ひぐらしのなく頃に 「暇つぶし編」
誰が犯人かって?
それを探す物語に決まってるでしょ?
誰が犯人かって?
そもそも「何の」犯人かわかってる?
誰が犯人なの?
私をこれから殺す犯人は誰?!
昭和60年盛夏
時間の読みを間違え、早く来すぎてしまった。
バタバタバタタ…と、時間表がめくれて行く。
私の乗る札幌行きの便の出発は、まだまだ先だ。
搭乗手続き開始までにだって、まだ1時間はたっぷりあるようだった。
…なら、その辺のベンチで目を瞑るのもいいか。
勤務明けからそのまま来たので、疲れのせいか少し眠い。
適当なベンチが見つけられたので、荷物を隣の席に下ろし、深々と腰掛けた。
「……はぁあぁーーーーー………。」
自然にこぼれるオヤジくさいため息。
いつまでも若者のつもりだが、やはり自分も立派な中年なんだろう。
…20代も後半に入ると体力は衰える一方という噂は、どうやら嘘でもないようだ。
最近は仕事に忙殺されるだけで、自分の時間というものを余り持たなかった。
こんな風に、一人旅を楽しむなんてことは、学生時代以来かもしれない。
…旅行の目的は旧友との再会だ。
旧友と呼んでいいかは怪しい。…悪友と呼ぶべきかもしれない。
彼は一昨年に退職を迎えた後、母の故郷である札幌に引越した。
その母もすぐに他界し、今は優雅に第二の人生を送っているという。
彼の名は、大石蔵人。
…××県興宮署の捜査一課に勤めていた元刑事だ。
私と彼が直接縁があったのは、実のところ、わずか三日間に過ぎない。
その後も、年賀状等でずっと縁はあったが、再会したことはなかった。
だから、彼と再会するのは…7年ぶりになる。
私と彼が出会ったのは、つまり7年前。
昭和53年のこと。
あの当時のことで、……どうしても大石氏に聞きたいこと、話したいことがあるのだ。
それについて説明するには、……あの昭和53年の事件を回想しなくてはならない。
…何から何までが闇で決められ、闇に葬られた、あの誘拐事件。
そして、………………ひとりの不思議な少女のことも思い出さなくてはならない。
…………………。
私の名は、赤坂衛(あかさかまもる)。
あれは、…まだ6月なのに妙に暑い年のことだった…。
昭和53年初夏
■オープニング・誘拐
「「「先生ぇ〜、さよ〜〜ならッ!!」」」
「ハイ、さようなら。車に気を付けるんですよ。お友達の家に寄り道なんかしないように。
明日の教科書の準備は必ず寝る前にしておくんですよ。」
がたがたがたがた!!
児童たちが廊下へ飛び出していく賑やかな音。
「でさ〜〜〜、つってんだぜぇ?!」
「そんなの俺、持ってるもんよー!! いらねぇよーッ!!」
児童独特の甲高い声。
賑やかに鳴くセミの声も、子供たちにはまったく届かないようだった。
住宅地のあちこちの交差点で、仲良しグループで下校していた子供たちが、ひとり、ひとりと別れていく。
昇降口を出た時には何人ものグループでも、家が近付けばその人数はどんどん減っていく。
…だから、下校する仲間の人数が少なくなるのは、それだけ家が近付いたという証拠。
「じゃあなー!! あばよー!」
「うん、また明日ねー。」
最後の友人とも別れる。
…路地を曲がったところにワゴン車が止まっていた。
窓が開いていて、カーラジオの音が外に漏れ出している。…ニュースか何かのようだった。
「……たため、道路交通法違反、公務執行妨害で3名を逮捕しました。一連の雛見沢ダム建設反対を巡る運動は、先月の機動隊との流血事件を境に過激化の一途を辿っており、警察では過激な活動家による次の事件を警戒しています。先週も、建設省庁舎前での犬飼建設大臣への直訴事件があったばかりで…、」
犬飼建設大臣という名に、少年はぴくりと耳を動かした。
その時、ラジオの音が漏れていた車の窓から、ひょっこりと男が顔を出した。
車の扉を開けるときの仕草が、前後から人や車が来てないか、確かめるための仕草とは少し異なった。
……面識のない男と突然、目が会い、少年は少し狼狽する…。
「……鶯、OK。雲雀、OK。前後2ブロック確保した。……いいぞ…!」
助手席の男が小さく耳打ちする。
男は頷くと扉を開け、…少年の前に立ちはだかった。
「………キミ、…犬飼寿樹くん?」
男はそう尋ねながら少年の名札を覗き込んだ。
…『いぬがいとしき』、名札には平仮名でそう書かれていた…。
■オープニング
電話の呼び出し音が三度目になった。
手を伸ばせば、すぐに受話器は取れる。
…だが、一度目の呼び出し音が鳴り止みもしない内に受話器を取ると、相手に安っぽくみられるのではないかと彼は気にしていた。
だから、彼は常に呼び出し音が三度鳴るまでは受話器を取ろうとしなかった。
自分でもつまらない癖だなとは思っている。
…だが、三度待たせる程度では、そんなに意味がないのではないか、五度くらいは待たせてもいいんじゃないか、なんて自分がいるのもまた事実だ。
そんな下らないことを頭に満たしながら、彼は三度目の呼び出し音が鳴り終わった余韻を噛み締めながら受話器を取った…。
「…………はい。…………もしもし……?」
「…………………………。」
「………………もしもし……?」
「…………………………。」
たまに交換機の不調で、通話がうまくつながらない時があることを彼を知っていた。
そういう時はさっさと電話を切り、もう一度先方に掛け直させればいい。
……そう思い、受話器を置こうとした時。……彼はこの電話が確かに繋がっていて、受話器の向こうには、声を潜めた何者かが確かに存在する気配を感じ取る…。
「………………………もしもし…?」
「…………………………。」
こちらの問い掛けが聞こえていないはずはない。……これは一体どうしたことだ?
無言電話というものを、彼が知らなかったわけはない。
だが彼はそんな電話を今日まで一度も取ったことはなかった。
…それが、単に幸運なことだったにせよ、…この電話にそんなものがつながるなんてこと自体が信じられなかった。
この電話には直通はない。
受話も送話も全てオペレーターを通す。
だから、身元の確認できない人間からの電話が取り次がれることは絶対にない。
だからこそ彼は、この理解できない無言電話にどう対応していいかわからず、困惑をしかけていた…。
「………あんた、誰だか知らないが、用がないなら切るよ。また掛けなおして下さい。」
それを捨て台詞に、受話器をガチャンと叩きつけようとした。
……そこで、相手は初めて、言葉を口にする。
「………………アナタガ名乗ッテクレナイカラ困ッテンデスヨ。アンタガ犬飼大臣ジャナイナラ、サッサト電話ヲ切ッテ下サイ。」
受話器の向こうから聞こえた、奇妙極まりない妙な声に驚かずにはいられなかった。
……こんな変なかすれたような、…金属的な声で喋れる人間がいるのか?
……いやいや、…これは…どこかで聞いたことのある声だ。
そう、よく低俗なドキュメンタリー番組で、身元を隠して告白する時に、音声は変えてお送りいたしております…なんて声になるじゃないか。
…この受話器の向こうから聞こえてくる声は、まさにそんな感じだった。
「………あんた、…誰。」
「………………ダカラ、ソレハコッチガ聞イテルンデスヨ。アンタ、犬飼大臣ジャナイノ?」
彼は、……犬飼は返事に躊躇した。
この不審な電話の真意が読み取れず、…漠然とした薄気味悪さすら感じる。
受話器を切り、オペレーターにこの電話の主は何者か聞こうとも思った。
…だが、彼はそういう気持ちを理性で抑え、とりあえず名乗り、話を聞くことを選ぶ。
「……そうです。犬飼です。………名乗りましたよ、だからあんたも名乗ってくださいよ。」
「……………私ノ名前ナンテ、ドウデモイインデス。マズ、アナタガドウイウ立場ニ置カレテイルカ、ソレヲ認識スルトコロカラ始メマショウ。…アナタハ今、自分ノ席デ電話ヲシテイマスネ? デハ、アナタノ席ノ右側ノ一番下ノ引キ出シヲ開ケテミテクダサイ。」
大臣席の右側の一番下の引き出し。
…それは鍵の掛かった引き出しで、金庫にしまうほどでないにしても、それなりに重要なものをしまう位置付けの引き出しだった。
だから犬飼は、その引き出しの中にある何かの重要な情報を欲しがっているんだろうな、と思った。
「……すまんが、開けるつもりはないよ。自分の名前も名乗れんヤツの言いなりになる謂れはない。」
「引キ出シヲ開ケテクレナイナラ、コノ電話ヲ切リマス。……キット、後悔スルコトニナリマスヨ? マズハ引キ出シヲ開ケテカラ考エテモイインジャナイデスカ?」
犬飼はこの不審な相手の言いなりになるのは、とにかく不快だった。
……だが、後悔することになるという言葉が気にかかり、引き出しを開けてみることにする。
彼は自分の財布にしまっている小さなカギを取り出し、それで引き出しのカギを開けた。
……引き出しを開ける直前、手が止まる。
中に爆弾でも入っていて…、引き出しを開けることによって爆発するのでは……?
そんな妄想に取り憑かれたからだ。
それでも意を決し、…開く。
「……開ケテクレマシタカ? ソコニアル物ガ何カ、ワカリマスヨネ?」
「…………………これは…………どういうことだ?! おいッ!!」
「ドウイウコトカ、説明スル必要ナンカ、ナイデスヨネ。時間ヲ差シ上ゲマスノデ、少シオ考エ下サイ。マタ後ホド、コチラカラ連絡イタシマス。ソレデハ失礼………。」
「おい! 待て!! もしもし?! もしもしッ?!?!」
すでに電話は切れている。
いくら怒鳴っても意味はない。
……にも関わらず、犬飼はしばらくの間、それを思いだせず、受話器に怒鳴り続けていた。
……開かれたままの引き出し。
…ぎっしり詰まったたくさんのフォルダの上にちょこんと、それは乗せられていた。
『いぬがいとしき』
平仮名で書かれた小学生の名札が、…ちょこんと。
場違いな場所に、まるで畏縮するかのように、鎮座していた…。
■雪絵との回想…
………覚えてるかい、雪絵。この写真。
君に私が、初めてプロポーズをした場所だよ。
……君が頷き返してくれるまでのわずかな時間が、私にとって、どれほど張り詰めていて…永遠とも思える時間だったか、君にはわからないだろうね。
えぇ。私にはその程度の時間で永遠だなんて思われたら、たまりません……。
あなたが求婚の言葉を口にして下さるまでに、私が待ち焦がれた時間に比べれば、とてもとても……。
はははははは…。
あなたと出会ってから今日まで。
…私が生まれてから過してきた時間と比べれば、それはわずかな時間かもしれないけれども…。
それはきっと、永遠と呼べるくらいに尊くて美しい、…色あせない日々。
……そんな時間はこれからも続く。
…これからもね。
生まれる子は…男の子かしら。女の子かしら。
……どちらでもいいよ。
男でも女でも、…私たちが確かに愛し合った証の、生命なんだから。
男の子だったら、あなたの名前の一字「衛」を名前に加える。
女の子だったら、私の名前の一字「雪」を加える…。
何て名前にするのか考えるのが楽しくて、…結局今日まで決まらなかったね。
まだ迷える時間はありますよ。……そんなに長い時間ではないけれど。
………………実は雪絵。…今日は少し、謝ることがある。
……お仕事のことですね。
…………………………すまない。
…どうもややこしい仕事が入るみたいだ。……下手をすると、………出産日に、…駆けつけられないかもしれない。
いいんですよ。
あなたはとても大切な仕事をしています。
それは私たちの生活を守るために重要なもの。
………君と比べたら、大したことじゃない。
どうか、行ってらして下さい。
お帰りを、生まれる子と二人で待っています。
ありがとう。……そして、…すまない。
…どうか謝らないで下さい。
もしも罪の意識を感じられるなら…、いつかその分の、罪滅ぼしをしてくだされば結構ですから。
……あんな罪滅ぼしを何度もしてたら、お金がいくらあっても足りないよ。
くすくす…。冗談です。
…さ、……行ってらしてくださいな…。
部屋を出たところで、初老の男と鉢合せした。
……雪絵の父。…私にとっての、義父だった。
「……お義父さん。」
「邪魔する気はなかったからな。廊下で待たせてもらったよ。」
「…………………………。」
「聞き耳を立てるつもりはなかったが、聞こえてしまった。……行き給え。雪絵はああいう娘だ。……何があっても、自分が君の枷になることを望むまい。」
「………私は、…これまで雪絵に様々な犠牲を強いてきました。……出産という人生の節目にまで、…彼女に犠牲を強いることを…恥じます。」
「…君が本当にそう思うなら、…仕事が終わったら、雪絵のために時間を割きなさい。……君が仕事を投げ出して付き添ってくれるよりも、そうした方がきっと雪絵も喜ぶだろう。」
「………ありがとうございます。」
「君が、とても大切な仕事をしていることは私もよく知っている。自分の仕事を誇りに思いなさい。雪絵は、君が見事難題を解決して凱旋するのを楽しみにしている…。」
「…はい。」
表に待たせてあったタクシーに飛び乗る。
ここへやって来た時と比べると、料金メーターの数字は大きく増えていた。
……私と雪絵にとってのささやかな時間は、どうも客観的にはささやかとは言えないらしい。
「待たせてすみません。やって下さい。」
「…いえいえ。では参りますよ。」
タクシーはガクンガクン、とギアを入れなおすと軽やかに加速し、妻の病院をあっという間にビル群の向こうに埋もれさせてしまった。
……厄介なヤマとなれば、…しばらく戻ることはできないだろう。
新米で、しかも非番の私を呼び戻すということは…、恐らく室長は全職員を招集したに違いない。
ベテランの上級職員が緊急招集されることは、時にあることだが。
…全職員を招集するような事態は…初めて経験する。
何が起こるにせよ、…初めて経験する事態なのは間違いなかった。
………妻の出産を控えるこの時期に。……悪態をつけばキリがない。
いつもなら心を晴れ晴れとさせる青いいちょう並木も、今日は精彩を欠いて見えた…。
やがて…庁舎が見えてきた。
軽く息を止め、…全身に緊張感を取り戻す。
……………自分がいかに大切で重要で、…困難な仕事をしているかを思い出せ。
心を落ち着け、…精神を鋭利に。
………よし。
タクシーは庁舎の前で止まった。
■警視庁公安部への登庁
東京 霞ヶ関 警視庁公安部
「室長、全員揃いました。赤坂くん、ブラインド降ろしてくれる?」
ブラインドを下ろすのはプロジェクターを使用する時と、不穏な内容が含まれる話がされる時だ。
ブラインドが、しゃーっという小気味よい音を立てながら、室内の採光を奪っていく。
……やがて室内は、爽やかな朝の空気を完全に失い、無機質な蛍光灯の灯だけになった。
全員の顔が揃っていることを主任が確認し、室長にもう一度頷く。
……室長は張りつめた空気の中、厳かに立ち上がり、切り出した。
「推定48時間前、建設大臣の孫にあたる、建設省幹部の子息が誘拐された模様です。建設大臣は事態を穏便に済ませるため、警察へ通報せず、要求に応じるものと思われます。」
今から推定48時間前、建設大臣の孫である、建設省幹部の子息が誘拐されたらしい。
されたらしい、という言い方になるのは、事件の当事者がそれを認めていないからだ。
「大臣宅の通話を監視した結果、都外からと思われる不審な電話が数件確認されました。
誘拐された子どもは病気療養中となっているが、通院の形跡はなく、周辺での目撃例もなく。その他いくつかの理由から、事件発生は間違いないものと断定しました。」
…ここでは、どういう経緯でこの事件が明るみに出たのかは割愛される。
ちょっと考えれば、事件発覚以前の段階、つまり日常的に大臣宅の通話監視(我々は盗聴という言葉は使わない)をしていたことが想像できるだろう。
もちろん、裁判所の許可はないし、国民にも説明はとても難しい…。
だが今回のように、未然に凶悪な事件を嗅ぎ付けるにはとても有効は手段なのだ…。
事件が起こる前に対処することもまた、我々公安部の仕事なのを理解してほしい。
「なぜ警察に通報せず要求を鵜呑みに?」
「大臣たる者が警察を信用できないってんだから、世も末だね。」
「犯人グループは誘拐初期に、自分たちが大臣の生活をかなり高度に監視していることを警告し、その証拠を示した様子です。大臣が屈伏し、警察への通報も思い止まるほどの何かですね。」
「警察へ通報してもすぐにわかるぞ、って?」
「大臣の近辺に内通者がいる可能性、か。」
この手の事件に経験があるらしい、上級職員の何人かがため息を漏らす…。
「犯人グループの目的が、要求にあるのか、事件そのものにあるのかは不明ですが、いずれにせよ、国益を脅かす事態に発展する可能性が極めて高い。」
要求を通すのが目的の、単なる営利目的の犯行ならまだ可愛い。
…だが、大臣を揺さぶり何らかの政治的アクションを狙った犯行だとすると、背後関係は急に複雑になる。
「被害者の協力がないということは、脅迫内容も要求も一切不明、ということか…。」
「本件は内通者の水準がかなり高いと思われるため、当室のみの極秘捜査とします。また本件は本日より最優先事項となり、これまでの通常業務を一時凍結して対応します。よろしいですね?!」
その後は主任が引き継ぎ、手際よく今後について説明していった。
事件が公になった場合、大臣の政治生命に危険が及ぶ可能性がある。
…その後のドミノ連鎖は割愛するが、最終的に内閣支持率低下、解散総選挙、共産勢力の拡大を許す結果となりかねない。
…デリケートな対応が求められるということだ。
「川崎と佐伯は大臣宅、子供宅の通話を24時間監視。大臣の動向を探れ。動きがある度に逐一報告せよ。残る各職員は担当団体ごとに本件との関連を調査。日共、赤軍、連合のラインは集中的にやれ! それから外国勢力も水を漏らすな!」
…穏便でない事態は一度か二度経験した。だが、こんなに慌ただしいのは初めてだった。
私のような新米は抜きで、次々に高度な話が進んでいく。
…仕事に臆すつもりはないが、初めての事態に困惑は隠せなかった。
「……に行ってくれ。で、赤坂くんは、」
自分の名前を呼ばれ、ぼやけていた意識が戻る。
「は、はい!」
「赤坂くんは大臣に陳情してきた環境保護団体関連を調査してくれ。中でも、新聞でも騒ぎになってる雛見沢ダム建設反対の団体をよく調査すること。住民団体の仕業とは到底思えないが、全ての可能性を潰していかなくてはならない。」
「わかりました。雛見沢ダム反対、…か。」
「直接現地へ行った方がいいだろう。現地県警で情報を取れ。かなり過激な団体らしく、向こうの公安でもマークしてるらしいぞ。」
「わかりました。現地へ出向します。」
「……奥さん、出産控えてるんだって? こんなタイミングで申し訳ないけど、協力、頼むよ。時間がかけられないから、人海戦術で総当たりでいくしかないんだ。」
「えぇ、わかってます。…家内も、自分の都合が私の仕事に障ることを嫌いますから。」
「すまん、ありがとう。……それから川崎くん佐伯くん、君たちの応援に…、」
…妻の出産を間近に控えた私としては、出張などしたくはなかった。
多少忙しくとも、東京にいられれば病院へ飛んで行ける。…でも、出張では…難しい。
だが、自分がとても大切な仕事をしていることを理解していたし、私情でわがままが言えるような事態でないことも理解していた。
この大切な時に側を離れなければならないことを妻に詫びなければ。
妻は、雪絵は笑顔で許すだろう。
私の枷になることだけを嫌う性分だから。
…それでも敢えて引き止めて欲しいと思うのは、男のエゴだ。
すまない、…雪絵。
お父さんはお前が産まれた時、仕事にかまけてて病院に来なかったんだよって、生まれた子供にずーっと厭味を言ってかまわないから…。
…翌日、私は新幹線で名古屋に向かい、そこからはさらに乗り換えて××県へ向かった。
現地へは陸路で数時間だ。
空路なら、香港辺りまで行けるような時間。…××県は決して近くない。
仕事でしか乗ることのないグリーン車は、いつも座席が固く感じた。
軽く目を閉じ、昨日目を通した資料を思い返す。
調査対象団体、「鬼ヶ淵死守同盟」
雛見沢ダム開発計画に反対する地域の住民団体だ。
現地では反対運動がかなり白熱、過激化しているらしい。
新聞で見る限りでも、機動隊との激突による流血事件、ダム工事に対する威力妨害など、枚挙に暇がない。
関係機関への陳情や座り込み、直訴なども数知れず。
…その延長には、先日の建設大臣直訴事件がある。
(これがそもそも、今回、この団体を調査することになった所以だ)
…自分たちの住まう土地が水没するのだから、死に物狂いなのは理解に難しくない。
だからといって、…建設大臣の孫を誘拐して計画の中止を求めるような真似を、こんな連中にできるのか?
本音から言えば、甚だ疑問だった。
この誘拐劇は極めて高度で、かつ政治的背景が予想される複雑な事件だ。
……反対運動の住民団体風情にできるようなものじゃない。
……だが、室長の言う通りこの調査は、全ての可能性を潰すための一環だ。
この事件は、私が××県警の資料室辺りでのんびり調査をしている内に、東京の上級職員たちの手で解明され、解決されるだろう。
私の働きとは関係なく。
…そう思えば思うほど、妻の出産を控えたこの時期に東京を離れるのが残念でならない。
仕事さ。…仕方ない。
ピンポンパンポーン…。
目的地にじき到着することを伝える車内アナウンスに、私は意識をまどろみから戻すのだった。
■××県 県警本部
「鬼ヶ淵死守同盟ですか。えぇ、地元ではかなり賑わせているようです。」
県警公安では、すでに資料もお茶も用意して、私を待っていてくれた。
「早い話がダム反対の住民運動なんですが。事実上、水没地域の住民全てが決起したと言っていいでしょうね。
死守なんて古風な言い方が示す通り、相当の決意と覚悟を持った連中です。そこら辺の温和な住民団体とは一線を画すと思って頂いた方がいいですね。」
資料室に用意されていた資料は、決して薄いものではない。
「発足当初は、ごくごく平均的な住民運動だったんです。それが、いつだかの流血事件を境に急にヒートアップしまして。今では暴力主義団体か、それに準じるくらいの過激な勢力に成長したと言えますね。」
暴力主義団体は、自らの思想・主張を民主主義に則らずに主張しようとする団体を指す。
その内訳は、ほとんどが極左の革命思想を持つ団体であることが多い。
……それを考えれば、住民運動がそこまで発展する過激さには驚かざるを得ない…。
過激な抵抗をする住民運動も時にはある。
だが、この団体のそれは、…そんな生易しいものではないらしい。
…私は、この鬼ヶ淵死守同盟という団体についての認識を少し改める必要があるようだった。
「………鬼ヶ淵死守同盟が要求、つまりダム計画の撤回を求めるために行いうる活動範囲はどの程度でしょうか?」
大臣の孫の誘拐事件は秘匿されている。
…それはもちろん、××県公安にも伝えられていない。
「ご存知の通り、先週あった犬飼建設大臣への直訴事件では逮捕者も出ています。違法行為を以て主張を通そうとする危険性は、十分にありますね。」
資料に記載された、鬼ヶ淵死守同盟に関連する犯歴リストを斜め読みする。
…内容はどれも粗暴で、法を遵守しようとする気配は微塵も感じられないものばかりだった。
「具体的に、鬼ヶ淵死守同盟が行った違法行為を教えていただけますか?」
室長は黄土色のフォルダを開くと、不ぞろいな資料を何枚か漁り、机の上に広げてくれた。
「建設現場への襲撃事件がもっとも多かったですね。初期の頃、電源コードの切断や錠前の鍵穴に石を詰める、投石による事務所の窓ガラス割り等の軽犯罪が頻発していました。」
もちろん本当の初期は、デモ、座り込み、チラシの配布等、賑やかなれど民主的な抵抗運動だった。
だが、デモ隊と機動隊が激突して乱闘となり、多数の逮捕者と流血者を出したある事件をきっかけに、鬼ヶ淵死守同盟は文字通り、抵抗運動を鬼の形相に変えていく…。
「襲撃が度重なれば、地元警察による警備強化がなされるのでは?」
「そりゃ警戒はしたでしょうね。でもあちらは地元ですから。闇に乗じて忍び込まれたらお手上げでしょう。」
……ダム現場を内包する、雛見沢村地区が丸ごと敵地なのだ。
警察がいくら警備をしたって…、易々と潜り込んでみせるだろう。
「警察が警備を固めてからは、むしろ挑発されたように過激化が進みました。…ほら、この辺りからだいぶヒートアップしてるのがお分かりになります?」
「…………事務所の放火。…建設重機の破壊工作。…破壊? まさか爆弾でも?」
「いやまさか。連中ですね、タンクに角砂糖を放り込むんですよ。あれやられたら、エンジン焦げ付いちゃいますから。」
……日本でも、終戦直後、進駐軍の車両にそんなことをする輩がいたらしい。
……窓ガラスを割るなどというイタズラ紛いに比べると、…極めて暴力的で攻撃的だ。
「…そこまでやられたら、地元警察の面目は丸つぶれですね。」
「放火はさすがにですね。それで地元警察が24時間体制の人員を大幅に増員しまして。それで建設現場への襲撃は一段落したようです。」
室長は一段落という言葉を使ったが、…犯歴リストはそれでやっと真ん中辺りだった。
「で、連中ですね。現場への直接攻撃が難しくなったと知ったら今度は個人攻撃に切り替えました。…最初に狙われたのが、工事事務所の現場作業者でした。」
そこからは、まさに暗闘。
まるで…密林で繰り広げられているゲリラ戦を見るかのようだった…。
工事従事者への因縁、脅迫、暴力。暴言を投げつけ、石すらも投げつけた。
「………かなりの告訴がされているのに、逮捕者があまり出ていませんね。」
「そりゃそうです。第一、目撃者なんかいないんですから。それどころか、現行犯だったにしたって、アリバイがぽんぽんぽんと出来ちゃうんです。」
「……? それはどういうことですか?」
「うー…ん。…例えばですね、あなたが雛見沢で歩いていて、ある男にナイフで刺されたとします。あなたは相手をよく覚えていて、名前も住所も特定できてるとします。ただし、ナイフには指紋がなく、物的証拠だけがない。……まぁ、ありがちな傷害事件だと思うでしょう? でも雛見沢じゃ完全犯罪なんです。」
全てが…丸ごと村ぐるみなのだ。
犯人のはずの男を擁護するため、村中が口裏を合わせてアリバイを用意する。
……そのために何らかの証拠の捏造すら行われるだろう。
「裁判にもつれ込ます他ないわけですが。何しろ、物的証拠はない上、犯人を隠匿する証言だけは後から後から増えていく。…検察も書類送検には二の足を踏むわけです。殺人ならいざ知れず、投石で額を切った、殴られてアザができた程度だと、仮に犯人を特定できたとしても、嫌疑不十分で送検されないことがほとんどです。」
どの犯行も、雛見沢の誰かの仕業であることは間違いないが…それを特定できない。
仮に誰の仕業だと特定できたとしても、法的に拘束するのに必要な状況証拠が集まらない…。
村人たちも、その辺りを極めて高度に熟知し、陰湿に悪質に…そして執拗に、個人に対する攻撃を続けていった…。
「被害者はそれでは納得できないでしょう。検察審査会に再審請求を出さないのですか?」
「それはですね、審査員たちが皆、……厄介事に巻き込まれたくないと思っているからですよ。雛見沢関係のトラブルには、首を突っ込みたがらないんです。」
検察審査員は、当該地区から無作為に抽出される住民で構成される審査会だ。
…検察が不起訴とした事件を、再調査するよう差し戻す権限がある。
法曹界のエキスパートである検察に、少しでも民意を取り入れるための制度だが…。
……地元住民で構成される、という点がここでは裏目に出ていた。
「首を突っ込みたがらない? それはなぜです?」
「…………ぅ〜ん…。何て説明すればいいんでしょう…。恐れられている、って言えばいいのかな…。……あそこはね、少し特殊なんです。」
「……特殊? 被差別部落のことですか?」
「いえ…そういうのとは少し違うというか……。……まぁその、…怖がられていると思ってください。この辺りは口では少し説明しにくいんです。………あぁ、そうだ。わかりやすいのがありました。」
室長はハンカチで額を拭うと、鬼ヶ淵死守同盟構成員リストと書かれたファイルを開き始めた。
「鬼ヶ淵死守同盟の勢力にはですね。…近隣の町々に強い影響力を持つ人間が多々おりまして。この辺をご覧いただけますか?」
……見て、少し驚く。
県議に市議、商工会議所の役員たちや、商店会連合会の幹部。
…連合町会の幹部やPTA連絡会関係者など、……地元や周辺地域で強い発言力を持つ者が多く含まれていた。
「この界隈では、雛見沢のダム反対運動は皆、静観しているのが普通なんです。…ダムを肯定するような発言をすると、…どこでどう巡って不利益を被るかわからない。何しろ、近隣の町の喉元は、雛見沢出身の人間が抑えていますからね。」
「検察審査員のリストは非公開でしょう? 報復がされないように何らかの措置が取られているはずでは?」
「……一応、非公開でプライバシーは守られてますがね。それを管理してるのは興宮市役所の人間。…つまり地元の人間なんです。守秘義務があるとは言え、…やはり人間のつながりはわかりませんからね。雛見沢の人間はその辺りのつながりが事のほか強固ですから。」
…地域のしがらみや義理、地縁で編み上げられた情報網は、とても侮れたものではない。
近所の主婦連が、どこのお宅のどこの子が、何年何組で得意教科は何で嫌いな野菜が何かなどに熟知しているなんてことは、よくあることだ。
「……それにほら、…雛見沢と地縁の深い暴力団組織がありましてね。これが今回の騒動に全面バックアップしてるらしいんです。こちらが出てくるのが一番、効いてるみたいですね。」
「暴力団? ダムの建設反対で住民と一致? ……どういう利害が一致するのか読み難いですね。」
「そりゃ難しいことじゃないです。実はですね、この暴力団の組長がですね、雛見沢村の出身なんです。村の重鎮のひとりの婿養子に当たりまして。」
…………雛見沢村というのは…どういう村なんだろう。
ただのひなびた寒村だと思っていた。
だが、どういうわけか周辺地域に強い影響力を有し、強い連帯感を持ち。自分たちの村を守るためなら、どんな暴力的手段も問わない。
室長は、影響力をもつ人物が多いから恐れられている…というような言い方をしたが、何となく、村そのものが恐れられているような印象を受ける。
……私が東京で読んだ資料にあるような、単なる反ダムの住民運動とは、明らかに何かが異なっていた。
なぜか、心に焦燥感が宿る。
………私は、…聞き方としては最低の部類に入る方法で。
…すなわち、単刀直入に私の知りたいことを切り出した。
「……………室長。…これは例えば、仮の話ですが。」
「はい?」
「………例えば、その鬼ヶ淵死守同盟が、…ダム計画を頓挫させるため、…………例えば、要人を脅迫するようなことは考えられますか?」
室長は即答した。
「ありえるでしょう。事実、彼らは市役所や県庁、建設省の工事事務所にも押しかけ、恫喝紛いのことをしていますし、工事関係者の家族が不審者に付け回されたという事件も起こっています。」
…それくらいはするだろう。
ダム運動と戦うため、工事現場を襲撃し、建設重機を破壊して事務所に放火し。
…工事関係者を襲って、脅迫や暴行を加えることに躊躇がなかった彼らなら、…それくらい平気でやってのけるだろう。
………だが、……そこまでだ。
脅迫や暴行ならちんぴらでも出来る。
だが、今回の大臣の孫の誘拐は…非常に高度な犯罪だ。
誘拐そのものの難易度に加え、大臣を交渉開始と同時に屈伏させる手腕など、到底素人とは思えない。
…彼らには、ここまでの犯罪を行なうだけの力があるのか…?
核心はそれ一点だった。
…鬼ヶ淵死守同盟は、…今回の事件を起こせるだけの組織なのか。
……私はそれを聞くため、もう一度。
……最低の方法で切り出した。
「………例えば、政府要人の関係者を誘拐して脅迫、……なんてことがありえると思いますか?」
まさか、そんな大それたことはできませんよ。
私が一番期待していた回答だった。
そうであるならば、…私の仕事は半分は終わったも同然。
妻の出産には立ち会えるかもしれない。……そうなるはずだった。
室長は、躊躇するような仕草を見せもせず、…よどみなく言ってのけた。
「やるかもしれません。…底の知れない連中ですから。」
…ごめん、雪絵。
………やはり私の仕事は、簡単には終わらなさそうだった。
「……お、赤坂くんか。ご苦労さん。××県警での情報収集はどうですか。」
「順調です。これから現地警察の公安と接触できることになりましたので、現地へ向かう予定です。東京の調査の方はどうですか?」
「他の職員も順調に調査を進めているよ。でも調べる団体が星の数だからね。そんなに悠長に時間もかけられないし。」
…進展は今のところなし。
どんなに鬼ヶ淵死守同盟が疑わしくたって、東京で解決すれば私の仕事は終わる。……そういう甘えは通用しないようだった。
受話器を置き、窓から見える異郷のビルの谷間に視線を泳がせた…。
「赤坂さん。今、お貸しできる車が戻ってきました。ご案内しますのでこちらへどうぞ。」
「あ、すみません。」
エレベーターで地下駐車場に案内され、いい具合にくたびれた乗用車を用意してもらった。
ハンドルがやや左に泳ぐクセが少し気になったが、しばらくの間の私の足になるには充分だった。
向かうは、××県鹿骨市。
……鬼ヶ淵死守同盟の勢力圏。その最前線を預かる、興宮警察署だった。
■一日目 アイキャッチ
■興宮警察署
××県 鹿骨市 興宮警察署
鹿骨市は、地方都市の中では廃れた部類に入る町だった。
興宮の町はその中でもさらに山奥の僻地に当たる。
四季の変化にも疎く、退屈な時間のまま季節に取り残された…つまらない町。
…観光名所もなく、名産もない。
地域産業もひとつ盛り上がりに欠ける、いわゆる映えない町だった。
だが、単調なれど平和な町並みからは、…鬼ヶ淵死守同盟の過激な抵抗を垣間見るのは難しい…。
反ダム戦争の最前線に立たされているという興宮警察署も、県警本部で聞いた暗闘の数々を微塵も感じさせない、退屈な雰囲気を漂わせていた。
「おはようございます。違反金の納付ですか?」
「いえ、公安部の本田屋さんにアポイントがあります。赤坂とお伝え下さい。」
「あ、…しし、失礼しました、少々お待ち下さい…。」
人の顔を見るなり駐車違反だと思い込んでくれた事務員は、かけ慣れない内線番号に戸惑いながら、先方に自分の来訪を伝えていた。
「どうもどうも! 赤坂さんでいらっしゃいますか、遠路遥々お疲れさまでした! こんな部屋で申し訳ありませんね、応接室をおさえてあったんですがね。議員さんが突然お越しになっちゃったんで追い出されちゃいまして! わははははは!」
そこは会議室と呼ぶには少々抵抗を感じる、雑多な狭い部屋だった。
…狭い部屋にはぎっしりの着替えロッカーが並び、会議室というよりも、更衣室に設けられた喫煙スペースのような印象だった。
下品にげらげら笑う、この本田屋という地元公安の幹部は、およそ知的な人物に感じられなかった。
だがその分、自らの勘と経験に揺るぎない自信を持つことがわかる。
「ご多忙中、突然お邪魔して申し訳ありませんでした。警視庁から参りました赤坂と申します。よろしくお願いします。」
「公安部の本田屋です。よろしくよろしく。県警暴対の山海部長から協力を惜しむなと脅されとりますので。わははははは!」
「暴対? 県警の暴力団対策本部ですか?」
「うちじゃあ、鬼ヶ淵死守の連中は暴力団の延長に位置づけてますんでね。あれを善意の住民運動だなんてあんた、トーシロもいいとこですわ、わははははは!」
県警でも、鬼ヶ淵死守同盟が地域の暴力団と連携していると言っていた。
確か、組長が村の重鎮の婿養子だとかで…。
「そりゃ逆。全然逆ですよ、暴力団の活動があって、それに住民団体が大義名分みたいにくっついてると、そういう風に考えて下さい。逆、逆。わははははは!」
本田屋氏が豪快に笑い転げる。
……県警での情報とは若干異なるが、この手の情報は地域に密着した人間の方がよほど詳しいものだ。
私たちがこうしたやりとりをしている間にも、時々、刑事らしき人間が何人か入ってきては、着替えをしていた。
…そんな内のひとりが、本田屋氏の大笑いに気付き、こちらに歩み寄ってきた。
「何の話をしてるかと思えば。んっふっふっふっふ!」
「おー、蔵ちゃん! ちょうどよかった、蔵ちゃんも入ってよ。こちら、はるばる東京の警視庁からお見えになった赤坂警部。」
「警部だなんて…! ま、まだまだ新米です。赤坂です、よろしくお願いします…。」
「初々しいのがいいですねぇ。採用は今年ですか? んっふっふっふ!」
見くびられるかなと思ったので、愛想笑いだけにして、答えないことにする…。
この新しく現れた男も、本田屋氏同様、勘と経験に強い自信を持つ叩き上げタイプであることが見て取れた。……この手の人間は、…本当は好きではない。
「赤坂さんにもご紹介します。こちらは刑事部の大石くん。赤坂さんがお問い合わせのS号の件なら、彼が詳しいです。」
「……S号?」
「園崎のS。S号ってのはですね、園崎家が関連してる件を示す…、まぁ暗号みたいなもんなんです。」
<大石
園崎?
……そう言えば、県警本部で読んだ資料の中に、園崎姓を持った人物名がいくつか出てきたことを思い出す。
「…確か、園崎氏は鬼ヶ淵死守同盟の役員でしたね。確か会計だったと思います。」
私がすらすらと園崎氏の役職を即答したのを見て、二人は目を丸くする。
…それからややしばらくして、二人して大笑いした。
「赤坂さんでしたっけ? なっはっはっは! あなたお勉強家さんですねぇ! ひょっとして同盟の連中の主要人物、全部暗記してるんじゃ? なっはっはっはっは!」
「…暗記、というほどではありませんが、一応、鬼ヶ淵死守同盟の幹部リストは一読しました。」
「んっふっふ! じゃあ、会長と副会長は?」
「会長は現雛見沢村村長の公由(喜)氏。副会長は町会神社部長の古手氏。会計が園崎(魎)氏で、会計監査は牧野氏。共闘部長が公由(義)氏、広報部長が園崎(禎)氏…、」
「なっはっは…!! 赤坂さん、あなたなかなかやりますねぇ! 給料安いけど、ウチに来ません? ウチに一番必要で、一番いないタイプですよ。んっふっふっふ! ……で、ちなみに園崎禎夫は青年部長なんです。惜しいですね、広報部長は園崎忠敬。んっふっふっふ!」
褒められている気がせず、少し不愉快な気分になった。
…だが、自分の今回の仕事に、一番欠かせない人間であることがますます分かり、その気持ちをぐっと堪える。
そんな感情を表情に出したつもりはないが、老獪な刑事たちには筒抜けなようだった。
「なっはっはっは! 馬鹿にしたつもりはないんです。……お詫びと言っちゃあなんですが、何でしたら村を実際にご案内しましょう。」
土地勘のまったくない自分には助かる…。願ってもない申し出だった。
「鬼ヶ淵死守同盟ってのは、結局、雛見沢村の対外的な別称に過ぎません。……村を知ることが、あなたのお仕事の近道だと思いますよ。…いかがです?」
住民運動はつまるところ、地域勢力のことだ。
運動のリーダーはすなわち勢力のリーダー。地域の考え方がそのまま運動の性格となる。
…大石氏の言うとおり、鬼ヶ淵死守同盟という反ダム地域勢力を知るには、村を知るのが一番の近道。
「…よろしくお願いします!」
間髪入れずに頷き返すと、大石氏は満足げに笑って立ち上がった…。
>>大石に雛見沢を案内してもらうということで、車で現地へ…
>>すでに車中のシーンとして。
■大石と雛見沢へ
県警本部や、本田屋氏の情報を鵜呑みにするなら、…自分の立場がバレれば、身の危険もあるかもしれない。
相手は個人への脅迫、暴力等のあらゆる攻撃を辞さない過激な団体だ。
自分の個人情報が漏洩すれば、身の危険は勤務時間外にまで及ぶことは想像に難しくない…。
……そう思うと、少しの緊張を感じた。
「連中は、顔覚えるの早いですからねぇ。私と一緒にいるところを見られると多分、いろいろあなたのお仕事に差し支えると思います。月並みですがね、こいつを身に付けておいて下さい。」
大石氏は、野球帽とサングラスとマスクという、あからさまに不審な小道具を用意してくれた。
暑苦しくて嫌だが、大石氏の忠告は多分、的を得ている。……そう思い、ありがたく身に付けることにする。
あまりの不審な身なりに、大石氏は苦笑をしていた…。
「……どこまで話しましたかねぇ。…えぇっと…。」
「御三家という旧家が村を支配している、というところまでです。」
鬼ヶ淵死守同盟とは、すなわち雛見沢村そのものであるということ。
つまり、同盟の幹部はそのまま村の幹部という図式になるということは、さっきの本田屋氏からも聞いた。
村を御三家と言う旧家が支配しているのなら、…鬼ヶ淵死守同盟を支配しているのも、その御三家という旧家…ということになる。
「県警の資料には何て書いてありました? 死守同盟のリーダー格とかそういうことについて。」
「……………………。」
…我々の扱う資料は一応、部外秘だ。
大石の問いかけに応えることは守秘義務違反になる。
…だが、恐らく。
県警本部のどんな資料よりも、この男の方が事情に精通していると判断した私は、答えることにした。
「同盟の会長は、現村長の公由喜一郎と。」
大石氏はそれを聞いて、小さく笑い捨てた。
大石がそのように尋ね、資料通りに答えた内容を笑い捨てたとなると。……実際には違う、ということになる。
「……では…公由氏以外の影の人物がいる、ということですね。県警の持つ、いや、一般的な情報とは異なり。」
「んっふっふ…。公由のじいさんなんて、ただのお飾りですよ。そもそもこの村じゃ、村長なんてポスト自体も形式だけなんです。」
「つまり、……同盟も村も、本当の意味で支配している別の存在がいる…ということですね? それが先ほど仰られていた御三家…という存在ですか?」
「まぁ、その辺りはこれからご説明します。…んっふっふっふ!」
突然、車がガクン!
