ひぐらしのなく頃に解 「目明し編」
砂漠にビーズを落としたと少女は泣いた。
少女は百年かけて砂漠を探す。
砂漠でなく海かもしれないと少女は泣いた。
少女は百年かけて海底を探す。
海でなくて山かもしれないと少女は泣いた。
本当に落としたか、疑うのにあと何年?
■脱獄劇
…キーホルダーに括り付けられたカギは大小7つ。
どのカギが正しいものかよくわからないから、自分の勘に従って順に一つずつ試すしかない。
期待値は3.5本。
最初に試した三本以内のカギで開けば、幸運。
それ以外は不運と占うことができるだろう。
こういう場合、石橋を叩いて渡るなら、正解のカギを7本目に当ててしまうという最悪の可能性を考慮するべきだ。
頭がしくしくと痛み出すぐらいに、冷静さと緊張感がせめぎ合う。
カギを錠前に挿す、開錠を確かめる。
その行為を淡々と繰り返せばいいだけのはずなのに、……指先の微弱な震えを抑えきれない。
…ちぇ、…カギを挿して回すなんて、それだけの動作、幼稚園児だってやれる。
……じゃあ今の私は幼稚園児以下ってわけ?
下らないことは考えなくていい、不器用だっていい。
…とにかく、淡々とこの7つのカギを全て試せばいいのだ…。
…どんなに星の巡りが悪くたって、7本目で絶対に開くのだから……………………。
「………………………。……………………うっそ……。」
……だが、現実は算数じゃない。
私の目の前に突きつけられた現実は、どのカギも外れであるという致命的なものだった。
全身から、ザーーっという音を立てて血の気が引いていくのが分かる。
…このカギ束ではなかった?!
いや、プレートにはここの施錠に使うカギだと薄らとだが明記されている。
…それすらも読み間違えたのか?
今すぐ引き返し、再びあのキーボックスを丹念に調べなおすべきだろうか…?
それはもちろん致命的なロスタイムだった。
私は、今ここに居続けているだけで、リスクを一秒毎に累積している。
…次の一秒で、どんな予想外のハプニングが起こって、全てが水泡に帰すかわかったものではないのだ…。
管理室に引き返し、キーボックスを探し直す以外に、ここを開ける方法がないなら…私は躊躇なくそれを実行する他ない?
…なら、ここで座して脂汗をかくことに数秒を費やすことこそ愚の骨頂…!
管理室がこの時間に無人なのは、統計的なものであって絶対的なものではない。
…職員のちょっとした気まぐれで、誰かが戻ってきてしまうのだ。
そうしたらもう、のんびりとキーボックスを漁るなんて真似はできなくなる…!!
……屈んでいた全身に電気が走って弾かれたかのように、私は立ち上がる。
パニックに陥りかけているからこそ、体を全力で動かさないと不安になる……。
人間の本能に突き動かされての行動だった。
一刻も早く走って戻らないと危険…!!
ここにいるのも危険だし、管理室に誰かが戻ってきてしまうのも、危険危険!
………そんな恐怖心を、私は冷たすぎて、むしろ痛みすら感じさせるような…ドライアイスのように冷え切った冷静さで抑えこむ……。
落ち着け、詩音…。
…魅音ならこんなことでは取り乱さないぞ…。
何かの間違いかもしれないじゃないか…。
もう一度、…もう一度だけカギを試してみよう…。もう一度…最初から…。
その時、長い長い廊下を満たした空気が震えて、どこか遠くを歩いている誰かの足音をかすかに伝えてきた。
いつもの落ち着いた状態でなら、その足音が非常に遠くで、その主と出くわすこともないと理解できる。
……だが、今の精神状態ではそんなの屁理屈にしか聞こえない。
あぁ…くそ…。
この程度の遠い足音が聞こえるだけで、私はここまで動揺できるのかよ。
落ち着け…落ち着け……。
むしろこの感情を楽しむんだ。
…落ち着け、落ち着け。
…ただ淡々と目の前の作業をこなすんだ。
聞こえてくる遠い足音を、自分に危機を成さないと判断して無視…。
…聞こえないものと思え…!
あんな遠い足音よりも、もっと気にしなければならない何かを聞き漏らさないために…!
あぁ、くそ…。
このカギ…さっきまであんなにも硬くて冷たかったのに、…いつのまにか熱くなってぐにゃぐにゃになって、まるでゴムみたいになってるぞ…。
こんなにぐにゃぐにゃじゃ、鍵穴にうまく挿せるものか…。
くそくそくそ…!
カギがぐにゃぐにゃになったりなんかするもんか。
…ぐにゃぐにゃしてるのは私の手先だ。
…あぁもぅ…くそくそくそ…!
その時、ぐにゃぐにゃになったカギはビヨンと弾け、私の指をくぐり抜けて床に落ちた。
意地悪にもそいつは、さっきまであんなにもぐにゃぐにゃだったんだから、床に接地する時もそうであればいいのに…、床に叩きつけられる時だけ、まるで食器棚を丸ごと床にぶちまけた時のような凄まじい音をたてて見せた。
ジャリリリーンンッ!!!という、凄まじい轟音が私の心臓を破ろうとする。
そのぐわんぐわんとする音に、しばし頭がくらくらとした。
それから身を硬くして、この轟音によって世界に何か変化が起きなかったか辺りを慎重に窺った。
落ち着け、落ち着け…。
何も変化はない。何も聞こえない。…ってことはつまり、安全ってこと?
落ち着け…落ち着け落ち着け…。
あれ……何も聞こえないって?
さっきまで聞こえてた、あの遠い足音はどうして聞こえない?
落ち着け落ち着け落ち着け…!
落としたカギの音に反応して、気配を殺してこちらを窺っているのか…?
ああぁくそ…、ぼたぼたというすごい音は、私がこぼしている汗が床を叩く音なのか?
………うるさいうるさいうるさい…!
汗が落ちる音なんて聞こえるわけがないだろ…、落ち着けよ、落ち着け落ち着け、…落ち着けぇえぇえぇ…!!!
誤解がないように補記しておくが、…もちろん、ここは鑑別所でも少年院でもない。
学校法人の運営する私立学園だ。
もちろん、ただの学校ではない。
入学金だけでも数百万。小学校から大学までの一貫教育でしかも全寮制。
その上、女子校と来たら…これはもう、学校というよりも、貞淑な温室野菜の生産工場というべきだ。
なにしろ、クラスメートの中には、公共の交通機関に乗ったことがないって本気で言ってるヤツもいるくらいだ。
…まったくもって普通じゃない。
まぁ、私にしてみれば、日々の挨拶が「こんにちは」じゃなくて「ご機嫌よう」ってだけでも十分に異常だし、先生のことをシスターと呼ぶのも、虫酸が走るくらいに異常だ。
朝夕のお祈りだって面倒くさいし、日曜礼拝なんて大嫌いだ。
聖書の暗記なんかやってられないし、慈愛の精神なんて言葉は聞いただけでもジンマシンが出る!
こんな施設(私は学校と呼ばずにこう呼ぶ)に何年間も幽閉されたら、洗脳されるか発狂するかの二つに一つしかない。
ここに在籍するお嬢様どもはみな素直に洗脳を選ぶが、…斜な私はとてもそれは選べないのだ。
…何しろ、聖書を読んでも、その裏の宗教戦略や布教のプロセス、信仰という名の商品の国際貿易機構に感嘆こそすれ、間違っても神様の愛に胸を打たれたりすることはない。
そういう姿勢だからこそ、私は入学当初から問題児扱いだった。
…そういう扱いを受ければ、いろいろと不利益を被るのは誰にだってわかる。
もちろん、私もすぐそれに気付いたから、上辺は大人しく従うように演じ続けてきたのだ。
だが、いつの頃からそういう演技が退屈になってきて、地が出るようになっていた。
問題児再び。
周りの態度も急激に硬化し始める。
斜な態度を取ることは、その場その場では確かに楽しい。
…だが、トータルで見れば、何の得にもならないことは火を見るより明らかだ。
…それなのになぜ私はこんな態度を?
後々損をするとわかって、何でこんな無意味な態度を…?
……冷静に自己分析を続けた結果、自分がすでにこの環境に限界を来していることを気付く。
私は、この緩慢な温室の中で飼い殺されることを何よりも恐れていたのだ。
こんなところは、私の生きて行けるところではない。
こんなところで、私を殺されてたまるものかー!
この生活から抜け出そう、脱走しようと思い立ったのが、ちょうど半年前だった。
不思議なもので、脱走を生きる目的に掲げた途端に、私は生き生きとした生活を取り戻した。
シスターたちのマークを外すため、再び貞淑なフリを始めた。
脱走という最終目的のための布石と思えば、このフリはたまらなく面白いものだった。
シスターたちが、私が心を入れ替えて熱心に奉仕活動に励むのを見て、神様の御心のなせるワザがなんとやらとか言って、微笑みながら見守るのが、すっごく痒かったが。
私はそれらに背を向けて、こっそり舌を出しながら、ニヤリと笑っていた。
学校敷地内のマップ、職員配置、警備体制をチェックするため、クラスメートの奉仕活動や当番も率先して引き受けた。
…調べてすぐにわかったのだが、各界の要人のご令嬢を預かるこの学校の警備体制は厳重だ。
警備会社の人間がランダムに巡回し、校内各所に仕掛けられた防犯カメラによる監視網は鉄壁だった。
外部からの侵入者を警戒するこのシステムは、皮肉にも、私という脱走者を警戒するシステムとしても作用してしまっていたのだ。
だが、むしろそれは…私を大いに燃え上がらせた。
私は頭の中で何度となく監視網をくぐり抜けるシミュレーションを繰り返す。
授業中もノートの片隅に脱出経路を書き上げ、図上演習に徹した。
脱出に必要なスキルをピックアップし、その習得にも努めた。
それらは全部全部、とても面白かった。
…つまり結局、私はこういうことにカタルシスを感じる女な訳だ。
私は私。
どう洗脳したって、私は私以外の人間にはならない。
そして、心技体が共に最高点に達する時期をひたすらに探った。
まず、脱走するための勇気、度胸。
これは、成功の裏付けや自信があって初めて作られる。
私はそれを深めるため、なお一層、計画を煮詰めていった。
そして、技術や体力。
…脱走経路の中で、突破せざるを得ないいくつかの障害を想定し、自身の基礎体力増強に努めた。
(面白いもので、そう割り切ると体育の授業もとても楽しいものだった。誰もがいやがる持久走すらも、楽しかったくらいだ)
完璧な計画と、それを実行できる体力と技術。
そして、それらに裏打ちされた揺るぎない覚悟。
それら全てが揃ったことを確認し、私はゆっくりと温めてきた脱走計画を実行に移すことにした。
私はXデーを迎える前に、学校側にある種の爆弾を抱えさせることにしていた。
その爆弾とはズバリ、校内に(わずかだが)いる男性教師の誰かが、一部生徒と密会を重ねている可能性を漂わせることだった。
わざわざ説明しないが、この手の女子校では、それは致命的な問題になる。
……そもそも、そういうトラブルから遠ざけるための女子校だ。
しかも、預けている親たちは皆、各界の要人ばかり…。
事実であり、かつ公になることがあれば…学長が首を吊るくらいでは済まされない。
女の世界は小さな噂が大きく広がる。
ましてや、育ち盛りでそういうことへの興味が尽きないのに、男のいる環境から隔離された連中だ。
この手の噂が駆けめぐるのはとにかく速かった。
シスターたちは、そういう噂の払拭にやっきになり、下らない噂に過敏にならないようにと警告していた。
だが、一番過敏に反応していたのはほかならぬ学校側の方なのは、誰が見てもわかっていた。
この爆弾を抱えさせることにより、学校は、何か不祥事が起こった時、警察や家庭に通報せず、内部で処理しようとする傾向に陥らすことができた。
そして、この状況下で上手に私が失踪すると…、一部教師が私を連れて駆け落ちしたようにも見えるのだ。
もちろん、男性教師たちは皆、口を揃えて否定するだろう。
もちろん学校側は簡単にはそれを信じない。
…何しろ学校内に、不貞な密会の噂がすでに確認されているのだから。
学校側が全ての可能性を潰しきり、私が単独で脱走したことにいつかは気付くだろうが、その頃には私は十二分な時間を得て、すでに彼方へ逃げ去っている……。
私は噂を十分に浸透させ、さらに密会をしている生徒が私である可能性をうっすらと漂わせた。
シスターに何度か問い詰められたが、何しろ密会話そのものがでっちあげなのだ。
どう追及したって、アリバイこそあれ証拠など出て来ない。
私は、そういう特殊な土壌が十分に仕上がったことを、噂を流してから約3ヶ月目で確認した。
そして私は、クラスメートから夕食後の当番のいくつかを個人的に代り、Xデーの夜に死角となる時間が重なるよう調整した。
その晩だけ私と代わって欲しい…という頼み込みは、クラスメートたちの心にほんのちょっとの不信感を植えつけることができる。
この不信感の芽は、私が蒸発したあと、男性教師との駆け落ちという噂を生むための土壌になるのだ。
そして、Xデーの夜が訪れた。
私は食後のいくつかの当番のため、姿を消す。
私の失踪が発覚するのは、おそらく消灯時間だろう。
寛大なルームメイトは、10分くらいは待ってくれるだろうが、それ以上は待たずにシスターに通報する。
私に許される時間は、長めに見積もっても1時間ちょっと。
それだけの時間があれば十分…………!
いつもの決められた順路を一歩離れる。
その一歩こそが、自由への大脱走劇の幕開けだった。
冷静に冷静に考える…。
自分が持ってきたカギは間違いがないはず。
…この錠前は少々古くて固い。
ひょっとして、正解のカギを入れたけれども、固くて回せず、私がハズレのカギだと思い込んでしまっただけでは……?
自分でも自覚しているが、今の私は少し緊張気味で、普段よりも不器用になっていると思う。
指紋を残さないためにしているこの軍手も、手先を不器用にしてしまっているに違いない。
……もう一度、冷静にトライしてみよう…。
……一番、そうだと思えるカギをもう一度鍵穴にさして…そぅっと……。
…固い。
…無理にねじれば、カギの方が壊れてしまうのではと思った。
さすがに諦めようと思った瞬間、グリッとした手応え。……開いた!
扉を少し開く。
さっきから聞こえていた虫の音が、より大きくなって漏れ出してきた。
今さら躊躇する甘えなどない。それでも、外へ出るのにわずかの戸惑いがあった。
少なくとも、今いるここまでは言い訳が効く。
苦し紛れにせよ、何とか言い逃れが出来る。
……だが、ここから先にはそういう甘えはない。
警備員たちが巡回し、見つかればたとえ生徒であっても事務室へ連行される。
過去にも脱走しようとした輩がいたらしい。
…そりゃそうだ。
私だけが異端だとは思わない。
私のように、この環境に適応できない人間が過去にもいたのは頷ける。
だからこそ学校側は、生徒の脱走を、ありえる事態だとして認識していた。
……脱走を捕まった生徒の処遇は、………いくつかの噂を聞いているが、どれも信じたくない。
…この学校にまつわる怪談には、いつも脱走未遂の生徒が絡むからだ。
……くそったれ…、上等じゃないの…。
私だって、ここでしくじったら、次のチャンスがあるなんて甘えるつもりはない。
…いつだってチャンスはたったの一回。
この扉から先こそが…正念場…!!
自らを奮起し、…扉を押し開ける。
外気は鮮烈な匂いがした。
普段嗅いでいる空気にこんなにも強烈な匂いがあったっけ…?
こんな、むわっとするような青臭い匂いを嗅いだことはなかった。
何か普段と違う事態が発生している…?
注意した方がいい?
今夜は大人しくカギを返してチャンスを改めた方がいい…?
……馬鹿をいうな。
何も普段と変わる事などない。
これはいつも嗅いでいる空気の匂い。
…私が普段、気にも止めないいつもの外気の匂い。
つまりはそういうこと。
冷静沈着を気取る私にも、人並みに焦ったり緊張したりする心があるわけだ…。
……落ち着け、自分。…落ち着け、詩音…!
ここからは頭の中にある地図だけが武器だ。
監視カメラの位置は今日までに全て探った。
…それらを欺く自信はあるが、一番問題なのはカメラじゃない。警備員だ。
警備員の巡視時間と巡視ルートは完全にランダムで、読みきれない。
本当の意味での出たとこ勝負。
身を隠せる場所はまだいい。
だが、どうしてもやり過ごせない危険地帯が約数十メートルある。
精神と研ぎ澄まし、五感を鋭くする。
……ま、何だかんだと言ったって、結局のところ最後は運だ。
どんなに私がベストを尽くしても、ちょっと巡り合わせが悪ければアウト。
逆に、私がどんないい加減な計画で動いたとしても、運が良ければ何でもOKになるということでもある。
……ちぇ、私は今日まで積み重ねてきた努力なんて、そんな程度のもんだとはね。
あはは、こういうのをギャンブルって言うんだろうな。
自分の行為が博打だと気付くと、何だか緊張の奥底からわくわくする気持ちがこみ上げて来た。
そうさ、これはギャンブル。運試し。
私、園崎詩音が、自分の意思で生活を一変させようとするこの決意を占う、運試しなのだ。
この程度の学校から抜け出すのに、失敗して捕まってしまう程度の運気なら、仮に自由の身になれたとしても、ろくな未来などあるものか。
私は違う。
ここから踏み出す。私自身の運気を試してやる。さぁ…行くぞ、詩音!
うるさい虫どもの声だけを選別消去して、不審な音だけを抽出する。
……気配、ゼロ。…一番うるさいのは虫の声より自分の心音。
じゃり。
…自分の足音すら、やかましくて鼓膜が破れそうだった…。
一歩、歩くごとに私の想像力たくましきお頭は、警備員との予期せぬ遭遇を予感させて苛んだ。
その責め苦に耐え切れなくなり、走り出そうと何度思ったことか。……だが、無様に走れば不穏な騒音を掻き立てるだけだ。
人がいてはいけない場所、時間帯に走る音が聞こえれば、誰だって何か異常な事態だと勘付く。
仮に聞かれたとしたって、ただ歩く音なら、まだしも疑問には思わない。
もちろん私は、その歩く音すら聞かせるつもりはなかった。
五感を研ぎ澄まし、視界に収まる以上の情報を採取することに努めた。
だが、いくら耳を澄ませても、何の気配も感じられなかった。
……せめて、どこか遠くにいる警備員の気配でも感じられた方が、まだ安心できたかもしれない。
何も聞こえないということは、周囲が安全であると教えるよりも、自分のセンサーがこの上なく鈍感で、頼りないものなのではないかと不安がらせる方が強かったからだ。
実はすぐ近くに誰かいて、…間抜けにも私がそれに気付いていないだけなのでは…。
そう思うと、自分の足音さえ消したくて、時に歩みを止めたりもした。
……これじゃ、足がすくんでいるのと変わらない…。
立ち止まるか、走り出すか。そのどちらかを内側の自分が強要してくる。
もちろん立ち止まっては駄目だ。
慎重に、だけれども迅速に進まなければ何の意味もない。
…私は、ここに居続けるだけでも、常にリスクを累積しているのだから。
そして走り出すことは愚の骨頂。
…あぁ、そんなことはわかっているのに……! 走り出したくなる衝動を抑えるのが…苦しい。
ほんの数十メートルの危険地帯を抜けるまで、私はずっと、それらのことで頭をいっぱいにしていた。
やがて、誰の気配も感じず、もちろん誰にも出くわすことがなく、抜け切ったことを知った時。
…私はその場にしゃがみ込んで、肺いっぱいに溜まった、腐った空気を吐き出さずにはいられなかった。
………ネガティブな感情が一気に引っ込む。
……もう一息だ。…もう一息!
そこの茂みを抜ければ、そこは外界と敷地を隔てる柵だ。
今にも走り出したい衝動は、どんどん強くなる。
…私はそれを理性でぐっと抑えこみながら、慎重に最後の関門に臨んだ………。
学園の敷地を囲む洋風な柵は、美観上は優秀だったが、防犯上はそれほど優秀ではないようだった。
柵をよじ登るという、無防備な姿を発見されやしないかとずっとびくびくしていたが、幸いにもそれはなかった。
この柵に、接触感知の警報装置があるかもしれないという、妄想にも苛まれた。
…だが、もう遅い。
こうしてよじ登っている今、そんな妄想に心を許すことそのものに意味がない。
柵のてっぺんから地面までは、2mはあったかもしれない。
慎重に登ったんだから、降りるときも慎重に。
……理屈ではそうだったが、そこが私の理性の限界だった。
私は臆すことなく、その高さから飛び降りることを選ぶ。
もちろん、自由落下に身を任せてから少しは後悔した。
落下時特有の、ふわっとした感覚が、自分が予想したよりもずっと長かったので、落下しながら怖くなった。
綺麗に着地できず、尻餅を付く。
だが、誰も笑う人はいないし、私だってそんなことに照れ笑いをするゆとりなんかなかった。
私が飛び降りた時に出した、最後の轟音が誰かの興味を引かなかったか、周囲を見回して探る。
そして、合唱を続ける虫たちすら、そんな音には関心を示していないことを知り、私はようやく胸を撫で下ろすのだった…。
腕時計を見る。
時間は…20時5分前。
…わずか15分ちょいの脱走劇だった。
数字に直すと、いかに短い時間だったかがわかる。
この15分間にしたことを振り返れば、…一番占めているのは多分、あれこれと自問自答する躊躇の時間だったように思う。
……取り越し苦労って言うんだろうな。
だがまだ気を許してはいけない。
私が監視カメラを全て欺けた保証はないのだ。
別にここは銀行とかではない。
私の影を仮に警備員が認めたとしても、防犯ベルが鳴り響く訳じゃない。
私がこうしてのんびりしている間にも、警備員たちがすぐそこまで来ているかもしれない。
自由の空気を胸いっぱいに吸い込むには、まだちょっと早いのだ。
それから、暗がりに身を隠し、時間を待った。
予め決められた時間まで、あと少しだった。
■アイキャッチ
■葛西の迎え
時間を待つ間、学園の敷地内に目を凝らすが、何も変わった動きは見られなかった。
こうして、お上品にライトアップされている西洋建築の建物を見ていると、ますますこれが学校であるとは思えなくなる。
……収容施設ならそれらしく、電流鉄線とサーチライト、ドーベルマンで警戒してろってんだ。
こういう時、学園で過してきた数々の思い出が走馬灯のように過ぎるのかな、と思っていたが。そんなことは全然なかった。
そういう時の走馬灯ってのは、いい思い出を振り返るためにあるべきだ。
私はこの学園でいい思いなんか全然しなかったから、過ぎるべき走馬灯の映像が存在しない。
…もしも、あえて走馬灯で良き思い出の映像を流すとしたら、豪華絢爛なディナーの数々だけかもしれないな。
だとすると私が見るべき走馬灯は、和食や洋食、中華やフランス料理なんかばっかりが過ぎることになる。
……なんだそりゃ。
さすがにこの想像はおかしかった。思わず吹き出してしまう。
……やがて、車が近付いてくる音がした。
再び暗がりに身をかがめる。
事前に連絡のあったナンバー。…間違いない。
私は飛び出して、徐行した車の助手席側に駆け寄り、ドアを開けて飛び込んだ。
「お勤めご苦労さまです。詩音さん。」
運転席には初老の男。
……初老と言ったら本人は怒る。本人はまだ中年のつもりだ。
私が無事で、その表情から万事うまく行ったことを悟ると、にやっと笑った。
「シャバの空気は久しぶり〜。あ〜とにかく今は銀シャリが食いたいかな!」
「あっはっはっは! …学園では上品なお料理ばかりが出てると聞いてましたが。詩音さんにだけは麦飯が出ていたんですか?」
「ばぁか、そんなわけないでしょ?! 冗談に決まってるじゃない。ほら、笑ってる暇があったら、とっととアクセルをふかす!」
「はいはい。仰せのままに…。」
葛西は苦笑いを隠そうともせずに、げらげらと笑うと、私にシートベルトを促してから、一気に車を加速させた。
瀟洒なヨーロッパの寺院のような学園は、あっと言う間にバックミラーから消えてしまう。
あまりに情緒なく消えていったので、私には和洋中の絢爛なディナーの走馬灯を見る時間はまるでなかった。
さよなら、我が愛しの学園生活!
見てろよ、私は上品にされた胃袋を、今日から下品なジャンクフードで満たしてやるからな。
お前らに叩き込まれたテーブルマナーなんかとは、一生無縁な食生活を送ってやる! あっはは! ざまぁ見ろ!
欧州の一角なのでは…と勘違いさせられかねないお洒落な雰囲気は、しばらく走ると、広大な畑と冴えない街灯の風景に早変わりしていった。
私もようやく、ここが日本の片田舎であることを思い出せた。
「お腹は空いてないですか? どこか飯の食えるところへ寄りましょうか?」
「食事してるからいい。」
ちょっぴり嘘だった。
本当はちょっとお腹が空いている。
動きが鈍くなるのを嫌って、今日の夕食は少ししか手を付けなかったからだ。
葛西の提案はとても嬉しかったが、今の私には、帰るべき土地よりも敵地に近いこの土地で、のんびりと食事を嗜む気には到底なれなかった。
「この時間ですから、高速に上がってしまうとSA寄っても、自販機しかないですよ。…まぁ、最近はハンバーガーとかの自販機もありますけどね。そうそう、聞いた話では最近じゃ、おでんの自販機もあるって話です。」
「はぁ?! 何それ! コーヒーの自動販売機みたいに、器がぽろっと出て来て、押したボタンの具がボトボトって落ちてくるわけ…?? 気持ち悪〜〜〜。」
「あはは、そういうのじゃないらしいですよ。おでんの缶詰になってるそうで、それがゴロンと出てくるらしいんです。」
「…あ、ごめん。缶詰はパス。」
「缶詰、……相変わらず駄目なんですか? もう子供じゃないでしょうに。」
「…嫌なもんは嫌なのー。うっさいなぁ。もー何、笑ってんのー!」
葛西はくっくっくと笑っていた。
私の緊張をほぐすために、いろいろと話しかけてくれてるんだろうなと思った。
…葛西は本来、こんなにもお喋りな男ではない。
「私ゃ疲れちゃったよ。少し寝させてもらいます。…これ、リクライニングどうやって倒すの?」
「そっちの左側の根元を探ってみて下さい。レバーみたいなのがありませんか?」
「ん、あったあった。……よっこらしょっと。」
葛西が、また陽気にけらけらと笑う。
「何か面白いこと、私した?」
「いえいえ。…よっこらしょ、なんていう若くない言葉遣いが、どことなく魅音さんに似ておられたもので。」
…そりゃそうだ。
私も魅音も、一卵性の双生児。互いが互いの完全なるコピーなのだ。
私が何かに反応を示せば、魅音もまた同じ反応を示す。
魅音が反応を示したものなら、同じ状況になれば、私もまったく同じ反応を示す。
「お姉は元気?」
「多分元気かと。私も親族会議の席に親父さんをお連れする時に、少しすれ違う程度ですし。」
「そっか、お姉はもう実家じゃないんだったね。雛見沢の鬼婆のとこだっけ?」
「詩音さんが学園に入られるのと一緒の時期に、園崎本家に移られました。」
…ふぅん、と、自分から聞いておきながら、私は興味なさそうな返事を返す。
園崎本家ってのは、平たく言うと、園崎家頭首である園崎お魎の実家。
つまり鬼婆の実家のことを指す。
……もっとも、園崎本家という言葉を使う時、それは単に家を指す以上の意味で使われることが多い。
葛西がここで使った園崎本家という言葉も、ご多分に漏れずそういう意味だ。
「……少しは変わった?」
「魅音さんがですか?」
「そ。……あの鬼婆と朝から晩まで顔を合わせてりゃ、少しは変わるでしょ。」
葛西は、くっくっく! と笑いを漏らす。
私が鬼婆を嫌ってるのを知っているからだ。
「私が見る限り、変わったようには感じません。…詩音さんの知っている魅音さんのままですよ。」
「私はどう? …私は変わった?」
「いいえ。全然。」
葛西は悪戯っぽく笑いながら即答した。
……だいぶしばらくぶりに会ったってのに、こうもあっさり即答されると、それはそれで面白くない。
私がむぅ…っと睨んでいるのに気付くと、葛西は堪えきれなくなったのか、笑いを爆発させた。
「あっはっはっは! 全然変わっておられませんよ。あれだけのお嬢様学校に入られたのに、まったく変わらないというのは驚くに値します。くっくっくっく…!」
「ちぇ〜〜。好きなだけ笑ってろー! 私ゃ寝るよ、寝るー!」
「後ろの席に毛布がありますよ。使ってください。」
「ん、ありがと。」
毛布を引ったくり、それでぐるっと身に包む。
あれだけ疲れを感じていたのに、いざこうして眠る体勢を作ると、一向に眠気が訪れないから不思議なものだった。
そんなことはない。
体も心も、慣れない脱走劇に緊張しきっていて疲れているはずだ。
それを感じないのは、まだ緊張が冷めていないだけ。
だから、自分に今のうちに寝ておけと命令するため、あえて口に出してもう一度言う。
「寝る! 私ゃ寝るよー!」
「はいはい、さっきからもう三回目です。それとも私が許可しないと寝れないんですか?」
「今日のあんたは喋り過ぎー! あんたが少し黙っててくんないと眠気も引っ込んじゃう!」
「失礼しました姫君。ではしばらく黙らせてもらいます。…くっくっく…!」
葛西とのどうでもいいお喋りは、私がまだ興宮の町で平凡に暮らしていたころを思い出させる。
もっともあの頃の生活を、平凡と言っていいかはわからない。
ダム戦争の渦中にあって、朝から晩まで大騒ぎの日々だった。
みんなで結束し、今考えれば、かなりヤバイことをたくさんしてのけたものだ。
ひとつひとつ掘り起こされたら、間違いなく年少送りは免れない。……というか、雛見沢の人間の半分くらいは刑務所送りになるかもしれないな。
でも、あれは犯罪として行ったものじゃない。
そう、戦争だった。
戦争という側面を持ちながらも、同時にあれはお祭でもあったかもしれない。
雛見沢に連なる全ての人間が結束して立ち向かう、お祭だった。
苛烈な戦いだったけど、それはそれで今にして思えば楽しかった。
機動隊にみんなで石を投げつけたのだって、面白かった。
警官に追っかけられて誰かの家に駆け込みかくまってもらったり。
捕まった仲間の釈放を求めて警察署に詰め掛けたり。
工事現場に侵入していろんな妨害工作を行ったのは、戦争というより、戦争ごっこに近い感覚だった。
どきどき、わくわくした。
…顔も知らない仲間たちと共にする連帯感は、今思い出しても、胸が熱くなる。
そう、あの感じは…祭のお神輿を担いでみんなで村中を練り歩き、汗だくになってへとへとになって。…最後にみんなで地面に突っ伏して、知らない仲間同士、麦茶を掛け合ってはしゃいだ時の興奮によく似ていた。
当時の私はまだまだガキンチョ。
親父のところを出入りしてる若い兄ちゃんたちを連れて、いろんな悪さをしたのがとても懐かしい。
警察にも何度もお世話になったっけな。
でもそんなの、宿題を忘れて職員室に呼びつけられて怒られるのとそんなに大差なかった。
………当時は村の連中は、故郷がダム底に沈むって殺気立ってたけど。…私ら子どもには、今にして思えば結構楽しい思い出だったもんだ。
その楽しいダム戦争は、数年前にひょっこりと終わりを告げた。
祭のような、表層的な運動だけが作用してダム計画が頓挫したわけではない。
園崎本家とうちの親父たちの暗躍によって、裏で様々な工作が行われていた。
…これは園崎本家のトップシークレットだが、…何でも、当時の建設大臣の孫を誘拐して脅迫したとか、しないとか…。
孫は、誘拐から何日かして、ひょっこりと発見された。
……谷河内の方の山奥で発見された。
……そのまま鬼隠しになって消えたのではなく、発見された、ということは。…つまり、裏での何らかの取引が成立したってことだ。
その翌年に、ダム工事は計画の無期限凍結を宣言し、終結した。
警察は孫の証言から、雛見沢の住民数人が直接的に関与していると見て、しつこく捜査をしたが、そんなのは無駄なこと。結局何も掴めはしなかった。
祭の仲間たちは、仲間を見捨てたりしない。
仲間を守るためなら、何でもするし、どんな嘘でもつく。
……アリバイから状況証拠までお手の元。
…警察如きに、真相など掴めてたまるものか。…ははん!
道路の舗装が悪かったのか、車が大きくガクンと揺れ、はっと我に返った。
……そして、自分がいやに上機嫌な顔をしているのに気付く。
……そっか。
私は、自分の故郷に帰るのを、楽しみにしてるんだな。
「詩音さん。……起きてますか?」
「………何?」
「お帰りですが、…………興宮でよろしいですよね。」
「……他にどこに帰んのよ。」
1+1=2だろうってくらい、当り前なことを聞くなと不機嫌に返す。
そうすると葛西もまた、1+1=2だってくらい当り前に返してきた。
「詩音さんを聖ルチーア学園に入学させる決定は、園崎本家頭首が下したものです。…詩音さんはその学園を抜け出した。…どういうことか、お分かりですね。」
「鬼婆の決めた学校が私に合わなかったってだけでしょ。」
「…詩音さん。」
「……わぁってるって。ぅっさいなぁ。」
園崎本家頭首である鬼婆の決定は絶対だ。
……床に落としたおかずを三秒で拾えば、まだ食べても大丈夫なんて言ういい加減なルールとはワケが違う。
しかも、私を園崎本家から遠く離れた学校に幽閉するというのは、……何しろ、私が生まれた時から決まっていたことなのだ。
私に与えられた名前は『詩音』。
姉の『魅音』には「鬼」の一字が入っている。これは鬼を継ぐという意味。
つまり、鬼の血を受け継ぐ園崎本家を継ぐ者という意味だ。
そして私の『詩音』には「寺」の一字が入っている。
これは、やがては出家させて寺に閉じ込めてしまう…、そういう意味だ。
こうして考えると、私はこの詩音という名前に虫唾が走る。
そもそも『詩音』という存在は、園崎家にとって忌むべき存在なのだ。
本家を継ぐ後継ぎが二人。
…歴史の様々な事例を見るまでもなく、後々のトラブルの種に成りかねないのが、容易に想像できる。
本家に代々伝わるしきたりによるならば、後継ぎに双子が生まれたならば、産湯につける前に絞め殺せってことになっているらしい。何ともすごい話だ。
ってことはつまり。
…私はこうして日々を生きて、呼吸をしていられるだけでも、ありがたがらなければいけないってことになる。
実際、産湯に浸かる前に、生まれたばかりの私の首に、鬼婆は実際に手を掛けたらしい。
…その場でどういうやり取りがあったかは知らない。
命知らずな親族の誰かが、鬼婆に思い止まるように進言したのか。
さもなきゃ、鬼婆がその日だけやたらと機嫌が良かったかのどっちかだ。
(なら手を掛けるなよな、おっかない!)
私たちは双子だ。互いに何の違いもない。
だけれども、先に母さんのお腹を出た方が『魅音』と名付けられ、2着にしてビリになったもう一人の方を『詩音』と名付けられた。
まわりはやっきになって『魅音』と『詩音』を区別しようとしたが、私たち姉妹にとって、それはひどく滑稽なことだった。
何も違いのない二人なのに。
ちょっと帽子を交換するだけで、誰も見破れないのに。
なんで大人はみんな私たちを区別しようとするの? って。
まぁ、いつまでもそんな双子のお遊びは続かなかった。
ある日を境に、魅音と詩音は絶対的に、くっきりと別れさせられることになる。
それが、魅音は後継ぎの修行のため、園崎本家で鬼婆と同居。
そして私は、例の学園に幽閉されるということだった。
……別に私はお姉が本家を継ぐことに、今さら異論はない。
まぁそりゃ、昔はちょっとは悔しかったけど。今になれば、むしろ面倒くさいしきたりや風習に縛られた魅音がお気の毒に思えるくらいだ。
だから、私が興宮の町に戻ってきたって、園崎本家の脅威になるなんてことはない。
だが、…あの鬼婆はそうは思わないらしい。
私のことを、黒猫とかカラスとか、ぱっかり割れるお茶碗とかそんな感じの、不吉なものの象徴として考えてるらしいのだ。
…だから、自分の近くから少しでも遠ざけたいつもりらしい。
そりゃ別に構わないよ。……私だってあんたの顔なんか見たくない。
雛見沢に立入禁止ってんなら、別にそれでもいいよ。
一歩踏み入るごとに罰金一万円ってルールにしてもいい。
でも、私にとって住み慣れた興宮の町はお目こぼしをしてほしいものだ。
小さい頃は雛見沢で過したが、もうそんなに愛着はない。記憶も薄いし。
それよりは、小学校時代を丸々過ごした興宮の町の方がずっと愛着がある。ぱっとした冴えない町だが、私はそんなに嫌いじゃない。
「興宮の町へ帰れば、親族の誰かの目に触れることになります。やがては必ず本家の知るところになります。」
「鬼婆の耳に入ったらどうなるか、ってことー? ………たはは、まぁ、そりゃあヤバイことにはなるかもね。」
「…………お分かりならいいんですがね。」
「……なぁに、葛西。…あんた、今から私に引き返して、あそこへ戻れって言ってるわけ?」
「まさか。そんなことは言いませんよ。……私が言いたいのは、」
「…相応の覚悟はあるんだろうな、ってことでしょ…?」
「口先だけでなく、本当に理解してるんならいいんですがね。」
「ま、そうだろうねー。万が一の時は、脱走の手伝いをした葛西も責任は免れないだろうしね。葛西も小指に未練があるなら、今の内に小指にいっぱいキスをしておいた方がいいんじゃない? …くっくっくっく!」
「その時は詩音さんも、簀巻きにされて鬼ヶ淵沼に放り込まれるくらいの覚悟をして下さいよ? あぁ、あるいは本家離れの拷問部屋送りかも。」
実際には見たことはないけど。園崎本家には、大きな拷問部屋があるらしい。
村に仇なす者を、そこで苛め殺して闇から闇に葬ったとか葬らないとか…。
…実に恐ろしい話だ。
自分がその噂を、被験者として確かめる目に遭わないことを祈っておこう。
「はいはい。ま、何とかなるって。あははははー。」
「つくづく詩音さんは姐さんに似ている。その出たとこ勝負的なところが特にです。」
「そりゃ似るでしょ、実際の母親だもん。あはははははは。」
私が学校を抜け出したのを知ったら、…親父もお袋も、烈火の如く怒りまくるだろうなぁ…。
鬼婆に知られるより、私的にはそっちの方がコワイ。
あんまり長々とは説明したくないが、私の親父はヤクザだ。
鹿骨市一帯を勢力圏に置くそこそこの組織の元締めで、広域暴力団の大幹部でもある。
ちなみに、私の忠臣であるこの葛西も、その内のひとりだ。
うちの両親がまだ結婚してなかった頃からの旧友らしく、親父の信頼も一際厚い。
ホントかウソかは知らないけど、温和な葛西も、若かりし日にはかなりの武闘派で通っていたらしい。
見たことはないが、体には物騒な傷痕がいくつもあるらしい。
親父の片腕としていくつかのシマを任されていたが、抗争で大怪我をしてから一線を退き、今は親父の相談役(ただの飲み仲間だ)となっている。
いつの頃から、私のお目付け役みたいになり、いつしか私の便利な執事みたいな存在になっていた。
初めの頃は、親父の密命を受けて私を監視してるんだろうなと思い、煙たく思っていた。
だがその内、この男は本当に私の味方なんだなと思うようになっていた。
…これは女のカンなのだが。
…多分、葛西は昔、うちの母さんが好きだったんじゃないだろうか。
うちの親父とちょっとした三角関係だったんじゃないかと思う。
で、結局、親父に出し抜かれたわけだ。
でも、母さんの側を離れられなくて、旧友としていつまでも側にいるのではないか、と。
そういう仮定を持って葛西を見てみると。どことなく納得できるフシがある。
私を通して、若かりし日の母の面影を見ている、…そんな感じ。
ことあるごとに、私のことを姐さんに似ている…と言うのは、特にそんな感じだった。
少し気持ち悪いヤツだなーと思ったこともあるが、葛西は悪意を持って私に接してるわけじゃない。
…打ち解けてみれば、シャレの通じる面白い男だったのだ。
だから、園崎本家の命令で幽閉されている私の脱走を手助けしてくれるのは、葛西しかありえなかった。
私は脱走を思い立った早い内から、葛西と連絡を取り、脱走の計画を調整してきていたのだ。今回の脱走劇の共演者、共犯といっていい。
…そう思えば葛西が、興宮に戻ってからのことを不安に思うのは当然だった。
親父たちや本家なんかの色々なしがらみを思えば、…最悪、指を詰めるようなことにもなりかねない。
あはは、私も簀巻きにされて沼に放り込まれるって話も、ありえない話でもないかもしれないな。
でも、私が帰るところは決まっていた。
興宮の町以外に帰るつもりはない。
そここそが私の故郷だったからだ。
…この執着は、ホームシックや望郷の念の類だと言ってもいい。
今さらかっこつけるつもりなんて、さらさらないのだから。
「実際、どうするつもりです? 園崎一族の目はそこいら中にありますよ。」
「ま、最初はのんびり隠れながら過します。仮に姿を見られたって、魅音だって言い張ればいいんだしね。あはは!」
「それから?」
「んで、ほとぼりが冷めてきたら、私に近しい親類から徐々に打ち明けていく。私に味方になってくれる人たちだって、そこそこにいるからね。…私も親父と大喧嘩した時、あちこちでいろんな人にかくまってもらったし。」
「なるほど。味方と既成事実を充分に作り上げてから、最終的には園崎本家にもお目こぼしをもらおうというつもりですね。……うまく行きますかどうか。」
「行くって! そもそも、私を学園送りにする決定だって、結構みんな反対してくれてたもんね。あれは私をやたらと嫌った、鬼婆の猜疑心からの決定みたいなもんだったし。……葛西もそう思うでしょ?」
「……えぇ、まぁ。…私もあの決定には、さすがにやり過ぎとは思いました。」
「鬼婆はとっくに更年期障害で、正常な思考なんか出来なくなってんの! あのダム戦争の興奮で、頭がイカれちゃって、まだその時の興奮が抜け切ってないんじゃないかな。ったく!」
葛西は、さすがに相槌こそ打てなかったが、苦笑いでそれを肯定してくれていた。
私は、結局毛布に包まったまま、眠らなかった。
自分から黙れと言っておきながら、ずっと葛西とおしゃべりを続けていた。
……やがて、…しゃべり疲れ、高速道路独特の単調な揺れが心地いいな、なんて思い始めた頃、葛西が不意に声をかけてきた。
「詩音さん。…ほら。」
「……………………………。」
もうさすがに眠かったので、無視を決め込む。
…葛西が、ほらと、何を見せたかったのか興味はあったが、そんなに関心はなかった。
それでもぼんやりと目蓋を開けると、看板がすごい速度で視界に飛び込み、そして後ろへ消えていった。
その看板をきっと葛西は見せたかったんだろうなと思った。
看板には、市の花であるツツジの花のイラストと共にこう書かれていた。
『ようこそ鹿骨市へ』
故郷はすぐそこだった。
■幕間 TIPS入手
■考察メモ冒頭(1日目終了時)
昭和57年6月の某日。
綿流しの祭りの数日後に北条悟史は失踪する。
悟史くんが失踪する理由は常識的に考えて3つある。
1つは事故等によるもの。
車にはねられ、用水路等に落ちて、遺体が発見されたのが数ヵ月後なんて言う話も時にある。
だが、悟史くんの行動半径を中心に警察が十分に捜査した上で、未だ見つからないのだから、これは違うように思う。
もう1つは自発的失踪。
悟史くんの生活は、精神的に非常に追い詰められたものだった。
実際、彼は周囲に蒸発したいようなグチを漏らしたこともあるらしい。
警察は、叔母殺しは悟史くんが犯人で、逃亡したからではないかと見ていた。
それらを加味して考えると一番現実味がある。
だがその後、犯人は別にいることがわかったため、この説は否定された。
最後の1つは、雛見沢村連続怪死事件、
通称オヤシロさまの祟りの犠牲者となり、失踪したという考え方。
オヤシロさまというオカルト的な存在の立証ができない限り、この事件は間違いなく人の手で起こされている。
悟史くんは何者かの手によって、消されたと考えるのが一番妥当だ。
ならば一番の問題は、手を下したのは何者か、ということになる。
結論から言うと。
園崎本家か、その意向を汲んだ御三家筋、親戚筋の何者かが犯人であることはほぼ間違いない。
……いや、この程度までなら警察だってわかる。
本当に考えるべきはここからなのだ。
実際に、誰が、どのようにして、何のために?
なぜ悟史くんは犠牲にならなくてはならなかったのか。
動機は何なのか。
命令を下したのは誰なのか。
実行したのは誰なのか。
黒幕も、犯人も、そして真実も。
全ては私のすぐ近くにある。
ひょっとすると、それはすぐ背中辺りにあるのかもしれない。
だが、たとえ自分の背中であっても、満遍なく手が届くわけじゃない。
手が届きにくい場所、手で触れるには肩の関節を痛めて歯を食いしばって、やっと指先が触れる程度の場所もある。
私の求めるものは、そういう場所に隠されているのだ。
これより記す記録は。
私の考察を整理するためのメモであると同時に、私の悔悟を書き記したものでもある。
このメモが私以外の目に触れることはないだろうとは思う。
もしも私以外がこのメモを読むようなことがあるとすれば。
…私は真相を解き明かしこのメモが不要となったので廃棄したか、私が志半ばで「オヤシロさまの祟り」に遭い失踪してこのメモだけが残ったかのどちらかだ。
前者ならいい。
……だがもしも後者だったのなら。
どうかあなた。
私の力になって欲しい。
無力で、ただの小娘に過ぎない私のために。
■明けて朝
起床のチャイムはない。
もうここは学園ではないのだ。
そんなことは寝ぼけた頭でもわかってる。
にも関わらず、学園で決められた起床時間に目が覚めてしまうのがとてもシャクだった。
寝直そうかとも思ったが、起きてしまったものは仕方ない。
それに、これからは与えられた生活を、不平を漏らしながらなぞるわけじゃない。
楽しくするのも、つまらなくするのも、私自身なのだ。
あっは☆ それって何だかかなり前向き。生きてるって実感。
着替えも何もないから、私は相変わらず学園のジャージのまんまだった。
…イタリアだかの某とかいうデザイナーがデザインした…という触れ込みだが、こんな味もそっけもないジャージのどこにデザインの余地があるのか、大いに疑問だ。
自由を満喫しているというのに、服だけがいつまでも学園のものというのは何だか不愉快だった。
この格好じゃ表を歩く気にもなれない。
あとで葛西に、適当な服を持って来させよう。
それから、部屋のレイアウトでも考えるか。
何しろ、ここはこれから私の城なのだから。
ここは興宮の外れにある、この辺じゃかなり立派な部類に入る高層マンションで、親父の系列の不動産会社が、なんだか得体の知れないゴタゴタで「差し押さえた」物件だ。
…その得体のしれないゴタゴタの関係で、居住者はほとんどが出て行ってしまっている。
だからこれだけの戸数があっても、まったく人の気配のしない、寂しいマンションだった。
それに居住しているのも、管理人夫婦とほんの1〜2軒を除いては、みんな親父の関係の、あまりガラのおよろしくない連中だ。
このマンションから、善良な住民が駆逐される日も、そう遠くないな…。
私の住む事になるこの部屋は、元はオープンルームだったらしく、見かけだけはビジネスホテルの一室みたいに見えた。
中途半端に家具は揃っているが、生活に必要なものは一切ない。
そういう物は、これから細々と買い揃えていけばいいだろう。
「…むしろその方がいいよね。自分の部屋っていう実感が湧くし。」
自分の口に出したことに対して、ウンウンと頷く。
馬鹿っぽいが、景気づけはとても大事。
学園では共用スペースにしかテレビがなかった上、民放は見せてもらえなかった。
その憂さ晴らしとばかりに、民放のチャンネルを総嘗めにしてみる。
もちろん、こんな早朝じゃどのチャンネルだって、大したものはやっていない。
それでも、そこそこに楽しく眺めることができたし、久しぶりに見るCMもなかなかオツなものだった。
それにも飽きてお腹が空いた頃、葛西が弁当を持って訪ねて来てくれた。
「詩音さん、おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「ソファーに毛布でごろ寝は結構辛いです。やっぱ日本人はちゃんと布団敷いて床に寝ないとねー。うんうん、たくあんがおいしい〜!」
「それは良かった。あとで必要なものを教えて下さい。可能な限り揃えるようにします。」
「ありがと。あ、でもそんなに気を遣わないでいいです。私の好きで始めた生活だし。葛西だって、たかられたらお財布もたないでしょ? あははははは!」
お金とか、これからの生活の話は、やはり真面目に話さなければならないことだ。
いつまでも葛西の財布に甘えているわけにはいかない。
「バイトでもしようと思います。生活費くらいは自分で稼がないとね。私が選んだ生活なんだから、自分で何とかするのは当然!」
「それはたくましい限りです。でもいいんですか? 外を歩けば、やがては親族の誰かに見つかりますよ。」
「そこは少しは考えてある。そこで魅音の力がいるわけよ。葛西さ、本家に電話してもらっていい? 魅音が出たら受話器代わって。」
「やれやれ、何を企んでるやら。どういう作戦ですか?」
葛西は本家へのダイヤルを回しながら聞いてくる。
本家に見つからないように生活した私が、真っ先にかける電話が本家なのだから、何ともおかしな話だろう。
「………もしもし。おはようございます。………魅音さんですか? ………ご無沙汰しています、葛西です。……えぇ。おはようございます。………少しお待ち頂けますか? 今、受話器を代わります。」
葛西から受話器を受け取る。
「もしもし? ………くっくっくっく!
私が誰だかわかります?」
「そ、………その声は!! でもそんなはずは…! 詩音は聖ルチーア学園に幽閉されてるはず…!! そんなはずはない……!」
「学園では外部との電話は禁止だからねぇ。…それが電話してきたってことは、…くっくっく! 血の巡りの悪いお姉でも、意味がわかるでしょ。くっくっく!」
「…あんた、……学園、抜け出したの?! ……ど、……どうやって……!!」
「そんなことはどうでもいい。…会いたかったですよ、お姉ぇぇ……。」
「…………く、………詩音……!!!」
「…………………。」
私にとってここが限界なら、それは魅音にとっても限界だった。
「「ぷ。………くっくっく、
…わーっはっはっはっはっはっはっは!!!」」
互いに茶番が堪えきれず、大笑いしてしまう。
…受話器越しに、姉妹は本当に久しぶりにお腹の底から笑い合った。
「久しぶりだよ詩音!! あんたホントに、どうしたの?!」
「どうしたもこうしたも。別に私ゃウソ吐いてないです。」
「って、………じゃああんた、本当に脱走したの?! ……ひぇぇえぇぇ…、やっるぅ…。」
「私を閉じ込めておくには、ちょっと警備が甘かったかもね! あはは!」
「…学園は、詩音が穏便に脱走したことに感謝するべきかもね…。本気の詩音だったら、全施設を爆破してから脱走するくらい、朝飯前かもー。」
「爆破はできないけど、放火くらいはやるかもね。あははははははは!」
物騒な話題で盛り上がる姉妹だ…と、葛西は呆れながらも微笑んでいた。
「お姉、今は電話大丈夫なの?」
「大丈夫。婆っちゃはお稽古に行っちゃってる。今日は帰りは夕方になるって言ってた。」
「それは好都合。近い内に会って話をしましょーね。取り敢えず、今日の所は電話で。」
「うん。」
「本家に、学園から私が脱走したっていう連絡は来てます?」
「うんにゃ。来てない。本家の電話も来客も、全部私が通すから、私を素通りして婆っちゃに連絡行く事はない。だから、来てないって断言できると思う。」
「……ほー。そりゃすごい。さすが園崎本家次期頭首。」
「私はそんなの嫌だよ、詩音が代わってよ。」
「鬼が憑いてるのはお姉でしょ? まーせいぜい頑張ってください。陰ながら応援いたしております。まーそんなことはどうでもいいや、あはは!」
「すっごい他人事っぽい言い方だなぁ…。まぁいいや…。」
「私関連で何か動きがあったら、葛西に連絡をヨロです。ここの番号はお姉には教えてもいいかなって思うけど、…しばらくは内緒にしときますね。ごめん。」
「そうだね…。学園脱走したって話が婆っちゃの耳に入ったら、…いろいろ面倒になると思うよ。連絡の件は了解。何か動きがあったら、葛西さんに伝えとく。」
「ありがとです。それと後、お姉にお願いがあるんだけど。」
「そう来ると思ったー。あ、お金は無理だよ?!」
「さすがにお金を無心できるとは思ってません。お姉には、ちょっと私のバイトのお手伝いをお願いしたいんです。」
「なるほどね。……そういうことか。で、具体的にはどうするの?」
こう言う時、私たち姉妹は意思の疎通が速い。
相手の考えてることがすぐにわかるから、いちいち説明しないですぐに本題に入れる。
「義郎叔父さん、私の味方だったじゃないですか。義郎叔父さんの持ってるお店のどれかでバイトできないか打診してみます。で、シフトが決まったらお姉に連絡しますから。」
「あんたがバイトしてる時間帯には消えてりゃいいわけだね。…面倒くさい役だなぁ。」
「何ですか、お姉。
双子の妹の頼みを断る? ホントに?」
「いいよいいよ、引き受けるよ〜! あんたの頼みは断ると後がイヤだ。」
「あはは! サンキゥです! 今度、シュランクベルタのケーキでもおごるから! かわいいタルト、山ほど食べさせてあげますから〜☆」
「…あ、詩音。シュランクベルタね、去年の秋に店、閉じちゃったんだよ。」
「え? ……………………あ、そうなんだ。」
「うん。マスターが脳梗塞で倒れてね。退院してから一度は店を開けたんだけど。やっぱり体が持たないらしくてさ。…惜しまれたけど、閉店しちゃったわけ。」
「……そか。…そりゃ残念です。…よくばりモンブランをお腹いっぱい食べる夢は、もう夢のままで終わっちゃったんですねー。」
私が落胆したのは、お気に入りのケーキ屋が閉店したことよりも。
この町を離れている間に、町が自分の知らない姿に変わってしまっていたことによる、…寂しさみたいなものだった。
「……他にも変わった事、私の知らない事、ある?」
「うん。いくつかある。今度会ったら全部話すね。」
「ありがと。私も学園で見て来たこと、全部話しますね。近い内に機会を設けましょ。追って、こっちから連絡します。」
「うん。わかった。」
「…魅音?」
「何?」
「元気でやってる?」
「あははは、もちろん!」
「ならよかった。切るよ。」
「うん。じゃあね。」
久しぶりの姉妹の会話は、ひとまずそれで終了した。
受話器を置いて、一息ついたところで、葛西がお茶を持ってきてくれた。
「結局、どういう話になったんですか?」
「義郎叔父さん、私のこと可愛がっててくれたじゃない? 叔父さんにね、私が学園を抜け出して来たの、打ち明けようと思います。で、叔父さんの持ってるお店のどれかでささやかに働かせてもらえたらなって。」
「人目に触れますよ? 義郎さんはいいとしても、他の親類に見つかるかもしれないじゃないですか。」
「その為のお姉ってわけよ。私が働く時間が決まったら、お姉に連絡する。で、お姉は私が働いてる時間には、ちょっと人目を忍んでくれればいいわけ。わかる?」
葛西が小首をひねるような仕種をする。
そんな難しい話じゃない。
「つまり簡単。バイト中に私が何か咎められるようなことになったら、私が魅音だと言い張ればいいだけの話なんです。おわかりぃ?」
普通なら、そんな馬鹿な手、うまく行きっこないと言いたくなるだろう。
だが、私たち姉妹を幼少の頃から知る葛西は、姉妹がいかに簡単に入れ替われるかをよく知っていた。
「つくづく、大胆というか、悪知恵が働くというか…。いやいや、…脱帽です。」
「もちろん褒め言葉だよね、葛西? くすくすくすくす…!」
葛西は呆れた顔をして苦笑いしていた。
本当にことがヤバくなれば、葛西にも責任は及ぶ。
…親父たちの世界のしきたりを思えば、ごめんなさいと謝れば済むということにはならないだろう。
だから、葛西は本当は、私に危ない橋を渡ることを望まないのだ。
…それを全て承知で、私の脱走を手助けしてくれたのだから、私はこの忠臣にもっと報いないといけないなぁ…と、そう思った。
■祟りは継続中
「あぁあぁ、任せとけよ。詩音ちゃんのことをどうのこうの言うヤツがいたら、俺が少しシメとくから。」
「あっはは! やっぱ義郎叔父さんは頼りになります。叔父さんならきっと助けてくれると思ってました。」
叔父さんは任せとけを連発し、胸をドンと叩いて見せた。
私が真っ先に頼りに来てくれたのがよほど嬉しいらしかった。
「いいんだよ。俺は詩音ちゃんの、自分の生活費は自分で稼ぎたいっていう気概に感心してるんだ。金をたかりに来たんだったら、本家に突き出してるところだぜ。」
「えー? わぁ、叔父さん、怖いぃー! あはははははははは!」
やっぱり義郎叔父さんは話せる人だった。
私の立場をよく理解してくれて、力になってくれることを約束してくれた。
「店長〜、シフト表もってきましたぁ。ここに置きますね〜。」
お店の人が店員の出勤シフトを書いた表を持って来てくれた。
…カレンダーは、部外者の私にはよくわからない記号でびっしりだ。
「………で、詩音ちゃんはどのくらい働けるんだい?」
「私とお姉の都合次第、かな。できたら、私の指定する日だけ入れるのが一番いいんですが。」
「おいおい〜、そんなムシのいいこと言うヤツ、面接じゃ会ったことないぜー? まぁなぁ、…仕方ないもんなぁ。」
私が働くためには、魅音の協力が欠かせない。
つまり、私と魅音の二人の都合が付かないと働けないのだ。
…その辺のややこしい経緯も、もちろん叔父さんは理解している。
だが、自分たちの都合のいい日だけ働きたい、なんていう図々しいバイトを雇い入れる余地がなかなかないのも、わかる…。
結局叔父さんは、ちゃんとしたバイトの雇用ではなく、事務所のお手伝いに入ってはどうかと提案してくれた。
正規雇用ではないので、シフトはない。
給料はお店からというよりは、叔父さんのポケットから出る。
「あはは、体裁は構いません。生活費が稼げればそれでOKです。」
「じゃあ、そうゆうことで頼むぜ。一応、金を払うんだから仕事中はしっかり頼むぜ。あと事務所内じゃ叔父さんは勘弁な?」
「はいはい、わかってますよ、店長〜さん☆ 不束者ですけど、よろしくお願いします、ね!」
「こちらこそ、どうぞよろしく。わっはっはっはっは!」
堅苦しい話が終わると、今度は叔父さんからいろいろと質問責めを受けた。
聞かれる内容は、
全寮制のお嬢様学校というのはどんなところだ?! というものだった。
私が閉じ込められた聖ルチーア学園については、いろいろと噂が飛び交うだけで、その中身についてはみんな興味津々だったらしい。
私は学園生活がいかに普通でなかったかを、あれこれ尾ひれをつけながら説明した。
叔父さんは、秘密のお嬢様女子校の実態をいろいろ根掘り葉掘り聞けて、大層ご満悦な様子だった。…助平男め。
叔父さんが一通り、思春期の女の子の花園の秘密を満喫できたらしいので、今度は私がいろいろと聞く事にした。
私が学園に閉じ込められてから二年の間に、町で何か起こらなかったか知りたかったからだ。
この二年のミッシングリンクを埋めないと、私が本当の意味で「魅音」のフリをできないというのもある。
「そんなに大きく変わったことはないな。ダム戦争が終わってからこっちは、もうそりゃのんびりしたもんさ。」
「私はダムの計画中止が発表されて少ししてから学園に行ったからなぁ。私がこっちにいた時はまだ、ほんの少しピリピリしたムードが残ってましたよ。」
「中止発表のあとの一年くらいは同盟も、計画は凍結されただけで中止になったわけじゃないって言って神経質になってたんだけどな。翌年には解散式をやったよ。雛見沢の境内で大式典だった。それでダム戦争は本当に終わりだな。」
「じゃ、私が閉じ込められたすぐ後だ。…戦争も終わっちゃって、みんな腑抜けちゃった感じ?」
「わっはっはっは! 詩音ちゃんなんかはダム戦争は、戦争ごっこみたいで楽しかったんじゃないか? 子どもたちが警察のお世話になる度に、引き取りにいっていろいろ苛められた大人の身にもなってくれよ。」
「あははは! まぁ確かに否定はできないかな。私ら子どもにとっては、ダム戦争はかなり遊べるイベントでしたし!」
叔父さんは、ダム戦争が大人と子どもでここまで感じ方が違うものかと、感服(呆れ?)しているようだった。
「そう言えば、バラバラ殺人なんてのがありましたよね。あのクソムカつく現場監督の野郎がバラバラにされたヤツ。あれ、確か犯人がまだ全員捕まってなかったですよね。捕まったんですか?」
「あー……、確か主犯がまだ捕まってねえんだよなぁ。そうそう、確か捕まってないはず。」
「しかも、雛見沢の守り神、オヤシロさまを祭る綿流しの晩にね。当時、オヤシロさまの祟りだって騒がれたのを覚えてます。……あれ、子ども的には結構コワかったなぁ。」
「あぁあぁ、オヤシロさまの祟りねぇ。その翌年にも起きたんだよな。」
「そうそう! あれも怖かったですねー! 何でしたっけ、ダムの賛成派の男が事故で死んだヤツ! 北条だっけ? しかもまたしても、オヤシロさまを祭る綿流しの日に。これはもう祟りしかありえない!って、ずいぶん騒いだっけー! あれは怖かったです。うんうん。」
嫌われ者だったダム現場の現場監督が、綿流しの祭の夜に、殺されて遺体をバラバラにされた。それだけでも子どもにとっては十分、刺激が強過ぎる事件だった。
しかも、遺体の一部がまだ見つかっていない…というのも子どもの世界では十分に怪談になりえた。
切断された右腕が、体を求めて未だ徘徊している…という話は、子どもの世界では圧倒的信憑性を持ってまかり通っていたものだ。
しかもその事件のあった日は、雛見沢の守り神、オヤシロさまを祭る祭の夜…ともなれば、噂が噂を呼び、オカルト色を深めるのに時間はかからなかったものだ。
でもどんな噂も、さすがに一年を経過すれば色褪せる。
…そして、ダム計画の凍結宣言が出て、本当の意味でお祭になった初めての綿流しの夜。
祟りは再び起こったのだ。
犠牲者は、雛見沢の住人でありながら、ダム計画に賛成していた北条という男で、旅行先で夫婦共々、転落事故に遭い死亡した。
(厳密には、妻の死体は捜索中だと思った。確か、まだ見つかってないんじゃなかったっけ?)
オヤシロさまの祟りを一番受けるべき男が、またしても綿流しの祭の夜に。
薄れ掛けていたオヤシロさまの祟りの話は一気にぶり返したのだった。
それまで、オヤシロさまの存在は希薄なものだった。
少なくとも子どもの世界では、神社の御神体の名称であるだけで、それ以上の意味も以下の意味も持たない、そんな程度の扱いだった。
神社の鳥居でおしっこをしている悪ガキもいたし、私だって賽銭箱に手を突っ込んだことくらいある。
神社の神様なんて、そのくらいどうでもいいものだった。
二年繰り返せば、もうオヤシロさまの祟りを疑う子どもはいなかった。
皆、本気でオヤシロさまの存在を信じて、怖がったものだ。
今までは誰も興味を示さなかったオヤシロさまの昔話が、急に脚光を浴びるようになった。
年寄り連中がするカビ臭い昔話に神妙に聞き入り、少し前までなら誰もが笑い飛ばしたような、オヤシロさまの奇跡の数々を本気で信じたものだ。
で、そのオヤシロさまのルールというのがひどく単純明快だったのだ。
曰く、雛見沢に踏みいる外敵を祟る。
里から出ていく村人を祟る。
この里の定義がひどくあいまいで、雛見沢村から出たらいけないのか、興宮の町はセーフなのか。
一歩でも出たらアウトなのか、2泊3日の温泉旅行くらいだったらセーフなのか、子どもの世界で様々な線引きが行なわれたものだ。
最終的には、オヤシロさまがセーフとする圏内は雛見沢村か興宮の町に自宅があること、自宅があるならば、長期旅行も可能…というヘンチクリンな決着になったはずだ。
(子どもの世界のルールだし。くだらない、って言うのはダウトだろう)
それに照らし合わせると、私が、遠方の全寮制学園に送られるという話は、オヤシロさまに祟られる条件を満たしているようにも見える。
祟りを信じていると対外的に言うのが恥ずかしいお年頃だったので、私は口には出さなかった。
でも内心は、異郷に送られることで、オヤシロさまの祟りに遭うのでは……と、ちょっぴり怖がっていたことを覚えてる。
「でさ、その翌年にも起こったんだよな。」
「やっぱり二年連続ってのは結構、キますよねぇ。私ゃ今でもオヤシロさまは信じてるなぁ。」
「詩音ちゃん、二年なんてもんじゃないよ、知らないの?」
「知らないですよ。何の話?」
「………そっか。詩音ちゃんはアレの直前に学園に行っちゃったんだもんな。…知らないよな。」
叔父さんが、少し余計なことをしゃべり過ぎたような顔をする。
……知らないなら、知らないままの方がよかったかな、…そんな顔。
「何、叔父さん。そこまで話を振っておいて、急に黙られると面白くないですよー。」
「…………まぁ、詩音ちゃんももう小さい子じゃないもんな。」
「叔父さん、私の体のラインが未だ幼児体型に見えるってんなら、目医者行くか、ロリコンって呼ばれたいかのどちらかを選んでもらうことになるんですけど。」
「……あー、もぅ、わかったよ。別に隠しゃしないよ。あったんだよ、その後も。」
「あったって。…叔父さん、さっきから何の話?」
ちくり。
もっと小さかった子どもの頃。
…………何かよくない話を聞かされる直前には、必ずこの、ちくりがあった。
胸の奥に住んでいる小人が、良くない事があるのを事前に知らせてくれるのだ。
…手に持った、小さな針で心をちくりと刺して。
このちくりがあった直後に親に呼ばれたなら、それはきっと嫌な話やお説教。
…だから私は敏感に反応して逃げ出したものだ。
でも、歳月は私を鈍くしてしまっていた。
せっかく、心の中の小人が教えてくれたのに、……私は何もできず、ぼーっと座しているしかできなかった。
「えっとなぁ…。実は賛成派の北条が転落事故で死んだ次の年にもな。…つまりは去年なんだが。またあったんだよ。」
「あったって。…また綿流しの日に?! 三年連続で?! また?!」
「そうなんだよ。ほら、雛見沢の神社あるよな? 古手神社。…あそこの神主が祭の夜に突然、ポックリ逝っちまってよ。聞いた話じゃ原因不明の奇病で急死したとかしないとか! それもまたしても綿流しの夜に。で、カミさんもその晩の内に沼に飛び込んじまって…、そりゃあもう大騒ぎさ。村長たちが集まっててんやわんやの………、」
■アイキャッチ
■魅音とおしゃべり
「うん。奇病ってのは尾ひれだと思うけどね。急死したってのは本当。
神主さんは綿流しの準備で大変だったと思うし、あの頃は少し体調を崩してたみたいだからね。急性心不全とかそうゆう感じの、よくあるヤツだったんだと私は思ってるけどね。」
「でも綿流しの日にってのが異常でしょ。それも三年連続で。普通に考えたら、人の死がこうも同じ日に重なるなんてことは考えられない。」
「警察も検死したみたいだけど、その後、特に騒がなかったってことは、死因に不審な点はなかったってことじゃないの? ……まぁでも、詩音の言う通り、人の死が三年も続いて綿流しの日に重なると、やっぱり普通じゃないって思うね。」
「それに、さっきお姉も言った通り、オヤシロさまに祟られそうな人ばかり怪死する。これは絶対に何かあります。祟りでも陰謀でも、とにかく絶対裏に何か因果関係がある。」
魅音とは興宮駅に近い図書館で落ち合う事にした。
…魅音を信用しないわけじゃないが、私の住んでいる場所をわざわざ知らせる必要はない。
この、賑わいのない図書館は、町の人間もそんなには使わないし、ましてや雛見沢の人間はさらに使わない。
だから、人知れず私たちが落ち合うには都合がよかった。
私たちは今後の生活の仕方や、私のバイトの今後の進め方、姉妹の連携の仕方を十分に確認し終えると、よもやま話に花を咲かせるのだった。
私が町を離れていた期間は約一年に過ぎない。
だが、一年もあれば環境も何かの変化を遂げるものだ。
…私はそういう様々な変化を魅音から聞き出し、空白の一年を取り戻そうとしていた。
そして…たくさんの話をする内に、さっきバイトの打合せに言った時、叔父さんに最後にされた話…。
オヤシロさまの祟りの話に行き着いたのだった…。
私が町を離れる時。
祟りはすでに二年連続で起きていた。
一年目の現場監督バラバラ殺人も結構インパクトがあった。
そして翌年。
ダム計画の凍結が発表され、勝利に沸き返る雛見沢で迎えた綿流しの祭の日に、今度は村の裏切り者であるダム推進派の北条夫妻が転落事故。
これも…相当のインパクトがあった。
雛見沢を穢すダム現場の監督に天誅が下り、そして次に村の裏切り者に天誅が下る。
……一年目だけなら、オヤシロさまの祟りだと騒ぎつつも、不幸な事件だと思うことができる。
でも、二年目が重なると、これはひょっとして…まさか……本当に祟り? という、そういうムードだった。
私が知るのはここまで。
そして私が町を離れている間に。…三年目も起こっていたのだ。
雛見沢でも興宮でも、…あの頃とは比較にならないくらいの鮮烈なインパクトを持って、オヤシロさまの祟り説が飛び交っていた。
…私は認識を改める必要があった。
私が町を離れている間に、オヤシロさまの祟りは圧倒的現実感を得ていたのだ。
私の知る二年目までが、ひょっとして祟りかも?
という疑問系だとすると、三年続いた現在は、これはもう祟りに違いない…という確信めいたものにまで至っている。
そして三年目に死んだ神主も、村の仇敵とまでは行かないものの、雛見沢の村人たちから、あまりいい目で見られてなかった事実があると、…その信憑性はますます高まった。
「神主は確か……嫌われてませんでした? 同盟の役員から。」
「うん。日和見主義なんじゃないかって叩かれてたね。戦争末期は、同盟内でも過激な理論がまかり通ってたから。神主さんの穏健な態度はそういう人たちにとって、気に食わないものだったと思うね。」
神主は顔は厳めしいし、言葉遣いもどことなく硬くて、確かにぱっと見、おっかなそうな人だった。
だが、実際にはすごく温厚で、控えめな性格の紳士だった。
この控えめ、という辺りは多分、神主さんが婿養子だからというのもあるだろうが。
夏祭の会場でもあり、村の集会場所として開放もされている神社の管理人としては、そういう性格の神主さんは、適材適所であったかもしれない。
だが、そんな井戸端会議場みたいな神社は、ダム戦争勃発と同時に結成された反ダム抵抗組織、鬼ヶ淵死守同盟の事務所所在地になった途端に、その雰囲気をがらりと変えることになる…。
そもそもダム戦争以前は、オヤシロさまはそんなに祭られていなかった。
信心深い年寄り連中はもちろん崇めていたが、平均的な人々にとっては、当たるも八卦当たらぬも八卦程度の、その程度の扱いの神様だった。
そしてダム戦争が始まった時、その程度の扱いだったオヤシロさまは、村の抵抗のシンボルとして急に担ぎ出されることになったのだった。
オヤシロさま信仰は根源を紐解けば、自分たちは仙人の一族で麓の下民どもとは違う、汚らわしい下民どもは村に近付くな…という、排他的な選民思想に行き着く。
もちろん、そんな自分勝手な思想は大昔の話で、戦後の平和な日本ではそんな思想、まかり通るわけもない。
だからこそ、時代の移り変わりと共に廃れた思想だった。
だが、その思想はしっかりと残っていて、ダム計画に対抗するために郷土は団結せよというナショナリズムの煽りに掘り起こされる形で、復活してきたのだ。
そういう思想が復活すると、物事は過激な方へ流れる一方になる。
……鬼ヶ淵死守同盟が、攻撃的な性格を持つのに時間はまったくかからなかった。
あとはもう戦時体制みたいなものだ。
一億一心火の玉だ、鬼畜米英、欲しがりません勝つまでは。
大人も子どもも、外部からの敵を迎え撃てと意気込み、鼻息を荒くした。
…こうやって表現すると、何だかすごく嫌ぁな、まるで日本の戦時中の暗黒時代を彷彿させるが、前にも述べた通り、子どもたちにとってはあれは戦争というよりは戦争ごっこで、村全体が一丸となるお祭のようなものだったのだ。
………だが、お祭とは言っても、異論を唱える者についてはその扱いは冷淡だった。
…その冷淡さについても、戦時体制という表現は逸脱していなかったのだ。
そういう流れの中で、ダム計画受入を表明した北条夫妻は…本当に勇敢だったと思う。
そして、祟りの二年目に事故死し、誰もがオヤシロさまの祟りだと信じて疑わない、
「村の仇敵・裏切り者」の烙印を押されることになるのだ…。
北条夫妻は村の裏切り者として、村八分以上の責め苦を受けることになる。
誰もが冷たい目で後ろ指をさしていた。
そんな北条夫妻を村で唯一、敵視しなかったのが……神主だった。
神主は、反ダムに異論は唱えなかったものの、北条夫妻の「立ち退きに応じて国から賠償金をもらい、生活を再建する」という主張にも、異論を唱えなかったのである。
北条許すまじをスローガンにし、スケープゴートにすることで村の団結を図ろうとしていた御三家(特に園崎家だが)にとって、同じ御三家の人間であり、しかも反ダムのシンボルのオヤシロさまを祀る神社の神主が、それを容認したというのは…とても苦々しいことだったのだ。
鬼ヶ淵死守同盟の屋台骨であり、雛見沢村の大黒柱である御三家で足並みが揃わないことは好ましくない、御三家間でトラブルを起こしたくないということから、神主への糾弾は一切行なわれなかった。
……だが、人々は異端な神主を陰でヒソヒソと、オヤシロさまの神社の神主として相応しくない、今にきっとオヤシロさまのバチが当たる…、と噂し合っていた……。
「今にして考えると、神主さんって結構オトナだったのかもね、って思いません?」
周りが熱で浮かされてるみたいな状況だったからこそ、ひとりクールに中立を保ってたのは結構、カッコいいことかもしれない。
私はこの見解に、魅音も同じように考え相槌を打ってくれると思った。
……だから、魅音が苦笑いしながら、…私の意見に同調しなかった時、…ちょっと驚いた。
「…うーん…。本当に大人だったら、あそこは周りに合わせて協調すべきところだったと思うね。古手のおじさんは単に神社の神主だっただけじゃなく、仮にも御三家のひとつ、古手家の長だったんだからさ…。
雛見沢全体が結束しなくちゃならない時に、模範となるべき御三家の人間が、自分から和を乱すのは……、それがオトナと呼べるかどうかは、…私には難しいなぁ。」
思わず、きょとんとしてしまった。
そして、こう言うのが精一杯だった。
「……………………。………………ふぅん。」
私たちは瓜二つの双子であっても、魅音・詩音という個々の個性を持っている。
時には互いの見解に相違があることもある。
でもそれは大抵、取るに足らない些細なものの話だ。
こんな…大きな意見の差があった試しは、一度もない。
私はその違和感が面白くなくて、魅音と私の意見の違いを探ろうと思った。
「お姉の言う協調って言葉が、何だか好きじゃないんですけど。つまりそれって何? 村全体を考えて、神主さんは自分の考えを隠しているべきだったって、そういう話? 要するに全体主義の中で個を主張するなと、そういう話?」
「…べ、別にそこまでは言わないけど…。ただその、…やっぱり御三家の長のひとりなんだから、もう少し言動は慎重にしてもよかったんじゃないかって、…そういうことだよ。」
私の言い方が詰問めいていたのか、魅音は少し狼狽しながら答えた。
私は自分の言い方がきつい口調になっていたことに気付く。
…魅音の言う話の方が、多分私たちの尺度でいうところのオトナの意見に違いなかった。
国という巨大な敵に立ち向かうため、全員が立ち上がらなければならない局面で、それに水をさすような真似は慎むべき。
………こうして字に書いて読めば、それは理解できないことじゃない。
だが、その全体主義的な考えに頷けるほど、私が大人ではなかったということだ。
いや、…私が大人でなかった、というのは適当じゃない。
……魅音が、大人的な考え方をした、という方が正しいかもしれない。
…私たち姉妹が、魅音と詩音に厳密に区別されてから一年ちょっと。
その間に私は学園に隔離され、町との接点を空白にしていた。
…だがその間、魅音は園崎家頭首の元で、次期頭首としての帝王学を学んでいたのだ。
もちろん、魅音は私が隔離される日以前からも次期頭首として扱われてはいた。
何かの式典や会合がある度に鬼婆の隣に座らされたし、鬼婆不在の際には挨拶文を代読するくらいの役割はやらされていた。
でも、そんな程度だった。
私と意見を違えるくらいの差は生まれなかった。
この一年ちょっとの間に、魅音は…こんなにも「次期頭首」になっていたのだ。
「……ふぅん。お姉もいつの間に大人になっちゃいましたね。」
魅音も、私が何を感じて何を漏らしているのか理解できたらしい。
「…やっぱり、私も婆っちゃみたいな考え方になっちゃってきたかな…?」
「いいじゃないですかー。お姉は次期頭首なんだから。いつまでも下々と同じ考え方じゃまずいでしょ。さっすが帝王学を学んだだけのことはある。」
「そんなの学んでないよ。どうやれば婆っちゃのふりができるかって、それだけだよ…。
詩音にだって簡単にできるよ。」
「あははははは、そんなのやりたくないです。鬼婆のお守りは魅音のお役目。ま、疲れない程度にほどほどに頑張りなさいませ。」
突き放した言い方のつもりはなかったが、魅音には少しそういう風にも聞こえたらしい。
魅音は媚びるような苦笑いをしていた。
私は少し表情を和らげた。
「お姉。……………うぅん、魅音。」
「…な、………何?」
「確かに私たちの別離はいつも穏便じゃなかった。名前を引き離され、住まいを引き離され、…そして体を引き離された時も、いつもね。」
魅音は表情を暗くし、俯く。…そして、上目遣いに私の表情を窺った。
「…あんたは私が、その辺りで逆恨みしてるんじゃないかって思ってるかもしれない。でもそれは、誤解。そりゃ確かに確執はあったよ? でもそんなのは時間で流れる程度のもの。あんたが引け目を感じるようなことは、何もない。」
私たちは母の胎内を出る瞬間まで限りなく公平だった。
そして、生れ落ちてから、外界の都合で無理やり優劣が与えられた。
…その理不尽に、子供心が怒りの火を灯したこともある。それはもう否定しない。
だが、そんなことが禍根で、いつまでも私たち姉妹が心をすれ違わせる必要はないのだ。
魅音は私の言いたいことは辛うじて理解できたようだった。
……私たち姉妹は互いの分身なれど、もちろん個性がある。
私たち姉妹しか知らない個性。
…それが互いへの依存度だった。
私に比べると魅音は、相手への依存度が高い。
…何かことあるごとに私を気にして遠慮する、そういう性格だった。
魅音にだけ饅頭が与えられると、二つに割って私に持って来る。
与えられたのが飴玉なら、私の表情を窺って、同意が得られるまで口には入れられない。
そこへ行くと私は冷たい。
自分だけが得できるなら、相手なんか気にしない。
いただきます、ごちそうさまの二つ返事で口に放り込む。
(もちろん、充分な姉妹愛が互いにあるのを前提にした上での話だ。私はお姉が嫌いなわけじゃないことを、改めて強調しておく)
……その辺りは、互いに知っていて認めている。
魅音は、次期頭首という分けて口に入れられない飴玉を、…口に入れていいものか、ずっと私の表情を窺いながら今日まで過して来たに違いないのだ。
「がんばれ、…魅音。私も詩音をがんばる。」
魅音の額に、ゲンコツをこつりと、押し当てる。
……魅音はその私の拳にじっと額を付け、温もりとかそういう、触れ合わなければ感じられない微量なものを感じているようだった。
この子は魅音。
私は詩音。
この子は園崎家の次期頭首で、私は明日はどこ吹く風の自由人。
それは差別じゃなく、個性だ。
もう互いに相手のことを変に気にすることはやめよう。互いに自分の個性で、肩の力を抜いて生きていこうじゃないか…。
これらを口に出す必要はない。こうして、互いに触れ合うことでそれは伝わるのだ。
「…………うん。………ありがと。詩音。」
「がんばろ、魅音。困ったことがあったらいつでも相談して。私たちはいつだってそうやって来た。それはこれからも何も変わらないよ。」
「……うん。……うん。」
魅音は額で私の拳をぐいぐいと押しながら、俯きがちに頷き続けていた…。
魅音とは、夕方を待たずに別れた。
私は、空白期間にあった町の出来事を全て取り戻したし、姉妹水入らずなおしゃべりを充分に堪能できた。
…それに、互いが心の中で持ち合っていた、わだかまりも、解くことができた。
今までの私たちなら、そんな話はしない。
互いに会えなかった一年という空白期間のお陰だったのかもしれない。
「…………ふー。」
夕方を目前に控えた昼下がり。
……私はほんの少し軽やかになった肩で、う〜〜んと、背伸びをして空を仰いだ。
澄み渡る空は、どこまでも青くて、そして遠い。
私という木が、どこまで枝を伸ばしても何もぶつからない。そんな、高くて遠い、大空だった。
私は園崎詩音。
……押し付けられた人生である学園を脱走した自由人。
咎められこそすれ、私の行く末は誰にも褒められないものになるだろう。
…でも自分が自分で選び取った人生なのだ。
「あっは! …なぁんだ、私だって大人な考え方、できるじゃない。」
自分で自分を景気付けるように、勇んでみせる。
元気も出たところで、夕食のお買い物にでも行こう。
葛西に当面の生活費は工面してもらったけど、やっぱり節約して使わないといけない。
ジャンクフードもいいけど、割安にするためにも自炊は避けられないかな。
…皮肉にも、学園で叩き込まれた家庭科が役に立つ。
上一色の商店街でも行くか。
…あれ? だったらこの道、こっちじゃない。向こうから行った方が少し近いはずだ。
夕方前の、ちょっと涼しくなりかけた風がとても心地よかった。
■脱走連絡
買ってきたものを袋から出して冷蔵庫にしまっている時、葛西がやってきた。
「あー、待って待って。今、カギ開けます。」
「…お買い物の帰りですか? お疲れさまです。」
「買い物程度で疲れてちゃたまんないよ、あははは。あ、葛西も食べてく? 一人者にはスーパーの野菜の単位は大き過ぎだしね。」
「よろしいんですか? …ご厄介になってもいいものでしたら、ぜひ。」
葛西は、さてさてどんなものが出てくるやらと、興味津々な笑みを浮かべている。
「ちぇー。その顔は全然、信じてないなぁ? 見てろぉ〜!」
「これらは冷蔵庫でいいんですか? 入れておきますよ。」
「あ、悪いね。…二人分だとお米はこのくらいかな。よっこらしょっと。」
葛西は袋いっぱいの食品の山を吟味しながら、器用に冷蔵庫にしまっていってくれた。
そして、ふと気付き、私に声をかける。
「……詩音さん。相変わらず缶詰はダメなんですか?」
葛西に言われるまでもなく、私の買い物には缶詰がない。…偶然じゃなく、意図的にだ。
「缶詰を避けての買い物はいろいろ大変でしょう。」
「ん〜〜〜…。理屈じゃわかってんだけどねぇ。…無理強いされりゃ、食べないこともないけど。……うぅん、それでも私ゃやっぱりパスだな…。」
「悪かったと思ってます。少しふざけすぎたと思ってますよ。だからそろそろ、あんな下らない話、忘れて下さってもいいのに。」
「あ〜〜もぅ、うっさいなぁ! 男が厨房にちゃらちゃら出入りしない! テレビでも見てて大人しくしててよー。」
葛西は小さく笑うと、それ以上ちょっかいは出さず、大人しく引っ込んでくれた。
自分でも馬鹿だなぁと思うのだが。……私は缶詰がダメだ。
知らずに食べても、あとからそれが缶詰の肉だったと教えられるだけで吐きそうになってしまう。
きっかけは下らない。
……昔、小さい頃に、葛西に吹き込まれた怪談のせいなのだ。
…ほら、都市伝説なんかによくあるじゃない。
出所不明の怪しげな肉の話とか。
ハンバーガーの肉にはミミズが混じってるとか、牛丼屋の牛肉には犬の肉が混じってるとか、そういう類の話。
小生意気な私が大いに怖がるので、葛西はだいぶ面白がって吹き込んだらしい。
当時の葛西は面白いからそれでいいが、当時の私には大いに問題だ。
スーパーの缶詰コーナーで泣き出すくらいの缶詰嫌いになったのだから。
もちろん、今ではそこまで過剰な反応は示さなくなったつもりだが…。やっぱり好きではない。
……好きでないなら、無理をすることもないと、今ではごく当り前のように缶詰を避けて生活している。
ちなみにこれは私だけの固有のものだ。魅音にはない。
葛西のヤツも、少しはこれについて責任は感じているようだが、舌を出して謝る以上のことはできないようだ。
私みたいなパーフェクトな人間にも、その程度の好き嫌いがあった方が面白いかもしれないしね。あはははははははは。
「葛西〜、机の上の新聞どけて〜。」
「いい匂いですね。ご馳走になります。」
「量が足りないと思ったら、あとは勝手に牛丼屋にでも行くことー。あ、テレビは切らないで。私ゃ静かな食卓ってヤツが苦手だから。」
「では、いただきます。」
「で? 葛西、何の用だったの? 何か用事があって来たんでしょ。」
お茶碗を渡しながら聞く。
食事が終わってから聞いてもよかったが、そういう回りくどいのは苦手だ。
「…食事が終わってからの方がいいかと思ってましたが、…食べながらにしますか?」
「葛西が来た時点で、ずーっと何の用か気になってるから。先に言ってくれた方がゴハンの通りがよくていいかもです。」
「自宅に学園から電話が今日、ありました。」
「今日? あっははは、そりゃ遅いね。よーっぽっど表沙汰にしたくなかったと見えるなぁ。あっはははは。…で、どうなったの?」
「電話は茜さんが取りました。親父さんには後で折を見て話すそうです。」
茜さんってのはうちの母を指す。両親が結婚する前から旧知の葛西らしい呼び方だ。
「で? 母さんなんか言ってた?」
電話を受けたのが母さんなのは、まだツイてた方かもしれない。
母さんは比較的私の味方だからだ。
「仕方のないヤツだ、と漏らしておりました。…こういう結果も、決して予想外ではなかったような顔つきでしたね。」
「……ふーん。親父にはまだ知らせてないんだ?」
「茜さんなりにタイミングを計っているんでしょう。多分、二三日中には話すものと思います。」
「……親父は鬼婆寄りだからなぁ。耳に入れば自動的に鬼婆にも伝えるだろうな。で、鬼婆の耳に入れば、見つけ次第、即刻ここへ連れて来い。申し開きの如何によっては、指の一本や二本…ってことになるだろうねぇ。…おっかないこって。あははは!」
「笑い事で済めばいいんですがねぇ。…詩音さんの指だけじゃ済まないかもしれないってとこだけ、よくお願いしますよ? …あちちちち…。」
「あっはははは! がっつくからだよー。あ、ちなみに味噌汁もご飯も作りすぎてるから、御代わりは強制ね? 三杯は絶対食べること!」
その数日後、魅音から、鬼婆の耳に私の脱走の話が及んだことが伝えられた。
「で? 鬼婆はどんな感じだった?」
「婆っちゃはカンカンでさ。もしも興宮界隈に帰ってきてるなら、即刻見つけ次第、自分の前に引っ立てろってさ。」
「おーコワ。で? 実際に親父とかの動向は?」
「近々の親族会議で、詩音をかくまってないか問い質すみたいだね。でも、若いのに町中を捜させるとか、そういう真似はしないみたいだよ。」
親族会議で問い質す、というのは鬼婆の手前だけのこと。
町中を根こそぎ捜す気がない、ということは、これは暗に私の存在を認めてくれてるようなものだ。
もちろん、目立つところに堂々と出て行けばすぐお縄になるのだが。
「……母さんがずいぶん暗躍してくれたみたいだね。」
母さんなりに、私の生き方を応援してくれてるのがわかった。
……長くなるから説明を端折るが、母さんは園崎家の血を引く人間だが少し異端なのだ。
ずいぶん昔、園崎家の戒律とかそういうのを徹底的に嫌ったことがあるらしく、鬼婆ととことん喧嘩し、勘当されたこともあるらしい。
…本来、園崎家次期頭首は母さんだったのに、それが剥奪されて、孫であるお姉が次期頭首にスライドしたのには、そういう経緯があるらしい。
今でこそ大人しくなり、波風を立てないようになったが、母さんが異端であることにかわりはない。
…だから、園崎家のややこしい戒律で差別を被る私に、母さんは昔からいつも味方になってくれたのだ。
「親父、最初はすっごくカンカンだったらしいよ? 母さんがだいぶなだめたらしい。…何のかんの言っても、親父は最後には母さんには勝てないからね。」
「OK、ありがと。また何かあったら教えてね。……本当の本当にヤバくなったら、私もこの町を離れるつもりだから。葛西とか義郎叔父さんとか…それに母さんとか、世話になった人の顔は潰せないからね。」
「…………………………………。」
「…お姉、あんたが今、何を考えてるかわかりますよ。どうして同じ血を分けた姉妹なのに、詩音だけこんな隠れるように生活しなきゃならないのか…でしょ?」
魅音はしばらくの沈黙をもって、それを肯定した。
「詩音だけ…こんな窮屈な思いをするのはフェアじゃないよ…。絶対。」
「…ありがと。気持ちだけでもうれしいです、お姉。」
「……表に出たい時とか、あったら相談して。詩音がいつでも魅音になれるよう、協力するからさ…。」
お姉の申し訳なさそうな口調。
…こういう時は、変に言葉を失ったり、付き合うようなことを言ったりすると泥沼になる。
お姉は私と違ってドライじゃない。深みにはまると落ち込みやすい性分だ。
だから、そっけなくこう告げてやった。
「ありがと。……実はそれが一番ありがたいです。じゃ、切りますね。じゃあね、またね。」
■幕間 TIPS入手
■にじんだ日記(2日目終了時)
沙都子は、僕の背中に隠れて泣いていた。
しがみ付いて泣いていたので、涙と鼻水で僕の背中はすっかり濡れてしまっていた。
ヒステリックに叫び続ける叔母も、さすがにもう体力が続かないようだった。
……やがて、時計が深夜の午前1時を指していることに気付き、それでもなお、暴言にも等しい捨て台詞を吐き続け、…ようやく矛を収めてくれた。
沙都子はずいぶん前から泣き疲れ、朦朧とした表情で俯いていた。
叔母がいなくなっても、まだ自分が解放されたことに気がつけていないようだった。
だから僕は、そっと沙都子の頭を撫でながら、言ってやった。
「………終わったよ。…沙都子。」
ぴくんと、…沙都子のうなじが震える。
沙都子の瞳に、生気と涙が蘇る。
……そして、僕の顔を見上げた。
「……………………。」
何が終わったのか、わかっている。…でも、それをはっきりと僕の口から聞きたいと、沙都子の目が訴えていた。
……本音を言えば、…僕も精根尽き果てていた。
その程度のことを、わざわざ口に出させようとする妹に、ほんのわずかな煩わしさを感じた。
でも、僕は涙ぐむ妹を少しでも労ってやりたくて…。やさしく、沙都子の期待している言葉を口にしてやった。
「……もう、叔母さんの小言は終わったよ?……だから、ね。…寝よう?」
沙都子は…瞳からまた涙をぽろぽろと零しながら、僕にしがみ付く。
そして声を殺しながら、再び泣いた……。
かすかに震えるその背中が痛ましい。
……そんな背中を見る度に、…沙都子は僕が守らなければならない、僕以外に誰も守ってくれないということを思い出す…。
「さぁ。…歯を磨いて、それから布団を敷こ。…そしてぐっすり休も…。」
沙都子は弱々しいながらも、笑顔を見せて頷き返してくれた。
頭がくらくらする。
…全身の緊張が解けるに従い、深夜の1時に相応しい暴力的な睡魔が襲い掛かる。
沙都子が洗面台を使っている間、僕は用を足すために便所にいた。
じょぼじょぼじょぼ…と、…自分の小便が便器に注ぎ込まれるのを見て、…僕は放心していた。
気を許すと、小便が便器から外れそうになる。
…いや、自分自身が便器に吸い込まれるような錯覚さえ感じた。
……もう思いだすこともできない。
今日の叔母は、何がきっかけで怒鳴り出したんだっけ……?
■3日目
■悟史くんとの出会い
のんびりとしたいつもの昼下がりだった。
ぶらぶらと表を歩けない私は、買い物ですら、魅音と口裏を合わせる必要があった。
(口裏合わせは慣れみたいなもので、今では何も苦痛に感じなくなっていた)
だから必然的に、買い物はまとめ買いになる。
今日の買い物もそうで、私はいくつものお店と自宅を往復して、あれやこれやと買い漁っていたのだった。
「え〜〜と、あれは買った、これも買った。…あ、そうだ! 今日って100円セールの日じゃなかったっけ?! 忘れてた忘れてた!」
そう思い、上機嫌な私は両腕を振り回すように、ぐるっと踵を返す。さながら小さなつむじ風。
そのつむじ風は、歩道を塞ぐように、実に邪魔っけに停めてあったバイクに腕をバシンとぶつけてしまう。
「…痛って!! な、……もぅ!! 何、こんなとこに停めてるの誰ー?!」
上機嫌な私はノーウェイトで、その邪魔っけなバイクに蹴りをくれてやった。
バイクは3台。
それらはドミノ倒しのように、バタバタンと倒れていった。
あまりに綺麗に決まったので、自分でも少し面白かった。
上機嫌な時ってのは、いろいろとガードが甘いものだ。
私はこのバイクの持ち主がすぐ近くにいて、しかも非常にガラの悪そうな連中だということを、全然気にしていなかったのだ。
バイクを蹴り倒して意気揚々と立ち去ろうとする私の襟首を掴んで、薄暗い路地裏に引きずり込む。
そして浴びせる罵詈雑言…。
私はあまりの舞台転換の速さについていけず、しばらくの間、何が何やらわからずきょとんとしていた…。
「んだてめンなろぉおおぉおおおッ!!
すったるぁ、おるぁあッ!!」
「をるぉんったら、ぅッってん場合じゃえぇんあぞぉぉお!!」
「ごらあッ!! んまってンら、なしツくとぉッんじゃねえぞおおぉおおッ!!」
…うっわ。素敵に日本語支障してるなぁ。
そもそも、何を言ってるのかわからないから、思わず苦笑いして、小首をかしげたくなる。
最大限に彼ら3人の発言を好意的に翻訳すると、つまりこういうことだ。
私たち3人は、自分たちのバイクをあなたに蹴り倒されて大変、憤慨しています。
あなたは非を認めた上で謝罪し、係るバイクの修繕料と慰謝料を直ちに即金でお支払いいただきたい。……とまぁ、多分こんな感じかな。
で、私どものご意見を申しあげましたが、それについてそちら様はいかがお考えでしょうか?
ご意見賜れれば光栄かと存じますので、どうかよろしくお願いいたします…。ってな感じだと思う。
「うらぁ!! うッとんでぁあいじゃねえどおらああぁッ!!」
「あぁ、ごめんなさい。さすがにそろそろ翻訳不能かも。」
「ああぁッ?! んだとごらああぁッ!!!」
もちろんご趣旨はわかってる。
でもまぁ、あんなに堂々と歩道塞いでバイク止めてりゃさ。いずれ誰かが天誅下さなきゃならなったと思うわけだし。
ノーマナー行為には然るべきペナルティがなきゃ、公衆道徳を遵守してる人たちが気の毒でしょ。私のあれは、まぁ偶然の事故だったわけだけど、神さまの視点から見れば、これは立派な天罰だ。
でも神さま…。私を使って天罰をするのは勝手だけど、その後こうして路地裏みたいなところに引きずり込まれて、不良三人組に、よってたかって罵倒されることに対するフォローはどうなってるわけ…?
はぁ、と大きなため息をひとつ。
…今さら言うまでもないだろうけど。私はこの状況に欠片ほどの恐怖心も持っていない。
なぜなら、…そんなに危機的状況とは思わないからだ。
女の子ひとりに対して、大柄な男が三人がかりで、ありったけの怒声を浴びせるってのは、インパクトとしては強いかもしれないけど、いろいろと彼らに不利な点が多過ぎる。
まず性別の違いと人数の違い。
言うに及ばず、たとえ私が八割方悪くても、女を怒鳴る男は自動的に悪者扱いになる。
そして、人数比も1:3ともなれば、さらに数の暴力も成立するから、どう公平に見たって、両成敗にはならない。
そして路地裏というシチュエーションと、彼らの要求が謝罪に留まらず、金銭要求に及んでいる点も、彼らにとって致命的だ。
これだけ致命的条件が重なれば、大衆正義は私に味方する。…つまり、結果の見えた勝負なわけだ。
彼らの勝利条件は、そういった大衆正義に裁かれる前に、私を観念させてなけなしの小銭を巻き上げること、ということになる。
…そう考えれば、大衆に発見される可能性が少しでも低そうな、この路地裏に私を引っ張り込んだのは十分に理解可能だ。
「ううらぁ!!
聞いてんのかンにゃろおおぉおぉお!!」
だが、私は彼らにほとんど勝率がないのをすでに知っている。
まずは相手が私だということ。
今、ここにいる私は「園崎魅音」なのだ。
その私を、この興宮の町で襲うのは愚の骨頂だ。
雛見沢関係の人間がすぐに群れ集まってくるだろう。
彼らは同郷の人間に対する外敵を許しはしない。
そして次に、彼らに土地勘がないこと。
土地勘があれば、そもそも「魅音」がどういう人間で、ちょっかいを出すことがどれだけ命知らずなことかわかっている。
そして、この一見、ひと気のない路地裏が、実際はそうでもないことも知らないのだ。
この一見、誰も通らなさそうな裏路地は、然るべき時間には、家路への近道として使われる、地元の人間ならみんな知ってる抜け道であることをわかっていないのだ。
夕暮れ時にもなれば、ここは様々な人間が通る主要幹線に早変わりする。
そして、刻限はそろそろ夕方。
あとはのらりくらりと時間を稼ぐだけで、ここにはたくさんの人通りができるようになる。こいつらは退散せざるを得なくなるのだ。
押しもせず引きもせず。
あと少し粘れば私の勝ち。そんな気軽な喧嘩だった。
彼らは口汚く罵ったり、襟首を掴み上げたりはするものの、実際に暴力を振るう訳じゃない。
レディーファーストを潜在意識に刷り込んでくれた彼らの義務教育に乾杯だ。
…だが、私が魔性なのは、待てば勝てる喧嘩なのに、遊び心を出してしまう点だった。
彼らをより一層、悪者に仕立て上げ、より一層、言い訳がしにくくなる状況に、さらにさらに追い込みたい。…そういう小悪魔的な興味が、ピンと角を立ててしまうのだ。
平たく言えばつまり、私がより一層、可哀相な可哀相な犠牲者を演じればいいのだ。
誰もが同情したくなるくらいに、痛々しくて気の毒な悲劇のヒロインに。
…こういう時、いきなり泣き出すと男はぎょっとして手を引いてしまう。
危機回避ならそれもいいのだが、私の目的は回避でなく泥沼化なので、それはやらない。
始めは虚勢を張り、粋がり、挑発気味で。
…だけれども、だんだん声に張りがなくなってきて、おどおどしてきて、うるうるになってきて。
……この辺で微妙に、強気な女の子が徐々に屈伏していく辺りに発する、萌え要素が入ればよりベターな感じかも知れないな。
……仮に理屈でそれが理解できても、それを実際に実行できるのは、…多分、私と魅音くらいのもんだろう。…ま、魅音よりは数段うまくやって見せるけど☆
「……そ、…そんなにしつこく言わなくてもいいでしょ?! 悪かったって、言ってるじゃないですかぁ…。」
微妙に虚勢をのぞかせながらも、どこかそわそわ。
気付けばうっすらと目に涙。…こんなところかな?
そう言えば、男の人って、自分の意思で涙腺を調節できないって聞いたことある。不器用な生き物だな。
私が突然、モードを変えたので、三人組は一瞬戸惑うが、すぐに気を取り直し、ぎゃんぎゃんと意味不明な言葉ぶつけを再開してくれた。
徐々に深く、徐々にディープに…。
誰がどう見ても言い訳の聞かない弱い者苛めの構図へずるずると引き込んでいく…。
「……もぅ…許して、…ください。……っく、……えっく。…ぅう……!」
「な、なんだよこら!! さっきまでの威勢はどこいったんだよンにゃろおぉお!!」
「…そんなの………ったって、……ぅっく、……えっく、…あぅううぅうぅ…。」
「……そんな…今頃泣くくれえなら、調子くれてんじゃねえんだよッたくぉおぉ!」
ありゃ、三人組の威勢がちょいとなくなってきた。…少〜し哀れにやり過ぎた?
