…何て言うのかな。
スゴロクゲームで一番最初のサイコロで6が出て、自分ひとりだけたくさんのリードで始まった時のようないい気分、というのかな。
もっとも、サイコロというのは振れば振るほど、そのトータルは平均値に近付く。
私たちの人生は日々、あらゆるところでサイコロをたくさん投げている。
だから、ささやかな幸運の1つ程度で浮かれることもないのだけど。
……最初のサイコロが6でも次が1なら、7で、平均値。
運命主義者なら、次に出るサイコロは1の確率が高いとでも言い出すのか。
でも、次に振るサイコロは1から6まで何が出るかわからない。それが、運命というもの。
……次も6が出るかもしれないな。
全体で見れば36分の1の奇跡だけど、…1つ1つ積み立てて行こうと思えば、たったの6分の1程度の奇跡でしかないのだから。
沙都子《さとこ》が昨日くくりつけたガラス風鈴が、とても涼しい音色を聞かせてくれるのだった…。
■2日目。気持ちのいい朝
……目が覚めても、まだわくわくしていた。
すごく楽しい夢を見ていたのは間違いない。
それがどんな夢だったかは、…まるで目蓋を開くと忘れるスイッチが入るかのように忘れてしまったけれど。
…とても楽しい夢だったことだけは、疑いようもなかった。
だから、目が覚めてもしばらくの間、天井を眺めながらその余韻を楽しんでいるのだった。
今日は日曜日。
窓の外には、普段の平日とはまったく違う小鳥のさえずりが満ちているように聞こえた。
平日の鳥の鳴き声はどこか急いていて、いかにも急げ急げ学校に遅れるな…という感じだが、日曜日の鳥だけは違う。
こんなにも晴れた清々しい日曜日の朝だから、それをみんなに伝えたくて伝えたくてしょうがない、そんなうきうきした感情が感じられるのだ。
そして、その鳴き声は普段の平日の小鳥たちとは異なる小鳥にすら感じられるのだった。
日曜日の朝にしか鳴かない、日曜日専用の小鳥でもいるんだろうか?
週に一度しか鳴かない鳥の声なんて、何だか贅沢だ。
そんな、貴重な小鳥たちの合唱を寝惚けながら聞くことは、この上なく勿体無いことだった。
やがて、普段のがさつな自分が目を覚ましてくるに従い、日曜日専用の小鳥という言葉が無性に滑稽に感じ始める。
「…………………ふぁ、………あぁ…。」
大きく伸びをすると、全身に血が巡っていく心地よい感触がした。
寝返りながら時計を見上げると、10時過ぎを指しているのが見える。
日曜の10時は、塾に出掛ける日だったことを思い出す。
もちろん、雛見沢《ひなみざわ》に引越してくる前の話だ。
当時はずいぶんといろいろな塾に通わされていたんだっけ。…中でも第1、第3日曜日に通う塾が、電車の乗換えが多くて辛かったことを思い出す。
もっとも、当時ならこんな時間に起きることはあり得ない。
遅れる遅れるとお袋に急かされて起こされるので、日曜も普段と同じ様な時間に起床していたからだ。
だから、日曜のこういう時間に自分の意思で目が覚められることに、ちょっとした愉悦を感じていたような気がする。
……もっとも、その感覚も雛見沢《ひなみざわ》に引越してきてからすっかり忘れてしまっていたかもしれない。
最近の日曜日は、昼前までたっぷりと惰眠を貪るのが当り前だったから。
雛見沢《ひなみざわ》に来てから、人生がまったく変わった気がする。
引越す前は、都会生活に比べ不便なところばかりが目に付き、正直、田舎での生活に関心はもてなかった。
でもそれに不便を感じたのは本当に最初の数日だけ。
都会の煤けた便利さなど、ここでの生活に比べたら何の魅力も感じない。
では今の生活にある魅力って何だろうと考えたら、……それはきっと、仲間《なかま》たちの存在によるところが大きいのだろう。
こんな感傷にふけるところを見ると、昨日のクラス全部での水鉄砲大会がよっぽど楽しかったんだろうなぁ。
この歳にもなって、大真面目に水鉄砲で撃ち合いをするんだぜ?
そんなの都会の連中はやりたくったってできねぇだろうな。
いや、…やりたくってもできない、じゃなくて、やりたいとも思わない、が正しいんだろう。
こんな単純な遊びがこんなにも楽しいなんて、気付きもしないに違いない。
階下に降りると、親父とお袋が固いテレビ番組を見ながら、あーだこーだと議論に花を咲かせていた。
「大体、日本の電話《でんわ》料金は高すぎるんだ。国が電話《でんわ》事業を独占してるからこういうことになるんだ。」
「でも民間企業ってのは営利団体なのよ? 慈善団体なわけじゃないんだし、全国一律のサービスを本当に維持できるわけ?」
テレビの中の知識人も、親父たちと同じ内容で激論を交わしている。
何でも、電電公社が民営化されるとかそういう話が出ているんだとか。
民営化されると何がどう良くなるのかお子様な俺にはさっぱりだ。
……この調子だと将来、郵便局辺りも民営化なんて騒ぎ出すかもしれないな。
しかし、親父もお袋も激論を戦わせているけど、何だかんだ言っておめでたいくらいに仲がいい。
一見激論を交わしているように見えるが、こんなのは仲良しの証みたいなもんだ。
そう言えば、都会に住んでた頃は、両親の仲がいい姿などあまり見たことがなかった。
……雛見沢《ひなみざわ》に引越してから、良くなったことのひとつかもしれない。
両親の冷たい関係など、子供にとって毒にしかならないのだから。
「あら、圭一《けいいち》。日曜にしては早いわね。朝ご飯食べる?」
「今日はいらない。あと、今日は外で食べるから昼飯もいらないや。」
「なんだ、友達と一緒か? 圭一《けいいち》がよく話す部活《ぶかつ》というやつかー?」
「いんや、今日は部活《ぶかつ》じゃない。昨日の罰《ばつ》ゲームというか、何と言うか。」
その時、ピンポーンとチャイムの音が鳴った。
時計を見ると、もうレナと合流する時間だ。
寝起きの余韻を優雅に楽しみ過ぎたか!
俺は慌てて普段着に着替えようと自室に駆け戻るのだった。
そそくさと着替えて玄関に向かうと、レナと両親が楽しそうに話をしていた。
…こういう時、俺は焦る。
両親が何か俺に不利な恥ずかしい話を吹き込みやしないかとハラハラするからだ。
俺が×歳の頃までおねしょが治らなかったーなんて話がレナの耳に入った日にゃ、24時間待たずに学校中、しまいにゃ雛見沢《ひなみざわ》全体の周知事項と化すだろう!
「よぅレナ! おはよう。待たせて悪い悪い。」
「圭一《けいいち》く〜ん、あはははははははは。」
レナと両親が俺の顔を見てカラカラと笑う。
人が挨拶してるのに、その返事があははは、とは…。
…うう、少し遅かったようだ。
この反応はおそらく、俺に対する何らかのネガティブな秘密《ひみつ》がいくつか、レナにもたらされた後であることを示すのだろう。
これ以上この場にいると、ますますに両親から俺のネガティブな秘密《ひみつ》が明かされそうだったので、俺は乱暴に靴を履くとレナを押し出すように玄関を出る。
その仲むつまじそうな俺たちに、両親は能天気に手を振ってくれた。
「いってらっしゃ〜い。レナちゃん、圭一《けいいち》をよろしくお願いね〜〜!」
「はぅ〜! はい、おばさま〜!!
圭一《けいいち》くんはレナがちゃんとちゃんと面倒を見ますからぁ〜〜☆」
「何の面倒だか知らんが、見んでいい、見んで!」
ずるずるとレナを引き摺り、俺は家を後にするのだった。
興宮《おきのみや》の町へ向かう長い道のりを、俺とレナは自転車を走らせていた。
町へ行く時は、基本的に下り坂なのでとても楽ちんだ。
まぁ、当然のことながら、帰り道で苦労するのだが。
レナが俺をちらちらと見ながら、くすくすと笑っているような気がするのは気のせいなのだろうか…。
俺が着替えてから玄関に下りてくるまでのわずかの時間に、一体どんな恥ずかしい情報がもたらされたのか、気になってしょうがないぞ…。
とりあえず別の話題を振って、レナの頭から俺にとっての不都合な情報を追い出してやることにする。
「レナって、何気にうちの親と仲いいよな。」
「うん。仲いいよー。よくお話するもん。」
「よくお話って、いつしてるよ? 俺は見かけたことないぞ?」
「おばさまとはよくお買い物の時に会うかな。特売日とかポイントセールの日なんかはよく会うね。」
「あー、確かにお袋は特売日とかマメにチェックしてるなぁ。冷蔵庫のとこに磁石でいろいろとメモが貼ってあってさ。どこそこで何がいつ安いなんてのが書いてあるのを見かけるよ。」
「それでね、今夜は何にしましょうねって話をしながら一緒に買い物するの。カレールーが特売だから今夜はカレーにしようかな、なんて話になると、じゃあうちもうちも、なんて感じで。」
「そう言えば、一昨日はカレーだったな。じゃあレナのとこもカレーだったわけか?」
「うん、そうなんだよ。一昨日はポークカレーだったでしょ。豚肉が安かったから、一緒に買ったの。だからね、だからね、私の家でもカレーを食べながら、今頃圭一《けいいち》くんも同じカレーを食べてるんだろうなって思ってた。はぅ☆」
…ってことは、毎日ではないにせよ、俺の食卓は筒抜けってわけか。
別にやましいことはないんだが、それはそれで何だか恥ずかしいな。
「おじさまとは、お買い物の時に一緒に会うことが多いかな。圭一《けいいち》くんのおじさまとおばさま、本当に仲良しなんだね!」
「そういえば、よく一緒に買い物に行くなぁ。…確かに、いい歳して仲はいい方だと思う。」
「やっぱり、両親の仲がいいのはとても大事なことだと思うよ。お買い物にも一緒だなんて、何だか素敵でうらやましいなぁ。」
「何だかさっきから俺の親の話ばかりで恥ずかしいぞ。レナのとこはどうだよ? 仲いいか?」
「うん。仲いいよ。いっつもべったりしてる。…だからね、はぅ。レナに居場所がない〜〜。」
いつもべったりでラブラブな夫婦か。
……レナのお母さんって会ったことないけど、何だかレナにそっくりな人の気がするぞ。
レナのお父さんがヒゲを剃り残しただけでも、はぅ〜☆ごま塩のおひげがかぁいいよ〜!!ってなりそうだな。
…それから、お父さんのお腹をさすって、はぅ☆ぽよんぽよんだよ〜〜☆…なんてなるに違いない。
その想像は何だか無性に笑えるものだった。
「あっはっはっはっはっは!」
「突然笑い出すなんて、…な、何かな、かな?」
「レナの家のおばさんがどんな人かものすごい気になるぞ。俺も今度、レナのおばさんに会ってみることにするぜー!!」
「えッ?! だだ、だめだよ、だめだめ!!」
「レナだって俺のお袋と話をしてるじゃないかよ。ならお相子だろー?」
「はぅ、だって、圭一《けいいち》くんなんかが会ってもいいことないよ…。全然立派な人じゃないし…。」
「会う前からかなり予想はついてるんだけどなぁ〜! ズバリ! レナにそっくりだろ?!」
「えッ、えッ?! そそ、そんなことない〜〜! 全然似てないよぅ!」
「…その過剰な反応が、雄弁に答えを物語ってるぞ。とにかく!! レナのおばさんに興味が出たぜ!! 今度ご挨拶にうかがうからな、覚悟してやがれー!」
「はぅ〜〜、そんなのだめだめだめー! 圭一《けいいち》くんがレナの家に来たら、レナ怒るよすごい怒る!」
「普段、お宅のお嬢さんに大変お世話になっております…。いや、お嬢さんと真剣なお付き合いをさせてもらってる者です、くらいの方が面白いかもしれないなー!! わっはっはっは!」
「……はぅ…、もしうちに来たら、……魅ぃちゃんたちに、圭一《けいいち》くんのちっちゃい頃の話をしちゃおうかな、…かな。」
「う、……ちっちゃい頃とは具体的にはいくつの頃のエピソードだ?」
「えっと、…レナがおばさまに聞いたのは、4つの時の話と、
6つの時の滑り台の話と、
…あとあと…、」
「すみませんでしたレナさん。レナさんの目の黒い内は、竜宮《りゅうぐう》家の半径100mには絶対近寄らないようにするっす。」
「あはははははは! ありがとー!」
ちくしょーお袋めーー!! いつか覚えてやがれー!
■エンジェルモートへ行こう
駅前に出れば目的地はすぐそこだった。
駅向かいにあるレストラン「エンジェルモート」。そこが今日の集合場所だった。
だが見た瞬間に驚く。
普段はごくごく普通のレストランというたたずまいなのに、…どういうわけか今日はものすごい大勢の人たちが店を取り囲んでいたからだ。
だがそれは並んでいるというよりは群がっているという感じだった。
中に入りたいなら、並んでさっさと入店すればいいものを。
「うわーーーーーーー、何だよこれ。すっげぇ人だな!」
「今日はイベントデーだからね。この日のためにすっごい遠くから来てる人たちも大勢いるんだって。」
店の前には登りが出ていて、「デザートフェスタ」と書かれている。
聞いた話では、エンジェルモートでは年に何度かこういうイベントデーがあり、ものすごい大賑わいになるらしい。
「今日のデザートフェスタはね、抽選に当たってチケットがもらえた人しか入店できないの。でね、1枚のチケットで4人まで入場できることになっててね。」
「なるほどな、チケット持ってる友人が来るのを、こうして店の前で待ってるわけか。」
「う〜ん、ちょっと違うかな。チケットの人にはね、たまに4人未満で来る人もいるの。」
「………つまりなんだ。落選者たちがチケット当選者のおこぼれに預かろうと、こうして群がってるってわけなのか。」
その時、群がっている人々の群からどよめきが起こった。なんだなんだ?
「チケットは4人まで入れるのに1人で入ろうなんておこがましいにゃりん!!
残り3人の枠にぜひ加えてくださいにゃーーッ!!!」
「ボ、僕を仲間《なかま》に加えてくれたら、エンジェルモートトレカのレアカードを進呈するよおぉぉ!!」
「オイラならフロントフィールドの夏コミ新刊を限定本付きでー!!!」
「『ひぐらし』β版、着せ替えモード搭載版で譲ってぇえぇ!!」
「G氏の魔改造フィギュアでなんとかーッ!!」
「お…俺はリアルマネー壱萬円だすよー!!」
「「「こんの愚か者ぉおおぉ!!!
RMTはご法度でござるよ、通報 通報ォ 垢ぁ BANッ!!」」」
「………よくわからん騒ぎになっとるぞ…。」
「…あははははは。このお店のコアなファンは、ちょっと怖いからね…☆」
「ところで、俺たちのチケットってのはどうなってるんだ…? 第一、俺たちメンバーって5人組だろ? チケットの定員じゃ、」
「しーーー!
…ほら、このお店、魅ぃちゃんの親類のお店だから、…ね!」
「魅音《みおん》って時々すげぇよな…。」
レナがぐっと握り拳を作ってから、意気込んだ。
「じゃ、…行こう! 一気に駆け抜けるからね!」
「それが最良の策みたいだな。……よし。」
二人して頷き合う。
俺たちは二人組だ。
一見すればあと2人の定員枠が空いてるように見えるもんな。群がられるのは間違いない…!
二人してクラウチングスタートの体制。
群れる連中がそんな様子の俺たちに気付いたようだ。
「むむ!!
あの二人、強行突破を試みるつもりにゃりん!!」
「しかも女子と二人きりでボックスシートを埋めようとは不届き千万ッ!!」
「一緒に座ってラブラブな空気を打ち砕いてやるでござるーッ!!」
「最後の一発まで抵抗しろー!
ゲルマンの鉄の意志を見せてやるのだー!!」
くそ、スクラムを組んでやがるぞ!
俺たちの入店をあくまでも拒むつもりだな?!
「今日は魅ぃちゃんたちみんなの罰《ばつ》ゲームの日!
私たちがお店に入れなかったら昨日の勝利が無意味になっちゃう。」
「それだけは認められねえな。俺たちがベストを尽くして得た勝利だ。だから魅音《みおん》たちの罰《ばつ》ゲームを見届けるのは権利であり、」
「義務でもあるもんね!!」
「……と、かっこよく決めたところで、下心丸出しなんだけどなー。」
「はぅ〜〜!! 沙都子《さとこ》ちゃんや梨花《りか》ちゃん、どんな格好かなー!!
お持ち帰りぃい〜!!」
「ぐふふふふ、ヤングカップルめぇえぇ!! 大人しくチケットを差し出すでござるよー!!」
「ひゃっひゃっひゃ!
ここは通さねえぜ〜!!」「エンジェルモートのイベントチケットを二人だけで消化しようなどとは許せんにゃりん!!
余った枠に我らを加えるでござるよー!!」
俺とレナ、そしてそれと対峙し、まるでゾンビさながらに両手を突き出しながら迫ってくるチケット落選者たち!
その距離がじりじりと狭まっていく…!
そんな中、俺たちは意外に余裕。
状況をちょっぴり楽しんでさえいた。
「あはははは、何だか、昨日の部活《ぶかつ》がまだ続いてるみたいだね。」
「あぁ、何だか面白くなってきたぜ! 連中を蹴散らして一気に行くぜ!!」
「うん、了解。魅ぃちゃんや沙都子《さとこ》ちゃんを相手に回すよりは、…簡単かな? かな?」
「だな。他の部活《ぶかつ》メンバーを敵に回すのに比べたら、…見たとこ20〜30人ってとこか。悪いが、俺たちを止めるにゃ人数がちょいと足りないぜ!」
「あはははは よぅし、じゃあ行くよー!」「おうッ!!」
敵は約20騎、30騎!
俺たちを止めたければその10倍は用意してみやがれってんだッ!!
うおりゃあああーー!!!
■アイキャッチ
■罰《ばつ》ゲームの世界
2日目-2
「いらっしゃいませー、エンジェルモートへようこそ。本日はイベントデーになりますが、チケットはお持ちですか?」
「えっと、チケットはないですけど、名乗ればいいと言われてます。竜宮《りゅうぐう》レナと前原《まえばら》圭一《けいいち》です。」
「只今、リストを確認しております。少々お待ち下さい。」
この店のコアなファンはまともじゃない連中が多そうだからな。
嘘や偽造チケットなんかいくらでもあるんだろうなぁ。
さっきの表での殺気だった連中を思えば、何となく納得の対応だった。
「いやしかし、…恐ろしい連中だった。あんなのがひしめいていたら、健全な客は店内までたどり着けないぞ。」
「あははははは、そうかもだね。
でも、レナの行く手を阻むことは誰にもできないんだよ〜〜、はぅ〜☆」
「それはそうと、相変わらずのキレだったな…。あれは肘か?膝か? 顔面の急所を正確にブチ抜くとは、…恐ろしいヤツ。」
レナに殺到する有象無象どもを、あの知覚不能の超高速ジャブで次々となぎ倒していくさまは、圧巻の一言だった…。
思い出すだけでも恐ろしい。
「だってだって、レナのお持ち帰りを邪魔するんだもん〜☆ きっとみんなかぁいいよぉ、みぃんなお持ち帰りぃ〜!!」
「…かぁいいモードのレナが相手じゃなぁ。まぁ連中もあれだけ派手にブチのめされれば、敗北を受け入れられるだろう。」
「圭一《けいいち》くんだってすごかったよ? 大勢に囲まれて飲み込まれたと思ったら、急にシンとなって、そのあとみんな、涙を流しながら道を開けてた。なんでかな、かな?」
「……いや別に…。落選したお前たちの代わりにこの俺が入店してやる、お前たちの分まで俺が見届けてきてやる、だから同士諸君、今は涙を流しても次の抽選の勝者になれ、とまぁ、その辺りのことを少々語ったら、みんな理解してくれたようで…。」
「…圭一《けいいち》くんって、アジテーション得意だよね。聞いている人を共感させる能力というか。うんうん、我が部の口先の魔術師って感じ。」
「その口先の魔術師って、もう決定なのかよー?! 他の通り名はないのかよぅ!」
「あはははは! どうだろうね、考えてみるね!」
レナはからからと笑ってはぐらかすのだった。
「大変お待たせしました。リストにお名前を確認しました。お席へご案内します。どうぞこちらへ!」
相変わらずの、ドキドキものの衣装に身を包んだウェイトレスさんが俺たちを席まで案内してくれた。
店内は今日は超満員だ。
これだけ賑わっていると、何だかそれはそれですごい。
しかもその客はみんな、表に群がっていた、極めて偏った特殊な感性の客人ばかりと見える。
店内は異様な熱気が渦巻き、しかもほのかに汗《あせ》臭い。
しかも、店外でされていたような、意味のわかりにくい特殊な単語がてんこ盛りの怪しげな会話だけが飛び交っていた。
「やはりエンジェルモートは
制服命ザンスねぇ〜!!」
「食は舌で味わうものでござるが、
エンジェルモートは目で味わうのでござるよ〜!! 今日はたゆん
たゆん
のウェイトレスさんはいないでござるか〜!!」
「むほほほほ!
女の子のローテのチェックは基本ですよお!! 巨乳好きなら火、
木の17時以降は絶対押さえたいですねえぇえ!
逆属性の方は金曜17時以降が勝負!!」
……あぁ、とんでもない日に来たなぁと思った。
と、同時に。
あぁ、昨日の部活《ぶかつ》に負けなくてよかったと思った。
他のメンバーはまだいい。
だが男の俺がこの状況下で罰《ばつ》ゲームを被った日には……、怒り狂った濃い口のお客に袋叩きにされるだろう。
説明が遅れたが、ちなみに今日は別に、レナと食事に来たわけではない。
罰《ばつ》ゲーム者はランダムな方法で決められた衣装着用の上、エンジェルモートのイベントデーを、ウェイトレスとしてお手伝いをする、というものなのだ。
勝者は敗者の給仕を受けながら、まったりとデザートに舌鼓を打てる…とそういうことになっていたのである。
この罰《ばつ》ゲームが告示されたとき、内心、俺は…あぁどうせ俺がやらされるんだろうなと諦めていた。
このところ振るわず、罰《ばつ》ゲーム常連だったからなおさらだ。
それはレナも同じだったろう。
それが発奮して、俺とレナの大勝利なんて、誰に予想できただろう?
すげえよ前原《まえばら》圭一《けいいち》、
よくやった感動した!!
※新立ち絵〜〜
魅音《みおん》:セーラー服とブルマー 梨花《りか》:スク水とエンジェルモート 沙都子《さとこ》:メイド〜
その時、ざわめきが起こり、それから大歓声、拍手、口笛のるつぼと化した。
…そりゃあそうだろうなぁ。
今日ここに来てる連中はただのイベントデーだと思って来てたはずだ。
……まさか、あんな格好のウェイトレスが混じってるなんて予想もしなかったろう。
「……みー。」
「はッうううぅううぅう!!!
りりり梨ぃ花ちゃぁぁん!!
お持ち帰りぃいぃいぃぃ!!!」
「まま、まぁ待て、落ち着けレナ。ここでお持ち帰ったら罰《ばつ》ゲームにならん。」
梨花《りか》ちゃんはお盆にお冷とおしぼりを乗せての登場だ。
梨花《りか》ちゃんが引いた罰《ばつ》ゲームの衣装は、もはや罰《ばつ》ゲームの定番と化した感もある、エンジェルモートの制服だった。
「……いらっしゃいませ。エンジェルモートへようこそなのですよ。」
梨花《りか》ちゃんは、お客を迎える口上を述べると、俺とレナの前にお冷とおしぼりを並べた。
「はぅあぅぁぅ〜〜!! かぁいいよ〜〜、お〜持ちかえ〜〜りぃ〜!!」
レナが奇声を上げると、店内も同様に
「「おおお、お持ち帰りぃいぃ〜!!」」
気付けば、店中の客が俺たちの席の周りに群がって、梨花《りか》ちゃんの給仕姿をその眼に焼き付けようとしているのだった。
「はぅ〜〜、梨花《りか》ちゃん、
似合うよ似合ってるよ〜〜!! はぅ〜!!」
「……みー。…じろじろ見られると恥ずかしいのです。」
「んーー? そう言えば、お馴染みのエンジェルモート制服だが、どことなく違う気がするのは気のせいか?」
「そそそそ、それはですね前原《まえばら》さん!!
僕が説明いたします!!」
人垣を掻き分けて登場したのは、クラスメートで後輩の富田くんだった。
「おわわ、富田くんじゃないか。何だ、岡村くんも。二人とも当選してたのかー。」
「そんなことはどうでもいいんです前原《まえばら》さん!
それよりも、ここで古手《ふるで》さんの衣装について説明しましょう。
ご存知のとおり、エンジェルモートの制服は成熟した女性の魅力を全面に押し出すことを最大の目的にした衣装です。よって、着衣には多少の成熟した年齢相応のプロポーションが必要とされます。
その意味においては、未発達な体型である古手《ふるで》さんとはもっとも相性の悪い制服と言えるでしょう。」
「それだけでなく、問題となったのは古手《ふるで》さんの体型に合うサイズを店舗側が用意できなかったことにあります! そのため古手《ふるで》さんはエンジェルモート制服を着るという罰《ばつ》ゲームを実行するためには、工夫をせざるをえなかったのです!!
そこで古手《ふるで》さんはプール用の水着で衣装を代用したのですが、それにより神をも予見できなかったであろう、
水着とエンジェルモート衣装という有り得ない組み合わせが生まれたのです!!
この武装により現在の古手《ふるで》さんの攻撃力は従来火力をはるかに凌駕ッ!! 属性付与、
状態異常の追加、
クリティカル発生率の大幅アップ、
しかも上昇中には無敵時間まで与えられるに至ったのですッ!!
この素晴らしさが分かりますか?!
分かりますよね?! つまりこれを竜宮《りゅうぐう》さん風に言うとこうです。お
お、
お持ち帰りぃいぃいぃぃぃ!!!」
「駄目だよ、だめだめ、お持ち帰るのはレナなんだよ〜〜!! でも気持ちは分かるよ、お持ち帰りぃいぃぃ〜〜!!!」
富田くん岡村くんコンビが、レナと肩を組みながらお持ち帰りコールで湧き上がる!
そのコールがいつの間にやら店内全体に伝播して、今や大変な状態だ。
……しかし、富田くんと岡村くんのコンビ、時々すげぇよな。
俺との年齢差を加味しても、この歳でこれだけの熱い語りが出来るとは…。将来の末恐ろしいやつらだぜ…!!
「魅ぃちゃんと沙都子《さとこ》ちゃんは〜?? 二人も楽しみ〜〜!!」
その時、再びどよめきが店内を支配した。
ちょっと〜道を開けてよーという魅音《みおん》の声。
…そういや魅音《みおん》って何の罰《ばつ》ゲーム衣装になったんだっけ?
「Kぇえぇさぁあぁぁん!!
あ、あ、あれはどーゆうことっすかあぁ!!」
「どわあ!! か、亀田くんかよ…! そっか、デザート魔人の君がデザートフェスタにいないわけないよな…。やぁ、元気…?」
「元気かどうかなんてどうでもいいんす!! それより、アレは!!アレはどうなってるんすかーッ!!」
亀田くんは額にまで血管を浮かせながらの興奮状態だった。
…その亀田くんの言うところのアレが人垣を掻き分けて姿を現す。
「こーなりゃヤケだね。
毎度ども〜! ウルトラレアチーズケーキ、お待たせしましたー!」
ケーキをおぼんに載せた魅音《みおん》が登場したが…。ぐは!! そうだった、こういう格好だったっけ…ッ!!
「はぅ〜〜!!! 魅ぃちゃんもかぁいいよーー!!!」
「あーもぅ、とんでもない災難だよー! この格好は圭ちゃんにやらせるつもりだったのになぁ!」
「……ま、前原《まえばら》さん、
この格好も並々ならぬものがあります!!
しかも、
普段の部活《ぶかつ》では常勝無敗、完璧鉄壁無問題の委員長の普段の姿を知れば知るほどに、
味わい深さ500%だと思います!!
しかし…天下無敵の委員長ですら、逃れることがかなわないとは、
「なななな!! どど、どういうことっすかKぇぇぇえぇい!!!
二人で同じ器の巨大パフェを突っつきあった仲じゃないっすかあぁあ!!
それなのに俺に内緒でそんな素敵な部活《ぶかつ》をしてたなんてーーッ!!!
納得いかないっす、
こんな部活《ぶかつ》の存在知ってたら、野球なんかやらなかったのにーー!
俺の人生のリセットボタンはどこぉッ?!」
「「「ざわざわざわざわ!!!」」」
「なな、何という部活《ぶかつ》でござるか!!」
「こんな夢のような部活《ぶかつ》は聞いたことないにゃりんんん!!」
「はぅ〜、みんななダメだよ、部活《ぶかつ》は雛見沢《ひなみざわ》に住んでる人しか入れないんだよ〜〜☆」
「「「ななな、なんとぉおおぉ!!!」」」
「こここれはー住民票を雛見沢《ひなみざわ》に移すっきゃなあぁあぁ!!」
ちょい待て、レナにお前ら。
何か、明日には雛見沢《ひなみざわ》の人口が倍くらいに膨れ上がりそうだぞ…。
「しかし…素晴らしい罰《ばつ》ゲームっすよK…!!
女性を美しくする衣装は、例えるならデザートのデコレーションと同じなんす!
ショートケーキだって、
全て剥いてしまえば単なるスポンジケーキに過ぎないんです!! それをクリームで飾り、
十重二十重の美しい装飾が奏でる素晴らしき魅惑のハーモニーは、
目で楽しみ舌で味わい、
ああぁあぁあぁぁ☆!!
然るにこのセーラー服とブルマの組み合わせは素晴らしい!!
本来ならどちらも日常的な学校衣装であり、それはそれで味わいがあるのですが、それはそれで置いといて!
制服と体操服という近いカテゴリーにありながら交わることのなかったこれら衣装を、そうデザートに例えるならまさに苺大福!!
誰もが絶対に合わないと思った組み合わせが、
誰もがの未体験の未知なる味わいを持たせるに至ったのです!!」
「……圭ちゃんってKって呼ばれてるの? この変態と仲良かったんだぁ?」
「全力で無関係を装わせてください…。」
「とああぁあぁああぁあぁあッ!!!」<入江
「ななな、なんだぁあぁッ?!」
空中を舞うように大回転しながら、スタッと美しく着地を決めて現れたのは……か、監督ッ?!?!
「許しません…。許しませんよ前原《まえばら》さん…。」
監督がぎょろりと俺を睨み付ける。
口からは比重の重い白い息が、コーハー、コーハーと吐き出され異様に恐ろしい形相だ。
「なな、許さないって、何が許さないんですか…!!」
「ああああぁあ、あれですよぉおおぉぉおぉ!!」
ドン、
ガン、
ゴン、
ガッシャーーーン!!
監督が絶叫した瞬間に、監督の頭に大中小のタライが次々と多段ヒットし、しかもダメ押しに中華鍋まで振ってきた…!
「まぁ、この格好が罰《ばつ》ゲームになった時点で、多少は心の準備がありましたのよ…。」
「……沙都子《さとこ》のメイドさんは、ある意味、命に関わりますです。」
「はぅ〜〜〜!!! 沙都子《さとこ》ちゃんのメイドさん、かぁいいよーぅ!!! お持ち帰りいいぃいぃ!!」
「それはさせませんッ!! お持ち帰るのはこの私、入江京介です!!」
「だめだよだめだめだめ〜〜〜☆ レナのお持ち帰りを邪魔すると〜〜
はぅ
はぅ
はぅ
はぅ〜!!」
<※語尾のはぅはぅに合わせてHIT音お願い〜※
…レナのかぁいいモードって見掛けによらず容赦ないよな。
お持ち帰りを邪魔するものは、岩なら砕き、河なら埋め、海なら裂いてでも渡るだろう…。おお?!
だが監督もむっくりとゾンビみたいに起き上がる。…レナの超高速弾を全弾受けたのに、立ち上がれるのかぁあぁ!!
「ふはぁはははははははははッ!!! 無駄ですよ効きません!!
ふが、
ぶげッ、
ぐぽらッ!!
無駄無駄無駄です!!
入江は何度でも蘇る、メイドがそこにいれば何度でも蘇る、
それが人類の夢だからだああぁああぁあッ!
ぎゃふ、
ぐへッ、
ぶぴょ!!」
「それでもダメ〜〜、レナがお持ち帰りぃ〜〜〜☆ はぅ〜!!」
監督、痙攣して倒れてるぞ…。今、ド至近でつるべ打ちだったもんなぁ…。
「しっかし……、圧巻な光景だなぁ。勝ってよかったと同時に、負けてたらその一角に俺がいたかもしれないことを思うととても笑えん。」
「まったく悔しいですわね!! いくら罰《ばつ》ゲームも部活《ぶかつ》の務めとはいえ…、こんな格好はあんまりでございましてよー!」
「ちぇー、おじさんの格好に比べたら沙都子《さとこ》の格好なんて、まともな方じゃない。」
「……メイドの格好がまともに見える時点で、みんなただれてると思いますです。」
「ほらほらレナ、いつまでもはぅはぅしてないで席に座れ。負けた連中にサービスしてもらうのが勝者の特権なんだからよー。」
「はぅ〜〜!!! 今日は誰をお持ち帰ろうかな〜〜!! はぅ〜はぅ〜!!」
「そら、ウェイトレスさん、今日のお勧めは何かなぁ?」
「こちらのフルーツパフェはいかがでしょうかー。」
「ただいまシュークリームのセットがお安くなってましてよー!」
「……お水ならいくらおかわりしてもOKなのです。」
こんな壮絶な格好のウェイトレスさんが独り占めできて、レナはさっきから鼻血がぼたぼた出まくりだ。
……というか、レナが取り乱しててくれるので、俺が冷静なふりをできているだけで、本当は俺だって鼻血を出したい気分だ。
というか、鼻の下を伸ばしまくるというのはこういうのを言うんだろうな〜〜えへへ〜〜☆
「ねーねー、梨花《りか》ちゃんウェイトレスさぁん、あ〜〜んやって〜☆」
「……あ〜〜〜んですよ。」
「沙都子《さとこ》〜、俺にもひとつ頼むよ〜〜! あー、魅音《みおん》には肩でも揉んでもらおっかなぁ〜☆」
「あーん、もう悔しいですわねぇ!
ほら! あーん、なさいませー!!」
「ちぇーー! 肩揉みかーー!
おじさんの肩揉みは高くつくからねー!!」
ごくり。……その壮絶な光景に、ギャラリーたちは固唾を呑む。
何しろ、毎回大賑わいのエンジェルモートイベントデーだが、ここまでとんでもない日がかつてあっただろうか?!
どのボックスシートにも4人がぎゅうぎゅうとすし詰めのはずなのに、この一角だけは俺とレナでゆったりと座り、しかも、鼻血で染まりそうなとんでも衣装のウェイトレスさんを3人も、この一角が独占してるんだぞ!!
しかも、肩を揉んでもらうわ、あ〜んはしてもらうわ、挙句の果てにはあれやこれや!! 普段のエンジェルモートでは絶対にありえないことだ。
「……そ、そうでござったか。…この人たちはウェイトレスさんでござったか……。
でで、では、拙者もお冷をひとつお願いしたいでござるよー!」
あまりにうらやましさに、自分たちもあやかりたいと、ギャラリーの1人が魅音《みおん》の肩を叩く。
「あーー、悪いけどおじさん、ウェイトレスじゃないのよ。お冷はあっちにいる本物のウェイトレスにお願いしてくれるー?」
「なな、なんとー!!
ご奉仕はしてもらえんのでござるかー!!」
「…別に私たち、店員さんじゃございませんもの。あなたたちにサービスするいわれなどありませんでしてよー。」
「……ボクも沙都子《さとこ》も魅ぃも、勝者の二人の慰みものなのですよ。……みぃ。」
「「「なな、納得できんーーーーッ!!!」」」
亀田くんたちが突然、絶叫すると俺に食って掛かる。
「納得できんって、一体に何が納得できないんだよ?!」
「Kさんばっかり、
こんなおいしい部活《ぶかつ》が出来て、ずるい
ずるい
ずる過ぎるっすーー!!!」
「い、いやそれは、…俺たちも相応のリスクを払って得た権利だからなぁ。ずるいと言われても…。」
「「ぼぼ、僕たちもずるいと思います!!」」
亀田くんの後ろに富田くん岡村くんも、ポーズを取るようにしながら現れる!
「大体、前原《まえばら》さんが昨日ので優勝できたのは、
僕たちが委員長を背後からやっつけたからですよーー!!!」
「前原《まえばら》さんが負けたら罰《ばつ》ゲームが可哀想だなぁと思って、わざと負けてあげたんです!! 僕たちにもちょっとは感謝してほしいです…!!!」
「………ふふーーん? 何だか面白い展開になってきたねぇ。どうする圭ちゃん?」
「どうするも何も…。俺にどうしろと…。」
「よしよし、亀田くんに富田、岡村。
そこまで言うなら、今日の勝者の権利を賭けて、圭ちゃんとレナに勝負を挑んでみたら?」
「へ? 魅ぃちゃん、それってどういう意味かな、かな?!」
「部活《ぶかつ》メンバーの他の精鋭たちを圧倒的大差で破ったお二人だもんねぇ〜。
こんなメンバーですらない連中なんか束でかかってきても負ける気しないでしょ〜?」
亀田くんが、よっしゃあ!!と手を叩く。
富田くん岡村くんも力強く頷いてやる気十分だ…。
くそ、この場で戦えというのか、こいつらと!!
「そう言えば、圭一《けいいち》さんとレナさんの勝負は、預かり勝負でございましたものねぇ。少し外野が混じるとは言え、ここで優勝決勝戦をされるのも面白いですものねぇ。」
「……もちろん、ここで負ければボクたちと一緒に罰《ばつ》ゲームに加わってもらうことになるのです。」
「…くっそーー! 何かうまいことやられてる気分だが…、レナはどうする。」
「レナは負けないよーー!! だって、みんなみんなレナがお持ち帰りするもん〜〜!! 圭一《けいいち》くんはどんな罰《ばつ》ゲーム服かなぁ〜☆
みんなみぃんな、お持ち帰り〜!!!」
や、やる気満々だな…。
亀田くんも自らの楽園、エンジェルモートで最高のパラダイスを獲得しようと闘志を高めているのが分かる。
後輩二人組みも、初めて部活《ぶかつ》メンバーと戦えるチャンスに、奮い立っているようだ。
「その勝負、この入江京介も混ぜていただきますよぉおぉ!! とお!!!」
「ふむふむ。
よっしゃ! この面子で決定しよう。圭ちゃんもレナも異存はないね?!」
「ちぇ、異存も何も、勝手に話をまとめやがって。」
「まーまー、面白くなった方がいいでしょ? あはははは。」
「富田さんも岡村さんも、やめておくなら今の内でしてよー。分かってると思いますけど、負けたら大変なことになりますのよ?」
「そ、それは覚悟の内です…!」
「僕たちも男なんです!
いつかは戦いたかったんです!!」
普段、恐ろしい罰《ばつ》ゲームを目の当たりにしていながら、よくそこまでの勇気を奮いだせるものだ。…なかなか見所のあるやつらだぜ…!!
その後輩二人組を尻目に、ニヤリと笑うのは……エンジェルモートの魔王、亀田!
「ふっふっふ! まさかKさんと再び戦えるとは思わなかったっすよ。今回は正々堂々正面からぶつからせていただきますよ!!」
「………く、よりによって、エンジェルモートで亀田くんと戦うことになるとはな…。ある意味、野球で戦うより手強い気がするぜ…。」
そんなやり取りをみながら不敵に笑うは、メイド世界の貴公子、入江監督!!
「ふ、……ここは大人の本気というものを見せてあげましょう。
そして!! 今日ここに入江京介のためだけのハーレムを実現させるのですッ!!!」
「あははははは! みんな勝たせてあげないよ〜!! はぅ〜!!」
「…よし!! 俺も覚悟を決めたぜ。いつまでもぼやいていても仕方ねぇや。魅音《みおん》! 勝負は何でやるッ?!」
「くっくっく! そうこなくっちゃあね!
みんな、道を開けて!! ウェイトレスの皆さんー運んじゃってくださいー!!」
厨房の前には、本当のウェイトレスさんたちが、たくさんのデザートをおぼんに載せてスタンバイしていた。
ってことは、……早食い、大食いかッ?!
「……あの、…店長。本当にいいんですか?」
「うんうん、いいから運んじゃってー! 面白いことは何でも大歓迎だよ。せっかくのイベントデーだしね、盛り上がらないとー!」
店長のゴーサインを確認した後、ウェイトレスさんたちが、デザートの配膳を開始した。
俺、レナ、後輩コンビに亀田くん、そして監督が向かい合う。
そしてその眼前には……壮絶な量のデザートが次々に並べられていた。
本来ならデザートを並べてくれるウェイトレスさんの姿に、鼻の下のひとつも伸ばしたい気分だが、……今や臨戦態勢。そんな余裕はゼロだ!!
取り囲むギャラリーたちも今や興奮状態だった。
まさかイベントデーがこんなに大騒ぎになるとは思わなかっただろう。だが何でも構わない! 面白けりゃ何でもOK!
「さぁて、いいかい諸君。制限時間内にどれだけのデザートが食べられるかの勝負だよ。予め各メニューごとに重さは出してあるからね、食べ終わった後に、食べた総重量で勝負をつけよう!」
大食い勝負と聞き、亀田くんがにやりと笑う!
くそ、ますますに亀田くんが有利だな!
「委員長、僕たちはコンビですので、2人で1人の扱いにしてください。」
「ん? あぁいいよ。いっつもコンビだからね。特別に許可しよう!」
うわ、胃袋勝負ならコンビは有利だぞ、くそ!
「レナはどうだ…? やっぱり女の子には胃袋勝負はキツイんじゃないか?」
「そんなことないよ〜〜、かぁいいみんなをお持ち帰りできるなら、テーブルごとだって飲み込んじゃうよう〜!!」
…侮ってたぜ…。かぁいいモードのレナには物理的常識は通用しないんだったな…。
自分の体重以上だって平気で平らげるかもしれん…!
「監督は…、どうですか。大食いは。」
「……前原《まえばら》さん。そこにメイドがいて、それを手に入れるための条件が大食いならば。
私に不可能の文字はありません…!!」
監督はどす黒いオーラで恐ろしい威圧感を滲み出させていた…。
レンズの向こうの眼光は、鉄板だって貫きそうなくらいの鋭さがある!
くそ、かぁいいモードのレナに匹敵する、監督のメイドモードかぁ…!!
くそ、何か俺だけ特技がない予感…!!
「じゃあ準備はいいかなッ?!?! レディー……、GO!!」
心の用意もろくろくできない内に、魅音《みおん》はあっさりと火蓋を切って落とす。
くそ、こうなりゃヤケだ!! 行くぞ! デザートにもいろいろあるからな。食べやすいもの食べにくいもの! だとしたら、一番最初に、有利なデザートを確保したい!!! あれだ、ヨーグルトパフェなんかどうだ?! うおおおりゃあぁあぁあ!!
…だが、当然、同じことはみんな考えているようだった。
スパ、スパパ、スパパパパーン!!!
誰もが同じ器に手を伸ばした時、白い稲妻が閃き、狙ったパフェが掻き消える。
その消えた後の虚空に、伸ばした全員の手がぶつかり合った。
「あははははは、みんな遅いよ〜〜。レナがお持ち帰っちゃった〜。はぅ!」
文字通りの電光石火はレナだった。
くそ、やっぱりなぁ!! 初手でレナに勝てるわけがない!!
レナはまるでハエを捕らえるカエルの舌のようにデザートの器を奪うと、まさにカエル並みの舌で、ベロリベロリと丸呑みにしてしまう!!
器を奪ってから呑み込むまでのあまりの素早さが、普段のしおらしい姿と重ならず、それはそれで恐ろしい。
なるほど、これが女の子のよく言う、デザートは別腹というヤツなのかー!!!
だがエンジェルモートという特殊環境においては、レナに対しても一歩も引けを取らないのが亀田くんだ!!
しかも彼は、フルーツパフェの器を引っ掴むと、まるでビールジョッキを飲み干すかのように、豪快に丸呑みしてしまう!!
何とも漢気溢れる迫力満点の食い方だ!!
「……ぐふぅ。…くっくっく!!
無駄ですよKさん、エンジェルモートでの戦いで、俺に勝てる可能性は1%もないんす!! まだまだ行くっすよー!!!」
そんな超人たちの暴れっぷりを見ても、富田くん岡村くんコンビは焦らなかった。
何しろ二人掛かりなんだからな。
ペースを乱しさえしなければ基本的に早い!
レナや亀田くんは序盤こそ飛ばしているが、中盤以降、息切れするようなことがあれば、勝負はわからないぞ…!!
畜生、俺も負けてられないぜ!!
内角からえぐり込むように、
食うべし、
食うべし、
食うべし!!
あうあうあぅ! くそ、アイスの丸呑みをやると、口ん中がとんでもない冷たさだ!! レナたちはよく平気だなぁ! ……ん?
そうだ。解かせばいいんだ! 熱で解かして一気に飲み込めばいい!
しかも冷たさがなくなればお腹も冷えにくいから、長丁場にも都合がいいはず!!
で、でも、どうやって溶かせばいい?! 体温で解かすには気が遠くなるし、温かいものはないし…。
「すみませんウェイトレスさん、注文をいいでしょうか。
ホットコーヒーをお願いします。できれば器は鍋だと助かります。」
「う、監督……!!」
「甘いですよ前原《まえばら》さん。熱で解かすなんて手、私だって思いついていました。」
あぁあぁ畜生〜!! 監督にやられた…!
もちろん今から俺もコーヒーを頼んだっていい。
でもそれじゃ駄目なんだ。
監督よりもはるかに早い別の手を考えなくてはッ!!
■レナの目線(以後、文字は紫で)
※以後、レナ目線の時は紫文字
「クールになれ前原《まえばら》圭一《けいいち》、
考えるんだ、
考えろぉぉぉ!!」
圭一《けいいち》くんが、いつもの口癖を言いながら頭を抱えて仰け反った。
あーなった時の圭一《けいいち》くんは、考えてることをそのまま口にしてくれるので聞いててとても面白い。
おおっと、私も負けてられないぞーー!!
食べて食べて食べまくって、かぁいいのはみぃんなお持ち帰り〜〜!!!!
あはははははは…☆
ものすごく楽しかった。わくわくで胸の中がはちきれんばかりだった。
確かに今の私は、いわゆる可愛いらしくない振る舞いをしちゃってるけど、……でもすっごく楽しいから何も気にならなかった。
次々ととんでもない遊びを考え出す魅ぃちゃん。
そして、いたずら盛りの沙都子《さとこ》ちゃんに、
抜け目ないけど憎めない梨花《りか》ちゃん。
そしてにぎやかで本当に面白い圭一《けいいち》くん。
日々が本当に楽しくて。幸せって一言で言い表すのがとっても惜しいくらいで。
こんなに日々が楽しくていいのかなって、不安になることがある。
世の中には、楽しいことや幸せなことと同じ数だけ、辛いことや不幸なことがある。
しかもそれらは、本人の努力や苦労と何の関わりもなく訪れることを、私はよく知っている。
特に何の苦労をしなくても、楽しい日々は訪れる。
特に何の苦労をしなくても、不幸な日々は訪れる。
でも、だからといって、何の苦労もしなくていいわけじゃない。
楽しい日々が一日でも長く続くように、楽しい日々がより楽しい日々であるように。私は努力することができる。
そして同じように。
不幸な日々が一日でも短くなるように、不幸な日々が少しでも辛くなくなるように。私は努力することができる。
だから、今の幸せな日々を私は精一杯享受しよう。
幸せな日々が永遠に続くなんて、甘えちゃいけないんだから。
本当に。…ある日、突然、本当に。
そんな日々が終わってしまうことを私は知っているのだから。
だから例え、……明日、世界が終わってしまうとしても。私はその瞬間に何の後悔もないくらいに、今日の幸せを享受しよう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか私の手は止まっていた。
部活《ぶかつ》の仲間《なかま》たちと過ごす楽しい日々が、…もう胸がはち切れそうになるくらいに幸せ。
だから私は罰《ばつ》ゲームだって大好き。
それすらも楽しい時間。
私の仲間《なかま》がいる。
私の居場所がある。
私が私でいていい瞬間がある。
私が大好きな自分が、ここにいる。
みんな、大好き。
魅ぃちゃんも沙都子《さとこ》ちゃんも梨花《りか》ちゃんも、圭一《けいいち》くんも。クラスのみんなも、興宮《おきのみや》の人たちも、みんなみんな大好き。
「おおおお?! レナの手が止まったね! さすがにあのペースじゃ長続きしないかなぁ?!」
「チャンスだよ岡村! 今こそ竜宮《りゅうぐう》さんを抜かすんだー!」
「無駄
無駄
無駄ああぁあ!!
エンジェルモートでこの俺に勝とうという時点で、
蜂蜜杏仁豆腐より甘いぜええー!!」
「レナさんしっかりしてくださいましー!! 監督を勝たせたら承知しませんですことよー!!」
「くっくっく!! 私は負けませんよ! 飲めと言われれば太平洋だって飲み干してみせましょう〜!!」
「どうしたどうしたレナぁ! 見てろ、ここからいよいよ圭一《けいいち》さまの
逆転劇の始まりだぜぇ!!
なぁみんなッ?!?!」
「「「おおおおおぉおおぉぉ!!!」」」
「……レナ、どうしましたですか?」
私は席を立つ。
「あはははは、ごめん。ちょっとお手洗い行ってくるね。」
もう楽しくて楽しくて胸がいっぱいで。
別に勝敗なんてどうでもよかった。
いや、もちろん勝ち負けにこだわって私も大暴れした方がよりいっそう楽しいのだけれど。
もう今日はこれで十分過ぎるくらいだった。
この幸せを結晶にして取っておけるなら。例えひと欠片でもいいから、私のポケットにしまっておきたい。
そして、いつかきっと訪れるだろう、辛い日々の寒さを耐えしのぐわずかの暖になってくれればいい。
……………そろそろ自分でもわかっていた。
幸せを幸せと感じることは、実は幸せなことではない。
本当に幸せなのは、……幸せな日々に飽食し、幸せであることを自覚すらしないこと。
幸せを感じてしまうのは、……凍てつく寒さの中にいるからこそ。
だから、わずかの温もりに心を奪われてしまうのだ…。
お手洗いに行く途中、レジ前でウェイトレスとお客が何か言い合いをしているのが見えた。
お客は成人の女性。
ウェイトレスは今日はイベントデーなので、チケットがないと入店できないと説明しているのだが、女性は、そんなこと一言も聞いていないの一点張りでごり押ししようとしていた。
やがて、見かねて店長が中に入り、平謝りを始めていた。
「……まったく。チケットないなら入れないって表の見えるところにちゃんと張り紙しといてよね。ぶつぶつ…。」
その悪態をつく女性と、目が合った。
声を聞いた時に、あるいはそうかなと思っていたので、心の準備が出来ていた。
「……………あら。礼奈《れいな》ちゃんじゃない? こんなとこで会うなんて奇遇よね。」
「あ☆ どうもこんにちは〜! あはは、こんなとこで会うなんて、ホントに奇遇ですよね。」
てい☆、と言いながら手を差し出すと、向こうも手のひらを出してくれたので、互いにパチンと手を打ち合わせた。
「聞いてよ礼奈《れいな》ちゃん。ひどいのよ、今日はチケットがないと入れないとか言うのよ。」
「あはははははは、そうみたいですね。」
「…まぁ仕方ないわね。ねぇ、お店には入れなくても、おみやげにケーキくらいは売ってくれるんでしょ?」
「えぇ、それは問題ございません。ささ、どうぞ、こちらからどれでもお選びください。」
店長さんが愛想笑いをしながら、ケーキのショーケースへ案内する。
「私は、この可愛らしいのにしようかしらね。あの人はショートケーキみたいな地味なのが好きだったっけ。ねぇ礼奈《れいな》ちゃん。あなたはどれがいい?」
「え、私ですか?! いいのいいの? はぅ〜〜☆」
「あははは、本当にこういうのに目がないわねぇ。どれでも好きなのを選んでいいわよ。」
「えっとえっとー! じゃ、………うーーーん、…………。……あはは、私もショートケーキでいいです。」
「あらぁ。他にもこんなに可愛らしいケーキがたくさんあるのに?」
「あははははは、何だかとっても迷っちゃうけど、…こういう時はショートケーキが一番おいしそうに見えるんです。はぅ。」
「そう。じゃ、ショートケーキを2つとプチトリアノンを1つ。お持ち帰り〜☆でね。」
彼女は私の口癖を模倣しながらにっこりと微笑んできた。
私も、同じくらいの笑顔でそれに応えたのだった。
その時、彼女の強めの香水が私の鼻を突き、突然のくしゃみに襲われる。
「あら、風邪?」
リナさんの香水とは、どうも相性が悪いようだった。
■幕間
TIPS
2■名刺
☆リナ☆
身長168cm B89W60H87
趣味:最近は室内ガーデニングに興味があって、目標は手作りハーブで紅茶を飲むこと☆
「いっつも楽しくて為になるお話をいっぱい聞かせてくれてありがと〜☆ 今度お店に内緒で一緒にどっか遊びに行こうね☆」
紳士倶楽部 ブルー・マーメイド
専属マネージャー 間宮リナ
※圭一《けいいち》目線に再び戻りますので白字に戻して。
■2日目夕
「……少なくとも、3日くらいの間は甘いものを見たくないぜ………。うぐぐ……。」
「あはははははは、圭一《けいいち》くん頑張りすぎだったもんね。」
あれだけ飛ばしまくっていたレナが、どうして平然としていられるのか不思議でならないぞ…。
「女の子には胃袋が4つくらいあるんじゃねぇか…? デザート用に、確実に1つは余計にあるに違いない…。」
「まぁ、レディに何たる暴言ですのー!! そんなこと言う圭一《けいいち》さんにはこうでございますことよー!」
ぶよん。……ぐふぅ!
俺の膨れ上がったお腹を沙都子《さとこ》が突っついてくる。
「げふ!! やや、やめてぇぇ! お腹は押さないで〜!! 中身がはみ出るぅううぅ!!」
それを聞いて沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんが、にまぁ〜と笑う。…背筋に悪寒。
なぜ沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんが、にやにや笑いながら両手をワキワキさせながら近付いて来る?
「おわぁあぁ、やめろお前ら、血とか涙とかはねぇのかよおお!!」
「ほっほっほー!! 千載一遇のチャンスを見逃す私と思いましてー?!」
「……み〜☆
圭一《けいいち》の膨らんだぽんぽんが大変なのですよ〜。」
「あははははは、圭一《けいいち》くんのぽよんぽよんのぽんぽん、かぁいいよ〜ぅ☆」
「や、やめろお前ら…!!
わふ、ふぎゃぎゃーー!!!」
いつの間にやら沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんの悪ふざけにレナも加わり、俺たちはエンジェルモートの表に出ても、まだはしゃぎ続けているのであった。
必死になってカバーする俺のお腹を、誰かが後ろから不意打ちしてくる。
「おわあああぁあ!! だだ、誰だぁ!!」
「はろろ〜ん。圭ちゃんとその愉快な仲間《なかま》の皆さん、こんにちはです。」
「あーー、詩ぃちゃんだー。こんにちはー。
あれれ、今日はお店にいなかったよね?」
「私、今日は夜のシフトなんです。さっき来て着替えたばかりですよ。」
「それはそうと、………お前、よくその格好で店の外に出られるなぁ。」
「大したことないですよ。あられもない姿で村中を練り歩いた誰かさんよりは恥ずかしくないです。」
……グサ!!
……うぐぐぐぐ……ようやく忘れかけていたのにぃぃいぃ…! もうお婿にいけないよぉおぉ…。
「それはそうと、今日は皆さん、だいぶ大暴れしたらしいですねぇ?」
「あははははは、まぁね〜。いつもの部活《ぶかつ》になっちゃった以上、……ね!」
「店内、とんでもないことになってましたからね…。お姉も責任を感じたようで、みんなに混じって掃除をやってます。」
「…やっぱり私たちも掃除に加わった方がよかったんじゃありませんの?」
「あー、それはお気遣い無用です。さすがにお客様に掃除はさせられませんから。」
「……そもそも、一番散らかしたのは魅ぃ本人だと思いますです。」
うんうん。みんなで頷きあう…。
「それでお姉から伝言です。皆さんは先に帰っててくれていいそうです。」
「いいよ、待ってるよ。ね、みんな?」
レナが当然のように言う。
俺たちにとっても当然のことだった。俺も沙都子《さとこ》も梨花《りか》ちゃんもうんうんと頷く。
「手伝えないなら、せめて終わるのを待ってるよ。帰っていいからって言って、先に帰ると、あいつ寂しがると思うからなぁ。」
「ほーーー…。圭ちゃんも日進月歩、少しは成長するんですねー。」
「あははははは、まぁね! レナたちがちゃんと教育してるからね。ね〜〜!」
「ですわよー!」「にぱ〜☆」
「な、何だよ、こういう時だけ女共は結束しやがってー!」
女ってずるいなぁ、何で性別が同じってだけでこうも簡単に結束できやがるんだ!
結局、詩音も巻き込んでまた一騒ぎしてしまうのであった。
「詩音、あんたいつまでサボってんのー! 雑巾どこやったのー!」
「ありゃいけね。じゃあ私はもう戻りますね。」
「魅ぃちゃ〜〜ん! お掃除まだまだかかりそうー?」
「え? 何、みんな!
おじさんを待っててくれてるわけぇ?! よけーな気ぃ遣わなくていいって! まったくもー!」
ものすごい嬉しそうな顔してやがるくせに、口を開けばこうだもんなぁ。
たまには素直にありがとうって言えんのかこいつは。
「バカ、仲間《なかま》だろ。終わるまで待っててやるよ。」
「レナたちも一緒にお手伝いできればいいのにね…。ごめんね。」
「だからいいって! 今日ね、詩音の仕事終わるの待ってから久しぶりに興宮《おきのみや》の家に帰ることにしたの。だから本当に大丈夫。気持ちだけでも感謝するよ。」
「…あら、本当にいいんですの? 何だか悪いですわねぇ。」
「うん。何か悪い気がするかな、かな。」
「人は大勢いるから大丈夫だよ。風が冷たくなる前にみんな雛見沢《ひなみざわ》に戻りな。」
「……わかりましたのです。
魅ぃ、お掃除、ふぁいと、おーです。」
「おー! ありがとね。
じゃ圭ちゃん。お嬢様方のエスコートをよろしく。途中で刺客に襲われないように、しっかり護衛するんだよ。」
護衛が必要なお嬢様がどこにいるってんだ。…俺の方が護衛されたい気分だぞ。
でも、とりあえず最後に5人が顔を合わせられたので、ちゃんとお別れして今日を終わらせることができた。
「じゃあねーー魅ぃちゃーーん! また明日ねー!」
「おーぅ! また明日ねー!」
「よっしゃ、行こうか!」
俺たちは魅音《みおん》の姿が店内に消えるまで手を振った後、それぞれの自転車にまたがり、興宮《おきのみや》を後にした。
道中ではみんな、今日の大騒ぎの話で持ちきりで、みんな興奮が未だ覚めていないようだった。
今日の大食い対決から、その後の阿鼻叫喚の罰《ばつ》ゲーム大会、そしてさらにお客全体を巻き込んだとんでもない空前のイベントへと発展し、……もう何から何までが滅茶苦茶。
最初はおろおろしていたウェイトレスさんたちも、だんだん楽しくなっていったのか、最後にはお店全部で盛り上がったのだった。
「でしたのよね!! その時の富田と岡村ったら、もうおかしくてたまりませんでしたわー!」
「……結局、亀田も入江もかわいそかわいそだったのです。」
「いやいやしかし! 俺の演説もなかなかだったろ?! あの時は店全体が俺の味方だったよなー!!」
「……圭一《けいいち》は、生まれる時代と国が違ったら、ひょっとするととんでもない人になってたかもなのです。」
「こんな口先男がですのー?! どこの国に生まれても、ロクな人間にならないと思いますでございますわねー!」
「……あと100年も早く生まれていたら、お札になっていたかもですよ。」
「圭一《けいいち》さんのお札なんて、何だか貧相しいですわねー! きっと、200円札とか300円札とか、そのくらいの価値でしてよー!」
沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんは、きゃっきゃといつまでもしゃべり続けているのだった。
俺はほんの少しだけはしゃぎ疲れ、二人のおしゃべりを黙って聞いていた。
気付けば、少しずつ風が涼しくなってくる。いつの間にか影も長くなり始めていた。
沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんはまだまだはしゃぎ足りないみたいだけど、…レナはどうかな?
さっきから静かだな。
ひょっとして、食べすぎでお腹が痛いんじゃ。そう思い、レナを見る。
だが、それは杞憂だった。
レナは、……なんて形容すればいいんだろう。…とても、満ち足りた顔をしていた。
今日一日が、本当に楽しくて楽しくて仕方がなくて。
今日一日が幸せで幸せで仕方がなくて。
……そういう気持ちが、口を開かずとも伝わってくるような表情だった。
そんなレナの表情を見ていると、…俺も今さらのように、今日一日が、ただ楽しかったの一言で片付けてはいけないことに気付く。
「……今日一日、本当に楽しかったな。」
「うん。…圭一《けいいち》くんは?」
「俺も最高に楽しかったよ! 今日みたいなことが、明日や明後日もあればいいのになってくらいにさ。」
「それはレナも同じかな。今日のお店の中での時間だけが、永遠だったらいいなって思った。」
「ほぉー、詩的なことを言うなぁ。」
「圭一《けいいち》くんは、思わなかった?」
レナは茶化されたことにも気付かず、素で返す。
デリカシーのないことを言ってしまったかもしれない。ちょっと後悔する。
「いや、俺も同感だよ。」
「でもね、圭一《けいいち》くん。別に今日だけが最高に幸せってわけじゃないんだよ?」
涼しい風に、ふわっと髪をなびかせながら。
レナはとても大人びた表情で俺に笑いかける。…その仕草にちょっとどきっとした。
「私たちの雛見沢《ひなみざわ》での日々は、どの一日だってかけがえのない大切で素敵な、幸せな一日なんだよ。
例え、部活《ぶかつ》がお流れになっちゃって、退屈《たいくつ》な一日だったとしても、ね。」
「……レナは大人な考え方ができるんだな。」
「あはははは、そんなことないよ。本当はまだまだはしゃぎ足りない。興奮がまだ覚めないだけなのかもね。」
レナがくすっと笑ったので、俺もつられて笑った。
それを沙都子《さとこ》が、自分の悪口で笑ったように聞こえたらしく、俺にやたらと突っかかってきた。
あとはまた、いつもと同じ、騒がしい時間だった。
「……では、ボクと沙都子《さとこ》はここでお別れなのです。」
「梨花《りか》、もう少しご一緒して、タバコ屋さんで曲がってもいいではありませんの?」
「……豆電球が切れたのを忘れましたですか。豆電球がないと、寝る時に真っ暗になってしまいますですよ。」
「そ……それは困りますわね。」
「あ、牧野さんの雑貨屋さん? ならここでお別れだね。これ以上、行っちゃうとどんどん遠回りになっちゃうからね。」
雑貨屋さん……? …あー、…思い出した。
なるほど、あそこに寄って神社に帰るなら、ここで曲がらないと偉い遠回りになるな。
「そっか。じゃあな、梨花《りか》ちゃんに沙都子《さとこ》。また明日な。」
「……また明日なのです。」
「それではですわね! 圭一《けいいち》さんにレナさん。」
「うん、じゃあね二人とも。ばいば〜〜い!」
梨花《りか》ちゃんと沙都子《さとこ》は、何度も手を振ると、田んぼの中を貫く細い道をぴゅーっと走り抜けて、あっという間にその姿を見えなくしてしまう。
騒々しかった二人がいなくなると、急に静かになる。
ただそれだけのことで、太陽が急に傾いて夕方になったような錯覚があった。
■レナとの帰り道
前原《まえばら》屋敷なんて勝手な呼び名が付けられている我が家が見えてきた。
ずっと興奮状態だったので気付かなかったが、実際のところ、俺は食い過ぎで腹が今にもパンクしそうだった。
……というか、お腹から穏やかならぬ雷鳴が聞こえるような。
バッドなコンディションに気付くと、やっぱりあれだけ大騒ぎしたツケが体に回ってきているのが分かった。
こんな状態じゃ、多分、夕飯をろくろく食べられないだろうなぁ。
お袋が夕飯を作り始める前に、食いすぎであることを白状した方がいいかもしれない。
…というか、多分、帰宅したらトイレに直行だな。
……ううぅ、ぐるぐるきゅーきゅー、穏やかならぬ音がお腹から聞こえるぞ。
そして、俺とレナが毎朝出会い、そして毎日別れる場所までやってくる。
「今日はすっげぇ楽しかったな。」
「うん。すっごい楽しかった。
……あれ、圭一《けいいち》くん、具合悪いの?」
「なはははは……。すまん、お腹を壊したかもしれない。大人しく休むことにするよ。」
「あはははは、圭一《けいいち》くんもまだまだお腹の鍛え方が足りないかな、かな。」
「…レナだって俺と同じくらい食べてるはずなんだぞ? 一体、その細っこい体のどこにあれが収まるってんだ。」
「うふふふ、それはその、…女の子の秘密《ひみつ》、ってことで!」
レナはくすくすと笑って誤魔化す。
これ以上を深く突っ込むと、多分、殴って誤魔化されるに違いない。
今、殴られたら中身がはみ出しかねないな…。なのでそれ以上の追求はしないことにする。
「じゃあな、レナ。また明日な。」
「うん。また明日ね。」
「俺さ、前は都会に住んでたわけだけどさ。」
「うん?」
「こんなにも一日一日を楽しいと思って過ごしたことはなかった。……俺、雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してきてさ。…きっと、幸せなんだって思う。」
「レナも同じだよ。ほら、私も一年前に雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してきたわけだけど。こんなに楽しい、幸せな日々を送れるのが信じられないもの。」
「そっか。なら明日も絶対に楽しいな。」
「そうだよ。昨日も今日も楽しかったんだもん。
きっと明日だって楽しいよ。」
「こんなにも毎日が楽しいと、何だかある日突然転びそうで怖いよな、あははは。」
「…転ぶ時はどんなに注意してても転ぶよ。
だから、いつ転んでもいいように、思いっきり今を楽しむのが正解だと思うな。」
「そうだな。今を精一杯楽しむのが正解だな!」
「じゃあね、圭一《けいいち》くん。おばさまとおじさまにもよろしくね。……さて、レナはまだまだ遊び足りないから、はぅ! また宝の山に宝探しに行こうかなぁ!」
「まぁだ遊び足りないってのか! つくづくタフなやつだなぁ…、負けたぜ。」
「どう? 良かったら圭一《けいいち》くんも一緒に来ない?
新しい山があってね、まだ全然発掘してないのー!
何かとってもかぁいいのが見つかるかも!」
「悪いけど、俺はパスするよ。それに何だか雲が重たくなってきたみたいだしな。レナも今日は大人しく帰宅した方がいいんじゃないか?」
「はぅ、こういう素敵な気分の日にはね、きっとかぁいいのが見つかるんだよ。だからちょっとでも行ってみるね。えへへへ…☆」
俺はたまたまお腹の調子が悪いから遊ぶ元気がないだけで。もし体調が万全だったなら、きっとレナと一緒に宝探しに行っていたと思う。
俺がそうであるように、レナもまた、今日の楽しい一日の余韻がまだまだ残っていて、帰るのが惜しいに違いない。
「わかったよ。じゃな! かぁいいのがあったら、ぜひ見せてくれよなー!」
「うん! じゃあね! ばいば〜〜い!!」
■レナの視点(※さっきと同じ、これ以降は紫文字で)
圭一《けいいち》くんは名残を惜しむように、何度も手を振り替えしてくれた。
そして、そのまま姿が見えなくなる。
さぁ、私も行こう、宝探しに。
レナはかぁいいものが大好きなんだから。
こんなにも素敵な一日だったんだし、きっと今日はいいことがあるはず。
なかなかお目にかかれない素敵な宝物が見つかるに違いないんだ。
私は自転車を強く漕ぐ。
自分の家はすぐそこだけど、そっちへ行かず、ダム現場へ降りていく方の道へ向かった。
でも、ひょっとすると……、帰ってもいいのかもしれない。
でも、それを確認するために戻って、姿を見られたりしたら嫌だった。
だって、今日はこんなにも楽しい日だったんだから、最後の最後まで楽しい気持ちのままでいたかったのだ。
夕方ではあったけど、暗くなるのが少し早く感じた。
圭一《けいいち》くんの言った通り、曇天の空はいつの間にか鉛色になっていていた。
雷鳴のひとつも聞こえたら、激しい夕立になるかもしれないなと感じた。
「……でも別に、だからって家に帰れるわけじゃないんだし。」
だめだよ私。
せっかく今日があんなにも楽しかったんだから。
最後の最後まで楽しく過ごそう。
私は幸せ。
毎日がとても楽しい。
ほらレナ、言ってみよ、いつもの魔法の言葉。
「…………は、……。………はぅー…。」
自分のことを馬鹿《ばか》みたいって思っちゃだめだよ。
ううん、むしろ馬鹿《ばか》の方が日々は楽しいのかもしれない。
なら私は、進んで馬鹿《ばか》になりたいのだから。
「…はぅ〜☆ かぁいいのあるかな、かな! お持ち帰り〜!」
よし言えた。
きっとかぁいいの見つかるよ。
私が可愛いと信じれば、何だって可愛く感じられるんだから。
ほら、今日や昨日の楽しかったことで心を満たそう?
そして明日や明後日のもっと楽しいことで夢を膨らまそう?
いつの間にか、私はダム現場のゴミ山の前にまで来ていた。
自転車を止めると、スクラップや粗大ゴミで出来た山の斜面を下っていった。
ここは、私の城だ。
このゴミ山には、信じられないくらいに誰も訪れない。
今日までの長い時間、ここで何度も過ごし、人が通りかかったことなど何度もなかった。
確かに、ここは村の死角だ。
ダム戦争の頃には大いににぎわったそうだが、終わってしまえばまさに廃墟。
村人の日々の生活にとって、ここは通る必要もない、忘れられた場所だったのだ。
ゴミを捨てるトラックは深夜に来るらしく、少なくとも私自身は実際に投棄するところを見たことはない。
新しいゴミの山でも増えていれば、少しは退屈《たいくつ》しのぎになるのだが。
……ここしばらくは、山が増える気配はない。
私はゴミ山の斜面をどこまでも降りて行き、出来上がった山の裏に回りこんだ。
こんなところには誰も来ない。
ずっと長いことここで過ごしたけど、誰にもこの場所をいじられたことはない。
クラスメートの小さい子たちですら、ここには近寄らないのだ。
彼らの世界では、ダム現場監督のバラバラ殺人でバラされた腕が、この山のどこかに隠されていると信じられており、ここは呪われた場所なのだと言う。
何でも、片腕のない亡霊が未だここを彷徨い、隠された腕を捜しているのだとか。
そんな気の利いた亡霊にも、残念だけど一度も出会ったことはない。
怖くなんかない。
むしろ現れてほしいくらい。
見つからない腕を、私も一緒に探してあげてもいいし。
一人ぼっちで寂しかったなら、私の話し相手になってほしいし。
スクラップの山の中に、ワゴン車が埋まっている。
タイヤがなくなっていることを除けばほぼ原型を留めていた。
この車が私の秘密《ひみつ》の隠れ家だった。
スライドドアと後部ドアは残念ながら開かない。
だから、ちょっと面倒だけど、助手席から入って、後ろのスペースに入る。
もちろん、靴は助手席で脱いでからあがるんだよ。
一見、汚らしい廃車《はいしゃ》だけどそれは外側だけの話。
中は私がお掃除したりお手入れをしたりしたので、とてもきれいだった。結構、苦労したんだよ?
後部座席は邪魔だったんで畳んで小さくしてある。
そして広くとったスペースに、前にゴミ捨て場で見つけたマットレスを拾ってきて敷いたの。
でもそのままじゃ何か嫌だったから、うちからシーツを持ってきて被せてた。
これに、お気に入りのクッションをいくつか並べれば、ほら、素敵な私だけのベッドの出来上がりだった。
クッションやぬいぐるみ。
それだけじゃない、ほら。えへへ、お菓子だって蓄えてあるんだよ。
今は、4色のフルーツキャンディの袋と、あ、これはもうだめだね、ビスケットがあったけど、湿気っちゃっている。
クマさんの水筒は今は空っぽ。
ここで過ごすことに決めた日曜日には、この水筒に甘い紅茶を入れて持ってくるの。
ちり紙とか懐中電灯、予備の電池、その他諸々の日用品もささやかな程度だけど用意してあるんだよ。
それから、ここで過ごす時の時間つぶし用に、文庫本もほんの2〜3冊ほど用意したの。
そうそう、もっと驚くのはこれ。何だと思う? ほら、カチリ。
ほのかな灯りが隠れ家の中を照らす。それは電気スタンドだった。
工事事務所跡の一角に、剥き出しの電源コンセントが生えている。
電気なんか来てるはずがないだろうなと思ったらびっくり。
なんとちゃんと使えたのだ。
それで私は延長コードの束がどっさり捨ててあったのを見つけたとき、これを全部つないで延長すれば隠れ家までひっぱれるかな、と思った。
快適に過ごせて、お菓子にお気に入りの本、そして灯りまである。
その気になれば、きっとここに泊まることもできるに違いない。
…もっとも、夜は涼しすぎるから、風邪をひくかもしれないが。
あははは。ね、ちょっと素敵な隠れ家でしょ?
最初の内は、誰かに見つけられていたずらとかされたら嫌だなと思ってたけど。今日までにこの隠れ家がいたずらされたことはただの一度もない。
だって、誰も近付かないし、誰もがこの場所のことを忘れてる。
だから、ここは本当に私だけの秘密《ひみつ》の隠れ家なのだった。
幸い、今日はいっぱい食べたからお腹は全然空かない。
友達の家で遊んでて、夕食までご馳走になったと言えばいいだろう。
だからここでゆっくりと時間を過ごそう。
そして思い切り自分にやさしくしてあげよう。
昨日の水鉄砲大会がものすごく楽しかった。
圭一《けいいち》くんとの一騎打ちはハラハラしてとても興奮した。
今日のエンジェルモートでの大騒ぎもものすごく楽しかった。
あんなに大勢での悪ふざけはしたことがない。
きっと今夜、夢に見てしまうくらいに楽しさの余韻が残っていた。
だから。そんな幸せな気持ちを少しでも大切にしたかった。
だからここで私にやさしくしよう。
窮屈な靴を脱いで、思い切り足の指を広げよう。
そして、私が私でいられる時間を大切にしよう。
「んんんんんん………ん。」
靴を脱いでくつろいでしまったら、やっぱりもう一度靴を履くのがおっくうになってしまった。
今日は一日大騒ぎして疲れたし。宝探しは今度でもいいや。
薄暗くなってくるに従い、電気スタンドの灯りが心強くなり、影の色をどんどんと濃くしていく。
ちょっと暗くなるのが早過ぎるかな。
……そう思った時、屋根《やね》を雫が叩く音が、散発的に聞こえ始めた。
…パタ。……パタパタ、…パタパタパタっと。
音の感覚が軽やかに早くなり始めたと思った時には、遠雷の音とともに土砂降りになっていた。
どんな土砂降りになってもこの中は別世界。
だってここは、私の城なんだから。
少しだけ肌寒さを感じ、私は畳んである大きめのブランケットを広げて、それに包まった。
誰も知らない、私だけの匂いのするところで、こうしてひとりぬくぬくしていると。土砂降りの中にひとり取り残されたって、不思議な安堵感があった。
むしろ、雨すらも、この城を外敵から遠ざけてくれているような気がして、愛おしく感じる。
小さな幸せが、ここにはいっぱい。
私だけのお気に入りがいっぱい。
だから、ここにいる時の私は幸せ。
……もう一枚、ブランケットを重ねると、もうお布団の温かさと同じ。
私は、スクラップの山の鉄板たちを叩く、雨粒の打楽器の心地よい音に、次第にまどろみへ誘われていく。
ここはガラクタの山の城。
ガラクタたちは誰にも必要とされなくなって、ここへ集まってきた。
だから、ここは彼らの国。
誰からも必要とされないものたちが集う国。
だから、私はここにいてもいいんだという気持ちと、……いや、ここは私の仮住まいに過ぎず、私には戻るべき場所があるんだという気持ちが入り混じる。
……だめ。こういうことを考えちゃいけない。
ここが私の居場所でないと気付いた時。
……私はとてつもなく不清潔なゴミ山にいることを思い出してしまうのだから…。
もう少し、まどろみを深くしよう。
…考えることは毒。
私の中のやさしい私が、いつまでも純粋なままでいられるよう、毒に浸さないであげたい。
もう少し。もう少し、まどろみを深くしよう……。
■アイキャッチ
■レナの回想
2日目-4
母は、とても忙しい人だった。
がむしゃらに働いて、評価されては新たなステージが開かれる。
そうしてどんどん高みを目指していく母は、いつも輝いていて、私の憧れだった。
母は元々は興宮《おきのみや》にある小さな衣装メーカーのデザイナーだったそうだ。
父も同じでデザイナー。
二人は職場で出会い、結婚した。
初めは興宮《おきのみや》の小さなアパートで暮らしていたが、母が私を身篭ったのを機に雛見沢《ひなみざわ》の祖母の家、つまり今の家へ引っ越したという。
そして私が小学校に上がる直前までをそこで過ごした。
思えば、この頃が一番幸せな時代だったのだ。
毎日が幸せで、今日と同じ幸せが必ず明日もあると信じて疑わず。
幸せであることが当たり前で、それを感じることもないくらいに。
毎日が幸せだった。
当時は小さかったからよく知らないのだが、両親の勤めていた会社が経営不振に陥ったという。
そんな中、母と何人かの若手デザイナーが会社を見限って独立しようなんて話になったらしい。
……それで、何だか込み入った話になって、いろいろとあった挙句、母たちは茨城にあるもっと立派なデザイン事務所に引き取ってもらえることになったらしい。
事業提携とか業務提携とか、よくわからない言葉を当時たくさん聞かれたが、要するに茨城に引っ越したいということだった。
母たち若手デザイナーは、経験豊かで才能溢れる即戦力として新しい会社でも大いに期待されていたという。
だが、それには父は含まれていなかった。
父には残念ながら、母ほどの溢れる才能はなかったのだ。
だから、茨城へ引っ越すことは、父がデザイナーを廃業することも意味していた。
母は、新しい会社では相当期待されているらしく、責任あるプロジェクトを任される約束になっていた。
溢れる才能と情熱をこんな田舎で冷めさせたくない。
母はそう言って父を説得し、父もまた、母がさらなるステージで活躍することへの応援の意味も込めて、退職と引越しを決めた。
あの頃の自分にとって、引っ越しは親しい友人たち全てと会えなくなることを意味していた。
幼い私は、引越しを嫌がりわんわん泣いたという。
引っ越した後、母は新会社でのプロジェクトを見事に開花させた。
母は元々、リーダーシップを取るのが好きな溌剌とした性格だったから、さぞや新天地で存分に活躍しただろうと思う。
毎晩帰りが遅かったし、休日なんてまったくないように感じた。
何らかの企画が近付くと泊り込むことも少なくなかった。
でも、帰ってくる母は常に充実していて、雛見沢《ひなみざわ》では一度も見たことのないような素敵な笑顔を浮かべていた。
そんな母はとても輝いていて、なれるものなら、自分も将来、母のように輝きたいと願っていたのを思い出す。
逆に、父のほうはあまり冴えなかった。
父をデザイナーとして雇ってくれる会社は見つからず、結局、ただの事務手伝いとしていくつかの小さな会社を転々とした。
それまで培ってきたことが何の役にも立たず、父にとっても引越しは辛いものであったと思う。
でも、父は母の良き理解者であってくれた。
ますますに責任あるプロジェクトを任され、多忙を極めていく母に代わり、家事を勤めるようになった。
掃除や洗濯、私の学校行事への参加などをがんばって勤めた。
料理だけはどうしてもできなかったらしく、ご飯を炊くことは出来ても、おかずはいつもお惣菜屋さんで買ってくる冷めた揚げ物ばかりだった。
そんな食卓で、私と父だけで食事をする夜がだんだんと増えていた。
お母さんはまた忙しいんだね。
そう言うと父は決まって、お母さんはとてもがんばっていて大変なんだ。
だから礼奈《れいな》も、一緒にお母さんを支えてあげような。
そう言った。
私は、料理を手伝うことにした。
お父さんが料理だけは苦手だったから、私が得意になればちょうどいいと思ったからだ。
母が台所に立つ時に積極的に手伝い、お料理を習ったものだ。
母は忙しくて手料理を作る時間に恵まれないことを謝りながらも、私が母の料理を継承してくれることを喜んでいた。
あの頃、学校の文集には、将来は母のような洋服デザイナーになりたいと書いたと思う。
だが、……私には母のような非凡なセンスはないようだった。
センスは習うものではなく、生まれついて持っているものとよく母が言っているのを聞いていた。
…だから、あぁ、私はデザイナーとしては母には近付けないんだなと落胆したのを覚えている。
だから、母と同じになるのを目指すのではなく、母に欠けているものを補うことで母に近付こうと思った。
料理だけでなく、掃除や洗濯、お買い物など、家事のことを一通りできるようになろうと思った。
家事が不得手な父は、私が代わって立派にこなしてくれることをとても喜んでいたっけ。
仕事が見つからず、家にいる時間が多かった父は、娘と一緒に家事ができる時間を何よりも喜んでいたようだった。
そして、私はどんどん母の代役が務められるようになり、母はまったく家事ができないくらいに忙しく、責任ある立場になっていった。
母は、私を放置していることの罪《つみ》滅ぼしをするかのように、たまに遊びに連れ出してくれた。
お父さんには内緒でおいしいものを食べに行こう、なんて言って、たまに遊びに連れて行ってくれたっけ。
とてもお洒落なレストランに行ったり、遊園地に行ったり。
それは母と二人きりである時もあったし、母の職場の人たちと一緒だったりもした。
母の職場の人たちと一緒に、夏の海へバーベキューに連れて行ってくれたことがあった。
私はそこで母の娘だと紹介され、色々な人にちやほやしてもらった。
中でも、肌が焼けてて髪を染めた、ちょっとかっこいいお兄さん(おじさんと言ったら怒られた)が、私のことをとても可愛がってくれたのを覚えている。
母と遊びに行く時は、このお兄さんが一緒に来ることが少なくなかった。
母は私と遊びに行った先でも、時折、職場に電話《でんわ》をかけたり、時には仕事の用事を重ねてしまうことも少なくなかったため、職場の人が一緒であっても、私は特に違和感を感じなかった。
でも、甘えん坊な私は母と二人きりなのを好んだから、できるなら職場の人は一緒じゃない方がうれしかったものだ。
あの日も、母は私を連れてお洒落な町並みに遊びに行った。
母は、私と遊びに行く時はいつも甘えさせてくれる。
何でも気前よく買ってくれたし、どんなものでもご馳走してくれた。
あの日は、特にそうだった。
ブティックとかアクセサリーショップとか、私ひとりではなかなか入れないようなお店に次々案内してくれた。
私は似合わないからと遠慮するが、母は何でもひょいひょいと買ってプレゼントしてくれた。
値札のゼロがとても多かったのを覚えてる。
この日、私は初めて、母がデザイナーとしてとても成功しているばかりか、とてもたくさんのお金を持っていることを知るのだった。
そして、オレンジジュースだけでも1000円するような高級な喫茶店で一休みした。
母は、ポンと手を叩くと、私に笑いかけながら言った。
礼奈《れいな》の夢をかなえてみない?と。
私は幼稚園の頃、自分の夢という題材で絵を描いた時、「フルーツパフェを山盛り何倍も独り占めをする」というのを描いていた。
その夢を、今日この場でかなえてあげようと言うのだ。
別にその日は何でもない普通の日。
私が祝われるような日ではなかった。
でも、私と遊びに行く時の母はいつもとても羽振りがよかったから、私は何の違和感も感じず、諸手を打って喜んだ。
目の前に5つ6つと並べられていくフルーツパフェ。
それは、画用紙にクレヨンで落書きした世界の体現で、まるで夢のようなふわふわした世界だったのを覚えてる。
とても食べきれるわけはなかったけど、お母さんと二人で、いくら食べてもなくならないたくさんのパフェを、まるで砂場で泥遊びをするかのように楽しく食べたっけ。
フルーツパフェだけで満腹になるという、生まれて初めての経験に、私はものすごく幸せな気持ちに包まれたのを覚えてる。
その幸せな気持ちを味わいながら、母と他愛ないおしゃべりに花を咲かせたっけ。
「礼奈《れいな》ちゃん。この間、映画とお食事に行った時、一緒だった人のことを覚えてる?」
「…んっと、アキヒトおじさんだっけ? はぅ、お兄さんって呼ばないとぶたれるー。」
「はははははは。礼奈《れいな》ちゃんは、アキヒトさんのこと、好き?」
「きらいーーー。いっつも礼奈《れいな》のことからかうもん。」
「それは大好きだからちょっかいを出してるのよ。バーベキューの時はとっても仲良くしてたじゃない。」
「うーーーん。たまには仲良しかな。…かな。」
母はそんな私を見てくすくす笑っていた。
私は、母がどうして急にアキヒトおじさんの話を切り出すのかよくわからずにいたが、年齢相応に深く考えずにいた。
思えば、この時にも報せはあったと思う。
私がその感覚を報せだと気付けなかっただけ。
「ねぇ。礼奈《れいな》ちゃんは、お母さんとお父さんとどっちが好き?」
「お母さん。」
父が嫌いなわけじゃなかったけど、これだけ楽しませてくれた母を即答するのは当然だと思った。
「もしも、お母さんとお父さんが別々のお家に住むことになったら、礼奈《れいな》はどっちのお家に住みたい?」
「……えっと。………?」
「お母さんね。お父さんと別れて、アキヒトおじさんと結婚しようと思うの。」
その当時、母はかなりの成功を収めていた。
私は知らなかったが、すでにもっと大きな会社に引き抜かれ、ますますに責任があり、才能を発揮できる立場になっていたのだ。
もちろん立場だけじゃない。
アルバイト程度の収入しか入れられない父と違い、母の収入は一家三人の家計を支えてなお余りあるほどだった。
それは、母の羽振りから何となくわかっていた。
母は活躍すればするほどに格は上がり、自らの格に相応しい人たちと交流するようになっていた。
そんな人たちは皆、才能に溢れ、輝いていた。
それに比べれば、父が霞んで見えることもあったのかもしれない。
確かにアキヒトおじさんを好きではあった。
でも、それは他人というカテゴリーの中では好きという程度で、父と比べられる次元ではない。
父も母も好きな私にとって、母が父と別れたいと切り出すことは、足元の大地が裂けてしまうのと同じ衝撃があった。
そしてその表現は、この上なく適切だったことがすぐに分かる。
裂けた大地の、どちら側かを選ばなければならなかったからだ。
母は、こちらの家で一緒に住もうと言った。
それは、アキヒトおじさんという他人がいる家のことだ。
家と家族は聖域だと思っていた。
他人が土足で踏み込めない神聖《しんせい》な場所だと信じていた。
……だからこそ、そんな神聖《しんせい》な場所に、他人を安易に踏み込ませる母の常識が信じられなかった。
お父さんをどうして嫌いになったの?
母は答えず、少し俯いた。
私はさらに言葉をかける。
ねぇ、どうしてお父さんと一緒じゃだめなの?
私のその問い掛けは、おそらく母にとってももっとも鋭く胸をえぐるものだったと思う。
はっきり断じてしまうなら。これは母の浮気だった。
父より魅力のある人に情が移った以上のどんな言い方があるというのか。
父に何の落ち度もないことは、他ならぬ私自身がよく知っていた。
そもそも、雛見沢《ひなみざわ》から引っ越すのだって、母を最大限に応援しようという気持ちで決めたはず。
父個人にとっては何もいいことはなかったはずだ。
実際、父は引っ越してきてからとても辛い日々を送っていたと思う。
それでも、影から母の支えになれればと、目立たないところで一生懸命がんばってきたんじゃないか。
母だって、父のそんな内需の功に感謝しているのではなかったのか。
だから。……これは母の裏切り行為だと思った。
私は、母の離婚《りこん》も含めて全てに嫌だと言った。
店中の人がこちらに振り返るくらいの大声で。
アキヒトおじさんとは今までのように親しい関係を続ければいいじゃない。
お父さんが可哀想。
そんなのじゃお父さんが可哀想だ。
お父さんはずっとお母さんを影で支えてきてくれたのに、これじゃああんまりにお父さんが可哀想だ。
そう、あらん限りの声で叫んだ。
でも母は言った。
…もうね、遅いの、と。
どうして?! お父さんにまだ何も言ってないんだから、遅いなんてことなないでしょ?!
「お母さんね。
………妊娠してるの。」
■それからいろいろあって。
母が父に、離婚《りこん》したい旨を直接会って話したかどうかは分からない。
ただ、母の弁護士だと名乗る中年の女性が現れ、玄関や電話《でんわ》で何度かやり取りをしていたのは見た。
父は弁護士に、妻と直接話したいと何度も懇願したが、それはかなわないようだった。
そのやり取りから思うに、父にとって母の離婚《りこん》は余りに唐突で、寝耳に水に違いなかった。
いや、それどころか、直接会って聞かされたかどうかもわからない。
弁護士は父に、直接の面会、職場への連絡その他を何から何まであれこれと制約し、とどのつまり、二度と母に会うなと告げた。
それでも母と話がしたくて、父も知る母の友人たちに連絡を取ったが、浮気の相手の名が分かる以上の何もなりはしなかった。
父が私に、相手の男を知っているか?
と聞いたので。
私は知ってるよ、と答えた。
色々とお菓子をくれる面白いおじさん。そうも言った。
………その時の父の形相が忘れられない。
父は私に初めて手を上げた。
平手の後がしばらく残るくらいに力強く。それから父は床に突っ伏し、わんわんと泣いた。
少し遅れてから、つられるように私も泣いた。…叩かれたからじゃない。
私はアキヒトおじさんにやさしくしてもらっていたから、その好意に応える形で、私も好意を持って接していたのだ。
………いや、そもそも、女の子は誰でにでもやさしくすべき。…そう思っていた。
でも、違った。
世の中には、やさしくするべき大勢と、そもそもやさしくしてはいけない「敵」がいることを知った。
「敵」は存在するだけで私の生活を破壊してしまう、悪い人のこと。
別に悪意があるかどうかは問題じゃない。
花壇に勝手に生える雑草と同じ。
たんぽぽに何の罪《つみ》もないだろうけれど、チューリップのための土の養分を吸い取ってしまうから、抜いてしまわなくてはならない。
そう、あの男性は、悪い人だったのだ。
あの男性を受け入れてはいけなかった。
全身全霊で拒絶するべきだったのだ。
そうすることによって、母との仲を少しでも縁遠くすることができたのではないか。
そうすることによって、母をあの男性とうまくやっていけるという気にさせずに済んだのではないか。
そうだったなら、………私自身の努力によって、両親の仲は壊れずに済んだのかもしれないのだから。
父と二人して流す涙だったが、…二人の涙は少しだけ意味が違う。
父にとっては、あまりに突然で理不尽な出来事への涙だったに違いない。
でも、私にとっては。今日を回避するための何かの選択肢を選べる機会があったはずなのに、それを見過ごしたことへの後悔の涙だった。
父は私の頬を撫でると、謝りの言葉を告げようと口を開き、……だけれどもそれすら言えずに、私と一緒に泣いた。
その後、弁護士に連れられて、私だけが母と面会できることになった。
母は、こちらの家で一緒に生活しようと誘ってくれた。
私は何と返事をしていいか分からず、じっと俯きながら、母の謝罪《つみ》に耳を傾けるだけだった。
この日、私だけが会えることは父も知っていた。
だから父は、母に渡してほしいと手紙を託していた。
何が書いてあるかは知らない。
でも封筒越しに触っただけでも、中の手紙の感触がわかり、そこに綴られているだろう文面がなぜか想像できた。
…だって、封筒の中の手紙は、ごわごわしていたから。
父が手紙に落とした涙が、乾いて紙面を歪ませたからに違いないと思った。
母は手紙を受け取り、後で読むと言ってショルダーバッグにしまおうとする。
私はそれを咎め、今この場で読んでほしいと言った。
父が、母に託せる最後の言葉を、母がどのように受け止めるか。それを見届けたかった。
でも母は、読まなかった。
あとで一人で読みたいからと言って、読まずにそのままバッグにしまった。
その時、悟った。
……いや、悟るなんて曖昧なものじゃない。
あれほどまでに明確だったのだから、知った、と表現するべきだ。
母が嘘をついたことを、知った。
母は父の手紙を読む気なんかさらさらなかったのだ。
私の姿が見えなくなったら、捨ててしまうつもりなのに、私の前でだけいい格好をしたくて嘘をついたのだ。
母の眉や口元のささやかな歪みが、「そうだ」とこれ以上なくはっきりと言ったのだ。
その瞬間、私はようやく知った。
悪いのは、母をたぶらかした浮気相手の男だけではない。
この母も、悪い人だったのだ。
その瞬間を境に。
私を中心とした世界から、ドライアイスが解けて跡形もなくなってしまうように、母と言う存在が霧散して消えた。
父と母の、どちらの元に住まうかを悩む葛藤は、もう何もなかった。
「あなたの家には行きません。私の家は竜宮《りゅうぐう》の家です。もうあなたとも会いたくありません。二度と呼ばないでください。」
「でもね礼奈《れいな》、お父さんの方に残ったらこれからの生活…、」
その時、生まれて初めて、自分の名前に嫌悪感を持つ。
「私のこと。気安く礼奈《れいな》って呼ばないでください。…失礼します。さようなら。」
それが、母への、……いや、母だった女性への最後の言葉となった。
それから、長いような短いような、季節感のまったくない日々が続いた。
母が家にいない生活は、そう珍しいものではなかったはずなのに。
…母がこの家にいたことを示すあらゆる痕跡、……母の歯ブラシとか、マグカップとか、愛読書とか、…そういうものが目に付く度に、父は涙し、私はイラついた。
だから、家中に残る母の痕跡を、全て綺麗に片付けてしまおうと思った。
…………これ以上を思い出そうとすると、……頭がぼんやりしてくる。
あの頃、医者にもらった薬は、服用すると必ず頭がぼんやりして、無気力になったからだ。
あのダルさが相当堪えたらしく、………あの頃のことを思い出そうとすると、決まって、あの無気力薬を服用したのと同じ気分にさせられる…。
……母の匂いがするものをことごとく打ち壊したが。…一番壊したかったのは、自分だったのかもしれない。
母の痕跡を全て消し去っても、なお消えない後悔は、最後には自分自身に向けられた。
あるいは、母の成功に彩られた人生を、娘である私自身を穢《けが》すことで泥を塗ってやりたいと思ったのかもしれない。
その、……本当に最後の最後の、本当に最後の時。
オヤシロさまが、来てくれたのだ。
オヤシロさまは言った。雛見沢《ひなみざわ》に帰ろうと。
そう、これは全部、祟り《たたり》だったのだ。
雛見沢《ひなみざわ》を捨ててはいけないというオヤシロさまの決まりを破ったから訪れた、竜宮《りゅうぐう》家への神罰《ばつ》だったのだ。
オヤシロさまの祟り《たたり》が私たちの上に降りかかっているのだ。
それは、雛見沢《ひなみざわ》に早く帰っておいでという、オヤシロさまの呼び声。
そう。雛見沢《ひなみざわ》にずっといればよかった。引っ越したからおかしくなってしまった。私たちは、雛見沢《ひなみざわ》に帰らないといけなかったのだ。
………頭がぼんやりして、……鈍痛が走る。
これ以上は無理に思い出すなという、私自身の悲鳴なのかもしれない。
かつて雛見沢《ひなみざわ》に住んでいた家は、元のまま残っていた。
祖母はすでになくなっていて、唯一残してくれた財産だったという。
雛見沢《ひなみざわ》に住んでいたことは覚えていても、小学校に上がる直前まで住んでいた村…というだけでは、やはり記憶はかなり薄れていた。
何となく覚えているのは雰囲気だけ。
道も地図も全然思い出せないし、あの頃、親しく遊んでいた友人たちが何と言う名前だったかも思い出せなかった。
ご近所の人たちは、亡くなった祖母の息子夫婦が離婚《りこん》で戻ってきたことは理解していたが、だからといって私たちに面識があるわけではなく、無論、私にだって面識はなかった。
そんな、限りなく初めてに近い土地。
………ではあっても。
私にとってこここそは、帰るべき故郷だったのだ。
それまで住んでいた茨城に比べ、何もかもが田舎的で、その不便な生活には、私も父も戸惑った。
でも、リフォームした昔の家は、私と父だけの家。
そこでの新生活は、父から離婚《りこん》の悲しみを忘れ去らせてくれるようだった。
私も、魅ぃちゃんに親切にしてもらって、少しずつ生活に馴染んでいった。
私は母の代役をきっちりとこなし、父と二人三脚で少しずつ少しずつ、…幸せな時間を取り戻していったのだ。
誰だって、幸せに過ごせるはずなんだ。
不幸の星の下なんて言葉、幸せになるための努力をさぼる連中の言い訳だ。
私は、不幸な運命になんて屈しない。
絶対に絶対に、失われた時間を取り戻して、…元の幸せな日々を。…幸せな日々であることすら忘れてしまうくらいに、幸せを飽食できる日々を取り返してやるのだ。
もう泣かない。泣くもんか。流す涙は、父に頬を叩かれたあの夜に全て流し尽くした。
オヤシロさまの祟り《たたり》は、雛見沢《ひなみざわ》に帰ってきたからもうおしまいなんだ。
だから、これからは幸せになるんだ…。
その時、雨で溜まった水が一気に零れて、車の天井をバタバタバタ!っと叩く音に驚かされ、私は我に帰る。
外は相変わらずの雨。
いつの間にかもう真っ暗だ。
電気スタンドの灯りで作られる影は墨よりも黒くて深く、そこには何もないかのようだった。
なら、…この灯りを消したら、…世界を全部なしにできるのかな。
灯りを、
……消してみる。
漆黒の闇に呑み込まれる私。
でも、空気の冷たさと雨音だけは何も変わらず、相変わらずこの世界に私が居続けている現実を、素っ気無く突きつけてくれていた。
オヤシロさまの祟り《たたり》、か。
オヤシロさまの祟り《たたり》で一家がおかしくなってしまったのか。
離婚《りこん》に非を感じる私が、自分のせいでないと思いたくて作り出した、自分以外の適当な言い訳なのか。…………たまに分からなくなる。
あれ以来、オヤシロさまが私の元に訪れることはない。
……病んだ私が生み出した妄想《もうそう》だったのではないかと感じる時もある。
でも、…………あの時、本当に来た。
それだけは間違いなかった。
…ね、オヤシロさま。
雛見沢《ひなみざわ》を出て不幸になった私が、雛見沢《ひなみざわ》に帰ってきて幸せになれたのうれしいよ。
でも。
雛見沢《ひなみざわ》の中で不幸になった私は、今度はどこへ行けばいいのかな、…………かな。
「だめだレナ…。…不幸になったとか考えちゃいけない。私は幸せなんだ。幸せになるんだ。だから……絶対に幸せになれるんだ……!」
この暗闇《くらやみ》に飲まれたら、きっと私は二度と幸せにはなれない。
急にそんな気がして、私は電気スタンドのスイッチを探り当て、灯りをつけた。
時計を見ると、午後の11時をとっくに過ぎていた。
そろそろ帰らないと、明日のお弁当の準備もできない。せめて炊飯器のタイマーをセットしなくちゃ。
雨はまだ止む様子はないのかな。
…そう思い、窓を覗くが、自分の顔が映るばかりで外はまったく見えなかった。
窓ガラスに映る自分に、私は話しかける。
お父さんが楽しそうにしているのは素敵なこと。
……だって、お父さんはずっと死んだみたいだったから。
そのお父さんが笑顔を取り戻してくれたのは、幸せな生活を取り戻しつつある証拠《しょうこ》。
だって、…お父さんを深く悲しませたのは、……私が悪かったから。
だから、お父さんが笑顔を取り戻して、私たちが本当に幸せになれるまで、私が気を遣うのは当り前なこと。
ここで私がひとりで過ごせば、多分、お父さんにとっても邪魔でなくていいだろうし、…私だって、作りたくもない笑顔を作らなくて済むのだから。
でも、………今度はガラスに映る自分が囁きかけてくる。
レナは本当にいい子だね。
……全ての人を公平に愛して、やさしくして。誰にでも好かれるようにできるよね。
でもね。忘れちゃった…?
この世には、…やさしくしてあげていい大勢の人々と、…全力で拒絶しなければならない、「敵」がいることを、学んだんじゃなかったっけ……?
だめだ、耳を貸しちゃいけない。
………ガラスに映る自分はいつも意地悪だ。
言葉が悪くて、いつも私の気苦労を馬鹿《ばか》にして。
……だけど、私が言いたくても言えないことをいつも、そのままに言ってくれて…。
帰ろう、レナ。自分の家へ。
意地悪な鏡の中のレナのことは忘れよう。
そう言えば、ちょっぴりお腹が空いた。
あれだけいっぱい食べたのに、…やっぱりお腹が空くんだね。
そうだ。………リナさん、ショートケーキを買ってくれたんだっけ。
エンジェルモートのショートケーキって食べたことないけど、きっとおいしいんだろうな。
リナさんに会ったら、おいしかったですよってお礼を言わないと。
…リナさんは、ちょっと育ちが知れるような言葉遣いの人だけど、きっと悪い人じゃないよ。
だって、お父さんとあれだけ仲良しなんだもん。
私がどうやっても見ることができなかったお父さんの笑顔を、リナさんはあっさりと引き出してしまったのだから。
リナさんに感謝しないと。
お父さんを元気付けてくれてありがとうって、感謝しないと。
でも、……どうしてかな。
……あの人の香水が、……どうしても好きになれなくて…。
■幕間
TIPS
3■夏休みの絵日記
きょうは、お母さんといっしょにプールリゾートにあそびに行きました。
そしたらアキヒトおじさんもいっしょでした。
たまに礼奈《れいな》にいじわるするからきらいだけど、とてもやさしくておもしろいおじさんです。
プールにいるときはアキヒトおじさんがお父さんになってあげるから、礼奈《れいな》ちゃんはおじさんのことをパパってよぶんだよと言われました。
お母さんもパパってよんだので礼奈《れいな》もパパとよんだら、アキヒトおじさんはすごいうれしそうで、礼奈《れいな》にいっぱいいっぱいおこずかいをくれました。
お母さんもすごいうれしそうで、礼奈《れいな》もすごいうれしかったです。
またあそびにきたいです。こんどはお父さんもいっしょがいいなと思いました。
TIPS
3■雨雲の予感
私はお気に入りの窓を開け、いつものように座布団をそこに敷くと、ささやかな縁側を楽しむのだった。
…なのに、せっかくの夕方の静かなひと時を、どたどたと騒がしいのが一匹。
お陰で涼やかな夕方のひと時が台無しだ。
「………幸せそうね。そっか、今日はあんたの大好きな甘いものがたくさん食べられたものね。」
この子は甘いのに目がないからな。
…私も嫌いじゃないけど、今日くらいの量があったら胸焼けがしてしまう。
取り合えず、幸せそうなのでしばらく放っておいてやることにする。
ここしばらく、私好みの辛いものやしょっぱいものばかりを食べさせてたから、さぞや嬉しかったのだろう。
もちろん、私にとっても今日は本当に楽しい一日だった。
私はその喜びを、こうして夕涼みしながらかみ締めていれば充分だった。
でも、空を見上げるとほんの少しだけ重みのある雲が見えた。
…少し風も涼しすぎるように思う。
夕立にでもなるかもしれない。
「………大地震や大津波などの報せとして、浅瀬に普段は絶対に見かけることができない深海の魚が現れることがある。…っていう話があるらしいわね。」
今日、私たちの浅瀬に、普段は絶対に見かけることができない珍しい深海魚が現れたのを見た。
海のバケモノの伝説のほとんどがそうであるように、人は深海の生物を忌み嫌い、不吉の前兆としたがる。
それが生きて現れようとも、死んで死体《したい》が打ち上げられようとも。
あぁ、それって言い得ていて面白いかもしれない。
生きて現れようとも、死んで死体《したい》が打ち上げられようとも。不吉の徴、か。
あぁ、……雨が降るかもしれない。
「……うるさいな、言われなくてもわかってる。洗濯物を取り入れるわよ。」
私は表の物干し竿ではためいている洗濯物を取り込むために、洗濯籠を掴むと表へ向かうのだった。
雲はますますに鉛色になってくる。
雨は好きだけど、…今日は好きになれそうになかった。
※また圭一《けいいち》視点に戻りますので、字の色が戻ります
■3日目
「おーー、来た来た。おっはよーーレナぁ!」
「あははははは、今日は圭一《けいいち》くんの方が早かったね。」
「普段を棚に上げるわけじゃないが、俺が朝の待ち合わせでレナに勝つなんて珍しいこともあるもんだぜ。」
「はぅ。レナ、今朝はちょっとお寝坊した。
昨夜、寝付かれなくってね。」
「レナもか。なはははは、実は俺も何だよ。昨日の大騒ぎの余韻がずーっと残っててさ。布団に入ってても、なかなか眠くならなくて夜が長く感じたぜ。」
昨日はみんなで大騒ぎして、その余韻が残ったまま帰宅した。
お腹がいっぱいだったこともあり、食事にはほとんど箸を付けられなかったけど。
俺は昨日や今日がいかに楽しかったかを、両親にずーっと語り続けたのだった。
楽しくて興奮が覚めなくて、寝付けなかったなんて、まるで幼稚園児並みだな、俺。
でも、レナも同じだったので、安心した。
……いや、安心したというよりは、同じ気持ちを共有していたのが何だか嬉しかったと言うべきか。
きっとレナも、あの後、ゴミ山へ宝探しに行き、たくさんかぁいいのを見付けて意気揚々と帰宅し、両親に今日一日がどれほど楽しかったかを、いつまでもいつまでもしゃべっていたに違いないのだ。
「あ、魅ぃちゃんだー! おっはよ〜!!」
「おおーー、魅音《みおん》が先に待ってるなんて、今日は雪が降るかもなぁ!」
「人が珍しく先に待ってりゃ、そういうこと言うわけぇ?!」
「あはは、それを言ったら、私より先に待ってた圭一《けいいち》くんも珍しいよ。
雪が降るかもね☆」
「あっはっはっは! 人のこと言えないね!」
やっぱり、いつも通りの楽しい日常が今日も始まるんだ。
一昨日が楽しかった。昨日が楽しかった。だから今日も絶対に楽しい。
俺も楽しくて幸せだし、魅音《みおん》だって楽しくて幸せ。
もちろん、レナだってみんなみんな楽しくて幸せだった。
こんなにも幸せな日が、このままいつまでも続けばいいな、と。今朝は素直にそう思うのだった。
「なぁ魅音《みおん》。今日は何をして遊ぼうなぁ。」
「今日の部活《ぶかつ》?
うーーーーん、何がいいだろうねぇ。レナは提案ある?」
「そうだね…。
昨日、一昨日と体を使うゲームが続いたから、今日はあまりに体に激しくないゲームがいいなぁ。」
「そうだな。レナの言うのも一理あるぜ。部活《ぶかつ》は肉体勝負だけが全てじゃねえだろ?」
「もっちろん! 心、技、体、全ての要素において完璧であってこそ部活《ぶかつ》メンバーだからねぇ!
じゃあ今日は、何かテーブルゲームで遊ぶことにしよう。」
みんながみんな、今朝は早かったから。いつになくのんびりとした登校が出来た。
その後、もうすぐお祭りが近いね、という話になった。
綿流し《わたながし》というお祭りで、雛見沢《ひなみざわ》の年間行事では一番にぎやかになるらしい。
「そうだそうだ、昨日、興宮《おきのみや》の家に親類が集まって色々と話が出たんだけどさ。圭ちゃんの話題が出たんだよ。」
「お、俺ぇ? 園崎《そのざき》家の重鎮が集まって、一体何の相談だよ…。」
「いやさ。昨日のエンジェルモートでの圭ちゃんの活躍を見てた、店長の義郎叔父さんがさ、圭ちゃんのことを相当気に入っちゃったみたいでさ。
それで色々と話を聞いてみたら、他の親類も意外に圭ちゃんのことを知ってる人が多いんだよね! 雛見沢《ひなみざわ》の名物男みたいな言われようだったよ。」
「め、名物男ってのはまた微妙な称号だな…。その称号の9割方は魅音《みおん》の罰《ばつ》ゲームに関係があるような気がするぞ。」
「それだけじゃないけどさ。ノリもいいし元気があって無鉄砲なところも、今時の若い子にしては感心感心とみんなベタ褒めだったよ。」
自分の与り知れぬところで、勝手に褒められてるってのも、…何だか気恥ずかしいものだ。
「でね、今後の綿流し《わたながし》のお祭りで、何かで活躍してくれないかなぁって話が出てね。圭ちゃん、目立つこととか好きでしょ?」
「おいおいおいおい! 本人不在で勝手に話を進めるなー! 俺は孤独と静寂を愛するロンリーガイだぜー?」
「あっはははははっは!! だぁれがロンリーガイだー!
チェリーボーイの間違いでしょー? くっくっくっく!」
「はぅ〜、チェリーって何だろ、何だろ…。圭一《けいいち》くん、チェリーボーイ…はぅ…。」
「うをおおおぉおぉお!! 年頃の娘どもが朝っぱらからはしたないこと言ってんじゃねぇえぇー!!」
やっぱり、俺たちは昨日の余韻がまだ抜けきっていないようだった。
まだ学校にもたどり着いてない内から、俺と魅音《みおん》ははしゃぎ合う。
レナはそれを見守りながら、楽しそうに笑うのだった。
学校に着けば、それは沙都子《さとこ》や梨花《りか》ちゃんもまったく同じだった。
昨日、一緒にはしゃいだ、富田くん岡村くんの後輩コンビにしても同じことだった。
誰もが、ずっと楽しい時間を続けている。ここでは、誰もが幸せだった。
「……まだ引っ越してきて、1年も経ったわけじゃないけどさ。」
「ん? どしたの突然。」
「いやさ、………雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してきて、俺、幸せになったなぁって。」
「あっはっはっは! どうしたの圭ちゃん、急に臭いこと言い出してー。」
「レナには分かるよ。雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してきて、全てが幸せになった気持ち、よく分かる。……この村にはね、きっと人を幸せにする魔法がかかってるんだと思うから。」
「レナは、幸せか?」
「うん。レナは雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してきてからが、毎日幸せだよ。」
「そうだな、そいつは俺もだ。」
「……ちょ、ちょっとー! 何かおじさんだけ除け者っぽくない?! ぶーぶー!」
空は澄み渡っていて、千切れ飛ぶ雲はまぶしいくらいに真っ白。
セミの声は、例年より夏の訪れがずっと早いことを教えてくれている。
もうすぐ、綿流し《わたながし》か。
きっと、楽しいお祭りになる。
そして、俺は仲間《なかま》たちと一緒に、もっともっと楽しい時間を過ごしていくんだ。
本当の夏の訪れは、すぐそこだった。
■レナの視点(またレナの視点。色変更)
ようやく学校の授業が終わり、放課後の部活《ぶかつ》の時間になる。
きっと今日も楽しい部活《ぶかつ》になるだろう。
みんなと一緒に大はしゃぎして楽しく過ごそう。
だが、魅ぃちゃんに電話《でんわ》があり、急なバイトが入ってしまったため、お流れになってしまった。
…ちぇ。…楽しみにしてたのにな。
仕方がない。せめて圭一《けいいち》くんと楽しくおしゃべりしながら帰ろう。
時々、意地悪なことを言うけど、圭一《けいいち》くんはとっても面白い。
彼とおしゃべりをしていると、いつの間に憂鬱な気分を忘れてしまうんだから。
…………何だろう。
私は、……憂鬱なの…?
