ひぐらしのなく頃に 「祟殺し編」
井の中の蛙は幸せでした。
井戸の外に何も興味がなかったから。
井の中の蛙は幸せでした。
井戸の外で何があっても関係なかったから。
そしてあなたも幸せでした。
井戸の外で何があったか知らなかったから。
沙都子編opening
■鹿骨市某所にて…
…蒸し暑い。
風は、そよとも吹かず、…暑いだけでなく湿度まで高い不快な夏だった。
アパートの雑多な窓には様々な洗濯物が干されているが、風になびきもしないそれは涼感どころか、むしろ鬱陶しさを感じさせるだけだ。
曲がりくねった細い道には、いびつな民家やアパートが建ち並ぶ。
ただでさえ細い道には、枯れ掛けたプランターや植木鉢、自転車やバイクが並べられ、余計狭く、鬱陶しく、そして暑苦しさを感じさせた。
こんな場所をこんな時間に、好き好んで訪れる者はいるわけがない。
…誰もがそう思う様な昼下がりに、一台の単車がやって来た…。
単車は、お世辞にも小綺麗だとは言えない二階建てのアパートの前に停まる。
単車から降りたのはかなり高齢のしわだらけの男だった。
…それに気付いた、洗濯物を干していた主婦が声をかける。
「あんれ、こんぬつわー! 今日もお暑いこって!」
「ちゃー、暑いねぇ! こんな暑いと茹だっちまってかなわねぇよ。えっへっへ!」
「そうそう、大家さん、すったらん言わんと思ってた。」
「あーー、悪ぃ悪ぃ〜! 蛍光灯だったっけ? わぁすれちったよ! えっへっへ!」
「違んね、ほんら気にならん? いんやぁな臭いがしとんね。今朝からずっとでかなーんわ。」
「………あれ、何よこれ。くっさいねぇ! まぁた裏のどぶ川が詰まったんかね。」
「大家さん、何とかしてんよ。朝からこれじゃ鼻がひん曲がってまうねー。」
「えっへっへ! そしたら今の美人がもっと美人になっちゃうじゃないのよ、えっへっへ!」
アパートの裏には不衛生などぶ川が流れていた。
格子が枝や落ち葉で詰まり、そこに汚物が溜まって夏場にはひどい悪臭を発生させるのだ。
「こんれ、お役所に何とか言ってーな。こんなどぶ川埋めてしまぃねホント!」
「ちゃー。すっかり詰まってるねぇ。こんなん、棒でちょっとつつけば流れるでよ。」
男はどぶ川の柵を乗り越えると、その近くに転がっていた薄汚れた物干し竿を拾い上げた。
それで詰まりを突っ付いて何とかしようというつもりだろう。
「あーあー、大家さんやめてーなぁ! ヘンにかき混ぜんと、すったらもー! すんごい臭いになるんね!」
「えっへっへ、詰まれば臭い、かき混ぜれば臭いー。どっちにすりゃーえーんよ。へっへっへ!」
格子に詰まっている汚物に物干し竿を突きたてる。
……もちろん、堆積した汚物はそんなものではどうにもならない。
「ぎゃー…。猫の死骸やん。こんなの保健所の仕事やねー。」
「犬猫は死ぬと臭いがすんごいのよ。…竹竿じゃどーにもならんなぁ。」
「ゴミ袋に古着に、まぁいろいろ捨ててあるんねぇ。あんのアヒル、おまるでねぇの? …こりゃあ臭いわきゃあ。しょんがないねぇまったく!」
不衛生などぶ川に今さらゴミが増えたって。
…そう思う不心得者が後を絶たず、いつの間にかこのどぶ川をごみ捨て場のようにしてしまっていたのだ。
汚水に浮かぶ古着の山を突っ付いた時、真っ黒な飛沫のような煙が、ぶわぁ…と広がった。
その、あまりの異様な、おぞましい光景に二人は思わず顔をしかめてしまう…。
「かー…ウジが涌いとるんね。生ゴミでも放り込んだんかいなぁ…。」
「…わ、……大家さん。…なんね、あれ。」
「何よ、こないの捨てたんわ……。」
「……お、……大家さん、それ、……それッ!!」
「へ。………ひぇ。……ひええぇええええぇえぇぇええぇぇえええッ!!」
■どぶ川に腐乱死体が浮いていたのを見つけたシーン
バシャ! とシャッターを切る音<警察の鑑識の写真。
「あ、どもー! お疲れ様です。」
「かー、ひでー臭いだなぁ! おい! ブルーシ、上までちゃんと囲っとけよ! 民家の二階から丸見えだぞ!」
「ホトケの身元は不明。性別、女。年齢は推定20代後半から30代後半。死後2〜3日ってところです。おそらく死後に遺棄したんでしょう。」
「素っ裸かー。身元割れるの難航しそうだなぁ。生活課に行方不明者出てないか当たっとけ。」
「重りを付けて沈められてたんでしょうね。それがほどけて浮かんできたんでしょう。…しかし、何だってこんなドブ川に。高速道路下とか山奥とか、もっとマシな場所があったでしょうに。」
「そうすりゃウチの管轄でなくて済んだのに、ってか? 死体隠す気なんかハナからねぇんだよ、この手のは。」
「見つかることを前提にした、何かへ見せしめってことですかね。」
「この腹が裂けてるの、魚に食い破られたってワケじゃねぇだろ。腹ぁ裂いて、中身引きずり出してるよなぁ。相当ハデに虐め殺してんぞ、コレ。中国マフィアとかの伝統的な制裁にこーゆうのあるんじゃねぇの? 四課のシゲさんにマル暴でトラブルないか当たっとけ。」
「わかりました!」
「しかし…ひでぇホトケさんだね。ほら、内臓のぞいてるここの感じ、京屋のサラダそばに似てねぇか? ほら、箸で突っついたら麺が出てきそうだぞ、ホレ。」
「……か! か、勘弁して下さいよ…。」
「かっはっはっは! 腸引きずり出されて、耳鼻そぎ落とされてぇ。こういう死に方はしたくねぇよなぁ。指が惨いよな。両手両指に五寸釘がびっしり打たれてる。どうゆう拷問だよ、コレ。」
■3日目(月曜日)
学校で一番ほっとできる時間と言ったら、やはりお昼だろう。
いつものようにみんなの机を寄せ合い、みんなのお弁当を並べる。
「あらぁ! 魅音さんのお弁当が、今日はなかなか見事でございましてよー!」
「……品数がいっぱいで豪華豪華なのです。」
沙都子と梨花ちゃんが魅音の弁当を見て歓声をあげている。……どれどれ。お!
「昨夜の残りをちょっと詰めてきただけだよ。うちで昨日、村長たちが酒盛りしててさ。それで残り物をちょいと取っておいたってわけ。」
「あはははは、それでお酒のおつまみみたいなおかずが多いんだね。」
「…ふーん。…残り物、つまりは残飯とは言え、これだけ綺麗に弁当箱に収められてるとなかなかの迫力があるな! 高級料亭の懐石弁当みたいだ!」
「人の印象のほとんどがファーストインプレッションで決まるようにさ。やっぱりお弁当の味も、蓋を開けた時のキレイさに比例するんじゃないかな、って!」
<魅音
「魅音さんってガサツそうな性格に見えて、結構こういう盛り付けのセンスがいいんですのよね。」
「お部屋もいつもキレイに片付いてるし。魅ぃちゃんはみんなが思ってるより、ずっと几帳面で丁寧な人なんだよ!」
<レナ
…胃袋に入ればみんな同じ!
なんて言い出しそうな魅音にこんなセンスがあるとは。
……うぅむ。人は見かけによらないものだ。
魅音って、何をやってもソツがない。
…油断もなければ隙もソツも一切ない。なるほど、我が部の部長なだけはあるよな!
「……レナのお弁当も見劣らないのです。カニかまぼこのお花がとてもキレイなのですよ。」
「レナの弁当って、何て言うか、いつも芸が凝ってるよな。リンゴのうさぎさんとか、ニンジンの花びらとかさ。」
レナの弁当には味だけじゃない、…その、何ていうのかな。心みたいなものが入ってるんだよな。おいしいだけじゃなく、こう、胸が温かくなるというか。
「あははは! ありがと。魅ぃちゃんにはちょっと及ばないけど、はぅ、かぁいいかなって!」
「料理は技術じゃなくて愛情でしょ。その意味でだったら、私なんか足元にも及ばないって!」
愛情か。…うん。確かに、見ているだけで、作ってくれたレナの一生懸命が伝わってくる。そんなお弁当だ!
「お弁当ってのは味だけでなく、見た目も大事ってことですわね。私たちも見習わないといけませんわね。」
「ほー。で、その見習わなくちゃならない沙都子たちの弁当はどうだ! お…?!」
「……じゃーん。」
「をっほっほっほ! 昨日、ご近所さんにお裾分けのお肉をもらったので、今日は焼肉弁当なんでしてよー?」
これはまた…すごい迫力だな!!
ボリュームたっぷりの焼肉がぎっしり!
一見すると女の子のお弁当にしては迫力あり過ぎだが、仲間みんなで食べることを思えば、食卓の彩りとしては充分過ぎる!!
「へー。…粗雑な体育会系弁当と見せかけて、おかずの品数も結構あるみたいじゃない。ほうれん草のおひたしとか、ひじきの煮物とか。」
「梨花ちゃんは、こういう気取らない家庭料理がとても上手なんだよね。…うん、梨花ちゃんは将来、立派なお嫁さんになれると思うよ!」
「……未来の旦那さまを鷲掴みなのです。」
…梨花ちゃんの旦那さんか。
………一見、すごく魅力的な響きがあるが……。うん、一筋縄では行かない夫婦生活になるような気がするぞ…。
しかし、みんなすごいよな。
まだ全然若いのに、しっかり自炊できている。
俺も家族でデイキャンプに行くたびに、そこそこの料理の真似事はしてるけど…日々のおかずを作るなんてレベルには到底及ばない。
所詮はレジャーとしてのお料理程度だ。
そうやって思うと、みんな大したもんだ。
率直に尊敬するぞ。
………ん?
…あれ?
…何だか他人事ではない気がしてきたぞ…?
…そう言えば、今朝、寝ぼけながら朝食を食べている時、…お袋が何だかとんでもない話をしていたような………。…あ。
「あ、……あああぁーーーッ!!」
俺が素っ頓狂な声をあげて、突然立ち上がったので、みんなが一斉に驚く。
「…どど、どうしたのかな? かな?!」
「げほげほッ!! 急に大声を出すからむせてしまいましたですわー!!」
「……沙都子のお鼻からご飯粒が出てますです。」
…忘れてた。
…自炊って話は…他人事じゃなかったんだ…!
「圭一。お父さんとお母さんね、またお仕事で東京に行って来なくちゃならないの。」
「…ふ〜ん。…そー…。ふぁあぁ〜……、眠……。」
「お父さんの先生にあたる人がね、イベントの直前で倒れちゃったの。とても大切なイベントなんでね、どうしても穴があけられないのよ。」
…親父の仕事なら仕方ないよな。…むにゃむにゃ…。
「それでお父さんとお母さん、そのイベントのお手伝いのために大至急、東京に行かなくちゃならなくなったの。場合によっては何日か泊り込みになっちゃうかも。」
…それは大変…。ふぁ〜あ…。
「その間、お母さんたち、いないからご飯とかみんな圭一が自炊しなくちゃならないんだけど、…圭一は大丈夫?」
「……大丈夫大丈夫。…人間、追い詰められたら何でもできるんだから…。」
「そう? なら安心ね。ご飯くらいは炊けるでしょ? お味噌汁も作れるわよね。あとは適当にお惣菜を買ってくればご飯らしくなるから。」
ご飯?
…うん。飯ごうでならご飯は炊けるよ。…炊飯器は使ったことないなぁ…。むにゃむにゃ…。……味噌汁は、ポットのお湯で作れるインスタントしか作ったことないし…。でもまぁ何とかなるよ、何とか…。むにゃむにゃむにゃ……。
「自炊できるなら、置いていくお金は少しでいいわよね? 外食は高いからしちゃダメよ? 圭一もそろそろ自炊と経済観念を学んでもいい頃だからね。」
…うんうん…。何とかなる、何とかなる……。
「何とかなるかああぁあぁぁッ!!」
俺ってヤツは…寝ぼけてなんてとんでもないことを安請け合いしてしまったんだぁ!!
こういう時、マンガの主人公たちが決まってそうするように俺もまた、仰け反りながら、頭をバリバリと掻き毟る! バリバリ!!
「ふぅん。圭一くんのご両親って大変なんだね。
圭一くん、しっかりお留守番をしてなきゃね!」
「そ、そんなことよりメシだメシ!! 親がいないんだぞ、全部自分で作らなきゃならないんだぞ?! これは超緊急事態だぁああぁ!!」
「それなら覚悟を決めて、自炊なさればいいではありませんの。圭一さん、以前のカレーパーティーで見事なカレーを作って見せたではありません?」
「あ、…あのなぁ。俺に作れるのはデイキャンプでお袋に教えてもらったカレーがせいぜいなんだよ…! 三食カレーなんか食えるかよ!! カレーなんて所詮はジャンクフード!! 栄養バランスなんてカケラもない、実にいい加減な…、…むぐ!」
「ば、ばか、シーーーーッ!!」
<魅音
魅音と沙都子が俺の口を手で塞ぐ!
その瞬間、ガラガラと教室の戸が開き…カレー狂で名高い知恵先生がにゅっと顔を出した。
「……今、誰かカレーの悪口を言っていませんでしたか?」
「「「いいい、言ってません、言ってません!」」」
全員で真っ青になりながら、ぶんぶんと顔を振って否定する。
ぎょろりと教室を嘗め回すように睨みつける先生の眼差しはもはや尋常ではない…!
「…………そうですか? …空耳でしたか…。」
先生はもう一度、教室をぎょろりと見渡してから、
戸を閉め、再び職員室に戻っていった…。
…いくら俺が叫んだとは言え、廊下向こうの職員室からそれを聞きつけるのだから…、先生、恐るべし…。
「…圭ちゃん。他の食べ物はいくらこき下ろしてもいいけど…カレーだけはやめた方がいいよ。雛見沢に住んでいる内は!」
「……ぅぅぅ、すまん。反省します……。」
とは言ったものの…。やっぱり…三食カレーってわけにはいかない。
カップラーメンなんかはたまに食べるからおいしいのであって、三食食べたら、絶対に飽きるに決まってる。
やっぱり…、ご飯に味噌汁に、おいしいおかずがあってこそ、日本人の食卓だ。
「圭一くんもがんばって自炊してみればいいのに。自分で作ったご飯ってとってもおいしいんだよ。」
「おじさんはおいしいってより、面倒くさいけどなー。
でも、たまにはそういう経験もいいかもね!」
「そうそう! 人生、何事も経験でございましてよ?」
「……お指を切ったり、火傷をしたりでかわいそかわいそなのです。」
…みんなに励まされている内に、俺もやればできるかもしれないという気になってきた。
(若干一名、励ましてなかった気がするが…)
一人暮らしの夢を持つ俺としても、自炊はいつかは身に付けなくてはならない技術だ。
……これを機会に勉強してみるのも悪くない…?
……かなり不安ではあるが…。
「そうだな…。この辺で多少の料理くらい会得しておかないと、今度部活で料理勝負になったときが辛い。」
「をっほっほっほ! そうですわねぇ!
いつぞやのカレー勝負のような奇策は何度も通用しませんでございますしねぇ!」
沙都子が小馬鹿にするように、かつての起死回生の大勝負だったあのカレー勝負を嘲笑った。
「何を余裕ぶってやがるー! あの時だって、沙都子は梨花ちゃんに任せっきりだったじゃないかー!! あの時、沙都子がした料理は何だ?! レナのカレーに塩を一袋入れて、魅音のご飯に塩を一袋入れて、…俺の鍋をひっくり返しやがってー!!」
以前のカレー勝負の時の因縁が再発!!
取り合えず、納まりのつかない怒りを、沙都子の耳をつねり上げて鎮める。
「いだだだだだだ!!
あれは部活だからの攻撃なんでございましてよー!! 私だってこう見えても、ちょっとはお料理とか出来ましてよー!」
「ほー!! あのカレー勝負の時、梨花ちゃんに任せっきりで、ニンジンの皮ひとつ剥かなかったお前がかー! 片腹痛いわー!!」
「人間は日々進歩してますのよ?! 私がいつまでもお料理が下手っぴだと思ってると大間違いなんでしてよー!! ねぇ、梨花!」
「……ボクが見てないと、お鍋とか火元とか不安なのです。たまにガスの元栓も閉め忘れてるのです。」
わっはっはっは!! みんなで大笑いする。
「火元は料理以前の問題だ!! いくら俺でもそれだけはない!」
「カップラーメンばかり食べてる人に言われたくありませんわー!!」
「でもでも…、沙都子ちゃんも、そこそこにはお料理とか出来るんだよ?」
「いいぞレナ、こんなヤツのためにわざわざフォローなんかしてやることはないんだぞ。」
「いや、別にフォローってわけじゃないよ。梨花ちゃんがずば抜けて料理がうまいから目立たないだけでさ。沙都子だって、まぁ基本くらいはマスターしてるよ。ね?」
「……少なくとも、ご飯とお味噌汁くらいは作れますです。」
「うーん、カリフラワーとブロッコリーの見分けはつかないけど、ね☆」
「ど、どっちも茹でれば食べられるのは同じですわーー!!」
沙都子が憤慨して、両手にゲンコツを作って振り上げる。あとはみんなで大笑いだった。
「わっはっはっは!! がーっはっはっはっは!!」
<圭一
「むがーー!! 他の人にならともかく! 圭一さんに笑われるのだけは我慢がなりませんですわー!!」
「がっはっはっは! 確かに俺は他のみんなよりも料理技術は劣るかもしれない。だけどな、少なくとも沙都子にだけは負けない自信はあるぞ! 少なくとも沙都子にだけは!」
「な、なんですってぇええぇえ!! 言うに事欠いて自信があるとは…片腹痛くて笑っちゃいますわー!!!
こう見えても、私、梨花と交替でご飯をちゃんと作ってますのよ?! ちゃーんと自炊くらいできるんでございますからねー!!」
「そうかそうか。自炊が出来てえらいな〜。あとでご褒美にアメ玉買ってやるからな〜。」
小馬鹿にして、沙都子の頭をわしわしと撫でてやる。
…沙都子も馬鹿にされてるのがわかるらしく、見る見る内に顔が真っ赤になって、やかんのように湯気が出始める。
「むがーー!! 全然信じてませんのねー?! とにかくとにかく! 圭一さんより私の方が全然、お料理が上手なんでございますのよー!!」
「ほー。じゃーカリフラワーとブロッコリーの違いを言えたら、俺も信じてやるぞ。ほれ、言ってみろ。」
「……ぅぅぅぅ、…えっと、……。緑の方がブロッコリ…。……えっと、じゃなくて……黄色い方……。カリフラワが…、赤…、青…、……緑……。…ぅぅぅぅ…!!」
「ほれほれ。ブロッコリーは何色だ。赤青緑って、テレビのブラウン管じゃあるまいしー! ほれほれ、言ってみろ言ってみろ!」
「…………ぅぅぅぅぅぅー…!!!」
「別にブロッコリーが何色かわかんなくても沙都子ちゃんはお料理ができるんでちゅよね〜。えらいえらいでちゅよ〜〜!!」
「…わぁああぁあぁあああぁんッ!! 圭々のばかぁー!! わああぁああぁあん!!」
そんな、全力で泣くこともないだろうに。
…いちいち可愛いヤツめ。
思いっきり頭を撫でてやる。わしわしわし…!
「ほ〜ぅ。圭ちゃんもそこまで言うからには、沙都子よりはまともなものを作って見せられるんだろうねぇ…!」
魅音がちょっぴり嫌味な顔で笑いながら俺に問いかけた。
実際は、まぁその…、自炊の自信なんか全然ないのだが。何となく流れで大見得を切っておくことにする。
「まぁ見ていろ。
今夜、俺はばっちりがっちり見事な晩飯を作ってみせる! 少し余計に作って明日の弁当にしてくるからそれを見て腰を抜かすがいい!!」
「……それは楽しみなのです。明日のお弁当が待ち遠しいのですよ。」
梨花ちゃんが俺の頭をなでなでする。
…ぅぅ、待ち遠しいという言葉が実に白々しく聞こえるぞ…。
「あはははは。レナも楽しみにしてるね! どんなのを作ってきても、レナは笑わないからね!」
「となると…、明日の弁当は私も本気で作らなきゃならないようだね。
…じゃあこうしようか!
明日のお弁当で勝負ってのはどう?!
もっちろん部活扱いだからね! 罰ゲームも付いちゃうよー?!」
「あらぁ、それは妙案でございますわねぇ!! どうです圭一さん? 退くなら今のうちでしてよ?」
沙都子が涙を拭き、逆転のチャンスとばかりに牙を剥く…!!
……う、…………ちょっと…ヤバイかも…?
何だか話が…いつの間にか大盛り上がりしてきているぞ…。
あ、謝るなら…今のうち…?
だが、男、前原圭一の口から出たのは、本人である俺自身でもビビってしまうような、あまりに無鉄砲な一言だった。
「あぁ!! 上等だぜッ!! 明日の弁当を見て腰を抜かすなよッ!!」
「「「おおおぉぉ…!!!」」」
俺の自信たっぷりな返答に、みんなが驚きの声をあげる…!
……あぁぁ…言っちまったぁぁぁ! 俺ってヤツは…何て無責任なことをぉぉ…!!
「さて魅音さん? ビリになったらどんな素敵な罰ゲームになってしまうんですの?」
沙都子が不敵そうにニヤリと笑う。
…その素敵な罰ゲームは、すでに俺に内定しているとでも言わんばかりだ。
「…くっくっく…。そうだねぇ。
…じゃあこんなのはどうかな?
…明日のお弁当勝負に負けた人は、……明日のお昼休み、職員室で食事中の知恵先生の前で、…カレーの悪口を言うってのはッ!!」
「み、魅ぃちゃん!! そ、それは……!!!」
「…なんて、……お、恐ろしい…ッ!!」
<沙都子
あまりの恐ろしい罰ゲームに…、全員が青ざめ、口をぱくぱくさせる…。
…知恵先生って、人生をカレーに賭けてるようなカレー狂…。
その人に対して…カレーの悪口を言う…だって?!
どんな末路を辿るのか…。
想像することすらコワイ。
あまりに恐ろしい罰ゲームに、…みんなが呆然とする中、梨花ちゃんがボソリと言った。
「……明日のお弁当は腕によりをかけますです。」
レナも魅音も沙都子も。みんな深々とうんうんと頷く。
「もっとも、圭一さんには、明日のお弁当以前に、今夜のお夕食の方が問題でしょうけどねぇ…。
をっほっほっほ!」
「はん! 俺が今夜、どんな素晴らしいディナーになるか、見ることができなくて残念だな!! 明日の弁当でその片鱗をほんの少しだけ見せてやるから楽しみにしていろよ!!」
「あれだけの大見得をきったんですのよ。…これでとんでもないのを作っちゃったら、どうなるかわかってるんでございましょうねぇ?!」
「くっくっくっく!! 沙都子こそ、明日、知恵先生にどんな恐ろしい目に遭わされるか…今から楽しみで仕方ないだろう!! くっくっくっく!!」
「えぇ、楽しみでしてよー!! 明日、圭一さんはきっと土下座して、それだけはどうかご勘弁を〜!! って泣きながら言うんでしてよ!! あぁ、目に浮かぶようですわー!!」
「にゃ、にゃにをーー!!!」
ぐに!
「むがーーーー!!!」
ぐにぃ!
互いに半涙をこぼしながら、相手のほっぺをつねりあう…!!
ぐにぃ!
「あっはっはっは! 自らを窮地に追い込むことで死力を振り絞ろうとは…。圭ちゃん、男だねぇ!!」
「こんなの男なんて言いませんのよ! ただの無鉄砲って言いますのよー? 自分もお料理なんかろくろく出来ないクセにぃー!
ぐにぃー!!」
「あはははは。レナは信じてるからね! 素敵なお弁当、楽しみにしてるよ!」
「……ボクも、明日の圭一がとても楽しみなのですよ。」
…みんなの期待の眼差しが痛い…。
……ちょっと沙都子をからかうだけのつもりが……どうしてこんなことに…?!?!
「お、…おぉ…。楽しみにしててくれよ…! あっはっはっはっは!!」
ああぁー…! 俺ってヤツは…、どうしてこうも無責任なことを言っちまうんだぁぁぁ!
こんな無茶なこと言っちゃって…、一体、俺の夕飯はどうなってしまうんだ?!
そして明日の弁当勝負は?!
いや、それより…先生の前でカレーの悪口なんか言わされたら…どういうことになってしまうんだぁあぁぁああぁ…ッ!!!
空威張りする表の俺と、泣き叫ぶ内側の俺との対比があまりに両極端な、蒸し暑い6月のお昼だった…。
■放課後
その日は一日。
…放課後になるまで、ずーーっと。…今晩のおかずのことと明日の弁当のことばかり考えていた。
…こうして思うと、
…一年中、三食の献立を考えてるお袋は偉大だ。
…たまに同じメニューが続くだけで文句を言う自分が、いかに失礼かよくわかるぞ…。
あぁあぁ…、そんなことより…、明日の罰ゲームはどうなっちゃうんだよーぅ…。それよりも今夜、俺は何を食えばいいんだぁ…?
とほほほ……。
「圭一くん? 圭一くん…?」
「…え? あ、ごめん…。ちょ、ちょっと考え事を…。」
「今夜の献立のこと? それとも明日のお弁当勝負のことかな?」
…う。……図星を突かれ、言葉に詰まる。
そして、図星を突かれたことが一目でわかるような表情を浮かべてしまう。
「明日の勝負は、きっと、圭一くんががんばってお弁当を作ってこれたら、それで大丈夫だと思うよ。がんばって作った手作りのお弁当に優劣なんかないもの。」
「……明日の勝負以前に、今夜の晩飯だよ…。食中毒でばったりいくかもしれない…。」
もう強がりなんて言ってられない…。
大仰に肩を落とし、腹の底からため息を吐き出して見せた。
そんな仕草を見て、レナがけらけらと笑った。
「やっぱり圭一くん、お料理、全然自信なんかなかったんだね。あははははは。」
やはりバレてたか……。ぅぅぅ…。
「もしも圭一くんがどんなにがんばっても無理そうだったら、レナに電話してもいいからね。」
「え…、ほ、本当か…?!」
「圭一くんがちゃんとがんばったら、だよ? 何も苦労しないで人に頼ろうとしちゃダメなんだから。」
レナって甘そうに見えて、時々教育的だよな。無条件に甘やかしてくれるわけじゃない。そんな時のレナは少し大人びて見える。
「…どうしてもダメだったら電話するよ。…その確率は極めて高いが。」
「ファイト、おーだよ! 沙都子ちゃんにあれだけ大見得を切ったんだから、がんばらなきゃ、ね!」
「なぁ、沙都子って、…どの程度の料理ができるんだ…?」
「あははは。少なくとも圭一くんよりはできるよ。」
あまりに直接的。…かなりグサっとくる。
「沙都子ちゃんをあれだけいじめたんだから。…圭一くんはちょーっぴり苦労をしてもいいかも、ね! くすくす!」
「……うぐぐぐぐ…。レナって…結構、意地悪なのな…。」
「レナはかわいいだけじゃないんだよ? だよ? あっはははははは!」
あぁぁぁ…、沙都子をあれだけ挑発した以上、粗末な弁当なんか作れない…。
あぁあぁ…俺は…何て軽口をぉ…!
「じゃあね。がんばってね。お料理! 圭一くんがやれば出来るってこと、みんなに見せてあげようね!」
「お、…おぅ…。」
頼りなげに手をひらひらと振って応えてやる。
…レナは励ましの言葉と、料理の超初歩のアドバイスをいくつか残しながら、木立の向こうに消えて行った…。
■いざ、自炊!
ヤケクソもここまでくれば上等だ。
……航海術のイロハもなく、海図もなければ羅針盤もない。
…にも関わらず、大料理時代の大海原に単身挑むバカが一匹!
その名は…前原圭一!!
「よぅし!! いざ、…料理ッ!!!」
意気込みだけなら天下一品! 気合と無鉄砲さだけでなら天下を取ってやるぜぇ!!
………だが。
世の中、覚悟だけじゃどうにもならないものがたくさんある。
…料理などはその最右翼と言っていいだろう。
ならば、付け焼刃であろうとも…せめて何かの助けが欲しい!
思い立ち、台所の戸棚を漁る。
…探すのは料理の本だ。お袋も何冊かそういうのを持っていたはず……。
完全に素人の俺には、まず情報が必要なのだ。
大海原を越えようとする者に羅針盤が必要なように。
俺にはお料理の本は絶対に不可欠!
…お、あったあった。
使い込んでよれよれになった辺りに、何だか頼りがいを感じてしまう。
…よし! これさえあれば………!!!
「…なぁんだ。考えるより生むが易しだな〜。お料理の本さえあれば、誰だってシェフの味が出せるじゃんよ〜☆ さすがはお料理の本〜……。」
………なんて、楽観的な期待を胸に、
ページをめくる。…………だが。
「…………………………ぅぉぉ。」
…様々な専門用語に翻弄され、さっぱり作り方が見えてこない。
……あぁ、…わかっていたさ前原圭一…。
……本を読むだけで、誰でもおいしく作れたら、…そもそもシェフなんて職業はいらないんだよ…!!
第一、この小さじ3杯の小さじって、…一体どれのことなんだぁ?!
それよりも、このあちこちに出てくる、お好みで適量にって表現!! 具体的にはどのくらいが適量なんだぁぁ!! 漠然なんて抽象表現使われても!! さっと水切りして…、塩コショウで味付けぇ…?? さっと、ってどのくらいだよ! 水切りって、…包丁で水滴でもちょん切るのかぁ?! あぁそれよりも塩コショウの量はどのくらいなんだよぅ!!
「うっがああぁああぁぁあぁ!!
もっと初心者にやさしいマニュアルはないのかぁあぁ!!」
どなっても仕方ないだろ…。
…落ち着け前原圭一…。冷静に冷静に……。
と、とりあえず…おかずは後回しにしよう。
…それよりもご飯だ。
ご飯を炊かなきゃ始まらないよな…。
ご飯なら少しはわかるぞ。
よくデイキャンプで飯ごうでご飯を炊いたもんな。
お米をといで、……水はこのくらい。
……で、…どのスイッチだ…?
このボタンかな?
お、ランプがついた!
うんうん、全自動炊飯器はやはり三種の神器だよな…!
炊飯器のセットに気を良くした俺は、気を取り直して今度は味噌汁に挑むことにする。
デイキャンプでは味噌汁はいつもインスタントだったからな…。
まぁ多分、味噌をお湯で溶かすだけで何とかなるに違いない。
…お湯を沸かして…、味噌を入れて。
……あれ?
量はどのくらいなんだ?
「何々…。…人数とお好みで適量に…? …またしても抽象表現かぁあぁあ!!!
あぁ、それなら適量に入れてやるさぁッ!!」
思い切り味噌の袋を握りつぶし、中身の半分ほどを鍋に入れてみる!
ほ、本当にこれでいいんだろうか…?
ちょっと豪快過ぎやしないか…?
「…うんうん。濃厚なお味の味噌汁がいいって言うもんな。そう言えば、お袋の味噌汁は少し薄すぎる気がしてたんだ。俺にはこれくらい入れた方が合うかもしれない!」
自分で自分を納得させるように、わざわざ口に出して言う。
そして、自分の言葉に勝手に納得し、ひとりで何度もウンウンと頷く…。
よし、これでご飯と味噌汁は(多分…)大丈夫だ。…次は……いよいよおかず!!
でも…何を作ったらいいだろう…。
俺に作れて…、晩飯としての彩りもあって…。……う〜ん………。
そうだ、野菜炒めなんかはどうだ?!
野菜なんて生でも食えるし、多少火が通ってなくても死ぬことはなさそうだ…。
…早くも、晩飯としての体裁よりも、食えればいいというレベルにまで落ちていることに気付かない俺が無性にかわいい…。
野菜は冷蔵庫の中に結構いろいろと入っていた。
……うーん、野菜炒めってどんな野菜が入ってるんだっけ…?
もやし? キャベツ? ニラ? 玉ねぎ? キュウリやレタスは入ってたかな…?
取り合えず、手当たり次第にまな板の上でザックザックとぶつ切りにし、それを中華なべに放り込む。
なんだか豪快になってきたな…。
男の料理の真骨頂? お、何だか楽しくなってきた…!
いつの間にか中華なべは野菜で山盛りだ。
よし、次はサラダ油だよな!
サラダ油をどぼどぼどぼ…。
なみなみと注いだ方が豪快だよな。…おっと、溢れてしまったぞ…。まぁこのくらいで気にしてはいけないな。
男、前原圭一の料理は豪快なのだ!
では火を付けよう。………ボン!
をおぉおぉお…。中華なべになみなみと注いだサラダ油に引火して…炎が空高く…!!
「す、すげぇ!! 何だか俺って鉄人って感じ…!! 俺ってひょっとして炎の料理人なんじゃあ…!!!」
口に出す言葉というのは魔性だ…。
とんでもなくいい加減なことを言っているのに……口に出して言うと、何だか勝手に納得できてしまう…!
「がっはっはっはっは! そうさ、俺は料理の鉄人ー!! …アチチチ!!」
…ドハデな炎の柱が天井を焦がし始めた頃、
目の前の素敵なクッキングが、実は致命的な災害に至ろうとしていることにようやく気が付く…。
あ…れ? ……ひょっとして。……俺って、…とんでもないことをしてる…?
火勢が何だかどんどん強くなり…、あれれれ……あ、れ…??
「ぎゃ、ぎゃあああぁああぁあぁぁッ!!! な、何をしてるでございますのー!! 早く火を止めなさいですわーーッ!!」
ぱかーーーん!! 誰かが俺の後頭部を思いっきり叩く!
何事かと振り向くと、何とそこには沙都子と梨花ちゃんがいた。
「へ?! 沙都子? 梨花ちゃん…?」
思わぬ登場に唖然としていると、沙都子は俺とドンと突き飛ばし、まずガスを止めた。
梨花ちゃんは布巾を水に浸し、それを広げて鍋にかける。
どんどん布巾を濡らして、2枚、3枚とかけていって…。
それを何枚か重ねたところで、ようやく火は治まった。
……あっという間の出来事だった。
危機一髪のところで大火災を免れ、3人でぜーぜーと肩で息をする…。
「…って、お前ら、何で俺のうちにいるんだー!! 住居不法侵入だぞー!!」
「それを言うなら圭一さんなんか、放火の現行犯でございますのよ?! もうすぐで大火事になるところだったではございません?!」
「……圭一は今日から宿無しでかわいそかわいそなのです。」
鉄人気取りの俺にも…、そろそろ事態が飲み込めてくる…。
「………う、…や、やっぱり…あれは火事になりかけてた…?」
「当り前でございませんのー!!! ほら、御覧なさいませ!! 天井が煤けてるではございません?! 煤けていいのは男の背中だけですのよー!!」
沙都子にかなり本気で怒られる。
……ひょっとして、俺って命を救われたのかも…。
話を聞いてみると…。
俺が放火的料理に没頭していたので、沙都子と梨花ちゃんが鳴らしてたチャイムに気付かなかったらしい。
でも人の気配はしてたので、様子を見にあがってきたのだそうだ。
……あがって来てくれて…よかった…。
「……ボクと沙都子が来なかったら、今頃、ボーボーで消防車がウーウーなのです。」
「圭一さん、そろそろ事の重大さが飲み込めまして?」
いつの間にか正座して、神妙に話を聞いている俺。
「う…。…す、…すみませんでした。…皆さんは命の恩人です……。」
「素敵なディナーがどんなものかと来て見れば! 案の定、このザマですし! これじゃあ、出来上がりを見るまでもありませんわねぇ!」
「…う、嫌味なヤツ。…じゃあ沙都子たち、俺が夕食にどんなものを作るか、見に来たってわけか…!」
「その嫌味に命と家を助けられたの、よーく肝に銘じた方がよろしいのではありません?」
「…ぅ……。ぅぅ、はい、すびばせんでした沙都子さん……。」
もう、こんなザマを見せちゃ、今さら空威張りなんかできないよな…。もう完全に降参だ…。
「カレーの時は結構、頑張ってましたのに。あの時の圭一さんはどこに行ってしまいましたの? まったく!」
「ぅぅ…、あの時は、後輩諸君に手伝ってもらって、他の班の鍋を丸ごと借りただけで…、別に俺が料理したわけじゃ…。」
「圭一さん、そんなズルをしてましたの?!?! …まったく、いくら部活とは言え、とんでもない手を使いますのね!」
…他人の鍋に塩を一袋放り込む方が、よっぽどとんでもない手だと思うが…、今は沙都子の方が優位なので、何を言い返すことはできない。大人しくうな垂れて見せる。
「…ところで圭一さん。…この凄まじいお鍋。…まさか味噌汁だなんて言わないでしょうねぇ…?」
凄まじい形相でお味噌たっぷりどっぷりの鍋を凝視する沙都子…。
あぁぁ、やっぱり…分量が間違ってたかなぁ…。
沙都子の表情から見るに…あの鍋は到底味噌汁と呼べるべきものではないようだ…。
「み、味噌汁はともかく、ご、ご飯はうまく炊けたはずだ! 最近の炊飯器は便利だからなぁ! きっとそろそろ炊けてる頃だ…!」^
「……みー。炊けてないです。ほら、まだ中身も全然お水なのですよ。」
「え? あれ?! だって、ちゃんとスイッチを入れたらランプが点灯して…!」
「…圭一さん。あなたが押したボタン。…これ、タイマーのボタンですのよ? 朝食用にセットしてあるから…電源が入るのは明日の早朝でしてよ?」
「ぎゃ、ぎゃああぁああぁああぁあ…!!
ってことは何か?! 俺は結局…、おかずは元より、味噌汁も!
ご飯すらも!!
何も自炊できなかったってことかぁああぁあぁ!!!」
「をーーっほっほっほっほっほ!! ざまぁありませんわねぇ!! どうです? ようやく身の程を思い知りまして? さぁ!! 認めなさいませ!! 私、前原圭一は北条沙都子さんよりもお料理の下手っぴな口先男でしたーって!!」
「みぎゃあああぁあぁあぁあ!! 私は沙都子より料理の下手っぴなダメダメ男でございましたー!!! どうもすみませんでしたーー!!! うがああぁあぁあ!!」
悶絶する俺。
それを見て満足そうに頭を撫でる梨花ちゃん。
…そして勝ち誇ったように高笑いする沙都子。
…あぁぁぁ……、俺さま、完全敗北ー…!
…結局、俺は大口叩いて、晩飯ひとつ満足に作れなかったわけだ。
このままじゃ今晩はメシ抜き…。
明日の朝もメシ抜きだし、弁当だってなしだ。
…親が帰ってくるのが何日後だか知らないが……、このままじゃ間違いなく…。
「う、飢え死にだぁあぁあぁあぁ…!!」
「み〜〜〜〜〜〜♪!!!」
「もちろん、明日の弁当もなし!!」
「み〜〜〜〜〜〜♪♪!!!」
「そして明日の罰ゲームも俺で決まり!! ぎゃあああぁあぁあぁあ!!!」
「み〜〜〜〜〜〜〜♪♪♪!!!」
梨花ちゃんはこれ以上ないくらいの満面の笑顔で、俺の頭をいつまでもいつまでもなでなでしてくれていた…………。
その無様な姿を見て、すっかり呆れ、大きなため息を漏らす沙都子。
「…大の男が情けないったらありゃしませんのねぇ。……ほら! おどきあそばせ!」
沙都子は女々しく泣いている俺を不機嫌そうに押しのけると、味噌汁の残骸の鍋を流しの三角コーナーに捨て、鍋を洗い出した。
「い、いいよ沙都子…。自分の後片付けくらい俺がやるよ…!」
自分の散らかした食器を沙都子に片付けてもらうことなんかない。そう思い、沙都子を制しようとした時、梨花ちゃんが俺の服を引っ張った。
「……圭一は黙って見ているといいのですよ。」
そう言ってにっこり微笑む。
「だ、黙って見てろって、…なに言ってるんだ梨花ちゃん?!」
「…まぁそういうことですわね。圭一さんは黙って私に任せればいいんですのよ。」
沙都子が振り返り、面倒くさそうにそう言い放つ。
…素人は引っ込んでろとでも言わんばかりだ。不機嫌そうな表情がちょっと怖い。
「任せるって、何を…、」
沙都子はそれには応えず、くるっと背を向け、鍋やら冷蔵庫の中身やらを漁り始めた。
「おいおい…、あんまりいじり回すなよ…! ひっくり返したりしたら、俺が後でお袋に怒られるんだからな…!」
「うるさい男ですわねぇ! 男子、厨房に立ち入らずでしてよ? 梨花ぁ!」
「……あいあいさーですよー。」
沙都子が指を弾いて合図すると、梨花ちゃんが背伸びして俺の襟首を掴み、ずるずると引っ張っていく。あぁぁ…。
沙都子ひとりを台所に残し、俺は梨花ちゃんに引きずられて居間に戻ってきた。
「おいおい…、梨花ちゃん。もう離してくれよ…! 沙都子に任せたら台所が大変なことに…!」
「……今日の沙都子は圭一を見返しに来たのですよ。復讐なのです。」
「ふ、復讐…?! そう言えば…沙都子のヤツ、どこか険しい顔を……。」
その内に、台所から、蛇口をひねる音やガス台のひねる音。
冷蔵庫の開閉する音やまな板の音といった、夕食時を連想させる懐かしい音が聞こえ出してきた。
ってことは何だ。沙都子のヤツ…、料理をしてる??
「……圭一にいっぱいいっぱい馬鹿にされましたですから。沙都子は、自分にもお料理がちゃんとできるところを圭一に見せたかったのですよ。」
「…う。……こうして音だけ聞いてる限りでは…。お皿を落とす音も、破裂音も爆発音も聞こえてこないな…。」
…少なくともこの時点で、俺よりも料理は達者なことは証明されている。
北条沙都子バーサス前原圭一の料理勝負は…早くも勝負アリみたいだ…。
もう一度、さっきの少し不機嫌そうだった沙都子の表情を思い出す。
「…俺、日中、沙都子のことをちょっと馬鹿にし過ぎちゃったよな…? ひょっとして……、それで根に持たれた…?」
つい、沙都子をいつものノリで売り言葉と買い言葉で挑発してしまったが。……言い過ぎだったようにも思う…。
…少なくとも、レジャーでしか料理をしたことがない俺が、自炊できる沙都子を馬鹿にしていいはずがなかったのだ…。
「……沙都子はそんなの根に持っていませんです。」
「でも、こうしてわざわざ俺のところまで押しかけてきた位だろ。…やっぱり、怒ってるに違いないよ……。」
そっと台所をうかがう。
普段のおっちょこちょいな沙都子とはどう見ても雰囲気が違う。目つきも鋭くて動きもキビキビしていて、…ちょっとコワイくらいだ。
気取られたのか、こちらを振り返り、不機嫌そうにキッと睨みつける!
…俺はすくみあがって慌てて首を引っ込めた。
「怒ってる…! やっぱり怒ってる…! …あぁぁ、俺はどんな復讐をされるんだろう…! ああぁあぁあー…。」
「……沙都子は失敗したくないから真剣なだけなのです。怒ってなんかいないのですよ。」
「あれのどこが怒ってないって言うんだよ?! あんなおっかなそうな沙都子、初めて見たよー!」
「圭一さんッ!! ちょっと聞こえてますの?!」
「は、はいぃぃぃッ!!」
沙都子の怒鳴り声に飛び上がり、台所に向かう。
…悪さをして職員室に呼びつけられたいたずらっ子と、これじゃ何も変わらない。
「お味噌ってどこにしまってありますの?! 冷蔵庫がでっかくて、全然わかりませんですわよ!」
「すす、すみません!! 味噌はその…、冷蔵庫の中段扉の中の、下の網棚の左奥に…。」
「な、なんですのこれは!
お味噌のパックは使ったらちゃんと口を閉じなさいですわよ! 冷蔵庫の中がお味噌で汚れてしまってるではありませんのー!!」
「ぎゃぎゃ! すみませんん!!」
俺が何か拭くものを探すより早く、沙都子が濡れ布巾でキュッキュと拭き取った。
「まったく。男の人ってのはどうしてこう後片付けがずさんなんでございますの? そのまま大人になったらと思うとぞっとしましてよ?」
ぅぅぅ。…今日の沙都子には何も言い返せないぞ…。
大人しく頭を垂れて、ごめんなさいと言うしかない。
沙都子が小言を言い、それに謝ったり相槌を打ったりしている内に、…台所は次第にいい匂いで満たされ始めた。
「お味噌汁のお味噌はこう! おたまに少量を掬い取って、お箸で溶きながら! 少しずつ加えて味見をしながら慎重にですのよ。丸ごとひねり出してお鍋に開けちゃうなんて、言語道断でしてよー?!」
「ぅぅぅ、すみませーん! 家庭科の授業は真面目にやってませんでしたー…!」
「情けない! まったく。これだから男の人は! …ぶつぶつ。」
不機嫌そうな独り言にすっかり畏縮してしまっていたが。…こうして見てると、沙都子もなかなかに料理、達者じゃないか。
…レナや梨花ちゃんの芸術的手腕と比べるから霞んで見えるだけで。充分に及第点に値する腕は持っていることがわかる。
「さぁさぁ、そんなところでぼーっとしてる暇がございましたら、食卓にお茶碗の用意をなさいませー! 私も梨花も食べますから用意は3人分ですわよー!」
「あ、…はいはい!!」
あせあせと、食器棚から人数分の食器を出し、食堂に向かった。
■夕餉の食卓
戻るとテレビのバラエティ番組の笑い声が聞こえてきた。
梨花ちゃんがソファーに寝そべりながらテレビを見てくつろいでいるのだった。
俺が食卓に食器を並べ出すのに気付き、ぱたぱたとやって来る。
「……もうすぐご飯なのです。圭一の家でご飯なのです。にぱ〜☆」
「梨花ちゃんは上機嫌みたいだな…。沙都子の不機嫌とはえらい違いだ…。」
「……沙都子は全然不機嫌じゃないです。久しぶりに、とても楽しそうなのですよ。」
「楽しそう? あれがか?!」
「……沙都子がにーにーと一緒だった頃みたいです。こんなに楽しそうな沙都子を見るのは、本当に久しぶりなのですよ。」
…にーにー?
にーにーって何だ。猫の鳴き声???
「……にーにーは兄々(にーにー)です。沙都子のお兄さんなのですよ。」
「沙都子の、兄。」
「……悟史(さとし)と言いますです。名前くらい聞いたことがありませんですか?」
悟史。…北条悟史?
聞いたことがあるような、ないような。…少なくとも、うちの学校にはいないヤツだ。
「悟史って言うのか。沙都子の兄貴は。……ふーん。初めて聞いたな。」
兄なんかいたんだな。知らなかった。
いるのですよ。
そう言って、梨花ちゃんは一際明るく、にぱ〜っと笑った。
「……悟史と一緒にいる時の沙都子は、いつもこんな風で楽しそうだったのですよ。…本当に久しぶりに、こんな楽しそうな沙都子を見ますのです。」
どう見ても不機嫌そうにしか見えない沙都子だが…。親友の梨花ちゃんは、そんな沙都子をむしろ上機嫌だと言う。
「楽しそう、……なのか。」
「……きっと、にーにーと一緒だった頃を思い出してるに違いないのです。…懐かしいのですよ。」
「懐かしい? ふーん。じゃあ今は沙都子とは別居なのか。」
沙都子の兄の悟史って、ひょっとして結構年上なのかな?
とっとと独立して、遠方で一人暮らしでもしているに違いない。
「沙都子は、その悟史って兄と仲はよかったみたいだな。」
「……はい。とても仲良しな兄妹だったです。」
大きく両手を広げながら、仲の良さの尺度を示して見せる。
梨花ちゃんが言うには。
…大人しくて少し頼りない兄を、口やかましく支える沙都子。そういう関係だったらしい。
…なるほど。今の状況は確かにそれに当てはまるな…。
料理ひとつまともにできない頼りない俺と、それを叱りながら料理を作り直してくれる沙都子。
沙都子はひょっとして…。
……今は遠くに住んでいる兄の面影を、俺を通して垣間見ているのだろうか。
「いつもあんな感じで、悟史に小言を言いながら。…だけどしっかりと支えながら、仲良く生活してたんだな…。」
「……今日、圭一のところへ来たのだって。沙都子が言い出したのですよ。」
圭一さんみたいな頼りないのに夕食が作れるわけがない。行って作ってあげなければ、って。
「…じゃあ、…別に復讐とか見返すとか、そういう意味で来たんじゃなかったのか…。」
「……放っておけなかったのですよ。沙都子は、今でもしっかり者の妹なのです。」
俺は一人っ子だ。
兄弟のいる感覚はわからない。
…もちろん、沙都子のような妹など持ったこともない。
だけれども……。…今だけは大人しく、頼りなく沙都子に世話を焼かれる兄であろうと思った。
茶化したりふざけたりなんかはなしで。
…沙都子の苦労をねぎらえる言葉をかけてやろう。………純粋にそう思った。
「圭一さん! おしゃもじがどこにあるかわかりませんでしてよ!!」
「あ、ごめんごめん…!! しゃもじはその右脇の引き出しの中に…!」
台所に駆け込み、引き出しからしゃもじを出して沙都子に差し出す。
「さぁ、出来上がりでしてよ。もうお茶碗とかは準備できてますの?」
「あぁ。もう準備OKだぜ。」
「ではご飯にしましょうですわね。梨花ぁ! お夕飯ですわよー!!」
「…み〜〜〜♪!」
食堂から上機嫌の梨花ちゃんの声が聞こえてくる。
沙都子はガス台の火を止め、味噌汁の鍋を運び始める。
「圭一さんは炊飯器を持ってきて下さいます? ひっくり返さないように注意するんですのよ?!」
「あ、あぁ。気をつけるよ…。」
炊飯器くらい注意されなくったってちゃんと運べるよ…。
そう言い帰そうと思ったがやめた。
憎まれ口や買い言葉は今日はなしだ。
湯気をあげるご飯に味噌汁。
それから数品のおかず。
食卓の上は…、実に手堅い家庭的な夕食が並べられていた。
変に凝っていたり、豪華だったりしない。主婦が作る、日々の食事。…そんな生活感のあふれる、とてもさりげないものだった。
「では、いただきますですわよ。」
「「いただきまーす!!」」
沙都子の号令で、俺も梨花ちゃんも大きな声でいただきますをする。
「……俺、沙都子のことを侮ってたよ。完全に敗北だ。」
「をっほっほ! 少しは見直しまして? 梨花やレナさんに比べれば私もまだまだですけど、頼りない圭一さんなんかよりはよーっぽどお料理ができましてよ?!」
「へいへーい。お見それしやしたー。」
素直に負けを認めると、沙都子はようやく表情をやわらかくし、いつもそうするように大きな声で上機嫌に笑った。
「もぐもぐ…。…お、…ご飯、いい感じで炊き上がってるな。」
炊飯器で作っているとは言え、水加減が違うのか、いつものお袋のご飯とは少し違った。
だが沙都子の個性が感じられて、いつもよりおいしく感じる。
味噌汁も少し濃い目だったが、充分においしいものだった。
派手さこそないが、おかずも充分にうまい。箸が自然に進む。
「…おかずもよく出来てるよ。…沙都子も決して料理は下手じゃないぞ。」
嫌味ゼロで、素直な感想を口に出した。
沙都子は多少の嫌味は覚悟していたらしく、俺があまりに素直に褒めるので、かえって面食らったようだった。
「ほっほっほ…! 褒められるのは光栄ですけど、そんなに立派ではありませんのよ。
おかずはお惣菜屋さんで買ったものを温めただけですし。これとこれは缶詰を開けただけですし。自分でちゃんと作ったのは、…ご飯と味噌汁だけなんですのよ。」
ちょっと照れたような顔で、恥ずかしそうに言う沙都子。
…別に普段の悪口雑言にあるような嫌味は含まれていなかった。
「…ご飯とお味噌汁しか作ってませんけど、出来合いのおかずを並べれば、そこそこに立派にはなりますのよね。」
「うちのお袋だって、出来合いのお惣菜は使うし缶詰だって使うよ。そんなので恥ずかしがることはないだろ。……これは立派な夕食だよ。」
素直に褒めた。…会ったことはないが、きっと沙都子の兄、悟史ならそう褒める。
「……ふふん。…まぁ、私にもそこそこのお料理ができることがわかっていただけたのでしたら、それで充分ですわね。
御代わりいります? お味噌汁はまだありますですわよ。」
あれ…? こいつ、今ちょっと照れなかったか?
自分の対応が決して間違ってなかったことに気付き、ちょっと嬉しくなった。
「……こうしてご飯を食べてると、悟史と一緒にご飯を食べてるみたいで楽しいのです。」
梨花ちゃんは再び沙都子の兄、悟史の名前を出した。
……沙都子は箸を止め、天井を見上げる。
「…懐かしいですわね。一体今頃、どこでどうしてるやら。」
引越して別れた友人を懐かしむような、ちょっと遠い笑顔だった。
…その様子から、沙都子は悟史とはもうずいぶん長く会っていないような印象を受ける。
…俺がきょとんとした顔をしているのに沙都子が気付いた。
「あぁ、申し訳ないですわね。悟史ってのは私のにーにー、
…じゃなくってえぇと! 兄なのですのよ。」
「あ、…うん。そうなんだ。」
にーにーというのは沙都子ならではの兄の愛称らしい。慌てて否定する辺りが面白い。
「あんなに生活力のない人に家出なんて甲斐性があったなんてびっくりでございますけど。まぁその内、根を上げて、ひょっこり帰ってくるに決まってますわ。」
「………家出、したんだ。」
……沙都子が明るそうに言うのとは裏腹。
…悟史との別居の理由は、ちょっと深刻なものだった。
みんなが明るそうに話題にするからと、俺も悟史の話題を続けたが…。
…ひょっとして、触れない方がいい話題だったのか……?
そう思い、慌てて沙都子の顔色をうかがったが、…俺が心配するような陰鬱な表情は一切なかった。
「まぁ、一人暮らしに憧れるなんて年頃らしい夢ではありませんの。どうせにーにーには長続きするはずもありませんけどね。堪え性のない人ですから。」
「……悟史はああ見えてもとても我慢強い人なのですよ。沙都子が思ってるよりもずっと我慢強いのです。」
「梨花はすぐ、にーにーの肩を持ちますのね。梨花はちょっと甘やかし過ぎですのよ。」
「沙都子はにーにーに厳しすぎるのです。帰ってきたらもっとやさしくしてあげた方がよいのです。」
にーにーこと悟史を巡って、沙都子と梨花ちゃんの意見は互いに平行線だが…。
沙都子も梨花ちゃんも、…大好きだったことがよくわかる。
そして、家出なんて別れでも、まるで来週には会える…みたいな楽観さがあった。
沙都子も梨花ちゃんも、今でも悟史のことが好きで、…きっと帰ってくると信じて、待っている。
会ったことはないけれど。…悟史という男が、すごくいいヤツだったことだけはよくわかった。
俺はさっき、兄の家出で沙都子が深く傷ついてると思っていたが…。
当の沙都子はすでにそんなものは乗り越えていて。
…兄がいつ帰ってきてもいいように、いつまでも、生活力旺盛な妹であり続けているのだ。
何も考えず、ただ日々をはしゃいだり、悪ふざけしながら過しているだけだと思っていた沙都子。
…だが、本当は…、……………………うん。
「………? 何で私の頭を撫でますの?」
沙都子の頭をわしわしと乱暴に撫でてやる。
「俺、沙都子のこと誤解してたよ。…お前がこんなにしっかり者だなんて思わなかった。」
沙都子は、何かをバカにされていると思ったらしく、俺の手を振り払おうとしたが、……俺の顔に邪気がまったくないことに気付き、大人しく頭を預けてくれた。
「うん。沙都子はしっかり者。…うんうん。」
「わ、私は最初からしっかり者でしてよ。圭一さんに合わせて悪ふざけしてあげてたに過ぎませんわー。」
いつもの売り言葉だが、今日は買わないでおく。
「そうだな。俺に合わせてふざけてただけなんだよな。でも本当はこんなにもしっかり者。…えらいえらい。」
「……ほ、本当に褒めてますの…? 何だか…ば、ばかにされてるような……。」
「俺は全然バカにしてないぞ。真面目に褒めてる。…バカにしてる時は梨花ちゃんも一緒に撫でるからな。」
「…そ、それもそうですわねぇ! 梨花は人を小馬鹿にする時、よく頭を撫でますものねぇ!」
「……みぃ☆ 缶詰のイワシさんがおいしいのですよ☆」
梨花ちゃんはにぱ〜☆っとさらに一際笑顔で微笑んだ。
そのあまりに白々しい態度が何だか小憎らしくてかわいくて、俺も沙都子も、どちらからともなく大笑いしてしまう。
食卓をにぎわす笑い声。
……毎日の無味簡素な食卓が、こんな風に笑い声で満たされるなんて、…思いもしなかった。
その時。俺はようやく、すごく当り前のことに気付くのだ。
「…笑いながら食べる食事って、おいしいよな。」
「……もちろんなのですよ。…笑いはご飯をおいしくするのです。」
「失礼ですわね! ご飯がおいしいのは私のお料理がおいしいからに決まってますわよ!」
「「あっはっはっはっはっはっは…!!」」
家族と過すのとはまったく違う、だけれどもどこか懐かしい…団欒のひとときだった。
「沙都子は、にーにーに会いたいか?」
「に、にーにーなんて言ってませんですわ! 兄とお呼びなさいですわ!!」
おいおい、さっきまでずーっと、にーにー、にーにーって言ってたじゃないかよ。
…苦笑いしながら、沙都子の言うように兄と言い直してやることにする。
「沙都子は、兄貴に会いたいか?」
梨花ちゃんが箸を止め、俺と沙都子の顔を見比べる…。
沙都子は笑顔のまま、いくつかの言葉を選んでいるようだった。
……その様子だけで、沙都子の想いが伝わってくる。
本当なら、すぐにでも帰ってきてほしい。
…だけど、自分はそんなに弱くないから。悟史の気が済むまで好きにしたらいい。
その代り、帰ってきたらみっちりとお小言を聞かせる。
…それから夕食を共にして、布団を敷いてやるんだ。
「…会いたいか、と言われれば、もちろん会いたいに決まってますわね。もうすぐで一年になりますもの。」
…もうそんなにもなるのです。梨花ちゃんが遠くを見るような目で薄っすらと笑う。
「ま、にーにーの好きにすればいいのですわ。少しでも生活力を見につけて逞しくなって帰ってきてくれれば、私の負担も軽くなるわけですし。」
「ほら。またにーにーって言った。」
「……言いましたですね。」
「い、言ってませんわよ!! にーにーのことをにーにーなんて言いませんわよー!!」
いつもの、学校での賑やかな昼食の雰囲気に一気に戻る。
だけれども、沙都子の兄を想う気持ちは、何も変わらない。
沙都子はこんなにも健気に、たくましく生きている。
なぁ悟史。…お前の妹って、こんなにもがんばってお前の留守を守ってくれてるじゃないか。……いい加減、…早く帰ってきてやれよ。
■お別れ
「……沙都子。そろそろお片付けをしないとお眠になる時間なのです。」
みんなでテレビを見ながら、食後のお茶を楽しんでいる時。
…梨花ちゃんが大きなアクビをひとつしてから言った。
俺も沙都子も、時計を見てからこんなにも遅い時間になっていたことに気付く。
いや、…互いに気付いていたのかもしれないな。
…今の、温かなひとときを終わらせたくなくて。言い出せなかったのかもしれない。
「あ、いけませんわね! まだ食器を洗っていませんでしたわ…!」
「いいよ、そんなの。それくらい俺がやっておくよ。メシをご馳走になって、食器まで洗わせるわけにはいかないよ。」
「……本当に大丈夫ですの? 慣れない人が洗うと、お皿とか洗剤で滑って落としちゃいますわよ…?」
こいつ…すっかり口やかましい妹になっちまいやがったな。
微笑ましいような、照れてしまうような…。
そんな気持ちでごっちゃになって。曖昧に苦笑いしてしまう。
「……圭一だってお皿くらい洗えますですよ。…割ったお皿でケガをしたら、明日学校でかぁいそかぁいそしてあげますです…。……くわぁあぁあぁぁ……。」
梨花ちゃんが、大臼歯まで覗けそうなアクビをもう一度する。
「…本当に大丈夫ですの…? 圭一さんって、見かけと違ってずいぶんと頼りない方でございますからね!」
「やれやれ…。沙都子の中の圭一株は大暴落みたいだな。…安心しろ。皿くらいきっちりと洗ってみせるぞ。安心して帰れ。……ってゆーか、こんな時間じゃ、沙都子たちだけに帰らせられないよな。家まで送るよ。自転車のカギを……、」
「私たちを送った後、ひとりで家に帰るのは圭一さんではありませんの!
夜道に迷って、高津戸あたりに迷い込んだら大変ですのよ? あの辺り、お家も灯りも全然ありませんから。」
……沙都子たちの夜道を案じたつもりが、俺の迷子を案じられるとは思わなかった。
…そんなにも俺って、頼りないかな…。
実に口やかましいヤツだが、……うん。……何だかこういう気持ち、悪くない。
結局、見送りは不要ということになった。
沙都子と梨花ちゃんを門のところまで送る。
「今日は本当にありがとうな。お陰で、とても文化的な夕飯にありつけたよ。」
「……沙都子が来なかったら、今頃圭一はぐーぐーでにゃーにゃーだったのです。」
「本当ですわね! 本当、来てよかったですわ。」
本当に助かったよ…。
もう一度感謝を込めて、頭を下げる。
「そうそう。ご飯とおかずの残りをタッパーに詰めておきましたから、明日はそれをお弁当になさいませ。あと、明日の朝食は、食パンとジャムがいいですわね。イチゴジャムとピーナツバターが冷蔵庫中段の右端にありましたわ。あと粉末ココアが食器棚の右上の戸の中に…、」
そこまで事細かに言われなくてもわかるさ…と言おうとするが、謙虚に聞いておくことにする。
この頃になってようやく、一見不機嫌そうな沙都子が、実は梨花ちゃんが言うように、とても上機嫌であることに気付く。
…口やかましくも、とても嬉しそうな沙都子に。
「……では、おやすみなさいなのですよ。」
「寝る前にはちゃんと歯を磨くんですのよ! 5分以上かけてしっかりと磨きなさいませー!」
「わかったよ沙都子。…ちゃんと歯も磨くし、明日の朝飯も用意する。弁当も忘れないようにするよ。」
「いつもより早めに起きないと、朝食やお弁当の支度ができませんわよ? 何なら少し早いくらいの時間に目覚まし代わりに電話してさしあげましょうか?」
「そ、そこまでしてくれなくても大丈夫だよ。…目覚まし時計を少し早めにセットしておくことにする。……ありがとな。いろいろと気にしてくれて。」
沙都子はまだ小言を言い足りないようだったが、切り上げ、おやすみの挨拶を残すと、自転車にまたがり真っ暗な夜道に消えていった。
梨花ちゃんもそれについていこうとし、何かを思い出して戻ってきた。
「どうした梨花ちゃん。忘れ物か…?」
「……今日の圭一は百点満点でした。ぱちぱちぱちなのです。」
突然、梨花ちゃんに褒められる。
小さな手のひらでパチパチと。…一体何のことやら?
「べ、別に褒められるようなことはしてないだろ…。危うく自宅を火事にするところだったし…。」
「……沙都子もきっと、にーにーが帰ってきたような気がして。とても楽しかったと思いますです。」
「……………………。」
「……たまに。これからも沙都子のお小言に付き合ってあげて欲しいのですよ。」
「沙都子に小言を言われる、頼りない兄貴、…悟史の代わりになってやれって言うことか?」
梨花ちゃんは何も言わず、ただ、にぱ〜☆と笑った。
「…悟史ってさ、…こんなにも出来た妹と一緒で、何が不満だったんだ? …俺が悟史だったら絶対に家出なんかしないぞ。」
「……悟史には悟史なりの事情があったのです。…きっと。」
何が不満だったか知らないが。
…どんな理由にせよ、沙都子を放り出していく言い訳になんかなるもんか。
「早く帰ってくるといいな。……俺じゃ、多分本物のにーにーの代役はいつまでも務まらないぜ?」
「……大丈夫ですよ。今日の圭一は、悟史そっくりだったのです。またお願いしますなのですよ。」
それで沙都子が喜ぶなら。……この程度の代役、いつだって引き受けてやるさ。
「…梨ぃ花ぁ〜!!!」
ずっと向こうの外灯の下で、沙都子が自転車を止め、いつまでもついてこない友人を呼んでいる。
「……ではボクはもう行きますですよ。おやすみなさいなのです。」
「あぁ。お休み。」
「……ボクでは悟史の代わりをできませんが、圭一ならできます。…これで、ボクも心の荷がひとつ下りましたのですよ。」
それだけを言い残し、梨花ちゃんの自転車が走り出す。…沙都子の自転車も並んで走り出し、…2人の自転車はあっという間に見えなくなった。
「悟史。……本当に、早く帰ってきてやれよな。……あんまり帰りが遅かったら…。」
俺が、ぶっ飛ばしてやるからな。
…その日まで、がんばろうな、沙都子。
二人の自転車の音が聞こえなくなっても。…俺はしばらくの間、二人を見送り続けていた。
■幕間 TIPS入手
■タイトル: 沙都子のトラップ講座(初級)
「俺が保証する。沙都子ならこの山で篭城して、一個師団相手くらいなら充分にあしらえるに違いない。」
「私は知ってるよ。沙都子はソ連の軍事顧問団に混じって、某国でトラップの訓練教官をやってたんだ。」
「そんなヘンな話はいいから…誰か助けてぇえぇ〜〜!!」
……一体、…どういう仕掛けにどういう風に引っ掛かれば俺たちはこうなるんだろう。
魅音は脱出不可能のやたらと細い落し穴にはまり、首だけを地上にのぞかせていた。
レナは頭からすっぽりブリキのバケツを被り、それが脱げなくてもがいている。
…どちらも実に滑稽だが、それでもまだいいさ。足が地に着いてるだけマシだ。
「……圭ちゃんの方はどーおー? 抜けられそうー? 早く抜け出しておじさんを助けてよー。」
「ぬ、抜け出して助けるのは魅音の方だー! この簀巻き状態の俺に、何をしろと言うんだー!」
…俺の体はぐるぐるの簀巻き状態で、地上から2mくらいに吊り上げられていた。
あぁ、…どんなトラップを仕掛けたらこんな風になるんだよ? えぇ?! 沙都子!
そもそもの発端は、都会育ちの俺が自然に親しんでないとか何とかで、山へ散策に行こうなんて話からだった。
「うーん、でもレナもよく裏山は知らないよ?
レナじゃ迷子になっちゃう。はぅ。」
「裏山ねぇ。…小さい頃はよく遊んだけど、…ここ何年かはさっぱりだなぁ。あそこ、道を誤るとかなりデンジャラスに迷うんだよなぁ。」
「裏山なら私たちにお任せですわよー! 山が丸ごと、私と梨花の遊び場なんですもの。ねぇ梨花ぁ?」
「……みー!」
「おー。それは心強いな。じゃあここは二人の顔を立てて、二人の道案内でハイキングと行こうじゃねーか!」
「でも圭一くん…。裏山は迷うから遊びに行っちゃいけないって夏休みのしおりにも書いてあるよ。」
「……まだ夏休みではありませんですから、大丈夫なのですよ。ボクたちが道を知ってますからご安心なのです。」
「裏山は昔から私たちの遊び場でございますもの! 庭も同然! 抜け道、近道までばっちりでございましてよー!」
……確かに沙都子と梨花ちゃんはちゃんと道を知ってたさ。
お陰で、村の中じゃ絶対に味わえない大自然や眺望、新鮮な空気を満喫できたさ。
だが、途中からおかしくなり始めたんだ!!
「そうそう。皆さん。ここからは私が歩いた足跡の通りに歩くんですわよ。」
「はぁ…? 突然、何を言い出すんだ?」
「……大人しく沙都子の言うことを聞くほうが身のためなのです。」
「あれれ。ねー、魅ぃちゃん、ほらこれ。なんだろね。
引っ張るのかな? かな?」
ピン。
……びよよん。…グワッ!!!!
レナが凧糸のようなものを引っ張ると、レナのすぐ脇に頭上の木の枝に括り付けられていた竹槍の束がドカドカドカッ!! と降り注ぐ!!
「わーーー!! わーーー!! 何これ?!
何?!
何?!
ぎゃーー!!」
「……懐かしいのですよ。これは確か、2年生の2学期に沙都子が作ったトラップなのです。」
「危なかったですわねぇ。竹槍の先端には犬のフンが塗ってありますから、傷になるとあとで腐り出しますわよ。」
「こ、ここはいつからベトナムになったんだぁあああぁあぁあッ!!」
……沙都子と梨花ちゃんが言うには、
…小学校低学年の頃、トラップ作りが沙都子的に大ブレイクして、この山の至るところに仕掛けて回ったらしいのだ…。
「…圭一くん、ひょっとして……裏山が立入禁止なのは迷うからじゃなくて、…危ないからじゃないのかな…。」
俺も魅音もそのレナの仮説に全力で頷く。
「さ! 先を急ぎますわよ。早く戻らないと暗くなってしまいますわ。暗くなったら、私だって危ないでございますからね。」
そ、そんな危ない山に何で連れてきたぁあぁあああぁああ!!
何で健全で平均的な日本人男子の俺が、ブービートラップに命を脅かされなくちゃらならないんだぁッ!!
……そして、……沙都子たちの姿をちょっと見失った途端に、俺たちは3人まとめて仲良くトラップに絡め取られたというワケだ…。
「……誰か出して〜〜! 私、おトイレに行きたいの〜〜!!」
「そんなことより〜! 誰かこのバケツ取って〜!! 前が見えない〜! はぅ〜!!」
「…おいレナ、あんまり暴れるな。ぱ、ぱんつが見えるぞ…。」
「は、はぅーーー!!! 見た?! 見た?! 圭一くんが見た!! はぅ〜〜〜!!!」
スパパパパパ、スパパパパ、スパパパーンッ!!!
「み、見えてるだろ絶対…!! バケツ被ってても、見えてるだろ絶、
げは、
ごほ!!
ぐぼれッ!!」
バケツレナにサンドバックにされる俺と、わんわんと泣く魅音。
「……落し穴から抜けられなくて、かぁいそかぁいそなのです。」
「もー、皆さん、だから言いましたでしょう? 私から離れたらいけませんでしてよ、って!」
今になって悟る俺。
……妙に沙都子が裏山にみんなを連れて行きたがってたのは…、歴代の自慢のトラップを俺たちに見せたかったからに違いない。
……それなら見るだけにしてくれよ。…はまり心地まで味わいたくないー!!
梨花ちゃんは俺たち3人の頭を順々に撫で、これ以上ないくらいにご満悦な様子だった…。
■2日目(金曜日)
「さぁて! というわけでー!! いよいよお昼の時間が来たねぇ!!」
魅音が嬉々としながらお昼の始まりを宣言する。
「をっほっほっほ! いよいよお昼の時間でしてよ〜! この中のひとりが、罰ゲームになるんですわよねぇ?」
「はぅ…。今日の罰ゲームは…ちょっと怖いからね…。
レナ、悪いけど、思いっきり真剣に作ってきたよ…!」
レナの場合は真剣に作らなくても、取り合えず今日の勝負に負けはないと思うがな…。
「……みー。ボクたちもそれぞれに頑張りましたのですよ。」
「今日は沙都子も梨花ちゃんも、それぞれに別々に作ってきた? いつもは二人一緒のお弁当だけど、今日は一緒だと勝負にならないからねぇ。」
「えぇ。そこは大丈夫ですのよ。梨花も私もちゃんとそれぞれに用意させていただきましたのよ。」
「わー、沙都子ちゃんも梨花ちゃんもがんばったんだね! 楽しみ楽しみ!」
「…ちょっと意外だったのは、圭ちゃんがちゃんとお弁当を用意できた点かな! 圭ちゃんも、さすが! やればできるみたいじゃない!」
苦笑いしながら頭を掻く。
…今日のお弁当は全部、昨夜の沙都子のお膳立てだ。
俺なりのオリジナリティなど一切ない。だから俺が褒められるようなことは何もない。
「圭一くんのお弁当はどんなだろ! はぅ、楽しみ!」
「そんな大したものじゃないから期待するなよ…。昨夜のご飯のお惣菜の残りが詰めてあるだけだし…。」
「……お夕食の残り物は、お弁当の基本なのですよ。」
「をっほっほっほ! 昨夜の圭一さんのお夕食もわかって一石二鳥ですわねぇ!」
…昨夜、沙都子がうちに作りに来てくれたことは内緒にしておいた方がいいのかな…?
そりゃ内緒にしておいた方がいいよな。
…このお弁当が自力で作ったものじゃないとバレたら、その時点で罰ゲーム確定だ。
今日の罰ゲームは……、カレー狂の知恵先生の真ん前で、カレーの悪口を言うこと!
それは百階建てのビルの屋上から飛び降りろという罰ゲームとそんなに大差ない。
…死ねと言ってるのとまったく同じだからだ…!
「でも魅ぃちゃん。…今日のお弁当勝負ってどうやって勝敗をつけるのかな? 圭一くんもちゃんと作ってこれたんだから、今日はこれで引き分けで決着なんじゃないのかな?」
「…それもそうですわね。昨日の罰ゲームは、圭一さんに自炊を促すための発破みたいなものですし。」
「……圭一もちゃんと作って来れましたから、引き分けなのですよ。」
勝つべくして作ったみんなの弁当と、昨夜の残り物を詰めてきただけの俺のお弁当とじゃ、初めから勝負にならないもんな…。
沙都子と梨花ちゃんの、穏便に勝負を終わらせようとする心遣いがよくわかる。
…だが! 部長、園崎魅音がそんなことで納得するわけがなかった…!!
「なぁにを甘っちょろいこと言ってるんだか! シロクロつけない灰色勝負なんて絶対御免!! ぶつかったら決着つけなきゃ! 手打ちして引き分けなんてヤクザの世界だけなんだからねー!」
「い、言うと思ったぜ……。勝負好きの魅音が、このまま終わらせるわけないよな…。」
まずいな…。
…このままじゃ…俺の一人負けは確実だ。
…でもまぁ…確かに俺が自分で作った弁当じゃないし……。
…負けは…甘んじて受けねばならないのかな……。
「……では魅ぃ。どうやって勝敗を決めますですか?」
「相互採点じゃあ、公平な採点にならないからね。
ここは公開審査と行こうじゃない! ヘイ、みんなぁ!! 全員集合〜ッ!!」
魅音が委員長ボイスで、食事を始めたばかりのみんなに号令する。
「おじさんたち5人のお弁当を採点してもらうよ!! ベスト3までを紙に書いて投票すること! いいかな?!」
クラスのみんなも、魅音の部活に巻き込まれることには慣れている。おおぉー! と元気のいい声があちこちから上がった。
…今日の勝負の、あまりに致命的な罰ゲームはすでにみんなの知るところであり、…みんなとしても、敗者がどのような末路を辿るのか興味津々なのだ。
……もちろん、怖いもの見たさという意味で!
「では…みんないいかな?! まずは私から行くよ?! そぉれッ!!」
魅音が重箱のような立派な弁当箱のフタを、大仰に開けて見せた。
絢爛な弁当の数々に歓声があがる…!!
「す、すごいですわねぇ!! おせち料理みたいでしてよ?!」
「嘘だ…。嘘に決まってる。こんなのどこかの仕出し弁当の中身を移し変えただけに違いない。こんな純日本風な料理を魅音が! 魅音が!! あの園崎魅音が作れるわけがなぁいいい!!!」
「うぅん…、魅ぃちゃん、このくらいは本気になれば作れるよ…。滅多に本気にならないけど…。」
「くっくっく…! おじさんを誰だと思ってるわけぇ? 時間と材料があるなら、満貫全席だって再現してみせるよー? くっくっく!」
教室中が、ごくりと喉を鳴らす。
…そしてみんな一斉に手元のメモ紙に点数を記入する。
そりゃそうだ。見た目のインパクトなら百点満点だからな…!
「じゃあ、次はレナのお弁当、行ってみようか! レナもかなり料理は得意だからねぇ!」
「……レナのお弁当はいつも食卓の華なのですよ。」
「あはははははは! みんなありがとね! じゃあレナのお弁当も公開するね。え〜い☆」
レナの弁当は……、
卵とそぼろの二色が美しい…これまたお弁当の定番、そぼろ弁当だ!
おかずも丁寧に作られていて品数も豊富。
…いつも以上に手間がかけられているけど、それは肩肘を張ったものでない、実にさり気ないものだ。
魅音の弁当と違い、家庭的な温かさがある点も見逃せない。
「…さすが…ですわね! これは…高得点が期待できましてよ!」
「……さぁすがぁ。厳しめに見ても、減点の余地はまったくないね。…相変わらず見事!」
今度もまた、審査員一同が一斉にメモ紙に点数を記入している。
さっきの魅音の点数と比べ、評価を改めている人もいるみたいだ。
…教室全体が、魅音派とレナ派にわかれているみたいだな。
誰の顔にも、採点より味見がしたい…! と書かれているのがよくわかる。
「……では、続いてボクたちなのです。」
「えぇ! では、公開するでございますわよー!!」
そう言えば…。
沙都子と梨花ちゃんは、昨夜はうちに来てみんなで食事をしたんだよな…。
それでよくお弁当を用意できたものだ…。
2人のお弁当箱の中身は……、魅音の芸術性、レナの完璧さに比べると明らかに見劣るものだった。
…だが、……それゆえの精一杯感は伝わってくる。
盛り込みのちょっと粗いところなどが、…精一杯がんばりましたですよ…という感じがして、何だかちょっと贔屓目に採点してあげたくなる心情にさせられる。
その辺りに心打たれた何人かが、またしても評価を改め、メモ紙に点数を書き込んでいた。
「……沙都子も梨花ちゃんも。…よく今日のお弁当を用意できたもんだな…。レナや魅音の出来には確かに劣るかもしれないけど…、それを考えるとかなりすごいことだぜ…。」
沙都子と梨花ちゃんが顔を見合わせてニマ〜と笑う。
「実は…内緒でございますのよ…? ごにょごにょ。」
………え。………えぇ?!
沙都子にネタを教えられ、俺はみんなの輪を抜け出し…こっそり、クラスメートの弁当箱を探す。
……あった、富田くんと岡村くんの弁当箱!
中をそっと覗き込むと……。
あぁぁ!!
中身が半分ないッ!!! や、やるなぁ!!
結局、沙都子と梨花ちゃんは今日のお弁当を用意できなかったので……富田くんと岡村くんに弁当をわけてもらうという大技に出たわけかぁ!!
「…おい、富田くん、岡村くん。…何を条件に買収された。」
「いいいいい、いきなり何ですか前原さん?! わわわわ、私たちがいつ何を買収されたって言うんですか?!」
「そそそ、そうっすよ…! 別に沙都子たちに水やり当番を代わってもらうくらいで弁当を半分なんか…!!」
……沙都子めぇ。
小癪な手を使うようになりやがってぇ…!
沙都子がニヤリと八重歯を見せながら得意げに笑う。
「あぁら、これは圭一さんに学ばせてもらったワザですのよ? をっほっほっほ!」
「……おっほっほー、なのです。」
ふふん、水やり当番程度で買収じゃあ底が浅いぜ…。
いいか、男を買収しようとしたら、もっともっと熱いのじゃないとダメなんだよ!!
例えば……う〜ん、
……沙都子と梨花ちゃんが、四つん這いの尻尾付き、首輪に首ヒモ付きでの一日お散歩券が三枚くらいとか。……ぅおおぉおぉ、こ、これなら…俺も買収されたいかもッ?!?!
…なんて妄想を頭いっぱいにしているところを、魅音に肩を叩かれ、現実に呼び戻された。(ちぇ、いいところだったのにぃ…!)
「さぁて!! 次はいよいよ圭ちゃんのお弁当だねー!! 圭ちゃんの昨日の予告だと、かなりのものが期待されるけど…実際はどうなのかなぁ?!」
「圭一くんって、やる時にはやる人だからね! レナ、今日はとっても楽しみにしてたんだよ。だよ!」
……ぅぅ、期待なんかされても……。
結局…、昨夜の晩飯を詰めてきただけ。
しかもそれは俺が作った飯ですらない。
…そんなのが魅音やレナたちの弁当にどう太刀打ちできるって言うんだよ…。
「えぇい、もうヤケだー!! 見て驚くなよー!! えぇーーい!!」
カパーーーンと弁当箱のふたを開く。
……みんなの歓声はそんなになかった。…まぁ、そりゃそうだよな…。
「あはははは! 圭一くんも精一杯、がんばったんだね! レナはそのがんばり、わかるよ。」
「レナ…。無理に褒めなくていいぞ…。」
「えっと、…どんな具合ですの? 圭一さんにしては頑張ってる方ですの…?」
「くっくっくっく! まぁその、…がんばりは認めてあげたいけどねぇ…。勝負は非情だしね。くっくっくっく!」
魅音の嫌味な冷笑…! それはそのままみんなの評価を代弁するかのようだった。
「う、…うーん…。圭一くん、初挑戦なのにこんなに上手に作れたんだよ? みんなもっともっと評価してあげてもいいと思うんだけどな…。」
「……でも、勝負は非情なのです。」
「くっくっくっく…。さぁて圭ちゃん。採点結果は集計する前に、何か申開きがあるなら聞いておくけどぉ? くっくっく!」
「も、…申開きって何だよ。」
「圭ちゃんがここで何かを訴えることで、わずかな得点加算が望めるかもしれないってこと。…くっくっく! 何しろ今日の勝負はビリでさえなければいいんだから。うまくすれば…何とか罰ゲームから逃れることができるかもよ?」
「をっほっほっほ! それって暗に、圭一さんのお弁当がビリって言ってるのと同じことでしてよー?」
「別におじさん、誰の弁当がビリなんて言ったつもりはないんだけどなぁ。くっくっく!」
魅音が嫌らしそうにゲテゲテと笑った。
…それとは対照的に、沙都子の笑顔はどことなくぎこちなくなっていく。
……そうだ。
この弁当は昨夜のおかずを詰めてきたもの。…つまりは、沙都子が作った弁当も同然なのだ。
それを、魅音にはっきりとビリと言われてしまった…。
「魅ぃちゃん、ちょっといじわるだよ? 圭一くんがかわいそう。」
「レナぁ。圭ちゃんも、今日の弁当勝負は負けられないって予め知ってたんだよ? それを承知で昨日あれだけの大見得を切ったんだからさ。甘やかす必要なんて全然ないと思うけどなぁ?
ねぇ沙都子。」
「え、……えぇ! そうですわね! それでこのザマなんですから笑っちゃいましてよ? をーっほっほっほ!」
「…ちょっと沙都子ちゃん! 笑うなんていけないんだよ。」
「だって、ちゃんちゃらおかしくって笑ってしまうようなお弁当でしてよ?
こんな、お惣菜屋さんで買ってきたようなおかず、本当に幻滅もいいところでしてよー?」
「ほら、これなんか缶詰を開けただけだよね? こっちのキュウリは包丁が通ってなくて綺麗に切れてないし〜。圭ちゃん、包丁とか全然扱ったことないでしょ。経験不足が明らかなんだよねぇ。」
「…えぇえぇ、経験不足もいいところでございましてよー?」
「彩りもかなり単調。こればかりはセンスのなさに呆れるねぇ! あっはっはっは!」
「う、…そ、そりゃあ弁当箱に食い物を詰めるなんて初めての経験だし…、多少見栄えが悪いのは仕方が…。」
「圭ちゃん圭ちゃん。弁当箱への詰め方以前のレベルなの! 富田、岡村。解説〜。」
後輩の富田くんと岡村くんに白羽の矢が立つ。
富田くんはメガネをくっと直してから、一歩前に出た。
「前原さんの弁当に致命的な点。それは彩りなんです。ご存知の通り、あらゆる色彩の根底には三原色と呼ばれる配色が存在します。つまり、バランスよく配色を求めるなら白黒を除いても三色は必要なのです。」
「えー、然るに。前原さんのお弁当は白黒を除いた場合、暗緑色しか残らないんですよ。」
あ、暗緑色…。
何とも食欲をそそらない言い方をしおって…。
…忘れてた。
富田くんと岡村くんは、梨花ちゃんたちに買収されてるから、彼女らを勝たせるために全力で俺を負かそうとしてきてるんだよな。
…ぐ、たくましいヤツらだ。
買収された分、きっちり働いてるのだけは微笑ましい。
「おかずも心のこもらない、お惣菜や缶詰ばかり。つまり前原さんのお弁当には、お弁当の三大要素! 愛
・心
・味の内、2つも欠けていると断言できるのです!!」
クラス中が、何だかすっかり煙に巻かれたナゾ解説で何となく納得し、おおぉぉ…とナゾの歓声をあげる。
「…くっくっく! 愛もなければ心もない。決まったね? 前原圭一!!」
<魅音
「うーん…。
ちょっと冷たいけど…、…でもこれを機に、圭一くんもお料理の楽しさに気付いてくれれば…いいのかな? かな?」
「……そんなことより、罰ゲームがボク以外なら何でもいいのですよ。」
レナも、えへへ♪…と苦笑する。
「をっほっほっほ!! 決まりましたわね圭一さん! 罰ゲームは圭一さんで決まりですのよー!! をーっほっほっほっほ…!」
憎々しげに笑って見せるが、…とてもそうは見えない。
教室中に、自分が作ったも同然の弁当を貶されたことを知っている俺には、沙都子の笑顔がどれだけ痛ましいものかよくわかった。
…………さっき岡村くんは、この弁当に心がないといったが。
…今日この場に広げられた弁当の中で、この弁当ほど心のこもったものなどあるものか。
昨日、…あんなにも上機嫌に(見た目はすごく不機嫌そうだったけど…)作ってくれた料理が、…このまま貶されて終わってなるものか……!
「さぁて! ビリの圭一さん?! そろそろ大人しく負けを認めなさいませー!!」
「……ちょっと待ってもらおうか。」
俺が低い声を出した時、部活メンバーの目つきがかわった。
魅音が舌を打つ。
…この男、やはり土壇場で牙を剥いたか…!
「俺の弁当の敗因は心がないから。そういう解説だったな。間違いないな、岡村くん。」
突然、矛先を向けられた岡村くんは一瞬焦ったが、すぐにどもりながらどうだと返事した。
「心の定義はなんだ。苦労か? 努力か? 汗か涙か? その結晶か?! …ならば、俺の手に残るこの火傷は何の評価になるんだッ?!?!」
「わ、…圭一くん、それ……油が跳ねた火傷…?!」
昨日の火事騒ぎの時の火傷痕が、いかにも料理にすごく苦労した風に見えてグッドだ。
教室中も、俺の努力を認めないわけにはいかない様子がよくわかる!
「……ほぅ。…自らの料理の下手さによる失敗を、さも努力の痕跡であるかのように見せるとは…。やはりこの男、
…油断ならない!」
<魅音
「そうだ。俺は下手だ。昨日、大見得を切ったのが情けなるくらいに料理は下手だ。だが逃げなかった! 戦った!! そしてこの成果を出した!! それは心じゃないのか?! どうなんだッ?!?!」
「レナは認めてあげたいな…! 挑戦する心が評価されなかったら…誰も前に進めない!」
クラスの女子がうんうんと頷き始める。
…よし! 追い風だ!!
だが、愛しき片思いの子たちに買収されている富田くん岡村くんも負けていない。
明らかに買収分を超えて、俺への反撃に転じる!!
「なるほど! 前原さんの気持ちはわかります! ですがね、心だけで料理が決まるんだったら、この世にコックはいらないんですよ!」
「そうっすよ。心をこめて頑張りましたって言って、コックが消し炭みたいなハンバーグを持ってきたら、それにお金を払います?
払わないですよね?!
つまりそういうことなんです!」
そうだそうだ、その通りだ!
男子生徒が富田岡村組の肩を持つ。
…ぐ、確かに一理ある。
「でも心尽くしなんだぞ?! 例え真っ黒のハンバーグが出てきたにせよ!! それを作ってくれた母の苦労を知るなら、俺は食うッ!! 完食してみせる!!」
パチパチパチパチ!!
今度はクラス中の女子生徒が俺の肩を持ってくれた。…よし! これで互角だ!!
「そもそも弁当というのは愛情を食事のカタチとして昇華させたもので!!」
「それは相手に伝わって初めて意味があるんです。前原さんのお弁当からはそれが伝わりますか?! いいえ、僕には伝わりません!」
「「「「ひっどーーーーーーい!!!」」」
クラス中の女子が今の発言に大ブーイングだ! 岡村くんもさすがに焦る。
「あー、静粛に静粛に! 傍観人は発言を慎むように!」
「裁判長! 俺はここで、この弁当にどれだけの「心」がこめられているかについて、料理学の権威、竜宮レナ氏の証言を求めます!」
「え、えー…っと!
レ、レナはこのお弁当には心がこもってると思うな! 確かに稚拙なところは多いかもしれないけど…。
でも、お料理はうわべだけじゃないと思うの!」
再び女子一同から大歓声と満座の拍手!
それに対し男子一同はブーイングだ!!
「さ、裁判長! 前原さんと竜宮さんの意見は極めて感情的で、一般常識としてかけ離れています。採用するには不適切です!!」
「静粛に静粛に!! 検察側の反証を認めます。どうぞ!」
「おほん。例えば、本件を弁当でなく、誕生日のプレゼントだと置き換えて考えて見ます。
例えば、誕生日の日に、私、富田が手編みのセーターをもらったとする。そして彼、岡村は図書券を一万円分もらったとする!」
…やたらとリアルな例えだな。それ、本当に例えか?
「常識的に考えて、どちらに心がこもっているかは明白です。つまり手編みのセーター!
これはお弁当に言い換えれば、手作りのおかずが相当する!
そして、単なる金券に過ぎない図書券は、お金で買うもの、すなわち無味簡素な缶詰に相当する!!」
ざわざわざわざわッ!!
男子女子入り乱れてのプレゼント論争だ。
みんな、過去にもらったプレゼントは何だったかを語り合っている…!
くそ…!
みんなの関心を引きやすい話題にすりかえるとは…富田くん、…やるじゃねぇか!!
このままじゃイニシアチブを奪われるッ!!
「異議ありッ!! 本件はお弁当の心について問うものです! 誕生日のプレゼントという特殊な状況とはまったく異なりますッ!」
「却下します。検察側、続けなさい。」
く、くそ!!
「さて。ここで大事なのは、送り手の心と受け手の心はまったく違うという点です。
皆さんの目の前に実際に、手作りの、ちょっと左右の丈の崩れてるセーターと、一万円分の図書券が置かれていて、どっちがいいと聞かれたらどっちを取ります?!
図書券でしょう?!
一万円ですよ一万円!!
コミックスが何冊買えるか計算できますか?!
10数巻程度の単行本なら即座にフルコンプ可能です!!
愉快で面白おかしくてちょっとHなマンガが何十冊…!!
これによって癒される心の至福とセーターでは比べ物にならないのです!」
男子たちが満場の拍手でそれを讃えた。
…即物的なヤツらめ…。…むぅ、だが、年頃の男なんてそんなもんだ。
俺だってセーターと図書券だったら図書券を選ぶもんなぁ…!
ってゆーかお前ら、最初は愛と心と味なんて言ってたじゃねぇかよ!!
いつの間にか味が全てだ! なんて理論になってるしー!!
「以上より、送り手の心と、受け手の心には何の因果関係もないことが立証されたと思います。…つまり!! 前原さんがどれだけ苦労して弁当を作ろうとも!
それは私たち受け手が採点に手心を加えるものにはなりえないのです!!」
「そ、それは詭弁だぞ富田くん!! 心は確かにある! それが伝わるかどうかは受け手の問題だ!!」
「「「そうよそうよ!!」」」
「「「ブーーーー!!!」」」
「「「味が全てだ!!」」」
「「「女の敵ぃー!!」」」
「「「何だとブス!!」」」
あぁ、今や法廷は大混乱だ…!!
だが俺は負けるわけには行かない!!
罰ゲーム回避のためだけじゃない。
沙都子の…名誉のためにもッ!!
「さて。弁護側は今のに何か反論はある?」
俺はゆっくりと、…力強く頷いてから登壇する。
富田くん、岡村くん。
……口先で、
…本当に俺に勝てると思ってるのかぁあぁあ…ッ!!!!
「今、検察側は、送り手の心とは無関係に評価が行われると言いました。それに間違いはありませんね?!」
…いつの間にか俺まで敬語だな…。
「えぇそうです! 前原さんがどんなに苦労して作った弁当でも、その苦労は評価の対象にはなりえない!」
「では検察側に尋ねます。私、前原が今日の自分の弁当として、このお弁当とコンビニ弁当を並べたら。その評価はどちらも同じものなのですか…?!」
検察側が言いよどむ。
…もらったッ!!!
「そうッ!! 手作りの弁当とコンビニ弁当ではまったく比較にならないのです!
どんなにひどい手作り弁当であっても、ただ買ってきただけのコンビニ弁当とでは比べ物にならないほどの心がこめられている!! そしてそれは評価されている!! つまり、手作りによる心は、ちゃんと受け手に伝わってるのです!!
それを認めよッ!!!」
ドオオオォオォオンッ!!
迫力の書き文字を背負って、指をさしてやるッ!!
レナを筆頭に女子が大拍手だ!!
一部の男子も、それを認めかけているぞ!
「…うぐぐぐぐぐ!! み、認めます…。」
「認めましたね?! 認めましたね?! では次にコンビニ弁当にはなぜ心がないかについて移りましょう。そもそも、弁当で伝える心とは何なのか?!」
「い、異議あり! 前原さんは抽象表現で法廷を煙に巻こうとしています!」
「却下します。面白そうだから最後まで聞くよーに。」
もらった。
……今こそ、俺とお前らの格の違い、思い知らせてやるッ!!
「裁判長。ここで古手梨花氏を証人として喚問したいと思います!」
「……みー。」
梨花ちゃんもさすがに寝耳に水だったみたいだな。
まさかここで自分に矛先が向くなんて夢にも思わなかったに違いない。
……だが梨花ちゃん。さっき言ったよなぁ?! 部活は…非情ッッ!!!
「古手梨花さん。あなたの今日のお弁当は実によくできていますね。おいしそうです。」
「……みー?」
そう。
沙都子と梨花ちゃんの弁当は、富田くん岡村くんの弁当を半分拝借したものだ。
検察の富田くん岡村くんが血相を変えたが…もう遅い!!
「レナ。岡村くんの弁当箱を持ってきてくれないか!」
「うん? うん、いいよ!」
「さ、裁判長!! 本件に僕のお弁当は何の関係もありません!!」
「却下します。…くっくっく!」
「裁判長、この岡村君の弁当箱を証拠品として提出しますッ! 見よ!! この中身をぉおおぉおッ!!!」
「むぅ。…くっくっく、半分しか入っていないねぇ…!」
「半分かどうかじゃないでしょ、もっとよく見てください!! ほらッ!!!」
「「「「ああぁ?!?! まったく同じ内容だぁぁ!!!」」」
「裁判長、見ての通りです! 古手梨花氏のお弁当は岡村くんの盗品! そんなものに心がこもってるわけがないッ!!!!」
「い、いやこれは…、単なる偶然で……!!」
「もう明白でしょう!! 心とは送り手と受け手のキャッチボール!! ならば弁当箱はボールに当たるのです! そして本来このお弁当は彼、岡村くんの母親から息子に託されたもの! だからこの弁当箱に詰まった心は彼、岡村くんにしか受けられない!! それを割り込んで奪ったら……もうそれに心はないのですッ!!!」
ドオオオォオオオォオォオンッ!!!
ぅおおおぉ…決まったぁッ!!
「え? あれ? そ、そうなの?! 梨花ちゃん、そうなの…?!」
「……みー。
にぱ〜♪」
「くっくっくっく。……なるほどねぇ。」
裁判長魅音が腕組をして唸り始める…。
…この笑いの魅音では…何を考えているかなんて察しようもない。
ズバリ、俺が負けるか俺が勝つか…わからない…!!