このまんま、今日はこの辺で許してやらあなんてことになると、つまらないなぁ…。
…そんな風に思いかけた時だった。
「い、…いい加減にしないか…! もう泣いてるじゃないか、やめてやれ…!!」
私と同い年くらいの、男の子だった。
体つきは細く、男としては華奢に見える。
線が細い、そんな感じが誰もが感じる第一印象だった。
か細いイメージの体つきと顔つきは、どう考えても本来の年齢よりも下回る印象を感じさせる。
知性を感じさせる涼やかな眼は、蛮勇としか言えない今の局面にも臆すことなく、大きく見開かれていた。
「なんだぁああぁあぁぁ…?! ンなこの野郎おおぉおおぉ!!!」
「ッだんねえことっしてんと、ぁあじゃまねえぞぉおらああぁああッ!!!」
三人組は、泣き出した女よりも、新しく現れた文系の男の方がよっぽど与し易しと判断したのか、私を放置してその矛先を彼に向ける。
彼は、次々に吠え猛る三人組に、多少たじろぎはしていた。
これだけ攻撃的な感情に晒されれば、臆さないわけがない。
…だが、こうなることを彼は覚悟して臨んだ。
私を救うために声をかければ、こういう事態に絶対になることを充分に覚悟してから、臨んだ。
「黙ってたらわからんがなあぁああ!! 返事せんか返事ぃいいぃい!!!」
「………………………。」
彼だって、猛々しい言葉を返したかったに違いない。
…だが、彼が今日までに辿ってきた人生の中で、こんな汚らしい言葉を応酬した試しはなかった。
だから彼は感情の高まりを言葉にして口に出すことができなかった。
いや、どういう言葉で表現すればいいかわからず、口にできなかったのだ。
だからせめて彼は、眼で語ることしかできなかった。
不退転の決意でここにいることを、せめて眼差しで伝えるしかなかった。
三人組には、目の前の男が自分たちに畏縮して言葉を失っているようにしか見えないのかもしれない。
だが、やがてわかる。
……気迫というもので、決着がつくのなら、三人はすでに彼の気迫に負けているのだ。
……そして彼らは、負けた。
気迫に負け、追い詰められ、腕力に訴える以外の手段を失ったのだ。
三人組は、彼に掴みかかり、殴って、蹴って、投げ飛ばしたりした。
…それはもちろん、彼にとって苦痛を伴うものだったが、全部見ていた私だけはわかっていた。
彼は間違いなく勝ったのだ。
やがて、…私が望んだとおりの頃合に、通行人たちがやってきて、この蛮行を咎めた。
三人組はこれ以上、この場に留まっても何も得る物がないことを今さら悟り、慌てて退散していった。
……すっかり土埃で汚れてしまった服を叩きながら立ち上がる彼。
私と目が合うと、本当に薄く苦笑いしながら、大丈夫かい?と私に声をかけた。
………大丈夫かと声をかけられるのはあんたの方なのに。
「……あんたも、よくもまあ、勝てない喧嘩を買う人ですね。次からは勝てる算段がついてから、喧嘩を買うことを深くお薦めしますけどね。」
「…最初は迷ったよ。あはははは…。」
彼は、苦笑いする。……彼は見ていたのだ。初めのうちは。
…一対一でだって恐ろしいようなチンピラ崩れの不良が3人も。見て見ぬふりをして、立ち去る選択肢を、最後まで選ぶ余地があったのだ。
…なのに彼は、その選択肢の誘惑を拒否し、躍り出てくれた。
「そーゆうのは勇気って言わず、蛮勇って言います。身の程知らずとも言うかな?」
「……むぅ。魅音は口が減らないね…。助けてくれてありがとうくらい言ってくれよ。泣いてたじゃないか。」
「……べ、別に泣いてなんかいません! あれはちょっとした演技でぇ…!」
「あははははははは。いいよ、演技でも。あははははは。」
「ちょ、ちょっとぉ! 信じてないでしょ?! 私が本当に泣き出すと思いますかー?!」
「思わないよ。天下御免の園崎『魅音』が、不良に苛められて泣き出したなんて、誰も思わないよ。あっはっはっは。」
「なな、何を笑ってるんですかー! 全然信じてないでしょ?! 私が半泣きなんてするわけない〜!!」
「はっはっはっは、信じるから、信じるから。」
その一連のやりとりでこっそりと気付く。
…彼は、お姉の、園崎魅音の友人なのだ。
そして彼は、私が魅音の双子の妹であることを知らない。私のことを、髪をおろした魅音だと思っているのだ。
…私たち姉妹は、小学校に上がる時に住まいを分けられた。
魅音は雛見沢。私は興宮。
そして、学校も環境も、まったく雛見沢と重ならないようにさせられてきた。
だから、私という、魅音の妹の存在を知らない人間がいてもおかしいことはない。いや、むしろ知っている人間の方が希少だろう。
私は、魅音じゃなくて自分は妹の詩音だ、と喉のすぐそこまで言い掛けたのを危うく飲み込む。
……詩音はここにいていい存在ではないのだ。
彼は雛見沢の人間。彼に、魅音と瓜二つの別人が町にいた…と知られるのはまずい………。
だから私は、魅音として振舞うことを躊躇なく選ぶ。
…考えようによっては、彼とのやりとりは、今の不良連中との喧嘩よりも厄介なものなのかもしれない。
「…でも、ま。魅音にも少しは女の子らしいところがあったんで安心したよ。」
「何だか、みょーに引っ掛かる言い方ですけど、つまりはどういう意味です?」
「魅音のことだから、何だか珍妙な拳法でも使って、瞬く間に撃退してしまうんじゃないかって期待してたね。…だから、泣き出したときは、正直、驚いた。」
「だだ、だーかーらーー! あれは泣き真似だったって言ってるじゃないですかー! さっきから人の話、ちゃんと聞いて、…………………。」
…彼は大きな手の平を私の頭の上に、そっと乗せると、…まるで赤ん坊の頭をそうするように、撫でてくれた。
………私だって、幼少の頃にはこんな風に頭を撫でられることもあったが、…もうずいぶんとこんなことをされた覚えはない。
あまりに…唐突のことで、わわ、わ、……ぅ…。……なんで私はこんな恥ずかしい目に…?
……顔中が火を噴いたように真っ赤になって、言葉が失われてしまう……。
「ちょ、………………………ば、馬鹿にしてます? ひょっとして……?」
赤面してどもりがちになってしまう私。
だが彼には照れる様子はなく、さも当り前のことをしているかのように涼しげだった。
「あはははは。…何でもいいよ。よかったじゃないか。」
「……よかったって、…何がです?」
「無事で。」
短くそう言い、頭を撫でてくれた彼の笑顔は、…言葉で形容できない神々しさがあった。
逢瀬の時間は長くはなかった。
…私があの三人組から解放されたのだから、彼の目的はすでに達せられている。
「…じゃ、僕は行かなきゃならないから。そろそろ行くね。」
「あ、……………うん。」
私にとっては初対面として踏まえたい数々の段階も、彼にとっては存在しない。
彼は友人の危機を救い、恩着せがましくすることを嫌って、さっさと立ち去ろうとしているだけなのだから。
魅音と彼は友人で、もちろん互いを知り合う仲だろう。
…だから、あなたのお名前は何ですか?…なんて言う言葉には、どうやってもつなげない。
名前すら知らない「魅音の友人」は、本当に本当に、…さっき見て晴れ晴れしい気持ちになったあの高い空のように、清々しい顔でもう一度笑ってくれた。…ほんのちょっぴりだけ悪戯っぽく。
「あはは、安心しなよ。魅音が泣いてたなんて、誰にも言わないから。
……あはは、もっとも言った所で、誰も信じないだろうけどね。天下無双の委員長が泣いてたなんて、絶対誰も信じない。あはははは。」
彼はもう一度お尻の埃を叩いてから、立ち上がる。
そして、薄暗い路地裏から、光に溢れている眩しい通りへ歩いていった。
そして、振り返り、私に告げた。
「じゃ、また明日。学校でね。」
「……………うん。…学校で。」
彼は、眩しくて目がくらむ様な日差しに満ちた大通りに消えていく。
私は薄暗い路地裏に、ぺたっと座ったままだった。
もう彼は、眩しい光の世界の向こうに溶けて、見えない。
私はただ、呆然と、その光の世界を眺めて放心しているしかなかった。
それが私と悟史くんの、初めての出会いだった…。
■魅音に悟史くんのことを聞く
「そりゃー悟史だよ、悟史。その特徴的な雰囲気と、気安く頭を撫でるクセは間違いないね。」
「…ふーん。…悟史くん…って言うんだ?」
日中の彼の名前は北条悟史くん。普段はぽややんとした感じの、昼行灯みたいな人らしい。
…だからお姉は、悟史くんがいかに勇敢に自分を助けに来てくれたかを話しても、にわかには信じようとしなかった。
「普段はしっかり者?…の妹にいろいろと尻を叩かれてるなぁ、あははは。」
「ふぅん? 妹がいるんだ?」
「うん。妹は沙都子って言ってね。なかなか面白いヤツだよ。なかなか悪知恵が働くしね。その癖、追い詰められると泣くし。見てて退屈しない子だね。……まぁ、最近は色々とあってね。…ちょっと調子を落としてるけど。」
悟史くんのことを知ろうとすれば、妹の情報に及ぶのは当然だ。
…私は悟史くんを知るために、悟史くんを取り巻く環境の全てを吸収しようとした。
………どうして?
どうして私は悟史くんのことを根掘り葉掘り知ろうとしてるんだ?
……それを自問したら、何だか急にあの、頭を撫でられた時の感覚が戻ってきた。
…鏡はないが、自分が赤面してるのがよくわかる。
「もしもし? 詩音?」
「え、あははははは、ごめん! 聞いてる聞いてる!」
「そもそもね、沙都子が叔母と折り合いが悪いらしいんだよね…。悟史は大人だから、その辺はうまく立ち回ってるんだけどさ、…沙都子は嫌なことがあると、素直に表情に出しちゃうからね。」
お姉から聞かされた話は興味深かった。
……まず、悟史くんと妹の二人はすでに両親を亡くしていること。
そして、今は父方の弟の叔父夫婦のもとに身を寄せているということだった。
どうもこの叔父夫婦というのが、尊敬できる夫婦ではないらしい。
夫婦仲は非常に険悪で、旦那は浮気三昧。
顔を合わせればケンカばかりなので、旦那は基本的には興宮の愛人宅で過すことが多いらしい。
…で、そんな状況で押し付けられてきた悟史くんと沙都子のふたりは、初めから歓迎されべき存在ではなかったのだ。
しかも、……なんと悟史くんたちの両親は、あのダム推進派の筆頭の北条夫妻だと言うからさらに驚かされる。
それなら、憎さも倍増だ。
…叔父夫婦がダム戦争中、どういう立場を取っていたにせよ、少なからずのとばっちりがあったはずだ。
散々、自分たちに迷惑をかけた挙句、勝手に事故死して、その子どもを二人も押し付けてきた…とあっては、憎さこそあれ、可愛さなど一欠けらも感じまい。
で、…この1年ほど、沙都子と叔母の仲の悪さが特に顕著らしい。
女の苛めは陰湿だ。
相手が子どもだろうとそんなのは関係ない。
しかも世間体などお構いなしという残酷さも兼ね備える。
…で、沙都子は最近、かなり苛め抜かれてかなり疲れきっているらしい。
悟史くんは一見、穏やかそうだが、……きっと妹を守るために、いろいろな場面で矢面に立つだろうと想像できた。
私を助けに来てくれたように、勇敢に。
「なら、…悟史くんも普段は疲れてるってことになるのかな。」
「…え?」
「沙都子が叔母に苛められる度に、きっと悟史くんは妹をかばってると思う。妹が疲れるのと同じくらい、悟史くんも疲れてると思うのは私の考えすぎ…?」
「……ん、………えっと…。………どうだろうね……。」
私の言ったことはそんなにも鋭かったろうか?
魅音は少し狼狽したような感じになった。
魅音の反応はつまりこうだ。
普段からあの、ぽややんとした雰囲気なので、とても疲れているようには見えない。
だからそんなこと、考えたこともなかった、…だ。
お姉はこんなにも悟史くんの身近にいて、どうしてこんなに鈍感なのか。
少し呆れるが、まぁそんなことはどうでもいい。
「まぁ、そんな話はいいや。で? 彼は普段はどんなことをしてるの? 文系みたいだから、読書とか好きなわけ?」
「あ、あははは! えっとね、想像に漏れずに、普段は読書して過してるよ。最近読んでる本はね、えっと、…何て言ったかな。」
それからは悟史くんのいろんなことを聞いた。
好きなこと、嫌いなこと、考えてること。
彼の考え方や好みが知りたくて、率直にあれこれ聞いた。
ある特定の個人に、興味を持ったのは恐らくこれが初めてだった。
それが世間で何と言われる感情なのか、自覚するのが恥ずかしくて認めたくない。
私ってば、つまりその……、頭を撫でられただけで恋をするような、安っぽいお人形だったわけだ…?
頭を上をこちょこちょくすぐるような、あの撫で方を思い出すと、胸がふわ…っとなる。
試しに自分で自分の頭を撫でてみたが、あの感触は再現できなかった。
……あはははは、私ばかだ。何やってんだろ、自分で自分の頭を撫でてさ…!
「あはははははははは…☆ お姉、私、もぅだめだ。ばかになっちゃった。」
「ふぇ? 何よ突然。気色悪い声で笑い出して。」
「あははははははは、お姉にゃわかるまい、この気持ち。あはははははは…☆」
彼に次に会える機会はいつだろう。
窮屈だと思っていた生活が、急に、ぱぁっと明るくなった気がした。
■アイキャッチ
■悟史くんとの再会
私が過ごす日々は、まぁ窮屈でないとは言えないものだった。
日中は自由に表を歩けるわけではなかったし、バイトに出るのすら、魅音との事前の打ち合わせが欠かせなかったからだ。
学園から抜け出せば、新しい生活が始まり何かの潤いがある…と信じていた私には、どこか耐え難い生活だった。
こういう生活を長く続けると、人間はいい方には流れないよね。
そもそも、今の私には単純なコミュニケーションすら不足しているのだ。……このままではただの引き篭もりになってしまう。
怠惰な生活に、緩慢に殺されてしまうことを、ささやかに危惧し始めていた頃だった。
そんな時、思い浮かぶのは、あのお姉の友人「北条悟史くん」の顔ばかりだった。
彼とのコミュニケーションは信じられないほどわずかだったが。
…それでも、この町での新しい生活を始めてからの中で、一番鮮烈な経験だった。
何か新しい生活、新しい何かの始まりを感じさせてくれるような、……子どもっぽい言い方だと、わくわくするような感覚を感じさせてくれた。
そう思えば思うほど、彼のことを考えている時間は増えた。
…これもまた、ある種の片思いのようなものなのかもしれない。
自分のチープさと、彼の姿を勝手に美化してしまう乙女チックさに思わず苦笑した。
そんなある日だった。彼と突然再会する機会を得るのは。
「…………………あれ?」
通りかかった公園で、ブランコに乗って黄昏ている人影が、見知った顔だったからだ。
放心しているのか、考え事に没頭しているのか。
…彼は私が正面に立っても、しばらく気付こうとしなかった。
自分は園崎魅音なんだ…、魅音のように喋るんだ、と数回繰り返してから、声をかける。
「へーい。何やってんの、こんなとこでさ。」
「………………魅音か。…びっくりしたぁ。」
「そんなに驚いてるようには見えないけどね。さっきから居たんだけど、ずっと気付かなかった?」
「……そうなのかい? ごめん、気付かなかったよ。」
薄く苦笑いしながら、肩をすくめる真似をして見せる。
あからさまに元気のなさそうな様子は、見ていて胸が痛かった。その様子はひと目見て、何か悩み事があるんだろうなと見て取れた。
「…何か悩み事でも? 聞いて楽になるものなら聞くし、力になれるものなら惜しまないけど?」
「いや、別に…。」
「私ゃ、悟史くんには一個、借りがあるからね。それとも、何。おじさんじゃ力になれないと思ってるわけぇ? 見くびられたもんだなぁ。」
「別に…。…魅音の力を借りたら意味がないことだからさ。」
「……ほー。それは何、つまり。私ごとき女の手は借りたくないってーこと?」
何となく納得のいかない拒絶に、頬をぷーっと膨らませる。
…悟史くんはすぐに、私に誤解を与えてることに気付き、表情を軟らかくして訂正してくれた。
「違うんだよ、魅音。…僕に実力がなくて、……ここ一番で打てなかったってだけのことなんだよ。」
…お姉から受け取っている情報群から、悟史くんに関連するカテゴリーを高速で検索する。
………悟史くんは文系だが、意外にも少年野球チームに所属。
所属のチーム名は『雛見沢ファイターズ』。
活躍の噂は皆無なところから、技量は低いと推定。それを恥ずかしがっているのか、チームに所属していることを、あまり積極的に公開していない。
だが、期待に応えられず落胆している様子から、熱意はあるように見受けられる……。
そういった情報のどろどろのスープを、お姉だったらこう喋るというフィルターにくぐらせていく……。
「なぁんだ…。そんなことで落ち込んでるわけぇ?」
「そんなことで、って。…簡単に言ってくれるなぁ、魅音は。」
あっけらかんと笑いながら、悟史くんの背中をバンバンと無神経に叩いてやる。
こうやれば、悟史くんは多分、人の気も知らないで…と返してくるだろう。
本人が悩んでる時は、無神経に元気付けないで真摯に聞いてやる方がいいものだ。
この「お姉」の対応は多分、ミスだと思う……が、今の自分はお姉だから、ミスと知ってても仕方ない。お姉はこういう時、こうするのだから。
「あっはっはっは。それなら落ち込むんじゃなくて、なお一層練習に打ち込んで、次のチャンスを目指すのが適当ってもんでしょうがー。こういう時は練習しかないよ練習! まぁ悟史くんに、相手のピッチャーに小細工をしてまで勝ちたいという執念があるなら、おじさん色々と協力できるかもしれませんけどねぇ。」
「むぅ……。ズルしても何の意味もないよ…。…あ〜〜ぁ…。」
悟史くんは自分の中の未練を、大きく口から吐き出すとうな垂れて見せる。
降参、諦め、仕方ないや。…そーゆう感じのジェスチャーだ。
「諦めがいいのか、未練たらたらなのか。やっぱり男に生まれたからには、一度くらいは晴れ舞台でスターになってみたいでしょ?」
悟史くんは、そりゃそうさとにっこり笑って答えた。
「もちろん、ヒーローを目指すのが華だけど。それが目的で野球をやってるわけじゃないよ。
純粋にボールを投げたり打ったりするのが楽しいからやってるんだよ。…魅音でも、そういうの、わかるよね?」
「おじさんはそーゆうのは、あんまわかんないかな。私は結果が一番であるなら、どんな種目でも大好きだし。一番になれないのに大好きなんてものは、あんまりよくわかんないね。あははは!」
「むぅ…。
あははははははははは。魅音らしい答えだなぁ。」
悟史くんは、私が元気付けるために笑っているものだと気付き、私に合わせるように笑ってくれた。…その笑顔の清々しさを見る限り、そんなに落ち込んでいたようには見えない。
つまり悟史くんは、試合の佳境で凡退していじけてたワケなんだけど。
私が考えてたほどは落ち込んでいないようだった。
たまたま試合が終わった後、公園でジュースでも飲んで一服してたのを、私が黄昏てるように見て、深く勘違いしてしまっただけだったのだ。
「……でも、魅音は一番になるために色々と努力をするからね。それは偉いと思うよ。うん。」
悟史くんはとても軟らかく笑うと、ブランコから立ち上がり、………私の頭を撫で撫でしてくれた。すごく急に。無警戒なところに。
「へ? …………わ、……ぅ……。」
前に撫でられた時もそうだったんだけど……。
…どうしてこの男は、こうも気安く人の頭を撫でるのかなぁ…!
頭なんか撫でられるのなんか、幼稚園以来だよ普通。まるでスイッチが入るように、幼児体験の数々が思い起こされて…自分が小さい子に戻ったような錯覚を得てしまう。……顔が真っ赤になって、恥ずかしくなって……ぽわぽわな感じがしてしまう。
悟史くんは、まるで猫の頭でも撫でるかのように、愛くるしく無神経に。
それに対すると、私はまるで、撫でられるのが終わるまで、真っ赤になって目を閉じてるのがやっと。
まるで歯医者さんで口を開けて、次に何をされるのか怖くて目を閉じてる女の子と変わらない。
……そんな心境の私など全然気付きもせず、撫でてる当の本人は至って涼しげそうだった。
…私に、どういう印象を与えているか、まーったく分かっていないのが憎々しい。
私は悟史くんが撫で終わるまでの数瞬を、じっと目を閉じて待ってるしかない。そして、その悟史くんの手は、不意に私を解放した。
「……じゃ、僕はそろそろ帰るよ。叔母さんに野球の帰りに買い物をしてくるよう、頼まれてるから。」
「あ、……………ん、」
うわずったよくわかんない、恥ずかしい声をあげてしまう。…私ったら、何て声出してるんだか…。
「ん?」
「っと、えっと! ……買い物なら、私も行くとこ。…夕飯の買い物。」
「? あれ? 魅音も買い物するんだ。お手伝いさんが全部やってくれるって言ってなかったっけ?」
あちゃ…。ミスった。
園崎本家の賄いはお手伝いさんに任せきっている。
園崎魅音本人が買い物をすることはほとんどないし、本人はその情報を一部に公開している。……『魅音としての発言』をミスった。私たちが滅多にしないミスだ。
でもそれは取り繕うのはそんなに難しくない。
「町に遊びに来るつもりでいたから、たまには家事の真似事でもするかなって思って。買い物を私が引き受けてきたわけよ。おわかりぃ?」
「…あはは。魅音にしては珍しいね。普段はそういうの面倒くさいって言って嫌がりそうなのに。」
「そうゆーのを余計なお世話って言います!
…ぁう! 頭、撫でないでぇ〜!」
「あはは、あはは。」
悟史くんは私が照れるのが面白いらしくて、しばらくの間、私の頭を撫で続けていた。
だが、とりあえず適当に言いくるめて、うまくその場をしのぎきれたようだった。悟史くんは些細なことは気にしない便利な性格らしい…。
悟史くんと一緒に上一色の商店街を歩きながら、…ふと考えた。
さっきの私のミスは何だったんだろう。
魅音が買い物なんか普段しないのに、自分も買い物だと言ってしまったイージーミス。
…魅音を演じている時にしたミス?
いや、……多分、そうじゃなくて。私が自分の言葉を、そのままフィルターを通さずに口にしてしまったからなのだ。
私は自分に嘘がつけない。…だから深く考えずに認めた。
つまりこれは。…私が悟史くんとの時間を、少しでも長く一緒に過したがってるんだなぁ…、つまりそういうことなんだ。
なぜ彼に、自分がこう、まるでヒヨコの刷り込みみたいに興味を抱いているのかも、ちょっと考えれば理解できた。
日々が単調な中での目新しい出会いであったこと。
自分のことを魅音だと勘違いしてくれている故の関係の気楽さ。エトセトラエトセトラ。……最後の最後に、人の頭を気安く撫でるヤツだから、というのを追記する。
それらを全部統括して、……ぁぁ、私は淡い恋心というやつを楽しんでるんだなぁとすることにした。
そう、これはカジュアルに恋心を楽しんでるだけ。
別に、彼のことが好きになったわけじゃない。
異性とのちょっとした時間を楽しんでいるだけなのだ。
そう割り切ると、悟史くんとこうして他愛ないおしゃべりをしながら過す時間も、何だか楽しいものに素直に感じることができた。
「えっと……。…ブロッコリーってどれだっけ。…緑だっけ? 黄色だっけ?」
「悟史くん、そっちはカリフラワー。……悟史くんってひょっとして、キャベツとレタスの区別が付かないタイプ?」
「そ、それはひどいよ。これでも精一杯区別してるつもり…。」
そうは言いながらは、悟史くんはブロッコリーとカリフラワーの山の前でにらめっこだ。
さんざん迷った挙句、吸い込まれるように間違いの方に手を伸ばす…。
「それ違うー! …悟史くんの買い物は見ててハラハラしますねぇ。見てるこっちは楽しいけどさ。あははははは!」
「……むぅ。参ったなぁ。沙都子と一緒の時にも迷うんだよ。ブロッコリーとカリフラワーはどっちが何色だっけってね…。」
「…あんたら兄妹、二人そろって面白過ぎです。」
お姉の情報では、頼りない兄とそれを口うるさく世話焼く妹、というのが兄妹関係らしい。
妹の沙都子には会ったことはないが、実の兄がこれでは、さぞややきもきするだろうなぁと思う。
悟史くんの買い物は一事が万事、こんな調子だから、満遍なくスリリングだった。
「それは調理塩。
…コショウとか混じってますから、卓上塩とは異なります。」
「え、…そうなの? ほら、確か理科の実験で塩とコショウを分離するのを確か…、」
「言い訳はいいから棚に戻す。…こっちが普通のお塩ね! で、次は?」
「えっと、……あはははは、魅音がいてくれると買い物が楽で助かるよ…。」
「…悟史くん、頭良さそうに見えて、社会生活に支障ありすぎです。もう少しお勉強した方がいいと思います…。」
「むぅ…。…それはひどいなぁ…。
…あった。これかな? ひょいひょい。」
「だーー! だからそれは違う! 何でもカゴに放り込む前に値段と何人分かをよく確認するー!」
私が悟史くんに抱いた第一印象は、とても頼りになる強い人…というイメージだった。
だが、こうしていろいろ話していると、何て頼りなくて危なっかしい人だろうと驚かされてしまう。
何ていうのか……放っておけない。危なっかしい。
油断してると横断歩道も、渡っていいのは赤だっけ? 緑だっけ? 何て言って、ダンプにはねられかねない人だ……(汗)
「1780円になりますー。スタンプカードはお持ちですか?」
「え、……ぁ、はい。あります…。………っと、…………………あれ、どこかな。」
「あー、すみません。ちょっと見当たらないんで今度でいいです。」
悟史くんが領収書だらけの財布を漁り続けるのを無視して、会計を済ます。
「ひどいな魅音…。スタンプちゃんと押さないともったいないよ…?」
「あんた、夕暮れ時のお買い物ラッシュの時にのんびりと財布を漁って、スタンプカードなんか探さない〜〜!! 後に大勢待ってるんだから! 私たちの後ろで海千山千のおば様方が、早くしなさいザマスって目でギロギロ睨んでたの、気付いてなかったんですかぁ?! あのねぇ、そういう時はレジ前に並んでる時から予め用意しておくの!」
「…あ、…そうか。あはは、いい事を聞いたよ。」
「ちなみにここでのことだけじゃないですからね。バスに乗る時もそう! 悟史くん、バスを降りようとして料金を入れる時、その時になって初めてお財布を開けて、小銭をちまちまと探して、後の人を詰まらせて待たせてるでしょう。」
「…むぅ〜〜〜………、みんな僕を追い抜いて、勝手に料金を入れてるかな…。」
「はぁ…。それはね? すっご〜〜〜く周りに迷惑をかけているのです! そういうのは予め用意しておくのがマナー! わかりました?!」
「わわ、わかったよぅ。…今日の魅音は怖いなぁ、あはははは…。」
私の怒りを逸らすかのように愛想笑いをする悟史くん。
……は〜〜、もぅ、この人はぁ。
…なんてゆーのかな、きっと庇護欲を掻きたてるタイプに違いない。
…そりゃまー、あんたの身の回りに、私みたいなお節介焼きがいるときはこれでもいーけど、そういう人が周りにいない時、ちゃんと社会生活が営めるか、私ゃ不安でならないよ。
レジでビニール袋をもらい、買ったものを分ける。
……真っ先に袋の底に豆腐を突っ込んだ悟史くんの手をピシ!と叩き、牛乳パックから先に入れ直す。
「ハイ、これでOッK。これで台所で買い物袋を広げて、お母さんに仰天されなくて済みますからねー。」
「あ、…ありがと。助かったよ。…僕はどうも買い物が苦手でさ。」
「買い物だけぇ? 正直におっしゃい!」
「……む、…むぅ……。」
「あははははははは! うそうそ冗談。」
買い物という短い時間を通してだが、わかったことがある。
…悟史くんは買い物が苦手とかそういうレベルじゃなく。…基本的に物事全般に要領が悪い人なのだ。
……とろいというか、抜けているというか。
…そう思うと、やはり初めて出会った時の、彼の危険をかえりみない勇気は、…彼のとびっきりの勇気だったんだろうな…と感じた。
悟史くんはとろいけど、馬鹿じゃない。
自分が要領が悪いことを充分に知っている人間だ。
…ならばこそ、ますます君子危うきに近寄るべからずを実践していたはず。
…彼は、いくらクラスメートの魅音がピンチだったからと言って、蛮勇を振りかざすべきではなかったはず。
それを全部考えて、押し込んで。…飛び出して来てくれたのだから、やはり、それはとてもすごいことなのだ。
「えらいえらい。悟史くんはがんばったよー。いい子いい子。」
「な、………何だよ。急に人の頭を撫でないでくれよ。」
「悟史くんがひとりでお買い物が出来ましたで賞。なでなでなで〜♪」
「魅音、……僕のこと、すっごいばかにしてるだろ?」
「してないしてないよ〜。お家、ひとりで帰れるかな? 道、わかる?」
「むぅ…。やっぱりばかにしてる…。」
悟史くんはむくれながら、私に頭を撫でられるままに委ね、少し赤くなりながら俯いていた。……あ〜〜ん、こいつカワイイよ〜〜☆
そんな時、視界の片隅に、お稽古ごと掲示板が映った。
ピアノ教えます、××まで。そろばん教室生徒募集…。少年野球チーム、メンバー募集。
悟史くんのチーム、雛見沢ファイターズのチームメイト募集のポスターだった。
毎週の練習する曜日と時間、場所等の公開情報が載せられている。
今日の買い物のワンシーンを見てるだけで、これだけ頼りないのだから。
見たことはないけど、野球もこんな感じなのだろう。
悟史くんは私が野球チームのポスターを読んでいるのに気付くと、急にバツが悪そうになり、その場を立ち去ろうとした。
「今、悟史くんは思った。…頼むから、魅音。野球やってるとこまで来ないでくれよ〜〜。……図星?!」
「む、…むぅ……。………ぇっと、…………………むぅ。」
「その、むぅってのは、つまり何さ。……図星ってことでしょ。」
「……むぅ……。」
悟史くんは、むぅ…。と正体不明の一言を残して沈黙してしまう。
…本当に図星らしくて、何も言い返せないと、そういう感じだ。
……悟史くん、…君、かわいいにもほどがあるぞ。
…図星突かれたのを大人しく閉口して認めるなよなぁ…。まぁ、嘘がつけない人ってのはこーゆうものだ。
「じゃーねー悟史くん。暗くなりかけてるから、気をつけて帰ってね〜!」
「魅音は一緒に帰らないのかい? 雛見沢。」
「…あ、…私はもうちょっと寄るとこありますんで。気にしないで先に帰って下さい。」
「僕の買い物を手伝ってもらったんだから、付き合うよ。今度は僕が手伝う。」
「あ、あははははは。大丈夫大丈夫! ってゆーか、悟史くんが何を手伝うおつもりでぇ? 人の手伝いする前に、自分が手伝われなくて買い物できるようになっといてくださいなぁ。あっははははははは!」
「…むぅ…。今日の魅音は一際意地悪かなぁ…。」
一応、男としてのプライドも少々は持ち合わせているらしい。
女に馬鹿にされてちょっぴり憤慨気味のご様子。もちろん私はご満悦なのだが。
だから、またしても油断してしまった。
「あ、でも、手伝ってくれてありがとうね。
本当に助かったから。」
「わぅ…………! …………きゅぅ……。」
悟史くんが、無邪気な笑顔でそう言いながら、まったく警戒していなかった私の頭を無神経に撫でる。……なでなでなでなで。
あー…もう、……これはこれで馬鹿にされてるとは思っても…。ぅぅ、撫でられてる間は何も抗えない…。………………きゅぅ…。
悟史くんは私が無抵抗なのをいい事に、すっごくご機嫌にいつまでも撫で撫でを繰り返していた。……ぁぅぁぅぁぅ…。
「じゃあね、魅音。暗くならない内に用事を済ませてね。……また明日、学校で。」
「あ、うん! また明日、学校でね!」
また明日、学校で出会うのは私じゃない。
……そこいら辺に、微妙な感じもしたが、今はこれが精一杯。仕方がない。むしろ、魅音としての時間を貸してくれるお姉に感謝したい気分だ。
やがて彼と別れた後。
…すごく上機嫌な自分と、次に会える機会はいつだろうと、いとおしむ自分に気が付いた。
彼のことをもっともっと知りたいと思った。
彼に次に出会える機会は偶然に委ねることもできる。
……だが、それに委ねるのはあまりに消極的だ。
私が今の生活を自らの手で選び取ったように。これからの生活の全てを私は自ら選び取って行かなくてはならない。
…なぁんて、難しい理屈はどうでもよかった。
もっと彼をからかいたい。もっと彼に頭を撫でられたい。もっと、……ええと、もう何でもいいや。
彼の次の少年野球の活動日は、もうわかっているのだから。
■幕間 TIPS入手
■くしゃくしゃの日記(3日目終了時)
ようやく叔母のヒステリックな小言が終わった。
今日のそれもいつもと同じ。
きっかけがなんだったかは思い出せないし、どんなきっかけだったにせよ、内容は途中で二転三転する。どうだっていい。
またしても、24時を過ぎていた。
後頭部を殴りつけるような睡魔が襲い掛かる。
沙都子は緊張の糸が途切れると、……ストンと崩れ落ち、僕の裾をつかんだまま、眠りに落ちてしまったようだった。
僕は沙都子を背負って寝室に行き、…布団を敷く。
「ほら、沙都子。…布団が敷けたよ? 布団に入りな。」
沙都子はもごもごと、芋虫みたいに這って布団に潜り込むと、そのまま動かなくなった。
それを見て、僕も同じように布団に潜り込みたい欲求に駆られる。
でも、…まだ寝るわけには行かない。
叔母さんにさっき頼まれた買い物。
歯磨き粉のチューブを、明日の帰りに忘れないように買って来ないと。多分、メモして置いておかないと忘れてしまう…。
それから、電気釜に明日のお弁当用のお米をセットする。…タイマーも忘れずに。
そうだ、あと小言のきっかけになった洗濯場のタオルの山をちゃんと積み直しておかないと…。
叔母は指摘事項がすぐに直っていないととても怒る。
あぁ、あと何だっけ。
…そうだ、明日は八百屋さんの手伝いのバイトを入れてもらったんだっけ。
そうだ、エプロン持参って言われてる。
……うちにエプロンなんて…あったっけ……。見たことないや…。
叔母さんは登校の時間には寝ているから、もう聞く間がない。
どうしようどうしよう、せっかく魅音に紹介してもらったバイトなんだから先方を怒らせちゃいけないや。
エプロンはそうだ、明日登校したら魅音辺りに相談してみよう。きっと貸してくれる。
まだ他にもあったっけ…? んんんんんん…………。
寝床の沙都子が、…羨ましい。
そう思う自分が、悲しい。
■4日目
「こんにちや〜〜!! 今日もお暑いのにご精が出ますことで〜〜!」
「お、魅音さんじゃないですかぁ。こんにちはぁ。あれ、それは差し入れですか? ありがたいなぁ☆ さすがは我がチームのマネージャ〜!」
「まー、気が向いたからです。別に監督に差し入れたくて買って来たわけじゃないので、そこんとこよろしくお願いします。あと、さり気なく人を勝手にマネージャーに組み込まないように。」
「魅音がマネージャーだったら、色々心強いと思うけどね。
……やってよ、魅音。マネージャー。」
悟史くんが、本当に屈託のない笑顔で、そう言いながら微笑みかけてくる。
…正式にマネージャーなんてのは、面倒くさいからすっごい嫌だけど。
毎週毎週欠かさず応援に来ている今の私は、今やマネージャー気取りと言っても間違いなかった。
「まー、本当に気が向いたら、その時はやりますんで。で、どうです? 悟史くんの打率はどんな感じです?」
「えぇえぇ、頑張ってますよ。彼の打率ですか? う〜〜ん、そうですねぇ。セブンスマートでお煎餅の袋をどれでも3つ買うとですね、」
「あっははははは! それってつまり3割ってことですか。…へ〜、三割打者! 悟史くんって結構な高打率打者じゃないの〜!」
「……むぅ。打率は数字じゃないよ魅音。ここ一番で打てなきゃ意味はないんだからさ。」
「悟史くんは自分で自分の弱点をよくわかっているようですね。そこまでわかっているなら、後は練習あるのみですよ。」
監督が合図を送ると、ピッチャーが大きく振りかぶってから白球を放つ。
悟史くんは冷静にその弾道を目で追いながら、懐に入ってきたところで思い切り振り抜いた。
パカーーーーン!!
快音と共にボールは一二塁間を抜けてはるばる彼方まで転がっていった。
「おお〜〜〜。やっる〜〜! ぱちぱちぱちぱち!」
惜しみない拍手を送ると、悟史くんは照れを隠すようにメットを目深に被りなおした。
「う〜〜ん。フリーバッティングや、試合が平坦な時はかなり落ち着いたいいバッティングを見せてくれるんですけどね〜。」
監督が残念そうに笑う。
……そう、鉄火場で実力が出せないのが悟史くんの弱点なのだ。
普段は本当にいいプレイを見せるのだが、みんなの期待が一身に集まるようなここ一番に弱いのだ。
別にあがってるわけではないと思うのだが…、とにかく普段の実力が出せない。
…冷静そうに見えて、実はとろい悟史くんらしいキャラクターだと思う。
「スコアボードとか、そういう数字上ではかなりの高アベレージヒッターなのにねぇ。…本番に弱いってのは致命的かも。そんなことだから、こないだの宇喜田ジャガーとの試合でもここ一番で凡退するんですよ〜!!」
「……むぅ…。うるさいなぁ、気にしてるんだから黙っててくれよぉ。」
「あそこで打てれば、…かなり美味しい見せ場だったんですけどねぇ…。残念です。」
ここで一打出れば逆転、悪くても同点延長! という実に燃えるシーンで悟史くんの打順を迎えたのだ。
今日こそみんなの期待に応えて大きく開花してほしい…!
でもこれまでの過去のデータを考えると…悟史くんがここで打つ可能性は極めて低い…。
ベンチからの代打を出した方がいいという声をねじ伏せ、監督は悟史くんの打順を固持したのだ。
「あーも〜〜! あそこで打てれば完璧なのになぁ!! どうして駄目なんですか?! どーしてあーゆう時に打てないんですかぁ!!」
「仕方ないよ…。僕がああいう時、弱いの、本当だし…。僕だって、代打を出してくれた方が試合に勝てるかなって思ったし…。」
「試合に勝つかじゃなくて、悟史くんが勝つかどうかが問題なんです!! あ〜〜も〜〜! 何で当の本人にここまで闘争心がないのかなぁ!! 普通は逆でしょ?! 代打に代えられそうなところを、ここは俺に打たせて下さいって食って掛かるとこでしょ?! 自分から代打を出してほしいなんて言い出すなんて、あ〜〜も〜〜〜!! なんでここまで闘争心がないのかなぁ…!」
「それは私も普段から言ってるんですけどねぇ〜。まぁ、その辺が悟史くんのいい所ではあるんですが、ねぇ…。」
「普段は紳士でも、試合には鬼になる!! 男にゃそういう二面性があっても私ゃいいと思います!! とにかく悟史くんには鬼がない! 仮にも雛見沢の人間なんだから、たまにゃご先祖の鬼の血を思い出して下さいよねぇ! って、聞いてます?! 悟史くん〜〜!!」
「…むぅ…。き、聞いてるよ…。
よくわかんないけど、その、」
「わかんないけどって、悟史くんの話をしてるんですよ〜?! それを、
…きゃふ!…………………わぅ…。」
悟史くんが、ものすごく嬉しそうな顔をしながら、私の頭を撫で撫でしてくれていた。
……それもすっごい唐突に。私はいつものように、真っ赤になって言葉を失ってしまう…。
「魅音は、僕のためを思って言ってくれてるんだよね。…ありがと。僕はがんばる。」
「………ささ、…悟史くん。あの、そゆことして……誤魔化さないでください…。」
「誤魔化してなんかないよ。うれしいだけだよ。あはははは。」
私は真っ赤になりながら、彼に頭を預けているしかない。
…悟史くんがよく漏らすように、むぅ、と言いながら。
悟史くんが、がんばってくるよ〜と言い残して走り去った後には、赤面して頭から湯気を昇らせる私が残るのみだ。
「………頭、撫でられるの弱いんですか?」
「…撫でる人によります。監督が撫でてきたら関節極めますんで、覚悟の方よろしくです。」
「え〜〜〜、もぅずるいなぁ。あっはっはっは…。じゃあ全員集合〜〜!! 今日は出席もいい事ですから、人数を分けて紅白戦をやってみましょう。」
雛見沢ファイターズは、野球チームとしてはかなりいい加減な部類に入る。
しっかり練習して大会に勝ち抜こうというよりは、何でもいいから人数をそろえて、野球をして遊びたいという方に主眼が置かれている。
同じグラウンドで別の曜日に練習している興宮タイタンズなんかが、鉄アレイやバーベル、うさぎ跳びなんかでしっかりとスポ魂してるのと比べると、とても対照的だ。
ジャンケンと学年でチームが分けられ、すごくいい加減なムードでプレイボールになった。
「じゃ、私ゃ記録でもやるかな。監督、どっかに鉛筆ないですか?」
「いっつもすみませんねぇ。ハイこれ、お願いしますね。」
私は手慣れた様子で筆記用具と記録帳を受け取る。
…当初、ヒットとエラーの記録の違いもわからなかったが、今はだいぶサマになるようになった。
「がんばって〜〜悟史く〜〜ん!! あぁ、あんまり応援するとまた打てなくなっちゃいますね。ほどほどに頑張れ〜〜!」
「…むぅ、…それはそれでひどいなぁ…!」
「あははははは! がんばれ〜〜〜!!」
穏やかな日曜日のゆったりとした時間が流れていった。
空は澄み渡り、真っ白な雲の雄大さは、自分たちがいかに健全な時間を過ごしているか教えてくれる。
やっぱり人間はお天道様の下で活動するようにできてるんだ。
審判は野球好きの保護者のひとりがやってくれることになったので、監督は今日は大人しくベンチに引っ込んでいた。
守備位置に散っていく子どもたちに声援を送っている。
世間一般の監督なら、こういう時は怒鳴ったり叱り付けたりして賑やかなものなんだと思うが、ウチの監督はまるで幼稚園の先生みたいな感じだった。
みんなをのびのび遊ばせて、それを眺めて微笑んでる感じ。
……他所様の野球チームが見たら、きっと弛んでると思うんだろうなぁ…。
「それでも、あの程度の練習量で、みんなこれだけの動きができるんだから驚きですよね。」
「雛見沢の子は、みんな普段から元気に遊びまわってますからね。運動量は町の子とは比べ物にならないんですよ。変なフォームで固めてしまうより、遊び感覚の方が伸びるんです。」
「…おー、見事に興宮タイタンズとは正反対の考え方ですねぇ。あちらの監督と対立するの、わかる気がします。」
「タイタンズさんの考えも間違ってませんよ。試合は勝つためにするものですからね。勝利至上主義は決して間違いじゃないです。
みんなで団結して共通の目標を目指すのは、とても素敵なことだと思いますからね。……まぁ、ウチは、その目標がたまたま勝利じゃないってだけのことです。」
雛見沢ファイターズと興宮タイタンズは、ずいぶん古くからライバル関係にある。
同じ学校のグラウンドを使って練習する関係もあるのだが、…いや、本来は同じチームで、雛見沢の人間だけが分派してチームを作ったことに端を発するのか…。
まぁその、とにかく。ライバル関係にあるチームなのだ。
勝利至上主義の興宮タイタンズと、のんびり遊べればそれでいい雛見沢ファイターズ。
……だが意外にも、その戦績は互いに五割。実力は伯仲していたりする。
ということは、勝利至上主義のチームと伯仲する何かが、ウチのチームにはあるってことだ。
それが何なのかは、…言葉にはできなくても、私には薄々わかっていた。
「ほら〜〜〜紅組さんも頑張って下さい〜〜〜! 2点差なんかひっくり返せちゃいますよ〜〜! 白組も油断なくしっかり〜〜〜!」
監督の覇気のない指導を非難する親がいるのも事実だ。
…だが、その指導の仕方に共感する親も、若干だがいる。私はどっちだろう? 後者…と言いたいとこだが、少し保留気味にしておこう。
この人のたまに見せるHな一面は、教育者としてちょっと問題があるからだ(苦笑)
この人が無類のメイド好きであるという話は、…まぁ別の機会に。
悟史くんは、球筋をじっくり見定めるように、二球を見送った後、丁寧なバッティングで見事、一塁に出塁して見せた。
「お、悟史くん、打った打った。落ち着いてればさすがですよね。」
「最初はちょっと素振りしただけで、すぐバテてたんですけどね。はははは、それを思えば、本当に上達したものです。」
「……悟史くんって、文系って感じの人ですよね。よくその彼が、野球をやろうなんて思ったものですね。」
少年野球チームに入ろうとする子どもなら、普通は例外なく野球好きだ。
だから普段から草野球で遊んでる。だからそこそこのセンスや体力があるものだ。
だけど、お姉から聞く限り、悟史くんは普段、学校でもそんなに体は動かさない。空いた時間があれば読書をするタイプだ。
そんな彼と、雛見沢ファイターズという野球チームの接点が何だかわかりにくかった。
「あはははははは。それはですね、私が北条さんをこのチームに誘ったからなんです。」
「へー。監督が自らスカウトしたんですか? …悟史くんに何かすごい素質があるのを見抜いて?」
「あ、すみません、麦茶を一杯もらってもいいですか。……あ〜、どうも。」
監督が本当に微妙なタイミングで麦茶をねだった。
…この監督って人は、普段はちゃらけてる人だけど、実際は落ち着きのある大人であることは知っている。
だから、今の話をはぐらかそうとしてるんだな…と感じた。
「…何か訳ありなんですか?」
監督は麦茶がおいしい…なんて言いながら聞き流している風だったが、私が折れないことに気付き、ちょっぴり肩をすくめて答えてくれた。
「……園崎さんなら、あるいは想像がつくんじゃないかと。」
…園崎魅音なら察しが付く理由。
……頭の中の、魅音サイドから構築された悟史くんに関するデータベースを高速で探る…。
監督の影のある言い方に該当するのは、…悟史くんの家族に関することしか思いつかなかった。
悟史くんは一昨年、事故で両親を失っている。
その後、引き取られた叔父宅ではいろいろと苦労があるのは周知の事実だ。
「……じゃあ監督は、…悟史くんの鬱憤とか、そういうのを解消させてあげようと思って、このチームに?」
「スポーツはいいですよ。ほどよく体を動かして汗をかくことはストレスの発散になります。また、熱中することによって、わずかな間でも家庭のことを忘れられるなら、それは充分な気分転換になりますしね。」
「……あの、…ほら、悟史くんって、ぼんやりしてるというか、のほほんとしてるというか、そういう所あるじゃないですか? ……やっぱり、相当ストレス、あるんですか…?」
私は悟史くんがあの笑顔の下で、相当の苦労をしているのではないかと薄々思っている。
だが、園崎魅音はそれを意識していないようなので、そう返した。
「叔父さんに引き取られて少ししてから、悟史くんがだいぶ体調を崩しましてね。いろんな症状を訴えるんですが、いくら調べても原因がはっきりしないんですよ。」
叔父宅に引き取られてから少しして。悟史くんは頻繁に体調を崩すようになった。
倦怠感や頭痛。
無気力や睡眠時間の乱れ。
…監督、…いや、入江先生はやがて気付いた。これは体の病気ではなく、心の病気だと。
叔父宅での生活が円満でないことは、雛見沢では早々と噂になっていた。
両親の事故のショックも冷めない内にそんなでは……心に負担がかかるのも無理もないことだったろう。
「北条さんは、感情の爆発が出来ないタイプなんですよ。泣いたりとか怒ったりとか、そういう感情が人一倍苦手なんです。」
「……確かに、悟史くんが泣いたりとか怒ったりってのは、あまり想像つかないですね。」
「…北条さんのお母さんが再婚を重ねてるのはご存知で?」
「……まぁ。少しは。」
悟史くんの母親は何度か再婚を繰り返している。
つまり、見慣れぬ父親を何度か経験しているのだ。
家庭という神聖な領域に、何度も知らない大人を迎えた悟史くんは、必然的に大人になることを強要されていった。
「悟史くんは、精神的に早熟なんです。本人は自覚していないでしょうがね。…泣いたり笑ったり、駄々をこねたり。そういう時代をあっという間に卒業させられて、大人になっちゃったんです。」
「……監督の言い方だと、大人ってのが必ずしもいいようには聞こえないですね。」
「子どもは子どもらしく過すことで、成長していくように出来ているんです。それを無理に大人にしたら、…やっぱりいい事はないですよ。」
沙都子と叔母の仲の悪さは顕著だが。…伝え聞く話では、再婚相手の父親たちとも、折り合いは悪かったらしい。
沙都子はいつになっても、家庭で不和を起こし続けていた…。
それを兄として庇おうとする悟史くんは、いつしか沙都子の保護者たろうとしたのかもしれない。
「……だから悟史くんの体に変調が出たのは、そういうことに体が耐えかねたSOSじゃないかって思ったんです。」
そして、監督は自分の野球チームに悟史くんを誘った。
新生チームだから、メンバーが足りない。ぜひ! …なんて感じで。
「初めは渋ってましたけどね。…彼と診療の際にいろいろとお話しする内に、少しずつ打ち解けていきましてね。
……ちょっと見学だけにでも来て見るといい。ちょっとバットを持ってみるといい。……なぁんて感じで、少しずつ誘っていったんですよ。」
スポーツは精神的にまいりかけてた悟史くんには、本当にいいものだった。
体調はみるみる改善され、悟史くんも野球というゲームに興味を持ち始めた。
バットの振り方もサマになり、次第に教本のフォームに忠実になってきて…。ボールの見方もわかってきて。
「…あー、なんかわかるなぁ。悟史くんって、コツコツタイプですからね。Howtoベースボールなんて本を、しおり挟みながら読んでる風景が想像できます。」
「それで、あれよあれよと言う間に三割打者なんです。本当によくがんばりました。……これで、ピンチの時にも打てれば完璧なんですけどねぇ。ははははははは。」
「悟史くんと監督って、仲、いいんですか?」
「悪くはないと思ってますよ。……悩みとか、そういうのを打ち明けてくれたということは、私を信頼してくれたからだと思ってます。」
悟史くんの信頼を得ている、と言い切った監督にちょっぴり嫉妬しかけた。
私と悟史くんは、お友達ではあるけど、悩みを打ち明けあうような…そういう親密さではないからだ。
「………あれ。嫉妬してます?」
「ふぇ?! ななな、………何に?!」
図星を突然突かれ、真っ赤になってうろたえてしまう。
監督も一目瞭然で図星がわかったらしく、大笑いしてしまった。
「……園崎さんも、悟史くんの相談相手になってあげてください。」
「ま、まぁ……あはははは、なれるなら、なれたらいいかなぁ…、なんて…! たはは…。」
私は訳のわからないことを言いながら笑って誤魔化すのが精一杯だ。
「………北条さんですね。…最近、また少し体調を崩してるみたいなんです。」
「……………え?」
パキーーーーン!
快音が響き、白球がレフト上空に飛んでいく。
……悟史くんのいい当たりは、快音に反してあっさりのアウトだった。
沙都子と叔母の仲が最近、非常に険悪になっているらしい。
………それと関係があるのは明らかだった。
「叔母さんがかなり大人げない苛め方をしているらしいんです。……沙都子ちゃん、…本当に可哀想なくらいに、ぼろぼろになって。なにしろ聞いた話では、」
「で。それを庇う悟史くんも、………ぼろぼろになっている、ということですね?」
沙都子がぼろぼろなんてことには興味がなかったので、さっさと悟史くんの話題に戻させた。
…………私は沙都子という存在のことはよく知らない。
悟史くんを取り巻く環境のひとつ程度には知っているが、…どういう存在なのかは、今日まで深く関心を持ったことはなかった。
ぼんやり気味の悟史くんに世話を焼くことで、自分の存在価値を見出している妹。それくらいしか知らない。
………だが、悟史くんの性格を思うと、…そもそもぼんやりしているのすら、妹を思ってのことではないかと思ってしまう。
わざと抜けた風を装うことで、……妹に花を持たせてやってるのではなかろうか? それも意識してではなく、無意識に。
悟史くんは、…ひとりで過している時、意外なくらいしっかりしているのだ。
最近、それに気付いた。……だから、一層、そう思えてならない。
……つまり、悟史くんという存在は、常に妹の沙都子に影響を受けているのだ。
悟史くん自身は、多少のストレスを感じながらも、何人かいた再婚相手の父親とはうまくやっていたらしい。
実際、今の叔母とも沙都子ほどの波風は立てていない。
……悟史くんは、いつも沙都子を庇わなければならないから、……こんなにも苦労しなければならないのだ。
沙都子ってのがどんな子かは知らないけれど。………私は、この沙都子という存在にささやかな敵意を感じたことを否定しなかった。
……悟史くんという存在を独り占めしていることへの嫉妬だとも、多少は認めながら。
「最近、沙都子ちゃんへの叔母さんの苛めがだいぶエスカレートしてるみたいです。…悟史くんの体調不良も、それに比例しているんでしょうね…。」
監督がため息を漏らす。
言われて見れば…悟史くんには最近、少し練習の欠席が目立っていた。
…今さらだが、普段も少し元気がなかったような気がする。
みんなと一緒にいる時は普段の様子なのだが、…ひとりでいる時、俯きがちで、…ため息ばかりついていたように思う…。
「…監督はストレスに押し潰されそうな悟史くんを救うため、野球に誘ったんですよね?」
「えぇ。そのつもりでした。」
「………こうして野球をやっている今。またストレスに押し潰されそうになっている悟史くんに、…今度は何を誘えばいいんですか?」
「…………………ははは。どうすればいいんでしょうねぇ…。」
監督は力無く笑って見せた。
…悟史くんに信頼されているはずの、頼られるべき立場であるはずの監督の、この弱々しい仕草に、…私は小さな落胆を隠せなかった。
「内緒にしてくださいよ? ………実はですね、悟史くん。…………チームを抜けたいって、…そう漏らすんですよ最近。」
「え? ………ど、……どうして………。」
「疲れるから、だそうです。……というのは表向き。……沙都子ちゃんと一緒にいる時間を増やしてあげるためじゃないかと思ってます。
悟史くんは、野球をしている間、沙都子ちゃんが叔母さんに苛められているかもしれない。その時、沙都子ちゃんの側にいられないことが…兄として辛いと、そう思っているのかもしれません。」
「……………………………………。」
私はしばしの間、言葉を失っていた。
……また、…沙都子。沙都子。
悟史くんという存在は、この沙都子という存在のためにどこまでの犠牲を強いられなければならないんだろう?
悟史くんのストレスは、妹を無視するというすごく簡単なことで解消されるのだ。
……でも、悟史くんにそれができないのもわかってる。
だとするなら……不甲斐ない妹を非難すべきだった。
ひどい苛めらしいのは、まぁ知ってる。
でもそれは、関係をただひたすらに悪化させてきた自己責任。
沙都子が叔母とのコミュニケーションを嫌ったことに対するツケみたいなもんだ。
沙都子が…悟史くんがそうしているようにもっと大人であったなら、叔母ともまぁそこそこにうまくやって、ここまで関係を悪化させなかったに違いない。
……そうすれば、そもそも悟史くんにそのとばっちりが行くことはなかったのだ。
試合はいつの間にか一方的な展開になり、もうゲームとしての見る価値も薄れていた。
一方的な点差に、負けチームの子どもたちはやる気をなくし、試合もいつしかダレたものになっていた。
空もいつの間にか灰色になり、爽やかだった青空をいつの間にか陰鬱にしている。
…雨の匂いは無いが、頭上を覆う灰色はとても鬱陶しく、その上、涼しくもなかったので、薄くかいた汗を一層不快に感じさせた。
いつの間にか、監督もまた言葉を失い、足元に視線を落としていた。
その間、私はただただ、悟史くんを見ていた。
……もう今の私には、彼がはつらつそうに見ることはできなかった。
…一度は野球を楽しみ、…元気を取り戻したのに。
……沙都子と叔母の関係が悪化したことで、……逆戻りするなんて。
……私の口から、ぽつりと漏れた。
「…………悟史くんをどうこうするってより、沙都子をどうこうする方が先決では?」
本当にぽつりと、だが、監督に聞き流させない強さも含んでいた。
「………それは、………どういう意味ですか、園崎さん?」
「別に、難しい話じゃないです。…沙都子がしっかりしてくれれば、悟史くんに迷惑をかけることもない。沙都子がそもそもの原因である、ってことが言いたいだけです。」
「…………ん、………そんなことは……、」
「でしょ? だって、沙都子がトラブるから、悟史くんはそのトラブルに介入して矢面に立たなければならないんでしょ? で、その結果、本当は買わなくて済んだ叔母のケンカまで買ってるわけでしょ?」
悟史くんは…どんな困難にも怯まない。
……どんなに恐ろしい相手であっても、…守るために、…勇気を振り絞って立ち向かう。それを私はよく知っているし、まさに自らの眼で見ている。
叔母が沙都子を、何かの理由で怒鳴りつけている。
……そこへ悟史くんは割って入るのだ。沙都子を庇うために。
…それは間違いなく、叔母にとっては不快な行為だ。
…悟史くんが買う必要のないケンカなのに、いつの間にかそのケンカは悟史くんと叔母のものにすり替わる。
沙都子は、悟史くんの背中で怯えるふりをしながら舌でも出していればいいだけ。
……悟史くんが、自分の身代わりになってどれだけ心を切り刻まれているかなんて、…思いもしまい。
沙都子という存在が悟史くんに依存し過ぎているからこそ、…悟史くんが追い詰められることになるのだ。
「園崎さん、…あなたがそんな言い方をする人だったとは驚きです。……あなたは沙都子ちゃんのお友達でしょう? お姉さん的な立場でしょう? ……普段も学校で、沙都子ちゃんを慰めたり、励ましたりしているものだと思っていました。…………なのに、…そんな言い方をするなんて。………………正直、驚いています。」
監督は初めて見るとても怪訝な表情を私に向けていた。
……私にどういう感情を抱いたか、容易にわかる。
……私は少し、しまった…喋りすぎたと後悔していた。
園崎魅音は北条沙都子の友人だ。
とても仲が良くて、……最近、叔母の苛めがエスカレートして落ち込むようになってからは、元気付けたり励ましたりしている……………ことになっていた。
それを完全に失念し、「私」としていい気になって喋りすぎた。
………監督が怪訝な表情を向けるのはもっともなことだ。
…今の発言で、監督が園崎魅音に対する心証を改める可能性もある。
…………今日のことはあとでお姉に正直に話し、謝罪とフォローを頼んでおかなくてはならないだろう。
…………………本当に、…しくじった。
だが、………私はおかしいことを言ったつもりはない。
極めて客観的に、悟史くんが今置かれた状況を、努めて短く分析し、その解決方法を提案できたと思ってる。
もう乙女ごっこはしたくないから正直に自分を認めるが、…私はやっと馴染めたこのチームから悟史くんがいなくなってしまうのを恐れていた。
私は学校へは、雛見沢へは行けない。悟史くんとの接点はここだけなのだ。
悟史くんとのコミュニケーションだけが、私が生きてる理由だと言い切っていい。
……そうさ、私はもう悟史くんが好きだ。
…打ち明けるつもりもないし、…成就させようという努力はないけれど。ただ一緒に時間を過ごせるだけで満足している。
今の私にはそれが限界だからだ。
私の特殊な事情により、私は正体を明かせない。
魅音の影としてでないと、興宮では生活できない。
そんなに窮屈なら、興宮の町を離れればいい?
……もう、ばかばかばかばか!
今の私は、どんなに窮屈だったって。悟史くんにたまに頭を撫でてもらえるなら。……そっちの方がずぅっと良かったのだ。
……私はどうして悟史くんをこんなに好きになっちゃったんだろう…?
少女マンガに描いてあったさ。
恋愛に理由なんかないってよく書いてあるさ。
…自分でも、何でこんなに彼のことが気になるんだろうって呆れる時があるしさ。
「……落ち着け……。……………私…。」
大きく息を吐き出してから、きゅっと息を止める。……心臓のバクバクを無理に抑えていく。
興奮が少しずつ冷めていく中。
………はっきりとした形で、私は自分自身の心の声を聞いた。
私は、悟史くんと一緒にいたい。
だから?
悟史くんに野球チームにいつまでもいてほしい。
だから?
悟史くんを悩ませている心労を取り去りたい。
なので?
………なので、……どうする?
頭の中のジンジンした感じが抜けていく頃、…審判の遠い声が耳に入った。
「ゲームセット! 試合終了〜〜〜!!!!」
■アイキャッチ
■レナとの接触
梅雨を間近に控え、…いやな蒸し暑さと、肌に張り付くような汗の鬱陶しい時期になっていた。
………悟史くんが練習を休むようになって、もう数週間になろうとしている。
グラウンドに着くと、真っ先に探す悟史くんの姿。
……私が早く来過ぎるから、…まだ来ていないのかな…?
自分がグラウンドに着いた時、悟史くんの颯爽とした姿がそこにあって欲しくて。……いつの頃から私がやってくる時間も遅くなっていった。
だが、…悟史くんの姿がそこにあることはなかった。
「……………………………………。」
私はもう、落胆の表情を誤魔化すこともしなかった。
悟史くんがいないことが、私をひどく落胆させていることが、誰の眼にも明らかだったに違いない。
魅音のクラスメートでもある、チームメイトの子たちが、私を心配して声をかけてくれた。…だが私は素っ気無く、それを追い返す。
「…………園崎さん? …気分が優れませんか…?」
監督の、私を気遣うような言葉も、何だか白々しく聞こえた。
…私がどうして気分が優れないのか、薄々は知っているくせに。
「………今日、…帰りますね。気分じゃないです。」
「……………ほら、今日は興宮タイタンズさんと打ち合わせをする日じゃないですか。…マネージャーの園崎さんにも同席して欲しかったんですがね…。」
「……私を勝手にマネージャーにしないでください。……私、マネージャーだったつもりは、…ないんですから。」
監督は何と言葉をかけていいものか咄嗟に思いつかず、ほんの少しの間、俯いた。
「わかりました。……元気が回復したら、また手伝ってくださいね。」
「もう来ないかもです。…マネージャーが必要なら、私以外を募集してください。」
「…気が向いた時でいいです。また、遊びにきてくださいね。…それにほら。あなたがいないと、悟史くんが戻ってきた時、寂しがりますよ。」
踵を返す私に、監督の言葉はもう届いていなかった。
最近は、野球の練習日に合わせて「魅音」の時間をもらえるようになっていたので、お姉と打ち合わせることはほとんどなくなっていた。
悟史くんがどうしているか知りたくて、何度かお姉と連絡を取ろうとしたが、たまたまタイミングの悪い時が重なり、機会が得られずにいた。
鬼婆が、お姉と私が通じていることを薄々勘付いているらしく、魅音が取る電話の内容に興味を示し始めたせいだった。
鬼婆にマークされている以上、…雛見沢界隈でのお姉の動向は全て筒抜けだ。
……私と連絡を取るのは容易なことじゃない。
お姉と連絡を取る際に連絡員となってくれていた葛西も、私寄りの忠臣ということでマークを受けているらしく、しばらく接触しない方がいいということになり、ここ最近は顔も見ていなかった。
悟史くんが今どうしているのか。
……それすらも知ることが出来ず、…私は自らの胸中の黒雲をいつまでも晴らせずにいたのだった…。
……そんな考えで頭がいっぱいだったので。……それは本当に不意で虚を突かれた。
自転車を引っ張り出し、グラウンドを後にしようとした時、…突然声をかけられたのだ。
「魅ぃちゃん、…こんにちは。」
初めて会う子だった。
…だが、私を魅ぃちゃんと呼んでくれたのは本当に幸いだった。…魅音を魅ぃちゃんと呼ぶ人間はひとりしか知らされていないからだ。
「…………レナか。…珍しいね、レナがここに来るなんて。」
この子の名前は竜宮礼奈。
レイナだが、自己紹介でレナと呼んで欲しいと自ら言ったらしい。…だからレナと呼ばれていた。
この4月に転校してきたばかり。
お姉からは断片的な情報はいくつかもたらされていたが、いずれも曖昧。
……つまり、この転校してきたばかりの子に対して、お姉はまだ評価を出来かねていたということだった。
…そういう存在は、私にとってはとてもやりにくい相手だった。魅音としてどう接すればいいか、わからないからだ。
……だから私は、塞ぎ込んでいる風を装い、素っ気無く対応することに決め込む。
普段と違う精神状態に見せれば、多少、普段と異なる言動でも気にしないだろうという打算の上でだ。………実際、今の私は塞ぎ込んでいるわけだし。
「……魅ぃちゃんは、帰り?」
「うん。………気分が優れないの。悪いね。」
「じゃあ、一緒に帰ろ。」
……気分が悪いからひとりにして欲しい、と言おうと思ったが…、雛見沢への帰路は一本道。
ひとりにして欲しいと言ったって、同じ道を帰ることになるのだから意味がない。
変に断るよりは、素っ気無い風を装いながらも、この子と別れるまで一緒に帰った方が、怪しまれずに済むと結論する。だから私はこう答えた。
「…そだね。…帰ろか。」
レナは、そうしよう、と静かに頷くと、掛けたばかりの自転車の鍵を再び開けた。
「……魅ぃちゃん、傘は?」
「持ってないけど。」
「今日はこの後、天気崩れるかもしれないんだって。……傘ないなら、急ご。」
レナの予告通り、途中で私たちはすごい土砂降りに見舞われることになる。
私たちはたまたま近くにあった、今では使われていないバスの停留所の待合小屋に入って、雨宿りをすることになった…。
■雨の停留所にて
「すごい降りだけど、…これはそんなに長引きそうじゃないね。向こうの空は明るいもの。」
「……そうだね。」
雨がトタンの屋根を叩く音と、屋根からボタボタと水滴が落ちて水溜りを叩く音。
賑やかな雨音なのに、不思議な静寂を感じさせる…不思議な時間だった。
しばらくの間、放心していると……レナが、雨空を見上げたまま、話しかけてきた。
「…最近、元気ないって、聞いたから。……心配してたんだよ。」
私が悟史くんの欠席で落ち込み気味なのは、チームメイトなら誰もが知っていた。
チームメイトのほとんどは、雛見沢の学校に通っている。
…私が落ち込んでいることを、雛見沢の学校の人間が知っていてもおかしくはなかった。
お姉と私の連係はこの数週間、取れていないが、私が悟史くんに対してどういう感情を持っていて、悟史くんが野球に訪れないならどういう気持ちになるか、把握できないことはないだろう。
…お姉は、私との誤差をなくすため、雛見沢における普段でも、落ち込み気味な様子を演じてくれているに違いなかった。
だが、互いの詳細は知りかねている。
…だから、周りに何を聞かれても答えられない。『放っといてくれ』としか言えない。
そうなると、例えばこの子のように、私を心配して接触してくる人間もいるだろう。
このレナという子が、雛見沢における魅音の落ち込む様子を心配して、私に声をかけてきたことは明白だ。
グラウンドを訪れてまで、私に接触をしてきたのだから間違いない。
…それに、グラウンドを訪れたということは、…チームメイトに聞いて、最近の経緯を多少は知っているからに違いない。
「……………悟史くん、…かまってくれないから、…寂しい?」
「…………………………。」
レナの言葉の断片から、悟史くんの近況を注意深く推理する。
…悟史くんは、かなり疲れきっていて、仲間たちとの接触を嫌っている。
…そういう風に聞き取れた。
「………沙都子ちゃんの件で、……だいぶ悩んでるみたいだった。」
「……………………。」
「…悟史くんは、……すごく追い詰められてると思う。…………可哀想だよ、…ね。」
「……悟史くんは、…本当に妹思いだからね。……偉いよ、本当に。」
沙都子という妹がどれだけ悟史くんの重荷になっているやら。…それを思うと、自分の口から出した言葉が白々しくてたまらなかった。
「……でも、だからって魅ぃちゃんまで落ち込んじゃったら…かえって悟史くんを追い詰めちゃうように思うかな。……かな。」
「…………………私に追い詰めるつもりなんて、ないよ。」
「それはもちろん知ってるよ。………でも、だからこそ。…学校にいる時の悟史くんを笑顔で迎えてあげられなかったら……本当に悟史くんは追い詰められちゃうよ。」
「………………………。」
「魅ぃちゃんは、たとえ嘘でも笑顔が作れる強い人間だって知ってる。……だから、嘘でも笑って欲しいの。……最初はたとえ嘘でもね? ……笑顔って、最後には本物になるんだよ。」
…要するに、掻い摘めばこういうことだった。
悟史くんも沙都子も、ぼろぼろに疲れきって落ち込んでいる。
そこにさらに、ムードメーカーの魅音まで落ち込んだら、悪循環にしかならないと、そう言っているのだ。
慰めというよりは、諭すような響きがあるこの言葉に、…このレナという子が見かけよりずっとしっかりした考え方を持っていることに気付かされる。
お姉の評価では、悪ふざけが好きで、ひとりで暴走し出すこともある面白い子…ということだった。
…だが、それ以外にもかなりしっかりした一面が潜んでいることをうかがわされる…。
「……魅ぃちゃんは悟史くんのこと、………好き?」
「…………好き。」
…無言で返したほうが無難だったかもしれないにも関わらず。…私は即答した。
「……なら、………笑お?」
レナは微笑みならが、私にそう訴えかける。
「魅ぃちゃんの笑顔で、…きっと悟史くんに元気を分けてあげられると思う。……魅ぃちゃんはそれしか出来ないことに、落胆しかけているかもしれないけれど。…それでもね、…多分、それが一番、悟史くんの力になる。」
「……………………理屈ではわかるけどね。……笑えったって、…そう簡単にはできないよ。」
レナはくすっと笑い、そうだよね…と相槌を打ってくれた。
「野球の練習にもさ、バイトが終わったらきっと帰ってくるから。」
………バイト? 思わずその疑問を口から出しそうになり、あわてて飲み込む。
レナの口調から、それは雛見沢の学校では誰もが知る情報と聞き取れたからだ。
「………バイト、か。………いつ終わるんだろうね…。」
「お金が貯まるまで、だろうけど。…どんなに遅くても、沙都子ちゃんの誕生日までには終わるよ。」
レナが発言から、注意深く現状の情報を抽出する。
私は既知だと思われているから、迂闊に聞き返すこともままならないからだ。
……悟史くんは何かの目的のためにアルバイトをしてお金を貯めている。
学校通いの身でアルバイトなんて、そう簡単にはできない。…斡旋にはお姉が絡んでいる可能性がある。
そしてアルバイトはどうも短期間のものらしい。
…そして、その貯めるお金はどうも沙都子の誕生日と関係あるらしい。
なら、意味するところは簡単だ。
………悟史くんは、沙都子の誕生日プレゼントに、何か安くないものを贈ろうとして…アルバイトをしているのだ。
叔母の苛めに耐えかね、ぼろぼろになってしまった妹を励ますために。
……自身もぼろぼろであるにも関わらず。
……またしても、沙都子の都合。
悟史くんは…沙都子の都合で心をぼろぼろにされ、……沙都子の都合で、その体に鞭打ってバイトをしている。
………なんて馬鹿。………沙都子のことなんか、忘れてしまえば…悟史くんはもっともっと…心に負担をかけずに過せるのに。
「…………………っ。」
その時、…私の瞳を覗きこんでいるレナに、…ぎょっとする。
レナは変わらぬ微笑を浮かべていたが、…どこか曇った瞳がとても薄気味悪かった。
私は、沙都子という存在が悟史くんを追い詰めていると……思っただけで、口に出したつもりはない。……だがこのレナという子は、…その私の考えを、私がほんの少し瞳を曇らせただけで……見透かしてしまったように見えた。
レナは私のそんな恐れにも気づいたのか、にこっと笑ってみせる。
だがその笑顔はまるで、…そういう考えに至るのも、悟史くんが大好きだからだよね…と、言わんばかり。笑みに……冷酷なものを感じて、少しぞっとした。
…遠雷の音が聞こえる。
土砂降りはすぐに止むどころか、ますますその強さを増すばかりだった。
「……………沙都子ちゃんが悟史くんを独占してることに、嫉妬を感じてる?」
「………………………………。」
今度は即答を避けた。
……つもりだったが、このレナという子には、沈黙すらも答えとして通じてしまうようだった。
「あははは、別に魅ぃちゃんがそう思っても、私は軽蔑しないよ。人を一途に好きになる時って、そういうものだもん。」
「………ありがと。」
「でも、魅ぃちゃんは今までずっと、沙都子ちゃんを励ましてくれてたよね。……それって、私、すごく立派なことだと思うな。」
「……………沙都子は仲間だもの。…当然でしょ。」
言ってて白々しい。唾が吐きたい気分だった。
「私たちには、…沙都子ちゃんも悟史くんも。……励ますことしかできない。……どうやったらこの苦境から救ってあげられるのか、……わからない。」
「………沙都子が悟史くんにべったりし過ぎなんだよ。……沙都子がもっとしっかりすれば、悟史くんがここまで追い詰められることはない。」
「……あはははははは。はっきり言うね。」
レナは、暴言と聞き取れるはずの私の発言に、何も怯むことなく笑って相槌を打って見せた。
………この不思議な雰囲気の少女が何を考えているのか、…読み取ることは困難だった。
「悟史くんもさ、……ほんの少しはそう思っているとこ、あるかもしれないね。」
「え…?」
レナは…笑顔なのに、どこか薄ら寒さを感じさせる不思議な表情で…私にそう微笑みかけた。
「……悟史くんも、多分、心のどこかで、…沙都子ちゃんを庇い続けることに、疲れを感じてると思う。」
このレナという子は、…確信めいたものがなければ断言しない。…そういう性格だと思う。
…だから、彼女がそう言い切るからには、…彼女なりの確信があるに違いなかった。
「どうして……そう思う?」
「……私、悟史くんに打ち明けられたから。」
「…………え?」
本当は内緒なんだよ、魅ぃちゃんも内緒にしてね…と付け加えられる。
「悟史くんがね、……言ったの。兄として頼られることに、苦痛を感じる。それはとても罪深いことだと知っているけど、…ってね。」
私の知っている悟史くんはそんなことは言わない。
……いや、だが。…このレナという子もまた、嘘や憶測で言ったりする子じゃない。
今日会ったばかりの人物に、どうしてそう断言できるのか、自分でもよくわからないが……、…とにかくとにかく、私は直感的にそう思っていた。
……私は深いため息を漏らさずにはいられなかった。
私が悟史くんに会えなかった間に、…悟史くんはそんなことを口にするくらいに…疲れ切ってしまったのだ。
…だが、…それにしたって。
……心の中でそう思ったとしたって、…それを安易に口に出す人じゃない。
……なら、…口から引き出されたのだ。
このレナという子によって。
…………わからない。この目の前の少女が。
私と出会い、大して言葉も交わさない内に、…私はもう心の中の本音を引き出されている。
……このレナという子には、……人の心の奥底に自らの腕を突っ込み…、中身を引きずり出す…そういう力があるのだろうか…?
……こんな、トタン屋根の待合小屋で、…素性の知れない奇怪な少女と時を過さねばならない。
…………私は今頃になって、…自分が奇怪な異世界に迷い込まされていることに気付く。
お姉は多分まだ、…レナという子の正体には気付いていない。
面白おかしい新しい転校生くらいの認識しか持っていまい。
………もしもこの子の正体に気付いていたら、…私にそれを伝えないわけはない。
「…………レナは、…悟史くんに打ち明けられるくらいに、信頼されてるんだね。…ははは、うらやましい。」
「………別に信頼されてるわけじゃない。…………私が、経験者だからだと思う。」
「経験? ……レナにも、兄弟を庇ったりした経験が?」
「ひたひたと。ずぅっと足音がついて来て。……夜は枕元にまで立たれて、見下ろされる経験。」
??? ……ごめん、レナ。それは何の話?
…そう聞き直そうとしてレナに振り返った時。
………私は、……得体の知れない寒さに襲われることになる。
………笑顔なのに、………見るものを凍えさせずにはいられなくする、…その目。
私はぞおっとして……目を見開いたまま、…表情を凍りつかせてしまう。
「……魅ぃちゃんにはない? ……あはは、ないと思う。多分。」
あはははははは…。レナは自嘲するように笑う。
……私は彼女が何を言おうとしているのか、それに耳を傾けるのが精一杯だった。
「………魅ぃちゃんは、雛見沢から逃げ出そうとか。…もっと都会に行きたいな、とか。……そう言うことを考えたことはある?」
……私はその質問の真意が読み取れず、沈黙を続けることしかできない。
だがレナは、そんな私に沈黙で合わせ、…静かに静かに、私が返事をするまで無言の圧力を掛け続けた。
「…………………な、………ないよ。…私は地元、…好きだし。」
「だよね、だよね。魅ぃちゃんはそうだと思う。あははははははははは。」
本能が、この子には安っぽい嘘をつかない方がいいと告げる。
…この子は、…何かの要素において私より一枚上手なのだ。
………感情の機微を読むことに長け、…表情のわずかな陰りからも、心中を察してしまう特異な力がある。
だから私は、本当のことを答えた。
「そうならば魅ぃちゃんは大丈夫。……オヤシロさまには怒られない。」
「オヤシロさま…………?」
雛見沢の守り神、オヤシロさま。
……なぜこの名が突然、引き合いに出されたのか、私にはまったく意味がわからず、少しの間、思考を凍らせてしまった。
「うん。オヤシロさま。」
そんな私を諭すように、…レナは落ち着いた声でもう一度その名を口にした。
そうだ、…思いだした。
オヤシロさまは、神聖な雛見沢を踏み荒らす外敵を許さない。
そして、雛見沢を捨てて出て行こうとする村人もまた、許さない。
それがオヤシロさまの祟りのルールだった。
心の中にじわ…っと。……バラバラ殺人、そして北条夫妻の転落事故が二年続いた後に村中で騒がれ、子どもたちの心に深く恐怖を植え込んだ、オヤシロさまの祟りの怖さが蘇っていく。
……ほら。……私が学園への放逐が決められた時、…心の中に小さな恐怖を持ったじゃないか。
雛見沢から遠く離れた全寮制の学園になんか閉じ込められたら…、オヤシロさまの祟りに遭うんじゃないか……って。
でも、…なら、…私はセーフでもいいはず。
私は雛見沢(厳密には興宮だけど。…子どもルールでは興宮もセーフのはず)の地元が好きで、…学園を脱走してまで帰ってきた。
鬼婆に手配され、窮屈な生活を余儀なくされても、…この地に住まうことを望んでる。
……それは…オヤシロさまを冒涜することにはならないはず。
園崎本家の都合で遠方に放逐された私が、脱走してまで帰ってきた。
……オヤシロさまには褒めてもらったっていいくらいに模範的なはず…。
……そうやって、心の中で、自分は祟られないという免罪符を欲しがっている。
私は、…今でも多分。
……オヤシロさまの祟りを怖がっている? …かもしれない。
「…………私は地元、好きだから。…その意味では、オヤシロさまの祟りがあるとは思っちゃいないね。…模範的だとすら思ってるけど?」
「うん。それは私も認める。………だからこそ、悟史くんのことは、わかんない。」
「……どうして…!」
「悟史くんは心のどこかで。……雛見沢を捨てて、どこかへ逃げ出したいと思ってるから。」
……………………え……。
声にならない、小さな叫びをあげてしまう。
…悟史くんが野球に来ないことを悲しんでいた私。
…だが、それでも悟史くんは雛見沢に住まい続けている。
……いなくなってしまうことなんて、…考えもしなかった。
「悟史くんが……家出したがってる…って、…こと?」
「うん。…………無意識の内に。オヤシロさまが枕元に立つまでは、多分意識すらしてなかったと思う。」
レナが何を言ってるのか、…わからない。
……私は彼女が何を伝えようとしているのか…耳を傾けるだけで精一杯だった。
「悟史くんが体験していることは全て、…オヤシロさまの祟りの前触れなの。
………誰かが遠くからじっとうかがっている。…誰かがずっとつけて来る。……誰かがいつも、自分のすぐ後ろから見ている。
……やがて足音は常に、自分とずれてひとつ余計に聞こえるようになるの。それらは初めの内は、お外でだけだけど。………やがて後ろのそれは自分の家の中にまで付いて来るようになる。
そして、……お布団に入って灯りを消しても、…ずっと枕元から見下ろしてるの。………ただただ黙って。じぃっと…。自らの罪を認めるまで。
悟史くんは夢見が悪いって、最初言い出したの。…それで私がどんな夢? と聞いたら………。………私の時をなぞるようだった。だから私、彼に予告したの。……その気配が、やがて近付き、足音を聞かせるようになり、…常に悟史くんを見下ろしているようになったなら。…それはきっと私の時と同じだから、……相談して、って。
………悟史くんは初め、私のことを怪訝に思ったと思う。
でも、……私が予告した通りに、オヤシロさまの気配が近付くのを感じ。オヤシロさまが枕元にまで立つに至って。…………やっと、自分の身に起こってることを相談できるのは私しかいないって、…気付いたの。」
…………………目の前の少女は、茶化す風もなければ、脅迫するような口調でもなく。……ただただ淡々と、…事実だけを述べるかのように、それらを口にした。
私は、…相槌すら打てない。
……レナの言うそれが、世迷言なのか冗談なのか、…それとも何かの真実を示すものなのか、それをうかがい知ることすらかなわない。
ただ、…耳を傾けることが許されるだけだ。
「私はね、もともと雛見沢に住んでいたの。小学校に上がる直前で茨城に引越した。…………新しい環境に馴染めなくてね。……心の中のオヤシロさまに、雛見沢に帰れ、帰れって何度も呼びかけられてた。………でも、小学生の子が泣きながら元の町に帰りたいって泣いたって、どうにもならないもんね。……私は現実とオヤシロさまの声に板挟みにされてずっと過すことになる。……そして、……………………。」
レナはそこで一度区切る。
……何があったか口にしたくない、とそういう風に読み取れる表情を浮かべたが、……そもそもレナがしている話の全容がつかめず、私は煙に巻かれたかのような印象を受けるのみだった。
「結局、…いろいろあって私は雛見沢に帰ってくることができた。
……だからオヤシロさまにはそれで許してもらえた。……あれ以来、オヤシロさまの気配を感じることはないもの。
………でもね、悟史くんは私と違って、雛見沢にいながらオヤシロさまの祟りを受けることになった。…それはなぜか? ………理由はひとつ。悟史くんは、雛見沢にはいたけれども、……雛見沢を捨てて、遠くに逃げたがっていたから。その心を、オヤシロさまは許さなかったんだね。
……悟史くんは、自問自答を何度も繰り返した挙句に、…認めたよ。………ほら、悟史くん、アルバイトをしてるでしょ? 沙都子ちゃんが欲しがったあの大きなぬいぐるみは10万円くらいするもんね。悟史くんは沙都子ちゃんの誕生日までに、その額を稼ごうとしている。
でもほら、………考えてみて?
それだけのお金があったら、………後先を考えなくていいなら、……どこか遠くへ逃げ出す充分な費用になりうるんだよ。悟史くんは……無意識の内にね、…そのお金で沙都子ちゃんに誕生日プレゼントを買うんじゃなく。……………沙都子ちゃんを捨てて、どこか遠くへ逃げ出すお金に使ってしまいたいって、……思うようになってたの。
それは悟史くんにとっては…この上なく罪深いこと。
でも、さっき魅ぃちゃんが指摘したように、沙都子ちゃんの存在自体が悟史くんの負担になってるのは事実。…悟史くんだって馬鹿じゃないもん。……兄として認めたくなかっただけで、…沙都子ちゃんが負担になっていることには、ちゃんと気付いていた。
だから悟史くんは葛藤してるんだよ。自分は妹を喜ばせるための、お金を貯めるためにバイトをしているつもり。
……だけれども、それは自分の心を騙しているだけで、…本当は、自分が逃げ出すためのお金を作るために…バイトしてるんじゃないか、って。
……………私は…逃げ出すべきじゃないと思う。逃げ出したって、悟史くんは多分一生後悔する。オヤシロさまだってそれをわかってるから、…悟史くんにこうして警告してくれているの。
………悟史くんの心に、沙都子ちゃんを見捨てるなんて悪魔の囁きが、……早く聞こえなくなるといいんだけども。……悟史くんは綿流しの数日後だっけ? の、沙都子ちゃんの誕生日にプレゼントを間に合わせるため、…今、いろいろなアルバイトに精を出してる。
……心も体も、追い詰めてる。…そんな苦境が、きっと沙都子ちゃんの誕生日を境に終わるんだって、信じて。……………………悟史くんは今もオヤシロさまの祟りに苛まれている。……沙都子ちゃんを守るか、見捨てるかの天秤の狭間に立たされながら、ね。」
……土砂降りは、少しも弱まる気配はない。
トタン屋根を叩く音と、水滴が水溜りを叩く音が相変わらず騒々しいままだ。……にも関わらず、耳が痛むくらいの静寂がこの場を支配していた。
このレナという子は、………一体、何を言っているのだろう。
私には、言っていることの半分も理解することはできなかった。
ただわかったのは、……悟史くんが、これまでにないくらいに苦しみ、悩み、…辛い思いをしているということだけだ。
オヤシロさまの祟りが…悟史くんの身に起こっている?
……そしてこのレナという子も、……同じ経験をしたことがある?
そう言えば…もうすぐじゃないか。…綿流しのお祭りは。
オヤシロさまの祟りは、もう三年連続で起こってる。
……四年目がないなんて保証はどこにもない。
そんな時期に。………オヤシロさまの祟りの先触れを悟史くんが感じているというのだ。
悟史くんが家出してしまう?
悟史くんが…今年のオヤシロさまの祟りの犠牲者になってしまう?
……家出にしろ祟りにしろ、……悟史くんがどこか遠くへ消えてしまう可能性。
私は………何もできないのか?
…何もしなければ、…何もできないままに終わるだろう。……………終わる?
…………胸の中を、あまりに具体的になった不安がぐるぐると駆け巡る。
私はレナの奇怪な話を真に受けたつもりはない。
………でも、……………悟史くんに、何らかの終末が近付いている漠然とした予感に、戦慄を隠せなかった。
今思えば。
……………それは本当に虫の知らせだったのだ。
私は、危険を承知で、緊急に魅音に連絡を取ることにした。
……その連絡の無神経ぶりに初め魅音は怒り、…そして私の話を聞いて驚くことになる。
「お姉。……………悟史くんのことだけど。…どういうことになってるの。」
「………………最近、だいぶ険しい様子なんだよ。…迂闊に声もかけられない雰囲気。」
「………………何それ。声をかけられないから、悟史くんがどういう状況になってるか、よくわかってないってこと?」
「……………………………ごめん。」
「……お姉。近々にまた入れ替わる機会を設けて欲しいの。」
「ん、…それはもちろんかまわないよ。でも最近はちょっと綿流しのお祭りの打ち合わせの絡みで日程の調整が難しいんだよ。…何? またバイト?」
「私、雛見沢の学校へ行く。」
■幕間 TIPS入手
■ノート21ページ(4日目終了)
ここで、あの奇怪な少女との雨の中の会話を考察してみよう。
竜宮レナ。
本名は竜宮礼奈(れいな)
この不思議な子の正体はよくわからない。
ひとつ確かなのは、園崎本家とは何のつながりもない人間、ということだ。
もちろん御三家の何れとも縁を持たない。
竜宮家は確かに昔、雛見沢に住んでいた。
その後、茨城へ引越したことについては、本人が言った通りだ。
小学校に上がる前に茨城へ引越し、……その後、雛見沢に戻ってきた。
竜宮レナ本人は、オヤシロさまの警告(祟り?)を受けて雛見沢へ帰ってきたと言っている。
これが何を指すかは不明。
本人は「オヤシロさまの祟り」を受けたことがあると自称している。
オヤシロさまが、常に自分を見張り、ヒタヒタと後をつけてくる、というのだ。
私は被害妄想か何かではないかと思っているのだが、…奇しくもその体験は、悟史くんの興味を大きく引くことになる。
彼女が言うには、悟史くんもこの時点で、オヤシロさまの祟りを受けつつある、というのだ。
悟史くんはこの子に、自分もまた得体の知れない存在に後を付けられていると告白したらしい。
そして、この子の「経験談」が自分と一致することに大いに驚いたらしい。
オヤシロさまの祟りとは…?
なぜレナと悟史くんは共通の体験を?
これは多分、村の何者かによる監視のことではないかと見ている。
その年の祟りの犠牲者の動向を監視しているに違いないのだ。
……オヤシロさまの祟りを妄信してしまった悟史くんたちには、それがオヤシロさまの気配に感じられるに違いない。
あとは被害妄想が重なれば、異常な体験をしているように感じてしまうのも無理ないはずだ。
つまりレナがもたらしてくれた情報から、悟史くんは綿流しのずっと前から監視下に置かれていたらしいことが窺えるのだ。
だとすると。ここでひとつの疑問が浮かぶ。
それはレナが受けた「監視」の意味だ。
私はこの監視は、その年の犠牲者に対して行なわれると仮定した。
だが、だとするならレナに対する監視の意味がわからない。
雛見沢と違い、遠い異郷の地に住まう彼女を、どういう意味があって監視したのか。
故郷を捨てた村人、という位置付けでなら、なるほど、彼女が祟りに遭うのもわからなくない。
だが、…彼女は結局、犠牲にならずに済んだ。
雛見沢へ引越しが決まったから免罪になったのかもしれない。
…彼女は、私の知らないことを、まだ何か知っているような気がする…。
■ノート24ページ(4日目終了)
この時点での悟史くんの様子は本当に気の毒なものだった。
家に帰れば叔母と沙都子の喧嘩・苛めに割って入って精神をすり切らせ。
にも関わらず、毎日バイトに出掛け、肉体までもすり切らせ…。
仲間との接触はほとんどなくなり、学校でも休み時間には、机の上に突っ伏して寝ているか、どこかに姿をくらましているかのどっちかだったらしい。
おっとりとしていた、在りし日の悟史くんを思うと、あまりに痛々しい。
そこにさらに「オヤシロさまの祟り」が降りかかってきたのだから、その心労は並大抵ではなかったろう。
オヤシロさまの祟りとは、つまり、悟史くんを今年の犠牲者にしようという連中の「監視」のことに他ならない。
ならば。この年の犠牲者となるもうひとり。
つまり北条の叔母についても監視があったということになる。
叔母もまた、監視の気配を感じていたのだろうか?
いや、叔母に限らない。
過去の犠牲者たちは皆、そういう監視の目があったのだろうか?
悟史くんの「祟り」が「監視」であったことを立証するためにも、調べた方がいい。
「監視」か、「被害妄想」か、……本当に「祟り」なのか。
■5日目
「ハイ、委員長、号令。」
…しばらくの間、自分(魅音)が委員長であることに気付けずにいた。
「あ、あ、あ、あ! きりーーーーーっつ!!」
「委員長も少し寝不足みたいですね。最近は寝苦しい夜が続きます。でもしっかりと睡眠は取るように。いいですね皆さん。」
「「「は〜〜〜〜〜〜い!」」」
…この幼稚園と小学校を足して3で割ったような雰囲気は、何とも怪しいものだった。
よく言えば和気あいあい。悪く言えば…ここが教育機関であることすら疑わしい。
全体のイメージは、お姉から事前に充分な情報を得ていたので、違和感はなかった。
学校で魅音が作っているキャラクターイメージもわかりやすく、演じるのはそう難しくなさそうだった。
悟史くんは、………お姉から聞いた通り、…すっかりやつれていた。
挨拶をしても、まるで無視するかのような態度だった。
……心身ともに追い詰められていることを知っているからこそ、…それはとても痛々しく見えた。
だがこの教室では、…悟史くん以外に、もうひとり興味を感じる人間がいた。
それが……悟史くんの妹、沙都子だった。
悟史くんに負けず劣らず……、ぼろぼろの、まるで感情を失った人形みたいだった。
クラス中がその様子を痛々しいと思いながらも、手を差し伸べる術が何もなく。……だから、見て見ぬふりをする他ないような…白々しい空気に包まれていた。
魅音からもらえたのは今日一日だけだ。
……ぼーっと過せば、学校の一日などあっという間に終わってしまう。
私はこの限られた時間の中で、……何をしなければならないのか、考えなければならなかった。
悟史くんと、…何か話をするべきだと思った。
でも何の話を?
何でもいい。…元気付けるのでもいいし、…同情するのでもいい。……とにかく何か、声をかけてやりたかった。
でも私は、事前にお姉から釘を刺されていた。
……悟史くんが、最近、魅音と疎遠になり、嫌っている、もしくは距離を置きたがっている…というのだ。
むやみに話しかけると、あまり良くないかもしれない。
…話をしたい気持ちはわかるけど、放っておいた方がいいかもしれない…。……というものだった。
お姉がそういう形で警告する以上、それには従うべきだった。
だが…………、私はその警告を無視することにした。
私は昼休みに、席を外し、どこか一人になれるところを探すかのような悟史くんを追い、廊下で声をかけた。
「…………悟史くん。」
悟史くんは私の声に過敏に反応して振り返った。
その表情を見た時、ぎょっとする。
………そこには、今日までに一度も見たことがないような、…拒絶の表情が浮かんでいたからだ。
でも、……私は怯まずに続けた。
……ここで怯めば、今日という機会は終わってしまうと思ったからだ。
「…えっと、さ。…………………元気?」
悟史くんは、これが元気な様子に見えるのか? とでも言わんばかりの…冷たい眼差しを向けた。
……悟史くんにこんな眼差しで見られるなんて、…思いもしなかった。
だからそれは…信じられないくらいに胸が痛む、辛いものだった…。
俯きかける私に、悟史くんから口を開いてくれた。
…ちょっと嬉しかったが、続く言葉に再び傷つけられる。
「………………元気だよ。………………他に用は?」
「え、………………。」
「…ないなら行くよ。……昼休みはひとりになりたいんだ。」
「そ、…そっか。…バイトが大変なんだよね。疲れてるから、ひとりになって休みたいもんね…。……今日もなんでしょ? 今日はどこで?」
悟史くんのバイトの斡旋はお姉が引き受けた。
バイトと言っても、同じ店でというわけじゃない。ヘルプの出た店や職場に臨時で入る日替わりみたいな感じらしい。
だから悟史くんは常に違うバイト、慣れないバイトをしなければならなかった。
また、貯める額の大きさから、時給のいいバイトを特にねだったと言う。
時給がいいバイトってのは…力仕事とか肉体労働とか、そういうのばかりだ。……もともと体力がある方でない悟史くんは、日毎にやつれていくことになる。
「……どこでもいいだろ。…それに、僕がどこで働くかは、魅音なら知ってることじゃないのかい……?」
…そのバイトを斡旋したのは魅音なのに。……悟史くんの口調にはそれに対する感謝は微塵も感じられなかった。
…こんな悟史くんは悟史くんじゃない。…………とても、…悲しかった。
「………はははははは、そうだよね。……ごめん。」
「…………用はそれで終わりかい…?」
悟史くんの拒絶が胸に突き刺さる。
……どうして…こんな冷たい言葉を?
私の頭を…やさしく撫でてくれた悟史くんは…もういなくなっちゃったの……?
「………………………ぅ……、」
感情が、目元から少し、溢れた。
熱い筋が一筋、…頬を伝う。
でも悟史くんはそんな私を見ても、一瞬とまどって見せただけで、すぐに不快そうな表情に戻ってしまう。
「…あ、…ごご、………ごめん。…あの、……監督がさ、……また練習に来て欲しいなって、…言ってたよ。あははは………伝言。」
「……監督には、もうチームはやめたいって伝えたはずだよ。……戻る気はないし。」
「た、……たまにはさ。…ぱーっと体を動かして汗を流すのもいいと思うんだよ。ほら、スポーツって色々と、」
「興味ない。」
悟史くんから次々にぶつけられる理不尽な悪意がわからない。
…どうして、私がこれだけ嫌われなければならないのかわからず、…私はうろたえるしかない。
「……なんで…? どうして…………?」
「……バイトで忙しいから。わざわざ分かりきってることを聞くなよ。…面倒くさい。」
「………違うよ!! なんで、私がここまで嫌われなくちゃならないの?!」
「……………………自分の胸に聞けばいいじゃないか。」
「自分の胸に?! 何を! 私が何をしたの?! わかんないよ、悟史くん!!」
感情が弾けて、……もう自分でもどうしようもなくなった。
両目から熱い筋が…幾重にも…ぼろぼろと。
……悟史くんはとても面倒くさいものを見るような…嫌な目つきをした後、…私に声をかけることもなく、踵を返すと立ち去った。
私は…その背中に声をかけることもできなかった。
…声をかければ、さらに冷たい言葉の刃が返され、さらに私の胸を突き刺しただろうからだ。
…それにもう耐えることが出来なくて。……私はその背中を見送るしかなかった。
私は涙を拭いながら……教室へ戻ろうとした。
その時、…教室から突然、泣き声が聞こえた。
…驚きはしなかったが、…何事かと思い、教室を見渡す。
…………泣き声の主は、……沙都子だった。
床には散らばった弁当箱。
クラスメートに聞くと、……弁当を食べ終わり、弁当箱を洗うために席を立った時、ちょっと誰かにぶつかって、弁当箱を床に落とした。…それだけ。
ただそれだけのことなのに、…まるで沙都子は誰かの大目玉を恐れるかのように、大声で泣きじゃくっていた。
別に何かの壷を落として割ってしまって、取り返しがつかないわけじゃない。
…足元に散らばった弁当箱を拾えば、それで済む話だ。
……ちょっと蓋を止める部分が外れてしまったようだけど、そんなのパチっと直せる程度。……こんな、号泣するようなことじゃない。
そして、…沙都子は泣きながら、許しを乞いながら、叫んだ。
「助けてよ、助けてよぅ…、にーにーー!! わぁあぁぁあぁああぁぁあん!!!」
感情のたがが外れかけていた私は、心の中に灯った怒りの火が、全身を火だるまにしてしまうのを感じた。
……それは、自分ではもうどうにもできない、感情の爆発だった。
泣き喚く沙都子に、おろおろと戸惑うクラスメートたちを押しのけ、…ずんずんと踵で足音を立てながらと私は沙都子に猛然と迫る。
そして、辺りをはばからず泣き喚く沙都子の頭を鷲掴みにし、
…全身の力で思いっきり、頭をぶん投げるように、壁へ叩き付けた。
沙都子は短い悲鳴をあげ、何が起こったのかわからないような表情をしていた。
涙をぼろぼろとこぼしながら、かたかたと震えながら。…どうして私に悪意をぶつけられなければならないのか、理解できずにいた。
「……何であんたがそういう目に遭うか、理解できる?」
「ひぃ…ぃ……、…ぃ……た、助けて……、…にぃにぃ……、」
沙都子は私の問い掛けを理解しようとせず、再びその言葉を口にする。
私は再び沙都子の頭を鷲掴みにすると、今度は床に叩きのめすように投げつけた。
沙都子が無様に転げ、机のひとつにぶつかって倒してしまう。机の中身が辺りに散らばり、ひどい有様になった。
沙都子は立ち上がろうとはしなかった。身を硬くしてうずくまり、上目遣いに私を見上げ、がたがたと震えていた。
「助けて……たすけて……、…にぃにぃ…、…にぃにぃ……。」
「あんたが…そんなだから…ッ!!!」
…あんたが…安易に悟史くんにすがるから……、悟史くんが苦しんでるのがわかんないのッ?!
そう言いたかったが、怒りでからからになった喉からは、そこまで発せられることはなかった。
私は床に散らばった教科書の束を拾い、まだ助けを求めようとするその無様な顔に投げつけた。
「泣きたければ泣けばいい!! でもね、泣いたってね、何も解決しないッ!!
何で泣くの?!
泣けば誰かが助けてくれるから?!
その助けてくれる人が、あんたの代わりにどれだけ傷ついてるかなんて想像もつかないでしょ!!!
わかってるの?!
あんたの罪が!!
あんたなんかいなければいい!!
苦しいなら死ね!!
ヘソでも噛んで勝手に死んじゃえばいい!!!
悟史くんまで苦しめるな!!
ひとりで苦しんでひとりで勝手に死ね!!
お前なんか死んでしまええぇえぇえええー!!!」
「わああぁああぁあぁああああんん!!!