日々の生活は楽しくて、これ以上ないくらいに幸せなのに。………私は何に憂鬱になっているの?
……私が何を嫌ってるか、分かってる。
でも、リナさんのお陰でお父さんはとても元気になった。
少なくとも、リナさんに出会う前までのお父さんは良くて昼行灯。
悪く言えばただの無気力な屍だった。
それが、リナさんと交際するようになってから、まるでお母さんとまだ仲良く暮らしていた頃のような笑顔を浮かべるようになった。
リナさんとおしゃべりしたり、遊びに行ったり。…デートなんだろうな。お父さんは10か20は若返ったように見えた。
リナさんは、お父さんととても仲がいいし、…私にだって仲良くしてくれる。
私が嫌わなくてはならない理由は、……本当はない。
あの女を、私は受け入れてもいいのだろうか。
リナさんはひょっとすると、………お母さんの時の、……アキヒトおじさんに当たる人なのだろうか。
本人には例え何の悪意がなかったとしても。
存在し続けるだけで、私から幸せを奪ってしまう「敵」ではないだろうか。
私は、また何かの致命的な破局を迎えてしまうまで、漫然と過ごしてしまうのだろうか。
何かが手遅れになる前に、……「敵」と戦うべきではないのか。
だって、リナさんは……あまりにも明け透けに私の家に出入りしすぎる。
お父さんがリナさんをうちに入り浸らせるようになってから、リナさんの私物が少しずつ家に増えてきた。
お父さんも私も煙草を吸わないのに、いつの間にか居間には灰皿がある。
客間の布団はいつの間にかリナさんの専用になっている。
洗面所には、私が絶対選ばないような歯ブラシがあり、お風呂場には、私が絶対選ばないようなシャンプーが置いてある。
そんなものに違和感を感じ始めた頃から、……帰宅して玄関に入った瞬間に、感じるようになったのだ。あの人の、香水の匂いを。
お父さんに、リナさんと結婚するつもりなの、と直入に聞いたことがある。
照れるような、困るような、曖昧な顔を浮かべながら、まだそのつもりはないよ、と答えた。
お父さんも、私がお母さんの離婚《りこん》で心に傷を負っていることを知っていた。
だから、再婚を私には切り出せなかったろう。
……だから、まだそのつもりはない、という言い方になる。
いつかは再婚を考えてもいいが、私が同居している内は考えない。そういう意味だろう。
私が、お父さんとリナさんの再婚を嫌っている理由はたったひとつ。
私にとっての家族という聖域を侵されることに不快感を感じるからだ。
でも、それは私ひとりのわがままなのかもしれない。
だって、私がお父さんを独り占めし続けるということは、…お父さんはリナさんに会う以前の、暗く落ち込んだ状態のまま、ずっと暮らしていこうということなのだから。
お父さんにだって、人生がある。
離婚《りこん》の傷を癒し、新しい恋に生きようとするのも、お父さんの権利だ。
そもそも、私がお母さんの離婚《りこん》を未然に防げたら、お父さんはこんなにも辛い人生を歩まなくてよかったのだから。
だからお父さんには、味わわなくてもよかった辛さを忘れられる、新しい幸せな人生を歩む権利があり、それを私が拒む資格はまったくない。
………それどころか、私は父の幸せな日々を取り戻すために、努力をしなければならない義務がある。
……母の離婚《りこん》を防げなかった罪《つみ》を、滅ぼさなくてはならないのだ。
なら、私もお父さんも二人とも幸せになれるにはどうすればいいのか。
……そんなに難しいことじゃなかった。
お父さんとリナさんの交際を、私が黙認すればいいのだ。
お父さんも、私が一緒に居る内は再婚しないと言ってる。
だから私は、家族というものに依存しようとする弱い自分から決別し、早く独り立ちすればいいのだ。
でも、だからといって、その日までリナさんとの交際を控えてくれなんて言えるわけもない。
リナさんは仕事の合間を縫っては遊びに来るし、勤務シフトが合えば泊まってさえ行く。………大人同士の付き合いだ。私に何も言えた義理はない。
だから。
私は、お父さんとリナさんの交際を黙認し、……リナさんとなるべく顔を合わせないことを選んだ。
リナさんとは表面上は仲良くやっている。
…不仲にすれば、お父さんは両方の顔を立てるために心を痛めるだろうから。
でも、好きになれない相手と上辺だけでも仲良くするのは、とても疲れる苦痛な行為。
だから私は、リナさんが家にやってくると分かっている時は、多くの時間を外で費やし、家には遅くなってから帰るようにしていた。
魅ぃちゃんの部活《ぶかつ》は、そんな私の時間潰しにはこの上なく都合がよかった。でも、毎日あるわけじゃない。
だから、部活《ぶかつ》がなく、そのまま下校になってしまった日には、ゴミ山で宝探しというひとり遊びをして時間を潰した。
そして、………作ったのがあのゴミ山の隠れ家というわけだ。
お父さんとリナさんは家で仲良くしていればいい。
そして私は、そんな二人に無理に顔を合わせず、私の隠れ家で、心にやさしい時間を過ごせばいい。
………こんな生活に、憂鬱さを感じることはある。
誰かに吐露したいと思うこともある。
でも、……何を相談したって、何もない。だって、これが最善なのだから。
私にとって今、一番大切なことは、自分だけの家族を喪失することに対する悲しみを早く乗り越え、私の幸せを掴むことだ。
だって、毎日はこんなにも楽しくて幸せで。
…今だって、こうして下校の道でさえ、圭一《けいいち》くんがさっきから面白おかしい話をたくさん聞かせてくれて、私を退屈《たいくつ》させない。
こんな憂鬱なことに頭を満たしてしまっているのは、彼に対して失礼なくらいだ。
お父さんはお父さんで、幸せになる。
私は私で、幸せになる。
辛さを感じるのは、私がまだ親離れができていないだけのことなのだ。
だって、お母さんの離婚《りこん》の時の唐突さに比べたら、リナさんの侵食なんて、これ以上ないくらいの緩やかな変化じゃないか。
リナさんだって、私のそういう心情を理解してくれていると思う。
私にやさしくしてくれるが、必要以上に構わない。
かえって私が心苦しく感じることを分かっているのだろう。
両親を失っても、たくましく生きている梨花《りか》ちゃんを尊敬する。
唐突に父母を両方失ってしまう辛さに比べたら、私の悩みの何と下らないことか。
両親を失い、それだけでなく、叔父夫婦に辛い生活を強いられてきた沙都子《さとこ》ちゃんのたくましさにも、尊敬を感じる。
沙都子《さとこ》ちゃんが叔父夫婦に受けていた仕打ちに比べれば、私とリナさんの関係がどれほど恵まれたものか。
……私がまだまだ幼いから、…親離れを急がされる不安感を感じてしまうだけ。
梨花《りか》ちゃんや沙都子《さとこ》ちゃんのように、私もたくましくあろう。
そして私も私なりにがんばって、私の幸せを掴み取るために努力しよう。
あの日以来、失ってしまった心の安寧を得るために、……がんばって生きていこう。
私が自分は不幸だと思い込んでいるだけ。
素敵な友人たちと過ごす、素晴らしい日々を享受しよう。
私が、自分は幸せだと気付くだけで、こんなにも世界は輝いて見えるのだから。
「それでね、それでね! あんまりにもかぁいいからレナ、はぅ〜お持ち帰りーー!!って☆」
「あっははははは……やれやれ。レナは毎日を楽しく過ごすことに関しては達人だなぁ。」
「レナは毎日が楽しいよ? こんなにも素敵な友人たちに囲まれて過ごす、こんなにも素晴らしい日々があって、どうして不幸が感じられる?」
「だな。不幸なんかここにはないよ。いつまでも楽しくて、不幸なことなんかとは一切無縁!
それが雛見沢《ひなみざわ》ってとこなんだからよ!」
そこでやめておけば、そこそこかっこよくまとまったのに。圭一《けいいち》くんの余計な一言が後に続く。
「レナがうらやましいよなぁ。その悩み知らずな能天気さが羨ましいぜー!」
「…はぅ…。馬鹿《ばか》にされてるっぽい気がする……。…でも、毎日が楽しいなら、……私は能天気でもいいかな。…………………かな。」
私には悩みなんかない。
悩みに感じるのは、父さんに甘えたりない私の未熟さなんだ。
ほら。
いつもの魔法の言葉を言おう。それできっとまた、元気になれるよ。
「はぅ…。」
「ん?」
会話の脈絡はないけれど。これは自分で自分を元気付ける魔法の言葉。
「はぅ〜〜☆ お〜持ち帰りぃ〜〜〜!!!」
「あははははは、何だよ突然。でも、それでこそレナだぜ!」
そう。それがレナ。
お父さんとお母さんに甘えたりない礼奈《れいな》じゃなくて。
……馬鹿《ばか》で能天気でお調子者で、だけれども日々が幸せに満ちていることを知っていて、それを感謝することができるやさしさを持っているのが、レナ。
“いや”なことは全部、忘れてしまおう。
全部忘れて、“いや”なことなんか無い、素敵な人生を歩みなおそう。
だから、“い”を。………私は捨てたんだっけ。
私はレナ。
雛見沢《ひなみざわ》から出て行った時に失った幸せを、この雛見沢《ひなみざわ》でもう一度取り返す。
辛さや試練を乗り越えろ。
私は幸せになれる。
だって、“い”やなことはもう全部捨てたのだから。
後にはいいことしかないはず。
…………あ。…………いいことも、“い”なんだ。
………………。
■レナの帰宅
もうじき私の家が見えてくる…、というところで、普段と違う様子に気付く。
家の前には、トラックが止まっていた。
荷台に荷はなかったが、ダンボールや毛布、転倒防止用のロープなどが散らかっていて、何かを運んできたことはすぐにわかる。
玄関の方から、若い男性二人のよく揃った声で、「それでは失礼いたしますー!」と聞こえてきた。
玄関へ向かう途中にその二人とすれ違う。
作業服のようなものを着た二人で、運搬業者という感じだった。
父は来客を帰し、扉を閉めようというところで私と目が合った。
「ただいま。………何かあったの?」
「お帰り礼奈《れいな》。見てごらん、すごいぞ。」
お父さんはとても上機嫌そうだった。
なぜそうなのかの理由が分からなかったが、お父さんがこんな晴れ晴れしい笑顔を見せてくれると、私も笑顔で返してあげたくなる。
私がどんな笑顔を見せようとも、…ずっと死んだ魚の目をしていたお父さん。
それが、私を驚かせたくて笑顔を作れるようになったのだ。
雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してからの一年、……いや、リナさんとの交際を始めてからのお父さんは、文字通り生き返ったかのようだった。
こんなお父さんを見る時、私はうれしくなると同時に、リナさんに感謝すべきか戸惑いを覚える。
「ほら、すごいだろう?」
お父さんが見てごらんとばかりに、居間に私を誘った。
きっとお父さんは、私がそれを見て、感嘆の声をあげることを期待していると思った。
だから、居間に何があろうともなかろうとも、私は感嘆の声をあげる心の準備をしていた。
「…うわぁ………、な、…なにこれ。…ど、どうしたのお父さん!」
私は上擦ったような、驚きと感嘆の入り混じった声を上げる。
私の後ろに立つお父さんは、その声を聞いて満足げに笑っているに違いない。
でも私の声とは裏腹に、…私は目の前の光景がどういうことになっているのか、理解しようと必死だった。
一瞬、我が家かどうかを疑った。
なぜなら、居間が綺麗さっぱり模様替えされていたからだ。
うちにある家具は基本的に、前の茨城の家から持ってきたものがほとんどだ。
それらはかつての両親が結婚した時に買ったものなかりだそうだから、古くなったり薄汚れたりしたものがほとんどだった。
中には幼い自分がクレヨンで書いた落書きが残っているものもあったっけ。
そういった、古ぼけたものは一切なくなっていた。
部屋全体がパステル的な色でまとめられ、テレビドラマで見るような、お洒落な都会のマンションのような雰囲気だった。
絨毯は南国的なイメージのものに変わっていた。
カーテンもそのイメージに合わせてあるようだ。
ソファーも何だかとってもお洒落な感じ。
……まるでリゾートホテルか何かのようだった。
チャンネルが壊れて抜けてしまったため、ペンチで摘んでチャンネルを変えていたボロテレビは、最新の大画面テレビに変わっていた。
照明器具も、何だかお洒落なものに変わっている。
新品の蛍光灯の真っ白い光が、この部屋をまるで別世界のように照らし出していた。
「す、……すごいね、お父さん。これはどうしたの?」
「心機一転さ。もう引っ越してきて一年にもなるんだから、お父さんもそろそろ気分を切り替えて新しい生活に踏み出さないとなって思ったんだよ。」
引っ越しても、まだ離婚《りこん》の傷が癒せずにいるお父さんを元気付ける意味で、私も部屋の模様替えを提案したことはある。
でも、欝になっていたお父さんはそんなことに興味は示さなかったし、…ああいう破局を迎えても、心のどこかでまだ踏ん切りがついていないらしくて、かつて母と共に選んだのだろう、古い家具を捨てるのを嫌っていた。
だから、何かの折を見て、模様替えをもう一度提案しようとずっと思ってはいたのだが…。まさかそれを父が自発的に行なうとは思わなかった。
「そうだね。あはははは、こんな綺麗なお部屋だと心も晴れ晴れするもんね。素敵なお部屋だと思うよ〜!」
「いいだろう? ほら礼奈《れいな》、お前、揺り椅子に憧れてたろう? まだ組み立ててないけど、ほら! ちゃんとあるんだぞー。」
「はぅ〜!! お父さん、すごいすごいすごいー! これ私がもらってもいいのかな、かな!」
「こらこら、それはみんなの共用のものだから、礼奈《れいな》だけってわけじゃないんだぞ。」
「あはははあはは! 共用でもレナが占領しちゃうからだめー。あははははは。」
お父さんは得意げに、模様替えの居間を色々と説明してくれた。
どうも、今回は居間だけらしいが、ゆくゆくは他の部屋も全て模様替えしたいようだった。
お父さんがこんなにも溌剌として積極的になるなんて。
少しセンスが悪いかなぁと思う模様替えではあったけど、お父さんが元気になってくれるならそれは素敵なことだと思った。
ふと庭を見ると、…懐かしき家具が庭先に出されていた。
「あれは、…捨てちゃうの?」
「まぁ、この際だと思ってな。後で業者が引き取りに来てくれることになってる。」
古い家具からの決別は、悪い人だったお母さんの思い出からの決別でもある。
……私だって、お母さんの匂いのする家具を嫌って打ち壊そうとした時があったじゃないか。
お父さんが、これを機に処分しようとする気持ちは何となく理解できた。
でも、…………なぜかこの新しい居間には、私の居場所がないように感じた。
この部屋のセンスは、…お父さんのセンスじゃない。多分、リナさんのセンスだ。
お父さんとリナさんが二人で模様替えを決め、二人でどこかのデパートで選んだ家具に違いない。
…お父さんが模様替えを私に話さなかったのは、私を驚かせたかったからだろうと好意的に受け取ろうと務める。
……うぅん、そもそもお父さんはそんな深い考え方ができるような人じゃない。
私に話さなかったのは単に、私に話す必要を感じなかったから程度に違いない。
……この家を、お父さんとリナさんの色に染め、私の居場所を奪ってしまおうなんて意味は絶対にない。
そんなネガティブなことを考えちゃだめだ…。
お父さんに悪意なんかない、…私を追い出そうなんて思ってない、…再婚の邪魔だなんて思ってない…。
でも。
……大嫌いなお母さんの匂いのついた家具が庭に出されているのを見て、…感傷を感じてしまうのはなぜだろう。この居間に居場所を感じないのはなぜだろう。
それは、…すぐにわかった。
私自身が、そうだったのだ。
お父さんにとって、お母さんの思い出の残るものを全て捨てて心機一転をしたいというのは、………お母さんとの娘である私だって捨ててしまいたいという気持ちの無意識な吐露なのではないか。
……お父さんは深く考えない人だから、私が邪魔だなんて考えてはいないだろう。
……でも、私が一緒に住んでいる内は、再婚はできないことは理解している。
…………結局、私がここにいるだけで、お父さんを苦しめるんだろうな。
離婚《りこん》は私のせいなんだ…。
だからお父さんが取り戻す幸せを、私は応援しなくちゃいけない。
私がお父さんに甘えて独り占めしていたいからなんて理由で、……寄り掛かってちゃいけないんだ。
独り立ちを、ちゃんと考えないと。
…進学なんか考えないで、就職を考えた方がいいのかな。
でも、無学な女の子が、まともな職に就けるわけもない。
ましてや、一人で暮らしていけるような収入を得られるわけもない。
………リナさんみたいに、……水商売とかを考えるべきなのかな。
職業に貴賎を持つのは、余裕のある人の話だ。
……私のような女の子を雇ってくれて、生活できるくらいの収入を得るためには、…綺麗事なんか言っていられないのかもしれない…。…………でも、…………………………。
こんな時、…無性にゴミ山の隠れ家が愛おしくなる。
ブランケットに包まって、涼しすぎる夜に暖を感じることに、この上ない愛おしさを感じるのだ。
日中は蒸し暑く、夜は冷え込む過ごしにくい隠れ家。
…でも、ひょっとすると今やあの隠れ家は、……私の本当の家よりもくつろげる場所なのかもしれない。
いけない。こういうことを考えちゃだめだ。
リナさんに家を侵食されているとか思うな。お父さんを元気にしてくれてありがとうって感謝しなくちゃ。リナさんだって、私を追い出そうとしてなんかいない。むしろ仲良くしようとがんばってくれてると思う。それを私がいつまでも懐かず、逃げているだけなのだ。
悪いのは私の方、悪いのは私の方。
そして私は恵まれている方。恵まれている方。
だって、……………悟史《さとし》くんと叔母さんのような、徹底的に仲が悪くてずっと虐められている関係に比べたらどれほど気楽なことか。
家族を完全に失って、身を寄せ合って生きている沙都子《さとこ》ちゃんや梨花《りか》ちゃんの苦労を思えば、のんびりと帰宅して父と過ごせる私がどれほど恵まれていることか。
こんな程度で不幸せなんて思ったらバチが当たるよ。
私は幸せなんだ。まだまだ恵まれてるんだ。
私のいけないところは、それなのに幸せだと認められないところなんだ……。
お父さんは得意気にいつまでも、模様替えの苦労話を続けていた。
私は満面の笑顔で相槌を打ち、お父さんの話の続きを促すのだった。
「そうだ…、いけない。礼奈《れいな》、すまないんだがちょっとおつかいと頼めないか?」
「おつかい? うん、いいよー。」
「お父さんな、ジャケットを2着ほど洋服屋さんに取り寄せさせてるんだ。それがな、今日届くらしいんだ。ちょっとお父さんは回収業者さんを手伝わなきゃならないから、礼奈《れいな》が代わりに取ってきてくれないか?」
「うん、いいよ。お店を教えて。どんなジャケットを取り寄せたんだろ? 楽しみ〜!」
どんなジャケットにせよ、おそらくこれもまたリナさんと決めたものだろう。
でも、お父さんのおつかいに行くのは何の躊躇もなかった。
この居間で、これ以上、お父さんの自慢話に付き合わされるくらいなら、おつかいに行かされた方がずっと気楽そうだと思ったからだ。
私は伝票を受け取り、お店の場所を確かめると、着替えて表に出るのだった。
……表へ出て、自転車を押しながら庭に出された古き家具たちをもう一度見る。
かつては憎しみの対象だったこともあるそれらは、なのになぜか、……私に感傷の念を沸かせる。
…その感情はおそらく、憎みながらも未練を絶てない母への執着なのか。
これ以上、この感情に心を任せるときっと毒になる。
……理屈では分かっていても、私はその感情を打ち払えない。
この庭にあるのは、追い出された家具だけではない。
私が宝探しで、悪ふざけで持ち帰ったガラクタもたくさんあった。
これらのガラクタも、多分、一緒に捨てられてしまうんだろうな。
お父さんは私が集めてきたガラクタを、嫌がってたから。多分、粗大ゴミの回収業者が来たときに一緒に持って行かせてしまうだろう。
…動物が自分の住処に自らの匂いを付けて、居場所と安心感を得るように。このガラクタの山もまた、私がここに居てもいいことを確認するそんな行為かもしれない。
ううん、違う。
……生んでくれた人に捨てられた、彼らを。
居てもいい場所に連れ帰ってあげたかったのかもしれない。
■アイキャッチ
3日目-2
■興宮《おきのみや》へおつかい
父がジャケットを取り寄せたという店は、ちょっと小洒落た感じのブティックだった。
間違っても、父が一人で店内に入るようなことは考えられない雰囲気。
……リナさんに連れられて入ったんだろうことがすぐに分かった。
伝票を渡すと、困ったような笑顔を浮かべた店長が店の奥からやってきて言った。
「竜宮《りゅうぐう》さま、大変申し訳ございません。実は入荷のトラックが高速で事故渋滞に巻き込まれているようでございまして…。おそらくはもうじき到着すると思うのですが…。」
先ほど、どこそこのインターを降りたとの連絡があったので、あと1時間くらいで来るとか何とか。書けばそれだけで済むことを、やたら回りくどく説明してくれた。
後日、改めて来た方がいいですか、と聞くと、本当にあと少しで来るからと、応接ソファーを勧められる。
…でも、ちょっと店内の雰囲気に馴染めなかったので、私は外で時間を潰してくると言い残し表へ出た。
どこか、ファーストフードみたいなところがあればいいのだが。確か駅前まで戻らないとなかったと思った。
周りを探すと、喫茶店が目に入った。
扉が真っ黒なガラスだったので、中がうかがえないのがちょっと不安だ。
……でも、曜日サービスで女性には紅茶が安くなる、と貼り出されているのも見える。
…ほんのちょっと時間を潰すだけだし。
私はちょっぴりだけ躊躇した後、店のガラス戸に手をかけた。
※客観視点に戻る
お店に足を踏み入れての最初の印象は、煙草臭さだった。
喫茶店の定義から言えば、紫煙がたなびいていることに疑問はないのだが。…レナは、やっぱりやめれば良かったと一瞬後悔する。
踵を返そうか、迷っている間に、無愛想なマスターに声を掛けられ、レナは諦めて促されるままに席へ座るのだった。
店内には、珈琲や煙草を楽しむサロンというイメージはなく、どちらかというと、ガラの悪いゴロツキの溜まり場といった感じだった。
雰囲気も馴染めたものじゃないし、そして何よりも、一番奥のシートから聞こえてくる男女2人の黄色い笑い声がとても不快だった。
レナが座った席は、ちょうどプランターの陰だったので、考えようによっては、彼らの笑い声から一番守られている場所とも言えたが。…レナは注文の紅茶を飲み干したら、すぐにでも店を出たいようだった。
カランカランという、来客を知らせる音が聞こえてくる。
…こんな雰囲気の悪い喫茶店に、よくも利用者がいるものだ。
レナはそう思いながらプランターの陰から客をうかがう。
客は2人。
………とびっきりガラが悪そうな男たちだった。表情は重苦しく、関わり合いにならない方がいいことがすぐに読み取れる。
マスターが応対しようとすると、2人はそれを無視して店の奥へ向かった。
その2人は、先ほどから黄色い声でげらげらと笑い合っている奥の男女のところへ行くと、神妙に頭を垂れながら挨拶をした。
「おう! やっと来よったんか。まあ座れや。」
待っていた客が来たことに気付くと、男女は馬鹿《ばか》笑いを止め、ドスの効いた声で着席を促した。
客2人はおずおずと勧められるままに座る。
「んで? どういうごったん。」
「すんまへん、何とかその…。」
「御託はええんねボケぇ。とっとと唸るもん晒さんかい。」
客2人は顔を見合わせた後、懐からくたびれた封筒を2束、取り出して机の上に乗せた。
それを男は引っ手繰ると、乱暴に封筒を破く。
中からは、輪ゴムで留めて束になった、しわくちゃの壱万円札があふれ出した。
両方の封筒を開け、現金が詰まっていることを確認すると、男はそれを女の膝に放る。
「おい、数えんね。」
「ちょっと、私に命令しないでくれるー? 元々、私の金なんだから。」
「じゃッかまし!! 黙って数えんなええんね…。」
男が怒鳴りつけると、女は不愉快そうに親指を舐めた後、手馴れた様子で現金を数えだす。
その様子を見ながら、客2人はうな垂れたままだった。
男も、新しい煙草に火を付けると、女が数え終わるのをじっと待っているようだった。
「……………。はいよ、全部あるわよ。」
女がパチンと最後の紙幣を指で弾く。
その様子を見て、客2人は安堵したようだった。
だが、男はまだ満足しないのか、女がトントンと揃えている札束を凝視する。
「…律子《りつこ》。それ、いくらあったぁ。」
「ん、全部って言ったわよ。」
「全部って、いくらかっちゅ聞いとんねッ!!」
「だから私が貸した金、全部だって言ってるでしょ!」
「ボケがぁ!! 利子は付いとるんか聞いとるんね!!」
男と、律子《りつこ》と呼ばれた女は険悪そうに怒鳴りあう。
こんな物騒なやり取りを声高にやっているのに、店内の少なからずいる客たちは、何も聞こえないかのように振舞うのだった。
「おい、兄さん方。200万びったんこっきゃないんね。どういうごっちゃん。」
客2人は何とか言い逃れようと言葉を探しているようだった。
…そんな様子が神経を逆撫でするのか、男の形相がまるで鬼のようになっていく。
「おおぉおらああッ!!
黙っとんたらわからんがなあぁッ!!」
店内に怒声が響き渡る。
机を強打する音と、氷の入ったグラスが床に落ちる音が後に続き、店内の空気をこれ以上ないくらいに硬くした。
「すす、……すんまへん…!!」
「すまんで済んだら、警察《けいさつ》はいらんっちゅうんね! ごちとらぁ、出るとこ出ても一向に構わんでんのお!!」
「それはどうか…、ご勘弁下さいッ…!」
客2人は明らかに立場が弱い様子だった。額が机に付くくらいに頭を下げる。
「それを勘弁したったるって、今日を呼んだんね。それがどういうケジメの付け方なん。んん?!」
「すんまへん…、偉ぅすんまへん…!」
痛々しくも見えたが、脅す側も脅される側も真っ当な人間には見えず、同情すべきかどうか量りかねる雰囲気だった。
やがて律子《りつこ》が、助け舟を出すような感じで口を開く。
「鉄っちゃん。凄んじゃ可哀想でしょー? ゴメンねぇ、うちの人、ゼニ絡むとすぐトサカに来ちゃう人で。」
「ゼニ絡むとは余計だんね!! お前にアヤ付けよったんから本気になっとんよ俺ぁ。」
「もぅ、馬鹿《ばか》なこと言っても何も出ないわよ。…………んんんんん…!」
男は力ずくで律子《りつこ》を無理やり抱き寄せると、人目もはばからず、その唇を貪った。
恋人たちが交わすような愛らしさはなく、卑猥さしか感じさせない。
…その後も二人はしばらく、息継ぎのように唇を離しては、また貪り合うのを繰り返すのだった。
しばらくして、ようやくそれに飽き、男は律子《りつこ》を解放する。
「うちの人は、私のことになるとすーぐ頭に血が上っちゃうのよね。…困ったもんなのよ。」
「おうそうよ。この女は俺の体の一部なんね。この女に泥塗りくさるヤツぁ、俺に塗ったんと同じやんな。血祭りじゃ済まんね。」
「いつぞやかの、バーコードハゲ。あれ、表連れてってからどうしたんだったっけぇ?」
「だっはっはっはッ!! あんのハゲか! 表へ出ろとか抜かしよんから、踵くれてやったわ!! 野郎、空手やるとか抜かしよるからどの程度か思うたん、ちょいとシバいたら、即土下座やん。拍子抜けしたから、ズボンとパンツ脱がせて、そいつで公衆便所のション便器を磨いてもらったわぁ。おお、俺、町の役に立っとんね!! お役所に表彰してもらいたいんわ。」
「やぁだ、そんなことさせたのー? あんたって時々、品がないよねぇ。きゃははははは…!」
二人は、客2人が来るまでそうしていたように、耳障りな下卑た声でゲラゲラと笑い合う。
その笑い声は明らかに客2人を萎縮させるもののようだった。
「ねぇ、あんたたち。鉄っちゃん、今日はね、すっごく機嫌がいいの。普段だったら、ゼニが足りん〜って騒ぎ出して、今頃あんたたち、素っ裸にされて王子川に叩き込まれてるわよ。」
「す…すんまへん…すんまへん……。」
「んまぁ。利子は忘れたちゅうたかて、かっちり期日までに額を揃えたんだきゃあ、感心さな。そこいら辺、評価したってもええんで。」
「それでねー? 鉄っちゃんの利子、ちょいとあんまりだと思ったのよ。今日だから5本で済むけど、すぐに倍々ゲームになっちゃうでしょー? そしたらあんた達、すぐに逆立ちしても払えなくなっちゃうわよ。でね、私、あんた達にいい話があるの。……鉄っちゃん、悪いけどあんた、ちょっと席を外してちょうだい。」
「ちぇ。……しょうがねぇなあ。」
男はそう言いながらも、にやりと笑うと席を立ち、お手洗いへ姿を消した。
…何だか、事前にここで席を立つと決めてあったかのように素直だった。
男が手洗いの扉の向こうに消えるまで見送ると、律子《りつこ》はショルダーバッグから折りたたんだ書類を取り出し、机の上に広げた。
「あんた達も若いんだから。あんなヤクザに絡まれて一生をフイにしたくないでしょ。
だからね、鉄っちゃんの利子は今日、キッチリ払っちゃいなさい。そうすれば、あんた達は取り合えず、あいつとは縁を切れるわけなんだから。」
「…そ、…そりゃそうですけど…。…でも、50万なんて、これ以上もう払えないっす…。」
「まぁそうよねぇ、200万だって相当、精一杯集めたんでしょ? さらに50万も工面できる当てなんてないでしょ。」
「………………………。」
彼らが今日工面してきた現金は、彼らにできる全てを尽くした上での金に違いなかった。
だから、…これ以上は、例えわずかな額だったとしても、捻出のしようがないに違いない。……彼らは無言で俯いて、それを律子《りつこ》に伝えた。
「でね。ほら、気を利かせて私が書いてきてあげたのよ。」
「…………………ぅ…。」
机の上に広げられた書類を見て、二人が小さく呻く。
「担保も連帯もいらないんで、ちょいと利率はアレだけど。これなら、即50万積んでくれるわよ。……それにさぁ、この利率でも、鉄っちゃんの利率よりははるっかにマシだと思うんだけど、どう思うかしらー?」
このやり取りだけから、律子《りつこ》が彼らに何を強いようとしているか、大体想像が付いた。
「これにサインしたのを見せれば、彼も男気を感じて勘弁してくれると思うわね。…………どうするー? あ、万年筆、使うなら置いとわよ。」
客2人は、机の上の書類の点字のように細かい注意書きの内容と、暴利な利率に呆然としながら、顔を見合わせていた。
律子《りつこ》はそれ以上は何も強要しなかった。あとは窓の外を眺めながら、煙草を吸っているだけだった。
だいぶしてから、お手洗いから男が戻ってきた。
「おう、話はついたがーー?」
それを見て、客2人は覚悟を決め、万年筆を拾う…。
「鉄っちゃんの利子、借金で一括返済するってー。まぁ、50万くらいさ、真面目にやればすぐ返済できるってね。」
「おうおう、感心な若人だんね。男は背負うもんがなくちゃあかんね!」
初めからそう追い込むつもりだったに違いなかった。
男と律子《りつこ》は、思い通りに事が進んだのをにんまり笑い合う。
書類は書く欄が多いらしく、2人の記入作業はなかなか終わらないようだった。
男と律子《りつこ》も、しばらくかかることが分かっているようで、上機嫌に下品な雑談を始めていた。
「律子《りつこ》、お前の雛見沢《ひなみざわ》の旦那の調子はどうなんね。」
「んー? 旦那なんてよしてよね。」
「どうなんよ。だいぶゼニを持っとん聞かされてるん。どのくらい絞れそうなんよ。」
「そうそう、それがさぁ、すっごいのよ! 別れた奥さんがだいぶ慰謝料をくれたらしいってのは聞いてたのよ。でもね、…それが本当にすっげーあるらしいのよねー!」
「かなりって、どのくらいんね。」
「銀行に5000万くらい持ってるわよ。泡銭なわけだしね、もう気前がいいの何のって。」
「かぁー! なぁんね、それ!! んで、どの辺までイケそうなんね…!」
「私にだいぶお熱みたいだからねぇ。だって、私が言えば何でも買うのよ、何でも! あんたみたいなドケチとは大違いよね〜。私も本気になっちゃおうかしらぁん。」
「抜かせやボケぇ。俺以外で満足できる体かっちゅうん!」
「ん! んんんん…!! ……もぅ、こんなところでよしてよ、もぅ。」
「で、その雛見沢《ひなみざわ》の旦那にどう持ってくつもりなんよ。」
「あんたをダシに、手切れ金がいるって方向で持ってくつもりなのよ。」
「何ぼ、吹っ掛けるつもりんね。」
「……ボソボソボソ。」
「がっはっはっはっは!! つっくづく、恐ろしい女じゃあんね!! エキストラがいる時は呼んでぇな。俺も大暴れしちゃるんで。」
「…………あの、……すみません、…書きました。」
「おう! じゃあ、それ持ってローン行こかぁ。律子《りつこ》、会計頼むんね。」
男は客2人の肩を抱くようにすると、外へ出ようと扉を開けた。
…その時、ちょうど入店しようとした客がいたらしく、扉を挟んで鉢合わせになったらしかった。
男の乱暴さから考えて、彼が道を譲るとは考えがたい。
………だが、男は、扉の向こうの男が誰か気付くと、道を譲った。
入ってきたのは、負けず劣らずガラの悪い男。
…黒いスーツの上下にサングラス。
体格だけを見れば、決して優れているとは言えなかったが、厳しい顔つきと威圧感は、相当のものだった。
男をチンピラと例えるなら、この入ってきた男は明らかに本職に違いない。
あれだけ傍若無人に振舞っていた男でも、さすがに相手が悪いと思ったのか、神妙な様子だった。
やがて、律子《りつこ》が会計を終えてくると、そのスーツの男に気付いた。
「あ、………総支配人…? ど、どうもおはようございます。」
「………………。」
総支配人と呼ばれたスーツの男は応えず、早く失せろと言わんばかりに顎をしゃくり上げる。
律子《りつこ》たちは頭を下げながら足早に店を出て行った。
店のマスターもスーツの男に気付き、揉み手をしながら挨拶の言葉をかける。
……この界隈の顔役なのだろうか。
先ほどの男たちと比べれば物静かな雰囲気だが、彼らに道を譲らせるほどなのだから、恐ろしい相手に違いない。……誰もがそう思い、この新しい客に目を合わせないようにしていた。
スーツの男は店内をジロリを見渡し、壁に掛かっているメニューボードを見上げた。
何か不備があるのかと思い、マスターがおずおずと近付いてくる…。
「……マスター。」
「は、はい、な、…何か不調法がございましたでしょうか…。」
「……この、日替わりデザートの、…ス、…スイ、…スイート何とかというのは今日はやっているのか。」
「は? あ、…あはははは、いえ、本当は今日はやってないんですが、…その、どうしてもと仰るんでしたら、特別にご用意を…。」
「…無理なら無理と言ってくれればいい。出直す。」
「ほぉら葛西《かさい》ぃー! 特別にご用意って言ってくれてるじゃないですか! ここまで来て見っとも無い!」
この店の重く沈みこんだ雰囲気がまったく読めないのか、能天気に笑いながら入店してきたのは、………魅音《みおん》の双子の妹、詩音だった。
詩音は渋る葛西《かさい》の背中を押し、店内にずかずかと入ってきた。
そして、シートのひとつに座っていた少女の顔に気付き、立ち止まる。
「あれ?
やっぱりそうだ、はろろーん! レナさんじゃないですか。こんにちはー!」
「…………え? あ、………詩ぃちゃん…?」
「こんなとこで会うなんてびっくりです。
あれ? お一人? ひょっとして誰かと待ち合わせ? お姉かな? いやいや、ひょっとして圭ちゃんかなぁ〜?」
「あの、…詩ぃちゃん。……その連れの人は……?」
「ん? 葛西《かさい》のこと?
まー私のボディガードとか思っといてください。命の危険が迫ったら、葛西《かさい》が守ってくれるんだよねー?」
「……それがお望みでしたら命に代えてでも。」
「ぅわ〜〜…。葛西《かさい》、あと20も若かったらヤバいかもだね。
顔は怖いけど、面白いヤツです。こちらはね、竜宮《りゅうぐう》レナさん。お姉のお友達。」
「……葛西《かさい》です。よろしく。」
「えっと、……か、………葛西《かさい》さん。さっきすれ違った人たちは知り合いですか?」
一応。葛西《かさい》はそう言って小さく頷いた。
「誰? 私は全然、あんなの見たことないけど?」
「……男は北条《ほうじょう》鉄平《てっぺい》。ちょいと礼儀知らずの雀ゴロです。」
北条《ほうじょう》と聞いて詩音は、あぁあの、と小声を漏らす。
「……女の人の方は…?」
「…間宮《まみや》リナ。源氏名だと思いました。確か律子《りつこ》って名前だったかと。フラワーロードの店の1つで働いてる水の女です。」
「葛西《かさい》さん。……リナさんとその北条《ほうじょう》さんはどういう人たちなんですか。とても仲が良さそうに見えました。」
「北条《ほうじょう》は、確かリナのヒモのはずです。性質の悪い連中ですので、係わり合いになられない方がいいと思います。」
「どう性質が悪いんですか?」
レナが妙に噛み付いてくるので、葛西《かさい》は少し気圧されたようだった。
「……女の私生活にゃ触れないのが仁義ってもんです。」
「どう性質が悪いんですか?」
「………それはご勘弁を。」
「どう性質が悪いんですか?」
レナは質問の答えが得られるまで、まったく同じ言葉を何度か繰り返した。
その鬼気迫る様子に、詩音が割って入る。
「葛西《かさい》ー。意地悪しないで教えてあげなさいよ。興味本位で聞いてるわけじゃなさそうだしさぁ。ね、レナさん?」
「………………………。」
「……………………………。」
レナと葛西《かさい》の間に緊迫した空気が張り詰める。詩音だけが空気を読めていないようだった。
葛西《かさい》はやがて根競べに折れ、口を開く。
「あの二人は性質の悪いゴロツキです。恐喝と博打で生計を立ててると聞いています。女と美人局もやるって話で。」
「美人局(つつもたせ)って何ですか?」
「あはは、美人局ってーのは、まぁ何? 結婚詐欺とちょっと似てるのかな? ようするに、カモと女をくっつけて、いい感じになったところで男が乱入して、俺の女に何しやがるーって、金を巻き上げる古典的恐喝です。」
「…さんざん貢がされた挙句、根こそぎ巻き上げようっていうクズどもです。…最近、でかいカモを引っ掛けたらしいと噂になってます。」
「ちゃーーー。そりゃあ、どちら様か存じないけど、気の毒なことで。
でもまぁ、鼻の下を伸ばした代償なわけだし。自業自得?」
「……そんな言い方はないもんです。男は時に、ころっと女に騙されちまうもんですよ。」
「今、お帰りになりましたよ。」
レナの姿はすでになく、閉まりかけたガラス扉だけがその行き先を知っているようだった…。
■父は騙されている
自宅へ帰ってくると鍵が掛かっていた。
鍵を開けて入ると、居間にメモが置かれているのを見つける。
そこには、急用が出来たので出掛ける、夕飯は食べてくると書かれていた。
こういうことは最近はそう珍しいことではなかった。
父は私には、急用で興宮《おきのみや》に行くとしか言わない。
でも、私は父が電話《でんわ》で話しているのを漏れ聞いていたから、知っていた。
リナさんが、仕事のシフトが急に空いたので、どこかに食事でも…と誘ったに違いない。
軽くため息をつき、私は馴染めない居間を嫌い、自分の部屋に戻った。
つい先ほど、喫茶店に聞いた話が鮮明に脳裏に蘇る。
…リナさんが悪い男に絡まれていて、話の調子だけを合わせるために、悪ぶった素振りをしたと好意的に解釈しようとする。
だが、鉄という男が席を外して一人になったあとも、何の躊躇もなく脅迫を積極的に進め、借金の証文を書かせた。
……表向きだけ調子を合わせてるというなら、ああはならない。
本当に表向きだけなら、一人になった時にわずかでも同情の念が漏れ出すはずなのだ。
例えるなら、両手でお椀を作って水を汲むみたいなもの。
どんなにしっかりお椀を作ったって、ぽたぽたと滲み出る。同情や、悔悟の念が滲み出る。
でも、リナさんからはぽたぽたどころか、ただの一滴も零れなかった。
しかも湿るどころか、本当の本当にからからに渇いていた。
満たされているべき水は一滴もなかったのだ。
あの時、リナさんは男と、二人して客2人を恐喝していた。
どちらが首謀者とか率先してとかじゃない。
二人でやっていた。
……そう。
リナさんは、…「悪い人」なんだ。
その考えを、私の脳細胞たちは満座の拍手で受け入れる。
……だって、私はリナさんが嫌いだったから。
でも、父との仲があったので、その感情を受け容れることができなかった。
それを、…今この瞬間、ようやく受け容れることができる…。
あいつは、母と同じ「悪い人」なんだ。
父と一緒にいるだけで、…駄目にしてしまう、いるだけで幸せを打ち砕いてしまう存在。
でも、父にそれを話したところで、リナさんが悪い人だと理解してくれるだろうか。
父は今や、骨の髄までリナさんに溶かされていた。
リナさんの一挙手一投足を、何から何までおめでたく、好意的に受け取ろうとする。
勝手に擁護し、勝手に讃える。
……私も子供じゃない。
男性に、どういう風に接すれば家畜化できるか理解はできる。
それは、パートナーシップを結ぼうとする愛や恋とは違う。
相手を奴隷化しようとする支配欲の延長に過ぎない。
男性は、……例え私のお父さんであっても、……ある種の汚らわしい方法で、マニュアル的に籠絡できるのだ。
それは男性として生まれた時点で抗えない弱点。
どんなに意志強固であろうとも、抗えない。
だからこそ、そこを刺激して籠絡しようとする女性たちを、私たちは蔑む。だからこそ、私はリナさんが好きになれなかった。
あえて百歩譲り、そんな一方的な恋愛を認めてもいい。………だが、それも恋愛ならばこそだ。
…恋愛ですらなく、…金銭を恐喝しようとする手段のひとつだとしたなら、それは絶対に許せない、最低最悪の卑劣な行為………。
脳裏に、あの喫茶店での会話が蘇る。
……そうだ、リナさんは確か、父のことを羽振りがいいと言っていた。
実際、父はリナさんと縁が出来てから金遣いが荒くなったと思う。
私は、気落ちしていた父が、世俗に関心を持ってくれたことを喜んでいたけれど、………今となっては、喜んでいい話かわからない。
竜宮《りゅうぐう》家のお金は父が一括で管理していたが、私が買い物をしていたので、よく通帳を預かり預金を下ろしたりもした。
だから、通帳や印鑑などの重要なものがしまわれている引き出しの場所は知っていた。
父の書斎の鍵の掛かった引き出し。
…鍵の隠し場所も知っていたし、その中に入ってる手提げ金庫のナンバーも私は知っていた。
父が急に帰ってくるかもしれないことを想像し、少しの緊張を覚える。……だが、私は確かめなければならない…。
手提げ金庫を開くと、いくつかの通帳と印鑑、切手の余りや未使用の葉書、が溢れ出した。
通帳を取り出そうと、中身を出した時、驚く。
…金庫の底に、新券の壱万円札の束があったからだ。
その枚数、厚みはとても軽んじられるものではない。
そして、それを束ねていたと思われる、千切れた紙帯も入っていた。その紙帯には印鑑が押されており、元は百万円の束だったことをうかがわせる。
いちいち銀行で下ろすのは面倒くさいから、普段も多少の現金は手元に置いておく。
でも、それはせいぜい多くても10万〜20万くらいの額の話だ。
帯封がされるような多額の現金を手元に置くなんて物騒なことをした試しはない。
……異様な枚数の壱万円札が、それだけでももう、私に異常な何かを突きつけている。
銀行の普通口座の通帳を開こうする指が、急に不器用になったような感じがした。
あの喫茶店での盗み聞きを、心のどこかで否定しようとする感情が沸き上がるのを感じる。
…それは父やリナさんを擁護したいからじゃない。
…あの恐喝者たちがカモにしているという「雛見沢《ひなみざわ》の旦那」が、自分の父であって欲しくないという気持ちからだった…。
通帳を開く。
私が最後にこれを見たのは数ヶ月前だが、その日付以降、無数の引き出しが記帳されていた。
本来なら、その刻まれた無感情な数字からは何も読み取れるはずはない。
……でも、今の私には、0から9までの10種類しかない数字が、これ以上ないくらいに雄弁に語りかけてくるのを感じるのだ。
それは、……無残な数字の羅列だった。
初めのうちは、食事代か何かで支出したのだろうというような、理解のできる数字が並ぶ。
…その額が、次第に5や10という感じにキリのいい大胆な数字に変わっていく。
下ろした日付の並び方から、リナさんとの交遊費のため、常に財布に現金を持っていた父の気持ちがストレートに伝わってきた。
それらの数字に混じって、突然、大きな支出が出てくる。
……交遊費にしては大き過ぎる数十万という金額が現れた。……日付を見て、記憶を遡る。
………そうだ、…この頃、確か、…リナさんが新しいマンションに引っ越したような話をしていた。
興宮《おきのみや》の辺りの賃貸マンションの相場を思い出す。
…敷金2つに礼金2つ。……妥当な数字だった。………父は、リナさんの新居の頭金をまるまる持ったのだ。
その後は、まるで新居祝いだとでも言わんばかりの威勢のいい数字が並び踊る。
お金の下ろし方も、段々と大味になってきた。
必要な分だけ下ろすという風な額から、とりあえず手元にまとめて持っていようという風な額に変わっていく。
…その変遷が意味するものはただひとつ。
父の金銭感覚の、生々しいまでの瓦解だった。
着実に減り続ける預金残高に、このままではどうなってしまうのだろうと不安を持った頃、突然、大きな入金を迎えた。
………こんな大きなお金をどこから。
思いつく出所は一箇所しかない。…私は色違いのもう一冊の通帳を開ける。
それは、まるで幼児向け雑誌の付録のパズルみたいなイージーさ。
あまりにピースが大きくて大味で、組み合わせて試すまでもないくらいに安易なジグソーパズル。
……父は、将来への蓄えであるはずの定額預金に手をつけていたのである。
そのお金は、母との離婚《りこん》時に得た膨大な慰謝料だった。
……父にとっては呪われた金額のはず。
それを新しい恋のために消化したい父の気持ちがよくわかった。
でも、…そんなのは定額預金を取り崩すための言い訳だ。
お金はお金。
離婚《りこん》の慰謝料であっても、将来のための大事な蓄えであることに変わりはない。
呪われたお金だから、湯水のように使っていいなんてことはありえない。
交遊費だけで理解の出来ない出費が増え始める。
6桁くらいの大胆な出費が度重なるようになる。
それらの額が、何となく電化製品や家具の金額を想起させた。
父がリナさんにせがまれ、何でも望みのものを買い与えてるに違いない。
……リナさんたちが、初めから父を食い物にするつもりだったなら、…父からどれほど搾り取れるか、探りを入れていたはずだ。
それで、…父が次々と事も無げに高額の買い物をしてのけるので、相当のカモだと当りを付けるのだろう。そんな節目が感じられる、金額の推移。
その頃の日付に目を移すと、……無味簡素なはずの日付が再び雄弁に語り出す。
ちょうどその時期を境に、リナさんが頻繁に我が家を訪れるようになり、お泊りを始めるようになるのだ。
…そう、リナさんにとっては、最初は羽振りのいい男に過ぎなかったのだが、この時期を境に、カモに変わったのだ。
父もこの頃から、「興宮《おきのみや》の友人」という呼称が「リナさん」という固有名詞に変わって、私に話すようになっている。
父もだらしないとは思う…。
でも、愛していた母の裏切りに遭い、ずっと意気を消沈していて痛ましいほどだった。
…そして、その責任の一端は私にもある。だから父だけを悪いと責めたくはない。
それに、……父は、いわゆるいい男ではない。
女性に過度な免疫はないだろう。落ち込んでいるところへ悩ましい魅力の女性が積極的に近付いてきたら、拒めたはずもない。
父はもうリナさんに夢中で、その他のことは目に入らなくなっている。
リナさんがそういう風になるように調教したのだから当然だ。
通帳やお金などを、元の形でしまい金庫を閉じる。
……この金庫はまさに、父の心の中そのものだった。
次々とリナさんに中身を食い尽くされていく…!
……どうしようどうしよう。考えるんだ、竜宮《りゅうぐう》レナ。
お父さんに、リナさんたちの悪巧みを打ち開けてみる?
…いや、多分何の意味もない。
家畜の定義は、柵を開けても逃げ出さないことを指す。
…父は今や、檻の扉を開けたって出てこようとはしないのだ。
お父さんとリナさんが一緒にいる時に、リナさんに対して追求してみようか?
…それもまったく同じだ。
リナさんは父にすがるように逃げるだろう。
父はリナさんを勝手に庇う。
背中に乳房のひとつも押し付ければ男なんて勝手に守ってくれる。
…私と父の争いに置き換えられたら話がおかしくなってしまう。
そもそも私は、父の為を思ってリナさんを追い出そうとしているのだから。父と私の不仲はリナさんに利する。私が自ら窮地を招くようなものだ。
なら、……つまり、父に対しては何もすることがない、ということなのか。
リナさんと絶縁するよう父に迫ることができないなら、…私が直接、リナさんに絶縁を迫らなくてはならない。
……そう、つまりそれは、父を焚きつけて戦わせるのではなく、…他でもない、私自身が戦わなければならないことを指すのだ。
でも、どうやって戦えばいいんだろう?
…そうだ、リナさんとあの男については、…詩ぃちゃんと一緒にいた、葛西《かさい》さんという人が詳しそうだった。
あの人に何とかもう一度接触を図れないだろうか。
怖そうな人だったけれど、魅ぃちゃんの友人だと紹介してもらってある。
……この界隈では、魅ぃちゃんの名前はかなり強い意味を持っていたはずだ。悪い扱いはされないはず…。
リナさんたちに、お前たちの悪巧みはもう割れてるんだぞ、という感じに迫って、……いつの間にか父の前に現れなくなるような感じに、きれいにいかないだろうか…。
あぁ、でも葛西《かさい》さんて人とどうやれば会えるかなんて知らないし、……魅ぃちゃんたちにうちの事情を知られたくないし…。
そもそもこれは竜宮《りゅうぐう》家の問題だ。
他の誰も関係ない。
そう、これは私が1人で戦わなければならないことなのだ。
私は、両親の離婚《りこん》であれだけの後悔をした。
…自分の努力で回避できたかもしれない悲劇を嘆いた。
だからこそ、……今度は嘆かない。
回避できるチャンスを逃さない。
私は、…今度こそ幸せを掴むために、戦うんだ…。
■幕間
TIPS
4■お見積書
間宮《まみや》律子《りつこ》さま
株式会社エグゼクティハウジング
お見積書の送付について
この度は、弊社をご愛顧いただきまして誠に有難うございます。
お問い合わせの物件について、以下にお見積もりをお送りさせていただきます。
物件名  パレスオブベルサイユ 707号室
物件番号 14M1421
物件タイプ 新築マンション
間取り  2LDK
所在地  鹿骨市《ししぼねし》小岩町2丁目
交通   ×××線 穀倉駅  徒歩5分
価格  4980万円  管理費 20000円
その他  東南角部屋・エレベーター停止階
マンション内フィットネスクラブの会員権付
この度はお問い合わせをありがとうございます。
こちらの物件は現在、急発展を遂げている穀倉駅近くの高級分譲マンションでございまして、今後、穀倉駅周辺の地価上昇に伴い、さらに価値が上がることが予想される優良物件でございます。
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そのため抽選制となりますことを予めご容赦ください。
また、抽選の口数で格段の優遇を得られる「セレブリティ会員様優待枠」もございます。
どうぞお気軽に担当までお問い合わせください。
株式会社エグゼクティハウジング
セレブリティ担当マネージャ 川畑
■4日目
「あーーー、そりゃ多分、葛西《かさい》さんだねぇ。詩音の監視役だよ。」
「監視役、なの?」
「あっはっは、まぁねー! 詩音のやつ、私と比べると突拍子もないことをするからさー。監視役が必要なわけよ。」
「魅音《みおん》も詩音も、その意味においちゃ互角だと思うぞー。」
圭一《けいいち》くんが売り言葉を挟んだので、いつものように魅ぃちゃんと圭一《けいいち》くんははしゃいでふざけ合うのだった。
葛西《かさい》さんという人は、興宮《おきのみや》の町のちょいとした顔役らしい。
…つまり、私が単身ではおいそれと会える相手ではないということだ。
でも、詩ぃちゃんの付き人だということになると、詩ぃちゃんを経由して接点を探せるかもしれない。
だが問題なのは、私と詩ぃちゃんに接点がないことだった。
詩ぃちゃんがひょっこりと雛見沢《ひなみざわ》に現れた時に楽しくふざけるだけで、こちらから詩ぃちゃんにアプローチしたことはない。どうやれば会えるか見当もつかなかった。
それに、会えたとしたって協力してくれる保証はない。
……あの時だって、詩ぃちゃんが一言添えてくれたから話してくれたわけで、他人のことは軽々しく口にしないのが身上のように見えた。
………そんな回りくどいことをしている間に、ますます泥沼になって、手遅れになったりはしないだろうか。
先日の話の様子から考えて、男が近々乱入するような話をしていた。
つまり、それはこの芝居の締めくくりを示す。…根こそぎ持っていってしまおうという意味だ。
私に危機感が足りないだけで、……破局はすぐそこまで迫っているのではないだろうか。
今だって、こうして私はのんびりと授業を受けているけれども、……実は今、自宅にあの男たちが乗り込んできていて、父を恐喝しながら通帳を取り上げているというようなことはないだろうか。
……気になりだすと不安が不安を呼び、今にも天井が落ちてきて自分を押し潰してしまうような、心理的圧迫感を感じるのだった。
「いやぁ…、平和《へいわ》過ぎて退屈《たいくつ》だぜ。」
圭一《けいいち》くんが大あくびをしながら話しかけて来る。
「そうかなぁ。レナは平和《へいわ》で退屈《たいくつ》なの、大好きだよ…?」
「俺はごめんだねぇ。せめて火星人が襲来するくらいのことが、毎週とは言わないまでにも、月末くらいには欲しいところだぜ。
あ、定期テストはなしでだぜー。」
「もし本当に火星人が攻めて来て、世界中が滅ぼされて、雛見沢《ひなみざわ》も焼け野原になったら、圭一《けいいち》くんは退屈《たいくつ》がまぎれて満足かな。………かな。」
「いや、そこまでは言ってねぇよ。何かアクシデントのひとつもないと、退屈《たいくつ》で溶けちまいそうだぜって言いたかっただけだぜ。」
……私の今の心情などもちろん知らずに言ってるのだろうが。
圭一《けいいち》くんの無神経な一言にたまにイラつく。
平和《へいわ》で退屈《たいくつ》で、昨日と同じ日が今日も明日も訪れることを疑わない生活の、どこに不満があるというのか。
私は平和《へいわ》で退屈《たいくつ》な日常が、ある日、突然崩壊することを知っている。
いつもの平和《へいわ》で退屈《たいくつ》な日々に、突然、母に離婚《りこん》を打ち明けられるかもしれないことを知っている。
突然、父に愛人が出来て、家に居場所がなくなるかもしれないことを知っている。
それでも、日々は呆れるくらいに何度も何度も単調に繰り返されるわけで。
……だからこそ私は、いつ世界が崩壊してもいいように、一日一日を精一杯幸せに生きたいと思っているのだ。
「レナは日々が幸せそうでいいよな。そういうのもスキルなのかな、ちょっと羨ましいぜ。」
「………そんなの羨ましがられても困るなぁ。」
「日々を退屈《たいくつ》でなく、幸せに過ごすのって、何かコツでもあるのか? あるなら教えてくれよ、俺も会得してみたいぜ!」
「あははははは、そんなの簡単だよ。………気付くだけだもん。」
「気付くって?」
圭一《けいいち》くんには気付けないよ。
それに、………気付かないことの方が、多分、それって幸せな人生だと思うから。
「気付くだけだよ。幸せな日々が、有限であることに。」
■ゴミ捨て場へ
いつもの3人での帰り道。
魅ぃちゃんと別れる道で、手を振りながら去っていく彼女を追いかけた。
「魅ぃちゃ〜〜〜〜ん…!」
「ん? 何〜〜?」
魅ぃちゃんは、自分が何か落し物でもしたのかと、きょろきょろと自分の身なりを確認している。
「えっと、あはは、忘れるところだった。実はね、昨日、喫茶店で詩ぃちゃんと葛西《かさい》さんに会ったの。その時にね、葛西《かさい》さんの落し物を拾ったの。」
もちろん落し物なんて話は出任せだ。
葛西《かさい》さんに本当に会えたら、全然関係のないものを見せて、勘違いでしたと謝ればいいだけの話。
「へーーー! あっそ、そりゃありがと。届けとくよ。」
「あ、あ、それでねそれでね、……レナが直接返したいの。」
「……?」
魅ぃちゃんはきょとんとした。
当然だ。私と葛西《かさい》さんには何の接点もない。
どう考えても不自然な申し出に違いなかった。
「まぁ、そりゃ構わないけど、何でまたぁ。」
「は、はぅ……。……サングラスにおひげがね? ちょっぴりかぁいかったの…☆ はぅ〜。」
こういう時はかぁいいモードで誤魔化せないだろうか。…適当な出任せを言ってみる。
魅ぃちゃんはあまり深く考えるタイプじゃないから、多分これで通用するはず。
「あっはっはっは! 口ひげを引っこ抜いてお持ち帰りしちゃダメだよー?」
「で、そ、その、どうかな、会えるかなぁ…?」
「…んーーーー、…忙しいのか暇なのか、全然見当つかない人だからねぇ。
今度、雛見沢《ひなみざわ》に来る用事がないか聞いておくよ。」
いつになるか分からない未来の話では困る。
…今日中にとは言わないまでにも、明日明後日くらいには会えるようにしてもらいたい…。
「なんだよー、お前ら何やってんだー?」
「んーー? んっふっふっふ! レナがねぇ、新しい恋に目覚めちゃったんだってさぁ。」
「ちち、違うよ違うよ、はぅ〜〜!!」
「何だそりゃ、面白そうな話だなぁ! 俺も混ぜろ混ぜろ!」
このままうやむやにされたくないので、魅ぃちゃんの耳元に、急いで返した方がいい、きっと葛西《かさい》さんも探してるよ、と言い残した。
魅ぃちゃんは、了解了解と復唱すると、手を振って去っていった。
………葛西《かさい》さんに会えたら、どう話して、どう協力を頼むかは何も考えていない。
でも、立場的にリナさんたちより上手にいるようだった。力になってもらえれば、これほど心強いことはない。
でも、プライベートには干渉しない…というようなことを言われて、関わり合いを避けられる可能性は否定できない。父と娘と愛人の三角関係に過ぎないと言われればそれまでなのだから。
「じゃあな、レナぁ。また明日なー!」
「うん、また明日ねー!」
圭一《けいいち》くんとも別れ、私だけの帰路になった。
おしゃべりな圭一《けいいち》くんと別れると、急に静かになった気がして、頭の回転が冴える気がする。
……私に必要なのは、これからのことをよく考える静かな時間なのかもしれない。
葛西《かさい》さんに話せば、円満に解決するなんて甘えない方がいい。
協力を拒まれ、他の方法を考えなければならない可能性だって高いのだから。
……むしろ、それで当り前くらいに考えて、他の手を考えておかなければならないかもしれない。
……さっきの、父と娘と愛人という三角形が気になった。この不和の三角形を身近によく知っていたからだ。
そう、それは、…………悟史《さとし》くんの一家のことだったから。
去年の悟史《さとし》くんがそうだった。
兄と妹と叔母の三角形の中で、妹を守りたくて戦った。
それは父を守るために戦おうとする私と図式は違わない。
悟史《さとし》くんは1人で戦った。
誰も助けてくれなかったから。
私だって、同情と憐れみの言葉をかける以上の何もしはしなかった。
何もできると思わなかったから。
気の毒だとは思いつつ、何の手も差し伸べなかった。
無責任に励まし、心を切り付けるような言葉で煽るだけ。
……それがどれだけ彼の心を傷つけたか、最近、圭一《けいいち》くんの無神経な言葉からそれを感じ取れる。
悟史《さとし》くんが去年、辿った道を、今度は私が辿っている。
……不思議な既視感。奇妙な繰り返し。
……あはは、じゃあ今年は、…私が鬼隠し《おにかくし》に遭う?
大丈夫、私は雛見沢《ひなみざわ》を逃げ出そうなんて思ってないよ…。
………本当に?
私は雛見沢《ひなみざわ》を逃げ出そうとは、まだ思っていないけれど、家を逃げ出そうとは何度も思ったんじゃない?
それで、ゴミ山に逃げ込む先を自分で作ったんじゃないか。
そこがたまたま雛見沢《ひなみざわ》の中にあっただけのこと。
もしあのゴミ山が、雛見沢《ひなみざわ》でなかったなら。…それは私が雛見沢《ひなみざわ》から逃げ出そうとしていることと同じだ。
…あはははは、…こういうのはだめだな。オヤシロさまに怒られちゃうね…。
オヤシロさまは、……本当に怖いんだから。
…チカチカ、………チカチカ…。
……だめだ、あの頃のことを思い出そうとすると、意識が朦朧としてくる。
向精神薬の毒々しい色のカプセルを思い出されてくる。
それと同時に、頭の中にチカチカとする雲がいっぱいに広がっていく……。チカチカチカチカ……。……無理に思い出すな、無理に思い出すな…。
あぁ……、だめだだめだ………。……頭の中に広がるチカチカが止められない…。
この感情はだめだ。……他の感情で心を満たさないと…。
そう、こんな抽象的なチカチカに頭をいっぱいにしてる場合じゃない。
…葛西さんに協力を拒まれた時にどうするかを考えよう。お父さんをリナさんたちから守らなくちゃ。あぁ、私はいつまであいつのことを、さん付けで呼ぶんだろう? リナはリナだ、リナリナリナ。お父さんを誑かして、私たち親子に不和をもたらそうとする「悪い人」。悪い人はただいるだけで悪い人。悪くない9割の人とはまったく違う存在。曖昧に見逃せばそれだけで周りが膿んで腫れてしまう存在。ほら、みかん箱に1つ痛んだみかんがあると、周りのみかんを次々腐らせてしまう、ああいう感じ。…去年の悟史くんは、どうやってその三角形を終わらせたんだっけ?あぁ頭がチカチカ、チカチカ…。チチカチカチカ、チカチカチカチカ…。
頭の中でうねるチカチカの渦に眩暈を覚えた頃、私の家が見えたきた。
……門の脇に停められたリナさんのバイクも目に入る。
そのバイクが見えた瞬間、頭のチカチカはすっと引き、私は私を取り戻すのだった。
リナさんは昨夜は結局、泊まった。
今日の夕方にはお店のシフトが入っていると言ってたから、多分、もうじき帰るだろう。
でも、そのもうじきの時間すらも、今はリナさんと一緒にいたくはなかった。
ただいまと叫んで玄関に飛び込み、まるで外で友達が待っているかのように振る舞い、私は慌しく外へ飛び出していく。
それをリナさんに呼び止められた。
「あらー、お帰り礼奈《れいな》ちゃん。」
「あ、こんにちは…。」
リナさんの笑顔がこれほど醜悪に見えたのは初めてだった。
当然だ。私はこの笑顔の裏側で何を企んでいるのか知ってしまったのだから。
「今日ね、お父さんと一緒にお昼は穀倉(ごぐら)まで行ってきたのよ。キーマカレーがとーってもおいしいお店でね?」
居間からお父さんも顔を覗かせ、おいしい店だったので、今度みんなで行こうと言う。
……みんなとは、私とお父さんだけのことを指すのか、指さないのか。というか、リナさんにお父さんと呼ばれたくない。
「それで、レトルトをおみやげに買ってきたの。あとでぜひ食べてみてね。おいしいから〜! 礼奈《れいな》ちゃんはこのお店、知ってる?」
そのキーマカレーがおいしい穀倉の店は知ってる。
週刊誌に載っていた、オープンしたばかりのお店のことだろう。
とてもおいしいけれど、値段が高いお店だったはず。その、みやげに買って来たレトルトだけで、普段の竜宮《りゅうぐう》家の食卓がまかなえてしまうに違いない。………竜宮《りゅうぐう》家の通帳を知っている私には、この程度のことですら、穏やかではいられなかった。
「それは楽しみです。ありがとうございますね、リナさん。」
「それでね、礼奈《れいな》ちゃん。ちょっとみんなでお話があるんだけど、」
「ごめんなさい! ちょっと友達を待たせてるんで出掛けますね。はぅ〜! またゴミ捨て場で宝探しなの〜☆」
「あはははははー! 礼奈《れいな》ちゃんは宝探しが好きねー。私も今度行ってみようかしらぁ。」
「ではすみません、失礼します!」
リナさんが何か仕草をする度に、私の大嫌いな香水の匂いが鼻を突く。
私はそれ以上、顔をしかめずにその場に居続けるのは、もう限界だった。
玄関を飛び出し、私は家を出てなお匂う気がする香水から逃れるため、がむしゃらに走り出す。
自分という名のゴムが、きちきちに張り詰めているのが分かる。
何かが外れれば、ものすごい勢いで弾けてしまうのが自分でも分かる。
何で私は、自分の家でこんな思いをしなくてはならないのだろう。
自分の家とは、心を許せる一番の場所のことではなかったのか。私は逃げる、そこから逃げる。こんな家は私の居られる場所じゃないから、どんどん逃げる。
それは走るのではなく、逃げるという行為。
私が居てもいい場所へ逃げ込む、逃げるという行為。
…私は今日一日、あの女と戦おうという決意で胸を満たしていたのではないのか。
彼女と直接か、あるいは父も交えて戦おうと決意したのではなかったか。
なのに、彼女の作り笑いの顔を見た途端に、背中を生理的な悪寒が駆け上ってしまった。
それは、何気なく持ち上げた石の下に、団子虫がびっしりいて気持ち悪くなって、慌てて石を戻すのと同じこと。
私は慌てて、家を飛び出すのだ。
私は戦いたいのか、逃げたいのか。
今日と同じ明日が訪れると信じて、ゴミ山の隠れ家で安穏と過ごすことを選ぼうとしているだけではないのか。
でもそんなのじゃ駄目なんだ。
あいつらは、いつ事を荒立ててくるか分かったもんじゃない!
とにかく時間を無駄にしちゃいけないはずなんだ。理屈ではわかってる!
…こういう時、ゴミ山の隠れ家のマットレスは本当にやわらかく感じるのを、私はもう知っていた。
わかってるんだけど、…逃げたくなる、逃げてしまう、逃げてしまった!!
■リナ殺害
ひぐらしの鳴き声が、とても気持ちよかった。
彼らの鳴き声はとてもやさしい。
…音楽のように、決められた感情を押し付けることもない。
…ただやさしく、私は私で、あるがままでいてくれればいいと教えてくれている。
こんなにも静かだから、無粋な排気音が近付いてくるのはすぐに分かった。
ダム戦争中にはさぞ賑わっただろうと思われるこの場所も、今はほとんど人など訪れない忘れられた場所だ。
……だから、わざわざ通り抜ける人間は希少だった。
私は廃車《はいしゃ》の屋根《やね》の上に座り、振り返りもせず、その無粋な侵入者が早く通り過ぎてくれるのを待つのだった。
だが、排気音は止まる。
………私は馬鹿《ばか》じゃないから。それだけで誰が訪れたのかを悟った。
おーいと遠くから呼ぶ声を一度は無視する。
…でも、無視するのは難しいくらいに近付いてからもう一度声を掛けられたので、私は振り返り応えた。
「………………リナさん。」
「礼奈《れいな》ちゃん、結構、耳遠い方ー?」
「すみません、多分、逆風だったんで聞こえにくかったんだと思います。あはは。」
その適当な言い訳で納得してくれたようだった。
リナさんは、あぁそういうのってあるよねーと笑う。
「一人? お友達は?」
「一人で遊んでますよー。」
「ふ〜ん。その年でなかなか渋いわねー。」
リナさんは、う〜〜んと伸びをすると、斜面いっぱいに広がる広大なゴミ山を眺めた。
「しっかし、よくもこれだけ盛大にスクラップばっか捨てたもんよね。知ってる? 昔、平坂の二丁目にもタイヤの外れた車ばっかり積んであるところがあってねー。」
リナさんの昔話に興味などないが、上辺だけは相槌を打って合わせた。
彼女が興宮《おきのみや》に帰る時、ここは通らない。
だから、私がここにいることを知って寄り道したのだろう。
……一体、何の用で?
彼女は私に話を合わせようとしていることは明白だった。
…私が少し露骨に避けたことを気にして、機嫌を取りに来たのだろうか。
少なくとも、彼女がどういう目的で父に近付いているのであれ、実の娘である私と対立して得をすることはない。
その意味においては、不思議なこととは言えなかった。
私は、聞きたくもないリナさんの昔話に相槌を打ちながら、早くいなくなってくれないかなと、そればかり思っていた。
………私は、戦わなくていいの?
私は彼女と戦う決意をしたんじゃなかったっけ?
興宮《おきのみや》の喫茶店で、この女の腹の底を知ったはず。
そして父がこの女にしゃぶり尽くされようとしているのを、金庫の中身で知ったはず。
……私はあなたの正体を知っています。父と別れてください。
この一言で決着がつけばどれだけ気楽なことか。……彼女は恐らく、否定してくる。
私がどんなにあの店で聞いたことを告げたって、確固たる証拠《しょうこ》があるわけじゃない。
あの鉄という乱暴な男に脅されてやっただけ、なんて言われたらそれ以上は詰め寄れない。
…でも、この女が「悪い人」だってわかっている!
このまま、無駄に時間を溶かせば、遠くない将来に必ず何か恐ろしいことが起こるとわかっているのに…!
短絡的な感情が少しずつ込み上がってくる。
……でも、その感情をどういう形で吐き出せばいいかわからない。
そしてそんな感情が込み上がってくるに従い、彼女の香水の匂いがたまらなく嫌になってくる…。
…私は彼女との距離を開きたくて、スクラップの斜面を飛び降りていく。
降りて、降りて。ゴミ山の傾斜を下っていく。
振り向けば、彼女も何か言いながら斜面を降りてくる。……ついて来る気なのか。
私は彼女を振り切りたくて、さらに足早に斜面を駆け下り、ゴミ山を回りこみ、私の隠れ家の前までやってくる。
……意味のない逃避。
彼女がやがてここに来るだけ。
そして誰にも内緒のはずだった隠れ家の場所を、わざわざあの女に教えてるだけ。
せめて、私にとっての大事な場所をあの女に教えたくない。
…そう思い、この場所を離れようと思った時、彼女が姿を現してしまった。
「……へーー。ちょっと素敵よね。秘密《ひみつ》基地みたいー!」
「あははは。私だけの秘密《ひみつ》の隠れ家なんですよー。ここには誰も来ないし、誰にも何も聞コエマセン。」
……自分の言葉に、不思議な違和感。
「礼奈《れいな》ちゃんだけの秘密《ひみつ》の隠れ家? あはははは! 嬉しいわね、そんな場所に連れて来てもらえるなんて。」
彼女は、自分だけの秘密《ひみつ》を打ち明けてもらえたのが、親密さを示すものだと感じたらしく、勝手に嬉しがっている。
そして、隠れ家のワゴン車を見つけ、窓から中を覗き込み感嘆を表そうと奇声を上げていた。
私は、この場所が誰も知ラナイ秘密《ひみつ》ノ場所デアルコトヲ思イ出シ、意識ト体ガ剥離シテイクヨウナ、ふわふわトシタ感覚に酔ッテイタ。
「……………………………。」
それは車酔いにも似た感覚で、甘酒に酔うような心地よさはない。
嘔吐感すら感じさせる、気持ち悪さがあるだけだ。
この女と一緒に居て、逃げ出せない現実に、脳が現実逃避のための脳内物質を充満させているに違いない。
……考えないようにしたって、彼女が目の前にいる現実は変わらないのに…!
「そうそう、ねぇ礼奈《れいな》ちゃん。」
「………なんでしょう?」
「…………どしたの? 気分悪いの?」
「いえ、…平気です。」
新鮮な空気を吸い、意識を現実に引き戻す。
……嘔吐感はなくなったが、平衡感覚は喪失したままで、私は体勢を保つためにスクラップに寄りかかる必要があった。
「私は礼奈《れいな》ちゃんのこと、好きよ? 礼奈《れいな》ちゃんは私のこと、好き?」
「あはははは…、何ですか突然。」
この女のことを好きだと言いたくない私は、そう応える。
「私ね、ずっとあなたとお父さんとお付き合いをしているんだけど、…色々と話し合ってね。」
……いつまで酔ってるんだレナ。この話の展開はどこかで聞いたことがある。
この女が何を言おうとしているのか、理解しようとする感情と、わざと理解しないようにしようとする感情がせめぎあう。
そのせいで、この女の言葉は、私の頭の中でガンガンと跳ね返り残響した。
「それでね、これからのことを真剣に話し合ったのよ。これからの生活や、色々よ。」
………え?
「礼奈《れいな》も、アキヒトおじさんのこと、好きでしょ? それでね、お母さん…、」
……なんだこれ。
……お母さん?
何、変なの思い出してるんだ竜宮《りゅうぐう》レナ!
リナさんと一騎打ちになるこの大事な時に…!!
嫌だよお母さん、じゃあお父さんはどうなるの? 私はどうなるの? 離婚《りこん》なんてだめ、再婚なんてだめ。…ううぅううぅあぅうぅ、離婚《りこん》なんてだめ、離婚《りこん》なんて許さない。再婚なんてだめ、再婚なんて、
「再婚なんて、許さないです。」
「……………え?」
「お父さんとどういう付き合い方をしたって構いませんが、……再婚なんて、許さないです。」
私がこれほどまでにはっきりと言うとは、彼女も想定していなかったに違いない。
しばらくの間、唖然としているようだった。
……やがて、その静寂を自らの笑い声で破る。
「…………………。
……あ、……あっはっはっは! …拒絶もあるかなとは思ってたけど、ここまではっきり言われるとは、…あはは、思わなかったもんだから。」
「拒絶もあるかなと思っていました? 私が拒絶していたのに気付いていたのは意外でした。」
「そんなのわかるでしょ。あんた、私と目を合わせるとすぐ逃げるもん。それでわかってないなんて思ってた? ガキは嫌ねー。」
彼女の顔が醜悪な感情に歪む。
……それは初めて向けられる表情のはずなのに、全然驚かなかった。なぜなら、私にとっては、彼女の表情は常にそう見えていたのだから。
「出来れば、上辺だけでもあんたとは仲良くしてたかったんだけど、ここまで嫌われちゃ難しいわねー。……私のどこが気に入んないの? 後学のために教えてよ?」
「最初っから。全部。匂いも嫌い。」
悪意ある攻撃的な言葉が次々と口から出る。
……翼もないのに、空高くに舞い上がったような、不思議な落ち着きない高揚感。
私じゃない私に体を委ねたような不思議な感じ。ものすごくキナ臭い修羅場にいるはずなのに、まるで他人事のよう。
「そりゃー好都合ね。私もあんたのこと嫌いだったからお互い様よねー。きゃははははは! 舐めんなクソガキ、ガタガタ言わされてぇかー?」
「二度と家へ来ないでください。再婚なんて、私が絶対に許さない。」
「きゃっはっははははははは! 別にあんたに許してもらわなくてもいいんだけどー? まぁ、あんたがうまく立ち回ってお父さんに再婚を断念させたきゃさせてごらんって。そんなの今さら意味ないしぃ。」
……ここまで私と対立して、なおもこれだけ不敵な彼女の様子に、少しだけ気圧される。
父を完全に支配している自信がある?
…いや、そんな自信なんて曖昧なものじゃここまで不敵にはなれない。もっと具体的な裏付けがあるのだ…。
それは、私が問い掛ける前に、彼女が自分で言った。
「私ね、妊娠してるの。」
「嘘だッ!!!!!!」
「ぅ、……嘘じゃないわよ。本当よぉ。」
嘘だ嘘だ嘘だ…、妊娠なんて大嘘だ…!!
妊娠したから離婚《りこん》しなくちゃならない、妊娠したから再婚しなくちゃならないなんて、嘘だ嘘だ、大嘘だ…!!
「私、クリスチャンだから中絶は出来ないのよねー。認知してもらわざるを得ないしー。それに結婚を前提の性交渉だったわけだしね。
妊娠までさせといて、今さらちゃぶ台返しなんてことになるとー、最近は問題が多いわよねぇ?」
「それが最初から目的のくせにッ!!! 私は聞いてるんだ! お前と鉄という男が二人で喫茶店で話しているところを聞いているんだ!! お父さんのお金を目当てに近付いたのを知っている!! 雛見沢の旦那と呼んで、カモにしようとしていることを知ってる!! 葛西さんに聞いたから全部知ってるんだ。美人局だってことも全部知ってるんだ!!!」
「……あら、全部知ってるんだ? あらららら?」
いつの間にか、リナはレナの真正面に立っていた。そして、顔が触れ合うくらいに間近で睨み合う。
「んで? 礼奈《れいな》ちゃんはそこまで知ってて、どうしようってわけ?」
「……お父さんに、二度と近付かないでください…!」
「嫌よって言ったらー?」
「……………………。」
「こんな秘密《ひみつ》の隠れ家に誘ってくれての話だからねぇ。そういうお話かなーとは思ってたのよ。だってここ、秘密《ひみつ》の隠れ家なんでしょ? 誰も知らなくて、誰にも何も聞こえない、秘密《ひみつ》の場所なんでしょ?」
「えぇ、そうですよ。……誰も知らなくて、誰にも何も聞こえない。…誰も訪れることのない、忘れられた場所…。」
……レナとリナの顔が、互いの鼻を食いちぎろうかというくらいに近付く。
レナも、自分がどういうことを口走っているか薄々とはわかっていた。
…だが、これからどうなるのか、何が起こるかもしれないのかまでには考えが至らなかった。
もうここまで来てしまったら、……後がないのは理屈でわかっている。
……でも、後がないから、何をすればいいのか、わからない。知らない。
「きゃっははははは! いやぁだ。なぁにをマジになってんだかねー。ほらほら仲直りー。」
リナは突然笑い出すと、レナの背中をバンと叩いた。
…レナは表情を和らげることなく、リナを凝視し続けていたが、だからといって、リナが両手をいやに馴れ馴れしくレナの首に絡めてきても何の不審も感じなかった。
薄皮で出来た緊張感が破れた時、リナはレナの喉を絞り千切るかのように締め付ける!
あれほどまでに敵対していたのに、レナは自らの首が絞られるまで、これほどの直接的な悪意を気付けなかった。
「………………ぁ、………………ぐ……………、」
「クソガキが舐めやがってよ!! もうちょいでウン千万ってカネが転がるんだよ。上辺だけでも仲良しってことになってりゃあ、小遣いの少しもやろうって思ってたのになー!! 口ばっかり滑らしッかぁ、うンだらねぇトコでまだるっこしいッ!! 死に晒せやビチグソがぁッ!!!」
レナは震える手で、締め付ける両手に抗うが、振りほどく力が出せるはずもない。
「………ぉ………………ぐぅ………!!」
「コロシはしたかなかったんだけどねー! 二度とこんなウマいカモにゃ会えないだろうしさぁ!! てめー絞めてウン千万なら悪くはないさねッ! どうせ、巻き上げたら蒸発するつもりだったしさ。上等くれたらぁボケガキャああぁッ!!!」
視界が見る見る内に赤黒く濁っていく。
…生まれて初めての、殺されるという悪意。それに恐ろしいという感情は抱かなかった。…なぜなら、恐ろしいという感情は、結局のところ、安全な場所にいる人間が対岸の火事を指して言う言葉だから。命を賭した当事者には恐怖なんかない。腕の力をほんのわずかでも緩めれば、すぐにも自分の喉を握り潰してしまうだけの、単純な力比べ。
リナは完全な優位を得たくて、押し倒して馬乗りになろうとしているようだった。
もしそれまでも許してしまえば、もう完全に抗うことはできないだろう。
何とか力比べの体勢を維持するが、喉を絞められているレナの方が消耗が激しく、互角なんて言葉は間違っても使えない。
レナはその力の均衡をわざと崩した。
敢えて自ら後ろへ転ぶことでリナの体勢を崩そうと試みたのだ。
このまま力比べをしていてもやがて息が詰まる。
なら、わずかのチャンスに賭けるしかない!
急に抵抗がなくなり、二人はもつれ合ったまま転ぶ。
だがリナも殺そうという執念は確かなもので、転んだくらいではレナの喉から手を放したりはしない。
それでも、リナの手の締め付けは一瞬だけ緩んだ。
戒めを解けるほどには緩まなかったが、レナが手で抗わなくてもいいわずかの時間が生まれた。
そのわずかの瞬間に、チャンスを掴めなければ、レナはおしまいだった。
だからレナは、文字通りチャンスを掴もうと、そのわずかの瞬間に、両手で地面を掻く。
チャンスを掴もうと、足掻く!
レナの右手にガラスの破片が当る。
それは本当の本当に、起死回生の文字通りのチャンスだった。
ガラス片で、自らの喉を締め付けるリナの手首の内側をえぐる!!
「…ぎぃいいいぃいやあぁああぁッ!!!」
リナも数瞬の間、この激痛に耐えようとした。
だが、レナの窮鼠の力でねじ込まれる痛みに堪えられるはずもない。
首から両手を離し、血がぶくぶくと吹き出す手首を押さえる。
その隙を逃さず、レナは横へ転がってようやく難を逃れた。
「……ぐ、ぐぐぐ…!!! いってぇええぇぇぇ…!!」
痛みを堪える苦悶の声に威圧が混じる。
だが、今や威圧は何の意味も持たない。威圧は戦いを未然に回避しようとする相手の弱さに訴えるものだからだ。
戦いに入ってしまったこの状況では、自らの傷の深さを相手に知らせる以上の何の意味もない!
レナには今や何の躊躇もなかった。
今この場でリナに習ったのだ。こういう時にはどうすればいいのかを!
そう、ここはレナだけの秘密《ひみつ》の隠れ家。レナが知らないことなど何もない!
この日が訪れることを、レナは心のどこかで知っていたのだろうか?
それとも、そこにそれがあったのは本当に単なる偶然なのか。レナはそこにあるのが、さも当り前であるかのように、1mちょっとの長さの鉛管を探り当てていた。
大きく振りかぶり、それを振り下ろす!!
こんな重くて硬い鉛管を腕で防げるはずがない。
リナはそれを手の平で受け止め、奪い取りたかったのかもしれない。
だが、長く伸ばした爪が災いした。
受けた時の両手の指の形が悪く、何本かの指が挫け、爪が剥がれる。
その叫びに、レナは優位が移ったことを悟る。
このまま畳み掛けてしまわなければ!!
さもなくば、自分がそうしたように、このわずかの優位はすぐにも引っくり返され、今度こそ自分は絞め殺されてしまうに違いないッ!!
「ぎゃ!!
ぐッ!!
ちょ、
…ッ!
タンマ、
…タンマ!!!」
リナは両手で頭を庇ったが何の意味もない。頭より先に腕を砕くことになるだけだ。
「マ、マジで洒落ンなんないって…!!
ぎぇぐッ!!
ぎゃッ!!」
こんなこと洒落でやるものか。
死ね死ね死ね、
死んでしまえ…!
そうだ、そうなんだ。
こうすれば良かったんだ。
証拠《しょうこ》とか、誰かに相談するとか、
そんなのくだらないくだらない、
本当にくだらない!!
始めからこうしてればよかったんだ!!
もっともっと早くにこうしていれば!!
お父さんが籠絡されることもなかったろう。
お父さんを守れた。
家族を守れた。
私の生活を守れた。
私が私でいられた。
お母さんも離婚《りこん》しなかった。
だからずっと幸せだった。
私は不幸になんかならなかった。
でも、私は幸せを取り戻す。
今この瞬間、自らの力でそれを勝ち取る。
私は不幸になんか泣かない。
不幸せな運命になんか屈さない。
幸せになるんだ。
それを掴み取るんだ。
今!
自分の!
手でッ!!!!
リナは何度か逃れようとした。
だが、両手が満足に使えず、足場も普通じゃないこのゴミ山から逃れられるはずはなかった。
そう。ここは私だけの隠れ家。
私だけの国。…そこで私から逃れられるはずもないのだ。
スクラップの斜面を登ろうとして、滑って転び、ごろごろとどこまでも転がっていった。
それっきり、彼女は立ち上がらなかったし、頭を庇いもしなかった。
目蓋は開いたままで、首が不自然な角度で曲がっていた。
………リナの死をどうやって確認していいか分からず、私はしばらくの間、開いたままの目をじっと見ていた。死んだフリではないかと疑って。
だが、いつまで待っても目蓋は閉じない。
私は砂を掴み、それを顔面に投げつける。それでもリナは目蓋を閉じなかった。
どさり。…汗《あせ》で滑り、鉛管が手から落ちる。
それを拾おうとして、こんなにも重いものを、軽々と振り回していたことに驚くのだった。
全身は汗《あせ》まみれで、冷えてくる風がとても気持ちいい。
ひぐらしたちの合唱は、高ぶった私の心を心地よく癒してくれた。
リナは、もう壊れたマネキンと変わらない。……そう、それはまさにガラクタ。
ガラクタの国の主である私が、この国の住人に相応しい姿を与えたのだ。
人を殺したという負の感情はまったくなかった。
それよりも、父をたぶらかす悪を討ち倒した達成感の方がはるかに上回っていた。
荒れた息が治まってくると、…今のこの状況を冷静に分析する気力が回復する。
……リナの死体《したい》を隠そう。
まずリナのスクーターを隠そう。
私は斜面を登り、土手の上に停めてあったスクーターを斜面に転げ落とす。
それはゴロンゴロンと大きな音を立てながら転げて行き、初めからそこにあったかのように付近に馴染んで消えた。
そして、斜面を戻り、リナの死体《したい》を隠れ家へ引っ張っていく。
50kg前後の砂袋を引きずっているのと同じはずなのに、むしろ軽いくらいに感じた。
……この程度の重さの砂袋が、我が家に災難をもたらしていたのだ。
殺すつもりでここに誘ったわけじゃなかった。
……あるいは、自分の奥底の本当に自分は最初からそのつもりで彼女をここに誘ったのか。
でも、今となっては、これは最短で最良の解決策であったと感じる。
殺してしまうことに勝る解決法なんてなかったのだ。人の助けを当てにしていじけている日々が如何に無様なことか。
………去年の、悟史《さとし》くんの叔母が殺された事件を思い出す。
本当の犯人は悟史《さとし》くんだと疑わない私だが、……今日、この場に至って、私はこれ以上ない形で納得する。
去年のあの時、あの状況下で。…叔母を殺す以外のどんな方法で沙都子《さとこ》ちゃんを救えたというのか。
私だってそうだった。
殺す以外のどんな方法で父を救えたのか。
殺人なんて恐ろしい行為を、計画的にやろうと思ったなら、きっと私はものすごい重圧に苛まれただろう。
……だが、幸か不幸か、私にとってのその瞬間は突然に訪れた。
だからきっと。私はもっとも自分に負担の少ない形で、問題を解決できたに違いなかった。
……この女が今日を境に消えてしまって、誰か疑問に感じないだろうか?
自分の都合で仕事をサボったりするいい加減な女だった。
だから、今日を境に突然いなくなってしまっても、誰も疑問に思うまい。
もともとキナ臭い女だった。
何かのトラブルに巻き込まれて姿を眩ましたと誰もが信じるだろう。
変なアリバイなど何の必要もない。
この女の死体《したい》がなくせれば、それだけで完全に全てを抹消できる。
その最後の作業をどうするか、少しだけ悩んだ。
彼女の死体《したい》を隠そうとするあらゆる行為が、非常にリスキーだったからだ。
…だが、冷静さを取り戻していた脳は、すぐに答えを弾き出す。
そう、…ここが一番安全なのだ。ここは忘れられた場所。
ここには誰も来ない。
誰も知らない。
それは、この場所でずっと過ごしてきた私だから分かること。
この場所から死体《したい》を運び出すリスクを負うよりも、ここに死体《したい》を隠す方がずっと安全なのだ。
でも、それでも完全ではない。
ここが永久に秘密《ひみつ》の場所であるはずもない。
…ここに死体《したい》を隠し、その間に完全な方法で死体《したい》を地上から抹消しなくては。
それを考えることは、かつて、リナと父を絶縁させるために頭を悩ませていたことに比べれば、あまりに楽なことだった。
私はリナの死体《したい》を、スクラップの山の中の、壊れた冷蔵庫に収める。
このまま冷蔵庫に土をかけて埋めてしまいたい気分だった。
……そういう安易な方法じゃだめだ。ちゃんと死体《したい》を砕いて細かくして、この地上から抹消しなくては。
急に暗さを感じるようになる。
突然暗くなったわけじゃない。
もうだいぶ暗くなっていた。私がそれに今さら気付いただけだ。
夕立を感じさせる雷鳴も聞こえる。
雨が降るならとても好都合だった。
残っているかもしれないリナの汚らしいな血痕など一切を洗い流してくれるだろう。
家へ帰ろう。そして明日からのことを考えよう。
お父さんがあの女のことを忘れるまで、私は側にいてあげよう。
…始めはお父さんも傷つくかもしれない。
でも、……きっと私たちは幸せを取り戻すのだ。幸せな、平穏な生活を。
体が疲労で重い。
でも、大切な第一歩を踏み出した達成感も感じていた。
この一歩一歩を重ねるのだ。
もう、泣くものか。
幸せを自らの手で勝ち取るまで、私は泣かない。
絶対。
■アイキャッチ
■鉄平《てっぺい》殺害
「再婚なんか、する必要ないよ。」
帰宅して、開口一番に告げた言葉がそれだったので、父は面食らったようだった。
その言い方が、陰を含んでいたので、父は再婚の同意が得られなかったことを感じ、少し落胆する表情を見せた。
「………無理もないよな。…礼奈《れいな》の気持ちも分かるよ。事前に礼奈《れいな》にもよく相談、」
「妊娠したなんて、あの女の嘘だよ。」
「あの女なんて言い方しちゃだめだ。リナさんは、」
「本当のことを話す。あの女と鉄という男は二人組の悪人。我が家の財産を狙ってお父さんに近付いてきただけ。」
相変わらずボケている父は、私のあの女呼ばわりにカッとなったようだった。
少し言葉を選ばなさ過ぎたとは思ったが、真実を簡潔に伝えたと思う。
私は喫茶店で見聞きした出来事を伝えた。
……父は予想通り、リナを擁護するようなことを言い返す。
改めて落胆も感じるが、同時に、リナを殺す以外に方法はなかったのだとも分かり、不思議と肩が軽くなる感じがした。
父は、再婚のためには私の同意が不可欠であると思ったのか、勝手に怒りを納め、取り繕いの笑顔を浮かべ出す。
「なぁ礼奈《れいな》…、もう一度ゆっくりと父さんたちと話し合おう。そうすればきっと分かってくれるから。」
……飼い主が死んでも、家畜は家畜、か。
いいさ。それでも私は柵を開けた。
…家畜だっていつの日にか、自分がもう捕われの身でないことに気付く。
それは私が教えることじゃない。父が気付くことだ。
私は、家畜化した父の言い訳染みた笑顔に耐えられず、居間を後にする。
母との離婚《りこん》の痛みだって、時間が癒した。
……滴る水滴が岩をも穿つように、どんな痛みだって、時間はいつか必ず癒してくれる。
私は自分にできることを、やった。あとは待つだけなのだ。
だが、待つべき日は想像してたよりはるかに早く訪れた。
その翌日の深夜。客人を迎えたからだ。
それは鉄と呼ばれていた男。
北条《ほうじょう》鉄平《てっぺい》だった。
鉄平《てっぺい》は玄関を叩かず、鎧戸を打ち破って侵入してきたので、私たちを大層驚かせた。
最初、その訪問はリナの失踪を問うものかと思い、少し身を硬くしたが、実際は違った。
鉄平《てっぺい》が訪れた理由は、…リナとの事前の打ち合わせに基づくものだったのだ。
それは美人局の終局だった。
本当なら、その晩のその時間、父とリナは床を一緒にしていることになっていたのだろう。
まさにその現場に踏み込みたかったに違いない。
鉄平《てっぺい》は乱暴に家中を探すが、リナの姿を見つけることはできなかった。
だが、それでも何も怯むことなく、父の襟首を捻り上げ、実に慣れた口調で脅し文句を並べだす。
鉄平《てっぺい》は、リナと婚姻関係にあることの証拠《しょうこ》書類を示し、妊娠させた責任をどう取るのかと罵るのだった。
父は、この2人が婚姻関係にあることは知らなかったようで、寝耳に水のようだった。
それに、父は体格も優れないどちらかというと気弱な性格。
初めから最後まで鉄平《てっぺい》にいいように罵られて呑み込まれるだけだった。
私はそれを遠くから見ながら、乾いた感情で見ていた。
……鉄平《てっぺい》が罵れば罵るほどに、父の悪い夢は覚めるだろう。
そう、これは父には薬なのだ。
私では、時間に頼るしかなかった膿んだ患部を、この男はわずか小一時間でえぐり出してくれた。
私は、父がようやく夢から醒めたのを見届けると、今さらのように割って入り、父を庇う。
そして、重要な話があると鉄平《てっぺい》に告げ、玄関の外に押し出した。
「んで、なんじゃい。重要な話っちゅうんは。」
「リナさんって、…昨日以来、興宮《おきのみや》に帰ってますか?」
「……んん?」
「実はリナさん、……事情があって、隠れてるんです。」
「はぁ?! どういうごっちゃん!!」
「リナさんから、鉄平《てっぺい》さんが来たら連れて来てほしいと言われてるんです。」
「……はぁ?? 律子《りつこ》のやつ、どうしたんね…!」
鉄平《てっぺい》はのこのことついて来た。
真っ暗な中、懐中電灯の灯りひとつで。誰も来ない、誰にも聞こえない、誰もが忘れた、その場所へ。
道中、色々と聞かれたが、何も答えられることなどない。
リナさんに直接聞いてくださいと、意味ありげに答えてはぐらかした。
それが鉄平《てっぺい》には、リナが裏切って本気で結婚しようと考えているように感じたらしい。
勝手に鼻息を荒くして、私の後を何の警戒もなくひょこひょことついて来るのだった。
私は、今日という日が近いうちに訪れるだろうと思い、準備していた場所に差し掛かると、唐突に懐中電灯を消した。
「お、…! どうしたんね…。」
闇夜に唯一の灯りを奪われれば誰だって焦る。
……でも、ここは私の国なのだ。
私には灯りなど必要ない。
むしろ目蓋を閉じた方が、鮮烈に視覚を感じることができた。
草むらの陰に横たえてある大斧を担ぎ上げる。
「ごめんなさい、電池の接触不良かな……。ちょっと待ってくださいね…。」
「おう、早ぅせんとな。」
口からは頼りなさげな言葉を吐き出しながら。だけれども両腕は、重く無骨な恐ろしい大斧を振り上げていた。
「……あぁん、ライターあるわ。出すんね。」
鉄平《てっぺい》はポケットのライターを探り当て、火を灯した。
そして、わずかの灯りで照らし出されたその光景を、恐らく理解できなかったろう。
目と鼻の先に、大斧を担ぎ上げた少女が立ち塞がっているなんて。
「…………ッッ!!!!」
鉄平《てっぺい》の両目が見開かれる。
目の前のそれが何事か分からなくても、自分の生命に危機が迫っていることだけは理解できたようだった。
だが、理解できても、それに対応するまでは頭が回らなかっただろう。
仮にそこまで頭が回り、両腕で頭を庇ったとて、何の意味もなかったろうが。
鉄平《てっぺい》がやがて自宅にやって来ることは分かっていたんだ!
だから今日、準備した。
その準備がその晩に実るなんて思わなかったけれどね。
武器も十分に吟味した。
一撃で倒せる間合いも、距離も場所も全部全部吟味した。
だから、それは必然だった!
大斧は鉄平《てっぺい》の頭の天辺と額の角に当る部分に、ばっくりとめり込んだ。
めり込む瞬間の、例えようのない感触が、確かに頭蓋を叩き割ったことを教えてくれている。
喫茶店で喧嘩自慢をしていた大男も、人を殺すために用意した武器の前では呆気なかった。
その一撃でおしまいだったからだ。
鉄平《てっぺい》は、頭部に斧をくわえ込んだまま、ゆっくりと横に倒れる。
まるで出来の悪い三流ホラー映画の犠牲者そのものだった。
私は、一刀だけをもって、この大男を処分した。
…こいつは、暴力は経験も豊富で手馴れていただろう。
だが、殺スということに関しては、私の方が上手だった。なぜって、私はすでに1人殺して手馴れているのだから。
これで、全て終わりだった。
父を惑わせ、その財産を奪おうとした愚か者たちは全て消えた。
私は、自分に出来ることをして、自分の生活を守れたのだ。
……この勇気と思い切りが、母の時にもあったなら、私はアキヒトおじさんを殺していたのかもしれない。
そうすれば、尊い命を奪うのは1つで済んだのだ。
……あの時にそれができなかったから、私は昨日と今日で2人も殺めなくてならなかったじゃないか。
さぁレナ。全部を終わりにしよう。
鉄平《てっぺい》の死体《したい》を隠す場所はもう準備できている。全部全部、準備済みの手配済み。
手にぬめりを感じ、私は懐中電灯で手を照らす。
……血だと感じたそれは、汗《あせ》に過ぎなかった。
でも、そのぬめりの違和感にどうしても馴染めず、私は度々懐中電灯で手を照らすのだった。
私は幸せを掴むために、……ここまでのことをやったんだ。
ここまでやって、幸せになれなかったらそんなのはあんまりだ。
両手が血塗れになるくらいにがんばった。
それを神さまに認められたい。
ねぇ、オヤシロさま。
我が家が雛見沢《ひなみざわ》から出て行って、狂い出したあの日に、これでようやく巻き戻せるよね?
私は雛見沢《ひなみざわ》に住まう。
お父さんと一緒に、これからも、ずっと。幸せに。
■戻る平穏(圭一《けいいち》目線に戻りますよ〜〜〜! 久しぶりだねぇ)
レナが授業中に居眠りをするなんて、珍しいことだった。
夜更かしをして睡眠不足になるようなやつじゃない。
だからきっと、家の家事とかで色々大変なんだろうなと思った。
それをみんな知っているのか、知恵先生も含めて、誰もレナを咎めようとはしなかった。
時折、目を覚ますが、再び睡魔に負けてこっくりこっくりと俯く。
そのさまを、船を漕ぐようと例えるのは、なるほど言い得ているなと思った。
でもやっぱり…授業中だし、起こした方がいいよな…?
小突いてやろうと手を伸ばそうとしたら、魅音《みおん》が目配せをしてきた。
「寝かせてあげなよ。たまにはそういう日もあるよ。」
「…ん。それもそうだな。」
レナが、お父さんと二人暮らしであることを知ったのはつい先日だった。
昼間は勉強し、放課後は精一杯遊び、帰宅してからは母の代わりとして家事をこなす。
…そんな日々を送っているなんて、俺は全然知らなかった。
…お母さんがいないのは、どうも離婚《りこん》らしい。
それはレナにとっては思い出したくないことだろうから内緒だよ、と魅音《みおん》に釘を刺された。
「………そんな苦労をしてるなんて、全然気付きもしなかったぜ。」
「レナはそういうのを表に出さないタイプだよね。ひょっとすると、普段、陽気に振舞っているのも、そういう風に意識して振舞っているからかもね。」
幸せな時間は有限だと言い切ったレナ。
ある日を境に、突然、幸せが終わってしまうことを知っていると言ったレナは、…一体、これまでにどんな苦労をしてきたのか。俺には想像もつかない。
だから、平穏に過ごせる日々を思い切り楽しく過ごそうとするのだろう。
そんな日々を、退屈《たいくつ》だと言ってしまった自分は、多分レナを傷つけたに違いない。
……そう思うと、両親が健在でぬくぬくと親元でスネをかじっている自分が何だか申し訳なく感じた。
そう言えば、……沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんは、共に両親を失っている。
魅音《みおん》だって、両親の元を離れ、頭首見習いとして祖母の下で生活しているという。
それに気付いた時、…何となく申し訳なさを感じた。
「別に、圭ちゃんが両親と生活してることを申し訳なく思うことはないよ。」
胸中を魅音《みおん》に見抜かれたようだった。魅音《みおん》は、滅多に見せない涼しそうな顔でそう言った。
「確かに家族ってのは、生まれてきた子どもである私たちにとって、一番最初のコミュニティなんだと思う。でもね、コミュニティは家族だけじゃないだよ。」
「……仲間《なかま》、か?」
「わかってるじゃん。」
「俺たちは、レナにとって、家族に負けないくらいの存在なんだろうか…?」
「掃除洗濯、炊事に買い物。それに疲れて昼寝だけして過ごすことだってレナにはできるんだよ。
でもレナはそれをしない。放課後の時間いっぱいを私たちと部活《ぶかつ》をして過ごす。それはつまり、………なんて言えばいいのかなぁ、…そう、仲間《なかま》ってことなんだよ。」
「レナにとっては、…家族と同じくらいの意味のある、仲間《なかま》ってことなのか?」
「…………。」
魅音《みおん》がきょとんした顔をする。
俺との会話が少し噛み合わないような様子だった。
「あー、……圭ちゃんが今日まで、仲間《なかま》って言葉をどういう意味で使ってきたか知らないけどさ。…仲間《なかま》ってのは、家族とまったく同格じゃないのかなぁ?」
「……難しく考えることではないのですよ。」
いつの間にか、梨花《りか》ちゃんも話に加わっていた。
「居場所があればいいのです。それがある場所を、家族と言ったり、仲間《なかま》と言ったり、呼び方が少し変わるだけのことなのですよ。」
「………梨花《りか》ちゃんにとって、家族と仲間《なかま》は同じものか?」
「……ボクはそうだと思っていますです。沙都子《さとこ》も魅ぃも、そしてレナもそうだと思いますですよ。」
「だから私たちは、いっつも一緒にいようとするんじゃないかなぁ。」
「梨花《りか》ちゃんは、みんなといると寂しくないか?」
「……みんなは家族なのです。寂しくなんかないのですよ?」
魅音《みおん》も頷く。
沙都子《さとこ》は別のクラスメートとのおしゃべりに夢中だったが、きっと同じように頷くに違いない。
……そしてレナも。
「俺、………ちょっと恥ずかしいよ。」
「うん?」
「今日まで俺、仲間《なかま》って言葉を使ってきたけどさ。……本当の意味で理解してなかったと思う。仲間《なかま》ってのは、…もっともっと大切で掛け替えのない、すげえもんなんだよな。」
「…………それ、すっごく当り前のことだからさ。もし今日まで分かってなかったなら、よく胸に刻んだ方がいいよ。」
「そうだな。…そうするぜ。」
「あと、それを二度と口にしない方がいいかもだね!
今、圭ちゃん、かなり恥ずかしいことを言ってたと思うよ〜。」
魅音《みおん》が今さらのように茶化した。
レナが、あんなにも真面目に、遊んでふざけて、いつも精一杯なのが少し分かった気がした。
そして、俺もそんなレナの仲間《なかま》であろうと、その精一杯に応えられる関係であろうと思った。
「………くぁぁ……。」
レナが可愛らしいいびきをかく。
さすがにいびきまでかかれては、先生も見逃せないようだった。
「委員長、竜宮《りゅうぐう》さんを起こしてください。」
「レナぁ、ほらほら。」
「ふぁうぅうぅ…。」
魅音《みおん》に小突かれた時、レナが漏らした寝惚け声がクラス中に笑いをもたらす。
レナはクラスメートのくすくす笑いが、自分へのものだと気付くと、すぐに目を覚まし、さも眠っていなかったように振舞うのだった。
その様子が何だかかえって滑稽で、俺は堪えきれば吹き出してしまうのだった。
窓の外を見ると、まだまだ6月だと言うのに、夏本番を思わせる真っ青な空と大きく真っ白な雲が浮かんでいた。
この晴れの天気だって、永遠に続くわけじゃない。
突然曇って夕立になることだってあるだろう。
だから、晴れてる内に、思いっきりはしゃいで遊ぼうじゃないか。
セミたちの合唱が、まだしばらく授業から開放されない俺たちを嘲笑う。あぁ、畜生、早く放課後にならないかなぁ。
「どうしたんだろ。圭一《けいいち》くん、すっごく嬉しそうだね。今日は何かあるの?」
「別に今日、何かあるわけじゃないぜ。今日は今日だし、明日は明日だろ。」
「……うん?」
「今日が晴れてるならそれで十分。明日の天気なんか知ったこっちゃないってことさ。だから、今日という日を俺は精一杯遊び倒したい。いつ天気が崩れたって後悔しないくらいに徹底的にな。」
それはかつてレナに教えられたこと。
平穏な日々こそが、何にも変え難い、一番幸せな日々であるということ。
「魅音《みおん》〜、今日の部活《ぶかつ》は何だー? それに最近、罰《ばつ》ゲームがちょいと刺激不足だぜー。」
「くっくっく! 言うねぇ圭ちゃん。そこまで言うなら、今日の放課後には生き地獄ってヤツを拝ましてあげるよ…!」
「け、圭一《けいいち》くん、あんまり魅ぃちゃんを挑発しちゃだめだよぅ…。」
「おいおい、臆すのかよレナぁ。上等じゃねぇかよ! また俺たちの実力で大暴れしてやろうぜ! 俺とレナの決着だって、まだまだ着いちゃいないんだからなぁ。」
にやっと笑ってやると、レナもつられてにやりと笑う。
「あはは、それもそうだね。よぅし、レナも思いっきりがんばるぞー!」
「レナさんには先日の借りがございますものねぇ!
きっちり倍返しさせていただきましてですわよー!」
「いいねいいねぇ。
盛り上がってきたよ、くっくっく!」
「……早く、放課後になるといいのです。」
放課後はとても待ち遠しいけれど。
…こうしてみんなで盛り上がる今の時間にすら、今の俺は輝くものを感じるのだった。
「そうだな。早く放課後になるといいなぁ。」
■幕間
TIPS
5■お気に入りのワイン
沙都子《さとこ》は、校庭で遊んでいる子たちと混ざりに行った。
私はそういう気分ではなかったので沙都子《さとこ》を見送り、留守番に残ることにした。
……多分、夕方になるまで帰っては来ないだろうな。
沙都子《さとこ》がいないなら、…いないなりの過ごし方が私にはある。
それに、そういう気分だったから。
私は押入れの冬用の布団の山の一番奥に手を突っ込み、それを引っ張り出す。
それからちょっと洒落たグラスに、製氷室で作った氷をいっぱいに詰め込む。
だが、製氷室で作った氷は塩素臭くておいしくない。
ロックアイスが一番いいのだけど、沙都子《さとこ》が何に使うのかとうるさく聞くから、最近はすっかり買えずにいる。
……その口実をうまく思いつくだけで、この塩素臭さを未来永劫に脱臭できるなら、なるほどそれは考えるのに時間を費やす価値がありそうだった。
ミネラルウォーターで満たして、……それを少しだけ注ぎ込む。
透明な水の中に混じっていく色の付いた影を眺めるのは、とても乙なものだった。
本当はこういう飲み方は正しくないらしいが、私にはこれがちょうどいい飲み方なのだからとやかく言われたくない。
この便利な体は、わずかの量であっても私を酔わせてくれる。
だから少量をたっぷりと薄めるわけだ。
そのお陰で一瓶を長く楽しめると思えば悪くはない。
お気に入りの窓辺に座布団を敷き、……私はグラス片手に見慣れた景色と髪を撫でる風を肴にする。
ほんのりと甘い熟成した匂いが鼻をくすぐってくれた。
…………そんな風情をまさにこれから楽しもうというタイミングで、うるさいのが帰って来るのを感じた。
私のこの癖が許せないらしく、私がグラスを傾けようとするといつも文句を言うのだ。
案の定、ガミガミとうるさく騒ぎ始めた。
「……うるさいな。少しくらい我慢なさい。何を飲もうと食おうと、私の勝手でしょう。」
「だ、だめなのです…! お酒は、子供は飲んでは駄目なのです!」
無視を決め込もうとするが、風情を台無しにするかのように賑やかに騒ぎ始める。
……こんなんじゃ、とても酔いを楽しむ気にもなれない。
私は憎々しげにその様子を見ながら、窓の外へグラスの中身を投げ捨てた。
「……何で私が憂鬱か知りたい? …私の死に方が決まったからよ。」
ようやくそいつにも、私がどうして酒に溺れたかったか理解できたようだった。
「そんなに落ち込まなくてもいいのよ。割と一瞬で死ねるからそんなに怖くないわ。」
死体《したい》は黒コゲのバラバラだろうけど、死ぬ瞬間は一瞬だから、まぁまぁの部類だ。
「…………でも、……また、…駄目なのです。」
「そうね。……また駄目ね。………これだと、私の命日はいつだっけ?」
「…………………6月の、25日の夜だと思いましたです。」
「綿流し《わたながし》の祭りが終わってから、大体1週間後か。………まぁ妥当な辺りね。」
「やっぱり、……………………私のせいなのでしょうか。」
「決まってるでしょ。あんた自覚ないの?」
「…ぁぅあぅぁぅ。」
自分で振ってきたくせに、その通りだと言ってやったら涙目になる。…あぁもぅ、暑っ苦しいやつ。
「がんばりましょ。…次のスゴロクではきっと、6が立て続けに出てくれることもあるわよ。」
6月25日か。
……まだ10日以上もある。…のんびり過ごすさ。
ワインだってまだあるんだし…。
■数日後(またレナ視点だよーーーー)
5日目
これだけ暑い日が続けば、死体《したい》は痛むのもあっという間だった。
台所を預かる主婦たちなら、これだけの生肉があっという間にそうなることなど、誰だってわかる。
だから、重要な解体作業は一番最初にやった。
解体する理由はただひとつ。
死体《したい》を絶対見つからない場所に持ち運ぶため、隠して運べるサイズにする必要があったからだ。
死体《したい》を切り刻む、と文字に書くと嫌悪感を感じるのは多分、台所に立たない男の人だけだろう。
まな板の前に立つ主婦は、魚を捌けば内臓を引き出すし、生だったらまだ動いている寄生虫《きせいちゅう》を見ることだってある。
そういうのを引きずり出したり、時には付いたまま加熱して料理してしまうこともある。
火を通せば無害というやつだ。
男の人は言葉を聞いただけで毛嫌いするから、台所を見せないだけのこと。
だから、別にこんな作業はへっちゃらだった。
それに、こいつらを殺すことで全ての悩みから開放されたのだ。
その喜びと引き換えなら、これくらいの後片付けは当然だった。
鋸や鉈《なた》などの大工道具を使って分解する。
返り血を浴びるだろうから、わざわざ黒いジャージを買っておいた。
血が付いてもも目立たないし、最後には捨ててしまえばいい。
もちろん、付近に血が飛び散るかもしれないと思い、捨ててあったブルーシートも拾ってきてあった。
この上で作業をすれば、最後には丸めて焼いてしまえばいいからとても便利だ。
……結局、人間の解体も、まな板の上での炊事と何にも変わらないわけだ。
実際、これだけ大きな体なのだから、かなりくたびれたが、そう悩まずに分解できた。
手、足、首を切断し、ちょうど6分割にした。
死体《したい》を切ると、脂で刃が駄目になる…というようなのを、どこかで聞いていたので、予め分解道具は豊富に用意した。
その予想は的中し、私は解体途中で道具を取りに帰るという無様なまねをせずに済んだ。
そう言えば昔、ダム戦争の末期にまさにこの地で、現場監督のバラバラ殺人があったんだっけ。
それも確かこれと同じで6分割のはず。もっとも私は2人分だから12分割なのだけど。
そう言えば、逮捕されていない主犯が隠したという腕は、未だ発見されていないんだっけ。
どこに隠したんだろうな。
その場所を教えてもらいたいなと思い、ちょっと苦笑した。
手足や首はともかく、胴体は大きくて大変だった。
分解できないかとも考えたが、臓物の処分などで相当面倒になるだろうと思い、結局断念する。
分解した断片を、黒いゴミ袋にしまい、どうせ効果はないだろうが冷蔵庫用の消臭剤たっぷりと一緒に何重にも包む。
解体作業中にもだいぶ虫に群がられたが、綺麗にゴミ袋にまとめた後は、血の匂いに群がっているだけのようだった。
全ての後片付けをした後には、もう虫も散っていた。
あとは、この12個の黒い肉袋を処分するだけ。
骨になるまで焼ければ一番楽だけど、火葬場でもなければ無理だろう。
どこか秘密《ひみつ》の場所に埋めてしまうのがいい。
胴体はともかく、それ以外の袋はナップザックに詰められる大きさだ。容易に隠して持ち運べるだろう。
このダム現場を貫いて流れる沢に流してしまえたら楽だなと思った。
でも、そんなことすれば絶対に下流で誰かが見つける。
たまにニュースで、川原で見つかったボストンバッグから遺体の一部が…、何てのを見るけど、流した犯人のいい加減さにはいつも呆れていた。
鬼ヶ淵《おにがふち》の沼に沈めるのもいいかと思ったけど、肉は腐ると浮力がつく。
重りと一緒なら…とは思うが、絶対に大丈夫とは言い切れない。
だとすると残るのは、地中に埋めることだけ。
谷河内か高津戸辺りの廃村地区をもっと奥に行けば、未開の山がいくつもある。
そんな山のどこかにひっそりと埋めてしまうのが一番だろう。
このゴミ山はかなり安全だが、それでも絶対じゃない。
だから、私はこの袋の山全てを、無事に山奥に埋めてしまって初めて、あの2人の完全な抹消を終了するのだ。
………使い慣れない筋肉を酷使したせいか、体の節々が痛む。
私は丁寧に後片付けをすると、ジャージのまま隠れ家に入り、マットレスの上に横になった。
手は念入りに洗ったけど、爪の間など入り込んだものまでは落としきっていない。
……後でお風呂に入って入念に落とそう。
殺人、死体《したい》遺棄と言葉を並べると、何だか自分が世紀の大悪人のように聞こえる。
でもそれは、ばれたらの話だ。
ばれなければ罪《つみ》じゃないし、…それに私は、罪《つみ》が犯したくてやったわけじゃない。
私は、悪いことはしていない。
自分とお父さんの生活を守るためにやったんだ。
それを罵る人間は所詮は対岸の人間。
結局、罪《つみ》なんて、何者にも裁けないのかもしれない。罪《つみ》は裁くものではなく、認めて贖罪《つみ》するものだ。
つまり、罪《つみ》は犯した本人にしか測れないということ。
私に悔悟や後悔の念は?