…と揺れた。
舗装道路が切れ、砂利道に変わった。それと同時に、…窓の外の景色も一変した。
『雛見沢ダム計画断固撤回』
『恥を知れ傀儡県知事! 打倒**!』
『ダムに沈めるな雛見沢の自然!』
『悪辣なるダムから村を守れ!』
『怨念! オヤシロさまの祟り!』
『ダム粉砕! 役人は帰れ!』
『建設事務所は話し合いに応じよ!』
『**所長は談判に臨め!』
看板、登り旗、…そういったものが沿道にひしめいていた…。
書きなぐったような筆の文字が、それだけで読む者を威圧する。
そう、…まさにさっきの舗装道路の途切れは、国境だった。
…その時、突然の急ブレーキに驚かされる。
見ると……何と、道を塞ぐようにバリケードが設けられていた。
ヘルメットとマスクで顔を幾重にも隠した活動家のような身なりの人々が5〜6人、道を塞ぎ、停まれ停まれと怒鳴り声をあげていた。
「…こ、これは何ですか?! 検問?!」
「はん。…懲りない連中だなぁ。」
大石は鼻で笑いながら窓を開けて、身を乗り出した。
「…おいおいおい、あんたら、ダメだよこんなとこで道を塞いじゃあ。」
大石氏が悪意ある笑みを浮かべながら一瞥すると、男たちは明らかに怯んだようだった。
「……道、開けて下さいな。それじゃ通れないでしょ。んっふっふっふ!」
…まさか大石の車だったとは…。そういう狼狽が、彼らのうろたえようから見て取れた。
「……お、大石刑事の車とわかってればこんなご無礼はしなかったんですがね。…大石刑事、いつもの車はどうされました? 車検ですか?」
「そんなところです。代車ってのは、どうにも馴染みませんねぇ、んっふっふっふ!」
…短い会話から、普段、大石氏が使う車のナンバーを彼らが熟知していることを知る。
つまり、警察車両だと知っていたら、バリケードを隠していた…ということだ。
彼らがやっている行為は明らかに、路上の往来妨害。犯罪に他ならない。
「…そっちの怪しい男は誰です? あんた、顔を見せてくれませんか?」
サングラスにマスクという、あからさまに怪しい身なりをしている私に、男が威嚇するような眼差しを向ける。
…顔を見せないと無用のトラブルに巻き込まれる…? どうしたものか大石氏を伺う…。
「彼の顔は勘弁してあげてください。まだまだ新米でシャイなんですからね、んっふっふ!」
「………不審な輩じゃないか、確認しようってだけです。…最近の雛見沢は物騒ですからねぇ。」
「なっはっはっは! あんたの家、鏡、歪んでるのと違います? あんたのその面の方が、よーっぽど不審ですよ? なっはっはっはっはっは!」
男たちと大石氏は、愛想笑いを交えながら気さくそうに会話をしていたが……。
……独特の、火薬のような緊張感の臭いは終始、鼻を離れなかった。
「ゴミの不法投棄車両、まだ減らないんですか? お宅たちも本当に朝晩、大変ですねぇ。」
「警察の方にもご理解とご協力を頂けて助かりますよ…。はははは…。」
そんな話をしている内に、バリケードがどかされ、車一台分が通れるくらいの隙間が出来た。
大石氏はクラクションを小さく一回鳴らすと、車はそろりそろりと走り出した。
車の背中には、男たちの敵意に満ちた眼差しが送られているのが、バックミラー越しに見えた…。
「何ですか、さっきのは。勝手に公道を封鎖するなんて…!」
「もちろん犯罪ですよ。目くじら立てても始まりませんがね。んっふっふっふ! 連中の主張じゃですね、村内に不法投棄をするトラックが出没するって言うんです。それを封じ込めるために不審車両を検問してるって話だそうで。」
「不法投棄? 産廃を勝手に捨てようとする悪徳業者のことですか…?」
「警察が何の手も打たないから、自分たちで自衛するっていう論法でしてね。……まぁ、産廃なんて話はどうせ自演だからどうでもいいんですがね。」
「自演?」
「連中、うまい作戦なんですよ。ダム現場にですね、工事妨害のために産廃ゴミを自分たちでばら撒いてるんです。…で、それを悪徳業者のせいってことにして、臨検を設置すると。それで、工事車両をいちいち足止めして、チクチクと妨害してる、ってわけなんです。んっふっふっふ!」
「…………鬼ヶ淵死守同盟の、抵抗運動のひとつ、というわけですね。」
「多分、今の検問でこの車のナンバーが割れましたからね。…もうこの先には一切、検問の真似事はないと思います。……連中も、私を怒らせると得をしないことだけは、よぉく骨身に染みているようですからねぇ。なっはっはっはっは!」
「……………………………。」
「この車が工事関係車両だと知れるとですね。さんざん検問で足止めを食らうばかりか、投石や鉄釘のばら撒きなんかも食らうって噂です。…あなたも、身元が割れないようにせいぜい気をつけた方がいいですよ? 公安なんてバレたら、どんな目に遭うやら…。んっふっふっふ…!」
大石氏は、まるで楽しいことのよう話すが、こちらはとても笑えるような心境ではなかった…。
「…まるで、中東辺りの内戦の国に迷い込んだような錯覚です。」
「なっはっはっはっはっは! あんた、そりゃあーうまい言い方です。今、言われたのはまさにその通り。」
大石氏は、…にやぁっと…凄むように笑いながら、こちらに振り返って言った。
「ここはね、戦争地帯なんですよ。」
田んぼの中の一本道のようなところで、車は少し速度を落とした。
「あそこの森の中に家があるのが見えます? 古い感じの。」
大石氏が指差す向こうを見ると、…確かに言うとおりの古い合掌造りの家が見えた。
「あれが村長の公由のじいさんの家です。公由本家とも言いますなぁ。分家筋が多いですから。御三家のひとつに当たります。」
「…御三家。…雛見沢村を支配している旧家ですね?」
「そうそう。んで、もうひとつが古手家。こっちは分家どころか、もう神主一家しか残ってませんがね。……ちょうどあっちの方にね、神社がありまして。そこの神主をしています。ちなみにね、死守同盟の事務所はその神社の敷地内にあります。」
鬼ヶ淵死守同盟の事務所…。…相手を敵とするなら、まさに本拠地と言える。
「そこを見ることはできますか?」
「神社は古手家の私有地でね。警察と言えど、令状がないと踏み込めません。…連中のバックには村の息のかかった議員もいますからねぇ。…警察にも強いところと弱いところがある、ってことです。」
「…………………………………。」
「御三家、とは言ってもですね。…そりゃあだいぶ大昔のことなんだそうです。大昔はその御三家ってのが合議して、村のいろいろなことを決めてたらしいですなぁ。」
「ということは、…今は違うということですね?」
「………あんた、いちいち察しがいいですねぇ。さぁすが高学歴。んっふっふっふ!」
車はキィとブレーキを泣かせて停まった。
停まった先には何枚かの看板が見えた。
『この先、私有地、関係者以外の立入を禁ず』
『毒ヘビ注意! 危険、引き返せ!』
『侵入者には、入山料として金百万円の証文に捺印していただきます』
そんなことを書いた何枚かの看板が立てられていた。
道路と森を隔てるように有刺鉄線の巻かれた金網が続いている…。
「…私有地なんで、ここまでです。この先は、監視カメラがいくつも仕掛けられてます。うっかり道に迷いました、なんて論法が通じる相手じゃありませんからねぇ。」
「………この先が、そうなんですね?」
御三家の公由家でも、古手家でもなく、…現在の雛見沢村と鬼ヶ淵死守同盟を影から支配する、……最後の御三家。
「えぇ。…この先にあるのが御三家のひとつ、園崎家。……雛見沢村を影から支配する連中です。」
…資料の中の幹部リストでも、御三家の姓を持つ名前は多かった。…もちろん、園崎も例外ではない。だが、トップは常に公由家だった。
……表のトップが公由家なら、影のトップは園崎家。
この二重構造がすでに、…この村には、陽と陰のふたつの顔があることを暗に教えていた…。
「園崎家の頂点は、現頭首の園崎お魎っていう婆さんです。……園崎天皇なんて呼ばれるくらいにその発言には影響力があるそうです。気をつけて下さいよ、大物です。市長だって最敬礼でお迎えするようなVIPですからね。……まぁ雛見沢と周辺の町に住む村の親族の数千の票田を固めてるわけですから、政治家は頭、上がらないんでしょうが。んっふっふっふ!」
「つまり、…その人物が、鬼ヶ淵死守同盟の事実上のトップということですね?」
「そうなります。」
大石氏はそう言うと、懐から潰れかけた煙草の箱を取り出した。
…………大臣の孫の誘拐と脅迫疑惑。
その裏には、雛見沢ダム計画撤回を目論む、鬼ヶ淵死守同盟の暗躍があるのだろうか…。
「………あなた、東京から遥々、調べにいらしたんですよねぇ?」
「…え? ぇ、えぇ! そうですが。……何か?」
「じゃあ、ほら、あれだ。あの犬飼大臣への直訴事件の絡みですかな? ようするに、アレで要注意団体ってことで公安がマークすることになったと。そういう感じですか? なっはっはっはっは。」
「大石さんこそ、…お察しが早くて助かります。」
煙草の煙を吐き出しながら、大石氏は一本取られたかのように大きく笑った…。……と、思った笑いは、突然にぷっつりと途切れた。
「嘘でしょ?」
「……………え、」
「だから、直訴事件でマークが付いたっての。嘘でしょ?」
「…………。」
大石氏は、…直訴事件程度で、東京本庁から捜査官が派遣されるわけがない。
……派遣されるからには、何かもっと…大きな理由があると、そこまで踏んでいるのだ。
…私は表情に出さない方の部類の人間だと思っていた。……だが、彼の眼力の前には、私の胸の内は丸裸にされてしまっているのだろうか…。
大石氏は沈黙し、重苦しい間で、私が口を割るのを待つかのように、新しい煙草に火をつける。
……なるほど、…これが、ベテラン刑事の吐かせの技術ってわけか。
だが、そうと気付いてしまえばそれまでだ。
…ここで私が口を開かないことで、何も不利益を被ることはない。
……大石氏が根負けするまで、外ののどかな景色を満喫していればいいだけなのだから。
「………んっふっふっふ! あなたって人は、本当に隠し事が下手な人ですねぇ。そういう素直で初々しいの、悪くないなぁ。」
私が一向に折れる様子を見せない為、3本目の煙草をもみ消し、大石が苦笑いした。
…初めは私の勝ちだと思ったが、大石には少なくとも、私が隠し事をしているという確信を与えてしまったのは間違いない。
……その意味においては、私はまんまと彼のペースにはめられたのかもしれない…。
大石氏はエンジンを再び吹かし、車を動かした。
「…素直なところを教えてくれりゃあ、もっとお力になれると思ったんですがね。」
「………素直に話したら、どう力になれるんです?」
どうせもう隠し事はバレているのだと思い、逆に話を振ってやることにする。
「内容によりけりですがね、雛見沢界隈に詳しい情報屋に引き合わせてあげてもいいですよ。」
「協力員、ですか?」
「…んっふっふっふ! そっかぁ、あんたらはそう呼ぶんでしたねぇ。」
「……どうして私の任務に興味を? 大石さん。」
「そりゃ、あんたと同じです。…常に知るのが私たちの仕事じゃあありませんか。」
…大石氏の情報屋と接触できる機会は、…この上なく魅力的だった。
我々は土地勘のある人間に情報協力を依頼することで、相手を探る。
結局、人を知るには人に聞く以上の方法など存在しはしないのだ。
だが、…我々は常に、一般警察などザルだと教えられている。
我々と違い、守秘義務に怠慢でいい加減。
酔った勢いでどこで口走るかもわからない、…その程度だと見下している。
……その中でも、特にアウトローに見える大石氏に、大臣の孫の誘拐のことを話してもいいものか、…迷った。
「……その情報協力員は、どの程度、鬼ヶ淵死守同盟に精通を?」
「なっはっはっは! あんたも公安の人間ならわかるでしょ? そんなの、私の口から、例えあなたにだって話せる訳ないじゃありませんか。」
……………………情報ソースは絶対秘密。
これは、秘密情報を扱う者の大前提だ。
…その意味では、大石氏は少なくともザルではなさそうだった。
………信用し、…協力を頼むべきか、否か。
「あなたは国、私は県に雇われてますがね。私たちの職務はそう大きくは違わないと思っています。……力になれると思うんですがねぇ。」
……だが、この老獪な男に限って、とても口上通りの善意で協力を申し出ているとは思い難い。
「…大石さんほどの方が無償で力になって下さるとは、ちょっと思いがたいですが…?」
「なっはっはっはっは…。そりゃ、下心がないわけじゃないです。あんたらは確か、協力員に支払える謝礼用の予算を持ってますよねぇ? 領収書不要な予算を。……そいつでですね、情報屋との接触にかかるコストを、ちょいと、」
「つまり、情報屋と渡りをつける謝礼をあなたにお支払いしろ、ということですね? ………取引内容が明快で助かります。」
下心も、ここまでしゃあしゃあと言えれば大したものだった。
善意で協力を申し出られるより、対価も提示される方が取引はわかりやすい。……そういう日の当たらない取引のうまい男だと直感した。
「誤解しないで下さいよ? お金が必要なのは、私にじゃなくて、情報屋になんですからね? まぁ、支払いの関係上、お金は私が預かりますがねぇ。んっふっふ!」
「支払いはいつ?」
「今すぐがいいですねぇ。ないんなら明日でもいいんですよ?」
……自分の財布とは異なるもう一つの財布を取り出した。
相手から得られる情報の内容に応じて、甲・乙・丙と支払うおおよその金額が決められている。…今回の場合は前払いの上、相手からもたらされる情報の質が読めないので、そう多くは払えない…。
そんなことを思案していると、大石氏が、にゅっと手を伸ばし、財布の中身を鷲掴みにした。
「こういう時はですね、ケチケチしない方がいいんです。大丈夫大丈夫、損はさせませんから。」
「…………………わかりました。ケチケチしないことにします。」
「で? 調べたい情報は何です? 内容によって多少、アプローチが変わることもありますので…。」
「……………他言無用を誓ってもらえますか? 大石さん。」
「誓うまでもありませんよ。私もあなたたちと同じ。職務上知り得たことは他言できませんからね。」
「………………………………。」
「なっはっはっはっは! わかりましたよ、誓います。ここで聞くことは他言無用です。それに、あなたのお陰で雀荘のツケを全部返せるんですからねぇ。私は少なくとも金の絡んだ約束は絶対に違えませんよ? んっふっふっふ…!」
信用していいか、最後の最後まで揺れたが、……結局、折れることにした。
大石氏は100%信用できるような男じゃないが、…裏事情に精通しているのは間違いない。…自分に与えられた任務を迅速にこなすには、協力を求めたい相手だ。
…私は、覚悟を決めることにする。
「……鬼ヶ淵死守同盟が、ある事件に関与しているか否かを調査しています。」
「ある事件?」
「犬飼建設大臣が、何者かに脅迫を受けている可能性があります。」
「…可能性とはまた、遠回しな言い方ですねぇ。」
「大臣の近辺に内通者がいるらしいのです。その内通者によって、高度に監視されているらしく、大臣は脅迫初期から屈服している様子です。警察へも我々へも一切通報していません。」
「…なるほど。だから脅迫を受けている可能性、という言い方になると。………だとすると妙ですねぇ? 大臣が誰にも通報しないなら、どうしてあんたらは事件を知ったんです?」
大臣のプライベートを監視しない限り、発覚などしない。
「……その説明は、私が情報屋に提供する必要がないと思われるので割愛します。」
大石氏は勘付いているらしく、私が説明を拒むと、くっくっくと声を殺して笑った。
「なるほど。…大臣の近辺にスパイがいるらしいから、公安だけの極秘調査ということになったわけですか。………そりゃあ確かに穏便な話じゃないですねぇ。」
「事を公にすれば、大臣の政治生命も含め、政変に発展する可能性は極めて高いでしょう。犯人グループの目的がそこにあるならば、由々しき事態に発展する可能性があります。」
「…………政府の列島改造は、まぁいろいろ方々との衝突も多いらしいですからねぇ。どんなささやかなケチでもひとつ付けば、…左派政党がどっと票を伸ばす可能性もある、と。」
「大臣がどのような要求を受けているのかは現在調査中です。ですが脅迫の方法だけはほぼわかっています。」
「…何です?」
「大臣の孫の、誘拐です。周辺は否定していますが、最後の目撃から見て、すでに誘拐後72時間が経過していると思われます。」
「3日ですか。………並みの、身代金目的ならもう決着してますねぇ。」
「金銭でなく、大臣に何らかの政治的なアクションを要求している可能性が極めて高いでしょう。………それを我々は黙認するわけには行きません。」
「で、それの犯人グループとの可能性として、鬼ヶ淵死守同盟がリストに上ったわけですね。」
「そうです。」
「………………………大臣の孫を誘拐して、ダム計画の撤回を求める、か……。…んんん………。」
「どうでしょう大石さん。……その可能性は、あなたから見て、ありえると思いますか?」
大石氏はしばらくの間、考えるような仕草を見せながら小さく唸っていた。
同じ問い掛けをした時、中部局の室長は「ありえる」と即答した。
……なのに、これだけ精通している大石氏は、うなり始める…。
……やがて、ぽつりと。
…本当にぽつりと妙なことを言い出した。
「……………………明治前まではですね。この辺りは雛見沢村って名前じゃなくて、鬼ヶ淵村って呼ばれてたそうです。
……なははは、うちの婆さまの受け売りですがね。」
…つい直前までしていた、大臣の孫の誘拐事件の話とは何も噛み合わず、…突然の話題に面食らってしまう。
「鬼ヶ淵村? ………あ、…それで鬼ヶ淵死守同盟という名称になったわけですね。」
「…鬼ヶ淵村ってのはですね、人食い鬼の住む村だと言われてたんだそうです。今でも村人は、自分の体に鬼の血が半分流れてると信じてます。」
「ひ、……人食い鬼…?? 大石さん、…それ、…何の話ですか?」
「情報ですよ、情報。さっきあなたからたくさんもらっちゃいましたからね。少しもらい過ぎました。その分、サービスしてあげてるんですよ。」
大石氏はにやっと笑ったが、別にふざけた様子ではなかった。
「…………………………先を続けてください。」
「人食い鬼たちはですね。普段は仙人と崇められて、ひっそりと暮らしているんですがね。……やっぱり人食いですから、定期的に麓の村に下りてきては、獲物をさらっていったんだそうです。……それをですね、『鬼隠し』と言いまして。」
鬼隠し…。
………初めて聞く不思議な単語だった。
だが、人食い鬼が、犠牲者をさらうという恐ろしい内容に、一抹の不気味さを感じる。
「……ほら、よく世間一般に『神隠し』っていうのがあるじゃないですか。人が、ある日突然、失踪してしまうとそう言うでしょう。……この辺りでは同じことがあると『鬼隠し』って呼ぶんです。」
「…………………その昔話と本件に何か関係が?」
「……いえいえ。直接的には何の関係もない、ただのおしゃべりですがね。…ただ。」
ガタガタン。
車が揺れる。……いつの間にか砂利道は舗装道路に変わっていた。
「ただ? 何です?」
「…この土地に『鬼隠し』という名の、失踪・誘拐を暗示するキーワードがある、ということだけは、お話しておこうと思いまして。今回の大臣の孫の誘拐と関係あるかはわかりませんがね。
………まぁ、深い話ではないんです。そんな謂れの話がある、ということだけでもね、んっふっふっふっふ…!」
人食い鬼たちが、…獲物をさらいに麓に下りてくる行為、『鬼隠し』
では……自分たちの住まう村を水没させようとするダム計画を撤回させるため、…その制裁として大臣の孫をさらって…『鬼隠し』にした?
…なら、…見せしめに大臣の孫はもう…鬼たちに食い殺されている…??
「……ははははは。ちょっと興味深い昔話ですね。」
「鬼たちの村にみだりに踏み入れば、たちまち囚われ食い殺される。だから鬼ヶ淵村には近付くな。…………今時の若者はこんな迷信、信じませんがね。興宮の明治生まれの年寄り連中には、今でも盲進してるのが多いですよ。」
周囲の人たちに恐れられている、雛見沢村。……県警公安で聞いた情報のひとつを思い出す。
「何しろこの辺は田舎ですからね。迷信なんかが平気で幅を利かせてるんです。
なっはっはっはっは! 東京から来られた赤坂さんには、ちょっと想像も付かないでしょうがねぇ。」
……人食い鬼が、自分たちの村を侵した代償として、大臣の孫をさらい、…食い殺した。
そんな突拍子もない考えが浮かぶ。
…あまりの下らない想像に、自分でも半ば呆れてしまう。
大石氏にからかわれただけだ。
…下らない。本当に下らない。
………思えば、私はもうこの時に、この怪しげな村の呪縛に囚われていたのかもしれない。
…それに気付くのには、……もう少しの時間が必要だった…。
■幕間 TIPS入手
■雪絵との電話
「…そうですか。急な出張は大変ですね…。どうぞお気をつけて。出張はどちらへですか? もう出張先なんですか?」
「………………………。」
私が出張へ出るなら、それはどこへか。
…雪絵ならずとも、聞こうとする当り前な問い掛けだった。
寒い地方へなら、厚めの上着を用意した方がいいとか。
遠い地方へなら、道中をお気をつけてとか。
……そんなごくごく当り前の気遣いへと繋ぐ、当り前の問い掛け。
そんな当り前の問い掛けに答えられない自分が、少し悲しい。
「…ごめんなさい。言ってはいけない規則でしたね…。どうかお気をつけて。」
「………すまん、雪絵。」
「…あなたはいつの頃から、すぐに謝られるようになったんでしょう。今のお仕事に就かれた最初は、あれだけ溌剌と充実しておられたのに。…くすくす。」
何かを見透かしたように雪絵が笑い出す。
こういう時の雪絵には、私の胸の内を何でも見通してしまう魔法の力があった。
「…私が入院してもうずいぶんになりますものね。あなたもそろそろ寂しくなってきましたか…?」
「か、からかうなよ。寂しがるような歳じゃないさ…。」
「…くすくす、さてさていかがでしょう? あなたは本当に甘えん坊さんですからね…。私と一緒でないと、だんだん弱気になってきてしまうのでしょう…? くすくすくす。」
「……あぁ、もぅ…。今、雪絵の頭に小悪魔の角がにょっきりと生えているのが目に浮かぶよ…。君は昔から、」
「…はぐらかさない、はぐらかさない。私にかまってもらえなくて、寂しい寂しい〜って。あなたがシッポを振っている音が、受話器を通しても聞こえてきますよ。くすくすくす……。」
雪絵のこんな一面は、普段の貞淑な姿からはなかなか想像がつかなし、また絶対に私にしか見せない。
普段なら照れ隠しに小突いて、話を無理やり終わらせるのだが、電話越しではそれもままならない。
……もちろん雪絵は賢い。それを承知でからかっているのだ。
「…くすくすくす。あなたを困らせるのが、こんなに楽しいと気付いたのはいつからだったでしょうねぇ…。」
「そろそろ許してくれよ…。…とにかく、君の元気な声が聞けてよかった。」
「…そうでしょう? …元気になれましたか?」
ひとり病院に残してきた雪絵が寂しがらないように電話を。
……そんなのは恥ずかしがり屋の私の口実に過ぎなかったわけで。雪絵にはとっくにお見通しのようだった。
「……………うん。」
「また、電話をしてくださいな…。私がだめな時はお父さんが相手をしてくれるでしょう。…もっとも、お父さんが相手では、あなたのことだから、電話先でも直立不動でしゃべっていそう。くすくすくす…。」
雪絵はしばらくの間、電話を切るタイミングを与えずに私をからかい続けるのだった……。
■来賓挨拶用原稿
××会長さん、××会の皆さん、この度は××会創立二十五周年、誠におめでとうございます。
この二十五年は、そのまま××県発展の歴史そのものでありました。
かつては閑静で一面の田畑だった景色も、念願であった新幹線停車駅の開業、そして高速道路の整備により、今や若い活気の溢れる近代的都市に生まれ変わりました。
新しい良いものを次々と取り入れて発展する経済と産業。
そして古き良き伝統を大切にする××県民特有の郷土愛により、伝統と文化、経済と産業の全てを両立した日本有数の素晴らしい都市へと成長を遂げました。
そして、この××県発展の歴史はそのまま、××会の発展の歴史そのものと言えるのであります。
私共には、一度決めて掲げた公約、施策はどこまでも貫き掲げとおす、文字通り矢のような鋭い実行力が求められています。
この矢を会章にあしらった××会の皆さんは、まさにこの矢のごとき実行力を以て、××県民の恒久的幸せのために、あらゆる障害を貫く矢であると思っています。
ですが皆さんはただの矢ではありません。
矢のように剛直でまっすぐであると同時に、時代に即したやり方を常に模索して研究を怠らず、常に時代の先を見通す目も持っております。
放たれた矢は、一度決められた目標に向かってただただ飛ぶことしかできません。
しかし皆さんは、ただの矢ではない。
一度、弓から放たれながらも、常に勉強を怠らず、新しいやり方、より効果的な施策を見つけ出すや、その矢の軌道を直ちに変えるという柔軟な姿勢も持つ、魔法の矢なのでもあります。
時代は常に進歩しています。
時に、施策から実行に至る過程よりもさらに早く時代が進んでしまうこともありえます。
(以下は原稿にない部分。大臣のアドリブと思われる)
例えば、県内で近年、いろいろと問題になっている雛見沢村電源基本計画についても、お上が決めたからこうと貫くのではなく、次代と郷土と県民の変わり続ける要望と常に照らし合わせて見直す柔軟さが必要なのです。
雛見沢ダムを巡る住民運動もまた、××県民の意思なのであり、すでに決まった施策であるからこれに耳を貸す必要がないとなれば、これは戦後日本の民主政治に悪い影を落とすことになりかねません。
(以下から原稿のとおり)
私も日本国民の、そして××県民の皆さんの恒久的幸せのために、これと決めた施策は徹底的に。
だけれども常に時代の先を見据えながら、そのやり方を模索できる××会の皆さんの柔軟性を学ばなければならないなと常日頃思わされるわけであります。
長くなりましたが、以上を持ちまして××会二十五周年のお祝いの言葉とかえさせていただきます。
××会長さん、並びに××会の皆さん。本日は本当におめでとうございました。
××県議連、議員勉強会××会発足二十五周年記念祝賀会での、建設大臣の来賓挨拶より。
■歯車と火事と蜜の味
人と人のつながりで営まれている人の世の生活だけど。
全部の人が必ずしもつながっているわけじゃない。
地球の裏側で名前も知らない誰かが泣いたって笑ったって、自分に何の影響も及ぼさないことなんて、誰もが当然のように理解している。
だけれども、ご近所という極めて限定された小さなコミュニティに限ってなら、なるほどと頷けないこともない。
小さなコミュニティの中でのひとりの印象深い行ないが、全体のその後に大きな影響を及ぼすことはありえるだろう。
その規模が極めて大きくなれば、……まぁ、地球の裏側の名前も知らない誰かの英雄的演説が、私の生活に影響を及ぼすことがあるかもしれない。
でも、万事が全てそうなるわけじゃない。
最初に言ったように、基本的には人と人とのつながりは、世間でとかく言うほど顕著じゃない。
お向かいの家の晩御飯のおかずが、ハンバーグだろうとコロッケだろうと、私に何の影響も与えないし。
私が靴を履くときに、右足から履こうが左足から履こうが、誰にも何の影響も与えない。
……ここまでは凡人でも理解できよう。
でも、現実の実際の本当のところ。人と人のつながりというやつは、もっともっと白黒がはっきりしているのだ。
地球の裏側にいるから無関係とか、身近にいるから影響しあうとか、そういう距離の問題じゃなく。
例えば、Aという人物の行ないが、私に影響することがあるとする。
だからと言って、Bという人物の行ないが、必ずしも私に影響を及ぼすことにはならない。
逆もまた然り。私の行ないがAに影響を及ぼすからといって、Bに必ず影響を及ぼすとは限らない。
突き放した言い方をしよう。
人と人のつながりや運命が歯車に例えられるなら。
私という歯車に噛み合っている人もいれば、いない人もいる、ということだ。
これを詭弁だと反論したい人もいるだろう。
そういう人は、やはり時計の歯車の話を引き合いに出す。
時計の中にある歯車は確かに、せいぜいひとつかふたつの歯車としか噛み合っていない。
だけれども、ひとつの歯車を回せば、隣の歯車を動かし、それらが脈々とつながって、最後には全ての歯車を動かすことになると。
………確かに理屈はあるし、凡人を納得させるに足る説得力もある。
では、どうして説得力があるのか?
…答えは簡単。
人と人のつながりなんてあやふやなものを、観念的にしか説明ができないからだ。
どの歯車がどうつながって、どう連動してどう関係しあってるかなんて、具体的に説明できないから、そんな論法で煙に巻くほかないのだ。
では、そんな説明を好む人のために、私もまた時計を引き合いに出して反論しよう。
そもそもこの世界を、ひとつの時計に見立てることがまず間違っているのだ。
時計はひとつじゃない。
この世界にはたくさんの時計が存在し、個々に時を刻んでいる。
考えてもごらんなさい、この世に時計はひとつだって決め付けること自体がとても傲慢なこと。
そうやって考えれば、歯車の話で人のつながりを説明しつつも、私という歯車とまったく関係のない、他の時計の歯車もたくさんこの世にいることを説明できるだろう。
ご近所のAとB。
Aは私と同じ時計の歯車だから、いろいろと気を遣ったほうがいい。
Bは私と違う時計の歯車だから、別にどうでもいい存在。
そういう、はっきりとした区別。
詭弁だと言いたい?
じゃあ理解できるように、時計よりももっと身近な生活の話に置き換えるわね。
『対岸の火事』って言葉くらい、あなただって聞いたことがあるでしょう。
例えば、お隣で火事があったら、もちろん消火作業を手伝うでしょう? 延焼して自分の家にまで火が付いたら困るものね。
でもその火事が川向こうの対岸の町だったらどう?
わざわざ重い腰を上げてまで手伝いに行く? 行かないわよね? 間違っても、自分の家まで延焼するわけないものね。
火事になっても、自分の家に燃え移る家と、燃え移らない全然関係のない家があるってこと。
このぐらい具体的な例ならば、自分に関係のある歯車と関係ない歯車の話、少しは理解できるんじゃない?
……そういったことが、何も川を隔てなくても世の中にはたくさんあるってこと。
近所とか川向こうとか、そういう距離の問題じゃなくて、ね?
■トランクの雛
車が止まった。
だがそれ以上のことはわからなかった。
なぜなら、彼は目隠しをされただけでなく、車のトランクに閉じ込められていたからだ。
視覚を奪われた人間がこんなにも無力だとは。…彼も実際に経験するまで知らなかったに違いなかった。
戒めを解こうとする努力が無駄であることはすぐにわかり、トランクの中の息苦しさにいつしかめまいを感じ、…彼はこの緩慢な拷問に意識を朦朧とさせる他なかった。
だから彼は、車が止まってエンジンが切られて不愉快な振動がなくなった時、事態は何も解決していないにも関わらず、自分は解放されたのだ…と錯覚せずにはいられなかった。
無論、その錯覚はすぐに覚める。
自分をさらった男の一人と、初めて声を聞く年配の男の会話が聞こえ、身を硬くして耳を澄ませた…。
「…………お疲れさんです。雛はトランクに。騒ぎすぎで多少衰弱してるようですが、ご命令通り傷一つ付けちゃいません。」
「…おぅおぅ、手間ぁかけましたんの。」
トランクが開かれ、ぶわっと涼しい冷気と新鮮な空気が自分を包む。
さっきまであれほど、この息苦しいトランクを出られたらと思っていたのに、いざこうしてトランクが開け放たれると、今度は急に自分の身が不安になった。
…あんなに嫌だったトランクの蓋をもう一度閉じ、彼らから遮断してくれと願ってしまうくらいに。
突然、自分の頭を誰かが撫でた。
もちろん目隠しをされているから、頭を触れた手が、自分を撫でているのか、頭の皮を剥ぐ為に品定めをしているものなのか、区別することができず、彼は最悪の可能性を想像して身を硬くするほかなかった…。
「……すったらん、ぁあいそうにの…。震えとんね…。大人しくしばらく過すがよかろ…。」
年配の男はそうやさしく言いながら、彼の頭をやさしく撫でた。
「ほんに辛い思いしちゃろなぁ…。だんがな、おんめのお祖父ちゃんは優しい人だんね。すんぐに助けてくれるだろの…。」
平均的な標準語でしか生活したことのない彼にとって、この年配の男の発する独特のイントネーションのなまりは非常に印象深かった。
だが、何を言っているのかはさっぱり理解できない。
「おんめのお祖父ちゃん」というのが、自分のお祖父ちゃんのことを指しているのだと気付くには、その言葉を頭の中で何度も反復する必要があった…。
やがて、頭を撫でた手が、今度は彼の目隠しに触れた。
「……目隠しはまずいっすよ…。面が割れると後々まずいです。」
「ん、…そうかの。なんら、せめて猿ぐつわくらい外したらんな。これぎゃあ、息もできんね…。」
「……叫ばれたらまずいです…。こいつのことは俺たちに任せて下さい…。」
「ったく、気の効かんやっちゃらな!! …本家に惨い仕打ちはせんぎゃあちゅわっとる。そこんとこ、肝に刻むんよ…。」
「わかってます。手荒な真似はしませんよ。…小僧が大人しくしててくれる分にはね。」
男の手が彼の頭を何度か、小突くように叩いた。
自分の頭を撫でてくれた慈しみのある手とは違う、ごつごつした手。
大人しくしていれば良し。
騒ぎ立てたら、どうなるかは保証できないぞ、…という在り来たりな脅迫が、その手からじわりじわりと、…叩かれる頭に染み込まされていくのだった。
■二日目
市内の安ホテルでの目覚めは、お世辞にも快適とは言えなかった。
小学生の頃、長い林間学校などで、早く家に帰りたくて、毎日、林間学校の終わる日を指折り数えていたのを思い出す。
……今朝の目覚めは、何となく、それを思い出させる何かがあった。
…妻の出産に立ち会いたいという感情に起因する、一種のホームシックなのか。
一社会人として、公務を全うしなければならない職員として、…情けない。
そんなネガティブな感情は、そんなに不味くないモーニングセットを平らげる頃には薄れていた…。
大石氏が手配してくれた情報屋との接触は今夜ということになっている。
それまで、ただ横になっているわけには行かない。
鬼ヶ淵死守同盟は、反ダムの抵抗として様々な方面に活動を展開していた。
その中にはマスコミに対するPRもあり、これは大きく分けて2つの戦略、闘争路線と平和路線で展開されていた。
前者の闘争路線は、警察の横暴や非人道的扱い、機動隊の蛮行をアピールするなどで、警察の動きの牽制を狙ったもの。
後者の平和路線は、雛見沢の自然環境がいかに貴重で、大切にしなければならないものかをアピールし、環境保護の線から反ダムに理解を求めるものだ。
…この後者の一環として、雛見沢村は、著名な動植物学者や環境保護団体を招き、雛見沢の自然を宣伝していた。
情報によれば、近年、雛見沢・大自然ウォッチングと称して、希望者を無償で観光させる企画もあったという。
…これに便乗できればよかったが、村役場に問い合わせた所、募集はすでに終わり、次回予定も未定という答えが返ってきた。
「……そうですか。次回の募集はありませんか。…残念です。」
「あんた、環境保護団体さんですか? それとも雑誌社の人?」
「いえ、個人です。」
「個人? 観光ですかね?」
「…観光みたいなものです。美しい自然を写真に残すのが趣味なんで。雑誌で、とても貴重な自然が残っていると読んだので、楽しみにしていたのですが…。」
そういう記事があったらしいのは知っているが、実際に読んだわけじゃない。
……こんな出任せの嘘では駄目か……?
そう思った時、先方が愉快そうに笑い出した。
「わっはっは! ならあんた、来なさい来なさい。村はちょいと慌ただしいけど、歓迎しますよ! わはははは!」
「ぜひそうさせていただきます。ありがとうございます。」
「あんた、足は何ですか? お車? もしそうだったら先にナンバーを聞いておきますよ。いえいえ、他意はないんですがね…、わはははは…!」
村へ行く途中にある、私設検問所の関係なのだろう。……ここで予めナンバーを伝えておかないと、きっと、いろいろと足止めを食らうに違いない…。
県警で借りた車を使おうかと思ったが、…車のナンバーを教えていいものか、迷った。
……もしも、鬼ヶ淵死守同盟が、今回の事件を起こせるような団体なら。…ナンバーから私の身元を割らないという保証もない。
………………ここでは慎重策から、車の使用は控えることにする。
「いえ、…実は車ではないんです。バスか何かがあればそれで行きたいのですが…。」
「バスならありますよ。もうすぐ廃線になっちまうそうですがね。それでいらっしゃい。興宮の駅から出ますよ。」
「ありがとうございます。探してみることにします。」
「あんた、いつ来ます? 雛見沢は初めて? 初めての土地じゃあ、いろいろとご不安でしょ。教えてくれりゃあ、誰か行かせていろいろご案内させますよ。」
「そんな…そこまでしていただくのは申し訳ないです。」
「わはははは! 気にしないで下さい。これも、村の自然を守るためのPRなんですから〜。」
あの検問所を見てもわかるように、…村人たちは余所者に対して排他的な感情が少なからずあるに違いない。
だから、村を自由に出入りするには、警察等の、例えば大石氏に同行するか、…反ダムに賛成する者である必要がある。
村の貴重な自然に興味を持つ、ということは、村が行なう平和路線でのPRに賛同しているということだ。……お目付役が付くことに、少しの抵抗もあるが、…ここはむしろ好意に甘えるのも手かもしれない。
村中が反ダムで盛り上がっているのだから、…住民に率直なことを聞く機会にも恵まれるかもしれない。…………相手の申し出を、無理に断る理由はないようだった。
「本当によろしいのでしょうか…? でしたら本当に…助かります。」
その後、バスの時刻表を教えてもらい、何時のバスに乗ればいいと指示をもらった。村の停留所に迎えを出してくれるという。
…適当にこちらの気に入りそうなスポットに案内した後、反ダム資料館みたいなところへ連れて行くに違いない。
そして、お茶でも飲ませながら、自分たちの主義主張をねっちりと吹き込んでくるのだろう。
まぁ、それが目的でいろいろなサービスが付くのだから、世の中はギブアンドテイク、ということだ。
……スーツで行く訳には行かない。
旅行鞄から平服を取り出し、ラフな格好に着替えた。
それから、のんびりと地元のテレビを見て気持ちを落ち着かせた後、私は興宮駅へ向かうためホテルを出た…。
■雛見沢観光
…廃線間近だと教えられたバスは、とてもそんな風には見えなかった。
ダイヤは十分にあり、利用客も決して少なくない。
興宮という唯一の町との動脈を担う、主要交通機関だった。
利用している客層も、車の運転が出来なさそうなお年寄りや免許を持っていなさそうな雰囲気の主婦が目立つ。
…ダムで水底に沈む地区だから、バスの路線はあってもしょうがない。
だから廃線……という図式はどことなく無理があるように感じた。
村人の交通を遮断して立ち退きを促進させようという、国側の悪意が見え隠れするような気がしなくもない。
なるほど、…資料によれば、建設省と地元との話し合いはだいぶ初期に決裂しているという。
………国はだいぶ早い時点から、全面対決姿勢を打ち出しているということか。
…ほら、旅人からマントを奪おうとする北風とお日様のおとぎ話があるじゃないか。……こんな意地悪をしたって、何の意味もないのに。
鬼ヶ淵死守同盟が、あれだけ過激に抵抗するということは、……それに相対する国側も、それだけの嫌らしいことをしてきたということだ。
……自分は東京に住んでいる人間だから、こんな田舎にある村のひとつやふたつ、水没したって何の気にもならないが。
………やはり、そこに住んでいる当事者にとっては、命懸けの大問題なのだ。
『本路線は、×月×日をもって廃線となります。これまでのご利用、誠にありがとうございました。今後とも、在来線に変わらぬご愛顧をよろしくお願いいたします。××交通』
バス内に掲示された廃線告知をぼんやりと眺めながら、私は指定された停留所まであといくつあるかを数えていた……。
途中、停車こそしなかったが、あの検問所を通り抜けた。
バスが通る時間は分かっているから、予めバリケードを開けてあるわけだ。
………ここからはもう、敵地。
……手の平には、いつの間にかうっすらとした汗が浮かんでいた……。
『宇喜田水道前〜。宇喜田水道前〜、お降りの方はいらっしゃいませんか〜。』
指定された停留所をアナウンスする声に、慌てて降車のボタンを押す。
…これだけの客がいても、誰も降車しないということは、…相当、辺鄙な場所のようだった。
実際、停車した場所は非常に寂れていて、普段はほとんど使われていないのが見て取れた。
降り立ってすぐに、バスの車内とはまったく異なる…厳しい大気が全身に襲い掛かってきた。
今、私の隣に大石氏や本田屋氏はいない。
そう、私は今、単身で敵地のど真ん中に降り立ったのだ。
相手は私を一観光客に過ぎないと思っているだろうが、…それは謀っただけのこと。………何かの間違いで私の招待が露呈することになれば、…………。
県警公安部での、雛見沢では白昼堂々とナイフで襲われても、証拠も何も残らないという恐ろしい言葉が蘇る……。
…自分に不審な様子はないだろうか…?
服装は、…至ってラフ。
都会者が田舎を保養地を見下し、のこのことやって来たような服装そのものだ。
カメラにナップザック。中には、ハイキング的な小物が少々。
…まだ6月だが、異常気象なのか、今年の日差しはもう真夏のようだ。
………帽子を持ってこなかったのは不自然だろうか…。……いや、…そんなに気にするほどのものでもないはず…。
大丈夫、……ただの観光客だ。……ただの。不審なところなど、…あるものか……。
そう思い、発進するバスを振り返った時、
………窓際の乗客たちが、みんな私を見下ろしているのに気付き、唖然とする。
彼らは…私の、ちっぽけな自己満足の偽装を、………丸ごと見透かしたような目で、…………ただじっと、…見下ろしていた。
車内の熱気を逃がすために開けられた窓から、投げかけられる…針のような目線が無数に降り注ぐ。
……………注がれるのは目線だけ。
…誰も、……何の言葉も発しない。
…でも、だからこそ。
…………無言の視線は、百万の言葉よりも…雄弁に私に語りかけていた。
………とっとと東京に帰れ。余所者が。
「……………………………………………い、……いえ、…私は…、」
言っても意味はない。
…こんな小声はエンジンの音に掻き消されている。
バスは、私を虐めるかのように…ゆっくりと走り出し、……充分に私を威圧した後、走り去って行った………。
……全身に、じっとりとした薄い汗が浮く。
………………資料では、余所者に排他的な雰囲気のある村だった。……人口も少ない。
知らない顔があれば、すぐに余所者と気付かれてしまうのかもしれない。
…それに、この停留所では誰も降りなかった。
………普段は素通りしてしまうような停留所なのだ。
そこに、…わざわざ降り立ったものだから、……興味をひかれたに違いない…。
…だが、……何も落ち度があるものか…。
この停留所を指定してきたのは向こうだ。……何も、…心配することなど…ない。
……初めての、潜入紛いの調査に、緊張が高まっているのがわかる。
……先輩方からは、アガることを知らぬ新人類などと呼ばれるが、………そんなことはない…。
「………………………………ふぅ…。」
呼吸を落ち着けるために、…腹の底に溜まった嫌な空気を一度、吐き出す。
バスが立てる真っ白い、もうもうとした排気ガスが掻き消えるように、私の中の緊張も消えてくれと、祈らずにはいられなかった…。
雨をしのぐ為の、小さな小屋があり、そこで待つことになっていた。
小屋の中には……壁一面に、ダム反対を記したチラシがベタベタと貼られていた。
それは村人たちの、心からの叫びを壁一面に記したかのようで。……小屋の中に、言いようの知れない迫力を感じさせていた。
……自分は別にダムの関係者ではないはずなのに、…この中に踏み込んでいいか、躊躇させられる…。
そういう拒絶のエネルギーに満ちた空間だった。
そして………そんな、……張り詰めた場所に、…少女はいた。
筆書きで、ダム政策を罵るように批判した文書や決起文が一面に張られた小屋内で、………とろんとした眼差しで、…半分、眠りかけたように、……少女は座っていた。
そのあまりに不釣合いな、……それでいて、どこか幻想的な雰囲気に、…私はしばしの間、……呆然としていた。
この中に踏み込めば、自分がどんな無粋な物音を立ててしまうかわからない。
……そんなことで、少女のまどろみを汚してはならない…。
そう思い、…私は小屋に踏み込むのをやめる。
ただ子供が寝ているだけで、なぜこんなにも気を…?
…やがて、気付く。
そう、この少女は、…………………………私たち夫婦の、理想の子の姿だったからだ。
病院で受けた何度かの診察でも、男の子である確証は得られなかった。……男の子であるか否かは結局、性器が撮影できるか否かでしかないからだ。
絶対、女の子であるという確証も無論ないのだが、……そうである可能性が高いという。
雪絵は、それでも生まれる子は男女五分の確率だと言っている。
……だが、私は内心、生まれ来る子は……女の子だと、決めていた。
そう心に決めた日から今日まで、…生まれ来る子が、どんな姿で成長するかを想像するのが……楽しくて楽しくて仕方がなかった。
その、いくつも想像した姿の中で、………もっとも理想的だと思っていた姿が、…目の前の少女に、具現されていたのだ。
……もちろん、多少はご都合主義も入ってる。
…私の想像では、髪は短めだった。でも少女の髪は、長い。
まるで、……少女の容姿に合わせて、自分の理想像が書き直されているような…そんな錯覚をしてしまう。……それは決して不快なことではなかった。
……そんな少女を、こうして目線にさらすだけでも、…汚してしまっている気がする。
………少女には、そんな清楚さが、……いや、神々しさがあった。
「く……わあぁあぁぁぁぁぁ…………………。」
…そんな天使のような笑顔は、……大臼歯が覗きこめるくらいの大あくびをして、唐突に目を覚ます。
………覗き込んでいるつもりはなかった。
…でも、こうして目を覚ましたばかりの少女と目が合ってしまうと……、…何だか…いたずらでもしていたような気持ちになってしまう。やましさなんか何もないのに、…うろたえてしまう。
少女は言った。………いや、……鳴いた?
「……みぃ。」
……………みい?
……英語の、…me? 自分を示す意味の、me…?
そういう子供の挨拶なんだと思った。
……自分が怪しい人間ではないことを示すため、…つられるようにそれを返す。
「………みー。」
「……みぃ?」
「……み、……みー…。」
少女は……人形のような、かわいらしいような、それでいて無機質なような…、表情の読み取りにくい顔で、……私を凝視していた。
……む、…無理もない。
…目を覚ましたら、目の前に、知らない男がいて…。みーと言ったら、みーと言い返してきたのだ。
………怪しい。絶対に怪しいと思ってるに違いない。
「……みぃ。」
「………み、……………みー………。」
「……………………。」
「………………………………。」
互いに、…言葉を失う。
いや、…失ったのは私だけか…。
…目の前の少女は、まるで私の出方を伺うように、……じっと見据えていた。
こんな風に沈黙されたら、………こっちが先に何かを切り出さなければいけないように感じてしまう。
…………くそ、…大石氏よりも、この少女の方がよっぽど尋問はうまいらしい…。
「あ、…………怪しいものじゃないんだ…。……私は…………、」
「……にぱ〜〜☆」
「に、……にぱ……??」
「にぱ〜〜〜☆」
無機質な…なんて形容した表情は、溢れんばかりの笑顔になり、……私に微笑みかける。
………天使の笑顔、という言葉があるが、………それはまさしく、この少女の笑顔のためにあるんだと思った……。
少女が、にぱ〜〜っと微笑むのは、……私にも同じものを求めているからだろうか…。
そうだ…これは子供なりのコミュニケーションなのだ。
自分がしたのと同じ事を、目の前の相手が追従してくれることで、意思の疎通を確認する初歩的なコミュニケーション……。
「に、…………にぱぁぁ……☆」
「……にぱ〜〜☆」
…………うららかな、……初夏の真昼間。
……私は、……何を、…しているんだろう。
「……にぱ〜〜☆」
「に、…にぱ〜〜〜♪」
…もうどうでもいいや…。何だか、…これはこれで面白いから………。
その笑顔だけで、人を幸せに出来るのが天使なら。…この子はきっと天使に違いないと思った。
……やがて生まれ来る、自分の子が、…こんな少女に成長してくれることを祈らずにはいられなかった……。
そんな、おかしなやさしい時間は、やがてやって来た一台の車によって終わりを告げた。
運転席の老人が、苦笑いしながら手を振る。
「どぅもごんにちわ〜! 遅れて申し訳ないこってす! 昨日、お電話を下さった観光の方ですかねぇ?」
「え、……あ、…はい!」
「お待たせして申し訳ないぃ。野良でちょいと遅れましてねぇ! すったらんと、お乗り下さいな。天気もまんた崩れそうだから、ちゃきちゃきご案内しますよ。」
「…え、…天気、ですか。」
「ここいらは崩れると早いんよ〜。今日も夕立になるんかもなぁ。そうなったら、あんた写真撮るとこじゃなくなるでしょ。ほら、乗って乗って。」
「……みぃ。」
振り返ると、少女は興味深そうな表情を浮かべて、私のすぐ後ろに立っていた。
………その仕草がどことなく、ちょっとじゃれたら付いてきた野良の子猫のようで…愛くるしい。
「あんれ、……梨花ちゃまでねぇですか!! ありがたや…ありがたや〜…。」
「……にぱ〜〜☆」
…無垢な笑顔を見せる梨花と呼ばれた少女と、数珠を揉みながらその笑顔をありがたがる老人。………何だか不思議な光景だった。
「……牧野はこれからお仕事なのですか?」
「お仕事ってわけでもねぇですよ。村長に、村を観光したい若者が来るから、いろいろ案内してやれって頼まれましてねぇ。」
「……村を観光したい若者なのです。」
少女は、…梨花ちゃんは、そういって微笑みながら、私の腕を取った。
「ま、……まぁね。この村の自然がとても貴重だと聞いたんで、…ぜひ、カメラに納めたいと思ったんだよ。…私はこう見えてもとっても写真撮影が好きでね…。」
「……富竹2号なのです。」
「え? とみたけ?? え??」
「……牧野。ボクも一緒に行ってはいけませんですか?」
「そ、そんな、梨花ちゃまが来ても、面白いことなんか何もないですよ! 梨花ちゃまは境内で鞠遊びでもしてて下せぇな!」
「…………みー。」
梨花ちゃんは、…あからさまに不満げな表情を浮かべる。
感情を素直に表情に出せるのは、幼子の特権だ。
「もしお差し支えなければ……、この子も連れて行ってあげて下さい。」
私がそう助け舟を出すと、梨花ちゃんは、にぱ〜〜っというあの満面の笑顔を浮かべて、しがみ付いてきた。
……………あぁ……、……悪くない……。こんな子に、……パパって呼ばれたい……。……いや、…お父さん、お父ちゃま……、……ダディ……、………ぅぅぅ〜〜〜ん……☆
……何やってるだ私は。
…この少女に出会ったさっきから、何だかペースを乱されまくりだ…。…落ち着け自分。
「すっかたなかんとー…。梨花ちゃまは、駄目だ言っても聞かんしなぁ。……すったらんと、お乗り下さい。ささ、梨花ちゃまも。」
老人は運転席から降り、鬼ヶ淵連合町会と書かれたワゴン車のスライドドアを開けてくれた。
梨花ちゃんは、私を押しのけて真っ先に座席に飛び込むと魚のように跳ね回った。
…ふかふかのスプリングを全身で楽しんでいるようだった。
「こんれ、梨花ちゃま! それじゃあ、お客人が座れねぇですよ!! こら、梨花ちゃま…!!」
……………………あぁ、………女の子っていいなぁ……。
私の子も、…こんな感じでじゃれてくれないかなぁ…………。
いけないいけない…! 自分の子を愛玩化してはいけないって教育書にも書いてあったじゃないか…。
子供は子供だ……甘やかさずに厳しく育てないと……。
「……ふかふかでバインバインで、にぱ〜〜〜☆」
「に、……にぱ〜〜…☆」
……私はきっと、…駄目な父親になるんだろうなぁ……。…親馬鹿、出産前に早くも決定のようだった………。
「そんれではお客さん、風景の綺麗そうなところに適当にご案内しますよ。お昼は食べましたかぃね?」
「えぇ。ホテルで軽食を。」
「そんですか。では参りましょうかね。」
「……雛見沢観光に出発なのですよ。わ〜いなのです。」
「えっと、……君は、…梨花ちゃんでいいのかい?」
「……そうなのですよ。古手梨花と言いますです。……もう繰り上がりの足し算とかも出来ますですよ?」
「あ、あぁそうなの? それは…すごいな。ははは。」
「…お指とかは折ってませんですよ? ちゃんと暗算で出来ますですよ?」
……わざわざ、そうだと断るあたりが可愛らし過ぎる…。
いつの間にか、敵地に単身訪れたという緊張感は、嘘のようになくなっていた。
…この少女との出会いを少しだけ感謝することができた。
「じゃあ出発しましょうかいね!! 雛見沢大自然ウォッチング!」
老人は勢いよくアクセルを吹かした。
■カメラでカシャカシャ
…老人(牧野氏というらしい。…鬼ヶ淵死守同盟の会計監査の牧野氏と同一人物?)が案内してくれる場所はどこも絶景で、観光の目的で訪れているわけではない私でも、うなるような景色が溢れていた。
そもそも、単調な都会の景色と違い…風情のある村の風景は、村人にとってどんなに下らないものであったにせよ、…のどかな味わいがあった。
初めは、観光客を装うつもりでシャッターを切っていたが、途中から純粋な興味で写真を撮るようになっていた。
観光地は観光地独特の媚びがあるが、ここにはそれがない。…そんな無垢なところに特に惹かれた。
…ダムの騒動さえなければ、…雪絵を今度連れてきてやりたい。この新鮮な空気を吸わせてやりたいし、…この、目を洗ってくれるような眩しい緑の景色を見せてやりたかった。
「……こんなのが面白いのですか? 赤坂は変な人なのです。」
「いや、…こういう円筒状の郵便ポストなんて、今はとても貴重だよ。どことなく漂うノスタルジックな雰囲気は……渋いと思わないかな。はははははははは。」
「……雛見沢は楽しいですか?」
「うん? ……あぁ。楽しいよ。退院したら、ぜひ家内を連れてもう一度来たいよ。……その時には生まれている、子どもも一緒にね。」
「……………………………………。」
「今は、出産を控えて入院しているんだ。……予定日がもうすぐでね。…はは、君みたいな可愛い女の子だといいんだけど。」
「お客人は、もうすぐおめでたですかいね! そんりゃいけねぇよ! 奥さん放り出してこんな所に遊びに来てちゃあ…!」
「…………………………。」
一瞬、言葉に詰まる。
………まったくにもって牧野氏の言うとおりだった。
妻の出産を控えた男が、こんな所にのんびり遊びに来ていい道理はない。……失言だったか………?