「よし。…判決の前に主文からにしようかね。」
シン…。教室中が静まる…。
「まず。…被告、前原圭一の弁当が、客観的評価として非常に出来の悪いものであるのは間違いない。それはこうして、みんなの採点の集計結果が物語ってるからね!」
……ぐ!
「でも、圭ちゃんの言うとおり、料理は味だけじゃない。心もまた、隠し味として認められるべきだよね。でもそれは得点評価で言えば、小数点以下。本当に微細なもので、その出来具合の評価を改めるには至らない。」
……ぐぐ!
「さて。ここでそもそもの今日の弁当勝負の原点を探りたい。そもそも、今日の勝負は何が大前提なのか?
そう。被告、前原圭一が自炊できるか否かが問題になり、その成果を計る為に催されたものだった!」
「うん。そうだよ! 圭一くんはちゃんと作ってきたよ!」
…う。ちょっぴり良心が痛むが、…うん、勝負は非情なのだ。
「ならば、この勝負の大前提は自炊! すなわち手作りであるか否だよね!!
でも、梨花ちゃんはそれを怠ったとなると…それは出来以前の問題!! すなわち…失格ってことになるのかなッ?!?!」
「……にぱ〜♪」
梨花ちゃんはにぱ〜と笑って、梨花ちゃんなりに覚悟を決めたように見える。
「わ、悪く思うなよ梨花ちゃん。部活は非情なのだ。」
「……さすが圭一なのです。最後の最後まで頑張りましたですよ。」
梨花ちゃんは俺の頭をねだり、なでなでをした。
「というわけで、これにて一件落着ッ!!! 今日のビリは…
古手梨花ぁぁ!!!」
「「「「うをおおおぉおっぉぉおおぉお…!!!」」」」
奇跡の大逆転劇!!!
しかも…ビリは…絶対に考えられなかった梨花ちゃん!!
教室中がざわめく!!!!
「…ふ、ふん。よくもこんなひどいお弁当でビリを免れましたのね。」
沙都子が憎らしい顔をしながら、だけど曖昧な声でそう言った。
「ビリになんかなるわけないだろ。この弁当のどこにビリになる要素があるってんだ。」
「だ、…だってだって! こんな、…出来合いのお惣菜や缶詰ばっかりで…センスもなくて……それからそれから……!」
がし!!
だんだん自虐的になっていく沙都子の頭を乱暴に掴み、わしわしと撫でてやった。
「言ったろ?! 心が大事だって。この弁当はうわべだけじゃない、いろんな味に溢れてるんだぜ?!」
「でも…心だけじゃありませんのよ…!! お味なんて…全然ヘンで……。」
「どこがヘンなんだ!! 俺はうまい! うまかった!! だから詰めてきた!! 本当に昨夜のメシがまずかったら詰めてなんかこないぞ。食パンと牛乳パックを持って登校してくる!!」
「……えっと、……で、…でもでも…ッ!!!」
えぇい、もう黙れ。
頭をブンブンと振るように、わしわし撫でてやる。
いつの間にか、そんな俺たちの後ろにレナが来ていた。
くすくすと笑っている。
…初めから全部知ってたって顔だな。
「いつ頃から俺が作ったんじゃないって気付いてた?」
「圭一くんが火傷を見せてくれた時かな? だって、圭一くんのお弁当に油で炒めるおかずなんか入ってないし…!」
「……えっと、えっと…! レナさんは何か誤解してるではございませんの?! わ、私は別に何も…!」
「あれ? このお弁当、沙都子ちゃんが作ったんじゃないんだ? じゃあやっぱり圭一くんの手作りなのかな? うん。じゃあ圭一くんの手作りなんだね。」
レナは悪戯っぽく笑いながら、沙都子から俺に向きを変えた。
「キュウリとかを切るときは、包丁をほら、こんな感じで引くの。彩りなんかはね、お野菜を上手に加えるといろいろ表現ができるんだよ!」
…そのレクチャー、明らかに俺にしてるものじゃないよな。
「でも、前に見せてもらった時よりも、ずっと上達してたよ。ちゃんとお勉強してるんだね! きっとこの調子なら、もっともっと上手にお料理が作れるようになるよ!」
と、明らかに沙都子を対象にした言葉を、俺に対して言う。
…沙都子は、曖昧な顔で相槌ひとつ満足に打てないでいた。
「とにかく誰が何と言おうと! 俺は今日の弁当を気に入ってるんだ。今日ばかりは誰にも分けないからな! 俺がひとりで全部食うッ!!」
「わ、ケチなんだ…!
レナも食べてみたいな! みたいな!」
そんなやりとりをしていると、沙都子が眠い時に目を擦るような仕草をしてから、魅音とみんなに告げた。
「あ、あの…私も実は! …富田さんにお弁当を分けてもらいましたの!」
「バカ! …北条、何で言っちゃうんだよ…!!」
内緒にしていれば、少なくとも沙都子だけは助かったのに…。富田くんが無念と驚きの入り混じった顔を向けた。
「へ? そうだったの?! ホント?! ありゃあ…☆」
魅音はクルクルと指を回してから廊下を指差し、沙都子にも罰ゲームを宣告した。
沙都子はまるで、梨花ちゃんのお使いに付き合うかのような気さくさで、教室を後にする。
「…梨花だけに行かせられませんわ。地獄の底までお付き合いしましてよ。」
「……そんなとこまで付いて来なくていいのですよ。」
「まったく圭一さんも嫌味ですわね! 梨花だけをさらし者にするなんて、本当に意地悪な人でございますこと!」
別にそんなつもりじゃ…。
ただ俺は、弁当の恩を仇で返すわけにはいかないと思って……。
「……ね? 本当に沙都子はお馬鹿さんなのですよ。」
にっこりと笑いながら、梨花ちゃんは俺だけに聞こえるように、そう言った。
「では! そろそろ行きましてよ梨花! 罰ゲームも部活メンバーの務めでございますわー!!」
沙都子は何だが嫌に嬉しそうで、いつも負けた時に見せるような、悔しそうな仕草は一切なかった。
……ちぇ。
…確かに梨花ちゃんの言うとおりだな。どいつもこいつも馬鹿ばっかだ!
「魅音! 俺も白状するぞ!! 今日の弁当は俺が作ったんじゃない! 俺も同じだ! だから行ってくるぞ! 罰ゲーム!!」
「へぇ?! 圭ちゃんまでぇ?! ど、…どうなってんの…?!」
「うふふふ…! がんばってね! 罰ゲーム! 救急箱を用意して待ってるからね。」
「…予め救急車の手配を頼む。場合によっては霊柩車だな…。」
目を白黒させている魅音と、嬉しそうに笑うレナを教室に残し、廊下へ出た。
「……な、…何やってるんですの?! せっかく勝てたのに! わざわざ罰ゲームに名乗りをあげるなんて、物好きにもほどがあるでございましてよ?!」
「そうだな。物好きにもほどがあるぜ。」
「…まったく! 今日の罰ゲームを甘く見過ぎですのよ?! 私たちならともかく、圭一さんじゃあ、大変なことになってしまうかもしれませんわね! 肋骨の一本や二本の覚悟はおありでしょうねぇ!」
「う、…肋骨は痛そうだな…。俺、痛いのはダメなんだ…。」
「圭一さんは大人しく、私の相槌を打っているんですのよ?! 私と梨花でうまくやりますから! まったく! 罰ゲームの面倒まで私が見なくちゃダメなんて…まったく!」
…この不機嫌そうな素振りは、実がとても機嫌がいいものなのはもう知ってる。
だから、微笑ましかった。
「なぁ。俺さ、野菜炒めが食いたいんだけど、…沙都子、作れるか?」
「はぁ…?!
え、と、…まぁ、頑張れば出来ないことはありませんわよ!」
「……上手に作れますですよ。沙都子の野菜炒めは大好きなのです。」
初めは不安げだったが、梨花ちゃんのお墨付きがもらえると、沙都子は自信を取り戻した眼差しで俺に振り返った。
「じゃあ決まりだな。今日、学校が終わったら、いろいろ買い物に行こうぜ。俺じゃあ、何を買えばいいのか、全然わかんないし。」
「それもそうですわねぇ。圭一さんじゃあ、スーパーでお買い物なんて、まだまだ早いでしょうし! 私が見てなければ不安ですからねぇ!」
「……その沙都子も、ボクが見てないと間違えたお買い物をしちゃうんじゃないかと不安なのです。」
「り、梨花ぁ!!」「み〜〜!!」
なんて、そんな会話をしながら歩いていれば、職員室の戸はもう目の前だ。
「さて! 罰ゲームなんかちゃっちゃと済ませて、今晩の献立の話でもしようぜ!」
「……みー☆」
梨花ちゃんが嬉しそうに、腕に組み付いて来た。…なので、もう片方の手で沙都子の肩を抱き寄せる。
「死ぬ時ゃ、みんな一緒だぜ? 誰も一人でなんか死なせない!」
「……みんなで一緒です。誰も一人でなんか死なせないのです。」
「ふ、不謹慎な話ですわねぇ! 私はそんな物騒なの御免ですわよ!!」
とか不機嫌にいいながら。こいつ、照れるくらいに嬉しそうにしてやがる。
「よし。この扉、一枚向こうは死後の世界だぞ! みんなで戻るぞ! みんなでだ!!」
「えぇ!! みんなでですわよ!! では、……行きますわよ!!」
ガラーーリッ!!!
今、死の世界の扉を開くッ!!
知恵先生は……毎日間違わずに、お日様が東の空から昇るように。
…今日もカレー弁当を食べていた。
レトルトだが、毎日違う銘柄なのがポイントだ。
「あら。前原くんに古手さんに北条さん。……どうかしましたか?」
大好きなカレーを口いっぱいに頬張って至福のひと時みたいだ。
……それにケンカを売るなんて、何て罪な罰ゲームだろう?
でもやらなければならない!
それが…我が部の掟だからだッ!!
3人でもう一度硬く肩を抱き合う。
「…じゃあ行くぜ。いいか?」
「いいかじゃありませんわ!! 圭一さんは大人しくしてるんですのよ!! 全て私と梨花でやりますから!! 私に今だけ命をお預けあそばせ!」
「……ファイト、おーですよ。」
「…あなたたち? ……???」
先生の頭にクエスチョンが2つ3つと並んでいるのが見て取れる。
じゃあ沙都子。
俺の命、今だけ預けるからな。…俺は目を固くつぶって、今夜の食事のことだけ考えてるからな…!! 頼むぜ…!!!
沙都子が、すぅ…と息を深く吸い込む。……それから…、
「や、やーいやーい! カレーのお××××××〜〜〜〜ッ!!!!」
<学校の遠景。ドーーンの音
■アイキャッチ
■兄妹の食卓
…結局。俺のわがままは、ちゃんとかなうことになった。
沙都子はぶつぶつと(上機嫌そうに)不満を漏らしながらも、俺と一緒に買い物に付き合ってくれた。
梨花ちゃんは来なかった。
今夜は用事があるとか、やりたいことがあるとか。
聞いた時は鵜呑みにしてしまったが、今こうしてよくよく考えると、…梨花ちゃんなりに沙都子に気を遣ったのではないかと思ってしまう。
梨花ちゃんのいない沙都子は、これまで以上に得意げで饒舌だった。
「いいですこと? スーパーというものにはタイムサービスというものがあるんですのよ! 例えば野菜炒めに欠かせない豚肉も、もう少し待つと半額にまで下がるんですの! お肉やお魚は鮮度が下がったら売れませんからね。お店も売れ残さないように土壇場では安くしてくれるってわけなんですのよ! もちろん、百戦錬磨の主婦の皆さまもそれを熟知していて、こうしてサービスタイムが近付いてくると…、」
…なんて話を聞いてもないのに、得意げに話してくれた。
俺がそれらに驚いたり、相槌を打ったりする度に。沙都子は、圭一さんは何も知りませんのねぇ!
とぼやきながらもとても嬉しそうに笑うのだった。
そして俺の手を引いて、いろんな売り場へと次々に誘うのだ。
……こんなにも機嫌が良さそうだと…一緒にいるだけで、こっちまで嬉しくなってしまう。
だから沙都子のペースに合わせるだけでも、とても楽しかった。
「おい、どうせならこっちのお徳用パックにしようぜー? お、こっちのチーズ入りにもかなり惹かれるものが…!!」
「圭一さんには経済観念が欠落し過ぎですわー! 御覧なさいませ!! 予算オーバー! お金が足りないのですわよー!!」
沙都子は何枚かのレシートをぐいぐいと俺の目先に突き出す。
ちぇー! 沙都子のヤツ、買い物の時だけは暗算が早いじゃねぇか!
「くそー…! ノーマルを腹いっぱいたくさん買うか、ワンランク上のチーズ入りを慎ましく買うか…。これはかなり…悩む!!」
「大人しく量を取りなさいませ。年頃の男の方は質より量を取った方が賢明でしてよー!」
「ちぇー、沙都子は厳しすぎだよー! 質も量も両方取りたい、この男心がなぜわからんー?!」
「男心でお財布は膨らみませんのよー?! まったく!! えぇい、未練がましくガラスに張り付かないんですのー!!」
そんなやりとりを楽しんでいると、さっきの肉屋から威勢のいい声が聞こえてきた。
何人かの主婦が売り場に殺到するのが見える。
「い、いけませんわ!! 早く行かないと半額豚肉がなくなってしまいますわー!!」
「いててててて…! 引っ張るな! 襟首を引っ張るなー!!」
本当に楽しそうな沙都子だった。
…まるで、遊園地のアトラクションに向かって家族の手を引いて駆け出す子供のようだった。
だからそうして手に入れた豚肉は、呆れるくらいにただの豚肉のパックだったわけだけど…。
きっと、すごくおいしいものに違いないと思った。
表はいつの間にかセミに代わって、ひぐらしの合唱になっていた。
…とても空気が清々しくて、気持ちいい。
………二人の長く伸びる影が、とても楽しい影絵のように見えた。
二人の自転車の前カゴにはレジ袋いっぱいの買い物が詰め込まれていた。
中身は食材や雑貨。
…だけれど、何だかとても嬉しいものがはちきれんばかりに詰まっているように見え、とても幸せな気持ちがする。
「夕食の買い物ってのもオツなものだな。晩飯が楽しみになるっていうか、待ち遠しくなるっていうか。」
「それもまた、自炊の楽しみでしてよ。お買い物の内から、もうお夕食は始まっているんですもの。」
「野菜炒め、楽しみだなぁ! うちのお袋のメニューにはさ、野菜炒めってないんだよ。だから中華屋で外食する時くらいにしか食べれないんで、今日は本当に楽しみなんだよ。」
「それはお気の毒でございますこと。では今日は、特別においしいのをご披露してさしあげましてよ。」
いつもならこの辺で。
俺が憎まれ口を叩くタイミングだ。…でもそれはやらない。
「あぁ。沙都子ならきっと、うまい野菜炒めを作ってくれる。すごく楽しみだよ。」
「……………え、……あ、」
ほんの一瞬、どもった。
沙都子もまた、俺が茶化すタイミングだと思っていて身構えていて、…それが外されたから驚いたのか。
…それともそれ以外の理由でどもったのかはわからない。
でもその感情は決して悪いものではないことはすぐにわかった。
「えぇ! 飛び切りおいしいのをご馳走しましてよ! 楽しみにしてあそばせ!」
沙都子とこうして自転車を走らせながら、思う。
俺ってこんなヤツだったっけ?
今までの俺だったら、沙都子に何かされたらすぐさまにやり返す。
うん、確かそういう関係だったと思う。
互いに小さく挑発し合って、互いの何かにケチをつけて盛り上がるというか。
それがいつの間にか、…変わってしまった。
互いに売り言葉も買い言葉もない。
俺が挑発しないからケンカもない。
それを言ったら、沙都子だってそうだ。
今までの、俺が沙都子だと思ってた沙都子もこんな感じじゃなかった。
俺と沙都子の関係が、少しずつ変わっている。…そんな風に感じた。
でもそれは…気に留めるようなことじゃなく。…何て言うのか、…ちょっと嬉しい、微笑ましい変化だった。
…俺たちはどうしてこういう風に変わったのだろう?
……沙都子が兄、悟史が帰らないのを寂しがり、俺にその姿を重ねている?
昨日、梨花ちゃんはそれを教えてくれた。
多分、それは間違いないだろう。
だからきっと、…俺の振る舞いが悟史に似ていくにつれ、沙都子もまた、兄妹が仲良く暮らしていた頃の沙都子にどんどん戻っているのだ。
つまり、この沙都子が本当の沙都子なんだ。
……沙都子は兄の面影を得て、ようやく自分に帰ってきたんだ。
俺が大人しく兄でいてやれば、こんなにもやさしい笑顔ができるヤツなんだ。
………でも、俺は北条悟史じゃない。
…前原圭一というまったくの他人なんだ。
沙都子の兄にはなれない。近付くことはできても、本当になることはできない。
それは……なぜか漠然と、……悲しいことのような気がした。
俺が被っている悟史という化けの皮は、いつか必ず剥がれる。
その時、沙都子のこのささやかな、昔を懐かしむ平穏な時間は終わってしまうに違いないのだ。
限りある平穏。
…いつか終わってしまう平穏。…それはとても悲しい言葉だった。
俺は自分の頭をぶるぶると強く振り、そのつまらない考えを追い払う。
「ど、どうしましたの圭一さん…。」
「ごめん、何でもないよ。」
「何でもないならそんな変なことをしないで下さいませね! 何か悪いものでも食べたんじゃないかと不安になってしまいますわー!」
「へいへい。ごめんよ沙都子ー。」
相変わらず口うるさいが、…沙都子はとても嬉しそうだった。
だから俺もつられて、何となく笑い出してしまった。
なぁ、前原圭一。
いつか終わる平穏なんて寂しい考えはやめようじゃないか。
…いつか終わるなら、終わった時にまた考えればいい。
でもひとつ言えることがある。
俺がこうして微笑みかけている限り、沙都子から笑顔が絶えることはないだろう。
…だから、俺がいるこうしている限り、絶対にこの平穏が終わったりなどしないのだ。
……悟史だって、きっといつの日にか帰ってきてくれるだろう。
だがそれは、俺が期待するよりもずっと未来のことかもしれない…。
その日まで、……俺が悟史の代わりをしっかり務めてやればいいじゃないか。
俺は実の兄じゃないから悟史にはなれない、なんて…ただの逃げ口上だ。
俺さえ逃げなければ。…きっと沙都子はいつまでも上機嫌に、ぶつぶつと小言を言いながら楽しく暮らせるんだ。
悟史に何があって、…沙都子を放り出して逃げ出してしまったのかはわからない。
でも、沙都子のあんなにも上機嫌な様子を見てしまったら。……きっと俺はどこまでも頑張れるに違いない。
だから思った。
悟史になろうって言うんじゃなく、沙都子の兄の代わりになってやろう、と。
「そうそう!! 俺はこういう野菜炒めを期待してたんだよ! うまい! 実にうまいッ!! この塩コショウ味のお汁がいいんだよなぁ! 実にご飯が進む!!」
「ほらほら、圭一さん! こぼしてますわよ! そんなに焦って食べなくてもご飯は逃げませんのよ?」
「いいや逃げるぞ! 出来立てほやほやの最高の味は、出来た瞬間からどんどん逃げていくんだ。沙都子が百、おいしく作ったものなら、俺はその百を丸々味わう義務がある! それが食う側のマナーってもんだ!」
「それはお気持ちだけで充分ですわ!! ですから、もっと落ち着いてご飯をお食べなさいませ!」
「あはははははは。そうだな、悪い悪い。」
憎まれ口はなし。
素直に頭を掻いてから箸を休め、二人でおかしそうに笑い合った。
結局、食べてるのはほとんど俺だけ。
沙都子はろくろく箸を進めず、俺がうまそうに食うのを眺めてるだけで、充分みたいだった。
俺がうまそうに頬張ると沙都子がうれしがる。だからおれももっとうまそうに頬張れる。
沙都子はそうして、いつまでも幸せそうな顔で笑っていた。
…その様子を見て、俺もまた、とても幸せそうだった…。
……しっとりとした、やさしい時間が過ぎていく。
今までの俺は、沙都子に売り言葉や買い言葉をぶつけていたから、すぐにケンカになったのであって。
…こうして素直な会話を交わしていれば、こんなにも心安らかな会話ができたのだ。
……そんな、新しい沙都子の発見がちょっぴりうれしい。
うん。
例えば、今こうして沙都子が作ってくれた料理を食べているが。それに何か怪しいところがあるなんて夢にも思わない。
かつての沙都子だったら、絶対に何かのワナを仕込んでくるはず…。
「…ん。がっつき過ぎた。ちょっとトイレに行ってくるぞ。」
「ちょっと圭一さん! お食事の最中におトイレなんて言っちゃマナー違反ですわよ!」
「じゃー何て言えばいいんだ? せっちんか? 厠か? お便所かぁ?」
沙都子は真っ赤になって俯きながら、とっとと行け!とでも言わんばかりに廊下を指差す。
おっと、ついついいつものクセでやりあってしまった。
…でも、うん。
こういうのもやっぱり悪くない。
変に構えないで、ナチュラルに。
……なんて、あまりに無防備に考えながらトイレの中に入った…。
くい。
何か紐のようなものに足を引っ掛ける。
…………へ…?
わ?!
ドカン、
ガシャン!!
ぎゃおう?!
カパーンカパーーンッ!!!
「やかん?! タライ?! さ、沙都子ぉおおぉおぉお!!!」
やられた…。まったくあいつは…。いつも気を許したころに何かしやがるなぁ!
まったく油断も隙もありゃしない。
…でも、何だかおかしくて、全然怒る気にはならなかった。
沙都子がげらげらと笑いながらやって来る。
「ほらね?ほらね?! そろそろ引っ掛かってくれる頃だと思いましたわー!!」
「まったくこいつは…!! ちょっと気を許すと……これだもんなぁ!!」
俺の脳天をしこたま叩いたタライを拾い上げ、沙都子の頭をそれで叩いてやろうと思ったが…。こみ上げてくる笑いでおなかがよじれてしまい、それはなかなかできなかった。
…こんな時間が、いつまでも続いてくれればいい…。
別に、雛見沢に来て今日までが楽しくなかったわけじゃない。
だけど、…こんなにもやさしくて、ゆったりとした時間を過ごすのは…きっと初めてだった。
本当に何の掛け値もなく、……ただただ、やさしい時間。
一人っ子の俺が、初めて味わう…兄妹の感覚だった。
こうして二人で並んでお皿を洗うだけで、とても和やかになれる。……経験豊富な沙都子に花を持たせ、相槌を打ちながらの、二人での皿洗い。
そんな、平々凡々な風景が……とても和やかで、温かい。
…こんな温かさ、俺も昔は味わってたかもしれない。
小さい頃、お袋とこうして流しの前に並んで立ったことがあるような気がする。
そんな懐かしいことを思い出させる。……そんなゆっくりとした時間だった。
それは、平穏。
何も不安がないことが、むしろ不安になるくらいの静かな平穏。
…おいおい前原圭一。
今のこのゆるやかな時間がただただ繰り返されることに、俺は何の不安を感じているって言うんだ?
何も不安に思うことなんかないんだ。
……だって、毎日を、楽しく、やさしく過して何のバチが当たるって言うんだよ…?
こんな日々がずっと続くなら、俺は何でもするし、悪いことは何だろうと一切しない。
そのための努力をするし、そのための我慢をする。
だから天の神様。
……こんな時間がいつまでも、ずーっと続いて欲しいというささやかな夢を、せめてかなえてくれないかな……。
「……あら? あれは電話の音ではありませんの? こんな夜更けに誰でございましょう?」
「…え? あ、本当だ。」
言われるまで気付かなかった。…慌てて立ち上がり、電話のもとへ駆けて行く。
こんな時間に誰だろう?
今の幸福なひとときを電話に邪魔されたという思いもちょっぴりあったが。
でもそれ以上に、誰であろうと、今の自分がいかに幸福な時間を過ごしているかを自慢したくて仕方がなかった。
「もしもし! …はい、前原です。」
「……もしもし? 圭一? お母さんだけど。」
「あ、何だ、母さんか。…何? こんな時間に。」
せっかく息子の身を案じて電話をかけてくれたのに、俺ってずいぶん冷たいことを言ってるな。
ちょっぴり苦笑いしてしまう。
「その様子だと、特にトラブルもなく生活できてるみたいね。母さん、圭一がご飯を作れなくてひもじくて寝込んでるんじゃないかと心配してたわ。」
「まぁね。何とかお陰で。」
「ご飯はちゃんと作れてる? 今夜は何を食べたの?」
「へへ。野菜炒めとご飯と味噌汁だよ。スーパーでいろいろとお惣菜を買ったから、何気におかずも豊富でさ! そうそう聞いてよ! 豚肉なんか、ちゃんとタイムサービスを利用して半額で買ったんだぜ! へへ! 主婦の知恵って言うのかな! それからそれから…!!」
それは全部、沙都子のお陰なのであって、俺が自慢することじゃない。
だけれど……とにかく今夜の食事を自慢したくて仕方がない。
お袋にもとにかく、俺がいかに上機嫌であるかは伝わったようだった。
「…そう。しっかりやれていて、母さん本当に安心したわ。…そうそう、それでね。
お父さんとお母さんの仕事が何とか終わったの。明日の昼か夜には帰れると思うから。」
「………あ、そうなんだ。」
「二晩、よく頑張ったわね。こっちも二晩ほとんど徹夜でね。大変だったけど、何とか先生のイベントは穴をあけずにすみそうよ。」
「うん。…よかったね。お疲れ。」
両親が帰ってくるのが、どうしてこんなにもつまらないのか。
…もちろん自分にも少しわかっていた。
終わらないで欲しいと思っていた平穏が、こうしてあっさりと終わったのが…ちょっぴり切ない。
東京みやげは何がいいと聞かれ、食い物なら何でもいいよと応えて受話器を置いた頃、トラップの後片付けをした沙都子が戻ってきた。
沙都子は初め、とても上機嫌だったが、…俺が曖昧な顔で受話器を置く様子を見て、表情を少し曇らせた。
………今の電話の内容が何となくわかってしまったようだった。
「…圭一さんのご両親からですの?」
「あぁ。明日には帰ってくるってさ。」
「あら、それはよかったですわねぇ。明日のお夕食の面倒はもう見なくていいわけでございますものね! 家族で水入らずの食卓を囲みなさいませ!」
「そんな事ないよ。また明日から、また無味簡素な食卓かと思うと……何だか寂しいよ。」
「何を贅沢言ってますの! 家族みんなで囲む食卓が一番楽しいに決まってますわ。」
……兄、悟史が家出していることを即座に思い出す。
でも別に、沙都子の言い方に陰りはなかった。
「私も、昨日今日と2日間でしたけど、…とても楽しいお夕食を取らせていただきましたわ。」
「ならさ。…今度は俺から沙都子の家に遊びに行くよ。」
「え?」
沙都子はぱっと嬉しそうに笑ってから、遅れて、驚いたような表情を浮かべ直した。
「う…うちは狭くて汚いですわよ? お台所もこんなに立派ではありませんし…。」
「俺は別に気にしないぜ? ……でも、ま、沙都子が嫌なら遠慮してもいいよ。」
沙都子は首を大きく横に振って、そんなことはないと全身で表現した。
「それに俺、沙都子にはまだまだ色々と教えてもらわないとな。…ようやく炊飯器の使い方と味噌汁の作り方を覚えた程度だし。」
「そ、……それもそうですわね! これを機会に、圭一さんにお料理をお勉強してもらうのもいいかもしれませんわね!」
俺のためであるなんて大義名分に便乗するところがいかにも沙都子らしい。
でも、あふれる嬉しさは隠しようがなかった。
両親の帰宅によって、確かにこのやさしい時間は終わりを迎えてしまった。
…でもそれに嘆く必要はない。このやさしい時間が続くように、俺には努力することができるのだ。
昨日同様、沙都子は帰りは送ってくれなくてもいいと言った。
でも今夜は梨花ちゃんはいない。
沙都子一人での帰路だ。
…村人誰もが顔を知り合う雛見沢において、
夜道が危ないということはそんなにないが、それでも女の子ひとりを夜道に送り出すのはよくない。
……少なくとも、沙都子の「兄」としてそう思う。
「じゃあ、学校の近くまで送ってやるよ。あそこまで行けば、結構、外灯とかあるから大丈夫だろ。」
「ほ、本当に大丈夫なんですのよ?! 悪い人が現れても、指一本で撃退して見せますわー!」
これ以上、問答をしても仕方がなかったので、沙都子の頭を鷲掴みにして振るように力強くわしわし撫でてやる。
「えぇい沙都子、ごちゃごちゃ言うな! ……えっと、……、」
にーにーが途中まで送ってやるから。
……そう言いかけて、急に恥ずかしくなって小声になってしまった。
にーにーって言うのは紛れもなく、沙都子が兄を指して言う愛称だ。
…それを俺が軽々しく使うのは、…何だか悪くて申し訳なくて、小っ恥ずかしい。
「…にーにー。」
え? ……沙都子は今、何て言った?
「あ、えっと、……!! …け、圭一さんが兄みたいに見えただけですわ。その、今の言い方、……全然違うけど、…どこか雰囲気が似てましたもので、つい…。を、をっほっほっほっほ!」
沙都子は気まずそうに照れながら赤面してしまった。
もちろん俺も、そんな様子を見て照れてしまう。
…俺が沙都子に対して兄として振舞おうとしていたことは、伝わっていたからだ。
温かい気持ちで、胸がいっぱいになっていく…。
それは恋愛感情とかその他もろもろの、そんな性急な感情とはまったく違う。
…もっともっと、しっとりとしていて温かくて、…のんびりとしたものだ。
…………沙都子には、…まだまだ「にーにー」が必要なんだ。
梨花ちゃんが今日、来なかったことを狡猾だとも最初思ったが。
…今こうして思うと、……親友の心の隙間を気遣う、温かな思いやりが感じられる。
梨花ちゃんは、自分では兄の役が出来ないことを……よくわかっていたのかもしれない。
……だから、………………………。うぅん、やめよう前原圭一。
難しく考えたって仕方ないだろ。
…つまりはみんな、思いは同じなんだよ。
つまり、…沙都子に幸せに笑っていてほしい。
沙都子はにーにーが家出したことを全然気にしていない風を装っているけど…。
……実際はそうじゃないんだ。
……とても悲しくて、…帰ってくるのをずっと待っている。
沙都子は…しっかり者の妹だから。
しっかり者の、本当の沙都子でいるためには、兄が不可欠なんだ。
…つまり、……沙都子にはまだまだ兄が必要なんだ。
それを幼いと笑う資格など誰にもない。
むしろ、それだけ仲の良かった兄妹だったと褒めるべきだ。
その兄の役は本物のにーにー、悟史が当たるべきだが、……不幸にしてここにはいない。
だから、今近くにいる俺がその役をする。
それは後ろめたいことじゃなくて、とても自然なことなんだ。
だって、……沙都子のあんなうれしそうな笑顔を見ることにどんな罪があるって言うんだ…?
「何ですの圭一さん。さっきからずーっとにやにやしてますのね…!」
「俺がうれしそうな顔をしてるとおかしいかな。」
「べ、別におかしくはありませんけど………その、……。」
自転車のライトのモーター音が騒がしくて、沙都子が何を言ったかよく聞こえない。
「え? 何? 何て言った?」
「…いえ。本当にどこまでも、にーにーに似てますのね。圭一さん。」
「………………そっか?」
「…もちろん、本当のにーにーとは全然違うんですけども…。……こう、……いろいろ。…そういうところが似てますの。…本当に不思議ですわね。」
「……似ていると、…にーにーを思い出して寂しくなるか…?」
言ってしまってから、…とんでもない失言だったのではないかと思ったが、沙都子はまったく気にする風はなかった。
「別に寂しくなんかありませんわ。こうして、圭一さんがにーにーの代わりになってくれますしね!」
「えっと、……その!」
いきなり図星を突かれ、うろたえるところへ、…沙都子は急に落ち着いた声で問いかけてきた。
…それはとても静かで落ち着いた、大人びた声だった。
「………梨花ですの?」
静かだけど、…どこかちょっぴり寂しい声だった。
「………梨花が、にーにーの代わりになってくれって、圭一さんにお願いしたんじゃありませんの…?」
「…そう思うのか?」
「……気を悪くしないで下さいませね。…梨花って、…私には変に気を遣うんですの。……私はそんなに気にしていないのに。」
…それだけはウソだと断言できた。
…昨日今日。
俺と一緒に、兄妹みたいに過した時間を、沙都子はあんなにも幸せそうに過した。
それこそが、気にしていないことをウソだと思える証拠だ。
だから、沙都子の頭をやさしく小突く。
「…………………………。考えすぎだよ、ばか。…俺は俺、前原圭一だ。お前のにーにーの、北条悟史じゃない。」
「……そんなのはわかってますわ。」
そのくせ、…少し寂しそうな表情を見せる。
…この頃には、沙都子自身、自らの問いかけが失言であったことに気付いているようだった。
沙都子が後悔している話題なら、もうこれ以上、無理に続けなくていい。
だから話を強引に終わらせるために、沙都子の頭を鷲掴みにして、わしわしと撫でた。
「そんな下らない話はもういいだろ。もう遅いからとっとと帰って歯を磨いて寝ろ! ついでだから寝る前にうがいもしとけ! 風の予防になっていいぞ。」
「そ、それを言ったらにーにーもですわよ! ちゃんと歯を磨くんですのよ?! うがいもしてお手洗いも済ませて、明日の教科書を準備して…それからそれから!!」
………沙都子と悟史って、…どんな兄妹だったんだろうな。
…見たことはないけれど、…すごく仲が良かったに違いないと断言できる。
…どんな風に仲が良かったかと言うと…。きっと、こんな感じ。
日中の暑さが嘘みたいに涼やかなのに、月明かりはどこかほんのりと温か。虫たちの静かな合唱が、耳に心地よかった…。
■幕間 TIPS入手
■タイトル: 沙都子のトラップ講座(中級)
富田くんと岡村くんが体育倉庫へ歩いていくのが見える。
次の体育の授業でコートラインを引くのに使う石灰の袋を出すためだ。
今日は彼らがお当番だからな。
だが、…その倉庫には…恐るべきトラップが待ち受けているのだ……!!
「…トラップって、仕掛けた側から見ると…本当にハラハラするなぁ!」
「ほっほっほ! 圭一さんにもその醍醐味がわかるなら素質がありましてよー?」
富田くんたちが体育倉庫の錠前をガチャガチャやっている。
………お? なんだ?
岡村くんが扉の一部を指差しながら、ぼそぼそとしゃべっている。
そして何かに気付き、扉からバッと遠のいた。
「お、……沙都子、バレたみたいだぞ?! 失敗か?!」
「……あの二人が入口のトラップに気付くのは計算済みですわ。
そして次にどういう行動に出るかも、もちろん計算済みですのよ。ほっほっほ…。」
沙都子によると、…あの二人は扉の不審な仕掛けに気付いた後は、扉を迂回し、裏の窓を外して中に入ろうとするだろうと言う。
そして、沙都子の予告した通りに…裏の窓へ向かい、……沙都子が予告した通りの登り方で…窓を開けて忍び込もうとする…。
「…ぉぉ…すげぇ…。沙都子の読み通りだぞ…!! …………あ! かかった!!!」
バフ、
ボフーーーーーーーーーンン!!
窓から石灰の真っ白い粉が爆風のように吹き出す。
……しばらくしてからヨロヨロと窓から這い出してきた富田くんたちは…全身真っ白けだ。
「ほっほっほ! をーっほっほっほ!!! この瞬間がたまりませんわねぇ〜! 蜜の味でございましてよ〜!!」
「……いやしかし……、…よくかかったよなぁ…。……あんな器用なトラップ、富田くんが窓を登る時、どこに手を置いて、どこに足を置くかとか、どこへ飛び降りるとか、そういうのを全部読まなくちゃ絶対に掛からないぞ…?!」
「いいですこと、圭一さん。トラップの第一歩は相手の観察から始まりますのよ?
相手の行動パターンを読み、相手ならこの時、こう動く、というのを綿密に読みきるんですの! そうすれば必要最低限の仕掛けで最大の効果が狙えるトラップが仕掛けられますのよー。」
…そう言えば、土壇場の最後の一手を読むことに関しては、沙都子には天性の才能があるって、前に魅音がベタ褒めしてたような。
「トラップは読みが全てってわけか。…じゃあつまり、過去に俺が引っ掛かってきたトラップも、みーんな俺が読まれてるから引っ掛かってたってわけか?」
「えぇ。私なりに圭一さんの行動パターンを読みきっているから掛かるんですわよ? だから圭一さんが、ある日突然、いつもと違うクセやいつもと違うパターンになってしまったら、掛からなくなってしまうわけですわね。」
…俺を読みきっていると豪語されると……、…何だか面白くないよな。
「よぅし。じゃあさ、何かゲームをやってみろ。沙都子の読みが当たるかどうか、試してみろよ。」
「えぇ、いいですわよ。圭一さんは特に読みやすいですから朝飯前でしてよ? をーっほっほっほ!!」
教室へ戻ると、沙都子がノートを千切り、裏に何かを書いて、三枚のカードを作った。
もちろん、俺には裏に何が書いてあるのかわからない。
「この中の一枚を引いてごらんなさいませ。ハズレを引かなければ圭一さんの勝ちですわ。」
「よぅし、挑戦してやるぜ!! 部活で鍛え上げられた俺の感性で見事打ち破ってくれる!」
沙都子はにやりと笑いながら三枚を突き出す。
頭を冷静にしてフル回転させろ、前原圭一! …クールに勝負を見切るんだ!
………ハズレを引かなければ俺の勝ち。
…ということはハズレを引かせれば沙都子の勝ちということだ。
………つまり、沙都子は絶対に俺にハズレを引かせたいということ。
絶対にハズレを引かすには…どうすればいい?!
そんなのに読みなんかあるのか?!
統計学的に…俺は真ん中を選びやすいとか、右利きは右を選びやすいとか、…何か法則でもあるんだろうか?!
その時、……魅音ならきっとこうするだろうというひらめきが浮かぶ!
「さぁ、どれを取るか決まりまして?」
「決めたぜ。……それはな、………これだぁああぁぁああぁッ!!!」
「え? ああぁあ!! な、何をするでございますの!!」
沙都子の手から3枚をまとめて奪う!
沙都子の考えを逆に読んでやったのだ。
……沙都子は絶対に俺にハズレを引かせたい。
ということは……全部、3枚ともハズレということ!!
「というわけだ!! この3枚、検めさせてもらうぜぇえぇえ!!!」
カードを三枚、表にすると……そこにはカタカナが1文字ずつ書かれていた。
「ハ」「ズ」「レ」
「……何だこりゃ。…ハ、ズ、レ。…ハズレ。」
「つまりはそういうこと。…1枚しか取らなかったならハズレにはならなかったということですわ。」
「え、ええぇええぇ?! じゃ、じゃあ…俺が3枚まとめて引くのを…読んでいたってのかぁああぁあ?!
ぎゃーーーーー!!!」
頭を抱えて悶絶する俺と得意絶頂の沙都子!
甲高い笑い声が教室にこだまする。
その時、沙都子の頭に、ボフ!っと石灰の粉がかけられた。
見ると、真っ白けの富田くんと岡村くんが両手いっぱいに石灰の粉を盛って、沙都子に復讐に来ていた。
「……北条〜!! あんな罠を仕掛けるのは北条しかいないー!!!」
「失礼でございますわね!! どこに証拠がございますの?
それに罠なんて品のない言い方はやめてほしいですわね。
より優雅にト・ラ・ッ・プ♪と呼んでほしいですわー!」
「「天誅〜〜!!!」」
「ひいいいいぃいいいいぃい!!! けけ、圭一さん、たす、助けてー!!」
……教室でどたんばたんと、後輩諸君たちが石灰で真っ白になりながら乱闘をする。
…おい沙都子。…こういう結末になることまでは読めないのかよ。
この時点の俺には、その後に先生がやってきて、俺まで一緒にお説教をされることを読めてはいなかった…。
■3日目(土曜日)
「お、そうなんだ。圭ちゃんの親、帰ってきたんだねぇ!」
「栄養剤臭がプンプンして目は充血してて。どうも丸二晩徹夜で相当の修羅場だったらしい。大人は大変だ。」
「圭一くんのお父さんって画家さんだったかな? 画家さんも大変なんだね。」
「そう言えばそうでしたわねぇ。一度、どんな絵を描くか拝見したいものですわ!」
…画家か。
展示してある水彩画やアクリル画は何枚か見たことがあるが、どうもそれ以外にも仕事をしているとしか思えない。
…一体、親父って実際はどんな仕事をしてるんだろ?
……親父のアトリエは立入厳禁だからなぁ。いつか覗いてやりたいぞ。
「結局、家を空けたのは二晩? くっくっく、短い攻略期間だったねぇ!
で? 圭ちゃんは意中のキャラを攻略できたのかなぁ?! 両親不在はエロゲー主人公の基本だしねぇ!」
「……好感度をいっぱい稼いで、ちゃんとフラグが立ちましたですよ。」
お前ら、何を言ってるのか全然わかんないぞ…。
「じゃあこれで圭一くんももう自炊しなくてもよくなっちゃったんだね。昨夜は何を作ったのかな? かな?」
ん、……んん。
…結局、俺って…一度も自炊なんかしなかったわけだよな。
「昨夜はその、…うん、野菜炒めを。」
「ほー! 圭ちゃんも少しは料理らしいものを作れるようになったじゃない。」
「ふ〜ん☆ 野菜炒めを作ったんだね。おいしく出来たかな? かな?!」
「…レナさん、暑苦しいですわよ。何で私にベタベタくっつきますの…?」
「……おいしいご飯に、仲良くお皿を洗いっこなのです。」
「は、はぅ〜〜〜〜☆ いいないいなぁ!!」
「えぇい! 暑苦しいと言ってますのよ〜!!」
「…へ? 何の話??」
魅音はすっかり煙に巻かれて俺に聞いてくるが、俺も白々しく目を逸らすのがやっとだった。
「そうそう! みんなさ、今日の午後に予定はあるかい? ないよね、あるわけないよね!!」
今日は土曜日。
午後は丸ごと学校から解放されるという素晴らしい日だ。
ちなみに、雛見沢の学校の土曜日は普通の、都会の学校の土曜日とは少し違う。
お弁当を持ってきて、お昼を食べて、校内や校庭で遊んでいく生徒がとても多いのだ。
学校自体が子供の遊び場になっている、とでも言うのか…。
裏には山もあるし、下れば沢もある。
強い日差しを避けて、教室でおしゃべりをするもよし。
土管に隠れてかくれんぼをするもよし。
もちろん、帰るのも自由。
帰って畑の水遣りを手伝ったり、店番を代わったりしている子もいるって話だ。
そんな午後をこうして魅音が切り出すなら。それはとんでもない部活の大イベントに違いあるまい!
………だが。
悲しいことに、俺はその部活に加わる前に、ちょっぴり仕事があった。
「……お仕事ですか? ツイてないのです。」
「何の仕事でございましょうね。お父さんの画家の仕事のお手伝いとか。」
「うーん。…お父さんの絵のモデルになるとか? ……モデル?
ヌードぉ?
はぅ〜〜〜♪」
…レナの瞳を覗きこむと…、バラを一輪加えた全裸の俺が、怪しげなポーズを?!
「ないない! それだけは百万積まれても絶対にない!」
レナの妄想を散らすべく、頭を鷲掴みにしてブンブン振り回してやる。
「はぅ〜〜〜〜!! やーめーーてーーー!!」
「…と、まぁ。愉快な妄想はおいといてだ。とにかく俺にはちょっとお昼に仕事がある。それが終わってからの合流でいいならOKだぞ。」
「お昼に仕事ぉ? ほー。そりゃー何だかカッコ良さげじゃない。何々? ひょっとして各界のVIPとの会食? ビジネスランチとかー?!」
「……う。………実に悲しいことだが、…正解だ。」
「「「ええぇーーー?!」」」
みんなが素っ頓狂な声をあげて驚く…。
■ビジネスランチ!
そう。今日は家族揃って、お仕事の日だ。
親父の仕事の関係で、出版社の人たちを10人くらい呼んでのホームパーティーなのだ。
二晩の徹夜明けの翌日には仕事先の人を呼んでパーティーなのだから、そのバイタリティには恐れ入る。
…大人って大変だ。
もちろん窮屈なことこの上ない。
知らないおっさんたちに愛想笑いをするのは実に疲れる。
でも…親父の大切な取引先なんだから、機嫌を損ねちゃまずいし…。
まぁそんなこんなで、今日という日は昼からとても窮屈なのだ。
「これはこれは! 利発そうなお子さんで…!」
「愚息の圭一です。圭一、こちらは××出版の××さんだ。そしてこちらは××××××専務の××さん。ご挨拶しなさい。」
「ど、どうもこんにちは。息子の圭一です。父がいつもお世話になっております…。」
「圭一くんもお父さんのように絵は描かれるのですか? 圭一くんの絵もぜひ拝見したいなぁ!」
うちの親父は画家なんていう生意気な職業だ。
もっとも…どんな作品を描いているのかはよく知らない。
特に興味もないし、見たいとも思わないし。
親父もケチケチしてあまり見せてくれないし。
俺ももうお子様じゃないんだから、裸婦画くらいあったって全然気にしないんだけどなぁ。
「圭一くんも、お父さんに師事してしっかり勉強すれば、きっとお父さんのような素晴らしい作家になれますからね。」
「…あの、…ここだけの話ですけど…。親父って…そんなにすごい画家なんですか?」
意を決して…こっそり聞いてみる。
息子の俺がこんなのを聞くのは何だかトンチンカンな話だが…。
すると相手は、にまぁ〜〜っと、いやらしく笑って俺の双肩を強く叩いた。
「えぇ!! それはもう…本当に素晴らしい作家さんなんですよ!!」
「そ、…そうですか…。それはよかったです…。」
「購入制限はないし、
ファンサービスはするし、
ファンレターには必ずお返事をくれるし!
世間のニーズもちゃんと汲み取っていて研究熱心!! 靴下は脱がしたら絶対にNG!
それはメガネや制服だって同じなんですよ!
そこを前原先生はよく理解している!! イベントは参加毎に必ず壁で大行列だし…、」
「あ、あのすみません…。絵ってのは…壁に飾るものじゃないんですか…??」
「そんなことはない! 初めは誰もが島中から始めるんです!
そして島角、
大通りの島角と階段を登って!
そして至る頂点が有明の壁なんです!!
あなたも! ぜひ前原先生と合体で出展できるような大作家になって下さいね!! 応援していますよ!!!」
そ…そんな熱い眼差しで期待されても……。
よくわからないが…、とにかく、画家の世界も深いらしいな…。
俺が思ってるよりも、きっと深〜い世界なのだろう。………そう思っておくことにする。
その時、向こうでお袋が呼んでいるのに気付いた。
「圭一。電話よ。お友達から。」
ツイてる!
友達からの電話を口実に、この窮屈なビジネスパーティーを抜け出せるかもしれない。
俺はばたばたと玄関を駆け上がり、保留にしてある受話器を引っつかむ。
「もしもし! 俺〜!」
「もしもし俺ー! なんて挨拶はございませんですわよ圭一さん。もう少し言葉遣いをお勉強なさいませー。」
…言ってる本人の言葉遣いが一番あやしいと思うんだがな。
「何だ、沙都子じゃねーか! お前が俺のところに電話してくるなんて珍しいなぁ。」
「のん気なことを言ってる場合ではありませんのよ! それよりも圭一さん、あなた、いつになったらこっちに来れますの?!」
「わ、悪ぃ…。こっちも何だか長引いちゃってさ…。なかなか解放してもらえないんだよ…。俺も早く部活に加わりたいんだけどさ…。」
「違いますですわよ圭一さん! 今日は部活ではありませんわ。実戦ですのよ!!」
沙都子の声がいつもと違う。
…何というか、緊迫感が漂っているのだ!
「じ、実戦ー?! 何だか穏やかな話じゃないな! どういう状況なんだ?!」
「詳しくは会ってからの説明にいたしますわ! とにかく…絶対的な危機なんですの!! このままでは負けてしまうでございますわー!!」
何だ何だ一体!
まさか…喧嘩か?!
どこの誰だか知らないが、雛見沢の仲間に手を出すとは上等にも程があるぜー!!
「おう! わかった!! すぐに加勢に行くぜ!! 場所はどこだ!!」
「興宮小学校のグラウンドですわ! 駅まで来れば看板があるからわかりますですわよ!! とにかく大急ぎですのーッ!!」
学校のグラウンドか…!
大勢が激突しそうなシチュエーション…。ひょっとして、かなりの大乱闘なのか?!
一体、敵は何者だ?! ぅおおおぉ!! 燃えてきたぁ!!
「わかった! すぐ行く!! 武器も持っていった方がいいか?! 金属バットでも持っていくか!!」
「金属バットをお持ちですの?! それは心強いですわよー!! お待ち申し上げておりますですわー!!」
電話はぶっつりと切れる。
急がなければ!!
「お、圭一。探したんだぞ。こちらの×××出版の××さんがな、ぜひ次のコピー誌で…、」
「そんなことより! バットないかな! 金属バット! なければ…長物なら何でもいいや!!」
「…な、…長ければ何でもいいなら、…父さんのゴルフクラブが物置にあるぞ。」
バットほどのインパクトはないが…ゴルフクラブも立派な武器だ!
バットよりも軽い分、俺には扱い易いかもしれない!
「サンキュ! それ借りるよ!! 俺、ちょっと友達のところに行かなきゃならない用事ができちゃったんだ!! ごめん!!」
「ちょ、圭一!? 待ちなさい…!!」
ゴルフクラブを引っつかむと、俺は自転車にまたがり、一路、町を目指したのだった…!
待ってろよ沙都子!
すぐに行くからな!!
それまで持ちこたえろよ!!
■興宮小学校グラウンド
興宮小学校ってのがどこにあるのかは、実はよく知らない。
沙都子の電話が、とにかく急を要していたようだったので、詳しい道も聞かずに飛び出してきてしまったのだが……。
…興宮の駅に行けば、看板が出てる…みたいなことを言っていたような…。
その時、後ろからチリンチリンと自転車のベルで呼ばれる。
「……こんにちはなのですよ。」
「おぅ! 梨花ちゃんか!! …はぁ! はぁ!」
「……圭一、早かったです。いっぱいいっぱい急いだですね。」
くそ!
こんなとこで息を切らしてる場合じゃないぞ! 急がなくては!!
「す、すまん!! 興宮小学校ってのはどこだ?!」
「……ご案内しますです。付いて来るですよ。」
梨花ちゃんが自転車で走り出す。俺もそれを追う。
「急に沙都子に呼び出されたんだが…、一体、どういうことになってるんだ?!」
「……初めはこちらが優勢だったのです。
…ところが、…途中から向こうが助っ人を入れてきたのです。ズルなのです。」
助っ人ぉ?!
かなわないと見るや、増援をかけるとは卑怯なヤツらだな!!
「……みんな、ばったばったと討ち取られましたのです。…歯が立たないのですよ。」
…ごくり。…かなりの強敵みたいだ…。
「とにかく、詳しい話は後だ! 時間がないんだろ?! 急いでくれ!」
「……お任せなのです。」
梨花ちゃんに先導され、俺たちは一路、小学校のグラウンドを目指す!
途中、梨花ちゃんに聞いたのだが…。
何と、この喧嘩には俺以外の部活メンバーは全員参加しているらしい。
…くそ、魅音が全員に声をかけていたのは…こいつのことだったのか!
そうと知ってれば、家の仕事なんか放り出してたのに!! …後悔しても遅いよな。
梨花ちゃんが言うには、最初は一方的にこっちが優勢だったらしいのだが、それに業を煮やした敵方が強力な助っ人を投入。
…それに対抗するために、部活メンバーが次々挑みかかったが…それでも歯が立たないらしいのだ!!
「部活メンバー総がかりで勝てない?! 一体、…そりゃどんな化け物なんだ?!」
「……すごいのです。敵は正統派なのですよ。」
…正統派…。
ゴロツキの喧嘩殺法でなく、ちゃんと空手とかを学んだ正統派という意味か…?!
「……もう、圭一だけが頼みの綱なのですよ。」
興宮小学校が見えてくる。
…グラウンドからは大勢のわめき散らす声!!
「ぅおおおぉおおぉお!! 魅音! レナ! 沙都子ぉ!! 今、行くからなぁああぁ!! 俺がまとめてぶっ潰してやるぜぇえぇえ!!」
校門前にはたくさんの自転車が乗り捨ててあった。
その脇に自分の自転車を同じ様に乗り捨てる。
かなりの人数がグラウンドに殺到しているのがわかる。
…両軍入り乱れての大乱闘ってわけかよ?!
ゴルフクラブを手に取る。
ぶん!と一閃。
手のひらにぐっと吸い付くような感触。
よっしゃ!! 手応えは悪くない! 大暴れしてやるぜぇえぇえぇぇ!!
それを振り回しながら、威勢良く校門に飛び込んでいく…!!!
「ついて来い、梨花ちゃん!! 男、前原圭一の万夫不当な大活躍を見せてやるぜーッ!!!」
「……わー。圭一がとても頼もしいのです。ゴルフグラブで大暴れなのです。」
梨花ちゃんがぱちぱちとちょっと乾いた拍手で俺の勇ましさを讃える!
それを背に受け、男、前原圭一は今こそ死地に臨む!!
「……でも圭一。…どうして今日はゴルフクラブなのですか?」
「仕方ないだろ! 俺も最初はバットの方がいいと思ったんだが、うちってバットなくってさ。素手よりは遥かにマシだと思って、せめてゴルフグラブを持ってきたんだ!!」
「……偉い偉いのですよ。圭一をなでなでしてあげますです。ゴルフクラブで大暴れが楽しみなのですよ。」
非常時だって言うのに、梨花ちゃんが背伸びをして俺の頭をねだる。
「お、おい! ふざけてる場合かよッ!! ……………………へ?」
ガキーーーーーーーンッ!!
その時、一際大きい金属音が鳴り響き、大勢の歓声が聞こえてきた。
「レフトー! あーー…! 抜けたー!」
「回れぇぇー!! 二塁行けるぞ、二塁ー!!」
「センター!! 落ち着いて!! 三塁へ送ってー!!」
センターが捕球し、一心拍置いてから、サードへ送球する。
焦って暴投したら、三塁打まで発展しかねない。
あえて二塁を許し、余裕を持って三塁へ送球…。ベンチの指示はなかなかに手堅い…! ………………って、…あれ?
「あ、圭一くん来てくれたよー! 沙都子ちゃん沙都子ちゃん、圭一くん来てくれたよー!!」
「遅い遅い遅すぎですわー!! 油を売るのはガソリンスタンドだけで充分でございますのよー!!」
「その前原くんって子は…本当に助っ人になれるんですか…? 相手はあの県立大島のエース、左腕の亀田くんですよ? 甲子園クラスの投手を打ち崩せるなんて…一体どんな助っ人なんです…?!」
「大丈夫です。圭一くんなら…きっと逆転させてくれますよ! 本当に頼もしい人なんです!」
<レナ
ざわッ!! …何だって?!
あの弾丸直球の異名を持つ…左腕の亀田を討ち取れるピンチヒッターだって?!
地方予選でノーヒットノーランを次々に打ち立てた、県立大島の無敗の魔神投手…。
プロのスカウトがすでにマークしてる超高校級ピッチャーを…討ち取れるだとぉおぉおッ!?
「あんなへなちょこピッチャーなんか、圭一さんには目じゃないですのよ!! あんな球、楽勝でバックスクリーンを越して下さいますわー!!」
ざわざわ!!
そんなスラッガーが県下にいたのか?! し、知らん! ノーマークだ!! おい! 阪神の××さんが腰を上げたぞ…!! おい! 写真を撮れ!! フルネームは前原圭一…、すぐにデータベース調べて本社に履歴を送れッ!!!
「どれが前原圭一だー!! 写真写真ーーッ!!」
沙都子を先頭に、大勢のスポーツ記者たちがごっついカメラを構えて、ウワサの前原圭一の姿を探す。
あまりの……出来事に呆然と、……ゴルフクラブを振り上げたまま固まる俺…。
「圭一さん、圭一さん、こっちですわよーーー…!!!
…………ふぇ?」
カメラマンたちが、ファインダー越しに俺を凝視し、……俺がそうするように、彼らもまた、………石になる。
…颯爽と現れたピンチヒッター前原圭一の手には、………ゴルフ…クラブ…。
誰にも、…なぜそれが俺の手に握られているのか、…理解できないようだった。……今となっては、…俺自身にもだ………。
ミーンミンミンミンミン…。脂汗が、ぼたぼた…。
その、あまりに重苦しい沈黙を打ち破ってくれたのは…レナからだった。
「………あの、……け、…圭一くん。」
「お、おぅ……。」
「ひとつ…………聞いてよろしいですの…?」
…頼む…。
聞かないでくれ。
…俺の顔から汗と一緒に懇願の念波があふれ出る…。それは何とか2人に届いたようだった……。
シンと静まり変える記者たちを、モーゼが海を割って歩いたように…割って抜ける。
……でもモーゼはきっと、割れた海の間をこんなにもこそこそと抜けなかったと思う…。
「や、野球の試合なら始めからそう言えぇえぇえぇぇぇぇ!!!」
「えぇぇ?! 私、言いませんでしたー?! 第一、バット持ってグラウンドに来いって言ったら、野球以外に何を思いつくわけですのー?! というか…何をどう間違ったらゴルフクラブを持ってくるって発想になるわけでございますの!!」
「う〜ん…、きっとね、きっとね! 暗いムードになったチームを明るくして盛り上げようとして…け、圭一くんがわざとやってくれたんだと思うな。………思うな!」
レナも苦笑いしながら渾身のフォローをしてくれる。
みんな、そう思ってくれ…。た、頼む〜…。
「……圭一はゴルフが大好きなのですよ。…なでなで。」
…梨花ちゃんは終始ご満悦で俺の頭をなでなでしていた。
その手を払いのけ、梨花ちゃんの背中のサスペンダーを摘み上げ、猫の子のように摘み上げる。
「……みーー。」
「梨ぃ花ぁちゃぁあぁん…!! なんでさっき駅であった時、野球だって教えてくれなかったんだよぉおおぉお!! そうすりゃ赤っ恥をかかずに済んだのにぃぃぃ!!」」
「……にぱ〜☆」
これ以上ないくらいに無邪気な、お日様のような笑顔を見せる梨花ちゃん。
う…、ま、まぶしい…。
その眩い梨花ちゃんスマイルに、思わず何でも許してあげてしまいそうになる…。
だが!
そういう態度を取れば許してもらえると思ったなら、梨花ちゃんは俺を甘く見過ぎだぜぇ!!
「というわけで、これはお仕置きだ。……レナ。」
「……みぃ?」
摘み上げた梨花ちゃんをそのままレナに差し出す。
…そう。
仔猫化した梨花ちゃんに、すでにレナのボルテージは最高潮ッ!!
「は、はぅ〜〜〜〜!!! もらったもらった!! レナがもらったんだよ〜!! はぅ〜!! かぁいいよぅ〜〜!!!」
びよん!
ぐるぐるッ!!
レナが舌をカメレオンのように伸ばし、梨花ちゃんをぐるぐる巻きにして捕食する!
「梨花ちゃんかぁいい! 梨花ちゃんかぁいい!! はぅ〜〜!!」
「み! み〜〜〜ッ!!」
…そのまま万力のように締め上げ、頬擦りをたっぷりねっちりと堪能するレナ。
ほっぺたとほっぺたが、ぎゅーっとなって。梨花ちゃんの顔が、まるでレナの顔に押し潰されてるかのようだ…。
「…何があったかは存じませんけど、…梨花が自業自得のようですわね。」
「あぁ。俺も最近、ようやく梨花ちゃんがただ可愛いだけじゃないと悟ったぞ…。」
「はぅ〜〜!! 圭一くんに許可をもらったんだよ〜!! お持ち帰り〜〜〜〜!!!」
「……みーー!!
みー!!
み〜〜〜!!」
とりあえずお仕置きの意味で、3分間ほどそのまま放置することにする。
「…ところで沙都子。緊急の呼び出しってのは野球ってことなのか?」
「えぇ、そうですわ。…ご家族でホームパーティーだったんですって? 悪いことをしましたわねぇ。でも、こういう時は家族よりも仲間の危機の方が最優先と決まっていますのよー!」
…そういうのは俺側が言うべきセリフだと思うぞ。
まぁ、親父のビジネスパーティーだったからな。
呼んでもらえて嬉しかったというのが正直な感想だ。
「それでその危機的状況というのはどんな具合なんだ。……6対7。ってことは負けてるのがうちのチームってことか。…うん? 9回の裏でツーアウトぉ?! 何だ何だ! この試合、もうほとんど終わりかけてるじゃないかよ…!」
「圭一さんがもっと早く来ればもう少し余裕がありましたのよ?! ここまで引き伸ばすのにどれだけ苦労したとお思いですのー?!」
「…わかったよわかったよ悪かったよ。んで? 俺の仕事は何だ。ピンチヒッターでもやるのか? ならば任せろ! こう見えても俺、引越す前は結構、バッティングセンターに通ってたんだぞ。親父がウサ晴らしに行く時、よく付き合わされてさ。ミートバッティングだったらそこそこの自信が…、」
ズッバーーーーーーーーーーンッ!!
…聞いたこともないような凄まじい音が聞こえてきた。
…キャッチャーのミットがビリビリと震え、薄っすらと砂塵が舞い…、今の凄まじい音を放ったのがそのボールであることを教えてくれた。
「……ちょっと待ておい…。今の凄まじい豪速球は一体なんだ。」
「…驚いたぁ? うん。あれ、本物の甲子園ピッチャーなんだよ。県立大島のエース、左腕の亀田くんって、知らない?」
「悪いけど知らん。…って、魅音ッ?! お、お前、何だよその格好は!!」
現れた魅音は…何と、ぐるぐるの包帯巻き! い、一体、何があったんだ?!
「えーと…、途中から来た圭一くんには最初から説明がいるよね。」
<レナ
「お、何だ。梨花ちゃんはもういいのか。」
「うん。かぁいいのいっぱい楽しんだよ。
ほよほよでやわやわでふにふに〜☆
はぅ〜〜、ほっぺだけでご飯三杯はいける〜♪」
「……みー。もうお嫁に行けないのです…。」
…あぁ、ご飯三杯はいける梨花ちゃんのほっぺってどんなのだよ☆
…妄想モードのスイッチが入りそうになるのを、何とか理性で踏み止める。…俺って大人だ。
「じゃあ説明を頼む。…何をどう間違えたら、こんな草野球対決に甲子園ピッチャーのリリーフが登場するんだ…?」
みんなが顔を見合わせる。それからレナが代表で口を開いた。
「うん。最初はね。普通の野球対決だったの。」
「雛見沢ファイターズと興宮タイタンズは、ささやかなながらも因縁の対決でさ。今回もささやかに大盛り上がりしてたわけ。」
「まぁ、平たく言えば学校対決ですわね。雛見沢と興宮の学校の因縁試合なんですの!」
「因縁って言っても、まぁ和気あいあいとしたものなんだけどね。」
<レナ
「…で、それに何でうちの部活メンバーが参加してるんだ? ユニフォームを着てるヤツも居れば、私服のヤツもいるし。…そもそも俺たちって野球部ってわけじゃないだろ。」
「あはははははは。つまり…うん、割といい加減なの。」
<レナ
「今日、たまたまチームに欠員が出たって言うんでさ。それじゃあせっかくだからって言って、急遽、私たちが乱入することになったってわけよ。」
<魅音
なるほど。
チームメンバーが足りなければ男女も学年も関係なく、助っ人として参加するわけか。
その辺の入り混じった感覚が、いかにもうちの学校らしいよな。
「梨花ちゃんに聞いた話だと、最初のうちは押しまくってたらしいじゃないか。」
「……魅ぃはすごいバッターなのですよ。右へ左へホームランなのです。」
魅音が得意げに胸を張ってみせる。
すると体のどこかが痛んだらしく、情けなさそうに呻いた…。
「えぇ! 魅音さんが登場する度に走者一掃の大ホームランが飛び出すんですの!」
「……沙都子と違って、ちゃんとバットにボールが当たるのですよ。」
「梨花ぁ!」
「……み〜〜!!」
「…まぁ、何となく話はわかった。あの甲子園ピッチャーが登場するまでは楽勝ムードだったというわけだ。」
「そういうこと。序盤は完全にうちのチームの流れでね。点にはならないまでも、ガンガン出塁して攻めまくってたんだけどねぇ…。」
<魅音
「たまたまね、今日の試合に県立大島の亀田くんが見物に来てたの。」
<レナ
県立大島ってのは、うちの県ではかなり知られた甲子園常連の学校らしい。
そして、その野球部のエースの亀田という男は…どうもかなりの腕前らしいのだ。
……確かに、こんなど田舎の草野球に、報道という腕章を着けたカメラマンが何人も観戦しているのは異常だ…。
「……亀田は、小さい頃、興宮タイタンズにいたことがあるのだそうです。」
「…話は見えてきたでしょー? 昔のチームが劣勢になって、つまりそれで、飛び入りでリリーフ登板することになって…。もうばったばったよ。出塁は愚か、ファールも打てない有様なわけ。」
「でもでも!! 甲子園ピッチャーの乱入なんて…草野球の試合でずるいですわよー!!!」
雛見沢ファイターズのユニフォームを着た少年たちも、…しゅん、とうな垂れる…。
その中のほとんどは見知った顔だった。
なんだ、みんなクラスメートじゃないか。…あ、そっか。雛見沢の学校ってうちだけだもんな。
「お、富田くんに岡村くんじゃないか。君たちも野球チームだったのか!」
「…ま、前原さん…………ぅぅ…。」
真新しくてあまり汚れていないユニフォームが初々しい。
…応援席には、彼らの名前を書いたお手製の横断幕が見える。
…そうか、今日のデビュー戦を家族も応援に来てくれてるんだな。
「……岡村のバットは、今日のためにお父さんがプレゼントしてくれたそうなのですよ。」
真新しいバットが映える。
…そんなのをプレゼントされたら、ここで活躍しなきゃ男じゃないよな。
「いっぱいいっぱい今日のために素振りとかしてきましたのよ。富田さんなんか、やり過ぎて…手の皮が剥けちゃってほら、…気の毒に…。」
ぼろぼろの手が痛々しいが、気概は伝わってくる。
わかるぜお前ら。晴れの舞台を飾りたかったんだよな…!!
ズバーーーーーーーーーーーーンッ!!
興宮タイタンズの助っ人、亀田くんとやらの凄まじい投球練習の音が聞こえてきた。
確かに…半端じゃない。
超高校級というのも頷ける。
…だが、そのレベルは明らかに、…因縁試合とは言え、草野球に割り込んできていいものではない。本人もその格の違いは理解しているはず…。
「…………あいつ。こいつら相手にも、本気で投げやがったのか…?」
「……うん。……レナは、こんなの大人げないと思う。」
レナが眼を厳しくする。
…レナが怒るなんてよっぽどだぞ。
富田くんも岡村くんも、…鼻をすすり上げながら、ぐっと涙を堪えていた。
…もう一度聞こえてきた凄まじいミットの音。
…振り返ると…左腕の亀田くんとやらが、こちらを見て、不敵にニヤリと笑っていた…!
「と、いうわけよ。……こうなったら、やるしかないでしょ。実戦体制で!」
「あぁ! どうやら…本気で行くしかないなッ!!」
「でね、うん。…本気で行って見たの。それで、…魅ぃちゃんが大自爆して…。」
魅音が照れながら頭を掻き、やや遅れてから痛ててて…と体をくの字に曲げる。
「自爆って、……一体、何をどう自爆したらこんなに大怪我できるんだ…?」
「説明するととてつもなく長いですわね…。…ひとつ言えるのは、ここまでして戦果なしということくらいですわね。」
「…ぅぅ…。ここまで体を張ったのに…1点も入れられないなんてぇ…。」
「……せっかくの秘策も台無しで、かわいそかわいそなのです。」
どんな秘策だか想像も付かんが、…取り合えず、それだけの怪我をするに相応しいくらいトンデモナイ秘策だったに違いない。
「…でもまぁ。失敗したお陰でまだ『野球』でいられるんだろ?」
「あはははははは…。うん。…ちょっと魅ぃちゃんの奥の手は、野球らしくなかったと思うかな。…かな。」
「こうなっては仕方ないでございましょう?
ここは正々堂々、野球らしく決着を着けるしかないということですわー!!」
「そうそう! 野球らしくケリを着けないとねぇ! あっははははははは!」
…普通の人間なら、
諦めて正攻法で挑むんだなと思うところだが、
我が部の部員たる俺はそのまま鵜呑みにしたりしない。
「……野球らしく、ってのが引っ掛かるぞ。…野球らしく見えれば手段は問わない、ってことだろ…?」
「あはははははは。う〜ん、私たちの部の信条だし、ね☆」
「そういうことですわねぇ! 手段を選ばないことこそ我が部の美徳でございましてよ。をーっほっほっほ!」
レナと沙都子が小気味よく笑い合う。
…とても威張れる美徳ではないが、そこに卑屈さがないのが我が部の一番のいいところだ。
「……でも、カメラがずらーりといるから、なかなかズルは出来ないのです。」
梨花ちゃんが両手を広げ、外野に並ぶ報道陣を示す。
…確かに、
望遠レンズのでっかいカメラを構えた大勢のカメラマンにああも監視されていては、…ダーティプレイはいろいろとやりにくいな。
「そうそう。…それがネックだったんだよ。…これだけの衆人環視があると、なかなか大胆な手が取れないし。
…いてててて…。」
「…魅ぃちゃんの手は決してお淑やかだとは思わなかったけどな。」
沙都子も梨花ちゃんもレナの後ろでうんうんと頷く。
「じゃあここで本題に戻るぞ。…今、我がチームは1点差で負けてるんだよな。」
「しかももう9回の裏で、…アウトも2個取られちゃってるの。」
「……おじさんの作戦がうまく行ってれば…今頃は満塁のはずなんだけどなぁ…!」
「失敗した作戦を嘆いても始まりませんですのよ! へこたれず次の手を打ってこそ我が部でございましてよ!!」
秘策をしくじり落胆気味の魅音を元気付けるように、沙都子が意気込んでみせる!
魅音の秘策は失敗したが、沙都子にはまだ次なる手があるかのようだぞ…。
「沙都子がなかなか威勢がいいじゃねえか。…ってことは、…何か奥の手があるってことか…?」
「圭一くん。…この子を誰だと思ってるのかな? 沙都子ちゃんだよ? 北条沙都子ちゃん!」
…そうだ。
トラップ使いの沙都子が異名じゃないか!
最後の最後で、絶妙のタイミングで相手を引っ掛ける。
沙都子相手に、最後の最後まで油断は禁物なのは我が部のメンバーなら誰だって知っている!
「…私が仕込んだとは言え、末恐ろしく成長してくれたもんだよ。僅差を制することに関しては、私でも舌を巻く時があるね。」
「……ちなみに、次の打者が魅ぃで、その次の打者が沙都子なのです。」
1点差で負けてる状況下で、次のランナーが出塁できれば……。
…続くランナーの一撃でサヨナラの可能性も…。
で、そのラストバッターが沙都子だって…?!
「うふふふふ…! ね? 勝てそうな気がしてきたでしょ?」
「……どういう仕掛けか想像も付かんが、絶対何かのワナだと断言できる。…俺が敵のピッチャーなら絶対に敬遠だ。」
沙都子がホームランを打てるとは夢にも思わない。
…だが素直に、無策にバッターボックスに立つなんてそれ以上に思えない!
「その沙都子が俺を呼び出した、ということは……。なるほど。読めてきたぜ…。」
…沙都子のワナに、俺というパーツが必要というわけだ!
「わくわくするね! 沙都子ちゃん、どんなことをするのかな。かな!」
「……ボクも、沙都子のサヨナラホームランが楽しみなのです。」
「その為には、圭ちゃんの働きが欠かせない。
…わかるね?! これが逆転の最後のチャンス。絶対に失敗できない!」
<魅音
「おお! わかってるぜそんなこと!! 見てろ! 俺と沙都子で、でっかい大逆転を拝ませてやるぜぇぇ!!」
「では圭一さん、これから手順を説明しますわ。ちょっとお耳を拝借しましてよ。」
俺と沙都子は物陰に屈みこみ、…見るからに怪しそうに打ち合わせをする。
「…前原さんと北条は何を話してるんだろう。」
「……委員長みたいに、トンデモナイ奥の手で自爆しなことを祈るよ…。」
見守る富田くんや岡村くんたちチームメイトはとても不安そうだった。
それをレナが吹き飛ばすように満面の笑みで笑う。
「大丈夫だよみんな。…沙都子ちゃんと圭一くんなら、きっとやり遂げてくれるから!」
「でも竜宮さん、相手は甲子園級のピッチャーなんですよ…?! いくら北条が得意のワナにはめようとしても…。」
「くっくっく…。まぁみんな、黙って見てなって。…面白いゲームが見られるからね。くっくっくっく!」
これから起こることを全て知る魅音は、こみ上げる笑いを殺すのに苦労しているようだった。
…その様子は敵としてあまりに恐ろしく、味方としてあまりに頼もしい!
魅音が審判に手を振る。
「代打が出まーす! 私、園崎魅音に代わって、前原圭一で。」
「…本当に彼で大丈夫なんですか?」
審判が、ゴルフクラブで飛び込んできたピンチヒッターに不安そうに目を向ける。
「うふふふふ! 圭一くんを甘く見ない方がいいですよ〜。」
部活メンバーたちだけは、全幅の信頼の笑みを浮かべ、にやりと笑っていた。
■アイキャッチ
■作戦始動
沙都子の作戦は…実にシンプルだが、…周到だった。
状況の全てが、沙都子が計算したとおりにお膳立てされているようにすら見える。
…1点差で負けていることも。
俺が遅れてやってくることも。
最後の打者が沙都子であることも。
…何だか、試合が始まる前にすでに仕組まれていたようにすら感じる。
だから、俺がやってきて長いタイムになって。
その間に敵ピッチャーの亀田くんがトイレ休憩を取ることすらも、…計算されたことのように感じられた。
……いや、沙都子のことだから、ひょっとすると、今この時間に作用するように調節した利尿薬をどうにかして飲ませたのかもしれない。
そして、トイレという隔離環境に敵を閉じ込めたところから……作戦は始まるのだ。
敵ピッチャー、亀田くんは…いた。
小便器の前で…じょろじょろと呑気に用を足している。
本人にとっては、こんな草野球など勝って当り前で…のんびりと用が足せるくらいに余裕。…そういうアピールのつもりなのかもしれない。
だが、…その心の余裕が隙なのだ。
……この時点で、…すでにお前は…我が部の軍門に下っている!!
俺も、何食わぬ顔でトイレに入る。
…小便器は3つ。
亀田くんは一番奥で用を足していた。…その隣に俺は立つ。
…普通なら、ひとつ空けた小便器に立つはずだ。
それをわざわざ隣に立つものだから、亀田くんも俺の存在に気付いたらしい。
「……何だ、誰かと思えば大ピンチヒッター様じゃないか。くっくっく…!」
俺が間抜けにもゴルフクラブを振り回しながらやって来た光景を思い出し、笑いが堪えきれない様子だった。
…だが俺はちっとも悔しくはならない。
俺がここに立った時点で、すでにゲームセット。
……試合は「我がチームの逆転勝ち」で決定したからだ。
あとは、沙都子が決めた筋書き通りにことを運べばいいだけ。
…くっくっく! 笑いたいのはこっちの方だぜ…!
「…圭一くん、うまくやれるかな。」
「大丈夫でしてよ。本気の圭一さんなら…こんなの朝飯前ですわ!!」
後輩の富田くんと岡村くんが、恐る恐る聞く。
「…あの、……本当に…前原さんはあのピッチャーを攻略できるんですか…?」
「あっはははははは! …あんたたち、圭ちゃんと同じクラスで生活してて何にも感じないわけぇ?
……彼はね、ゆくゆくはあの力で世界を制するかもしれない。…圭ちゃんと組めば…世界制覇は容易だなぁ! くっくっく!!」
「せ、…世界ぃいぃッ?!」
チームメイトたちは顔を見合わせる!
前原先輩には…そんな大それた力があるのか…?! そ、それは一体…どんな力なんだ?!?!
俺の問いかけに、亀田くんはきょとんとして、しばらく声を失っていた。
「………悪い。ちょっとよく聞こえなかった。…もう一度言ってくれるか…?」
俺は薄く笑ってから、正面を見据えて、もう一度はっきりと告げた。
「もう一度だけ言う。俺たちを勝たせろ。」
…な、…なんて単刀直入!!
脅しとか遠回しとかそんなのじゃなくて!
…亀田の脳が、この発言の意図を理解できず困惑するのがよくわかった。
「ば、…馬鹿も休み休み言え! 俺たちを勝たせろだ?! お前正気かぁ?!」
「…俺からの要求は伝えた。返事はどっちだ? イエスか。ノーか。」
「そんなの迷うまでもない! 誰がお前らを勝たせるもんか!! お前の頭は少し変じゃないのか?!」
亀田は困惑の様子を隠さない。
…この変なことを言うヤツと一分一秒でも同じ場所にいたくない…!
そういう思いを顔からこぼしながら、足早にトイレを立ち去ろうとしていた…。
「……亀田くん。君にとって勝利は何だ?」
「決まってる!
尊く絶対的で…至上目的だ! それは他の何にも変えられない!」
俺はそれを小馬鹿にするように薄く笑って応える。
「…くっくっく。スポーツマンらしい返事だな。
勝利こそ絶対。何にも変えられないってわけだ。…くっくっく!」
「そんなのは当り前だろう! どんな脅しにも買収にも、勝利を放棄させるような対価は存在しない!」
その言葉を待っていた。
俺は…三回転半の捻りを加えてから
…亀田の顔面を指差すッ!!
「ならば聞くべきじゃないのかッ?! それほど尊い勝利を放棄させるに値する…
どんな対価が提供されるのかを!!」
「な、…何を馬鹿なことを!! そんなもの…存在するわけがない!!」
……くっくっく!
口では否定しているが、足を止めた。…止めた!
こいつは…期待している。
俺から提示される魅惑的な条件に…期待しているッ!!!
「……君は雑誌のインタビューに、好物は焼肉で、嫌いなものは甘い物だと答えたらしいが、
…それはウソじゃないのかい?」
「な、………何ぃ…?!」
「例えば、…君が焼肉食い放題に行ったとする。君が皿に盛って来るのは一体何だ? …ロースか? カルビか? 牛タンの山か? …くっくっく。違うよなぁ。君が持って来るのは肉じゃない。…食い放題のプリンやゼリーやケーキなのだッ!! 女の子が喜びそうな…キレイで可愛らしくて愛くるしい…
そんな洋菓子が大好きなんだよなぁッ?!?!」
亀田の顔が一気に青くなる。
…彼が焼肉食い放題の店で、デザートばかり山盛り食べているのはすでに我が部の知るところだ。
そして、いい年をして甘い物に目がないのを恥ずかしがっているのもすでに承知!
…まさか亀田くんも、鹿骨市にチェーン展開してるあの焼肉店が魅音の、園崎一族の店だなんて知らないだろうからな。
(以後、家族と外食する時には俺も気をつけることにしよう…)
「ち、違う!! 俺が好きなのは豪快な骨付きの…、」
「違うッ!!! お前が好きなのは色取り取りのクリームで、やさしくやさしく、可愛らしく盛り付けられたデザートなのだ!!
まるで…フリルやリボンで飾り付けられた…無垢な穢れを知らぬ少女を連想させる…そんな透き通った少女のような可愛いデザートを…。ニキビだらけの欲望丸出しのスポーツ刈りが、汚すように!! バリバリとむしゃむしゃと!!」
「ぅわぁあぁああああああぁぁああぁあ、言うなぁあぁぁぁぁあ!!」
「そうだ!! お前はデザートを食べて、愛でているんじゃない!! 汚し、
蹂躙し、
しゃぶりつくしているだけ!!
お前はデザートを…汚して楽しんでいるだけなんだぁあぁぁあッ!!!」
「ぎゃああああぁあぁぁああぁあぁあッ!!! もうダメだぁあ!! 知られてしまったぁぁぁ!! 俺の密かな楽しみが知られてしまったぁ! もう生きていけない!! 死ぬしか…死ぬしかぁぁぁッ!!!」
「馬鹿野郎ッ!!! 命を粗末にするなぁあぁ!!!」
バシーーーーーーーンッ!!!
思いっきり横っ面を張り倒すッ!!
亀田くんは女々しく倒れ、よよよ…と泣き崩れていた。
「……ぅぅぅ。こんな変なことを考えてデザートを食べているのはきっと世界で俺だけだぁぁ…。俺は爽やかなスポーツマンのふりをした…変態なんだぁ…。」
「そうだ。お前は変態だッ!!!」
「ぎぃやああぁあぁあああぁぁぁあ…!!!!」
バシィイイィン!!
今度は叩かない。…どころか、彼の双肩を熱く叩くッ!!!
「わめくな亀田!! 男が変態で何が悪いッ?!?!」
ドーーーーーーーーーンッ!!!
「…え、………………え…?」
「男はすべからく変態だ!! だがそれを認めか否かで、男の器は天と地の差を持つのだ!!! お前は自分に素直だった!! それを自慢していい! 威張っていい!! 自分を誇りに思えぇえぇッ!!」
責められるどころか、自らを誇れと言われ…亀田くんは困惑を隠せない。
「そうだ!! そして俺はお前に感銘を受けたのだ!! デザートはただ単に食後に食べる甘い物。…今までずっとそう思ってた!! それは間違ってた!! お前がそれを教えてくれたんだ!! お前に出会ったお陰で…俺は、俺はッ!! 明日から同じデザートを一味も二味も違った味わい方ができるようになるだろう。例えば…
苺のショートケーキ!!」
い、苺のショートケーキ。…ごくり。…亀田の喉がなる。
「苺のショートケーキの地味さは、…そうだ! どこか古風な…鹿鳴館華やかなりし頃の正統派のメイドを思わせる!! スカートが短い媚びた近代メイドじゃないぞ! 正統派の正装の本格派!! 苺しかありません…、こんなものしかご用意できませんがどうかご賞味くださいませ…という慎ましやかさがいいよな…!! ご賞味くださいませ……ぅぅ、も、萌えるッ!!!」
「……も、…萌え…………。」
「苺しかないからこそ、やわらかく主張したクリームのデコレーションはさしずめ…、フルリやレース、刺繍飾りのようなものだよな…。それを、上品な貴族の、ご主人さまのようにフォークで切り分け…、いやいやッ!! それを下劣に、脂汗を浮かせた悪のご主人さまのようにしゃぶりつくところがワイルドなのかッ?! い、いやそれより…ごくり! 苺を取った後の…くぼみの方がいけてるよな? そこに舌を這わせたら…、あぁ?! それってどんな味なんだよ?! はぁはぁ…☆」
「い、苺を取った後の……く、くぼみ…ッ!!!」
「お…俺、もう辛抱できないや…!! 帰りはエンジェルモートでショートケーキを飽きるまで慰み者に……くっくっく!! 俺の為だけに美しく着飾った少女たちを…うっひっひっひ!! 身を寄せ合って震える少女たちをひとりずつ順番に…、見せ付けるように…くっくっく!!! ひとつ食べるごとに…次は誰を食べようかにゃあと…顎をこう、くいと持って、品定めをして…、くっくっく!」
(少女はケーキと翻訳して下さいね☆
圭一くんはどうやらケーキセット盛り合わせの話をしているようです(編注))
「……見せ付けるように…!! 顎をこう、…くいともって、ご、ごくりッ!!!」
かつて、苺のショートケーキひとつにここまで熱い想いを語る男がいただろうか?
いやいない!
いるわけもない!!
その熱い想いに…亀田の心の中の頑なだった部分が溶け去ろうとしている…!!
「亀田。もう一度だけ言う。俺たちを勝たせろ。」
「…ぅ、…で、でも…それは…………。」
「ならもういい。お前には頼まんッ!!」
亀田にビシリと拒絶を叩きつけ、俺は踵を返す。
「もういいや、この試合は負けだ負け! もうこんな試合どうでもいいやぁ! そんなことより……、試合が終わったらエンジェルモートに行って、……フリルとリボンで西洋人形のように飾られた、ゴシックロリータ少女、食い放題で行こうかなぁ?! ぐっひゃっひゃっひゃッ!! 今夜は…豪快に徹底的に食い散らかしじゃぁいッ!!!」
「ロ、ロリータを…く、食い放題ッ!!!」
がば!!
亀田くんがトイレの床にも関わらず、両手を床に付く。
「ぅ、…ぅぅぅぅぅ……! お、俺が間違ってましたぁぁ!!」
「どうした亀田くん。言いたい事があるならはっきりと言え!」
「こんな…あ、あなたみたいな人に出会ったのは…初めてです…!! 俺は今まで、自分はどこか変じゃないかとずっと思って…隠れて楽しんできたのに……、」
「何を躊躇するか矮小がぁッ!!
さっき言ったはずだ!! 認めるか否かが男の分岐路なのだ!!! 貴様は胸を張れるべき男!! さぁ!! 手を差し出せ!! 自らの偉大さを示してみろ!! 俺と一緒に…俺たちの世界を認めるんだぁああぁああぁッ!!!!」
「…ぅ………………ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅーーーッ!!!!」
ガシーーーーーーーーーンッ!!!!
感涙に、言葉も出せない亀田くんとの…世界で一番熱い握手を交わした瞬間だった。
亀田くんと熱い熱い、堅い堅い、魂の絆のような握手を…長い時間、交し合う。
それはまるで、生き別れになっていた兄弟が、別れていた時間を取り戻すかのような堅い抱擁にも似た…熱い握手だった。
後に、エンジェルモートのデザート食べ放題デーに出入り禁止を食らうまでになる伝説の男が誕生した瞬間であった…。
彼は、後の自らの伝記でこの日の出会いを運命の日とまで呼ぶに至る。
…が、まぁそれは全然関係ない話なのだが…。
「じゃあ、後でな。…取り合えず、試合は今話した通りの手筈で頼むぜ。」
それだけを短く告げると、俺は踵を返しトイレを後にしようとする。
それを亀田くんが呼び止めた。
「…ま、…待ってくれッ! せめて……あ、あんたの名前を聞かせてくれ…!!」
「俺か? ………俺の名は前原圭一、…いや、」
…何だか本名は嫌だよな。
…取り合えず、…何かコードネームみないなもので誤魔化しておくか…。
「……俺のことは、
…Kと呼べ。」
「け、……K。………Kぇぇい…!!」
………か、かえって恥ずかしい名前だったかな…?
…照れ隠しに足早にトイレを後にする俺。
…だが、後に聞くところによると、この時の俺の去る様子は、かなり颯爽として見えたらしかった……。
「沙都子より圭一さんへ。首尾はどうでございましたの?」
「圭一より沙都子へ。交渉は成功。エンジェルモートで俺とヤツのデザート食い放題で妥結した。魅音、問題ないな?」
「エンジェルモートにデザート食べ放題で2席ね。了解。手配しとくよ!」
「……どういう風に交渉したのか、実に気がかりなのです。」
「きっと…デザートのおいしいおいしい話で盛り上がったに違いないかな! かな! はぅ!」
■全ては作戦通り
その後、試合を再開。
俺は魅音の代打としてバッターボックスに入った。
だが…この時点でもう、全ての筋書きは出来ていたのだ…!
ズバーーーーーーーーーーーンッ!!
弾丸の異名通りの直球が俺の胸元をかすめる。
カメラマンたちは感嘆の声を上げながら、シャッターを切っていた。
相変わらずの球のキレ!
今年の夏はかなりいいところまで行けるんじゃないのか?!
あのゴルフクラブの代打男も棒立ちだぞ、くすくすくす!
…だけど、…亀田くんの様子がおかしいぞ?
何だか、嫌に脂汗をかいているような…。
俺はバットで自分の肩をぽんぽんと叩きながら、余裕の声であざ笑った。
「どうした亀田くん。
今日は不調かな?」
「…………く…!」
「この程度の球じゃあ、笑っちゃってバットを振る気にもならないぜ?」
「…く、……おのれ……!!」
ズッバーーーーーン!!!
続く球は…凄まじい速度はそのままに、ぐっとカーブしバッターを巧みに撹乱するはずだった。
…だが圭一はまったく動じない。涼やかに見据えるのみだ。
「直球投手に小細工は不要だよ亀田くん。こんなカーブに引っ掛かってくれるのかい? この辺りのバッターは。…くっくっく!」
「………ぅぅ……!」
報道陣も、観戦する大勢の人たちも…異様な雰囲気に気付く。
…あの甲子園を席巻したピッチャー、県立大島の亀田が…気圧されている?!
続く直球は、これまた凄まじい速度だったがやや暴投気味でボール!
俺は構えもせずに鼻で笑う。
「……どうした亀田くん。そんなにど真ん中が怖いのかい? まさか、天下の亀田くんが…フォアボールなんて事はないだろうなぁ?」
「…………く、…くそぅ…。」
ざわざわざわ…。
思わぬ異常事態に報道陣には戸惑いが広がっていた。
「…な、…何者だよ、…あの前原圭一って男は…? あの豪速球を前にして、ここまでの余裕とは?!」
「ふ、ふん、かなわないと見て空威張りをしているだけさ。あんな不真面目そうな男にあの亀田が打たれるはずはない…。」
「……いや、私ははったりとは思えないな。…超一流は、同じく超一流を見抜くという。…あの亀田は紛れもなく超一流。ならばこそ、……あの謎の男の真価を見抜けるのだ…。」
いかにも業界人風の男が、サングラスを外し、圭一を見据える…。
「…え、……え、…ま、まさか、…本当に……?」
ゴルフクラブで応援に来た間抜けピンチヒッターは…、本当に天才?!
「…きっと本人はもう野球に魅力を失い、ゴルフへの転向を希望しているのだろう…。」
「天才スラッガー、ゴルフ界へ移籍…か…。
そ、そんなことは球界への大きな損失だぞ?! 輪転機を止めさせろ! スポーツ欄は差し替えで行くぞッ!!」
ズバーーーーーーーーーーーーーン!!
「ボ、ボール!! …これでフルカウントだぞ…! ざわざわざわ…!!」
この過剰な演出はもちろん、全て沙都子によって脚色されたものだ。
亀田くん自身は注目を常に浴びている大物。
それがあっさりと負けてくれたらどう見ても八百長だからな。
…こういう演出をして、亀田くんが負けてもおかしくない雰囲気を作り出そうというのだろうが…。
「……沙都子。これ、…どう見てもやり過ぎだぞ。」
「をっほっほっほ! がんばれでございましてよ圭一さん! 明日の球界はいただきですわ〜!!」
ほ、本当にプロのスカウトが来たらどうするんだよ!!
ボロが剥がれた時が怖くてたまらないぞ…。
おっと、自信のない顔をしてはいけないいけない!
「ボール!! フォアボール!!」
「……臆したか亀田くん!! 見損なったぞ!!!」
亀田くんは落胆した様子(のフリ)で俯いた。
(Kさん…、これでバッチリ筋書きどおりですよね…?!)
(ああ。でかしたぞ亀田くん! この調子で次のバッターも頼むぞ…!! こんな試合、とっとと終わらせて…くっくっくっく☆!!)
(はぁはぁ☆ 早く食べ放題に行きましょうよ〜!!)
にやり!!
亀田くんと悪の笑いを浮かべあう!
なぜかそこにたくさんのフラッシュがたかれる。
……どうやら、その様子は報道陣諸兄には、好敵手同士が互いを認め合った笑いのように見えたらしかった。
一塁を目指し小走りで駆けて行く俺に、しつこいくらいにフラッシュが浴びせ続けられる…。
一塁を踏んだ時、報道陣のひとりがインタビューしてきた。
「ま、前原くん。…この亀田くんとの決着は甲子園でつけるつもりですか…?!」
ぅぅ…、何だか話がとてつもなく大きくなりかけている…。
正直に野球には興味がないことを白状しておこう…。
「…甲子園? 俺は日本球界なんか初めから興味ないんだ。悪いな。」
ぅ、ぅおおおぉおぉお!!
この男、狙いは初めから…世界かぁあッ!!
日本人初の大リーガーが登場するかもしれないぞぉぉッ!!
え…?
あ、あの……。……話が素敵な方向にどんどんずれていく…。もう好きにしてくれぇぇ……!!
ヤケクソで、カメラにガッツポーズで応えてやる…。
「よっしゃ! 作戦通り、圭ちゃんが出塁したね!!」
「次は…沙都子ちゃんの打順だね!! どうするんだろ! どうするんだろ!!」
「さぁー!! でっかいホームランでサヨナラ勝ちですわよ〜!!」
ぶんぶんと大振りをしながらバッターボックスに入る沙都子。
…俺との戦いの直後のせいか、報道陣から失笑が漏れている。
せっかくの前原くんの出塁も、これでおしまいだな…。
なるほど、亀田くんが敬遠したのはこれが理由か…。敢えて勝負せず、最後のアウトは楽な相手で取りに行く!
…しかし、それほどまでに直接勝負を嫌うとは…、侮りがたし! 前原圭一!!
「さぁ! 亀田さん、いらっしゃいませー!!」
「ふ、…ふはははははは! 馬鹿にするな! 俺を誰だと思っているんだ! Kさ、…いや! 前原さんならともかく…お前如きに遅れなど取るものか!!」
あの女の子はこれまでの打席は全て、大振り空振りの三振凡退。
……失礼だが、亀田くんがどう手を抜いても…あの子にホームランが打てるとは思えない。
報道陣たちが逆転は絶対にありえないと断言しているのが聞こえてくる。
何だって?
……沙都子は…、これまでの打席で全て大振りの三振だってぇ…?!
ズバーーーーーーーーーーーン!!!
音がし終わってから、完全にタイミングがずれてのスイング。
…雛見沢の応援団から失望の声が聞こえる。
…無理もない。
これまでの全打席を凡退しているのだ。
万が一にも…一撃などありえまい。
だからこそ、亀田くんがこう言ったとしても不思議はなかった。
「…お前如きに本気で投げても仕方がないな。チャンスだ。次の一球は下投げでのんびり投げてやる。1発くらいヒットを打って、お母ちゃんに自慢できるタネにさせてやる…!!」
もちろん、このセリフすらも全て筋書きだ。
…横目で亀田くんが、こんな感じでいいすかね…? とうかがってくる。
(あぁ。
いい感じだぞ。実にさりげない! 亀田、お主も演技派よのぅ…!)
(いえいえ、Kさんほどではとてもとても…、ぐっふっふっふ!)
そんなやりとりすらも、何だか熱く見えてしまっているらしい報道陣。
(でもKさん。…いくら手を抜いて投げても…この子、本当に打てるんですかね?)
(…いいからお前は決められた通りに投げろ。俺には何となくわかってる。)
そのやりとりを終えてから、亀田くんはセットポジションから投球体勢に入る。
「さぁ!! 手加減の球を投げなさいなー!! 大ホームランにしてさしあげますわぁ!!」
…全ての打席を三振で凡退。
それを聞いた時、俺の想像は確信に変わった。
亀田くんの手から…予告通りの、まるでキャッチボールのようなのんびりした球が放たれる。
…普通の人になら打てそうだが、…凡退続きの沙都子では………。
そう思わされる時点で、
我が部のメンバーならすでに沙都子のワナが始まっていることを気付けるのだ!
そう。
今日の凡退は全てこの打席のための布石。
…亀田くんが手を抜いたとしても全然不思議に感じないようにするための…演出。
つまりつまり…沙都子は…………、
ガッキィイィイイィーーーー…ン!!!
わ、…わぁああぁあぁあぁああああ!! 打ったぁあぁあ!! 大きいぃ…!!
「走る必要もありませんわね。…をーっほっほっほっほ!!」
沙都子の放った特大アーチが…校舎屋上へ消えていく…。
あまりの出来事に声を失う報道陣。それから…
大歓声!!