にーにー!! にーにー!!! うわああぁああぁああん!!!」
沙都子の号泣は、もう今の私には怒りに油を注ぐだけだった。
「泣けばいいと思うな!!! 悟史くんにすがれば済むと思うな!! 甘えるんじゃない!!! お前さえいなければ…!! お前さえいなければッ!!」
床に散らばった教科書やノートを次々に沙都子に投げつける。
…沙都子は亀の子のように縮こまり、さらに大きな声で泣き喚くのだった。
髪の長い少女が躍り出て、縮こまる沙都子に覆い被さった。
………こいつは有名人だから知ってる。
…古手梨花。沙都子の数少ない友人のひとりだ。
「……沙都子をいじめないでなのです。沙都子は可哀想なのです、いじめてはだめなのです…。」
「可哀想だから何をしても許されると思ってる?! 可哀想だから悟史くんに寄り掛かってもいいわけッ?! 甘やかしてるんじゃないよッ!!! こいつがどこまでも甘えてるから…悟史くんが辛い思いをしなくちゃならないんだッ!!!」
「…だめ!! だめなのです!! 沙都子をいじめちゃだめなのです…!!」
沙都子を庇うなら、梨花もまた私の怒りの対象だった。
「私はね、その甘えきった沙都子の根性を教育してやってんだよッ!!! 邪魔しやがるとあんたの頭から叩き割るよッ?!?!」
私はイスを掴み、振り上げる。
こんなもので殴りつけられたらただじゃすまない。
梨花は両目を固くつぶって、沙都子に覆い被さり、自ら盾になろうとした。
もう、私にはどうでもよかった。
沙都子も梨花も、まとめて殴りつけるつもりだった。
「やめて!! 魅ぃちゃん!!!!」
ただ事ならぬ状況を察知し、教室へ戻ってきたレナは、イスを振り上げた私に制止の声をぶつけた。
そのレナを押しのけ、駆け込んできたのは、………悟史くんだった。
悟史くんは、沙都子が今置かれている状況を瞬時に把握したようだった。
……そして、彼は私に猛然と駆け寄り、飛び掛ってきた。
私は悟史くんに飛び掛られ、ロッカーに叩き付けられるまで、…何が起こったかわからず呆然としていた。
ロッカーが派手な音を立てて歪む。……私は慣れぬ衝撃に身を屈めてしまう。
「沙都子!! 大丈夫か沙都子…!!」
「にーにー!! にーにー!! わああぁあぁああぁぁぁん!!」
沙都子は、たった今まで身を挺して庇ってくれていた梨花を押しのけると、悟史くんに飛びついて、…泣いた。
「どうしたんだよ…一体…。どうして…沙都子が…。…沙都子が…!!」
「私ね? 何もしてないのに……何もしてないのに!! 魅音さんが…魅音さんが……、わああぁあああぁあぁああぁあッ!!!」
「ど、……どういうことだよ魅音ッ!!!」
泣きじゃくる沙都子の頭を固く抱きながら、悟史くんは私を怒鳴りつけた。…恐ろしい形相だった。
「どういうことって、……私は…、」
「沙都子が何をしたよ?! 僕たちが何をしたよ?! 何でいつも苛められなきゃならないんだよ!! ええ?! どうしてだよッ!!!」
沙都子を解放し、悟史くんは私に迫り、…襟首を掴み上げた。
「さっき……悟史くんは私に、自分の胸に聞け、って言ったよね。…なら、沙都子の胸に聞いてみりゃいいじゃない。」
「何をッ!!!!」
「悟史くんだって、自分で認めてるんでしょ? ……沙都子があんたにべったり頼ってるから、悟史くんの重荷になってるんでしょ?! 沙都子がもっとしっかりしてれば、悟史くんがこんなに大変な思いをすることなんてない!! そいつが全ての元凶なの!!!」
多分、図星だったのかもしれない。
私のその言葉に対する悟史くんの怒り方は、尋常じゃなかった。
「こっ、…こいつ…!!! いい加減なことを言うんじゃないッ!!!」
「痛ッ、…いたたたたたたたたたたた…ッ!!!」
悟史くんは私の髪を引っ張って振り回すと、私が沙都子をそうしたように、壁に投げて叩きつけた。
だが今度は私も怯まなかった。
…もう完全に心の堰が崩れ、感情のダムの決壊が起こっていた。
「悟史くんだって…沙都子を甘やかし過ぎてるよ!!! あんたがそうやって際限なく甘やかすから、そいつはいつまで経ってもあんたにすがってばかりなんだよッ!!!」
「お前に僕たちの何がわかる!! 何がわかるってんだよッ?! 父さんや母さんを村ぐるみで追い詰めて…散々に苛めて!! そして今度は僕たちか?! それが園崎家のやり方なんだろッ?! どこまでも村の裏切り者を苛め抜く!! そんなに楽しいかよ!! 弱い者苛めがそんなに楽しいかよ! ええぇッ?!」
「もうやめてえええぇえぇえッ!!!!」
最後に叫んだのはレナだった。
鬼のような形相で、私と悟史くんを交互に睨みつけながら、私たちの間に割って入る。
「悟史くん、もうやめてあげて。魅ぃちゃんに悪気はなかった。
……悟史くんの力になってあげたくて、その気持ちがちょっとずれて、空回りしちゃっただけ。………ね?」
「……………………………。」
悟史くんは何か言い返そうとしたが、何も口にはしなかった。
「魅ぃちゃんも、もうやめて。…魅ぃちゃんが誰よりも悟史くんのことを心配してるのは知ってる。
だけれど、こんなやり方はそれの解決にはならない。そんなの、ちょっと落ち着いて考えればわかることだよね?」
悟史くんが何も言わなかったから、…私もまた沈黙を守ることにした。
「ほら、沙都子ちゃんも。お弁当箱を落としたくらいで、泣くことはないよ。ね? …落ち着いた?」
「……沙都子、ボクがお弁当箱を拾ってあげますよ…。」
「………ぅうぅ、……ひっく、………ひっく…!」
沙都子の痛々しい様子がこらえきれない様子の梨花は、床に散らばった沙都子の弁当箱を拾い集める。
「みんな。…片付けを手伝ってくれる? もうすぐ先生がカレー菜園から戻ってくる頃だよ。これでもう喧嘩は終わったから、先生には余計なことは言わない。……いいね?」
クラス一同は、互いの顔を見合わせてから…小さく頷き、それぞれに床に散らばったものを拾い始めた。
「はい。悟史くんも魅ぃちゃんも、仲直りの握手。……ほら。」
「…………………ごめん……。……こんなつもりじゃ、…なかったのに。」
私の激情の、残った欠片が…再び目から零れ落ちる。
「…………僕も、………悪かった。……僕たちが苛められてるのは、大人の都合で、…魅音とは何も関係ないって知ってるはずなのに。……………ごめん。」
「さ、魅ぃちゃんは次に沙都子ちゃんに謝る。……はい。」
……悟史くんには謝れても、…沙都子に謝る気はさらさらなかった。
でも、とりあえずそうしないと場が収まらないと思い、…私は渋々と曖昧な謝罪の言葉を沙都子に投げかけた。
沙都子は憮然とした表情のまま、…謝罪を受け入れたことを示す意味で頷いてみせる…。
私はレナから解放され…、緩い頭痛に思わず両手で自分の頭を抱え込んだ。
……なんだこれ…。何やってんだ私…!
こんな…喧嘩をするために、貴重な時間をもらったわけじゃないのに…!
お姉がちゃんと私に警告してたじゃないか…。
悟史くんには近寄りがたい雰囲気があるから、話しかけない方がいい、って。
私は…何をしに来たんだ一体。
…こんなことになるなら、むしろ来ない方がよかった。……ばかばか、…自分の、ばか。
私は悟史くんのことを思って、…感情を爆発させた。
なのに、どこかで狂って、…いや、狂っていたのは最初からかもしれない。…そして、…悟史くんと喧嘩をするという、本末転倒な結果に陥った。
後悔。
自己嫌悪。
…いくら自分をなじっても取り返しがつかない。
世界はもう真っ暗だった。
…空が崩れて落ちてくるなら、早く私を押し潰して殺してほしかった………。
■魅音に報告…
お姉は呆れるような同情するような、複雑な気持ちのようだった。
「…ただでさえ綿流しの直前でいろいろと忙しいってのに…。詩音は話をさらにややこしくしてくれるなぁ…。」
「……ごめん。」
お姉は何か言おうとしたが、今さら言っても無意味だと悟ったのか、それを飲み込んだようだった。
…私は二三の悪態に付き合った後、今日あったことの詳細の全てを引き継いだ。
お姉は私が起こしたトラブルを、自分がしたこととして被らなければならないのだから…迷惑千万なのは無理もない話だった。
「…………もう当分は、…入れ替わる機会はない…?」
「…詩音あんた…、……ちょっとは私の迷惑を考えてほしいなぁ…。」
「………………………それは………ん。」
それまで比較的、同情的な相槌を打ってくれたお姉も…さすがに苦い声を出す。
これだけことを荒立てて、もう一度入れ替わってくれなんて言えば…、お姉が渋るのは当り前だ。
気まずく、…しばらくの間ふたりは沈黙し合う…。
「…仮にさ、もう一回機会があったとして、……詩音はどうするの?」
……当然の疑問を返される。
…だが、…私はそれに対する返事を用意していなかった。
仮にもう一度学校へ行けて、悟史くんと会えたとして。………私は、何をすればいいんだろう…。
今日のことを謝る?
……どんなアプローチから、どんな謝罪をするにせよ。…今の悟史くんには逆効果になるとしか思えなかった。
…そうだ。…悟史くんが言っていたことを思い出す。
………悟史くんの一家を、さんざん苛め抜いたのは園崎家じゃないか。
悟史くんが園崎の姓を持つ人間を毛嫌いするのは…とても自然なことなんだ。
……でも、…ならなんで今頃になって。
…今までだってずっと私は園崎だった。
悟史くんだって、私を園崎魅音だと思って、頭を撫でてくれてたじゃないか…。
「……お姉。率直なところ、……悟史くんは園崎家を、恨んでるんだよね…?」
「………………………だと、…思う。」
北条一家を、村ぐるみでいじめ、団結の為の見せしめ、スケープゴートにしたのは間違いないし、それを主導、先導(扇動でも間違いではない…)したのも間違いなく園崎家だった。
ダム戦争後も、表立ったいじめはなかったものの、村に非常に居難い雰囲気があったのは間違いない。
家族の暮らしを滅茶苦茶にし、…挙句、自分たちの今日の境遇に追い込んだ根源を園崎家と思い、…悟史くんが恨んだとしても、お門違いでもなんでもないのだ…。
「でもさ…。……だったら……なんでなの? ……なんで…今頃になってなの?」
「…………………………。」
「…なんで……今頃になって……こうなるの…? それなら……それならいっそ…。…………ぅうぅうぅ…! ……ぁぅううぅう…!!」
私と初めて会った時から、…私を拒絶するような目で睨んでくれたなら。
……私は、悟史くんに近付こうと思わなかったのに。
両目からぼろぼろとこぼれる熱いものを、私は拭うことも忘れていた。
……悟史くんが園崎の人間を恨むのは道理なのだ。何も不自然なことはない。
むしろ。……むしろ不自然なのは…どうして今まで親切に。…普通に扱ってくれたのかの方だ。………それを疑問に思うこと自体が本末転倒だとは思う…。
「…………悟史くんが、……大人だったから、…としか、…言えないと思う。」
「そッ、……そんなのって………、……ひどいよ…………………。…わああぁあぁあぁあん…!! ぁああぁああぁあぁあぁあん!!!」
今までは大人だったから、私が園崎の人間だとしても普通に扱ってくれた?
……でも今は、…心身共に大変だから……心の奥底の、恨み辛みが噴出して…今になって拒絶するようになったってこと…?
どの角度からどう考えようが。……私の悔しさに、悟史くんの非を見つけることはできなかった。
むしろ…恨むとしたら、………それは今日まで一度も考えたことのない方向に対してだった。
「……………なんで、……鬼婆は悟史くんの一家を苛めようって言い出したわけ…?!」
「え、………ぁ。……………………ん…。」
「ダムに賛成したのは悟史くんの親でしょ?! 悟史くんが賛成していたわけじゃないでしょう?! 何で一家まるごと苛めようって話になったの?! どうしてよ!!」
魅音は言葉を詰まらせたまま、何も言い返せずにいた。
お姉がわざわざ口に出さずとも、…私だって薄々とは知っている。
別に園崎本家が北条家を苛めろとGOサインを明確に出したわけじゃない。
あの鬼婆が、北条家を不快に「思っただけ」。
その憂慮が意思として汲み取られ、結果として執行されただけのこと。
でも、鬼婆は自分がどう喋ればどう波及して、どう影響が及ぶかは重々理解しているはずだ。
ならばそれは「思っただけ」でなく、明白な命令に他ならない。……鬼婆が、園崎本家が北条家に対する陰湿な攻撃を命令したに他ならない。
「前にお姉は、古手の神主さんのことを、和を乱すのは大人じゃないみたいなことを言いましたよね。つまりこれもそういうわけ?! 村中が団結しなきゃならない時に、異を唱える北条家は大人じゃなかったと。だから制裁する必要があったと! そういうわけなんでしょ?!」
魅音はもはや相槌すらも打てなかった。
私は、自分の発言が完全な図星であることを理解する。
「なら制裁は北条の親だけで充分じゃない!! 本家の拷問室にでも連れ込んで指の一本も撥ねてやったらいいッ!! でもそこまでで充分でしょ?! 悟史くんは関係ない!! 悟史くんには何の関係もないッ!! 悟史くんが何をしたって言うの?! 悟史くんに何の罪があるって言うの?! 答えてよ!! 答えてよ魅音!! 魅音んん!!!」
「…ハイ。ではよろしくお願いいたしますね。失礼いたします。」
魅音は突如冷たい声で、他人行儀な言葉を口にすると、私の話を断ち切るように受話器を置いた。
私は瞬間的に、私の詰問から逃れるために受話器を置いたのだと思い、烈火の如く怒りの感情が噴出すのを感じた。
そして、本家への電話番号をもう一度ダイヤルしようとして、……魅音のその発言が、鬼婆が来たから電話を打ち切るという取り決めに基づく対応であったことを思い出す。
…本当に鬼婆が来たかはあやしい。
だが、取り決めにしたがって切られた以上、私は今、掛けなおすことはできなかった。
私は熱くなり過ぎた自分の頭を冷やそうと、洗面所へと向かう。
蛇口をひねると、出てきたのは不快なぬるい水。
そんなものはいくら顔に叩きつけたところで、わずかの気分転換にもならないのだった。
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■葛西の訪問
大の字になって、私は天井を見上げているだけだ。
お腹が空かないわけじゃない。
…親元にいるわけでなければ学園にいるわけでもない。
自分で起き出して何とかしなければ食事は出ない。
そんなことはわかっていても、…起き上がる気にはならなかった。
この無気力な生活を始めて、そろそろ数日になろうとしていた。
そう言えば、明日だっけ。………綿流しのお祭りは。
呼び鈴のチャイムがなる。
無視していたが、しつこく鳴る。
やがてノックと、葛西の無神経な声が聞こえてきた。
「詩音さん。いらっしゃるなら開けて下さい。弁当を買ってきました。」
…別に葛西に弁当を買いに行ってもらった覚えはない。
だが、最近、私が食事を取らず、元気をなくして横になっているばかりだということは知っていた。
「……やはり食事を取られていませんでしたか。」
「別に。………お腹が空いてるわけじゃないし。」
だが、葛西の買ってきた弁当が机の上に置かれると、私の嗅覚は敏感に反応し、無様にお腹を鳴らして見せるのだった。
「ほら、お腹が鳴っている。…食べた方がいいですよ。」
お腹は空いても、食欲はない。
いや、食欲はあっても、食べる元気がないというのが正解だった。
だが、せっかく葛西が気にして買ってきてくれた弁当を無駄にするのも悪い。
私は葛西の顔を立てるだけのために、弁当の箸を取った。
「最近は鬼婆がマークしてるんじゃなかったの? 私のとこなんかに来て大丈夫なわけ?」
「お魎さんは綿流しの打ち合わせ等でお忙しく、詩音さんのことまでは最近は頭が回らないようでしたので。……クリームコロッケは好物ではありませんでしたか?」
「ん、……おいしいです。…ありがと。」
私が弁当を突っつく間、葛西は私が放り出していた雑誌類を漁って読んでいた。
「………葛西は、…。……ん。」
葛西にこういう悩みを打ち明けたことはない。
…精神的に、自分の方が優位に立っていると思っているだけに、葛西に自分の弱みを見せていいものか迷った。
「そういう悩みも、年頃にしておくのは悪いものじゃありませんよ。」
「……! 葛西、あんた…、全部知ってる…?!」
「魅音さんから少々。力になってほしいと頼まれました。」
「…お姉か。………………ち。」
「心配しておられましたよ。魅音さん。」
私は返事をせず、一口分残しておいた最後のクリームコロッケを口に放り込む。
「北条悟史くんの近況を知りたがっていると思いまして。少し情報を集めてきましたが、余計なお世話でしたか?」
「余計なお世話です。………でも、せっかく集めてきた葛西の顔を立てるために、まぁ一応聞いておきます。」
葛西は小さく笑ったが、不謹慎だと思ったのかすぐに笑うのを止める。
「北条鉄平が家を出たらしいです。興宮に愛人がいまして、そこへ転げ込んだようです。」
「鉄平? 誰? ……あぁ、悟史くんの叔父か。」
「家には叔母の北条玉枝と北条悟史、沙都子の3人となりました。玉枝は鉄平が愛人の下へ逃げたのだと気付き、大層機嫌を悪くしたらしいですね。」
「ってことはあれだ。ますます叔母の沙都子苛めが加速して、悟史くんもそれのとばっちりでますますに苦労してるってことか。」
「悟史くんの方はわかりませんが、沙都子さんの方は近所でも噂になるくらいに、惨めな目に遭っているようです。」
沙都子が被る惨めさは、結局、悟史くんが被る。同じことだ。
「その叔母って、何とかならないの? 憎き北条家の片割れなわけだから、園崎本家で制裁しちゃおうって話にはなってないの?」
叔父がいなくなったなら、ついでに叔母もいなくなればいい。そうすれば万事問題は解決だ。
「…園崎本家としては、北条夫妻の事故死で一応のけじめが付いたので、北条関連では一切手を出すなと厳命が出ています。夫妻の事故死を疑う警察が、北条家近辺を未だマークしているという噂がありますので。」
「事故死はオヤシロさまの祟りってことになってるからね。神罰が下ったんなら、それ以上は人間が下すまでもないってこと?」
葛西は曖昧に笑って応えた。
今さらだが。
…こうして考えると、オヤシロさまの祟りってのは全部、本家の意思が反映しているとしか思えない。
鬼婆の憂慮に、誰かが気を利かせる。綿流しの祭りの当日に。
そう。綿流しは明日じゃないか。
……今年も、今日もオヤシロさまの祟りは起こるのだろうか?
起こるなら、…今年の祟りは誰に?
そういえばオヤシロさまの祟りって、必ず1人が犠牲というわけじゃなかった気がする。
1年目と3年目は1人だが、2年目は夫妻そろってだから2人死んでる。
なら4年目の今年は2人が犠牲になってくれても良さそうだ。
丁度いいじゃないか。
叔母と沙都子が犠牲になってしまえばいい。
悟史くんを悩ませる二人が丸ごと消えてくれれば、悟史くんは全ての悩みから解放される!
「………葛西。今年のオヤシロさまの祟りの犠牲者は誰かって、もう決まってるの?」
「……………………。」
「決めるのは鬼婆? …ならお姉は明日の犠牲者をもう知ってるってことになるな。どうなの葛西。何か聞かされてる?」
「詩音さん、……私はその件については一切聞かされていません。」
「…まぁ、そりゃあそうか。葛西ごときの耳に本家の最高機密が入るわけもないか。」
「………そういうことです。少なくとも、私の関係する界隈では、そういう話は下りてきていません。ですが、…ご存知の通り、本家は裏の世界の方々に通じます。私にはその一部を垣間見ることもかないません。」
……お姉に単刀直入に聞いてみようかとも思った。…だが、喋るまい。
あいつは、私と比べると約束事に義理堅い。
鬼婆に、口外してはならないと釘を刺されたら、絶対に口を開かない堅さがある。
「………ちぇ。…今年の綿流しで、叔母と沙都子が消えちまえばいいのにな。」
「……………………。」
「……葛西、私は『憂慮』したよ? 気を利かせてくれるとうれしいんですけど。」
「詩音さん、ご冗談を…。」
「わぁってるって。言ってみただけだって。」
そうおどけながら、ちらりと葛西をもう一度見る。
……だが、葛西が私の期待する形で気を利かしてくれそうな素振りはまるでなかった。
私は村には行けない。
だから明日の綿流しなどどうでもいいし、見に行くつもりも初めからない。
だけれど、……きっと起こる今年の祟りの犠牲者にだけは興味があった。
私がこのままだらだらと、ソファーの上でだらけて過せば、多分もう何十時間くらいかで今年も祟りが執行されるだろう。
祟りがどういう意味で行なわれてるのかなんて、私にはわからない。
だが恐らく、鬼婆が何らかの考えに基づいてやっているのは間違いない。
ダム戦争の時以来の村の仇敵に次々と制裁を下していく。
…ぱっと考えれば、もっともらしい仇敵がほとんどいなくなった今、次にもっともらしい村の仇敵は、北条の叔父叔母夫婦しか思いつかない。
外はセミの声で充満していて、気だるさを誘うだけ。
なんだって今年は、まだ6月だってのにこんなに蒸し暑いんだろう。
私はもしも本当にオヤシロさまが祟りを下しているのだとしたら、……オヤシロさまに祈ろうと思った。
どうか悟史くんを苛める意地悪な叔母に神罰を与えて下さい。その見返りに、沙都子を差し出します、と。
はぁ。…………………暑い。
■悟史くんからの電話
目が覚めたとき、もう葛西の姿はなかった。
食い散らかした弁当箱などのゴミはちゃんと片され、部屋も少し片付けられていた。
脱ぎっぱなしにしていた靴下なども、いつの間にか洗濯機前のカゴの中に放り込まれている。
…年頃の女の部屋を、いくら葛西とは言え、男に片付けられたくない…。
まぁ、悪態をつくより、忠臣の気遣いを感謝すべきか。
時計を見ると、昼とも夕方とも付かない曖昧な時間だった。
……今日こそ買い物に行かなくちゃ。
冷蔵庫の中にはもう何もない。…今日こそ買い物に行かなきゃ、本当に今夜は白米のご飯しか食べられない。
その時。
………電話が鳴った。
買い物のことばかり考えていたから、私はきっと葛西に違いないと思った。
葛西なら好都合だ。
…弁当でいいから、何か買って来てもらおう。それで買い物に行く手間は省ける。……そんな怠惰じゃ駄目だな。…でも、今日だけは…。
だが。
電話の相手は違った。
「………お姉。…そこ、どこ? 本家じゃない?」
「あ、うん。…公衆電話から掛けてる。だから手短に話すよ。………悟史から電話が来たんだよ。」
「…悟史くんが? お姉に?」
「………多分、私にじゃないと思う。詩音にだと思う。…悟史くんは、……先日の教室での件を謝りたがってるみたいだった。…だから、……その電話は詩音が受けた方がいいと思って。」
「………………………。」
「悟史の電話は、今ちょっと忙しいからすぐ掛け直すって言って切ってあるの。……だから詩音は、今から私が言う電話番号に電話してあげて…。」
「………………ん、わ、わかった…!」
私は少し呆けた後、我に返り、雑誌の背表紙の余白部分に電話番号を書き取った。
「…ありがと。すぐに電話します。」
「そうしてあげて。……悟史は最近、すごく追い詰められてるの。………私の声はもう届かないみたいだけど、……詩音の声なら、…ひょっとすると届くかもしれないって、……何の根拠もなく、思ってる。」
お姉は私のふりをして悟史くんの電話をやりとりすることだって出来たはずだ。
……だがその電話を敢えて中断し、私に取り次いでくれた。
「ありがとう。…魅音。」
「じゃね…、…詩音。」
私は魅音が電話を切るのを待たず、受話器を置き。わずかの躊躇の後、呼吸を止めて一気に書きとめた電話番号をダイヤルした。
やがて、呼び出し音が、…三度、…四度。……出た。
「………北条です。」
悟史くんのちょっぴり大人びた声が私を迎える。
その声は、少し疲労の色を残しながらも、…私の大好きだった悟史くんのあの声に間違いなかった。
……だからこそ。
…自分が名乗れば、また不機嫌な彼に戻ってしまうのではないかと思い、……しばらくの間、息を飲み込むばかりで、名乗ることもできなかった…。
「あ、……の、…………悟史くん………ですよね?」
「ぁ………、さっきはごめん。…もう時間は大丈夫なの……?」
悟史くんは、…悟史くんでいてくれた。
…冷たく拒絶した、あの悪夢のような日を感じさせる声色はなくなっていた。
「…うん。……全然平気です。」
「……ぁ、…………………うん。」
悟史くんは小さく頷くように言うと、そのまま口を噤んでしまう。
……何だか、…私から先に喋らなければいけないように錯覚させられてしまう。
…こんなのずるい。悟史くんから掛けてきた電話なのに……。
それでも私が先に何かを言わなければならないような、強迫観念に取り付かれた頃。…ようやく悟史くんは話しかけてくれた。
「…………………先日は、………ごめん。」
「ぁ、…ぅ…、わ、私こそ、………ごめんなさいです…!」
「……魅音は謝らなくていいよ。…僕がどうかしてた。」
悟史くんは、…きっと私が目の前に居たなら、私の頭を撫でていたに違いない。……受話器越しであることが悲しかった。
「……僕は、…僕たちをここまで追い込んだ奴らを絶対に許しはしない。……そいつ等は、魅音のとても近くにいるのかもしれないけれど。でも、……決して、魅音じゃなかったんだ。……だから、……僕は君にだけは謝ろうと思って。」
「………うぅん、……気にしないで。…私だって、悟史くんのことをよく理解しようともせず、…無神経だった。」
私たちはしばらくの間、謝られては相手を制し、謝っては制せられを何度か繰り返した。
「…それより、悟史くん…。………大丈夫…? いろいろと大変なのに、…沙都子の誕生日プレゼントのためにアルバイトまでして。………だいぶ、…追い詰められてるんじゃない……?」
「…………もう、バイトは辞めたよ。目標額のお金は、何とか貯められたみたいだからね。」
「…そうなんだ…。なら、…もう体を無理させなくていいんですね。……本当によかった…。」
悟史くんはそこで何かを言い返そうとしたようだったが、それは結局、飲み込まれたようだった。
「僕より、…………沙都子の方が、…辛い。」
「……………………。」
「…沙都子、……大変なことになっていますね…。……大丈夫なんですか…?」
「……あれが、…大丈夫なように見えるのかよ……?」
悟史くんの声色が急にどす黒くなる。…私は瞬時に失言を理解した。
「ご、ごごご、ごめん! ごめんなさい…! ごめんなさい…!」
私の馬鹿…!!
せっかく…せっかく悟史くんと話ができてたのに、…自分でそれにひびを入れるなんて…!!
悟史くんは私の謝罪には特に答えなかった。……私は謝罪の言葉を途切る。
「……………あんなに、…ぼろぼろになるまで虐め抜かれて。……みんな、…見捨てた。沙都子を、見捨てた…。」
「み、…………見捨てたつもりなんて………。」
悟史くんに言葉を合わせるために使ったにしたって。……なんて白々しい言葉だろう?!
自分が軽々しく口にした、その言葉の罪深さに。…私は口をつぐむしかない。
悟史くんは必死に沙都子を叔母の悪意から守ろうと必死なのに。
…私はその沙都子のことなんか、明日の祟りで死んでしまえと願っている。
…悟史くんの必死を、私は見捨てているのだ。
「………沙都子は…、もう擦り切れる直前なんだ…。……だから…、………………。」
悟史くんは、だから…で切り、続く言葉をしばらく口に出来なかった。
口に出来ない、というより、…言葉を選んでいるような。そんな感じ…。
やがて、…適当な言葉。
あるいは無難な言葉が思いついたのか、それを口にした。
「………だから。………せめて、一夜くらい、遊ばせてやりたいんだ。」
「…え? 遊ばせるって………?」
「ほら、……明日は綿流しのお祭りじゃないか。沙都子を、祭りに連れ出してやってほしいんだ。」
「それは構わないけど、……どうして?」
「………沙都子も色々とまいってる。…たとえ一夜でも、…叔母さんのいないところで羽を伸ばせたなら、…きっと喜ぶと思うんだ。」
「………………だから、…………どうして?」
「…どうして、って………………。」
悟史くんが、私に沙都子を祭りに連れて行けと言っていることが分からないんじゃない。
……どうして、それを私に頼むのか。
悟史くんには、自分で沙都子を祭りに連れて行けない何か理由があるのか。
その理由が、なぜか悟史くんがいなくなってしまうことのような気がして、…私は悟史くんに食い下がる。
「…どうしてって、………何がだい…?」
「……どうして、………悟史くんが自分で連れて行ってあげないの…?」
「…………ん、………………。」
悟史くんは…沈黙する。
隠し事や嘘なんかが得意なタイプじゃない。
……言いたくない都合があるという、これ以上ない返事のようなものだった。
「…よ、………用事だよ。…僕、…明日はちょっとバイトの関係で用事があって…、どうしても祭りに行けないんだ。」
口からの出任せだとすぐわかる。
……でも、悟史くんは強情な人だから。
私がそれを看破していることを告げても、白状はしないだろう。
「…ね、…魅音。……明日の夜だけ、沙都子を頼めないかな……。」
「……………………………………。」
悟史くんの頼みでも。…沙都子のお守りなんて御免だと思った。……でも、悟史くんが私を頼ってくれたのも、…うれしい。
「あれだけの暴言をぶつけて、…それを謝るついでにこんな事を頼むなんて、…悪いことだとは思ってるけど…。…………魅音だけが頼りなんだ。」
……私はしばらくの間、返事を戸惑っていた。
だが、結局のところ、私は悟史くんの頼みを断るつもりなどない。
「……うん。………わかった。……明日の晩だけ、……だよ?」
「あははは…。出来たら、明日の晩だけじゃなく、これからもずっとがいいなぁ。」
「何言ってるんですか。そんなの嫌です。明日だけですからね。」
悟史くんの言い方がまるで、自分は明日にもいなくなってしまうようだった。
…私はそれが嫌で、少し不機嫌に突っ返す。
それからしばらくの間。……他愛のない話に花を咲かせた。
そして、…電話を切ろうという時に、悟史くんは不意に切り出す。
「ね、……魅音。……………こんな事を話すと、きっと精神的に病んでるって思われるんで、本当は嫌なんだけど…。」
「……? どうしたんですか?」
「………魅音は、…あははははは。信じないよね?」
「何をですか?」
「………ん、………ほら、
………オヤシロさまの、祟り。」
「あ、…あはははは。悟史くん、何の話ですか…?」
「オヤシロさまは確かほら、…村を捨てて逃げ出そうとすると祟るでしょ。」
そういうルールになってる。
この辺の子どもなら誰だって知ってることだ。
「…あはは、そう言うことになってましたね。どうしたんです? 突然。…村を捨てて逃げようとでもしてるんですか?」
茶化したように言いながら、否定の言葉がほしくて悟史くんに食いつく。
「…………もうそんな気はないんだ。…もう。」
悟史くんの言い方は、一度は村を捨てようと思ったことを認める言い方だ。
……前にレナにもそんなことを聞いたような気がする。
「…いいじゃないですか。もうそんな気がないのなら。」
「……………でも…。………まだ、許してもらえないんだ。」
「…え…?」
悟史くんはしばらくの間、何か言おうとしてはそれを飲み込んでした。
…悟史くんの息が荒いような気がする。…ひょっとして具合でも悪いのだろうか。
「…あの、…悟史くん? 具合、悪いの…?」
「……………ぁ、……ごめん。…うぅん、そういうわけじゃないんだ。」
「……悟史くんは少し頑張り過ぎたから、いろいろ疲れてるんです。少し休んだ方がいいです…。」
電話を始めた最初と違い、明らかに悟史くんは体調を悪くしているようだった。
言葉の節々に荒い息が混じるようになっているように感じる。
だが悟史くんは私の言葉を遮り、最初の問いをもう一度した。
「……魅音。最初の質問をもう一度するよ。…魅音はオヤシロさまの祟りって、…存在すると思うかい…?」
………この問いで、悟史くんはどんな答えを期待しているのだろう。
…私が信じる、信じないを別にして、…何と答えれば悟史くんを安心させてあげられるだろう。
…そんなのは決まってる。
「…あははははははは。……祟りなんて、あるわけないじゃないですか。」
悟史くんが何を悩んでいるかわからないけれど。
笑い飛ばすことによって、少しでも肩の荷を軽くしてあげられればと思い、私はそう答えた。
「…………………。」
だが悟史くんは短く沈黙する。
……私の答えを喜んでいるのか、悲しんでいるか。それだけでは分からない。
一つ分かるのは、…彼の肩の荷を軽くしてはあげられなかったことだった。
「…変なことを聞いて、ごめん。」
「あ、……ぁ、…ご、ごめん…。」
なぜか悟史くんを落胆させた気がして、私は慌てて謝る。
「…祟りだろうと、この村の何者かの陰謀だろうと。…僕は絶対に消えない、消されない。」
「き、消えないよ、悟史くんは…。」
「消えないよ。……沙都子にあのぬいぐるみを買ってやるまではね。もうすぐお給料がもらえることになってる。その日までは絶対に消えない。」
悟史くんは最後に軽く笑ってみせる。
私の不安を払拭するつもりで笑ったのだろうが、私にはまるで逆。
…沙都子にぬいぐるみを買ったら、あとは何の保証もできないというようにしか聞こえなかった。
「…………あ、……叔母さんが帰ってきたら、もう切るよ。」
「あ、……ぅん…。」
「……魅音。」
「…何?」
叔母が帰ってきて、一刻も早く受話器を置きたいだろうに。
…悟史くんは一呼吸置いて、一番大事な一言を告げるように言った。
「沙都子のこと、
…………頼むからね。」
私は即答で頷いて、せめて悟史くんを安心させるべきだった。
…なのにこの時の私は、…沙都子のことをまだ許せていなくて。……黙り込んでしまった。
「……………………。」
「…………変なこと頼んで、ごめん。……じゃ。」
「あ、」
悟史くんは…明らかに落胆した。
私は…何てことを…!
謝ろうとした。一言、ごめん!って言えればよかった。
でも、………遅かった。
ツーツーという電子音が、……悲しかった。
■幕間 TIPS入手
■粉々の日記(5日目終了時)
僕は、背中の人に囁かれる。
僕が今年の祟りの犠牲になること。
だからもうすぐ、ここからいなくなってしまうこと。
そしたら、沙都子を誰も守ってくれなくなることに。
僕は、背中の人に囁かれる。
もうすぐ時間がなくなること。
僕が僕でいられなくなること。
だから、残された時間を大切にしなくてはならないことに。
沙都子のために僕が残せるもの。
欲しがってた、あの大きなぬいぐるみ。
誰にも虐められない平穏な生活。
僕は、背中の人に囁きかける。
あなたの乱暴さと、恐ろしさ、そして強靭さをどうか僕に。
あなたの、憎しみ以外考えなくていい、心の平穏を、僕に。
■6日目
綿流しの日。
昭和57年6月20日 午後1時40分
この日の私は何をして過していただろう?
何の記憶もない。
ただ怠惰に。……無駄に無意味に、ぼーっと過しただけだった。
起き出したのは昼過ぎ。
私はレトルトで作れる適当な昼ごはんを食べながら、大して面白くもないテレビをぼーっと眺めるだけだった。
そして、何となく軽い頭痛を感じ、ソファーに横になる。
多分、このまま目を閉じれば、日が出ている内には起きれないなと思った。
…それでもいいか。
私はそのまま惰眠を決め込む。
……悟史くんに言われたように、沙都子のことを頼むとお姉には伝えてある。
今日、私がしなくてはならないことなど、何もない。
私は緩い頭痛と一緒に、まどろみの中に落ちて行った…。
私にとっては、これだけの意味しかない日。
■叔父夫婦と悟史たち
昭和57年6月20日 午後5時02分
叔母は、今も兄夫婦がダム計画に肯定したため、自分が村人たちに白い目で見られていると信じていた。
確かに、ダム戦争中には少なからずのとばっちりがあったことは認めなければならない。
だが、叔母が思い込んでいるほど、今もそうというわけではなかった。
叔母は被害妄想的に、自分が村人から悪意を向けられていると信じていた。
だから、そんな悪意を裏返しにし、村人たちを逆恨みしていた。
もちろん、そんな態度は他の村人たちを大いに不愉快にし。…結局、叔母が思い込んでいる通りのご近所関係となった。
そんな不快な近所関係が先だったのか。
夫の浮気が発覚したのが先だったのか。
…今では当事者同士もどっちが先だったか思いだせずにいる。
叔父は、日々不快な態度を取り続ける妻に愛想を尽かし、その結果、愛人を作ったと主張する。
叔母は、夫の浮気によって世間体が悪くなり、その結果、近所との付き合いが悪化したと主張する。
一番、客観的な位置にいた悟史だけは、どっちが先なわけでもなく、ほぼ同時に起こったことを知っていた。
夫婦喧嘩は日常茶飯事になった。
夫の帰りが遅いと、妻はそれを待ち構え、玄関で口汚く罵りあった。
悟史は、どうしてあれだけ仲が悪いのに離婚をしようと考えないのだろう、と不思議に思ったことがある。
だが、その理由を悟史だけは知っていた。
それは亡き両親が残した財産のせいだ。
叔母は通帳と判子を隠し、叔父には指一本触れさせなかった。
(だから叔父はその通帳やヘソクリを探して家捜しをし、財布から小銭をちょろまかしたりしていた。それもまた喧嘩の火種となっていたのだが)
……悟史は、亡き両親が、家計が潤っていると漏らしたのを聞いた試しはない。
でも、両親の死後、関係者が教えてくれた。
亡き両親は口座に多額のお金を残していたと。
悟史は貧乏だった自分の家が、どうしてこんなお金を持っているのか、最初は理解できなかった。
恐らく。…両親はダム計画について、国から何らかの協力を求められ、それに応じていたのだ。
村人の懐柔とか、情報とか、よくわからないけど、色々。
それらの協力金という形で、人に言えないようなお金をもらっていたのではないか。
その口座の話が出るまでは、叔父夫婦は自分たちを引き取ろうとは決してしなかった。
金融機関の人がそういう説明をしてようやく、もったいぶるように自分たちを引き取ると言ってくれたのだ。
醜く、聞き苦しい喧嘩は来る日も来る日も繰り返された。
少しずつ、叔父は家に居る時間より、愛人の元で過す時間の方が長くなっていった。
やがて。夫は、無理に喧嘩をしに帰宅する必要がないことに気付き始める。
最初、叔父が帰らなくなった時、悟史は内心、よかったと思った。
叔父も叔母も、どちらも自分たちのことを良く思っていなかったし。不愉快なことがあった時の憂さ晴らしに絡んでくることが少なくなかったからだ。
叔父と叔母の摩擦がとばっちりとして来るのだから、叔父と叔母が離れ離れになれば、自分たちにとって悪いことではないはず。
最初はそう考えた。
だが、夫がいなくなった妻はそれでも落ち着かなかった。
愛人の下へ夫に逃げられた。
それはもう村中に知れ渡り、村人たちは陰でそれを嘲笑っている。
それはとても恥ずかしくて悔しいことと思っていた。
しかも。叔父という喧嘩相手を失った叔母は、その捌け口を直接、自分たちに向けてきたのだった。
悟史はずっと叔母を観察してきた。
叔母がどういうことに腹を立てるか、叔母がどういうサインを見せた時に、どうやり過ごすのが最善かを、ある程度理解していた。
だから、叔母を不必要に不快にさせなかったし、叔母の機嫌が悪いことを示すサインには敏感に反応し、うまく逃げたり隠れたりしながらやり過ごしてきた。
……だが、沙都子はだめだった。
沙都子は叔母を露骨に嫌い、それを隠すことなく態度に出した。
悟史がいろいろと言い含めたから、その態度は多少はなりを潜めるが、それでも目つきはどうにもならなかった。
悟史も可能な限り、叔母と沙都子が摩擦を起さないように努力した。取繕った。誤魔化した。
だが、それは悟史にとって、いや、まだまだ少年に過ぎない彼にはこの上ない負担を強いるものだった。
彼は根気よく耐え続け、時に庇い、時に隠し、時に立ち回り、上辺だけの平穏を取繕うとした。
だが、…そんなものは個人の努力でどうにかなるものではなかったのだ。
………………………叔母と沙都子の摩擦はすでに致命的だった。
粗大ゴミ置き場が目に留まった。
……ここが本当の意味での粗大ゴミ置き場かは怪しい。
…本当にそうなら、清掃局の人が持って行ってもいいはずだ。
彼はここを通ることが多いから、たまに新しい粗大ゴミが増えていれば、それに敏感に気付くことができた。
学校の職員室にあるような、…ごくごく平均的な事務机が目に留まる。
この2〜3日中に誰かが捨てたものに違いなかった。
叔母はこの粗大ゴミ置き場に、使えそうな家具があると見逃さない。
先日も、適当な大きさのタンスを見つけ、運ぶのを手伝わされた。
…叔母に、この机が新しく捨てられていることを話せば、きっと拾いに行こうという話になるだろう。
叔母は、引き出しの中に、ゴミとか虫とかが入っていたら嫌だから、必ず運ぶ前に開ける。
試しに開けて見る。……空っぽだった。
彼は引き出しを閉めると、後ろを振り返り、5〜6歩を歩いた。
そこは膝まで覆うような濃い茂みだった。
彼は、今日まで肌身離さずに持っていたソレを、茂みに横たえる。
そこに置いたことを意識しなければ、置いた自分ですら、どこに置いたのか見失いそうになる。
……彼はそれに満足すると、置いた場所を間違えないように、周囲に目印になるものを探し、注意深くそれらを観察して記憶した。
■沙都子たちはお祭りに
昭和57年6月20日 午後5時51分
「へーぃ、親父ぃ!! 今年も来たねぇ! また根こそぎ掻っ攫ってくから覚悟しときなよー!」
「がっはっは! 園崎のお嬢ちゃんは今年も元気がいいなぁ! お? そっちの子は新顔かい?」
「ふふ〜ん、この子はね、竜宮レナ。こう見えてても結構やるよー?!」
「あはははは…、そ、そんなことないよ。よろしくお願いしますね!」
「おぅ! こっちこそよろしくなぁ! 今年もいろいろ景品を持ってきたんだぜ! もちろん真剣勝負だ!! 根こそぎ持ってけるもんなら持ってけってんだぁ〜!」
「……レナはかわいい物には目がないのですよ。」
「あー、あのぬいぐるみとそっちのぬいぐるみはレナの好みだねぇ…。」
「わ、わ、わ?!
はぅ〜!! かぁいいねぇ?! おもおも、お持ち帰り〜!!」
「だだ、駄目だよ、まだ準備中だよー!! わ〜〜!!!」
「あっはっはっは!! レナ、だめだめ。まだ準備中だってさぁ。ちゃんと開店したら、根こそぎさらってやりなー!」
「はぅ〜〜、もうダメだよレナの物なんだよー! お持ち帰り〜〜!」
レナが元気そうにはしゃぐと、居合わせた人間たちはみんな大笑いした。
そのにぎやかな中にあっても、沙都子はつられて笑い出しはしなかった。
沙都子だけは、まるでこの輪に加われていないかのように、少し外れてひとりでぽつんと立っていた。
………沙都子の瞳は曇ったままだ。
「……み〜☆」
「…な、…なんなんですの、梨花。」
そんな様子を心配してか。…梨花は満面の笑みを浮かべながら沙都子に擦り寄った。
「……今日は何も考えなくていいのですよ。いっぱい楽しく過しましょうなのです。」
「…………………。」
沙都子は再びうな垂れると、梨花から目をそらす。
今日だけを楽しく過したって。…今ある辛い現実、家庭環境から解放されるわけじゃない。
「……沙都子。…意地悪な叔母さんは今日はお祭りには来ませんですよ。」
「そ、……そんなことはわかってますわ。」
「……なら、いっぱい笑って、いっぱい楽しくなるのですよ。…にぱ〜〜☆」
「………………………。」
「……にぱ〜〜☆」
「……………………。」
「……にぱ〜☆」
「あ、……生憎ですけど、…そういう気分になれませんの。…申し訳ございませんけど、…放っておいて下さいませ。」
「……どうして、…沙都子は笑いませんですか?」
沙都子は一瞬、むっとした目つきを返した。
…そんなこと、今さら私の口から言わせなくたって知ってるくせに。そういう目つきを。
今日だけ笑ったって。あの意地悪な叔母が意地悪であり続ける日常は変わらない。
いくらお祭りだけを楽しく過したって。
…家に帰れば、また何か言われるのだ。私が何をしてもしなくても。
…本当に下らない些細な事を見つけ出して、隣の家まで聞こえるような大声で、喉が嗄れるまで怒鳴り続けるのだ。
そんな現実を理解しながら、どうして今だけ笑えと…?
それを口に出したつもりはない。
だが、沙都子の目は諺通りに、口ほどに語り、梨花に今の心情をありありと伝えるのだった。
「……では沙都子。…沙都子の辛いのが、今日でおしまいになるなら、沙都子は笑ってくれますですか…?」
沙都子は一瞬、はっとした。
梨花が、何かの助けを差し伸べてくれるのかと思ったのだ。
……だが、すぐにそんなのは梨花の方便に過ぎないことに気付く。
今日で私の不幸が終わりになる? 梨花が? どうやって?
ちょっと考えれば、梨花に自分の境遇がどうにかできるものではないことはすぐ分かる。
だから、沙都子が期待の眼差しで梨花を見たのはほんの一瞬のことで、その眼差しはすぐに諦めで曇った。
「梨花。…下らない気休めは聞きたくないですわ…。」
「……沙都子。」
梨花は、沙都子が初めて聞く口調できっぱりと言った。
「……もう決まっていることなのです。」
■叔母殺し
昭和57年6月20日 午後8時11分
悟史は夕食後、こっそり窓から外に出た。
虫の声と、綿流しのお祭りの放送の声が、かすかに風で運ばれてくるのが聞こえるだけだった。
お祭りは、確か午後9時までだ。
みんなでワタを流した後、福引抽選会があると聞いた。
つまり、夕食までには家に帰ろうという人たちはすでに帰宅し。最後の抽選会まで残ろうという人たちは、最後まで残ってようと、はっきりと別れた時間。
家でくつろいでいるか、神社で祭りに参加しているか。
そのどちらかだけ。
しかもその上、悟史の家の周りはとても寂しい。ご近所は多くない。
だから、往来には人の気配などあろうはずもない。
…ただでさえ寂しい雛見沢で、これほど寂しい夜はないに違いなかった。
もちろん悟史も、そうなるだろうことは理屈ではわかっていた。
だが、それを実際に自分の目で確かめなければ不安だったのだ。
悟史は裸足だったが、気にもせずそのまま駆け出す。
……裸足で駆けていると、…何だか自分が野生の動物にでもなったような気分だった。
普段よりもはるかに素早く、しなやかに、強靭に駆けられる気がした。
脚力だけじゃない。
視覚も。
聴覚も。
嗅覚も。
…いや、第六感と呼べるような超常的な感性さえ、備わったように感じる。
こうして伏せるように低く屈めば、四里四方の人間の気配を手に取れるように読み取れる。…そんな気さえした。
本当に不思議だった。…今日が別世界のような、そんな気持ちだった。
今日を迎える直前まで、自分はあれほどに緊張し、興奮し、内なる自分との戦いを強いられてきたのに。
そんな自分を脱皮したのではないかと思うほどに、…今の自分は別の存在なように感じられた。
昭和57年6月20日 午後8時37分
「そんれではー! お楽しみ抽選会の説明をこれより始めますのでぇえぇ。どうぞ皆さん、やぐらの周りにお集まり下さいなぁー!」
綿流しのお祭りは、いよいよクライマックスの抽選会を迎えようとしていた。
盆踊りをしていた婦人会のご婦人方だけでなく、抽選会まで粘っていた大勢もやぐらに集まり、大盛り上がりになっている。
この抽選会は決して恒例ではない。
今年からの目玉にしようと、役員から出た提案を採用した新行事なのだ。
賞品は各役員が善意で持ち寄ることになったのだが、集まってきた賞品を、園崎お魎が「みっともない」と言い放ち、全て捨ててしまった。
お魎は賞品とは最低でもこの程度はあるべきだと、新型のテレビや洗濯機、扇風機などを買い寄せたのだった。
賞品は慎ましく持ち寄りで、という役員会の申し合わせは結局、お魎の鶴の一声で豪華賞品に化けてしまった。しかも全てお魎の私費での購入だ。
自分で全ての賞品を蹴飛ばしたくせに、お魎は「役員に気概がない」と立腹しているというから、難しい。
一部役員は、この抽選会を来年も行なうためにうまく調整するのは難しいなと感じ、恐らく今年が最初で最後だろうなと思っていた。
「お魎さんのお陰で、こんとな素ッ晴らしい賞品になったね。だいぶ掛かったんじゃないの? 運営費で立替するよ?」
「すったらん、んな程度で立替なんてあほらし。銭金の問題じゃないんね。…ったく。」
「まぁまぁそう言わないで…。お魎さんのお陰で出来た抽選会なんだから。」
「こぉんな、私一人でどうにかすりゃええん、ちゅんわけとちゃいなや。あっほくさ。」
村長の公由は、お魎の機嫌を直そうと苦労しているようだった。
そこへ役員の一人が息を切らせながら本部テントに駆け込んできた。
そのただ事ならない様子に、公由は真っ先に、何か事故があって子どもでも怪我をしたのかと思った。
「どうしたの牧野さん。そんなに息を弾ませたら心臓が破れちゃうよ。」
公由は落ち着かせようとして、わざと茶化すように言った。
だが牧野は張り付いた表情のまま、公由の耳元に何かを一方的に囁きかける。
公由と牧野のやり取りは、たとえ声が聞こえなくても、何か悪い報せがもたらされたことがあからさまに分かる様子だった。
「……お魎さん。悪い話なんだけど、いいかい?」
公由は牧野と一緒にお魎の元へ戻ると、声のトーンをぐっと落とした。
そして神妙な顔つきでぼそぼそと、牧野が話したのと一言一句同じにそれを告げた。
「……………いやはや。…参ったよなぁ…。」
「参るも参らんもなぁんね。三度あっちゃんは四度あるっちゅこっちゃなあ。」
「あははははは…。お魎さん、そりゃ笑えないよ…。」
「面白ぅ話でも何でもなぎゃ。…面倒が増えただけっちゃね。」
「警察が今、身元を調べてるらしい。どうも相当顔面をやられてるらしくて、身元の特定が難しそうなんだと…。」
「……顔が分からんでも、おおよその想像はつくっちゃなぁ。」
「え? …心当たりがあるのかい?」
お魎はむっとした顔で公由を睨み、それからカラカラと笑い飛ばした。
「ばあかが。綿流しの祭りにも顔を見せん不信心者に決まっとろぅがね! ちゃあんとオヤシロさまを敬って祭りに来ちょるんは、そんな目には遭わなんとよ。」
お魎はカラカラと笑い続けるが、公由と牧野は一緒に笑っていいものか、少し躊躇っているようだった…。
■叔母殺害現場
昭和57年6月20日 午後9時04分
「……しかし。…こりゃ無惨なもんっすね。」
「熊ちゃん。死に方ってのは本人が望んだものでない限り、どんなでも無惨なもんです。お悔やみ申し上げちゃいますよ。…そっちどう? ポッケの中身とか、個人が特定できそうなものは?」
鑑識と書かれた腕章を着けた捜査官たちが、首を横に振って答える。
「サンダル履きで、服装もラフ。近くにお住まいの方でしょうね。服装の特徴から周辺に聞き込みをすればすぐに割れそうっすね。」
「……それしかないなぁ。課長からこのヤマ、秘匿捜査指定かかりそうだからって脅されてます。その辺、注意してくださいよ。」
「了解っす。」
熊谷は数人の警官を呼び寄せ、いろいろと指示を与えているようだった。
「入江先生が到着しましたー。先生、あそこです。」
診療所の車が到着し、白衣を纏った若い医師がこちらへやってくるのが見える。
「どうも…。遅れて申し訳ありません。抽選会の手伝いの最中だったもので。」
「先生〜、今日の祭りでだいぶ飲んでたでしょ。アルコール、本当に抜けてます? あとで風船でも膨らましてもらっちゃおうかなぁ?」
「ご安心を。運転はスタッフに代わってもらってますので。」
「そりゃあソツがない。…おい、先生、通してあげて。」
厳重にブルーシートで囲まれた一角。
警官がブルーシートを捲り上げると、大石と入江を中に入れた。
鑑識の人間たちがいろいろな角度からソレを撮影していた。
周囲には、飛び散った血痕や転がったサンダルなどが、そのままの形で残されてあり、それらは皆、チョークでマーキングされ、アルファベットの書かれた小さな札が立てられていた。
「………こういうものは、見慣れませんね。」
入江はハンカチを取り出すと、鼻を覆うように押さえた。
「臭いがダメな時は口呼吸にするんですよ。…まぁ、こういう臭いは、目でも嗅げちゃうかなぁ。なっはっは…。」
ソレは、……ごろんと仰向けになった、中年女性?の、…血塗れの死体だった。
頭髪の雰囲気や、服装の雰囲気その他から、まず間違いなく中年女性だろうとは思う。
なぜ中年女性と言い切れないのか。…それは顔面が完全に潰されていたからだ。
「……酷い。」
「十中八九、怨恨の線でしょうなぁ。血痕とサンダル裏から見て、ここで殺したのは間違いないでしょう。でも、見ての通り、ここは人通りが少ないと言ったって、往来のど真ん中です。ここで、頭部がひしゃげるまで殴り続けたってのは、ちょいとまともな話じゃないですからねぇ。でね? ほら、腕とか見てみてください。」
大石は薄いゴム手袋を着けると、死体の腕を持ち上げた。
「……ね? 腕は綺麗なもんでしょ。」
「それはつまり、腕で防いだとか、抵抗したとか、そういう痕跡がないという意味ですね?」
「さぁすが高学歴。…ホトケさんは、恐らく最初の一撃で脳震盪かなんかで気絶したんじゃないかと思うんです。
で、ホシは確実に殺した手応えを得る為に、さらに打撃を加えた。さらに言えば、ホトケさんはその時、うつ伏せに倒れたように思うんですよね。いえ、服の汚れ具合からの勘ですが。」
「………遺体は仰向けですね。」
「ホシは、後頭部を散々潰して、明らかに頭蓋骨が砕けてる手応えを得ているにも関わらず、ホトケをこう、仰向けにひっくり返して。わざわざ顔面を潰してるんじゃないかと思うんですよ。」
「……………………。」
入江はむせ返るような臭いと、さも面白そうに話す大石の様子に、吐き気を催しているように見えた。
「遺体の顔面を殴るってのは、私の経験じゃ、かなり怨恨の線が強いです。それもだいぶ濃厚な、濃密なね。ってことはつまり。……ホシはホトケのかなり近辺にいるのは間違いないかと。」
「……私を呼んだのが、救命活動でないということはよくわかりました。」
「先生。この人が誰かわかりますかねぇ? …分かれば聞き込みの手間がだいぶ省けるんですがね。」
入江は死体をもう一度眺める。
それからすぐに目を逸らし、あれこれと思案するような顔をしていた。
…その後、しばらくして。
入江は何も言わずに、ブルーシートの一角を出る。
「……………すみません。…私には分かりかねます。」
「…えーー……。
………本当にぃ?」
大石がにやぁっと笑いながら、入江の目を覗き込む。
まるで、入江が知ってて隠しているとでも言わんばかりに。
「……別に、隠してなんかいません。」
「……………なっはっはっは。先生もアルコールがまだ抜け切ってないだけですよ。頭が冴えたら思い出すかもしれません。思い出したら教えて下さいね。」
大石は入江の背中をバンバンと叩く。
入江は新鮮な空気が吸いたいと言い残すと、人ごみを避けるように去って行った。
入れ替わりに熊谷が駆けて来た。
「大石さん、課長から無線です。1号車の無線っす。」
「……入江の先生、誤魔化したなぁ。」
「…え?」
「いえいえ、こっちの話。ホトケの聞き込み急いで下さい。ほぼ間違いなく、この近くにお住まいです。」
昭和57年6月20日 午後9時39分
「大石さん。連れてきましたー!!」
「どうもどうも。こんな夜更けに申し訳ありませんね。明日も学校なのに、本当に申し訳ないです。」
「……いえ。」
「お父さんはどちらへ?」
「…うちの義父は、…あまり帰ってきませんので。」
「ほぅ? いつ頃から? 最後に帰ってきたのはいつ?」
「…さぁ。……義母と喧嘩してるのを聞く限りは、興宮でどこかのキャバレーの人と同棲してるとか何とか。最後に会ったのはあまり覚えてないですけど、先々週くらいだったかもしれません。」
「……ふむふむ。…お父さんの連絡先はわかります?」
「いえ。」
「キャバレーの人と同居してるって言いましたよね。
何てお店かはわかります?」
「…いえ。興宮のどこかにある、としか知りません。」
「お父さんの名前は?」
「北条鉄平です。」
大石が顎で合図すると、それを手帳に書き留めていた熊谷は頷き返した。
「お父さんとお母さんは、あまり仲、よくなかったですか?」
「……程度の度合いはわかりませんが。…良くはなかったと思います。」
「ふぅん…。……率直に聞いて申し訳ないですけど、お母さんに恨みを持っていた人間とか、知っていたら教えてほしいんですがね。」
「………………よくわからないです。」
「なっはっは…。そうですか。じゃ、もしも思い出したらでいいので、その時は教えて下さいね。これ、私の名刺です。ここに電話番号ありますので。」
「……はい。」
「じゃあ、後日、また色々とお話を伺うこともあるかもしれません。もしもお父さんと連絡がつきましたら、興宮警察署の大石まで至急ご連絡をとお伝え下さい。………熊ちゃん、北条さんを自宅まで送ってあげて下さい。」
「あ、…いえ。…ひとりで帰れますから。」
「……………………。
いえいえそんなこと言わずに、ぜひ送らせてくださいな。…お母さんを襲った犯人がまだ近くにいる可能性があるんですよ? あなたもまた狙われない保証はなんてないんですからねぇ。」
「…………お、……お気遣いありがとうございます。でも、本当に結構ですんで…。」
悟史は熊谷が付いて来るのを断ろうとしたが、熊谷も大石に命令されている以上、引き下がれない。
悟史はひとりで帰ることを諦めざるを得なかった。
その背中を少し見守った後。
……言い忘れたことを思い出したように、大石は声をかけた。
「北条さん…!」
「…は、……はい。」
「大丈夫ですよ。心配しないでください。犯人はすぐに捕まりますよ。」
「……手掛かりとか、…あるんですか…?」
「えぇ。ありますよ。」
「……どんなですか?」
「…捜査上の、ヒミツですよ。なっはっはっはっは…!」
傍目には、母が殺され失意の少年を励ますため、大石がふざけて笑っているようにも見えた。
「……いえね。人を殺すってのはかなり感情の高ぶるもんなんですよ。…そりゃ、冷静に殺してみせるロボットみたいなのも、稀にいますがねぇ。」
「感情が高ぶると、…何かわかるんですか。」
「……………。」
「……………………。」
「人は極限まで感情が高ぶると、いろいろ体に反応が出ます。…発汗とか、…脱毛とかね。」
「………………。」
「殺人現場に犯人の毛髪が落ちているってことは、割とあることなんですよ。まぁ、ここは屋外ですからね。現場が絨毯の上ってのとは、だいぶ勝手が違いますが。」
「犯人の毛髪は拾えたんですか…?」
「さぁねぇ。鑑識の連中が横列組んで、さっきから行ったり来たりしていろいろ探してます。まだ結果待ちでね。何が出るやら今から楽しみですよ。んっふっふっふ!」
「………………明日があるので、今夜はもう帰ります。」
「そうなさって下さい。熊ちゃん、送ってあげて下さい。」
「了解っす。」
「では北条さん。また近い内に。進展があったらお知らせしますよ。…北条さんも何か思いだしたりしたら、ぜひ教えて下さいね。憎き母の仇の逮捕に、協力して参りましょう。んっふっふっふっふ…。」
■アイキャッチ
■叔母が死んで
4年目のオヤシロさまの祟りが起きたことは、その翌日にお姉からの電話で知らされた。
死んだのは悟史くんたちを苛めてきた、意地悪叔母だった。
悟史くんの悩みは、叔母と沙都子の関係にあるのだから、叔母の死は問題の解決を意味する。
不謹慎にも小躍りしてもよかったはず。だが私はそういう気持ちにはならなかった。
「………犯人って、もう警察は目星をつけてるのかな。」
私がぼそりと呟くと、受話器の向こうのお姉は、しばし口をつぐんだ。
「さぁね。大石の野郎がしつこく聞き込みをして回ってるみたい。犯人は近しい人間に違いないと思ってるようだね…。」
私とお姉は一卵性。同じ人間だからこそ、同じことを考える。
だから私が、叔母を殺したのは悟史くんかもしれないと漠然と考えるのと同じ様に、恐らくお姉も考えているに違いなかった。
だから、その部分をざわざわ口に出さずに端折り、言った。
「………悟史くんって、祭りの日にアリバイあります?」
「ぇ、あ、……ん、どうだろ…。」
「はぁ…。」
私は悪態をつくように深くため息を吐いた。
「馬鹿ですね。悟史くんは祭りに来ていた。そういうことでいいじゃないですか。」
「ぁ……ん、……そうだよね。気が利かなくてごめん…。」
駄目押しに、もうひとつため息をついた。
馬鹿姉は、叔母が死んだ時点で悟史くんが疑われてもおかしくないことが分かっていながら、悟史くんのアリバイ工作について何も考えなかったのだ。
「…じゃあじゃあ…。…やっぱり…悟史が…?」
「悟史くんが殺したかどうかが問題じゃないでしょ。悟史くんが犯行の時間帯に、アリバイがあったかが重要なんです! …ったく。」
「あ、…あとで警察がうちに来るみたいだから、来たら悟史は祭りで一緒だったって言うよ。」
「……お姉? 取ってつけた嘘なんかなぁんの役にも立たないです。何も手を打たなかったなら、今さら小細工しても無駄ってことです。せいぜい正直に喋って下さい。お姉は芝居が下手なんだから、変に意識するとかえって勘繰られますからね?」
「…………ん、…ごめん…。」
魅音はすっかり落ち込んでいるようだった。冗談じゃない、落ち込みたいのは私の方なんだ。
お姉は普段はそこそこにやれるのだが、突発に対応できる臨機応変さがない。
仮にも園崎家の次期頭首の身なのだから、今さらこんなざまでは先が思いやられる。
お姉はそろそろ返事にも窮してきて、話題を変えたくなる頃だろうな、と思ったちょうどのタイミングで、お姉は話題を逸らした。
「詩音、最近はあまりバイトに行けてなかったでしょ…?」
「…ご賢察痛み入ります。お陰様で。」
「あ、……うん、ごめん。…今日は私、夜まで姿を隠してるから、バイトに出られるんじゃない…?」
綿流しの事前打ち合わせやら準備やらのせいで、最近のお姉は公の場に出ずっぱりだった。
魅音が公の場にずっといると、私は魅音のふりができない。
つまり、バイトに行けないということだ。
生活費を自分で稼がなければならない私には、それはとても痛いことだった。
本当はバイトなどしたい気分ではない。
……だが、部屋でアンニュイな気分を楽しめるほど、私の財政状況は潤ってはいなかった。
部屋を出て鍵を掛けていると、その音で私の外出に気付いたのか、隣の部屋の戸が開き、葛西が顔を覗かせた。
「詩音さん、お出掛けですか…?」
「そんなとこです。お姉が姿を隠してくれるそうなんて、久々にバイトに出ます。葛西、暇だったら叔父さんの店まで車を出してもらってもいい?」
「…………詩音さん、しばらくはバイトを控えられた方がよろしくはないですか? 事件のせいで、警察は園崎家界隈を監視しているようですし。あまり姿を表に出さない方がいいのではないかと思います。」
「お気遣いは嬉しいけど、バイトしないと食費もないわけですし。」
こういう言い方をすると葛西が、食費くらい私が出しますなんて言いかねない。
だが、葛西にお金を無心しないというのはここでの生活を始めた時に、強く誓ったことだ。
私は、人の作ったルールなんて全然守らないが、だからこそ、自分の作ったルールだけは頑なに守りたかった。
葛西は、私が一度言い出したら絶対に聞かないことを知っていたから。
事務的に何度か考え直すように言った後、あっさりと折れて車の用意をしてくれた。
■悟史くん
叔父さんの店へ車で行こうとすると、必ずこの信号で捕まる。
必ず捕まる、と分かっていても、やっぱり今日もまた捕まると、それはそれで不愉快だった。
目の前の横断歩道を、とろとろと歩行者たちが横切る。
その歩行者たちの中に、私は悟史くんにそっくりな人を見つけて驚く。
……間違いなく悟史くんだった。
悟史くんとは、つい最近、電話で話したとは言え、その姿を見るのは本当に久しぶりだった。
「葛西。悪いけど叔父さんに、やっぱ今日のバイトは行けなくなったって伝えてくれる? 私、ここで降ります。」
「え? 詩音さん?!」
葛西が何事かと聞き返すが、私は答えずに車を降りた。
車道の信号は青になる。
葛西は私に向かって何か叫んでいるようだったが、後続車のクラクションに急かされ、仕方なく車を出す他なかった。
悟史くんは自転車だったが、歩く速度と大して変わらない遅いスピードだったので、私は簡単に追いついてその背中を叩くことができた。
「はろろー。興宮で会うなんて奇遇ですね、悟史くん。」
私が思いきりの笑顔で話しかけたなら。悟史くんも同じくらいの笑顔で返してくれるかもしれない。
…そう思い、私は最高の笑顔で話しかける。
「……魅音。」
その表情は相変わらず疲労の色が濃い。
だが、その表情には、私の笑顔に少しでも応えようという意思が感じられた。…私の心が途端にふわっと軽くなるのを感じた。
鏡がないからわからないけど、私の顔は一気に血色がよくなっているんだろうなと感じた。
自分でもわかるくらいなんだから、脇で見ている悟史くんには、私がよっぽど上機嫌な顔をしているように見えるに違いなかった。
「何があったか知らないけど、…魅音が楽しそうだね。」
「えぇ楽しいですよ? 悟史くんの機嫌が良さそうなので、私もつられて機嫌が良くなっただけです。」
ちょっとだけ嫌味っぽく言って、目を細めて笑ってやると、悟史くんは少し照れるような表情を返してくれた。
………こんな反応は、私にとって一番幸せだった日々を彷彿させる。
だから、ますます私は上機嫌になるのだった。
「悟史くんこそ、何かあったんですか? 何か機嫌がよくなるようないいことがありましたか?」
「………いい事なんかないよ。…叔母さんが亡くなって、…警察とかご近所とか、いろいろ大変だよ。」
一瞬、私は失言してしまって、悟史くんをひどく落胆させてしまうのではないかと思った。
だが、そんな私の焦りは本当に杞憂だった。
言葉を返す悟史くんの顔には、陰りはありながらも、やさしい笑みが浮かんでいたからだ。
まるで、………何かの大きな仕事をやり遂げた時のような、疲労感、達成感。
そういう雰囲気を感じた。
だから、…私は確信した。
沙都子を苛め抜いた意地悪叔母を、…彼が殺した。
私は何の証拠がなくとも、直感的にそれを理解するのだった。
だから私はそういうのを全部端折る。
悟史くんが叔母を殺す動機も、そこに至るほど追い詰められていることも。
取り巻く状況も環境も、…そして悟史くんの気持ちも。……全部わかっていたから。
そういうのを全部端折る。
呪縛のような何かから解放された彼を労いたくて、私は何事もなかったかのように笑いながら問い掛けた。
「悟史くんはどこかへお出掛けですか? あ、バイトかな?」
「正解。…その前に寄り道なんだけどね。」
「…寄り道?」
「あははは…。毎日、ちゃんとショーケースにあるのを確認しないと…何だか不安で。」
その言葉から、連鎖的に思い出す。
悟史くんがバイトを始めた理由。
それは、沙都子がこの先にあるおもちゃ屋で売っている、巨大なぬいぐるみを欲しがったからだ。
そのぬいぐるみの値段が、結構高いものなのだとか。
沙都子の誕生日は、綿流しのお祭りのあと、すぐだと聞いている。
……何日かはよく知らないけれど。
そういえば、バイトは辞めたと言ってなかったっけ?
お世話になった人へのご挨拶とか、借りてたロッカーの整理とか、そんなところだろうか。
どちらにせよ、悟史くんは目標額を貯め、もうじきバイト生活から完全に解放されるということだ。
ショーケースにあるのを確認しないと不安で…、なんていう事は、どうやらお給料はまだもらえていないのだろう。この様子だと、沙都子の誕生日当日にもらえるのかもしれない。
おもちゃ屋が見えてくると、悟史くんは急に小走りになり、ショーウィンドゥの中を覗き込んだ。
売れていないと確認できたらしく、安堵している様子だった。
「よかったよかった。…大丈夫。ちゃんとあるよ。」
「買えるだけのお金は稼げてるわけですよね? なら予約とかしちゃえばいいのに。」
「…むぅ。」
予約という概念すら欠落しているらしい。
…やっぱり悟史くんの身近には世話焼きが必須だと実感する。
悟史くんの肩越しに私もショーケースを覗き込んだ。
私の尺度ではそんなに可愛いとは思えないが、確かにサイズだけは特大のぬいぐるみが、ケースの中に窮屈そうに閉じ込められていた。
売り物というよりは、展示品やレイアウトの一部といった雰囲気だった。
「値札が付いてないけど、これ、本当に売り物なんですか? これ、一体いくらするんです?」
「……ん、…うん。売り物なのは確認したから間違いないよ。」
「値段は? 予算は大丈夫?」
「大丈夫だよ、ちゃんと確認してあるよ…。」
悟史くんはさすがに馬鹿にされたと思ったらしく、口を尖らせて頬を膨らませた。
「予算が大丈夫なら、問題ないじゃないですか。なら予約しちゃいましょう。その方が悟史くんも心の荷が下りていいでしょうしね。」
私たちはちょっと埃っぽい店内に入り、お店の人の姿を探す。
「………誰もいないのかな。」
「あははははー、そりゃ好都合です。悟史くん、お給料日を待たずにぬいぐるみが手に入るかもですね。」
「だだ、駄目だよ魅音。泥棒はいけないよ…。」
「…冗談ですって。軽く受け流して欲しかったんだけどなぁ。…ひょっとして、私が盗人の真似を平気で出来る女だと思ってますー?」
「あ、…ごめん。あははは…。」
悟史くんが取り繕ったように笑う。
私はそれにむくれ面を返してやる。
このやり取りが、…何だか無性に懐かしい。
今日までに何だか色々と、嫌なことやつまらないこと、忘れたいことがたくさんあった気がする。
……だけど、そんなことは砂浜に書いた文字が、波に一度覆われただけで跡形もなく消えてしまうくらいに、すーっと消えてしまっていた。
レジの奥に揺り椅子があり、お店の人らしい老人が昼寝をしているのを見つける。
私たちは結構にぎやかにしていたつもりなのに、起きないところを見ると相当深く眠っているようだった。
「あの、…すみません。お店の方ですよね?」
肩を突っ突いたりしてみるが、まるで目を覚ます気配がない。
その時、ただいまーという声が聞こえて、エプロンをしたおばさんが入って来た。
「おじいちゃん、店番頼んだのにすっかり居眠りしちゃってー! お客さん来てるってのにもー! もーごめんなさいねぇ! うちのおじいちゃんももうすっかりボケちゃって。」
おばさんは、ちょっと乱暴な起こし方で老人を起こすと、居間に戻るように告げる。
それから苦笑いしながら、レジに回ってくれた。
「お恥ずかしいところを見せちゃってごめんなさいねぇ。何かお買い上げ?」
「あ、買うんじゃなくて予約なんですけど、いいですか? あのショーケースの中の一番大きいぬいぐるみなんですけど。」
「あれ? いいの? 値札見た? かなり高いけど、お小遣い大丈夫なの?」
「あ、……はい。ぎりぎり足りるはずです。」
「もうすぐバイトのお給料が入るそうなので、それまで予約したいんですけど…。」
店の人はやや面倒くさそうではあったけど、悟史くんの名前をメモに書き取ると、予約を引き受けてくれた。
悟史くんは、予約券の代りに、予約したことを示すメモをもらう。
「ね? これでもう誰かに先に買われちゃう心配はもう必要ありません。」
「うん。…お給料がもらえるのはもうすぐなんだけどね、…これで安心できる。」
この様子じゃ、悟史くんは連日のようにショーケースを覗いていたに違いない。
で、今日はあるか、明日はあるかと無駄に心配を重ねてたわけだ。
その心的負担から解放されたのか、悟史くんは本当にほっとした笑顔で、予約券を取れた喜びを噛みしめているようだった。
「これなら、もっと早くに予約をしてれば良かったなぁ。」
「……普通の人は欲しいと思ったら即予約します。そういう思考に至らない悟史くんはちょいと希少です。」
「む、…むぅ。」
悟史くんをいじめることの楽しさを思い出す。
……本当に、昨日までの暗くて辛くて寂しい日々が嘘のようだった。
悟史くんも、昨日までの日々を嘘にするつもりに見えた。
「でも、…ありがと。」
悟史くんはそう言いながら、私の頭に手を伸ばす。
…私の頭を撫でようとしてくれてるんだと気付くと、顔が紅潮するのが自分でわかった。
悟史くんの手が、私の頭にまだ触れてないのに。…私の頭のてっぺんは、悟史くんが気安く撫でてくれた日々を思い出し、くすぐったいような感じでいっぱいになってしまう。
………昨日、物騒な殺人事件があったことだって、もう今の私には何の興味もないことだった。
悟史くんたちに辛くあたっていた不幸の元凶が死んだのなら、それでいい。
今日から悟史くんにとっても、私にとっても幸せな日々が取り戻されていくなら、それで十分だった。
……だが、いくら待っても、悟史くんの手は私の頭を撫でてくれなかった。
固く閉じていたまぶたをそぅっと開く。
そして、…私は状況がまったく一変してしまっていることを知った。
■大石たち
背広姿の男たちが4人。
まるで、私たちがおもちゃ屋から出てくるのを待ち構えていたかのようだった。
「どうもどうも。んっふっふっふっふ…。」
嫌らしい笑いをしながら、一番年配の男が歩み出た。
初対面の男だったが、雰囲気から察するに魅音と悟史くんの両方に面識があるようだった。
警察の刑事か何かに見える。
お姉から最近受けた情報を高速で検索した。…該当する情報はすぐに見つけられる。
「こんにちは。北条さん、園崎さん。いい雰囲気だったところを邪魔しちゃって、実に申し訳ないです。」
大石蔵人。
……興宮署の刑事で、一連の事件を捜査している人物。
連続怪死事件の裏に園崎家の暗躍を嗅ぎ取っているらしい。園崎家ともっとも敵対する人物だ。
捜査4課との縁も深く、この辺りの地回りに特に精通する。
…連続怪死事件の云々がなくても、ヤクザ稼業に手を染める園崎家には充分、敵に値する存在だ。
もちろん、次期頭首である魅音に好意的な存在でないことも間違いない。
私はお姉ならこう返すに違いないと、その反応をシミュレーションしていく。
「…ありゃあ、大石さんですか。お仕事ご苦労さまです。大の大人が、4人も揃っておもちゃ屋さんに何かご用で? まさかお人形さん買いに来たってわけでもあるまいに? ぷぷぷ…。」
言うまでもなく、用事があるのはおもちゃ屋にではなく、私たちにだ。
私、ではあるまい。……恐らくは悟史くんだ。
悟史くんの様子を窺うと、……過剰な反応は示さないまでにも、落ち着きをなくしていることが見て取れた。
他の刑事たちも、やんわりと包囲して、私たちが逃げ出すことを予見しているかのようだ。
「北条さん。実はですね、ちょいと伺いたいお話がありまして。」
「何それ? 任意同行ってやつ? 悟史くん、こんなのに付き合う必要ないよ、行こ!」
悟史くんの肩をドンと小突く。だが悟史くんは顔面を蒼白にし、心ここにあらずという感じだった。
心ここにあらず?
それは諦観、…いや、観念したかのように見えた。
……その時。私はお姉の不手際を呪った。
叔母殺しなんて、現場を見なくたって犯人は悟史くんだってわかるじゃないか。
その悟史くんを庇うようにアリバイを作らなくてどうするのか…!
馬鹿魅音は警察にすでに、当日のことをありのまま話してる。
つまり、悟史くんにアリバイがないってことまで馬鹿正直に!
お姉が動かない以上、村人はみんな正直に話す。
それらを全部合わせれば、悟史くん一人にいつまでたってもアリバイができないのは明白になるだろう。
そして警察は丹念に外堀を埋め、…任意同行から一気に畳みかけて悟史くんの自白を引き出そうとするに違いない。
…悟史くんの表情をもう一度見る。
その表情には、ひとかけらの覇気も見いだすことができなかった。
悟史くんは、任意同行が断れるものだということも知らないだろう。
のこのこと取調室まで連れて行かれ、この老獪な大石に、ちょっとカマをかけられただけであっさり観念して自供するに違いない。
……悟史くんはやっぱり誰かが庇ってあげないとだめなのだ。
でも、誰も守らなかった。…なら私が守ってあげなければ…。
だけど、どうやって?!
魅音がこれまで証言したことは勘違いでしたと、今さらひっくり返して見せるか? そんなのはまったくの無駄で手遅れだ。
考える時間がもう少し潤沢にあるならば、私の狡猾な脳はきっとうまい言い逃れを見つけ出してくれるに違いなかった。
だが、そんな悠長な時間は今はない。
刑事たちはじりじりと間合いを詰め、明らかに見て取れる圧力を演出していた。
私が距離感としてしか感じないものを、悟史くんはもっともっと心理的に感じているに違いない。
私が起死回生の何かを思案して押し黙っている間に、緊張に耐えきれなくなった悟史くんが、屈伏してしまうことだってある。
考えるより先に、何か何か何か。
ここで黙っては駄目だ駄目だ。
この沈黙が、悟史くんを追い詰めてしまうまえに。
私という存在が、この王手を何とか凌がなければ…!!
大石の巨体が悟史くんを圧迫するように迫る。
それに気圧されて悟史くんがよろりと、後ろへ後退る。
「…………あ、…………………ぅ。」
「大して時間は取らせませんから。そんな怖がらないください。
…んっふっふっふっふ!」
何が大して時間は取らせないだ…。今こいつ、ハッキリ言ッタゾ! ここでひっ捕まえたら二度とシャバには戻らせないってハッキリ言ッタ!! 悟史くん、絶対に屈しちゃいけない、君がここで屈したら、何のために今日まで耐えて来たのかわからなくなっちゃうんだよ!!
「………ぅ。」
悟史くんの呻きが、緊張の糸が切れかかっているサインであることは、私以上に大石の方が嗅ぎ取っているに違いないのだ…。
大石はにやぁっと笑い、……悟史くんの肩に手をかけようと、その腕を伸ばす……。
私はそれを見た瞬間に、脊髄に雷が駆け抜けるのを感じた。
あの手に触れられては駄目だ。
あの無骨で無慈悲な手が悟史くんの肩を包んだ時、その感触は悟史くんの心を打ち負かしてしまう…!
悟史くんは力なく頷き、任意同行に従うどころか、全てを認めて白状してしまう…!!
「悟史くんに、アリバイがあるか知りたいわけですよね?」
「………うん?」
大石が怪訝な声をあげ、私に振り返る。…悟史くんに伸ばした手は止まった。
…私は特に用意があって言ったわけじゃない。
大石の手が止められれば何でもよかっただけだ。
……だから時間稼ぎ以上の意味など何もない。
本当に本当に、口からの出任せもいいところだった。
「…そうですよ。北条悟史さんのアリバイが知りたいんです。
なっはっは、…私たちの捜査がマズイからなのかなぁ、犯行の時間帯にどうしても北条さんのアリバイが見つけられないんですよ。仕方ないから、恥を忍んでご本人に直接その辺りをお伺いしようかと思いましてねぇ。」
「そんなの本人に聞く必要ないです。私がアリバイ、証明しますから。」
「ありゃ。そりゃ本当? なら助かるなぁ。あの晩、園崎さんが神社にいて、お祭の最後まで過ごしていたことは、すでにあなたからも聞いているし、その他大勢の方からも証言を得ています。そのあなたが、そこで北条さんとも一緒だったと言ってくれるなら、一番楽なんですがねぇ。……でもあんた、以前その辺りお聞きした時、北条さんのことは一言も言ってませんよねぇ? 実は居ましてって今頃おっしゃるおつもりで? 祭会場の誰一人、北条さんを見ていないのに、あなただけは見ていたと、そうおっしゃるおつもりで?」
「そうです。私と一緒にいました。それで充分です。」
「…あなたが仲良しのお友達と終始一緒にいたのはわかっているし、私も会場で実際にお見かけしています。
それでも一緒に居たとおっしゃるわけで? なっはっはっは……。そいつぁ、ちょっと苦しくない? ん?」
大石は、意地悪な笑みを浮かべながら私に食い寄る。
苦し紛れの言い訳をする私を追い詰めて遊んでいる……わけではなかった。
もう少しで釣れそうな魚釣りを、横から邪魔されたのがとにかく不快でしょうがない、といった悪意が剥き出しだった。
「祭会場でずっと一緒に遊んでたのに、すっかり忘れてて、今頃になって思い出したと、そうおっしゃるおつもり? 園崎魅音さん。」
心の中で、…まずいなと一瞬思ったが、もう自分でも止めようがなかった。
「っていうか、私、魅音じゃないですし。だから元々、綿流しになんか行ってません。」
「……は?」
「悟史くんとは綿流しの晩は、興宮のファミレスでずっとお喋りしてました。エンジェルモートって店ですので、どうぞ店長にも確認を取ってください。」
大石はにやにやと笑いを浮かべたままだったが、混乱しているのは間違いなかった。
「…あんた、何を言ってるの? あんた、魅音じゃないなら、誰なわけ?」
「園崎、…詩音です。魅音の双子の妹です。初めてお会いしますね、こんにちは。」
大石は、私が苦し紛れに何を言っているやら…という顔をしていた。
だが、私があまりにも堂々ととんでもない話をするので、苦笑いは再び不快そうな顔に戻った。
「園崎魅音さんに双子の妹が居たなんて、初めて知りましたよ? …あんた、大人をからかってんの?」
「からかってなんかないですよ。どうぞ戸籍でも何でも調べてみてください。それとも、お姉を呼んで二人で並んで見せれば信じます?」
ここまで言われては、刑事たちもさすがに動揺を隠せないようだった。
「……園崎、しおんさん?」
「はい。詩音ですが、何か?」
「…あんたにもちょっと来てもらってもいいですかね。あんたが園崎詩音さんで、北条さんと一緒におられたって言うんなら、…あんたにも話を聞かせてもらいたいもんです。」
「えぇ望むところです。お手柔らかによろしくお願いいたします。」
刑事たちは車のところで集まり、何か言い合いをしているようだった。
…詩音などというジョーカーが突然現れることは、まったく予想していなかったに違いない。
でも、これで悟史くんのアリバイを少し誤魔化すこともできるだろう。
お姉の馬鹿には釘を刺しておいたから、詩音と一緒だったアリバイを後付けで作ることは出来ないことじゃない。
「悟史くん。何を聞かれてもエンジェルモートで私とお喋りをして過ごしていたと言い張ってください。私が何とかしますから。何を聞かれても、よく覚えていないとか、うぅん、悟史くんなら下手なことは言わず、黙り込んだ方が無難かもです。」
「………………………。」
悟史くんはぽかんと口を開けていた。
…私が大事な話をしているのに、右の耳から左の耳へ通り抜けちゃっているようだった。
「悟史くん、聞いてます? ここでしっかりしないと刑事たちの思うつぼです。」
「あ、……う、………うん。」
悟史くんは、…きっと騙されたような気持ちになってるんだろうなと思った。
無理もない…。ずっと魅音だと思っていた相手が、実は双子の妹でしたなどと告白したのだ。
私が魅音を騙って悟史くんを騙し続けて来たのは、紛れもない事実。
「………………怒ってます…?」
「……なんで?」
「その、……騙してて。」
「……………………あはははははは。」
悟史くんが突然、朗らかに笑い出す。
悟史くんは場を誤魔化すために笑えるような器用な人じゃない。だからなぜ笑ったのか、私にはちょっとわからなかった。
「たまに、教室の魅音と話が食い合わないことがあったから、違和感は感じてたんだ。……やっとわかったよ。」
「………怒らないでくれるんですか…? その、騙してたこと…。」
悟史くんは小首を傾げる。
…少し鈍い悟史くんは、それが怒るべきことなのかもわかりかねているように見えた。………あるいは、そう装ってくれているのか。
「初めまして、じゃないんだよね…?」
「え、…と、………はい、……そうなります…。」
「そっか。しおんって、どう書くの?」
「詩を詠むの“詩”に音で詩音です。」
「詩音…。……うん。」
「うん?」
「いい名前だね。」
「じゃお二人さん、すみませんが署までご同行願えますかね。粉末でよければ、コーヒーか紅茶かくらいは選べますよ?」
■幕間 TIPS入手
■ノート29ページ(6日目終了時)
悟史くんがよほど狡猾だったか、幸運に恵まれたか、…それとも本当に悟史くんではないのか、犯行現場には悟史くんが犯人であることを示す痕跡は残されていなかった。
それでも、この時点では、悟史くんが犯人ということでほぼ確定だった。
悟史くんの家庭の状況を見れば殺意は充分。
アリバイもない。
物証以外の外堀は全て埋まっていた。
大石があそこで勝負に出てきたのは至極当然だ。
私と言うジョーカーの登場までは予想できなかったろうが、それでも悟史くんの圧倒的に不利な状況を覆すほどではない。
大石は動物的嗅覚で、悟史くんに違いないともう当たりをつけている。
あとは悟史くんが揺れて、勝手に折れてくれるのを待つだけ……。
そう思っていた。私も。大石も。
後日、そのちゃぶ台がひっくり返されることになる。
それについてはここでは割愛するが、とにかく、大石の目論見は完全に崩れ、警察はノックアウトされることになるのだ。
そうすると、私が抱く疑問はひとつしかない。
誰が悟史くんを救ってくれたの? ということ。
この時点での私は、園崎本家が暗躍して犯人をでっちあげてくれた他に、何も思いつくことはできなかった。
■6日目夜
もちろん、狡猾な刑事たちは私たちを二人一緒になど取調べはしなかった。
私の方に大石は来なかった。
あいつの狙いは最初から悟史くんだ。
私の方は、若い刑事が世間話をするばかりだった。
乗り易い話題から徐々に入り込んでくる話術なのだろう。
…そうとわかっていると、こちらに話を合わすような話し方が、下手くそなホストクラブのようで気持ちが悪い。
悟史くんの方は大丈夫だろうか。
大石は、私のアリバイ証言など付け焼き刃に違いないと思っているだろう。
悟史くんに一気に畳みかければ落せると思っているに違いない。
……悟史くんが、どんなに辛くてもだんまりで通してくれるのを祈るしかなかった。
脇に置いてあった内線電話が鳴った。それを刑事が取る。
「………はい、熊谷です。……………はい? あ、……そうですか。わかりました。すぐに。」
受話器を置くと私に、家から迎えが来ていると告げた。
解放されるのは私だけのようだった。
…身元引受人のない悟史くんは、まだまだ尋問を受けるのだろうか。
………そんな心配より、今は自分の心配か。
警察の前で堂々と詩音だと名乗った以上、もう園崎本家にはバレている。
これだけ公の場に堂々と姿を出してしまった以上、もう言い逃れはできない。
鬼婆の前に私は引っ立てられ、何かの処分を受けるだろう。
私がどういう処遇になるのか、正直なところ、想像もつかない。
誰かが庇ってくれたり、お目溢しをしてくれたりして一件落着、というのは私たちの世界に限ってはありえない。
面子とか体面とか。
…例え本人が望まなくても、対外的なジェスチャーのために執行しなくてはならない世界だ。
……私も、今のうちに自分の小指にキスくらいしておいた方がいいかもしれない。
私を送る若い刑事に言ってやる。
「ねね。アメリカなんかでよく、死刑囚が死刑廃止の州で捕まると、引き渡さないでくれるっていう話あるじゃないですか。」
「うん…??」
…引用が難し過ぎたか。刑事はよく意味がわかっていないようだった。
警察署の玄関前には、真っ黒な車が待ち構えていた。
うちのお父さんの手下の、人相のよろしくない連中が、深々とお辞儀して出迎える。
「詩音さん、ご無沙汰しております。」
「………葛西は?」
「……………。」
葛西は私の一番の忠臣で、学園からの脱走の手引きから、興宮での隠れ家までを全て世話してくれた。……おそらく無事では済むまい。
「……お姉はどうしてるの? 何か言ってる?」
「………私たちは詩音さんを本家へお連れしろとしか言われていませんので。詳しくは本家でお尋ねになってください。」
素っ気なくそう告げると、私に車に乗るよう促した。
私の両脇に一人ずつ。……逃がす気はさらさらないようだ。
…私は、まだ署内に残されている悟史くんを思い、興宮署に振り返る。
悟史くん、がんばって…。…私もがんばるから。
車は無粋に急発進した。
■園崎本家
園崎本家には、ろくな時に招かれた記憶がない。
本当に小さかった頃、まだ私たち姉妹が、自分たちの姓の園崎にどういう意味があるかもよくわからずにはしゃいで居た頃を別にすれば。
…親族会議などの、胃が痛くなるような時にしか、園崎本家には訪れた記憶がなかった…。
車は本家の表門でなく、裏手に停まった。
表門から入るのは後ろめたくない人間だけということだ。
車を降りると、出迎えはお姉ひとりだった。
気さくに声をかけようとしたが、その冷たい目つきを見てそれを引っ込める。
「…お久しぶりですね詩音。新年以外に会えるとは思いませんでした。」
背中にぞわぞわしたものが登ってくるくらいに、お姉は他人行儀だった。
「魅音姉さまこそご機嫌麗しゅうございます。新年以外にお顔が見れて、三文くらいの徳を感じます。」
私も精一杯の嫌味を込めて、他人行儀な言い方で返してやる。
「頭首は大変ご立腹ですよ。どう釈明されるか見物です。」
「…………私がするような釈明なんて、別にないですし。」
釈明も何もない。
学園に耐えられなかったから抜け出して来た。
それ以上に何の言い訳もない。
「詩音、来なさい。皆、待っています。」
魅音を先導され、私たちは歩き出す……。
家でなく、庭に向かう。
…そして、広大な庭のずっと奥の森を目指すに至り、私は自分がどこへ連れて行かれるかを察した。
この奥の森は、私たち姉妹がまだ幼くて何も知らなかった頃、絶対に近付くなと強く言われていたところだ。
………この奥に何があるかは、…私も漠然とした噂では知っていた。
秘密の地下の入口があり、園崎家に刃向かう者を苛め殺すための拷問室があると言われている。
園崎本家にまつわる黒い噂の数々を知れば知るほど、その噂は信憑性を増していく。
…だが、それでも心のどこかで半信半疑だった。
それを今日、自らの身をもって知れるとは、…あの頃は夢にも思わなかった…。
やがて、鬱蒼とした深い森の中が大きく盆地になっているところにやってきた。
そのすり鉢の底に、まるで防空壕を思わせる鉄扉があるのが見える。
「……これが噂の、地下拷問室ってやつですね?」
自分で口に出してみて驚く。
…私の声は、少し震えかかっていた。……今の私は、自分で思っている以上に、…怯えていた。
私のそんな問い掛けにも、魅音も含め誰も相手にしない。…ただ、張りつめた空気が痛いだけ。
…双子は生まれたら直ちに間引くべし。…園崎家の家訓ではそうなっている。
私は、…………ひょっとして、…間引かれる?
指の一本くらいで許してもらえるだろうと思っていたのは、覚悟でも何でもなく、…単なる甘えに過ぎなかったことに気付く…。
自分は園崎本家のことを恐ろしい恐ろしいと、言葉の上では理解していても、本当の意味では理解していなかった。
だって、…鉄扉を潜った中の空気は、…これまでに一度も嗅いだことないような恐ろしい空気で、……なのにそれでいて、紛れもない現実であることを突きつけていて。
…怯えの感情を、一度でも自覚してしまったら駄目だった。
憎まれ口を叩いて、空元気を内に灯したくても、いつの間にか唇はこんなにも乾いてしまって。……指先も落ち着きをなくしているのがわかった。
細い廊下を進み、何度か階段を下り。
再び大きな鉄扉をくぐり。
…………その部屋へ私は来た。
そこは…広い部屋だった。…そして、これまでに見たこともないような奇怪な部屋だった。
その部屋は左右の半分でまったく違う趣になっていた。
まず、片側半分はお座敷になっていて、…そこには親族会議の上席を陣取る10数人の親類たちが、不気味なくらいの無表情で皆、座布団に座っていた。
そして、もう片側半分は、まるで大きな公衆シャワールームを思わせるように、床や壁がタイル張りにになっていた。
この座敷と浴場が混在したような空間は、それだけでもう充分に異常だ。
…そして、…いや、そしてなんて形容の仕方はおかしい。
それはここに来て真っ先に私の目に飛び込んだからだ。
部屋の半分が座敷で浴場で…なんてものよりも遥かに最初に。それでいて、……一番最後まで意識したくない。
…………足が、藁になる。腰が崩れてへたり込みそうになる。
だが、へたり込むこともさせてもらえなかった。
この部屋に入ると同時に、私は若い男ふたりに両腕をがっちりと組まれていたから。
シャワールームの壁には、……初めて見るのに用途の想像が付く、奇怪なものたちが並べられていた。
………あぁ、奇怪なものたちなんて言い方がそもそも潔くない。
私は、そのものたちを、単に何と呼べばいいかわかっているはずなのだ。
……あぁあぁぁぁ…、分かっている、認めている。
私はそれらが、…この世のものとは思えないくらいに奇怪で歪な形をした、……拷問具たちであることを理解している…。
「だぁほが。どの面下げて戻って来たん思うとっとと…。」
座敷の一番前に座っていた鬼婆が、…聞く者全てを威圧せずにはいられない恐ろしい声で、…まるで染み入らせるかのように、じっくりと告げる。
その後、何やら恐ろしいことをまくし立てていたが、訛りがひどくて、何を言っているかはよくは聞き取れなかった。
…でも、全ては聞き取れなくても、…何を言おうとしているかは理解できた。
…鬼婆は、学園を抜け出したところまでは大目に見るつもりだった。
だが、自分が園崎詩音であると、警察に告げたのではどうにもならない。
園崎本家としては、頭首の命令に背いたことが明らかになった以上、詩音を罰しないわけには行かない…ということなのだ。
………そして何よりも。
鬼婆が一番、不愉快に思っていること。
……それは、私が悟史くんを庇ったことらしかった。
…北条家は、ダム戦争の時、村を裏切った裏切り者の一家。
その烙印は悟史くんと言えど免れていない。
その北条家の悟史くんと、園崎家の私に縁があることが、面白くなかったというのだ。
それは…私にとってひどく意外なことだった。
私は、鬼婆の決めた学園から逃げ出してきた。
だからこそ鬼婆の逆鱗に触れているのだと思っていた。
…だが実際にはそうではなく、……私と悟史くんの取り合わせが不快だったと、そう言っているのだ。
私は信じられない気持ちでいっぱいになった。
…ダム戦争の時、悟史くんの両親が村を売るような行為をして、槍玉に挙げられていたのはよく知っている。
でもそれは……悟史くんの両親のことであって、その息子である悟史くんに問われる非ではないと思っていたからだ。
「……そんなの、…悟史くん、関係ないじゃないですか…。悟史くんの親は分かるとしても、悟史くん個人には何の責任もな…、」
「しゃあらしいわあッ!!!!」
鬼婆に一喝され、私は言葉を最後まで言い切ることが出来ず、すくみ上がる。
鬼婆は口汚く北条家の悪行を罵り、悟史くんもその汚い血を引いている裏切り者の子供だと言い切る。
…それを聞く内に、私は…憤りを感じ始めていた。
悟史くんが一体を何をしたというのか? 悟史くんにどんな非があるというのか?
気付いた時、私は心の中で思ったことをそのまま口にしていた。
私は鬼婆の目が、憤怒に染まっていくのを見て、自分が何を口にしたかをようやく知る。
だから、自分の意思で口にするために、…もう一度同じことを口にすることを決意する。
「……鬼婆、あんた何言ってんの? 黙って聞いてれば言いたい放題。」
「ああぁん?! なんばねすったら口の聞きぃ!!」
「やかましいッ、終いまで聞きなよ鬼婆ッ!!!!」
私は鬼婆の怒鳴りすら一喝し、声を張り上げた。
「大体、あんたは悟史くんの何を知ってるの?! 悟史くんのことをよく知りもしないくせにまるで彼を害虫みたいに言い捨てて!!! 悟史くんがどんなにいい人か、私はよく知っている! 彼が北条だからいけないの? ばっかみたい!! 時代錯誤も甚だしい!! 園崎の私が北条の悟史くんと一緒に居たのがそんなにも不愉快なの?! くっだらないくっだらない、馬ッ鹿みたい!!! こんな安っぽいロミジュリを自分で体験できるなんて思わなかったなー! あっはっはっはっはっはっは!!!」
思いっきり強がって言っても、声はかすれる。
涙もぼろぼろこぼれて顔はぐしゃぐしゃだ。でも…ここで感情の吐露をやめる気はしなかった。
…たとえこの義憤が一時、恐怖を忘れさせてくれるだけのものだとしても。
鬼婆は、まさにその呼び名そのままの形相で、肩で息をしながら私を睨み付けている。
私も同じように肩で息をしながら、鬼婆を目線だけで食い殺そうと睨み付けていた。
………やがて。…鬼婆が私と悟史くんの仲にこだわっていることに気付き。
……単に私たちが一緒に居た以上のことを咎めていることに気付き始めた。
「……そっか、…魅音がそういう告げ口をしたわけか…。」
魅音は能面を貼りつけたように無表情。私の呪うような目線にも動揺しなかった。
……鬼婆が本当に不愉快に思っていること。
…それは、私が悟史くんに恋心を持っていることなのだ…。
「あははははははははは! あっははははははははは!! 確かに私、自分が園崎家だとか、悟史くんが北条家だとか、そんなの全然興味ないし、園崎家の面子がとか世間体がどうとか全然関心ありません! えぇ認めますよ認めます!! 私は北条悟史くんが好きです。彼の事が大好きです! それっていけないことッ?! 人が人を好きになるのに、何か理由が必要ッ?!」
鬼婆の後ろの親族たちが、取り返しの付かなくなった様子に、小さく首を振ったり、俯いたりするのが見えた。
その中には、…私を一番庇ってくれたに違いないお母さんの姿も見えた。
お母さんはもう私を見てはいなかった。
ただ沈黙を守って、畳を見ていることしかできなかった。
「後ろのあんたたちも聞こえてるでしょ?! 私おかしいこと言ってる?! あんたたちだって悟史くんをよく知れば、彼がどんなに素敵な男の子で、私が好きになるのがおかしくないことがすぐに分かる!! なのに、なんで相手の人格も知ろうとしないで、一方的に…、」
魅音はもう喋るなというように、手をかざして私を制した。
そしてゆっくりと私の元へ歩いてくる。
「……………もう結構です詩音。あなたの言い分と覚悟はよくわかりました。」
「………………………。」
そして、魅音は額がぶつかりそうになる位に顔を寄せ、私にしか聞こえないくらいの小声で言った。
「……詩音の覚悟はよくわかったよ。……でも、ここまで言い切っちゃったら、誰にももう庇えない。…詩音がけじめを付けて見せるしかない。」
「……………けじめ?! 何で私が!! 私が何でそんな馬鹿な、」
「詩音。」
魅音がもう一度、冷酷な次期頭首の顔に戻り、…諭すように言った。
「……あなたの言う個人の理屈は多分正しい。……でもね? あなたも理解していると思うけど、…ここは雛見沢で私たちは園崎家なの。御三家の末席で、…今や事実上の雛見沢の筆頭家。そしてあなたは仮にも、園崎家次期頭首である園崎魅音の双子の妹。…それが、」
魅音に最後までは言わせない。それを断ち切るように、私は言い分をぶつける。
「あんたとは、こっちに帰ってからどうもその辺りの話が食い合わないですね。大人の事情みたいなことばっか! 雛見沢? 園崎家? だから何?! 私はそんなの全然興味な、」
「聞きなさい!」
魅音もまた、私がしたように最後まで言わせず断ち切ってくる。
「…………詩音は今日まで興宮で生活するにあたって、…どれだけの人の世話になってる?」
…背筋をぞわりとしたものが這い上がる。
「………葛西さん、奥の牢屋にいる。」
「な、……なんで葛西がッ?!」
本当は驚くには値しない。
……私が捕まった時点で、私を匿ってくれた人たちはみんな同じ運命だ。…園崎家の頭首に背いた罪はまったく同じ。
私は…まだ扱いがいい方かもしれない。
…奥の牢屋にいるという葛西や、もうじき連れて来られる義郎叔父さんなどは、……もっと乱暴に扱われていると思っていいだろう。
私のわがままに付き合ってくれた人たちが、…みんな犠牲になっている。
「………詩音がどういう目にあっても、詩音本人は覚悟があるからいいだろうけど。お世話になった、葛西さんや義郎叔父さんがどうなるかまでは考えが及ばない…?」
頭の中にいっぱいに広がった熱湯のような感覚が、どんどんと退いていく。…私の威勢は、もうとっくに失われていた。
私一人がどんな責め苦に遭おうとも、きっと私は耐えられるだろう。
だが、園崎本家に逆らい、私のためにひと肌を脱いでくれた人たちに、…迷惑を掛けるのだけは躊躇われた。
「……詩音。婆っちゃに謝って。けじめをつけて見せれば、詩音ひとりだけの話で全部済む。…誰にも迷惑を掛けない。」
「でも……でも、魅音…。私、間違ったこと言った…? そんなにも悪いこと、…した…?」
……私にけじめを付ける覚悟がないことを見て取った魅音は、わずかばかり見せた仏心を引っ込め、…元の冷酷な表情に戻る。
そして、私に背を向けて座敷の方へ戻っていく。
………私は威勢よく鬼婆に喧嘩を売った。
…自分は悪いことをしていないと言い張った。
……だが、今日までの生活でお世話になった人たちを巻き込んでしまっている。
…これは言われるまでもなく、私の責任。
…私ひとりが受けるべき咎で、…彼らには何の罪もない。
……そう、悟史くん本人に、何も罪がないように、葛西や義郎叔父さんにも罪がない。
その時、……その胸中を全て読み切ったかのように、…魅音が振り返り、………小さく頷いた。
葛西や叔父さんのように。
………何の罪もない悟史くんまで、……巻き込まれるかもしれないよ?
「ま、…………ま、待ってお姉……!!」
そんなの、…絶対だめ…。悟史くんは…じゃなくて、……みんな関係ない。私ひとりで済むことなら、みんなを許してあげて…!