「あ、……………あぁ、…まぁ! 雛見沢への旅行は前々からの予定だったんで…。……妻の家族が付き添ってくれているから…大丈夫だし……。」
「そんなに前から予定してたんなら、大自然ウォッチング! 申し込み、間に合わんとかぃね? そんだったら、こんな窮屈な思いさせんと、綺麗な観光バスで回れたのに。」
……牧野氏は、別に勘ぐって探りを入れている様子はなかった。
……だが、これ以上、会話を重ねると、…思わぬところでボロが出るかもしれない。
…私は写真をもう一枚撮るふりをして、話を中断させることにした。
「んじゃあ、最後に一番、景色のいいとこ案内しましょかねぇ!」
時間は夕方少し前。日はまだ厳しいが、風にほのかな涼しさが混じりだす時間。
梨花ちゃんとの、雛見沢散策はそろそろ終わりの様だった。
「……一番、景色のいいところですか?」
「そんりゃ梨花ちゃま、境内からの景色を置いて、他にゃありませんやね〜!」
それを聞いて、梨花ちゃんが笑顔を一層、はじけさせた。
「……では赤坂を、ボクのお家へご招待なのです。」
「え? 梨花ちゃんのお家って、………え?」
「神社ですよ。古手神社。…高台にありましてねぇ。いい〜景色が見れるんですよ!」
「……………古手、…神社。」
古手神社を自分の家と呼ぶ少女、梨花。
…確か、フルネームは古手、梨花。
……古手ってのは確か、………そうだ。…御三家の…ひとつ。
園崎家が実権を握っているとは言え、…村の重鎮と呼ばれる旧家のひとつじゃないか。
…いや、それよりも重要なのは…古手神社だ。
確か…大石氏が言っていたじゃないか。
……古手神社の敷地内に、鬼ヶ淵死守同盟の事務所があると。
…そして、古手神社の敷地は古手家の私有地だから、警察でも迂闊には踏み込めない…とも。
大石氏ですら、容易には踏み込めない…古手神社。鬼ヶ淵死守同盟の本拠地。
そこに、…予期せずして入れる機会を得てしまった。…願ってもないことだった。
「た、…楽しみです。ぜひ、お願いします。」
「じゃあ、ちゃきちゃき参りましょうかね! 天気も少し怪しいですからなぁ!」
いつの間にか空は曇天。
……夕立でも来そうな雰囲気だった。
セミたちも、夕立前に今日の分を全て鳴き終えてしまおうとでも思ってるのか、一層、激しく鳴いていた。
■アイキャッチ
■古手神社へ
車は神社の駐車場に停まる。
……そこには、ワゴン車の屋根にスピーカーを取り付けたお手製の街宣車が何台も停められていた。
どの車にも、ダム計画断固粉砕、郷土徹底死守!、オヤシロさまの怒りを知れ!、などの筆文字が書かれ、スピーカーを使わずとも、見る者を威圧する雰囲気を漂わせていた。
あちこちに登り旗が立てられている。
…内容は同じ。
ダムの反対や、政府を罵る口汚いものばかりだ。横断幕やプラカード、その他その他…。
………紛れもなく、ここが鬼ヶ淵死守同盟の、本拠地であることを物語っていた。
だが、そんな物騒な場所でも、梨花ちゃんにとっては、…自分の家でもあるのだ。
「……着きましたのですよ。ただいまなのです。」
梨花ちゃんは私の膝を乗り越えて、一番乗りで外へ降り立った。
…私が、反ダムの登り旗に目を留めているのに牧野氏が気付く。
「神社はダム反対運動の事務所も兼ねてましてね。こんな風景も、あんたらには反安保闘争みたいで懐かしいでしょう! へっへっへっへ!」
…国の政策に反対して、学生活動家がテロ紛いな手段で世間に主張を訴えようとするのが一時期、流行った。
講堂に学生が立て篭もり、突入してきた機動隊と乱闘になり…。
そういうことに青春を費やすのが、男の花道のように思っている輩が幅を利かせている時代があった。……世代的には、私より少し前になるが。
「私は別に活動家ではありませんので。…普通に学び、普通に卒業しました。国の政策に、あのような暴力や立て篭もりで対抗しようというのには、私は同意できません。」
「……ほぉ。……あんた、それはそれで立派な意見をお持ちだねぇ…。」
「……政策に意見したかったら、同じ意見の政治家に投票するか、自ら政治の世界に飛び込み、正当な手続きをもって意見を主張するべきであると思っています。それが民主政治の原点です。…それに暴力で挑戦するなど、あってはならないと思います。」
今時の若者にしては…立派な意見を持っている。
…牧野氏の眼差しには、そういう尊敬の念が浮かんでいるように見えた。
…その時、くいくいっと私の袖が引っ張られる。
「……………………赤坂が何を言っているのか、全然わからないのですよ。」
梨花ちゃんが、自分にだけ分からない話をされたと思い、不愉快そうな顔をした。……その表情もチャーミングで、…口元が弛んでしまいそうになる。
男親ってのは、娘には大甘だとよく言われるけど……わかる気がするな。
「ごめんね。…梨花ちゃんには難しい話だったね。………日本は平和の国だから、自分の言いたいことは平和的に訴えなきゃいけない。暴力で訴えてはいけない、ということさ。」
……繰り上がりの足し算が出来ると威張るような少女に、いくら説明してもわからないだろう。………梨花ちゃんの前でする話ではなかったかもしれない。
「……では赤坂。……ボクたちの村は、どうやったらダムに沈まなくなるのですか?」
自らの軽率な発言を後悔しても、もう遅かった。
…私は今、自分たちの意見を違法行為に訴えてでも貫こうとする集団の、本拠地に来ているんだぞ……。
そこで、…雄弁に、意見の主張のための暴力を否定するなんて…。
牧野氏の眼差しには、尊敬の念と一緒に、……複雑な色合いが浮かんでいることも、この時になってようやく気付く…。
…………奇麗事では、…ないのだ。
誰にだって、…私の言うのが正論だとわかる。
暴力行為に訴えて自分の主張を通そうとすることが、褒められたものではないことは、誰にだってわかる。
……だが、………雛見沢村は今、…平和に主張するだけでも、自らの運命を覆せない窮地に立たされているのだ。
雛見沢ダム計画は、鬼ヶ淵死守同盟の様々なマスコミ展開により、工事の正当性を揺さぶられている。
……彼らが運動をさらに強化すれば……工事の凍結、もしくは変更を勝ち取れないこともないかもしれない。
だが、……それはあくまでも可能性の話。
政府が順当に工事を進めたなら、あと何年もしないうちに、ここはきっと湖底だ。
………雛見沢村の住民たちの、なりふり構わぬ抵抗がなければ、ひょっとするとすでに湖底だったかもしれない。
「……ボクたちはここでしか生きていけないのです。……都会では生きていけないのです。」
……この、幼さを色濃く残す少女のこの一言は、……あまりにも的確に、雛見沢の住人たちの心の叫びを代弁していた。
もちろん、………私に何も言い返せるわけもない。
…牧野氏も、……梨花ちゃんの重い一言に、沈黙するほかなかった…。
「……すみません。…余所者が気安く言えるような問題ではなかったですね。……謝罪します。」
牧野氏はしばらくの間、どう答えていいやらわからず、曖昧に笑っていた。
「へ、…へへへ! お客人たちのような、他所に住んでいる方々には関係ねぇこってす。雛見沢を気に入ってくださったんなら、…お客人のお友達みんなにも、雛見沢が素晴らしいところだって宣伝して下さい。そういうのが何十人、何百人と広がっていけば、……この村をダム底に沈めるなんて、ふざけた計画も、やがては潰えるんですかんねぇ。」
そして、気にしないで下さいね、…と景気付けるように笑い飛ばしてくれた。
………牧野氏がそれほど深く気にしないでくれたのは…本当に幸運だ。
…自分は、少女との馴れ合いに現を抜かして…すっかり敵地にいると言う緊張感を失っていた。………それを、彼らの本拠地に立ち入る直前に思い出すことができて、…よかったかもしれない。
もしも、今のやりとりを彼らの事務所内でしていたなら……。
…短気な若者がいたなら、食って掛かってきたかもしれない。
……彼らの過激さを思えば、……最悪、命の危険だってあるかもしれないというのに。
………そんな自分の様子は、ひどく気落ちしたように見えたらしかった。
牧野氏は、かえって悪いことを言ってしまったように思ったらしく、私の機嫌を取ろうと、おたおたしていた…。
「…本当に軽率なことを言いました。本当にすみませんでした。」
「いんえぇ…。…そんなにお気にされないで下さい…。」
「今日案内してもらった村のあちこちは、どこもとても美しく、素晴らしい場所ばかりでした。……もう一度来たいと心底思わされました。…そんな美しい村が、ダムの湖底に沈むことになれば、……必死の戦いになるのも、…わかります。」
…気落ちした風をうまく使い、…何とか相手に華を持たせるように話題の矛を向け直す…。
しばらく、うまく立ち回る内に、牧野氏はすっかり気を良くし、私が彼らの主張に共感してくれたと信じ込んでくれたようだった。
「ささ! そんな話はこれくらいにしましょう。本当にとても景色のいいところがあるんです!」
「……行きましょうですよ、赤坂。」
梨花ちゃんは、大人の暗くつまらない話からようやく解放されたのが嬉しいらしく、跳ねるように石段を駆け上がっていった。
別に走る必要もなかったが、彼女に合わせるように、私も少し小走りで階段を駆け上がった…。
■古手神社
神社の境内には町会のテントがいくつも出ていた。
テントには長机とパイプ椅子がいくつか出してあり、何人か町会の老人たちが雑談に華を咲かせているようだった。
彼らのしているタスキに、『ダム計画断固粉砕!』等の過激な文句が入ってなかったら、ただののんびりした、ご近所の老人たちの雑談にしか見えない。…そんなのどかな風景だった。
……集会所のような小屋の入口脇には、でっかい看板が立てかけてあり、『鬼ヶ淵死守同盟本部』と、大層立派な筆文字が描かれていた。
ここが、…鬼ヶ淵死守同盟の、本拠地。
…正直を言えば、…少し拍子抜けだった。
どんなのを想像していたのか、と言われれば…。恥ずかしい話だが、もっと物騒な様子を思い描いていた。……鉄条網とか、有刺鉄線のバリケードとか…。
だが、そこの第一印象はそれとは大きく異なり、……単なる片田舎の、神社境内にある町会の集会所。……そんな風にしか見えなかった。
雑談をしていた老人たちが梨花ちゃんの姿に気付く。
「梨花ちゃまじゃないの。もう子どもはお家に帰る時間だよー!」
「……ここはボクのお家なのですよ。」
そうに違いないと老人たちが大笑いする。
そんなやり取りからも、古手梨花という少女が、みんなから愛されている様子が見て取れた。
「牧野さん、その人? 電話をくれた観光の人は。」
「そんですよ。こちら、村長さんね。雛見沢の公由村長さん。」
朗らかに笑うが、…きっと怒ると怖いに違いない、そんな風貌の老人は……何と、鬼ヶ淵死守同盟の会長、…公由喜一郎氏本人だった…。
「ようこそ雛見沢へ。いかがでしたか。…静かでゆっくりしたところでしょ。」
「…え、えぇ! 今日一日、美しい場所をいくつも堪能させていただきました。貴重な機会をお与え下さったことを感謝します。」
「……へぇぇ…。今時の若い方なのに、また…紳士な方だねぇ…。うんうん。」
「……喜一郎。赤坂に見晴らしのいいところを案内したいのですよ。」
村長と私の挨拶が長引くと思ったのか、梨花ちゃんは話に割って入る。
………しかし、村長であっても呼びつけ、…それも下の名前でか。…少し違和感を感じたが、…村人は誰も気にしていないようだった。
……御三家のひとつ、古手家の少女。
…………ただの村人とは、一線を画した存在なのだろうか。
「……赤坂、こっちなのですよ。」
梨花ちゃんが私の袖を引っ張る。
それに逆らわず、引っ張られていくと………。…そこには雄大な景色が待っていた。
「…………………これは、…………………すごい……。」
そこは、高台から村を見下ろせる……絶景だった。
彼らも、ここが村一番の景色であることは知っているらしく、…雄大な景色に心を奪われ言葉を失う私に、無粋に言葉をかけるようなことをしないでくれた。
……カメラを持っているのに、ファインダーを覗くことすら、忘れてしまう。
この景色を、どんなフィルムに焼き付けたって、…全て伝えることなんかできないだろう。
もしも伝える方法があるとしたら、……それは私が伝えることだけ。
いかに素晴らしく、美しい景色で、…何物にも替え難いものだったか、その感動を伝えることだけだった………。
しばらくの間、…景色に心を奪われ……ただただ、…呆然としていた。
涼やかな風が、火照った体を冷ましてくれる。…その心地よさにも、心を奪われていた…。
ずっと、…私の袖を掴んでいた梨花ちゃんが言った。
「……ボクの一番のお気に入りの場所なのですよ。」
梨花ちゃんはそう言いながら、にぱ〜っと、あの笑顔をもう一度見せてくれる。
その笑顔がとても儚く見えた。
……なぜなら、彼女が気に入っているこの景色は、………やがて暗緑色のダム湖に沈むことになるからだ。
「………………こんな村が、…湖底に沈むことになってるなんて、…信じられないよ。」
梨花ちゃんにだけ聞こえるように、……小さく言った。
…そして言ってから後悔する。……何て、…残酷な言葉を。
だが、梨花ちゃんは表情を曇らせることはなかった。
……むしろ、笑顔で微笑み返しながら、言った。
「……沈みませんよ。ダム計画なんて、必ずなくなっちゃいますのです。」
少女特有の、根拠のない言葉。
……だがその言葉には、理屈じゃない何か。…願いが込められていた。
「……………赤坂は、……この村が沈んでしまうと、…思っていますか?」
「………………………沈んでほしくなんか、ないよ。」
……ダムの重要性はわかる。
必要なのもわかる。
……でも、そのために強いられる犠牲を…認めたくない。
総論賛成、各論反対な意見であることはわかってる…。
でも、……この少女が愛するこの景色を奪わないためなら、……。……私は、ダムに反対できるかもしれない。
………ひとりの少女の笑顔のために、日本の発展を、国益を蔑ろにするなんて。……ヒューマニズムは結構だが………。………………………。…………感傷、か…。
「……沈みませんよ。ダムの計画はもうすぐなくなりますですから。」
少女の言葉は、希望や夢でなく、……決定染みた雰囲気を持っていた。
まるで、…もう決められた運命を語るように、……揺ぎ無い。
例えば、明日の朝日も東から昇ると…当り前なことを言うように。
「……………もうすぐ、…………なくなる…?」
少女に、……その根拠が聞きたくて…振り返る。
「……はい。…なくなりますのですよ。」
「どうして、………そう言い切れるんだい?」
「……それはなのです。……………………。」
少女は、……答えようとしたが、………まるでうまい言葉が見つからないかのように、口に出しかけた言葉を飲み込んでしまう。
「……………赤坂が何をしてもしなくても。…ダム計画は今年で終わりになってしまうのです。もう決まっていることなのですよ。」
嘘だ。
ダム計画の中止が決まっていたら、鬼ヶ淵死守同盟は活動を休止している。
彼らを見る限り、終わりなき戦いに身を投じているようにしか見えない。
……ダム計画の中止を知っていたら、……もっと弛緩した雰囲気を漂わせるはずだ。…だがこの村にそんな雰囲気はない。
……あの、拒絶的な検問所や、そんなエネルギーに満ちた停留所の小屋を思い出せばいい。
……村人たちは、刺し違える覚悟で、…今も戦い続けているのだ。
だが、この少女は、……そんな村人たちの悲壮な決意を知りながら。………すでに自分たちは勝利していると言い切っているのだ。
終わりなき戦いに身を投じる村人と、……すでに勝利したと楽観する少女。……その対比は、………何だかとても奇妙だった。
「………………どうして、そう思うんだい? 何か確信があるなら、私に教えてくれないかい…?」
梨花ちゃんはしばらく、言葉を選ぶように沈黙した後、…………ぽつりと言った。
「……だって。」
「…だって…?」
その先を、続けていいのか迷うような表情。
……自分で言い出しておいて、困っているような、…そんな表情。
「……決まっていることなのです。…他に言いようがないのですよ…?」
「…き、………決まっているって………言ったって…………。」
……少女特有の根拠なき言葉。
……さっきはそう切り捨てたが、…………とてもそうは思えない。
……彼女だけが、………確信をもって、そうだと言い切っている。
…………脳裏に、…今日の楽しい一日で忘れかけていた本当の任務。…………大臣の孫の誘拐事件が過ぎる…。
鬼ヶ淵死守同盟は……大臣の孫を誘拐し、……すでに大臣との交渉に水面下で成功して…………、…ダム計画の中止の…確約を得ている……?
……実は、…公由氏らはすでにそれを知っているが、演技でとぼけていて。
……この少女は、それを素直に私に話してしまっている……?
「……赤坂。」
不意に少女が私の名を呼んだ。
「…………何だい?」
「……………………東京へ帰れ。」
え、…………?
突然の、…少女の命令形の言葉に驚いただけではない。
………私はこの村に来てから一度も、東京から来たとは言っていないのだ。
いや、……私の話し方から、関東人だと推測したのかもしれない……。……私は、…何にうろたえているんだ………?
……それは…豹変と呼ぶに相応しい、……少女の雰囲気の…突然の変化にだった。
「…………あなたはさっさと東京に帰った方がいい。……でないと、ひどく後悔することになる。」
少女は、…………ずっと私の袖を握っていた。
この素晴らしい景色を一刻も早く見せるために、私を引きずるように袖を引っ張り…そのままずっと握っていた。
だから、……今日一日を一緒に過した、あの可愛らしい梨花ちゃんのはずなのだ。
…私が気付かないうちに、…容姿がまったく同じな別人が摩り替われたはずがないのだ。
でも、………ずっと袖を握り続けていたのに、……その少女は、梨花ちゃん以外の、………梨花ちゃんなんだけれども、梨花ちゃんじゃない、……………知らない少女だった。
その少女は、………冷淡な言葉で私に告げる。
私がやがて…この村に来たことを心底、…後悔することになると。
「それがあまりにもみすぼらしくて、気の毒な姿だから。……今のうちから警告してあげているのです。」
「………どうして、……私が後悔することになる……と?」
「……………いちいちうるさいな。」
…梨花ちゃんの口からとは思えない…冷たい言葉に耳を疑う。
………梨花ちゃんの口から発せられているとはとても思えない。
……誰かが彼女のふりをして…腹話術みたいに話しているのではないか…?
そう思い、回りを見回そうと思ったが……。…彼女の瞳に、私はいつの間にか縫い付けられていて…………身動きをすることもできなくなっていた。
「……あなたの親は、あなたが赤信号の横断歩道の真ん中にいる時、どうして危ないのかを全部説明し終えるまで、あなたの手を引っ張らないの? 引っ張るでしょう? まず歩道まで連れ戻してから、なぜ危険なのかを説くでしょう? ………つまりはそういうこと。」
……私が一緒に過した…古手梨花という少女は、……こんな喋り方はしない。
片言の、幼児言葉のようなものを反復して使い、…感情を素直に口に出す…、年齢相応の可愛らしい喋り方だった。
………こんな、…斜な言い方は…絶対にしない…。
「…………………警告はした。…勘違いしないでほしいのは、…私があなたを嫌いだからこういうことを言ってるわけじゃないってこと。………死んでもいい人に、危険なんかを教える必要はないのだし。」
「………君は………誰だ。……梨花ちゃんじゃ、……ない。」
「……ん? ………くすくすくすくすくすくす…!」
梨花ちゃんであることを否定した途端に、………彼女は…さもおかしいように小さく、くぐもった笑いを漏らした。
……その笑い方がすでに、…歳相応でない。
……何か、……異様なものに……取り憑かれた…。
咄嗟に、…そんなことを考えてしまうくらいの…少女の変貌。
何か…恐ろしい現象に梨花ちゃんは襲われてしまっているのではないか。……そんなオカルト的な想像が、…何の躊躇いもなくあふれ出す。
梨花ちゃんの様子がおかしい…、誰か、…助けてくれ…!
そう叫ぼうと思って、村長たちの方を振り返る。
……すぐに彼らが笑顔でこちらを見守っているのに気付いた。
…そう、……彼らには、私が梨花ちゃんと戯れているようにしか、…見えないのだ。
この少女の身に、…恐ろしい何かが起こっていることに、…気付いていない。
「………赤坂の怖がり。……くすくすくすくすくす!」
少女は……私が恐怖していることを…明らかに感じ取っている。
……そしてその様子を、…怖がりと言って、…また笑った。
けらけらと笑う少女は、…変な風に身をよじりながら笑うと、…バランスを崩し、コテンと転んだ。
……梨花ちゃんが、転んだ。
さっきまでの自分なら、…何も躊躇することなく、起こす為の手を差し伸べている。
………だが、……この一見、梨花ちゃんに見える…だけれども梨花ちゃんでない…不吉な少女に、…手を差し伸べるには、私の勇気は少し、……足りなかった。
「……みぃ。」
少女が、……そう、鳴く。
そしてもそもそと這うようにして起き上がると、服に付いた埃をぱたぱたと叩いた。
……それから、周囲をきょろきょろと見回し、……きょとんとした表情を浮かべていた。
………………冗談、…だろ? 大人をからかってんだろ……?
そんな仕草をされたら…。……まるで、………何者カニ乗リ移ラレテ、…シバラクノ間、記憶ヲ失ッテイタミタイジャナイカ…。
「………冗談だろ…? …梨花…ちゃん…?」
「……みぃ。」
梨花ちゃんに、私の言葉が届いたかは分からない。……彼女はただ、自問するかのように小さく、そう鳴いていた。
「お客人〜! 梨花ちゃまも〜〜! お茶が入りましたよ〜〜! 塩大福もあるからに、ぜーひ食って行きんさいな〜〜!!」
事務所の入口で、割烹着姿の老婆が元気そうに手を振っていた。
大福があると聞かされ、梨花ちゃんが表情をはじけさせる。
「……わ〜〜〜〜〜〜い、なのです。」
屈託のない笑顔。
………それは私のよく知る、…私の理想の娘を具現化した少女の、…笑顔だった。
先ほどまでの、…不吉な言葉を吐き続ける奇怪な少女の面影は、………どこにもない。
「ほんら梨花ちゃま〜! 手を洗って来んさいね〜〜!! ばっちいおててにゃあ食わせる饅頭はありんせんね〜〜!」
「……ちゃんと洗いますですよ〜〜!
み〜〜〜!!」
梨花ちゃんは元気に返事をして、事務所の脇にある手洗い場に向かって走り出した。
その途中で立ち止まり、振り返って私を呼んだ。
「……早く来ないから、ボクは赤坂の分までお饅頭が食べられて、ほくほくなのです。」
「え、………………あ、…………………………。」
「……おててを洗わない人は、お饅頭が食べられないのですよ?」
………どこから見ても、…梨花ちゃんだった。
その言葉も、喋り方も、…どこから聞いても梨花ちゃんだった。
「ほんれ、お客人〜〜〜! 大人なんだから、お手本を示してやって下さいな〜〜!!」
老婆が、私にも手を洗うように促す。
……逆らわず、…梨花ちゃんと一緒に手洗い場に並んだ。
………ざぶざぶと。
…学校で習ったらしい、手洗いの手順に従い、入念に手を洗う梨花ちゃんを……じっと見つめた。
「……みぃ……? ……間違っていますか……?」
「……え、……間違い、……って…、」
「ボクのおてての洗い方、です。…………金シールを4個しかもらったことないです。…ボクはおててを洗うのがきっと下手なのですよ。」
「ま、…間違ってなんかないよ。それだけしっかり洗えてれば十分だよ…。」
「……それだけでは駄目なのですよ赤坂。ちゃんとタワシを使って、爪の間の垢も落とさないと金シールはもらえないのです。」
「ん、……んん。…梨花ちゃんは真面目で…偉いなぁ…。」
「……にぱ〜〜〜☆ 赤坂に褒められましたのです。」
どう見ても、……梨花ちゃんだ。………さっきの少女の面影は一切ない。
さっきのあの不吉な少女は……一体、……何だったんだ…………。
「……梨花ちゃん、……さっきのあれは……どういう意味だい…?」
「………………。」
「……さっき梨花ちゃんは私に、……東京へ帰れ…って、…そう言っただろ?」
「……………言いましたのですか?」
「…………………………。」
…言葉を…失ってしまう。
………彼女は先ほどの少女の言葉を…記憶していない。
………こんな、…オカルト染みたことが…あるなんて……信じられるものか…。
梨花ちゃんに…奇怪な少女が取り憑いて、……薄気味悪いことを口走ったなんて……信じられるものか……。
「…………梨花ちゃんが、……確かにそう言ったよ。」
「…………………みー……。」
そんなことを言われても、……何のことかわからない…。……彼女の表情からは、そう読み取れた。
…………彼女はとぼけているのでも何でもなく、………本当に、…知らないのだ。
………一体、…さっきのは何だったんだ………。
梨花ちゃんがそうしたように、……自分も、何のことかよくわからない、そういう表情を浮かべる。
…二人して、何のことかわからない表情を浮かべている様子は、…さぞや滑稽に違いなかった。
事務所の中でお茶と塩大福をご馳走になりながら、…死守同盟が撮影した抵抗運動のプロパガンダビデオを延々と見せられた。
ダム戦争がいかに辛く長い戦いであるか、老人たちが熱弁を振るったが…それは私の耳には届かなかった。
……自分にとっては何度も聞いた話に眠くなり、うつらうつらと、舟を漕ぐ様にまどろむ梨花ちゃんの姿だけを……ずっと見ていた。
やがて梨花ちゃんは、私がじっと見ていることに気付き、目を擦りながら笑いかけてくれる。
……その笑顔は、やはり梨花ちゃんのもので、…不吉な陰りはまったくなかった。
………その後、時間の経過と共に、梨花ちゃんへの理不尽な恐怖は薄れていったが、…………あの出来事を、決して忘れることはできなかった。
やがて暗くなり、村長たちは夕食を用意しようと言ってくれたが、明日も来るといって辞退することにした。
…ホテルに帰り、室長に今日の定時連絡をしなければならないからだ。
「そうですか。…ではまた明日もぜひいらっしゃい! お電話をくれればすぐに迎えを出しますのでね。」
「御厚意、感謝します。ぜひ明日も遊びに来ようと思います。」
「えぇえぇ、そうしてあげてくださいなぁ! あんた、梨花ちゃまに大層、気に入られたみたいだしぃねぇ!」
「……赤坂は明日も来ますですか? 明日は5時限で終わりですから、3時くらいに来てくれるとうれしいのですよ。」
…ぜひまた来てほしいのです。無垢な笑顔がそう訴えかける。
………邪悪な気配は一切ない。
…次第に、……あの出来事は、……何かの勘違い、…見間違いではないかと思うようになる………。
常識的に考えれば。
…御三家のひとつである古手家の娘の梨花ちゃんに気に入られるというのは…、今後の調査を考えると大きな足掛かりだった。雛見沢村に訪れるための、割符を手に入れたようなものだ。
さっきの……あの出来事さえ、気のせいに出来るなら、…この、私の理想の娘を具現した少女に気に入られるのは……悪いことじゃない……。
鬼ヶ淵死守同盟の懐にうまく入り込み、…村長を始め、鬼ヶ淵村の要人たちに好意的に歓迎してもらえた。……………大戦果のはずだ。
でも、……心は晴れなかった。
…ホテルに帰り、……痛いくらい冷えたビールで無理やり胸中を清めるまで。……理解できないあの奇怪な出来事のショックに、苛まされる続けるのだった………。
■幕間 TIPS入手
■順調
車の音が近付き、緩いブレーキと音と共にエンジン音を止める。
その途端、それまでだらしなさそうに足を投げ出していた男は、ガバッと起き上がって窓の脇の壁に張り付き、用心深く表の様子を伺った…。
……………仲間の車だ。
だが、警戒はまだ解かない。
やがて、足音は扉に近付き、…ドン、ドドドン、と決められた合図のノックをした。
「……帰ってきたんね。開けちょくれな、俺だ。」
「あぁ、お疲れ。今、開ける。」
鍵を外し、扉を開けると、大きく膨らんだスーパーのビニール袋を両手いっぱいに持った男が姿を現す。
両手のビニール袋には「セブンスマート」と書かれていて、菓子パンや牛乳パックなどが顔をのぞかせていた。
それらの袋の中身を、床に敷かれた毛布の上に広げた。
「カップラーメン買ってきちょん、お湯沸かせな。…小僧はどうしてるん。」
「ん? ずっと寝てる。手が掛からなくて助かるよ。ウンコ垂れる時は騒ぐけどな。」
「漏らさせんなぁ。便臭は万一の時、ヤぁバいって。」
「……わかってるよ。」
「猿ぐつわは定期的にチェックんな。外れてもまずいん、きつくも締め付けちゃあぁん。窒息させたら意味がなん。」
「わかってるって…。あれ、携帯コンロのガス缶頼まなかった? もうガスねえよ。」
「聞いてねん、だぁほ。」
「…かーー…、マジかよ、付いてくれよ…。くそくそ!!」
携帯コンロを、ガチャガチャといじり、火が付かないかと悪戦苦闘している。
…それを見て、買出しに行っていた男は深くため息をつくのだった。
そして、その様子を尻目に、……部屋の隅へ歩み寄る。
…誘拐された少年は、床に敷かれた毛布の上に転がされていた。
「…………………小僧、……元気かいね?」
もちろん、その問い掛けが少年の耳に入るとは、男も思ってはいない。
なぜなら、少年の両耳には栓が詰められ、目と耳を丸ごとぐるぐるにガムテープで塞がれていたからだ。
そして口には、ねじった薄手のタオルのようなもので猿ぐつわがされていた。
……そのせいで顎を閉じることができず、少年の頬はよだれでべとべとになっていた。
もちろん、それだけではない。
両腕は後で組まされ、皮のベルトのようなもので厳重に締め付けられている。
「今ん所、順調らし。命の心配はないん。…お前の祖父さんが渋りよったん、耳たぶのひとつも切り落とさなきゃならんかったんけー、…やらんくて済んで助かりよんよ…。本家はこうと決めたら…鬼やんね。…どんな残酷なこと命令するかも想像つかん。……その本家が、小僧に傷一つ付けるな言うてんから、とにかく順調なんだろんな…。」
「大臣はダム計画を撤回で水面下工作。雛見沢ダム計画は無期凍結へ。…小僧の解放はいつ頃になるんだろうな。…早く一服したいもんだぜ。」
「本家が決着のタイミング、計ってるらし。いつになるかわぁらんが、近い内やんなぁ…。」
「良かったな小僧。もうじき解放されるぞ、へへへ…。」
そんな男たちの声が、少年の耳に届いているかはわからない。
…少年は、無惨な現実から、少しでも魂を守るために…こんこんと眠り続けるしか自衛の方法がなかった…。
「それよん、ガスをどうするんね! ラーメン食えんよぅ!! ガス切れたなら言ぅてえなぁもう!!」
■雨雲に恋して
天気予報が、今週一週間、雨がまったく降らないことを予告した。
晴れの日が嫌いなわけじゃない。
だけれども、連日代わり映えのない晴れ続きだったなら、誰だって雨雲が恋しくなるに違いない。
一週間一月一年と、いつまでも単調な晴れ空が続いたら、誰だって雨雲が恋しくなるに違いない。
お天気の専門家が、過去のデータをいくつも並べ、それらを充分に吟味した上でそうだと発表するのだから、その予報は簡単に外れるものじゃない。そんなのはわかってる。
……でも、だからこそ、たまの一日くらいその天気予報が外れやしないかと期待して、晴れ空を見上げるのだ。
そんな私は天邪鬼だろうか?
待てども待てども、雨雲の訪れぬ晴天の空の退屈さに、時に窒息しそうにもなる。
もしもそれで窒息して死ねたなら。…きっと地球の人間はこんなには増えないだろう。
それはつまり、…こういうことで窒息できるのは、私だけなのだということなのだ。
だからこそ。
……天気予報にすらも予見できない夏の夕暮れの突然の夕立に、私は歓喜する。
こういう風に説明すれば、あなたたちにも私の気持ちが少しは伝わるのだろうか?
例えば、今夜の晩御飯がカレーライスだと決まってるとする。
でも、実際に食卓に呼ばれてみたら、実はナスとピーマンの炒め物になっていたとする。
これは母の気まぐれなわけだけど。
私にはその気まぐれがとても嬉しい。ナスとピーマンは確かに好きじゃないけれど、それでも嬉しい。
今夜はカレーライスということになっていた、予定調和が崩れたのが楽しいのだ。
今夜という日が仮に百回繰り返されたとして、百回食べなければならないと決まっていたカレーライス。
…それが、今夜はナスとピーマンの炒め物に変わったのだ。この偶然を楽しめないわけがない。
私は予定調和が嫌い。
決められた予定が大嫌い。
私は退屈を愛さない。
どんな些細なことであれ、昨日までと違う何かが起こることに期待を寄せてしまうのだ。
今日から一週間、ずっと晴れであることは決まっている。
天気予報がそうだと決めているし、お天気の神さまもきっとそのつもりだ。
でも、…何かの気まぐれで、…その内の一日くらいは雨雲がやって来ないなんて、誰にも言い切れない。
……誰にも言いきれない要素が、常にこの世界には残されているからこそ、私のような生き物は窒息しないでいられるのだ。
明日も多分、快晴でかなり暑い日になるだろう。
でも、私だけはそんな予定調和が、1%を切るくらいの微細な確率で…たまには変わってしまうことを知っている。
その1%の何かを期待して、晴れの軒先に逆さにしたてるてる坊主を吊るすのだ。
私は結局、森羅万象にそういう意外性を期待して生きている。
どうして期待しているのか、…ふと考えた。
どうして私は雨雲を待っているのか?
…それは簡単。晴れの空に飽食しているから。
じゃあ、私はどうして雨雲を待っているのか?
…それは簡単。晴れと決まった明日が退屈だから。
だから、私はどうして雨雲を待っているのか?
結局、明日が晴れたって雨になったって、どうでもいい。
結局は、そんな雨だって、私の心を荒涼とさせる退屈をしばらくの間、濡らして潤してくれるだけなのだ。
だから、私はあらすじの決まったテレビドラマを見るよりも。
…空を見上げている方が好き。
■麦茶と紅茶と石臼と
「だいぶ血圧もよくなってきましたよ。そのお年でこれだけの回復力があるのは…いやいや、感服するばかりです。
お魎さんなら、百でも二百でも元気にお過ごしになれますね。」
若い白衣の医者は、そう微笑みかけながら、布団に入った老婆の腕に付けていた血圧測定器具のマジックテープをベリリと剥がした。
「入江の先生はほんにお上手でぇ…。ワシんたいな死に損ないは早ぅ死なんと、若者の邪魔んなっていけんね…。…ほっほっほっほ…。」
老婆は、…お魎はニヤリと笑うと、か細くそう笑って見せる。
そしてふすまの方を向くと、大きな声を張り上げた。
「沁子さんか妙子さんはおらんね? 入江先生に麦茶でも入れてやりゃあなぁ!」
廊下をぱたぱたと足音が近付き、ふすまがソロリを開く。
そこには、若い少女の姿があった。…老婆の孫のように見えた。
「沁子さんは今日はもうあがっちゃったよ。…何か用?」
「魅音、入江の先生に麦茶を入れたってんな。」
「うん、了解。婆っちゃも飲む? 紅茶の方がいい? 砂糖もミルクもたっぷり?」
「ワシが加減するから、入れんでえんね。砂糖壷とミルクも一緒に持って来てんな。」
「はいはい。」
魅音と呼ばれた少女は、相変わらず人使いの荒い祖母に、適当な返事を返すと、廊下を戻っていった。
「先生の麦茶は来客用のガラス茶碗に入れるんよー!! ちゃんとお座布団も付けてぇなぁ! 水滴もちゃんと拭き取っとくんねー?!」
「わーってるーって。うっさいな〜〜〜。」
廊下の向こうから、へこたれない声が帰ってくる。
真摯な態度の声でないのはいつものこと。老婆は仕方ないヤツと漏らし、苦笑した。
「かー、しょんがないやっちゃなぁ。叱られる内が花んね、なったく。」
「お魎さん、お魎さん、ままままま…、そこまでは言わなくても。魅音ちゃんも若いなりに頑張ってますから。」
「あれの母親もな、…しょんがないやっちゃったんね。よう似とる!」
「あっはっはっはっは。で、その母親の母親もまた、そっくりなんじゃあないですか?」
ぷーーっと、老婆は吹き出し、げらげらと大笑いする。まんざらでもない顔だった。
「入江先生。申し訳ない、障子を開っけてもらえんけんね。風が涼しそうだわ。」
気付けば、障子の隙間からは涼しそうなひぐらしの声が漏れ入っていた。
入江は腰を上げ、障子を少し開けた。
…清々した風が、室内のしけった空気を追い出していく。
「日中はだいぶ暑くなったように思うんですが、…まだ、朝夕は涼しいですね。昨夜は少し肌寒いくらいでした。」
「ん。……そんな朝夕もまた、雛見沢のいいところんな。」
入江はにっこりと微笑み返すと、再び老婆の脇の座布団に戻った。
そして二人して、しばらくの間、ひぐらしの声に身を浸すのだった…。
「ワシゃあ、百まで生きんにせぇ、もうしばらくは死ねんよ。……ダムの件、きっちりケリ付けるまでゃあ、棺の蓋かて収まらんわ。」
「………国が一度決めたことを撤回するのは、なかなか難しいでしょうねぇ…。」
「国のやることはな、いつの世も石臼回すみたいなもんね。そんれもだいぶ重いやっちゃ。」
「…石臼、ですか?」
「知らんねか? 石臼。」
いえいえいえ、もちろん知ってますよと入江は取繕った。
こういう感じで話の腰を折られることをお魎が嫌うことを知っていたからだ。
「国の石臼はな、…なぁんでもゴリゴリ挽いちまうん。大したもんよ。でもな、簡単には回らない、重ぉい石臼なんねな。たっくさんの人間が、せーのってやって、ようやくじりじりと動き出す、そんな石臼なんよ。」
入江は口を挟まず、その話に大人しく耳を傾けていた。
やがて魅音がお茶を乗せたお盆を持って帰ってきた。
お魎が上機嫌そうに話しているのにすぐに気付き、話の腰を折らないように静かに腰を下ろして、麦茶と紅茶の器を配った。
「だから一度回り始めたら、簡単には止められんね。……回し始める一番初めが一番重い。それが嫌だから、みんな手を休めんと、ごりごり回し続けるんね。」
「摩擦係数の話でしょ。確かに婆っちゃの話、理屈はあるね。」
「ちゅーことはだ。何かの間違いで、突然石臼が止まっちまったら、…まぁた回すにはどえらい力が掛かる、っちゅうこったな。」
「…………確かに、一度中断した計画をもう一度動かすのに必要なエネルギーは、かなりのものでしょうね。」
「簡単には止められん石臼だけんどな。……一度止めれば二度とは回らん。そういう石臼よ。」
「石臼を止める、いい手があればいいんですがね…。」
入江がそう応えると、老婆と魅音は突然、沈黙する…。
直感的に入江は失言したと思い、少し慌てながら取繕いの言葉を捜そうとした。
だが、それは失言による沈黙ではなかった。
……なぜなら、老婆と魅音の表情に浮かんでいたのは、冷笑だったから。
「……………………………。」
「………………………。」
突然、自分の身を包む空気が凍りつき、入江には何が何やらわからない。
…二人の浮かべる冷笑が、自分の落ち度による何らかの不快感の表れではないのか、それを恐れることしかできなかった。
「……………………。」
「…………………………………。」
「……………………はは、ははははははは、」
大して長い時間、沈黙に縛られたいたわけでもない。
…でも、入江はその沈黙に耐えることができず、曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかった。
…その入江の笑いは、やがて老婆と魅音にも移り、…一座は何を対象にしたのかもわからない、少し肌寒い笑い声に満たされるのだった。
………ひぐらしたちだけは笑わず、ただ淡々と同じ声で合唱を続けていた…。
■2日目夜
電話が突然鳴った。
慌ててがばっと起きる。
……時計は夜の9時。
「…しまった……!! 定時連絡の時間を…寝過ごした…。」
受話器を取る。
「赤坂さま。外線からお電話が入っておりますが、お繋ぎしてもよろしいでしょうか? ご同僚の嘉納さまと申されております。」
……やはり。…定時連絡の電話がないので、かけてきたのだ。
「…すみません、繋いで下さい。」
「かしこまりました。お繋ぎしますので、一度受話器を置いてお待ち下さい。」
受話器を置き、数秒すると、すぐに再びコール音が鳴った。
「はい、もしもし。赤坂です…!」
「赤坂くん? 嘉納です。お疲れさま。定時連絡がなかったので、こちらから掛けました。そちらの状況はどう?」
…定時連絡に遅れたことへのお説教は、とりあえず後回しにして、先輩は本題に入ってくれた。
「今日は雛見沢村へ実踏に行きました。観光客を装うことで、村長以下の何人かの死守同盟の要人との接触に成功。何も聞き出すには至りませんでしたが、好印象を得て、明日以降への繋ぎを作ることができました。」
「そう。なかなか手際がいいね。赤坂くんのどこか初々しい感じが、むしろ武器になったかもしれないね。まずは上首尾ってところかな?」
「……比較するほど経験がないので、上首尾かはわかりませんは。…とりあえず今日のところは順調だと思います。」
「県警での情報や、地元警察の公安での情報と照らしてどう? 鬼ヶ淵死守同盟はシロっぽい?」
まだわかりません。
……そう即答できるはずなのに、…………それを告げるだけなのに、なぜか、…躊躇われた。
「…………まだ、調査中ですので、何とも。」
「そう。なるべく早めにね。わかってると思うけど、今夜が終われば、誘拐から丸4日が経過する。……いつが時間切れという明白な区切りはないけれど、時間の経過は確実に我々の状況を不利にしていく。…それはわかってるよね。」
「えぇ。わかっています。迅速に、だけれど細心の注意で調査を続けます。」
「うん。くれぐれも気をつけてね。相手は暴力主義団体なんだから。…油断すれば危険もありえるからね。危険が迫ったらすぐに連絡を。その場合は地元公安に応援体制を入れられるようにするからね。」
「ありがとうございます。頑張ります。」
「…他に赤坂くんの方から連絡はある?」
いくつかの補足と、事務上の連絡を加え、……最後の最後で聞いてみた。
「……そちらの調査の進展はどうですか?」
「うん。こっちもみんな頑張ってるけど、なかなかはかどらないよ。何しろ、調べる団体が星の数だからね。
だから君の方の団体も、シロだとわかったらすぐに帰京して他の職員の応援に入ってもらいたいんだよ。……室長は鬼ヶ淵も洗っとけって言ってるけど、俺は鬼ヶ淵なんかの反ダム住民団体なんかは、今回の件、まったく無縁だと思ってるからね。…職員ひとりを、ひと団体調べさせるためだけに出張させるのは、すごく痛いよホント。」
これはもうグチだ。
…のんびり出張を楽しんでないで、さっさと切り上げて帰って来いと言ってるようなものだ。
「なるべく早めにケリを付けるようにします。」
「うん。よろしくね! じゃ、他に何もなければ切るよ?」
「はい。特にありません。」
別れ際に、定時連絡に遅れたことへの小言をしっかり言われる。
それから受話器を置き、……ベッドに大の字になって横たわった。
……そう言えば、大石氏からの連絡がないな。
情報屋と落ち合う時間、場所を今夜、連絡してくれることになっているのだが。
…定時連絡を忘れたことを怒られた腹いせに、大石氏に怒ろうかとも思ったが…。
考えてみたら、大石氏は今夜中に電話するとしか言ってない。
………いつあるのかもわからない電話を待つというのは、それはそれで辛かった。
そう思った時、電話が鳴った。慌てて受話器を取る。
「も、もしもし!」
「これはびっくりしました。…赤坂さん、あなた受話器取るの早いですねぇ。テレクラにだいぶ通い慣れてるんじゃないですか?」
「そんないかがわしいところに通った試しなどありません…!」
「そこまで過剰に反応されると、…面白いなぁ。なっはっはっは! ちょっとHな遊びができる店にでも遊びに行きます? んっふっふっふ!」
「…遠慮いたしますので、本題に入って下さい、大石さん。」
「そうですか? それは残念です、次の機会にしましょうかね。……では本題に。」
鬼ヶ淵死守同盟の幹部には、周辺の地域に強い影響力を持つ人間が多い。
興宮の町にも、村の関係者がたくさんいる。
…だから、興宮の町から遠く離れたこの鹿骨繁華街で落ち合うのは、当然のことだった。
「赤坂さん、こっちこっち! ちょっと迷いましたか? 北口からの方が、遠回りだけど道は分かりやすかったかもしれませんね。」
「いえ、遅れて申し訳ありませんでした。」
「夕飯はもう食べちゃいました?」
「えぇ。済ませてあります。」
「んじゃあ、お酒の飲めるお店に行きましょうか。洋酒派? 日本酒派? 女の子のいる店といない店はどっちがいいですかね? むっふっふっふ!」
「お構いなく。勤務中は飲みませんので。」
それを聞き、大石氏の連れの男が仰け反りながら大笑いして、大石氏の肩をバンバン叩く。
「ねぇ? 初々しい人でしょう? その分、ちょっぴりサービスして上げて下さいよ。あのお金は全部、彼のお財布から出てるんですからね。」
大石氏が連れてきた男は、まるでダフ屋か馬の予想屋のような風貌の、見るからに怪しい男だった。
情報屋がいたずらっぽく、にやぁと笑い出す。
「おい坊主。お前、旦那にいくら渡した? だいぶ途中でつまみ食いされてんぞぉ?」
「大石氏への仲介手数料も含めていますから、それも含んだ上です。」
情報屋は私に、もっと喜怒哀楽の大きい反応を期待していたらしい。
…私が至って平然と答えると、自分とはまったくタイプの違う人間なんだと認識したようだった。
だがそれは、反りが合わないと敬遠されるというよりは、珍しいものに興味をそそられているようにも見える…。
「だから言ったでしょ。真面目な人なんです。でもねぇ赤坂さん? 私たちのような職種の人間は、豊富な社会経験がとても武器になるんですよ?」
「女の子がいてお酒が飲めるお店での経験が、どう武器になるか疑問です…。」
「わっはははっはっはっは!!」
情報屋はこらえきれなくなり、人目もはばからず、腹を抱えて大笑いした。
「いやぁ…もう! 赤坂さんはいちいち察しがいいなぁ! いよッ、さすが高学歴!」
「…大石さん? あなた、どこかで飲んできましたね! 酔っぱらってます?!」
「オフタイムに飲んで、何が悪いんですかぁ〜! あなたは勤務中でも、私はオフ。おっふっふっふっふ〜!」
……元々、悪ふざけの好きな感じのする大石氏は、すっかり上機嫌で手がつけられない状態だ。
……情報屋からもたらされる貴重な情報を、一言一句聞き逃すまいと緊張状態でやって来た自分とは、あまりに違っていた。
…大石さん。
あんた、あれだけの金を鷲掴みで持ってったんだから、それに見合うだけの情報は提供してくれるんだろうなぁ……。
と、ここまで思ってから、情報は情報屋がもたらすのだから、仲介人の大石氏はいくら酔っていてもいいことに気付く。
…文句の付け所はないが、何だか微妙にシャクだ。
大石氏と情報屋(…どうせ仮名だろうが、彼は佐藤氏と名乗った)に先導され、繁華街の裏道へ、裏道へと進んでいく。
あれだけ賑やかな繁華街から、ほんの道を数本違えただけでこれだけ寂しい裏通りになるのだから、夜の街というのはわからない。
大石氏は、怪しげな小汚いビル脇の階段を上がっていく。
看板も何も出ていないし、そもそも店なのか、開店しているのかさえわからない。
「…安心して下さい。怪しい店じゃありませんよ。んっふっふっふ!」
大石氏の口から出る言葉で、これほど信憑性はないだろう…。
扉を開くと……、……そこは、幸いにも標準的な雀荘だった。
…警戒していたほどの不審な店ではなく、ほっとする…。
「ハイいらっしゃい〜。あら、大石さんお久しぶりー! こっち入ります? すぐ空きますよー。」
「いいえぇ、今日はセットですからいいです。お、待たせましたねぇ。」
麻雀は4人でやるものだ。…どうやら、面子のひとりとして先にこの店で待っていたらしい初老の男が腰を上げる。
「遅いぞ蔵人。俺ぁもぅ帰ろうと思ってたんだからぁ!」
大石氏が、人をダシにして遅れた言い訳をしている。
…やがて、私が新顔だと気付き興味を示した。
「彼は赤坂さん。東京からはるばる出張されてきた、将来有望な新人さんです。」
「……坊主。お前、麻雀はできんのか?」
「ま、……まぁ、……学生時代に、…そこそこに。」
佐藤氏と老人は、カッカッカと笑い合う。……人をカモにしようという魂胆が見え見えだ…。
「緊張続きの出張で疲れておいでだろうと思いましてねぇ! ひとつ今夜は心の洗濯でもしてさしあげましょうかと思いまして。むっふっふ!」
「…………今さら野暮なことを聞きますが、…お金、賭けるんですよね…?」
「「「がっはっはっはっはっはっは!!」」」
「まぁ〜そりゃあ、ちょびっとね。なぁに、お遊び程度の額ですよ。誰が払ったにせよ、そのお金でこの後はい〜いお店に遊びに行くのに使いますよ〜〜! むっふっふっふっふ〜〜!!!」
「…遊びに行く? どんな店に遊びに行くんですか。」
3人は口々にキャバレーや高級クラブ、果ては風俗など、好き放題に店名を挙げあう。
………少なくとも、お遊び程度の掛け金で遊びに行けるとは思えない。
「……私のお金は先日、大石さんに根こそぎ取られましたし、…私も仕事の都合があるので長居はできないのですが…。」
「じゃあ坊主が勝てばいいじゃねぇかよ! お前が買ったらその金でこの雀荘の支払いをして、蔵人に仕事の話でも何でもすればいい。」
…どっちに転んでも、彼らはこの雀荘でタダで遊ぶつもりみたいだな……。
………どうやら、少々覚悟を決めないといけないようだ。
このまま舐められ続けても仕事に差し支えるし。
「……わかりました。では、少しだけお付き合いします。私が勝ったら、お金もHなお店も一切なしで、すぐに仕事の話に入ってもらいますからね。」
「「「がっはっはっはっはっは!!!」」」
「ええ、えぇ!! いいですとも! むっふっふっふ!」
「俺が勝ったら、フラワーのブルー・マーメイドに直行だからなぁ!!」
「あぁ、女の子が体操服にメイドさんな格好で出てくるってお店? おやっさんも好きだなぁ〜!! 私はもちろん花びら大回転なお店をハシゴしまくりですよ? べろべろべろ〜〜!!! むっはっはっはっは!! サトさんはどうします?」
「…私は静か〜に飲めるお店でいいですよ。」
「静かにバニーさんと、足掛けクロスとかできるお店でしょー? むははははははは!! こないだ飲みに行った時、あんたバニーさんのシッポ引っこ抜いちゃったでしょ? あれ結局弁償だったの?」
「マスターに縫製代とか言われて、一本持ってかれたなぁ。」
「「わっはっはっはっはっは!!」」
…………なんて賑やかな卓だ。
…下品な会話の大音量に、他のお客たちから白い目で見られているのがわかる…。
……というか、…自分もその一味だと思われているのが悲しい…。
…予備費は全て大石氏に取られたので、残るお金は全て自費だ。……それに、大した金額は入っていない。
…………このまま彼らに付き合えば、いいようにたかられて、私の財布は夜の街に消える。
…何とか彼らに勝たないと、仕事の話に戻れない。
…この人たち、…どう見ても強そうだしなぁ……。……ごめん、…雪絵。
■麻雀!