何となく…予想してた通りの展開とは言え…。あまりの豪快なホームランに、しばし唖然とするしかない。
沙都子が一塁にのんびりと歩いてきた。
「ほらほら、何をしてますの圭一さん。二塁は向こうでございますのよ。」
「沙都子お前……、……野球、得意なんだろ。」
沙都子は八重歯を見せるくらいににやりと笑って、それを返事とした。
…そう言えば、昼休みとかに富田くんたちに混じってよく野球してたもんな。
…よく誘われてるってことは、…決して弱くないということなのだ。
「…それを…全て大振りの凡退だぁ…? しかも亀田くんが登場する前からだろ? …ったく、つくづく最後の最後に何か仕掛けるヤツだな…!」
「いつも言ってましてよ? ワナはひとつ。それも最後の最後で、本当にさりげないくらいで充分なんでしてよ。ほっほっほ!」
ち、畜生…、何だかカッコいいぜ!!
ようするに打てるのをもったいぶってただけ、ということなのだが、…沙都子がやると無性にカッコよく見える!
俺と沙都子が順にホームベースを踏み、…見事にサヨナラ勝ちだ!!
仲間が俺たちを祝福して迎えてくれた。
「ま、前原さんー! すごいです、カッコよかったです!! 驚きましたです!!!」
富田くんと岡村くんが俺を讃えてくれた。
「どうだ、見たかよ富田くん岡村くん!! 見事ひっくり返してやったぜー!!」
「レナもカッコよかったと思うよ! お疲れ様〜!」
「何の! こんなの軽い仕事だぜー!!」
レナの差し出した手のひらに、パーン!と小気味よく重ね合わせる。
「沙都子も天晴れ!! 最後は豪快に決めてくれたね〜!!!」
「私を誰だとお思いですの? をーっほっほっほっほっほ!!」
まったく…、侮れないヤツだぜ! 北条沙都子!!
「圭ちゃんも見事だったよ! …よくあの亀田を口説き落とせたねぇ…!」
「……口先の魔術師なのです。」
「あははは、梨花ちゃんそれ、褒め言葉じゃないと思うな。」
「しかし本当に。圭一さんでなくてはできない荒技ですわね!
私にはとても真似できませんわぁ。ぜひ今度、私にもご教授いただきたいですわね。」
「…あんな荒技を沙都子がこなしたら…、…想像するのも恐ろしい。くれぐれも真似はしないでくれよな…。」
審判がゲームセットを宣言した後、俺たちのところにやって来た。
「…いや、…まさか、……本当に勝てるとは…。お、驚きましたよ。」
「沙都子なら打てる、って言ったでしょー? 全然信じてくれないんだからなぁ!」
審判は、いやいや申し訳ないと頭を掻きながら沙都子に苦笑いで謝っている。
「それに、圭一くんだってすごかったでしょ! 圭一くんって、ここ一番で本当に頼りになる人なんですよ。」
<レナ
「いやぁ、ゴルフグラブで乱入してきた時は、…本当に大丈夫かと思いましたけど…。あの亀田くんとの息詰まる攻防は手に汗を握りましたよ…。」
…あぁ、あの息詰まる茶番ね。
ちょっぴり苦笑する。
…みんなが真剣勝負だと思ってたあの勝負中、俺と亀田くんの頭の中には邪なデザート食い散らかしでいっぱいだったなんて、お釈迦様でも思うまい…。
「さて監督? 約束、ちゃんと覚えてるよねぇ?」
「う、うぅむ、これは…仕方がありませんね。たはははは…。」
「あはははははは! やったねやったね! 圭一くん、これで明日はバーベキュー大会だよ!」
レナがパチンと手を叩くと、仲間たちは一斉に、わ〜い!と万歳して踊り出した。
富田くんたちチームメイトも小躍りしている。
「な、なんだなんだ。バーベキュー大会ぃ? おいおい、一体どういう話になってるんだ??」
「をっほっほっほっほ!
今日の試合に勝てたら、高級お肉いっぱいのバーベキュー大会を振舞って下さるって約束になってましたの! 亀田さんの登場で一時は危うかったですが、圭一さんの活躍で見事獲得できましたのよー!!」
なるほどな、そういう話になってたのか。そりゃあ負けられない試合だったわけだ!
「……入江は大散財でかわいそかわいそなのです。」
「まいったなぁ…。でも約束ですからね…。」
「私たちは…食う時は情け容赦なく食うからねぇ!! 何しろ育ち盛りだし! あーっはっはっはっは! いいかいみんな!! 明日は徹底的に食いまくるよ〜!!」
「「「「おおおぉおぉおー!!」」」」
雛見沢ファイターズのチームメンバー全員で、高々と拳を突き上げて歓声をあげた。
梨花ちゃんが散在の言葉に苦笑する審判の頭を撫でている。
梨花ちゃんに頭を預け、審判はとほほほ…という感じだった。
…勝利の代償は相当高いものになりそうだな。
「…まいったなぁ。でも仕方ないね、約束ですから。お肉とかを買いにお買い物に行かないとなぁ…。」
「監督〜、約束どおり牛肉は高級なのをお願いね〜! 野菜ばっかり買って安上がりにしたら許さないからね〜!!」
<魅音
「とほほほ…。」
監督と呼ばれた審判は、苦笑いしながらがっくりしている様子だ。
…審判?
監督?
着ているユニフォームの胸元には雛見沢ファイターズと書かれている。
…あぁ、つまり彼は審判ではなくて、…本当はチームの監督なのか!
「前原くん、でよかったですか? お名前。」
「え、…あ、はい。」
「前原くんの出塁がなければありえない逆転でした。ぜひ明日のバーベキューにはいらして下さい。
…いやいやそれよりも! ぜひうちのチームに入りませんか?! あなたとなら…県下を制覇できるかも…!!!」
「あはははは…。監督監督、まぁその話は置いといて…。」
<レナ
「今はお財布の心配だけをなさいませ〜! をーっほっほっほっほ!!」
監督は、いい年をした大人にも関わらず、みんなととても仲が良いようだった。
……監督、か。
「よろしくお願いしますね。雛見沢ファイターズ監督の入江ですよ。」
握手の手を差し伸べてくる。
…それに応え、がっちりと握手を交わした。
「前原です。よろしく。」
握手している俺の手を、監督はもう片方の手でさわさわと撫でてきた…!
「う〜〜ん、すべすべなおててですねぇ…。キメも細かいしお手入れも実にいい感じです…。はぁ〜、さわさわ…。」
「は、…はぁッ?!?! ちょ、ちょっと?!」
「当家のメイドたちにも、このくらいの肌のお手入れはするよう厳命しなくてはいけないですねぇ…。お手入れの悪いメイドたちにはお仕置きお仕置き〜☆」
「メ、メイドぉ?! なな、何の話をしているんですか?!?!」
「は〜〜…、こんなすべすべな手で、御奉仕御奉仕〜…、はぁ〜〜〜…☆」
監督の目はうっとりと…自分だけのオリジナル魔空空間を漂い妄想うっとりで、はにゃ〜ん♪な感じになっていた。
……何て言うかその、……何者なんだこの人はッ!!
「あっはははははは!! 面食らってる面食らってる。」
<魅音
「監督はちょっと変わってる人なの。でも、とっても面白い人なんだよ。だよ!」
変わってるとか面白いとか、そういう尺度ではない気がするぞ…。
とても俺と気が合うとは思えん。……ビシリ!
心の中のもう一人の俺がなぜかツッコミを入れてくる。
「ほぅら! いい加減になさいませ!! 圭一さんも嫌がっておりましてよー!!」
「…は〜…。すべすべ〜…♪」
監督は、沙都子による三段重ねタライの直撃を受けて昏倒するまで、俺の手を離そうとはしなかった…。
■幕間 TIPS入手
タイトル: 沙都子のトラップ講座(上級)
のどかな昼休みだった。
ドン、
ガラン、
バッシャーーーーーン!!!
「わわ! な、何だぁ?!」
「今、廊下からすごいのが聞こえた! 何だろ! 何だろ!」
廊下に飛び出すと………、何とそこには水入りバケツを逆さに頭に被った監督の姿が!
「か、監督、大丈夫ぅ?!」
「たは、はははは…。いやぁ、…やられましたねぇ…。皆さん、こんにちは。」
監督はとても涼しそうに、スチャっと挨拶をする。
「どうしたんですか、監督。学校に来るなんて珍しい。」
「いやぁ、お仕事の絡みでして、私、毎週学校には来てるんですよ。ここしばらくは何事もなかったので…すっかり油断してました…。」
「あははは…。沙都子ちゃんの罠は忘れた頃に来ますからね…。大丈夫ですか、服。」
「いえいえ、ちょうど行水がしたいと思ってたところですからね、実に涼しくていいですよ。」
「さぁすが監督。ちょっとやそっとのことでは怒らない! その辺が大人〜って感じだよね。」
…確かに。
俺が監督だったら、被ったバケツもそのままにあいつを探して走り出してる。
いちいち子供のいたずらに腹を立てない大人っぷりには感服だ。
「いいですか前原さん。こういうのは考え方ひとつで腹立たしくも愉快にもなるんです。要は受け止め方ひとつなんですよ。」
「……水バケツをまるごと食らって、それだけクールにいられる秘訣があるなら、ぜひご教授を願いたいです。」
「例えば、…明治から続く古式ゆかしい旧家があるとします。」
「ふむふむ。」
「そこには大勢の使用人としてメイドさんが雇われているとします。もちろん大きな家ですから、ベテランのお局様と化したメイド長から、新米のぴちぴちしたメイドさんまでがたくさんいるのです!! ほら、想像できますか? ほらぁ…♪」
……ほらぁ…♪
監督を中心にフリルとカチューシャで彩られた桃色の夢メイド空間が広がっていく…。
「新米メイドたちはそのぴちぴちさと初々しさで、ご主人様の寵愛を一身に! でもそれが先輩メイドたちには許せないのです! ことあるごとに難癖を付け、いじめていじめていじめ抜いて!! ホラ、まだこんなに埃が残っていますよ! あぁ…すみません…。もう一度やり直し! バッシャ!! バケツを逆さにぶっかけられるメイドさん! びしょ濡れのメイドさんが…泣きそうになりながら、それでも健気に…、はぁはぁ!! メ・イ・ド〜〜〜〜♪♪♪!!」
「……はぅ〜〜〜☆ 何だか知んないけど楽しそう〜☆ レナもメイドさん、いいなぁ…♪」
「あーあー、もー! レナまで感化されてきたー。ほぅら圭ちゃんも! いつまでも監督の世界に浸っていない!」
「……これさえなければ監督も、決して悪い人じゃありませんのに。」
「む! 北条沙都子さん発見! …沙都子さん、これは何ザマス! まだ埃が残ってるザマスよ!! お、おお、お仕置き! お仕置きザマスー!!」
「んな!! にゃにゃ! にゃーー!!!」
監督が沙都子をヒョイと摘み上げると、沙都子のお尻をペチンペチンと叩き始める。
「あははははははは! 沙都子ちゃん、かぁいい! あっはははははは!」
「……天才的な読みでトラップを操る沙都子が、どーしてこの顛末までは読めないのか実に不思議だぞ。」
「そうかな。これは沙都子ちゃんの望んだ結末だと思うな。思うな!」
「この結末を沙都子が望んだー? そりゃどーゆう意味だよ。」
「人にこういうイタズラをしたら、絶対に相手は怒って追いかけてくるよね。そういうのもコミュニケーションだと思わない?」
「…そんなコミュニケーション、すごく嫌だぞ。普通に挨拶から入ってこんにちは〜ってことにはならんのか。」
「あれ、圭一くん、聞いたことない? イタズラばかりしてる人ってね、人にかまってもらいたくて仕方がない、寂しがり屋さんなんだって。」
レナが涼感を感じさせる笑顔で、ふっと笑いながら教えてくれた。
「だから。…沙都子ちゃんのワナに掛かったら、ちゃんと怒ったり笑ったりして、沙都子ちゃんを追いかけて欲しいの。そういう、猫の甘え噛みみたいなの…かわいいと思わないかなぁ…。」
「きっと、ここで驚いて飛びのきますわ。だからここに仕掛ければ絶対に掛かりますの!!」
沙都子はトラップ哲学を得意げに語りながら、さらに裏山を凶悪なトラップ地獄に改造していた。
レナの言うとおり、もしも沙都子のトラップが、人に構ってもらいたいという思いの裏返しなら。
……この裏山中に無数に仕掛けられたものは全部、…そういう思いの結晶だということになる。
梨花ちゃんと二人きりで、…いくつもいくつもたくさんのトラップを山中に仕掛け、………誰かが引っ掛かってくれるのをずっと待っていたに違いない。
……だけれど、こんな裏山に誰も来るはずはなくて。
……梨花ちゃんと二人で、引っ掛かった犠牲者がどう反応するかを想像し合って過したに違いない。
大好きなにーにーの悟史と生き別れた、沙都子。
…帰ってきて欲しいなんて一言も言わない意地っ張り。
でも、この山に眠る無数のトラップが、本当の沙都子の気持ちを教えてくれるのだ。
「……聞いてますの? 圭一さん!」
「あ、ごめんごめん。何だって?」
「このように、木の幹に釘を一本、打ちつけただけでも立派なトラップになるんですのよ? ちょうどあそこで転げて、ここに額を打ち付ければ…痛いですわよ〜!」
「く、釘の頭に人間トンカチってわけか…。そ、それは痛そうだな…。」
「このトラップはきっと、悪〜い悪人を誅する強力なトラップになりますわよ! どんな悪党がかかるか楽しみでございますわね!」
「…そこで何で俺をちらちら見るんだよ。…俺にこれに引っ掛かって欲しいと思ってんのか? …さ、さすがにこれは大怪我するぞ。このトラップはちょっとやめとけ。」
「…………そうですの? …まぁ確かに、愛がないトラップは駄目でございますからね。
……ではその悪党もちゃんと改心したら掛からないように、少し釘の位置を…、」
沙都子は釘を打つ場所の調整に没頭していた。
…トラップは愛、か。
監督の言うとおりかもしれない。…受け止め方ひとつで、…全然変わるのだ。
そう思えば、……沙都子のトラップに引っ掛かるのにも、面白みや、温かみが感じられるかもしれない。
「できましてよ!! この絶妙な位置でしたら完璧ですわ! いかがです圭一さん?」
「あ、…あぁ。完璧だな。このトラップに引っ掛かる悪党が現れるといいな。」
「ほっほっほっほ! 現れない方がいいに決まってますわ。」
……ちょっと痛そうだけど、今度ここへ来たら引っ掛かってやってもいいかなって思った。
■4日目(日曜日)
「じゃあ、行って来るよ!」
「車に気をつけるのよー。晩御飯までには帰ってらっしゃいねー!」
今日は雛見沢ファイターズの戦勝祝賀会、バーベーキューパーティーの日だ。
もちろん用意周到な俺は朝飯を抜いて、ぺこぺこに腹を空かせてある。
…何しろ、部活メンバーが一同に会す以上、早食い大食い系の何らかの勝負が行なわれる可能性は充分にあるからな!
いつもの待ち合わせ場所にはすでにレナの姿があった。
少し遅れて魅音も合流する。
「よっしゃ! じゃあさっそく行こうかね! おじさん、朝ご飯を抜いてきたからお腹ペコペコ!」
「さすがだな! もちろん俺も朝食抜きで万全の体勢だぜ!!」
「わ、二人とも朝食抜きは健康によくないよ。レナはちゃんと食べたんだよ。」
「そうかそうか、レナは偉いぞ。朝食は一日の基本だもんな。きっと健康不良な魅音を飛び越して、ボインボインのナイスバデーになって、グラビアを独り占めだ!!」
「はぅ、グラビアを独り占め〜。ナイスバデーになったら、レナのとこにも白馬の王子様とか来てくれるかな? かな?」
「…絶対来ないと思う。圭ちゃんも責任取れないなら、レナにいい加減なことは吹き込まないように。…この子、明日から3食くらいまとめて朝食を取り出すかもしれないよ。」
……レナなら確かにやりかねない。
…って言うか、そんな大食いなお姫さまをどこの誰が迎えに来るというんだ…。
「まぁ、その話は置いといて! とにかく俺たちはいい感じで腹ペコだ! さっさと行って、大バーベキュー大会と洒落込もうぜー!!」
「「おおーーーッ!!」」
バーベキュー会場はどこかと言えば、梨花ちゃんの古手神社の境内でだった。
あの境内はお祭りもやるしイベントもやるし、こうしてバーベキューもやるし。
雛見沢で行われる様々なセレモニーの会場になっている。
(…そう言えば、もうじきここで大きな村祭りをやるって言ってたっけ。確か「綿流し」とか何とか…。)
高台から見下ろせる景色はなかなか絶景だし、神社独特の落ち着いた佇まいは都会じゃなかなか味わえない風情だ。
神社への階段の前で自転車を乗り捨て、階段を一段飛ばしに駆け上がる!
境内にたどり着くと…、そこにはもう雛見沢ファイターズの面々とその父母が集まっていて、早々とバーベキューの支度を始めていた。
もちろん、そこには沙都子と梨花ちゃんの姿もある。
俺たちの姿に気が付いて、手を振ってくれた。
「あぁら、忘れずにちゃんと来ましたわね! 皆さんが来なければその分、お肉が多く食べられましたのに。実に残念でございましてよー!」
「甘いぜ沙都子! 俺たちが来た以上、まさか霜降りが一口でも食べられるなんて思ってるんじゃないだろうなぁ?! 以前、ここで弁当を食った時を思い出せ。俺と沙都子の致命的なリーチ差で、今回も圧倒してやるぜー!!」
「なな、なんですってぇえぇえぇ?! そ、そんなの絶対に許せませんわぁあ!!」
「泣こうがわめこうが、沙都子は目の前で牛肉を頬張るのを見るだけだ。安心しろ! ピーマンやナスは譲ってやるからな!!」
「……ボクも沙都子にカボチャを焼いたのをいっぱいいっぱい譲ってあげますです。」
カボチャと聞いて、沙都子の顔色が変わる。
俺との圧倒的なリーチ差を思えば、それは単なる脅しでなく、現実に起こりうるからだ。
「監督に伝えとくよ。沙都子はカボチャが大好きだーって! 監督のことだから、日本全国から特産のカボチャを山盛り集めてきてくれるね!」
<魅音
「よかったな沙都子!! どのカボチャも選り取りみどりだぞ?! 朝から晩までずーっと三食カボチャ三昧だー!!!」
「わぁあああぁあぁあああぁあああんッ!! レナレナ〜! みんながいじめますのー!!」
沙都子がレナの胸に飛び込もうとする!!
まずいッ、その1秒後には…レナのマッハパンチで俺たちが累々と横たわることは明らか!!
…というわけで、沙都子がレナに飛び込む寸前に、襟首を掴んで捕まえる…!!
数秒後を予見した見事な対応、のはずだった。
…だがレナには、泣きながら胸に飛び込んでくる沙都子を俺が捕まえて、お預けしたように見えたらしい。
スパパパパパーーーーーンッ!!!
「はぅ〜〜♪ だめだよだめだよ圭一く〜ん、
これはレナのなんだよ〜。お〜持ち帰り〜〜♪」
「わぁあぁあぁん、レナさん〜!
その調子で魅音さんと梨花もやっつけてですわよ〜!!」
「わわ、…ちょ、ちょっとタンマ!! ぎゃーーッ!!!」
スパパパパパーーーーーン!!!
「さぁー!! 梨花はどこですのー?! いた!! レナさん、あそこでしてよー!!」
「待っててね沙都子ちゃん、すぐにやっつけちゃうよ〜!! そしたらすぐにお持ち帰り〜!!!」
「……みー! みーーー!! 沙都子がひどいのですー。」
「はぅ〜〜!! 梨花ちゃんもかぁいい!! はぅ〜〜〜お持ち帰り〜!!」
「をっほっほっほっほ!! 梨花ぁ! ざまぁないでございましてよー!!!」
梨花ちゃんとレナの不毛なおいかけっこと沙都子の高笑いを、俺たちは大の字になって横たわりながら眺めていた…。
「だ、大丈夫ですか、前原さん。園崎さんも…。」
監督がやってきて、俺たちに手を貸してくれた。
「まぁ、私たちのいつものコミュニケーションですから。どうぞお気遣いなく!」
「…いつも顔面にアザが残るようなコミュニケーションはもう嫌だぞ…。」
懲りない人たちだなぁ、と監督がからからと笑い出す。つられて俺たちも笑い出した。
沙都子の高笑いと梨花ちゃんの悲鳴、レナの奇声が何だか心地よかった。
■バーベキュー
大人の人たちの要領がいいので、バーベキューの準備はすぐに完了だ。
プレートに垂らされたサラダ油がジュウと音を立てると大きな歓声があがった。
監督が肉の乗った大皿を持って来るとみんなが歓声を上げた。
「わ、これ本当にすごいお肉だよ! 監督、本当に大奮発したんだね!」
「約束ですからね。これなんか、グラムいくらするか知ってます? 本当に奮発したんですよー。」
「当然ですわ! 三流のお肉じゃ、昨日の私の大活躍を労うには値しませんでしよ?」
「あははははは! そうだね! 今日の主賓は沙都子ちゃんに違いないね!」
「確かに、最後のホームランを打ったのは紛れもなく沙都子だもんなぁ。しかも油断させたと言え、小細工なしの特大アーチ!!」
「……沙都子は運動神経はよいのです。」
「悪いどころか、世代的には突出してるんじゃない? 私なんかと比べても、運動能力は決して劣らないでしょ。」
「沙都子ちゃんって、ひょっとすると将来はスポーツ界で大活躍できるかもね!」
「をっほっほっほっほっほ!! 何だか褒めちぎられて照れますわね〜!!」
「……むしゃむしゃ。」
さんざんおだててる隙に、程よく焼けたお肉が次々と略奪されていることになかなか気付かない沙都子が、何だか無性に可愛らしい…。
「前原さ〜ん、お、…重い……!」
向こうから富田くんと岡村くんが何かを運んでくる。
それはでっかいバーベキュープレートだった。
「うぉ!! これぞまさしくバーベキューの主人公の到着じゃねーかよ!」
そこにはぎっしりの、野菜や肉が串刺しにされた鉄串が並べられていた。
焼きたて焦げたてでジュウジュウと音をたて、肉汁が滴り落ちている。…ごくり!
串焼きだけは火力が必要なので、向こうの大型プレートでまとめて焼いていたのだ。
「やっぱり、これがなきゃバーベキューとは言わないですよね!」
「あぁ、まったくだ! 俺も手を貸すから早く持っていこう。よいしょよいしょ!」
「わー!! 見て見て! すごいのが来たよ!!」
<レナ
みんなもそれを歓声で迎えてくれた。
各自に、野菜や大きな肉が串刺しにされた鉄串が渡される。
さらになみなみと注がれたジュースの紙コップも手渡された。
右手にずっしりとした手応えの熱々バーベキュー。
左手にはガブガブ飲めるジュースのコップ!
これで踊り出さなかったら男じゃない!!
「ぅおおぉ、もう我慢できないぜ!! ガブっと行くぞ!! ガブっと!!」
「まだまだ、圭ちゃん。ほらほら、一応セレモニーってことで。」
<魅音
「みんなー、注目〜。」
監督がビールの注がれた紙コップを持って、ビールケースの上に登壇した。
一応、戦勝祝賀会だもんな。開会の挨拶は必要か。
…くそー、早く終わらせてくれよな!
一秒長引くごとに一秒分、焼きたての旬が過ぎちまうんだからよー!!
ぬぉッ?! …沙都子が俺の足を踵でグリリと踏みつける!
「まったく! いい年の男が卑しいですわね。もう少しエレガントに我慢できませんのー?」
「………俺って、つくづく思ってることが顔に出ちゃうのな…。」
「じゃあ、みんないいですかー? 昨日は大勝利でしたね。すごいピッチャーの登場で苦戦もしましたが、こちらも同じくらい頼もしい助っ人の登場で、見事、逆転勝利を収めることができました。」
パチパチパチ!
両手が塞がっている俺たちに代わって、父兄が拍手してくれた。
「今日はその戦勝祝賀会です。約束どおり、おいしいお肉をいっぱい用意しましたからね。今日はいっぱい食べて、次の試合への活力にしていきましょうー!」
その後、今日のバーベキューに協力してくれた父兄への感謝の言葉を述べた後、乾杯の音頭を取った。
「「「「かんぱ〜〜〜〜い!!!」」」」
乾杯ってのは普通、杯の中身を飲み干すことを言うよな。
でも俺たちは若い!!
全員が全員、その音頭で一斉に串刺し肉にかぶりついたのだった!
あとは…昨日の互いの活躍を讃えあっての大賑わいだった。
誰の捕球が見事だったとか、誰の盗塁が素晴らしかったとか。
もちろん、甲子園ピッチャーのリリーフに助っ人として登場した俺の活躍もだ。
「まぁ、俺の活躍も含めて、あれは沙都子の活躍だったわけだがな。」
「確かに沙都子の作戦ではあったけどさ。亀田を口説き落とすなんて真似は圭ちゃん以外には出来なかったわけだし。
充分、圭ちゃんも讃えられるに値する活躍をしてるよ!」
「そう言えば圭一くん、あの後、亀田くんと一緒にケーキを食べに行ったんだよね? 何だかすっごく仲良さそうだった。」
「ライバル関係から、男同士の友情が芽生えちゃったわけぇ? あはははは!」
「…そういうのって、…何だかその、……うふふふふふふふ、はぅ〜〜…☆」
…男同士の友情という単語でなぜか赤面するレナの頭を乱暴に撫で、その愉快そうな想像を散らしてやる…。
さて、ヒーロー、もといヒロインの沙都子はどこだ? …お、いたいた。
沙都子は梨花ちゃんを従え、昨日のホームランについてたっぷりと自慢話にふけっていた。
チームメイトたちも、手加減があったとは言え、甲子園ピッチャーを討ち取った沙都子に惜しみない賛辞を送っている。
沙都子はいつも以上に饒舌で、ご満悦な様子だった。
あまりにも上機嫌なので、何かちょっかいを出してからかってやろうかと思ったが、…今日は主役なので、意地悪なことはしないでやることにする。
こうして、陽の下で賑やかにしているいつもの沙都子を見ていると、沙都子と過したやさしい時間が何だか重ならない。
でも、どちらも本当の沙都子なのだ。
幸せそうに微笑むのも、こうしてにぎやかに騒ぐのも、どちらでも構わないんだ。
いつまもで、そうして笑っていてくれるなら。
■監督と話
「…楽しそうですね。あんなにはしゃいで。」
いつの間にか、監督が俺の後ろに来ていた。
俺がそうしていたように、沙都子を遠くに眺めながら話し掛けてくる。
…だから、沙都子の話をしているのだとすぐにわかった。
「沙都子ちゃんの笑顔を見てると、何だか心が洗われる気がしません?」
涼やかに笑いながら、そう言い同意を求めてきた。
それを認めると何だか恥ずかしい気がしたので、ついつい茶化してしまう。
「そ、そうですか? …あいつの笑顔じゃ皿一枚ろくに洗えないと思うんですけどね。」
「ふっふっふっふ。それを聞いたら沙都子ちゃん、怒るんでしょうね。でも、そんな彼女もとってもキュートなんですよ。」
…キュートかどうかはともかく、からかって怒り出した沙都子が面白いのは理解できる。
「えっと、……入谷さんでしたっけ?」
「入江(いりえ)です。でもみんな監督って呼びますからね。前原さんも監督と呼んでくださるととてもうれしいです。」
そう言って、入江監督は照れるように笑って見せた。
「監督は、……沙都子のこと、気に入ってるみたいですね。」
特に根拠があったわけじゃないが、直感的にそう思った。
「えぇ。気に入っていますよ。大好きです。彼女がもっと大きくなったら求婚しようと思ってます。」
「え、…ええぇええぇえッ?!?!」
この人は…何てトンデモナイことを言い出すんだ?!
…と驚愕してから、慌てて心を平常に戻す。
この監督って人は、突然とんでもないことを言い出す人らしい。
魅音に言わせると、いちいち真に受けてたら体が持たないとか。
その辺を受け流せるようになれば、十二分に面白い人らしい…。
「あれ? 今、前原さん。驚かれました? じゃあ、…ひょっとして、沙都子ちゃんのこと、狙っています? それは困ります。私はもう何十年も前から狙ってるんですよ?」
「監督、何十年も前には、まだ沙都子は生まれてないと思うんですけど…。」
「ん? はっはっはっはっは。」
監督は、苦笑いしながら笑った。
こんな感じでいいのかな?
何とか、この監督という人との受け答えをマスターする…。
その後、昨日の俺の活躍について、ちょっと過剰なくらいの褒め言葉を頂戴した。
そんな感じで会話をしている内に…、
この監督という人は、突然言い出す問題発言を除けば、とても落ち着きのある、決して悪い人じゃないということがわかった。
「俺なんかより、あの特大アーチを放った沙都子の方が賞賛に値すると思いますよ。…正直、あいつにホームランを打てるなんて思わなかったです。」
「沙都子ちゃんのお兄さんは、どちらかと言うと大人しい文系のタイプでした。きっと沙都子ちゃんは、その反対の才能に恵まれたんでしょう。」
……お兄さん。あぁ、悟史のことか。
沙都子を置いて、…家出してしまった、沙都子のにーにー。北条悟史。
「ご存知ないですか? 沙都子ちゃんのお兄さんです。北条悟史(さとし)くんと言いましてね。彼も雛見沢ファイターズで活躍してたんですよ。もっともっと活躍してほしかったんですが、…………転校してしまいましてね。」
「へぇ…。そうなんですか…。」
…転校か。
…確かに、家出したって言うよりは…その、少しだけ気遣った表現かもしれない。
そう言えば、レナ辺りも悟史のことを転校した…なんて言っていたような気がする。
あの時は家出したという事実を知らなかったから、漠然と聞き流していたが…。……………………。
「兄貴だけ転校したんでしたっけ? …そういうのって珍しいですね。」
…遠くで、みんながはしゃぐ声が遠い。
セミの合唱が、こことみんなとの間を隔たて、距離を感じさせていた。
初めは自分の声が小さくて耳に届かなかったんだろうと思ったが、…あまりに長い時間、監督が言葉を返さなかったので、…この頃になると、自分に何か失言があったのではないかと思うようになっていた。
そんな焦りを感じ出した頃、ようやく監督が口を開いた。
「………不幸なことがあったんです。いろいろと。」
これからする話は内緒ですよ、と断ってから監督は少しずつ話し始めた…。
■沙都子の昔話
「…もう、3年になります。丁度、今頃の時期でしたっけ。沙都子ちゃんのご両親が事故にあわれましてね。」
「………事故?」
「えぇ。…旅先の公園で、展望台から転落されましてね。」
家族で出かけた、ほんのちょっとした小旅行のはずだった。
雨上がりの、自然公園の遊歩道を家族で散歩した。
……見晴らしの良さそうな、ちょっとした展望台。…そこが悲劇の、舞台だった。
展望台の柵の金具は老朽化し、…昨日までの大雨で…何かが緩んでいたのかも知れない。
沙都子の両親は、…沙都子の目の前で、………柵ごと転落した。
何十メートルも下に川があり、
…それは昨日までの大雨で増水し、濁流となっていたという。
「…それで、…両親は………?」
監督は薄く、だけど物悲しく笑ってから、紙コップに少し口を付けた。
…何も言わずとも、…とても不幸な事故で、沙都子の両親が永遠に旅立ってしまったことだけはわかった…。
「…えっと、…じゃあ沙都子って、……………えっと、」
言葉を慎重に選ぶあまり、…言葉を失ってしまう。
親なしなんて一言が、
どれだけ配慮に欠け、沙都子を傷つけることになるか、口に出さずともわかった。
そう言えば…、
沙都子って梨花ちゃんと一緒に住んでる…みたいな話を聞いたことがあるような気がする。
…あれ、…確か梨花ちゃんも、お父さんが病死して…お母さんがその後を追って…。
…自分ひとりで生活してるって聞いたことがあるような…。
「えぇ。今は古手さんと一緒に生活しています。……二人ともご両親がいなくて心細い日もあったでしょうが、助け合いながら生活しているようです。」
「……………………………………。」
「親の庇護なく生きていくっていうのは、…あの年頃にはとても辛いことだと思います。前原さんでも、その辺はわかるでしょう。」
…両親のすねをかじって生きている俺には、ただ頷く以外に返事はできない…。
「古手さんは、特に村のお年寄りに慕われていますからね。この村にいる限り、生きていくのにそんなに不自由はないでしょう。」
「そう言えばそうですね。梨花ちゃんって村のマスコットみたいなところがありますからね。…確かにこの村での生活には困らないように思います。」
コロッケ屋の前で、みぃと鳴くだけでコロッケが2つ3つともらえてしまう梨花ちゃんだ。
助けさえ乞えば、村中の誰もが助けてくれるような気がする。
「でも、それは古手さんだけの特別な事情です。……沙都子ちゃんも同じというわけではありません。」
梨花ちゃんが例外的にちやほやされてるだけだ。
……常識的に考えて、…子供だけで生きていくのはとても困難が付きまとうもののはずだ。
それを思えば、沙都子が生活にどれだけの苦労をしているか、想像することは難しくなかった。
想像することは難しくない。
……俺は本気で、…そう思ってる?
…それは言葉の上だけのもので、…俺はまったく想像できていなかった。
沙都子の憎たらしいような笑顔を見て、それらがどうして想像できよう。
……できるわけなんかなかった。
…兄と生き別れたことを知っていたって、漠然と…気の毒だな、としか思わなかった。
だって…沙都子があんなにも毎日、元気そうに笑っているから。
…笑ってるから、…傷ついていないとでも? …寂しくないとでも?
昨夜、俺の両親が帰ってくることを知った時、沙都子が言っていた、
「食事は家族みんなで食べた方がおいしいに決まっている…」
という言葉が、…重みを増す。
「あの子を、養子に迎えようと本気で思ったこともあります。」
「……え、……養子…。」
内緒ですよ。そう言って、監督は人差し指を唇に当てて見せた。
「私はこの歳になるまで、本当に堅実に生活してきました。…財産もあるし信用もあります。
ですが、結婚だけはしてない。…………法律で、既婚者でないと養子は取れないって決まってるんですよ。だから私は…沙都子ちゃんを養子にしてあげられないんです。
…はっはっはっは、残念です。沙都子ちゃんにパパって呼んでもらえる計画は早くも頓挫ですから。」
突拍子もないことを言い出す人だから。
…初めは話半分くらいに聞いていた。
…だけれど…、途中から、それはとても失礼なことなんだと気が付いた。
この監督という人は、………真剣に沙都子って言うひとりの女の子の幸せを願っているだけなのだ。
それはとんでもないことでもなければ、世迷言などでは断じてない。
……ただ、幸せになってほしいだけの、…率直な気持ち。
「沙都子ちゃんの今の生活は、決して幸福なものではないでしょう。…でもね。それをほんの少しでも和らげてあげたいと思ってるんです。
はははは、もっとも、余り物のお裾分けや力仕事のお手伝いくらいしかしてあげられませんがね…。」
「……………幸せですよ。沙都子。」
え? 監督は、俺が断言したので、ちょっと驚いて振り返った。
「…こんなにも沙都子の幸せを強く願う人間がこんなに身近にいて。不幸なわけがありません。」
真剣な眼差しで、静かに、…だけれども力強くそれを告げた。
それは彼の気持ちへの賛同と、…沙都子のにーにーとしての感謝の気持ちだった。
「……ありがとう。でも、沙都子ちゃんには内緒にして下さいね。彼女、私が養子にしたいなんて知ったら、こんなスケベ男なんか誰がパパと呼ぶものですかーって憤慨しそうですから。…はっはっはっは。」
…どうかな。
沙都子はお子様なところもあるけれど、人の気持ちが伝わらないようなヤツじゃない。
呼んでくれますよ。きっと。
それが伝わったのか、監督は満足そうに笑い、再び目線を賑わいに戻した。
両親と兄を。
…家族を失って、身寄りもなく、…同じ境遇の梨花ちゃんと身を寄せ合って生きている少女。
北条沙都子。
…日々に絶望してもおかしくないはずなのに、そんなことを微塵も感じさせず、日々を笑いながら力強く生きている。
「……あの子にはね、いつまでも笑っていてほしいんです。」
なんて素朴な、……それでいて、願わずにはいられない願い。
…だから、…俺の口から出た言葉も、やはり同じものだった。
「奇遇ですね。俺も同じことを考えています。」
「おや、…前原くんもですか? では私たちは仲間ですね。…約束しましょう。」
「約束…?」
とても簡単なことですよ。
監督はそう言いながらにっこりと笑う。
「絶対に、…彼女を泣かせたりしない。」
とても短くて、あっさりとした一言だった。
「……あ、はい。俺もそれ、約束します。」
監督は嬉しそうに頷いてくれた。
その後は、互いに何もしゃべらなかった。
…ただのんびりと、沙都子がみんなとはしゃぎ、楽しい時間を過ごすのを眺めているだけだった。
家族を失いこそしたが、見守ってくれる人がいる。それがどれほど心強いことか…。
「…仮にですよ? 沙都子を養子にできたら…どうします?」
「うーん、それは難しい質問ですね…。」
監督は嬉しそうに苦笑いしながら、首を捻る仕草をして見せた。
「まずですね、私のことをご主人様と呼ばせて、御奉仕メイドに再教育します。」
「…は、……………はぁッ?!?!」
またこの人はとんでもないタイミングでとんでもないことをッ?!
「あ、…あの、前原くん? 私その、…まだ何も言ってませんよ…?」
「ななな、何言ってんですか! 今、はっきりと言ったじゃないですか!」
「そうそう。沙都子を監禁木馬責めにして、肉奴隷にするってはっきり言いました。」
<詩音
「あ〜〜、それはいいですねぇ…。沙都子ちゃんを…木馬責め…♪」
「器具を使ったプレイは、ちゃんと知識を身に付けてからにして下さいね。間違った知識を持ってると、本当に危険なんです。」
「なるほどな。用法を正しく守ってお使い下さいってよく書いてあるもんな。」
「そうそう。圭ちゃんはよく理解してます。
…ではそういうことで〜。」
笑顔で手を振りながら退場しようとする詩音の襟首をふん捕まえる!
「おい待てこら。突然現れて、何をとんでもないことを言ってやがるんだー!!」
「とんでもないことって言ったら、圭ちゃんと監督がしてた沙都子ラブなトークの方がよっぽどとんでもないと思いましたけど。養子縁組の辺りから再現してご覧に入れます?」
「の、のわぁあぁああぁあああ!!
お前、そんな時から息を潜めていやがったのかぁ!!」
「お姉にすらかなわない圭ちゃんが、私に刃向かおうなんて百年早いってことです。くっくっくっく!」
こいつは園崎詩音。
魅音の双子の妹だ。
…と言っても、妹らしい慎ましやかさは微塵もない。姉の魅音に負けず劣らずのクセモノなのだ。
先日、町で会って、魅音と勘違いしとんでもない目に遭わされた。
魅音と違って、興宮の町に住んでると言ってたので、もう二度と会うこともないだろうと思っていたのだが…まさかまた会う羽目になるとは!
俺の露骨に嫌な顔にも、全然動じない。
なるほど、こういうのをカエルの面に水って言うに違いないな。
「詩音さん、よく来てくれましたね。来てくれないと思ってがっかりしてたんですよ。」
「まぁその、他にすることが思いつかなかったってことです。ちょっとからかいに行こうかなーくらいですので。」
「…監督、どうして詩音が戦勝祝賀会に呼ばれなくちゃなんないんです? こいつがどうチームの勝利に貢献したっていうのか、」
「あはははは! それはですね。実は私が、興宮ファイターズのマネージャーだからなんです。」
「マネージャー?! ウソだろ、そんなら何で昨日の試合にいなかったんだよ!」
「マネージャーはマネージャーでも、幽霊マネージャーですから。てへ☆」
舌を出して笑えば許されるとでも思ってる顔だ。反省ゼロ!
「詩音ちゃんが来てくれないと試合に華がないんです。練習までとは言いませんから、試合にくらい、また昔みたいに応援に来てくれませんかねぇ…。」
「うーん。ま、考えておきます。圭ちゃんが雛見沢ファイターズに移籍するんなら考えてもいいかな。私、カッコイイ男の子がいないと応援する張り合いがないんです。」
「へ、………へ?」
今、…詩音は何だか突拍子もないことをさらりと言ったような…?
「しししししし詩音ーーー!!! あんたまた、…どこから湧いて出たのー!!!」
突然魅音が走ってきて、がばっと俺の肩を掴んで引き寄せた。
「あーーー! 魅ぃちゃんの妹さんだー!! 詩ぃちゃん、こんにちは〜!」
「レナさん、こんにちは。まだ1回しか会ってないのに名前を覚えてもらって光栄です。」
「あ、こちらこそ。レナの名前を覚えててくれてありがとう。」
「そんな挨拶はどうでもいいのー!! 圭ちゃんの勧誘なんてダメだからね!! 圭ちゃんは我が部のホープなんだから!! 野球なんかに引っこ抜かないでー!!!」
魅音がガルルル…と吠えながら、俺の腕に組み付く。
……俺というオモチャを取られまいと必死に見える。
「あはははははは。うん、圭一くんはうちの部活の期待の新人なの。だからトレードとかは全然ダメなんだよー。」
笑顔のレナにもさり気なく殺気。
詩音が2m以内に接近したら、必殺の一撃を放とうと牽制している…!
…あぁぁ…、何だか…すごい修羅場のような気がする……。
「うーん、あっはははははは! それは残念です。じゃあ交渉はまたの機会に。」
「あんたに交渉権なんかないのーッ!! 監督、何で詩音まで呼んだわけぇ?! 詩音は丸1年もサボってる幽霊部員じゃなーい!!!」
「はっはっはっは。詩音ちゃんがいるとにぎやかになって楽しいかなぁって思ったんですけどね。……うんうん。実ににぎやかになりました。」
…それが当初の目的なら、うん。目的は達成されてるな。
「ほら! 圭ちゃん、おいでおいで! みんなでゲームやるよ!! もちろん罰ゲーム付きでね!!」
「詩ぃちゃんもどう? ルールは簡単だし、楽しいよ!」
「うーん、どうしようかな。私が参加すると勝っちゃいますから。お姉の部長としての面目を潰しちゃうと悪いですし。」
カチンと来た魅音が、ぎょろりと振り返る…。
「………ぅぅぅぅぅぅ、」
「何ですお姉? 私も一緒に参加して、姉妹対決にした方がいいですか? 多分、やめといた方がお姉の為だと思いますけどー?」
「あ、あっかんべー!! 詩音なんか混ぜてやらないー!! 仲間外れー! べーだ!!」
お、…魅音が直接対決を避けたぞ。
……どうも、魅音は徹底的に詩音とは相性が悪いみたいだな…。
「混ぜてあげないの? 魅ぃちゃんとの対決、見たかったかな。」
「私、詩音嫌いー!! あいつと戦うのは苦手なのー!!」
ヘソを曲げた魅音に引きずられていく俺。…ずるずるずる。
「がんばってくださいねー! ここで応援してますからー!! 圭ちゃん、ファイト! お〜!」
詩音は魅音をからかえて至福なのか、とても楽しそうに手を振っていた。
さてと!
部活が始まるとあっては…俺も頭を切り替えていかないといけないな!!
今日の勝負は何だ?! 罰ゲームは?! 何でも来ぉぉおおい!!
「ほらほら圭一さん!! 覚悟をなさいませよ! 今日は…徹底的に行きますわよー!!!」
「おぅ、上等だぜ!! 沙都子だろうと誰だろうと、手加減無用でぶっ潰してやるぜー!!」
「あはははははは! そこをレナは漁夫の利で優勝だよ〜!!」
「……ボクはそれにコバンザメで優勝を狙いますです。」
「はぅ!
梨花ちゃんがコバンザメみたいにぺた〜〜〜☆ おもももも、お持ち帰り〜〜!!」
「よーしみんな! 今日は大人数だから、簡単でわかりやすいゲームにしよう! 今日のゲームはねぇ!」
■アイキャッチ
今日のゲームは脱落形式だから、負けた人間はゲームから抜け、バーベキューの後片付けをしていた。
「わっはっはっはっは! あーっはっはっはっはっは!!」
<詩音
俺のヘタレ顔を、詩音がこれ以上ないくらいの馬鹿笑いで迎える。
……そうかよそうかよ、そんなに俺の爆死が楽しかったかよ…。
「いやいや…あの時の圭ちゃんの顔〜! お前ら、それでも人間かよ! みたいなー。あーっはっはっはっはっは!!」
「畜生ぉおお…、チョキの買占めまでは作戦通りだったのにぃ…!! あそこで…沙都子と梨花ちゃんの裏切りさえなければぁあぁ…!!」
共同戦線を張るところまではうまく行ったんだが…、互いを切り捨てるタイミングが紙一重、沙都子の方がうまかったってことだ!! くぅ〜!!
「だから沙都子を信じちゃいけないって警告したんですよー。」
富田くんと岡村くんが、言わんこっちゃないと口を揃える。
…かく言う二人も、かなり序盤で沙都子にばっちりハメられた被害者だ。
「…くそー。富田くんたちの分まで頑張るつもりだったのになぁ…。」
やはり…部活は非情だ。
俺ではまだまだ他のメンバーには及ばないってことか…。
「で、部活メンバーの最下位には何か罰ゲームがあるってことになってるんじゃなかったでしたっけ?」
詩音が、一瞬でも忘れようとしたことを無理やり思い出させるように、わざわざ言い出す。
「ん、……………そ、そうだったかな…?」
「そう言えば前原さん、委員長と罰ゲームを決める時、かなり熱くなってましたけど……一体何を罰ゲームにしたんですか?」
「ん、……………ぅぅぅ……、」
「さっきお姉に、エンジェルモートの制服を調達してくれって頼まれたんですけど。それと何か関係あります? 出来る限り大き目のサイズでって言われたんですけど?」
富田くんと岡村くんが…、何とも言えない同情と哀れみと、怖いもの見たさを併せ持つ複雑な眼差しを向けてくる…。
「わ、わははははははははッ!! わーっはっはっはっはっは!!」
もう笑うしかなかった。
不思議なことに、笑えば笑うほど、何だかとっても笑える話のような気がしてきて…。
うがーーー!!!
負けたぁあぁあー!!
「あれあれ…。前原さん、どうしちゃったんですか…? 笑ったり泣いたり吠えたり。」
<監督
「いいんです、あれは嫌がってるフリのジェスチャーなんです。罰ゲームを口実に得られる貴重な経験に興奮を隠せないだけなんです。
ねーー☆」
「ぅ、ぅおーーー!! ぬわにが貴重な経験どわぁああぁああ…ッ!!!」
頭を抱えて悶絶する俺…。
こういう心境を示すにはひらがなが三文字もあれば充分だ。
曰く、…「とほほ」…。
そんな俺の肩を、監督がやさしく叩いた。…慰めてくれる…?
「前原さん。苦境を受け入れなければならない時はですね。
自分が調教されているメイドであると想像するんです。
……ほら、嗜虐的なシチュエーションが、何だか楽しそうになってきませんか…☆ う〜ん、いいじゃないですかぁ…♪」
自分の肩を抱きながら、赤面ものの想像にふける監督は、ご主人さま〜♪と口走りながらバレリーナのようにくるくる回りだす…。
……この監督って人の頭の中では、一体、何と打って変換するとメイドと翻訳されるのだろう。
…少なくとも、俺とは変換機能がまったく異なる日本語ツールであるのは間違いあるまい。
俺推理では多分、「調教」と打つと変換されると見た…。
「……富田くん。岡村くん。…君たちの監督は実に面白いな。こんなのでよく監督が務まるな。」
富田くんと岡村くんも、顔を見合わせてから苦笑いを返す。
そして、普段はとてもいい人なんですよ、と誰が聞いてもわかるフォローを付け加えた。
監督の怪しげな回転がゆっくりと収まると、さっきまでがウソのように爽やかな顔に戻っていた。…き、切り替えが早過ぎる…。
「ではお片付けを続けましょう。前原さんは力持ちみたいですからね。プレートを水場に持って行って、洗っていただけますか。」
「へーい、了解でーす。」
脂でべたべたに汚れたバーベキュープレートを担ぎ上げ、洗い場を目指す。
…くそ、これ…重いな!
水場ってのはどこだ。…あそこか?!
腕がくたびれるより早く到着すべく、俺は駆け足で向かって行った。
■洗い場にて
洗い場はお手伝いの大人が大勢使っていたので、仕方なく他の水場を探すことにした。
大人に聞いたら、集会所の脇にも水場があるというので、そちらに行くことにする。
その水場は、蛇口が一つしかない小さなものだった。
こんな大きなプレートを洗うにはちょっと小さいと思ったが、向こうの水場で蛇口が空くのを待つよりはここで洗う方が早そうだ。
蛇口をひねると、見かけよりもずっと景気よく水が飛び出してきた。
その水流をプレートに当て、手で摩るようにして洗ってみる。……今ひとつうまく行かない。
「ハイ。スポンジとクレンザー。そんなの水だけで洗ったって無理です。」
詩音だった。
…真新しいスポンジたわしと洗剤の容器を投げてよこしてくれた。
「お、サンキュー。」
「そんなの洗い場に置いて、大人たちに任せちゃえばいいのに。つくづく圭ちゃんっていい人です。」
…微妙に褒められていない気がするな。愛想笑いだけ返しておく。
「…詩音が雛見沢ファイターズのマネージャーだったなんて驚いたぜ。そういうのは面倒くさがってやらないヤツだと思ってた。」
「えぇ。面倒くさいですよ。ですから今は完全に幽霊ですけどね。」
「監督、帰ってきてほしいって言ってたじゃないか。たまには帰ってきてやれよ。」
「あははははは。まぁ、気が向いたら。」
気が向かなければ金輪際、という風に聞こえるな。…おっと。おしゃべりにかまけてるとちっとも洗うのが進まないので、少し真面目に洗い物をすることにする。
詩音も、手伝うわけでもなく邪魔するわけでもなく、蛇口から溢れる流水を静かに眺めていた…。
「そうそう、聞きましたよ。昨日の試合、圭ちゃんが大活躍したそうじゃないですか。」
「褒めるなら、俺よりもホームランを決めた沙都子の方だろ。あいつ、運動神経よかったんだなぁ。俺、驚いたよ。」
「悟史くんとは大違いです。きっと、運動神経は妹に全部取られちゃったに違いないですね。」
詩音が、ちょっと遠くを見るような目で、思い出し笑いをするように語る。
「…悟史くん?」
「北条沙都子の兄です。北条悟史くん。
…あ、そっか。圭ちゃんって今年、引越してきたんでしたっけ? …なら会ったことありませんね。」
詩音が悟史のことを知ってるなんて、ちょっと意外だった。
「会ったことはないけど、…少しは知ってるよ。確か、両親が亡くなった後、……転校したんだよな。」
家出した、という直接表現を避け、他のみんながするように言葉を少しぼかす…。
「………転校? …誰がそんなこと言ったんですか?」
詩音の声色が少し変わったことに、まだ俺は気付かなかった。
「いや、…誰って…。誰だっけかな…。うん、誰かに聞いたんだよ。転校した、って。」
「…その誰かって誰ですか。誰かに聞いたから言ってるんですよね、転校って。」
「誰に聞いたかなんて、…よく覚えてないよ。…転校だって言うならそれでいいだろ。別に問題があるわけじゃないし。」
「ありますよ。転校届けが出されたわけですか? 学校とかに。それを誰かが見た? それとも聞いた?」
この頃には、…詩音がいやに絡んでくると気付くだけでなく。…ぎょっとするくらい目つきを険しくしていることに気付いていた…。
「…………………詩音…? 何だよお前、…目がマジだぞ…。」
その一言で、詩音も自分がしている表情に気付いたらしかった。
…一度深呼吸をし、髪を直すような仕草をすると、元の涼しい表情に戻った。
「すみません。でも圭ちゃん。よく知りもしないで悟史くんのこと、転校とか言わないで下さい。本当に。…お願いしますね。」
……自分が軽はずみなことを言ったらしいことがわかった。
…でも、何に対して謝ればいいのか咄嗟にわからず、…取り合えず無難に一言、ごめん…と告げた。
「…何となく転校と聞かされて、そうだと信じてたんだよ。……じゃあ、実際は違うのか?」
……実際は違う。
…両親に先立たれ、妹を置いて「家出」した。でも、家出という言葉を少しでもはぐらかそうと思い、…知らなさそうに振舞ってしまう。
しどろもどろと答えるのを見て、詩音は俺を威圧していたことに気付き、トーンを下げた。
「あ、すみません…。別に圭ちゃんを責めてるわけじゃないんです。ちょっと言葉がきつ過ぎましたね。謝ります。」
「……………別に気にしてないよ。」
ちょっと嘘だった。…実際は、ちょっと怖いくらいだった。
…悟史が家出だと何か悪いのかよ?
転校って言うと、何か都合が悪いのかよ…?
だがそれを聞く前に、詩音は踵を返していた。
「おい、詩音…。」
「じゃ、がんばってください。圭ちゃんのプレートで最後みたいですよ。洗い物。」
最後と聞かされ、すっかり忘れていた洗い物を思い出す。
…話し呆けてて、すっかり遅くなってしまった。
蛇口をさらにひねり、水流を激しくする。…ざぶざぶざぶ! 乱暴にプレートを擦る。
振り返った時、もう詩音の姿はなかった。
■お別れ
俺がプレートを洗い終えた頃には、ほとんどの片付けが終わりかけていた。
いつの間にか、空気もすっかり涼しくなり、今日一日の熱気を冷ます、気持ちのいい風を吹かせている。
「では皆さん、集合でーす。」
監督が、みんなを集めて閉会の挨拶をした。…楽しかった今日一日も、もうおしまいだ。
結局、ゲームは魅音の華麗な優勝で幕を下ろしたらしい。
俺を裏切って、がっぽり稼いだはずの沙都子と梨花ちゃんは、その後、でっかくはめられたらしく、いろいろと悔しがっていた。
「人を裏切るヤツはいつか自分も裏切られる。いい見本だな。」
「むがーーー!! そんなこと圭一さんに言われたくありませんわー!!」
「あははははは! レナは誰の口車にも乗らなかったからね。二位になれたんだよ。だよ!」
「……レナはなかなか嘘に引っ掛からないのです。勘がいいのですよ。」
それは意外だ。
イの一番で悪徳商法に引っ掛かりそうに見えるんだがなぁ。
「それを言ったら圭ちゃんでしょ。他人を食い物にしてやろうと欲張って、真っ先に自分が食い物に! 友達を紹介すれば紹介するほど高収入なんて、バカな商法に引っ掛かるんじゃないよー?」
「へいへーい…。努力しますよー。…とほほほ。」
普段は仲良しの仲間でも、一度真剣勝負になれば、情け無用で罠にかけ、裏切りまくる!
…にも関わらず、全て終わればこうして爽やかに笑い合えるのだから。…つくづく俺たちは素晴らしい仲間なんだと思った。
「それよりも、圭一さんの罰ゲームが楽しみでございますわねぇ! でも、本当に実現できますの? 店長さんもそんなの嫌だって言うと思いましてよ?」
「う〜ん、どうだろ。圭一くん、すっごくかぁいくなるかも。なるかも! 見てみたいかも〜☆ はぅ!」
「……ボクもとても楽しみなのですよ。転ばせてフキフキをさせますです。」
「あー、それはいいねぇ! くっくっく!」
「ぅがーーー!!!
なぜここ一番で俺は勝てないんだぁぁ!! 今日は絶対に勝ちたい、この罰ゲームは誰かにやらせてみたいと思うといつも負ける!!
足りないのか?!
勝利への信念が足りないのか?!
うおおぉおおぉお…!!」
「をっほっほっほ! 敗者の嘆きは蜜の味ですわねー。」
「……かぁいそかぁいそなのです。」なでなで。
「圭一くんもこうやって強くなっていくんだね。去年の魅ぃちゃんを見てるみたい。」
去年の魅音みたいだって?
ってことは何だ、魅音も昔は負けて嘆いたりとかしてたわけか。
不敗の部長、魅音にもそんな時代があったとは興味深い…。
「よ、余計なことは言わなくていいの!」
魅音が焦りながらレナの口を塞ぐ。
それを見てみんなで大笑いした。
やがて、梨花ちゃんが沙都子の袖を引っ張った。
「……さて。ボクたちはそろそろ行かないといけないのです。」
「あ、…お夕飯のお買い物に行かないといけませんわね。」
本当はいつまでもおしゃべりしていたいけど…。もう時間のようだ。
沙都子と梨花ちゃんとはここで別れ、俺たちは家路につくことにする。
「じゃあ、また明日。学校で会おうね!」
<魅音
みんなで手を振り合い、明日までの短い時間をお別れした。
「じゃ、…行こ!」
<レナ
境内からの長い階段を下っていった…。
■帰り道
日が傾き出すと、昼間の暑さが嘘のように引いていく。
ひぐらしの合唱を聞いているだけで、日中の暑さを忘れられるようだった。
「そう言えば、まだ6月なんだよね。今年は梅雨とか全然ないで、いきなり夏みたいな感じだね。」
そう言えばそうだな。
6月って言えば、アジサイとカタツムリの似合う長雨の季節のはずだ。
転校して来て以来、梅雨らしい雨を見てないな。
「週間予報によると、週明け辺りからはもうちょっと梅雨らしい天気になるらしいよ。大雨注意とか言ってたから。綿流しにぶつからなきゃいいんだけど。」
<魅音
「そうなんだ。やっぱり梅雨は梅雨らしい方がいいよね。レナは梅雨の長雨って結構好きだよ。」
「えー、長雨なんて気が滅入るだけだって!
ねぇ圭ちゃん!」
「え? …あ、あぁ!」
ちょっとぼんやりしてて、魅音に返事をするのがやや遅れた。
魅音と瓜二つの妹、詩音との会話を思い出していたからだ。
悟史のことを、転校した…と行ったら、詩音は明らかに怒っていた。
……いい加減なことを言うなと、怒っていた。
確かに…家出という事実を誤魔化す曖昧な言い方ではあるが、…詩音があそこまで怒るほどの悪い言い方だったとは思わない。
……何かこう、…釈然としない。
…わけもわからずに叱られた、子供のような心境だった。
だから、その思いはあまりにストレートに俺の口からこぼれた。
「沙都子に兄貴っていたよな。…悟史って名前だっけ?」
「……………え?」
悟史の名が出た途端に、レナも魅音も、それまでの楽しそうな雰囲気を潜め、曖昧な表情を浮かべた。
…やはり避けた方がいい話題だったのだろうか? そう思わされた。
…だが言ってしまったものは仕方がない。
…それに興味がないと言えば嘘になる。
「悟史ってどうしたんだっけ。…引越したんだっけ?」
ちょっと白々しい言い方だったが、…全てを知りたくて、わざと無知を装った。
「…えっと、……………んん、」
<魅音
魅音は助け舟を求めるような顔でレナに振り返る。
レナは俺と魅音の顔を見比べてから、静かに、やさしく口を開いた。
「…………あれ、言わなかったかな?…『転校』しちゃったんだよ。」
その転校という言葉を詩音に言ったら、詩音は形相を変えた。……だから、詩音が切り返したのと同じ言葉を引用する。
「…転校って、…誰がそんなことを言ったんだよ?」
「……え、」
詩音の言葉を借りただけのつもりだったのに、トゲのある言い方までそっくりになってしまった。
…自分でそれに気付き、言葉が激しくならないよう抑える。
「本当に転校したなら、転校届けとかが学校に提出されるはずだろ? でも、そんなの…実際には出てないんじゃないのか?」
魅音もレナも、…目を大きく見開いて言葉を失っていた。
…とても悪いことをしている気になった。
……2人とも、沙都子を気遣って、兄の家出という事実を隠しているだけなのだ。
「……別に、二人を責めてるわけじゃないんだぜ? ただその、…悟史はどうしたのかなって、聞いてみてるだけのつもりで…。」
責めてるわけじゃない。
そう念押ししなくては…まるで俺が二人に無理難題を突きつけて苛めているようにすら見えた。
…いや、実際、いじめていたかもしれない。
詩音に怒られた腹いせに、八つ当たりしていたのかもしれない……。
……せっかく今日一日、とても楽しかったのに…。
…何だって俺はそれを台無しにするようなことを言ってしまったんだ…?
自分の軽はずみな好奇心を後悔せずにはいられなかった…。
もういいよ、この話はやめようぜ…。
そう言おうとした時、魅音が口を開いた。
「えっと、…その、…別に隠そうとか騙そうとか、そういうつもりじゃないのをわかってほしいんだけど…。」
魅音の口調は本当にバツが悪そうで、…悪戯の証拠を突きつけられた子供の言い訳のようにも聞こえた。
「……悟史は、その、
………転校したわけじゃないんだよ。」
…魅音は観念して、そう言った。
…だが、それを言わせるように追い詰めた自分が情けなかった。
だから、…もういいよ魅音、悟史の話はやめようぜ。
いじめて悪かったよ…。
そう謝ろうとした。………その矢先だった。
「帰ってこないの。」
「……え?」
歯切れの悪い魅音のしゃべり方と違い、レナのそれは、あまりに毅然としてはっきりしていた。
「…帰ってこないって、…え?」
「ある日から家に、帰ってこないの。」
帰ってこない、という言い方は…とても不思議な言い方だった。
まだ帰ってこない、という言い方は一日の内に使う言葉だ。
…少なくとも、その日の内に帰ってくることを前提にした上で使うのが普通だと思う。
少なくとも、家出を例えて言う言い方ではないと思う…。
「……帰ってこないって、どういう意味だよ。じゃあ悟史はどこへ行ったんだよ。」
「知らない。」
「………。」
レナの言い方はとても冷たい感じがした。
……あまりに冷たくて、咄嗟に返事ができない。
「……だからさ、…レナの言うとおりなんだよ。……ある日を境に、悟史は家に帰って来なかった。」
俺とレナの膠着状態に気付き、魅音が慌ててフォローするように言った。
「まぁその、……村中みんなで探したし、警察も方々を捜してくれたよ。…それでその、……家出じゃないかって話になってさ。」
「……家出じゃないかって話になって…?」
家出ってのは…書置きを残して去るものだとばかり思っていた。
だから悟史が家出をした時にも、
きっと…沙都子に謝罪する手紙のようなものが残されてたんではないかと、漠然と思っていた。
……でも、…何だか魅音の話す雰囲気は、…家出のそれとは…少し異なっている。
「…警察の人が調べたらさ。えっと、…悟史ってバイトとかでこつこつとお金を貯めててさ、貯金とかしてたんだけど…。それをいなくなった日に全部下ろしてたのがわかったんだよ。…で、名古屋駅だかで、悟史によく似た人が目撃されたとかで…。」
貯金を全部下ろして、家出のための資金にした…という事だろうか。
…なんとなく、つじつまが合うように思った…。そんな矢先、
「私はそんなの嘘だと思う。悟史くんは家出なんかじゃない。」
レナがそう、きっぱり断じた。
「……ちょっと待てよ。…転校したわけでもなく、引越したわけでもなく、…それで家出したわけでもないなら…。一体、悟史はどうして…、」
…やめなよレナ。
魅音が小声でレナにそう囁いた。
でもレナはやめず、続けた。そして、…それを口にした。
「だってこれは、オヤシロさまの祟りだもの。」
「………え? たた…り?」
…レナが何を言い出したのか、その意味を理解するのにしばしの時間が必要だった。
魅音が舌打ちしながら、小さく首を横に振る。
「悟史くんは消える前に、私に教えてくれた。…誰かに見張られている。後を付けられている。家の中にまで付いてくる。寝る時、枕元に立って見下ろしてるって教えてくれた。」
「……やめなよレナ。」
「それは間違いなくオヤシロさまの祟りの前兆。きっと悟史くんは、心のどこかで雛見沢を捨てて逃げ出そうという気持ちがあったんだと思う。…それをオヤシロさまは許さなかった。」
「……だからやめなって…。」
「オヤシロさまは雛見沢の守り神さま。…雛見沢を捨てて逃げ出そうとする人を絶対に許さない。私はそれを謝った! でも悟史くんはきっと謝らなかった。
だから! オヤシロさまの祟りにあってしまったに違いないのッ!!」
「…オヤシロさまの…祟りだって…?」
復唱するつもりはなかった。
…でも、その言葉が口からこぼれてしまう。……オヤシロさまの、…祟り。
「警察が家出だって決め付けたって、信じない信じない私は絶対に信じない!
そんなの祟りだと認めたくない村の偉い人たちが決めただけの嘘っぱち!
オヤシロさまの祟りは信じようと信じまいと、確かにッ、」
パシン!
…魅音がレナの頭を引っ叩く。
それは冗談めいたものではなかった。
「いい加減にしろって言ってるでしょッ?! 温和な私でも仕舞いにゃ怒るよ!!」
仕舞いには怒るなんてものでなく、…魅音の表情には不愉快そうな怒りがありありと浮かんでいる。
…叩かれたレナもしばしの間、憮然とした顔をしていた。
…だが、ひぐらしの声が興奮した心を冷ましてくれたのか、しばらくすると元の落ち着きある表情に戻っていた…。
魅音と別れる、いつもの分かれ道までやって来た。
…ここに来るまで、誰も口を聞かなかった。
…ひぐらしの声がシンシンと、耳を苛むだけだった。
「……………………。」
<圭一
いつもならここで魅音と別れ、俺とレナだけになる。
「あのさ、圭ちゃん。前にマンガ貸すって約束したじゃない? 良かったら寄ってく?」
…あれ?
そんな約束したっけ?
だがすぐに、俺にだけ話したいことがあって、そのための方便なんだと気付いた。
「……あ、そうなんだ。…じゃあレナは先に帰ってるね。」
それに気付いてなのか、そうでないのか。
…レナはあっさりと自分は先に帰ると言ってくれた。
「じゃあね、レナ。また明日。」
<魅音
「うん。また明日ね。圭一くんも、あまりお邪魔し過ぎないようにね。もう夕方だから。」
「ちょっと本を借りに寄るだけだよ。…じゃあな。」
楽しかった今日一日を思うと、…本当に味気ない、さみしい別れだった。
■魅音と話
「さっきの、…あまり気にしないでね。」
しばらくして、魅音がようやく口を開いてくれた。
…もうレナと別れてずいぶんの時間が経っていた。
「いや、別に…。………俺の方が悪かったと思う。」
「…悟史の話は、…別に隠してたわけじゃないんだよ。……その、…あまり触れない方がいい話だからさ…。」
触れない方がいい話、という意味は今となっては本当によくわかった。
…さっきのレナの、異様なまでの絡みようを見れば、二度と話題にすべきでないことは嫌というほどわかる。いや、…それを言うなら詩音の時だって…。
…………いや、それ以前の問題だ。
…そもそも、話題にすること自体が不謹慎だ。……興味を持つこと自体がいけないこと。
でも、だからこそ気になった。
……どうしてそんなにもみんなむきになるのか…。(ばか! やめとけ前原圭一!!)
……そう思った時にはもう、うっかり口にしていた。
「もう二度と聞かないからさ。正直なところを教えてくれないか。…一体、悟史に、……何があったんだ。…家出、なんだろ?」
「……………………………………。」
魅音は長い間、沈黙していたが、…とうとう堪えきれなくなったのか、おずおずと口を開いた…。
「オヤシロさまの祟りの話は、…聞いたことある?」
「……ほんの少しくらいなら。」
…何となくは知ってる。
クラスメートの誰かが話してたのを横から聞いただけだが。
オヤシロさまってのは、今日、バーベキューをしたあの神社で祀られてる雛見沢の守り神さまのことらしい。
…それで、何年か前にダム工事で雛見沢が水没することになって…、その時に工事関係者が死んだとか何とかで、それがオヤシロさまの祟りってことになってるらしい。…そういう話だ。
「悟史の死んだ親ってのがさ。…ダムの誘致派でね。」
「え、……雛見沢の人って、村中でダムに反対してたんじゃないのか? 村人なのに、ダムの賛成派もいたのか…?」
雛見沢を丸ごと水没させるダム計画。
…そんな恐ろしい計画に、村中が一丸となって戦ったという話は聞いていたが、…賛成したいた村人がいるとは、ちょっと信じ難い話だ。
「……まぁ、…いろいろと事情もあってね。ダム計画に反対する人ばかりでもなかったんだけどさ。…で、その親ってのが、誘致派のリーダー格だったんだよ。」
「誘致派のリーダー格。…つまり、沙都子と悟史の親が、ってことだよな?」
「うん。……国はダム工事に伴って多額の補償金を用意してたからね。そのお金が欲しくてダム計画に賛成してた人たちも結構いたんだよ。」
「……………………。」
何軒かの例外はあるかもしれないが、基本的に雛見沢は裕福な村ではない。
父祖から受け継いだ土地…、などというプライドでなく。
新しい生活を始めるための資金を望む人たちがいても、おかしいことはなかった。
…ただ、そう思っても、それを口にするのがはばかられる状況だったのだ。
それを承知して、そういう人たちの代表となって立ち上がったのが、…たまたま沙都子と悟史の親だった、…ということだ。
その意味では、沙都子と悟史の両親はとても勇敢だったと言えるかもしれない。
…声を挙げられない、裕福でない人たちのために憎まれ役を買って出たのだから。
「それで。……運悪く、その両親がさ。…オヤシロさまを祀るお祭りの日に事故死しちゃったんだよね。…それで、オヤシロさまの祟りにあったんじゃないか、ってことになっちゃったわけ…。」
…今日、監督に聞かされた話を思い出す。
…家族でどこかの自然公園に遊びに行って、…崖下へ転落したとか何とか……。
「……で、…悟史が家出したのまで、オヤシロさまの祟りってことにされちまったわけか…?」
「………………まぁ、…うん。…そんな感じ。」
少しお茶を濁したような言い方だったが、これ以上触れてもいいことのない話題だと思ったので、それ以上の追求を避けた。
「…もう説明するまでもないと思うけどさ。…沙都子にとっては、両親の事故も悟史の家出も、…そしてオヤシロさまの祟りなんて話も、…愉快な話じゃないのはわかるでしょ?」
…もちろん、わかる。
…無言で頷くほかない。
「だからさ、…私たちは沙都子の家族の話には触れないことにしてる。…悟史のことは、仮に聞かれても、転校したって誤魔化すことにしてる。……その辺の事情を、汲み取ってもらえるよね。」
……沙都子の幸せな笑顔を見守っていたい。
…仮にでも、一度はそう願った者として、……本当に不謹慎な話をしてしまったことを後悔した…。
「……………あぁ。わかるよ。俺も軽はずみなことを聞いたと後悔してる。」
それを聞いて、魅音は少し安心したように笑った。
納得し、俺はもう別れようと思い来た道を戻り始める。
…本当に魅音の家に寄ってくのもいいが、今日はもう遅い。
今度、時間がある時に改めてお邪魔することにする。
「じゃあな、魅音。今日は悪かったな。…また明日な。」
「うん。じゃあね。」
互いに手を振り合う。
…ふと魅音が思い出したように、俺を呼び止めた。
「圭ちゃん。……あとさ。…沙都子にだけじゃなく、レナの前でも、悟史の話は慎んでくれるかな。」
「……………え?」
「……さっきのでわかったと思うけどさ。…レナって、どういうわけかオヤシロさまの祟りの話だけは、……笑い事で済まないんだよ。…転校してきた時から。」
「………………………。」
確かに、さっきのレナの様子は…明らかに笑い事では済まされなかった。
……魅音が割って入ってくれたからあれで話は終わったが。…もし魅音がいなかったら…どういうことになっていたのか…。
「……どうしてレナは…、あんなにマジになるんだろうな。」
それはレナだけでなく、…詩音も含む。
「…知らない。レナはね、………あ、これ内緒だよ? 言ったら絶交だよ?」
魅音が表情をさらに深く陰らせて、念を押す。
「言わないよ…。で、レナが何だってんだよ…。」
「…オヤシロさまの祟りにあったこと、あるんだって。」
「………え…?」
「…私は、…悪いけど、被害妄想過剰な何かの思い込みじゃないかって思ってるんだけどね。でも、本人はそう言ってるし、そう信じてる。…茶化すと、かなり怒る。……レナは普段はちゃらけてるけど、……怒るとかなり怖い。」
「……わかってるよ。レナの前でも言うなってことだろ。悟史の話。」
「うん。…できれば、この話題にも二度と触れるべきじゃないと思うね。レナのためにも。…沙都子のためにもさ。」
その他のみんなのためにも。
…強いて言えば、圭ちゃん自身のためにもね。
……魅音が無言で、そう念を押すのがわかる。
「………そうだな。……うん。わかったよ。」
「ありがとう。」
それだけ言うと、魅音は手を振りながら、去って行く。
…その背中をぼんやりと見送ってから、俺も歩き始めた。
………沙都子の兄、悟史。
家出をしたのか。
…祟りにあって消息を絶ったのか。
………いずれにせよ、聞かなければよかったような話ばかり…。
…冷え込む空気が、自省を強く促す。
………沙都子の笑顔を望みながら、
好奇心にあっさり負け、その暗部に面白半分で踏み込もうとした浅はかな自分が、……情けない。
俺は昨日とまったく同じ今日。
今日とまったく同じ、楽しい明日を期待しているというのに、
……どうしてわざわざこんなことを…。
昨日は野球大会で楽しく盛り上がった。
そして今日だって、戦勝祝いのバーべーキュー大会で大盛り上がりした。
すごく楽しかった。
……なのにわざわざ。…その楽しかった時間を打ち消すようなことをしてしまった。
……明日からは気をつけよう。
こんな不愉快なことは絶対にしないようにしよう。
…今日の不注意がきっかけで、楽しい毎日が終わってなんかたまるものか…。
でも、いくら明日から気をつけようと考えても、
……さっきの出来事で、もう楽しかった日々はすでに終止符を打たれてしまっているのではないか…、という不吉な考えが打ち消せない。
…………………………………。
………………………おいおい。
…落ち着けよ前原圭一。
…運命ってのは、とてつもなく大きな歯車で回ってるんだろ?
さっきの、ちょっとささいな出来事で、……明日からの日々が激変してしまうなんてこと、常識じゃ絶対に考えられない。
……そう理屈でわかっていても。
……今日までと同じ、楽しい明日が訪れることを確認するまでは、…この胸のもやもやは取れない。
「……変だぞ俺。……さっきのみんなとのやりとり、…ちょっと気にし過ぎだぜ…。」
早く明日になってほしい。
そして、俺のこのちっぽけな不安が、いかに杞憂であったかをわからせてほしい。
……夜が、長い。
■幕間 TIPS入手
■タイトル: サボりマネージャー
「詩音さんも少しは手伝ってくださいー。」
「女の子に重いものを運ばせようって言うんですか。そんなだからいい歳になっても相手が見つからないんですよ監督は。」
「えーとですね、そういうのを曰くこう言います。えー、余計なお世話です。」
「あっはははははははは。」
今日のバーベキュー大会に使った器材をワゴン車いっぱいに積む。
手伝ってくれた父兄たちもみんな帰り始めている。
「……さて。詩音さんはどうしますか。あなた、ここまでは何で来ました? 自転車でしたら積んで送って差し上げますよ。」
「バイクだからいいです。お心遣いだけでうれしいってことにしときます。」
「…………今日は来てくれてうれしかったですよ。やはりマネージャーさんがいないとパッとしませんからねぇ。」
「まだ私、マネージャーなんですか? 1年もまるまるサボってんだから、こんな無能マネージャー、いい加減に解雇するべきだと思いますよ。」
「えぇ。詩音さんが辞めたいって自分で言えたらいつでも解雇してあげますよ。」
「…ちぇ。ズルイなぁ。
………………早く解放してくださいよね。試合がある度に来ないかと電話が掛かってくるの、もうウザくてかなわないんですから。」
「詩音ちゃんももっともっと素直になれば、とってもキュートで可愛い女の子なのに。お父さんは悲しいですよ、一体どこで捻じ曲がってこんなにひねくれてしまったんだか! あぁ、お父さんの愛の抱擁で力強く包み込めば目が覚めますか?! でしたら遠慮なく!!
ほぅら〜〜〜♪♪♪」
…監督が精一杯ふざけてみせるが、詩音は遠くを見るような目で微笑むだけで、取り合わなかった。
「…………何も変わってない。監督がヘンな人で、みんなの賑わいも何も変わってないのに。」
「…悟史くんだけ、いない。…とおっしゃりたいのですか。」
「…………………。」
「帰ってきますよ。きっと。待っている人がいるんですから。」
「……………ふん。…勝手なこと言ってて下さい。」
「彼も罪作りな人ですよねぇ。こんな可愛い彼女を置き去りにして、どこへ行ってしまったんだか。」
「へ?! かか、彼女!! 誰が! 誰が!! ……へ?!」
「ぷ、…くっくっく、はっはっはっはっはっは!」
「……ちぇー、…もう! いつまで笑ってるんですか!! かぁんとーくー!!」
「はっはっは! わーっはっはっはっは!!」
しばらくの間、監督はおなかをよじりながら笑い転げていた…。
「では、またお会いしましょうね。試合にもたまには応援に来てくださいよ。」
「ま、気が向いたら。…私、マネージャーなんか全然、もぅやる気ないんですから。」
「…いいんですよ。あなたが嫌ならいつでもクビにしてあげますよ。嫌がるのを無理やりってのは私の性ではありませんからね。」
「…………………………ちぇ。あーはいはい! すみませんねすみませんね! 私の負けです。気が向いたらまた応援に来ますので、今日は堪忍して下さい。」
「ふっふっふ! おっと、もうこんな時間! 器材返す約束の時間が…! 先方をもうだいぶ待たせてますね! では、今日はこの辺で! また次の試合でお会いしましょう!」
「えぇ、気が向いたらね。さよなら、監督。」
■タイトル: 検死初見コピー
検死の結果、被害者は以下に従い殺害されたと思われる。
(1)拘束具で全身を拘束
抵抗時に出来たと思われる傷痕から、ロープ等でなく、拘束を目的とした専用の拘束台に拘束したものと推定。
両手各指の関節への拘束が特に厳重であるのが特徴。
形状その他から推定して、特注品もしくは自家製である可能性が高い。
(2)両耳・鼻を鋭利な刃物で切断
拘束跡その他から推測して、切断する人間の他に少なくとも1人以上の、被害者の首を押さえつける人間がいたものと推定。
使用した刃物は複数の可能性があり、その内のひとつは鋏である可能性が高い。
(3)両手の指を五寸釘で貫通
両手の各指に対して、各関節毎に1本、計30本の五寸釘で打ち抜いている。
遺体の指は20センチ四方の板に打ち付けられており、この板は拘束台の一部である可能性が極めて高い。
またこの拘束台が、そもそもこの行為を行なうために用意されたものである可能性がある。
(4)腹部切開、及び内臓の切除
腹部の切開に当たっては、鋭利な刃物で医学的手法に基づき開腹した可能性がある。
この段階では被害者の生命にはまだ支障はなかったと推定。
その後、切開部より内臓各部位を分解、切除。その過程で被害者は死亡したものと推定される。
(5)遺体の投棄
被害者の首を市販のペット用首輪でダンベルに括り付けた後、王子川3号暗渠に投棄したものと推定。
ダンベルの総重量から、遺体の投棄に少なくとも成人男性が3人以上関与している可能性が高い。
大石さんへ。
頼まれてた、例の王子川惨殺死体の検死初見コピーです。
重春課長はS号じゃないかと見てるみたいです。大石さんはどう思います?
■タイトル: 東三局
雀荘で麻雀をしながら先のドブ川惨殺体の情報交換をする刑事たち。
メンバーは大石と熊谷、鑑識のじいさまとどっかの刑事。
「んっふっふっふ! 出ましたねぇ、ロン。中ドラ3、満千五です。」
「えー…! なんすかそれぇ…。何でドラが3つも入んすかぁ!」
「バカモンが。大石が聴牌しとんのわかっててカンドラ増やしおってからに! 自業自得じゃぞ。」
「中さらしたら、ドラを上乗せする位しかやることないじゃないですか。役牌さらしたらドラ側は切っちゃだめですよ。んっふっふっふ!」
得意げに笑う大石と悪態をつく仲間たちは、牌の山を崩してまた積み始める。
「……時に大石さん、どうですか。割れましたか。」
「なんじゃい。…あぁ、例のドブ川惨殺死体の話かの。何か手掛かりはあったのか。」
「えぇ、まぁ。裏はそっちで取って下さいよ。」
「さぁすがぁ。何者です、ホトケ?」
「間宮リナ。本名は律子。」
「鹿骨フラワーロードにある、ブルー・マーメイドってキャバクラに勤めてたみたいっす。」
「やれやれ、そりゃヤバイ店じゃな。確か園崎系の若頭の店じゃろ。」
「…園崎…おっと! S号関連かぁ。…難航しそうなヤマだなぁ。」
「噂じゃホトケさん、上納金とヤクに手を付けちゃったらしいっす。話じゃ、かなりシャレにならない規模らしいっす。」
「女が上納金に手を出した、か。裏に男がいそうじゃのう。女の単独犯なんてそうそうないぞ。」
「んっふっふ! どうせもう死んでますよ。死体がまだ出ないだけで。」
「そうそう…、大石さん。女のヒモ、生きてるみたいですよ。」
「生きてる? じゃあこれから死ぬんでしょうねぇ。害虫が害虫を駆除してくれるんだから、ホントに素敵な自浄機能だと思いますよ。」
「そのヒモなんですがね、
北条鉄平なんですよ…、あの。」
「……北条? 誰だい?」
「…北条鉄平。去年、雛見沢で起こった主婦撲殺事件のホトケのご主人ですよ。……事件のあと姿を消したって聞いてましたけど。…そうかぁ、愛人の所に転がり込んでたかぁ。」
「…………ますますに園崎の臭いがプンプンだの。」
「彼氏は今どこに?」
「女のアパートに同居してたんすがね。女が自分を捨てたと思ったみたいで、店や溜りのあちこちを探し回ってるらしいっす。」
■5日目(月曜日)
「おはよう圭一。………あら? 昨夜は何時に寝たの?」
今朝の寝起きは最低。
それはお袋にも一目でわかるものらしい。
……昨夜の夢見は最低だった。
悪い夢や縁起でもない夢をいくつもいくつも、代わる代わる見た。
その度に目を覚ますのだが、……どんな夢を見たのか、微塵も思い出すことはできなかった。
でも、……それらの夢が何かの不安の暗示のようで、…とても嫌な気分だった。
おいおい…。
昨日まで…、ずっと平穏で楽しい一日を送ってきたじゃないか。…それはこれからも変わらずに続いていくはず…。
なのに…。
不安な気持ちだけが募っていく。……どうして?
…悪い夢は自分の不安を表したものだ。
…うわべの自分が認めない、不安な心を映し出したもの…。
……………………昨日の、
…詩音や魅音、レナとした、…悟史を巡る不吉な話を思い出す。
…そうだ。
………あの話をしてから、…心を黒雲が覆ってしまったのだ。
毎日を…穏やかに過せば、その見返りに穏やかな日々が続いていくって。…わかってたのに、……何で俺はそれに波風を立てるようなことを。
…でも、……冷静になって考えれば。
………俺がしたあの程度の失言で、世の中が変わるなんて、考えられない。
そうさ。
…俺がこうしてきっちりと後悔して、二度とあんな話をしなければ、…何も咎められることなんかないはずじゃないか。
そもそも、…俺がこんな話をしたことで、……どんな運命が変わるって言うんだよ…?
何も変わるわけがない。
そうさ。
変わるわけないんだ。
変わるわけない、変わるわけない。……はははは!
「気持ち悪い笑い。寝ぼけてるなら顔を洗ってらっしゃい。」
せっかく景気付けで笑ったのに、お袋にぴしゃりと言われてムッとした。
もうレナとの待ち合わせの時間までそんなにない。
大急ぎで学校に行く準備をする。
「いってらっしゃい。車に気をつけるのよー!」
「気をつけるほど車もいないよ。雛見沢には。」
表に飛び出す。
……洗顔よりもすっきりとさせる朝の空気が満ちていた。
そうさ、前原圭一。充分に後悔して反省したならそれで充分!
さぁ気を取り直して学校に行こう。
…そして愉快で楽しい時間を取り戻そう。
みんなで笑ってはしゃいで大騒ぎして。
…そして、沙都子にはお詫びの意味も込めて、やさしくしてやろう。
…そうだよ。俺は悟史が帰ってくるまでの、にーにーじゃないか…。
「おはよう! 圭一くん!」
昨日、薄気味悪いことを言ったレナも、今朝はその様子は一切ない。
…俺さえ忘れていいなら、昨日のことはまだまだ、なかったことにできる。
…だから、思いっきり元気に言ってやった。
「おぅ! おはようレナ! 相変わらず早いなぁ!」
■学校
「おはよー!」「おはよーございまーす!」
いつもの、朝のホームルームが始まるまでのわずかな時間だったが、…珍しいことに、沙都子と梨花ちゃんがいなかった。
…どこかに遊びに行ってるのかな、
と思ったが、席には荷物もないところを見ると…本当に登校してきてないようだ。
「…あれれ? あの二人が遅刻なんて珍しいね。」
レナは二人がどんな言い訳をしながら遅刻してくるか、それを想像して楽しんでいるようだった。
魅音もはちゃめちゃなことを言って、遅刻の理由を滑稽に想像している。
……元気な沙都子たちを見たら、そんな気持ちも払拭できると思って登校してきただけに、……何だか胸のつかえが取れない。ちょっと不快な気持ちだった。
「おはようございます皆さん。委員長、号令。」
「きりーーーーーーーーーつ!」
とうとう先生がやって来た。
…その時になってようやく、廊下を走るパタパタとした足音が聞こえてくる。
ガラリ。
…扉を開けて飛び込んできたのはまず梨花ちゃんだった。
…そしてそれに続いて沙都子が、……………沙都子は、来ない。
「遅刻ですよ、古手さん。…北条さんはどうしましたか?」
梨花ちゃんが遅刻することも珍しいが、元気の塊の沙都子が欠席することも珍しい。
みんなが珍しいこと続きに、目を丸くしている。
「……沙都子は、…ちょっと遅れるかもしれないのです。」
「熱でも出ちゃいましたか?」
先生が梨花ちゃんに近寄り、小声でぼそぼそとやり取りしている。
「あっははははは! 梨花ちゃんが遅刻で沙都子が欠席なんて、珍しいこともあるもんだよ。」
<魅音
「そうだね。
だけど、…沙都子ちゃんどうしたんだろ。…風邪、かな?」
………どうして、沙都子の元気な顔が一番見たいこの時に…。
…昨夜から募っている不安感が、胸中を内側からキシキシと締め付ける。
「圭ちゃんは心配し過ぎ〜! 年頃の女の子にはね、どうしても体の都合で具合が悪くなっちゃう時があるのー。くっくっくっく!」
「魅ぃちゃん、それ、男の子の前で言うことじゃないよー。」
魅音が下品に笑う。
いつもならそれにつられて俺も笑うところだが、…今朝の俺は、なんとなくそんな気持ちになれなかった。
ホームルームが終わり、1時限目が始まるまでのわずかな間に、梨花ちゃんに話しかけた。
「よぅ、梨花ちゃん。遅刻して怒られてかわいそかわいそだな〜。今日は俺がなでなでしてあげよう。」
今朝の自分は、自分自身、陰気なことがわかっていたので、明るい口調になるように努める。
梨花ちゃんの頭を、いつも梨花ちゃんがそうするように撫でてやるが…梨花ちゃんの表情は晴れなかった。
「……みー。」
「…沙都子はどうしたんだ? ……風邪か…?」
昨日、大はしゃぎし過ぎたので熱が出てしまったのです。
…そんな風な回答だったら、俺もそこそこに納得するつもりだった。
「………………………。」
でも、梨花ちゃんの雰囲気がどこか重い。……何だか、変で、むしろ俺の不安を煽った。
「ほらほらほら〜! 男の子には話せない事情ってのもあるんだから〜! 圭ちゃんはお席へ戻って戻って〜!」
魅音が委員長ヅラして、俺を席まで引っ張っていく。
……梨花ちゃんはすぐに目線を机の上に戻すと、陰鬱そうにうな垂れるのだった…。
梨花ちゃんは、沙都子はちょっと遅れるかもしれない…という変わった言い方をした。
確か…梨花ちゃんは沙都子と一緒に暮らしているはずだ。
…だったら、遅れるかもしれない、と言った曖昧な言い方にはならないはず。
よくわからない欠席の理由が…ますます不安を掻き立てていった。
…くそ、何なんだよ今日は。
朝から…何だか不愉快な日になりそうだ。
「…どうしたのかな圭一くん。今日は何だか朝から元気ないよ?」
俺の様子に気付いたレナが、先生の目を盗んで話し掛けてきた。
「…………そ、そんなに俺、…元気ないか?」
「うん。見てるレナまで元気がなくなるくらいに。」
じゃあ見るなよ、なんて軽口を叩こうと思ったが、…そんな気にすらなれなかった。
「レナに話せること? …どんな悩みかわからないけど、聞いて力になれることなら、聞くよ…?」
絶対に茶化さないから。
そう言って、まっすぐな瞳を向ける。
「……………昨日まで、…何も変なことなんか起きなくて、楽しかったんだ。」
え?
レナは何の話か一瞬わからず目を丸くしたが、…黙って俺の話を聞いてくれた。
「穏やかで楽しくて。毎日が賑やかで。…そんな毎日が繰り返されることに、何の不安もなかった。」
「…………うん。そうだね。毎日楽しいよ。きっと今日も楽しくなる。」
「……絶対にそうなるって、自信が持てるか?」
「え、…っと。…………………。」
レナが困惑し、言葉を詰まらせる。
無理もない。
………俺自身、何を言おうとしているのか、…ちょっと混乱しかけているのだから
「……思えば、…ここ最近、不安だったんだ。……毎日が楽しいからこそ、ある日ふっと、……電球が切れるみたいに、突然。…真っ暗になってしまうんじゃないか、って。」
「……うん。…その気持ち、ちょっぴりレナもわかるよ。」
レナはやさしく頷いてくれた。
「…私たちはいい事ばかりは続かないって、…ずーっと教えられてきたから。
…楽しいことの裏側を時々恐れるよね。それってちょっぴり悲しいことだけど…。でも、そのお陰で、私たちは楽しい毎日がずーっと続くように、努力することを覚えたんだよ。」
「……そうだな。」
「だから、圭一くんが楽しい日々がいつまでも続かないかもしれないって思うのは、決して悪いことじゃないと思うよ。……例えば、……うん。明日突然、火山が大爆発して、私たちが全員死んじゃうとする。」
「おいおい…、物騒な話だな…。」
「例えば、その大災害を圭一くんだけが生き残ったとしたら、…どう感じる?」
「…どうって、………………ん…。」
……廃墟となった雛見沢に、自分だけが生き残っているところを想像する。
……足元には瓦礫と仲間の体が累々と横たわる。……あまりにおぞましい光景だった。
仲間がみんな死んでしまったことが悲しいのか。
それとも自分だけみんなと一緒に死ねなかったのが悲しいのか。
…どちらかわからないけど、……きっと涙があふれ出す。
「…胸が張り裂けるだろうな。……まず、…泣くと思う。」
「そしてこう思うんじゃないかな?
こうなることが運命だったなら、昨日までの日を、もっともっと楽しく、悔いなく過せばよかった、って。」
……そんな悲惨な出来事を運命だなんて思いたくはない。…でも、………………。
「…………………………思うだろうな…。」
「楽しい毎日がいつか終わるものなら、それがいつかなんて誰にもわからない。だったら、例え明日そうなっても悔いがないように、精一杯楽しく生きるのが正解じゃないのかな。」
「…………そう、だな。」
「それに気付くのはとても難しいこと。…多くの人たちは日々の幸せに飽食してるよ。今日と同じ明日が訪れると信じきってるから、今日できることを明日に送る。今日してやれるやさしさを、明日に送ってしまう。」
……いつもの、明るくてふざけているレナの雰囲気はまったくない。
…レナは、俺の悩みに真剣になってくれていた。…それが、少しだけ心強い。
「でも圭一くんはそれに気付けた。…それはとても素敵なことだと思う。だから、その不安な気持ち、…大切にしてもいいと思うの。」
「……この不安を、…大切に…?」
「そう。…明日には大災害でみんな死んじゃうかもしれない。…だから今日、みんなにいっぱいやさしくしよう。………本当に終末が訪れた時、…後悔しないために。」
「…レナは実践してるのか…? 明日、みんなが死んじゃっても後悔しないようにさ。」
「うん。」
…こんなにも大仰な話なのに。レナは事も無げに頷いて見せた。
「…レナは、…楽しい毎日がたった一日を境に終わってしまうことを知ってるから。今日が楽しくても、明日も楽しい保証なんかないって知ってるから。…生きてるよ。精一杯。」
…………………俺の、うまく言葉にできない不安を、レナは全てわかってくれてるようだった。
…その上で、…あまりに頼もしく道を示してくれた。
……う。
………おいおい前原圭一、…涙を溜める必要なんかないだろ…。
「……昨夜、…………沙都子の夢を見た気がするんだ。…どんな夢だったかは思い出せないけど、………朝からずっと、…不安で……。」
「沙都子ちゃんの元気な顔を見れたら安心するつもりだった…。……かな?」
…まったくの図星だった。
今朝、全員が笑顔でそろうことができたなら、
俺の胸の中のもやもやなど、吹き飛ばすように消せたに違いない。
「…じゃあ、…沙都子ちゃんが来たら、やさしくしてあげることだね。うぅん、いつもの悪ふざけでも一向に構わない。楽しく過すことが出来るなら。」
「………………そうだな。」
……楽しい日々が、…いつ終わっても悔いないように。
レナの話は結局、俺を慰めてくれたのかかえって不安にさせたのか、わからない。
でも、……沙都子に会えたら、…素直な言葉をかけてやろうと思わせるには充分だった。
■沙都子のいないお昼
みんなで机を寄せ合っていつものお昼の時間を迎える。
…沙都子はいない。
……にも関わらず、机の上には5人分の弁当箱が並んでいた。
…梨花ちゃんが沙都子の分の弁当箱も用意したからだ。
「…沙都子、お昼までには来るはずだったの?」
<魅音
「……………………………。」
梨花ちゃんの様子は明らかに変だった。
……俺たちが話しかけても、…遠くて届かない。…そんな感じだった。
…こんなに元気のない梨花ちゃんは初めてだ。
…だから、…自然に俺たちも元気をなくしていった。
なぁレナ…。
俺はさっきのレナの話を充分に理解した。
…だから、みんな揃ったら、いつ世界が滅びても後悔しないよう、精一杯楽しくやるつもりだ。
………なのに。
……そう決意したばかりなのに、みんなが揃えないなんて、…ありかよ…。
…だって、……あまりにも突然じゃないか。
だって…、楽しかった昨日が今日からはぷっつりと終わってるなんて…、信じられるかよ?
……火山も爆発してないし、地震もなければ火事もないんだぞ?!
昨日までと同じようにセミが鳴いてるし、お日様だって照ってる。
まったく変わらない日常なんだ。……なのに、……なんで…。
そんな俺の鼻先ににゅーっとレナの箸が伸びてきて、俺の弁当箱のから揚げを奪った。
「みんなが取らないから、レナがもらうね! うふふふ、おいし!」
レナがから揚げを丸ごと口に放り込むと幸せそうにもしゃもしゃと頬張り始めた。
「…っと、おじさんとしたことが。レナに先制を許すとはね! よっしゃ! おじさんはこのプチハンバーグをもらうよー!」
「……みー! ボクのおかずがなくなってしまうのです。」
梨花ちゃんも遅れて、笑顔を取り戻し、誰かの弁当箱を突っつき出す。
みんなの切り替えの早さに呆然としていると…、レナがウィンクを寄越してきた。
(ほら、圭一くん。精一杯楽しく過ごそ! 明日、火山が爆発してもいいように☆)
「じょ、冗談じゃねぇ。…最後の弁当が梅干とご飯だけになってたまるか! それ、俺はミートボールを頂くぞ!」
頬の筋肉を突っ張らせて、ぎこちない笑顔を作って見せる。
自分を騙すかのように、はしゃいで見せる。
……でもそうしてる内にだんだん、それは演技ではなくなってきた。
沙都子は相変わらずいないけど、
……いつの間にか、いつものお昼の賑やかさを取り戻している。
はしゃぎ、
笑い、
ふざけて。
…みんな、ありがとう。きっとこれが一番正しい。
沙都子がひょっこりとやって来た時、最高の笑顔の俺たちで迎えてやるために。
笑えば笑うほど、朝からあった不安は拭い去られる気がした。
「笑う門に福来る、ってコトワザ、あったよな。」
「あるねぇ。それが事実ならおじさんは四六時中笑い転げてるよ。」
「レナは本当だと思うな。毎日笑ってれば、毎日が楽しいよ。」
「……………レナがいい事をいいますです。」
「じゃあ、…試してみるか?」
全員が息を潜め、肩を抱くように顔を寄せ合う。……それから、
「「「わーっはっはっはっはっはっはっは…!!!」」」
お腹の底から、みんなで大笑いした。
…お腹の底にたまった嫌なものを、笑いと一緒に全部吐き出すつもりで。
弁当箱が空になる頃には、もういつも通りのみんなだった…。
■アイキャッチ
みんなで談笑していると、富田くんと岡村くんがやって来て、おずおずと話し掛けてきた。
「…あのぅ、……前原さん。楽しくお話中、申し訳ないんですけど…。」
「ちょっとお力をお借りしたくて…。」
二人して苦笑いをしながら頭を掻く。
「…何だよ一体。ビニ本の墨塗りの消し方でも知りたいのか? ちなみにバターを塗ると消えるというのはまったくの迷信だぞ。もちろん砂ケシも迷信だ。」
「…え、えぇ?!