「……何ですか、詩音…?」
「…………………ご、……………、」
私のくしゃくしゃの顔に、涙が幾筋も流れて落ちる。
……もう、私の安っぽい見栄とかそんなもの、どうでも良かった。
「………ごめんなさい…。私が間違っていました。…許してください頭首さま。」
鬼婆の気に入るように言ったはずだ。…なのに、鬼婆はなおも不愉快そうな顔をする。
……それもそうだ。
…鬼婆は、親族たちの目の前で私に罵倒された。…私をこのまま許すことなんてできるはずもない。
そんな鬼婆に代わって、次期頭首である魅音が口を開いた。
「では詩音。…どうやってけじめをつけるつもりです?」
「け、……………けじめって、…………どうすれば…………。」
壁に立てかけられた恐ろしい拷問器具たちに囲まれて、けじめという言葉を口にさせられることほど恐ろしいことなどない。
…私は、その単語の恐ろしさに、改めて震え上がるほかなかった。
私が震えながら立ちすくんでいると、見かねた魅音は鬼婆に何か囁き掛けた。
…鬼婆はそれに頷き返す。
そして魅音は若いのを呼び寄せると、何か指示を出した。
そして、彼らは部屋の壁にぶら下げてある物騒な器具の内のひとつを持って来た。
…そして、私の前に机を運び、その器具をそこに載せる。
「………………なに、………これ……。」
「……爪を剥ぐための道具です。使い方はわかります?」
「わ、……………わかるわけ……ないでしょ…………。」
わなわなと震えながら……机の上の、薄気味悪い器具に目を向ける。
それはちょっと見たところ、とても大きな爪切りのような形をしていた。
……おそらく、…先端のくちばしのような部分を……爪の間に差し込み、……把手の部分を強く握ると…くちばしが開いて、爪をがばっとめくれて剥ぐ形になるのだろう。
その用途を頭の中で思い描くだけで……指先が震え、体中に悪寒が走り抜けた。
「爪1枚ずつで、詩音が掛けた迷惑のそれぞれのけじめとします。………園崎詩音。どの指でも構いません。自らの手で、3枚の爪を剥がして見せなさい。」
3枚。………葛西。義郎叔父さん。…そして、………悟史くん。
…その数字はこれ以上なく、妥当だった。
「ほ、…………本当にそれで……………他の人は許してくれるんですか………。」
「……………………。」
「約束して……。私がちゃんと自分の爪を剥げたら……他のみんなは許すと約束して……。」
「これはあなたのけじめであって、取引ではありませんよ。……この方法が気に入らないなら、」
「やるから待って!!! 待ってよ……やるから……、……やるから…。」
私は震える左手を……小指を、…器具のおぞましいくちばしに当て、…爪の間に………………割り込ませる。
もし爪が短かったなら、うまく出来なかったろう。
…だが、私の長い爪は、金属の無慈悲なくちばしを大きく広くくわえ込み、…実に綺麗に、器具に噛み合っていた。
すると若い男たちが器具と私の左手を別の拘束器具でがっちりと固定した。
……確かに、このくらいがっちりと固定しなかったら、…指が逃げて、うまくできないだろう。
男たちが無抵抗な私の左手を、バチン、バチンと革ベルトのようなもので締め付けていく過程のひとつひとつが、…今、目の前で起こっていることが現実であることを思い知らせ、…そしてどんどんと逃げ場を無くしていく。
こんな状況であっても、…私は未だ心の中のどこかで、洒落で済ませてくれないかと甘えていたのだ。
そんな甘えなど、もうとっくに捨ててたと思ったのに…。
こうして少しずつ追い詰められるに従って、ないと思っていた甘えがどんどん胸から押し出され…涙になってこぼれていく。
それはまるで、残りわずかの歯磨き粉のチューブを締め出して、最後のわずかまで絞り出そうとしているかのような無慈悲さだった。
…そんな受け身の時間さえも甘え。
やがて私の手をしっかりと拘束したことを確認すると、私に何かを強いるような、寒々しくて痛々しい沈黙が訪れた。
「……で、……ど、……………どうするの…………。」
若い男がこのお化け爪切りの把手を示し、そこを握るか叩くかするように告げる。
……思い切り叩いて一気に行った方が、むしろ痛みは少ないかもしれませんという忠告付きで。
あとは、もう誰も強制しなかった。
私の流れ落ちる汗の音以外には何も聞こえない、痛いくらいの沈黙。
私が自らの爪を剥いでけじめを取るところを見守ろうと、立会人たちがじっと…沈黙を守りながら見つめている。
…鬼婆も、そして魅音も。……私が自らの手で清算するのをじっと待っていた。
………このまま、震え続けて拒否することもきっと選択肢のひとつに違いない。
…だが、それをしたら、私のけじめにならない。
けじめというのはつまり、…私ひとりの罰で罪を贖えるということ。
…もしそれをしないなら、…罰は私を助けてくれた、親しい人たち全てに及んでしまう。
「は、………は、………はぁ………はぁ………。」
呼吸が荒ぶってくる…。
わかってる。自分で自分の爪を3枚剥がして見せれば誰にも迷惑を掛けない。
きっとこれは破格の条件。
…私だから爪3枚で済まされてるのだ。
……葛西たちだったら、爪でなく指や、あるいはもっと悲惨な目で清算されるかもしれない。
わかってるわかってる。
学園を逃げ出したのは私のわがまま。
それを快く手伝ってくれた葛西に何の罪があろうか。
わかってるわかってる。
興宮に戻って来た私に、バイト先を紹介して生活費を工面してくれた義郎叔父さんに何の罪があろうか。
「はぁ……はぁ……はあ……はぁ!」
鬼婆たちが北条家を未だに毛嫌いしていることはよくわかった…。
だから私がここでけじめを付けてみせなかったら、…悟史くんがどんな酷い目に合わされるか、想像も付かない…。
あるいは、……悟史くんもこの部屋へ連れて来られて、同じようにこの器具を与えられるのだろうか。
……それで、引き換えに私を許す…みたいなことを言われて、悟史くんも自らの爪を剥がさすよう強要されるのだろうか……?
「……はぁ……はぁ……はぁ……はあ…はぁ!」
…悟史くんなら、…剥ぐ。
……悟史くんなら、自分の犠牲で誰かを救えるなら、躊躇なくやってみせる。
顔中に汗が浮き、それらが鼻筋にそって流れ、……鼻の頭から雫になって、ひたひたと机の上を濡らしていた。
………やろう、…やろう。
……たかが爪が3枚じゃないか。
……痛いかもしれないけど、別に死ぬほどのことじゃないし、傷だって爪が生え変われば元通りだ。醜い傷が一生残る…なんてほど悲惨なものじゃない。
そう、だから恐れちゃいけない。
…私だからこの程度で許される。
私が拒否すれば、…みんなはもっと酷い方法で清算させられる…。
葛西や義郎叔父さんや、…悟史くんに迷惑を掛けちゃいけない…。
私が、ひとりで責任を負うんだ……。
だから、……だから…これから受ける痛みを耐えて見せよう……。
「はぁ、……あぁ、………あう、……あぁ……!」
もうそれは呼吸音じゃない。
呼吸とも喘ぎとも付かない、弱々しい雄叫び。それは、多分、悲鳴と類されてもいいもの。
そうだ、……一気に行こう。
これは拷問じゃないんだから、痛い瞬間を緩慢に引き延ばすことなんかないんだ。
……一気に、一度に行こう。その方が痛くない、その方がちょっぴりだ、その方が怖くない……!
……右の拳を握り、振り上げる。
ゆっくりなんかじゃなく、素早く。
こういう感じのものは、一度に綺麗に決まった方が痛くないと決まってる。
…むしろ、し損じた方が痛いに違いない…。
「はあ、…はあ! はあ!! ………………………、」
最後の息を止める。
全身が凍りつき、体の内側から窒息するような苦しさと、毛虫に撫でられるような悪寒が込み上げてくる。
恐れるな、私。
…体の表面積全てを思えば、爪の部分なんて1平方センチ程度の狭い部分じゃないか。……耐えられる、私は耐えられる…!
「えぉああわあああぁあぁあああぁああッ!!」
私は振り上げた拳を、……拷問具の把手に、叩きつける。
「……………ッッ!!!!」
ビツッという音が、空気でなく、私自身の体を伝わって鼓膜を響かせ、まったくその音と同時に、私が生まれてから一度も味わったことのない角度からの痛覚が襲いかかって来た。
遅れて、心臓の鼓動のようなドクンドクンという脈打つ激痛までが加わる。
「……ぅううぅううぅ、……うううぅううぅううぅう!!!」
歯を思い切り食いしばる。
奥歯が欠けそうになるくらい! 瞼も思い切り食いしばる。眼球が潰れてしまいそうになるくらい!!
痛みは薄れたりはしなかった。
むしろ脈動し、私の指を痛みで風船のようにパンパンにして破裂させるかのようだった。
私は…恐る恐る目を開けた。
……私の左手の小指は、……血で真っ赤ということはなかった。もちろん血塗れだったけど、この痛みとはあまりに釣り合わないくらいに、下らない出血だった。
私の爪は、……ほら、…車の前のボンネットってあるじゃない? あれを…がばっと開けたみたいになってて……。それはあまりに信じられない光景。痛みだけでなく、恐ろしさまでが私に襲いかかる。
しかも、こんな痛みと恐怖の中だからこそ、…私はまだ3つの義務の内の1つしか果たしてないことを気付く。
…こんなことを、あと2回も?
薬指と、中指も、…こんなことをしないといけないの…?
許しを乞うように、鬼婆と魅音を見る。
……でもあいつらにとってはこんなの、ちょっとした余興に過ぎなくて。…退屈そうな顔で見守っているだけなのだ。
そこにはわずかの同情も読み取れない。
…こいつらは許す気なんかない。
爪を3枚と言ったら絶対に3枚!
あと2枚、こんな思いをして爪を剥がさなければ許す気なんかないんだ…!
「………魅音、………これで、…許して…………。あのね、…あのね、……これ、…本当に痛いの……、すごく痛いんだよ……。ほら、…私の顔を見れば…わかるよね……? …本当にさ、……痛くて、………えへ、…えへへへへ………、」
魅音は冷酷なままの表情で、答えてくれた。
「…………詩音。………もう、……無理?」
もう無理なら許してあげるよ、という意味ではない。
…無理なら、残る分は他の人に清算させてもいいんだよ、そういう意味。
そんなこと……言われなくても…わかってるって…。
「や、…やれるよッ!!! こんなの全然楽勝だって……!! このサディスト共がぁ!! はあ、…はぁ!! こんなの怖くない、こんなの痛くない…、ああぁあぁああぁあぁぁ…!!!」
私は右手で拷問具のくちばしを動かし、手早く次の薬指の爪の間に差し入れる。
…そして何の躊躇もなく拳を振り上げて、わずかの間もなく振り下ろした。
…それは潔い速さというよりは、…落ち着きのない性急さや、眼前の恐怖から少しでも逃れようとして足掻く暴走に違いなかった。
そんなやり方では、うまく行く訳もない。
拷問具は私の爪を捲らず、爪の先を少し欠いただけだった。
でも、痛さは先程と変わらなかった。痛さよりも信じられなかったのは、これだけ痛い思いをしたのに、爪が剥がせていないことだった。
……やり直し?!
薬指、…もう一回やらないと駄目なの……? また、やるの…? また、……また……?!
「………………詩音…?」
「やだ、…………ぇぐ、………やだぁああぁあぁあ!!!」
もう駄目だった。…私は恥も外聞もかなぐり捨てて、泣き叫んだ。
「もうやだやだ!! もう無理なの本当に痛いの…!! もう許して、本当に許してよぉ!! ごめんなさいごめんなさい、謝りますから許してください!! ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
私の叫びなど、座敷の親類たちには届いていないようだった。
…私と彼らの間に、声を遮断する空気の壁でもあるんじゃないかと思うくらいに。
彼らは私に同情などしていなかった。ただ園崎家の人間として、この儀式を私がやり遂げられるかを見届けているだけだった。
だから、私の醜態に同情するどころか、むしろ呆れているように見えた。
魅音が私に歩み寄ってくる。…そして泣きじゃくる私に囁く。
「……詩音。………あとちょっとだから、がんばって。」
「やだやだやだやだ!!! 本当に無理、本当に痛いの…、痛いのぉおお!! うっく、……えぐ、……わああぁああああぁあぁああああああぁああ!! うわあああぁああぁあぁああぁあぁあぁ!!」
魅音は小さく首を横に振ると、若い男たちに顎で合図を送った。
………男たちは、私の後ろに来る。
そして突然、ニット帽のようなものを深く被せて来た。それは帽子状の目隠しらしかった。
視界を奪われた次は、後ろから誰かに羽交い締めにされて、自由をも奪われた。
「やや、やめてよやめてよ!! いやぁ嫌あああぁああぁああ!!!」
暴れても、組み付いた男の力には抗えない。
そうしてる間に、私の左手に違和感。
…もうひとりの男が拷問具をいじっていた。
…そして、…痛む薬指の爪の間に…あの残酷なくちばしを…ぐっと差し入れて………。
「やああぁあぁあぁあ!!! 助けて、おかあさん……おかあさああぁあん!! あああああああぁああぁああぁああああああ!!!」
もともと左手は拘束具で固定されていて、大した抵抗はできない。
…だけど、そんな左手すら、乱暴な手のひらに痛いくらいに押しつけられて、震える自由さえも奪われた。
…あと、間髪なんかなかった。
自分以外の人間が執行する刑が、これほどに無慈悲であることを初めて知る。
目を奪われた私には、襲い来る痛みに対し歯を食いしばることもできなかった。
もし、…後に感謝することがあるとしたなら。
……執行者が手練で、綺麗に二度で2枚の爪を剥がしてくれたことだった。
痛みと絶叫は、脳内を麻痺させる麻薬を分泌させるのだろうか。……私の意識は、叫び続ける内に、どんどん希薄になっていった………。
■アイキャッチ
■それから数日
目が覚めた。
………あの後の記憶はぐちゃぐちゃで、あれから何があって、どうやってこの部屋に戻って来たのか、…思い出すためには頭を両肘で抱え込む必要があった。
左手には包帯。
爪を剥いだ左手の指三本は、ぶっくりとチクワくらいに膨れ上がったように感じられる。
……あの後、私は爪3枚を剥ぎ取られ、…一応のけじめをつけた。
それを見届けてから、鬼婆が偉そうに何か長々と能書きを垂れていたようだったが、何も耳に残っていない。
それから、すぐに興宮の整形外科に車で連れて行かれた。
病院までの道中の揺れがとにかく辛かった。
……頭痛薬が痛み止めになると言われ、誰かに頭痛薬12錠のシートを渡され、……それを飲んで痛みを紛らわした。
頭痛薬は、テレビなどで宣伝するように本当にすぐ効いた。
しかし10分程度ですぐに切れた。…水も飲まずに、痛みがぶり返す度に頭痛薬を唾で飲み込んで耐えた。
…病院で治療を受け、待合室で呆然としていた時。
………葛西が来たのだった。
葛西はきっと、ご無事でしたか、と言いたかったのだろう。
だけど全然無事でないことは、包帯でくるまれて三角巾で吊られた私の左手を見れば歴然としていた。
葛西は五体満足なように見えた。
…少なくとも、私に見える範囲内では、あざひとつないように見えた。
…………それを見て、私は自分の犠牲に意味があったことを知る。
葛西は何も言わなかった。
……無表情で、だけれども、私のすぐ側に控える彼の様子からは、…私に何か言いたいことがあるのかないのか、それすらもわからなかった。
「……………………………葛西。」
「……………なんでしょう。」
「………………………。」
葛西の返事の前のちょっとした間に、…葛西はきっと怒っているんだろうなと思った。
……あの時、あの場で悟史くんを庇うために、自分の正体を明かしたことは…後悔はしていない。
でも、……葛西や義郎叔父さんにかけた迷惑を考えると、……胸中はぐちゃぐちゃだった。
「………義郎叔父さんはどうなったか知ってます…?」
「いえ。」
「………………………………。」
「………したたかな方です。ご無事と思います。後で謝られた方がいいでしょう。」
「……………………………………うん……。」
……本当は、さらに続けて悟史くんのことも聞きたかった。
彼が、私のとばっちりを受けて、本家に拘束されたり、よもや何か酷い目に遭わされてないかが気になった。
でも、…悟史くんの名を葛西に出すのに、…ためらいがあった。
とどのつまり、私は悟史くんと彼らを天秤に掛け、…彼らを蔑ろにしてしまったわけだから。
……悟史くんは無事だろうか。
たとえ直接危害を加えられなかったとしても、…捕まえられてどこかに監禁なんてことがなければいいのだが…。
…………その後、勘定を済ませ、私は葛西の車で自分の部屋に送り届けられたのだった……。
…ぼーっとする頭が、ようやくこの部屋がノックされていることに気付く。
「詩音さん、……そろそろ体を起こしてください。横になり続けるのも、やはり体に毒です。」
葛西だった。
葛西が買ってきてくれた弁当とお惣菜を机の上に広げ、…ふたりで適当に摘まみあった。
「………気分は落ち着かれましたか?」
「…………………落ち着いたと言うか、落ち込んだというか。……はー。」
「この数日間はずっと伏せっていたんですか? 食事はされていましたか?」
「……冷蔵庫の中の残り物を適当に食べてました。あとは天井を見てるか、眠っているかのどっちか。」
あれから3日間。…私はほとんど伏せったままで過した。
眠りが浅くなり、目を覚ましかけたことは何度かあったが、起きようとする気力もなく、……何も考えなくていい浅い眠りの世界をずっと漂っていた。
空腹感は今まで忘れていたが、この弁当の匂いを嗅いで、思い出させられたのだった。
何も交わす言葉がなく、……私は黙々と箸を口に運ぶだけだった。
「昨日、………魅音さんから連絡がありました。詩音さんの部屋に何度か電話したけど、出なかったからということで。」
魅音の名が出て、……胸の奥で、かさぶたが剥げるような感触がした。
でも、水をささず葛西に続けさせた。
「………園崎本家としては、…詩音さんがご自分でけじめを付けられたので、これで決着とするそうです。……聖ルチーア学園には退学届が出されます。詩音さんは興宮の学校に編入になるそうです。」
「………………園崎詩音の人権が、認められたってことか…。」
「…そうですね。今後は園崎詩音として生活して下さって構わないそうです。…ですが、みだりに雛見沢には近付かないこと。園崎魅音を騙らないこと。人前にみだりに姿を表さないこと、…他にも細々とありますが、つまるところ…、」
「存在を認めてやるから、……本家に目立つようなことは二度とするなってわけか。」
「そういうことになります。……もちろん永続的なわけじゃありません。ほとぼりが冷めるまで当分、ということです。具体的にいつまで、という期限があるわけではありませんが、……今年いっぱいくらいはこれまで通り、目立たない生活を送られた方がよろしいかと思います。」
「…私は興宮でひっそり暮らすだけで充分です。……元々、これまでだってそうして暮らしてきたわけだし。」
葛西は苦笑いをして見せる。
私も同じように苦笑いを返して見せた。
そして…会話の流れを断ち切らず、…ずっと聞きたかったことを口にした。
「…………………悟史くんは、……どうなったの……?」
「………………………。」
無事ですと一言、葛西に言って欲しかった。
だが、葛西は返事をしてくれなかった。
「……葛西。……悟史くんは、無事なの…?」
「…………詩音さん。」
葛西は箸を置く。
「本家から、……北条悟史くんのことは忘れろと託かっています。」
「……………………………何それ。」
「詩音さん。……あなたと喧嘩はしたくないんで、これ以上この話はしたくありません。…本家からの言葉を伝えるのみに留めさせてもらいます。」
「な、…何、その話をしたくないってのは…! 葛西!」
「………………。」
葛西は聞こえないかのように振る舞い、食事を再開する。
…こんな頑固で意地悪な葛西は初めて見た。
……園崎家は、北条家をスケープゴートにして今日までやって来た。
…その北条家と、仮にも園崎の姓を持つ私が恋仲になんかなったら、…示しがつかないってわけで。
…何だか面白くない。
……あの沙都子は学校で魅音と友達関係じゃないか。
同性のお友達はよくっても、…私と悟史くんじゃ駄目だってわけだ。
………でも、…私がまた何か目立つことをすれば、…今度こそ悟史くんに迷惑が及ぶかもしれないのだ。
私に、爪を剥ぐことを強要したように。
…園崎本家はいざとなったら本当にやる。…どんな残酷なことを悟史くんに強いるか、……想像できないこともない。
……悟史くんが本当に好きなら、…………私は、悟史くんにもう近付かない方がいいのだろうか。
悟史くんが、また雛見沢ファイターズに戻って来てくれない限り。…悟史くんはもう興宮にはそうそう簡単には姿を現さないだろう。
私が雛見沢に行くには、また魅音に成り済まさなくてはならない。
でも、魅音だって、…もう二度と私には協力してくれないだろう。
あるいは……その内、機嫌を直してくれたとしても、それはほとぼりが冷めるくらいに、…ずっと未来の話だ。
………直接的に、悟史くんと会うなと言われなかったにしたって。
もう、…私は悟史くんと再会する手段を失っていたのだ。
あ、……そうだ。
……前に、魅音から悟史くんの家の電話番号を聞いたじゃないか。…私から電話を掛けることはできる。……こっそり会ってくれないかって、頼むこともできるかも。
…………………でも、……一度、こういう形でけじめを取らされた私には、もう二度と執行猶予はないだろう。……そんな危険を冒してまで、悟史くんに、私は何をしようと言うんだろう……?
「…………………………葛西。ちょっと、………ひとりになりたい。」
葛西は、出て行って欲しいという意味なのかと思い、慌てて弁当の後片付けをしだす。
「あ、いいの。葛西はのんびり食べてて。私がちょっとひとりで散歩がしたいだけなの。」
「……………私も詩音さんと一緒に出ないと、この部屋に鍵が掛けられません。」
葛西は手早く片付けると、私と一緒に玄関を出た。
「……あ、先に断っとくけど、…別に悟史くんに会いに行くわけじゃないからね。」
「わかりました。」
私は葛西に背中を向けて歩き出すのだった。
■あのおもちゃ屋へ
孤独を求めた私の行く先は、……未練がましい場所だった。
そう、…悟史くんが沙都子のために買う、あのぬいぐるみを売っているおもちゃ屋だった。
悟史くんとすれ違わないかな…という淡い期待があったことは否定しない。
悟史くんに似た雰囲気の人とすれ違う度に、顔をしげしげと覗き込んでしまうのだから。
おもちゃ屋のショーケースを見る。
……あの巨大なぬいぐるみはなくなっていた。
「悟史くん、……………おめでと。…買えたんだね。」
意地悪な叔母は死に、意地悪な叔父は愛人のところへ消えたまま。
悟史くんは、愛する妹の欲しがるぬいぐるみを見事にプレゼントでき、兄としての責務を果たした。
悟史くんを苛めるやつらはもういない。
そして悟史くんを縛って来たアルバイトももう必要ない。
……悟史くんは辛かった日々の全てから、解放されたのだ。
悟史くんは時間と共に笑顔を取り戻すだろう。…そして、私の大好きだった悟史くんに戻っていくだろう。
…………………でも、もう。…………そこに私はいないんだ。
パッパーーー。
車のクラクションが聞こえた。
だが、私に対してのものだとは思わず、無視を続けていたが、しつこく続くので顔を上げた。
車から誰かが手を振っている。………監督だった。
人の気も知らないで、能天気そうな笑顔で手をぶんぶんと振っている。
「園崎さん〜。ご無沙汰していますねー。あ、ひょっとして、北条さんと待ち合わせでしたか?」
「……いえ、そういうわけじゃないです。」
「そのおもちゃ屋さんのショーウィンドゥは、北条さんもよく覗いていましたからね。…それでてっきり北条さんとの待ち合わせか何かかなって思っちゃいまして。」
「…いえ、たまたまここを通りかかっただけです。………………買えたみたいですね、悟史くん。」
監督も、あのぬいぐるみのことは知っているようだった。
あのぬいぐるみのいなくなってできた大きなスペースを見て微笑む。
「……昨日が沙都子ちゃんの誕生日でした。きっと、あのぬいぐるみでそれをお祝いできたと思います。」
「じゃあもう、悟史くんは無茶なアルバイトに精を出さなくてもいいわけですね。」
「そうですね。」
「………悟史くんって、……その、…雛見沢ファイターズ、退部届けとか出しちゃったんですか?」
「そんなもの出てたんですか? 私は受け取ってませんよ? マネージャーの園崎さんは?」
「…あははは、受け取ってないです。」
「誰も退部届けを受け取ってないなら、ははは、まだうちの部員ってことですね。しばらくして、生活が落ち着いたらまた戻って来てくれるんじゃないかなって思ってます。でも、その時に園崎さんがいなかったら…きっと悲しむだろうなぁ〜。」
監督が茶化すように言う。……監督は大人だ。
私の気分が沈みがちなのを見抜いて、わざと能天気を装ってくれているように感じた。
「………園崎さんも、落ち着いたらいつでもチームに帰って来てください。あなたがいないと、やっぱり寂しいですよ。
…園崎さんが帰ってきてくれたら、ぜひ女子マネージャーの制服をメイドさんな格好にしようと思ってまして。」
思わず吹き出さずにはいられなかった。監督って人は相変わらずだ。
「…………あ、そうだ。もう名乗ってもいいんだった。監督、今まで騙しててすみません。…私、魅音じゃないんです。詩音っていう双子の妹なんです。訳ありで今までずっと魅音のふりしてきました。」
「え、……え? 双子の、妹さん…ですか?!」
監督のうろたえ方が面白くて、私はもう一度吹き出してしまう。
「そうです。園崎詩音と言います。園崎本家に嫌われてるんで、あまり堂々と暮らせる立場じゃないんですけどね。」
「…知らなかったですよ……。まさか…魅音さんに双子の妹さんがいたなんて………。」
「なっはっはっは。そりゃまったく同感です。」
突然、野太い声が割り込んでくる。
監督のからっとした笑い声とは全然違う、脂ぎった嫌な品のない笑い。
………あいつだ。大石だった。
「入江先生もこんにちは。先日は遅くまでありがとうございました。」
「いえ、何もお役に立てませんで、申し訳ないです。」
…いかにもな、大人同士の社交儀礼。
互いに良く思いあっていないことは一目瞭然だった。
監督が小声で話しかけてくる。
「……私はもうここを離れますが、一緒に車に乗りますか? お家まで送りますよ。」
監督は、大石の狙いが私にあるものと思い、さり気なく助け舟を出してくれたのだった。
確かに大石の顔を見ると、明らかに関心が私に向けられていることは明白だ。
…事件当日の祭りの日に、悟史くんと一緒にいたと証言する私を問い詰めて、ボロを出そうというつもりに違いない。
……のらりくらりと逃げられる自信はあるが、そんなことに時間を割くのは不快なだけだ。
「そうですね。じゃ監督。そろそろ行きましょうか。」
「…ありゃあ、お二人でどちらかにお出掛けの途中でしたか?」
「えぇ。チームの夕涼み会用に景品を探しているところだったんです。他にも行くお店がたくさんありますので、この辺で私たちは失礼します。」
監督がお辞儀したので、私も一緒にお辞儀する。
……さすがに監督も大人だ。涼やかに、淀みなく嘘を並べてみせる。
大石もそれがこの場を逃げるための嘘であることはわかっているようだった。
だが、令状があるわけじゃないから、無理に引き止めることもできない。
「………お怪我は大丈夫なんですか? 園崎詩音さん。」
監督の車へ乗り込もうとした私は、その大石の言葉にはっとする。
…私の左手は包帯でぐるぐる巻きだ。
…見っとも無いから、ポケットに突っ込んで隠していた。
だから大石は、私の左手の包帯を見ていないはず。
「化膿さえしなきゃ、綺麗に治りますよ。私も子どもの頃は何度か爪を剥いちゃったことがありましたがね、ほら、綺麗なもんでしょ。んっふっふっふ。」
「…………男の爪が綺麗でも気色悪いだけです。」
大石は、違いない違いないと言いながら頭を掻いて笑った。
……大石は、興宮署で一番のキレ者で、雛見沢も含めこの地域の裏事情にも詳しい。
なるほど、…どこかで私のけじめのことを聞きつけたわけか…。
…しかし、あの日の出来事は、園崎本家の深奥で行なわれたことだ。
どういうルートで聞きつけたにせよ、この男の情報網は侮れない。
「お見舞い、感謝感激です。…じゃ、もう行きますね? 失礼します。」
「園崎詩音さん。私とコーヒーでも飲みに行きません?」
「……はぁ? 何それ、私を口説いてんですか?」
「そういうことでもいいですよ? んっふっふっふ。」
「遠慮します。一日は有限、24時間。わざわざ退屈なことに費やすなんて馬鹿げてますから。」
「あーあー…もう、参ったなぁ…。…じゃあこうしましょう。私とのお喋りが退屈になったら、いつでも途中で帰っていいです。引き止めません。そういう約束でどうです?」
「……あんたが喋るのは勝手ですが、私は喋りませんよ? それをお喋りと呼べるかは怪しいですが。」
「えぇえぇ、それで結構です。詩音さんは聞き役で結構です。私が勝手に一方的に喋るだけ。…あなたはコーヒーでも飲みながら、中年親父の独り言を聞き流して下さればそれで結構です。」
…………いやに積極的なアプローチ。
私の口を割ろうという風にはなぜか見えなかった。
私の爪のことも知っている大石が、私を退屈させないどんなお喋りをするというのか。……………怪訝さは隠せないが、わずかな興味が芽生えたのも事実だった。
「……監督。すみません、私、ちょっと大石のおじさまとデートに行こうと思います。」
「魅ぉ、……じゃない、詩音さん…。」
大丈夫だから心配しないで、とウィンクを送る。
…監督はそれ以上はしつこくせず、車に乗り込むと走り去って行った。
向こうでは、大石が自分の車をバックでこっちに寄せてくるところだった。
私は助手席なんかいやだったので、後ろの座席に乗り込む。
「……本当に喫茶店に行くの?」
「ん〜〜…、あなたの親類の目がない喫茶店があるなら、紹介してもらえると助かるんですがねぇ。」
「ちぇ。…それなら勝手に連行でも何でもすればいい。」
大石は見掛けによらず、几帳面に往来を確認すると、方向指示器を出してから車を滑り出させた。
■興宮署
大石の車は予想を裏切らず、本当に興宮署にやって来た。
…これで、本当の本当に瀟洒な喫茶店にでも連れて来たら、個人評価をちょっと高めてやろうと思っていたのだが。……まぁそんなもんだ。
「署の方が都合がいいと思ったから署にしただけです。…私の話が退屈になったら帰っていいという約束は、もちろん守りますから安心してください。」
「………ま、私を退屈させないようにがんばって下さいな。……署内には腕組んで入ってあげましょうか、おじさま?」
大石はカラカラと笑いながら車を降りると、私を先導して歩き出す…。
連れて来られたのは取調室のような狭い部屋ではなく、捜査一課と書かれた職場だった。
…制服、私服の警官や刑事たちが各々に自分の仕事をしたり、電話をしたり、あるいは寛いでいたりした。
課長席と書かれたちょっと立派な無人席の前に、向かい合ったソファーと大理石風の机が置かれている。
大石はそこに座るように言うと、近くの食器棚に行き、インスタントコーヒーの準備を始めた。
警察署のこんなところに入るのは初めてだったので、私は落ち着きなく、きょろきょろと周りを見回していた。
「まさか、取調室でカツ丼でも食わされると思いました?」
大石が、鈍い銀色のお盆で来客用っぽいコーヒーカップに入れたコーヒーを持ってきてくれた。
「……想像してたより待遇がよくて驚いてます。三角木馬くらいは覚悟してたのに。」
「そういうのは私の趣味じゃないなぁ。なっはっはっはっは。」
「で? ……お喋りを聞かせてくれるんじゃなかったでしたっけ?」
「じゃあ最初からいきなり単刀直入に。詩音さんって、北条悟史さんのこと、好き?」
「……………はぁ? ……速攻、退屈なんで、即帰りますよ?」
「なはははははは…、じゃあ今のはナシということで。」
…私が爪を剥がしたことを知るこの男なら、私がどうして爪を剥がすことになったか、その経緯だって知っている。
今のは、私が悟史くんのことを好きか確認したのではなく、私が悟史くんのことを好きだったのを知っていると言ったのと同じだ。
「……悟史くんの事件当日のアリバイなら、先日、熊谷刑事さんに全部お話ししたつもりです。」
「もちろん私も熊ちゃ、…いや、熊谷くんの調書は読んでます。あなたが悟史くんと一緒にいたことは知ってます。」
「何度聞かれたって、同じ話しかしませんよ私。しつこく反復して聞いたらその内にボロを出すとか考えてるなら、大甘もいいとこです。」
「まさかまさか、そんなこと考えてません。あなたは頭のいい人です。そんな手に引っ掛かるなんて思っちゃいません。」
「ならどういう手を考えてるやら。どちらにせよ、私から悟史くんのことを何か聞きだそうとしてもそれは無駄なことです。先日お話しした以上のことは何もありません。あぁ残念、やっぱり退屈な話でしたね。私、帰らせてもらいます。そういう約束でしたからね。失礼します。」
それだけを一方的に言い捨てると、私はソファーから立ち上がった。
「詩音さん。確かに私はあなたから悟史さんのアリバイを聞こうと思っていました。それは認めますよ?」
「……なら決まりです。やっぱり退屈でした。帰ります。」
私は踵を鳴らしながら、その部屋を出て行こうとした。
大石は慌てはしなかったが、少し声を大きくして言った。
「でもね詩音さん。私が聞きたいのは悟史さんの事件当日のアリバイじゃない。昨日のアリバイなんです。」
「昨日?……なんで昨日のアリバイなんかが聞かれるんですか。昨日の悟史くんのアリバイが、叔母さんが殺された事件とどう関係があるってんです?」
「昨日、悟史くんが出掛けたまま失踪されたからです。」
…え?
「……悟史くんが失踪されたことは、ご存知なかった?」
「……………………………。」
私は口に出して答えずとも、その表情で充分に答えているに違いなかった。
「どういうことですか……。失踪って、……何。」
「やっぱり座ったらどうです?」
「悟史くんが失踪したって、……何?! 何!!」
「ひとつ確実に分かっていることは、彼が三時前に、興宮の郵便局で貯金を全額下ろしているということだけです。その後の足取りは掴めません。」
悟史くんがお金を全額下ろすのはわかる。
沙都子のプレゼントにあのぬいぐるみを買うためだ。
……そうか、悟史くんは昨日、ぬいぐるみを買いに行ったのか。
「…こりゃ私の想像ですよ? 彼はひょっとして、…そのお金で、どっか遠くに蒸発したんじゃないかなぁって。」
「逃走資金だってんですか? ばっかばかしい。あのお金はね、沙都子の誕生日プレゼントを買うために悟史くんが貯めていたんです。それで、あのおもちゃ屋にあったでかくて高いぬいぐるみを買ったんです。逃走に使うお金になんかなるわけないです。」
「確かにあのおもちゃ屋から、一番高いぬいぐるみが売れていました。
でもね、それを悟史くんが買った確証が取れないんです。」
「店の人に聞けばそんなのわかりますって! 私と悟史くんで、買う予約までしてるんですから! ………ぁ…。」
脳裏に嫌な想像が浮かぶ。
………あの時、店番を任せられていた老人だ。かなりボケてるようだった。
…ひょっとして、…あの日にもまた店番をやっていて、悟史くんが買って行ったにも関わらず、“売れたことさえ覚えていなかったんじゃ…!”
大石も苦笑いをした。
…どうもその様子から、彼もあの老人に尋問を試みたらしいことがうかがえた。
「と、とにかく!! あれを買ったのは悟史くんなんです! 悟史くんはぬいぐるみの金額ぎりぎりしかお金がなかったはずだから、ぬいぐるみ代を支払って、さらに逃亡資金を用意できたなんて思えません。めちゃめちゃもいいとこです!」
「いいですよ? じゃあ悟史くんがぬいぐるみを買ったことでもいいです。じゃあそのぬいぐるみを持ってどうして帰らなかったんですか?」
その時。…………私の心の奥底に、霜柱がびっしり生えたような感触を感じた。
悟史くんは、ぬいぐるみを買うために、心も体も追い詰めて、ぼろぼろになりながらもバイトでお金を貯めたんだ。
そして、念願のぬいぐるみを買った。
そこに、たまたま偶然、悟史くん以外の何者かが訪れて、あの人形を何かの気まぐれで買って行ってしまったなんて紛れがあろうはずはない!
人形が売れていたのは、悟史くんが買ったからだ。
それだけは絶対に間違いない!
でも、だとしたら。
…悟史くんは、身を削って得たぬいぐるみを、絶対に沙都子に渡すはずだ。
だが、悟史くんはぬいぐるみを買ったのに、…………家に戻らなかった。
戻らなかった?
ありえない。
ぬいぐるみを買ったんだから、脇目も振らずに家に帰るはずだ。
ぬいぐるみを買っておきながら、やっぱりどこかへ逃げようなんて思うはずがない。
仮に悟史くんが、警察に捕まりたくなくて逃げ出すにしても。
ぬいぐるみを買うだけ買っておいて、沙都子に渡しもせずに逃げ出すなんて、絶対に絶対にありえない。
とにかく、ぬいぐるみを買ったのは悟史くん! それだけは絶対に間違いない。
問題なのは、どうしてそれを家に持ち帰られなかったのかということ!
あのぬいぐるみは、かなり大きい。
自転車の前カゴになど納まるはずもない。
だとしたら、…ビニール紐でも持参して、自転車の荷台に縛り、よろよろと走るのがせいぜいだ。
そんな状態で、ついでにどこかに買い物に行こうとか、どっか寄り道しようなんて絶対に思うわけがない。
だから絶対に、悟史くんは「郵便局でお金を下ろす」→「おもちゃ屋でぬいぐるみを買う」→「家に帰る」を連続して行なうはずなのだ!
「郵便局」から「おもちゃ屋」まで間違いない。間違いないはず!! 悟史くん以外の人間がぬいぐるみを買ってしまったなんてありえるものか!!! ありえないありえない、絶対にありえない!
あの当日まで、ずーーーーっとあのぬいぐるみはショーケースの中に鎮座していたんだ。
あそこを通りかかる誰の眼にも触れていた。
にも関わらず、あの日まで誰にも売れずにずーーーっと残っていたんじゃないか!
だから悟史くん以外が偶然買ったなんて迷いはありえない!!!
だから「郵便局」から「おもちゃ屋」までは絶対に間違っていないのだ。
むしろ問題なのは、「おもちゃ屋」から「家」の方。
この間にも紛れはありえない。
あんなでかいぬいぐるみと一緒では何もできないのだ。
道草を食う気も起きないはず!
だから、買ったら即! 自宅を目指したはずなのだ!!
でも、…悟史くんの姿はその後、目撃されない。
じゃあ簡単だ。悟史くんは「おもちゃ屋」から「家」の途中で、いなくなってしまったんじゃないか。
いなくなる? いなくなるって何…?
叔母殺しの犯人は、多分間違いなく悟史くんだ。
そして悟史くんは私のようなずる賢さはない。
だから、警察の包囲がじわじわと縮まってくる緊張に耐えかねたのだろうか?
私にあの場を助けられたとは言え、…警察が自分に接触して来たことで、もう自分が犯人だと見破られていると観念した?
それで悟史くんは逃げ出すことにした。
警察に捕まるよりは、ほとぼりが冷めるまで姿を隠す方がマシと判断した??
ありえないありえない!!!
その思考に、「ぬいぐるみを買って、家に帰る途中で」至ることが絶対にありえない!!!
仮にそういう考えに至ったとしても、それは「ぬいぐるみを沙都子に渡し、兄としての務めを果たしてから」行なうことだ。
悟史くんは沙都子を大事にしていた。
あんな甘えん坊、甘えさせるから駄目になるんだと思ったが、とにかくとにかく、悟史くんは沙都子には常に最高の兄であろうとしていた。
だから、家に帰らずに姿をくらましてしまうなんてことが、絶対にあるわけがない!!
心の奥の霜柱が、…心臓の内側の皮を、バリ…バリっと破いてめくりながら、一面に広がっていく。
悟史くんが自分の意思で蒸発することが“絶対にありえない”なら。
対になる答えは簡単だ。
悟史くんは、自分の意思でなく蒸発した。
「悟史くんが、……………消された………………? …あは、………あはははははははあははははははははは!! ば、馬鹿馬鹿しいです、やっぱり退屈な話ですよおじさま。あはははははははあはははははははははは!!」
笑えば、胸の内側にはびこった霜柱をなぎ払えると思った。
そう信じて、馬鹿笑いをした。ずっと。ずっと。
室内の刑事たちが何事かと私を凝視していた。
正気を疑うような顔をしていた。
でも私は知ったことじゃない。…咳き込むまで、ずっとずっと笑い続けていた…。
「あははははあはははは、……あはははは、はほ! げほげほッ! ごほ!!」
……私はそこでようやく冷め切ったコーヒーを口にし、馬鹿笑いを終える。
もう霜柱は心臓の薄皮を破り、ねじれた腸を覆い尽くし、今や背中の皮すら破ろうとしていた。
あまりの寒さに、……コーヒーカップを包む自分の指がカチカチと震えた。
「詩音さん。ちょっと口を挟まずに聞いててほしいんです。これから私がちょいと想像した話を申し上げます。全部全部でっち上げです。だからきっと詩音さんは、あまりのいい加減な内容に吹き出しちゃいそうになるかもしれません。それでも、最後まで黙って聞いていてほしいんです。…約束してもらえます?」
「や、………約束なんて何でもするから…、は、……早く言いなさいよ…。」
全身を包む寒さは、私の上下の歯さえガチガチと鳴らすようになっていた。
私の脳は、すでに霜柱でぎっしりで…思考を失っている。
…だから、…私は自分で考えることができない。…大石の口からそれを知ることしかできないのだ。
自分で考えたくない最低の想像。
だけれども、私が聞かなければならない真実。
「………死んだ叔母が、悟史くんと沙都子さんを虐めていたことは、よーく聞いています。中でも沙都子さんを執拗に虐めていたこともね。……その中で、悟史くんが妹を庇うために、叔母に殺意を募らせていったとしても。私ゃ人として自然な流れだと思います。」
私は悟史くんが叔母殺しではないと否定しなければならない。
…だけど、大石の言っていることは実際本当で、…事実に違いなかった。
だから、大石のそれを否定できず、…結果的に私は約束通り、沈黙を守った。
「………ここからは空想ですよ?! 絶対に怒らないで下さい! 口を挟むのもなし! いいですね?!」
「わ……わかってるから…! 早く続けなさいよ!!」
「北条悟史は、叔母殺しを計画し、実行した。えぇもちろん証拠なんてありませんよ?! ぜーんぶ私の妄想です。」
「わかってるって! あんたの妄想なのは百も承知! だから早く続けて…!!」
「ここで話は変わります。…詩音さん。あなたは悟史くんとの交際を禁じられたんですよね? もう忘れろ、二度と関わるなと念を押されたんですよね? それは実は、不仲な両家の関係を忌み嫌ったからでなく、……殺人犯と園崎家の令嬢が恋仲であることに問題があったんじゃないかって思ったんです。」
………それは……考えられない話ではなかった。
なぜなら、…私が詩音だとバレる以前。
魅音である内からも、悟史くんとの交流はあったのにお咎めがなかったからだ。
敵対する北条家と園崎家が恋仲になるのが問題がある…というのなら、私たちが雛見沢ファイターズにいた頃に、咎められていてもおかしくない。
園崎本家が、悟史くんが殺人の実行犯だと知るのは、雛見沢の内側にあってはあまりに容易だ。
ひょっとすると、殺害する現場の目撃くらいはしているかもしれない。
だからその時点で、園崎本家は殺人犯と恋仲にある私の存在が、急に疎ましくなり………放置できなくなったのだ。
「あと、…あなた、諦めが悪いことでも知られてるんじゃないですか? つまり、園崎本家に悟史くんとの縁を切れと脅されて、爪を剥がされても。悟史くんとの縁を切りかねていましたよね?」
否定できない。
確かに、雛見沢にアクセスする方法のほとんどを失ったから、事実上、悟史くんとの縁が切れたと言ってもいい。
だけど、私は悟史くんの電話番号を知っていたし、その内、雛見沢ファイターズに帰ってきてくれることを期待していた。
「園崎本家は、悟史くんとあなたの縁は、ちょっと脅しただけじゃ絶対に切れないとわかっていたと思います。あなたをいくら脅してもどうにもならない。
じゃあ、……もうひとりの方をどうにかするしかないですよね…?」
「どど、どうにかって何ッ?!?! どうにかって何よ!!! 何!!なに!!!!」
私を脅してもどうにもならないなら。…悟史くんの方をどうにかする。
どうにかって何?!?!
どうにかしたら、「おもちゃ屋」→「家」の間が千切れるわけ?!
「おもちゃ屋」→「家」!!
「おもちゃ屋」→×→「家」ッ!!!
×って何?! ×って何よ?!
×は矢印を途切るもの。途切ったって何ッ?!
何が途切れると、どうして悟史くんが「おもちゃ屋」から「家」へ辿りつけないの?!?!
どうしてどうしてどうしてッ?!?! ×って何!! ×!!!
私は酸欠と眩暈を起こし、ストンと後に倒れる。
…床は硬くて冷たいフロアタイル。
……なのに何の痛みもなく、私はふわりと、ストンと、自分がセルロイドの人形にでもなったように倒れた。
大石たちが慌てた顔をして何人か駆け寄ってきて、私を起こしてくれた。
「落ち着いて、詩音さん。…悟史くんが殺されたとはまだ限りません。」
殺されたとは限らない?!
何を寝惚けたことを言ってるんだこいつは!!
私が爪を剥がされたあの地下拷問室を知らないのか!
あそこの奥には岩牢があり、さらに奥には死体を捨てる井戸まであるという噂じゃないか!!!
園崎本家が、悟史くんをより安全に確実に消そうと思ったなら、あの拷問室で殺して死体を処理するに決まってるッ!!!
それを殺されたとは限らない?! 馬鹿かこいつは、頭が豆腐なのか!! 私が鬼婆だったら絶対に殺す!!! 逃走資金を貸してやって雲隠れを促すようないい加減なことなど絶対しないッ!! 私だって殺そうと思うのに、鬼婆が殺さないわけなどあるものかああぁッ!!!
「詩音さん落ち着いて。これはまだ未確認情報ですが、名古屋駅で家出人風の若者を見たという情報が入っています。東京行きの新幹線に乗ったそうです。服装の特徴などが一致しませんでしたが、警察の追跡等を意識して衣替えをしている可能性もあります。服装が違うから、悟史くんでないとは言い切れませんよ。」
「…い、…生きてるの?! 悟史くん……、生きてる……?!」
「ここからもまた私の想像になりますがね。あなたの双子のお姉さんの魅音さん。次期頭首ということで、園崎お魎の身近にいますよね? 園崎お魎はおそらく最初は、悟史くんをこっそり殺してしまおうと提案したと思います。それを、あなたのお姉さんが止めたんじゃないかと思うんです。」
……魅音が? …………それは、ありありと思い描ける想像だった。
魅音が、下手な情けを掛けてくれた可能性は確かに高い。
あの馬鹿は時々曖昧だ。
救うなら救う、情けをかけるなら情けをかける!!
そこがきっちりとしない。どうせ、悟史くんを殺すという罪に耐えられなくて、追放という形にして自分のための言い訳にしたんだろう。
「おそらく園崎本家は、悟史くんと接触したでしょう。今回の事件は庇いきれない、だから自分の身は自分で守るために、どこかへ姿を隠せと忠告したはずです。…いや、強要したと言った方が似合うでしょうね。」
「悟史くんは絶対拒否すると思います。だって、あの悟史くんが妹をひとり残して雛見沢を離れられるわけがない!!」
「私もそう思います。…確か、悟史くんは園崎魅音さんの紹介でバイトをしてましたよね? だから、悟史くんに逃走資金になるまとまったお金があることを知っていたと思います。」
「でも、悟史くんはそのお金をぬいぐるみを買う以外には絶対に使わないはずです。」
「でしょうねぇ。悟史くんは貯金を下ろしたら、迷うことなくおもちゃ屋に向かうでしょう。
でももしですよ? 悟史くんがおもちゃ屋にたどりつくと、…もうぬいぐるみが売れてしまっていて、なくなっていたら。」
それは……………………信じられないくらいに寒々しい、荒涼とした光景だった。
長く、辛い日々だった。
…叔母に苛まれて心をすり減らし、…バイトをいくつも掛け持ちして体をすり減らし。
……その末に掴んだお金。
それを握り締め…彼は唯一の目的だった、妹への誕生日プレゼントを求めて、おもちゃ屋へ駆け込んだのだ。
そして、今までもそうしてきたように、ショーケースにその姿を探したはず。
しかし、…そこにあるはずの大きな姿はなかった。
でも、悟史くんは楽天的だから。
…それを見ただけでは焦らなかったろう。
…自分が今日買いに来ると伝えてあるから、ひょっとするともう包装してくれているのかもしれない。
…そう思い、うきうきとしながら、お店ののれんをくぐったに違いない。
………そして、……店内で、どんなやり取りがされたのか。
想像するだけでも、……胸が張り裂けそうになる。
予約をしたはずなのに。何でないのか。
あのボケた老人はその抗議すら、理解できずに呆けていたのだろうか…?
……いや、あの老人でなくても結果は同じだったかもしれない。
園崎本家の強面が徒党を組んでやって来て、現金をレジに叩き付けたなら、予約だから売れませんなんて言えたはずもない。
悟史くんはその内、抗議の言葉を失っただろう。
……いくら叫んだって、…ないものはないのだから。
………夢にまで見た日が、…絶望に塗りつぶされるなんて、想像できたはずもない。
ふらつきながら…時に電柱に身を寄りかけながら。…悟史くんは苦悶しただろう。
沙都子を一番喜ばせてあげたい日に。
沙都子が一番期待していたぬいぐるみが用意できなかったのだから。
悟史くんは……他のものを代わりに買うなんてことはきっと思いつかなかった。…だって、買えないことなんて、想像しなかったのだから。
悟史くんが…空虚な、………信じられないくらいに…寂しい笑顔を浮かべて。
……最高のプレゼントを買って帰ってきてくれる自分を待つ沙都子の笑顔が、……失望に変わるところを想像している。
今日までに貯めた十何万かのお金なんて、………もう紙切れでしかない。
悟史くんって、……辛くても泣かない人だった。
あの人、……涙の流し方、………知らないんじゃないかな。
だって、…いつも泣くのは妹の沙都子だったから。
…だから、悟史くんは…涙を流すにはどうすればいいか、知らないまま大きくなって。
涙ってね…?
……流すことで、…心の中の悲しみを、少しでも外へ洗い流すために流れるんだよ……?
悟史くんは、それすらできなかったんだ。
張り裂けそうな悲しみで、胸をいっぱいにして。…それを吐き出すこともできなくて。
「…………妹をひとり残して雛見沢を離れられない、と言いましたね。……でも、もしも。…園崎本家が、…残った沙都子さんの面倒は見るって言ってあったとしたらどう思います。」
……買うはずだったぬいぐるみはもうなく。
…手元には十万ちょっとのクシャクシャの現金が残るだけ。
………園崎本家は、警察が逮捕に来るのは時間の問題だから、どこか遠方に逃げろと言う。…そして、……沙都子の面倒は見てくれるとも。
悟史くんは沙都子に合わせる顔がなかった。
………そのまま、……ふらふらと……、興宮の駅前に………。
心の中で何度も何度も。最愛の妹に謝りながら。
……いつかきっと帰ってこれることを信じて。そして名古屋へ。…そして東京へ。
でも、……なら生きてる。
……生きてるんだ。
…生きてるならきっと会える。
…悟史くんは帰ってくるつもりなんだから、絶対に会える…!
「そうして、ずっと遠方に隠れ家か受け入れ先を用意してくれたんじゃないかと思います。悟史くんは、そこを目指したのでしょう。」
「じゃあ……無事なんだ。……いつか、帰ってくるんですよね……?」
大石は伸びをしながら天井を仰ぐ。
返事はしなかった。
昭和57年6月24日、北条悟史が失踪した。
北条悟史は同月20日に発生した、撲殺事件の容疑者の可能性が高いとして、警察は逃亡を図ったものと見て、その行方を追っている。
当初、名古屋駅で彼と思しき少年が、東京行きの新幹線に乗車したという情報があったが、真偽のほどはわからない。
その後の足取りは不明。
実際のところ、行方はおろか、生死すらもわかっていない。
■幕間 TIPS入手
■ノートの34ページ(6日目夜終了時)
悟史くんが東京へ行った、という怪情報の裏付けは全く取れない。
そもそも情報の発端はこうだ。
名古屋駅の遺失物窓口に若者が訪れて、自分の財布が届けられてないかと騒いだのだ。
それで駅の職員が、届け出がないか調べてきますからその間にこちらにお名前を書いてください、と用紙を渡した。
そうしたらその若者は、北条と書きかけてからその用紙をくしゃくしゃにして捨て、もう1枚の用紙に全然違う名前を書いた、というのだ。
別の職員は、その遺失物窓口を訪れた若者と、服装が酷似した若者が東京行きの新幹線に駆け込むのを見ていた。
更衣室で遺失物窓口にいた職員が、不審な人物が来たと特徴を話したら、ホームにいた職員が、あぁ見た見た、東京行きの新幹線に飛び乗ったぜ、と。そう言い合ったらしい。
……それだけのこと。
その北条を名乗った男の申告する特徴の財布は、遺失物窓口には届いていなかった。
■ノートの42ページ(6日目夜終了時)
大石の言う、沙都子の面倒を見るからと園崎家が言い含め、悟史くんを雛見沢から放逐した……というのは、最初、こじつけた話だなと思って聞いていた。
だが、後になって考え直して見ると、それは私が馬鹿にするほどズレた話でもない。
だって、北条沙都子は、ひとりになったあと、古手梨花と生活を共にしているのだ。
古手梨花はただの小娘じゃない。
御三家の一角、古手家の頭首でもあるのだ。
その古手梨花は、公由家頭首が保護者になっている。
さすがに北条家と対立してきた園崎家は表に出ることはできなかったんだろうが、事実上、北条沙都子は御三家の保護下に入っていた。
ダム戦争中、鬼ヶ淵死守同盟からあれほどまでに攻撃をされた北条家の生き残りが、御三家に保護されているなんて。
それはまるで北条家の罪から、沙都子だけが許されたような、そんな感じ。
どうして悟史くんは許してもらえなかったのに、沙都子だけ?
■数週間後、異常者が自白
「え? 今、何て?」
「信頼できる筋の噂ですが、悟史くんの叔母殺しの犯人が見つかったらしいです。」
叔母殺しから、数週間が経過していた。
もちろん、悟史くんの行方はまったくわからない。
…何の新情報もなく、進展もない。
そんな中で急に葛西が言ったのだった。
「それって、警察が逮捕したって意味?」
「聞いた話では、逮捕というより、別件で取調べを受けていた男が余罪として自供したんだとか。」
…葛西の言葉には違和感があった。
つまり、その犯人が悟史くん本人であるならば、葛西の言い方はこうはならない。
まるで、悟史くんでない人間が犯人だったとでも言うように。
「……葛西。結局、犯人って、誰だったの…?」
悟史くんじゃなかったの…? そう続けそうになるのを喉元で止める。
私は悟史くんに違いないと、そう思っていた。
いや、おそらく警察も、大石もそうだと思っていたに違いない。
大石が私にああいうカマをかけてきたということは、大石自身、悟史くんが犯人に違いないと確信していたからだ。
「ご安心を。悟史くんではないようですよ。連続怪死事件を模倣した異常者の犯行…というような話みたいです。」
「はい??………異常者? なにそれ?」
葛西は肩をすくめる。
「さぁ、…私もそれ以上は。…何しろ、今回の事件は秘匿捜査指定というものがかかっているんだそうです。なので、ほとんど情報が出回らないんです。」
「秘匿捜査? 何それ。」
「連続怪死事件による、村への風評被害対策ということらしいです。誘拐事件なんかでも犯人との交渉が行なわれている間は新聞に載らなかったりするでしょう。あぁいう類のものらしいです。」
そう言えば、…テレビでも新聞でも、叔母殺しを見た覚えはなかった。
「何しろ、4年連続で綿流しの日に事件が起こっているわけですからね。オヤシロさまの祟りだと騒いで面白がる輩も多いそうですし。そうそう、何でもその叔母殺しの異常者ですが、連続怪死事件を模倣したくて行なったと自供したんだとか。」
「………………………。」
葛西はそれ以上を知らないというので、私はしつこく問い掛けず自問する。
……正直なところ、意外だった。
悟史くんが犯人だと思っていた。
…だからこそ、悟史くんが失踪しなければならなかったのだと思ってきた。
でも、…信じられないことに、叔母殺しの犯人はどこの馬の骨とも知れぬ輩だったのだ。
じゃあ………悟史くんは、叔母殺しとは関係ない?
なら、関係ないなら。
どうして、失踪しなければならないの…?
正直なところ…突然、ひょっこりと現われた真犯人を、私は受け入れきれずにいた。
それから、葛西が言った『4年目の連続怪死事件』という言葉にも違和感を感じた。
今年の事件は、悟史くんが追い詰められ、止むに止まれぬ思いで至った悲しい単独の事件であって、……昨年までの連続怪死事件とは何の関係もないと思っていたからだ。
悟史くんの事件が、…悟史くんの事件でなくなっているような、違和感。
雛見沢村連続怪死事件は、通称「オヤシロさまの祟り」と呼ばれる。
悟史くんの事件が、連続怪死事件に組み込まれた。
…つまり、悟史くんの事件が、「オヤシロさまの祟り」に組み込まれた。
嫌な言い方だ。
さらに縮めると、“悟史くんが「オヤシロさまの祟り」に飲み込まれた”なんて風に読めたから。
■大石と接触
「えぇ、残念ながら。例の、東京行きの新幹線に乗ったらしいという情報も確認が取れないままです。正直なところ、県の中にいるのか外にいるのか、それすらもわかっちゃいません。」
大石は新しいインスタントコーヒーの瓶の内蓋を剥がしながら言った。
「あれだけ胸を張って、悟史くんが犯人だと息巻いていたから、もう行方を掴んでるとばかり思ってました。」
「なっはっはっはっは。いやいや、情けない限りです。」
からからと笑いながら、大石は熱すぎるお湯で作ったコーヒーを私の前に置いた。
「……しかし、耳が早いなぁ。」
「はい?」
「秘匿捜査指定だってのに、どこの誰が漏らしてるやら。…やれやれ。ウチの防諜も問題があるなぁ。」
大石はにやりと意味ありげに笑う。
どうやら、私がここへ来た目的は察しているようだった。
「まぁ、腐っても園崎の端くれですので。多少の噂は耳に出来ますということで。」
私も意味ありげに笑ってみせる。…こういうのははったりを利かした方の勝ちだ。
「まぁいいか。腹を割りあった仲ですしねぇ。いいですよ、おしゃべりしましょう? んっふっふ。」
「まず聞かせて下さい。真犯人って、一体何者です? 異常者とか聞きましたけど、それってどーゆうことですか?」
「なっはっはっは! どーゆうことって言われたってねぇ…。そりゃ私だって言いたいですよ。……私は悟史くんが犯人の一点読みでしたからねぇ。とんだ万馬券が飛び出したもんです。」
大石はソファーにドカっと腰を下ろして両腕を頭の後ろで組むと、天井を仰いで、苦笑いしながら続ける。
「………先日ですね、県警の方から急に連絡が来たんですよ。すでに逮捕して取調べをしている男が、主婦殺しを自供したって。」
「それは何者?」
「ヤク中の頭がトンチンカンな野郎でしてね。シャバに戻る度にヤクに手を出しては捕まるの繰り返しだそうです。雛見沢村連続怪事件が面白そうだったんで、4年目の祟りは自分が下してみたくなった…とか何とか。」
「……間違いなくそいつが犯人?」
「私が直接話を聞いたわけじゃないんですがね。…先方が取った供述調書には、いわゆる『犯人しか知り得ない情報』ってヤツががっつりと含まれていたんですよ。凶器を王子川のどこかで捨てたって言ってましてね。今はドブさらいの最中ですよ。これで供述どうりに凶器が発見されれば完璧でしょうなぁ。」
「…たとえ凶器が見つからなくても、概ね確定?」
「確定でしょうなぁ。現場の状況とホトケの状況を正確に供述しています。襲った本人にしか分からないような、細かい辺りまでね。」
「……………納得は、…いってないみたいですね?」
「……………………………………。」
大石は天井を見上げたまま、足を組み、しばらく沈黙していた。
「実はね、そのトンチンカン。とっくに亡くなってるんですよ。うちに連絡があった時にはすでに。」
「亡くなってる?」
「……給食とかに出てくるでしょ、先割れスプーン。留置所の食事にもあれが出てくるんですよ。そいつを飲み込んで窒息したんだとか。…自殺なのか錯乱なのか、ちょっと区別がつかないですがね。」
スプーンを飲み込んだところを想像し、自分の喉が苦しくなり、私はほんの少し咽た。
「だから充分に納得するまで調べられたわけじゃありません。……私は納得できないんですがね、…上の方は充分に納得しちゃったようでした。どうもそのトンチンカンが主婦殺しの犯人ってことで決着しそうな流れです。」
大石は視線を天井から私に戻した。
その顔は、ほんの少し真剣だった。
「…こりゃあ個人的な意見ですよ? 他の誰にも内緒ということで。
…………私ゃ、このトンチンカンは何かの間違いだと思ってます。」
「………………。」
「何かの偶然による壮大な勘違いか、もしくは、…………………ねぇ?
なっはっはっは。」
「全然意味わかんないですよ、大石のおじさま。」
「私は今でも、犯人は北条悟史くんだと思っています。」
「………きっぱり言い切りますね。」
「残念ながら、現場検証では犯人を特定できるような痕跡は何一つ発見できませんでした。悟史くんが失踪した後、家宅捜査の許可が下りましてね。家を改めさせてもらいましたが、それでも手掛りはゼロ。」
「……それでも、悟史くんが犯人だと疑ってる?」
「えぇ。」
「…証拠もないのに、どうやったらそこまで人を殺人犯呼ばわりできるのやら。大したもんです。永年の勘ってやつですか?」
「えぇ。この道で何十年もメシを食ってきた男の直感です。」
大石は得意げに笑って見せたが、私は別にそれに頼もしさを感じることはなかった。
「………悟史くんは…どこへ。」
「悟史くんが失踪した理由のひとつこそが、彼が犯人であるからだと固く信じていたんです。悟史くんが犯人でないなら、…その辺りがかなり薄れちゃいますからねぇ。」
「…………叔母殺しの犯人はそのヤク中単独犯で、悟史くんの失踪とは無関係。……悟史くん失踪は、私と悟史くんの仲を裂くために、園崎本家がやったもの。叔母殺しとは無関係、という考え方は…?」
悟史くんは加害者なのか。被害者なのか。
…悟史くんが失踪した理由がどんどん曖昧になり、霞んでいく…。
「んーーーーーーーー………………。……私は仇敵との恋仲程度で、人ひとりを失踪させるなんてリスクを冒すとは思わないんですがねぇ。
………実際、園崎家の内部としてはどうなんです?……詩音さんはその辺り、何かご存知?」
「知っていたら、こんなとこに来ません。」
「なっはっはっは。ごもっともごもっとも。」
大石は頭を掻きながら大きく笑った。…その笑いが収まると、身を乗り出しながら言った。
「よぅし、ならひとつどうですかねぇ。協定を結びませんか? 紳士協定。」
「協定? 何のです?」
「悟史くん失踪事件、捜査情報共有協定。…裏の界隈で悟史くんの失踪に関する情報を得られたら、私にも教えて下さい。もちろん私も、悟史くんについての情報が入ったら、あなたに提供します。……いかがです?」
「何だか一方的な、虫のいい話に思えますけど。」
なっはっはと大石は苦笑いをした。
「……詩音さん。………このまま行くと、主婦殺しの犯人はすでに死んでるトンチンカンってことで確定すると思います。そうなると、悟史くんの扱いは単なる家出人になります。
つまり、積極的な捜査は打ち切られるということです。」
「………………………。」
「ですが、私だけは続けます。私だけは悟史くんの行方を引き続き捜します。
…詩音さんも私も、悟史くんの行方を捜しているという点では一致していると思うんですがねぇ?」
「目的が全然違いますがね。私は単に無事を確認したいだけですが、大石のおじさまにとっては逮捕が目的でしょうから。」
「んっふっふっふ…。主婦殺しが決着すれば、悟史くんは無実ってことになりますよ? 真実はどうかは別にしてもね。」
「…あやしいもんです。」
「なっはっはっはっは…。」
大石は再び下品に笑った。だが眼光だけはふざけていなかった。
「…………ま、今後も仲良くやりましょう。敵の敵は味方とも言いますしねぇ。」
「別に私、園崎本家と敵対しているわけじゃありませんよ?」
「あ、ホントに? なら、そりゃ失礼。んっふっふ…。」
大石蔵人か……。
…なるほど、お姉や葛西も言っていたが、敵には回したくないし、かと言って味方にするのも油断できない。
一筋縄では行かないなかなかのタヌキのようだ…。
喉なんか渇いていないけど、…間を取るためにひとくち、コーヒーに口を付ける。
…窓の外には、私が普段過している当り前の世界の光景が広がっている。
でも、……その当り前の世界に、悟史くんだけがいない。
当り前の世界に、当り前のようにいない。
…そしていつか、悟史くんがいないのが当り前になるのが、怖い。
…………悟史くんは、……どこにいるんだろう。
「………………………悟史くんは……どうしてるんだろ。」
「……………無事だといいんですがね。」
「ちぇ。………生きてる可能性は薄いとか思っているくせに。気休め言わないで欲しいです…。」
「悟史くんの失踪、雛見沢じゃなんて言われてるか知ってます?」
「え?」
「…『鬼隠し』にあった、なんて言われてるんだとか。」
鬼隠しというのは、神隠しと同じ意味だ。この辺りならではの方言と言っていい。
「…………鬼ヶ淵沼の底の、鬼の国にさらわれたって?………馬鹿馬鹿しい…。」
「兎にも角にも、連続怪死事件もこれで4年目です。
…気の早い話ですがね、来年もまた起こるんじゃないかなんて、もう囁かれてるんだとか。」
「叔母殺しが、オヤシロさまの祟りのせいだって言うんですか?」
「…全体的に見てみれば、ホトケも北条家のひとり。ダム戦争の戦犯と縁がないわけじゃないですからね。しかもまたしても綿流しの日にとなれば、面白がる連中が現われるのも、無理もないことです。」
「……………………馬鹿馬鹿しい。何がオヤシロさまの祟りだ。」
そう口にしておきながら、…私は不吉な気持ちを払拭できずにいた。
悟史くんが消えたのは、……どうしてなのか。
私との恋仲を咎めた園崎本家の仕業?
警察に追い詰められてどこかへ逃亡した?
そもそも、悟史くんは叔母殺しの犯人なのか?
だからそもそも、悟史くんはどうして失踪したのか?
悟史くんは悟史くんだ。オヤシロさまの祟りなんて関係あるもんか。
でも、……………あれ? 不快な違和感。
悟史くんとオヤシロさまの祟り。
………この2つを口にした人がいた気がする。
…えぇと、…私はいつそんな話を聞いたんだっけ…。
そうだ。……あの雨の日だ。
バスの停留所の小屋で雨宿りしながら、…竜宮レナが口にしたんだ。
「あ、」
あの時、……竜宮レナがした薄気味悪い話が脳裏に蘇る。
「悟史くんは心のどこかで。……雛見沢を捨てて、どこかへ逃げ出したいと思ってるから。」
竜宮レナは、そう言った。
そう、レナは、悟史くんが雛見沢を捨てて逃げたがっていると、はっきりあの時点で口にしていた。
そして、…そうだ、こうも言った。
「悟史くんが体験していることは全て、…オヤシロさまの祟りの前触れなの。」
言った。確かに言った。
オヤシロさまの祟りと、はっきり言った。
4年連続した、雛見沢村連続怪死事件。
……悟史くんは、…オヤシロさまの祟りに操られるようにして…叔母を殺し、『鬼隠し』にあって消えてしまったのだろうか……?
……………………馬鹿な。祟りなんてあるものか。
私の心の中の悟史くんの笑顔が、どんな歪んで霞みながら…消えていく………。
■ここでまた数週間の経過があります。
■図書館で
…冷房の風がきつく感じるようになったので、私は他の席に移った。
大学ノートとキーホルダーのじゃらじゃらついた筆箱、ミルクが浮いて薄い膜になってしまったミルクティーの紙コップ。
それらをまとめて、席を移動する。
私は腰を下ろすと再びノートを広げ、自分の考えを書き出しながら、沈思黙考の世界に戻った。
雛見沢村連続怪死事件。
通称、「オヤシロさまの祟り」
1年ずつの事件を個別に見てきた私を含むほとんどの人にとって、それは「連続事件」であっても、あくまでも個別の事件の連続であって、「ひとつの大きな事件」という認識は不思議と薄かった。
だが、こうして過去の事件を書き出せば、これらの連続した事件が全てあるひとつの思惑で起こされていることは明白だった。
犠牲者を書き出す。
1年目の現場監督。
2年目の悟史くんの両親。
3年目の神主さん。
4年目の悟史くんの叔母。
……4年目に関してだけは、悟史くんの叔母より、悟史くん本人が犠牲者と言えるかもしれない。
ダム戦争時の遺恨というラインからこれらをなぞると、それらは簡単にまとめられた。
まず1年目。
現場監督が殺されたのは、彼の存在自体が、ダム戦争の目に見える形での敵のシンボルだったからだ。
ダム戦争時の真の敵は、もちろん建設省や政府なのだが、それらは言葉上のもので、具体的に敵をイメージするには曖昧だった。
そこへ行くと、敵対心を剥き出しにして村人たちに口汚く怒鳴り散らすあの現場監督は、村の敵として一番イメージしやすい存在だったのだ。
…本当の意味で、オヤシロさまが祟りを下すなら、それは建設省や政府のトップに対してだと思う。
「村人」が一番イメージしやすい「敵」に祟りが下されたこと自体が、村の意思がターゲット選定に反映している証拠みたいなものだった。
次に2年目。
悟史くんの両親の事故。
…公園の柵から転落したことになっているが、真の意味で事故かどうかは怪しいものだ。
悟史くんの両親は、現場監督が「敵」なのだとしたら、村人でありながらダムに賛成した「裏切り者」に位置付けられた。
実際、ダム戦争中は北条家を徹底的に叩き、ある種の見せしめにすることで、ダム賛成派が現われるのを抑止していた。
ゆえにダム戦争中は、「裏切り者」という重要なポストゆえに、プロパガンダのための「必要」な存在だったのだ。
だからこそ。
…ダム戦争が終わり、彼らは用済みになった。
外の敵の象徴である現場監督。
内の敵の象徴である北条夫妻。
この2つが2年かけて祟りに遭い、ダム戦争の怨念は清算されたかに見えた。
だが、実際にはもう1年清算が続いた。
そして3年目。
御三家の一角を担う古手家の頭首でもある、神主さんが突然病死した。
妻はその夜の内に入水自殺したという。
自分の命でオヤシロさまの怒りを鎮める、そんな旨の遺書が残されたと言う。
もっとも、病死にしても、自殺にしても、不審さは拭えないが。
神主さんを園崎家が快く思っていなかったのは、以前、魅音が自分で認めた。
反ダムで村中が結束すべき時期に、神主さんは日和見的な立場を取ったことが、タカ派の人間たちには不愉快だったのだ。
裏切り者とまでは行かないまでにも、非協力者には違いない。
こう考えると、1年目から順に、「敵」「裏切り者」「非協力者」と、その敵対度に応じて順番に「祟り」が執行されていることに気付く。
そう、「祟り」とはつまり、「けじめ」なのだ。
ダム戦争時の戦犯への制裁に他ならないのだ。
…そして、4年目。
4年目の事件は、……正直なところ、よくわからない。
私は初め、この事件は4年目に連なりはしても、単独のものだと信じてきた。
過去3年の連続事件とは無縁の、まったく別の事件だと思ってきた。
だが、叔母殺しを、こうして客観的に書き出してみると。
……犠牲者の叔母は「裏切り者の縁者」だ。
「敵」「裏切り者」「非協力者」に続く、犠牲者の系譜に「裏切り者の縁者」と付け加えても、そう違和感はない。
4番目の序列として、妥当に思える。
村の守り神であるオヤシロさまを祀る祭りの当日に、ダム戦争の戦犯たちを年々「祟殺し」ていく。
そう、私が園崎本家で「けじめ」を取らされたみたいに、彼らの罪を清算していく。
…こうして書き出してみると、4年目のこの事件すらも、連続怪死事件の一部なのではないかと思えてくる。
犯人が悟史くんであれ、自供したという麻薬常習者であれ。…この4年間連続したシナリオに組み込まれた「実行犯」でしかないのではないか。
仮に悟史くんが犯人で、…家庭環境に起因する同情の余地のある動機だったとしても。…その結果は、ダム戦争の遺恨の清算を司る「雛見沢村連続怪死事件」に充分に組み込まれている。
……悟史くんが悲壮な決意を持って起こした事件。
だが、それらが全てシナリオに組み込まれていたとしたら…?
悟史くんに、あの日、あの晩に、あの場所で。
……叔母を撲殺することを入れ知恵した何者かがいる、ということだ………?
……悟史くんが妹思いで、沙都子を守るために、悲壮な決意をしたことは疑わない。
だけれども、…本当に「自分だけの意思で」、叔母殺しを思いついたかは謎だ。
私のよく知る悟史くんは、…あのどこか楽天的で、ちょっと抜けた感じの悟史くんは、……いくら妹の為とは言え、…自分だけの思いつきで、叔母殺シヲ計画デキタノカ…?
例えば、…殺人計画リストのようなものがあって、予め叔母は4年目に殺すことが決まっていたとする。
そして、悟史くんたちの特殊な事情を何者かが巧みに利用したのではないのか。
そして、その何者かと接点を持つ悟史くんは……消された?
そうやって考えると、殺人事件という意味では性格の似る1年目の現場監督殺しにも共通する。
主犯格の男は、警察の徹底的な捜索にも関わらず、今日まで何も行方は掴めていないからだ。生死すらわからないという点においても一致する。
犯人である作業員たちは、ちょっとした喧嘩から殺し合いになったと証言しているらしいが、…それが主犯格による「扇動」だとしたら?
その日、その時間、その場所で、殺しを実行するよう何者かに入れ知恵されていたとしたら………?
そう。1年目の事件は、…4年目の悟史くんの事件とあまりに似ているのだ。
なら…………悟史くんは…誰かの手の平の上で踊らされたのだろうか…?
大石はあの時、悟史くんの失踪は、殺人犯と私の仲を清算するためのものだと仮説を立てて見せた。
…だが、今、こうして箇条書きにしたノートを読み返すと。悟史くんの失踪は、そんな突発的なものでなく、ずっと前から組み込まれた「予定」だったように思えるのだ。
その「予定」に、私という予定外が絡んだので、私に対して引き離しが行なわれた。
そして、間髪入れずに…悟史くんは「予定通り」に、『鬼隠し』にあった…。
私も最初、悟史くんが失踪した理由を、園崎家次期頭首の双子である私と、裏切り者北条家の悟史くんが恋仲であることを対外的に許せなかったため…と思っていた。
……でも、何かが違う。何か違和感があるのだ。
悟史くんの失踪に、…私は関係ない。
私と悟史くんの出会いがたとえ、なかったとしても。…悟史くんは昭和57年の6月に叔母を殺し、…失踪したに違いないのだ。
私は、一時期、鬼婆に復讐しようと考えていた。
鬼婆が、私と悟史くんの仲を引き裂くためにやったものだと信じていたからだ。
だが、私たちの仲が関係ないとしたなら。
……………これは一体、どういうことなのだろう。
……悟史くんを失踪させたのは、一体、何者なんだ…?
それを知ろうとするには、…私はこの「雛見沢村連続怪死事件」に挑まなければならないのだ。
この事件は何なのか? 何者たちが何のために、いつまで起こし続けるのか…?
その意図は、目的は。そして犯人は。
そして、……誰が悟史くんを。
その中で、悟史くんの生死に迫れたなら。……………………。
…「雛見沢村連続怪死事件」とはすなわち「オヤシロさまの祟り」のこと。…オヤシロさまの祟りとは何なのか…?
オヤシロさまというのはそもそも…。どういう神さまだったっけ…?
どんなご利益があって、どんな祟りがあるんだっけ…?
私の考えが、口を突く代わりにシャーペンの先に、文字となって紡がれていく。
オヤシロさまとはオヤシロさまとは。私の迷走する思考を、そのままに字に書き出していく…。
だから。
自分の後ろに、さっきからずっと人の気配があって、しかもその人が覗き込んでいる、それもさっきからずっと、というのに気付いた時。私は悲鳴にも似た声を出して驚かざるを得なかった。
■鷹野三四
「…………ごめんなさい。驚かせちゃったかしら?…くすくす。」
知的な女性がいたずらっぽく笑った。
「い、いえ。びっくりしただけです。…こちらこそ素っ頓狂な声を出してすみませんでした。」
私は軽く謝るが、私を後から覗き込んでいた彼女だって謝ってくれてもいい。
そう思ったが、彼女は謝るどころか、私の顔をまじまじと見つめる…。
「……………………………あなたが、園崎詩音さん?」
「……………私の名前を知ってて、私が初対面ということは、…お姉の知り合いか何かですか?」
こういう時、双子というのは不愉快だ。
向こうは勝手に私のことがわかるくせに、私は向こうのことがわからない。
「くすくす、ごめんなさいね。私の知っている園崎さんは、図書館なんかに来るような人じゃないから。噂に聞いた、双子の詩音さんかなと思って。」
女性は愉快そうにくすくすと笑った。
「お察しのとおり、私は園崎詩音です。どうも初めましてこんにちは。失礼ですが、どちら様ですか?」
「あら、ごめんなさいね、自己紹介がまだだったわね。」
髪が自慢らしく、彼女は髪を掻きながら言った。
「鷹野三四。三四って呼んでくれていいわよ、詩音ちゃん。」
「お気遣いありがとうございます、鷹野さん。」
私は先ほどから、何か小馬鹿にされているような感じがして不愉快でしょうがなかった。
私は初対面の人に見下されることほど嫌いなことはない。
だから、拒絶を示すと、ノートを閉じて席を立とうとした。
「あら、…………怒ってる?」
「ご賢察、痛み入ります。私はひとりで考え事をするのが好きなんで、他所へ行かせていただきます。失礼します、御機嫌よう。」
「…残念ね。私たち、話が合うと思ったのに。」
「そうですか? 私は合うとは思いかねますが?」
「だって、オヤシロさまの祟りについて研究する同志に出会えたんですもの。貴重な出会いだと思うんだけど…?」
私の顔が、かーっと赤面する。…ノートの中身をしっかり見られた。
「こ、…これは、私の、そう妄想みたいなもの! でたらめです。子どもの落書きなんか放っといて下さい!」
「オヤシロさまの祟りと呼ばれる一連の連続怪死事件。何れの事件も個別に見えながら、確実にひとつの意思に基づいて行なわれている。毎年、1人がオヤシロさまの祟りに遭って死に、1人が生贄に捧げられて失踪する。」
「は、…はぁ? な、何を急に言い出すんですか? 1人が祟りで死んで…1人が……何ですって…?」
唐突に奇怪なことをまくし立てられ、私は面くらってどもる。
…だがすぐに、何かとんでもないことを言われたことに気が付いた。
「雛見沢村連続怪死事件の犠牲者が常に偶数人数だってことは、あなたも気付いてたんじゃない?……それとも、まだそこまでには至ってなかったかしら?」
犠牲者が常に偶数人…??
私は混乱する頭を整理しながら、これまでの事件を思い返した。
1年目は現場監督が死んだ。
1人のはず。
2年目は悟史くんの両親だから…2人。
3年目は…神主さん1人。…いや、妻の自殺も陰謀なら、2人と言えなくもない…。
そして4年目は、叔母が死に、…悟史くんが失踪した。
悟史くんの失踪も陰謀なのだとしたら、…確かに犠牲は2人。
…本当だ。1年目の事件を除けば犠牲者は常に偶数人数、つまり2人だ。
いや待てよ。
…1年目の事件は4年目の悟史くんの事件に酷似するとさっき自分で結論付けたじゃないか。
主犯格が未だ行方不明であることは、悟史くんと同様に、『鬼隠し』で消された可能性も否定できないと。
「…………………………。」
「ね? そうでしょ?」
まるで、難解な数学の問題を、黒板の前で解き明かしていくように、鷹野さんは私を諭した。………私は頷けなかったが、かといって否定の言葉も口にできなかった。
「ヒントはこのくらいでいいかしら…? 二人で存分に語り明かしたかったんだけど、あなたが孤独を好むなら仕方がないしね。
…くすくすくす。」
「……失礼な口の利き方をしてすみませんでした、三四さん。私のことは詩音と呼んでください。」
「…ぷ、……くすくすくすくす…!」
私があっさりと口の利き方を翻したのが、彼女には小気味良く感じたのか、しばらくの間、満足そうに笑っていた。
どことなく、胡散臭い雰囲気を醸し出す女性、鷹野三四。本当なら、こんな怪しい人間とは関わりたくはない。
だが、…人との出会いが著しく限定されている私には、数少ない貴重な出会いではあったし、…彼女がしようとしている話に興味は隠せなかった。
「改めて自己紹介するわね。鷹野三四よ。三四って呼んでくれると嬉しいわ。」
「よろしくです三四さん。私は園崎詩音。魅音の双子の妹にあたります。詩音と呼んでください。」
三四さんが握手の真似事を求めて来たので、私はそれに応えて、ささやかな仲直りとした。
「さっきの話を聞かせて下さい。2人犠牲者が出るといいましたね? 1人が祟りで、もう1人が…えっと、生贄とか言いましたか?」
「………ねぇ詩音ちゃん。このお話で盛り上がる前に、どうしてこの話に興味があるか聞かせてもらってもいいかしら?」
彼女は、少し背を屈めて私の目を覗き込んだ。…あまり気持ちよくはない。
「………三四さんこそ、私のことをどこまでご存知です? ご存知なら、おおよその見当はつくんじゃないかと。」
「さぁ…。何年か遠くの全寮制の学校にいて、最近、興宮に戻ってきたとしか知らないわよ…?」
「そうですか。じゃあ想像つきますよね。私がいない間に起こった連続怪死事件。私はよくわからないので調べてるんです。ちょっとした興味本位で。」
「……………なるほどね。興味本位で、ね。」
私のことを、魅音だと思わず、詩音だと即答したこの人だからこそ。…何となく、悟史くんと私のことも知っているような気がした。
……大石のような強力な情報網があるならいざ知れず、どうして彼女がそこまでのことを知っていると思えるのか、自分でもわからない。
ただその、……彼女の瞳に浮かぶ、全てお見通しのような色合いがそう思わせるのだ…。
「三四さんにも聞きます。さっき私のことを、オヤシロさまの祟りについて調べる同志と言いましたね。なぜ祟りなんか研究してるんですか? そして、連続怪死事件の犠牲者は偶数人であるとも言い切りましたね。雛見沢村連続怪死事件は、確かに通称でオヤシロさまの祟りと呼ばれています。なぜ、祟りを研究すると、連続怪死事件にまで踏み込むことになるのですか?」
「詩音ちゃん、質問が一度に多過ぎるわね。それに何が聞きたいのか、ややこしくて分かりにくいわ。」
う…。思わず黙り込んでしまう。
聞きたいことが多過ぎてこんがらかったかも知れない。
「順に答えるわね。……私が研究しているのは祟りじゃなく、もっと広義。
鬼ヶ淵村の風俗史よ。平たく言えば、古代雛見沢村の知られざる歴史、暗黒史について研究しているの。」
「おにがふち村?? 鬼ヶ淵って、あの鬼の国につながってるって言う、村の奥にある底無し沼のことですか? あと知られざる歴史、暗黒史って…何です?」
私は疑問に思ったことを矢継ぎ早に聞き返していく。
その内容は三四さんにとって、どれも聞かれたい内容らしく、とても嬉しそうに笑っていた。
「鬼ヶ淵村というのは雛見沢村の明治以前の名前よ。暗黒史というのは、……薄々は知っているでしょう? 人食い鬼の歴史は。」
………あぁ……、人食い鬼の話か。
雛見沢村に伝わるおとぎ話だ。
大昔、沼の底の鬼の国から鬼たちがやって来て、村人と戦ったけど、結局、仲良く住むことになって。それで、村人は人と鬼の血を半分ずつ受け継ぐ、半人半鬼の仙人になった…というヤツ。
私の頭の中に、昔どこかで聞かされたおとぎ話が、どんどんと蘇ってくる。
「雛見沢に縁のある人なら、誰もが知ってる当り前の昔話よね。では、その半人半鬼の仙人たちが、…時に山を下り、人をさらって食らった宴の話は知っている?」
「え? ……な、何の話ですか?」
「村人たちの体に半分流れる鬼の血は、…鬼は鬼でも人食い鬼の血だったって話は、聞いたことない?」
「……………あぁ、……………まぁ、そんな話もありますねぇ。」
私は曖昧に笑ってはぐらかした。
雛見沢は元々は閉鎖的な寒村だったが、戦後にじわじわと勢力を伸ばし、今や興宮の町を含め、広域にその勢力を広げている。
そんな雛見沢出身者を快く思わない人たちや、差別して毛嫌いする人たちが少しいて、そんな人たちが私たちを罵るとき、よく「人食い鬼」と呼ぶのは何となく知っていた。
私たち若者は、そんなに気にしない中傷なのだが、…年寄り連中はこの手のものに、過剰に反応して目くじらを立てるのだ。笑い事では到底済まないくらいに。
だから私たちは、人食い鬼という言葉は禁句として、気安く口にしない。
反抗期真っ盛りの私であってもだ。
そんな私でさえ避ける禁句をあっさりと口にする三四さんは、そんなことはまるで気にしない風だった。
「…気に障った?」
「何がですか?」
「……人食い鬼って単語を忌み嫌う村人は多いからね。気に障ったなら謝るけれど。」
「年寄り連中は気にするらしいですけど、まぁ、私はそんなには気にしてませんので。…それより続けて下さい。」
「ありがとう。じゃ、続けるわね。……古代の村人たちにはね、人を食らう食人の習慣があったらしいの。そして、その食人の儀式を様式化し、様々なセレモニーや文化、風習を生み出したと言われている。私たちが6月のお祭りだと思っている綿流しだって、本来はちょっと早い夏祭りなんかでは断じてない。本来は犠牲者をさらい、食べるために行なう食人の宴だった。…彼らはね、犠牲者を拘束台に縛りつけ、お魚をおろす時みたいに、ハラワタを引きずり出してそれを川に投げ捨てたとされている。ほら、魚のハラワタって、ワタって言うじゃない? それが語源よ、綿流しの。」
「ワタ、流し…。」
「そうよ。お布団の綿なんかで誤魔化すようになったのは、私の研究では明治の頃からじゃないかと思うわね。まさかこの昭和の時代に、そんな恐ろしいことが堂々とできるわけもないのだし。」
「…………………。」
…三四さんの話は……あまりに突拍子もなかった。
苦笑いの域を超え、唖然とさえなる。
私が、にわかには信じられないと思っていることは、その表情で一目瞭然なようだった。
「もちろん、思いつきなでっち上げなんかでは断じてない。誰にも見せないって誓うなら、綿流しの辺りの研究ノートを見せてあげてもいいけれど…?」
三四さんは足元に置いていたペーパーバッグから、かなり使いこまれたスクラップ帳を取り出すと、バラバラっとめくって見せた。
ちらっと見ただけでも、かなり真面目に研究されたものであることがうかがえた。
「……あ、ありがとうございます。お借りできるものなら、後でゆっくり読んでみたいと思います。」
「えぇ、いいわよ。本当は閲覧厳禁の秘密ノートだけれどね。
……くすくす、研究の同志になら、特別に見せてあげてもいいわね。」
三四さんはもったいぶりながらも、私にスクラップ帳を預けてくれた。
これを読むだけでも、今夜まるまるとかかりそうだ。
軽く見ただけでも、中身の濃さはうかがえる。
様々な文献のコピーや引用が書かれてあって、単なる妄想ノートの域を超えていることは明白だ。
「…………一番最初に三四さんは言いましたよね。毎年の事件で1人が祟りで死に、1人が生贄にされて失踪すると。」
生贄にされて、失踪する。
……悟史くんは、失踪している。
……生贄にされて…? 生贄って……何……?
三四さんはその問いもまた嬉しいものらしく、また別のスクラップ帳を取り出すと、私の胸に押し付けた。
「読めば分かるけど、掻い摘んで話すわね。…オヤシロさまの祟りとは、簡単に言えばオヤシロさまの怒りのこと。オヤシロさまが怒ったから、バチとして祟りが起こる。それはわかるわよね?」
「一応わかります。……ダム戦争で、村に敵対した人間たちにオヤシロさまが怒り、祟りが起こったと、そう言いたいわけですよね。」
「そうね。
でね、オヤシロさまの祟りというのは、放置してはいけないの。“もっともっと大きな祟りを招く”からね。だから、神職である古手家の歴代頭首たちは、オヤシロさまの祟りがある度に、そのお怒りを鎮めるために、生贄を捧げる必要があったの。それを生贄の儀と呼ぶみたいなんだけどね…。」
「じゃあつまり………、毎年、綿流しの日にオヤシロさまの祟りで1人死んで。その祟りを鎮めるために、さらにもう1人を生贄にして殺してると、そう言うんですか?! でも、1人しか死んでませんよ現実に。生贄に捧げられたなんて聞いたこともない…!」
「死体が出ないのは当然よ。だって、生贄の儀式は、犠牲者を鬼ヶ淵の沼に沈めることなんだもの。あの沼は、一度沈めば二度と浮き上がることはないと言われる底無しの沼。……死体なんて、出ようはずもない。」
「じゃあ…毎年のもう1人の犠牲者は、みんな沼の底に沈んでると…?」
悟史くんも、あの暗緑色の沼の底に…沈められていると…?
「さぁ……。本当に沼の底に沈められているかはわからないわ。でも、連続事件を起こしている人たちが、それを意識して1人を消していることは間違いないと思うわね。」
ダム戦争に加担した村の敵たちが、毎年の綿流しの日に、オヤシロさまの祟りによって1人ずつ死んで行く。
そして、そのオヤシロさまの祟りを鎮めるために、毎年1人ずつ、生贄に捧げられて行く。
……二度と浮かばぬ沼の底に沈めてることになっているから、死体は絶対に出ない。
「そう、つまり。……雛見沢村連続怪事件というのは、祟りとそれを鎮めるための生贄の2つでセットになったもの。そして、それを毎年繰り返すことによって、ダム戦争時の仇敵を、毎年2人ずつ殺していけるシステムのことを指しているの。」
「…………………………………。」
「私の話は省略し過ぎてるからね。多分、ちょっと信じ難いとは思う。だからこそ、あなたに預けた研究ノートをね、時間をかけてゆっくり読んで欲しいの。内容を理解できたなら、私の話がそういい加減なものでもないことが分かるはず…。」
突然、そこで男の人の声が聞こえた。
鷹野さ〜んと、向こうの入口のところで、帽子を被った中年の男性が手を振って呼んでいる。
「…ごめんなさい、待ち人が来たみたい。もっとゆっくり話がしたかったのに残念。…でも機会はまだこれからもあるでしょうしね。そのノートはそれまで預けておくわね。
中身をよく読んで理解できたなら、私のいい話し相手になってくれるのを楽しみにしているわね。」
三四さんは一方的に話を切り上げると、足早に中年男性のところへ向かって行った。
私の手元には、彼女に押し付けられた、年季の入った2冊のスクラップ帳が残っている。
男性と合流した三四さんは、こちらに手を振ると、そのまま図書館を出て行った。
…私は、再び着席し、三四さんの秘蔵の研究ノートをぱらりと開く。
雛見沢村連続怪死事件。…通称、オヤシロさまの祟り。
このノートを深く知ることで、何かの真相に近づけるかもしれない…。
事件の根底や意味を知れば、…やがて、村の何者がどこまで関わっているかを知る、強力な手掛りになるかもしれない。
悟史くんは…何に巻き込まれ、どのような顛末を経て、……消えたのか。
それを知るための答えが、この2冊のノートのどちらかに書かれているに違いない。
………考察ノート、鷹野三四。
私は今度こそ、誰にも覗きこまれないようにしながら、慎重にノートのページをめくり始めるのだった…………。
■魅音との再会
図書館が閉館の時間になったので、私は閉め出された。
途中、お惣菜屋さんでご飯とおかずを簡単に買い、我が家に戻ってきた。
扉をバタンと閉め、防犯のためにすぐに鍵をする。
すると、隣の家の扉が開く音が聞こえた。
隣の家は葛西だ。
…というか、元々このマンションはがらがらで、この階に限れば他に誰も住んでいないのだが。
扉の開け閉めの音は結構聞こえる。
ということは葛西が、私が帰ってきたことに気付き、何か用があってやって来るということだ。
私は一度閉めた鍵を開け、扉越しに大声で言った。
「葛西なの? 鍵は開いてますよー。」
「葛西さんじゃないよ、詩音。」
この声は。私の背筋がびくっと跳ねる。
「入るよ…?」
「………どうぞ。お姉。」
扉がゆっくりと開き。
……私の双子のもう一人、園崎魅音が姿を現した。
手には、どこかのお菓子屋で買ってきたようなケーキの箱。
顔には、おずおずとした愛想笑いが浮かんでいた。
「……どうぞ上がってって言うまで玄関に突っ立ってるつもりですか? どうぞ上がって。全然可愛くない部屋で申し訳ないけどね。」
「…落ち着いた雰囲気のとこだね。」
お姉は初めて上がる私の部屋に、ほんの少し緊張をしているようだった。
「生活は……どう?」
「新しいガッコはやっぱりつまらないです。一応通ってはいますけど、気分が乗らない時はサボらせてもらってます。全寮制だとなかなかそうは行かないですからね。」
「あはははははは。聖ルチはやっぱり辛かったか。」
「ちぇー、お姉も一度閉じ込められてみろってんです。」
「あはは、ごめんごめん。ケーキ買ってきたからさ、食べよ?」
魅音がケーキの箱を開けると、チーズケーキが2つ覗く。
私たちは食べ物の好みは異ならない。だから同じものを揃えるのが一番だ。
私とお姉はチーズケーキを食べながら、しばらくの間、歓談した。
学園での生活とか、そういうことを色々と。
「必要な家具とかがあったら言ってね。融通できるかもしれないから。」
「んーー。この部屋にもようやく馴染んできたとこだけど、近い内に引き払うかもしれないから家具はノーサンキューです。うちのお父さんが興宮に住むつもりなら戻って来いってうるさいんですよ。…お父さんにゃ会いたくないんだけど、かと言って逆らうのも怖いしなーー。」
「あははははは。お父さんも、詩音がいなくなって寂しそうだったから、何だかんだ言っても、帰って来たら喜ぶと思うよ。」
「ちぇー、他人事だと思ってー。」
「あははははははは。」
思えば、園崎詩音として生活することを許されてから、お姉とこうして落ち着いて話をするのは初めてだった。
こうして魅音と話していると、……あの園崎本家での冷酷な次期頭首の顔は重ならない。
次期頭首の魅音と、私の双子の魅音は別物だ。
人の身に鬼を宿すのが園崎家の頭首。
今でもまったく変わらない私たちの体は、背中に鬼の刺青があるかないかにおいてだけ、致命的な違いを持つ。
背中に鬼の刺青を入れられた時、魅音には次期頭首としての運命が与えられたのだ。
…………そう。だからあの魅音は、…この魅音とは違う魅音なのだ。
爪を剥がされた時、…魅音を呪いもした。
だが、もし私が次期頭首で、目の前の魅音が爪を剥がされる立場にいたならば。………やはり同じになったに違いない。
「……………詩音。……爪は、……治った?」
「もうすっかり傷口は塞がったからね。最近は目立つのがかえって嫌なんで、包帯みたいなのもしてないです。でも、まだだいぶ歪でね、あまり人には見せられないかな。」
私は意地悪に笑いながら、爪が生えかかっている三本の指を見せる。
魅音が言葉を失い、少し俯く。
「………謝らなくていいよ。魅音だってあそこは仕方なかったんだからさ。次期頭首の役割を演じただけ。恨んじゃいないから。」
「……………………ごめんね……。」
「OK! その謝罪で私は全部チャラにした。でも! もう一度謝ったらそれは取り消し! 一生許さないよ!」
「え!? 何それ…?!」
「お姉は一度謝りモードに入るとなかなか抜けられない悪い癖がありますからね。私の方で区切らないときりがないんです。」
「……本当に…許してくれるの…? 悟史くんとのことも……?」
悟史くんの名前を魅音の口から出されると、…胸が疼く。
…まるでずいぶん昔の傷痕が疼くみたいに。
「…………詩音が悟史くんのこと、好きなのは…もちろん知ってたんだよ。」
「あれだけの大勢の前で熱愛宣言しちゃいましたからねー。何だか今さら恥ずかしくもなんともないや。あはははは。」
「でも、…婆っちゃはあれで本当にけじめがついたと思ってるんだよ。詩音がちゃんと自分でけじめをつけて見せたから。それで全部終わり、って。」
「……そうでなきゃ困ります。あれだけ痛い思いしたんですから。」
「悟史くん、………どこに行ったんだろうね。」
その一言で、私の心臓がぐっと押し付けられ、…喉元が苦しくなる。
つい先ほど、私は自分の口で言った。
全部許す、チャラにする、と。その舌の根も乾かないのに、……その口約束が歪んでいく。
魅音のその一言で、まるで私が私でなくなったみたいに。
……魅音、あんた今、なんて言った…?
悟史くん、どこに行ったんだろうね、……だって…?
他でもない、…あんたが知っているんだろうが。
それを何だって…? どこに行ったんだろうね、…だって………?
自分の眼球が飛び出るかと思うほどに両の目がキリキリと痛み出す。
喉の奥がヒリヒリと絞り上げるように苦しくなる。
「…………………………………!」
魅音の顔色がさっと変わる。
私の般若のような形相に、気付いたらしかった。
私たちは同じ人間だ。
…相手の考えてることは、口に出さなくても分かる。
だから、表情までも見せるなら、胸の内を全て吐き出していることにすら等しい。
「…………ぁ、…………ご、………ごめん………、」
もう謝らなくていいと釘を刺したはずなのに、魅音は再び謝罪を口にした。
……こいつの首根っこを締め上げてやる…。
悟史くんをどうしたのか、どこへ隠してしまったのか、白状させてやる…。
もしも…生贄にして鬼ヶ淵の底に沈めたなんて言いやがるなら……今この場で絞め殺してやる………ッ!!!
「悟史くんのことは…………本当に知らないの……。」
嘘だ。
「…本当……。婆っちゃだって何も知らない。…本当なの…!」
「嘘だ嘘だ嘘だ。……じゃあ本当にオヤシロさまの祟りで『鬼隠し』にあったとでも言うつもりなのか。祟りなんてあるもんか、祟りなんてあるもんか。」
呪いの言葉が次々と喉の奥から吐き出される。
…だが、それはもはや私の意思で吐き出されているものではなかった。
そう、………鬼だ。
半人半鬼の私の中に眠る鬼が、………目覚めて、私の喉を通して、呪いの言葉を吐き出しているのだ。
そして、私の腕が、…いや、鬼の両腕が、…魅音の喉に掛かる。
「お前たちが悟史くんを『鬼隠し』にしたんだ…。お前たち園崎本家が、お前たちがお前たちが!! 返して、私の悟史くんを返して!! 返してええッ!!!」
私の両腕がゆっくりとだけど、万力のように容赦なく、魅音のか細い首を絞り上げていく………。
その時、魅音の手が私の手に添えられた。
…その魅音の手の指。
私と同じように、左手の小指から中指の三本の爪が、私と同じように歪な形をしていた。
「………魅音? これは………どうしたの……。」
魅音の両目から、涙が零れ落ちた。
聞かなくてもわかる。私と同じ傷。…私と同じ、けじめ。
傷の治り方も、私とそっくりだった。
……じゃあ、私と同じ頃に、同じ傷を…?
「………………詩音だけが…爪を剥がされるなんて……っく、……可哀想過ぎるんだもん……、……えっく…!」
魅音が嗚咽を漏らす。……私は魅音の首を締めたまま、立ちすくんでいた。
「……詩音がね、悟史くんのこと好きだってわかって。……私、詩音と悟史くんに幸せになって欲しかったんだよ……。……っく…だって、…だって…。詩音ばっかり…いつも可哀想で……、私たちは同じ双子なのに、…なんで詩音ばっかり…いつも差別されて………ひっく…!」
私が悟史くんを好きになったように、…魅音が悟史くんを好きだったとしても、何の不思議もない。
…私たちは同じものを好み、同じものを愛すのだから。
それを、…この馬鹿魅音は、…私に下らない義理立てをして。……本当に馬鹿。
「私ね、……私ね…。婆っちゃにね、怒鳴って言ったんだよ…。詩音と悟史くんをそっとしてあげて欲しいって!! ひっく! ……そしたら…けじめをつけたら見逃そうという話になって……ぅっく! だからね、だからね! ちゃんと詩音ががんばったから……、もうね、二人は普通に過しても良かったんだよ…。なのに、…なのに…、悟史くんいなくなっちゃった……。こんなのひどいよね……ひど過ぎるよね…? うっく……ひっく…!」
この馬鹿は、…人を騙すために自在に涙腺を緩められるほど器用じゃない。
そんな、不器用な涙だから。
……私の中に宿った乱暴な感情は、まるで水に溶けるように…消えていく。
「……信じて、…詩音。………本当に悟史くんがどうしていなくなってしまったのか……わからないの。……園崎家とか婆っちゃとか、本当にそういうのは何も関わってないの! 婆っちゃは詩音のけじめで全てを許した。だから…悟史くんに何かするなんて絶対にないの…………!」
「……………………………魅音、…ごめん。……苦しかった…?」
私は首に掛けた手を解き、……そのまま魅音を抱きしめる。
「…ひっく…………、……苦しくなんかないよ…。詩音はもっともっと、…苦しかったんだよね…? ひっく……。」
………私は、私の中に潜む鬼の形相を持ったもうひとりに怒鳴りつける。
この魅音の涙を私は信じる、と。
確かについさっきまで、私は悟史くんを失踪させたのは園崎本家だと信じてきた。
だが、魅音は絶対に違うと言った。涙を流しながら。
その涙は、私たち姉妹にとっては、これより上のない絶対の信頼の置ける言葉。
だから信じる。
悟史くんを園崎本家が失踪させたなんてことは絶対にない。
ジャア、…悟史クンハ、オヤシロサマノ祟リデ消エタト、本気デ思ウノカイ?
……祟りなんて信じない!! でも、魅音は違う、やってない!
祟リデモナク、園崎本家デモナイナラ、ジャア誰ガ悟史クンヲ『鬼隠シ』ニシタッテ言ウンダイ?
知らないよそんなことは! とにかく魅音じゃない!
魅音が違うと言っているんだから、園崎家じゃない!!
馬鹿詩音。……悟史クンノ無念ノ声ヲ、聞コエナイフリヲスルト言ウンダネ…?