「なっはっはっは!
そんじゃこれで、リーチっと!」
…まぁ、こんな間抜けなリーチじゃあ、おやっさんもサトさんも引っ掛からないでしょうねぇ。赤坂くん辺りからポロッと出てきてくれないですかねぇ、むっふっふ!
「蔵人のリーチなんざ、どうせこの辺だろ? この辺なら通るだろ。
それ!」
おほ! おやっさんもやるじゃないですか。私の安全牌でダマ聴、張りましたね?
どうやら赤坂くんも、人のリーチの現物や筋を切るくらいの若葉マーク程度の腕はおありのようですからね。……その辺が命取りになるってわけですねぇ!
「…どうした坊主? さくっと切らねぇかい。よくわからなかったら、蔵人と同じモンを切ってりゃ安全だぞ?」
「……………………。」
おぅおぅ、赤坂くんも悩んでますねぇ〜!
安全牌はあるけど、切ると聴牌が遠のくから切りたくない、ってのが見え見え。う〜〜ん、初々しい子はいいなぁ☆
ほぅら、さっさと当たり牌を出しなさい〜!
私に振り込めばべろべろちゅぱちゅぱなお店!
おやっさんに振り込めばブルマーなメイドさんのお店に直行なんですからねぇ〜〜!!
「………これは、…通りますか?」
上目遣いに、恐る恐る出した牌は、
…ありゃ、残念。
「おいおい、危ない牌だぞ?! 蔵人、通るのかぁ?!」
「えぇえぇ、通りますよ〜ぅ! むっふっふっふ!」
今回は運が良かったってことですかねぇ。
でも、この局が流れるまでにまだまだツモはあるんですからねぇ!! んっふっふっふ!
その後も、赤坂くんはのらりくらりとうまく運良くかわし、何とか流局を迎えることができた。
「聴牌」
「聴牌」
「ノー聴」
サトさんはさすがに2軒リーチが入ってるのを見越してたらしく、ベタ降りで来た様子。
さすがに渋い打ち方です。
さてさて、赤坂くんのはどんな感じだったんでしょうかねぇ。
麻雀の流局時には、聴牌の人間は手牌を公開しなくてはならない。
だが、聴牌に至らない場合は公開の義務がない。
…普通の初心者だったら、聴牌してなくても手牌を公開して、ここは良かった悪かった、あとこの牌が来れば聴牌だった…と騒ぐのだが。彼はそれをしない。…渋い?
「どうだった坊主。ちょっと見せてみぃ!」
サトさんが、ひっそりと伏せた赤坂くんの手牌を晒そうと手を伸ばす。
「んん〜〜〜…??? なんじゃあこりゃあ…?」
聴牌からは程遠い。……やっぱり赤坂くん、全然ダメ? むっふっふっふ…?
その時、おやっさんが赤坂くんの川と牌を見比べ始め、怪訝な顔をする。
「……坊主。お前、この辺りで張っとるだろ。どうして切った?」
「……………マンズの高い辺りが急に高騰しましたので抑えました。大石さんのリーチに対して安全性が高まったのにです。筋でさばけば無難なのに、わざわざ抑えた方がいる。」
「…………ほぅ。…蔵人の聴牌など鼻から論外、というわけか。」
「……相当高度な引っ掛けでなければ、私の放銃を期待したヌルめの手かと思って。それよりも、ダマで張ったあなたの方がとりあえずは問題でした。」
「いつ、聴牌したのに気付いた?」
「…………この辺りですか? ノンタイムで4連続で切ってますよね。初めは食い替えかと思いましたが、私をちらちら見ていたので、期待しているんだと気付きました。」
……赤坂くん、…あんた、
「赤坂さん、あんた、麻雀始めてどのくらい?」
「高校〜大学くらいまでの間しかやっていませんよ。さ、続けましょう。サトさんは聴牌しなかったらか流れて、次は私ですね? ……親。」
……………赤坂くんの雰囲気が、…なーんか微妙に変わっているような…。
彼をカモろうという和気藹々とした場に、…冷気の混じった緊張感が…。
「……大石さん、ソーズがコスいですね。回しますか?」
「…ち。………この坊主……! 蔵人、降りるな!!」
「あと3つ、いい牌がくればなぁ…!
サトさんはうまく行きそうです?」
「くそ…! 食いタンで引き摺り下ろすか!
チーだ!」
「チーですか?
じゃあ、すみません、それポンです。」
……おいおい、チーの発声聞いてからポンを決断したよ…! …ってことは…邪魔ポン?!
「………坊主、お前、慣れしとるなぁ…!」
「まさか。…私が生まれる前から打ってるような方々とは比べようもないですよ。………それです、
ロン。
トイトイ、
赤々、
ドラ3。
……親ですからね、ちょっぴり高いですよ。」
「……く!」
「なっはっはっはっはっはっは!! 赤坂さん、やるなぁ!! こりゃあ、我々も本気を出さないと! ねぇ?!」
「本気のついでに点棒も出してもらいましょうかね。……私は眠いんで、手っ取り早く終わらせます。」
……赤坂くん?
…何だか素敵に凄みが…。なはははははは………。
気付けば、いつの間にか赤坂くんの足元から冷気が噴出しているような錯覚が…。
「…ヌルいですね。
マンズの二五八が笑ってませんか?」
「ち、畜生!! 坊主、てめぇ…!!」
「…………蔵人、おめぇ差し込め!
坊主の親、とっとと降ろすぞ!」
「…悔しいですが、…どうやらそうした方が賢明なようですねぇ…。」
「出た!!
ロンだ!
タンヤオ、ドラ1!!」
「……すみませんね、頭ッパネです。
…ロン。
ピンフ。」
「………頭ッパネだぁ?! 小僧のくせに…!!」
「小僧? 小僧が相手だと馬鹿馬鹿しくて手を弛むってわけですか。…じゃああんた、その小僧以下、ってわけですね。………面白いなぁ。あんたら連中は決まって、小僧だ坊主だって言うよ。くっくっく…!」
「あ、赤坂くん? 赤坂くんですよねぇ? 何だか、ムードが変わりまくりなんですがねぇ…。」
「……………私をカモって今晩はいいお酒を飲むおつもりだったんでしょうが。どうやら皆さんのアテは外れそうです。
ロン。
…タンピン三色赤1ドラ1。」
「……うおぉ!! 張ってやがったかぁあぁああ!!」
「だからあんた、ヌルいよ。……いくらダマだからって、こんなにヌルい三面なんだから、読んでくれなくちゃあ。」
赤坂くんが頬杖を付きながら、くっくっくと笑う。
……そのサマが恐ろしく決まっていて怖い。
「……おい、蔵人! 話が違うぞ! 初々しいカモがネギ背負ってきたって言ったのは誰だ!!」
「いや…なっはっはっは…!! 誰でしょう、ねぇ?」
「………大石さん、まずいよ。このままじゃ負けるよマジで!」
…赤坂くん。……私を本気にさせるとは。
……どうやら本気でケツの毛まで毟り取られたいらしいですねぇ…。
「ポン。…………ポン。……気前がいいですね、もう一回ポンです。」
赤坂くんが軽快に鳴きまくる。
……晒した牌はいずれもピンズ。
……おいおいマジかよ、そんな大味なことで清イツなんてやる気かよッ?!
「……ポン。」
「…坊主、………正気か…? 4つも晒したら…おめぇ、牌が1つだけじゃねぇかよ。」
「そうですね。…知ってます? 単騎待ちって、一番読まれにくいらしいですよ。」
「バ、バカかてめぇ!!
そこまで染め手晒しといて、今さら出ると思うんじゃねぇ!!」
「………んっふっふっふ! …読めてますよ赤坂さん。……それ、清イツでもホンイツでもないんでしょ?」
「……………………………。」
「4つポンした時点でトイトイは成立してますからね。…あんたは今、絶好の単独トップ。…こいつは、…清イツと見せかけてトイトイで食おうという、挑発手でしょ?」
「……そう思うなら、ピンズ、
切ってみます? 大石さんの牌の左5つ。さっきから切り損ねてるピンズですよね。それを端から順に切ってみたらいいんじゃないですか?」
……マジかよおい…。
こいつ麻雀の神さまかよ…。さもなきゃ、普段は劇画の中の主人公に違いない!!
その時、おやっさんが卓の下からサインを送ってきた。サインは明朗にして単純。
(…蔵人。…やれ。叩き潰せ。)
(………こんな若い子に、サマは好きじゃないんですがねぇ。)
(あほぅ! ここまで舐められて今さら引けるか!)
(……もー知りませんよ? ではどうぞ。)
「行くぞ坊主!
リーチだ!! オープンで行くぞ! ピンズの一四七待ちだ!」
「……………………。」
恐らく、この中に赤坂くんの待ちも含まれている。
…これで赤坂くんは出アガリはなくなったってわけだ。
…ツモる時に、…次に赤坂くんがツモる上ヤマをすりかえる。
……掴ませる牌は、一ピン。
おやっさんの当たり牌だ。
赤坂くんは少し前に落としてるから当たる心配はない…。
「…ほれ、坊主の番だぜ。」
「…………………………ん。」
ツモが一ピンであることに、少々の動揺をしたのがわかる。……当然、切れない。
「坊主。わかってると思うが、…オープンリーチに振り込んだら役満払いだぜ?」
「言われるまでもありませんよ。」
赤坂くんの手から出たのは、
…字牌!
か〜〜〜!! 渋いですねぇ!
その北、あと一枚しか残ってないヤツじゃないですか! あんた、なんてぇ渋いので単騎待ちしてたんですかぁ!!
しかし、……これで赤坂くんの命運は確定する。
「……ふふん、小僧。
……命拾いしたな。…だが手牌は一枚だ。逃げ切れなくなることもあるんじゃねぇのか…? ふふん…。」
「………やっぱりそういうことか。」
赤坂くんが眼光鋭くおやっさんを睨みつける。
……こいつ、勘も鋭いよ。サマで握らされたこと、看破した?!
(…やめましょうよおやっさん。赤坂くんの方が二、三枚は上手です。)
(ばーろい!! ここまで来てやめられるかよ! 次行け! 掴ませちまえ!!)
………次に赤坂くんに、七ピンを握らせる。
…それで、決まりだ。赤坂くんはどっちを切ってもおやっさんに振り込む。
…絶対確定の…役満払い!!
自分のツモの時に……こっそりと赤坂さんの次のツモ牌を……。
「へっくしッ!!!」
がっしゃ!
…なんだなんだ?!
…赤坂くんは突然くしゃみをして、…自分の上ヤマを崩してしまった?!
「お、……おいおい、何やってんだよ……。」
「すみません、ついくしゃみをした拍子にヤマを崩しちゃって。…罰符払いですね。親だから、4000オールですか? それとも罰符は積み棒に?」
「………………………わっはっはっはっはっはっはっはッ!!!」
もう、堪えきれなくて大笑いしてしまった。
赤坂くんは二回、積み込まれて、逃げられない牌を積み込まれることを知って。
…自分でヤマを崩して逃げるという荒技を披露した…というわけだ!
「…やるな坊主…!! 役満払いをそういう手で防ぐとはな!! がっはっはっはっはっはっは!!!」
「…大石さんもそんな見え見えのツミ込みは勘弁して下さい。…これが馬場なら、今ので卓をひっくり返してたところですよ…。」
「いえいえいえいえいえ、すみませんすみません! あなたを侮っていましたよ! あなたどうしてどうして、お強いじゃあないですか!」
「正直に話さんかい。若い頃はだいぶ馴らしたんだろ?」
「……早稲田、高田馬場辺りでだいぶ遊ばせてもらいました。ちょっとレートを上げすぎて、馴染みの店に出禁を食らいまして。…今の家内にだいぶ怒られて、足を洗ったんです。」
「レートを上げすぎて? あんた、当時はどのくらいのレートで打ってたの?」
「面子にもよりましたが、歌舞伎町辺りで打つときは高目でした。一番大きいので、デカリャンピンで打ったこともありましたっけ。」
デカリャンピン?!?!
何なんだよそのレート! あんたのメンツはヤクザ? それともプロ野球選手?!
「…なんだなんだ!! 蔵人!! このタコ!! お前、どこからこんなヤクザの代打ちみたいの引っ張ってきたんだ!! もうやめだやめ!! あーもぅ!! 坊主、お前の勝ちだ! 降参降参!!」
「ありがとうございます、光栄です。」
「…なっはっはっは…。いやいや。…しかし赤坂さん、あんた、打つと性格変わるねぇ〜! 何で就職なんかしたの! あんたならフリーで充分にメシ食っていけるじゃない!」
「プロ雀士には腕とツキの両方が必要なんですよ。私には後者がありませんでしたから。」
「…ツキなんて、その時の運不運だろ。あんたほどの腕があれば充分にいけると思うがなぁ。」
「並みのツキじゃダメなんですよ。カンしたら3回に1回くらいはそのままカンドラが4つ乗って、ここぞという時に狙ってリンシャンが引ける。そのくらいじゃないと。」
「…………赤坂くん、そんなのが頻繁に出来たら、そりゃもう超能力者ですよ…。」
「いえ、イカサマでも超能力でもなく、そのくらいの打ち手は結構いるんですよ。
新宿で知られた、鳴く度にドラが乗りまくる雀士なんか鬼のように強かったですし、横浜で打ったプロなんかは、当り前のように一発で引き当ててましたからね。私にはあぁいうツキがないんです。」
……何だよその連中…。竜とか哲とか、そーゆう名前の人たちじゃないだろうな…。
「と言うわけで、総合トップは私で、よろしいですね?」
「へいへいへ〜い! 完敗でございますよ! むっふっふっふ〜!」
「負けた負けた! 久しぶりに大負けだ〜〜!!」
「しっかし…打ってる時の坊主、気合入ってたなぁ。結構怖かったぜ…。」
「よく言われます。…自分ではそんなに目つき変えてるつもりはないんですがね。……そんなに怖い目になってましたか…?」
「「「うんうん。」」」
3人で大きく頷きあう。
………天才雀士、赤坂くんかぁ。
…彼が出張から帰る前に、何かの大きなレートの卓に代打ちで出てくれないかなぁ!
……なーんて、欲を掻いちゃいけませんね。んっふっふ!
「……じゃー仕方ないや。約束です。夜の学習会はこれでお開きにしましょう。申し訳ありませんね、おやっさん。今夜はこれでお開きです。」
「しゃーないな。帰って寝るわ! 体力付けんと体がもたん!」
「お仕事が大変なんですか?」
「あぁ、おやっさんは雛見沢ダムの第1工区の監督さんなんです。住民とは連日、小競り合いをしてますからね。しんどい商売ですよ。」
「…来年当たり、第2工区も任されちまうかもしれねぇなぁ。黒田さん、血尿出ちゃってるって聞いたしよ。身がもたねぇよ。」
「おやっさんなら大丈夫でしょ。あなた、見た目よりもツラの皮、厚めですしね。んっふっふっふ!」
「俺だって仏じゃねぇからなあ! ハラワタ煮えくり返る時はあるぞー? 特に、園崎のあの小娘は我慢がならん! あいつの顔面、いつか簡単にゃ治らんくらいに歪ませたろって思ってる。」
「まぁまぁまぁ! でも給料はいいんでしょ? かなり破格の給金だって聞きましたよ。」
「当り前だ! あんなに世知辛い職場で給料が安かったら誰も残らんよ! おい蔵人、警察はいつになったら村の人間、全部追っ払ってくれるんだ。国から立ち退き命令とか出てるんだろ?!」
「……ん〜〜〜…。ねぇ? どうなってるんでしょうねぇ?」
雛見沢ダムの現場監督だと名乗った、おやっさんは、その後もしばらくグチっていたが、ひとしきり吐き出すとすっきりしたようで、大人しく立ち去っていった。
「じゃ、行きましょう。……後はサトさんに任せますかね。」
「…大石さんは帰られるんですか?」
「私が一緒でも、お邪魔しちゃうだけでしょ。それに、サトさんの仕事を買ったのはあなたです。私は対価を払ってませんからね。」
大雑把かと思えば、妙なところで律儀。
…その辺の不可解に若干、大石氏と自分の世代差を感じなくもない。
「じゃあ、坊主。……いやぁ、雀士さまにもう坊主なんて言えないな。赤坂くんでよかったっけ?」
「はい。」
「じゃ赤坂くん。行こうか。」
「では赤坂さん。また。…何か困ったことがあったらいつでも頼りに来て下さいね。」
「大石さんにお支払いできるような対価は、もう持ってませんよ?」
「今日の私の負け分を、ちょーっぴり返してくれればいいだけじゃないですか。なっはっはっは!」
大石氏は、まだまだ遊び足りなさそうだったが、それ以上はしつこくせず、夜の町並みに消えて行った……。
■アイキャッチ
■情報屋
情報屋ことサトさんは、私を自分の車に乗せて走り出した。
狭い路地を好み、何度も小さく左折を繰り返す。
「………左折法による尾行確認ですか?」
「ん、…くわしいな。」
左折法は尾行を確認する技術の中でも古典的なものだ。一対一の尾行ならこれで確認できる。
……しかし、実際の尾行はチームで行なわれるので、こんな古典的な方法ではその場しのぎにしかならない。…無論、しないよりはした方がいいのだが。
「……赤坂くんが何者かは旦那から何も聞いてないんだが。…やっぱり警察関係かい? 尾行確認に詳しいなんて、あとは探偵社くらいしか思いつかねぇね。」
「言わなければならないものでないなら、拒否した質問ですね。」
「やれやれ…。麻雀やってからすっかり雰囲気が大人びちまったな! 会った時のあのオドオドしたあんたはどこ行っちゃったんだよ。」
苦笑する。
…今となっては、麻雀をやらせてもらったことに感謝してもいい。
あれのお陰で自分のペースを取り戻せたのだから。
やがてサトさんは、尾行してくる車両がないと判断すると、郊外へ向けて走り出した。
外灯以外に何も見えない、真っ暗な田舎の道路。
……聞こえるのは、カーエアコンの唸る音と、カエルや虫の合唱だけだった。
「……旦那から、雛見沢村については多少のことは聞いてるんだろ?」
「御三家という旧家による支配や、現在は園崎家が一党独裁をしているとか、そういう話ですか?」
「……そこまで知ってるなら、下らない前置きは省略していいな。」
「では、…お願いします。………犬飼大臣の孫の誘拐に、鬼ヶ淵死守同盟が関与しているか、否かを。」
サトさんは、もう一度バックミラーを見て、不審車が追って来ていないかを確認してから口を開いた。
「……昨夜、園崎本家で親族会議が開かれたそうだ。親族会議ってのは…旦那から聞いてるか?」
「いえ。」
「普通に親族会議って言ったら、まぁ親戚が集まってお茶でも飲むようなもんだよな。だが、園崎本家の親族会議ってのは、そんなのんびりしたものたぁ訳が違う。」
園崎本家の親族会議。
……それはまさに、雛見沢村を支配する支配者たちの会議。
ただの親類の内輪話などなく、…村について。
反ダムの抵抗運動について。その他もろもろの、…全てを決める、……事実上の村の運命を決めているに他ならない。
会議の頂点は、園崎お魎。
…園崎天皇とまで呼ばれ、恐れ敬われている最高の長。
………老衰により、伏していることが多いというが、その一言には、村の命運を左右するほどの重みが今なお宿っている。
最近は少々体力が衰えたらしく、体調の悪い日には、床に伏していることもあるという。
体調の悪い時の親族会議では、お魎は床に入ったままで行われるらしい。
……厳かな和室の真ん中に、布団に入ったまま、上半身だけを起こし、険しい顔をしている老女こそ、……園崎お魎、その人である…。
その脇に座するのが、…次期頭首の、園崎魅音。
まだ若く、いや…若いという言葉も相応しくない。幼さを残す少女。
園崎お魎の脇に座し、時折お魎の求めに応じて取り次ぎをする程度の役だが…。
……お魎の跡を継ぐことを許された唯一の存在に他ならない。
お魎と同じ鷹の目を有し、…眼光だけで見るものの心臓を凍らせることができるという、…将来を期待された…頭首の孫娘。
そして、さらにその両脇には、他の御三家の公由家、古手家の重鎮たち数人が座する。
公由家の筆頭は、もちろん現雛見沢村の村長、公由喜一郎。
…そしてその脇に、直系の親族があと何人か並ぶ。
その反対側には、もう一つの御三家、古手家が座る。
…古手家は、今では神主一家しかいないので、神主とその妻、そして娘の梨花が座るだけだ。
梨花は、村の年寄り連中にとても可愛がられているらしいが、それはこのお魎も例外ではないらしい。
親族会議に臨むだけで、寿命が三日縮む…とまで言われるほどの緊張感が漂うこの会議の毒気にも、梨花だけは例外のようだ。
周りがどんなに張り詰めた雰囲気になろうとも、彼女だけはまったく気にせず、鼻歌混じりにお絵描き帳にラクガキをしているという。
実際、昨夜の会議でも梨花は、うつ伏せになりながらお魎の布団に、まるでコタツのように足を突っ込み、鼻歌を歌いながらのんびりお絵描き帳にラクガキをしていたという。
ここまでが御三家。
……そしてその周りを、園崎家の親類、縁者がぐるりと幾重にも取り囲むように並ぶ。
座布団が与えられるのは直系の親族だけだ。それ以外は、ただ畳みの上に正座するだけ。
…………園崎天皇を中心に、…まるで巨大で長い蛇がとぐろを巻くように…ぐるりと鎮座しているのだ。そして、…その座る順序、場所には徹底した序列が決められている…。
圧倒的人数は結局、園崎家だ。
……村の全てを決める会議の席が、園崎家にこれだけ許されていることを見れば、…御三家の力関係は火を見るより明らかにわかる…。
出席している御三家の人数がそのまま、今の雛見沢村支配への影響力と見て取れた。
「………その会議で、…何が話されたんですか?」
サトさんは、しばらくの間、沈黙を守った後、静かに語り始めた…。
■親族会議
「…マスコミ関係に支払ってる謝礼金の額が、大きいんじゃあないかい。」
長い沈黙を破り、切り出したのは公由家頭首の公由喜一郎だった…。
鬼ヶ淵死守同盟は会社ではない。
…雛見沢ダム計画撤回を目指す任意団体に過ぎず、決まった収入源はない。
活動当初こそ、多額の寄付金が集まったが、闘争の長期化に伴い、その額は年々減少する傾向にあった…。
「……石を投げるだけが全ての時代じゃないさ。マスコミの力も侮れないのは重々承知しているし、今後もその力を借りたいのは同じさ。」
園崎家に縁のある人間たちの表情は重い。
…マスコミの力を取り入れるべきだと発案したのは、彼らの長、園崎お魎だからだ。
戦いは武力によるものだけではない。
文明の時代には、文明の時代の戦い方がある。
……お魎はそう提案し、マスコミを取り入れた戦略方針を打ち出したのだ。
お魎の先見性は的中し、…当初は不透明だったその効果も、じわりじわりと現れ始めていた。
建設現場への武力闘争が、工事を一日でも遅らせる守りの戦術なら、…マスコミを使った情報戦略は、工事計画そのものを追い込む攻めの戦術。
当初、その戦略に疑問を持っていた者たちも、今では誰もその成果を疑ってはいなかった……。
だが、マスコミを繋ぎとめるには、常に膨大な資金を必要とされた。
活動資金が潤沢なうちはよかった。
膨大な支出を認めながらも、その成果に手応えを感じられたからだ。
…だが、闘争の長期化に伴い、当時と今ではまったく事情が異なる。
園崎家頭首…いや、雛見沢御三家の頂点に座すお魎が、自ら発案したものだからと、常に聖域的に、予算の削減を免れてきたのだ。
……誰もが、削るべきであると認識しながら、言い出せない。……それがマスコミへの支出だった。
「……どう思う、お魎さん。」
園崎家頭首自らの提案に、異論を挟める人間は、…恐らく村長の公由だけだった。
お魎は、…俗世のあらゆる感情の束縛から解放されたような、……形容しがたい表情で、ただ静かに公由の言葉に耳を傾けていた。
………もっとも、それが静かに聞いているのか、聞く気すらないのかはわからないが。
「去年、機関紙の値上げの理解を得るのにもずいぶん苦労したじゃない。……一度だけってことで理解を得て、…また今年もって訳には行かないよ…。…ねぇ、古手さん。」
古手家の神主とその妻に村長が、同意を求める。
…神主は曖昧な顔をして、即答を避けていた。
だが妻は躊躇せず答える。
「そうですね…。機関紙代は、特に貧しい家には大きな負担になってます。みんな自分たちの村のためだからと堪えてますが、これ以上の値上げはやめた方がいいでしょうね。」
機関紙とは、その名が示すとおり、鬼ヶ淵死守同盟が発行する機関紙である。
同盟の活動の紹介や、理念、決意などが記されたものだが、非常に粗末な内容であることは否めない。
この機関紙は、その内容による周知が目的でなく、村人や関係者、協力企業に購読させて、その代金を吸い上げることを主な目的としている。…言わば、税金のようなものになっているのである。
もちろん、これが鬼ヶ淵死守同盟の大きな資金源となっているのは言うまでもない。
本来、購読は自由意志によるものだが、雛見沢においては暗黙の内に購読は義務化している。
周辺の町でも、同盟と事を荒立てない為、泣く泣く購読している会社も多いらしい。
…神主が小声で妻に、余計なことは言わない方がいい…と囁くが、妻は冷たい目線でぴしゃりとそれを跳ね除けた。
その冷たい目線に畏縮し、神主は口を閉ざしてしまう。
二人の立場は常に妻の方が強かった。…それは、古手の血筋を引くのが妻の方だからだ。
神主は婿養子に過ぎない。古手に嫁ぐことによって御三家に列することとなった外様に過ぎない。
序列上、かなりの高位な位置に座することを許されているが、…その発言力の弱さは、依然、外様扱いを受けていることをまざまざと感じさせた。
そんな、温度差のある両親を尻目に、娘の梨花は、まったく気にせず、お絵描き帳に気ままにラクガキを続けているのだった。
お魎が魅音に目で合図をすると、魅音が耳をお魎に近付ける。
そして、何かをごしょごしょと小声で伝えていた。
二言三言、魅音が尋ね返し、それにお魎が頷くと、魅音は周りを見渡してからお魎の言葉を代弁した……。
「…機関紙の値上げも止むを得ません。」
公由たちは一瞬、苦虫を潰したような顔をしたが、その表情は、まるで始めからなかったかのように掻き消える…。
「だ、…だけど魅音ちゃん。…君だってわかってると思うけど、機関紙の負担は決して軽いものじゃない。雛見沢の全ての人間にかかる重みなんだ。あまり負荷をかけ過ぎれば、内部から崩れることだって…、」
「…内部から崩れるのは誰ですか?」
「誰って、…別にそういう意味じゃ、」
「…最初に崩れるのは誰かと聞いています。」
まだ幼さの欠片を残す少女に詰問され、公由は言葉を喉の奥に詰め込まれ、黙り込まされてしまう。
魅音は、同じ言葉をもう一度口にし、満座の人間たちを…ぐるりと見渡した。
その眼光に瞳を射抜かれまいと、…皆、落ち着きなく目線を逸らす…。
彼女が口にした言葉は無論、お魎のそれを代弁したものだ。
だから、魅音の口から出ようと、その重みはお魎のそれと何も変わらない。…だが、眼光だけは違った。
お魎と同じ、見るものの心を心底凍えさせ、屈服を強いるような鷹の眼差しに違いはない。
……だが、その眼差しは紛れもなく、魅音自身のものなのだ。
魅音はやがて、お魎の全てを受け継ぎ、若く有能な頭首として独立する日が来るだろう。
……その時の心証を少しでも損ねたくない。
…そう思えばこそ、誰も魅音のことを小娘だなどとは思わなかった。
「…公由さん。機関紙の値上げ如きでは、誰の決意も崩れませんよ。」
「………………………ん、…………んん…。」
公由は小さく唸りながら、反論はないというようなジェスチャーをして見せた。
「…マスコミ関係への出費は継続とします。その出費がさらに圧迫となるようなら、機関紙の値上げも止むを得ない。」
魅音によって裁断が下される。
…一同は深く頭を垂れ、黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「園崎家頭首代行、園崎魅音です。我が名において以上を決定し、決定の効力は即日発効されるものとします。……異議はこれを認めず、抵抗ある場合は実力を以て排除します。」
判決を意味する定型文が読み上げられる。
…再審がないという意味においては、裁判所のそれとは比べ物にならない重みがあった……。
裁判官なら槌を叩き、決着の印とするように。
……魅音が懐から大き目の鈴を取り出すと、それを揺すり鳴らした。
……厳かな鈴の音に、一堂は平伏するほかなかった……。
「……………何とも、…大時代的な親族会議ですね。」
「あんたみたいな若い者にゃ、ちょっと信じられないだろうけどね。…こういう古い土地には、こんなのが未だ根強く残ってるもんさ。」
大石氏の話の通りだった。
……御三家という古い習慣はすでに失われており、今は園崎家が単独で支配している。
それも、独裁と呼べるような水準で。
「……会議はそれで終わりですか?」
「いや、まだ続く。…先を続けるよ。」
やがて、…鈴の音が止むと、耳が痛くなるような沈黙が訪れた。
その中を、ひとりの男がすり足で、スススっと魅音に近付き、何かを小さく耳打ちした。
魅音はそれに対しに、小声でいくつか尋ねなおす。
そして納得が行くと、もう下がっていいという風な仕草をして、男を下がらせた。
……魅音に何かを伝えた男は、魅音の実父が幹部を勤める暴力団組織の構成員だった。
組織は鹿骨市全域を翼下とする広域なもので、この地域ではかなり知られたものだ。
…もちろん、日の当たる世界の話ではないので、誰もが知っているわけではないが…、その代紋のバッヂを見せるだけで、この界隈では揉め事に決着が着いてしまうことすらある…。
魅音の実父、お魎にとっての娘の夫。
…この男が持つ暴力団の力は、鬼ヶ淵死守同盟の暗部を司る力に他ならない。
…そしてその男は、御三家に継ぐ最も高位な席で、一種異様な気配を滲ませて、周囲を威圧し続けていた…。
魅音は父に目配せをする。
…今、伝えられた情報を、そのままお魎に伝えても良いか。
…そう尋ねているように見えた。
父は軟らかく、だけれども力強く頷き返事とした。
魅音も頷き返し、そしてお魎の耳元に身を寄せ、何かを伝えていた…。
やがて魅音は伝え終わり、お魎の耳元から離れると姿勢を正し、…お魎が反応を示すのを待った。
お魎が表情を浮かべることは、そう多くない。
…だから、お魎が声を殺しながら笑い始めた時、一同はその反応の意味するところに漠然とした不安を抱くことしかできなかった。
「……そら、……難儀なこともあったものよのぉ。…くっくっくっく…!」
お魎がさも愉快そうに笑い出したので、…公由は恐る恐る尋ねる。
「…どうしたんだいお魎さん。」
「……我等にとって土地が母なら、…此度のダムの騒ぎは、母の命を脅かされる騒ぎちゅうこったろなぁ。」
公由は何の話かわからず、一瞬、面食らう。
お魎はにやぁ…と笑ってから、全員に向かって、一際大きな声で言った。
「…ダムの親玉の大臣がの、…孫、さらわれちまって、右往左往しとるっちゅう話だ。こんれでお相子だの。…くっくっくっく!」
「…バカなッ!!!」
<赤坂くんだよ☆
犬飼大臣の孫が誘拐された話は、…どこにも漏れていないはずだ。…それをどうして知っている?!
……大臣の孫の誘拐は、我々ですらその詳細を知りかねている事件だ。
それを…どうして、こんな東京から遥か離れた田舎の旧家が知るに至れるんだ?
…………………のどかなのに、どこか薄気味悪さを感じずにはいられない、雛見沢村。
…でも、今回の事件とだけは無関係だと、心のどこかで勝手に決め付けてきた。
…その決め付けが、……薄っぺらく吹き飛ばされる。
「………どうして、…鬼ヶ淵死守同盟が知っているんだ…。」
サトさんは答える言葉を見つけられず、しばらくの間、黙り込んでいた…。
「…すみません。続きをお願いします。」
「……あぁ。」
「犬飼建設大臣のお孫さんが、……さらわれた? …お魎さん、そりゃ本当かい?」
そんな大事件、新聞でもニュースでも言っていない。
……でも、この雛見沢では、世間が知りえないことをお魎だけが知っていても、何の不思議にも思わなかった。
「我らの痛みは母を失う痛みじゃの。……それに値するとは思わんが、孫を失う痛み。……くっくっくっく! 少しは堪えるいいんじゃがのぉ。………なぁ?」
…最後の問いかけは誰に言われたものでもない。…まるで、同意を一同に求めるように言った言葉だった。
「……………だが、…土地と人様の子どもでは訳が違うの。…………隠すのは構わんが、…怪我だけはさせたくないものよの。…子には何の罪もね。…大事にしたれな。」
「それはつまり……、鬼ヶ淵死守同盟が、誘拐事件に関与している、ということ?!」
<赤坂くんね☆
「…ん、……必ずしもそうとは言えねぇな。」
「どうして? 頭首であるお魎が、これほどまではっきりと、誘拐した孫の処遇について指示を出しているのに?!」
「兄さん、こりゃね。園崎家のいつものことなんだよ。」
「…いつものこと? それは…どういう意味です?」
……ある問題が持ち上がったとする。
…それが園崎家にとって好ましくない問題だったとする。
その問題に対して、お魎が「憂慮」すると、………それを聞いた、親族会議に出席していた誰かが「気を利かせる」。
結果、お魎の希望はかなう。
…だが、お魎も誰も、実際に手を下した者が誰かはわからない。
…この巧妙な仕掛けにより、園崎家は陰に陽に暗躍してきたのだ。
「では……、親族会議に出席していた誰かが犯人ということですか?」
「あるいは、そもそも犯人なんかいない可能性だってあるよな。…お魎自身、その満座の一同の中に、誘拐犯がいるって確信を持ってるわけじゃない。ただ、自分の「意見」を述べただけさ。」
…薄気味悪さを伴う、奇妙な秘密主義。
………関与しているのか、関与していないのか。……ベールの向こうが、よく見えない。
だが、これだけははっきりと言えた。
今回の誘拐事件は、完全に秘匿されている。……どのような立場にあれ、知ることはない。
知りうる立場があるとすれば、…公安関係者。つまり我々。
もしくは、………事件への関与者。
…大臣を含む、事件の当事者。……あるいは、………実行犯。
…いずれにせよ、…………東京から、高速を乗り継いで6時間もかかるような…こんな地方の旧家が知りうるわけがないのだ。知っている時点で、すでにおかしいのだ。
………………………疑惑が、募る。…降り積もる。
「…孫の誘拐についてお魎が述べたのはここまでだ。……あんたの知りたかったことが含まれてりゃいいんだがな。」
「…………………………。」
「…………あとは兄ちゃんの仕事だな。…何のお仕事やってるか知らんけど、園崎家を相手にするなら、相当の覚悟でやっとけよ。…大石の旦那は怖いもの知らずだけどな、あれでも2〜3回は襲われてる。最近は着てないけど、一時は、オフの時も防刃ベストを着込んでたんだよな。」
「………………えぇ。…忠告ありがとうございます。気をつけることにします。」
「…標準語が流暢だよなぁ。兄さんは東京とかの人?」
「え? …………それが何か?」
捜査官は常に危険と隣り合わせだ。…自分の情報は極力、開示しない方がいい。
「兄さんのお仕事だけどさ。
…ひょっとして、警視庁の公安部の人ってことはある?」
「……、」
ここで言葉を詰まらせては駄目だ。認めたも同然になってしまう。
「…え? まさか。…はははは!」
「……こっから、旦那からもらった金の範囲には入らないんだが…。兄さんとは今日、卓を囲んだ仲間だからな。サービスってことで話してやるよ。…お魎から誘拐の話が出た後、もうひとつ話題が出たんだ。」
お魎から出されたもうひとつの話題。
…そしてその話の直前に、サトさんに聞かれた、警視庁公安部の人? という言葉。
……その二つの意味するところが、背筋を急激に冷やす。
「…そんれでな。……大臣の孫、さらったーのを調べるために、東京からはるばる、公安の捜査官が派遣されてくるっちゅう話だ。」
「…公安の捜査官?」
「……大臣の孫の誘拐な、…迂闊にゃ大事にできゃんってことで、警視庁の公安部が独自で調べとるっちゅう話だ。…大仰なこったのぉ。…………………ん? どうした?」
今まで、話に何の興味も示さず、ずっとお絵描きをしていた梨花が、公安の話が始まった途端に、お絵描きをやめ、興味の表情をお魎に向けた。
「……警視ちょーが、来たのですか?」
「ぉぅぉぅ…梨花ちゃまは警視庁も知ってなさるんかい。…偉いのぉ。」
「…………………誰が来たのですか?」
「……公安のどんなヤツが来よったんか、…誰ぞ、わかるやつはおらんかいな。」
魅音の父親が小さく挙手をする。
「………新米の若造がひとり、と聞き及んでおります。」
「……新米? ほかほかなのですか?」
「…ん?…んふふふ! えぇ、はい。…新米とか。」
魅音の父は苦笑しながら、梨花の質問に答えた。
「……ほかほかのふっかふか?」
「…えぇ。ほかほかのふっかふか。」
梨花は面白おかしそうに微笑んでいた。
…なぜ急にこの話題に限って、梨花が興味を示したのか。…それは誰にもわからないようだった。
「……梨花ちゃまは、その男のことを何か知っているのかの。」
「………………………………。…知んないのですよ。」
梨花はそれだけを無愛想に告げると、またお魎の布団の中に潜り込んでしまった…。
だが梨花はもうお絵描きはせず、あれこれ思案するような表情をしながら、布団に潜り込んでしまう…。
「………どうしますか? 御母さん。」
魅音の父が問いかける。………その無骨な表情は、命令さえあればいつでもひねり潰して見せる…と言っているようにも見えた。
「……はるばる雛見沢まで来よったん。…しばらくはのんびりさせてやるのもよかろ。」
「泳がせろ、ということでしょうか…?」
魅音の父が問い返す。
……お魎は薄っすらと微笑んでから答えた。
「………ほっといたれな。…が、……あぁんまりオイタが過ぎるよぅやったん、そん時ゃ、遠慮せんとな。…舐められるのは、好っきゃせんね。」
「……………………………なんて話があったそうだ。…まさかあんた、その警視庁の新米じゃないよな?」
「……………まさか。…はははは。」
背筋を、…ぞわぞわとした冷たい、毛むくじゃらのものが這い上がってくる感覚。
この親族会議が行われたのは、昨夜。……つまり、昨日。
……では、今日、私が雛見沢に観光客を装って向かった時、すでに、……私の身元は割れていた?
…バス停について、一番最初に出迎えてくれた人物が誰だったかを思い出し、…呼吸が止まる。
…………親族会議で、警視庁から派遣された男に興味を示した、古手梨花。
そして、…停留所で私が来るのをずっと待っていたのも、古手梨花。
…考えたくない想像。…いや、妄想。
あの停留所で出会ったとき、…すでに梨花ちゃんは、私の正体を知っていた?
私を、警視庁から派遣された赤坂だと知って、迎えていた…?
…では、公由村長も含め、…私に接してくれた村人たちは…みんな知ってて知らないふりをしていた…?
お魎が手を出すなと指示したから?
…………………それは……冷静に考えて、…ないと思う。
あれだけの人間と接した。
…演技のうまい人間もいれば、隠し事の下手な人間もいる。
……あれだけの人間がいれば、中には私を公安と知っていたら、敵対心を隠しきれない者もいたはずだ。
……でも、そんな気配はまったく感じられなかった。
でも、だからといって、………。
…お魎はどうして泳がせろと指示したのか。
下手に手を出して、痛くもない腹を探られたくないから?
それとも、私如きの新米に何も探れないと思っているから?
赤坂は怖がりなのです。
…あの、…梨花ちゃんに取り憑いたとしか思えない、…怪しい声を思い出す。
………あの、得たいの知れない何者かは、どう考えても、私の正体を初めから知っていたとしか思えない。
…そして、…何を警告したんだっけ。
そうだ。……早く東京へ帰れ、と警告したのだ。
鬼ヶ淵死守同盟に、…自分の身元が割られているという、現実的な不安より、…正体不明の少女が、警告する非現実的な不安の方が、なぜか勝って感じられた。
……あの少女は何者だろう。……やがて後悔すること、とは何だろう。
奇怪な少女。……古手梨花。
やめよう。…今は考えるのはよそう。
明日、朝一番で、今聞いたことを本庁に連絡して指示を仰ごう。
鬼ヶ淵死守同盟が、今回の事件に関与している可能性が出てきたのは間違いない。
……それに、敵に身元が割られた以上、危険な状態と言える。
…もっとも本庁も今は全職員が多忙を極め、応援の余地などないかもしれないが。
「……もういいかい? よければ好きなところまで送るよ。」
「あ、……すみません。では、お会いした元の駅までお願いします。」
外灯すらまばらな、田舎の街道。
……何も見えない。
ヘッドライトに照らされるアスファルト以外は何もわからない。
灯りの外は、ただの闇か。何者かが潜んでこちらを伺っているのか。
………嫌な仕事だな、と思った。
…東京に帰りたい。
東京へ帰れ、と警告したあの少女の声が、なぜかいつまでも頭に残っていた……。
■幕間 TIPS入手
■調査は暗礁
「……うん。昨日、銀座の料亭でお会いしてね。そういう話が出たんだよ。」
「別室の越権でしょ。連中、公安に干渉し過ぎですよ。あまり迎合すると悪い先例を残しますね。」
「犬飼大臣は公安の動きに不快感を顕わにしているらしい。多分、月曜の庁議で次官からその旨の話が出るんじゃないかと思う。…まいったなぁ…。」
「次官へは局長級に話し付けてもらうしかないですよ。給料を多くもらってる人の当然の仕事ってことで。」
「まぁ、そうなると局長からは絶対に、大臣脅迫の物証を求められるよな。」
「あの人、たまにどっちの味方かわかんなくなりますね。うちらの味方しなくてどうすんの、っての!」
「ま、多分、大臣を経由しての圧力だと思ってるけどね。俺が次官室で脂汗かいて時間稼ぐ間に調査進めてもらうしかないよな。…全身の汗、搾られて絞りカスになっちゃうかもしれないけどなぁ。…で、どうなの? 調査の進行は。」
「期待してた濃厚なラインがことごとく外れて、正直、途方に暮れてます。」
「最近の大臣発言をまとめると、雛見沢ダムの計画の話が目立つっていう報告を聞いたけど、それはどうなの?」
「…………ん〜〜〜〜…。目立つって言うか、…本当に微細な程度の違和感ですね。たまたま××県の県議連でのスピーチだったから、時事ネタを話しただけかもしれないし。」
「確か地元団体が過激に抵抗してるってヤツだっけ? 鬼ヶ淵死守同盟。確か、赤坂くんに調べてもらってたよね。」
「僕は連中には、今回の事件は起こせないと踏んでます。ですが、疑わしいところのほとんどが真っ白な以上、疑いの枠から外すわけにはいかないかもですね…。赤坂くんからは、その可能性は否定できないとの軽い報告は受けてます。」
「…なら、調べて見る価値はあるんじゃないの? しらみ潰しなんだから、残る疑わしい団体がそこひとつなら、やるしかないでしょ。」
「まぁ、調べる団体はそこだけじゃないんですがね? あははは! 鬼ヶ淵と同じ程度のレベルで疑わしい団体になると、もう相当の数になりますよ。人手も時間も残業代も全然足りません。」
「赤坂くんからさ、もうちょっと詳しく聞いてみてよ。…俺はちょっと要注意に感じるけどなぁ、その死守同盟。」
「彼、村人とうまく接触できたって連絡してきました。現地の警察とも連携できてるみたいですね。」
「赤坂くんとの連絡、密にしてください。それで、彼からの情報が引っ掛かるようであれば、増援を送ることもありということで。」
「わっかりました。」
「………あ、すみません、片岡室長〜! 局長からお電話です。こっちに回しますか?」
「あ、いい、いい! そっち行きます。…もしもし! 片岡です…………。」
■箱選びゲーム
人生に選択肢なんて、あると思う?
よく嘆く人がいる。
人生の節々で、明確な選択肢が設けられていたならば、それを吟味し、よりよい未来へ自分を誘えるのに、と。
…私はそういう嘆きを漏れ聞く度に、下らない悩みだな、と思うのだ。
選択肢を与えられたって、どうせ何の意味もないし、よりよい未来へ自分を誘えることなんて何もない。
……話がわかりにくい?
じゃあ仮に、あなたの目の前に2つの怪しげな箱を置いてあげよう。
そして、そこに2つだけの選択肢を与えてやるとする。
曰く、赤い箱を開けるか、青い箱を開けるか。
あなたはいろいろと迷うだろう。
開けなくてはならないなら、赤か青か、自分にとってよりよい方を開けたいと願うのは自然な欲求だ。
そして、箱の形状や気配、諸々を勘案し、やがて苦慮の末、赤か青か、どちらかを選択するに違いない。
………あなたなら、どっちの箱を選ぶ?
赤と青。
…刷り込まれた信号機の法則に従うなら、赤は危険を意味する色。
でも、だからといって、青という色が安全を保証するものでもない。
むしろ、赤を警戒させて、青を開けさせようという罠かもしれない。
罠?
…この中身には得をするものでなく、損をさせるものが入っているかもしれない…?
さぁさぁ…あなたは迷ってきた。
赤か青かの選択に葛藤し、…箱を開けずにここから立ち去るという選択肢も欲しくなって来たに違いない。
でもだめ。赤か青のどちらかを開けなくてはならない。
あ、言い忘れたけれども、あなたが片方を選ぶと、もう片方の箱は消えてしまう。
だから、選ばなかった方の箱の中身は知ることができない。そういうルールがあることを、最後に付け加えておくね?
さぁ。選んでごらん?
赤い箱か、青い箱。
…大丈夫、どっちも損なものは入っていないから。…ほら。
<選択肢>
赤い箱を開ける
青い箱を開ける
よく考えた?
その結果、この色を選んだのね?
…あなたが選んだ時点で、もう片方の色の箱はパッ消えてしまった。
そっちの箱の中身はもう諦めてね?
そういうルールなんだから。
さ、あなたの選んだ箱を開けてみよう。
■赤い箱を開ける、の場合
箱の中からは、……キャラメルが1つぶ。
■青い箱を開ける、の場合
箱の中からは、……チューイングガムが1枚。
■■片方の箱しか開けていない場合
……あなたが少しがっかりしてるのが分かる。
そりゃそうよね。
どう見ても、ハズレっぽいものね。
正解の箱には、ひょっとすると、板チョコが1枚くらいは入ってたかもしれないものね。
いや、ひょっとすると、ハワイにペアでご招待なんていう、もっともっとすごいものが入っていたかもしれない。
でも、それを確かめたくても、もうひとつの箱はもう消えてしまっている。
それを確かめる術はない。
だからあなたはプラス思考で考えてみることにするの。
ひょっとすると…もう片方の箱は空っぽで、むしろこの箱はアタリだったのかもしれない、と。
そしてその安っぽい賞品に満足して(あるいは不満でもいい)、それをポイ!と口に放り込んで、もぐもぐとやって満足してしまうのだ。
で、最後にあなたは思うのかしら?
次に同じ選択肢が与えられたら、反対の箱を開けてみようって?
……でも、お気の毒だけど、赤い箱と青い箱を選ぶなんてゲームは二度とあなたには訪れない。
だから、選択肢を選びなおす機会など、一生訪れない。
人生の選択は一度しかないから、慎重にって、よく親に言われるでしょう?
くすくすくすくす……。
ね? 選択肢なんて、大したものじゃない。…ちょっと幻滅した? あっはははははは……。
■■再挑戦で、両方の箱を開けた場合
……あなたは今、なぁんだと思ってる。
そう、赤と青の箱の中身は、キャラメル1つぶと、チューイングガム1枚。
さっきはハズレだと思ってたかもしれないけど、こうして並べると、どっちがハズレとも言い難いのがわかるでしょ。
まぁ、でも、人の好みもあるもんね。
キャラメルの方が好きだとか、ガムの方が好きだとか。
…あなたの好みによって、あなたはきっと開ける箱を選びなおそうと思うに違いない。
…あなたが欲しがっている選択肢ってのは、つまりそういうもの。
両方の箱の中身を見比べて、良い方を選びたいっていうわがままのこと。
でもね? 現実の世の中は今のゲームと同じ。
片方を選んだら、選ばなかった方は消えてしまう。だから確かめられない。
もしもあの時、××をしていたら、もしくはしていなかったら、…きっと今よりも幸福に(もしくは不幸に)なっていたはずだ、なんて、わかりようもない。
結局、選んだ選択肢に納得し、あるいはがっかりし、一応の満足をする他ないのだ。
でもいいじゃない。
選択肢というスリルは、一応、楽しめたでしょ?