そうなんですか…?!」
そうじゃないだろ、と富田くんが岡村くんを肘で小突く。
「あの、実はですね。…ボールが2階の雨どいに引っ掛かっちゃったんですよ。前原さんなら、身長高いから何とかなるんじゃないかと思って…。」
「ほぅ。先輩にものを頼むからには何か見返りがあるんだろうなぁ? 俺は高いぜー? 簡単に買収できると思うなよ〜?」
富田くんと岡村くんはしばらく相談の後、こう答えた。
「では、前原さんには授業中に居眠りができる権利を与えましょう。それでどうです?」
「……なんだそりゃ。授業中に寝るのは俺の勝手だろ。何でお前らに権利をもらわなくちゃならんのだ。」
「そんなことないっすよー? 今後は前原さんが居眠りしたら、全部先生に言いつけることにしますから。」
「わーっはっはっはっはっは!! なるほど、うまいうまい!」
<魅音
「こ、こいつら〜〜!! とんでもない交渉の仕方覚えやがってぇえぇ!! がるるるる!!」
「すすす、すみません…!! ちょちょ、ちょっとした冗談っす…!!」
「ほらほら圭ちゃん〜? 大人しく後輩たちの脅迫に屈したらぁ? くっくっく!」
魅音め、ムカつくことを言いやがって…。
ピンと来て、富田くんと岡村くんの手を取る。
「わかった、俺の降参だ。ボールを取ってやるから、居眠りの権利を俺にくれ。」
「へ…? え、えぇ、まぁ……。」
「見ろ魅音。俺はちゃんと権利をもらったぞ。でもお前はもらってないよな。…富田くん、岡村くん。魅音が居眠りしたらすぐにチクれ。いいな!!」
「「うぉおーっす!!」」
レナと梨花ちゃんが、圭一くんの勝ちだねとケラケラ笑う。
ボールは……どうやったらああもうまく引っ掛かるのか、見事に校舎2階の雨どいに引っ掛かっていた。
「その棒を貸せ。俺なら多分、届く。………よいしょ、っと…!」
竹棒で引っ掛かったボールを突っつく。
……くそ、固いぞ! よっと!!
「あ、取れた! 取れましたよ前原さん! どうもありがとうございましたー!!」
ボールは雨どいを転がり、校舎の裏手の方に落ちていった。
後輩たちがそれに向かって走っていく。
俺は一人取り残されてしまった。
…これで任務完了かな?
やれやれ。まだ昼休みは長い。
教室へ戻るか。
みんなと他愛ない話に花を咲かせながら午後の授業を待とう。
そう思い、昇降口へ向かおうとした時、……突然話しかけられた。
■大石が、再び
「どうもどうも、こんにちは。お昼休み中、すみませんねぇ。」
…知らない中年男だった。
…いや、ひょっとすると何度かすれ違って、顔を見ているかもしれないが、……知らない男だった。
そいつが、にぃっとさらに深く笑った時、……俺の心の奥底が、
……ぞぉっと震えた。
……………根拠なんかない。理由もない。
………でも、…ぞっとした。
その感情の正体は自分でもよくわからず、…自らの感情にしばし困惑する。
でも、ひとつ言えることがある。
……学校は先生と生徒以外がいるべきところじゃない。……コイツはいてはいけないやつだ。
それは戦慄というよりは……、額の上に、毒々しいくらいに派手な彩りをした毛虫が這うような…ぞわぞわした感覚。
……ちりちりぞわぞわした毛が額をこする、かゆいとも気持ち悪いともつかない…嫌悪感。
……顔すら見たくない。
飛びのいて逃げたくなる。
……そんな理屈すらない、……嫌な気持ち。
もうひとりの自分に自問する。
……おいおい、初対面なのに、俺は何を嫌がってるんだよ…?
理由もなく人を嫌がるなんて、失礼じゃないか。
…自分の中のもうひとりの自分は、答えない。
……押し黙り、じっとりとした脂汗を額に浮かべさせるだけだった…。
そんな様子を見て、大石は、自分が威圧してしまってるんではないかと思い、弛緩した笑顔を浮かべた。
「…あぁ、失礼しました。怪しい者じゃあないんですよ? んっふっふ。私、興宮警察署から参りました、大石と申します。……あれ、手帳どこかな。…えぇと。……あれ? あれ? ……参ったな? ありゃ?」
小脇の上着のポケットをいくつかまさぐり、ようやく警察手帳を見つけ出して苦笑いしながら見せてくれた。
…そのまぬけそうな仕草で俺の不安を取り除くつもりだったのかもしれないが、少なくとも、それは果たせていないようだった。
……どうして俺は、こんなにも緊張を…?
理由は、あった。
昨日までと同じ今日が続くことを願うなら、…昨日までいなかった男が現れる必要などない。
……昨日いなかった男が現れたということは、……今日が昨日までの日々と違う日であることになる。
…それは、……昨日までの楽しい日々が、昨日を境に終わってしまったことを指すから……。
ごくりと唾を飲み込み、そんな不吉な答えを掻き消す…。
落ち着けよ前原圭一…。
警察から来たというこのスケベそうな親父の登場だけで、楽しい日々が終わるなんて決め付けるのはよせ…。
……こいつは仕事でここに来ただけだ。
…そう、仕事で来ただけ……。
仕事で来たなら、…そう、普通は職員室へ行くよな。
…俺に話し掛けてきたのは、…そう、職員室がどこにあるかを聞くために違いない。
「…職員室をお探しですか? なら、あそこの昇降口から入って、」
この男と一分一秒でも向かい合っていたくなくて、俺は勝手に話を切り出し、進めていく。
……だが大石は、職員室の話には何の興味もないようだった。
「あぁ、いえいえ。職員室にはそんなに用事はないんです。それより、お友達を呼んでもらいたいんですが、お願いできますかねぇ。んっふっふ!」
「……お友達? 誰です?」
「女の子です。……北条沙都子さんを呼んで来てもらえませんか?」
ふー…っと、意識が遠のく。…まるで、貧血を起こすみたいに…ふーっと…。
そう。………………不安が、……的中する。
ぞわぞわした…気持ち悪い毛虫が、……俺の耳から入り込もうと…伺っている。
ちりちりぞわぞわした毛が…耳の穴の淵に触れている………。そんな、嫌な感じ…。
「け、警察が…、沙都子に何の用ですか。」
「いえいえいえ。大した用事じゃあないんです。二三、聞きたいことがありまして。ご協力をいただければうれしいんですがねぇ。」
……どうして…?
どうして……よりにもよって…沙都子なんだよ…?
…大した用事がなくて、…こんな真っ昼間に警察がどうして尋ねてくるんだよ…?
この男は変だ。
臭いがする。
……ちょっと嗅いだだけで顔をしかめたくなる様な…嫌な臭いがするんだ。
……この男に限って。
…沙都子の財布が落とし物で届けられたのでお届けに来ました、なんてことは絶対にない。
………沙都子にどんな用があるのか、想像もつかないが、……絶対に…嫌なことのはず…………。
「……………あ、」
喉がヒリヒリと焼けつく。
……干上がってひびだらけになった大地のように、ヒリヒリと。
……喉の奥から、そんな大地をばりばりと割って、……心の奥からの言葉をひねり出す…。
「……あ、…………あんたに用はあっても、沙都子にはないと思います。…帰ってくれませんか。」
大石は、こんな返事は予想しなかったのだろう。…しばらくの間、きょとんとしていた。
…でもそれは俺も同じだ。
…こんな、言葉が自分の口から出るなんて、思いもしなかった。
……まだ間に合うかもしれないのだ。
こんなヤツが現れてしまったが、……今、追い返せば、なかったことに出来るかもしれない。
…なかったことに出来れば…取り戻せるはず。
…昨日までの平穏を…取り戻せるはず………。
「なっはっはっは…! これはこれは…手厳しいなぁ。あなた、沙都子さんのマネージャーさんですかな? アポイントメントがないと面会はかないませんか。んっふっふ!」
「…話がしたいだけなら、電話ですればいいじゃないですか。…日中、学校にまで押しかけてくるなんて明らかに異常です。」
堰を切ったように、という表現がぴったりだった。
……この男は、なぜか気に入らない。
この男はいてはいけない。
この男はいなかったことにしなければならない。
そんな、子供みたいなわがままな感情が心の中から次々に沸き上がり、そのままの形で次々と喉から吐き出される。
虫が好かないと思うのは勝手だ。
…でも、それをそのままストレートに相手に伝えるなんて、…自分でも思う。どうかしている。
「……ありゃ。いちいち正論な方ですね。こーゆう言い方する人は苦手なんだよなぁ…。」
大石は、にやぁと笑いながら汗ばんだ首元をボリボリ掻く。
…まぬけを装いつつも、苛ついてるのがよくわかった。
なぁ、前原圭一。
……何で俺は、……こんな警察の親父と、こんなところでケンカしなくちゃならないんだ…。
別に、…こいつが不幸を風呂敷に包んで担いできたわけじゃないだろ?
そうさ。……不幸を宅配便のように運んできて、ハンコお願いしますなんて言ってるわけじゃない…。
そんなことは理屈でわかっているのに、……なんで俺は……………。
……大石はやがて、沈黙を続ける俺に根負けしたのか、大きくため息を漏らした。
そして、近くに走ってきた後輩の女の子、何人かに呼びかける。
「あー、もしもし、君たち! ちょっといいですかな? 北条沙都子さんを呼んできてほしいんですがねぇ。」
「……………………………………。」
後輩たちは笑顔で答えようとしたが、俺の妙な様子と硬い空気に気付き、…安易に答えてよいものか迷っているようだった。
「…いませんか? 北条沙都子さんは。」
「えっと、…………北条さんは今日は…、お休みですけど…。」
「休みぃ?」
……顔は笑っているけれど、……声には明らかにわかる不機嫌さがこめられていた。
その露骨な悪意に、素直に答えたはずの後輩たちがすくみ上がる…。
「そうですか。…なっはっはっはっは! いやはやいやはや。これはツイてないです。」
…大石は大笑いして見せたが、見ていても少しも愉快になれない笑い方だった。
いくら笑っても、誰も一緒に笑ってくれないことに気付くと、大石はさっさと笑うのをやめた。
「……で。君たち。……ここにいるお兄さんは何て名前か教えてくれるますか? ん?」
女の子たちの肩をぐっと、逃がさないように掴み、目線の高さまでしゃがみ込んで聞く。
……彼女たちは、鋭い眼光に射抜かれすくみ上がっていた。
…そして、解放と引き換えに、俺の名を無抵抗に教える…。
「ほーぅ。前原圭一さん、ですか。」
………俺の本名を口にする。
…たったそれだけのことなのに、…ぞぉっとせずにはいられない…。
……まるで、言葉だけで俺の胸ぐらを掴み挙げているかのようだった。
「……あぁ、あなた、ひょっとして、例の前原屋敷の御曹司…?
なっはっは! お父さん、高名や芸術家さんなんですってねぇ。年に2回ほど、東京の有明大展覧会に出展されてるそうじゃないですか。どんな立派な絵を描かれるかは存じませんがね。お母さんも知的そうな方じゃないですか。高学歴って聞きましたよ?
どこぞの女子大を出られてるそうじゃないですか。あの年の女性で女子大出なんて凄いですよ。ひょっとしてお母さん、良家のお嬢さんなんじゃないですか? …なーんてウワサが立ってるせいか、冷たい人だ、なんてウワサが立てられてるなんてご存知で?
町内会の会合、最初の一回以外は出てないでしょ。そういうのって、いけないんですよねぇ。こういう土地ではご近所付き合いを蔑ろしになんかできませんよ。んっふっふっふっふ!」
……薄気味悪さが…背筋をぞわぞわと這い上がる…。
それは…初めて経験する恐怖だった。
初対面の人間に、……一方的に自分の素性を知られていることが……こんなにも気味が悪いなんて………!
大石は俺の両肩をぐっと掴み、…覗き込むように目を近付かせてきた。
「こういう土地ではね、…敵は作らない方が絶対にいいですよ? さもないと…。」
い、…痛てて……!
大石が…万力みたいな馬鹿力で俺の肩を………、…く…!
「……思わぬところで不利益を受けるかもしれません。……因果応報という言葉もありますよ? 風が吹けば桶屋が儲かるの正反対です。……妙なところで買った恨みが、…信じられないところで帰ってくることがあるかもしれません。……そうなったら、……嫌でしょう? んっふっふっふっふ…。
誰だって、恨みなんか買いたくないんです。…敵を作らないに、…越したことなんか、ない。……ん? どうしました? 肩がだいぶ凝ってますねぇ。ちょっと揉んであげましょうか?
ほらぁ、気持ちいいでしょ? んっふっふっふ…!」
い、………いてて、……てててて…………ッ…!
単に力が強いだけでなく……、この男、…痛みを特に感じるツボみたいなのを知ってるみたいだ…。
く、………肩をほんの4〜5本の指で締め付けられてるだけなのに…、痛みで…背中が反りかえりそうになる…。ぅぅ……!
クラスの女子が…何人かおろおろしているが、…助けてくれる様子はない。
…先生を呼びに行くべきか、迷っているようだった…。
……俺としては……先生が来るのなんて、のんびり待てない……、く…! 痛…ぇ…よ………ッ!
「もうそれくらいになさって下さい。痛がってますよ。」
「…んん?」
大石さんの肩越しに…誰かが……。……何と、…監督だった。
「……おや。これは入江先生じゃあありませんか。ご無沙汰しておりますねぇ。んっふっふっふ!」
監督の突然の出現に、不愉快さを感じさせながらも嫌らしそうに大石は笑う。
…でも、俺の肩に万力のような力をかけたままだ…。
「挨拶はいいです。それよりも…前原くんを放してあげて下さい。」
大石は不敵に笑いながら監督をじっと睨みつけている。
もちろん、その間も俺を放そうとはしない…。
「……先生のところにも、後でお伺いしようと思っていたんですよ? いつもお忙しいとかで、ろくろくお話ができませんからねぇ。」
「えぇ。…お望みとあればいくらでもお話を伺いますよ。でもその前に令状をお持ちになって下さい。…職務質問と任意同行は…拒否できますからね。」
……監督は、以前の野球大会やバーベキューの時に見せたひょうきんな様子はまったくなかった。
…大石をぐっと睨みつけ……俺を解放しようと戦ってくれている。
…もちろん旗色は圧倒的に悪い。
…余裕のある大石に比べ、監督は精神的に気圧されているように見える。
……そりゃそうだ。
…監督のどこか細そうな体つきに比べ、大石は筋肉質でみっちりしている。……全然勝負になんかならない。
でも、…監督は一歩も引かずに、戦ってくれていた。
顔中に汗の玉を浮かべて…蒼白になりながらも、戦ってくれていた。
「…………………………………。
……なっはっはっはっは…!」
大石は突然笑い出すと俺の肩を離す。
…全身が脱力し、俺はどさっと尻餅を付いた。
「…前原くん! 大丈夫ですか!」
「……ぅぅ、…くそ、……いててて………。」
大石に締め付けられていた肩を摩る…。
痛みはすぐに引くが、さっきの痛みの余韻はまだ続いていた。
「…大丈夫ですか前原くん! ……ひどいことを…!」
「くっそ……、……いて……てて………。」
「ちょっと肩を揉んだだけじゃないですか。んっふっふ! 前原さんも少し大袈裟過ぎですよ? 男の子はもう少し我慢強くなくちゃ。んっふっふっふ!」
何か言い返してやりたいが、……売り言葉は何も思いつかなかった。
「…肩は上がりますか? 痛みますか? ……痛みが強いようならちゃんと診察をした方がいい。とにかく保健室へ…!」
監督は俺に寄り添い、肩を貸してくれた。
「大袈裟ですねぇ。…私に限って、傷が残るようなマネをするわけがないじゃないですかぁ。ねぇ?
私、これでも現職の警察官なんですよ? んっふっふっふ…!」
「さぁ、どんな御用があったか存じませんが、もう御用がないならお帰りを! ……今日のことは今度、署長さんに直接抗議しますからそのつもりでいて下さい。」
「それは困りますねぇ。…んっふっふっふっふ…!」
大石は茶化したように手を振ると、くるっと身をひるがえし、校門に停めてあった車へ向かっていく。
…そして振り返りもせず車に乗り、エンジンをかけていた。
…………くそ……。
あいつ、……何者だよ…、畜生…!
「あいつは大石蔵人という刑事です。……乱暴者でね。村中に嫌われている男です。前原さんも用心した方がいい。」
………大石、蔵人……。
やっぱり、…俺の勘は間違ってなんかなかった…。
あいつが運んでくるんだ。
…不幸とか不吉とか、…そういう、平穏を乱す何かを…!
くそ……認めてたまるかよ…!
昨日までの楽しい日が……あいつが現れただけで、終わってしまったなんて。
……認めて………たまるかよ……ッ!!
■保健室
監督は学校の中を知っているようで、迷うことなく俺を保健室まで連れて行ってくれた。
クラスの女子も心配そうに付いてくる。
その騒ぎに気付いて、先生と校長先生が何事かとやって来た。
「前原くん…! どうしたんですか?! 怪我でも…!」
「えっとえっと!! 前原さんさっき校庭で変なおじさんに…!」
女子たちがそう訴えようとするのを監督がやんわりと遮る。
「……いえ。ちょっと転んでひねったみたいです。大丈夫とは思いますけど、念のためと思いましてね。保健室をちょっとお借りいたします。」
「…む。入江先生、よろしくお願いしますぞ。」
校長先生が深々とお辞儀する…。
監督は学校の先生たちとも面識があるようだった。
保健室をガラリと開けても、別に保健の先生はいなかった。
…そりゃそうだ。
知恵先生と校長先生以外の先生を見たことはないからな。
監督は保健の先生がいないのを別に気にもせず、ずかずかと保健室に踏み込んでいった。
俺に座るように言うと、流しで手を洗い始める。
……あぁ、そうか。
この人は少年野球の監督だもんな。
多少の怪我の応急手当なら慣れてるはずなんだ。
「ちょっと患部を見せてもらえますか? …まだ痛みます?」
「いえ…もう、全然痛みません。…本当に大丈夫です。」
シャツをまくり上げて肩を見てみる。…あざどころか、爪の跡すらない。
あの時は、肩を握りつぶされるんじゃないかと思うくらいに痛かったのに。
…痛みまでも嘘の様に引いていた。
「…あんなに痛かったのに、あざひとつないないんて…。」
「それだけあいつが慣れている、ということですよ。」
………あいつ、か…。
「今度会った時は挑発しないことです。あいつを怒らせて得をすることは何もありませんからね。……自宅に制服警官を連れて押しかけてきたら、ご家族だっていい気持ちはしないでしょう…?」
「………それは…確かに…。」
「しかし…。何があったんです? 前原さんがあいつと喧嘩になるなんて。」
「……あいつ、……沙都子に用事があるとか言ってきて…。」
「え? 沙都子ちゃんに…ですか?」
……監督は目線を落し、少し表情を曇らせた。
何だかその仕種が、
「大石が沙都子のところへ来るべくして来た」と言っているように見え、…少し面白くない。
「………………………………。」
監督は考え込むように無言。
…ただ黙って、救急箱から湿布を取り出し貼り付けてくれた。
「…………………………。」
「……あの男はまだ沙都子ちゃんに付きまとうつもりなんでしょうか。…本当に蛇みたいにしつこい男です。」
独り事のように、監督はぽつりとそうもらした。
「…付きまとう? …あの大石っていうヤツ、度々沙都子のところへ来てるんですか?」
「……………………。」
監督は答えなかったが、否定しないことがそのまま答えとなった。
……警察(多分、刑事か何かだろう…)が一体、沙都子に何の用があって?
あの、愛くるしく笑う沙都子に、刑事が付きまとうどんな咎があるって言うんだよ…?
「……前原さんは、…そうか。引越してきたばかりでしたね。」
「…え、…………えぇ。そうですけど…。」
「…………オヤシロさまの祟りと沙都子ちゃんの話は、…少しは聞いたことがありますか?」
………少しは、という意味なら一応は知っているかもしれない。
「…沙都子の両親がダム計画の賛成派で、…転落事故で死んだのは祟りだ、って話ですか…?」
監督は薄く苦笑いをしながら、ご存知でしたか…と目線を落とす。
確か家族で遊びに行った先の公園の展望台で事故が起こって、沙都子の両親は死んだ。
そして……兄と妹だけになって、…梨花ちゃんと一緒に………。……えっと…………。
「ご両親が亡くなった沙都子ちゃんとお兄さんの悟史くんは、叔父夫婦宅に身を寄せることになりました。」
「…え、………あ、そうなんですか…。」
両親が事故死して、悟史が家出して、沙都子だけが残って梨花ちゃんと二人で暮らし始めた…ってのは知ってるが、叔父夫婦に預けられたって話は始めて聞く。
「叔父というのは、沙都子ちゃんのお父さんの弟に当たる方なんですがね。……残念なことに、夫婦揃ってちょっと尊敬に値する方々ではありませんでした。」
監督は言葉遣いの丁寧な人だ。
…だから、そんな監督が「尊敬に値しない」なんて言い方をするなんて、どんな人たちなんだろうと思った…。
「…沙都子ちゃんの両親がダムに賛成していたとばっちりで、叔父夫婦も村内ではとても肩身の狭い思いをしていましたからね。沙都子ちゃんたちを歓迎するはずもなかったんです。……………沙都子ちゃんたち兄妹にとって、とても辛い生活だったと聞き及んでいます…。」
監督はぽつりぽつりと、叔父夫婦宅での沙都子たち北条兄妹の受難の数々を聞かせてくれた。
叔父夫婦は保護者となると同時に、沙都子たちの家の全財産を吸い取ってしまった。
……沙都子と悟史は、狭い部屋に押し込まれ、身も心も窮屈な生活を強いられていた。
もともと叔父夫婦は不仲でいつも喧嘩は絶えなかったという。
……その腹いせにとでも言わんばかりに、沙都子や悟史の顔を見さえすれば、いつでも難癖を付け、なじったり怒鳴ったり叩いたり、罰と称して食事を抜いたりした。
「……今思い出しても、ぞっとします。……今の元気な沙都子ちゃんしか知らないあなたには、……土気色の顔をして、ただ日陰でぼーっとしているだけの彼女など、想像もつかないでしょう…。」
……………想像もつかないし、想像したくもないのが素直な感想だった。
…でも、少なくとも今の沙都子はそうじゃない。
昔は悲惨な生活だったかもしれないが、今は違う。
……………そんな生活から変わる何かがあったのだ。
「……去年の綿流しのお祭りの夜にね、叔母が死んでしまったんです。……覚醒剤常用の異常者に、バットか何かで殴り殺されて。……綿流しの祭りの夜には、村の仇敵が祟りで死ぬと噂されてましたからね。この死も、単なる殺人事件としてだけでなく、オヤシロさまの祟りではないかと村中で囁かれました。」
その何日か後に、覚醒剤使用で逮捕されていた男が余罪として自供し事件は解決した。
……だが、事件としては解決しても、…それがオヤシロさまの祟りだったかどうかの真偽は、わからない。
「叔父だって雛見沢の人間ですからね。オヤシロさまの祟りを大層怖がり、逃げ出して雲隠れしてしまったそうです。……聞いた話では、興宮辺りの愛人宅に転がり込んでるとか。」
「……………それで、解放されたんですか? 沙都子たちは。」
「叔母は死に、叔父は逃げ出し。…誰も兄妹を苛める者はいなくなるはずだったんですが、……………まるでその後を継ぐように、あの男が執拗に現れるようになったんです。」
「……あの男?」
そこで監督は辺りを伺うように、ほんの少しだけ口調を低くした。
「大石です。」
「…………大石。………さっきの、男…。」
さっきの出来事が蘇る。
あの男から感じた、形容のしがたい不吉さが蘇る。
「……あいつは、少しおかしいんですよ。
…オヤシロさまの祟りを巡る一連の事件はみんな解決しているのに、…あいつだけがそれを認めていないんです。」
……認めない?
…警察が事件は解決したとしているのに、その警察に属しているはずの刑事が、認めない?
「……………あいつが近付く人間には必ず何か良からぬことが起こると言われています。…雛見沢ではね、大石のことをオヤシロさまの、」
「圭ちゃぁあぁああぁん!!」
ガラリと威勢のいい音を立てて扉が開き、魅音が駆け込んできた。
少し遅れてレナと梨花ちゃん、それから富田くんや岡村くんや、クラスメートたちが何人か駆け込んでくる。
「け、圭ちゃん…! 大石にやられたの?! ケガを…?!」
「落ち着いて魅音さん。怪我はありませんよ。念のため湿布をしているだけです。」
「圭一くん、本当に大丈夫かな? かな?! みんなに聞いたら、首を締め上げられてたとか言ってて…!」
「落ち着けよレナ。肩をすげぇ痛く握られただけだ。ほら、あざだってないだろ?」
「……………みぃ。」
<梨花ちゃん
「ったくッ! あんたら、何やってんだよ!! 仲間だろ?! 何でぼーっとしてたんだよ!! 何で圭ちゃんを助けなかったんだよ!!」
「ご、…ごめんなさい…委員長…。」
魅音が牙をむき出しにしながら、クラスメートたちを怒鳴りつける。
富田くんたちはシュンとうな垂れていた。
「よせよ魅音…。富田くんたちはその場にいなかったんだ。責めるのはよせ。」
「ち、……………ちっくしょう!! 大石のヤツ……!!」
魅音は不機嫌そうに床を踵で何度も蹴りつけていた。
その騒がしい様子を聞きつけ、先生までもやって来た。
「こらこらこら! 保健室で騒がしくしてはいけません! 委員長、みんなを連れて保健室から出なさい!」
「ほら、みんな! もう行こ! 圭一くんは大丈夫だって。
ほら、魅ぃちゃんも。」
感情の高ぶる魅音に代わって、レナがそう告げ、みんなを連れ保健室から出て行ってくれた…。
興宮署の刑事、大石蔵人、か……。
……結局、俺があの男に抱いた第一印象は間違っていなかった。
昨日から感じていた漠然とした不安感は沙都子の欠席によって一層増し、…大石の登場で確信に変わったと言っていい。
「さて。…じゃあ私はこれで失礼します。もともと知恵先生に用事があって来たんです。」
「……あ、…用事があって学校に来たんですよね…。俺なんかのために、どうもすみませんでした…。」
かしこまらないで下さい、と言って、監督は緩やかに笑ってくれた。
「お陰で、役得と言いますか。…前原くんのキメ細やかなお肌も存分に堪能できましたよ。
はふぅ〜〜〜…☆」
と、監督ならではのお約束な捨て台詞付きで。
「では失礼します。大した怪我ではありませんが、患部を揉んだりするようなことはくれぐれも避けてください。もしも高熱が出たり、腫れたりするようなことがあったらすぐに連絡してくださいね。そんな事はないとは思いますが。」
「…あ、……そうだ、監督。…さっきみんなが来る直前、何か言ってましたよね。大石のことをオヤシロさまの何とか、って。」
保健室を出て行こうと、扉に手をかけた監督の手が止まる。
「……あぁ、
『オヤシロさまの使い』、ですよ。もちろん悪口ですがね。」
「…オヤシロさまの、……使い?」
「……前原さんは雛見沢で毎年綿流しの夜に起こる、雛見沢村連続怪死事件…通称、「オヤシロさまの祟り」のことはご存知ですか?」
「……え、……連続怪死……? え……?」
そう言えばずいぶん前に…そんな物騒な、怪談みたいな話を魅音だかクラスメートだかに聞かされたことがあるような……。
6月のお祭りの日に必ず誰か1人が死んで、
さらに誰か1人が神隠し(この辺りでは鬼隠しと呼ぶらしい…)に遭うという、……何だかよく出来た話だった。
俺を怖がらせるための作り話だと思っていたのだが………………。
…本当の話だったのか………。
「…一体、どこの誰が言い出したのかもわからない話ですが。……いつの頃からか、大石のことを『オヤシロさまの使い』と呼ぶようになりました。」
「……なぜですか?」
「…あの男がその年の祟りの犠牲者を決めている、…と噂されているからです。」
6月が近付くと、大石が頻繁に雛見沢に訪れるようになる。
「……亡くなったり、消えたりする人たちの多くが、あの男の執拗な訪問を受けているからです。」
4年前の犠牲者と噂されるバラバラ殺人の犠牲者は事件の直前、何度も大石と接触していたことが知られている。
3年前の犠牲者である沙都子の両親。
…転落事故が起こる直前、大石が何度か自宅を訪れていたらしい。
2年前の失踪者である梨花ちゃんの母。
失踪直前にやはり、大石に過剰な接触を受けていたことが知られている。
1年前の失踪者である……沙都子の兄、悟史。
悟史もまた、失踪の直前に何度も大石の接触を受けていたとか……。
そして今年。
…その大石は、……沙都子への接触を求めてきた……?
「…………………じょ、……冗談じゃ、…ないです。」
「噂ですよ、前原さん。…そういう噂がある、というだけです。」
「……………………………。」
俺が冗談じゃないと思ったのは、…オヤシロさまの使いと噂され、その年の祟りの犠牲者に予め接触してくるという大石の噂なんかじゃない。
………俺が大石に対して感じていた不吉な嫌悪感が、ますます掻きたてられるように…裏付けられたからだ。
「あの、…………沙都子、今日、…欠席したじゃないですか。」
「え、そうなんですか?」
監督は初耳なようだった。
………ひょっとすると、沙都子が欠席した理由を知っているんじゃないかと思ったのだが、……………。
「では失礼します。前原くんも早くみんなのところに行って、安心させてあげるといいでしょう。」
「そうですね。……そうします。」
ガラリ。
…監督は保健室を出、職員室の方へ向かっていった…。
■幕間 TIPS入手
■研究ノート
<北条家について>
オヤシロさまの祟りによって、毎年2人ずつの犠牲者が出ている。
すでに4年続き、犠牲者は8人になったわけだが、その半数の人間が北条姓を持つことは特筆に価する。
※2年目の祟りである転落事故ではダム推進派であった北条氏本人が死に、その妻が失踪した。(危難失踪扱いでその翌年に死亡宣告)
4年目の祟りでは北条兄妹の養母である叔母が死に、北条氏の長男が失踪した。
北条家は貧しい家庭で、北条氏の仕事も満帆とは言い難かった。
親類の縁での再就職をあてに、母方の故郷へ引越す計画があったと言う。
そんな北条氏にとって、雛見沢ダム計画による立ち退きと高額な補償金の給付は、まさに渡りに船だったと言えるだろう。
北条氏は建設省の交渉初期から積極的に応じ、ダム推進派の雛見沢のまとめ役として抜擢された。
その過程において、建設省から金銭による買収があったと囁かれるが、真偽はわからない。
だが、ダム推進派は極めて少数だった。
しかも、園崎家が強力に地盤を固め、反ダムへの結束を強化し始めると、北条氏を除く全てのダム推進派は反ダムへ鞍替えすることになる。
この時点で雛見沢は完全に反ダムで結束し、北条家はダム計画推進の手先として槍玉に挙げられることになった。
反ダム結束の為のスケープゴートにされたと言ってもいいだろう。
結局、ダム計画は初めてのオヤシロさまの祟りである「バラバラ殺人事件」を最後に瓦解する。
だが、ダム計画に加担した仇敵への報復は今日でも続けられているのだ…。
ダム計画に加担した、もしくは当時にネガティブな評価を持つ者は今日、ほとんど残っていない。
残る祟り候補がいるとすれば、昨年の主婦撲殺事件の被害者の夫である北条鉄平。北条氏の娘の北条沙都子。
奇しくも、残る候補者は2人だ。
今年の祟りは、この2人に対して下されるのか…?
この2人を観察する価値は、十二分にある……。
■タイトル:大石席のメモ
大石さんへ。
捜査四課の重春課長からお電話がありました。
例の王子川の惨殺死体の件は、やはりS号絡みだったらしいです。
ウラはまだ確認中ですが、ホトケがS号のカネを自分が用意した数十の架空口座に上限額いっぱいまで送金して、1億くらいはイったらしいです。
背後には元S号の筋で3〜4人の男が絡んでるようです。
数千万くらいを引き出して、すでに蒸発しています。
ホトケはその辺りを聞き出すために拷問され、以後の見せしめのために惨殺されたのはほぼ間違いないとのことです。
蒸発した連中は、スゴ腕何人かに追跡させているらしいです。
あと、親交のある周辺のマル暴に匿わないよう回状を回しています。
北条鉄平がその一味のひとりであるというウラは未だ取れていません。
重春課長の見たところでは、何も知らされていないみたいです。
ヒモのくせに信用されてなかったってことですかね。
北条鉄平は興宮のアパートを出て、雛見沢の元の家に戻った様子です。
■8日目(木)
「…北条さんは今日もお休みですか? 古手さんは何か知ってますか?」
先生の口調には責める様子はないが、…うな垂れて答えられない梨花ちゃんがとても気の毒だった…。
先生が梨花ちゃんを呼び、教壇の前で小声でやりとりをしている。
梨花ちゃんは当初、沙都子は風邪をこじらせたと言っていたが、クラス中がそれが嘘であることを知っていた。
…なぜなら、…梨花ちゃんは毎日、沙都子の分の弁当も持ってきていたからだ。
「……沙都子ちゃん、……どうしちゃったんだろうね。」
「俺が知るかよ…。」
……一番知りたいのは…他でもない、俺なのに。
沙都子が欠席して、これでもう3日目になる。
俺はあの日からずっと、…心が晴れないままだ。
つい先日の日曜日まで、あんなにも楽しく過していたのに……。
沙都子と、実の兄妹のように心を通わせて…静かだけれど温かい、ゆったりとした時間を過ごしていたのに。
…なぜ、こうもひっくり返すように、…突然…?
そう思えば思うほど。
……大石が現れてから世界が暗転してしまったようにしか思えなかった。
今思えば…大石が現れる前の晩の、妙な胸騒ぎはそれを虫が知らせてくれていたのかもしれない…。
…大石蔵人、…オヤシロさまの使い、…か…。
「……くそ、そんなことあるもんか…。あいつが現れたから、沙都子が今年の祟りに遭う役だなんて、決められてたまるかよ…。」
あの楽しかった時間が突然終わりを迎えてしまったことに、…俺に一体、何の落ち度があったというのだろう?
…確かに、大石が現れる前日。
詩音や魅音、レナに悟史を巡る祟りだか失踪の話をし、その不吉さに嫌な予感がした。
……その程度のことが落ち度になり、…オヤシロさまの使いの到来を招いた…?
馬鹿馬鹿しい。
…そんなこと、絶対に認められなくて…何度も何度も心の中で呻く…。
そんな鬱積は何も俺だけじゃない。
……魅音だってレナだって。クラスメートみんなだってそうだった。
梨花ちゃんは沙都子の事情を何か知っている。…でも、話そうとしてくれない。
……梨花ちゃんは日向ぼっこの猫のようなおっとりした雰囲気を持っているが、…こうと決めたことは、信じられないくらいガンコに曲げない性格らしい。
梨花ちゃんが言おうとしないことを、俺たちが何度問い詰めたって答えるわけがない。
…それをみんなわかっていたから、…梨花ちゃんを問い詰めるようなことは誰もしなかった。
「…梨花ちゃんが言わないならさ、言うまで待つしかないよね。逆に、言わないってことは、言う必要もない程度のことかもしれないし。」
<レナ
どこか不安そうな顔では、そんな元気付けの言葉にもまるで説得力はない。
「…………………………………。」
魅音はむっつりと黙りこみ、…どことなく不機嫌そうに空を見上げるのみだ。
…梨花ちゃんが、仲間であるはずの自分に話してくれないのが不愉快なのか。
…沙都子の安否がわからないから不安なのか、どちらなのかはわからない。
…俺はどうなんだろう。
……不安で息が詰まりそうな日々を送っている。
それを他人が見たら、……やはり魅音のように、不機嫌に見えるのだろうか…。
………トントン。
……誰かが俺の肩を叩く。
富田くんと岡村くんだった。
「…前原さん。ちょっといいですか?」
「またボールが引っ掛かったか? 今度はお前たちで何とかしてみろよ。いつまでも先輩に頼るのはよくないぜ…。」
後輩たちの遊びに付き合う気になれなくて、つれない言葉を返してしまう。
「………ちょっと気になる噂を聞いたんすよ。」
「……噂?」
「…はい。…ひょっとすると、……関係があるかもと思って…。」
噂…。
……沙都子の、とは一言も言っていないが、無関係な話とは思えない。
教室で話したくないので、と校舎裏に誘われ、ますますその確信を強める…。
■校舎裏にて…
相変わらずじめじめとした校舎裏だった。
…あまり生徒が好きこのんでやって来る所ではない。
もっとも、人目を避けての噂話には、これほどうってつけの場所はないかもしれない。
「……富田くん、岡村くん。…その噂話って、もちろん沙都子の欠席と関係のある話なんだろうな…?」
「関係があるかはわからないですけど……、…あるいは………。」
「…沙都子は一体、どうしたってんだ? 風邪なのか? それともひょっとして…もっと重い病気か、怪我か何かで…。」
「いえ、……それが、……むしろ逆で…。」
「うちのばあちゃんの話だと、……昨日の昼に、うちの店に豆腐を買いに来たらしいです。」
あ、富田の家は豆腐屋さんなんです、と岡村くんが付け加える。
「…………豆腐屋に、……買い物ぉ……?」
自分でもわかるくらいに間抜けな声を出してしまう。
…無理もない。
…どんな重病、もしくは大怪我で…なんて心配していたら、当の本人は涼やかに豆腐屋で買い物をしていたというのだから。
「で、……沙都子はどうだったんだよ。元気そうだったのか? それとも病み上がりでマスクでもしてたとか…。松葉杖で包帯だらけだったとか……、」
「いえ、…別に、…病気とか怪我とか、そういうわけじゃなかったらしいですが…。」
病気でもなく、怪我でもないなら、俺は胸を撫で下ろしてもいいはずだ。
…だが、胸の中の不安は消せずにいた。
……富田くんたちの表情が晴れないからだ。
「絹ごし豆腐を一丁買って行ったそうなんですが、……ばあちゃんが言うには、おかしいと…。」
「おかしい? なぜ。絹ごし豆腐を買って何が悪い。」
遠回しな言い方にいらつき、つい不機嫌な声になってしまうのを必死に抑える。
「北条と古手ってほら、二人暮しで、そんなにお金持ちってわけじゃないですよね。…だから二人はいつも安い木綿豆腐しか買わないんです。…一番高い絹ごし豆腐なんか買ったことないんです。」
「………木綿だって絹ごしだって、どっちも豆腐だろ。たまにはうまい豆腐が食いたくなっただけかもしれないじゃないか。」
「そ、……それは……そうですけど…………。」
…自分でも、何て白々しいことを言ってるかわかってる。
………これは下らないことでなく、何かの重要な手掛かりだ。
安い木綿豆腐でなく、高い絹ごし豆腐を。
…学校帰りの夕方でなく、真昼間に買い物を。
………それらが何を意味するのか、なかなか出てこない。
俺がじっと考え込むと、今度は岡村くんが口を開いた。
「…次は僕っすね。………これも噂なんですけど、……帰ってきたらしいんですよ。」
「帰ってきた? 何が。誰が。」
「………………北条の、
……叔父さんが。」
沙都子の叔父。
……そうだ、監督に聞いた気がする。
…沙都子たち兄妹が事故で両親を失い、身を寄せたのが叔父夫婦の家…。
「去年のオヤシロさまの祟りで、怖くなって町に逃げたって言う…、北条の叔父さんです。………こいつ、ヤクザみたいな怖くて乱暴なヤツで…。」
監督に聞いた話が…次々と思い出される。
…そうだ。
沙都子たちをさんざん苛めていたという、意地悪な叔父夫婦。
…叔母が異常者に撲殺された後、祟りを恐れ、興宮の町の愛人宅に逃げ込んだ…なんて聞いたような気がする。
「…そいつが帰ってくると、どうして沙都子が学校を休んで、真昼間に絹ごし豆腐を買うはめになるんだ?」
「………………………………。」
後輩たちは黙り込んで下を向いてしまう。
………でも大きなヒントが隠されていることはわかった。
…俺にはわからなくても、今の話を魅音かレナに話せば、ひょっとすると何かわかるのかもしれない…。
「あ、…ごめんな二人とも。…せっかく好意で話を聞かせてくれたのに、何だか問い詰めるような言い方になっちゃって…。」
「あ、…いえ、いいんすよ…。」
「北条が重病で寝たきりになってないことがわかっただけでも、ほら。儲けもんじゃないですか。」
……それもそうかもしれない。
……でも、……晴れない。
心の黒雲が、…晴れない。
「あッ!! ま、前原さん、ほらあれッ!!」
岡村くんが素っ頓狂な声をあげ、俺の肩越しに後ろを指差す。
ぎょっとして振り返ると、その先……校庭のずっと先の反対側…校門のところに、とぼとぼと歩く人影を見つけた。
…………あッ!!!
「北条だ…ッ!!」
声を出すよりも早く、俺は駆け出す。
…沙都子の無事を一秒でも早く、目の前で確認するために。
「さ、…………沙都子ぉぉおぉー!!!」
叫びながら走り寄ってくる俺に、沙都子は面食らったようだった。
「ま! まぁ何ですの圭一さん…! 突然大声を出して走ってくるから、何事かと驚きましたわ…!」
「馬鹿、俺のことなんかどうでもいいだろ!! それより、どうしたってんだよ沙都子、三日間も!! 俺、心配で心配で……!!!」
「をっほっほっほ…! 心配性ですわねぇ。たかだか3日ですわよ? もう、圭一さんは心配性なんですから…。」
それだけを聞くと、…いつもの沙都子のようだったが、明らかに様子はおかしかった。
笑顔はどことなく頼りなく、……何となく血色も悪い。
「北条…!」「大丈夫だったかよ?! 風邪とかじゃないのか…??」
富田くんも岡村くんも、めいめいに心配していたことを伝える。
「一体…どうしたってんだよ…!! 3日も! 俺がどれだけ心配してたか…!!」
「ごめんあそばせですわ。ちょっとお家のお掃除をしたりしてたんですのよ。だいぶ長いこと使ってませんでしたから、もう家中ホコリだらけでして…。」
「……はぁ? …沙都子、お前、何を言ってんだ? 何で家の掃除なんかで学校を休まなきゃなんないんだ。」
沙都子はそれには答えず、俺の脇を抜けて昇降口を目指した。
「もう。今はお弁当の時間ではありませんの? 私はお腹が空いていますのよ。」
…確かに今は昼休みだ。
お腹が空いたから弁当を食べたいと言われれば、無理に引き止めることなんかできない。
「…まぁいいや! 梨花ちゃんは3日間、毎日お前の弁当を持ってきてくれてるんだぜ?! 今日はちゃんと食べてやれそうだな。とにかく早く教室へ行こう! みんなを安心させてやろうぜ!」
「そうですわね。…皆さんにご心配をおかけしてしまったかもしれませんわね。
…をっほっほ。人気者は辛いでございますわ。」
沙都子の肩を叩き、共に教室を目指して走る。
……間近で見る沙都子はやはりどこか弱々しかった。
……沙都子の姿を再び見れば、胸の中の不安は全て拭い去れるはず…。
そう思っていたのに。
……………………………むしろ、新たな不安が湧き上がる。
一体、…何があったんだよ、沙都子……?
■欠席の真相
教室中の反応は、もちろん俺が示したものとまったく同じだった。
心配したぞ、元気で安心した、三日間も何をしてたんだ?
クラスメートたちは次々にそれを浴びせかけた。
「本当にご迷惑をおかけしましたわね…! をっほっほっほ!!」
そうカラカラと笑いながら、梨花ちゃんの用意してくれた弁当をがっついている。
沙都子がやって来たことは職員室にも伝えられたらしく、先生が息を切らせながら教室に飛び込んできた。
「北条さん!!」
「あら先生。三日間もご心配をおかけしましたわねぇ! をっほっほ! ご覧の通り、元気でぴんぴんしてますわ。」
「……もう、…本当に心配してたんですからね! お弁当が食べ終わったら職員室に来るんですよ。いろいろとお話があります。」
「三日もさぼったからきっと大目玉に違いありませんわね、をっほっほ…!」
沙都子が照れ隠しのように笑って頭を掻いて見せると、クラス中が弾けるように大笑いをした。
怒るような仕草をしていた先生だが、クラス中に囲まれ、元気そうに笑いながら弁当を頬張る様子に、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「…………でも安心したよな、レナ。」
「え? …………あ、ごめん。うん、無事でよかったよね。」
……レナの様子を見て確信する。
…レナもまた、沙都子の様子に違和感を感じているのだ。
見れば、魅音もまた喧騒を離れ、どこか険しい表情をしている。
……だが梨花ちゃんは逆で、飛び切りの笑顔。
沙都子の求めるがままに次々と弁当箱を広げていた…。
やがて沙都子は満腹し、クラスメートとの会話を存分に楽しんだ後、職員室に呼ばれていたことを思い出した。
「…面倒くさいんですけど、行かないともっと怒られてしまいそうですからね。」
「……ボクも一緒に行きますですよ。」
沙都子が席を立つと、梨花ちゃんもツツツ…と付き添う。
「ごめんあそばせ圭一さん。ちょっと怒られてまいりますわ。」
「お、おぅ。…何だったら俺も一緒に付き合うぜ? 例のカレーの悪口の時、一緒に職員室で怒られた仲じゃねぇか。」
「……それには及ばないのです。…圭一はここでお留守番なのですよ。」
梨花ちゃんの言葉はやさしいが、瞳にはきっぱりとした拒絶の意思が浮かんでいた。
二人は肩を寄せ合いながら、廊下へ出て行った…。
それを見届けると、クラス中はほっと安心したのか、散り散りになり、いつもの昼休みの様子に戻って行った。
だが、俺たちだけはいつもの様子には戻れなかった。
「…………………………………。」
俺も魅音も、もちろんレナも。
…少し遠くて険しい眼差しで沙都子たちが出て行った教室の出入り口をじっと見ていた。
「…………俺たちは仲間だ。…そうだろみんな。」
俺が突然妙なことを言い出したので、魅音もレナも怪訝そうな顔をして振り返った。
「俺は仲間に隠し事はしない。だからさっき聞いたばかりの事を言う。」
さっき校舎裏で富田くんたちに聞いた、豆腐屋での話と沙都子の叔父が帰ってきたらしい話を聞かせた。二人の相槌など待たず、一方的に。
「…これが俺の知る全てだ。だから魅音もレナも、知っていることがあるなら話してくれ。…俺は俺の知る全てを話したぞ。」
語尾を強め、魅音とレナの目を交互に見据える…。
レナもまたじっと俺の目を見据える。
…瞳の奥に震えは一切ない。
口を開かずとも、何も隠し事がないことがわかる。
……そして二人の視線は、続いて魅音に向けられた。
「…………別に、…私は隠して黙ってるわけじゃないよ。」
魅音は、そんな無言の視線には耐えられないらしく、…やましいことでもあるかのように、おずおずと切り出した。
「………でも、……圭ちゃんが話したなら…私も話さないわけには行かないよね…。」
「…魅ぃちゃん、…何か知ってるの?」
「……いや、その、……沙都子の叔父が帰ってきたっての、帰ってきた初日から知ってたよ…。この間の日曜日に……ふらっと、雛見沢に帰ってきたって……、」
「…どうしてそれを黙ってたッ?!」
「ッ!! ………ごご、……ごめん………。」
俺が怒鳴りつけると、魅音がびくっと跳ねてから視線を落とし…居心地が悪いように俯いてしまった…。
「圭一くん、怒るようなことじゃないよ。魅ぃちゃん怖がってる。」
「え、…………ぁ、…ごめん、つい大声を……。」
…謝罪の意味で頭を下げる。
…魅音はそれを認めると気を取り直して先を続けてくれた。
それによると、……興宮で身を寄せていた叔父の愛人が蒸発してしまい、…行くあてがなくて雛見沢の自宅に帰ってきたのだと言う。
………そして、…あのバーベキューの日曜日。
……その叔父と沙都子が鉢合せしてしまい、…………自宅に連れ戻された、というのだ。
「……自宅に、…何で連れ戻すんだよ…?」
「ろくでなしの寄生虫だからね。…自分ひとりじゃ炊事は愚か、掃除ひとつできないし。」
「そ……そんな…、炊事やお掃除のために…沙都子ちゃんを連れ戻したって言うの?!」
さっき校門で沙都子に会ったとき…家の掃除をしていた…なんて言っていたことを思い出す。
………その途端に、…疑問のピースが合わさり、…不安のジグゾーパズルが組みあがった。
……そのジグソーに、…どんな絵が描かれているのか、遠目に見た時。
……その答えがはっきりとする…。
「……沙都子が家に閉じ込められて、
…いじめられながら家事をやらされてる……、っていう、……噂なんだよ…。」
そんな大事なことを知っててなぜ黙ってた?!
…そう怒鳴りつけそうになって、慌てて自らの口を抑える…。
「み、魅ぃちゃん、それ……………本当なの?!」
「私がこの眼で確かめたわけじゃないから、…本当かどうかは知らないけど………。」
魅音は再び視線を落とし…床を見ながら黙り込んでしまった。
「………去年みたいに? 意地悪な叔父さん夫婦のところで暮らしてた時みたいに…?」
「…………………………………………。」
「………でもさ、…その叔父さんって、家事はからっきしなんだろ? …沙都子が重宝なわけだから、何もいじめてるってわけじゃないかもしれないだろ…?」
「…圭一くん、何を根拠に言ってるのか知らないけど。いい加減なことは言わない方がいいよ。」
レナにはっきりと、直接的に怒られる。
……よく知りもしないくせに、見てきたようなことを言うな。そう、はっきりと心に伝わってきた…。
「…じゃ、…じゃあレナは………知ってるのかよ………?」
「……私だって知らないよ。今ここで聞くまで、沙都子ちゃんが叔父さんの家に連れ戻されたなんて知らなかったもの。……でもね。……一年前とはまるで状況が違うの。」
「……状況が違うって、……どういうことだよ。」
「悟史くんがいない。」
「……………悟史は……すごく妹思いのいい兄だったんだよ。…いつも沙都子をかばってた。……意地悪な叔父叔母のとばっちりが少しでも沙都子に被らないように、…盾になってくれてた。」
「……家には、意地悪な叔父さんと沙都子ちゃんが二人きりなんだよ。……それがどれだけ息詰まるものか、圭一くんにだって想像がつくんじゃないかな?
雛見沢に帰ってきた理由だって、身を寄せてた愛人が蒸発したからでしょ? ………そんな不愉快な理由で帰ってきた人が、どうして沙都子ちゃんにやさしくできるって言うの?」
…確かに、……沙都子が苛められてないなんて安易に想像できるものじゃない。
「………………う、……ごめん……………。」
「……あ、………こっちこそごめん。
…問い詰めるような口調になっちゃったね、はぅ〜!」
気まずい空気が流れる。
………俺たちは3人して黙り込み、…床をじっと見るだけだ…。
やがて校長先生の振る振鈴の音が聞こえてきた。
先生が沙都子と梨花ちゃんを連れて帰ってくる。
「さぁさぁ午後の授業を始めますよ! 委員長、号令!」
「きりーーーーーーーーつ!!」
「をほほほ…、ごめんなさいねぇ。失礼失礼…。」
沙都子の照れ隠しのような曖昧な表情からは何も読み取ることはできない。
……でも、その後ろにいる梨花ちゃんの曇った表情を見る限り、……今、魅音に聞かされた不穏な話を笑い飛ばすことはとても難しかった……。
■放課後…
「よぅし!! 久々に全メンバーが揃ったからねぇ!! 久しぶりにぱーっと大部活で盛り上がろうじゃないのぉ!!」
おぉう上等だぜ!!
やはり…こういう時は思いっきり部活の暗闘でもみくちゃになって大盛り上がりするのが一番に決まってるじゃないか!!
「えへへへへ! 望むところだよ〜! ね、沙都子ちゃん! やろやろ!」
「沙都子が好きだったゲームあるでしょ、ほら何だったっけ…。何でも構わないよ! 言ってみ? 言ってみ〜!!」
魅音は上機嫌そうに笑いながら、部活ロッカーから様々なゲームを取り出して机の上に並べ始める。
魅音が部活のゲームを決めさせてくれるなんて、初めてのことじゃないだろうか。
……沙都子に気を遣ってるのがよくわかった。
…どんな事情があるにせよ、とにかくみんなで楽しい時間を過ごせれば…それが何かの慰めになるかもしれないと思いながら…。
沙都子にもその気持ちは伝わっているらしく、……曖昧ながらも嬉しそうに笑っていた。
……だが、…首を緩く横に振る。
「ありがたいですけど………お気持ちだけで結構ですわ。……いろいろ、…しなければならないことがありますので…。」
……梨花ちゃんまでもが、申し訳ないという表情で頭を下げた。
「おいおいおいおいおい、本気なわけぇ?! 部活メンバーが久しぶりに揃ったってのにお流れになっちゃうわけぇ?! 敵前逃亡は罰ゲームってのはえぇと会則第何条だったっけぇ?!」
「……やめなよ魅ぃちゃん。…無理に付き合わせちゃだめだよ。」
「…別におじさんは無理強いしてるわけじゃないよ…! ただ、大盛り上がりした方が絶対に楽しいと思って……!」
「…本当にお気持ちだけで嬉しいんですのよ。…ご安心なさいませ、次に戦う時は、みなさんまとめてでーっかいワナにはめてご覧に入れますわ! …をーっほっほっほ!」
沙都子は憎まれ口を叩きながらも、部活に参加できないことを謝ると…手早く荷物をカバンに詰め、ぱたぱたと廊下へ消えていった…。
本当にあっという間だった。
「…………………沙都子…。」
梨花ちゃんは、部活に混じることも出来ずに家路を急ぐ親友を、寂しそうに見送っていた…。
シンと静まる教室。
………校庭の、クラスメートたちの賑やかな声とセミの声が、どこか遠くの世界から聞こえてくるかのようだ。
「……………ちぇ。……つまんないの。」
…静寂を魅音が悪態で破り、机の上にいくつも並べたゲームをロッカーにしまい始める。
……みんなも、ただぼーっと、沙都子のいなくなった空席を見つめるだけだった。
「…梨花ちゃん。そろそろ話してくれてもいいんじゃないかな。」
「…………………………。」
レナは努めてやさしい笑顔をたたえながら、そっと梨花ちゃんに言った。
……今さら梨花ちゃんの口から聞かなくても、もうおおよその状況はわかっている。
沙都子の叔父が、愛人の蒸発を機に雛見沢に帰ってきた。
……そして沙都子を自宅に連れ戻し、家事全般を強いている…。
……そしてそれは、相当辛いことに間違いない。
だから、俺はそんな部分は全員の周知のことと思い、端折ってから言った。
「……………だいぶ、ひどいのか…?」
…魅音もレナも、…聞きたいことは同じだったのかもしれない。
…誰も口を挟まず、ただじっと梨花ちゃんの返事を待った。
「…………………………………。」
梨花ちゃんはそれでも答えない。
…………否定の言葉が欲しい俺たちにとって、…それもまた苦々しい返答だった。
「……………去年、だっけ? 叔父夫婦のもとにいた時もこんな状況だったんだろ?」
「…うん。あの時は、夫婦喧嘩のとばっちりみたいなのがほとんどだったからさ。……こうして部活で時間をつぶして家にいる時間を極力減らすのもひとつの手だったんだけど…。」
「………今は家事を強制されてるから、…学校に残ることもできないんだね。」
…くそ……。
沙都子は奴隷じゃないんだぞ…!
てめぇの生活能力欠落を棚に上げて、沙都子を軟禁同然にして家事をやらせるなんて…何様のつもりなんだよ…!
「…常識的に考えて、こんなのおかしいんじゃねぇのか? いろいろと状況証拠は必要だろうけど、こういうのって虐待だろ? 警察とかに通報できないのかよ?」
「………そうだよね。…体罰の証拠とかがあれば、警察に通報できると思うよ。…あるいはそういうのって、地域の民生委員さんとかに相談できないの?」
俺とレナが安易に警察警察と口にすると、魅音は少し小馬鹿にするように言った。
「…みんな簡単に言ってくれるけどさ。それを立証するリスクを考えたことある?」
「リスクって…何だよ。」
「……おととしの冬かな。…通報したんだよ。児童相談所に。虐待があるからすぐに何とかしてくれって。」
「え、…そうだったんだ。……それで?」
「電話してすぐにお役所の人が来てくれたよ。…んで、沙都子とか悟史とかに事情聴取してた。ついでに叔父夫婦のところにもね。」
「……沙都子と悟史に聞くまではいいが、……叔父夫婦にまで聞くのはマズイんじゃないのか…?」
「両者の意見を聞いて総合的に判断するんだとさ。ご立派ご立派。」
「……で、…結果はどうだったの?」
「様子見。」
「……様子見って、……何だよそれ!!」
「おじさん、とっても勉強になっちゃったんだけどさ。法律ではね、暴行か育児放棄が認められなきゃ虐待とは言わないんだってさー。…沙都子も悟史も、よく小突かれてたらしいけど、別に傷痕が残るようなレベルじゃなかったし。三食のメシも一応食えてたし、寝床もあったし。心理的外傷を与える言動ったって、別にカセットテープで証拠があったわけじゃないし。…実際、村の人たちだって、実際に乱暴してる現場は見たことないからね。……いくら意地悪だからって、人前で乱暴はしないでしょ。誰だって。」
「で、…その後どうなったの…?」
「しばらくは毎週決まった日に民生委員さんが訪問してたみたい。叔父夫婦も、自分たちが見張られてることを気にして、目立ついじめはしなくなったらしいけど。………それで済む訳ないでしょ…普通。」
「…………より陰湿ないじめ方に加速していった…ってことだね…?」
魅音はため息混じりに頷く。
「……叔母のヤツが特にねちっこくてさ。…女特有の陰湿さって言うのかな。………相当嫌らしいことをしてたらしいよ。………沙都子、…最後の方は呼吸するだけのボロ人形みたいだった…。」
…ってことは何だ。
……最終的に考えれば…児童相談所に相談しなかった方が良かったってことになるのか……?
「………わかった? 誰の眼にも明らかな虐待の証拠がなかったらお手上げなんだよ。…むしろ状況を悪化させかねない。
………あれは……失敗だった…。」
…一番頼りになると思っていた公的機関に望みがないことを聞かされ…、皆うな垂れる…。
「…つまり、……誰の眼にも明らかな虐待の証拠が見つかるまで、通報すべきでないって事なんだね?」
「………ん。…まぁ、その………。……そういうこと。」
今の沙都子の状況を考える。
自宅に連れ戻された。
………これは、……ちょっと虐待とは言い難いかもしれないな。
いじめられながら家事を強要されている。
……この、いじめの内容がカギだが、……具体的な証拠がなければ立証は困難だ。
…あからさまな外傷でもあればいいのだが…。
…今日ちょっと見た限りではそんなものは見受けられなかった。
家事を強要されている、という件も少々弱い…。
もっと、誰が見ても間違いなく虐待だと断言できるような証拠がいる。
…そうだ。
……叔父は丸一年は沙都子の存在を無視して町の愛人宅で生活してきた。
…これはさっき魅音が言った虐待の定義のひとつ、「育児放棄」に当たるのではないだろうか?
「…うん。……それは立派な育児放棄だね。…どうなの魅ぃちゃん?!」
「う、……ぅぅん。…叔父が今もいなければ育児放棄は認定されそうだけど…。…今この瞬間は同居してるわけでしょ? 今までは別居だったけど、心を入れ替えて同居することにした…なんて言われたら、また「様子見」なんてことになりかねないよ?!」
……通報した以上、絶対に虐待だと認定されなければならない。
……去年の轍を踏まないためにも…、もっともっと確実な証拠が必要かもしれない……。
「……何だか…悲しい。…ということはつまり……、沙都子ちゃんが乱暴されて大きな傷が残るまで、黙って見てろ…ってことなんだよね…?」
「………………ぅ…。」
……自分の慎重策が、結局はただの様子見。
…かえって事態を悪化させた役人と同じ「様子見」であることに気付かされ……愕然とする……。
確かに、…公的機関に通報するのは魅音の言うとおり、ギャンブルだ。
勝負する以上、絶対に負けは許されない。
…でも、賭けるコイン…証拠が充分でなければ敗北は必至。
……でも確実な量のコインを積むのに時間をかければ…、
それは相当の期間、沙都子の災難を見て見ぬフリすることを意味してしまう……。
「…………こんな所で話を振ってごめんな。……梨花ちゃんはどうして一人暮らしが出来るんだ…?」
「…………。」
<梨花ちゃん」
梨花ちゃんは確か両親を失ってる。
…話では親類もいないらしい。
その結果、たった一人での生活を余儀なくされているわけだが、…その生活は誰にも束縛されてはいない。
……その自由を、何とか沙都子にも与えられれば…。
「…ほら、梨花ちゃんって、…両親いないのに生活してるだろ? ……保護者のいない子供って、……孤児院みたいなところに入れられちゃうんじゃないっけ…?」
「…………圭一くん……、それ……ひどい…。」
「…悪口で言ってるんじゃねぇよ。…そこに沙都子を救うヒントがあるかもしれないと思って聞いてみただけなんだ。…梨花ちゃん、気分を害したなら、ごめんな。」
梨花ちゃんは、別に気にしませんと首を横に振ってくれた。
「……それはですね、ボクは…。…実は村長さん家の子供になっているからなのです。」
「補足がいるね。…村長の、公由のおじいちゃんが梨花ちゃんの保護者なんだよ。ちゃんと県知事の許可を得た正式な。」
「へー…。養子みたいなものか?」
「養子とは違う。別に籍を入れなくても保護者にはなれるんだよ。」
「……あ、わかってきた。…つまり、梨花ちゃんは普通に暮らしてるけど、法律の上では村長さんの家に住んでることになってるんだね…?」
「まぁそんなとこ。そのお陰で梨花ちゃんは孤児院送りを免れてるってわけ。…孤児院って言うか、児童擁護院のことだけど。」
「……みー。難しいことはよくわかりませんが、…つまりはそういうことなのです。」
「魅音、今、興味深いことを言ったな。…籍が違っても保護者になれるみたいなことを言ったよな。……じゃあ、形だけでも村長さんとかが沙都子の保護者になってくれればいいんじゃないのか?!」
そうすれば…立場は梨花ちゃんと同じだ。
…また梨花ちゃんと二人での元の生活に戻れる…!
「とーころがそうは行かないの! …だって、叔父だって保護者のつもりなんだもん。」
「……ちょっと待て。わけがわからなくなったぞ。…そもそも保護者って何だ。」
法律上、保護者と親は必ずしも同義語ではない。
つまり、…実際に生活の面倒を見ている人間が保護者と定義されるわけだ。
「…なら叔父は保護者じゃないな。ずっと沙都子をほったらかしにしてた!」
「でも保護者だと主張されたらそれまでだよ?
沙都子が連れ戻されてから数日。その間の食事代は叔父の財布から出てるよね?
一応、面倒を見てると主張できなくもない。それに、一年間、沙都子をほったらかしたとは言え、最初の一年間は生活の面倒を見た実績がある。でも村長にはその実績はない。」
「……意地悪な叔父さんと村長さんが、同時に保護者を主張したら……叔父さんの方が強いってこと…?」
「その可能性が高いってこと! …それに、保護者ってのは実際に面倒を見てる人を指すんだよ? 実際に寝床や食事を握ってる叔父と、名義だけ貸そうとしてる村長じゃどうにもならない。」
「じゃあ…村長が実際に生活の面倒を見ればいいじゃないか! そうすれば名実共に村長が保護者になれるんだろ?!」
沙都子をかくまってやればいいだよ!
そりゃ、叔父が連れ戻そうと躍起になるかもしれないけど、そこは頑としてはねつけるんだよ!!
「そんな簡単には行かないよ?! 沙都子は育ち盛りの女の子なんだよ? 人間ひとりの面倒を見てくださいなんて、猫の子預けるのとは訳が違う!!」
「じゃあ監督!! 監督はどうだよ?! 監督って…よくは知らないけど、裕福なんだろ? 自分で言ってたくらいなんだし! 本当の親でなくても保護者になれるなら……監督でも可能なんだ!! 監督なら…沙都子の面倒を立派に見てくれる気がする!」
「だから!! 沙都子をペットみたいに考えないでって! 圭ちゃんはさっきから沙都子を誰かに押し付ける話ばっかり! 人間ひとりの生活の面倒を見る責任ってものをもっと慎重に考えて!! 監督に聞いたの?! 沙都子を引き取って面倒を見るって、ちゃんと確約を得たわけぇ?!」
「…そ、そんなの得てないよ。…でも、監督なら絶対にOKするだろ…!」
「はん! まぁいいよ? 百歩譲って監督がOKしたとするよ? でも駄目なんだよ!! 保護者は独身じゃ駄目なんだよ!!」
…………………あ……………ッ!
そうだ…。
監督、…自分で言ってたじゃないか。
…独身だから…駄目だって…!!
く、…くそ!! 何なんだよ一体!!
独身であることが社会的にそんなに不利なのかよ?!
……じゃあじゃあ……結婚してて裕福な家庭しかないじゃないかッ!
「……雛見沢にそんなお金持ちはいるのかな…。…難しそう…。」
「ね? 簡単じゃないんだよ!! 人間ひとり引き取るってのは!! 誰かに押し付けようなんて短絡的な考えがそもそも駄目なの!! 考えが浅いんだよ圭ちゃんは!!」
「何なんだよ畜生畜生ッ!! 俺は必死に沙都子を救おうと考えてるのに駄目だ駄目だってそればっかりッ!! お前ら、本当は沙都子のことなんかどうでもいいんだろ?! 仲間のこと、本気で心配してないんだろッ?! どうなんだよ!!」
「そんな…! ……そんなつもり……ないよ!! でも、…そう簡単には行かないって言うか…!!」
「そんな難しい話じゃねぇだろ! 裕福なヤツが沙都子をしばらく面倒見てくれればいい、それだけのことだぞ?!
そうだ…、魅音ん家はどうだよッ?! お前、御三家とか言う立派な家柄なんだって自慢してたよな?! 話じゃ、ものすごいでかい家に住んでるそうじゃないか!!」
「う、家……?! 無理無理ッ!!…そんなの…婆っちゃが許してくれるはずない……!」
「じゃあ興宮に住んでる親はどうだよッ?! 聞いた話じゃ、こっちもかなりの豪邸に住んでるらしいじゃないか!! 町には親類の経営する店がたくさんあるそうだし!! 立派な資産家じゃないかよ、おいッ!!」
「だ、…だめだめだめッ!! 興宮の家なんてもっと駄目!! うちのお父さん……そんなの絶対に許さないッ!!!」
「おいおいおいおい!! 普段はさんざん大物ぶりを自慢しといて、ここ一番で及び腰かよ?! 何なんだよ!! お前、沙都子を見殺しにする気かよッ?!?!」
「そそ、…そんなつもりはないけど……!! そりゃ…私だって沙都子は助けてやりたいよ? でも…それとこれじゃ…話が……、」
「話が違うってのかよ?! 冷てぇヤツ!! 仲間の危機だろ?! ここで救わなかったら何なんだよ!! 部長だろ?! 部活の!! 救えよ!! 仲間の危機をよッ!! 今ここで救わなかったら仲間じゃねぇ、人じゃねぇッ!! お前の人間性が問われてるんだよ!! 聞いてるのかよ、魅音ッ!!!」
魅音に反撃の余地すら与えず、…感情を全て爆発させて叩きつける。
…とにかく、無理やりにでも魅音を頷かせたかった。…そうすれば、沙都子の問題は解決するのだ。
押して解決する問題なら、……いくらでも押し込んでやるッ!!
「何さっきから黙り込んでんだよ!! 聞いてるのかこの野郎! どうなんだよ、何とか言ってみろッ園崎魅音ッ!!!」
「………………魅ぃ…?」
「……………ぅ……………、……ッ……………ッ……………。……ぅうッ…!」
…険しい顔をしながら俯いていた魅音から嗚咽がこぼれ始める…。
……両手の拳をわなわなと握り締め…、…堅くつぶった目からは…涙が…。
……俺、…そんなにもいじめるようなことを言ったっけ…?
ここは泣くところじゃないだろ、沙都子を救うために何とかしなきゃならない鉄火場だろ!
………何て思った時、レナがひどく落ち着いた、冷たい声で言った。
「………………圭一くん。魅ぃちゃん家が駄目なら、他の裕福な家を探したら? 私、雛見沢に立派な豪邸建てて住んでる人、知ってるよ。」
「…だ、誰だよ。」
「白々しいよ。あれだけ立派な家に住んでて、自分の家だけは蚊帳の外?」
「……お、……俺ん家かよ…。俺の家は…、」
「仲間なんでしょ、救ってよ圭一くんが。魅ぃちゃんは駄目だってさ、冷たいから。じゃあ仲間想いの圭一くんがお手本示さなきゃ駄目だね。あれだけ大きなお家に家族3人で住んでるんだっけ? じゃ空き部屋なんかいくらでもあるよね。余ってるお部屋、いくつか沙都子ちゃんに分けてあげればいいじゃない。それでめでたく沙都子ちゃんの悩みは解決!
あら何? これでもう終わり? あっけない話だったね! はいはい解決お疲れさま!! じゃあもう今日はいい?! 私帰るねランランラン!! 今日は久しぶりに宝探しにでも行こうかな!! 昨日まではずっと沙都子ちゃんのことが心配で全然遊ぶ気になんかならなかったしぃ!! 今日はどんな宝物が見つかるかな、はぅー……。
………………何か言ってよ?! 私だけ喋り尽くめッ?!
黙ってんじゃないわよ、聞いてんの前原圭一ッ?!?!」
………………セミすらも、…畏縮したかもしれない。
肩で息をするレナと、呼吸すらも忘れてしまった俺。
……蒼白になって頭を真っ白にしてしまった魅音と、何事もないかのように黙りこくる梨花ちゃん。
…教室の中の空気が、ぎっちりと固まり、…俺たちをコンクリートで固めてしまう。
ガタン。
立ち上がっていたレナが着席した時に立てた椅子の音が、…その場の全員にようやく呼吸を許す。
「…………………………………。」
……レナは、…………………俺が魅音をいかに傷つけたかを、…教えてくれた。
「………………レナが怖いのです。」
しばらくの後。……凍った空気を梨花ちゃんが割ってくれた。
「……うん。ごめんね梨花ちゃん。魅ぃちゃんもごめん。
…圭一くんには謝らなくてもいいよね?」
「………………………あぁ。……ごめん。…滅茶苦茶なこと言って、悪かった。」
「さっきのあれ、私に言ってたの? 魅ぃちゃん睨みながら言ってたから、私てっきり魅ぃちゃんに言ってるもんだとばかり思ってた。」
……………普段からは想像もつかないくらい、…レナは強かった。
……一時の激情だけで暴言を吐くような俺じゃ、かなわないくらいに。
「………魅音、……ごめん。……………頭に血が上ってた。」
今にして思えば、何であんなにも興奮していたのかわからない…。
……俺は沙都子のにーにーを自覚しているから、…他の誰よりも、少しでも真剣に考えてやろうと…まったくの善意で思っただけなのに。
「ん、…………んん。…いいよ。…私こそ、…圭ちゃんが一生懸命悩んでるのに、あれは駄目これは駄目ばっかり言って…。…ごめんね。私も…悪かった。」
魅音は両目に溜まった涙を拳で拭いながら、自らも謝ってくれた…。
互いに頭を下げあい、…お互いの目も見ずにうな垂れあう。
「……………………………………。」
誰からともなく…ため息が漏れた。
…沙都子がいじめられていたという話は、…去年からあった話だ。
去年の悲劇は…どのようにして沙都子を救ったんだろう?
どのようにして幕を閉じたんだろう…?
………そう。
………結局、みんな、…何もできなかった。
…ただ受難の日々がいつか終わるのを待ちながら……耐え忍ぶしかなかった。
……そうさ。
そんな日々に終止符を打ってくれたのは、……どこの誰とも知らない、覚醒剤常習癖のおかしなヤツだ。
去年の綿流しの夜に、…意地悪な叔母を、殴り殺してくれた。
……でもそれは沙都子や悟史を救うためにしてくれたものじゃない。
……そう。……本当にただの、…偶然。
一番、沙都子のために何かしてやらなければならなかった仲間たちに何もできなくて。
………事件は悲惨なものだったかもしれないが、…沙都子の身を思えば、……それは紛れもない、奇跡だ。
そう、奇跡。
……起こることをただ待つしかできない、奇跡。
「……待つしかないのかよ。俺たちには。」
虐待の証拠とか、そんな小さなものをじゃない。
「…え? …………何を、…かな…?」
「……………奇跡。」
…奇跡なんて突拍子もない言葉に、誰も茶化したりしなかった。
………何も策が思いつかない俺たちが、唯一期待するものだったから…。
「………………………無力なんだよ。……私たちは。」
魅音がぽつりと漏らしたその一言が、……俺たちへのとどめだった。
……暑い。
……嫌な汗で全身がべとべとする。
…最低の、…6月。
■アイキャッチ
■沙都子の自宅へ…
この先を、ずっと進んで、田んぼの切れたところを…右。
…初めてやってくる場所で、道は全然わからない。
何度か迷ったので、相当遠回りをしてしまったかもしれない。
……一度帰宅してから自転車で来るべきだったか…。
…仲間に聞くと…余計な心配をかけそうだったので。…沙都子の本当の家の場所はクラスメートに聞いた。
その家は本来、沙都子の実家であって、叔父夫婦の家だったわけじゃないそうだ。
……こっちの家の方が立派だったので、…乗っ取ってしまったらしい。
ここを右か。
………何件かの家の並び。………………あの向こうか…?
……沙都子の家を訪れて、…別に沙都子に会うつもりだったわけじゃない。
……意地悪だという沙都子の叔父を、敵情視察のつもりで見に来たつもりでもない。
……………ただ、……沙都子のにーにーとして、…少しでも近くにいてやりたいだけだったのか。………そんな奇麗事なのかどうかも定かじゃない。
………富田くんたちに聞いた通りなら、…………あの家だろうか…?
それを認めた途端に、……足が重くなる。
……俺は、……何をしに来たんだろうな。
ここへ来たそもそもの動機は…下らない。
………魅音の捨て台詞、「無力なんだよ、私たちは」…が、…何だか悔しかったからだ。
ただ、奇跡を祈って、日々を怠惰に過ごす以上の何かがしたくて、……俺をここまで歩かせた。
……でも、…来ただけ。
もしも仮に、…………沙都子が叔父にいじめられている現場を目撃してしまったとして、……何ができる?
…漫画か何かのように、親父を殴り倒し、沙都子を連れて逃げるか?
そしてどこか遠くで二人で暮らす?
……無茶苦茶だ。
「…俺は……………、……無力だ……………。」
…………セミの声は、…俺を小馬鹿にするように合唱していた。
…何もできず、する気もないなら…とっとと帰れ、と。
車が近付いてくる音がしたので道を開ける。
……だが車は俺のすぐ後ろで停まると、クラクションを短く一回鳴らした。
まだ道が開けたらないのかと思い、不機嫌に振り返ると……運転席の窓から顔を出しているのは見知った顔だった。
「………監督…。」
「こんにちは、前原さん。こんなところでお会いするとは本当に奇遇です。お家は近くなんですか?」
…ここにいること自体が普通ではない。
…何とかはぐらかそうと思った時、助手席に乗っている沙都子の姿に気が付いた。
「…さ、……沙都子…?」
沙都子は車を降りると、トランクに詰めていたたくさんの買い物袋を下ろし始める。
「…買い物の帰りに偶然、監督にお会いしたんですのよ。…送ってくださるというので、お言葉に甘えたのですわ。」
「……自転車でこんなに買い物をしたら、運びきれませんからね。」
監督はそう言いながら、後部座席に押し込んであった沙都子の自転車を引っ張り出していた。
買い物の大袋が……4つも。
…中身はどれもぎっしりでとても重そうだった。
「……この袋、…セブンスマート…?! おいおい……自転車で行くにはちょっと遠すぎないか?!」
見れば…袋にはぎっしりと酒瓶や酒のつまみ、タバコのボックスが詰められていた。
…重さも去ることながら…、どう考えても嗜好品としか思えない内容物…。
「………監督のお陰で、…助かりましたわ。…ちょっと坂道は…辛かったですから。」
沙都子は感謝の気持ちを込めた笑顔を監督に向けていたが…。…その笑顔はとてもぎこちなく、むしろ見ている者の心を掻き毟るようだった…。
「沙都子。………この買い物、…今晩の晩飯ってわけじゃないだろ…?」
「……当然ですわ。…私、お酒なんか飲めませんしおつまみも嫌いですし。…タバコなんか吸うわけ…、」
……沙都子に……こんな下らない物を買わせるために…?
あんな…遠くの店までひとりで自転車で行かせて…?
で、その叔父はいまどこでどうしてるんだよ?
もちろん、沙都子ひとりに行かせるくらいだから、今この瞬間、汗水垂らして働いているんだよなぁ…?!
でなかったら……沙都子は…、こんな下らないもののために…なんて苦労を…?!
…そんな感情を口に出したつもりはない。
……でも、…表情には出したかもしれない。
監督はそれを察したのか、ポンと、俺の肩を叩いてくれた…。
その時、家の窓がガラリと開いて、……咄嗟に目を背けてしまうくらいにガラの悪そうな男が現れる…。
……自己紹介の必要もなかった。
…直感的に、こいつが例の…叔父だと直感する。
そいつが沙都子に投げかけた第一声は、買い物の苦労をねぎらうもののはず……。
「沙都子ぉ!! 燗のガス、掛けっ放しで出よったんな、このダラズッ!!」
「…ご、ごめんなさい……。でも、…すぐに買いに行けって言ったから……。」
「ボケがぁッ!! せっかくの吟醸、台無しにしよってん! ボケぇッ!!」
…ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…!
沙都子がみすぼらしく…ぺこぺこと何度も頭を下げて謝る…。…怯えた小動物…という形容詞がまさにぴったりだった。
……何が何やら…わからない。
……沙都子は、こんなにも重い、それも晩飯の材料ですらないような買い物を…終えてきたんだぞ?
…たまたま監督と出会って送ってもらえたから今、帰ってこれたが……。
…もし、監督に出会わなかったら、…まだ…あのきつい坂道を、…ひとりでひぃひぃ…、ペダルを漕いでいたに違いない。
そんな沙都子にかけた、…今のよくわかならない品のない言葉は…一体何だったんだ?!
……どこの国の辞書に、…買い物を終えて帰ってきた娘に、…あんな言葉をかけろって書いてあるんだよ?!
……そんな俺の怒りは、当然届いたりしない。
…叔父は俺などに興味を示さず、監督に向かって大声をあげた。
「………おやぁ。入江の先生じゃないですか! ごんにちはぁ! すったら、先生も上がって行きますか。もうオーラスですから、すんぐ入れますよ。ピンのワンツー、何でもアリで。」
「……いえ、…遠慮します。沙都子ちゃんとは偶然、お会いしたんで、ちょっとお送りしてあげただけです。すぐに失礼します。」
「ぞんな〜、遊んで行ってくださいよ。先生、お金持ちじゃないですかぁ。だっはっはっはっは!」
……叔父と監督が何の話をしているのかも、よくわからない。
でも確実にわかるのは、……今の言葉にもまた、沙都子の苦労をねぎらうものは何も含まれていないという点だけだ。
「沙都子、とっとと乾きモンを持って来んかい! ビールも冷めてもーた。冷蔵庫から冷えてるの出しちょくれな!!」
「鉄っちゃん、娘に厳しすぎやん。もうちょいいたわらんと可哀想やで?」
「あんのダラズはこのくらいで丁度いいんよ。…兄貴ん家に居た頃からそうでよ。甘やかすと親の言うことをなーんも聞かんやっちゃよ…ったく。」
「それよか、鉄っちゃんのツモだぜよー。」「椿さん、リーチしよったで。」
「…ぉ、悪い悪い。………なんね、椿ぃあんたまたリーチかいな………。」
叔父だけでなく、その仲間も何人かいるようだった。
…おいおい、…あいつ、いや、…あいつら、何やってるんだ…?
汚らしい言葉をさんざん吐き散らしながら…、沙都子に自分の酒の買い物を押し付けて…何をやってるんだ?!
「町から叔父さんのお友達が来てて、……麻雀やってますの。…お友達のお夕食もご用意するように言われてますのよ。」
「な、……………なんだよ、…それ…。」
麻雀ッ?!
友達を呼んで…麻雀だって?!
…遊ぶのに忙しくて…沙都子に、…酒を山ほど、それも遠くの店まで買いに行かせて…。それで帰ってきてかけた言葉が…熱燗のガスが掛けっ放しだったぁッ?! 何だよそれ、何だよそれ、何なんだよそれッ!!
「何……やってんだよ…あいつッ?! 麻雀って、…そんなのに遊び呆けて…沙都子に、こんなのを買いに行かせるのかよッ?!」
…監督は聞こえているにも関わらず、…聞こえない風を装っていた。
トランクから下ろしたいくつもの重そうな買い物袋が並ぶ。
「…さぁ。前原さんも手伝ってあげて下さい。ほら、男の子なんですから、こっちの重い袋を持ちましょう。」
「監督ッ!! こんなの、まかり通っていいんですか?! こんなの絶対に…!!」
…激情する俺の言葉すらも、監督は聞こえない風を装った。
……あとで思えば、監督のその対応が、今この場では一番だったかもしれない…。
「…私も2つ持ちますから。…ほら。…前原さんも持つのを手伝ってあげて下さい。」
日本酒の瓶がいくつも詰まった袋とお酒のおつまみがぎっしり詰まった袋。
………何て重い。
……そして、…何て汚らわしい重さ。
…重いだけでなく、……悔しさまで感じる……、最低の重みだ…。
「……圭一さん、無理しないでいいんですのよ。私も持ちますわ…。」
屈辱を噛み殺す俺の表情を、重さが辛くて歯を食いしばってると勘違いした沙都子が、……そう声をかけてくる。
「…………馬鹿。…俺を……なめるな…。」
…沙都子が俺の腕力を見くびっている、というつもりはさらさらなかった。………く、…………ぐ………。
「…監督も…すみませんわね。…重いでしょう…?」
いえいえ…。監督は曖昧に笑いながら答える。
…涼しそうに。
……でも、俺にだけはわかった。
…監督は大人だから表情に出さない術を知っているだけで。……瞳の奥には、俺と同じかそれ以上の…怒りを灯していた…。
「……いや、…はは。…重いですね。」
…………………………ぐ、…………くそ、…………くそ……!
沙都子の家の玄関先まで大した距離はないはずなのに…、…ビニール袋にぐいぐいと両の手のひらを締め付けられ…、真っ赤な跡になってしまう。
「…………………………………ぐ…。」
激情がこみ上げ、喉の奥をちりちりと刺激する。
……でも、…それを口からほとばしらせたところで…何の解決にもならない。
………だから。
……ただぐっと歯を食いしばるのが、…精一杯だった…。
「…本当にありがとうございますですわ。…監督も、圭一さんも。お陰で本当に助かりましたでございます。」
家の裏の勝手口の前まで運ぶと、沙都子はもうそこでいいと言った。
……時折、家の奥から聞こえてくる、叔父たちの下品な笑い声に…腹が煮えくり返る。
……俺たちを嘲笑ったものでないのはわかってる。
いや、…だからこそ腹が立った。
……こんな重くて自分勝手な買い物をさせた沙都子を無視して、自分たちの都合で勝手に笑い転げてるあいつらが、……心底腹立たしかった。
…無論、監督も同じ胸中だったに違いない。
でも、…それを安っぽく表情に出せば、…余計、沙都子を困らせるだけだから。
……そこまでわかってて、…まるで気にならないとでも言うように、…またしても涼しく言った。
「………いぃえ。ささやかでもお力になれたなら幸いです。…お手伝いできそうなことがあったらいつでも言って下さいね。」
「えぇ。………お気持ちだけでも本当に嬉しいですわ。」
……お気持ちだけでも。
……その言葉が、…悲しかった。
……沙都子自身、…俺たちが助けられるのがここまでだと、……諦めているのが、……悲しかった。
…そうだ。
………俺や監督が、いくら沙都子を助けたいと思っても。……ここまでだから。………これ以上を助けてやれない自分の無力さが…ただただ、…情けなかった…。
喉の奥まで、……熱くたぎった激情がこみ上げてきている…。
わなわなと震え、……激情が目からこぼれそうになる…。
「……………俺も、………力になれることがあったら…いつでも力を貸すから。……その、………がんばれよな…。」
せめて…。………いつでも力になれるなんて、月並みな言葉を送るだけでも……してやりたかった。
「……えぇ。ありがとうございますわ。……わざわざこうして、ここまで来て下さっただけでも……うれしかったですわ。」
…沙都子は、俺の家が学校の反対側で、
……俺がどうしてこんなところにいるかを、……察しているようだった。
「……さぁ。もう行った方がよろしいですわ。…今は酔っ払ってますから、どんな難癖を付けられるかわかりませんわよ。」
手伝ってもらった上に、…絡まれたら申し訳ない。………災難は自分だけで充分だから。
……そんな風にも見えて、……辛い。
沙都子の手に、スーパーの袋を渡す。
………その時、沙都子の手の甲に、
アザのようなものがあることに気付く。
「……おい、沙都子…このアザ、…どうしたんだよ…?!」
…自分で、何て白々しいことを言ってるかよくわかる。
……このアザが、…どういう経緯でできたかなんて、…沙都子が口に出して言うまでもないじゃないか。
「…………階段で転んだ時にちょっと打っただけですのよ。気になさらないで下さいませ。」
「………う、…嘘だろ…!!」
監督が俺の背中を突っついた。
そして人差し指を自分の口に当て、声が大きいと…たしなめる。
「本当にありがとうございましたですわ。……では、明日。…学校でお会いできるといいですわね。」
「そ…そんな話、してないだろ?! その手のアザはどうしたって聞いてるんだよ!! …………あぁ、……あ……ッ!!」
……夕焼けが…隠していた歪なアザや腫れた跡が…今頃になって、…ようやく俺の目に留まるようになる。
……首筋や、……足や、…………他にも、……!
「…階段から落ちたんですの。…ほほほほ。」
俺の猛り狂う激情が…喉をぶち破って吐き出そうとした瞬間、……俺の口元はがっちりと押さえつけられていた…。
「ンんんぅんッ!! ンンんンぐンっンーッ!!!」
監督が、…後ろから、両の手で包み込むようにがっちりと、…俺の口を押さえつけていたのだ。
だから俺の口からは言葉は出せない。
…うなり声しか出せない。……でも、うなった。うなるしかなかった。
ここで腹の底のマグマを、全て吐き出さなければ。…俺は爆発して、今すぐ粉微塵になってしまっているに違いないから…。
うなった。うなった。
口から。
全身から。
目から熱いものをぼろぼろこぼしながら。
うなってうなって…唸りつくした。
「ゥウウンンぅン!! グんぅうンんんんんンンんん……!! ぐぅウううぅウンううぁおおぉぉおおおぉッ!!…ッ!!!」
……徹底的に腹の底から絞り尽くした。
……声は出なくなっても、…まだまだ、……絞り出し続けた…………。
「…………気持ちはわかります…!! わかりますから前原さん!! …今だけ、……今だけ堪えて下さい…! お願いですから……前原さん…!!」
今、堪える?! 堪えてどうすんだよッ?! 目の前の…この沙都子はどうなるんだよ?! 体にも、心にも傷を作って…、こんな目に遭わされて…。…それに対して…俺は吠えることも叶わないのかよッ?! え、監督!! 俺たちはこんなにも無力なのかよ、ただ心の底から…叫ぶことも叶わないくらいに無力なのかよぉおおおぉお………ッ!!
………ひぐらしの声が、……俺の興奮を、醒ます。
どれくらいの時間だったかは、…わからない。
沙都子は…おもむろに、…ちょこんとお辞儀をした。
「……ありがとうございますですわ、圭一さん。」
「………………………沙都子…。」
「………今、…圭一さんが本当のにーにーみたいに見えました。……私の本当のにーにーは……いなくなってしまったけど。…………私には、圭一さんというにーにーがいてくれる。」
「…………そうだ…。……俺が…お前のにーにーだ。……お前が…辛い時、…絶対に助けてやるから……。にーにーが、…沙都子をきっと助けてやるからな…。」
…北条悟史の……大馬鹿野郎ッ!!
今だろ?! 今が沙都子の…一番辛い時だろ?!
にーにーのお前が…今助けなくて…いつ助けるんだよッ!! 何で逃げた! 何で見捨てた!! どうして沙都子を置き去りにしたッ!! お前なんかに…沙都子のにーにーである資格は…ないッ!!!
「…………俺は…逃げないからな………。」
「……え…?」
「…絶対に…………逃げない。……悟史みたいに、……お前を見捨てて逃げたりしない! 絶対に…!! 俺はお前を……見捨てないぃッ!!!」
すー…っと。
…………沙都子の瞳から、……一筋の涙。
そして……目を細めながら…嬉しそうに笑う。
「さよなら。…にーにー。」
沙都子はぎこちなく右手を…振る。
「………大丈夫ですわ。…今の、…にーにーので、……私、…いっぱいいっぱい……力をもらいましたから。…大丈夫…。……明日まで、……頑張れますから……。大丈夫……。……………だから、ね。………今日は…さよならで…ございますわよ。」
さようなら、また明日…なんて言えるわけない。
その時、…家の奥から野太く…汚らわしい声が響いてきた。
「沙都子ぉおぉお!! 早ぅ乾きモン持って来んかぁいッ!!!」
「……さ、にーにー。…早く行って下さいませ。……もう、…私は大丈夫ですから。……早く。」
「………………行きましょう、前原さん。……これ以上は、…かえって沙都子ちゃんに迷惑をかけます。」
「……監督。…にーにーのお家は、…ちょっと遠いんですの。…申し訳ございませんが、…送ってあげていただけます…?」
「…………えぇ。わかりました。」
…監督が俺の後ろ襟を掴み…普段からは想像もつかないような力で…俺を引きずっていく。
……俺は…抗うこともできずに、……沙都子から遠ざかっていく。
沙都子は曇ったままの笑顔で手を振り、……勝手口の向こうに、……消えた。
監督は先に車に乗り込むと、狭い道をターンして、助手席側のドアをこちらに回してくれた。
「……………前原さんの気持ちは痛いくらいにわかります。…いえ、……前原さん以上にわかるつもりです…。」
「………………………………………。」
「………でも、今この場だけは堪えて下さい。…あなたの心は確かに伝わりましたから。……だから、…堪えて下さい。でないと…、」
「……もう、…わかってます。………………………すみません、さっきはありがとうございました。」
……………大人しく、助手席に座る。
…車はすーっと静かに加速し出し、…徐々に沙都子の家を、バックミラーから遠ざけていく。
………大きく曲がったら、…もう家は見えなくなっていた…。
■監督の車
「…………………え? あなたのお家、そんな遠くなんですか? 学校の反対側じゃないですか。」
……特に返事はしなかった。
…俺が沙都子の家の前にいた理由を聞かれても、答えに詰まるからだ。
監督もまた、それ以上のことは言わなかった。
しばらく、……二人して沈黙し、道路の砂利を弾く音だけに耳を傾けていた。
………去年とは状況が違う、とレナが言ってたのを思い出す。
あの時は、悟史がいてくれた。
……悟史が沙都子をかばってくれていた。
…だから、まだしも沙都子に降りかかる火の粉は少ないものだった。
「…………………でも今は、……悟史はいない。」
「……………はい。………残酷ですが、……それが事実です。」
………監督にも、その言葉の真意がよくわかっているようだった。
「……悲しく、…あまりに残酷な話ですが……。………私たちの決意や努力、尽力には…………限界があります。」
…言い訳がましいが…、その通りなんだ。
……俺や監督が、沙都子の力になってあげたくても…。ここまで。玄関の前までなんだ。
いくら…俺がにーにーになってやると叫んだって。
…俺は沙都子を見捨てないって叫んで、沙都子が俺のことをにーにーだと呼んでくれたも。………これ以上のことは…何もできないんだ。
「………悟史は一体、…………どこに行っちまったんですか。」
…そう、悟史は違う。
……本当の兄である悟史は、……俺たちなんかよりも、ずっとずっと守ってやることのできる立場にいる。
……それが悲しいくらいに残酷な現実で、…俺たちと悟史の、……絶対的な差だ。
「…………………………今頃、……どこでどうしているんでしょう。」
悟史は、家を出た。
……オヤシロさまの祟りだか失踪だか、理由はよくわからないが。
…とにかく今、沙都子の側にいない。
…一番、沙都子を守ってやらなければならない時に、ここにいない。
「………どうして、今ここにいないんですか?! 一番守ってやらなければならないこの時に!」
「………………オヤシロさまの祟りがどうとかいろいろ言われてますが、……家出した、…としか言えません。」
「ある日を境に帰ってこない、って仲間が言ってました。…妹の沙都子に、書置きひとつ残さずに家出を…?!」
「……悟史くんはこつこつとアルバイトをしてたんです。…沙都子ちゃんが当時、とても大きなぬいぐるみを欲しがってましてね。……結構、いい値段らしくて、そのためにアルバイトをいろいろとしていたらしいんです。…妹思いの兄でしたからね。叔父夫婦の下で不憫な生活を強いられている妹に、少しでも立派な誕生日プレゼントを送ろうとしているんじゃないかって、みんな囁きあっていました。」
……その貯金は結局、…沙都子の誕生日プレゼントのためには使われなった。
「…悟史くんがいなくなり、警察がいろいろと調べたら。悟史くんの貯金が当日、全て本人によって下ろされていることがわかりました。……方々をいろいろと調べた結果、その貯金を資金に、…東京の方に行ったんではないかということになりました。」
「……東京?! 何しに!」
「…………家出、としか、…言いようがないじゃないですか…。」
「自分が逃げ出すための資金をこつこつと貯めて。…そこまでは勝手ですよ?! でも……沙都子を置いてくことはないじゃないですか!! 同じ家出するなら…沙都子も連れていくべきだったッ!!」
……やはり…監督はここでも冷静だった。
…熱くなった俺に、油を注ぐようなことは絶対にしない。
……自然に冷めるまで、……待ってくれる。
しばらく、砂利を踏む車輪の音に耳を傾けた後、…監督はぽつりと言った。
「……………察してください。…置いていかれた沙都子ちゃんも、同じ考えに至ったんです…。」
自分は兄のお荷物だから、…捨てられた。
……一緒に連れて行ってもらえなかった。
……仲のよかった兄に裏切られた、沙都子の胸中は…どんなものだったろう…。
「でも、…沙都子ちゃんはとても強い人でした。…もちろん、親しい友人たちの支えもあってのことでしたが、…ああして笑顔を取り戻すことができました。」
何日か前、うちで沙都子たちと夕食をした時、…何の陰りもなく悟史の話をしていた沙都子を思い出す…。
あの時はそれを、…微笑ましい兄妹愛だ、くらいにしか思わなかったが。
……今、思うと………それは……悲壮なくらいの我慢を重ねた上にある…達観のようなものだったことがわかる。
「……悟史くんはきっと帰ってくる。…その時までに、お荷物じゃなくなった自分を見て欲しいって。」
「沙都子はお荷物なんかじゃないですよ!! あいつ…俺なんかよりよっぽど生活力はあるし…大抵のことは何だってできる! そりゃ…レナや梨花ちゃん何かと比べれば劣る点はたくさんあるかもしれないけど…、そこいらのヤツよりよっぽど一人前ですよッ!」
「……悟史くんがいつ帰ってきてもいいように、そういう風になれるよう努力した結果です。…涙ぐましい努力があったんですよ。」
梨花ちゃんと一緒に暮らしながら。
…何でもそつなくこなせる梨花ちゃんにいろいろ教えてもらいながら。
…いつ悟史が帰ってきてもいいように。
……恥ずかしくない自分を見せられるように。
「…………………で、…その悟史はいつ帰ってくるんですか。」
「………………………………………。」
それを監督に聞いたって答えられるわけもない。
………とにかく悟史は逃げた。
…沙都子を置いて、雛見沢から逃げた。
………雛見沢を捨てて逃げ出すとオヤシロさまの祟りがある、なんて誰かが言ってたっけ。
………なら、…なるほど。
…悟史の家出、失踪は、…祟りってことになってもおかしくはないじゃないか…。
………それはそれで、…何だか自業自得のようで、…笑える。
……なぁオヤシロさまとやら。
…悟史の失踪、あれは家出なんかじゃなくて…あんたの祟りの「鬼隠し」なんだろうな?