わかってるよわかってる!! 鬼のあんたに言われなくたってわかってるよ、聞こえてるよ!!
笑ったような困ったような顔をしながら……誰の助けもないことを知ってるのに……「むぅ…」なんて、曖昧な声を出しながら…困ってるのが聞こえてくるよ……!!
悟史くんはきっと私が何とかする!!
生きているなら助け出す!!
殺されているなら復讐する!!!
だけど、それは魅音じゃない!
あんたがしたいのは復讐じゃない、ただ誰かのせいにして腹いせがしたいだけ!!
私は私だ、鬼じゃない! お前なんか、私の中の一部でしかないくせに!! 私を乗っ取ろうなんておこがましい!! 消えろ、鬼め!! そして二度と現われるな…!!
私の奥底の、鬼の感情が薄れて消えていく………。
全身の力が抜け、…私は魅音を抱いたまま、床にへたり込んだ。
「………詩音………大丈夫………?」
「…もう、………大丈夫だよ、……魅音。」
「…………私たちは、…どうして魅音と詩音なんだろうね…。どうして、同じひとりであってはいけないんだろうね…。」
「やめなよ。…私たちはもう何度もそれを自問してきたよ。…でも、答えなんか出ない。…現実に私とあなたは魅音と詩音。…それが現実。」
「私ね…自分が魅音でも詩音でも…どっちでもいいんだよ。私たちは私たち、公平な関係でいたいのに…。」
「…………仕方がないよ。…魅音の背中には鬼が宿ってる。…頭首を継ぐ定めが宿ってる。……それは仕方がない。」
「私、いやだ。……鬼なんかいらない、鬼なんかいらない……。私は鬼じゃない、鬼じゃない…。同じ人間なのがいい……。」
魅音は鬼で、…詩音は人間。
……同じ双子のはずなのに、…私たちは隔てられている。
人と鬼が一緒に暮らすことなんて、…やっぱりできないのだろうか。
……できたはずだ。人と鬼は、…仲良く暮らしたんだ。
それこそが、雛見沢村の伝説じゃないか。……人と鬼は仲良く暮らしたって。それを末永く、オヤシロさまが見守ったって。
…………魅音。詩音。…悟史くん。……鬼とか、…人間とか。
オヤシロさまの祟りとか、…雛見沢村連続怪死事件とか。…悟史くんの失踪とか。
私たちは互いを抱きしめたまま……、まどろみに落ちていく。
全てを、抱きしめたまま。
■幕間 TIPS入手
■そして、長い時間が経過する…。時代は昭和57年から昭和58年へ……。
■ノートの50ページ(数週間後…終了時)
鷹野三四とは、その後しばらく交流があった。
彼女の本質は、猟奇趣味と、それに負けないくらいの偏執的な好奇心だった。
だから彼女の話は、常に話半分くらいに聞くよう心掛けなければならない。
……でないと、…悟史くんが本当に、祟りで消えてしまったと信じてしまいそうになるから。
彼女の話す雛見沢村の暗部の話は、興味深い話ばかりだった。
彼女にとっては推測や憶測でしかないはずの中には、園崎家に籍を置く自分だからこそ真実だと分かるものも時に含まれ、その考察の鋭さには舌を巻いた。
彼女はオヤシロさまの祟りを、古代の宗教的な儀式の延長と捉えていた。
つまり、オヤシロさま崇拝の狂信者による犯行だ。
彼女の独自の説によるならば、雛見沢村には信仰を中心とした一派があり、それを中心に御三家が組み上げられているという。
そして、明治以降に失われたという、鬼ヶ淵村の仙人たちの誇りを取り戻すために暗躍をしている、というのだ。
三四さんの話はスケールが大きく、全体で見ると、なるほどなと思う面もある。
だけど、悟史くんの失踪した理由に局所的にスポットを当てると、何の説明にもならない。
目の粗い説でしかなかった。
■ノートの64ページ(数週間後…終了時)
大石との情報交換は、たまに思い出した頃に行なわれた。
私も大石も、互いの新情報に期待したが、どちらにも新情報はなく、いつも茶飲み話に終わった。
もはや、新幹線で東京へなどという話は心の拠り所にさえならない。
デマであることは明白だった。
大石は心を許せないやつではあったけど、…公平な取引という意味での誠意はある男で。単身、根気強く調べてくれたと思う。
私も大石なら真偽を確かめてくれるに違いない怪情報やデマを仕入れてきては伝えた。
いつしか、そんな会合もだんだん、大石の新しい仕事に圧迫されるようになって。
……何かあったらいつでもお電話ください、と言う風になって、潰えた。
大石が調べなくなり、私の調べに限界が来し。
……悟史くんの失踪は『鬼隠し』という超常現象によるもの…という、とんでもない意見がまかり通るようになってくる。
雛見沢では、悟史くんの失踪は「転校」と称され、口にすることがはばかられるようになっていた。
…「転校」なんて言う言葉で、…悟史くんを消してしまうな…。
■ノートの85ページ(数週間後…終了時)
昭和57年のオヤシロさまの祟りの渦中にある時は、私は新しい情報に一喜一憂し、その度に自分の頭の中の仮説をひっくり返した。
でもそれはものすごく自分に負担になることで。……それだけのことでも私を十分に疲弊させていった。
疲労というのは残酷だけど、とてもやさしい包容力があって。
怒りや悲しみ、疑いなどの、抱くだけでも私を衰えさせていく感情を、少しずつ少しずつ、眠らせていく。
悟史くんのことを絶対に忘れない。
忘れて生きていこうなんて思わない。
そう常に心の中で念じ続けている。
念じ続けることで、…悟史くんの思い出を眠らせないように、ずっと、ずっと。
悟史くんとの楽しい思い出と一緒に、……恐ろしい感情も、悲しい感情も、ずっと、ずっと。
■昭和58年
■圭一くんとの出会い
途中編入で馴染めなかった興宮の学校にも、まぁそこそこに友人も出来た。
たまに親類の誰かのお店でバイトをさせてもらえるので、小遣いにも困らなかった。
今の私は、興宮の実家で暮らしていたので、生活費はかからない。
バイト代が全て小遣いになるというのは非常に気楽だった。
あの時、葛西に用意してもらった部屋は、私の隠れ家として今もたまに使っている。
親の顔を見たくない時には実に便利だ。
かくいう今日も、私は隠れ家で過すつもりでいた。
「…畜生〜、先公めー! サボリのことを家に連絡しやがってー!」
それでお父さんがカンカンで家にいられなくなったのは、まぁ自業自得と言えばそれまでなのだが。
先生もうちの親父がヤクザな人で、怒るとこの世の終わりみたいに恐ろしいことになるのを少しは理解して、加減してほしいものだ。
そんな生活も、…ま、ひどくノーマルではあったけど、悪いものじゃなかった。
こんな当り前な生活を楽しいと感じるのは、きっと隠れ住まったあの経験のせいなのだろう。
自分の名前を堂々と名乗って生活できることの気楽さは、何物にも代えがたい。
……ま、あれも貴重な経験だったと割り切れる。それだけの時間が経過していた。
私は今夜のおかずだけでなく、1週間くらい隠れ家で過すつもりで買出しをしていた。
少しくらい私の顔を見れなくなった方が、親も私の有り難味を感じるだろうという、親孝行な配慮からだ。
「あれ? 今日って、確か100円セールのお店ってなかったっけ? そうだそうだ間違いない!」
小遣いを節約するくらいの経済観念は私にもある。
上機嫌な私は両腕を振り回すように、ぐるっと踵を返す。さながら小さなつむじ風。
そのつむじ風は、歩道を塞ぐように、実に邪魔っけに停めてあったバイクに腕をバシンとぶつけてしまう。
「…痛って!! な、……もぅ!! 何、こんなとこに停めてるの誰ー?!」
上機嫌な私はノーウェイトで、その邪魔っけなバイクに蹴りをくれてやった。
バイクは3台。
それらはドミノ倒しのように、バタバタンと倒れていった。
あまりに綺麗に決まったので、自分でも少し面白かった。
……………あれれれ…?
不思議な既視感。…前にもこんなことがあったような…?
目をぱちくりさせながらその光景を思い出そうとする私の襟首が引っ張られ、私は薄暗い路地裏に引きずり込まれた。
バイクの所有者らしいガラの悪い3人組にまくし立てられる。
……やっぱり、とても不思議な既視感を感じる。
「んだてめンなろぉおおぉおおおッ!! すったるぁ、おるぁあッ!!」
「をるぉんったら、ぅッってん場合じゃえぇんあぞぉぉお!!」
「ごらあッ!! んまってンら、なしツくとぉッんじゃねえぞおおぉおおッ!!」
そうだ。………悟史くんと、初めて出会った時だ。
あの時、…悟史くんが、助けに飛び出して来てくれた。
…私が再びここで、泣いたふりをしていたなら。
……また悟史くんは助けに来てくれるだろうか……?
私は、…ちょっとしたおまじないの感覚で。
…泣いたふりを臆面もなくしながら、許しを請う言葉を並べてみた。
その時。
私は、……耳を疑った。
「……いい加減にしやがれ。もう泣いてるじゃねえかよ…!!」
私と同い年くらいの、男の子だった。
明るい路地からの逆光で、その顔が見えにくい。
「………………悟史………くん…………?」
もちろんそれは……悟史くんのわけはないのだ。
…そんな都合のいい夢が、あるわけがない………。
そして、私が自分で夢から覚めた時、悟史くんに似た人影は、…やはり違う人の姿であることを知った。
悟史くんと比べると、…どちらかというと上品でなさそうな雰囲気。
悟史くんが無菌状態の人だと例えるなら、擦り傷だらけの打たれ強そうな雰囲気。
全然違うのに、………でもなぜか、……悟史くんと同じものを感じた。
「んじゃごらぁあッ!!! イイとこ見ったつぉんかぁんあああッ?!」
「っこつけんとぉ痛い目見さらっそおおぉお!!??」
「んとか言ってみぃいいぃ!!! シャアらんすったかんぞおらああぁ!!」
3人組にまくし立てられてその男の子は、………少しは押されているようだった。
「あぁ…いやその、…もう泣いてるんだから、それくらいで勘弁してあげてもいいんじゃないかなぁあぁ…なんて…。」
「ああぁああ?!?! んなこと、おんめえにッしズされんとおんじゃあかぁあ!!」
「おわわわわわ!! タンマタンマ! 暴力はよくないぜ…!! あはは…!」
……何こいつ…。…一瞬でも悟史くんと見間違えたのが恥ずかしい。
最初の登場こそ、ちょっとかっこいいかもとは思ったが、…悟史くんに比べると、全然冴えなかった。
「いや、だから……、バイクが倒れたのはお気の毒と思いますよ…? でもですね、どうか機嫌を直されてですね…。どうしたら機嫌を直してくださるんですかねぇ…? いやその、もちろん私たちはお金なんか持ってないんですがね? あはは…。」
「おぉお…そうじゃのお、金がなかったら、…なぁ?」
「金がのぉんならしゃあんなぁ!! 体で払ってもらう他ないっしゃあなぁあ!?」
「こんの女、いいドテしてまんもおなぁ…! 脱がしたらさぞや…むげへへへへへへ!!」
……おいおい、マジかよこいつら。冗談でしょ。
私は護身用に忍ばせているスタンガンを、いつでも抜けるように身構える。
出力最大、感電死しても恨むなよスケベども…。
「おお、俺んさ、AVなんかでよぉやっとる脱がッシーンが好きでさ!! はぁはぁ!」
「あぁあぁやっぱりHシーンそのもんよりゃあその前座の脱がすシーンも興奮すっさなぁあぁ…!!」
…こいつら、自分で言いながら陶酔してる、というか興奮しているぞ。
……おいおい、こいつら、なぜ私の方を振り返る?
そのワキワキした手がいやらしいったらありゃしない…。…私の貞操の危機なのだろうか?
「むはあぁああぁ脱がすあんもええぇんのおおぉおぉ!!」
「剥き剥き、脱ぎ脱ぎ!! はああぁあええのんしゃああ〜〜!!!」
「上から下までぜ〜〜んぶ脱がっしゃあよぉおおー! 靴下までぜえんぶひん剥いてぇえ、生まれたまんまあの姿にしちゃあるんけん〜〜〜!!!!!」
「ちょ、あんたら冗談でしょ?!?! そのスケベ丸出しな手で私に触れるなー!!!」
その時、閃光が瞬く…。あの男の子が、…一体?!
「このボケナスどもがああああぁああぁあ!!!!」
稲妻のような閃光が光り、3人組が次々と殴り倒される!!
おぉお、こいつ、意外に強い?!
「なぁあ、何しさらすんじゃあああぁあぁあ!! いてこまされたいンかあぁあ!!!
ぐほあッ?!」
「お前らはわかっていない!! わかっていない!!!!」
「なな、何がじゃああああ!!!」
「全裸には萌えがない!!! 服は脱がしても靴下は脱がすな!! たとえお天道様が西から昇ることがあろうとも!! 絶対絶対これは萌え業界の鉄則だあああぁあああ!!!
いいかよく聞けモンキーども。ホモサピエンスと動物の違いは何か。
そう、衣服の着用だ。つまりヒトは衣服があって初めてヒトなのだ!!!
それを全部脱がすことでしか欲情できない貴様らはヒト以下!! 動物と同じだあああぁ!! 貴様全員を矯正するッ!! 歯を食いしばれええぇええぇえ!!!」
「ぷげッ!!」
「おげ!!!」
「ぐはあ!!!」
「先ほどAVの脱衣シーンを引き合いに出したな。
例えばここに『コスプレHビデオ』があったとする。コスプレと一言に言ってもその裾野は広すぎる。それについて貴様らに講義することは、B−29から落下傘で降りてきたヤンキーどもに大和魂を一から説明するより困難この上極まりない!!
だからここでは最も普及していると思われる制服系で説明することとする!!
制服系の御三家と言えば何か!!!答えてみろ!!そうだな、制服、体操服、スクール水着だろう。なおセーラーかブレザーかの好みの違いは制服にカテゴライズするものとする。勿論、ブルマーかスパッツかの違いも同様!! スク水も紺か白かの違いはあれどカテゴリーは同じ扱いだ!!!どうだ、これだけでも甘美な響きがするであろう?!!
ではお前ら3人がこれらの内の一つずつが好みであったと仮定しよう!!
おいノッポ!!お前は制服だ!
デブ!お前は体操服、
そしてチビはスク水だ!!!頭に思い描け、時間は3秒!!!描けたか?妄想くらい自在に出来ろ、気合が足りんやり直せッ!!!
ではお前らの望む衣装が登場するHビデオがここにあるぞ、あると思え、あると信じろ気合を入れろ!!返事は押忍かサーイエッサーだ!!!
馬鹿者それでも軍人かッ!!!!
よおし描けたようだな次に進むぞ。
それらの萌え衣装が、貴様らの馬鹿げた欲情に従い一糸纏わぬ姿にひん剥かれたと思うがいい、
だがおいお前らよく考えろ!!!全部脱いだらもうそりゃコスプレHじゃないぞッ?!?!
最近そういう詐欺紛いなAVが増えているが実に嘆かわしい!!
服を全部剥いだらもうそれは文明人ではない、動物だ!!全裸にしか欲情できない貴様らは犬、
猿、
雉だ!!
キビダンゴでももらって鬼ヶ島へでも失せろ!!!
ゲットバックヒアー!!
ちなみに最近の東西雪解けに従いロシア系AVが大量に上陸しているな。そんなことも知らんのか愚か者!!
制服系とロシア系を組み合わせたロシア美少女女子高生などという、ゲッター2が抜けて三神合体できないような水と油な組み合わせが出ているようだが、本官は断じて認めたりはしないぞッ!!!
制服は日本の文化だ芸術だ!!!
毛唐に日本の和の心など分かりはしない!!!貴様ら聞いているのか、軟弱スルメどもがああぁ!!!
歯を食いしばれ、今日は徹底的にしごく!!!貴様らが自分の妄想でご飯三杯行けるまで今日は寝られないと思ええ!!!はいいぃいい指導指導指導ぉおおッ!!!!」
その時、どたどたと何人もが走ってくる音が聞こえた。
「前原さぁあん!! みんな呼んで来ましたー!!!」
見れば、子どもたちが何人も腕まくりをして駆けて来る。どうやら騎兵隊が到着したらしい。
「ち、…くそ! ヤバイぞ、ずらかれ…!」
今までずっと目を点にしていた三人組は、状況が不利になったことを悟り、逃げ去って行った………。
「さすが前原さんですね…! たったひとりであんな怖そうな三人組を釘付けにしちゃうなんて…!」
「三人の1人、鼻血出してましたね…。前原さん喧嘩も強いなんてすごいです、尊敬します!」
「……ふーーーー…。俺の固有結界もますます磨きがかかったようだな。今に監督の固有結界『メイドインヘヴン』に太刀打ちできるくらいに磨きをかけてやるぜ!………と、そんなことはいいや。…大丈夫かよ魅音?」
前原と呼ばれた怪しさ全開の男の子が、私に振り返る。
…私のことを魅音と間違えるところまで悟史くんにそっくりだ。
…だが悟史くんはこんな大変態では断じてないぞ、絶対に。
「天下御免の魅音が、どんな情け容赦のない必殺技で撃退してみせるか、ちょっと楽しみにして見てたんだぜー? ……まあその、…さすがに男が三人がかりじゃきつかったってことか? そんなわけないよな、あはははははは!」
私の頭がまだよく回転しなくて…、脳内のデータベースにアクセスできない。
…こいつ一体何者?! 魅音の知り合いにこんなのがいるんだ?!
私はぽーっとしたまま、目が点のままだ。
だから、…そいつがぬーっと手を伸ばして。……私の頭に触れてるまで、身動きすらできずにいた。
「まぁ…その、なんだ。半べそかいてたのは見なかったことにするからさ…。その、まぁ元気出せよ、な。」
わしわしわし。
…前原と呼ばれた男の子は、馴れ馴れしく荒々しく、私の頭を撫でる。
気持ちよくない。ごわごわして痛い。
でも、…………同じ温かさがした。
その後、魅音に聞き、彼のことがようやくわかった。
彼の名は、前原圭一。
あだ名は圭ちゃん。学年は私たちの一個下。
雛見沢につい最近引越してきたばかりだと言う。
持ち前のデリカシーのなさと遠慮のなさで、早くもクラスの人気者(?)なのだとか。
そんな風に彼のことを説明する魅音は、とても楽しい話をするかのように上機嫌だった。
……確かに、面白い子かも知れない。
魅音が気に入るのも何となくわかる。
………でも、うん。悟史くんの方がずっと素敵かな。
お姉から奪い取るほどの男の子でもないさ……?
胸がどきどきする。いや、うきうきすると言うべきか。
まるで、新しいおもちゃを与えられた子どものような気分。
あの奥手な魅音が、この面白い子とどういう風に付き合っていくのか、興味は尽きない。…それをからかってやりたい小悪魔的な感情も湧き上がる。
「ありがと圭ちゃん。良かったらお礼に、お茶でもおごるよ。すぐ近くに叔父さんの店があるし、どう?」
悟史くんなら遠慮する。
だけど、前原圭一は二つ返事でOKと返した。
さぁて…。こいつと魅音をどうおちょくってやろうかな……!
私の今日までの退屈な日々が急に彩を取り戻していくのだった。
「うわ、…お、おい、腕なんかにしがみ付くなよ…。」
「あれー、こういうの嫌いですか?」
「い、いや、…その、嫌いじゃないけどその、胸が当たってそのその……、」
「胸が当たって何ですって? くすくすくすくす!」
■やっぱり忘れられない
前原圭一は本当に面白い人だった。
私がそう思うように、魅音もそう思っている。
魅音が楽しそうに話す普段話には、いつも圭ちゃんという言葉でいっぱいだった。
私はそんな魅音を見て、ちょっとした保護者的な気分を感じて微笑み返すのだった。
「お姉は圭ちゃんのこと、本当に気に入ってますねー。ズバリ! 圭ちゃんの魅力を一言で示すと何です?」
「あはははははは…、そうだねー!
もしも一言でしか言っちゃいけないなら…やっぱり面白いトコかなぁ。そうそう、この間の部活の時にさ!」
大好きなんだけど恋愛感情とまでは認識していない、青い恋といった感じだろうか。
まぁその辺りが奥手っぽい魅音にはぴったりな関係だなと思った。
私も圭ちゃんのことは嫌いじゃない。気に入っている。
だけど、多分、今、魅音が感じているような感情は持っていない。
悟史くんと比べたら、圭ちゃんはガキンチョでお子様で、包容力がまるでない。
………………悟史くん、……今はどこでどうしてるんだろう。
異郷の地で、ほとぼりが冷めるまで待っているんだろうか…。
でも、叔母殺しはヤク中の異常者がやったことですでに決着している。
悟史くんがほとぼりを冷まさなきゃならない理由は何もないはず……。
私は軽く頭を振る。…その先を考えちゃいけない。
あ、そうか、わかった。
今回の事件はほら、秘匿捜査指定とやらだから、犯人が捕まったことすら報道されていない。
だから雛見沢を離れた悟史くんは、自分がもう帰って来ても大丈夫なことに気付いていないんだ。
………悟史くん、鈍感な人だからな。
念には念で、ずーーーっとほとぼりを冷ましてるかもしれないな。
…でも、ならせめて、妹の沙都子にこっそりと電話くらいはできないだろうか。
自分は異郷の地で何とか暮らしている。そのうち帰るから待っててくれ、みたいに。
………あ、……沙都子の馬鹿。
あいつ、悟史くんがいなくなってから、古手梨花と一緒に暮らすようになってるんだ。
だから、悟史くんが自宅に電話しても、誰も出ないんだ。…ばかばか! 悟史くんの帰りを待つくらいもできないのか、妹のくせに。
悟史くんは…ああいう人だからな。
自宅以外の電話番号なんか覚えちゃいないだろうなぁ…。だから雛見沢の誰とも連絡が取れないに違いない…。
ひょっとすると、電話に出てくれるかもしれないと思って、…夜な夜なひっそりと電話して、…いつまでもコール音のままで。……その度に、沙都子はたまたまお風呂に違いない、たまたまお手洗いに違いないと、自分に言い聞かせるような言い訳を呟いて。…困ったような笑うような、曖昧な顔で、…むぅ…って言って。
「………むぅ。」
私の口から、悟史くんの困った時の口癖がひとりでにこぼれる。
「それでそれで、………………え? 何?」
「ん? 何、どうしたの?」
「……今、詩音、何か言わなかった?」
私は気のせいでしょと笑って、魅音に話の先を促した。
その時、いつの間にか、魅音の雰囲気が変わっていることにやっと気付いた。
ずっと悟史くんのことを考えていたから、魅音が何の話をしていたか、全然聞いていなかったためだ。
私はてっきり、魅音が上機嫌で圭ちゃんの失敗談を喋り続けていると思っていた。
……だが、魅音の表情はいつの間にか陰っていて。
薄い笑顔がひどく儚く見えた。
今さら、どうしたの? とも聞けず、私は魅音が何の話をしているのか、今頃になって集中した。
「…………でね。…叔父さんが今日は盛り上げてくれてありがとうって言って、売り物のお人形をみんなに一個ずつ配ったの。私以外の全員に。」
「うん。お姉以外の全員にね。」
「その、……そりゃ私も欲しかったけどさ。…みんなの手前、私にもちょうだいとは言い出せなかったし……。」
「相変わらずお姉は、自分の欲しい物を欲しいと言えない人ですね。……それで?」
魅音はそこで一度鼻をすすった。
……見ると、いつの間にか涙ぐんでいる。
「…………圭ちゃんの袋にはね、一番かわいいお人形が入ってて。」
「そのお人形が一番欲しかったってわけ?」
「……別に何のお人形だってよかったんだよ! ……圭ちゃんは…私だけもらってないって知ってたのに、……私にくれなかった。………っく…、……私に、…くれなかった。………魅音には似合わないよなって言って……くれなかった……ッ…。…次に生まれて……くる時は…ひっく、男に生まれて来い……って……そぅ…言われたんだよ……。…言われたんだよ…………うっく……。」
「………………………。」
…こういうところが、……圭一の全然駄目なところ。
そりゃあの子はちょいと派手で面白い目立つ子かもしれない。
…でも、男としちゃ全然頼りない半人前以下。………悟史くんなんかとは全然、人の成熟が違う。
「………やり直したい。………圭ちゃんに出会った最初の頃からやり直して……、今度はちゃんと女の子だと思ってもらえるように、………やり直したい……。」
「お姉、深刻過ぎですって。お姉がやり直したいと思って、しかも向こうが何もトラブってない状態なら全然セーフじゃないですか。互いに傷つきあって爛れちゃうと、まぁやり直しも面倒でしょうが。」
「……やり直せる…かな。」
「圭ちゃんの前で涙を流してないなら、そもそも何も手遅れじゃないんです。お姉がこの場で適当に涙して、明日から心を入れ替えていけば、修正可能ですって。」
「……………うん。」
「そりゃ圭ちゃんのデリカシーのなさには呆れますけど、その結果は結局、今日までのお姉の積み重ねてきた結果なわけですから。今日からの生活を少しずつ改めて、ポイントを稼ぎなおせばいいだけのことです。」
「生活を改めるって………どうやって……?」
「……お姉に可愛らしくしろって言うと、明日からフリフリの格好で登校しかねませんからねぇ…。変に構えないで、普段通りに行きましょう。でも、細かい部分でこれまでの違いを見せていく。そこがさりげないポイント。あー、あと、人形をもらったレナという子には釘を刺して置くことー! 現在の圭ちゃんの中では、お姉よりもレナの方が高ポイントの可能性が高いです。」
「……………うぅ…、確かに…レナは女の子っぽいしなぁ…。可愛いし、甲斐甲斐しいし…。」
「ライバルがいるならうかうかできませんよお姉。涙は男を引き寄せる力がありますけど、繋ぎ止めて置く力はありません。普段は笑ってて、ポイントで泣く! ん〜、萌えの典型パターンのひとつかもです。…私も圭ちゃんに実践してみるかな。」
「え、あ、だだ、駄目だよ…駄目……!」
「あはははははははははは…! お姉が気に入る男の子ですからねー。私が気に入らない道理はありませんから。さぁて圭ちゃんをどう引き込んで見せようかなぁ〜。何ならお姉、どっちが圭ちゃんの気を惹けるか、競争しましょか。」
「やだやだ! 絶対やだー!! 詩音、雛見沢に来たら追い返す!!」
「あっはっはっはっは、あっはっはっは!」
良かったじゃんお姉。全然手遅れじゃないって。
たまには自分と好きな男の子の距離を認識して、アピールを変えるのも思春期相応の悩みでかわいいじゃない。
……私なんか、……いないんだよ?
どこに行ってしまったかもわからない。いつ帰って来るかもわからないんだよ。
それに比べたら、魅音たちの関係なんてどれほど恵まれているか。
泣き腫らした真っ赤な目元で、無理に笑いながら、明日からがんばるよと小さく意気込んで見せる魅音に、………久しく感じなかった負の感情が芽生えるのを感じた。
魅音と圭一が楽しく過していても、…誰も咎めない。
うらやましいなんて思わない。
妬んだりなんかしない。
…私が咎められたから、同じ様に咎められて欲しいなんて、思わない。
…もう魅音の頭は圭ちゃんや、圭ちゃんを含めた友人たちのことでいっぱいで。………そこには悟史くんの居場所はない。
今の魅音にとって、…悟史くんがいる、いない。帰ってくる、帰ってこないは、…明日の天気が晴れか雨かなんてこと以上に、…どうでもいいことなのだ。
じゃあ私は?
私は……今日まで1年間ずっと…悟史くんのことを思い続けて来た…?
………自らの問いに、胸を張って頷けない。
…私は、……悟史くんのいないこの生活に慣れ始めていて…。
悟史くんがいない対人関係に疑問を抱かなくなり始めていて。
………前原圭一のいる、新しい対人関係に、慣れ始めている…。
しかも、………気を許せば、…私の頭の中で、悟史くんのために空けてあるはずの席に、……ずうずうしく、あいつが座り込んできそうなくらいに。
園崎詩音が、もっと強く帰ってくることを念じてくれたなら、…悟史くんは帰ってくることができたかもしれないんだよ………。
…………悟史くんはどこへ消えたの…?
去年、悟史くんが失踪してしばらくの頃は、…私は園崎本家や裏の界隈での情報にアンテナを伸ばし、まめに大石の所へ足を運んでは警察が新しい情報を掴んでないか聞いたものだ。
そして、悟史くん本人の行方がまったく掴めないから。
……やがて、悟史くんの事件を「オヤシロさまの祟り」と呼ぶことに関心を持ち出し。…村の暗黒史について調べるようになって。
…………調べれば調べるほどに、……悟史くんが生きている気がしなくなるのが怖くて。
……私は三四さんに借りたスクラップ帳を返した。
…それ以来、図書館には行っていない。
新しい興宮の学校での生活とか。
…新しい友人とか。
……………いろいろ。いろいろ。…落ち葉がはらはらと落ちて、地面を覆ってしまうように、……私が本当に大切に思っていたものが…埋もれて見えなくなってしまって。
気付けば、……いつの間にか季節は春を終えようとしている。
今年は暑い夏になるらしく、夏の訪れは相当早いらしかった。
本来なら今頃は梅雨だが、…今年は梅雨なしでいきなり暑くなるらしい。
そういうしている内に、………今年の綿流しの祭りがやってくる。
悟史くんがいなくなってから、……………一年が経ってしまう。
雛見沢では、オヤシロさまの祟りと呼ばれる一連の連続怪死事件は禁句となっていて、公では迂闊に喋るなということになっている。
……だから、…去年の叔母殺しの事件は、……まるでそんなもの起こりもしなかったかのように、みんな知らん振りをしている。
北条悟史くんは、村の仇敵である北条家の人間だから。
……オヤシロさまの怒りを免れず4年目の犠牲になり、『鬼隠し』にあった。
………そういうことにして、悟史くんの存在も、記憶も、思い出も、…みんなで忘れ去ろうとしている。
悟史くんの存在を…祟りなんてあやふやな理由で消さないで。
…いなかったことになんかしないで。
悟史くんはたった一年前まで雛見沢にいた。
学校に通ってた。
優等生だった。
野球もやってて雛見沢ファイターズの本番に弱いスラッガーだった。
どこか放っとけない危うさがあって、だけどとても純粋で。そしてとっても温かだった!
そんな悟史くんの存在が、………祟りで消され、名前を口にすることすらなくなって、…まるで初めからいなかったかのようにされていって。
……………前原圭一のような新しい人間にとっては、…………存在すら満足に知らなくて。
……………どこかへ転校したとか、………本気で思ってて……………。
会いたいよ…悟史くん……。
また、…一緒にお買い物に行きたい。
……野球の試合も一緒にしたいし、…練習の後にジュースを飲みに行きたい。
……悟史くんを困らせてみたいし、……また、頭を撫でてもらいたい。
……温かで、やさしくて。……撫でるだけなのに、……私の全身を包んでくれるような包容力があって。
……………悟史くん………。
「まったく、圭一さんのどスケベぶりには呆れましてよー!!」
「……男の子なら仕方がないのですよ。」
「魅ぃちゃんも詩ぃちゃんも…圭一くん、困ってるよ………はぅ…。」
「ですってよーーお姉。大岡越前じゃあるまいしー、このまま圭ちゃんが引き千切れるまで引っ張りっこしますー?!」
「引っ張りっこなんかしてないよ、詩音が引っ張らなければ済むことでしょー?!
詩音は興宮に帰れーーーー!」
「ハイ了解。そうしますね。ぱっ、と。」
私がぱっと手を放したので、お姉と圭一はゴムが弾けるように勢いよくすっ飛んでいく。
圭一は地面の上をごろごろと転がり、お姉に至っては向こうの茂みに頭から突っ込んでいる。…やれやれ、熱くなりやすいやつめ。
「じゃ圭ちゃん。これ以上からかうとお姉に噛みつかれつかれかねないので、今日はこれで帰りますね。」
「あ、詩音。そのさ、…今日はありがとな。」
「あーー、あんなのお安い御用です。あの程度で恩が着せられるならいくらでもって位に。」
「じゃ、またな、詩音。」
ぼすっと。……圭一の手が、私の頭を鷲掴んだ。
わしわしわしわし。
……すっごく乱暴に頭を撫でる。でも、ちょっとだけ温かいのが、……懐かしくて、
「あ、あははははははは…!! じゃあすみませんね、今日は失礼します。またねーお姉!」
「二度と来るなーーーーーー!!! レナは哨戒! 沙都子はトラップ! 梨花ちゃんは塩まいてーーー!!」
頭の天辺が、……温かくて、…むず痒くて、……ジンジンと痛んだ。
私は耐え切れなくなり…単車を止め、路肩の電柱に痛む場所を押し付ける。
ごめん悟史くん、ごめん悟史くん!! ごめん…ごめんごめん!!!
私は…悟史くんのことを忘れてないんだよ…、ちゃんと覚えてるんだよ…。
悟史くんが帰って来ないと私は駄目なんだよ……、悟史くんのいない生活なんて……灰色で…寒々しくて…つまんないだけなんだよ……、本当なの…、本当だよ…。
悟史くんがいないから、楽しく笑うなんてこと……全然……、
“じゃ、またな、詩音。”
まぶたの裏に、さっきの圭一の笑い顔が浮かぶ。
…私の頭をわしわしと撫でたときの感触が蘇る…。
全然、温かくなんかなかったよ!!
うれしくなんかなかった!
乱暴で痛いだけだった!
あんなデリカシーのないヤツ大嫌い!
あいつなんて、お子様でガキンチョで思慮が足りなくて温かみがない、ただの野良犬!!
うれしくなんかなかった、温かくなんかなかった!!! 私は全然うれしくも楽しくも
「嘘だああああぁあああぁッ!!!!………ぅうぅぅ、……悟……ト、シ……くん…………。……ぅわあぁあぁぁ…ぁ……、……うわぁあぁぁぁ…ん…、」
…………………むぅ…。
悟史くんが…困った声を出した。
…悟史くんは、気の利いた言葉をよく知らないから…、こういう時、どういう言葉をかければいいのか、わからないのだ。
……でも、声をかけなければいけないことだけはわかっていて、……何か声が掛けたくて…、…それでも何を言えばいいのか分からなくて……。………むぅ、と、……呟く。
ごめんね…………詩音。
なんで悟史くんが謝るの……?
謝るのはね……私の方なんだよ…?
私、……悟史くんのこと、ずっと待ってるって言ったのに、……その気持ちは揺るがないって信じてるのに…。
………こんなにも、いつの間にか隙間だらけ。
……私の胸の中の悟史くんが、………体中のひびから…少しずつね……漏れて行くんだよ…。
……滲んで…漏れて……私の中から……どんどん君がいなくなる……!
………僕がいるから、……辛い……?
な、なんで…?! 悟史くんは私の大切な人だよ…。
悟史くんがいるから辛いなんて言わないで…!!
…………僕はずっと…詩音と一緒にいたよ?………でも、……僕がいつまでも一緒だと、………結局、…僕の存在が詩音を苦しめてるね…。……そんなの、……僕は嫌だよ。
嘘だ………嘘だ嘘だ嘘だッ!!!! 悟史くんはどこにいたの?! 私と一緒になんかいないじゃない!! いるなら教えてよどこにいるのか教えてよ! 住所は郵便番号は町名は番地は!! 私に教えてよ…!!!
…………………………住所は、…………ないよ………。
……………あははははははは。
……やっぱり、………そういうことですか。
…ずっと一緒にいたとか、いつも近くにいるよとか、……そういうやつですか。………あははははははは…………。
詩音は、……どっちがいいかな。
……僕がいて詩音が少しでも元気になれるなら、僕はずっと側にいるから。………僕がいて詩音が少しでも辛い思いをするなら、僕はすぐにでもどこかへ行くから。
「……そんなこと…言わないでよ…。一緒がいい……、一緒がいいよ…。悟史くんと……いつまでも一緒がいい……。」
うん。……一緒に、いるからね。
車が私の脇を通り抜けていく。
その音で私は我に返った。
「………はぁ。………はぁ、………………。」
…………空が黄昏色に染まっていく。
早く帰らないと、肌寒くなっちゃう。……帰ろう、…興宮へ。
……一緒なんだよね…。……今も一緒にいてくれるんだよね……悟史くん…?
私は単車の元へ戻る。
……雑草の茂みを踏み分けながら。……ざくざくざく。
単車の前まで来て足を止めた時。
…私の足音とひとつずれて。足音がひとつ余計に聞こえた。
私ははっとする。……私だけじゃない、人の気配。
私も馬鹿じゃない。
周りに誰もいないのはわかってる。
それなのに背後に突然気配など現われるわけがない。
…………だから、…振り返ってもそこに誰もいないのを見たとしても、驚かなかった。
でも、……間違いなく、…そこには、いてくれているのがわかった。
「……悟史くん……………。」
見えないけど、……いた。……いてくれた。
悟史くんは…嘘なんか絶対につかないんだから。
……その悟史くんが、いつも一緒にいるよって言ったんだから…。
……だから…今まで気付かなかったのは、私が鈍感だっただけなんだよ。
「悟史くん……………、……悟史くん…………。」
風が私の髪をくすぐる。
…冷たい風だけど、……でも、…それは紛れもなく…悟史くんの手の平の温かさで…。
私は………熱い涙で顔を濡らしていることにもしばらく気付けないでいた……。
■アイキャッチ
■綿流しの夜
…寝るのが怖かった。
眠って……朝になったら、悟史くんがいなくなってしまっているような気がして。
だから、私は睡魔に負けるまでずっとずっと…悟史くんに話しかけていた。
悟史くんがいなくなってからの一年間にあったことを、…全て教えてあげるために。
悟史くんがいなくなって……、本当に素直な意味で悟史くんが好きだとわかったこと。
そして、悟史くんの行方を捜して、いろいろなことを調べたこと。
葛西を通じて裏の世界で情報を集めたり、大石と駆け引きをして警察の捜査状況を聞きだしたり。
でも何もわからないまま、とても長い時間が経ってしまったけど、自分だけはずっと悟史くんのことを忘れなかったとか。
他にも他にも。…日常的な小さな喜びとか、驚き。
…もしも悟史くんが帰ってきてくれたなら、一緒に行きたかった所、一緒にしたかったこと、一緒に食べたかった物、…それからそれから…………たくさん。
初めは座りながら。
だけど、だんだん体を起こしているのも辛くなって、横になりながらになって。
………口を開いて伝えるのも億劫になり、心の中で話すようになり。…………こんなに幸せな夜はきっと初めてだった。
目が覚めた時。
……………枕元に、…悟史くんはいなかった。
どこかでわかっていた。……それが怖かった。だから寝たくなかった。
…でも一夜だけでも会えたから。
……そう諦めかけた時。
…悟史くんがまた居てくれているのを感じ、……私は悟史くんとの再会が夢でなかったことを神様に感謝した。
それから、私と悟史くんの不思議な共同生活が始まった。
悟史くんは約束通り、側に居てくれるだけ。
……笑ったり、むぅと言ったり、私の頭を撫でてくれることはできなかったけど。
……でも、ちゃんと居てくれた。いつも側にいてくれた。
たまにいなくなってしまうけど、私が捜すとすぐに側に戻ってきてくれた。
悟史くんの足音は、私にしか聞こえないようだった。
…………そういう、ものだもんね。
……私にしか聞こえない現実が少し寂しかったけど、……それ以上の贅沢なんか言う気はなかった。
悟史くんはとても希薄な存在なので、……雑踏の中やにぎやかな場所では、いてくれるのを感じにくい。
でも、どんな人ごみの中でも、私からはぐれたりはしない。
…生身の悟史くんだったらきっと、手でもつないでないと、迷子になっちゃうに違いないな。
だから逆に、とても静かな場所では、悟史くんが居てくれることを、とても強く感じることができた。
あと、これは当然のことだけど。……悟史くんは居てくれるだけだから、…表情とか仕草とか、そういうものがわからない。
…でも、……本当に慣れと言うのは不思議なもので、そんな存在の悟史くんでも、私は日にちを重ねるごとに、感情を読み取れるようになって行った。
最初は、きっとこういう時は悟史くんは笑ってくれるだろうな…という憶測。
…それがやがて、本当に悟史くんが笑ってくれているのを感じられるようになった。
………そんなやりとりがどんどん出来るようになるにつれて。
……私は悟史くんを強く感じることができる孤独を愛するようになっていった。
学校にも行きたくなくなったし、友人たちの誘いにも興味がなくなっていった。
でも…これはさすがに悟史くんにちょっぴり怒られた。
怒られたというか、…むぅ、と言われたというか。
いつも一緒なのはもうわかっていたから。……私は悟史くんが言うように、引き篭もらないように気をつけた。
悟史くんとの二人の時間に固執したのは、悟史くんが突然いなくなってしまうかもしれない、だからいられる時間を大事にしたい…との思いからだった。
でもそんなのは私の杞憂だった。
…悟史くんは必ず私の側に居てくれた。
そう。
…私と一緒にいると約束してくれたから。
…約束を破ったりなんか絶対にしないのだ。
悟史くんと一緒だから、…私は平気だよ。
もちろん、お姉にも話せないし、学校のみんなにも話せない。
ちゃんといるんだよっていくら説明したって、理解できはしないのだから。
でも、私にだけはわかる。
ずっと側にいてくれるのが、わかる。
だから、…………もう大丈夫…………。
「詩音さんはどうなさいますか。今夜の綿流しのお祭りは。」
「うん。行って適当に遊ぶつもりです。お姉とその愉快な仲間たちでもからかうかなー。あははははは。」
悟史くんと一緒に、お祭りを回りたいし。
それに、悟史くんは私がみんなとはしゃぐのを見るのがとても好きなんだから。
圭ちゃんをおちょくってると嫉妬するかな…なんて思ったけど、そんなのは思い過しだった。
その辺に鈍感なのも、何とも悟史くんらしい。
悟史くんは私たちが大はしゃぎしてるのを見るのが大好きなんだから。……だから、大はしゃぎしに行こう。
そして、全部終わったら、今日は楽しかったねって悟史くんに言おう。
「何で雛見沢に行きますか? 車で行くならお送りしますよ。」
「バイクで行くからいいや。」
「それはいけません。帰りに本家に寄られて親類の宴会に加わられるんでしょう? 酔っ払い運転などさせられません。」
酔っ払い運転はダメでも、飲酒まではお目こぼしらしい。ま、いいか。
「じゃお世話になりますかね。」
「わかりました。では夕方に出発しましょう。そのくらいの頃にお迎えに参ります。」
葛西が出て行くと、…悟史くんが今夜のお祭りが楽しくて楽しくて仕方がない、と言う風に表情をほころばせるのがわかった。
「……………………綿流しか。……悟史くんがいなくなっちゃってから、……もうすぐ一年になるんだね。」
悟史くんはどう答えていいかわからず、困っているようだった。
「むぅ、……でしょ? あはははははははは。」
私たちは小気味よく笑い合った…。
■綿流し
「ヘイらっしゃい。はいよ、網とお椀。」
「よし、やるぞ。……うーん、金魚はみんな活きがいいねぇ!!
実に美味しそう!
この小さいのなんか、そのままボリボリと生で行けちゃうよね〜!!!」
ざわ…ッ?!
「…み、…魅音さんは…なな、何を言ってるんでございますの…?」
「……魅ぃちゃん……食べてたの? 去年、レナからもらったのも…食べちゃったの?」
「ち、ちが……わ、私そんなこと言ってない…!!」
お姉が真っ赤になりながら、ぶんぶんと首を振って否定する。
「いや、でも……今、魅音、お前自分で言ったぞ。実に美味しそうだ、って。」
「えぇ、確かに言いました。お姉って雑食ですから、口に入れば何でも食べちゃうんです。」
「……おいしいなら、今度ボクも試してみるのです。」
「だだだだだだ、だめだよ梨花ちゃん、お腹壊しちゃうよ…!!!」
「……ちょっと待て。おいコラ。お前、いつの間にいるんだよ、…詩音ッ!!!!」
「ハ〜イ、圭ちゃんにお姉にみんな! こんばんは。」
「あ、……あ゛ぁああぁああぁーー!!! アンタどこから湧いてきたの詩音んんーー!!!!」
「焼きそば屋さんの時からずっとです。お姉たちは騒がしいからすぐに見つけられました。」
「もー!! アンタは関係ないでしょー?!?! 早くどっかへ消えなさいよー!!」
「も〜、お姉もあまり私を邪険にしないで下さい。…ね? 圭ちゃん? 私が一緒でもいいですよね?」
そう言いながら、圭ちゃんの腕を取り、わざとらしく胸の谷間に沈めてなんかみちゃったり。
ふにふに。
で、結局、そのまま大騒ぎ。
お姉と愉快な仲間たちで祭り中の模擬店を冷やかしてまわった。
悪ふざけしたり、大騒ぎしたり。
圭ちゃんをおちょくって、お姉にちょっかいを掛けてみたり。
というか、圭ちゃんはやはりみんなの中心にいるようで、圭ちゃんに構えば、自然とみんなを巻き込んだ。
これほどにぎやかな中だから、悟史くんに居場所がなかなかなかったけれど。
ちょっと静まったときに様子を見たら、僕なんかに遠慮しないてたくさん遊んでよって、笑ってた。
……もし本当にそこに居てくれたなら、腕を引っ張って悟史くんもこの大騒ぎに引き込んであげるのに。…それができなくて、ちょっぴり寂しかった。
誰かに思いっきり肩をぶつけた。
さすがに私の方が悪そうだったので、即座に謝る。
そしたら相手は見知った顔だった。
「あら。楽しんでるみたいね。こんばんは、詩音ちゃん。月の綺麗な晩ね。」
「……あれ、すごいお久しぶりですね鷹野さん! えっとそれから……、」
「そうだね、挨拶をするのはこれが初めてだね。僕は富竹。魅音ちゃんの双子の妹さんだって話は聞いてるよ。」
「よろしくです富竹さん。凄腕のカメラマンとのお噂だとか。ぜひ今度、私も写してくださいね。」
「あはははははは…、デビューを夢見て投稿を繰り返す素人だけどね。」
「そんなことないわよ。ジロウさんは上手よ? いろいろとね。くすくすくす…。」
「いやいや…、まだまだ勉強が足りないよ。才能に恵まれない分を、努力で補わないとね。」
そんなやり取りを見る限り、鷹野さんと富竹さんはまんざらでもない仲のように見えた。
「鷹野さんと富竹さん、仲がよろしいようで。私ゃお邪魔ですかね?」
「あらあら。ご賢察痛み入るけどお気遣いは結構よ。…それに、鷹野なんて何だか他人行儀みたいな呼び方ね。昔みたいに三四って呼んでくれていいのに。」
「あはははは…、やっぱり目上の人にファーストネーム呼びつけはちょっと気になるものでして。まぁその、気にしないで下さい。」
照れ笑いすると、鷹野さんも上品に笑って応えてくれた。
「あれから図書館には来ないのね。研究の同志として、もっともっといろいろお話ししたかったのに。」
「あははは…、まぁ気が向いたらその内ってことで。」
「研究の同志って、……まさか詩音ちゃんも興味があるのかい?
その、……この村の昔話とかに。」
富竹さんが眉をしかめながら苦笑いして聞いてくる。
私はしばらく鷹野さんと縁があったので知っているが、彼女の趣味はちょっとまともじゃない。
表向きは古代雛見沢村の風俗史の研究だが、結局のところ興味の中心は、古代雛見沢村の奇祭『綿流し』だ。
犠牲者を捕らえ、内臓を抜き出して食い殺したと言われる人食いの宴。
そしてそれにまつわるエピソードやら、残酷話やら、…とにかくスプラッターなことばかり。
そんなことが興味の中心にあるという人だ。
まぁ、ここだけの話、同志と呼ばれるのは対外的に不本意だ。
だが個人的な野次馬根性としては、彼女の研究ノートは読んでいて面白い。
その時、ドーーーン、ドーーーン!! という大太鼓の音が聞こえてきた。
綿流しのメインの奉納演舞が始まるのだ。
彼女の説によるなら、巫女が布団を鍬で裂いて、中身のワタを引き出すその演舞は、犠牲者のハラワタを引きずり出す行為を模したものらしい。
「いよいよ始まりますね。そろそろ私も行くかな。鷹野さんたちも見に行くんですよね、梨花ちゃまの儀式。」
「ん? ………んん、……あはははは。」
富竹さんが曖昧に苦笑いする。……見に行かないという意味だろうか。
鷹野さんがいたずらっぽく笑いながら、私の耳元で囁いた。
「実はね。
……………これから祭具殿の中に入ってみようと思うの。」
「……………え、」
彼女はとても楽しそうなことでもあるかのように言ったが、………それは祭具殿のことを知る人間にとってはとても笑えないことだった。
祭具殿は古手神社の、一種の宝物殿と言っていい。
中には祭具と呼ばれる、オヤシロさまを祀る神聖な宝物が納められているという。
だが、古手神社の境内の中で一二を争うほどの神聖な場所で、中に入れる人間は古手本家の人間と、御三家のごく限られた一部の人間だけに限定されている。
…それ以外の人間がみだりに立ち入ると、穢れを持ち込んでしまうと言われるためだ。
中に何が入っているのか、雛見沢に縁のある子どもたちなら誰もが一度は持つ好奇心だ。
だが、中を覗くことはできないし、大扉は厳重な鍵で閉ざされている。
子どもたちは祭具殿の周りで遊んでいるだけでも怒られるし、子どもたちも、祟りがあったら嫌だから、わざわざ好んで近寄ったりしない。
私も、雛見沢に縁のある人間として、祭具殿に対し近寄りがたいイメージを持っている。
もちろん、祟りなんか全然信じていないとしても、わざわざ近寄りたいと思わない。
禁を犯す得がないなら、わざわざ祟られるようなことをしたくないのは自然な感情だ。
その祭具殿に…入るって…?
「…でも、…確かものすごい厳重な鍵が掛かってたと思いましたよ…?」
「去年まではね。……前のカンヌキじゃ重すぎて大変だと梨花ちゃんが言ったらしいの。それで今年から、ものすごく安っぽい南京錠に替わったの。知ってた?」
「い、いえ、知りません。……でも、安っぽいと言ったって、錠前が掛かってますよ…?」
「ジロウさんね、とても器用なの。」
「……え、……ピッキング、…ですか。」
「綿流しの儀式が始まれば、全員が儀式に集まるでしょ? 祭具殿の周りには人影はまったくなくなる。……今夜が一番の死角なの。灯台下暗しとでも言うのかしらね。」
彼女の説によるならば、…祭具殿の中身は、古代の綿流しで使った人間用の調理道具や解体道具、拷問道具の類だと言う。
「よかったら、後でこっそりいらっしゃいな。二度とないチャンスよ? くすくすくすくす。じゃ、よかったら後でね。」
「鷹野さん、何の内緒話だい?」
「女同士の内緒話よ。行きましょ、暗くてひと気のないところへ逢引に。くすくす…。」
「ん? あ、あははははははは………。」
鷹野さんは富竹さんを連れて、儀式に向かう人たちの人の波と逆行しながら去っていった。
………祭具殿か。…拷問道具がいっぱい…。
園崎本家の地下拷問室を思えば、…それはありえることだった。
……悟史くんは、4年目の祟りの犠牲になった。
死体の出た叔母はオヤシロさまの祟り。
…死体の出ない悟史くんは、オヤシロさまの怒りを鎮めるための生贄。
…………そういう仮説を、去年考えていた。
でも所詮は仮説。
……悟史くんが生きていると考えたい私は、鷹野さんの研究を否定したくなっていたのだ。
鷹野さんの説が正しいなら、鬼ヶ淵村の古い風習を蘇らせようとする、御三家筋の人間か、狂信的な何者かがオヤシロさまの祟りを再現して繰り返している事件だ。
悟史くんも、…そいつらの手に掛かって殺されたことになってしまう。
……ならもしも。
祭具殿の中身が鷹野さんの説と違って、くだらないものでいっぱいだったらどうだろう?
壊れかかってて埃の積もった古いお神輿とか、いっぱいに広げた新聞紙の上に、塗装中の祭り看板が横たえてあるとか。
そんなくだらない中身だとしたら。
塗料のむせ返るようなシンナーの臭いでいっぱいだった……なんて、できない想像じゃない。
鷹野さんの説が正しくないことを証明することで、………悟史くんが生贄に捧げられて殺されたなんて説を否定できるのではないか。
………別に祭具殿の中に何があったって、……悟史くんが帰ってくるわけじゃない。……………………。
「………悟史くん。…………どうしよう……?」
ほとんどの人々が梨花ちゃまの奉納演舞に行ってしまったため、さっきまであんなに賑わっていた祭り会場は、…私だけを除け者にしたかのような静けさだった。
そしてこんなにも静かなのに、……悟史くんが居るのが感じられなかった。
たまたまいないのか、希薄で私が気付けないのか。……それとも、無感情なのか。
少し迷った末、……私は見に行くことに決めた。
厳密にはあと数日あるが、……悟史くんが失踪してから一周年。
……私は、すでに殺されているかもしれないという真実から逃げたくて、わざと目を背けて来た。
でも、…その一年後のこの夜に。
……祭具殿の中を見る機会に恵まれるなんて。
その運命の引き合わせに、何か神懸り的なものを感じずにはいられなかった。
途中、奉納演舞を取り囲む群衆に入り損ねて、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、人垣の肩越しに演舞を覗き見る圭一を捕獲する。
ちょっとしたいたずら気分と、共犯者を作ることによる後ろめたさの誤魔化しのために。
…祭具殿に入ろうなんて考えてるんだから、オヤシロさまに祟られるかもしれない。
その時の共犯ということで。
………………………………私の悟史くんが去年の祟りで消えたんだから。
…魅音の圭ちゃんも今年の祟りで消えてしまえ。
「……わ、…………な、何考えてんだ私……。」
私は突然芽吹いた鬼の声を、慌てて首を振って耳に入れまいとする…。
「どうしたんだよ詩音。それより、奉納演舞がよく見えるとこって、まだ遠いのか?」
「え? 奉納演舞がよく見えるなんて誰が言いました?」
圭一ととぼけた話をしている内に、私たちは祭具殿にたどり着いた。
タイミング的にはまさにビンゴ。
……富竹さんが今まさに、南京錠を取り外すところだった………。
■祭具殿
圭一は好奇心ではちきれんばかりのくせに、建前ばっかりで、なかなか祭具殿には入ろうとしなかった。
だが、適当に言いくるめ、富竹さんが見ておいで見ておいでと後押しすると、あっさりと転ぶのだった。
中は真っ暗だったが、鷹野さんが用意していた電池式のランタンを灯すと、かなり狭い前室であることがわかった。
「真っ暗だねぇ。みんな転ばないように気をつけるんだよ。」
「ご心配ありがとう。…じゃあ門番をよろしくね。ここ、閉めるわよ。」
楽しいことから富竹さんだけを閉め出すように、鷹野さんが意地悪に笑いながら、扉を閉めていく。
「やれやれ…。…じゃあみんな、ゆっくり楽しんでおいで。」
低く重い、よく響く音を立て、…外界と完全に遮断されると…シンシンとした闇が蝕んできた。
…鷹野さんのランタンだけが頼りだ。
「大丈夫よ。予備電池も入ってるアウトドア仕様なんだから。消えたりなんかしないわよ。」
鷹野さんが圭一に嫌味っぽく言う。
彼の顔は緊張感で少し青くなっているようにも見えた。
雛見沢に縁のない彼でも、…やはりこの祭具殿が聖域であるころはわかるらしい。
「さ、入りましょう。…よいしょ、っと。」
さらに重い扉が開かれ…ほこりだけじゃない、嫌な臭いの空気があふれ出して来る。
……台所の奥の、埃にまみれた何年も開けてない戸棚を開けたような臭いと、魚屋の生臭いにおいが混ぜこぜになったような…説明の難しい、嫌な臭いだった。
音の響き具合から、前室とは比べ物にならない広さを感じる。
鷹野さんがランタンをかざすと、その広々とした内部が鮮明にわかった。
「…ぅわ…!!」
祭具殿の正面一番奥には…仏像のようなご神体が立ち、侵入者である私たちを見下ろしていた。
ランタンのか細い明かりに照らされたその迫力に思わず驚いてしまう。
「あれが雛見沢の守り神、…オヤシロさまよ。」
………私は、宗教芸術みたいな装飾の施されたそのご神体を見上げる。
…悟史くんの失踪が、本当の本当に、………祟りなら。
……私は、こいつを許してはいけないのだ。
ご神体は、私を見下ろせる優位にあることを誇るようで、…ただそれだけのことなのに、私を苛立たせた。
……オヤシロさまめ。
……もしもお前が悟史くんを消した張本人なら。…………許さない許さない、絶対に許さない。
圭一は、ここにあるものにどういう意味があるかよくわかっていないようで、少し拍子抜けした退屈そうな顔をしていた。
鷹野さんもそれに気付くと、あの自慢のスクラップ帳を取り出し、さも楽しそうに古代雛見沢村の残酷な伝説を語り始めるのだった。
私はすでに知っている話なので、…二人を放っておいて、灯りで照らされている範囲内を歩いてみた。
…………意味がわかるからこそ、吐き気すら催しそうになる残忍な祭具たち。
それらが、別にわめくわけでもなければ襲い掛かってくるわけでもないのに、…私を威圧し、あわよくば数百年ぶりの血肉にありつこうと大口を開けている気配がひしひしと感じられた。
ここにあるのは何れも雰囲気が、園崎本家の地下で見たあの拷問道具たちと同じだった。
……園崎本家の拷問道具たちが末裔なら、…ここにあるものはまさに先祖と呼べるものなのだろう。
祭具はどれも年代物で、実際の使用に耐えられるかは少し疑わしいものもあった。
園崎本家の地下の物に比べるとメンテは行き届いていない。……だから、怖くない…?
いや、だからこそ。
…………………こんなにも大昔から、…この村には本当に残酷な風習がずっとずっと息づいていたのだとわかるからこそ。
………恐ろしい。
………鷹野さんの言っていたことは、全て正しかった。
私が立ち止まると、悟史くんも一歩遅れて立ち止まる。
……悟史くんは…何の感情も見せなかった。
何も感じてないのか、…無表情なのか。
………居るのはわかってるけど、ぜんぜん様子がわからなくて。
……悟史くんと一緒になってから、初めて彼を怖く感じた。
もし悟史くんに返事ができるなら。
……私は聞きたい。
…悟史くんを『鬼隠し』にしたのは何者なの、って。
「……………ね、…悟史くん。…………聞いてる…?」
悟史くんが聞いてくれたのかどうか。
……悟史くんは私の言葉など聞こえないかのように、…ふぃっといなくなってしまう。
私はここに入ってから、…明らかに悟史くんが不機嫌になっているのを感じていた。
悟史くんの居なくなったのが急に心細くなり、……私は姿のない悟史くんがどこへ行ったのか、…うろうろと捜した。
ご神体の足元に、祭壇が設けられているのに気付いた。
………そこに悟史くんが居る気がして。
小奇麗な祭壇だった。
祭壇の上には、宗教的な意味合いのありそうな小物類が、ひな壇みたいに飾られていた。
ここだけはよく手入れがされていて、指でなぞっても埃はつかない。
つまりこれは、……………えっと……。
花瓶に供えられた花はしおれていない。
……その花瓶の下には、この祭壇には似つかわしくない可愛らしいハンカチが敷かれていた。
……雰囲気的に、古手梨花が普段使うハンカチの内のひとつだと感じる。
ということはつまり…。
………この祭具殿は、今日でも維持されている。
忘れ去られた古代の遺物では断じてないのだ。
…即ち、この祭具殿に宿る残酷な悪意は、………今日も雛見沢に根付いているという証拠に他ならない。
そう。オヤシロさまの祟りなんて曖昧なものは、妄信する村人たちの生み出した単なる妄想に過ぎないのだ。
鷹野さんが好んで使う言葉を借りるとつまりはこういうこと。
“人の世で起こることは、全て人が起こしていることだ。”
さっき私はオヤシロさまのご神体を睨みつけ、悟史くんを『鬼隠し』にしたのは貴様かと言った。
だが、オヤシロさまなんてのは、銅か木材で作られた単なる偶像。
それ以上の何者でもない。
…その偶像を、それ以上の存在であるようにしようとしている「人間」がいるだけなのだ。
雛見沢村連続怪死事件は人の起こした事件であって。……オヤシロさまの祟りなんて呼ばれるべきものでは絶対にない。
悟史くんがオヤシロさまの祟りの4年目の犠牲者だと言うなら。
オヤシロさまの祟りをなぞろうとする、「人間」の犠牲者なのだ。
そして、悟史くんを『鬼隠し』にした人間は、……そう遠くにはいない。
…………悟史くんの真実が、………ここからそう遠くないところに潜んでいる……。
ダン。
何かが床に落ちるような音にちょっと驚き、私は鷹野さんたちの方を見た。
鷹野さんは相変わらずのご満悦な様子で、圭一に講釈をしているところだった。
………スクラップ帳でも床に落としたのかな…?
ダン、
ダン、
ダン。
……それは鷹野さんたちのところではなく、…私のすぐ後ろでだった。
悟史くんが今日までに、ぺたぺたという慎ましい足音以外を聞かせたことは一度たりともない。
…地団太を踏んでいるような、そんな音だった。
な、……なに…?
ダン、
ダン、
ダン。
その音は、私の問い掛けなど気にせず、ただ音だけを繰り返した。
それは自分のすぐ目の前で生まれている音なのに、……どこか遠くの板の間で子どもが飛び跳ねるような、そんな音。
「…………どうしたの……悟史くん………。…何か、……怒ってるの……?」
悟史くんの表情がわからない。
私は怒っているように思って、怒っている?と聞いたのだが、……実際は、何の感情も表情も感じ取れなかった。
…悟史くんは、私が祭壇に指で触れたことを怒っているのだろうか……?
神聖な祭壇を触ったら、そりゃ怒るよね………?
ダン、
ダン、
ダン。
………別に、今日までだって悟史くんと意志の疎通が具体的にできてたわけじゃない。
居てくれるだけの悟史くんに、私が一方的に話しかけるだけ。
…私だって、悟史くんに何か反応を求めてたわけじゃない。
それでも、……この気味の悪い音には、何の意思の疎通も感じられなかった。
その時、……背中をぞわっとしたものが広がった。…全身の毛穴が開いてくのが分かる。
私はずっとその音を、……悟史くんが地団太を踏んでいる音だと思っていたけれど。
…………………ね、…………あなた、
…………悟史くん、………………………だよね……?
…そう問い掛けた時。…音が止まった。
それは否定でも肯定でもなく、沈黙。
……悟史くんなら、こんな気味の悪い答え方はしない。
その地団太が、……悟史くんじゃないと分かった時。
私は足元から冷たい電気が駆け上るのを感じ、弾かれるように後退った。
音はすぐ目の前の、そこでしていた。
……私が後退ったって、…ほんの数メートルと離れちゃいない。
悟史くんなら歩くとき、ぺたぺたとした足音を聞かせてくれることもある。
…………だけど、…悟史くんじゃないなら、…足音が聞こえる保証なんかない。
だから、……目に見えぬ存在が、ひょっとして私の目と鼻の先にもう迫っていて。単に私が見えていないだけなんじゃないかッて…!!
私はなりふり構わず走り出す。
最大限に耳を澄ましながら。私を追ってくる足音がないかを聞きながら。
圭一にぶつかるようにしがみ付き、恐る恐る後を振り返る。
……薄暗がりの祭壇前は、何事もなかったように静まり返っていた。
だけどその、ぞっとするような暗さと静けさに、……私はついさっきまであんな所にいたのかと気付き、今さらのように怖くなった…。
「どうしたよ、詩音。…ひょっとして怖くなった?」
圭一が小意地の悪そうな顔で笑いかける。
ついさっきまで自分も怖がっていたくせに、目の前の女の子が自分より怖がっていることに気付いて、ちょっと精神的優位に立ったような顔だった。
「あはははは、お化け屋敷で女の子がしがみ付いてくるのはデフォじゃないですかー。まんざらでもないくせに。ほらほら、行きましょう。鷹野さんに置いてかれます。」
上辺は気丈を装ったが、体の芯の凍えまで隠せているかは不安だった。
足音は、…ずっと付いて来た。
このランタンの灯りの中には入れないのか、あるいはそれ以上は近づけないのか。
……でも、離れることはない。
…まるで祭具殿の4人目の見学者みたいに、……私たちに付いて来るのだった。
そして、……時折、自らの存在を知らせたいみたいに、地団太を踏んだり、飛び跳ねるような音を立てる。
でも、鷹野さんや圭一は、…………気付いていない。
鷹野さんほどの人なら、聞こえてて無視もできるかもしれない。
でも、圭一は違う。
こんなところで不審な音が聞こえたら、絶対に騒ぐはずだ。
ということは、………悟史くんと同じ…。
……私にしか聞こえていない……。
私にとって怖いことは何なのか。
悟史くんがなぜか不機嫌で、表情も変えずに怒っていることなのか。
悟史くんだと思っていた人が、………全然知らない、素性もわからない何者かかもしれないからか。
ダン、
ダン。
…悟史くん、……何を怒ってるの……? 何が悪いのか教えてよ、…謝るから…。
ダンダン、!
ダン!
……悟史くんじゃないなら、……悟史くんはどこへ行ったの…?
いつからお前は悟史くんじゃなくなってるの…?
ダン、
ダン、
ダン!!
「………詩音、…大丈夫か?」
「はい? 全然平気ですよ? それより圭ちゃんこそ、顔面蒼白でかなりヤバげかと。」
「んなら、あんまり俺の服を引っ張り過ぎないでくれると嬉しいんだけどな…。」
「あ、こりゃ失礼です……。」
「あらあら。私はお邪魔かしら? くすくす…。」
私は鷹野さんと圭一の会話に入り込むことで、後の音を無視することにする。
さっきほど頻繁に音が聞こえなくなり、…音も少し遠のいた気がした。
そうさ、気にしなければいい。
気にしなければ聞こえない。
…無視しろ、…無視。
「で、鷹野さんはその風習が、実は現代にも残っているんじゃないかと思って、研究をしてるんです。…そうでしたよね?」
ダン、
ダン。
「……これ、本当に内緒なんだからね? 詩音ちゃんは理解のある人だから話したけど、他の村人には聞かれたくないの。…下手をしたら罰当たり者ってことで、袋叩きにされかねないんだから。」
そう言って、背徳感を面白がる魔性の笑みで笑って見せた。ダン、
ダン。
「前原くんも内緒にしてね? 知られたら私、オヤシロさまの祟りにあうか、生贄にされちゃうかするかもしれない。
祟りなら、今年はどんな死に方をさせられちゃうのかしら。生贄なら…鬼ヶ淵の沼に生きたまま沈められちゃうのかしら?……そう言えば今夜よね。オヤシロさまの祟りがある夜は。」
………そう。…もしも5年目にも起こるなら、それは今夜起こる。ダン、
ダン、
ダン!
鷹野さんはペーパーバッグから、かなり使い込まれたスクラップ帳を取り出すと、バラバラとページをめくり始める…。
開かれたページは、………あぁ、あれだ。
明治の頃にあったらしい、綿流しの犠牲者の惨殺死体が見つかったという記事。
「これは実際にあったお話よ。明治の終わり頃にね。…鬼ヶ淵村で身元不明の惨殺死体が発見されたんですって。」ダン、
ダンダンダンダン!!
「…カクモ無惨且ツ残虐非道ヲ………。」ダンダンダン!
……ねぇあんたたち。…本当にこれが聞こえてないの…?
これだけドタンバタンと音を立ててるのに、……本当に聞こえてないの?
あぁ…くそ……うるさいよ……さっきからドタンバタン…。
その時、ギィイィイィという怪音!!!
はっとして全員が振り返った。
…扉が細く開き、富竹さんが顔をのぞかせていた。
「あっはっはっは。驚かせちゃったかな?」
「あら、ジロウさんも見たくて我慢できなくなったかしら? ……ここ、素敵な拷問道具の宝庫よ。」
「僕は遠慮させてもらうよ。…あははは…、生来ね、こういうのは苦手なんだ。」
男のクセに、とでも言いたいのだろうか、鷹野さんは押し殺した声で、お腹を抱えながら笑った。
「それより。演舞とセレモニーが終わって、みんな沢の方に下りて行ったよ。あと何分もしない内にお祭りは終わっちゃう。」
時間切れだ。
………私はこの悪い夢の中のような世界から、富竹さんによって救い出されるとは夢にも思わず、その飄々とした笑顔に感謝すらした。
「ん? 圭一くんも出るかい?」
「……もう充分に見ましたので。…詩音、もういいだろ? 出ようぜ。…きれいな空気が吸いたいよ。」
「同感です。出ましょう。」
前室に出て、後ろを振り返る。
もう時間切れだと言うのに、鷹野さんが未練がましく、カメラで大慌てで色々と撮影しているのが見えた。
…………もう、あの音は聞こえない。
そしてあの気配もついて来ない。
…悟史くんの気配もついて来ない。…でも、寂しいとは思わなかった。
だって、……今、悟史くんが来てくれたとしても。
…………本当に悟史くんなのか、………それ以外の何者なのか、……見分けなんかつかなかったに違いないから…………。
■幕間 TIPS入手
■ノートの172ページ(昭和58年終了時)
私が地下拷問室と呼んでいたあの場所は、正しくは地下祭具殿と呼ばれているらしい。
ということは、拷問室と祭具殿は同義語だということなのか。
鷹野さんの説では、明治以降も綿流しを始めとする血生臭い風習は、御三家に密かに引き継がれているという。
そして、許されるならばいつでもその儀式を執り行える準備があるのだとか。
祭具、つまり祭る(祀る)という言葉の対に拷問がある以上、雛見沢の源流に、人間を虐め殺す文化があることは否定できない。
鷹野さんの説は正しい。
そして象徴的な祭具殿と違い、園崎本家の地下祭具殿は確かに常時使用可能な状態で維持されていた。
ここにおいても鷹野さんの説は正しい。
公由家の倉は知らないが、園崎家、古手家がこうして「祭具」を祀るのだから、近い規模の物を秘蔵しているに違いない。
そう、現代の御三家にも脈々と、残酷な風習が受け継がれているのだ。
この呪われた村で、村ぐるみで今も奇怪な何かが行なわれている事実に備えろ…。
■ノートの173ページ(昭和58年終了時)
祭具殿の不可侵性は、オヤシロさま崇拝の中でも群を抜く。
もちろんそれは私も、雛見沢に縁のある人間として知ってはいた。
だが、実際は私が知る以上に、もっともっと偏執的なくらいの不可侵性があったのだ。
鷹野さんの研究によるなら、祭具殿の不可侵性の歴史は相当古いという。
それだけ祭具を使った奇祭「綿流し」が神聖視されていたことの証だろう。
だが、鷹野さんの研究では綿流しは純粋な宗教儀式でなく、御三家の支配体制をより磐石にするための、公開処刑的な意味があったという。
だとするなら、そもそも神聖視という呼び方が間違っている。
そんな状況下でなら、憎悪と恐怖の対象として疎まれた存在のはず。
恐怖は露見し過ぎればただの恐怖支配に過ぎない。だが、極力隠せば神聖さが宿る。
俗人が触れると穢れがつくとよく言う。
それは衆人環視に晒されたら威厳がなくなるので、もったいぶって隠した方が、箔がつく…という意味でしかないのだ。
つまり、祭具殿の不可侵性の正体は、…恐怖。この村を支配する真の感情の正体なのだ……。
■ノートの179ページ(昭和58年終了時)
この時の祭具殿侵入が、結局、鷹野さんたちの祟られる理由となった。
祭具殿侵入がどういう形で発覚したのかは分からない。
最初に思いつくのは、何者かに目撃されていたこと。
次に思いつくのは、侵入警報のようなものがあったこと。
何れにせよ、この祭具殿侵入はおそらくリアルタイムで祟りのシステムの上位者に通報されていた。
なぜなら、もっとも遠い地で遺体が見つかることになる鷹野さんの殺された時間などを考えると、祭具殿を出て私たちが分かれてすぐくらいに殺されてなければならないからだ。
この手際の良さは特筆に値する。
相当高度な暗殺部隊が組織されているのか、さもなければ「5年目の祟りの準備」がすでにされていたからなのか。
園崎家の暗部を担当する秘密の集団の存在も否定できないが、後者の説の方が信憑性がある。
しかし、だとすると、5年目の祟りは、祭具殿侵入がなかったら「本来」誰に下されていたのか、という疑問にぶつかる。
■綿流し当日、深夜
綿流しの祭りが終わった後、園崎家の親戚たちは皆、本家に集まり、一部の親戚たちと簡単な酒盛りをした。
私は親しい叔父さんたちと隅の方で勝手に盛り上がっていた。
………祭具殿の中での、気味の悪い記憶を少しでも薄めるために。
魅音は終始、次期頭首さまだったので、私は近寄らずにいた。
血を分けた姉妹に、他人行儀に喋られるほど、気持ちの悪いことはないのだから。
鬼婆に気を遣い、酒盛りは午後の11時くらいでお開きになった。
みんなで片付けをし、仕切るのが大好きな叔母さま連中は、台所を占領してガンガン食器類を洗っていた。
男性陣も、広間いっぱいに出された机をどんどん畳んで、奥の納戸に片付けている。
30分くらいで全部片付き、親戚たちはどんどんと散って行った。
この頃になると、魅音も頭首モードは終わっていて、私のよく知る魅音に戻っていた。
私は少し急いで飲みすぎたせいか、畳の上でぐったりとしていた。
葛西が、車に乗れますか?と聞いてきたので、乗ったら吐くと言い返してやった。
「…お姉、今日、泊まってってもいい? ここで寝ちゃいたいー…。」
「婆っちゃに見つかると怒られるよ…?
って、それより詩音、明日は学校じゃないの?」
「……明日は開校記念日だからいいの……。……んーー…。」
「あんたの学校、開校記念日って年に何回あるわけ?
……まぁ、いいっかぁ。じゃ、葛西さん。詩音は今夜はうちで預かります。」
「わかりました。ではよろしくお願いいたします。」
「ほら詩音、起きてー。ここで寝てると婆っちゃに怒られるって。ほら、肩を貸すから奥に行こう。私の布団、貸してあげるから。」
「ありり〜〜お姉〜〜……ぅ〜〜ん……。」
■時間経過のシーン。1〜2時間後
だいぶ寝惚けていたから、はっきりとは覚えていない。
でも、確か私は魅音の部屋に連れてこられて、布団に潜り込んだんだ。
それで、少し後片付けした後、魅音もその脇に布団を敷いて、部屋の灯りを消して横になったはず…。
私は起き上がって、灯りを付けた。
魅音の布団は空っぽだった。
……布団に温かみはない。
魅音が布団を抜け出したのはずいぶん前だ。
………お手洗い…?
いや、一番近くのお手洗いは、廊下のすぐそこだ。
…でも、そこに灯りはついていない。
どこへ行ったんだろう………?
静寂の中、いやにうるさく聞こえる時計の針の音。
見ればその針は……午前3時の少し前を指していた。
こんな深夜に、……突然、ひとり残されて。
せっかくアルコールで誤魔化した、あの祭具殿での薄気味悪さが…再び戻ってくるのを感じた。
…………気味の悪い気配も、…不審な物音も、…足音もない。
私は魅音の姿を求めて、凍てつくように冷えた廊下に歩み出した……。
灯りの漏れている部屋をすぐに見つけられた。
…………そこは、鬼婆の寝室だった。
鬼婆は割と早く寝る代わりに朝が早い。
しかも就寝時間に厳格だ。…だから、こんな時間に灯りがついていることは考えられなかった。
その部屋から、灯りだけじゃなく、声も漏れてくる。……魅音と鬼婆の声。
私はぎりぎりのところまで部屋に近付いて、耳を澄ませて会話をうかがった。
……草木も眠る時間だけあり、二人の会話は少し離れていてもよく聞こえた。
「しゃもねえやんなぁ。あんの若いんのも、ちょい出張り過ぎゃったんやぁん。」
「まぁね。………………オヤシロさまのお怒りに触れたんだから、仕方しないしね。」
魅音の声が、あの地下拷問室で聞いた時と同じ、ぞっとするような冷たさを伴っていることに気付き、私は一層、息を殺した…。
「警察は調べんとっちゅとろんが、すったらん、間違いなかんね。」
「……………多分ね。
鷹野さんだろうね。」
心臓が止まりそうになる。
オヤシロさまの祟りに触れた。
警察が調べてる。
多分、鷹野さん。……そして、今日という日の意味。
わずかこれだけの単語でも、……何が起こりつつあるかが分かる。
奥歯がガチガチ鳴りそうなのを必死に堪える。
…全身がぶわっと膨張したみたいに感じて、耳が遠くなったような錯覚が起こる。
………落ち着け、深呼吸。…耳をもっと澄ますんだ…………。
魅音と鬼婆の会話から、確実に言えるのは、5年目の事件もやはり起こったということ。
そしてその犠牲者はおそらく……鷹野さんと富竹さん…。
しかも、……鬼婆たちは、この二人が犠牲になった理由について、納得している節があるのだ。
いやいやいやいや…もっと落ち着いて考えるんだ…。
オヤシロさまの怒りに触れたから仕方ないとか言った。
……鷹野さんと富竹さんがオヤシロさまの怒りに触れたって?
どうしてオヤシロさまの祟りに触れたんだ…?
………………ばれてるんだ。
全身の関節ががくがくと震え始める。
……祭具殿に忍び込んだことが、ばれてるんだ……。
なら、…一緒に忍び込んだ圭一と、……………私もオヤシロさまの祟りの対象じゃないか……。
その時、突然、電話のベルが鳴り響いた。
電話は、玄関の方にある。
玄関は鬼婆たちの部屋の反対側のずっと奥。
長い廊下の途中で、たくさんの壁にぶつかって残響しながら響く電話の音は、この世からの電話とは思えない不気味さがあった……。
その時、………………私の後ろに、……居た。
もちろん、振り返ったって誰の姿もない。……でも、居た。
悟史くんかどうかはわからない。
…感情が感じられないから、…判断が付かない。
いつからそこに居たのかわからない。
………まるで、盗み聞きする私を監視するような、……そんな気配と視線。
……悟史くんのわけない。
……悟史くんがこんな威圧的な恐ろしさを滲ませるわけがない。
頭の中が真っ赤な血の色でいっぱいに染まってしまう。
「魅ぃちゃんにはない? ひたひたと。ずぅっと足音がついて来て。……夜は枕元にまで立たれて、見下ろされる経験。」
脳裏に蘇るのは、……あの雨の日に竜宮レナに言われたあの言葉。
「そうならば魅ぃちゃんは大丈夫。……オヤシロさまには怒られない。」
……オヤシロさまに怒られないなら、……誰かが私の後ろをひたひた付いてきたりすることなんて、ない。
じゃあ…何。……祭具殿に忍び込んだ時から、…私の後ろをぺたぺたと付きまとってるのは、………何だって言うの…。
落ち着け落ち着け……。
そう、レナの話した話は私の話じゃない。
そう、悟史くんの話! 悟史くんの身に起こった話…!
「悟史くんが体験していることは全て、…オヤシロさまの祟りの前触れなの。」
そうだね、だから悟史くんはオヤシロさまの祟りに遭ってしまったんだね…。
「………誰かが遠くからじっとうかがっている。…誰かがずっとつけて来る。」
ぞおっとしたものが……腰から湧き上がり、背中全体に広がっていく。
「……誰かがいつも、自分のすぐ後ろから見ている。……やがて足音は常に、自分とずれてひとつ余計に聞こえるようになるの。」
固唾を音がするくらいに呑み込む。
…………まるで、あの時の竜宮レナが、……今の私を予言してるみたいじゃあないか…。
レナはあの時、悟史くんの話をしたのか? 私のこれからの話をしたのか…?!
「………やがて後ろのそれは自分の家の中にまで付いて来るようになる。そして、……お布団に入って灯りを消しても、…ずっと枕元から見下ろしてるの。………ただただ黙って。じぃっと…。」
もう間違いない、もう間違いない…。
どんなに都合よく楽天的に考えようとしても無理。…………これは私。…私。…私のこと!
オヤシロさまの祟りって……オヤシロさまの祟りって……!!
その時、気配でも音でもなく本当に。
私の襟首が掴まれた。
「ぁ……………ッッ!?!?」
悲鳴なんか出ない。
出したかったけど、喉の奥が詰まったようになって、口をぱくぱくさせるのがやっと……。
それは……魅音だった。
地下の拷問室で見せたあの冷たい表情とだって、比べようがないくらいの……信じられないくらいに冷たい表情で。
……当然だ。電話が鳴ってるんだから、電話を取りに魅音が廊下へ出たのは当り前。
たまたま夜中に目が覚めちゃって…偶然、ばったり……なんて言う言い逃れを頭の中に用意する。
………でも、魅音の瞳は信じられないくらいに冷え込んでいて。
私が本当に偶然ばったりだったとしても、……何の反論も許さないような恐ろしい気配に満ちていた。
私は全身に脂汗を噴き出しながら…、指一本動かすことができない。
「…………ご、…………ごめ、……、」
無意識の内に謝罪の言葉が口を突く。
言い逃れの余地があったかも知れないのに、真っ先に非を認める最低の言葉だ。
だがそんなのは魅音の耳には入らないようだった。
ただ黙って連行するかのように、私の襟首を掴んだまま、玄関へ向かった。
電話はまだ鳴り続けている。
……普通の人だったら、こんな深夜にこんなに電話を鳴らし続けたりなんかしない。……その時点でも、もう現実離れしていた。
私の襟首を掴んだまま、魅音は受話器を取った。
「………魅音です。…………………………………………。………そうですか。わかりました。………そちらの対応はよろしくお願いします。それから、一切の口封じをよろしくお願いします。……………………えぇ。では。」
短いやり取りだけすると、魅音は受話器を置いた。
口封じって何?!
今の電話の相手は……誰?!…………………ッ!!!
魅音は襟首を掴んだまま、私に額を寄せて……言った。
「…………………聞いてた…?」
何に対して聞いてたと言ってるのか…!!
そんなのすぐ分かる、鬼婆との会話を聞いてしまったかどうかだ。
でも、聞いたと答えればどういうことになるか、想像もつかない。
「……………し、…知ら…………、……あはは、…何のことか、わかんない……。………ぁぅ…!」
魅音は襟首をぐっと引き絞ると、私に鼻をぶつけながら言った。
「………………聞こえた通りです。……富竹さんと鷹野さんが、オヤシロさまの祟りに遭われました。……………本当にお気の毒なことです。」
それはまるで、鏡の中の私が囁きかけるよう。
だが口にするそれは、凍てつく冬に触れる鏡のような、冷え切ったもの…。
「………お姉…、あはは、…………オヤシロさまの祟りって、…何です……?」
「富竹さんは、自らの手で喉を掻き毟ってお亡くなりになりました。……鷹野さんは遠くの山奥で、ドラム缶に詰められて焼き殺されたそうで。…実にお気の毒です。」
…富竹さんが自分の手で喉を掻き毟って死んだって?!
何それ!
鷹野さんがドラム缶に詰められて焼き殺されたって?!
何それ…何それ!!
背筋を毛むくじゃらの毛虫が這い上がってくるような悪寒。
そして、胃がデングリ返って痙攣しそうになる圧迫感。
腰から下がぼーっとして…魅音に襟首を放されたら、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
「…………な……なんで、……そんな死に方……、したのかなぁ……。」
「わかりませんか、…詩音……?」
…わからないから…聞いてるんだって……。
「わか、わかんないよ……あはははは………、」
「理由なんて、ひとつしかないじゃないですか。」
その、まるで自分の胸に聞いてみろみたいな言い方は勘弁…。
「…何の…り、理由かなぁ…。」
心臓がばくばくする。…血の混じった熱い排気が喉の奥から込み上げて窒息しそうになる…。
「そんなこともわかんないのですか?」
『オヤシロさまのお怒りに、触れたから。』
1年目はダム工事の現場監督。
2年目は村の裏切り者。
3年目は村の日和見者。
4年目は村の裏切り者の縁者。
ダム戦争に縁がある人間だけが犠牲になると、心のどこかで決め付けていた。
自分はダム戦争の時、何も嫌われることをしていないからセーフティー。勝手にそう決め付けていた。
自分だってわかってたじゃないか。
オヤシロさまの祟りってことになってるって。
そう、オヤシロさまの祟りってのはオヤシロさまのお怒りってことも知ってた。
そりゃ、祭具殿に勝手に侵入すれば…オヤシロさまに怒られるだろうなぁくらいには思ってた。
でも、それでも、自分はダム戦争の戦犯じゃないから、犠牲者になるなんてことは絶対にないと思ってた。
そもそも私は5年目も事件が起こるなんて思ってた…?
いや、そもそも、自分が5年目の犠牲者に選ばれるなんて、思ってた…?!
祭具殿に忍び込んだ富竹さんは自分で喉を引き裂いた?!
鷹野さんはドラム缶に詰められて焼き殺されたって?!……嘘、馬鹿、信じらんない、いくら禁断の祭具殿ったって、単なる拷問道具の倉庫でしょ?!
そこにちょいと空き巣の真似事をした位で…やる?! 殺る?! ここまで酷い殺し方ができちゃうのッ?!
……………………できるだろうな、と。思った。
私に爪を剥がさせた、あの園崎本家なら、できるだろうな、と。
毎年の連続怪死事件を裏で操る園崎本家なら、できるだろうな、と。
ダム戦争時にあれだけ暗躍し、大臣の孫すら誘拐してのけた園崎本家なら、できるだろうな、と。
……悟史くんを、いなかったことにしてしまえる園崎本家なら、できるだろうな、と。
魅音は私にしな垂れかかって、……そして、ずるずると滑り落ち、冷たい廊下にバタンと。
…割と乱暴に倒れた。
本来ならスタンガンなんて重くて邪魔なものを、身に付けたまま寝たりはしない。
…だが、酔っ払っていて、寝る身支度なんてしないで布団に潜り込んだから。
…私はスタンガンを持っていた。
私は今こそ、…理解する。
手を直接に下したのが誰なのかはわからなくても。
誰が、何の思惑で誰に指示をしたにしても。
誰が誰に気を利かせたにしても。
……それを魅音や鬼婆は知っている。
悟史くん。………私、やっとわかったよ。
私が、やらなくちゃならないことが、やっとわかった。
悟史くん、君の無念はきっと私が晴らすから。
…悟史くん、君の仇はきっと私が討つから。
…悟史くん、私は君みたいに、……殺されないから。
私が鬼婆の部屋に入った時。
鬼婆は何かの薬を飲む為に布団から体を起こし、私に背を向けるようにしていた。
私たちは双子。
まったく同じように踏み入れば、気配も何も変わらない。
鬼婆は多分、私のことを魅音だと最後まで信じきっていたと思う。
首筋に禍々しい器具を押し付ける。躊躇なくスイッチを入れる。
…電気の爆ぜる、形容のしにくい音がして、まるでスタンガンのスイッチが、鬼婆自身のスイッチでもあったみたいに。
…ストンと、ねじれた格好で鬼婆は倒れた。
スタンガンで気絶させた相手がどのくらいで自由を取り戻すか、よくわからない。
二人が意識を取り戻す前に自由を奪わなくては。
私は信じられないくらい冷静だった。
■尋問
地下の拷問室の鍵束は、…以前、魅音が教えてくれた“頭首しか触れてはならない隠し引き出し”にしまわれていることを知っていた。
初めて探す引き出しだが、かつて魅音が教えてくれたイメージ通りの場所にあった。
鍵束には、殊勝にも全ての鍵に、使う場所が記されたプレートが付けられていた。
魅音の字だった。
……あの馬鹿の律儀さが役に立つ。
私はそれをポケットにしまうと、外の納戸へ向かい、一輪の台車を探し出した。
大型の懐中電灯もあった。
それには紐がついていたので肩に掛けてぶら下げる。
……魅音と鬼婆の二人を運ぶためには、両手が自由になっているのは都合がよかった。
それから魅音、鬼婆の順に台車で地下拷問室前へ運び込む。
途中で目を覚ましそうになったら、もう一度スタンガンを食らわせてやろうと思ったが、…その威力は想像してたより遥かに強力で、鬼婆はまるで目を覚ます様子がなかった。
ずいぶん前に、葛西になるべく強力なやつを用意してほしいと言って取り寄せさせたものだった。
改造品で、護身の域を超えた出力が出せるから、悪戯には決して使わないように釘を刺されたっけ。
懐中電灯で照らしながら、灯りのスイッチを探す。
…簡単に見つかった。そのスイッチを入れる。
地下の全ての灯りが灯ったようだった。
…もっとも足元が分かる程度のぼんやりした灯りにしかならなかったが。
私は、二人が目を醒ますより早く終わらせようと、躊躇なく無駄なく、二人の体をてきぱきと運び込んだ。
まず魅音を、拷問室の奥にある牢屋に閉じ込めることにする。
拷問室だけは灯りがふんだんで、真昼のように明るくなっていた。
その奥に扉があり、…確か、その向こうには牢屋があると言っていたっけ。
扉の鍵は…………これか。
鍵を開けるがちゃがちゃという音が、残響する。
……扉の隙間から冷え切った空気が漏れてくるのもわかった。
扉の向こうは、相当広い空間であることがうかがえた。
扉を開けると、……何も見えない漆黒が広がっていた。
灯りのスイッチがすぐ脇にないかと手探りで探すと、案の定、それらしきものに触れた。
スイッチを入れると……いくつかの裸電球に明かりが灯り、むき出しの岩肌の大空洞が広がった。
自然の洞窟というよりは、まるで防空壕の跡か何かのように見えた。
それらのあちこちに鉄格子のはめられた岩窟がある。……岩牢だった。
一番近い岩牢に近付き、監禁に足るかを調べる。
鉄格子を押したり、引いたり。
最後には体当たりもしてみるが、華奢な感じはまったくない。
牢の名に恥じぬ冷酷な頑丈さがあった。
私は鍵を開け、魅音を運び込んだ。
…私の筋力はごくごく平均的。
人の体を軽々と持ち運べるような力があるとは思わなかった。
……だが、非力なふりをする必要がないことを知った今の私は、何の苦もなく彼女らの体を担ぎ上げたり、引き摺ったりすることができた。
魅音を岩牢の奥へ放り込む。
………魅音が少し呻いた気がした。
注意深く観察するまでもない、スタンガンの効果が切れ始めているのがわかった。
私は鉄格子を閉め鍵をすると、同じく目を醒ましかけているに違いない鬼婆のもとへ走った。
だが幸いなことに、鬼婆の方はまだぐったりしていて身動きひとつできなかった。
…やはり若さなどで個体差があるらしい。
私は鬼婆の体を縛り付けるための拘束台を探した。
…両手両足を拘束する車椅子を見つけ、それに鬼婆を座らせる。
何の抵抗もしないけれど、重くてだらんとした鬼婆の体は、まるで肉で出来た大きなフランス人形みたいなものだった。
肘掛の部分に両手を置き、手首の部分に鉄環を締めて蝶番で固定した。
足も同じで、足首の部分で鉄環を締めて蝶番で固定する。
そもそも、車椅子を改造した拘束道具らしく、こうしてしまえば、あとは普通の車椅子と特別な違いはなかった。
私は鬼婆が目を醒ますのを待った。
鬼婆が目を醒ましたら聞きたいことは山ほどある。
素直に答えてくれるとは思わないが、ここにはそれを引き出すためのあらゆる道具があるのだ。…私は焦るつもりはなかった。
鬼婆が憂慮すると、親族の誰かが気を利かせる。
それが園崎本家の指示の仕方だ。
とは言え、全ての情報は本家の頭首に集まる。
……この雛見沢で起こることで、鬼婆が知らぬことなどあろうはずがない。
たとえそれがオヤシロさまの祟りでもだ。
牢屋の方から、鉄格子を鳴らす音が聞こえてくる。
……鬼婆が目を醒ますより早く、魅音が目を醒ましたようだった。
鬼婆はまだ当分、目を醒ましそうにないが、たとえ醒ましても椅子に拘束された今、何も恐れることはない。
私は鬼婆をそのままにすると、目を醒ました双子のもとへ向かった。
「………………詩音…、…これは……何の真似ですか……?」
魅音は次期頭首のような喋り方だったが、その声色には怯えが混じり、自分の置かれた状況について、すでに理解しているようだった。
「おはよ、魅音。まさか自分が閉じ込められることになるとは思わなかった? あははは。」
「…………園崎家頭首代行として命じます。…ここを…開けなさい…。」
「あははははは、声色にひとつ凄みが欠けますね。頭首さまはもっと傲慢な言い方をしなきゃあね。もっとも、そういう言い方ができたとしても、今のあんたは滑稽なだけなんだけどさ。あははははははは!」
別に可笑しいことはなかったが、魅音を威圧する意味で無理に笑った。
その声が大空洞にこだまして私の耳にも入る。
……無理な作った無機質な笑い声。
それらが反響して、幾重にもなって聞こえる。
まるで、私だけが笑ってるんじゃないみたいに。
自分の笑い声に自分でも嫌になり、私は無機質な笑いをやめる。
すぐに静寂が押し寄せた。それが耳に痛かったので、私は静寂を破るため、何かを口にする。
「富竹さんと鷹野さんが今年の犠牲になるとはね…。…思わなかった。」
「………………………。」
「鷹野さんのドラム缶に詰めて焼き殺したってのもなかなかやるね。まぁ、あの人はそういう死に方を自分で希望してたっぽいからね。結構満足してるかもよ? くすくすくす。」
魅音は余計な口を挟まず、私の出方をうかがうような眼差しで見ていた。
「富竹さんの、自分で自分の喉を引き裂いたってのは何? 狂気に駆り立てるような怪しいお薬でも注射したの? それとも、そういう死に方に見せるような拷問道具でもあるわけ?」
魅音は答えなかった。
……私は余裕ぶって不敵な笑みを浮かべていたが、すぐに痺れを切らし、いらついて鉄格子を蹴飛ばした。
その乱暴な音が、残響して何度も何度もこだまする。
魅音はまるで自分が蹴られたみたいに、びくっと体を震わせた。
「……返事がないと退屈です。私を怒らせるとどんな得が?」
「……わ…………私が……知るわけないでしょ…。」
魅音はやっとそれだけを言い返した。
憎々しげではあったが、やはりどこか頼りなく、哀れな声色だった。
「ねぇ、魅音。次期頭首さま。ここまで来ちゃったんだから教えて下さいな。………………えっと、………。」
今の私にとって、聞きたい問いはあまりに多すぎた。
自分のこと、事件のこと、祟りのこと、悟史くんのこと。
…どれから聞けばいいか、順位なんて付けられなかった。
それらを聞く前に、まず聞く。
「…………私に対して、反抗的な態度を取っても何の得にもならないこと、理解してますよね?」
「……………………………………。」
魅音は無言で睨み返してくる。
…だが、双子だからこそ、それが空威張りの虚勢に過ぎないことがわかっていた。
「………もうここまでやっちゃった以上、私も引っ込みがつかないんで。……お姉も、私に容赦とか躊躇とか、そういうものをあまり期待しない方がいいかもです。」
魅音の頬を、きっと冷たい汗が伝っているに違いなかった。
表情が凍り付いているのがこの暗がりでもよくわかる。
「じゃ、聞くよ。………………雛見沢村連続怪死事件。通称オヤシロさまの祟り。…これってどういう意味があるの? …やっぱりダム戦争のけじめってやつ?」
「…………………、…私は、…………ん、……多分そうだと思ってる。」
魅音は私の問いかけに、少し戸惑いはあったけど、拒まずに答えた。
私はコミュニケーションが成立していることに笑みを浮かべ、先を続けた。
「思ってるって言い方が少し頼りないね。…その辺りの事情は詳しくないの?」
「…………詩音だって分かってるでしょ? 次期頭首なんて、婆っちゃの取り次ぎに過ぎないよ…。」
……もっともらしいことを言う。
「その頭首さまと意思を疎通させて、以心伝心なのが次期頭首さまの役目でしょ? 取り次ぎに過ぎないなんて信じると思う?」
「……………いつも身近にいる私だって、…たまに婆っちゃが何を考えてるのか分からない時があるもん。……何でもかんでも私が理解してるわけじゃない。」
「じゃあ、オヤシロさまの祟りってのは、鬼婆が全部、独断で決めてるわけなんだ? 次期頭首さまと相談して決めてるのかと思ったよ。」
「…………ヤバい話は全部婆っちゃが独りで決めてる。私なんか与り知る余地もない。」
「でも、鬼婆の独断だとしたって。鬼婆はあんたを介してやり取りしてるわけでしょ? そのあんたが何も知らないなんてあるはず、」
「違うよ…! ………私なんかを介していない。……………私にだってよくわからないんだけど…、私が『陽』の部分を取り次いでるとしたら、………『陰』の部分を取り次いでいる誰かがいると思う。」
「…誰。その『陰』の部分の取り次ぎって。」
「知らない…。」
「誰かを招いて話してるとことか、電話をしているとことか見たことない?……強いて言えば、毎年、オヤシロさまの祟りの時期になると連絡量がどっと増える相手ね。」
「…………わかんない。…心当たりなんかないよ…。」
魅音はこれ以上を聞かれても、何も答えようがないと、小さく首を振った。
「ま、いいや。……じゃ、質問を変えるね。今年の祟りの、富竹さんと鷹野さんはダム戦争に直接関係してないのに、なぜ犠牲に選ばれたの? ……やっぱり、祭具殿に忍び込んだから?」
祭具殿という言葉を耳にした途端、魅音の顔色が変わった。
「祭具殿に?! 古手神社の祭具殿を侵したの…ッ?!」
「…………ありゃ。知ってるとばかり。」
「………………そんなことをしたら………、…馬鹿……当然だよ……………!」
魅音は苦々しく言いながら俯き、首を何度も振る…。
…私はその魅音の反応を見て、今さらながら祭具殿の禁を破ることの意味を感じていた。
祭具殿は神聖な建物だから入ってはいけない、入ると祟りがある。
…そんなのは雛見沢に縁のある子どもなら誰でも知っている常識だ。
でも、知ってるからと言って、信じているとは限らない。
祟りがあると脅されてはいても、子どものほとんどはそこそこに面白怖がりながらも、まさか本当に祟りがあるなんて信じちゃいない。…その程度だ。
だが、魅音の反応はそんな甘えた認識とはかけ離れていた。
そんなことしたら当然だよ。
祭具殿に忍び込んだら、…殺されても当然だよ。…そう言っているのだ。
「私がこっちに帰って来て以降、たまに魅音とは認識が食い違いますね。
……そりゃ私だって、祭具殿が迂闊に入っちゃヤバいとこだってのは知ってますけど、…あんな死に方しても当然だ、ってほどヤバいとは思わないんだけど…? 私たちだって、その程度の認識じゃなかったでしたっけ?」
「……それは、詩音がよく知らないだけだよ。」
「すみませんね、…よく知らなくて。説明をいただいてもよろしいですか?」
「そりゃ詩音の言うとおり、子供の世界では…ヤバいとか祟りがあるとか言ったって、どうせ迷信に過ぎないだろう、でも大人にバレたらかなり怒られるんだろうな…って程度の認識だと思う。
………でもね、……雛見沢の古老たちにとってはそんな甘いものじゃないの…!」
魅音は、村の老人たちがいかにオヤシロさまを妄信し、祭り事をどれだけ神聖視しているかを話した。
私たち若い世代にはわからない、根強く偏執的なくらいのオヤシロさま崇拝。
……その中において、祭具殿の禁を犯すことがどれほどの禁忌なのか、を。
…私は、そんな馬鹿な、とか、昭和の世の中に馬鹿馬鹿しい、とか。
……そんな相槌を打つのが精一杯だった。
でも。…この信じ難い内容も、もうひとりの私の口から紡がれる以上、聞き捨てるのは容易ではない…。
「…………なるほどね…。でもさ魅音。
祟りで1人が死んだら、それを相殺する意味で1人を生贄にするのがルールじゃなかったっけ? 生贄の死体は出ない。…なのに今回は二人とも死体が出ちゃってるんだけど。その辺りはどう見る…?」
魅音は鷹野さん、富竹さん、そして私と圭一が祭具殿に忍び込んだことを知らない。…だから敢えてカマをかける。
「……………確かに、……おかしいね。」
「鷹野さんの焼死体は、見つかっちゃいけなかったってことなのかな。……本当は鷹野さんは失踪ってことになるのがパーフェクトだったのかなぁ?」
「…あるいは……………、………ん、……自信はないけど……。」
「何? 根拠なんかいらないから言ってみてよ。怒らないから。」
魅音は口ごもっては飲み込みを二度ほど繰り返してから、おずおずとそれを口にした。
「……祭具殿に忍び込んだのは実は4人、
……とか。」
「………………ふぅん? それで?」
「………で、…もう2人は生贄ってことで『鬼隠し』になってるんじゃないかな…。」
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■詩音は考える
魅音の言葉が、頭の中にずっと残っていた。
死体の見つかった二人がオヤシロさまの祟りなら。
…それを鎮めるための生贄もまた二人。
確かに、祭具殿に忍び込んだのは私たち4人。計算は合う。
だとすれば、………私や圭一の身にも危険が迫っていたのだろうか…?