こうして、2つの箱の中身を知ってしまったなら。赤か青かの選択なんて、暇潰しにもなりゃしない。
こんなつまらない箱遊びよりも、変わりやすい夏の夕暮れの空を見上げて、遠雷に耳を澄ませながら、夕立が降るか降らないかを迷う方が、ずっと楽しいんだから。
■鬼の目にも何とか
「…えぇ、ハイ。…それでお通夜が明日の午後6時からになりまして、告別式が明後日のお昼、12時から13時までになりまして。会場は興宮セレモニホールになります…。」
「…すっかぁ。池澤助役のお孫さんの葬式じゃあ、何にも挨拶なしってわけにもいかんね。魅音、代わりに出てぇな。」
「うん、了解。喪服で行く? 香典はいくらくらい?」
「学校の服でえんね。前のボタンはちゃあんと止めてくんねよ。香典は、5万、……ん〜、10万包んだれな。世話になったかんなぁ。」
魅音は奮発した香典の額に、小さく口笛を吹いて感嘆する。
「…池澤さんはなぁ、興宮の事務所長だった頃からしっかりした人だったんね。…役人は挨拶って言っても、絶対に玄関までしか来ん。でもな、池澤さんはワシがお茶を勧めると、いっつも上がってくれて、ちゃあんと話を聞いてくれたん。…人の話を最後まで聞く、本当に鑑みたいな人だったんね。」
客人であるはずの二人は、お魎の昔話に、大仰に頷いたり相槌を打ったりしている。
お魎の機嫌を損ねまいとしている様子が傍目にはとても滑稽で、時に魅音はその様子を小さく笑っていた。
「で、池澤助役のお孫さんは、いくつで亡くなったんね。」
「…えぇと、……11歳だそうで…。」
お魎は目を伏せると、小さく首を横に振りながら、若い命が没したことを悔やむ。
「確か、孫はひとりだ言うてんなぁ……。…かぁわいそうになぁ…。親より先に死ぬほどの親不孝はあるんめな。」
「あははははは。婆っちゃも他人にゃやさしいね。私や詩音が死んだら、同じ様に悲しんでくれる?」
「あほン抜かすでね。縁起でもねすったらんと、しゃあらわんわったく!」
魅音は予想通りの反応だったのことが面白いらしく、けたけたと笑っていた。
客人二人は、一緒になって笑ってもいいものか分かりかね、苦しい笑顔をしていた。
「それでは本日は失礼いたします…。では、明日の夕方5時にお迎えに参りますんで。よろしくお願いいたします…。では、ごめんくださいませ……。」
客人たちはぺこぺこと何度も頭を下げると、玄関を出て行った。
魅音はそれにヒラヒラと手を振って送り出す。
「……帰ったよ。…お役人も婆っちゃのご機嫌伺いに大変だねぇ。訃報なんか電話でいいと思うのにねぇ。くっくっく…。」
まぁ、確かに園崎お魎は、雛見沢村の住民、親族を全てまとめている。
票に直せば数千票。
市長が、ゴマをすりたくなるのも分からなくはない。
だが、お魎は魅音とは違い、寂しそうな表情で縁側で空を見上げていた。
「どしたの? もうろくした? あははははは!」
「……誰のお孫さんであろうと、…気の毒だんの、思ったんよ…。」
そう言い、深いため息を吐いた。
普段なら小馬鹿にする魅音に叱り付けるような口調で返すはずなので、魅音も拍子抜けする…。
「魅音。……ほれ、……例の大臣の孫。さらわれてからどのくらいになるん?」
「ん。……………4日、…かな?」
お魎はもう一度、深いため息を吐き出した。
「仇敵の孫とは言え、………気の毒だんなぁ。」
「…………………………そう?」
「充分、灸は据えたんろ。…………そろそろ終わりにしちゃれな。」
「…………………………。」
魅音の表情からは、ふざけた雰囲気は一切抜け、…いつの間にか冷え切ったものになっていた。
そして、お魎の真意を測るように、その目を覗き込む。
……お魎もまた、自分の意思を目だけで語ろうと、魅音の目を覗き返していた。
「…………………………お茶が欲しんて頼んでぇな。さっきのチョコレートも食べといね。」
魅音は小さく頷くと踵を返した。
「沁子さん、いますか〜〜? 婆っちゃに紅茶、入れてあげて下さい〜〜!」
遠くでお手伝いさんの、は〜〜い…という声が応える。
魅音は、自分の声が届いたことを確認すると、受話器を取りダイヤルする。
「……………………あ、もしもし。魅音だけど。…うん。…うちのお父さん、います?」
■三日目
………寝つきの悪い夜だった。
…無限とも思える夜を、ただ寝返りだけ打って過したように思った。
それでもいつしか寝入り、……ここまで日が高くなるまで気付かなかった。
……寝直してしまいたくなる誘惑をぐっと払いのける。
そこで私は電話が鳴っていたことにようやく気付くのだった。
時間は午前10時のもうすぐ半。
モーニングコールには明らかに遅かった。
「赤坂さんですか? おはようございます、大石です。んっふっふっふ!」
寝覚めに大石氏の声は少々、刺激が強いようだった。
自分のデリケートな耳にびりびりと響く。
…でもその刺激のお陰で、私は眠気を追い払うことができた。
「…あ、…ああ、どうも。おはようございます。」
「う〜〜ん? ひょっとして、今お目覚めですか? 出張中とは言え、勤務時間には起きないといけませんよぅ? なっはっはっは。」
「まったくです。…以後気をつけます。」
「あなたの眠気をもうひとつ覚ましてあげられるかもしれない話があります。
……雛見沢駐在所から届いた遺失物に、興味深いものが混じっていたんです。」
「遺失物?」
「詳しい話はこちらにいらっしゃってからにしましょう。お昼前に来れますか?」
「い、いぇ、すぐに伺います…!」
大石氏はすでに私の任務を理解している。
…その大石氏が、眠気が覚めるようなものと言っているのだから。それが私にとって的外れなものとは考えづらかった。
正直なところ、昨日のサトさんの情報から、自分の正体がすでに割れていたことがわかっている以上、もうみだりに雛見沢に出入りできない。
…つまり、調査は行き詰まりかけていたところだった。
そこへ何かの糸口になるかもしれないこの貴重な情報は、まさに幸運としか言いようがない。
私は顔を大雑把に洗うと、上着を引っつかみ、タクシーを捕まえて興宮署を目指した。
「お、来た来た。天才雀士さまの到着だ。」
「遅くなって申し訳ありません。……で、一体、何が出たんですか?」
昨夜の麻雀の思い出話に付き合うつもりは毛頭なく、さっそく本題に入るように促す。
大石氏も、私がそう来るだろうと思っていたのか、さしてしつこくもせず本題に入ってくれた。
「…先ほども申し上げましたが、今朝、雛見沢の駐在所から遺失物が届きました。」
駐在所に届けられた遺失物は、事務手続きが終わると興宮署へ送られることになっていた。
大石氏が引き出しから、ビニールパックに入れられ荷札を付けられた「それ」を出して、机の上に置く。
「…………財布、ですか?」
「でしょうなぁ。……中には小銭はあってもお札はなかったもんなんで。スリが中身を抜いた後に捨ててったのかな、なんて思ったんですがね。最初は。」
この財布が、遠く離れた東京で起こった大臣の孫の誘拐事件とどう関係があるのか、にわかには理解できなかった。
…もしも、大石氏が興味を示すくらいに劇的な証拠となりえるのなら、…例えばこの財布が行方不明の孫のものであるとか、それくらいのインパクトがあることになる。
………そんな馬鹿な。
…そんな都合がいいことがあるものか。
恐らく、この財布にイニシャルでも書かれているのではないだろうか。
大臣の孫「犬飼寿樹」のイニシャル、T.Iなんてのが。
そんな風に考えたので、私はこの時点ではこの財布が、大石氏が興奮するほど興味深いものとは思わなかった。
大石氏は、使い捨て式の薄いビニール手袋を両手にはめると、同じものを私にも差し出した。
私はこの財布にそんな重要性を感じなかったので、手袋をするほどの意味があるのか疑問だったが、大石氏の好意を無駄にすべきでないと思い、手袋を着用することにする。
大石氏がビニールを開け、財布を取り出すと、それを裏返して見せた。
……そこには想像通り、イニシャルが刻まれていた。
だが、想像していたものよりはもう少し詳しく、「Toshiki・I」と記されていた。
ね? と大石氏がにやっと笑う。
……それだけでは大臣の孫とは特定できませんよ、と私は冷静に告げた。
……この財布はどうせ下らないものだ。大石氏の勇み足に決まっている。
だいたい、こんなはるか遠方の地で、行方不明の孫の財布が、こんなに都合のいいタイミングで見つかるなんて、絶対にありえない。
……そうさ、そもそも鬼ヶ淵死守同盟は本件とは無関係なんだ。
…だから、これが孫の財布であるわけがない………。
なぜそうだと決め付けたがるのか、自分でもよくわからなかった。
極秘のはずの事件が、発生から自分の派遣に至るまで、全て筒抜けになっている状況なのに。
……こんな状況で、どうして絶対無関係なんて言い切れるんだ?
むしろ精神を研ぎ澄まし、この財布に注目するべきじゃないのか?
…雛見沢を訪れてからまだほんの数日。
…だがその数日の間にあった鮮烈な出来事の数々が、私の正常な神経を少し、…ほんの少しだけ疲れさせていたのかもしれない。私は小さく顔を振り、雑念を追い払った。
大石氏がチャックを開け、財布の中身を開けた。
中には、小銭とゴミのようにしわくちゃになったレシートの類がごちゃごちゃと入っていた。
大石氏は、そのごちゃごちゃの中から、折れ曲がった紙製のカードを抜き出す。
……それを見て、私の呼吸が一度止まる。
それは、歯科の診察カードだった。
「犬飼寿樹」という個人名と年齢。…一致。
歯科の所在は………、……東京都。
……………改めて説明する必要もない。
…東京から雛見沢まで、どれくらいの距離があるだろう?
新幹線に車と乗り継いで、何時間もかかるくらいの距離があるのだ。
その雛見沢に、……どうして東京の歯科の診察カードの入った財布が出てくるんだ?
東京から訪れた観光客のものとか?
あるいは、村人が東京観光に行った時、たまたま歯科の世話になったとか? いやいや、何かの荷物に混じって偶然……。
自分の脳が、この財布が犬飼寿樹のものでない可能性を必死に模索する。
それはまるで、この財布が彼のものであってはならないかのようだ…。
だが、……そうやって、誤差の可能性が次々と淘汰されていくにつれ、…目の前の財布にかかっていたもやのようなものが薄れ、次第に鮮明に見えてくるようになる。
「……ね?」
「…………………………。」
脊髄をびりびりとした電気が流れるのがわかった。
心臓の鼓動が早くなり、全身からじんわりとした汗が滲み出る…。
……きっと大石氏の目には、私がぽかんと口を開け、さもだらしない表情をしているように映るだろう。
「…この歯科には問い合わせましたか?」
「そりゃ赤坂さんの仕事でしょ。私ゃまだそこまでは。」
「…この財布はいつ頃のものでしょうね?」
「拾ったのは村人です。昨日のことだそうで。」
「じゃなくて、この財布はいつ頃、落ちたものでしょうね?」
「ここいらに雨があったのはちょうど先週、7日前。中身が水にやられた様子はないから、最長で6日前からでしょうねぇ。」
「この財布の存在は、署内で誰が知ってます?」
「初期対応の雛見沢駐在所の警官。それから遺失物対応で係が2〜3人。あとは私とあなた。内緒の事件と関係があったらまずいでしょ。ベラベラとは喋ってないつもりですよ。」
「……電話を借りていいですか。」
「どうぞどうぞ。外線は0発信から。」
診察カードに記された電話番号を回した。
頭の中で、心臓の鼓動がガンガンとうるさく鳴り響く。
……あぁ、こんな馬鹿なことってあるんだろうか?!
財布の中のレシートやカード類に記された住所等は、孫の生活圏と一致する。
診察カードに書かれた氏名も一致するし、財布がその場に残されたと推定される期間は、誘拐事件発生からの期間とも一致する。
もちろん、そんなのは全て偶然が重なっただけと笑い捨てることもできる。
…そんなのは大した証拠にはならない。
……そんな状況証拠全てより、…これから電話で尋ねる内容の方がはるかに意味があるのだ……。
「………ハイお待たせしました。××歯科です。」
「どうも。こちらは×××警察です。実はお財布の落し物がありまして、所有者の連絡先を探しております。ご協力をいただいてもよろしいでしょうか? お財布の中に、そちらさまの診察カードが入っておりまして。……えぇ。氏名は犬飼寿樹くんです。カードの番号を申し上げますので、電話番号をお調べいただいてもよろしいでしょうか。……えぇ、ありがとうございます。お願いできますか。」
受話器を持ったまま、遊んでいる方の手で、懐から手帳を取り出す。
……孫の自宅の住所、電話番号を記したページを開いた。
「どうもすみません。…………はい、お願いします。」
受話器の向こうが読み上げる電話番号を、自分の手帳に記した電話番号と照らし合わせる。
……その途中で、私は後ろが薄気味悪くなって、ふっと振り返った。
大石氏とばったり目が合う。
…大石氏は何事かと、きょとんとした。
どうして私は後ろが気味悪くなって振り返ってしまったんだろう?
……受話器の向こうの人物が、まるで私の手帳を覗き込みながら番号を読み上げているような錯覚に陥ったからだった…。
私の連絡で、本庁はかなり衝撃を受けたようだった。
これほど明白な孫存在の証拠の真偽を、何度尋ねられようと、事実だとしか答えようがない………。
初めは主任が電話に出、私からもたらされた(自分で言うのもなんだが)あまりに出来すぎた証拠に、重箱の隅を突付くように質問、疑問を浴びせかけた。
…だが、それらがあっさりと次々に否定され、主任が黙り込むに至って。…ようやく受話器は室長に譲られた。
室長が受話器に出るころには、受話器の向こうでさっきまで聞こえていたざわめきが消え、シンと静まり返っているのがわかった。
室長は財布について、主任が尋ねたのと同じ内容を質問してから、静かに言った。
「わかりました。こちらから何人か増援を送ります。今日の夕方には到着できるでしょう。赤坂くんは引き続き現地調査をお願いします。財布が発見された地域の情報を収集しててください。嘉納さんは何人か選んで現地へ直接……、」
嘉納主任が送られてくるということは、室長は、鬼ヶ淵死守同盟クロもありうると判断したということだ。
それでも、信頼している主任が実際にその証拠を目で確認するまでは半信半疑…といった感じなのだろう。
「どうでした?」
「本庁から増援が出発するそうです。私は現地調査を命じられました。…財布の落ちていた場所はどこなんです?」
「高津戸(たかつど)の辺りだそうです。…ここが興宮。ずーっと行って、ここが雛見沢。で、さらに上流にぐ〜っと上がってくと、この辺が高津戸です。」
大石氏が壁の地図を指差しながら、財布が落ちていた場所を説明する。
財布のあった高津戸という場所は、雛見沢よりもさらにさらに奥地だった。
「高津戸界隈はほとんど民家なんかありませんよ。昔の廃村です。無人の家屋が点在する、何とも寂しい辺りですねぇ。」
「……大石さん。高津戸へ案内してもらうことはできますか?」
「えぇ、かまいませんよ。赤坂さんおひとりでは、なかなか自由に雛見沢に出入りはできないでしょうからね。無論、また野球帽とマスクをしてもらうことになりますが。」
大石氏が同行を快諾してくれたのは心強かった。
……サトさんの情報を信じるなら、私の正体は割れかけている。
公安から派遣された新米が、村の観光に訪れた昨日の私のことだと、気付いているかいないかはわからない。
だが、気付いていないと決め付けるのはあまりに楽天的だった。
財布のあった高津戸は、短絡的に考えても、誘拐犯の潜伏場所である可能性が否定できない。
この高津戸地区は人家がなく、また街道沿いでもないから、地元の人間でも、わざわざ立ち入ることはない。
…まさに袋小路的な忘れ去られた廃村と言えるだろう。
誘拐した孫を監禁して身を潜めるなら、これほど好都合な場所はあるまい。
そして、高津戸地区には、雛見沢村を通り抜けなくては至ることもできないのだ。
そんな数々の条件が、…この地区の重要度を高めていく。
もう、無理やり否定することはない。
……鬼ヶ淵死守同盟、もしくはそれに依頼された何者かの犯行であることは疑いようもない。
そうならば。……この財布が警察に取得されたことは、すでに筒抜けの可能性もある。
……公安部の動きまで知る彼らだ。それくらいはすでに知っているはず。
だとすれば、……敵は待ち受けている可能性もあるだろう。
そんな敵地の中の敵地に、単身乗り込めるほどの勇気、いや、蛮勇は私にはない。
「大石さんの同行がなければ、そうおいそれと踏み込めない村でしたので。ご協力いただけて本当に助かりました。…正直なところ、またお金を要求されるのではと思ってましたよ。」
「なっはっはっは。そりゃ正直を言えば、雛見沢なんか好きこのんで行きたかないですからね。運賃でも弾んでもらいたい気分ですが。でも、一緒に卓を囲んだ友人の頼みとあれば、断るわけには行きませんしねぇ。んっふっふっふ…!」
大石氏がにやっと笑って、私の背中をドンと叩く。
職務に対する義務感というよりは、乗りかかった船のような印象を受けた。
でも、そんなことはどうでもいい。今は大石氏の好意がとてもうれしかった。
「ではさっそく出してもらえますか。」
……敵が、財布が警察に取得されたことを知るならば。
人質を別の場所へ隠してしまうはずだ。一刻の猶予もない。
だが大石氏は、出かけるにも関わらず、上着を脱ぎ始める。
「…何をしてるんですか?」
「まぁ、用心ですよ。火中の栗を拾うなら、相応の用意が必要と思いましてねぇ。あなたも着ます?」
大石氏が机の下から引きずり出したのは、防刃ベストだった……。
■少年の仮病
彼の名は、犬飼寿樹。
犬飼建設大臣の孫。
彼がここで求められている意味はそれ以上でも以下でもない。
体育と図工がやや苦手であることを除けば、それ以外は平均以上。
週に2回訪れてくれる家庭教師の賜物だ。
逆上がりが今でもできないことを除けば、彼が学校で嫌わなければならないものは特になかった。
もちろん、彼は自分の祖父が閣僚のひとりであることは充分に理解していた。
だが、その祖父と自分との関係を多くの人はあまり面白がらないこともよく知っていたので、祖父のことをわざわざ引き合いに出して建設大臣と呼ばれることを彼は嫌っていた。
そして彼は、建設大臣がどういう仕事をしているのか、彼は一般的な社会人諸兄が知るよりは、もう少し知っているつもりだった。
それはつまり、…人々の暮らしをよりよくしようと頑張れば頑張るほど、…時に敵を作ってしまうということだ。
彼は一度、クラス委員長を引き受けた時、それを身に染みて理解した。
祖父には敵が多い。
…そしてそれは、自分にも降りかかるかもしれないから、人一倍注意深く生活しなければならない。両親からはそう教えられていた。
だから、……自分が誘拐された時にも、これはつまり…そういうことなんだな、とすぐに理解できた。
彼らは自分を犬飼寿樹という個人ではなく、犬飼建設大臣の孫として扱っているだけなのだと理解できた。
自分に何か致命的な落ち度があったからではなく、祖父の仕事上のやむを得ない理由により起こった災難。……五十歩百歩のようだが、自分に落ち度があったわけではないと自覚することで、彼の心はほんのわずかだけ落ち着きを得ることができていた。
彼はもちろん、始めは歳相応に恐怖に怯え、自分の処遇に思いをめぐらし畏縮したりもしていた。
だが、ただ縛られ、横になって過す以外を許されない彼は、自然、いろいろと考えるようになっていた。
まず、彼は自分がどういう意味でここにさらわれているのかを考えた。
これは簡単に理解した。
大臣である祖父を脅迫するための人質。それはもう間違いない。
建設大臣が何をしているかはよくわからなくても、脅迫することによって、大きな利を得られるだろうことは想像に容易だ。
祖父のことは、平均以上には尊敬している。
自分の祖父が、日本で上から十何番目かには偉いに違いないと信じている。
だからこそ、尊敬する祖父を脅迫する人間たちを許せなかったし、何よりも、自分の身をその脅迫のタネに使っていることが許せなかった。
祖父は本当に忙しく、親類たちとの会合にもなかなか時間を合わせることができなかった。
だからこそ、ほんのわずかの時間を見つけては予告なく、ひょっこりとやって来た。
そして、会えなかったお正月や夏休みのことを詫びながら、たくさんたくさん可愛がってくれた。
…祖父が大臣が政治家であるという理由で、不愉快な見方をされた試しは確かに少なくない。でも、だから祖父は政治家をやめてほしいなどと思ったことは一度もない。
尊敬する祖父だからこそ、どこまでも活躍を続けてほしいと心底から願っていた。
だが、………自分はこうして誘拐され、祖父は脅迫されている。
自分のことを、目に入れても痛くないと言っていた祖父は、……きっと苦しんでいるだろう。
自分を救うためには何でもしてしまうかもしれない。
……尊敬する、祖父の政治理念を押し曲げてでも、…自分を助けるために奔走してくれるかもしれない。
祖父が、自分を救うために、犯人たちの要求に屈服するかもしれない…。
そう思った時。……彼の心には言いようのない怒りが込み上げて来るのだった。
自分が今、こうしていることで、尊敬する祖父を苦しめているのが許せず、また、このような卑劣な手段をもって祖父を脅迫する卑怯者たちが許せなかった。
そんな感情で心を満たす内に、いつしか彼の心からは、恐れが薄れていっていた…。
そんな彼が一番初めに考えたのは、少年なら誰もが思いつく妄想。
…この戒めを解き放ち、憎き犯人たちを叩きのめして警察に突き出すという勇猛なものだった。
彼が今日までに読んできた、様々な少年漫画の主人公たちの勇ましい姿が脳裏を過ぎる。
想像の中の彼はこの戒めを易々と抜け出し、蝶の如き身軽さで犯人たちを翻弄し、蜂のような必殺の一撃を次々と繰り出して轟沈する。
所詮、妄想に過ぎないのだが、視界を塞がれ、何の景色も見ることができない今の彼にとってそれは、どんなアニメ番組よりも熱中できるものだった。
実際、彼は拘束の多くの時間をこの妄想で楽しむことで、犯人たちが同情するほどは辛い思いはしていなかったのである。
だが、その妄想にも多少の飽きが来る頃になり、ようやく彼は現実的でない妄想で頭をいっぱいにしたところで、何の解決にもならないことに気付く。
…そう、彼は脅迫されて苦境に立たされている祖父のために何かをしたかった。
自分がここに囚われていることで、祖父に対して苦しみを与えていることが何よりも許せなく、そして悔しかった。
………そして彼は、気付く。
憎き犯人たちを叩きのめさなくても、…もっとシンプルな方法で祖父を救うことができるのだ。
それは、自分という人質を犯人の手から逃がすことだった。
自分がここからいなくなれば、犯人は祖父に対して何も脅迫をすることはできない。
犯人たちは自分を拘束しているが、乱暴はしないし、食事だって欠かさない。
……つまり、あくまでも自分は脅迫のための切り札なのだ。いじめたり、増してや殺すことなど目的ではないのだ。
大人しくしている限り、自分には危害が加えられることはない。
それに気付くことは、彼に大きな勇気を与えた。
そして、ここまで考えが至れば、あとは自然にそこに至る。
今や彼、犬飼寿樹は、脱走を決意していた。
彼の耳にはスポンジのようなものが詰められ、耳栓代わりにされていた。
…だが、実際には防音効果はさしてなく、犯人たちの会話は彼の耳には筒抜けだった。
彼はそれをささやかな優位と理解し、犯人たちが話しかけても、耳栓があるから聞こえてないという風に装う。
犯人たちも、自分に会話は聞こえていないと思っているらしく、様々な話を声を潜める風もなく、堂々としていた。そのお陰で、彼は様々な情報を得ることができた。
まず、……ここは東京ではないということ。
どうやら、かなり遠方らしく、それも相当な田舎、山奥のようだった。
また、犯人たちの生活が不便な様子から、この場所が町などからも相当離れたところであると推測できた。
そして犯人たちは、生活用品や食料を買う時には必ず車で出掛けていた。
…この事実は彼を落胆させる。大声で助けを求めながら闇雲に走って誰かに保護を求めるという、学校で習った初歩の護身術が通用しないとわかったからだ。
彼の、脱走劇妄想は一度そこで途切れる。
自分を保護してくれる人が、すなわち自分にとってのゴールなのだ。
そのゴールが身近になければないほど、脱走が成功する確率は低くなる。
異郷の人里離れた山奥。
車を使わねば買い物にもいけない土地。
……こんな状況では、…脱走はとても難しい。
……彼は落胆し、しばらくの間、一番初めの妄想。自分が少年漫画の主人公になって犯人たちを叩きのめすという妄想に逃げ込むことになる。
だが、…彼はそういう妄想に頭を満たしながらも。心のどこかで屈服を嫌い、ここから逃げ出す手段を模索し続けていた。……そしてとうとう、それを思いつく。
ゴールが遠くて至れないなら、…ゴールを近づければいいのだ。
ゴールとはつまり、自分を保護してくれる人。つまり、犯人以外の人間。
自分が急病を装えば、犯人たちは自分を病院に連れていったり、あるいは医者を連れてきたりしてくれるかもしれない。
犯人たちは多分渋るだろう。だが、すでにわかっているように、人質は何よりも大事なのだ。
もし万が一、死んでしまうようなことがあったら、脅迫ができなくなってしまうのだから。
彼は、重病というものをどう装うかにあたって、幸運な経験があった。
昨年の暮れ。不注意による交通事故で手術を受けたことがあったのだ。
その手術跡は今も克明に下腹部に残っている。
あの時の痛み、辛さを頭の中で反すうする。
それらは、同じ演技でも経験の有無で圧倒的なリアリティの差となる。…彼は自分の仮病に対して大きな自信を持っていた。
「………………ふぐぐぐぐぐぐぐ……。……ぐぐぐぐぐぐぐぐ………。」
犯人たちは初め、それを排泄のためのサインだと思った。
両腕の戒めだけを解き、目隠しがされた状態の彼を、お手洗いに連れて行こうとする。
だが、彼は立ち上がろうとしなかった。
解放された両手で、腹部を押さえて悶絶するだけだった。
「……おい、どうしたんだ。腹でも痛いのか?」
耳栓があるので犯人からの問い掛けには応えられないことになっている。
頷きそうになってしまったのを慌てて思い止まる。
「どったんね。」
「……ん、小僧が腹を押えてるよ。腹痛かな。」
犯人たちはしばらくの間、彼が苦しむ様を見下ろしていた。
ひとりはどうしたものかと思案し、もうひとりは仮病ではないかと疑っているようだった。
「どったんね、坊主。腹ぁん痛むんかい?」
「そいつ、耳を塞いでるから聞こえてないぜ。」
「参ったんな。……腹痛に効く薬なんかあらんね。薬局行って買ってくるかぁ。」
「腹痛って言ったって、いろんな薬があるだろ。症状がわからない内はいい加減な薬は買えないぜ…?」
「腹押えてるし、便秘やん。便秘薬でも買ってくれば収まるやんね。間違って飲んでも死なんしな。」
「決め付けるなよ。盲腸とかかも知れないだろ? 俺の叔父さんがさ、昔、急になったことあってよ。あれはかなりビビったぜ。」
犯人のひとりが、体をくの字に折って苦しんでいる少年の脇に屈みこむ。
「……可哀想にな。…わ、全身、汗だらけじゃないかよ…。腹か? 痛むのか? おいおい、痛むんならあんまり押さえ込んじゃかえって悪いぞ…。」
犯人が自分の腹部に興味を持ったことに気付き、彼は偶然を装ってシャツをめくり…手術跡の残る腹部を露出させた。
視界がガムテープで塞がれているので、犯人たちがその手術跡に対し、どういう反応を示したのか見ることはできなかった。
だが、犯人たちが絶句し、しばらくの間、言葉を発しなかった様子から、自分が期待した反応が得られたと感じた。
「……………おい、ヤバイぜ。この手術跡、そんなに昔のものじゃないぜ。」
「………その小僧、熱出てるんかいね? 体温計あるん?」
「あるわけねぇよ。でも、すごい汗だぜ…。ん、…おでこは結構熱いと思う。」
「………………………………。」
「……緊張状態が続くとさ、昔の傷なんかに堪えたりするって、聞いたことあるぜ。」
「じゃあどうするんよ!! 薬じゃ治らんちゅんてか?!」
「………何の手術跡か知らねぇけど。…とにかく、…まずいだろ。下手すると命に関わるぜ…。」
「…………………まずいんて。…こりゃ本当にまずいんて…。」
「………医者に見せた方がいい。このままじゃ、突然ぽっくり行っちまう可能性だってあるだろ…。」
犬飼寿樹は、…この一言に、展開が自分の予想通りのものになっていることを知り、心の中でほくそえみながら、なお一層仮病に努めた。
犯人たちは明らかに狼狽し、何て面倒くさいことになったんだろうと右往左往する様子が見ずともわかる。
「……診療所、連れて行くか?」
「ん、…………そんりゃ、まずん。………………先生を連れて来る方がいんね。」
「入江の先生か? ……いいのか? 大丈夫か?」
「………人質に何かあったらまずんね。しゃーない、緊急事態やん!」
犯人のひとりが、慌しく出て行くと、車に乗って出掛けていく。
もうひとりの男はおろおろとしながら、ハンカチで彼の額の汗を拭っていた。
……医者が連れてこられるらしい。
医者が犯人の一味でない限り、医者はゴール。助けを請うべき相手だ。
犯人たちも、そういう事態を警戒はするだろう。
その場でどう動くか。
……出たとこ勝負だ。
…彼の額から滲み出る汗は、そういう緊張の汗でもあった…。
その時、自分の目と耳を覆っていたガムテープがベリベリと剥がされた。
数日ぶりの眩しい光に、両目がジンジンと痛む。
それから、息苦しかった猿ぐつわも外してくれた。
「…大丈夫か、小僧。今、お医者を連れてくるからな。しばらく我慢してろな。」
「……………ぅううぅうぅぅぅ……。……ぐぅうううぅぅぅううぅ……。」
医者がやってくる…医者がやってくる…。
さぁどうやって助けを求めよう、どうやって犯人たちの手から逃れよう。頭の中でぐるぐると様々な思いが交じり合う。
「…わかってると思うが。…お医者に余計なことは言うなよ。……俺たちも別にお前に乱暴がしたいわけじゃないんだ。そりゃわかってるよな…?」
犬飼寿樹は、苦しみながらも頷き、従順な様子を示して見せた……。
自分の思惑と敵の思惑。
…彼らは仮病を疑おうと疑わなかろうと、こちらのゴールを理解していて、それを阻止しようとするだろう。
大博打に緊張して胃が収縮し、本当に腹が痛くなる錯覚を覚える。いや、現実か。
だが焦ることはない…。
仮に訪れる医者とのアプローチに失敗しても何も損はないのだ。
いや、あるとすれば仮病により医者とコンタクトを持とうという手段が損失する。
これ以外の手段がこれからも思いつくなら、それは大した痛手ではない。
だが、現時点でこれよりも容易で劇的な方法は思いつかなかった。
……あぁ、やはり考えれば考えるほどに、…これは最初で最後の大博打なのだ!
やがて……再び、車がやってくる音が聞こえてきた。
車のドアの慌しい開け閉めの音。駆けて来る複数の足音。
若い白衣を着た男だった。
彼は少年の姿を認めると、怪訝な顔を露にする。
「………………………彼は?」
「………………。」
「……………村の子じゃありませんね?」
犯人は応えない。……その状況に、若い医師もただごとならぬ事態に気付いたようだった。
犯人のひとりが、凄むように言った。
「先生にゃ関係のないことです。」
「…………………。」
しばらくの間、医者と犯人たちは無言で睨み合っていた。
……だが、苦しみ続ける少年の姿に堪えきれなくなり、医者は犯人たちの望み通り、それ以上の追及をやめる。
「……その古い手術跡というのが気になります。何の手術でしたか?」
「…………そりゃあ、わからないです。」
「…んん………。本当は診療所に連れ帰るべきなんですがね。」
「先生、そりゃさすがにちょっと…。」
医者は少年を診療所に連れ帰りたいと言うが、犯人たちは無言で首を横に振るのみだ。
……淡い期待は裏切られるが、犯人が拒否するのは当然だ。
その時、医者と目が会う。
医者は少年の苦しみ方にただならぬものを感じ、重病を疑っているようだった。
「…………大丈夫ですか? 私は医者です。この手術跡はいつ頃のものですか?」
「……んんんん、……ぐ……。………去年の、……冬に、……事故で……。」
「事故。……そうですか……。…参ったな……。」
医者に、この場で仮病だと看破されてはいけない。
何とか縁を繋ぎ、自分が囚われの身であることを伝え、救いを請わなくてはならない。
「患部を少し触りますよ? 痛むところがあったら言って下さいね?」
「………あつつつつつつつつつ…ッ!!!」
「…ん、………んん……。」
過剰に痛がる様子に、…医者は腕組みをして悩みこんでしまう…。
何とか自分を病院へ。
犬飼寿樹にとって、一世一代の仮病劇だった…。
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■高津戸地区
「えぇえぇ、皆さんもご苦労さんなことです。お暑いでしょうが、せいぜい頑張って下さいよ。不法投棄のダンプが現れたらすぐにご連絡下さい。急行いたしますのでね。」
「ご協力、感謝しますよ大石さん。……どうぞ。」
バリケードが車一台分の隙間が開けられる。
大石氏は短いクラクションで謝意、あるいは威嚇を示し、車を発進させ検問所を抜け出した。
今回の自分の姿も不審者そのものだった。
野球帽にマスクにサングラス。
さらにこの暑いのにフードまで被っているのだから、真っ当な警官なら職質をしたい気持ちをそそられること間違いなしだ。
自分の面が割れていることを充分に警戒しての、過剰な変装のつもりだったが。…すでに何の効果もないのかもしれない。
そういう諦めを言い訳に、暑くて我慢がならなかったフード付きの薄いジャンパーを脱ぎ、マスクや帽子を脱いで後の座席に放った。
「…ありゃ。いいんですか?」
「こんな小細工したところで。どうせ割れているでしょうから。」
「なっはっはっは。そりゃあまぁそうでしょうなぁ。」
大石氏は、自分のそういう態度が意外で面白かったらしく、しばらく笑い続けていた。
雛見沢の、素朴で美しい村の風景がいっぱいに広がる。
…この村の複雑な事情さえなかったら、何て美しい村なんだろう。
…ぜひ一度、雪絵を連れてドライブに行きたいな。
…そう言えば、昨夜は電話をかけ損ねたな…。
………………そんな考えに思考を遊ばせる。
だが、実際は小春日和のような村ではない。
一番初め、県警本部で私は全てを伝えられた。
この村の深部、御三家の情報収集力は、血縁や地縁によって信じ難いくらいに固められており、雛見沢界隈は愚か、その情報網は鹿骨市全体にまで広がっていると。
それを聞いた時、自分は心のどこかでそれを真剣に捉えていなかった。
こんな田舎の地域団体が何を大袈裟な。
…心の奥でそう嘲笑って馬鹿にしていたことをもはや否定しない。
だが、彼らは実際に大臣脅迫をやってのけただけでなく、極秘で動いてるはずの我々の動きを完全に掌握して見せた。
…まるで、スパイ小説に登場するような、秘密警察が跋扈する東欧の小国のように。
村人たちはダム計画と戦うためならどんな血生臭い手段もいとわない。
それもまた県警本部で聞かされたはずだ。
あぁ、…そう言えば、初めてここに来たときに大石氏も、この村のことを戦争地帯だと言っていたじゃないか。
この村の住民たちは、住民であると同時に郷土解放の戦士でもあるのだ。
定義的には民兵、ゲリラと変わらない。
ジュネーブ条約によって保護されないと同時に、彼らもまたそれを遵守しない。
ここでは、合法的な戦場よりもさらにさらに泥沼の、本当の暗闘が繰り広げられている…………。
大石氏と一緒にいるからドライブをしていられるのであって、………自分がこの車を下車して自動販売機でも探しに出掛けたなら、……帰ってこられない可能性だってあるのだ。
銃弾が一発も飛ばなくたって、……戦場なのだ。
いや、……銃弾が飛ばないのは、日本では民間人の手に銃が渡りにくいからというだけだ。
だから彼らは、銃以外で入手しやすい武器で武装するだろう。
だから大石氏は、……あんな防刃ベストを着ているんじゃないか。
「………………………。」
「赤坂さん、緊張してます? んっふっふっふ!」
自分の緊張は当然、大石氏には筒抜けだった。
すでにばれているのなら、無理に否定したり隠したりするのは美徳ではない。
「……もちろんです。敵の本拠地にたった二人で乗り込んでいるんですよ? この人数では万一の時が不安です。」
「万一の時? なっはっはっはっはっは! 大丈夫ですよ。」
「この村の人間全てが敵ではありませんでしたか? 全員が口裏を合わせれば、この村で白昼堂々殺人が起こっても証拠一つ残らない。そういうところだと聞いていますよ。」
ヤクザの事務所へ単身乗り込むなという鉄則は、つまりはこういうこと。
環境に中立が含まれないとき、その空間は常識的なルールの束縛がない。
何があってもそれを証明できないし、味方になってくれる人もいない。
それはつまり、文字通り敵の腹中を指す。
「雛見沢地区へ向かうと同僚に言い残してますしね。万一の時は無線機もありますし。…赤坂さんが怖がってるほどね、そう簡単には完全犯罪はできませんよ。……まぁ、もちろん油断をしないに越したことはありませんがねぇ。」
「…………………。」
「赤坂さん、緊張しすぎですよ。前にご一緒してた時の方がリラックスしてらしたじゃないですか。なっはっはっはっは…。」
大石氏は笑い飛ばすように大笑いすると、自分を頼れと言わんばかりに胸板を叩いて、にやっと笑って見せた。
「まぁ、本当の本当にやばくなったら、なはははは! 桜の代紋にはこいつがありますからねぇ。」
大石氏が人差し指を突き出す仕草をしてみせる。……拳銃をイメージしたものに違いない。
「…役に立ちますか?」
「撃った後の後始末云々が怖くなければ、実に心強いですよ。」
警官の鉄砲なんて、ただ見せびらかすだけ。
本当に発射するには、相当の規定のクリアと、その後に待ち構える長い長い後始末の苦行に耐える覚悟が必要だ。
そんなの、絶対に割りにあわないから、警官は銃を抜くことはあっても、引き金を引きたいなんて心底は思わない。
「赤坂さんは持ってるんですか? おハジキ。」
「…まぁ、一応。」
「撃ったことは?」
「ありますよ。………訓練でですがね。」
「そりゃあそうでしょうなぁ。んっふっふっふ…!」
「なら大石さんにはあるんですか?」
「私ですか? なっはははは! まぁさかぁ、あるわけないじゃないですか。」
何だ何だ、人のことを笑うから経験があるかと思ったら! 二人して笑い合う。
「銃口を向けたこともありませんがね。銃口を向けられたことなら何度かありますよ。……銃口を覗かされるだけで、寿命が3年は縮むなぁ。」
例え銃を撃ったことがなくても。
大石氏が踏んできた場数には、自分が及ぶはずもない。
…この時になって、今さらのように、私は大石氏を頼もしいと思った。
「………そう言えば、日の高い内にこっちには来たくなかったなぁ。でも車道はここ抜ける以外にないし。……赤坂さん、念のため、もう一回マスクで顔を隠してください。」
「……どうしたんです?」
「冷房がうるさいから聞こえないかな? 切りますよ。窓を開けてみて下さい。」
窓を開けると、ぶわっとした熱気の風が吹き込んでくる。
そして……、…遠くから聞こえてくるその怒号が耳に入った。
その時、一斉に左右の森が開け、一気に視界が広がる。
……そこは、雛見沢ダム建設現場。…そう、雛見沢村の、最前線だった。
「「「雛見沢ダム建設、絶対反対ッ!!」」」
巨大な拡声器から割れた爆音のような大音声が吐き出される。
群集が一斉に地面を踏み鳴らすような怒号がそれに続いて唸りを上げた。
その凄まじい音量はまさに音の大砲となって、弾丸を吐き出すようだった。
ダムの現場事務所のプレハブ群は、二重の高い柵に覆われ、さらに有刺鉄線まで巻かれている。
そしてその柵の前にはズラリと機動隊の隊員とその車両が並ぶ。
そして、それを取り囲む村人たち。
彼らは全員でひとつの生き物であるかのように、ダム反対アピールを口を揃えて吠え立てた。
「お、……今日は少ないですね。ツイてます。」
「……少ないんですか。」
「えぇ、多い時だと、道路までいっぱいになりますよ。おちおち車も通れません。」
初めのすごい迫力のせいで、人数を過大に見てしまったが、確かに人数はせいぜい50人〜70人くらいだろう。
だが6台〜7台の暴力団紛いの街宣車をずらりと並べ、その陣容は充分に異様だ。
村人たちもヘルメットや頬かむり、マスクで顔を覆い、さらにその異様さを煽った。
街宣車の巨大スピーカーはシュプレヒコールを徹底的に浴びせかけた後、さらにさらにボリュームを大きくし、今度はお経を流し始める。
その音の暴力といったら、…例えようもない。
この距離でこれだけの音量なのだから、…きっと事務所の中はガラスがびりびり言うくらいに響いているだろう。
「あれをガンガンやられるとたまんないんですよねぇ。機動の連中、全員、耳栓してて、それでも耳がおかしくなるそうです。気の毒な話です。」
「騒音規制で何とかできないんですか?」
「ん〜〜〜〜、うちの県には騒音規制に関する規定ね、ないんですよ。それにほら、お経でしょ? 宗教活動規制できないし。連中も頭いいんです。なっはっはっは…。」
と、大石氏は言ったのだと思う。
実際のところ、どんなにびったり窓ガラスを締めても爆音のようなお経が車内を満たす。
隣に座っているはずの大石氏の会話ですら、何を言ってるか聞き取れなかった。
車が街宣車の車列に近付くに従い、爆音が耐え難いものになっていく。
…しまいには指で耳を塞ぐどころか、頭を抱えて頭蓋骨が割れないようにしっかりと押さえる必要があった………。
この、恐ろしいエネルギーをもっと早くに見ていたなら、私は雛見沢村というものをもっと早く理解できたかもしれない。
今なら分かる。自分たちの郷里を守るためなら、何をすることもいとわないという決死の覚悟がよく分かる。
ああぁ、うるさいうるさい、……黙れ黙れ黙れ…!!!
頭がガンガンして割れそうで、鼓膜がビリビリして、その上、吐き気までしてきた。
道は、村人たち群衆の座り込みと街宣車の車列、そして機動隊の列とその車両で、通り抜けるのは本当に容易ではない。
座り込みの人たちをクラクションで追っ払おうにも、彼ら自身も耳栓により外界の音を聞いていないので、なかなかどいてくれず、車は牛が歩くような速度でしか進めない。
……それでもいつか、車をそれを抜け、ようやく喧騒から抜け出してくれたのだった。
「……ほら、昨日、一緒に麻雀やったメンツに、ハゲ親父がいたでしょ。覚えてます?」
言葉遣いのあまりよくない老人がいたことを思い出す。
大石氏が、おやっさんと呼んでいた人物だ。
「いらっしゃいましたね。」
「彼ね、第1工区の現場監督さんなんですよ。あそこのプレハブの中で、いらいらしながら仕事をなさってるんでしょうねぇ。…お気の毒なことです。」
「……あれが毎日では、たまったものではないでしょう。」
「えぇ。耐えかねてやめちゃう人が後を絶ちません。まぁその度にお給金がアップしてるんで、何とも言えませんが。んっふっふっふ…!」
あれだけの騒音や敵意と差し引いても大石氏が羨むような給金も、少し納得だった。
「ちっくしょう、こいつら…。聞こえてるのか聞こえてないのか…。」
車の前を、座り込んだ一団が塞いでいた。
大石氏がいらつきながら、クラクションを思い切り鳴らすが、一向にどく様子はない。
この騒音の中、クラクションを鳴らしても聞こえないのか。
それとも聞こえていて意地悪をしているのかはわからないが。
近くに機動隊員が入れば、気を利かせて人々をどけてくれるのだが、たまたまこの近くにはいないようだった。
「………あ〜〜〜、もぅ。ちょいと待ってて下さい。」
大石氏が車の扉を開けた。
熱気とそれ以上の轟音が車内に飛び込んでくる。
「………!!! …………!」
大石氏がにやっと笑いながら何か言ったが、私には聞き取ることができなかった。
連中をちょいとどかしてきます。…そんなところだろうか?
大石氏は車を降り、扉を閉める。轟音は少し遮られた。
私は大石氏が座り込んでいる人々のところへ言って、何やらやりとりをしているのを、呆然と見ていた。
……高津戸地区で、大臣の孫を見つけられるだろうか。
見つけたい。
見つけて、この何だかよくわからない村の呪縛から早く解き放たれたい。
そう願わずにはいられなかった。
その時、ふっと影になった。
人影が助手席の窓のすぐ外に立ち、日の光を遮ったからだ。
ふと、……振り向き、………逆光のその人影が誰か気付く。
「……………………………ぇ。」
それは…少女。………古手、梨花だった。
少女は、私をじっと、退屈そうな眼差しで見下ろしていた。
何の根拠もなく、……私は見つかってはいけない人に見つかってしまったような、そんな気持ちにさせられる。
…私は沈黙を埋めるため、やぁと曖昧に応えながら手を上げた。
もちろん、この轟音の中で私の小声が彼女に伝わるわけもない。
だが、それでも、私が挨拶の意味を込めて手を振ったのは見えるはずだ。
にもかかわらず少女は。
……私のことを、無感情そうにただただじっと、見下ろしていた…。
その時、再びむわっとした熱気と轟音が車内を満たす。
大石氏が運転席に戻ってきたのだった。
見れば、さっきまで道を塞いでいた一団は、恨めしそうにこっちを見ながら、道を開けてくれているところだった。
「お待たせしました。行きましょうか。……ん?」
大石氏が私越しに、少女の姿を認める。
村人が一人こちらに駆けて来て、少女を抱きかかえた。
危ないから離れて…というような感じで。
その時、少女は一言二言、何かを呟いたようだったが、私にはまったく聞き取ることはできない。
「さぁて、行きましょうかね。飛ばしますよぅ? もちろん法定速度遵守で。」
まだ聞こえる怒号を吹っ切るように、大石氏がグンとアクセルを吹かす。
轟音と怒声の喧騒と、村人たちと少女の姿が見る見るうちに後方から消えていく。
「この先を抜けると高津戸地区です。銃撃戦の覚悟は大丈夫ですか? 安全装置外すの、土壇場でトチらないでくださいよ? んっふっふっふ!」
大石氏はからかうように笑った。
…私はそんなことより、…さっき少女が何を口にしたのかが、漠然と気になって仕方なかった。
………無感情な、淡白な、そんな表情で彼女は何と言おうとしたのだろう?
「…………………………。」
「今から緊張したって仕方ないですよ。むしろ、収穫がなくて勇み足って可能性だって充分にあるんですから。」
……少女が何を言おうとしたのか、もう確かめようはないのだけれど。
かつて、私に東京へ帰れ、さもなければ…と警告した少女。
…帰れと警告した私は、その警告に従わず、今もここにいる。
『……警告したのに。……ばかなヤツ。』
そんな風に言われたような気がした。
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■高津戸地区
雛見沢村を寒村と呼ぶならば、高津戸地区は廃村と呼ぶに相応しかった。
ごく一般的な都会人の自分には、こんなとこにどうして無理に住まおうとしたのか、なかなか理解はできない。
生活の痕跡をどこかに残しながらも、…埃にまみれ、ツタに絡まれ、すでに人が住まう土地ではないことを物語っている。
「…こんなところにも、人は住んでいたんですね。」
「まぁ、昔の話でしょうなぁ。こんな辺ぴなとこじゃあ、年寄りには辛いですし。若者だって、もう少しまともな土地に住みたいでしょうしね。後を継ぐ者がいなきゃあ、最後にはこうなるってことでしょうなぁ。」
例え愛着がない村であっても、廃れた景色にはわずかの感傷を感じさせられた。
それは大石氏も同じようだった。
「……こんなところで、財布が発見されたんですか? 財布の取得者も、よくこんなに辺ぴなところに通りかかったものですね。」
「あー、村人には山の中に畑を持ってる連中がいましてね。そういう連中は朝晩ここを通りますから。」
「畑仕事の村人たちは、早朝や夕方にここを徒歩で通ると?」
「まさか。行けるところまでは車で行くでしょうなぁ。」
「早朝や夕方に、こんなところを走行して、落ちているたったひとつの財布を発見できます?」
「…出来たんでしょうなぁ。なっはっはっは!」
「……取得者はどこで取得したと言っていますか?」
「もう少し先を行ったところにある茂みです。取得者はたまたまお腹が痛くなって、ちょいと茂みで用を足そうと思ったらしい。それで偶然見つけたらしいんですよ。中にちり紙でも入ってるのを期待したんですかね。んっふっふっふ!」
「…………話が出来過ぎているように感じます。財布発見の当初から、そういう違和感が拭えません。」
私は、今日の最初から抱いていた感情を、そのまま吐露した。
出来過ぎだけど、動かぬ証拠。
でも、出来過ぎで、…何だか気持ち悪い。そんな感情。
「出来過ぎってのは、案外当たっているかもしれませんよ。」
「…というと?」
「実は、4課のお友達からちょいと聞いたんですがね。園崎お魎が大臣孫の誘拐事件について言及したって話なんです。」
「言及した?」
「えぇ。大臣の孫も、もう誘拐されてから何日にもなって可哀想だ。そろそろ解放されるといいなぁ、と。そうお魎の婆さんが、縁側でぼそりと呟いたってな話らしいんです。で、そのぼそりが園崎家の裏の裏のあちこちに伝えられてるようです。」
そうだ、情報屋のサトさんに前に聞かされた。
頂点のお魎が「憂慮」すると、親族の誰かが「気を利かす」
「つまり、…それは、実質上の人質解放命令ですか?」
「私はそう見てます。この出来過ぎの財布発見は、孫を警察に引き渡すためのイベントじゃないかと。」
「…どうして人質の解放を?」
「なっはっはっは! そりゃあ、人質を解放するなんて、理由はひとつしかないじゃないですか。」
「何です?」
「取引の成立ですよ。雛見沢ダム計画の中止を大臣が約束、ってことですかね。」
「……ダム計画なんて、必ずなくなっちゃいますのです。」
その時、…脳裏に蘇ったのは、あの少女の一言だった。
…結局、あの少女の予告通りになった。
あの幼い少女は、この顛末を知っていた。
この誘拐劇を知っていて、あるいは初めから最後まで知っていた。
「……赤坂。」
不意に少女が私の名を呼んだ。
「…………何だい?」
「……………………東京へ帰れ。」
え、…………?