………もしもそうじゃなかったら、…俺があんたを許さない。
「……………悟史はいつ頃、逃げ出したんですか。」
「…去年の綿流しのお祭りの夜、叔母が異常者に殺されて、…その数日後の。……………沙都子ちゃんの誕生日にです。」
「………沙都子の、……誕生日に…ッ?!」
ダンッ!!
目の前のダッシュボードを力任せに叩く。
……悟史のヤツ、……よりにもよって、……何て日に家出を……!!
その数日前に叔母は死んだんだろ?
辛かった日々が幕を閉じようとしてたんだろ?
…これからの新しい生活を予感させる、そんな時期だったんだろ?
人の死を喜ぶのは悪いが、…沙都子たち兄妹にとって、…そんな節目での誕生日だったはずなんだ。
意地悪な叔父も町に逃げ、これからは兄妹だけで暮らしていける。
……そんなことを喜び合えるはずだった、…沙都子の誕生日。
…沙都子はきっと、…兄の帰りをずっと待っていたはずだ。
……いつまでも帰ってこない兄をずっと待っていたはずなんだ。
…きっと帰ってくる兄と一緒に、これからの新しい生活に、夢と希望を膨らませようと、…ずっと待っていたはずなんだ。
………でも、何時まで待っても帰ってこない。連絡すらない。
素敵なプレゼントを期待して、胸を膨らませていた沙都子は、……一体いつ頃、…その無残な現実に気付かなくてはならなかったんだろう。
……………悟史の…………大馬鹿野郎……。
悟史への…怒りで頭に血が登るのがよくわかる…。
悔しかった。
腹立たしかった。
……沙都子が今でも尊敬して敬愛する兄の、……非情な裏切りが、……許せなかった。
……そんなヤツが、……今、都合よく、……帰ってきてくれるはずなんかない。
……そう、誰も守ってくれない。
…実の兄の悟史だって、守ってなんかくれない。
「……………だから、……あなたがにーにーだと認めてもらえて…嬉しかったです。」
「…………え…?」
「……私も沙都子ちゃんの幸せを祈るひとりですが、…社会的立場があり、日中は仕事をしている身です。…私が沙都子ちゃんのために割いてあげられる時間は少ない。……でもあなたは違います。…学校で生活を共にし、沙都子ちゃんや悟史くんとも年はほとんど離れていない。」
「………………………………。」
「………あなたは自分ができることに限りがあると思っていますが、…それでも、私よりはずっと沙都子ちゃんに手を差し伸べられる場所にいるのです。……だから、…私の分まで沙都子ちゃんの力になってあげてほしい。そう願っています。」
「………そんなことは…。……監督だって……。」
「もちろん、年季のある私だからこそできる助けだっていろいろあると思います。同じように、あなたにしかできない助けだってあるということです。……私たちは互いにそれを全うすべきだ…と申し上げたいのです。」
……ちょっと難しい話をしましたか…?
と監督が付け加えるが、…俺は首を横に振って応える。
監督が、自身に年季があると言っているのを聞き、俺は監督が大人という俺たちとは異なる立場であることを思い出す。
………聞いてみてもいいかもしれない。
「………あ、…監督は、…法律とか詳しいですか?」
「いえ、平均的に疎いですが、何か…?」
……沙都子のことで魅音たちと議論したことを思い出す。
子供の議論では、様子見しかないということになったが、大人の意見ではどうだろう…?
「児童福祉法で、…でしたっけ…。児童の安全を確保するために緊急措置として、親子を分離させるという方法があるそうです。」
「緊急措置…?! じゃあ…すぐに沙都子を叔父の下から救い出せるということじゃないですか!」
「…………………沙都子ちゃんが、…それを望まないかもしれません。虐待されている本人が避難を望まなければ、弱いでしょうから。」
「沙都子が、…望まない?! どうして…、」
「…………………………………。」
監督は答えなかった。
…どうして答えないのか、納得できない。
沙都子が叔父に奴隷のように扱われ、乱暴されていることも明らかなんだぞ?! …それなのにどうして…。
俺は急かしたい気持ちをぐっとこらえ、…監督が答えるのをじっと待つ。
だが監督は答えてくれなかった。
聞こえていないフリをしているわけじゃない。
……どちらかと言うと、…説明したくてもうまく言葉にできない感じだった。
「……沙都子ちゃんは多分、…そういう虐めに耐えるのを試練だと考えているかもしれません。」
「試練? ……変な宗教じゃあるまいし…!!」
「………ご存知と思いますが、悟史くんは沙都子ちゃんをずっとかばってきました。…沙都子ちゃんもずっと悟史くんに頼ってきました。……甘えてきた、というべきかもしれません。」
悟史が沙都子をずっと叔父叔母からかばっていた、というのはとっくに知ってる。
でもそんなのは兄貴としての義務であって、わざわざ言うほどのことじゃないだろ…。
「…それがトラウマになったかもしれないんですよ。……自分が兄にもたれかかり過ぎたから、兄が自分を嫌ってしまったんではないか、ってね。」
そんな沙都子にとって、今の状況はまさに一年ちょっと前の再現だ。
…でも今度は悟史はいない…。
「……だから、誰にも頼らずに自分の力だけで試練を乗り越えたい。そういう力を身に付けなければ悟史くんは帰ってこない。……そういう考えになっている…。…………と、私は考えます。」
…………………言われてみれば…。
…今日まで沙都子は、辛いとは一言も言ってない。
…脅迫されて口に出来ないだけ、なんて思っていたが…。
「……みんなと相談して、児童相談所とかに通報すべきか…なんて話をしてました。」
「聞いてますよね。…昨年も福祉司さんが沙都子ちゃんのところに行ってるのは。」
「…はい。……結局、様子見で、…余計にいじめられたって話も。」
「あれ、……………………沙都子ちゃんが自分で通報したらしいんです。…で、その結果、余計いじめが水面下へ移行してエスカレートした。…沙都子ちゃんに降りかかるいじめも増え、それをかばう悟史くんの負担も著しく増えた…。」
「……え、……ひょっとして…沙都子、……それ、通報した自分の責任だなんて思ってるんじゃ……。」
監督は静かに頷く。
「…多分、沙都子ちゃんに通報の話をすると、とても嫌がるか、その必要はないと強がりを言うと思います。沙都子ちゃんに内緒で通報したとしても…、福祉司に対して、自分は虐待を受けていないと言い張るでしょうね。」
……強がりでなかなか負けを認めない沙都子の性格から。それは容易にうかがえる。
「一応、…児童相談所には、裁判所の許可も当事者の許可も一切不要で緊急措置ができる強い権限があるんだそうです。……虐待が公然の事実なら、沙都子ちゃんが否定しても身柄は強制的に保護されるでしょう。………それは沙都子ちゃんにとっては、…負けを意味するものなのかもしれませんが。」
「か、…勝ち負けの問題じゃないですよ!! 沙都子は現実に…!」
「…………………………………話を折りますが。…身柄が保護されると、擁護院等の施設に送致されます。…そうするとですね、そこで暮らすことになるのでつまり、…引越しということになります。…ですから学区変更で転校にもなります。」
「……………て、…………転校は、…仕方ないです。…それであいつが保護されるなら。」
「沙都子ちゃんはその辺の事情も知っています。だからますます保護を望みません。」
「……どうして!!」
「あの家で悟史くんの帰りを待つのが、沙都子ちゃんの生きる理由だからですよ。……………兄に捨てられ、廃人同然になりかけた少女が、…何に生きる理由を見出したか。……あなたのでなく、沙都子ちゃんの価値観で考えてあげてください。」
「…………えっと、………………ん、…………。」
……大人独特の、わかりにくい言い回しで煙に巻かれたような気がした。
要するに、…沙都子があの家に居るのを望んでいるのだから仕方がない…。
だから、……本人が根を上げるまで、……見ていろ、と。
…結局、
…何のかんの言っても、…監督の答えもまた、…様子見。
「俺は、……………わかりませんよ。」
「…………はい?」
「…俺は、………本当に沙都子が危ないと感じたら、…誰の意思も聞かずに通報します。……その結果、沙都子は不快な思いをして、……俺を恨むことがあるかもしれないけど…。…………最終的にはそれが沙都子の幸せにつながると信じます。」
監督は俺に振り返り、……まじまじと俺の瞳を見つめた。
……この年の子供が、…何を…、と顔に書いてあるのがわかる。
「………………………どうして、…あなたはそこまで……。」
…監督には、…いや、…一般的な大人には、…わからないかもしれない。
だから俺は、自分の信じる教義と価値観を、あっさりと教えてやった。
「沙都子は俺の仲間だから。…そして俺は沙都子のにーにーだから、…では理由は足りませんか…?」
監督の、ほんの少し動揺する瞳を、絶対に曲がることも折れることもない鉄の眼差しで、貫く。
「…………………………………………………、……いえ、……足りないなんてことはありません。」
…しばらくの沈黙の後、監督はやっと、それだけを口にした。
「誓ったじゃないですか、俺たち。」
「……えっと、………………………すみません、……えぇと…?」
「沙都子を、絶対に泣かせないって。」
あの、バーベキューパーティーの日に、誓い合った。
……ぜんぜん難しく考えずにだったけど…俺と監督は、とにかく誓い合った。
…沙都子を、絶対に泣かせないって。
監督はすみませんと苦笑いしながら、咄嗟に思い出せなかったことを謝る。
………そんな苦笑いに、…俺は何となく、……沙都子を救うに値する力と言う意味で、ほんのわずか俺より熱意が欠けるのではないかと疑いかけてしまう…。
キィ、と軽やかなブレーキが入り、全身がつんのめった。
「………………ひょっとして、前原さんのお家ってあれですか? あぁ、…前原屋敷が前原さんのお家だったんですね。」
……いつの間にか、…俺の家はもうすぐだった。
■幕間 TIPS入手
■タイトル: 事例31
昭和56年12月 1日
XX県福祉部児童課資料
(閲覧不可・複写不可)
事例31(11月20日)
北条沙都子(X歳)
鹿骨市雛見沢村XXX番地在住
(1)相談の経路
匿名で子ども虐待SOSに電話相談有り。
(2)虐待の状況
女児が保護者である養父母に身体的虐待を受けているという訴え。
(3)家族構成(●虐待者)
●養父、●養母、兄、本児
※昭和55年6月に本児の両親が事故により死亡し、父方の叔父(父の弟)宅に引き取られた。
(4)児童相談所の対応
匿名の電話相談が入り、同日、学校に電話で、本児の状況を聞き取り。
翌日、担当児童福祉司が本児宅を訪問し、聞き取り。
養父母は相談所の指導を受けることに同意。
市の虐待防止ネットワークに連絡した。
助言指導とし、以後定期的に地域の民生委員が訪問指導することとなった。
(以下の走り書きのメモがホチキスで止められている)
前任のW氏より関連情報あり。
52年度のエ2−3の44号を参照すること。
市教育相談所のF主査が詳しいので助言を求めること。
■まだ8日目(木)夜
■圭一の考察…
…家に帰り、…シャワーで今日一日の嫌な汗を流した。
普段なら、シャワーを浴びれば今日あった嫌な出来事は全部リセットできる。
……でも今日は、そうはならなかった。
シャワーから出ると、脱衣カゴに、新しい下着が丁寧に置かれていた。
……普段は全然気にも留めない、こんな母の心遣いに今日はうれしさを感じた。
…でもそれは同時に、沙都子の受難を感じさせるものでもあるのだ。
俺がこんなささやかな優しさを享受するのと同じ様に、今この瞬間、差と沙都子は叔父の心無い言葉に傷つけられているのかもしれないのだから。
2階に上がり自室にこもる。
……そして机に向かい、…腕を組んでみた。
もちろん考える議題は、…沙都子についてだ。
…俺たちはこれまで、うまく公的機関の介入を得られれば解決すると考えてきた。
……でも、監督の話も加えると、……そう簡単には行かないようにも思う。
……意地っ張りな沙都子が、頑なに虐待を認めず、…耐え忍ぼうとしている。
…その行為は、沙都子の中では……、これまでずっと自分をかばってくれ、そして逃げ出してしまった悟史への贖罪行為なのだ。
…沙都子本人がそう思っている以上、………事態は簡単ではない。
でも、俺はさっき監督の前ではっきり宣言した。
…沙都子が危ないと思ったら、…俺は俺の独自の判断で行動する、と。
結局は俺も様子見な訳だが…。
…それでも、仲間や監督よりも一線を画していると思った。
…いざという時は、…俺が通報しよう。電話で。
………俺が通報したことがわかれば、沙都子の性格からして、俺を非難するかもしれない。
…でも、…最終的にはそれが良い判断になると信じる。
……………だが待て、前原圭一。
…通報するだけでもう問題は終わりか…?
……仮に、公的機関、児童相談所に通報して、………また去年のように様子見なんてことになったら…?
…去年、様子見ということになり、一時的に状況は改善したが、…叔母は恥をかかされたと思いいじめを水面下へ移行。……結局、もとより陰湿になって行った。
今年は叔父だ。
…………今日、初めてその顔を見たが、…陰湿という言葉よりはもっともっと直接的な、暴力的という表現が似合う男だった。
…叔母のように陰湿な、…なんて甘いものじゃなく、…もっと直接的に…。殴る蹴るの暴行を加えるかもしれない。
…それは、沙都子の体にいくつか見られたアザ等から容易に推察できるものだ。
………くそ、……甘いじゃないか前原圭一!!
いくら悲壮な覚悟を持って通報したって、……沙都子を救ってくれなかったら何の意味もない!!
公的機関への通報はあくまでも方法のひとつであって、その方法に全てを委ねるのは危険だ。
…さらに併せて…沙都子の安全を保護しなくては…。
頭をガリガリガリっと掻き、ほんのわずかの冷静さが欲しくて、頭を後ろにそらす。
…………………今日の仲間たちとの、怒鳴りあいが思い出されくる。
レナに言われるまで気付けなかったことを恥じる。
…そう。
……俺の家は大きい。
…雛見沢の、わらぶき屋根の家々に比べれば、…ずっと大きい。
実際、部屋だって余ってる。
……裕福であると思ったことはないが、……決して貧乏だと思ったこともない。
……驕っていると思われるから認めなかっただけで……。
…………やはり家は……裕福なのかもしれないのだ。
…沙都子に貸してやれる部屋なんかいくつもある。
…客室なんか、たまに来る仕事関係の人を泊める以外はただの空き部屋じゃないか。
…親父が物置にしてる部屋のいくつかだって、ちゃんと片付ければ充分な部屋になる。
………食費の問題は、…子供の俺が考えるよりは、切実な厳しい問題かもしれない。
昼の弁当は何とかなるだろ。
…仲間みんなで、これからはほんの少し多めに弁当を用意すればいい。
みんなで突付きあうんだから、何とかなる。
…だが、…朝、夜の食事は…お袋の世話にならざるを得ない。
……部屋を貸す以上の、お袋の説得が必要だ。(もっとも、部屋を貸す説得だって容易とは思わないが…)
人間ひとりが食う食費って…どのくらいかかるんだろう…。
月々…何万円か、かかるだろうか…? それを…俺が負担すれば文句は言われない?
………俺の貯金箱には、ほんの1〜2万かだが、ある。
本当はもっとお年玉とかが溜まってるのだが、…それらは全部親に没収されて定期預金に入れられてしまっている。……それを取り崩せば、結構まとまったお金になるはず。
ここまで来たなら、…魅音やレナたちにも負担を頼むべきだ。
もちろん当てにはしない。
…レナに怒られたじゃないか。人に押し付ける話ばかりするなって。
……助けは求める。
でも、…基本的に俺ひとりで助ける。
やり遂げるんだ…!
あ、でも…食費だけの話じゃない。
……風呂場とか洗濯場とか、生活ともなれば欠かせない要素ってたくさんある。
……人の無駄にやたらと厳しい几帳面な母が、こういう時だけ煩わしい。
…沙都子が自分の衣服の洗濯に使う洗剤の代金とか…そういうものにまで言及があるかもしれない。
…食費だけじゃ駄目なんだ。
もっと…お金がいる。
(おいおい前原圭一、いつの間にお金さえあれば何とかなるって論法になったんだ?! お金があったって…そもそも両親の許可がなけりゃ無理だろ! 女の子を長期間預かる…なんて!)
何て言って説得するんだ…?
……ちょっとの冷静さがあるなら前原圭一、…そんなの無理だってすぐにわかるぞ?
ちょっと真面目に聞いてもらえたとしても、警察へ連絡しなさいってなるに決まってる。
仮に同情が得られたとしても、どうして前原家が負担を全面的に受けなければならないのか?
という話になるだろう。
……そう。
……とても悲しくて悔しいけど、…俺ひとりがどんなに決意したって。
……俺ひとりの決意じゃ、……何も救えないんだ。
「…………そんなにも、………子供って無力なのかよ……?」
……悔しかった。
……想いでは誰にも負けないと思っていた。…それに関しては、監督にだって負けないと思っていた。………なのに…。
その時、ドアが二度ノックされ、お袋が顔を覗かせた。
「起きてたの? さっきからご飯ってずっと呼んでるわよ?」
「……あ、…ん、今行く…。」
親のすねをかじる身でこんなことは言ってはいけないが。
……俺はただこうしてあぐらをかいてるだけで、食事が現れる。
…それはすごく当り前で、俺を生んだ親の責任だと開き直ってきた。
……だが、その当り前なものが実は権利であることを知った時。
……その権利を他人に与えるのがいかに難しいものが思い知る………。
普段と代わり映えしない地味な食事も、今夜はそれ以上の意味を持っていた。
今ここには親父とお袋と俺の、三人分の食事が並べられている。
……そこに、もう一人分の食事を追加することが、どれだけ難しいことか…。
………考えろ前原圭一。
…食事を四人分にすることが難しいなら、…三人分の食事で四人が食うことを考えればいい。
………………お…。
………発想の転換から、……思いもよらなかった大胆な策が浮かび始める…。
そうだ。
……両親に断る必要はないのだ。…隠れ住まえばいいのだ。
前に見つかって怒られたけど…、俺の部屋って確か、窓からうまく一階の屋根とか雨どいを伝えば、外から直接出入りすることは可能だ。
俺よりも身体能力の高い沙都子なら、ますます容易にこなすだろう。
…さっきから考えもしなかったが、この隠れ住まうというのは実は必須条件なのだ。
俺の家に沙都子を来させるという策は、公的機関が様子見だと判断した時に実施される。
…つまり、沙都子の叔父が相変わらず保護者であり続ける場合だ。
そんな状況下で公然とうちにいることが知られていたなら、叔父はすぐにもうちに押しかけてきて、沙都子を連れ戻すだろう。
叔父は正当な保護者なのだから、うちの両親もあっさり引き渡すに違いない。
だから…うちに住んでいることは秘密でなければならない!
(秘密…という点からもやはり両親の協力があった方が心強いが…、まず味方から騙す…なんて話もあるよな……。)
……よし。
…非現実的な両親説得よりも、……隠れ住まう、隠居策で模索してみよう。
俺がいる時は、二階の俺の自室で息を殺していればいい。
……問題なのは日中だ。
叔父から隠れている以上、沙都子の登校は控えるべきだ。
……寂しがるだろうが、学校には行かない方がいい。(沙都子程度の学年の勉強なら、俺だって充分教えられるぞ。…実際、学校でだって、自分の勉強よりも後輩の勉強の面倒を見てることの方が多いし!)
……日中は、俺が学校に行かなくてはならないので家にいない。
……俺がいい年になってからは、親もプライバシーを認めてくれたので、俺の不在を突いて自室に勝手に入るようなことはしない。(…と思う。)……俺の部屋に篭っててくれれば、…大丈夫、だろうか…。
もしも親が来れば、二階という立地のお陰で、事前に階段の音で接近を察知できる。
そして階段を上がりきるのに(…推定何秒くらいだろう)どれくらいかのラグタイムがあり、その隙に、押入れに隠れるくらいはできるはず…。
待て待て圭一! ちょっと矛盾が出てきたぞ…!!
そもそも沙都子が学校に行けないなら、お昼ご飯はどうするんだよ?!
……落ち着けよ俺! そんなの俺の弁当を置いていけばいいだけのことじゃないか。
俺は弁当なしで登校し、みんなが多く作ってきた弁当をわけてもらえばいい。
……よし、…大丈夫。……まだ矛盾や盲点はあるか?
…そうだ、朝と夜の食事。
………朝は何とか我慢してもらうこともできる。
…午前中を寝過ごした日曜日なんて、一日二食で問題ないし。
夜は、……まず、俺が食欲が増進したことにし、日々の食事を大盛りにしてもらうようにする。
……そして、その食事の一部を、何とか沙都子に与えればいい…!
………試しに。
……焼き魚の乗った皿を持ったまま席を立ってみた。
「どうしたの圭一? ご飯は座って食べなさい。」
「ん、うん。…ちょっと気分が変えたくなってさ。…自分の部屋で食べてもいいかな。」
「…ボロボロ落として汚すぞ。食事は食卓で食べなさい。」
「…………ん、…ごめん…。」
…おいおい…。
たかだか…焼き魚の皿をひとつ持ち出そうとして…二人掛りかよ?!
親の目を盗んで食事を持ち出すなんて…実際には無理だ。
…でもきっと…考える価値はあるぞ。
…手品みたいな、あるいは死角的な手法で、うまく目を誤魔化す方法がきっとある…。
(例えそれが今日思いつかなくても、明日思いつくかもしれないわけだし…!)
食欲も徐々になくなり、早々とごちそうさまをして俺は自室へ戻った。
…戻り、…沙都子の身になって考えることにした。
……例えば、今、親が階段を登ってきたとする。さぁ隠れろ…!
押入れをあける。
……ガタガタ。…静かに開かない。
おいおい…、いつもは静かにすーっと開くじゃないか?!
何で今頃になって急に! 欠陥住宅かよ?! もう家にガタが来たのか?! それともロウでも足りなくなんたのか?! ワックスでも塗ればいいのかッ?!
…音としてはわずかかもしれないが、…階段を上がってきた親に気配を察知させないという意味では不安が残る。
……でもこのくらいは何とかなる問題だ。
音がしなくなるように、ちょっと俺が改造するなりの工夫をすればいいだけだ。
とりあえず…隠れるのに成功したとして押入れに篭ってみよう。
………基本的に布団はいつも出しっ放し。
押入れを親が開ける理由はあまり思いつかない。
…それでも、何かの理由で開けることがあるかもしれない。
仮に開けられても、気付かれないようなカモフラージュや改造が必要かもしれない。
でも、そんなものに凝れば凝るほど、…沙都子が隠れるための時間は足りなくなり、音で気配を察知させてしまう可能性は高くなる…。
…………その時、………トイレに行きたくなった。
…トイレ……?!
こんな当り前の排泄行為が……実は致命的だったのだ…。
トイレは一階にしかない。
トイレを家人に気付かせずに使用するなんて絶対に無理だ。
……俺の部屋で済ませられるように、携帯便所(まぬけに言うならおまるとかのことだ。…沙都子は嫌がるだろうな)の準備がいるかもしれない。
…でも、…糞尿の臭いって、……結構きつい。
多分、敏感ならこの部屋に入らなくても異臭に気付く。
……風呂はまだいいさ。
家族の不在の隙を突くこともできる。
でも、トイレだけはどうにもならない。
…おなかが痛くなったとき、両親が一階をうろちょろしていたら…どうにもならない…!
……この頃には…いつの間にか、両手が頭に爪を立てていた。
真っ暗な押入れの中で、膝を立てて座り。……顔を膝に埋め、両手で頭を掻き毟る。
…考えれば考えるほどに、矛盾が出る。
…考えれば考えるほど破綻し、
…悩めば悩むほどに………自分の無力さを思い出させられるのだ。
窮屈なところにずっといたので、だんだん背骨が痛くなってきた。
でもその痛みは、俺が沙都子をかくまったなら、強いねばならない痛みなのだ。
…こんな暗くて狭くて、…息苦しい場所での生活を…ずっと。
それでも、叔父の下で虐められている生活よりはずっとマシだと、…思いたい。
……息苦しくなり、…俺はとうとう根を上げ、押入れから這い出た。
時計を見ると……なんと、もう午前3時半。
……信じられないくらいに時間の経過が早かった。
それを認めると、わざわざ時間に合わせるかのように、強烈な眠気が襲ってきた。
その抗いがたい力に負け、…布団の上にばったりと倒れこむ。
…くそ、このまま寝ちゃうわけには行かないぞ。
……俺が無駄に時間を過ごせば、それは結局、様子見を選んだ魅音たちや監督とまったく同じことになってしまうのだ。
俺は…他の誰よりも、一分一秒でも悩み、考え、…沙都子を救い出すための方法を考えなくてはならない…。
………何かいい方法はないか。
…何かいい方法はないか。
…そんな独り言だけが、螺旋のようにぐるぐると渦を巻き、……次第に俺の意識を飲み込んでいった………。
意識を失う最後の一瞬、考える。
……俺が今夜考えたことは確かに盲点の多いものだったが、…発想は決して悪くなかった。
……明日、この大胆な策をみんなに提案してみよう。
……魅音にも出来る協力があるかもしれないし、意外に鋭いレナがいい提案をしてくれるかもしれない。
………そして何よりも。
…みんなで協力して、……沙都子を救うことを再確認しなくてはならないのだ……。
………………………………眠りの誘いに負ける自分が情けない。
………すまん、…沙都子…。
■寝坊の朝
……………天井が、…ぼんやりと見えてくる。
……暑い。
……全身に薄く、…じっとりとした汗をかいている。
………部屋にしみこんでくるセミの声が、…何だか頭をきしませる。
「………………あ……れ…。………今日、……日曜日じゃ、…ないよな……。」
今日が平日であることを思い出し、…急に意識が覚醒する。
それから、今さらのようにガバッと跳ね起きた。
時計は……10時ちょっと前。…完全な、遅刻だ。
…のこのこと下に降りて行ったらお袋に怒られるな。……でも、仕方ない。
時間割を軽く見直してからカバンの中身を適当に詰めなおす。
手早く着替え、階下へ降りて行った。
「……………………………。」
両親の気配がまったくなかった。
……二人してどこかへ出掛けたのかもしれない。
つまりこうだ。
…朝、俺はきっとお袋に一度起こされたのだろうが、記憶もなく寝直してしまったのだ。
…両親は俺が登校したものと思い、出掛けてしまった。……そんなところだろう。
…玄関に行って見ると、案の定、鍵が掛けられていた。
正解みたいだな。自分の推理の正しさを立証しておく。
親がいないことがわかると、急に焦って登校する気持ちが薄れていった。
食堂に残された食事がひとり分。
……俺の分だろう。
…コップに注がれた牛乳はとっくにぬるくなっていた。
……この食事を、沙都子の分が用意できなくて。…昨日の俺は、泣いた。
いや、…思い出せば、それは何も食事に限ったことではなかったのだが…、そもそも、俺一人がどうにかして、沙都子を引き取れるなんてレベルじゃなかった。
……人間ひとりを救うって、何て重いんだろう。
俺はテレビや漫画でたくさん見たり聞いたりしてきたあの、…仲間を助ける、絶対助けるなんていう心地のいい言葉が好きだった。
…だから、そんな気持ちよさが得たくて、あんなにも容易く、絶対助けるなんて言葉を口走ってしまったのだろうか…?
いや、…断じてそんなことはない。
……助けられないのが現実だから。
だから仕方がない、見ているしかないなんて、…そんなの、大人な考え方だって思いたくないから。
……今日は、沙都子は登校しているだろうか…?
だが、すぐにその問いはそんなに意味がないことに気付く。
……登校していたっていなくったって、…沙都子の置かれている境遇にはなんの変化もないのだ。
俺にも救えず、誰にも救えないなら。………ただ、奇跡を祈る他ないのだ。
「……………俺たちは、…無力、……か。」
登校という曖昧な目的を掲げ、…のろのろと靴を履き、玄関を出た。
ほんの2〜3時間寝過ごしただけなのに、日差しも空気も、いつもの朝とまったく変わっていた。
……そりゃそうだ。少なくとも、10時をまわったらもう朝とは言わないよな。
………いつもの通学路で学校に行く気がしない。
最終的には学校に行かなければならないのだが、積極的に到着するための最短ルートを選ぶ気になれなかった、というのが正しいのか。
…もっとポジティブに言うなら、ひとりで歩きながら考える時間が欲しかったというべきだろう。
学校には行かなくちゃならない。…沙都子の安否を確かめるためにも。
だけど、……俺はまだ何も思いついていないのだ。…昨夜から、何も。
…だから、家を出て向かう道はいきなり逆方向だった。
…こっちへ行くと、レナの家の側を通って、…ダム現場の側を通るな。
……結構な遠回りになる。
俺は、どのくらいの遠回りになるか試算し、その結果に満足すると歩き始めた…。
……ダム現場には、レナに連れられて何度か来たことがある。
ダムの一角が粗大ゴミの不法投棄の溜まり場になっていて、レナの大好きなガラクタ漁りが存分にできるからだ。
……あれさえなけりゃ、ごく普通の女の子で通るのに。(……他にもない方がいい要素がいくつかあるような気がするが…、まぁいいか…)
視界が一気に開けると、強い風にあおられた。………何も遮蔽物のない、…広大なダム現場だった。
…来てよかったかもしれないと思った。
…少なくとも、狭い自分の部屋でうじうじと考えているよりは、こういうところで考えた方がまだしも健康的かもしれないから。
大きく深呼吸をして、雛見沢独特の濃くて冷たい空気を肺いっぱいに詰め込む。
……チリン、チリーン。
反射的に振り返る。それは自転車のベルの音だった。
…自分の立っている場所から考えて、通行の邪魔だから鳴らされたとは思わない。…俺に用があって鳴らされたのだ。
「やぁ、申し訳ないね。君、雛見沢の人だよね?」
「……………そうですけど。」
この人は……、顔を何度か見たことがある。
……そうだ、思い出した。
……東京に住んでるフリーのカメラマンの富竹とかって言う人で、季節のたびに熱心に雛見沢に訪れては撮影をしてる…なんて話を魅音辺りに聞いたような。
「古手神社って、ここからどう行けばいいか、教えてもらえないかい? マップを宿に置いてきちゃったみたいでね。困ってたんだよ。」
「ここから神社ですか? ……………んん、」
頭の中で位置関係は理解できるが、その道筋を口で説明するのは難しい。
面倒くさいことを聞かれたな…と少し嫌にも思ったが、学校を遠回りする口実ができたことに気付くと、すぐにその気持ちも薄れた。
「教えてもいいですけど、……ちょっと口で説明するのは難しいですよ。…一緒でよければ連れて行ってあげますけど。」
「え?! それはかたじけないね。助かるよ!
…………でも、いいのかい? 君の用事は。」
富竹さんは、俺が学生で、こんな時間にこんなところにいるのが不相応なことに、ようやく気付いたようだった。
俺は気にしないで下さいと、さらっと言うと背中を向け、古手神社へと歩き始めた。
富竹さんも慌てて自転車を回し、俺の後についてくる。
「あっはっは、ごめんごめん。気にしないでくれよ。男には組織を離れて一匹狼になりたい時もあるんだからね。」
…さすがはアウトローのフリーカメラマン。そういう風に理解してくれるとこっちも気楽だ。
「僕は富竹。フリーカメラマンさ。専門は野鳥と風景。まだまだ無名だけどね。」
ただ神社に案内するだけの関係で、自己紹介というのも滑稽な話だが、名乗られた以上、自分も名乗らないわけにはいかないしな。
「前原です。…まぁその、よろしく。」
「前原くんかい! よろしくね!」
何だか能天気そうなおっさんだったが、…昨夜から沙都子のことで頭を悩ませ、窒息しかかっていた俺には、なんだか心地よかった。
道中、富竹さんは、雛見沢の自然がいかに貴重で、珍しい野鳥の宝庫であるかを聞きもしないのに延々と説明してくれた。
…中身に興味がないが、楽しそうなので口を挟まずに放っておくことにする。
「この石段をあがれば神社の境内です。」
「ありがとう! 助かったよ! …………うぅん、…ちょっと遅刻しちゃったかな。」
富竹さんは独り言を言いながら自転車を脇に停め、石段を早足に登り始める。
…………腕時計は持っていないが、腹時計から推測するに、まだお昼少し前。
…ここから学校はそんなに離れていない。
………もう少し時間をつぶしてもいいかもしれない。
そう思い、富竹さんの後を追うように俺も石段を登る。
長い石段を登ると………こんな村には立派すぎる境内が広がっていた。
……富竹さんは…あぁ、いたいた。
…どうやらここで待ち合わせをしていたみたいだな。
それで道に迷ってすっかり遅刻というわけだ。…待ち合わせの相手らしき女性にぺこぺこと頭を下げている。
その女性と…目があった。
■富竹&鷹野
「………………あら。前原くんじゃない? こんにちは。今日は学校はお休みかしら?」
「あれぇ? 何だ、前原くん、付いて来たのかい…?!」
「べ、別にそんなつもりはないですよ。…ただ、ちょっと時間潰しがしたかっただけです。」
「あらあら。…重役出勤とは優雅なものねぇ。さすがは有名人、今から大物ぶりを発揮してること。」
…俺って有名人なのか??
…そう言えばこの女の人にもいきなり名前を呼ばれたし。
……どういう意味で有名なのか微妙に気になるぞ。
「あら、私の名前はまだ思い出せない? ……くすくす。」
「鷹野三四さんだよ。村の診療所に勤めてる。前原くんは健康そうだから、あまり病院のお世話にはならないかな?」
「くすくす…。せっかくお知り合いになれたんだから、今度病気か何かで来たら、ちょっぴりだけサービスしてあげようかしらね。…くすくす!」
鷹野さんと名乗った女性には…ちょっと記憶がなかった。
…何度か道ですれ違ったかもしれないが、こうして話をするのは初めてのはずだ。
まぁ、この雛見沢で、俺が知らない相手なのに、相手が俺を知っているなんてことはそんなに珍しくない。
…鷹野さんをふと見ると、バッグと一緒にカメラも持っていた。
「……ひょっとして、二人とも写真仲間ですか? あぁ、それで待ち合わせを?」
「仲間だなんてとんでもない。素人の私に、ジロウさんがやさしく手ほどきをして下さるだけなのよ? ねぇ…?」
「ん、…んはっはっは…! そ、そんなことないよ! 鷹野さんは飲み込みが早いからね、僕の指導なんかなくても、実に自由に撮影をこなすよ! 本当さ。あっはっはっは…!」
………どっちに主導権があるのやら。
…まぁその、見ていて退屈しないカップルに違いない。
「いよいよ明後日が綿流しね。今年はいい写真が撮れるといいんだけど。」
「明日の設営シーンからレンズに納めるつもりだよ。そういう準備風景からも、お祭りの活力を捉えたいんだ。」
あ、…思い出した。綿流しとか言う村祭りは、明後日、今度の日曜日に行われるんだっけ…。
「雛見沢の守り神、オヤシロさまに感謝するため、古い布団を積み重ねて供養する…そんなお祭りでしたっけ?」
「あら、ご名答。…前原くん、引越してきたばかりにしては博識ね。……そう、オヤシロさまに感謝するための、お祭り。……………ふふ。」
鷹野さんは何だか含みのある笑いをしたが、オヤシロさまに感謝するためのお祭りのどの部分に笑うべき箇所があったのかは教えてくれなかった。
「……やれやれ…、鷹野さんは。
………でも、どうだろうね、今年は。」
「二度あることは三度ある。そしてもう四度あったのよ? 五度目がないと言える方が何の根拠もないと思うけれど…?」
そのささやかな会話の意味を、俺は知っている。
…綿流しのお祭りの日に、
オヤシロさまの祟りと呼ばれる怪死が必ず起こり、鬼隠しと呼ばれる失踪が必ず起こる。
そんな怪現象はもう4年も続き、…5年目の今年も、いよいよ明後日にその綿流しを迎えようとしている…。
「村の仇敵に祟りを成す、オヤシロさまか。………今年もあるとして、…果たしてその矛を受けるのは、…誰になるだろうね。
…あ、僕はここに来るたびにちゃんとお参りしてお賽銭を入れてる! 僕じゃないことは確かだよ。」
「…あらそう? 近年のオヤシロさまは異邦人には特に厳しいって話よ? 引越してきたばかりとは言え、前原くんはちゃんと雛見沢に住んでる村人だけど…。ジロウさんは、毎年来るだけのただのよそ者。………さぁて、…今年は見逃してもらえるかしら。」
「ひ、ひどいなぁ! あっはっはっはっは…!」
富竹さんだけ引きつった笑いだったが、とりあえず俺も含めみんなで笑った。
……ダム工事に関連する人間を次々に祟り殺した、オヤシロさま。
ダム工事の監督を殺し、
賛成派の沙都子の両親を殺し、
…その翌々年には叔母まで殺した。
鬼隠しも祟りの一部だとするなら、悟史もまたその被害者だ。
……こうして考えると、
連続怪死事件の中では、北条の姓を持つ者の占める割合が圧倒的だ。
怪死・失踪の内の半分は北条家の人間ということになる。
…北条家は雛見沢の村人だ。
……村人でありながらダムに賛成していたと言う意味で、オヤシロさまは特に強く罰した(祟った)ということなのだろうか。
「………………沙都子の叔父が帰ってきたって話は、聞いてますか?」
富竹さんと楽しそうに話していた鷹野さんは、俺が突然話しかけてくるとは思わず、きょとんとしていた。
「あ、ごめんなさい。今、何て?」
「いえ、…………沙都子の両親が祟り殺されて、叔母も祟り殺されて。…だったら順番的には、……次は叔父の番かなって思ったんです。…去年の祟りで叔母が無惨な死に方をし、…それに恐れをなして町に逃げていたヤツですよ? ……オヤシロさまは確か、村を捨てて逃げ出そうとするのは許さなかったですよね…?」
…ここまでねちっこく言うつもりはなかった。
ただその、…口を開いたら次々に言葉があふれ出してしまっただけだ。
………そう。オヤシロさまの祟り。
……もちろん祟りなんて非現実的なものは信じないが、…村の仇敵に対して毎年、不幸な事故や事件が起こっていることだけは事実だ。
始めに鷹野さんが言ったように、…すでに四度もあった。五度目がないなんて誰にも言い切れない。
「…………ふぅん。……面白い説ね。確かに、過去の犠牲者を見れば北条姓が多いのは事実。……その延長として考えれば、今年は叔父が死ぬか消えるかする可能性は…否めないわねぇ。…くすくすくす。」
「…もう、鷹野さんは。起こるかもしれない不幸を笑うのはよくないよ。」
「うふふふふ、ごめんなさいね。でもオヤシロさまの祟りは私のライフワークだし。くすくすくす…。」
どことなく知的かつミステリアスな雰囲気を持つ鷹野さんだが、…そのライフワークもまた、ミステリアスそのものだ。
……きっとこの人、不可解な超常現象とか大好きなだろう。
「……鷹野さんはオヤシロさまの祟りに詳しそうですね。……ずばり、どうでしょう。…北条の、あの帰ってきた叔父が祟りに遭う可能性は…?」
「………あら、何? …その叔父さんを殺したくて仕方がないみたいねぇ。くすくす。」
「……そ、……そんなんじゃないです…。」
「あ、あははははははは! うぅん…どうだろうねぇ。…神さまの気まぐれ次第だからねぇ…。」
「…前原くん。サンタクロースの正体は知ってる?」
え? 突然、わけのわからないことを聞かれ、即答できず詰まる。
「なぁに、知らないの? …………パパよ。みんなの家のパパ。」
「……な、なんだ。…そういう意味ですか。そりゃそうですよ。どんなものの正体だって、最終的には人間です。だってここは人間しかいない世界なんですから。全ての現象は人間で解明できるはずです。」
変な言い方になってしまったと思ったが、鷹野さんはその返事がまんざらでもなさそうだった。
「あら、…その年齢の内からそれに気付けるなんて、なかなかね。その通りよ。人間の世で起こる現象は全て人間の都合で人間が起こす。……では前原くん、もう一度尋ねるわよ。今度はサンタクロースじゃなくて、
……オヤシロさま。
…オヤシロさまの祟りの正体は…何かわかるかしら?」
鷹野さんが、…一歩近付き、俺の瞳を覗きこみながら…そう問い掛けた。
……サンタクロースの正体がその家の子供の親で、
その伝説を持てはやすのがクリスマス商戦で儲けようとする企業の戦略であるなら、
………オヤシロさまの祟りの正体は?
「………え、…………っと、…………。」
「あら、…あなたが言ったのよ? ここは人間しかいない世界だって。全ての現象は人間で解明できる、って。……くすくす。」
「…………前原くん。ここだけの話だよ? …鷹野さんはね、オヤシロさまの祟りを巡る一連の連続怪死事件をね、……雛見沢の村人が何かの儀式に基づいて行っている人為的殺人事件でないかと見ているんだよ。」
「誤解しないでね。私は、それに至る教義や思想、文化を民俗学的見地から研究することがライフワークなの。別に犯人が誰かなんてことにはまったく興味がないのよ? …そこだけ勘違いしないでちょうだいね。」
…えっと……、……鷹野さんが、とんでもないことを言っていることだけはわかる。
……発言を食事に見立てたなら、大皿いっぱいの料理をアヒルの口に無理やり詰め込むかのように、俺の口に詰め込まれた…そんな感じ。
「そもそもそれを理解するためには、雛見沢村が鬼ヶ淵村と呼ばれていた古代にまで遡らなければならない。鬼と血を交わらせたと信じる半人半鬼の仙人たちが、」
鷹野さんが、自分の土俵になったとばかりにさらに身を乗り出してとんでもない話をし始めた。
……それに俺が気圧されているのに気付き、富竹さんが割って入ってくれた。
「鷹野さん鷹野さん。その話をいきなり前原くんにしても………。ほら、彼も面食らってるよ?」
「………………あら、…そう? 続きに興味があったらいつでも言ってね。前原くんくらいの年頃の男の子が好きそうな、猟奇的なお話がてんこ盛りなんだから。」
「……あ、ありがとうございます。気が向いたらその内に…。」
とりあえず、無難にやんわりお断りしておく…。
富竹さんに水を刺され、鷹野さんはちょっと不満そうだったが、とりあえず話を中断してくれた。
でも…興味深い話だったのは事実だ。
………怪奇現象だと思っていたオヤシロさまの祟りが、…実は村人が起こしていた…殺人事件。
「まぁ、その、……常識的に考えればそうですよね。…祟りなんかで人が死ぬはずない。…誰かが祟りになぞらえて殺してるに決まってます。」
「そうね。…それが誰なのかは……くすくす、研究しない方が無難ね。」
「…………鷹野さんは、知ってそうですね。…証拠はないまでも、…確信を持っているくらいには。」
「あら、……どうしてそう思うのかしら?」
漠然とそう思っただけだ。
……この人の異常な研究熱が、タブーだから、無難だからというだけの理由で治まるなんてとても思えない。
この人は…リスクとかタブーとかの、禁忌の深遠の淵を歩くのが楽しい人なんだ。
「それくらいにしなよ、前原くん。…せっかく助けてあげたのに、またオヤシロさまの祟りの話が始まっちゃうよ? ………う〜ん、…涼しい内に散策に行きたかったのになぁ…。」
俺が妙な話で盛り上げてしまったため、予定してたデートができなくて富竹さんはちょっぴり残念らしい。
………だが、今は…ほんの少し聞いてみたいことがある。
……つまり、…………。
…あの、沙都子の叔父は、…今年の祟りに選ばれるかどうか、…ということだ。
…もしも…………………なら。……去年の奇跡は、もう一度起こる。
…物騒な事件は再び起こるが、…沙都子は不幸な境遇から再び解放されるのだ。
「……………まぁ。もちろん、恐らくあの辺の人たちが関わってるんだろうな〜っていう憶測は持ってるわよ? 鬼ヶ淵村の歴史を研究していれば、自然と至る必然的結末…。」
「……それは、…誰です?」
…俺は、それを知ってどうするんだろう。
……自分の内側に潜むもうひとりの自分に問い掛けるが、…返事はない。
「熱心ねぇ。…それを知ってどうするつもりかしら。」
「…………別に。」
「……知ったら、あなたにも危険が降りかかるかもしれないわよ? 五年目の祟りは、あなただったりして…。…くすくす。」
タブーを弄ぶ鷹野さんは、これ以上面白いことはないみたいに満足げに、…小悪魔的に、笑いかける。
……俺をからかってるつもりなんだろうが、それに付き合うつもりはまったくなかった。
「………ふーん。…偉そうな能書きでもったいぶってますが、…鷹野さんだって、よくはわかってないみたいじゃないですか。」
鷹野さんの持って回った言い方に、少しのいらつきを感じた時、……その感情が、まるでザルを抜ける流水のように、…そのまま口から出た。
……そのあまりの感情の直接的な吐露に、自分でも驚く。……もちろん、驚いたのは俺だけではないが。
「……………あら。…言ってくれるわね。坊やなのに挑発までできるの? 意外に野性的ね。…………嫌いじゃないわよ、そういうの。」
ちらりとのぞいた鷹野さんの舌は、…きっと蛇のように細長くて、先端が割れているに違いないと思った。
「ならいいわ。……教えてあげてもよくってよ。」
「……………………………。」
「………でも、教えてあげる前に3つ誓ってもらうわ。…私が何を教えても、後悔しない。口外しない。私が言ったなんて絶対言わない。」
固い唾を飲み込んでから、…頷く。
富竹さんは、あ〜あ…とでも言わんばかりの仕草で、曖昧に苦笑いしながら、煙草に火を付けていた。
「教えて下さい。……祟りを下しているのは、誰です? 祟る相手を選んでいるのは……誰なんです?!」
…そこまで口にして、…俺はようやく、なぜ知りたがっているのかに気付くのだった……。
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■お昼の登校
校庭では大勢のクラスメートが自由に遊んでいた。
昇降口からは、つま先を蹴って靴を履きながら飛び出してくる子もいる。
…昼ごはんを食べ終わって丁度くらいの時間のようだな。…時間調整の意味では、成功だったか。
「あ、……前原さぁん! 大丈夫なんですか…?!」
俺の姿を認めた女の子たちが駆け寄ってくる。
…まぁ、そうだよな。
普通、朝いなかったら、その日は欠席したと思うよな。
「まぁその、…遅刻さ。気にしないでくれ。……それより、……沙都子はどうだ。…今日は来てるか?」
女の子たちは顔を見合わせる。
…その表情が薄っすらと曇るのを見て、返事を待たずに答えを知る。
……沙都子は結局、…今日も欠席した。
結局、3日も欠席した後、復学したのは1日だけ。
そしてまた、休み。……明日、登校してくる保証はない。
「………うん。でも、沙都子ちゃんから電話があったって先生、言ってました。」
「風邪って言ってたよねー。」「みんな家に帰ったらうがいをちゃんとしましょうって先生言ってました。」
……おいおい、先生。
…あんたちょっと鈍感過ぎないか…? あんた教師だろ? 教え子のSOSってヤツを、もっと敏感にキャッチしてやれないのかよ…?
でも、…キャッチしたところで、何も期待できることはない。
…先生にできるのはせいぜい家庭訪問。
…沙都子を叔父の下から保護するなんて権限はない。…どうあれ結果は公的機関の様子見と同じ。
………沙都子の叔父を不愉快にし、…沙都子の受難をますます色濃くするだけ…。
…なら風邪ってことが、一番いいじゃないか。
「………そうだな。みんなも風邪に気をつけろよ。…もう行っていいぜ。昼休みはまだ長いぞ。」
女の子たちは、わーっと校庭に散って行った。
「…あ、……圭一くーんッ!!!」
教室の窓から、レナが大声を張り上げながら手を振っている。
…遅れて、魅音も梨花ちゃんも顔をのぞかせた。
「……圭一までお休みしましたから、…とても心配しましたのですよ。」
「でもよかった。顔色もそんなに悪くないし、とりあえず元気そう!」
…顔色が悪くないと断じられることにちょっと不愉快さも感じたが、あまり気にしない。
「……どしたの? 寝坊?」
「…………遅刻は遅刻だろ。…それとも電車の事故で遅刻したとでも言えば許してくれるのか?」
「………寝坊?」
…魅音がちょっとしつこい。
委員長ヅラして一丁前に俺の遅刻を咎めてるつもりだろうか。……悪意はないかもしれないから、あぁ寝坊だと相槌を打っておく。
「まだね、お弁当あるよ! みんなで食べよ! やっぱりね、圭一くんがいないと盛り上がらないよね!」
「……沙都子は、…休みなんだな。」
…明るさを演じていたレナも、さすがに堪えきれず、表情を暗くする。
「…………………………………。」
「朝、電話があったらしいよ。…風邪がぶり返したから、また休むってさ。長引くかもしれないって言ってた。」
「……かわいそうなので、みんなでお見舞いに行こうという話が出ていますのですよ。」
「…何言ってんだよ梨花ちゃん。」
うれしいことでもあるかのように、満面の笑みを浮かべている梨花ちゃんが気に入らなくて、水を刺す。
「沙都子が風邪なんかじゃないことは、俺たちが一番知ってるだろ。………例え冗談でも、二度とそういう白々しいことを言うな。…次は怒るからな。」
…………梨花ちゃんは、眉間にしわを寄せてから…俯き、……ぽつりと謝った。
「………圭一くんだけじゃないよ。……みんな、…辛いよ…。」
「俺だけが悩んでるなんて思ってない。でも、みんな何もできないのは本当だろ。」
「…………………それは、…そうだけど。
…で、…でも…!」
…このやりとりを続けたらまた喧嘩になる予感がした。だから先に謝った。
「ごめん。…謝るから今の話は忘れてくれ。……辛いのはみんなも同じだよな。…あぁ。」
でも、沙都子を救うために悩みぬいたのは、少なくとも俺だけなことは明白だった。
…少なくともみんな、昨夜はいつも通りの時間に眠ったろう。快眠だったろう。……夜を徹して、……必死に考えてたわけじゃないのは間違いない…。
「………登校してきていきなりこんなこと聞いて、気を悪くするかもしれないけど。…圭ちゃん、今日遅刻したよね? …沙都子が今日欠席したこととは関係ある?」
「はぁ…?! 魅音お前、何の話してるんだ…?」
「…圭ちゃんはたまに猪突猛進なところがあるからね。
……今朝、沙都子と一緒に圭ちゃんも休んだ時。……沙都子を家から連れ出して、どこかにかくまったんじゃないかって、本気で思った。」
……簡単に言うな。
それが出来たら、昨夜の時点で実行してる。
…そのもっとも単純な方法が、いかに困難か、…お前らは考えたこともあるまい。
俺は…それを昨夜、ずっと考えた、夜が白むまで考えた。
…その上で俺は、……そんなマネが到底できないことだと、…結論した。
「………馬鹿かお前。…人間ひとりかくまうなんて、…できるもんかよ。」
「………………そうだね。…ごめん。気を悪くしたなら謝るよ。」
「別にいいよ。……それよりメシにしようぜ。腹が減ってんだ。」
鞄から俺の弁当箱を取り出す。
みんなが俺の座る場所を空けてくれた。
「前原くん…! 今、来たんですか?」
これからまさに箸を付けようというところで、………先生だった。
「あ、…はい。……遅刻してすみません。寝坊しまして。」
「………………………………。」
……何だよ一体。
先生までもが、…何だか複雑な目で見ていた。
「お弁当を食べたら、委員長と前原くんは職員室に来てください。…ちょっとお話がありますので。」
………沙都子がらみの話なんだろうな、と思った。
先生はそれだけ告げると、廊下へ去って行った。
「……弁当を食うまでもないだろ。…行こうぜ、魅音。」
「ん、………そうだね。」
魅音と顔を見合わせ、頷きあい、席を立った。
「………沙都子ちゃんの話、…だろうね。」
<レナ
間違いないだろう。
…風邪で休んでることにはなってるが、クラス中がそれとなく知っている真実。
……それが先生の耳に入っていないとは思わない。
「……………ボクが、ずっととぼけるので、…ボクに聞くのをやめたのでしょう。」
………先生に打ち明けても、余計事態はこじれるだけ。……そう思ってしゃべらなかったのか。
………それとも、…沙都子の親友として、………沙都子が叔父の虐待を……兄が帰宅のための試練だと思って、……耐えようとしていることを知っているのか。
「……どうする? …今のうちに、私たちなりの統一見解を出した方がいいかもね。」
「…………梨花ちゃんはどうしたい。」
「………………みぃ…。」
沙都子にもっとも近しい、親友である梨花ちゃん。
……俺がいくらにーにーを気取ったって、…梨花ちゃんと沙都子が共に過してきた期間には遠く及ばない。
…だから、その意見はもっとも尊重できると思った。
「…………俺は、…沙都子がどうして叔父にいじめられてるのを耐えてるか、知ってる。」
みんながはっとして…俺に振り返る。
「……昔の沙都子は、…虐められると、…きっと泣きながら兄の背中に隠れてた。……でも結局、…そのせいで兄が逃げてしまったんだと、……沙都子は思ってる。」
「………………………………。」
<梨花ちゃん
「……………誰に、…………聞いたのかな…?」
「監督、か…………。」
<魅音
俺は静かに頷く。
「……沙都子は、叔父のいじめに耐えれば兄が帰ってくると信じることによって、…今を耐え抜こうとしてるのかもしれない。でも、…そんな思い込みと悟史が帰ってくるのはまったく無関係なことだ。………沙都子には悪いが、…それが現実だ。」
みんな、…俯く。
………みんな、…同じことを考えているのだ…。
「………沙都子は、…多分、誰の助けも喜ばない。……自分ひとりの力で耐え忍びたいと思ってる。………………でも、…それを尊重してやるのが、…果たして正しいだろうか…? ………俺は思わない。…一時、沙都子に恨まれることになろうと、……沙都子の意思に関わらず助けるべき時があると思う。………俺はそれが、……今じゃないかと思ってる。」
……俺はそこで、昨日沙都子の家へ行き、見たこと、感じたこと全てを話した。
「……………圭一くんは、…話すべきだと思ってる、…ってことだね?」
「もちろん、公的機関への通報で沙都子が保護されるのが確定してからだ。…その確認のない内は、沙都子をかえって危険にさらすこともありえるからな。」
「………難しいね。…先生との会話の中でその確約ってのが取れるわけ?」
自信なんかない。……でも、やらなきゃならないだろ。
そんな中、……梨花ちゃんが、発言を求めるようにすっと…挙手した。
「……圭一に、…任せますです。」
「え、……いいのかい梨花ちゃん…。」
<魅音
「……圭一は、………ここにいる誰よりも、沙都子のことを考えていますです。…その圭一が、…話すべき時だと判断したなら、ボクは文句なんか言わないのですよ。」
「…ありがとう。……魅音もレナも、それでいいか?」
魅音は頷くべきか、少し躊躇していたようだった。
…でも、レナが強く頷くのを見て、覚悟を決めて頷いてくれた。
「よし。………行くぞ魅音。」
「……うん。」
■職員室
職員室には知恵先生しかいなかった。
…校長先生の姿はない。
……黒板の日程表を見ると、校長のところに「研修・直帰」と書かれていた。
…校長先生は正義感が強すぎる人だ。
……沙都子の問題は、正義感なんて曖昧なものでは解決しない。……不在は幸運かもしれない。
先生は、俺と魅音が来たことを認めると、カレー弁当に蓋をして、食事を中断した。
「そこへお掛けなさい。」
校長先生の席の正面にある、応接椅子に掛けるように言われる。
……こんな椅子に座るのは転校手続きで来たとき以来だった。
魅音と二人して、窮屈そうに座っていると、…ノートとボールペンを持った先生がやってきて、正面に座った。
「前原くん、今日は午前中お休みでしたけど、何かありましたか?」
「すみません、寝坊です。」
「……………本当に?」
「……先生に嘘言っても。」
先生は問い詰めるように、少し目を細める。
……確信する。
…沙都子の話をしようとしているのだ。
「…まず二人とも知ってると思いますけど、お友達の北条さんがここしばらくお休みしてますね。」
魅音も俺も特に相槌は打たなかった。…でも先生はそんなことは気にせず先を進める。
「………何か知っていますか? クラスで、良くない噂をしている人たちがいます。」
魅音はまるで説教を聞いているように、下を向いて黙っていた。
………俺にちらりと目線を送る。……さっきみんなで決めた。…俺に、任せるという合図。
「委員長? 前原くんも。……先生は別に怒ってるんじゃありませんよ? もしも知っていたら教えてほしいとお願いしているだけです。」
「…………先生。先に、こっちから質問してもいいですか?」
こんな切り返しは想定していなかったろう。…先生が何事かと驚く。
「……クラス中で、沙都子のどんな噂が飛び交ってるかは知りませんが。…仮に、その噂が真実だったとして、……先生はどうするつもりですか?」
「ど、…どうするもこうするも。…もしも、その、……叔父さんに虐められているという話が本当なら放って置けません。」
「放って置けないって、具体的にはどう放って置けないんですか?」
先生が目を吊り上げる。……ちょっと喧嘩腰な言い方になったか。
「前原くん! 先生はまじめにお話してるんですよ!!」
「……先生こそ。…俺はすごくまじめな話をしているんです。まず、答えてください。……真実だったとして、どう放って置けないんです?」
先生は…二三呼吸置いてから…ゆっくりと口を開いた。
「ま………まず。状況を確かめるために、北条さんの家を家庭訪問します。」
「叔父に怒鳴りつけられて追い返されるかもしれませんね。……まぁいいや。…仮に叔父と沙都子に会えたとします。それで?」
「そして真偽を聞きます。その事実が確認できたなら、…指導します。」
「指導って曖昧な言い方はやめて下さい。具体的には何をするんですか?」
…これだけ喧嘩腰な言い方になっても、先生は感情をぐっと抑え、落ち着いて話を聞いてくれた。
…………いい先生だな、と思った。
…知恵先生という人は、…本当に生徒のことを考えているいい先生なのだ。
………でも、…沙都子を救ってやれる力や権限は、何もない。
正義感の赴くままに暴走し、……事態をややこしくしかねない。
………先生は腕組みをし、…しばらくの間、精神統一でもするかのように目を閉じて黙っていた。
……そして再び目を開いた時、…その目は初めて見る厳しさになっていた。
「児童福祉法という法律があります。この法律で、児童に対する虐待は何人に対しても認められていないことが明記されています。」
「らしいですね。…それで?」
「県の児童相談所へ通報します。さっき前原くんは追い返される、と言いましたね。児童福祉司は必要に応じて警察官を同行させることができます。恫喝には絶対に屈しません。」
「その福祉司というお役所の人は、連絡して書類で申請して何日後に助けに来てくれるんです?」
「即日です。彼らの仕事は、児童の安全を緊急に保護することですから。」
「知ってますよ。緊急性があると判断された場合ですよね。…認められなかったら、…先生と同じ。指導をして、様子見をするんですよね?
見てるだけ。沙都子の叔父の機嫌を悪くして、沙都子をその場に残したまま、それっきり。」
「…………圭ちゃん、…ちょっと言い過ぎ…。」
「嘘はついてないだろ。去年だか一昨年だかに児童相談所が来た時がまさにそうだったんだろ? その結果どうなった? …俺よりも魅音や先生の方がよっぽどよく知ってるだろうが!」
…魅音に言われるまでもなく、言い過ぎだった。
…もう滅茶苦茶の喧嘩腰。
……沙都子が絶対に救われるという確約を得てから話すはずなのに、もう最初から話してるも同然だ。
先生は時計を見てから、立ち上がり、校長席の受話器を取った。
「…………………もしもし。内線の3455をお願いします。」
「……いいの、圭ちゃん? ……本当に、……大丈夫かな…。」
もう遅い。……もう賽は振られてしまった。
……祈るしか、ない。
「あ、お世話になっております。雛見沢分校教諭の知恵と申しますが、指導室の渡辺主事はいらっしゃいますでしょうか? ………はい、ええ。…ちょっと急用がございまして、至急、校長と連絡が取りたいのですが。………はい。お願いします。緊急とお伝え下さい。よろしくお願いします…。」
先生は受話器を置くと、……よく俺がするみたいに、頭を後ろへ反らしてから深呼吸をした。
「……二人にもう一度だけ聞きます。……クラスのみんなの噂は、全て本当なんですね?」
「…………………はい。…俺は昨日、沙都子の家に行って、…実際にどういうことになっているのか、見ました。」
「あとは先生に任せてください。沙都子ちゃんは、きっと先生が何とかします。」
「………何とか? いい加減なことを言わないで下さい。何とかじゃない、絶対でなければならない!!
もしもまた様子見なんてことになったら…、先生はどう責任を取るつもりですかッ!!」
俺が怒鳴っている間に電話が鳴った。
先生はすぐに受話器をひったくる。
「…もしもし! あ、……研修中申し訳ありません。……………はい。実は例の北条沙都子さんの件でお話が。………はい。」
先生は、もう二人は行っていいと、追い払うような仕草をする。
…魅音は出て行こうとしたが、俺は踏みとどまった。
……先生が曖昧ないい加減なことを言わないように、見張る義務がった。…もしも、肝心なことを言わないようなら、…受話器を奪ってでも、真実を話す。
「……………はい。…………………いえ、まだ相談所には。…………はい。……まだ確認はしていませんが、…クラスの子の話では、相当な様子です。」
「相当なんてもんじゃないぞ!! すぐにだ!! 今すぐ何とかしろ!! 通報するならどこへだっていい!! でもな、もしも様子見なんてことになってみろ!! ただじゃ済まさないからなぁああぁあぁあッ!!!」
先生と、受話器の向こうの校長先生二人に怒鳴りつける。
……沙都子が置かれている状況がいかに危機的なものか、…少しでも伝えたかった。
「それはわかっています! ちゃんと伝えますから! 委員長、前原くんを連れて教室に戻りなさい。」
「あ、…はい。
………行くよ、圭ちゃん。あとは先生たちに任せよ。」
「………………………………絶対、…だぞ…。」
最後の最後まで、…先生をにらみつける。
…あの知恵先生が、俺如きに気圧されていた。……ばか、ここは気圧されるところじゃないだろ。…ぐっと頷いて、俺を安心させるところだろ…!
でも、……もう任せてしまった。
…あとは…本当に、祈るしかない。
ピシャリ。……魅音が職員室の扉を閉めた。
■幕間 TIPS入手
■条文
第二条(児童虐待の定義)
「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ)が
その監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ)に対し、次に掲げる行為をすることをいう。
一 児童の身体に外傷を生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
二 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
三 児童の心身の正常な発育を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
四 児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。
第三条(児童に対する虐待の禁止)
何人も、児童に対し、虐待をしてはならない。
平成十二年五月二十四日号外法律第八十二号
<法務・厚生大臣署名>
『児童虐待の防止等に関する法律』
第二条・第三条より
■厚生省統計
昭和XX年度
主たる虐待者(厚生省報告例)
総数 5,352件
実母
2,943件(55.0%)
実母以外の母
203件(3.8%)
実父
1,445件(27.0%)
実父以外の父
488件(9.1%)
昭和XX年度
虐待の内容別相談件数(厚生省報告例)
総数 5,352件
身体的暴力
2,780件(51.9%)
ネグレクト(育児放棄)
1,728件(32.3%)
心理的虐待
458件(8.6%)
登校禁止
75件(1.4%)
性的暴行
311件(5.8%)
■まだ9日目(金)
運命の賽は、投げられてしまった。
…あれだけ、慎重にコインを積まなければかえって危険なことになると戒めていた、公的機関への通報。……それが、こんな、あっさりと。
俺は一時の感情に流されて、……失敗してしまったんだろうか。
……俺は黙りに徹し、…割と落ち着いていた魅音に任せておけばよかったのだろうか。
……カレーの悪口を言う罰ゲームの時、俺が何か言えば余計不利になるから、私に全部任せておけと言っていた沙都子の言葉を思い出す。
…沙都子の言うとおりだったかもしれない。
……直情的な俺は、黙って床を見て俯いていた方がよかったかもしれない。
……でも、…もう嘆いても遅い。
……投げた賽は、もう手の中には戻らない。
できるのは、いい目を期待して祈ることのみだ。
「…圭一くんは、圭一くんにできる精一杯をしたよ。だから、…あとは先生たちに任せよ。…ね?」
「俺にできる精一杯…? …本当に俺が死に物狂いに精一杯だったら、……沙都子を昨夜のうちに連れ出して、どこかの廃屋にでも隠れてる。…そうならなかったってことは、俺は精一杯じゃなかったってことだろ。」
「………………もう、考えるのはよそ? …圭一くん、少し根を詰めすぎだよ。そんな調子じゃ圭一くんまで倒れちゃう。」
放っておいてくれ。……それだけ言い残し、俺はぼんやりと天井を見上げていた。
………知恵先生に、ちゃんと状況は伝わっただろうか。
…公的機関がちゃんと介入し、…今日中に全て解決するのだろうか?
…虐待が認定され、…ちゃんと保護されるだろうか……?
…昼休みの後、午後の授業はほとんど自習だった。
たまに先生は教室に戻ってきたが、すぐに職員室の電話が鳴り、長々と話をしていた。
クラスのみんなも、それが何を意味する電話なのか、…うすうすわかっているようだった。
先生がぱたぱたと教室から戻ってくる。
「…今日は何度も電話で本当にすみませんでしたね。では今日はこれでおしまいにします。委員長、号令!」
「きりーーーーーーーーーーーーつ!」
……先生の表情を見る限り、昼休みの後から曇っている表情はずっとあのままだ。
……あの表情では、胸を撫で下ろすことなど、できやしない。
そりゃそうだ。
…先生が100%状況を理解し、先方にどれだけ熱心に伝えたとしても、……最後に保護を決めるのは、児童相談所という公的機関なのだ。…先生だってそれをわかっているから、………あんな頼りない表情になってしまうのだ。
「圭ちゃん、帰ろうよ。……部活する気も起きないでしょ。」
「あははは。魅ぃちゃん、部活は誰が欠けても面白くないよ。」
……レナの言うとおりだ。
…俺たちは、誰が欠けても、面白くない。
先生がもっと頼もしい表情をしてくれたなら、…俺ももっと気楽に下校できるのに。
………俺は、……………まだ安心してはいけない。
…賽を投げたから、後は祈るだけなんて甘いことを言ってはいけないのだ。
もしも……保護されず、また様子見なんてことになった時に備え、……さらに手を打たなければならない。
……公的手段へは、もう頼んだ。
………あと、………もうひとつ、…頼む価値のある場所がある。
……………………笑い飛ばされるか、…図星で、…俺の命が危険にさらされるかはわからない。
でも、……試す。
「あ、……魅音。今日さ、お前のうちに寄ってもいいか。…お前、漫画かなり持ってるんだろ? 少しまとめ借りしたいんだけどな。」
「え、………? …………………いいけど。」
俺の言い方にどこか影があったので、魅音はすぐに俺の真意に気付いたようだった。
……二人きりで話したいことがある。…そういうことだ。
「魅ぃちゃん、圭一くん! 早く帰ろ〜!」
レナはもう靴を履いて、校庭で手を振っていた。
■魅音への…お願い
……魅音の家は……とにかく何から何まで広大だった。
家自体はどことなく古臭い合掌造りだが、庭と言うか…敷地の規模がとにかくでかい。
……なるほど、雛見沢中を牛耳る大地主というのも頷ける。
魅音は客間に俺を通すと、お手伝いさんにお茶を持ってこさせた。
「へー。さすが金持ちだな。家政婦なんか雇ってるのかよ。」
「私と婆っちゃしか住んでないもの。私だけじゃやってけないよ。」
お手伝いさんは、五時になりましたので失礼しますね…と告げるとツツツ…と慎ましやかに去って行った。
「週に2〜3回ね、婆っちゃの世話とか掃除の手伝いで来てくれてる。3〜4人がローテーションで入ってくれてるんで、大抵、毎日誰かがいてくれるよ。夕方までだけどね。あ、宴会とかがあって、人手が欲しい時には別途に呼んでるんだけどさ。」
……そんな人を雇うくらいの金があるなら、沙都子を引き取ってやってくれよ。
…そう思い睨むと、…俺の胸の内はストレートに魅音に伝わったようだった。
「…………あ、…ごめん。」
「いいよ。…金の問題じゃないことはわかってるからな。」
「………先に行っとくけど、……家はお金持ちかもしれないけど、…私に自由にできるお金はまったくないんだからね…? そこだけは誤解しないでほしい…。」
…何だか俺が魅音をいじめてるみたいだ。
……最近、魅音は俺に謝ってばかりだな。
…魅音って、こんなにも謝るヤツだったっけ…?
それとも、最近の俺はそんなにも険しい表情をしているんだろうか…。
「……でさ。……何?
圭ちゃん、何か話があったんじゃないの?」
「魅音に、…かなり本気な話がある。……突然な話で魅音は面食らうかもしれないが、…聞いて欲しい。」
「え、……な、…何?」
「あ、…先に逃げ道を渡しておくな。……仮に本当だったとして、魅音はそれを認めてくれなくてもいい。しらばっくれててもいい。…だけれど、…最後まで俺の話は聞いて欲しい。………鬼ヶ淵村御三家の今や筆頭家、…その次期頭首の、園崎魅音に話がある。」
「………………………………。」
魅音は何が何やらわからない風だったが、…最後の言葉、園崎家の次期頭首という言葉に敏感に反応していた。
「…………………どこで聞いたの?」
「………それは、………関係ないことだ。」
鷹野さんに教えてもらったことだけは、話せない。
…鷹野さんは口外するなと言ったが、……許せ鷹野さん。……俺はこのために、あんたに話を聞いたんだ。
「………圭ちゃんが鬼ヶ淵村の名を知ってることだけでも驚きだけど、……私について、………いろいろとあることないこと、知ってそうだね。」
「……あぁ。…あること、ないことだ。……俺が勘違いしてるだけなのかもしれない。でも、……それでもいいから聞いてくれ。…そしてもしも本当なんだったら…、」
「圭ちゃんが何の話をしようとしてるかわからないけど、…話す前に釘を刺すよ。…………とにかく圭ちゃんは大きな勘違いをしてる。…だからできるなら私は圭ちゃんの話も聞きたくない。聞いても、何もかなえてあげられないからね。
………………でも、……話すことで圭ちゃんの肩が少しでも軽くなるなら、聞くよ。…………本当に聞くだけ。何も起こらないよ。…それでもいいね?」
「…………………あぁ。」
魅音は、……これから始まる話がどんなものか、わかっているようだった。
するだけ無駄だ、と釘を刺す。
……それは当然だ。
……この話が本当なら、……園崎家は、…雛見沢で毎年起こっている連続怪死事件の…首謀者だからだ。
「……オヤシロさまの祟りって、………あるよな。」
魅音は小さく頷く。
「……………正体不明、なぜ起こるのかも不明。……個々には解決しながらも、全体で見れば不可解な、連続怪死、連続失踪事件。……でもひとつだけ共通することがある。それは……………必ず村の仇敵が標的に選ばれること。」
「…………………みたいだね。」
魅音は他人事のように言った。
……それでいい。
認めてくれなくてもいい。…黙って、話を聞いてくれるだけで…今は。
「……あさってだろ、…綿流し。…今年の祟りの犠牲者ってさ、……もう決まってるのか…?」
魅音は答えなかった。表情も変えなかった。
……ただ、本人がそうすると言ったように、…静かに聴いているだけだった。
「あ、ごめんな。……聞いてるだけって約束なのに、…質問しちゃ変だよな。」
魅音は達観したような、…憐れむような、……これまでに一度も見せたことのないような表情をしていた。
……頷きもせず、…ただ、薄っすらと笑いながら聞いてくれた。
「もしも……今年の祟りが、……沙都子の叔父じゃなかったなら、……沙都子の叔父に変えてくれ。だって、…去年は沙都子の叔母だろ?! 順番から言えば決しておかしくはないだろ!」
「…あはははは。そうだね、そういう順序もあるね。」
「第一あいつ、去年の祟りで叔母が死んだ後、沙都子を放り出して丸一年、町に逃げ出してたじゃないか! そんなヤツ、もろにオヤシロさまの祟り確定じゃないかよ?! 今年の祟りに選んでも不足はないはずだぜッ?!」
「………そうだね。今年の祟りであいつが死んでも、多分、みんな納得するね。」
「お……俺、…聞いたんだ。……オヤシロさまの祟りってのは……その、………。」
ここから先は……いくらなんでも、…言っていいのだろうか。
……いくらなんでも……言葉が…出せない。
「雛見沢連続怪死事件、…通称『オヤシロさまの祟り』は、園崎家が主導で御三家が起こしている…村ぐるみの事件だ、……でしょ?」
「べ、……別に俺は…ッ!! それに魅音が関わってるとか、そんなのには興味がないんだ! ただ!! もしも……そういう祟りを決めている連中に渡りが付くなら…。…沙都子の叔父を祟りに選ぶように…言って欲しいんだけなんだ…。……頼むッ!!!」
「…………………圭ちゃんの言ってる内容はさっきから本当にひどいこと。雛見沢連続怪死事件が、園崎家主導の事件なんだとしたら、…それじゃ主犯格は私ってことだよね?
私が祟りを決め、指示をし、…何人も殺めて、消したことになる。………圭ちゃんは私を人殺し呼ばわりするんだ?」
「…だから!! 言ってるじゃねぇか! …魅音が連続殺人の主犯だろうと無関係だろうと…俺はどうでもいいんだ!! 例え魅音が殺人犯だって、俺の親友であることには何も関係ないじゃないか!! それでも全然構わないんだぜ! 警察に追われたら助けてやる! お前のアリバイを作ってやるし、逃走だって助けてやる!! 仲間で親友だからだ!! そうだろッ?!」
魅音は…しばらくの間、面食らっていた。……呆然としていた。
「…………………………いきなり共犯宣言? 圭ちゃん、かなり大胆だよそれ。」
「いいから話の腰を折るなッ!!! ……沙都子の叔父を、今年の祟りに、」
「圭ちゃんストップ。……そろそろご飯の準備をしたいから、今日はこれくらいにしたいんだけど。」
「み、……魅音……!!!」
いつの間にか、…涙が頬を濡らしていた。…それらが顎に伝い、…畳にぽたりぽたりと落ちていた。
「…………最初から言ってる通り。…圭ちゃんは大きな勘違いをしてる。……オヤシロさまの祟りはオヤシロさまの祟り。…例え人間の起こした事件であったにせよ、それは園崎家とは、増してや私とは何の関係もないよ。」
「……あぁ、………それはわかっているさ。」
「………………だから圭ちゃんの必死の訴えには胸を打たれるけど、…それだけ。……私がかなえてあげたくても、かなえてあげられない。…それもわかるね?」
「…………あぁ。」
「……でも、圭ちゃんの気持ちは痛いくらいにわかったよ。………もしも本当に私が、…圭ちゃんの言うように、御三家を操って毎年の犠牲者を選べる立場にあったなら。………………きっと私は圭ちゃんの願いをかなえているよ。」
「………………魅音……!」
「でも、現実は違う。私はただの園崎魅音。
…確かに園崎家はいろいろな意味で悪い噂を持って雛見沢を影から支配している一族だけれども。連続怪死事件とは何の関係もない。…ダム闘争では確かに少々過激な抵抗もしたけれど、それだけ。……人殺しなんて大それたこと、…絶対にやらないよ。」
「……そんな、………悲しいこと言うなよ…。……せめて今だけでも、……嘘でもいいから、…頷いてくれればいいじゃないか…!」
「圭ちゃん。夢を見るのは勝手。私がここで頷いて見せれば、圭ちゃんは沙都子があさっての夜に解放されると信じて肩の荷を下ろすことができるんだろうけどね。
…でも、無情にも沙都子の叔父はあさっての夜も越える。…来週になっても再来週になっても居続ける。……それを、覚悟してね。……私は、綿流しの次の日に、なぜ殺さなかったなんて圭ちゃんに詰め寄られたくない。」
「……………………………魅音………。」
魅音はゆっくりと立ち上がり、すっかり冷えてしまった外の風を遮るために障子を閉める…。
「……三四さんかな。圭ちゃんにそんな話を吹き込んだのは。……あの人、雛見沢をいい感じに誤解してるからなぁ。…まぁ、本人がひとりで楽しんでる分にはいいんだけど。………圭ちゃんを感化するのは、いただけないなぁ。…やれやれ。これだからよそ者は。」
「鷹野さんは…関係ないからな。」
「……はいはい。でも安心して。
仮に三四さんが圭ちゃんにしゃべったとわかったって、別にどうにもならないんだから。……別に三四さんが今年の祟りに選ばれるわけじゃない。……そもそも、今年も祟りがあるかどうかなんてわからないよ。…あんなの、不幸な偶然がただ積み重なっただけなんだからさ。」
「……………聞いてくれて、ありがとな。……もしも魅音が連続事件と何の関係もなかったなら、…本当に不愉快な話をした。謝っておくな。」
「そうだね。……謝っておいてくれるかな、
………はははははははははは。」
…魅音はあまり時間がないと言いながらも、門まで送ってくれた。
今日は、日曜日のお祭り、綿流しの打ち合わせがあるとかで、もうじき町会の役員や祭りの実行委員が大勢来るらしい。
…そんな忙しい日に押しかけたのに、話を聞いてくれた。
「……天に神さまがいるならさ、…きっと圭ちゃんの強い思いは伝わるから。」
「…………………あぁ。今日は変な話をして、本当にごめんな。…今日の話はなかったことにしてくれていい。」
「…………うん。忘れておくよ。」
「じゃ。……明日な。」
「バイバイ。」
魅音との接触は、…本当に短時間だった。
……魅音と話してて思った。
……鷹野さんから聞かされた話は、まったくのでっちあげでないことだけは確かだ。
本当の本当に無関係だったら、きっと魅音はあんなにも神妙に話は聞いてくれなったと思う。
……茶化さずに最後まで話を聞いてくれたことこそ、その証拠…………と、思いたい。
……ワラにもすがるような気持ちだった。
もっとも、今思い出しても…ひどい話だ。
親友宅まで行って、お前は連続殺人犯だ、だから今年は沙都子の叔父を殺してくれと、…一方的に言ってきたわけだから。
魅音は大人しく、まるで懺悔を聞く牧師のように最後まで話を聞いてくれた。
…途中で怒り出して、味噌汁で顔洗って出直して来いと罵倒することも出来た。
……でもしなかった。
それが、魅音の一族、園崎家が黒幕であることの証拠になるのか、…頭が半ば変になりかけている俺を憐れんで、静かに話を聞いてくれただけなのか。……どっちなのかは、わからない。
でも……、俺に今できる努力のひとつだった。
万が一、公的機関が様子見を決めてしまった時の、……もうひとつの保険。
文字通りワラを掴むような、……まったくの悪足掻き。
先生は、児童相談所に通報すれば即日、対応がなされると言っていた。
……もう今頃は、その対応が行われている最中だろうか…?
明日の朝、元気な沙都子が登校してきたなら、…全ては杞憂なのだ。
明日という日が早く来ないか……。
その晩をいつになく、蒸し暑くて…寝付けなかった。
……あれだけ先生に言ったんだ。…まさか、今年も様子見なんてことはないはず。
沙都子は…今夜をどう過しているだろう。
…悪夢の終わりを実感し、解放の夜を満喫しているだろうか。
実際に両の手を組み、…布団の中で祈った。
■明けて10日目(土)
「おっはよ、圭一くん。」
「おはよ。」
「よかった。今日もお寝坊かと思ったよ? 昨日は、おばさまには先に行ったって言われるし、学校には来ていないし。途中で日射病で倒れちゃったのかなって心配してたんだから。」
「へいへい、昨日は心配かけて申し訳ございませんでしたー。」
「ヘーイ、グッドモーニーン!」
「魅ぃちゃん、おはよ〜!
…わ、…それ絶対にバレるよ、お酒臭いー!」
「そう言えば昨日は町会の人が集まっての打ち合わせ会だったんだろ?」
「打ち合わせ会なんて名ばかりの宴会だよ。毎年やってるお祭りだもん。
今さら小難しい打ち合わせなんかないし。」
「今日の午後は、やっぱりお祭りのお手伝いに行くのかな?」
「うん。婆っちゃの代わりにいろいろ挨拶しなきゃなんないし。それにね、祭りってのは準備からもう始まってるからねぇ!」
いつもの朝の軽快な会話。
…昨日、俺が魅音の家に押しかけてした、あの物騒な話は…文字通り忘れてくれたようだった。
………思い出せば思い出すほど、俺はとんでもないことを魅音に言ってしまったと思う。…怒鳴りつけられてもおかしくない、まさに暴言だった。
鷹野さんが話を誇張していた可能性は高い。
……この、俺たちの仲間で親友の魅音が、
雛見沢を実効支配する御三家、園崎家の若きリーダーで、連続怪死事件を裏で糸引く存在だとは……確かにちょっと思えない。
…………でも、……百万分の一の確率で…それが真実なら……。
……昨日、俺が魅音にした話は、……結実するかもしれない。
そう、まさに百万分の一。
…でも、沙都子を救うための確率をほんのわずかでも上げるための小さな努力。
…………少なくとも、俺はその努力をした。
………昨日までの時点で、俺にできる努力はそれで尽くしたはずだ。
……あとできる努力があるとすれば…沙都子の叔父が祟りで死ぬことを祈って、水ごりでもするくらいか…。
「……沙都子、今日は来ているといいな。」
「…そうだね。……先生がいろいろと手配してくれたんでしょ?うん。…きっと大丈夫だよ。」
「雛見沢地区の民生委員が私の叔母さんなんだけどさ。…昨夜、電話して聞いてみたよ。」
「へー、魅ぃちゃんの叔母さんって民生委員さんなんだね。
…それで? 沙都子ちゃんのこと、なんて言ってたの?」
「うん。先生があの後、直接、県の児童相談所に電話してね。児童福祉司が昨夜の内に訪問したらしいよ。私の叔母さんにも、今後定期的にアプローチするようにと連絡があったって。」
「……小難しい話はいいよ。それより沙都子はどうなったんだよ。保護されたのか?!」
「うーん…。叔母さんはそこまでは知らされてなかったみたい。…本来はこういうのって、秘密だからね。叔母さんが私に話してくれたのも、充分に倫理違反なんだしさ。」
「………………………くそ、かえって不安になったぞ。」
「……行こ、…学校に。」
そうだ。
いくら議論したって不安は募るばかり。
……学校に行って、沙都子が無事かどうかを確かめる方がはるかに手っ取り早い。
3人で頷きあうと、…俺たちは駆け出していた。
■沙都子との再会
……沙都子は無事だろうか。
児童相談所とやらはどんな手を打ってくれたんだろう。
何でも、とにかく今日から沙都子が平穏に暮らせる、元の日々が返ってきてくれるなら何でもいい。
昇降口の下駄箱で、レナが沙都子の靴箱をのぞき込む。
「あ、…沙都子ちゃんの靴、あるよ! あるよ!」
「圭ちゃん、沙都子は来てるよ。よかった…!」
「来てるだけじゃわからないだろ。沙都子の顔を見るまで…何もわかるものか!」
ばたばたと教室へ駆け込む。
教室は…いつもの賑やかな朝だった。
「…沙都子…!! どこだ…?!」
「……みー。ここにちゃんといますですよ。」
「朝っぱらから騒々しいですわね。少しはお静かになさいませー。」
「沙都子ちゃん! ………その、……大丈夫だった?」
仲間で、わっと沙都子を取り囲む。
「…保護司、来たんでしょ? ……その、…どういう話になったわけ?」
<魅音
「……呼んだのはどなたですの? まったく、…とんだ騒ぎでしたのよ?」
「先生だよ。………あれだけ欠席すりゃ心配もする。」
………沙都子は、あれだけ大丈夫だと言ったのに、と独り言を言う。
やっぱり、……沙都子は、この苦難をたったひとりで耐え忍ぼうとしているんだ。
「…私も叔父様もとんだ迷惑でしたのよ。急にあんな人に押しかけられて、もう…。」
「みんな沙都子ちゃんのこと、心配してたんだよ。迷惑だなんて言わないで…。」
<レナ
「あーもう!! とにかくそれで! どうなったんだよ?!」
「どうもこうもしませんわ。ほっほっほ、風邪が治ったから学校に来ただけのことですのよ? これからは、あんまりお休みして心配をかけないようにしないといけませんわね。…ほっほっほ。」
……沙都子は、…何を言ってるんだ…?
「叔父さんはその…どうなったの?」
「えぇ、多少誤解があったことを認めて、二人でごめんなさいをしまして、」
ぐい。
……梨花ちゃんに襟首を掴まれ、後ろに引かれる。
「……な、…何だよ梨花ちゃん。」
梨花ちゃんは無言で俺を引っ張ったまま、廊下へ連れて行く。
「…………………梨花ちゃん、…あれは…どういうことだよ?!」
「……沙都子は、………何でもないと言って、追い返してしまいました。」
…………………ば、
「…馬鹿野郎…!!! な、……なんで…!!」
いや……、心のどこかで、…そんなこともあるかもしれないと思ってた。
沙都子は…誰の助けも借りず、…誰の背中にも隠れず、…この苦難を乗り切ろうとしている。
……悟史が再び帰ってきても、自分はもう兄の背中に隠れなくても大丈夫だ、ということを立証して見せるために。
「だ、だけど…、監督に聞いた話じゃ、保護司ってのは本人の意思に関係なく緊急保護をすることができるんだろ?! いくら沙都子が虐待を否定したって、虐待は事実…!!」
…知恵先生が、やって来た。……表情は決して明るくない。
「…………えぇ。前原くんの言うとおり。児童福祉司は緊急性があると判断すれば、職権で緊急保護をすることができます。当事者の意思に関係なく。」
「じゃあどうして?! どうして沙都子の意思が変に尊重されて…保護されないことに?!」
「…それは……、児童相談所長がいろいろ検討した末に判断を……。」
「何だよそりゃああぁあぁあぁあッ!!!
先生、昨日あんた、絶対に助けるから大丈夫って言わなかったか?! これはどういうことだよ?! おかしいじゃねえかよ?! ええッおい!!」
「…………………圭一。……実は、沙都子の児童虐待の通報は、これが三回目なのです。……過去にも、…二回あったのです。」
「古手さん…!」
先生が制止しようとするが、梨花ちゃんは構わずに先を続ける。
「…過去に、二度? ……おととしの冬に通報して様子見になったって話は聞いてるが、……その前にもあったのか?」
「………沙都子の死んでしまったお父さんは、沙都子の本当のお父さんではないのです。」
「え…? 梨花ちゃん…、……それが、……え?」
突然の話に面食らう。
……梨花ちゃんが何を言いたいのかさっぱりわからず、…だけれども、何か重要な話のようで、…口を挟むことも出来ない。
「……沙都子のお母さんは再婚なのです。沙都子と悟史はお母さんの連れ子で、…お父さんとは血はつながっていなかったのです。」
悟史は大人の言うことを素直に聞く、…いい子供だった。
……新しい父にもすぐに受け入れられ、可愛がられた。
でも、…沙都子は違った。
反抗的で嘘つきで悪戯ばかりで。…義父には全然好かれなかった。
「………え、………。……つまり、……どういうことだよ…。」
「……沙都子は、叔父夫婦に預けられる以前の家族の時も、……あまり良好な家族関係ではなかったのです。」
もちろん義父だって初めは悪意があったわけじゃない。
…新しい娘を受け入れようと、初めは努力しただろう。
でも、……幼い沙都子にはその努力はまったくなかった。
義父に対してよそよそしく、決して心を開こうとはしなかった。
…いつも取ってつけたような嘘や悪戯で、…困らせた。
義父の躾けや仕置きは、もちろん始めは愛のあるものだったかもしれないが、…すぐにそれも薄れた。
「…………私はその時は雛見沢にいなかったからよく知らないけれど…。……昨日、電話で初めて知りました。」
「…先生が聞いたのはどんな話ですか。」
「……沙都子ちゃんが、両親、…特に義理のお父さんを陥れるのを目的に、自傷と作話で…嘘の虐待話を作って……、自分で虐待SOSに電話したって。」
「自傷と…作話……?」
「……沙都子は、…嫌いなお父さんを追い払うため、嘘の電話をしたのです。」
児童福祉士や民生委員がすぐに駆けつけ、事情を聞いた。
……義父は、行き過ぎた部分があったことを素直に謝罪し、以後、児童相談所の指導を受けることを承諾した。
「…………いろいろと関係機関が調べた結果ね。…………義父と沙都子ちゃんの心のすれ違いに原因があることはわかったんだけど…。………それ以上に、沙都子ちゃん自身に問題があることがわかったの。」
「沙都子に問題って、……何です。」
……沙都子の母は、再婚までに至らずとも、…内縁の夫と同棲することが何度かあった。
……沙都子は幼少時から、少なくとも2〜3人はお父さんと呼ばなければならない男との生活を強要されてきた。
いつの頃から、…沙都子のいたずらがエスカレートするようになった。
…食事をわざとこぼしたり、ひっくり返したり、…投げつけるようになった。
近所の窓ガラスを割ったり、お菓子を万引きしたり。
画鋲やらをバラ蒔いたり、大怪我するようなワナを仕掛けたり。……今のような、笑い事で済むようなものではなく。
そしてすぐバレるような嘘を平気で付き、……その度に怒られた。
…でも一向にそれらを改めようとはしなかった。
「…………沙都子ちゃんのことを問題児なんて、思わないでね。…これは幼い沙都子ちゃんが、…母親を知らない男に取られまいとして取った、…自衛的な行為なの。」
沙都子の問題行為について、公的機関の児童心理学専門家は、……母親の興味を自分に引くための行為であると指摘した。
そして沙都子に心的外傷による一種の傷害を認め、…専門家によるカウンセリング治療が必要だと告げた。
その治療で、沙都子の心の傷が癒されたかは…わからない。
「……沙都子ちゃんは、わざと体に傷を作り、…お義父さんに虐待を受けているとね、……自分で通報して、お義父さんを追い出そうとした。」
「………でも、……結局、…沙都子を虐めてたわけだろ、その義父は。」
「いいえ。…虐待の話は全部、…沙都子ちゃんの作り話だった。…義理のお父さんは、もちろん少し感情的な叱り方をしてしまったかもしれないけど…逸脱してるほどではなかったの。」
沙都子は、……義父を追い出すために嘘をついた。
そして…すぐに看破され、……沙都子に問題があることが、…わかってしまったのだ。
「………あ、…………ひょっとして、……そのせいで、……おととしの冬は…様子見に…?」
「……はい。……………児童相談所に、ちゃんと昔の記録が残ってましたですから、……沙都子の嘘の可能性もあるから慎重に、…ということになりましたのです。」
「…………何だよそれ。……つまり、…何だよ。…沙都子は、……嘘をつくかも知れないから慎重に。…だから、………様子を見ろ、ってことに、……なってるのかよ?!」
「………………狼と羊飼いさんなのです。」
…一度嘘を付いたら、…もう誰にも信じてもらえないっていうおとぎ話。
「ふ、ふざけんなよッ!! 昔のことなんか全然無関係だろ?! 今現在起こっている事実だけが重要なんだろうが!! 沙都子は叔父に虐待されている!! どうしてその事実が…昔の出来事で歪められなきゃならねえんだよ!!」
………先生も梨花ちゃんも、何も言い返せない。
「……とにかく、それを慎重に判断するために保護司さんが昨日、訪れましたのです。」
そして…応対した沙都子は、……精一杯の強がりの笑顔で、虐待を否定した。
もちろん、多少は叔父にも口止めの脅迫を受けたんだろうが。
……誰の助けも借りずに耐え抜こうとする沙都子は、……家で悟史の帰りを待ちたい沙都子は…。……虐待の事実をきっぱり否定した…………。
……沙都子の大馬鹿…。
…………お前、……何を我慢してるんだよ…?
こんな我慢ごっこをして…、…本気で悟史が帰ってくると思ってるのかよ…?
もうやめろそんなこと。
…悟史はな、…お前を捨てたんだよ。
…今日まで助けに現れなかったのが、その証拠じゃないか。
……だからもうやめろ。…変な我慢ごっこはやめてくれ…。
「…………………今した話は全部忘れるように。いいですね。他の子にしゃべったら先生、怒りますからね!」
先生は一応の釘を刺すと、職員室に戻って行った…。
「………圭一。沙都子のことを可哀想な子なんて思わないで下さいです。」
「……………………………。」
「……沙都子は、しっかり生きていますです。…沙都子は、」
「そんなのわかってる!! 俺たちのかけがえのない仲間だ!」
「…………沙都子は、まだ頑張っています。…もう少し、…見守ってあげましょうです…。相談所の人が、今後も定期的に訪問すると言ってるのです。……大変なことになったら、すぐに助けてくれますよ…。」
「……………………大変なことになった後、だろ。」
それ以上は喧嘩腰になってしまうので、…ぐっと言葉を飲み込み、教室へ戻った。
魅音とレナは相変わらず沙都子とおしゃべりをしていた。
…会話は他愛ないもの。
面白おかしい、まるで楽しかった頃の日常のようだった。
………もし、…沙都子が本当にまだ耐えられるというのなら、……梨花ちゃんの言うとおり、見守るべきなのだろうか。
……俺が何をしても、余計なお世話なのだろうか。
■沙都子の異常
「さぁて、お昼でございますわねぇ!!」
「……みー!」
「あははは! 五人そろってのお昼は久しぶりだね! やっぱりこうじゃないとダメだよねぇ〜!」
「まったく同感同感。ほらほら、圭ちゃんも! 机寄せて〜!」
沙都子も満面の笑みで楽しそうに机を寄せる。
…何も解決していないとは知りながらも、…楽しかった日々を思い出させるそんなやり取りが微笑ましい。
「…いつまでも梨花にお弁当を作ってもらっては…悪いですわね。」
「……いいのですよ。…沙都子のお弁当を作るのはボクの楽しみなのです。」
梨花ちゃんっていいヤツだ。こんな親友がいたら、さぞや心強い…。
「……ボクに大きなハンバーグを入れて、沙都子には焦げたのを入れて、
沙都子だけかわいそかわいそで、にぱ〜☆」
前言撤回。………まぁ、うむ。…梨花ちゃんだな。うん。
「ほらほら見て見て! 今日はほら、オムライスなんだよ〜。マッシュルームとか美味しそうだよね!だよね! はぅ!」
「いつもながら見事なお手前でございましてよ。いつお嫁に行ってもおかしくない腕前ですわね!」
「お、おおおおお嫁お嫁お嫁〜〜♪ お嫁を〜食べーると〜♪
はぅ〜〜〜〜!!!」
「レナにお嫁はマル禁ワードだね。以後控えるようにー。」
<魅音
「……ほんのちょっぴり反省しましてよ。」
「ところで魅音の弁当は何だよ。今日のはまた趣きが違って期待大だな!」
「おじさんはまったりと昨夜のおかず詰め合わせね。
煮物がいい感じなんだよ。ほら、大根の色はかなりいいでしょ。」
「……わ〜、美味しそうなのです。」
「煮物は一晩寝かせてからが真骨頂だな! これはかなり行けそうだ! …よって沙都子の分はなし。俺が全部食って感想を聞かせるから黙って見てろ。」
「なな、なんですってぇえぇえッ?!?! 私の分もお寄越しなさいなッ!!」
肘!
拳!
頭突き!
膝まで使うぞ、ぅおおりゃ!!
「をっほっほ!! 密着距離まで入れば私の有利は動きませんわねぇ!