ない。
今この瞬間も、私は間違ったことをしたなんて思っていない。
あの2人を殺す以上の最善策などなかったと断言できる。
それに、……あの2人を殺したその夜から、私の生活は少しずつ変わり始めたからだ。
鉄平《てっぺい》を殺してから帰宅した時。
……父は泣き腫らした顔で、荒れた室内を片付けていた。
「………礼奈《れいな》、……どこへ行ってたんだ…?」
「あの男と話をしてきた。もうリナさんは二度とこの家に来ない。だからあなたも来ないでって言った。だからあいつはもう来ないよ。」
「そんなので大人しくしてくれるヤツじゃないぞきっと…。礼奈《れいな》もしばらくは用心した方がいい…。」
あの男が二度と訪れないことを父に説明するのは難しかった。
…殺したから大丈夫などとは、当然言えるわけもない。
私は冷蔵庫から氷を出し、ビニール袋に詰めてタオルに巻いて父に差し出す。
「お父さん、はい。…………ほっぺた、すごい腫れてるよ。」
父は自分で頬を触って初めて、腫れあがっていることに気付いたらしかった。
「……あぁ、…ありがとう。」
「私が片付けるからいいよ。掃除機持ってくるね。」
「…………礼奈《れいな》。」
呼び止めるように父が呼ぶ。
「………お父さんが悪かった。………ごめんな、本当に。」
「仕方ないよ。…あいつらは騙すのが生業だもん。…だからお父さんは騙されただけだよ。」
「……………礼奈《れいな》は、…あいつらがそういう連中だって知ってたのか?」
「…うん。最近だけどね。言っても信じてくれないと思って言わなかった。ごめんね。」
父は少し俯く。
私は、リナが再婚の話をした時に、あの2人は美人局の悪人だと告げていた。
でも父はそれを聞こうとはしなかった。
だから、言っても信じてくれないというのは正しかったことになる。
「お父さんは、母さんとの離婚《りこん》で落ち込んでいるところを付け入られたんだよ。」
「…………………お父さんは、……本当に駄目なお父さんだよな。」
それから父は、罪《つみ》滅ぼしのようにリナとの馴れ初めを騙り始めた。
酒の力を借りなければ苦い思い出に抗えなかった、一番辛かった時。
たまたま入った店で接客してくれたのがリナだった。
元々、客の話を聞くのが商売だ。
リナは親身に父の離婚《りこん》話に耳を傾け、慰めの言葉をかけてくれただろう。
普通の人間なら、それはその場限りの言葉として受け取れたろうが、……救いの欲しい父には、それが新しい出会いのように感じられたに違いない。
あとは、見るも無残な物語。
それを運命の出会いと信じたい父は、リナの全てを好意的に見て美化した。
……夢を見過ぎだと笑うのは簡単だ。でも、その弱さこそ人間であることの証なのだから、仕方がない。
逸脱した金銭感覚に疑いを持つ機会があってもよかった。
…でも父は、それすらも、彼女が自分を元気付けるために振舞っているのだと勝手に解釈した。
リナの望むままに何でも買い与え、自らリナの僕と成り果てていった。
娘と住まう家に、情婦を連れ込むなんて普通じゃない。
…でも、もう父はリナに夢中で、そんなことには気が回らなかった。
「……お父さんは、……お父さんであることを忘れちゃってたんだ。………本当にどうかしてた………。」
そう言い、すすり泣く。
私は、そのあまりに弱々しい父の肩を、そっと抱いた。
「いいよ。…………お父さんがそれに気付いてくれたなら、お父さんはお父さんなんだよ。………私には1人しかいない、最後の肉親なんだから。」
父はもう嗚咽しか漏らせない。
……そして、私たちは静かに抱き合い、互いに涙を流し合った…。
翌日、父はとても早起きだった。
私が起きた時には、台所に立って朝食を作ろうとしていたのだ。
驚く私に、父は言った。
「お父さんは、今日からしっかりするからな。」
「あ、あはははははははは。でも、お父さん、目玉焼きを焼く前にサラダオイルは敷いた方がいいと思うかな。」
「あ! ………あはははは、久しぶりの台所なんで、…あははははは。」
父は焦げ付きかけていた目玉焼きをフライ返しで引っ掻いて剥がすと、今さらのようにサラダオイルを加えた。
そんなことしてももう遅い。フライパンを汚してしまっただけだ。
でも、お父さんの目玉焼きが食べたいから私はそれ以上の文句は言わずに、黙って食卓で待った。
父が持ってきたお皿には汚れきった目玉焼き風の物体があるだけ。
チーズ片を混ぜてみようという遊び心の痕跡もあったが、すっかり焦げてしまって大失敗だ。
でも匂いはとても香ばしくて食欲を誘った。
ポンとトースターが上がり、厚切りのトーストが出来上がる。
父は甘いのが好きだから、牛乳たっぷりに砂糖を加えたカフェオレを作った。
それらを並べて見ると、まるで小学生の家庭科の授業のような無残な出来ではあったけど、……エプロン姿の父の一生懸命さでとても輝いて見えた。
「うん。匂いだけならおいしそうだよ。あとは味だね、あははは。」
「やっぱり食事は礼奈《れいな》がやった方がいいかもなぁ…。これじゃかえって悪い気がする…。」
「お父さんが仕事で忙しくなったら、また私が代わるよ。」
「……………。」
それまで、私と父の間で仕事の話はタブーだった。
父は離婚《りこん》以来、仕事に付いていなかったからだ。
離婚《りこん》のせいだけでもない。
母が残した慰謝料が莫大だったせいもある。
そして離婚《りこん》に対する私の負い目が父の怠惰を許してしまった。
でも、…………父の罪《つみ》は、昨夜の後悔で晴らされた。
…そして、母の時に何もできなかった私の罪《つみ》も、…昨日の出来事で、……自ら罪《つみ》を滅ぼした。
もう、私たち親子には、何の罪《つみ》もないのだ。
「お父さん、……仕事を探してみるよ。今日は職安に行ってこようと思う。」
「うん。それはいいね。」
生活費が欲しいんじゃない。父には、普通の生活習慣が必要だった。
「…こんな年で体力もないからなぁ…。いい仕事があるか不安だよ…。」
「どんな仕事ならいいの?」
「事務の仕事がいいけど、この年じゃなかなか雇ってもらえないだろうな。」
「私の友達に聞いてみるよ。魅ぃちゃんはこの辺りの大地主のお嬢さんだから、ひょっとすると紹介してくれるかもしれないよ。」
「いいよいいよ、仕事くらい自分で探すよ。その程度にはしっかりしないとな。」
「あはははははは。」
父とこんなにも会話を弾ませた朝食はいつ以来だろう。
……いや、父と共にした朝食だってどれくらいに久しぶりなことか。
窓から入る朝の光が、こんなにも清々しかったことをようやく思い出す。
…こんな時間をいつまでも過ごしたいと思った。でも、残念なことに今日も学校がある。
サボるからどこかに遊びに連れて行ってよと甘えたが、父はここぞとばかりに父親ぶり、登校しないとダメだぞ、何て言った。
「じゃ、……私、学校行くね。」
「あぁ。行ってらっしゃい。」
私が玄関に向かうと、見送りにわざわざ付いてきた。何だか恥ずかしい。
靴紐を結んでいると、父が話しかけてきた。
…見送りに来たのではなく、その言葉が伝えたかったからに違いない。
「………お父さんは母さんとの離婚《りこん》の後、ずっと寂しかった。でも、お父さんは礼奈《れいな》と一緒だから寂しくなんかないんだ。そうだ、最初から寂しがることなんか何もなかったんだ。」
「お父さん、………それを、家族って言うんじゃないかな。」
「………そうだな。…そんなことを、娘に教わるようじゃ、だめだな。」
「じゃ、圭一《けいいち》くんを待たせてるからもう行くね。」
「行ってらっしゃい。あぁそうだ礼奈《れいな》。今日はお父さんが夕食を作るぞ。職安に行くついでに買い物をしてくる。朝食みたいな失敗はしないから楽しみにしてるんだぞ。」
「あははははは、うん! 楽しみにしてるよ。行って来まーーす。」
エプロン姿の父に見送られての登校が、……新しい生活の第一歩。
私は、やっと取り戻した。
雛見沢《ひなみざわ》を出てから、狂い出した日々を、ようやく全て取り戻した。
確かにここには母がいないけれど、……私とお父さんは家族だから、何も寂しがることなんてない。
セミの賑やかな合唱は、まるで私の新生活を祝ってくれているようだった。
日差しも明るく、風も爽やか。
爽やかじゃないのは、…時計の針くらいかな?
父とだいぶ話し込んでしまったから、結構遅れてしまった。
圭一《けいいち》くんは待ちきれず、先に行ってしまってるかもしれない。
……でも、居た。
「よー! おっはよー!」
「あははは、おはよ〜! 遅れてごめんね、ごめんね。」
「いいってことよ。普段は俺がレナを待たせてるんだからな。たまには俺を待たさせろ。わっはっはっは!」
「ずいぶん遅くなっちゃったね。早足で行った方がいいかな、…かな。」
「そうだな。ちゃきちゃき行こうぜ。さもないと走るはめになりそうだ。」
「魅ぃちゃん、さすがに先に行っちゃってるかな。」
「待ってるだろ、絶対。俺たちは仲間《なかま》だぜ? 絶対に見捨てないし、勝手に行っちゃったりはしないよ。」
「……………………。」
「それはそうと、今日は朝からいいことでもあったのかー?」
「え? どうしてかな!」
「いやさ、今朝のレナは普段にも増して上機嫌そうだったからさ。特別なことでもあったのかなって。」
私の上機嫌は、圭一《けいいち》くんに一目で看破されるほど露出しているようだった。
私には家族がいて、そして仲間《なかま》がいる。
胸いっぱいに、温かいものが広がっていくのを感じた。
「……あははははは。それがね、聞いて聞いて。朝食をお父さんが作ってくれたんだけどね、…それがね、あははははは…。」
「何だよ、目玉焼きはそれで正しいだろ? サラダオイルってのはサラダに使うもんなんだろ…?」
「えーーー?! あっはっはっは。魅ぃちゃんたちに教えてあげよーっとーー。」
■放課後
「なぁんですってーー!
それは許しがたい暴言でございましてよーーッ!!」
「おぅ上等だぜ、そこまで言うからには直接対決も辞さない覚悟だろうなぁ!」
「おーおー、盛り上がってるじゃなーい。何なら今日の部活《ぶかつ》さ、沙都子《さとこ》と圭ちゃんで外ウマ行こうか〜?」
「魅ぃちゃん、外ウマって何かな、かな。」
「あー、外ウマってのはよ。つまり、俺と沙都子《さとこ》だけで賭けをするってことさ。部活《ぶかつ》の順位がそのまま勝敗になって、負けた方は俺たちだけのペナルティを課す!」
「……つまり、どっちが勝っても負けても、ボクはとっても楽しいのです。」
「くっくっく! どうする沙都子《さとこ》〜?」
「あらあら素敵な勝負でございますことよー! 部活《ぶかつ》にビリで罰《ばつ》ゲームな上に、さらに私に負けてダブルで罰《ばつ》ゲームなんて、こんな素敵なことがございましてー?!」
「よーーし、沙都子《さとこ》、よく受けたね!
よっしゃ、今日の部活《ぶかつ》は2人の外ウマ付きでやろう!」
「……部活《ぶかつ》の種目より、罰《ばつ》ゲームを何にするか考える方が楽しいのですよ。」
「確かに楽しいよなぁー! 沙都子《さとこ》がどんな悲惨な目に遭うか、今から想像できちまうぜーー!」
「それは圭一《けいいち》さんのことでございましてよーー!!!
むがぁ!
ぶにぃ!
やりましたわねぇ!!
むにゅぅ!」
「ほらほら、二人とも勝負はまだ始まってないってー!」
ガラガラっと扉が開き、知恵先生が現れる。
「皆さん、お待たせしました。それでは帰りのHRを始めますよ。」
好き放題に散っていたクラスメートたちがそれぞれの席へ戻った。
「魅ぃちゃん。」
「ん? 何?」
「圭一《けいいち》くんと沙都子《さとこ》ちゃんがとても盛り上がっているところで申し訳ないんだけど…。……ごめんね、ちょっと今日も用事があって、すぐ帰らないといけないの…。」
「え、…そーなのー? まぁ、用事じゃあ仕方ないなぁ。お家の仕事?」
「うん。」
「家事ってんじゃ、おじさんは口出しできないなぁ。……うちはお手伝いさんに全部任せっきりだからね。」
「たまには魅ぃちゃんも家事手伝いとかすればいいのに。きっと花嫁修業になるよー。」
「ご安心を。万事、その手のスキルに関してはつつがなく習得済みですので。
あっひゃっひゃっひゃ。」
面倒臭がり屋に見えて、実は何でもできてしまうのが魅ぃちゃんのすごいところだ。
それらは、みんな苦労して学んだことなのに、さも努力せずに出来たかのように振舞うところが、何だか魅ぃちゃんらしいというか何というか。微笑ましいところだ。
「えーーー、何だよレナ。帰っちゃうのかよ。」
「あら、圭一《けいいち》さんが恥ずかしい格好で職員室にお伺いしなくちゃならないところをご覧になりませんのー?」
「……見物なのに、残念なのです。」
「…うん、ごめんね。」
「昨日も家の用事だったじゃねーかよ。
何かあったのか?」
「うん。ちょっとね、色々。もう何日か掛かるかもしれない。」
「ふーん。じゃ当分、レナは部活《ぶかつ》に参加できないかな。」
「…かもしれない。なるべく早く復帰できるようにがんばる。」
「その用事は俺たちには手伝えることか? 例えば、古い家具を運び出すとか、そういう力仕事なら言ってくれ。応援に行くぜー!」
「家の模様替えとかかい? おじさんたちみんなで手伝うよ?」
「をっほっほ! レナさんの家のお手伝いで優劣を競うのもありですわよねぇ!」
「……多分、お手伝いしない方が優勝なのです。」
「あははは、みんなありがと。気持ちだけもらっておくね。」
「じゃあ仕方ない! 竜宮《りゅうぐう》レナを本日付で我が部より戦線離脱とする! お家の仕事が片付くまで休暇とするので、鋭気回復の上、再び戦線へ復帰することをここに命ずる!
まー、4人なら4人で遊べるゲームもあるしねー! そだそだ、圭ちゃんは麻雀とかできるー?!」
「おう任せろ! 親父の仕事関係の人たちの卓に無理やり混ぜられることもある!」
「ほーっほっほっほ! もちろん、私たちは麻雀だって精通していましてよー!」
あとは部活《ぶかつ》メンバーのいつもの盛り上がりだった。
私はその微笑ましい仲間《なかま》たちの中に、自分の居場所がこれからも在り続けることを改めて胸に刻んでから、教室を後にした。
家に帰ったら、自転車で谷河内の方へ行ってみよう。
…死体《したい》の袋を埋める場所を早く見つけないと。
できれば、今日の日が暮れる前に、全ての袋を埋めてしまいたい。
それで、全部が終わるのだから。
■牌が足りない。(圭一《けいいち》目線に戻る〜〜)
「牌の背中が竹だってのが何だか怖いよなぁ。まさかガン牌ってことはないだろうなぁ?」
「さぁてどうでございましょうねぇ? 圭一《けいいち》さんには、以前のジジ抜きの時に手痛い思い出がございますものねぇ?」
「まー、多少は傷もあるだろうねぇ。安物の牌だしさ。
そのくらいの要素がないと、我が部らしくないでしょ? くっくっく!」
「……魅ぃ、赤は何枚混ぜるのですか? 6つ?」
…手馴れた梨花《りか》ちゃんが異様に末恐ろしく見えるのはなぜだろうな。
まぁいいや。それより牌の確認から始めよう。
……家族麻雀ならともかく、部活《ぶかつ》である以上、ゲーム前から用心してないとな!
じゃないと、実は何かが1牌足りなくて、特定の牌だけ5つあったなんてとんでもない事実を見逃す可能性だってある。
「そーんなことしないってぇ!
…でも着想は面白いねぇ。
そういう手もあるかぁ。なるほどなるほど…。」
「よしよし、牌をみんな表にして並べてみよう。ほれほれほれ。」
みんなで牌を表向きにし、7並べのように整頓していく。
「あれ。おい、誰かのとこに『中』が一個隠れてないかー?」
「ピンズとソーズの六が1個ずつ足りないですわね。
……あら、マンズの六も1個足りませんでしてよ?」
「なんだなんだ! ずいぶんと足りないじゃないか。」
魅音《みおん》はポンと手を打つと席を立ち、自分の椅子を退かすと、床板の節目に指を突っ込む。
何事かと見守っていると、魅音《みおん》の指先が牌を1つ摘み上げた。
「はいよ、まずは『中』ねー。
あとの3つはどこだったっけなーー。」
「おい待て魅音《みおん》。どうして麻雀の牌が教室のあちこちに隠してあるんだよ…。」
「にゃっはっはっは…。まぁまぁ、あひゃひゃひゃひゃ…!」
結局、3つの牌は教室のどこかに魅音《みおん》が隠したまま忘れてしまったらしい。
3つも足らなかったらとてもゲームにならない。
他のゲームに変えようと提案したが、魅音《みおん》は、大事な部活《ぶかつ》の備品が欠けているのは気になると言い張り、3つの牌を宝探しで優劣を競おうなどと言い出した。
「まぁ確かに圭一《けいいち》さんと勝負をつけるなら、種目は何でもいいわけでございますけど…。…もうちょっとまともな種目がいいですわねぇ。」
「同感だなぁ。それにこの教室に本当にあるかも怪しいんだろ?」
「多分あると思うんだよ。
……あるいはおじさんが懐に仕舞ったまま帰っちゃって、洗濯機の脇に置いてあるとか………、…かなぁ?」
「……今度から魅ぃと麻雀をやる時は、終わった後にも牌の数を調べた方がいいと思いますです。」
魅音《みおん》以外の全員が深く頷く。
「何よー。教室宝探し対決じゃ不満ー?」
「つーか、魅音《みおん》のイカサマの後始末だろ。お前の責任でやれ。部活《ぶかつ》を私的に使うな。」
「ぶーぶー。じゃあ、どうする?
麻雀は無理だしね。他のにする? 提案ある人ー。」
部活《ぶかつ》の種目はほとんどの場合、魅音《みおん》が部長権限で決めている。
急に振られても、なかなか思いつかない。
考えあぐねていると、再び魅音《みおん》がポンを手を打った。
「じゃあさみんな。牌の宝探しが嫌ならさ。もうちょっとでっかく宝探しをしようじゃない? 宝探しと言えば、レナのお家芸!」
「ってことは、ダム現場のゴミ山かぁ!」
「あそこって、あんまり行ったことないんですけど、結構広いですわよねぇ?」
「……あそこは、バラバラ殺人の幽霊が出るから近寄らない方がいいらしいのですよ?」
「あっはっは! 幽霊上等じゃないのー! そのくらいの演出付かないと宝の山としてはインパクト弱いよねぇ。」
「へーー、そんな噂あるのかよ。……確か、バラバラ殺人があって、主犯が未だ逃走中。そいつの隠した腕一本が未だ見付からないとか言うんだろ?」
「……その腕を探して、バラバラにされた監督さんが、幽霊になって彷徨っているという噂があるのです。」
「あらあら梨花《りか》ぁ! 幽霊が嫌いなんですのー?! いいお歳にもなって恥ずかしいですわねぇ?!」
「……ボクは巫女ですから、見たくなくても見えてしまうのですよ…。」
「うわ……、何だよそれ、霊感ってやつか…?! 確かに…見える人には当り前のように幽霊が見えるって話、聞いたことあるなぁ。」
「馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいですわねぇ! 梨花《りか》と一緒にずっと住んでますけど、そんなの一度も見たことありませんでしてよー!」
「…………沙都子《さとこ》に見えてないだけなのですよ?………沙都子《さとこ》がお布団で寝てる時はいつも、…………。
………にぱ〜☆」
「り、梨花《りか》ぁ! そこで笑ってはぐらかないでくださいませ!! 私が寝てる時は何なんですのー!!!」
…沙都子《さとこ》め、可哀想に。
今は明るいから強がってるけど、きっと今夜、あとからジワジワ効いて来るに違いない。
……今日の深夜にでも、一発、無言電話《でんわ》でも掛けてやるかなぁ、いっひっひ!
「まぁ、私も含めて何だけど、ダム戦争の後に、好き好んであそこに出入りする人はいないんじゃないかねぇ。
レナくらいだよ、楽しそうにあそこで遊んでるのは。」
「レナのかぁいいモードの前に幽霊が出た日にゃ、彼岸の向こうからでお持ち帰りされかねんな。」
「確かにありそうですわねぇ!
はぅ〜、お持ち帰りぃいぃい〜!!って。」
わっはっはっはっは。
あまりに簡単にその様子が想像できたので、みんなで笑った。
「じゃあ決まり! 今日はゴミ山探検にしよう!
幽霊を見つけれたら優勝! 次点は隠された右腕。その次は、えぇっと、じゃあレナが気に入りそうな何かだね! レナに見せてシロクロを付けてもらうってことでどうよ!」
「をーっほっほ!! 私は優勝で圭一《けいいち》さんはビリで、ダブル罰《ばつ》ゲームが楽しみですわねー!!」
「おいおい沙都子《さとこ》いいのかよ、優勝ってことは幽霊〜〜、うぇへへへへへ〜〜〜!」
「ちょ、やめてくださいませ! 暑苦しいですわぁ!!」
「……ボクもオバケが怖いので行きたくないのです。」
「“も”とは何ですの! “も”とは〜!!
私は全然怖くなんかありませんわよー!! えぇい、圭一《けいいち》さん、お離しあそばせー!!」
「では行くよ諸君! 出撃準備ぃいぃ!!」
「「おおおーーー!!!」」
……そして終わる。全て終わる。
そう、ひぐらしのなく頃に。
■アイキャッチ(これで、レナのゴミ山での死体《したい》がばれる。そのばれた瞬間のシーンは省かれている)
※あるいは、何らかの余韻演出のみにして「アイキャッチ演出」は抜きでもいいかもね!
■そして全てが明らかに(相当余韻たっぷりに間を取ってから開始。これでオープニングから話がつながります)
■あと、圭一《けいいち》視点に戻ります
5日目-2
「………これで、全部…かな。」
レナの告白劇が、終幕する。
誰も拍手しないし、カーテンコールも求めない。
……そんな静かでひとりぼっちな、……レナのたったひとりの舞台。
俺は、…だいぶ長いこと瞬きを忘れていたことをようやく思い出す。
それは魅音《みおん》たちも同様のようだった。
レナは、質問はある? とでも言わんばかりの表情で俺たちを見渡した。
その様子が、授業の終わり間際の知恵先生を模倣したものであることに気付き、みんなは小さく苦笑いして応えた。
「……さっきまでね、谷河内の方に行ってたの。袋を埋める場所を探しに。絶対見付からない場所に隠そうと思うと、あはは、なかなかいい場所が見付からないの。自分の家の庭に埋める方がむしろ安心じゃないかななんて考えたりもしたっけ。…でもそれじゃやっぱり危ないよね。お父さんが突然、家庭菜園をやりたいなんて言い出すかもしれないもん。やっぱり、遠くの山奥がいい。あの女を、例え死んだ後でも、お父さんに近付けたくなかったし。」
俺は、とても悪いことをした気持ちでいっぱいになっていた…。
………レナの計画は、この上なく順調だったんだ。
それを、……俺が悪ふざけして、変な無理強いをしたから……。
見れば、みんなも同じ悔悟の念に捕われているようだった。
魅音《みおん》がこのゴミ山で遊ぼうと言い出さなければ。
沙都子《さとこ》があの壊れた冷蔵庫を見つけなければ。
梨花《りか》ちゃんが、……ゴミ山で遊ぼうというのを阻止できていれば。
そうすれば、レナはあともう何日かを費やして、…このゴミ袋の山を全て、永遠に見付からない形で処分できていたのだ。
その後は?
……これまでと何にも変わらない。
これまでも、これからも、ずっとずっと同じ。楽しくて平穏な日々が続いていくだけ。
レナは辛い日々にずっと耐えて、平穏な日々を取り繕ってくれていた。
そしてそれは取り繕いではなく、本当の平穏な日々になって。
……俺たちの誰もが、レナの辛かったことを気付くこともなく、過ごしていく。
やがてはレナも、……人を殺めた辛い記憶すら忘れ、何事もなかったかのように暮らしていくのだ。
そうするために、積み重ねてきた小さな努力が、勇気ある努力が、……全部全部! ………水泡に帰してしまったわけで。
「人殺しはいけないことだってことは、私だって知ってるよ。……したくなんかなかったし、これからだってしたくないと思ってる。
でもね、…これが最善の努力だったって信じてるし、私は悪いことをしたなんてこれっぽっちも思ってない。
私は、幸せで平穏な生活を取り戻すために、神さまから与えられた等しいチャンスの中で最大限に努力しただけ! 清貧であれば不幸せでもいいなんてのは、満たされた人間の綺麗事だよ! その精一杯は世界中の誰にだって貶せない! むしろ私を褒めてほしいくらい! 讃えてほしいくらい!! 竜宮《りゅうぐう》レナは自らの運命と戦った。そして打ち勝った!!」
………その時、どういうわけか俺は、口を挟んでしまった。
多分それは失言だったと思う。
でも、伝えなければいけないことだと思ったから、口にした。
「でもレナ…。どうして、……どうして俺たちに相談してくれなかったんだよ?」
「……相談?」
「そうだよ…! 俺たちは仲間《なかま》だろ? 仲間《なかま》ってのは何があっても無条件で味方になってくれる、家族同然の存在じゃないのかよ! ……俺たちに相談してくれれば、何かの力になれたかもしれない。そうすれば、レナは自分の手を汚さずに済んだかもしれない!」
俺は……さっきから、レナの言葉が少しだけ悲しかったんだ。
だから、言わずにはいられなかったんだ。
レナは自分にできる最善の努力をしたと言い切った。俺たちの前で。
つまりそれは俺たちに、…仲間《なかま》に相談する必要は、その最善の努力の中に最初から含まれていなかったと断言したのと同じだったからだ。
「………圭ちゃん、今はそんなこと言っても…。」
「いや、頼む、言わせてくれ。喜びだって苦しみだって、分け合うのが俺は仲間《なかま》だって思ってる! だから、レナが相談してくれたら、きっと今よりもよりよい未来へ辿りつけていたと信じてる!」
「今より、よりよい未来? そんなのないよ。
これが最善の未来だよ。」
「嘘だなッ!!!」
俺の大声に、レナがびくりとする。
そう、……レナはこれが最善の未来だったなんて思っちゃいない。
苦渋の末に選ばざるを得なかった未来に過ぎない。
もし他にも選べる未来があったなら、絶対に選ばなかった未来なんだ。
「だってその証拠《しょうこ》に、…レナはさっきから泣いてるじゃないか!!」
「はぁ?! 誰が。私が?! いつ涙を流したの!」
「今だよ!! ずっと流してるじゃないか! 自分でわかってないのか?!」
レナは実際のところ、頬を濡らしてなどいない。
でも、だからといって、……涙が流れていないことになどなるものか。
レナは、さっきからずっと涙を零している。
それは……、幸せになろうとずっとがんばってきたのに、このような辛い袋小路に閉じ込めれた不運を嘆く、そんな見るだけでも辛くなる涙。
それが見えないヤツは、レナのことを心の底から思っていないヤツだ…!
「私は泣かないよ? あははははは、誰が泣くものか。私は正しいことをした、最善の選択をした。それでどうして泣かなくちゃならないの? あはははは、圭一《けいいち》のばーかばーか、何を言ってるか全然わかんないや、あははははは。」
「それが…………泣いてるって言ってんだよおおぉぉッ!!!」
小馬鹿《ばか》にしたようにケラケラと笑いながら踊るように回っていたレナは、それをぴたりと止めると、淡白な表情に戻って言った。
「じゃあいいよ。圭一《けいいち》くんの言ったとおりにしたとしてみよう。私がみんなに、お父さんとあの女のことを打ち明けた。さぁ、どうしてくれるの?」
「………………まずは、…ん、」
「まずは何? んー?」
……こんな意地悪な言い方をするレナは初めてだった。
……その嘲笑うような、突きつけるような眼差しに、閉口させられてしまう…。
「圭一《けいいち》くんは、去年を知らないんだよ。」
「…去年?」
「そう。去年。…昭和57年6月。私と同じように、人を殺めることでしか抜けられない不幸の迷宮に閉じ込められた人のお話を。」
沙都子《さとこ》が、はっと息を呑む。
「圭一《けいいち》くんは、…あまり知らないよね。北条《ほうじょう》悟史《さとし》くんのことは。」
……沙都子《さとこ》の兄だってことくらいは知ってる。
でも、……転校という名の失踪を遂げたこと。
…沙都子《さとこ》のために叔母を殺したのではないかという噂が今なおあることなど、キナ臭い話題が少なからずある。
…ゆえに、悟史《さとし》の話は、クラスでは、…いや、雛見沢《ひなみざわ》ではタブーのように扱われていた。
「悟史《さとし》くんもね、………私と同じだった。ただ幸せで平穏な日々が欲しかっただけ。妹と静かに暮らせる生活が欲しかっただけ。……圭一《けいいち》くんも、去年殺された、沙都子《さとこ》ちゃんの叔母さんがどういう人だったかは噂、聞いてるよね?」
………俺が聞いているわずかの話が本当なら。
両親を亡くした後、沙都子《さとこ》たちを引き取った叔父叔母はろくでもない人間だった。
特に叔母は執拗に沙都子《さとこ》を虐めたらしい。
聞く限り、悟史《さとし》というヤツは虫一匹殺せないようなヤツだったという。
……そんな悟史《さとし》ですら、殺すに違いないというほどの、嫌な叔母だったという。
「北条《ほうじょう》家のトラブルはね、雛見沢《ひなみざわ》では誰もが知っていたんだよ。叔母さんがヒステリックで頭のネジのどうかしてることも、悟史《さとし》くんと沙都子《さとこ》ちゃんを意味もなく虐めていたことも全部、全部ね。もちろんクラスの誰もが知っていた。
御三家《ごさんけ》の頭首跡継ぎである魅ぃちゃんと梨花《りか》ちゃんだってもちろん知ってたし、沙都子《さとこ》ちゃんに至っては当事者だもんね。
圭一《けいいち》くんの言う「仲間《なかま》たち」は、雛見沢《ひなみざわ》の誰よりもよく、悟史《さとし》くんの辛さを分かっていたはずなんだよ。
……それで、結果はどうだった? 誰かが悟史《さとし》くんを助けてくれた?
うぅん、誰も助けなかった。魅ぃちゃんは一番力があるくせに、村のしがらみがどうとか、よく分からない理由で煙に巻いて、結局、無責任な同情の言葉をかけて、傷つけるだけだった!」
「そ、……そんなことはないよ…!!」
……悟史《さとし》くんはわかってたよ。魅ぃちゃんが口ぶりだけは同情してるふりをしながらも、全然助ける気がないことをわかってた。だから悟史《さとし》くんはね、途中から魅ぃちゃんのことを嫌うようになったんだよ。普段は仲間《なかま》だとか友達だとか言っておきながら、結局は北条《ほうじょう》家を虐める園崎《そのざき》家の一味でしかなかったってね!!」
「わッ私は別に…!」
「何も救わずに放置した!!! 悟史《さとし》くんの助けてほしい思いを、同情という言葉で拒絶したんだ!! それがどれほど悟史《さとし》くんを傷つけたか分かってる?!」
魅音《みおん》は何とか言い繕おうと懸命になっていたが、…何も言えるわけがない。…結局、あぅあぅと言葉を飲み込むしかなかった。
「それは梨花《りか》ちゃんも同じだよね。」
「………………。」
言葉の矛先が今度は梨花《りか》ちゃんに向く。
……魅音《みおん》と違い、梨花《りか》ちゃんの顔はとても無表情で、レナと同じく乾いているように見えた。
「梨花《りか》ちゃんは確かに、魅ぃちゃんに比べたらその発言力は微々たるものかもしれない。でも、神社に出入りしているお年寄りたちに、とても大きな発言力を持っていたはずだよ?! 梨花《りか》ちゃんにも出来る努力があったのに、しなかった!!」
「………………………。」
「梨花《りか》ちゃんも結局は魅ぃちゃんと同じ。憐れみの表情を浮かべて小娘を装っただけだった!! するのは悟史《さとし》くんや沙都子《さとこ》ちゃんを慰めるだけ! その根本原因に対して何の手も差し伸べようとしなかった!! そんな無慈悲な憐れみがどれほど残酷だったか、想像できる?! 悟史《さとし》くんが欲しかったのは救いだった。誰かに助けて欲しかった! 自分の力だけではどうしても抜け出せない苦境だったから!! 首まで沈もうとする沼の中で、精一杯手を伸ばして、誰かに掴んでもらうことを期待していたんだよ!!」
「…………そうね。」
梨花《りか》ちゃんが、初めて聞く大人びた言葉を口にする。
「………悟史《さとし》たちを救う方法が分からなかったから、慰めることしかしなかった。それにかまけ、救う何かを探し続けなかった罪《つみ》は、否定しないわ。」
「……分かってるじゃない……。」
レナは歪んだ表情で笑った。……目を背けたくなるような、本当に嫌な表情だった。
「そして沙都子《さとこ》ちゃん。あなたに信じられるかわからないけれど、……あなたの罪《つみ》はとても重い。」
俺は、何で沙都子《さとこ》にまで矛先が向けられるのか分からず、沙都子《さとこ》を庇おうとしたが、…沙都子《さとこ》の表情を見て、はっとする。
その表情は、……レナの言う、罪《つみ》を受け入れてるように見えたからだ。
だからせめて、レナの言葉で貫かれる前に、自ら告白しようと思ったのかもしれない。
だから、先に口を開いたのは沙都子《さとこ》の方だった。
「………信じてくださるかどうかはわかりませんけど、………ちゃんと気付いてますのよ。…その罪。」
「…………………そうなんだ。」
「にーにーがいなくなってしまったあの夜に、気付きましたのよ。……それをどうして、にーにーがいる内に気付けなかったのか…………。」
「……分かるよ、その気持ち。後悔した時にはもう遅いというのは、…私も同じだったから。
だから私は同じことがもう一度起こったから、今度は戦った。
……沙都子《さとこ》ちゃんのその罪《つみ》は、きっと将来贖えるよ。その罪《つみ》に気付けたなら、きっとね。」
「………………それでももう、…にーにーは帰ってきませんのね。」
沙都子《さとこ》は痛々しい表情で俯く。
…普段、沙都子《さとこ》が言っていることとは逆だった。
普段の沙都子《さとこ》は、いつか必ず悟史《さとし》が帰ってくると言っている。
…………なのに、…悟史《さとし》が帰ってこないことを、あっさりと認める。
……血がつながっているからこそ、……帰ってこないことがわかるとでも言うかのように。
「ね?」
急に俺に話が振られた。
「これが、私と同じ苦境にいた昭和57年のみんな。悟史《さとし》くんは自分を助けてくれそうな人たちにはみんなに全てを話したよ。助けてほしいと言ったし、辛いとも言った。打ち明けた、相談した。転校してきたばかりの私にまでね。それは見っとも無いことじゃない。
…本当に不幸な人はね、必死なんだよ! 悟史《さとし》くんは自分でも懸命にがんばってた。それでもどうにもならないからみんなに助けを求めた! ずっと求めてた!!
でもね、これが圭一《けいいち》くんの言う“無条件で味方になってくれる”仲間《なかま》たちの体たらくなんだよ! 仲間《なかま》なんて、楽しくてどうでもいい時間を一緒に寄り合って過ごすだけのお友達! 本当に辛い時に味方になってなんてくれないんだよ!! 昔からそうだったよ、引越し先でもそうだったからね!!
だから私、自分が悟史《さとし》くんと同じ状況になったと知った時、私は仲間《なかま》に打ち明けるのなんかやめよう、ってね! だって、どうせ誰も助けてくれないし、助けられないもの!! なら同情なんて気が滅入るだけなんだよ!!
せめて学校にいる間くらい、楽しく過ごした方が気が紛れていいかもしれないもの。実際、みんなと楽しく過ごす学校の時間は楽しかったよ。とっても幸せだった。あの女たちとのトラブルをわずかの時間でも忘れることができて、本当に良かった!! 悟史《さとし》くんも、それに気付けていたらよかったね! そうだったなら、学校での時間くらいは楽しく過ごせて、あそこまで心を追い詰めずに済んだかもしれない。どうせ、自らの手で叔母を殴り殺す以外に解決方法はなかったのだし!!
…転校してきたばかりで、村のこともほとんど覚えていない私には、悟史《さとし》くんをどう助けてあげればいいか、わからなかった。できるのは、話を聞いてあげて、少しでも心を軽くしてあげるだけ。でも、それ以上に助けることができたのかもしれないし、…私もその努力を怠っていたかもしれない。それなのに、昭和57年の私は、悟史《さとし》くんと仲間《なかま》のつもりだったんだよね。……あははははは、あはははははははは! あーっはっはっはっはっは!! あはーっはっはっはっはっはっは……!! うわぁあぁあぁあぁああああ!! わあああああぁああぁああああ!!! わああぁああぁぁぁぁぁん!!! わああああああああああ!!」
レナの自虐的な笑いが、いつの間にか悲痛な泣き声に摩り替わって行く…。
その泣き声は、……俺たちの信頼関係を少しずつ穢《けが》していく…。
誰も助けてなんてくれない。
仲間《なかま》なんてただの友達ごっこで、信頼なんかできないじゃないかと。
……レナが泣き続けるだけで、…その場の全員の心に、これ以上なく雄弁に…訴えかけるのだ……。
魅音《みおん》も、沙都子《さとこ》も、梨花《りか》ちゃんも、……誰もが遠くを見て、うな垂れていた。
……だから、レナに言い返せるのは、今や俺しかいなかった。
俺は伝えなくてはならない。
…そして、レナだってそれはわかってるはずなんだ。
それを、自分以外の誰かの口から聞かされなきゃ、認識できないだけなんだ。
俺は辛い言葉をぶつける覚悟を決めると、口を開く。
「……よくわかったぜレナ。昭和57年のことは、よくわかった。」
「…………ん?」
「こいつらが薄情だったってこともわかったさ。でもよ、沙都子《さとこ》だって言ったろ? こいつらはみんな、自分の罪《つみ》に気が付いた。後悔した! だから、今度は違うはずだ。今度は、仲間《なかま》の苦しみを真に理解して、助けてくれるはずなんだ…!!」
「去年いなかった人に言われても、信憑性ないね。」
「あぁ、そうだ! 俺は去年いなかった。だから残念だぜ!! 去年の俺がもしここにいたならば。悟史《さとし》のために絶対に戦った!!」
「嘘だッ!!!!」
「嘘じゃねえッ!!!! 俺は雛見沢《ひなみざわ》に来てから、どれだけ仲間《なかま》が掛け替えのないものかを知った。だから、そんな仲間《なかま》たちを救うためなら俺はどこまでも戦うぜ!! 沙都子《さとこ》や悟史《さとし》を虐める叔母がそんなにもうぜえヤツなら、悟史《さとし》になんか勿体ねえッ!! この俺が叩き殺してやったッ!! ものの1500秒でだ!! 躊躇なんかしねえぞ、速攻だ!! 学校の倉庫辺りから金属バットの一本もちょろまかして、即ブッ殺してた!!」
「く、口先だけならどうとでも言えるね! 人を殺すのに、どれだけの思い切りがいるかも知らないくせに…!」
「知らねえし知る必要もねえなッ!!! 仲間《なかま》を救う以上の義務がどこにあるってんだ!!」
「圭一《けいいち》くんは全然わかってない!! 人を殺すことがどれだけ汚らわしい行為で、どれだけ自らを美化しようとも決して振り払えない穢《けが》れであることをわかってない!!!」
「そうだな。確かに仲間《なかま》を救うためでも、直ちに人殺しってのは短絡的過ぎるよな。………レナの言い分に相反するようで悪いけど、悪いことに悪いことで立ち向かうってのは、多分、うまく行かないように出来ていると思うんだ。仲間《なかま》のためなら人殺しだって厭わないその精神だけは立派だと思う。だけどな、…悪いことで得た平穏ってのは…絶対に長く続いたりしないんだ。それを人は本能的に知ってるから、…悪いことを嫌うんじゃないかと思うんだ。」
「…………………何それ。…圭一《けいいち》くんが何を口走ってるのかよくわかんないよ。」
レナに言われるまでもなく、……俺は何を言っているのか自分でもよくわからなかった。
でも、…それはどうしてか、……容易に思い浮かべられる世界だった。
掛け替えのない仲間《なかま》を助けるために、蛮行をもって救ったどこかの世界の自分。
……でも、蛮行で得た平穏は決して長く続いたりなんかしなかった。
…それどころか、その罪《つみ》に見合うような、ひどい結末さえ…………。
それは有り得るはずのない記憶。
……自分でもよく分からないけど、絶対にそうだったと確信できる、もしもの世界。
「…すまん、俺も自分で何を言ってるのか、意味がわからなくなった。」
どうしてだかわからないけど、こんな状況にも関わらず、俺は苦笑いを浮かべてしまう。
「でも、レナはわかってるはずだ。だから、……自らの手を汚す他なかった運命を。助けてほしかった俺たちを嘆いてるんじゃないか。…レナは殺人者になんかなりたくなかったんだ。これが最善の選択だったなんて絶対嘘なんだ! だからさっきから、…ずーっと泣き続けているんじゃないかッ!!!」
「嘘だッ!!! 嘘だ嘘だ嘘だ、そんなのは嘘だッ!!!」
「嘘かどうかはお前が一番知ってるんじゃねえか!! 最初から後悔してるんだろ?! 例え誰にも知られることなく死体《したい》を隠せたとしたって、一生、両手についた血は落とせないんだ。そんな十字架を背負って生きていく苦痛を、どうやって誤魔化す?! ひとつしかない! これしか方法がなかったと思い込むことだけじゃないか!! それはつまり、仲間《なかま》に相談する価値がないって思うこと、仲間《なかま》を一生否定し続けるってことだぞ!!!
レナにとって、俺たちはその程度の存在だったのか?! 違うだろ?! 本当に助け合える関係なのが仲間《なかま》だってことを、一番最初から信じてたんだろッ?! 確かに去年の仲間《なかま》たちはまだ未熟だった。だから悟史《さとし》を不幸な運命から救えなかった。でも人は成長するんだ。ミスは二度と犯さないし、後悔は二度と繰り返さない! だから、…信じろ!! 俺たちは仲間《なかま》だ!! お前の一番の味方なんだッ!!!」
「そうだ。仲間《なかま》たちが日々成長していることを信じられなかったレナも未熟だ。だが、それを責める気はないぜ。…俺たちだって、レナがひとり悩むのを今日まで気付けなかった。……人は語り合うことでしか胸の内を明かせない。だから、今日のこの場までは仕方がなかったことかもしれない。……そういう意味では、…言いたくはないが、今日という日が、レナにとって最善の選択の向こうにあったことを認めざるを得ないかもしれない。」
「……………………。」
「でも、……俺たちは今この場になって、ようやく胸の内を全て語り合った。レナが去年からずっと持っていた不信感も、俺たちが持っていた後悔も、全部吐き出しあった!! だから、俺たちは今こそようやく、本当の意味での仲間《なかま》になれたんだよ!!」
「そうでもねえさ。例えば俺は、…仲間《なかま》であるレナの今回のこの出来事を、…理解できる!」
「……理解できる、……って?」
「人の命を奪うのは許されることじゃないっていう、道徳的なことはもちろん理解している。でも、それを理解した上で、仲間《なかま》であるレナが、こうする他なかったことを理解する!! だから俺は、レナを汚らわしいと思わないし、恐ろしいとも思わない!! 次に同じようなことがあったら、今度はこういう結果にならないように悩み合おう。だけど、すでに起こってしまったこの出来事を、俺は理解する! 理解ってのはつまり、許すということだ。………俺は、レナのこの行為を、否定したりしない!!」
俺は今度は全員に向けて言う。仲間《なかま》たち全員にだ。
「俺は、レナのやったこの出来事を、受け入れる。これしかどうしようもなくて、悩み抜いた上で至った、最後の最後の手段だったってことを、受け入れる。だから、……俺はレナに協力しようと思う…!」
「……圭ちゃん…。」
「……圭一《けいいち》。」
「だから!! みんなもレナも! 今日に至るまで、それに気付けず、レナをひとりで悩ませた俺を許してくれ。それが、今日を招いた俺の罪《つみ》だ!」
「……………………圭一《けいいち》さん…。」
「このヤバい袋の山を知ったのは俺たちだけだ。俺たち全員が秘密《ひみつ》にすればそれでおしまいだ。レナは何も気にすることはない。最初の予定通りにこの袋をどこかに隠しちまおうぜ! そして全員で塩でお清めでもして、一丁上がりだ!! そしたら俺たちは全ての罪《つみ》を許し合おう。そして、取り戻そうぜ、本当に平穏な日々を!! これだろ?! レナが本当に選びたかった未来ってヤツは!! こっちなんだろ?! 最善の選択肢は!!!」
「…………け、……いいち…くん…。」
俺は、レナの立つ廃車《はいしゃ》のボンネットに駆け上がり、屋根《やね》の上に立つレナに手を差し伸べる。
「認めろ!! こっちが本当にレナが来たかった世界なんだよ!! レナが本当に選びたかった選択肢なんだよ!!! 確かにこの選択肢は、レナひとりだけじゃ選べない。レナと、俺たちが互いに手を差し伸べあってしか選べないんだ。……つまり、俺だけが差し伸べても意味がないんだよ! 俺だけじゃない、みんなが差し伸べる!! だからレナ!! お前も手を伸ばせ!!! それで互いに手を掴み合って初めて、お前は本当に選びたかった選択肢の向こうの世界に行けるんだよッ!!!」
「……け、……圭一《けいいち》くんの言葉は……本当なら嬉しいよ……! でも、…でも! みんなもそうだとは限らないよ?!」
俺の差し出す手に、小さな手が重なる。
それは…梨花《りか》ちゃんの手だった。
「梨花《りか》ちゃん…!」
「……レナは決して穢《けが》れてなんかいない。………あなたは決して屈しなかった。そして、こんなにも泥だらけになりながら、…今日と言う日を掴み取っている。そんなあなたを…どうして私は認めずにいられるのか。」
梨花《りか》ちゃんの小さな手は力強く、…そして初めて聞くくらいに雄弁だった。
「……私は、逃れられない不幸の迷宮に呑まれ、全てに失望する堕落の心地よさを知っている。だからこそ、たったひとりで屈することなく戦い続け、今日を得たあなたのたくましさが理解できる。そんなあなたが身近にいることを誇りに思おう。私も圭一《けいいち》と同じ。あなたの罪《つみ》を許す。だからあなたも、私の罪《つみ》を許して欲しい。」
「……………梨花《りか》ちゃん………。」
「……私は無力な小娘だけれど、きっと戦えた。自分も運命に屈しない。レナのように戦う。だから、私をあなたの仲間《なかま》として許してもらいたい。」
それは…普段の幼そうに振舞う梨花《りか》ちゃんとは到底思えなかった。
……ふざけなど一切ない、…古手《ふるで》梨花《りか》という少女の心の底からの言葉だった。
そこへもうひとつ、小さな手が重なる。
「………………………。」
「……沙都子《さとこ》。」
沙都子《さとこ》は手を重ねるが、俯いたまましばらく何も口に出来なかった。
それでも梨花《りか》ちゃんに促され、ようやく口を開く。
「………私も梨花《りか》も、……両親を失ってひとりぼっちですけれど。……今日までそれを嘆いたことはありませんでしたよ。…皆さんという、仲間《なかま》という、家族がいたから。」
「……………。」
「私は、…これからも皆さんと、レナさんと、仲間《なかま》という名の家族でありたいと思っていますのよ。…家族同士だからこそ、時には全てを打ち明けあうのは当然ですわ。だから、今日はいい切っ掛けになったと思ってますの。互いの罪《つみ》を、許し合う機会が恵まれたことに、感謝いたしましてよ。」
「…仲間《なかま》という名の家族か。…沙都子《さとこ》にしちゃいい例えだな!」
「レナさんの罪《つみ》を、許しますわ。……どうか、私の罪《つみ》も許してくださいませ。」
ぬっと、もう少し大きめの手が伸びてくる。魅音《みおん》だ。
「…………仲間《なかま》の大切さを語るのは、…部長である私の役目だと思ってただけに、…いやはや、…私も部長失格かなぁ、なんて。たはははは…。」
「…魅音《みおん》。」
「……ごめん、ふざけたね。」
魅音《みおん》はそれでも薄く笑って頭を掻く仕草をする。
「………レナの境遇を察しなかったことを、仲間《なかま》として部長として恥じるよ。許して欲しい。……もちろん、レナが私たちに相談しなかったことも許すよ。それは私が打ち明けるに足る存在じゃなかったってことだからね。私はリーダーであらねばと日々、努力しているはずなのに、全然至ってなかった。その未熟さは私の責任。だから、レナの罪《つみ》を、許す。」
「レナ!! 俺たちは全員手を重ねて差し伸べたぞ!! こっちは全部揃った!! あとはお前だけなんだ! 手を伸ばせ! こっちへ来い!! お前が本当に来たかった世界はこっちなんだ! もう手は全員が差し伸べてる! あとはレナだけなんだ!! だから躊躇うな!!!」
「………レナは……人殺しだよ……? きっとみんなに迷惑をかけるよ…?」
「……レナ…、私たちは…、」
「梨花《りか》ちゃん、もう余計なことは言わなくていい。」
「……。」
「俺たちは、全員で手を重ねて差し伸べている!! この事実にこれ以上、上塗りする言葉は何も必要ない! だから、レナにだって言葉はいらないんだ!! ただ黙って、こっちへ手を伸ばせばいいんだッ!!!」
「……………あ、………ぅ……、」
「来いレナッ!!! 夢とか幻とかじゃない!! 増してや手遅れでも何でもない!! レナにはまだ選べる選択肢が残ってるんだ! だから選べ!! 間に合う!! 来るんだッ!! 俺たちはやり直せるんだあああぁぁッ!!!!」
重ねるまでもない。
レナが自ら触れたことこそが、レナの明白な意思。
レナは仲間《なかま》を受け入れず一生十字架を背負う人生より、それを共に分かち合う人生を選んだんだ。
だから俺はもう一歩踏み込み、レナの手首を乱暴に掴む!
次第に暗くなり始め、いくつかの星が散らばり出す頃。
………俺たち全員は、……初めて互いの罪《つみ》を許し合った。
…そして、恥ずかしいけど、…いつの間にかレナの涙をもらってしまって、全員で泣いてしまっていた。
そして、円陣を組むように肩を抱き合って、頭をぶつけ合い、……仲間《なかま》と言う名の家族たちが、本当に許し合った喜びをかみ締め合うのだった。
………俺の脳裏に薄っすらと浮かぶ、有り得ない記憶。
俺はその世界で…1人の仲間《なかま》を救うため、他の仲間《なかま》全員を拒絶し、1人暴走して、……世界の終焉を迎えた。
1人の仲間《なかま》を救うため、人命が奪われたところまでは、……その遠い世界の出来事と重なる。
だけれど、……ここからが違うのだ。
レナに魅音《みおん》、沙都子《さとこ》に梨花《りか》ちゃん、そして俺。誰一人欠けない。
俺たちは取り戻す。
平穏で楽しい、幸せな日々を絶対に取り戻す!
その道のりは、ひょっとすると平坦ではないけれど。
……俺たちはきっと、その道のりを踏破してみせるのだ。全員で。
■その後
その後、俺たちは全員で、レナが用意していた谷河内の山奥の穴の中に袋を埋めに行った。
死体《したい》を運んでいるという恐ろしさは、むしろ、そんな仕事だからこそ仲間《なかま》で助け合っていることを実感できる気がした。
ビニール越しだから、中身が手触りでわかってしまうこともあり、みんな苦笑いを浮かべながら恐る恐る取り扱っていたが、最後の方にはそれを茶化し合いもした。
…それが痩せ我慢にせよ、みんなよくがんばった。
死体《したい》の隠し方について、なぜか造詣の深い魅音《みおん》は、穴はもっと深い方がいいと指導し。
梨花《りか》ちゃんは小さな体で、精一杯、袋運びを手伝ってくれた。
そして沙都子《さとこ》はトラップ隠蔽の妙技で、埋めた跡を見事にカモフラージュをしてくれる。
俺か? 俺は男手ということで穴掘り担当。
レナもしっかり掘ったようだったが、男の俺ならもう少し深く掘れる。
全て終わった後に自転車まで戻り、埋めた辺りを見上げる。………絶対にわからない。
多分、俺たちも今日を帰宅してしまったら、この場所には二度と戻れないだろう。
それくらいに、よくわからない場所だった。
「よっしゃ! みんなお疲れさんー! これでおしまいだね。帰ろ帰ろ。」
まるで部活《ぶかつ》か何かでも終わったような爽やかさで魅音《みおん》が言う。
俺たちの荷物も完全になくなり、それはそのまま、心の荷が下りたことを示していた。
みんなが自転車にまたがるが、レナだけがまだ少しぼーっとしていた。
「おい、レナ。」
「………………え? あ、……ごめん。……ちょっと熱が出ちゃったみたいで、なんかぼーっとする…。
あはははは…。」
レナは少し顔を赤くしてぼーっとしていた。
魅音《みおん》がレナの額に触れると、少し熱っぽいねと伝えた。
…無理もない。
……レナにとっての今日一日は、あまりに色々なことが凝縮され過ぎていた。
死体《したい》の隠し場所を探し。
穴を掘り。
……俺たちに死体《したい》の袋を見付けられ。
…互いの胸の内を吐き合い。
………そして互いを許し合った。
これだけのことが一日の内に起こったのだから、さぞ神経が参ってるだろう。
「レナ、今日は帰ったらゆっくり休め。」
「…うん、ありがと。そうするね。」
「……レナ、私たちはもう全部許し合ったんだよ。だから、自分を責めちゃダメだからね。」
「あはははははは。………やっぱり、みんなの言うとおりだったよ。」
「……何がだ?」
「………やっぱり私、……自分を騙せてなんかなかった。どう自分の行為を美化したって、……私は心の中で恐ろしいことをしたと怯えていた。みんなに助けてもらってここまで来てこんななんだもん。
………もし、みんなと合わずに、ひとりで全てを片付けていたら。……私は十字架の重さに耐えきれず、潰されてしまったかもしれない。」
そう言い、薄く笑うのだった。
レナの心の傷が癒えるには短くない時間が掛かるかもしれない。
………でも、その時間は絶対に、レナがひとりで癒すより100倍も短いに違いない。
一番近い家がレナの家だったので、レナと別れ、4人になって帰路に着く。
魅音《みおん》が全員に向かって提案した。
「明日からなんだけどさ。みんな揃って、今日のことを忘れるのがいいと思うんだけど。どう思う?」
「そうですわね。それが一番、レナさんにとってやさしいことになると思いますわ。」
「……レナは強い人です。ボクたちがそう振る舞えば、レナもそう振る舞ってくれますですよ。」
「振る舞いも、ずっと続けてれば本当になるって言うもんな。」
「語らないことで、その内、私たちは忘れていくよ。そして完全に忘れきった時が、私たちのゴールだね。」
「……おそらく、その日は一生をかけて、来るか来ないかを探ることになると思いますです。」
「そうかもしれませんわね…。簡単に忘れられることではありませんでしてよ。」
「仮に、生涯忘れられなくてもいい。……大切なのは、最後まで全員の胸にしまって秘めておくことなんじゃないかと思う。」
「思い出させない方が大事だからね。」
みんなで頷きあう内に、今度は俺の家が見えてきた。
「じゃあな、みんな。明日また学校で。いつもの通りに!」
「……いつもの通りに。」
「いつもの通りにトラップに引っ掛かりあそばせですわねー!」
「あっはっは! じゃあね圭ちゃん。」
■レナの暗転(レナ目線に戻るよーーーーーーー)
みんなと別れた後も、何だかぼーっとするような、ぽやーっとするような、不思議な気持ちだった。
玄関の扉に向かうまでのわずかの距離ですら、何だか足取りがおぼつかない。
……ふわふわとして、強すぎる風邪薬を飲んだような気分だった。
ものすごいショックな出来事と、それに負けないくらいに嬉しかった出来事と、でも何だかとっても恥ずかしかったような出来事と…。
……とにかくとにかく! …嬉しいことや悲しいこと、そんな相反する感情で胸と頭がパンクしそうな感じだった。
今日という日が致命的な一日だったのか、それとも一生に一度しかないくらいに幸せな日だったのか。それすらもわからず、ただただ、ぽーっとするしかない。
焦燥感はもちろんあった。
殺人と死体《したい》遺棄という、致命的な行為を仲間《なかま》とは言え、他人に見られてしまったのだ。
でも同時に、その行為を、本当に頼もしい仲間《なかま》たちに理解してもらえたという安堵感もある。
それらの感情が全て均衡していて……、相殺というよりは、入り混じったぐちゃぐちゃな感じ。
平衡感覚も何だかふわふわするし、何となく視界も歪むし、耳に入る音はお風呂場の残響で聞くような非現実感があった。
そんな感情が、総じて不安に流れそうになった時、……手首が熱くなった。
圭一《けいいち》くんに掴まれた手首が、じんじんと熱くなる。
他のどんな感情も入り混じるだけで治まろうとはしないのに、…この熱さだけは、他のいかなる感情をも沈静化させるのだ。
……みんなで肩を組んだ時の気持ちを、何て言葉で表現すればいいのかわからない。
でも、……その名前さえもわからない感情だけが、真実に違いなかった。
「……ただいま。………あれ?」
玄関に入ってすぐに、思わず鼻を鳴らしてしまう。
それはとてもおいしそうな、何かの焦げた匂いだった。
お父さんは料理は下手くそだけど、創作料理の真似事は好きみたいで、昔から機嫌がいい時には、色々と挑戦していたことを思い出す。
…つまり、この匂いはお父さんの上機嫌を知らせる合図みたいなもの。
だから昔から、この匂いが玄関で出迎えてくれるのがとても好きだった。
その上機嫌の理由は、仕事が見付かったということだった。
それも、単に見付かったのではなく、以前、勤めていて潰れてしまった興宮《おきのみや》の会社の仲間《なかま》が興した会社だったのだ。
先方は父を覚えていてくれ、採用を快く約束してくれたという。
会社には、以前の会社の同僚も何人か移っているようだった。
……長いこと、ちゃんとした定職に就かなかった父にとって、面識のある人間がいるというのはとても心強いに違いない。
食卓は、味は相変わらずとして、見てくれだけは立派なものだった。
それは父にとって、自らの新生活を祝うものであり、……娘との絆を取り戻し、心機一転でがんばろうとする決意を示すものだったに違いなかった。
その晩は、父とたくさんのことを語り合った。
これだけ父と話したのは本当に久しいこと。
……いつの頃だったか思い出せないけど、私がまだ幸せだった頃の生活を思い出させた。
ということはつまり、……私はその、幸せな生活を取り戻したということだった。
父は相変わらず、いつか再び鉄平《てっぺい》がやってくるに違いないと思っていて、未だ戸締りに厳重で、来客のチャイムに怯える。
私は、あの2人は二度と現れないから大丈夫だよと言ってるのだが、……二度と現れない理由を伝えられないのだから、仕方ない。
父もその内、もう現れないことを悟るだろう。
それはそんなに時間のかかることではないに違いない。
今日という日が、……あまりに、いっぱいで、いっぱいで。
胸がはち切れることで召されてしまうことがあるならば、きっと私はそうなるに違いないと思った。
多分、…あまりに激しいことと幸せなことが一度に起こりすぎて、…私の頭が興奮状態に耐え切れなくなってしまったのだろう。
私は朦朧とする意識に鞭打ちながら、布団に潜り込む。
視界がぐるぐると回り、五感に現実感がない。
………小学校の頃に一度患ったインフルエンザがこんな感じだったっけ。……明日、熱でも出しちゃうかもしれないな。
…………それでもいいか。そう思った。
病床でもいいから、………圭一《けいいち》くんが教えてくれた、本当に選びたかった選択肢の向こうに、私が踏み出したことを、かみ締めていたかった。
高熱と眩暈が襲い来て、意味のわからない焦燥感を掻き立てる。
……でも、そんな時、必ず一緒に手首を熱くなった。その手首を、左手でぎゅっと握る。
そうしていると、……焦燥感はたちまちに霧散し、安堵感がいっぱいに広がっていく。
さっきまで嫌だった眩暈の感覚さえも、あまりふかふかじゃない布団を、羽毛布団に変えてくれるように感じられた。
私はそのまま羽毛布団に飲み込まれ、……新しい世界で訪れる、最初の夜の眠りに落ちるのだった…。
この熱っぽいぼーっとした感じは、数日は抜けなかったけど、次第に慣れてく。
この新しい世界は、一見、これまでの世界と同じように見えるけど。
…日差しが少し前より明るい気がするし、圭一《けいいち》くんたちの笑顔がまったく変わらないはずなのに、前よりやさしく見えた。
私たちは前にも増して大はしゃぎで、スローペースに、そしてハイテンションに日々を送っていく。
私は、…あぁ、なんて間抜け!
あの日のぼーっとしたのを甘く見て遊び過ぎたら、こともあろうか夏風邪(6月でも夏、かなぁ?)をひいてしまい、本領を発揮できないありさまだった。
早く元気になりたい!
なら休めばいいのに、無理して部活《ぶかつ》に出続けちゃうものだから、いつまでも治らないありさまだ。
私はこの頃になって、ようやく少し反省する。
もう、私は焦らなくていいんだから。
この世界では幸せは有限なんかじゃない。
私たちが望み続ける限り、それは永遠に続いていくのだから、……私は今日の幸せをかみ締めることを、焦らなくていいんだ。
気付けば、今度の日曜日は「綿流し《わたながし》」。
魅ぃちゃんはみんなで派手に騒ごうと今から予告してる。
今度の日曜日がとても待ち遠しかった。
■幕間
TIPS
6■営林署便り
6月なのに、早くもセミの声が聞こえる今日この頃、雛見沢《ひなみざわ》の皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
今年も綿流し《わたながし》のお祭りが近付いてまいりました。
昨年、大変ご好評をいただきました雛見沢《ひなみざわ》営林署職員による木彫りマスコットの実演販売も行なわれます。
保護者の同伴があればお子様にも道具をお貸しできますので、どうか親子の素敵な記念にされてはいかがでしょうか。
さて、××第4次森林施業計画に基づき、本年夏季に山林の伐採を行なうことになりました。
この伐採は、老齢木や枯木を伐採することにより山林の美観を守り、新たに植樹を行なうことで山林の若返りを目的とするものです。
営林署では、この伐採作業に参加するボランティアを募集しております。
青空の下での林業体験を通じて、自然の素晴らしさを満喫される貴重な経験をされてはいかがでしょうか。
時期はちょうど夏休みを挟み、お子様との親子での参加も可能です。
夏の野山での貴重なボランティア体験を通じて、お子様の健全な育成に貢献できればと思います。
なお、伐採予定地は高津戸地区、谷河内地区の山林になります。
■そして綿流し《わたながし》(レナ目線終了ーーー)
6日目
「はーーい、いらっしゃいませー! 特製のフランクフルトはいかがですかー!」
「あいよ! シロップはイチゴにメロンにブルーハワイがあるよ!」
「おみくじたこ焼き、いかがっすかあぁ! アタリにはマスタードがぎっしりー!」
綿流し《わたながし》の祭りには今年もたくさんの露店が並んでいた。
祭りってのは、盆踊りの音楽が流れて、露店さえ出てれば足りるんだなぁと大石は思っていた。
6月ではあっても、連日、夏並みの猛暑が続き。
しかも祭りで盆踊りの曲まで聞こえた日にゃ、あとはついでに花火大会も一緒にやればいいのに、なんて思うくらいだった。
「ザ、ザザ! 熊谷っす。大石さんどうぞ、大石さんどうぞー。」
大石の携帯無線のイヤホンに、ざらついた声が入る。
……大石がイヤホンをしていると、まるで勤務中に隠れて競馬放送でも聴いていそうな感じがした。
「はい、大石です。感度良好。」
「えっと、町会の皆さんから差し入れをものすごいたくさん頂いてます。…おでんにヤキソバ、モツ煮込みに、あと…えっと、麦茶の差し入れも。」
「なっはっは! その麦茶、勤務中に飲める麦茶? 飲めない麦茶?」
「えーーあ〜〜、…あっはっはっは。」
「その麦茶、缶ならもらっといてください。コップなら辞退で願いします。」
「はい了解です。…………あ、それと町会役員が挨拶に来てます。村長と、あと園崎《そのざき》家の方からも…。」
「…お魎《おりょう》のばあ様? やだなぁ、大石は巡回中でいつ戻ってくるかわからないとかいって誤魔化せません?」
「……いえその、…無線があるんだからすぐに呼び出せるだろうってすごい剣幕でして…。」
「なっはっはっは! あんのばあ様、死ぬ時ゃ絶対、脳梗塞ですねぇ。了解了解、すぐに戻ると丁重に、丁重にですよ? お伝えください。」
……やれやれ、仕方ないなぁ。地域住民との交流に戻るかなぁ。
その時、後ろから駆けて来た子どもたちの一団に跳ね飛ばされた。
見ればそれは、…そのばあ様の孫娘とお友達のご一行だった。
射的屋の一角を陣取るときゃあきゃあと騒ぎ始める。
園崎《そのざき》魅音《みおん》か。
…年相応にしてる時はそこそこにかわいいんだけどなぁ。
園崎《そのざき》家ヅラを始めると急に小憎らしくなる。
あの姉ちゃんも、あと10年20年もすると、肩で風を切るような顔役になるに違いない。
……と、思いきや。
見ていると、グループを仕切っているのは魅音《みおん》ではなく、男の子だった。
確かえぇっと、……最近引っ越してきたばかりの子だ。
…なんだっけ、そう、前原《まえばら》屋敷のご令息だ。確か、前原《まえばら》圭一《けいいち》くんって名前だと思った。
都会人で結構な金持ちらしい。
…にしては、それを鼻にかけないナチュラルさが評判だとか何とか。
引っ越してきて日が浅いはずなのに、学校にもかなり馴染んでいて、人気者らしい。
村での評判も、日が浅いにしては上々だ。
見ていると、喜怒哀楽がいちいちオーバーで、面白そうな子だった。
この位の年頃の男の子は元気が一番だもんなぁ。思わず、自分の少年時代を思い出しそうになる。
「おい、次はレナだぜー!! ここでレナはかなりおいしいタイミングだぜ!」
「大丈夫、レナ? 具合悪いんじゃないの?」
「…あはは、ごめん。ちょっと射的は、横で見てたいかな。」
「……なら、無理をしないで休んでいるといいのです。」
「では! レナさんを飛ばして、ここでいよいよ真打! 私の出番でございましてよー!!」
……見れば、盛り上がっているのは4人で、レナという子は、騒ぎから外れているように見えた。
竜宮《りゅうぐう》レナって子だ。
本名は何ていったっけな…。
帰って調べればわかるが、今は思い出せない。とにかくあだ名はレナだ。
ちょうど前原《まえばら》くんの1年前に引っ越してきたんだっけ。
お母さんが離婚《りこん》されていると聞いたような。
それで家事も切り盛りしている立派な娘さんらしい。
それに、今時にしては珍しいお淑やかな子だとも聞いている。
ただ、同じ転校生でも前原《まえばら》くんに比べると、まだみんなと打ち解けられていないように見えた。
5人で固まっているようだけど、レナって子だけは、みんなの騒ぎに加われず、さっきから輪の外でしょぼんとしているだけだ。
傍目に見て、前原《まえばら》くんはもう村人としてすっかり溶け込んでいるのに、……彼女だけは取り残されている感じ。…大石にはそう見えた。
「ザ! 大石さん、署長と課長がお見えっす。大至急お戻りになってくださいー!」
「大石了解! ……地域のお祭りにまで挨拶に来るなんて、うちの署長は地域交流にまめだなぁ。興宮《おきのみや》の祭りに来たって話は聞いたことないのに。」
「あーー、こちら高杉です。大石さん、聞こえますか、どーぞどーぞー!」
「はいはい、大石です。只今、全速力で帰還中ですよ。もう1分ほどお待ちを。」
とっとと帰らないと、今度は署長まで無線に出かねないな。
大石はさすがに小走りになって本部テントへ引き返すのだった。
■そして5年目
(ここで祭り終了後の富竹《とみたけ》死体《したい》発見まで飛びますので、時間経過の演出をー!)
「大石さん、先生が到着してます。」
「あーどうもどうも! どうですか、入江の先生。」
大石がブルーシートで囲われた一角に入る。
中には鑑識の職員が、遺体をあらゆる角度から撮影して記録していた。
富竹《とみたけ》ジロウの遺体の脇に屈んでいた入江が立ち上がった。……その顔面は蒼白だった。
「………………信じられません。」
「…そりゃあ、私だって信じられませんよ。初見で見た限り、…ホトケは喉を掻き毟っています。それも自分の手でです。
こいつぁ真っ当な死に方じゃない。十中八九、何だかのヤバめな薬物でしょう。」
「…………彼は、何らかの薬物の常習者だったということでしょうか?」
「さぁねぇ?
そいつを調べるのはどうやら我々の仕事になりそうです。」
「……………大石さん。この角材は?」
「多分、…ホトケが振り回したんじゃないかと思います。で、途中で捨てて、喉を掻くのが楽しくなっちゃったんじゃないかと。」
「…………角材を何のために振り回したんでしょう。」
「自衛のため、と考えるのが一番自然だと思います。
……ホトケの体に、外傷がいくつかあるのに気付いてます?」
「……えぇ、打撲傷を思わせる痕がいくつか散見出来ます。」
「ってことは、一番考えられるストーリーは、………ホトケが祭り終了後、興宮《おきのみや》へ帰る途中、ここで何者かに襲われた。それで、取り押さえられて、怪しげな注射とかそういうのをされて、その結果、錯乱させられて死に至らしめられた。」
「………喉を掻き毟るように誘導できる薬物なんて聞いたことがありません。」
「私もそっちは専門じゃありませんが、…ヤク中の末期症状に自傷行為ってあるらしいじゃないですか。まぁ、その辺はうちの鑑識のじいさまが調べてくれるでしょう。」
「大石さん失礼します! ここから数百メートルのところに、富竹《とみたけ》ジロウのものと思われる自転車が見付かりました。」
「お、そうですか、ありがとうございます。何か手掛かりとかは?」
「いえ、初見では特には。今、鑑識が行ってます。」
「じゃあつまり、……その自転車があった場所が襲撃場所と考えていいんでしょうねぇ。
……それで、戦ったり逃げたりして、ここまで来た……、……んんん。」
大石は腕組をしながら唸る。
入江は富竹《とみたけ》の死体《したい》の、ありえない惨状を見ながら、それでもなお重ねて口にしていた。
「…………………ありえない。……絶対にありえない。」
「…先生、ありえちゃったんだから仕方がないです。発想を柔軟にしましょう。……まぁ、先生でも、こんな死体《したい》はなかなか見慣れてるものじゃないかなぁ。
……先生はもう結構ですよ。お帰りになられて充分休んでください。救命活動でお呼びしたはずだったんですが、無駄足になってしまって申し訳ないです。」
誰か入江の先生を車で送ってあげてください〜、大石が囲みの外に顔を出し、そう叫ぶ。
その時、入江が突然、はっとして大石に詰め寄った。
「そうだ…、鷹野《たかの》さんは? 鷹野《たかの》さんはどうなったんです?!」
「え? あぁ、お宅の看護婦さんの?」
「多分、富竹《とみたけ》さんと一緒だったと思うんです。鷹野《たかの》さんは無事なんですか?!」
「……先生、彼女の電話《でんわ》番号はわかります?」
「もちろんです。」
「熊ちゃん。入江の先生に電話《でんわ》番号聞いて、署から在宅確認を取らせてください。」
「了解っす! 先生、番号を。」
「はい、えぇと、よろしいですか?」
熊谷は入江に番号を聞くと、それを復唱した後、ブルーシートの外へ飛び出して行った。
「先生。…鷹野《たかの》さんとホトケは、確か親しい仲でしたよね?」
「えぇ。」
「…何かトラブルがあったとか、そういうのは聞いたことがあります?」
「まさか。……聞いたことないです。仲の良い二人でした。」
「何事もなけりゃいいんですがね。…下手すりゃホトケか、それともホシか…。……んん、なるほど、看護婦なら怪しげな薬物を取り扱えてもおかしくはないですよねぇ?」
「…………そんな薬品はうちの診療所にはありませんし、あったとしても厳重に保管されています。鷹野《たかの》さんに持ち出せるわけがない…。」
「それでも、一般人よりは容易でしょ?」
「ですから、そもそもそんな薬物は聞いたことがないし、当診療所にも存在しません…!」
「大石さん、留守のようです。署の待機組の方で直接訪問すると言ってます。先生、すみませんが鷹野《たかの》さんの住所を教えてください。」
「熊ちゃん。それプラス、県警に今夜出た身元不明の女性死体《したい》がないか確認を取ってください。……あるいは県外の可能性もあるな。
課長に、近県にも同様に身元不明の女性死体《したい》が出てないか確認を取るよう伝えてください。」
「了解っす!」
「…………鷹野《たかの》さんも、……殺されているということですか…!」
「さぁて、んっふっふ、どうでしょうねぇ。まだ、ガイ者ともホシとも決まったわけじゃありません。
もちろん、無関係って可能性だって残ってます。明日は月曜だってのも構わず、その辺の飲み屋で飲んだくれてる可能性もありますからね。」
「……………信じられない…。どうしてこんなことが……。」
「まぁ、私だって信じられないです。雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件。…これで5年目ですよ。オヤシロさまの祟り《たたり》が5連続ってことになっちまいます。………くそ。何とか今年でシッポを掴んでやりたいなぁ…! 定年前にこの山だけは何とか片付けたいんです。」
大石は、5年も連続で翻弄する「オヤシロさまの祟り《たたり》」を憎々しく思うのだった。
…大石にとって、1年目の犠牲者である現場監督は、友人だった。
その仇を取りたいと願いつつも、事件はますますに謎を深め、しかも嘲笑うかのように、毎年事件を重ねていく。
しかも、大石は次の3月には定年を迎える。
……OBとして捜査状況を聞くことはできるかもしれないが、自ら主体的に捜査をすることはもうできなくなる。
つまりそれは、……大石にとって、友人の仇を取るチャンスが、今年で最後であることを意味した。
……………虎穴に飛び込む他、方法はないか。
大石は人知れず、拳をぐっと握り締めるのだった。
私は信じる。
この迷路に出口があると信じてる。
でも、迷路って言葉はこの上なく都合のいい言葉なのだ。
なぜなら、迷路には必ず出口が設けてあるからだ。
出口のないものを迷路とは呼ばない。
いつもは見落とす、細かな分岐を間違えずに進んでいる。
今回は今までとは違う手応えを感じてる。
きっと、今度こそこの迷路の出口に辿り着けるはず。
※ここで綿流し《わたながし》から数日が経過しますので、がっつりと時間経過演出をー!
■大石来訪
レナは、先日以来、体調を崩し気味で、部活《ぶかつ》を休むことが多かった。
「…うん。まだちょっと風邪っぽいの。」
「………そうでございますの…。それは残念ですわねぇ…。」
「なぁレナぁ! たまにはぱーっとはしゃいでみないかー?! 多分、元気に遊べば吹っ飛ばせると思うんだよ俺は。」
「うんうん、そうだね、それはおじさんも同感だね。」
「…そうかなぁ、かなぁ。」
「……横になっている方がかえって毒になることもありますです。」
「そうですわよね。病は気からともいいますですわ。」
レナのそれが本当の意味での風邪でないことは誰もが薄々とは気付いていた。
色々なことが一度にあり過ぎて、精神的なショックから心の風邪を引いてしまっただけなのだ。
だからきっと、みんなで昔、当り前のように過ごしていた大騒ぎに再び身を浸せば、きっとすぐに元気が戻るだろうと思った。
それはレナにもわかっているようだった。
レナも、いつまでもこんなのじゃダメだ、元気を出して、再び楽しい日々を取り戻そうと思っているに違いない。
「……よし! 私も参加するー!」
「OッKぃ! そうこなくっちゃあねぇ!
じゃあ、今日はレナの病み上がりも少し加味して、テーブルゲームから種目をチョイスしよう。
……何がいいかな、何がいいかな。」
魅音《みおん》が鼻歌混じりに四次元ロッカーを漁り始める。
これでもない、あれでもないと、中からゲームを引っ張り出しては脇に積んでいく。
しかし、あのロッカー、明らかに物理法則を超越しているとしか思えないよな。
明らかに、外に積んだゲームの山が、ロッカーの収納量を超えているように見える。
「お、こんなのもあったねぇ。久しぶりにやってみようか。
今日は本格派推理ゲームで行こうー!」
「ほー!! 何だよそれ! 面白そうだなぁ!」
「えっとね、犯人と凶器《きょうき》、犯行現場の3つを当てるゲームなの。結構、頭を使うんだよ。」
「……一度やればすぐに覚えてしまいます。ちゃんとメモに整理していけば大丈夫なのです。」
「ほっほっほ! 情報の整理にはちょっとしたコツがありますのよ! 知的な私のもっとも得意とするジャンルでございますわねー!!」
聞けば、ルールはそれほど難しそうではなかった。
早い話が、それぞれが持つ手札を探りあい、一番最初に抜き出して伏せたカードの正体が何かを推理すればいいというゲームだ。
ゲームの体裁は違うが、こういう伏せられた何かを少ない手順で探るタイプのゲームは少なくない。それが対戦形式になっただけのことだ。
勝負のカギは、情報をいかに整理できるかが握るだろう。
……普段ははしゃぐのが大好きなくせに、こんなタイプのゲームであってもこなしてしまうのだから、部活《ぶかつ》メンバーとはつくづく文武両道なのだなと思い知らされる。
「よしよしよし、何だか面白くなってきやがった!!
やろうぜやろうぜ!! レナ、今日こそ曖昧になってるあの水鉄砲勝負の時の白黒をつけてやる!」
「そうだね!
よーし、レナも本気で行くからねー!!」
「……レナが本気なら、ボクも本気を出さないといけませんです。」
「ですわね! あの水鉄砲の一件以来、圭一《けいいち》さんとレナさんの評価を改めましてよ。容赦なく行かせていただきますわー!!」
「あっはっはっは! よしよし盛り上がって来たねー!! おじさんもこういう熱さを期待してたんだよー! よし! 行ってみよー!!」
「よし行くぜ! 『俺』が
『ナイフ』で
『書斎』はどうだー!」
「あるよー! レナはね、『圭一《けいいち》君』、
『毒薬』で
『玄関ホール』だよー!」
「私はこれですわね、
『魅音《みおん》』
『ピストル』
『ラウンジ』ですわー!」
「…くっくっく!
『ピストル』はあんたが持ってるんでしょー? 下手なフェイクは意味ないよ〜?」
「……犯人と凶器《きょうき》は特定できたと思います。犯行現場が二択なのです。」
「はぅ! 梨花《りか》ちゃんも? 私は犯人が二択で特定できないー!」
「コツは、相手の質問内容からも何かのヒントを得ることですのよ。それが分かれば、時には相手の手番で答えが分かることもありましてよ!」
「な、なるほどなぁ! くそ、甘く見てたか! ……やっべ、メモがぐちゃぐちゃで意味がわからなくなった!」
「あはははは! メモに書き取るコツがわかれば、このゲームは7割方攻略したも同然だね。
まぁ、7割程度じゃおじさんにゃ勝てないけどさぁ〜!」
始めこそ勝ちの見えないゲームだったが、次第にコツが分かり始める。
見れば、レナも遊ぶうちに調子を取り戻しつつあるようだった。
やっぱり、無理に誘って正解だったのだ。
そうやって楽しく遊んでいると、ふいに知恵先生がやって来た。
「楽しそうですね。ところで、竜宮《りゅうぐう》さんはいますか?」
「はぅ?」
「竜宮《りゅうぐう》さんにお客様が来ています。」
みんなきょとんとする。
…たまに学校に親が来る人もいるが、そういう時はお客様というような言い方はしない。
だから、これは本当に珍しいことだった。
「……何だろ。ちょっと行ってくるね。みんなは部活《ぶかつ》、続けててねー!」
レナはぱたぱたと駆けて行く。
「…どうする? 待ってるか?」
「んーー、どれだけかかる用事かわからないからね。
レナもああ言ってたことだし。私たちは続けようか!」
「「「おおーー!!」」」
※(ここからレナ目線だよーーーーー)
(鬼隠し《おにかくし》編の大石来訪のレナ版になります)
昇降口は暑い日差しと日陰の明暗のくっきりしたコントラストに彩られていた。
その中を、暑そうに小脇にジャケットを抱え、だらしなくネクタイを緩めた中年のおっさんが待ち受けていた。
「竜宮《りゅうぐう》さんですか? 竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》さん。」
リナに礼奈《れいな》と呼ばれて以来、私は礼奈《れいな》という本名にますます嫌悪感を持っていたので、この初対面の男に対して、私はいい印象を抱かなかった。
「そうですよ。…どちら様ですか?」
「私の車はエアコンが効いてますから、そっちでお話しましょう。ここ、暑くありません?」
男はこちらの問いかけをあっさり無視すると、校門に停まっている車を指差し、とっとと歩き出す。
……まともな話だったら、職員室ですればいいはずだ。
それをわざわざ自分の車という密室で行なおうとする時点で、不信感を感じずにはいられなかった。
でも、知恵先生はこの男の取次ぎをしている。
ということは、知恵先生にとって、この男は不審者ではないということになる。
………一体、この男は何者…?
「捕って食やしません。どうぞどうぞ!」
車の後部座席を開けて私を呼んでいる。
………ひょっとしてこいつは…警察《けいさつ》…?
まさか、………リナたちを殺したことが……警察《けいさつ》に気取られた…?
心の中に、ぶわっと疑心暗鬼が湧き上がる。
…これが話に聞く、任意で事情を…というやつだろうか。
……本当は付き合いたくなどないが、ここで拒否すれば、かえって私の印象を悪くするだけだ。
私は覚悟を決め、……車に乗り込んだ。
車内は本当に涼しかった。
カーエアコンなんて結構高級品のはずだ。少なくともうちの父の車には付いていない。
「冷え過ぎだったら言って下さいよ?
私、ガンガンに冷やしちゃう性質ですから。」
「で、私に何の用ですか?」
お返しに私も相手の問いかけを無視して切り出すことにする。
男は胸ポケットから手帳を取り出しぱらぱらとめくると、そこに挟まれた1枚の写真を取り出した。
そこには……寝ぼけたような顔をした男の顔が写っていた。
「この男性のことで、ご存知のことがあったら教えて下さい。」
その写真に写る男性は、寝惚けたような無表情だった。
無表情な写真は、時に身内でもわからないこともある。
…増してや、身内でもない私にわかるはずもない。
…………あと、内心、少しだけほっとした。…リナたちの件と無関係だったからだ。
「シャツにマジックで落書きがありましてね。竜宮《りゅうぐう》さんを始めクラスメート何人かの署名入りでした。」
「……え、…これ…富竹《とみたけ》さん?!?!」
いつものあの、どこか頼りなさそうで、でも飄々とした雰囲気はこの写真からは微塵も感じられなかった。寝ぼけた、感情のない顔…。
「ではこちらの女性はわかりますか?」
見る前から何となく察しはついていた。
「……三四《みよ》さんです。鷹野《たかの》三四《みよ》さん。」
「この二人に最後に会ったのはいつですか?」
「綿流し《わたながし》の祭りの、お開きになった直後くらいに会ったと思います。」
「何か気になったこととかありませんか? 何でも結構です。話して下さい。」
「富竹《とみたけ》さんたちに…何かあったんですか?」
※レナの文字の赤さ(紫さ?)が、これ以降、少し濃くなります。
※つまり、色の濃さは疑心暗鬼の深さを表しているのです。
※ではあるけど、ここで早速、圭一《けいいち》視点に戻ります。
実はよー、『レナ』と『魅音《みおん》』で二択だったんだよなぁ。」
「じゃあ博打だったんですのー?!
……何てリスクのあることを…!」
「……それでも勝ちは勝ちなのですよ。」
「お、レナだ。お帰りー! ずいぶん時間かかったねぇ?」
魅音《みおん》がレナが帰ってきたことに気付く。
レナは何だか疲れきっているように見えた。
……何の話だったのか想像もつかないが、それはきっと、あまり楽しい話ではなかったのだろうと思った。
「レナ、…大丈夫?」
「…え? 何、大丈夫って。え?」
「いや、顔色だよ。青いというか白いというか。……本当に大丈夫?」
レナは大丈夫だと言い繕うとしたが、一瞬、表情を陰らせると、やっぱり今日は早退すると言った。
……あぁ、やっぱり無理に部活《ぶかつ》に引き込むんじゃなかったかなぁ。
ちょっと後悔した。多分レナは、体調が悪いのを無理して付き合ってくれていたのだろう。
レナは自分の荷物を鞄にしまうと、先に抜けちゃってごめんねと謝り、教室を出て行った。
「まぁ、仕方ありませんわね。…では、せめて私たちの白黒ははっきりさせようじゃございませんの!」
「そうだね! えっと次は誰の番だっけ?」
「……みー!」
「よっしゃ梨花《りか》ちゃん! 来やがれ!!!」
■アイキャッチ
6日目-2
■レナの帰宅中の回想(レナの目線になるよーーー)
※レナの疑心暗鬼度がアップしてるから、字がほんのちょっと濃くなってるよーー
元々、私と三四《みよ》さんにはそんなに接点があったわけじゃない。
多少の面識があって、道ですれ違ったら会釈をする程度。…その程度の関係だった。
じっくりと話をしたのは、実はたった一度しかない。
……それは最近のことだ。
綿流し《わたながし》の祭りの少し前。
リナたちを殺し、それが圭一《けいいち》くんたちに見つかってから、何日かした後の話だった。
夕方に図書館から電話《でんわ》があり、父が図書館で借りた本を返却し忘れていたことがわかった。
お父さんが、ホームセンターに買い物に行ってしまっていたので、私が返却に行くことにした。
それで、本を返したついでに、私も何か本を借りようかと思い、適当に本棚の間を歩き回ってみた。………そこで出会ったのだ。
「あら、レナちゃんじゃないかしら。こんにちは。」
「三四《みよ》さん。どうもこんにちは。図書館で会うなんて、珍しいですね。」
「そう? 私にとってみれば、あなたが図書館にいることの方が珍しいんだけどね。くすくす。」
その表情は、私の知っている大人の魅力に溢れた余裕あるもの。……自らの死の運命が数日後に迫っていることを知る表情ではなかった。
彼女は、よくここで富竹《とみたけ》さんと待ち合わせをしているとのことだった。
その時間潰しのつもりなのだろうか、彼女は私にジュースをおごると言ってくれた。
元々急いで帰る用事があるわけでもない。
私は図書館の中の自販機でアイスミルクティーをご馳走になり、しばし三四《みよ》さんとの会話に花を咲かせた。
……今、こうして思い出せば皮肉だった。
彼女が自ら雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件のことを口にしたからだ。
やがて自分がその5年目の犠牲者に名を連ねるとも知らずに。
「……連続、怪死事件ですか…?」
「あら、聞いたことくらいあるでしょう? 4年前にはダムの現場監督。3年前には北条《ほうじょう》夫妻。2年前には古手《ふるで》夫妻。そして去年は沙都子《さとこ》ちゃんの叔母が犠牲になった、雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件よ。それが、あと何日かで5年目を迎えるじゃない。」
「い、…一応、私もそういう物騒な名前で呼ばれていることは知ってますけど。……でも、5年目も起こると決まったわけじゃ…。」
「起こるわよ。……絶対にね。二度あることは三度あるって諺があるけど、……四度あることは五度あるって方が、もっと確率は高いとは思わない?」
5年目の連続怪死事件が起こると確信していた三四《みよ》さん本人が、その5年目の犠牲者になってしまうとは…。皮肉とも言えるし、気持ちの悪い偶然とも言えた。
でも、あの人はどこか薄気味悪いところがあったから。例え、自分があと数日で殺されると分かっていても、あの謎めいた微笑みを絶やすことはないように思える。
雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件。
……もちろん、雛見沢《ひなみざわ》に1年も住んでいる以上、知らないわけはなかった。
毎年、綿流し《わたながし》の祭りの日に、ダム戦争以来の村の仇敵がつぎつぎに怪死を遂げていく謎の事件。
個々の事件はそれとなく解決しているのに、……毎年起こり続ける奇怪な事件。
何かの意思が感じられるような、感じられないような。
……理解のできない薄気味悪さは、確かに「オヤシロさまの祟り《たたり》」と呼ばれるだけのことはあった。
………実は、私はこの「オヤシロさまの祟り《たたり》」は、単なる偶然の積み重なりだと思っていた。
その根拠は、4年目の事件である「叔母撲殺事件」が、悟史《さとし》くんの犯行であると強い確信を持っていたからだ。
証拠《しょうこ》など何もないけれど、………そうだと確信している。
去年の悟史《さとし》くんが如何に追い詰められ、逃げ場がなかったかを私はよく知っている。
そして誰の助けもなく、でも沙都子《さとこ》ちゃんを急いで助けなくちゃならなくて。
………悟史《さとし》くんは、私がリナたちをそうしたように、悩み抜いた末に「最善の選択肢」を選び取って、対処した以外に考えられないのだ。
でも、悟史《さとし》くんが4年目の犯人ですと言い出すわけにも行かず、私はしばらくの間、三四《みよ》さんの話の聞き役に徹していた。
三四《みよ》さんの説によるならば、連続怪死事件は偶然の積み重ねなどではなく、れっきとした連続事件なのだという。
この時点で私の説とは真っ向から対立することになるのだが、口を挟まずに聞くことにした。
「雛見沢《ひなみざわ》のオヤシロさま信仰《しんこう》は知ってるわよね?」
鷹野《たかの》さんはそう切り出し、雛見沢《ひなみざわ》がかつて鬼ヶ淵《おにがふち》村と呼ばれていたこと。
そして人食い鬼と呼ばれ、同時に仙人としても敬われていた古代の村人たちの話を、自慢のスクラップ帳を交えながら、懇切丁寧に説明してくれた。
「………つまり、三四《みよ》さんの説によるならば、連続怪死事件は、オヤシロさまを崇拝する狂信的団体が雛見沢《ひなみざわ》に潜んでいて、オヤシロさまの力を世に示そうとしている……ということなんですか?」
「狂信的というか、原理主義的というかは紙一重だけどね。明治以降、村の名前が雛見沢《ひなみざわ》に変わって以来、鬼ヶ淵《おにがふち》村が長く続けてきた様々な風習が途絶えている。それを蘇らせ、再び鬼ヶ淵《おにがふち》村の名と畏怖を取り戻そうと思っている人たちがいるんじゃないかしら。」
三四《みよ》さんの話は突拍子もないけど、刺激的で面白かった。
最初はとても飛躍した話だと呆れていたが、彼女が丹念に研究《けんきゅう》してきた資料と合わせて示されると、そうふざけた与太話でもないと思うようになる。
でも、それならば、2年目の北条《ほうじょう》夫妻事故死や、3年目の古手《ふるで》夫妻の病死と自殺、4年目の麻薬常習者の犯人捏造などは、警察《けいさつ》などにも強力に影響力を持つ勢力が関与していることになる。
私がそれを指摘すると、三四《みよ》さんも頷き、「彼ら」がいかに強力に、地域に根ざし、様々な公共機関にまで及んでいるかを話し始めた。
この辺まで話が及んだ時、ようやく私は、三四《みよ》さんが、園崎《そのざき》家などのいわゆる雛見沢《ひなみざわ》御三家《ごさんけ》が黒幕であると言わんとしていることに気付く。
確かに、……魅ぃちゃんの園崎《そのざき》家がとても強い力を持っていることは知っている。
その影響力は雛見沢《ひなみざわ》から興宮《おきのみや》どころか、鹿骨市《ししぼねし》内全体。
いや、県内にも及んでいると言っていいだろう。
そんな園崎《そのざき》家が裏で暗躍していたなら、………なるほど、考えられない話でもなかった。
でも、……それは魅ぃちゃんを疑うことだ。…いけないいけない。…でも確かに、魅ぃちゃんは悟史《さとし》くんが辛い思いをしていた時、普段の様子からは考えられないくらいに冷たかった。…ダム戦争の時に、園崎《そのざき》家と北条《ほうじょう》家で確執があったらしいのは知ってるけど、…それでもあまりに冷たかった。
でも、魅ぃちゃんはその罪《つみ》を認めたじゃないか。
そして私も許した。
だからそれはもう考えたくない…。
これ以上、園崎《そのざき》家を疑う話に及ぶと、きっと不愉快になると思ったので、私は話の腰を折ることにした。
「そもそも、オヤシロさま信仰《しんこう》って一体何なんでしょうね…。鬼と人が共存というのも面白い話です。普通の昔話だったら、鬼が来たら退治してやっつけるという風なのに。」
「そうね。その辺りがオヤシロさま信仰《しんこう》の面白いところね。でも、そもそも神の国から神が漂着して来て崇められるというのは決して珍しいことではないのよ。
漂着神崇拝って言ってね。世界中に、海の向こうから、あるいは川上から神が漂着してきて、それを人々が敬ったという類の神話が残されているわ。」
「……それは、…異人漂着の話でしょうか?」
「そういう捉え方も一般的ね。古代日本は、大陸に比べると様々な文化が遅れていた。
だから、進んだ文化を持った異国人が漂着した結果、その知識を敬い神と祀った…というのはありえなくもない話よね。」
「そういえば、日本に伝わる赤鬼や青鬼も、難破して漂着した異国人のことを指すのではないかという説がありましたね。天狗の、いわゆる真っ赤で鼻が異様に高い顔も、欧米人を見慣れない古代の人々が作り上げたのかもしれないし。」
「あら、レナちゃんもなかなか鋭い見方ができるわね。それには私も同感よ。大方の漂着神信仰《しんこう》の原点は、私も異人漂着にあると思うわ。
でも、そうだとすると、鬼ヶ淵《おにがふち》村の「鬼が現れた」とする漂着神信仰《しんこう》には、ちょっと不思議な点がある。…………わかるかしら?」
「……………わからないです。」
「簡単よ。鬼ヶ淵《おにがふち》村には、海がない。」
「あ…、確かに。」
「異人漂着なら、外の世界とつながる接点が欠かせないはずよ。欧米なら、異国に通じる川。日本なら世界に接する、海。だから日本における漂着神崇拝も、そのほとんどは沿岸部に集中するわね。」
「鬼ヶ淵《おにがふち》村以外に漂着し、そこから旅をしてここまでやってきた可能性はありませんか?」
「ところがオヤシロさま信仰《しんこう》の決定的なところは、……鬼が「漂着」した場所を、鬼ヶ淵《おにがふち》沼とはっきり特定している点なの。鬼ヶ淵《おにがふち》沼には何も流れ着かない。そんなところに、なぜ、どこから、「漂着」したのか。…実はこの辺にオヤシロさま信仰《しんこう》の謎を探る面白さがあるのよ。」
「………………。」
「オヤシロさまの伝説はどの程度、知ってるかしら?」
「学校に置いてある絵本で読んだ程度です。」
私も、よく知っているようで実際は、それほど詳しく知ってるわけじゃない。
……ただ、雛見沢《ひなみざわ》を離れてはいけないという特殊な「掟」について、私が過剰な恐怖感を持っているだけだ。
………それは、私が雛見沢《ひなみざわ》を引っ越してから、人生がおかしくなったと信じているからに他ならないのだが…。
……これ以上を考えると、頭がぼぅっと霞んで来るのでやめる。
茨城での最後の時、いろいろと滅茶苦茶にしてしまった時、………私はオヤシロさまに会って、雛見沢に帰るように言われた………、…………?? だめだだめだ…、頭がぼんやりする…。思い出すな思い出すな、思い出せない思い出せない…。
私はあの時、母の離婚《りこん》の責任を自分に感じて自暴自棄になっただけだ。その精神不安定をオヤシロさまのせいにして、雛見沢《ひなみざわ》に帰りたいと泣いただけじゃなかったっけ…? でも、あれ、それって、……。でもオヤシロさまは本当に来たはず……。だめだ、まぶしい。…………毒々しいカプセルと、頭のぼんやりとする感じしか思い出せない…。
「それだけ知ってれば十分よ。……鬼ヶ淵《おにがふち》より鬼が湧き出し、村人を襲った。
それを見かねたオヤシロさまが降臨して、鬼たちを平伏させたわ。鬼たちは地獄を追放され、行き場がないことを嘆き、それで、村人たちは鬼たちを気の毒に思って、村に住まわせてあげようと決めた。
そしてオヤシロさまは、村人たちの心に感銘を受け、鬼たちに人の姿を与え、村に共存させたという。その血は、次第に交わり、村人たちに溶け込んでいった。」
「……………そうです、そういう話だったと思います。」
私は、思い出さないことに決めている記憶に少し触れ、貧血に似た気分を味わうのだった。
「神話の多くは、古代の何らかの事実を原型にしていると言われることが多いんだけど。……レナちゃんはこの神話から、何を読み取れるかしら?」
私は少しぼんやりとしていたので、小首を傾げる以上のことはできなかった。
三四《みよ》さんは、私が即答できないのを期待していたらしく、私が煙に巻かれているのを見て満足そうに笑う。
そして、ペーパーバッグを漁ると、何冊目かになるスクラップ帖を取り出した。
「これ、レナちゃんに貸してあげるわ。」
「……あ、ありがとうございます。…でも私、」
「いいのよ、暇な夜長にでも思い出したら読んでくれれば結構。レナちゃんは鋭いところがあるみたいだから、それを読んだ上で、今度じっくり議論を交わしたいわね。私も肯定的であれ敵対的であれ、議論の相手がいなくて寂しいのよ。……ジロウさん、こういうのにはさっぱり興味のない人だし。」
そういう風に言われると、取り合えずスクラップ帖を預からないわけには行かない。
……三四《みよ》さんは普段も図書館にいるようだから、今日借りた本の返却日になったら、その時、持ってきて返してしまおうと思った。
皮肉にも、三四《みよ》さんに借りたスクラップ帖の返却日は永久に訪れなくなってしまったのだけれど……。
「どうしたの? さっきから虚ろね? 体調悪いの?」
「あ、……ちょっと夏風邪気味で。…まだ病み上がりなんです。」
今ぼーっとしているのは夏風邪のせいではなかった。
……茨城でオヤシロさまに会った時のことを思い出すと、必ずぼーっとするからだ。
私は、………勇気を出して聞いてみることにした。
…茨城の最後のぐちゃぐちゃになった記憶。
……私が確かに会ったと思っているオヤシロさまの幻。
それは誰に話しても、私の妄想《もうそう》扱いだった。
でも、三四《みよ》さんだけは私の話を真剣に聞いてくれるのではないかと思ったのだ。
「三四《みよ》さん。………あの、……今度は私の話を聞いてもらってもいいですか?」
「いいわよ。聞いてもらったお返しに、今度は私が聞くわ。」
「いえ、……その、オヤシロさまの話なんです。……えっと、………その、…笑われないかとても不安です。」
「笑わないわよ。あなたも私の話を笑わなかったもの。」
三四《みよ》さんは大人を感じさせる包容力で、やさしくそう言ってくれた。
それでも躊躇しそうになるが、……こんな話をできる人は、おそらく三四《みよ》さんをおいて他にいない。
私は何度か言葉を飲み込んだ後、勇気を振り絞った。
「私、………………………オヤシロさまに、…会ったことがあるんです。」
「………本当に?」
「はい。…………私、小学校に上がる前までは雛見沢《ひなみざわ》に住んでいたんです。それが、母の仕事の関係で茨城に引っ越したんです。……えっと、この意味はわかりますよね?」
「わかるわよ。…雛見沢《ひなみざわ》を離れてはならないという、オヤシロさまの禁忌に触れた、ということね?」
「そうです。それで、………色々、悪いことが起こって、母が離婚《りこん》し、……家庭はぐちゃぐちゃになりました。私も、自暴自棄になって悪いことをしたりしました。」
「………辛いこともあったのね。…それで?」
「世の中の何もかもが嫌になって、自分以外の幸せな人たち全部が私を見下しているように感じた最後の頃、………不思議な存在が現れるようになったんです。」
「それが、……………オヤシロさま?」
「初めて現れたのは、………えっと、内緒ですよ。……全部嫌になって、自分を壊してしまいたいと思って、……体に刃物を突きつけたことがあったんです。…その時、首をカミソリで切りつけたら、……血に混じって、ぶくぶくと汚らしい何かが溢れ出したんです。それは……………、……………ん、…。」
「………馬鹿《ばか》にしないわよ。続けて?」
あの時の悪寒と汚らわしさが、ぞくぞくと背筋を上りだす。
思い出すまいと秘めていた封印の記憶。
……でも、一度解れてしまったら、もうあとは連鎖的だった。
そう、あの時、血に混じって、…それは蠢いていた。
「赤黒い、…無数のうじ虫だったんです…! それらは、首から血が零れるのと一緒に、わらわらと湧き出して来ました。しかもそいつらは、外へ溢れまいと、傷口から再び中へ戻っていこうとわらわら蠢いていたんです!! ……私、そんな気持ち悪いのに体内に戻られたくなくって、……掻きました、首の傷を引っ掻いてほじくり出そうとしました。でも、それ以上は痛くて血塗れになるばかりで……。
それで私は急に怖くなりました。私の体の中には…血管いっぱいにあの気持ち悪いうじ虫がぎっしりつまっているんじゃないかって! それで私は………試しに、カミソリで腿の血管を開いてみました。そこなら良く見えると思ったから。そうしたら、…………溢れてきたんです!! どばっと、わらわらっとッ!!!」
はいはい、分かってますよ竜宮《りゅうぐう》さん、落ち着いて落ち着いて…。
「わかってないってば! そのうじ虫たちは、血と一緒にどばっと溢れ出すけど、すぐに元の血管の中に戻ろうする!! それがとても痒いんです!! あああぁあぁ!!」
君、急いで先生を呼んできて! ああぁだめだめ、掻き毟っちゃだめ!! 鎮静剤! 早く!! 彼女を抑えて!
「私の血管の中のうじ虫をやっつけてぇえぇ!!! 血を全部抜いて、綺麗にして!! 私の血管にはうじ虫がいっぱい詰まってるの!! どうして信じないの?! 見せてあげるから! 見れば信じるでしょ?! もう注射はいや、いやいやいやいや!!!」
「落ち着いて? ……………ね?」
三四《みよ》さんが私の隣に座り、私の手をぎゅっと握ってくれていた。……その感触に私は我を取り戻す。
「……………それで、……どうしたの?」
「そんな、誰も私のことを信じてくれない時に、……………現れたんです。…オヤシロさまが。」
………記憶が曖昧で、まぶしくてチリチリして思い出すのが辛い…。
“オヤシロさまに私は会った”………という一文を私は記憶しているだけ。
オヤシロさまに会った記憶そのものは……実は信じられないくらいに曖昧なのだ。
病院を退院し、自宅療養になっても、私は時折、血管が蠢くのを感じ、血管を裂いて血を零して、うじ虫が混じってないか確認したがった。
普段はとても強い薬のせいで、死んだような意識で眠っているだけだったけど、……たまたまその日は薬を飲み損ねて、………意識がはっきりしていたのだ。
だから、血管の中に蠢くうじ虫たちを思い出し、急に不安になって、血管の中を覗きたくなったのだ。
そして、ツーーーと、手首に浮く血管にそってカミソリを入れて……。
そこから……やっぱり、血と、赤黒くてたくさん蠢く汚らしいうじ虫の群れが…!!
そのうじ虫たちが傷口に潜り込む前に洗い流したくて、お風呂場で流水に当てながら、血管を開こうとしたんだ。
排水溝に、だばだばと打ち付けられる水と血とうじ虫。
……私はニキビを潰して、中身を絞り出すかのように、…血管を絞り潰し、汚い血と一緒にうじ虫を搾り出し続けたんだ。
ずっとずっとずっと…!!
腕が痺れて、何だか寒くなってきても、我慢してずっとずっとずっと!!
…ひょっとしたら、血が出過ぎて死んじゃうかもしれないなと思っても、……ずっとずっとずっと!!
だって私の体中にうじ虫が充満してるんだもの、だから全部の血液を絞り出すくらいにやらないと駄目なんだ!!
その時、………………まぶしい光いっぱいに満たされたのだ。
それは……生まれて初めて経験する、神秘体験だった。
薄暗い浴室が、突然、まぶしい光に満たされたのだ。
………それはまぶしいけどやさしい光で、電球や蛍光灯のような無慈悲なまぶしさじゃない。…とても温かい、やさしさに溢れた光だった。
それこそが、………………オヤシロさまの降臨だった。
オヤシロさまが…やさしく、だけれどもとても悲しい目で私を見ていた。
そして、…そっと私の傷を撫でてくれると、……私がいくら洗い出そうとしてもどうにもならなかったうじ虫たちが、見る見る溶けて消えてしまったのだ。
それどころか、全身の血管をくすぐるように蠢いていた体中のうじ虫たちさえも、溶けたかのように消え去ってしまったのだ……!
オヤシロさまは教えてくれた。
……このうじ虫たちこそが、祟り《たたり》なのだと。
雛見沢《ひなみざわ》に生まれた鬼の血を引く人々は、雛見沢《ひなみざわ》を離れて生きてはいけない。
これが定めなのだと言った。
あなたは気の毒にも祟り《たたり》が下ってしまった。
……それはとても悲しくて気の毒なことだけど。ひとつだけ助かる方法がある、……そう教えてくれた。
どうやれば助かるの?!
オヤシロさまの答えは、とてもわかりやすいものだった。
それは雛見沢《ひなみざわ》に帰ること。
私は、その答えをオヤシロさまに聞く前から……無意識の内に理解していた。
雛見沢《ひなみざわ》に生まれた私たちは、雛見沢《ひなみざわ》を離れてはいけなかったのだ。
それを……オヤシロさまの戒律を破って、引っ越したから、…家庭がおかしくなって、私もおかしくなってしまったのだ…!
雛見沢《ひなみざわ》を出なければ、何も狂いださなかった!
そうだ、だから私は雛見沢《ひなみざわ》に戻るべきなんだ…!
オヤシロさまはこうも言った。
祟り《たたり》の具現であるこのうじ虫を消すことはできるけども、それは雛見沢《ひなみざわ》から遠く離れたこの地では一時だけのこと。
やがて、オヤシロさまの力は薄れ、再び祟り《たたり》が体を蝕むようになる。
……そうなったら、もう私は体の内側を全てうじ虫に乗っ取られて、狂い死にするほかなくなってしまうのだと…。
祟り《たたり》を抑える力が薄れてなくなってしまう前に、……雛見沢《ひなみざわ》に帰りなさい。
そうオヤシロさまは言ったんだ。
そう、言った言った、確かに聞いたんだ!
私はもっともっと早くに雛見沢《ひなみざわ》に帰らなければならなかったんだ。だから、オヤシロさまが迎えに来て、祟り《たたり》を遣わせたんだ…!! だけどオヤシロさまは許すチャンスをくれた。雛見沢《ひなみざわ》から出た罪《つみ》を滅ぼすチャンスを与えてくださったんだ!! お父さん、聞いて、オヤシロさまが助けてくれる。雛見沢《ひなみざわ》に帰ろう、雛見沢《ひなみざわ》が私たちの住む土地なの。そうでなきゃ、私だけじゃない、お父さんも祟り《たたり》にやられてしまうかもしれない!! 帰ろう帰ろう、雛見沢《ひなみざわ》へ帰ろう、あそこだけが私たちの住まう土地なんだ!