「……………あなたは、もう幾ばくもしない内に、……この村に来たことをひどく後悔することになる。」
「それがあまりにもみすぼらしくて、気の毒な姿だから。……今のうちから警告してあげているのです。」
「………どうして、……私が後悔することになる……と?」
「……………いちいちうるさいな。」
「……あなたの親は、あなたが赤信号の横断歩道の真ん中にいる時、どうして危ないのかを全部説明し終えるまで、あなたの手を引っ張らないの? 引っ張るでしょう? まず歩道まで連れ戻してから、なぜ危険なのかを説くでしょう? ………つまりはそういうこと。」
…始めから最後まで、全てを知っている少女が、……私にした一番最初の警告。東京へ帰れ。
「………赤坂の怖がり。……くすくすくすくすくす!」
「孫は無事見つかるでしょうが、…その後はいろいろと厄介な問題になるでしょうなぁ。どう厄介になるかは、一警察官の私にゃ想像も付きませんがねぇ。」
「古手梨花、って少女。……ご存知ですか?」
私が言ったことはよほど唐突だったらしく、しばらくの間、大石氏は面食らうように沈黙していた。
「………もちろん知ってますよ。御三家のひとつ、古手家のひとり娘ですね。」
「どういう少女なんです?」
「…おやおやぁ? こりゃ、意外な人物名にちょっと驚きです。公安では、古手家が臭いと睨んでおられるわけで? 私にも情報を分けて下さいよ。」
「あ、…いや、そういうのじゃないんです。…ちょっとその、…気になったもので。」
「………ふぅん? なっはっはっは、まぁいいや。同じ卓を囲んだ友人の質問なら、答えない訳にゃあ行きませんからねぇ。」
「…友人と呼んでいただけて光栄です。」
「んっふっふ! で、あのお嬢ちゃんはね、まぁ、村のマスコットみたいなもんです。村中の誰からも愛されてます。中でも年寄り連中には特に崇められてましてね。」
「崇められる?」
「ん〜〜〜、よくは知らないんですがね。古手家に生まれた女の子ってのには、多少神聖な意味合いがあるらしいんですよ。雛見沢の土着信仰ですがね。オヤシロさまの生まれ変わりだとか何とか、そんな話があるらしいですよ。」
「オヤシロさま…? ………そう言えば、同盟の登り旗の中に、オヤシロさまと書かれたものがあったような気がします。…何ですか、オヤシロさまって?」
「あぁ、雛見沢の守り神さまの名前です。村に仇なす者にバチを当てるって信じられてましてね。まぁ、そんな便利な神さまがいたら、ダムの連中はとっくに神罰にやられているんでしょうが。幸い、今日までそのバチってヤツはひとつも起こってませんがね。」
「村に仇なす大臣の孫が、オヤシロさまの怒りに触れ、…えっと、何て言いましたっけ。そう、『鬼隠し』。大臣の孫を鬼隠しにしたと。…そういう筋書きになるわけでしょうか。」
「なっはっはっはっは! なるほどなぁ。そういうことになるんでしょうなぁ。」
「オヤシロさまが下した神罰。なら、…犯人はオヤシロさまの生まれ変わりである、…………あの少女…?」
「なっはっはっはっはっは!」
自分でも何を言ってるのかよくわからなくなっていたところなので、大石氏に笑い飛ばしてもらえたのは、ちょっと助かった。
大石氏があまりにも楽しそうに笑うものだから、…私もつられて馬鹿笑いをすることにした。
■対向車
「………ありゃ。こりゃ珍しい。」
大石氏はクラクションは強く何度も押し、窓を開けて身を乗り出して大きく手を振った。
対向車だった。
ここに来るまで、自分たち以外の車と出会うことはなかった。
それも、こんな寂れた場所で。
大石氏はその対向車の主を知っているようだった。
向こうも短く一度クラクションで応えると、すれ違うところで停車する。
「入江の先生〜〜〜〜〜!!! こんにちは。」
対向車の窓がゆっくりと開くと、そこには白衣を着た若者がいた。
私に近い歳か、あるいは少し年上くらいかもしれない。……もっとも人間は見かけじゃわからないのだが。
「大石さんじゃありませんか。こんにちは。…はっはは、珍しいところでお会いしますね。」
「そりゃあこっちのセリフですよ先生。まさかこんなところで会うとはねぇ、んっふっふっふ! どうしたんです?」
「いえね、ちょっとした往診です。」
「…ありゃ、そうですか。急患とかでしたか?」
「いえ、…そんなに大したことではありませんでした。良かったですよ。」
「お医者の世話にならずに済むなら、それに越したことはないです。んっふっふっふ…!」
「ではこれで。…急いで戻らないとスタッフに怒られますんで。」
「なっはっは! 診療所長さんも大変です。ではでは、お気をつけて!」
入江と呼ばれた若い医師は挨拶をするような仕草を見せると、車を発進させ、あっという間に曲がり角の向こうへ消えていった。
大石氏も車を発進させるが、少しも行かない内に車を止めた。
ダッシュボードの中からボロボロになった地図帳を引っ張り出す。
その形相は、不真面目な様子など一抹もない、真剣なものだった。
「……どうしたんです?」
「今日は診療所は往診の日じゃないはずです。よっぽどの急患か、特殊な事情のある患者ということになりますねぇ。」
大石氏はばらばらとページをめくり、高津戸地区のページを開き、それから周りの景色を見渡して現在位置を探っていた。
「…その急患が怪しいということですか?」
「言ったでしょ? 高津戸地区にね、住んでる人なんてほとんどいないんですよ。……今私たちがいる道はここ。入江先生はこの道に対して、こっちの方向から走ってきたと。」
「…………………………。」
土地勘のない私は、地図を示されてもいまいち飲み込めない。
「私たちは財布の取得場所を目指しています。ちなみに取得場所はここ。でもね? 高津戸地区にわずかにある民家に向かうには、そもそも道が違うんです。」
「……つまり、入江医師は、民家のない方角から来たと?」
「山間の段々畑で農作業中に誰かが倒れたってのでない限りね。人が倒れて医者が呼ばれたら、普通は連れ帰ってくわしく調べるもんです。」
「でもさっき入江医師は、大したことはなかったと言いましたね。車には他には誰も乗っていなかったようですし。」
大石氏はそれ以上、何も言わなかった。
私もそれ以上、何も言わない。
さっきの医師が、患者を診た。この近くで。それだけ。
騒がしいラジオはいつの間にか止められていた。
空はいつの間にか、重苦しい色になっていた。
……大石氏が、これは降るかもしれないな、とボヤくと、期待を裏切らず、土砂降りになった。
やがて、大石氏は車を停める。
土砂降りが天井を叩く音と、ワイパーの泣く音だけの静寂。
「……ちょいと静か静かで行きましょうかね。」
そして、物音を立てないようにと小声で言うと、傘も差さずに、静かに車を降りた。
大石氏は屈み込むと、茂みの向こうをそっと指差す。
指差す方向には、プレハブ小屋と、そしてその脇には車が停められていた。
車は明らかに小奇麗で、放置されて何年もという風には見えない。
「……あの小屋は?」
「営林署の器材小屋です。夏場以外は利用されてないと聞きました。」
「あの車は営林署の職員の?」
「さぁねぇ。公用車にゃ見えないですね。」
大石氏はひょうひょうとしているが、…私の緊張は次第に高まっていく。
「一応は念のため。」
大石氏は一言そう言うと車に戻る。
傘でも取りに戻ったのかと思ったが、彼が手にしたのは車載無線だった。
「もしもし、大石です。聞こえてるかな? こんにちは、こんにちは、んっふっふ。」
「ハイ、興宮SP〜。大石さん、感度良好です、どぞ〜。」
「今、高津戸地区の営林署器材小屋前です。谷河内に向かう方じゃないよ、雛見沢から高津戸に入る方の。」
「………ハイ、確認しました〜。」
「小屋に不審者。これより職質します。5分で連絡なかったら、駐在所に連絡と大至急応援パトを送って下さい。よろしくお願いします。」
「了解しました〜。」
「じゃ、……行ってみましょうかねぇ。んっふっふっふ!」
■乱闘
ここに監禁されている間にも、何度か車の音は聞いた。
そして、遠くに聞こえた車の音もまた、そんな車なのだろうと思っていた。
だが、犯人たちの反応はこれまでに一度も見せたことのないものだった。
彼らはビクッと、まるで電気でも走ったかのように反応すると、窓際にへばり付き、こっそりとうかがうように外を見た。
「……………停まったぁな。」
「……営林署の人間? まずいぜ。」
「…いや、……サツやんな。」
犯人のひとりが少年の襟首を掴み上げて、刃物を頬に当てる。
「お兄ちゃん、ちょい静かにしててな。わかってると思うけど、大声出したりすると、大変なことになるからな…。」
犬飼寿樹は、きっとあの医者が警察に通報してくれたんだろうと思った。
もうすぐ自分は助けてもらえると安堵したが、追い詰められた犯人がどのような凶行に及ぶか想像ができず、その緊張を緩めることはできなかった。
「どうする?」
「…時間稼いでるん。小僧連れて、ちょい裏から抜けぇな。ほとぼり冷めたら落ち合お。」
犯人のひとりは少年の襟首を掴んで立ち上がらせる。
もちろん犬飼寿樹は、仮病のふりを一層強めて抵抗するのだが、犯人たちは意に介さないようだった。
ドンドンドン!!!
荒々しく扉が叩かれる。
「ごめんくださぁあ〜〜いい!! こんにちは〜〜〜!!!」
ドンドンドン、ドン!!
さらに重ねて叩かれる。
犬飼寿樹は、その声に応えて大声を出そうか一瞬迷った。
だが、それを迷っている間に口を塞がれて、その選択肢を奪われた。
犯人のリーダー格が、行けっと手でサインを送る。
若い方の犯人は頷き返すと、少年の口を塞いだまま、裏の戸口の方へ向かっていた。
「はいはい〜〜、何かご用かぃね?」
「どうも〜〜。警察ですがね、ココ、ちょっと開けてもらってもいいですか? んっふっふっふ! 急な雨で、困っちゃっいましてねぇ。」
「えぇえぇ。今、開けますん…。」
施錠を開けた途端、大石は力強く扉を開け放った。
そして威嚇するような眼光で睨みつけながら、男を押しのけ室内に踏み入った。
そして、この狭い室内がガランとしていて、自分の求める孫の姿がないことを瞬時に確認する。
「あれぇ。私ゃ、ここは営林署の器材倉庫だって聞いてたんですけどね。なぁんにもありませんねぇ。」
室内には器材倉庫という名に相応しい様子は何もなかった。
寝泊りを思わせる毛布の山や食料品の袋のゴミなどが散らばっているだけだ。
「……あぁん、ここはずいぶん前から空っぽさぁね。器材がしまってあるところなんて、見たこともねんわ。」
「でも営林署の建物でしょ? あんた、営林署の人?」
「……あんたこそ誰よ、警察?」
互いに相手を不審そうに睨みあう。
……大石も、そして男も。自分から先に名乗ろうとは決してしなかった。
男は、大石の眼光の鋭さから、多分言い逃れは難しい感じていた。
どう屁理屈をこねても、ここではほんの数十秒の時間稼ぎが関の山だろう。
雨音だけが、この緊張した時間を埋める。
その時、人が暴れるような物音、乱闘の音が遠くに聞こえた。
大石は直感する。
裏口に回らせた赤坂が、この隙に逃げ出そうとした犯人ともみ合いになったに違いない…!
そう思った時、目の前の男の反応は大石よりさらに一瞬早かった。
男のそれは顔面を殴るというより、大石の眼を閉ざそうとすることを目論むだけの攻撃だった。
一瞬の虚を許した大石の巨体に、男はすかさず股間の急所に蹴りを叩き込む。
…だがそれは正確には決まらず致命打とはならなかった。
男は大石を組み伏せようと両腕でその首元を掴みながら、猛然と押し出して押し倒そうとした。
だが、大石は後ろに転ぶ拍子に、まるで蹴り上げるように男の腹に足を付きたてる。
その足を支点に、男は倒れる大石に、まるで巴投げをされるような形で大きく投げ飛ばされた。
二人は土砂降りの叩き付ける中、対峙する。
「面白いじゃないの。俺とやろうってかぁ?! なっはははははは!!」
大石は自分を奮い立たせるように、にやりと不敵に笑って見せた。
そして泥汚れを叩いて立ち上がる。
一矢報いるも、大石が無様に立ち上がる様子に比べると、投げ飛ばされた身でありながら男の立ち上がりはとても優雅で早かった。
「大石さあああぁあん!! 早く!!」
遠くから赤坂が呼ぶ声がする。
声の緊迫感から、向こうでも一刻を争う自体で、一刻も早く自分との合流を望んでいるのが分かる。
だがこちらも今は手が離せない。
「赤坂さぁあん! 申し訳ない、ちょっと待ってて下さいよぅ!」
男は、明らかに空手やボクシングと言った格闘に精通することをうかがわせるように両拳を構えて見せる。
大石にも無論、警官としての平均的な武道のたしなみはある。
修羅場をいくつも潜り抜けて来た根性もあるつもりだ。
でも、…いや、だからこそ、目の前の男の方が喧嘩は数段上手だなと感じていた。
…ぁあ、くそ! 園崎家に人質解放の号令が出てるから穏便に済むだろうなんて、甘えたこと考えなきゃ良かった!
「なかなか上等じゃないのよ。久々に胃液が込み上げてくる感じがしますよ? んっふっふっふ!」
大石は余裕をアピールして見せる。
相手はその様子を見て、大石が簡単に倒せる相手ではないと悟ったようだった。
男が猛然と、掴みかかろうと突撃してくる!
あの低い姿勢から組み付かれると、押し倒されて馬乗りの体勢にされてしまう。
子どもの喧嘩でよく見かけるけど、実際は手詰まりに近い致命的な型だ。
大石もそれに応えるように負けじと姿勢を低くしてそのぶつかり合いに応える。
ぶつかり合った瞬間、大石は相手の胸倉を掴んだ!
そして胸倉を思い切り掴み上げる拍子に、その腕の肘で相手の鳩尾に思い切りの打撃を叩き込む。大石流の喧嘩柔道の得意技だった。
さらに胸倉を掴む手を増やして、両手で相手を掴み上げて投げ飛ばそうと目論む!
だが男は半身で応え、大きく腕を回すと、逆に大石の両腕を絡めしまった。
そればかりか、大石は両腕の肘を丸ごと外へ極められ、不自然な体勢となって、両腕を相手の胸元に預けたまま背中を晒しそうになってしまう!
こいつ…捕縛術か合気道をやってやがるなぁ!
大石は自分の両手の指が、男の胸倉(シャツ)でねじれて外せなくなってしまうことを嫌って、自ら相手を解放した。
だが傾きかけた不自然な体勢は立て直せない。それもこんな至近距離で!
男は、体勢を立て直そうと体をぐるりと回す大石の動きの裏に綺麗に入る。
そして、両の手の平で、バシン!!と。大石の両耳を平手打ちするように叩いた。
「あッつッツ!!!!!!!!」
両耳への平手は護身術以外の武道では基本的に禁じ手だ。
空手でも柔道でも認められてない。
それくらいに単純で…危険な攻撃!
大石は自分の両耳を押さえようと反射的に両手が上がった。
だが、それよりも早く、男ががっちりと腕を回し、大石の首を締め付けていた。
太い二の腕ががっちりと大石の首元に、まるでカンヌキのように締め付けられる。
大石は直感的に、殺されると思った。
この格闘慣れした男がこんな体勢で背後から相手の首を取ったなら、首をへし折るなんて造作もないからだ。
だが相手はそれをせずに、締め付けて意識を失わせることを選んできた。
だから大石はその瞬間、表情は引きつったままだったけれども、にやりと笑った。
相手に自分を殺せるチャンスがあるにも関わらず、それを選ばなかった。
あぁ、こいつは俺を殺す気はないんだな、と。そう思ったからだ。
でも、だからといって、男の首締めが緩いことはない。
あっという間に意識が薄まり、視界が黒から赤に充血していくのがわかる。
学生時代に柔道で何度か落された経験のある大石は、これは完全に決まったな…と観念した。
赤坂はようやく急所蹴りの激痛から解放されたところだった。
彼は少年を連れた犯人と裏口で鉢合せしたのだ。
犬飼寿樹の顔を充分に写真で知っていた彼も、目の前のガムテープで口を塞がれた少年が本当にその本人なのか、一瞬では識別できなかった。
それに、こんな状況ではどう対処すればいいのか、経験の浅い彼が混乱したとしても無理のないことだった。
その一瞬の隙を、もちろん犯人の男も見逃さなかった。
男が放った急所蹴りは見事に決まり、赤坂は大石に助けを求める間もなかったのだ。
男は少年を肩に担ぎ上げると、小屋の表へ回ろうとした。
だが、大石の大声が聞こえてきたので、そちらへ行くことを諦めた。
そして、森の中へ向かって猛然と走り出す。
肩に担いでいる少年の重さなどまるでないかのようにだ。
赤坂は一瞬迷う。
敵と戦っている大石と合流した方が安全だ。
だが、今ここで逃げる男の背中を見失ってしまうわけにはいかない!
赤坂は立ち上がり、その背中を追って駆け出す。
低い茂みを駆け抜け、小枝や落ち葉をバリバリと踏み分けていく。
梢の先などで体が擦ったり、引っ掻かれたりして、次々に生傷が増えていく。
泥や水溜りを次々に踏み抜き、靴の中まであっという間に泥水でいっぱいになってしまう。
こんな森を駆け抜けたことのない赤坂にとって、緊急時であってもそれはとても不快なことだった。
「止まれぇえぇ!! 警察だぁ!!」
言ってから、無駄な発言に無駄な酸素を使ったなと後悔する。
警察だと言って大人しく止まる泥棒がどこの世界にいるというのか!
都会育ちの赤坂にとってこの森を駆け抜けることは辛いものだったが、少年を担いで走る相手にとっても、決して辛くないわけではないようだった。
距離は縮まずとも離されてはいない。
赤坂はそれに気付くと少しだけの冷静を取り戻せた。
追い続ければいい。
条件は同じ。むしろ不安定な体勢で走っている向こうの方が遥かに不利だ。
向こうだっていつまでも逃げ切れない。その内、絶対に転ぶ!
こうして追い続けて焦らせれば、必ず転ぶ!!
そして、その願いは成就する。
「…っわッ!!」
何かを踏んづけてバランスを崩した男は、少年の重さに耐えかねて、少年を落してしまったのだ。
赤坂は実際のところ、犯人などどうでもよかった。
犬飼寿樹の安全さえ確保できればいい。
だから犯人だけが走り去ってくれればそれでよかった。
…だが、男にとっても犬飼寿樹はやはり重要なものだったらしく、そのまま逃げ去るという選択肢は選ばれなかった。
赤坂はこういう時、どうしていいかわからなかった。
最優先なのは孫の保護であって、多分、犯人の制圧は二の次だ。
犯人との取っ組み合いなんて想定してない。
でも多分、やらなければやられる!!
赤坂のその一瞬の躊躇はもちろん命取りになった。
男は赤坂の眉間、というよりは両目を狙って軽いジャブを放つ。
それを嫌って赤坂が両手で顔を覆った時、ここぞとばかりに男の蹴りが無防備な腹部に叩き込まれた。
内臓が飛び上がるような激痛が込み上げるが、赤坂は怯まず、その足を覆い被さるように抱き抱えた。
だが相手は戸惑わなかった。
掴まれた足から飛び込むように、全身で飛び掛り赤坂を押し倒して圧し掛かってきたのだ。
これにはたまらず、赤坂も倒されてしまうが、だがそれでも決して掴んだ足は離さない。
もつれ合うようにして二人は倒れこんだ。
赤坂から自分の足を引き離そうと男は躍起になるが、不自然に倒れこんだ状態ではなかなかうまく行かない。
二人はごろごろと転がりながら、より相手よりも優位な体勢を取ろうと足掻く。
だが、両手で相手の膝を抱いた赤坂と、上半身が自由な相手とでは条件が違う。
男は体勢的有利を得ると、自分の足にしがみ付いて離れない赤坂の頭を、両の拳で力の限り殴りつけた。
それだけでなく、近くに石を見つけると、それで頭を殴りだす!
ガシッ!
ガシッ!!
ガシンッ!!!
拳で殴られるのと石で殴られるのでは、話が違い過ぎる!!
男の足にしがみ付いた手を放し、頭をかばいたいとすぐに思った。
だけど、…ここでこの手を放したら、男に逃げられてしまう!
ここで踏ん張らなければ、全ては水の泡だ。
救うべき孫がそこにいる。
彼を救って帰京するんだ…!!
そうすれば、…この薄気味悪い村ともおさらばできるんだ…!
ガシ!!
メキ!!
ガスッ!!!
額が割られ、血が噴出していることが、見ずともわかる。
でも、私は男の足を離そうとはしなかった。離すもんか、離してたまるもんか…!
男は、頭をいくら殴っても引き離せないと悟ると、私の喉仏を潰すように、両手で首を握りつぶしに来た。
顎を思い切り引いて、わずかの抵抗を試みるが、何の意味もなかった。
ぐわっと、男の両手が私の喉を包み込み、万力のような力で喉仏を潰しにかかる!!
それは窒息する苦しさと言うより、咳き込んで吐きそうになる苦しさだった。
胃袋がでんぐり返りそうになる苦痛!! だが、耐える他はない…!
……畜生畜生畜生!!!
喉が、ぅぐ、ぐ、…………苦しい…!!
離してたまるか、離してたまるか…!!
私はこんなとこに居たくないんだ。
早く決着して、東京に帰りたいんだ!
東京に帰って雪絵と一緒に、生まれてくる赤ん坊のことで、いろいろと話し合って…これからの展望の話に花を咲かせるんだ…!!
力を緩めたつもりは微塵もなかった。…だが、わずかの弛みが、男の足を解放してしまう。
男が思い切り足を、蹴り出すように突き出すと、私はそのままごろごろと転がされた。
頭がぐるぐる回り、咄嗟に立ち上がれない。…いや、そもそも、全身に力が入らない。
挫けるな…!!!
今ここで逃がしたら…二度とこんなチャンスは訪れない!!
こいつらの尻尾を掴めたのだって、奇跡と幸運で塗り重ねたような偶然の上でだ。
ここで孫を取り返せなかったら…、これ以上の奇跡なんて起こるものか!!
男は少年を担ぎ上げようとしていたが、少年が予想外の抵抗を見せたので、私が起き上がるのに気付けずにいた。
私はさっき男が自分の頭を叩くのに使った石を握り締める。…今度はこっちの番だ!!
「うぉおおおおぉおおぉおおぉおッ!!!」
非力さを石の力で補えれば…充分な打撃が生めるはず!!
石を握り締めた拳は、男の柔らかなわき腹にねじ込まれる。それはかなりの痛打のようだった。
「ぅが、……が…ッ!!!」
男はしばしの間、脇腹を押さえて転げまわる。
男から解放された少年は素早く自分の背中に隠れた。
「犬飼寿樹くんだね?! 君を助けに来た!!」
少年にとって、これほど待ち望んだ言葉はなかったに違いない…!
だが、危機はまだ去ってはいなかった。
なぜなら、脇腹を押さえつつも、男は再び立ち上がり、再び身構えたからだ。
男の目には、痛みによる憎悪と、私と戦って勝てる自信が見て取れた。
もう一度正面からぶつかり合えば、今度は額が割れるくらいでは済まないかもしれない。
「これ以上、抵抗するな!! 大人しく降参しろ!!」
「てめぇこそ小僧をこっちへ寄越んだ!! 首の骨をへし折られてぇかッ!!」
「誰が貴様の言いなりになどなるものか!! もうじき応援が到着する! 貴様らに逃げ場などない!!」
応援が来るという言葉に男は敏感に反応した。
ここで言い争っても、時間が無駄なだけでなく、自らにも危険が迫っていることを知ったからだ。
それに気付いた男の頭の切り替えはあまりに早かった。
「なら手っ取り早く済ませるぜ!! こいつならどうだよ…!!」
「……ッな?!」
男がズボンの後ポケットから取り出したのは、…なんと、拳銃!
もちろん、自分も警察官だ。
銃を知らないわけじゃない。
でも、その銃口を向けられるのは初めての経験だった。
本当に…本物?
本物に決まってるじゃないか!! こんな局面でモデルガンなどが出てくるものか!!
「大人しく両手を頭の上で組んで、そこにうつ伏せになるんだよ!!」
「図に乗るな、悪党!! 誰がお前に従うか!!」
「このクソ馬鹿が!! 撃たれなきゃこいつの恐ろしさがわからねぇかよ!!」
「なら撃ってみろ! 貴様の銃声で応援がここに駆けつけるぞ!!」
「馬鹿が! 森の中で、しかもこの雨だぞ!! 銃声など掻き消える!!」
現実に向こうが拳銃を握っている以上、私が何を罵ろうとも、圧倒的不利はかわらない。
でも、私は勝機を感じていた。
逆の立場だったなら、私はこんな口喧嘩に時間を割かず、とっとと射殺して少年を奪う。
その方が手っ取り早いし、少年を畏縮させ抵抗なく連れて行けるかもしれない。
でも男は撃たず、私に屈服を要求している。
ということは、撃てないか撃ちたくないかのどちらかなのだ。…つまり、目の前のこいつは甘い!
少しでも時間を稼げば、私に有利になる要素が多い。
大石氏が駆けつけてくれるだろうし、ここに来る前に要請した応援はもうとっくにここへ向かって出発しているだろう。
それだけじゃない、駐在所にも連絡が行ってるはず。
村の駐在員ならもっと早く駆けつけてくれるに違いない!
「…くそったれがぁ…!! 弾かれなきゃコイツの怖さがわからねぇかよ!!」
「どうせ逃げられやしない!! 無駄に罪を重ねるな!!」
その時、ドスドスとした足音が草木を掻き分けながら近付いてくるのが聞こえた。
大石氏が合流してくれれば、状況は一変する!
あの人なら、銃の一丁くらいものともしないだろう…!
「大石さん!! ここですここです!!! …………えッ?!」
時間が自分に味方するとは思っていた。
だが、…敵にとっても増援があるとは…失念していた…!!
現れた男は、ひと目見て犯人のひとりだとわかる。
「何しよってんね…。早ぅせんとな、警官来るんで! なぁん油売っとんしゃん!!」
「……くそ…!! 大石さんはどうしたってんだ…!」
「あぁん、あんの樽男かいね。落したったら、泡吹いとんよ。へっへっへっへ…!」
「大石さんが?! ……くっそ……!!」
少年が敏感に危機を感じ取り、背中にしがみ付いてくる。
……なんてこった…、くそ…!!
「期待してた相方は来ないってよ!! ざまぁねぇぞ!! 観念するのはてめぇの方だ!!」
少年をかばいながら、太い木を背後にしようとした時、後から来た男も拳銃を抜いた。
「二回しか言わんね。頭抱えてそこにうつ伏せになるんよ。」
「断るッ!!!」
パカン!
自分の拒絶の発声と同時に、左肩が血を吹き、数瞬遅れて、自分が肩を撃たれたことを悟る!
初めて聞く銃声は、自分が聞いてきたドラマや映画の中のどんな銃声よりも、単調でつまらないものだった。
むしろその音は、小さい頃、駄菓子屋で買って遊んだカンシャク玉によく似た感じだった。
だが、痛みだけは例えようがない…。撃たれて初めて分かる銃の恐怖だった。
「……ッツ……く………ぐ………!!!」
「…お、…おじさん?! 大丈夫?! 大丈夫ッ?!」
少年が錯乱しかけながら私の服を引っ張るので、傷が引きつって痛む。
少年を安心させようとして、強がりを言いたかったが、声はかすれて、むしろ逆効果だ。
「だ、…大丈夫!! すでに応援は要請してあるんだ。すぐに警官隊が駆けつけてくれる…! ………ッ…く……!」
「警官が来る前に、お前ン額にもッパツくれちゃる方が早いんね。無駄な殺生すなっちゅ、本家にゆわれとんかー加減しとんね。あんまり舐めとんと、容赦せんとよ。」
…まずい。…まずいなぁ…!!
この後から来た男は、最初の男とは訳が違う!
躊躇とか容赦がない!!
この男が撃つと言えば、本当に撃つ!
自分程度ではとても時間が稼げるような相手じゃない!!
その時、本当に悔しいが、…脳裏に雪絵の笑顔が過ぎった。
それの意味するところはわかってる。
こんなところで意地を張って命を粗末にするなと、そう自分自身が警告しているのだ。
そりゃ、こんなところで死にたくない!
雪絵との新しい生活だって始まったばかりだし、もうじき生まれる子どもの顔だって見たい!!
自分の子どもの顔が見られるかという瀬戸際で、大臣の孫なんかに命を賭けてられるかよ!!!
…あぁあ、くそくそ!!
まくし立てるな自分! ならどうするよ?! 孫を差し出して生き永らえるのか?! そりゃあ名案だ!! 誰だって命は惜しいしな!! 命に危険が迫ってるんだ!! 誰も責められやしないさ!!!
あぁくそ……痛ぇ…痛え…!!!
こんなにも痛いものだと知っていたら、あんな強がり言うんじゃなかったよ…!!
それに…何より誤算だったのは、銃声が想像以上に小さい、下らない音だったことだ。
こんな程度の音じゃ、雨の森の中では霞んでしまう!
遠くにいる誰かの耳に入るようなものではない…!!!
「くそ!! 待てよ、待ってくれよ!! 死にたくないよッ!!!」
「あぁん、こっちだって死なせとぅないん!! わかればええん、わかれば!!」
「撃つなよ?! 撃つなよ?!?! 帰りを待ってる妻がいるんだ!! 死にたくないんだよッ!!!」
「叫ばんとでも撃たんね!! 大人しゅぅ頭抱えてうつ伏せになったら、撃たんだるね!!」
「本当だろうな?! 本当だろうなッ?!?! 約束は守れよ、絶対だぞ?! 男と男の約束だぞッ?!?!」
「守ったんね!! 男と男の約束しゃあよッ!!」
「守れよ!守れよ!!! じゃあ、うつ伏せになるからな?! なるからな?! 約束守るんだから銃を向けるのやめろよ!! やっぱ撃つ気なんだろ?! 撃つ気なんだろ?! 俺がうつ伏せになったら後頭部を撃つ気なんだろ?!?!」
「撃たんね撃たんね!! わぁった!! しまったる! 銃はしまったる!! 男と男の約束しゃあね!! …どんね!! これなら文句ないんてッ?!?!」
「えぇ、極めて文句ないですよッ!!!」
「をがッ!! ががッ!!!」
電光石火の早業だった。
銃を持った手が下がった一瞬のチャンスを、大石氏は見逃したりはしなかった!
大石氏は少し前から、背後で男たちの隙を伺っていたのだ。
だが、二人が拳銃を向けていて、なかなか飛び出すチャンスがなかったのだ。
私は大石氏の、何とかスキを作って欲しい…というアイコンタクトを受けて、見事、その大任を全うしたのだった。
大石氏は背後から銃を持った腕を掴み上げ、瞬時に間接を極めてしまう。
そしてその手から銃を奪うまではまさに一瞬だ!
もうひとりの男が、少し遅れて状況を飲み込み銃を向けたが、仲間ともみ合う大石氏に向かって引き金を引くことなどできない。
もし、この男がもうひとりの方の男だったなら、躊躇なく撃ったかもしれない。
だが、こっちの男は撃たない。撃てないッ!!
大石氏は男を蹴って転ばせると、奪った銃を左手に、そして右手で自分の銃を抜いて構えた。
二丁拳銃のそれぞれの銃口が二人に向けられる!
「王手飛車取りってとこですかねぇ!!」
完璧な王手だと思った。
だが、銃口が向けられているにも関わらず、男たちは「ズラかれ!!」と叫ぶと、一目散に駆け出す。
あっと言う間のことだった。
あの二人が、反撃や抵抗もせず、これほどあっさり逃げ出すとは、正直意外だ。
大石氏は小さく舌打ちすると、二丁拳銃を左右のズボンのポケットにしまった。
「ち。あいつらもよく知ってるなぁ…。」
「…? 何をですか?」
「逃げてる背中を警官は撃てませんからねぇ。私も退職金が惜しいもんで。」
大石氏とニヤリと笑い合う。
「君が、犬飼寿樹くん? 犬飼建設大臣のお孫さん?」
「は、………はい…!」
「………こりゃあ、…デカイ事件になるかなぁ。どうせトカゲの尻尾切りになるんでしょうけどねぇ。…んっふっふっふ。」
大石氏はさも面白そうに笑う。
黒幕に鬼ヶ淵死守同盟(もしくはさらにその黒幕の園崎家)がいることは明白だが、わかってはいても、至ることは容易ではないだろう。
それに、大石氏には悪いが、今回の事件が表沙汰になるかどうかだって怪しい。
騒ぎ立てれば、大臣の失脚を招くことは明らかだ。
国益優先の本庁の判断で、恐らく穏便に片付けられることだろう。
乱暴な言い方で言うと、闇から闇へ、ということだ。
…その辺りの都合は、大石氏くらいになればすでに理解しているだろう。
「とにかく、非常線を張らせましょう。連中、まだ一丁は拳銃を持ってるようですからねぇ。それから犬飼くんを保護して、赤坂さんはすぐに病院に行かないと。」
緊張が解けるに従い、銃で撃たれた肩の痛みが一気に蘇る。
額もジンジンと痛み出し、火を吹くかのように熱くなりだす。
緊張が解けて汗が一気に噴出した…と思って、額を拭うと、それは汗でなく、べったりとした大量の血だった。
気付けば、自分のワイシャツは額から溢れる血で真っ赤だ。
後を振り返る。
……孫は健在だ。間違いなく。
逃げた連中のことを、今後も調査することになるだろうが、それは後日の話だ。
今の時点では、孫の保護という最大のヤマを越えたと断言できる。
それを自身が認めた途端、頭の中が次々停電していくように、暗くなっていくのを感じた。
自分の膝がぐにゃりと曲がり、地面が羽根布団のように柔らかに感じた。
土砂降りの泥の中に身を浸しても、何の不快感も感じなかった。
大石氏が駆け寄って来て、大丈夫ですかと言うが、何だか自分のことのように感じられなくて、………私は頭の中の最後の灯りのスイッチを、消した。
ふ〜〜〜っと、訪れる脱力。まどろみ。…それはどんな布団よりも柔らかく私を包み込んで行った…。
■幕間 TIPS入手
■とてもやさしい人なの
入院患者に電話が取り次がれる時間は決まっている。
…だから、今日はもうあの人からの電話は来ない。
昨日、寂しがり屋だとからかったから、ひょっとすると電話をかけるかかけまいか、さんざん迷った末に我慢したのかもしれない。
忙しくて電話できなかったと言うより、そっちの方がはるかに説得力のある想像だった。
…あの人はそういう人だから。雪絵はそう呟き、ひとり笑った。
面会時間の終わりを告げる院内放送と音楽が流れ始める。
見知った顔の、同室の患者を見舞う家族たちとの挨拶。母の退院を心待ちにしているのだろう、小さな子の笑顔が眩しい。
その子の母親は、私の隣のベッドで、その子の弟、もしくは妹になる子を身篭っていた。
新しい兄弟に寄せる期待や不安、夢に、その子の想像ははちきれんばかりになっているのだろう。
家族が増えていく喜び。
………そんな温かな気持ちに満たされながら、私はだいぶ大きくなった自分のお腹を撫でた。
子どもを何人もうけるか、あの人と話したことはある。
3人もいたら、きっと賑やかだろうねと、話したことはある。
…でも、目を背けられない現実として、私がそれだけの出産に耐えられるかの不安はある。
「でも、そんなことを不安に思って出産を嫌う母なんて、いないですものねぇ…。」
雪絵はそう独り言を言って笑いながら、自分のお腹をやさしくさするのだった。
警視庁公安部。
あの人の正義心がたどり着いた先。
……あの人は本当はとてもやさしくて、傷つきやすい人。
あまり詳しくは聞かせてくれないけれど、…今の仕事はあまりあの人には向いていないと思っている。
でも、…あの人が頑張ると言い続けている内は、私も温かく見守るつもりだ。
「あなたのお父さんはね、…とっても頑張り屋さんなのよ? こちょこちょこちょこちょ……☆」
雪絵は自分のお腹に話しかけながら、とても楽しそうだった。
…その時、雪絵はなぜかふと気になり、窓を見た。
刻限は夕方。
……昔。小さかった頃、祖母の田舎ではこんな時間には、ひぐらしの合唱でいっぱいに満たされていたのを思い出す。
ここは東京のど真ん中。
田舎と違い、ひぐらしの合唱は聞くことができない。
……なのになぜか、…その時の行雪絵は、ひぐらしの声が聞きたい…と思った。
■三日目夕
………意識を失うというのは、初めての経験だった。
だから、意識が戻ったらベッドの上、というのも、よく聞きはするけど初めて経験することだった。
「………もしもし…? 大丈夫ですか…?」
私に意識が戻ったことに気付いたのか、若い医者が声をかけてきた。
応えたつもりはないが、私の仕草で、意識が戻ったことは伝わったようだった。
私は、頭に包帯を巻かれていた。
全身の擦り傷にも、治療が施されている。
…意識が戻るにつれて痛感も戻り、私は全身の激痛にしばし呻いた。
「起きないで横になっていて下さい。頭をだいぶ殴られたようですからね…。24時間は特に安静にして容態を見守りたいところです。」
「…………ここは…?」
「私の診療所です。入江と申します、よろしく。」
…私はこの若い医者が、あの時、対向車に乗っていた若い医者だと思い出す。
「……誰か、いませんか。……大石さんは…。」
「あ、呼んで来ましょう。診療所の中は禁煙なんで、表で吸ってもらってるんです。」
入江医師は、大石氏を呼びに退室する。
…窓から見える景色は、黄昏色になっていた。
土砂降りはもう止み、ひぐらしの声が涼感を誘っている。
ひぐらしの音色を、心地いいな…と思った。
やがて、大石氏と思われるドスドスとした足音が近付いてくるのが聞こえ、私の薄もやのかかったような頭は、徐々に現実を取り戻していく…。
あれからどうなったのか?
孫はどうなったのか?
東京からの応援は?
勢いよく病室の扉が開かれ、入江医師と大石氏がやって来た。
「じゃあ命に別状はないんでしょ?」
「…ないとお約束はできません。頭に受けた傷は初見だけでは判断が危険なのです。」
「わかりましたわかりました。ちょいと彼と二人で話しがしたいんでですが、よろしいですかねぇ?」
「……えぇ、どうぞ。何かありましたらお呼び下さい。」
大石氏は半ば強引に入江医師を追い出すと扉を閉めた。
「いかがですか、お具合は。」
「………………………慣れないことをしたんで、全身がぼろぼろです。」
「なっはっはっは…。」
大石氏は壁に立て掛けてあったパイプイスを持って来ると、ベッドの脇に腰掛けた。
「犯人たちは逮捕されましたか?」
「残念ながら。…とっくに県外へ逃げたか、村人に匿われているかのどちらかでしょうねぇ。まぁ、逃がしゃしませんが。んっふっふっふ!」
「大臣の孫は?」
「署で保護しています。ただ、東京のあなたのご同僚から、一切の調書は取るなと釘を刺されたらしいですよ? シゲちゃんが憤慨してましたっけ。なっはっはっは…。」
誘拐事件が秘匿だったように、その保護もまた秘匿されるだろう。
この後、今回の大臣孫誘拐事件がどのように扱われ、どのように闇に葬られ、事無きを得るかは…上層部が決めることだ。
…世間に騒がれることなく事件を終えられたなら、我々の今回の仕事は充分だ。
………もっとも、大臣が犯人側との交渉に応じた可能性も否めないのだが。
…今さら、そんなことは自分とは関係ない。私の仕事は、一段落を得たのだ。
「…ご迷惑をおかけします。……公安ってヤツはいやらしいところだ、って思ってるでしょう?」
「思いません思いません。お互い、日の丸から給金もらって仕事してるだけですよ。」
大石氏はカラカラと笑った。
初対面の時、大石氏のことを何となく毛嫌いしていたが、今はそんな感情はまったくなかった。
「今回の事件、隠さないで大事にしてくれた方が、こっちは都合がいいんですけどねぇ。そうすれば黒幕の園崎本家に少しは迫れるんですが。まぁ、適当に迫ったところで圧力がかかるんでしょうがね。…やれやれです。」
「大石さんは園崎本家に今後も戦いを?」
「まぁさかぁ。いろいろと黒い噂こそ絶えませんがね、園崎家に恨みがあるわけじゃありませんので。君子、危うきに近寄らない方がいいんですよ。なっはっはっは。」
大石氏が小気味良く笑ったので、つられるようにして私も笑った。
「そうだそうだ。さっき府警から署に連絡があったそうです。
あなたのご同僚が名古屋に到着したそうで、今、車でこちらへ向かっているそうです。あなたは名誉の負傷ですから、東京へ引き上げだそうですよ?
そんなわけです。……お疲れ様でした。あなたの興宮での仕事は、無事終了です。」
東京への引き上げ。
…その言葉に思わず安堵のため息が漏れる。
「…………大石さんのご協力に深く感謝します。…あなたに支払った協力金は、無駄にはなりませんでしたね。」
「なっはっはっはっは!! …ありゃあ冗談のつもりだったんだけどなぁ。」
大石氏が財布を取り出して、無造作に何枚かの壱萬円札を取り出すと、私のワイシャツの胸ポケットにねじ込んで来た。
「こりゃ協力金の返済じゃないですよ? 私からあなたへのお小遣いです。この辺は地酒がうまいんでね。東京へのお土産に、こいつで買っていくといいでしょう。」
大石氏がにやりと笑ってみせる。
「もしも、あなたの傷が軽いようなら、東京へ帰る前にぜひ声をかけて下さいよ。おやっさんもサトさんも、ぜひあなたともう一度、卓を囲みたいと言ってましたからね。」
「…やれやれ…、あははは、参ったなぁ。」
「今度はこっちも小細工抜きです。純粋に楽しもうじゃないですか。」
「よく言いますよ。現職の警官があんなに濃いサマが出来るなんて、世も末です。」
「なっはっはっはっはっはっは! 私どもとね、対等以上に打てる面子には、なかなかお会いできないもんです。あなたが東京に帰るのが惜しいですよ。」
大石氏の、東京に帰るという言葉を聞き、改めて自分が任務から解放されたことを知る。
もうじき、雪絵の出産日だ。
…一度は諦めた出産立会いも、可能かもしれない。
そう思うと、傷の痛みなどどうでもいいから、早く東京に帰って、雪絵の顔を見たいと思った。
「少し傷が重いフリをして、興宮にしばらく滞在しません? いいお店をいろいろ紹介しますよ。もちろん、オゴレなんて言いません。なっはっはっは!」
「申し訳ないですが、それはまたの機会にします。妻の出産日が近いんでね。早く帰りたいんです。」
「ありゃりゃあ! そりゃあ知らなかった! それじゃあこんなとこにいちゃ行けない! 早く帰らないといけません。」
その後しばらく、大石氏に妻のことを根掘り葉掘り聞かれ、茶化されたり、おちょくられたりして時間を過ごした。
「…さて。具合はどうです? 起きれそうですか?」
「えぇ、お陰様で悪くないです。立って歩いても全然平気ですよ。」
私が立ち上がって、ちょこまかと歩き回るさまが面白かったのか、大石氏は面白そうに笑った。
「いえいえ、雛見沢の病院では落ち着かないでしょうと思いまして。入江の先生は一晩泊まらせたいみたいなことを言ってますが。………犯人もまだ捕まってませんし。一応、ここはあなたにとっては敵地になりますからね。」
「この病院は安全ではない、ということですか?」
「なっはっはっは。…まぁ、入江の先生も多少は社会的信用のあるお人です。ここにいる限りは何もないとは思いますが、赤坂さんの気分的に滅入らないか、という方が問題ですねぇ。」
…一段落に少し弛んでいたが、確かに大石氏の言うとおりだった。
ここが敵地であることを気付かされてしまうと、何だか急に居心地が悪くなる。
去るのみの自分に何か危害が加えられる可能性は、常識的に考えてとても低い。
だからといって安全、という意味でもないからだ。
「……そうですね。横になっているだけなら、ホテルのベッドでも同じな気がします。」
「そうでしょう、そうでしょう。私もその方がいいと思います。」
その時、ふっと大石氏の肩越しに時計が見えた。
夕刻の時間。
……雪絵の病院に電話をかけられる時間がもうすぐ終わってしまう。
もうすぐ雪絵の側に戻れることを早く教えてやりたかった。
「ちょっと、雪絵の病院に電話してきます。ロビーに公衆電話とかはありませんか?」
「なっはっはっは! 新婚さんはそういうのマメだなぁ。確か会計の脇にあったと思います。ここで待ってますから、行ってらっしゃい行ってらっしゃい。」
大石氏は妬けるなぁ、と笑いながら窓を開け、病室なのに煙草を取り出していた。
私は大石氏が気を利かせてくれるのに感謝し、病室を出てロビーの公衆電話を目指した。
ロビーは病室を出て廊下をちょっと行くとすぐにあった。
こんな辺ぴな村にしては立派過ぎる病院だとは思ったが、もちろん、雪絵が入院している総合病院に比べたら見る影もない。
病院内を走るというのは、あまりマナーのいいことではないのだが、もうすぐ取次ぎの時間が終わってしまうので、気が急いて走ってしまう。
ロビーには誰もいなかった。
夕方ということもあってか、会計のブースにも誰もいない。
…まぁ、幸いなことかもしれない。
後ろめたい話をするつもりもないが、こんな静かなところで、雪絵との会話を誰かに聞かれるのは、すこし恥ずかしいものだった。
ぐるりと見渡すと、公衆電話はすぐに見つかる。
ポケットをまさぐると、数枚の百円玉がつかめた。
ここから東京に電話するのだから、この程度の枚数、あっという間に使いきってしまうだろう。
受話器を取り、百円玉を投入して、もうすっかり覚えてしまった雪絵の病院の番号をダイヤルする。
ジーーーコロコロコロ。ジーーコロコロ。ジーーーーコロコロコロコロ。
雪絵の病院の番号は8や9が多いので、ダイヤルが終わるのに必然的に時間がかかってしまう。
時間に直したら大したものではないのだが、…こういう時にはそんな程度の時間にもやきもきするものだった。
だが、………そのなんとなくの違和感は、ダイヤルをしている最中からあった。
何と言うのか、…受話器が静か過ぎるというか。
あの、ツーーという、電話独特の待ち受け音がしない。
「…………?」
どうも、電話機に手応えというか、反応を感じなくて、仕切りなおしの意味でガチャンと一度受話器を置く。
取り出し口に戻ってくる百円玉。
もう一度、それを投入しダイヤルするが、やはり受話器は沈黙したままだった。
「…なんだ、これ。………断線でもしてるのかな…?」
こうして無駄に時間を費やしていると、その分、雪絵と喋る時間が少なくなってしまう…。無性に気が急いた。
「あの、…すみません〜〜〜〜ん!」
窓口の向こうに人の気配を感じていたので、声をかけてみた。
すぐに返事があり、薬剤師のような男性がやって来た。
「はいはい、どうなさいましたか?」
「あの、すみません。この電話の調子がおかしくて。…ちょっと見てもらえますか?」
男性は、こちら側へ来てくれると、いろいろ試すように受話器を取って耳に当てたりしていた。
…考えてみれば、彼は病院の人であって、電話会社の人じゃない。
私に電話のことがわからないように、彼にだってわからないはずだ。
「………あれ? 何だ、これ…。」
男性が電話機から壁に繋がっているコードを摘み上げて見せた。
…それは見事にぶっつりと切れてしまっていた。
「何だこりゃ〜…。参ったなぁ…。これじゃ電話会社の人に直してもらわないとどうにもならないですね…。電話でしたら、事務室のを使います?」
病院の事務室で、他の人の目を気にしながら話したくはない…。
「あ、近所に公衆電話はありませんか?」
「えぇと…、ここを出て道なりに行くと商店街に出ます。そこのどこかの角の煙草屋にあったような気がするなぁ。行けば見つけられると思いますよ。」
自分の身なりは病院の寝巻きのようだった。
下はサンダル。頭はぐるぐるの包帯巻きで、見るからに入院患者という姿だ。
誰が見ても、表に出掛けるような格好ではない。だが、そこはそれ、若気のなせるワザだ。
私は雪絵と少しでも長く話せる時間を選び、この姿のまま表へ駆け出していった。
道なりに行けば商店街。
すぐに見つかる。
その二つだけの言葉を頼りに、病院の門を出て走り出す。
谷間にあるこの村は、日が傾くと暗くなるのが早い。
…そんなに多くない外灯が、蛾を呼び集める程度の灯りを灯し始めていた。
ひぐらしたちは、自分たちの合奏の時間がじきに終わることを知っていて、なお一層、儚げに泣き続けるのだった…。
■公衆電話
病院の人が言っていたほど簡単には公衆電話を見つけられなかった。
まだ先にあるのか、ひょっとして見落としてしまっていて、どんどん離れていってしまっているのか。
その不安感で押し潰されそうになった頃、…たばこと書かれた小さな看板の出ている角の店を見つけた。
喜び勇んで駆け寄る。
……病院で聞いた話の通り、たばこ屋の窓口の隣に、古めかしい公衆電話が置かれていた。
腕時計をしていなかったので、今の時間はわからないけれど…、多分、そんなに残された時間はないだろう。
でも充分。雪絵に、仕事は終わったから、すぐに戻れるよと伝えるにはそれで充分。
受話器を掴み、百円玉を投入口に滑り込ませる。
……でも、その違和感はさっきの病院の電話と同じだった。
硬貨を入れても、電話が何の反応も示さないのだ。
「……………………………。」
受話器を置き、もう一度、百円玉を入れなおす。…だが、何の反応もない。
この電話は死んでいた。
まさか…。
そう思い、電話機から尻尾のように伸びているコードを手繰る。
…すると、それはするすると手繰れてしまい、……ぶっつりと途切れた断面を見せ付けてくれた。
……なんだ、…………これ。
さすがに、二度続くと…不思議と言う気持ちと同時に、不快な気持ちがした。
コードの断面は、鋭利な刃物でぶっつりと切ったかのようだった。
間違っても、経年劣化で擦り切れたようには見えない。
「あの、…すみません…! すみません!」
たばこ屋の窓口を開けて、薄暗い店内に人を探す。
やがて、階段をどすん、どすんと降りてくる音がして、老婆が姿を現した。
老婆の、あまりに遅い足取りがなぜか、かえって自分を焦らせる。
「…煙草ですかぃね? じっさまでねんとわがんねぇのしゃ…。」
「煙草を買いたいわけじゃないんです。あの、この電話が…、」
この電話が壊れてるから見て下さいと言ったところで、どうにもならないことに気付き、その言葉を飲み込んだ。
「あの、…この電話が壊れてるみたいなんで、別の公衆電話があるところを教えてもらいたいのですが……。」
老婆は、私に何を言われたのか、まるで煎餅でも噛み砕くように、時間をかけて咀嚼しなければ意味が伝わらないようだった。
「………電話、壊れてますかぃね? そんら難儀だわ…。ほっかの公衆電話をあたってくだせぃ。」
老婆は、だいぶ離れたところにあるらしい電話ボックスを教えてくれた。
その教え方があまりに悠長だったので、…焦るつもりもなかったのに、なぜか焦りを覚えてしまう。
その時、店内の暗がりの中に時計があるのを見つけた。
分針はもうじき真上を指そうとしていた。
例え、今この場に電話があったとしても、雪絵にはおやすみと言葉をかけるくらいの時間しか残されていないかもしれない。
増してや、これから向かうのは、距離もよくわからない離れた電話ボックス。
…今日は電話を諦めよう、正常な神経ならそう思って当然のはずだった。
だが、その時の私は、…何と言うのか、意地になっていた。
病院で電話をしようとして果たせず、こうして表に来てまで果たせず。…電話をすることに、ややもすると意地になっているに違いなかった。
「あ、どうもありがとうございます…。その電話ボックス、探してみます。」
地図を書こうかとの申し出を断り、私はたばこ屋から離れた。
老婆が言うには、電話ボックスの場所は遠くとも、道はわかりやすいものらしかった。
この道をまっすぐ行けば、やがて見えてくると。
サンダルでぺたぺたと走りながら、自分に苦笑せずにはいられない。
雪絵には、確かにまめに電話をかけていることは認める。
でも、忙しかったり疲れていたりで、たまに電話をかけない日だってあった。
今日だって、全身傷だらけで疲れていて、そして時間もほとんどない。……たまにかけない日の内のひとつでもおかしくないはずだ。
なのに、…かけようとした電話が二度、ダメだったので、やっきになってしまっているのだろうか?