う〜ん、圭一さんの分のお大根が実においしいですわぁ!」
「…ちっくしょう…、バトル開始時から密着でいきなりコンボとは……。無念…。」
こんなやり取り、…本当に久しぶりだな。
……結局、様子見ということになってしまったみたいだけど、……叔父だって少しは行き過ぎを反省し、今後は加減するかもしれない。
……少しは待遇が改善されるなら……いい、のかな……。
俺から分捕った大根がそんなにも美味なのか、沙都子はこれ以上ない笑顔でうれしそうに、もごもごと頬張っていた。
そんな沙都子が、もう何だか可愛らしくて、…これまでに何度もそうしてきたように、頭を鷲掴みにして、わしわしと撫でてやる…。
バシン…!
カシャン、…コロコロカラカラ…。
「……………え…?」
「…………沙都子、……ちゃん…?」
<レナ
……突然の出来事で、…何が起こったのか、一瞬わからない。
手の甲が…ジンジン。
………えっと、……沙都子の頭を撫でたら…、…沙都子に、……腕を叩かれた…?
「……ど、…どしたの、沙都子。」
沙都子は…突然、頭に吹き出物でも出来て痒くなったかのように…バリバリと頭を掻き毟ってた。
………あまりに突然、…それも脈絡のない行為に、……何のことか理解できない。
「………ど、どうした沙都子。」
沙都子は、いつの間に…薄っすらとした汗を全身にかいて…呼吸を乱していた。
俺が…頭を撫でたら、嫌がった……って、…ことか…?
「……お前、…頭撫でられるの、…嫌いだったっけ…?」
もう一度、……そうっと、…手のひらをかざして…沙都子の頭に近付ける。
…沙都子の頭に俺の手のひらが触れた時。
………感電したかのような衝撃が起こって、沙都子が吠え猛った…。
「ひいぃいいいいいぁあいああいあいあああぁあああぁああッ!!!!」
ドタ、ガターーーーーンッ!!!
俺の腕を両手で掴み…まるで絡み付こうとする蛇を放り投げるかのように、…汚らわしいものを投げ捨てるかのように…乱暴に投げた。
…俺は突然のことに抗えず。椅子ごと後ろにひっくり返った。
教室中が…シンと静まりかえる。
沙都子は断末魔みたいな…唸り声をあげながら…よろよろと、遠ざかる。
「ぅ……ぅごおぉええええぇえぇえ…ぇぇ…ッ!!!」
そして…今食べたばかりのものを…吐き出す。
全て嘔吐して戻す。ビタビタベチャベチャッ! と沙都子が床に叩きつける汚物の音が教室に響き渡る。
「…だ、……大丈夫かよ沙都子…、…具合でも………。」
「………ぃいいいいいぃいいああいああぁあぁあぁああッ!!!」
手を差し伸べた俺を…両手で思い切り突き飛ばす。
すごい力に、俺はもう一度床に転げた。
沙都子は両手で頭をかばうような仕草をして唸りながら、何歩か後退る。
……それから、両手をぶんぶんと振り回し始めた。…近くの席の生徒たちもたまらず逃げ出す。…その席にあった弁当箱や椅子を…手当たり次第に掴んで、投げる投げる、
ぶちまける。
「ちょっとやめなよ沙都子!! あ、あんた…どうしちゃったの?!」
「ひいいいいぃいいいいぃいいぃい…!!!」
魅音がかける言葉に…まるで痛みでも走るかのように絶叫する。
……誰もが……声をかけられない。
生徒たちは、こちら側にみんな避難していて…、教室の一角は沙都子だけだった。
沙都子の周りは、…暴れて倒した机や椅子、…弁当が散乱して……ひどい有様だ。
…沙都子の荒い息と、…セミの声しか、聞こえない。
「……あ、……………ぁ…………………あ、……ご、…ごめんなさい…………。」
興奮の糸が緩んだ沙都子は…、
たった今の自分の行為が急に恐ろしくなったのか、……カタカタと震えながら…謝罪の言葉を口にした。
……だがその謝罪の言葉が誰に向けられたものかはわからない。
……だから、……とりあえず代表で、俺が返事をするつもりだった。
「……………い、いや…そっちこそ、…大丈夫か…?」
「……ご……ごご……ごめんなさいごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい…、ひぃ……ぃぃ………ぁあぁ……、」
俺の言葉と沙都子の言葉はまったく噛み合わない。
…沙都子は自らの両肩を抱きながら…後ろへ、後ろへ…。
バン!
…清掃用具入れのロッカーにぶつかる。それにすら沙都子は短い悲鳴をあげる。
…その衝撃で、ロッカーの上のバケツが落ち、大きな音を立てると…それは沙都子をこれ以上なく怖がらせた。
沙都子は飛び跳ねるくらいに驚いて、カーテンの束に抱きつく。
………誰も…声をかけられない。……瞬きすら忘れ、……見ているしか、ない。
「………ぅう……あぁ……ああぁ…、ごめんなさいごめんなさい、…ごめんなさいごめんなさい…私じゃないです私じゃないです…、ぁわあぁぁ…ぁぁ……。」
……沙都子、……お前、…………一体…、
立ち上がった俺は、…みんなの輪から一歩出て、…沙都子に歩み寄る。
「…何が、…………あったんだ……。」
「だからだから…ッ!!! 私知らないです私知らないです!! 違うから違うから…もう嫌ですやめてください許して許して……ぁああぁぁああ…ぁぁ……ぁ……、」
「おち、…落ち着けよ…。……沙都子、…俺がわかるか…?」
「もうやだもうやだ…、やですやです…、ひぃ……ひいッ!!!」
俺が一歩近付く度に、カーテンの束をきつく抱いて…泣き叫ぶ。
「…沙都子、…俺だよ、……圭一だ。わかんないのか?! お前に危害なんか…加えない!!」
「嫌ぁあぁあああああぁああぁぁあッ!!! わぁあああぁあああっぁあん!! わあああぁああぁああん!!」
「だから落ち着けって…! 大丈夫だ、…俺はお前の味方だって…!!」
「助けて…助けてぇええぇッ!!! 怖いのやだ…気持ち悪いの…やだ………やだ……、…わああぁああああぁあぁあぁああんッ!!!」
俺の肩が突然掴まれ、後ろへぐいっと引かれる。
…レナだった。
「…ごめん圭一くん! 圭一くんはちょっと後ろに行ってて!!」
レナが引っ張り戻した俺に代わって沙都子に駆け寄る…。
「…大丈夫だよ沙都子ちゃん、もう怖いことなんかないよ…! ほら、…安心して!」
「やだやだやだ……もうやだやだ……、あんなの…やだぁ……、ぅああうぅあぅうぅ………!!! ……にーにー…、にーにーーッ!! 助けて…! 助けてぇえぇ!! にーにー助けてよぉおぉぉ……、わああぁあぁああぁああん!!!」
…カーテンの束に抱きつき、……にーにーの名を呼び続けながら……沙都子は何かへの許しと何かへの助けを……ただただわめき続けた。
…………な、………何だよ、……………これ………。
「………………………………ぐ、………ぐ…!」
魅音は…歯をぎりぎり言わせながら…固くつぶった両目から…涙をこぼしていた。
「……どうなって…んだよ……、これ…。……昨日で、…全部終わったんじゃないのか…? 今日から……また元の生活に…戻っていくんじゃ…ないのか…?! 魅音、…魅音んんんッ!!」
「……………………………ぐ、………ぅぅッ!」
ガッシャーーーーン!! …すごい音がした。
………レナが、清掃用具入れを…蹴り倒した音だった。
誰も予想しなかったレナの蛮行に…みんなが驚く。
………それからレナは、…泣きじゃくる沙都子の背中を抱いて……………………噛み殺すように、一緒に泣いた。
「……レナ、……どうした…。」
「………………………………ごめん。…圭一くん、…ちょっと黙ってて。」
「………今のは何だよ。…どうしたんだよ…! 沙都子から何か聞いたのか? 何を聞いたんだよ!!」
「うっさいなぁああぁッ!! 黙ってろって言ってんでしょおおぉッ!!!」
レナの敵意をむき出しにした感情の塊が、俺を打ちのめした。
…それはレナにとって、一時の激情の咆哮に過ぎなかったわけだが、………俺には、それ以上があった。
……レナの激情の裏側にある、…心まで、……伝わってきてしまった。
「………………………ぅぅぅぅぅ…、……沙都子、…ちゃん………。」
<レナ
「やだやだやだやだ…、もうやだやだやだ……ぅぁあぁうぁぅ………、」
「許して……、何もできなかった私たちを……許して……。」
<レナ
「ぅ、……うああぁああぁあぁああん!! にーにー…! にーにー!!! にぃーにぃいいぃいいぃ…!!!」
「…ごめんね…! ごめんね!! ……ぅぅぅぅぅぅ…!!!」
<レナ
何もできなかった、…私たちを、…許して。
そのレナの言葉に、頭の後ろの血管が…急に灰になっていくような感覚を味わう。
……視界が遠のき、……灰色混じりになって、……世界が色彩を…失う。
………沙都子ってのは…救えるものだと思ってた。
……でも、…その救うのにかけられる時間は…短い方がいいにせよ……限りなんかないと思ってた。……手遅れなんてことがあるなんて、……夢にも思わなかった……ッ!
俺は…大きな間違いをしていた。
………沙都子という存在が痛みこそすれ…壊れることなんかないと思ってた。
……何て…大それた間違い!!
人は…壊れるんだよ。…壊れないなんて思うことの方が…絶対におかしいんだよ!!
沙都子を…救わなければならなかった。
…壊れる前に、助けなければならなかった。
…その致命的な認識不足が……今日を、招いたのだ。
誰のせい?
…そんなのは決まっていた。…俺、いや、俺たちだ。…沙都子を救わなければならないという義務を負いながら、…怠慢にもそれを怠った。
そう思うなら、…これは必然の結果だったのだ。
仮に今日という日が今日でなく、明日や明後日、来週起こることだったにせよ…俺たちはきっとその日までぼーっとしているだけだったに違いない…!! だから…これは……当然の…終末!!
…がくりと……膝を付く。
………魅音や、…梨花ちゃんもそうしているように。
……俺も、……固く目をつぶって……すすり泣くしか、……なかった………。
「…な、何の騒ぎですか?! ……ちょっと、何があったんです?!」
先生がやって来て…眼下の惨状に…目をしかめる。
先生が来たことを認めた瞬間に、沙都子に再び激変が起こった。
………カーテンでごしごしと顔を拭くと…何事もなかったような笑顔を浮かべたからだ。
「北条さん…? これは一体何事ですか!」
「…ほほ、ほほほほほほほほほ! ちょっと…レナさんと喧嘩になってしまっただけですのよ。お弁当を巡ってちょっぴり大暴れなんですの。…ねぇ?」
レナは頷き返さなかった…。でも……それを沙都子が望むならと、…力なく頷く。
…クラス中、……そのあまりの沙都子の変化に付いていけない。…ただ…呆然とするしか…なかった。
「……をっほっほ…、ちょっと悪ふざけをしただけ…なんですのよ? 皆さん、度肝を抜かれすぎでございますわね。をっほっほっほっほ…。」
沙都子は…この場を誤魔化しきるだろう。
……何のために? ……心までずたずたにされて、……これ以上、…何のために…?!
お前…さっき、にーにーに助けを求めたよな…?
でもな、…お前にゃ悪いが…悟史は…帰ってくる気はないんだよ!!
…都合よく現れて助けてくれるほど…現実は甘くないんだよッ!!!
だから…もう悟史なんか待たなくていいんだ!! 泣いて助けを求めて…逃げていいんだよッ!! うおおおぉおおおおおおっぉおおおおおッ!!!
「……私たちが…………無力だから………!!」
魅音が…ぽつりと、…言った。
……何度も俺を苛んできた、…あの一言を、言った。
その呪いの言葉が、耳に入った時。
…………全身が急に…冷静さを取り戻す。
……すーーっと、……嘘のように、…感情の波が引いていった。
その時…、世界の色彩がぐるりと反転する!
視界がぐっと広がる。
頭がぐんと冴え渡り、頭の中の面積がこの教室を遥かに越えて広がりを得たことを実感した。
その時、俺という魂は間違いなく、頭なんてちっぽけな器の中にじゃなく、それよりもう少し上方に浮き上がっていた。
それは…不思議な開放感だ。
…頭蓋骨なんていう、狭い殻から抜け出し…四方八方に…思う存分に…根が伸ばせる。
………今までに一度も感じたことのない、…不思議な感覚。…奇妙な……爽快感。
そんな研ぎ澄まされた精神が、……俺を、超越する!!
ナイフより鋭利になった心が…悲しみに押し潰されることに時間を費やすことを、瞬時に時間の浪費だと判断した。
…脳内から不要情報を削除。
行動に支障を来たす無駄な感情を排斥。
「…………魅音。…お前は呪ってろ。自分の無力さをいつまでも。」
「…………え…?」
…起こったことを嘆いて取り返せるなら、いくらでも嘆いてやる。
…だが、ここまで事態が進んだのだけは事実。
それはもう起こった事実で取り返せない。
…ならば最優先課題は、これ以上の悪化を阻止、不幸の連鎖を断ち切ることだ。
…俺は今日まで、信じられないくらいに狭い視野でものを考えてきた。
沙都子を救うには沙都子を救うしかないと、それだけしか考えなかった。
…沙都子の不幸の元凶の摘出というもっとも根本的かつ直接的かつ絶対的で唯一無二な方法に気付こうともしなかった。
いや、……昨日気付いていた。
でもその手段は、オヤシロさまの祟りなどといういい加減なものに頼って、…自ら執行することを考えなかった。
沙都子の叔父を、抹殺する。
そのための方法はいくらでもある。それこそ無限の手段があるのだ。
皮肉にも、沙都子を救うための手段のほとんどに資本を必要だとされたのに対し、あの男を抹殺する方法のほとんどにはまったくと言っていいほど資本はかからない。
最低限の投下資本であの男は抹殺できるのだ。
最低限の資本と吊り合う程度。
それがあの男の命の重さの程度なのだ。
頭から下らない情報が次々と淘汰されていき、…目的を遂行するためだけに必要な知識が充填されていく。
脳内の全ての細胞を、あの男を抹殺するためへと回転させる。
殺害の方法は何でも構わない。
延長上に確実かつ迅速な死があるなら古今東西のあらゆる方法を許可する。
付加条件があるとしたら、俺が捕まらないことが望ましい。
あの男の摘出は、俺たちと沙都子に平穏な時間を取り戻すために行われる行為だからだ。
摘出と引き換えに俺が逮捕されることがあれば、それは刺し違えたのと変わらない。
あの男だけが消えて、俺たちには元通りの日々が蘇る。それこそが至上目的。絶対目標。
絶対に殺す。
だけれども絶対に証拠を残すな。
矛盾する両天秤。
自らの痕跡を残さないという条件は自動的にいくつもの殺害手段を狭めていく。
目撃がないのも絶対条件だ。
幸いにして雛見沢は時間帯を選べばほとんど人はいない。
沙都子の自宅周辺の地形を再構築。
…時間帯で変動する通行量。周辺住民の行動アルゴリズム。
誘い出すか、襲撃するか。武器は何か。いつどこで実行するか。
場所は自身の痕跡を残さずに済むのが条件。
時間の条件はそれに加え、沙都子の保護のため万分の一秒でも早く遂行しなくてはならないという条件が付く。
下らない下らない。
こうして考えると、殺すという行為がどれほど簡単かわかる。
証拠が残ってもいいなら、ただ殺すだけなら、誰だってお手軽に殺人なんか犯せたのだ。
でも理性がそれを止めるのだ。
やれば必ず逮捕されると。
結局、殺人行為を思いとどまらせる究極の抑止力は、警察に逮捕されるということだけなのだ。(下らない!)
もしも水平線までの洋上のど真ん中で、絶対に証拠が残らないことがわかっているなら、誰だって憎いヤツを海に突き落とす!
あの男の摘出だけならあまりに容易。
今すぐこの教室を抜け出し校庭で金属バットでも拾ってあの男の家を襲う。
推定所要時間は25分。
刺し違えるつもりなら、秒に直してわずか1500秒以内に遂行できるのだ。
あの男がいかに生かされているかがわかる。
俺が決意してわずか1500秒でこの世から放逐されてしまう程度の存在なのだ。
俺が決意したら余命はわずか1500秒。
いや、…駆け足でヤツの家を目指せば、その余命はさらに縮むだろう。
でもあの男は生きている。
沙都子を身を心もズタズタにし、今この瞬間も生き永らえている。
どうして?!
俺が生かしているからだ。
俺が、あいつに生きることを許可しているからまだ生きていられるのだ。
俺がその許可をやめれば、1500秒でこの世から退去しなくてはならない。
……てめぇに、あと1500秒も地上の空気を吸わせるかよ。
…そんな許可、今この瞬間から全て取り消す。今日まで永らえたことをこの俺に感謝せよ。
だが実際には1500秒以上いる。
貴様を葬るだけでなく、俺たちには元の日々を取り戻すというもっとも大事なことがあるからだ。
…貴様という存在だけが綺麗にこの世から消える。犯人は見つからない。
俺はお前ごときに手を汚したことなんか、寝る前に歯を磨くことくらい、自然で当り前に忘れてやる。
そのために、貴様に1500秒以上の余命を特別に許そう。
完璧な殺害計画が構築できるまで、昨日までと変わらない生活を続けることを特別に許可してやろう。
だが圭一。その時間を無駄にかけるのはよくないぞ。
あぁわかってる。迅速に殺す。確実に摘出する。
その計画を練るための時間だって不必要にかけない。
…思い出せよ、明日は綿流しじゃないか。
去年の綿流しの夜、叔母は死んだ。
異常者に頭を滅茶苦茶に叩き潰されて脳みそをぶちまけながら。
そうだ、ヤツこそ綿流しの夜に死を与えられるに相応しい存在。
おいオヤシロさま。
あんたは守り神なのに沙都子を守らなかった。
ダム絡みで沙都子の一族を祟るのは勝手だが、その結果、ダムには無関係のはずの沙都子を不幸にした。
…前原圭一の名において、お前を雛見沢の守り神失格とする。てめぇは不要だ。神社の社の奥で今年は引っ込んでいろ。
そもそもお前が去年の時点で叔父叔母まとめて祟殺していりゃこんなことにはならなかったんだからな!
今年の祟りはお前じゃない。
俺が決める。
連続怪死事件を裏で操る御三家なんて間抜けでいるかいないかもわからない霞みたいな連中じゃなく、俺自身が神託を下して執行する。
だから貴様は邪魔せずに見ていろ、黙って見てろ。完全に抹殺する、地上から消し去る。忽然と…消し去ってやる!!
消えろ、消えてしまえ、そして死んでしまえッ!!
沙都子の心を引き裂いたように、貴様の心臓を引き裂いてやるッ!! 償えその血をもってッ!!!
うぅおおおおぉおおおぉおおおおおおおおぉおおぉぉおおおぉッ!!!
「…圭一くん、……大丈夫…?」
レナと魅音と、…梨花ちゃんが俺を介抱していた。……俺は、床に倒れていた…?
「……急に倒れたからびっくりしたよ。…うなされてなかった? うなってたよ…。」
「うるさい。…黄色い声で話しかけるな。」
「………ッ!!」「………ひ、…!」「………………。」
びくっとして、仲間たちが後退る。
「…………………………何だよ。」
レナたちは…互いの顔を見合って、何を言えばいいのか…しばし困惑していた。
「……い、………今の…圭一くんの、…声?」
「………………当り前だろ。」
レナが一度、固い唾を飲み込んでから…口を開く。
「……今、一瞬、……………圭一くん、……その、…すごい目だった。」
「…目………? 光の角度でそう見えたんだろ。……馬鹿馬鹿しい。」
「………み、…見間違いじゃないよ。…………あんな目、…初めて見た。」
<魅音
…何を言ってるんだこいつら。
…こいつらは最近、俺に怖がり過ぎだ。
「………………前原圭一くん、………だよね?」
レナは、…何を言ってんだ?
…俺が前原圭一以外の誰に見えるんだよ。
…そういう不機嫌な考えは、俺の目つきが雄弁と物語ってしまったらしかった。
それが伝わり、レナが慌てて謝る。
「…ごっ、ごめん。……気にしないでね!」
■幕間 TIPS入手
■タイトル: 緊急
昭和58年6月18日
北条沙都子に関する虐待問題について(緊急)
標記の件につき、北条沙都子を緊急に保護すべきであると進言します。
1.家庭状況
先日、雛見沢に戻った養父との生活はすでに破綻しており、養父による虐待は肉体的にも精神的にも耐えがたいものとなっている模様です。
2.児童相談所の対応
昨日23日に県福祉部より児童保護司が派遣されましたが、52年度のケースにより、慎重策から継続指導の形となりました。
残念ながら相談所長は正しく状況を把握しているとは言えません。
3.当該児の状況
初見ではすでに鬱状態もしくはノイローゼに近い状態を発症していると思われます。
ストレスにより、思春期独特の不安定な状態が刺激されれば、健全な身体・精神の発育に憂慮すべき事態をもたらすでしょう。
人道的見地からも、このまま放置することは許されません。
4.家庭裁判所への申し立て
以上から、北条沙都子を緊急に保護すべきであると進言します。
家裁に緊急に法28条申し立てをし、一時保護を行うべきです。
緊急に、関係各機関への調整を求めるものであります。
■タイトル: エ2−3第44号
福児庶エ2−3第44号
昭和52年X月XX日
児童名:
北条沙都子(X歳)
鹿骨市雛見沢村XXX番地在住
(1)相談の経路
本児より子ども虐待SOSに電話相談有り。
(2)虐待の状況
本児が養父に身体的虐待を受けているという訴え。
(3)家族構成(●虐待者)
●養父、実母、兄、本児
※養父と実母は昭和XX年に入籍。
本児は離婚した前夫との子。
(4)児童相談所の対応
本児より電話相談が入り、同日、学校に電話で、本児の状況を聞き取り。
即日、担当児童福祉司が本児宅を訪問し、面談を行なった。
養父は真摯に指導を受け入れ、以後、市の育児ワークショップを受講することに同意した。
助言指導とし、経過を観察することとする。
(5)その他
市教育相談所で本児に対し数度のカウンセリングの結果、
本児の養父への過度の不信、コミュニケーション不足が原因である可能性が高いことがわかった。
当初訴えのあったような虐待は実際には行なわれておらず、本児が養父を遠ざけるため、虚実の訴えをした様子。
(以下は当時の担当者のえんぴつによる走り書き)
むしろ娘の方に問題があったようだ。
虐待話はほとんどが作り話の可能性があると市教育相談所のF主査。
今後は本児への指導を中心に行なうこととなった。
本児の話は真に受けすぎないように注意。
■完璧な殺人とは
魅音たちは綿流しの祭りの準備があるとかで、俺にも来ないかと誘ったが、断った。
…当り前だ。
この状況下でよくものんびりと祭りの準備なんかしてられるものだ。魅音の神経を疑う。
俺が家に帰って始めにしたのは、シャワーを浴びることだった。
汗を流したかったからじゃない。……さらなる冷静さがほしかったからだ。
すでにわかっている通りだが、あの男を殺すだけならあまりにも容易い。
…本当に難しいのは、その結果、俺が逮捕されず、平穏な日常を取り戻せる…という方だ。
考えれば、それは容易なことじゃない。
…世界一の検挙率を誇るのが日本の警察だ。
それを欺いて完全犯罪を遂行しようというのだから…これは生半可なことじゃない。
……でも100%じゃない。
そんな世界最高峰の警察でも、決して100%検挙できてるわけじゃないのだ。
…よく、冤罪事件の裁判の記事を見かける。
…冤罪かどうかを裁判で問うているわけだが、では真犯人は、というとまったくの論外だったりするものだ。
つまり……完全犯罪は存在するのだ。
いや、それどころか完全犯罪とは一種の芸術品と言っていい。
崇められてすらいると言える。
古今東西に氾濫する推理小説を見ればいい。
密室やらアリバイやらの様々な難解事件を取り扱っているが、見せたいものはひとつ。…完全犯罪の美しさを見せたいのだ。
完全という無欠を表す言葉には…一種の神々しさが宿っている。そう。完全犯罪は、神の成しえる技なのだ。
…そう考えれば…、オヤシロさまの祟りと呼ばれる連続怪死事件は、なるほど、神の仕業に違いない。
個別に何となく解決してるようには見えているが、毎年起こる事件は防げない。
……そう、神のみの技、完全な犯罪なのだ。
その神の、オヤシロさまの積み重ねてきた4年間の連続完全犯罪に、自分の犯行を列する。
……これは大胆な言葉で言えば、神への挑戦と言っていい。
決断するには蛮勇が必要だが、…その計画立案には、氷よりもクールな冷静さが不可欠なのだ。
炎のように殺す。
そして、氷のように計画的に。
この二律相反を、俺はこれから胸の内に宿らせなければならない………。
推理小説を模範にする、というのは結構悪くない着目だ。
時折、新聞を騒がせる斬新な手口の誘拐事件は、逮捕後にある小説の参考を手法にした…なんてことがわかり話題になったりする。
推理小説作家は、延々と時間をかけて、最高の芸術犯罪を日夜磨き続けているのだ。
……それを模倣することは、短時間で完全犯罪を立案する上での近道と言えよう。
もちろん、俺は推理小説なんか、そんなに威張るほど読んだことはない。
……推理小説が好きなのは、……お袋だ。
海外の古今の著名な推理作家の本はみんな読んでるし、推理ドラマを見るたびに、チープだとかトリックが甘いとか厳しいチェックを入れている。……そんなお袋にとって、…完全犯罪とは、どんなものだろう…。
「これまでの推理小説の中で、母さんが一番よく出来たと思った完全犯罪?」
「……うん。母さんって結構たくさん推理小説を読んでるでしょ。そういうの詳しいかなって思って。」
「それを読むから楽しいのよ。初めからトリックを教えちゃったら楽しみがなくなっちゃうわ。」
…別に娯楽性が欲しくて知りたいわけじゃない。
……誤魔化そうとするお袋を何とかおだてて、答えを引き出す…。
「もちろん、クリスティの『そして誰もいなくなった』は母さんの一番のお薦めね。もちろん『オリエント急行』の大胆なトリックも良かったわ。あれは完全に想像の外だった。」
「……母さんの好きな小説のタイトルが知りたいんじゃないよ。母さんが一番舌を巻いた完全トリックが知りたいんだよ。」
「本当に完全なトリックだったら、名探偵に解く余地がないじゃない。」
……それはそうだが。…それでは意味がない。
「推理小説は、解ける謎をいかに解くかの過程を楽しむものよ。解けない謎だったら、それは推理小説の題材になりえないわね…。」
「…そっか。…そりゃそうだよな。主人公に解けなかったら、…お話として成立しないもんな…。」
やはり短絡的だったか。
…推理小説は所詮、ゲーム小説だ。
解けるように、ゴールできるように書かれている。
でも、そんな甘いのじゃ駄目なんだ。
…俺たちが元の生活に完全に戻れる、そういう絶対的なトリックであるべきなんだ。
「ということは圭一。…真の完全犯罪は物語にすらならない、というのがわかるかしら?」
お袋が知的な眼差しで、悪戯っぽく笑った。
……読ませてもらったことはないが、昔、自分で推理小説を書いて、どこぞのミステリー大賞に投稿したことがあるらしい。…その血が疼いたらしかった。
「物語にならない、って、どういう意味…?」
「圭一、物語の最低構成要素は?」
「起承転結。」
「正解。特に肝心なのは、当たり前だけど、「起」に当たる部分よ。スタートの「起」がなかったら、そもそも物語は始まらない。」
「そりゃそうだよ。…何も起こらなかったら何も始まらない。」
「そう。何も起こらないから事件にもならない。探偵も呼ばれないから推理もない。推理がないなら解決もない。…つまり、これが究極の完全犯罪。」
「………え、…………ちょ、ちょっと待って。…もう一度説明してくれるかな…!」
今お袋は…何かとてつもないことを教えてくれた。
…あまりにさらりと言われたので聞き流してしまったが…何か、…とてつもなく重要なことを言った。
「そんな難しい話じゃないわよ。…そもそも、事件が発覚しなければいいだけの話。」
「……そもそも、……発覚しない事件。」
「つまり、……うーん、例えばよ。誰も立ち入らない深い森の奥で、おじいさんが一人暮らしをしているとする。」
「うん…。」
「そのおじいさんがある日、斧で殺されました。…ちなみに犯人は、…うーん、じゃあおじいさんの息子ね。おじいさんの家に来て一緒にお酒を飲んでいたんだけど、ちょっと喧嘩になって、殺してしまった。」
……内容としては極めてチープだ。
衝動的な犯行で、計画性は皆無。完全犯罪とはあまりにかけ離れている…。
「でも圭一。そこはとてもとても深い森の中の一軒家なの。普段は絶対に誰も訪れない深い山奥の深い深ーい森の中。……さて、殺した息子は町に帰ってきてこう言うの。おじいさんは元気だった、って。」
「……それのどこが完全犯罪なの?」
「圭一。…この事件はね、おじいさんが殺されているのが見つかって初めて「起」を迎えるのよ。…もしもこの後、誰もおじいさんの家を訪れなかったら、永久に「起」は訪れない。」
………「起」が訪れない…。
「だからつまり、物語は始まらない。事件が発覚しないから探偵も呼ばれない。そもそも誰も不審に思わないから謎も起こらない。…おじいさんは今日もひとりでのんびり森の奥で暮らしているんだろうね…。で、お空におじいさんの顔が浮かんでジ・エンド。……どう、こんな感じで?」
「……す、……すごいじゃないか…!! それ、ちゃんとしたトリックだよ?!」
「でも娯楽小説にはならないわね。推理小説は所詮、娯楽書。完全犯罪の指南書にはなり得ないんだから。」
…お袋を茶化すため、努めて明るく会話をしていたが…その胸中は興奮していた。
完全犯罪には…特殊な道具とか異常な地形、謎の新薬とか莫大な金をかけた大仕掛けなど何も不要だとわかったからだ。
大切なのは…「起」がないこと。………事件が、…発覚さえしなければいいのだ。
平たく言えば、
……誰にも見つからずに殺し、
誰にも見つからずに死体を処理できれば、……それでほぼ完全犯罪は成立するのだ。
…もちろん、ある日突然、今までいた人間が失踪すれば怪しまれる。
…だが、あの男にはそれは当てはまらない。
去年、叔母が死んだ時、オヤシロさまの祟りを恐れて村から一度は逃げ出した男だ。
また綿流しの夜を迎え、恐れをなして逃げ出してしまった…とみんな思うに違いない。
そもそも、愛人宅に転がり込んでるような住所不定だ。
その日の気分でぽっといなくなっても、誰も怪しむまい。
どうせ嫌われ者だ。…姿を消したところで、どこへ消えたかなんて誰も気にするものか…!!
こうして考えると、あの男は、ますます殺すのに容易であることがわかる。
これ以上は自宅で考えていても仕方がない。
俺は家を抜け出し、ガレージから自転車を出した。
……行き先は……とりあえずどこでもいい。
とにかく風を切って走って、身を冷気にさらして高まる興奮を醒ましたい。
………殺す場所とその方法、時間、死体の処理。
……この四点を詰めるだけで……計画は充分になる。
あまりに決める事項の少なさに驚き、身震いした。
……膨大な時間をかけて巨大な計画を練り上げなくてはならないと覚悟していたのに…、…あとわずかこれだけを整理すれば…もうそれは実行に移せるのだから。
今は土曜日。
……綿流しの夜に殺し、…オヤシロさまの祟りを俺が代行する以上、リミットはあと24時間しかないのだ。
……沙都子。……あと24時間、……我慢しててくれ。
今以上のどんな辛苦があるかなんて…想像もつかないけれど…、あと少し、耐えていてくれ。
もう1秒だって耐えられないってことは…わかりつつ…。
でも…耐えててくれ…。…にーにーが、……必ず助けてやるから…。
■殺人準備
表はまだセミの鳴く時間だ。
……昼下がり。…夕方にはまだ遠かった。
……空を見れば、いつの間にか曇天だ。
そう言えば、家を出るときちょっと聞こえたテレビの天気予報では、日曜日は雨かもしれない、なんて言ってた…。
空の色は鉛色。
…ちょっと雷鳴が轟けば、いつ夕立になってもおかしくない。
……まず目指したのは、学校だった。
なぜ学校を目指したのかを説明する前に、俺はどんな方法であの男を殺害することにしたのかを説明する必要がある。
…俺があの男に与えるべきもっとも相応しい死だと決めたのは、…そう、去年の祟りと同じ。……叔母が受けた報いと同じ、…撲殺だった。
撲殺なんて方法はやや不確実では…?
刃物での刺殺の方が確実なのでは…と思うかもしれない。
でもそれはもちろん、よく考えた上での選択だ。
…現実に考えてみればいい。
銃刀法で刃渡り10…何センチだったか以上の刃物は禁じられている。
…つまり、俺の入手可能な範囲内の刃物は、長くても、ものさしよりも短いものに限られるのだ。
…抵抗の可能性がある相手に対して、それっぽちのリーチがいかに頼りないものか、理解できると思う。
ならば、リーチのある棒状の武器の方がはるかに有利だ。
必殺性には欠けるだろうが、殺すまで殴り続ければいいのだから、結果的に殺せるのは同じだ。
では棒状の凶器で、恐ろしい威力があり、かつ携帯性に富んだものは何か。
……ここまで来れば、金属バットにすぐに行き着くはずだ。
金属バットがいかに恐ろしい凶器になりえるかは、…俺がここでいちいち説明する必要もない。
それでいて、日常生活に溶け込んでいて携帯していても不審に思われない点は特筆すべきだ。
………この2点だけでも、金属バットを凶器に選ぶには充分なのだが、……実はもう1点、…特定の金属バットを選びたい理由がある。それは後述する。
土曜日の放課後はクラスメートがまだまだ校庭ではしゃぎまわっていた。
その中に俺が現れても、それはいつもの風景なので誰も不審には思わない。
…この、不審に思われずに凶器を入手するというのも、実は無視できない要素だった。
……普段、野球などしない俺が、例えばスポーツ用品店で金属バットを求めたら、…やはりそれは不審がられるに違いない。
……「起」を起こさないため、…それすらにも細心の注意を払う必要があるのだ。
だから学校なのだ。
……俺が現れることが不審でないロケーションで、…凶器を入手する。
窓から教室を確認すると…、当然だが誰もいなかった。
教室に残るなんて、部活メンバーが部活をする時くらいだ。
…俺たちがいなかったら、放課後の教室なんて、無人の空き部屋に過ぎない。
…きょろきょろとなどせず、…まるで忘れ物を取りに来たかのように、さりげなく昇降口に入る。
………先生は職員室で事務に集中しているようだ。
廊下に姿はない。
…自然に、だけれども影のように素早く…、教室に入った。
無人の教室には、普段では感じることのできない、不思議な空気が淀んでいる。
……誰もいない、無人の教室。
…誰も見ていないからこそ、…机たちが勝手に這い回り、床の染みをべろりべろりと嘗め回っているかもしれない。……そんなところに俺が急に踏み込んで来たら。……慌てた机たちは、俺に飛び掛ってボリボリと骨まで砕いて飲み込んでしまうのだろうか…?
「………………馬鹿馬鹿しい。」
つまらない妄想で貴重な思考時間を浪費したことを不快に思った。
……教室の後ろには各生徒用のロッカーが並ぶ。
目指すロッカーは…俺のロッカーではない。……それは、…ある日偶然、見つけてしまった、………禁断のロッカー。
「………あった、……北条……。……間違いない。」
…1人にロッカーは1つなのに、なんで沙都子にだけ2つロッカーがある? と騒いだことがあった。
…それは後に…同じ北条の姓を持つ、悟史のロッカーだとわかるのだが。
………もちろん、今はいない生徒のロッカーとは言え…、中身を見るのは恥知らずな行為だ。
………でも俺は、………好奇心に負けて、その中身を覗いてしまったことがある…。
その中身は平凡な下らないもので…当時は何の興味もわかず、今の今まで中身のことを忘れ去っていた。
……だが、覚醒という表現が似合うくらいに研ぎ澄まされた俺は、…その当時の記憶の中に、…ソレがあるのを、…思い出していた。
きぃ…ぃぃぃ……。
ロッカーを開けると…、カビと汗のにおいの混じった、不潔な体育倉庫のような臭いが溢れてくる。
……臭いに顔をしかめながらも…、…ソレを探す。
そう。
…………悟史は、監督の少年野球チームの入っていた。
…ロッカーには雛見沢ファイターズのユニホームと………、…ソレが。
……悟史の使っていた、………金属バット…。
そう。…これが、このバットを選びたかった理由。
…この殺人劇は、俺の手で執行されるわけだが、……それは本来は俺でなく、…悟史の役割なのだ。
…だがそれを、にーにーを自称する俺が代行する。
……代行するための、…ひとつのルール。
金属バットを…ぐっと握る。
……軽い。
…それでいて、…先端には充分な重さがあって、…これを思い切り振り下ろしたなら、恐ろしいことになると想像させるに充分だった。
…悟史。………お前に、妹を救う最後のチャンスをやる。
……俺に、力を貸せ。
……卑怯者のお前に代わって、俺が代行する。
…だから、お前に妹を思うわずかの心が残っているなら…、俺に…力を貸せ。
お前のバット以外にあの男を誅する、これほど相応しい凶器は存在しないのだから。
これを…あとは校庭のどこかに隠しておけばいい。
…明日、実行直前に学校に寄って回収すればいい。
…自宅へ持ち帰る途中で、誰かに見られて不審に思われる可能性だってやはり無視できないからだ。
その点、学校なら問題はない。
それに明日は日曜日。それどころか…村で一番大きな祭りの日。
…誰も学校になんか来たりしない。
俺は昇降口を出、…すぐ近くに止めてある建設重機に近付く。
…絶対にいたずらで触れないようにと先生にきつく言われてるので、子供たちは誰もこの建設重機には近寄らない。
…触れたことがわかるだけではやし立てるくらいに、近寄らない。
その重機の…影に、…そっと隠す。
……この重機が明日動かされる可能性は限りなくゼロだ。
…なぜなら明日は日曜日。
お役人はお休みの日だ。
……それに、…クラスメートの話じゃ、この重機はもう何年もここに放置されたままらしい。…そんなに何年も動かさなかったら、…機械は急に動かせるものじゃない。…だから、ほぼ間違いなく大丈夫。
…日差しが、刺すように暑い。頭が一瞬朦朧としかける。
今日の日差しって…さっきまでこんなにもきつかったっけ…?
こんな、脳の働きが一瞬鈍った時には…何か油断があるものだ。……頭に二度ほど叩いてから、用心深く回りを見渡す…。
…………………………………………………………。
…よし。…………次は、…死体の処理についてだ。
■アイキャッチ
……死体の処理。
「起」を起こさない究極は、…死体を発見されないこと。
殺す以上に、重要な要素だ。
漠然と考えて、…一番最初に思いついたのは、沼だった。
……鬼ヶ淵村の伝説に登場し、…今でも崇められ、恐れられている底無し沼、鬼ヶ淵。
そう、鬼ヶ淵という沼がまず先にあり、…そこから村の名前が鬼ヶ淵沼になったのだ。……この沼こそ、…鬼ヶ淵村の原点。
底無しの沼で、沈めば何人たりとも浮かび上がることはできず…みな地の底の鬼の国に飲み込まれていくのみ。…そう伝えられる。
オヤシロさまの祟りを模倣しようとしているなら、この沼に遺体や凶器を投棄するのはセオリーのようにも感じられる。
だが……底無し沼と言ったって、実際はどうかなんてわからない。
それに、人間のような大きな生き物は、腐ると大量のガスが発生して、強力な浮力で浮き上がってしまうという。多少の重りなんかじゃ沈めておけないという話だ。
……そう言えば、おととしの祟りで、梨花ちゃんの母親はこの沼に入水自殺したそうだな。
…一番最初の祟りで失踪したバラバラ殺人犯も、この沼に死体を捨てようとして誤って溺れてしまったと噂されている。
…その死体が浮いたとか、見つかったという話は聞かない。
………ならば、…俺も死体をここに捨てるのを選ぶべきでは………。
……………………………凶器の投棄はここでもいいだろう。
…あと、……例えば、叔父がバイクで外出中に襲撃した場合、…そのバイクを捨てるのもここが都合がいい。
(沙都子の叔父の足が、基本的にバイクであることはわかってる)
でも…死体は……………。
悩んだ末、…俺は死体を沼に捨てることを選ばないことにする。
…入水自殺も溺死も、どちらも噂で…実際にあったのを誰か確認したわけじゃない。
入水自殺だって偽装の噂が少なからずあるし、殺人犯だって溺れたりせず、今日までどこかで逃げ延びている可能性がある。
………つまり、…この沼に死体を捨てて、浮かないことを確認した者はいないのだ。
では、死体をどうする…?
第一の事件に習い、バラバラにして隠すのも面白いかと思ったが、…人間を解体する苦労と準備、時間は俺個人にはなかなか難しい。
……そうして突き詰めていくと…オーソドックスに、…穴に埋めるのがいいという結論に至る。
ではどこに埋めるのか、…という話になると今度は、どこで殺すのかという問題が関わってくる。
当り前だが、死体と共にする時間と距離は最小限が望ましい。
その意味では、死体処理用の穴は予め掘ってあった方がいいし、犯行予定地と死体処理用の穴は近い方がいい。
…犯行予定地の選定も、……慎重かつ万全を期さなければならない。
誰にも目撃されることがなく、…奇襲できるような隠れられる場所があって。…すぐ近くに死体処理の穴が掘ることができる。
……沙都子の家から、叔父が出掛けるだろう様々な行き先の可能性を網羅する。
その周辺の地図を脳内に再現した時、……信じられないくらいにあっさりと条件を満たす場所が見つけられた。
…………林の中を抜ける、ちょっとした裏道。
叔父が、何かの気まぐれで、谷河内の山奥に行こうなんて思わない限り、……どこへ行こうとしてもまず、この林を抜ける……。
また、この裏道は、沙都子の家とその並びの何件かしか使わない。
…この道の利用者は理想的なくらいに…少数なのだ。
この林の中で、…待ち受ける。
…実際に待ち伏せは可能か。
木立の中に入り、実際に身を隠しいろいろと試す。……非常に静か。…気配を最大限に研ぎ澄ませることができる。
ここで、…いつ訪れるかわからない、沙都子の叔父を待つ。
………実はこれには多少の迷いがあった。
…何らかの方法で誘き寄せるべきではないかという疑問。
…誘き寄せることによって残るかもしれない、何かのリスク。
…あの男は、買い物や雑用は全て沙都子にやらせる。
……自ら外へ出る用事は、多くない。
……何かの策を講じなければ、…外出しないのではないか。…そういう疑問。
明日は綿流しのお祭りだ。
……あいつは、綿流しには出掛けるのか、出掛けないのか。
出掛けない場合、…いかにして家から引きずり出すのか。
…そうだ。
…………あいつ、…沙都子は祭りに行かせるだろうか。
沙都子が祭りに行く。……その間にあの男に電話する。
…こちらは興宮警察署です。お宅のお嬢さんを保護しましたので、ただちに引き取りに来てもらえませんか。
…別に警察でなくてもいい。
診療所です、御宅のお嬢さんが怪我をしました。迎えに来てください、でも構わない。
…警察とか病院とか、そういうところを名乗り、来いとだけ告げて一方的に電話を切れば、…状況を知るためにもまずは飛んで来るのでは。
それにあいつはつい先日、保護司の訪問を受けたばかりだ。
…ここでいきなり娘の引き取りを面倒臭がって、「育児放棄」なんて真似をするはずがない。
……あの生活力ゼロの男には、…沙都子という奴隷は日々の生活に不可欠な存在でもあるからだ。
結論。
……祭りに出掛けるなら、…その行きか帰りをここで襲う。
出掛けないなら、…電話でやつを誘き出す。
電話で誘き出す前段階として、沙都子が確実に祭りに出掛けて、家を留守にしなくてはならない。
…沙都子を祭りに連れて行くのは、魅音にやらせると都合がいい。
…あいつの叔母が確か民生委員だとか言ってた。
…つまり保護司の仲間だ。
…魅音に、何としてでも沙都子を祭りに連れて行けと焚きつければ、…あいつのことだ、その辺りをうまく使って、沙都子を祭りに連れて行けるはず…。
……沙都子は、息抜きのつもりで…みんなと祭りで遊んでいればいい。
…楽しく遊んで、平穏だった日々を懐かしみ…帰る頃には全てが終わっている。…あぁ、…それが一番いい。
そうと決まれば…、この林のどこかに死体を隠すための穴を掘らなければならない。
……目立たず見つからず。
…死体を埋めるという無防備時間の間、絶対に誰にも見つからない場所。
…犯行現場の近くのつもりが、…自然に遠のいてしまう。
真っ暗な深き森の懐。
……ひぐらしの声だけが響き、人が軽々しく踏み込むべきところでないことを知らせている。
「…………………………穴を掘る、…か…、」
びっしりと草木の根が張り巡らされたこの場所に穴を掘るのは…俺が想像していたより、はるかに難しいものだった。
…俺が懐に隠して持ってきた園芸用のスコップでは…どうしようもない。
それでもいろいろと周りを調べている内に、何とか掘れる場所を見つけることができた。
………明日、家の物置からちゃんとしたシャベルを持ってこよう。
シャベルでなら、何とかなる。
人を充分に埋められるだけの穴って、どれだけなんだろう。
……相当、深く掘らなければならないだろう。
…だが、ここでいい加減なことをすれば、「起」を許してしまう。
…断じて、それは許してはならない。
……費やせる時間はいくらでも費やせ。…完全に消し去るための手間を、惜しんではならない…。
腕時計を見る。……時間は夕方少し過ぎ。
今日、ここで出来ることは、多分これ以上もうない。
…本当は多少暗くなっても、今夜中に穴を掘っておきたいのだが、夜に家を抜け出すとお袋がうるさい。……両親に不審がられるのはよくない。
自宅へ帰り、早く魅音の家に電話しなくては。
そして魅音に今夜中に沙都子との約束を取り付けるように言わなくては。……それで、とりあえず今日は終了…。
…終了。…本当に?
……………本当に今出来る準備はこれだけか…?
………殺す場所は決めた。
…殺す方法も決めた。
死体の処理ももちろん決めた。
…時間は決めなかったが、これはケースバイケース。決めようがない。
…………本当にこれだけか? 本当に大丈夫か? 想定外のことはないか? 本当に思い通りにいくのか?
今さらになって、次々に不安が込み上げる。
……不安がるのは、当然だ。…これは俺にとって、…生涯で最初で最後の、…大きな仕事。
失敗は許されず、…初めての自分には経験がない。
ノウもなければハウもない。…だから不安になるのは当然…。
不安の黒雲は、…このまま何もしないのが一番無難だぞ…という、この期に及んで実に情けない提案もする。
…沙都子のあの気の毒な姿をもう忘れたかよ!!
……うわべではそう、強く決意して見せても…、心の奥底が膝をかくかくと鳴らしている。
…喧嘩ひとつ満足に勝ったことのない俺が…人殺しなんて本当にできるのか…?
いくら不意打ちとは言え…、相手は大柄ではるかに年上。強面で、喧嘩慣れしているように見える。
………ひょっとして、俺。
……殺人に至るまでの過程や、その後については万全かもしれないけど……、一番肝心な、殺人に一番不安があるんじゃないだろうか…?
あらゆる準備も、万全の隠匿も、…殺人が成功しなくちゃ意味がない。
…くそ…!
ここまで来て…情けないぞ前原圭一!
そう考えることによって、俺に二の足を踏ませようっていう魂胆は見え見えなんだぞ。
………帰ろう。…帰って心を落ち着けよう。
明日は…進学、就職、結婚、出産、なんていうものとは比べ物にならないくらいの、………人生の節目。
……人のために、人を殺す、…殺人の日。
この日を境に、…俺たちはまた取り戻す。
…あの平穏無事で楽しくて、いつまでも続くことを疑わなかった小春日和のような日々を。
帰宅するため、自転車のペダルを強く踏み込んだ。
……どこかふわふわする。
…体と魂の歯車がずれているような感じ。…実際の手足の先端と、俺が思っている手足の先端の微妙なブレ。
視界が少し遠くて狭い。
……自分の後人生を賭けた大きな関門なのに、…まるでどこか他人事のよう。……そんな非現実的な感覚。…何て言うのか、……全てが遠い。
…………いいさ。
…その不安な感情に浸るがいい、前原圭一。
…それによって臆病、細心になり、さらに注意深く行動できるようになるのなら。その感情はむしろ重要なものなのだから。
結局、その感覚は、………その晩、ずっと治まることはなかった。
■魅音に電話
魅音の家に自分から電話をかけるのは初めてだった。
学校でもらった連絡網で電話番号を探し、…田舎特有のやたら短い電話番号を回す…。
時間としては夕食時だ。
多分、家にいるはず。
………………にしては誰も出てくれない、と思った頃、
ようやく受話器が取られた。
「…はい、園崎です。」
「………………………………あ、夜分遅くにすみません。…えっと、………魅音か?」
「…え? どちら様です?」
「俺だよ、…圭一だ。」
「あ、……あぁ、圭ちゃんか。何〜? こんな時間に。」
何だか変に上機嫌でろれつが回らない感じだ。……そうか、明日のお祭りの前夜祭みたいな感じで、きっと親類が集まっての酒盛りになっているんだな。
「悪いな、こんな時間に。…今、時間は大丈夫か?」
「うん。……何?」
「沙都子のことなんだけど。」
受話器の向こうで小さく息を呑むのがわかる。
「…沙都子、………大変なことになっちゃったね。…大丈夫かな…。」
魅音の声からはすっかり酒の匂いが抜けていた…。
「大丈夫なわけないだろ。……お前も見ただろ? あれ。」
「……………………………。」
「……あんな、擦り切れるまでに虐め抜かれて。…俺たちはあんなになるまで、ずっと見捨ててきた。」
「…………見捨ててたわけじゃないよ。…みんな助けようとして、必死に考えてたよ。」
「でも、結局何も思いつかなかったし、……沙都子を救えたわけじゃないだろ。…結局、……あんなになるまで、俺たちは何もできなかった。」
「…………………そう、……だね。…私は結局、見てただけかも…。」
「………だからさ。…せめて、………一夜くらい、遊ばせてやろうじゃないか。」
「え? 遊ばせるって、………。」
「……あいつも色々とまいってるの、わかるだろ…。だからさ。…明日の綿流しのお祭りに、……あいつを連れて行ってやってほしいんだ。」
「…………それは、構わないけど。…どうして?」
「どうしてって…。……せめて祭りの夜くらい、息抜きさせてやりたいじゃないか。…例え一夜でも、あの意地悪な叔父の元から離れられるなら、…短い時間でもきっと沙都子は喜ぶ。」
「……………………だから、…どうして?」
「…どうしてって、………何がだよ。」
魅音が何を尋ねているのか、ちょっとわかりにくい…。
「……どうして、………さ、……。…うぅん!…け、圭ちゃんが連れて行ってあげないの? 私に頼まなきゃならないの…?」
魅音が……妙なところでしつこい。…というか……鋭い。
「俺、…実はちょっと明日は用事があってさ。…祭りには行けない。だから沙都子を、魅音が連れて行ってやってほしい。」
「…………用事……って、……。」
「大した用事じゃないんだ。多分すぐに片付くと思うけど、…ひょっとすると明日は合流できないかもしれない。」
「………………………………………。」
「なぁ、魅音。……明日の夜だけ、沙都子を頼めないか…?」
魅音はなかなか返事をしてくれなかった。………何となく、…さっきから魅音の様子がおかしい。………感情が昂っているというか……。
「…………………嫌…。…………ぅっく…、」
え…? 嗚咽? …魅音……?!
…お前、……泣いてる……?
「……………私、…………嫌だって、…言ったじゃない…。私なんかに…押し付けられても…困るって……!」
「…べ、……別に押し付けるつもりなんかないよ。…明日の夜だけでいいんだ。」
「嘘だったじゃない!!」
………え……? ……魅音は……何の話を…している…?
「綿流しの夜だけって言って…。……結局、……ずっとだった………。…嘘つき………。…ぅっく…。………あは、……あははははは。でも、…お相子かな。…私、全然、あなたとの約束、…守ってないから。…あの子はずっと放ったらかしだし…ね…。」
…俺は相槌を打てない。
……魅音は明らかに、…途中から俺以外の誰かと話をしている。
……それが誰なのかは、…わからない。
呆然と…、俺はそれを聞いているしかなかった。
「……………あれから…ずっと帰ってこないのに、……あの子のことをもう一度、押し付けるためだけに、……また電話をしてきたんですね。……本当に……ずるい人…。……ぅっく……。…………………………………………ねぇ、あなた……………悟史くん、……なんでしょ…?」
「……み、……魅音、……さっきから…何の話だ…?」
…俺が名前を呼んだことで、……魅音の呪縛のようなものは解ける…。
「………あ、………あははははははははははは……。…ご、……ごめん…。何でもないの。………ちょっと、……圭ちゃんの今の電話にそっくりな電話を…昔、受けたことがあって。」
「………………それ、………ひょっとして、…悟史、…か?」
…魅音は答えない。
…ただ、漏れてくる嗚咽だけが聞こえた。
「ご、ごめんね。…ちょっと私、お酒が残ってるみたい。…変なとこで感情的になっちゃった。…えへへへ、…ごめんね、焦ったでしょ。」
……………どういう経緯か、わからないが。
…………多分、去年の同じ日。
…悟史は魅音に、電話をした。…………沙都子を祭りに連れて行ってやってくれ、と。
そして、どうしてあなたが連れて行ってあげないの、の問いに、…俺がしたのと同じ様に返事をしたのだ。
「……悟史、…………祭りに、…行かなかったんだな。」
「……………うん。……用事があるから自分は行けないって言って。…代わりに私に、沙都子を祭りに連れて行ってくれって。」
……………………………………。
「…その時、……悟史も言ったんだな。……沙都子を頼む、って。」
「………………うん。……言ったよ。明日の夜だけ頼むってね。…圭ちゃんの言い方が……あまりにもよく似てたんで、…あははは。…ちょっと思い出して、取り乱しちゃった。」
意外だった。………悟史が、一年前の今日、…俺とまったく同じ電話をしていた。
…その後に、さっき魅音は続けた。
…嘘だったじゃないか。…祭りの夜だけって言ったじゃないか…と。
「………………そうだったな。……悟史は…その数日後に、…………消えた。」
消えた、という言い方は少しだけ曖昧な言い方だったかもしれない。
……家出だろうと何だろうと、…悟史は沙都子を捨てて姿を消した。
「…………そう。……転校でもなく、家出でもなく、……消えたの。」
……その時、……霞よりもずっとおぼろげな想像が頭の中を過ぎった。
去年、俺とまったく同じ電話をした悟史。
……悟史は、……どうしてまったく同じ電話を…?
もし、……真の意味で、…俺とまったく同じ意味で電話をしたなら、…………去年の、叔母が撲殺された事件は、………………………そんな、……まさか、………、
「……………悟史、…………だ。」
「……え? ………何が…?」
…去年。
……叔父叔母夫婦にも、ずっと虐めれていた沙都子。
……沙都子をもっとも虐めていた叔母を、……オヤシロさまの祟りの名を冠せられる夜に、……葬った…。
………そう考えれば、……全て合点が行くじゃないか。
「……去年、沙都子の叔母が殴り殺されたじゃないか。………あれ、……悟史ってことは……考えられないか…?」
…いや、でも…そんなことって……。
……だって、……悟史は…沙都子を捨てて逃げ出した卑怯者だぞ?!
そんな悟史が…沙都子を救うために…人を殺す決心にまで至ったなんて……考えられるわけ………、
「……………私も、…実はそれを疑ったことがある。……悟史には悪いけど…。」
…その数日後、……悟史は姿を消す。沙都子の誕生日に。
始め、それを俺は…何て残酷な日に逃げ出したのかと怒り狂った。
……だが、…………こう考えると、……話はまったく異なってくる…。
悟史はきっと、…俺よりも冷静じゃなかった。
…実の妹が日々、虐められているのを目の前で見ている血のつながった兄だからこそ、…冷静さを保てなかったのかもしれない。
……それは、…叔母の撲殺死体が、あっさりとその晩に発見されてしまったからだ。
悟史は怒りに我を忘れすぎて、死体を隠さなかった。
「起」を許してしまった。
警察が本格的に捜査すれば……、悟史が徐々に犯人として絞られていくのに、そんなに時間がかからない事も簡単に想像がつく。
悟史は…沙都子との平穏な日々を望み、一度は手にしながら…。…徐々に追い詰められていったんだ。
そして、……せめて沙都子の誕生日までと思って頑張ったが、……ついに、…絞りきられた。
…悟史はその時、沙都子の誕生日に大きなぬいぐるみをプレゼントするために、まとまった貯金を持っていた。
それでぬいぐるみを買ってプレゼントして、……捕まるか。
……そのお金を使って、……消え去るかを迫られたのだ。
………そして悟史は………沙都子を殺人者の妹にしないことを…選んだのだ…。
……だとしたら……それは何と言う苦渋の選択だったろう。
……沙都子の喜ぶ顔が見たくて貯めた貯金を、………沙都子を悲しませるために使わなければならなかったなんて。
…そして貯金を使い、……噂される…東京へ消えた。
「………………悟史は……それで消えたのか……………。」
「……それは…わからない。……大石なんかはそう思ってるみたいだけどね。」
大石…か。……あの嫌らしい男に、ねちっこく付け狙われ…じわじわと追い詰められていったのだろうか…。
「確かに状況証拠は揃ってるけど、……多分、圭ちゃんの推理ははずれだと思う。……県内のどっかで捕まった覚醒剤でイカれたヤツが、犯行を自供したって言うし。」
…………………そうだ。……異常者が犯行を自供して…決着したんだったな。
「そいつは本当にただの異常者で、雛見沢とは何の縁もない男だったって。もちろん悟史とも何の関係もない。…だからそんなヤツが悟史の身代わりになって嘘をついてくれたなんて到底思えないし…。」
……そう決め付けられるものか。
…人の縁なんて、どこでどうつながってるかなんて、わからないぞ…。
…そいつが罪を被ってくれたなら…これは完全犯罪だ。
………もっとも、完全犯罪なら……悟史が消える理由はない。
「それに、…悟史には逃亡資金なんてなかったと思う。悟史が預金を下ろした日。………これは誰に言っても信じてくれないんだけど…、沙都子のために買うと言ってたぬいぐるみが、…売れてショーケースからなくなってたの。……きっと、…悟史が買ったに違いない。」
「…ちょっと待てよ。……逃走資金に使わないで、ぬいぐるみを買うために使ったなら…沙都子のところへ帰るはずだろ。……ぬいぐるみを買って、それを届けもせずに蒸発するなんて考えられない。」
「……うん。……だから、……わからなくなっちゃうんだよ。……まとまったお金があるならともかく…、貯金を全部使っちゃったなら悟史は無一文。……お金もなく、逃亡生活ができるほど世の中は甘くないよ。」
「…………………………………。」
…わからない。
…ここに来て、…悟史という男のことが、わからなくなる。
二人して…沈黙する。
……何をきっかけに、こんな話になってしまったのか、わからない。
「あはははははは、…ごめん。…どこで話が脱線しちゃったんだか。………沙都子の件ね、安心していいよ。実はもう、ちゃんと誘ってあるんだよ。」
「…え! ……本当かよ…。」
「………祭りの準備でみんなで神社に行ったときさ、沙都子を祭りに呼ぼうって話になったんだよ。それで、集会所の電話でそのまま電話して誘ったんだ。叔父のヤツ、よそよそしくて、勝手にしろみたいな感じだったけど、とりあえずOKはしてくれた。明日、みんなで待ち合わせして行くことになってるんだよ。……安心した? 悟史ぃ?」
「…ばか、…俺は悟史じゃないって…。」
少し、安心した。
……俺が電話をしなくても、…沙都子はもう祭りに呼ばれていたのだ。
叔父を一人残して、……殺すための時間を設けるために沙都子を祭りに行かせるという、血生臭いものでなく、……本当に純粋な心で沙都子を楽しませたくて……誘っていたのだ。
結果的には同じことでも、……そのちょっぴりの違いがうれしかった。
「……すまないな。…俺が電話をするまでもなかった。…昨日にしろ、今日にしろ、……変な話ばかりして、…すまないな。忘れてくれ。」
「…………こっちこそ、本当に申し訳ない。…柄にもなく取り乱しちゃって。本当にごめん。」
しばらくの間、二人して謝りあう。
「じゃあ俺はこれで失礼するな。…おやすみ。」
「……何の用事?」
…別れの挨拶に割り込ませるように……魅音が痛いところを突く。
「……それもまた、……悟史と同じように、……言えない?」
「……………………………………ばか。…だから俺は、…悟史じゃないって言ってるだろ。」
「……………………うん。…そんなのは……わかってるよ。」
答えにならない答えで、…誤魔化す。
…魅音はそれ以上、食い下がったりはしなかった。
「じゃあ今度こそ、……………おやすみな。」
「……どうして圭ちゃんが悟史くんとまったく同じ電話をしてきたのかわからないけれど…。……………………………うぅん、…何でもない。……ごめんね、おやすみ。」
「……………切るぞ。」
…チン。
北条悟史。
………お前は一体、……。
…俺はお前のことを、妹を捨てて逃げ出した卑怯者と蔑んできた。
お前には、にーにーなんて呼ばれる資格はないと、…ずっと思ってきた。
でも…………、何だかわからなくなってしまった。
4年目のオヤシロさまの祟り。…叔母の撲殺と、……悟史の失踪。
………そして…5年目のオヤシロさまの祟りを執り行おうとする、俺。
奇しくも、俺の取る行動が…祟りの前日になって、ぴったりと悟史と重なり合った。
いや………。
……そもそも、…沙都子が虐められて…ということからが始まりだったとすれば……もう何日も前から、…俺と悟史は重なり合っていることになる。
さっき、俺は魅音と話していて、…自分のことを、悟史か…? と尋ねられた。
…第三者の魅音が、第一印象でそう思う以上、……それは事実なのだろう。
ならば俺はきっと、悟史に成しえたように、…殺人に成功する。
だが、俺と悟史が重なるのはここまでだ。
俺は悟史よりもはるかに冷静で…計算高い。
…熱くなれば熱くなるほど…むしろ冷静になれるのだ。
……だから、悟史の轍は踏まない。
あの男だけを綺麗に消し去り、…元の平穏な日々を取り戻すんだ。
………俺は、凶器に悟史のバットを選んだ時から、……悟史と一緒にいるのかもしれない。…いや、…もっと前から。……俺がにーにーになってやろうと決意した頃から…悟史は俺の中に宿っていたのかもしれない。
……悟史。…………お前は本当に………卑怯者だったのか?
………それとも……今でも沙都子が敬愛するに値する……本当のにーにーだったのか…?
会ったことも話したこともない、…顔すらよく知らない男に、……これほどの親近感を覚えるのは……初めての経験だった。
■幕間 TIPS入手
■タイトル: 主婦撲殺事件担当課御中
昭和57年7月XX日
興宮警察署捜査一課
高杉課長 殿
XX県警麻薬犯罪撲滅本部
鹿骨支部長 XXXX
秘匿捜査指定第X号事件について
標記秘匿捜査事件(興宮警察署第X号、雛見沢村主婦撲殺事件)について関連すると思われる部分が、
当本部担当事件の供述調書内に確認されたことを通達する。
X月X日に覚醒剤所持の現行犯で逮捕したXXXX容疑者への取調べ中、
標記事件の犯行をほのめかす供述があり、その中に、犯人しか知り得ない情報が含まれていることが明らかとなった。
よって、この供述調書(複写)を貴課に提供する用意がある。
この供述調書を信頼できるなら、XXXX容疑者は標記事件の実行犯である可能性が極めて高い。
なお、担当取調官はこの供述を受け、興宮警察署に事件の問い合わせをしたが、
7月1日県警本部長発令の秘匿捜査指定(昭和57年総総管イ1−12)を対応した興宮署担当者が誤解し、
担当取調官に対し、事件の存在を正しく説明しなかった。
その為、担当取調官は標記事件に関連する供述を重要なものと認識せず、
その結果、現場確認等を怠り、今日まで放置するに至ったことを謝罪する。
なお、XXXX容疑者は先日X月X日、留置場内にて死亡したことを追記する。
■11日目(日)
日曜日。
………昼前に聞こえた花火の音は、祭りの開催を知らせるためのものだったのだろう。
その日は…祭り日和とはお世辞にも言えない、曇天だった。
テレビの天気予報は、夕方から夜半にかけて土砂降りになるかもしれないと警告していた。……だが、今が降っていない以上、祭りは開催される。
祭りが開催されてくれなくては…始まらないのだ。
古手神社の境内は…今頃は華やかな装いになり、年に一度の晴れ舞台を飾っているのだろうか。
……おめでたい紅白幕や、たくさん吊るされた提灯。
…露店の発電機のモーターの音。
…走り回る子供たちの声。
それを見て微笑む家族。笑い。…今日は、綿流しのお祭り。
………その中を、…もうみんなは遊んでまわっているのだろうか。
沙都子はどうだろう。
……辛かった日々を、つかの間だけ忘れ、…久々にあの眩しい笑顔を見せてくれているのだろうか。
……今日は人生で一番長い一日になるだろう。
一生において、鮮烈に記憶される日になるだろう。
両親は夕方からお祭りに行こうと、のんびりとした昼下がりの生活を送っていた。
…同じ屋根の下に暮らしながら、これほどまでに異なる時間を過ごしている差に驚かざるを得ない。
…俺はそれを尻目に…玄関へ行く。
心持ち、靴紐は固めに。……決意を、結びの固さで示すかのように。
……………沙都子の叔父の殺害を決意した時、…俺は頭がおかしくなりそうになるくらいの興奮状態にあった。
……そして、殺人という、これまでの人生で培ってきたモラルに完全に逆行する行為を計画する時には、…感情が喪失するくらいに落ち着いた、冷静状態にあった。
…そして、…昨日。
………悟史が、俺とまったく同じ電話をしていたと知った時には、…………もう、何て表現していいのかわからない、ぐちゃぐちゃの気持ちだった。
…そして、今日を迎える。
今の俺は、昨日まで持っていたあらゆる感情が喪失していた。
……平たく例えるなら、…起きたばかりでまだ寝ぼけていて、あらゆる感情がしゃきっとしていないような、そんな感じ。
あの男が沙都子に犯してきた暴虐に対する怒りもなければ。
沙都子を憐れむ悲しみの気持ちもない。
様子見だけで、ついに何の手も差し伸べなかった仲間たちへの不満も感じないし、……今日という日を迎えたことに対する緊張も恐怖もない。
……そう。今の状態は、…殺人を行う上での、ベストコンディションと言えるのだ。
それに至る瞬間には、激情に身を任せることも必要だろう。
…だが、それに至る直前の瞬間までは……、例えるなら昆虫のような。…ただ目的のためだけに音すらさせずにジリジリと動き…、……獲物を捕らえる瞬間にだけ、弾丸のように飛び掛る。
そこには感情など何もない。
…そういう、昆虫独特の薄気味悪さ。…そういう感情が一番よいのだ。
…沙都子の叔父など、虫けらのように殺してやる。そう思っている俺が、昆虫の心持ちなのだから笑えなくもない。
…………ギュ。
もう一度、靴紐を締めなおし、……俺は表へ出た。
表の物置からシャベルを出す。あの男の墓穴を掘るために必要なものだ。
このシャベルはキャンプ用の便利なもので、……こうしてねじって三つに分解すれば、簡単にカバンにしまって隠すことができる。
シャベルをねじって…分解する。
何度かやったことのあることなのに、…なぜか手こずる。…急に不器用になってしまったみたいに。
………わかってる。
…これは緊張してるからじゃない。
…俺の奥底の惰弱な自分が臆しているのだ。
……このシャベルを分解するという行為が、…殺人の第一歩であることを知っているのだ。
「………く、……………うお!!」
最後のひとひねりは一際固かったが、…俺の決意そのままの力強さの前に、ついに屈したのだった…。
沙都子の家の周辺は、…俺の活動半径の外側だ。
…ただこうして日中に自転車で走っているだけでも、……注意深い人間なら、不審に思うこともあるかもしれない。
顔見知りに会い、声をかけられるようなことは絶対に避けたい…。
そう思い、慎重に目的地までのルートを選択する。
…多少の遠回りは気にならない。……今日という長い一日を、どれだけ慎重にしたって、し過ぎるということはないのだから…。
…それにしたって、犯行予定場所に着くまでに誰ともすれ違わずに済んだのは幸運だった。
……今さら縁起を担ぐつもりもないが、…幸先はいい。
穴を掘ると決めた場所は…この木立の中を、森の中をもっと行った先。
…何の道標もない森の中で、もう一度同じ場所にたどり着けるだろうかと不安になったが、…あっさりと思い通りの場所に到着することができた。
改めて回りを見渡す。
……人の気配は欠片もない。…空気は少しじめっとしているが、木陰特有の涼しさが心地よい。
分解したシャベルをカバンから取り出し、…手際よく組み立てる。
……そして、……シャベルの先端を軟らかそうな地面に突き立て、…片足をそれに掛ける。
………足にぐっと力をかければ、ざっくりと地面にスコップが突き刺さる。
…その突き刺すという行為が、…とてつもなく、後戻りのできないことのようで…躊躇させられた。
ただ、シャベルで穴を掘るだけなのに、……固い唾を飲んでしまう。
…落ち着け前原圭一。
……ほら、呼吸を合わせるぞ。…一、二の三でザクっと行くからな? ………せぇの…、一、…二の……ん…、
うまく呼吸のタイミングが合わせられず、ただシャベルを地面に突き刺すだけの行為をするのに……5度も6度も試すはめになった。
…くそ、……ただ穴を掘るだけなのに…情けない!
そう思った時、…嫌なことを踏み潰すように踵に力が入り、ザクッ!!と鋭い音がしたのだった。
「……………ふう…。………………ん。…………………ふぅ……。」
………軟らかかったのは最初だけ。
…すぐに、根や石が邪魔をするようになり、…人間を充分に埋める穴を掘るのがいかに大変なことかを思い知ることになった。
そもそも、こんな場所に真っ当な人間が来ることはない…。
ほどほどに土をかぶせて隠せば充分なのでは……。
…そんな甘えた考えが心に浮かぶ度に、奥歯でそれを噛み潰しながら、さらに力強くシャベルを打ち込むのだ。
これだけ掘れば充分…。これだけ掘ればちゃんと隠せる…。
そう思う度に穴の底に下りてみて、あまりの浅さに失望し、掘りなおす。
……額にじっとりと浮かんでいた汗は、とうとう玉になり、ぼろりと落ちた。
……背中はもっとひどい。
シャツはべったりと張り付き、…気持ち悪いことこの上ない。
…もっとも耐え難いのは、藪蚊だった。
……俺の汗の臭いをどこで嗅ぎつけてきたのか、…白と黒のまだらの汚らしい蚊が、気を許すたびにへばりついてくるのだ。
暑い。
気持ち悪い。
べたべたする。
…痒い。……そんな、不快感の波が代わる代わる俺に押し寄せてくるのだ。
「………くそったれ…。だから何だってんだよ…、やめて帰れってのか?! ええ?!」
怒鳴ったわけじゃない。自分で自分に言い聞かせるような、独り言。
…どうして俺は……こんな思いをしながら、こんなところで穴なんか掘っているんだろう…?
この穴を掘ると俺にどんな得があるんだ?
この穴を掘らないと俺にどんな損があるんだ?
いやそもそも………俺は誰に掘れなんて命令されたんだ…?
……思い返せば、…小学校の時から、あるいはその前からずっと…、…俺の人生は人から命令されたことだけで積み重ねられたきたのかもしれない。
…命令だけされて生きてきたのは、別に窮屈だったという意味じゃない。
自ら道を模索せず怠惰だったという意味でもない。
それは例えるなら……そう、…道みたいなものだった。
昔から特に身体的に優れていたわけじゃない。
……成長は早い方じゃなかったし、身長はクラスで並んでも、真ん中より後ろにいくことは稀だった。
縄跳び大会だってマラソン大会だって記録は平凡そのもの。
ドッジボールのチーム分けでも、俺を取り合って両軍のジャンケンが盛り上がった試しなどない。
成長の早さや身体の優劣が、人間の価値をそのまま決めてしまっているかのような、幼稚園、小学校低学年時代は……今思い出しても、とても不愉快だった。
それが一転したのは、……お袋のほんのちょっとした一言だった。
「圭一。あなた塾に入る気はない? 学校の勉強がわかるようになって、楽しくなるわよ。」
塾で一番最初に受けたテストは、何だかゲームみたいなものでとても面白かった。
似たような問題が何十問も並ぶ学校のテストと違い、どの問題もイラストがふんだんで、まるで漫画雑誌の付録本のナゾナゾブックみたいだった。
こんな感じのが学校の勉強だったなら、さぞや楽しいだろうに。
それから何日かして、入塾の手続きのためにお袋と再びその塾を訪れた。
…お袋と塾の人がずいぶん熱心に長々と話をしていたので、俺はうとうとと眠くなってしまい、ほとんど聞き流していたのだが……、この箇所だけは今でもよく覚えてる。
お袋が素っ頓狂な声をあげて、驚いたのだ。
「えっと、…61って、平均点が61点ですか?」
「いいえ、違いますよお母さん。全国展開する当塾での平均偏差値が61です。簡易式の知能検査でも非凡な数字が出ています。…まず申し上げて、前原圭一くんは大変に頭がいい。」
「圭一が……。でも、学校では大した成績じゃありませんし。通信簿も2、3、4が適当に並ぶ平均的なもので……。…何かの間違いではありませんか…?」
「クレペリン検査とも重ねましたが、その結果、興味深いことがわかりました。前原くんは意味を持たない問題に非常に弱いのです。…無味簡素で自身の生活に結びつかない内容の問題に興味が持てないのです。」
「…2+3はわからなくても、リンゴが2個あって、3個増やしたら何個に…という形なら理解できる、ということですか?」
「その通りです。例えば正六面体の展開図を書け…と言われて混乱する圭一くんも、サイコロを切り開いたらどんな形になる? という風に聞けば、見事に答えられるのです。」
そして塾の人が、俺の書いた答案の一枚を見せた。
……それは工作の問題の答案だった。工作の問題なんて珍しいのでとても面白かったっけ。
「正二十面体の展開図を書けという問題です。…この問題を、20面体のサイコロを作るにはどんな風に厚紙を切ればいい? と聞き直したら、圭一くんはさも簡単そうにこれを書いて見せました。……これは平凡なことではありません。」
「圭一。あなた、どこかの本の雑誌のフロクか何かで20面体サイコロを作ったことがあったの?」
サイコロってのは1から6まであるもののことだ。
6よりも大きな目が出せるサイコロがあるなんて、このテストで知るまで考えたこともない。
だから20まで出せるサイコロがどんな形か想像するのは楽しかった。
こんなサイコロがあれば、誰とスゴロクをしたって絶対に負けるものか。だから作りたいとすぐに思った。
やがて入塾。
…俺が編入されたクラスは生徒が4人しかいない、選抜と呼ばれるクラスだった。
それが最高位のクラスで、…自分の下位のクラスにクラスメートが何人かいて、…彼らがドッジボールや50m走で俺よりもずっといい成績を出していたことを思い出した時、初めて喜びが込み上げてきたのだ。
身体能力で劣っても、他に見返す方法があったのだ。
始めは楽しかった。
やればやるほど褒められたし、学校の先生が急にちやほやし出すのも気分が良かった。
…両親も満足げだった。そんな両親を見るのが、楽しかった。
親の命令に従えば従うほど、どんどん楽しくなっていった。
「…………………………ふ、」
そんなこともあったっけ。……自身を笑い捨てるように、苦笑いする。
まぁ……結局、そんなお勉強人生はそう長くは続かないわけだ。
勉強が出来れば出来るほど、楽しくなったのは最初の内だけだった。
友人たちとは次第に馬が合わなくなり、いつも俺が塾で習う内容よりも3つは遅い授業を、塾に比べたらどうしてこんなに眠くなるように教えられるのか関心してしまうような教師に、敬意を感じなくなっていた。
…そんなお勉強ができることを鼻にかけた嫌味野郎が、いつまでも有頂天に生きてけるほど、…まぁその、世の中は単純じゃないってことだ。
命令されたことに従い、それを期待以上にこなしてみせると褒められる。
…それが嬉しくて、そのサイクルを自転車のようにぐるぐる回す。
…そうして前に進むのが人生という自転車だと思ってた。
そんな人生が、……いかに貧しいものかを知ったのは、雛見沢に引越してきてからだった。
いろいろあり、引越して環境を変えるのもいいだろう、という話になった。
そうしたら親父が…以前から何度か写生に行って気に入っているところがある…。
そこにアトリエを持ちたい……みたいなことを言い出して。
…あれよあれよという間に雛見沢への引越しが決まってしまった。
そうして………………俺は、………あいつらと出合ったんだっけ。
転校しての第一日目。
…先生と共に教室へ向かった。
…先生に連れられて入るというのも何だか情けないと思い、俺は先生よりも先に扉に手を掛け、ガラリと豪快に開け、教室に踏み込んだ。
ガラリ。
その豪快な開け方は…力強く、もう一度人生をやり直そうとする俺自身の決意に他ならなかった。
…そして、…その決意はわずか数瞬でカウンターを食らうのだ。
頭上から黒板消し。
しかも中には大きな石が詰めてあって…最高に痛い仕上がりのトラップだった。
……何だよ俺。転校初日からいきなり沙都子にやられてるのかよ。
あれはびびった。かなり面食らった。
クラスも驚きだった。
教室の生徒たちが学年も性別もバラバラだったことに驚いただけじゃない。
……俺が知る学校という場所と、まったく雰囲気の違うところだったからだ。
その驚きは…連中と日々を送る内に、ますます増していくのだ。
その新鮮な驚きは…今日までの生活でも絶えることはない。
…日々が新鮮な驚きの連続で、……ここに来てから一日たりとも退屈だと思ったことはない。
部活メンバーとの賑やかな日々。
ガン牌のトランプでジジ抜きをした。大富豪で煩悩全開に大暴れした。
町のおもちゃ屋で一般参加者ありの大会でも大暴れしたし、その他にその他にも…色々、色々。
そんな日々の延長に、あの弁当勝負があった。
……あの時だ。
沙都子の意外な一面に気付いたのは。
沙都子と晩飯を共にしたのは、…思い出せばたったの二晩だ。
今思い出しても胸が温かくなるやさしい時間だった。
沙都子が気丈に振舞いながらも、…心のどこかで、にーにーが帰ってくるのをずっと待っているという健気さに気付き、……沙都子のにーにーになってやろうと誓った。
沙都子は口やかましいヤツだったが、…世話見のいい妹だった。
でも、それは一見、リードしているように見えて、それもまた沙都子なりの甘え方だったのだ。
悟史と沙都子の兄妹の毎日は、…叔父叔母夫婦の元での窮屈なものであったにせよ、…温かいものだったに違いない。
あの温かだった日々が……いつ、何の間違いで狂ってしまったんだろう。
嘆いたって、起こってしまった悲劇はどうにもならないってあれだけ自分に言い聞かせたのに……、嘆いてしまう。
だから圭一…。あの日を取り戻すために…俺は自ら道を選び取ったんだろ?
誰にも命令されなかった。自分で決めた。誰かに褒められるのを期待したのでもない。
全部自分で考えた。そして自分で切り開いてる。……今も!
親や世間が作ってくれていて、…この先、どのように続いているかも一望できるような道ではない。…一歩先は常に闇の、この上なく不安な闇の細道だ。
でも…その心細い道は……どこにでも続いている。
行けないところなどない、…無限の道なのだ。どこへ行きたいかを、自ら描き出せる人間にしから選べない…そんな道。
明るい舗装道路から逸れたことを恥じるな。
むしろ、自分だけの道を見つけられたことを…誇りに思うんだ。
それに、俺は舗装道路を捨てたわけじゃない。
………目的を果たしたら、また明るい道路に戻ってくる。そして……また平凡な日々を、のんびりと温かに過ごすんだ……。
ザクリ………。
…気付いた時、穴はもう…信じられないくらいに大きく、深くなっていた。
…これ、…本当に俺がひとりで掘った…?
「……これだけ掘れば……充分じゃないか…。」
スコップを穴の底に置く。
……死体をここまで引きずり、穴に放り込んで土をかける。
……その上に草木を乗せ、偽装するのに時間をかけたとしても、穴を掘るよりは簡単に終えるだろう。
腕時計を見る。……いつの間にか夕方前だ。
……時間の経過を感じなかったとは言え…。これだけの穴を掘るのに相応しい時間は経過しているようだった。
■待つ…。
近くの斜面の石に腰掛け…額を流れる汗を拭う。
………あとは…もう少し暗くなったら、校庭に隠してある金属バットを回収する。
…そして、あの男を誘き寄せるための電話をする。
………そして、………実行。
その瞬間を迎えるまでの手順が、…減っていく。
それは時の刻みよりももっと肉迫して感じられた。
…何の躊躇もないのに、そう感じる矛盾。
…実行に至るまでのあらゆるプロセスで、俺は躊躇し、戸惑い、……臆病風に吹かれる機会がある。
その百万の誘惑に耐え、その時を待たねばならないのがいかに緩慢で苦しい拷問であるかは……筆舌に尽くし難い。
初めはそれを女々しくも思ったが、途中からそうも思わなくなった。
…いいのだ。…これで。
人殺しなんていう、異常な行為に嫌悪感を持っていても一向に構わないのだ。
……なぜなら俺は、今日から殺人鬼になるわけじゃない。
……今日という異常な日を潜り抜け、俺は再び元の世界に戻ろうとしているのだ。
殺人に何の抵抗も感じない異常者に成り下がったら、元の生活に戻るなんてことはできない。
…だからこれでいいのだ。殺人に戸惑う心を、恥ずかしがらなくてもいいんだ。
そう、……俺は、人間だからだ。
オヤシロさまの祟りを代行する身でありながら、人間であることを自覚するなど…何とも滑稽な話だった…。
ふぅ……と軽く息を吐き出してから、立ち上がる。
気配を殺し、…自分以外の気配を探るために…四方に精神を研ぎ澄ます…。
……よし。
……行こう。…一歩一歩。自分の道を歩もう。…誰に強制されたわけでもない、自分の道。
「……行くぞ…。…前原圭一…。」
セミの声がじわじわとうるさく騒ぎ立てる。
…その合唱は俺が小枝を踏み折る不審な音を覆い隠してくれた。
…そして、ずっと道の向こうまで合唱で満たし、人の気配が先の先までないことを俺に教えてくれていた。
俺の進もうとする道を、セミたちが祝福し、持てる精一杯の力で応援してくれていた。
空が高い。
……もう数刻しない内に、夜の帳が近付き、空を夕闇に染めるだろう。
…その頃にはきっと、セミたちに代わって、ひぐらしが合唱を聞かせてくれるだろう。
その頃には……もう全て決着しているだろうか? 全て終わっているだろうか…?
沙都子の命運を公的機関に委ねた時にも、俺は似たようなことを言った。
……でも今度は…違う。…俺がする。俺が成す。俺が、終わらせる。
る。
全部終わる。
…そう、ひぐらしのなく頃に。
<時間経過……。
■アイキャッチ
■電話で呼び出す…
学校には誰もいなかった。
…いつも誰かの遊び声が響いているこの学校から、人の気配がまったく消え去るというのは…初めて見る光景だ。
それでも息を殺し、……油断なく辺りの気配をうかがった。
薄暗くなってきたにも関わらず、…むしろ俺の目はより鮮明に見えるようになったようだった。
充分に安全を確認し……金属バットを隠した建設重機に歩み寄る。
………一抹の不安が、…バットを誰かが見つけ、いたずらでどこかに隠してしまったなんてことがあるのでは……という予感を過ぎらせる。
…もしもそんなことがあったら……それを理由に、俺は思いとどまるのか?
……もしも……本当になかったなら…………………。
冷え切った金属の感触。
…なくなったりはしなかった。
……いや、逃げたりはしなかった。
…悟史は逃げなかった。
……ここでじっと、…俺を待っていてくれた。
「……待たせたな、悟史。…………………いよいよだが、…覚悟はいいか?」
…金属の手触りを経て、悟史が俺の心に笑いかける。
……覚悟はいいかってのはこっちの台詞だぜ? 俺は去年にもうやってるんだ。俺よりも自分の心配をしろってんだ。
「…上等だぜ悟史。……………目にものを見せてやろうぜ…。」
悟史のバットはますますに軽さを増し、…俺の手に吸い付くかのように馴染む。
……振ってみても違和感はない。
…まるで、そのまま右腕の延長になってしまったのではないかと思うくらいに、自然に動かせる。
………当然だ。
一本のバットを、俺と悟史の二人で握っているのだから。
……次は、……あの男を呼び出すために、…電話をする。
時間は…悪くない。……今頃、仲間たちはみんなで楽しく露店を練り歩いているに違いない。
………………電話を…どこから掛けるか、考えてなかったな。
自宅と沙都子の家は離れている。俺の家から電話をしたら、間に合わない。
……学校の電話が使えないだろうか。
…でも、…当り前だが戸締りがされていて、中には入れない…。
くそ……。
…何て甘い…。
どこから電話を掛けるかくらい…決めておけよ…俺。
電話が掛けられない。
……そんな程度の理由で、……今日は、おしまい…?
……………………………………………。
…………ごめん、…………悟史………。
自らの甘さを呪い掛けた時、……奇跡が起こった。
校庭に自転車が一台入ってきたのだ。
……見覚えのある中年。……営林署のおじさんだった。
…なぜ? ………今日は日曜日だろ…? 忘れ物でも取りに来たんだろうか。
…とにかく、…営林署のおじさんは裏口の前でポケットをまさぐり、…鍵を開けると中に入っていった。
「………………………………。」
悟史が助けてくれたとしか思えない、…絶好の偶然。
金属バットが、ほんのちょっとした手触りで、今が唯一無二のチャンスであることを教えてくれた。
…営林署の区画と学校の区画は綺麗に分かれている。
……さっきのおじさんの気配が営林署の倉庫(生徒が立ち入ってはいけないくらい奥だ)で感じられた。
……立て付けの悪い扉は、閉まりきらず…俺を誘うようにゆっくりと扉の隙間を広げてくれた。
……大きく息を飲み込んでから…中へ踏み込む。
つま先で跳ねるように、音と気配を殺しながら…職員室を目指す。
電話はそこにしかないからだ。
職員室で息を殺していると……、さっきの営林署のおじさんの足音が戻ってくるのが聞こえた。……そして裏口の扉をがちゃがちゃと閉め……施錠。
窓の隙間から校庭を伺うと……、何事もなかったように自転車にまたがり、…校門へ走っていくのが見えた。
………学校は再び、無人の静寂に包まれる。
…その静寂が間違いのないものかを、しばらくうかがってから…、校長先生の席の上に置かれた受話器に手を伸ばした。
……ポケットから、沙都子の自宅の電話番号を取り出す。
…そう、…クラスの連絡網に書かれた沙都子の電話番号は、叔父と住む今の家の番号だったのだ。
ダイヤルに指を触れ…、あの男が出たら何と言おうか迷い、…一瞬考え込む。
その内容については昨夜、あれだけ頭の中で反復したのに。
いざこうしてダイヤルに指をかけると……ひびの入ったバケツから水が漏れ出すように、頭から漏れていってしまう。
内容は簡単でいいんだ。それよりも大事なのは、不審に思われないように堂々と。
心臓の鼓動を三つ数えてから、……ダイヤルを回す。
呼び出し音。………………沙都子の叔父は……出るだろうか。
この期に及んで……出なければいいという甘えと、……出なかったら沙都子は救えないという危機感が渦を巻く。
「…………………………もしもし。」
寝起きのような、不機嫌な男の声が聞こえてくる。………出た…。
「…………………もしもし?」
……北条かどうか名乗れよこの野郎。
…間違えてたら困るだろうが…。
……意を決する。…イニシアチブは全てこちらにあるんだ。………行くぞ…。
「こちらは鹿骨市興宮警察です。北条さんのお宅ですか?」
………声変わりしているとは言え…、俺のことをちゃんとした大人の声だと思ってくれるだろうか。
……俺が警察だと……信じてくれるか…。
「ぁ、…はい。…北条ですけど。」
「今、お宅のお嬢さんの北条沙都子さんをこちらで保護しています。」
「えぇ? 沙都子がぁ?! あいつ、何かやらかしよりましたか…!」
かかった…。こちらの言葉に疑いを持っていないことが、緊迫感からわかる。
「詳しい事情はこちらにいらしてからご説明します。…すぐにこちらへ来ていただくことはできますか?」
「今ですか…? 風呂に入っちゃったからあんまし表に出たかないんですがね…。」
…あぁ?! 風呂に入ったから来たくないだぁ?!
「はい、今すぐです。」
「………………すぐ? ……ちゃ〜…ったく、沙都子のヤツ、何をしよったんですか。」
「詳しい話はこちらでいたします。…ではお待ちしていますので、よろしくお願いします。」
「あ! あ! ちょっとちょっと! 俺、警察署がどこかわかんないんだけど。どこよ、場所。」
「………………っと……、」
…馬鹿野郎……、何てことを……。
……興宮警察署?
…俺だって…どこにあるかなんか知らねえよ!
お前、地元の人間だろ?! それくらい知っていろよ…!!
全身に脂汗がじわっと浮き上がる。…喉の奥が詰まりそうになった時、向こうが口を開いた。
「っとぉ…、消防署の隣…でしたっけ。…遠いなぁ…。」
勝手に思い出してくれて…助かる。…別に警察の場所がどこだっていいんだ。警察に行くために、家を出てさえくれれば。
「ではお待ちしていますので…、」
「あ! あ! 俺、警察行ったら誰んとこ尋ねればいいんよ?! あんた名前は?!」
……この上…俺の名前まで聞くかよ…!! てめえは大人しく家を出りゃあいいんだよ…!
「……前ば…、前橋と申します! では失礼します…。」
…危なかった。
うかつにも本名のマエバラと言うところだった。……何とか最後の一文字だけ変えたが…。
半ば逃げるように受話器を置く。
指がカタカタと振るえ、…全身には生暖かい汗をびっしょり。
………電話に緊張しただけじゃない。
…この電話で…いよいよ……始まるのだ。
学校を出る。
……さっき施錠されてしまったが、内側から開けるのは簡単だ。
…だが、出た後に施錠することが出来ない。
万全を期すならここは施錠がしたいところだが…、職員室に戻って、ここの鍵を探し出して時間を失うのはよくない。
……今は大急ぎで戻り、あの男を待ち伏せなければならない。
■殺人
自転車で全速力で現場に戻った。
…沙都子の叔父が、俺よりも先に町に行ってしまったら万事休すだ。
…警察にマエバシなんて男がいないことがわかり、………いろいろと面倒なことになるだろう。
全速力で戻る途中、…浴衣を着た家族と何組かすれ違った。
…祭りへ向かう途中なのだろう。
……俺が知らなくても、向こうは顔を知っていることが多い雛見沢だ。
…こうしてすれ違うだけでも…不安がつのる。
でも、ここいらは俺の生活圏じゃないから…、この辺に住んでる人も、俺のことをよく知らない可能性もある。
…今はそんなことはどうでもいい。
とにかく、一秒でも早く待ち伏せの場所に戻って……呼吸を整え、待ち伏せしなくてはならない…。
自転車を茂みの中に隠し、さっき木陰に隠しておいた悟史のバットを拾う。
……そしてじっと息を潜め気配をうかがう…。
………まだ、…来ていないのだろうか…。
まさか、…電話を終えてからすぐに表へ飛び出して…もうここを通り過ぎてしまったなんてことは…?
そのどっちなのか確認できず…言いようのない焦りが込み上げてくる。
…落ち着け前原圭一……。
通り過ぎたにせよ、どうせ家に帰るためにここを通るんじゃないか。
……結果は変わらない。
あの男がここで死ぬことに、何の変更もない。
……ヤツは多分、バイクで来るだろう。
…それをどうやって止める?
………ここは難しい理屈は抜きで、通り抜きざまに殴りつける、押し倒すなどするのがいいだろう。
ここは砂利だ。思い切りぶつかってバランスを崩せば、たまらず転ぶだろう…。
………………その時。
………ひぐらしたちが合唱を、やめた。
……遠くから、バイクの音が近づいてくる。
どんな音で走るバイクなのかはわからないが、…その外見だけは以前来た時に見たのでわかってる。
……どんどん近付いてくる。……もうすぐそこだ。
もう、……ほんの少し走れば、そこの茂みを越えて…俺の視界に現れる。
…一瞬で、ヤツかどうかを識別し、……そうだと確認できたなら…、………できたなら…………、………………………実行する。
バイクがその姿を現した。
………いくつかのわかりやすい特徴が、間違いなく沙都子の叔父のバイクだと俺に教える…………。
……本当に…そうなんだな…?
間違いなく沙都子の叔父なんだな…?
俺の身間違いなんかじゃ……ないよな……?
もう一度だけ特徴を確認する……。
………色、形、…そして何よりも、…服装…、……顔…!!
…………………………躊躇する最後の感情を、消す。
………沙都子、…今、…にーにーが終わらすからな。
近付く、近付く、……バイクが近付く…。
……行くぞ。…悟史……!
「……………あぁ。」
ザザッ!!!
茂みから飛び出す…ッ!!!
肩から……体当たりするように、…バイクの叔父に…思い切りぶつかる…!
「…おわああぁあぁ…!! ったったった…!!」
間抜けな声を出しながら叔父のバイクが大きくバランスを崩す。
……やがて倒れ、バイクは砂煙を撒き散らしながらぐるぐると回って止まる。
地面に放り出された叔父は、突然何が起こったかわからないのか、しばらくうなったような声を出しながら、地面にうずくまっていた。
………はぁ、………はぁ、………はあ…ッ!!
呼吸が荒くなり始める。
…まずいぞ、この感情はよくない。…脳内を得体のしれない分泌物が走り回り、錯乱しそうになっている…。
叔父がうめいている今こそ…千載一遇のチャンスなのに…、…俺は何を……!!
全世界の音が、ぷっつり途切れた。
直前までの混乱が嘘のように引き、………頭の中の温度が急激に冷却されていくのがわかる。
筋肉の緊張が、まるで糸が切れるみたいにぷっつりと切れ、……両手がだらりと下がる。
……それは脱力とは少し違った。
落ち着いたか…? 前原圭一。
……どうして、今日、ここに至ったのか、……また思い出す必要があるのか…?
ジャリ。……ジャリ。
砂利を踏みしめながら、……沙都子の叔父へ一歩、一歩、歩み寄る。
歩けば歩くほどに、呼吸が落ち着いていく。
…歩けば歩くほどに、全身が冷め、冷え、…冷気が噴出すのがわかる。
……………そう。
今こそ、…こいつが生きていられる許可が失われたのだ。
俺がその許可を取り消したから。
…だからもう、この世にいてはいけない。
…これ以上、こいつが永らえ、…沙都子の不幸が続くなら、…それは生きることを許した俺の責任になるのだ。
……………………体中の全ての毛細血管に至るまで、冷却物質が全てまわり切る。
叔父は目の前の足元で、まだ無様に転げていた。
……そのあまりのみすぼらしさに、冷笑する。
「………ぅぅ、…………痛ぇ……、げほ…!」
その程度で痛い、…だと?
……もっと痛かった、……沙都子の心の痛みを…知れ。
……そして、……その命で、…沙都子の痛みを償うんだ…………!
脳内の全不要情報を廃棄。
目の前の男の殺害を最優先。……執行、執行、執行。
ガスンッ!!!