…私は気持ちよく酔っ払ってしまって、……ここに泊まってしまったが、それが本当にお酒によるものなのか、……何か睡眠薬が混入されていたのか分からない。
………確かに、私ともあろうものが、酔い潰れて、よりにもよって鬼婆の家に泊まり込むなどちょっと考え難い。
祭具殿で気味の悪いことがあって、…それを忘れるために馬鹿騒ぎしてお酒を飲んで。
………それにしたって、悪酔いし過ぎだった。
そう思うと。…あの時、ふと目が覚めたことは本当に…運が良かったことのように思う。
下手をしたら、岩牢の中で目覚めたのは私の方だったのかもしれない。
…偶然に回避していた危機というのは、…認識し難いものだった。
…私はそんな馬鹿なと笑い飛ばしたい気持ちと、紙一重だった恐ろしい想像に震えたい気持ちでぐちゃぐちゃになっていた。
だとするなら。…もう1人の共犯者、前原圭一は今頃どうしているだろう。
さっきの岩牢の中にはいなかった。
……だからといって、今この瞬間にも無事な保証はない。
鷹野さんたちが「執行」されたのだから。
圭一も「執行」されている可能性はある。
………でも、悟史くんのように、数日後ということもあるのだから、絶対ではない。
夜が明けたら。……魅音になり、登校してみるか。
前原圭一の無事を確認してみよう。
……もしすでに失踪しているなら、敵は必ず最後の侵入者である私を狙ってくる。
自らを囮にするしかない。
もし、まだ失踪していないなら。
……前原圭一を注意深く監視する必要がある。
敵はあの間抜けなお調子者をきっと狙うからだ。
…私が魅音になってしまえば、詩音は消える。
敵は、詩音はもう誰かの手によって『鬼隠し』にあったのだろうと思い、圭一に狙いを絞るに違いない。
もしも圭一に何の魔手も迫らないなら。
…………それも結構だろう。
とりあえず、私に危害が及ばないことを確かめられる。
私の目の前には拘束椅子に縛り付けられた鬼婆が、未だ眠り続けている。
起きたら問い詰めるつもりだが、………実のところ、あまり期待はしていない。
園崎天皇とまで呼ばれる鬼婆だ。
…爪どころか、指の数本をちょん切られたって、口を割ったりするものか。
…次期頭首の魅音は逆で、口はあっさり割ったが、何も重要なことは知らなかった。
魅音は自分など取り次ぎに過ぎず、しかも、ヤバい話は自分以外の誰かを介しているかもしれない、…なんて話をした。
……………魅音が私の知らない内に、とんでもない嘘つきに成長していて、私を真顔で騙した可能性は捨てきれない。
…だが、鬼婆が、ダークサイドを魅音を介さなかったというのは何となく納得できる話でもあった。
私が鬼婆だったら。
私だってあいつは通さないだろうと思ったからだ。
……あいつは、私と違って甘い。
世の中には1と0しかないはずなのに、小数点のついた0.5とか0.7とか、そんな曖昧なことを考えている。
……平たく言うと、残酷になれないってことだ。
もし鬼婆が私と同じかそれ以上に、1と0な考えをできるなら。
……………それはありえる話だった。
その陰の面を取り次ぐ人物、Xが、…オヤシロさまの祟りを真の意味で司る人物なのだろうか。
鬼婆が憂慮すると、Xが気を利かせて、…直接か、あるいは間接的に働きかけ、執行する。
あるいは鬼婆とXが合議の上、決めているのか。
しかし、………Xなんて…存在するのだろうか?
存在するとすれば、その人物は次期頭首よりもよほど村の深奥に位置する人物だ。
魅音のような若造の甘ちゃんと違い、…口が堅く、残酷で、老獪で。……さらに言うなら、鬼婆と接触の深い人物。
……祟りの前になると、接触の多くなる人物。
富竹さんの怪しい死に方から、奇怪なクスリ、そして医療機関の関係者も連想された。
…………入江診療所の所長。………監督?
確かに、この過疎の村にあって、あれだけ立派な診療所を奉仕的な精神で開業してくれている監督は村の名士だった。
成熟した性格も、村の老人たちから高く評価され、また一目置かれている。
何しろ、医者の殺人鬼ほど怖いものはない。
………監督が祟りの実行者だったなら、過去の不審な、奇怪な死に方のほとんどが説明できるかもしれない。
だが、監督がXである可能性は、多分ほとんどないだろうと思った。
その致命的理由は、鬼婆が監督を信頼してなかったからだ。
…鬼婆は年齢特有の若者嫌いがあって、若すぎる監督には心を開いてはいなかったことを、私は知っている。
彼の公の場での挙動を、身内の前で堂々と非難、中傷していたことを私は知っている。
監督はいくら名士とは言っても所詮は余所者。
この土地に生まれた者ではない。
村の大恩ある診療所長として、良好な関係を築きつつもそれは上辺だけ。
……本当の悩みや、暗部を鬼婆が打ち明けたとはとても思えないのだ。
鬼婆が、私並かそれ以上に疑い深い人間なら。
……ダークサイドに関わる人間は、信頼のできる人間だけで固める。
…真っ先に思いつくのは、その他の御三家の頭首たちだった。
古手家頭首の梨花ちゃまはさて置き、公由家頭首の村長は確かに考えられる。
園崎天皇に意見できる唯一の存在だ。
歳が近いこともあり、御三家の会議などのきな臭い席を除けば、二人が気心の知れた親しい仲であることは誰もが知っている。
しかも村長は、綿流しの時期が近付けば、運営のための打ち合わせと称して頻繁に園崎本家を訪れるようになる。
二人が内密な話をしているところなど、自然に考えられる…。
オヤシロさまの祟りの執行者。
鷹野さんたちを惨殺した執行者。
5年にも及ぶ雛見沢村連続怪死事件の暗躍者。
その魔手は、…私にも伸びているのか。
そして、……その魔手は悟史くんにも伸びたのか。
…悟史くんのことを思った時。
………私は不思議な高揚を感じた。
さっきまで私は、自らが今年の犠牲者に含まれていることを恐れていた。
その自分に迫る魔手を怖がっていた。
だが、思い返してみれば。
…その私に迫る魔手は、悟史くんの仇でもあるのだ。
捜せども捜せども見つからず、……忘れかけてさえいた、仇の存在。
それが、幸か不幸か、私の前に再び現れようとしている。
求めども求めども見つからなかった、仇が。向こうから私の前に現れようとしているのだ。
そう。……私は追われるだけの立場ではないのだ。追う者でもあったのだ。
それを思い出した時。
………5年目の祟りは、死の恐怖ではなく、…互いにとって互角な条件のゲームとなった。
私は脅かされるだけの立場ではない。
…同時に脅かす立場でもあったのだ。
そう、今こそ悟史くんの無念を晴らす時。
長い時間の間に、ぼやけてしまった感情を今こそ蘇らす時なのだ。
自分の中に義憤と勇気が込み上げてくるのが分かる。
…恐怖に打ち勝つ唯一の感情、それが怒りなのだから。
その感情が完全に恐怖を塗りつぶした時。
……私の精神は、ぬめった薄皮を内側から破って脱皮したような感じだった。
■鬼婆の死
「鬼婆さま、そろそろ目を覚まして下さいません?」
私は少し乱暴に車椅子を蹴った。
だが、そんなやさしい起こし方では鬼婆の眠りを覚ますことはできなかった。
「……ひょっとして、眠ったふりをしてやり過ごそうとか考えてません?」
鬼婆の髪をぐっと鷲掴みにし、ぐいっと引いて上を向かせる。
それでも鬼婆は無反応を装い、表情を歪めもしなかった。
…………電気的な直感が過ぎる。
私は適当な拷問道具を探した。
………どれも大掛かりな、大仰そうなもので、手軽ではない。
その時、座敷の座布団に、ジッポライターが置いてあるのを見つけた。
……親類の誰かがここに忘れていったに違いなかった。
カチン、ジャコ。
………煙草に火をつけるには大袈裟過ぎる長い炎が灯った。
私は火を消すと、そのジッポを持って鬼婆の元へ戻る。
「見えてます? 見えてない? これ、誰の忘れ物かわかりませんけどね、ジッポです。」
私は目蓋を薄く閉じたままの鬼婆の前で、それに火を灯して見せた。
「今からこれであなたの鼻を焼きます。嫌でしょ? 私も嫌です。ですから寝たふりをやめてください。」
……反応はない。
私は躊躇なく、火の点いたジッポを鬼婆の鼻先に突き出した。
……炎の先端が鼻を炙る。
鼻毛を焦がしたらしく、髪が焦げる時の異臭がした。
もうこれだけでも確信していたが、…私はさらに試す。
ジッポの炎を今度は閉じた目蓋の前にかざした。
…………やはり目蓋はぴくりとも動かない。
今度はまつ毛を焦がし、また異臭が立ち上った。
私はジッポの火を消すと、喉元と手首をまさぐる。
……………温さがない。
鼓動も脈動も感じない。
「こいつ…………、…………スタンガンで、…死んだ…?」
並みの我慢でここまで無反応が装えるわけない。
……痛みを仮に無視できたとしても。
ライターの炎のような光源を、こんなにも目の前に突き出されたら、条件反射で目蓋を震わせてしまうはずだ。それすらなかった。
私は拷問部屋の壁にある流しの蛇口をひねり、蛇口につながれたホースの先を鬼婆の顔に向けた。
勢いのない水流を、先端を細くすることで勢いを付けさせる。
鬼婆の顔面を細く鋭い水流が叩くが、やはり何の反応も示さなかった。
………ち…。………マジかよ…。
……本当に死んでるのかよ……。
一番の核心にいる鬼婆が、……死んで口を閉ざすとは……!
どうせ何も口を割るまいとは思っていた。
……でも、死は想定しなかった。
ここまで取り返しのつかない暴走をしながらも、命を奪うことまでは考えなかった。
…私は落ち着きなく、うろうろと歩き回る。
罪の意識はまったくなかったが、取り返しのつかないことをした焦りだけは感じていた。
落ち着け私、落ち着け私。
……何を恐れることがある?
そうさ落ち着け、冷静になれ。そうさ落ち着け、クールになれ。
脳内を沈静化する分泌物が回っていく。
……無駄に昂った感情が冷めていくのがわかった。
……結局、こいつが一番の仇だった。
それを思い知らせることなく殺してしまったのが心残りではあるけれど。
だから、遅かれ早かれ、いつか鬼婆は殺した。
どうせ口を割らないやつだったんだから、生かしておくリスクを負う必要は何もなかった。
………単に、自分にその自覚がなかったから焦っただけで、…何も焦ることなんかなかった。
「…………………………………。」
悟史くんの仇に対する最初の復讐は、…信じられないくらいに呆気ない死で幕を開けたのだった。
まるで、自分の着衣を濡らされたまま放置されたような、肌触りの悪い気持ち。
そんな感情を払拭するのもまた、怒りの感情だった。
そう、私は許せなかったのだ。
……悟史くんの北条家を苛め抜き、悟史くんを何年にもわたって、精神的肉体的に追い詰めた鬼婆を。
スタンガンの不意打ちで、綺麗さっぱりに永眠なんて許せなかったのだ。
私は壁に掛かっていた短い鞭を取る。
…その鞭には明らかに、対象を叩く以上に傷つけようとする悪意ある工夫が施されていた。
それを振り上げ、……振り下ろす。
小さい頃、ビニール製の縄跳びを鞭に見立てて壁を叩いた時に聞いた、あの小気味良い音が響き渡った。
だが、縄跳びで叩いた壁と違い、鬼婆の顔面には一文字の紫色の傷が浮かび上がり、ぷつぷつとどす黒い血が滲み出していた。
私はもう一度振り上げると、同じ様に力任せに振り下ろす。
今度は頭部を一文字に掻いたらしく、鬼婆の汚らしい髪の毛が舞った。
鞭の先端を見ると、馬の尻尾のような一束の髪の毛が絡まっている。
その髪の束の先端には薄汚い皮が張り付いていた。
…頭部の表皮ごと、鞭で掻き千切ったのだ。
私はそれを鞭の先端にぶら下げたまま、無心で鞭を叩き下ろし続けた。
鞭の先端は幾重にも割れ、その先端にはそれぞれ鉤状の釣り針が付いていた。
その鍵が、鞭の凄まじい速度と力を得て、無慈悲に犠牲者の患部を皮ごと剥ぎ取っていくのだ。
鬼婆の髪は無茶苦茶に乱れ、そして顔面にはどす黒い血を滲ませながら。
それは文字通り、鬼婆と呼ぶに相応しい形相だった。
私が鞭を叩く手を休めたのは、腕が疲れたことよりも、鞭の先端に絡まった鬼婆の髪の毛が、振る度に私の体にまとわり付いてくすぐる感触に耐え切れなかったからだ。
私はその汚らわしい鞭を思い切り鬼婆に投げつけた。
……肩で息をしながら自分の体を見てみると、散った鬼婆の髪の毛が何本も体に絡み付いていた。
それは千匹のウジに群がられるのに勝るとも劣らない不快感だった。
……私はそれらの髪の毛は乱暴に毟り取って払う。
「……はぁ………はぁ……。………………思い知ったか、………鬼婆…。」
私は両手を膝に付きながら、ぜいぜいと荒い息を漏らす。
その時。……………ぎょっとして、私は振り返った。
………………居た。
祭具殿に忍び込んで以来。…………私を不気味に監視する、誰か。
そいつは、…まるで私の拷問劇を、鑑賞するのが当然とでも言うように、お座敷に座って見ているような気がした。
私の背中に、否応を言わせない今日の感情が込み上げる。
…だが、わずかに残った脳内麻薬でその感情を、必死で気付かないようにした。
「……………いつからそこに居たんだか。……言ってくれればよかったのに。」
そいつは、居るだけ。
…そう、悟史くんがそうだったように、そいつは居るだけだ。
でも、居るだけがどんなに不快なことか……。
「…………そっか、……レナが言ってたもんね。……………あんた? オヤシロさまってのは。」
私は悪意のある笑みを浮かべ、不敵に笑いを漏らした。
…でも、背中まで登った震えは消せなかった。
「冗談じゃない。…あんたがオヤシロさまで、…祟りは本当にオヤシロさまの祟りってわけなの…? ………ばぁかッ!!! 誰が信じるかよ?! ええぇ?!」
こんな、私の気のせいの域を出ないような空気野郎が、オヤシロさまの祟りでなんてあるものか。
オヤシロさまの祟りなんてあるわけない。
全てはオヤシロさまの祟りを模した、ニンゲンの事件なのだから。
「…ま、………あんたが見たいってんなら勝手だけどさ。私ゃ見物料を取るつもりもない。でも、私の邪魔をしようってんなら、あんただって容赦しないよッ?!!」
……これほどまでの気迫をぶつけても、…たじろがないし、…感情の揺らめきも起こらなかった。
…それはまるで、感情を持たない昆虫と睨みあうようなもの。
……蜘蛛の巣の真ん中に居座った大蜘蛛と睨めっこをするような…独り相撲の不気味さ。
「……………ふん…。」
私は鬼婆の車椅子に向き返った。
……死体をいつまでもここには置いておけない。
…死をアピールする必要がないなら、死は速やかでかつ、死体は存在しない方が好ましい。
たとえこんな秘密の地下拷問室であってもだ。
ふーーーーー……………。
深く息を吐き、自分の冷静さを引き出そうと、精神を整えた。
…そうだ。思い出した。
昔、私が小生意気なガキンチョだった頃。
…葛西は私を怖がらすのが好きで、いろいろと怖い話やグロな話を聞かせたものだ。
その時の話のひとつに、園崎本家の秘密の拷問室の話もあった。
………確か、……その話によれば。
拷問室には、死体を捨てる井戸があることになっていた。
その井戸には、残虐な拷問で虐め殺された死体が幾重にも重ねて捨てられていて、…井戸の中から怨嗟の声が聞こえてくるとか何とか…。
で、その井戸は降りていくと途中で別のトンネルがあり、遠くの山中に抜け出る秘密の通路にもなっているのだと言う。
この辺は、魅音の話も混じっている。
親戚の誰かから聞いた複数の話を統合したものなのだろう。
………とんでもない秘密の話だが、幼い次期頭首が怖がるのが面白くて、口が軽くなってしまっていたに違いない。
■秘密の井戸
「魅音。………昔、親戚の誰かが言ってたじゃん? この地下拷問室のどこかに隠し井戸があって、外へ出られる秘密の通路があるって話。」
「………………………………。」
「さっきの音は聞こえてなかった? 鬼婆を鞭で叩く音。」
「………………。」
魅音は答えないが、唇をぎゅっと噛むのが分かった。
「大丈夫。あんたは叩かない。でもね、あんたが不愉快だと、鬼婆をもっと叩くかもしれない。今度は鞭なんかじゃなくて、」
「そ、……そこの奥。…暗がりにも牢屋があるでしょ。………その中。」
魅音が力なく指差す。私はその指の先の暗がりにある岩牢へ向かった。
裸電球の弱々しい灯りが照らすその岩牢は、魅音を閉じ込めているものよりもはるかに狭いものだった。
奥行きは浅く、鉄格子を開けて入るまでもなく、ひと目見て何もない退屈な穴倉だと分かる。
もちろん、井戸などありはしなかった。
騙されたと思い、少しの怒りが込み上げたが、この期に及んでこんなすぐにバレる嘘を吐くとも思えない。
私は鉄格子の鍵を開けると、中へ踏み込んだ。
中へ入ってすぐに気付く。
何と………岩牢の中には堂々と巨大な穴が口を開けていたからだ。
これは…絶妙な自然偽装だった。
ちょっとした起伏と、微妙な光源、影、雰囲気。
岩牢の奥にちょっと見える岩の頭が、井戸の口だなんて、中に実際に踏み込まなかったら気付けない。
いや、こんなにも浅い岩牢だから、普通ならわざわざ踏み入ろうとも考えないだろう。
第一、鉄格子越しなので、中は丸見え。
しかも奥行きはほんの数メートルもなく、一見して何もなく見える。
だから、わざわざ鍵を開けて中へ入ろうなんて思わない。
でも、中に入らなくちゃ気付けない、絶妙の隠れ方。
しかもこの大空洞だけでも、こんな程度の岩牢はいくつも点在している。
…その中のひとつに秘密の井戸が隠れているなんて、誰も思わないに違いない。
井戸の底は、光すら飲み込む闇で満たされていて、何も見えなかった。
だが、私が立てる些細な音が信じられなく深く反響する様子から、決して浅くない深さを感じ取ることが出来た。
私は拷問室から懐中電灯を持って来ると、その中を照らした。
それは井戸とは名ばかりの、垂直なトンネルのようだった。
だがそのトンネルは明らかに人の手で掘られたものに違いない。
……梯子状に楔が打たれていて、まるで降りておいでと言わんばかりに闇の中へ誘っていた。
地下拷問室という地獄から抜け出す秘密の脱出通路が、さらに地の底へ誘うような井戸とは皮肉なものだ。
…行き着く先が自由か、それとも自ら地獄の底へ向かおうとしているのか、分かろうはずもない。
しかも、この井戸の底には、過去にこの拷問室で殺されてきた犠牲者たちの死体が放り込まれている。
……こんなところを躊躇いもなく降りていけるやつがいるのだろうか?
犠牲者たちの怨念の声を聞きながら、この闇のどこかから枝分かれする秘密のトンネルを探すなど、…正気の沙汰じゃない。
「……魅音はあの井戸、降りたことあるの?」
「降りたくもない…。」
「あはは、それに関しては著しく同感。この拷問室の犠牲者たちが放り込まれた井戸になんか、好きこのんで降りたくはないもんね。」
私は拷問室に戻り、鬼婆の車椅子を押しながら大空洞に戻る。
その様子を見て、魅音が叫んだ。
「し、…詩音、……婆っちゃを落す気ッ?!」
「落すんじゃないよ、捨てるんだよ。もう死んでるしね。」
「……………ッ!!」
「さっきの拷問で死んだんじゃないよ。多分、鬼婆はスタンガンで死んだんだよ。心臓マヒとかで。…放置してもいいけど、虫が湧くと嫌でしょ?」
「…………………酷い…………。」
「何なら、死後の鬼婆の世話もする? 湧いてくるウジを箸で摘んで捨てるとかやってみる? ん?!」
魅音は両耳を覆うと、聞きたくないとでも言うように、首をぶるぶると振った。
私のちょっとした憎まれ口も、閉じ込められ、命の保証も怪しい魅音にとっては、この上なく恐ろしく聞こえているに違いなかった…。
「………詩音……、……………どうして…こんなことを………?」
「…………さぁて。…どうしてだと思います?」
…詩音はしばらくの沈黙の後、言った。
「……………悟史………?」
「…………………。」
「……仇討ち……ってこと…………?」
「仇討ちになったかも分からないけどね。いきなり後ろからバチン!だったから、何が何やらわかんない内にご臨終だったろうし。」
「………………………………。」
「……ねぇ魅音。………今こうして思い返すと、私はやっぱり鬼婆を殺すだけの理由があったように思うの。なぜか分かる? ……単に悟史くんを殺した張本人だからってだけじゃないよ。それは嘘を吐いたから!!」
鬼婆のぼさぼさ頭を私は平手で叩いた。
「あんたも言ったよね?! 私が爪を剥がせば全て許すって!! だから私は爪を剥がしたんだよ、3枚も!!! それでけじめが付いたってことになったんだよね?! でも、約束は守られなかった。悟史くんはやっぱり消されてしまった!! どうして?! どういうことなの?!?!」
私はなおも鬼婆の頭をたたき続けた。
手の平にはいつの間にか、べったり血糊が付き、気持ち悪いことこの上ない。
…それを鬼婆の服で拭おうとしたら、今度は髪の毛まで手の平に張り付いたのだった。
私は拷問室の流しへ駆けて行き、生ぬるい流水とたわしで手の平を乱暴に洗った。
全てを洗い流した後、改めて魅音の岩牢の前に戻る。
「あの時、…………悟史くんがいなくなってしまった後。……あんたが来て言ったよね? 悟史くんと私の関係は、けじめがもう付いてたって。そしてこうも言ったよね?! 悟史くんの失踪の理由は、園崎本家は何も知らないとも。」
「……うん…………言っ、」
「嘘だッッ!!!!!」
嘘だ!!嘘だ!!嘘だ!!嘘だ!嘘だ!嘘だ…嘘だ…嘘………。
私の咆哮が大空洞にこだまする。
肩で息をする。
嘘だ、のたった一言に、私は肺の中の空気を全て使いきってしまったかのようだった。
「……あんたが何も知らないのは本当だと思う。あんた自身、鬼婆に真の意味で信頼を得ていたかは怪しいからね。………でも、鬼婆が本当に私のけじめで悟史くんを許したかは分からないよ。甘ちゃんなあんたに、本当のところを打ち明けるわけもない。」
鬼婆は守らなかった。
私のけじめで許すと言いながら、嘘を吐いた。許さなかった。悟史くんを許してあげなかった!!
「嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき、嘘つき! この! このこの!! 返して悟史くん!!! 返してよ悟史くん!! 返して返して返して返してッ!!」
鬼婆の足のすねを何度も何度も蹴る。
その度に、車椅子がきぃきぃと、鬼婆の代わりに泣き声を上げてくれた。
……はぁ、……はぁ……はぁ…。再び息が切れ、私は膝を付いた。
魅音は両耳を塞ぎ、震えながら涙を溜めている…。
「…怖がらせちゃったね? ごめんごめん。……魅音が魅音の言うように、何も知らなかったなら、魅音は虐めないからね。安心して。……でも、……もし、魅音も嘘を吐いていたなら仕方ない。…………その時はどういう目に遭わされても、…仕方ない。…………仕方ないよね……? …くすくすくすくすくす………、あははははは、あっはっはっはっははははははっはっはっはッ!!!」
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■ノートの183ページ(綿流し当日、深夜終了時)
鬼婆が即死していたのは、本当に計算外だった。
この時点での私は、いつか殺す相手だった問題ないと負け惜しみを言っているが、明らかに痛手だった。
園崎天皇とも呼ばれる園崎本家の命令中枢は、一般にはピラミッド型だと思われているが、実際はそうではない。
厳密には、省庁のような縦割り型で、それぞれの部門が小ピラミッドを形成してる。
縦割りゆえに横の連絡がない。
いや、それどころか自分のピラミッド以外がわからない秘密主義だと言えるだろう。
もちろん園崎家の重鎮たちは、いくつもあるピラミッドの頂点に位置する。
自分の下位のピラミッドについては精通している。
他の親類たちが管理しているピラミッドについても、多少の情報交換は出来ている。
だが、それでも全部のピラミッドについてはわかっていない。
陽のピラミッド、陰のピラミッド。その他にお魎直轄の秘密の小ピラミッドがいくつか。
そのほとんどを頭首代行である魅音は知っているようだが、だからと言って、全部知っているとは限らない。
現に、最高機密である「オヤシロさまの祟り」については知らなかった。
それを思うと、鬼婆が死して永遠に口を閉ざしたのは、暗部を暴く上で致命的な痛手と言えた……。
■ノートの185ページ(綿流し当日、深夜終了時)
5年目の祟り以降、もっとも電話が多かったのは、やはり側近の公由家頭首だった。
次いで多かったのがうちの父親だった。
うちの両親の序列は高いには高いが、うちの母親の昔の勘当騒ぎが尾を引いていて、表舞台にそうそう顔を出せない、やや日陰者っぽい扱いなのだと言う。
その父親からの電話が多いのは、対外的には距離を置いていても、実際には重用していた鬼婆の陽と陰の二面性の証拠でもある。
父親は、どうも情報面での操作が主な役割のようだった。
警察情報や裏情報、噂、そういったアンダーグランドな情報を収集しては的確に報告していた。
そして鬼婆の要請があれば、それらを黙らせたり、煽り立てたり、捻じ曲げたりできるようだった。
ちなみに私の忠臣、葛西は父親と旧知の間柄。
……なるほど、色々と情報に精通しているのも頷けた。
だが「情報」までのようだ。「執行」にまで至っていたかは掴みきれない。
父親は、今回の事件に対する、警察の捜査状況やその他の情報を貪欲に集め報告するばかりで、少なくとも今年の祟りについては、自身が関与したわけではなさそうだった。
…一般的には、父親と鬼婆がこんなにも密接なホットラインを持っていることは知られていない。
そのネットワークを利用はするが、やはり外様ということでそれほど近しくしていない…と思われているのが一般的だ。
ならこの例のように、一般に知られていない、鬼婆直轄の何か。
…祟りのシステムを管轄する暗黒部門の存在は、充分に疑える……。
■綿流しの翌日
…それはとても楽しい夢。
悟史くんが、…何事もなかったように日々の生活に戻っている夢。
何事もなかったように、野球チームに彼は戻ってきた。
私と監督は、何事もなかったように接するのが大人の対応だとばかりに、これまでの空白時間を全て忘れて、彼を迎えてあげるのだ。
練習では悪くない打率なのに、…なぜか試合では全然だめ。
もー悟史くんたらー!! 何でここ一番で凡退なんですかー!
応援してるこっちの身にもなって下さい。
そうすると、悟史くんは困っているようなむくれているような顔をして呟くのだ。
「………むぅ。」
私の目から熱いものがぼろりと零れる。
……ぅ、………うっく…………えっく…。
「……悟史くん、…………悟史くん………。ぁぅ………、……ううぅうぅ……!」
夢と知りながら浸っていた夢は、……私の嗚咽と共に、ぼんやりと霞んでいく…。
焦点を合わせようと瞬きすればするほどに霞んで。……全部、消えてしまった。
朝日がカーテンの隙間から零れてくる。
ここは…園崎本家の、魅音の部屋だった。
いつの間にここに戻ってきたのか。
………………私は部屋の隅にうずくまるようにしゃがみ込んで、泣いていた。
……夢は、夢。
目が覚めたことを恨みたかった。
……でも、夢は覚める。自分が夢のない世界の住人だからこそ、覚める。
…でも、その夢は、本当に私ひとりの夢だったのかはわからない。
なぜなら、………ずっと悟史くんが側に居てくれた気がしたから。
「…………悟史くん…? …………か、…帰って来てくれたんだ……?」
居る気配は応えない。
それがルール。
でも、…本当に悟史くんなら、せめてはにかむとか……表情をほころばせて見せてほしかった。
そんなことに期待する内に、悟史くんが居るのがどこか、ぼやけてしまい……、まるで最初からいなかったかのような、空さが押し寄せてくるのだった………。
玄関の電話が鳴り出すのが聞こえた。
…………そうだ。
今、この家には私しかいない。…出なくちゃ。
私は玄関へ向かおうと立ち上がった。
……体がよろりと揺らめき、私は慌てて壁に手を突いて体を支える。
充分寝てないんだから無理もない。
まるで、風邪をこじらせたような感じだった。
電話はまだ鳴り続けている。
……出ないという選択肢もあったのに。
この時の、頭が目覚めていない私は、正直に受話器を取ること以外、思いつかなかった。
「………はい、園崎です。」
「朝早くにすみませんなぁ、公由でございます。お婆ちゃんはまだお休みですかな。」
公由のおじいちゃんだった。
「はい。昨日のが堪えたみたいです。しばらく寝かせておこうと思います。」
「……そうだね、無理に起こしちゃ悪いなぁ。魅音ちゃんもこれから学校だよね? ……じゃあ枕元に伝言を置いといてもらってもいいかなぁ。」
「わかりました。なんと伝言しましょう?」
「えっとね。…昨日の件で、緊急に役員会を開くことになったんだけど、それをね、今日の夕方の5時から神社の集会所でって伝えてもらえる?」
「………………わかりました。伝えておきます。」
受話器を置くと、すぐにまたベルが鳴った。
「はい、園崎です。」
「早朝から申し訳ありません。葛西と申しますが、……魅音さんですか? おはようございます。」
「ん、……葛西…さんですか。おはようございます。」
「詩音さんはまだそちらにいらっしゃいますか?」
……大して慌てなかったが、少し迷った。
いないことにも出来る。あるいは一人二役を演じてもいい。
「……詩音はさっき顔を洗ってました。呼んできますね。」
私は詩音を演じることに決め、わざと廊下を行き来して足音と間を演出した後、受話器を再び取った。
「葛西? おはよーです。」
「おはようございます、詩音さん。今日は登校されますか?」
「するわけないです。たるぃし。」
「まぁそんなとこだとは。それで詩音さん、興宮へ帰る足はありますか? 若いのに迎えに行かせますが。」
「んーー、…公由のおじいちゃんとか、その辺りに送ってもらおうかなと思ってます。私のことは放っておいてくれてOKです。」
「親父さんから、出席日数だけは守らせるように厳命を受けていますので。私の小指のためにもご協力をいただきたいもんです。」
「くすくす、まぁ気が向いたら努力します。…………………それより葛西。……聞いてる?」
「聞いてるとは?」
「………昨夜の、アレ。」
「一応は。…恐ろしい話です。」
「これまでの祟りの犠牲者はさ、みんなダム戦争の時の戦犯だったわけじゃない? それが今年はちょいと路線が違う感じですよね。…どう思う?」
「さぁ…。……私の与り知るところの話ではありません。」
葛西は、余計なことを喋るタイプではない。
そういう角度の話が来ると、とても素っ気無く返すことを私は知っていた。
「……昨夜の犠牲者の二人が、どうしてオヤシロさまの祟りを受けたか、知ってる?」
「いいえ。」
「実は昨夜、ちょっと聞いた話だと…。………なんか、綿流しの最中に、祭具殿にこっそり忍び込んだらしいよ? 鍵を針金か何かで開けて。」
電話先の葛西は少しの間、沈黙した。
私は息を殺し、葛西がどういう反応を示すかうかがう…。
祭具殿に忍び込んだくらいで、今年の犠牲者に選ばれてしまうんですか?
それは少し無理のある話ですね。……この辺りが私の期待する返事だ…。
「………そうですか。…馬鹿なことを。」
「ん?……あはははは。ま、富竹さんもその辺りには疎い余所者だったってことだねー。」
私は葛西に調子を合わせたが、内心はかなり動揺していた。
葛西は、祭具殿の禁を犯す=5年目の犠牲者という等式を、あっさり頷いて見せたからだ。
…葛西との付き合いの長い私だからこそ、この淡白な一言が、あまりに重い意味を含むことを知っているのだ…。
「でさーーー、葛西。………実は、さ。……えへへ、……私もなんだけど。」
「…………入ったんですか?」
「……んーー、……うん。あははは…。」
「…祭具殿に? 詩音さんが?」
「うん。…その、鷹野さんに一緒にどう?って誘われてさ。鷹野さんと富竹さん、そして私と、ほら前原屋敷に引越してきた圭一って男の子と一緒に、4人で。」
はぁ……、っと、落胆する重いため息が聞こえた。
何も言葉を発さずとも、葛西が呆れていることがわかった。
…葛西がここまで不快な態度を取るところを、私は初めて見る。
「詩音さん…。去年、ああいう一件があったばっかりなんですよ? …今度はどうけじめをつけられるおつもりですか。」
「…ん、……んん。去年が爪3枚だったから、……奮発して5枚くらい行っとく?」
「……………………。」
「あ、…ごめん。…でも、ふざけてるわけじゃないんだよ…! そりゃ私だって、ヤバいとこだって認識はあったよ? 少しは。でもさ、…そこまでヤバいことなわけ?!」
「………………詩音さんは仮にも園崎本家に縁ある方です。今さらそんなこと言って、まかり通ると思いますか?」
「って言うか……、だって私、ずっと興宮! 鬼婆に嫌われて以降、雛見沢にはほとんど近付いてもいない! その上、学園に閉じ込められて過してたんですよ?! そんなの私が知るはずないじゃない……!!」
もう一度受話器の向こうで深いため息。
……私の言い訳が、通用しないものであることをこれほど雄弁に語る返事もないものだった。
「詩音さん。私はあなたの味方のつもりです。極力、詩音さんを信じてあげたいと思っています。……ですが、いくら私でも庇いきれないことがあります。第一、詩、」
「あ、あははは! ごめん! お姉が来たから切ります。じゃね!」
ガチャン!
葛西の言葉を一方的に断ち切り、受話器を置いた。
…聞きたくなかったのだ。
昔から、どんな時にも常に私の味方になってくれた葛西の、私を拒絶する言葉を最後まで聞くことに耐えられなかった。
「たはははははははははは………。…ちぇ……、…まいった、…なぁ。」
セミのじりじりとした鳴き声が、まるで私を巨大なフライパンに乗せて、ジリジリと炙って音を立てているように聞こえた。
…………今頃になって、…後悔の念が湧く。
本当の本当に、…祭具殿に忍び込んだことは笑えない話らしい。
でも、あの時点ではそこまでヤバいとは認識してなかった。
…そりゃ、錠前で閉じてあるんだから、中に入るなっていう意思表示はあったと思う。
でもそれならこれまでの厳重な鍵のままにしとけばよかったんだ!
それを何だっけ?
梨花ちゃまが重いとか何とか言って、軽くて安っぽい錠前に替えちゃったんだっけ?
そんなことするから鷹野さんに狙われちゃったんだよ…。
これまでの厳重なのだったなら、こんなことにはならなかったのに…!!
ぴしゃっと自分の額を平手で叩く。
………はぁ。一度だけ大きく深呼吸。
落ち着け、私。
何を今さら慌てることがあるのか。
私は昨夜からもう、…後戻りの出来ない道に踏み込んでいるではないか。
踏み出してしまったのだから、もう迷うな。
だって、鬼婆はもう殺しちゃったんだぞ。
仮にあれが電気ショックによる仮死状態だったとしても、あれだけの深さのある井戸に落としたんだぞ。絶対に死んでる。
だから、指を五六本詰めて、ごめんなさいね、テヘ☆って段階は、とうに過ぎてるのだ。
両足が地に着かないような不安定感。
公園のブランコの周りを囲む柵の上を、綱渡り気分で渡って遊んだことはある。
あれが楽しいのは、落ちても高さ数十センチ程度だからだ。
……その高さが、底すら見えないほどあると分かったなら、誰も楽しいなんて思うものか。
しかし私はその高さのある柵の上に、もう踏み出してしまっているのだ。
踏み出すと同時に後ろは消えた。
一歩、後退れば大地があるわけではない。
今私が立っている場所は、そういう場所。
ただ立っているだけでも精一杯。
……たとえ歩かなくとも、気を許せば奈落に転落しかねない不安定な足場。
それを無理に歩けば、さらに転落の危険は増すだろう。…だが、ここに立ちすくんだとていずれは落ちる運命。
先行きも見えない。
この道の先に、再び両足で踏みしめられる大地がある保証などない。
……でも、ここに立ちすくめば待ち受ける運命はひとつしかないのだ。
なら、……歩むしかない!
座して死ぬことが確実なら、…歩いて死ぬ。
その先に待ち受けるのが行き止まりという絶望だったとしても、努力せずに死ぬよりは納得できようというもの。
……それすらも楽観的な考えで。
私の命運が、そう長くないならば、…それも受け容れよう。
でも、………ならば簡単に死ぬものか。
足掻いて足掻いて、足掻きまくってやる…。
鬼婆を殺してしまったのだ。死以外のどんな制裁もあり得ない!
そう、私の命運はそう遠くない内に尽きるのだ。
つまり、…………私はもう、…死んでいる、のだ。
「…………死人がなおも足掻こうとしたら、………そりゃ特攻あるのみでしょ。」
口にして、両の拳をぐっと握り締める。
どうせ死ぬにしても。…ただじゃ死ねない。
今こそ、……悟史くんの無念を晴らす時なのだ。
誰が、何のために、どうして。
調べる。
聞き出す。
暴き出す。
そして、そうさ「けじめ」をつけてやる……………。
……昨日、漠然と考えた方針にとりあえず従おう。
鬼婆の死はしばらく誤魔化せる。
綿流しの後、体調を崩して寝込んでいるとか言えば充分だ。
魅音の不在は、私が魅音になることで誤魔化せる。
…学校の仲間たちが違和感に気付いてもいいように、体調不良を訴えておくといいだろう。
…実際、私は寝不足気味でぼーっとしていた。
私が魅音になれば、自動的に詩音は消える。
……葛西にさっき、詩音が祭具殿に入ったと伝えておいたから、葛西の筋から、詩音がオヤシロさまの祟りで「鬼隠し」にあったことになるだろう。
そうなれば、……残るのは祭具殿に忍び込んだ4人組最後の1人、前原圭一のみ。
その前原圭一をエサに、私はわずかのリスクで敵を引っ張り上げられるかもしれない。
…圭ちゃん、悪いけど、エサにさせてもらうね。
ちょっと面白いやつかなって思いかけてたところで胸は痛むけどね。
よし、……登校しよう。
前に魅音で登校してるから、勝手はわかってる。
時計を見ると、登校時間はもうすぐだった。
「魅ぃちゃ〜〜ん!! 遅い遅い〜!!」
「はー! はー! …待っててくれたわけ? さ、先に行っちゃっても良かったのに…。」
「あれ、魅音? ……お前、顔が赤くないかー? 息も妙に荒いし。」
「……魅ぃちゃん、…ひょっとして、具合悪くない?」
レナが無遠慮に私の前髪を掻き分けて、額に手を当てる。
「…レナの手、冷たいな。」
「魅ぃちゃん…ちょとだけど熱あるよ?」
「そんな大したことないよ。…半日もすればケロッと治っちゃうって。」
「本当に大丈夫かよ。…あんまり無理するなよ?」
「あれ? 圭ちゃん、気遣ってくれるの? あはは…うれしいなぁ。」
面白おかしく普段はふざけているだけだと思ってた圭一に、気を遣われるとは思わなかった。
茶化されると思っていたので、少し拍子抜けする。
「む、無理しない方がいいと思うな。先生にはお休みだって伝えとくよ?」
「大丈夫大丈夫! 風邪薬も飲んだし。すぐに効いてくると思うから。」
「じゃあ…行こうか。くれぐれも無理するなよ、って言いながら。…時間!」
「わ?! は、走らないと、ま、間に合わない〜!!」
「あっははははは! スリリングな朝になっちゃったねぇ。鈍った体にはちょうどいい喝かもね! 走ろ!」
■学校を早退
「それでは委員長、号令。」
「……………あ、…! …きりーーーーーつ!! きょーつけー!!」
前回も号令でとちったんだっけ。
くそ、私も学ばない奴だな…。
「魅ぃちゃん本当に大丈夫かな…? 今日は具合悪そう…。」
「…あら、…そうなんですの? それはよくありませんわねぇ。」
体調不良をアピールしたのは正解だ。
挙動が普段と多少違っても言い訳になる。
「まぁ、そのアレだ。女の子には体調が悪くなる日もある、ってことだなー。」
「……ボクにはそんな日はないのですよ? にぱー☆」
魅音の仲間たちは適当にジャレ合いながら、私を気遣って放っておいてくれるのだった。
………前原圭一、か。
彼がある日、突然いなくなった…では失敗なのだ。
それは釣竿を垂れたまま居眠りし、エサだけ食い逃げされてしまったのと同じこと。
私は、敵が圭一というエサに食いつく瞬間を逃さないよう、注意深く見守っていなくてはならない。
でも、彼の生活を24時間監視することは実際には不可能だ。
こうして様子を盗み見る程度では、監視している内には入らない。
……詩音として接触し、圭一にも危機意識を持たせるか?
その上で、共同戦線を張ることを提案してみるのはどうか。
圭一も私と同様、祭具殿に踏み入るのが悪いことであるとは思っていても、命で贖わされるほどヤバいとは思っていないに違いない。
それに、去年から祟り関係の事件は秘匿捜査指定とか言うのになるんだっけ。
…御三家筋は昨夜の内に事件のことを知っているけど、…圭一は多分、何も知らない。
自分の置かれている状況を教えてやれば、彼も自分の動きを慎重にするだろう。
………そうすれば、彼に近付く魔手も察知しやすいのではないか……。
前原圭一は居眠りがバレて、先生に顔を洗ってくるよう命令されて廊下に出るところだった。
………眠いと言えば、…私も眠い。
慎重さが求められるのに、睡眠不足で思考力が鈍るのはいただけない。
私は体調不良を理由に早退を求めた。
朝からの装いのおかげで、それはすんなりと認められたのだった…。
昇降口から出ると、圭一は表の流しでザブザブと、律儀に顔を洗っていた。
「やっぱ、圭ちゃんはこっちの流しを選んだか。表の方が気分いいもんね。」
「ん、…魅音か。…ふぁ〜ぁ。授業、さぼるなよな〜。」
冷たそうな水を乱暴に顔に叩きつけるその行為が、とても気持ち良さそうに見える。
圭一に続き、私も同じように冷水を顔に叩きつけた。
……でも、想像していたほど気持ちよくなかった。
「…魅音、風邪の方はいいのかよ。眠いのは寝不足じゃなくて、風邪薬の副作用なんだろ?」
「ん? …あはははは、実は内緒なんだけど…、昨日はお祭りのあとで親族の宴会に巻き込まれちゃってさ。それで…チョイっと。」
チョイっと。コップを傾けるようなジェスチャーをしてやる。
「ふ、二日酔いかよー?! お前、歳はいくつだー!!」
圭一は大仰に驚いてみせると、悪態を吐きながらも、私の体調を気遣ってくれた。
「じゃあな。俺は教室に戻るぜ。帰りは気をつけろよ。ふらふらして、側溝や用水路に落ちるなよ。」
圭一はそれだけを告げ、教室に戻ろうと身をひるがえした。
「あ、…そうそう、圭ちゃん。」
圭一を呼び止める。彼は首だけ振り返って答えた。
「なんだー?」
「変なこと聞くけど、深く考えないで答えてね。」
「そりゃ、内容によりけりだな。」
「昨日の綿流しの晩さ。…富竹さんと鷹野さんに会わなかった?」
……圭一の体が一瞬、強張ったのを見逃さない。
この反応から、昨夜の祭具殿侵入を少しは後ろめたく思っていることが確認できた。
そして、知られていないと思っていたことを、園崎魅音に知られていた、という恐怖も感じられた。
………園崎魅音に対する印象付けは、とりあえずこんな感じからでいい……。
「富竹さんと鷹野さんはわかるよね? ほら、圭ちゃん、お祭りの前日準備の時、詩音と一緒に4人でお話ししてたでしょ?」
こういう立場だと、圭一の狼狽は手に取るようにわかった。
……圭一が何とか言い逃れようと、必死に思案しているのがよくわかる。
「……さ、…さぁ…どうかな。…会ったような会わなかったような…。」
嘘も演技も最低レベル。
…あまり頭は良くなさそうだと思った。
ま、魅音の愉快な仲間にはこの程度でもいいのか。
…………悟史くんなんかとは比べようもないくらいに小者。
…でも、嘘や演技という意味では、悟史くんも同じようなものだったか。
下手でも嘘を吐こうとがんばる圭一の方が少しはマシかもしれない。
……悟史くんなんか、困ると、むぅ…の一言で黙り込んじゃうからな…。
…………………、…今は思い出さなくてもいいことだ…。
「…………そう。じゃあもうひとつ質問ね。同じく昨夜。詩音に会わなかった?」
これはダメ押しの意地悪な質問だったか。圭一は想像通り、うろたえて見せた。
「…それ、…昨日も聞いたよな? …俺、会ったかどうかわからない、って答えたと思ったぜ…。」
え? ……昨日も聞いた…?
前後の文脈から考えて、園崎魅音に聞かれた、という意味だと思われる。
昨日聞かれた、ということは、…祭具殿から出て、奉納演舞を見物してた仲間と合流した後に聞かれた、ということだ。
…………………………魅音め…。
私が問い詰めた時は、…祭具殿に入ったことなんて知らなかった…なんて言ったくせに…。
………………………………………………………………くそ………。
「ん、そうだっけ? …また改めて聞いたら、違う答えが返ってくるかなって思ってさ。」
「ど、どうして会ったかどうかを、そんなに気にするんだよ?」
まるで逆ギレだ。
狼狽を隠しきれず、圭一は私に食って掛かった。
「大したことじゃないの。…富竹さんと鷹野さんと、詩音と圭ちゃんをね。…悪く言ってる人たちがいるの。……何が悪いんだかはよく聞いてないんだけどね。」
ギクリという擬音が聞こえてもおかしくない、圭一のうろたえ方。
全然面白くも何ともないけれど、……これはまぁ、つまらなくもないゲームだな、と思った。
「私、圭ちゃんが悪いことをするなんて信じてないから。…でも、ちょっとだけ聞いてみたかったから、聞いてみたの。…不愉快な思いをさせて、ごめんね?」
圭一に充分な不信感と危機感を植え付けたことを確認して、私は別れの挨拶を告げた。
園崎本家に帰って来ると、門の前に割烹着姿のおばさんが立っていた。
……沁子さんとか言うお手伝いさんだ。
鬼婆はほんの何人かのお手伝いさんを雇っていて、身の回りの家事を任せていた。
「あぁ、魅音ちゃん、本当に良かった…困ってたんですよ…。」
「ありゃ、沁子さん、何か御用で?」
今日は彼女が手伝いに来る日だったのだ。
いつも通りにやって来たら、門が閉ざされ鍵が掛かっていて入れない。
電話をしても通じないので、どうしたものかと途方に暮れていたらしい。
「婆っちゃですね、綿流しの祭りで面白くないことがあったみたいで、…昨夜から凄く機嫌が悪いんです。」
「……ぁ…あぁ………、……そうですか……。」
沁子さんは、自分に何か非がないか、それで嫌われたのではないかと、あれこれ思い出しているようだった。
「別に無視してるんじゃなくて、寝込んでるだけなんです。昨夜、だいぶ遅くまでカリカリしてたから、多分、まだ起きられないんじゃないでしょうか。知ってるでしょ? 一度機嫌を損ねた婆っちゃが、どれだけの期間、機嫌が悪いかを。」
「…………そうですね………困りましたね…………。」
「しばらく顔を見せない方がいいと思います。
沁子さんに悪気がなくても、婆っちゃは何かと咎めてくるに違いありませんから。こういう時は私に任せといてください。」
「そ、……そうですか…………? ……それは助かりますけど……。」
「沁子さん、申し訳ないんですけど、外のお手伝いさんにも、しばらく来なくていいと伝えてもらっていいですか? 婆っちゃの機嫌が直ったらこっそり電話しますから。しばらくそっとしてあげてください…。」
沁子さんは、恩に着るというようなことを何度も言うと、頭を下げながら自転車で去って行った…。
婆っちゃの逆鱗に一度でも触れた経験があるなら、無理もないことだ。
私は魅音の部屋へ帰ると、魅音愛用の目覚まし時計を2時くらいにセットし、布団に潜り込んだ。
英気を少しでも回復しなければならない。鋭利に、冷静に、クールに…。
2時過ぎには学校も終わるだろう。
そうしたら改めて圭一と接触しよう。電話でいいか。
夕方からは古手神社の境内の集会所で、町会の役員会が開かれる。
役員会というのは、雛見沢にいくつかある町会を束ねた連合町会の役員会のことで、御三家の筋と連合町会の重鎮が集まる。
文字通り、雛見沢の深奥部の重鎮たちだ。
体調を崩した鬼婆の代理ということで出席しよう。
後のことは…とりあえず、出たとこ勝負だ。
鬼婆や魅音の失踪は、当分は明るみに出ないはずだ。
……焦るな、余裕はまだまだあるのだから……。
私は目覚まし時計の針をもう一度確認すると、
頭の中のスイッチをぶっつり切り、電気が切れたように睡眠に入るのだった。
■圭一と図書館へ
「もしもし。」
「あ、…園崎の妹の方です。こんにちは。今はお時間、大丈夫ですか?」
「詩音か。魅音と同じで、今日は二日酔いで寝込んでるんじゃないかと思ったぜ。」
「え? お姉、二日酔いなんですか? あっはははははは! お姉らし〜〜!」
圭一は相変わらず、私を彼のよく知る魅音だと信じ込んでいるようだった。
直接話をしても見抜けなかった圭一が、電話で見抜けるはずもない。
一人二役というゲームがこんなに面白いとは思わなかった。
……こんな命懸けのゲームに愉悦を感じるようになったなら、…私も少しはこの状況になれてきたということなのか。
…あるいは感覚が麻痺してきただけなのか。
「……とと、…ごめんな。ちょっと親が電話待ちをしてるんで、そんなに長話はできないんだ。…何の用だ?」
「…お話したいことがあったんですけど…長電話が無理じゃ仕方ないですね…。」
「じゃあさ、会って話をしないか? ついでに図書館にも案内してもらえるとありがたい。」
「図書館って、駅前の市立図書館ですか? 別にいいですよ。バイトのついでってことで。」
話の展開の関係で、私たちは興宮で落ち合うことになった。
……雛見沢から興宮へ行くのはとても面倒くさい。
でも、急がなくては。興宮へ向かう圭一と鉢合せになるのだけはまずい。
鬼婆の単車の鍵が、頭首の秘密引き出しに入っていたのを思い出した。
公共の行事には送迎も来る鬼婆だが、普段、お稽古事などに外出する時は単車で出掛けている。
私は自転車で向かうだろう圭一よりも先に興宮駅に着くべく、アクセルを思い切り吹かすのだった。
圭一は、私が待ち合わせ場所に着いてから、かなり遅れて現われた。
やはり単車は速い。
雛見沢からここまではほとんど信号がないから、飛ばし放題というのもある。
「魅音と違って、詩音は待ち合わせ時間を守るなぁ…。しみじみ。」
「あはははは。お姉を標準にされるといろいろと困ります。」
「ん? 少しふらふらしてないか? お前も昨夜は飲んだだろ。隠しても無駄だぞー。で、学校を早退したに違いない。」
「残念でした。私はそもそも、今日はズル休みしてますので。私、お姉より要領いいですから。」
「おいおい…。学校をズル休みするのを要領いいとは言わないと思うぞ。」
「じゃ、先に用事を片付けます? 時間もそんなにないですから。…図書館へ行くんですよね。」
「あぁ、頼むよ。お袋の借りてる本の返却期限が今日までらしいんで。…図書館は遠いのか?」
「すぐ近くですよ。」
時間がそんなにないというのは本音で。私は少し焦っていた。
電話で話すつもりだったのが、興宮まで来てしまった。
しかも話が終われば圭一は、とろとろと自転車で雛見沢へ帰る。
私は圭一と鉢合せにならないように気をつけながら雛見沢に急いで戻らなければならないのだ。
でないと、夕方からの会合に間に合わない。
会合に少し遅刻しても問題はないのかもしれないが、そこで話し合われる全てを知りたいと思う私には、遅刻は許されないものだった。
鹿骨市立図書館。
規模ばかり大きく、かび臭い蔵書ばかりの退屈な図書館だ。
でも空調が効いているし、静かな環境なので、ひとりになりたい時にはちょうどいい。
去年、悟史くんが失踪した直後の一時期、私もここに篭って色々と考え事をしていたっけ。
…そう言えば、ここで出会ったんだ。鷹野さんには。
圭一と一緒にいるところを出くわしたくないな、と思ってから。
……もう死んでいることを思い出すのだった。
1階はお役所の窓口になっていて、申請だの申告だのを行なう。
図書館は2階なので、私たちは大階段を上がっていった。
自動ドアをくぐるとエアカーテンの涼しさが迎える。
セミの声で充満した外より静かな館内。
本にとって理想的なコンディションに保たれた空調。
あと、古書独特のカビに似た匂い…。
「…どこの図書館も似たようなもんだな。」
圭一はそれだけ言うと、本の返却のためにカウンターへ向かっていった。
……平日ということもあってか、人はほとんどいない。実に静かなものだった。
適当に世間話でもしてから、………例の話を切り出そう。
本の返却を終えた圭一を、私はさりげなく奥へ誘った。
魅音についはよく知っていても、詩音についてはまるで知らない彼は、私たち姉妹の身の上話には強い関心を示し、あっさりと話に食いついてくれた。
一年前、私が鷹野さんに雛見沢の歴史の真実を教えられたのとまったく同じ場所で、今度は私が同じようなことを圭一に話そうとしている。……神さまの皮肉のつもりだろうか。
「…言われて見れば…。例のおもちゃ屋も、親類の人が経営してるみたいだったなぁ。そう言えば、エンジェルモートも親類の人が経営してるんじゃないのか?」
私は園崎家が、如何にこの地域で強い影響力を持つかを説明した。
都会出身の圭一には、旧家が地域を牛耳っているなんてことが理解できない可能性があったからだ。
……園崎家の意思がどれほど強く働くか、それを理解させないことには、自身に迫る危機感を充分に説明できないだろう。
「特に金融・不動産関係は強いですね。あと、商工会議所の役員も何割かは園崎姓か、その親類が就いてます。興宮一帯を票田に、市議会議員と県議会議員にも園崎がいますし。」
「……ちょっと待て。…なんだか…すごい話になって来たぞ。興宮の町中に親類が経営する店があって、特に金融・不動産に強い…? しかもその上、商工会議所の役員の何割かが親類で、しかも地元選出の議員までいて…。」
圭一は大袈裟なジェスチャーを交えながら指を折って、園崎家の重みに驚いていた。
…突拍子のない話にも耳を傾けられる程度の柔軟さはあるらしい。
そして理解も少しずつできてきたようで、「園崎」詩音を見る目も、少しずつ変わってきているのを感じた。
このくらい説明すれば、園崎魅音という次期頭首がどういう存在か、そろそろ説明してもいい頃だろう。
……それから、鷹野さんと同じ方向に持っていく。
そしてオヤシロさまの祟り、雛見沢村連続怪死事件への話を繋ぎ………。
「…ひょっとして、……園崎家って、この辺り一帯じゃ…すごいんじゃ…?」
「えぇ。凄いんです。んっふっふっふ!」
突然、タバコをくわえた太ったおっさんが話に割り込んできた。
………大石?!
どうしてここに…。
「どうも! こんにちは。今日はデートですかな? 羨ましいですねぇ。」
「そうだと思ったら邪魔しないでほしかったですね。大石さん。」
嫌なタイミングだった。偶然のわけはない。
この男のことは私もよく知っている。
老獪にして狡猾でずる賢い。
……この男の登場に限って、偶然などあり得なかった。
…ということは、私たちの姿を町中で見つけ、後をつけていたか?
ならどうして。
私か圭一のどちらか、あるいは両方に用事があるということか。
大石の視線と振る舞いから見て、……関心があるのは私に対してじゃないように思われる。
いやむしろ、圭一を私から切り離そうとしているように思えた。
大石は去年、私が悟史くんを庇って嘘証言をさらさらとこなしたことを知っている。
私という存在と一緒だと、圭一が落しにくいと考えるのは当然だ。
では大石はどうして圭一に接触を?
……昨日の事件に関してしかありえないだろう。
祭りの会場には私服警官も大勢いただろうから、犠牲者の鷹野さんたちと、一番遅い時間まで一緒にいたのは誰か、目撃しているに違いない。
つまり、私と圭一だ。
だが、私が一筋縄で行かないことは大石も知っている。
……そこで圭一ひとりにターゲットを絞ってきたわけか。………面倒な男が面倒な時に。
「前原さん、でしたよね? あなたもタフな人ですねぇ。園崎姉妹を二股かけるなんて。」
「いや…そんな…、二股だなんて…。」
圭一が同意を求めるように、あわあわしながら私に助け舟を求めて振り返る。
ちょっと赤面した慌て方が、どこか悟史くんに似てて可愛かった。
でも、話題の方向性はよくない。
大石のこの流れだと、悟史くんと私の関係にまで言及しかねない。
それは私にとってはすごく不愉快なことだし、圭一に妙な先入観を持たれてしまうことにもなる。
大石がすごく嫌らしい目をしながら、私の方をちらりとうかがう。
……その一瞬見せた目つきで私は悟った。
こいつ、私にとって居心地の悪い話をわざとしている。
しかも、それを露骨に私に訴えかけてきていて、この場を去ってくれないともっと嫌な話を暴露しますよ? と、無言だけれどこれ以上ないくらいにはっきりと、私に強要しているのだ。
…………くそ、古狸め…。
「あ、ごめんなさい圭ちゃん。…私、もうバイトの時間なんです。」
「え? あ、…そうなのか?」
…これ以上、この場に無理に留まってもリスクが増す一方だと判断し、私はバイトの時間だと適当なことを言って席を立った。
大石は私のその判断に、にやっと笑って応える。
くそ…。……今日は一本取られたが、今度はこうは行かないから。
「そう言えば…、今日は詩音、何か話があるんじゃなかったのか…? なんなら、」
「うん、また今度…。あ、バイトが終わったら電話します。夜なら電話、大丈夫ですよね?」
「あぁ。大丈夫だと思う。」
「じゃあ、今夜電話しますので、その時に。じゃ!」
■アイキャッチ
■集会所での役員会
鬼婆の単車はもはや私の足だった。
次は、夕方からある古手神社内の集会所での役員会だ。
綿流しのお祭りを打ち合わせる程度の、普段の役員会ならどういう光景か想像するのは簡単だった。
……しかし、…今日の役員会はおそらく、園崎本家の親族会議並に張り詰めたものになるだろう。
…そう、この役員会こそは、雛見沢の深奥部。
わずかの気の弛みも許されない…。
私は本家で少し休んで時間を調整した後、家を出た。
古手神社へと続く長い階段を上り、境内に入る。
集会所の前には村の古老たちが何人か集まって煙草を吸っていた。
…集会所の中で昔、ボヤがあったのでそれ以来、中は禁煙なのだとか。
「あれ、魅音ちゃんかい?」
公由家頭首でもある公由のおじいちゃんが私に気付き、手を振ってくれた。
次期頭首の魅音がひとりで来ることは考えていなかったらしい。
来るなら鬼婆ひとりか、介添えで鬼婆と二人で来るかのどっちかだと思っていたからだ。
「…婆っちゃは昨夜のあれ以来、機嫌を相当悪くしちゃいまして。……誰も近づけず、布団に篭りきりです。」
老人たちは、一度機嫌を悪くした鬼婆がどれだけ扱いにくいかよく理解しているようで、苦笑いしながら私を同情するかのように微笑みかけてくれた。
「じゃあ、今日は魅音ちゃんが園崎家頭首代行ということでいいね? お魎さんから話とかは聞いてる…?」
「………一応。」
お魎さんから話は聞いてる?
というのがどういう意味なのか、…その一言だけでは読み取れない。
役員会の座長は本来、村長である公由家頭首だ。
その公由家頭首が、園崎家の頭首代行に対し、頭首から今日の話はちゃんと聞いているね? と念を押すのだから、……今日の会合の本来の座長が誰なのかは、火を見るより明らかだった。
「……おじい、……じゃなくって、公由さん。今日の会合だけど……司会、…私じゃないと……?」
園崎本家の親族会議の序列に従うなら、園崎家頭首代行は、公由家頭首より序列が上だ。
つまり、今日の座長ということ。…そんなの私にはできない。
「あぁあぁ、大丈夫大丈夫、おじいちゃんがやるから。魅音ちゃんは座ってればいいよ。お魎さんから聞いてる話があったら、話してくれればいいからね。」
「村長、そんろそろ始めますかいねー、全員揃いましたんね。」
煙草組は、それを靴の裏でねじり潰すと、慌てて集会所に戻っていった。
馬蹄状に座机が並べられ、私は上座の隣の座布団に座るように勧められる。
私と対になる上座の反対の座布団は空席だった。
…ポジションから考えて古手家頭首、古手梨花の席だろう。
だが、全員揃ったとさっき誰かが言った。
すでに梨花ちゃまが欠席を連絡してあるのか、…さもなければその空席は形式的なものに過ぎないかのどちらかだ。
役員会の内容を考えれば、たとえ古手家の現頭首であっても、臨席を望まないのは当然だろう。
……実際、梨花ちゃまがこの場に出席したとて、何の発言もできようはずがない。
園崎本家の親族会議では、いつも落書き帳にお絵描きをして過しているのを私も知っている。
この席に出席したとしても、お絵描きをしてるだけに違いない。
それに……老人たちは陽の象徴である梨花ちゃまに、陰の面の話は聞かせたがらないだろう。
そう思えば、古手家の席が空席なのは理解に容易だった。
全員が腰を下ろすと、婦人部長がお茶を配ってくれた。
…女なら手伝え、というような姑的な意地悪目線を感じ、私は自発的?に手伝った。
その後、みんな座ってシンとしたのを確認すると、一番末席の役員会書記が立ちあがった。
「そんれでは皆さん、本日は大変お忙しい中、緊急にお集まりいただきまして誠にお疲れ様です…。それでは始めに、村長さんからご挨拶をいただきます。村長、どんぞ。」
「あーー、座ったままで失礼します。健ちゃんも座ったままでいいよ。…今日は平日の夕方にお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。また、昨日は綿流しを本当にお疲れ様でございました。お陰様で本年も事故もなく、大変な盛況の内に終了させることができました。祭りにも村中から大勢がいらっしゃり、本当に素晴らしい祭りになったものと思っとります。あー、来たの何人だっけ? 大本営発表だと五千人だそうです。」
わっはっはっはっは。
どうも笑うところだったらしく、私だけは笑い損ねた。
「今後もますますの文化の向上のために、一丸となって頑張って参りたいと思います。…よろしくお願いいたします。」
パチパチパチパチパチ…。
8人程度の拍手では景気が悪いだけだった。
「そんれでは引き続き、議事の方に入ってまいりたいと思います。本日の議事を、公由村長さんにお願いすようと思います。承認していただける方は、拍手でご承認願います。」
パチパチパチパチ!
「ありがとうございます。そんれでは只今、満座でのご承認をいただきましたんで、公由村長さんに司会を譲りたいと思います。よろしくお願いします。」
「どうも、健ちゃんお疲れ様。では司会を引き継ぎましたので、本日の議事に入りたいと思います…。あー、申し訳ない、カーテン閉めましょうかね。」
みんながそれぞれ、自分の背中側の窓のカーテンを閉めた。
まだ夕方だと言うのに、日の光をカーテンで遮られたここはもう深夜のようだった…。
まず、座長が昨夜の事件についての詳細と、警察とのやり取りを説明した。
…昨夜の深夜、興宮へ戻る警察車両が富竹さんの遺体を発見した。
大石たちの、オヤシロさまの祟り特捜班?は、5年目の事件はあるものと想定してスタンバイしていたため、初動は極めて早かった。
富竹さんと常に一緒に行動していた鷹野さんの消息を掴むため、大石たちは県内に限らず周辺の県警にまで確認を取った。
その結果、お隣の岐阜の山中で、女性の死体がドラム缶で焼かれているとの通報が入っていたことを突き止め、ただちに死体を確認。鷹野三四であると断定したという。
状況その他から、警察は5年目の雛見沢村連続怪死事件と断定して、現在、捜査中であるという。
……事実の説明が終わると、みんな、シンと黙り込んだ。
私も、次に誰が口を開くのか、注意深く見守っていた…。
誰も口を開かない。
……ふと見ると、公由さんは私を見ていた。
そう。…ここで先に口を開くのは園崎家頭首、鬼婆の役目だったのだ。
「魅音ちゃん。……お魎さんは何か言ってたかい?」
みんなの目が私に向く。
……おそらくみんな、私の肩越しに鬼婆の姿を見ているに違いなかった。
「………園崎家頭首代行、園崎魅音です。本日は頭首お魎に代わりまして出席させていただきました。よろしくお願いいたします…。」
…頭の中を魅音で満たす。
…一年前、私も冷え切った目で見つめ、恐ろしいことを平気で強いたあの恐ろしさを。
………そう、あの魅音だって、私の中にある。
あれは私。私だって、あれ。………………………………。
「……不幸にして、オヤシロさまのお怒りは5年目にも下されることになりました。……大変悲しいことです。」
皆、静まり返ったまま、私の言葉に耳を傾けていた。
……そう、今の私は小娘ではない。
小娘の口を借りて…鬼婆が語っているのだ。
その重みに畏怖しながら、皆、ただただ静かに耳を傾けていた…。
「……どうして今年も祟りがあったか。わかる方はいますか…?」
私の問いかけに、皆、表情を険しくしながらひそひそと囁きあう。
「そう。…祭具殿の禁を犯し、土足で聖域を踏み荒らして穢れを持ち込んだからです。」
「なんちゅーーーことをッ!!」
何人かの老人が吠えて腰を上げた。
「あほんたれが…! 信じられん小僧どもだ!!」
「ハラワタ引き裂いても飽きたりんガキどもしゃあん!!」
「オヤシロさま、お怒りをお鎮めください…、なむなむなむなむ……。」
「何てことを何てことを…。…オヤシロさまオヤシロさま……。」
「これだから余所者は好っきゃあん!!」
「なあんもかんがんね!! がくがくもないんよ、しゃらんと!!」
「あぁらすったらんこったんなるんね!! バチ当りどもがんッ!!」
憤る老人たちと、畏れ多さに慄く老人たちが口々にわめき合う。
そのあまりの変わり様に私は少なからずの怖さを感じずにはいられなかった。
だが、何よりも私を怖がらせたのは、小さい頃からやさしくしてくれて、いつも温和だった公由のおじいちゃんまでもが、阿修羅のような形相で、祭具殿の禁を破った狼藉者たちを呪っていたからだ。
場は今や荒れ狂う海のようだった。
ごうごうと渦巻き、ぶつかりあい飛沫を飛ばしながら。砕け、吠え、唸った。
私はひとり、顔面を蒼白にしながらそのやり取りを見ていた…。
昨日、魅音に脅され、今朝、葛西に呆れられ。
そして、今、私の目の前にも同じ様な現実がある。
やさしいはずの公由のおじいちゃんまでもが、声高に鷹野さんたちを非難し、死んで当然だ、死に方すらも生ぬるいと叫ぶのだ。
私は老人たちの豹変が怖かったし、彼らの、オヤシロさまの祭具殿を侵すような奴らは死んで当然という考えがまかり通る信仰心も、逸脱していて恐ろしかった。
でも、……そんなのは些細なこと。本当に怖いのは、そういうことじゃない。
彼らが死ね死ね、呪われて死んでしまえと合唱する狼藉者には、…私が含まれるからだ。
つまり、……彼らは、私に向かって呪われろ、祟り殺されよと罵声を浴びせているのと何ら変わらない……。
私が今この場で、……彼らに祭具殿に忍び込んだことを知られたなら。
……今すぐこの場で、首でも絞められて殺されるかもしれないという想像は、決して突飛でもなんでもない。
…むしろ、あっさりと殺してくれるかどうかの方が気になるような剣幕だった。
私は……確信する。
ここにいるこいつらは、鬼婆と同じ価値観を持つオヤシロさま信仰の妄信者たちだ。
オヤシロさまの怒りを買った人間を、オヤシロさまに代わって誅することくらいは多分、躊躇しない。
仮に直接手を下さないとしても、見て見ぬふりくらいは絶対にする。
そう、この場で私が首を捻られて死んだとしても。
この場にいる全員が結託して、私は今日出席しなかった……待っていたけど来なかったと証言すれば……、『鬼隠し』の出来上がりだ。
それはあまりに簡単な抹殺、失踪。
間違いない。
…………鬼婆と祟りを繋ぐ人間が、間違いなく今この場にいる…。
……私はさらに仕掛ける。
そう、私は園崎魅音。
祟りを起こす側の存在だ。
だから今の私は何も心配することはない。
…私たち姉妹を見分けられる者など、存在しないのだ。だから、安全…。
「………お静かにお願いします。」
「おおぅら!! 静かに静かにッ!!!」
私の静粛の求めに対し、公由のおじいちゃんも口添えしてくれたが、その口調は信じられないくらいに暴力的な乱暴さがあり、…頼もしさより恐ろしさの方が強かった。
とりあえず皆、口を噤んでくれた。
「……祭具殿に忍び込んだ賊は4人。あと2人います。」
再びざわめくが、すぐに公由のおじいちゃんが怒鳴って場を静めてくれた。
「富竹さんと鷹野さんは、分別の付くお歳だったはずですからね。……オヤシロさまの祟りが直ちに下りましたが、もう2人は子どもです。まだ祟りは免れていますが、………何のけじめもなく、許されることはありません。」
今度は誰も騒がなかった。
……むしろみんな蒼白で、私の言葉を一言一句、聞き漏らすまいと必死なようだった。
そう、彼らはその2人の子どもが、……よもや自分の親戚では、…孫では…と恐れていたからだ。
…だからその2人が早く知って、安心したかったのに違いない。
「………その2人の狼藉者は、…園崎詩音。…そして前原圭一。」
場の空気が乾ききっていくのがわかる。
……今にも、空気が音を立ててひび割れするのではないかと思うほどに…。
「…………園崎詩音は。…………すでに。」
静まり返った老人たちからは、吐息が漏れる音すら聞こえない。
私はこっそり、隣に座る公由のおじいちゃんの表情をうかがった。
…実の孫娘のように可愛がってくれた詩音が、もう『鬼隠し』になっている。
それに対して、どんな悲しみ、あるいは憐れみの表情を浮かべてくれるか、知りたかったから。
そして公由のおじいちゃんの表情を見たとき。
……乾ききった空気に耐えかねて、私の背中の皮がバリバリとひび割れを起こしていくのを感じた。
………………………………その表情はあまりに無機質。…無感情だった。
公由のおじいちゃんは、…あんなにも私を可愛がってくれた。
私はおじいちゃんが大好きだったし、おじいちゃんも同じように私が好きだと思っていた。
だから……この残酷な現実に、心をわずかでも痛めてくれることに期待していた。
いや、甘えていた。
私の中にあった、温かいおじいちゃんの笑顔が歪んでいく。
……甘えたかった人が、…恐ろしい豹変をした時の恐怖が、せいぜい数千、数万程度しかない文字で、どう表現すれば伝わるというのか…? 無理だ。文字でこの恐怖が伝わるはずもない………。
公由のおじいちゃんは私の目線に気付き、口を開いた。
「………もうひとりの、前原圭一は…?」
「………………、………………まだです。」
私は冷静さを装うために、一度呼吸を整えねばならなかった。
「……祭具殿を侵した4人、全てにオヤシロさまは祟りを下されるでしょう。……前原圭一も、例外ではありませんよ…。」
冷ややかな目。残酷な目。無感情な目。呪うような目。そして噛みつくような目。
鬼たちが、鋭い眼光を向け、私の言葉をくっちゃくっちゃと、スルメでも噛み締めるようにしているのがわかる。
ある者は蛇のように細い舌をちろちろと覗かせ。
ある者は眼光から炎が噴き出しながら。
…未だ祟りが下されない狼藉者の名前を脳裏に刻み込んでいるようだった。
やがて。
………警察には聞かれた以上の余計なことはしゃべるな。
何を聞かれたかあとで報告すること。
また、今後何か起こったらすぐに連絡して役員会で協議すること。
予期せぬ緊急の判断が求められた際には公由家か園崎家の頭首の判断を仰ぐこと、を確認し、会合は閉会となった…。
■村長を誘う
表はもう暗くなっていた。
山間の村である雛見沢は、夕方は日が傾き出すと暗くなるのが早い。
日中には暑さを感じても、暗くなれば急に涼しくなってくる。
老人たちは互いに簡単に挨拶を済ますと、自転車やバイク、または車で、自分の家へそれぞれ引き上げて行った…。
公由のおじいちゃんも、他の老人たちに手を振ると、自らも家路に就こうとしていた。
…それに私は声をかける。
「公由さん。………この後、ご予定はありますか?」
私が、公由のおじいちゃんと呼ばず、公由さんと呼んだので。…おじいちゃんは足を止めた。
「………いや、何もないよ。」
「うちへ寄ってもらえませんか。」
「……………お魎さんが、呼んでるのかい…?」
「はい。…………直接会って話したいことがあるんだとか。」
「……………じゃあ寄るかな。」
それだけの会話で、公由のおじいちゃんは園崎本家に来てくれた。
鬼婆に呼ばれ、二人だけで密談をすることも多いからこそ、これだけの会話でうちに呼ぶことができるのだ……。
公由のおじいちゃんを応接の間に招きいれると、私はお茶の用意をしてから、鬼婆を呼んでくると称して、しばらく席を外して、廊下の曲がり角の向こうで適当に時間をつぶした。
「……婆っちゃ、着替えてから来るそうです。…ちょっと時間掛かるかもです。」
「あぁん、いいよいいよ。ゆっくり待ってるから。」
公由のおじいちゃんはお茶をすすりながら、足を崩して寛いでいた。
…私も、その脇にさり気なく座った。
「………………多分、…詩音の話じゃないかな、と思います。」
「……………………………。」
詩音という名だけ出して、しばらく様子をうかがって見た。
公由のおじいちゃんは、…ずっと険しい顔。
私の言葉が聞こえたかどうかも怪しかった。
…反応を見せるまで、私は喋り続けることにする。
「………詩音は、去年がありますからね。北条家の人間なんかと…………懇意になるなんて。」
「去年は………………、……………爪を剥いで許してもらったんだったね。」
「……えぇ。3枚剥いで。」
公由のおじいちゃんは腕組をし、……しばらくの間、黙り込んでいた。
「………詩音ちゃんは、……今は?」
「地下にいます。」
「……………様子はどうなんだい?」
おじいちゃんの声は、……心配するような声だった。
それを聞いて、…私は、やっぱり公由のおじいちゃんは味方だったんだとわかり安心する。
さっきの集会所での激しい形相は、対外的なものだったのだ…。
「ずっと泣いていますよ。」
「………魅音ちゃん。率直なところ、お魎さんは詩音ちゃんのこと、どうするって言ってるんだい?」
「具体的なことは聞いてません。ご存知と思いますけど、婆っちゃは怒りが度を超えると、逆に無口になりますからね。」
「………………祭具殿に入ったんだもんなぁ。……しかも、自分とこの身内がなぁ。…そりゃそうだろうなぁ……。」
おじいちゃんは、鬼婆もさぞ苦悩しているだろう…的な表情を浮かべて俯くのだった。
「おじいちゃんは、………詩音の処遇、…どうなると思います?」
「…………そりゃ、…………爪3枚より、もっと酷いことになるだろうなぁ…。お魎さんのことだから、…身内に甘くするってことはないと思う。むしろ、身内だからこそ、……厳しく当たるだろうからな…。」
「……………何しろ、…祭具殿に入ったんですものね…。…それは許されないことでしょうね…。」
「…………………さすがになぁ…。…祭具殿はなぁ……。」
「でも、詩音も可哀想かもしれません。………だって、…ずっと雛見沢から遠ざけられてきたんです。……祭具殿の不可侵性は知ってはいたでしょうが、…そこまでいけないことだという認識は、…多分なかったんでしょうから。」
「………………………確かに、…詩音ちゃんは不憫だよな。」
「私か、詩音か。背中の刺青を見る以外に、私たちをどんな方法で区別できるというのですか? …何もない。魅音と詩音なんて区別自体が、何の意味もないのに。」
双子は不吉の証。
生まれたらすぐに間引くべし。
そういう古い家訓に倣い、生まれたばかりの詩音の首に、鬼婆は実際、手を添えた。という話を聞いたことすらある。
鬼婆は結局、詩音を殺さなかったが、……その存在を、まるでいないかのように扱った。
私たちの片方を、無理に魅音、詩音と呼び、魅音だけを甘やかし、詩音に冷たくした。
私たち姉妹は、どうしてそういうことをされるのか、ずっとわからなかった。
なぜなら、私たち姉妹には、どちらが魅音でも詩音でも、どうでもよかったからだ。
だから、……いつしかどちらからともなく言い出したのだ。
魅音が受ける喜びも、詩音として受ける寂しさも、私たちは共に分かち合おうと。
だから、私たちはことあるごとに入れ替わった。
姉妹は同時に魅音であり、同時に詩音であったのだ。
大人は違う服を着せたり、違う髪形に結ったりして、とにかく私たちを見分けられるよう苦心した。
でもそんなのはナンセンスだった。
そんな区別のための記号すら、私たちは入れ替えてしまえば、誰にも見抜けないのだから。
最終的には、…一緒にいるから入れ替わるのだ、ということになったのだろう。
詩音だけ遊園地に遊びに行けるという、珍しいことがあって。
……………………その日を境に、私たちは引き裂かれたのだ。
「……魅音ちゃん。」
「私には、……………詩音がどういう処遇になるか、想像もつきません。そして、どんなことに決まっても、……意見できる立場にありません。婆っちゃは、身内であればむしろ意見を聞かない人ですし。」
「…………そうだなぁ。…お魎さんの悪いところだよ……。」
「…………………詩音は、…園崎詩音でなければ、とっくに殺されていたことでしょう。」
「……………………………………。」
「………………死に準ずる罰が、果たしてどのようなものか、…私には想像もつきません。…殺されなかったにしたって、………多分、一生、日の光を見ることはできないでしょう。………つまりは、……『鬼隠し』ということかと…。」
「魅音ちゃん。…………詩音ちゃんは、…反省してるんだろ?」
「…………………えぇ。」
するとおじいちゃんは、私の肩をポンと叩いて、それから自分の胸をドンと叩いて見せた。
頼もしそうな笑顔だった。
「大丈夫。詩音ちゃんがちゃんと反省してるなら、鬼隠しになんかなるもんか。公由のおじいちゃんに任せなさい。」
「ほ、…本当に大丈夫なんですか…?」
「そりゃお魎さんは、私に意見されたら怒りはするだろうけどさ。でもおじいちゃんは引かないよ。詩音ちゃんがしっかり反省してるんだから、許してあげてほしいって、ちゃんと頼んでみせるから。」
…ぼろっと、…涙がこぼれた。
やっぱり…公由のおじいちゃんだけは味方だったんだ。
公由のおじいちゃんだけは、詩音を許すと言ってくれた。味方だった…。嬉しかった……。
「本当に…大丈夫でしょうか…。去年の、…北条悟史くんみたいに、鬼隠しになっちゃったりしないでしょうか……。」
公由のおじいちゃんは、本当に頼もしい笑顔で、言った。
「バチ当たりの北条家の坊主ならいざ知れず、園崎家の詩音ちゃんならきっと許してもらえるって。」
……あれ。
「…北条家の坊主って、……悟史くんのことですか? 去年の犠牲者の…?」
「北条の連中は仕方ないさな。村を丸ごと売ろうとした売国奴同然のやつらだ。そういうやつらなら鬼隠しだってあり得るだろうけど、そりゃ北条家だからの話だよ。」
あれ、あれ、あれ…。
「北条家の連中は、一族郎党みんな呪われて当然だ。鬼隠しに遭うのはそういう連中なんだから。だから詩音ちゃんは大丈夫。大丈夫なんだよ。」
「………おじいちゃん。でも、……悟史くんは去年、詩音がけじめをつけたから、……見逃してもらえることになったんじゃないの……?」
「けじめ? 何の?」
「ほら、……爪を3枚、…剥いだじゃないですか…。葛西さん、義郎叔父さん、…それから、悟史くんで、……3人分、…3枚。」
「え? 3枚って、そういう意味だったのかい?」
あれ、……あれ…。
「あの、3枚は……そういう意味じゃなかったんですか…?」
「いや…合ってるよ。…関わった人間が3人だから、3枚の爪でけじめとしたんだよ。そう私も聞いてるよ。……でも、」
「でも?」
「………葛西さん、義郎さん、
………それから詩音ちゃんで3枚だと聞いてたよ。」
………あれ。
え…? ………あれ? ………………え?
えっと、……あれ?
私、………すっごい痛いの、……我慢したよ……?
最初に左手の小指。それから薬指、…中指。
確かに暴れないように押さえつけられはしたけど。…でも、私は歯を食いしばって耐えてたよ…?
だって、3枚の爪を剥がすまで耐えなければならなかったから。
だって、どの指の爪が悟史くんになるのか分からなかったから。
だって、もし悟史くんを救う指が中指ということになってたら。
私が中指を剥がすまで耐えなかったら…悟史くんが許してもらえないから。
だから、…歯を食いしばって耐えたんだよ……?
でも、だってほら、…その後に、魅音が来て言ったよ?
あれで全部許してもらえたって。
……………あれ…?
………あれ、…あれ…?
魅音、悟史くんを許すって、…言ってるよね?………言ってるんじゃなかったっけ?
私、…聞いたよ? 聞いたような気がする。
……聞いてない? ぇ? ……え? …あれ?
………すぅっと。
……空気の流れないはずの部屋なのに、…一陣の冷風が流れた気がした。
その冷たさが、…………私のうなじを撫でた気がした。
その時。……本当の私が、…私のすぐ後ろに立ち、頷いた。
私の髪が、……風もないのに揺らめき、…瞳の奥の魔性が、本当の瞳を開く。
「……どうして、北条悟史くんは鬼隠しにあったのでしょう。」
「え?」
「悟史くんのご両親は、確かに村を売ろうとしました。オヤシロさまの祟りがあったのは当然です。でも、悟史くんはその両親の子どもであっただけ。…その悟史くんにどんな罪が?」
「…………え、……魅音ちゃん?」
「悟史くんにどんな罪があったのかと尋ねています。あなたはさっき、バチ当たりな北条家の坊主なら、鬼隠しに遭っても当然と言いました。鬼隠しに遭っても当然な、どんな罪があったのかと聞いているのです。」
公由は突然の問い詰めに、どう答えていいかわからず狼狽していた。
「聞かずともわかります。園崎お魎が、決めたのです。オヤシロさまの祟りが及ぶのは、北条の姓を持つ全ての人間と、決めたから。」
「ま、…………待って、魅音ちゃん。…別に、…そういうことが決まってるわけじゃない。」
「決めたわけではないのですか?」
「そうだよ、そんなこと決めたことなんかない…! 北条家にはオヤシロさまの祟りがいずれ下る。そういう話をおぼろげにしたことはあっても、…そんなはっきりとしたことを言及したことは一度もないし、誰もしていないよ…。」
「ではさっきあなたが口にした、北条の坊主ならいざ知れず、という言葉は何を根拠に出たものなのですか?」
「あ、……ぁ、……ごめんよ魅音ちゃん。あれは…その、言い過ぎたよ、謝る!」
「そういうことです。…北条家なら何があっても祟り。
北条の名を冠していれば、どうなろうが知ったことではないという、そういう考えが蔓延していることが問題なのです。悟史くんに罪があろうがなかろうが、北条という姓があればそれで汚らわしい。そういう考えが蔓延していることが問題なのです。
そしてあなたはその蔓延で燻された穢れた思考に汚染され迷信妄信許せないお前のような存在が許せないお前のようなやつが悟史くんたち一家を
追い詰めて追い詰めてあんなにもすり減らして悟史くんが可哀想本当に可哀想彼が何をしたの?何もしてない何もやってないただ北条であっただけ
それにどんな罪が罰が祟りが呪いがどうして降りかからねばならなかったのか、一体悟史くんに何の罪があったというのかッ!!!」
うをああああわああぁああああああぁああぁあッ!!!
公由は弾かれたように上半身を後に反らし、そのままコテンと横になった。
それでおしまい。
私はスタンガンをポケットにしまった。
■圭一への電話
■ぷるるるるるるる…の電話の音からスタート。詩音から圭一への電話のシーン
「……ごめん、詩音。…今、何て言った?」
「昨夜、鷹野さんと富竹さんが死んだんだそうです。鷹野さんは焼死体で。富竹さんは…自殺みたいな感じで。…今朝知ったんです。…お父さんが親類の人からの電話で話してるのを聞いて…。」
やはり圭一は綿流しの夜の事件のことは何も知らなかった。
「マスコミに報道されないのは当然なんです。…過去にそうだったから。」
圭一は、鷹野さんたちの死が報道されてない以上、信用できないの一点張りで拒否を貫こうとした。
だが、今や連続怪死事件の捜査には秘匿捜査指定がかかっている。
報道されないのは当り前のことなのだ。
「村長とか、あと園崎家出身の金バッヂが警察に思いっきり圧力をかけたんだって聞いてます。」
「じゃあつまり…2人の死は、…秘密裏に処理されてしまったということか?!」
「そういうことです。…もちろん、警察は捜査をしてますよ? でも、秘匿捜査ということなので、捜査活動にはかなりの制限が加えられているそうです。これは、事実上の捜査妨害と言えるでしょうね。」
「……信じられない。…人が死んだのに、…それが公にされず、密やかに処理されるなんて…。」
「もっと噛み砕いて言うと。…綿流しの夜に誰が死んでも、公にはならない、ということです。」
「……そ、そんな馬鹿な話があってたまるか…!」
「圭ちゃん。…私、以前に、オヤシロさまの祟りは村人が起こしてるかもしれないって言いましたよね。……つまりそういうことなんです。…この雛見沢では、毎年、綿流しの夜に、オヤシロさまの祟りということにして誰かを殺してもいい土壌が、……いつの間にか作り上げられているんです。」
そう。これこそが、雛見沢村連続怪死事件、通称オヤシロさまの祟りの、真実。
この日にはオヤシロさまの祟りを口実に、2人を犠牲にしてもいいという時間的なものと。
こいつらはオヤシロさまの祟りを口実に、1人を殺して1人を失踪させてもいいという人物的なものと。
この両軸が噛み合った時、オヤシロさまの祟りが起こるのだ。
そして、この土壌こそが雛見沢であり、…祟りたる所以なのだ。
公由が語ったこと、あれは全て真実。
ダム戦争の時の仇敵は、死んで当り前という空気の蔓延こそが、姿なき殺人者を生み出す母体なのだ。
そう、それはお魎が作り出した園崎本家の、磨ぎ汁のような霧で隠した命令システムそのもの。
園崎本家における命令系統の特筆すべき点は、命令者と執行者の両点が、線で結ばれていないところにある。
命令者であるお魎は、具体的に命令しない。
期待するだけでいいのだ。
それを取り囲む親族会議の人間たちは、皆が皆、チャンスさえあれば期待に応えようと、そう思うのだ。
積極的に期待に応えようとしなくていい。消極的でいい。
だが、お魎の意思を汲んだ者は、……チャンスを得た時、それぞれが執行者になる可能性を秘めているのだ。
だから、お魎は実際に手を下したのは誰か知らないし、親族たちも誰が手を下したのかわからない。
でも、結果的にお魎の思い通りの結果になったことはわかるし、そのために尽力した人間が身内の誰かだということはおぼろげに分かっている。
この消極的な協力システムは綿密で、村ぐるみと呼べるほど広大で、そしてその結束はダム戦争で鍛錬され、この上なく強固だ。
誰もが執行者になりうる。
だから、誰もが協力者になり、その幇助者になる。
誰かが事件を起こしたなら、他の人間は他のことでお魎の期待に応えようとする。
例えば、犯人のアリバイ偽証であるとか、捜査を消極的に妨害するとか。
…実行犯が誰かわからなくても、彼らはその身内の誰かを庇うため、連帯する。
そう。……今こそ、私は雛見沢村連続怪死事件、通称、オヤシロさまの祟りの仕組みを解明したと言っていい。
もう一度整理しよう。
この、村にとって好ましくない人間を年に2人単位で抹殺していくシステムは、3つの要素を組み合わせてなりたっている。
まず最初の要素は『連帯した地域性』
それは長い排他的な歴史を持つ雛見沢では自然に生まれた。
そして、ダム戦争を経て精練され、綿密と表現できるほどに強固になった。
これは祟りが発生する土地の条件と言ってもいいだろう。
作れる要素ではなく、この要素がある土地に祟りが湧く、と考えた方がいい。
次に『価値観の共有』
この要素は重要で、これがなければ祟りは発生しない。
また、この要素を園崎お魎が自ら生み出したからこそ、お魎はこのシステムを自らの意思で確立したと断言できるのだ。
価値観の共有とはつまり、敵をはっきりとマーキングし、それを地域全体に共通認識させることを言う。
いくら村が連帯していても、村全体が敵の存在を共通で認識していなくては、何の意味もない。
園崎お魎はダム戦争中、結束を容易にするため、常に敵をわかりやすく設定した。
ダム建設反対、政府は敵だ。…だが、これでは曖昧。
政府なんて言葉では誰を敵にして気勢を上げればいいかわからない。
だがお魎は単純明快に、ダム現場が悪い、そのリーダーである現場監督が悪いと、目に見える対象を選んだのだ。
これならわかりやすい。
村人たちはダム現場の人間全てを敵とし、そのリーダーである現場監督を敵将であると捉えることができたのだ。
同じ要領で、村の敵を次々に選定してレッテルを貼り、村の敵一覧を、まるでリスト的に村人たち全ての心に刷り込んでいった。
私はさっき、これを蔓延と呼んだ。
これに侵され、さらに村に蔓延させるやつらこそ、自覚のない殺人命令者たちなのだ。
村中にそれが蔓延し、雛見沢の人間全員が、敵を共通認識した時。
初めて雛見沢はまるごとでひとつの意思を持った「殺人執行者」となる。
お魎はこれら2つの要素、すなわち「連帯した地域性」と「価値観(敵)の共有」を組み合わせ、敵を選定しては、それを村全体の敵として刷り込み、蔓延させていった。
法律は、直接手を下した者と、命令を下した者を裁く。
だが、お魎の狡猾なこのシステムは、命令すら必要ない。
お魎が予め指定した敵を「不快に思って憂慮するだけで」いいのだ。
だが、これだけではまだ祟りは起こらない。
お魎の憂慮は言わば、安全装置のようなもので、安全装置を外しても、引き金を引く力がなければ祟りにはまだまだ至らない。
そこで必要な最後の要素が『執行日の指定』
これこそが、綿流しの夜なのだ。
雛見沢の守り神であるオヤシロさまを祀る綿流しの祭りの夜。
この夜にはオヤシロさまの祟りが起こって、村の仇敵が2人単位で消える。
そういうことになっているという共通認識。
つまり、一年のうちのこの夜を除く364夜に事件が起これば、それはただの殺人事件だが、
……この夜に起きる殺人だけは『オヤシロさまの祟り』に昇華される。
もっと平たく言うなら、綿流しの夜になら、村の仇敵を抹殺してもいいという、異常な価値観を蔓延させたのだ。
村人たち全てが雛見沢という巨大生物の細胞となり、それらひとつひとつが誰が敵であるかを教え込まれている。
そして、予め決められた日付という名の執行命令により、その夜に巨大生物の細胞の中で、もっとも殺しやすいポジションにいた誰かが執行する。
これこそが、オヤシロさまの祟りの正体。
だから、……悟史くんを殺した誰かが本当の仇ではない。
この殺人システムを組み上げ、悟史くん一家を敵だと指定したやつらこそが悟史くんの仇…!
…もっと広義な意味では、オヤシロさまの祟りのシステムそのものである雛見沢そのものが仇と言えるのだろうが。
システム設計者であり首魁でもある鬼婆はすでに葬った。
そのシステムを蔓延させる筆頭である公由はすでに私の手の内にある。
あとは、何者がどこまで関わっているか。
……雑草の根を、途中で千切れないように、深く深く丹念に執念深く掘り起こすようなものだった。
役員会の席上で私は、前原圭一も祭具殿を侵したひとりと発言した。
もう村の裏側では周知の事実になっているだろう。
それは前原圭一が、オヤシロさまの祟りの対象になったことを示す。
鷹野さんたち2人は無惨な死体で発見された。これはオヤシロさまの祟りだ。
なら、その祟りを鎮めるという名目で、さらに2人を『鬼隠し』で生贄、という形で失踪させることができる。
祟りの執行日である綿流しの夜はすでに越えてしまったが、……悟史くんがそうだったように、『鬼隠し』に限っては多少の時間的猶予が認められている。
今後数日以内に、前原圭一の周辺には何らかの魔手がきっと迫る。
前原圭一という餌を食い千切られないように慎重に、……私は彼を吊るした釣り糸を、もっともっと深くに、沈めていくのだ………。
圭一は電話の向こうで、さっきからずっと怒鳴りたてていた。
祭具殿には入りたくて入ったわけじゃない。鷹野さんに誘われたから、私に誘われたから渋々入っただけ。それなのに命を狙われるなんて冗談じゃない、と女々しい泣き言を怒鳴りたてている。
危機感と緊張感で膨れ上がりながら、威勢良く足掻いてくれた方が、きっと私の魚釣りはうまく行く。
…生餌の方が食いつきがいいって言うしね。
「どうしてくれるんだよ?!?! 俺は全然関係ないんだぞ?!?! どうすんだよ! どうすんだよ?! どうやって責任を取ってくれるんだよッ?!?! えぇ?! おいッ、聞いて、」
うざい。
私は受話器を置いて、圭一との電話を一方的に終わらせた。
冷静を欠いた圭一に、今夜はこれ以上なにを話しても無駄だ。
それに、圭一に危機意識を持たせる、周囲を警戒させる、という目的は充分達成できている。
私は一呼吸置いた後に、今度は村長宅への電話番号をダイヤルし始めた。
「はい! 公由です。」
「園崎です。どうです? 村長さんは見つかりましたか?」
「あぁ、魅音ちゃんか。…片っ端から電話をかけてみたけど、だめだよ。見つからないんだ…。参ったなぁ…! どこで油を売ってるのかなぁ…!」
「こっちでも心当たりにいろいろと問い合わせましたけど、…全然。」
「……………………………。」
「婆っちゃにも相談したんですが、青年団を召集して捜し回った方がいいだろうということです。」
「こ、こんな時間にかい…? それに、別に行方不明になったと決まったわけでもないし…、」
「綿流しの直後ですから。少し慎重に扱った方がいいとのことです。それでも見つからないなら、明朝、警察に通報しましょう。見つかる見つからないは別にして、痛くない腹を探られない方がいいでしょうから。」
「…お魎さんがそう言ったのかい?」
「はい。直接、声を聞かないと信用できないなら、電話先に出させますよ?」
「い、いえ…! わかりました。青年団を集めて捜しましょう。それで見つからなければ…翌朝に警察に通報します。」
「青年団の連絡網、よろしくお願いしますね。私も婆っちゃの代行ということでそちらに参ります。」
「あ、ありがとう。すぐにみんなを集めます…。」
「えぇ。では。」
失踪した村長を捜すため、青年団が古手神社に集合することになった。
私も鬼婆の代理ということで、顔を出さなければならない。
村長の捜索にこれから出る、という嫌味を言おうと思い、私は出掛ける前に地下拷問室に立ち寄った。
ちなみに、…この地下拷問室は、魅音の付けた鍵束のプレートによると、地下祭具殿と呼ぶらしい。
祭具殿を侵した者には死を、と声高に言っていた連中が、地下とは言え、祭具殿に閉じ込められて、償いをするはめになるとは。
…これを皮肉と思って笑えるのは、多分、私だけだろうと思った。
「公由のおじいちゃん、お具合はいかがですか?」
じゃらり…。
公由は言葉は発せられなかったが、私に気付いたことを、鎖を鳴らして知らせることはできた。
「………今ね、村中でおじいちゃんの姿が見えなくなったって大騒ぎしてますよ? おじいちゃんの家から相談が来たので、青年団を召集して捜索を行なうことにしました。これから行って来るところです。」
もちろん、これ以上ないくらいの嫌味だ。
だが公由は、鎖を鳴らすだけで、苦悶の表情以上の感情を示すことは難しそうだった。
「鎖、少し長くしてあげましょうか? 私の質問にちゃんと答えてくれる度に、そうですね、鎖の輪っか、1個分長くしてあげます。…あと3個も長くなれば、だいぶ楽になると思うんですけどね?」
「……………ぅうぅ…………ぅ…………。」
公由は、両手を後に回され、針金でぎっちりと締め付けられていた。
そして、鎖付きの革製首輪もまた、かなりきつく締め付けられていた。
その首輪の鎖は天井の滑車に伝い、ピンと公由を締め上げていた。
だが、鎖はかなりきつく短く締め上げている。
…公由は、背伸びをし続けていなければ、呼吸することもままならないのだ。
背伸びを強要してから、もう小一時間にはなる。
それでこんなに疲労しているのだから、今夜一晩も放置したら、勝手に自分で首を吊る形になって死んでしまうかもしれない。
「さっきは知らない、と言われましたけど。もう一回尋ねます。……北条悟史くんについて知っていることを教えてください。」
「…………………ぅ……………。」
「……あぁ、ごめんなさい。喋りたくても喋れません? じゃあ、私とお喋りの間だけ、ちょっと緩めましょう。」
私は壁際の鎖を巻き取る滑車をほんの少しだけ回して、公由の首を締め上げる鎖をちょっと延ばしてやった。
公由は踵を地に付け、かちこちになったふくらはぎの肉を弛緩させているようだった。
「………知らないんだよ、詩音ちゃん…。本当に知らないんだ…。」
「悟史くんが生きてるのか死んでるのか、それすらも?」
「…………おじいちゃんは本当に何も知らないんだよ……。」
「ま、…雛見沢の祟りのシステムはそういう部分で機密性を保持していますからね。おじいちゃんが知らない、というのもありえなくはないことです。
なら、聞き方を変えます。悟史くんがどうなってるのか、公由家頭首の立場でご意見を伺いたいです。」
「…………………………。」
「……悟史くんは、…生きてる? 死んでる?」
公由は、明らかに答えを迷っていた。
知らないと一言で済ませれば、私は鎖を締め上げここを出て行くだろう。
それは公由にとって、死刑と変わらない。
でも私は、公由家頭首として意見を聞かせろ、としか言ってない。
意見なら、事実を知らなくても何とか喋れる。
でも、何と喋れば、私の機嫌を損ねず、鎖を延ばしてもらえるのか……ということを思案している様子がありありと読み取れた。
「………………生きてるんじゃないかって噂を、聞いたことがある…。」
「あ、新幹線で東京に、ってやつですね?」
「…………警察が、………東京で姿を見た、……というようなのを聞いた覚えが…。」
名古屋駅で東京行きの新幹線に乗るのを見た…、までは大石に聞いている。
でもその情報の真偽も含め、その後悟史くんの消息は警察では何も掴んでいない。
だから、公由のこれは口からの出任せだ。
「……………ねぇ、公由家の頭首さま? 呪われた一族、北条家の人間を、わざわざ失踪なんていう凝った消し方をしていて、わざわざ生かしておくのにどんな理由があるんです? ないんじゃないですか?」
「…………………………。」
「それに、その東京で警察が見た、という情報ソースを教えてください。私は大石と一時期、連絡を密にしていましたが、そんなのは聞いたことないです。………おじいちゃん? 私の機嫌を取ろうとしていい加減なことを言ったなら、…………かえって怒っちゃいますよ?」
私が鎖を巻き取る滑車に再び手をかけると、公由は再び締め上げられると思ったらしく、その仕草だけで相当に慌てた。
「………ご、ごめんよ…!! 別に詩音ちゃんを怒らせようなんてつもりはないんだよ…謝るよ…!」
「私、ご機嫌取りの話なら聞きたくないんで。公由のおじいちゃんに、悟史くんのことを調べる協力をお願いしてるだけなんです。」
「わ、……わかってる、…ちゃんと真面目に考えるから…!」
私は滑車にかけている手を下ろす。
……公由はそれを確認すると、考えていますとでも言うように、無理に唸り声をあげながら色々と思案していた。
「ずばり。……生きていると思いますか? 死んでいると思いますか?」
「………………………生きてると考えるのは……難しいんじゃないかと思う…。」
「………。…ですよね。生かしておくことで伴う膨大なリスクを負う意味、ないですもんね。私だって同感ですし。」
深い意味で言ったわけではないのだが、私のその言葉は公由を一層震え上がらせたようだった。
「警察は、叔母殺しの犯人が悟史くんで、沙都子の誕生日プレゼントを買うために貯めてた貯金で逃亡したと、そう考えてました。……この辺、どう思います?」
「…………でも、…それの犯人は確か、麻薬中毒の危ない奴だと聞いたよ。」
「あれ、どう思います? ……私は、…あはは、私がこういうのも変だけど、悟史くんが叔母殺しの犯人だって信じてるですよ。あいつは、例えば鬼婆辺りに買収されて仕立て上げられた身代わりじゃないかと思うんですけど。」
「……………それは、おじいちゃんも思ってたよ。…突然ひょっこりと真犯人でしたなんて言われて、……腑に落ちなかった。」
「…やっぱり身代わり?」
「…………多分、そうじゃないかと思うよ。」
「何のためにだと思います?」
「………………警察は……悟史くんが犯人だと思って捜査を進めてたんだよね…? 悟史くんを…『鬼隠し』ということで失踪させておきたいと思うなら、…警察の捜査がいつまでも続くのは、面白くなかったんじゃないかな……。」
公由の意見は興味深い。
…確かに言う通りだ。
警察が悟史くんだと思って捜査を続けると、悟史くんを『鬼隠し』にした犯人にとっても都合が悪い。
だから、捜査を終わらせるために身代わりをでっち上げたという考えは、かなり信憑性がある。
「でも、そんな犯人のでっち上げなんて、そうそう簡単にできることじゃないですよ?」
「………………お魎さん以外にはできないよ。…そんなことは。」
「…鬼婆が裏の世界で相当の力を持ってる、というのは私も知ってはいますけど…。そんなにもあったんですね。」
「………詩音ちゃんだって、…色々とダム戦争の頃から噂は聞いてるだろうし、中には実際に、直接聞いたものもあるんじゃないかい…?」
ダム戦争の頃、建設重機を壊してやれとか、工事車両を妨害するために検問を設けられないかとか、そんな謀略を親類たちに指示してるところは、私も実際に見ている。
そして、その結果、警察に捕まった仲間たちを釈放したり、あるいはアリバイを作ったり、証拠を崩したり捏造したり。
確かにそういうことを実際に側近たちに指示しているのを見たことがあるし、議員を呼びつけて指示したり、抗議したりしているのを見たことがある。
……子供心に、鬼婆はすごいなぁくらいに思っていたが。
今こうして思い返すと、それはすごいなぁどころのことではない。
…文字通り、裏世界を牛耳る黒幕だ。
「詩音ちゃんだって、建設省の幹部の息子…、というか建設大臣の孫だな…。あれの誘拐事件の話は知ってるだろ…?」
「あれってやっぱ誘拐だったんですか? 孫が『鬼隠し』になって、高津戸だか谷河内だかの山奥で見つかったって話は知ってたんですけどね。」
「…………あれは、…お魎さんの指図によるものだよ…。……ダム工事の中止の約束が取り付けられたんで、孫を釈放したっていうのは、………おじいちゃんたち、旧同盟の幹部ならみんな知ってる。」
「……ふぅん。……身近に居すぎて私がよくわかってなかっただけで。………やっぱり鬼婆や御三家や、旧同盟って大したもんだったんですね。…怖い怖い。」
…私は公由が、自分の置かれた状況を理解して、私の質問にちゃんと答えてくれてることに、ほんの少し機嫌を良くもしたが。
…………公由が言ってることに信憑性が増す度に、…悟史くんがもう生きていないことが、動かしがたい事実になっていくのが、悲しかった。
「……………悟史くんを、…『鬼隠し』にした実行犯は誰だと思います?」
「………………わからないよ…。それに、誰が実際にやったかは問わないのが、不文律だったから…。」
そりゃそうだ。
そういうシステムだから。……私の質問が悪い。
「誰がやったにせよ、……大したものですよね。だって、人を殺して、死体も出てこないなんて、結構簡単なことじゃないんじゃないですか?」
「………誰が殺したかは別にして。………例えば、死体の処理をお魎さんが手伝ったという可能性は、考えられるよ。………今いるここの、奥に死体を捨てるための井戸があることは知ってるだろ…?」
「あぁ……確かに。どこかの山中に埋めるくらいなら、ここの井戸に捨てる方が絶対に安全ですもんね。」
失踪者は、オヤシロさまの怒りを鎮めるための生贄にされた…という風にして処理される。
そういうルールのゲームだからだ。
だから、死体が見つかると祟りというゲーム上、好ましくない。
だからこそ、失踪者の死体は絶対に見つからないところに廃棄する。理解できる話だった。
じゃあ、…………悟史くんは、……あの、井戸の、底に?