まるでお預けをくらった犬みたいに?
「………何やってんだろうな。……あははは。」
だけど、…胸の奥でくすぶる不快感はなかなか消せなかった。
病院の電話もそうだったし、今のたばこ屋の電話をもそうだった。
どちらの電話のコードも、永年の使用で擦れて千切れてしまったのとは明らかに違った。
鋭利な切れ口の断面は、明らかに人が、刃物等を使って、意図的に切断したことを思わせる。
誰が、何のために?
それを考えれば考えるほど…不快な気分になっていったので、私は無理にそれを考えないようにしていた…。
……もう、どれくらい走っただろう?
周りの景色は、もう商店街ではなく、民家すらまばらな寂しい街道になっていた。
もう辺りは暗くなってきている。
私は明らかに、ちょっと電話に…と言うには遠すぎるほど、病院から離れていることは明白だった。
さっきたばこ屋で見た時計を思い出す。……そろそろ、時間かもしれない。
もうだいぶ走っていて、息もだいぶあがってきている。
…そんなに雪絵の声が聞きたかったんなら、…恥ずかしいなんて思わずに、素直に事務室の電話を借りるんだった。…少し後悔する。
なら、…そろそろ諦めるか…?
…そう思った頃。……前方に灯りを見つけた。
やっと見つけた。…電話ボックスだった。
電話ボックスの蛍光灯は最近変えられたものらしく、鮮明な白い灯りが心強く光っていた。
もっとも、この薄暗い雛見沢にあっては、蛾たちの社交場以上の何者でもない。
でも、とにかくとにかく…やっと見つけた!
電話ボックスの扉に手を付くと、ぜいぜいという荒い息と、疲労の汗がどっと吹き出るのがわかった。
……今の時間が何時かはわからないけど、…ひょっとすると、ほんのわずかの時間でも、雪絵に取り次いでくれるかもしれない。
せっかくこれだけの苦労をしてたどり着いたんだから、何も試さずに引き返すのはシャクだった。
受話器を取る前に、……また不安感が込み上げてくる。
この電話もまた、コードを切られているのではないかという、…不安。
電話ボックスの電話のコードは……どうなっているんだろう?
しゃがみこむと、配線の束が、隅に沿って天井へと伝われていた。
ぱっと見た限り、……異常は見受けられない。
試しに、手の届く範囲で配線を指でなぞってみる。
………ざらついた埃が指に付くだけ。異常は見つけられなかった。
「…………………………。」
…この雛見沢には、公衆電話のコードを切断して回るという性質の悪い悪戯でも流行っているのだろうか。
後で大石さんに話した方がいいかもしれない。
悪戯の域を出ないとしても、これは立派な公共物破損だ。
…とにかく、今度は大丈夫なんだ、今度は。
ポケットから百円玉を取り出し、もう片手で受話器を持ち上げる。
………………だが、今度は、受話器に耳を当てる前に、もう、違和感があった。
受話器が、軽い。
…不快感を超え、…一種の薄気味悪さすら感じる。
私はその正体を確かめるべく、……手に取った受話器を、恐る恐る…見る。
「……………何だよ、………………これ。」
……受話器と電話機を結ぶ、らせん状に巻かれたコードが、………ぶっつりと千切れ、その先端を、ぶらん、ぶらんと揺らせていた。
不快感と呼び、これまで必死に押さえてきたざらついた感情が背筋を登りだす。………それはある種の、…恐怖だった。
その時、……じゃりっと、………砂利を踏む音がした。
電話ボックスの中では、灯りがガラスに反射してしまって、暗い外をうかがう事ができない。
私は意を決し、………電話ボックスを出る。
電話ボックスの中は強い灯りのせいで、少し暑くなっていたのかもしれない。
電話ボックスを出ただけで、…ひゅーっとした、涼感を感じることが出来た。
そして、………そこには人影。
小さな、人影。
「………………………君は…………、」
その人影は、……涼しい風に、その長い髪を……やわらかに舞わせる。
「………怪我人が、病院を抜け出してはいけないのですよ…。」
心のどこかで、この少女が現れるのを理解していた。
何の根拠もなく、…彼女が、あの少女であることを理解していた。
「…ねぇ、赤坂?」
少女は、古手梨花は、………まるで諭すように、そう言った…。
「………君が、………電話のコードを?」
「…………………。」
少女は表情ひとつ変えず、そして何も応えない。
つまりは無反応だった。
……にも関わらず、私は少女が肯定したように感じた。
「……どうして、こんなことをするんだ…? ……どうして!!」
語尾が少し怒鳴るような言い方になってしまう。
慌てて、それを取繕ったが、少女は別に怯える様子もなかった。
「………もぅ、どうにもならないことです。」
「…え?」
少女が言った、もうどうにもならないという言葉を、私は、病院への電話の時間に間に合わないと、そういう意味で言ったと解釈した。
…でも、考えてみればそれは奇妙な話だった。
どうして彼女が、そんなことを知っているのか。
でも、…彼女が言った言葉は、そういう風にしか受け取れなかった。
少女は、まるで人形のように立ったまま、微動だにしない。
……時々、風がその長い髪を揺らさなければ、時間が止まってしまったのではないかと錯覚してしまうくらいに。
「……………赤坂が私を、気味悪く思っているのがよくわかる。」
「え、……あ、……いや、……そんなことない……よ。」
否定の言葉を定型文のように返す。だが、少女の言葉は的を射ていた。
この少女に、私はずっと、不吉な薄気味悪さを感じている。
…神社で奇妙な言葉で脅されて以来、…ずっとだ。
「……くすくす。」
少女は、私が否定の言葉とは裏腹、表情が肯定していることに気付き、そのアンバランスさに笑っているように見えた。
「……赤坂の、怖がり。くすくすくす…。」
「こ、怖がってなんかいないよ…!」
こんな小さな子に笑われるのが、納得行かなくて。そう言い返す。
「……もう電話を探しても手遅れの時間です。」
「…………………はぁ。………そうだなぁ。」
言われるまでもない。
もう完全にアウトの時間だろう。
この電話ボックスにたどり着いた時点で、もう取次ぎの時間は過ぎていたかもしれないくらいだ。
もう間に合わない。今日は、諦めるしかない。
そう決めたら、さっきまでの病的な電話へのこだわりは急に薄れた。
……自分でも、なんであんなにこだわったのか不思議なくらいだった。
妙なこだわりがなくなると、さっきまでの自分に呆れて苦笑いも出てくる。
何しろ、今の自分の格好ときたら……普通じゃない。
病院の寝巻きにサンダル。
頭はぐるぐるの包帯巻きで、全身汗だく。
さっきのたばこ屋の老婆は、よくこんな姿の私に驚かなかったものだ。
こんな格好のまま、雪絵の声が一言聞きたいという、甘えた動機で夕暮れの町を駆け回っていたのだから、……若さのなせるワザというか、恥ずかしいヤツというか。
…とにかく、自分に笑うしかなかった。
「………もうこれで。今夜、赤坂がすることは、何もないです。」
「そうだな、もう何もないよ。………大人しく病院へ引き上げるさ。」
「……それがいいのですよ。病院への道はわかりますですか?」
「…わかるつもりだよ。」
少女に小さく手を振り、今来た道を戻り始める。
その私に並ぶように、少女は付いてきた。
その顔を見ると、悪戯っぽい笑み。
…まるで、私が道に迷わないか興味津々といった面持ちだった。
「梨花ちゃんの家も、こっちの方向なのかい…?」
「……なのですよ。」
「こんな時間にひとりで表を歩いてると…ご両親に怒られたりしないかい?」
「別に怒られませんです。今日はご両親は忙しい日なので、ボクのことなど忘れていますですよ。」
「…それでも、帰った方がいい。きっと怒るよ。」
「……それでも、赤坂とおしゃべりする方が面白いのでいいのです。」
少女は屈託のない笑顔でそう言うと、私を見上げてもう一度笑って見せた。
この笑顔を見ていると、……少女に対して一方的に抱いている薄気味悪さは薄れる。
…だがそれでも、私にとって、不思議な少女であることに変わりはなかった。
さっき曲がった小道までやって来る。
……だが、さっき来た時とは暗さも全然違うし、道を逆に戻ることによる風景の違いで、ここがさっき曲がってきた道なのか、自信がなかった。
確か、…この曲がり角で間違いない。
足を進めようとした時、少女が私の服を掴む。
「………赤坂は病院へ戻るのでは、ないのですか…?」
「もちろん、…戻るつもりだよ。………道、間違えた…?」
しばしの沈黙。
やがて、少女は私の服を掴んだまま、歩き出す。
私と不思議な少女の、病院へ戻るまでの道中のささやかな散歩の始まりだった。
■アイキャッチ
■梨花との散歩
「………電話のコードを切って回ってたの、梨花ちゃんだろ? 駄目だよ、もうしちゃ。」
「……ボクには何のことかよくわかりませんのですよ。」
「本当にかい…?」
少女はとぼけて見せるが、これほど雄弁に認めた表情もないもんだ。
「にぱ〜〜…☆」
笑って誤魔化そうとしているの見え見えだが、その愛くるしい笑顔に免じて許してしまおうという気になってしまう。
……あぁ…私は駄目パパになるんだろうなぁ。
そんな、一瞬弛みかけた緊張は、少女の一言で張りを戻した。
「孫、…無事に見つかって良かったです。」
咄嗟に何も返事ができず、沈黙してしまう。
………サトさんの情報で、すでに私は知っているじゃないか。
この少女は、…いや、この村は、私がやって来たことを最初から知っているのだ。
とぼけようか、迷った。
だが、私はとぼけないことを選ぶことにする。
全てバレている以上、今さら知らないふりをしたって、何の意味もない…。
「……何とかね。」
「それは良かったです。……これで東京に帰れますですよ。」
「…………………ありがとう。」
「……赤坂の怪我はひどいのですか?」
「さぁ、…ひどいのかどうか、医者の診察を聞いてないからわからないな。」
あれ? そう言えば、横になってろとか、24時間は安静に…なんて事を言われてるような気がする。
…それって、絶対安静とは言わないだろうか…?
「……怪我人は病院を抜け出してはいけないのですよ。」
「電話のコードだって切っちゃいけないんだぞ。」
「……みー。ボクには何のことやらわからないのです。」
「じゃあ、こっちだって何のことかわからないや。」
二人してとぼけあってから、どちらともなく笑い出す。
そのあまりに愉快そうに笑い合う姿は、多分、他の人が見たら、とても微笑ましく見えたに違いないだろう。
「…………赤坂が、生きてこの村を出られる確率は、決して高くありませんでした。」
「………………………。」
「…ボクは赤坂に死んで欲しくはないので、生きて村を出ることが出来てうれしいです。」
「梨花ちゃん。………最初っから、…私の正体は知ってたんだろ…?」
少女は無言だけれど、しっかりと頷いて見せた。
「…なら、わかっていると思うけど、…私たちはこの村の、どちらかというと、敵の部類に入ると思う。なのに君は、いろいろと忠告してくれたね。」
そうだ。あの時も言った。
死んでもいい人に警告などしないのだし。…少女は確かにそういった。
「なら、…私は君に感謝するべきなのかもしれないね。」
「……感謝した方がいいのですよ。ボクは命の恩人なのです。」
そう言って、胸を張って見せた。
冗談めいた言い方ではあるが、…その言葉の裏側に潜んでいる意味は重い。
私の生き死にの運命は、私の預かり知れぬところで決められていたかもしれないからだ。
少女があまりに愛くるしい笑顔でそう言ったので、私はその言葉の重みを感じるには、少しの時間と沈黙が必要だった。
…ここは、前に来たことがある。
そこは死守同盟の事務所がある、古手神社の境内へ至る石段前だった。
さっき通った時は、電話ボックスを見付けたい一心で通り過ぎたから気付かなかった。
「確か、……この神社が梨花ちゃんの家だったよね?」
「……………まぁ、そんなものです。」
境内を見上げると、……明るくて、何だか賑やかな声が聞こえてくる。
一体なんだろう…?
「…今日はお祭りの日なのですよ。」
「お祭り?」
「……雛見沢村の唯一で一番のお祭り。…『綿流し』のお祭りです。」
「わた、ながし?」
「……祭りなんて名ばかりのつまらないものですよ。…見ますですか?」
少女は素っ気無く言う。
…だが、私が興味を示したように見えたのか、石段をふたつほど上がり、来るように誘ってくれた。
…どうせ帰れば寝るだけだ。
他に何もすることがないなら、…少女の寄り道に付き合うのも悪くないと思った。
………この村は敵地で、大石氏と離れて小道をそれれば、どんな目に遭うかもわからない。
…そんな風に思っていた村なのに、この少女と一緒にいるとそれを忘れさせられる。
……とにかく理由もなく、この少女と一緒にいる限り、…村の悪意は自分に降りかからないような気がした。
だから、自分の正体が割れていると知っていても、鬼ヶ淵死守同盟の本拠地に再び踏み込むことに、なぜか恐怖心がなかった……。
境内に上がると、……天幕が3張りほど出ていて、会議机とパイプ椅子がいくつも出され、村の老人たち(いや、死守同盟の幹部?)が大いに酔っ払いながら、飲み会を繰り広げていた。
その風景は…町会の人たちが夕涼みをしながら、ただ飲んだくれてるだけにしか見えない。
少なくとも、祭りという雰囲気とはまったく異なって見えた。
「……ね? つまんないお祭りでしょう。」
「はは、……これは、…確かにお祭りには見えないね。」
「……大昔からずっと続いてきたお祭りですが、…見ての通り、すっかり寂れてしまったのですよ。」
少女は老人たちのハメの外しように、呆れた表情を向けながらそう言った。
確かに、これはもう祭りじゃない。
祭りをダシにした、ただのご近所が集まっての飲み会に過ぎない。
「はは、…これじゃ、祀られる神さまも気の毒だな…。」
「……こんなみっともないお祭りも、5〜6年もすると村中が総出でやってきて、…ちゃんと儀式も真面目にやる、立派なお祭りになるのですよ。」
少女の言い方は、そうなることへの希望的憶測というよりは、…決まりきった未来を告げるかのようだった。
断言というよりも、まるで結果だけを告げるような、そういう言い方。
何の根拠もないのに、有無を言わさないような言い方。
あの、少女が豹変した時のような言い方だった。
何と言葉を返していいかわからずにいると、少女は私などお構いなしに、境内の向こうへ歩いて行く。
私は取り残されるわけには行かず、慌てて少女の後を追うしかなかった。
松の木の林を抜けると、ぶわっと涼しくも強い風に前髪が散らされる。
……そこは、あの日の夕方、少女が案内してくれた、あの見晴らしのいい高台だった。
すっかり暗くなり、電灯などによる慎ましやかな夜景が、昼間とはまた違った風景を見せてくれた。
「………こうして眺めると、この村ものどかそうに見えますのです。」
淡白な表情で、少女はそう言った。
「君は先日。…この村は絶対にダムに沈むことはないと、…そう断言したね。」
少女は応えず、風が髪をくすぐる感触に身を委ねているようだった。
「あれは……、…あの時点でもう、大臣が要求に応じていた、という意味だったんだね。」
「…………………………。」
少女はくるりと振り返り、私に目線を合わせる。
だが無言。
認めたり否定したりするようなことは一言も言わなかった。
「多分、……今回の事件は闇から闇へ葬られる。…本庁上層部は多分、大臣のスキャンダルが公けになってトラブルになることを望まないと思う。」
「………さもないと孫を殺すぞと脅したに違いないのです。」
「で、大臣との交渉が成功し、…孫は解放された。」
「……孫を助けたのは赤坂ですよ。」
「どうだろう。……発端となった、あの財布の発見。…あれ自体がすでに出来過ぎだったように思う。」
…………財布が発見されたあの瞬間から、ずっと感じていた違和感。
大石氏も言っていた。
園崎本家で人質解放の号令が発せられている、と。
つまり、…私と大石氏の大捕物は、初めから仕組まれた茶番というわけだ。
…思えば、殴られたり蹴られたり銃を向けられたり。
相当の抵抗を受けたように感じるが、…それすらも良く出来た演出だったのかもしれない。
交渉に応じた大臣の孫を、ハイお返ししますで玄関まで送るわけには行かない。
……誘拐事件と断定して公安が動いてることが察知されているからだ。
だから、公安の活躍によって無事孫は救出された。
だから大臣は不当な要求には屈していない。……そういう演出が必要になったということだ。
「…………ボクには難しいことはよくわかりません。」
「……同感だな。私にだって、難しいことはよくわからない。だが、ひとつ確実なことがある。」
「……………?」
「君が言った通りってことさ。……この村は、ダム湖になんか沈まない。ダム計画なんて、その内、なくなってしまうってことさ。」
こんなことは警察官の言うことじゃない。
でも、自然と口を突いた言葉だった。
この村は、確かに物騒な村だったかもしれない。
でもそれは、…自分たちの故郷を守るためのことだった。
自分だって、住み慣れた家を一方的に立ち退けと言われたなら、きっと憤慨するに違いない。
増してや、自分のように職場に合わせて賃貸を転々としてるのではなく、先祖代々から住んできた土地なのだ。
……その死に物狂いの抵抗を、過剰と呼ぶのは、あまりに無理解なのかもしれない。
自分に政治や行政に口を出す資格はないかもしれない。
……だが、こうして自らの土地を愛して止まない人々が住む村を、わざわざダムの建設予定地に選ぶのだけは、やはり同意できないことだった。
「でも、…よかったじゃないか。」
「……どうしてですか?」
「少なくともこれで、……………この村に平和が戻るよ。」
大臣がダム計画の撤回を約束し、強力に働きかけたとしても、ほんの数ヶ月で計画が白紙撤回とはならないだろう。
少なくとも……そう、1〜2年はかかるかもしれない。
村人たちが、自分たちの村を湖底に沈めようとするダム計画の中止を、公式に聞けるのは、まだ先のことだ。
でも、………村に平和が戻るのを約束されたことには違いない。
結局、始めから最後まで、…全部決まっていたことだったのだ。
少女の言ったとおり、全て決まっていたのだ。
私はそもそも、ここへ来る必要はなかった。
ここへ来て、不穏に事を荒立てる必要は何もなかったのだ。
もしも私がここへ来なかったなら。
孫の解放はもっと穏便に行われていたかもしれない。
「………平和が? この村に?」
私は頷くと、少女に諭すように笑いかけた。
だが、…少女の表情は淡白な、無表情なままだった。
そして、…目を少しだけ細めて、くすり…と笑った。
「……これから毎年、血生臭いことが起きるのに? …くすくすくすくす。」
「梨花ちゃん、………何の話だい。」
少女は、風に髪を散らしながら、自分しか知り得ないことに愉悦を感じるかのように、…しばらくの間、私の顔を見てはくすくすと笑っていた。
「私ね。………………あと何年かすると、殺されるの。」
え…………?
月を背負い、…逆光に暗みを帯びる少女の表情は…笑っているのか、愉しんでいるのか、……それとも諦めているのか、…わかりにくいものだった。
「…梨花ちゃんが……? ……どうして…、」
「……………とても不愉快なことだけど。……それも多分、決まってることなの。」
「決まっているって、…誰がそんなことを決めるんだい?!」
「それを私も知りたいの。」
少女は、初めて見せる強い意思を持った表情で、私に振り返った…。
そして私の瞳をじっと覗きこんでから、再び夜景の方を向いて言った。
「…………ここは、人の命を何とも思わない連中でいっぱいです。………これを伝えても、何も変わらないかも知れないけど。でも、…死という月を映す水面を掻き消すためなら、小石を投じることもあるかもしれない。」
少女が何を言おうとしているのか、わからない。
ただ、…全身全霊をかけて、…聞き逃してはならないと、そう思った。
「………………来年の今日。…そう、昭和54年の6月の今日。ダム現場の監督が殺されます。」
「……………え…………?」
何の話か、…一瞬飲み込めない。
ダム現場の…監督って、あの麻雀を一緒にやったガラの悪い老人のことか…?
「…こ、………殺されるって、…………どうして……。」
少女は答えなかった。
だが少女は、ダム計画がなくなると断じた時とまったく同じ表情を浮かべた。
………それは、…予定や仮定を口にする表情ではない。
…すでに決まってしまっている、…いや、…………結果を口にするような、…そんな表情。
「……恐ろしい殺され方をした後、体中をバラバラに引き裂かれて捨てられてしまいます。」
「バ、………バラバラ殺人………、」
「…その翌年の昭和55年の6月の今日。………沙都子の両親が突き落とされて死にます。」
……沙都子?
初めて聞く名だったが、それを聞くために少女の話の腰を折る勇気はなかった。
「……あるいは、事故というべきかもしれない。……不幸な事故。」
少女は薄っすらと微笑んだが、…生気のない瞳での陰りある笑いは、つられて笑いたくなるようなものでは決してなかった。
「そして、さらにその翌年の昭和56年の6月の今日。…私の両親が、殺されます。
そしてさらに翌年の昭和57年の6月の今日。沙都子の意地悪叔母が頭を割られて死にます。
そしてさらに翌年の昭和58年の6月の今日。……………あるいはその数日後か。」
「……私が殺されます。」
「全ての死が予定調和なら。………最後の死もまた予定の内なのでしょうか。……でも、ならばこれは一体、誰の予定なの…?」
この村は、人殺しや、人の命を何とも思わない奴らでいっぱいだ。
昭和57年までの死は、この村の誰かの仕業と思っていい。
起こる全ての死は、この村を支配する奴らの都合による予定と思っていい。
でも、それでは昭和58年が説明できないのだ。
最後の死は、奴らの都合であるはずがないのだ。
奴らは人の命など、何とも思わない。
奴らは目的を達する為の障害は、何であれ取り除く。
そして奴らの目的は、最後の死を否定しているのだ。
だから、最後の死だけは、奴らと無関係なのだ。
でも、最後の死は必ず、ほとんど、おそらく、例外なく、起こる。
多分、きっと、恐らく。
最後の死は、ハンカチか何かで口を塞がれ、意識が遠くなって。
二度と意識を取り戻せないという慈悲深い形で行われる。
これは一体、誰の予定……?
「………私は幸せに生きたい。…望みはそれだけ。
大好きな友人たちに囲まれて、楽しく日々を過ごしたい。……それだけなの。それ以上の何も望んでいないの。」
「……………………………梨花ちゃん……。」
「……死にたくない。」
少女は無表情なまま、…ぽつりと、…最後にそう言った。
…やがて、私たちの姿を、酔った人々が見つける。
少女も、そして私までも、酒宴に引きずり込まれていくのだった。
人々は完全に酔っていて、私の包帯だらけの頭を見ても、解放しようとしてはくれなかった。
…まぁ確かに、病院を抜け出すくらいなのだから大したことはない、というのも道理ではある。
少女もすっかり人々に溶け込み、猫のようにみんなに可愛がられていた。
その表情は愛くるしくて、………先ほどまでの、自らが殺されることを予見し、死にたくないと呟いた様子は想像できない。
それを言ったら。
………こうして馬鹿話に花を咲かせている人々が、過激な抵抗勢力の主要メンバーであることも、とても想像できなかった。
形骸化したとは言え、村の祭りに集まるくらいだから、ここで騒いでいる20人前後の老人たちの中には幹部、村の重鎮も含まれるはずだ。
…その中には、園崎本家の親族会議のメンバーも含まれているに違いない。
つまり、直接の面識はなくても、私の正体を知っている人間が含まれているということだ。
彼らはこの狭い村に住む村人たちの顔を、実によく熟知していた。
だから、何を話さなくとも、私がよそ者であることはすぐに看破された。
でも彼らは、むしろ面白がり、私がやってきた東京の話をいろいろとせがみ、都会の希薄な対人関係や、あまり恵まれない生活環境を同情したりしながら、酒の肴にするのだった。
大臣との密談が全て終わり、孫も警察の手に渡った今、…全ては終了している。
私を今さら険悪に扱うこともない、ということなのかもしれない。
私とて、仕事だから彼らに敵対する立場を取っているのであって、仕事抜きなら、彼らの良き友人としてやっていけなくもないと思う。
………この村に、もう一度訪れることがある時。
…この村はのどかで美しい、普通の村に戻っているだろうか…?
そうなったら、…また少女と一緒に、村の中をのんびりと散歩できることもあるかもしれない。
私のコップに、またなみなみとビールが注ぎ込まれるのだった……。
解放されたのは深夜だった。
少女はいつの間にか姿を消していた。
大あくびをしていたので、親が家に帰って寝るように言ったらしい。
老人たちは、怪我人にこんなに付き合わせて悪かったと、悪びれる様子もなく笑いながら言った。
私もただ酒を飲んだ以上、少しは片付けを手伝おうと思ったが、彼らは客人は片付けなくていいと断った。
その上、車を出してくれて、病院まで送ると申し出てくれた。
車中では睡魔に負け、病院の駐車場に付くまでぐっすりだった。
病院は、当然こんな時間だから正面玄関は閉まっていた。
途方に暮れて、裏口がないかとうろうろしていたら、宿直の人に見つけてもらえて、何とか院内に戻ることができた。
「こんな時間までどちらへ? 入江先生も心配してましたよー…。」
「…ご迷惑をおかけしました。神社でお祭りの人たちに引き止められまして…。」
「あ〜…、そう言えば、今日は神社で町会の人たちが集まって飲むとか言ってたなぁ。それはご愁傷様でした。…傷は大丈夫ですか?」
「……ちょっとズキズキしますね。多分、アルコールのせいだと思います。」
「そうだ。お連れの刑事さんが連絡が欲しいと言ってましたよ。」
「………いけない。大石さんを待たせてたんだった…。」
時計を見る。
いくらなんでも、もう連絡するには遅すぎる時間だ。明日、電話で謝るとしよう…。
私は自分の病室に戻り、自分が抜け出した時のままに乱れているベッドに潜り込んだ。
…あぁ、いけない。灯りを消さなきゃ。
……でも、深く強い睡魔は、私の体の電源をぶっつりと切るように、深い眠りへ誘っていった………。
■幕間 TIPS入手
■母の日記
私はあの子がどこか好かない。
こうして文字に書き出してみて、初めて自覚する。
育児書に諭されるまでもなく、子どもは親の人形ではない。
親の思い通りにならなくなったら愛情を感じなくなるようでは親の資格などない。
そういうのではないのだ。
何と言えばいいのか…。…むしろ文字での方が表現しにくい。
私は自分の子どもに、平均しか求めていないつもりだ。
劣ってさえいなければ、秀でる必要もないと思っている。年令相応の感性があれば十分と思っている。
でも、あの子は、幼稚園の頃から変わっていた。
同じ組の子たちが、明日の遠足に興奮を隠せずにはしゃぎ回っている時も、あの子は退屈そうな顔をして、ひとり輪の外にいた。
運動会で使うお遊戯の道具を壊してしまった時も、他の子たちは懸命に誤っていたのに、あの子だけは退屈そうな顔をして、ひとり輪の外にいた。
先生が楽しい絵本を読んでも、あの子だけは笑わない。
おいしいお弁当が出ても、あの子だけは喜ばない。
…これだけなら、まだ理解はできなくもない。
でも、あの子がわからないのは、…上記とまったく同じようなことがあっても、今度は歳相応に喜んでみせたりするからだ。
その基準が、親である私にはまったくわからない。
なぜあの遠足は無関心で、今度の遠足は喜ぶのか。
なぜあの絵本は無関心で、今度の絵本は喜ぶのか。
なぜあの弁当は無関心で、今度の弁当は喜ぶのか…。
前者と後者は、私の目にはまったく変わらないように見える。
…時には、前者の方が優れているように見えることすらある。
あの子の感性が、わからない。
保護者面談でも、先生はまったく同じ胸中を打ち明けた。
私もまた、我が子のことがわからないと応え、二人して俯き合った。
主人は幼い子の感性は大人と違うから、少しくらい理解できなくても気にしなくていいと楽観的だ。……危機感に欠けていることを嘆く。
私の機嫌が良かったある日。
あの子を喜ばそうと、あの子の喜びそうなメニューに腕を振るった。
…なのにあの子は、曖昧な表情で、退屈そうに笑うだけだった。
私はその様子に直情的に頭に来て、あの子の頭を叩いた。
お天気の良かったある日。
干したばかりの洗濯物が強い風にあおられて、竿台ごとひっくりかえって大変なことになった。
…なのにあの子は、慌てて洗濯物を拾う私を見て、けたけたと大笑いしていた。
私はその様子に直情的に頭に来て、あの子の頭を叩いた。
そんなことが、何度かあったと思う。
いつしか、あの子は私に退屈そうな表情しか向けなくなっていった。
……私は悪い母だったことを反省した。
我が子との信頼を取り戻すべく、小さなコミュニケーションから少しずつ取り戻していこうと思った。
縁側で、何かの工作をしているあの子に会い、私は声をかける。
「ここ数日、気持ちのいい晴れの日が続いて、気分がいいわね。」
「…………………。」
あの子は、…私の大嫌いな、あの退屈そうな表情で私を見上げ、何も応えずに目線を再び手元に戻し、工作に没頭した。
……今までの私なら、この仕草だけで頭を叩いている。…ぐっと堪える。
「何を作ってるの? お人形さん?」
「………てるてる坊主。」
あの子は、新聞の折込広告をうまく使って、てるてる坊主を作っていたのだ。
雨が降るという予報はない。
でも、あの子なりに、この清々しい晴れの日が続くことを祈ってのてるてる坊主に違いない。
私は、我が子の考えが久しぶりに理解できて、嬉しさを隠せなかった。
毛糸球を持ってきて、我が子の可愛らしいてるてる坊主を軒に吊るしてやった。
「あははは…。駄目よ梨花。頭が重すぎるから、ほら。逆さてるてる坊主になっちゃったわ。これじゃあ晴れじゃなくて雨になっちゃうわよ。」
私がてるてる坊主を外そうとすると、あの子は私に制止を求めるように、裾を引っ張った。
「………逆さになるように作ったのだから、それでいいの。」
「……………でも梨花。てるてる坊主が逆さじゃ、晴れのおまじないにならないわよ?」
「雨が降るようにおまじないをしているから、それでいいの。」
…私はこみ上げてくる感情を必死に押さえる。あの子を理解しようと必死に努力する。
「…あ、……そっか。お庭の朝顔が晴れ続きで元気がなくなっちゃったから、雨が欲しいのね?」
あの子は、……私の一番嫌いな、あの表情を向けた。
「晴れにね、…飽きたの。」
……わからない、わからない。…私にはあの子が、わからない……。
■母の日記U
あの子が親類会議の時に、またお魎さんの布団に潜り込もうとする。
…お魎さんはあの子のことを、目に入れても痛くないくらいに可愛がる。
あの子がどんな無礼を働いても何も気にしない。
まるで、あの子が猫の子か何かのように。…文字通りの猫可愛がりだ。
私は母としての立場上、それを叱る。
お魎さんが良い良いと三度言うまでは、形式的に叱る。
もちろんあの子は私の叱りなどに耳は貸さない。
……私よりもお魎さんの方が立場がずっと上であることを知っていて、そう振舞っているのだ。
そんな年令不相応な狡猾さも、私は好かない。
そもそも、お魎さんに止まらず、村の老人たちはあの子を甘やかし過ぎている。
ある日、私は驚いた。
私は偶然、買い物の帰り、とある駄菓子屋の軒先にひとりいるあの子を見つけた。
あの子は、おもむろにお菓子を一掴みすると、そのまま包装を剥いて口にし始めたのだ。
お金を払おうという素振りなどなかったし、周りを伺うような仕草すらなかった。
万引きどころか、…まるで差し出されたお茶菓子でも食べるかのように、平然と口にしたのだ。
私があの子を叱り付ける声に、駄菓子屋の老主人が現れ、あの子をかばった。
老主人は、あの子には好きに店頭のお菓子を食べてもいいと言ってあるからいいのだ、ととんでもない言い訳をした。
私はあの子が食べた分だけでも代金を払おうとしたが、老主人は頑として受け取らない。
そんなやり取りをしている内に、いつの間にか年寄り連中が集まり、何だか私が悪いような感じになっていた。
年寄りたちは、あの子にうやうやしく手を合わせて拝み、ありがたやありがたや…と何度も唱えた。
……私も古手家に生まれた人間だから、あの子がどうしてこうも特別扱いされているのかを知らないわけではない。
私がまだ小さかった頃。祖母によく聞かされたものだ。
…もしもお前が生む赤ん坊が女の子だったなら。
…その子はオヤシロさまの生まれ変わりなんだよ、と。
年寄り連中は、あの子をオヤシロさまの生まれ変わりだと信じ、ちやほやと甘やかす。
そして甘やかすのみならず、…あの子に、オヤシロさまの生まれ変わりであるとか、神通力が使えるだとか、他にもいろいろ怪しげな昔話などを吹き込んでいる。
だから、自分が特別な存在だとでも思い込んでしまっているのかもしれない。
あの子の教育に良くないから、変なことを吹き込まないでくださいと回りに言っているのだが、……年寄り連中に根付いた迷信は払拭しようがない。
あの子にも、年寄り連中には耳を貸さないように言っているのだが、耳を貸さないのはむしろ私に対してだ。
甘やかす村中の年寄りたちと、小言しか言わない私では、どちらに耳を貸すかは誰にもわかること。
……あの子がおかしくなってしまったのは、年寄り連中のせいに違いないのだ。
妙な昔話や迷信を幼い頃から吹き込んできたに違いないのだ。
それさえなかったなら、あの子も、ごく普通の可愛い子だったに違いないのに!
■母の日記V
ある晴れた学校の参観日。
自炊の授業があり、あの子は慣れた手つきでカレーライスを作って見せた。
同じ歳の子たちが、包丁を扱うのもたどたどしいのに比べると、あの子の包丁さばきは立派なものだった。
先生が私に寄り添い、普段の家での学習のたまものですねと微笑んでくれた。
私は曖昧に笑いながら頷き返して誤魔化しておいた。
……なぜなら、私はあの子に、カレーライスの作り方など教えたことがないからだ。
にも関わらず、あの子は慣れた手つきで野菜の皮を剥き、煮えにくい順に野菜を鍋に入れて見せたのだ。
普通の親なら、思わぬ我が子の活躍に手を打って喜ぶのかもしれない。
でも私の場合は違った。
…そのカレーライスの作り方もまた、私の預かり知れないところで誰かに吹き込まれたものに違いない。
…そう思い、口には出さなかったが不愉快な気分だった。
聞けば、あの子は裁縫もできるし、洗濯もやってのけると言う。
私はそれらを教えたことはないし、また、家でやっているところを見たこともない。
料理にしろ裁縫にしろ洗濯にしろ。
…きっとまた、私の知らない所で、年寄り連中があの子にいろいろと吹き込んでいるのだ。
そして、それだけに留まらず、あやしい迷信を吹き込んで、あの子をオヤシロさまの生まれ変わりに仕立て上げようとしているのだ。
私はそれを主人に打ち明け、あの子と年寄りたちを隔離すべきだと訴えた。
だが、古手神社の神主の立場である主人は、檀家でもある年寄りたちには弱い。
…あの子が可愛がられているならそれでいいじゃないか、と日和見なのだ。
私は反論した。
あの子は私たちの子どもで、ごくごく平均的な女の子であるべきなのだ。
年寄りたちが期待するような、オヤシロさまの生まれ変わりなどと言うあやしいものではないのだ、と。
年寄り連中は、あの子に神通力があると信じている。
明日の天気を当ててみせると話すが、私は傘を持たずに出掛けてずぶ濡れになるところを何度も見ている。
異郷の出来事を知る千里眼があるというが、あの子が熱心に見るニュースの受け売りでしかない。
知らないはずのことを知っているというが、そんなのは影で吹き込んだ人間と、そうだと吹聴する人間のふたつが村内に揃っているからに過ぎない。
でも……確かに、誰もが一日晴れると信じる日に、あの子は頑なに傘を手放そうとしなかったことはある。
たまたま雨は降り、私たちは結果的に助けられた。
……梨花がニュースで知るより早く、外国の大きな事故を知っていたことは、あったかもしれない。
私は、きっとラジオの速報か何かで漏れ聞いたのだろうと思った。
……知らないはずのことを知っている、というのは…、……今、目の前にあるじゃないか。
あの子は誰に教えられたわけでもなく、カレーライスを作って見せている。
いやいや…そんなはずはない。
誰かが教えたのだ、吹き込んだのだ。
私の預かり知れぬところで、誰かが梨花に何かを吹き込んでいるのだ。
「古手さんのカレーは大変、見事です。先生、花マルをあげちゃいます!」
「……にぱ〜☆」
「古手さんはお料理を誰に習いましたか? やっぱりお家で?」
「……はい。お家なのですよ。」
参観の父兄たちは感心していた。
嘘だ嘘だ。…私は何も教えていない。
誰なの誰なの。…あの子に物事を吹き込んでるのは誰。
あの子はオヤシロさまの生まれ変わりなんかじゃない、私の平凡な娘なのに!
■北海道
「お客様、お客様…。本機は着陸態勢に入りました。申し訳ございませんが、シートベルトをお締めになってください。」
機内でもすっかり熟睡だったようだ。
スチュワーデスに起こされ、私はようやくまどろみから覚めた。
機内持ち込みの荷物だけだったし、国内便だから降りてからロビーに出るまでは、あっという間だった。
ロビーに出て、大石氏の姿を探そうときょろきょろしていると、……懐かしいドラ声に呼びかけられた。
「赤坂さあん!! なっはっはっは! 何年ぶりでしょう〜!! ご無沙汰しておりますねぇ〜!!!」
「大石さん…! 本当にお久しぶりです。」
大石氏は私の肩を力強く叩き、再会を祝ってくれた。
「赤坂さんも、だいぶいい顔つきになりましたねぇ。最前線の捜査官らしい、いい顔つきですよ。」
「大石さんはだいぶスマートになりましたね。背筋も良くなったような。…これも社交ダンスのお陰ですか?」
「むっふっふっふ! 赤坂さんもね、若いうちからダンスはやっておいた方がいいですよぅ? そしたらきっとモテます。モテモテ! んっふっふっふ!!」
大石氏は退職し、札幌に引越してから、……何と社交ダンスのレッスンを始めたのだった。
すっかり気に入ってしまったらしく、第二の人生は社交ダンスに賭けるともう決めたらしい。
80になる前には講師資格も取って、ダンディな老後を目指すんだとか。
大石氏の車に乗せてもらい、温泉旅館を目指す。
私は大石氏の自宅に厄介になるつもりでいたのだが、大石氏が、とてももてなせるような家ではないと頑なに拒んだので、こうなったのだ。
私たちは旅館で、のんびりと湯に浸かり、かつて雛見沢で打ったあの麻雀の思い出話に花を咲かせるのだった。
大石氏も、再会を祝して麻雀の出来そうな人間を探したらしいが、私につりあう雀士が見つからず、卓を立てるのを断念したとかしないとか。
そして酒を酌み交わし、あの最後の大捕物の互いの武勇伝に沸いた…。
「……結局、あの犯人の二人は捕まったんですか?」
「い〜〜ぇ。結局、山狩りでも見つけられませんでした。多分、村にかくまわれてから、海外か遠方でほとぼりを冷ましてるんじゃないかと思いますね。」
「大石さんは確か、犯人の銃の一丁を奪いましたよね。あれからは?」
「中国製の軍用拳銃でした。関西系の暴力団組織が大量に密輸した内の一丁でしょうなぁ。線状痕を調べましたが、他の事件とのつながりは何も出ませんでした。…そっちでは?」
「私はあの後、しばらく現場を離れましたので、よくは知りません。結局、全部闇の中ってことで決着したようですがね。」
「…なっはっはっはっはっは…。」
大石氏は苦笑いすると、冷酒をちびりとやった。
「………あの後は、…大変でしたねぇ。…………今年で7年ですか?」
「えぇ。先日、七回忌の法要がありました。義父とも最近は疎遠でして、準備でいろいろ苦労しました。」
「…なっはっはっは。それはそれはお疲れ様でした…。」
そこへ仲居さんがやって来て、さっき追加を頼んだお酒を運んでくれた。
仲居さんがかちゃかちゃと瓶ビールを運びこむ間、私たちは口をつぐんでいた。
……大石氏の言う、あの後は大変でしたね、の意味。
…思い出すのも苦々しいが、…もう傷も時間で癒えた。
あの翌日。
私は大石氏に謝罪の電話を入れた。
すると大石氏は、すぐにそこにいた私の同僚に電話を代わってくれた。
犯人と乱闘で負傷まではいいが、その後、消息を絶ち、深夜まで飲んだくれて連絡を怠ったことを怒られるかと思った。
だが、電話に出た主任は言葉少なく、電話では話せないことがあるから、すぐに興宮署に来るように、と告げた。
その時の私は、あぁ主任は相当怒っているなと、うんざりしながらもその位にしか思っていなかった。
興宮署に着くなり、主任は言った。
「君の奥さんが事故に遭ったらしい。」
何が何やら分からず、私は電話を借りて雪絵の病院へ電話した。
…私の電話は何度もタライ回しにされた後、責任ある立場の人間に回され、…ずいぶんと話を遠回しにされた後、告げられた。
「赤坂雪絵さまが、…事故でお亡くなりになりました。」
意識が呆然と遠のくのが分かった………。
雪絵の死は信じられないくらいに唐突で、……突然だった。
分娩中の事故とか、…そういう類なら理解もできた。
だが、雪絵の死はそういうものではなかった。
屋上へ上がる階段で、………たまたま足を滑らせて、…転げ落ちたのだ。
そして、たまたま運の悪い所に、…たまたま運の悪い角度で、強く打ちつけた。……それだけのことだった。
雪絵の死を誰かのせいにしたかった私は、死守同盟が報復として、妻を事故に見せかけて殺したのではないかと思い込もうとした。
だが、東京に飛んで帰り知ったことは、…それよりももっと残酷なものだった。
雪絵には、夕方になると屋上へ夕涼みに上がる習慣があった。
7階まではエレベータもあるが、そこから屋上に上がるにはどうしも階段を登らなければならない。
……雪絵は身重になっても、夕方に時間があると必ず屋上へ出掛けているのだった。
あまり無理しない方がいいんじゃないかと、義父もよく言ったが、雪絵は絶対安静になるその日まで、自分の好きにさせて欲しいと譲らなかった。
だが、私は雪絵が屋上へ上がるところを見たことは一度もなかった。
義父や看護婦から聞かされていただけだ。…なぜなら、私が見舞いに訪れている時は、一緒に過していて屋上に行かないから。
雪絵が屋上へ上がる理由を、…親しくなった看護婦が聞いた。
私の主人は、…よく出張で家を空けてしまうことがあるんです。
電話で話せる時には、あの人を勇気付けることも、励ますこともできるけれど、…電話がない時にはそれができない。
あの人って、空威張りして見せるけど、可愛らしいくらいに寂しがり屋さんなんですよ。
でもね、…きっとそれは私も何です。あの人がいつ帰るかもわからない出張に出かけてしまうのが…とても寂しい。
あの人を励ましながら、その実、自分を励ましてもいると思うんです。
だからね、……あの人が遠くへ大きな仕事で出掛けている時。
…電話のない夕方には、………せめて、同じ空の下で、あの人の事を想う気持ちが………伝わってくれないかなって。
その時。………………私はあの少女の言葉を思い出していた。
あなたはさっさと東京に帰った方がいい。…でないと、ひどく後悔することになる。
…………そう。
雪絵は、私が出張に出たからこそ、あの日、屋上へ上がろうとした。
もしも私が、……この結末を知っていて、少女の言うとおりに、仕事を投げ出して帰京していたなら。
……雪絵は死の当日、私と一緒に過したかもしれない。一緒に過したということは、“屋上へ登らなかったということだ”
妻が死んだのは、…出張に出た三日目の夕方。
そう。…私がどういうわけか、無性に雪絵の声が聞きたくなって、電話を探して村を奔走する直前のことだった。
その電話を、……少女は、コードを切って回り、…私に病院へ電話させまいとした。
…………もし、少女がコードを切らず、電話をしていたなら。
私は雪絵の死をその場で知り、泣き崩れたに違いない。
もちろん、コードを切ったからと言って、私が雪絵の死を知らずに済むのはその一晩だけのこと。
結局、その翌朝には耳に入ってしまうのだが。
……その、…少女のほんのわずかの心遣いに、……心の中の全ての整理がついた頃、気が付いた。
「……………………そんな話は初めて聞きました。」
「…えぇ。…私も初めて話します。」
「なっはははは……。…偶然では? 超能力じゃあるまいし。」
「………………大石さんは教えてくれましたよね? あの子は、オヤシロさまという神様の生まれ変わりではないかと言われてるって。」
「えぇ、まぁ。…村の年寄りどもは、古手梨花に神通力があると信じてるようでしたがね。」
「………神通力?」
大石氏は最初は笑い話のつもりで言っていたのだが、私が真面目な顔をしていることに気付き、肩をすくめた。
「まぁ、嘘かホントか知りませんがね。
未来のことを予言して見せたり、知らないはずのことを話して見せたり。千里眼だの、天の啓示だの。まぁいろいろです。もちろん、具体的な実例は何一つありゃしないんですがね? なっはっはっは…。」
「……雪絵の事故を、予言して見せました。」
大石氏はそれを笑い飛ばそうとしたが、亡き妻を気遣ってか、控えめに笑うのだった。
「現職の警視庁の敏腕捜査官が、神通力やら祟りやらを信じるわけで…?」
………それをはっきり言われると、…私も言い返せない。
もちろん、そんな怪しげなものを信じるつもりは毛頭ない。
でも、…それはあの少女のことを知らないから言えるのだ。
あの、……古手梨花であって古手梨花でない、もうひとりの少女に会った私だからこそ、…………この世ならざる何かの存在を否定できないのだ。
「……予知でなく、予告の可能性も、…もちろん否定できません。」
予知でなく予告。
…あの少女がしたものが、雪絵の事故の予告だったなら、…話は急に理解しやすくなる。
つまり、あれは私への脅迫で、…私が東京へ帰らなかったため、妻が事故に見せかけて殺された…という考え方。
「……………奥さんの事故の検証に不備は?」
「もちろん、謀殺の可能性も疑いました。現場検証の書類は全て目を通しましたし、私が独自に調査もしました。」
確かに、雪絵が転倒した瞬間を目撃した者はいない。
何者かが屋上に潜み、雪絵を待ち受けて、階段から突き落とした可能性。
だが、屋上には洗濯物を乾すために清掃員の出入りが頻繁にあったし、各フロアの防犯カメラにも不審者の姿はなかった。
階段には何の仕掛けもなかったし、不審な様子も見付けられなかった。
「……結局、独自の検証の結果でも、雪絵が単独で事故を起こしたとしか、考えられませんでした。」
「……………………。」
「……まぁ確かに。…大臣の孫を誘拐して脅迫してのけた連中です。…妊婦ひとりを階段から突き落として証拠を残さないなんて、…出来ないことじゃないのかもしれない。」
大石氏の表情からは、もはや完全に酒は抜けていた。
「…………奥さんは、……連中に、…殺された?」
……雪絵が死んだ時、私もそうだと思っていた。
というより、…誰かのせいにしたかったから、もっともらしい敵を生み出そうとしたのだ。
だが、明白な証拠がなく、時が私の心を癒すにつれ、その暴力的な想像は影を潜めた。
「あの少女は私に妻の死を予告し、脅迫したのか。…それとも、妻の死を予言し、救う道を示したのか。………………そのどちらかなのだとしたら、…私は後者ではないかと考えます。」
「………………………なっはっはっは。」
大石氏は徳利から酒を注ぎながら、少し呆れるように笑った。
「…じゃあいいですよ? 赤坂さんの言うとおり、古手梨花は未来がわかる預言者だとします。
なら、…なぜあの大災害が予知できなかったんです? あんな恐ろしいガス災害が起こると知ってて、どうして黙っていたんです? ほんの数時間前でもいい。もし村に知らされていたら、ほとんどの人は死なずに済んだかもしれないじゃないですか。」
そう。昭和58年6月末。
鬼ヶ淵沼より猛毒の火山ガスが噴出して、深夜の村を直撃。
村人が全滅するという未曾有の大災害が起こる。
火山ガスパニックは全国へ飛び火し、人々は異臭情報に過剰に怯えた。
雛見沢地区は、その後、封鎖が解除されたという話は聞かないから、今でも封鎖されているはずだ。
「……………………それは、……………ん。」
今度はこちらが言い返せず、閉口せざるを得ない。
「…まぁでも。…オヤシロさまの生まれ変わりである古手梨花が殺されたので、村がオヤシロさまの怒りに触れて、それで沼から瘴気が湧き出して村を死滅させたんじゃないかって、…そーいう話が確かに、雛見沢系の生存した人間たちの間で、まことしやかに囁かれてたのは事実ですねぇ…。」
「……大石さん、失礼。…今、殺されたと仰いましたか?」
「え? …………あ、……ん。……まぁ、赤坂さんになら話しても問題ないか…。」
私は、雛見沢ガス災害のニュースを見て、あの少女のことを思い出したのだ。
そして、犠牲者のリストの中に彼女の名が含まれていることを知った。
だから私はその時、あの少女の、自らの死を予言してみせたのを、この大災害によるものだと思ったのだ。
そして、………その後、ゴシップ週刊誌で、大災害に至るまでの5年間、雛見沢村には「オヤシロさまの祟り」と呼ばれる、連続怪死事件が起こっていたことを知った。
そして……その連続怪死事件の犠牲者が、ことごとくあの少女の「予言」どおりだったので、………私はその捜査に関わった大石氏に話を聞きたいとずっと思っていたのだ。
そう。
それこそが、大石氏との再会の動機だったのだ…。
だが、今、大石氏は言った。
古手梨花は、大災害で死んだのではなく、……殺された?!