極めて冷静に初弾が後頭部に打ち込まれた。
…一番無防備に攻撃が狙える最初の瞬間に一番、効果的な部位を狙いたかった。
「……うがッ?!?!」
頭を狙われれば頭をかばう。
…人間誰しもが機械的に取る防御行動。
両手で頭をかばうがため、その無様な体勢を立て直せない。
芋虫を餅つきのように、何度も打ちのめす。
頭がかばわれたのなら、今度はわき腹を。
身を固めたなら今度は背中を。
転げたなら今度は足を。膝を。
肘を。
…もうどこでもいい。ただひたすらに殴打を繰り返すことで、パニックを誘発させる。
…圧倒的優位を保つが、致命傷を負わすには手数があまりに足りない。
「………ひぃいいいぃぃぃぃぃ…ッ!!!」
「…!!」
転げまわっていた叔父が、うまく立ち上がり…、脱兎のごとく走り出したのだ。
俺の顔を見てから戦うべきか判断しようとしてからでない。
…今、眼前に迫っている脅威から逃れるために、ただただ遁走するという、本能に基づいた逃走だった。
体格的に優れた叔父の反撃は、もっとも警戒したかった要素だった。
…逃がしたとは言え、出目は悪くない。
しかもさらに運は俺に味方する。
…叔父は人のいそうな方でなく、道をそれ、木立の中へ逃げ込んだからだ。
ひと気のない方へ逃げたことは、あまりにも微笑ましい。
…少しでも異常な地形へ逃げ込もうとするのは狭い場所狭い場所へ逃げ込もうとするネズミの本能みたいなものだ。
…そう、あいつはもう人間をやめた。ネズミなのだ。
足の血管を拡幅、酸素供給量増大。
…低姿勢で、最高の瞬発力と速度を。
…無呼吸状態のまま………風のような影となって……疾駆……!!
茂みを飛び越え、枯れ木の枝を踏み砕き…木立の間を弾丸のように潜り抜ける…!
叔父がいかにどたばたみすぼらしく走ろうと、その背中に追いつき、再び殴りかかるのにかかる時間は、瞬きひとつも必要なかった。
目の前の男を殺すためだけに、全神経と精神、肉体が研ぎ澄まされている……。
こんな感覚は…生まれて初めてだった。
……そもそも、…人を殺すという経験そのものが初めてなのだ。
……初めてなこと続きなのは当り前。
……だとしたら、…俺にはこんなにも、………殺人に才能があったのだ。
あるいは、殺人という行為が、こんなにも誰にでもできるくらいに簡単なものだったのか。
無様に逃げる叔父を追うことに、何の苦痛も疲労もない。
…叔父がいくら走っても、その足元から自身の影が離れないように、俺の影が離れることもない。
その背中を、肩を、頭部を、こんな不自然な体勢からも容易に狙うことができる。
殴るたびに、苦痛の声や許しを願う哀れな声を漏らすのに、何の精神ノイズも感じない。
…感情の昂りもなければ、今日までに何度も苛まされた躊躇も微塵もない。
……そんな鋭利な、…肉食動物のような感覚。
……もちろん、死にたくない一身で逃げる叔父にもそれは宿っているようだった。
……食われたくがないために…全身全霊をかけて逃げつくす狙われた草食動物のような感覚が。
……これだけの襲撃を受け、これだけの攻撃を受けているのに、足元をよろつかせもせず、まだ逃げ延びている。
…こんな足場の悪い森の中を、転びもせずに走り続けられるのは大したものだ。
…だが、それに関心する必要はない。
…それこそがヤツが動物であることの証左なのだ。
追われれば逃げる。
殺されそうなら逃げる。
弱い者には牙を剥くくせに、強い者にはどこまでも抗えない。
…………下劣にして下賤、そして…矮小な生き物。
そんなみすぼらしい生き物が……沙都子を傷つけた。
…身にも心にも、生涯消せないかもしれない、深く醜い傷痕をいくつもいくつも……。
「……たすけ……、………ひぃ…、……ひい!!」
………おおぉおぉおぉぉおお……、
「をぉおおおおぉおおおおおおぉおおおおッッ!!」
冷静な感情は獣の感情に摩り替わる。
……目の前の矮小を食い殺すことだけに…特化した殺人的な性格に摩り替わる。
「………ひぃいいいいいぃいいいっぃ…ッ!!」
俺の咆哮に、叔父はみすぼらしい悲鳴をあげ、頭をかばうようにしながら逃げる逃げる逃げる…!
よくもこれだけ走るものだよ感心する…!
いいだろう、好きなだけ走ればいい。
俺はお前の死だ。
お前は好きな時に俺を選べばいい。
足が痛み、肺が破裂しそうになり、酸欠で頭が痛み出し、……その苦痛が死よりも耐え難いものだと思ったなら、いつでも足を止めればいいのだ。
振り返ることすら出来ず、迫る死の恐怖に窒息しそうになりながら…ただただ、みっともなく走る。
……走っては、追いつかれ、頭を思い切り金属バットで殴られ、汗と唾を撒き散らし、血を張り付かせる。
口からこぼれるのは粗く不規則な呼吸音と、泣き声のような細くて高い悲鳴。
…そして誰に言っているのかもわからない、許し。
そんな時間の一秒一秒が、貴様に与えられた贖罪の時間なのだ。
…さぁ、走れ、走れ走れ、走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れッ!!
そして倒れろ、呻け、そのまま死ねッ!!
そもそも貴様はどこから湧いてきたんだ。
…お前なんかここにはいなかった。
いないまま現れなければ良かった。
現れなければ、俺たちはきっと楽しくのんびりと日々を過してた。
今日のお祭りだって、みんなと待ち合わせて笑い合いながら神社へ向かってた。
きっと今頃は露店を巡って遊んでいただろう。
お祭りならではのあやしげな食い物の店を冷やかし、金魚すくいや輪投げや射的で景品を狙う。
……きっと魅音がそれを勝負に見立て、部活大会となって大盛り上がりしただろう。
そして…梨花ちゃんの奉納演舞をみんなで応援して……みんな楽しかったね、と言って…明日への活力にするんだ。
楽しくて、おかしくて、……仲間との温かな時間。
それが、…あ……と気を許しただけで、…落ちて、…粉々になってしまったこの現実!!
貴様が現れなかったら間違いなくあった本当の世界!
貴様こそが異端、
間違い、
世界の支障。
だがその誤りは今から俺が是正する。
貴様は抹消し、この1週間をなかったことにしてしまう。
今夜は、綿流しの祭りの夜。
オヤシロさまの祟りの名の下、ひとりだけ命を奪うことが許される聖なる夜。
あぁ……、いつのまにか、もうひぐらしは鳴き止んでるじゃないか。
ひぐらしのなく頃に。…全てが、終わる。
…そしてひぐらしはもう鳴き止んだ。
……下賤。もう贖罪の時間は終わりだ。
ひぐらしが鳴き止んだからもう終わりだ。
…終わり終わり終わり、終われッ!!
もうお前は逃げなくていい。
汚い脳漿をぶちまけて死に絶えろッ!!
ぐおおおぉおおおぉおおおおおおおおおおぉお!!!
爆音のような雷鳴が轟く。…地響きがするくらいに大きくて、火薬の臭いがした。
明らかにこれまでとは違う手応え。
……頭頂部に金属バットが、めりりと…深く入り、……まるで頭の天辺がへこんで、バットに噛み付いたかのような奇怪な手応え。
叔父が膝をかくんと折った隙を見逃さず…見舞った必殺の一撃だった。
…少しの残心の後、……どす、…どす…と両膝を順につき、
……それから……どお、とうつ伏せに倒れこんだ。
「………はぁ………はぁ……はぁ! はぁ…! …はぁ…!!」
今までずっと絞っていた粗い呼吸が、堰を切ったようにどっとあふれ出る。
…頭が、目が回ったみたいに…ふらふらとし、…バランスが保てず、近くの木に寄りかかる…。
叔父は…頭を隠そうとはもうしなかった。
……痙攣するような気持ち悪い動きをした後、……動かなくなる。
…やったか…? ……確実に……やったか……?
今すぐにもこの場に倒れこみたいくらいの疲労感をねじ伏せ、……バットを構えたまま慎重に叔父に近付く…。
……死んだふりをして、やり過ごそうとしている可能性だってある。……脈でも調べるか……?
でもすぐにそんな真似はしなくてもいいと悟る。
…死に真似だと疑うんなら、…俺が納得が行くまで、……叩き続ければいいだけなんだからな。
粗い息をもう一度飲み込む。
…それからバットを大きく振り上げ……、振り下ろす。
ガヅン。
……叔父の体は弓なりに跳ねたが、頭をかばおうとはしない。
もう一度…頭を狙って……振り下ろす!!
やはり叔父の反応は同じだった。
しばらく叔父の頭を餅つきにすると、……次第に手応えが代わり始め、赤黒い汚らしい飛沫を飛び散らすようになっていた。
………もう、……確実だ。…………完璧に………殺した。
達成感も後悔もなかった。
叔父に対する怒りもなければ沙都子を哀れに思う気持ちもない。
……今はそれよりも、…いつの間にか降っていた土砂降りの雨の心地よさの方に心を奪われていた……。
■鬼ヶ淵沼へ
全身を雨水が濡らし、滴り落ちる。
……全身の興奮が覚まされ、……体中の泥汚れを流してくれる。…引き換えに、靴はだぼんだぼん…と音がするくらいに水浸しだった。
悟史のバットは、……あれだけ酷使したのに、大して歪んではいなかった。
いくつかへこみはあるが、叔父を殴ってできたものか、元からあったものかはわからない程度だ。
その代り、……泥と血糊で、…黒く、赤く、禍々しく汚れていた。
……だが、これこそが証なのだ。
……沙都子の叔父を、永遠に葬ったことが、俺の妄想や白昼夢でないことを証明してくれる唯一の証。
…………………さぁ、圭一。……心を落ち着けろ。
…熱い時間はおしまいだ。…今度は氷のように冷たい時間。
…死体を埋めなければ。………だが、……ここはどこだろう。
闇雲に走るヤツを追って、ただただ追い続けた。
…どれくらい走ったかも見当がつかない。
……辺りはもう真っ暗で、…少し向こうにある街路灯からのわずかな灯りだけが頼りだった。
…こんなにも真っ暗だったのだ。
…さっきまで、暗さすら感じなかった。
叔父の頭部の、醜い生え際や毛穴の数まで数えられるくらいに良く見えていたのに。
………自らが、あの瞬間、どれだけ常識外れな力を発揮していたか、今さらわかる。
…街路灯のところまでやって来る。
……道を前後に見渡し、……ここがどこなのか必死に理解しようとした。
「………………………………………ここは、…………………。」
…何てことだ。ここは、雛見沢と町を結ぶ唯一の道の途中だ。
……沙都子の家の前から…信じられないくらい遠く離れていた。
……俺とあいつは、こんなにも長い距離を走っていたのか…。
それに驚くと共に、…それだけの長い距離をあれだけ騒ぎながら走って、誰にも出くわさなかったことを奇跡と言ってよかった。
…ここから、あの待ち伏せ場所に掘った穴までは……相当な距離がある。
…とてもあそこまで死体を運べるわけがない。
いや、…それよりも…。
…あの男が乗ってきたバイクが、まだあの道の途中に転がったままだ。
……あのバイクはまずい。…ナンバープレートを見れば、警察にはすぐに誰のバイクかわかってしまう。あのままにはしておけない…。
死体は……幸いなことに、この暗がりの森の中にある。
…緊急性としては、バイクを処分する方が先だ。
……それに、…あの穴の脇に置いてあるシャベルを回収したい。
死体はあそこへは引きずっていけない。
…ここで処分するしかないのだ。
……幸い、この土砂降りで、地面は泥のようになり、さっきまでいた場所をぬかるみの様にしていた。……今なら、手早く墓穴を掘れるかもしれない。
…何よりも、俺の自転車があそこには放置しっ放しだ。
まだ……終わってない。
殺人は、…俺の目的のまだ半分でしかない。
……これからの半分も、前半の半分と同じくらいに重要だ。
……完璧に死体を隠し、「起」を許さない。
……初めからいなかったように、あの男を消し去り、………元の平穏な時間を取り戻す。
頭を後ろへ逸らし………、…心をさらに落ち着ける……。
大きな雨粒が、俺の額を容赦なく叩きつけてくれた。
…それがかえって心地よくて、…しばらくそうしていたい欲求に駆られた。
自らが再び鋭敏になったことを確認し、…俺は雨の中を走り始める……。
バイクは、道の脇の草むらの中に倒れていた。
雨に叩かれ、泥にまみれたその様子からは、ずっと昔からここに横たわっていたようにすら見える。
バイクは沼に捨てる予定だ。……沼はここからは少し歩く。
「……………んん、……………よ…………!」
バイクを起こす。
…こんなにも重いものだったとは……。ちょっと驚く。
だが、一度起きれば、車輪のお陰でかなり楽に押すことができた。
……それでも、沼までの道のりを、こんなものを押しながら歩くのは……本当に嫌な仕事だ。
……もう無視できなくなった疲労感が…沼までがいかに遠いものか、俺に何度も忠告する。
…………このバイク、……うまく乗っていけないかな。
……一度走り出しちゃえば、あとは自転車と同じ要領だ。……沼まですぐじゃないか。
疲労感の提案するその案に、…初めてバイクにまたがるという不安感は引っ込む。
カギを回して……確か、このペダルを蹴るんだよな。………うん! ………うん!!
ドルルルルルル…ンッ!!
かかった! そしたら…右だっけ…左だっけ…、ハンドルのグリップをねじって…。
「…ぅ、…わああぁ!!」
ねじり込みが深すぎたのか、バイクは暴れ馬のように突然大きくウィリーして暴れ出した。
……ちょっと焦ったが……加減の問題だ。
……もう一度やってみよう。
…今度はゆっくり……やさしく………………。
…次はうまく行った。
ペダルをこがないのに進む不思議な二輪車の感覚は…とても奇妙だったが、すぐに慣れた。
……原付バイクの免許は一日で取れる…と魅音に教えられたことがあったけど、納得する。…こんなのは慣れだ。
金属バットも沼に捨てなければならない。
…だが、バットをどのようにしてバイクに積めばいいかわからない。
…仕方なく、背中のシャツに突っ込み、まるで忍者が刀を背負うみたいな感じにした。……先端をズボンのお尻に入れて、背を丸めていればそう簡単には落ちない。
もう一度バイクにまたがり、今度は危なげなく滑り出すことができた。
ライトとご丁寧に書かれたスイッチを押すと、結構強めのライトが前方を照らし出してくれた。
……本当は付けない方がいいのだろうが、…すっかり視力の落ちてしまった俺には、この真っ暗な中を走れる自信はまったくなかった。
雨に打たれながら…、危なげにバランスを取ってひたすらに沼を目指す。
途中、何組かの祭り帰りらしい人たちとすれ違ったが、皆、雨に濡れまいとびしょ濡れになりながら家路を急ぐか、傘を深々とさし俯いて歩いているかのどちらかで、俺に関心を持つ者はいなかった。
昨日までは、そんな通行人にも相当の注意を払ったが、……今は、そこまで気にすることもないと思っていた。
…むしろ、こそこそしないで堂々と走っている方が怪しまれないように思う。
…………そんな考えこそが、疲れている時特有の甘い考えだとは思いつつ。
きつい坂を上る。
…自転車なら心臓破りの坂になるこの坂も、ただアクセルをふかすだけで登りきれてしまうのだからバイクとは便利なものだ。
バイクのライトに、通り抜ける看板が一瞬浮かび上がった。
『鬼ヶ淵沼・よい子は沼で遊ばない!』
とは言え、…別に沼に至る道は金網で塞がれてるわけじゃない。
……沼で遊んだとばれると親や先生に叱られるが、大きなザリガニのメッカだとかで、クラスの悪ガキ連中はこっそりと遊びに行っていることもあるらしい。
……駄菓子屋で酢イカを買ってきて、釣り糸に縛って投げるだけで、面白いようにザリガニが食いつく…なんて言ってたっけ。
土手を上がりきると……近くに小さな祠と、しめ縄のされた樹木。
…そして、……黒々とした沼が、土砂降りを丸ごと飲み込みながら……ずっと俺を待っていてくれた。
この崖のようにせり出したところから、アクセルをふかせて、思いっきり走らせれば…沼の真ん中にドボンと飛び込むだろう。
……俺まで落ちないように気をつけなければ。
…これで俺が溺れて姿を消してしまったら、…とても間抜けな怪談の出来上がりだ。
綿流しの夜に、沙都子の叔父の死体が町へ行く道の脇の草むらで見つかり、前原圭一は行方不明。
鬼隠しになったのではないかと囁かれ。………あまりに出来の悪い、5年目の祟り。
バイクから降り、………アクセルを思い切りひねる。
前に引きずられそうになるところで手を離す。
…バイクは崖からどぅんと飛び降り、……想像していたよりも遥かに小さな水音を残して、ごぼごぼと沼に飲み込まれていった。
水面は土砂降りで叩きつけられ、…泥水が辺りから流れ込み、濁りきっている。
……たった今投げ込んだバイクも、もうすっかりわからない。
…あれだけの重さのあるものだ。
…すぐに、……沼の底の柔らな泥に飲み込まれる。……そして、底へ底へと飲み込まれ、…地の底の鬼の国に届けられるのだ。
あの男のバイクなら、鬼の国へ放り込んでしまうことにも何の抵抗も感じなかったが、………悟史のバットには、少し未練を感じた。
べっとりと染み付いていた血糊は、泥水で洗うと簡単に落ちた。
……今日の出来事を悟史と分かち合う意味でも……どこかにひっそりとしまって置いてやりたい。…そう思った。
沙都子をずっと見守っていられる…、そう。あの、元のロッカーの中に戻してやりたいという気持ちが強まる。
………………………………………。
「……悟史。………俺、……多分、お前のこと、誤解してた。」
……………悟史は頷きもせず、静かに聞いていてくれた。
今だから、確信する。
………去年、叔母を叩き殺して沙都子を救ったのは、…お前だ。
………俺はお前のことを逃げ出した卑怯者だとずっと罵ってきたが、…それは間違いだった。
世間的には、あの事件はどこぞの異常者がやったことになってるが、……俺にだけはわかる。…あれは、……お前がやってくれたんだ。
そしてお前は……消えてしまった。
…せっかく取り戻した平穏を…ほんの何日かで失い。
……だから俺は、……お前の分まで明日からを精一杯生きることを誓う。
この1週間のことも、今日のことも、なかったことにして生きる。
……だけど、…俺とお前の、共有した短い時間のことだけは、……一生忘れない。
………悟史がどんな顔でそれを聞いてくれたかわからないが、……同じ少女を守った仲間同士として、…笑顔で祝福してくれたように思った。
……その時、…………自然に手が動き、……投げ捨てることを躊躇していたバットが…手を離れ………、
宙に舞った。
それは…放物線を描きながら……くるくると回って……沼に音もなく吸い込まれていった。
…沼に落ちた時の波紋すらない。
…土砂降りで荒れ狂う水面には、もうとっくに…ない。
…………………一瞬、投げてしまったことを後悔した。
でも、……それが悟史の望みかもしれないと気付く。
「…………そうだよな。……俺は、…まだ感傷に浸る余裕なんかないんだよな。」
シャベルを取りに戻り、自転車に乗って…。…死体を隠す穴を掘って、…埋める。
口に出せばそれだけだけれども、…今晩中にやり遂げなければならない、重労働。
悟史は、それらを早く終わらせた方がいいと…一言忠告だけを残し、…………永遠に沈黙し、……鬼ヶ淵の沼底へ消えていった……………。
■死体処理
叔父を待ち受けていたあの道に戻ってきた。
……草むらに寝せて隠しておいた自転車を起こす。
……全身が重い。……でも、…体に鞭打ってでも…今日中に終わらせなければならないのだ。
…おっと、…忘れていた。ここには自転車だけじゃない。シャベルも取りに来たんだ。
まずいな…。ぼーっとしている。
……気を許すと…、たまに視覚が途切れそうになる。
……しゃきっとしろ、前原圭一。
…まだまだ、…終わっちゃいないんだぞ……。
木立の中を入り、……シャベルを隠した穴を探す。
……ところが、………人から見られることを嫌い、奥深く入ったこの森の中は…夜の闇ですっかり塗りつぶされ、……まったく何も見えなくなっていた。
…薄れ掛けていた意識が覚醒し…、…非常に面倒なことになっているのを認識する。
「……………………………おい………マジかよ………。」
雨で流されたはずの汗が…再び浮き出す。
…街路灯の灯りなどまったく届かない森の深奥。
……それが…こんなに真っ暗になるなんて、……完全に計算外だった。
これだけの暗さでは……、仮に計画通り、このすぐ近くで殺せたとしても……問題なく穴に埋められたかどうかは怪しい。
……どうしよう……。
とてもじゃないが……今夜の内には…シャベルを見つけられない。
…無理に森の奥に踏み入れば……、方向感覚すら失い、本当に森に迷うかもしれない。
…迷うのは大袈裟でも、木の根で転んで捻挫でもする可能性は充分にある。
そうだ、…家の物置に…まだ一本、同じキャンプ用のシャベルがあったはずだ。
……家にシャベルを取りに戻り、このシャベルを今夜諦めるのも手ではないか……。
あのシャベルには…前原と名前が刻まれているわけじゃない。
……だが、……輸入雑貨店で買った外国製の珍しいものらしいから、………………………。
ここにあのシャベルを放置したくない。
……でも、……この暗闇では……どうしようもない。
……諦めて自宅の物置に戻ろう。
……そして…電池式のランタンがあったはず。あれで照らせば探せるだろう。
……でも……この絶対の暗闇を、ランタン程度の灯りで照らし出すことができるだろうか。
……この闇夜にランタンの灯り。
……人目を引かないとは言えない。…それに、……か細い灯りで、シャベルを見つけ出せるかも怪しい。
………それよりも……俺はずいぶん長い時間、あそこに死体を放置しっ放しだ。
……疲労のあまり鈍感になっていた恐怖心が…ようやく首をもたげる。
今はとにかく…、…死体を隠すことをとにかく最優先にすべき…。
シャベルは見つかってもそれほど大騒ぎにはならないが、…死体は違う。見つかれば…悟史と同じ顛末だ。
……まず、家の物置に戻る。
そしてランタンを用意しよう。
……これほどまでに暗くなってしまっては……ひょっとすると、死体を埋める穴を掘るのにも灯りがいるかもしれない。
そしてシャベルも再び用意する。
…そして死体の処理を最優先。
……それが終わったら…ここへ戻ってきて…シャベルを探して回収して…………。
これだけ疲れているのに………まだ……これだけのことをしなくてはならない…。
だが…愚痴っても仕方がないのだ。…ここをおろそかにすれば……全ては水泡に帰してしまう。
…いつの間にか俺は座り込んでいた。
……ぐっと奥歯を噛んで堪えながら…重い腰を上げる。
夜が、長い。
……俺が感じた夜の中で…これほどまでに長かった夜はなかった。
いつになったら終わるのか。…………長い。
■アイキャッチ
*TatarigorosiHen_Day11_3
家の灯りがこうこうとまぶしい。
……その灯りが、急に空腹感を思い出させる。
腕時計を見ると……もうすぐ午後7時になるところだった。
……もうてっきり深夜の2時か3時かと思っていた。…体内時計が一夜にしてこれだけ狂ったのかと驚く。
居間の窓……カーテンの隙間から温かな灯りが漏れていた。
……あの窓の向こうとこちら側で、…どれだけ世界が異なるのだろう……。
あの男さえ現れなければ……俺はきっとあの灯りの中にいた。
……楽しかったお祭りの興奮が醒めなくて…、きっと上機嫌に仲間と過した楽しい時間を両親に話していただろう。
そして…せっかくの温かい食事も、露店で食べ過ぎてろくろく手をつけないまま自室に戻り………、眠さにあっさりと身を委ね、布団にもぐりこむに違いないのだ。
だが今の俺は、それとはまったく違う。
街路灯の弱々しい灯りには欠片ほどの温もりもない。
…家族で過す団欒の時間とも無縁だし、…もちろん温かい食事もなければ、…睡魔に身を許すこともできない。
冷たい雨に身をさらし、……ただ、…やり遂げねばならないことのために、体に鞭打つ。
…………卑屈になりかけている自分に気付いた。
……何のために、…こんな辛い思いをしてまで、人を殺さなければならないのか。
……その理由を見失いかけていた。
俺は沙都子を救うために、もっとも早く、もっとも根本的な最善手を択一し、…躊躇なく実行したのだ。
あの男は死んだ。
消えた。
……もう沙都子を傷つけることは金輪際ない。
…俺たちが、必死になって、何日も何日もかけて考え、…その挙句、打つ手なしと見限った、…沙都子の問題を、一夜にして解決した。
…誰の手も借りず、たったひとりで。
今頃沙都子は、……いつ帰ってくるかもわからない叔父のために夕食を用意し、……その味加減を怒鳴られないかとびくびくしながら夜を過しているのかもしれない。
だが、…もう叔父が帰ってくることはない。
その怒声に怯えることも、悲しまされることもない。
…………………俺、…………そうか、……………遂げたんだ。
沙都子を救うことを、…成し遂げた。
…ずっと……あの男を殺すという、そのことだけを考えていたので、…沙都子を救ったという実感が喪失していた。
「…………そっか。………あは、……ははははははは…、」
俺、…いいことをしたんだ。
……そうだよ、……いいことを……したんじゃないか…。
ぼろりと…熱い涙がこぼれて初めて…。……俺の疲労感の正体が、罪悪感だったことに気付く。
罪悪感という刃が、…さっきからずっと…その先端だけをかすらせるようにチクチクと……心を傷つけていたのだ。
……それがたまらなく痛くて…じんじんと疼く。
…痛くて痛くて、辛くて泣いた。
…沙都子を救えて、うれしくて泣いた。
…もう何だかよくわからなくて、とにかく泣いた。…ぼろぼろ、ぼろぼろ。
しばらく…そうして熱い涙を噛み締めている内に…、…心がほんの少し楽になる。
…さぁ前原圭一。…もういいだろ。何も恥じることも悔いることもない。
今は確かに、身も心も…全てが疲れきっている。…何も感じられないのは当然。
明日になっても明後日になっても、…しばらくは何も感じられないかもしれない。
……でも、……ひとつだけの事実。
…沙都子を救ったという事実は間違いないのだ。
いつかきっと報われる日がくる。
…沙都子の笑顔を取り戻すために、自分がいかに困難な偉業を成し遂げたか、誇れる日がやってくる。
その日を待つためにも、………今夜を完璧に成し遂げよう。
ここで片手落ちになったら…今日の苦労は全部、水の泡だ。
俯いていた顔を上げ、いつ止むともしれない雨空を見上げる。
そして、…両目を固くつぶって、もう一度体の奥から力を呼び戻す。
………いつまで俺、…ぼーっとしてるつもりだよ。
こんなことしてる場合じゃないだろ…。こうしてる間にも…誰かに死体を見つけられてしまうかもしれない…。
………そんなネガティブな感情も、恐怖心という当り前の感情が蘇ってきた証拠。
…俺はその恐怖心に背を押されることを許しながら、…物置に入りランタンともう一本のシャベルを探すのだった……。
■埋める
死体の近くで見た街路灯の特徴をよく覚えていたのは…幸運だった。
…この真っ暗な中では、死体すらも捜せなくなる可能性は高かった。
…ここを離れた時、それには気付いていなかったので、この場所を暗記しようという気持ちはまったくなかった。
……だからこそ、こうして死体のもとに無事戻れたのは、幸運だったと言っていい。
死体のある場所は、今や大きな水溜りのようになりぬかるんでいた。
…死体も半分ほど、泥のような水溜りに沈んでいた。
あとで気付くのだが、すぐ近くに使われなくて、落ち葉や土で詰まった用水路があり、そこに流れ込んでくる雨水があふれ出しているのだ。
とっくの昔に靴の中は水で溢れかえっていたので、何の躊躇もなく、水溜りの中へ踏み込んでいく。
泥水の濁流が、一切を流し去ってくれている。
……血痕等の細かな痕跡は、…残るまい。…まさに天の恵みの雨だった。
周りを確認すると、…念には念を入れて、ランタンを消した。
……真っ暗闇になるが、…しばらくすると闇に目が馴染み、…向こうの街路灯から何とか届く、薄い灯りでも見えるようになっていた…。
死体のすぐ近くに、水溜りの底にシャベルを突き立てる。
……期待していた以上に地面は弛み、やすやすとシャベルの刃を突き立てることができた。
急いで掘ってしまおう。……時間をかければ、また気力が萎えてしまうかもしれない。
まるで砂浜に穴を掘っている気分だった。
やすやすと掘れるが、…絶え間なく流れ続ける泥水が穴を埋めてしまう。
…思い通りになかなか掘れない。
掘っても掘っても…水で埋まってしまうから、どれだけの深さなのか実感がない。……泥の底に立つ自らの足の埋まり具合で測るしかなかった。
ちゃんと掘れてる…。
大丈夫、挫けないで…掘れ、…掘れ、……掘れ。
時折、道路に車が通りかかり、…慌てて木陰に何度も隠れた。
……皆、通り抜けるだけ。こんな暗がりに目なんかこらさない。
……理屈ではわかっていても、やはり隠れずにはいられない………。
本当に怖いと思ったのは、…そんな車の一台が、偶然にも俺を目撃するかもしれないということよりも…。……車の気配を悟れる距離が、次第に短くなっていることの方だった。
始めのうちは、ずっとずっと彼方からの、水溜りを裂く水音で気付けた。
……それがだんだん気付けなくなり、…ついさっきの車に至っては、ヘッドライトの灯りが漏れてくるまで気付けもしなかった。
…自分の感覚がどんどん鈍くなっているのがわかる。
今この場を、……死体を埋めているという致命的現場を、…誰かにそっと覗かれていても……気付けないのでは………。
そう思った瞬間に……全周囲をぎょろっと見渡した。
……寝ぼけ掛けていた神経を全て叩き起こし……周囲の気配を探る…………。
……もしも……木立に隠れ、誰かがうかがっているのがわかったら……?
………………………………………………………。
肉食獣の感性が……ぎらりと牙を剥き出す…………。
……………………………………いたら、…………………穴をもうひとつ掘る。
…………ここまでやったのだ。
…………完璧を期すために……これ以上、どんな支払いも恐れるものか……………。
その時、自分がどんな目つきをしていたかはわからないが、……きっと、ギラギラとしていたに違いなかった…。
「………………………………………。」
………気配は…まったくない。………五感全てがそう結論付ける。
…安堵のため息は、出なかった。
どれくらいの時間、泥水を掻き出しながら掘り続けたろう。
……自分の膝が埋まるくらいの深さにはなっていた。
これだけ掘れば充分かもしれない。……試しに、死体を穴に放り込んでみるか…。
「………はぁ、…………はぁ、…………ん…。」
荒くなっていた息を飲み込み、整える…。
あれだけ殴ったにも関わらず、…死体の手を取るのは怖かった。
…なので、足を引っ張って穴まで引きずる。
…………ちょっとやそっとの力では引きずれない。
……それもそのはず。…この男の体格を見れば…80キロくらいはゆうにありそうだ。
全身の力を込め……引きずる……。
この頃には、突然動き出すかもしれないなんていう、根拠のない恐怖心はとっくに消えていた。
叔父の死体は、泥水の中に完璧に埋まった。……深さも充分にある。
よし…、埋めよう。…早く早く早く…。
ここを完全に埋めてしまえば…もう全て終わりなのだ。
……埋めて隠して、全てはなかったことに…!!
…あとわずかで全てが終わることがわかると……まるで時間に追われるかのように、無意味な焦りに襲われた。
…早く埋めなければ、この死体が蘇るかも知れない、…そんな妄想に取り付かれているように。
とにかく…大焦りしながら、泥や土をどんどん流し込んだ。
もたもたと作業をしてたら……ここを誰かに見られるかもしれない。
…さっきまでは、見られたら殺せばいいなんて思っていたが、……今は違う。…誰かに見られたら全てが終わる、…そんな絶対的な恐怖心に取り憑かれていた。
もう…最後の方は滅茶苦茶だった。
…ぐしゃぐしゃばしゃばしゃと。
…地面を平らにしようとシャベルで辺り一面を掻きまわし耕す。
…もう全身、泥まみれだった。
雨は体についた泥は流してくれるが、…真っ黒になった服までは洗ってくれない。
焦りと恐怖心で、雨と汗と泥で、もう身も心も泥まみれだった…………。
「…はぁ………はぁ………はぁ………!!」
肩で息をしながらシャベルを投げ出し、泥の中に座り込む。
…もう…クタクタで…この場に倒れて眠りたいくらいだった…。
…………終わった。
……今度こそ、……………本当に、……終わった……!
あの男は今や泥の底。
…今でこそ、ここは掘り返した痕跡が残っているが、この雨と流れ続ける泥水が、すぐにも全てを覆い隠してしまうだろう。
……そう、…終わったのだ。
「やった、……やった……、…………やったぞ、くそったれええぇえぇえ…ッ!!!」
そしてそのまま後ろに倒れこみ、泥の中に仰向けになって横になる。
……雨粒が容赦なく顔面を叩くが、そんなに気にはならなかった。
………そのまま……しばらく放心してから、身を起こす。
終わった。
…だから帰ろう。
……もう、全部埋めてしまった。
だから、なかったことになった。
なかったことになったんだから、……俺はもう、こんなところで雨に打たれている理由は…何もないのだ。
のろのろと立ち上がる。
………シャベルはもう使わない。
分解しようとねじったが……今の疲れ切った俺に、そんな力はないようだった。
……別に…分解しなくてもいいさ。………シャベルを引きずりながら…灯りの方へ向かう。
道の脇の草むらに横たえてあった自転車を起こした。
……分解していないシャベルは、どうやっても前カゴにはうまく収まらない。
…バットをそうしたように、シャベルもまた背中に突っ込む。
…バットと違い、角が当たってとても痛かった。
それに、ちょっとでも姿勢が弛むと、背中から抜け落ちてしまう。
…結局、左手でシャベルを持ち、片手で自転車にまたがる他なかった。
疲労困憊に加え、この土砂降り。その上、片手。……まるで酔っ払いのようなふらふら運転だった。
……でも構わない。…ふらふらでも、ペダルをひとつ漕ぐ度に家は近付くのだ。
……前方にゆらりと二本の灯りが見えた。
……車がやってくる。……まずい……、避けなきゃ…………。
ずっと向こうの暗闇の影から、車が姿を現した。
眩しいライトが俺の姿を捉える。……パッ! と短く鳴らされたクラクションは、俺が道のど真ん中にいることを教えてくれた。
……避けなくちゃ。
……わかっていても、…片手運転の上、疲れ切った今の体ではどうにもならない。
……ふらふら、ふらふら…。右とも左とも付かず、…蛇行するのみ。
…車は、俺が直前で避けるものだと決めつけ、大して速度を落とさず、ぐんぐん近付いてくる。
………そのシルエットが眼前に迫り、…とにかく避けなければと思って、ぐっとハンドルを曲げた時、バランスを崩し、横転してしまった。
全身が投げ出され、片足が自転車に挟まれる。
……これは…本当にまずい…ッ!!
寝ぼけていた感覚が吹っ飛び、全身から冷や汗が吹き出た瞬間。
……車はガリガリガリっとハンドルを左に切り、車体を反時計周りに半回転回して…ぎりぎりのところで止まってくれた…。
………運転席が開き、…運転手が降りてきた。
馬鹿野郎、こんなところで何やってんだ。……そう怒鳴られると思っていた。
「…あらあら。……誰かと思えば。」
…女性の、聞き覚えのある声。……うつ伏せになっていた上半身を起こし、…相手を見た。
「……………た、…………鷹野さん………。」
「こんばんは。月の綺麗な夜ね。…前原くん。」
月なんか見えるはずもない土砂降りの中で。
……鷹野さんは折り畳み傘を広げながら、そう微笑んだ。
……その微笑みが、…なぜか見透かしたようで薄気味悪い。
………俺の知る顔の中で、…一番会いたくない人に会ったような気がした…。
「こんな時間にどうしたのかしら? 傘もささずに全身ずぶ濡れの泥まみれで。……それは何? ……シャベル?」
……この人は今、車でやってきたんだ。
……俺がさっきまでやっていたことを知るはずはない。………なのに、……何もかもお見通しのように、…微笑む。
…落ち着け前原圭一。
……この人は…もともとこういう謎めいた笑い方をする人だ。
…変に勘ぐって墓穴を掘らないように気をつけろ……。
「…噂じゃあなた、ゴルフクラブで野球に参加したそうだけど。そのシャベルも、つまりはそういうこと? くすくすくす…、傘の代わりってわけかしら?」
……うまく…誤魔化しておいた方がいい。…ここさえやり過ごせば…何とかなるのだ。
「………レナと、………宝探しにダム現場に行ったときに…これを忘れてきちゃったんですよ。」
「……ふぅん。それをこの土砂降りの中、取りに行ったわけ…?」
「………家を出た時は、降るとは思いませんでしたので…。」
「…あら、降り出したのは結構前よ? …あなた、ずいぶん前から表にいるのね。」
「……まぁ…その、……ほっつき歩いてましたから…。」
「それにしたって。………あなた向こうからこっちに向かって来たんでしょ? ダムとは場所も方向も正反対よ? ……くすくすくすくす…。」
鷹野さんは明らかに…俺が極めて異常な状態であることを認識している。
…そして、言葉遊びをしながら、俺を追い詰めて遊んでいるのだ。
………この状況から、……薄々と、俺が何をしてきたかに気付いてしまっているかもしれない……。
……俺は……何てタイミングで、嫌な人に出会ってしまったんだろう。
…………最後の最後で…自分のツキのなさを恨むしかなかった…。
ここまで頑張ってきて…もう一息で全部終わるところだったのに……。……どうして……どうして最後の最後で、……よりにもよって…こんな人と……!
…………どうする前原圭一。
……シャベルという凶器がまだ手元にある。
……………………鷹野さんを、…沈黙させてしまおうか…?
「…………………………………………。」
……鷹野さんを殺すことが容易だったとしても、……鷹野さんが乗ってきたこの車の処理が困難だ。
…車なんて動かせない。バイクとは訳が違う。
……でも、…別に車が残っても……俺が殺したという証拠さえなければ………。
…そうさ、…こんな夜の土砂降りの中、…何の計画性もなく、偶然に出会っての…出会い頭の殺人。
……俺のイニシャルでも入ったハンカチを落とさない限り、………俺が殺したなんて…ワカルモノカ………………。
体の芯に……黒い炎が…静かに燃え上がろうとする……。
「…………………コワイ顔。いじめ過ぎちゃったかしら? くすくす!」
鷹野さんは、勝手に笑い出すと、それで話を切り上げてくれた。
………だが、俺の心から黒雲が晴れることはなかった……。
「それはそうと…。いつまで自転車にまたがったまま、地面に這いつくばってるつもり…? そろそろどいてくれるかしら。」
どけば去ってくれる…。
…そう思い、自転車をどかし立ち上がろうとした時、…片足をぐきっとひねり転んでしまった。
「……い、…いてててててててててて…ッ!! ……ぅううぅうぅ…ッ!!」
ねじった足に鋭い痛み…。…何て馬鹿な…。こんな時に…捻挫…?
「あら……、………大丈夫…? ひょっとして、捻っちゃった…?」
鷹野さんが屈みこみ、俺がさすり続ける足首をじっと覗き込む。
…そして俺の表情と見比べ、怪我の度合いを測っているようだった。
「立てる?」
「………ぅぅ………………ぐ……!」
とてもじゃないが、……立ち上がることなどできない。
芋虫みたいに、みっともなく地面を這うのが精一杯だった…。
鷹野さんは腕時計と自分の車を見比べてから、少し思案した後、助手席の扉を開ける。
そして……俺に肩を貸してくれた。
「…家まで送るわ。何だか、私がはねたみたいで嫌な気持ちだけどね。」
「………ぅぅ、………す、……すみません……。」
「見捨てるのも気の毒だし。…私がやさしい人で良かったわね、くすくすくす…。」
…自分でやさしい人なんて言うヤツにろくなのがいるもんか…、なんて思ったが、肩を借りてる身で、それはあまりに失礼な発言だ。
鷹野さんの手を借りて、助手席に座る。
…鷹野さんは後ろに振り返り、倒れている俺の自転車を見た。
「………自転車は後日、ってことにはならない?」
鷹野さんの目には、面倒くさいし重そうだし、車が汚れるから嫌だと浮かんでいるのがよくわかる。
……だが、自転車には前原と名前が書いてある。……こんなところに残すわけには行かないのだ。
「えっと……、その、……何とか車に積めませんか…。ないと、…困るんで。」
「トランクはもういっぱいなの。後部座席なんかに積んだら、シートが泥で汚れちゃうわ。…まぁ、あなたを乗せた時点でもう充分に汚れてるんだけれども。」
後部座席を振り返ると…、誰のだか知らないが折りたたみ式の自転車が積んであった。
………まだ俺の自転車を積むくらいのスペースはあるように見える。
そんな考えは、俺の瞳に浮かんで、原文そのままに鷹野さんに伝わったようだった。
「……わかったわ、わかったわ。積んであげる。……今夜だけはお姉さんもやさしくしてあげるわ。…くすくすくすくす…。」
鷹野さんは、さんざん悪態をつきながらも、俺の自転車を抱えて後部座席に詰め込んでくれた。
悪態をつくだけならともかく、薄気味悪く笑うのは何とかならないものか…。
……それから…自転車以上に、もっと残したくないのがシャベルだ。
…シャベルは埋めた死体と俺を直接結ぶキーワードになりかねない。
「……あの、…ついでで申し訳ないんですけど……、シャベルもお願いしていいですか?」
鷹野さんは明らかに怪訝な顔をする。
「………………………シャベル? ………別にいいけど。…大事なもの?」
「………………………………。」
しゃべればしゃべるほど俺が不利になる…。
そんな気がして、無理に返事をすることを避けた…。
……そんな俺の黙り込みに耐えかねてか、鷹野さんは肩をすくめるようにして呆れ顔のため息をついた。
「………はいはい、わかったわ。ボクはシャベルがないと困っちゃうんでしょう? …そんなコワイ目しなくてもいいわよ。」
鷹野さんは道の真ん中に転がっていたシャベルを持ってきてくれた。
…俺はそれを二度と手放さないように、抱く。……鷹野さんはそんな様子を怪訝そうに見ていた。
「じゃ、行くわよ。…前原くんのお家って、あの前原屋敷でいいんでしょう?」
「……何でみんな、家のことを前原屋敷って呼ぶんですか?」
「だって現にお屋敷じゃない。お金持ちが羨ましいわ。」
……そんな話をしながら、鷹野さんはサイドブレーキを下ろし、アクセルを踏み込む。
…そして路肩を利用して上手にUターンすると、ぐんぐんと速度を上げていった……。
……バックミラーから、呪われた場所が闇の向こうに溶けて消えていくのを見る。
「………られた?」
「え? ………すみません、よく聞こえませんでした。……今なんて?」
突然鷹野さんに何か話しかけられたが、…ちょっとうっかりして聞き損ねてしまった。
鷹野さんは前方を見据えたまま、…もう一度同じことを言ってくれた。
「死体。」
「………………え………、」
「…上手に埋められた?」
「………………………………………。」
……………………心臓が飛び跳ねるような、派手な反応は示さなかった。
…ただ、…息の根がきゅぅっと、…締まって息が吸えなくなった。
「……な、………………何を、……言ってるんです…か……。」
「…こういう山奥に死体を埋める時はね。結構深く掘らないと、野犬とかが臭いを嗅ぎつけて掘り返しちゃうことも多いのよ? ………野犬が咥えてた人骨で事件が発覚、警察、一帯を山狩りへ…なんて、結構ないことじゃないのよ? ………くすくす…。」
ガンガンと…わんわんと…。
…頭の中にでっかく錆び付いた鐘がいくつも鳴り響く…。
……絶対大丈夫だと言い切れるくらいに…深く埋めただろうか…?
…答えはノーだ。
………埋めれば全てが終わるという焦りで、…乱暴に浅く埋めてしまった可能性は否定できない…。
いやいやいやいや……そんなことよりそんなことより……。
…この女、……どうして……知っている……ッ?!
……こいつは、車でたまたまあそこを通りかかった。
…そして、…偶然俺と出会ってしまっただけ。
……木陰から一部始終を見ていて、…一度離れてから、わざわざ車で来直したなんて、…常識的には考えられない。…………なのに………どうして………。
………………………前原圭一…、……やっぱり……殺すしか…ない……ぞ……。
再び全身が覚醒し……、瞳孔がぐわっと開くのがわかる。
…狭い車内だから、シャベルで殴り殺すわけにはいかない。
……なら、……この手で…………絞め殺してやる………………。
…でも、…今は車を運転しているんだぞ……。今、絞めたら…事故になってしまうかも…………。
その時、不意に鷹野さんが振り返り、俺に目を合わせた。
「……………ボケもツッコミもなし?」
…何の話か一瞬わからず、面食らう。
「…私たち、あんまり相性はよくないみたいね。」
鷹野さんはつまらなさそうにそう言うと、再び視線を前方に戻した。
……鷹野さんが言っていた言葉を、…何度も反復して、………ようやく、性質の悪い冗談のつもりだったんだと気付く…。
本当に冗談だったかは…わからないが。
…俺如きがいくら嘘を重ねても、とても騙しきれる人じゃない。
……………今、こうして運転している状況では……殺すことはできない。
…このまま自宅へ着けば、さらに殺すことは躊躇われるだろう。
………一番最初の、あの出会った最初の瞬間が一番のチャンスだったのだ。
…それをみすみす逃したのは大きく、…痛い。
それっきり、……鷹野さんは何もしゃべらなかった。
…沈黙が車内を埋め尽くし、窒息を誘う。
………俺は……何て女と出会ってしまったんだろう…。
……今日、いろいろとありながらも……何とかうまく行き、……後は帰宅して眠るだけという…この最後の最後で………何と言う不運……。
「…………………………………。」
……そんな不安感は…次第に押し寄せる眠気の前に、……徐々にどうでもいいものになっていくのだった……。
…………………いいのか? 前原圭一…。
…………この女、………多分、生かしておかない方がいいぞ……?
………………………………今は……眠い。
■自宅前
ブレーキがかかって、体がシートベルトに締め付けられた。
…それで目が覚める。
……今、俺はどうやら眠ってしまっていたらしかった。
窓の外を見ると…ぼんやりとした灯りに大きな建物が浮かび上がっていた。
……真っ暗だったが、自分の家であることはすぐにわかった。
「今、ご家族を呼んでくるわね。少しの間だけど、ひとりでお留守番できるかしら? くすくすくす…。」
「……馬鹿にしないで下さい。…それに、ほら。…もう大丈夫です。ひとりで歩けますから。」
「…あらあら。さっきは痛そうな顔して肩まで借りたのに? ひょっとしてお姉さんに甘えてみたかったから? …くすくすくす。」
鷹野さんはそう言いながら、車を降り、傘をさす。
…雨粒が傘を叩く音は相変わらず激しかった。
さっき挫いた足首を恐る恐るさする。
………まだ痛みと違和感はあるが、…もうそんなにひどくはないようだった。
……大した怪我でなかったことを喜ぶより、…あそこで捻挫さえしてなければ……あの場で鷹野さんを殺すという選択肢も選べたはず…という後悔の方が先だった。
………………鷹野さんは多分、間違いなく、……俺が何かの犯罪に関わったと確信している。
……沙都子を巡る一連の騒ぎを知っているなら、…俺が誰を殺したかさえ想像がつくだろう。
ガチャリ。
……鷹野さんが、助手席の扉を開けてくれた。
「本当に肩は必要ないかしら? もう一回だけ甘えてもいいのよ? くすくす…。」
それを無視して、一人で降りることで返事とする。
…雨はまだだいぶ激しかった。
後部座席から俺の自転車を下ろす。
……もう一台の自転車が誰のものか、少し気になったが、今はどうでもよかった…。
鷹野さんの傘に入れてもらいながら自転車を押し、玄関までやってくる。
「…ありがとうございます。もうここまでで大丈夫です。」
さっきはあんなに痛んだ足首が、…今でも多少は痛むにせよ、そんなに大したことがないのが腹立たしくてならない。
……本当の本当に……不運だった。
「じゃあ、…私はこれで失礼するわね。前原くんと二人きりで夜のドライブだったなんて、…みんなにはナイショよ? くすくす…、特にジロウさんにはね。」
ジロウさん…?
あぁ、…富竹さんのことか。
…この人は富竹さんのことをジロウさんって呼ぶんだよな。…富竹ジロウが本名なんだろう。
その時、………さっき興味のなかったあの、後部座席のもう一台の、…折り畳み自転車が記憶に蘇る。
『やぁ、申し訳ないね。君、雛見沢の人だよね?』
……一昨日、…寝坊した俺がダム現場を歩いていた時に、富竹さんに話しかけられた。
……その富竹さんがまたがっていた自転車が………、……確か…………。
「あの後ろに積んであった自転車、……富竹さんのですよね…?」
鷹野さんの目つきが、…一瞬鋭くなったように感じた。
「……………………………どうしてそう思うのかしら…?」
「……以前に会った時、見てますから。…フレームも特徴的でしたし。」
「…………………………ふぅん。………でも、…おかしくないかしら…? この自転車がジロウさんのものだなんてこと、ありえると思う…?」
「…おかしいって、……………え…?」
鷹野さんは、優雅そうに髪の毛をなびかせてから、…俺の目を覗き込むように言った。
「……だって。…雛見沢には民宿なんてないのよ? ならジロウさんは町に泊まっていることになるわよね。」
「…………そうなんですか…? …まぁ……そうなら、そうなんじゃないですか…?」
「……町から雛見沢までは、とても歩いてなんか行き来できないわよね? バスだって走ってないし。……せめて自転車くらいはなきゃね。」
言われるまでもない。…だから富竹さんは自転車に乗っていた。
「…そのジロウさんの自転車が私の車に積んであって、…ジロウさんは私の車に乗っていないなら、………おかしいじゃない。……ジロウさんは雛見沢で自転車ナシ…ってことになっちゃうわよ。ジロウさんを放っておいて自転車だけが私の車に積んであるなんて、ね? ありえないでしょう?」
………鷹野さんが、名前通りの鷹のような目つきで…そう語るが、……悪いが俺には、何がどうおかしいのか、……少しわからない。
「………それの、何がおかしいんですか。…鷹野さんは富竹さんとは仲がいいんですよね。………何かの用で自転車を積んであげたって、別におかしいことだとは思わないですけれど…。」
「そうじゃないでしょ。…つまり、この雛見沢において、ジロウさんとその自転車がばらばらに存在することはありえない、ということなのよ。………以上の理由から、この自転車がジロウさんのものであるわけがない。………理解できたかしら…?」
…鷹野さんの言い回しが少々わかりにくいが、…それ以上に、どことなく凄みを感じさせる薄気味悪さが…とても嫌だった。
…だが、………本能のもっとも野性的な部分が、…立ち入らない方が良いと警告する。
「あれは私の自転車なのよ。………ジロウさんに選んでもらったから、センスが似てるのは間違いないけれどね。」
「………あ、……そうだったんですか。…どうりで似てると、」
「私とあなたは今夜、出会わなかった。」
会話が全然つながらない…。
「…何を言ってるんですか。」
「私とあなたは今夜、出会わなかった。」
俺が相槌を打てずに戸惑っていると、…鷹野さんは薄気味悪く、その短いフレーズをもう一度繰り返した。
「私とあなたは今夜、出会わなかった。」
「………………………。」
「………私とあなたは今夜。出会わなかった。」
背筋を…冷たくて気持ち悪いものが駆け上る。
………さっき、……人間をこの手で殺した俺だからわかる。
…さっき俺がためらいもせず、この女を殴り殺して黙らせるなら今しかないと考えるに至ったように、……この女も同じ考えに、至っているのが、…わかる。
再び本能が警告する。……この女と出会わなかった方がよかった。
この女から漂う…腐臭のような臭いの気配は、………きっと今の俺から滲み出ている気配と、…何ら変わらない。
………目的のために、ニンゲンの命を奪うことに何の躊躇もない、超越した人間の持つ…独特の覇気。…いや、…吐き気と言うべきか。
つまり………どういうことなのかうまく説明できないが、……鷹野さんは、俺と同じなのだ。
つまり……ここに居てはいけない人間。
ここにいなかったことにしなければならない人間。
…………誰とも会うことを望まない人間。
………そして、……出会ってしまった相手を消すことで、……出会わなかったことに平気でできる人間…。
そう。……ということはつまり…、俺がこれ以上何も触れられたくないように、……彼女もまた、触れられることを望んでいない。
そして、…彼女もまた俺と出会わなかったことを望んでいる。
………両者は、同じことを望んでいたのだ。
………望むものが同じなら、………鷹野さんの提案は極めて合理的なものだ…。……そして、それはむげに断るべきではない…。
「…それでいいなら、そういうことでもいいです。……俺と鷹野さんは今夜、出会わなかった。」
「そうよね。……あなたにとってもその方がいいでしょうから。」
「……どうしてそう思うんですか。」
「いちいちうるさいわね。…それくらい自分で考えられないの、坊や。」
…………坊やという見下した言葉で、俺との会話をぴしゃりと遮る。
家の玄関前という…殺しにはもっとも適さないはずの場所で。
………それでも、………俺とその女から…互いに凍てついた殺気が滲み出している。
……俺は今この場で、…殺される……………………。
…あぁ……、…それならやはりあの時に、…出会い頭に殴りかかるべきだった…。
じっとりとした脂汗が全身に浮き出す…。
…………いいさ、……来たければ…、いつでも来たらいい…………。
そう覚悟を決めた時。
…………鷹野さんが優雅に髪を散らしながら、踵を返した。
「…よかったわね。…私がやさしい人で。」
何がどうで、よかったのか。
……鷹野さんがやさしい人だったから、何がどうだったというのか。………わからない…。
鷹野さんはそのまま車に乗り込んでいく。…別れの挨拶は何もなかった。
……沙都子の叔父殺害という偉業を成し遂げたのに、………心には何の達成感もない。
…………誰かひとりの命を奪うことが許されるオヤシロさまの祟りの聖夜に。
………オヤシロさまの代行者としての…鬼が徘徊する土砂降りの夜。
………出会うはずのない鬼たちが、……偶然、……出会ってしまった。
鬼たちは、……揚々と別れていく。
……争う必要は何もない。
……互いの目的は、…もう果たされているのだから……。
…滝のように雨水が流れ落ちる車の窓越しに、鷹野さんと目が合う。
その女の鬼は、……不敵に、にやっと口元を歪めたように見えた。
………………もう殺すには遅い。
…手遅れ。…一番最初の、あの出会った最初の瞬間が一番のチャンスだった。
……今、こうして別れてしまってからはっきりと自覚する。
………コイツハ…生カシテ帰スベキデハナカッタ…!
短いクラクションを一度鳴らし、…鷹野さんの車は土砂降りの中を走り去って行く。
……今夜の真相を知る、唯一の女が、……闇の中に去っていく。
あの女が生き続ける限り、………今夜という夜が終わることはないのだ。
……………事故に遭え、……と思った。
この土砂降りの中、……泥か何かでスリップして、……大木に正面衝突して…死亡。
…これは俺の妄想なんかじゃない。
……願いであり、………そう、………命令だ。
死ね。…死んでしまえ。
…そして永久に口を噤むがいい。
……お前だって今頃、…俺が死ぬことを望んでいるに違いないのだから。
そんな俺の呪いも空しく、鷹野さんの車のバックライトは漆黒の闇の中に消えていった…。
「………………………………………。」
…車の灯りは完全に見えなくなる。
土砂降りの音に溶け込み、音も何も、もうわからない。
……俺もまた踵を返す。
……狂った夜に幕を下ろすために。
玄関の扉を開いて、今夜を終わらせるために。
玄関の扉へ、歩みを進める。
……泥まみれで、歩くたびに無様な音を立てる靴で、ぐしゃ、ぐしゃ、…と一歩一歩、歩みを進める。
…ぐしゃ。…ぐしゃ。
……………………安心しろ前原圭一。
「…………………。」
…ぐしゃ。…ぐしゃ。
……………あの女は、死ぬから。
「………………。」
…ぐしゃ。…ぐしゃ。
………あの女に相応しい、無惨な最期を。
…生きたまま炎を纏わせ、黒コゲになるまで躍らせてやろう。
お前が焼かれるはずの分まで、地獄の業火で焼き尽くしてやるから。
「……そう願うぜ。……本気でな。」
ぐしゃ。
……………………………え? …今、俺。………歩いてない。
……のに、……足音………………。
……………何の感情もなく、…後ろに振り返る。
…俺の足音でない音がひとつしたなら、……俺以外の誰かが後ろにいて当然だからだ。
…俺以外の誰かがそこにいたら………?
もうごめんだ。
誰だろうと今夜は絶対にごめんだ。
今度こそ………殺す。今度こそ躊躇なく殺す。
……何の迷いもなく、…引き返し、もうひとつ穴を掘る。
「……………………………………。」
………だが、……幸いなことに、…………………そこには誰もいなかったから。…俺は今夜、これ以上、誰も殺さなくて済んだのだった…。
その夜は、……それ以上、気にならなかった。
俺が立ち止まる度に、一歩余計に足音が聞こえたとしても、…疲れているからだと、片付けられた………。
■幕間 TIPS入手
■タイトル: 地獄の業火
「はいもしもし。救急ですか、消防ですか。」
「え、っと…消防です!」
「火事ですか、事故ですか? 落ち着いて話してください。」
「た、多分、火事だと思います…。こちらはXX高速のXXサービスエリアなんですけどね、…裏の山から何だかすっごい火と煙が上がってるのが見えるんですよ。あんなところ、誰も立ち入らないから、何で火がついてるのかよくわかんないですけど…。とにかく、連絡した方がいいと思って…! 山火事にならないとも限らないし!」
「わかりました。すぐに現場を確認しますので、そちら様のお名前とすぐに連絡のつく電話番号、それから火災現場の詳細な場所をお願いします。」
「消防司令部より通達。XX山西側斜面にて不審火の通報あり。街道から離れてることから、カップルの焚き火か、不法投棄のゴミに放火したかの可能性があります。現場は深い森林地帯。周辺に民家はないが、延焼の可能性あり。直ちに現場を確認されたし。」
「消防署ですか。こちらはXX地区消防分団です。通報の現場にさっき到着。ドラム缶がひとつ山中に放棄され、炎上しているのを確認しました。火は鎮火しつつあり、延焼の可能性はなし。
………で、……その、………ドラム缶の中に、…多分、人じゃないかと思うんです。人らしきものが灯油か何かで焼かれた…という感じで。……その、……警察の人にも連絡した方がいいんじゃないかと思いまして…。」
「わ、…わ!! まま、間違いねぇよ!! これ、人だよ!! ひぇえぇええ……!!」
■タイトル:5年目の犠牲者
「………今年の祟り、ってことっすかね。」
「…そういうことになるんですかねぇ。……毎年いろんな殺し方を見せてくれますが、今年は特に際立っていますねぇ。」
「自分で自分の喉を掻き破るなんて…。…普通じゃないっす…。」
「あとは鑑識のじいさまに任せましょう。…きっと何かの怪しげな薬物を検出してくれるに違いありません。」
「お疲れさまです! お疲れさまでーす!!」
「あ、大石さん! 小宮山さんたちが到着しました!」
「大石さん、お疲れさまです! 今年は一等、キてるのが出たらしいじゃないですか。」
「えぇ。裏をかかれました。……私ゃてっきり、今夜死ぬのは北条鉄平だとばかり思ってたんですがね…。」
「ホトケは何者です?」
「富竹ジロウ。年に何回か雛見沢に来てる趣味の写真家さんです。……ノーマークだったなぁ…。」
「…どうなんでしょうね。北条宅にずっと張り付いてたのがバレて、ターゲットを変更したとか。」
「…………………かなぁ。………裏目ったなぁ……。」
「で、北条鉄平の方は何も問題なし?」
「えぇ。夕方頃に娘が祭りに出掛けて、その少し後にバイクで出掛けまして。…先に娘が帰ってきて、…あれ? まだ帰ってないかな? どこかで飲んだ暮れてるのかな…?」
「大石さん、いらっしゃますかぁ?! 高杉課長からです。1号車の無線にお願いします!!」
■12日目(月)
……………………始め、それは夢だと思っていた。
………何だかよくわからない、…変な板がずっと見えている。
……ただ、それだけ。迫ってくるわけでもなければ、嘲笑うわけでもない。
そのつまらない光景が、自分の部屋の天井であることには…相当の長い時間、気がつけなかった……。
…そう。…俺は夢を見ているつもりで、……実は…ずぅっと……天井を見ていたのだ。
セミの声が気だるさを誘う。
……自分が目を覚ましたと気付いた後も、起き上がろうとする気力すら起こさせない…。
…………見える全てと、聞こえる全てが、まるで放送の終わってしまったテレビみたいな感じだった。
……暑い。
………窒息しそうなくらいに、暑い。
……背中の寝汗がじっとりとして、…気持ちが悪い。
……それにこらえきれなくなり、寝返りを打った時………ようやく俺の頭に血が通い始めた…。
長かった……昨日一日が、…ぼぅっと…蘇る。
今こうして……セミの声を聞きながら、横になっているという現実と、あまりにかけ離れた昨日。
……沙都子の叔父を殺すため、……下見をし、計画を練り、…穴を掘った。
……とても…暑くて、疲れたっけ…。
……そして、夕方になって、…学校まで言って電話であの男を呼び出したんだ。
……警察の場所はどこだ、なんて聞かれて一瞬焦ったけど…何とかなった。
…そしてあの男を待ち受け、………襲い掛かった。
………自分がどんな感情に身を任せていたかは、…今となってはもう思い出したくもない。
………とにかく、…あっさりとは行かなかったけれど、…………俺はやり遂げたんだ。
……死体を埋める穴を掘るのにはずいぶん苦労した。
……あの、全身を濡らす土砂降りの感触は…多分、一生忘れられない。
……雨と泥と、血の飛沫。…あの、文字通り沼の中で足掻くような感触。
…………その帰りに鷹野さんに出会ったのは、……どう都合よく解釈したって、いい意味にはならない。
……あの晩の、もっとも不運で計算外の出来事だった。
あの女との出会いさえなければ、……全ては完璧だったのだ。
……………………………はぁ…。
土砂降りの中、びしょ濡れになりながら、シャベルを片手に自転車に乗ってただけだ。
…………これだけの情報で、殺人と死体遺棄が連想できてたまるものか。
…こうして朝日にまどろみながら冷静に考えれば…そうだと思える。
だけれど……あの時の鷹野さんの瞳を思い出せば思い出すほど…。……鷹野さんは理解していたように思える。
……鷹野さんはワカッテタ。
…俺が人を殺し、…それを埋めて、……疲れきりながら、帰る途中だとわかってた。
…鷹野さんが俺を警察に売ったって、何の得にもならないだろう。
…だからと言って、安心などできるはずもない。
「……………殺しとく、………んだった………………。」
俺は平穏な日々を再び取り戻すために、…あれだけの橋を渡ったというのに。
………その結果、やっと得られた今日だと言うのに…。
……これから始まる平穏な日々を、…俺はこれから一生、…いつ突然終わるかと怯えながら暮らさなければならないのだ。
ちょっと足を挫き、疲労困憊で頭の回転が鈍っていたとは言え……、あの瞬間に決断できなかったことが、……こうして後になればなるほど……後悔されてならなかった。
………仕方ないだろ、前原圭一。
…あの時は仕方なかった。
疲れてた。
ぼろぼろだった。
…仮に決断できてたとしても、…本当に殺せたかは怪しい。
……返り討ちにされていたかもしれない。
それを思えば、何事もなく別れた方が無難な選択だったと言える。
……鷹野さんがいくら鋭い勘で推理しようとも、証拠はない。
…鷹野さんがいくら俺を疑ったって、物証は何もないのだから。
「………………理屈じゃわかってるさ。……でも、…だからって何の心配もないってわけじゃないだろ…?」
…その時はその時だろ。………今は悩む時じゃない。…笑う時じゃないのか?
お前は今日からの新しい生活を得るために、あれだけのことを成し遂げたんだろ?
……なら、今は新しい朝を喜ぶべきさ。
……思い出して、いろいろと辛くなるなら、…昨日までのことをなかったことにしたっていいんだ。
お前、自分で昨日言ったろ?
……全部埋めて、なかったことにするって。
その念願はかなったんだぜ。
昨日までは全部なかったことになった。
……そら、喜べよ、前原圭一。
「……………………わ〜い。」
両手をだらんと放り投げる。
……自分でやっておいて何だが、…ばかみたいだ。
腹の底から深いため息が出る。
…そのため息で、肺が動き出した。
まるで、さっきまで呼吸が止まっていたみたいな感じだった。
……自分自身に諭されるまでもない。
もう、投げられるサイコロは全て投げてしまったのだ。
…そして出た目は、…決して悪い目じゃなかった。
……その目で敗けになるなら、……その時はもう、諦めるしかないだろう。
…寝巻きのはだけた胸元をぱたぱたとやる。
……全身にうっすらとかいた寝汗に風が通って涼しかった。
よし。…昨日までは……なかった。
なし。なしだ。
…全部忘れる。昨日の出来事も全部、夢!
今は何時だろう。………昼くらいだろうか。
……今からわざわざ起き出して学校に行くのも何だか馬鹿らしい。
…でも、学校には行かなくてはならない。
なぜなら、登校こそが平穏な日常の第一歩だと思ったからだ。
…今からでも学校に行こう。
…取り戻した日常にすぐにでも復帰するために、今からでもすぐに学校に行こう。
そう思ったら、愚鈍だと思っていた体はあっさりと軽くなった。
ごろん、と布団の上を転がり、膝から、よ!った、と! と華麗に立ち上がる。
「うん。10.0!」
体操選手がやる決めポーズみたいに胸を張り、大きく空気を吸い込む。
……朝の清々しさはとっくになくなっている、カリカリした感じの、夏の空気だった。
階下でお袋に、昨夜はどこに行っていた、何時に帰ってきた、夕食に帰って来れない時は必ず電話をしなさい、とお説教を食らった。
……だが、昨日、やり遂げたことの重要さを思えば、こんなお小言は何の問題にもならない。
…むしろ、平穏な日常のひとコマを感じさせてくれるくらいだ。
適当に笑いながらあしらい、…すっかり日の高くなった表に出た。
もうすぐ昼休みが終わる、そんな時間だった。
…みんなは俺のことを、…多分心配しているだろう。
祭りにも行かず、今日も登校せず。
……いや、…そんなに心配はしていないかもしれないな。
なぜなら、…今日は沙都子から、小さな、だけれどもとても嬉しいニュースがもたらされているからだ。
…そう、昨夜、叔父が帰ってこなかった…という小さなニュース。
沙都子は、それでも今日は帰ってくるかもしれないと、…多分、しばらくは神経質な日々を過ごすだろう。
……だけど、そんな日々はやがて終わるのだ。
やがて沙都子も、…叔父が二度と帰ってこないことに気付く。
そして、…きっと梨花ちゃんがそっと誘ってくれるのだ。
…またボクと一緒に暮らしましょうです、なんて感じで。
それで全部元通り。
…あの男が現れる前の生活に、全部戻る。
沙都子はあの八重歯が似合う飛び切りの笑顔を見せてくれるようになって、…自慢のトラップワークもさらに冴えに冴えるのだ。
…俺は多分、イの一番に餌食にされるだろうが、…きっと腹は立たない。
むしろ、そんな当り前が戻ってきたことに、嬉し涙さえ浮かべてしまうかもしれない。
沙都子は…きっとますます、世話焼きな性格が加速していくだろうな。
……俺がいかに生活力がない男かは、もう完全にバレちまってるし。
…俺、沙都子に頭が上がらないようになるのかな。
………でも、そんな光景もとても微笑ましいものだ。
そんな温かな予感があればこそ、…これだけの大遅刻の登校でも、何の引け目も感じずに済んだ。
…それどころか、早く学校にたどり着きたくて、駆け出したいくらい。
でも、敢えて走らず、ただ登校するというだけの平穏を噛み締めることにした。
……こうして歩いているだけで、愉悦を感じられる…俺の獲得した世界。
そう。…今日という日と、今日から始まる世界は、俺が勝ち取ったものなのだ。
昨日の偉業がなければ、きっと今日、こんなにも晴れ晴れしい気持ちで登校が出来ているはずがない。
………校門が見えてくる。
ちょうどその時、校長先生の振る昼休みの終わりを知らせる振鈴の音が聞こえてきた。
清々しい音だった。
………思わず、足を止めて、…染み入るその音に身を委ねてしまう。
…ぺた。
俺が不意に足を止めたから。……………足音がひとつ余計だった。
…………………………………………。
全身に溢れていた、…小春日和のような幸福が、…ざわりと音をたてながら…毛穴という毛穴に引っ込む。
……そしてのその代りにとでも言わんばかりに……足元から……何百匹という毛虫が登ってくるような感触が登ってきた………。
もちろん、振り返っても誰もいない。
…足音など気のせいだとすぐに理解できる。
……だが、………その足音は…とても不吉に感じられた。
昨夜、鷹野さんを見送ってから…聞いた、ひとつ多い…足音。
狂った夜だった昨夜の出来事なら、…そんな出来事がひとつあったって、納得できる。
……あれだけの夜だったのだ。
…幻聴のひとつくらい大目に見ようとも思える。
だが……その足音が、昨日までとは断絶されたはずの今日にも聞こえたなら…?
…その意味するところは……ひとつしかない。
……昨夜はまだ、終わっていない。
………続いているのだ。
……まだ。狂った夜が、いつまでも。
さっき聞こえた、…ぺた。
たったひとつ聞こえた足音が、……今日からは、昨日までとはまったく違う世界だ、などという甘えた寝言を…静かに、静かに、…嘲笑っていた…。
■学校
校庭で遊んでいたクラスメートたちは、潮が引くような勢いで校庭から姿を消していた。
……俺が学校に近付いたら、…温かな光景が終わってしまったように感じて、…気分がよくない。
昇降口で、…みんなの靴箱をざっと見渡してみた。
…北条沙都子…、…来ている。
…魅音もいる。レナももちろん。…梨花ちゃんだっている。
……富田くんも岡村くんもいるし、…欠けているクラスメートは見当たらない。
欠けていたとしたら、………それは俺の靴箱だけだった。
そこに脱いだ靴を突っ込み、…上履きを取り出す。
下駄箱には一足の上履きも残っていない。
…………これで下駄箱は、やっと本来のあるべき姿になった。
…そう思い、すのこに上がって通り過ぎようとした時、……上履きが一足だけ残っているのに気付いた。
………え、……………誰が…?
「………………北条、………悟史…。」
去年、失踪してから……ずっと登校してこない悟史。
……昨日まで、俺とお前はまったく同じ動機で、まったく同じ凶行を行ったが、…最後だけは違ったな。
お前は登校できなかったが、…俺は、こうして登校できた。
俺はお前の轍を踏まなかったのだ。
……そんなことに優越感を感じるつもりはない。
…むしろ感じるのは、…妙な親近感。
…会ったこともない男と、まったく同じ運命をなぞった、…数奇な縁。
廊下を進み、…いつもの教室を目指す。
何だか、…丸々、一年は久しぶりに訪れるような気持ちだった。
…………………おい、
…忘れたか、前原圭一。
………北条悟史は…別に綿流しの夜に消えたわけじゃないだろ…。
「…………………………………………。」
……北条悟史は、……綿流しの数日後に消えた。
…確か、沙都子の誕生日に。
沙都子の誕生日がいつかはよく知らないが、……その日を越えても俺が居続けて見せなくては……悟史の二の舞を避けたとは言い切れないのだ。
………俺はまだ、……狂った夜の中に居続けている………。
教室にはまだ先生は来ていなかった。
先生が来るはずの扉とは違う扉がガラリと開いたので、みんなは誰がやってきたのかと一斉に振り返った。
………みんなぽけーっとした顔してるな。…うむ。挨拶でもしてやるか。
「おはよう諸君。出迎えご苦労であるぞよ? ぬっふっふっふ!」
………シン。
…外したかな…、何て思った頃、ようやくクスクス笑いが広がってくれた。
「あっはははははは! おはよう、圭ちゃん。今朝も飛ばしてるね〜!」
「うん、飛ばしてるねー! 圭一くん、まだお祭り気分が抜けてないのかもしれない。はぅ!」
魅音とレナの明るい声を聞いていると、さっき昇降口で囚われた暗い気持ちがいかに下らないものだったかよくわかった。
「…おいおい、…お祭り気分って、…そもそも俺、」
祭りに行ってないじゃないか。
…そう言おうとした時、梨花ちゃんが笑いかけてきた。
「……圭一はちゃんとボクの演舞、見ててくれましたですか?」
「うん! ちゃんと見てたよ。あんなにいっぱい拍手してくれてたのに、梨花ちゃん、気付かなかったのかな?」
「圭ちゃんに詩音のあんぽんたんが、ちょっかい出して来たのを無視してね〜!
あっはっはっは! 詩音、ざまーなかった! あーいい気分!」
………魅音が俺の背中をバンバン叩きながら、小気味良さそうに思い出し笑いをした。
「それで…あの射的屋の対決って、結局どうなったんですか?」
富田くんが俺の方向を向いてそう言った。
……俺の後ろには誰もいない。
……なら、俺に向かって話している…?
「……あれは結局、富竹がビリだったのですよ。みんなで楽しく罰ゲームをしましたです。」
「あっはっはっは! 梨花ちゃんも実質、ビリみたいなもんだったじゃない! あそこで…起死回生の大技でガムをゲットとは…さすがは我が部の部員! 見事だったよ!!」
あそこでみーみー泣くのは古手だけに許される大技っす! と岡村くんが鼻息を荒くしながら言う。
……俺の方向に向かって。
みんなは、梨花ちゃん以外がやったら反則だーと大笑いした。
…梨花ちゃんはそれを聞きながらにぱ〜と笑うのだった。
……俺の方向を向いて。
レナも俺に、…いや、俺の方向へ振り返る。
そして、何だか照れたような笑顔を浮かべながら、俺だけに聞こえるような小声で言った。
「でも本当に、……ありがとね。圭一くん。」
「…………………………何がだよ。」
「あのでっかいぬいぐるみ。
………すっごく嬉しかった。大事に枕元に置いてるんだよ。…ちゃんと寝る前にお休みのキスしちゃった。
…はぅ〜☆」
それを聞いて、クラス中が笑ったり、はやし立てたりした。
……さっきから、…話の軸が微妙に逸れていて…、…よく飲み込めない。
「…………ぬいぐるみが、…どうしたって…?」
「どうしたって、…ほら。昨日のお祭りで、みんなで頑張って落としたよ? でっかいぬいぐるみ。」
「………でっかい、…ぬいぐるみ。」
レナはきょとんとした様子だったが、笑顔を浮かべながら答えてくれた。
「なかなか倒せないから、額を狙ったり、素早く何発も撃ったりしていろいろと試したんだよね。それで圭一くん、鉄砲を何丁も予め用意して、素早く撃って見せてくれたんだよね!
カッコよかった。…はぅ〜!」
………だから、…誰が?
「あの後の飲み会でさ、町内会の会長連中にも圭ちゃんの評判、すごくよかったんだよ。圭ちゃんの売り口上に惚れたーって騒いでたのは、子ども会の公由徳三会長だったかな? 次の祭りではぜひ圭ちゃんに何店舗か任せたいって言ってた!」
「……徳三は、お祭りの実行委員会の模擬店部長さんなのです。」
前原さんって、物事を良さそうに話すのうまいですよね〜!
うんうん、前原さんが話すと実際よりもすごそうに聞こえるもんね!
あはははははは、そんなこと言っちゃいけないよー。あはははははははは…!
「圭一くんって売り子さんの才能があるんだね! きっとバナナの叩き売りとかやったら、上手だと思うよ〜。」
<レナ
「………………さっきから何の話だよ。……大体、俺、」
祭りに行ってないじゃないか。……その一言を、飲み込む。
……何が何だかわからないが、…………雛見沢では、…つまりこういうことになってる。
…昨日の綿流しのお祭りに、…『前原圭一』は現れた。
そして、いつもの部活メンバーたちと一緒に、騒ぎながら遊んで回った。
いくつもの露店で、大賑わいしながらたこ焼きやらお好み焼きやらをつまみ食いし、その度にうまいだのまずいだの批評して、場を沸かせた。
そして射的屋にでっかいぬいぐるみがあるのを見つけ、…みんなでそれを狙った。
…そして、俺が、コルク鉄砲を何丁も並べておいて、それを次々に撃って捨てるという大技で速射し、……見事、一番大きいぬいぐるみを打ち倒した……。
そしてその勝者の証であるぬいぐるみを…俺は、レナにプレゼントした…。
そこで楽しい時間は終わって、梨花ちゃんの奉納演舞の時間になった。
大勢の人ごみに揉まれ、仲間はばらばらになってしまったが、それぞれに梨花ちゃんを応援できるポジションを陣取った。
途中、奉納演舞を放ったらかして遊びに行こうと話しかけてきた詩音を、俺は断り、…最後の最後まで、ちゃんと奉納演舞を見守っていた………。
……誰? ……その人。
…………だから、さっきからみんな言ってるじゃないか。……『前原圭一』、って……。
楽しそうに、『前原圭一』のいた昨日のお祭りの話しで盛り上がるクラスメートたちを怒鳴りつけたい気持ちに駆られる。
…お前ら、…さっきから、何の話をしているんだ?、って。
だが…そんな気持ちよりも、……この、理解できない現実を薄気味悪く思う気持ちの方がはるかに強かった。
俺じゃない『前原圭一』が…雛見沢に昨日、居て。
……俺が人間であることを捨て、…鬼と化し、沙都子の叔父を殴り殺していた頃、……みんなと楽しく、祭りの夜を過していた。
………何だよ、……それ。
……俺が……あんなにも、辛い思いをして、…泣きたくなるのをぐっと堪えて、……土砂降りの中、…あんなにぼろぼろになって、…穴を掘ったり、追ったり殴ったり殺したり、引きずったり埋めたりしていたのに……。
…そんな俺をそっちのけにして、みんなと楽しく呑気に祭りを過していやがったのは…どこの『前原圭一』だよ?!
今日という…この宝石のような日常を得るために…決死の努力をした俺を差し置いて………、誰が俺の代わりを務めやがったんだよ?!
俺以外に前原圭一がいたなら、……それじゃあ俺は何だったんだよ?
…誰かが1人死に、…誰かが1人消える綿流しの夜の、オヤシロさまの祟りに従い、……1人を殺した、………鬼がいるだけだ。
………呆然としながら…、ある恐ろしい想像に駆られ、クラスメート全員を見渡す。
……その中に、…見慣れない一人が増えていないか、確かめるためだった。
……このクラスメートの中に、……俺がいないだろうか。
……本当の『前原圭一』は今日、寝坊することなくちゃんと登校していて…。
……すでに『前原圭一』でなくなった俺が、……のこのこと今頃やって来てる…。
……そんな恐ろしい想像…。
…だが……いくら見渡しても、…俺の知る顔しかない。
……俺がいつも洗面所の鏡の中で出会う男は、………いなかった。
「はい! 午後の授業を始めますよ! 皆さん、席に戻って下さい。委員長、号令!」
先生が入ってきて、皆、慌てて自席に戻る。
……先生が大遅刻をかました俺を見つけ、ガミガミとお説教をしたが、…………俺の耳には届かなかった。
………今日から、…元の日常が始まるのではなかったのか…?
…何だか、…様子がおかしい。…変だ。
昨日を境に元の楽しかった日常に戻るはずが、………元の日常とも、昨日までともまったく異なる、………例えようもない不思議な世界に踏み込んでしまった。
そう、……ここは、…間違いなく、俺が今まで生活していたのとは…違う世界なのだ。
………そんな馬鹿なこと、現実にあるわけがない。
…だけれど……そう考えなければ……さっきまであったことが…説明できない。
見知った顔にこれだけ囲まれた教室なのに、………孤立感を感じた。
セミの声は、俺が昨日まで聞いてきたものとまったく変わらないのに、…どこか白々しい。
……空気もカラカラに乾いていて、…こんなにも雛見沢の空気は意地悪だったっけ…と思わされてしまう。
「…………おい、レナ。」
「何かな? 授業中なんだよ。」
「………昨日の祭りだけどさ。……俺、……いつ頃、みんなと合流したっけ…?」
「え?」
……実は俺、あの後、興奮してて…勢いで缶ビールをがばがば飲んじゃったんだよ…。
それで…お恥ずかしいかな…昨日のこと、いまいち…記憶になくて…。
……出任せにしては、悪くない言い訳だった。
「圭一くん、最初は来れないって言ってたんだよね? 魅ぃちゃんの家にそう電話したんでしょ?」
…………ここまでは同じだ。
…魅音に、俺は用事があるから合流できない、沙都子を代わりに頼む…と電話した。
「沙都子ちゃんを誘ってあげようって言うのは、みんなでお祭りの準備をしてた時に決めたんだよ。……少しでも、叔父さんの姿の見えないところに連れ出してあげようと思って。」
……これも合ってる。
…電話した時、魅音もそう言っていた。
沙都子を誘うのはもうみんなで決めてあった、って。
「それでみんなでレナと魅ぃちゃんと梨花ちゃんで、沙都子ちゃんの家に行って、沙都子ちゃんを連れ出して。
……沙都子ちゃんの叔父さん、すっごく意地悪そうな人だった。」
…そんなことはどうでもいい。
……それよりも聞きたいのは……、
「………俺は、…その、……………いつ合流したんだ……?」
「…そんなことも忘れちゃってるの? …圭一くん、お酒は大人になるまで飲まない方がいいと思うな…。」
「だから! 俺はいつ合流したんだよ…!」
「ッ! …………え、……えぇと……、」
突然、俺が凄んだので、レナが言葉に詰まってしまった。
…いけない、ここは急かしてはいけないところだった…。…レナにごめんと謝る。
「境内でだよ。ひょっこりと。梨花ちゃんと話してたじゃない。」
<魅音
「うん。巫女さん姿の梨花ちゃんと楽しそうに話していた。それでレナも加わって、はぅ〜〜、お持ち帰り〜って。」
「……梨花ちゃんと、…話してたのか…。」
「圭ちゃん、用事か何かがあったんじゃない?って私が聞いたらさ。圭ちゃん、胸を叩きながら自分で言ったじゃないのよ。用事なんかより祭りで大暴れする方が大切だぜーって。」
…言ってない。
それだけは断じて言ってない。
…そもそも、昨日、神社の境内になんか行ってない。
…そんなところに寄り道する時間はそもそもなかったんだ。
起きたら、すぐに穴を掘りに行って。
…結構、手こずって。
…それから学校へ忍び込んで電話を掛けて。
…あいつを呼び出して、待ち伏せて。
……それから土砂降りになったんだ。
あれだけの土砂降りになったんだから、あれでお祭りはお開きになったはずだ。
……つまり、祭りはそこまで。
……祭りが始まってから、終わるまで。
……そこには、俺が神社の境内に立ち寄る時間など、ありえるはずもない。
……魅音たちが沙都子を連れて、境内にやって来た時には俺はもう居て、梨花ちゃんと話をしていた。
……では、……梨花ちゃんは、どこで俺と会ったと言うんだろう…?
先生がお手洗いで席を外したので、梨花ちゃんの席に駆け寄り、率直に疑問をぶつけた。
「……圭一とですか?」
「あぁ。…梨花ちゃんは、魅音たちが来る前から俺と話してたんだろ? …いつ俺に会ったんだ? いつ、…どこでだよ…。」
「……圭一が何を聞きたいのかわからないのです。」
「俺、昨日、記憶をなくすくらいビールを飲んじゃってさ…。何も覚えてないんだよ。……へへへへ…。」
梨花ちゃんもまた、その出任せで納得したらしかった。
「……圭一と会ったのは、集会所から村長さんたちと出てきた時なのです。圭一は祭具殿の扉の前にいましたのですよ。」
「……え? 何…? ………祭具殿?」
…知らない建物の名前だった。
…あるいは聞いたことがあるのかもしれないが、…少なくとも俺には、境内のどこにあるのかもわからないのは確かだ。
「……村長さんが、そこは神聖な場所だからみだりに近寄ってはならにゅーと怒りましたですよ…? ……圭一、それも忘れてしまいましたですか…?」
………もう、それ以上は聞くのも怖かった。
聞けば聞くほど…、
……昨日、『前原圭一』が…確かに間違いなく、綿流しの会場の…古手神社境内に存在したことが…明白になっていく。
明白になればなるほど……、
……昨日の俺は何者なんだ…という疑念、いや恐怖が込み上げてくる…。
そいつは…俺の代わりにみんなと楽しく過ごし、……俺の不在をまったく気付かせずに一日を全うしてくれた…。
……そうだ。…そいつは…いつみんなと別れたんだ?
俺は今朝、お袋に、昨夜は何時に帰ってきたの…と怒られた。
…ということは、少なくとも…お袋が起きている内には、その『前原圭一』は帰らなかったことになる…。
お祭りは土砂降りでお開きになったはずだ。
……確か、もう一本のシャベルを取りに家の物置に戻ったとき…時計は午後7時くらいだったような気がする。
あの時はもう土砂降りだったから、…少なくとも7時前には祭りは終わっていたはずだ。
そのくらいの時間に家に帰れば、………少なくとも両親と会わないということはないはず。
…少なくとも、昨夜は何時に帰ってきたの、…なんてことにはならないはずだ。
昨日の『前原圭一』は……つまり……、……帰宅してはいないのだ。
つまり、……土砂降りになって、お祭りが終わって、…解散して。
……だけれど、……家には帰ってなくて。
……えっと、…………それって……?
………その先を想像するに至った時、……邪悪な凍えが…背中を急激に冷やしながら…脳まで登ってきた…。
………つまり、……『前原圭一』は………悟史と同じ。
……ある日を境に…帰宅しなかったのだ。
綿流しの夜を境に、…帰宅しなかった。
………土砂降りで中止になり、…その帰る途中で、………忽然と消えてしまった…。
そして………死体を片付けた俺が……するりと帰ってくる。
疲労のせいで空腹感のなかった俺は、そのまま…音もなく階段を登り…自室の布団の中へ……………。
…俺は、…誰だ。
そんなの決まってる。
前原圭一だ。…俺が前原圭一。
もうひとり『前原圭一』がいるからと言って、俺が前原圭一であることが否定されるわけじゃない。
……じゃあ、………もうひとりの『前原圭一』って、………一体、…何……?
じわじわと教室に染みこんで来るセミたちの声が、うるさい…。
ふと、…沙都子の姿が目に入った。
…沙都子の表情は相変わらず暗く、……いつまで続くのか、想像もつかない受難の日々に…すっかり疲れきっている表情だった。
………沙都子にとって昨夜はどんなだったろう。
ひと時とは言え、仲間たちと一緒に楽しく過ごし、わずかでも心を軽くできただろうか?
そして…帰宅。
夢の終わり。
いつ叔父が帰ってくるかと、びくびくしながら眠った夜だったろう。
そして、…朝。
……叔父はとうとう帰ってこなかった。
…そして、登校。
今だってきっと、…帰ったら叔父がいるだろうという…救いようのない不幸な想像に囚われているに違いない。
だが…安心しろ、沙都子。
………その叔父は、もう永遠に帰ってこないのだ。
それを、俺が殺したからと口に出して伝えることはできない。
…叔父が永遠に帰ってこないことを、…沙都子が自ら悟った時、…本当の意味で、長い狂った夜は終わるのだ。
そうさ。
……俺は、間違ったことはしていないのだ。
…沙都子のにーにーとして、してやれる最高のことをした。
そこに後悔など、微塵ほどもない。
それに、ほら…。
冷静に考えてみろよ前原圭一。
…もう一人いたという『前原圭一』も、考えようによっては…好都合じゃないか。
死体は完璧に埋めた。
「起」は訪れない。
……でも、…万が一、何かで発覚し、俺の周囲に捜査の手が伸びた時。
……俺が綿流しのお祭りにいたという『事実』は強力なアリバイになり得るのだ。
……こんな気味が悪いことを、…丸ごと飲み込んでアリバイにするなんて…。
だが、…俺が昨日、お祭りに行かなかったことを立証しても、百害あって一利なし。
………本当に本当に後味が悪いが、……そういうこと。
…忘れるんだろ、前原圭一。
昨日までのことは全部。
……だから、昨日居た『前原圭一』のことも、…忘れろ。
それよりも、沙都子に笑顔が戻る日を、……そっと見守ろう。
狂った、長い長い夜が、…終わる日を。
■生きている?
「それでは今日はこれで終わります。皆さん、寄り道をしないでちゃんとお家へ帰るんですよ。委員長、号令。」
「きりーーーーーーーーーつ、きょーーつけー! 礼。」
「「「さよーーならーーー!!」」」
たくさんのことを考え、…たくさんのことに考えを散らされ。…悩んでいたのかぼーっとしていたのかわからない時間が、号令と共に終わりを告げた。
クラスメートたちが、上機嫌に騒ぎながら荷物をまとめ、廊下へ駆け出していく。
魅音もレナも、梨花ちゃんも荷物をまとめている。
………沙都子は…?
今日一日、…沙都子はずっと生気が抜けたままだった。
いくら昨夜、叔父が帰らなかったとは言え、…まだ叔父が永遠に帰らないことを知っているわけではないのだ。
…その事実を、どれほど口に出して伝えてやりたいことか…。
沙都子は乱雑に筆箱や計算ドリルを鞄に詰め込み、…暗い表情で時計を見上げた後、……深いため息をひとつ。
…教室を後にしようとした。
その肩を、…つい、引きとめてしまう。
「…………………何ですの…? …私、ちゃんと水やり当番もやりましたし、プリントだってちゃんと…、」
……被害妄想に取り憑かれてしまった言葉が、痛々しい…。
俺はみんなに聞こえるように言った。
「なぁ、みんな! あのさ、…今日はその、久しぶりにやらないか? 部活!」
沙都子が叔父の生活の面倒を見なくてはならなくなってから…部活はずっとお休みだった。
……部活こそが、俺たちにとって、平穏な日常の証でもあるのだ。
そんな部活でみんなで楽しく過すことで、…沙都子に、もう暗黒の日々が終わったのだということを悟らせてやりたかった。
「レナは…、…うん。いいよ。」
「……………みー。」
「…そりゃ、まぁ。私は構わないけど。…沙都子がいいならね。」
沙都子がいいならという条件付き。
…もっともな話だ。
……沙都子は自分に全権を委ねられ、困ったような顔をしていた。
「なぁ沙都子、久々にどうだよ! パーッとさ!!」
「…その、……お気持ちはうれしいでございますけど……、」
叔父が、もう帰ってきてるかもしれないから。…口を開かずとも、陰った瞳がそう語っていた。
「沙都子もさ、連日、息が詰まるような生活をずーっと続けててさ、もう窒息寸前だろ? そんなのは心にも体にも悪いだけだぜ! やっぱり、たまにはパーーーーッと弾けなきゃなぁ!!」
「……………放っておいて下さいまし。…私だって、…そりゃ部活がまたやれたらと思っていますわよ…。」
でも……。…と一言残し、俯いてしまう…。
「みんなで遊んだ方が楽しいのは沙都子だってよく知ってるだろ? 俺たちは仲間だぜ? みんなで一緒に過すように出来てるんだよ! 沙都子だって昨日、みんなでお祭りで騒いで楽しかったろ?」
……あ、…とレナが声をかけようとしたが、…ちょっと遅かった。
「……………圭一さん、……何を言ってますの…?」
沙都子が、肩にかけた俺の腕を、重そうに抱え、…放り出す。
「………私がお祭りで楽しく、…いつ遊んだって言うんですの? 楽しく遊んだのは、…圭一さんだけじゃありませんの。」
「…………………え…………、」
助けを求めるように、魅音たちの方を見る。……いつの間にかみんなは俯いていた。
……直感する。
……沙都子は、……お祭りには、行かなかった。
でも、…さっき、レナは言ったよな?
魅音と一緒に沙都子を誘いに家まで行ったって…。
「……………沙都子ちゃん、………途中で帰っちゃったの。…神社には、…行かなかった。」
「…ど、…どうして…!」
沙都子が目の前にいるのに、…とんでもない話をしているのは、わかっていた。
「……叔父が家で待ってるのに、…ひとりだけ遊んでると悪いって言って。……神社の直前で。」
「私たちも、…引き止めたんだよ。今日は叔父さん公認だから、ちゃんと遊んでも怒られないんだよって…。」
沙都子の瞳に…いつの間にか涙が溜まっていた。
……沙都子は、………叔父が怖くて、……仲間たちとの時間にすら心を許すことができず……、……帰ってしまったのだ。
………いや、…仲間たちと楽しい時間に心を許すだけのことすら、………怖かったのだ。
「……圭一さんはいいですわね…。みんなで楽しくお祭り一夜を過せて。……聞けば、大層盛り上がって大活躍だったそうじゃないですの。…お羨ましいことですわ。」
沙都子が自虐的に笑いながら、涙をぼろりと…こぼす。
「………私には、……養わなければならない叔父がいますの。圭一さんみたいに、……ご両親にのんびり養ってもらってる人とは……わけが違いますですのよ……!」
「……………沙都子………。」
「…楽しくお祭りが過せてよかったですわね…! 私の分まで楽しく過せて本当におよろしかったことですこと!! 私だって…部活がしたいですわ!! みんなで楽しく大騒ぎして…楽しくて楽しくて…!!!
でも…今の私、……そんなの…、…そんなのッ!!」
激情に涙を堪えきれなくなり…、…沙都子の頬を涙が何本も伝う。
…だけどこれほどまでに辛い思いをしていても…、辛いという、一言を沙都子は決して吐かなかった。
…その頑固なまでの健気さが……悲しかった。
でも、……沙都子がそんな思いをしなければならない日々はもう終わっているのだ。
もう沙都子は…堪えなくていい、我慢しなくていい!
もう全部忘れて…楽しく笑ってもいいんだ…!
それを直接伝えられないもどかしさが……とても悔しかった。
だから……言った。…言うべきか否か、考える前に口から出た。
「…………帰って来ないんだろ? ………あいつは。」
俺にとっては…深い意味を持つ言葉でも、…それが沙都子に伝わったかどうかはわからなかった。
「……帰ってこないって、…誰がですの…?!」
「…昨夜は帰らなかったんだろ…? ……お前の叔父は。」
「何を言ってますの、圭一さんは…ッ!!」
沙都子が…全身全霊を込めて…叫ぶ。
「あいつがいついなくなったって言うんですの?! いつ! いつ!!!」
「……お、落ち着けよ…。だって…昨日、あいつは…帰ってこなかったろ…?」
「圭一さんが何を言っているのか…全然わかりませんでしてよッ?!」
「さ、沙都子こそ…何を言ってんだよ…?! だって…あの男は…、」
俺が殺した。
昨日殺した。
絶対に殺した。
そして埋めた。
まるごと埋めた。
二度とあの家に戻るはずはないのだ。
「昨日だって…私にいっぱい意地悪して…!! 怒鳴って! わめいて!! 当り散らして!! 作ったご飯を投げられた!! お味噌汁もひっくり返された!! 熱かった! 汚かった!! そしてお掃除も私がした!! 私が!! 私がッ!!!
ふわあぁあぁあぁああぁああん…!! わああぁあああぁあぁん!!」
……え……………?
沙都子の話が…俺とつながらない。
「……あいつ……、……え、………いる………?」
「今朝だって……朝ご飯の時は起こせって言われたから起こしたのに…、…怒られた!! 起こさなかったらまた怒るのに、起こしても怒られた…!! わああぁああぁあぁあああぁあぁあん!!」
「……沙都子…。」
梨花ちゃんが沙都子に寄り添い、慰めの言葉を二言三言、かけていた。
…だが、沙都子はそれを不機嫌そうに拒絶し、梨花ちゃんを突き飛ばす。
「…にーにー!! にーにーー!! 早く帰って来てよぉおぉお……うわぁあああぁあぁあぁぁあんッ!!!」
沙都子は泣きながら…ゆっくりと廊下へ出て行った。少し遅れて梨花ちゃんもそれを追いかけて行く…。
俺は…沙都子が泣きながら言った、いくつかの言葉が耳から離れないでいた。
…沙都子の叔父は、昨夜、葬ったはず。
…でも沙都子はさっき、…今朝も…と言った。
ありえない。
昨夜、葬ったんだから…今朝、沙都子が叔父に会うなんてことは…ありえない…!
……沙都子は……一体、………何を…………。
その時、…魅音の冷たい声が響いた。
「…ねぇ圭ちゃん。…沙都子の叔父さんが帰ってこないって、…何?」
ぎくり。
…感情に任せて…余計なことを、…言い過ぎた…。
「レナも聞いたよ。…沙都子ちゃんの叔父さんが、帰ってこないって言った。」
「どうして? 何で帰ってこないの…?」
「おかしいよねぇ。だって、今朝もちゃんと沙都子ちゃんの叔父さんは居るんだよ? なのに何で帰ってこないなんて言うのかな? かな…?」
「……圭ちゃん、言ってることがさっきから変〜。」
…突然、魅音とレナが…妙に薄気味悪い声で…奇怪なことをしゃべり出す。
何なんだ…こいつら、…突然……? 何を……言い出すんだ……?