早く早く! 早く帰らないと、…オヤシロさまの力が消えて、私はまた体をうじ虫に乗っ取られてしまう…!! ああぁ、オヤシロさまがついて来るよ、そして早く早くと私に囁くの! どこまでもついてきて、急げ急げと私を急かす! そして祟り《たたり》を下してごめんなさいごめんなさいと繰り返すの。いつまでもどこまでもついてきて、ずっとずっと謝るの!! 本当だよ?! 本当だってば!! 何でみんなには見えないの?! うじ虫もオヤシロさまもどうして見えないの?! みんなで私を騙しているんだ、みんなにも見えているはずなんだ、いやいややめて、もう注射はいや…!!! あああぁああぁあぁああぅああぁ………。
「…………………落ち着いた……?」
…気付けば私は荒い息で、三四《みよ》さんに肩を抱かれていた。
………今日までせっかく忘れていた忌まわしい記憶が蘇るのを感じた。
先生方は、…あの記憶は、私の幻だと言った。
……生活を壊した離婚《りこん》の責任を自分に求める余り、その責任を自分以外の何かに求めたくて、小さい頃に読んで怯えた、オヤシロさまの昔話と掟に無意識の内に結びつけたのだと言った。
投薬治療とカウンセリング、……そして時間。
それによって私は次第に落ち着いていき、…それらが私の妄想《もうそう》であることを認め始めた。
先生も、もし可能なら雛見沢《ひなみざわ》へ引っ越すことを検討できないかと父に言っていたらしい。
幸い、父も離婚《りこん》の痛みを癒せずにいるままで、環境を一新したいと思っていた。
そして、………雛見沢《ひなみざわ》へ戻ってきた。
雛見沢《ひなみざわ》に戻ってきた時、……私は確かに感じていた。
この地こそ、私たちが住まう本当の土地だったのだと。
そして、確かに感じたのだ。オヤシロさまの祝福を。確かに感じたのだ。オヤシロさまの祟り《たたり》が解けていくのを。私は、…解放されたのだ…………!!
引っ越した後も、しばらくは穀倉の方の心療内科に通った。
あの、毒々しいカプセルはこちらでも処方され、しばらく飲み続けさせられた。
次第に、……忌まわしい記憶も不鮮明になり、……思い出そうとすると、薬のぼんやりとした強い副作用しか思い出せなくなり、………私は平穏を取り戻したのだった。
それで、私は礼奈《れいな》という名を捨てる。
この名で呼ばれると、思い出したくないことを思い出す気がしたからだ。
嫌なことは、もうたくさんだ……。だから、「いやな」ことを抜こうと思った。
いやなことの「い」を礼奈《れいな》から抜いたら“れ”と“な”になった。
くっつけたらレナだった。……何だか可愛かった。
だから、学校での自己紹介の時、レナと呼んでほしいと言った。
それ以来、私はレナだ。
レナとして新しい人生を歩んでいる。
礼奈《れいな》の時の辛いことは全部切り捨てて。
父だけは相変わらず礼奈《れいな》と呼ぶけど、肉親に呼ばれるのだけはそんなに抵抗はなかった。
そこへ現れたのが、肉親でもないのに私を礼奈《れいな》と呼ぶ……あのリナだったんだ。
あいつが礼奈《れいな》と呼ぶから、……チリチリチリチリ…。……もうやめよう、忘れよう…。チリチリチリチリ…………。
「………すみません。……私、だいぶ取り乱してました…?」
「小声で何か呟いてたわね。
落ち着いたならよかったわ。」
三四《みよ》さんの反応を見る限り、……私が思っていたほど、激しく取り乱したわけではないようだった。
でも、…何度も発作的に錯乱してしまっていたかもしれない。
……昔のように、吼え猛っていたら、……また、病院に連れて行かれたに違いない。
「私は………、あの異常な中で、確かにオヤシロさまに会ったんです。もちろん、…うじ虫も。…………あはははは、…信じられませんよね…?」
「…………………………。」
三四《みよ》さんは複雑そうな笑顔だった。
…当然だ。私だって、こんな話、信じてもらえるとは思わない。
……私が錯乱して、おかしな記憶を自分で生み出しているだけに違いないのだから。………自分が自分で信用できないなんて。……最低の気持ちだった。
「レナちゃん。まず、ひとつ安心してほしいの。」
「……………はい。」
「レナちゃんが怖がっている祟り《たたり》。……つまり、血の中にいたという、…うじ虫。それは、オヤシロさまが言うには、雛見沢《ひなみざわ》にいる限りは大丈夫なんでしょう?」
「………えぇ、そう言ってました…。」
「なら、怯えることはないじゃない。安心して。あなたは今、雛見沢《ひなみざわ》にいる。まぁこの図書館は興宮《おきのみや》だけど、このくらいの距離ならオヤシロさまも許してくれるわね。血管の内側に何かが蠢いているなんて感じないでしょ?」
「…………それは……はい。」
「だから、安心して。あなたは今、オヤシロさまの戒律をちゃんと守ってる。だから、何も恐れなくていいの。だってそうでしょう? ね……?」
「…………………はい。…………はい。」
三四《みよ》さんにこんな包容力を感じたのは初めてだった。
何人ものお医者の先生が、私がこの話をすると決まって、無視し、聞き流し、あの嫌な注射をしようとした。
…なのに三四《みよ》さんは頭から否定するようなことをせず、オヤシロさまの存在も否定しないでくれた。
彼女は村では、…少し怪しい人だって囁かれてることもあるみたいだけど、………本当はとってもやさしい人なのかもしれない。……そう感じていた。
「レナちゃん。私は今の話、全部信じるわ。」
「……ありがとうございます。そう言ってくれた人は初めてかもです…。」
「くすくす、それは私も同じよ。私の話を馬鹿《ばか》にしないでちゃんと聞いてくれた人はあなたが初めて。………私たち、いい友達になれそうね。」
三四《みよ》さんはそう言って、頭をくっ付けながら微笑んでくれた。
「なら、…私の秘蔵のファイルとスクラップも貸してあげるわね。
本当に本当の門外不出。私以外の誰にも見せる気がなかったんだけど、レナちゃんには特別に読ませてあげてもいい気がするわ。……あなたなら、馬鹿《ばか》にしないでちゃんと読んでくれそうな気がするし。」
彼女はそう言うと、ペーパーバッグからさらに2〜3冊のスクラップ帖を出すと、私に押し付けた。
「ぜひ読んで、感想を聞かせてね。……あるいはひょっとすると、…レナちゃんにしかわからないことなのかもしれない。」
三四《みよ》さんは少し謎めいたことを言った。
それから悪戯っぽく笑うと、内緒を意味するように、人差し指を唇の前に立てる仕草をして言った。
「あと、このスクラップ帖と、私がそういう研究《けんきゅう》しているのは……内緒よ?」
「内緒ですか? はい、わかりました。」
「………だって、こんな研究《けんきゅう》をしているのが、連中に知られたら、消されてしまうかもしれないものね。…くすくすくすくす。」
そう言って、彼女は笑った。
連中に知られたら消されてしまうかもしれない。
そう言って、彼女は笑った。
そして、………彼女は失踪した……。
………私にスクラップ帖数冊だけを残して。
だが衝撃はそれだけに収まらない。
それは………富竹《とみたけ》さんの死因だった。
大石さんは、それを、薬物で錯乱しての自殺…というような言い方をしたが、私だけはこの自殺の真相を知っていた。
……もちろん大石さんには言ってない。…言ったところで信じてくれないと思ったから。
富竹《とみたけ》さんは、…………間違いない。…うじ虫を掻き出そうとして死んだのだ。
それはまさにオヤシロさまの祟り《たたり》に他ならない。
オヤシロさまの禁忌は、雛見沢《ひなみざわ》から出て行くことにだけじゃない。
他にもいくつもある。………彼は、知らずの内にそれらのひとつを犯したのかもしれない。
そうだ、大石さんも言ってたじゃないか。
……神聖《しんせい》な奉納演舞の時、無神経にフラッシュ撮影をしていたものだから、一部から反感を買っていたらしい…というようなことを。
オヤシロさまを祀る神聖《しんせい》な演舞を穢《けが》したので………祟り《たたり》にあった…?
あるいは他の理由かもしれないが、…とにかくとにかく、……これはオヤシロさまの祟り《たたり》以外の何者でもないのだ。
ということは………三四《みよ》さんも、……オヤシロさまの祟り《たたり》に……?
神を調べる行為は即ち、神に近付く行為。それは神を冒涜する行為に他ならない。
いや、でも、……三四《みよ》さんは、これがバレたら連中に消されるかもしれないと言った。
連中とは人間のことだ。オヤシロさまのことじゃない。
…それに、三四《みよ》さんの提唱する説は確か、オヤシロさま信仰《しんこう》を復興させようとする御三家《ごさんけ》の陰謀説だったはず。
でも、富竹《とみたけ》さんの死に方は明らかに祟り《たたり》だ!
祟り《たたり》を受けたことがある私だから断言できる!
そしてそれは、人間臭い陰謀説とは一見、相容れないように思える。
そうだ、大石さんは、怪しげな薬物で自殺に導いた可能性もある…というようなことを言わなかったっけ?
じゃあつまり、…御三家《ごさんけ》は、オヤシロさまの祟り《たたり》を人為的に引き起こせる秘密《ひみつ》の薬でも持っているのだろうか…?
そんなはずはない。だって、「私」はそんな怪しい注射など受けた覚えはない。
茨城で普通に生活してた。
園崎《そのざき》家とか公由家とか、雛見沢《ひなみざわ》に関係する人たちとは一切接点がなかったはず…。
大石さんに頼まれた。
魅ぃちゃんや梨花《りか》ちゃん、それから村中、何でもいい。
何か不審なことを見聞きしたらこっそり教えてくれてと言われた。
オヤシロさまの話を信じてくれた三四《みよ》さんが消された。
富竹《とみたけ》さんが私と同じことをして死んだ。
あぁ、いやだいやだ…。
オヤシロさまの祟り《たたり》にはもう関わりたくないのに……!
これは怪しげな狂信者たちの暗躍なのか、それともオヤシロさまの祟り《たたり》なのか。
それとも全部全部偶然で、…いや、あるいは暗躍も祟り《たたり》も全部全部ごっちゃなのか。
わからないわからない! 人か祟り《たたり》か偶然か!
あぁ……夕暮れ時のこの程度の日差しにも眩暈を感じる。
雛見沢《ひなみざわ》の日差しは、いつの間にこんなにも意地悪になったんだろう…?
研究《けんきゅう》を秘密《ひみつ》にしてほしいと言った三四《みよ》さん。
……その門外不出のスクラップ帖を、私は預かっている。
……………ひょっとして、………真相はあの中に眠っているのではないだろうか。
それに気付いた途端、どきりと心臓が高鳴る。
ということは、…あのスクラップを持っている私も、……三四《みよ》さんと同じ末路を辿る危険があるからだ。
それが陰謀なら、私は消される。
それが祟り《たたり》なら、私は祟られる。
スクラップ帖を焼き捨てよう……、それが一番安全……。
…でも、…三四《みよ》さんは私の話を信じてくれた。
三四《みよ》さんは私を馬鹿《ばか》にしないでくれた。
……そんな三四《みよ》さんが残したものを、読みもせずに焼き捨てていいんだろうか…。
それが陰謀なら、暴かなければならない。
それが祟り《たたり》なら、破らなければならない。
逃げちゃだめだ…。……戦おう。
そうだ、私は幸せをその手に掴むまで、…どこまでも戦おうと決意したんじゃないか。
不幸に屈するな。戦うんだ。
…私の平穏を乱そうとする暗雲を自ら払いのけるんだ…!
帰って、三四《みよ》さんのスクラップ帖を読もう。
自然と私の足は速くなるのだった…。
■幕間
TIPS
7■昼の出前リスト
黒田メンタルクリニック殿
前略。
まず結論から申し上げて、急性の心的外傷後ストレス障害の一種であると考えられます。
両親の突然の離婚《りこん》により、どちらかの親を選択しなければならない葛藤が、患者に強いストレスを与えたものと推測します。
加えて、患者は両親の離婚《りこん》に対し自身に責任があると強い思い込みがあり、それが自己破壊願望を助長しているものと思われます。
患者にとって最大のショックは、両親の離婚《りこん》によって、絶対に安全だと心を許していた家庭という居場所に裏切られたことによります。
よって今後、親子の居場所に対して、偏執的な防衛をする傾向が予想されます。
(例えば、父親に対して特に異性の接近を嫌う。自宅に他人を招き入れることを嫌う。もしくは招き入れられないように何らかの奇抜な行為を行なう可能性もあります。事例では、意識せずして自宅内にゴミを溜め込んだケースがあります)
まず大切なことは、患者が同居を決めた父親とのコミュニケーションです。
父親は患者とのコミュニケーションを深めることで、家族仲を一層強めて、その不安を和らげることが何よりも大切となります。
今回の患者のケースでは、おそらくは急性のものと思われますので、父親の協力があればおそらく、然るべき薬物との併用で、3ヶ月以内に治癒するものと思います。
ただし、一見治癒したかに見えても、トラウマ体験から10年以上を経てなお再体験(フラッシュバック)を起こすケースも少なくありません。
父親はまだ若く、再婚の可能性も将来、充分に残っています。
ですが、再婚によって見知らぬ異性を見ることは、患者に再体験を引き起こし、回避行為、過覚醒を誘発するものと考えられます。
父親にこの辺りをよく説明し、患者のケアに理解を得るようにしてください。
もしも父親に再婚が内定していた場合、最低でも患者が独立して親離れをするまで打ち明けるべきではありません。
そして今回の患者のケースで重要な点は、患者の自傷の原因であると思われる「寄生虫《きせいちゅう》妄想《もうそう》症」には、「文化依存症候群」も関係していると思われる点です。
患者は郷里の村を離れることで祟り《たたり》があると妄信しており、この祟り《たたり》の結果によって両親が離婚《りこん》したとしています。
これにより、自己の責任から郷里の祟り《たたり》に責任を転嫁することで、心的損傷の軽減・防衛を無意識に行なっているものと思います。
問題となるのは、この郷里の風習が非常に厳格かつ閉鎖的である点です。
患者の話によるならば、郷里に戻る以外に祟り《たたり》から逃れる術はなく、現在の環境に居続ける限り、その祟り《たたり》は続くとしています。
これには人格変容の傾向が見られ、以後、現実を改変し続ける高い可能性があります。
(人格変容:人格の低レベル化により現実を改変、妄想《もうそう》化するケースです)
患者の自傷行為の理由であるとする、血の中に虫が潜んでいるという妄想《もうそう》は、まさにその最たるものと言えるでしょう。
妄想《もうそう》と自傷が関連しているケースは、患者にとって極めて危険な状態であることを意味しています。
もしも父親に経済的な余裕があるならば郷里への引越し。もしくは郷里の親類の下へ患者の生活環境を移すことも重要なポイントになると思われます。
また、これほど顕著な症状を引き起こす「信仰《しんこう》」ならば、本件以外にも事例が多数存在する可能性があります。
ひょっとすると、郷里の大病院等に文化依存症候群に関する資料があるかもしれません。
それを取り寄せることで、効果的なメンタルケアが可能になるものと思います。
※このB5の便箋は、裏面使用のメモ帳の束の中に含まれていた。
なお、裏面白紙部分に書かれたメモは以下のとおり。
中華丼1、上海風五目やきそば3、チャーハン大盛り1
7日目
■鷹野《たかの》のスクラップ帖(目線は元に戻るよーーー)
●「帰巣性」と「ホームシック」について
広義の意味で「帰巣性」を取り扱うなら、およそほとんどの生き物に帰巣性があると言えるだろう。
人間についても同じで、我々は睡眠や休息、食事といった行為を、よく馴染んだ場所、つまり家で行ないたがる。
この家は、まさに巣に通じるだろう。ゆえに人にも帰巣性があると言える。
そもそも動物はなぜ巣を必要とするのか。
これも人間とまったく同じだ。
睡眠や休息、食事という行為は、生存のために不可欠な行為であり、同時に隙を見せる無用心な行為でもある。
その為、隙を見せても大丈夫な「安全地帯」を設ける必要があったからである。
この「安全地帯」を得ないことは、高度なストレスを与えることは誰でも知っている。
動物を慣れない環境に強引に移せば、相当のストレスを与えることになるし、人間とて、不慣れな土地で気を許せない生活を強いれば、相当のストレスを与えることになる。
そのストレスを「ホームシック」と呼ぶことは誰もが知っているだろう。
日本では「ホームシック」については研究《けんきゅう》が非常に浅い。
その定義を長く、心の弛みのせいとし、その救済を放置してきた歴史があるからである。
「ホームシック」の歴史は非常に長く、中世ヨーロッパでは、精神的なものではなく、肉体的な病気とまで信じていた。中でもとりわけ、スイス人が罹患しやすいと信じられていた。
これは、当時のヨーロッパにおいて、スイス人が出稼ぎ民族として知られていたためだろう。
郷里を遠く離れ、しかも現代のように電話《でんわ》で声を聞くこともできない。
そんな異郷で働くスイスの若者たちが「ホームシック」にかかったことは想像に難しくない。
この「ホームシック」にかかったスイス人たちは、郷里へどうしても帰りたくなり、でも仕事の都合で帰ることができない葛藤が生じた時、身体的にも精神的にも衰弱し、時には精神に異常すら来たし、脱走や自殺といった逃避行為に駆り立てたという。
当時のスイス人たちもこの迷信を信じ、「ホームシック」にかからないための民間療法や魔術紛いのものが多数流行したという。
郷里に帰る以外、治療の方法がないのだから、不治の病とも言えたに違いない。
ただし、病と呼ぶのは正しくない。
正確には「ホームシック」とは、郷里という「安全地帯」へ戻りたいと脳が欲求する、帰巣のための信号であると言えるからだ。
始め、脳は郷里への思い出などを掻きたて、自然な帰郷を促す。
だが、理性がそれを咎め帰郷を果たせないと、脳は身体に異常な信号を送るようになる。
その結果、衰弱が起こり、より異郷での生活を困難としていき、最後には理性を曲げることで、帰郷を果たすのである。
つまり、「帰巣性」ゆえに「ホームシック」が生み出されるのである。
同時に、この「帰巣性」が強ければ、より強力な「ホームシック」が生み出されるわけでもある。
この「帰巣性」の強さには、もちろん個人差があるし、環境にも大きく左右される。
故郷がより安全であり、現在の環境がより危険であるなら「帰巣性」は強く宿るだろう。
逆に、故郷よりも現在の環境が安全であるなら「帰巣性」は極めて弱くなるだろうと思われる。
また、単に安全かどうかだけでなく、文化的なものも作用するだろう。
節目ごとに里帰りを求める風習の数々は地方差があり、出身地の文化によってもまた「帰巣性」の強弱は変わると思われる。
そんな中にあって、極めて過剰に「帰巣性」が強いと考えられるのが『鬼ヶ淵《おにがふち》村』の仙人たちである。
鬼ヶ淵《おにがふち》村の仙人たちは、戒律により村から出ることを禁じていた。
これにはすでに述べた選民思想や、穢《けが》れ意識などが作用しているものと思われるが、禁を破って村を捨てれば、必ずオヤシロさまが追ってきて祟り《たたり》を成すという、現在でも強く信じられている迷信は、先に述べた「ホームシック」と捉えることもできる。
「帰巣性」と「ホームシック」の関係が比例的であるならば、祟り《たたり》という大袈裟な表現はまさに「ホームシック」の強さを示すものであり、同時に「帰巣性」の強さを示すものでもある。
その「帰巣性」の強さゆえに、下界を強く忌み嫌い、閉鎖社会を形作ったのではないだろうか。
太古の鬼ヶ淵《おにがふち》村においては、残念ながら「帰巣性」の強さを測るケースがない。
戒律で村を出ることが厳しく禁じられていたため、「ホームシック」にかかるまで村を出ていたケースが存在しないからだ。
ところが、明治以降の近年になって事情が一変した。
近代化の波が押し寄せ、鬼ヶ淵《おにがふち》村の神聖《しんせい》性が失われた。
都会に憧れる若者が増え、また職を得るために村を出る決断も迫られた。
その結果、村人たちの流出が始まったのである。
ここで、鬼ヶ淵《おにがふち》村の仙人の末裔たちは、初めて己が「帰巣性」の強さについて知るのである。
雛見沢《ひなみざわ》住民は異常に「ホームシック」が強かったのである。
やがてその「ホームシック」を誰ともなく「オヤシロさまの祟り《たたり》」と呼ぶようになった。
しかも出稼ぎに出た誰かが、異郷の地で祟り《たたり》に遭い、狂い死んだとの噂が流れると、流出住民たちは次々と村か、周辺の町へ舞い戻ってくることとなる。
この「ホームシック」、「帰巣性」の強さは、おそらくは文化によるもの、すなわち雛見沢《ひなみざわ》独自の信仰《しんこう》であるオヤシロさま信仰《しんこう》により培われたと考えるのが妥当だろう。
彼らは生まれた時から無意識の内にオヤシロさまの戒律を刷り込まれ、村を出ることに対し、無意識の内に罪《つみ》を感じていたに違いない。
その結果、「ホームシック」を「オヤシロさまの祟り《たたり》」と捉えたのだろう。
オヤシロさまの戒律があるから「帰巣性」が強まったのか、「ホームシック」が強すぎるからオヤシロさまの戒律を作ったのか。
……卵が先か鶏が先かははっきりしない。
※レナの考察(レナ目線だよーーーーーーーー)
……私は小さい文字に読み疲れ、ごろりと転がり天井を仰いだ。
「オヤシロさまの祟り《たたり》」の正体はホームシックだって?
私の話を理解してくれた三四《みよ》さんのスクラップ帖だと思い、期待して読んだのに。
……その内容が、私がカウンセラーの先生方に何度も言われた言葉、「ホームシック」でまとめられてしまったので、ちょっと不快だった。
ホームシックなんて言葉で、……あの異常な体験をどう説明できるというのか。
私は確かにあの光り輝く眩しい浴室でオヤシロさまが降臨されるのを見た。
そして血管の中からぶくぶくと溢れ出す、あの汚らしい赤黒いうじ虫の群れを見た。それらに対しては何の説明にもなっていない。
あのうじ虫の群れを三四《みよ》さんはどう説明するというのか。
それとも元々説明などないのか?
やっぱりあれは錯乱した私の妄想《もうそう》だったのか……?
私は「うじ虫」の説明を求めて、三四《みよ》さんに借りている数冊のスクラップ帖を、
ベラベラっと流し見する。
………すると、…なんと見付かった。
それも、私の期待するそのままの見出しでだ。
※また普通目線に戻る
●「うじ虫」と「オヤシロさまの祟り《たたり》」について
明治の頃の、流出住民集団帰郷の際、帰郷者たちの中である奇病の噂が流れた。
雛見沢《ひなみざわ》を離れると、傷口が腐り「うじ虫」が湧き出して体中を内側から食い尽くすというのである。
その奇病について、当時の古手《ふるで》神社神主はそれこそ「オヤシロさまの祟り《たたり》」の印であると説いたという。
当時の口伝によると、神主は不出である絵巻物を広げ、その「うじ湧き」が太古の昔から語り継がれていたことを示したらしい。
何でも、鬼たちがやって来たという「鬼の国」は、「死者の国」とも読み取れるらしく、死者の国の鬼たちは、常にその身をうじ虫に食われ続けているというのである。
その鬼たちの血を宿す彼らは、オヤシロさまの加護がある雛見沢《ひなみざわ》では何の問題もないが、異郷の地で加護を失うと、鬼の血の中で眠っていた「うじ虫」たちも目覚め、全身に溢れかえって、その身を食い尽くしてしまうと言うのだ。
しばらくの間、この「うじ湧き病」はひどく恐れられ、仕事の都合で郷里を離れなければならない時には、この「祟り《たたり》」から赦しを得る免罪《つみ》符を神社に求めたという。
(この辺が、中世スイスのホームシック予防と合致するのは面白い)
大戦を境に、この「うじ湧き病」の妄想《もうそう》は潰えたが、郷里から離れて住まう親族に免罪《つみ》符を送る習慣は根強く残っている。
また、免罪《つみ》符の中に「蛆(うじ)」の字が含まれているのもその名残だろう。
だが、ここで興味深いのは、奇病の噂が流れる以前には、雛見沢《ひなみざわ》住民とて「うじ湧き」について知らなかったという点である。
これまで私は、無意識レベルで刷り込まれた信仰《しんこう》が、「ホームシック」を「祟り《たたり》」だと認識させると考えていた。
よってこの事前知識なき「うじ湧き」の一件は、これまでの私の研究《けんきゅう》と真っ向から対立するものとなる。
祟り《たたり》を鵜呑みにした集団帰郷者たちにある種の集団妄想《もうそう》が取り憑き、それを神主が巧みに信仰《しんこう》心へ誘導したと読み取るのが、確かに自然ではあるのだが…。
偶然の集団妄想《もうそう》が、たまたま太古の絵巻物と一致しただけとするには、どうにも腑に落ちない。
「オヤシロさまの祟り《たたり》」を受けると、何の予備知識がなくても「傷口にうじ虫が湧く」のだろうか?
誰か「祟り《たたり》」を私の目の前で受けてはくれないだろうか。
ぜひ観察し、傷口にうじ虫が湧いたかどうか聞いてみたいものだ。
※レナ目線〜〜
…………それは、まるで三四《みよ》さんが私に直接問い掛けているかのようだった。
そうだ。
彼女がこのスクラップ帖を渡す時、……あるいはあなたになら何かわかるかもしれない…というようなことを言っていたような気がする。
私は一瞬だけ喜んだ。あの「うじ虫」が、私ひとりの妄想《もうそう》ではなかったからだ。
だが同時に、…あれが私の「妄想《もうそう》」であったとする逃げ道も失ってしまう。
……つまり、あの「うじ虫」は、私の見間違いでも何でもなく、…本当にいたのだ。
それに気付いた途端に、手首や肘、膝の内側、首筋などが急に痒くなったような気がした。
……再びカミソリで血管を開いてみたい衝動に駆られるが、それを私は静かに押し殺した。
私がうじ虫が湧いたという話をした時、三四《みよ》さんがものすごく真剣な表情を浮かべていたことを思い出す。
………さぞや、ぞっとしたに違いない。
だが、ぞっとしたのは私も同じだ。
……誰も信じてくれないと嘆きながらも、……自分の血管の中にあんな気持ち悪いものがびっしり蠢いているなんて信じたくなかった。
だから心のどこかで、やっぱりこれは妄想《もうそう》なのだろうと思い込みたがっている部分もあったと思う。
でも、それが否定されてしまった。
これは幻でも何でもなく、……私と同じ体験をした人たちが過去に実在していたのだ。
……鬼の血の中のうじ虫が、オヤシロさまの加護を失うと溢れ出す…?
では、逆を返せば、…オヤシロさまの加護があれば溢れ出さないだけで、村人全員がこのうじ虫を知らずに血管の中に飼っているということにはならないだろうか…?
ということは……鬼の血を宿すとはつまり、……あの気持ちの悪いうじ虫たちを宿している…という意味なのか…?
私は結論を急がず、再びスクラップ帖をバラバラと捲った。
…自然と、うじ虫に関連した何かを探してしまう。
※また普通目線ねーーー
●「寄生虫《きせいちゅう》」による宿主支配について
集団帰郷者の「うじ湧き病」で考えたのだが、そもそも雛見沢《ひなみざわ》の過度の「ホームシック」が、何らかの寄生虫《きせいちゅう》による感染症とは考えられないだろうか。
これは、彼らが傷口から湧き出す「うじ虫」を見たからということではなく、そもそも彼らが文化(信仰《しんこう》)だと思っているものが、そもそも感染症と関連するのではないかと考察するものである。
感染症の多くは、寄生虫《きせいちゅう》たちが望まず引き起こしているものである。
寄生虫《きせいちゅう》にとって宿主は文字通りに宿である。
よって、彼らにとって究極の寄生とは、宿主に気付かれない完全な共生であろう。
だが、寄生虫《きせいちゅう》たちは時に、宿主を支配して自らの繁栄に利用しようとすることがある。
例えば、中間宿主を経由して感染する寄生虫《きせいちゅう》に見られる能力に、宿主の行動を支配して、より上位の宿主にわざと捕食させ、伝染しようとする試みが知られている。
代表的な例では、蝸牛、蟻を中間宿主とし、上位宿主である羊に捕食されるよう牧草の葉先に中間宿主を誘導するDicrocoelium_dendriticrumが挙げられる。
より高度な動物を支配する例では、鼠を中間宿主とし、上位宿主を猫とするToxoplasma_gondiiも挙げられる。
この場合、中間宿主である鼠から、猫に対する忌避性を喪失させることによって、捕食・伝染させる確率を向上させていることが知られている。
また、不特定の宿主への無差別感染を目的としたケースもある。
特に有名な例ではRabiesvirus_が挙げられる。
これは感染者の脳に寄生して繁殖し、その後、唾液腺を経由して唾液に混じる。
同時に、感染者の攻撃性を著しく向上させ、無差別に噛み付き、傷口に唾液と混じって侵入することで伝染する。……ちなみにこれは狂犬病のこと。
このように、寄生虫《きせいちゅう》には自らの繁栄のために、宿主を支配する能力を宿すものが少なくないのである。
さて、これまで挙げたもののほとんどは、寄生虫《きせいちゅう》たちがより繁栄し伝染していくためのケースだが、もっと単純に、彼らがより過ごしやすい環境を欲して宿主の行動を支配するケースもあるのではないか。
ここで私は、かつて提唱した、鬼ヶ淵《おにがふち》村住民の異常な「帰巣性」と「ホームシック」をリンクさせられないかと考える。
つまり、雛見沢《ひなみざわ》にはある種の寄生虫《きせいちゅう》が蔓延していて、村人全てに寄生していると仮定する。
その寄生虫《きせいちゅう》たちは、この雛見沢《ひなみざわ》がもっとも居心地のよい環境であり、宿主に対してこの地に留まり続けるように、強い「帰巣性」を与え、無視して土地を離れようとすると、「ホームシック」を引き起こして抵抗するのではないだろうか。
寄生虫《きせいちゅう》は名が示す通り、宿主に寄生しなければ生きていけない。
そんな彼らにとって、自分たちの過ごしやすい環境に、宿主である人間がコミュニティを形成して住み続けることは都合がいいはずだ。
この、宿主を自分たちの過ごしやすい土地に縛りつけようとする寄生虫《きせいちゅう》の存在を仮定すると、意外にもこれまでのナゾに説明がつけやすい。
つまり、太古の鬼ヶ淵《おにがふち》村の仙人たちは、この寄生虫《きせいちゅう》の存在を知っていたことになる。
だから、宿主である自分たちが村を離れて生きていけないことを知っていて、俗世を嫌う戒律や文化を作った。
それは近年のダム戦争の異常な盛り上がりも説明できる。
では……、オヤシロさまの伝説で語られる、沼から湧き出した鬼とはつまり、寄生虫《きせいちゅう》の大量発生のことなのではないだろうか。
鬼たちが村人を襲ったという記述は、おそらく末期の感染者の錯乱した行為を示すに違いない。
※レナ目線〜〜〜
………さすがに、あまりに突拍子もない話だったので、笑い捨てようと思った。
だが、三四《みよ》さんに悪いと思ったので、笑うのはやめた。
この雛見沢《ひなみざわ》が、…実は寄生虫《きせいちゅう》に支配されているって…?
確かにあの傷口から溢れ出したうじ虫のことだけを取り上げるなら、そうとこじ付けられないこともない。
……馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいと思う気持ちと、…祟り《たたり》なんてあやふやなものよりもずっと説得力があると思う気持ちが交錯して、頭がぐるぐると回った。
だが多分、……このスクラップ帖を書いたため、三四《みよ》さんは消されたに違いないのだ。
ということは……、消した連中にとって、このスクラップ帖は無視できない内容なのだ。
…もし相手がそうなら、三四《みよ》さんを消した後、スクラップ帖を全て集め闇に葬ろうとするはずだ。
………もしそこで、数冊が紛失していることに気付いたなら。
……………背筋がぞっとしてくるのを感じた。
私はこのスクラップ帖を持っていることを秘密《ひみつ》にしないといけない。
……そして、単なるフィクションと片付けず、この内容をもっともっと理解しようと努力しなければならない。
三四《みよ》さんは確か、連続怪死事件を、オヤシロさま信仰《しんこう》の復興のため、御三家《ごさんけ》が起こしていると言ってなかったっけ…?
…今読んだばかりの説によるならば、……寄生虫《きせいちゅう》は、現在の雛見沢《ひなみざわ》という環境を維持しようと常に働くはずだ。
寄生虫《きせいちゅう》にとってのもっとも良い環境というのは、太古の鬼ヶ淵《おにがふち》村と同じ、完全隔離の村だ。
宿主は誰も外へ出ず、彼らにとっては快適に違いない。
現在のように、村人たちが買い物などでひょいひょいと村を離れるのは、彼らにとって苦痛なはず。
そうなれば、………寄生虫《きせいちゅう》たちは自然と宿主を、オヤシロさま信仰《しんこう》復興に誘導するのではないか。
あれ? ………そう言えばさっき、スクラップ帖のどこかで、鬼の血を最も色濃く受け継ぐのが御三家《ごさんけ》だって記載があったような気がする。
鬼の血を最も色濃く受け継ぐというのは、……つまり、もっとも寄生虫《きせいちゅう》に多く感染し、彼らの支配下にあるということじゃないのか?
確かに御三家《ごさんけ》は、鬼ヶ淵《おにがふち》村時代への逆行を画策しているようにも見える。
ダム戦争以降の綿流し《わたながし》の復興など、明治に廃れた信仰《しんこう》を現代に蘇らせようとしているように思える節がある。
その御三家《ごさんけ》、特に園崎《そのざき》家は、地域や公共機関に強力な影響力を持っている…。
……何だこれ…。こんな出来の悪い仮説なのに、……ぺたぺたとピースが埋まっていく。こんな滅茶苦茶なジグソーパズルは初めてだ。
馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいと思う気持ちと、実はとんでもない事実が明かされようとしている気持ちで、頭の中がぐるぐると渦を巻く。
…その中央を覗き込もうとすると、渦に酔って、落ちて溺れてしまいそうだった。
…………もっと真剣に、腰を据えて読もう。
何か真実があるはずなんだ。
………茨城へ引っ越して以来、ずっと私の生活を狂わせてきた不幸の元凶。
お母さんの離婚《りこん》も、私の自暴自棄も、みんなみんな全てに説明がつく真相がもうじきで判明しそうなのだ…!
その時、突然の荒々しいノックに私は飛び上がった。
慌ててスクラップ帖をクッションの下に隠す。
「礼奈《れいな》、電話《でんわ》が来てるぞ。」
「電話《でんわ》? こんな時間に? ……誰だろ。」
「本屋さんからだぞ。本の取り寄せとか頼んだのか?
興宮《おきのみや》書房の大石さんって人からだ。」
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7日目_2
■学校
窓を開けても、入ってくるのはセミの声と熱風だけだった。
「……………あぢぃなぁ……。」
「……あぢぃねぇ……。」
授業の合間の休み時間も、こう暑くてはとても休まったもんじゃない。
俺も魅音《みおん》も、机に突っ伏して暑さにふやけていた。
小さい子たちはさすがにタフで、こんな暑さものともしない。
わずかの時間でも遊びたいとばかりに、教室中を走り回っていた。
「……やっぱりさー、都会の学校だと教室にもクーラーとか入ってるわけぇ?」
「そんなことねーぞ……。あるのはせいぜい職員室ぐらいだなぁ…。」
「うわー…。それは羨ましいねぇ…。生徒みんなで職員室を襲って占拠とかしないのー?」
「……その辺の発想が実に魅音《みおん》臭い。…わっはっは、………はぁ………。」
この暑さではテンションも上がらない。
……俺も魅音《みおん》もくだらない話はやめ、下敷きを団扇代わりに扇ぐのに専念した。
空いた机が目に入る。…………レナの席だった。
レナは今日は欠席した。
学校には本人から風邪を引いてしまったので、欠席すると電話《でんわ》があったそうだ。
「……………レナのやつ、…最近、元気ないよな。」
「………だねぇ。…暑さにやられたのかもねぇ。」
「……なぁ、…本気で暑さでやられたと思ってるのか?」
「…そう思ってるけど?」
「……………例の一件がさ、やっぱりじわじわと来てるんじゃないのか…?」
「かもね。……………それに暑さも加わって、夏バテでも起こしたんじゃないかな。」
殺人を犯し、死体《したい》を刻み、それを仲間《なかま》に見られたショックは、計り知れないだろう。
確かに俺たちはあの場で手を取り合い、仲間《なかま》の連帯を確認し合った。
あの場に居合わせた全員は、それで全部決着がついたと思ってる。
でも、………一番の当事者であるレナの心は、…それだけのことで平穏を取り戻せるのだろうか…?
レナはまだ、あの日から心が立ち直れていないんじゃないかと思う…。
「…おじさんは、みんなで楽しく遊んでればその内、元気になると思ってたんだけどね。
……そこまで心の傷が、浅くなかったってことかなぁ。」
「こういう時さ。どうしたらレナを元気付けられるかな。」
「…………多分、放っとくのが一番じゃないかな。」
「おいおい、…そんなのでいいのかよ。俺たち仲間《なかま》だろ?」
「ほら、『ホームシック』ってあるじゃない? あれもね、ちょっと寂しいからって言って、実家に電話《でんわ》なんか掛けちゃうと、一気に発症しちゃうらしいよ。
寂しい時はぐっと堪えて、例えばスポーツにでも打ち込んで、気分転換を図るのが一番なんだってさ。」
「…気分転換させてやりたくても、…あいつ、最近、部活《ぶかつ》に加わらないし。」
「レナはどうか知らないけどさ。人には甘えたい欲ってのがあるんだよ。側に支えてくれる人や同情してくれる人がいると、甘えたくなる欲。……慰めてくれる人が現れるとさ、際限なく甘えちゃうことってない?」
「………ん、……どうだろうな。」
「際限なく甘えるってことは、相手の同情をより深く得ようとするってこと。そうすると、圭ちゃんは慰めてるつもりなのに、相手はどんどん、どんどん落ち込んで行っちゃうことがあるんだよね。慰められて甘えられる、これに味を占めると不幸に酔うのが癖になる。
……レナもその辺、わかってるから、わざとひとりになろうとしてるんじゃない? 慰めや甘えが目的だったら、私たちの側にいて涙を流せば済むわけだし。」
「じゃあ、落ち込んでるレナをどう励ませばいいんだよ…。」
「女の心情としては、辛さを励ましてくれるより、忘れさせてくれる方がうれしいね。」
「慰めるな、励ますな。…何だよ、お手上げじゃないかよ。」
「慰めるな励ますなは、心理カウンセラーの鉄則だって知ってる?
結局、心の傷ってのは自分で治すように出来てる。周りの人が治したとしても、それは本当の完治じゃない。だから、レナが自分で元気になるのを、私たちは見守るしかないんだよ、きっと。」
「………………理屈じゃ理解できるが、………何だか薄情な気がして、好きになれねぇなぁ…。」
両手を頭の後ろで組み、俺は天井を見上げながらぼやく。
その様子を見て、魅音《みおん》がくすりと笑った。
「それだけレナのことを心配してくれる圭ちゃんが身近にいるなら、レナは大丈夫だよ。立ち直れるよ。」
「近くにいるだけでかー? …胡散臭いなぁ。」
「……圭一《けいいち》にだってできることがありますですよ。」
梨花《りか》ちゃんだった。
…いつから俺と魅音《みおん》の会話を聞いていたのだろう。
「俺にも、できることがあるのか…?」
「……レナが、話したいと思った時や、打ち明けたいと思った時に、静かに聞いてあげることなのです。」
「聞くだけでいいのか? 励まさなくていいのかよ?」
「圭ちゃん、打ち明けるだけで心が軽くなるもんだよ。静かに耳を傾けるのが、何よりも嬉しい時ってある。」
「……魅ぃの言うとおりなのですよ。レナが話したいと思った時、いつでも話しかけられる場所に居てあげるのも、…きっと仲間《なかま》として大切なことなのだと思いますです。」
魅音《みおん》の言うことも梨花《りか》ちゃんの言うことも、とても大切なことだった。
俺はレナに会ったら、肩を思い切り叩いて、クヨクヨしてるなよと励ますつもりだった。
でも、考えてみればそれはものすごく一方的なことなんだよな。
レナだって好きで落ち込んでるわけじゃない。
元気になれるものならなってる。
そんなところに、俺が無責任に励ましたなら、レナは俺が、自分の心の痛みを理解してくれていないと感じて、深い失望を感じるに違いないのだ…。
「………………そうだな。…俺、ちょっと、人の心ってヤツを理解しようとしてなかったな。…レナを励ましたいのは、俺の欲求であって、レナの求めることじゃない。ありがとな、二人とも。俺、ひょっとすると今日まで何か勘違いをしてたかもしれないぜ。」
あの日、……俺は一方的にレナを励ました気でいたけど。
…本当にそれがレナの心に届いたか自信がなくなり始めていた。
レナを女々しいとばかりに、乱暴に引っ張り寄せただけだったかもしれない。
俺は、本当の意味でレナの味方になっていなかった…。
その時、梨花《りか》ちゃんの手が俺の頭を、そっと撫でた。
「……圭一《けいいち》は一番のレナの味方ですよ。それは疑わなくて大丈夫なのです。」
「え、え?! わ、俺また考え事を口に出しちまってたのか…!」
「レナの心には届いてるよ。圭ちゃんはあの日、とても強い力をレナに与えたんだからさ。
…………いやーー、でもさぁ、よくよく思い出すとすっごい恥ずかしいこと言ってたよねぇ? くっくっくっくっく!!」
廊下を先生が戻ってくる足音が聞こえると、みんなが一斉に自分の席へ戻る。
「お待たせしました。それでは委員長、号令。」
「きりーーーーーーーーーーつ!!」
■放課後
レナがいないから今日の部活《ぶかつ》もなしだ。
まぁ、俺にとっても都合はよかった。今日の帰りにお使いを頼まれていたからだ。
買い物の内容も大したものじゃない。
村の中の雑貨屋のポイントカードが溜まったので、それと交換で台所洗剤をもらって来てくれという程度だ。
そんなの俺にわざわざ頼むほどのものかよと思ったが、親父の仕事の絡みで手が離させないと言われると仕方ない。
だから、帰り道に商店街へよろうと、いつもと違う道に入ったときだった。
向こうの木立の影から、誰かが顔を覗かせてこっちをうかがっているのに気付いた。
……こんなお茶目な真似をするのは誰だと目を凝らそうとしたら、相手が姿を現す。
「お? レナじゃねぇか。」
具合はもういいのかよ、…そう続けようとした時、その言葉は喉のところで止まった。
何だか、レナの表情がとても真剣だったからだ。
「……ど、……どうしたんだ?」
「シッ!」
レナは人差し指を唇の前に立てて、静かにするよう命じると、辺りをうかがう仕草をしてから、急いでこちらへ来いと合図される。
よくわからないが、取り合えずレナの指示に従い、俺は口をつぐむとレナのところへ駆け寄った。
レナは仕草で、俺に茂みの影にしゃがんで隠れるように指示する。
なぜそうしなければならないのか分からなかったが、理由は後でも聞ける。
俺は逆らわず指示に従った。
レナはまるで、そう、誰かに後を尾行されてないかをうかがっているようだった。
………魅音《みおん》辺りなら、ふざけてこんな真似でもしそうだが、…レナはこんな冗談、絶対やらない。
俺はどういう状況に置かれているか、まったく理解できずにいたが、…そのただならぬ緊迫感だけを理解し、身を小さくして気配を殺していた。
「……………うん。…もういいよ。ごめんね。」
その声で、ようやく俺の緊張が解かれる。
「…ふぅ…。………どうしたってんだよ一体。」
「多分、私。……誰かに最近、あとをつけられているの。」
「何だって…。」
どうしてレナが……、誰に?!
そう思った瞬間に、なんて愚問だと思った。
「……まさか、……警察《けいさつ》かよ?!」
間宮《まみや》リナに北条《ほうじょう》鉄平《てっぺい》。
人間が二人も蒸発しているのだ。
いくらゴロツキみたいなやつらとは言え、警察《けいさつ》沙汰にだってなるだろう。
リナって女がレナの家に出入りしていたことは、多分、そう苦労せずに突き止められるに違いない。
でも……、大丈夫だ。
あの死体《したい》の袋さえ見付からなければ、絶対に大丈夫だ。
「警察《けいさつ》なのか、……警察《けいさつ》じゃないのかは、わからないけれど。……綿流し《わたながし》の夜以降、………誰かにずっと見られている気がするの。」
「……どういう事だよ!」
俺がそう問い掛けた時、レナは無感情な目で俺を真正面からじっと見据えた。
……それは、まるで値踏みするかのような目。
俺に、…何か大切なことを、打ち明けるべきかどうか、その価値があるかどうか測っている目だった。
レナは自分の手首を、もう片方の手でぎゅっと握ると、小声で言った。
「…………話してもいいけど、……誰にも内緒にできる…?」
「あぁ、もちろんだぜ。レナがそうしろってんなら、誰にもしゃべらない。」
「…うん。……圭一《けいいち》くんなら信用できるよ。」
少しだけ微笑むとレナはもう一度辺りをうかがい、小声で言った。
「………連中はひょっとすると、…三四《みよ》さんのスクラップ帖を探しているのかもしれないの。」
「三四《みよ》さん? って……、あぁ、看護婦の鷹野《たかの》さんのことか? あとスクラップ帖って何のことだ?」
「…………秘密《ひみつ》の捜査になっているって言ってたから、多分、圭一《けいいち》くんは知らないよね。
……鷹野《たかの》三四《みよ》さん、…殺されたんだって。」
「え、……ええ?! いつ!」
声が大きいと叱られる。俺は声を小さくし、レナに先を促した。
「綿流し《わたながし》の夜、私たちは三四《みよ》さんと、あと富竹《とみたけ》さんに会ったよね? あの直後に、2人が襲われたんだって。
……富竹《とみたけ》さんは……、「オヤシロさまの祟り《たたり》」に遭って、喉を掻き毟って死んだ。
三四《みよ》さんは、岐阜の山中で焼き殺されていたと言ってたの。」
「……そ、……それ、本当かよ……。そんなの誰も知らないぞ?!」
「うん。それは警察《けいさつ》が伏せて捜査をしてるからなの。雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件は今年で5年目になっちゃうでしょ? だから、変に騒がれたくないんで事件を公にしていないんだって。」
「な、なるほど…。秘密《ひみつ》捜査なのはわかったが…、レナはそんな話、どこで聞いたんだよ…?」
「………………内緒だよ? 私、…実は大石っていう興宮《おきのみや》署の刑事さんと連絡を取り合っているの。その人に教えてもらった。」
「どうして…、大石って人がレナに…?」
「………さぁ、…ちょっとそこはわからない。彼が言うには、私なら信用できそうだからって言うんだけどね。」
突然の突拍子もない話に、俺が呆然としていた。
……だが、レナが嘘を言うはずなどない。
これが魅音《みおん》だったなら、今にもペロっと舌を出しそうだが、レナに限ってだけはありえない。
「三四《みよ》さんが殺された理由は、……多分、彼女の研究《けんきゅう》のせいだと思うの。三四《みよ》さんがこの村の歴史とか民俗学とか、そういうのを熱心に調べてたってのは知っている?」
「何となくは聞いたことある。」
鷹野《たかの》さんって人は、オカルトとかミステリーとかそういう類のものが好きだったらしい。
この村には、人食い鬼の伝説があるそうで、そういうのを面白がって研究《けんきゅう》している…というのを魅音《みおん》に教えてもらったことがあるような気がする。
「……彼女は多分、その研究《けんきゅう》の中で、この村に関するある重要な秘密《ひみつ》を知ってしまったの。…あるいは彼女は、そんなにも核心には踏み入ってなかったのかもしれないけど、……そうは思われなかったんだろうね。」
「ちょっと待て。…この村の秘密《ひみつ》って何だよ?」
「………………私は、……三四《みよ》さんのスクラップ帖をほんの数冊借りて読んだだけ。でも、彼女が特に大事にしていた秘蔵の数冊だから、かなり重要なことが記してあったと思う。………だから、多分、三四《みよ》さんが至ろうとしていたことに、8割方くらいは近付いていると思うの。でも、…………あまりに突拍子もなくて、…私にはまだ信じられない。…三四《みよ》さんの想像が正しいかどうか、検証してる段階なの。」
「……で、……何なんだ一体。…秘密《ひみつ》を知ると殺されるっていう、……この村の秘密《ひみつ》ってのは…。」
そこまで口に出してぎょっとする。
……ということは、それをレナの口から知れば、俺もまた殺されるかもしれないからだ。
「圭一《けいいち》くんには、……まだ全部話したくない。確証が持てたら話すね。…だって、それくらいに途方もない、…とんでもない話だから。」
「確証って何だよ…?」
「例えば、予備知識のないうじ湧きについては私自らがその存在を検証できているけど、…他にもたくさん、未検証のことがあるの。それらを埋めていかないと、…私ですらにわかには信じられない。」
……うじ?
ちょっとわかりにくい単語が出たので聞き直そうかと思ったが、取り合えず話の腰を折らないことにする。
こんなにも蒸し暑いのに。
……レナはまるで寒さでも感じるかのように、自分の両肘を抱く仕草をした。
「レナ。俺はいつだってお前の味方なんだからな。………俺だけは信用してくれて構わない。」
「…………ありがとう。…その一言がすごいうれしい。」
レナは、本当にうれしそうな顔だった。
……とてつもない何かに巻き込まれて、……誰にも打ち明けられず、心細い思いをしていたことが見て取れる。
…そうだ、こんな時だから、俺がレナの味方にならなくちゃいけないんじゃないか。
「私とね、今日ここで出会ったことは内緒にした方がいいと思うの。私と接触があったことが知られたら、圭一《けいいち》くんにも危害が及ぶかもしれないから。」
「…わ、わかった。………俺に、何か協力できることはないのかよ?!」
「今はない。でも、協力をお願いできることがわかっただけで、今の私には心強いよ。
……最後には頼らせて、ね!」
「おう。任せとけ。」
「シ! 車が来る!」
レナが俺の頭を茂みに押し込む。俺は逆らわず、茂みの中に身を縮めた。
……………………。
しばらく息を殺していると、車の音が聞こえてきて、白いワゴン車が通り過ぎていった。
…レナの耳の良さに驚く。
よくこんなにも早い内から車の接近を察知できたものだ。
「今の車、ナンバー、見えた?」
「え? …いやごめん。見えなかった。」
「私もちょっと見えなかったけど、…多分、さっきと同じナンバーの車だと思うの。」
「……その、レナを尾行しているとかいう連中か?」
「多分。………普段、車なんか通らない道で、今日は何度も追い上げられるの。その度に私は隠れてやり過ごしているからいいんだけど、……どうもおかしい。」
「そいつらなのか? 鷹野《たかの》さんたちを殺して、レナが持ってるスクラップ帖を狙っているという連中は。」
「多分。」
……もう本当に突拍子もない話で、…当事者であるレナ自身がにわかには信じ難いというのも無理はなかった。
鷹野《たかの》さんがこの村の研究《けんきゅう》で、何かとてつもないことを突き止めた。
そして、それを隠したいと思っている連中に嗅ぎ付けられ、……綿流し《わたながし》の晩に、「オヤシロさまの祟り《たたり》」を模して殺された。
そして、その物騒な連中は、鷹野《たかの》さんの研究《けんきゅう》成果であるスクラップ帖を探していて、そのスクラップ帖をレナが持っているらしい。
それで……レナが命を狙われているって……?
「じゃあ、レナの家が危ないってことはないのか!?」
「大丈夫。スクラップ帖はゴミ山の私の隠れ家に隠してある。
………お父さんが不安だけど、……何も知らないからこそ、何も危害が及ばないかもしれない。」
「……………………………。」
「…あははは。圭一《けいいち》くんが言わなくても顔に書いてあるよ。突拍子もない話でとても信じられない、でしょ…?」
「………………。」
そんなことないさと否定しようと思ったが、下手なことを言うほうがかえって悪いと思い、俺は肯定を意味する沈黙を返した。
「…それが当然の反応。私だって三四《みよ》さんのスクラップ帖を読み始めた最初は、何だこりゃって思って、全然信じられなかったもの。……全てに目を通して、ようやく何かの筋が見えてきたんだもん。」
「………すまん。もちろん、レナの味方になりたいのは本心だ。でも、…話が全然見えないんで、どう助けてやればいいかわかんないんだ。」
「話せば、圭一《けいいち》くんの身にも危険が降りかかるよ?」
「レナにはすでに降りかかってるんだろ? ならお相子だぜ、気にするな!」
「…………わかった。話す。……多分、三四《みよ》さんたちを殺したのは、雛見沢《ひなみざわ》御三家《ごさんけ》。…もっとはっきり言ってしまえば、魅ぃちゃんの家である園崎《そのざき》本家。」
「どうして…!」
「圭一《けいいち》くんも、過去の連続怪死事件は知ってるよね?」
「あぁ。ダム戦争の時の村の仇敵ばかりが、毎年犠牲になっていくっていうあれだろ。」
「この連続怪死事件は、ダム戦争の清算のようなものなの。村の裏切り者を片付けることによって、本当の意味でダム戦争を終わらせようとする…。」
「……確かに、……そう見えないことはないよな。誰もがはっきりと口にはしないが、薄々と園崎《そのざき》家の仕業だと疑ってる…みたいな話は聞いたことあるぜ。」
「でも、裏切り者を制裁するなら、別に綿流し《わたながし》の晩にこだわらなくてもいいんじゃない? 毎年、祟り《たたり》で1人、鬼隠し《おにかくし》で1人なんてスローペースで殺す必要はない。そうでしょ?」
鬼隠し《おにかくし》なんて言葉は初耳だったが、物騒な意味で使ったことは文脈から理解できたので、俺は余計な口を挟まず、黙って頷く。
「つまりこれらの連続怪死事件は、綿流し《わたながし》の祭りに神聖《しんせい》性を取り戻そうとする意思があるの。……もっと踏み込んで言うと、明治以降に失われた鬼ヶ淵《おにがふち》村の神聖《しんせい》性を取り戻すための、段階的イベント。彼らは最終的には、太古の昔にそうだったような、原理的なオヤシロさま信仰《しんこう》を復活させることを目的としている。」
「……オヤシロさま信仰《しんこう》…。…古手《ふるで》神社のことか?」
「そう。古手《ふるで》神社って、崇められていると思う? お年寄りの人は敬っているけど、それだけだよね? 子どもたちは境内を遊び場くらいにしか思ってないし、ほとんどの村人たちも地域の集会所くらいにしか思っていない。その神聖《しんせい》性は失われている。それが、ダム戦争を切っ掛けに蘇ったの。彼らはそれを、オヤシロさま信仰《しんこう》を復活させるいい機会だと捉えた。」
「…ってことはつまり、………オヤシロさま信仰《しんこう》の狂信者たちが、…裏で暗躍しているってことか?」
「そういうこと。そもそもオヤシロさま信仰《しんこう》は御三家《ごさんけ》によって管理されていた。だから、御三家《ごさんけ》には現代にも脈々と、オヤシロさま信仰《しんこう》を復活させなければならないという至上目的が受け継がれているの。それを思えば、御三家《ごさんけ》がダム戦争中に村を一丸にまとめたり、廃れかけていたオヤシロさまを引き合いに出し、古手《ふるで》神社にわざわざ同盟事務所を設けた理由も透けて見えてくる。」
「…じゃあ、雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件ってのは、雛見沢《ひなみざわ》御三家《ごさんけ》、…いや、オヤシロさまを信仰《しんこう》する狂信的な集団の仕業…。……なら待てよ、どうして鷹野《たかの》さんが殺されなきゃならないんだ?」
「それは御三家《ごさんけ》が、鬼ヶ淵《おにがふち》村と呼ばれた太古からずっと隠してきた、この村のある重大な秘密《ひみつ》に関係があるの。それを暴かれると、オヤシロさまという神の神聖《しんせい》性が失われる。だから彼らは三四《みよ》さんの研究《けんきゅう》が核心に近付いたことを知り、消したの。」
「その、重大な秘密《ひみつ》ってのは……何なんだ?! それを知ると俺も狙われるってんだろうけど、上等だぜ!」
「……………だから、それはまだ言いたくない。私自身が10割の確証を得るまで言いたくない。…多分、今ここで話しても、圭一《けいいち》くんは堪えきれなくなって、笑い出してしまうに違いないもの。」
「おいおい、俺がそんなヤツに見えるかよ?!」
「………もう少し、時間がほしいの。……あまりの事実に、私ですら受け入れきれていないの。だからもう少し時間をほしいの。………お願い。」
「………………わかった。」
「今日ここで話したことは、誰にもしゃべっちゃだめだよ。魅ぃちゃんと梨花《りか》ちゃん、もちろん沙都子《さとこ》ちゃんにもだめ。」
「わ、わかったよ…。」
「じゃ、圭一《けいいち》くんはもう行って。私はもう少し辺りをうかがってから行く。用心に過ぎるということはないからね。」
レナは茂みに身を潜め、姿を消した。俺だけが取り残される。
セミの合唱があっという間に辺りを埋め、…まるで最初からここには俺しかいなかったかのように見せるのだった。
……………俺は仕方なく歩き始めるが、……呆然としたままだった。
俺に知らせてしまうと危害が及ぶかもしれないからと、結局、レナは何も核心を話してはくれなかった。
ただ、はっきりと明言したのは、……この村にはオヤシロさま信仰《しんこう》を復活させようとするある邪悪な意思があって、そいつらは村の中枢を支配する御三家《ごさんけ》に根付いている。
そして、そいつらはそのために連続怪死事件を起こし、…彼らが守りたいとする秘密《ひみつ》に迫った鷹野《たかの》さんを、殺した。
レナは鷹野《たかの》さんに出会い、彼女の研究《けんきゅう》をまとめたスクラップ帖を偶然、受け取ってしまった。
……そして、その中には、読んだレナ自身でさえ、にわかには信じられないとてつもない秘密《ひみつ》が書かれていた…。
おいおい……。…悪いけどレナ、………それ、冗談だろ…?
週刊誌の漫画じゃあるまいし…。ナゾの宗教結社が暗躍して、何か陰謀を巡らしているなんて…。何というかその……、冗談でも笑えない。
……だが、なるほど、レナの言うとおりだな。
仮にこれが真実だとしても、…にわかにはとても信じられない。
レナが真相を明かすのを時期尚早と渋ったのも納得だった。
鷹野《たかの》さんにいいようにからかわれただけじゃないのか…?
でも、…鷹野《たかの》さんが殺されたのは紛れもない事実らしい。
……そして、そのスクラップ帖を探して、レナの身辺を何者かがうかがっているのも……事実なのか?
そう言えばレナ、……白いワゴン車の監視を受けているというようなことを言っていたな。
白いワゴン車なんて、割と見かけるぜ…。
業務用の車なら、結構あちこちにあるんじゃないのか。
……何となく、レナが神経過敏になっているだけのようにも感じる。
レナは、あの日以来、心にショックを受けたまま癒しきれずにいる。
……だから、自分の身辺に警察《けいさつ》か何かが迫っているように、思い込んでしまっているんじゃないのか?
取り合えず、レナが言うのには余計な口を挟まずに聞きに徹した。
……対応は正しかったと思う。
あそこで、そんな馬鹿《ばか》ななんて言ってたら、レナは二度と俺を信用しなかったろう。
その時、ぎょっとした。
白いワゴン車が路肩に止まっていたからだ。
さっき通り過ぎたワゴン車のナンバーは見ていないから、同じ車だという保証はない。
でも、……中に乗っている人の数とか雰囲気とかは、…確かに似ていた。
それに、ちょっと不審な点もあった。……ここに停車する必然性がなかったからだ。
ここは林の中の小道だ。
辺りには何にもない。
信号機だってないし、自動販売機も公衆電話《でんわ》もない。
それは、普通なら気がつかないような違和感だった。
…だが、こうして一度気付いてしまうと、確かにそれは異様だった。
ワゴン車の中には、作業服姿のような男たちが4人ほどいた。
……運転席の男は煙草を吸っているが、それ以外の男たちは基本的にぼーっとしているだけ。
休憩とか一服とかなら、もう少しマシなところがあるはずだ。
もちろん、トイレがどうしても我慢できなくなって、ここで急停車をしたという可能性もあるのだが、……その気配ともまた違った。
彼らには休憩時に発する独特の弛緩したムードがない。
来るべき何かにずっと備えているような、緊張感が感じられた。
……まさか、レナがここにやってくるのを待ち受けているのか…?!
まさかまさか、…そんなことはあるものか。
……確かにここはひと気もない。
この道は裏道みたいなものなので、人通りは滅多にないし、車などさらに滅多に通るものじゃない。でもでも……そんな馬鹿《ばか》な………。
……レナには悪いが、………多分、これはレナの被害《ひがい》妄想《もうそう》か何かだ。
リナたちを殺したことを仲間《なかま》に知られたショックで、ナーバスになっているレナが感じている妄想《もうそう》だ。
ワゴン車の脇を通った時、突然その声が聞こえた。
面識のない自分に話しかけるわけもない。
だからその声は、きっと車内の誰かに話しかけたものに違いないと思った。
だから聞こえなかったふりをして、そのまま通り過ぎようとした時、もう一度、声をかけられた。クラクション付きで。
「兄ちゃん、すまんね。学校の帰りかいね?」
村人の年配者特有の強い訛りがあった。村人だろうとは思うが、面識はなかった。
向こうも、自分のことを名前で呼ばないことから面識がないことをうかがえた。
「……はい、…そうですけど。」
「兄ちゃん、学校からこの道をずっと歩いてきたんね? ちょうど文房具屋の角を曲がってぇ、」
「そうですけど。…何か?」
彼らは道に迷ったんだと思った。
…この村って、変に近道をしようと思って、慣れない道を入ると、結構、変なところに迷い込むからな。だから、誰か村人が通りかかったら道を聞こうと思っていたに違いない。
……そう思おうとした矢先だった。
「兄ちゃんさ、この道の途中で女の子に会わんかったかいね。」
「え、………あの、………え…?」
「白い帽子に白い服を着た女の子なんよ。紫のリボンも付いとん。会わんかったかいね。」
それは紛れもなくレナを示したものに違いない。
「……い、…いいえ…! 会ってないです……。」
心の準備がまったくなかった。
…いや、むしろ俺は怯えていたのかもしれない。
だから、信じられないくらいに上擦った声を出してしまった。
たった今まで、レナの話を疑っていた。馬鹿《ばか》にしていた。実は笑い捨てていた。
だからこそ、これ以上なく心の虚を突かれたのだった。
……心臓がバクバクと高鳴り、全身に脂汗《あせ》が浮く。
とっさに「いいえ」とは答えたものの…。
………いかにも嘘をついたように聞こえたかもしれない。
運転席の作業服の男が、じぃっと俺の目を覗きこんでいた。
俺の答えが、嘘か真実か測っているように見えて足がすくむ…。
しばらくの間、俺は、蛇に睨まれたカエルのように身動きすることができずにいた…。
だが、それは男にとっても同じだったかもしれない。
明らかに不審である自分たちが、村人に対し、女の子がいなかったかと突然問い掛けたのだ。怪しまれないわけはない……。
そしてその想像は当ったと思う。
先に口を開いたのは男の方で、聞いてもないのに言い訳的なことを口にしたからだ。
「……あぁん、そんな深い意味はないんね。さっき、女の子を追い抜いたのによ、来たのが男の子だったから、あんれぇ…と思っただけなんね。」
「そ、…………そうですか…。」
「忘れてぇな。ごめんな兄ちゃん。………うちら、もう行くんて。」
男はそう言いながらエンジンをかけると、そのまま走り去っていった。
走り去った後には何も残らない。
そう、何もない。
……ここに彼らが止まっていた理由は、何もなかった。
……じゃあ、……………さっきのあいつら、…………ほ、…本当にレナを………?!
■幕間
TIPS
8■昼の出前リスト2
また、父親に関しても注意を払う必要があります。
父親も離婚《りこん》を経験して少なからずの精神的打撃を受けている上、患者に親身になろうとする余り、感応性妄想《もうそう》性障害を起こす可能性があります。
メンタルケアの第一歩として、相手の話を充分に聞き、頭ごなしに否定しないことは初歩の初歩でありますが、特に家族の場合、これによって感応してしまうことが少なくありません。
また、寄生虫《きせいちゅう》妄想《もうそう》症は感応を起こすことが広く知られており、時に1つのコミュニティ全体に広がることも少なくありません。
(よって複数人から訴えがあったとしても、必ずしも寄生虫《きせいちゅう》が存在するとは限りません。保健所などへの害虫駆除の訴えにはしばしば、こうした集団妄想《もうそう》が含まれます)
しかも今回のケースでは、共有される妄想《もうそう》の内容が非常に過激であるため、最悪の場合、寄生虫《きせいちゅう》の治療と称して、感応者同士が異常な方法で相互を傷付けあい死に至らしめる、もしくは悲観して心中するなどの行為に走ることも考えられます。
また、この感応性妄想《もうそう》性障害は、二人組精神病の呼び名もあり、親身な相方に対して特に強い感応性を示します。
患者に接する人間には、患者が現在治療中であることを理解させ、妄想《もうそう》に感応しないよう充分に注意を促す必要があるでしょう。
なお、感応しやすい人間としては、家族、もしくは恋人のような親身になってくれる人間が挙げられます。
8日目
■レナと電話《でんわ》
「すまなかったレナ。……俺はどこかでレナの話を疑ってたよ。本当にすまない。」
「うぅん、いいよ圭一《けいいち》くん。…………そのお陰で、待ち伏せをやり過ごせたんだしね。」
「あいつらは何者なんだ?! ………その、……オヤシロさま信仰《しんこう》を復活させようとする、狂信者の集団の手先?!」
「…彼らにはそういう自覚はないと思う。彼らを操っている黒幕はそうなんだと思うけどね。……多分、ダム戦争の当時から、陰で様々な工作をしてきた連中なんだと思う。」
「………ダム戦争の最中に、園崎《そのざき》家が裏で色々と暗躍したーって話は、俺も少しは聞いたことがあるな。」
「うん。有名な話だよね。……これは大石さんに聞いたんだけど。ダム戦争の最中に、誘拐事件があったんだって。これも秘密《ひみつ》の事件なんだけど、……なんでも、建設大臣の孫を誘拐して、ダム建設中止の約束を裏取引したんだって。」
「大臣の孫を誘拐?! おいおいそんなの聞いたことないぞ!」
「大臣が犯人との取引に応じる姿勢を見せたため、事件を公にしないことになったんだって。大石さんは当時、その事件に関わったから知ってるんだって。」
「………うんうん。……それで…?」
「大石さんが言うには、孫の誘拐や大臣の脅迫などの手口は、恐ろしいほどに高度だったんだって。その事件は、園崎《そのざき》家が命令を下したことだけはわかっているけど、結局、未解決なんだって。……当時、園崎《そのざき》家の頭首である園崎《そのざき》お魎《おりょう》は、武装闘争の方針を打ち出していて、配下である暴力団組織の中に特攻隊を組織したそうなの。ダム計画の撤回がどうしても望めない時は、建設省に突入して武力制圧しようなんて、そんな物騒な計画を本気で練っていたらしいの。」
ダム戦争の当時、園崎《そのざき》家が本当に戦争紛いの違法行為で抵抗したのは有名だ。
だから、そんな物騒な計画があったとしても不思議はなかった。
実際、どことなく魅音《みおん》っぽいセンスも感じる。
「結局、その計画は計画のままで終わったんだけど、それを実行するための特攻隊の訓練というのは行なわれていて、相当高度なものだったらしいよ。」
ダム戦争が終結した直後に大石が掴んだ情報だった。
当時、お魎《おりょう》は、仮に村がダムに沈むことになったなら、同盟員全員は自宅に残ったまま湖底に沈むことを選ぶとまで言い、鬼ヶ淵《おにがふち》死守同盟総自決とまで言い切っていた。
そんなお魎《おりょう》だからこそ、建設省武力突入作戦は笑い飛ばせる話では到底なかった。
大石が掴んだ情報によるならば、この計画はダム戦争の激化と同時に、抵抗が及ばなかった際の、最後の自決作戦として立案されたという。
そして、実際にその作戦を起こせるだけの武器の調達と人材の訓練を行なったらしい。
暴力団関係者から選抜された特攻隊は、お魎《おりょう》からの莫大な訓練費用を得て渡米。
南部の砂漠地帯で、退役軍人などから高度な軍事訓練を受けたという。
計画こそ実施されなかったが、この特攻隊は、帰国して園崎《そのざき》お魎《おりょう》直轄の暗殺部隊となり、未解決の脅迫事件多数に関わり、大臣の孫の誘拐にも成功したのだという。
「……う、……嘘みたいな話だな…。」
「魅ぃちゃんがよく、ヘリの操縦から無線機まで何でも出来る…みたいなことを言うでしょ? あれは本当。魅ぃちゃんも当時、その訓練に参加してるらしいよ。」
「じゃああいつ、……ほ、本当に…!」
「…ま、魅ぃちゃんの話はともかく。この雛見沢《ひなみざわ》には、大臣の孫すらも誘拐できるだけの暗殺部隊が存在するってことだけは、疑っちゃだめ。」
……今日のワゴン車に乗っていた4人の顔をしげしげと見たわけじゃないが、……言われてみれば、どことなく、その手のプロっぽい雰囲気がした。
ただ休憩してるだけのはずなのに、常に緊張感みたいなものがあるのを感じた。
「それで………あいつらはレナの命を狙っているのか…?!」
「……多分、狙ってはいないと思う。殺すだけだったら、私、もう殺されてるよ。」
「じゃあ…狙いは………、……まさかあれか。……鷹野《たかの》さんのスクラップ帖…。」
「圭一《けいいち》くんが見た通り、連中は相当、警戒心が強いみたいで、隙を見つけない限りは強引な手段に訴えてこないみたいなの。…だって、強引な連中なら、私の自宅の寝込みを襲えばいいんだから。」
「それをしないってことは、………結構、慎重だってことになるな。」
「多分、私がスクラップ帖を持っているという確信がないからだと思うの。彼らは三四《みよ》さんを殺し、持っていたスクラップ帖を全て処分しようとした。……ところが、一番重要な数冊が抜けていた。それで、自分が狙われているのを察して、誰かに預けたんじゃないかと考えてるんだと思うの。その有力候補が私なんだと思う。………でも確証がないから、強引な手段に訴えられないんだろうね。」
「……………レナ……、…お前、……かなりヤバい橋を渡ってるんじゃないのか…。」
「そうだね。…ちょっと怖いかな。でも、…そう簡単には消されないよ。私は大石さんと連携している。有事の際に備えて常に連絡を取り合っているしね。」
「そうだ、大石さんはどう言ってるんだよ。」
「大石さんも園崎《そのざき》家が何らかの暗躍をしていないか監視してくれてるよ。」
「……鷹野《たかの》さんのスクラップ帖の話はしたのか?」
「うぅん。………話してない。」
「警察《けいさつ》には話した方がいいだろ…。それに警察《けいさつ》なら、きっと力になってくれるぞ…!」
「…………圭一《けいいち》くん。私は君にだって、信じてもらえるか自信がなくて話せないでいるんだよ。………大石さんに話したって、絶対に信じてもらえるわけがない。」
「なぁレナ。もう煙に巻くのはなしだ。話してくれ。一体、何なんだ? 何がスクラップ帖に書いてあるんだ? 三四《みよ》さんが消されるほどの何が書いてあるんだ?!」
「簡単に言うと、……………このスクラップ帖に書いてあることが事実なら、彼らの神が貶められることになるの。」
「神を、……貶める……?」
「そう。オヤシロさまの、神聖《しんせい》性が失われてしまう。だからオヤシロさま信仰《しんこう》を復活させようとする彼らは絶対に伏せたいと思っているの。」
「すまんレナ、もう少しわかりやすく言ってくれ。つまりどういうことなんだ…?」
「つまり、オヤシロさまは神さまじゃないってことなの。」
「……………神さまじゃ、ない?」
何を根拠にそうだと断じるのかはわからないが、どういう内容であれ、オヤシロさまを狂信的に信仰《しんこう》する連中にとっては、神を冒涜する内容でしかない。
「オヤシロさまの教えって、いくつもあるけど、その原点はたったのひとつしかない。それは『中から出るな』『外から入るな』というもの。この大原則を守るために、その他の教義を発展させたと言ってもいいくらい。隣人を愛せとか、家内安全とか縁結びの神さまなんてのは、本当に後から取ってつけたものでしかないの。」
つまり、オヤシロさまは、村人を外へ逃がさないことだけを目的に存在していたのだ。
そこには、人々に恵みを与えたり、何らかの災厄から守ってくれたりというご利益は存在しない。
そんなものは、後世の人間が後付けにした装飾に過ぎない。
そもそもオヤシロさまはなぜ降臨したのか。
それは鬼ヶ淵《おにがふち》の沼より鬼が湧き出し、人々を襲ったからだ。
「実は、……この時点で解釈が違ってたの。鬼が湧き出して襲ったんじゃない。湧き出したものにやられると、人々を襲う鬼になるの。」
「………湧き出したもの…? ど、どういう意味だよレナ…。」
湧き出したものは、人々に取り憑き、血の中に潜り込み人々を支配し、鬼と化したのだ。
人々はこの湧き出したものに抗えず、次々と鬼と化し、他の村人たちに襲い掛かり、鬼を移し、増やしていったのだ。
そう。……それは、沼より発生した奇怪な伝染病《でんせんびょう》。
感染者を凶暴化させる奇怪な寄生虫《きせいちゅう》の大量発生だった。
村人たちは、その大惨事を見て思ったのだ。
沼の底より悪鬼が湧き出し、人々に取り憑いて鬼と化したのだと。
それこそが、鬼ヶ淵《おにがふち》より鬼が湧き出した故事の真実なのだ。
「………確かに、………それだと、伝説をうまく説明できるな…。……じゃあ、…オヤシロさまってのは……ひょっとして、………異国から来た、医者?」
「そうだね。正確には正しくないけど、…そう、医者と呼べる存在。それが降臨して、伝染病《でんせんびょう》を治療したの。でも、それは治療ではなく、対症療法でしかなかった。」
対症療法とは即ち、症状を軽減させるだけの根本的でない治療法を指す。
……つまり、村人たちは、症状を抑えることはできたが、自らの内に住まう寄生虫《きせいちゅう》を駆逐することはできなかったのだ。
やがて、村は二つに分かれる。
すでに感染している人間と、まだ感染していない人間だ。
完全な治療方法はなく、対症療法によってその凶暴性を抑えられているだけの人々に対する差別の目は厳しかった。
彼らを全て沼に追い立てて殺してしまおうという意見も出た。
だが、感染者を皆殺しにしたところで、根本的な解決にはならない。
病原体《びょうげんたい》である寄生虫《きせいちゅう》は鬼ヶ淵《おにがふち》沼を始めとした水源地から湧き出す。
全て埋めることはできないし、水源地を埋めれば、村の生活基盤は壊滅する。
それに、先祖代々の墓のあるこの地を捨てる選択もまた苦々しいものだった。
「オヤシロさま」の力があれば、感染者も異常な症状を出さずに生活できる。
そこで人々は、感染者も非感染者も分け隔てない生活を続けていくことを選び、寄生虫《きせいちゅう》と共生する生活を受け入れた。
「オヤシロさま」は村人たちのその決断を喜び、この地に留まって彼らの治療を続けていくことにした…。
「……それが、オヤシロさまがこの地に留まり、人と鬼の生活を見守った…、の真相か……。」
「うん。そしてオヤシロさまは、感染者である村人たちに、症状を出さないために掟を作った。その最大にして唯一のものが、村から出てはいけない、外から人を入れてはいけない、だったの。」
「外から人を入れてはいけないってのはわかるぜ。…感染者を増やさないためだろ。でも出てはいけないってのはどういう意味なんだ?」
「寄生虫《きせいちゅう》たちは、気候や風土の関係で、この雛見沢《ひなみざわ》の地でしか生きられないらしいの。だから、宿主である感染者がこの地を離れようとすると、強い症状を出してそれを妨害するの。……その妨害こそが、いわゆる『オヤシロさまの祟り《たたり》』の正体。」
感染症の最大の特徴は、錯乱や凶暴性だった。
その様はまさに「鬼」であり、鬼ヶ淵《おにがふち》村の人々を「鬼」と例えるのに充分なインパクトがあったという。
だから、不用意に村に立ち入り、感染した旅人を逃がすわけには行かなかった。
感染者は遠方の地でやがて錯乱し、凶暴な鬼と化して惨事を引き起こすに違いないからだ。
だから、感染者を村の外に出さなかった。
出たなら、是が非でも連れ戻した。
それこそが、「鬼隠し《おにかくし》」の正体。
「ちょっと待てよレナ。……だとしたら、俺やレナも、村人はみんなその病気に感染してることになるよな? でも俺たちは雛見沢《ひなみざわ》を離れたって別に何の問題もないぞ? 実際、村人にも結婚したりして遠方に住んでる人も少なくないらしいじゃないか。雛見沢《ひなみざわ》をちょっと離れたからって、錯乱して鬼と化したなんて聞いたことないぞ。」
「そう。それはまさに、オヤシロさまの目論見通りにことが進んだからなんだよ。意味がわかるかな。この村を長い間、封印してきたのは、寄生虫《きせいちゅう》の害を弱めるためなの。」
寄生虫《きせいちゅう》にとって、宿主は大切な存在であり、宿主に何かあれば住まう彼らも運命を共にすることになる。
つまり、錯乱して他の人間を襲ったりなどすれば、その感染者は結局のところ召し捕られ、共に殺されてしまう。
「………そうか、……自然淘汰か…!」
「さすが圭一《けいいち》くん。……そう。この地で長く生活を重ね、厳しい戒律で生活を続けた結果。寄生虫《きせいちゅう》に対し過敏な人間は錯乱して結局、殺された。また、感染者を錯乱させてしまうような強過ぎる寄生虫《きせいちゅう》は、これもまた錯乱した宿主と共に殺された。その結果、寄生虫《きせいちゅう》と人間は互いに相性がいい種だけが残っていった。……これこそが、オヤシロさまの伝説が伝える、鬼と人の血は混じり合ったことの真相。」
「じゃあ……、つまり、その寄生虫《きせいちゅう》は…ほとんど無害なわけなのか。」
「うん。三四《みよ》さんのスクラップ帖によると、そういった、無害な寄生虫《きせいちゅう》に感染しているケースというのはかなり多いんだって。食文化にもよるけど、例えば生肉を食べる国では国民の8割くらいが感染している例もあるんだって。でも、共生できてて人体にまったく無害だから、だれも治療しない、気付かない。だから撲滅もされない。」
「……………な、……なるほどな…。」
「太古の綿流し《わたながし》はね、実はハラワタ流しと書く、物騒なものでね。錯乱した犠牲者の臓腑を食らうものだったの。でもこれも、必要なことだった。」
「………感染して犠牲になった人を食らう…。………まさか、………ワクチンとか?」
「あはは、圭一《けいいち》くんはやっぱり頭がいいね。うん、三四《みよ》さんもそう読み解いてる。伝説では、犠牲者を生きたまま解体して食らったなんて物騒なことになっているけど、実際はそんな野蛮なものじゃなくて、もっともっと医学的に取り扱われていたらしいの。強過ぎる寄生虫《きせいちゅう》のせいで死んだ犠牲者からワクチンを作り出し、同時に村人の抵抗力も高めていった。」
「…………オヤシロさまってのは何者なんだよ一体。……医学。…医学先進国っていうと、………ドイツか? 正体はひょっとして……難破して流れ着いた外国人医師?!」
「多分、圭一《けいいち》くんの答えが一番一般的だと思う。……ドイツ人ではないんだけど、取り合えず医者的な存在であったのは正解。」
「古代の伝説の秘密《ひみつ》が明かされていくっては……何だか面白いな。…へへへ。」
この頃には、レナの話を突拍子もないとは思っていなかった。
確かに次元のぶっ飛んだ話だが、この村にまつわるあらゆる伝説をこれほど説明できる仮説はなかった。
「……………その寄生虫《きせいちゅう》、多分、俺も感染してるんだよな…? 何だか体中が痒くなってくるぜ…。」
「人間だってひとつの宇宙だよ。体の中には無数の細菌《さいきん》たちが住んでいる。その中には私たちの生活には欠かせない有用な細菌《さいきん》たちも少なくないんだよ。」
「あぁ、よくヨーグルトとかのCMで言ってるよな。……確かにそうだ。」
「これも三四《みよ》さんの受け売りだけど、…例えば、シロアリっているでしょ? 木材を食い荒らしてしまうアリ。実はシロアリって、木材を消化できないんだって。体内に寄生している特殊な細菌《さいきん》が、食べた木材の繊維を分解してくれて、その結果、シロアリは木材を吸収できるんだって。これも寄生虫《きせいちゅう》と共生している一例だね。」
それは知らなかった。
……寄生虫《きせいちゅう》という言葉を聞くと、生理的嫌悪感を感じてしまうが、必ずしも悪いものばかりではないわけだ。
「だから、太古の昔に鬼ヶ淵《おにがふち》沼から突如発生した奇怪な伝染病《でんせんびょう》は、今ではほぼ根絶されたと言っていい。……根絶じゃないね。無害になった、というべきだね。」
「最初はとんでもない話だと思ってたけどさ、……こうして種明かしがされると、何だかサイエンスな感じがして、ちょっと面白い話だよな。」
「私たちには面白いよ。…でも、オヤシロさまを神として崇める人たちにとっては、これはとても不愉快な説。」
当然だ。
……鷹野《たかの》さんのこの説が正しいなら、オヤシロさまは神さまでも何でもない。
しかも、神罰《ばつ》として恐れてきた「オヤシロさまの祟り《たたり》」は、神の業どころか、単なる伝染病《でんせんびょう》の発症だったことになる。
なるほど、…………これが、最初にレナの言った、「神を貶めることになる」という意味か……。
「……だとすると、……もしこの伝染病《でんせんびょう》の病原体《びょうげんたい》を特定して世間に発表されるようなことがあれば、……信仰《しんこう》は破綻しちまうな。」
※ここで今度はレナサイドに移行。文字の色がレナ色に染まるよーーー
「そう。それこそが彼らの一番恐れることなの。そして三四《みよ》さんは、その病原体《びょうげんたい》を特定しようとしていたらしい。………その三四《みよ》さんが消されたということは………、」
「特定できたってことか…!」
「かもしれないね。……三四《みよ》さんはもういないし、彼女のスクラップ帖にも特定できたとは書かれていない。でも、消されるに値する理由が他に思いつかないの。」
「でもよ、……二十世紀ももうすぐ終わろうっていう現代だぜ。村人だっていろんな医療機関で検査を受けてきたはずだ。なのに、そういう怪しげな寄生虫《きせいちゅう》が摘出されたって話はないんだろ?」
「うん。確かに病原体《びょうげんたい》そのものは未だ発見されていない。でも確かに何かの寄生を受けていることの信号だけは確認されているんだって。」
「な、……なんだって……! 本当かよ…!!」
人体は寄生虫《きせいちゅう》の侵入を受けると、EosinoやMacrophegeと言った免疫細胞でそれを駆逐しようとする。
そのための信号としてimmunoglobulin_E.(以下IgE.)という抗体を分泌する。
この抗体の分泌量を見て、人体が病原体《びょうげんたい》の寄生を受けているかどうかを調べるのが一般的だ。
鷹野《たかの》の研究《けんきゅう》によるならば、この抗体は、雛見沢《ひなみざわ》出身者の血中からは平均を超える高い量が検出されるという。
それだけではない。
雛見沢《ひなみざわ》出身者はこの抗体が単に多いだけでない、さらに明白な寄生の証拠《しょうこ》があった。
それはアレルギー反応がないことによる。
IgE.はマスト細胞を刺激し、その結果、分泌されるHistamine.、Serotonin.はアレルギー反応を起こすことでも知られている。
この反応は人間にとって不快なものだが、人体にとっては病原体《びょうげんたい》を駆逐するために起こす、止むを得ない反応なのである。
だが寄生虫《きせいちゅう》は、これによって駆逐されることを逃れるため、IgE.を不活性化させる物質を分泌する。
この結果、不活性化したIgE.はマスト細胞のIgE.レセプターを刺激せず、刺激物質を分泌しない。
その結果、抗原抗体反応であるアレルギー反応が発生しない。
つまり、寄生虫《きせいちゅう》の寄生を受けた人体は、IgE.を多く分泌し、かつアレルギー反応を起こさないのだ。
余談だが、そのため、寄生虫《きせいちゅう》の寄生を受けた人体は、花粉症にも無縁だ。
花粉症のメカニズムは、花粉を寄生虫《きせいちゅう》の侵入だと誤解した人体がIgE.を大量に分泌することで起こる。
その結果、Histamine.等の刺激物質が大量に分泌するのだが、元々やっつけるべき寄生虫《きせいちゅう》が存在しない。
そのため、人体は延々とIgE.を分泌し続ける。
その結果、延々と分泌される刺激物質が、延々とアレルギー反応を起こし続けるのである。
だが、寄生虫《きせいちゅう》がいるならば、彼らがIgE.を不活性化してくれるため、刺激物質の分泌が抑えられる。
その結果、アレルギー反応は起こらないわけだ。
つまり、この論法によるならば、雛見沢《ひなみざわ》には花粉症はないし、花粉症に悩む人は雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してくれば治ることになる。
「……つまり、特定はできなくても、その存在だけは疑いようがないってわけだ。」
「うん。そうなるね。」
「だとすると、……そのスクラップ帖は、狂信的な連中にとっては充分危険な存在だな。例え特定できなくても、存在を証明してる時点で充分に危険だと思うぞ。」
「そうだね。例え証拠《しょうこ》にはならなくても、……彼らにとっては三四《みよ》さんを葬るに値する危険性があったと思う。」
「確かに………恐ろしい秘密《ひみつ》だな。ちゃんと説明してもらえば理解できることだが、……いきなり聞いたら刺激が強過ぎる話だぜ。」
「でしょ?! だから私も最初は信じられなかったし、圭一《けいいち》くんに話しても信じてもらえないと思った。」
「……で、大事なのはその事実を隠蔽しようと、暗躍してるヤバい連中がいるって方なんだよな。」
「そう。今、大事なのはそっちの方。」
オヤシロさま信仰《しんこう》の狂信者たちにとって、彼らの信仰《しんこう》する神の神聖《しんせい》性の復活は大前提だ。
神の威光を復活させることは即ち、神の力を復活させることを意味する。
神の力とはつまり、……伝染病《でんせんびょう》のことだ。
…伝染病《でんせんびょう》って言っても、全国へ際限なく広がってるわけじゃないもんな。
ここらで言い方を風土病《ふうどびょう》と改めよう。
この地域限定のものだし、この方がしっくり来る。
さて、現代の雛見沢《ひなみざわ》の風土病《ふうどびょう》は太古の昔のものとは異なる。
長い時間をかけて淘汰され、ほぼ沈静化し無害なものとなったからだ。
無害ということは人体に害がない。
害とはかつて「祟り《たたり》」と読み解かれていたはずだ。
「祟り《たたり》」こそは「神の力」なのだから、害のない風土病《ふうどびょう》となった今、神の威光は地に落ちていると言っていい。
ということは、「祟り《たたり》」を取り戻すことが即ち「神の威光」を取り戻す道ということになる。
それはつまり太古の風土病《ふうどびょう》、害の極めて強い寄生虫《きせいちゅう》を復活させるということだ。
「ちょっと待てよ! 狂信者たちは神が実は寄生虫《きせいちゅう》だったなんてことは否定したいんだろ? なのに寄生虫《きせいちゅう》を研究《けんきゅう》するのかよ? 矛盾してないか?」
「矛盾しているよ。だから、この研究《けんきゅう》は狂信者たちのトップだけが知る秘密《ひみつ》の研究《けんきゅう》なんだと思う。彼らは表向きは信仰《しんこう》を盛り上げているけど、その裏では信仰《しんこう》の正体について極めて冷静に理解していて、神の業を自らの手で復活させようとしている。」
「………なるほどな…。……おいおい…、何だかとんでもない話になってきたぞ…。」
「三四《みよ》さんのスクラップ帖にはそうとは一言も書かれてないんだけど、……私、監督の診療所って怪しいと思うの。」
「入江診療所が? ……どうして!」
「雛見沢《ひなみざわ》の規模から見て、施設が立派過ぎるのがその理由。そして、三四《みよ》さんはそこに勤めていた。監督は、園崎《そのざき》家にスカウトされてきた細菌《さいきん》学者が正体とか……。」
「……か、…監督がか…?!」
「三四《みよ》さんは余計なことを知りすぎたから消されたんだと思うの。なのに監督が消されない理由は、監督は狂信者たちに依頼されている立場だから。」
「そして……、太古の有害な風土病《ふうどびょう》を研究《けんきゅう》してるってのか……? あの…監督が。」
「…ごめん。監督は無関係かもしれないね。今のは私の思いつき。でも、研究《けんきゅう》は間違いなくどこかで誰かにさせている。そして、その研究《けんきゅう》には5年かかり、ついに完成を見た。」
一番最初の事件は、現場作業員たちのバラバラ殺人。
口喧嘩から殺し合いに発展したその事件は、太古の危険な寄生虫《きせいちゅう》の感染による症状、錯乱・凶暴化の発症なのではないか。
2年目の事件は沙都子《さとこ》の両親。
目撃者がいないから謎に包まれているが、転落した展望台の柵の強度から、誰かに柵ごと押されて突き落とされたのではないかという説もある。
もしそれが、太古の寄生虫《きせいちゅう》の感染によって、どちらかが凶暴化して突き落としたものだとしたら?
3年目は神主の病死とその妻の入水自殺。
神主は過敏に反応し過ぎてのショック死だったのではないか。
妻の入水自殺は凶暴化ではなく、もうひとつの症状、錯乱で説明できるように思える。
4年目は、…おそらくは北条《ほうじょう》悟史《さとし》による叔母撲殺。
悟史《さとし》くんの変わり様は当時を知っている人間なら誰だって覚えている。
それは、錯乱・凶暴化の両方の特徴を示すものだった。
そして5年目。
ついにこの5年目で初めて、犠牲者は古手《ふるで》神社に伝えられる不出の古文書に伝える、「うじ湧き病」までを再現できたのだ。
その理由は不明だが、太古の害の強い寄生虫《きせいちゅう》には、感染者にうじが湧くように感じられる妄想《もうそう》を与えられたのかもしれない。
つまりそれは、5年目にしてついに、古文書に記されるほどの太古の症状、「オヤシロさまの祟り《たたり》」を再現できたということなのだ。
5年目の犠牲者である富竹《とみたけ》さんの異常な死に方は、同じ体験をした私にだけはわかる。
傷口から湧き出すうじ虫を掻き毟り続け、その結果、死に至ったのだ。
ここまで説明がつけば、私が茨城の最後で体験した異常な「うじ湧き病」の体験も全て説明できた。
私は雛見沢《ひなみざわ》を遠く離れ、害がほとんどなくなったとは言え、寄生虫《きせいちゅう》たちに不快感を与えていた。
その結果、彼らは微弱な抵抗を示し、微弱なホームシックを私に与えていたはずだ。
だが、私は母の離婚《りこん》を向かえ、精神的なショックを被り、心の抵抗力を一時的に完全に失ってしまった。
そのため、本来は害を成さないくらいに無害なはずの彼らが、私に劇症的な症状を発症させたのだ。
その結果が、私の錯乱と凶暴化だったのだ。
…あの浴室でのオヤシロさまの降臨の幻想は、多分、末期的な神秘体験なのだろう。
私は幼少時に刷り込まれたオヤシロさまという超常存在の幻を生み出し、雛見沢《ひなみざわ》に帰れと自らを妄想《もうそう》で説得したのだ。
きっと、太古の鬼ヶ淵《おにがふち》村の仙人たちにも同じような体験をしたものがいたのではないだろうか。
その神秘体験を神の奇跡として語り継いだに違いない。
確か、自然界の麻薬成分を呷って、自ら異常な状況に落ちることで神秘体験を得て、それを神との交信と称する儀式《ぎしき》が、南米の原住民に伝えられていたなんてのを、民放の特番で見たことがある気がする…。
「じゃあ、……狂信者どもの目的は…、その太古の寄生虫《きせいちゅう》を雛見沢《ひなみざわ》中にバラまくことなのか!」
「多分、それが最終目的だと思う。でも、人知れずにそれをやることはないと思うの。宗教にはセレモニーが必要だから。だからもし、彼らが望むものを生み出せて、それをバラまく日が訪れたなら。……彼らは多分それを『オヤシロさまの復活の日』とでも称して、宗教的《しゅうきょうてき》なデモンストレーションをすると思うの。何か特別な儀式《ぎしき》とか、とにかく、オヤシロさまの復活を祝い、知らしめるような盛大な何か。」
「………なぁ、それってよ、……悪いことなんだよな…?」
「危険性の高い病原体《びょうげんたい》をバラまこうというんだから、多分、悪いことに分類されるだろうね。」
「それって、細菌《さいきん》テロって言わないか?! ……お、おい、滅茶苦茶ヤバいことだぞ、おい!! 富竹《とみたけ》さんの死に方がオヤシロさまの祟り《たたり》の再現に成功していた以上、Xデーは間近ってことなんじゃないのか?!」
「わからない。もう秒読みなのか、まだまだ時間のかかることなのか…。」
「もうこれはレナひとりが抱えていい問題じゃないぞ…! かなり笑えない大陰謀だぞ!! 俺たちにはどうしようもない! 警察《けいさつ》に任すほかないぞ!!」
「私が話したこと、警察《けいさつ》は信じてくれると思う?」
「信じるかどうかは向こうが判断するだろ! とにかく話した方がいい…!」
「圭一《けいいち》くん。それを大石さんに私が打ち明けたら、…私がスクラップ帖を持っていることを告白するのと同じなんじゃないかな。」
「…………それって、まずいのか…?」
「大石さんの接触は、三四《みよ》さんが殺された後だった。敵は三四《みよ》さんを殺した時点でスクラップ帖の紛失と、その数日前に私が図書館で出会っていることを知っている。」
「……馬鹿《ばか》な…。つ、つまり……、」
「そう。大石さん自体が、敵の手先である可能性がある。大石さんは私がスクラップ帖を持っている可能性があると当たりを付けていて、探りを入れてきているのかもしれない。実際、彼は胡散臭くて腹を割らない。園崎《そのざき》家を疑わせるようなことを言って、自分は味方だと言ってくるけど、彼だってその園崎《そのざき》家の手先かもしれない。」
「け、……警察《けいさつ》を疑い出したらおしまいだぞ…。」
「圭一《けいいち》くん、4年目の撲殺事件を知ってるよね? 沙都子《さとこ》ちゃんの叔母さんが殺された事件。あれは犯人は悟史《さとし》くん以外に考えられないんだけど、……その後、犯人は麻薬中毒者だったということになった。これをどう思う?」
「…………警察《けいさつ》内部に狂信的な連中の手先が混じっていて……、犯人を捏造したってことか…?!」
「3年目の神主さんの病死の検死とか、2年目の北条《ほうじょう》夫妻の事故現場の検分とか。……警察《けいさつ》がもしも彼らの片棒を担いでいるなら、数々の完全犯罪《つみ》が可能になる。雛見沢《ひなみざわ》御三家《ごさんけ》はダム戦争時から今日に至るまでもずーっと、警察《けいさつ》への圧力を維持しているんだよ。…それに興宮《おきのみや》の町のいろんなところに一族が進出して実権を握っているというのは、魅ぃちゃんから聞かされたことがあるんじゃない?」
「た、…確かに。それは魅音《みおん》の口からだけじゃない。色んなやつの口から聞かされた。魅音《みおん》の園崎《そのざき》家が、どれだけ市内全域に強力な影響力を持っているかってのをな…。」
「……………そういうこと。警察《けいさつ》は、この土地では必ずしも信用できない。」
「なぁレナ、すまん! 先にはっきりさせたいんだが、……黒幕は園崎《そのざき》家なのか?! 魅音《みおん》も関係があるってのか?! それだけは先に聞かせてくれ!」
「……御三家《ごさんけ》である魅ぃちゃんや梨花《りか》ちゃんが直接関係しているかはわからない。ただ、狂信的な勢力が、御三家《ごさんけ》や、一番の有力家である園崎《そのざき》家を自由に動かせる中枢部に根付いているのは間違いない。……狂信的な勢力が根付いたのか、御三家《ごさんけ》の中枢が狂信的なのかはわかりかねるけどね。」
「関係あるかどうかわからない以上、…用心に越したことはないってわけだな…?」
「うん。………魅ぃちゃんたちのことを疑うわけじゃないよ。普段の魅ぃちゃんは頼もしいし、私も他の心配事なら、打ち明けて助力を求めることもあると思う。ただ、今回のことはちょっと話の次元が違う。……圭一《けいいち》くんは見たことあるかな。魅ぃちゃんは普段はふざけているけど、園崎《そのざき》家の次期頭首として振舞う時は、ものすごく冷酷で別人みたいに振舞えるの。……それに、もし無関係だったとしても、それならばやはり、耳に入れることで危険に巻き込むことにもなるんじゃないかな。」
「魅音《みおん》たちが味方になってくれればかなり頼もしいぞ…! 俺は打ち明ける価値があると思うんだが……。」
「だからそれは駄目! 敵ではないと確認が取れるまでそれは避けるべきだよ。味方にできれば確かに心強いけど、そうでなかった時はどうするつもり?!」
「じゃあ…、俺とレナだけでどう戦うつもりなんだよ?!」
「うん。もともと最初から絶望的な戦いなんだよ。……だから圭一《けいいち》くんを巻き込みたくなかった。」
「……くそ! ……鷹野《たかの》さんめ、とんでもない置き土産を残してくれたなぁ…!」
「でも、そのお陰でとてつもない陰謀を知ることが出来たんだよ。これは、三四《みよ》さんの遺言なんだよ、きっと。」
「村を陰から牛耳る何者かに、その村に住まうガキンチョ2人が挑むわけだ。……こいつぁ、最高にハードな話だぜ…。一筋縄じゃいかねぇぞ。」
「……でも、……圭一《けいいち》くんが味方でよかったよ。2人だから、話し合えて、相談できる。」
「………………当り前だろ。俺は最初っからずっとレナの味方で仲間《なかま》だぞ…!」
「………うん。……ありがとう。2人なら心強いよ。」
「ひとりで悩むよりは建設的になれるだろうしな!」
「そうだね。2人でどう戦えばいいか、これからじっくり相談していこう。今日は私、スクラップ帖を読み直す時間が欲しかったから休んだけど、明日からは普段通りに生活するね。おかしな行動をすれば、気取られてしまうかもしれないからね。圭一《けいいち》くんも、変に構えないで普段通りに生活してね。魅いちゃんとか時折鋭いことがあるから、特に気をつけて。」
「わかった。何事もなかったかのように生活するよ。………だが畜生、何だか怖いぜ…! とんでもない陰謀が間近に迫ってて、それがもうカウントダウンに入ってるかもしれないってんだぜ。…それを知りつつ普段通りに生活しろってのも、辛い話だよな。」
「多分、そんなにすぐじゃないはずなの。さっきも言ったとおり、彼らが狂信的であればあるほど、宗教的《しゅうきょうてき》なセレモニーを必要とするはず。そういうセレモニーは村を挙げて行なうものだもの。綿流し《わたながし》以上のイベントは今の雛見沢《ひなみざわ》には存在しない。」
「……ということは、………少なくとも来年の綿流し《わたながし》までは、大丈夫ということか?」
「根拠のない読みだけどね。……他に、綿流し《わたながし》以上のイベントが思いつかない。」
…あと1年は最低でも余裕があると思う。
でも、……三四《みよ》さんを殺したことに、何らかの性急さを感じずにはいられなかった。
私が理解していないだけで………「綿流し《わたながし》」を超える、もっともっと絶大なインパクトのある「宗教的《しゅうきょうてき》イベント」が何かあるんじゃないだろうか……?
実は、もう猶予はほとんどないのかもしれない。
恐ろしい寄生虫《きせいちゅう》がバラまかれる「オヤシロさまの復活の日」が、すぐそこまで近付いているのかもしれない……。
「……礼奈《れいな》。まだ電話《でんわ》してるのかー。そろそろ終わりにしなさい。」
居間から父が顔を出し、もう遅い時間だから電話《でんわ》は終わりにしなさいと注意した。
父に打ち明けたいとは何度も思った。
肉親がもっとも身近な味方に感じるのは当然のことだった。
だが、……父の弱い面も知ってしまっている私には、打ち明ける勇気は湧かなかった。
父に信じてもらえるとも思えないし、…結局、父だって、警察《けいさつ》に相談する以上の何も思いつかないはずだ。
なら、むしろ話さない方がいい。
敵を欺くには味方からとも言う。
父がスクラップ帖の存在など始めから知らなければ、敵は父をどう籠絡しようとも、何の意味もないのだから。
※圭一《けいいち》目線に戻るよーーーー
「ごめんね圭一《けいいち》くん。今夜はもう遅いからこれで切るね。また明日、学校で。」
「おう、また明日、学校で。」
「……用心してね。圭一《けいいち》くんも、もう部外者じゃないんだから。」
「…お、おぅ。せいぜい気をつけるぜ。」
あの不審なワゴン車の男たちを思い出し、再び背筋に冷たいものが登るのを感じる。
一見、村人のように見えたが、村人じゃなかった。
…村人のような訛りをしゃべったが、装っているだけで村人じゃなかった。
思い出せば思い出すほどに彼らは不審で、……決して自分たちが安全な場所にいるわけではないことを教えていた。
レナの言うとおりなら、彼らはレナを怪しいと思っているだけで、まだ確証を得ているわけではない。……だからといって、薄気味悪くないわけがない!
多分レナは、俺がワゴン車に遭って薄気味悪い思いをしたようなことを、もうすでに何度も繰り返して、その身の危険をより感じているのだ。
だが、……襲ってくるわけでなく、動向を監視されるというのは、とにかく気持ちが悪かった。
こういっては何だが、襲ってきたなら、警察《けいさつ》に訴えるとかいくらでも方法がある。
だけど、身辺に張り付いて監視するだけなら、どうしようもないし、誰にも相談できない。
レナは学校になんか行かず、家に閉じ篭っていたい気分に違いあるまい。……だが、普段と明らかに違う様子を見せたなら、スクラップ帖を持っていることを気取らせてしまうかもしれないのだ。
普段と変った素振りを見せず、……戦う方法を考えなくてはならない。
もう後戻りができないことを自分に言い聞かせると、俺はすでに切れている受話器を置いた。
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8日目_2
■翌日の学校にて
翌日、レナは予告どおり、普段通りを装いながら普通に登校した。
魅音《みおん》とも普通に、楽しそうにおしゃべりをしていると、まるで昨夜聞いた話が嘘なのではないかとすら思えてくる。
それくらいに…………突拍子もない話だった。
この村に、普通じゃ考えられない怪しげな風土病《ふうどびょう》が蔓延していて、…それを利用した怪しげな宗教の復活を目論む狂信者たちがいて。…そして、その風土病《ふうどびょう》の病原体《びょうげんたい》を研究《けんきゅう》していて村にバラまこうとしている…。
昨夜の俺は、すっかりレナに感化されて、あのとんでもない話を鵜呑みにしてしまったが、………こうして日の光の下で冷静に考えると、とてもまともな話だとは思えないのだ。
レナの話した話は、あの胡散臭い鷹野《たかの》さんの受け売りに過ぎず、しかもその内容は全て仮説であり、もっともらしい事を言いつつも、証拠《しょうこ》は何一つない。
………確かに鷹野《たかの》さんが事件の犠牲になっていることは、ある種の信憑性をまとわせるかもしれないが…。
魅音《みおん》を見る。
朝っぱらから殊勝にもレナにちょっかいを出していた。
……魅音《みおん》があんなとてつもない陰謀に関わっているとはとても見えなかった。
「ってゆーか、聞いてないでしょ、圭ちゃん。」
「え?! あ、………あ、……悪い。ごめん聞いてなかった。」
「あっはっはっは!
まぁだ寝惚けたまんまなのかなぁ? 寝不足だとお頭もちゃんと働かないよー?」
考え事をしていて反応の鈍かった俺を、魅音《みおん》がからかう。
………この快活な魅音《みおん》が、信用できないなんてことがあるんだろうか。
俺は、魅音《みおん》を信じる。仲間《なかま》を、信じる。
俺の仲間《なかま》は決してあんな突拍子もない陰謀の片棒なんか担がないはずだ。
そんな陰謀を知っていたら、こうも明るく振舞えるわけがない。
……レナは魅音《みおん》に相談するのは危険だと言って聞かなかったが……。
レナに内緒で、魅音《みおん》に打ち明ける価値があるのではないだろうか。
………もちろん。1%の確率で、陰謀は本当で魅音《みおん》は敵、俺はまんまと墓穴という可能性もある。
だが、あのとんでもない陰謀と、仲間《なかま》のどちらを信じると聞かれたら、そんなのは明白だった。
俺の仲間《なかま》である魅音《みおん》は、絶対に絶対に、あんな陰謀には加担しない。
もし仮に陰謀が実際に存在したとしても、それでも魅音《みおん》は俺たちの味方になってくれるはずだ。
だから、陰謀が実在しようとしなかろうと、魅音《みおん》には打ち明ける価値があるはず…。
「なぁに、圭ちゃん。こんなところに呼び出してー。
それも誰にも内緒で来いなんてさぁ。まさかカツアゲとかそういうのじゃないよねぇ?」
「お前なぁ、体育倉庫の裏に呼ばれたら真っ先にそう思うのかよ…。」
「んじゃー、ラブレターとか? でもそういうのは下駄箱が定番じゃない?」
「都会じゃーそうでもないぞ。直接渡す白兵戦型も少なくない。」
「ふぇ…? じゃ、じゃあ……、あの…、」
「…………なわけねぇだろ。それより、かなり真面目な話がある。茶化しは一切なしで聞いてくれ。」
「……何よ、…どうしたの…?」
「オヤシロさま信仰《しんこう》を復活させようとしている連中がいる……、ってのは知ってるか?」
「…………はぁ? 何、圭ちゃん。何の話?」
これはもちろん、俺の探りだった。
直球を投げて、魅音《みおん》の反応が見たかった。
だが、魅音《みおん》は本当の本当にきょとんとしていた。
……人間は図星を突かれたら、こうも平静は保てない。必ず、わずかな反応を見せるはずなのだ。
魅音《みおん》が天才的な演技者でもない限り、……魅音《みおん》は本当に、オヤシロさまの復活という言葉に縁がないようだった。
……俺は腹を割ることにする。
「魅音《みおん》。お前の家の園崎《そのざき》家って、雛見沢《ひなみざわ》を含め、ものすごい影響力を持ってるわけだけどさ。…………オヤシロさま信仰《しんこう》を復興するため、何か暗躍してるってことは…あるか?」
「……復興? なんで?」
「いや、だからさ。今のオヤシロさま信仰《しんこう》って、大昔の時代に比べたらだいぶ信仰《しんこう》心が薄くなってるだろ? それをさ、大昔の鬼ヶ淵《おにがふち》村のレベルまで引き戻したいと思っている、……いわゆる原理主義者的な連中が、暗躍をしてるんじゃないかって、」
「はい? ちょっとちょっと、何よそれ。何の話なわけ?」
「………本当に、何の話かわからないのか…?」
「わかるわけないよ。何、その全米第一位みたいな、おもしろストーリーはさ。」
魅音《みおん》の反応はとても自然だった。
本当は知っているのに、わざと無知を装っているというようなことはありえなかった。……でも、俺はなおも続ける。
「いや、だから……。そういう連中がこの村にいるらしいんだよ。魅音《みおん》は知らないか?」
「オヤシロさま信仰《しんこう》を、鬼ヶ淵《おにがふち》村の時代のレベルに…? そんなことして何かいいことあるの?」
「……いや、……そりゃあ信仰《しんこう》の厚い狂信的な連中にとっては、とても重要な意味があるんじゃないかなぁ……。」
「だって圭ちゃん。大昔の厳しい戒律の頃に逆戻りって、誰も喜ばないよ? 今のこの現代、村から出るななんて言われたら、生活なんかやってられないって。」
「た、例えばほら、……梨花《りか》ちゃん! 梨花《りか》ちゃんって、何でもオヤシロさまの生まれ変わりとか言ってちやほやされてるらしいだろ? そういった取り巻きの老人たちの中にはきっと狂信的な一派が存在して……、」
「梨花《りか》ちゃんの取り巻きって言うと、公由のおじいちゃんとかのこと?
まぁ…確かに信仰《しんこう》心は厚い方だと思うけど、狂信的ってのはどうかと思うねぇ。」
「いや、だからいるんだよ! 本来のオヤシロさま信仰《しんこう》を再び復活させようとしている輩が!」
「あっはっはっは!
…はいはい。話が進まないからこの場は信じるよ。それで?」
「で、そいつらはオヤシロさまの正体が、この土地独特の風土病《ふうどびょう》にあることを突き止め、その病原体《びょうげんたい》を研究《けんきゅう》しているらしいんだ。」
「どこで?
というか風土病《ふうどびょう》って何? 病原体《びょうげんたい》って何よ。えんがちょー。」
自分でも言っていて何が何だかわからなくなってしまう…。
昨夜の俺は、すっかりレナに感化されて、あの突拍子もない話を鵜呑みにしてしまったが、……こうして自らの口から出してみると、とんでもなく支離滅裂な話だということがわかってくる…。
「どうしたの? 三四《みよ》さんに妙なことでも吹き込まれたわけ?」
「……! …知ってるのか!」
「有名だよ。あの人、オカルトマニアだから、いっつもとんでもない空想話をでっち上げてる。たまに真に受ける人がいると、かなーりヘビーに吹き込むって有名なんだよ。
私も昔、話を聞かせてもらったことがあったけど、結構面白かったなぁ。あっはっは。」
「…………それって、……ホントか?」
「圭ちゃんもどこかで耳にしてるだろうけど、この村は大昔はちょっと特殊な文化があった。それは少し刺激の強い要素のある文化でね、厳しい戒律と厳しい刑罰《ばつ》、残酷な風習は、割とオカルトマニアの間では知られてるらしい。三四《みよ》さんも、そんなマニアの中のひとり。」
「じゃあ……、この村が怪しげな寄生虫《きせいちゅう》に支配されているという話は…、」
「はぁ?! 寄生虫《きせいちゅう》ぅ?!
…それ、三四《みよ》さんの新作?」
「新作ってどういうことだよ。」
「言ったでしょ、三四《みよ》さんはオカルトマニアなの。鬼ヶ淵《おにがふち》村の奇怪な伝説などを研究《けんきゅう》して、あれやこれやの仮説や推理、妄想《もうそう》を楽しんでるわけよ。
だから、その寄生虫《きせいちゅう》に村が支配されてるって説以外にもいろいろ創作してる。私がずいぶん前に聞いたのは、UFO説だったよ。これが結構、辻褄があってて面白いの!