私は懐中電灯を掴むと、岩牢のある大空洞へ向かった。
大空洞の灯りを付けたので、岩牢の中の魅音が私が来たのに気付いたようで、不安そうな目線を向けていた。
私はそれには構わず、隠し井戸のある岩牢へ向かう。
………よくもこう自然そうにカモフラージュしたものだと、その隠し方に芸術性すら覚えた。
井戸の底に懐中電灯の灯りを向ける。
底の深さは計り知れない。弱々しい灯りでは、どろどろと滞留する闇に打ち勝てないのだ。
私は…すぅっと息を吸い込む。……そして、井戸の底へ叫んだ。
「……悟史くん。……………悟史くーーーん…ッ!!!」
悟史くんの名前が深く深く深く、何度も残響していく。……相当な深さがあるのは疑いようもなかった。
壁の梯子状の楔を伝って底に降りてみようかとも思った。
だが、懐中電灯を首にぶら下げた状態では、充分に手元を確認できないし、たとえ充分な明るさがあったとしても、楔が本当に頑丈に打ち込まれているかは怪しい。
この井戸の中を降りていくのは自殺行為にしか思えなかった。
………この底に、…悟史くんがいる……?
その時。
……私の頭を、…確かに、あの温かい手が、撫でてくれた。
詩音。………やっと、……僕を、……見つけてくれたんだね……。
悟史くん、……悟史くん……、……悟史くん………!!
私ね、…私ね?! ずっと…ずっと、悟史くんを捜してたんだよ…。でも、…生きてる内に捜し出せなかった……。ごめんね……ごめんね……。
…詩音は何も悪くないよ。……詩音には、僕が殺されるまでの間に、何もできることがなかったんだもの。だけど、………僕が死んでしまった後に、詩音は精一杯のことをしてくれたよ……?
悟史くん、…私も、悟史くんのところに行く。今から行く。飛び降りるから、…受け止めてほしい。
…むぅ。
………悟史くんは苦笑するように言った。
私は拒絶の意味だとすぐに気付き、悲しくなった。
詩音が、僕を捜し出してくれただけで、とても嬉しい。
…でも詩音は生きてる。生きてるのはとても大事なことで、…無駄にしていいことじゃないんだよ。
悟史くんがいないなら、生きてるなんて大したことじゃない…!
私は、悟史くんと一緒がいい…。一緒がいいよ……。…また頭を撫でてもらいたい、…一緒に過したい…、今度はね、…私も素直な可愛い女の子になるから………、一緒に、…ずっと……いたい…………。
生きて。
生きるの…?
生きて、いっぱい楽しい思いをしよう?
ひとりで生きて、…何が楽しいの…?
見つけられるよ、生きていれば……………。
「…………………生きる。…………生きるよ…………、…生きる。」
さっきまで気味が悪いと思っていた井戸は、…いつの間にか温かに見えていた。
この底に降りることは許してもらえなかったけど。
……でも、…この井戸の縁は、…………私と悟史くんの、一番近い場所なんだね……。
「………魅音。……悟史くん、………見つけた…。井戸の、……底なんだね。」
「……………………………そうだと…思う。…………そこしか、……ないもん。」
魅音はそれだけ言うと、…涙ぐみ、嗚咽を漏らし始める。
「……魅音は、…悟史くんが殺されるところには、居合わせなかったんだよね?」
「………………うん。」
「もし居合わせたら。……悟史くんを許してもらえるよう、鬼婆に意見してくれたかな………。」
「絶対にする…。せめて命だけはって、…絶対に言うよ……。」
「嘘だ。」
「………え、…。」
「嘘だあああぁああぁああッ!!!」
一年前のあの日。
……私に対して、爪を剥がすけじめを強要した時の、あの冷酷な次期頭首としての魅音がありありと蘇る。
こいつは悟史くんが殺されるところに居合わせたとしても、絶対にあの冷たい次期頭首の仮面を外さない。
恐ろしい拷問室に連れて来られて…、生きた心地もしなかっただろう悟史くんは、見知った魅音の顔を見て、どんなに救いを期待したことか。
処刑を宣告するような頭首の恐ろしい呪いの言葉を聞きながらも、…困ったような、苦笑いしたような顔で………魅音を見て、…きっと助けてくれると信じて…、…むぅって…言うの。
魅音が冷たそうな顔をしているのは、親類の手前上、仕方ないことで…。
きっと今に助けてくれる、助けてくれるって…信じて…、…でも、…いつまでも助けてくれないで……、どんどん恐ろしい拘束具に締め上げられていって……、……でも、まだ助けてくれない。
……魅音はまだ冷酷そう。
……魅音? そろそろ……助けてくれない…?
……あははは……、……はは、……そっか、…そうだよね。…他の怖い親類の前だもんね…私情なんか……出せないよね…? あはは、…ははは、…困ったな………。………むぅ…。
「うわああああああぁああぁあぁああぁあ!!
助けろ!! 助けろ!! 何で?! 何で助けないのッ!!? 悟史くんの、あの助けを懇願する眼差しを見て、…どうして心を動かされなかったのッ?! あんたは悟史くんが意地悪叔母のせいで追い詰められていた時から何も救いを差し伸べなかった!!
あんたは同情する素振りを見せるだけで、助けなかった!! 見殺した!!! あんたが悟史くんを助けなかったから、追い詰められたんだ!! 私は救おうとがんばったよ?! 彼の心の支えになろうとがんばった!! あんたらが悟史くんの叔母殺しを庇わなくても! 私は彼のアリバイのために自らを投げ打って戦った!! その結果が爪3枚なんて安いもんでしょ!!
でもね、それだけの努力じゃ、悟史くんを救うには……全然足りなかった…。届かなかった……。どうしてか? ……だって、私は詩音だったんだもん。…詩音は、雛見沢から遠ざけられていて、何からも外様で、何も教えられなくて、知れなくて。…でもあんたは違う。あんたは魅音だった。あんたは雛見沢の内にいて、全ての中心で、全てを教えられて、全てを知ることが出来た。私があんただったらきっと悟史くんを救えた!! 私なら救ってあげられた!!! あんたが魅音になったからだ!!!
返して魅音!!! 元々魅音はあんただけのもんじゃない! 私のものでもあったはず!!! それに元々魅音は私のじゃない?! 私があんたに貸してあげるようになっただけで、本当は私のだったじゃないッ!! 返せ!! 私の魅音を返せッ!!! お前が魅音の外見をしているだけでも虫唾が走る!!! お前じゃなく私が魅音だったら! だったらぁあぁあああぁあッ!!!」
鉄格子を蹴る、
蹴る、
蹴る。
魅音はまるで、鉄格子が蹴り倒されてその下敷になるのを避けるかのように、…奥で、鉄格子を蹴る音に怯えて縮こまるだけだった。
■幕間 TIPS入手
■ノートの188ページ(綿流し2日目終了時)
その後、私は公由村長の行方を捜す青年団に合流した。
町会の連絡網にそって、訪ねていないか電話し、回覧板区分ごとに手分けして捜した。
誰もが、いくら捜しても見つからないだろうと、薄々気付いているようだった。
だが、薄々どころか、絶対見つからないと知っている私にはとにかく辛いものだった。
午前0時を回っても、まだあそこは見てない、一応あそこも行ってみようと皆、精力的だ。
私は大あくびをしながら耐えるしかなかった。
その内、誰かが噂した。
去年、……北条悟史くんがいなくなった時も、こんな風に青年団で捜したな、と。
…青年団での捜索なんて、今年が茶番であるように、…去年だって茶番。
私が、絶対に見つかることのない公由を知っていて、こうして欠伸交じりにせせら笑っているように。
去年の何者かも、絶対に見つかることのない悟史くんを知っていて、私のように欠伸交じりにせせら笑っていたのだ。
「……去年の捜索って、何時に終わりにしましたっけ?」
「ん? 北条んとこの悟史ん時かい? ありゃあ何時だったっけ?」
「午前の0時過ぎくらいには解散したような気がするなぁ。」
時計は、もう午前の2時を回ろうとしていた。
公由を捜すためにはこれだけの時間を割くのに、…悟史くんにはまったく割かない。
そう、絶対見つからないと知っているやつらが、居たからだ。
そいつらはきっと眠かった。
だからもう諦めて警察に任せよう、なんて言い出したに違いないのだ。
くそ…くそ…、その言ったやつを殺してやりたい……。
■綿流し3日目
「あれれ? 魅ぃちゃんも何だか寝不足な感じだよ? だよ?」
「…うん。寝たの3時くらいだからね。……眠い。」
「さ、3時ぃ?! おいおい、…夜更かしにも限度ってもんがあるぞ?!
大方、漫画の単行本が面白くなっちゃって、1巻から読破してしまったんだろう。うんうん、俺にも経験があるぞ。」
「……………あれ、……ひょっとして、…村長さんのこと? まだ見つかってないの?」
「………うん。」
昨日はあの後、古手神社で青年団と合流し、手分けしてあちこちを捜し回った。
何しろ絶対に見つからないわけだから、それを唯一知る私には眠いことこの上ない。
まぁ、眠さなんて大した辛さじゃない。
昨夜からずっと吊るされて、眠るどころか座ることもできず、爪先立ちのままの公由を思えばね…。
学校では先生から、村長が行方不明である旨の説明があり、何か知っている人はいないかと挙手を求めた。
ひとりふたりが挙手して答えたが、全然的外れな内容だったので笑えた。
私にとっては、背中が痒くなるだけでしかない村長失踪の話は、お昼になってもずっとクラスメートたちの間で花を咲かせているのだった…。
とりあえず、前原圭一の様子を見る。
こうして見るだけでは、彼の周りに何か危機が迫ってるのかどうか、分かりようもなかった。
………今夜、詩音からの電話という形で、もう一度話をしよう。
昨日は刺激の強い話を一気に聞かせたので、かなりパニックを起こしていた。
だが、さすがに一夜も経てば冷静さを取り戻している。
その時、クラスメートとの悪ふざけなのか、少女の笑い声が耳に入った。
古手梨花だ。…………古手家最後の生き残りで、古手家の現頭首。
とはいっても、その現頭首の扱いは微々たるもの。
親族会議では鬼婆の布団に潜って昼寝したり、落書きをしたり。
…昨日の役員会に至っては呼ばれてもいないようだった。
あんな小娘頭首が、御三家の一角として祟りのシステムの一部を担っているとは思い難い…。
だが、彼女に頭首としての威厳が求められていなくても。
…古手梨花をオヤシロさまの生まれ変わりとして妄信する老人たちはあまりに多い。
……古手梨花自身、どこか変わっていて、…自身もまたオヤシロさまの生まれ変わりであることを自覚して振舞う節もある……というような話はどこで聞いたっけ。
…在りし日の鷹野さんに図書館で聞かされたのかもしれない。
古手梨花が憂慮すると、妄信する老人たちが気を利かす。
………その図式は園崎本家の命令系統と変わらないし、雛見沢の祟りのシステムとも変わらなかった。
……………古手梨花は、鷹野さんたちの死について知っているのだろうか?
祭具殿への侵入については? 誰が入ったか、どういうことになったか、そういうことは知らされているのだろうか…?
……祭具殿を管理する古手家の人間として、祭具殿侵入を一番最初に察知していた可能性は高い。
むしろ、祭具殿侵入は彼女にしか察知できず、よって彼女が報告したから祟りが執行されたのではないのか…?
祭具殿に入ったとき、圭一の馬鹿が電気のスイッチを入れたじゃないか。
あれが何かの仕掛けに連動していて、侵入警報のようなものを鳴らしていた…というのはあながち考えられない話じゃない。
…………古手家頭首、古手梨花。接触してみる価値は充分だった。
■梨花との接触
「…………古手家頭首として、今回の件はどこまで知ってるの?」
私の問いかけは単刀直入。
私が園崎魅音でなく、園崎家の頭首代行として話していることを、梨花は理解してくれたかどうかは、表情の読みにくい彼女からは掴みにくい。
「……富竹たちのことですか?」
だが梨花は、変にとぼけたりせずに富竹さんの名前を口にして見せた。
一般には知られていないはずのあの夜の事件をちゃんと知っているのだから、外見は幼くとも、古手家頭首の肩書きは伊達ではなさそうだった。
「……オヤシロさまの祟りなのですよ、としか言えないのです。」
「そんなのはわかってるよ。」
「……。」
「ならまだ終わってないよね? あと2人残っている。その2人はどうなるか、聞いてる?」
この辺りはわざと曖昧に振って、古手梨花がどういう食いつき方をしてくるのかを見守ることにした。
子ども扱いされていて、雛見沢の暗部には関わっていない…というのは外見による思い込みかもしれない。
第一、梨花は、普通の人なら知るはずもないあの夜の事件についてあっさりと口にしているのだ。
……暗部の連絡網に彼女が含まれている証拠に他ならない。
「………………別にどうでもいいと思いますですよ。」
富竹さんたちの名前を躊躇なく出したにしては、梨花のこの返答はいやに間があった。
返答を少し考えた、ということなのか。
………くそ、無表情なやつ。考えが読み取れない。
「どうでもいい、ってことはないでしょ? それじゃあけじめにならないのは分かってる?」
「…………ボクは、…ちゃんと反省したならそれでいいと思いますです。」
昨日の役員会の席上での、老人たちの憤怒の様子を目の当たりにしている私には、それはとても意外な反応だった。
祭具殿を侵す行為はオヤシロさまへの冒涜行為。
そんな奴らは死んで当り前だと憤る老人たちに対し、その神聖な祭具殿を預かる古手家の頭首が、反省すればそれでいい、ととてつもなく寛大なことを言っているのだ。
……私は、古手梨花の父親である神主が、ダム戦争の時に受けていた評価を思い出していた。
そうだ。
……確かこいつの父親はダム戦争時に日和見主義者と呼ばれていたんだっけ。
ダム戦争に対して、過激な運動で抵抗しようとする死守同盟に対し、異論を唱えていたんだった。
…なるほど、あの父親にしてこの娘ありということか。
私は古手梨花の胸倉を攻撃的に掴み上げる。
「あぁん? 何を日和ったことを言ってんだかぁ。古手家は先代もあんたも、つくづく甘ったるいねぇ?」
「………………………。」
「あんたたち古手家が、祭具殿がいかに神聖で不可侵な聖域が一番理解してなくちゃならないんだよ? その古手家の仮にも頭首が、何を甘ったるいことを言ってるわけ?」
自分で自分に笑う。
それを他人に言われ、自分の罪に慄いていた自分が、同じことを他人に言い返して逆に脅すとは。
「祭具殿を侵した罪が、どれほどの大罪か。理解してないわけじゃないんでしょ?!」
「……祭具殿はオヤシロさまの大切な場所なのです。…勝手に入ったりとかしちゃ駄目なとこなのです。」
「わかってるじゃない。そこに穢れを持ち込んだんだよ、あの4人は。」
「……悪い猫さんなのです。……にゃー。」
「そうだね悪い猫だ。2匹は捕まえてお仕置きした。あと2匹いる。」
「……にゃー。」
「どうけじめをつけるべきだろうねぇ? 古手家頭首のご意見を聞かせてよ。」
梨花はつくづく表情を変えない、何を考えているか読みにくいタイプだった。
だが、胸倉を掴み上げてじっと睨みつけている内に、少しは表情が読み取れるようになってきていた。
……梨花には少なからず動揺があり、私の問いかけに対し、むしろ逆に、私の真意を探ろうとするような気配が感じられた。
「……ボクは2匹の猫さんは、……許してあげたいです。」
「それでけじめになると思ってんの?!」
「……魅ぃ、…けじめって言葉がボクにはよくわからないです。」
「あぁいい質問だね、じゃあお勉強しよう。けじめってのはね、罪を贖うってことなの。罪は残せない。オヤシロさまのお怒りを放置することになるんだからね。だから罪の大きさに比例したけじめで、罪を清めなければならないの。わかるよね?」
「……オヤシロさまは、別に祭具殿を見られても怒らないのですよ。」
「はぁ? あんた何言ってんの?」
「……あの中を見ちゃダメなのは、あの中に怖い道具がいっぱいあるからなのです。見るときっと怖がる人もいると思いますのです。だから誰にも見せないようにしてあるのですよ…? 見た人もきっと怖かったと思います。だから反省してると思いますのです。」
「反省してるから許されるって?! あんたが決めることじゃないでしょ、そりゃオヤシロさまが決めること!!」
「……ボクは、オヤシロさまの巫女ですよ?」
「そんなことは知ってるよ!! じゃあ何さ、あんたはオヤシロさまに怒ってませんよって直接声を聞いて確認したとでも言うわけ?!」
梨花は全然恐れる風もなく、ウンと頷いた。
私はそれを見て、なんていけしゃあしゃあと口から出任せが言える奴だろうと驚く。
いや、驚きを超えて呆れるしかなかった。
「は!! あんたら古手家がそんなザマだから、あんたの両親は一昨年の祟りで死んじゃったんだよ。オヤシロさまに、仕える資格がないとお怒りを受けてね!! それであんたの父親を祟り殺したんだよ!!」
「……オヤシロさまはそんなことしないのです。…お父様は…オヤシロさまの祟りで死んだんじゃないのです……。」
「かーー!! こんなのが最後の古手家の巫女だとはね! オヤシロさまが心を安らかにできないのがよくわかるよ!! オヤシロさまをお祀りする古手家の人間でありながら! 嘆かわしい。」
「……魅ぃが何を怒っているのか、ボクにはよくわからないのですよ…?」
確信する。
こいつは発言力はさて置き、他の御三家頭首と同等の暗部は知りうる立場にあるのだ。
その証拠に、これほどあっけらかんと、今年の事件のことを話してみせる。
……にも関わらず、こうして真顔ですっとぼけられる奴なのだ。
…ったく、末恐ろしい奴だよ! その意味においてはこいつ、私より数段上手だね!
二度三度平手打ちを食らわせ、胸倉を乱暴に押してやった。
梨花の軽い体は、それだけでごろごろと転がり、涙をいっぱいに溜めた目で私を見上げた。
「そもそも、あんたが祭具殿の鍵が重いから簡単なものに付け替えたい、って言い出したのが事の発端なんだよね?」
「……そうですよ。……固くてボクでは大変だったので、…公由に相談して、簡単な鍵に付け替えてもらったのです。」
「あんたがその程度の手間を惜しまず、頑丈な施錠をそのまま残していたなら、祭具殿への侵入を許さなかったかもしれない。……今回の一件はあんたにも責任の一端があるんだからね? それを忘れない方がいいよ。もちろん、あんたと一緒に鍵を付け替えた公由家頭首にも、責任があるんだけどね…。」
最後の一言は、ちょっとした出任せだった。
梨花が公由に相談して鍵を付け替えた…という話を取り込んで、公由失踪を関連付けただけだ。
そうすることで、梨花に心理的なプレッシャーを与えようと思った。
「公由家頭首は、…けじめをつけてもらうことになった。だから消えた。」
「………………………………。」
「古手家頭首にも、けじめをつけてもらうことになるよ……。」
梨花は突然私にぶつけられた悪意に、潤んだ目から涙を零すことしかできず、転がされたままの格好で、地面に這いつくばっていた。
「あと残ってるのは前原圭一だけ。……こいつは古手家の方で頼むことにする。」
「……ボクは、………何もわかんないのですよ…。」
「別にあんたはわかんなくてもいいでしょ? 憂慮したり、困った顔をするだけでいいんだから。それはうちも同じ。…とにかく、頼んどくよ。」
「………………そんなの…………………。」
梨花は俯いていた。
何か言い返したがっている顔だったが、言い返すときっとまた乱暴されると思って口にできない様子だった。
………古手梨花が、本当に鬼婆のように、祟りシステムの司令塔の位置にいるのかは少し疑わしい。
だけれども、御三家の一角を担い、私よりもずっと暗部に近い位置にいるのは紛れもない事実だ。
……だからこれで、前原圭一という餌撒きは、雛見沢の裏側に充分に浸透したはず。
昨日の役員会でも、村の重鎮である老人たちの前で、あとは前原圭一だとアピールした。
そして古手家の頭首にもアピールした。脅迫的なくらいに。
この脅しが有効なら、前原圭一はだいぶ近い内に「オヤシロさまの祟り」に見舞われるだろう。
そこをうまく釣り上げ、……敵を引きずり出してやるのだ。
もし、古手梨花の系統から刺客が訪れたなら、……こいつも鬼婆と同じ罪。
…その時は、ガキだとて容赦しない。
無惨な目に遭わせてから殺してやる……。
…そうだ、釘を何十本も指に打ちつけるという拷問があるって聞いたな。
それに使うらしい拘束台と道具一式も昨夜、見つけてる。
……その時が訪れたら、…お前の無垢な指にびっしりと釘をお見舞いしてやるからな…………。
私のその残酷な期待は、目から悪意となってほとばしり、さらに梨花を畏縮させるのだった。
■園崎本家にて
そうだ、昨日から吊るしっぱなしの公由はどうしてるだろう。
ただ爪先で一晩立ってるだけで死ぬとは思わないが、時に人の命ってのはやたらと儚い時もあるものだ。
だが、公由に聞きたいことは昨夜ほとんど聞いたし、それ以上のことを公由が知らないこともわかった。
それに、オヤシロさまの祟りというシステムを構築して蔓延させた責任の一端もわかっている。
その罪の重さは一級だ。
……公由のおじいちゃん、………大好きだったのにな。
昔からやさしくしてくれたっけ。
鬼婆が身内にかえって厳しい人だったから、…その分をやさしくしてくれるみたいに、甘やかしてくれたっけ。
昨日、話をした時。
……詩音を許そうと言ってくれた時は嬉しかった。
詩音を救うために鬼婆と戦おうと言ってくれた時、本当に嬉しかった。
大丈夫。詩音ちゃんがちゃんと反省してるなら、鬼隠しになんかなるもんか。公由のおじいちゃんに任せなさい……。
胸が熱くなった。…じんと…震えて。…嬉しくて、……悲しかった。
そんな、震えるくらいに嬉しいおじいちゃんの言葉が、………そのまま悟史くんが死んで当然なんて信じられない話につながるなんて夢にも思わなかった。
文脈から読み取るなら、あそこの会話は、詩音の処遇を心配する魅音を元気付ける内容であったはずだ。
呪われた北条家なら殺されて当然だけど、園崎家の詩音ちゃんなら殺されまではしないよ。……そういう対比?で言ったはずだ。
つまり、公由たち村の重鎮にとっては、北条家は人間以下の虫けら。
生きてようが死んでようが、…感情の揺らめきも起こらない程度の存在。
公由たちの罪は、そういう北条家蔑視の感情を明け透けにして村中に蔓延させたこと。
それによって、村中の誰もが、オヤシロさまの祟りで犠牲になって当然。
……オヤシロさまの祟りの名を借りて…殺してしまっても何の問題もない、と。……そういう土壌を作り上げたこと。
だとしたら。
…………今年の犠牲者である鷹野さんたちが、祭具殿侵犯という最大級の罪を犯さなかったら、…今年の祟りは、北条家の最後の生き残り、北条沙都子と、興宮に姿を晦ましてるらしい北条鉄平の2人だったのかもしれない。
……北条沙都子。
悟史くんにべったりと甘えて寄りかかって。
泣いてしがみ付けば、何でも悟史くんが助けてくれると思っていて。…………笑顔を浮かべることしか知らない悟史くんを、追い詰めていった元凶のひとり。
沙都子が悟史くんのあれほどの負担にならなかったなら、……悟史くんは叔母殺しにまで駆り立てることはなかった。
………悟史くんに何者かが叔母殺しをそそのかし、そそのかした黒幕との接触を隠すために悟史くん自体も『鬼隠し』にしてしまった…、というのは確か大石の仮説だったか。
だとしたら、悟史くんが叔母殺しなんてヤバい橋を渡らなければ、少なくとも今年の犠牲者に選ばれることもなかったんじゃないだろうか……?
だって、北条家はオヤシロさまの祟りに遭う…くらいまでの曖昧な命令しか下りていなかっただろうからだ。
そう、北条家の人間なら、誰が犠牲になってもよかったんだ。
意地悪叔母は近所でもとにかく評判が悪かったそうだ。
近所付き合いも最低、尊敬できるところなんてひとつもない、ヒステリー婆だった。
……そう、悟史くんが無理に殺さなくても、他の何者かの手で祟りが執行されたに違いないのだ。
なら叔母が祟りで死んで、まず1人。
それから、その祟りを鎮めるために北条をもう1人。
叔父の方は興宮のどこかで愛人と暮らしているという噂だ。
だが、興宮という土地は雛見沢に比べると若干、支配力は劣る。
もちろん園崎本家の力が強く及ぶ土地であるのは間違いないのだが、…往来の真ん中で堂々と『鬼隠し』をしても大丈夫…というほど影響力のある土地じゃない。
だったら、腹中に住んでいると言ってもいい悟史くんと沙都子が標的に選ばれる。
悟史くんと沙都子だったら、…どっちが祟りに遭うか?
そんなのは決まってる。
生意気で礼儀知らずの糞餓鬼の沙都子の方に決まっている。
悟史くんは落ち着いていて、近所の評判だって良かった。
…たとえダム戦争最大の裏切り者である北条家の生き残りだとしても、……少なくとも沙都子よりずっと、殺すに値する人間じゃなかった。
だったら、…本当の意味での去年の祟りの犠牲者は、…叔母と沙都子なんだ。
悟史くんは一夜にして、ひとりぼっち。
だけど、……もう意地悪な叔母もいないし、意地悪な叔父もいない。
…妹に生まれたというだけの理由で、悟史くんに寄生しているも同然だった重荷の沙都子ももういない。
悟史くんはいい人だから、自分が自由の身になったことを知りつつも、心を痛めるに違いない。
でも、……痛みは時間が癒してくれるし、……私が癒してあげられる。
そうしたら、もう悟史くんは、雛見沢の家になんか無理に住まなくていい。
私の隠れ家のマンションは、他にも空き部屋だらけだし。
生活のためのバイトだって、バイト先は私と親しい親類たちに頼ることができる。
雛見沢の学校まで遥々通う必要なんてもうない。私と一緒に興宮の学校に通えばいい。
悟史くんは興宮の学校なんか通ったことないだろうし、その辺りの土地勘もそんなに馴染みはないだろう。
だから私はいつも悟史くんと一緒に連れ添って。…学校への近道とか、裏道とか、隠れたちょっといいお店とか、…そういうのを色々と教えてあげられる。
それは、……信じられないくらいのハッピーエンド。
ずっと辛い生活を強いられてきた悟史くんと、…ずっと日陰者だった私との、…こんなにも陰鬱な物語の中に、用意されていたかもしれない…本当にささやかだけど、あったかいハッピーエンド。
おぼろげな幻の中でしか許されない幸せの幻想すら、私はのんびりしていられない。
日中にいくら電話をかけてもお魎が出ないので、私が学校から帰って来る時間になってから電話しようと思っている老人たちが多いらしく。
…さっきから忘れた頃になると電話が鳴り、私は幻の中でさえ悟史くんと戯れることができなかった。
私は老人たちからもたらされる情報や相談を、相槌を打ったり、いい加減にあしらったりで適当に返事する。
私の思惑通り、雛見沢の裏側ではもう、次の祟りは前原圭一だと知れ渡っていた。
さらにそれに絡めて、村長の失踪は祭具殿を破られる発端となった、鍵の付け替えのけじめを付けるため…、と怪情報も漏らしていく。
暗部の重鎮たちは、祭具殿を暴くことの罪深さと、その罪を裁く対象が御三家の頭首にまで及んだ事態の重さに慄いた。
掛かって来る電話の中には大石からのものもあった。
大石も早々と、鍵の付け替えに伴って公由が責任を取らされたという噂を聞きつけていた。
……大したもんだ。
この男の情報網は本物だ。
だが、所詮この男は漏れ出してきた情報を、両手のお椀で受け止めることしかできない。その漏れ出してくる情報の源流や、…さらにその奥に潜んで渦巻くものにまでは至れない。
今夜の遅くになったら、また前原圭一に電話をしよう。
積極的な連中が、圭一の周辺を跋扈し始めた頃に違いない。
さしもの圭一も、自身に迫っている危機を、実際に肌で感じ始めているだろう。
私は、圭一が簡単に殺されないように注意しなくてはならない。
圭一に食いつかれる前に釣り上げられれば、同じ餌でもう一度釣りができるのだから。
…前原圭一か。
彼と縁があったのはつい最近のほんの短い間だけだ。
頭は悪いけど、色々と笑える面白いやつで。
…もちろん悟史くんの代わりなんかにはとても至らないのだけど、…身近にひとりいたら楽しいだろうな、と思わせる程度には愉快なやつだった。
彼が私を不快にするのはたったひとつ。
……私の頭を、気安く撫でること。
しかもその手が、…悟史くんの手と、まったく同じ温かさがするのが許せなかった。
でも、それだけのこと。
…前原圭一は別に悟史くんの仇でもないし、恨みもない。
一緒に居て楽しいとは思うけど、祟りの犠牲になったとて大して心も痛まない。その程度だ。
…私は前原圭一を見殺しにはするだろうが、積極的に殺すわけじゃない。
前原圭一に祟りがあるように積極的に立ち回ったが、殺せと口にしたわけじゃない。
……でも今日、古手梨花に、前原圭一のことは古手家で始末しろとはっきり言ったかもしれない。
…………なんだこりゃ。
私は悟史くんの無念を晴らすために、…もっとも忌み嫌った鬼婆と同じことをし、…悟史くんの仇そのものである祟りのシステムを自ら使っている。
……前原圭一か。
利用するだけだ。
…祟れとけしかけはしたけど、…圭一が自分の身を守れる程度には助言はする。
圭一が足掻き、生き延びようとする努力は応援する。
もし、…………圭一を餌に、仇敵たちを皆、釣り上げたなら。…その時は、………放流してやってもいいか。
叔母を殺せとそそのかし、その後、黒幕との接触の痕跡を消すため、消された悟史くんとは違う。
私は、前原圭一を消さない。
だから、その一点だけにおいて、鬼婆たちとは違っているつもりなのだ…。
外は夕方の空から夜の空に変わろうとしていた。
夕飯の支度をしなくちゃ。……食べて体力をつけなくちゃ、復讐劇なんて遂行できないのだから
この辺は町が遠い田舎だし、冬は豪雪に閉じ込められることもある。
だから大きな冷蔵庫が2つ3つあるなんてのは当り前のことだった。
中には当分食っていけるだけの充分な備えがある。…買い物に行かなくて済むのはとても助かった。
窓の外からは、ひぐらしの声が忍び込んでくる。
ひぐらしの声に、懐かしさのようなものを感じるという人は多い。……でも私は逆だった。
ひぐらしの声なんて、雛見沢でしか聞いたことがない。
だからひぐらしの声は、私にとって雛見沢を意味する音色であり、……私の居場所がここにない、ここに私は居てはいけないという、…寂しさを感じさせるだけなのだ。
その時、…呼び鈴がなった。
園崎本家は門が遠いから、門前に呼び鈴とインターフォンが設けてあるのだ。
しかも監視カメラまで付けられている。
古き良き田舎の台所に、その監視モニターが置いてあるのは、とても異様だった。
モニターのスイッチを入れても画面がつかない。
……コンセントとかが抜けてるのかと思い、裏の配線を見ようとするが、ぐちゃぐちゃの束になって冷蔵庫の裏に続いており、さっぱり分からなかった。
壊れているのか、私の操作が悪いのか分からないでいる間にも、呼び鈴は何度か鳴らされた。
………できれば、相手を見てから、応えるか居留守を使うか決めたかった。
居留守を使うのが一番楽と言えば楽なのだが、……それでは意味がない。
私は敵を求めて牙を剥いている最中なのだ。
物陰から虎視眈々と敵をうかがいはするが、それは引き篭もって隠れているのとはわけが違う。
鬼婆は体調不良と極度の不機嫌で伏せっていることになっている。
来ても面会はできないとすでにあちこちで話してある。
…それでもなお、訪ねてこようというのは何者なのか。
…私は意を決して、インターフォンのスイッチを入れた。
厄介な相手なら門前払いにすればいい。
でも、可能な限り自然に接しないと、思わぬところで不信感を抱かれるかもしれない…。自然に自然に…。
「……はい。どちら様でしょう。」
『こんにちはなのです。』
相手は名乗らなかったが、その独特の喋り方ですぐにわかった。
「ん、梨花ちゃんか。……どうしたの? こんな時間に。」
『……実は、お醤油を分けてもらいに来たのですよ。』
醤油?? 素っ頓狂な声を上げそうになるのを堪えて、状況を思案する。
町が遠く、買いだめして生活することが多い雛見沢では、時に調味料などを切らし、隣家に分けてもらいに行くことはないことじゃない。
冬場には豪雪で村が埋まり、町へ行けなくなることもあるのだから。
しかし、古手神社から園崎本家は近くない。
醤油を分けてもらいに、遥々自転車でやってきたというのは、ほんの少し不自然だった。
醤油を分けてもらいに来た……というのは何かの口実で、…内々に話をしたい、ということなのだろうか。
その時、私はインターフォンの脇にある冷蔵庫の扉に、マグネットで貼り付けられているわら半紙を見つけた。
“本場仕込みのお醤油、まだまだたくさんあります。お気軽に園崎までどうぞ”
それは鬼婆が町会経由で回覧したもののようだった。
遠方の親類が醤油を樽で送ってきたので余っている。容器を持ってくればお裾分けするのでどうぞお気軽に…という文面。
なるほど、遥々醤油をもらいに来ても、不審ということもないわけか。
わら半紙の下には、お手伝いさんのものらしい書き込みがしてあった。
“ショウユは乾物棚の床下。ほしい分だけあげてOK”
棚の前の床は、床下収納になっていた。
開けて見ると、確かに醤油の小太りした樽が置いてあり、中には漏斗と柄杓も一緒になっていた。
……園崎本家で異常があると、まだ今の時点では思われたくない。
私は梨花に醤油を分けてやることにした。
「うん、いいよ。入れるものは持ってきてるの?」
『お醤油の瓶を持ってきましたのです。』
「OK。勝手に入ってきていいよ。玄関で待ってる。」
玄関へ向かおうとすると、もう一度チャイムが鳴った。
『……魅ぃ、内側から閉まってて、門が入れないのですよ。』
「あぁ、そうだった。ごめんごめん。今開けに行くよ、待ってて。」
雛見沢は防犯概念の薄い田舎だけあり、各家庭は戸締りに割といい加減であることが多い。
……私はもうちょっと物騒な町育ちなので、自宅に施錠は習慣付いている。
私は古手梨花を迎えるため、わざわざサンダルを履いて、外へ出なければならなかった。
「……こんばんはなのですよ。」
「………こんばんは。」
梨花は一升瓶を抱きながら、にぱーっと言いながら笑った。
今日の日中、私に怒鳴りつけられて乱暴され、涙を零していたのが、まるでなかったかのようだった。
あるいは機嫌を損ねたと思って、私のご機嫌伺いにでも来たと言うのだろうか。
私は梨花を玄関まで誘うと、そこで座って待っててくれと告げ、一升瓶を預かろうとした。
だが梨花は一升瓶を譲らず、靴を脱いで上がってきた。
「いいよいいよ、私が入れてくるから待ってなよ。」
「……ボクも漏斗でお醤油入れるのは上手になったのですよ…?」
何だか甘えるような、懇願するような目で見上げてくる。
自分で瓶に醤油を入れたいということなのか。
……あまり家に上げたくはなかったが、よくよく考えてみれば、私が台所に行っている間に、梨花をここでひとりで待たせるのも、何だか薄気味悪かった。
それならいっそ一緒に台所に行って、妙なことをしでかさないかどうか、監視している方が安心できる。
私は、なら自分でやってごらんと言い、梨花を連れて台所へ向かった。
廊下をひたひたと歩く。
……二人で歩いてるはずなのに、私の足音しか聞こえなかった。
本当に梨花が付いてきているのか不安になり、私は不意に足を止める。
すると急に私が止まって驚いたのか、梨花は、ぺたっと一歩余計に歩き、私の背中にぶつかった。
「……みー。」
「ん、…あぁ、ごめんごめん。」
私はちゃんとぴったり付いて来ていることが分かり、再び先頭を歩く。
……ひたひたひた。
ぺたぺたぺた。
…ひた、…ひた。…ぺた、…ぺた。
こいつ、私の足音にぴったり合わせて歩いて遊んでいるらしかった。
その証拠に、私が不意に乱れた歩き方をしても、決して足音はばらばらにならず、すぐに二人の足音は重なった。
ひたひた、ひたひた。
ぺたぺた、ぺたぺた。
ひたひたひた。…急に止まる。
ぺたぺたぺた。ぺた。一歩遅れて梨花も急停止。
振り返ると、梨花もそういう遊びをしているのがバレたと気付いたらしく、にぱーっと悪戯っぽく笑った。
常に足音が一緒で、…不意に止まるとひとつ余計に聞こえる足音。
……そんな足音を、私はすでに身近に経験していて、……何となく、心穏やかになれなかった。
ただ、この少女の足音の場合は、足音は同じでも、振り返ればちゃんとそこに居る。
その点だけにおいて、私の知っている足音とは違っていた…。
台所のさっきの床下収納は開きっぱなしになっていて、醤油樽が顔を覗かせていた。
メモには好きなだけ持って行かせてOKとあったが、残量は充分かな。
……私はしゃがみこみ、醤油樽の蓋を開けようとした。
そんなしゃがむ時の仕草でさえ、ぺた、っと、私の背後ではひとつ余計に足音がするのだった。
「うん、まだまだいっぱいあるよ。ほら、好きなだけ持ってくといい。」
私が後を振り返った時、梨花は信じられないくらいに私の目の前にいた。
でも、……え? ………誰? そこには梨花がいたけど、…よく似た知らない梨花が。
私たち姉妹が入れ替わって、違和感を見せたときのような感じ。
…外見はそっくりだけど、違う個性を見せた時のような違和感。
梨花にも双子、いたんだ…?
そんな困惑の感情は一瞬。
梨花が手にしていた小さな化粧品みたいなスプレーが、私の目に噴き付けられた。
「ッ?! ふんんんんんッ!!!」
両目に凄まじい激痛が走り、この痛みを洗い流そうと、涙と鼻水が滝のように零れ出す。
刺すような刺激がして、くしゃみが止まらない。
私は自分が、悪意を持った攻撃を受けたことを認識するまで数秒間、無防備に顔を覆って転げまわっていた。
思い切り強く目蓋を閉じ、涙を絞りつくすようにして目を開いた時、梨花は私の髪を鷲掴みにして地面に引きずり倒そうとしていた。
梨花は私と目が合い、視力を回復したと悟ると、再び容赦なく催涙スプレーを噴射した。
それを察知して固く目をつぶったが、鼻の粘膜から入ってくるらしく、直接的な激痛を回避できただけで、ひどい涙と鼻水、くしゃみと痛みで私は再び目を奪われる。
…くぉおおぉ…、いたいたたた……!!
混乱した脳がこんなにも回転が遅いなんて…!
私はここまでされてやっと、自分は古手梨花に襲われたんだと理解した。
それに気付けば、脳の回転は普段以上に回転し出す…!!
古手梨花は私を仰向けに地面に転がすと、馬乗りになってきた。
私は逃れようと、台所中をごろごろと転げ回り、
かまどにぶつかったり、
置いてある壷かカメかにぶつかったり、
何かの山を崩したりしながら暴れ狂った。
だが梨花は私を逃そうとはせず、しつこく絡みつき、ついには私の上に馬乗りになって、身動きを奪った。
容赦なく腹の上に圧し掛かってきて私は痛みと圧迫感に呻く。
見掛けによらず喧嘩慣れした真似を…!
目の痛みで、私は視界を奪われたまま。
そんな無抵抗状態で馬乗りにされている私は、まさに絶体絶命だった。
瞬きの隙間から私に圧し掛かっている梨花の顔を見た。
そりゃ、私は古手梨花をよく知っているわけじゃない。
魅音に成り代わって学校へ行った数えるほどの機会の接触と、事前に知らされていた情報だけだ。
でも…そのわずかな接触の中から、古手梨花のこんな一面を想像するのは不可能だった。
不可能、不可能、不可能!
……あぁまずい、不可能なんて言葉で頭を満たすな!
目の前の事態に冷静に対処できると信じろ、混乱に頭を明け渡すな、クールになれ、クールになれ!!
くそくそ!そんな滅茶苦茶な思考こそが混乱だろうが!!
もう一度わずかの瞬きから梨花をうかがい見る。
片手には催涙スプレー。だがもう片手が異様だった。
目を疑ったが、他の何に見間違えようというのか!
それは見紛うことなどありえない特徴的な形をしていた。そう、それは…注射器だった。
梨花は私が視力を回復したことに気付くと、私の鼻先に催涙スプレーを突き出し、容赦なく噴き付けてきた。
固く目蓋を閉じ、痛みから少しでも逃れようと足掻く!
私はその時、目をぐっと閉じていたのだから見えていなかったわけだが。梨花にとって思わぬ誤算が訪れていた。
…こんな組み合った状態で催涙スプレーなど使うものだから、その飛沫が自分にまで及んだのだ。
梨花の咽込むようなくしゃみが何度も繰り返されるのを耳にして、私は最大のチャンスが訪れたことを知る!
見えなくてもそこに居ることはわかるから問題ない。
梨花の顔面を私は何度か殴りつけ、
梨花の重みがぐら付いた瞬間を逃さず、その戒めから逃れた。
素早く間合いを取り、私はスタンガンを構える。
梨花が吸ったスプレーは微量だったようで、もうくしゃみは治り、私に悪意ある眼差しを見せることができるようになっていた。
「……おうおぅおぅ…上等切ってくれんじゃないの。ぶちまけられてえかああぁああぁッ!!!」
梨花は不敵な表情を崩さなかったが、最初の奇襲で目的を達せられなかったことに相当の痛手を感じているのは間違いなかった。
私の咆哮にわずかなたじろぎを見せる梨花は、それでもなお催涙スプレーを構え、私の目を狙っていた。
向こうの目的は私をあのスプレーで無抵抗状態に陥らせ、その隙に、…あのもう片手の注射をする気らしい。
中に何のクスリが満たされているのか、一見透明なその液体からは窺い知ることもできない。
だがどんな薬物にせよ、その効果は恐ろしいものに違いなかった。
私の目を奪い、馬乗りになり、体のどこでもいいから無理やりに薬物を注入。
…効果の出るのが遅いクスリだったら、私はその後も抵抗を続け、結果、古手梨花に致命的な反撃を加えることは充分にあり得る。
だが、梨花のこの奇襲は、注射に成功すればそれで充分という考えが見え隠れするのだ。
………つまり、どういう効果にせよ、そのクスリは即効性で、注射して即効果の出るものらしく、しかもその効果で梨花への反撃も出来なくなるような効果だ。
だったらそれは、昏倒か死か、その二つのどちらかしかあり得ない…!
なら、条件はこっちだって互角。
私の持つスタンガンは強力な武器だ。一撃で相手を倒してしまう必殺の武器だ。
しかもその安定した強力な威力は今日までの数度の使用全てで証明されている。
「…………………………………。」
梨花も、私の持つスタンガンが催涙スプレーなんかよりよっぽど強力な武器であることを理解しているらしく、迂闊な身動きさえできない様子だった。
「……おらおら、いつまで人ん家に上がりこんでぼさーっとしてくれてるわけさ。そっちから来ないんならこっちから行くぞこらあッ!!!」
足元にあった新聞紙の束を抱え、思い切り投げつけた。
その束は重ねてあるだけで縛っていなかったので、梨花の眼前でぶわっと広がり、その全身を覆った。
私が突撃したのは新聞紙の束を投げつけるのとまったく同時。
梨花に隙を作った一瞬で飛び込んだ。スタンガン!!!
バチンと梨花の体が跳ねて転がった。
…この大馬鹿がぁ!! 両者一撃必殺の状況で躊躇しやがって!! 素人に限って睨み合うんだよ。一撃必殺において先手がどれだけ有利か何もわかっちゃあいないんだからッ!!!
ころころと転がるのはスプレーだ。でも注射器はまだ握っている!
スタンガンを決めはしたが、油断はしない。
そのまま転がる梨花の脇腹に蹴りをくれてやり、今度は逆に馬乗りになってやる。
注射器は容易に奪い取れた。
私は梨花のその腕を踏みつけると、奪った注射器をその腕にぶち込んでやる。
予防接種でやってくれるようなデリケートさはない。
注射針で腕を砕いてやろうというくらいの乱暴さでぶち込んでやる。
シリンダーを押し込み、全てのクスリを乱暴に注入してやった。
それに反応してか、梨花の体がびくんびくんと痙攣するように跳ねた。
私は梨花から遠のき、梨花の体にどういう変化が訪れるかを見守った。
もちろん油断はしない。
即効性でしかもただちに抵抗を奪う薬物…と想像はついていても、どんな反応を示すかわからない以上、間合いがいる。
「……は、…は! ざまぁないね!! 私に勝てるとか夢にでも思った? 舐めんじゃねえやあッ!!!」
梨花はしばらく痙攣するように震えた後、壁に手を付きながらふらふらと立ち上がる。
…こいつ、華奢そうな体のくせにスタンガンの直撃を食らって立ち上がって見せたぞ…。
……手元のスタンガンの出力メモリを見る。
あ、くそ! 出力が最小になってる!
さっき取っ組み合いをした時にでもメモリがずれたのか…。
ジャキジャキっとメモリを出力最大まで上げる。
梨花は真っ青になり、全身に脂汗を浮かせていた。
……どんな薬効だか知らないが、もしさっきの奇襲で、梨花の思い通りにことが運んでいたなら、あの症状は私に訪れていたものだ。
見た目だけでこれだけ具合が悪そうなのだから、当の本人にどれだけの自覚症状が出ているのか、想像に難しくない。
焦点の定まらない目、ふらつく体、壁に添えた手。
……平衡感覚がなくなって、立っているだけでも辛いに違いない。
表情にはもはや、さっきまで見せていた不敵さはなくなっていた。
ただふらふらとしながら、…吐き気でもするのか、嘔吐でもしかけるような奇声をたまに吐いて唸る。
「………ぅうぅ、………っは、はぁ…………あぅうぅ……、……はにゅぅー…はにゅーー…………ッ、……がふ、………げほ! げほ!!」
奇声を吐き続けてふらつく梨花の姿は、奇怪で恐ろしくもあったが、同時に滑稽でもあった。
……相手に食らわせてやろうと思ったクスリを、自らが食らうことになるなんて、思いもしなかったに違いない。因果応報ってやつだ。ざまぁないったらありゃしない。
「あっはっはっはっは! 実に滑稽だね、笑えるよ。でも吐く時は勘弁ね、お手洗いで吐いてちょうだいよ。くっくっく! あんたがあとどの位でくたばるのか見物するのも楽しいよ。あぁ、でもそれじゃあ拷問する楽しみがなくなるねぇ
私さ、あんたにはあの釘台を使ってやろうとずっと心に決めてたんだよね。あんたが自分のクスリでゲロを吐きながらそれで窒息して死ぬのが早いか、両手十指に釘をたらふく食らって、痛みで逝くのが早いか、ぜひ見てみたいもんだねぇ。……よし決めた、そうしようかね。んじゃ会場を移そうか、楽しい楽しい地下祭具殿にねぇ。場所を移すためにちょいと眠っててもらうよ? くっくっく!!」
スタンガンをバチバチ言わせながら、私は、かつて梨花が浮かべたのに負けないくらいの悪意と不敵の眼差しを浮かべ、近付く。
スタンガンの飛ばす青白い火花が見えた時、梨花は弾かれたように動き、流しのまな板の上に置かれていた肉厚の、凶器染みた包丁を手にとって構えた。
「…おや、まだその程度の元気はあるわけだ? くっくっく! そうでなくっちゃ面白くないよ。あんたには色々聞きたいことがあるしね。無駄に抵抗しない方が色々と辛くないよ? もっとも抵抗しなくても辛い目に遭うだろうけど、くっくっく!」
「……残念だけどあんたの誘いは断るわ、この拷問狂が。」
死の際に臨む少女の口からこぼれる言葉は、普段の姿からは想像もつかなかった。
だが、私は何も怯まない。
私の絶対有利は揺るがないのだから、何も焦ることはない。
それに、仮にも御三家のひとつ、古手家の最後の生き残りなのだ。
その豹変はむしろ…どういうわけか…自然で、かえって違和感がないものだった。
「あんたらの御三家の血塗られた歴史に比べたら、私なんてとてもとても。それを古手家頭首さまに褒めてもらえるなんてね。ちょっと光栄だね…。んで? そのふらふらな体で、包丁一本で抵抗して見せる? 立っているだけでも限界なくせに……。」
「……そうね。あんたの言うとおり、これがどうも私の限界。…お前なんかに召し捕られて拷問で殺されるくらいなら、悪いけどお先に退場させてもらうわ。」
「退場? ぷ、できるならしてごらんよ!!」
絶対的な有利不利はもうはっきりしている。
にも関わらず、私たちはある種の異様な高揚感に包まれていた。
たがが外れた、…という言い方は雛見沢の私たちには似つかわしくない。
…現代の鬼たちが、人間のふりをする必要がなくなった解放感とでも言うのか。
そう、それは…血を嗜み肉を食む、鬼たちの狂宴。
鬼たちの血をもっとも色濃く残す旧家の、古手家頭首と園崎家頭首の狂い合い。
私は廊下を背にし、退路を塞ぐ。
窓には格子が入っているし、勝手口にはチェーンが掛かっている。私に無様に背中を向ければ、その瞬間にスタンガンを食らわせてやれるのだ。
古手梨花の言う退場のための退路は、私を越えて廊下に逃れる他はない…!
梨花は構えていた包丁を、スイっと構える。
……私は、腹部を狙って突撃してくるに違いないと読み、半身に構えてスタンガンをバチンと鳴らした…。
その時、梨花は突然背中を向ける。
私は突然走りこんでくるものと思い、梨花の怪しい挙動を、慎重に見守っていた。
梨花は包丁を握ったまま、その柄を壁に押し付けて、包丁の刃を立てた。……何の真似か理解できない。
「……じゃあね、さよなら拷問狂。お前なんかに殺されてたまるか。」
梨花は頭を大きく後ろに振りかぶると、壁に立てた包丁に刃に、喉を……ッ!!
「…ッ!!! …………!!!」
鮮血の飛沫が、パッパ、と辺りに細かく散っていく。
梨花は頭を振りかぶっては…首を包丁の刃の切っ先で……。何度も、…何度も。
首と胸元は真っ赤に染まる。血ってのはもっとどす黒いものだと思ってた。
でも、その血は黒くなんかない。
なんて言うか…気味が悪いくらいに鮮やかで……そう、私はきっと混乱しているんだ………とても綺麗に見えた。
何度も刃を首に打ち込み、…そして梨花は私に振り返った。
見開いた目、この世の物と思えない表情。
…それは、生きた人間の持つ有機的なものと、死者と人形が持つ無機的なものを同時に兼ね備えた、……例えようもなく恐ろしくて気味が悪くて、……真っ白な顔だった。
でも、そのこの世ならざる顔は…私たち鬼にはこれ以上なく相応しい面。
鏡がないから、梨花の顔だけがそう見えるだけで。もし自分の顔も見れたなら、同じ顔をしていたはずだ。
梨花は、……包丁を短く持つとガツガツと、自分の喉を激しく何度も突き続けた。
……ほら、夏祭りでかき氷屋さんが、真四角な氷塊をアイスピックでガツガツとやって、ちょっと砕いたりすることがあるじゃない?
あんな感じ。
白い氷の粉が飛び散って、とても涼やかでとても綺麗で。
それに勝るとも劣らない美しさ。
梨花が首を突く度に、ものすごくきめ細やかな美しい赤が周りの退屈な白を鮮やかに飾っていく。
そう、それは舞い。
……最後の古手家頭首による奉納の舞い。
オヤシロさまに捧げる鬼たちの最後の奉納演舞。
文字通り鬼気迫るその舞いに、私は吼え猛る。
意味なんかない、動物的な咆哮。
それは例えるなら獣同士が血塗れになって噛み殺し合い、相手が血の海で痙攣するのを見ながらあげるに違いない咆哮と何も変わりはない。
私の全身がびりびりと震え、この世でもっとも公平で、どんな審判よりも絶対的なジャッジである決着、「死」を前に、歓喜の感情を爆発させた。
鬼の、咆哮。叫び、雄叫び。
それは徐々に薄れ、鬼の声から人間でもある私の声に変わっていく。
……鬼は咆哮だったが、人間である私のは、嘲笑。
梨花の首から下は足元、足跡に至るまで、…鮮血一色に塗り潰されていた。
首からはごぷ、ごぷ…と音を立てながら、泡と血が入り混じった…どろどろとしたものが溢れ続けている。
梨花は、それでもなお私の目を見た。
私も梨花の目を見た。
……もっとも私が見たものは目だったかは怪しい。
…もうそれは人の目ではなく、…死んだ人間の、あり得ない眼差し。
梨花は、………いや、…梨花だった死体は、口や鼻から血をべったりと吐き出しながら、……笑ったように見えた。
そして、包丁を落す。
そして、…両手を突き出し……手の平を上に向ける。
…蠢く指先は、まるでひっくり返って断末魔にもがく昆虫の足のよう。
そんな指が、がっと爪を立てて自らの首に這い寄った。
それは、生まれて初めて見る奇行。
こんな動きは初めて見た。
………だって、自分で自分の首を、……掻き毟っているなんて…。
それは掻き毟るという言い方は正しくない。
…まるで、包丁で作った裂け目から、自分の喉の内側をめくり出そうとしているかのようだった。
一番大きな裂け目に、両手の指の爪が何本かかかる。
………梨花は笑ったと思う。
…生きている人間に対してなら、笑ったと言ってもいい表情をした。
…そして、裂け目を両手で、思い切り、………がぱあ、と。
「……ぅぉ…………おおわあああぁあああぁあぁあああッ!!!」
私の絶叫を浴びて、…ついに梨花の表情は生者と死者の中間ではない、本当に死者のそれとなり、……びしゃっと、自らの血溜まりにうつ伏せになって倒れた。
それっきりだった。
再び起き上がって、私に見せ付けるように喉の裂け目をめくり返してなど見せなかった。
私は死体となった古手梨花から後退り、廊下の壁に背をぶつける…。
をおおおおわああおああぁあああぁあぁああぁッ!!
再び吠えて…古手家頭首の断末魔の奉納演舞を賞賛する。
全身を駆け上る歓喜の感情。血液が沸騰しそうなくらいに暴れて、全身の血管が踊りくねって体中がくすぐったい。
「勝った、…勝ったぞ…!!! 私は勝った、打ち勝った!! わおおおああぁあぁあああッ!!!」
私は殺し合いを制したなんていう、原始的な喜びから、オヤシロさまの祟りの核である御三家の全ての頭首を葬ったことを知る。
そう、今こそ全ては白日の下に晒された。
オヤシロさまの祟りは、その仕掛けも黒幕たちも全てが晒されたのだ。
悟史くんを死の運命に飲み込んだ祟りの具現者たち、御三家の頭首たちは全て私の手に落ちた。
園崎家頭首はショック死した。
死体は車椅子ごと井戸に投げ捨ててやった。
公由家頭首は召し捕った。
残りの生涯を死ぬまでずっと背伸びして過すだろう。
古手家頭首は自らの毒牙にて返り討ちに遭い、鬼ヶ淵村御三家頭首の最後の一人にこれ以上なく相応しい死に方を迎えた。
そう、私は成した。至ったのだ。
悟史くんを祟りに取り込んだ連中を、首魁を、黒幕を! 全て葬った。全て、全て!!
悟史くんはあんなにも無力だった。運命に抗う何の力も持たなかった。
そんなか弱い悟史くんを、呪われた北条家の一員だからと烙印し、死の渦に放り込んだ奴ら、そしてその渦に飲み込まれていくのを嘲笑っていた奴ら!!
許せない許せない許せない…!!!
北条家だから祟り殺されても当然、死んでも当然、当り前。
オヤシロさまの祟りという名の下に、いつどんな殺され方をしようと構わない!!
そんな世界を構築した奴らの全てを許さないッ!!!
どうやれば悟史くんを救えたんだろう?
私には救えなかった。
園崎詩音にはあれ以上の助けは差し伸べられなかった…!!
私が詩音でなくて魅音だったなら!!
私がちゃんと今日でも魅音であったなら!!!
私なら救えた、私が魅音なら悟史くんを救ってあげられた!!
そうだ、あいつが!! 詩音がッ!! 鯛のお刺身を食べてみたいってわがままを言い出したのが悪いんだ!! 私が食べさせてもらえることになっていた!! でも詩音があんまりにもずるいずるいと泣いて喚くから…、私がちょっとした姉気分で、姉気分で、妹のわがままに応えてあげようと思って!!! 一夜だけ替わってあげたはずなのにッ!!! いっつも魅音ばかりいい目を見てて…詩音が可哀想だからって思って! それだけのことだったのに!!! 私がいい姉だったから、妹のわがままを聞いてあげただけなのにッ!!
夜が明けた時。
世界が真っ逆さまになり、そしてそのまま今日まで、ひっくり返ったままになった。
もう私たちは同じ双子じゃない。
鬼が入った方が魅音で、入っていない方が詩音。何それ……?!
待ってよ待ってよ…お母さん聞いてお母さん聞いて!! 私が魅音なの、私が魅音なのッ!!!
お母さんは私たちが見分けられるよね?! ならほら、私が魅音だって分かるでしょ?! だからみんなに私が魅音だって言って…!! 私が魅音なの、私が魅音なの!! 私を詩音と呼ばないで!! 私が魅音なの、私が魅音なのおおぉおぉ!!!
「その時、私ははっきり悟ったよ。…あんたは知っていたんだ。あの夜、親類たちが集まって何をするのか、ただの宴会じゃないって知っていたんだ。」
「し、知らない知らない!! 本当に知らなかったの!!」
「あぁッ?! んなわけないでしょ!! あんた、あの日だけ嫌にしつこく絡んできたじゃない!!! 鯛の刺身なんて食べたことない、食べてみたい、いつも魅音ばかりずるい、私にもって!! 普段なら大人しく納得するくせにあの日だけ執拗に!!!」
「知らないの、本当に知らなかったの!! あんな恐ろしいことになるなんて…思ってたら絶対に言わなかった…!!」
「はッどうだかぁ?!
あんたはいつも妬んでたじゃない、魅音ばかりいい目にあってずるいって!!
だから私が気を利かせてたまに入れ替わってあげてたんじゃない!!
あんたはそれに満足していなかった、より一層妬んでいったんだ。
そしてあの夜の意味を自分だけ知り、私から奪ったんだ、
魅音を奪ったんだ!!!
魅音を返せッ!!
私が魅音なんだ、
私が園崎魅音!!
お前は詩音なんだよ詩音!!
魅音を騙るな偽者がああぁ!!!」
吠え猛りながら、岩牢の鉄格子を何度も何度も蹴る!!
その度に鉄格子が立てる暴力的な金属音さえも、私の咆哮に比べたら子犬が怯えて鳴いているようなもの。
そうだ私は本当に下らないことに囚われていた。
私に鬼が入っていないから詩音なんじゃない、そんなのは他人が姉妹を見分けるたけにつけた記号でしかないんだ。
鬼なんかなくたって、私は魅音だ、私は魅音でいいんだ、私は園崎魅音なんだ…ッ!!!
私は髪をがばっとまとめると、ポケットから、魅音の髪形の時に使う黄色いゴムバンドで髪を纏め上げる。
うなじに髪がかかる感触がなくなり、…うなじだけでなく、頭の中の思考さえもすっきりした気がした。
鉄格子を挟んで、…二人の魅音が顔を合わせる。
それは私たち姉妹のルールでは、絶対にあってはいけないことだった。
そう、魅音と詩音はひとりずつ!
二人が同時に存在しているなんてこと、絶対にあってはならない!
「髪を解け詩音ッ!!! 魅音は私だ、魅音はここにいる! お前が魅音じゃない!! だから騙るな二度と私を騙るな、聞いているのか詩音ッ!! 聞こえているのか、聞こえているなら返事をしろ、私に返事を届かせろ、詩音んんんんんんんんッ!!!」
その日。私は本当の自分を取り戻し、詩音は自分が詩音であったことを認めた。
「はあぁあぁぁぁ…魅音であることがこんなにも素晴らしいなんて! すごいよ体全体が言うことを聞く、頭の回転が優れた気がする、そうだよ魅音は万能なんだ、味噌っかすの詩音とは違う。落ちこぼれのくせに下手な魅音のふりなんかしやがって、それが私にとってどれだけむず痒かったことかッ! わかるでしょあんたになら!! 詩音?!」
「……………はい、…お姉…。」
詩音が、私を姉と認める言葉を口にする。
そう、私は魅音だ!!! をあああぁああぁああおああ!!!
体の奥底の、本当の園崎魅音の底に眠る鬼が、ようやく目を覚ますことを許される。
鬼は解放の歓喜に喜び震え、全身をびりびりと震わせながら咆哮した。
「詩音、あんたには罪がある。あんたは今まで魅音だった。園崎家の鬼を継ぐ魅音という強い立場がありながら、悟史くんを救わなかった救おうとしなかった! 悟史くんを救うための百億の瞬間があったはずなのに、あんたはその全てを見殺しにすることを選んだんだ。
私は許さない、お前を許さない、お前が私だったら悟史くんを救えていたのに!! お前が私を奪い悟史くんを殺したことを、私は絶対に許さない!!!」
私の目から噴き出す憎悪の炎に、詩音は怯え、鉄格子の向こうでガタガタと震えていた…。
「私はお前を殺すだろう、絶対に殺す、悟史くんの無念に見合う殺し方をしてやる!!! お前を一番残酷に殺す方法が何なのか、今日から毎日考えて過してやる!! 詩音は私がそれを思いつくまでのわずかな日々を、いつ殺されるのか、どう殺されるのかに怯えながら過すがいい!!! 簡単には殺さない、惨たらしく殺す!!! 殺した後は悟史くんと同じ井戸に放り投げてやる。そして悟史くんにあの世で謝って来い!!! それが私を騙り続けてきたことへの報いだ!! 報い報い!! お前の罪!! ああああああぁああぁああぁああッ!!!」
台所を、せめて使える程度には片付けないといけないと思い、
血を吸い取るために古新聞を台所の床いっぱいに敷き詰めている時、電話が鳴った。
…出るのがちょっと億劫だったが、不在だと思われると面倒かもしれない。
出てちゃんと応対した方がいい。
「はい、園崎です。」
「いつもお世話になってるでございます、北条と申しますですわ。」
北条の姓を名乗る電話に、一瞬驚いたが、…すぐに憎たらしい沙都子からの電話だと気付くのだった。
「んー? 沙都子? どうしたの。」
「夜分遅くに申し訳ありませんわねぇ…。ウチの梨花がお邪魔してませんこと?」
そうだ。北条沙都子はひとりになって以来、古手梨花と生活を共にしている。
梨花が帰ってこないのを不審に思ってもおかしくない。
「あぁ、来てるよ。」
「あら、まだお邪魔してますの?! もうお夕飯の時間ですのに!」
…………………………………………。
「……………………ねぇ沙都子。実はね。……………………今日さ、ちょいとおかずを作り過ぎちゃってね。梨花ちゃんにも夕食を振舞ってるんだよ。」
「えぇ?! そ、そうなんでございますの?! ……うー。」
「沙都子も来なよ。沙都子の分もあるからさ。梨花ちゃんはもう食べてるよ。」
「も、もう梨花ったらぁ! わ、わかりましたわ、ちょっと片付けをしてから参りますわね。ではごめんあそばせ。」
「………うん。…待ってるからね。じゃ。」
チン。
■アイキャッチ
■圭一への電話
「圭一! さっきから呼んでるぞ! 電話だ。……園崎さんから。」
「そ、園崎さんって……どっち? 姉? 妹…?」
「…そんなのは知らん。自分で出て聞きなさい。」
「………も、……もしもし。……魅音か? …詩音か?」
「私です。…詩音です。こんばんは。」
「詩音!……その、……昨夜は……すまなかった。…つい興奮して……。」
昨日、圭一の愚痴の途中で電話を断ち切ったのが、いい影響を及ぼしているようだった。
「私たちは運命共同体なんです。互いの無事の確認が、自分たちの安全の唯一の保証なんです。」
「…あぁ、…それについては同感だ。」
「……だから、私たちは互いの知っている情報を共有する必要があります。……鷹野さんたちみたいな死に方をしないために。」
…ごくり。受話器の向こうで圭一が唾を飲む音が聞こえた気がした。
「では……昨日の続きを話します。……もう怒らないで聞いてくれますよね?」
「……あぁ。…大丈夫だ。」
今日の圭一は大人しく私の話に耳を傾けてくれた。
私は昨日の電話と同様に、圭一に、いかに危機的な状況であるかを説明した。
悪意ある村の何者かが、鷹野さんたちを襲ったように、自分たちにも襲い掛かるかもしれない、と。
皮肉なのは、注意を喚起している私自身が、村の祟りのシステムに彼を目標として認識させた点なのだが。
「……互いに、何か気になることがあったら報告し合いましょう。…互いの持つ小さな断片を合わせていけば、…ひょっとすると、鷹野さんたちを殺した、…いえ、今年の事件に限らない。過去の連続事件を解決するカギが見つかるかもしれません。」
「……ん、……そうだな。…確かにそうだ。」
「……では、まずは言い出した私から行きます。…最近、誰かに監視されているような気がします。」
「えぇ…ッ?!?!」
これははったりだった。こう言うことで、圭一により一層の緊迫感を与えたかっただけだ。
「……と言っても、気のせいかもしれません。…でも一応、報告します。……今は気のせいだと思っていますけど、…もしも圭ちゃんも同じように、誰かに監視されているように感じるなら……。……これは気のせいじゃないのかもしれませんから…。」
「そ、…そういうことなら安心しろ。……少なくとも…俺の方は大丈夫だ。」
少なくとも今日一日については、圭一は身辺に何も不審なことは起こらなかった、ということか。
御三家の頭首が消えた今、祟りのシステムはもう崩壊している可能性もある。
…そうだとしたら、圭一が誰にも襲われないのはありえることだ。
だが、圭一を狙う何者かがいるなら、まだシステムの一部が生き残っていることになる。
それは、私が仇討ちを達成できていないことを示す。
そう、圭一はリトマス試験紙みたいなものなのだ。
圭一という餌に敵が食いつくか否かで、私は敵を一掃できたかどうかを知ることができる。
……つくづく使い勝手のいい便利な男だと思った。
その後は、圭一の話に合わせる形で、話を進めた。
魅音の存在を怖がらせ、園崎家を含む御三家への恐怖心を煽った。
雛見沢という土地が村ぐるみで陰謀に関わる可能性を説明し、オヤシロさまの祟りというシステムの要素のいくつかを説明した。
それから、詩音は公由の失踪のことを、よくは知っていないはずという設定を思い出し、それを口にしてみた。
「私もついさっき聞いたんですが………、公由のお爺ちゃんが行方不明になったって…本当ですか?」
「村長さんのことか…? …何だ、詩音、…聞いてないのか?」
「何も知らないです!……お父さんが電話でそう話してるのを、また盗み聞いただけですから。」
「…あぁ。実はな、…昨夜、会合のあと、家に帰ってこないとかで雛見沢中で大騒ぎになったんだ。村中で捜したみたいだけど、まだ見つかったって話は聞かないな…。警察も捜してるはずなんだけど………。」
「な、なんでそんな大事な話を先にしてくれなかったんですかッ!!!!!」
「わ、悪ぃ…、…もう知ってると思ってたんだよ…。隠す気なんかなかった…!」
「…………………………………圭ちゃん、……私、……………どうしよう……。」
「…どうした。……話せよ。俺たちの間で隠し事はなしだろ…?」
「……ごめん。…あの、……隠すつもりはなかったんです。…ちょっとその、言うのが前後したって言うか、………。」
「…俺たちは仲間だろ?! 怒ったりしないから正直に話せよ…。」
「私、…………公由のお爺ちゃんに……打ち明けたんです。」
「……公由の爺さんってのは、…詩音にとって、相談できる心安い人なんだろ…?」
「…………はい。……私のこと、………小さい頃から本当に可愛がってくれて…。……私、いっつも意地悪なことをしてたのに……いつもにこにこと笑って…。……私の言うことは何でも聞いてくれて……。……本当にやさしい人だったのに………。」
「…お、落ち着けよ詩音。…別に死んでしまったわけじゃないだろ? そんな簡単に諦めるなよ…。」
圭一は落ち込んだ風な声の私を勇気付けようと、言葉をかけてくれているのがわかった。
だが、圭一の言葉には何の裏付けもない。
それがわかっていると、こんなにも滑稽なものなのか。
「……村長さんに、……私、あの晩、祭具殿に忍び込んだこと……打ち明けたんです。…誰かにそれを見られてて、……私たちを狙っている人がいるって。」
「…村長さんは、鷹野さんたちがまともじゃない死に方をしたのを知ってるのか…?」
「………はい。…知っていました。……あの2人がオヤシロさまの祟りで死んだから、…私はその怒りを鎮める生贄にされるんじゃないか、って。…本当に率直に言いました。」
「………あぁ。…それで?」
「……公由のお爺ちゃん、…怒らなかった。……そして、にっこり笑って、詩音ちゃんがちゃんと反省してるなら、鬼隠しになんかなるものか、…って。…本当に……笑いながら……任せなさい…って………。……ぅぅ…ッ!!」
自分で口にしていて、少し悲しくなった。
あんなにも頼もしいと思っていた公由のおじいちゃん。
…そのおじいちゃんが、詩音を庇うと言ってくれた時、心の底から嬉しかった。…嬉しかった…。
……あの後に、……悟史くんを穢すようなことさえ言わなかったなら…!!
「…………………私のせいです。…私が、…打ち明けてしまったから……。」
「…よせよ詩音…。…詩音のせいじゃないよ。」
「いいえッ!! 私のせいなんです!! 私が…打ち明けてしまったから…! 公由のお爺ちゃんが…知ってしまったから…! だから……殺されてしまったに違いないんです!! だって、…打ち明けてすぐなんですよ?! 打ち明けて、…大丈夫って言ってくれたその晩に消えてしまった!!!」
それは不思議な感覚だった。
私は混乱などしていない。
だけれども、混乱を装い、公由の無事を祈るような言葉を口にする内に、そんな感情が同時に芽生えてくるのだ。
圭一を騙すために、激情を装っているだけなのに、その装いの感情が逆に溢れ返してきて、…むしろその感情に飲み込まれてしまうような感覚。
だから、自分の口から出る言葉は…私が意図して言っている言葉じゃない。
…私を飲み込んでしまった感情が言わせている言葉。
私は何も口にしていないのに、私じゃない誰かが勝手に喋ってしまっている感じ。
………私はそれを、少し離れた暗闇の中から、ただ見守っているだけだった…。
「話すんじゃなかったッ!!!
これは全部、…私たち4人の咎だったはず!! 他人に話してはいけないことだったんです!! 話したから殺されてしまった! 知ったから殺されてしまった!
打ち明けたから……
殺されてしまったッ!
「おい待てよ!! そんなヤツなら、…打ち明けた村長を殺す前に、お前からさきに殺すに決まってるじゃないか! 順番が違うよ!! 殺されるなら俺か詩音が先!! 他のヤツらが先に死んだりするものか!!!」
「順番はあります!! 私たちを、一番最後に殺すつもりに違いないんです!!」
「…は…? な、…なんだって?!」
「…ひと思いに殺さないで…、親しい人たちから順々に殺していって…、散々悲しい思いをさせた後に殺す、……そういう狙いに違いないんです!!」
……………自分で口にして、はっとするような、恐ろしいこと。
親しい人から順々に殺していって、悲しい思いをさせた後に殺す。
……うをおおをぉおぉおおぉ…、ぞくぞくする感覚が背中を登る。
……すごいすごい、すげえよそれ…。
やっぱり私はもう人間じゃないんだ鬼なんだ。
そんな残酷なこと、人間の身には思いつかないって…!!
これはすごいよ、この世の地獄だよ…、だって目の前で親しい人たちが次々と、それぞれが筆舌に尽くしがたい拷問で虐め殺されて。その挙句の果てに殺されちゃうんだよ…?
一個しかない命を虐め尽くすのに、これほどの方法があったなんて…!
しかもさ、この方法が何でゾクゾクするかってぇと、
…私ニハ、スグニ実行可能ナンダヨ、コレ!! くっくくくくくくく、くっくっくっく!!!
「…り、………梨花ちゃんッ!! 梨花ちゃんだッ!!!!」
「………え? ……今、何て言ったんですか…?!」
「お、…俺も……実は…、…う、…打ち明けたんだ。…梨花ちゃんに、……今日ッ!!」
「梨花ちゃんって、…梨花ちゃまのことですか? 古手神社の梨花ちゃま?」
「そうだよ、梨花ちゃんだよ!! ……俺も、…どうしようもなく不安で……打ち明けたんだ。…梨花ちゃんに。」
「………そうしたら、………梨花ちゃまはなんて…?」
「……猫さんの心配し過ぎなのです。ボクがきっと、何とかしてあげますですよ。
って梨花ちゃんはそう言って…!! ……ご、ごめん詩音! お、俺…俺、…ちょっと…梨花ちゃんのことが心配になっちゃって…!!」
「あ、はい! …そんなに心配でしたら、ぜひ電話を。安否を確認してみて下さい。」
「…あ、あぁ!! そうさせてもらう!」
「また明日も、このくらいの時間に連絡します。それを以て、私の安否確認として下さい。」
「…わかった。待ってる。じゃあな! すまん! 切るぞ!!」
圭一は乱暴に受話器を置いた。
「…………ぷ。…あっはっはっはっはっはっは!!!」
圭一との電話は面白い。
何から何まで笑える、実に愉快。
前原圭一。お前は心の赴くままに好きに足掻けばいい。
…村のあちこちを好きに駆け回り、祟りが起こらないかどうか試して回ってくれ。
私の仇がまだいないかどうか、私に代わって調べておくれ!
一通りケタケタ笑った後、思考を冷却化させる。
うちに乗り付けてきた梨花と沙都子の自転車や履物などはもう始末してある。
とりあえずうちは大丈夫。
…今後の考えられる展開は…、圭一が騒ぐ、誰かに相談する、…その辺りのどこかで魅音に相談が来るだろう。
それで昨夜同様、青年団で村中を捜すということになるだろうな。
………また今夜も深夜までか、見つからないと分かってる捜し物ほど堪えるものはないと知る。
なら、そう長い時間も経たない内に、連絡が来よう。
私はテレビでも見ながらのんびりと電話が来るまで時間をつぶしていた。
■深夜の捜索
「……圭ちゃん、本気で言ってんの? もし冗談だったら、かなり怒るよ?」
梨花失踪を疑う圭一に、私は不謹慎なことをたとえ思いつきでも喋るなと怒った。
「魅ぃちゃん。本当に冗談だったなら、怒るんじゃなく、笑おうよ。だって冗談なんだから。
……私たちはそれが冗談であることを確かめなくちゃいけない。」
「………そうだね。…機嫌の悪そうなことを言ってごめん。」
レナにたしなめられた。
…こいつは、一見穏やかそうな顔をしているくせに、…その薄皮の一枚下には、とてつもなく恐ろしいものを潜ませている。…根拠なんかないけど、そう思う。
どうもこいつには、あの雨の日の停留所以来、苦手意識があった。
嫌いとか馬が合わないとか、そういうのじゃない。
………なんて言うのか、……妥当な言葉が思いつかない。
……あぁ、…そうだ。この感覚はあれだ、思い出した。
昔、小さい頃、テニスに憧れてた。
それで、親戚にテニスコートに連れて行ってもらって、真似事をして、うまいうまい才能があると煽てられていい気分になった。
実際にはうまいも何も、ラケットで戯れただけで、子供のボール遊びと何も変わらないのだが、それでも私は才能があると褒められたのがすごい嬉しかったんだ。
それで、連休明けに登校して、自分はテニスができる、才能があると褒められたといい気になって自慢した。
………そしたらだ。普段取り立てて目立たない、何の特徴もなく、居ても居なくても大差のない子が、私もやってるよ…と名乗り出たのだ。
しかも、やってるよどころか、その子はちゃんとコーチがついて練習している本格派で、サーブはほとんど決まるようになったなんて威張ってる私なんかとは比べ物にならなかった。
その時の、周りの興味を瞬時に他人に奪われた寂しさと、自分の権威が辱められたあの気持ちに、……そっくりなのだ。
普段、存在の価値がないくせに、……実は、自分よりもよっぽど経験豊富な先輩だったと分かった時の居心地の悪さ。
そう、あの停留所のレナにはそれを感じるのだ。
今、私は自分を鬼だと思っている。
鬼ヶ淵村に住まった、半人半鬼の仙人たちの血を呼び覚ましたと信じている。
実際、真っ当な人間が踏み込めない世界に足を踏み入れている。
そして人間に考えられる限界の枠をすでに超えていることを知っている。
そんな自分を、一種の超越者だと思い、ある種の優越感を持っていたのは否めない。
なのに、…この竜宮レナという娘と目が合うと、………あのテニスの時のような感情を味わうのだ。
どうして……?
なんでこんな小娘に、私は屈服しそうになるのか…?
…そう言えば、動物の喧嘩って、睨み合ったり強さを誇示したりで決着することが多いって聞いたことがある。
優劣を殴り合わなくちゃ確かめられないのは人間ばかりで、ほとんどの動物は、睨み合うだけで互いの優劣を知るのだと言う。
じゃあつまり、………そういうことなのかッ……?!
「…魅ぃちゃん、大丈夫?」
「ん? あぁあぁ、ごめん…! ほらさ、昨日から寝不足で…、ごめん…。」
圭一はハシゴを立てかけ、あの二人の住居でもある倉庫小屋の二階の窓をうかがっていた。
私はそのハシゴを押さえている役。…ぼーっとしていたことをレナに注意され、はっと我に返った。
「魅ぃちゃん、私、念のため、本宅の方も見てくるね!
すぐ戻るから!」
「ぁ、…あぁ、ごめん。よろしく!」
レナは駆け出して行った。
見上げると、ハシゴの上で窓が開かないか試していた圭一は、どの窓にも施錠がされていることを確認し、途方に暮れているのが見えた。
「……本宅って何だ?」
圭一がハシゴの上から尋ねてくる。
「古手家の本当の家だよ。両親が亡くなって以来、ずっと放置してあるそうだけど。」
「………あ、…そうか。……梨花ちゃんのご両親って、…亡くなってるんだよな。」
「沙都子も親なしだよ。………オヤシロさまの祟りってことで、両親が崖から落っこちてね。……お兄さんだった悟史くんも……いなくなっちゃって…。」
「…悟史って、……前に聞いた名前だな。」
聞いた名前、だと…? 憤怒の感情が込み上げそうになる。
お前が学校で、好き放題に使い、弁当を食べ散らかして汚し、昼寝をしてよだれをこぼしているあの机が、本当は誰の席か知らないのか…?!
……何を熱くなるのか魅音。
…悟史くんは、その存在すらも消されてるじゃないか。
…祟りの連中のせいで。圭一が知らないのは無理もないこと。…別に圭一が悪いわけじゃない…。
「沙都子は梨花ちゃんと一緒にこの小屋で暮らしてるんだよ。互いに身寄りのないひとりぼっち同士。…助け合ってね。」
「……本宅って言ったか? そっちで暮らした方が楽だろうに…。」
「初めはそうしてたみたい。……でも、両親を思い出すから辛いって言って。」
沙都子はひとり残された後、…親友である梨花と暮らしている。
そうだ。…沙都子と梨花は親友同士なのだ。
北条家とか古手家とか関係なしに、もっと幼い頃から、ダム戦争の前からの親友だったという。
沙都子だけが祟りに遭わない理由。
それは、…古手梨花の力があったせいではないのか。
そうだ、そう考えるのが一番自然だ。
沙都子だけは、呪われた北条家の中で唯一免罪された存在だったのだ。古手梨花の取り計らいによって!
実際、沙都子は綿流しの夜に犠牲になっていない。
私が解明した祟りのシステムで考えると、北条家の最後の生き残りで、しかも御三家の腹中である雛見沢に住む沙都子は、今年の祟りのターゲットとしてこれ以上ない存在のはず。
だから、御三家に気を利かす人間たち「祟りの執行者たち」は、今年の綿流しの夜にその命を狙ったに違いないのだ。
だが、現に沙都子には何の祟りも訪れなかった。
これは、沙都子だけが祟りの手から逃れていることを示唆するものに他ならない。
…………本当に悔しかった。
古手家頭首とは言え、あんな小娘に過ぎない梨花に、親友を庇うだけの力があったのだ。
……代行とは言え、魅音…いや詩音か、詩音にだって、同じだけの力があったはずなんだ!!
梨花が沙都子を庇えたように、悟史だって庇えたはずなんだ!! ……くそくそくそ…………。
「…梨花ちゃんも…………沙都子も、……大変なんだな。」
「呪われてるんだよ。」
「……え?」
「…魅音、…お前、今、…何て言った?」
「呪われてるって言ったの。」
「……み、…魅音、お前………何てカオしてんだよ…?」
「北条沙都子はね。……オヤシロさまの祟りを一身に受けた、呪われた子なの。」
死の運命に飲み込まれた北条家の一人なのに、沙都子だけが免れていたなんて許せない…。
呪われた北条家の一員のくせに…!!
悟史くんは許してもらえなかったのに、…沙都子だけ許してもらえたなんて!!
呪われた身のくせに!! 悟史くんを差し置いてなんて…許せない許せない許せない…!!
そうだ、一番呪われるべきは沙都子なんだ!!
あいつが悟史くんを心身ともに追い詰めた!
追い詰めたからどんどん話がおかしくなって、それで全部が狂ってしまったんだ。
そう、全ての因果関係を辿れば、沙都子が一番許せないんだ!!
あいつが悟史くんを追い詰めたから、***********************************、その結果、悟史くんが消えてしまったんだ…!! あいつが発端、あいつが元凶!! あいつさえいなかったなら!! 古手梨花と沙都子が二人で仲良く住んでいたように、……あり得なかった私の幸福な未来があったかもしれない。私と悟史くんが、興宮でつつましやかに生活を再スタートさせる未来があったかもしれない!! そうさ、始まりと終わりを結びつければ火を見るより明らか! あいつの存在がいけないんだ。あいつがいたから、悟史くんは叔母を殺さなくてはならなくなって、それで、そこを御三家にうまく利用されて、祟りの片棒を担がされた挙句、消されてしまった…ッ!!!
警察は家出したんだって決め付けたけど、悟史くんは逃げ出すような人じゃなかった。
いつも一生懸命。
誰の力も借りずにこつこつと、一人懸命に努力する人だった。
たった1人の妹のために身を粉にして頑張ってたのに、消されてしまった。
沙都子のために、あんなにもがんばってたのに!
あの子のためにだけに生きていたのに消されてしまった。
可哀想な悟史くん。なんて報われない悟史くん。
なんて恩知らずなあの子なの。……あの子は呪われた子。
あの子に近付けば、それが誰でも末路は同じ。
祟りで死ぬか、祟りで消えるか。
そうさ、あいつこそが運命の元凶。あいつが古手梨花に取り入ったから、悟史くんに祟りが及んだんだ。あいつが先に祟りで死ねばよかったんだ。そうすれば悟史くんはまだ生きてた。生きててさえくれれば、私はどんな助けでもできたのに!!
許せない許せない、沙都子が許せない、あの子が許せない、あの子に安らぎなんてあるものか、あの子に安らぎなんてあるものか……。
アイツコソ、コノ昭和58年ノ祟リニ、一番相応シインジャナイカ。
オヤシロさまの祟り。…オヤシロさまの生まれ変わり、古手梨花。
そう、梨花は死んだ。
オヤシロさまの生まれ変わりは死んだのだ。
この雛見沢には今や、祟りを下す神はいないのだ。
それを決める資格は、……今や私にある!
我こそは鬼ヶ淵村御三家のひとつ、園崎家の頭首、園崎魅音!!
旧き御三家頭首たちが全て消えた今、私を超える正統な後継者はひとりもいない。
そう、オヤシロさまの祟りを下す資格は、今や私を差し置いて誰にもないのだッ!
私が祟りを下す。私が祟りになる。
私こそが、今やオヤシロさまそのものなのだ!!
体の奥底から、ごぼごぼと熱い泡がたぎって来る。
私の中の鬼が吠えたがっているのがわかった。
……気付けば圭一が、私を見下ろしていた。
落ち着け魅音。…私の胸中など、あんな鈍感男にわかるものか。…落ち着け落ち着け。
その時、大勢の足音が近付いてくるのが聞こえる。
レナを先頭に、4〜5人の大人たちが懐中電灯を手に駆けつけてくるのだった…。
その後、倉庫小屋の鍵が開けられ、みんなで中に踏み込む。
もちろん、何の気配もあろうはずがない。
沙都子と梨花は二人で住んでいた。
だから、梨花を訪ねる沙都子が、園崎家へ行ってきますなんてメモを残すとは思えない。
だが、そういう痕跡があったら面白くない。
私は先に飛び込んだレナを押しのけ、室内にそういう痕跡がないか探した。
梨花たちが失踪した噂が近隣を飛び交っているらしく、村人たちがどんどん神社に集まってきているようだった。
私は園崎家頭首代行として振る舞い、手分けして行方を捜すように指示を出した。
村人たちは私のてきぱきした指示にそれぞれ頷き、散っていく。
…久々に取り戻した魅音の感覚。
…私はじんわりと痺れるような愉悦を味わっていた……。
神社の境内には今や大勢の村人たちが慌しく出入りし、どこそこを捜したがいなかった、残るはどこそこだ、あそこは捜してないか、行こう行こうと、騒がしくしていた。
婦人部のご婦人方は、集会所の裏倉庫から大鍋やガスコンロ、ガスボンベなどを引っ張り出して炊出しの用意をしている。
そんな中、事態の重さに眩暈でも起こしたのか、圭一がふらふらと松林の暗がりの方へ行ってしまうのを、私は見ていた。
こんな夜に、ひとりになろうとするとは無用心なやつ。
……もしお前を狙う「祟りの執行者」が身近にいるなら、きっとただでは済まないぞ……。
「魅音ちゃん、御蛇ヶ池の方もぐるっと捜したけど全然だめだね。池の中も照らしたけど、明るくなんないとわかんないよ。」
「うん、ありがとうございます。婦人部の皆さんがお味噌汁を作ってくれてますので、召し上がって休んでください。」
「…魅音ちゃん、あの二人って自転車はどこに停めてたんか知ってるかい?」
「さぁ。多分、境内の階段の下じゃないかな。まさかあの階段を担いで上がったりはしないでしょ。」
「ないんだよね二人の自転車がさ。どこかに行っちゃったんだろうかねぇ…。」
「自転車で遊びに行ったなら、…遠くかも知れんなぁ…。町か…?」
「だとすると、雛見沢の中にはいないんかも知れんなぁ…?」
「そう言えば、梨花ちゃまがいなくなったってのは、誰が最初に気付いたんだ?」
「ん? あー、圭ちゃんだけど? 急に虫が報せたんだとか。」
「……前原屋敷のせがれさんか。んんん、なんやん怪しいなぁ。」
「そう言えば、前原家は来てないのか、この一大事の時に。」
「前原家は町会未加入だから、青年団の連絡網に入ってないんよ。」
「んなーー、すったらんしょおがなぁー。」
「あれ? 入ったろ町会。あー、あれさね、連絡網に名前が載ってないだけんと違う? 連絡網、新年に作ったきりやんね。途中から越して来たから載ってないん。」
「前原のせがれさんの、虫の報せってのがどうもなぁ。」
「第一発見者が一等怪しい言うやんね。」
「そのせがれはどこ行ったんかいね?」
「さっき松林の方にふらふら行くのを見たよ。誰か呼んでくる?」
そんなやり取りをしていると、松林の方から圭一とレナが戻ってくるのが見えた。
「…圭ちゃん、どこ行ってたんだよ。圭ちゃんまでいなくなったのかと心配したよ?」
「……………すまん…。」
圭一の身には、何も無しか。
無事ならそれでいい。
…私の復讐が全ての敵に下された証なのだから。
「…おんやおやおや…! おいしい匂いが漂ってくると思ったら。これはぜひご相伴に与かりたいですねぇ。」
野太い親父の、いやらしい声が聞こえてきた。
大石か。
…大石め、さすがに今年の事件は困惑しているに違いない。
これまでの慎ましやかな祟りとは格段に規模が違うのだから。
大石の情報網は、役員会の老人たちに準ずるくらいはある。
つまり、この村の暗部でまかり通ってる噂くらいならすでに耳にしているということだ。
だとしたら、公由失踪と梨花失踪を、祭具殿の鍵付け替えに伴うけじめ絡み…と読んできている頃だ。
……警察が私に至るのはそう遠くないだろう。
私は園崎魅音。
仇である御三家頭首たちを葬ることによって、奇しくも自らが頭首となってしまった。
私は、園崎魅音という存在を許してはいけない。
園崎家頭首などという存在を破壊しなくてはならない。
…自らの立場を破壊して初めて、私の復讐は全て終わる。
大石には、その最期を看取る大任を与えることになるだろう…。
大石と目が合う。
…大石め、とっくに私がホシだと当たりを付けているらしいな。
そうさ大正解。私が犯人だ。園崎家頭首、園崎魅音が犯人だ。……くっくっく!!
■幕間 TIPS入手
■ノートの195ページ(綿流し3日目終了時)
古手梨花。
古手家頭首だが、重要な会合に席を持ちながらも、多くの場合、出席していない。
出席しても、とくに発言が問われるわけでもないので、事実上、空席扱いを受けているポストだ。
古手家には、八代続けて第一子が女児ならば、その子はオヤシロさまの生まれ変わりであるとする言い伝えがあるらしく、鷹野さんの研究では、彼女がそれに当たる可能性が極めて高いという。
確かに宗教的なシンボルとしての彼女の求心力は異常なほど高く、オヤシロさま崇拝の妄信者であるほど彼女を神聖視している。
そんな宗教的象徴で、アイドル的な古手梨花が刺客だった事実は、あまりに衝撃的だ。
ありえない。
不自然すぎる。
刺客なんて真似事は下っ端がやることで、古手梨花のようなVIPがやることじゃない。
一番自然な想像は、…あれは古手梨花でなく、瓜二つな別の存在だったというもの。
あの刺客である彼女の動きは、相当の喧嘩慣れを感じた。
ずっと年上で体躯も全然違う私に、何の怯みもなく立ち向かうなんてこと自体、普通じゃ考えられない。
私がスタンガンを携帯していたから返り討ちにしただけであって。
もしスタンガンがなかったら、あの台所の立ち回りはどうなっていたかわからない。
そう。刺客は、見掛けよりずっと優秀だった。
古手梨花は、刺客としての訓練を受けていた??
それとも古手梨花の影武者がいて、それが刺客としてやってきた??
あの奇怪な注射器も含めて、謎だらけの存在。正体不明。理解不能。
存在自体が説明できない。…まるで、妖怪か何かのよう。
園崎お魎はこいつの「存在」を把握していたのか…?
この雛見沢という村には何が潜んでいるんだ。
私が底だと信じる雛見沢の暗部は、……私の想像を超えて深すぎる。
■ノートの196ページ(綿流し3日目終了時)
私の復讐劇は、この時点では、祟りシステムの破壊で成立すると考えられていた。
すなわち、システムの最上位者である御三家頭首3人と、頭首代行の詩音、この4人と、圭一に食いついてくる「執行者」の抹殺。
圭一はあれだけ無防備な生活を続けているにも関わらず、今日まで何の攻撃も受けていない。
私があれほど祭具殿侵入者の1人と喧伝したにも関わらずだ。
むしろ、古手梨花の襲撃を受けた私の方が攻撃を受けているくらい。
私が暴いたとおりなら、圭一という名の祭具殿侵犯者は非常に魅力的なエサのはず。
だがそのエサに誰も食いつかず、古手梨花とトラブルを起こした私の方が攻撃されている以上、“祭具殿を侵すことよりも、古手家と対立する方がタブー”という式が書けてしまう。
古手梨花は、祭具殿侵犯を大した罪だと思っていなかった。
圭一を見逃すつもりのようだった。
それを私が咎めたら、その日の夕方には「古手梨花」という刺客が襲ってきた。
勢力は、別系統で2派あるということ?
鷹野さんたち、祭具殿侵犯者を祟る「祟りシステム」と、古手家の教義による別系統での「祟りシステム」があるということ?
矛盾がある。
富竹さんの死に方は間違いなく古手家のあの注射によるもの。
梨花が自らその効能を示して見せた、「自ら首を掻き破る」注射によるもの。
でも古手家のシステムでは富竹さんは祟りの対象にはなっていない。
圭一がどうして襲われないのかもわからない。
鷹野さんと違って免罪される要因があるのか?
例えば北条沙都子だけが北条家の祟りから免罪されていたように?
確かに圭一も古手梨花の友人だ。
ということはつまり、…古手梨花の親しい人間は祟りの対象にならない?
古手梨花は「祟りシステム」より遥かに優先する上位者ということ??
そんなはずはない。
最上位者は鬼婆だ。その上に梨花がいたわけがない。
ぐしゃぐしゃぐしゃ
祟りの対象の定義が複数あるのか。
定義の数だけ祟りの執行機構があって、それぞれ独自に祟りを下しているのか。
ああもうめちゃくちゃだ。私の推理が噛み合わない。
私の推理がめちゃめちゃなら、私の復讐劇のターゲットにズレが生じる。
もはや、誰が仇なのか、どういう経緯で悟史くんが消されたのか、理解できない。
鬼婆は雛見沢の闇をどこまで知っていたのか。
初手のミスが痛すぎる。
あいつに今聞きたいことが山ほどある。
…それをショック死させてしまうとは…。痛恨の痛手だ。
私はどこかですでに、復讐劇に失敗している。
………雛見沢の闇は、深過ぎる。
ぐしゃぐしゃぐしゃ
(このページ全体がぐしゃぐしゃの斜線で消されている)
■綿流し3日目〜4日目
「よ。皆さん、まだ生きてる?」
公由は首輪に首を吊られ、天井を見上げたままぴくりとも動かない。死んだのかもしれない。
沙都子は十字架形の拘束台に縛り付けられ、泣き腫らして真っ赤に腫れた顔で私を睨みつけていた。
本当は両手に釘を打ち付ける拷問専用の拘束台に縛り付けたかったのだが、このチビにはサイズが合わなかったのだ。
私は公由に近付き、つま先で体を蹴って見る。……反応はなかった。
「公由のおじいちゃん、死んだ?」
「…………人殺し………人殺し…………!」
沙都子の様子から見るに、公由が痙攣して悶え死ぬ断末魔でも見届けたのかもしれない。
私は肉厚のナイフを壁から取ると、それで公由の腹部を突いてみた。まったく反応はない。
「公由のおじいちゃん? 生きてるなら正直に生きてるって言って下さいよ? 死体のふりして逃げ出そうなんて通用しないから。」
私は公由を釣り上げている滑車のところへ行く。
「最終通告。生きてる? 生きてるなら返事してねー。」
私は大して返事を待たず、ガリガリと重い滑車を全身の力を込めて巻き上げた。
やがて公由の体は宙に浮き、ゆらゆらと奇怪に揺れて。本当に死体らしくなった。
「どうしてこんなことをするんですの……詩音さん…!」
「ん? ………あぁ、なるほど。」
岩牢のある大空洞の扉は開けっ放しになっていた。
私がいなくなった後、岩牢のあいつと会話していたに違いない。
それで私の名を知ったか。今となってはその名も間違っているが。
「詩音じゃなくて、私が本当の魅音。あんたたちが魅音だと思ってた方が詩音。まぁややこしいだろうから理解しなくて結構。…くっくっく…。」
「……………よくも……みんなを……梨花を………!!」
梨花の死体は、こいつらの見ている前で処分した。
もちろん、喉のばっくり裂けたところも、ちゃんと内側まで見せてやったさ。
「古手梨花は自業自得。あいつは私を殺しに来たんだよ。返り討ちにしたのさ。」
「そんなことあるわけありませんわ!!! 梨花がそんなことするわけない!!」
「信じないならそれでもいいよ。あんたにゃどうでもいいことだし。」
「……私を、…どうするつもりなんですの………。」
「殺す。」
沙都子の目が開く、薄々は分かっていたくせに、驚愕の表情を浮かべるのだった。
まさか沙都子も、ここまで単刀直入に言われるとは思わなかったに違いない。
岩牢の方から、鉄格子をガシャガシャ言わせる音が聞こえてきた。
大空洞で残響しながらも、詩音の声がはっきりと聞こえてくる。
「やめてええぇえぇお姉!! 沙都子を殺さないでぇえぇぇ!!」
私はその場で大声で言い返す。
「あっはっはっはっはっは!!! 今頃、罪が分かったかい?! あんたはそれを悟史くんの時にしなかった!! だから悟史くんは虫けらのように殺されてしまったんだ!! あんたは悟史くんを救える百億の瞬間を見捨てた、見殺した!! そうさ、それがあんたの罪なのさッ!!!」
「……ッぎゃああッ!!!」
言い終わらない内に、私は手にしたナイフを沙都子の右腕の内側に力いっぱい刺し込んだ。
一心拍遅れてから、ぶくぶくと鮮血が溢れ出す。
……古手梨花のあのざまに比べたら地味なもんだった。
ぐりぐりと刃を捻じ込んでやると、沙都子が歯が欠けそうになるくらいに食いしばりながら、涙を零していた。
「やめてええぇえやめてええぇ!! 沙都子を殺さないで!! 許してあげて!! 私はどうなってもいいから…沙都子を許してあげて!!」
そいつをどうして悟史くんの時に言えなかったんだ!! もう遅い、遅すぎるんだよ!!! そうさ、今叫んでいるお前はあの時の私。どんなに叫んだって、届かない、救えない、助けられない!!
お前はそこで救えない苦しみを味わうがいい!!!
「…ぐうう!!
ふぎゃッ!!
…ッが!!」
ざくざくと力任せに何度も何度も、沙都子の右腕の肉を刺す。
骨に当たるばかりで、肉を刺すという手応えはあまり感じられなかった。
「やめて魅音、やめて姉さん…、やめてやめてやめて…!!!」
「よぉし詩音。じゃあこうしよう、沙都子の助け方を教えてあげよう。あんたはこれから1000回、ごめんなさいって言うんだよ。言い終わったら沙都子を解放する。どう?! 私は嘘をつかないよ、あんたが1000数えたら絶対に約束を守る。あんたがけじめをつけたってことをちゃんと理解してね。さぁ!! どうするの?!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ…、」
詩音はごめんなさいを壊れたカセットテープのように繰り返し始める。
こういう時のあいつは馬鹿で律儀だ。
数字を誤魔化すなんて考えにはならない。
本気で丁寧に1000数えるに違いない。
私は沙都子の手首の辺りに渾身の力で思い切りナイフをぶち込んだ。
ごりりという手応えがして、骨を砕いたか削ったかしたのだろう。
それは相当に痛かったらしい。
沙都子は絶叫した…。
その絶叫を掻き消そうと、詩音のごめんなさいごめんなさいの声が大きくなる…。
「ふわあああぁああぁああ、わあああぁああぁあああ!!!
わあああああああん!!!!」
「あっはっはっはっは! 泣くのはあんたの専売特許だね。泣けばにーにーが来てくれる? にーにーが駆けて来て私を跳ね飛ばしてあんたを助けてくれるのかな?!」
ぶち込んだ刃を、肘の方に向かって
……ぐぐぐぐぐぐぐっ!!!
「ぎぃああやああああおああぉおああがああが…、…ぎゃああああ!!!」
「沙都子、私の声が聞こえる? 聞いてる? 聞けよこらああッ!!!」
顔面に平手を何発もくれて、私の目を見させる。
「あんたは自分の罪が、わかってる? ……あんたの存在がどれほどに悟史くんを追い詰めていたか、知っている?」
「…にーにー……にーにー………。」
「そう、あんたはにーにーって泣けば良かった。泣きさえすればいつも悟史くんが庇ってくれた。でもね、悟史くんの負担ってものを考えたことがある? 悟史くんはね、あんたのヒーローでなければ、不死身でもない。あんたと同じにッ!!!」
「ぐぎゃあああぁあ……ッ!!!!」
「傷つけば血も流れ、痛めば呻く、まったく同じ人間なの!!