「………最後の年の「祟り」について、聞かせてもらってもいいですか?」
「ん〜〜〜…、私、退職したとは言え、守秘義務がありますよぅ? んっふっふっふ!」
「仲居さんすみません〜〜〜〜!!! お冷で、ちょっとグレードの高い地酒はありません? 種類はお任せします。」
「なっはっはっは!! いやいや…そういうつもりで言ったんじゃないんだけどなぁ…!」
大石氏はまんざらでもない様子で大笑いすると、仲居さんを呼びとめ、安酒でいいと付け加えた。
「私も、週刊誌で報道されている通りのところまでは知っています。でも、大災害の年の「祟り」はまったく知りません。」
「例の大災害のせいで雛見沢地区全域が封鎖されちゃいましたからねぇ。
あの最後の年の「祟り」については、ほとんど捜査が出来てないんですよ。何年か後に封鎖が解けたとしても、村人のほとんどが死んでますし、数少ない生存者も親戚の元なんかに散って、所在がほとんどわからないですからねぇ。……完全に迷宮入りです。」
大石氏は天井を見上げると、しばらくの間、う〜〜んとうなり、錆び付いた記憶を呼び覚まそうとしていた。
そして、酒気の抜けた声で言った。
「…………週刊誌なんかじゃ、5年目の祟りがあの大災害だ、みたいな言い方をしてますけどね。……本当の5年目の祟りは、ちゃんと綿流しの祭りの当日にあったんですよ。……富竹ジロウって言う、旅行写真家がいましてね。彼が犠牲に。」
大石氏は、その犠牲者が自らの爪で喉を引き裂いて死んだことを、身振りを交えながら話した。
「で、その富竹氏の恋仲の女性が岐阜の山中で焼死体に。岐阜県警さんがあんまり協力的じゃなかったもんで、こっちはあまりよく状況を知らないんですがね。」
「……一夜にして犠牲者が二人も…?」
「…ん〜〜、実はねぇ。二人どころじゃ済まないんですよ。…その翌日になんですがね。……私の後輩の熊谷くんが、捜査中に車両ごと蒸発しましてね。」
熊谷氏というのは、私と大石氏が出会った後に、大石氏と組むことになる後輩刑事だった。
「富竹氏の事件捜査のために、村に聞き込みなんかに回ってたんですよ。……何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。
…私と一緒だったなら無事だったかもしれないと思うと……今でも悔しいですよ。あの日、どういうわけは私、お腹をひどく壊しましてね。…外回りは遠慮しちゃってたんですよ。」
「…事件の真相に近付きすぎて…消された?」
「………と、思っています。熊ちゃんは前途有望な若者だったけど、まだ現場経験が不足してた……。トラブル慣れしてなかったんです。」
大石氏は、なぜあの日に限って自分が一緒でなかったのか、悔やんだ。
「で、さらに翌日ですね。……あ、彼のことは赤坂さんもご存知ですよね。
ほら、入江先生ですよ。覚えてます?」
「…あぁ、あの病院の若い先生ですね。ぼんやりと覚えてます。」
「彼ですね、…どういうわけか、睡眠薬で自殺しまして。……遺書の類はなし。司法解剖の結果でも、睡眠薬によるものと断定されました。動機以外に不審な点はなし。」
「………睡眠薬での死に見せかけるのは、そんなに難しくないんじゃないですか? 他殺の可能性は?」
「独身で、離婚歴もなし。特定の女性と付き合っていたという話もなし。少年野球チームの監督を務め、村人との親交もあり、誰からも好かれる人物。……敵が見当たりませんね。…まぁ、それを調べるにも、もうあの大災害で滅茶苦茶になっちゃいましたからね。今となっては、彼の身辺を調べようもありませんが。」
「…………………。それで、古手梨花の死は?」
「その当日です。昼頃に、神社に訪れた村の老人たちが、古手梨花の死体を発見しました。」
「……他殺?」
「…話す前に、そのイカソウメン、食べちゃっといた方がいいですよ。」
「…………無体な死に方?」
大石氏はこくりと頷く…。
「死体は神社の境内、賽銭箱の脇でした。……もっとも、シメたのは他の場所でしょうねぇ。全裸で裸足。足の裏は汚れてませんでしたから。」
「……………性的な変質者の犯行?」
「司法解剖の結果、性的暴行の痕跡は認められませんでした。
……わかったのは、薬物で昏睡させられてから、あの場所へ運ばれ、腹部を切開、開腹。意図的に臓器を引きずり出して、四方に散らして見せました。」
「…………昏睡? …では、開腹は死後ではなく?」
「………………。」
「……なんて、…………惨い。」
あの少女の予言は……的中したのだ。
…彼女は、自らの死に至るまでの他の死を、もう少し具体的に言及していたように思う。
…例えば、4年目の主婦撲殺については、頭を割られて死ぬとまで言い切っていたような気がする。
……だと言うことは、……少女は、…この無惨な死に方までも、知っていた…?
自らの予言を、疑いたくなる時だってあったはずだ。
でも、…自分の予言通りに人が死に、…年を経るごとに予言は真実味を増していった。
そして、最後の年を向かえ、…………自らの運命に抗うこともできず、……幼い命を散らした。……それも、……こんな残酷な方法で。
自らの最期を知りながら、…その流れに飲まれたまま生涯を終えた少女の無念に、……胸が締め付けられた。
「……この死に方ですが、…どうも単なる猟奇趣味ってわけじゃないみたいなんです。……と言いますのはですねぇ、…雛見沢村はかつて鬼が住んでたって話は、以前もしましたよね?」
「ん………、そんな話も…聞きましたっけ…。」
「雛見沢村のお祭りの『綿流し』ってのはそもそも、……ワタ流し、つまり、臓物流しから転じたものらしいんです。……何でも、人食い鬼たちが、犠牲者をバラして、内蔵を川に捨てた…というところから転じたらしいんですよ。」
「………つまり、……雛見沢村においては、内臓を引き摺り出すことに、宗教的な意味があったと?」
「…………。で、……雛見沢村の昔話によるとですね。…人食い鬼と人間が仲良くくらすための調停者として「オヤシロさま」という神さまが降臨している…ってことになってるらしい。」
「…確か、…古手梨花は、そのオヤシロさまの生まれ変わりだと言われてるんでしたね?」
「えぇ。ですから、…その現人神である古手梨花を、開腹して殺すのは、村の信仰に対するこれ以上ない冒涜行為と言えるわけです。」
「………信仰への冒涜。…それはつまり、…オヤシロさまへの冒涜、ということですね?」
「……後は、赤坂さんも知っての通りです。「オヤシロさまの祟り」が起こるのはその晩のことです。」
「雛見沢、……大災害。」
公式発表では、水源地の何とか言う沼から致死性の高い火山ガスが発生して、村を飲み込んだことになっている。
「発生した沼は、鬼ヶ淵沼と言いまして。雛見沢村の旧名、鬼ヶ淵村の名前の源となった沼です。村の言い伝えでは、この沼の奥底は地獄に繋がってるそうで、かつて村にやってきた人食い鬼たちはこの沼から訪れたのだとか。」
「……出来過ぎですね。」
「いやいやいや。まだまだ出来過ぎてますよぅ? 村には伝承がありまして、オヤシロさまがお怒りになられると、地獄の釜が開いて瘴気があふれ出す…なんて言うんですよ。」
「…村人にとって、地獄というのは沼の底のこと。つまりそこから瘴気があふれ出して村を襲うということ……?」
「そう。つまり、古手梨花ことオヤシロさまの生まれ変わりが、冒涜される殺され方をしたので、オヤシロさまがお怒りになって、祟りとしてあの大災害を起こしたと。……そういう話がまかり通っちゃってるんですよ。」
「……つまり、あの大災害は、人為的なもの?!」
「ん〜〜〜〜…、確かに話が出来過ぎてますからねぇ。オヤシロさまの祟りが実在せず、本当の偶発的事故でもないってんなら、…そう疑いたくもなりますよねぇ。」
大石氏は、私の頓狂な意見に苦笑いを浮かべた。
……頓狂だとは思いつつも、一度は自分もそう考えたことがある、…そういう表情だった。
「…村の信仰を巡って、狂信的な一派があったと仮定し、…彼らが「オヤシロさまのお怒り」があるような状況を作り出し、大災害を実行して見せた…。」
「………もちろん、私は笑いませんよ? 私も、一度ならずともそう考えたことはあります。
ですが、…雛見沢村がいかに小さい村とは言え、人口は1000人以上。それを一夜にして抹殺するなんて、どう考えても現実的じゃないです。」
ガスの発生は午前2時頃からと考えられている。
夜明けまでは数時間だ。その短い時間で、村人をガス中毒死に見えるような形で全員殺してまわるなんて、………確かに考えられない。
「……ガスの発生した沼もまた宗教的な意味がありましたよね? …だとしたら、…沼に何か仕掛けがあって、神の裁きをいつでも再現できるような何かがあったとか…。」
「自衛隊の発表では、沼が発生源だと言うことになってますよねぇ。調査チームとかが詳しく調べた上での発表ですからね。そんな仕掛けがあったら、見つけてると思いますけどねぇ…。」
「沼そのものに仕掛けがあるとは限りませんよ。…ほら、聞いたことありませんか? 遠くの泉の水が枯れたら、村の泉も枯れた…なんて昔話。」
「何ですか、そりゃ。」
「水源ってのは、地下水脈等で繋がっていることが多いんです。沼や泉は、それが地上に露出した部分に過ぎません。」
「…なっはっはっは。…つまり、赤坂さんが言いたいのは、鬼ヶ淵沼と繋がった別の沼か泉があって、それに何だかの仕掛けをすると、鬼ヶ淵沼の圧力とか水圧とか、そーゆうものがいろいろ変わって、毒ガスが噴出する仕掛けを、大昔の村人がこさえていたと。…そういう話ですよね?」
大石氏は、若者は発想が柔軟でいいなぁと大笑いしたが、そこはやはり元刑事。
…自分の想定しない説だからといって、頭から否定しようとはしない柔軟さをまだ持っていた。
「………面白い話です。…それが立証できたら、………日本の犯罪史、始まって以来の空前規模の大量殺人ってことになりますよ。」
「雛見沢村の封鎖が解除されたら、ぜひ調べるべきだと思います。…大石さんは、××県警にはまだ影響力は?」
「そこそこには。…柔道部の名誉顧問ですからね、今でも夏の合宿やなんかにはちょくちょく出掛けてます。」
「…………雛見沢村の封鎖解除がいつになるかわかりませんが、…ぜひ、調べてさせて下さい。」
「…………………わかりました。」
「………大石さんは、この雛見沢村連続怪死事件、通称、オヤシロさまの祟りを、どう捉えていますか?」
「……当時の署内は、村人の圧力でぎゅうぎゅうでしてね。連続事件は存在しないというのが当時の公式見解でした。事件は個々で、またそれぞれに解決している、と。」
「……………馬鹿な。村の信仰に基づいた連続事件であることは明白なのに?」
「赤坂さん、そりゃあ、5年も続いて派手な最後があった今だから言えることですよ。
……あの当時は、偶然の事件が偶然にも綿流しの日に起こる。今年は起きないといいな…なんて感じだったんです。」
「偶然なものか。……………少女は始めから全て予言していた。」
「………少女?」
「古手梨花です。……あの子は、私にその後の事件を全て予告して見せました。」
「…………………赤坂さん、……そりゃあ、本当ですか…!」
「はい。…あの子は言ったんです。翌年、ダムの現場監督が殺され、死体をバラバラにされると。のみに留まらず、その後に続く連続事件を全て私に予告して見せました。」
「……赤坂さんがその話を聞いたのは、…昭和の何年の話ですか?!」
「私が少女と出会ったのは、誘拐事件調査の折りですから、…昭和53年6月です。」
「…………バラバラ殺人の、…前年に。」
大石氏は、目を閉じると眉間にしわを寄せ、唸るように考え込み始める…。
「…赤坂さん。古手梨花が神通力で未来がわかった、…なんて話がナシだとするなら、………こりゃあとんでもない話ですよ…?」
「………はい。」
「……………今さら、私を驚かせるための作り話だ、なんて言ったら、本気で怒りますよ…?」
「私は、……真実を話しています。」
「……………………………連続怪死事件は、…発生の前年にはもう全てシナリオが用意されていた。」
「…そして、その予告の通り、古手梨花は殺されました。…私は始め、大災害による死を指したものと思っていた。でも、…彼女の死は災害ではなく、殺人者の手による残忍なものであることがわかりました。…………彼女は、殺される、と言った。…彼女は、自分の死を、……具体的にあの時点で、知っていたんです。」
「……なら、古手梨花は、どうして逃げ出さなかったんですかねぇ。」
「…………………………。」
「仮に、そういった死のシナリオがすでに出来上がっていたとして。彼女はそれを知りかつ、数年という猶予期間があったわけですよね?
逃げ出すなり、警察に相談するなりの時間はあったはずです。…なぜ、抗わずに、自らの死を受け入れたんです?」
「………………わかりません。」
「………古手梨花は、村の年寄り連中に可愛がられてはいましたがね。……両親を失った後は親類もゼロで身寄りはなく、親しい友人と肩を寄せ合うだけの孤独な生活でしたからね。………戦う力も、頼れる人間も、身近にはいなかったのかもしれません。」
「……………………彼女は、自分の死に対して、誰かにSOSを発しはしなかったんでしょうか。」
「村と警察が穏便な関係じゃなかったのは、赤坂さんも知られるところだと思います。……少なくとも私の耳には、古手梨花が自身の身柄の保護を求めてきたという情報はありません。」
「………………………………。」
「……あるいは、…自身が宗教的な生贄にされることに対し、…諦観というか達観というか、…そういうものがあったのかもしれませんねぇ。」
「そんなはずない。」
私はきっぱりと言い放つ。
あの時、少女は言った。
私は幸せに生きたい。大好きな友人たちに囲まれて楽しく過したいだけだと確かに言った。
彼女は生きることに諦めてなんかいなかった。もっともっと生きることを希望していた。
あ…………………………
その時、私は絶句した。
「……どうしました? 赤坂さん?」
「………い、………………いえ。」
私は沈黙する。…大石氏もまた腕組をしながら唸って沈黙するのだった。
やがて大石氏は立ち上がり、紙と筆記用具が欲しいと叫びながら、仲居さんの姿を探しに廊下へ出て行った。
黙考するだけでもうなってやかましい大石氏が退出すると、…部屋は一気に冷気を含んだ沈黙に包まれた。
私は立ち上がり、そこで初めて自身がふらつくほど酔っていることに気付くのだった。
障子窓を開けると、……美しくも、どこか儚い月が夜空に浮かんでいた。
私は、……今こそ、気付く。
少女は、自分の死を受け入れてなどいなかった。
もっと生きたい。楽しく、幸せに過したいだけ、と。…はっきり私に言った。
でも、私は愚かだった。
具体的な言葉を聞かされなかったから、…気付けなかった。
彼女はあれほどまでにはっきりと、……死にたくない。だから助けて欲しいと懇願したではなかったか。
確かに、助けてくれとは一言も言わなかった。
でも、だからと言って、彼女が救いを求めなかったことになんかならない。
身寄りもなく、警察も信用できなかった少女は、……村と何のしがらみもない、遠い異郷からやって来た私だけに、…告げたのだ。
助けてください、と。
少女は、電話のコードを切って回った。
私が電話をしていたなら、…雪絵の死を知り、絶望に打ちひしがれただろう。
……そこへ少女が救いを求めても、私は耳を貸さなかったろう。
だから。……全てを知っている少女は、電話のコードを切って回った。
私に助けを求めるわずかの時間がほしくて。
大石氏はさっき、…自分の後輩が、自分が不在だったために事件に巻き込まれ消息を絶ったことを嘆いた。………私も同じ気持ちだった。
……もし。昭和58年の6月に私がいたなら。
きっと少女を守れた。
昭和58年と言えば、あの誘拐事件から5年も経ってる。
私は雪絵の残してくれた一人娘を育てつつも、若さと情熱の全てを仕事に向け、あらゆる難事件に揉まれ、気力も度胸もますますに充実していた。
あの誘拐事件の時のような無様な真似は晒さない。
一対一での格闘に遅れなど取らないし、拳銃どころか機関銃を持つような外国マフィアの鉄火場にもいくつも飛び込んだ。
昭和58年の自分は昭和53年とは比べ物にならないくらいに成長していた。
だから。
少女の側にいられたなら、きっとその命を守ってやれたはずだ。
少女にどんな陰謀の魔手が近寄ったとて、絶対に守ってあげられた!
少女は、助けてと、…諦めを交えながらも、…私に乞うたはずなのに。
私はそれに気付けなかった。気付かなかった…!
雪絵の事故を教えられても気付けなかったように、気付くことができなかった。
私は嘆きたい。
少女の言葉を、真に受け止めることが出来たなら、雪絵の事故も防げた。
その恩人である少女の、決められた死もきっと防いでやれた。
彼女は、それを私に期待してくれていたはずなのに!!
私は雛見沢大災害を、自宅のテレビで知った。知るまで忘れていた。
雪絵の死のショックから立ち直り、それと引き換えに雛見沢での記憶を全て忘れようとした。
何と言う恩知らず…!
少女は、自分を救う対価として雪絵を救う方法を教えてくれていたのに?
私は少女への感謝の念すら抱かず、今日と言う日を迎えてしまった…!
……少女の死は、就寝中にガスで死んだなどいう事故でなく。
…生きながらに腹を裂かれ、内臓を引き出されるという辱めを受けて殺された。
彼女は自分が、あの年のあの日に、どのような恐ろしい殺され方をするか、きっと前もって知っていた。
でも、その恐ろしい結末を知りながらも、彼女はあまりにか弱かった。
たったひとりの少女は誰にも頼れず、助けも求められず、…予め決められた死の予定に飲み込まれ、……生涯を閉じた。
彼女は生きたいと。
ただ幸せに生きたいだけだと。
それだけを望んだんだ。
何の贅沢も言ってない!
人として生まれたなら、誰もが欲する最低限の希望だ!! 人よりお金が欲しいとか、誰かを押しのけたいとか、そんなことは一言も言ってない!!
少女は言った。
全ての死が予定なら。私の死も予定なのでしょうか、と。
たったひとりのか弱い少女が、だけれども何の抵抗もせずに飲み込まれたとは思わない。
きっと、……記録にも残らない微細な範囲で。…彼女に出来る限りの精一杯の抵抗があったはず。
そして、そんな少女のした精一杯の抗いに、……私への助けも含まれていたはず!!
「ちっくしょおぉおおおおッ!!!」
吠えた。
畳を踏みにじった。
自分が警察官になろうと思った原点は何だっけ?
ひとりの少女を、待ち受ける不幸から救えなくて…どうして警察官だなんて威張れるんだよ!!!
あの時はいっぱい色んなことがあったから、少女の助けに耳を求める余裕がなかった?
あぁそうだな、俺はまだまだ青かった!
今があの時だったら、きっと私は少女の力になれたさ!!
でも、もう…全ては終わってしまったわけで。
せめて少女の無念を晴らしたくとも、雛見沢村は危険地区として現在も封鎖されている。
関係者のほとんどは死に絶え、わずかに残った関係者も全国へ散り、その行方は掴みきれない。
惨劇の舞台も立入禁止。
警察の捜査は中断され、もはや事件は砂に埋もれつつある。
……そう、大石氏に聞かされるまで、私が知らなかったように!!
「…………………赤坂さん。…大丈夫ですか…………?」
いつの間にか大学ノートを手にした大石氏が帰ってきていた。
大石氏の表情を見るまで、私は涙ぐんでいることに気付かなかった。
「…私は、気付けなかった…!! 少女の助けに……気付けなかった!!」
「…………………赤坂さん。……落ち着いて下さい。」
「でも、…もう全部遅いんです!! 少女は殺された!! こんなにも無惨な殺され方で!! 私は頼られたのに、……救えなかった! 救えなかったッ!!!」
「…………村人と良好な関係を築かなかった私にも責任があるかもしれません。…古手梨花が私にそれを打ち明けてくれたなら、…私だって救いの手を差し伸べられたかもしれない。………彼女が打ち明けるに足る信頼を築けなかった。…後悔しています。」
大石氏の信頼という言葉が、さらに私を苛んだ。
そう。少女は私を信頼してくれた。信じてくれた。
あるいは私なら、予定された自身の死の運命を薙ぎ払ってくれるかもしれない。そう信じてくれたのに!!
泣いた。畳みに両膝、両手を付き、ぼろぼろと涙を零した。
…やがて、大石氏は静かに言った。
「赤坂さん。………悔しいですか?」
「…悔しいです…!!!」
「ならば。…古手梨花の仇を取るに値する方法がひとつだけあります。」
「そんな方法が! あるんですか?!」
大石氏は、大学ノートと筆記用具を見せる。
「……古手梨花の死を悼むためにも、せめて私たちで真相を。」
「……………真相……。」
「そうです。古手梨花だけじゃない。大勢が死にました。彼らの無念は計り知れません。
でも彼らの死は、あの大災害でうやむやにされ、今は捜査すらされることなく、忘却の彼方に葬られようとしています。
大勢死んだ!! おやっさんも殺された、熊ちゃんも消された、みんなみんな犠牲になった!! なのに警察は捜査もできないでいる!! 誰に無念が晴らせるのか? 私たちだけなんですよ!!! 赤坂さん!!」
「…………私たちに、……真相が……。」
「えぇ!! 明かせますよ! 連続怪死事件の全ての現場を踏み、村の裏事情に精通する私と、連続怪死事件の前年に古手梨花から重要な真実を明かされたあなたとなら!!」
「…でも、……もう、死んでしまったんですよ………、うぅ…!!」
「そうです。古手梨花は死にました。あなたが青二才だったから救えなかった!!!」
「うわああああぁああぁあああッ!!!!」
取り乱す私を大石氏はぐい!っと胸倉を掴み上げた。
「だから!!! その償いとして、真相を究明するんです、私たちで!!! あなたの話が事実なら、全ての事件は計画ということになる! そうならば調べ方は全然変わってくるんですからね!! ……私は今夜をかけて、あなたと私の持つ全ての情報をノートにまとめ、明日の朝一番で元の部下たちと連絡を取るつもりです。…あの事件を終わらせるものか!! 絶対に暴いてやるんです!!」
「…暴く。……暴く!!」
「えぇ。あれから数年が経過しましたが、時効ではない。捜査は中断であっても終了ではない。まだ続いてるんです。続けさせるんです、私たちがです!!」
私と大石氏はともに事件の真相究明を誓い合って、立ち上がる。
全てが終わってしまった昭和60年に。
私は、せめて少女に謝りたくて、少女の墓を探した。
少女は司法解剖の後、遺骸を檀家に引き取られた。
将来、雛見沢地区の封鎖が解けた時、古手家代々の墓に戻すために。
だが、古手梨花の遺骸を引き取った檀家が誰だったのか、よくわからず、今日まで私は少女に謝罪することすらできずにいる。
将来、雛見沢地区の封鎖が解けた時、……その檀家が現れ、墓前に戻るのを待つしかない。
今、私にできるのは、少女に謝ることではない。
少女と再会出来るときまでに、……真実を暴き、その無念を晴らすのだ。
雛見沢地区は現在でも散発的にガスの噴出が見られ、その封鎖解除の目処はまったく立たないという。
……恐らく、…少女は、私が真実を掴むまで、再会する気がないに違いない。
だからこそ、封鎖は解除されないのではないか、…とも思う。
私が真実を掴むその日まで。
後年。
大石氏は私と共著で、雛見沢大災害までを含む連続怪死事件をまとめた本を出版する。
タイトルは私が決めた。
『ひぐらしのなく頃に』
あの雛見沢にいた数日間で、一番耳に残った音色が、ひぐらしの鳴き声だったからだ。
この本によって、あの事件に関わった人々の記憶が呼び覚まされ、新しい真実が発見されることを強く願って止まない。
そして何より。あの事件への関心が再び呼び起こされ、…風化されないことを何より強く願う。
最後のあとがきにはこう記した。
この惨劇が、どうして起こされたのか。
私たちだけでは真相に至ることがかないません。
どうかこれを読んだあなた。
真相を解き明かしてください。
それだけが私たちの願いです。
大石蔵人・赤坂衛
雛見沢地区の封鎖は、今年もまだ解けていない。
■お疲れ様会4(暇潰し編)
「この度は『ひぐらしのなく頃に〜暇潰し編〜』をプレイして下さり、誠にありがとうございます。むっふっふっふ!」
<大石
「……むっふっふ〜。」
<梨花
「いやいやぁ、何だかんだと言いましても、今回のシナリオは私の独壇場でしたからねぇ。しかも渋いジャズ調なテーマ曲まで追加! これで笑えなきゃどこで笑えってんですかね、なっはっはっはっは!!」
「……というわけで。大石はそろそろ出過ぎなのですよ?」
「ふぇ? そりゃどういう意味ですかね、梨花さ、」
■ズガドガバシバシバシ、ドッギャーーーン!!!
「言葉通りの意味じゃああぁああぁいい!!!」
<魅音
「あれだけ出番があって、ここでまで出張ろうとは、身の程をわきまえないにも程がございましてよーー!!!」
<沙都子
「あ、…あははは。今回はメインヒロインは梨花ちゃん以外、みんな出番ほとんどなかったからね…☆」
<レナ
「今回は外伝的なシナリオだからとは聞いてたけど、ここまでメイン勢が蔑ろにされるとは思わなかったよー!」
<魅音
「魅音さんはまだいい方ではございませんの。多少は登場していましてよ? 私とレナさんなんか、気配も出てきませんですわ。」
<沙都子
「……レナはジャケットとかによく登場してますですから、まだマシなのですよ。」
<梨花
「…ということは、つまりなんですの? ……私だけが、ひとり除け者で出番なし…ということなんでございますの?」
<沙都子
「………………………にぱ〜☆」
<梨花
「ふわぁああぁああぁあん!! 私だけこの扱いはひどいですわぁ〜!! わああぁあん!!」
<沙都子
「……かわいそかわいそですよ。きっとだんだん扱いが悪くなって、最後には脇役に転落しているに違いないのですよ。」
<梨花
「わあああぁあああああん!! そんなのあんまりですわああぁあ〜!!」
<沙都子
「そそ、そんなことないよ…。沙都子ちゃんの好きな人だって、大勢いるんだもん。そんなひどい扱いになんかならないよ? ね?」
<レナ
「こんな扱い嫌ですのぉぉ〜〜!!! わはあぁあぁあぁん!!」
<沙都子
「あ、あはははは…。きっと次こそ出番がいっぱいあると思うな。思うな! 元気出してこ、ね☆」
<レナ
「しっかし……。今回のシナリオはオマケ的なシナリオとは聞いてたけど…。…実際どうよ? 何だか、ずいぶん話がややこしくなったように思うんだけど。」
<魅音
「……ボクには難しくて、よくわかんないお話だったのですよ。」
<梨花
「うーん…。何しろ信じられなかったのが、…連続怪死事件が起こる前の年に、もう梨花ちゃんがそれを知っていたなんて…。」
<レナ
「…ってことはつまり。…全ての事件は最初から予定されたシナリオ、ってことになるんだよねぇ…。…これは…かなり大きい情報だよ…。」
<魅音
「……ボクがきっと巫女なので、オヤシロさまのお告げで未来が分かったに違いないのですよ。」
<梨花
「ん〜〜〜…。人間犯人説の私としては、それは真っ先に否定したいところだなぁ。」
<魅音
「私は祟り派なんで、…雛見沢を見守るオヤシロさまの生まれ変わりである梨花ちゃんに、そういう神通力も、ひょっとするとあったんじゃないかなって思うな。」
<レナ
「あー、ダメダメ! 人間派はそういう得体の知れないファンタジーは一切認めないのー! 事件は全て人間の仕業! 祟りも魔法もBOTもチートも一切なし!」
<魅音
「……ボクは魔法とか使えたら素敵だと思いますのですよ?」
<梨花
「あははははは☆ 梨花ちゃんなら何となく、そういうのが使えてもいいかな〜って思うな。はぅ!」
<レナ
「まぁ、人間派にとっては、最後の最後でとにかくこれはデカい情報だね!
最初の事件から梨花ちゃんが殺され、大災害に至るまでが全てシナリオ。つまり丸々1つの事件だったってことがわかるだけで、推理材料は格段に増えるんだから!」
<魅音
「私は…、この予言こそつまり梨花ちゃんが神通力が使える証拠。
つまり、雛見沢村には、「不思議な力」が存在するんだってことの証拠になると思ってる。人間だけに起こせる事件じゃないことの証明になると思ってるよ。」
<レナ
「……ボクは頭がこんがらかってわかんないです。」
<梨花
「そうだそうだ、それよりもさ!! 今回、梨花ちゃんが見せたあの表情! 何だかコワかったなぁー!」
<魅音
「……みー。」
<梨花
「うん、私も驚いたな…。可愛らしい梨花ちゃんが、あんな笑い方をするとは思わなかったよ…。」
<レナ
「ね、ちょっとさちょっとさ! もっかいあの顔、して見せてよー!」
<魅音
「……やなこったなのですよ。」
<梨花
「わ、私も劇中以外ではしてほしくないな…。はぅ…。」
<レナ
■その時、灯りが消えて真っ暗に。真っ暗だから立ち絵は見えないよ。
「わ?! 何、何?! 停電かな?!」
<レナ
「全員動くなでございましてよーッ!! ヘンな動きをしますと、ペンデュラムから地雷、バズソーで電気椅子行きのトラップコンボをお見舞いしましてよ〜!!」
<沙都子
「…さ、沙都子?! これは何の真似?!」
<魅音
■パッと灯りがつくと、沙都子、富竹、鷹野の姿。
「ほーっほっほっほっほ!! 出番なし軍団、これよりお疲れ様会を占領させていただきましてよ? をーっほっほっほ!!」
<沙都子
「くすくすくす…。何だか素敵な登場をありがとう。改めまして皆さん、こんにちは。」
<鷹野
「いやまさか、こんなところで出番があるとはなぁ。思わぬ出番が嬉しいよ。沙都子ちゃん、ありがとう。」
<富竹
「わ、皆さん、こんにちは〜! ………………きゃ?!」
■バイン、ボヨン、ドカン、ガンガラガッシャーン!!
「あらあら、身動きなさらない方がいいと警告しましてよ〜?」
<沙都子
「…竜宮さん、大丈夫ですか? 北条さん、ここまでやらなくても…。」
<知恵先生
「をーっほっほっほ!! 出番がなかった恨みは恐ろしいんですのよ!」
<沙都子
「……本編の分まで沙都子が大活躍なのです。」
<梨花
「出番なしの恨みってわけか…。くっそ、いつの間にこれだけのトラップを…!」
<魅音
「ここがお疲れ様会の会場に選ばれた、その時点ですでに私のトラップに掛かっていた、ということになるんではありませんの? をっほっほっほ…!」
<沙都子
「……そうか…、わかった…!! あんたの後ろで糸を引いてるヤツがいるね…?! いるんでしょ?! 出てきなさい!!」
<魅音
「…くっくっくっくっく! はろろ〜ん、マイシスター。ごきげんよぅ。」
<詩音
「わ、詩ぃちゃんだ、こんにちは〜! ………ふぎゃ?!」
<レナ
■バイン、ボヨン、ドカン、ガンガラガッシャーン!!
「……同じワナに二度もかかってかわいそかわいそです。」
<梨花
「やっぱり詩音かぁあぁ!! 次のシナリオで主役が内定してる上にこの狼藉! あんた、やってくれるじゃないのぉおおぉ!!」
<魅音
「くっくっく…。解答編前の折り返しオマケシナリオとは言え、お姉だけに出番を許すほど、私も寛大じゃないってことです。ま☆ そんなわけで、ちょっと沙都子を焚きつけさせてもらいました。」
<詩音
「…くぅううぅ…!! 詩音、…あんた、何が望みなの…!!」
<魅音
「安全圏の確保、とでも言いますか。昨今ですね、どういうわけかお姉がジリジリと票を伸ばしてるんですよね?」
<詩音
「うん。綿流し編の前半部の魅ぃちゃん、萌え!ってお便り、結構多いんだよ。」
<レナ
「くっくっく! 小意地の悪いあんたのボロが出て、プレイヤー諸兄はやっと私の魅力に気付いてきたってことだねぇ。沙都子も祟殺し編で好評価らしいし。レナや梨花ちゃんには根強い固定票があるし。あんたの人気もとっくに陰ってるってことだねぇ!」
<魅音
「そういうわけで。
不穏に票を伸ばすお姉や沙都子をここいらでひとつ叩き落しておこうと思いまして。こういう大仕掛けを打たせてもらったというわけです。」
<詩音
「……?! 詩音さん、今なんと言いまして?! 私も叩き落すですって?!」
<沙都子
「…おチビちゃんは気付くのが遅いようで!! そぉらッ!!」
<詩音
「にゃにゃ、にゃ〜〜〜〜ッ!!!!!」
<沙都子
■バイン、ボヨン、ドカン、ガンガラガッシャーン!!
「くっくっくっく! さよならレギュラーの皆さん、こんにちはイレギュラーの皆さん。あんたたちメインヒロインはこれでおしまいです!」
<詩音
「…し、詩音ちゃん。そこまでやらなくても、いいんじゃあないかなぁ…。」
<富竹
「まぁまぁジロウさん。面白いから放っときましょうよ。
私たち二人の出番がいっぱい増えるのよ? ……ジロウさんは私と一緒、…いや?」
<鷹野
「あ……あははははははは! そそ、そんなことないよ! あはは!」
<富竹
「知恵先生〜〜! 先生まで詩ぃちゃんに買収されちゃったんですかぁ?!」
<レナ
「ご…ごめんね、竜宮さん。……詩音さんが、次回のシナリオからは、『教えて! 知恵先生』のコーナーを作ってくれるっていうから…つい…。」
<知恵
「さぁて、っと。誰から恥ずかしい〜処刑をしてあげましょうかねぇ? 大仕掛けを手伝ってくれたお礼に、沙都子からかな?」
<詩音
「それは許しませんよ!!!!
とお!!!」
<入江
「か、監督!!」
<レナ
「何だか珍しく頼もしく見えますわ〜〜!!」
<沙都子
「沙都子ちゃんに対する狼藉は、私、入江京介が許すわけには行きません。私も脇役一派ではありますが…懐柔できると思わないことですよ?!」
<入江
「ありゃ。この後に収録予定の、『生本番!! 沙都子メイド調教、着せ替え編』
<詩音
「…詩音さま。
この入江、一生どこまでも付いて参りますううぅううぅ!!!」
<入江
「懐柔、早ッ!!!!!」
<魅音
「さぁて…。これで全て私の手中ですね! これからはお疲れ様会もシナリオも! 全て私の思うままに進めさせてもらいますね。…………………あれ? 一人足りない?」
「……詩音さま! レナさんがいません! いつの間に抜け出したのか…!」
<入江
「いた。竜宮さん! さっき身動きしてはいけませんって言ったはずですよ!」
<知恵
「レナちゃん! 悪いことは言わない、抵抗しない方が無難だよ…!」
<富竹
「私……悪いけど、こんなやり方おかしいと思います!」
<レナ
「…それは何の真似? ……照明のスイッチ?
なるほど、部屋を真っ暗にした隙にどうにかしようという魂胆ね? くすくすくす…無駄な抵抗を。」
<鷹野
「レナさん。無駄な抵抗はよして大人しくした方がいいと思います。私をあんまり怒らせると、あなただけでなく、お姉たちの処遇も変わってくることになりますよ?」
<詩音
「……灯りを消したくらいじゃ…何もできないよ…。…レナ、ここは悔しいけど言うとおりにした方が……。」
<魅音
「大丈夫、安心して。照明を切ることで、……私たちはこの状況を逆転できるの!」
<レナ
「…逆転…?! …一体、…どんな秘策があると言うんですの…?!」
<沙都子
「……あっはっはっはっは!! レナさんは結構、笑わせるのがうまいですね。なら試してみたらどうです? その逆転ってヤツを試しに見せて下さい。」
<詩音
「……詩ぃちゃんは甘えてる。…本編にいくら出番がなかったからって、こうしてお疲れ様会でこれだけの出番を得ているのに、…甘えてるよ。」
<レナ
「私がいつ甘えたって言うんです…?」
<詩音
「詩ぃちゃんはわかってない。…例えお疲れ様会だけと言えども出演し、過去のシナリオにもあれだけ登場しておいてこの狼藉。……そんな詩ぃちゃんをね、…許すことができない、地獄の怨嗟が…、ほら、聞こえてこない…?」
<レナ
「……そ、そうか! わかりましたわ!!」
<沙都子
「そうか!! 圭ちゃんか!!!
そうだよねぇ、お疲れ様会はいつも出番なし! その圭ちゃんを差し置いてお疲れ様会占領なんて、圭ちゃんが許すはずがない!」
<魅音
「なるほど。で? その立ち絵のない圭ちゃんがどうやってここへ現れると? ……まさか、圭ちゃんに立ち絵が実装されたわけでもあるまいに。くっくっく…!!」
<詩音
「そう思うのが詩ぃちゃんの慢心だよ…!!」
<レナ
「……ッ!! いけない!! 照明を消されたら!!! 知恵先生、レナちゃんを取り押さえて!!」
<鷹野
「え? え?」
<知恵
「もう遅いよ!!!!」
<レナ
■照明オフ。真っ暗。立ち絵は見えないよw
「……助けてぇえぇえ!! 圭一くぅうううぅうん!!!!!」
「…くっくっくっく…。うはーっはっはっはっはっは!!!!」
「そ、その声は……圭ちゃん?!?!」
「レナ、感謝するぜぃ!! 月にすら見放され真の闇が地上を覆いし時、
漆黒の魔王、前原圭一、降ッ臨ッ!!!!」
「なるほど、これなら立ち絵がなくても大丈夫ですわね。」
「……立ち絵も背景もないから、実に製作スタッフに優しいのです。」
「ふっはっははははははははははははは!!! 詩音んんん!!
まるで自分が悲劇の主人公みたいな振る舞いだったが、俺から見れば実に滑稽千万!!! 少しいい気になり過ぎたみたいだなぁああぁ!!
お疲れ様会の度に! 立ち絵がなく、慰労の一杯にすらありつけなかった俺の
怒りを、
恨みを、
悲しみを!!!
今こそ教えてくれるぜえええぇえぇ!!!」
「…な、何だか圭一くん、悪の化身みたいだなぁ。」
「化身じゃない、魔王と言ってもらいたいぜ!! そして今、真の闇に包まれたこの世界はまさに俺の手の平に等しい!! この闇の世界では俺に逆らうことは何人にもかなわぬのだー!!!!」
「……圭一くん、…なんだか怖いな、はぅ…。」
「怖い? わっはっはっはっは!!!
怖いひぐらしの時間はもぅ終わりだぜ!!
ここからはポップでHで萌え萌えなひぐらしが始まるのだぁあぁあぁあ!!!!」
「……なな、何ですってぇえぇ?!
前原さま!
ぜひ私もお供にぃいいぃ!!」
「がっはっはっは!! 監督はわかってるじゃねえかぁあ!! じゃ、お医者な監督を僕に迎えた第一弾として我が魔力を見せよう。ム〜〜ンッ…カアッ!!!」
■変身的な音w
「…きゃ?! な、何なのこれ?!」
「たた、…鷹野さんが……ミニスカな看護婦…ナース服にぃいいぃ!!
しかもピンクとかのエロゲー的な色じゃない!
わかってる!!
ちゃんと清楚な純白だああぁあ!!」
「看護婦の分際で本編で一度もナース服を着ないとは笑止千万!! さぁてっと。…次の標的は、っと…☆」
「…レ、…レナぁあぁ!! これじゃあ全然形勢は逆転してないよ! 新しいピンチを迎えちゃってるよ〜〜!!!」
「はぅ〜!! こんな真っ暗じゃ、私にもどうしようもないよ〜〜!」
「さぁて、次は誰にどんな衣装を着せようかねぇ〜? 手堅く、
制服、
体操服、
スク水の三段コンボでも決めとくかぁ〜?!?!」
「前原さま、最高っす〜〜!!!!! その後はバニーさんにバドガールに、いえいえ、ランジェリー姿もいいですねぇ!! いやいや!!
いっそ、みんな全裸にしちゃうってのはどうでしょう〜〜!!! も、もちろん、靴下は残すのでありまっす!!!」
「わおおぉおぉ!! それいい!! わかってるじゃねえか!! か、…監督…!!
俺、やっとあんたと打ち解けれた気がするぜ!!!」
「いえいえ、前原さん。…いえ、K。
私のことはこれからはイリーと。
Drイリーとお呼びを〜〜!!!」
「Kぇええぇい!! 僕たちのことも忘れちゃ困るよ!!」
「むっふっふ! トミーとクラウドも、常にKの側にありますよぅ!! んっふっふっふ!!」
「トミー!! クラウド!! …ついに揃ったぜ…。
四天王、ここに見参だあああぁあ!!!」
ついに。
…Kを筆頭に、悪の四天王が揃い踏む。
暗黒を得て、ついに地上に降臨を果たした漆黒の魔王、前原圭一。
その魔力は絶大にして無比!!
この闇では…誰にも立ち向かえない!!
屈する他ない!!!
あぁ、ヒロインたちはこの闇を抜け出せず、魔王たちの思うがままに、恥ずかしい衣装を次々と強要され、
永遠に等身大着せ替え人形の扱いをされてしまうのかッ?!?!
っていうか、スク水はちゃんと旧タイプだろうな?!
競泳型だったら許さんぞおぉおおおぉお!!!
「……ったく〜!! 詩音!! あんたのせいでこうなったんだから、あんた何とかしなさいよ〜!!!」
「大丈夫ですお姉。暗闇の中で真の力を得るのは圭ちゃんだけじゃないです。」
「……え? そんな都合のいい味方、…ここに居ましたっけ?」
「がっはっはっはっは!! ちょこざいな、園崎詩音!! ちなみに校長先生を期待してるなら残念だな!! 『男子本懐ここに極まれり!
漢たるもの最善を尽くすべし!』とお墨付きがちゃんとあるのだ〜〜!!!
もちろん、新登場の赤坂さんに頼ろうとしても無駄だぜ!
昨日からお嬢さんを親類に預けて夫婦水入らずで温泉旅行だそうだからなー!!
つまり!
八方塞がりってわけさぁ!!」
「…甘いですね圭ちゃん。…立ち絵があるキャラにだって、闇でこそ真の姿を晒せるキャラだっているってことです。
………知恵先生!!!」
「………そういうわけです、前原くん。」
「……真っ暗でよく見えませんけど、何だか知恵先生の服装が変わってますわね。…なんですの? あの両手にいっぱいの剣は。……ま、まさかそんな!! 黒…むが…!!!」
「……それ以上はナイショなのですよ。にぱ〜☆」
「…前原くん? …少しオイタが過ぎたようです。これ以上は教会も見逃せません。」
「ちょちょ、ちょっと待てよ、ここ、これはないだろ、ズルだろ、反則だって!!!! おい、こんなのナシだろ?!?! わわ、ちょ、そのデカイのはまずいって!!! えぇえ?! ゲージ技って、出掛かり無敵かよッ?! 第七聖てッてッッて!!! ぎゃぎゃぎゃああぁああぁああ!!!!」
■ドドドドドド、ドーーーーーーン!!!!!(多段ヒットw)
■アイキャッチ
「あははは…。改めましてこんにちは。この度は『ひぐらしのなく頃に〜暇潰し編〜』をお楽しみ下さり、誠にありがとうございました。」
「もうすでにご存知と思いますが、『ひぐらしのなく頃に』は選択肢のないタイプのサウンドノベルです。ですので、選択肢を選ぶADV的なサウンドノベルに比べると、小説や映画に近いセンスだったと思います。…その意味において、ゲームと呼ぶべきではないのではないか、というご意見を頂戴することもあります。」
「小説や映画のように、観劇するだけならば『ひぐらしのなく頃に』は、ゲームとはなりません。……ですが、ご存知の通り、劇中にはたくさんの謎が提示されています。それらに挑もうとした時、…この作品は初めてゲームとなるのです。」
「プレイヤーの皆さんには、この謎に満ちた物語を様々な角度から捉え、吟味する権利があります。…例えば、劇中に散りばめられた謎について、推理をし、それを発表して反響を得たりすることもまた、楽しいかと思います。」
「当サークルでは、その推理やご意見を発表する場として、サークルのHPに、ネタバレOKの専用掲示板『魅ぃ掲示板』を設けさせていただきました。この掲示板で、『ひぐらしのなく頃に』をご縁に、様々な方とのコミュニケーションをされるのも、また楽しいことだと思います。」
「当サークル、『07th Expansion』のHPへは、<オマケ>内の<ホームページ>をクリックすると飛ぶことができます。アドレスを申し上げますと、
http://07th−expansion.net/
になります。」
「また、作品のご感想等、お送り下されば、送り手としてこれほどうれしいことはありません。ぜひどうか、竜騎士7(fujix@mcn.ne.jp)までご感想をお聞かせ下さいね…☆ もちろん、HPのBBSへの書き込みも大歓迎です。」
(アドレスはジャケットにも記載されています。ご確認ください)
「いよいよ…、次回のシナリオから解答編。
『目明し編(仮称)』となります。
……でも、解答というのは寂しいもので、明かすことによって、これまで許されていたあらゆる可能性への想像が、急激に狭められてしまうという悲しい力があります。」
「その意味において、解答編直前の、今ここにおられる皆さんは、…多分、『ひぐらしのなく頃に』という作品を、一番楽しむことができる場所におられると思います。」
「もしも、ここをお読みの時点で、すでに『目明し編』のシナリオがお手元にあるならば。どうかそのシナリオに入られる前に、存分に推理や仮説、空想をお楽しみいただきたいのです。…その余地こそが、一番の醍醐味なのですから。」
「………あはは。厚かましいことを言ってしまい、申し訳ありませんでした。『ひぐらしのなく頃に』をお楽しみいただけたなら、それに勝る喜びはありません。」
「さて。では恒例の最後の贈り物、ミニゲーム! 今回もスタッフのBTさんが腕によりをかけて、最高に楽しい作品を仕上げて下さいました。あはは、すっごく楽しいですよ☆ レナの登場とかにはかなり笑わされます。ぜひ遊んでみて下さいね。」
「それでは、素敵な夜長を…! 雛見沢村で、皆さんをお待ちしていますね…!
レナと遊んでくれるなら…一緒に宝探しに行きたいな! はぅ☆」