太古の昔に鬼ヶ淵《おにがふち》沼に、UFOが墜落して、そこから出てきた異星人と村人で戦いが起こって…という感じから始まる、B級SFホラーだった。沙都子《さとこ》が聞かされたってのは、地底人説だったかな? 地殻変動によって地底王国と鬼ヶ淵《おにがふち》村の間に接点が出来てしまって、それで何だっけかな、
……そうそう、地底王国のお姫さまと村の若者が恋をして、互いに仲直りをしたっていうSFロミオとジュリエットだった。
んで、最新作がどうやら圭ちゃんの聞かされた寄生虫《きせいちゅう》説ってわけみたいだねぇ。いやいや、いつかそれらを全部まとめて本にしてほしいよ、くっくっく!」
魅音《みおん》はおかしくてしょうがないという風に、お腹を捩りながら笑う。
……それを見てる内に、…俺はとんでもない与太話を真に受けていたことに気がつく。
もう間違いなかった。
…俺は、とんでもない話を信じ込んでいたのだ。
「すまん魅音《みおん》! 俺がこれから聞くことに答えてくれ! まず、……オヤシロさま信仰《しんこう》を復活させようとする連中は実在する?!」
「しないよ。というか、むしろ逆。雛見沢《ひなみざわ》は外部に対してどんどん開いていって、栄えさせていこうということで、御三家《ごさんけ》はすでに意見を統一してる。これはまだ内緒なんだけど、21世紀までを目処にね、新しい高速道路がここいらを通るという計画があるんだよ。園崎《そのざき》家は現在、水面下でその誘致をしててね。うまく行けば、ここいらは一気に栄えることになる。婆っちゃはそれによって、山林の地価が一気に高騰して大儲けできると踏んでるみたいだよ。まぁ、21世紀の仕事だから、それは私が引き継ぐ大仕事になりそうだけどねぇ。」
「じゃあ……、外部の人間を忌み嫌う連中なんてのは…存在しない?」
「だからそんなの存在しないって!
ただでさえ不便な村をさらに不便にしてどうするんだか。
現に、村は今、別荘地として売出しを開始してる。圭ちゃんの家は、まさにその第1号じゃないの。
村人はみんな歓迎してくれたでしょ? 若者の流出を食い止めるため、御三家《ごさんけ》も色々と考えてるんだからー。」
魅音《みおん》の言うことには何の曇りもない。
レナの信じる鷹野《たかの》さんの妄想《もうそう》説とは比べ物にならない真実味があった。
……俺の目が、魅音《みおん》の言葉でどんどんと覚めていく。
「じゃあじゃあ、…えっと、あれはどうだよ、寄生虫《きせいちゅう》の感染の証拠《しょうこ》を示す、血液中の何とかとかいう数値が、雛見沢《ひなみざわ》の住民だけ異常に高いみたいな話が…、」
「そうなの? というか、三四《みよ》さんはそんなのどうやって調べたわけぇ?」
「だって、鷹野《たかの》さんは看護婦だろ、調べる気になればいくらだって…。」
「そんな怪しげな調査のために、誰が血液採取なんかに協力するのー?
誰もしないって。それに、仮に採血をしたって、どこでどう調べたわけ? 三四《みよ》さんがたったひとりで、一体何人の血を調べられたって言うわけ?」
…魅音《みおん》の言うとおりだ。
鷹野《たかの》さんの、看護婦という職業に一方的な妄想《もうそう》を持たせられていたかもしれない。
保健所なんかが大々的に採血して調査をしたというならともかく、鷹野《たかの》さん個人にどの程度の調査ができるというのか。
……こうして理屈で考えれば、…確かに鵜呑みにできるような話では到底ない。
「えっと、寄生虫《きせいちゅう》の寄生の証拠《しょうこ》として花粉症にかからないって聞いたぞ…!」
「花粉症って、都会の病気じゃないの。あれは確か排気ガスと関係があるんでしょ? ここは雛見沢《ひなみざわ》だよ圭ちゃん。というか、多分、興宮《おきのみや》の人にだって花粉症なんてそうそういないと思うけど?」
「えっと、……じゃあ、あれは! 園崎《そのざき》本家頭首直属の暗殺部隊ってのがいて、昔、大臣の孫の誘拐とかをやったんだろ?!」
「あっはっはっは! そんなのがいたらかっこいいねぇ! あっはっはっは!」
………自分でも、なんて滅茶苦茶なことを言ってるんだろうと思えてくる。
……でも、昨日は信じてしまった。
……レナの真剣な様子に、鵜呑みにさせられてしまった。
「大臣の孫が、高津戸の辺りで突然発見されたのは事実。だけれど、あれは私たちじゃない。私たちじゃないけど、それを私たちは、さも自分たちが犯したように振舞ってた。」
「……わかりにくいぞ、説明してくれ。」
「うん。ダム戦争の当時、鬼ヶ淵《おにがふち》死守同盟は相当に物騒な抵抗運動をしていたのは事実。脅迫めいたこともやってのけた。でもね、あの当時、それを利用するやらしい連中もいたらしいの。鬼ヶ淵《おにがふち》死守同盟の名を騙って金品を要求したりする、エセ同盟って連中。」
当時の鬼ヶ淵《おにがふち》死守同盟は相当に攻撃的性格の勢力だった。
その名を騙れば、簡単に恐喝ができるのではないかと思い、どさくさに紛れた連中がいた可能性は充分ある。
「その中に、大臣の孫の誘拐もあったの。おそらく誘拐犯たちは、警察《けいさつ》の捜査の撹乱を狙って、死守同盟のフリをして身代金を要求したんだと思う。
正直、あの事件は同盟にとっても驚きだったよ! よく大臣の孫を誘拐できたもんだって、話題になったね。犯人たちに会えたら表彰してやろうなんて盛り上がったっけ。」
「ちょ、ちょっと待て! じゃあ、大臣の孫の誘拐は、……鬼ヶ淵《おにがふち》死守同盟は何も関係ないのかよ?!」
「うん。まったくない。」
魅音《みおん》はきっぱりと言った。
淀みなどわずかもない、竹を割ったかのようなすっきりした答えだった。
これだって、よく考えれば当然だ。
大臣の孫を誘拐して、大臣と直接交渉なんて、とんでもない大事件だぞ。
そんなの、いくら攻撃的とは言え、とても雛見沢《ひなみざわ》の住民にできることじゃない。明らかに職業的犯罪《つみ》者の仕業に決まってるじゃないか!
「…………ただね、さっきも少し言いかけたけど。園崎《そのざき》本家はね、この誘拐事件を、自分たちが黒幕であるかのように振舞っていた。」
「振舞ったってのはどういうことだ…?」
「…これは、………園崎《そのざき》本家の秘密《ひみつ》の家訓なの。圭ちゃんにはこっそり話すけど、話したことは内緒だよ?!
園崎《そのざき》本家ではね、自分たちに都合がいい何かの事件が起こった時、あたかもそれが自分たちの差し金であるように振舞う、ブラフの伝統があるの。」
「………ブラフって、……! はったり?!」
「うん。自分たちに利することがあったなら、それは事件でなくてもいい。お天気でもいいし、宝くじの当選番号でもいい。あたかも、園崎《そのざき》本家が望んだから、そのような結果になったかのように振舞うの。
そうするとどう? 何だかものすごい黒幕〜ってイメージになるでしょ? つまりはそういうこと。これは園崎《そのざき》本家の頭首だけに代々口伝で伝承される、秘密《ひみつ》のイメージ戦略なの。自分たちを本来よりも、より強大に見せようとするイメージ戦略。」
「……はーーーーー…………。…じゃ、…じゃあ、ほら、ダム戦争時に建設省を占拠するって作戦があったんだろ?! あれは?! しかもその為に武器やら訓練やら…!」
「くっくっくっく! それもまったく同じだよ圭ちゃん。そんな馬鹿《ばか》な作戦、本当にやるわけないじゃん?
最大の目的は、あいつらならやりかねない、何て恐ろしいヤツらだっていうプレッシャーと幻想を与えるのが最大の目的だったんだよ。つまり、これもまたイメージ戦略ってわけ。」
準備と訓練をして、プレッシャーを与えるのが目的で、実行など最初から考えていない、…園崎《そのざき》家のブラフ。
そりゃそうだ。そりゃそうだ…!
建設省を占領なんてできるわけがないし、そんなのしたって、何の解決にもならないなんて、ちょっと考えればわかるじゃないか!
仮に占領できたって、警察《けいさつ》が大挙して押し寄せて、あっという間に鎮圧されるだけだ!
「じゃあ、武器とか訓練とかってのは……。」
「武器に関しては……あはは、ノーコメントでいいよね☆ 訓練もやったよ。はったりになるよう、ちゃんとしっかりね!
葛西《かさい》さんをリーダーにお父さんのとこの若い衆たちを引き連れて、テキサスの砂漠でトレーナーさんと戦争ごっこをやったあとは、サンフランシスコでのんびり観光してたー。あははははは。」
「じゃあじゃあ、……じゃあ…………、」
もう、何も思いつかなかった。…もう、明らかだった。
俺は、いや、レナも。
……鷹野《たかの》さんの妄想《もうそう》スクラップ帖のせいで、まんまと踊らされていただけなんだ……。
レナがあまりにも真剣な様子だったんで、つい感化されてしまったが、……もうこうして考えれば矛盾だらけだった。
むしろ、どうしてレナがこんな妄想《もうそう》を真に受けてしまったのかの方が信じられなかった。
………それは多分。
……あの、俺たちに死体《したい》を見つけられた日のショックで、たまたま心が普通の状態じゃなかったのだ。
そこに刺激の強い妄想《もうそう》が巧みに吹き込まれ…鵜呑みにしてしまったのだ。
レナは頭のいいやつだ。こんな与太話を真に受けてしまうなんて、普段じゃ考えられない!
しかも、目の覚めるような事実は続く。
昨日、俺が見た白いワゴン車が、昼休みに現れ、中の4人の作業員風の男たちが学校に来たからだ。
俺は魅音《みおん》に礼を言うと、こっそりと連中の後を追った。
昨日、俺に話しかけたリーダー格っぽい男が、職員室を訪ねている。
「毎度〜〜、小此木造園でございますんね〜〜〜。」
「あぁ、どうもご苦労さまです。今日も暑いですね。」
「いんえいんえ〜、先生は今日もますますべっぴんでー、うぇっへっへー!」
「ではすみません、今日もよろしくお願いいたします。」
「あぁい、よろしくお願いしますん。これ、うちの事務屋から渡すように言われましたんね。」
「見積書と請求書ですね。ありがとうございます。日付は空欄ですね、問題ありません。はい、お預かります。」
「あぁい、それでは取り掛かりますんでぇ!」
男はものすごく愛想良さそうに知恵先生と話していた。
「…む? どうしたのかね、前原《まえばら》くん。」
「あ、校長先生…。あの、今の男の人は誰ですか…?」
校長先生が窓を指し示す。窓から外を見ようとすると、ドルルルルン!とエンジンのかかるような音がした。
それは、回転ノコギリの付いた草刈機のエンジンをかける音だった。
作業服の若い男たちが、ワゴン車の荷台から、草刈機や竹箒、梯子などを下ろしているのが見える。
「園芸業者さんである。だいぶ、垣根や樹木が手入れされてなかったからのう。夏前に一度剪定を頼もうと思ったのだよ。」
「あぁーん、校長先生ぃ〜、この度はお世話になりましてん〜〜!」
校長先生の姿に気付き、男が帽子を脱いで会釈した。
「うむ! よろしく頼み申しますぞ。」
「なんとか今日中で終わらせますんねー。しばらくうるさくしますんがご容赦を〜!」
4人の作業員たちはそれぞれが商売道具を手にすると、茂り放題の垣根に向かっていくのだった。
草刈機のエンジンの音が結構賑やかで、校庭で遊んでる子どもたちも興味津々に見守っている。
「こらーーーーー! 危ないですから、皆さん、教室へ戻りなさいー!」
知恵先生だった。
さっき男から預かった書類封筒を校長に手渡す。
その封筒には、緑色の文字で「(株)小此木造園」と印刷されていた。
「では校長先生。申し訳ありませんが、この請求書を後日、市役所に行かれる時に持って行ってください。」
「うむ。心得た。」
「あ、…あの、知恵先生。あの造園屋さんは、……昨日も来てました?」
「えぇ。昨日の夕方に一度、下見に来てもらいました。帰りに近道をしようとして、迷ってしまったと言ってましたっけ。」
「この村は、細い道はだいぶ入り組んでおるからのう。無理もないわい。」
そうですね、私も初めて来た時は…と知恵先生が応え、先生たちはからからと笑うのだった。
何も、……始めから怪しいことなどなかったのだ。
……そう、昨日、俺があの男たちに不審さを感じてしまったのも、…レナの話に感化されてしまったからなのだ。
第一、俺はあの時点でもそう思ってたじゃないか、白いワゴン車なんて大して珍しくない、って!
たまたま、気味の悪い話を聞かされた直後に、タイミングよく停まっていたんで、驚いてしまっただけ。
雛見沢《ひなみざわ》にあまり慣れてない造園業者が、帰り道にちょっと変な枝道に入り込んでしまっただけ。
ただ、それだけ。
………………………俺は、…なんて誤解を?!
魅音《みおん》の園崎《そのざき》家が、村の裏で何か暗躍しているらしいなんて、適当な話を信じて、勝手に狂信者の集団を想像していた。こともあろうか、魅音《みおん》まで疑っていた!
くそ!! 何て馬鹿《ばか》だよ前原《まえばら》圭一《けいいち》! 仲間《なかま》じゃないか!
仲間《なかま》は家族で無条件に仲間《なかま》なんだって、俺たちはあの日に手を取り合ったんじゃないのかよ!
しかもそれを言い出したのは俺のはずなのに、その仲間《なかま》を疑うなんて…、俺は本当にどうかしてた…!!
…それより、レナだ!
あいつ、いつまでこんなとんでもない話を信じてるつもりなんだ?!
早く目を覚まさせないと!
普段のレナと違って、今のレナは心にゆとりがないように感じられる。
今のあいつ、本当の本当に園崎《そのざき》家が黒幕で、アクション映画並みの陰謀を企んでると信じ込んでるんだぞ…?!
■それをレナが見ると(レナ目線)
私はワゴン車のナンバーもしっかり覚えていたし、やつらの顔もちゃんと覚えていた。
……間違いない、私を監視しているワゴン車のうちの1台だ!
これまで、私の動向を監視している車は、約3〜4台を確認していた。
この白いワゴン車は、その中でも特にしつこかったもので、一番よく覚えていた。
おそらく、他の車は単なる監視が任務で、このワゴン車は、誘拐や暗殺といった直接的な行為を任務とするに違いない。
数台の車が周辺の安全を確保して、実行部隊の車が一気に襲い掛かる…!
それがやつらの、誘拐や暗殺の常套手段だとスクラップ帖に書かれていた。
…だとするなら、そんな連中が学校の敷地内にまでやって来たというのは、とても笑い飛ばせる話ではなかった。
まさか校内で堂々と襲い掛かってくるはずはあるまい。
連中は、恐ろしい最終目的のために、現在は牙や爪を徹底的に隠しながら隠密行動をしている段階なのだ。
……だから、人の目も充分にあるこの学校では手出しはできないはず…!
だが、やつらはさっき、先生たちと何やら親しげに話しているようだった。
何を話しているかはほんのちょっぴりしか聞こえなかったけど、どう考えても怪しかった。
漏れ聞こえたわずかの声と、口の動きや吐息などを必死に思い出し、頭の中のビデオデッキで再生する。
「毎度〜〜、*************〜〜〜。」
「あぁ、どうもご苦労さまです。今日も暑いですね。」
「いんえいんえ〜、**は今日**********ー、うぇっへっへー!」
「ではすみません、今日もよろしくお願いいたします。」
「あぁい、よろしくお願いしますん。これ、うちの事務屋から渡すように言われましたんね。」
「***と***ですね。ありがとうございます。**は空欄ですね、問題ありません。はい、お預かります。」
「あぁい、それでは****りますんでぇ!」
私が持っている情報から、状況を推理する。頭の中のビデオデッキを何度も繰り返し再生し、時にはスローに、時には停止して何度もチェックする。
……すると、自分でも信じられないような恐ろしい何かが浮かび上がってきた。
やつらと知恵先生に面識があるのは疑いようもない。
……だが、今日まであの連中が学校に訪れるところを見たことなどないし、接点があろうはずがなかった。
連中は、園崎《そのざき》本家の中枢直属の暗殺部隊であるのは間違いない。
あの流暢な地元訛りは、彼らが園崎《そのざき》組の人間であり、その中から選抜された特攻隊であることの証拠《しょうこ》と読み取れる。
その暗殺部隊と知恵先生の交流。面識。関係。
そもそも知恵先生という人はどういう人だったっけ?
ダム戦争の時、雛見沢《ひなみざわ》の学校は廃校になり、興宮《おきのみや》の学校に統合されることになった。
……だが、廃校を認めない鬼ヶ淵《おにがふち》死守同盟が、営林署の一部を勝手に学校化して抵抗した事件があった。
勝手に学校化したところで、先生がいるはずもない。
だからそれは形だけの抵抗のはずだった。……そこに、その状況を「不憫」に思った熱血教師が馳せ参じて、この学校に合流したという。
それが知恵留美子先生という人だ。
………明らかに不自然だった。教員というのは県に所属する公務員だ。
のんべんだらりと波風を起こしさえしなければ、クビもないし左遷もない。
必ず定年まで勤められて、退職金が決まった額だけ保証されている稼業だ。
そんな公務員である彼女が、教育委員会に逆らってまで、雛見沢《ひなみざわ》に駆け付けてくれたのだ。
それを今日の村は「熱血教師」と讃えている。
……聞いた話では、教育委員会の命令に逆らい停職処分となった知恵先生の地位保全のため、園崎《そのざき》お魎《おりょう》自らが交渉を行い、勝ち取ったというのである。
………つまり、散った点を最短距離で結べば簡単に答えが出る。
知恵先生は、鬼ヶ淵《おにがふち》死守同盟が勝手にでっち上げた「学校」の先生として、園崎《そのざき》お魎《おりょう》にスカウトされてきたのだ。
つまり、この学校に合流する前から、園崎《そのざき》お魎《おりょう》の息がかかっていたのだ!
校長に関しては元々、雛見沢《ひなみざわ》の学校の校長だった。
地域の名士として御三家《ごさんけ》と十二分に親交がある。つまりつまりつまり……、
この学校は最初っから、園崎《そのざき》本家の監視にあったのだ!
だから、暗殺部隊と知恵先生に面識があるのは極めて当然なのだ。
……知恵先生は私の登校を確認した上で連絡し、…彼らを呼び寄せた…?!
…何のために呼び寄せたのかは考えたくない。
単なる監視なら、学校が終わる頃に門の前で待ちうけ尾行でもすればいいのだ。
それをせず、なぜわざわざ学校へ…?
馬鹿《ばか》のふりをするな竜宮《りゅうぐう》レナ!
気付かないふりをすればそうはならないとでも?!
考えろ考えろ、そしてクールになれ竜宮《りゅうぐう》レナ!!
つまり連中は、今日中にこの学校で、私を何とかするつもりなのだッ!
この学校で?!
クラスメートも仲間《なかま》も友達もみんないるのにどうやって?!
そんなの簡単だ。
先生が帰りのホームルームで、用事がありますので竜宮《りゅうぐう》さんは職員室に来てくださいとでも言えばいいのだ。
部活《ぶかつ》のみんなは?
そんなのは先生だし、何とか適当なことを言って追い返せるはず。
教室は今日、内装工事があるから、放課後はすぐに下校するように、とか何とか、適当な理由をつければ簡単だ!
「いんえいんえ〜、**は今日**********ー、うぇっへっへー!」
「ではすみません、今日もよろしくお願いいたします。」
…あぁ、間違いない…。
連中はこれほども雄弁に、「今日、実行する」と言ってるではないか!!
それから…何だっけ。
「あぁい、よろしくお願いしますん。これ、うちの事務屋から渡すように言われましたんね。」
「***と***ですね。ありがとうございます。**は空欄ですね、問題ありません。はい、お預かります。」
そうだ。何らかの書類の入った角封筒を知恵先生に手渡したんだ。
……「空欄」という言葉がとても嫌な雰囲気を感じさせた。
…そこには本来、私の名前が入っているべきではないのか…?
それが「空欄」にしてあるというのはどういう意味?
だから竜宮《りゅうぐう》レナ!
気付かないふりをすればそういうことにはならないなんて、変なおまじないはもうやめろ!!
つまりそういうことなんだ。
これは、「竜宮レナ」を「空欄」にせよという、黒幕からの命令書に違いないのだ!!
陰からこっそりとうかがうと、校長は角封筒から書類を出し、その内容を読んでいるところだった。
その表情は険しく、…内容を読む目つきはとても真剣だ。
……何が書いてあるのか、覗き込めたらと思うが、それは不可能だった。
せめて何かのヒントが得られないかと、その様子をじっと凝視すると、……角封筒が目に入った。
角封筒の下部には「(株)小此木造園」と書かれ、電話《でんわ》番号らしきものも書かれていた。
私は幸いに目はいい。
……その番号を素早く暗記する。
連中が暗殺部隊なら、この造園屋は隠れ蓑だ。おそらくは存在しない。
私はそれを確かめようと、電話《でんわ》を探した。
……あるのは職員室。
幸い、先生2人は造園屋を眺めながら廊下で談笑をしている。今がチャンスだった。
職員室に入るところを誰にも見られないよう注意しながら、私は中に飛び込み、校長の席の電話《でんわ》を取った。
頭の中でさっきの電話《でんわ》番号を反復し、それを一気に叩いた。
…こういう時、プッシュホンは助かる。ダイヤルだと面倒だ。
相手が出たら「小此木造園」さんですかと聞くだけでいい。
それでハイかイイエを聞いて受話器を置くだけだから簡単だった。
つながった!
「……お客様がお掛けになった電話《でんわ》番号は……、」
足元から、乱暴なくらいの冷たさを伴った霜柱が生えてくるのがわかる。
待て、早とちりはいけないぞ…。
私が電話《でんわ》番号を間違えたんじゃないのか?
……いや、記憶に間違いはない。
ゴロのいい覚えやすい番号だった。間違えようがない。だとしたら、私のプッシュミスか?
一度受話器を置き、今度は心持ち、ゆっくりと番号をプッシュした。
先生がいつ帰ってくるかわからないこの状況で、ゆっくりと正確にという行為は自殺行為すれすれだった。だが、……今、確実に確かめなければならないことなのだ…!
「……お客様がお掛けになった電話《でんわ》番号は……、」
やはり……同じだ。
…もう間違いない。
「小此木造園」なんて会社は存在しない。
園崎《そのざき》家の暗部を司る暗殺部隊の…隠れ蓑なのだ!!
「……番号をお確かめの上、もう一度ダイヤルしてください。……お客さまがお掛けになった番号は……、」
私が呆然としている間にも、無感情な声で延々とアナウンスする機械音声が気持ち悪い。
受話器を置くと、私は急ぎ職員室を出た。
それからトイレの個室へ駆け込み、頭の混乱を少しでも抑えようと両手で頭を抱え込む。
落ち着けレナ、落ち着け竜宮《りゅうぐう》レナ、クールになれ、竜宮《りゅうぐう》レナ…!
つまりもう、この学校は安全じゃないということだ。
ここにこのまま居続ければ、私は公然と消されてしまうだろう。
消す? どうして?! スクラップ帖を私が持っているかどうかはまだ確信が持てないはずなのに…?!
……………………私、………スクラップ帖の在り処を、…………圭一くんに話しちゃってる。………昨日、ゴミ山の隠れ家に隠してあるから大丈夫って、……話しちゃってる………。…………まさか、…………圭一くんも、……………園崎家の………手先…………?
疑惑のシチューを茹でる私の頭は、さながら今やスープ鍋。
私はヒントや情報、事実や疑惑の野菜を刻んでは刻んでは放り込む。
それらは浮いたり沈んだりアクを浮かべたりしながら、ぐつぐつと茹でられていた…。
……いや、そんなはずはない、圭一《けいいち》くんは味方だ。圭一《けいいち》くんだけは味方なんだ。……あのゴミ山で圭一《けいいち》くんが差し出してくれた手は本物だった。そして私を手繰り寄せた力強さには何の紛れもなく、心の底から私の味方になろうという純粋さ以外に何の澱みもなかった…! だから、圭一《けいいち》くんは違う、圭一《けいいち》くんを疑っちゃいけない、圭一《けいいち》くんだけは信じなくちゃいけない、圭一《けいいち》くんだけが今や私の味方なのだ…!!
「……ごめんごめん…圭一《けいいち》くん…。危うく君を疑いそうになった…、本当にごめんね、本当にごめんね……。」
私はあえて口に出し、唯一の味方であるはずの圭一《けいいち》くんを疑ったことを反省する。
……考えてみれば、スクラップ帖の有無などどうでもいいのかもしれない。
怪しければ消せ!
それが一番安全なはずなんだ。
……ということは、…やっぱり何かを焦っている?
実は「オヤシロさまの復活の日」は間近に迫っていて……、刺さっている小骨は今のうちに、どんな荒い手段であっても取り除いてしまおうということなのか?
もう泳がせることもないんね。…そんなに不安だったんら、早ぅ消してしまいね…。
園崎《そのざき》お魎《おりょう》が如何にも言いそうな言葉だった。
……言いそう?
違う、言ったのだ!
だからやつらが今日、ここを訪れている!!
ではどうしよう、私はどうしよう!
このままのんびりと放課後まで待つのか?!
今の私はいけすの中の金魚も同然。
網を幾度潜り抜けようと、そもそもこのいけすがやつらのものなのだ、何の意味もない!
なら私はどうする?!
網を逃れればいいんじゃない、いけすから逃れなければならないんじゃないか?
……やつらを相手にどう戦えばいいのか、誰が味方なのかもわからない絶対的な絶望の中で。……せめて私は戦うための何かを考える時間を得るためにも、今は生き残ることを考えなくはならない。
逃れよう、このいけすから逃れよう…!
トイレから出ると、ちょうどクラスメートの女の子がトイレに入ろうとするところだった。
私は体調不良を装い、壁に手を付きながら話し掛けた。
「ごめんね…、…私、ちょっとどうしても具合が悪くて……。早退するからって先生に伝えておいてくれないかな…。」
逃げるのが目的だったら、早退するなんて言い残さない方がいいに決まってる。
だが、こう言い残さないと、私が形振り構わず逃げたと思われるかもしれないのだ。
そうなれば、やつらも形振り構わず追うだろう。そうなればもう抗いようもない!
彼らは放課後に捕らえるつもりでいたのに、「たまたま偶然」私は体調不良で早退してしまい、逃がしてしまった。
……そういう風になれば、やつらも、私に包囲が気取られたとは思うまい。
私は鞄を取りに教室へ戻ろうとし、すぐに踏みとどまって昇降口に向きを変えた。
鞄など、もう何の必要もない。
誰も自分を見ていないことに気付くと、私は体調不良のふりを止め、小走りで駆け出すのだった。
※一般目線に戻るよーーーーーーーー
「………むむ? 知恵先生、ここがおかしいですぞ。」
「おかしい? どうかなさいましたか?」
「うむ。見積書と請求書の日付が空欄になっておりますぞ。ここは今日の日付ではないのですかな?」
「あぁ、そこはお役所の都合らしいんです。見積書の日付と請求書の日付が同じだと何だか都合が悪いそうで。庶務係さんから、空欄にするようよく念を押されています。」
「ふむ。あとそれから、請求書に書いてある電話《でんわ》番号と、封筒に書いてある電話《でんわ》番号が違っていますぞ。どちらが正しいのですかな?」
「あらいやだ、本当ですね。……社長さぁあぁーーーん!」
「あぁい! どうしましたんねー!」
「請求書に書いてある電話《でんわ》番号と封筒の電話《でんわ》番号が違ってますけど、どちらが正しいのですか?」
「あぁん!! あっはっはっは! 請求書の方の電話《でんわ》番号が正しいんで大丈夫ですんね! 先代の事務所の時の封筒がまだだいぶ余ってたもんなんで、そんれに入れて来てまったんですわー! すんませんねぇ、バイトの子に、全部、新しい番号のハンコを押しとくように言ったんだけどなぁ。すんまへんすんまへん、消しておいてもらえますかねぇ、わっはっはっはっは…!」
■幕間
TIPS
9■昼の出前リスト3
「文化依存症候群」の危険性は、「解釈妄想《もうそう》病」を誘発しやすい点にあります。
つまりこの度のケースでは、患者は瑣末な何かを見る度に、それを「祟り《たたり》」であると解釈しようとします。
そしてそれらが了解可能な形で累積した結果、妄想《もうそう》体系を作り上げ、パラノイアに至ると思われます。
また、患者にはわずかですが人格性精神障害の傾向も見られます。
もちろんこれは極めて軽微なレベルであり一般的な生活に何の支障もありません。
健常な人間であっても、日常生活において一次妄想《もうそう》(真性妄想《もうそう》)をすることは少なくありません。
ただしその内容が支離滅裂であるため、当人にも了解できず自然と無視されるのが普通です。
ところが、了解不能にも関わらず累積していくケースが存在します。
これは素質によるものが大きいとされ、患者は比較的この素質が大きいと思われます。
さて、一次妄想《もうそう》は3つのケースに分類されることは黒田先生に置かれましてもご存知のことと思います。
「妄想《もうそう》気分」は根拠なき危機感の切迫を感じ、「妄想《もうそう》着想」は根拠なき使命感や目的を感じ、「妄想《もうそう》知覚」は根拠なき現象に対し根拠なき理由を感じるとされています。
患者のケースでは、これら了解不能な妄想《もうそう》が累積し、「文化依存症候群」と併発することで「解釈妄想《もうそう》病」を誘発し、了解不能な妄想《もうそう》を「祟り《たたり》」と解釈することで了解可能としたと思われます。
了解可能な妄想《もうそう》体系は了解可能な二次妄想《もうそう》(妄想《もうそう》様観念)を誘発し、自らの妄想《もうそう》体系を時間と共にますます強固にしていきます。
(この二次妄想《もうそう》の中に、先の「寄生虫《きせいちゅう》妄想《もうそう》症」も含まれると考えられます)
パラノイアの患者に共通することは、発症後も人格の変化はなく、一見して極めて正常である点です。
本人にも罹患の自覚はなく、また妄想《もうそう》体系を本人なりの解釈により了解しているため、高度な理論武装をしているケースが少なくなく、第3者がそれを妄想《もうそう》であると指摘することは極めて困難です。
また、妄想《もうそう》の傾向にもよりますが、「被害《ひがい》妄想《もうそう》」から「追跡妄想《もうそう》」「陰謀妄想《もうそう》」に転じることもあり、結果、架空の敵を作り上げ反社会的な行為に踏み切ることもあります。
(例えば、カルト教壇の教祖のパラノイアに集団感応した信者たちが、集団で「陰謀妄想《もうそう》」に転じ、自衛と称して反社会的な行為に踏み切ることは、まだ日本では報告例がありませんが、近い将来にありえるかもしれません)
幸い、現在の患者はここまで重度には至っていません。
適切な治療を受けることで、容易に社会復帰を果たせるでしょう。
父親にも、これが極めて異常なケースではなく、いくつかのささやかな要因の積み重なった、人間誰しも起こり得るケースであることをよく理解させてください。
父親との絆を深めることでしか治療できず、また父親の絆があれば必ず治療できるのです。
以上の理由から、郷里へ帰郷されるならば、その後も専門の医療機関で継続的な指導を受けられることを強く勧めていただきたいと思います。
長文を大変申し訳ございませんでした。
最後までお読みいただきましたことを感謝いたします。
9日目
■学校から抜け出し(レナ目線だよーーーーーーーーーーーー)
垣根を草刈機で剪定するやつらは、なるほど私が学校の敷地を出ないように監視しているかのようだった。
万が一、私が勘付いて逃げ出さないとも限らないのだから。
……だが、それは放課後のことだと甘く見ていたに違いない。私が今気付き、今逃げ出すとまでは思わなかったろう。
正門から堂々と出れば絶対にバレてしまう。
私は裏へ回り込むと、カレー菜園の周りに誰もいないことを確認した上でそこを駆け抜け、林の中へ飛び込んだ。
枯れ木を踏み砕き、苔むした倒木を踏み越え、不愉快な枝葉を潜り抜ける。
やがて、小道に出た。
今日までの1年間、部活《ぶかつ》などを通してこの村の様々な裏道や抜け道について精通していたことが幸いだった。
取り合えず、どうしよう……。
私が伝言を頼んだ子は、もうとっくに知恵先生に早退を伝えているだろう。
今頃連中は私が逃げ出したことを知り、慌てているに違いない。
※圭一《けいいち》目線〜〜〜〜〜〜
「竜宮《りゅうぐう》さんの早退を他に聞いている人はいませんか?」
クラス中のみんなが互いの顔を見合わせ、首を横に振った。
知恵先生としては、いくら体調不良とは言え、自分に断りもなく早退したことが気に入らないようで、少しご機嫌斜めだった。
「でもレナさん、最近はいつも体調悪そうでございましたものねぇ。」
「……みー。」
「レナ、鞄なんかも置きっぱなしだし。……どうしちゃったんだろ?」
「…………………何だか、嫌な予感がするぜ。」
「ふぇ?」
俺にだけは何となくわかった。
……確信はないが、とても嫌な予感がした。
また何か、…とんでもない与太話を真に受けて、……突飛もないことを始めてるんじゃないだろうか…。
※レナ目線〜〜〜〜〜
私は急ぎ家に帰った。
父は新しい仕事先にもう行ってるのか、買い物に出掛けているのか。…とにかく家は留守だった。
やつらがすでに動き出している以上、今や自宅など決して安全地帯ではなかった。
相手は、建設省を占領することを念頭に訓練を重ね、実際に大臣の孫を誘拐してのけたような恐ろしいやつらだ。
多少の戸締りなど何の意味もあるまい。むしろ自ら袋小路に飛び込むのに似ている。
……もう我が家には留まれないことを悟る。
それはとてもとても悲しくて悔しいこと。
リナと鉄平《てっぺい》を殺して、私たち親子は再び平穏な生活を取り戻せたはずなのだ。
それなのに、……それなのにどうしてこんなことに?!
圭一《けいいち》くんがかつて言った言葉が脳裏に蘇り、私の気持ちをこれ以上なく代弁して見せた。
「鷹野《たかの》さんめ、とんでもない置き土産を…!」
どうして私にあんな恐ろしいスクラップ帖を?!
どうして私にあんなにもとんでもない陰謀の秘密《ひみつ》を?!
私は巻き込まれただけなんだ。
私に非はない、全部三四《みよ》さんが悪いんだ!
でも、三四《みよ》さんの話に興味を持ち、好奇心で先を促したのは私だ。
せっかく忘れていた茨城の最後の頃の記憶を蘇らせてしまい、それを三四《みよ》さんに話してしまったのは私だ。
三四《みよ》さんに話せば何かの救いになるかもしれないと思って甘えたのは私だ。
あのまま、私は奇怪な出来事を全て忘れたままでいればよかったのだ!
そうすれば、私はあんなとんでもない陰謀なんかに巻き込まれることなく、今日もきっと、みんなと楽しく部活《ぶかつ》をして過ごせていたに違いないのに!!
……でも、知らなかったとしたって、結局、陰謀は水面下で進んでいた。
そして「オヤシロさまの復活の日」に、私は何も知らず逃げ惑う群集Aとして、彼らの陰謀に飲み込まれただけなのかもしれない。
どうせ破滅する世界なら、知らずにその日を迎えた方が幸せだったのか。
知りつつ足掻いて、結局は抗えずに飲み込まれるのが幸せだったのか。
………辿るのが同じ末路で、どちらを選ぼうとも結局同じ結末に至る選択肢だったのなら、……私は戦う。戦える選択肢を選ぶ。
そうして私は自らの幸せを勝ち取ってきたんじゃないか。
……リナが父に取り入り我が家を侵食してきた時、私はそれがこの世の終わりのように感じ、日々を絶望に押しつぶされそうになりながら生活していた。
そしてそれ以上の不幸は存在しないと思っていた。
でも、今になって当時を思い出すと、あれは大したトラブルでも何でもない。
敵は間宮《まみや》リナと北条《ほうじょう》鉄平《てっぺい》の2人だけ。
敵もわかっていて人数もわかっていて、1人ずつ誘い出して闇討ちすればそれで解決という、とんでもなくイージーな問題だった。
今はどうだ?
敵が誰かもよくわからず、その人数も規模も想像がつかない。
私が普段味方だと思っている人たちが、どこまで本当に味方で、どこまでが実は敵なのか。それすらわからない!
あの時のトラブルとは格が違う。
この世の終わりのような絶望感。
今度こそ本当の意味で、これ以上の不幸はないわけだ。
でも、本当にそうかな………?
リナたちのトラブルだって、当時はこの世の終わりのように感じたけど、今思い出すとそれほどでもない。
今のトラブルだって、実は後に思い出すと失笑してしまう程度のトラブルとなる日が来るかもしれない。……いや、来る。絶対に来るさ!
だから、これがこの世の終わりだと思うな。
戦おう。戦える。私はまだまだ足掻ける!
草を食み、泥を啜ろう。
無駄と分かっていても、1%の勝利に賭けてみよう。
三四《みよ》さんにスクラップ帖を託されなかったら、それを賭けるテーブルにもつけなかった。
だからやっぱり、あのスクラップ帖を受け取ったことはまさにチャンスであり幸運であり、未来と掴み取れる選択肢だったのだ。
私が戦わなければ、きっと村は恐ろしい寄生虫《きせいちゅう》をバラまかれて大変なことになる。
伝説によるならば、鬼ヶ淵《おにがふち》沼から一番最初に「鬼」が湧き出した時は、感染者たちは直ちに「鬼」となったと言う。
それが村の内側であるにも関わらずだ。
村から出なければ発症しないなんてのは、後世の害の弱くなった寄生虫《きせいちゅう》たちに通用する話に過ぎない。
本当の、原始の力を持った寄生虫《きせいちゅう》たちなら、村にいたままで「オヤシロさまの祟り《たたり》」を再現してしまう!
それはまさに、オヤシロさま伝説をもう一度繰り返すこと。
人と鬼にわかれ恐ろしい殺し合いが起こって、………その最中に「オヤシロさま」が降臨して、これを調伏するのだ。
これこそがやつらの狙い!!
そして人々はその偉業に平伏し、信仰《しんこう》を取り戻したものだけが救済される。
……わかった……やつらの狙いが…。
オヤシロさま伝説をもう一度、ゼロからやり直し、「オヤシロさまの再臨」を描こうとしているのだ!
そうだ、梨花《りか》ちゃんはオヤシロさまの生まれ変わりと言われてるらしいじゃないか。お膳立てはすでにそろっているじゃないか!
やつらは「祟り《たたり》」として「寄生虫《きせいちゅう》」を使う。
では、…「オヤシロさまの調伏」はどうやって描く?
そうだ! 薬が、特効薬があるんだッ!!
彼らは原始の力を持つ「寄生虫《きせいちゅう》」を生み出すと同時に、それを治療する「薬」もまた生み出しているのだ。
信じるものだけをその「薬」で救い、村人を熱心な信者だけに淘汰してしまう。
そして、信者だけになった雛見沢《ひなみざわ》に、やつらは絶対的存在として君臨するつもりなんだ!
いや………、この恐ろしい細菌《さいきん》テロを、雛見沢《ひなみざわ》の内側だけと考えるのは少し考えが甘くないか…?
信仰《しんこう》で支配しようと企めば、必ずその信仰《しんこう》をより広域に広げようと欲してしまう人の欲を、すでに歴史が証明している。
ならば寄生虫《きせいちゅう》を研究《けんきゅう》する過程で、原始の力を取り戻す研究《けんきゅう》だけでなく、“雛見沢《ひなみざわ》という限定された地域でしか適応できない”弱さを克服する研究《けんきゅう》もするんじゃないのか?
三四《みよ》さんの研究《けんきゅう》によるならば、寄生虫《きせいちゅう》たちは宿主が「雛見沢《ひなみざわ》」から離れれば離れるほどに嫌う。
つまり、距離的なものが存在するわけだ。
その、適応できる環境の距離を、伸ばす。適応できる環境の半径を、伸ばす。
やつらの研究《けんきゅう》はどれだけの成果を得たんだろう?
雛見沢《ひなみざわ》から興宮《おきのみや》? まさか市内全域?
………いや、県内だって覆ってしまうかもしれない!
それは近県にも波及し、地方一帯を覆ってしまうかもしれないのだ。
これはもはや悪巧みなんて呼べるレベルではない。
国家転覆という言葉を当てられるくらいの、……壮大で恐ろしい陰謀!!
その陰謀のXデーはおそらく遠くない。
三四《みよ》さんを殺した手口や、私に対する圧力の乱暴さからわかる。
Xデーが近く、わずかの違和感の芽を摘み取るのに手段を選ばなくなっているのだ!
この恐ろしい陰謀に立ち向かえるのは、私しかいない。
今や信じられるのは私だけ。……圭一《けいいち》くんも、信じられるかもしれない。でも他は全部だめ!!
魅ぃちゃんはもってのほか、梨花《りか》ちゃんもだめだし、それにべったりの沙都子《さとこ》ちゃんだってだめだ。大人も誰も、みんなみんな全部だめ!!
味方は全然いない。
迫るのはやつらの魔の手だけ。
終末までの残り時間を刻む時計の音が私をただただ焦らせる。
どう戦えばいい? どうすれば!!
それを考える時間が、まず欲しい。
それは考えることに集中できる「安全地帯」が何よりも必要だ。
幸い、私はその「安全地帯」について、偶然にも始めから持っていた。
ゴミ山の隠れ家だ!
あそこは誰も知らない、絶対安全。
万が一、やつらがあそこに迫っても、私はあの周りのあらゆる抜け道や隠れ場所に精通している。
だが、その隠れ家には大きな弱点があった。
それはとても簡単なこと。食料がない。
その為に私は家に帰ってきたのだ。
私は父の引き出しを開け、再び金庫を開ける。
中身は、前に見たあの日から大して変っていないようだった。
新札の壱万円札が、まだどっさりと残っていた。
私はそれらを全ていただく。枚数はわからないが、多分、80枚くらいはあるだろう。
これだけあれば、…多分充分。
これだけの金額を食い潰すだけの期間、やつらから逃げ延びられれば……それは大健闘なのだから。
それに、ひょっとするとお金で誰かを買収するようなこともあるかもしれない。あって邪魔ということはないはずだ。
銀行の通帳は持っていかない。
やつらが銀行を抑えればそれで終わりだ。引き出すリスクが計り知れない。
それからナップザック。自転車のカギ。
あと、きっとあると便利だろうと思うものを用意しナップザックに放り込んだ。
多少重くなってもいい。隠れ家で必要性を吟味して、不要ならそこに置いて行けばいいのだから。
時計の針を見る。
私が帰宅してから、もう30分が経過しようとしていた。
滞在し過ぎだ!
私は急ぎ、家を飛び出す。
それからあまり目立たないところにある雑貨店を訪れ、店頭に並んでいる菓子パンや乾パンの缶詰などをナップザックに入る限り買い占めた。
店番の老婆は幸い、ボケ気味で、度を越した買い物であっても何の関心も示さなかった。
……それでも、家人が夜にでもレジを改めればとんでもない買い物があったことが発覚するはずだ。
……構わないさ、どうせ私はもう、明るい内に村の中をどうどうとうろつくことはないのだから。
ナップザックは膨れ上がり、しかも缶詰が背中にごつごつ当ってとても痛かった。でも、そんなことはどうでもよかった。
私はその重い荷物を背負ったまま、隠れ家まで無事辿り着く。
それから荷物を整理した。
……重かっただけあって、相当な量の食料を確保することができた。
水は近くの工事事務所跡の水道から使える。
野菜がないのが少し気になったが、そんな贅沢を言ってる場合ではない。
整理を終えると、私は隠してあったスクラップ帖を取り出し、それを開きながら頭をフル回転させる。
さぁどうしよう。この恐ろしい巨大な陰謀にどう立ち向かおう!
焦るな冷静に、だけれども迅速に!
もう時間は全然残されていないのかもしれないけれど、だから急がなくてはならないし、でも何をすれば!
寝坊した朝を学校まで走ることの何と気楽なことか。
どこを目指して走ればいいかわかることの何と気楽なこと!
今の私にはどこを目指せばいいのか、何を成せばいいのかすらわからない!
もう、ここに至った以上、大石さんに全てを打ち明けてみよう。
……敵の可能性は高い。
それならそれでもう構わないさ、宣戦布告になるだけだ!
だがもしも味方になってくれたなら、……それだけが一縷の望みなのだ。
日本を騒がせることになるに違いない恐ろしい規模の陰謀に立ち向かうには、私ひとりではあまりにか弱いのだから!
電話《でんわ》をするには公衆電話《でんわ》を使わなくてはならない。
……この村の中で人目に触れずに使える公衆電話《でんわ》は、……一箇所しかない。あの電話《でんわ》ボックス!
本当に寂しいところにポツンとある電話《でんわ》ボックスで、夜はその明かりに虫が集まり、あまり気持ちのいいところではない。でも、そこ以外に大石さんと連絡を取れる電話《でんわ》機は思いつかなかった。
ただし、いくら人目に触れにくいと言っても、明るい内から使うのは危険だ。
……夜を待ち、夕闇に乗じて電話《でんわ》しよう。
大石さんは三四《みよ》さんの事件のあと、ずっと警察《けいさつ》署に詰めているそうだから、幸い、何時に掛けてもつながるはずだ。職場への直通番号も聞いてある。
だが、空はまだまだ明るかった。
時間はもう全然残されていないのに、夕闇を待たなければならないこの矛盾!
気が急き、暮れるのが遅い夕日を恨んだ。
なら、暗くなるまでの時間に何かできることを探そう。
時間を無駄にするな、何ができる何ができる何ができる!!
…………私は色々考えた結果、ひとつの不安を確かめたくなっていた。
どうせ夜の帳が落ちるまでどうしようもない。ここでじっとしている方が、よっぽど気疲れする。
私はそうと決めると隠れ家を出たのだった。
■レナ自宅(一般目線に戻るよーーーーーーーーーー)
竜宮《りゅうぐう》家の門の前では、レナの父親が落ち着きなくうろうろしていた。
そこへチリンチリンと自転車の呼び鈴が聞こえてくる。
「駐在さぁぁぁぁん!! ここですここですーー!!」
自転車で現れたのは雛見沢《ひなみざわ》の駐在警察《けいさつ》官だった。
相当、飛ばしてきたらしく、中年の警官は荒々しい息をついていた。
「はぁ、はぁ! お待たせしました、状況を御伺いします。」
「確かに施錠して出て行ったんです。そうしたら、まず家の扉が開きっぱなしになってまして……。」
父親は警官を家の中に案内する。
「それで、私の部屋の……手提げ金庫がまんまとやられまして……。」
「ご主人、これはその時のまま? 触ってない?」
「えぇ、犯人の指紋とかあるだろうと思いまして、金庫には触れてません。ただ、中身を確認したので、中のものには少し触れています…。」
「ふむふむ、それで取られたものは?」
「貯金通帳と印鑑は大丈夫だったんですが、…中に入ってた現金を全部。」
「通帳と印鑑、大丈夫だったんですかぁ。そりゃあ不幸中の幸いでしたねぇ。……最近は、通帳から足が付くと思って、プロは現金しか持ってかないんですよねー。…こりゃあだいぶ手馴れた空き巣かなぁ。…金庫ごと持ってかないで、この場で開けちゃうってんだから、相当のプロだねぇ。で、お金はどのくらいやられちゃって?」
「………んんん、ちょっと数えてなかったんですが、……多分、壱万円札で100枚近くはあったと思います。」
「あーーーそう……。それだけの現金が入ってることを誰かに知らせた?」
「……いえ、誰にも知らせてはいませんが、……あの女たちなら、この家に金があることを知っていたかも……。」
「あの女? ふむふむ、ちょっとお話を聞かせていただけますか…。」
「………実は…、あまり見っともいい話じゃないんで、お恥ずかしいんですが……。間宮《まみや》リナという女とですね…………、」
その時、竜宮《りゅうぐう》家の電話《でんわ》がけたたましく鳴った。
「……あぁぁ、すみません、ちょっと出てきますね。すぐ戻ります。」
父親は、この忙しい時にとぼやきながら、少し乱暴に受話器を取った。
「はい、竜宮《りゅうぐう》です。」
「あ! …………っと、すみません。前原《まえばら》と申しますが、レナさんはいらっしゃいますか?」
「レナはまだ帰ってきません。」
「まだ帰ってない?! ……うーーーん……。」
「あー、申し訳ないんですが、ちょっと今、立て込んでます。遊びの電話《でんわ》でしたら、また掛けなおしていただけますかねぇ…。申し訳ないですね、失礼いたします。」
チン。
■死体《したい》がない(レナ目線だよーーーーーーーーーーーぅ)
私は呆然とする他なかった。
上辺は何も変化があるように見えなかった。
いや、それどころか、本当にここだったかすら、思い出すのに苦労した。
たまたま、近くの木に特徴的なこぶがあったので、ここであると特定できただけだ。
それくらいに、………リナたちの死体《したい》を埋めた場所は何事もなかったかのように自然に隠匿されていた。
だからこそ、始め私は、場所を間違えたのではないかと思っていた。
だが、スコップを地面に打ち込めばわかる。
掘ったことのある場所か、そうでないかなどすぐわかる。
だから、少しの試行錯誤の後、死体《したい》の袋を埋めた場所は特定できたのだ。
…………だが、最大の問題は、……………死体《したい》の袋が出てこなかったことなのだ!
どうして? どうしてないのッ!!
もっと深く埋めたっけ?
いや、そんなことない。
スコップで土を刺す手応えがわかる。これ以上深くになんか埋めていない!
……予想外の結果だった。
ここへ死体《したい》を確かめに来たのは…、言って見ればあくまでも時間潰し。
暗くなるまでの間、何もしないでいるのが嫌だったので、隠した死体《したい》が大丈夫かどうか確認しに来ただけだったのだ。
何事もなく埋まっているのを確認して、私は胸を撫で下ろす。それだけの作業のはずだったのに!!
私は予期せぬハプニングに、背中いっぱいに冷たい汗《あせ》を張り付かせる。
これはどういうこと? どういうことなの?!
冷静に考えるまでもない。
バラバラ死体《したい》が蘇って、穴から這い出したわけがない。
なら、誰かが掘り返した以外に考えられないじゃないか!
誰が、何のために?!
誰か偶然の目撃者がいて、私たちが死体《したい》を埋めて去った後に掘り返した? そして死体《したい》を警察《けいさつ》に届けた……?
いや、それはありえない。
死体《したい》を埋めてからもうだいぶ日にちが経ってる。そもそも、埋めたのは綿流し《わたながし》より前だ。
だから、大石が私にコンタクトを求めてくる時にはもうリナたちの死を知っていなくてはならない。
でも、大石は私にそんな話は一言も言っていない。意図的に隠していたはずはない。
答えはただひとつ、大石たち警察《けいさつ》は未だリナたちの死を知らないのだ!
じゃあ、どうして死体《したい》がないの?
残る答えは1つしかない。
…ここに埋めたことを知る誰か。
つまり、ここに埋めた誰かが、その後に戻り、死体《したい》を全て掘り返してどこかへ持ち去ってしまったのだ!!
真っ先に思いつくのは魅音《みおん》、いや園崎《そのざき》家だが、どうしてそんなことをするのか動機が見えなかった。
園崎《そのざき》家にとって、リナたちの殺人は何の関係もない。
だから変な濡れ衣なんかごめんなはずだ。極力係わり合いになりたくないと思うはずだ。
そんなババ抜きのジョーカーのような死体《したい》を、なぜわざわざ……?!
……魅ぃちゃんなら何を考える? 部活《ぶかつ》の部長なら何を考える…?
ジョーカーはババ抜きでこそ嫌われるカードだが、ゲームが変れば強力な切り札として扱われることもある。
……ジョーカーが強力な切り札になるとしたら…?
電気的なものが脊髄を駆け上った。…そして同時に、やられたと思った…!
園崎《そのざき》家は死体《したい》を回収し、ジョーカーに使おうとしている。私を警察《けいさつ》に売るための切り札だ!
園崎《そのざき》家は、暗殺部隊などの陰の力で私を何とか葬りたいと思っているだろうが、それが達せられなかった時に備え、保険を打ったのだ。
また、彼らが一番恐れるのは、陰謀を知る私が警察《けいさつ》と連携することだ。
それを予め断つことができれば、私に味方はいなくなる。
そうなれば、もう逃げることもできない、俎上の鯉のようなものだ!
つまり、やつらはあの死体《したい》をうまく使って、……私をリナと鉄平《てっぺい》殺しで警察《けいさつ》に売ろうとしているのだ!
警察《けいさつ》が容疑者として私を手配したら、もう警察《けいさつ》は私の話に耳を貸すことは絶対にないだろう。
……最後の味方かもしれない相手まで、私を追う側に回ってしまう!
だが、このジョーカーは簡単には切りたくない札のはずだ。
死体《したい》を埋めるのに園崎《そのざき》魅音《みおん》が手を貸したのは事実だ。
それに、何らかの陰謀のXデーが近い時期に、警察《けいさつ》が雛見沢《ひなみざわ》をうろうろしてほしくはないはず。
………私は今夜、大石に電話《でんわ》して全てを打ち明け、助力を求めるつもりだ。
……圭一《けいいち》くんにすら話していない、本当の本当の全てを話すつもりだ。
それを大石が信じてくれるかどうかだけでも確率の低い賭けなのに、……さらにそれに加え、敵方には死体《したい》袋というジョーカーまであるとは…!
……さすがは部活《ぶかつ》の部長。
……私にとっては命を賭けた戦いも、魅音《みおん》にとっては雛見沢《ひなみざわ》というゲーム盤の上で繰り広げられる駆け引きに過ぎないのだ。
私は、ゲームという言葉に少しだけニヤリと笑う。
……普段だって罰《ばつ》ゲームなんか嫌だから、命を賭けて戦ってる。
それが文字通りの意味になっただけだ。
相手が、ここまでしてて私を追い詰める理由は1つしかなかった。
それは……、私を恐れているから。
私は自分を、何の力もない小娘が右往左往しているだけだと思っている。
だが、敵はどうやらそう思ってはいないようだ。
本当に私を無力だと思っているなら、リスクを犯してまで追い立てたりはしない。
つまり、…………三四《みよ》さんが私に託したあのスクラップ帖は、……私が考えるよりもはるかに致命的なものに違いないのだ。
……なぁんだ。ジョーカーを持っているのはやつらだけじゃない。私もじゃないか。
そのジョーカーがあまりにも強力で、やつらの企みを全て打ち砕きかねない恐ろしさがあるからこそ、………やつらはあんなにも躍起になって私を探すんじゃないか!
あっはっは…。
窮鼠、猫を噛むの心境だろうか。急に、敵を恐ろしく思う感情が薄れるのを感じた。
私がやつらを恐れるように、やつらも私を恐れていたのだ。
……だから、このゲームはまったくの互角。私が思っているほど、必ずしも不利じゃない!
ここに来たのは正解だった。
敵の得たカードを知れたのだ。この有利は小さくない。
私は、武者震いする自分を勇気付けるように、ニヤリと力強く笑った。
もうこれ以上、ここにいる必要はない。
やつらにとってはこの場所もまた、私に縁のある場所。
……ここに長居することは必ずしも安全とは言えなかった。
私は隠れ家に戻ることにした。
その途中、自宅の近くを通る。
そしてすぐに異変に気がついた。
物陰に隠れ、自宅の門前をうかがう…。
……父と一緒に話しているのは、駐在警察《けいさつ》官だ。
……二人の会話に私は耳をそばだてる。
「はい。いつもはそこに停めてあるはずなんです…。」
父は、私が普段自転車を停めている場所を指し示していた。
「ふぅーむ…。わかりました。もしお嬢さんが帰られましたらご連絡をください。こちらの方でも探して見ます。」
………さっすが魅ぃちゃん。もうジョーカーを使ってきた…?
魅音《みおん》はいっつも、戦いの火蓋を自ら切り落として、一気に畳み込んでそのまま1位を奪ってしまう。
警察《けいさつ》はすでに私を追っているようだ。
……大石に陰謀を説明できる確率が、ただでさえ低いのに激減する。
いや……、…だからこそ大石なんだ。
園崎《そのざき》本家を敵だと睨み、定年退職の最後の年に全てを暴こうとするからこそ、園崎《そのざき》家のワナに絡め取られずに、私の味方になってくれるのではないか…!
もちろん、始めから全部ワナである確率もとても高い。
園崎《そのざき》家を目の仇にするようなことを言うのは、私に取り入ろうとするウソかもしれないのだから。
……だが、やつらのこのジョーカーは、むしろ私に希望を与えるような気がした。
大石がやつらの仲間《なかま》なら、こんなジョーカーは早過ぎる。
大石とやつらはつるんでいない。
だからこそ、私とくっ付く前に、釘を刺したのではないか。
…………いやいやいや、そう思い込ませて私に大石を信頼させようというトリックかも…!
魅音《みおん》が2択を出す時は、案外、悩まずにストレートに選んだ方が絡め取られないことが多い。
魅音《みおん》は人の思考を絡め取りたがる。
…だから、変に考え込んだ時点で、すでに魅音《みおん》の思う壺にはまっているのだ。
予定通りに進める。もう少し待って、日がとっぷりと暮れたら、大石に電話《でんわ》する。
大石が味方になってくれるなら、彼と今後を相談しよう。
なってくれないなら?
………どうやらそれを悩むのが、日が暮れるまでの時間の間に私がしておくべき仕事のようだった。
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9日目_2
■大石との電話《でんわ》
「いえいえ、時間のことは気にしないでくださいよ。残業代は付いちゃいませんが、ちゃあんと勤務中ですので。」
私はさりげない挨拶から、大石の出方をうかがった。
大石がやつらの手先であるかの確率は、本当に五分五分だ。
彼が手先であるなら、私を何とか誘導して、逮捕するか、スクラップ帖の在り処を聞くかしてくるだろう。
……だが、簡単ではない。
大石が敵か味方かを容易になど識別できないし、どの道、私はスクラップ帖の存在を話さざるを得ない。
心臓がばくばくと高鳴る。
幸運にも大石がやつらの手先でなかっとしても、……あの突拍子もない話を大石に信じさせなければならないのだ。それも電話《でんわ》越しで。
悩んでいても仕方がないし。
元よりこの勝ち目のない博打を承知している。私が張らなきゃ、ルーレットも回せない!
「以前も少し話しましたが、やっぱり私、………何者かに狙われてるみたいです。」
「それは本当ですか。」
「ええ。以前までは、ひょっとすると気のせいかもしれないと思う程度だったのですが、昨日辺りから間違いないと思うレベルになりました。」
「……むむ、間違いないレベルと言いますと?」
「数台の車が私の身辺をうかがっているようなんです。内の1台は白いワゴン車で、造園屋に偽装した4人の特攻隊と思われる人間が乗っています。」
「…特攻隊というと、園崎《そのざき》家の暗殺部隊の?」
「はい。おそらくそうに違いないと思います。今日、学校にまで詰め掛けて来ました。あわやのところで逃れましたが、危ないところでした。」
「………しかし、…何だって急に。…まさか、竜宮《りゅうぐう》さんが富竹《とみたけ》殺しについて嗅ぎ回っているとでも思い込んだんですかね。」
…大石はスクラップ帖とは言わない。
わざわざ縁遠い、富竹《とみたけ》殺しという呼称を使うところにやや不自然さも感じる。
でも、大石にはスクラップ帖のことを打ち明けてはいないのだから、当然の反応と言えなくもない。
「実はですね、ついさっき嫌な話を耳にしました。……もうちょっとちゃんと調べてからお耳に入れたかったのですが、お互い、新情報を知ったら伝える約束です。ですので取り合えずお話しておきます。……実は、興宮《おきのみや》の園崎《そのざき》組で悪い動きがあるらしいんです。」
「……園崎《そのざき》組で悪い動き、ですか。」
「えぇ。……ちょっとショックな話かもしれません。
実は、若い衆に人探しを命じているという話なんですがね。」
「人探し……。」
心臓がどきりと一度跳ねる。………まさか……?
「…私もにわかには信じられません。探しているのは『あなた』らしんですよ。竜宮《りゅうぐう》レナを探させているそうなんです。まだ仕入れたばかりの情報なんで、何が狙いかは掴めていませんが、あなたの名前が出ていることだけは間違いありません。」
「私が身に危険を感じ始めているという話、信じてもらえますか?」
「……えぇ。互いの話が綺麗に一致します。……竜宮《りゅうぐう》さん、こりゃあどういうことですか。お心当たりは?」
やつらの狙いは、私の持つスクラップ帖だ。
スクラップ帖の在り処も知りたがっているだろうが、私が隠しているに違いないと思っているだろう。
…ということは、私の口さえ閉ざせば、スクラップ帖は永遠に葬られると思っているに違いない。
だが、それを真っ先に口にはせず、あえて大石に振り返した。
「大石さんの方で何かわかりませんか? 私には…全然どうしてだか…。」
「私だってわかりません。……園崎《そのざき》組があなたという個人を狙って動くなんて、考えられない。でも事実なんです。信頼できる筋から得た情報で紛れはありません。」
「園崎《そのざき》組が私に関心があるのではなく、……園崎《そのざき》本家が私に関心があるというのはどうですか?」
「…………うーーーーん…。こういった動きは滅多に見せるものではありません。例えば、組の上納金の持ち逃げがあったとか、そういうトラブルがあった時には、こういう騒ぎもあったりします。でも、それは大抵、組関係の業界の話で、堅気である個人が対象となるなんて、前例がありません。」
「私がその貴重な一例目であるのはうれしいですが、前例がないで済まされちゃこっちはたまらないです…!」
「………まままま、竜宮《りゅうぐう》さん。落ち着いて落ち着いて。今度は竜宮《りゅうぐう》さんが話す番じゃあないんですか?」
「……何を、ですか…?」
「竜宮《りゅうぐう》さん。園崎《そのざき》組がこういう動きを見せることはおいそれとあることじゃありません。何かの誤解にしたって、なかなかあることじゃない。心当たりはありませんか?」
「……………………………。」
「竜宮《りゅうぐう》さんにとっては何気ない何かが、彼らを誤解させている可能性もあります。私の読みでは連中、あなたが園崎《そのざき》本家周辺を嗅ぎ回っていて、何かとんでもない事実を掴んだ、もしくは掴んだと思い込んでるのどちらかじゃないかと思います。それは竜宮《りゅうぐう》さんが日々の生活でしてしまうような些細なものじゃない。もっと目立つ何かです。……本当に心当たりはありませんか…?」
敵か味方か、…この期に及んで測れない。えぇい、覚悟を決めろ竜宮《りゅうぐう》レナ…!
「多分、………私が三四《みよ》さんのスクラップ帖を、預かっているからだと思います。」
「三四《みよ》さん? 鷹野《たかの》三四《みよ》? の、スクラップ帖ですか……。そいつは一体?」
大石が敵だったら、もう少し興奮を隠せないはず。
だが大石のテンションは一定で、スクラップ帖という単語にもおかしな抑揚はなかった。
「はい。……実は私、三四《みよ》さんが殺される数日前に、彼女と図書館で出会って、…その時に意気投合して、彼女に研究《けんきゅう》をまとめたスクラップ帖を数冊、預けられたんです。」
「研究《けんきゅう》をまとめた? ふむふむ?」
「はい。三四《みよ》さんは雛見沢《ひなみざわ》村の歴史について深く研究《けんきゅう》していたんです。そしてそれらを数冊のスクラップ帖にまとめていました。……やつらは三四《みよ》さんを殺した時、スクラップ帖が何冊か足りないのに気付き、それを私に託していたことを気付いたのだと思います。」
「やつらの狙いは、スクラップ帖? ……竜宮《りゅうぐう》さん、それは一体、何なんですか!」
「雛見沢《ひなみざわ》が、かつて鬼ヶ淵《おにがふち》村と呼ばれていた太古の昔についての研究《けんきゅう》をまとめたものです。オヤシロさま信仰《しんこう》の発祥について書かれています。」
「オヤシロさま信仰《しんこう》……、というとあれですか。人食い鬼の末裔が仙人になって…ていう?」
「えぇ。三四《みよ》さんはその研究《けんきゅう》の中で、オヤシロさま信仰《しんこう》についてのある重大な秘密《ひみつ》を暴いたんです。その研究《けんきゅう》結果は、オヤシロさまを神聖《しんせい》であると崇める人たちにとっては極めて冒涜的な内容でした。」
「…………なるほどなるほど…。信仰《しんこう》の特に妄信的な連中には…その研究《けんきゅう》の存在が許せなかった……。」
大石は電話《でんわ》越しにメモを取っているようだった。言葉に混じって、鉛筆を走らせる音が聞こえる。
「彼らは三四《みよ》さんを消し、その三四《みよ》さんが残したスクラップ帖も葬ろうとしているんです。最初の内は、私が持っているのかどうか分かりかねているようだったんですが、……昨日を境に、疑わしきは殺せという方針に変ったように感じています。」
「……なるほど…。…そりゃ好ましい状況ではありませんね。あなたの身辺を警戒させましょう。あと、そのスクラップ帖を拝見させてください。鷹野《たかの》殺しの何かの手がかりになるかもしれない。」
「あ、……………いえ、…その、……警察《けいさつ》の内部にもやつらの手先が混じっている可能性が高いです。ですから身辺の警戒は結構です。自分の身は自分で守ります。あと、スクラップ帖も同じです。彼らはそれを抹消しようとするでしょう。例え警察《けいさつ》の中であっても。」
「……園崎《そのざき》組があなたひとりをターゲットに動いている以上、…もしこれが園崎《そのざき》本家の頂上からの指令なら、その可能性は確かにありますねぇ。園崎《そのざき》本家が敵だった場合、悔しいですが私たちの中にも内通者がいないとは限りません。」
「そういうことです。ですから、私のことは気にしないでください。それより、お願いがあります。とてもとても重要なお願いです。」
「言ってください。何ですか。」
「……………三四《みよ》さんの研究《けんきゅう》によるならば、今、雛見沢《ひなみざわ》の闇に恐ろしい陰謀があり、それが遠くない内に実行されそうなんです。」
「陰謀。…そりゃあ一体、何です。」
………一気に緊張が走る。
…全てを話せばかえって嘘くさくなる。
突拍子もない部分は伏せよう。その方がむしろ信憑性は増す。
「やつらの正体はオヤシロさま信仰《しんこう》の狂信者たちです。やつらは明治以降、すっかり下火になってしまったオヤシロさま信仰《しんこう》を威光を取り戻し、太古の鬼ヶ淵《おにがふち》村の時代のような、厳格な信仰《しんこう》を復活させようとしているんです。」
「……………ふむ、………ふむ、……続けてください。メモしてます。」
「三四《みよ》さんの研究《けんきゅう》によると、オヤシロさま伝説の根底には、大昔のある風土病《ふうどびょう》の存在があるんです。その風土病《ふうどびょう》の猛威がオヤシロさまの祟り《たたり》と恐れられ、それを治療できる医者的存在がオヤシロさまと崇められ村を支配した。」
「…………そ、…そうだったんですか………。なるほど………、続けて…。」
「その風土病《ふうどびょう》は土着のある特殊な寄生虫《きせいちゅう》によるものだったんです。ですが、長い世代を繰り返すうちに徐々に無害になっていき、ご存知のとおり、今では何事もありません。彼らにとって、風土病《ふうどびょう》が無害ではオヤシロさまの祟り《たたり》がなく、祟り《たたり》がなければ救いも必要ない。だから、オヤシロさまの神聖《しんせい》性が保てないわけです。」
「……それを復活させようとしたら、……それはつまり、風土病《ふうどびょう》を蘇らせるということを意味するわけですかな…?」
「そうです! やつらはオヤシロさま伝説をゼロからもう一度やりなおし、オヤシロさまの降臨を再現しようとしているんです! その為、古代の強力な風土病《ふうどびょう》を再発させる、原始の寄生虫《きせいちゅう》を研究《けんきゅう》していたと思われます。連続怪死事件の正体は、この研究《けんきゅう》結果を試すものだったんです。そして、富竹《とみたけ》さんに対して古文書に残る『うじ湧き病』を再現できた。やつらは5年かけて、原始の力を持つ寄生虫《きせいちゅう》を復活させたんです!」
「………何てこった………!」
「やつらの最終的な目的はその寄生虫《きせいちゅう》をバラまき、オヤシロさまに帰依する者のみを特効薬で救い、オヤシロさま信者のみの楽園を作ろうとしているんです…!」
「それは間違いなく事実でしょうね?!」
「このスクラップ帖には、その寄生虫《きせいちゅう》が雛見沢《ひなみざわ》の人間のほぼ全員に寄生している事実が書かれています。医学的根拠に基づいていて、その寄生を間違いなく裏付けます。」
「…………信じられない。………くそ……お魎《おりょう》のばばあめ、放っときゃいつでもお迎えが来るだろうに…。自分ひとりじゃ三途の川ひとつ渡れないのか…! こいつは…無差別テロだぞ。何てこった!!」
「本来の寄生虫《きせいちゅう》は雛見沢《ひなみざわ》一帯にしか適応できませんでしたが、……彼らはその教義の傾向から、より広域に渡って寄生虫《きせいちゅう》が環境適応できるよう、改良を加えている可能性が高いです。雛見沢《ひなみざわ》だけに留まらない。…興宮《おきのみや》を飲み込むか、市内全域に及ぶか、……県全体にまで及ぶか。」
「……くそったれ…。どうすりゃいいだ、くそッ! 首謀者は誰です!」
「雛見沢《ひなみざわ》御三家《ごさんけ》。おそらくは園崎《そのざき》家の頭首でしょう。ただし、お魎《おりょう》が首魁なのか、お魎《おりょう》すらもコマなのかはわかりません。…私には、やつらをやつらと呼ぶことしかできない。その規模もまったくわからないんです。」
「その研究《けんきゅう》がどこで行なわれてるかはわかりますか? そこを抑えます!」
「それはこのスクラップ帖にも書かれていません。……大石さんの方で見当はつきませんか?」
「………そんな寄生虫《きせいちゅう》だの何だのの研究《けんきゅう》をしてるってことは、…かなりしっかりした施設でしょうなぁ…。改造拳銃くらいなら、ガレージを改造して秘密《ひみつ》工場にもできるだろうか、寄生虫《きせいちゅう》じゃあそうはいかないでしょう。」
「……三四《みよ》さんは入江診療所に勤めている看護婦でした。入江診療所が怪しいということはありませんか? 雛見沢《ひなみざわ》の規模から見て、立派過ぎるのが前から不審だと思っていました。」
「はーーーーーー…。入江診療所かぁ……。……むむむむ。」
寄生虫《きせいちゅう》の研究《けんきゅう》なんて物騒なものになったら、高度な気密性など構造の時点から対応した特殊な施設が必要になるはず。
怪しげな研究《けんきゅう》=診療所という図式は確かに描きやすいが、それはやはり素人の想像かもしれない。
診療所の一区画を改造して秘密《ひみつ》研究《けんきゅう》所に……というのは、少し想像が飛躍しすぎているとは自分でも思った。
「とにかく、それがどこかは分かりません。それはどうか大石さんの方で調べてください。怪しげなところを片っ端から調べられないんですか?」
「……ご存知の通り、警察《けいさつ》は強制捜査には礼状ってもんが必要です。そりゃあ、後付で取ることもできますがね? 間違いなくそこだという決定的な証拠《しょうこ》があった時の話です。」
大石は警察《けいさつ》だ。
警察《けいさつ》として動こうとしたら警察《けいさつ》のルールに沿わなければならない。
「でも、大掛かりな細菌《さいきん》テロが計画されているのだけは事実なんです!! しかも、三四《みよ》さんの殺し方の性急さから見て、……私は、彼らが実行に移すXデーが近いような気がしてなりません!」
「わかりましたわかりました! こちらの方でも何とかしてみます! そんなとんでもない計画なら、園崎《そのざき》本家も一枚岩ってわけにはいかないでしょう。必ずどこかに胸中で反対している人間がいるはずです。そういう人物と接触できないか、こちらでも探してみます。任せてください、こういうのは私の得意とするところですよぅ? んっふっふ!」
大石は私を元気付けるように笑ってくれた。
私も、初めは警察《けいさつ》の頼りなさに失望したものの、大石の前向きな返事に頼もしさを感じていた。
彼はいわゆるアウトローだ。警察《けいさつ》のルールに則らずに動けるのが最大の武器だ。
それは、今回のような明確な証拠《しょうこ》がない敵に対して、素早く動く時にこの上なく頼もしい!
事件が起こった後に捜査するいつもの手法では遅いのだ。
今回の事件が起これば…それは甚大な規模になるのだから。
「三四《みよ》さんは……何て恐ろしい陰謀を暴いたんだろうと、恐ろしくなります。」
「……気の毒な最期でした。岐阜の山中でドラム缶の中でこんがりでしてね。気の毒なことです。……………そうそう、そう言えば。…ちょいと彼女のことで変わった話がありましてね。」
「変った話、…ですか?」
「いえいえ。最初は何か事件に関係があるのかなって思ってたんですがね。今のとてつもない陰謀の話に比べたら、瑣末な話です。多分、鑑識のちょっとしたミスでしょう。」
「いえ、聞かせてください。そういう約束じゃなかったですか?」
「いえいえ、隠すつもりなんかありません。ただちょいと夏向きな話だったもんで。…………竜宮《りゅうぐう》さん、綿流し《わたながし》の晩を覚えてますか? あの晩の祭りの終わった後です。あなたの仲良し5人組と富竹《とみたけ》、鷹野《たかの》の7人で談笑してますよねぇ?」
「談笑というほどではありませんでしたが。えぇ、少し話をしたような気がします。」
「いえ、実はですね。鷹野《たかの》の遺体が見付かったのはその晩なわけですが、……岐阜県警さんの鑑識では、死後24時間以上って出ちゃったらしいって噂があるんです。でもそれだと話がおかしい。あの祭りの前の晩には殺されてることになる。」
「殺されてることになる………?」
話がややこしい。
綿流し《わたながし》の夜に見付かった三四《みよ》さんの死体《したい》が、死後24時間以上ってことは………えぇと…
………私の脳に、ざらついたシャーベットが登っていくのがわかる。
大石はちょいと早い夏の怪談だなどと笑っているが、……………実は、…この三四《みよ》さんの死がズレているという事実は、………彼女のある突拍子もない仮説を裏付けていたからだ。
この突拍子のない仮説を、…私は大石に話していないし、圭一《けいいち》くんにも話していない。
……話せば、せっかく信じてくれた話を、全部引っくり返しかねない。……それくらいにとんでもない話だからだ。
とにかくとにかく、……この、三四《みよ》さんの死亡時刻のズレが意味するところはとてつもなく大きい。
何て皮肉だろう…。
その仮説を立てた三四《みよ》さん自身が、…自らでそれを証明してしまうなんて………。
まだだ。まだ、証明されたわけじゃない。
………もし、…その説が本当なら、……まだ、現れるはずだ。
…あぁ、…でもまさか、……本当にこんな馬鹿《ばか》げたことが……?
まだ信じられない。
でも今、大石は言った。
三四《みよ》さんはあの祭りの晩、すでに死んでいたと言った。
つまり、あの晩に富竹《とみたけ》さんと一緒に腕を組んで歩いていた三四《みよ》さんは、……当然、三四《みよ》さんではないのだ。
すでに死んでいるのだから三四《みよ》ではない。
つまりあれは、……三四《みよ》さんにそっくりな、……………………。
足元から、…生まれて初めて沸き起こる感情が登ってくる。
……それは恐怖などというチープな感情ではない。
……それは真実という名の恐怖。
自分がどんなに信じたくないことでも、……真実であることを受け容れなければならないことに勝る恐怖はない。
この恐怖に比べれば、園崎《そのざき》本家が私を追っていて、生きたままドラム缶で焼き殺そうと企んでいたにしたって、大したことはなかった。
………それくらいに、…恐ろしいものが登ってくるのだ。……じりじり、じわじわと…。
「竜宮《りゅうぐう》さん、悪いことは言いません。警察《けいさつ》が信用できないお気持ちもわかります。園崎《そのざき》本家は市内全域を牛耳っていますからね。署にも園崎《そのざき》家の御用聞きみたいな連中がいますし。……それでも今のあなたは危険だ。せめて私個人を信用してはくれませんか? 私以外の誰も知らないところにあなたを匿います。私をどうか信用してください!」
大石をこの期に及んで疑いはしない。
実際、頼もしいと思い始めている。
ついさっきまでなら、大石のこの申し出に二つ返事で乗っただろう。……だが、状況は一変してしまった。
三四《みよ》さんの死が、……あの信じられない事実を裏付けるものならば……………。
大石を信じはする。
敵を探し、攻撃してくれると思う。
だが、身を預けるくらいなら、私が自ら身を守る方がはるかにいいのだ。
…………あの信じられない事実が本当なら、……もう私は、自分以外が誰も信用してはいけないことになる。
いや、「自分」すらも、現れるかもしれない…………。
「大石さん、本当にありがとうございます。とにかく、やつらの研究《けんきゅう》所を突き止めて、何とか陰謀を食い止めてください。私はしばらく身を潜めます。……また連絡しますね!」
私はこの頃になってようやく、長電話《でんわ》が過ぎたことに気付いていた。
こんな暗闇《くらやみ》の中で、こんなにも煌々と明るい電話《でんわ》ボックスにずっといることは、私はここですよとアピールしてるのと何も変らないからだ。
※大石目線〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「もしもし! もしもーし!! …………切れたか。」
もう少し話をしたかった大石は、小さく舌打ちをすると受話器を置いた。
その時、刑事部屋へ後輩刑事の熊谷が駆け込んできた。
「大石さん。やっぱりヤバそうなヤマっす! 竜宮《りゅうぐう》レナを探させているのは園崎《そのざき》組、葛西《かさい》辰由!」
「葛西《かさい》ぃぃ?! 園崎《そのざき》茜《あかね》の懐刀じゃないですか…!」
葛西《かさい》辰由は組長の舎弟の中でも相当序列の高い大物だ。
かつては自分が主宰する下部団体の組長でもあったが、抗争の時の大怪我を切っ掛けに退き、今では組長の側近となっている。
特に園崎《そのざき》茜《あかね》に信頼されているらしく、武闘派の茜《あかね》の懐刀として今もなお恐れられている男だ。
裏世界では葛西《かさい》が動くのはまさに宣戦布告に値すると言われる。
葛西《かさい》が出れば血の雨が降るとまで恐れられた、武闘派中の武闘派。
最近でこそ大人しいものだが、ヤツが指揮したと言われる抗争事件は数え始めたらきりがない!
しかも、あいつを筆頭にした特攻隊は、ダム戦争当事に渡米して軍事訓練まで受けている戦闘のプロ集団じゃないか。
建設省を本気で武力制圧しようなんて考えるトンチンカンどもだぞ!
「…情報屋界隈でも相当な騒ぎになってるようです。竜宮《りゅうぐう》レナが園崎《そのざき》組にとって、相当都合の悪いものを握ってるんじゃないかともっぱらの噂です。」
「情報屋の皆さんも、さすがに勘がいいですねぇ、なっはっは。…………………こりゃあ、とんでもないヤマになってきたぞぅ…。」
「サトさんは、例の建設省とお魎《おりょう》の秘密《ひみつ》交渉テープじゃないかって見てるみたいっす。……だとすれば、人が死ぬ騒ぎになるっすよ…。」
秘密《ひみつ》交渉テープどころじゃない。
さっきの話が本当なら、これはとんでもない大陰謀だ。
人が1人や2人死ぬなんてレベルじゃない。
下手をすれば、村丸ごとが全滅して、県内が大パニックになる空前の大規模テロになる!
「……竜宮《りゅうぐう》レナぁ、……ヤバいですよぅ。……………熊ちゃん。覆面パトを竜宮《りゅうぐう》家に張り付かせてください。本日付で竜宮《りゅうぐう》レナから、暴力団組織に脅迫を受けている訴えがあったため身辺警護ってことにします。課長には後で私から話します。」
「いえ…その、……実は、竜宮《りゅうぐう》レナは自宅を出ているらしいです。駐在所からの連絡では、どうも家の金を何十万か盗んで雲隠れしているらしいんです。それから、竜宮《りゅうぐう》家の前には園崎《そのざき》組の車が一台張り付いているという連絡が。」
「馬鹿《ばか》野郎おおぉッ!! 何でそいつを早く言わないんだ! 竜宮《りゅうぐう》レナは相当、高度に狙われてるぞ! さっきの電話《でんわ》は家じゃなかったんだ! 竜宮《りゅうぐう》レナを至急保護します!! 車を回せ!! 家の前に張り付いてる野郎を締め上げろ! おい! 若いの何人か来いッ!!」
「「「うおおっすッ!!」」」
※詩音目線
「えーー? レナさんが家にいない? この時間にー?」
「はい。しばらく家の前で待たせていただきましたが、戻られる気配がなかったもので、一度引き上げました。」
「誰かの家に遊びに行ってるとかじゃない? 案外、本家でお姉たちと一緒に部活《ぶかつ》大会だったりしてね。」
詩音はソファーに寝転びながら、はしゃぐ魅音《みおん》たちを思い浮かべて笑った。
「…一応、それを疑って本家にも寄らせていただきましたが、いらっしゃられないようでした。魅音《みおん》さんも、レナさんがお帰りになられないのを心配しておられました。」
「…………そうなの? …どうしたんだろうね。はて。」
「滅多にないことだろうとは思いますが、タチの悪いのに絡まれたのかもしれません。念の為、レナさんを見かけていないかどうか、聞き込ませています。」
「あの子に限っては大丈夫だと思うけどなぁ。何気に強いしね。あははは。」
「それはそうと、私に何の用だったんです…?」
葛西《かさい》は上着を脱ぎながら聞く。
レナが自分に何か用があるらしいので、直接会って来てくれてと詩音に言われただけなのだ。
「あれー? 言わなかったけー? 何かね、葛西《かさい》の落し物を拾ってるらしいよ。お姉が言うには、レナさん、それを直接返したいんだってさ。……おうおう、いいねぇ、若い子にモテることでー☆」
「堪忍してください……。しかし、ご無事だといいのですが。」
その時、電話《でんわ》が鳴った。
ネクタイを緩めながら葛西《かさい》が取る。
「………………はい。……はい。……わかりました。直ちに。」
葛西《かさい》の声色が相当に真面目だったので、詩音は電話《でんわ》の相手を悟る。
「誰? お父さん?」
「…はい。レナさんを大至急保護して本家へ護送せよとの園崎《そのざき》本家からの命令です。」
「鬼婆の勅令ぇ?!
………レナさん何をやらかしたんだかぁ。…あ〜あ、爪かなぁ? かわいそうに。くわばらくらばら。」
※魅音《みおん》と圭一《けいいち》の電話《でんわ》
「レナがまだ帰ってないってッ?!」
「うん。実は聞いた話だと、レナ、自宅を出てどこかに雲隠れしてるらしい。」
「雲隠れ! …ど、どういうことだ?!」
「あと、これはさっき入ってきた情報なんだけど、警察《けいさつ》が竜宮《りゅうぐう》レナの行方を探してるって。」
「な、何だって………。」
「何でも、レナの家の前にはすでに覆面パトカーが1台張り付いてるらしい。村の中にも、すでにサイレンなしのパトカーが数台、入り込んでるみたい。あと、公由本家にも警察《けいさつ》から電話《でんわ》があって、竜宮《りゅうぐう》レナの所在を至急確認したいので、町会連絡網で確認をしてほしいと連絡があったって。」
「……ってことはまさか…、……俺たちの隠した死体《したい》が、見付かったってことか?!」
あんな山奥の入り組んだ奥の奥に隠したんだ。そんな簡単に見付かるなんて考えられない!
「ううん、それは100%ありえない。私が保証するよ。」
「ほぅ、よく100%なんて言い切れるなぁ?」
「うん。…実はね、あの死体《したい》、……園崎《そのざき》家の方で秘密《ひみつ》の場所に処分させてもらったの。」
「秘密《ひみつ》の場所ぉ?!」
「まぁまぁまぁ! そこは深く考えな〜い! あのね、私たちが埋めたあの山林、後でよくよく聞いてみたら、今年の夏に大規模な伐採計画があるってわかったの。だからちょっと私の方で手を回させてもらったってわけ。」
「そっか…、なるほどな。お前、味方なら頼りになるけど、敵だったら怖いやつだなぁ…!」
「くっくっく! おじさんを誰だと思ってるんだか〜!」
「……じゃあ、死体《したい》じゃないよな。一体どうして、警察《けいさつ》がレナを!」
「わからない。北条《ほうじょう》鉄平《てっぺい》と間宮《まみや》リナが竜宮《りゅうぐう》家を食い物にしようとしてたって話は、裏の界隈ではちょっと知られてたらしいんだよ。……そっちの角度から、レナが浮上したのかもしれない。とにかく、容疑者ってわけじゃないみたい。でも、重要参考人とかって扱いではあるだろうね。」
「どっちだって同じだぜ! くそ! せっかくレナは平穏な生活を取り戻したんだぞ! ここで台無しになんかしてたまるか! 魅音《みおん》、俺たちで何とかレナを庇おう!」
「当然だよ! とにかく、警察《けいさつ》よりも先にレナの身柄を確保するよう、さっき興宮《おきのみや》の家に伝えた。本家でなら、レナを120%警察《けいさつ》から守れる!」
「レナを匿うだけじゃ解決にはならないんじゃないのか…? レナの嫌疑を何とかしないと!」
「そこは保護してから考えるよ。アリバイを証明する証人なんかいくらでも作れるし、本家に出入りしてる最高の弁護士もいる! 私たちは、仲間《なかま》を絶対に見捨てない!」
「あぁ、そうさ! 絶対にレナを守ってやろうな!! くそ、俺ができるのは魅音《みおん》に頼るだけかよ、情けねえぜ!」
「まぁまぁ、蛇の道は蛇ってことだよ! おじさんの方で手を尽くすから、ここは任せな! あと、村全体で警察《けいさつ》の目を誤魔化すため、アリバイを作る。レナが穀倉の辺りで目撃されたことにしよう。警察《けいさつ》の目が広域に散れば、それだけ薄くなるはずだよ。」
「な、なるほどな。そいつぁうまいぜ!!」
「こんなのはダム戦争の頃はお手の物だったよ。絶対にレナを庇いきってみせる! あと、圭ちゃん。レナは圭ちゃんのことは特に信頼してた。……だから、レナの方から圭ちゃんのところに現れる可能性がある。その時にはすぐ保護してあげてほしい! その時は私にもすぐ連絡してね!」
「おう、わかったぜ!!」
「レナは強い子だからね! ………きっとこんな苦難も乗り越えて見せるよ。」
「…………そうだな。」
ちょっとだけ、俺は言いよどむ。
なぜなら、…普段のレナなら、どんな困難も乗り越えただろうが、今のレナはちょっと普通じゃないような気がしたからだ。
鷹野《たかの》さんの妄想《もうそう》スクラップ帖を信じ込んでいた。
…だからレナは、園崎《そのざき》家を黒幕だと思い込んでいる。……園崎《そのざき》家をすんなり信用して身柄を任せてくれるだろうか…。
「大丈夫だよ。私とレナだって仲間《なかま》同士なんだからさ! 腹を割って話せばすぐに誤解だってわかってくれるよ。圭ちゃんだって私と話して、誤解が解けたんでしょ? くっくっく! よくもまぁ、あんなトンデモ話を信じたもんだよ。」
「まぁな。……我ながら、よくあんな話を鵜呑みにしたもんだぜ。前原《まえばら》圭一《けいいち》、多分、一生の恥だぜ、やれやれ…。」
でも、魅音《みおん》と話すまでは俺も鵜呑みにしていた。
……仲間《なかま》の契りを交わしておきながら、魅音《みおん》は敵方かもしれないなんて、悩んでいた。
……鷹野《たかの》さんには魔性の魅力があるが、…それは彼女が残した文章にも宿っている気がする。
あの人のスクラップ帖は、人を狂わせる。
………迂闊に読んではいけない、禁断のスクラップ帖だったんだ。
今のレナは多分、鷹野《たかの》さんが死してなお残した魔力に囚われているんだ。
…早く目を覚まさせないと、……何だか恐ろしいことになりそうな気がする…!
「あ、ごめん、来客だわ。……何だか警察《けいさつ》っぽいな。じゃあこれで電話《でんわ》を切るね。」
「おう、わかった!」
「レナは今晩以降、穀倉の辺りに潜伏してることになってる。警察《けいさつ》に何か聞かれても、知りません、会ってませんで通すんだよ!」
「おう、了解ッ!!」
魅音《みおん》は俺の返事を確認すると電話《でんわ》を切った。
電話《でんわ》を切った後になって、……レナが何かとんでもない運命に飲み込まれかけていることをじわじわと感じ出す。
警察《けいさつ》がどうこうということではなく、…………鷹野《たかの》さんの魔力に魅入られたレナが、何か恐ろしいことになってしまわないか、それだけが不安だった。
…………そうだ。
レナは、……あのゴミ山の隠れ家じゃないのか?
レナはかつて、リナさんが家にいて帰りたくない時はそこで時間を潰していたと言ってたじゃないか。
そうだ、そう言えば、スクラップ帖は隠れ家に隠したと言っていた気がするぞ!
そうだ、レナのやつ、隠れてるならお腹を空かしてるに違いないよな。…何かお菓子くらい持っていってやろう。
台所の菓子棚を漁り、目を丸くしているお袋に言った。
「母さんごめん! ちょっと出掛けてくるよ!!」
「こんな時間に…? もう遅いからよしなさい…。」
「大切な用事なんだ! すぐ戻るよ。あとそれから、………もし俺が留守の間に、レナが来るようなことがあったら、黙って俺の部屋に通して欲しい。それから、レナの所在を尋ねる電話《でんわ》が来たら知らないって言って切っちゃって!」
お袋は怪訝そうな顔をしていたが、俺は言い返す間を与えずに家を飛び出した。
俺はガレージの壁にかけてある懐中電灯を首に掛けると、自転車に跨り、夜の闇の中に飛び出していくのだった。
今夜は、気持ちが悪いくらいに月が綺麗で、その姿が鮮明だった。
何か、……とんでもないことが起ころうとしている。
それが何だかはわからないけれど、……もうすぐそこまで迫っているんだ。何かが!
月だけがそれを知っていて、何も知らずに右往左往している俺たちを笑いながら見下ろしてるみたいな、そんな気がした。
くそ! 面白けりゃ笑えよ! この滑稽な物語を好きなだけ笑えばいい! 俺は笑わねぇぞ! 逆らってやる、抗ってやる! 俺たちを待ち受けている何らかの運命に徹底的に抗ってやる!
レナめ……、居てくれよ…!!
自転車のヤツめ、油が切れたかな? キィキィとうるさい。
くそ、自転車まで俺たちを嘲笑ってやがる…!
■幕間
TIPS
10■やつら ※レナ目線
大石との電話《でんわ》を終えて電話《でんわ》ボックスを出た瞬間。
………私は今さらのようにそれに気付き、ぞっとした。
この暗闇《くらやみ》の中で、これだけ目立つ電話《でんわ》ボックスにいたのだ。
誰にも見られていないわけがない。
いや、見られていないわけがないんじゃなくて、見ラレテイタ。
暗闇《くらやみ》からじっとこちらを覗く、光る目…。
………それが人間であるはずはない。
幻覚《げんかく》? 違う。やつらの正体はすでに知っている。
……それは雛見沢《ひなみざわ》を支配する御三家《ごさんけ》を、真の意味で支配するやつら。
その目の位置は低く、……薄っすらと見える輪郭も貧弱だった。
……そう、やつらが体格的に貧弱であることはすでに過去の記録から明らかなのだ。
その、人間ではないことを示すシルエットは、信じられないくらいに非現実的だった。
…特に頭部のシルエットが異常で、突起物のような何かがあり、明らかに人のそれではない。
……やつらの外見については、三四《みよ》さんに預かったもう1冊のスクラップ帖の方が詳しかった。
……その眼球は血のように真っ赤で、…身体にはアンモニア臭があり、………過去において世界で何度か捕獲の例があるはずなのに、……みな、溶けたりして消えてしまい、跡形も残さない。
……残るのは、やつらが確かに「降臨」したことを示す跡だけ………。
その時、ありえない非現実的なシルエットが一歩、
歩み寄り…、じゃりりと現実的な音を立てた。
その音のあまりに残酷なくらいの現実感が、私を現実に引き戻す。
「ち、……近寄らないで、バケモノめッ!!」
じゃりり、ガッ、ジャララララ!!
道路の砂利が、爆ぜたり、飛び散ったりして、奇怪な音を立てた。
しかもそれは徐々に、私に迫ってくるのだ。
……私は恐怖に駆られてもう一度同じ言葉を口にする。
すると今度は、私がたった今まで使っていた電話《でんわ》ボックスのガラス扉がびりびりと振るえ、バン!
バン!
と打ち付けるような怪奇音を立て始めるのだった。
私は絹を裂くような悲鳴を挙げ、駆け出す。
そして肺が爆発しそうになるまで走ってから振り返り、……もうあの奇怪な気配がそこにいないことを悟る。
…………気のせい………?
気のせいなものか、砂利を蹴散らすような音、電話《でんわ》ボックスを鳴らす怪奇音は確かに聞いたじゃないか!!
でも落ち着け竜宮《りゅうぐう》レナ…!
……気のせいということにしてもいいから、今は心臓を落ち着けるんだ。
……どうせ、…いつか戦う相手じゃないか。
…次に現れたら、刃向かってやれ…。分厚い鉈《なた》を頭に叩き込んでやれ…!
雛見沢《ひなみざわ》は私が守る、それが私の使命なんだ。…やつらの好きになんかさせるものか…ッ!!
チリチリチリチリ……チリチリチリチリ。
10日目
■隠れ家のレナ
この隠れ家で灯りを付けても、うまい具合に廃車《はいしゃ》の山に遮られて、光は漏れない。
……理屈ではわかっていても、私は念には念の意味を込め、灯りを付けなった。
この静寂の隠れ家で、灯りひとつ付けずに息を潜めていることは、少なからず恐怖感を感じさせた。
何かをしている方がよっぽど気が紛れる。
……でも今の私は、もう頭の回転も鈍り、今後どうすればいいかを考える気力もなかった。
なのに、体を横たえて体力を回復させる勇気もなく。
……たまに、聞こえるような気がする不審な物音にはっとしては、夜目を凝らして息を殺す。その繰り返しだった。
大石は園崎《そのざき》家の陰謀を信じてくれた。
……だが、陰謀の証拠《しょうこ》を掴まねば、大々的に動くことはできない。
その証拠《しょうこ》とはおそらく、寄生虫《きせいちゅう》を研究《けんきゅう》している施設か何かを抑えることを意味するのだろうが、……そんな施設がどこにあるのか見当もつかなかった。
入江診療所がもっともらしいとは思っているが、何の根拠もない。
やつらだって、私が疑ってしまうようなところでは研究《けんきゅう》するまい。
おそらく………、戦時中の防空壕を再利用しているような、秘密《ひみつ》の地下研究《けんきゅう》所みたいなものがあるのだ。
そう言えば、……古手《ふるで》神社の敷地の中に、中が公開されない秘密《ひみつ》の建物がひとつあった。
確か、祭具殿という名前だ。
三四《みよ》さんの研究《けんきゅう》によるならば、古手《ふるで》神社こそはオヤシロさま信仰《しんこう》の中心地だ。
そして、その儀式《ぎしき》のひとつである、奇祭、綿流し《わたながし》のための道具を納めている祭具殿はとても神聖《しんせい》な意味があるらしい。
確か、その綿流し《わたながし》も、強過ぎる寄生虫《きせいちゅう》からの免疫を得るため、ワクチンを作ったりする医学的な儀式《ぎしき》だったはずだ。
ならば、その綿流し《わたながし》に用いる祭具とは、医学的な道具ということになる。
だとするならば、祭具殿という建物はもっとも神聖《しんせい》にして、もっとも医学的な建物ということになる。…………怪しい。
祭具殿の中に、秘密《ひみつ》の研究《けんきゅう》室があるのではないだろうか。
……あぁくそ。入江診療所なんかじゃない、やるならこっちだ。
何でさっき大石と電話《でんわ》をしている時に思いつかなかったのだろう!
大石が思いつけばいいのだが……。
もう一度電話《でんわ》ボックスへ行って、大石に祭具殿のことを話そうか?
そう思った時、私は車のエンジン音が近付いてくるのが聞こえ、さらに息を潜めた。
こんな深夜に車が通るなんてありえない。
恐ろしい予感が頭にいくつも過ぎり、私を緊張させる…。
やがて、ダム現場の工事事務所跡の方から、車のヘッドライトらしきものが光るのが見えた。
さっき通り過ぎた車は工事事務所跡へ向かったのだろう。
……だが、あそこは無人でプレハブだけが残っている空っぽだ。
こんな時間に訪れるような場所では、断じてない。
闇の中に目を凝らしていると、車のエンジンが止まってライトが消え、代わりに2人分の、ちらちらと蠢く懐中電灯の灯りが見えた。
その灯りはプレハブの中へ入っていったようだった。
……私があの中に潜んでいないか、探しているに違いない。
私は、彼らが帰るまでの間、ずっと息を潜めてそれを眺めていた。
ここからちらつく灯りだけでは、それが何者なのかはわからない。
おそらくは……園崎《そのざき》家の手先だろう。
私が家を出たことを知り、村中を探しているに違いない…。
…息を潜めてなくてはならない時に限って、顔がむず痒くなったり、足が伸ばしたくなったりするのが腹立たしい。
蒸し暑さでじっとりと汗《あせ》ばみ、そのせいでさっきから肘の裏や首筋などが痒くて仕方がなかった。
掻くと、バリバリと信じられないくらいに大きな音を立てたので、私は驚き、掻くのをやめた。
……普段は虫刺されを掻いたってこんなにも意地悪な音は出ないのに!
私の神経が過敏になっている証拠《しょうこ》だろう。
…これだけ離れている上、闇の中で息を潜めている。
引っ掻くどころか、くしゃみをしたってバレやしないとわかってる。
……それでも、わずかの音が許せず、私はしばらくの間、体中のあちこちが痒いのに我慢し、……結局、反動で全身を余計にバリバリと掻き毟るしかなかった。
これからずっと隠れてやり過ごすような生活をしていかなくちゃならないのに、その最初の夜でこれだけ緊張してるようでは、とても長続きするわけない。
私には、この程度のことで動じない図太さがもう少し必要に違いなかった。
そう思い、無理にリラックスを装いながら、遠慮なく首筋をボリボリと掻いて、じっとり張り付いて流れない汗《あせ》の不快感を堪えていた。
……空腹が気になりだした。
お腹の虫が今度は騒ぎ出す。
…だが、お腹が空いたのはリラックスしてきた証拠《しょうこ》に違いない。
でもさすがに食事をすれば、そこそこに騒がしくなる…。
私は、あの事務所跡を探しているやつらが帰るまでそれを我慢することにする。
早く帰れ、早く帰れ。
お前らが帰れば食事なんだ。
……そう念じ続けたのが功を奏したのか、2人分の灯りはプレハブの周りを探るのを止めたようだった。
……だが、念が強すぎたのかもしれない。
その灯りが、ずっとこっちを照らし続けているのだ。
…まさか、こっちに気付いた?!
違う。彼らは、こっちへ向かって歩いてきているのだ!
私は慌てて身をすくめると、毛布を被り耳を澄ませた。
………やがて、………ざくりざくりと、2人分の足音が近付いてくるのを感じた。
その足音が、あまりに惑いなくこちらに近付いてくるので、私は自分がすでに見付かっているのではないかと怯えた。
だが、見付かっているはずはない…。
この場所を始めから知っていたなら、プレハブを探すという無駄な時間は割かないはずだし、私を発見しているなら、こんなにものんびりとした足音で歩いたりはしない。
……彼らがこっちへ向かってくるのはまったくの偶然なのだ…。
毛布を被っているので、彼らが何者かはわからなかった。
懐中電灯でどこを照らしているのかもわからないので、迂闊に窓から顔を覗かせるわけにもいかない。
私は彼らの気配が消えるまで、石になったつもりで縮こまっている他ない。
彼らは、私の隠れ家のすぐ近くまで来ると立ち止まった。
…2人の会話が聞こえる。
「…………いねえだろ。」
「ぐるっと回ってみるか。そっち見てくれ。」
彼らの足音が別れ、2人がぐるっとこのゴミ山を巡回しているのがわかる。
……この隠れ家は廃車《はいしゃ》の中を改装しただけのものだ。
ぱっと見ただけでは普通の廃車《はいしゃ》にしか見えない。
…だが、中を覗きこまれれば、明らかにただの廃車《はいしゃ》でないことがわかってしまう。もしバレたら、完全に袋の鼠だ…。
彼らの会話から、明らかに自分を探しているものとわかる。
……では…こいつらは、園崎《そのざき》組の特攻隊?!
見付かれば、……この場で捻り殺されてしまうに違いない!
この場所がどれほど殺しに向いているかを私は身に染みて理解している。
何しろ2人も殺せたんだ。
私にもできたんだから、プロ中のプロの彼らには造作もない!
でも、だからと言って、今の私には何もできない。
ただただ、彼らが立ち去ってくれることを祈るしかできない。
その時、かすかにピーーー…というか細い電子音が聞こえた。
「……敦です、感度良好。…………………はい。…………………ごぐらぁ?! はい、了解です。」
「どうした?」
「竜宮《りゅうぐう》レナは穀倉らしい。目撃情報があったそうだ。」
「おいおい…、お手上げだぜ。どうするんだよ。」
「とにかく是が非でも、ひっ捕まえてつれて来いって旦那の命令だ。例え行ったのが札幌だろうと博多だろうと、追っ掛けるしかねぇだろ。」
「無理だぜ、見つかるわけねぇ。……それでも探さなきゃなんねぇのか?」
「……旦那は竜宮《りゅうぐう》レナの持つ、鷹野《たかの》三四《みよ》のスクラップ帖ってのを欲しがってる。あんだけの剣幕になるんだから、相当のもんだろうぜ。」
「で、俺たちはどうするんだよ。」
「竜宮《りゅうぐう》家前に張り付きだけ残して、他は引き上げだそうだ。戻って麦茶でも飲もうぜ。」
それから2人の足音は遠いてやがて聞こえなくなり、………車のエンジンをかける音。
私はそこでようやく毛布を出て外を見た。
車のライトがUターンし、引き上げていくのが見えた。
そしてエンジン音すら夜のしじまに溶け込む………。
私は、ためにためていた熱いため息を一気に吐き出し、さっきまでずっと堪えていた全身の虫刺されを掻き毟り、べったり張り付いていた汗《あせ》を拭って、こらえていたセキを全て吐き出すのだった。
やつらの会話をはっきりと聞いた。間違いなく今の2人は園崎《そのざき》組の手先だった。
……それは大石の言っていた話とも合致する。
そして彼らはもっとはっきりと重要なことを口にした。
それは「スクラップ帖」が目的であると明言した点だった。
私は今日まで、自分が狙われる理由を、三四《みよ》さんのスクラップ帖を受け取ったからと推測してきたが、誰の口からもそう聞かされていたわけではない。
……私の思い込みであると、無理に思い込むこともできた。
だが、彼らははっきりと口にしたのだ!
竜宮《りゅうぐう》レナをひっ捕まえる。その理由は鷹野《たかの》三四《みよ》のスクラップ帖を持っているからだとはっきりと口にした!
それから、竜宮《りゅうぐう》家前に監視を残したということも言った。
……当然だろう。
私も追う側だったら間違いなく抑える。
家には間違っても戻らない方がいい。
…………だが、…実はこれらのことよりもはるかに重要なことを彼らは言っていた。
これがごく普通の状況下でなら、おそらくよく似た何者かの見間違いだろうと笑い捨てられる。
………だが、現在はすでにそういう状況ではない。
三四《みよ》さんがすでに死んでいるのに、「居た」。
そして私がここにいるのに、穀倉に「居た」。
………それは三四《みよ》さんのスクラップ帖に書かれた内容の中で、…もっとも信じたくない部分だった。
やつらは……、園崎《そのざき》家の暗躍などとは別に、………私に徐々に迫ろうとしている…。
……すでに何もかもが、私の常識を超えようとしている。
…戦うべきか逃げるべきか、それすらの判断もつかず、私は立ちすくみ食いちぎられようとしている…?
……………いやだいやだ…。
立ちすくんだまま食い殺されるなんて絶対に嫌だ。
勝てないなら逃げたい。
逃げられないなら戦いたい。
………絶対に幸せになってやるんだ、絶対! 座してなんか、終われるものか…!
だが、……………三四《みよ》さんのスクラップ帖の「予言」する敵は、少しずつ私に近付きつつあり、私を蝕みつつある。
このゴミ山にいる私が、人知れず失踪してしまうようなことがあれば。
穀倉に現れた私が、何事もなかったかのように、私に変わって元の生活に入り込む。……周りには絶対にわからない。
お父さんにだって友達にだって、誰にもわかることなく、入れ替わっていく……。
いや、私が気付いていないだけで……、もう身近な人間たちがだいぶ入れ替わり始めているのではないだろうか……?
そう。………園崎《そのざき》家が起こそうとしている細菌《さいきん》テロなど、結局は彼らの手の平で踊っているだけのことなのだ。
彼らの仲間《なかま》に取り憑かれた鼠は、猫を恐れなくなる。
その結果、猫の姿を見ても逃げなくなる。
……だから猫に食われ、彼らは猫の体へ移ることができるのだ。
……鼠は彼らの目的に利用されているだけで、その目的を助けるために猫を恐れなくなるわけではない。
だから園崎《そのざき》家も同じこと。
……自らの意思で動いているように思っていて、…その実、彼らの目的を知らず知らずに手伝っている。
それこそは、太古の昔からの彼らの「寄生」。我々は所詮、鼠の群れに過ぎないのだ。
ほとんどの馬鹿《ばか》で愚鈍な鼠たちは、彼らの存在など気付きもせず、結局は自らの意思で生きているよう誤解しながら、彼らの目的を手伝う。
……だが、稀に勘のいい鼠が生まれることもあった。
勘のいい鼠は自分たちが利用されていることを知り、時に彼らの存在を看破した。
……もちろん看破したところで、誰も信じないのだから問題はない。
やがて看破した鼠も勘違いだったと思い、飲まれて消える。
ところがさらにさらに稀に、……その気付きを、客観的に証明できる鼠が現れる。
それがまさに三四《みよ》さんだった。
彼らにとって、……この稀な鼠は極めて危険な存在だった。
…だから、この鼠が現れた時、彼らは信じられないくらいに強引で、大胆に、取り除こうとする。
その強引で大胆な手口は、…実は以外にも私たちは知っている。
……だが、愚鈍な鼠たちはそれを嘲笑い信じない。
……信じないように誘導され、結局彼らを助けているのに、気付かない。
………彼らは三四《みよ》さんを消した。
そして、……入れ替わろうとした。
だが、彼らの失敗は消したはずの本当の三四《みよ》さんの死体《したい》を、見つけられてしまったこと。だから、入れ替わりに失敗してしまったのだ。
……………なら、……私をも消し、入れ替わろうとするだろう。
あるいは、私に近付くために、………私の仲間《なかま》たちとも入れ替わるだろう。
……外見だけが同じなのに、……中身はまったく違う、我々の想像を絶する…異常な存在。
いや、…………現れる。もう、現れてる。
三四《みよ》さんの死の翌日に現れた。
そして今夜、穀倉に私が現れた。
……まだまだ現れる。
彼らは形振り構わず私を追っている。
まだまだ、まだまだ、……現れる…。
その時、スクラップの斜面を何者かが降りてくる音が聞こえた。
私は再び身を屈め、音が聞こえた方を疑う。
…………懐中電灯の灯りは1つ。…1人のようだった。
………誰? ……こんな時間に…?
その人影はとても小さく、……断じて大人ではありえなかった。
全身にぞわぞわっとしたものが走り抜ける…!
懐中電灯がこっちを照らし、足音はまっすぐ近付いてくる。
………さっきの連中と違い、私がここに隠れていることを理解しているような足音だった。
…いや、……きっとそれは偶然。
…もう一回隠れよう。絶対にやり過ごせる。
さっきだってやり過ごせた。…隠れろ、隠れろ…!!
私は毛布を被り、自分は石だと念じながら縮こまった…。
だが、信じられないくらいに無常に、足音は近付いてくる………。
そして、………この隠れ家の車を、……コン、
コン、
と、……ノックするように叩いた
私は両目を見開き、全身からボタボタとあふれ出る脂汗《あせ》を抑えられずにいる。
……それがノックを意味するものでないと信じたくて、頭を真っ白にして恐怖と戦っていた。
だが、ノックは再び響く。
………毛布越しに明るさを感じた。
…私は、……懐中電灯ではっきりと照らし出されているのではないだろうか……!
それでも、なお私は恐怖をかみ殺す。
……身動きさえしなければ、私には指一本触れられないのだと…勝手なおまじないを決め、わずかの震えすら耐えた。
「……………くすくすくすくす。」
それは明白な笑い声。
……私が見つかっていないだろうと、未だ縮こまり続けていることを嘲笑う声。
だけど、…それでも私はこらえる。……だってだって、…ここから出たら…!!
「……何に怯えてるの? ……くすくすくすくす。」
「ぅ、……ぅわああああぁあぁああぁあ!!!」
私は毛布を払いのけると、その声の主と対面した。
………それは、……梨花《りか》ちゃんだった。
…それはまさに、………ありえない場所でのありえない出会いだった。
こんな深夜に……こんな場所に梨花《りか》ちゃんが1人で現れるなんて、……ありえない!
…私は咄嗟に悟る。
この梨花《りか》ちゃんは、………確かにどこから見ても梨花《りか》ちゃんだが、………梨花《りか》ちゃんの外見を完璧に模した、………それ以外の存在であることを悟る。
三四《みよ》さん、私、……そして、梨花《りか》ちゃんまでも…ということなのか…。
だから私は、恐怖に押しつぶされる前に、少しでも心を奮い立たせようと、あえて攻撃的に口を開いた。
「……………梨花《りか》ちゃん……かな…?」
「……みー。…他の誰に見えるのですか?」
梨花《りか》ちゃんは、私のよく知る梨花《りか》ちゃんのように応えた。
……だが、ありえない。
こんな時間のこんな場所を訪れるなんて、絶対にありえない…!!