あんたの代わりに矢面に立ってくれた悟史くんの痛みを、あんたは理解していたの?!
してない!!
しようとさえしなかった!!!
あんたは悟史くんに甘えてた!! 悟史くんに寄生していた!! そうさ、悟史くんが傷ついて流すその血を舐めてお前は生きてきたのさッ!! そんな呪われた身でありながら、この期に及んでまだ悟史くんの名を呼ぶのかッ!! おああぁあぁ?!?!」
はぁ! はぁ! はあ!!
一息に腹の底の全てをぶちまけ、私は荒い息を漏らした。
「…はあ、…はぁ、はは、は! あんたはその罪を今から償うのさ。私の手によってね。好きなだけ泣き叫べばいい。そしていくら泣いても悟史くんが助けに来てくれないことを知るがいい。そう、お前が追い詰めた、お前がいなくした、お前が悟史くんを殺してしまったんだッ!!!」
「…………ッ、……………ふぐ…!! …………………………。」
「……どうしたよ。右腕はもう感覚がない? じゃあ左腕にするか。」
「………………ぎゅ、…………………かッ!! ……………。」
左腕にもいくつもナイフでばっくりと口が開けられ、ごぷごぷと鮮血が溢れ出ていた。
でも、沙都子の反応が面白くない。
さっきまでの泣き声や叫び声が急に減った。
なんだか急に不愉快になり、左の拳の甲に思いきり突き刺し、ぐりぐりとねじった。
にも関わらず、………沙都子は呻くだけ。…叫ばなかった。
「……どうしたの? 叫ぶと私を喜ばすと思って、せめて悲鳴を絞って抵抗ってわけ? くっくっくっく!! そりゃいいや、あっはっはっはっは!!!」
私の狂笑にも沙都子は動じず、……歯を食いしばった、覚悟の眼差しで私を見た。
「えぇ、……………私も、…そう思ってましたのよ。」
「…あん…?」
「私がにーにーを追い詰めたから、………いなくなってしまった。……にーにーがいなくなったその日に、……もう気付いてましたのよ……。」
「…………………。」
「……私が、…甘えていた。……にーにーのすねをかじり続けてしまった。………にーにーも辛かったはずなのに、…私はにーにーにすがることをやめられなかった。……その点につきましては、……あなたの言うとおりですわ。弁解の余地なんて、……ありませんでしてよ。」
沙都子の言い方は、嫌味めいてもいなければ、私の機嫌を取るような言い方でもない。……そんな、自然な言い方だった。
「………ちょっと、意外だね。あんたが自分の罪に、自覚があったとはね。」
「にーにーは、きっと帰って来てくれる。いつかきっと帰って来るんですの……。
でもね、…帰って来たら、私、もう一人前になっているところを見せるんですのよ…。私、もうにーにーに甘えない。背中に隠れたりしない。……しっかりした一人前になったことを、……教えてあげるんですの…。」
「ははは、…はははは!! 帰って来たらいいね、帰って来たら!!!」
私は狂乱しながら沙都子の腕を滅多刺しにする。
だが沙都子は悲鳴を無様にあげたりしなかった。
歯を食いしばり、飲み込んで見せた。
「にーにーは…きっと帰って来てくれますの。絶対に絶対に、帰って来てくれますの…!! それまで待ってるんですのよ!! そしてにーにーに、今まで甘えてきて本当にごめんなさいって謝るんですの…。それまで、…負けるものか……負けるものか…!! もう私は絶対ににーにーに甘えたりしないの!! どんな苦難にもにーにーの助けを呼ばない!! 呼ばない、泣かない、叫ばない!! 泣いたらにーにーが来てしまう。だから私はひとりで耐えてみせるんですのよ!!!」
「じょ、……上等抜かすな小娘がああぁあ!!!」
「私を刺して楽しいならいくらでもお楽しみあそばせッ!!! でもね、それで私がにーにーに助けを求めたりするのを期待しているんでしたら、お気の毒ですわね。私は泣かないんだから、絶対、絶対、絶対にッ!!! 疑うなら好きなだけ試してみろ!!! にーにーは見ててくれる、私が本当に我慢強くなって一人前になったことを見ててくれる。私が泣き虫じゃなくなったことを見ていてくれる!!! それをにーにーが見届けてくれた時、きっとにーにーは帰って来てくれるんですのよッ!!! さぁいくらでも試してみろ!! 私は泣かない、涙も見せない!!! 北条沙都子がどれほどの強さを持つか、試してみろおおぉおおぉお!!!」
くそ、くそ、くそ…!!!
こいつの減らず口を痛みと呻きで塗り潰してやる!!
これでもか、これでもか、これでもか!!
「にーにー見てますわよね、見ててくれますわよね。…沙都子はこんなにも我慢強くなったんですのよ…。もう何が起こってもへこたれませんの……。こんなこと、この程度で、こんなくらいで、…私は泣かない、助けを呼ばない。堪えられる、堪えてみせる。にーにーが私に代わって傷ついてくれた痛みには、こんなの遥かに及ばないんだからッ!!」
くそくそくそくそッ!!!
こいつ、どうして痛みを感じないんだ、それともこんなんじゃ痛みなんてないのか?!
嘘だ嘘嘘!! こんなにぐりぐり押し込んでるんだぞ?!
血がぶくぶく出て、肉を裂いて中身を外側にめくり返してやって!!
それでもどうして減らず口が叩けるんだ、どうしてこいつは泣いたり叫んだりしないんだッ!!!
沙都子は言いたいことを全て言い尽くすと、ぐっと口を食いしばり、あとはもう何も言わなかった。
私がどんなに刃を突き立て、捻り込み、裂き、引きずり出そうと、もはや歯軋りすら聞かそうとはしなかった。
こいつは一体何なんだ、私の知っている沙都子じゃない、こんな強いヤツは知らない。
……こんなにも強い沙都子だったなら、悟史くんの負担にはならなかった。
どうしてこの強さがかつてなかったのか。
遅い遅い、全てが遅すぎる、
この馬鹿の達観が、あまりに遅すぎる…ッ!!
血糊で手が滑り、私は突き刺した拍子にナイフを落としてしまった。
「はあ、はあ! はぁ! はあ! …はあ! はあ!! …………はあ!」
私の全身は、張り付くような返り血とべたつく汗で穢れきっていた。
沙都子はなおも苦痛を噛み殺してみせていた。
見ているこっちが狂いそうになるくらいの、酷い仕打ちを受けてなお、自らの強靭さを誇示するように…。
私は、沙都子に勝てなかった。
こいつの強さを、挫けなかった。
沙都子は…成ったのだ。
…悟史くんに甘えない一人前というものに。
悟史くんが帰って来てくれる日をずっと信じて待っていた。
いつの日か帰る兄に、逞しくなった自分の姿を見せようと、今日まで自らを、心を、鍛えてきた。
それを確かめたのは、悟史くんではなく、………悟史くんが帰って来るなんて欠片ほども思わず、……その帰りを待とうなんて全然思わない、私だった。
私は、なんだったんだろう。
悟史くんが死んだんだと思った。死んだんだと、決め付けた。
どうして決め付けたのか…?
……待つ気が、なかったから。
悟史くんの帰りを信じなかった。
待たなかった。
……悟史くんの仇討ちなんて真似をして、……それは結局、悟史くんを忘れようとする行為みたいなもの。
…でも沙都子は違った。
死んでいるなんて思わなかった。
いや、少しは思ったかもしれない。
でも、待っていた。
いつか帰って来る悟史くんに、生まれ変わった自分を見せたいと思って、ずっとずっと、…待っていた。
私は?!
何もしなかった。
悲しみを紛らわすために敵が欲しかっただけ。
悟史くんの仇討ちという大義名分で鬼となり、人としての心を忘れたかっただけ。
私は、負けた。
悟史くんを待つ痛みに耐え切れず、負けて、人としての心を捨てる道を選んだ。
それはつまり、悟史くんが好きだった心をも捨てたのと同じことなわけで。
…そう、悟史くんを捨てたのと何も変わらない。
沙都子は、勝った。
ずっと食いしばっていただろう口は、力を抜き、楽そうにしていた。
半分閉じた目蓋から、薄く目が覗いている。
その目はまるで、楽しい夢を見ながらまどろむかのよう。
その瞳の中には、……確かに悟史くんがいた。
沙都子は、………悟史くんの迎えまで、………がんばったんだ。
悟史くんのところへ、沙都子が駆け寄る。
そして、悟史くんの胸に、飛びついた。
悟史くんは…それをぐっと抱きしめて。…くるくると回っていた。
もう泣いてもいいんだよ。
……悟史くんがそっと言うと、沙都子は顔をくしゃくしゃにして…号泣した。
悟史くんは、泣きじゃくってしがみ付く沙都子の頭を、やさしく…やさしく、撫でていて。
……これからは、いつまでも一緒だよって。…やさしく、…やさしく。
悟史くん………、私も……待ってたんだよ……。
何て上滑りな言葉…。
私の心の中の悟史くんはとっくに自ら殺していて。
…再会なんて、一欠片も信じていなかったくせに。
……沙都子だけが、悟史くんに再会できたのを見て、……今頃そんなむしのいいことを言うなんて………!
沙都子を抱き続ける悟史くんと、目が合った。
詩音。
悟史くんが言った。
………僕は、君にお願いしたことがあったはずだよ。
え、…お願い……?
私は必死に思い返す。
私が悟史くんに頼まれたことなんてあったろうか……。
悟史くんは、私がその大切な約束を忘れてしまっていることを、…とても悲しそうに見守っていた…。
……その悟史くんの寂しい笑顔は、どんな刃よりも鋭く私の胸を裂いていく。
そこから流れ出る血は、…沙都子が見せたような綺麗な色ではなく、まるで嘔吐物のように汚らしい食べ残しのカスのようなものが混じった…どろどろの液体。
…これが私の内を満たすものの正体だった。
「…祟りだろうと、この村の何者かの陰謀だろうと。…僕は絶対に消えない、消されない。」
「き、消えないよ、悟史くんは…。」
「消えないよ。……沙都子にあのぬいぐるみを買ってやるまではね。もうすぐお給料がもらえることになってる。その日までは絶対に消えない。」
……あれ?
これは…いつの思い出……?
…そうだ。これは、去年の綿流しの前の日に、悟史くんからもらった電話。
「…………あ、……叔母さんが帰ってきたら、もう切るよ。」
「あ、……ぅん…。」
「……魅音。」
「…何?」
叔母が帰ってきて、一刻も早く受話器を置きたいだろうに。
…悟史くんは一呼吸置いて、一番大事な一言を告げるように言った。
沙都子のこと、…………頼むからね。
膝や肘が、がくがくとする。
奥歯ががちがちとぶつかり合い、指先はぶるぶると震えた。
私、…………悟史くんに、……頼まれてるじゃないか……。わ、……わああぁああぁぁぁ……、ああぁあぁ、……わああぁあぁぁぁぁぁぁぁ………
私は……何なの……。
悟史くんの帰りを待てず、心の中を鬼で満たして好き放題にした。
悟史くんの帰りを信じず、…私を頼ってくれた悟史くんの、……最期の、たったひとつの頼みさえ、……忘れてる。
そんな私が、どうして悟史くんを愛してるなんて言えるんだろう…?
悟史くんを失った悲しみを癒すために、返り血に塗れた私が、こんな姿でどうやって彼を、お帰りって…迎えられるんだろう?
悟史くんが帰って来ると信じなかった。
悟史くんが生きていると信じなかった。
生きていると思わないから、死んでいると思った。
そう、悟史くんの死を、信じた。
悟史くんを、胸の中で、殺した。
他の誰でもない、…私が殺した。
でも沙都子は、最期まで信じていた。
そして、……その心は最期の瞬間に報われた。
沙都子は、もうここにはいない。
痛むだけの血塗れの骸なんて、もう必要なかったから。
私は、まだここにいる。
穢れきった血塗れの肉に閉じ込められて。この肉の牢の中で、朽ちていく。
悟史くんは、…沙都子も待っていてくれたし、私も待っていてくれた。
でも、悟史くんに再会するには、私たちは約束を守って見せなければならなかった。
沙都子は、…強くなること。
沙都子は約束を最期まで果たした。
…そして悟史くんは、その胸で沙都子を抱きしめてくれた。
私は、…悟史くんに代わって、沙都子の面倒を見ること。
私は、最初から約束をまるで果たさなかった。
だから、…悟史くんは…私を迎えてはくれない。
今さら、こうやって沙都子の傷を撫でて、……痛くない…? なんて声をかけたって、何の意味もない。
その時。…………私は自分の後ろに、居るのを感じた。
無表情に立ち尽くすそれは、悟史くんでもなければ、時に私を怖がらせた薄気味悪い存在でもなかった。
何者かは知らないけれど。
………ただただ黙って、…私の過ちを無言で責めていた。
…そう。…やっと気付く。それは、……私。
私は、私のずっと後ろで、自らの手で約束を破るのをずっと見ていた。
沙都子を頼むと、…悟史くんに託されたのに、その約束を自ら破り捨てるところを、ずっと見守っていた。
………その私は、涙し、……この私さえも、見限った…。
待ってよ、……悟史くんに見限られ、………自分自身にまで見限られたら、………私はどうなるの…?
こんな暗いところは嫌…、こんな血塗れの汚らわしいところは嫌…。
私だけを置いて行かないで……。
私自身に捨てられたなら、私の肉体は、…どうなるの……?
もう何も、……残らない……!!!
残ってるのは、心の底に満ちたどろどろの鬼だけ!
あぁ……なんだ、私。
……自分でも知ってたじゃないかよ。…もう、…鬼だ、って。
「わはは、はははははははははははは…はっはっはっはっはっはっは!!!」
鬼なら悲しいなんて心はない。
鬼の心は痛まない。
鬼は、涙なんか流さなくていいんだ……!
詩音のまぬけはなおも律儀に、ごめんなさいごめんなさいを繰り返していた。
…沙都子を救うことができる、自分にとっての唯一の方法だと信じて。黙々と。
声はすっかり嗄れかけ、声は小さくなっていた。
「詩音んんん!!! もう数えなくていいよ、ご苦労さん。」
「………ぅわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………。」
それが沙都子の死を意味するものだと悟ったのだろう。岩牢から詩音が泣く声が聞こえた。
「あっはっはっはっはっはっは!!! 鬼ってのも悪くないねぇ!! 人が泣いたり、叫んだりするのを見るのがこんなにも楽しいものだなんて知らなかったよ。私も人の世ってやつを充分に楽しませてもらったからね。……その内、自らの命を絶って、鬼の国へ帰らせてもらうよ。でも安心しな。その前にちゃんとあんたは殺して行く。あんたを殺すために今があるんだもの、私はそのためにいる。人を嘆かせて泣き声をすするのが私の、鬼の愉悦だもんね!
………そうだ、あんたは圭ちゃんが好きだったね。よし、あんたの前で圭ちゃんを引き裂いてあげるよ!! これは極め付けだね!! その後にあんたを殺し、私も殺そう。そうさ、鬼ヶ淵村は鬼の村!! かつて鬼ヶ淵より湧き出した鬼が村を襲った伝承のある村!! 私もまた伝承の鬼たちのように猛威を振るい、そしてオヤシロさまの裁きを待とう。それでこそ、雛見沢村に相応しい災禍と言えるだろうね!!! あははははあっはははははははははははははは!!!」
■圭一への電話
「あ、圭ちゃんですか? 私です。詩音です。」
「電話、なかなか出なかったんで、お留守かと思って切ろうとしてたんですよ。」
「あ、…あぁ、ごめん…。ちょっとその…お風呂に入っててさ。」
「…それでもご家族の方が電話を取りませんか? ひょっとして……圭ちゃんの家、今、ご両親はお留守なんですか?」
「いや別に…留守ってわけじゃ……、そ、そそ、そんな事より!! 聞いたか?! 梨花ちゃんと沙都子の件。」
「いえ。…結局、あの後、どうなったんですか? 見つかったんですか?」
「…………………あぁ。…見つからなかった。」
「……圭ちゃん、どうか気を落とさないで…。」
「………………梨花ちゃんと沙都子は、………さらわれたんだよな…。」
「……はい。それは間違いないでしょうね…。」
「……………梨花ちゃんと、沙都子は、……あ、いや…ッ、えぇと……、あ、ごめん。…その………村長さんは、…さらわれて…どうなったと思う…? まだ……生きてるんだろうか…?」
圭一の言い方には迷いがあった。
沙都子と梨花が生きていると信じたくて、遠回しに聞いているのがわかった。
………圭一も、沙都子と同じだ。
さらわれたら身代金でも取るんじゃい限りすぐに殺すのが当り前。
私だったら生きてるなんて夢にも思わない。
…だけど圭一は、その恐ろしい想像をぐっとこらえ、わずかでも生きている望みに賭けようとしていた。
そんな目立たない心の強さが、今の私には痛いくらいによくわかる。
…そして、その強さが、私より遥かに強いことも。
…もう私は、鬼だから。……言い訳なんか、しない。
「殺されちゃったんだと思います。」
「………お、………おいおい、………そんなにあっさり……。」
「…人間をさらって、その状態を維持するのってとても大変なことだと思います。…人質にするんでもない限り、用が済んだら殺しちゃうのが一番合理的じゃないかと。」
「こ、ここ、殺しちゃうって、…そんなにあっさり…。ひ、人の命を何だと思ってやがるんだ…ッ?!?!」
「………恐ろしいことだとは思いますが。…多分、そうではないかと。」
「村長が殺されたということは…、梨花ちゃんや沙都子も……同じ様に殺されたかもしれないということなのか…?!?! …い、…いや、…そんなはずは……、どっかのジジイとはわけが違うぞ?! 梨花ちゃんだぞ?! 沙都子だぞ?! そ…そんなにあっさりと……殺すはずは………!」
私の口から、殺したという直接的な言葉を聞かされても、なお圭一は抗った。
胸の内の友人たちを殺すまいと、必死に戦った。
……私は戦わなかった。
あっさりと殺した。
悟史くんを庇わなかったと詩音を責めたくせに、…私自身、悟史くんをあっさり殺していたのだ。
「梨花ちゃんと沙都子ちゃんも、…同じだと思ったほうがいいでしょうね。」
「うわああぁああぁああぁあぁぁああぁああぁあぁああぁああああぁあああぁああぁああぁああぁあああぁああぁああぁあぁああぁぁああぁああぁああぁあぁああぁあああぁああぁあぁああぁああ…ッ!!!!」
圭一は、……吠えた。…泣いた。
それは、圭一の胸の内の、沙都子と梨花の断末魔と同じだった。
「どうしてだよ?! どうして……人をさらったり、殺したりするんだよッ?!?! 祟りだか何だか知らないが、人の命ってのはそんなに安いのかよ?! あっさり消したり殺したり!!」
「………えぇ。…まったくです。…悪魔ですよね…。」
ははははは…。
自嘲する。受話器の向こうには、届くまい。
「なぁ詩音。…教えてくれ。…どうしてこの雛見沢では、綿流しの夜に人が死ななければならないことになってしまったんだ?」
「………それは私が知りたいです。」
「もうダム計画との戦いは終わったんだぞ?! なのに…どうしてまだ祟り足りないんだ?! どうしてだよ、どうしてッ!!! 理由があるなら言ってみろよ!!!」
「……圭ちゃんの気持ち、私もよくわかります。…ダム闘争はとっくの昔に終わったんです。
なのに毎年、オヤシロさまの祟りと言う名の殺人と失踪が繰り返されている。……なぜ?! どうしてなんですか?! 全然関係ない人もいた、祟られるのに不相応な人だっていたのに、どうして? …どうしてッ?!?!」
「それを俺が聞いてるんだぁあああぁーーッ!!!!」
「それを私だって知りたいんですよぉおおぉおおぉッ!!!!!」
そう。オヤシロさまの祟りなんて最初からない。
オヤシロさまの祟りという大義名分で、殺人をしても許されるという奇怪な土壌があっただけ。
でもそんなのは土壌に過ぎない。
その上で踊ろうとする鬼がいない限り、何の意味もないのだ。
「いいですか。…オヤシロさまの祟りなんて非現実的なものは初めから存在しません。圭ちゃんの言うとおり、村の何者かが、オヤシロさまの祟りというもっともらしい大義名分を利用して、綿流しの度に殺しと失踪を繰り返しているんです!!! …ヤツらは狡猾でした。祟りを都合よく利用して、村の仇敵を毎年2人ずつ消し去るシステムを構築していったんです。…そしてこのシステムで、今年は鷹野さんたちが殺された!!」
「じゃあ2人で充分じゃねぇかよ!! どうして村長や梨花ちゃんや沙都子まで殺されなくちゃならないんだよッ!! それに俺は過去のことは今さらどうでもいいんだ!! 梨花ちゃんと沙都子がなぜ殺されなくちゃならなかったのか、その一点にしか興味はないんだ!! どうしてなんだ?! 沙都子には打ち明けてすらないんだぞ?!?! どうして沙都子まで……。どうしてなんだぁああぁあぁあぁあ?!?!」
それは、圭一の口を借りた、悟史くんの叫びだった。
私は何を言い返せばいい……?
何も言い返せない。
ただ黙って、その言葉の刃を胸で受けるのみだ。
「…………圭ちゃん、………もう……いじめないで下さい……。……ぅっく…。……………私だって何が何だかわからないんです…。祭具殿に忍び込んだあの晩から……全てが変わってしまった……。」
「………………………………。」
「…………あの晩、…鷹野さんたちが死んだと聞き、耳を疑いました。……そして……すぐに気付いたんです。……今度は、……自分が狙われる立場になったんだ、って……。
忍び込んだのは私たち4人。…私と圭ちゃんだけが都合よく許してもらえるわけがない…。…そう思った時、それがどれだけ心細くて……恐ろしいことだったか、…圭ちゃんにはわかりますよね……?
………だから私、……公由のお爺ちゃんに打ち明けたんです…。……公由のお爺ちゃん、…怒らなかった。……そして、にっこり笑って、詩音ちゃんがちゃんと反省してるなら、鬼隠しになんかなるものか、…って。…本当に……笑いながら……任せなさい…って………。……ぅぅ…ッ!!」
公由のおじいちゃんの、あの悟史くんを貶す言葉が蘇る…。
私も殺したけど、雛見沢も殺した、みんなで寄ってたかって、悟史くんを殺したんだ。
私だけが悪いわけじゃない、私だけが悪いわけじゃない…!
「…………………いつ、……村長に打ち明けたんだよ…。」
「……ぅっく……、……え……?」
「…………ごめんな、…詩音。……悲しい気持ちのところに追い討ちをかけるようで。……詩音は、…打ち明けたんだよな。公由のお爺ちゃん、つまり村長に。」
「……はい……。…………ひっく……………。」
「…………いつ、…打ち明けたんだよ。」
「……………え…、」
圭一の口調が、いつの間にか鋭利になっていた。
それは残酷な鋭さだけど、断罪に相応しい鋭さだった。
切れ味が悪くて無駄な痛みを与える鈍らじゃない。…すっぱりと心地よい、そんな鋭さ。
「…村長さんは重い痔を患ってて、病院にかかっていたという話は知ってるか…?」
「……………あの、…………圭ちゃん…? ……それが…何か…?」
「……答えてくれ。知らないなら知らないと答えればいい。」
「…………痔だったのは、…知ってます…。……座る時とか、辛そうでしたから…。」
「病院に通ってたんだ。…どこの病院かは知ってるよな?」
「…………………………………………ごめんなさい、それはちょっと知りませんけど…。……でも、圭ちゃん、……それが一体、何の……、」
「………単刀直入に聞きたいんだ。…詩音は、……いつ、村長に打ち明けたんだ。どこで、いつ。……大雑把でいいから、…教えて欲しいんだ。」
「………………………………圭ちゃん…、…何でそんなことを……。……ぅっく…。」
…見事だよ、前原圭一。…見抜いたか、私を。
「…ありえないんだよ。…村長が失踪した日。朝から消えるまで。……詩音には接触できる機会はありえないんだ。」
「……………………………ぇ、……そ…、………そんな……、」
「村長は朝一で、誰にも内緒の大学病院へひとりで診察に出掛けた。…詩音は今、この病院を知らないと言った。…だから帰ってくるまで、村長と接触することはできないはずだ。……そうだろ…。」
「…………………………ぅっく……、」
「帰りの電車が事故で遅れたので、自宅に帰ってきたのは会合の始まる直前だった。
…つまり、会合が始まるまでの時間にも打ち明ける時間的余裕はないんだ。…詩音も一緒に会合に出たのか……?
そして会合の席上で、…打ち明けたのか…? ここで打ち明けなきゃ……もう時間がないもんな。……会合が終わった後、村長は帰宅途中で失踪するんだから。」
「……………えっと、………実は会合に出…、」
「あの日、詩音が行くと言ったバイトすら、君は欠勤してるんだ。……もっと端的に言おう。……君は、…俺と一緒に行った図書館以降、誰にも目撃されていない。」
「…………………………圭ちゃん、………あの、………、」
「……園崎詩音は……。……綿流しの翌日に、失踪したんだ。」
あははははは……、ビンゴだよ、圭ちゃん。…少し、見直したよ。
「…大石さんは君がすでに失踪していると言っているんだ。…でも、…詩音はこうして毎晩、俺に電話をかけてきてくれただろ…? ………頼む詩音。……俺が言ったことが間違ってるなら、…そうだと言ってくれ。詩音、頼むから……。」
もっと、…私を追い詰めて。
私の中の鬼が、どんなにみすぼらしく言い訳しようと、逃れられないくらいに、追い詰めて。
「………ぅっく、……っく……っく……、」
「詩音、お前は村長に会ってなんかないんだ。…もし会ったとしたなら……、」
……もし、詩音に村長と会う機会が、…あの日、あるとしたらそれは…、
「村長が会合を終えた後。…すなわち! …失踪する直前、もしくは…失踪してからしかありえないんだッ!!!!」
「……っく、……っく、……。…
くけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」ガシャン!!
私は奇声をあげて笑いながら、受話器を叩きつけていた。
上出来だよ圭ちゃん!!
そうさ私さ、私が全ての犯人さ!
早く、私を追い詰めて。早く、私を、………解放して。
あははははは、あっはっはっはっはっは…!
圭一は、警察に言うかな、自分で来るかな。どっちだろうね…。
警察だったら、…まぁ足掻けるとこまで足掻いてみるさ。
鬼一匹の捕物をどの程度でやってみせるか、大石の腕前を拝見だね。
もし圭ちゃんが単身で来たら。
……そりゃあ無用心だよなぁ。食い殺されたって文句は言えない。
私はむしろ食い殺すつもり。詩音の前に引きずり出して、酷い殺し方をしてやるつもり。
だから圭ちゃんも、……私に容赦なんかしないでね。
ちょっと面白いやつ程度にしか思ってなかった君に、ここまでの期待をすることになるなんて、……思わなかったな…。
■アイキャッチ
■最後の日
迎えは、遅かった。
結局、次の朝まで待たなければならなかった。
私は呼び出しのブザーの相手を、カメラで確かめもせず、門を開けた。
別に相手が誰でもいいと思ったから。
警察なら、どうぞご勝手に。
圭ちゃんなら、あはは…私と戦えるかな?
そこにいたのは、圭一と、レナの二人だった。
「…こんな時間に珍しいね。…2人とも学校は?」
「……学校は、…休んだよ。」
「…ふぅん。……圭ちゃんはともかく、レナも? …二人とも不良なんだからなぁ。」
私は軽く笑って答える。
「…………立ち話もなんでしょ。入りなよ。」
レナのオマケが付くとは思わなかった。
……ま、警察か圭ちゃんかという二つしかない予想を楽しい意味で裏切ってくれてよかったかもしれない。
私は言葉巧みに、圭ちゃんを地下祭具殿に誘おうとする。
……レナ、あんたはそれを見抜いて阻止してごらん。
圭ちゃんもね。私が詩音だと見抜いたなら、さらにその先も見抜いてごらん。
私は鬼らしく、鬼の役を全うするよ。
最後まで見っとも無く、足掻いて足掻いて見せる。
だからあんたたちもどうか、手加減しないで。
私みたいな汚らわしい鬼を殺すのに、どうか躊躇をしないで。
「………………魅音。……まず、……………謝ることがある。」
「……………圭ちゃんが? …何を。」
「……あの、綿流しの晩。………俺は、神社の…祭具殿に、…入ったんだ。」
「……………………………。」
出だしはいきなり、謝罪からだった。
祭具殿に入った罪を、自ら認めたか。
……潔いことにしてやるか。
今の私には別に、祭具殿の不可侵性なんてどうでもいい。
あそこを聖域だなんて思ってるやつらのたわ言だ。
「……魅音。…一昨日、梨花ちゃんと沙都子を呼んだろ。」
「…………………………………………覚えはないけど。そう思うに足る根拠があるなら聞かせてもらえる…?」
「夕方過ぎのお夕食前の時間。…梨花ちゃんが来たはずだよ。お醤油の大瓶を持って。お裾分けしてもらいに。」
レナの言い方には淀みはまったくなかった。
私の出方を窺うような様子もない。ただ真実だけを伝えるような強さがあるだけ。
…その鋭利さはとても心地よかった。
「……………………どうしてそう思う?」
「…そんなに難しい話じゃない。魅ぃちゃんも見たでしょ。梨花ちゃんの部屋。」
「うん? ………んんん。」
「……冷やっこがあるのにお醤油がなかった。そして流しの下にあるはずの醤油の大瓶も、瓶ごとなかった。」
「………あははははは。何それ。それが私のとこへ来る理由になるわけ?」
レナはなかなかどうして頭の回るヤツだった。
私が何とかボロを出そうと重箱の隅を突っ突くのだが、彼女の自信にはわずかの揺るぎもなかった。
私はみるみる追い詰められていく。
…気持ちがいいくらいに。
どうだ、鬼め。ここまで完璧に推理されちゃあ、言い逃れなんかできないぞ。
「………長くなるから説明は省くけど、……冷蔵庫の中身が、…魅ぃちゃんの呼び出した話の内容まで、如実に物語っちゃってるの。」
決まった。勝負ありだ。
レナ。やっぱり、あんたに持ってた苦手意識は的中したね。
…あんたは大したキレ者だよ。
…詩音は鈍感だから、レナのこんな一面は想像も付かないんだろうけど。
「………………………………これは、……あははははは。…とんだ名探偵が身近にいたもんだよ。…まさか、冷蔵庫の中身だけで……電話の内容まで見破るとは…。………あははははははは。…参ったな。……参った参った、あっははははははははははははは!!!」
…堰が切れたように、…私は笑い転げた。
それはとても楽しくて愉快な笑いだった。
腹の底にたまった毒気が抜けていくような解放感、爽快感だった。
「……魅音。………警察はもうとっくにお前を疑ってるんだ。…この家も、大石さんの部下が踏み込もうと今も様子を窺ってる。」
圭ちゃんが凄む。抵抗も逃走も無駄、だから諦めて降伏しろってわけだ。
ちょいと迫力不足だなぁ圭ちゃん。
そこでは私の胸倉を掴みあげて、張り倒すくらいやってもよかったと思うよ?
私は今日は、締め殺されるくらいの覚悟はあるんだから…。
その後の彼らはぬるかった。
魅音がどうして凶行に及んだのか、その理由を知りたがったからだ。
……あんたたちはこの期に及んでなんて生ぬるい。
私は鬼なんだよ? 人殺しだよ?
動機が納得できるなら、人殺しが容認できるとでも言うのかい?
鬼は鬼。
人殺しは人殺し。
殺す動機が快楽であろうと、生きるためであろうと、復讐のためであろうと、…なぁんにも変わらないの。
そんな下らない話なんか聞かないで、さっさと私を組み伏せて、警察へ突き出したらいいのに。
だからほら。…あんたらを煙に巻いて誤魔化そうと、鬼が首をもたげてきた…。
「……初めてご挨拶申し上げます。…園崎本家頭首後継ぎ。…魅音でございます。…本日はようこそ園崎本家においで下さいました。頭首、お魎に代わりまして、皆さまにご挨拶申し上げます…。…皆さまに於かれましては、いろいろお尋ねになりたいことがおありの様子…。私にお話しできることでしたら、包み隠さずお話ししたいと存じます…。」
私は、かつて鷹野さんから教えてもらった鬼ヶ淵村から雛見沢村に至る数奇な歴史を、鷹野さんがしてくれたように、面白おかしく話して聞かせた。
真実5のでたらめ3、嘘2くらいの滅茶苦茶な配合で、とにかく適当な話をでっち上げた。
彼らの望むだろう、親友が凶行に走るのもやむを得ない理由というやつをでっち上げてやった。
陰鬱な宿命に飲み込まれた鬼ヶ淵村の歴史の話に、圭一たちはすっかり飲み込まれているようだった。
………やれやれ。…まぁ無理もないか。
面白い話だから、聞いていて退屈はしまい。
でもね、二人とも。
事件は現代に起こって、今の時代に私と言う個人が犯したんだよ?
昔話なんか聞いて何になるの?
そんな下らない話で親友の罪を丸めて、飲み込みやすくしようとしているわけ?
そんなのはあんたたちの自己満足なんだよ。
私は鬼。人殺し。犯罪者。
昔話なんて、なぁんにも関係ないんだから。
それでも懸命に耳を傾ける二人が可笑しくて、私は人肉缶詰の話から戦時中の残酷な研究の話……、要するに鷹野さんが好きで、私に特に熱っぽく聞かせてくれた辺りをねっちりと聞かせてやった。
…おいおい二人とも。
さすがにそろそろ気付けよ。
私、とっくに全然関係ない話をしてるって。
…そんな神妙そうな顔をしちゃって。…………ばぁか。
「……雛見沢村を、再び鬼ヶ淵村のように。崇められるに足る神聖な存在に。…それが我ら鬼ヶ淵村の末裔の悲願であり、…園崎本家の「鬼」を継ぐ者の宿命なのです。」
「………………「鬼」を、…継ぐ者?」
「……我が園崎本家は代々、当主の名に「鬼」の一字を加える習慣があるのです。……私の名前を手のひらにでも書いていただければ、一目瞭然かと…。」
圭一は手の平に「魅音」となぞる。
「…あ、…本当だ。鬼という文字が含まれてる…。」
「……名前だけではありませんよ。…この体にも、鬼が刻まれているのです。」
私は腰を上げ、背中を見せるように着衣に手をかける仕草をした。
もちろん私の背中に刺青などない。
「いいよ魅ぃちゃん。………見せる必要なんて全然ない。」
「…………ありがとう。」
はは、言うと思った。
…こいつらは本気で私を、親友の魅音だとまだ信じてるようだ。
…こりゃあだめだね。
このゲームは多分、鬼の勝ちだよ。
最初の追い詰める辺りまでは上出来だったんだけどねぇ。
やがて私はお涙頂戴を意識したでたらめ話を終え、座り込んだ。
これで涙でも流すようじゃ、あんたらの負けだ。
圭一を見る。涙こそ浮かべてないが、感情が今にも爆発しそうだった。
レナを見る。………意外にも、攻撃的な表情を緩めず、戦う意思を見せていた。
「でも、…魅ぃちゃんは梨花ちゃんと沙都子ちゃんを、…………………………………殺したんだよね。」
さすがだねレナ。
…私の与太話なんか、親友殺しの理由にならないの、見抜いてきたか。
……普段のあんたはふざけてるそうで、詩音の印象もそうらしいけど、とんでもない。
…あんたは大したタマだよ。詩音なんかより数枚上手だね。
「他の人のことは殺してもいいとも言わないよ。……でも、とにかく魅ぃちゃんは。……梨花ちゃんと沙都子ちゃんを、殺した。」
「…………………………………………………弁解はしないよ。私には鬼が宿ってる。…名前にも体にも。心にも。……でも手を下したのは鬼じゃない。…園崎魅音。私本人。…魅音が望んだから梨花ちゃんと沙都子が死んだ。…それは変わらない。……ははは。レナの言うとおりだよ。」
さぁレナ、どう? 私の正体を見破って見せられる?
あんたたちは私の犠牲者に過ぎない詩音を、犯人だと思いこんでいるんだよ?
このまま私の言葉に踊らされたんじゃ、詩音が浮かばれないよ?
だが、……レナはそこまでだった。
私を魅音とは、看破できなかった。
「自首、…しよ。」
レナは「魅音」に言った。
「私たちも一緒に行くよ。…親友をひとりきりになんか、絶対にしない。」
「…………………泣く子とレナにゃ勝てないわー。あはははは…。」
……残念だね、レナ。勝負有りだよ。
「自分で自分の罪、…どのくらいになるかよくわかってる。……たとえ自首が認められても、……多分、もうここに帰ってくることもないと思う。」
「…………………………………………。」
「だから、最後にわがままを聞いて欲しいな。」
「何かな?」
「30分でいいから。……圭ちゃんと二人きりにしてほしい。」
「…………え、」
圭一は自分の名前がここで出るとは思わず、ぽかんとした顔をした。
…鈍感野郎め。………お前のそのデリカシーのなさが妹を泣かせたんだぞ。
「……圭一くん。…どうかな。……圭一くんが嫌なら、無理にとは言えない。」
「………………………そうだね。嫌なら、それでもいいよ。……私は、鬼だもの。…圭ちゃんはよそから引っ越してきた、正真正銘の人間。……相容れることなんて、…オヤシロさまが実在して、仲介してくれない限り、…絶対にない。」
圭一はほんの少しの躊躇を見せた。
…さぁ圭ちゃん、私を罵倒してくれ。
この人殺し野郎、誰がお前などと行くものか、と私を罵り倒してくれ。
「あぁ。……いいぜ。」
「…………………………ありがとう。」
……ばか。
「……私からもありがとうを言うよ。圭一くん。」
レナが立ち上がる。
…私との約束どおり、この場を去るつもりらしい。
「あ、いいよレナ。ここで待っててくれれば。……圭ちゃんとは、庭をぐるりとまわりたいだけだから。…退屈だったら私の部屋へ行けばいい。漫画とか好きに読んでていいよ。…………あぁ、何だったらお気に入りの単行本、丸ごと持ってってもいい。」
「いやだよ。魅ぃちゃんの本は魅ぃちゃんのものだもの。勝手にレナの家に持って帰れない。」
「……………あんたは、こんな時に限っていい子なんだから。」
私はレナの頭を掴んで、まるで悟史くんがするみたいにやさしく撫でた。
「じゃ、…行こう。圭ちゃん。」
…ゲームセットだ。
レナ、惜しかったね。
でも、圭ちゃんが単身で来るよりは面白かったか。
圭ちゃん一人だったら、私の与太話に煙に巻かれて、今頃は一緒に逃げようなんて言い出してたかもしれない。
レナの目には、裁判官のような眼差しがある。宿るのは、慈愛と遵守。
私が30分と言ったから、待つのはかっきり30分。
…それを1秒でも過ぎたら、容赦なく大石たちに通報すると、目が語っていた。
それでも私は失望だ。
それは彼らの親友の「魅音」に向けるべきもの。
レナは最後まで私を見抜けなかった。
…………あんたほどの人間なら、私の鬼を暴いてくれると信じたんだけどね。…見込み違いだったか。…残念。
少し遅れて、圭一も靴を履いて出てきた。
「腕、……組んでもいいかな。」
……………それはあまりに慎ましやかな要求だった。
「…別に構わないぞ。」
私は悪ふざけするように圭一の腕を取る。
……それは悟史くんと同じ温かさがして、…私を困惑させる。
「……私に腕を組まれたら、…何だか緊張しちゃわない? 例えば、急に関節技を極められちゃんじゃないかな…なんて思ったりとか…。」
「…姉妹そろって同じことを言うんだな。思わないよ。全然。」
前に、私が町で彼の腕を取った時のことを、覚えていてくれた。
「…………………詩音も圭ちゃんのことが好きだったみたい。」
「……そうなんだ。」
私は詩音の想いを伝えてやった。
詩音は、悟史くんとずっと一緒にいたから、悟史くんとは友情の関係がずっと続いていて、私のような恋愛感情には至らなかった。
だから、圭一に恋をした。
きっと条件が同じなら、私も圭一に恋をする。
詩音が恋をしたということは、…私もまた、彼を好きになれるということなのだ。
圭一は、私に腕を預けて、静かに微笑んでくれていた。
その知的な微笑みに、…私は在りし日の悟史くんの面影を重ねる。
…私の知る圭一はもっと軽薄で、下らない。
……こんな、悟史くんみたいな笑い方ができるなんて、…知らなかった。
「……魅音と詩音は、…仲はよかったんだろ…?」
「さぁ、…………どうかな。…圭ちゃんは、自分の右手と左手は仲が良いと思う?」
「え? 右手と左手? …それは仲がいいとか悪いとか、そういう言い方で例えるものじゃないなぁ…。」
「そういう関係だから。仲が良いとか悪いとか、そういう尺度では測れない関係。」
生まれた時から一緒にいる。
二人が対になっている世界に初めからいた。
でも、私は魅音で、あいつは詩音だった。
……魅音は特別に扱われ、…私は心のどこかで、魅音であることに固執した。
もちろんそれは詩音には不愉快なことで。
…私たちは公平にしようということになり、ことあるごとに入れ替わって生活するようになったんだっけ。
私たちは、おそらく他の一卵性双生児とは違っていた。
同じ好み、同じ考えをするだけじゃない。……互いの状況や知識すらも共有できた。
互いに、自分が得てきた経験を話し合えば、私たちはそれを共有できた。
魅音としても詩音としても存在できる完璧な記憶を共有できた。
だから私たちは魅音であり、同時に詩音でもあれたのだ。
……いや、そう思ってくれていたのは詩音だけかもしれない。
私は…少し違った。
魅音をたまに詩音に貸してやってるだけ。
私は魅音で園崎家の次期頭首。
だからちやほやしてもらえて当り前。それは私だけの特権だと、…そう思っていた。
周りが魅音と詩音を区別しようとしたように、………他でもない私自身が、区別しようとしていたのだ。
「例えば利き腕というものがあるように、右手と左手には間違いなく優劣の違いがある。……もしも鍋掴みが片方しかなかったら、迷うことなく利き腕にするでしょ? そういう差はあったんじゃないかと思う。」
「…………………………。」
「だからと言って、左手がなくなったっていいなんて思う人は誰もいないはず。……そんな、よくわからない関係だね。」
「………多分、…それは近くに居過ぎるから見えなくなっているだけで…。…きっととても仲のいいことなんだと思う。
……俺は一人っ子だから、…祭りの前日。魅音と詩音が二人してじゃれ合っているのを、すごく羨ましいと思った。」
「…………………ないものねだりじゃないの? 双子なんて、昔は人をからかったりしてそこそこに面白かったけど。…こうして互いがはっきりと異なる個性を持った今では、かえって邪魔なだけ。」
そんな意地悪な姉だから、………私は罰が当たって、詩音になってしまったんだ。
…………私は、誰だろう。
…誰なんて、最初からない。
魅音だった。詩音だった。
それを受け容れればよかった。
でももう、今は違う。……もう、自分が魅音なのか詩音なのかも分からなかった。
それをレナに看破してほしいとねだったのは、……甘えだったか。
「……………………詩音は、まだ生きてる。」
「……本当か。」
圭一は私の目をじっと見た。…私はそれに静かに頷き返す。
「…………………うん。……誰よりも惨たらしい死に方をさせてやろうと、ずっと考えて閉じ込めておいたけど。………今日まで、その方法はとうとう思いつかなかった。」
これだけは嘘。
とっくに残酷な方法は思いついてた。そしてそれを実行もした。
詩音の目の前で、鬼婆を井戸に捨てた。公由も捨てたし、梨花も捨てた。沙都子に至っては殺すところまでも。
そして今や私は、詩音が恋した圭一すらも殺して見せようとしている。
……そう、私は鬼だから。…これ以上、どんな残酷な行為も、私には愉悦にしか感じない…。
その時、………温かい手が、私の頭を撫でてくれた。
それは悟史くんの手ではなく、紛れもない圭一の手。
……圭一と悟史くんじゃ、全然違うはずなのに。…詩音はこいつのどこに惹かれたんだろう。
……こいつのごつごつした手に撫でられたって、うれしくなんかない。
…私を理解してくれたように感じるのはただの錯覚だ。
…うれしくなんかない、気持ちよくなんか、ない…。
「…………来て。…私の罪の全てを、見て欲しいから。……でもそれは圭ちゃんにとって、…この上なく辛い光景かもしれない。」
私はこれから、最後の罪を犯す。
その罪を、あんたにも見せる。
詩音にも見せる。
あんたは殺される間際になっても、自分が親友に殺されると思うのかね。
…可哀想だね、詩音。
圭ちゃんはあんたに殺されたと思いながら死んでいくんだよ…。
「……………………………引き返すなら今だよ。圭ちゃんの中の園崎魅音がどんな人かは知らないけれど。……中に入れば、……その魅音はきっと………、……………………………………。」
「変わらない。何度だって言う。…園崎魅音は、俺の最高の親友だ。」
…ばあか。…カッコよくなんか、ないぞ………。
私はただの鬼だから、…もう人間の気持ちはわからないけれど。…あの子があんたを好きになったの、…よくわかる気がする。
地下祭具殿の鉄扉を開け放ち、圭一を中に誘う。
…ほら、圭一。どう考えたって罠だよ?
どう見たってこの地下はヤバいって。今から駆け戻って警察を呼んだ方がいいんじゃない?
だが、圭一は蛮勇だった。……ぐっと唾を飲み込んでから、踏み入る。
……………はぁ。……本当に、ばか。
地下への階段を下り、拷問室に招き入れた。
ここに初めて訪れれば誰だって面食らう。…かつて私だってそうだった。
…もちろん圭一も驚いてはいるようだった。
…だが、…圭一が努力していたのは、それが表情に出ないようにしていたことだった。
こんな恐ろしい部屋を目の当たりにしたら驚きたいに決まってる。
でも、…口に出して驚けば、それが罪を告白しようとする親友を拒絶することになりかねないと知っていて、……圭一は驚きを噛み殺そうとがんばっているのだ。
「…大昔の頭首の書き物によるとね。…血の飛沫ってのは、犠牲者に負担をかけない割にはインパクトがあるんだってさ。……綿流しは見せしめのショーだったから。私のご先祖さまたちは様々なショーを考案してたんだよ。……ほら、そこが観賞席なんだよ。綿流しは見せしめのショーだから。客がいなきゃ意味がない。」
「……………………………………………………。」
圭一は、……静かに笑って、私の話を聞いていた。
私がどんな残酷なことを口にしたって。……駄々っ子が胸を叩くのを抱きしめるような、…そういう包容力を見せながら。
………これが、あのばかで軽薄な前原圭一なの…?
「みんなここで、………………私が殺した。…見てくれている観客はいなかったけど、…私は綿流しを上手にやって見せた。……いや、観客はひとりだけいたかな。」
「…え? 観客…?」
「……私。私という鬼が、魅音の執り行う綿流しをずっと見てたから。」
ケタケタと私は笑った。
圭一、…あんたはいくつヒントを出されれば私が、あんたの親友じゃないって気が付くの?
ほらほら、早くしないと…早くしないと、…ゲームオーバーになるよ。
そう、これはゲーム。
鬼が、悟史くんの復讐の名を借りて惨劇を繰り返す、殺人のゲーム。
鬼は圭一を召し捕って魅音の前で殺そうとしている。
でも圭一にはチャンスがある。
私が、お前たちの親友である魅音でないと見抜ければ、合格。
それができないなら、ダメ。
……そんなルール、…いつ作ったんだっけ。
…多分、今日だ。ついさっきかな?
こいつらがあまりに不甲斐ないんで、…もう少しこのゲームの条件をやさしくして、こいつらに有利にしてやったんだ。
お前らは魅音の親友だろ?
魅音を信じていないのか?
お前たちの胸の中の魅音は、…あっさりと殺人鬼にされてしまったのか?
…お前たちも守ってみろ、胸の中の魅音を。
親友が殺人鬼のはずなんかないと、固く信じてみろ…。
沙都子みたいに、純粋に、最期まで、信じられたなら。
……お前たちは私が、親友の魅音じゃない、良く似た別の人間だと気付けたはず…。
それが出来ず、…私を魅音だとまだ思いこんでるなら。
お前たちは私と同じ。
胸の中の悟史くんをあっさりと殺してしまった私と同じ程度の、生きているに値しない人間。
「向こうが牢屋。」
「……詩音はそこにいるのか…?」
…………だめだね。
詩音の牢屋にたどり着いたら、タイムオーバー。ゲームは鬼の勝ちだ。
「…………………詩音?! ……………詩音かッ?!?!」
「け、……圭ちゃん?! 圭ちゃんなの?!」
圭一が岩牢に駆け寄る。
「大丈夫か、詩音! 怪我はしていないのか…?!」
「…ぃ………ぃや………いや、…………ぁああぁああぁあぁああぁあッ!!!!」
詩音が顔をくしゃくしゃにして絶叫する。
……彼のすぐ後ろに、私の姿が現れたからだ。
……そう。…恋した人を目の前で殺す、最悪の拷問の準備が調ったのだから。
「落ち着け詩音。…もう全部、終わったんだ。…全部。」
興奮した詩音を静めようと、圭一は落ち着いた声で語りかけていた。
…それはとても滑稽な光景。
圭一だけが、状況をまったくわかっていない。
「詩音。…ご機嫌はいかがだった…?」
「もう嫌…、嫌…! 嫌ぁ!! もう誰の死を見るのも嫌!!! 私が憎いなら……早く私を殺してよッ!!! 憎いのは私なんでしょう!? 早く殺して、殺して!! お姉ぇえぇッ!!!!」
「お、…落ち着けって詩音! もう終わったんだよ。…大丈夫なんだ。だから落ち着け…。」
「安心しなよ。あんたは殺さない。…まだまだ殺さないんだから。……くっくっくっくっくっくっくっくっくっくっくっく…!!」
ゲームオーバー!!!
私は充分にチャンスを与えた。
一時期はあんたらもうまく私を追い詰めたじゃない。
でもあんたらはそこまでだった。
私が親友の魅音じゃないことを見抜けなかった。
親友の魅音が殺人鬼でないと、信じてあげることができなかった。
「もうやめてぇえぇえぇえッ!!! 圭ちゃんを殺さないでぇええぇえ!! 圭ちゃんは何の関係もないでしょ?! 殺すなら早く私を…、私を殺してよ!!! もう誰が死ぬのも…嫌ぁああぁあぁぁああああぁッ!!!!」
「あっはははははははははははははははははははははッ!!! そんなに死にたければ、この男を殺した後に、ゆっくりとひき肉にしてやるよ。…古式に則り、四肢の先端から少しずつ。ガリゴリと削ってミンチにしてやる。…あの肉挽き器はあんたのためにとっておいてあるんだからね。…それとも、それで圭ちゃんをミンチにして見せた方が、あんたには面白いかなぁ?」
「…お、おい、いい加減にしろ! 今さら怖がらせてどうするんだよ…ッ?!」
「だめぇえぇえッ! 圭ちゃん、逃げてええぇぇえぇええええッ!!!」
どうぞ、鬼さん。
心を、私は鬼に明け渡す。
悟史くんを殺した奴らに復讐すること。
それは悟史くんがまったく望んでいないこと。私だけの自己満足。
もう私は、悟史くんに何も顔向けできない。
ならせめて、…私の納得するように幕を引かせてもらう。
もうこんな世界はめちゃくちゃ。
悟史くんにも嫌われて、私自身にも愛想を尽かされて。
さぁ私の復讐劇を完遂しよう。
誰かの同情なんか求めない。
悲劇のお姫様のふりなんかしない。
私は徹頭徹尾、どこから見ても同情の余地のない殺人鬼になる。
だからどうか、…そんな私に相応しい最期を用意してください。
青白い閃光が大空洞を満たした。
圭一は人形のように、コテンと可愛らしく倒れる。
…詩音が鉄格子から、伸ばしたって届くはずもないのに、必死に圭一に手を伸ばしていた。
そして私に、圭一を殺すなと泣き叫ぶ。
泣け、非難しろ。
私を許そうなんて思うな。
私はこの世で最低の罪悪人。
だからこそどうか、この世で最低最悪の最期を用意していて。
必死に圭一のために許しを請う詩音を、私は罵倒し、貶し、辱める。
その詩音の姿が痛々しければ痛々しいほどに、…私の落ちる地獄が深くなる。
まだ、浅い。まだまだ足りない。
私の罪を贖うには、地獄の深さがまるで足らない。
私は圭一を引きずると、沙都子を縛りつけようとした時にそのまま放置した、あの釘台に縛り付けた。
圭一の動きは緩慢だけど戻りつつあった。
……スタンガンの効きが甘かったのか。
「聞こえるかい詩音! これから始めるよぉ!! 圭ちゃんの若い悲鳴をたっぷりと楽しみなぁ!!」
「………………………………いい加減にしろ……。」
圭一が腹の底から唸る。
……いい声。噛み殺されそうな気迫。
「ようやくお目覚め? 私、さっき嘘をついたね。…詩音を、一番惨たらしく殺してやろうと思って閉じ込めておいたけど、まだ思いつかないって言ったヤツ。あれが嘘。」
私はこの拷問専用に作られたと思われる、物騒な形をした釘と大金槌を並べながら、不敵に笑った。
「あの子に、自分のせいで死ぬ大勢の人の悲鳴をたっぷりと聞かせて、体の芯まで染み透らせてから殺すの。……なかなかセンスいいでしょ。くっくっくっく!!」
「………………………お前は
……誰だ。」
「はぁ? 魅音でしょ。園崎魅音。…恐怖で頭が変になっちゃった? くっくっく!」
「……………違うな。…お前が、……園崎魅音であるはずがない…!」
私の手が一瞬止まる。
………………圭ちゃん…?
…どうしよう。詩音の岩牢まで行ったらゲームオーバーってさっき決めた。
だからもう名前当てゲームは終了している。
………いや、うん。……いいよ。…聞いてあげる。ラストチャンス。
「………へぇ。じゃあ私が魅音じゃなかったら、私ゃ誰なわけぇ?」
さぁ圭ちゃん。……当ててごらん。君に恋した魅音を、救ってごらん。
「……………………………鬼だ。」
「へ?」
「……………………お前は魅音じゃない。……さっきまで一緒だった魅音を返せ。」
「……圭ちゃん、本当に頭は大丈夫? 恐怖で頭がどうかなっちゃった?」
「触るなッ!!! …この鬼め……!!! 返せッ!! 魅音を返せよ!!! 俺の最高の友人だった…魅音を返せぇえぇえええッ!!!」
……私は何を言い出すのかと、しばらくの間、ぽかんとして聞いていた。
「魅音を目の前にして、魅音を返せなどと…世迷言であることはわかってる。でも……でも…! 目の前の今のこいつは…断じて魅音ではありえないッ!!! 認めるわけには…いかないんだ…!!」
あは、あはははははははははは…。
そりゃいいや、あはははははははは!
私は、……魅音でもなければ、……詩音でもないってわけだ。
…詩音だとも、思ってもらえなかったわけだ。
違う、そうじゃない。
圭一は、胸の中の魅音を守りきった。
殺人鬼であるなどと認めなかった。でも、それだけじゃない。
胸の中の、詩音も守りきった。
魅音が殺人鬼でないなら、消去法で詩音が殺人鬼なんてことからも、詩音を守りきったのだ。
圭一にとっての詩音は、…魅音と一緒にふざけていて、明るくて面白いやつ。
でも、それだけ。長い付き合いがあるわけでもない。
…だけど、圭一は守った。詩音を殺人鬼から守ってくれた。
あははははははは、…それで、魅音でもなければ詩音でもない、鬼だ!ってわけか。
鬼だってよ? 鬼、あははははははははは、ばっかじゃない?
はははははははははは。だってそれって、大正解じゃん?
あはははははは、あはははははははははははは!!
「わーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!! …圭ちゃん、…私を笑い涙で溺れ殺すつもり…? わーっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!!」
だが…圭一はそんな笑い声に負けたりしない。
大声で叫ぶ。…目の前の鬼の内側に閉じ込められてしまった…本当の私に聞こえるように、…心の底から。
「がんばれ魅音…! こんな…鬼畜生に負けるな…!!! 本当に強い…お前の力を見せてくれぇえぇえ!!!」
「わっはっはっはっはっはっはっは! わーっはっはっはっはっはっはっはっは!!!」
こいつ、私が本当の魅音だってわかってて言ってるわけじゃないだろ?
勘違いしてるだけだって。
だから、圭一が叫ぶ魅音への言葉に、心なんか乱される必要なんか何もないんだって…!
「頼むよ……魅音…!!! 魅音!! どこで…お前はこんな鬼に負けちまったんだ?! お前はこんな弱いヤツじゃないだろ?! 負けるな…、戦え、…戦えぇえぇえ!!!」
そうさ、私は戦わなかった、何で知ってんの?
どうして私が戦わなかったって知ってんの?!
そうさ、私は鬼に負けた。
でもね、私は弱いんだよ、打ち勝てるほどの強さなんてないんだよ!!
それでも、圭一は魅音への呼びかけを止めなかった。
もう最後は…喉を嗄らして、嗚咽を漏らしながら。…魅音、…魅音、と、ずっと呟き続けていた。
「……………圭ちゃん。…冥土の土産、…なんて気の利いたものじゃないけれど。…………どうしても知りたがっているようだから、ひとつだけ教えてあげるよ。
………私の中に鬼が宿ったのはずいぶん前。…その鬼は私を蝕み凶行に駆り立てようとした。……だけれど、私はそれを理性で抑えつけた。……鬼はそれで治まり、…私は、その鬼はどこかへ行ってしまったんだと思い込んでいた。……でも、本当は違った。…………私の中から出て行ったんじゃなく、…私の中で眠っていただけだったの。」
そう。
悟史くんが失踪したのを知った時、私の弱い心は悲しみに耐えるために、怒りで満たされたのだ。
でも、その狂気はそこまでで、噴出までには至らなかった。
時間が私を癒し、………悟史くんの思い出を、やわらかく包んで、胸の内にそっと、しまってくれたんだ。
「……その鬼は、…ある小さなことをきっかけにまた目覚めてしまった。………それは…何に原因があったと思う…?」
それは本当に小さな小さなこと。
「…………………………………。鬼の私が教えるのも変だけれど。……あんたが全てを狂わせてしまった元凶。」
……私の目元に溜まった涙がすーっと、…こぼれる。
「…………………あの時、…あんたがもらった人形を、躊躇なく私に渡していたなら、…………全ては狂いださなかったかもしれない。………圭ちゃんには理解できないだろうね。理解できなくて当然。………だけどね、そこからドミノ倒しみたいにパタパタパタといろんなものが倒れ始めて、…収拾がつかなくなってしまった。……初めの小さなひとつを倒したあなたに自覚がないのは当然だろうけど、………あなたが元凶なの。」
あの時、圭ちゃんが心無いことをしなかったなら、…詩音は泣かなかった。
詩音は泣いたから、…私に胸の内を打ち明けたんだ。
私はそれを聞いている内に、悟史くんのことを思い出して。
…恋をした人が、生きてすぐ近くにいてくれることへの妬ましさを抱いた。
これは小さな嫉妬心。
……でも、この小さな邪心が、私の心の奥で眠っていた鬼を、呼び起こしてしまった。
あとはもう、鬼に心を許すままだった。
私の胸にいっぱいあった悟史くんの悲しみを、鬼は全部食べ尽くし、替わりに悟史くんの名を借りて復讐をするという、悟史くんが喜ぶはずもない恐ろしい提案で満たしていったのだ。
そして、……その後に続いたいくつかの恐ろしい出来事が、私を後戻りできない鬼の世界へ誘っていくのだ。
「……そんな、……うそ…だろ……?」
「………………自覚がないのは当然。でも、紛れもなく元凶なのは圭ちゃん。…………あの時、あんたがさりげなく人形を私にあげていたら、………多分こんなことにはならなかったと思う。」
発端を、圭一のささいな事に求めるのは責任転嫁の極み、か。
…あの程度のことで、私の中の鬼が目を覚ますんだ。
圭一が発端にならなくても、いつか目覚めた。
……結局、私が悪い。
鬼と戦わなかった。鬼を心に住まわせた。そしてあっさりと心を譲り渡した。
「……………ぅぅぅ…………ぅぅ……!!」
圭一は涙を隠さなかった。ぼろぼろとこぼした。
…それは、鬼になり、自分の意思では自由に泣けなくなった、私の代わりにだったのかもしれない。
「……じゃあそろそろいい? この拷問はね、とてもシンプル。左手の小指の先端の節に釘を打つ。順に親指まで打ったらまた小指に戻って、今度は真ん中の節に釘を打つ。…この調子で15本の釘で左手を打ちつける。それがおわったら次は右手。……それが終わったら次は、…………まだ意識があったら教えるね。指先って、たくさんの神経が集まってるから、圭ちゃんが想像するよりもはるかに痛いよ。…両手30本を打ち終える前に、失神しちゃう人もいるそうだから…。」
釘を圭一の、左手の小指に当てる。
……そこへ大金槌を叩きつければ、…始まる。終わる。
「…………他の人を拷問する時には何のためらいもなかったけど。……なぜかあんたにはためらいがあるよ。」
「………………………………それで魅音の鬼が治まるなら、気の済むようにやってくれ…。」
圭一が何を口にしたのか、一瞬分からず、頭の中で反芻する。
「……………あんた、……本気で言ってるの…?」
「……俺が傷つけた魅音の痛みに比べれば…こんなの大したことないんだろ?」
「……………………………………………………。」
「……気の済むようにするといい。……そのかわり、…二つ約束しろ。…………俺を気が済むまで痛めつけたら、……詩音は許してやれ。……祭具殿に忍び込んだ罪には、それで充分見合う仕打ちをしたはずだ。」
「あんた、………この期に及んで…自分より詩音の心配ができるわけ…?」
……私は魅音だろ、園崎魅音。
……圭一が詩音の心配をしてくれて、何で私の目頭がこんなに熱くなるんだ…。
「…もう一つは、……気が済んだら、…もうお前は消えろ。………その体を、……魅音に返してやってくれ。…………………それだけだ。」
「……………。……………あんたって人には、……命乞いをするとか、そういう考えは思い浮かばないの?」
「…………約束、二つじゃなくて三つにしていいか。…三つ目は、俺を殺すなにしてくれ。」
「…あははははは。最初に二つって言ったでしょ。…だからもう駄目。」
「……………そいつぁ残念……。」
こんな…最低の状況下で、…私と圭一は二人して、…つまらない冗談を笑い合うように…穏やかに笑い合った…。
あぁ、…今なら分かるよ。…詩音が彼に恋したのがよく分かるよ。
悟史くんとはもちろん違うけど、…こいつ、……悪いやつじゃないよ…。
「……多分、私は約束を守らないよ? 鬼だから。」
「その時は仕方がないさ…。」
圭一は、悪態をつくように笑うと、…覚悟を決め、目をぐっと閉じた。
「……圭ちゃん。今の、……三つ目の願いだけは、聞いてもいいよ。」
「…………………え。」
「一つ目の願い。詩音を救うこと。…これはもう無理。……詩音は鬼が殺してしまう。…それはもう決められたことだから止められない。だから諦めて。」
私は、詩音が恋したこの少年の顎を、…なぞる。
「そして二つ目の願い。この体を魅音に返すこと。…これももう無理。……今日を境に魅音が戻ってくることはもうない。……今日以降、もし私の姿があったとしても、それは姿だけ。…私の姿をした鬼だから。」
「…………そんなことはない。……魅音は…魅音だ…! もう戻ってこないなんて…悲しいことを言うな…!」
「…………………………………………………………聞こえる? あの音。」
その音はさっきから聞こえていた。何の音かはわかってる。
……ドォォ…ン…。………………ドォォン…。
一定の間隔で繰り返される鈍い音。……振動を伴う重い音。
この地下祭具殿の鉄扉に大勢が体当たりをしているのだ…。
「帰りが遅いから、レナが大石を呼んだんでしょ。………あのぼやーっとした感じの子が、こんなに頭が回るのだけは計算外だったな。」
「………………それについては同感だよ。」
…どうだか。圭ちゃんにはあの子のことがどこまで分かってるんだかね。
竜宮レナ、か。
………今回は私の勝ちだね。あんたは最後まで見抜けなかったね。
…………………………………。
…わかってた、かなぁ。
……私が魅音か詩音か、迷うような目つきじゃなかったもんなぁ。
…………レナは嗅覚的に、私と詩音を見分けてるような気がするよ。普段においてもね。
まさか。……買いかぶり過ぎでしょ。………………………。
私はスタンガンを出すと、圭一に見えるようにして火花を散らして見せた。
「…………見たことないでしょ。本物のスタンガンだよ。…違法品なんでかなり出力が上げられるようになってるけどね。」
「…さっき、俺に喰らわせたのはそれか。……子供の玩具には向かねぇぞ。」
「くっくっく。…そうだね。」
ドォォ…ン!
最初の大扉を破ったらしい轟音が聞こえてくる。
通路は多少入り組んでいるけど、…この拷問室の扉以外に、もう遮るものはない。
「……殺さないけど、しばらく圭ちゃんにはお休みしててもらうね。すぐに大石が来てくれるから。ちょっとの我慢。」
圭一は苦笑しながら、歯を食いしばった。
…私が少し躊躇したため、間が空く。
……圭一はおかしく思って、目を開いた。
「…………………………………ごめんね。……魅音を汚して。」
「………ここに入る前に約束した。何があっても、俺の中の魅音は変わらない。」
「…………………でも忘れて。今日以降、もしも私を見かけても、…近寄らないでね。……それは私の屍に取り憑いた…鬼なんだから。」
バチン!!
圭一はその一撃で意識を失った。
私は拷問室の扉にも鍵を掛ける。
さらに大空洞へ向かいそこの扉も閉めた。
これでそこそこの時間が稼げるはずだ。
「詩音。さぁ出ておいで。」
私は鉄格子を開けると、詩音を誘う。
詩音は泣きじゃくっていた。
「あんたが圭ちゃんを見逃してほしいと祈ったから。…お姉はちゃんと約束を守ったよ。圭ちゃんはスタンガンでのびてるだけ。もうすぐ警官隊が来るから解放されるよ。」
「ありがとぉ…ありがとぉ……ぅうぅ………。」
「でも詩音にはまだ用がある。ここから脱出するの。」
私は詩音を促し、隠し井戸の岩牢へ向かう。
「その前に、詩音。あんたに魅音を返すわ。」
「……え?」
「脱げ、その服。交換だよまた。ほら、髪のゴムバンド。」
詩音は何が何やら分からず、私の指示に従い服を着替えた。
そして懐中電灯を渡し、首から掛けさせた。
「あんたから先にどうぞ。井戸の底にあるとか言う、隠し通路を探すの。」
懐中電灯の灯りでは底をうかがうこともできない、深い闇。
こんなところ、頼まれたって降りたくはない。
…だが、詩音は私に逆らわず、ハシゴをおっかなびっくり足で探りながら、降りていこうとする。
私は、詩音が頭がちょうど引っ込むくらいまで降りかけたところで、スタンガンを抜くと魅音の頭上に突き出した。
詩音はその意味に気付く。
「………………お姉……ちゃん……………。」
「あんたの望み通り、圭ちゃんは救った。代わりにあんたを殺してもいいってことだったもんね? くっくっく、お姉はちゃんと約束は守るよ。」
両手両足を不安定なハシゴに身を預ける詩音は、身を守るいかなる手段も持たなかった。
…そう、絶体絶命であることを、理解していた。
「魅音の格好をしたあんたはここから落ちてお陀仏。私は詩音の格好だからね。圭ちゃんが被害者だと立証してくれるよ。私は岩牢の中で警官隊の助けを待つ。…まぁ指紋なんかでバレるだろうけどさ。その頃にはどこかへ身を隠してるってわけ。…お姉もなかなかやるでしょ? くすくすくす。」
「…………私を殺すと、………悟史の、……復讐になる……?」
「そこまで分かってるなら、覚悟はいいよね。底まで落ちて悟史くんに謝っといで。」
「……お姉、………この底にはね、…………悟史は、いないよ…。」
「…あん? あんたら言わなかったっけ? ここに捨てられてるって。」
「園崎家で殺されてれば、…ここに捨てられてると思う。…そうは言った。」
「………この期に及んでややこしいことを言うね? もうちょっとわかりやすくお姉に言ってごらん?」
「私もね、……さ、……悟史のこと、……好きだったんだよ……。」
「………そりゃそうだろうね。私が好きになるくらいだもん。」
「だから、………悟史くんが消えた時、私も悲しくて悔しくて、……色々とね、調べたんだよ…。」
「………………………それで?」
「婆っちゃにね、…詰め寄ったんだよ。絞め殺してやろうってくらいに。………そしたら婆っちゃが、……教えてくれた。…次期頭首にしか話さないよ、絶対に内緒だよって。」
それは、にわかには信じ難いことだった。
鬼婆は詩音に言った。
園崎家は、何も手を下してなどいない、と。
詩音は何のことやら分からず、聞き返した。
園崎家は、確かにお父さんの絡みで、裏の世界に大きな影響力を持つし、実際、ダム戦争中には不法行為で抵抗していた。
だからこそ、ダム現場の事件が起こったとき、誰もが園崎家が糸を引いたんだと信じた。
鬼婆も意味深に笑ったり、怪しげなことを口にしてみたりして、誰からも黒幕に違いないと信じられていた。
でも、…それは、園崎家では代々伝わる頭首の、……演技。
園崎家にとって都合のいい偶然が起こると、あたかも自分の差し金で事態が好転したように振舞う、ブラフ。
元々の影響力と相まって、そのブラフはあまりに信憑性が高かった。
だからこそ、園崎家は裏の裏に精通し、できない陰謀などないと囁かれ一目置かれるまでになったのだ。
ダム戦争中からそうだった。
お魎が糸を引いたことも、引かなかったことも、皆、自分の差し金であるかのように、にやりと笑って見せた。
それを見た親類たちは、お魎の力のなんと深く広大なことかと恐れ入るのだ。
ダム現場の監督のバラバラ殺人が見つかったとき。
お魎は意味深に笑って見せた。
…それを見た親類たちは、きっとお魎の差し金に違いないと信じた。
北条夫妻が転落死したとき。
古手夫妻が変死したとき。
そして悟史くんの叔母が死に、悟史くんが失踪したときにもやはり意味深に笑って見せた。
誰もが、園崎家が事件を起こしているのだと信じていた。
「…う、……嘘だ!! あの事件が、園崎家が関わってないってわけ?! そんなの信じると思う?」
「………私は、…婆っちゃがね、嘘を言うとは思わないの…。……特に悟史くんの失踪については、本当に知らないって言ったの。だって、悟史くんとお姉の交際、……婆っちゃは許したんだよ? 爪を見事剥いで見せたから、全部忘れるって言って。」
「嘘だ、嘘だ!! 出任せを言うな!! じゃあ誰が悟史くんを消したの!! 誰が!!」
「………それだけはわからない。でもね、園崎家じゃない。婆っちゃじゃない。」
「あんただって祟りのシステムは知ってるでしょ? 別に悟史くんを襲えとわざわざ鬼婆が指示しなくても、気を利かす誰かが襲う。そういう仕掛けでしょうが!!」
「……………………………………………。」
詩音は言い返せなかった。
たとえ鬼婆が個人的に許したって、祟りの対象であり続ける限り、「祟りの執行者」が狙い続ける。
「………婆っちゃはね、…オヤシロさまの祟り、……誰が起こしてるのかなって、…長いこと調べたんだって。…………だけど、見つけられなかった。……誰もが、村の中の誰かって信じてるのに、村の中にそんな人は存在しないの。」
「存在しない? しないならなんで毎年祟りが起きるわけ!」
「おかしいよね?! でも、…いないの! いないんだって!」
「……古手梨花が私に、首を掻き毟る注射で襲い掛かってきたってのは話したよね。それはどう説明するの。……窮鼠猫を噛む、って状況じゃない。向こうから訪ねてきて、催涙スプレーと注射器で襲い掛かってきた。…おそらく同じ注射で富竹さんが殺されてるんだと思う。」
「…………それは……わからない。……梨花ちゃんが、…そんなことするなんて、…信じられないよ……。」
「実際に見た私でも信じられないよ。あの死に方を見りゃあね。」
………私は多分、詩音も鬼婆も、嘘をついてないと思う。
ということはつまり、……私たちが思っているほど、鬼婆は雛見沢の全てを掌握していない。
あんな恐ろしいクスリのことなど知らなかったし、…古手家が祟りを実際に執行していたことも知らなかった。
園崎家が不関与とするなら、あの連続怪死事件を誰に起こせたと言うのか。
偶然が5年も続けて綿流しの日に?
それだけはありえない。
人の意思が働いているのだ、必ず!
しかもそれは園崎家の与り知れぬところで、だ。
公由家は何も知らない。
公由は園崎家主導だと信じきっていた。
古手家か?
梨花の行動、妄信する老人たち。……古手家を中心とする勢力が存在して暗躍していた?
まさか…そんな馬鹿な。
神主さんたち古手夫妻は祟りで葬られてるんだぞ。
その後に生き残った、あんな小娘が、園崎家よりもさらにさらに暗部で君臨していたなんてことがありえるだろうか?
ありえない、考えられない、いくらなんでも無茶苦茶だ。
つまり、…私は御三家の頭首を皆殺しにしてしまった今、雛見沢村の暗部の秘密を、誤解したまま幕を下ろそうとしている、ということ。
じゃあ、……私の復讐劇は?
全然関係のない人たちを、たくさん殺してしまったということ?
「………………ははは、やるね詩音。……最後の最後で、私の復讐劇をひっくり返そうってわけ?」
「……お姉ちゃん、……信じて……。……私は、……仇なんかじゃ、…ない。…信じて…よ……お姉ちゃん…。」
詩音は両目いっぱいに涙を浮かべて、懇願した。
その哀れな様子は、私がまだ詩音の姉でいたなら、心を揺らされたのかもしれない。
でも私は、何も感じない。鬼だから。
あと詩音を殺したら出来上がり。
そういう風に決めたんだ。それをやり遂げなかったら、私の存在は何?
悟史くんの復讐のために全てを投げ出した私の生涯は、何?
それを、最後の最後でめちゃくちゃにするようなことを言って…。
それじゃ私がしたのは復讐でも何でもなくなっちゃう。
ただ、ただ、…5年目の祟りに取り憑かれただけってことじゃない…。
「…詩音。あんたが本当に無実なら、あんたは天国へ行けるね。……悟史くんに、謝っておいて。」
「お姉………………。」
青白い無情の火花が散り、……詩音は涙の雫を散らしながら、闇の底へ消えていった。
「天国で、悟史くんに謝って。……私は天国には行けないから謝れない。」
その代り、…思い切り下の下の、最下層の地獄へ行くから。
ここから飛び降りるなんて楽な死に方じゃ、償えないのだ。
相応しい死に方を得るまで、生き延びる。無様に。
■幕間 TIPS入手
■ノートの199ページ(綿流し3日目〜4日目)
園崎詩音の、死の間際の告白の信憑性は不明。
園崎本家は何もやっていないと、鬼婆があっさり詩音を騙したのか。
本当に園崎本家は何もやっていないのか。
私自身が今日までの調査で、園崎本家の存在だけで祟りを説明できないことを証明してしまっている。
そう、だからこの私のノートは、1ページ目の冒頭から全部でたらめ。
私が200ページ近くも書き溜めてきたこのノートは、ただの狂人の世迷言。
ノートを破り捨てて焚き火に放り込もうかとも思った。
でもやめた。
このノートは私の罪の証。
私は罪を誤魔化さない。
だから灰にして消してしまったりなどしない。
私の人生は結局、ノート1冊で表せる程度だった。
このノートを誰かが読むことがあるだろうか。
読むことがあったならどうか、私の愚かしさから何かの教訓を。
雛見沢村連続怪死事件。
通称、オヤシロさまの祟り。
これを読んでいる私以外のあなた。
どうか真相を。
それだけが、私の望みです。
昭和58年6月※※日
園崎魅音
■エピローグ1
昭和58年6月。
XX県鹿骨市雛見沢村で、連続失踪事件が発生した。
容疑者は、園崎魅音(1X歳)
容疑者は6月19日から21日までの間に雛見沢村住民5人(園崎お魎・園崎詩音・公由喜一郎・古手梨花・北条沙都子)を拉致、監禁して殺害した疑い。
事件は当初、情報不足のため初動捜査で遅れをとったが、偶然的、電撃的に解決した。
22日午前中、園崎邸前を巡回していた警邏車両は邸内よりの悲鳴を聞き、緊急措置として邸内へ突入。
失踪中の容疑者の妹(園崎詩音)とクラスメート2名(前原圭一・竜宮礼奈)を保護した。
容疑者は現場より逃走する。
失踪者たちを殺害したと思われる園崎邸内の離れ地下奥、拷問室からは、失踪者4人(園崎お魎・公由喜一郎・古手梨花・北条沙都子)の毛髪、皮膚片、血液などを発見。
拷問室内で失踪者たちが拷問を受けたものと断定した。
ただし、その遺体は依然、発見されていない。
監禁されていたクラスメートの証言から、監禁現場となった、園崎邸内の離れ地下にあるものと見て捜索を続けているが、容疑者の逃亡ルート共々、発見には未だ至っていない。
また、ほのめかしたとされる近年の連続怪死事件への関与も捜査が続けられているが、
園崎魅音が直接、または間接的に関わったという証拠は発見されていない。
事件の動機には今もなお不明な点が多く、また、園崎家、雛見沢村住民の極度の非協力もあり、その解明には膨大な時間を要することが予想される。
地域に詳しい地元警察の見解では、雛見沢村内の信仰に対する冒涜行為を巡る、内部懲罰、リンチ事件ではないかと見ている。
地域性に根ざした特殊な事件であることは間違いなく、県警本部は慎重な捜査を命じた。
容疑者の妹で、もっとも監禁期間の長いと思われる失踪者(園崎詩音)から重要な手掛かりを得られるのではないかと期待したが、
事件後、精神に重度の後遺症を患い、今日まで正常な事情聴取に応じられる精神状態にない。
精神科医は、ショックによる一過性のものと診断したが、その回復の目処は今日でも立っていない。
■エピローグ2
■鬼(詩音の隠れ家)
初めは、演技だった。
警察の尋問を逃れて逃げ出すための、フリに過ぎなかった。
でも、狂気は演じていても、侵される。
もう私は、駄目だった。
かつて竜宮レナに警告された「あいつ」は、今や背中に張り付くくらいにぴったりと、私に取り憑いていた。
こいつは悟史くんでもなければ私の幻でもなく、そう、こいつはいつの間にか、詩音の亡霊になっていたのだ。
詩音は天国になんか行かなかった。
いつも私と一緒にいた。
詩音だけを殺しておいて、私がのうのうと生き延びてしまうのが許せなくて、私がちゃんと死んでみせるまで、そこにずっと取り憑いているつもりなのだ。
しかもご丁寧に、早く死ねと毎夜毎夜、私が忘れないように囁いてくれるのだ。
…わかってるって、…大丈夫だって、…はあぁあぁ…。
私は背中の詩音に向かって吠えたり、怒鳴ったりした。
詩音もまた、私の口を使って言い返したり、叫び返したりした。
それははたから見たら、とてつもなく奇妙で滑稽な、ひとり喧嘩に見えたに違いない。
お姉だけずるい、いつまで生きてるの。
死ね、死ね、早く死ね!
お姉はすぐに自分も死ぬって言ったよ。
待ってるんだから、私待ってるよ…。
井戸の底は暗くて、寒くて、…痛い、…痛い、…痛い…。
あぁわかってるよわかってる!!!
うるさいなうるさいなああぁ!!
何がわかってるのお姉、あんたに相応しい死なんか待ってたって訪れるものか。
お姉は死から逃げてる、あれだけのことをして生き延びるつもりだ。
罪なんか消えるものか、呪われてるんだよ。
お姉は呪われろ、祟り殺されてしまええぇええぇえ!!!
「やかましいよ詩音!!
亡霊のくせに…やかましい、
やかましいぃい!!!」
「お姉ぇお姉えええぇえ!!」
「くそったれがぁあぁ!!
消え失せやがれえぇ!!!」
「魅音はずるい、魅音だけずるい、姉妹はいつも一緒、死んでも一緒…!!! だから魅音ほら、迎えに来たんだよ…魅音んんんんん!!!!」
ドンダンガンダンガン!!!!
詩音がドアを乱暴に叩く。
ダンダンガンダンッ!!!
そのうるさいことと言ったら!! 頭が割れる、鼓膜が破れる!! 詩音め、この部屋の扉を破る気だ、ああぁあぁくそ、わかったよ詩音。私の罪に似合う死に方ってのはつまり、お前に祟り殺されることだったわけだ。…でもね、あんたの思い通りには簡単にはならないよ…。はぁはあ!! ただじゃ消えない、あんただけ恋した人が生き残ってるなんてフェアじゃない!! あはははっはははあっひゃへへひゃきゃ!!!
私はドアの向こうにいる詩音を避けるため、ベランダへ出た。
柵ごしに、隣へ移れば、非常階段に降りられる。
ひゃひひゃあききゃきゃ!! 詩音めざまみろざまぁみろ!!!
私は柵から身を乗り出し、軽々と隣へ飛び移る。
それから、猫のように足音もなく素早く、地階へ駆け下りた。
詩音の馬鹿は裏をかかれたなんて思うまいなぁ思うまい、くけけきゃけげけけ!!
単車を使えば、圭一の家なんてすぐだ。
馬鹿な詩音は騙されてる、私がまだ部屋の中にいると信じているに違いない。ぐげげげげげげげげげげ!!
ほぅら見えたぞ、あれが前原屋敷だ。
詩音に話を充分に聞いてあるから初めて見るけどよく知ってる、くっけっけっけ!!!
圭一の部屋は二階だと言ってた二階だ二階!!!
起こしてやれ、石をぶつけろぐぎゃぎゃぎゃぎゃ!!!
何度か石をぶつけたところで、部屋に灯りが灯り、窓が開いた。
圭一だった。
その姿を見た途端。………私の中の狂気が一瞬だけ醒めた。
圭一がどたどたと階段を下りてくるのがここにいてもわかる。
そしてすぐに圭一は現われた。手には、人形を持って。
…………その人形を見て、私は失望する。
その人形は確か、詩音に渡し損ねたとかいう人形だ。
……やはり、詩音ばっかりずるい。
いいな圭ちゃん、いいないいな…。私だって悟史くんに人形がもらいたいよ…!!!
「……はぁ、……はぁ、……魅音…!」
「あはははは、お久しぶり〜。…どう? 元気にしてた?」
私の心の中でぐつぐつと煮えくり返る狂気とは裏腹に、私の口からはさも平然とした言葉が漏れる。
…………あぁそうだ。
私の体はもう鬼に支配されているのだ…。でなきゃこんな深夜にげげげぐ、きゃきけけ…!!
「……お前、……こんなところをうろついてて……大丈夫なのか…?!」
「…………本当はいけないよ。…えへへへ。」
「それより……どうしたんだよ。こんな時間に。」
「…最後にお話ししたかったから。」
ものすごく、眠い。
それは睡眠の眠さというより、貧血などで意識が薄れるときのような感覚。
ぎゃげげ、私の心が狂気で塗り潰されてしまう、最期の感覚…。
「………私ね、……えへへへ、……もう、……ここにはいられない…。」
「だ、大丈夫か…。どこか具合でも…、」
「…今日まで……がが、……がんばってきたけど…、あははは、…自分でわかるの。……もうだめ…もう限界…。私のお迎えは……もう、すぐ後ろまで来てる…。あははは………。」
死に方を選ぶ余地もなかった。
詩音はそんな贅沢など許さなかったのだ。
そりゃそうだ、詩音自身、私に井戸に突き落とされて死んでいる。
詩音だけじゃない、私に殺されたみんながみんな、誰一人として死に方など選んでいない。
それを思えば…死に方を迷うなど亡者から見ればなんと贅沢な悩みなのか!
「あ…はははは、…はは……は、……はぁ………はぁ………はぁ…!」
ほぐげぎゃぎゃ…、はぁ、……がぎゃ…、
「大丈夫かよ…! もう無理するな…。
あ、…そうだ。…俺、魅音に、」
…殺してやる殺してやる、悟史くんの仇悟史くんの仇、…こいつは詩音の好きな人、詩音なんか大嫌い、こいつを殺して詩音に思い知らせてやるんだ、ざまみろざまざざざざ、……ぐ…ッ、……………………!
重力がぐるぐる回る中。
私は圭一を腹部をナイフで思い切り突き刺していた。
「け、……けけけ…けけけけけけけけけけけけけけけけけ…! 間に合った…。…間に合った…! …くけけけけけけけけけけけけけけけけけけ!!!」
げげっげげげげ!! 間に合った間に合った、詩音に祟り殺される前に、私は詩音に一矢を報いたぞ、げげげげげげげ!! 思い知ったか詩音、げげげげげげげげげげ!!
圭一は腹部を押さえながら、ダンゴ虫のように縮こまり、地面の上で震えた。
「げげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげ!! 出来た、全部出来た! 私が殺したいヤツは…これで全員…!!! げげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげ!!」
やった、やったよふげげぎゃぎゃ、私は成し遂げた!!! ぎゃぎ悟史くんの仇を全て討ったよぉおおぎょごごがぎゃ!!! 褒めてよ悟史くん、私を撫でて?! げぎゃぎゃぎゃ、ぎげぇえぇ!!!
そう。これは全部悪い夢。
だって私は、いつものように自分の部屋で詩音の悪夢に苛まされてるだけだもの。
だったら、………ここはどこなの。
私は、マンションの非常階段にぽつんと、たたずんでいた。
……夢の記憶は残ってる。
そうだ、私はベランダから出たんだ。
…扉の鍵は閉まってるから、……またベランダから入らなきゃ。
はぁ、…………ん、…………。…………わ、
足がずるっと滑って、浮遊感。
そして、頭部に言いようの知れない激痛が走った。
そのあまりの痛みに、私は悪夢の霧が晴れる………。
…私は非常階段から自分の部屋のベランダに戻ろうとして足を滑らせて、…2〜3階下のエレベーターフロアの出っ張った屋根の上に落ちたのだ。
私のフロアは8階。
こんなところで受け止められるなんて、思わなかった。
落ちたとき、ちょうどコンクリートの角で頭を打ったらしく、ものすごい激痛と、熱い血が零れているのがわかった。
………………不思議な安堵感。
鬼も詩音の亡霊も、悟史くんの恨みも何もない。
…生まれたままの赤ん坊のような、……何もないがゆえの、安堵感。
生まれてから、魅音の名を受け、…今日までの記憶が次々蘇る。
悟史くんとの出会いが蘇り、私は目から涙を零す。
どこで、間違っちゃったんだろう……?
私の人生は、どこで選択肢を間違えたんだろう?
そう、私はもう知ってるよ、悟史くんが思いださせてくれた………。
沙都子のこと、…………頼むからね。
うん。
私ね、悟史くんがきっと帰って来るって信じて、……ずっと待ってるよ。
沙都子はちゃんと私が面倒を見て、待っててあげるから。
沙都子と二人でね、大人しく悟史くんが帰って来るのを、待っている。
悟史くんの大事な妹を、他の誰でもない、私に預けてくれた。
私、……そんな意味だって、わかってなかったんだね。
大丈夫、今度は大丈夫だよ…。
悟史くん、…大好き。
沙都子、………ごめん。
みんな…、ごめん。
詩音には、特にごめん。
…………こんな死に方で責任、取れるかな。
全然だめだよね、なっちゃいない。
悟史くんにもう一度頭を撫でて欲しい。
悟史くんの、むぅ、がもう一度、聞きたい。
ごめん、贅沢だよね。
…もう未練ないよ。
あとは口で謝ってもしょうがない。
私は横に転がり、さらに地上を目指す。
頭から。
さあ思い切り私の頭を砕いて。
そして私を見合う地獄に連れて行って。
私はただの鬼だった。
地の底の地獄がお似合いなんだ。
どうして生まれてきたんだろう、どうして生を受けたんだろう。
生まれなければ良かった。
生まれなかったらこんな思いをしなかった。
こんな意味のない生に、誰がどんな意味を求めたんだろう。
私が生まれなければ、誰も不幸にならなかった。
こんな私にやさしくしてくれて、ありがとう。
こんな私に恋を教えてくれて、ありがとう。
こんな私に、こんな私に、……。
みんなにごめん。
本当にごめん。
ごめんね。
もしもね、私、悟史くんにもう一度同じチャンスがもらえるなら。
もう絶対に選択を、間違えないから。
…本当だよ。
あ、…地面だ。
じゃあね。
大好き。
…むぅ。
え?
今日までの出来事が全て、夢だったらいいのになって何度も思った。
だから、書いてみた。書いて夢になると信じて。
ほら、よく漫画の中の夢にあるじゃない?
私の目の前に食べきれないほどのお菓子が積み上げてあって、
それに手を伸ばし、まさに食らいつこうというところで、
無粋に起こされて目を覚ますの。
それはとてつもなく長い長い夢で、
私は1年以上も眠っていたことになっている。
そう。
私は、監督の野球チームの試合のあと、有頂天に駆け出して、
赤信号の横断歩道に踊り出して、バイクにはねられてしまった。
それでずっとずっと1年以上も意識が戻らなくて、
ようやく、目が覚めるの。
まぶたを開けた時、そこには病院の天井が飛び込んでくる。
それから、ずっと看病しててくれた悟史くんが覗き込んでくれて…。
あははは。さすがにこれは出来すぎか。
でも、いいよね?
こういうことにしてもいいよね?
生まれてきて、ごめんなさい。
■エンディング: 雛見沢村連続殺人事件関係者一覧
雛見沢村連続殺人事件関係者一覧
北条玉枝
昭和57年6月20日、村内にて撲殺。捜査は終了。
北条悟史
昭和57年6月24日、村内にて失踪? 消息不明。
富竹ジロウ(本名不明)
昭和58年5月19日、村内にて自殺? 6月22日古手梨花殺人と酷似。
操作は継続中。
鷹野三四
昭和58年6月19日、岐阜県山中にて絞殺。遺体は焼かれる。捜査は継続中。
園崎お魎
昭和58年6月20日、園崎詩音に殺害さる。死因はスタンガンによるショック死。
死後に激しい遺体損壊。頭部表皮に過度の裂傷。
古手梨花
昭和58年6月22日、園崎詩音に殺害さる? 死因は咽喉部刺傷による出血性ショック死。
6月19日富竹ジロウ殺害事件と酷似。捜査は継続中。
公由喜一郎
昭和58年6月22日、園崎詩音に殺害さる。死因は拘束具による絞殺。
北条沙都子
昭和58年6月22日、園崎詩音に殺害さる。死因は全身刺傷による出血性ショック死。
前原圭一
昭和58年6月30日、園崎詩音に刃物で襲撃さる。重傷を負うも術後順調に回復。
竜宮礼奈
平成16年現在、生存。鹿骨市内在住。
大石蔵人
平成16年現在、生存。北海道内在住。
熊谷達也
平成16年現在、生存。鹿骨市内在住。
入江京介
平成16年現在、生存。転居先不明。
葛西辰由
平成14年に肝臓ガンにて死去。
前原伊知朗
平成16年現在、生存。東京都内在住。
前原藍子
平成16年現在、生存。東京都内在住。
富田大樹
平成16年現在、生存。鹿骨市内在住。
岡村傑
平成16年現在、生存。鹿骨市内在住。
知恵留美子
平成16年現在、生存。鹿骨市内在住。
亀田幸一
平成16年現在、生存。大阪府内在住。
北条鉄平
平成16年現在、生存。転居先不明。
前原圭一
昭和58年7月3日、収容先の病院にて急死。死因は急性心不全。
園崎詩音
昭和58年6月30日、潜伏先のマンションより転落。死亡。
昭和58年6月20日発生の連続殺人事件の容疑者として
緊急手配中の同月30日、潜伏先のマンションより転落し死亡した。
県警は園崎お魎殺害外5件で容疑者死亡のまま書類送検した。
■エピローグ3
■選択肢の先の未来
「よっしゃーお昼だお昼!! そらレナ、机をくっ付けろ!」
<圭一
「あははは、今日はレナのお弁当はミートボールなんだよー!」
<レナ
「おおーそりゃいいねぇ。おじさんもぜひいただくよ。ほら梨花ちゃん、机、机。」
<魅音
「……くっ付けるのですよ。ぺたー☆」
<沙都子
「ほっほっほ! 残念なことにミートボールは私も大好物でございましてよ! 皆さんに一口でも口に入ると思わないことでしてよー!!」
<沙都子
「ざぁんねん、そうは行かないです沙都子。
明らかに野菜不足の沙都子には特別にカボチャ弁当を用意させてもらいました。」
<詩音
「うっわ、そりゃイジメだぞ詩音〜。」
<圭一
「ふわぁあぁ………カボチャは嫌ですのーー!! わああぁん!」
<沙都子
「ほら、そのカボチャ嫌いは駄目です!
カボチャはですね栄養価にとても優れているんです。育ち盛りの沙都子は特に栄養に気を遣わないといけないんですよ?
私の目の黒い内は偏食は認めないのでその覚悟でお願いします。
ほらほらみんなもどうぞどうぞ、ホコホコのカボチャって甘くて美味しいんですよー?」
<詩音
「……もにゅもにゅ。沙都子、これなら甘くておいしいのですよ?」
<梨花
「お、確かにこりゃいけるなぁ。カボチャの甘味がいやみなくそれでいて絶妙で! 沙都子、お前は食うなもったいない!!」
<圭一
「な、なんですってええぇえ!! カボチャは嫌いですけど言い方が気に入りませんわぁあ!!」
<沙都子
「そら行った行った! 一口にがばっと行ってみなよ!」
<魅音
「ほらね? おいしいでしょ?」
<レナ
「…………んんんん、………まぁその、食べれなくもないですわね…。」
<沙都子
「当り前です。沙都子がカボチャ嫌いを克服できるように日夜研究してますので。
さて、この調子で今年中に、ナス、ピーマン、アスパラガスと制覇して行きましょう。」
<詩音
「冗談はごめんですわーーー!!! 私が興宮の学校に転校しましてよー!!!」
<沙都子
「だぁめです。悟史くんから頼まれている以上、健康管理は私の担当です。不摂生も許しませんからそのつもりで!」
<詩音
「ふわああん、詩音さん嫌いーー!! カボチャ嫌ーー!!!」
<沙都子
■泣いて逃げる沙都子を追いかけて、詩音も退場。ドスンバタンと揺れる。それでゆっくりフェードアウトして終了。
■幸せのノート(目明し編クリア)
「えぇ、葛西氏が踏み込んだ時には室内は無人でベランダへの窓が開きっぱなし。その時が飛び降り時刻です。それでその真下の5階エレベーターフロアの屋根に一度落ちて脳震盪。そのしばらく後に横に転がって再落下、死亡。
葛西氏が飛び降りを疑って、地上を調べたときに遺体が見つからなかったのは、この時点ではエレベーターフロアの屋根の上で昏倒中だったからです。」
「前原圭一が刺されたのは、ほぼ同じ頃。その頃には園崎詩音はすでに飛び降りていて、屋根の上で脳震盪中…? …違いますねぇ。ベランダから抜け出して圭一を刺して。ベランダへまた戻る時に誤って落下…、じゃないかなぁ? 悪いけど、周辺の部屋のベランダとかも調べ直してください。」
「大石さーーん、3番にお電話です。」
「ハイハイ、どちら様から?」
「佐藤と伝えれば分かるとか。合言葉はロンと言えと。」
「なっはっは! もしもし! あーサトさんですか。こっちへ電話ということは、いい知らせでしょうね?」
『もしもし…。例の件は旦那の読み通り。』
「ありがとうございます! 今度フラワーロードで一杯おごりますよ。」
「何です、今の電話。麻雀の誘いですか?」
「ビンゴ。園崎姉妹は逆なんです。魅音が詩音で、詩音が魅音。刺青入れる時に間違って逆にやっちゃって、取り返しがつかなくなったらしい。だからこのノートの魅音と詩音は逆に読むんです。それでなら、悟史くんと詩音さん、…いや魅音さん? ややこしいなぁ! …の関係が理解できる。」
「ノートって、先日のあの、大石さん宛てと書かれて郵便ポストに投函されてたって言う怪ノートのことですか? 中身はめちゃくちゃで捜査撹乱の恐れありって言いませんでしたっけ?」
「もちろん、名前の入れ替えがわかったところで、撹乱の域を出ませんがねぇ。……このノート、どこまで信じていいのやら。…もし本当なら、古手梨花の死の辺りが怪し過ぎるからなぁ…。」
「…狂人の日記ですよ。読んでるとこっちまで狂いそうになります。最後のページの、生まれてきてごめんなさいなんて、…読んでるとこっちまで飛び降りたくなりますよ…。」
「…………でも。幸せな日記じゃあないですか。」
「しあわせ、……ですか?」
「この日記だけで、悟史くんって名前、何回くらい出てくると思います? ………詩音さんは本当に悟史くんのことが好きだったんだなぁって。その好きというのがね、若さゆえの勘違いで、ずれちゃって。」
■大空でしばらくのんびりフェードアウトで余韻〜☆
■チャンバラで勘当(目明し編クリア)
「ねぇ、教えてよ母さん。鬼婆とどういう喧嘩をしたわけ? 勘当されるなんてよっぽどだったわけでしょ?」
「お前も下らないことに興味が尽きないね。……ま、そろそろ話してもわからない歳じゃないか。実はね、父さんと結婚したいって言ったらね、駄目だって言われちゃったのよ。」
「へ? 何それぇ?!」
「私も当時はだいぶ斜な生き方してて呆れられててね。その挙句、連れて来た男が任侠者だったわけでしょ。そりゃ大喧嘩よ。許婚は頭首が決める、なんて言われて、そんなの知ったこっかいこんの糞婆ァ! この場で斬り伏せたらあッて大立ち回りよ。互いに板の間の日本刀抜いて、チャンチャンバラバラ。あっはっはっは。」
「ひぇー…! 鬼婆と殺陣を演じたわけ?! 母さんやるねぇ…。」
「まぁねー。母さん、こう見えても若い頃は武闘派だしー。互いに剣道有段だからそりゃードハデだったわよ。周りはオロオロ、あー面白かった。」
「なるほどねぇ……。その騒ぎのせいで勘当されたわけ?」
「そうよ、勘当上等! 遠慮なく勘当もらって父さんと籍を入れたわよ。まぁけじめってことで爪を剥がされたけどねー。ほら、左手の爪だけ歪でしょ。」
「うわぁ……。それで鬼婆と母さんはずーっと仲が悪いわけだね…。」
「あははは、詩音、本当はね? そんなことないの。私と鬼婆さまはちゃんと仲がいいんだよ?」
「…えーーー!? うっそだぁ!」
「鬼婆さまには面倒な世間体があるからね。一度でも勘当した以上、甘くすると示しがつかないし。だから私も親類会議とかでは大人しく引っ込んでるけど。たまーに遊びに行ってのんびりお茶とか飲んでるよ。」
「うそだーーーー、信じらんないねぇ…!」
「実はね、内緒よ? 鬼婆さまもね、その昔、けじめで爪を剥いだことあるんだってよー? 今度、会ったら左手の爪をよく見てごらん。」
「ひぇー……! 鬼婆は何をやったわけ?」
「さーーーーねーーーーー! 母さんは知ぃらない☆」
「わ、その顔は知ってるなぁ?! 教えてよー!」
■スタッフルーム(真面目ルーム)
皆さんは人殺しが、動機によっては許されるなんて、思いますか?
こんにちは、竜騎士07です。
この度は『ひぐらしのなく頃に解』目明し編をお楽しみいただき、誠にありがとうございます。
人の死を多く描く『ひぐらし』ですが、描きながら自問することがあります。
それは、許される殺人はありえるのか、ということです。
私たちの世の中では、殺人は裁かれ、その動機や事情によって罪の軽重が変わります。
命の対価が罪の重さなら、それは私たちが命の価値に個人差を認めていることになります。
『ひぐらし』の世界には、殺人を肯定するシーンが描かれる時があります。
そこでは、殺される人間の命の価値が薄められることにより、プレイヤーの皆さんの「同意」を得やすくされています。
同意は人によって異なります。
同意した方は一体感とカタルシスを感じ、同意できなかった方は狂気と不快感を感じたと思います。
「祟殺し編」における圭一の評価の二極化が、これを如実に物語るかと思います。
今回の「目明し編」でも、多くの殺人が描かれています。
今回の主人公、詩音は個々の殺人に、自分の同意を得ようとしていました。
皆さんはどうでしたか?
どこまで同意が出来ましたか?
ひとつも同意できなかった方は、どうか詩音を殺人鬼と罵ってください。
いくつか同意できた方は、どうか詩音を哀れんでください。
ほとんど同意できた方も、どうか詩音を哀れんでください。
全部、同意できた方は、詩音と一緒に殺人鬼と罵られてください(笑)
竜騎士07はですか?
………さて、それは内緒。
ところで質問の仕方を逆にしますが、…あなたは殺されるならどんな犯人になら納得できますか?
人の命など何とも思わない快楽犯?
これは悔しいですよね。
自分の価値を否定されて殺されるのはとても悲しい。
泣きながら許しを乞う悲劇の犯人?
これも悔しいですよね。
許しを乞うくらいなら殺したりするな(笑)
じゃあ、どんな犯人になら、殺されても納得できますか…?
結局、「同意」なんて、その殺人劇を、楽しめるか否かでしかないのかも。
同意できれば、楽しい。
同意できなければ、狂ってる。
命に元々重さなんてないんです。
それを測ろうとするのがヒトの罪。
殺人は殺人。
それ以上でも以下でもない。
だから、みんなで仲良く暮らしていけたらいいな、と。
いかがですか?
あなたはこの話に、同意できますか?
できなかったなら、………くすくすくすくす。
この度は『ひぐらしのなく頃に』、「目明し編」をお楽しみくださり、誠にありがとうございました。
皆さんの応援のお陰で、無事に第5話をお届けすることができました。
物語はいよいよ結末に向け加速して参ります。
どうか今後ともお付き合いいただければこれほど嬉しいことはありません。
次回シナリオは「罪滅し編」と題しまして、平成17年夏のコミックマーケット発表を目指しています。
どうか、ちょっぴりでも楽しみにしていただけたら幸いです。
この度は遊んでくださり、本当にありがとうございました。
退屈な時間の、ささやかな彩りになりましたら幸いです。
07th Expansion
竜騎士07