「………わかるよ。…………梨花《りか》ちゃんじゃ、ないんでしょ?」
「………………。」
「……お生憎だけど、私の目は誤魔化せないよ。外見が梨花《りか》ちゃんであっても、…あんたは梨花《りか》ちゃんじゃない。私の友達の古手《ふるで》梨花《りか》じゃない。……何者…?!」
「……………………。」
梨花《りか》は、しばらくの間、きょとんとしていた。
…私の言っていることがわからないかのように振舞っているようにも見えた。
だが、……その間が、長い。
何のことかわからなければ、とっくに沈黙に堪えきれなくなってもおかしくないはずの時間を、……無言でいた。
そして、…………ついに化けの皮を、…脱ぐ。
「……くす、……くすくすくすくすくす。」
そいつは笑う。
………外見上、絶対に看破できるはずのない自分が梨花《りか》でないことを看破したことを、面白がるかのように笑った。
「……………あんた、………誰!!」
私の問い掛けに応えず、……そいつはしばらくの間、ひとりで笑い続けていた。
それから、……私に目を合わせ、……梨花《りか》ちゃんが絶対に見せたことのないような瞳を覗かせて、こう言った。
「私もこの世に生きて長いけど。………私を梨花《りか》じゃないと見破ったやつは初めてよ。あなたは勘がいい人だと初対面から思ってたけど、………大したものね。くすくすくす…。」
「……………!!!」
……私が心の中で一番怯えていたことを、はっきりと口に出され…、私は明らかに驚愕していたと思う。
こう言われたら恐ろしい、こう言われたら曲解のしようもない、……そういう恐れが書き出されてどこかに置かれているのではないかと思うくらいに、…それをはっきりと口にした。
「でもあえて梨花《りか》だと名乗っておくわ。………私も、梨花《りか》を自分の呼び名だと思って、かなり長いしね。」
「……へぇ………。…長いって、………どれくらいに………?」
「大したことはないわ。ほんの100年程度よ。」
「………は、………はぁ?! 何を言ってんの、あんた!!!」
矛盾した感情だった。
目の前の存在が梨花《りか》でないとわかっていながら、梨花《りか》でないその存在を否定してしまう。
……この感情が人間に備わり続ける限り、…人間は自らの知らないものを永遠に認知できないだろう。
…だからこそ、「彼ら」を人類は認知できないのだが。
「怯えなくていいわ。あなたは車内。私は車外。……互いに、相手に物騒なことをするのは簡単じゃない。お互いに都合のいい距離だと思うけど? 私が何百年生きていようとも、古手《ふるで》梨花《りか》は所詮、小さな子どもだもの。あなたに腕力で勝てると思ってないわ。………むしろ、逆上したあなたに飛び掛られないか、不安なのはこっちの方なんだから。」
……私はこの梨花《りか》の外見をした不気味な存在が、私と会話をしに来ていることを悟り、ほんの少しの精神的余裕を回復した。
だが、………このような深夜のありえない場所で、…私と何を話したいというのか。
もはや私は俎上の鯉。……ならば、今この場は潔くする他なかった。
相手の出方をしばらく待つと、…そいつは口を開いた。
「…………あなたは、何かに怯えている。………それは正解?」
嫌味な言い方だった。
……あの愛くるしい梨花《りか》ちゃんの顔が、こんなにも歪みながら笑うなんて信じられなかった。
だから私は、心の中に沸きあがろうとする恐怖の感情をねじ伏せながら、気丈に返す。
「………えぇ。お陰様で。」
「そう。……………何に怯えているの?」
「……あんたらが……一番よくわかっているくせに!!」
「……………くすくす。」
こいつは、車の内外に立ち会うことで互いが守られているなんて言ったが。
明らかに私が追い詰められているのは明白だった。
……こいつと話をしている間に、こいつの手先が私を取り囲んでしまうのではないか。…そう思い、一層耳を澄ます…。
「怖がらないで。私はあなたを助けに来たんだから。…くすくすくす。」
「助けに…? へ、へぇ……どうやってかな…?」
「あなたはね、…ちょっと病気になってしまっただけなの。ちょっとしたお薬で楽になるのよ。………私はその薬を持ってきたと言ったら、関心がある?」
「…く、……薬………?」
梨花《りか》に瓜二つな外見を持つそいつは、…ポケットをまさぐると、そこから小さなケースを取り出す。
それをパチンと開き、中身を見せる。
……その中身を見た時、私は、あっと叫ばずにはいられなかった。
「……ちゅ、………注射器……………?!」
注射器なんて、個人がそうそう持ち歩けるものじゃない。もう何から何までもが滅茶苦茶だった。
……でも、梨花《りか》ちゃんが手にしているのは注射器。他に曲解のしようがない…!
「そう。あなたを楽にしてくれる注射よ。」
「楽になれるって?! はッ!! 私にはわかってる。それでしょ?! 富竹《とみたけ》さんを殺した薬物の正体は!! 原始の力を持った寄生虫《きせいちゅう》!! うじ湧き病を再現させる恐ろしい注射!!」
「富竹《とみたけ》の注射はね。でもこれは違うわよ。本当よ?」
くすりと笑う。
その笑いが怖かったんじゃない。
……富竹《とみたけ》さんの死因をあっさりと認めた事実の方が恐ろしかった!
そして、富竹《とみたけ》さんをうじ湧き病に導いた直接の「原因」をあっさりと認めたのだ!!
「………私にもあの死に方をさせるつもりなんでしょう! そして、……穀倉に現れたレナが私に入れ替わって一件落着…。…そういう魂胆なんでしょ?! 誰がそんな注射をするもんかッ!!」
「………………まぁ、嫌がるとは思った。明らかに怪しいしね。」
「わかってるじゃないの……。…ならどうするの! …富竹《とみたけ》さんみたいに、集団で襲って無理やり注射でもするの?!」
富竹《とみたけ》さんは検死の結果、致命的な最後を遂げる直前、明らかに数人を相手に乱闘を演じた痕跡が残っていた。
…それはつまり、嫌がる彼に無理やり注射を施したということに違いない。
「……無理に襲って注射したいけど、…あまりうまくいった試しはないわね。だから無理やりってのはもう諦めてるわ。……だから、あなたの自由意志に任せることにする。」
「ふざけないでッ!! そんな薄気味悪い注射、誰が使うものかッ!!」
「………私もその辺りは悩んだわ。どうなだめすかせば、あなたに注射できるかをね。強引にも無理だし、理解も得られないし。…なら結局、私はあなたの判断に任せる他ないってこと。」
「そんなのは聞くまでもない!! 誰がそんな見え透いたワナにかかるかッ!!」
「………………まぁ、想定通りの反応よ。どうせ期待してなかったし。」
そいつは、ため息をひとつ深く吐くと、ちょっと小馬鹿《ばか》にするような仕草をして苦笑いを浮かべるのだった。
……まるで、助かるためにチャンスを与えているのに、理解できない下等動物め…とでも言いたそうに…!
挑発に乗せられて、じゃあ注射をしてやると言い返したくなるが、それが相手の思う壺なのは明らかだった。
「とっとと帰って、お前の仲間《なかま》に、注射には失敗したと伝えるがいい!! 私は負けない! 最期まで徹底的に抗ってやる!! そして……1%にも満たないかもしれない勝機を掴んで、必ずや貴様らを打ち滅ぼしてやるからッ!!」
「…………そう。……………ならばせいぜい頑張りなさいな。どうせもうすぐ滅ぶ世界だしね。…くすくすくすくす…。」
「……滅ぶ……?」
「あなたには関係のないことよ。井戸の中のカエルが井戸の外なんかに興味を持っても仕方ないでしょう? くすくすくす。」
この期に及んで、何と意味深な言葉を吐き出すのか…。
私は、梨花《りか》の外見を模したこの恐ろしい存在が何を口走ろうとしているのか、必死に探ろうとした。
「…わ、……私をこれからどうするつもりなの!!」
「私はどうもしないわ。好きにすればいい。」
「………え?」
…少しだけ拍子抜けする回答だった。
…私の知る限り、好きにすればいいという言葉は、無視や解放を意味するもので、悪意ある相手が使う場合に限り、そう悪い意味ではないはずの言葉だった。
それとも……、他にも違った意味で受け取れたっけ…?
言葉を二重三重に深読みする私に、そいつはもう一度言った。
「あなたの好きなように過ごせばいい。……“この”竜宮《りゅうぐう》レナにはもう興味ない。“次の”竜宮《りゅうぐう》レナとうまくやれるようにするわ。
……せめて“次の”竜宮《りゅうぐう》レナは変に勘が良くないことを祈るだけよ。…くすくすくすくす。」
それは…まるで死刑を判決する裁判官のような恐ろしさ。
「私も昔は、小さな狂いが生じるたびに直そうと奔走したものだけど。……途中からね、疲れてきちゃったの。………“この”雛見沢《ひなみざわ》にもう興味ない。“次の”雛見沢《ひなみざわ》を探しに行くことにするわ。…でも、あなたには“この”雛見沢《ひなみざわ》しかない。だから、せいぜいがんばって生きなさいな。」
恐ろしいことを次々に言われているのがわかった。
それは明白な破滅の予告であり、……恐るべき終末が間近に迫っていることを如実に示しているのだ…。
もう1人の私がもうすでに用意されている。
そして……私が運命に抗えず渦中に飲まれて消えた時、…そいつが事も無げに入れ替われるよう、すでに準備がされている。
人がもっとも恐れることは、自分の命の価値を失うことだ。
………お前がいなくなっても代わりがいると言われた時ほど、自分の命が無価値になる瞬間はない。
それは、間接的な死刑判決とまったく同じ!
梨花《りか》に似たそいつは、注射器のケースをパチンと鳴らして閉じると、ポケットにしまった。
そして踵を返し、スクラップの斜面を登り始める…。
そして最後にくるりと振り返り、……悪魔的な笑みさえない、…信じられないくらいに冷たい表情で言った。
「じゃあね。……さよなら、“この”竜宮《りゅうぐう》レナ。……“次の”竜宮《りゅうぐう》レナでは仲良くしてね?
……ほとんどの場合は仲良くできてるんだから。………くすくすくすくす!」
「つ、………“次の”竜宮《りゅうぐう》レナなど許すものか!! 私は私だ、たった1人だ!! お前らの思い通りにはならない! 絶対に、絶対に!!」
私の、悲鳴にも近い叫びは果たして届いているのか。
……彼女が私を見る目はとても冷たくて。……私がまるでブラウン管の向こうに移っている過去の映像だとでも言わんばかりだった。
「たまにはこういう会話も面白い、か。くすくすくす……、はっはっはっは…。はっはっはっは、…あっはっはっはっはっはっはっはっは………。」
笑い声は次第に夜の闇に薄れていく。
………梨花《りか》の外見を持つ梨花《りか》でない存在もまた、その闇に飲まれ消えていく。
あとに残るのは、……私だけ。
見放され、いつ消えても構わない、
どうせ無駄だから好きなだけ足掻けといい放たれた、私がいるだけ。
スペアがすでに用意され、勘が良過ぎた私は「彼らの」雛見沢《ひなみざわ》ではもう不要。
………それに気付いた時、……このゴミ山は、…まさに私のために用意された墓標であることに気付くのだった。
それから我に帰り、この場所がもはや隠れ家として成り立っていないことにも気付く。
荷物をまとめて早く他に移ったほうがいい。
好きなだけ足掻けと言われた。…そうさせてもらうさ、畜生畜生…!!
私は引越しの準備をしなければならなかった。
ナップザックに荷物を詰めなおし、早くこの場所を出よう。
懐中電灯では灯りが細いので、電気スタンドの灯りをつけた。
明暗のはっきり別れた影絵の世界が浮かび上がる。
そしてナップザックを手繰り寄せた時、…ぎょっとした。
自分の手の平が、……真っ赤な気持ち悪い液体で塗れていたからだ。
私はさっきまで暗闇《くらやみ》の中で、べったりと気持ち悪い汗《あせ》を拭っているつもりだった。
……だが、それは……汗《あせ》なんかじゃなかったんだ……。
じゃあこの血は……何?
すぐに気付く。
自分はさっきから虫刺されで痒い痒いと首を掻き毟り、……いつの間にか血を流していたのだ。
それに気付いた瞬間、掻き毟った患部が痛みと痒みの入り混じった感覚を思い出し、私は今頃になって呻いた。
…その首筋の傷口が、もぞもぞと蠢く気持ちの悪さを感じ、私はその何かを掻き毟ろうとして再び首筋を掻いた。
ぬるりと真っ赤な鮮血に再び手を濡らしてしまう。
……ここには鏡がないから見ることはできなかったけど、……私はもう、その蠢きの正体を思い出していた。
そいつらは、じわじわと全身に広がり、肘の内側や膝の裏側などにひどい痒みを引き起こしていた。
……これが初めての人間なら、何か悪い虫にでも刺されたのかと思うところだが。
…私は生憎、……この痒みをすでに知っていた。
「…………何で、…………どうして……………!」
私は憎々しく言い放つ。……どうして、今この場で……!
間違いなく、……「うじ湧き病」だった。
多分、カミソリで腕の血管を開けば、中からあの汚らしくて気持ち悪い、赤黒くうじゃうじゃと蠢くものが溢れ出すはずだ。
そんな馬鹿《ばか》な、私は怪しげな注射などされていないぞ…?!
でも、別に注射じゃないといけないなんて決まりはないはずだ。
…ひょっとすると……気付かない内に、服毒させられていたのか…!!
家で食べた食事に混じっていたとは思えないが、私はかつて学校で、仲間《なかま》たちと弁当を突き合う関係だった。……その時、盛られたのかもしれない…!
さっき訪れた梨花《りか》もどきは、……懐中電灯で私を照らしていた。
だから、私が血塗れで喉を掻き毟っていることを知っていたはずだ。
…にも関わらず、何も焦らず、……どうせ私は長くないと言い捨てたのだ。
……あ、……あいつ、……もう私が長くないってわかってたから………あんなにもニヤニヤと嫌らしく笑っていやがったのか…!!
とても痒いが、掻いちゃだめだ。掻けば掻くほどに痒さが増し、…最後には富竹《とみたけ》さんの二の舞だ!
くそ、くそくそ…!!
この痒みは一過性のものなのか。
ますますに増していくものなのか。
今だけなのか、致命的なのか、……全てがわからず、ただただ耐え難い全身の痒みに耐えるだけだ。
私はタオルで首の回りの血を拭い、奥歯をぐっとかみ締めながら掻き毟りたくなる欲求を振り払おうとした。
ジンジンと疼く患部。
……痒さに負け、首を掻き破ってしまいたい欲求に、ただただタオルの端を噛んで耐えるしかない。
私は体の別の部分を痛いくらいに引っ掻き、その感触で痒みを忘れようと試みたが、それは堪える痛みの割りに対した効果はなかった。
痒みが引いてくれることを祈って、目をつぶって堪えるより最善の策は結局思いつかなかった。
しばらくの間、荒い呼吸で頭を空っぽにしていると、……ほんの少しだけ痒みが和らいだ気がした。
深呼吸を一度して呼吸を整えると、私は手早く荷物をまとめた。
痒さなんかより、この場に留まり続ける危険の方がよっぽど問題だ。早くこの場を離れなければ!
荷物をまとめながら、私は感じていた。
あの梨花《りか》もどきが言った、もうすぐで訪れる破滅。
……私はその破滅までは生き延びられると決め付けていたが、……それすらも傲慢かもしれない。
そんな破滅よりもはるかに近いうちに、………私は富竹《とみたけ》さんと同じ末路を辿ってしまうのではないか。
だらだらと零れ続ける汗《あせ》が気持ち悪い。
……わかってる。
これは汗《あせ》じゃない。…でも今は汗《あせ》だと思うんだ…!
私はタオルで首筋のそれを再び拭い、撤収を急ぐのだった。
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■圭一《けいいち》の来訪(圭一《けいいち》の目線だよーーーーーーーーー)
この辺りは街灯がまったくないから、ただ闇の中を走るだけでも怖かった。
月は空を照らせども俺の足元はちっとも照らしてはくれない。
俺の足元を明るくしてくれるのは、懐中電灯の細く頼りない灯りだけだった。
懐中電灯はそこが平らな砂利道であることを教えてくれるが、灯りで照らされていない全ては信じられないくらいに真っ暗。
…コールタールをぶちまけたようなという小説的表現は決して過大評価ではないと思った。
ひょっとすると、突然、空き缶や石ころにつまづくかもしれない。
それが怖くて細い灯りを必死に振って足元の安全を確かめたが、それでも安心することはできず、いつの間にか走る速度はずっと落ちて、早歩きくらいになっていた。
暗くて足元が見えないから、転びそうで怖くて、走れない?
でも、例え日中だからといって、足元を見ながら走ってるわけじゃない。
レナや魅音《みおん》とはしゃぎながら走り回ってる。
明るくたって足元なんか結局見てない。
でも、転ぶかもしれないなんて露ほども思わず、俺は同じような道を駆け回っていた。
今のレナは、きっとこんな状況なのかもしれない。
レナにとって、……疑心暗鬼の闇を照らす灯りがあまりにも細いのだ。
そして、信じ込んでしまった妄想《もうそう》の暗闇《くらやみ》がますますに暗くなり、いつもの道を歩くにも、這って進まなければならないくらいに恐れてしまっているのだ。
……あんな馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいスクラップ帖に心を奪われるなんて。笑う人間は笑うかもしれない。
だが、あのスクラップ帖は……普通じゃない。
読む人間の心を巧みに誑かし、心の隙間に付け入ろうとする悪意がある。
その悪意は、例え一晩であろうとも俺の心を奪った。
…だからこそ、その悪質さが俺にはわかるんだ。
ほら、……ノストラダムスの大予言とか、ムラサキカガミとか、定番の都市伝説ってあるじゃないか。
あれらだって、もっともらしい嘘を徹底的に並べ立て、側で聞いていればなんて下らない話をと感じるが、………一度のめり込んでしまうと、どういう訳か心から拭えなくなるんだ。
もう10年〜20年もすると1999年じゃないか。その年の7月だかに世界が滅びるって大予言は誰もが知ってて、民放もそれらしく無責任に煽るものだから、たまに真に受けるやつも生まれるんだ。……ほら、ノストラダムスの大予言は核戦争の勃発を意味するもので、私費で庭に核シェルターを作ったり、その年までに自身を冷凍保存して放射能がなくなる未来まで眠ろうとか、本気でやってる連中がいるじゃないか。
やってる連中はマジも大マジなんだろう。
だが、冷静に考えて1999年に戦争など起こるわけがない。
東西は冷戦構造で確かに最終戦争をいつも想像させるが、実際は核を突きつけあった均衡状態で、互いに核戦争を仕掛けるメリットは何もない。
…ソ連ならやりかねない、ソ連は世界を滅ぼしてでも自由主義陣営を……、というソ連ならやりかねないという妄想《もうそう》は、鷹野《たかの》さんのスクラップ中の園崎《そのざき》家という単語と綺麗に置き換えができる。
そう、こういう大規模な妄想《もうそう》には必ず、ソ連とかナチスドイツとかあるいは宇宙人であるとか、正体不明で理解のできない仮想敵が用意され、やつらならやりかねないという、何の根拠もない言葉で信憑性が煽られる。
鷹野《たかの》さんが園崎《そのざき》家の何を知っていた?
何も知るわけがない!
鬼ヶ淵《おにがふち》村の頃の歴史から引っ張って、今日でも園崎《そのざき》家が暗躍していて、恐ろしい陰謀を…なんていい加減なことを吹聴しているだけだ。
こんなの、どこぞの大予言でもよく聞くぞ。
ナチスドイツは地球占領を企んでいて、ヒトラーは実はまだ生きていて、彼ら残党は今も南極の地下基地でその陰謀を……なんて与太話とまったく同じじゃないか!!
…普段のレナなら、こんな馬鹿《ばか》な話、からからと笑って気にもしない。
だが、……たまたまタイミングが悪かったんだ。
間宮《まみや》リナや北条《ほうじょう》鉄平《てっぺい》を殺して、…しかもその死体《したい》を俺たちに見つけられた直後という、ナーバスな時期だったんだ。
俺たちはその心のショックから少しずつ立ち直るのを見守っていた。
………だが、立ち直って、心に免疫力ができる前に、とんでもない毒がレナに入り込み、全身に回ってしまったのだ。
それは病気で体の抵抗力が弱っているところに、さらに別の病気が発症してしまったこととまったく同じ。
……そうさ、今のあいつはちょっとした病気なんだ。
高熱を出してウンウン唸れば、たまには死んでしまうかもしれないなんて、悲壮感でいっぱいになってしまうこともある。
でも、そんなの医者から見れば大袈裟もいいところだ。
薬を飲んで栄養をつけて、大人しく寝てれば治るんだよ!
今のあいつはまさにそれなんだ。
……本当にちょっとした心の風邪をひいてるだけなんだ。
それより、ぼやぼやしてると警察《けいさつ》に捕まっちまうかもしれないんだぞ!
途中、何度かパトカーとすれ違う。
職質を食らったら厄介だと思って、その度に隠れてやり過ごした。
2度くらいはすれ違ったかもしれない。
途中、レナの家の近くを通ったが、普段見たこともない車が停まっていて、レナの帰りを待ち構えていることは明白だった。
魅音《みおん》がレナを匿うよう、園崎《そのざき》家に号令を掛けてくれてるらしいが、……正直、微妙だ。
だってレナは、園崎《そのざき》家に命を狙われてると信じてるのだから。
だが、匿わなかったらその内、警察《けいさつ》に捕まる。
そうなったら、…最終的には死体《したい》を埋めるのを手伝った仲間《なかま》全体も巻き込むことになる!
……警察《けいさつ》がどうしてレナに目星をつけたのかはわからない。
おそらくは状況証拠《しょうこ》だけで確信がないに違いない。
……でも、これだけ大々的に動いているのだから、限りなくクロに近い何かを掴んでいるのは間違いない……。
レナの馬鹿《ばか》…!!
鷹野《たかの》さんのスクラップ帖なんかで遊んでる場合じゃないんだぞ! お前自身が警察《けいさつ》に狙われてるんだぞ…!!
真っ暗でここか自信がない。
俺は覚悟を決めると、慎重に足元を照らしながらスクラップの斜面を降りていった。
レナの名を叫びたかったが、周りにレナを探す警察《けいさつ》がいないとも限らない。
ゴミの山を迂回すると、明かりが見えた。…………いた!
俺はがしゃがしゃとガラクタを蹴りながら駆け寄った。
レナは隠れ家の廃車《はいしゃ》のドアの前にいて、物騒な鉈《なた》を構えて身構えていた。
そりゃそうだ。騒々しく降りてくる俺の気配なんてバレバレだったろうからな。
「はぁ……はぁ! レ、………レナ、……お、俺だ………。」
「……今度は圭一《けいいち》くん? あはははは、今夜はいろんな人が来る夜だね。」
「俺以外にも誰かいるのか?」
辺りを照らしてみるが、レナ以外に誰かがいるようには見えなかった。
「この場所はもう安全じゃないんで、今から場所を替えるところなの。……圭一《けいいち》くんにも知られたくないから、付いて来ないで。」
「レ、…レナ?! お前、どうしたんだよその怪我! 血だらけじゃないか!!」
「……もう落ち着いたから大丈夫だよ。もっとも、いつぶり返すかわからないけどね。」
レナは首のところが真っ赤になっていて、まるで皮膚病の人が痒みに任せて掻き毟ってしまったような、そんな感じの傷をつけていた。
「タオルで拭いただけじゃ駄目だろ…。取り合えず家へ来いよ! ちゃんと消毒した方がいいぞ…!」
「………傷口は大したことないよ。それにこれは傷によるものじゃない。…もう、手遅れだし。」
「手遅れ? …どういうことだよ。」
「富竹《とみたけ》さんを死に導いた何かを、私もいつの間にか服毒させられてるみたいなの。…注射なんて物騒な方法じゃない。……多分、それは弁当のおかずに混ぜられてたの。覚えてる? 先日、魅ぃちゃんが卵焼きを1人1個ずつ分けてくれたよね? あの時にやられたんだと思う。……遅効性なところがうまいよね…。くそ…!!」
レナは魅音《みおん》の卵焼きを思い出し、憎らしげに砂利を蹴飛ばした。
……それは文字通り、魅音《みおん》の好意を蹴飛ばしたのと同じだ。
「おいレナ。………お前、…本気で魅音《みおん》がそんなことすると思ってるのか?」
「………?」
レナがきょとんとした目を向ける。…それからその目に少しの悪意が混じり出す。
園崎《そのざき》家が悪の根源であることはもう話してあるのに、何を言い出すの? そう瞳が言っている。
「第一よ…。あの日の卵焼き、……魅音《みおん》は1人に1つずつなんか分けてないだろ。」
魅音《みおん》は5等分された卵焼きをみんなに、お好きなのをどうぞと差し出した。
……そうしたら、レナが真っ先に、端っこの1つを選んで、この渦巻きがかわいい〜はぅーって言って口にしたんじゃないか。
「違うよ。魅ぃちゃんは、毒が入ってた卵焼きを私にわざと食べさせようとしたんだよ。」
「……レナ。……都合よく記憶を書き換えるなよ…。タッパーの蓋の上に、こうちょんちょんと5つ並べたんじゃないか。」
「並べてないよ…! 1人に1つずつ配った!」
「………そんなこと、…今までにあったか? 俺たちは互いの弁当箱を好きに突っつくバイキング形式だぜ…? これは誰の分なんて、お上品に分けっこしたことなんて、…一度もねぇじゃねぇか…。」
「…………………。」
レナの目が見る見る憎悪に染まっていくのがわかる。………今のレナにとっては、俺の方が妄言なのだ。
彼女にとって、自分が毒を盛られたのはもはや事実で、それはあの卵焼きによって盛られたと「決めてしまった」。
…だから、それと食い違う話をする俺を拒絶しようとするのだ。
……俺はレナを怒らせに来たわけじゃない。
…それ以上は水掛け論になることを悟り、言い返すのをやめた。
「それよりさ。……ここはもう安全な場所じゃないって、…どこへ行くつもりだよ。」
「…………さぁね。適当に探すよ。」
「寝るところなんてそうそう見つからねぇだろ…! 俺の家に来いよ。」
「……ありがたいけど辞退するね。園崎《そのざき》家の手先が村中を探し回ってる。…圭一《けいいち》くんが裏切って私を売るとは、…思いたくないけど、匿いきれるとも思えない。」
「園崎《そのざき》家の手先が探し回ってるってのは、……逆だぞ。警察《けいさつ》がレナを探し回ってるんだ。」
「…………? なんで? 大石さんは味方だし、…私のことは放っておくように言ってある。私は探すなんて、ありえないよ。」
「多分、……………リナと鉄平《てっぺい》を殺したことが、どこかで漏れたんじゃないかと思う。」
「…………………あぁ、……そういうことか。」
俺は、やっと互いの会話が噛み合ったことに安堵したが、……レナの自虐的な笑い方が少しおかしかったので、すぐに噛み合ってないことに気付く。
「…どうして警察《けいさつ》が、あの殺しのことを勘付いたかわかる?」
「………いや、…………わかるわけないだろ…。」
少なくとも殺害現場は誰にも見られていない。
死体《したい》を山奥に隠しに行った時だって、大丈夫だったし、埋めた場所だって完璧だ。
それに、最後に魅音《みおん》が秘密《ひみつ》の場所に埋めなおしてくれたらしい。
だからあの死体《したい》が見つかるなんてことは永久にありえるわけがない。
「今日の夕方ね。………私、あの2人の死体《したい》を埋めた場所に戻ったの。そしたら、………どうだったと思う?」
「………ぁ、」
まずいと思った。
………そうだ。
レナはあの死体《したい》を魅音《みおん》が処分してくれたことを知らない。
だから、あそこに埋まってるものと思い込んでたはずだ…!
「なかったの。死体《したい》が。誰かが掘り返して死体《したい》を持ち去った。」
「い、…いや、レナ! …それは……えぇと…!」
「あんな場所、誰かが偶然掘り返すわけもない。……それにあの場所は私が決めた。だからあの場所に埋まっていることは、あの場に居合わせた人間しかいない。」
「そ…そうだ、その通りだよ…。えっと、だからそれは……、」
「誰がやったかはわかってる。魅ぃちゃんだよ。……私が警察《けいさつ》と結託することがないよう、保険がほしかったに違いない。……園崎《そのざき》家に探させるだけじゃなく、警察《けいさつ》にも捜させるとはね。……連中も形振り構ってられないってことか。」
「み、魅音《みおん》がそんなことするわけねぇだろ!」
「したんだよ!! 魅ぃちゃんが私を売った!」
「……いいや、しねぇな。魅音《みおん》も俺たちもみんな仲間《なかま》だぞ。例え世界が全部敵になったとしたって、仲間《なかま》は最後まで味方なんだ。だから魅音《みおん》がレナを売ることなんて、海水が全部蒸発するような天変地異があったって、絶対にありえない…!」
「…………………魅ぃちゃんの肩をどうして持つの?」
「逆だろ! 何で魅音《みおん》をそこまで疑うんだよ!!」
「そんなのは決まってるでしょ。三四《みよ》さんの暴いた致命的な事実は狂信者たちの偉大な計画の実現、」
「黙れ黙れッ!! ………あ、…ちょっと言葉がきつかったな。謝るからちょっと俺の話を聞いてくれ。…いいか、あの死体《したい》がなくなっていたのは、確かに魅音《みおん》が掘り返したからだ。」
「やっぱりそうじゃないッ!!!」
「終わりまで聞けよ!! ……いいか、魅音《みおん》が死体《したい》を掘り返したのは、あの埋めた場所が安全じゃないことがわかったからなんだ。営林署がこの夏、あの辺り一体を伐採するって計画を立ててたことが後にわかったんだよ。だから魅音《みおん》は! レナを守るために死体《したい》を掘り返してくれたんだよ!!」
「ぷ、………はははははは、あっはっはっはっは!」
レナの笑いは見下すかのようだった。
俺の言葉がまったく心に届いていないことがわかる…。
「そんなの魅いちゃんの口から出任せに決まってるでしょ?! 圭一《けいいち》くんの前ではいい子ぶりたいあの子の汚いやり方だって!」
「あのなぁ…!! じゃあどうすりゃよかったんだよ! 今年の夏に営林署が見つけちまうかもしれないと知ってて、放置しとくのかよ?! そんなことできるわけねぇだろ!」
「その営林署の伐採計画というのが、そもそも魅ぃちゃんの作り話だって、どうしてわからないのかなぁ!!」
「………………………。」
「わからねぇのはレナの方だろッ!!!」
俺が怒鳴りつけると、レナはすーーっと冷めるような目つきになった。
…そして俺を凝視し、この男は何をしにやって来たんだ? と値踏みし始める…。
「………俺は、レナの目を覚ましに来たんだ。お前は鷹野《たかの》さんのスクラップ帖のせいで、とんでもない狂った夢に取り憑かれてる。……最初の内は面白ぇ話だと思ってたが、そろそろ洒落にならないと思い始めた。…………お前は今、ちょっとした病気なんだよ!」
「……あぁ、梨花《りか》もどきにも病気だって言われたっけね。確かに、うじ湧き病はもう始まってるし。」
「あぁ、もう違うんだ違うんだ! とにかく俺の話を聞け! …しばらくの間、横になってじっくりと休まねぇか? 本当は魅音《みおん》の家に匿ってもらったほうが安全なんだ。警察《けいさつ》からも匿えるしな。……でも、それでも魅音《みおん》が信用できないってんなら、俺の家でもいい。とにかく、こんな休めない場所で縮こまってたって、心にいいわけがないんだ! まずは俺の家に行こう。そして冷たい飲み物でも飲みながら、ちょいと熱を冷ましてみないか…? そうすりゃレナもすぐに気付くさ。」
「何を言ってるの圭一《けいいち》くん。………私がおかしくなってるって言いたいの?」
「………………………。」
「おかしいのはお前たちの方、って……。…じゃあレナは、…村が丸ごとおかしくて、自分だけが正しいって言うのかよ…?!」
「雛見沢《ひなみざわ》だけじゃないかもしれないね。…もはややつらの魔手は鹿骨市《ししぼねし》全域、…あるいは県内全域にまで及んでいるかもしれない! でも、私だけは正しいの! 三四《みよ》さんのスクラップのお陰でそれに気付けた! 圭一《けいいち》くんだって、気付けたんじゃなかったっけ?!」
「待てよレナ、なぁ待てよレナ…!! 自分以外、世界中が全ておかしいって、……それってつまりさ、……認めてるってことじゃねぇかよ! おかしいのは……自分だけなんだよ! 世界は最初から何も変ってないし、おかしくも何ともない。増してやレナの敵でもなんでもない。自分だけが正しくて世界が全部敵なんてことはありえないんだよ! それはつまり、…………自分だけが敵ってことなんだよ!」
「可哀想な圭一《けいいち》くん。……でも仕方がないよ。三四《みよ》さんの真実は、誰もが受け容れられるものではない。……三四《みよ》さん自身、この内容が本当に真実か、まだ測りかねていた節があったしね。だから圭一《けいいち》くんが受け容れられないことを、私は理解できる。……だから、そんな圭一《けいいち》くんを救うために、私はがんばるよ。がんばって戦って、…必ず、圭一《けいいち》くんたちを支配しているやつらをやっつけてやるから。」
ば……馬鹿《ばか》野郎……馬鹿《ばか》野郎……!!
可哀想な圭一《けいいち》くん? ばかばか、大馬鹿《ばか》!!
どうして気付けないんだよ、どうしてあんな支離滅裂な滅茶苦茶な話をまだ信じられるんだよ!!
そしてどうして、何かある度に、その妄想《もうそう》に都合がいいように曲解するんだよ!
「……三四《みよ》さんも梨花《りか》ちゃんも、そして今や私も、…もうスペアが用意されてるの。そして、私が消されるのと同時に入れ替わることになっている。」
「はぁッ?! スペアぁ?! お前、本気で何を言ってるんだ?!」
「もういいや。圭一《けいいち》くんには真実を教えてあげよう。私が圭一《けいいち》くんに話してない、本当の真実。実はね、寄生虫《きせいちゅう》の正体は、…宇宙人なの。」
「う、……宇宙人んん……?!」
「うん。オヤシロさまの正体ももちろん宇宙人。天から降臨する際の描写は、世界各地に散らばる宇宙人説と合致するの。偉大な文明が興る時、偉人は必ず宇宙から現れる! 彼らは宇宙から優れた叡智を持って地球を訪れ、いつまでも未熟な地球人類の進化を促そうと、」
まださ、……寄生虫《きせいちゅう》説の方が聞いてて面白かったぞ……。
そりゃいくらなんでも……滅茶苦茶だぞ………。
でも、レナは信じられないくらいに大真面目で、……それを受け容れられない俺を、哀れんでいるのだ。
「やつらは人体寄生を通じてコミュニティを支配してきた。だが時折、勘のいい人間が生まれ、その支配の実態を暴こうとした。彼らはそれを取り除き、コミュニティを維持するために、様々な拉致を行なったの。そして、時には金属片を埋め込みそのコントロールを得たり、あるいは外見だけを共有した別の存在と入れ替えることによって支配を続け…!!
そいつらは三四《みよ》さんのコピーを生み、私のコピーを生んだ。梨花《りか》ちゃんのコピーもさっき来たんだよ! そいつと話をしてみた。そいつは宇宙から来た存在であることを認めたよ!! そして破滅の日が近いことを告白し、私に足掻けるものなら足掻けと嘲笑った!! 私は戦うよ、人類をやつらの家畜になどしてたまるか!! 私は絶対に絶対に、」
この、………馬鹿《ばか》野郎……!!!!
俺はレナにずかずかと近寄り、
その頭を引っぱたいた。
「………目を覚ませ!!」
「……………。」
「レナ。……もう忘れたか? まさにこの場所だ。それもほんの数日前だ。俺たち仲間《なかま》たちは、この場所で、全員で手を取り合ったよな…? そして、仲間《なかま》は家族同然だって認め合ったよな…?」
レナは、手首をいじるような仕草をした。だが口を挟んでこなかったので続ける。
「お前の言う、宇宙人が地球を侵略してるって話を、お前が本気で言ってるなら、……例え世界中が信じなくても、俺は信じてやる。…俺はお前の仲間《なかま》で、一番最初の味方だからだ!! でもな、…ならお前も聞いてくれ。仲間《なかま》で味方の俺の言葉を聞いてくれ。……あの鷹野《たかの》さんのスクラップ帖はでっち上げのインチキなんだよ!! 本当さ、鷹野《たかの》さんはオカルトマニアなんだ。雛見沢《ひなみざわ》の古い歴史をいろいろに解釈して遊んで、珍説を書き上げては人に読ませて回ってるだけなんだ。
だから、寄生虫《きせいちゅう》がどうのこうのという説以外にも、UFOがどうこうとか、地底人がどうこうなんていうとんでもないのまでたくさんあるんだ! だから、レナが読んだスクラップ帖は、鷹野《たかの》さん自慢の最新作でしかないんだよ! ほら、あの人って人をからかうみたいなところがあるだろ? レナが真面目に話を聞いてくれるもんだから、面白がってとんでもない話を吹き込んだだけなんだよ!」
「………単なる創作なら、三四《みよ》さんはどうして殺されたの? しかも、検死結果では死後24時間のはずなのに、どうして祭りの夜に歩いていたの? 富竹《とみたけ》さんの死因は? 園崎《そのざき》家は? 雛見沢《ひなみざわ》の伝説は? オヤシロさまは、梨花《りか》ちゃんは? 全部、創作? 世界中が私たちを騙すために嘘をついているって、そう言うの?」
「何でもかんでも無理につなげて解釈するな!! 誇大妄想《もうそう》の典型的な症例じゃねぇかよ!! とにかく難しく考えるな!! レナはちょっと疲れてるだけなんだ。だから、少し休もう。俺はレナにくつろげる部屋と布団、食事を提供するだけだ。…食事が信用できないなら、自前で好きにしてくれたっていい。とにかくとにかく!! 俺の言うことを今だけでいいから信じてほしいんだ!!!」
「私の言っている話の方が筋も通っているし、証拠《しょうこ》も根拠もたくさんある。なのに圭一《けいいち》くんは自分を信じてくれの一点張り。……どっちが正しいかなんて、明白でしょ?」
「あぁ、明白だな。俺だッ!!! 俺が正しい!」
「よ、……よくそんなことを言い切れるね?」
「あぁ、そんなのは簡単さ。俺がレナの仲間《なかま》だからだ。仲間《なかま》は絶対に裏切らない。仲間《なかま》を絶対に助ける。だから、世界中が俺を正しくないと言っても、今だけは俺を信じろ。俺が、お前の仲間《なかま》だからなんだ!!!」
「………………………。」
どさりと音がした。…レナが鉈《なた》を落とした音だ。
レナは両手で頭を抱えると、少しふらついた。
……聞き取れない何かをぶつぶつと呟き、自問自答しているかのように見えた。
レナ目線〜〜〜〜
………何の証拠《しょうこ》も根拠も示せないくせに、自分を信じろだと?!
何て滅茶苦茶なことを言うんだ、この前原《まえばら》圭一《けいいち》という男は…!!
でも、………あるいは本当に圭一《けいいち》くんの言うように、…私の勘違い……?
あぁ、それはとても素敵な提案、何度も夢見た提案。
実は三四《みよ》さんのスクラップ帖は単なる妄想《もうそう》ノートで、寄生虫《きせいちゅう》なんてものは存在しない。
……たまたまの偶然を私が繋ぎ合わせて悪く解釈しているだけ…。
そうだったらどんなによかったことかどんなによかったことか…!!
挫けるな竜宮《りゅうぐう》レナ、クールになれ竜宮《りゅうぐう》レナ…!!
この男の言葉には毒がある、安息を求める私の心の弱さにつけこもうとする毒がある!
全ては明らかなのだ、宇宙からの侵略者が、鬼ヶ淵《おにがふち》村と呼ばれた太古から、この村を地球侵略の基地にしてきたことは明白なんだ…。
圭一《けいいち》くんはやつらに寄生されて支配されてしまっているただの犠牲者なんだ、犠牲者なんだ…!
でも、……圭一《けいいち》くんのあの日、手首を掴んでくれたあの力強さには何の邪心もない!!
私という仲間《なかま》を救い出そうとしてくれたあの力強さを、私は今でも忘れられないじゃないか!!
この狂気と妄想《もうそう》の迷路の中で、私は出口を見つけられずへたり込んで。
……誰かに助けてもらいたいと何度祈ったんだっけ?!
そして、私の願いがかなって、圭一《けいいち》くんが、再びこうして同じ場所で手を差し伸べてくれている!!
忘れたか竜宮《りゅうぐう》レナ、この男は仲間《なかま》だなんて言ってるけど、自分のことを全て打ち明けてはいないんだぞ?
ほら、忘れたか、大石さんに聞いたじゃないか……。
警察《けいさつ》が調べてくれた。
私が仲間《なかま》を疑ったから、圭一《けいいち》くんも含めて大石が全員を調べてくれた。
そうしたら、……圭一《けいいち》くんが引っ越してくる前のことを、……知ってしまったんじゃないか!!
こいつは上辺だけだ、中身は異常者なんだ、信じちゃいけない信じちゃいけない!!
だから何?!
引っ越して来る前の圭一《けいいち》くんなんて知らない!!
私だって引っ越してくる前の茨城で、いっぱい悪いことしたよ?
笑えないことをした、許されないことをした。
人に大怪我をさせたし、学校中のガラスを割ったし、謹慎まで食らった大不良じゃない!!
だからって今の私を彼らが差別した?
しないよ?!
竜宮《りゅうぐう》レナは竜宮《りゅうぐう》レナで、…茨城にいた竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》が…悪いことをしてたって、……それは許してくれるんだよ?!
あっはっはっは、あっはっはっはっは!!!
許さないよ許すわけないよ、当り前じゃないか、前原《まえばら》圭一《けいいち》が自分をお淑やかな女の子だと信じてくれるのは、礼奈《れいな》を知らないからだよ。知ったらどうなることか!!
知っても大丈夫だよ、私のことを怖がるわけないよ…!
レナはレナなんだよ、礼奈《れいな》なんて、引っ越す前の町の話じゃない!!
圭一《けいいち》くんだって同じだよ、引っ越す前の話なんてどうでもいい、そんなのはお相子なんだよ!!
※圭一《けいいち》目線〜〜〜〜〜〜〜〜
「…だ、……大丈夫か、レナ…。」
「……………触るな、汚らわしい。」
俺が差し伸べていた手を、レナは払いのけた。
「さっきから……、聞いていれば仲間《なかま》仲間《なかま》とやかましい…。仲間《なかま》だから信じろ? 仲間《なかま》だから世界中全てより正しいだと…? それこそ妄言と呼ぶに相応しい…!」
「何と言われたって。俺はお前の仲間《なかま》だ。だから、絶対にお前のためになることを言っている!!! 疑うな!! 絶対に俺が正しい!!」
「……ぷ、……くっくっくっく!!
へぇ…? じゃあ、聞いてもいい?」
「あぁ、何でも聞け。」
「仲間《なかま》ってのは、……隠し事なんてないんだよね?」
「当然だ。隠し事なんかしない。」
「嘘だよ。」
「……嘘なんかつかない!」
「嘘だッ!!!
あーーーっはっはっはっはっはっは!! はーっはっはっはっは!!」
「な、何がおかしいよ!!」
「あっはっはっは…、圭一《けいいち》くん、隠し通せてるつもりなんだぁ? くっくっく!
私、知ってるんだよ。圭一《けいいち》くんが引っ越してくる直前に、どういうことしてたか、知ってるんだよ…?」
……全身から霜柱が吹き出すような錯覚がした。
全身が凍りつき、思考すらも凍り付いていく。
…そんな馬鹿なそんな馬鹿な、…………どうして、……知ッテルンダヨ………!!
「大石さんに調べてもらったんだよ。みんなのこと。……そしたら圭一《けいいち》くん、引越しの前は、とんでもない人だったんだよねぇ? くっくっく!」
「小さな女の子ばかりを狙ってたんだって? 沙都子《さとこ》ちゃんと梨花《りか》ちゃんにも話しておかないとね。こんな危ない人が身近にいたなんて、信じられないよ。」
「違う、……違う違う……、それは、たまたまなんだ……。」
「児童連続襲撃事件。すごいすごい、雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件に負けないくらいインパクトあるよ? あははは、あっはっはっは!!」
「違うんだよ、………あれは………本当に…………、」
「何がどう違うの? 数週間の間に、ひと気のないところを歩く小さな子どもばかりを狙って、通り掛かりにモデルガンで撃ち付ける恐ろしい事件だった。市内一帯は一時期騒然。PTAが交差点ごとに立ち、集団下校にもなったんだってねぇ? 目に当って大怪我した子もいたんでしょ? 幸い、後遺症にはならなかったそうだけど。あははははは! モデルガンなんて武器を持ちながら、それでも小さな子しか狙わない、嫌らしさ。そんなことして何が楽しかったの?
でも楽しかったからずーっと続けてたんだよね? そのくせ、途中で良心の呵責に耐えられなくなってご両親と一緒に自首。責任取るのもご両親と一緒じゃないと駄目なわけ? 少年法って親切よね。被害《ひがい》者にも犯人の名前は公開されないし。お父さんが大金持ちだったから、示談金をたくさん積んでくれたんだよね? それで大事にしない約束を取り付けて、まったりとしばらくは保護観察。それでほとぼりが冷めた頃合に、お金に任せて遠方へ引越しして全部チャラ。いいね、お金持ちは。あははははははは!」
「……………違うんだ、…………違うんだ…………ああぁぁ………。」
「そんなこと、どうして今まで黙ってたの? 前の学校ではずっと勉強漬けだった? どうしてそんな嘘をつくの?」
「ご、ごめん…。嘘ってわけじゃ…、」
「仲間《なかま》ってのは隠し事なんかなしでしょ? そうでしょ?!
じゃあお前は仲間《なかま》じゃない!!」
………後頭部に叩きつけられる言葉の刃に、……俺は目から血をこぼす。…それは透明で、……塩辛かった。
「私も過去の事件からお前が怪しいと思ってる。それを隠しきれてると思わないで!!」
あの時の悔悟の念がこみ上げてくる。
後悔してもし足りない、忘れたくても忘れられない、……あの馬鹿《ばか》な過ち。
……どうして、……どうして、そんな事件が、……今ここで出てくるんだよ…。
俺は謝罪《つみ》して、全てを受け容れて、……それで引っ越して全部終わりにできたんじゃないのかよ…。
だから、雛見沢《ひなみざわ》での新生活は、今度こそと意気込んで、清い再出発を誓ったんじゃなかったのかよ………。
全部、………台無しだった。
……俺は……どこまで行っても、………通り魔野郎なんだ。
……受験勉強のストレス、むしゃくしゃしてた、誰でもよかった、……ああぁああぁぁぁ、あんな馬鹿《ばか》なことに何の意味が?
意味なんかない、何にもなかった。
ただ、甘えたかっただけなんだ。
……受験勉強が嫌だって面と向かって親に言う勇気がなくて、……誰かに叱ってほしくて、あんな幼稚な手段に訴えて……。
……後悔してる、一生、あんな馬鹿《ばか》な真似はしないと誓える!
次にやったら死刑だって構わないさ!!
ここまでやったら許されるというなら、絶対にそれを全うして見せる!!
でも、………どこまで後悔して、どこまで償っても、…………許されないんだ…。
だから、……せめて新生活で、………なかったことにして再出発したかった。
罪《つみ》を忘れることは、……卑怯なことなんだって言われたら……言い返せないさ。
…罪《つみ》は罪《つみ》なんだ。
滅ぼせない。
一生背負うしかない。
それが罪《つみ》人の宿命なのはわかってる。
……それが嫌なら罪《つみ》を犯すなって論法だって理解できるさ。
……じゃあさ、…罪《つみ》を犯した人間は…どうやって生きていけばいいんだよ…………。
「とにかく。お前は仲間《なかま》じゃない。…仲間《なかま》じゃないヤツの指図は受けるいわれはない。…私のことは当分放っておいてもらう。…いいね。」
気付けば俺は、…がっくりと膝をつき、うな垂れていた。
レナが足元に落とした鉈《なた》を拾っているのが見えた。……いっそ、それで俺の頭を砕いてほしかった。
そうさ。
どうせ引き裂かれるなら、身を引き裂かれる方がはるかにマシだと思った。
心を引き裂かれる痛みに比べたら、……頭を叩き割られた方がはるかにマシだと思った。
信じてた。
……いや、信じてる。今この瞬間だって、信じてる。
俺は、…みんなと仲間《なかま》なんだと、…信じてる。
でも、……薄々は気付いてる。
信じたいのは、認めたくないだけだからだ。
自分に言い聞かせるような、そんな涙声が…もうたまらなく馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しくて……。
さらなる涙が…顔をもっとぐしゃぐしゃにする…。
俺は、………みんなの仲間《なかま》じゃ、なかったんだ。
俺は汚らわしい罪《つみ》人で、……その汚い過去を隠してた。
知られるのが怖くて、隠してた。
自分で、隠し事なんかしないのが仲間《なかま》だろうと詰め寄っておきながら、……俺が隠してた。俺だって隠してた。
過去の事件なんか…………、ここで日々を生活する今と関係なんかあるのかよ……。
この村でも俺が、腹いせで通りがかりの子どもを襲うようなことがあったなら、遠慮なく八つ裂きにしてくれればいい!
でも、………俺はもうそんなことはしないんだ!
しないから、普通に生活したいんだ…!!
引っ越す前に、………何かあったって、…それが「今」にどう関係があるってんだよ……!!
例えば、…レナだって引っ越してきたんだろ?
レナの引っ越す前に何かあったことを知ったって、……俺はレナを見る目を変えたりなんかしないだろ……?
しないだろ? しないよな……?
レナが例えば、………生徒を何人か殴ったり、…校内のガラスを叩き割って回ったりしたって、………そんなの茨城での話じゃねぇか。
この雛見沢《ひなみざわ》ではそんなことしていないし、……レナはレナで、最高の俺たちの仲間《なかま》じゃねぇかよ…。
だから、……例え俺がレナの過去を知ったって、………レナを汚らわしいようなものを見る目で、……見るわけないじゃないかよ………!
………嘘だ。……嘘だ、嘘だ、嘘だ…!
あのやさしいレナにそんな過去があることを知ったら、……俺は距離を置く。
恐れて、怯えて、その言葉に耳を貸そうなんてしない。
どうして?! 引っ越す前の話で、伝え聞いただけの噂話なのに?
しかも、俺にとってのレナは最高の友人で、仲間《なかま》で、……一番身近な……味方なのに?
……逆の立場だったら、………やっぱり俺も、…レナを拒絶した……?
だから、……レナが俺を拒絶するのは……至極当然なことで……。
じゃあ……、………俺は、…………どうすれば………いいんだよ…………。
泣いているのは俺だけだった。
彼女は泣きもしなかった。
まるで汚らしいものでも見るかのようだった。
そして、一瞥をくれると、闇の中に消えて行った……。
俺は、………レナに許してもらえなくて。
……ただただいつまもで、そこに膝をついたまま、罪《つみ》を贖うために…涙をこぼし続けるしかなかった…。
■幕間
TIPS
11■雛見沢《ひなみざわ》だった訳
あれは、何年前だったかな。
ある田舎の自然が綺麗な村があってね。
そこがダムに沈むとか何とかで住民運動があったんだ。
その住民団体が、豊かな自然を知ってもらおうと、大自然ウォッチングという名のツアーを開催していたことがあってね。
やがてダムに沈むかもしれない、失われていく自然という雰囲気に引かれて、本当に軽い気持ちで参加したんだよ。
でもね、行って本当に息を呑んだんだよ。
そこは本当に空気が透き通っていて、自然が美しい本当に素晴らしいところだったんだ。
それ以来、お父さんはあの自然にすっかり虜になってしまっていてなぁ。
…ダム計画が中止されたと聞いて喜んでたくらいなんだよ。
あの時、訪れたのがまさに今、家を建てている場所なんだけどね。
あの時は野花が美しい原っぱだったんだ。
その原っぱで、二人組の小さな女の子たちが遊んでいたんだ。
二人とも髪が長くてとても美しい少女たちだった。
ご近所の友達同士だったんだろうね。
幼いながらもきりっとした表情の子と、あどけなさを残す表情の子の顔、今でもよく覚えてるよ。
どちらも将来、それぞれ個性的な美人になるだろうなぁ。
少女たちはくるくると踊るように走り回ってた。
ここは君たちの遊び場なのかいって聞いたらこう言うんだ。
早くここに引っ越してくる人が現れますように、ってね。
見ればそこには「別荘地・売出し中」の看板が立っていた。
その時、あぁ、ここに住んでみるのもいいかもしれないなぁって思ったんだ。
確かにここには何もないし、都会での生活に比べると不便かもしれない。
でも、……父さんなぁ、家族でもう一度生活をやり直すならここしかないって思ったんだ。
前の町では確かにいろいろあったけど、それはもう全部終わったんだから、忘れてしまおう。
過ちから教訓を汲み取り、この村で理想の生活をやり直そう。
だから、圭一《けいいち》がここでの生活を気に入ってくれてると嬉しいんだけどなぁ。
…………そうか。
気に入ってくれてるなら嬉しい。
父さんも、ここに引っ越してきてから家族の仲がとてもよくなって嬉しいんだ。
前の町では、家族はみんなばらばらだったと思う。
…だから、やり直せて本当によかったと思ってるよ。こうして、圭一《けいいち》と話をする機会も全然なかったしなぁ。
そうだ、圭一《けいいち》。
圭一《けいいち》の学校には、髪の長くて綺麗な二人組の女の子はいないか?
年齢は……多分、圭一《けいいち》よりもっと年下だと思うなぁ。
髪の短い子と長い子ならいる? ううん、多分違うと思うなぁ。
何で探してるかって?
いやいや、写生のモデルになってもらいたくてねぇ。
色々なコスチュ、げほんげほん! と、とにかく芸術的な興味でだよ。見かけたら父さんにも教えてくれよ。きっとだぞー!
ぐほぐぎぇッ?!
11日目
■翌日
翌日のお昼の時間。
クラスでは、レナの消息についてみんなが好き勝手な噂話をしていた。
仲間《なかま》たちもみな、レナの無事を案じていたが、………俺だけはひとり、距離を置いていた。
「…レナはどこに行っちゃったんだろうね。
鬼隠し《おにかくし》にあった、なんていい加減なことを言ってる連中もいるよ。まったく!」
「圭一《けいいち》さん、今日は元気がありませんですのことよ…?」
「……みー。」
沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんが、俺の様子に気付いて話しかけてきた。
「……………俺は、………ん。」
「…??」
俺は昨夜、レナに告げられてから、……ずっと眠れずに朝を迎えた。
隠し事なんてするのは仲間《なかま》じゃない。
あの一言が突き刺さったまま、…その痛みで眠れなかったのだ。
「魅音《みおん》。…沙都子《さとこ》も梨花《りか》ちゃんも。………話しておきたいことがある。」
「…レナに関すること?」
「いや、…そうじゃない。俺自身についてのことなんだ…。」
彼女らを仲間《なかま》だと信じているから、話してしまおうと思った。
…でも、話すことで、何が変わるのか。
彼女たちが俺を蔑みこそすれ、…俺にとってどんな利することが?
……何もない。
ただ、…俺はレナの言葉の痛みを癒したいだけなんだ。
「圭一《けいいち》さんのこと、………ですの?」
「…あぁ。…ちょっと真面目な話なんだ。聞いて欲しい。」
「……………。」
「俺が、…引っ越してくる前のことなんだ。当時の俺は、……勉強しか能のないやつだった。」
塾で、勉強というゲームのコツを学び、成績の向上で優越感に浸れることを覚えた俺は、……クラス中を見下したいだけという、つまらない理由で勉強を続けていた。
成績が上がると親は喜んだし、先生はちやほやしてくれた。いい気持ちだった。
50m走とかドッジボールとか水泳とか、そういうのを鼻にかけて威張っていた連中がちっぽけに見えるのが楽しくて、それだけの理由で勉強を重ねてきた。
成績はいつの間にかクラスどころか、校内でトップを争うほどになっていた。
だから、この学校で一番偉いのは俺だと思うようになった。
だから昼休みに校庭で遊んでいる連中を窓から見下ろして、そいつらより優位に立っていることを感じるのが好きなつまらない野郎だった。
……成績が上がれば、周りも俺に期待する。
周囲は急に高望みするようになり、合格偏差値の異様に高い、トップ校に進学することを当然の目標として掲げた。
もちろん俺も、そこへ入学することが自分に相応しいなんて思って自惚れた。
だが、………勉強の負担はまったく変わらないのに、見下す気持ちの良さだけはどんどんと薄れていった。
それは周りも同じだったようで、クラスメートは俺の成績を讃えなくなったし、先生はもっと高みを目指すように叱咤するばかり。
俺は急に、勉強する楽しみを失い始めていた。
元々、勉強なんて好きでも何でもない。
運動神経も並、喧嘩の強さも並の、平々凡々の目立たないガキンチョが、自分が人より優位に立てるものを見つけたので飛びついただけだ。
それが勉強でなく、例えば、一輪車やけん玉で人を見下せたなら、それを練習していたに違いない。
そういう感情に気付き始めると、もう勉強なんてつまらないだけだった。
そうさ、俺は人よりすごいことができたとき、それを誰かに褒めてもらいたいだけの甘えん坊野郎だったんだ。
…だから褒めてもらえるなら、夏休みの宿題だってきっちり終わらせたし、学校の掃除だって率先してやった。
だから、褒めてもらえなくなったとき、自分の人生がどうでもいいものに感じた。
俺は、一時期、成績の向上と小遣いの額が比例していたことがあったので、ガキには相応しくない小遣いを持っていた。
……元々好きだったのか、それともやり場のない感情が凶暴性を求めたのかはわからない。
俺はモデルガンに興味を持ち始めていた。
ダンボールを的にしているうちは可愛いものだった。
ダンボールに凶暴性をぶつけるだけなら、ストレスの発散の内だ。そこまでなら誰も咎めない。
だが、すぐにやってはいけないことをしたくなった。
モデルガンの箱に書いてあった注意書き、「人に向けて撃ってはいけません」を見た時、よし俺は人を撃ってやろうと思ったんだ。
どうして、やってはいけないことをわざわざ? それこそが俺の幼稚さだったんだ。
俺はもう勉強なんかに関心はないのに、それを無理強いして、どんどん塾通いを強制する親に反感を持っていた。
なら、親にもう勉強は嫌だとぶつければいいものを。
……矮小な俺にはその勇気はなく。
…あろうことか、その攻撃性は、自分より年下の人間をモデルガンで闇討ちするという卑劣な行為に向いた。
ものすごいスリルだった。
自分はこんなにも悪いことをしているんだという刺激は、勉強漬けの自分にとってあまりに甘美だったのだ。
もちろん、狙った相手に個人的恨みは何もない。
ひと気のないところにいればそれで攻撃の条件は満たした。
別に怪我させるつもりは毛頭なかった。
狙撃するように遠くから1〜2発、当ててやればそれでいい気分だった。
だが、たまに服の生地の厚いところに当るのか、当っても無反応な子がいた。
……それが気に入らず、相手が撃たれていることに気付くまで撃つようになった。
それは必然的に、滅多撃ちにエスカレートしていったんだ。
自分は勉強というとてもいいことをしている。
だからそれに見合うくらいに悪いことをしてもいいんだ。
それでバランスがちょうどいいんだ、等と信じられないくらい自己中心的な主張をして自分を許した。
こんなにも辛い状況を我慢しているのだから、これは当然の権利なのだ。
だから、俺のように苦労していない人間は少しくらい撃たれて痛かったって当然なんだ。
…………なんて身勝手、なんて傲慢、なんて甘え!
今、こうして自分で並べているだけで虫唾が走る。
もし、その頃の俺の前に立ち塞がれるなら、奥歯が吹っ飛ぶくらいに殴り飛ばしてやりたかった。
児童連続襲撃事件とまで呼ばれるようになり、全校朝礼で校長が、そういう事件が起こっているようなので、お外で遊ぶ際には気をつけましょうというのを聞いて、ひとりニヤニヤ笑っていた。
PTA便りには、通学路の安全に気をつけるよう見出しがつき、やがて保護者の当番制による登下校時の見張り、集団での登下校などが次々決まっていく。
規模がどんどん膨らんでいくことに、俺がかつて、成績アップで校内順位が上がっていく頃のカタルシスを思い出すのだった。
俺は、この遊びにもはや夢中だった。
いつかはバレるだろうなんて思いもしなかったし、いつを境にやめるかも決めてなんかいなかった。
そんなある日。
………俺はひと気のない暗く細い道で、ひとりの少女を見つけた。本当に小さな子だった。
どこかへ遊びに行く途中だったのか、おつかいに行く途中だったのか。…どちらにせよ、構わない。
ひとりでの外出は避けましょうと学校で言われてるだろうに、無用心な。
被害《ひがい》に遭うのは自業自得だ。
そんな身勝手な理屈で、いつものように、………襲った。
背中に弾が何発か当たり、少女は自分が何らかの悪意に晒されていることに気付く。
気付けば振り返るのは当然の反応だった。
俺はその頃は、雨あられのように弾をぶつけるのが習慣になっていたから。
だから彼女が振り向いたその瞬間にも、弾を浴びせかけていた。
普通の子だったら、痛い痛いと言いながら走って逃げていく。
……だが、その子の反応は初めて見るものだった。
片方の目を押さえて、苦痛の悲鳴を上げながら転げてのたうち回ったのだ。
それを見て、すぐに直感した。
目に直撃したんだ。
ダンボールをやすやすと打ち抜くような弾で眼球を直接撃たれたらどういうことになるかなんて、その瞬間まで考えたこともなかった。
とにかくとにかく、その子の痛がり方が尋常じゃなくて、俺はその時になって初めて、自分が何て恐ろしいことをしていたんだろうと気付いた。
少女に姿を見られていた。
だから自分が病院に連れて行くことはできなかった。
だから結局どうすることもできなくて、……俺は転げ回る少女を取り残して、その場から走り去った。
あの子は大丈夫だろうか、失明しなかっただろうか。
それだけが頭をぐるぐると駆け巡り、食事をする気にもなれなかたった。
居間の本棚にあった、家庭用の医学書をこっそり部屋に持ち帰り、目の構造について調べた。
どのくらいの怪我なら失明するのかしないのか、今さらのように調べた。
仮に失明しないとわかったとしたって、犯した罪《つみ》に何も変りはないのに。
……その晩、俺は寝付けず、ひどい高熱にうなされた。
俺の罪《つみ》を一番最初に罰《ばつ》してくれたのは結局、親でも学校でも警察《けいさつ》でもなく、……結局、俺の体自身だったわけだ。
深夜と早朝の境目の頃。
………俺は熟睡中だった両親を起こし、自らの罪《つみ》を打ち明けた。
親は始めは驚愕していたが、最近の俺の反抗的な態度と、モデルガン遊びへの傾倒から、何となく状況を察したようだった。
お袋はさめざめと泣き、親父には顔が腫れあがるほどぶん殴られた。
結局、夜明けを待たず、両親に付き添われて、……交番に出頭するのだった。
沙都子《さとこ》は呆然としたような顔で俺を見ていた。
その眼差しを向けるのは、当然の権利だろう。
そして俺にはそれに甘んじなくてはならない罪《つみ》がある……。
「……それ、……本当ですの……?」
「あぁ…。本当だ。……今まで隠していて、……悪かった………。」
「………………何で、そんなことを今頃になってわざわざ言おうと思ったわけ?」
魅音《みおん》がそう言うと、梨花《りか》ちゃんもうんうんと頷いた。
「本音から言うとさ。……圭ちゃん、どうしたのーーって感じかね。」
「…まぁ、………そりゃそうだよな……。」
「違うよ。…そんなことわざわざ言い出す必要、あったのかなーってね。」
「いや、………。……隠し事をするなんて、…仲間《なかま》じゃないよな。………俺は、みんなのことを仲間《なかま》だと思ってる。…だから、……もう隠してなんかいられなかったんだ。」
「……圭一《けいいち》は、それをボクたちに話して何を期待しているのですか?」
「き、……期待なんて別にないよ。……俺はただ…。」
「……許しが欲しくても、ボクにはあげられないのです。圭一《けいいち》が怪我をさせた人たちにしかそれは与えられませんのです。だから、ボクたちにそれを話しても、何の期待にも応えられないのですよ。」
「梨花《りか》の言うとおりですわね。……潔いのは認めますけれど、…そんなことを私たちに打ち明けて、どうしたいって言うんですの?」
「…………どうしたいって、…ことはないよ。……ただ、……仲間《なかま》に隠し事は……、」
仲間《なかま》たちは俺の突然の過去の告白に、不快そうな表情を浮かべるだけだった。
俺は、自らの罪《つみ》に対する当然の報いだと思って、ただそれを受け容れていた。
「圭ちゃんさぁ。ちょいとここで質問なんだけどさ。
……仲間《なかま》に隠し事ってしたら、いけないわけ?」
「え?」
「圭ちゃんの論法だと、隠し事をしないのが仲間《なかま》みたいな話だけどさ。
……おじさんはそんなの嫌だね。」
「……ボクも嫌です。」
魅音《みおん》と梨花《りか》ちゃんは、とてもはっきりと俺を否定した。沙都子《さとこ》もそれに習い、頷く。
「言いたくないことを言わないで何が悪いわけ? 人には話したくないことや辛いこと、悲しいこと、失敗したことや思い出したくないことがたくさんある。
それを全部打ち明けないと仲間《なかま》と呼べないんなら、私ゃそんな仲間《なかま》はいらないね。」
「………で、……でも、…それじゃ………。」
「……圭一《けいいち》。打ち明けなくていいことと、打ち明けなくてはならないことは違いますのです。罪《つみ》は許しを得るために打ち明けなくてはならない。
でも、打ち明けて許された罪《つみ》は、もう打ち明ける必要はないのですよ?」
「そうですわね。……だって圭一《けいいち》さんは、ちゃんとお巡りさんのところにいって、怒られてきたんでございましょう?
それで償いをして許してもらえたなら、それで圭一《けいいち》さんの罪《つみ》はおしまいですわよ。」
「自首して、その結果を受け容れたなら、それで圭ちゃんのお勤めは終わりだよ。
もちろん、圭ちゃんが罪《つみ》の十字架を背負い続けることはとても大切なこと。二度と過ちを繰り返さないよう、常に胸に刻み続けるのは正しいことだよ。
……でもね、それは圭ちゃんが自戒することであって、打ち明けなくちゃいけないことではない。」
「そうですわよ。過去の恥ずかしい話なんかは、私も内緒にしたいことがたくさんございましてよ。」
「……みー。沙都子《さとこ》は特にいっぱいいっぱいありますのです。」
「わ、私だけじゃございませんのよー!! 梨花《りか》もですわよ梨花《りか》もですわよ!!」
「みーみーみー☆」
沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんがいつものようにじゃれ合った。
それを見て、魅音《みおん》が俺に向き返る。
「今、沙都子《さとこ》はとてもいい事を言ったと思う。…圭ちゃんにはどの部分かわかる?」
「……過去の話は、内緒にしたい…というところか?」
「違う違う! その次の部分。
誰にだってある、ってところだよ。無菌室の試験管の中で育った人間でもない限り、人の人生は試行錯誤の繰り返しだと思う。
良いことも悪いことも、色々なことを繰り返して成長して、それで最後の最後に素晴らしい人間になれればいいんじゃない?
いいことも悪いことも、全てとても大切な経験なんだと思う。それは誰でも同じで、圭ちゃんだけじゃない、私にも沙都子《さとこ》にも梨花《りか》ちゃんにも。いやいや、クラスの全員にも当てはまることなんだよ。」
「……例えば、魅ぃはもっと昔は札付きの悪猫さんだったのですよ。にゃーにゃー。」
「くっくっく! …まぁ本当はあんまり言いたかないんだけどね。私から見れば、モデルガンで闇討ちなんて、あっはっは、かーわいいーもんだーって!
私なんかレンガとか投げつけてたよ、いやホント。警察《けいさつ》に何度お世話になったことやら。ダム戦争の最中は、ちょっとした留置場常連だったよ。いやいやホントに。」
「……でも、昔のことなのですよ。そしてそれを圭一《けいいち》に言う必要はないのです。仲間《なかま》であってもなのです。」
「仲間《なかま》で………あっても………。」
「…私だって、…とても言えないような苦い過ちや罪《つみ》がいくつもありますわ。でも言わないのは、言っても仕方ないからですわ。」
「言って楽になるなら私たちは聞くよ。でもね、仲間《なかま》だから言わなければならないなんてルールはない! むしろ仲間《なかま》なら、言いたくない過去を察してあえて聞かないのが本当の仲間《なかま》なんじゃない?」
「……そ、……それはそうだけど……。」
「圭ちゃんが打ち明けて楽になったならそれでいいよ。私たちは今日の話をすぐにでも忘れる。それに、今日の話を聞いたから、圭ちゃんとの接し方を変えるようなこともない。」
「……圭一《けいいち》が前の町でしたことなんて、今の圭一《けいいち》と何の関係もないのです。
今の圭一《けいいち》がボクたちにとって掛け替えのない仲間《なかま》であるのなら、前の町のことなんかボクは知りたくないのですよ。」
「梨花《りか》の言うとおりでございますわ。逆に、前の町でどんなに善行を積もうとも、こちらに来て嫌な人だったなら、前の町の善行なんか知ったことじゃありませんわね。」
「ってことはさ、圭ちゃん。………前の町での十字架は圭ちゃんが密かに胸に秘めることであって、こっちでわざわざ口にする必要なんてないんじゃない?
いや、仮に口にしてもだ。それで圭ちゃんの見方を変える程度のヤツだったら、私はそいつの方を見下げるね!」
「過去が何だろうと、今が素晴らしい人間であるならば、どうして恥じることがございますの?
もし過去の過ちを一生取り戻せなかったら、……私たちは何のために生き続けますの。」
「……沙都子《さとこ》は、過去にとても甘えん坊さんでした。それを後悔して、今はこんなにも元気でがんばっていますのです。
だから、ボクは今の沙都子《さとこ》はとても素晴らしいと思いますです。昔どうだったかなんて、ボクは興味ないのです。」
「…梨花《りか》……。」
「圭ちゃんだってどうよ。
例えば私が、留置場常連の札付きだと知ったら、私への見方を変えるー?
変えないでしょ? 私は私。いつものように楽しくふざけあえる関係は何も変らないでしょ? それが仲間《なかま》ってもんだもん。」
あれ……、あれ……………あれ……。
…魅音《みおん》の元気付けるような笑顔が、ぐにゃりと歪む…。
俺の目から…大粒の涙が、……ぼたりと落ちて…。
………あれ、………あれ、……………なんで…………涙が……………。
「先に言っとく。俺は悟史《さとし》のことは何も知らない。…みんなが隠してたからな。」
「…か、隠してたってわけじゃ……。」
「毎年起こる事件のこと、隠してたろ?」
「あ、それは…圭ちゃんを……、ん……。」
「怖がらせたくなかったってのか?! それが理由で俺だけ除け者かよ?!」
「いや、そんなつもりじゃ…、」
うろたえる魅音《みおん》が目に涙を浮かべる。
……仲間《なかま》である俺のために、気を利かせたつもりなのに、どうしてこんなことになってしまったのかわからないのだ。
引っ越してきたばかりの俺が、村のことを怖がらないように。……それ以上の理由が他に必要なのかよッ?!
「魅音《みおん》に直に、ダム現場で事件がなかったかって聞いたよな。…魅音《みおん》はないって言ったじゃないか!!! バラバラ殺人があったのによ!!! 嘘つき野郎ッ!!!」
「ご、ごめん…!! 嘘ってわけじゃ…、」
「仲間《なかま》ってのは隠し事なんかなしだろ? そうだろ?! じゃあお前らは仲間《なかま》じゃない!!」
うおおおあああぁあぁあぁあ!!!
仲間《なかま》って何だよ、仲間《なかま》って何だよ、俺にとっての仲間《なかま》って何だったんだよッ!!
本当の仲間《なかま》たちだった。
俺のことを心底案じてくれていたんだ。
俺がこの村で馴染めるように、あんなにも気を遣ってくれてたんだ!!
俺は何が不満だったんだ?!
何が気に入らなかったんだ?!
「け…圭ちゃん……そんなのって……、」
魅音《みおん》は頼りなさげにおろおろする。
心なしか涙まで溜めている。…いつもの魅音《みおん》からはとても想像できない。
どうしてこんな言葉をぶつけられるのかわからない魅音《みおん》の痛みが、…こんなにも伝わってくる…。
こんなにも悲しい目を向けられて、……どうして俺はそんな痛みにも気付けないんだよ?!
そのくせ、何が仲間《なかま》だ!!
仲間《なかま》の気持ちもわからず、仲間《なかま》の気持ちも信じず!
仲間《なかま》という言葉を振りかざして…、俺は何をやっていたんだよッ!!!
「………そうだった、…俺は…屑だったんだ…!! 魅音《みおん》は魅音《みおん》だったんだ…、俺の最高の仲間《なかま》だったんじゃないか!! どうして魅音《みおん》を疑っちまったんだ?! どうして?!」
「圭ちゃんさ、最近元気ないよね。」
「都会から引っ越してきたんだもん。
きっと、今頃になって疲れが出てきたんだよ。それで風邪を引いたんじゃないかなぁ。」
「そっかそっか。じゃあ栄養を付けさせてあげないとねぇ! 婆っちゃが今日、おはぎを作ってるんだよ。いくつか分けてもらって圭ちゃんへのお見舞いにでもしてあげるかー!」
「こんら魅音《みおん》、手を洗わんとねー!!! おんやレナちゃん、ひとつやってるんかい?」
「へー…、おはぎ作りって面白そうですね!
レナも1つだけ作らせてもらおうかな。よいしょよいしょ。」
「くっくっく! そうだそうだ、いいこと思いついたよ。」
「なぁに魅ぃちゃん。
……わ、その小瓶、何かな、…かな!」
「甘いおはぎだけじゃあ退屈《たいくつ》しちゃうだろうからねぇ!
くっくっく、うちひとつにはクリティカルヒットでタバスコを混ぜておいてあげよう。」
そうだよ、……そうなんだよ…!!!
お見舞いで…おはぎを持ってきてくれて、……俺を元気付けようとしてくれてたんじゃないかよッ!!
それを…何で俺は怯えてたんだ?!
エンジェルモートで食事をしてたことを魅音《みおん》が知ってたってだけで、何であんなにも怯えていたんだッ?!
「…圭一《けいいち》くん、顔色悪いよ? もう横になった方がいいと思うな。」
「そうだね。私たちはもう帰ろ。」
茶化して元気付けたいだけだったんだ。
でも、……俺があまりにも真に受けた顔をしてたもんだから…。
「じゃあね圭ちゃん。」
明日こそ元気になってね。みんなで一緒に部活《ぶかつ》で遊ぼうね!
だから、別れの挨拶がこうなるんじゃないか……!!
「明日、学校休んじゃ嫌だよ?」
……だいたい俺、風邪で休んだクラスメートの見舞いになんか行ったことあるかよ?
ないだろ?!
そんな面倒くさいことわざわざやったことなんか一度もないじゃないか!
それを…してくれたんだぞ?!
入院ならともかく、ちょっと風邪を引いただけなんだぜ?!
それなのにお見舞いに来てくれて、おはぎまで差し入れてくれたんじゃないか…!!
俺は感謝して、明日こそ元気になって登校するよ!!
だから明日こそ、学校でなーー!!って、……そう応えなくちゃいけないんだよ!!
なのに俺がしたことは何だった?!
鍵を掛けたんだ!!
あの2人を拒絶するかのように、…扉を閉めて鍵を掛けたんだッ!!
俺は何を怯えていたんだよ、何が怖かったんだよ!!
どうして気遣ってくれる仲間《なかま》への感謝の気持ちが出てこなかったんだよ!!
なのになのに、どうしてあんなにもおはぎが怖くってッ!!!
あるはずが、………ないんだよッ!!!
おはぎから針なんか……出てくるはずがなかったんだ!!!
何も出てなんか来なかったじゃなかいッ!!
ただ俺が、……昔見た漫画か何かで、…食べ物にカミソリの刃や裁縫針を混ぜるなんて恐ろしいシーンがあったことを思い出して、………あんなのが混じっていたら嫌だと思っていたら、………なぜか、…なぜか、それがおはぎの中に混じっているような気になってしまって……!!!
馬鹿《ばか》かよ圭一《けいいち》!!!
どうして仲間《なかま》を見舞う時にそんな針なんか混ぜるんだよ?!?!
それことありえないだろ!!
仮に! 仮に本当に針が入っていたにしたって、何かの間違いで混じったんだと、彼女らの無実を信じるのが本当の仲間《なかま》ってもんだろう!!! それを俺は何だ?!
どしゃッ!
びたッ!!
べしゃッ!!!
力任せに次々と、……彼女たちが心を混めて作ってくれたはずのおはぎを投げつけて、穢《けが》して!!
何で?! どうしてなんだ?!
俺はみんなのことを大好きだった。
雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してきて初めて、友人たちというものに出会えたんだ。
それは最高の仲間《なかま》だった。
一生涯で出会えるか出会えないかわからないくらいに、最高の出会いだったんだ。
それがわかっていたのに、………どうして仲間《なかま》たちに怯え、疑うようになっちまったんだよ?!
仲間《なかま》たちは……、俺がおかしくなってるのに、だんだん気付いてくれて。
……そうさ、監督を呼んでくれたんだよな。
鎮静剤でも打ってもらって、しばらく休んでればきっと治るって思って、……俺を部屋まで運んでくれて。
魅音《みおん》は、ちょっとふざけようと思った。
魅音《みおん》は好意をふざけて表現する、ちょいとひねくれたやつなんだよ。
そんなのはよく知っていたじゃないか…!!
だから、……監督が来たら、俺に聴診器でも当てるためにお腹を捲ることを予想して、……富竹《とみたけ》さんと同じ罰《ばつ》ゲーム、……シャツに落書きをしようとしたんじゃないか?!
そうだよ、……だから魅音《みおん》は、……マジックを取り出したんじゃないか。
マジックだよ。
……あいつ、そんな下らないことをやってやろうと思って、わざわざ家からマジックを持ってきたんだぜ?
看病なんてガラでもないと思って、罰《ばつ》ゲームなんかで元気付けようとして、……わざわざ持ってきてくれたんだぜ…?
俺を、元気付けたいがためだけにだぜ…?
レナが俺に羽交い絞めをして、……魅音《みおん》が俺に近付いてきて、あいつ、……何て書こうとしたんだよ…。
あいつは、……魅音は、……俺のシャツに、……書く言葉を…小さく口にしてたじゃないか!!
俺、…聞こえてる。…聞いてるんだ。
魅音《みおん》が俺に何て落書きをしようとしたか、……耳に…届いてたじゃないか…!!!
早く、元気になぁれ☆ 魅音《みおん》
何で聞こえてるのに、……聞こえてるのに!!
聞こえてるなら、…魅音《みおん》が…俺に物騒なことをしようとしてるなんて、絶対にありえないことがすぐにわかるのに!!!
どうして俺は、どうして俺は!!
あれが注射器に見えちまったんだよ?!
どうして魅音《みおん》が、俺を殺そうとしているなんて思ってしまったんだよッ?!?!
ありえないんだよ、ありえないんだよ!!!
どうしてどうして、どうしてどうして!!
何で……魅音《みおん》が、俺の命を狙ってるなんて、……とんでもない勘違いをしちまったんだよおおおぉおおぉおぉおぉぉ!!!
頭の中のジーンとした痺れが取れ、…ゆっくりと…全身に血の通いが戻ってくるのがわかる。
俺は…どの位の時間、ここにうずくまっていたのか…? 何分? それとも何十分なのか…。
………見上げた時計の針は、まるで俺が目を閉じていた間分だけ、きっちりと止まっていたのではないかと思うくらい、進んでいなかった。
…本当に?
今、室内を覆う空気は、さっきまでの狂気に満ちたものでなく、……灰色の静寂だけになっている。
羽交い絞めにしていたはずのレナもいなかったし、今まさに注射しようと迫っていた魅音《みおん》もいなかった。
……まさか…全部……何かの……幻?!
部屋には俺以外の気配はまったくなくなっているのだ…。
かつてない異常な体験。
…………俺は確かに……レナと魅音《みおん》に………。
自分の正気を一瞬疑うが、同時にある種の安堵感も感じていた。
ははは、……やっぱり……あの恐ろしい出来事は…幻だったんだ。
レナも魅音《みおん》も…あんな恐ろしいことをするわけが……ないんだ…。
目頭が…熱くなる。
感情がこみ上げてくるのがわかった…。
どうして…?
それは涙がこみ上げる理由にではない。
どうして…?
……それは………悲しみだった。
……どうして悲しくなるんだろう…? わからない。……わからない……。
わからない?
何がわからないんだよ!! わかってるじゃないかよぉおおおぉおぉッ!!
馬鹿《ばか》じゃないのか、何やってんだよ俺は!!
どうしてどうしてここまで、とことん救えないクズなんだよッ!!!
魅音《みおん》は最後の最後まで俺を元気付けようとしてくれていたじゃないか。
大好きだった、親友だった、最高の仲間《なかま》だった!
俺より年上だけど、そんなのを全然感じさせないで付き合ってくれた。
…誰よりも一番最初にクラスで話し掛けてくれた。そんな魅音《みおん》を、……魅音《みおん》をどうしてッ!!!
その魅音《みおん》が、窓際に不自然な格好で横たわっていて。
…頭から胸元が血でべっとりと赤黒くなっていて。
壁一面に飛び散った真っ赤なものは…、俺が何度も何度も打ち付けて叩き割った頭から溢れ出したもので。
何てことを……何てことを……! 俺は…何て取り返しのつかないことを…!!
「俺、……みんなのこと……本当に友達だと思ってたんだぜ……。」
なのに……どうしてこんなことになってしまったんだよ……?
前の学校では楽しいことなんか何もなかった。
…偏差値の上下に一喜一憂し、志望校が合格圏か安全圏かとか…そんな話しかしなかった。…灰色の生活だった。
友達ってのはクラスの勉強のライバルのことで、内申書と校内偏差値を競い合う敵だった。
そんな生活がいかに不健全かを教えてくれたのが、みんなだったんだ。
この一ヶ月間、本当に楽しかった…。
弁当で大騒ぎをし、部活《ぶかつ》で大騒ぎをし、お祭りで大騒ぎをし……。
目から熱いものがボタボタとあふれ出る。……不覚にも…涙だった。
こいつらのために涙を流す義理なんかないはずだ。…でも止められない…!!
例え命を狙われたとしても。
殺されそうになったとしても。
…この一ヶ月間の思い出は……忘れられないのだ…。
それとも……あの楽しかった日々は…虚偽だったのだろうか…?
俺をはめるために…今日まで周到に続けられた……罠だったのだろうか?
俺だけが一方的に仲間《なかま》だと思い込んでいただけなのでは………?
そんなはずは……ないッ!!!!
レナも魅音《みおん》も……本当に俺の仲間《なかま》だったッ!!
あの楽しかった日々に……わずかの曇りも虚偽もあるものか…!!!
きっとレナたちは……俺を殺すよう、何者かに強要されたに違いないのだ。
あるいは…オヤシロさまという超常存在が取り憑き、意識を乗っ取られていたに違いないのだ!
とにかく…レナも魅音《みおん》も…最高の友人だった!!
馬鹿《ばか》野郎おおおぉおぉおぉおおお!!!!
何をわけのわからないこと言ってんだ!! 自分でその最高の友人をこんなにも惨たらしく殺しておいて、…何を口走ってやがんだよ畜生おおおぉおぉ!!!!
最高の友人だったんだろ、仲間《なかま》だったんだろ!!
だったらどうして信じられないんだよ!!
どうしてその言葉に耳を傾けられないんだよ!!
それを殴り殺しておいて、俺は何様のつもりなんだよ?!
まるで自分には何の非もないみたいじゃねぇかよ?!
自分以外の全てがおかしくなったような気持ち?
馬鹿《ばか》が、逆だよ!!
逆に決まってるだろ!! おかしかったのは、全部俺ひとりなんだよッ!!!
「…け、……圭ちゃん…?」
「俺は……、俺は……、……何てことをしてしまったんだよ……。…何てことを……うぁあぁあぁぁぁぁぁ…。」
魅音《みおん》は今、ここにちゃんと生きている。
…だから、俺が魅音《みおん》を疑心暗鬼の果てに殴り殺したなんて記憶は、「ありえない別の世界」の記憶なのだけど。
でも、…俺は例え別の世界であろうとも、……魅音《みおん》を、……殺してしまった…。
しかも、その罪《つみ》深さを何も気付かずに。
それどころか、今の今まで、…魅音《みおん》には殺されるだけの非があったなんて勝手に思い込んでいて!!
「ど、…どしたんですの…圭一《けいいち》さん……。」
「わかんない……。圭ちゃん、落ち着いて落ち着いて…? 私は、生きてるよ。
圭ちゃんになんか殴り殺されてたまるかーっての。
ねぇ?」
「そうですわよ。圭一《けいいち》さん如きに遅れを取るようなのは我が部にはおりませんでしてよー!」
「違うんだ………違うんだ………。」
魅音《みおん》も沙都子《さとこ》も、突然俺が泣き出したのがなぜかわからず、困惑していた。
だが、俺は…泣くしかなかった。
罪《つみ》は打ち明けて許しを得るものだと、今知った。
……だけど、俺のこの罪《つみ》は、…この魅音《みおん》には許せない罪《つみ》なんだ…。
だから、今俺が「この世界」でいくら泣いたところで、…誰にも許せない。だからこの罪《つみ》は、絶対に許されないのだ……。
その時、知恵先生がやって来て、俺が泣いているのに気付いた。
……いい年の男が泣き出すなんて、なかなかあることじゃない。
知恵先生が何事かと声を掛けるが、俺の耳には届かない。
魅音《みおん》と沙都子《さとこ》が事情を聞かれ、困惑しているようだった。
涙の止まらない俺に、梨花《りか》ちゃんが顔を寄せる。
「……圭一《けいいち》は、………覚えているのですか? ………レナと魅ぃを、……殺したことを。」
「そうだ!! 俺が……殺したんだ!! 殺したんだ!! なのに、俺は何の罪《つみ》も認めずに、まるで自分は被害《ひがい》者のつもりで!! 死ぬ最期の瞬間まで……仲間《なかま》を呪って、恨んで!! 血がいっぱい出て、……そして………そして………。結局、何の後悔もなく、……ひとりで……勝手に死んだ………………。」
電話《でんわ》ボックスの中で、痒くて痒くて仕方がない喉を掻き毟りながら、……それでもなお自分の罪《つみ》に気付かず、……勝手にひとりで死んでいく。
「……圭一《けいいち》。…………あなたの罪《つみ》に、…気付きましたのですか。」
「気付いた。こんなにも今頃になって、俺は気付いたよ、思い出したんだ!! ここじゃない別のよく似た世界で! 俺はなぜか仲間《なかま》たちに疑心暗鬼を持って……殺してしまったんだ!! 仲間《なかま》たちは俺に救いの言葉をかけていたはずなんだ! なぜそれに耳を傾けられなかった? どうしてだよ?! うぉおおぉぉおぉおおぉぉ!!」
俺はもう人目なんかはばからなかった。
……ただただ泣いた。罪《つみ》を涙に変えて、目から思い切り搾り出してやりたかった。
でも出て来る涙は罪《つみ》なんかじゃない。
…取り返しのつかない悲しいことをした悔悟の涙だけ。
その時。……頭に、撫でる感触。
…目を開ければ、梨花《りか》ちゃんがその手の平で俺の頭を撫でているのだった。
…慰めなんかいらない。
梨花《りか》ちゃんに俺が慰められるはずなどないのだ。
だが梨花《りか》ちゃんは言った。
……これは、慰めではなかったのだ。
「……圭一《けいいち》を、許しましょう。」
「…………………え………。」
「……圭一《けいいち》は、自分で自分の罪《つみ》に気付きましたのです。それは…とても偉くて、……普通ではありえないことなのです。
だから、誰も圭一《けいいち》の偉さがわからなくて、それを許してあげることはできませんのです。……でも、ボクにはそれを許すことができます。ボクには、圭一《けいいち》のすごさがわかるのです。」
「……………梨花《りか》ちゃん……。」
「……私はこれが奇跡であることがわかる。だってこれはありえないことなのだもの。あなたが、……別の自分の罪《つみ》に気付くなんて、絶対にありえないこと。なのにあなたはそれに気付けた。それは、きっとこの地上に具現するどんな奇跡すらも霞むほどのもので、………信じられないくらいに尊いもの。」
梨花《りか》ちゃんが何を言っているのか、俺にはさっぱりわからない。
……なのに、…梨花《りか》ちゃんだけは、俺のこの、ありえない記憶を理解してくれる気がした。
「……なら。今のあなたにならわかるはず。…竜宮《りゅうぐう》レナが、どういうことになっているのか。」
「あぁ……、わかるぜ…。あの時の俺の同じなんだ…!! 仲間《なかま》のことを信じたくて信じたくてしょうがないのに!! 信じられないんだ!! どんどん自分がおかしくなっていくのに、そいつがわからなくて世界の方がおかしくなったって信じてやがるんだ!! どうすりゃ救えるかなんて、わからねぇよ!! わからないんだ!! だって、……俺は…駄目だった!! 結局、死ぬまで…いや! 死んでも気付けなかったんだ!! それを、レナに気付かせるなんてどうやって?! 救えないよ…救えない…!! 俺がそうだったからよくわかるんだ…。どうやったってもう、救えないんだ…。」
……落ち着けよ圭一《けいいち》…。
確かに俺は駄目だったさ。
……でも、だからと言ってレナも駄目ってのは早計じゃないのか…?
駄目だから救わなくていいなんてのはない。
……レナはどうだった?
俺があそこまで末期的におかしくなってたってのに……、全身で救おうとして体を張ってくれたじゃないかッ!!!
あの世界の俺の部屋で……、金属バットで何度も何度も打ち据えられて…!
でも、レナは微笑んでた。
俺が怯えていると知っていたから、…怖がらせないように、微笑んでくれていた。
そして、俺に何度も何度も打たれて、腕がひしゃげて額も割れているのに……。
そうだ、………本当に最後の最後。……レナは、頭を庇わなかった。
こう、……両手を突き出して、…抱きしめる相手を探すように、…こう…。
それでもなおレナを信じられない俺は、………金属バットを大きく振り上げた。
レナは言った。
大丈夫だよ、
「……私を、信じて。」
うおおおおおぉおおおぉおぉおお!!
仲間《なかま》が信じろと言ったんだ!! 自分を信じろと言った!
何でそれを信じられないんだよ、おかしくなった俺が襲い掛かってきてるんだぞ!!
命の危険があった、現に殺された!!
なのに、頭を庇いもせず、身を守るはずの両手を……俺に差し出して……!
レナは、死んでしまうまでずっとその言葉を口にしていたんだ。
信じて。お願い、私を、信じて。
命をかけて俺を救おうと、俺の目を覚まそうとしてくれてたんじゃないか!!
命を失うその瞬間まで、…信じてといい続けて…。
そして俺は、仲間《なかま》のその言葉さえ耳に届かず、今日のこの瞬間まで、自分が悪くないなどと本気で信じていて!!!
「……梨花《りか》ちゃんに許してもらえて、少し心が軽くなった。……でも、やっぱり、俺の罪《つみ》は……同じ形で滅ぼさなきゃならないんだ。………レナの目は…俺が覚ます…!」
レナは命を賭けたんだぞ!!
死ぬその瞬間まで俺を気遣ってた!
信じてた!!
次の一言こそ心に届くと信じて、何度も口にしたんだ!! 頭蓋骨が叩き割られるその最期の瞬間までだッ!!
俺の命なんか、惜しいもんかよ…。
レナは死んで見せたんだぞ!!
俺だって命くらいくれてやる!!
俺は仲間《なかま》の気持ちなんかわかってないクズ野郎だったからその気持ちが届かなかった。
……でも、…レナならあるいは…届くかもしれないんだ…!!
「………この世界はもう狂っちまった。でも、だからといって諦めていいなんてことはねえんだよな。……諦めるってことは信じないってことだ。俺はレナを、仲間《なかま》の絆を信じるぜ。……だから、まだ間に合うんだ。惨劇《さんげき》は回避できる。運命には抗える。俺たちは足掻く。そして掴めるんだ、その先の未来ってやつをなッ!!」
「………………………。」
梨花《りか》ちゃんは神妙そうに俯くと、スカートのポケットをいじるような仕草をしていた。
「……圭一《けいいち》。…………私も、…諦めない。
……この世界から希望を失ってたまるものか。…私は数え切れない失敗に疲れ果ててた。だから世界が狂い出すことに諦めを感じるようになってた。だから、………もうレナがどうなろうと知ったことではないと、昨夜思った。でも、……それは間違いだった。……戦おうとする意思がこんなにも美しく神々しくて、……そして運命すら捻じ曲げかねない、奇跡が起こせることを知った。だから私はあなたと共に戦おう。もう一度戦おう、何度でも戦おう。その先の未来に至れるまで、何度でも。」
「………り、…梨花《りか》と圭一《けいいち》さんが何の話をしているのか、さっぱりわかりませんでしてよ?」
「くすくす…。……覚えていないのは当然なのです。…圭一《けいいち》が、すごいだけなのですよ。」
「??? 私の高尚な脳みそではさっぱりでしてよ??」
梨花《りか》ちゃんが、沙都子《さとこ》にこつんと額をぶつける。
「……でも、いつかは思い出してあげてください。あなたが抗えぬ不幸の袋小路に囚われた時、……圭一《けいいち》はあなたを救おうと全身全霊を賭けて戦ってくれたことを。」
「圭一《けいいち》さんが、………ですの? 眉唾でございますわよ…。」
「くすくす。……ねぇ圭一《けいいち》?」
梨花《りか》ちゃんが俺を見て、同意を求めるように微笑む。
…さすがに沙都子《さとこ》にまで命を賭けるかどうかはわからないが、…………。
………いや、…賭けるさ。
沙都子《さとこ》は俺の仲間《なかま》だ。
沙都子《さとこ》を不幸のどん底に落とすような敵が現れたなら、俺は容赦なくその敵を叩き潰すだろう。
全身全霊を賭けて!
…………そんな、…世界もあったかもしれない…。
だから、梨花《りか》ちゃんに頷き返した。
梨花《りか》ちゃんもそれを見て、嬉しそうに頷き返してくれるのだった。
「……前原《まえばら》くん、………何かありましたか…?」
俺がようやく大人しくなったと思ったのか、先生が何事かと話し掛けてきた。
「いえ、……何でもないんです。騒がせてすみませんでした。……………それより、…魅音《みおん》。」
「…ん? な、……何?」
俺はつかつかと魅音《みおん》に歩み寄る。
魅音《みおん》は何事かわからなくて後退り、黒板にぶつかった。
「な、……何、圭ちゃん…。…マジな顔でどうしたの…?
………ぁぅ…、」
魅音《みおん》を、俺は抱きしめる。
魅音《みおん》は何事かわからなくて、真っ赤になったまま閉口していた。
俺は……魅音《みおん》の肩で、泣きながら言った。
「……すまなかった、…本当にすまなかった……。」
「なな、……何がよ、圭ちゃん…、あ、あのあの、おじさん、本当に何のことかわかんないよ……。」
「……わかんなくてもいい…、わかんなくてもいい…。…わかんなくてもいいから……聞いてくれ……。……本当にすまなかった……、そして…おはぎ…。……うまかったぜ、……本当にうまかった…。元気が出た。……だから、……俺、明日からちゃんと学校に通えるから……、また明日も、……学校で会おうなって……、……それが…言えなくて………。…今日まで…感謝の言葉が遅れて本当にすまなかった…!! 俺は魅音《みおん》を、いや、仲間《なかま》を誰だろうと!! 二度と疑わない!! 二度とだ、絶対にだッ!! だから魅音《みおん》、……………あの日の俺を、…どうか許してくれ……………。」
魅音《みおん》には何のことか、わからなかったに違いない。
もちろん、……言っている俺にも。
…自分で何を口走っているのかよくわからなくなっていた。
でも、俺には許されていない罪《つみ》だった。
だからそれを打ち明け、許しを請わなければならなかった。
「魅音《みおん》が命を賭けてくれたことを俺は知ってる…。だから、…いつか魅音《みおん》に何かの不幸が訪れたら、俺は絶対に命を賭けて助けるからな。絶対だ、約束する……!!」
「……け、……………圭ちゃん…………? あは、はは、照れるな……。」
何事かわからず赤面する魅音《みおん》。
同じく赤面し、表情からクエスチョンの抜けない沙都子《さとこ》。
だが、梨花《りか》ちゃんと俺だけは全てを理解していた。
惨劇《さんげき》なんて受け容れてたまるか…!!
世界が狂い出したらもうおしまいなんてことがあるもんか!
最期のその瞬間まで運命に抗ってやる!
魅音《みおん》も抗ってくれた。レナも抗ってくれた。
だから……レナを救う。
彼女がそうしてくれたように、…俺も命を賭けて。
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11日目_2
■首脳会談
鹿骨市《ししぼねし》内のある割烹にて、その席は設けられた。
黒塗りの車が停まると、大石を筆頭に大柄な刑事たちが4人降りてきた。
出迎えるのは園崎《そのざき》組の黒服たち。それはとても異様な光景だった。
「今日はお招きいただきまして光栄です。遅刻しちゃって申し訳ないですねぇ。」
「……お客人、ご案内いたします。どうぞこちらへ。」
入り口には本日貸切の札が出ていた。その中へ大石たちは招かれていく。
もったいぶった作りの庭を抜け、和風の上品な雰囲気のする玄関へ至る。
玄関には和服の女性と葛西《かさい》がいた。
大石たちに気付くと談笑をやめ、深々とお辞儀する。……和服の女性は、魅音《みおん》の母、茜《あかね》であった。
「やぁどうもどうも園崎《そのざき》社長さん。本日はお招きをいただきありがとうございます。」
「…ようこそいらっしゃいました。ご多忙中のはるばるのお越し、心より感謝いたします。」
「いえいえ。今日はご馳走になりますよぅ。清水亭と言えば湯葉が有名ですからねぇ。なっはっはっは! どんなご馳走か楽しみです。」
「…………………………。」
「それから葛西《かさい》さんもお久しぶり。直接会うのはだいぶ久しぶりになりますねぇ。」
「ご無沙汰をいたしております…。」
「まぁなんかこの度はお互い戦争状態に突入しちゃってるようですが、白黒を穏便〜に、大人のルールに従って決着できたらと思ってます。
こっちゃ全面戦争はいつでも大丈夫ですんで。」
「いえ、……そのようなつもりは毛頭。」
「なっはっはっは! そりゃこちらもやりたかないです。
あんたが出張ると血の雨が降るって評判ですからねぇ。私もいい年なんで、もう流血沙汰はごめんしたいところです。」
これは明らかに敵対するもの同士の会合だった。
言葉の節々がぎすぎすとし、とても和気藹々とした会合になるとは思えなかった。
「それではご案内いたします。どうぞこちらへ。」
「主宰自らのご案内、痛み入りますよ。」
「……そうそう。招待状の名前は私で出させていただきましたが、今日の主宰は、本家でございます。訳あって、招待状の名前を変えさせていただいたことをお詫びいたします。」
「…本家、ですか。………防弾チョッキを着に戻ってもいいですかねぇ?
なっはっはっは。」
客室の襖があくと、お膳が並び、………魅音《みおん》が座っていた。
未成年の魅音《みおん》にとっては、学校制服が公の衣装に当る。
そうではあっても、刑事たちと、園崎《そのざき》組の黒服たちの服装と比べると不思議な違和感があった。
「これはどうも、園崎《そのざき》家の次期頭首のお嬢さん。今日はお招き下さり、光栄です。」
「本日はようこそお越しくださいました。まずはお掛けになってください。」
魅音《みおん》は自分の親よりも年上の刑事を相手に、わずかほども臆すことなく、丁重に出迎えるのだった。
魅音《みおん》が目配せをすると、葛西《かさい》が襖を叩く。
すると襖の向こうに待機していた仲居たちが入ってきて、乾杯の準備をし始めた。
「………大石さん、……一体こりゃ、何のつもりっすかね……。」
「さぁてねぇ…。まぁここは舌鼓を打たせてもらいましょう。ここの湯葉は有名ですよぅ?」
しばらくの間、この火薬の匂いすら漂いかねない、緊張感のある酒席が繰り広げられるのだった。
やがて、仲居たちを完全に下がらせると、園崎《そのざき》組の組員たちにも下がらせ、室内は大石たち刑事4人と魅音《みおん》、茜《あかね》、葛西《かさい》の3人だけになっていた。
「さて。………今日はどういうお話ですかな。」
茜《あかね》が頷いて応えた。
「本日は皆さんとの間に生じている誤解について、解かせていただきたくこのような場を設けさせていただきました。」
「……ほぅ、誤解と申しますと?」
「発端はとても瑣末でございます。ここにいる葛西《かさい》が、竜宮《りゅうぐう》レナとの個人的事情により会見を求めたのです。よって、この度の件は葛西《かさい》辰由と竜宮《りゅうぐう》レナ、個人間のこと。園崎《そのざき》組は関与しておりません。」
「なっはっはっは…。個人的事情って何ですかね。堅気の竜宮《りゅうぐう》さんと極道の葛西《かさい》さんに、どういう個人的な接点が生じるっていうんです。」
「葛西《かさい》。」
「はい。僭越ながら、ご説明させていただきます。」
葛西《かさい》は、レナとは偶然、興宮《おきのみや》のとある喫茶店ですれ違っていたことを話した。
その先にレナが彼の落し物を拾い、届けたいと申し出たことを説明する。
「…ちょいと無理がございませんかねぇ? まぁ百歩譲って、落し物の話を信じてもいいですよぅ? その後がちょいとおかしくないですかね? 竜宮《りゅうぐう》レナを探して、組の若い連中が動員されてるって聞いてますよ。」
「それに関しましては、この私めの手落ちでございます。…竜宮《りゅうぐう》レナさんが遅くになっても帰宅されないのを家人が心配されていたので、繁華街で見かけていることがないかどうか若い者に聞かせたのですが、その際に手違いがありましたようで…。」
「おうおうおう、ちょいと待ってくださいよぅ。こんな割烹まで呼び出してその与太話を信じろっての? あんた、うちらの商売を舐めてんの? ん〜?!」
本職の暴力団よりも大石の方がよっぽど暴力団らしく見える。…大石が歪んだ笑いで凄むと場は一気に緊迫した。
「お、…大石さん…、まぁまぁ…。」
熊谷が大石をなだめる。
警察《けいさつ》も暴力団と同じで、凄む役となだめる役がペアになっているということだろう。
大石はにやりと笑ってそれで引き下がった。代わって熊谷が先を促した。
「それで、園崎《そのざき》家さんはどうおっしゃりたいわけですか。竜宮《りゅうぐう》レナと葛西《かさい》辰由の個人的問題だから、民事に介入するなとおっしゃるわけで? そういうわけにはいきません。竜宮《りゅうぐう》レナは警察《けいさつ》で保護させていただきます。」
そこで初めて魅音《みおん》が口を開いた。
「……警察《けいさつ》は竜宮《りゅうぐう》レナを保護なさる理由をお聞かせください。」
「そりゃ決まってるじゃないかよ。あんたらが狙ってるからだよ。」
大石がぶっきらぼうに答える。
だが魅音《みおん》は至って涼しい顔だった。…それが一層、大石を不愉快にさせるのだろう。
「どうして、当方が竜宮《りゅうぐう》レナを狙っているとお思いで?」
「そりゃあんたの胸に聞きゃいいだろ。その馬鹿《ばか》でかい胸に。」
「……大石さん。本日は皆さんの誤解を解くための会合です。もちろん耳を貸されないのもまたご自由かとは存じますが、聞いた方がさぞかしよろしいかと思いますよ。」
「ほぅ、我々が何の誤解をしていると?」
「竜宮《りゅうぐう》レナの持っている、鷹野《たかの》三四《みよ》のスクラップ帖について、ある重大な誤解をされております。」
刑事たちの目が一気に鋭くなる。……いきなり核心を突いて来たからだ。
「竜宮《りゅうぐう》レナの保護は、彼女が鷹野《たかの》三四《みよ》のスクラップ帖を持っているから……なのではございませんか?」
「………………………。」
大石たちはぎょろつく目で睨み返すが、無言であっても図星であることは明白だった。
「葛西《かさい》。」
茜《あかね》が促すと葛西《かさい》が席を外して廊下に出る。
そしてすぐに戻ってきた。
手には黒いアタッシュケースを持って。
刑事たちの誰もが、この中に現金が唸るほど詰まっていて、それで自分たちを何らかに利用しようと買収してくるに違いないと思った。
葛西《かさい》はそのアタッシュケースをバチンと開き、その中身を刑事たちの前に示した。
「…………こ、…これは…。」
「鷹野《たかの》三四《みよ》のスクラップ帖です。残念ならが竜宮《りゅうぐう》レナに手渡したと思われるものは含まれておりません。これを本日の肴にいたそうかと思います。」
「……中身を拝見させていただいても構いませんか。」
「えぇ、どうぞ。お話はそれを読んでいただいた後で構いません。必要でしたら人払いもさせましょう。」
「い、いえいえ、それには及びません。」
刑事たちはそれぞれ懐から薄いゴム手袋を取り出すと、それを着用して、十数冊にも及ぶスクラップ帖を手に取った。
「それらは鷹野《たかの》三四《みよ》の死亡の際に、興宮《おきのみや》の自宅から発見したものです。」
大石たちは、徹底的に使い込まれたそのスクラップ帖のページを次々と捲るのに必死なようだった。
「……………これ、…間違いなく、鷹野《たかの》三四《みよ》のなんでしょうねぇ?」
「間違いありません。」
「…お、………大石さん、……もしこれらに類するものを竜宮《りゅうぐう》レナが持っているとするなら……。」
「おそらくは竜宮《りゅうぐう》レナが持つスクラップ帖も、それらに類する内容でしょう。」
「………………………。」
大石は目を皿のように見開き、その内容を驚いているようだった。
……ページを捲る指がどんどんと早くなり、荒々しくスクラップ帖を閉じた。
「………ここにあるスクラップ帖、全部がこんな中身なんですか。」
「えぇ、そうですよ。納得行くまでご覧ください。」
刑事たちのページを捲る指は早く、もうそれは1ページずつを確認するような丁寧さはなくなっていた。
アタッシュケース内のスクラップ帖が、次々に荒々しく中身を改められていく。
「……………大石さん、
…こんなの滅茶苦茶です。性質の悪いオカルト小説ですよ!
冥界と現世が激突して霊魂が流入したぁ?? …こ、これを証拠《しょうこ》として採用しろって言うんすか…。」
「…………………あぁ、
…そっちは冥界の仕業なんだ? 俺のは地底人の仕業って書いてあるよ…。」
こっちのはナチスの秘密《ひみつ》兵器説、こっちのはムー大陸の遺産、そっちのは鬼ヶ淵《おにがふち》の珍獣、オッシーの仕業……。
「おそらく、竜宮《りゅうぐう》レナが持つスクラップ帖には、皆さんもよくご存知の『寄生虫《きせいちゅう》説』が記されてるのだろうと察します。」
「…………………………く…。」
刑事たちは信じられない面持ちで呆然とするしかなかった。
皆が大石をジロリと見ている。
……実は誰もが心の中で、寄生虫《きせいちゅう》なんているわけない、細菌《さいきん》テロなんて大袈裟なと思っていた。
でもそれを、大石が証拠《しょうこ》があるから間違いないと独走したのだ。
…確かにここにある中には『寄生虫《きせいちゅう》説』はないが、書いてある内容のレベルはまったく変わらないだろう。
……つまり、…性質の悪いオカルト小説レベル…。
「…………………うぅ……………。」
大石は突きつけられた現実がにわかには受け容れられないようだった。
……だが、こうして実際に見てみれば火を見るより明らかだ。
鷹野《たかの》三四《みよ》は単なるオカルトマニアで、……鬼ヶ淵《おにがふち》の伝説を元に、面白おかしく妄想《もうそう》を膨らませてるだけ!
それを竜宮《りゅうぐう》レナが真に受けて、……大石まで真に受けたということだ。
末席の刑事に至っては、スクラップ帖のあまりの馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しさに、もう笑いを隠せずにいるようだった。
……大石がじろりと睨んだので、慌てて笑うのをやめる。
大石がこの中身を真に受けた最大の理由は、竜宮《りゅうぐう》レナが園崎《そのざき》組に、このスクラップ帖の所持を理由に追われている点だった。
しかもスクラップ帖の主である鷹野《たかの》が殺されている!
……この2点だけで、このとんでもないB級オカルトを信じてしまった。
……大石には間違いなく焦りがあった。それを今や認めざるを得ない。
定年前に何とか雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件を決着させたくて、新情報を焦っていたのだ。
…そこに、いくつかの微妙な要因が重なり合い、とんでもない説が信憑性を持ってしまったのだ。
「いくつかお聞きしたい。鷹野《たかの》三四《みよ》はどうして?!」
「鷹野《たかの》三四《みよ》についても富竹《とみたけ》ジロウについても、当家では一切関知しておりません。」
「そりゃあ、そういうだろうなぁ。自分のことを嘘吐きという嘘吐きがこの世にいるわきゃない。」
「…………あらあら、大石さん。……………当家で始末したなら、……死体《したい》が出るとお思いで…?」
魅音《みおん》がにたりと陰のある笑いをする。
…それは言い過ぎの発言だったのだろう。
咎める意味でなのか、茜《あかね》がコホンと咳払いをすると、魅音《みおん》はすぐに口をつぐんだ。
大石は憎々しげに魅音《みおん》を睨み返す。
………だが、筋は魅音《みおん》の方が通っていた。
「………………じゃあ、竜宮《りゅうぐう》レナを何で追ってるんだよ。」
「初めから追っていないと申し上げております。確かにそう見えてしまう誤解が生じたことはこちらのミスです。その点につきましては、私よりお詫びさせていただきます。」
「………………………………。」
大石がレナの妄想《もうそう》を真に受けることになった原因が、ひとつひとつ潰えていく…。
魅音《みおん》と茜《あかね》が目配せをし合う。
……茜《あかね》が代表で告げることになったらしい。茜《あかね》が凛とした声でそれを告げた。
「当家からのお願いを申し上げさせていただきます。…当家ではこのような世迷言の内容に踊らされて警察《けいさつ》と事を交えるのは望むところではありません。……伝え聞くところでは、県警暴対本部の山海氏が、公安部と調整をされていると聞いております。何かの瑣末な口実を切っ掛けに、当家に関連する全てに対し一斉捜査を入れられるおつもりとか。」
それは大石が依頼したことだった。
大石はレナの話を真に受け、「寄生虫《きせいちゅう》」を開発している研究《けんきゅう》施設を発見し、それをテロの証拠《しょうこ》として抑えたかった。
…でもその場所の見当がまったくつかないので、県警の暴力団対策本部と公安部と連携して、県内の一斉捜査大作戦を展開しようとしていたのだ。
本来なら、暴対も公安部もこんな状況証拠《しょうこ》だけでは動かない。
公安部に至っては自分たちの情報網では一切そのようなテロは察知していないと、大石の情報源を疑ったくらいだ。
それを大石が旧知の縁などを利用し、強引に調整したのだ。
大石の顔は脂汗《あせ》が浮き、……自分がとんでもない勘違いをしていたことを認めていることが、言わずともうかがえた。
「当家もダム戦争の当時はいろいろとご迷惑をお掛けいたしましたが、すでに昭和も60年代を前にし、時代の移り変わりを感じております。そんな中、当家もまた、弱きを助け強きを挫く任侠団体でありながらも、時代に則した平和《へいわ》的な路線を模索しているところです。そんな中、警察《けいさつ》の一斉捜査を頂戴しては、手前どもの面目が丸潰れでございます。」
「あんたのとこの面目なんて知ったことじゃないよ。叩きゃ埃は出るんだ。一斉捜査は決行しますよ。」
「埃が出れば結構ではございますが、………出なかった場合、いくら大石さんと言えど、決して軽んじれない責任問題に発展するかと存じますが?」
「………上等だよ、うちと全面戦争するかぁ?! ああッ?!」
「それをお望みでしたらそれもまたよろしいかと。……どうかお気が済むようお仕事をなされて下さいませ。当家はいつでも受けて立ちますので。」
「……くッ………………………。」
……さすがは園崎《そのざき》茜《あかね》だった。
…次期頭首の資格が剥奪されただけで、踏んで来た場数が魅音《みおん》とは比べ物になろうはずもない。
こう言われてしまっては大石は引っ込みがつかない。
でも内心は自分に相当不利な喧嘩であることを理解していた。…それを熊谷が汲み、大石をなだめながら発言した。
「………一斉捜査を控えることに対する見返りは…?」
今度は魅音《みおん》が応えた。
「双方の友好の証として、そのスクラップ帖を皆さんに献上いたします。そのスクラップ帖があれば、まだ鷹野《たかの》三四《みよ》をダシに、矛先を引っ込めることもできましょう。」
このスクラップ帖は、鷹野《たかの》三四《みよ》の説がいかに滑稽であるかを証明する。
どうせ鷹野《たかの》は死んでるんだ。
死人の妄言に振り回されたことにして、今ならまだ引っ込みがつく。
……それでも大石の責任はゼロにはならないだろうが、このまま突き進めば待ち受けるのは泥沼のみ。
……常に今のこの瞬間が、最善の撤回タイミングだった。
大石は管理職に受けが悪い。
……定年を間近にしてこれほどのデカいミスを犯せば、一矢報いたいと思っている連中は喜んで彼の退職金を削りにくるだろう。
退職金は基本給からの倍率で決まる。
……その根源である基本給の上乗せ分を削られたら、相当の減額は免れない……。
「……………大石さん。」
大石は引き際の覚悟を決めた。
……自分のミスを、まさかこの年で認めることになるとは思わず、…苦々しく表情を歪めるのだった。
「……あとは熊ちゃんに任すわ。……ちょっと飲み過ぎちゃったみたいです。私ゃちょいと縁側で夜風に当ってきます。
………失礼。」
大石はさっさと立ち上がり、踵をドスドスと鳴らしながら廊下へ出て行った。
開けっ放しにされた襖を葛西《かさい》が閉めると、室内は再び静寂で満たされた。
その中、再び熊谷が発言する。
「園崎《そのざき》家さんの言い分は了解いたしました。警察《けいさつ》としても、一斉捜査が及ぼす各業界への影響は本意ではなく、それによって小競り合いを誘致することもまた本意ではありません。よって、市内の平穏を維持するため、今後とも警察《けいさつ》と園崎《そのざき》家で連携していくことを確認したいと思います。……よって、この度の一斉捜査は見送らせていただきます。」
「ありがとうございます。園崎《そのざき》家頭首お魎《おりょう》に代わりまして、深く御礼申し上げます。」
「約束に従い、このスクラップ帖は警察《けいさつ》でお預かりします。それから条件が2つ。」
「賜ります。」
「一点目は、この場にないスクラップ帖を園崎《そのざき》家が入手した場合、速やかに警察《けいさつ》に提出すること。二点目は、竜宮《りゅうぐう》レナの身柄を確保した場合、速やかにその身柄を警察《けいさつ》に引き渡すこと。」
「二点目は認められません。竜宮《りゅうぐう》レナは妄想《もうそう》に取り付かれた一少女に過ぎません。当家で速やかに身柄を確保した上で、然るべき治療を受けられる医療機関を手配します。これは当人の権利でもあります。」
「その点につきましては当方も主張を引けません。当方には鷹野《たかの》殺しを含めて、竜宮《りゅうぐう》レナに尋問する権利があります。重要参考人としてです。容疑者としてではありません。」
茜《あかね》が魅音《みおん》に小声で何か入れ知恵する。
魅音《みおん》は小さく頷いてからそれを口にした。
「わかりました。二点目の条件を了承します。ただし当方からも条件を追加します。竜宮《りゅうぐう》レナの権利保全のため、当家から弁護士を派遣します。竜宮《りゅうぐう》レナへの尋問は全て弁護士立会いのもとで行なうこと。」
「了解しました。ただし一点確認を。園崎《そのざき》家からの弁護士が意図的に派遣されないことによる妨害は認めません。警察《けいさつ》は竜宮《りゅうぐう》レナの身柄を確保した後、ただちに尋問を開始します。」
「当家も問題ありません。ただし、竜宮《りゅうぐう》レナの身柄確保時にはただちに当家へ連絡をすること。」
「可能な限り早く連絡するようにいたします。」
そこで茜《あかね》が口を挟む。
「尋問をあらかた終えてから電話《でんわ》されても困ります。身柄を確保した時点でご連絡をお願いします。…………ここいらは互いを信頼した上での善意の取り決めでございます。どうかゆめゆめ、反故にされることがないよう、よろしくお願い申し上げます。」
「……わかりました。双方による善意の取り決めです。遵守に、誠心誠意努力いたします。」
茜《あかね》と熊谷が一瞬だけわずかに火花を散らしあった。
…熊谷もなかなかどうして落ち着いたものだった。
……派手な大石の影にいてなかなか目立たないが、刑事としての度胸は決して負けていない。
脅迫的な喧嘩っぽいやり方は大石の得意とすることだが、…こういう交渉的なことは熊谷の本領だった。
全てが終了し、刑事たちが立ち上がり、ようやく緊張した時間が終わりを告げた。
葛西《かさい》がスクラップ帖をアタッシュケースにしまい、熊谷に手渡した。
熊谷は葛西《かさい》の目を見てから小さく頷き、アタッシュケースを受け取る。
「イタリー製の最高級鞄です。今日のお土産に含まれますので、どうかお持ちになってくださいませ。」
「いえ、お約束ではスクラップ帖のみをお預かりすることになっております。鞄は後日、園崎《そのざき》組事務所へお返しにうかがわせていただきます。…それでは失礼します。………園崎《そのざき》家頭首、お魎《おりょう》さんにもどうかよろしくお伝えください。」
最後に魅音《みおん》に対して一礼し、刑事たちは退出していった……。
刑事たちの足音が廊下の向こうに消えたのを確認すると、魅音《みおん》が、ぷはーーっと緊張の糸が切れたようなため息を吐き出した。
足を投げ出し、スカートの裾をばたばたと扇ぐ。
「いやぁ、…肩がこっちゃったよ…。
お母さんがやってくれればよかったのにぃ…。」
「馬鹿《ばか》だね、あんたの方が肩書きが上なんだよ。こういうのは年じゃなくて肩書きなの。葛西《かさい》、仲居に言ってビールでも持ってこさせて。あと外の若いのも呼び入れて何か冷たいのを振舞ってやりな。」
「ビールだけで、よろしいですか?」
「あぁ、この子は駄目駄目。オレンジジュースでも頼みな。」
「ちぇーー、子ども扱いしてー。肩書きが上でも全然大人扱いしてもらってないよー。」
「いくつになってもでっかい子どもだよあんたは。それはそうと。今回の一件、お父さんがだいぶ手回ししてくれてるんだよ。よーく感謝しときな。葛西《かさい》もね。あんたも堅気と会うときはもうちょい気を利かせな!」
「…見っとも無い限りです。」
「しかしさぁ、あの大石をコケにするとは、レナちゃんもやるじゃない? あんたの友達はつくづく大物が多いねぇ! 今度ぜひ母さんにも紹介してよ。お芝居でも一緒に見に行きたいねぇ! 葛西《かさい》、今度レナちゃんに会ったらぜひそう伝えておいてよー。その時、まぁた物騒な話を吹き込むんじゃないよ?!」
「も、もちろんわかってます、姐さん。」
これで、……レナを中心にした鷹野《たかの》さんのスクラップ帖の魔力は封殺できたはずだ。
もう騒ぎが大きくなることはあるまい。
あとは……レナだけの問題だ。
レナ、……一体あんた、……今、どこに隠れてるの……?
■前原《まえばら》家前
寝る前にカーテンを閉めようと窓に近付いた。
ふと門灯のところに人影のようなものが見えるような気がした。……こんな時間に?
一体誰がという疑問は起きなかった。
……こんな時間に訪問するかもしれない人間を、俺は今の状況下ではひとりしか知らなかったからだ。
窓を開けてもう一度目を凝らす。
………間違いなかった。
それはレナの姿だった。
レナは門灯の前で、ただただ…ずっと立ち尽くしているだけだった。
……あいつ、………いつからあそこに立ってるんだ……?
呼び鈴を押して、誰かが出て来るのを待ってるわけじゃない。……呼び鈴も押さず、ただ立ち尽くしているだけ。
それは、呼び鈴を押そうか押すまいか自問自答しているようだった。
じゃああいつ、………まさか、ずっとあそこに立ってるのか?!
見れば人影は時折ふらつき、とても辛そうだった。
俺は階段を駆け下り、サンダルを履いて玄関を飛び出た。
俺が荒々しい音とともに飛び出してきたので、レナはかなり驚いたようだった。
「レナか?! レナぁあぁ!! はぁはぁはぁ…!!」
「………………………………。」
レナは俺の姿を見て、一瞬安堵を浮かべたようだったが、すぐに悲しそうな表情に戻って俯いてしまうのだった。
「お前、……いつからここに突っ立ってたんだよ!」
「……わかんない…。………夕方、……ちょっと過ぎくらいからだったと思う。」
レナはすでに不定住な生活を二晩は続けてるはずだ。
それも、ヒッチハイク気分でのんびりすごしてたわけじゃない。
……常に自分の命を狙われていると感じながらの緊張状態を強いられてだ。
…だからレナは、とてもやつれていて、ただ立っているだけでも辛そうに見えた。
首のあの酷そうだった掻き傷には大きなバンドエイドがいくつか貼られて、手当てらしきものをした様子があった。
そのバンドエイドの可愛らしい柄が、かえって痛々しく感じた。
………見れば、腕や、他の場所にも掻き毟って腫れてしまったり血が滲んでしまった箇所が見られた。
昨夜は明らかになかった傷が増えていた。
「…とにかく、中に入ろう。この2日間、ろくなものを食べてないんだろ?」
招きいれようとすると、レナはとても曖昧な顔をしながらそれを拒否した。
……嫌だから拒否しているというより、自分にその資格がなくて拒否しているような、…そんな感じ。
「…………もうね、…だめなの。………今のこの瞬間も、…私の全身の中で、うじ虫が蠢いてて、…痒くて痒くて、……溢れ出しそうなの…。」
「……なぁレナ…、多分それは何かの病気なんだ。……とりあえず今夜は俺の家で休んで、明日の朝一番で監督の診療所へ行ってみないか? …監督ならレナの微妙な立場をわかってくれるから、誰にも内緒で診察してくれるよ…。」
「ううん、………もうだめ…。自分でもわかるんだよ…。……富竹《とみたけ》さんが、どういう最期を遂げたか、今ははっきりとわかるの。…私は必死にそれを我慢しているだけ。」
………レナは、自分が怪しげなクスリを投与され、その結果、富竹《とみたけ》さんと同じく首を掻き毟って死ぬと信じている。
…そうならねばならないと自己暗示をかけているのだ。
……でも、今のレナにはどんな言葉も届かないのだ。
……そのくせ、誰かに助けてもらいたいと心底願ってる。
救いを欲しているのに、それが魔の手に見えるなんて、……これが病気なら、何て恐ろしくて悲しい病気なんだよ…。
「…………私ね、………どういう最期になるかわからないけど、……多分、もうそんなに長くないと思うの。」
「そ…そんなことねぇさ! 無敵の部活《ぶかつ》メンバー竜宮《りゅうぐう》レナが、そんな程度でくたばるかよ…!」
「……あはは、…ありがと。…………それでね、……私。……死んじゃう前に、圭一《けいいち》くんに、どうしても謝りたかったの。」
「謝る? 何をだよ…。」
「……私、昨日、…………すごくいけないことを言って、圭一《けいいち》くんを傷つけた。」
それは昨夜の、あのことに違いない。
俺のことを信じていたのに、…大石さんに俺の不穏な過去を聞かされ、信頼を裏切られた気持ちになっていたに違いない…。
……そうしたら、俺の好意が急に裏返しに見えて……。
……………わかるよ。………俺も、レナのこと、……そうだったから…。
「私もね、……………昔、引っ越してくる前。……とても悪いことをしていた。…いっぱい。」
「……そうか、……そうなんだ…。」
「圭一《けいいち》くんみたいに玩具の鉄砲で撃つのなんかと比べ物にならないよ。……金属バットで、頭が割れちゃうくらいに殴った。みんな大怪我だった。……他にもね、……学校のガラスとかいっぱい割って歩いたり、…それからね、それからね……、」
知ってるよ……、知ってるよ……。
でも、……そんなの、全然どうでもいいことなんだよ…。
それは、…引っ越してくる前の、竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》の話なんだろ……?
だから引っ越してきてから、礼奈《れいな》をやめて、…レナになったんだろ……?
俺にとって、……やさしくて親切で甲斐甲斐しくて、最高に楽しい仲間《なかま》で。
…それだけが大切なことなんだ。
以前にどうだったかなんて、どうでもいいことだったんだ…。
「………ね、……私も、もっともっといっぱい悪い…。……圭一《けいいち》くんのこと、仲間《なかま》じゃないなんて言う資格、…全然なかった……。」
「それは、……………俺もなんだ。」
「…………?」
「そ、……そっか…。………知ってたんだ………。」
レナの笑いが、ますますに乾いていく…。
知られていないと思っていた過去が、実はもう知られていたことのショックは、決して小さくないようだった。
「でも、だからなんだよって思ったぜ。」
「……………え…?」
「引っ越してくる前に、レナがどんな大悪党だとしたって。……それでレナは色々と泣いたり笑ったりしながら人生を積み重ねてきて、……それで雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してきて、誰にも恥じなくていい生活をしてるじゃねぇかよ…! 前の町で悪いことがあったとしたって、…レナはそれを悔いているなら、どうでもいいことだったんだよ。……その結果、竜宮《りゅうぐう》レナってやつが、尊敬できる人間に成長できたなら、どうでもいいことだったんだよ…!」
……俺がそれに…もっと早く気付いてればよかったんだ…!
レナはレナなんだ。だから竜宮《りゅうぐう》レナなんだ。
礼奈《れいな》じゃないって名乗った時に、どうしてその程度のことが汲み取れなかったんだよ、俺…!
「……レナも、聞いたろ? ……俺も、悪いやつだった。ガキだったんだ。何て馬鹿《ばか》なことをしたんだと後悔した。……だから、引越しは人生をもう一度やり直すいい機会だと思ったんだ。だから俺は、………雛見沢《ひなみざわ》では、自分で自分が好きになれる前原《まえばら》圭一《けいいち》だったと思ってる。それは、…レナもなんだろ? 茨城でどういう生活だったかなんて関係ない! 雛見沢《ひなみざわ》にいる竜宮《りゅうぐう》レナが大事なんだ! だから竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》が何者だろうと、俺には全然関係ないことだったんだ!」
「………………………ぅん……………。……そう……だよね………、そうだよね…………。」
「新しい自分をやり直せる機会は何回あったっていいんだ!! そんな機会があるから、……俺たちは何回も失敗しながら、傷つきながら……もっと大好きになれる自分を探して彷徨えるんじゃないかよ…! 人生に一度や二度のつまずきなんて付き物なんだ。だからそんなのにへこたれないで、俺たちはどんどん成長していかなくちゃいけないんだ。だからだから……、そんなたくましい人の膝に残るかさぶたを見ておぞましく思うなんて…最低のことだったんだよ!!」
何度転んだっていいんだよ!
それだけ辛い思いができたなら、それだけやさしくなればいいじゃないか!
だから、過去がどうかなんて、知る必要もないし、知ったから付き合い方を変える必要なんて全然なかったんだ。
でも、俺もレナも大馬鹿《ばか》で、……こんなことを教えられなきゃ気付くこともできないで。
……魅音《みおん》なんか、当り前のように知ってたじゃないか…!
何て、…俺たちは大馬鹿《ばか》で。互いに傷つけあって、涙を流し合って…。
「だから、…竜宮《りゅうぐう》レナはこれまでも今も、そしてこれからも、いつまでも俺の最高の仲間《なかま》だ。レナが辛い時、…きっと俺が助けるから、…俺を信じてくれ…。」
「ありがとう。……圭一《けいいち》くんを信じるよ。」
……悲しいけど、…レナのその言葉は嘘だった。
いや、レナは嘘をついてるつもりはないかもしれない。
…でも、……レナは俺を本当の意味で信じられてはいないのだ。
レナには…届いていない。
……だって、信じてくれという言葉は、あの時のレナが何度も口にして、……俺に金属バットで何度も殴りつけられても、…何度も挫けず口にして、……それでも届かなかった言葉なんだ…。
「………私ね、もう多分長くない命だと思うけど。
……こんな素敵な圭一《けいいち》くんがいる雛見沢《ひなみざわ》を救うために、…がんばるよ。」
違うよ……、違うんだレナ……。
「やつらなんかにこの村を乗っ取らせない。……みんなで楽しく過ごしていた日々を取り戻すために、私は戦うよ。…やつらの陰謀を必ずやっつけて見せるから…。」
……俺のことを信じると言っているのに、……俺の言葉は届かない。
……そんな陰謀は全部鷹野《たかの》さんの妄想《もうそう》だと、何度言ったって、レナの心には届かない…!!
「…………ありがとう、……圭一《けいいち》くん。……レナを許してくれて…。」
許す…、許すさ……。
だから……あの時の俺を許してくれ…。
「きっと雛見沢《ひなみざわ》を救う。…………だから、圭一《けいいち》くん。力を貸して…? 圭一《けいいち》くんだけは信じられる。圭一《けいいち》くんとなら、救えると思ってる…。」
「……………………レナ…、…………レナぁぁあ………!」
俺はレナの心が、今どれほど追い詰められているかを知っていた。
……俺だったなら同じくらいのころ、……金属バットを持ち歩き、声をかけて来る全ての相手が敵であると思っていた。
………俺を気遣って声を掛けてくれるレナを、一番敵視していたんだ。
なのにレナは、……こんなにもどうしようもないくらいに追い詰められてるのに、……それでも俺を味方だと信じてくれるのかよ……!!
俺は……お前の言葉が届かなかったんだぞ、…信じてと言い続けるお前を殴り殺したんだぞ!!
それなのにそれなのに!
立場が逆になってしまっても、……それでも俺を信じてくれるのかよ?!
お前は………なんて…………、なんて…………、
「………………どうして、…………泣いてるの……?」
「…………許してくれ…、…許してくれ………。俺は……もう絶対にレナを裏切らないから…。レナのことを信じるから…。だから、……許してくれ……。」
「……………何のことを言ってるのか、よくわかんない。……圭一《けいいち》くんはいつもレナのことを信じてくれてるよ。
…だからレナも圭一《けいいち》くんのことを信じてる。信じていいんだよね? 圭一《けいいち》くんだけはレナを信じてくれるんだよね…?」
俺の目からぼろぼろと涙が落ちる。
嗚咽を混じらせながらレナの問いかけに何度も頷いて応えた。
…それを見て、レナもまた涙を浮かべる。
気付けばう二人して涙を浮かべあい、額を付け合っていた。
「………あのね。…私ね、………この戦いを終わらせる方法を見つけたの。」
「……本当か。」
「うん。…………勝ち目のほとんどない方法だけど、私にできる一番の抵抗だと思う。」
「…………レナ、……それがどんな方法かは知らないけど、……それが終わった後、……俺たちはみんなでまた、楽しかった元の日々に戻れるんだよな…?」
「……………………………。」
「戻れるんだよな?! そうじゃなくちゃ嫌だ! 俺はお前をこの場から行かせない!!」
「………あははは、大丈夫だよ圭一《けいいち》くん。…元の幸せな日々に戻るための、起死回生、逆転の最後の一手なんだから。」
それがどんな手かは知らない。
……レナの妄想《もうそう》の中で始まり、レナの妄想《もうそう》の中で帰結することだ。
………変に刺激したりすれば、その全てをレナは攻撃だと曲解するだろう。
あの時の俺がそうだった。
……レナたちの好意をまったく正反対に受け取ってしまったのだから。
……だから、俺はレナのその話を、頭ごなしに否定することをやめる。
これは、……レナの戦いなのだ。
レナが、自身に取り憑ついた妄想《もうそう》と戦う、ひとりぼっちの戦い。
俺たちはそれを助けてやろうと近付けば近付くほど、逆に追い詰めてしまう辛い戦い。
でも、俺たちはきっとすぐ側にいる!
レナが求めた時、いつでも手を伸ばせるように側に居る!!
それをせめて教えたくて、…俺はたった一言だけ言った。
「俺は、………最後の瞬間まで、レナの味方だからな。………絶対に、レナの、……味方だからな……。」
…信じろと言っても……今のレナの心には容易に届かない。
それはわかっているけど、…でも俺はその言葉を送る。
仮にレナがそれを信じられず、俺の頭を砕こうとするその瞬間が訪れても、……俺は、言うからな。
絶対に…死ぬまで言うからな…!
「ありがとう、圭一《けいいち》くん………。明日でね、きっと全部終わるの。……きっと、私たちは勝つよ。
……そしたら、またみんなで楽しく部活《ぶかつ》をしよう。みんなで。私たちが一番楽しかった時を取り戻そう。」
……こんなにも、幸せな時間を取り戻すことを願っているのに……。レナの心を支配する暗闇《くらやみ》が、掃えないなんて………。
「じゃ、……私はこれで行くね。明日の準備があるから。」
本当はレナを行かせたくはない。…腕を掴んででも引き止めたい。
でも、……それではきっと引き止められないんだ。
腕を掴めば、…今のレナはそれだけで、俺への信頼を失ってしまうだろうから。
「ま、待てよレナ…。明日の準備って…。」
「…内緒。
圭一《けいいち》くんに協力してもらうこともあるかもしれないけど、……その時はレナを助けてね……?」
「あぁ、当然だぜ…!」
その時、俺はレナの味方であることを知らせるため、そう頷いた。
だが、……レナの言う最後の逆転の一手が何を意味するのか、…この時点ではわかろうはずもなかった。
…一番考えられたのは、レナが敵だと目する園崎《そのざき》本家への討ち入り。
だから俺はレナの姿が見えなくなった後、魅音《みおん》に電話《でんわ》し警戒を促した。
魅音《みおん》は、どうしてこうも園崎《そのざき》家はすぐに悪役にされるのかと苦笑いした後、事情を了解してくれた。
「……いっそ、悪役に徹しさせてもらってもいいよ? レナが妙なことをしでかす前に、ふん縛って、病院に担ぎ込むのもいいかもしれない。」
「……………本当に最後の最後まで行ったら、…それも仕方ないかもな。………でも、………レナを信じたいんだ。最後のぎりぎりまで。…あいつは、こんなに心が追い詰められても、俺をまだ信じるだけの心の強さがあるんだ。……俺とは違う! だから、きっとレナは妄想《もうそう》に打ち勝てるはずなんだ…。」
「…………最近、圭ちゃんと梨花《りか》ちゃんが何を言ってるのか、おじさん、ちょっとわかりかねるんだよなー。何か最近、ヘビーなことでもあったわけぇ?」
最近という意味においては、……きっと最近だろうな。
俺がお前を殺したのは、……綿流し《わたながし》から数日後だったと思うから。
「あははは、…悪いな、意味のわかんない話ばっかりしちゃって。それよりレナのこと、………見損なったりしないでくれ、……な。」
「そんなわけないよ。誰だってたまには心が風邪を引くときがあるって。レナのこれもその程度のこと! まーちょいと熱は高いみたいだけど、すっきりケロっと治って、すぐに笑い話になっちゃうって! 圭ちゃんが思ってるほど事態は悪くなってないよ。大石のトンチンカンは自分の誤解を認めた。例の件は発生自体にも気付いてない。だからこのまま、レナの空騒ぎでしたーってことで決着できる。」
「そ、そうなのか…?! 空騒ぎで決着できそうなのか…?」
「そういうことで決着させんのが、園崎《そのざき》本家次期頭首の魅音《みおん》さまの手腕じゃないのー! 某料亭でね、大石とおじさんが一対一で対談してちゃあんと誤解を解いてきたわけよ。大石はたじたじ。いや〜おじさんもなかなかやるねぇ!」
魅音《みおん》は自分の手柄を高々と笑いながら自慢するのだった。
……少々、修飾が過剰なので、多分事実とは異なるだろうが。
とにかく、……レナが思い込んでいる危機感とは対照的に、…周りは動揺していない。
あとは、レナが全てに気付いてくれるだけで、……レナも望むような平穏な世界に戻れるのだ。
俺たちはレナが手を伸ばしてくれるのを待っている。
それは、あの日のゴミ山の廃車《はいしゃ》の上でのこととまったく同じ…。
レナ、………俺は勝てなかったけど、……お前なら、……最期の瞬間まで信じる心を教え続けてくれたお前なら、……きっと勝てるから…!!
それはレナが言う最後の戦いの勝利という意味ではない。
レナはきっと勝つ。
きっと勝って、元の楽しい世界を取り戻す。
■幕間
TIPS
12■前夜
「………………もう、……明日なのです。」
「ん? ………………あぁ、私たちの命日?」
「…………今回も、同じ顛末なのです。」
「そうかしら。………よく似てるけど、いろいろと違うところもあったわ。……圭一《けいいち》、前のことを覚えてたし。」
「……そんなことはありえないのです。覚えているわけ、いや、知っているわけはないのです。」
「くすくすくす…。あんたが絶対にありえないと言ってくれればくれるほど、…じゃあこれは本当に奇跡なんだって思えるわね。」
「どうせ、今回もおしまいです。」
「おしまい、かしら。」
「もうすぐ終わる。全部、終わる。……そう、ひぐらしのなく頃に。」
………どうせ、もう終わるのだろうか。
サイコロは、振れば振るほどにその合計を平均値に近付いていく。
100回も振ったなら、その過程において、6が連続して出るという奇跡があったとしても、全て合計すれば平均値。
…予定調和に内包されてしまう程度のもの。
でも、100回も振ったなら、その下限と上限は100〜600にも及ぶ。
振れば振るほどに未来は1つの平均値に集合しようとするのに、振れば振るほどに、実は未来の可能性は増えていっている。
100回振るなら約500通りの未来。
1000回振るなら5000通りの未来。
その中の1つには、この終わりのないスゴロクからアガリになる結末もあるのではないか。
……圭一《けいいち》が見せた奇跡は、サイコロを振り続けることは決して徒労ではないことを教えてくれる、目の覚めるような出来事。
平均値なんかに、屈するな。
「……………………………。」
「……………いらつく背中を見せるわね。……どうせ今回も駄目だろうって、そういう哀愁でいっぱいよ。」
「……………………………。」
「……私だって、……どうせ駄目だろうと思ってる…。…でもね、最後のサイコロを投げるまで、私は諦めない。圭一《けいいち》が教えてくれた。今回は何かが違うの。……だからそれを信じてみる。」
「……………梨花《りか》は、…………本当に強いのです。」
「まぁね。あんたよりはずっと若いし。」
「………うぅん、…むにゃむにゃ……、………梨花《りか》ぁ…?」
「……みー。」
「こんな時間に起きてて、…ふわぁ……、夜更かしは駄目でございましてよぉ…。」
「……ごめんなさいなのです。寝苦しかったので星を見ていただけなのですよ。もう寝ますです。」
「そうなさいませ………。……おやすみ梨花《りか》ぁ……。」
「……おやすみなのです、沙都子《さとこ》。」
12日目
■最終日
魅音《みおん》と二人での登校は、やはりレナがいない寂しさがあった。
「……どうしたのさ、圭ちゃん。さっきからきょろきょろしてさ。」
「ん? あ、あぁ、何でもないよ。」
いつもの慣れた道を登校するだけなのに、…俺は緊張感で張り詰めていた。
……レナが昨夜言っていた、明日で勝つという、逆転の一手とは何なのか。
俺はどうしても物騒な意味を感じて仕方がなかった。
レナにとって、魅音《みおん》は敵方の首魁の1人だ。
……物陰から刃物を構えたレナが突然踊りださないとも限らない…。
「大丈夫だぁって。レナがそんな短絡的なことをするわけないよ。まぁ、仮にそうでも、自分の身くらい守れるからね!」
魅音《みおん》は余裕をアピールしたかったのか、楽観的な言い方をした。
だが、……今のレナの心情を知る俺だからこそ、とても楽観はできなかった。
今のレナはきっと、…せめて勝てぬ相手なら相打ちになってでも…なんて考えてるに違いないのだ。
……もちろん、物騒な手段に訴えると決まったわけじゃないが。……その可能性も否定できない。
「それよりおじさんが気にかかるのは、どうしてレナが急に変になっちゃったのか、その理由の方だね。」
……………理由なんて、…あるんだろうか。
俺は、……かつての惨劇《さんげき》を思い出す。
………何を切っ掛けに世界が狂い始めたのか、…よく思い出せない。
でも、いつの間にかとてつもなく恐ろしい世界に迷い込んでいたのは確かなんだ。
その最初は、………本当に些細なことの積み重なりだったような気がする。
こうして普段の自分が考えれば、馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しくて吹き出してしまいそうな下らないこと。
……そういうことが全て引っかかって無視できなくなる、……そういう病気なんだ。
…これが病気と呼べるならの話だが。
でも、…理由はあるはずだった。
世界が狂いだす根本的な切っ掛けがあったはずなのだ。
でもきっと、それはとても小さくて気付けない何かなのだ。
…しかもその理由は悲しいくらいに判り難くて、………多分、死ぬまで気付かない。
「親戚にお医者がいてね、ちょっと聞いてみたんだけど。脳とかに腫瘍が出来て、たまたまそれが珍しいところだったりすると、性格が急に変わったり、普段と別人みたいになってしまうことがあったりするんだって。
大昔はこの病気が、悪魔憑きや狐憑きなんて呼ばれて、オカルト的に脚色されてたこともあるんだってさ。」
「……ってことはつまり、脳と言う体の一部に起きた肉体的な病気ってわけか。」
「今回に関しては、精神的と捉えてもいいかもしれないね。……レナは、リナ・鉄平《てっぺい》殺しの後、かなり動揺していて心が不安定になってた時期があった。そんな時期に、大石のアホが、富竹《とみたけ》さんたちの事件を大袈裟に吹き込むもんだから…。」
「…………大石さんって人もさ、鷹野《たかの》さんのスクラップ帖に少し似てるとこがあるかもな。」
「へぇ? どの辺が?」
「……何て言うのかな、…雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件というものが、存在しているという辺りについて妄信しているというか。………現に5年連続で起こってるのにこんなことを言うのもなんだけど。……俺さ、…もともと連続事件なんて存在しないんじゃないかって思ってる。」
確かに不思議な事件が5年連続で起こってる。
……でもそれは、個々に解決してることで、…例えて言うなら、俺やレナの話さなくてもいい過去によく似ている。
連続怪死事件だから、今年も何か起こるんだ。
だから陰謀があって、園崎《そのざき》家が暗躍していて……という連鎖的な妄想《もうそう》が、そもそもおかしいんじゃないだろうか。
かつての俺が、レナの不穏な過去を知って、勝手に距離を置こうとしてしまったように、………誰もがこの雛見沢《ひなみざわ》の不穏な過去に対して、勝手に距離を置いてしまってるんじゃないだろうか…?
鷹野《たかの》さんのスクラップ帖はまさにそれで、近年の事件や過去の残酷な歴史をオカルト風味に脚色して、もっともらしい嘘をでっち上げ、園崎《そのざき》家が黒幕であるかのような幻想を作り出す。
それは大石さんも同じで、必ず、裏で園崎《そのざき》家が暗躍しているという思い込みが、ものごとを常に悪い方に解釈していくように思う。
……その意味では、大石さんもまた、レナと同じ妄想《もうそう》の病にかかっていると言えるかもしれない。
「その辺にはさー、何かあるごとに黒幕のように振舞う園崎《そのざき》家の責任もあるんじゃねーのかなぁ。……この村では何かおかしかことがあれば全て園崎《そのざき》家の暗躍。…それで決着を付けられてしまう魔法の言葉になっちゃってるんだよ。…例えて言えばほら、この世の現象は全てプラズマで説明できる、みたいな感じだよ。」
「ほーー、つまりそれは何よ。園崎《そのざき》家が全部悪いーってわけぇ?」
「そうだ、お前が全部悪い。よって、お前の名前は今日からプラズマ魅音《みおん》と呼ぶ。うは、何だかレスラーみたいな名前だなぁ。」
「ほほー、プロレスラー大いに結構!
そうだ圭ちゃん、コブラツイストって知ってるー?!」
「やや、やめろ、このクソ暑いのに絡みつくな!!
ぎゃぎゃ痛てて!!
ふぎゃーーッ!!!」
「おはようございますですわ、圭一《けいいち》さん。」
「……おはようなのです。」
俺と魅音《みおん》が2人で来たことを知り、沙都子《さとこ》も梨花《りか》ちゃんも少し寂しそうな顔をした。
…俺たちが何事もなかったかのように3人で登校してきたなら、どんなに喜んだことだろう。
だが、クラス全体は、レナがいないことを咎めようとはせず、いつもの賑やかな朝の様子と変わらなかった。
知恵先生がもうじきやって来て、朝のホームルームになるだろう。
それまでのわずかな時間すら惜しいらしくて、みんなは教室内でバタバタとはしゃぎ回る。
「ねーー、今日はくさいーーー、窓しめてー。」
「ばぁか、窓を閉めたらもっと暑くなるんだよー!!」
そう言えば今日はガソリンだか何だかの臭いがひどいな。
営林署の人がどこかで重機に燃料でも入れてるのだろう。
それで窓際の生徒が臭いから窓を閉めたいと騒いでいるのだ。
この辺がうちが普通の学校じゃないところだ。結局、営林署の間借りだからなぁ。
「いやいや、こんなの大したことないって! いつだったかなぁ、カイズカイブキを剪定した枝葉をトラック山盛り何杯分か運び込んできたことがあってさー!
あれはひどかった、あの独特の刺激臭は頭痛を起こさせるよねぇ。」
「カイズカイブキって何ですの?」
「……みー。お野菜の名前なのです。
たまにカレーに入ってますのですよ?」
「わっはっはっは! 今度、スーパーに行ったら探してみろ。」
「??? よくわかんないけど、最初は梨花《りか》と圭一《けいいち》さんに毒見をさせた方が良さそうでございますわね。」
「あれーーー?! 俺たちのボールがねえー! 北条《ほうじょう》、お前がまた隠したんだろー!!」
さっきからボールを捜している男子たちが沙都子《さとこ》に言った。
「誰がそんなものを隠しますの。
どうせ隠すならもう少し気の利いたものを隠しましてよ。」
「お、ほらほら先生来たよー!! みんな席に着きなーーー!!」
「はい、皆さん。席に着いてくださいー。」
授業の間、俺はレナのことをずっと考えていた。
レナが昨夜言っていた、…逆転の一手とは何だろうと。
鷹野《たかの》さんの妄想《もうそう》によるなら、細菌《さいきん》テロの黒幕は御三家《ごさんけ》とそれを支配する狂信者集団。
………簡単に言えば園崎《そのざき》本家のことを指すだろう。
それに対し、レナが単身でできることって何だろう?
園崎《そのざき》本家ってのは、魅音《みおん》と頭首である婆さんの二人暮らしらしい。
……刃物を持ったレナが押し入ることも考えられなくない。
でも、俺はその可能性は昨夜の内に思いついていた。
だから魅音《みおん》に警告の電話《でんわ》をした。
今朝の登校時に聞いたのだが、早朝から園崎《そのざき》家にはボディガードの若い衆が来ているらしい。
魅音《みおん》の方にもボディガードが付くと言っていた。
……校門のところに見慣れない黒塗りの車がいつの間にか停まっているが、多分あれだろう。
………しかし、…あの「寄生虫《きせいちゅう》説」によるなら、園崎《そのざき》家のトップを討てばそれでおしまいという話ではなかったはずだ。
レナに取り憑いている妄想《もうそう》によるならば、レナにとっての「勝利条件」は複雑だ。
園崎《そのざき》家の背後にいる狂信者団体を暴かなくちゃならないし、「寄生虫《きせいちゅう》」の研究《けんきゅう》を破壊しなくてはならない。
また、レナ自身も怪しげな毒物によって余命がないことになっている。
……この状況で、起死回生の逆転の一手なんて、一体何ができるんだ?
狂信者団体を、……例えば村の役員会と読み解くか?
そうなれば、村の老人たちが神社の集会所で会合をする時に襲うことが考えられる。
でも、役員会の会合なんて、多分、多くても月に1度くらいしかやらないだろう。それが都合よく今日だとは考え難い。
「寄生虫《きせいちゅう》」の研究《けんきゅう》所は、……多分、診療所ということになっているのだろう。
レナは最初からあそこを怪しいと決め付けていた。…今頃、レナの頭の中では、「怪しい」ではなく「確固たる証拠《しょうこ》がある」に昇格しているに違いない。
なら診療所を襲う?
………アクション映画じゃあるまいし、レナが単身襲ってどうするというんだ。……まさか放火でもするのか?
いや、それじゃ意味がない。
陰謀を暴くってことは、寄生虫《きせいちゅう》を研究《けんきゅう》していた証拠《しょうこ》を掴まなければならない。
……診療所に乗り込んで、怪しげなホルマリン漬けの標本でも漁る…?
そして最後の、レナ自身の余命が問題だ。
………絶望的に不利な状況下で、自らにも残された時間が少ないと知ったら、刺し違えてでもと短絡的になることは考えられる。
……でもレナは、全てが終わったら元の生活に戻れると信じていたような気がする。
何の根拠もないのだが、……レナは生きて勝利すると言っていたように思うのだ。
ならば、………解毒剤のようなものがあるのか?
それが本当の解毒剤でなくてもいいのだ。
レナの妄想《もうそう》の中で解毒剤という設定になるならば、米のとぎ汁であっても構わないに違いない。
でも、そんな簡単に入手できるなら、レナは余命が短いと嘆きはしない。
……その解毒剤の入手はおそらく困難なのだ。
…もっとも容易に考えられる設定は、…秘密《ひみつ》研究《けんきゅう》所である診療所のどこかに隠されている…だろう。
こうして統合すると、……何だか監督と診療所がとても危険な予感がした。
そう言えば、村の老人たちって、サロン感覚で診療所の待合室に入り浸ってなかったっけ?
……村の古老たちが診療所に集まったなら、それでレナの攻撃目標は全て1ヶ所に集中することになるのでは……。
俺はその思いつきを昼休みに魅音《みおん》に打ち明けた。
「………普段ならそんな馬鹿《ばか》な〜って言いたいところだけど。
その可能性をまったく否定できなくもあるからね。本家に電話《でんわ》してみるよ。診療所にも人を配置するように言っとく。」
魅音《みおん》は俺の突拍子な思いつきにも異論を挟まなかった。
箸をおくと席を立ち、職員室に電話《でんわ》を借りに行った。
「先ほどから、何だか物騒な話でございますけど。……本当にレナさんがそんな恐ろしいことをなさいますの…? 診療所を襲うなんて、信じられませんわ。」
「するかも知れない。しないかも知れない。………でもな、起こっちまったらおしまいなんだよ。……惨劇《さんげき》に抗うってことは、起こさないように戦うってことなんだから。」
「……何事もないことを祈りたいのです。」
※葛西《かさい》と魅音《みおん》の電話《でんわ》〜
「わかりました。若いのを2人ほど診療所に送ります。」
「まさかとは思うけどね…。何をやらかすかわかったもんじゃない。」
「姿を見たら、ただちにひっ捕らえてしまって構いませんか?」
「……本当は嫌なんだけどなぁ…。……どうしようねぇ。」
「先日の会合で、竜宮《りゅうぐう》レナを確保して警察《けいさつ》に引き渡すことで決着しています。ですので、ひっ捕らえても一応、筋は通ります。」
「うちの体面じゃなくて、レナの心情的に気の毒だなってこと! できたら、本当に静かに静かに決着したいんだけどね…。」
「まぁ、お若いですから。人さえ殺さなければ大抵はごめんなさいで済みますよ。」
「あっはっはっはっはー。…じゃあアウトかもだー、あっはっはー。」
「あ、あ、いえいえ、見つからなければセーフですから。セーフセーフ。……興宮《おきのみや》の界隈ではあの2人の失踪を気にするものはいません。何かのヤバい話を踏んで夜逃げしたんだろうということになっています。あの程度のゴロツキ、次から次へです。ですからセーフセーフ。」
「アウトだのセーフだのー、私ら野球拳でもやってるわけー? わっはっは。まぁいいや、それじゃあくれぐれもよろしくお願いします。」
「了解しました。……ではひっ捕らえてよろしいんですね?」
「……ちゃんとタッチアウトにするんだよー? クロスプレーなんかにしないようによろしく頼みます。」
葛西《かさい》さんとついつい他愛のない話をしてしまった。
受話器を置くと、何となく先生の目線を感じた。
……この狭い部屋で、一緒にいるんだし、私の電話《でんわ》が聞こえるのは当り前だった。
知恵先生はスプーンを置くと、ちょっと悲しそうな顔で聞いてきた。
「……今の電話《でんわ》は、竜宮《りゅうぐう》さんを巡る話ですか?」
「まぁ、………はい。」
「園崎《そのざき》さん、……竜宮《りゅうぐう》さんはどうして家出をしちゃったんでしょう。……お友達として、何か知ってはいませんか?」
おそらく、私を除いたら、レナと直接接点があった圭ちゃん以外には、今のレナの状況はわかるまい。
だから、ほとんどの人間にとっては、レナが家出をしたと思っている。
だが、家出後の警察《けいさつ》の対応が派手過ぎた。
……スクラップ帖が特ダネだと信じた大石のポンチ野郎が、派手に騒いでレナを追い掛けすぎた。
村の中をサイレンなしとはいえ、パトカー何台もで走り回り、挙句、町会の連絡網まで使った。
だから、村の中では、レナが何か悪いことをして警察《けいさつ》から逃げてるのではないかと思われているのだ。
私にとっては、レナの身柄を確保することよりも、確保した後、レナの名誉を回復するためどんなカバーストーリーを作るかの方が難題なようだった。
………散歩に出た途中で、転んで豆腐の角に頭をぶつけて記憶喪失になっていた、そこに大石の勘違いが加わってレナが犯罪《つみ》者に勘違いされて……。
…安直だなー。
とにかく今回は大石が悪役ってことが会合で決着してる。
大石が珍しくへこんでる間に、あいつの名前を最大限に使わせてもらうとしよう…。
私が考えなくちゃならないのは、とにかく大騒ぎにせず、…レナが全部忘れて、速やかに元の生活を取り戻せるように環境を整えることに違いなかった。
「大丈夫ですよ先生。……レナは今ちょっと病気になってるだけです。それを警察《けいさつ》の某デブ刑事が素敵に勘違いして話をややこしくしただけです。まさか先生、レナが悪いことをして逃走中なんて、信じちゃいないですよね?」
「……それは、…もちろんですけど…。でも、……家出することによってご家族にお掛けしている迷惑を考えれば、悪くないということはありません。」
………親と喧嘩してのちょっとした家出。
…若気の至りだったということにするのが最善かもしれない。
「何か悩みがあったのでしょうか。………それに気付けなかった私は教師失格ですね…。一度、竜宮《りゅうぐう》さんとじっくりお話がしたかったです…。」
「あはははは、先生、ちょっとヘビーに考えすぎです。もうちょっとリラックスリラックス…。プチ家出なんて、今時珍しくないですって!」
「ああぁあぁぁぁぁ、竜宮《りゅうぐう》さんがこのまま不良になってしまって悪いことを始めたらどうしましょう!! あぅあぅあぅ〜!」
竜宮《りゅうぐう》さんが不良になる
悪いことをして逮捕される
担任の重大な責任
懲戒免職
カレーが食べられない
「ガーン、ガーン、ガーン……。」
……知恵先生は、何だか楽しげな妄想《もうそう》でショックを受けているようだった。
とりあえず楽しそうなので、そっとしておくことにする。
私は職員室を出て、教室へ戻ることにした。
ちょうど職員室を出た時、電話《でんわ》が鳴る。
「はいもしもし。雛見沢《ひなみざわ》分校でございます。」
今日は校長先生が出張らしいので、電話《でんわ》は1人で受けなきゃならないから知恵先生も大変だ。
私は深く考えず廊下に出る。
……その時、電話《でんわ》に出ている先生の声色が変った。
「え?! ……い、……今、どこにいるんですか?!」
私も、え?!と叫び、振り返る。
多分、レナだ。レナが学校に電話《でんわ》を掛けてきたんだ!
私は電話《でんわ》先のレナの声を聞こうと、職員室に入ろうとしたが、それを受話器片手の知恵先生が、入ってはいけませんと制止した。
…知恵先生は何度かの相槌の後、時計をちらりと見上げた。
「わかりました。今からすぐ行きます。……先生との約束ですよ。」
それだけ言うと、受話器を置き、ロッカーから私物のショルダーバッグを取り出す。
「委員長。先生は急用が出来ました。しばらく表へ出ますので、みんなを自習させてください。」
ショルダーバッグから車のキーを出している。
…どこかでレナと待ち合わせを約束したのは明白だった。
「先生、今の電話《でんわ》はレナ?!」
「以上です。よろしく頼みますよ、委員長。」
知恵先生はあからさまに私の問い掛けを無視すると、小走りに廊下を駆けて行った。
先生が昇降口から校庭に出て、……自分の車に乗り込んでいくのが見える。
そしてその車が校門を出た瞬間に、私も校庭へ駆け出した。
校門のところに停まっている黒塗りの車に駆け寄り、窓を叩いた。
「お疲れ様です。今のところ、異常ありません。」
「ああぁ、違う違う! 今、出て行った先生の車を追って!! 多分、行く先にレナがいる!」
「了解っす…!!!」
「レナは警戒心が強いから注意してね。捕まえたら有無を言わさずに本家へ放り込んで葛西《かさい》の指示に従うこと! 私の友人だよ?! 怪我なんかさせたら許さないからね!」
………知恵先生はおそらくレナに、誰にも内緒で話がしたいといって呼び出したのだろう。
私が聞いても無視した態度から容易に想像できた。
そのレナと知恵先生の約束を踏みにじるようで、ちょっと気の毒に思ったが、……レナが何か妙なことをしでかさない内に捕まえるのは、とても重要なことだった。
何もしない今の内なら、親と喧嘩して家出して、引っ込みがつかなくなって放浪してましたで言い訳になる。
……これが診療所に放火なんかした後だったらお手上げだ。
車は砂利をガリガリ弾きながら、乱暴にターンすると、ものすごい速度で知恵先生の車を追っていった。
…私は消えていく車の影を見送りながら、……この一連のトラブルが、もっとも静かな形で終わりを迎えてくれるよう祈るしかなかった。
「あーー、みんなみんな、傾注〜!! えー、午後の授業は自習になったよー! というわけで大人しく席について何かやることー!」
「……自習ぅ?」
俺がぽかんとしていると、魅音《みおん》が駆け寄ってきて小声で言った。
「……レナから電話《でんわ》があった。」
「えぇ! 本当か…!」
「うん、ついさっき職員室に電話《でんわ》が。知恵先生が指定された場所に会いに行ったみたい。」
「……レナのやつ、…一体どういうつもりなんだ。」
「わかんない。とにかく、うちの車に先生の後を追わせてる。…レナには悪いけど、そこでふん捕まえる!」
「うまく行くといいな…。」
「荒事には慣れてる連中だよ。任せとこう。」
「じゃあ、捕まえれば一件落着なのか?」
「だね。そしたらとりあえず病院に放り込むよ。きっと、専門の医者が診たら、なぁんだってくらいに典型的な何かの病気だよきっと。
強迫性心因性ストレスなんたらとか、多分そんな感じのやつ。」
「…………………。」
こうして俺たちが午後ののんびりした時間を自習して過ごしている間に、どこかの場所で知恵先生と会う約束をしていたレナを、園崎《そのざき》家の人たちが捕まえて一件落着。
……その後のことは色々とあるだろうけど、…魅音《みおん》は、レナの親身になって、いろいろと世話してくれるだろう。
そして最後には、あれは親との喧嘩の家出でしたということになって、…めでたしめでたし。
「………………。」
「一件落着、でしょ?」
魅音《みおん》はウィンクしながら、もう解決した気分でいるようだった。
…だが、俺はどうも腑に落ちなくて、納得する気になれなかった。
………それは、レナと知恵先生の接点だ。
…こう、うまく言えないのだが、…………どことなく違和感があるというか。
2人の仲が悪いと言ってるんじゃない。
レナはいい生徒だから、先生との関係も良好だった。
……レナは、知恵先生を呼び出して、どうしようというのだろう。
そう思った時、ガラガラと引き戸が開き、お手洗いに行っていた子が帰ってきた。
レナと、一緒に。
■レナ、来る
「レ、……レナ……!!」
「みんな起立起立〜。教室の真ん中に集まってー。」
全員がぎょっとして、息を呑んだ。
知恵先生が入ってきたって、ここまでぴたっと静かになることはなかった。
レナはお手洗いに行ってた子の肩を掴み、……もう片手には、あの晩も持っていた肉厚の物騒な鉈《なた》を弄んでいた。
誰もが、レナが人質を取っていることを理解した。
「…みんな聞こえてない? 教室の真ん中に集まってー。机は周りにどけちゃってねー。」
レナが何を言っているのかよくわからず、みんなはただ凍りついているだけだった。
そんな中、ひとりだけやさしそうに笑っているレナが、……とても恐ろしい。
「魅ぃちゃん。委員長でしょ? みんなに指示して。」
「………レ、…レレ、レナ…、あんた、……何をやってんの………!」
バッギャッ!!!
魅音《みおん》の言葉は暴力的な音に掻き消された。
…それはレナが思い切り力任せに鉈《なた》で教壇を叩いた音だった。
…バリバリと不気味な音を立てながら、レナは天板に食い込む鉈《なた》を抜く。
…そこには一文字の乱暴な跡がくっきりと刻まれているのだった。
………あ〜あ……、壊しちゃった…、…知恵先生、帰ってきたら怒るぞ……。……じゃなくてじゃなくて、………な、…………な、…な、
「魅ぃちゃんはやっぱり駄目だね。じゃあ圭一《けいいち》くんに頼むよ。
……圭一《けいいち》くんだけは最後まで私の仲間《なかま》なんだよね? だから、信じていいんだよね…?」
……レ、レナ、……お前、……なんて恐ろしい目をしてんだよ……。
俺は生まれて初めて見たのだ。……狂気に澱む目を!
狂気をどうして人は恐れるんだろう?
狂気ってのはつまり、その人間と自分たちが価値観や社会常識を共有できていないってことだ。
例えば…、泥棒に踏み込まれてぐるぐるに縛られたとするじゃないか。
…ひょっとすると帰りがけに刺されるかもしれないと怯えはするよな。……でも、泥棒も人間、むやみに人の命は奪わないはずだ、って…祈るじゃないか。
つまり、どんな悪人が相手でも、俺たちは価値観や社会常識、道徳が共有できている限り、相手の善意を信じる。
でも、……それがない相手には善意など期待できるわけがない。
善意が期待できない相手というのは、コミュニケーションが取れない相手ということだ。
……ナイフを振り下ろす強盗相手に、やめるよう懇願するのは、ひょっとすると聞き入れてくれるかもしれないことを期待して、相手の善意に訴えるものだ。
つまり、コミュニケーションが取れるということ。
でも、……コミュニケーションが取れない相手というのは、……例えるなら襲い掛かる猛獣であるとか、……いや、上から落ちてくるギロチンの刃のようなものだ。
意思疎通の余地のない、人間でない存在に感じる恐怖。それが狂気だ。
だから、……俺たちが今、レナに感じている恐怖の正体は、…それ。
一見、俺たちと同じ人間に見えるのに、……でも、同じ人間としてのコミュニケーションの余地がない。
………そういう恐ろしさを、みんな理屈抜きに理解しているのだ。
「圭一《けいいち》くん。机をどけさせて、教室の真ん中に広場を作って?」
「わ、……わかった。……み、みんな……レナが言うのに従おう…!」
レナの感情は今や火薬のようなもの。
……一見大人しそうな表情は、わずかの切っ掛けで爆発するのだ。
そしてその爆発はわずかの容赦も伴わないだろう。
…今のレナは、間違いなくあの鉈《なた》を人間に振り下ろすことを躊躇わない。
………そうさ、俺がレナと魅音《みおん》を殴り殺すのに、何の罪《つみ》も躊躇いも感じなかったように…!!
クラス中が、お通夜のように静まり返りながら、机を壁際に寄せて、レナの希望する広場を作った。
時折、レナが遅い遅いと言いながら恐ろしい音を立てて、黒板を鉈《なた》で打ちつけた。
その度に、俺たちが学校でもっとも長い時間眺めいているはずのそこは、見るも無残な跡が刻まれていくのだった。
「じゃあ圭一《けいいち》くん。みんなのロッカーから、縄跳びを出してもらえるかな。それを使って、みんなを後ろ手で縛ってね。」
「……お、……俺、縛るのとか下手くそなんだよ…。多分、上手に縛れないぞ…。」
「あとでちゃんと縛れているか、全員のを調べる。緩い人はその場で『殺しちゃう』から、しっかり縛ってあげてね。」
「……………く………………。」
俺たちもガキンチョだ。
殺すなんて言葉は日常でもスラング感覚でぽんぽん使う。
アニメや漫画にだっていくらでも出て来る。
…だから「殺す」なんて言葉は散々聞き飽きてるはずだ。
……なのに、……レナの『殺す』は、……俺が今まで一度も聞いたことがないような、恐ろしい響きを含んでいるのだった。
レナにとって今やこのクラス内の命は、…交渉に使えるカードの枚数と同じだ。
誰かが難問を断る度に、1枚カードを切ればいい。
……切れば? くそ、何でカードは「切る」なんて物騒な言い方なんだよ……!!
とにかく、……このクラスには…20何人かいる。
…レナにとっては、ちょっと手に余る数だ。
……見せしめに1人や2人、間引いたって何の問題もない…。
俺はレナを不機嫌にさせないため、…とりあえず指示に従い、みんなのロッカーから縄跳びを集めた。
「じゃあみんな、床にうつ伏せになってね。圭一《けいいち》くんは後ろ手にどんどん縛っていって。……きっちり縛るんだよ。圭一《けいいち》くんは私の味方だもん。だからわざと緩くなんか縛ったりしない。ね?」
「………………………………ぅ…。」
魅音《みおん》が目配せをしてくる。
……ここで全員が縛られたら、もうレナの教室占拠を止められないだろう。
今なら、クラス全員20人以上がいる。
……男子はその半分で、ほとんどがレナよりも体格も劣る小さな子たちばかり。
でも、…レナひとりを取り押さえられるだけの人数がいる。
……だが、そうなれば必ずレナは、今、人質に取っている子の頭に鉈《なた》を打ち込むだろう。
そして襲い来る俺たちに怯みもせず、その鉈《なた》で戦い、……俺たちは血みどろの肉弾戦になるだろう。
…取り押さえる時に怪我をする者が出るのは当然だし、……人質の子は…、よくて重症、悪ければ……………死ぬ。
そんなことになれば、……もうレナは破滅だ。
どう取り繕おうとも、元の平穏な生活になんか戻れなくなってしまう…。
……それは魅音《みおん》もわかっているようだった。
……レナの目を見れば、彼女に手加減などあろうはずもないことがわかる。
…反抗的な態度を見せれば、人質はその場で頭を叩き割られる。
…………しかも皮肉にも、…レナにはその経験があるわけだから、さらに容赦なく慣れた手つきで、だ…。
だが、……レナの要求に応じている内は、少なくとも流血の惨事が起きない。
……何とか、誰の血も流さずに解決できれば、……まだまだ魅音《みおん》の力でなかったことに出来るかもしれない。………少なくとも、死人が出ているよりは。
「……………………従おう。圭ちゃん……。」
レナを取り押さえるあらゆる手を数手先まで読んでいた魅音《みおん》だったが、……どう考えても、人質を救える結果が導き出せなかった。
それくらいにレナは容赦なく、人質を殺してしまえるのだ…!
……レナを刺激しないようにしながら、チャンスを待つのが、多分、今この瞬間の選択肢としては一番妥当だと思った。
魅音《みおん》がうつ伏せになると、みんなも恐る恐る従う…。
そして俺だけが取り残され、…クラス中の縄跳びを持ったまま、立ちすくんでいた。
…俺はクラスの全員が床にうつ伏せになって、……教壇の後ではレナが人質に鉈《なた》を突きつけながら俺たち全体を凝視するその異常な光景に、……ただただ呆然とする他なかった…。
「圭一《けいいち》くんにはまだまだ手伝ってもらうことがたくさんあるの。だから早くして。………あんまり時間が掛かると、何人かが死んでしまうかもしれない。」
レナが口にする「死」という言葉の凄みに、小さい子たちが何人か泣き出す…。
「大丈夫だよみんな。圭一《けいいち》くんがきっと助けてくれるから。だからきっと誰も殺されないよ。……あははははははははははははははははははははは。」
……くそ……。……なんて露骨な脅迫だよ……。
俺のことを仲間《なかま》なんて言葉で弄んでるだけだ…。
確かに、この状況下では俺だけがレナに対抗できる最後の1人だ。
…でも、だからこそ、鉈《なた》を持ったレナを容易には取り押さえられない。……それどころか、取り押さえられるかどうかも、もはや怪しい。
俺が粋がったところで、教室中に寝転がる誰かの首筋に刃を突きつけられたら、それで結局は「詰み」だ。
とにかく、………今は逆らわない方がいい。
…チャンスを待とう。
レナが1人である以上、必ず隙が生まれる。
……自ら縛れず、俺に縛らせているのがその証拠《しょうこ》みたいなもんだ。
…レナが単独であるがゆえに、様々な限界があるはずなんだ…。
先生が戻る前にうまく誤魔化せれば、……クラスみんなで芋虫ごっこをしてましたと誤魔化せるかもしれないのだから。
………そこで俺はようやく気付く。
…知恵先生が呼び出された電話《でんわ》の意味が。
……レナが教室を占拠する上で、一番邪魔な存在が知恵先生だったのだ。
正義感の強い人だもんな。
例えレナが拳銃を持っていたって、知恵先生は怯まないだろう。
生徒のためなら体を張れる、…そんな先生をいかに摘出するかが、この教室占拠の最初の鍵だったんだ。
背後から襲い掛かるという手も、もちろん一番最初に考えただろうが、やはり大人を敵に回すリスクを考えた結果、直接襲うのは適当ではないと考えたに違いない。
……なら、どこかへ誘き出してしまえばいいんだ…!
レナは知恵先生に電話《でんわ》をかけ、誰にも内緒で相談したいことがある…と言って、どこか遠くへ呼んだに違いない。
先生も含め、ほとんどの人たちはレナが家出しただけだとしか思っていない。
……だから知恵先生は、レナに何か悩み事があって、それを打ち明けたがっているのだろう、そう解釈するに違いない。…………騙すのはあまりに簡単だ。
じゃあ……レナは、電話《でんわ》をどこから…?
そう、学校の中からだ。いや、厳密には違う。
多分、学校の2階、……営林署の事務室からだ。
この学校の入っている営林署は出張所みたいなもので、いつも職員が常駐しているわけではない。日によってはいないこともある。
レナはそれを知っていて、ずっと2階に隠れていたのだ。
そして、2階から1階に電話《でんわ》して、……知恵先生を遠方に遠ざけたのだ。
今日が校長の出張の日だというのも偶然ではないだろう。
……多分、レナはこの学校に昨日から忍び込んでいた。
それで、校長の日程も内線電話《でんわ》のことも全て把握した上で実行に及んでいるのだ。
……なんて狡猾な……。
……いや、…わかる。
……あの状態のレナは、狂気に心を奪われながらも、…実はひどく冷静なのだ。
……自分が取り憑かれている妄想《もうそう》に対して、信じられないくらい冷静なのだ。
…だから、……信じられないくらいに頭が回る。
……それは自分にも身に覚えがあったからよくわかった。
あと、……さらについてないのは、魅音《みおん》の護衛のために校門前にいた園崎《そのざき》家のボディーガードまでもいなくなってしまってることだ。
……知恵先生がレナに会いに行くと思って、魅音《みおん》が尾行するように言ってしまったから。
……畜生、……何から何まで……、……やってくれるぜ………。
「………縛ったぞ………。」
俺は最後のひとりの腕を縄跳びで縛り、レナの方に振り返る。
きつく縛らなければレナは本当にその子を殺すだろう。
…かと言って、きつく絞めるとそれは苦痛となり、クラスメートたちは痛さに呻く。
……その声が、何もできない俺を苛んだ。
「ありがとう、圭一《けいいち》くん。
……圭一《けいいち》くんを疑りはしないけど、一応、全員を調べるね? 圭一《けいいち》くんは頭の上で手を組んで、うつ伏せに寝ててね。……これは全員に言うけど、
私の断りなく立ち上がったら殺すッ!! 本人も殺すし、見せしめでランダムにもう1人殺す!!
……ランダムじゃよくないね。じゃあこうしよう。言うことを聞かなかった子と、出席番号に10を加えた子を殺す、にしようかな? 例えば……岡村くんが言うことを聞かなかったとする。そうすると、……出席番号11番。渡辺くんが一緒に殺されちゃう。わかる?!
常に2人死ぬのッ!! 刃向かっても自分の命1つじゃ責任が取れないってこと、よく胸に刻んでおくんだよッ!!!」
……なんてやつだ…。脅迫ってやつを心底理解してやがる……。
抵抗ってのは、失敗しても死ぬのは自分だけという、ある種の自己責任の上で行なうものだ。
……それを連帯責任にされたら、抵抗なんてできなくなってしまう。
人の命を自分の一存で危険になんか晒せない…!
「……うん、全員ちゃんと縛れてるね。…圭一《けいいち》くん、縛るの下手くそって言ってたけど、結構うまいよ。自信持っていいよ。じゃあ、圭一《けいいち》くんは立って。」
…………今さら逆らうことはできない。俺は大人しく指示に従う。
とにかく、……何かのチャンスを待つんだ。
まだ洒落で済む段階なんだ…。
何とか……何とか、しなくちゃ……!
……それより、……レナは何を企んでやがるんだ…?!
まさか、…こんなことがレナの言ってた、起死回生の逆転の一手だって言うんじゃないだろうな?!
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12日目_2
■警察《けいさつ》把握(夕方〜)
「興宮《おきのみや》SPより全車へ。興宮《おきのみや》SPより全車へ。雛見沢《ひなみざわ》営林署にて篭城事件発生。人質多数。全車は至急、雛見沢《ひなみざわ》営林署へ向かわれたし。」
「熊ちゃん!! 遅れて申し訳ない! 状況は?!」
「ご苦労さまっす! 本日午後1時頃、雛見沢《ひなみざわ》営林署内の雛見沢《ひなみざわ》分校区画にて教室占拠が発生しました。当時、教室にいた生徒25名全員が、拘束されている模様。犯人側の第一要求は、営林署敷地内への一切の立ち入りの禁止と、当方へのホットラインの確保です。」
「……ってことは、初めっから警察《けいさつ》と交渉する気ってことですか。…どういうつもりだ…。」
「…………あと、犯人は交渉人に大石さんを指名してます。犯人は、竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》。」
「竜宮《りゅうぐう》さんが…?!
……………わかりました。いいですよぅ、こうなりゃ腐れ縁です。とことんお付き合いさせてもらいましょ。」
大石は苦々しく笑うのだった。
「竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》以外に犯人がいるかは不明です。カーテンが閉められているので、状況も一切確認できていません。」
「通報者に占拠時の様子は聞いてませんか。」
「いえ、竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》からの直接の犯行声明でした。よって内部の状況は一切不明。担任は犯行直前に、竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》の電話《でんわ》呼び出しを受け、遠方に呼び出された間の犯行でした。」
「…計画的ですねぇ。営林署側の人間は人質には?」
「今日は営林署職員は不在でした。よって、生徒25名のみ。生徒数は担任が出席簿で確認した人数です。」
「それプラス犯人ってわけか。竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》以外に犯人らしき人影は?」
「いえ、何度かカーテンから覗く人影がありましたが、いずれも竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》本人でした。……ですが規模他を考えて、おそらく最低でも、もう1〜2人はいると予想されます。」
「………………いやぁ。…………単独犯かもしれませんよ。」
…竜宮《りゅうぐう》レナは、あの鷹野《たかの》三四《みよ》のスクラップ帖を鵜呑みにしてた。
あれによるなら、竜宮《りゅうぐう》レナにとっての敵は、ほぼ村全体ということになる。
…頼れる味方がいるはずがない。
……でも、恥ずかしながら、自分も一時期、鷹野《たかの》三四《みよ》の妄想《もうそう》に飲まれたことがあった。
……同じように感化された人間が竜宮《りゅうぐう》レナに追従することがないとも言い切れない。
「大石さん、校長と担任です!」
「あぁどうもどうも知恵先生…!! だ、大丈夫ですか…。」
ハンカチを目に当てながら泣き崩れる知恵先生に大石が駆け寄る…。
「……レナちゃんはとても真面目ないい子なんです…! こんなことをするなんて…何かの間違いに決まっています…! うううぅぅぅぅ!」
「マニュアル通りなら、最近の竜宮《りゅうぐう》さんの状況についてお聞きするところなんですがね。……多分、竜宮《りゅうぐう》さんに限っては、先生より私の方が詳しいように思います。
まぁ、気を落とされずに。何とか穏便に解決しますからご安心を…。」
知恵先生はすっかりしゃがみ込んでしまって、それ以上の話はできそうになかった。
逆に校長はしっかりとしていて、自らの責任の取り方を探っているようだった。
「大石殿、よろしくお頼みしますぞ。……もしできるなら、人質の交換を申し出たい。ぜひ私と子どもたちを交換していただきたい!」
「校長先生、それは私がやります!! 私が悪いんです、ああああぁぁあぁぁぁぁ…!!」
「先生方、どうかご自分を責められないでください。…先生方には校内の状況についていろいろとお聞きしたいことがありますので、ご協力をお願いいたします。
盆地くん! 図面の方で話を聞いてあげてください。」
「失礼します! 1号車の無線に高杉課長です!」
「はいはいもしもし、……大石です。」
「大石さん、ご苦労さん! 状況の大体は熊谷くんに聞いたよ。犯人は未成年だそうだね? マスコミ規制の方を厳重に頼むよ!」
「わかってます。……あと、犯人側が私を交渉人に指定してきてるようですが、問題ありませんかね。」
「……竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》の件は、先日の寄生虫《きせいちゅう》の話以来、よく知っている。その流れなら、犯人は君のことをまだ味方だと思ってくれているんだと思う。大石くん以外には務まらない! くれぐれもよろしく頼むよ!」
「なっはっは…。本当はすっごく嫌なんですがね、…ちょっと今回は色々とお騒がせした責任を感じてますので、罪《つみ》滅ぼしにひとつ、お引き受けさせていただきます。」
「大石さん……! 車載電話《でんわ》に、………犯人です、竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》です……!」
「…さっそくご指名の電話《でんわ》が来ました。さっそく出ることにします。………………ありがとう。……………ハイもしもし、大石です。」
※レナ目線〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「大石さんですか? どうも竜宮《りゅうぐう》です。」
「……どうもどうも。大石です。」
「車載電話《でんわ》って電波とかが悪いんですか? たまにちょっと聞こえにくくなりますね。」
「なっはっは…。私と同じでね、定年間近なんですよきっと。」
レナと大石はしばらくの間、とても親しげに下らない話に笑いあうのだった。
職員室から廊下へ、長く長くコードが引かれている。
そのコードは教室への引き戸の細い隙間を潜り………教壇の上に置かれた電話《でんわ》機に伸びていた。
「では本題に入りますね。まず最初に、あなたが交渉人たる資格があるか確認します。」
「……自信ないなぁ。おうかがいします。」
「大石さんは、…私の味方ですよね?」
「当然じゃないですか。あなたと私で園崎《そのざき》家の陰謀を暴こうじゃないですか…!」
……割と躊躇なく大石は応えた。
まだ私の味方でいてくれるように思う。
あるいは老獪な刑事は、心にもないことをすらすらと言えるのか?
でもどの道、今の私には大石に頼る他に道はないのだ。
…その大石も信用できないことになれば、私は八方塞。…その時は潔く観念するさ。
「圭一《けいいち》くんも一時期は、私が言ってることを信じてくれなかったんだよね? でも、今は信じるでしょ?」
圭一《けいいち》は、レナからもっとも離れた場所に、両手を頭の上で組んでしゃがまされていた。
「今はもう、私の仲間《なかま》で味方だもんね…?」
「……あぁ、……そうだ…。」
※大石目線〜〜
竜宮《りゅうぐう》レナは圭一《けいいち》に対して、自分の仲間《なかま》であることを問い掛けたらしいが、受話器には前原《まえばら》圭一《けいいち》の声は聞こえなかった。
………圭一《けいいち》が存命していることを示すはったりなのか、あるいは圭一《けいいち》も人質を楯にされて抗えない状態なのか。
「前原《まえばら》さんも、竜宮《りゅうぐう》さんの味方なんですね。心強いことです。……でも、あなたも一時期、前原《まえばら》さんを少し疑われていたじゃないですか。」
「うん。モデルガンの事件を聞いて、何て人だろうって思った。……でも、過去の事件で今を見損なっちゃいけない。それらを踏み台にして、私たちはより良い理想の自分になれるように、成長していかなくちゃならないんだから。」
「なっはっはっは…。とてもいいことを言いますね。まさにその通りです。」
「だから私たちは許しあったの。だから圭一《けいいち》くんのことを私はもう疑わない。圭一《けいいち》くんは仲間《なかま》。」
「わかりました。ならばそれは、私にとっても圭一《けいいち》くんは仲間《なかま》ということですね。圭一《けいいち》くんに、私がよろしくと言っていると伝えてください。」
「うん、あとで言っておきますね。」
「…圭一《けいいち》くんにも、新しい仲間《なかま》としてご挨拶がしたいです。受話器に出てもらうことはできますか?」
…………………………。
それまでテンポ良く繋がっていた会話が急に途切れる。
…大石は失言だったかと一瞬ヒヤッとしていた。
「うん。いいよ。……………圭一《けいいち》くん、大石さんから電話《でんわ》だよ。」
しばらくの間、ガタガタゴソゴソと受話器のやりとりがされる雑音が聞こえる…。
「…………もしもし。……前原《まえばら》です。」
言葉に抑揚がない。
…前原《まえばら》圭一《けいいち》が竜宮《りゅうぐう》レナに逆らえなくて、従っているふりをしていることを確信する。
「どうもどうも前原《まえばら》さん。興宮《おきのみや》署の大石です。この度はお世話になります。お互いがんばりましょう。」
「……はい。……よろしくお願いします。」
「竜宮《りゅうぐう》さんは今何をしてますか?」
「………教室の中を歩いてますよ。」
「前原《まえばら》さん。イエスなら『ハイ』、ノーなら『えぇ』と相槌を打ってください。……………あなたは竜宮《りゅうぐう》さんが何を要求しようとしているか知っていますか?」
「……『えぇ』。」
この答えでほぼ確信する。
前原《まえばら》圭一《けいいち》はレナの仲間《なかま》ではない。
……これほどの人質篭城事件を周到に計画して、仲間《なかま》に要求内容を打ち明けないなんてことはありえない。
要求内容も打ち明けてくれないようなヤツの犯行なんか、手伝うはずがない。
「単刀直入にお聞きします。あなたは竜宮《りゅうぐう》レナの味方? いえいえ、質問を変えます。あなたは竜宮《りゅうぐう》レナに脅迫されて従っているふりをしている…?」
「『ハイ』」
内部を知る手段を得た! 脇で車載無線を傍聴している連中がガッツポーズをする。
「犯人は竜宮《りゅうぐう》レナの1人だけ?」
「『ハイ』」
単独犯だとわかれば、手の打ち方もだいぶ変ってくる。
……やはり、鷹野《たかの》スクラップの妄想《もうそう》なんかに誰も同調しなかったということか。
………くそ、信じた俺は恥ずかしいなぁ…!!
次に聞く質問を考えようとした時、受話器が引っ手繰られる音がした。
そして代わってレナが出る。
「ね? 圭一《けいいち》くんは味方でしょう?」
「えぇ、そうでした。とても頼もしいですよ。」
「で、今度は大石さんが話してくれる番。……前の電話《でんわ》で約束した、園崎《そのざき》家関係への一斉捜査はどうですか? 秘密《ひみつ》の研究《けんきゅう》施設は発見できましたか?」
……大石の頭の中で一瞬、答えるべき選択がせめぎ合う。
……一斉捜査をしたことにするか、していないことにするか!
いや、……一斉捜査をしていないことを知っている上で、こっちを試してるのかもしれない…。
「……今ですね、県警の暴対と公安部で一斉捜査作戦を準備中なんです。何しろ、市内全域を一斉にやりますからねぇ、調整に多少の時間が、」
「遅すぎるッ!!! 大石さん、私たちは今、鹿骨市《ししぼねし》が置かれている緊急的危機について、よく理解し合っているんじゃなかったでしたっけ?! 何をのんびりとしたことを!! ……大石さん、本当に私の話を信じてくれているんですよね?! 私の味方なんですよね?! 味方ですよねッ?! 答えてください!!!」
「も、もちろんですとも…! ですが警察《けいさつ》組織ってやつは簡単じゃないんです。私も最大限、努力をしてるんですよ、えぇ本当です! ……ただですね、やはり話の規模があまりに大き過ぎるもので、」
※レナ目線―――――――
「大石さん。私、やつらにどこかで毒を盛られました。富竹《とみたけ》さんにあの異常な死に方を強いた、原始の力を持った寄生虫《きせいちゅう》! あれをどこかで盛られたんです。昨日から痒くて痒くて仕方がない…。もう私、首を掻き毟り過ぎて血塗れなんです。……いつ錯乱して、喉を掻き破ってしまうかもわからないというのに大石さんは何をもたもたとッ!!!」
……大石にはやはり、火急であるということが伝わっていないのだ!
雛見沢《ひなみざわ》に大きな陰謀があることまでは理解してくれているが、それが夢物語でなく、もう実行される直前である急を理解していない!
それに、私の全身には徐々に死が駆け巡り、富竹《とみたけ》さんと同じ死に方を強要しつつあるというのにッ!!!
「申し訳ないです、これでも頑張っているんです…。ただですね、……みんな言うんですよ、…その、……証拠《しょうこ》はないのかと。」
「証拠《しょうこ》? 証拠《しょうこ》があればすぐに動いてくれるんですか?」
……三四《みよ》さんの、スクラップ帖。
確かに、警察《けいさつ》の石頭たちを説得するには必要な切り札かもしれない。
…今までは、警察《けいさつ》に預けることで何者かに隠滅されてしまうかもしれないと恐れて、手元に置いていたが。…………もう、私も長くないんだ。
多分、明日の朝日を迎えることもないに違いない。
…あぁそうだ、私は明日まで生き延びられない。
今夜、死んでしまう…。
「わかりました。三四《みよ》さんのスクラップ帖をお渡しします。それでどうか、他の警察《けいさつ》の人たちを一刻も早く説得してください!」
「あぁあぁ助かります…! そのスクラップ帖をぜひ!」
教壇の足元に置いてあるナップザックを見る。
……三四《みよ》さんから預かったスクラップ帖が顔を覗かせていた。
「これは私たちの切り札です。…大石さん、くれぐれも、…いや! 絶対によろしくお願いします!!」
「わかりました。信頼してください。必ずややつらの陰謀を暴いて見せます!」
「……でも、まぁ多分、警察《けいさつ》も組織だからそうなんだろうなぁとは思ってたんです。だから、ちょっと強引なやり方だけど、こんな形を取らせてもらったんです。大石さんは私に要求されて、仕方なくやっているという言い訳ができるはず。何とかこのチャンスを有効に活かしてください!」
「あ、…ありがとうございます! 必ずやあなたの期待に添えるよう努力します。……ではどうしましょう? 私が受け取りに参りましょうか?」
※大石目線〜〜〜〜〜〜〜〜〜
……さすがに私を招き入れたりはしないだろう。
その程度には用心してくる。
竜宮《りゅうぐう》レナがどう話を持ってくるか、大体想像は付いているので、その一手先を打つことにする。
私はメモに部下への指示を書き殴り、渡した。
「さすがに私がこの場を離れるわけには行かないので、代わりに圭一《けいいち》くんに持って行かせます。」
「その方がいいかもしれません。……やはりあなたが学校の外へ出れば、もしやということもあるかもしれませんので。」
「……もしやって…?」
「いえ、……この騒ぎをもう園崎《そのざき》家も嗅ぎ付けているでしょう。あなたがこういう手に打って出るとは思わなかったでしょうから、強引な手で口封じをしてくる可能性があります。」
「口封じ?! それって?!」
「狙撃です。園崎《そのざき》家のヒットマンは、多分、あなたがこれ以上騒ぎを大きくする前に狙撃しようと企むでしょう。だからあなたは表に出ない方がいい! 窓にも近付かないでください。さっきから何度か顔を出しているようですが、あれは危ない。そこを撃たれてしまいますよ…。」
「ちょ、ちょっと! 周りには警察《けいさつ》がいるんでしょう?! そんなの未然に防げないんですか!」
「防げるなら防ぎます。ですがね、周りの視界が良過ぎます。訓練を受けた者なら400mくらいはやすやすと狙撃するそうです。増してや、あなたもご存知の通り、園崎《そのざき》家の特攻隊は軍事訓練を受け、中でも暗殺技術に関しては特に習得しています。やつらを侮らないでください。……園崎《そのざき》家の陰謀を暴くには、あなたの力がまだまだ必要なんです!」
「……………わかりました。忠告をありがとうございます。…どうせ明日まで持たない命でも、今、終わらせるわけには行きませんので。」
「そうですともそうですとも! いいですか、くれぐれも窓から顔を覗かせないでくださいよ…。………用心してください!」
それで一度、電話《でんわ》は切れた。
……竜宮《りゅうぐう》レナは前原《まえばら》圭一《けいいち》にスクラップ帖を持たせて表に出て来るだろう。
「さっき書いたヤツ、用意できてますね?!」
「OKです。うまく渡せますかね…。」
「狙撃されるかもしれないと脅して、外を覗かせないようにしたつもりです。……でもまぁ、見てるでしょうねぇ。そこはうまくやります。」
※圭一《けいいち》目線〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
電話《でんわ》の内容から大体は察した。
「じゃあ圭一《けいいち》くん。…………これ、とても大切なスクラップ帖。…園崎《そのざき》家の陰謀と、やつらの侵略の証拠《しょうこ》を暴く証拠《しょうこ》。……大石さんに渡してきてね。渡したらすぐに戻ってくるんだよ。……見てるからね。変なことをしたら、……怒るからね。」
レナはナップザックから2〜3冊の汚れたスクラップ帖の束を取り出し、俺に差し出す。そして横目に魅音《みおん》を見た。
「魅ぃちゃんにもあとで話すよ。魅ぃちゃんの家が、どれほど恐ろしい陰謀を企んでいるかをね。………ひょっとすると、もう知ってるのかもしれないけどね?
あはははははははははははははは。
…じゃあ圭一《けいいち》くん、行って来て。校庭の真ん中まででいいよ。……余計な立ち話とかしちゃ駄目。圭一《けいいち》くんは持っていくだけだから無言でいいや。おしゃべり禁止だからね? おしゃべりしたら、…………知恵先生ならT定規で叩くけど、……私なら何で叩いちゃおうかなぁ。」
「わかってるよ、無言で持っていくから、その鉈《なた》を下ろせ…。…………俺はレナの仲間《なかま》だろ? 仲間《なかま》だったら信用しろ。………な?」
「………………………。…………そうだね、仲間《なかま》だから信用するよ。……だから、裏切らないでね…?」
………レナの瞳の色がこれ以上ないくらいに語っている。
…圭一《けいいち》くんだって信用できないってな…。
……でも、こんな状態のレナでも、仲間《なかま》ってやつをみだりに疑っちゃいけないもんだとは思ってる。
……だから、本心は信用できないのに、上辺だけは俺を信じているように振舞っているのだ。……だから俺を縛らない。
「じゃあ、行って来る。……すぐ戻るよ。」
「うん、よろしくね。」
寝転がる仲間《なかま》たちの間を抜け、教室の出口へ向かう。
……寝転がる何人かと目が合った。
恐怖に怯える目や、……これを口実に逃げ出すに違いないと想像する目、……もし逃げたら、残った自分たちは殺されるかもしれないと恐れる目…。
大丈夫だみんな…。みんなには指一本触れさせない…。
もしレナがそんなことをしようとしたら、その時はもうそれまでだ。刺し違えてもレナを止める…。
とにかく、……今は誰も死なせないために出来ることをしよう。
…レナの機嫌を損ねないようにして、……隙をうかがうんだ…。
昇降口に降り、靴を履き替え、施錠を開けて外に出る。
………ぶわっと押し寄せる外気。
……たくさんのパトカーの回転灯。そしてたくさんの警官たちの視線…。
校庭に出た途端、さっきまでわずかほども感じなかった、悪しき誘惑が心に囁きかけた。
………俺は、レナの束縛から解放されているのだ。
……このまま校庭を走り抜けてしまえば、俺はそれで自由になれるんだ、と。
……馬鹿《ばか》かよ前原《まえばら》圭一《けいいち》!!
そんなことをしてみろ、……レナはきっと錯乱して恐ろしいことをしてしまうに違いない…!
大切なのは俺が無事かどうかじゃないだろ、…レナが誰も殺さないかどうかだろ…!!
門から大柄な人影がやって来るのが見えた。…………多分あれが、刑事の大石さんだろう。
「前原《まえばら》圭一《けいいち》さんですね? どうもどうも、興宮《おきのみや》署の大石です。蔵ちゃんと呼んでくださっても、」
「…す、……すみません! レナからその、…何もしゃべらずにこれを渡せって言われてます。だから無言でこれを受け取ってください…!」
「……………わかりました。それが問題のスクラップ帖ですね。
……お預かりします。」
スクラップ帖を差し出すと、大石さんはそのスクラップ帖を避けるように、少し横にずれた。
………?
よく意味がわからず、俺は向きを変えてもう一度差し出す。
今度は受け取ってくれた。
……その時、大石は持っていた上着の中に隠してた何か煙草大の物を俺の胸ポケットに滑り込ませた。
「大丈夫です、校舎はあなたの背中ですから、竜宮《りゅうぐう》さんが窓から見てたとしても、今のやり取りは見えていません。」
「え、………何なんですか、これは…。」
不審な仕草はできないので胸ポケットを覗くことはできなかったが、…それは大きさの割りにかなりの重さがあるようだった。
「……あなたへのメモもあります。教室へ戻る途中で、竜宮《りゅうぐう》さんに見つからないようにこっそり読んで下さい。
……ではそのまま戻って! これ以上は不信がられます!」
俺は黙って指示に従うことにする。
……今のやり取りがレナに不審がられてないかが心配だった。
……教室の窓を見ても、カーテンはされたままだった。
……だからと言って、その隙間から覗いていなかったことにはならないのだが…。
俺は昇降口に戻り、………迷ったが、取り合えず再び施錠した。
あとでレナが見た時、施錠されてないのに気付いたら、厄介なことになりかねない。
レナは教室だ。……わざわざ昇降口まで迎えにくることはない。
……単独犯なんだから、あの部屋を離れれば、すぐにクラス全員が起き上がって逃げ出すだろう。
……レナがいるから逃げられないだけで、…みんな逃げるチャンスを今か今かとうかがってるのだ。
だから、この昇降口はレナの死角だった。
……俺は靴を履き替えるふりをしながら、下駄箱の陰で素早く、さっき大石さんにねじ込まれた胸ポケットの中身を出す。
……それは、トランジスターラジオ?にイヤホンが付いたもの。
それと、何だろう、縮めた特殊警棒みたいな黒いもの。
それとノートの切れ端を折り畳んだものだった。
ノートの切れ端を開くと、細かい字で自分宛ての文章が書かれていた。
『前原《まえばら》くんへ。
盗聴機はポケットに隠してください。
小声でも拾えますので、私への連絡手段にも使えます。イヤホンを付ければ私との会話も可能です。
護身用《ごしんよう》スプレーは強力なガスを噴出し相手を怯ませます。射程は1m。吸引で作用するので顔面を狙うこと。』
この妙なものは…武器なのか。
…言われて見ればわかる。
ここを握ると噴出口からガスが噴出すに違いない。
レナの鉈《なた》に比べると、使用に当っては細心の注意が必要そうだったが、とても小さく手の平に収められる。
隠して持ち運べるのは大きな強みだった。
……つまり、……俺にはレナを食い止めることが可能になったということ。
……自らの双肩に、クラス全員の命運が託されたことがわかり、…顔中から脂汗《あせ》がどっと吹き出す…。
メモにはまだ続きがあった。
『護身用《ごしんよう》スプレーはあくまでも護身用《ごしんよう》です。
OCガスは対象の視界を奪い、最低でも30分間、激痛とセキで相手を無力化できますが、直ちに昏倒させるような効果はありません。
よって、パニックを起こした相手が死に物狂いに何らかの抵抗を行なう可能性があることを常に忘れないでください。
このスプレーはあくまでも最後の手段です。
使わないで済ますくらいの気持ちで結構ですが、有事の際には容赦なく使ってください。
……使えと言ってるのか、使うなと言ってるのかわからないぞ。
多分、大人の都合というやつだ。
…俺個人に人質の命運を託して失敗した日にゃ、警察《けいさつ》の責任問題だもんな。
……だから、武器は託すが使用はそっちで考えろってなことになるわけだ。
俺は素早く、盗聴器《とうちょうき》と護身用《ごしんよう》スプレーを左右のポケットに隠し、上履きに履き替え教室に戻った…。
………緊張感のせいか、視界がぐらぐらと歪む。
さっきまではレナの言いなりだったから、結局どうしようもなく、ただ指示に従うだけだった。
だからこそ怖くなかった。
……だが今度は違う。
こちらも牙を持っている。
……さっきより格段にこっちの条件はよくなったはずなのに、……さっきよりもずっと心臓がバクバクするのだから、…人間ってのは不思議なもんだと思った……。
畜生、………どうする、……どうするよ俺、…前原《まえばら》圭一《けいいち》……。
レナと…戦うか…?
射程距離は1mって書いてあった。
……1m? 飛び道具って間合いじゃない、これは肉弾戦の間合いだ。
…ってことはチャンスは1回。
失敗したら二の太刀、ってわけにはいかないぞ。しかも、顔面を狙えという。
……簡単なことじゃないぞ、くそ…!
しかも、レナは用心深い。
……レナの真正面に、それも1mという超至近距離まで入り込めるのか……?!
……だがそれでも勝機なんだ!
………今のレナは、自分の目的のためなら、躊躇なく人を殺せるのだ。
………俺がそうだったように。
もちろん、すでに大変な事態になってる。
ごめんなさいと謝って、明日の朝には帰してもらえるようなレベルじゃない。
……でも、まだ誰も犠牲者は出ていない!
時間が経てば経つほど、余命が短いと信じるレナは短気になるだろう。
……また何か要求を強いて、そのための見せしめに、誰かを殺すことも辞さないかもしれない!
……………もう、起こってしまったけれど、……まだ、…惨劇《さんげき》じゃないんだ。
惨劇《さんげき》はすぐそこまで迫っている。
……すぐそこまでだ。
…軽く目を閉じれば、………レナが次々とクラスメートたちから鮮血を吹き出させる光景をありありと思い浮かべられた。
……レナと魅音《みおん》の2人を殺して、俺の部屋は血塗れだった。
……だから、20人も殺したなら、血の海に違いない……!
……そうなったらレナは…?
それでもなお、自分が妄想《もうそう》に取り憑かれていることに気付けず…、きっと喉を引き裂いて、死ぬ…。
それは…レナが気付かずに背負うあまりに大きな十字架で、……いつか必ずレナはその十字架を思い出し、………悲しむことになるんだ…。
……そんなのは俺ひとりで十分だ…。
……レナにまで、…あんな思いをさせてたまるか……!!
くそ、……体がふらふらしやがって、廊下が妙に長いぞ。
…こんなにも教室は遠かったかよ…!!
…心の中に、レナと戦う覚悟が少しずつ…ついていく。
レナはきっと、俺が裏切ることにショックを受けはするだろう。
………だが、本人では目が覚ませない悪夢なら、………誰かが助けてやらなくちゃならないんだ。
そしてそれはきっと、……仲間《なかま》の務めなんだ…!!
■ガソリン
「お帰り圭一《けいいち》くん。……大石さん、何か言ってた?」
「ぅ…………………、な、何だ……?!」
教室に入る瞬間からもう異臭はしていた。
いつの間にかクラスのみんなは教室の一角に、身を寄せ合うように移動していた。
この異臭は、……そう、ガソリンスタンドでよく嗅ぐ臭い。ってことはあれだ、そのものじゃないか。ガソリンだ…!
レナの足元に、赤いポリタンクが口を開けて転がっていた。
…金属でできた、いやに頑丈そうな作りだった。
ご丁寧にもマジックで、ガソリンと書いてある。
中身を教室中に撒かれたようで、頭痛すらしかねないひどい臭いを漂わせていた。
……いや、教室どころじゃない、……人質のみんなにも振りかけたみたいだ。
………なんて事を!
なるほど………、……ハイジャック犯が爆弾を抱えているのと同じだ。
……警察《けいさつ》が突入してくるようなことがあれば、人質を焼き殺すぞ、と……そういうつもりなのか。
レナはどこで手に入れたのか、左手にはライターを弄んでいた。
「レ、……レナ、……これはどういう真似だよ……?!」
「もちろんやらないよ。万が一の時の保険なの。……私だって、大好きなみんなのバーベキューなんて見たくない。だから冗談で済んで欲しいって思ってる。」
レナが明らかに俺を脅迫するように、ジッポライターをこれ見よがしにした。
……焼身自殺というのを聞いたことがある。
…灯油なんかを被って火を付ける死に方だ。
…………すぐ消せば大丈夫だろう、なんてのは素人の考えらしい。
…人間にとって皮膚というのはものすごく大切なものらしくて、全体の3割が大火傷ならそれで充分命に関わるレベルらしい。
……つまりそれが全身なら、…紛れもない「死」だ…!
そして、この状況はさらに俺にとって不利だった。
俺が持つ武器はレナの視界を奪うだろうが、レナがライターを点火することまでは防げないのだ。
……レナは攻撃を受けた瞬間に、自分はこれまでだと悟り、ライターを付けるだろう。
それにレナが知っててそれを選んだのかは知らないが、……ジッポライターというのは一度火を付けたら、蓋を閉じるまで火が点きっぱなしなのだ。
だから点火して床に落とすだけで、充分に着火できる…。
ということはつまり、………俺の持つ護身用《ごしんよう》スプレーでは、レナを無力化できないということなのだ……!
せっかく大石さんに預けられた切り札は、手番がひとつ変わっただけで、あっさりとその力を失ってしまった……。
「ほ、保険なんて大丈夫だろ…。大石さんはスクラップ帖があれば、きっと警察《けいさつ》を納得させられる。…そうなればあとは一斉捜査で、やつらの陰謀が暴ける……そうなんだろ?」
「………あのスクラップ帖だけで、本当に動いてくれるかなぁ? ……お役所ってのはお尻の重いところだそうだからね。」
レナは、あのスクラップ帖だけで進展がない時には、このガソリンのことを伝え、さらにプレッシャーをかけようという魂胆なのだろう。
「と、……取り合えずは大石さんを信じよう…。あとは果報を待つだけ、だろ…?」
「……………そうだね。……じゃあ、さっきの話の続きをするかな。…それでね。その寄生虫《きせいちゅう》は長い時間を経る内に徐々に無害になっていったの。でもそれでは面白くない人たちがいた。それが雛見沢《ひなみざわ》御三家《ごさんけ》なの。……だから彼らは、」
レナはみんなに、鷹野《たかの》さんの受け売り話をしているようだった。
…俺はそれを尻目に、大石さんに状況を伝えるため、独り言のように口にする。
「……すごい臭いだよな…。ガソリンをポリタンク丸々ぶちまけると、すごいもんだ。」
独り言のふりだから、本当に小さな声でしか言えなかった。
……もっとはっきりと大声で言いたいがそれはできない。
本当に大石さんに聞こえているか不安だった。
……そうだ。
意思が疎通できていることを確かめる方法を思いつき、俺は独り言をさらに加えた。
「……車のクラクション、…聞きたいな…。」
※大石のターン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「熊ちゃん、クラクションを一発!」
傍聴していた熊谷はすぐに理解し、短く1回、パトカーのクラクションを鳴らした。
「……ガソリンとは…参ったっすね…。これでさっきから何となく感じてた臭いの正体がわかりました。…多分、この後の要求を押し通すための切り札にするつもりでしょうね。」
「熊ちゃん。普通の若い子が、ポリタンクって言い方をしたら18リットル入りのあれですよね?」
「さぁ、…多分。」
「…小宮山くん〜〜!! 営林署の人、まだ帰してないですよね?! ちょっと呼んでもらえますー?!」
「…なるほどね、携行缶にはちゃんとガソリンと明記してあると。灯油のポリタンクにも灯油とちゃんと書いてある?」
「はい。中身を間違えたら大変ですから、全ての燃料容器にはちゃんと明記してあります。」
割と知られていないが、いわゆる一般的なポリタンクにはガソリンを入れられない。
ガソリンはこれほど生活の身近にありながらも、ものすごく危険な可燃物で、静電気程度で簡単に火がついてしまうという。
だから静電気対策のため、金属製の特別な容器に入れる。これを携行缶と呼ぶ。
「じゃあ前原《まえばら》さんがガソリンって言ったのは間違いなくガソリンなわけだ。……携行缶は何リットルのサイズのがあったんですか?」
「18リットル用と5リットル用の2種類があったと記憶してます。」
「5リットル用って、多分、平たい形をしたヤツですよね?」
「えぇ。真っ赤で平たくて、こう取っ手がついています。」
「……前原《まえばら》圭一《けいいち》はポリタンクという言い方をしましたね。18リットルの方でしょうか?」
「あるいは見慣れない形だったんで、取り合えず適当な言葉が思いつかず、ポリタンクという言い方をしたのかもしれない。……でもどの道、本当にガソリンだとしたら、かなり危険なことになります。」
ガソリンは液状の時は引火すると燃える。
…だが、本当の恐ろしさは気化した気体の方にあるのだ。
気化したガソリンは引火すると「爆発」する。
しかもガソリンは揮発性で、氷点下であっても揮発して気化ガソリンになるのだ。
ということはつまり。
締め切った教室内でガソリンを撒けば、気化して教室に充満し、……教室はそのまま爆弾と化すわけだ。
「熊ちゃん、危険物第4類とかわかる?」
「いえ。気化ガソリンが危険だってことは理解してるんですが、詳しいことまでは。」
「18リットルと5リットルで、最悪の場合どの程度、規模が違うか調べときたいなぁ。
…………そうだ、ジジィに聞いてみよう。あぁすみません、署に連絡して鑑識のじいさまがいるか聞いてみてください。」
「おうおう、話は聞いちょるぞい。犯人に直接名指しだそうのぅ? リーチ一発振り込みドカンってところじゃのう!」
「なっはっは…。裏まで乗っちゃって大変なことになってます。そのドカンってのが実に笑えないですなぁ。ところですみません、危険物の第4類はお持ちで?」
「乙4か? かっかっか! ここにいる人間全員足せば甲種じゃぞい。どうした、ガソリンでも撒いて篭城しとるんか?」
「えぇ、まさにそのようです。人質の1人に盗聴器《とうちょうき》を持たせてるんですが、どうも犯人は教室内にガソリンを撒いたようなんです。ただ、撒いた量が18リットル缶か5リットル缶かわかりません。…両方のケースのですね、最悪の場合について教えてもらえませんかねぇ。」
「教室の広さは?」
「えっと、…………大体50平米ですねぇ。」
「室内は密閉か?」
「おそらく。さぞやガソリン臭いだろうと思います。」
「……大石、まずいぞい。」
「やっぱり洒落になりませんか。」
「教室は粉々に吹っ飛ぶぞい…! 教室内はまず全員死ぬな。」
「そりゃあ、18リットルの場合ですか?」
「あほぅ、5リットルの場合じゃ!! わしの記憶がボケてないなら…一辺8mの室内を吹き飛ばすのに、4リットルもあれば充分だったはずじゃ。」
脇で聞いていた警官たちの顔が青ざめる。
……一辺8mの室内なら64平米。
それを4リットルで吹き飛ばせるというのに、50平米に5リットルも!
「なっはっはっは…。つまりおつりが来るってことですねぇ。いやなリーチだなぁ。……じゃあ、聞きたくはないんですが、18リットルだったら…?」
「かっかっかっか! そうだのぅ、大石風に例えると、親のリーチ一発平和《へいわ》タンヤオ赤々ドラドラに振り込む感じかの!」
「………ど、どうゆう意味っすか?」
「親の倍満24000点。配給原点が25000点だから、1000点棒が1本残るってことですかねぇ。」
「かっかっか! そんなところだのぅ、柱一本くらいは残るかも知れんぞい。」
「……そりゃあ、振り込みたくないリーチだなぁ…。なっはっはっは…。」
「今の内に消防署に連絡して、化学車両を待機させた方がいいだろうの。事件解決後の処理は消防の指示を仰ぐ必要があるぞい。」
「……参ったな、こいつは盗聴情報なんで、消防車を呼び寄せたらバレちまうなぁ。…何とか学校から見えないところに待機させましょう。」
「それがいいの。…あとそれから大石、盗聴器《とうちょうき》と言ったな?」
「えぇ。さっき人質のひとりと接触できましてね。その際にこっそりと盗聴器《とうちょうき》を持たせました。ガソリン散布はそれでわかったんですよ。」
「………まずいの。…化学火災の事例で、発火原因に電子機器のランプの点灯があったはずだぞぃ。ガソリンの発火点は300度程度。火花はおろか、静電気でも着火して爆発する!」
「冗談じゃない! な、何だってそんな危険な液体が、こうも簡単に世の中にあるんですかねぇ?!」
「知るか! 消防法と自動車社会を作った連中に言えぃ。6月だからの、そう空気も乾燥しとらんとは思うが、とにかく万が一に備えて盗聴器《とうちょうき》の電源を切らせた方がいいだろうの。」
「……大石さん。盗聴器《とうちょうき》で聞く限り、犯人はライターを所持している模様です。」
「ってことは、つまり前原《まえばら》さんがスプレーを使って制止しようとしても、着火までは防げない可能性が大ってわけだ…。しかも、盗聴器《とうちょうき》まで使えなくなるとは! 何てこった!」
「大石!! ライターはまずいぞ! 冗談でもいじらせてはならん!! 犯人もガソリンの危険性を認知しとらん可能性がある。…量を聞く限り、とても知識があるとは思えんぞ。」
大石の背中は、いつの間にか冷たい汗《あせ》でびっしょりだった。
……まさか、こんなにもヤバい山になるなんて!!
ガソリンの危険性を認識していなかった。
……だって、よく聞く車両事故でいちいち爆発してるなんて聞いたことなかったし…!
危険だということは知っていたけど、これほどだなんて思わなかった!
そう、ガソリンは気化してこそ真価を発揮するのだ。
だから、車が事故で炎上するのと、ガソリンが撒かれてたっぷりと気化した室内が着火するのでは危険度がまるで違うのだ。
その辺りも、車のエンジン室の構造を理解すればわかりやすい。
車は、燃料タンクのガソリンを気化させてエンジン室に入れ、それを「爆発」させてエネルギーを得て推進する。
つまり、エンジン室という小さな室内で気化して爆発させているわけだ。
その爆発力を大きく得るため、より強力なエンジンは巨大化することになる。
だとしたら、教室丸ごとのサイズのエンジンだったらどれほどのエネルギーが?
エンジンについて知識の深い人間なら誰だって知っていることだが、……意外にも気化ガソリンの恐ろしさは知られていないのだ。……あまりにも身近過ぎて!!
人質25名に犯人1名も加えて、…26名は教室という名の爆弾の中に閉じ込められているも同然。
しかも、犯人は意識せずして、それを爆発させてしまう危険性がある…!!
…ちょっと脅しの真似事をして、ライターをカチリカチリなんて遊んだら、………それだけで大爆発だ……ッ!!!!
見れば大石以外の人間たちも、皆、青ざめていた。
…こうして呆然としている今この瞬間にも大爆発しかねないのだ。
………こんな状況で、どうやって人質を解放する?!
しかも犯人はまともじゃなくて、その要求内容は妄想《もうそう》の中のもので実現不能なのだ!
「………し、失礼します! 先ほど受け取ったスクラップ帖の中に、犯人からと思われる文書が見つかりました!」
警官が折り畳んだ便箋を持ってきた。
刑事たちが覗き込む中、大石はそれを開く…。
中には女の子らしい字が丁寧にびっしり書かれていた。
……その雰囲気から、この手紙はおそらく、学校占拠前から予め用意されていたことを思わせる。
『Dear 大石さま
この手紙を大石さんが読まれているということは、いよいよ最終局面に入ったということだと思います。
おそらく今、私は学校を占拠し、生徒を人質に取っているものと思います。
私は大石さんを交渉人に指定しますので、私に脅されていることにして、私と外部の取り持ちをお願いいたします。
まず最初にお知らせしたいことは、敵は園崎《そのざき》家と、それを影から操る寄生虫《きせいちゅう》型宇宙人だということです。
「………う、……宇宙人んん……??」
この宇宙人に関する行については、かえって大石さんに疑われるのではないかと思い、今日までずっと伏せてきました。
ですが、全てはこのスクラップ帖を読んでいただければご理解いただけるはずです。
やつらは太古の昔、円盤に乗って地球に訪れました。
その場所こそがまさに鬼ヶ淵《おにがふち》沼であり、やつらの発生源なのです。
彼らはこの村を自分たちが繁殖できる養殖場とし、徐々に自らを品種改良することによって支配圏を広げ、とうとうそれに成功し、地球侵略を開始しようとしているのです。
「…………なんだ、こりゃ………。」
覗きこんでいる刑事たちが、支離滅裂なその内容に眉をしかめる。
「…いやいや、…驚きませんよ。…鷹野《たかの》の他のスクラップ帖も読みましたが、…これに負けじ劣らずの珍説揃いです。………個人的にはオッシーが面白かったなぁ…。」
園崎《そのざき》家を初めとする村の権力者たちはやつらに脳を支配されています。
彼らがオヤシロさま信仰《しんこう》を復活させようとする行為は、まさに宇宙人たちの地球侵略の隠れ蓑だったのです。
やつらの狡猾なところは、それを支配している人間たちに気取らせない点なのです。
やつらの秘密《ひみつ》研究《けんきゅう》所は入江診療所に間違いありません。
ただちに強制捜査を入れて、やつらの秘密《ひみつ》を暴露してください。
それから鬼ヶ淵《おにがふち》沼の底をさらわせてください。
太古に墜落した円盤の残骸が発見できるはずです。
それから、御三家《ごさんけ》の血縁者を直ちに隔離し、医療機関で脳内をX線等で診断してください。
やつらの醜い寄生体が発見できるはずです。
ただし気をつけて!
やつらは自分たちの存在を察する人間を消し、コピーを入れ替えることで村を支配してきました。
ですので、宇宙人自体が村人の中に混じっている可能性があり、彼らが何らかの妨害工作をしてくる可能性があります。
実際、鷹野《たかの》三四《みよ》、古手《ふるで》梨花《りか》、そして私、竜宮《りゅうぐう》レナの3人に関しては確実にコピーが作られています。
もしもこの3人の内の誰かの人影を見ることがあったら、直ちに捕らえてください。
まさにそれこそが宇宙人たちが混じっている証拠《しょうこ》なのです。
「……鷹野《たかの》三四《みよ》? どうしてでしょうね?」
「あぁ……あれだ。…俺さ、彼女との電話《でんわ》で、岐阜県警さんの検死で1日ズレがあったかもしれないですよ〜って言っちゃったことがあったんですよ。」
「あー、検死結果のミスの話ですか?」
「それで私、祭りの日には死んでたはずなのに、どうして居たのかなぁなんてことを言っちゃったんです。
………それを、こういう風に解釈するとはなぁ…。ふざけ半分で脅し過ぎたかなぁ……。」
「…自分の名前が含まれてるのも奇妙ですね。……鏡に映ったのでも見間違えたとか?」
脇で聞いていた刑事の1人が口を挟む。
……彼はあの晩、ゴミ山を探した刑事の1人だった。
「………これは俺、わかるわ。……ほら、竜宮《りゅうぐう》レナを探し回った晩、穀倉で目撃されたって話があったでしょ。あれだよ。あれは多分、村人の誰かが流したデマなんだよ。で、それを本人がどこかで聞いて、自分がもう1人いるように錯覚した…。」
「くそったれ!! ノストラダムスだっけ? あれの大予言と同じですねぇ。何が起こっても、予言に含まれるように解釈しちまう! 今の竜宮《りゅうぐう》レナは箸が転んだって宇宙人の仕業だって言い出すぞ!」
「あるいは、いずれ捕まることを予見して、精神鑑定で有利になる資料を先に用意したとか…。」
「そんなことあの子は考えてないよ! あの子は本気で信じてる。いや本気の本気で! ……コロッと行かされた私だからわかるんです。彼女は本気で信じてるんだ、このインチキスクラップ帖を!」
「あ、まだ1枚あるっすよ…。……何々…?」
『追伸:
私はすでにやつらに富竹《とみたけ》さんを殺したのと同じ毒を盛られているようです。
昨日から喉が痒くて仕方がありません。多分、今夜中に首を掻き破って死ぬでしょう。
ですので、入江診療所の捜査でもしも解毒剤を見つけられたら、それをどうか持って来てください。
「………これは、……使えるなぁ。」
「ですね…。本気で宇宙人の話を真に受けてるなら、解毒剤だと言えばうまく騙せるかも…。」
ですが解毒剤が見つからないこともあるでしょうし、見つかっても間に合わない可能性もあります。
ですので、私の残りわずかな命から逆算して、今夜の19時を交渉の期限とさせていただきます。
19時までに一斉捜査が行なわれて解毒剤が届けられなかった場合、人質全員と一緒にガソリンで焼け死ぬことを選びたいと思います。
「………19時?! 今、何時だ?!」
「18時前です!!」
今が一番日の長い季節だ。
夕方でも空は朱色でまだ暗いとは言い難い。
おそらく、午後の7時頃にようやく夜の帳が近付いてくるだろう。
「あと1時間か…!! いや、1時間を待たずに火遊びで大爆発するかも……。…くそ!! どうすりゃいい!!」
「何が地球侵略と戦うだ…!! それに人質を巻き込むなんて滅茶苦茶だッ!!」
「えぇ、滅茶苦茶なんです。今の彼女にはまともな交渉なんか通用しない。……しかも本人は冷静だと思ってる分だけ性質が悪い…!」
「お、大石さん、それより次の文章!」
「ん? ………………な、…何ぃッ…?!」
室内にはガソリンを撒かせてもらう予定です。
非常に危険な状態であることがおわかりだと思います。
私たちの話を信じず、踏み込もうとする警官たちに如何に危険な状態であるかよく説明しておいてください。
また、人質はU字ロックで教室内に固定してあります。
仮に、宇宙人の手先の警官が突入して私を殺したとしても、人質を解放するにはU字ロックを切断しなくてはなりません。
ですが切断しようとすれば火花が出て大変危険です。
そのため、室内の換気を完全に終了させなくては切断できません。
つまり、人質を教室から連れ出すには非常に長い時間が掛かることを理解してください。
実は、教室内に充満させたガソリンとは別の手段で爆発させる方法を用意してあります。
それはガソリンとキッチンタイマーを組み合わせた簡単な時限爆弾のようなものです。
キッチンタイマーは、決められた時間になると電源を供給するだけの簡単なもの。
ですがコンセントの先を割いてありますので、着火するのに充分な火花が出ると思います。
このキッチンタイマーには先ほどの指定時刻、19時を設定させていただきました。
19時になれば、私が不在であっても爆発します。
この時点で、教室がまだ換気されてなかったら、おそらく連鎖爆発するでしょう。
このような方法で大石さんに協力を頼むことを申し訳なく思いますが、どうか惨劇《さんげき》を回避するためにもご協力をお願いいたします。
この教室の中には、園崎《そのざき》家次期頭首である園崎《そのざき》魅音《みおん》と、オヤシロさま信仰《しんこう》のマスコットである古手《ふるで》梨花《りか》が含まれていることも、御三家《ごさんけ》によく説明してください。
御三家《ごさんけ》の中にも大石さんに協力してくれる者が現れれば、やつらの陰謀は今日の夜までには暴けるものと思っています。
やつらの地球侵略の日はすぐそこです。
どうか速やかに行動を開始されますよう、よろしくお願いいたします。
私の味方の大石さんへ
竜宮《りゅうぐう》レナ』
スクラップ帖を大石が叩きつける!
「く、くそったれッ!!! 何が味方だ!」
「キッチンタイマーって、目覚まし時計みたいなもんですか?」
「あー、昔の炊飯器とかにはタイマーがついてないものも多かったんですよ。それでね、コンセント穴の付いたキッチンタイマーって名前の目覚まし時計がありましてねぇ。
そのコンセントに炊飯器を刺して置けば、仕掛けた時刻に自動的に電源が供給されて、指定時刻に炊飯器が電源オンにできるっていうシロモノです。」
「……へー、そりゃ便利そうですね。」
「確かにそれを流用すれば、時限発火装置《じげんはっかそうち》なんて簡単にでっち上げられる! ……キッチンタイマーって辺りが、女の子っぽくて何だか複雑だなぁ…!」
「…電力会社に頼んで、電力を落とすとかはどうっすかね! コード式なら電力がなければ無力化できます! ……ああ、でも駄目か。教室が真っ暗になるのと同時にライターを点けるに決まってますよね…。」
「……………むむむむ…。…やっぱり、解毒剤の線をついて、遅効性の睡眠薬でも与えますか……。…遅効性ですよ。多分、自身に使う前に人質に試すはずです。注意してください!」
「了解です! 手配します!」
「………あと、前原《まえばら》さんともう一度話したいなぁ。
……竜宮《りゅうぐう》レナが間違ってライターをいじらないように、うまくなだめてもらわないと…。あと盗聴器《とうちょうき》もオフにさせないといけません。盗聴器《とうちょうき》はどう? 面白いことは拾えましたか?」
「……犯人が人質に虐待している模様です。」
「何てこった…!!」
「ど、どうも園崎《そのざき》魅音《みおん》に対してのようです。」
■狂い出すレナ…
「や、……やめろレナ…!!」
レナは、後ろ手に縛られ自分の身を庇うこともできない魅音《みおん》を殴り続けていた。
拳でじゃない。鉈《なた》の峰《みね》でだ。
「圭一《けいいち》くんはそこの壁から動かない約束だよ? 動いたらレナも怒るんだからね…?」
く、…………く…!
レナは狂気に染まった目で笑いながら凄む。
……レナの中の感情がどんどんと沸騰して、…その釜の淵から熱い飛沫が飛び散っているのを感じた。
俺が反抗すれば、……その報復として、魅音《みおん》の腕ぐらい切り落としかねない。
「とにかく私が許せなかったことは、魅ぃちゃんが死体《したい》を掘り出して警察《けいさつ》に売ったことだよ!! ………信じてたのに! 信じてたのに!!!」
レナは魅音《みおん》の顔面をわざわざ殴る。
魅音《みおん》は後ろ手に縛られてるだけじゃない。
…いつの間にかU字ロックで首を窓枠に括りつけられていた。
だから魅音《みおん》は顔を伏せて何とか逃れようとするが、庇いようなんかない。
額を切ったのか鼻血を出したのか、いつの間にか出血していた。
それが殴る鉈《なた》の峰《みね》に付き、そのせいで魅音《みおん》の顔を血塗れにしていた。
……当然だ、あんなもので殴られたら額が割れないわけがない…!
魅音《みおん》は、園崎《そのざき》家の立場上、死体《したい》を隠したことを口にすることができず、無言で耐えるしかなかった…。
だが、レナはやめる気配がない。
……今のレナには限度がないんだ。
…本当に、前歯が欠けるくらいにまで虐め抜くかもしれない…!
「やめるんだレナ!! 魅音《みおん》、もういいだろ?! 俺が話す、本当のことを話すから、レナ、魅音《みおん》を殴るのをやめるんだ…!!」
「……………本当のこと? って、……なぁに? 圭一《けいいち》くん。」
「…………………だめ……だよ……、…圭ちゃん………。」
「クラスのみんな!! 今から言う話は頼む、聞かないでくれ。少し物騒な話をするかもしれないが、…悪いことの話じゃないんだ。だから聞かないでくれ、耳に入っても忘れてくれ! 頼む!」
「…………どういう話だろ…? 聞かせてくれるかな、圭一《けいいち》くん。」
「難しい話じゃないんだ。あれは…………お前のためだったんだよ! あの埋めた場所が、今年の夏に営林署が伐採で立ち入ることになってたのを後日に知ったんだ。だからあのままじゃまずいと思って、……魅音《みおん》がもっと別の安全な場所に隠してくれたんだよ!」
「その話はあの晩に聞いてるよ! そしてそんなのは魅ぃちゃんの作った嘘だとも言わなかったっけ?」
「何で嘘なんか付かなきゃならないんだ! 仲間《なかま》を助けるのは当然じゃないか。だから魅音《みおん》がお前を助けるためにやってくれたんだよ…!」
「嘘だよ嘘だよ信じないよ! なら、何でそんなことを私に相談せずにこっそりとやったの?!」
…そんなの言うまでもなかった。
魅音《みおん》がどれだけ気を遣ってくれたと思うんだよ!!
魅音《みおん》は仲間《なかま》であるレナの事件を隠し通すために、最大限努力してくれたんじゃないか…!
レナがショックを受けて気に病んでいるのに気遣って……、だからレナに内緒にしてくれたんじゃないか…!!
でもレナは信じてくれない……!!!
「違うよ圭一《けいいち》くん。圭一《けいいち》くんまで騙すなんて、本当に魅ぃちゃんは卑劣だね! 部活《ぶかつ》で騙すのは許せるけど、仲間《なかま》である圭一《けいいち》くんを騙すなんて許せない。
許せない
許せない
許せない!!」
「やめろ!! 魅音《みおん》を殴るな!! 魅音《みおん》は悪くない!!!」
後ろ手に縛られてるってことが……こんなにも恐ろしいことなのかよ…!
魅音《みおん》は自分の頭を何度も殴られる。それもあんな頑丈な鉈《なた》の峰《みね》で!
それを歯を食いしばって耐えるしかないんだぞ…!!
手で庇えないのがこんなにも残酷なことだなんて…!
「ねぇ、そうなの魅ぃちゃん? そうなら、何でそうだって私に話してくれなかったの?」
「魅音《みおん》に話せない理由は想像つくだろ!! 園崎《そのざき》家の…いろいろ都合があるんだよ!! それより、気を遣ってくれたことをお前が感謝すべきじゃないか!!」
少し攻撃的な言動になったかもしれない。レナがぎょろりとこちらに向き返る。
「そうだよ圭一《けいいち》くん。園崎《そのざき》家の都合で、魅ぃちゃんは私を警察《けいさつ》に売った。仲間《なかま》の私を売った。仲間《なかま》なのに、友達なのに、仲良しだったのにッ!!
ひどいよ魅ぃちゃん!!
本当に大好きな一番のお友達だったのにどうして?!
ひどいよ…ひどいよ!!
わあああぁあぁああん!!!」
もう滅茶苦茶だった。
…レナは虐められたかのように泣くのに、やっているのは虐めなのだ。……こんな矛盾、…ありえない…!!
でも、………その光景を、俺は知っていた。
大好きだったのに。信じていたのに。
……そう泣きながら、殴り殺す自分。
……信じてと繰り返しながら、そんな俺に砕かれていく、レナを。……俺は殴る側の視点で知っていた。
やめろ…やめろやめろやめろ!!! やめてくれレナ!!!
お前が今、どれだけ滅茶苦茶なことをしてるかわかってるのかよ!!
お前は今、大好きだったと言ってる仲間《なかま》を自分で傷付けてるんだよ!!
どういう気持ちなのかはわかってる。
信じてた仲間《なかま》に裏切られたから辛い悲しいってんだろ…?
だからその裏切られたってところが大きな誤解なんだよ!!
俺たちは最初から誰も裏切ってないし、ずっとレナのことだけを思ってる!!
あああぁあぁぁ、でもでも!! それに気付けないんだよ!!! 多分レナは、…死んでも殺されても! 自分が過ちを犯したなんて気付けないんだ…!!
でもよ……、いつかさ、…絶対に気付くんだよ。
…俺みたいな鈍感野郎でも気付くんだから、レナなら絶対に気付く。
……その時、今のレナよりも何倍も辛く悲しい気持ちになるんだよ!!!
いつの日にかきっと、この血塗れの魅音《みおん》を思い出す。
そしてそれを自らがやったことに気付き後悔するんだ!!!
でも、それを知っているのは思い出した俺だけなんだ。
………レナにはそんなことはわからないし、気付きようもない。
一番辛いのは……俺なのか?
……惨劇《さんげき》は結局、防げない。
……結局、この惨事の観劇は……役者を代えただけ。
主演が俺からレナに変わり、……また繰り返されちまうんだ…!!
俺は? 今は舞台を下ろされ観客席にいる。
…そして、この物語がどういう顛末を迎えるか知っているのに、舞台に上がれず涙を飲んでるだけなんだ…。
「や、………やめろ……レナああぁ……。やめてくれ……やめてくれ……。」
「…………泣いてるの?
…………どうしたの圭一《けいいち》くん…?」
俺はゆっくりと立ち上がり、レナに近付く。
……あの時、レナがそうしてくれたように、両手を差し出しながら。
「頼むからやめてくれ、……やめるんだレナ……。…今はどうしてかわからないかもしれない。……なぜやめなければならないのか、わからないのかもしれない。……でも、………やめないと、………絶対に後悔する日が来るから…………。だから、…やめるんだ……………。」
「け、圭一《けいいち》くん。壁に戻らないとレナは怒るよ…?」
レナの目がすーっと冷めていき、右手の鉈《なた》を構える。
「や……やめな……圭ちゃん……、…私は……大丈夫………だから……。」
魅音《みおん》が強がるが、そんな血塗れの顔で大丈夫なんて誰が思うものか。
「レナは、………その鉈《なた》で、………俺を叩くのか…?」
「それ以上近付けばね。叩くよ。遠慮なくね。もう圭一《けいいち》くんなんかいなくても最後まで行けるんだよ。でも私は圭一《けいいち》くんと最後まで一緒にいたい。だから私を怒らせないで? ね?」
言葉だけはやさしいが、その表情には躊躇の一欠けらも見つけられなかった。
……レナは俺の頭を遠慮なく、その鉈《なた》で叩き割るだろう。
だが、………それでも構うものか。
「……レナはもし立場が逆だったら、……命を惜しむと思うか…?」
「あははははは、当然だよ。相手が凶器《きょうき》を持ってたら怖いから逆らわないね。」
「嘘だなッ!!!!」
俺は知ってる。
お前が仲間《なかま》のために命を捨てられる本当に強いやつだってことを知ってる!
だから今度は俺なんだ! 俺なんだ!!!
「俺も、レナと同じだぜ。……仲間《なかま》のためなら命なんて惜しくない。…レナが欲しいってんなら、俺の命だってくれてやる。……だから、…やめるんだ…!!! 仲間《なかま》を信じてるなら、…仲間《なかま》を傷付けるのをやめるんだ!! その痛みは必ずレナを襲うから、だからやめるんだ!!! 誰もレナを脅かしたりなんかしてない! みんながレナのためを思ってる! それを疑うな! 頼むから信じてくれ!! 俺を信じろ! 俺の頭を砕けば信じられるってんなら、その鉈《なた》を打ち下ろせばいい! 俺は防がねぇからな!!」
「ち、…………近寄るな…!! それ以上、近付けばライターを点火するよ!!」
レナは鉈《なた》でなく、もう片方の手に握るライターを横に突き出して構えた。
「醒ますのは圭一《けいいち》くんの方だよ!! この村がやつらに侵略されていることがまだ信じられないの?! あの時はちゃんと信じてくれたのに!! また疑うの?! また私を信じないの?!」
レナがライターの蓋を開け、今にも点火しようと親指に力を込めているのがわかった。
……レナにとっては、全員心中も初めから覚悟の内だ。
…レナは勝手に誤解したまま死んで、……狂ったのは世界の方だったと、世界中全てを呪って闇の底に落ちていく。
そういう筋書きの惨劇《さんげき》なんだろ?
ここは地獄の演劇場ってわけだ。
面白い脚本だよ気に入ったぜ。書いたのは地獄の閻魔か?
ふざけるな!! 思い通りになんかさせねぇぞ!! 前回の主人公の前原《まえばら》圭一《けいいち》さまを侮るんじゃねぇ…。同じ筋書きで今度も行けるなんて思うなよ…!! 生憎だが今回の脚本は俺が乗っ取る、俺がブチ壊す!! 貴様ら好みのバッドエンドなんかにさせねぇ!!! 俺がてめえらの期待を叩き壊してやるッ!!!
「信じてねえのはレナの方だろうがああぁ!!!
「何を言ってるのかさっぱりだよ圭一《けいいち》くん…。
黙って俺を信じろ? 信じてないのは圭一《けいいち》くんの方だよ! どうして私を信じてくれないの?!」
「やかましいやあぁあぁ!! 俺はお前が間違ってることを知ってるんだよ!! お前の末路を知っていて、お前がする未来の後悔を全部知ってるんだよ!!! 仲間《なかま》を自らの手で殺し、それがどれほど罪《つみ》深いことかに気付きもせずに生を終える…。それがどんなに悲しいことか、お前にはわからないんだよおぉ!!!」
「………ぜ、…全然何を言ってるのかわからない! 大丈夫なの圭一《けいいち》くん?」
「あぁそうだな。何を言ってるか、レナにはわからないだろうな。……でも、話してやる。ある大馬鹿《ばか》野郎の話を聞かせてやる!! あるところに前原《まえばら》圭一《けいいち》っていう大馬鹿《ばか》がいたんだ! そいつは…みんなと楽しく過ごす日に何の不満もなかったのに、…ある日を境にほんの少し仲間《なかま》を疑っちまうんだ。そして、何もかもが疑わしく感じるようになってきて……。」
仲間たちの気遣いに気付けず、傷付けて、傷付けて…。なんて悲しい…!!
互いに相手を信じているのに、それが届きあわないなんて…!!
こんな滑稽な話があるかってんだ!
「そして、…俺はお前と魅音を…………、金属バットで殴り殺しちまうんだ!!! なのにお前は最後の瞬間まで、………私を信じてって言って、…俺に殴り殺される最後の瞬間まで頭を庇わなかった、庇おうとしなかった、最後まで俺を信じて両手を差し出したままだったんだ!!! それがどれだけ凄えことか、俺は気付きもせず…お前を殴り殺してしまったんだよ!!! それが……どれだけ罪深いことか、………お前には想像なんかつかないだろうな…!!! だから、……俺は、…俺の罪を滅ぼすために、……レナを、止めるんだ!!!」
「……そ、……それ以上、近寄ると本当にライターを!」
「レナが命を懸けて俺を救おうとしてくれたように、今度は俺がレナを救う!! 俺はレナがどんなに立派な最後を遂げたか今でも覚えてるぜ。……あの瞳には、自分が殺されるかもしれないなんて怯えはわずかもなかった。」
次の一言こそ届く。
次の一言できっと、圭一《けいいち》くんは気が付いてくれる……!!
「俺を信じろ!! レナああぁあぁああ!!!」
その時、レナの鉈《なた》が俺の頭をものすごい力で殴りつけた。
俺はふらつき、尻餅をついて倒れる。
…峰《みね》打ちだったが、それでも額が割れたようだった。
べったりした血が俺の顔を伝う。
「かわいそうな圭一《けいいち》くん…。それは圭一《けいいち》くんの意思じゃない。圭一《けいいち》くんの頭に寄生しているやつらがコントロールしているだけなの。今に大石さんが治療する薬を見つけてきてくれるよ。そうなったら、一番最初に飲ませて治療してあげるからね。…そうしたらもう圭一《けいいち》くんはやつらの支配から逃れられる。レナの大好きだった圭一《けいいち》くんに戻れるんだよ。……だからもう少し待っててね、辛いだろうけど待っててね…。」
「……この……馬鹿《ばか》野郎がぁあぁあぁ…!!!」
その時、職員室から電話《でんわ》が鳴る音が聞こえた。
レナはしばらくの間、廊下の向こうからこだましてくる電話《でんわ》音を聞き続け、それが自分を呼び出す音だと気付いたようだった。
教壇の上にある受話器で電話《でんわ》を取りたいようだったが、レナには操作がよくわからず、職員室の受話器を直接取る他ないようだった。
「………ちょっと、職員室に行って来るね? …その間に誰も逃げちゃいやだよ? 誰か1人でもいなくなってたら、魅ぃちゃんが大変なことになっちゃうんだからね…?」
レナは教室の全員に凄みを利かせると教室を出て行った。
………その時、外から車のクラクションの音が短く1回聞こえた。
さっき盗聴器《とうちょうき》でやり取りをした時の合図を思い出す。
…まさか……俺と連絡を取りたいという意味か…?
俺はレナに見つからないように体を曲げ、こっそりとイヤホンを耳に当てる…。
「…聞こえますか? 興宮《おきのみや》署の熊谷と申します。聞こえているなら咳払いをしてください。」
「………ゲホ! ゴホ…!」
「よかった。今から言うことをよく聞いてください。犯人が撒いたガソリンは極めて危険なものです。今、教室内には気化したガソリンが充満して、巨大な爆弾と同じことになっています。ですから竜宮《りゅうぐう》さんを刺激しないようにし、間違ってもライターをいじらせないでください。さっきのような挑発行為は二度と慎むようお願いします。」
「………ちぇ、…盗聴器《とうちょうき》って嫌なもんだぜ。」
「気化ガソリンはわずかの火花でも着火する可能性があります。ですので、この連絡を最後に盗聴器《とうちょうき》の電源を切ってください。これは万が一に備えてのことです。それから最後に重大な連絡があります。……犯人は時限発火装置《じげんはっかそうち》を仕掛けていると予告しています。」
「………時限? 何だって…。」
「キッチンタイマーを流用した時限発火装置《じげんはっかそうち》で、火花を起こすだけの単純なものですが、今の教室はそれで充分爆発します。現在、竜宮《りゅうぐう》レナの要求する解毒剤と偽れる睡眠薬を準備中です。ですが、残された時間が長くありません。予告ではタイマーの設定は午後7時。」
壁掛け時計を見上げると、……今は午後6時45分。…15分残っているかどうかだった。
レナが受話器に怒鳴っているのが聞こえる。
「いいえ、時間通りです!! 急いでくださいね大石さん。1秒たりとも遅れることは許しません。」
「聞こえてると思いますが、竜宮《りゅうぐう》レナはタイマーの設定延長には応じないようです。…あと15分で本気で心中するつもりです。」
……あの時の俺も、……レナと魅音《みおん》を殺した後、これで警察《けいさつ》沙汰になる、これで誰かが俺の死後に事件の謎を解いてくれるだろうと考えていた気がする。
だとしたらレナは、…初めから心中するつもりでここを占拠したのだ…。
「…………それで、俺にどうしろと?」
「睡眠薬がもうじき届きます。だが交渉中に爆発したら元も子もありません。あなたに、時限発火装置《じげんはっかそうち》を見つけ出して解除していただきたいのです。」
「………よく映画で見るような、赤と青のコードを切断するやつですか…?」
「もっと簡単なものでしょう。犯人の予告によるならば、それは台所用のキッチンタイマーです。電池でなく、コンセントに刺して動くタイプの目覚まし時計状のものと思われます。教室内のコンセントに何か刺さっていませんか…?」
……教室には前と後ろに1箇所ずつコンセントの穴があったと思った。……こっそり両方をうかがうが何も刺されてはいなかった。
「…いや、…教室内のコンセントには何も刺さっていない。」
「他所の場所で発火しても確実性は低いでしょう。間違いなく教室内にあるはずです。」
「…いや、……………多分ないぜ。廊下からコードが引かれてるのはレナが話してる電話《でんわ》だけだ。……そのキッチンタイマーが電池式ってことはないのか?」
「電源を供給するタイプですのでコード型に違いありません。…あるいは、他の部屋ということはありませんか? その教室以外にもガソリンの充満した部屋があるとしたら、そちらの部屋に仕掛けられている可能性があります。」
「………学校中を調べろってことかよ…。……あと15分でか? ……くそ、俺は負傷中なんだぜ…。」
このまま寝てりゃ、あと15分で負傷者じゃなくなるだろうがな…。
……皮肉を言ってる場合じゃない。これが多分、惨劇《さんげき》を食い止める最後のチャンスなんだ…!
ガソリンは俺がスクラップ帖を持って校庭に出て、戻ってくるまでの短い時間に撒かれていた。
…………正直なところ、教室以外の部屋に撒く時間があったとは思えない。
……じゃあ、時限発火装置《じげんはっかそうち》はどこに…?
「こちらも努力しています。ですからそちらでもご協力をお願いします。以上です。質問がなければこれで交信を終了しますが、何かありますか?」
「…………………特にない。……あ、いや、1つある。」
「なんでしょう?」
「大石のオヤジに言っといてくれ。…よくも人の古傷をレナに話しやがったなって。もし俺が生きてここを出られたらブン殴ってやるから覚悟しやがれって伝えといてくれ。……あぁ2発殴るぜ。俺のことをレナに喋った分と、………レナのことを俺に喋った分だ。」
「了解。大石さんも竜宮《りゅうぐう》レナに踊らされたとだいぶへこんでます。きっと殴らせてくれますよ。以上でよろしいですか?」
「あぁ。このおしゃべりだけで数分食っちまった。………切るぜ。」
「ご無事をお、」ブツ…!
レナはまだ電話《でんわ》をしていた。
大石さんが時間稼ぎで色々と話をしているのだろう。
会話から聞くに、園崎《そのざき》本家を捜査して、地下から秘密《ひみつ》のナントカが出てきてどうこうとトンデモ話をしているようだ。
…おいおい、いい加減な話をしたらまたレナが信じちまうじゃねぇか…。
また魅音《みおん》が嘘吐き扱いされて殴られちまうぞ……。
「……圭一《けいいち》。」
いつの間にか梨花《りか》ちゃんと沙都子《さとこ》が俺の側に這って来ていた。
「………今の俺の無線、…聞いてたか?」
「トラップは私の専売特許でしてよ。……レナさんにお株を奪われるなんて、こんなの死んでも死に切れませんわ…。」
…沙都子《さとこ》は今や自分たちの命が風前の灯であることの恐怖を、表情から隠し切ることはできなかった。
…それでも強がりを言い、平静を装おうとするのがたくましかった。
「沙都子《さとこ》、もし死んでもレナを恨まないでくれ。………レナは…病気なんだ。……運悪く、悲しい病気にかかっただけなんだ。………だってそうだろ? …俺たちはあんなにも明るくて楽しい仲間《なかま》だったレナを…よく覚えてるだろ…?」
「…………………。」
「……沙都子《さとこ》。………ボクはレナもみんなも素敵な仲間《なかま》だと信じていますのですよ。」
「………………あんな、……魅音《みおん》さんにあんな乱暴をする人を…仲間《なかま》なんて認められますの?」
「……沙都子《さとこ》だって、わかるはずなのです。………心の中の鬼が暴れだして、どんなに悲しくても抗えない時があるのを知っているはずなのです…。」
「………………………。」
沙都子《さとこ》は神妙そうに俯く。
…俺には梨花《りか》ちゃんと沙都子《さとこ》が何を話しているのか意味はわからなかった。
………でも、……ひょっとして……………………………。
「………………レナさんを……信じてますわ。」
「……偉いぞ、沙都子《さとこ》…。」
俺は沙都子《さとこ》の頭を抱いてやった。
梨花《りか》ちゃんは腕を縛られていたから抱けなかったけど、せめて額を寄せて、沙都子《さとこ》を褒めた。
「さて…、……………世界最高のトラップ名人に聞くぜ。……この部屋を爆破するには、どこに時限発火装置《じげんはっかそうち》を仕掛ける?」
「お任せなさいませ。その装置はコンセントに繋がってなければいけませんのね?」
「…あぁ、そうだ。でもこの部屋とは限らないぞ。他の部屋にもガソリンが撒いてあって、そこに仕掛けてある可能性もある。」
「……いいえ、そんな時間はなかったと思いますです。多分レナは、教室のすぐ近くに隠してあったガソリンを持ってきて、この部屋に撒くくらいだったのですよ。」
「………そういやレナは昨夜俺と別れる時、明日の準備がある…って言ってた気がするぜ。……ってことは何かの仕掛けを昨夜の内にしてあった可能性もあるな。」
「それだけのヒントで私はここに芋虫状態。……なかなかに意地悪な難易度の爆弾探しゲームでございますわねぇ。」
「沙都子《さとこ》なら見付けられる。……沙都子《さとこ》に見つけられないなら、俺にも無理だろうな。だから俺は沙都子《さとこ》を信じて、全部を賭けるぜ。」
「……沙都子《さとこ》なら出来ます。………レナを救うためにも、…見つけ出してほしいのです。」
「仕方ありませんわね。本気の私の前には、レナさんのトラップなんて問題にもならないことを証明して差し上げて見せましてよ…!」
「さぁもう一度聞くぜ…。この部屋を爆発させるなら、時限発火装置《じげんはっかそうち》をどこに仕掛ける…?」
沙都子《さとこ》は、本当はまだ怖いくせにニヤリと笑うと、目を閉じて精神を集中させ始める…。
12日目_3
■大石ターン〜〜〜〜
「な、何ですかあんたたちは…!」
「退きたまえ。ここの責任者は誰だね。」
何台かの車が次々に載りつけ、興宮《おきのみや》署の刑事でない男たちが何人も現れた。
この暑いのにスーツをきっちり着こなした細身の男が、制止しようとする熊谷を払いのけて、大石のところへやって来た。
「……おや、これはこれは。お久しぶりですねぇ、県警本部の大高くんじゃありませんか。」
「言葉を慎みたまえ。もう、君にくんと呼ばれる階級ではない。」
「何か御用ですかね大高“くん”。今、非常に立て込んでいます。まさか県警がこの現場を乗っ取るおつもりで? 誰の了解で!」
「私が許可した、大石くん!」
「しょ、署長!」
「高杉くんから事情は聞いている。君が蒔いたタネだという話も聞いているぞ。君はもう下がってあとは機動隊に任せるんだ!」
「機動隊って、……大高くん、あんたまさか急襲する気ですか!」
「危険は重々承知だ。だがもう爆発まで時間がない。君が時間を浪費し過ぎたのだ。その尻拭いを我々がしようと言うんだ。君らは引き継いで後方に下がりたまえ。」
署長と県警本部の人間に凄まれては、立場上、大石は譲らざるを得ない。
「お、…大石さん、何者っすかあいつは…!」
「大高くん? んっふっふ、昔、麻雀がクソ弱いくせに粋がってたから、ちょいと叩き潰してやったことがありましてねー。それともあれかな、剣道大会で偉そうにしてやがったから、面食らわして失神させたのを根に持ってるのかなぁ。」
それ以上を聞かなくても、二人が犬猿の仲であることは容易に想像できた。
「大石くん、現在の最新の状況を説明したまえ。」
「あんた、本気で突入する気で? こっちはもうすぐ睡眠薬で穏便に決着がつけられそうなんだ。それを引っくり返す気かい?!」
「もう遅過ぎる。あと1時間あったらその手も検討できたな。突入は府警の専門部隊が担当する。君はバックアップに回りたまえ。」
「……署長。あんたわかってますよねぇ? あの教室は今や巨大な爆弾なんです! だが一番恐ろしい爆弾は教室じゃない。犯人の竜宮《りゅうぐう》レナ本人なんです!! 我々はようやくそれをなだめ、穏便に解決する手順を踏み、それを実行しようとしています。時間は確かにもう10分もない。でも、必ず成功させて見せます!! 交渉は私が自らやります。駄目なら私が粉々に吹っ飛んでおしまいです。署長たちは離れてそれを見て、ざまーみろと思ってればいい!」
「大石くん。府警の専門部隊はただの機動隊じゃないぞ。第2機動隊と言えば、君ほどの男なら噂くらい聞いているだろう?」
「………なんすか大石さん。第2機動隊って有名なんですか…?」
「5年くらい前だっけ、…日本赤軍のダッカ事件があったでしょ。あれを切っ掛けに、東京と大阪にハイジャック専門の特殊部隊《とくしゅぶたい》が組織されたって噂は聞いてましたがね。………実在してましたか…。」
「で、でも、何だって府警の機動隊がこんなところに…。」
大高が得意げにニヤリと笑った。
「たまたま県警機動隊との交流訓練があってね。特別に応援を要請したのだよ。」
「なっはっは、……相変わらずですねぇ。…話をすぐ派手にしたがる、その癖は。」
とても日本的とは思えない武装をした黒装束の機動隊員たちが次々と降車しては、予め決められたらしい位置に散っていく。
その動きはとても警察《けいさつ》的とは思えなかった。
「大高くん! あんた学校で銃撃戦をやる気かい! 一発で大爆発を起こすぞ!」
「安心したまえ。突入班が使うのは火器じゃない。暴徒鎮圧用のガス銃だ。高圧ガスで催涙ガスを噴出する。何の問題もない。」
「………へぇ〜、そりゃ便利な水鉄砲があったもんで。ところで、その玩具は校庭を横断して教室まで届くほど便利なものなんで?」
「それは君が心配することではない。後は我々に任せて下がりたまえ。」
大石が呆れたジェスチャーをした時、腕がたまたま車のクラクションに触れて、短く音が一度なった。
………もちろん故意だった。
「今のは前原《まえばら》圭一《けいいち》を呼び出すサインですか?」
「……えぇそうです。…前原《まえばら》くんが気付いてくれるのに祈るしかない…。」
「今さら彼に何を?」
「連中は多分、グレネードか何かでガラスをぶち抜いてガス弾を教室に打ち込んでその隙に突入しようってつもりでしょう。……連中は竜宮《りゅうぐう》レナを甘く見てる。彼女は本気だ。ガラスの割れる音でもライターを躊躇わず点火する…!」
「………特殊部隊《とくしゅぶたい》には制圧できないってことですか?」
「できないに決まってるだろ! だから今まで慎重にやって来たんじゃないの! 竜宮《りゅうぐう》レナは初めから死ぬつもりなんだよ。命が惜しくないヤツに突入なんて意味がないんだよ! ……もう前原《まえばら》さんしかいない…!」
「……お、……大石さん! 繋がりました!」
「もしもし、大石です。聞こえてたら咳払いをお願いします。」
「………ゴホゴホ。」
「緊急の話があります。聞いてください。」
「…………どうせ悪い話だろ。」
「……悔しいですがビンゴです。…県警が介入してきてお膳立てを引っくり返すつもりです。特殊部隊《とくしゅぶたい》が校舎に突入しようとしています。」
「お、………おいおい、……護身用《ごしんよう》スプレーで怯ませてもその1秒で点火されちまうってんで、俺はずっと抑えて来たんだぜ…?! 突入なんて、そんなの無理に決まってるだろ…!」
「県警は竜宮《りゅうぐう》さんがすでに死ぬ気であることを理解していません。ライターは脅しで、点火するわけないとタカを括っています。多分、5分以内に突入するでしょう。突入する前に、…何とか竜宮《りゅうぐう》レナからライターを奪ってください!」
「それは時限発火装置《じげんはっかそうち》を何とかしろというオーダーに追加で?」
「………えぇ、そうです。」
「……マジかよ………。…あと5分でレナからライターを奪って、時限発火装置《じげんはっかそうち》もどうにか? ……やってくれるぜ……………。」
「あなただけが頼りなんです…! 頼みます…!!!」
「……どうですか沙都子《さとこ》。思いつきますですか…。」
「………………1階の廊下だけが知りたいんですの。…そこに、あるか、ないか。
レナさんの行動パターンから考えて、1階ならあそこ、2階ならあそこ…。」
「1階の廊下をコードが横断してないか、ざっと見ればいいんだな?」
「……………多分あるはず…。…………く、…普段のレナさんなら断言できますけど、……今のレナさんはノイズだらけで行動パターンが読みきれませんわ…。」
「よし、……任せろ、何とかする。もう悩むにも時間が足りねぇよ。最後の2択は俺が直接探る!」
もう惨劇《さんげき》はごめんだ。
地獄の悪魔どもめ、滑稽な顛末を期待してポップコーンでも食ってやがる頃だろう。
……そうはいかねぇぞ…俺が全部、引っくり返す!!
てめぇらには床に散らばったポップコーンを拾わせてやるぜ…!!
俺は、宇宙人の話を延々と続けるレナに言った。
「……え? 何? どうしたの圭一《けいいち》くん。」
「いや、………今、音が聞こえなかったか?」
「…………………………。」
レナは沈黙し、四方の気配を探る……。
……今のレナは疑心暗鬼の塊だ。
少しでも不安になれば、もうその不安を無視できない…。
「…………………本当に? 圭一《けいいち》くん。」
「……あぁ。聞き間違えじゃない。」
「……………………………。」
レナは自分で異常を確かめたいはずだ。
……だが、気のせいかも知れない音のために、ここを離れたくもないはず…。
となれば、俺に頼むほかない。
レナももちろん、同じ答えに行き着いていたようだった。
「………………圭一《けいいち》くん、……見てきて?」
口元しか笑っていない恐ろしい表情で、…レナが俺にそう命じた。
「………あぁ、………わかった。」
俺はレナに見送られながら廊下へ出る。……その背中にレナが言葉をぶつけた。
「……………レナを、怒らせちゃいやだよ…?」
「信用しろ。…俺はレナの仲間《なかま》だ。」
「………………うん。………信じるよ…。…信じるから、………裏切っちゃ嫌だからね…。」
レナの視界から逃れた俺は、足早にコードを探す。…もう時間は5分もないのだ!
……コンセントが一番多そうな場所と言えば、…やはり職員室だろうか…?
職員室に向かう。
…………くそ、コンセントってどこにあるんだ。
灯りのスイッチと違って、必ず部屋の入り口の脇にあるとか、ルールがあるわけじゃないからな…!
くそ、何で職員室の時計の秒針ってこんなにもうるさいんだよ!!
「……大丈夫なのですよ、圭一《けいいち》ならきっと見つけてくれますのです。」
「レナさんなら、……レナさんなら……。
……く、……いつものレナさんより疑り深いレナさんなら、………どこにどう仕掛けますの?! この程度がわからなくて…レナさんのトラップで最期なんて北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》、一生の恥ですわ…!」
「………………何だ、………これ……。」
校長席の下にある蛸足配線に1本のコンセントが刺されて、それがずーーっと伸びて……、応接室へ続く扉の隙間に伸びていた。
隣の部屋へコードを伸ばすなんて普通ありえない。
その部屋の電源はその部屋のコンセントで取るのが普通だ。
俺は足音を限りなく殺しながら……、応接室への扉を開く。
キィ〜〜〜〜〜〜〜…ィ〜〜……。
潤滑油がすっかり切れて、耳障りに鳴る扉の隙間を少し開ける。
………応接室の中に首を突っ込むと、……この不審なコードはなんと応接室を横断して、廊下に繋がる扉の隙間へ向かっていた。
俺は応接室のコードを辿り、
廊下への引き戸を開けると、………コードは正面にある倉庫の扉の中に伸びていた。
倉庫の中には、ワックスとか洗剤とかそういう類のものがたくさんしまわれていて、細く開けられた扉から独特の異臭が漏れ出していた。
コードはその中に伸びている……………。
俺はそっと扉を開き、…中の灯りをつける。
伸びたコードは延長コードのドラムに繋がり……、……そこには、………こんなところには似つかわしくない目覚まし時計が……!!!
「…………み、…………見つけた…………!」
時限発火装置《じげんはっかそうち》ッ!!!
ってことは、こいつに刺さっているコードを引っこ抜けばいいわけだな!
俺は目覚まし時計を取る。
……ごく普通の目覚まし時計に見えた。
……いや、本当に普通の目覚まし時計だ。
……熊谷さんはキッチンタイマーって言ってた。……目覚まし時計状って言ってた。
でも、状どころか、こいつはまさに目覚まし時計そのものだ…?
目覚まし時計ってのは大抵は乾電池だよな?
現にこれも乾電池だった。
………電源ドラムを見ると、別にコンセントには何も刺さっていない。
…………え?
何だこの延長コード、…………何のために、わざわざ職員室からこんなところまで引いてあるんだよ…?
「いッ、いけない圭一《けいいち》さん!!! 逃げてええぇええぇええッ!!!」
「さ、沙都子《さとこ》?!」
「それは違うんですの、騙されたッ!!!!」
俺をぬっと、黒い影が覆った。
全身が思いっきり冷たくなり、……思いっきり乾いて、ひび割れしそうに感じた。
ゆっくり振り返ると、……………そこには鉈《なた》を振り上げた人影があった…。
「………ぁ、………………あ…。」
俺は手に持っていた目覚まし時計を思わず落としてしまう…。
それはガシャンと派手な音を立てた。
「…………どうして圭一《けいいち》くんは、延長コードを辿って、……目覚まし時計なんか持ってるのかな、………かな?」
……全身の細胞がカチカチに凍えていく。……そうだ、これはレナのワナだったのだ。
だってレナは…疑心暗鬼の塊で、…俺も含めて全員を疑っていたんだぞ…?
だから教室の中に、外部と通じている人間がいるかもしれないと占拠前から疑っていたわけだ……。
で、……そいつを焙り出すワナをすでに仕掛けてあった、と……。
時限発火装置《じげんはっかそうち》の話は外部しか知らない。
…それを知らされた間抜けだけが、……延長コードを辿って、…………目覚まし時計を手に取るというバカをやる……。
「あはははははははははははははははははははは、圭一《けいいち》くんのこと、信じてたのに。………ひどいよ、圭一《けいいち》くん。」
さっきレナが俺の頭を殴った時は峰《みね》打ちだった。
…すごい痛かったけど、その程度だった。
でも今後は刃を返してない。
…あれで打たれたら…額が割れるだけじゃ済まない。……頭が割れちまう……………ッ!!!!
レナの鉈《なた》が、無慈悲に振り上げられて………。
………それは何だかスローモーションのように見え、……そんなレナはまるで千手観音のような神々しさを感じさせた。
確かにそれは神々しいものだったかもしれない。
祈る対象という意味で。
……祈る?
何を?
………命乞いを……………………!!!
「……うわあああぁあぁああぁ!!!」
突然のことに何が起こったかわからなかった。
梨花《りか》ちゃんがレナに後ろから飛び掛ったのだ。
何かの武器を使ったのか、レナは痛い痛いと大袈裟に呻いた。
俺は我に帰る!
呆然としてる場合かよ!!
狙いはレナの鉈《なた》じゃない、ライターの方だ!!!
「ぅあうッ!!!」
「……力尽くでなら勝てると思うんじゃねぇぇえぇえ…!!!」
レナもライターが切り札であることをわかっていて、意地でも指を開こうとしない!
梨花《りか》ちゃんは鉈《なた》を持っている方の腕に組み付いていてくれた。
…逃げろと言いたいが、そのお陰で俺は両手を使ってライターを奪い取れる!!
「うらあッ!!!」
ライターがレナの手から弾き飛ばされた!
廊下の壁にぶつかって床を転がる!
俺はそれを拾い上げた。
それと同時に、レナもまた梨花《りか》ちゃんを振り払ったのだった。
「圭一《けいいち》さあああぁあぁあん!!! わかりましたわ、わかりましたわ!!!」
教室から沙都子《さとこ》の怒鳴り声が聞こえる。
……レナが時限発火装置《じげんはっかそうち》を隠した場所がわかったんだ!!
レナをこの場で取り押さえたいが、もう時間はまるでないんだ。
レナより時限発火装置《じげんはっかそうち》を何とかしないとッ!!
「……圭一《けいいち》! 早く沙都子《さとこ》のところへ行くのです!」
梨花《りか》ちゃんがレナの前で両手を広げて立ち塞がっているのが見えた。
「ば、馬鹿《ばか》なことはやめて逃げろッ!!!」
「………………圭一《けいいち》。これは初めてではないのですよ。……覚えていないのですか?」
「………………………え?」
「……前の時、……ボクにあとわずかの頑張りがあれば、……圭一《けいいち》は間に合ったのです。
……今度こそ、間に合わせる……! だから行ってなのですッ!!」
梨花《りか》ちゃんが何を言っているのか、この土壇場では理解する余裕はなかった。
ひとつだけわかることがあった。
……あの時のレナや魅音《みおん》が、そして今の俺が仲間《なかま》のために命を捨てられると思うように!! 梨花《りか》ちゃんもその覚悟があるってことなんだッ!!
だから梨花《りか》ちゃんに逃げろというのは、仲間《なかま》じゃないと宣告するのと同じことなんだ!!
だから俺は頼る、仲間《なかま》である梨花《りか》ちゃんを頼る!!
「すまん梨花《りか》ちゃん!!!」
「圭一《けいいち》さぁあん、もう時間がああああッ!!!」
俺は梨花《りか》ちゃんに任せ教室へ走った!!
※梨花《りか》ターン。梨花《りか》タンハァハァ(=w=;
圭一《けいいち》が教室へ駆け込んだことを足音で知ると、梨花《りか》はわずかの安堵の息を漏らした。
そこへ……レナのぬぅっとした黒い大きな影が迫る。
「あはははははあははははははははは! すごいよ、すごいよ、これは部活《ぶかつ》じゃないんだよ? 梨花《りか》ちゃんは殺されちゃうよ、怒ったレナにきっと殺されちゃう!!」
「……………………………。」
「あははははははははは……はは、………。
……へぇ? ……私が怖くないんだ? 梨花《りか》ちゃんすごいよ?」
梨花《りか》はさっきの倉庫から転げる時に、倉庫内からあふれ出たモップを拾い、逆さに持って、槍を構えるようにレナに向ける。
……その構えは一端で、…レナと戦う毅然とした意思が感じられた。
その表情が大人びていく。
不敵で、レナに対して余裕すら感じられた。一瞬だけその表情に驚くレナ。
「…………すごいね。殺されるのが怖くないんだ?」
「…ふん。」
梨花《りか》が皮肉るように笑う。
…こんな笑いは普段の梨花《りか》が浮かべるものではない。
「……この私が死を恐れるとでも? 幾百の死の山脈を越えてきたこの私が今さら何を恐れるというのか。」
「君、……梨花《りか》ちゃんじゃないね。…………あの夜に出会った梨花《りか》ちゃんもどきの方だね……。………正体を現したな、宇宙人め………! 本物の梨花《りか》ちゃんをどこへやった!!!」
「……本物の梨花《りか》? ここにいるわよ。……みー、にぱ〜☆」
「あぁ!! その小馬鹿《ばか》にしたところは間違いなく梨花《りか》ちゃんだね! ……そう、オヤシロさまは宇宙人だった。古手《ふるで》家はその末裔で、……宇宙人の直系の一族だもんね!! あははははははははははははははは!! 脳みそを叩き割って、中の寄生虫《きせいちゅう》を引きずり出してやるからね、あっははははははははははははははははははははははははははは!!!」
レナが奇声をあげながら鉈《なた》を大きく振りかぶり、梨花《りか》に飛び掛るッ!!
「ひゃああああああああッ!!! 一撃で叩き割ってあげるよおおおおおおおおッツ!!!!!」
まさに襲い掛かる肉食獣のようにッ!!!
迎える梨花《りか》は、後ろ足をすっと一歩引き、腰を落として迎撃体勢を取る。
……その表情には臆すものは一切ない…!
「生憎ね、1分も稼げれば充分なの。遊んであげるわ、おいで鉈《なた》女…!」
※沙都子《さとこ》ターン
「いいですの圭一《けいいち》さん!! 全てのヒントと答えはもう朝の時にありましたの!」
「お、落ち着け沙都子《さとこ》! 俺にわかるように話せ! つまりどういうことなんだ?!」
こうして思い出せば簡単だったんですのよ…! ほら、思い出せば明白…!
「ねーー、今日はくさいーーー、窓しめてー。」
「ばぁか、窓を閉めたらもっと暑くなるんだよー!!」
外からずっと感じてたガソリンの臭い。
……今日は営林署の人は来てないのだから作業はない。だから彼らがさせた臭いじゃない。
つまり、これはレナが用意したガソリンの臭いなんだ。
レナは教室に撒くためのガソリンを近くに隠していたようだが、それはポリタンクに入っていた。
……だからあそこまで極端な臭いはさせないんだ。
つまり、教室に撒くために用意したガソリンとは別のガソリンがもう用意されていたんだ!
臭いはどこからして来た? ……外から?
気化したガソリンは空気より重い。
上から落ちてくるものなんだ。
そしてもう1つのヒントが重なる。
「あれーーー?! 俺たちのボールがねえー! 北条《ほうじょう》、お前がまた隠したんだろー!!」
「誰がそんなものを隠しますの。どうせ隠すならもう少し気の利いたものを隠しましてよ。」
ボール遊びが好きな子たちにとって、ボールの所在がわからなくなるなんてことはない!
普段と同じ場所にしまってあったはずだ。
それがなくなっていた!
つまりこれは、レナが何かに使ったということなんだ!
ガソリンが、…上から、降りて。…ボール? 詰めて。
「レナさんは雨どいの出口をボールで詰めて、雨どいいっぱいにガソリンを注いだんですの!! どこから?! 2階の屋根《やね》の上からですのよッ!!」
そうだ、2階の屋根《やね》に沿って雨どいは横に伸び、……そしてその端から真下に降りて普通は地面に排水される。
その出口で詰まっていて中にガソリンが満たされていたら……、それは、地上から2階の屋根《やね》まで届く巨大な火炎瓶と同じだ!!
しかもその雨どいは教室の窓のすぐ外を降りている…!!
雨どいの配管が爆発したら……教室まで連鎖爆発だッ!!
「じゃあつまり!! 時限発火装置《じげんはっかそうち》は!!」
「2階の窓から延長コードか何かで引っ張って……、屋根《やね》の上ですわ!!!」
俺は床にぶちまけられていた誰かのお道具箱の中のハサミを拾い、それで沙都子《さとこ》の戒めを解く。
「そういや、梨花《りか》ちゃんはどうやって縄跳びを解いたんだ?」
「……悪ぅございましたわねぇ、私は解けるほど痩せてなくて。」
むくれる沙都子《さとこ》の頭をわしわしと撫でてやる。
「みんなを頼む! 俺は屋上へ行く!!」
俺が教室を飛び出そうとした時、沙都子《さとこ》が呼び止めた。
「圭一《けいいち》さん、これを!!」
「何だよ、まだ何かあるのかッ!!」
突然、銀色の何かが俺の目の前に放り投げられる!
俺はそれをバシンと強い音を立ててキャッチした。………それは、金属バットだった…!
「…………にーにーのですのよ。
後でちゃんと返してもらうでございますからね!」
「おうッ!! すまん沙都子《さとこ》ッ!!!」
金属バットは手の平に吸い付くように馴染み、まったく重さを感じさせない。こいつは心強いぜッ!!
……柄のところには悟史《さとし》と名前が入っていた。
沙都子《さとこ》の兄、悟史《さとし》のバット。
……去年の惨劇《さんげき》の、犠牲者。
……お前も俺と同じなんだよな。
二度と惨劇《さんげき》なんか繰り返させるものか!
このバットは舞台袖から送ってくれたお前の応援だ!
悪魔どもの惨劇《さんげき》の脚本を叩き壊してやろうぜッ!! 行くぞ悟史《さとし》いいぃッ!!!
廊下へ飛び出て階段を駆け上がろうとした時、職員室の廊下の方からドンガラガッシャンと派手な音が聞こえた。
梨花《りか》ちゃんがゴロゴロと転がって、大の字のうつ伏せになるのが見えた。
………くそ、……梨花《りか》ちゃん!! よく持ちこたえたぜ!!
「………くそー…なのです。身体年齢があと5つもあれば……。」
「さぁあぁ、次は圭一《けいいち》くんだよおおおおおおぉおお!!! うをああああぁあぁあッ!!!」
「や、やべぇ!! とにかく上だ。……今は屋根《やね》の上だ!!」
「あははははははは、よく気付いたねよく気付いたね!! でもさせるもんかあぁあぁあぁぁ!!!」
何て恐ろしい形相してやがる…!
ありゃあ、捕まえたら3枚に卸してやろうって顔だ。冗談じゃねぇ!!
俺は3段飛ばしくらいで階段を駆け上がる!
そしてポケットの中の盗聴器《とうちょうき》をオンにする。イヤホンはしてる暇はない!
レナが俺を追って階段を駆け上がろうとした時、突然、足にピンと張られた縄跳びが絡みついた。
……派手に転んだところに三段重ねのタライがレナの頭に連続ヒットする。
…沙都子《さとこ》かぁ!!
「い、……たたたたたったぁ………!!
く、…あははははははははは、沙都子《さとこ》ちゃんかぁあぁぁぁ!」
沙都子《さとこ》は廊下の壁に寄りかかりながら、チッチッチと言いながら立てた人差し指を振る。
「をーっほっほっほ!
なかなかの線を行ってましたけど、まだまだこの私とトラップ勝負をするのは3億5千光年くらい早くってでございましてよーー!!!」
「…沙都子《さとこ》ちゃん、光年は距離だよ。」
コーン!
発動しなかった4段目のタライが沙都子の頭にヒットする。
こんなやり取りをしている間にも圭一《けいいち》は先へ、先へ!!
レナは沙都子《さとこ》に構わず階段を駆け上り圭一《けいいち》の後を追う…!
「お、お! 大石さんか?! やったぞ、やったぞ畜生ぉおぉ!!! ライターは奪った! 時限発火装置《じげんはっかそうち》もわかってる、屋根《やね》の上、雨どいの中だ!! 今、抑えに行っている!!」
「………大石さん、……まさかあれじゃあ!!」
熊谷から双眼鏡を引っ手繰り、大石も屋根《やね》の上の雨どいを見る。
…………絶対ありえない場所に、ちょこんと時計が置いてあった!
その時計のコードは、2階の窓の中にすーっと伸びていた。
……こうして見るとあからさまなのに…、全然気付かなかった!!
沙都子《さとこ》は教室内の全員の戒めを解いていた。
だが、魅音《みおん》の首のU字ロックだけはハサミではどうにもならない!
「……みんな、私はいいから早く逃げて……!」
「あぁら魅音《みおん》さんらしくもない。…こういう瞬間でも、我が部の部長らしくあるべきではございません?
部長はただ一言、こいつを外せと命令あそばされれば結構ですのよ?」
沙都子《さとこ》が自分の襟の裏をまさぐると…妙な形に折り曲げたヘアピンが現れる。
沙都子《さとこ》は窓を開けるとそこに登り、魅音《みおん》のU字ロックの鍵穴に向かい合う。
「み、みんなは全部のカーテンを開けて窓を全部開けたら、外へ駆け出すこと!!」
「い、委員長! 前原《まえばら》さんはどうするんです?!」
「圭ちゃんは警察《けいさつ》が助けてくれるから! みんなはとにかく一刻も早くここから逃げて!! ……って、うわ?! も、もう外したの?」
「北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》にとって、U字ロックのUは、“うわ!こんなの楽勝!”のUでございましてよー!」
双眼鏡が教室を捉えた。
カーテンが一斉に開けられ、窓が開かれる。そして、クラス全員が校庭に駆け出してくるではないか!
大石は凄まじい重量感で指揮車の無線を持つ大高を弾き飛ばすと、無線に怒鳴った。
「全班突入しろ!! 突入突入突入ッ!! 人質を全員確保しろ!! 犯人は人質1名を追って2階へ上がった模様!」
「こ、こら! 何の真似だね!!」
大高が大石の無線を奪おうと組みかかって来たところに、熊谷がすっと割って入った。
「お、大石くん、無線を返したまッ
グギャッ……?!、…あ………ぐぐぐぐぐぐ……。」
鈍い音がして、大高が痙攣しながら沈んでいく。
「あー、すみませんです。膝が、たまたま玉に綺麗〜に入っちゃったっすね。」
「教室内にはまだガソリンが充満しているぞ、充分に注意しろ! ガス弾や閃光弾の類の使用は禁ずる、繰り返す、ガス弾、閃光弾の使用は禁ずる!! 大爆発するぞ!!」
「支援班よりHQ! 人質24名を確保!! 1名は外傷多数!」
「突入班、1階制圧中。……トラブル発生。電源室、開錠不可。」
「不可ぁ?! 扉を打ち破れないですかね?!」
「教室真正面です。ガソリン臭濃厚、破砕時に着火の恐れあり。指示を待ちます。」
「…くそッ!! ……ブレーカーを落とせばアガリだと思ったのになぁ! 電源室は放棄、2階部分を制圧されたし!!」
「突入班了解、α、突入!突入!突入!!!」
「大高くん! 電源室確保失敗時はどうするつもりだったんです!!」
「そ、…それに失敗しないための特殊部隊《とくしゅぶたい》だ…。」
「…これだから坊ちゃん育ちは…。あとは時計のコンセントを押さえるしかないか!」
「狙撃班よりHQへ。1階屋根《やね》部分に男子人質1名を発見しました。」
「大石さん!! 前原《まえばら》くんです!!」
「スピーカーを貸せ!! 前原《まえばら》さぁん!!! 時計のッ、電源は2階の奥の部屋ぁあぁ!!」
だが圭一《けいいち》は首を何度も横に振った。
…無理という意味だ。
……彼は今、レナに追われているのだから、なかなか思い通りには動けないということか。
ならもう戻れとは言わない。
むしろ2階屋根《やね》へ上がり、時計本体を抑えるしかないッ!!
「前原《まえばら》さああぁあん!! そのまま2階の屋根《やね》に上がってぇえぇ!!! 誘導します!!」
大石さんがスピーカーでさらに上に上がれと指示した。
…2階の屋根《やね》にあるとは言っても、沙都子《さとこ》は具体的な場所を言い当てたわけじゃない。
雨どいの上と言っただけだ。
でも大石さんたちは双眼鏡か何かで発見したのかもしれない。
張り出したベランダの柵に足を掛け、ひょいひょいっと2階の屋根《やね》の上に駆け上がる。
……こんなにも体が軽いと思ったことは初めてだった。
今なら、指2〜3本で体を持ち上げられそうに感じた。
「そのまま、まっすぐ走ってッ!!! 雨どいの一番奥ー!!! 時間がないッ、あと30秒おおおぉ!!!」
け! 30秒なんて楽勝だああぁああ!!! その半分でも行けるぜえぇえッ!!
見つけた、……あれかッ?! あれだああぁあ!!!
「狙撃班よりHQへ。1階屋根《やね》部分に犯人を発見!」
「……あ〜〜、撃てたら撃ちたいけど、それ、実弾ですよねぇ? 実は狙撃銃タイプの催涙ガス銃とか、そういうことだったりしません?」
「いえ、……実弾です。」
「そーゆうのは軍隊で使ってくださいよ、日本の警察《けいさつ》にゃ必要ないですねぇ…! 前原《まえばら》さああん!! 追って来てます!! 急いで! 追い詰められる!!!」
あと何秒だよ!!! どうでもいいや、うをああああああああ!!!
俺は屋根《やね》の上を滑り込み、ガソリンのすごい臭いを放つ雨どいの配管の上に置かれた時限発火装置《じげんはっかそうち》を抱きかかえる。
…そいつには千切れて銅線が剥き出しになったコードが繋がっていた。
こいつから火花が出てドカンだったわけか!
う、をっおおおおおおおおお!!!!
俺はそれを地面へ投げ落とす!!
ちょっと遅れてガッシャンといい音が響いてきた。
はぁ、…はぁ、……はぁ!! や、……やったかッ?!
「突入班よりHQ、時限発火装置《じげんはっかそうち》の停止を確認!」
「お、大石さん、やった、やったっすよー!!」
「やった! ま、前原《まえばら》さん、やったあああ!!」
「圭一《けいいち》さんはちょっとハラハラさせ過ぎですわね。余裕がないのはエレガントではありませんでしてよ!」
警官隊だけでなく、救急車に運ばれようとしているクラスメートたちも歓声を上げるのだった。
「大石さん、消防からっす! 現場は依然、危険度最大につき、突入班全員の即時退却を進言していますッ!!」
「時限発火装置《じげんはっかそうち》はもうないのに?!」
「発火装置がなくて危険度は最大級の現場だそうです。これ以上は突入班全員の生命に危険があります!」
「くそ…!
屋上の前原《まえばら》くんをどうしよう!!
2階屋根《やね》なら、何とか飛び降りれないか?!」
「大石さん、図面では校舎下に花壇があります! そこへ飛び降りるように誘導しましょう!!」
「大石より突入中の全班へ!! 作戦中止、退却せよ退却せよ!!」
「α了解。」「β了解、退却退却退却!!」
「聞こえますか前原《まえばら》さああああん!! それから竜宮《りゅうぐう》さんも!! もうそこは危険です!! いつ爆発するかわからない!! 校舎の下に花壇があります、そこへ飛び降りてくださいいいいい!!!」
「……花壇だって? 畜生、ここからじゃよくわかんねぇってのによ…。」
残念だが、もうのんびりと花壇を探してる暇はないようだった。
…………屋根《やね》の淵に白い手が掛かり、………続いてレナの頭が覗く。
レナはもはや焦らず、ゆっくりとした重みのある動作で屋根《やね》の上に這い上がっていた。
俺はそれを悠然と待ち受けている…。
「……まさか、こんなところに隠したのを見付けるとはね…。……これで全て、……失敗か………。」
レナが首をバリバリと掻き毟る。
せっかく貼ったバンドエイドは全て剥がれ落ちてしまっていて、痛々しい傷跡が血を滲ませて覗いていた…。
「ゲームセットだな、レナ!!!」
俺たちは学校の2階の屋根《やね》の上で対峙していた。
…もうこれで、…部活《ぶかつ》、実戦編はおしまいだ!
初めレナは、計画を破綻させた俺を憎悪の目で睨んでいたが、
…途中から諦めがついたのか、ふっと笑い、今度は不敵に笑うようになった。
ひぐらしたちの合唱が、俺たちの戦いの汗《あせ》を冷やそうとしてくれるのだが……。
……まだまだ俺たちにはそのサービスは必要なさそうだった。
「そうだね、スゴロクだったらここはゴールで圭一《けいいち》くんのアガリだね。…でもこれはゲームじゃない。
だからここはゴールじゃなくて、行き止まりって言うんだよ?」
「………ち、負けを認めないやつだな…。………レナはつくづく強いヤツだよ。絶対へこたれない、挫けない。最後まで戦う。そして、最後まで信じるんだ。」
「こんな時に褒められても、ちっともうれしくないね……。圭一《けいいち》くんは私が最後の命を賭しての計画をブチ壊しにした。
……人類を宇宙人から守ろうと、必死に戦ってたのに、それをブチ壊しちゃった。これで人類が滅んじゃったら……、圭一《けいいち》くんのせいで滅んだって歴史に残っちゃうんだよッ!!!」
笑うつもりはなかったが、ちょっと吹き出してしまったかもしれない。
…俺のせいで人類が滅んだなんて、それが宇宙人の歴史に載るなら、何だかカッコイイじゃねぇか。
「レナ。お前が何と言おうと、このゲームは俺の勝ちだ。すでに俺が勝ってるのに、レナが負けを認めないだけだ。」
「……………そうだね、そうなのかもしれないね。」
「でも、そういうものかもしれねえよな。ゲームってのは勝者が決まって終わるもんじゃない。敗者が決まって終わるもんなんだ。……ってことは、俺が勝つだけじゃ駄目ってことだ。」
「……………へぇ……? それはどういう意味なのかな……?」
■屋根《やね》の上の一騎打ち!
俺は金属バットで肩を叩きながら、もう片方の手で、レナにかかってこいと合図する。
「レナに、…きっちり負けたってことを叩き込んでやろうってことだよ。」
逃げも隠れもしない。…どうしてか?
俺たちの部の会則に敵前逃亡はないからだよ!!
「ここで白黒をつけてやるぜ。レナがもう負けてるってことをよッ!!」
「…………………………ふぅん。」
「言ってやるぜ。寄生虫《きせいちゅう》に宇宙人? バカじゃねーのか、バーカ。そんなの今時誰が信じるんだよ、ダセーなぁ。鼻で笑っちまうぜ、はっはっはっはッ!!」
「…………最初っから信じてなかったくせに、…信じてたふりをして、……レナを騙してたな……!! 許せない…。許せない、許せない…ッ!!」
「レナが信じてるのは勝手だぜ。だが俺はそんな胡散くせーの信じねえからな! 同じ信じるなら徳川の埋蔵金の方が楽しそうだぜ! それでも信じさせたいってんなら、………俺たち部活《ぶかつ》メンバーには、簡単な信じさせ方があるじゃねぇかよ?」
「……………勝った方が正義、ってことだね…!」
「そういうことさ!!」
レナと俺は、ニヤリと笑い合いながら、屋上の傾いだ屋根《やね》の上をじりじりと回り間合いを計りあう。
「レナが俺をブチのめせたなら、俺も宇宙人の話を信じてやろうじゃねぇか!!
朝晩、UFOを呼ぶ怪しげな踊りをして、牛小屋にキャトルミューティレーションに行ってやらあ!!
だがなレナ。俺にぐうの音が出ないくらいにブチのめされたら、そん時は覚悟してもらうぜぇ!!」
「あっはははははははははははははははは!!!
それを取り決める必要はないかな、かな! 圭一《けいいち》くんなんかに私が負けるはずないもん!!」
それを俺は易々と金属バットで受けた。
一瞬、火花が飛んだ気がした。……このくらいでなくちゃ面白くないぜ!
「まぁそう言うなよ、意外にそうでもなかったりするもんだぜ?!
俺も部活《ぶかつ》で何度も激戦を潜ってきてようやくわかってきたことがある。
自分ってヤツをな!
どういう時に自分が最高のパワーを出せるかわかって来たんだ。」
「へー?!
それは何かなぁ?
かなあ!!」
レナの鉈《なた》はそりゃあ仮にブチ込まれたとなりゃあ、とんでもない威力になる強力な武器だ。
…だがな、こっちの金属バットだって捨てたもんじゃないんだぜ。
確かに刃はないかもしれないが、リーチ、そして扱い易さは折り紙付きだ!
だが俺は無様に防戦に回ったりなんかしない!
互いに剣戟をぶつけ合い、相手を力でねじ伏せようとするッ!!
腕力だけなら俺の方が上だろうが、いわゆる遠慮のなさで、潜在能力を引き出すことに関してはレナの方が上ってことか。
……つまり、パワー比べなら互角ってわけだ!! かーッ! 手加減不要でOKとは、泣かせるぜってのを飛び越えて、面白すぎるぜオイ!
「私を叩きのめしたらどうするって?
ほらほらほらほらッ!!!
「け!
遊んでやってるだけだぜ!
まぁ見てろ!
レナをコテンパンにしたら、どうしてやろうかねぇ〜!!
これだけ互いにコインやチップを賭けまくってるんだ。
相当の支払いを覚悟してもらえぜええぇ!!!」
「あはははははははははははははは!!
得ることのかなわない勝利に酔うもまた皮算用の醍醐味だね!
圭一《けいいち》くんの虚勢が痛々しいよ!」
「チッチッチ!
わかってないな!
俺はご褒美のデカさに比例してパワーアップする男だぜッ?!
そうだなあああぁぁ!!
もちろん、俺専属のメイドさんだよなぁあぁ!!
メイド衣装は監督に全面協力を受けて、日替わりチェンジのお楽しみぃいいぃ!!
うをお、夜はおやすみなさいまで?
いやぁ、今夜は寝かさないぜ〜〜はあはあ!!
なぁんてどうだぁッ?!」
圭一《けいいち》くんらしいなぁ!
そんなのはゴメンだね!
むしろ私が勝って逆の立場にしてあげるよ!!」
あっはっはっはっは!!
互いに普段じゃ絶対出せないような壊れた笑い声を上げながら打ち合うッ!!
何だかとんでもなく楽しくなってくるから不思議だった。
俺はレナと殺し合いをしてるってのに、何だってこんなにもハイテンションなんだよ?!
火花が飛び散ってんだぜ、当りゃ大怪我確定なんだぜ…!!
転げ落ちりゃ骨折するかもしれねぇってのに、くそ、なんでこんなに面白いんだよッ!!
俺は今日一日、レナに散々怖がらせられて、泣いたり悲しんだりしてたんだぜ?
それが、どこでどう間違ったらこんなことになっちまうんだろうな!!
「ってことは結局、俺たちにシリアスは似合わねぇってこった!
……互いの火花を浴び合いながらヘラヘラしてるのが互いに性に合ってるってわけだ!!」
「お生憎だね!
レナはエレガントで上品なのが大好きなの。
そういうヘラヘラしたのは圭一《けいいち》くんがひとりでお楽しみあそばせ!!」
レナの鋭い一撃が、珍しい角度から捻りこまれ、俺はあわやのところでそれを弾き返す!
「おおぅッと!!
たっははー!!
甘い甘い全然駄目だぜ、やっぱりお前、撃沈確定だなぁ!」
「はは!
ようやく体が温まって来たところだよ。
こんなのウォーミングアップでしょ?」
「はぁ?
バーカ、なりゃしねえよ。
こんなのお散歩程度だな。お前、汗《あせ》だくだぜ?」
「くっくっくっく、あっはっはっはっはっはっはっはっは!!
お前は汗の代わりに血を垂らせばいいやぁッ!!」
「前原《まえばら》さん!!
飛び降りて!! 飛び降りてー!!!
……駄目っすね…!
血が上っちゃってるようで、声が聞こえてないみたいです…! ……大石さん?」
「……………ん? あ、あぁ、ごめん! 何?」
「何をぼーっとしてるんですか…! 彼を救出する方法を考えないと!」
大石はこの鉄火場でどうしてぼーっとしてしまったのか、一瞬わからなかった。
…理由などなく、朱色が夜の帳に変っていく空を背負いながら対峙する二人の姿に目を奪われてしまったのだ。
だが、実はそれは大石だけではなかった。
……誰もが、呆然と、この屋根《やね》の上の二人の姿に目を奪われていたのだ。
その時、突然大声が沸き起こり沈黙を破った。
「ま、…前原《まえばら》さん、しっかりーー!!!」
「危ない、回り込まないと落ちるーッ!!」
それは、救急車に収容されようとしていた生徒たちだった。大声は、応援の歓声だったのだ。
頭に包帯を巻かれて担架の上に寝かされていた魅音《みおん》もまた、上体を起こして圭一《けいいち》とレナの一騎打ちに目を奪われていた……。
幸せだった日々は、いくつかのすれ違いでバラバラに砕けて、取り返しが付かなくなくなっちゃったんじゃなかったっけ………?
なのに、………あれ、……なんだろ……。
………なんで、…こんな感情が芽生えてくるんだろう……。
何度かの剣戟から鍔迫り合いになる。
だがこう着状態になんてなるかよ、面白くもねえ!!
俺もレナも互いが示し合わせたようにぴったりのタイミングで互いを蹴りあって間合いを開く!
「かーーーッ!!!
楽しくなって来たぜえええ!!!
どうだ、レナ!!
最高に楽しくねぇかッ!!」
「あははははははははははは!
レナは最初っから楽しいよ!!
でも圭一《けいいち》くんの頭を叩き割ったらもっと楽しいかな!
かなあ!!」
「ひょおぅッ危ねえ!! おらおらあッ!!
こっちへ戻って来い!
足場を充分に使おうじゃねぇか!!
こんな最高の舞台、何度もあるもんじゃねえ!!
満遍なく楽しもうぜえ!!」
「あっははははははは!!
絵になるよ、絵になるねぇ!
私たちほら、いつの間にか月を背負ってるんだね? 風が気持ちいいや!!」
それは何だかとても幻想的な風景。
校舎の屋根《やね》の上に二人の人影が月を背負って対峙するなんて、……こんなありそうでありえない情景が本当にあるなんて?
その不思議な景色の魔力は、それを遠くから眺める刑事たちや警官隊、クラスメートたちをも虜にしているようだった。
誰もが思っていた。でも不謹慎だから言えなかった。
……何て、あいつらは楽しそうなんだよって!!
「なんかよ、こういう涼しさでこう熱くなるとよ!
綿流し《わたながし》の祭りの時を思い出すんだよなぁ!!
どうも俺は静かに夕涼みってのがダメでさ!
月が出るとはしゃがずにはいられなくなっちまうんだよッ!!」
綿流し《わたながし》の祭りは俺たち部活《ぶかつ》メンバーで、祭り全体をかき回してやった!
最後に本部テントで村長にこってり絞られたけどな、絶対に来年もかき回してやるぜってみんなで笑いあったっけ!!
「月に狂うか、何だかかっこいいじゃない?!
私たちはもう月に狂ってるのかもしれないね!!」
「ああ同感だな!!
仲間《なかま》と命のやり取りをしてて、そいつが面白いと感じちまうようじゃ、俺たちは最高にイッちまってる!! こいつがそうさ、ルナティックってヤツさあ!!」
月には人を覚醒させて、普段と違う高揚感を与える魔力があるって話だ。
そうかもしれねえし、そうでないかもしれねえ。
ひとつ言えることは、例え今日が新月だったとしても、
俺たちは最高に熱かったろうってこったッ!!!
次第にほの暗くなってくる中、時折爆ぜる火花が蛍みたいだ。
…おいおい、すぐ横の雨どいにはガソリンがあるんじゃなかったっけ? あっはははははは、知ったことかよ! その時ゃその時だろ!!
「ほおら何をやってんだかッ!!
バットが汗《あせ》で滑ってるんじゃない?
休憩にしてハンカチで手でも拭いたらぁ? その間に頭を叩き割るけどねー!!」
「わっはっはっは!!
そいつぁいいやあ!!
レナこそ汗《あせ》でスカートが纏わり付いて気持ち悪いだろ、脱いでもいいんだぜー!!
俺は手を出さないで見物するけどなー!!」
「へー!
それで足に見とれてる隙に、ガツーンとお見舞いするよぅ!
あっはははははは!」
「楽しいなあレナぁあぁあ!!!」
「うん、悪くないねえッッ!!!」
飛ぶ!
舞う!
そして時に退きあい、もったいぶるように間合いを計り、再び飛び込み合って火花を散らせあう!
学校の屋根《やね》の上という特設舞台の上で、舞いを踊るように旋回し合いながら互いの虚を狙う。
俺もレナも汗《あせ》だくだった。
だが疲労感はない。珠のようになって転げ落ちる汗《あせ》の雫がくすぐったいぜ。
互いの打撃の激しい応酬。
有利も感じないし不利も感じない。
勝てるかもしれないという高揚感もないし、負けるかもしれないという焦燥感もない。
ただ、レナとの剣戟のやり取りが無性に楽しかった。
例えるならダンスのよう。
それはひとりでは絶対にできない舞い。
自分と互角の力を持った相手とだけ舞えるダンスのよう…!!
「あの時さ、クラス全体の部活《ぶかつ》の日、水鉄砲で一騎打ちした時さ。思わなかったか?」
「うん、実は私も思ってた!!」
屋根《やね》の上の2人が思うように、それを見上げるクラスメートたちも同じことを考えていたに違いない。
2人の伯仲する戦いはただただ純粋さと熱さに満ち溢れていて、……誰もがこう思うんだ! あぁ畜生、俺も混ざりたいってなッ!!
「あの時も同じだった!
水鉄砲だったけどやることは同じだった!!!」
「あの時より面白いぜ!!
今度は水の残量なんか気にしなくていいんだからよ!!」
「水鉄砲じゃ火花も出ないしね!」
「打ち合うこの感覚もないもんなあッ!!!」
互いに肩で息を切らしながら踏み込む間合いを計りあう。それから互いにニヤリと笑い合った。
「……はぁ……はぁ!
あの時も多分言ったセリフだが、あえてもう一度言うぜ。」
「じゃあレナも、あの時と同じセリフで返そうかな。」
2人ともニヤリと笑い合う!!
「やり合うのが楽しくてならねえぜ!
決着がつくことすら興醒めするくらいになッ!!」
「あっはっはっは! 負けても恨まないでね!!」
「あぁ恨まない!!
この勝負を終わらせた自分の不甲斐なさを恨んでやるぜ!!
だが、そいつを恨むのはどうやらレナの方になりそうだなッ!!」
「どうかな?!
圭一《けいいち》くん、足が藁だよ!!」
「くそったれええぇ!! うをおりゃあああ!!!」
誰もがその戦いに目を奪われていた。心を奪われていた。
……どっちも凶器《きょうき》を持ってるんだぞ?!
どっちの攻撃が命中しても大怪我になるはずなのに!
でも2人ともさっきから完璧に互角で、…一撃もまともに食らっちゃいない!!
なんて楽しそうなんだ。こんな滅茶苦茶があるもんか…!
こんな楽しそうな大喧嘩を、これだけの人間が取り巻いていて、あれだけの美しい月を背負いながらの屋根《やね》の上で、…しかも警察《けいさつ》も見てるのにそれを止められないんだぞ?!
ありえないありえない!!
こんな滅茶苦茶な大喧嘩は…絶対にありえないッ!!
「圭一《けいいち》さああん!! なるべく屋根《やね》の中央を維持するんですのよー!! わずかの高みを生かすんですわー!!!」
沙都子《さとこ》たちクラスメートは、圭一《けいいち》を応援していたし、あろうことかレナを応援するものもいた。
………もう彼らにとって、これは殺し合いでも喧嘩でもない。
あの、水鉄砲の日の第2回戦なのだ。
部活《ぶかつ》は部活《ぶかつ》、ゲームはゲーム。
…あの日の延長戦なのだから、死者など出るわけがない。
…本物の凶器《きょうき》で戦ってるのに?!
なのに彼らは誰もどちらかが大怪我をするなんて思いもしなかった。
梨花《りか》だけはそれに加わらず、呆然としてそれを見上げていた。
「……こんな、………こんなの、…見たことない…。」
梨花《りか》は思った。
圭一《けいいち》なら、打ち勝てる。
レナにじゃない。
………理不尽な出口なき惨劇《さんげき》の迷路を、壁ごとブチ壊せる男なのだと。
「…そ、狙撃班は何をしてるのかね!! 人質に危害を加えようとしているのだぞ! 直ちに射殺したまえ!!」
慌てふためきながら無線機に唾を飛ばす大高に、魅音《みおん》が叫ぶ。
「ち、違うよ!! レナを撃たないで!! レナはもう違う…! さっきまでのおかしいレナじゃない! あのレナは違う! だから撃たないで!!」
「ち、違うとはどういう意味かね…! 見たまえ! 現に凶器《きょうき》を振りかざしているじゃないか! 明らかな殺意だ! 射殺しないと人質が危ないのだよ!!」
「……く、……と、とにかく違う!! レナを撃っちゃいけない!!
もしもレナを撃ったら、圭ちゃんはあんたを殺すよ間違いなく!! 断言できるッ!!」
「どど、どうして私をなのかね…ッ?!?!」
「あの2人は殺し合いをしてるんじゃない! ただ打ち合って火花を飛ばして遊んでるだけなんだよ!! 見てわかるでしょ?!
そして圭ちゃんは語りかけてる! 自分がレナと対等なことを! 対等というのは一番信頼できるということ!! 圭ちゃんはレナの目を覚ませる! いや、もう覚ましつつあるんだよ!! レナの悪い夢は、もう終わりつつあるんだ!!」
「圭一《けいいち》くんは…やっぱり最高だよ!!
君がいない世界はさぞや退屈《たいくつ》だろうと思うよ!!」
「へ! 何だか照れるお言葉、痛み入るぜ!!
んで、どうするんだ、その世界とやらは!
宇宙人の侵略があって大変じゃねえのかよ?!」
「あははははっははあははははは、あっははははははははははははははははは!!
「ああそうさ、例え明日隕石がぶつかって地球が砕けるとしたってッ!!!」
「今この瞬間より楽しいことなんて他にあるもんかあああッ!!!!」
「ちぇ、それにお前、毒を盛られてて今夜で死んじまうんじゃねぇのかよ!
余命の短いヤツがピンピンしやがって!!」
「あははははははははははは!!!
そうだったね、すっかり忘れてたよ、私は今夜中に首を掻き毟って死んでしまうんだったっけッ!!!」
「何だよ、自分で作った設定だろ、忘れるんじゃねえや。
ほれ、たまには首をボリボリ掻きやがれ!!
わかってるよ、もう痒くなんかねぇんだろ?
そりゃそうさ!!
首を引っ掻くより、」
「私たちはもっと楽しいことをしているんだものッ!!!!」
こんなにも楽しい時間は無限に続けばいいのに!!
でも、体はもう悲鳴をあげていた。
息は荒く、酸素が足りなくなったのか頭が少しクラつきやがる。
上半身が紙で出来てるくらいに軽くてふわふわで、ちょいと風が吹きゃ空にふわっと浮かされちまいそうだった。
……こんなにも楽しいのに、もうじき決着しなくちゃいけないんだな…。
この一抹の寂しさは、あの水鉄砲の決着がつく直前にも思った。
……そういやあの時は相打ちだったっけ。
「…今回は、どうなるだろうね。」
「さぁてな。
ひとつ言えることがある。」
「うん?」
「最高に楽しかったぜッ!!」
「うん!!」
圭一《けいいち》がぱっと後に飛び退き、金属バットで屋根《やね》を力強く叩いた。
それはまるで大太鼓のような迫力があって。
2人の戦いに心を奪われていた者たちに正気を取り戻させた。
シンと辺りが静まり返り、……さっきからひぐらしたちが合唱していたことを再び気付かせる。
「じゃあ、…………一度、間合いを開こうじゃねぇか。」
「………そうだね。次の一撃で今度こそ決着をつけよう。」
2人の動きが静かになり、………ゆっくりと間合いを広げあう。
誰もが悟った。
いよいよこの戦いに決着がついてしまうことを。
「じゃあ、最後の最後だ。もう一回確認するぜ?」
「うん? 何だっけ?」
「あははははは、おいおい、この戦いはお互い賭けてるものがあったろうが。お前、その為に戦ってたんじゃなかったのかよ!」
「そうだったっけ。
あはははははは、ごめん、忘れちゃってた。」
「ちぇ、仕方ねぇやつだなぁ。確認するぜ。まずは俺が勝った場合だ。俺の専属メイドになってご奉仕三昧の毎日だ!! 人前では、これが私のご主人様ですってちゃんと紹介するんだぞー!!」
「あははははははははははは、可愛い服じゃないと嫌だよ?」
「そこは任せろ。監督の完全監修の元、古式ゆかしいオールドスタイルから、ちょっとドキドキな改造メイド服まで色々と取り揃える!! もちろん特注でレナにぴったりとフィットするサイズなんだ。すごいだろう。」
「すごいすごい。負ける気はさらさらないけど、何だか楽しそう。あははははは。」
「次は、レナが勝った場合だ。」
圭一《けいいち》はそこで一度言葉を切る。
「……レナが勝ったなら、俺はレナの話を信じる。」
レナの表情は、ついさっきまで上機嫌だったのに、ほんの少し乾いて無表情になった。
「宇宙人が地球侵略をして来ていて、俺たちの頭ん中には寄生虫《きせいちゅう》が入ってる。そしてそれを園崎《そのざき》家が暗躍してて秘密《ひみつ》研究《けんきゅう》をしてて、世界は明日から宇宙人に支配されるって話を、信じてやる。あと、お前は毒で今夜、死んじまうんだよな? 最期はちゃんと看取ってやるから安心しろ。」
「…………………何だか私が勝ってもつまんないね。圭一《けいいち》くんが勝った方のご褒美の方が楽しそうだよ。」
「仕方ねぇだろ。お前、そういう話だからわざわざ学校を乗っ取ったんじゃなかったのかよ。」
「……………そうだったんだっけね。……ごめん、忘れそうになってたよ。」
レナはほんの少し悲しい表情で笑ったが、それは砂浜に波が染みこむように、すっと消え、すぐに無表情に戻った。
「俺は何しろ、レナのメイドさんがかかってるんだからよ! 意地で勝ちに行くぜ!!」
「……ぶーぶー。レナが勝っても面白くないよぅ。」
「何だよ、じゃあ今から変えるか? レナが勝ったらどうするよ。」
…………そこで、ようやくレナは機嫌のいい笑いになった。
風が、さらさらと流れて、……俺たちに貼りついた汗《あせ》を冷やす。……とても気持ちよかった。
今なら月が出ていても俺たちは暴れない。
本当の夕涼みができるに違いない。
このまま屋根《やね》の上にごろんと横になって、月を見上げられたなら、どんなに素敵なことか。
レナが薄く笑いながら、言った。
「私も、………圭一《けいいち》くんと同じご褒美がいいな。」
「何だよそれ。俺がメイドかよ! ……ドギツイなぁ。」
「別にメイドさんじゃなくていいよ。……でも他は同じ。朝は私におはようって言って、夜は私におやすみって言って欲しい。いっぱい私にやさしくしてほしい、いっぱい私を楽しくさせてほしい。………あれ? あはははははは…、これじゃ、私が勝っても圭一《けいいち》くんが勝っても、私たち、……ずっと一緒なんだよね。」
「一緒ではあるが、待遇に偉い違いがあるけどなー。」
「…あは、…あははははははははははははは。」
「「ははははは、はははははははははははははははははは。」」
「どうして、こんなにも大好きな圭一《けいいち》くんと、私はこんなことをしているんだろう。」
「さぁてな。どうして俺たちゃ屋根《やね》の上になんかいるんだ。何しに俺たちはここへ登ったんだっけ?」
「…あははははは、どうしてだったっけ? 忘れちゃったよ。」
「馬鹿《ばか》と煙は上へ昇る、ってやつだろ。じゃあ俺たちは2人とも大馬鹿《ばか》だな。」
「馬鹿《ばか》仲間《なかま》だね。」
「仲間《なかま》だな。」
「「あははははははははははははははは…。」」
「……じゃあ、そろそろ行こうじゃねぇか。せっかくの体がクールダウンしちまう。」
「そうだね。……体が冷めちゃわない内に、決着をつけよう。」
2人は思い思いの構えで、互いの持つ凶器《きょうき》を構えあう。
「……………私ね。…やっぱりやめない?って、そう言おうと思った。」
圭一《けいいち》はそれを、ゆっくり横に首を振って応える。
「だめだ。決着は必要なんだ。………じゃないと、終わらない。せっかくの俺とお前の戦いが、終われない。……うやむやじゃ駄目なんだ。綺麗に終わらないとだめなんだ。」
「……こんなのおかしい。ひょっとしたらどっちが勝っても負けても、ご褒美がなしになるかもしれない。」
「………………その時も恨みっこはなしだぜ。だから先に言っとく。」
「……何?」
「楽しかったぜ。」
「………………私もだよ…。」
「レナ。…仮に俺たちのどちらかが死のうと、俺たちは絶対にまた会えるから。……だから、また会えたなら、」
「今度は普通に遊んで、普通に笑い合って、……普通に恋をしよう。……絶対に互いを疑わない。互いを絶対に信じ合う。
「あぁ、……絶対だ…………。」
レナの瞳に、涙が浮かぶ…。
圭一《けいいち》も自分の目頭が熱くなることに気付いていた。
「じゃあ、……行くぜ。」
……合図は、なかった。
なのに2人は同時に踏み込んだ…。
月の中に2人の影が躍りこんだ。
……さっきまではあんなに激しく打ち合っていたのに、…それはとてもスローに見えて、まるで影絵の物語を見るようだった。
誰もが、影が舞うのを見ていた。
…そして、レナの影が、圭一《けいいち》の金属バットを激しく打ち、
………圭一《けいいち》が金属バットを手放してしまう…。
金属バットはぐるぐると回転しながら屋根《やね》の上で一度跳ねてから…校庭へ。
……圭一《けいいち》は武器を失ったのだから丸腰。
…だからレナはこのチャンスに一気に畳み掛けるのは、とてもとても当り前で自然なことで…。
圭一《けいいち》は屋根《やね》の上に押し倒されると、すぐにレナに圧し掛かられた。
両腕もレナの膝に潰すように抑えられ、一切の抵抗は不可能だった。
見れば、…月は二つに割られていた。
振り上げるレナの鉈《なた》の薄く細い影が、月を真っ二つに割っていた。
それが、決着だった。
「…………ち、……やるな。腕が…抜けねえや。」
「ねぇ圭一《けいいち》くん。………もう決着、…ついたんだよね…?」
「おいおい、まだついてねぇだろ。そいつを振り下ろすまではまだつかないぜ。」
「……いやだ。」
「うん?」
レナは、…月を割るかのように鉈《なた》を構えたまま、両目から涙を溢れさせていた。
「………どうして、こんなことになっちゃったんだろう。どこで変になっちゃったんだろう…。…私はみんなを大好きで、みんなを信じていたはずなのに、……どこで信じられなくなってしまったんだろう。」
「………………………。」
「どうして圭一《けいいち》くんに鉈《なた》を振り上げているのか、…わかんない。……どうして、…私は……こんなにも大好きな仲間《なかま》たちに、…こんなにも恐ろしいことを…してしまったんだろう…。」
「お、………お前、…………そうか……、……気付いたのか…。………この「世界」で、……気付けたのかよ………ッ!!!」
「自分で自分が…信じられないよ…。
こんなにもあんなにも、楽しい日々だったのに、…どうして私は、…どうして私は…。……何も不満もなかったし、…何の不安もなかったのに……、…どうして、…自分で壊してしまうような真似を…………。」
「レナ……、お前はやっぱり……すげえよ…。」
俺なんか、…お前と魅音《みおん》を殺した後、……それでも気付かなくって、わけのわからない遺言を残して、…大石さんに電話《でんわ》までして!
……それでも自分以外の誰かが悪いんだろうって思い込んでたんだぜ。
……死んでも。死んだあとも!
俺はずっと自分の罪《つみ》深さに気付きもしなかった!
自分ひとりだけが勘違って、仲間《なかま》の救いにも気付けず殺してしまうことの何と悲しいことか。
……そして、……それを罪《つみ》と気付けないことが何と…辛いことか…。
「だから、……レナはすごいんだよ……。仲間《なかま》を1人も殺さなかった。…お前は…罪《つみ》を犯す前に、……気付けたんだよ……。はは、あはははははははは!! さすがだよレナ、……さすがだよ、…俺とは…違うんだッ!!」
レナはゆっくりと立ち上がると、振り上げていた鉈《なた》をゆっくりと下ろした。
「…仲間《なかま》を、傷付けたよ。……魅ぃちゃんにひどいことをした…。」
「あとで謝っとけ。俺的には当分の間、姉妹の入れ替わりを見抜けてちょうどいい傷跡だと思ってるぞ。」
「…それに、………殺しちゃってるもんね、私。」
「あん? 誰も殺してないだろ。誰を殺したよ?」
「………………間宮《まみや》リナと、…北条《ほうじょう》鉄平《てっぺい》…。」
「あぁ、…………あいつらか。」
「………あの2人を殺すことは正しいことだと思ってた。
……でも、あの2人を殺した日から、…もう世界は狂い始めていたと思う。………だということは、……。……あの2人を殺すのは、……正しいことじゃなかったのかな……。」
「正しいかどうかは知らんが、最善手じゃなかったことは確かだな。」
「……最善手って……?」
「そんなこともわからないのかよ!!」
俺はレナの頭をがばっと抱いて、俺の胸に無理やり抱いてやる。
そして言ってやった。
それはとても簡単なこと。
誰でも思いつくとても簡単な選択肢だった。
でもレナはしなかった。
俺もあの時、しなかった。
「何かヤバかったり、疑いそうになったり、辛いことがあったりしたときはな。」
それは、とても簡単なことなんだよ…!
「…仲間《なかま》に、……相談するんだよッ!!!!」
レナはしばらくの間、…俺の胸の中で、…一番最初に間違えた選択肢を泣いた。
その選択肢は見つけにくいものでも何でもない。
…本当にささやかで、身近にあった選択肢だったんだ。
1人で悩むことがいかに下らないことか。
仲間《なかま》がいた。
全てを信じられる仲間《なかま》がいた。
なのに、何で、この問題は仲間《なかま》には話せないと思い込んでしまったのか…!
「私が間違ってた…!! どうして…話さなかったんだろう!! 何で私はみんなを信じてるのに、信じてなかったんだろう!!!」
「…………俺もかつてそうだった。…だから俺は笑わねぇぞ。でも、気付けたならいいんだ。しかもレナは、俺なんかよりずっと早く気付けたじゃねぇか…!!」
俺たちは信じ合おう。
二度と仲間《なかま》を疑うまい。
互いを信頼し合おう。
そして悩みを打ち明けあって、互いに助け合っていこう。
だから、仲間《なかま》たちはいつまでも幸せで、どんな困難だってみんなで乗り越えていけるんじゃないか…。
「……じゃ、レナ。幕の降りた舞台だけどさ、カーテンコールに応えようじゃないか。これで、全部おしまいだぜ。」
「カ、カーテンコールって何かな、かな…。」
「まぁまぁ、俺の独り言だ。最後だけ付き合ってくれよ。」
俺たちは手をつないだまま、立ち上がる。……月を背負って。
俺が頷くと、レナは鉈《なた》を投げ、それは屋根《やね》の下の闇に消えていった。
そして俺は、……こんな顛末を予想していなかっただろう、地獄の観劇者たちに言ってやる!
こいつは勝利宣言だ!
「これで今宵はおしまいだぜ!! 俺たちは惨劇《さんげき》に打ち勝った!! もう俺たちは互いを疑わない。だからいつまもで結束している!! だからどんな惨劇《さんげき》が訪れようとも、二度と屈すると思うんじゃねぇ!! 悲劇など知るか惨劇《さんげき》など知るか! 悪魔どもが喜ぶ脚本が、今後どれだけやって来ようとも。俺たちが全部、ブチ壊してやるぜえええッ!!!」
**********犠牲者リスト
雛見沢《ひなみざわ》営林署人質篭城事件
発生
昭和58年6月25日正午頃
場所
鹿骨市《ししぼねし》雛見沢《ひなみざわ》×丁目 営林署雛見沢《ひなみざわ》事務所内
概要
6月25日正午頃、犯人(竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》)は、営林署雛見沢《ひなみざわ》事務所に侵入。
同事務所内の雛見沢《ひなみざわ》分校、教室に押入り、生徒25名を人質に取った。
その後、教室内に大量のガソリンを散布して7時間以上にわたり篭城した。
一時現場は膠着状態となったが、同日18時45分頃、人質数名が抵抗し逃走。
同時に大阪府警第2機動隊所属の特殊部隊《とくしゅぶたい》が突入。人質24名を救出した。
犯人は、屋根《やね》へ逃れた人質1名を追い、一時格闘となったが、
同日19時10分頃、武装解除に応じ最後の人質を解放。警官隊に投降した。
負傷者4名(内軽症4名)
詳細は以下のとおり。
園崎《そのざき》魅音《みおん》
同日正午頃、犯人に身柄を拘束される。同日18時45分頃に逃走、保護される。
犯人に暴行を受け負傷。軽症を追う。
古手《ふるで》梨花《りか》
同日正午頃、犯人に身柄を拘束される。同日18時45分頃に逃走、保護される。
犯人との格闘時に負傷。軽症を追う。
北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》
同日正午頃、犯人に身柄を拘束される。同日18時45分頃に逃走、保護される。
逃走時に転倒し負傷。軽症を追う。
前原《まえばら》圭一《けいいち》
同日正午頃、犯人に身柄を拘束される。同日19時10分頃に犯人が身柄を解放。
犯人との格闘時に負傷。軽症を追う。
逮捕者(竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》)
同日19時10分頃、武装解除に応じ投降。同時刻、緊急逮捕。
即日、身柄を興宮《おきのみや》署に移し事情聴取。犯行を大筋で認めた。
容疑者の責任能力を巡って激しい議論が行われたが、検察
は慎重に精神鑑定を行った結果、犯行時に責任能力はあっ
たとして起訴に踏み切った。
弁護側はこれに真っ向から対立し、責任能力を否定する精神
鑑定書を提出した。
裁判所にて現在、審判中。
『ひぐらしのなく頃に』連続殺人ノベル第6弾 罪《つみ》滅し編
TIPS
■悪魔の脚本 ※終了後の追加TIPS
舗装道路が終わり、砂利道がガタンガタンと車を揺らし始める。
セミの声が窓をぴったり閉めていても車内に滲んでくるのだった。
本当なら、こんなにもいい天気なら、窓を全開に開けてセミの声を浴びながらというのも悪くない。
だが、…贅沢になれるというのは恐ろしい。
窓を開けてセミの声を浴びたいという健全な欲求は、夏バテ気味の体にカーエアコンの方がいいと却下される。
今年は空梅雨だった。
しっとりと雨を楽しめるはずの6月からもう真夏日が訪れている。
……20年以上も前のあの年も、こんな空梅雨の夏だったことを思い出していた。
「ここはやっぱり空気のいいところだよな。」
「えぇ。風光明媚ないい土地です。ひょっとしたら岐阜の村みたいに、世界文化遺産に指定されることもあったかもしれないのに、惜しいですね。」
「そのお陰で観光客がいない。実に快適じゃないか。……どうして旅行者ってのは田舎じゃ交通法規を忘れられるんだ? 道路いっぱいに横になりやがって。」
「あっはっはっは。赤坂先輩はアウトドアは今も?」
「最近はさっぱりだな。何しろ暇のない稼業だからな。」
「あっはっはっはっは。それはお互い様です。………………お、いたいた。早いな。」
クラクションを鳴らすよりも早く、相手はこちらに気付き手を振った。
荒地を走破できそうなバイクに、そのままキャンプができそうなリュックサックを背負った若者だった。
赤坂たちは車を降りると、その若者と握手を交わす。
「小隊長殿! ご無沙汰いたしております。」
「おう! 今のとこはどうだ。元気にやってるか! 今日は楽にしてくれていいぞ。こちらは俺が大学時代に大変お世話になった赤坂先輩だ。」
「どうも、赤坂です。今日はもう1人、大石という者とご一緒するお約束でしたが、直前に検査入院が入ってしまいまして同行できませんでした。この度はお世話になりますが、よろしく。」
「よろしくお願いします!」
「さて、赤坂先輩、どこから回りますか?」
彼の名は赤坂衛。
東京の警視庁に勤めるベテランの刑事だった。
定年までの残り年数が見えてきたにも関わらず、精悍なカミソリのような眼差しは消えることがない。
数々の修羅場で育んだ経験と自信はその表情に滲み出し、筋骨隆々な肉体はいかなる暴力に対しても怯まない頼もしさを感じさせた。
彼と雛見沢《ひなみざわ》の縁は、遠く30年近く前の昭和53年に遡る。
当時の彼は警視庁公安部に所属し、犬飼建設大臣の孫の誘拐事件に臨み、この雛見沢《ひなみざわ》を訪れたのだった。
そこで大石と出会い、……そして古手《ふるで》梨花《りか》と出会った。
古手《ふるで》梨花《りか》が予言した自らの死の運命。
…赤坂にとっては、この少女を運命から救い出せなかったことは、今になってもなお忘れられない痛恨の悔やみだった。
やがて彼は雛見沢《ひなみざわ》大災害をテレビで知り、当時世話になった大石と再会。
少女を襲った惨劇《さんげき》を、雛見沢《ひなみざわ》村連続怪死事件の謎を、例え今からであっても暴こうと誓い合ったのである。
だが雛見沢《ひなみざわ》は気が遠くなるほど長い時間に渡り封鎖され続けていた。
よって赤坂たちはこの20年間の間、自分たちの持つ情報を手記にまとめて発表し、読んだ読者に当時の記憶を辿ってもらって情報を寄せてもらう以上のことはできずにいた。
しかし、ようやく雛見沢《ひなみざわ》村の封鎖は解かれた…。
だが、激務を極める赤坂と、体調を崩し気味な大石の足並みがなかなか揃わず、ようやく今日になって雛見沢《ひなみざわ》を訪れることができたのだった。
本当なら大石と来る予定だったのだが、大石の検査入院が急に決まり、赤坂は1人で訪れることとなった。
同伴している2人は、赤坂の大学時代の後輩で、現在は陸上自衛隊に務める男と、その元部下で、雛見沢《ひなみざわ》の封鎖中、その任務に関わり村内を熟知する男だった。
赤坂は自分の荷物の中から、スクラップ帖を取り出す。
…角はよれよれになり、相当の劣化がうかがえた。
スクラップ帖をバラバラとめくり、しばし黙考した赤坂は最初の行き先を口にした。
「……では、鬼ヶ淵《おにがふち》沼をお願いします。」
「了解いたしました。それではご案内いたします!」
若者はバイクに跨り、赤坂たちが車に戻るのを待つ。
それから互いにクラクションで応えあった後、バイクの先導で鬼ヶ淵《おにがふち》沼に向かった…。
森が開けると、大地をコンクリートで固められたとても不自然な土地が姿を現す。
沼どころか、水一滴もない。
水の代わりにコンクリートで満たしたのだ。
……そう、ここが鬼ヶ淵《おにがふち》沼跡だった。
「はははは、沼どころか、水溜りもないな。」
「大災害後のだいぶ初期に埋め立てられたと聞いています。自分がここへ着任した時はすでに埋め立てられていました。」
「ちょっと降りてみよう。」
赤坂は車を降りると、コンクリートで固められた死んだ沼の中央に歩いていく。
駐車場にするわけでもなければ、ヘリポートがあるわけでもない。
……ただただ、広大な森の空き地に現れたコンクリートの巨大な大地。
「……なるほど、これがネットでよくいうUFOの着陸場というやつか。」
「そんなこと言われてるんですか。」
「ここの写真がよくミステリー系のサイトに紹介されてるよ。ここで政府と宇宙人が交流してたって言うんだ。確かに、こんな森の中に、ポカンとこんなコンクリートの空き地があれば、不審に思うよな。」
「わっはっはっはっはっは。」
この沼は、昭和58年の6月末に突如湧き出した火山性ガスの発生場所だ。
致死性の極めて高い、硫化水素と二酸化炭素の混合ガスは深夜の内に村を丸ごと飲み込み、雛見沢《ひなみざわ》という村を一夜にして滅ぼしたのである。
そして、封鎖された後、ここを管理していた自衛隊によって沼は埋め立てられた。
「ネットで騒いでる連中にも、連中なりの根拠があるらしい。地質学的に言って、ガスの発生源を塞ぐために沼をコンクリートで固めるなんてのは、何の意味もないかららしいんだ。」
「なるほど、確かに活火山の火口をコンクリートで埋めたという話は聞かないですね。でもまぁ、税金での無駄な工事は我が国の伝統ですから。」
ネット上で、怪現象やUFOなどをこよなく愛するミステリーマニアたちの間で近年、話題になっているのが、この雛見沢《ひなみざわ》大災害なのだ。
雛見沢《ひなみざわ》大災害は、マグマ溜りから噴出した火山ガスが湧き出して発生したことがすでに確認されている。
昭和61年にはアフリカのカメルーンにあるニオス湖でも同様の災害があったこともあり、地球規模でどこにでも起こり得る不幸な災害ということで決着した。
だが、近年になって、ネット上である風説が流れるようになっていた。
それは、この雛見沢《ひなみざわ》大災害が実は、政府が事実を隠蔽するために作ったカバーストーリーで、その実態は宇宙人による細菌《さいきん》テロだった…というのだ。
なぜ近年になってこんな話が…?
ミステリーマニアたちが根拠とするのは「34号文書」と呼ばれるある秘密《ひみつ》ファイルの存在だった。
この「34号文書」という名称はネット上である個人が便宜的に付けた名称だったが、国家陰謀をイメージさせるネーミングが受けたのか、瞬く間に広がり定着した。
彼らはどこそこで入手したと称しては、その画像や内容を転載したが、どれも出自不明ないい加減な内容だった。
捏造が相次ぎ、その存在さえ疑われている。
ここで、彼らが言う「34号文書」について説明しなければならない。
ただしインターネットの世界でのこと、風説が入り混じり、もはや都市伝説と化した感もあるため、諸説に別れ、諸派が互いを否定しあっている状況にあるのだが、概ね以下の内容であることを前提にしている。
「34号文書」は、雛見沢《ひなみざわ》の診療所に勤務していた鷹野《たかの》三四《みよ》という看護婦が残した手記である。
34号とは、連番を示すものではなく、この女性の名前をもじったものらしい。
この女性は、雛見沢《ひなみざわ》に伝わる奇妙な鬼伝説の歴史を追い、その伝説が何を意味するかを解き明かそうとする個人研究《けんきゅう》者であったと伝えられる。
その内容によれば、昭和58年の雛見沢《ひなみざわ》大災害は事前に予見されていた、というのである。
彼女の研究《けんきゅう》によるならば、雛見沢《ひなみざわ》には太古の昔、宇宙から飛来したUFOが墜落し、鬼ヶ淵《おにがふち》沼に沈んだという。
そのUFOには、地球には存在しない、宇宙の寄生細菌《さいきん》が漂着しており、村人たちは次々感染したという。
この細菌《さいきん》に寄生された人間は凶暴化し、「鬼」と呼ばれるに相応しい存在と化したという。
鷹野《たかの》三四《みよ》はこれこそが、沼から湧き出した鬼の正体だとしている。
墜落したUFOに乗っていた宇宙人は、地球人たちが自分の持ち込んだ宇宙からの細菌《さいきん》に感染して大変なことになっていることを知り、その姿を村人の前に現す決意をした。…これがオヤシロさまの降臨であるという。
宇宙人は、地球外文明の高度な方法で村人を治療したが、対症療法にしかならなかった。
その為、宗教的《しゅうきょうてき》シンボルとして、オヤシロさまの名で崇められていた宇宙人は、症状を悪化させないためにルールを作り村に課したという。
細菌《さいきん》たちは、雛見沢《ひなみざわ》の風土にのみ馴染んでいたため、宿主が雛見沢《ひなみざわ》を離れると症状を悪化させてしまうのだった。
その為、村から離れるなという規則を作ったのだ。
これがその後の鬼ヶ淵《おにがふち》村の仙人を巡る伝説につながっていく。
つまり、仙人たちが持っていたという仙術や奇跡の技は、全て宇宙人がもたらした地球外文明の英知だったのだ。
「わっはっはっはっは。そういうののマニアな人たちは、つくづくそういうのが好きですよね。ノストラダムスの大予言だって、99年にはあんなに騒いだのに、7月が過ぎたら何事もなかったかのようにみんな過ごしてる。民放もあれだけ煽っておいて無責任ったらありゃしない。」
「でも、鷹野《たかの》三四《みよ》は雛見沢《ひなみざわ》大災害を予見したらしい。それは嘘じゃない。確かにこのスクラップ帖に書いてある。」
「そんなまさか。あっはっはっは……、……。…赤坂先輩、それ本当に…?」
仙人たちの時代から長い時間を経る内に、人々に寄生した細菌《さいきん》は非常に安定したものになり、人体に無害なものとなった。
宇宙人も細菌《さいきん》も、人々の記憶から薄れていく…。
だが、宇宙人たちは御三家《ごさんけ》に守られながら何百年もの間、生き続けてきたというのである。
古手《ふるで》神社の秘密《ひみつ》神殿の中で代々、ご神体として崇められながら生きてきたのである。
その宇宙人は、寄生している細菌《さいきん》たちを操り、その結果、村人たちを何百年にも渡って支配していた。
そしてその支配を取り戻すため、彼らは再び寄生細菌《さいきん》の太古の力を取り戻すべく、研究《けんきゅう》を初め、……うんぬんかんぬん。
ここで諸説が入り混じり、つまりは、寄生細菌《さいきん》を地球規模でバラ撒き地球支配を目論もうとした宇宙人の地球侵略計画こそが雛見沢《ひなみざわ》大災害の正体である、というらしい。
それで、実は日本政府内には宇宙人の侵略と戦うための秘密《ひみつ》部門があって、彼らはアメリカの秘密《ひみつ》基地、エリア51で訓練を受けていてうんぬんかんぬん。
そして彼らが動き出し、この宇宙人の地球侵略を食い止めるため、村を全て封鎖して毒ガス攻撃で完全に封殺した…というのである。
「わっはっはっはっは!! 映画でそんなのありましたね。ほら、黒人の俳優が主演の。何て言ったっけなぁ。MI…なんだっけ!」
「この辺まで来ると俺もそろそろ滅茶苦茶だなとは思う。ただ、この滅茶苦茶を書いた鷹野《たかの》三四《みよ》は昭和58年の6月中旬。正体不明の怪死を遂げる。そしてその死の直前に、自らの死を悟ったかのように、村の1人の少女にこのスクラップ帖を預けて意思を託したというんだ。」
その少女の名は「少女A」。
……ネット上で諸説が飛び交っているが、当時の事件を詳細に調べた人間が「竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》」という個人名を特定したとされ、最近は「竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》説」でほぼ定着しているようだ。
竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》は鷹野《たかの》三四《みよ》の意思を継ぎ、宇宙人たちの侵略計画を打ち砕くため、学校を占拠して、警察《けいさつ》に陰謀を暴くよう要求したらしい。
もちろん、当時は誰もがそれを世迷言だと笑い捨てたし、彼女が正常な心理状態にあったのかどうかも疑った。
結局、竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》は、鷹野《たかの》三四《みよ》というミステリーマニアの妄想《もうそう》を真に受け、稚拙な犯行に走ってしまったのではないかというのが当時の見解だったのだが。
「竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》は学校占拠時から警察《けいさつ》に対し、宇宙人に支配された御三家《ごさんけ》が、細菌《さいきん》テロを行なおうとしていると訴えていた。
そしてその翌日なんだ。雛見沢《ひなみざわ》大災害が起こるのは。」
「まさか! そりゃ偶然じゃないんですか。」
「わからない。偶然ではないと思う連中に言わせると、その後の自衛隊による封鎖はおかしなことだらけらしい。例えばこの沼の埋め立てが一例だ。そして埋め立てる前に、明らかに通常の地質調査とは異なる秘密《ひみつ》の調査を行なっていたとされていて、当時、ここの封鎖に関わっていた自衛隊員たちがそれを何人も証言している。……否定派はそれを、単にガスの発生地なので、危険に備えて立入を制限していただけだと主張するんだがね。」
「それは多分、…否定派の言うのが正しいんじゃないかと思いますね。」
「他にも、異常に長かった封鎖期間も疑惑の目が向けられている。近年の東京都三宅島の火山ガス災害の例を見てもわかるように、4〜5年で立入禁止を解いている。雛見沢《ひなみざわ》のケースは例外中の例外のケースのはずなのに、封鎖は極めて長期に及んだ。」
「三宅島のケースは島民が帰島を強く希望したからと聞いています。雛見沢《ひなみざわ》には帰る人がそもそもいないんだから、充分安全が確認できるまでたっぷり期間を置いただけなのでは?」
「ふむ。あとこんな話もあるぞ。雛見沢《ひなみざわ》を封鎖していた自衛隊員たちは定期的に血を抜かれての厳密な検査を受けていたといい、何らかの結果によって、自他ともに理解できない理由で任務を解かれることがあったという。それは実は、細菌《さいきん》感染の陽性反応を見るもので、自衛隊員たちを留まらせることによる何らかの人体実験だったと囁かれているらしい。」
「それは、やはりガスが湧き出す危険性があっただけに健康管理には気を遣ったということでしょう。それに、普通のサラリーマンだって、年に一度は健康診断を受け、その時に血を抜かれてるはずです。」
「まぁ、君の言うことももっともだと思う。あともっと面白い話もあるぞ。雛見沢《ひなみざわ》大災害時に火山ガスは発生していないと主張する連中がいる。」
「火山ガスは発生していない? どういう意味ですか。」
「つまり、元々火山ガスなんか噴出してなくて、ガス災害というのが政府の嘘であると主張してるらしい。ほら、スピルバーグの人類とUFOがコンタクトする某映画でも、同じ設定だったじゃないか。」
「それこそミステリー狂のこじつけだと思いますね。で、その連中は何を根拠に火山ガスが発生しなかったと言っているんです?」
「封鎖解除後、ミステリーマニアがどっと押し寄せて、UFO説を補強するためにいろいろ調べたらしい。で、連中の主張はこうだ。政府発表の火山ガス成分によるならば、硫化水素によって金属が腐食されたり、自然体系に大きなダメージが残るはずだ。にも関わらず雛見沢《ひなみざわ》にはそういう痕跡が残っておらず、よって、火山ガスが噴出したとはとうてい思えない、とか何とか言ってる。……もっともあれから20年も放置された村なんだ。そんな痕跡を発見できたかどうかは疑わしいな。」
「はっはっは、やはりつくづくインターネットというのは信用できませんねぇ。……で、まさか赤坂先輩は、その怪しげな話を信じてるわけですか?」
「最初は信じなかったが、最近は俺もわからない。何割かは真実が含まれているかもしれないと思うようになっている。」
「赤坂先輩ともあろうお方がUFO話を信じるんですか?」
「このスクラップ帖。これが本物の『34号文書』だとしたら?」
「え?」
「昭和58年6月25日に雛見沢《ひなみざわ》営林署に人質を取って篭城した、竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》が所持していた、正真正銘、本物の『34号文書』だ。雛見沢《ひなみざわ》大災害の混乱で長いこと行方不明だったが、近年、大石さんの古い友人が県警の保存庫で発見したらしい。」
当時は妄想《もうそう》と思った大石ですら、…雛見沢《ひなみざわ》大災害の後に読み直すと、決して笑い捨てられる内容ではなかった。
宇宙人の部分ではなく、雛見沢《ひなみざわ》に土着の寄生細菌《さいきん》による風土病《ふうどびょう》が「オヤシロさまの祟り《たたり》」であったという部分だ。
もちろん、病原体《びょうげんたい》は発見されていないので仮説の域を出ない。
「大石さんの仮説なんだが、御三家《ごさんけ》が過去の信仰《しんこう》心を村に取り戻すために、大昔の毒性の強い病原体《びょうげんたい》を研究《けんきゅう》していたのは本当じゃないか、って言うんだ。雛見沢《ひなみざわ》大災害は、実はその結果の失敗じゃないかってな。」
もちろんこの辺りには、ネット上の仮説や珍説も入り混じる。
雛見沢《ひなみざわ》大災害の直前に謎の死を遂げた診療所長。
そして、篭城事件の夜に惨殺《ざんさつ》された古手《ふるで》梨花《りか》という少女の謎…。
診療所の地下に秘密《ひみつ》の研究《けんきゅう》施設があり、そこで入江は細菌《さいきん》の研究《けんきゅう》をさせられていたが、罪《つみ》の意識に耐えかねて自殺。
……オヤシロさまの復活という宗教的《しゅうきょうてき》セレモニーの何らかの意味のため、梨花《りか》は宗教的《しゅうきょうてき》儀式《ぎしき》で惨殺《ざんさつ》されて生贄に…。
だが、彼らが研究《けんきゅう》した細菌《さいきん》は失敗作だった。
……それは村人たちに寄生するどころか、そのまま死に至らしめてしまう殺人ウィルスだったのだ。
かくして村は、一夜にして滅びてしまうことになる…。
「ただのガス災害じゃないことは明白なんだ。ガスが湧く直前に、1人の少女が細菌《さいきん》テロを予告し、数人の村人が怪死を遂げている。それをスクラップ帖にまとめた鷹野《たかの》三四《みよ》本人も含めてね。あれを偶然の予見不可能な災害だとするには、どうも腑に落ちない要素が少なくない。この『34号文書』を読めば、それらは明らかにはっきりしてくる。」
「じゃあ…、雛見沢《ひなみざわ》大災害は自然災害ではなく、カルト集団による細菌《さいきん》テロ?」
某サリン事件で知られるカルト集団が、毒ガスや危険なウィルスを研究《けんきゅう》し散布していたらしいという話は、この平成の時代には誰もが知ることだった。
だが昭和の時代なら、カルト集団が細菌《さいきん》テロに及ぶ…などとは誰も想像できなかった。
「その後の自衛隊の長い封鎖は、その殺人ウィルスを調査するためではないかと囁かれているんだが、すっきりしないな。」
「はははははは。UFOに乗った宇宙人がって話よりは、カルト集団がって方が近年は信憑性がありますからね。」
「本当にUFOが墜落した可能性もあるかもしれないな。……竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》が人質篭城時に出した要求の筆頭は、鬼ヶ淵《おにがふち》沼の底には墜落したUFOの残骸があるから引き上げろ、というものだったらしい。」
「馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しい…。」
「それが馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいか調べたくても、見ろ。沼はコンクリートで数メートルの厚さで固められ、確かめる術もない。地質学的にはガスを防ぐ効果は何も期待できないはずの馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しい工事によってだ。」
「赤坂先輩がそれを立証するには、あとはここの住民の生き残りを見つけて、体内からその特殊な病原体《びょうげんたい》ってやつを見付け出す他、ないんじゃないですか。」
「…それも致命的だ。雛見沢《ひなみざわ》大災害後の雛見沢《ひなみざわ》出身者に対する魔女狩りのせいで今や出身者の存在は不明だ。彼らは名乗りなどあげまい。」
雛見沢《ひなみざわ》大災害の直後から、雛見沢《ひなみざわ》出身者たちの間に、オヤシロさまの祟り《たたり》と称して奇行に走る人間が現れた。
その一部が、猟奇事件や奇怪な方法での自殺を遂げ始めると、全国で近所の雛見沢《ひなみざわ》出身者を排斥する一種の魔女狩りが発生した。
この当時の政府のプライバシー保護の甘さもあり、今や雛見沢《ひなみざわ》出身者は頑なに口を閉ざし、自らの出身を隠し続けているという。
「じゃあ、お手上げじゃないですか。」
「それでも諦めないのが刑事魂ってもんだよ。……あれが自然災害じゃなかったっていう状況証拠《しょうこ》はいくらでもあるんだ。何か1つの具体的証拠《しょうこ》が見付かれば、芋づる式に全てを白日の下に晒せるかもしれない。」
「まぁ、あれから20年経過してますからね。真相はあまりに遠い闇の中かもしれません。」
「そうだな。………21世紀の今頃になってここを訪れても、何もわかりはしないのかもな。」
昭和58年の6月に。
一体、雛見沢《ひなみざわ》で何があったと言うんだ。
確実にわかっていることは、鷹野《たかの》三四《みよ》が細菌《さいきん》テロを予見して怪死を遂げて。
それを主張した少女が学校を占拠してまで訴えたが誰も耳を貸さず。
診療所の所長が怪死を遂げ、オヤシロさまの生まれ変わりと村人たちに信じられていた古手《ふるで》梨花《りか》という少女が、惨殺《ざんさつ》されたという事実のみ。
このスクラップ帖は一体何なのか。
内容が示すとおり、それは壮大な陰謀を暴いた一大告発書なのか。
当時、誰もが思ったように、これは偏執的マニアによる妄想《もうそう》のでっち上げなのか。
これが事実なら、我々は1人の少女の訴えに耳を貸すことであの大災害を免れた。
これが虚実なら、じゃあ誰がこのスクラップ帖に沿うように災害を引き起こしたんだ。
あの某サリン事件のカルト集団以降、世間に流行った言葉に「マインドコントロール」というものがある。
「洗脳」が短絡的手段によって短期間の間に強制的に行なわれることに対して、「マインドコントロール」はより時間をかけてじわじわと行い、本人がそれを正義と信じて自発的に行なうようになる点で、洗脳よりも格段に恐ろしい人格侵食であると言われている。
カルト集団は終末思想で信者たちに常に不安と恐怖を植え付け、それから救済される方法として何かを命じられ、それに自発的に従わせようとする。
その図式は、どことなく、「34号文書」に踊らされた竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》に似なくもない。
では、竜宮《りゅうぐう》礼奈《れいな》は何者かに「マインドコントロール」を受けていたのか?
そして彼女をマインドコントロールしたカルト集団は、まさに某カルト集団がそうだと吹聴していたように世界の終末を引き起こして、教義の信憑性を訴えたのか?
ならば、この「34号文書」はカルトにとっての経典なのか?
何が真相かわからなくなる時、…この惨劇《さんげき》を見て誰が楽しんでいるのかを思うときがある。
このスクラップ帖は、そう、脚本なのだ。
数千人もの村人の命を一夜にして奪う、惨劇《さんげき》の舞台脚本。
人の死を見て笑う地獄の観劇者のための、悪魔たちの脚本。
この脚本を誰かが書いた。そして誰かが上演した。それを見て誰かが笑った。
くそ……!!
……昭和58年の6月に雛見沢《ひなみざわ》で、一体何が起こったって言うんだ……!!
■おしまい