「…圭ちゃんは、…沙都子の叔父さんがいると、何か都合が悪いことでもあるわけぇ…?」
「お、……お前らこそ、…何を言ってるんだ…? 沙都子の叔父なんか居ない方がいいに…決まってるだろうが…!」
「うん。
それはもちろん、居ない方がいいよね。よね。…あはははははは。」
…何が何やら…わからない。
……気付けば…魅音もレナも…いつの間にか、見たこともないような、どろりと濁った瞳をして…薄く笑っていた。
…その瞳と目が合った途端に…教室の空気までもがどろりとよどむ…。
「沙都子の叔父は確かに嫌なヤツだよね。私も居なくなった方がいいヤツだと思うよー。でもさ、居るわけだし。仕方ないじゃない…?」
仕方ない…って、……。
…何かがおかしい、明らかにおかしい。
…これは…一体、…何が………。
少し遅れてから……ざらりとした、シャーベットの混じった血液が背筋を登りだす…。
「仕方ないって、…そりゃ…仕方ないけど……!! でも…それじゃ沙都子が…!」
「仕方がなければ、……どうするのかな…?」
…う……。
…………レナが…その先を促そうとする。
仕方がないから、沙都子の叔父を殺した。
…殺したさ、沙都子を守るために。
「……………それは、……………………ん…………。」
「放っておきなよ。その内、解決しちゃうと思うしさ。」
「沙都子ちゃんが、叔父さんが居るって言ってるんだから、居る。ちゃんと昨日も居たし今朝も居る。そうならそうで、いいんじゃないかな。かな。」
…魅音とレナが、信じられないくらいに突き放した言い方をした。
……こんなことを…どう間違えば口走ってしまうんだ…?
魅音もレナも…沙都子が虐められていた日々を真剣に悩んできた仲間だぞ。
…絶対に…こんなことを…口走るわけがない…!!
それに……、…沙都子の叔父は…確かに殺したんだ。
沙都子が言おうとみんなが言おうと…生きていることはありえないし認められない。
居るなんてことは、ありえない。
………ありえない。
…だけど、……沙都子本人が居ると言っている以上、…生きている。
何が何やらわからず…呆然と立ち尽くす俺の両脇に、いつの間にか魅音とレナがいた。
「…帰ろうよ。圭ちゃん。」
「…帰ったらね、今日は久しぶりにレナ、宝探しに行くつもりなんだ。魅ぃちゃんも来るんだよ。」
「圭ちゃんも一緒に行こ。
…もちろん拒否権は、…ないからね。」
声で血を凍らせられるなら。……俺の血は今、間違いなく氷結しかかっていた。
……薄氷の張る、…ぴしっという緊張した音が、全身の節々から聞こえる。
そのまま俺は、…まるで連行されるみたいに、ぴったりと二人に寄り添われたまま、下校することになった…。
二人はいつもの下校の時にするような、他愛のない話に花を咲かせていたが、……終始俺に寄り添い、…まるで逃がさないかのようだった。
………おかしい。
…今日と言う日が、おかしい。
いや、…おかしいと言うなら、昨夜からずっとおかしいのだ。
そう、思い返せば……、沙都子の叔父を殺した直後から…もうおかしかったかもしれない。
鷹野さんとの不気味な出会いは、…その始まりに過ぎなかった。
狂った夜が、…まだ続いている。………そう。続いている。
「……何? どうしたの圭ちゃん、急に立ち止まったりして…。」
「あ、……ごめん。…何でもないよ…。」
立ち止まった時、………遠かったが、確かに聞こえた。
……足音がひとつ、余計に聞こえた。…これこそが証拠。
……狂った夜が、まだまだ続いている証拠…。
魅音とはいつもの場所で別れ、…やがて俺の家の近くまでやって来た。
「…じゃあね、圭一くん。お家で待っててね。レナ、すぐに迎えに行くから。」
ダム現場で宝探しという名の粗大ゴミ漁りに誘われていたっけ…。
でも…なぜ急に。
……魅音が付き合うというのも、なんだかおかしい。
…魅音は宝探しをレナの趣味と認めながらも、ゴミを漁るという行為を嫌って、付き合ったことは一度もなかったはず。
ダム現場という特殊なロケーションも…何だか気味が悪かった。
生活の動線から完全に外れた場所にあるダムの工事現場は……、わざわざ行こうと思わなければ、基本的に誰も来ないへんぴな場所だ。
……ひと気はなく、灯りもないから、夜は暗くなるのが早い。
………そんな場所へ、強制的に俺を誘う。
……レナたちを恐れなければならない理由は何もない。
…それに断って波風を立てても、後々面倒なのでは…。
……そう思えば、宝探しに付き合うのも悪いこととは思えない。
…………だが、……狂った夜がまだ続いているのだ。
さっきから本能が、頭の中の警鐘をガランガランとすごい音で鳴らしているじゃないか…。
レナも魅音も、……おかしい。……警戒すべきだ、…と。
…その警鐘のガランガランがあまりにうるさくて、俺の頭は今にも割れそうだった。
「……あ、…レナ。……俺、…実はちょっと、用事があるんだ。」
「用事? 何の。」
「な、…何のって、……用事だよ。用事。」
「用事なら、何で魅ぃちゃんがいる内に言ってくれなかったの? 魅ぃちゃんとはダム現場で待ち合わせって言って別れちゃった後なのに。」
レナが笑顔ながらも…不快感をあらわにして言う。
「…ご、……ごめん。ちょっとその、……言い出すタイミングを逃しちゃって…。」
「本当に…?」
…嘘でしょ?
今とっさに思いついて言っただけの嘘のくせに。…レナの目が、そう続ける。
「……あ、の、……俺、…頭が痛いんだ。風邪かもしれない。…だから病院に行って薬をもらって来たいんだよ。」
「本当に…?」
……べ、…別に嘘じゃない…。
頭がちょっと痛いような気がするのは…嘘じゃない。
……レナが…いくら俺を凝視したって…頭が本当に痛いか痛くないかなんて…わかるものか……。
「…………………………………なら、……仕方ないね。」
しばらく俺の目を凝視した後、……俺を突き刺していた、針のような目線から解放してくれた。
…全身の緊張が解け、膝を折りそうになる。
「…診療所に行くなら、早く行った方がいいと思うよ。あそこ、たまに早く閉まるから。」
「……ありがとう。…そうするよ。」
「必ず行くんだよ。病院。」
「…い、……行くよ…。」
「本当に行くんだよ。」
「……行く…。」
レナは…病院に行くというのが誘いを断るための嘘であると、とっくに見抜いているかのようだった。
……レナの目の本気さを見ていると……あとで病院に電話して、ちゃんと行ったかどうか、確認さえするかもしれない…。
……いい加減なことを言わない方がいい…。
……元々、病院へ行くという嘘は、レナたちの誘いを断れればよかっただけのこと。……本当に病院に行っても、…構わない。
「…あぁ…ちゃんと行くよ。……何なら明日、病院のレシートを持って行ってもいい…。」
「…あ、それいいね。必ずもらっておいてね。レナ、明日見るから。」
…………ぞぅっとしたものが…改めて背中を登ってくる。
……レナたちが……俺の動向を監視しているとしか…思えない。
こんなのは普通じゃない。絶対に変だ。
…やっぱり……狂っているんだ。
俺は……平穏な日常に戻りたくて…あれだけのことをしたのだ。
なのに、……これじゃあ…何が何やらわからない。
…平穏どころか、……何かが狂ってしまった…おかしな世界になってしまっている。
いつの間にか…『前原圭一』がもう一人いるし…、
薄気味悪い足音は聞こえるし、
…レナたちの様子は奇怪になって……。
……そして何よりも、……あいつが生きている。
………ここはどこだ。
……鹿骨市雛見沢村。…そんなことはわかってる。
…ここは本当に俺の知っている雛見沢なのか。
「………おい、『前原圭一』…ここは、…どこなんだ。」
玄関前で急激に後ろを振り返り……、今日一日、ずっとヒタヒタとついてきたそいつに言ってやった。
……………もちろん、そこに誰がいるわけでもないのだが。
「…………………………………。」
…『前原圭一』か。
…俺は今、…後ろからずっと付いて来るそいつのことを、そう呼んでしまった。
………俺にずっと付きまとって、…俺と入れ替わるタイミングを…ずっとうかがっているかのような、………影のような空気。
足音がずっと付いてくるなんて、……これもありえないこと。
……幽霊じゃあるまいし、…ありえてたまるものか。
おかしいのは、俺の耳か頭か、雛見沢か。
…目に映る光景が、俺のよく知る雛見沢とそっくりな分だけ気分が悪かった。
■診療所へ
…結局、俺は、本当に病院へ行くことにした。
本当は表へなど出たくなかったのだが…、…ひょっとするとレナが、本当に俺が病院に行くか見張っているかもしれないという恐怖感の方が強かった。
でも……診療所に行く前に、…ひとつだけ確かめたいことがあった。
それは…学校だ。
忘れ物か何かを取りに戻ってきた…。
そんな風を装いながら教室へ向かった。
……一度疑ってしまうと、…常に誰かに見張られているような猜疑心に囚われてしまう。
…ただ自分の教室へ行くだけなのに、…そんな風を装わねばならない自分の慎重さが、……とても嫌だった。
誰にも見られていないことを…慎重にもう一度確かめてから……、ロッカーへ向かう。
…そう、悟史のロッカーだ。
……このロッカーの中にあった悟史のバットで、俺は犯行を行なった。
そして…そのバットはあの後、沼に投げ捨てた。
だから、……このロッカーの中に、今バットはないはずなのだ。
……だが、……だが、…もし。
……このロッカーの中に、…バットが入っていたなら……?
…それは理解を超えた…とても恐ろしい想像だったが…、…もしそうならそうで、…いろいろと説明のつくことも多い。
……つまり…もしここにバットがあったなら、……昨日の出来事はつまり…、…全部俺の妄想、…幻。
俺は誰も殺していないし、…祭りにも行った。みんなで楽しく大騒ぎして過した。
つまり…、『前原圭一』は…本当に俺だったという証拠になる。
沙都子の叔父を殺したという強い思い込みがあるという証拠。
……全ては俺自身の妄想だったという、証拠。
…それで全部に説明がつく。
…昨日は何もなかった。
…俺は叔父殺しというショッキングな夢を見て、夢と現実の区別がつかなくなったただの狂人。
…それで全部に、説明がつく。
……バットがあったなら、……俺はその現実を受け入れることができるだろうか…。
あったなら……全ては何も変わっていない。
……あったなら、……ただ俺が…おかしくなっただけ………。
覚悟を決め……ロッカーの扉を開ける。
…ゆっくり開けるのがむしろ怖くて、一気にバン!と、勢いよく開けた。
「……………………………………。」
あの時と同じ、…汗とカビの、干からびた雑巾のような臭いがむわっとあふれ出てくる。
……野球のユニホームや…ノートなどの雑貨。…シューズの入った巾着袋…。
………バットは、
…ない。……俺がバットを取り出した時そのまま。
……間違いなく、昨日という日はあった。
…俺の頭がおかしくなったわけではないことがわかり、胸を撫で下ろす。
……だがそれは同時に…、俺が狂っていないなら……狂っているのは雛見沢の方だ…、というそれもまた受け入れがたい現実の証拠にもなった。
…目に映る光景が、どこかノイズ混じりになって、色彩を微妙に失いかけている。
………昨日の一夜から、一体何がかわってしまったのか。
バットの存在が確認できたなら…これ以上、ここにいる必要はない。
………行くか? 本当に、…病院へ。
病院へ行くのは初めてだが、学校からそう離れてはいないらしい。
お袋に教えてもらった道も、太い通りだけを通るわかりやすいものだった。
いつもの商店街を抜け、……曲がって……。
入江診療所と書かれた看板を見つけるのはそんなに難しくなかった。
冷房の効いた待合室には、お年寄りが1人いるだけだった。
受付に行って保険証を出し、初診であることを告げる。
…受付の男性は時計をちらりと見てから、しばらく待つように言った。
………もう5時近い。
診療の時間はもうすぐ終わりということなんだろう。
………誰からも隔離されたこの見知らぬ待合室で…涼しい空気に身をさらしていると…、本当にほっとできた。
先生に呼ばれたら、何て答えよう。
…風邪です、と言ったところで、俺は健康そのもの。
……むしろ見てもらいたいのは俺の頭の方だ。…俺が、本当に正常かどうか…誰かに認めて欲しかった…。
「前原圭一さーん。診察室へお入りください。」
あれ?
診察室のカーテンの向こうから聞こえた声は…何だか聞き覚えのあるものだった。
「こんにちは。ここでお会いするのは初めてですね。」
「…監督! ……監督って、……お医者さんだったんですか…!」
言われて見れば…、保健室で肩を見てくれた時も妙に手馴れてたし…。
…医者だということなら…何となく納得できる。
そう言えば、学校の先生も監督のことを入江先生なんて呼んでたっけ…。
「一応、お医者さんなんかやっています。
…お医者さんはいいですよーぅ。若いすべすべなお肌を見放題の触り放題〜☆ 怪しいお注射で奴隷にして、私だけの専属メイドに〜〜…☆」
「ありがとうございました。今のを見てただけで風邪が治りました。失礼します。ぺこり。」
「わったったった! 前原さん〜!
冗談、冗談です! さささ、座って診察させて下さい。聴診器を当てますから、前原さんのすべすべのお胸を見せて下さい〜。」
なぜだか…とても安心した。
……あの狂った夜以降、…全てが狂ってしまっていると思っていただけに、監督だけは何も変わらずにいてくれたことが、とてもうれしかった。
「うーん、風邪ではないようですね。…むしろ、全身の擦り傷や切り傷の方が痛々しいくらいです。ひょっとして、半そで半ズボンで藪の中に入って遊びましたか? 切り傷から破傷風菌が入った可能性もないとは言えませんし…。」
昨日の、あの男を追いかける時に、あちこちの梢で体を引っ掻いた。
その傷が、こんなにもあったとは…。
「昨日のお祭りではしゃぎ過ぎましたね。若いというのはいいことです。」
………またしても、俺が祭りに出たことになっている。
「……監督も、……行ったんですよね? …お祭り。」
「えぇ。もちろんですよ。私、こう見えても綿流しの実行委員会の役員ですからね。」
「……俺に、………会いましたか?」
俺の知っている監督と変わらない監督だからこそ…、様子のおかしい仲間たちよりも信頼できると思い、…聞いてみる。
「実は私…、本部テントでずーっと会長さんたちとお酒を飲んでたんで…全然、お祭りは見て回ってないんですよ。前原さんには会ってないと思います。」
「………そうですか。」
「変わった質問をしましたね。アルコールの飲みすぎで昨夜の記憶がありませんか? 未成年なのに、いけない人ですねー。」
監督はからからと笑う。
……その笑い方にも、魅音たちにあったような不自然さはない。
………監督は大丈夫だ。……俺の知っている世界の監督だ。この異常な世界の人間じゃない…。
「………あの、……こんな話、…きっと変だと思うんですけど…。笑わないで聞いてほしいんです。」
「えぇ、どうぞ。二次性徴に入ってのシャイな悩み、大いに歓迎ですよ〜☆」
「………………俺と、……瓜二つな人間がいる、…なんて、…ありえますか?」
監督はまったく予期しなかった問いに、しばし言葉を失っていた。
それから…落ち着いた笑みを浮かべて静かに答えてくれた。
「迷信ですが、…世界には自分とまったく同じ顔をした人があと2人いる、なんて話を聞いたことがありますね。…いるならぜひお会いしてみたいものですが。
あと、おとぎ話にも自分の分身が登場する話がいろいろありますよ。ドイツのおとぎ話に出てくるドッペルのオバケなどは有名です。」
「ドッペルのオバケ?」
「えぇ。自分の姿に瓜二つなんだそうです。不幸の前触れなんだそうで、これに会ってしまうと近い内に死んでしまう…みたいな話らしいですよ。」
…出会うと、……近い内に、死んでしまう。
……あまりに直接的な死という結末に、……背筋が痺れる。
……監督が、怖がらせようとして言ってるのでなく、あくまでも小話として気さくに話しているのが一層、真実味を増して感じられた。
「……そのオバケが、…雛見沢に出る、…なんて話はありますか?」
「ええ?!
………あっはっはっはっはっは! さぁて、どうでしょう。はっはっはっは!」
監督は自分がからかわれたものだと思ったらしく、大仰に笑って見せた。
だけど…、俺がつられて笑わなかったので、次第にその笑いは小さくなっていった。
「………すみません、…その、…ちょっと真面目な話のつもりだったんで。」
「…いえ、…こっちこそ笑ってすみませんでした。……何か気になることでもおありですか?」
………言っていいのか、…最後にもう一度覚悟を決めてから…ゆっくりと口を開いた。
「……俺、……昨日はお祭りに行っていないんです。」
「そうでしたか。……お祭りは来年もあります。その時、また、」
「そうじゃなくてッ!!!…………俺は祭りに行っていないのに、……みんなが言うには…俺は祭りに居たらしいんですよ。…こんなことって…あるんですか?!」
監督は目を白黒させた後、…俺が何を言おうとしているのか、真剣に考え出す。
…そして、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「……お話を整理しますね。…つまり、前原くんは綿流しのお祭りに行ったけど、その記憶がない…ということですか?」
…俺の言いたい意味とは全然違うが、…正常な神経を持つ人なら、そう考えるのも無理ないことだった。
……あの晩、『前原圭一』は実際に祭りにいて、俺は行っていないと主張するなら、……俺に、祭りに行った記憶が欠落していると考えるのは当然だ。
……だが、…それは絶対にありえない。
…あの土砂降りの中での鮮烈な出来事が幻であることは絶対にない。
全身のこの擦り傷がその証拠だし、ロッカーにバットがなかったのだってその証拠だ。
「…いえ、……違うんです監督。…俺は本当に祭りに行っていないんです。」
「気を悪くしないで下さいよ前原さん。…前原さんにはこれまでに、気付いたら見知らぬ場所に居たとか、そういう記憶の欠落を経験されたことがありますか?」
「ないです。それに、記憶を失ったとかそういうのじゃない。…だって、その祭りの時間には…別の用事を確かにやっていましたから。寝てて意識がなかったとか、そういうのじゃありません。」
「……その用事は間違いなく? …大変失礼ですが……、何かの思い込みでなく?」
「間違いありません。完全にはっきりとした記憶、…いや、事実です。」
「…お祭りの時間に、神社にいなくて、よそで別の用事をしていた。…それをはっきりした形で証明できますか?」
「…………………ぅ……。」
そうなのだ。……突き詰めていけば…ここに帰結するのだ。
俺が昨日、祭り会場にいなかったことを証明する唯一の方法。
……それは…自分が間違いなく、叔父を殺害したことを立証することなのだ。
俺が答えに窮しているのを見、…監督の瞳に、少し冷たいものが映った。
……無理もない。…監督にはどう見たって…、…俺が世迷言を口にする頭の変なヤツにしか見えないのだ。
「…………少し、横になりましょうか。心を落ち着けて楽にしましょう。」
「別に横になりに来たわけじゃありません。遠慮します。」
「…少し神経に昂ぶりがあるようです。鎮静剤を注射して、少し目を瞑ってみませんか? それで、」
「俺は異常者じゃないッ!!!」
監督が半ば俺を異常者扱いしていることに気付き、声を荒げてしまう。
「…………気に障ったなら謝ります。ですからどうか、…落ち着いて…。」
「俺は絶対に祭りにはいっていない! それは本当に間違いないんです!!」
「……わかってます。わかってますから、どうか落ち着いて深呼吸を…、」
「あんたは全然わかっていないッ!!!」
監督は度肝を抜かれ…唖然としていた。
「わかっていますよ、前原さん。あなたは昨日はお祭りに来なかった。…そうですよね? 私は信じます。信じますよ…。」
監督がカルテにさらさらっと何かを小さく書く。
……医者がカルテに書くのはドイツ語だ。…患者に意味をわからせないために。
……だが、そこに何と書いたのか、何となく察しは付いていた。
「あの時間に何をしていたか、全部話さないと信じませんか。」
「…………いいえ、信じますから。どうか座って下さい…。」
座る前に…頭を少し後ろに逸らす。
……頭の中の血が…すーっと抜けて、…静かになる。
……ひとつ深く息を吐き出し、…自分が冷静になったことを確認する。
「……俺が祭りの会場にいることはありえない。…なぜなら、…その時間に俺は、……………。」
…言うべきか言わざるべきか…。
…だが、…俺はこれ以上、…こんな気持ち悪いまま過していたくない……。
…そして、……致命的な最後の一言を…吐き出す。
「…沙都子の叔父を、…殺していたからです。」
室内にコンクリートの匂いがする…殺伐とした時間が訪れた。
身動きする者はいない。
…時計の針の音だけが、時間が止まっていないことを教えてくれた。
ぽかん…と口を開けたまま…、監督はしばらくの間、瞬きをすることすら忘れているようだった。
「…あなたが……沙都子ちゃんの、……叔父さんを………?」
………あぁ。…もういいだろ、前原圭一。…躊躇するな。…力強く、…認めろ!
「……はい。俺が、…昨日の夜。殺しました。」
「…………………………………。」
俺はよどみなく、…はっきりとした口調でそう言った。
監督の頭が真っ白になっているのが、よくわかる…。
「……どうして…そんなことを…。……いえ! ………それは、…愚問ですね…。」
「沙都子を救う、もっとも直接的な方法だと考えるに至り実行しました。後悔はわずかもありません。」
「……………そう…ですか。…………ふふ、……………。」
監督は薄っすらと笑いながら…、小さく頷いた。
「…だから俺は、祭りの会場にいるわけがないんです。」
俺は明るい内から外へ出ていた。
そして、穴を掘ったり電話をしたり…忙しく動き回っていた。
…そして、あの男を襲い、…殺し、…埋めた。土砂降りはその頃降ってきた。
祭りは夕方から始まり、土砂降りで中止となった。
…俺の記憶に欠落はない。
夕方から土砂降りになるまで、
俺には“祭り会場に行くような時間はありえない”
「………その体中の傷は、…その時に…?」
「そうです。沙都子の家を少し行ったところに、林道がありますよね? あそこで襲い、…逃げるあいつを追い、…町に至る一本道で殺すに至りました。」
「…………それは、……本当に……?」
その叔父殺しは妄想か幻では?
監督がそれを疑っているのはわかる。
…だから俺は、興奮しないように感情を抑えながら、ゆっくりと告げた。
「本当です。悟史のバットで殴り殺しました。そのバットは、あいつが乗ってきたバイクと一緒に沼に捨てました。死体は、殺した場所に穴を掘り埋めました。…全て、自分がひとりでやりました。」
「沙都子ちゃんの叔父は、バイクで通りかかったんですね…? ではあなたは…それを期待して延々と待ち伏せを…?」
「あいつが家から出ないことは想定していました。…だから、電話で適当な嘘をしゃべって、あいつが出掛けるように仕向けました。」
「電話で呼び出した? でもあなたの家と沙都子ちゃんの家は離れています。電話をしてからではとても待ち伏せに間に合わないのでは?」
「襲撃予定場所からもっとも近い電話として、学校の電話を使いました。」
「でも前原さん。当日は日曜日です。学校には施錠がされていて入れないのでは?」
「偶然、その時、営林署の人が中に出入りしたんです。その隙に入りました。」
……その後も監督は、いくつか事件についての質問を繰り返した。
俺の発言に矛盾がないかを、重箱の隅をつつくように…丹念に探した。
「………………………………………信じましょう。…あなたが昨日したことは、…夢とは思えない。」
実際に、それを行なった者しか説明できないような細やかな情景まで、俺は説明することができた。
……当然だ。…俺が昨日やったことなのだから。
監督は俺の話に…白昼夢や妄想にありがちなご都合主義がないことを悟り、…やっと信じる気になったようだった。
「……これでもまだ、…俺が記憶をなくして、祭り会場に行ったと思いますか…?」
「………………………………。」
監督はゆっくりと首を振った。
「………でも、クラスのみんなが、…昨日、確かに俺が祭りに居たと言います。そんなことが…ありえるでしょうか。」
「あるわけがない…。…きっと、クラスの皆さんはあなたによく似た誰かとあなたを見間違えたのでしょう。それに集団心理が働いて、皆さんはあなたがお祭りにいたと錯覚してしまっているに違いありません。」
…………見違いのわけはない。
…魅音たちは、『前原圭一』と一緒に遊んだと言っているのだ。見間違えるのとは、訳が違う。
だが…、これ以上は何を言っても…監督を煙に巻いてしまうだけだ……。
監督がぼそりと、呟くように言った。
「…罪の意識は、…あるんですか?」
責めるような言い方ではなかった。
…責めるような言い方であっても、俺はきっぱりとこう言うのだ。
「ありません。…あいつのいなかった平穏な時間を取り戻すために行ないました。だから、俺はあいつを殺したことなんかさっさと忘れて、これまで通りに生活するつもりです。あいつが現れる前、沙都子がいつも見せてくれたあの笑顔が戻った時、…ようやく全ては終わります。」
「………………………犯行を誰かに目撃されたということは…?」
「ないと思います。…目撃されてれば、もうとっくに逮捕されてるでしょうから。」
「……………私は医者です。人の命を救う職にあります。…だから私から、人間の命を奪うことを肯定とする旨の発言はできません。………だから、私はあなたにこう言います。」
監督は…すっと立ち上がると、…俺の肩に手をかけた。
「…沙都子ちゃんを、………救ってくれて、ありがとう。」
…監督の目に…熱い涙がじわっと浮いていた。
……それを見て、……俺にも…熱いものが込み上げてきてしまう………。
「…………ぅぅ………………ぅ……………!」
何の為に流した涙なのか…わからなかった。
……男が二人して、…しばらくの間、涙を堪え合った………。
「………でも、……おかしいんです。」
「おかしいとは…?」
「確かに殺したはずなのに、………あの男は、……生きて家に帰ったらしんです。」
監督の顔が急に険しくなる。
「……状況にもよりますが、気絶や仮死状態など、素人が見ると死んだようにしか見えない状態もいくつかあります。その可能性は?」
「脈を取ったわけではありませんが…、確実に仕留めたと思います。」
「……前原さんが襲った時の状況を再現してもらってもいいですか?」
監督は近くにあった健康週間のポスターを丸め、バットの代わりとして俺に渡した。
…あの夜、獣の感情に身を委ねていたとは言え、俺は振り下ろしたバットの数も角度も力の加減も、全てつぶさに覚えてた。
それをひとつひとつ、監督をあの男に見立てて、再現していく…。
「そして、あいつが足を取られてよろめいた時、…脳天にこう、叩きつけました。その時、これまでとは違った手応えがありました。…頭蓋骨が割れたんだ、と思いました。」
……監督は打撃部位と、状況から、あの男がどういう状態だったのかを冷静に分析しようとしていた。
「そして、死んだかどうか自信が持てなかったので、倒れた後も何度か殴りつけました。」
「その時の反応は?」
「始めは殴るたびに体が跳ねるような感じがありましたが、やがてそれもなくなり、何の反応もなくなりました。」
「………………………んん…。」
監督は腕組みをしながら何度もうなる。……そして、言った。
「………死んでいます。ほぼ間違いなく。」
「それは仮死状態ではなく…?」
「…前原さんの話からだけではなかなか判断が付きませんが、ほぼ確実だと思います。
……それに前原さんは、死体を泥の中に埋め、結構な時間をかけて埋めていますよね? 仮に、30分で埋めたとして。…その男は30分間も泥水に沈められていたことになります。…それだけの時間、呼吸が止められたら確実に脳死します。」
「……殴った強さ以前に、埋める過程で確実に絶命したと…?」
「そういうことです。30分間、泥に埋められていて生きていられる人などありえません。」
「……………ありえない、…ですよね。でも! 沙都子は…生きてると…!!」
医者である監督が、絶対に死んだはず…と太鼓判を押すからこそ…。…あの男がまだ生きているという理不尽が納得できない…。
「…前原さん。……これは…とても恐ろしい想像なのですが。……前原さんが殺した相手が…叔父でなく、別人である可能性は…?」
「………えッ?!」
…確かに……その推理は……、確かに殺した、だけど生きているという矛盾を埋めうるものだった。
「そんなはずはない…!! だってほら、監督と一緒に沙都子の家の前で酒瓶の袋を運んだ時、窓から顔を出した男がいたじゃないですか! あいつですよね?! 沙都子の叔父は!」
「…………えぇ。間違いありませんよ。あの男です。」
「…実はもうひとり叔父がいる、なんてことは?!」
「聞いたことがありません。あの男だけです。」
「あいつの特徴を…教えてもらえますか?」
「…えぇと…、まず身長がですね。…175…もう少しあるかもしれません。」
他人を殺したという、最悪の可能性を否定するために、俺は監督の知る叔父の特徴と俺の殺したあの男の特徴を徹底的に比べてみた。
だが…、いくら比べても、特徴にすれ違いはない。
…監督の言う、叔父の特徴はまちがいなく俺の殺した男と一致する。
だが、それらの特徴は非常に曖昧で、…ひと目で識別できるよどの絶対的なものではなかった。
「…もっとこう…絶対にあいつだと識別できる特徴はありませんか?」
「………そう言えば…、私は見たことありませんが…。
沙都子ちゃんが昔、背中に虎だか何だかの刺青がある…なんて言っていたような気がします。」
「刺青……ッ?!」
…これは……とても重要だ。
…刺青なんて誰でも入れてるもんじゃない。
……あの男の死体の背中に虎の刺青があるのを見つけられれば…確かにヤツを殺したという証拠になる。
この時、…実はこの事実を確かめるのにもうひとつの方法があった。
それは…沙都子の家へ行き、…死んだはずなのに帰ってきている叔父本人と直接面会する方法だった。
………だが、……それは、もう一度死体を掘り返し、その背中を見ることよりもはるかに恐ろしいことだった…。
刺青など見るまでもなく、……俺が殺したのは間違いなく、あの、沙都子の叔父なのだ。
…確かに頭を叩き割って殺した。
…にも関わらず、…帰ってきている。
……沙都子の叔父を殺した事実には一片の曇りも、また誤解もない。なのに…。
ありえないはずの、存在。
……それはどこか、ありえないはずなのに、祭り会場にいた『前原圭一』に似ていた。
…そのささやかな共通が、…狂った雛見沢を包む異様な力をおぼろげに感じさせる…。
「……………一体、…どういうことなのでしょう。…前原さんはお祭りには行かず、沙都子ちゃんの叔父さんを殺していたにも関わらず。……お祭りにはあなたがいて、そして殺したはずの叔父さんも生きている……。」
「………何が何だか、…さっぱりわからないです。……そうやって整理して言うと、…まるで俺が悪い夢を見ていて、……実は殺人なんて存在しなかったんではないかと思えてしまう。……でも、…事実なんです。この手で、バットで、ガツンガツンと殴ったあの感触は…絶対に夢や幻なんかじゃないんです…!」
監督は、ふー…っと深く息を吐き出すと、時計を見てから立ち上がった。
「…ちょっとこの話、…もう少し真剣にやりましょう。ちょっと失礼して、紅茶でも入れてきてあげます。……診療所も終わりの時間ですからね。事務の方とかも帰してあげないと。」
監督は立ち上がり、廊下へ出て行った。
…俺だけが残される。
時計は、もうすぐ6時を指そうとしていた。
………祭り会場に俺が居て、…殺したはずの叔父が生きていて。
本当に…俺は…昨日、殺人を犯したのだろうか…?
ロッカーにバットがなかったという、それだけの事実だけが、…昨日の殺人の存在をか弱く教えてくれていた…。
…それにしても、………監督が、こんな突拍子もない話をちゃんと聞いてくれてよかった。
殺人の告白をしたのだ。
……普通なら、驚き後退る。
…でも監督は逃げず、俺と一緒に涙を流してくれた。…うれしかった。
……緊張が、ふーっと解けてくると、さっきまでは全然気にならなかった尿意が催してきた。
…監督が用で席を外している間に、お手洗いは借りるとしよう。
確か、待合室の向こうにお手洗いがあったはず…。
診療室から出ようとした時、…向こうの廊下の影にいる監督と2人ほどの白衣を着た男の先生の姿が見えた。
…別に会話の内容に耳を傾ける気はなかったが、…その不穏な内容に気付き、ぎょっとする。
……壁に身を隠し……様子をそっとうかがった…。
監督が2人の先生に何か指示をしているようだった。
「紅茶ですね。用意します。」
「イソミタールかラボナールを混入。味はミルクと砂糖で誤魔化してください。」
「急激な眠気に、不信感を抱く可能性もあります。興奮状態に陥って暴れ出す可能性も…。」
「その場合は取り押さえましょう。男性スタッフはまだ何人か残ってますか?」
「山狗が1人。それに私たちを含めて3人です。」
……何の、……話だ……?!
俺は…今、監督に言われるまでもなく、神経が高ぶっていると思う。
…だから…何気ない会話が…とてつもない会話に聞こえてしまうのか?!
監督は紅茶を持って来ると行って席を外した。
そして、……その物陰で、紅茶に何か眠り薬のようなものを混ぜるよう、指示している??
しかも……俺がその結果の急激な眠気を不審に思い、暴れ出した時のために…男手を集めている?!
……おいおい前原圭一…!!
落ち着け落ち着け…!! こんな馬鹿なことが…あってたまるか!!
たった今まで、…監督は俺の話に…素直に耳を傾けて…、共に涙を分かち合ってくれたんだぞ?!
そんな…この雛見沢での唯一の理解者だと思ってた…監督が…?
こんな…馬鹿な……こんな、……馬鹿な…!!
「作話か虚言の兆候があり、特に昨日の記憶が完全に混乱。虚実の区別の喪失。多重人格等の精神障害に酷似しています。……でも、こんな急激な精神障害の発症は…普通では考えられません…。あるいは、先天的もしくは引越し前からそういう兆候があったのか。…引越し前に精神科に通院例がないか調べたいところです。………とにかく前原さんには穏便にお休みいただきます。」
2人の医師が大きく頷く。
「…前原くんのご両親にも連絡しておいた方がよいですね。……何と言えばいいか、言葉が思いつきませんが…。………彼の自宅の電話番号を調べて下さい。」
……俺の、まだ濡れた瞳から…再び、…涙がこぼれた。
なんて………ひどい………!
俺のことを…真剣に…理解し、話を聞いてくれていたと…本当に思っていたのに……!
なのに…壁を一枚隔てただけで…俺のことを……頭がおかしいかのように…、ああもずけずけと…!!
信じてた……信じてた!!
あの狂った夜以降、…唯一の味方だと思って……心を許そうとしたのに……!!
嘘だったのか?!
さっき…沙都子のためにありがとうと言ったのは…、俺を刺激しないため、話を合わせるためだけに言った…虚言だったのか?!
……ぅうううぅううぅうぅう…ッ!!!
ぼろぼろと…悔しさで…涙がこぼれる………!
…馬鹿だった…! 馬鹿だった…!! あんなヤツ信用して…馬鹿だった…!!
そこへバタバタと足音。
…ノーネクタイでワイシャツの男が駆けて来た。
「入江先生…! 大変です…!! 鷹野さんが…見つかりました!」
「鷹野さんが? 一体どこに…。」
「そ、…それが……! 岐阜の山中で焼死体で発見されたらしく…、」
「死んだ?! 鷹野さんが…ですか!!」
男たちが驚愕し、互いの顔を見合わせている。
……死んだ…? 鷹野さんが……?
…………おいおい、……じゃあ何だよ、…昨夜、あれだけ死んでしまえと願った俺の呪いは、ちゃんとかなったわけかよ…!
「焼死とは一体どういうことですか。それは事故ですか?」
「…岐阜県警の発表では、他殺の可能性が極めて高いと…。」
……くっくっく、…あっはっはっは…。
…俺は涙をこぼしながら、…声を殺して、笑った。
…ざまぁみろ……ざまぁみろ…!
あの女さえ出くわさなければ俺の殺人は完璧だった。
にも関わらずのこのこと現れて、…俺を威圧するかのように振舞いやがった。
……あの場で殺し損ねたことを後悔もしたが……、こうして、あいつは死んだ。
死ねと願った俺の呪いが成就されたのだ…!! ざまぁみろ…! ざまぁみろ!!
「…リサさんが死に、鷹野さんが死に。…一体、雛見沢には何が起こっているというんですか…。…まさか、…これが今年のオヤシロさまの祟りだ、なんて言うんじゃないでしょうね…!」
監督が…祟りなんて実在してたまるか…!! と誰にともなく凄むが、誰も相槌は打てず俯くだけだった…。
くっくっくっく…!!
そうさ、オヤシロさまじゃないかもしれないが、これは間違いなく祟りさ、呪いさ…!
俺が死ねと願った。だから死んだ!!
……もしこれが、偶然の一致でなく、…俺が望んだから死んだのなら。
……次はお前が死ね、監督ッ!!
お前は…俺を裏切った。
上辺だけは俺に合わせておきながら、心の奥底では異常者扱いしていたのだ…!!
俺のことを憐れむような目で見て、……見下したッ!!
「では、取り合えず紅茶の準備を。…紅茶は私が持って入ります。私以外には彼は心を許さないようですからね。」
くそ…くそ…くそッ!!! どうする! どうする前原圭一!!
今度はそこへ看護婦の声が響いてきた。
「入江先生〜。あーいらっしゃいましたか。お電話です。」
「今、ちょっと忙しいので後で掛け直すと伝えてください。…誰からです?」
「興宮警察の大石さまですけど。」
「あ、………ちゃー…悪いタイミングですね。………出ます出ます。」
監督は電話に出るためにその場を去って行った。
他の男たちも、監督に命じられた紅茶の準備をするために湯沸し室へ向かって行った。
…監督に電話が入ってくれたお陰で、幸運にも、俺に行動を起こせるラグタイムが発生した。
今、ここで何かの行動を決断しなければ……、俺は睡眠薬入りの紅茶を飲まされるか…取り押さえられて精神病院に放り込まれるかのどっちかだ!!
ここで乱闘をしても何の得にもならない。
…人数も相手の方が上だし、みんな俺よりも大柄だ。取っ組み合いになったら万に一つの勝ち目もない。
…戦って勝てないなら…残る手はただひとつ。逃げること…。
脳内に急激にアドレナリンが充満し、体が…あの夜のように鋭利に動くようになる。
体表面の温度が急激に冷却され、全細胞への伝達経路が拡幅する。
360度の視覚情報から撤退経路を検索。
……後方の窓ガラスは開く。
窓の外は駐車場。駐車場は無人。
…その少し先には俺が乗ってきた自転車がある。
…そこからの逃亡が最短と判断。
気取られないよう、気配を殺しながら、でも迅速に窓に近付く。
あの夜、叔父を追った時のような、影のような音無き素早さで。
…カギを開け、窓を開けた。
……そこからは夕方独特の涼しい風が入ってくる…。
顔を出し、改めて駐車場を見渡す。……人影はない。躊躇の必要なし。
そっと表に這い出し、窓を元のように閉める。
……息を殺し、耳を澄ませる。
…俺が逃げ出したことに誰も気づいた様子はない……。
周りを見渡す。
そして、…自分の自転車を飛び乗り、……あとは全速力だった。
ガチャガチャとペダルを踏み込む。
俺の自転車はこんなにも軋んでいたっけ? こんなにもペダルを踏み込むたびに鳴いたっけ?
……泣いているのは自転車だけでなく、俺自身もだった。
風に切られ、…涙が、ぽろぽろとこぼれる。風に乗ってぱらぱらと後ろへ散る。
ぅうううぅぅうう…ッ!!
………悔しい…、悔しい…!!
俺がおかしいんじゃない…、おかしいのは雛見沢の方なんだ…!!
それを…よくも異常者扱いしてくれたな…!! 死ね! 死ね!! お前なんか死んでしまえー!!!
信じていたのに、信じていたのに…ッ!!! うわあああぁああぁぁああぁぁぁああぁあッ!!
■死体を調べよう
……レナたちの誘いを断るために行ったはずの病院だったが…、…待ち受けていた現実は…あまりに残酷だった。
…狂っているのは、俺か雛見沢か。それとも…何なのか。
息が、切れそうになる。
…もう…何が何だか…わからなかった。
カナカナと合唱するうるさいひぐらしたち。
……あぁ、…俺の知っている雛見沢のひぐらしもこういう風に鳴いただろうか…?
どこか違う。
ここのひぐらしは鳴いてるんじゃない。
…泣いてるんだ。
何かの拍子に、……裏側の世界に迷いこみ、…元の陽の当たる世界に帰ることもかなわなくなった者たちの、…悲痛な叫び。
俺は……こんな世界に来たくて…あれだけのことをしたんじゃない…!!
本当なら…きっと、…今頃、…みんなで楽しく過せていたかもしれない…!!
叔父がもう二度と帰って来ないことを悟った沙都子が笑顔を取り戻し…久しぶりの部活に、あの飛び切りの笑顔を見せてくれていたかもしれないのだ。
そんな世界が…俺の望みだったのに…!
それが……どうして?!
どうして…こんな…不気味で奇妙な世界に?!
殺したはずの人間が当り前のように生活し、…いないはずの俺が当り前のように祭りで遊びまわる。
……こんな異常な世界、……絶対に嫌だ!!!
いつから狂ったんだ?! いつから! いつから!!!
いくら考えても……それは絶対にわからなかった。
自転車をすっ飛ばし……、家の前まで戻ってきた。
途中から雨が降り出し、昨日に引き続き俺をびしょ濡れにした。
…だが、そんなことは大して気にならなかった。
……唯一信頼していた監督の非情な仕打ちによる心の痛みの方が、…ずっと勝っていた。
もう、この雛見沢に俺の味方はいないのだろうか…。
せめて…両親だけは味方であってほしいという甘え心が、玄関へ足を運ぼうとする…。
待て…圭一。
……もうじき暗くなるが、……調べておきたいことが、あるだろ…。
そう。……あの男の死体を掘り出し、……背中を…見ておきたい。
虎の刺青があれば、それは間違いなく沙都子の叔父なのだ。
……それを確認しない限り、…俺の長い夜は…終わらない…。
この狂った世界が、…全て俺への代償、天罰なら。……その代償に見合うだけのことを俺が本当に成し遂げたのかどうか、…確かめなければならない。
物置から…再びあのシャベルを取り出す。
……雨で洗ったとは言え、塗装があちこち剥がれたその姿は醜い。
……もう一生触れたくないと思っていたのに。
その手触りは、あの夜とはまったく違い、…冷酷な冷たさを宿らせていた。
…そうだ。…もうじき暗くなるから…あのランタンもいる……。
あそこは街路灯の灯りが少しは届くとは言え…、とても暗くなってしまう場所。
「……………………………………あ、」
ランタンが置いてあるはずの場所に、何も置かれていないことを確認した時。
…電気的に思い出す。
………そうだ。
…あの夜、…俺はランタンを持ち帰っていない。
あの死体を埋めた場所に置き去りだ。
…急いで取りに行かなければ暗くなってしまう。
そうしたら、死体を埋めた場所は愚か、ランタン自体も見つけられなくなってしまう。
そうなったら…お手上げだ。
「………急ごう。」
自転車の前カゴにシャベルを積むためには、シャベルをねじって分解しなくてはならない。
だが、……接合部に土が詰まってしまったらしく、どう頑張っても…分解できそうにない。
…しばらく奮闘し、分解できないことを悟ると、……俺はそれを片手で持って、片手運転で自転車に乗ることにする。
全身を濡らす土砂降りに、…片手に持ったシャベル。そして片手運転の自転車。
………まるで、……あの夜に、もう一度戻ったかのようだった。
……いや、戻ったんじゃない。……あの夜が、…まだ続いているのだ。
叩きつける雨粒に痛さは、……あの夜と何も変わらない。
変わったのは、…………雛見沢。…この世界だけだ。
ただでさえ雨雲で暗く、さらに時間的にも陽は落ちようとしている。
どんどん暗くなって行くのが、目に見えてわかった。
町へつながる一本道。……その、途中。
…………確か、……死体を埋めたのは……。………そうだ。……あの街路灯の近くだ……。
あの夜も、…土砂降りで街路灯の傘から滝のように水をこぼしていた…。
あの夜とまったく同じ土砂降りの光景が、皮肉にも容易に記憶を蘇らせる。
自転車を草むらに乗り捨て、すでに泥だらけとなった森の中に踏み入った。
……どこに、……埋めただろう。……思い出せ…。
暗さも、影も、水も、泥も。
…あの時のままなのだ。
…思い出せ………!
その時、…苔むした倒木の脇に置いたランタンを見つけた。
…そうだ、ここに置いておいたのだった。
ここにランタンを置いたなら……確か、……埋めたのは……この辺りだ。
視覚よりも、ぬかるみに立つ足の感触の方が、よく場所を覚えているようだった。
シャベルをざくっと地面に突き刺す。
……ん、…硬い。…ここじゃない。
………一度埋めた場所なんだから、もっと柔らかい手応えのはずだ。
いろいろな場所にシャベルを突き立て、…いろいろと手応えを探ってみた…。
その内、……………ぐぐーっと、…明らかに深い手応えの箇所を見つける。
…ランタンの場所や、覚えている木などの位置関係を思い出し……ここに間違いないことを確信する…。
………この下に、………あの男の死体が眠っている。
その背中には……間違いなく、虎の刺青があるはずなのだ。
……だが、…もしも、刺青がなかったなら。
……俺は、…とんでもない思い違いをして、……無関係な人間を殺してしまったことになる。
……無関係な人を巻き込んでしまったことを後悔するよりも、……沙都子の叔父を殺せていなかったという事実に、…俺は呆然とするだろう…。
この狂った世界が、俺が犯した人殺しという罪に対する罰ならば。
……俺は沙都子の叔父を殺せていない限り受け入れることなどできない。
その時は……俺は何も恐れずに…もう一度、沙都子の叔父を襲う。
…そして今度こそ確実に……殺す。
だが、もし…………刺青があったなら?
…………俺は確かに沙都子の叔父を殺せていることになるのだ。
だが…それはひどく滑稽なことだった。
…間違いなく殺せているなら、…沙都子の家に今この瞬間にいるという『叔父』は何者…?
……………ありえない。
…もうこの、ありえないという言葉を何に対して使っているのか、自分でもよくわからなくなっていた。
俺は今日、幾度このありえないという言葉を使ってきただろう。
……もし、ありえないという言葉がたった一度しか許されないなら、…俺は何に対してありえないと言う…?
………そんなのは決まっていた。
「……こんなおかしな世界が……ありえてたまるかよ……ッ!!」
そう叫んで、後ろを振り返る。…もちろんそこには誰もいない。
……もう、気にしないようにしているが、………足音は今日一日、ずっと付いてきていた。
さっきだって、俺よりひとつ余計に足音を、ぱしゃっと鳴らしてみせた。
現にいないし、気配だってない。
…だけど、…そこにはいるのだ。
「……………あんたは誰だ。……俺がこっちの世界に来てから、ずっと付いてくるな。」
そうだ。
思い返せば、……この足音を初めて聞いたのが、鷹野さんと別れたあの夜の最後。
………この足音こそが、…この裏返った奇妙な世界の、出迎えだったのだ。
「……………………………………………。」
いないものはいない。
返事などあるわけもない。
………そいつはただ、そこでじっと俺を見ているだけなのだ。………不気味ではなかったが、不快だった。
……そうしてしばらく虚空を睨みつけ、全身に雨を浴びている内に、理不尽な怒りは醒めていった…。
緊張が解け…疲労感が首をもたげようとしている。
……この感覚はあの夜にも味わった。
…脳内の緊張物質が分解する時にできる急激な疲労感。
視力が急激に低下し、辺りが急激に暗くなって行くかのような錯覚を味わう。
……この感覚に身を任せてしまうと…まずい。
わずかに残った脳内の起爆剤にもう一度火を付け、全身を鞭打つ。
体力を使いきってしまう前に…あの男を掘り返さなくては。……背中の刺青を確認しなくては…………。
いつの間にか粗くなっていた呼吸をぐっと飲み込み、落ち着ける。
……そして、柔らかな泥だらけの地面に、再びシャベルを突き立てた。
あの夜と何もかわらない手応え。
……この、砂浜に穴を掘り、波の度に水に埋まってしまうような感覚。
………今日は何日だろう。
綿流しの当日の夜に…逆戻りしているのではないか…。
……奇怪な考えが次々に浮かんでは、俺を苛んだ。
…疲労感を持ってしても、それらはねじ伏せられそうにはなかった。
多少は穴が深くなった頃、……とうとう完全に明るさを失い、俺の視界は漆黒に包まれた。
……時間的にも、完全に日没した頃だろう。
あの夜は、最悪の可能性を恐れ、結局、ほとんど灯りを付けずにこなした。
……神経も張り詰めていたから、あの暗闇でも、何とか見ることができた。
……だが、…今の俺にはそんな力は残っていない。
…昨夜で完全燃焼した俺には、この暗闇は致命的だ…。
……ランタンをつけよう。…目盛り1でつければ、小さい灯りになる。
その程度でも灯りがあれば充分だし、…この雨の中なら、遠くからはわからないだろう…。
冷え切ったランタンを掴み、カチカチとダイヤルをひねり、一番小さな灯りになるようにセットしてから、……電源を入れた。
薄気味悪い…影絵の世界が一面に広がった。
……木立や枯れ木の枝が複雑に絡み合って作る、…複雑奇怪な影絵の世界。
灯りを付けただけだと言うのに……まるで、…それだけで別の世界になってしまったかのような錯覚がした。
……ふーっと疲れた息を吐き、額の汗とも雨ともつかない水を拭ってから…俺はもう一度シャベルを振り上げ、…泥の中に打ち込んだ。
その時。…………俺を取り囲む影絵が、…ぞわりと一斉に、全て動いた…。
「………………………ぇ………………………、」
頭の中に…ざらざらとした熱いとも冷たいともつかないものがぎっしり詰まり、…ざわざわと駆け巡る。
影絵たちは俺をぐるりと取り囲み……、見下ろしていた。
その中の、一際大柄な影絵が……一歩踏み出した。
「………………こんばんは。…………んっふっふっふ、月の綺麗な晩ですねぇ。」
脳内のざらざらが、全部脊髄を通り抜けて…腰から出て行ってしまう。
……体中の力が、腰から脱力し……俺は自らが掘った泥の海の中に、…どしゃ、っと…しゃがみ込んだ……。
「………………お、…………大石………………。」
「……目上の人には、その後に“さん”も付けるとなおよろしいかと思いますよ。…そうでないと、大人になってからいろいろと苦労します。……んっふっふっふ…!」
大石だけでなく、雨ガッパを着た男たちが…ずらりと…5〜6人は居た。
これだけの大勢が近付いてきた気配なんて…感じなかった。
まるで…ランタンを付けたら、…その影から現れたように……ぬぅっと……。
「……どうぞ、私たちのことは気にしないで下さい。森の木立だとでも思って。」
……………………………気にするな……だと………?
「そうです。私たちのことは気にされず、どうぞ穴掘りをお続けになって下さい。」
「…………ぅ…………………………。」
「こんな時間にこんな土砂降りの中で。そんなにも真剣にやっているんですからね。邪魔なんかしませんよ? 心行くまで掘っちゃってください。……んっふっふっふ。」
遠慮します……。
そう言い、立ち上がって踵を返そうとした時、その進路を2人の男が塞ぐ。
……俺の両脇をがっちりと押さえ、すごい力で俺をそのまま持ち上げると、…泥の海の中に放り込んだ。
俺は…自らの掘った泥の海に腰まで浸かりながら……、俺を見下ろす影絵たちを見上げる…。
大石は屈みこみ、俺のシャベルを拾い上げると、それを俺の足元に投げて寄越した。
……どぶんと泥が跳ねて、顔にかかる。
「……ほら。…続きをどうぞ。続きを。」
取り囲む影絵たちの威圧感に負け…、…俺はのろのろと、再びシャベルを泥中に突き刺す。
……それはまるで、…自らの墓穴を掘らされるような心境だった。
このまま掘れば……刺青の有無に関係なく、…やがてあの男の死体が現れる。
………もう、……終わりだ。…致命的な八方塞。
だが…、…いくら考えてもわからない。
……どうして…こいつはこんなところに。
……………………鷹野さんか…?
この場所と俺を結び付けられるのは…あの女しかいない。
………くそ………、…やはり……死んで当然の女だった…!!
「……手が休んでますよぅ?」
「…ぅわッ…!!」
ガシ! ……大石に背中を蹴倒され、不意を突かれた俺は泥の中に転ぶ…。
「………ちゃっちゃと掘っちゃってくださいよ。雨の中で待たされる方の身にもなってほしいもんです。」
「……………くそ………。そんなに雨が嫌なら…帰ればいいだろう…。……ぷわッ!」
大石が泥を足で跳ね、俺の顔にかける。
「……口より先に手を動かしてください。口と手を一緒に動かすのは風俗の人だけ。……ねぇ?」
……周りの男たちは、笑うべきものなのか測りかね、無反応を装っていたが、…大石が睨みつけると、…ハハ…ハハ…と苦しそうに笑って見せた。
……この男は…一体何者なんだろう……。
俺は、あの夜を境に世界が変わってしまったと思っていたが……。
もっともっと思い起こせば…、…この男が現れた時からじゃないか。…俺たちの平穏な時間が失われたのは。
…こいつが雛見沢に現れてから…、……おかしくなった。
…みんなから笑顔がなくなり、……世界が狂い出して行った…。
「…………………はぁ………、……はぁ…………ん、……。」
次第に地面に突き刺す手応えは固く、重くなって行く。
……この頃になると、……自分でも少し妙だと思うようになっていた。
………俺はあの夜、…こんなにも深くは掘っていないはずだ……。
疲労も限界まで来て…、…俺はその場にしゃがみ込んだ。
「……いつまで、………掘ればいいんだよ……………。」
「…最近の若い人は体力がありませんねぇ。………おい。」
大石が合図すると、男たちがぎらりと、禍々しいシャベルを一斉に引き抜いた。
呆然とする俺の襟首をひとりが掴み、穴から引きずり出すとその場に放り出す。
残りの男たちは俺が掘った泥穴へ降り、次々とシャベルを突き立て始めた…。
…呆然としゃがみ込む俺の前に、大石がゆっくりとやって来て、…目線が合うように屈みこんできた。
「……前原圭一さん。あなたの趣味は雨の夜の穴掘りですかな?」
「…………………………………。」
答えずにいると、大石は泥水を掻い出すのに使っていたブリキのバケツのひとつを取り、泥水を汲んで……思い切りの力で俺の顔にぶっ掛けた。
「………げほ……げほッ、………げほ……!!」
「……今日は大雨ですから。これ以上、いくら濡れても全然わかりませんねー。」
大石はそう笑いながら、もう一度バケツに泥水を汲む。
「……もう一回聞きますよ。あなたの趣味は雨の夜の穴掘りですかな?」
「…………そんな趣味のやつ、…いるもんか。」
ドバンッ!!
大石は再び泥水を俺の顔に叩きつける。…混じった小石が痛かった。
「あの穴を掘ると、何が出てくるんですかな? 私、花咲か爺さんのここ掘れワンワンってのが、昔から憧れでしてねぇ。」
そう言いながら、大石は再びバケツに泥水を汲む。………俺に、またぶっ掛けるために。
「…あそこにどんな宝物が埋まってるんですかねぇ。私にちょっとだけでも教えてくれませんか。……んっふっふっふっふ…!」
………知りたければ……勝手に掘ればいい。……この、…豚野郎が…!!
口に出して言ったつもりはなかったが、…大石は容赦なく、再び泥水を浴びせかける。
…くそ……くそ……くそ…!!
お前さえ…現れなければ世界は狂いださなかったんだ…!!
お前が…俺の前に現れてからおかしくなった。
沙都子は叔父に虐められ、…俺が殺しをすることになって、…そして世界がおかしくなって…。
全てはこいつが始まり。…元凶…!
再び泥水が浴びせられる。
……腹は怒りで煮え繰り返っていた。
……死ね、……お前も……死ね!!
俺に、鷹野さんを呪い殺せる妖力があるのなら……お前は死ね!!
これはオヤシロさまでない、俺の祟りだ。…お前を祟り殺してやる…ッ!!!
「反抗的な目つきですねぇ。これを期に少しその辺りをお勉強してしまいましょうか? 今は平和な時代ですがね。私があなたくらいだった頃は、何でも鉄拳制裁が普通でして、」
「……大石さん。」
穴を掘っていた雨ガッパの男のひとりが、汗を拭う仕草をしながら大石を呼んだ。
大石はバケツをぞんざいに放り出すと、気色悪い笑顔を浮かべて振り返った。
「…はいはい、何でしょうか。」
「これを見てください………。」
…………………。……観念というか、諦観というか。
……やっと見つけやがったか、のろま共が…という、悪態をつきたい気分だった。
そうさ、……俺がそいつを殺した。
……そいつが誰なのか、調べるのはあんたら警察の仕事だろ…?
そして、沙都子の叔父であることを証明してくれよ………。
「…何ですか、こりゃ。」
「多分、古い排水管ではないかと。……あそこの用水路につながっているようです。」
「……ぶっ壊しちゃいましょうか。どうせ使ってない管でしょ?」
男たちは顔を見合わせてから…おずおずと切り出す。
「大石さん…。もうかなり手応えが固いです。これより深くってことは、ありえないと思います。」
「…掘る場所を間違えました?」
「……いえ、…始めの内は明らかに掘り返す感触でした。ですが、この位を掘った頃から急に固くなりまして。……多分、元々掘った穴よりも、深く掘り進んだのだと思います。」
「………じゃあ、…つまりなんですか。ここには穴があって、何もなくただそのまま埋め直された、と。…皆さん、そう仰るわけで?」
…………………………え…? ……どういう…ことだ…………?
「なっはっはっはっはっはっは…。こりゃあ…まいったなぁ。ねぇ? 前原さん?」
大石が俺の襟首を掴み、がっぽりと掘られた穴のところまで連れて来る…。
中は泥の海になっていて、排水管などまったく見えなかった。
男のひとりがシャベルでその中をかき混ぜ、ガンガンと固いものにぶつかる音を聞かせてくれた。
……俺がここに埋めたのは、絶対に間違いない。
だけど、あの時はこんなにも深くは掘らなかった。
…排水管がむき出しになるような深さには絶対掘らなかった。
…じゃあ、…………じゃあ、…………あの男の、……死体は…どこへ………。
俺があの夜、…確かに成し遂げたという一番の証が、…………ない。…ない。ない。
じゃあ……俺は、…………一体、何を…。
……本当に俺は頭がおかしくなっていて……人を殺したという妄想に取り付かれていただけなのか…?
そんなはずはない。…絶対にあれは現実だった。幻であるわけがない。
でも現に………、…それを幻でないと立証してくれる…最大の証拠が、…ないのだ。
殺した。埋めた。
…そこまでは…絶対に揺ぎ無い自信を持てる。
…では………殺しきれていなかった………?
俺がここから去った後、…息を吹き返し、……ここから這い出て…沙都子の家へ戻ったとでも言うのかよ……。
…………刺青があるか、ないか。
…それを確かめに来たつもりだった。……なのに、…掘り出された現実は……それをはるかに越えたものだった。
俺は…昨日………何を。
殺した。埋めた!! 絶対に…!!
だけど…なぜか生きてて、ここを這い出た!!
それは…またしても……ありえないこと!!
あぁ、もういい加減にこのありえないことってヤツにも慣れてきた…。わかったよわかったよ…!
この雛見沢じゃ死者は大人しくしてないってわけだ。
……それなら……何度だって殺してやるよ…。
沙都子の前に二度と現れられないよう…何度だって殺してやる…!!
大石たちはごにょごにょと話し合っていた。…やがて、話が終わり、大石がこっちへやってくる。
………大石は俺に何と言うつもりだろう。…あるいは何をするつもりなのか。
…身を硬くして緊張していると……、…なんと大石は、俺の姿など目に映らないかのように無視し、その脇を通り抜けて行った。
男たちも、それにぞろぞろとついて行く。…俺を無視して。
やがて……人の気配はまったくなくなり、……再び、静寂な影絵の世界に戻った。
取り残されたのは、俺一人。
……土砂降りの音だけが、沈黙を埋めていた…。
■幕間 TIPS入手
■タイトル: 照会要請
興宮警察署 指令センター通信記録
6月20日20時8分
「こちら興宮SP、感度良好でーす。」
「あー、車両ナンバー照会をお願いします。XX、XのXXXX。」
「復唱、XX、XのXXXX。少々お時間もらいますがよろしいですかー?」
「お願いします。」
ナンバー照会
XX XーXXXX
所有者 XXXX
(鹿骨市雛見沢村X丁目XXX番地在住)
車種: XXXXXXX
盗難届け:無
特記事項:特に無し
「興宮SPより大石車どうぞー。先ほどのナンバーが判明しましたー。……………………大石車どうぞー? ……………………………大石車、応答願います。………………あれ? …………電波、悪いのかな…………………。……大石車応答ねが………………。」
「出ませんね。」
「大石さんが車両照会? 誰の車だよ。」
「村人の車ですね。……至って平凡な。」
「…何者だよ。大石さんが聞いてくるからには、只者じゃないんだろ?」
「特記事項欄は完全に空欄ですね。S号指定もなし。減点もなしだし。」
「…ははは、パッシングでもされて腹が立ったんじゃないの? あの人、根に持つとなかなか忘れないタイプなんだよ。」
■タイトル: 恨み帳?
くさいと言われた。
ご飯がくさいと言われた。
くさいのは私がくさいからだと言われた。
くさいのはお風呂に入ってないからだと言われた。
お前はくさい人間だから、毎日3回お風呂に入れと言われた。
1回のお風呂も、いっぱいいっぱい入らなければならないと言われた。
きっとこいつも何かに乗り移られている。
だってこれは、死んだあの男が言っていたのと同じこと。
あの男が言ったことを、どうしてこいつが知っているのか。
それは決まってる。
あの男に乗り移っていたものと同じものが、こいつにも乗り移っているからだ。
私の家の前に、突然の地震で大きな裂け目でもできないだろうか。
できたならきっと、あいつはそれを覗き込むに違いない。
そうしたら、あとはドンと突き落とすのみ。
そのチャンスが訪れるまで、私は負けたりなんかしない。
負けるもんか泣くもんか。
負けるもんか泣くもんか。
あぁ、また誰かが謝りだす…。
■13日目(火)
■圭一の自室での早朝
死体は、…出なかった。
そのお陰で、警察に捕まらずに済んだのだが……、…それを喜んでいいのかわからない。
………沙都子の言うとおり、…俺は、…叔父を殺すのに、失敗しているのだ。
…ここに死体がない以上、どのような天変地異や偶然・奇跡を含めたって、そう結論せざるを得ない。
……………俺は、…沙都子を自由にしたくて、鬼になった。
そして、その報いとして、この異常な世界、……そう、例えるなら、鬼の世界に落ちた。
だが、その代償は、沙都子の叔父の命と引き換えでなら、だ。
……沙都子の叔父がまだ生きていて、沙都子を束縛している以上、……俺は再び鬼にならねばならないのだ。
………もう一度。
…いや、何度であろうとも。……沙都子が解放されるまで、俺はあの男を殺し続ける。
……目が覚めてしまった。
…時計を見ると、ようやく午前の5時になろうかという早朝だ。外はもう白んでいた。
鬼になる決意を、もう一度固めた時。…再び全身に覚醒した力が充満するのを感じた。
時間の問題じゃない。……やろう。
全身を起こす。
…この二日間の疲労感は完全に払拭され、眠気すら感じなくなっていた。
ゆっくりと立ち上がり、全身が思い通りに動くことを確かめる。
指の一本一本にまで血が通うのが実感できる。
………着替えながら、ぼうっと思考を遊ばせていた時、……不思議な想像をした。
俺はこの二日間、…沙都子のためと言いながら、ずっと人殺しのことだけを考えてきた。
沙都子のためと言いながら、…その行為において沙都子のことを、一時とは言え、完全に忘れていた。
…きっかけは沙都子のため、だったかもしれない。
でも、今の俺は……殺すために殺そうとしているだけの、鬼だ。その結果、鬼に相応しい世界に堕ちた。
…悟史も、…そうだったのだろうか。
沙都子を救うために叔母殺しを決意し、…鬼となり、……陽の当たる雛見沢から消え、鬼の世界に堕ちたから…消えた。
………結局、俺は悟史と同じ末路を辿ったわけだ。
…同じ轍を踏まないつもりが、結局は同じ。
……だとすると、…………ここには、悟史がいることになる。
俺よりも一年も早く訪れた悟史が、…この世界のどこかにいるのだ。
その時、…俺ははっとして、…足を止めた。
…もう聞きなれた、ひとつ余計な足音。
「…………………お前、……ひょっとして、……悟史なのか……?」
気配すらない虚空が、何の返事をするはずもない。
…だが、俺には…そこに気配があって、…ずっと悟史が俺と一緒に居てくれたような、奇妙な安心感を覚えるのだった。
……行こう悟史。
…もう一度、行こう。
……今度こそ、俺たちの手で沙都子を解放するために。
両親に気取られないように…そっと家を抜け出す。
ここ数日、夜遊びの過ぎる俺を捕まえれば、相当口やかましく説教をするだろう。……今はそんなことに許す時間が惜しかった。
今日こそ、…終止符を打つ。
殺した死体が消えるというなら、埋めなどせず、焼いて灰にしてもいいし、…蘇る度に殺せるよう、俺が死体を持っていてもいい。
もう一度やろう。…もう一度殺そう。…今度こそ解放しよう。
表は……信じられないくらいに美しい朝の光に溢れていた……。
■沙都子の家へ
物置から…今度こそ完璧に殺せる凶器を探し出す。
……露骨な凶器で構わない。
誰かに目撃されるとか、警察が来るとか、そういうことは今は気にしなくていい。
どうせここは狂った世界なんだ。
俺が居なくても、勝手に俺が現れて祭りで遊んでいる世界。
……俺が警察に逮捕されたって、当り前のようにもうひとりの俺が帰宅するだろう。
………そのもうひとりの俺もまた『前原圭一』
俺がいなくなったって、そいつが代わってくれる。
…俺が雛見沢から消えたって、誰も気が付かない。
……だからつまり、…俺は刺し違えてもいいのだ。
俺が死んでも、『前原圭一』は残る。
……どうせ、…ここは俺がいるべき世界じゃない。…沙都子のために、刺し違えられるなら、それもまたにーにーの勤めさ。
…そんなヤケクソな考えに開き直ると、…何だか朝の空気が清々しくなったから不思議だった。
「……これは…コワイな。…こいつにするか。」
それは…ぶっとい薪を叩き割るのに使う鉈だった。
…肉厚の鋼の刃は禍々しくて、まるで人を殺すのに使うのが正しい用法かのようだ。
そのまま…というのもさすがによくないので、古新聞で簡単に包み、それを自転車の前カゴに放り込む。
「…連日、悪い用事に使ってばかりで悪いな。…今日も頼むぜ、俺の足。」
何となく、自転車に謝ってみた。
…この三日間、物騒な用事にしか使っていない。
こいつは、前の町に住んでた時からずっと乗っている自転車だ。
大抵の行きたい場所には歩いていけたから、そんなに使っていたわけじゃない。
塾に入った時、…駅が遠かったのでお袋が駅まで行くのに使うと便利だろうと買ってくれたものだ。…なので、こいつにまたがるのは塾に通う時と決まっていた。
この前カゴにだって、参考書などの教材を突っ込んだことしかない。
……どう間違ったって、人を殺すための鉈を入れた試しなどない。
……この雛見沢に来て、俺はやっと生きていて楽しいと感じられるようになった。
最高の仲間たちと出会い、最高の時間を過ごした。
……その時間は、…砕け散ってしまったわけだけど…。
……命を賭してでも、それを取り戻したいと強く願った。
……そう強く願うに値する、最高の時間だった。
俺は、人を殺した。
…そしてまた、人を殺すべく表に繰り出している。
殺人は罪だ。
…肯定される殺人なんて、多分あってはいけない。
でも、…それでも。……俺はその罪を犯すに充分な、楽しい時間をもらえた。
掛け替えのない仲間たちとの楽しい時間。
…みんなではしゃぎ、笑い、時には騙しあい、だけどいつまでも仲良し。
その楽しくて心が豊かになるあの時間を取り戻すためなら、俺はどんな罪も恐れない。
そう。それは俺自身が決めた価値観。
……学校の先生に習った授業の内容じゃない。
……俺自身が、自ら選び取った…高潔な道なのだ。
雛見沢に来てからの日々が蘇る。
いきなり初日に、石の入った黒板消しを見舞ってくれた沙都子。
…あの歓迎には、本当に度肝を抜かれた。
笑ったり怒ったり泣いたりと退屈しないヤツだった。
…どう考えても一番ガキみたいなヤツなのに、実は生活力が旺盛でお節介を焼くのが得意という賑やかなヤツ。
魅音にしたって、レナにしたって梨花ちゃんにしたって。みんな沙都子を中心に笑ったりおちょくったりしてるじゃないか。
沙都子が粋がって見せて。
それを魅音におちょくられて、追い詰められて。
それで泣いて、レナは狂喜。
梨花ちゃんはご満悦。
…で、俺にはとばっちり。
…俺たちって、いつもそんな風にして騒いでた。
…誰が欠けたって寂しいけれど、もしも敢えて誰か一人の名を出すなら、…それはきっと沙都子になる。
……あいつの笑顔はみんなの笑顔だったんだ。
あいつが笑わなくなったから、俺たちからも笑顔がなくなった。
俺たちから笑顔がなくなるということは…、死んでいるのと同じことだ。
…黙々と塾へ通い、煮詰まった偏差値を維持するだけの日々とそんなに変わらない。
つまり……早い話が、あいつが笑ってなきゃ、俺たちは駄目ってことなんだ。
あいつは態度はでかいけど、可愛らしくて憎めない俺たちのお姫さまだった。
…じゃあ、そんなあいつの笑顔を取り戻すために竜の城を目指す俺は、さしずめナイトさまってわけだ。
「……ナイトなら武器は剣だろ。ツーハンデッドのカッコイイやつ! …錆びた肉厚の鉈で挑むナイトは…、多分、古今東西、俺ひとりだな。」
その時、畑のあぜで老人が手を振っていた。
「…おんやぁ! 圭一くんかい! 朝のサイクリングかぃね!」
「おはよぅございまーす!!」
反射的に爽やかに手を振ってしまった。
……こんな晴れ晴れとした気持ちで手を振って、…本当にいいのかよ俺…。
この田んぼの道を抜けると、沙都子の家はもうすぐそこだった。
■沙都子の家
セミたちも目を覚ましたらしく、…気付けばいつもの日中のセミの合唱になっていた。
…頭をパンパンと叩き、……浮かれた朝の気分を、追い出す。
ふーっと深く息を吐き出し、……頭を後ろへ逸らして…無駄な興奮を鎮める…。
………死体は、…なかった。
なかったということは、…俺が殺人を犯したのが幻なのか、殺したけど蘇ったのかのどちらかしかない。
…祭りに俺がいたなら、…幻だったと考えるのが妥当かもしれない。
……監督も恐らく、そう考えて、俺を異常者扱いしたのだろう。
……だが、幻だったことだけは、…ありえない。
間違いなく、殺したのだ。……間違いなく。
あれが幻だったなら、…俺が今いるこの雛見沢だって幻ということになる。
…そうならオチはこうだ。
…実は俺は交通事故に遭った植物人間で、病院のベッドで、こんな田舎でこんな仲間たちと過せたら最高だな…と夢を見続けている。……恐ろしい想像だが。
…幻でないなら、…あとは蘇ったとしか考えられない。……それは文字通りの怪物だ。
だが……そっちが蘇る怪物なら、…俺だって怪物だ。
…人を殺すことに躊躇がなく、しかも……祟りまで使える。
鷹野さんが死んだのは、きっと俺の呪いのせいだ。
………これはちょっと行き過ぎか。
…昨日呪った、監督と大石も死んだなら信じることにしよう。
自転車を置き、…様子を伺う。
あいつのバイクはなかった。
……ないのは当然だ。…あの晩、鬼ヶ淵の沼に放り込んで鬼の国に送りつけたのだから。
………それとも、
…死体がなかったように、…バイクもまた、沼に放り込まれてないことになっているのだろうか…?
ここにバイクがないのは、…俺が沼に捨てたからじゃなくて、あいつが町に出掛けてまだ帰ってこないだけのことかもしれない。
……叔父がいないならいないで、それもまた好都合だった。
…それなら、のんびりと上がらせてもらって、あいつが戻ってくるまで鉈でも砥いでいればいい。
…もしも、……いるなら。
………………腹の底から、忘れかけていた感覚。
…緊張感が込み上げてくる。
……この感情は行動を緩慢にする毒だが、…自らを超越する超人的な覚醒をする時の起爆剤にもなる。
新聞で包んだままの鉈を持つ。
……ずっしりとした手応えは禍々しくもあり、頼もしくもある。
……時計は付けてこなかったので時間はわからないが…多分、まだ朝の7時より早い。
沙都子は起きてて、朝食と弁当の準備をしているだろう。
……だが、叔父はきっとまだ惰眠を貪っている。
あんなヤツはどうせ、夜は深酒を食らって夜更かしして、昼まで眠っているようなヤツに違いないのだ。
……呼び鈴を鳴らし、沙都子に扉を開けてもらおうかとも思ったが、…呼び鈴の音で叔父が起きたら、せっかくの寝込みを襲うチャンスがもったいない。
俺が、呼び鈴も鳴らさずにそっと入ってくるのを見たら…沙都子は驚くだろう。
……沙都子に会ったら、……何て言おう。
お前のために叔父を殺すから静かにしていろ。
……これじゃ駄目だな。
…まるでコロシの責任を沙都子に押し付けてるみたいだ。
……黙って外で待っててくれ。
…これがいいか。
沙都子は…どういう反応を示すだろう。
……恐らく、…殺すなと、俺を思い止まらせようとするだろう。
…………何か嘘をついて、表に出てもらう方がいい。
……この家で殺人が起こることを、沙都子は知らない方がいいのだ。
…どんな嘘にするか、ちょっと思いつかなかったが…いつまでもこうしていても仕方がない。
意を決し、……ドアノブに手を掛けた…。
ぐ、っと……ねじる。…それから……引く。
………カギはかかってない。
……そのまま、扉の隙間はどんどん広がっていく。……チェーンも掛かっていなかった。
沙都子の家の生活の匂いがむわっと押し寄せてくる。
……玄関には、…何足かの靴やサンダルが散らばっていた。
…靴を見ただけでは、不在かどうかはわからない。
……どこかからテレビの音が聞こえる。
テレビは…散らかった食堂にあった。
……食卓の上には散らかった食事があり、……団欒とは程遠い食事風景を想像させた。
…食事ってのは、作ってくれた人に感謝しながら食べるものだ。
……だとしたら、この食堂で行なわれた食事は、食事じゃない。
人影はない。
…気配もない。……だがテレビが付いている以上、…すぐ近くにいるはず。
…まさか、俺が来ることを予見して、息を潜めて待ち受けているのだろうか…?
……張り詰めた緊張感が、ピンと張って切れそうなくらいに痛い。
鉈の分厚い刃は、新聞紙で包んでいても威力に何の問題もない。
……俺は新聞紙で包んだそれを握り締め、用心深く辺りを伺った…。
この家にやってくるまでの、あののどかな感情はどこへ行ってしまったのか。
……自らの額に汗の湧く、じゅっと言う音すら…騒がしい…。
その時、……食卓を見て気付く。
…これは朝食ではないのだ。ご飯粒がカリカリに乾燥している。
……では、…昨夜の夕食…?
油断なく食堂を出て……廊下伝いに進み、2階へ上がる階段を見つける。
…あの男は仲間と遊んでいる時、2階の窓から顔を覗かせた。
…あの部屋が自室で、そこで寝ている可能性が高い。
階段の縁につま先を立て、……音を立てないように…そっと、そっと…登る。
……いびきのようなものは聞こえない。
…気配は、なしだ。
いくつかの部屋をそっと回り、……ふすまを…そろりと開き、中をうかがうが…。……やはり人影を見つけることはできなかった。
さらに気配を探るため、…床にへばりつき、耳をぴったりと押し当てた。
……聞こえるのは、……食堂のテレビの音と、……湯沸かし器か何かのうなる低い音だけ。
…この頃になると、…俺の中に何かの不審感が芽生え始めていた。
この家は…おかしい。
テレビがついていたりして生活の気配はあるが…、…この早朝に、無人だというのはおかしい。
俺は階段を音もなく降り、…再び食堂に入った。
散らかった食事を見る。
…………干からびたご飯粒。
ぶちまけられた味噌汁。
スーパーで買ったお惣菜の包み。
……間違いなく、沙都子が作ったものだとわかった。
…魅音のような完璧さも、レナのようなやさしさとは程遠いが、……真心のこもった、食事。
……俺の家に来て作ってもらった食事の傾向から、…おかずの品目や数から、……この食事は昨夜のものだと推測する。
惣菜の包みに打たれたナンバリングの数字は、830620。
…1983年、6月20日。…昨日を指すものだ。
そして、食事は二人分。
………つまり、…これは昨日の夕食で、その時、この場に沙都子と叔父が居たことを示している。
……やめろ圭一。
…もう“ありえない”と言ったり考えたりするのはやめるんだ…。
とにかく…叔父は昨夜、ここに居た。…それだけが事実。
そして沙都子の食事に難癖を付け、…味噌汁の器を投げつけ、食事を散らかした。
……………冷静なはずの感情の奥に、……畜生という呟きと怒りの火種が灯る。
…………あの男に…一抹の情けもかける必要があるものか…。
…ゴゥン。……ンンンンンンンン………
ずっと聞こえていた湯沸かし器みたいな音が、再び耳に付いた。………何の音なのか。
……1階か…。…………どこから。
…………風呂場、………か……?
その音は脱衣室の奥の曇りガラスの中から聞こえた。
…風呂の湯沸かし器の音に違いない。
……ガラス戸の中にはもうもうと湯気が立ちこめ、…蒸すような熱さがこの脱衣室内にも漏れ出していた。
……ますます、疑惑が深まる。
……こんな早朝に風呂に入るのは、あまり一般的じゃない。
そう、言うなれば…。
………この家は、……昨夜のある瞬間から、…時間が止まってしまっている。
シュンシュンシュンシュン……。
追い焚きにしたままになっているのだろうか。
…浴室内の湯沸かし器はずーっと可動音を響かせていた。
脱衣カゴを見ると、……見慣れた沙都子の制服が、ぐしゃっと詰められていた。
制服は汚いシミやご飯粒がこびり付き、…とても今日着ていける状態にない。
……昨日、食卓で味噌汁を投げつけられたからだろう。
…………曇りガラスにいくら目をこらしても、もうもうと湯気で煙る浴室内をうかがうことはできない。
………その時、…脳裏に電気が走り、…嫌な悪寒に襲われた。
まさか、…………………ッ!!!
この中に“昨夜からずっといる”なんて馬鹿なこと、ありえるわけがない…!!
…あぁでもッ! 今の雛見沢には…ありえないことなんてないんだ…!!
ごくりと唾を飲み込んでから、……そっとガラス戸を横に引く。
…わずかに開いた隙間から、高温の蒸気のような湯気がぶわっとあふれ出した。……換気扇を回さない脱衣室内はあっという間に湯気で真っ白になってしまう。
…脱衣室に熱い蒸気があふれ出したように、…逆に浴室内には涼しい風が流れ込んだ。
……その風を受けて、……今、か細く、……うめきが聞こえた………。
…そのうめきだけで、……それが誰だかわかった。
「……さ、……沙都子おおっぉぉッ!!」
「………………………………。」
返事はなかった。
沙都子はもうもうと湯煙を上げる浴槽の中にいた。
……そして上半身を浴槽の縁から乗り出すようにして、……倒れていた。
湯沸かし器はシュンシュンと怒ったような音をたて続けている。
…ガスの火を確認する小窓の中には真っ青なガスの炎が全開に燃え盛っている。
沙都子の全身は……真っ赤に茹で上がり、……体中の骨が抜けてしまったかのように、…全身を弛緩させ、…まるで…人形のように、クタっと…横たわっていた。
異常な光景に我を忘れて何秒が経過したのか。
……すぐに我に返り、湯沸かし器を止めた。
それから…沙都子の小さな体を浴槽から引き出す。
浴槽のお湯は…まるで風呂屋の湯船のような熱さ。
……こんな熱湯に、…一晩も浸かっていたのか…ッ?! 死んじまうぞ……死んでしまうぞ…ッ!!
沙都子の、想像以上に軽い体を脱衣室の床に横たえ、バスタオルを掛けてやった。
浴室に再び入り、通気の窓を開けると風の通り道が出来て、とても涼しい風が通り抜けた。
…その風を受けて…沙都子がもう一度うめいた…。
「大丈夫か沙都子!! 俺だ、圭一だ! わかるか?! 聞こえるか?!」
「……………け………いちさ、……………ひ…………へ……、」
沙都子は俺の姿を認め、弱々しく応えたが…。何を言っているのかよくわからない。
目はどろりとして焦点が合わず、意識がはっきりしていないのがわかる。
…よく見れば…手足や腰が小刻みに痙攣していた。
……もうこれは…ただののぼせとはわけが違う…。
熱中症とかそういう、かなり危険な状態…!!
…体育のマラソンなんかで…女子が夏場に倒れたりすると…先生はどんな風に対応してたっけ…!!
洗面台の蛇口を全開にひねり、タオルを水に浸す。
…冷たいおしぼりを作り、それを沙都子の額に乗せた。
……沙都子はその冷たさに敏感に反応し、くぐもった声を漏らした。
火傷の時は…そうだ、流水で患部をじっと冷やすよな…。
じゃあ…シャワーで冷水をかけたら全身を冷ますことができるだろうか?!
………いや、…そういうのを急激にやると…心臓がびっくりしてショック状態になる…なんて何かで読んだような…。
………ぁあぁ…ぁぁ…、……もう、…俺にできる介抱はこれが限界なのだ。
…これ以上は…素人の俺には…無理…!!
「……………大丈夫か、沙都子…。もう、大丈夫だからな。…必ず俺が、…にーにーが助けてやるからな…。」
「…………………ごせんさんじゅうきゅー…。……ごせん、ごほ!……よんじゅー……はぁ…………はあ…………!」
…??
沙都子は…何をぶつぶつと唱えている?
沙都子が呪文のように続けるその謎の言葉をよく聞き取ろうと、その口元に耳を近づけた。………その瞬間、…その呪いの言葉の意味がわかる…!
「沙都子…お前、……数を数えてるのか?! …なんで…ッ!!」
…よく、小さい子供をお風呂に入れる時、…百数えたら出ていいよ…なんてやるじゃないか……。
……沙都子は、…その数を数えていたのだ。
…だが、……五千三十九ッ?!
「ば、………馬鹿野郎ッ!! お前の家の風呂は…いくつ数える決まりになってんだよッ!!」
「………………………まん………。」
……耳を疑い、…沙都子の常識を疑う。…い、一万だってッ?!
「ふ、ふざけるな馬鹿野郎ッ!! 一万なんて数えられる馬鹿がどこにいるんだよッ!! 数えられるわけねえだろ?! その前に茹って死んじまうに決まってんだろ?! どうしてこんなことに…ッ!!!」
「…………………、……叔父……まが………。」
昨夜、沙都子の作った食事を、…叔父は臭くて食べられないと言って激怒した。
沙都子には何のことかさっぱりわからない。
いつもと同じ食事だったはずだ。
…あるいは買ってきた漬物の臭いが特に嫌いだったのかもしれない…。
叔父は、臭いの根源は沙都子の体臭にあり、風呂に毎日朝昼晩入らないから臭うのだとわめいた。
そして…沙都子を煮えたぎる浴槽に沈め、一万を数えるまで出るなと、
「うごおおおおおぉおおぉおお!!! 殺してやらああぁああああぁあぁぁぁぁあぁッ!!! ぐおおおおぉおおぉおおおおぉおぉおおおおおぉおおおおおおぉおぉおおおおおぉおっぉおぉぉおッ!!」
そこで俺の感情は途切れ、爆発した。
新聞紙を包んだままの鉈を振り上げ、全ての部屋へ踊りこんだ。
…ヤツの痕跡、気配、匂い、振動、心拍音を全て探った。
雄たけびを上げながら階段を踏み抜かんばかりの勢いで駆け上がる。
…そして叔父の部屋と思われる部屋の布団を見つけ、…誰も眠っていないことを承知で、そこへ鉈を叩き込んだ。
押入れに逃げ込んだかッ?!
押入れのふすまごと鉈でぶち破る!!
ここにいないなら……隠し扉でもあるのか?! どれかの壁に仕掛けでもあるのか?!
壁を次々と鉈で殴りつけ、打ち壊していく。
…埃が立ちこめ、打ち砕いた破片が床一面に散らばった。
ガラス窓も全て叩き割ってやった。
「うおおぉおおおおおおぉおぉおおおぉおおッ!!!………はぁ、……はぁ、……はぁ…! …………………………はぁ……。」
叔父の部屋を…完膚無きまでに破壊しつくしたところで、…ようやく俺の理性が、感情の掌握に成功する…。
とにかく…叔父は今、この家にいない。
…叔父を殺すのはひとまず後回し…。今は…沙都子を何とかする方が先だ…!!
脱衣室に戻る。
…沙都子はぐったりしたままだ。
………これ以上、素人の俺が見ていてもどうにもならない。………診療所に、…連れて行くべきだ。
………監督は、……昨日、俺を異常者扱いして、…精神病院に閉じ込めようとした。
……もう二度と監督の顔など見たくないと思ったが、……それでも…診療所にもう一度行かなくてはならない…。
……沙都子を医者に見せなければ……。
脱衣カゴに入った汚れた制服を着せてやろうと思ったが、……人に服を着せた経験のない俺には、それはかなり難しいものだった。
…くそ、……こんなことでもたもたしている場合じゃないってのに…!
結局、服を着せることは諦め、バスタオルで包んだ沙都子を背負っていくことにした。
沙都子の家から診療所は近い。
119で救急車を呼ぶより、背負っていった方がはるかに早い。
一番大きそうなバスタオルを羽織らせ、立つように促す。
「……立てるか…。俺が診療所まで負ぶって行ってやるから。」
「………………………………ありがとう…ですわ……。」
さっきよりも言葉ははっきりしていた。
……意識が戻り始めているのだ。
わずかでも快方に向かっていることがわかり、安堵の涙がこぼれた。
沙都子は寝返ってうつ伏せになり、…膝を立てようと…弱々しく奮闘していた。
それをひょいと担ぎ上げ、背中に背負う。……羽織らせたバスタオルが落ちそうになっていた。
「………バスタオル………痛い………。」
「すぐ着くから、…しばらくの間だけ我慢してろ…!」
沙都子の軽すぎる体を背負うのは何の苦痛もなかった。…その軽さがむしろ…俺を不安にさせる。
表はまるで沙都子を追い討つかのように、暑さを増していた…。
セミ共め…、…どうして今朝に限って、こんなに暑くしちまったんだ……。
今は悪態なんかつく暇はない。………診療所は…こっちだ。
俺は沙都子を背負い、小走りに駆け出した…。
■アイキャッチ
■診療所
診療所へ続く、いつもは気にならない坂道が、小意地悪く俺を責め立てる。
額には大粒の汗が浮き、いつしか息も絶え絶えになっていた。
ベルトに挟んだ鉈が重くて、邪魔で歩きづらい。
……捨てようかとも考えたが、…沙都子の叔父をまだ葬っていない以上、…まだ手放すわけには行かないのだ。
入江診療所の看板が見えてきた。
……だが、普段と違う様子にすぐ気付き、足を止める。
診療所には赤い回転灯がいくつも瞬いていた。
……駐車場に3台くらいのパトカーが止まっていて、回転灯を回していたのだ。
…それは紛れもなく、何かの異常事態を知らせるものだった。
……監督に会いたくなかったので、診療所の待合室に沙都子を置いて、受付の人に言伝を頼んだら逃げるつもりだった。
……だが、…あの大石の警察まで来ているのでは、うかつに中に入ることはできない。
「……………………なんですの………。…パトカーが…いっぱいいますですわよ…。」
沙都子を茂みの木陰にそっと横たえる。
「わからない。…様子を見てくるから、しばらくここにいろ。」
「……………レディーを…バスタオル一枚でこんなとこにおいてくなんて……なってませんわね………。」
「それだけ悪態がつけりゃ大丈夫だ。」
すぐ戻ると付け加え、立ち上がる。
俺は用心深く周囲をうかがいながら、車の陰に隠れて、診療所の入口に群がっている警官たちに近付いた…。
警官たちのリーダー格のようなネクタイの男と白衣の医師がやり取りをしているのが聞こえた。
医師は…監督ではないようだった。
………昨日、監督が紅茶を入れるよう話していた内のひとりだ。
「じゃあつまり、最初に見つけたのは朝当番のあなただったと。それで? どんな感じだったんです?」
「事務室の所長席のソファーに座って、居眠りをしているように見えました。」
「で、机の上に水差しと空き瓶になった睡眠薬があったんで、あなたはすぐに睡眠薬で自殺したんだと考えたと。それで?」
「高熱と失禁に重度の意識障害も見られました。睡眠薬中毒の典型的な重症例だと思いましたので、ただちに対応に入りました。」
「警察も救急も呼ばずに?」
「ここは病院で私は医師ですよ! 生命が危険な状態にあるなら、直ちに治療して当然です!」
「…あぁあぁ、まぁいいからいいから…。それで?」
「呼吸が不正常だったので人工呼吸を施しました。合わせて呼吸刺激薬を投与。効果が出なかったので人工呼吸器の準備をし…、」
「…あーはいはい。それでつまり、いろいろ頑張ったけど、結局ダメだったと。そういうわけですよね。通報は死んでから直ちに?」
「はい。………救うことができず、…とても残念です。」
その時、パトカーの無線機がザーザーと鳴り、割れた機械的な声が聞こえてきた。
『こちら本部こちら本部。小宮山さん、聞こえますかどーぞー…。』
「もしもし! 小宮山です。お疲れさまです! 睡眠薬での自殺みたいですね。遺書の類はなし。」
……自殺…? 一体、…何の話だ…?
誰かが、診療所内で自殺したらしい。
……誰か? ………………………。
俺が死ねと望んだら、その翌日に鷹野さんは死んだ。
………そして俺は、監督に死ねと昨日願った。
………なら、………………ひょっとして……。
「普段から睡眠薬を愛用していたとかは?」
「……あまり知りません。」
「日頃、疲れたとか死にたいとか、そんなこと言ってました?」
「入江先生は普段から…あぁいう性格でしたから。…とても、…そんな風には…。」
………やはり、……そうだ。
…入江先生、……監督のことだ。
監督が、自殺。
…………あの人が、どうして。
…死ぬ理由があったなんて考えられない。
……………俺が、死ねと呪った以外には、理由なんて思いつかない。
……ここは…狂ってる世界なんだ。
……俺が死ねと望めば……人が死ぬ、…そういう世界なんだ…。
…なら、……大石は?
あの男はどうなったんだ…?
もしも…本当に俺の意思で死んだなら…あの男だって、どうにかなっているはず…。
『そちらに応援が向かいました。課長から、そちらは応援に任せて大石車の捜索に戻れとのことです。』
「了解しました! ……じゃあすみません。こっちに今、応援が来てるそうですから、現場はこのままにしておいて下さい。………おい、行くぞ!」
警官たちが頷いて、パトカーにそれぞれ分乗する。
今、大石車の捜索…とか言わなかったか?
大石車の捜索ってことは……、…………………あいつ、……行方不明なのか…!
鷹野さんに、監督、大石。
………俺が望むと、……次の日には、…消える。
いくら激情に任せてその死を望んだからと言って…普通はかなうもんじゃない。
……願ったって死なないとみんなわかってるから、誰もが軽々しく呪いの言葉を口に出来るのだ。
……だが、…俺の口から出た呪いの言葉は成就される。
…………その時、…歩いていないのに。
………ぺた。…という足音が聞こえた。
……しかも、…それは一度だけでなく、……ぺた、……ぺた、…と背後から近寄ってくるのだ。
そして、………俺のすぐ後ろに立つ。
………俺の肩に……手を…………。
「………一体、……何事なんですの……。」
「うわぁあぁああッ!!……………、……さ、沙都子か。驚かすなよ…。」
「……驚いたのはこっちでしてよ。いきなり大声を出さないで下さいまし。」
沙都子だった。…目の焦点は相変わらず不安定そうだが、…自分で立って歩けるくらいにはなったのだろうか。
……さっきのぐったりした様子に比べればはるかに回復しているようだった。
「具合はどうなんだ。…もう大丈夫なのか?」
「……まだ、頭が痛いですけど…。いつまでもこんな格好で表にいられませんもの…。」
そう言って、強がりのように笑って見せたが、足もとはまだおぼつかない様だった。
「…それより、…これは一体、何事なんですの。」
「………今、警察が話してるのを聞いてた限りじゃ、………。……監督が、自殺したらしい。」
「………………ぇ………。」
沙都子が言葉を失う。
……その顔はみるみる蒼白になり、…自らの耳を疑っているのがよくわかった。
「…け、…圭一さん、…それ! 本当ですの?! 何かの聞き間違いじゃないですの?!」
「た、…確かにそう聞いたよ…! 入江先生が睡眠薬で自殺した、って…。」
…沙都子がその場に膝を着き、……泣き崩れる。
「………うそ……嘘ですわ……。……あの、……監督が、……自殺なんて、…そんなの絶対に………!」
沙都子が草を掻き毟りながら泣くのを見て…俺は自責の念に囚われていた…。
俺は昨日、監督が俺を異常者扱いしたことに腹を立て、裏切られた、死んでしまえと、……そう思った。
……だが、…俺にとって死に値すべき監督でも、……敬愛している人たちもいるに違いないのだ。
………この沙都子のように。
俺の…自己中心的な怒りで、死を望み、それがかない、………その結果、沙都子が泣き崩れているのだ。
…………罪悪感が…ちくちくと俺を苛む…。
……俺は沙都子のためを思い、殺人を思い立った。
……沙都子に幸せになってほしくて決断した。
……だが、…それは本当にそれだけで済むのだろうか。
殺人というのは、人の命を奪うこと。
…その人に縁のある人を悲しませるということだ。
…………あの、沙都子の叔父に関しては、誰も悲しむ人がいるわけもない。
だから罪の意識は全くわかなかった。
…だが、……監督の死は違う。
……俺は、………沙都子を幸せにするつもりが、…………深い悲しみまでも与えてしまったのだろうか……。
…でも、……監督は自殺だろ…。俺のせいじゃ………………。
「……………………うっ…………ぐす……。」
沙都子はまだ涙が止まっていなかったが、…落ち着きを取り戻したようだった。
涙を拭いながら立ち上がる。
「…………すまない。」
…そんな沙都子に、…俺の口からこぼれたのは謝罪の言葉だった。
「どうして、……………………謝りますの?」
「……俺、…昨日、監督と、その…………喧嘩、…して。………お前なんか死んじまえって…。………呪ったんだ。呪ったから…本当に死んじゃって…。」
沙都子はしばらくの間、怪訝そうな顔をしていた。
…やがて、俺の言葉が自分なりに解釈できたのか、表情を和ませて言った。
「………圭一さんのせいではありませんわ。…監督も、…大人ですもの。……自分の命を捨てるに値する都合があって、………悩んだ末に選んだんですもの。……誰のせいでもありませんわ。」
そう言って、俺を慰めるように薄く笑ってくれた。
「…………………いつまでも裸でいたくありませんわ。…服が、…欲しい。」
「いいのかよ! 診療所に行って見てもらった方が…。」
「……服を着てから診てもらっても、別に死にはしませんわ…。」
沙都子はバスタオルを羽織りなおすと、来た道を戻り出す。
……足取りはふらふらしていて……、口で強がるほど、体調は回復しているようには見えなかった。
■神社へ
沙都子は初め、自分の家に戻ろうとしたが、朝の通勤通学の時間になり、人が出歩いているのを見て、思いとどまった。
………やはりバスタオルだけの裸では恥ずかしいらしかった。
「……………梨花の家に行きますわよ。……私の服、あるはずですから。…………………どうしたんですの? 圭一さん…。」
沙都子が、ずっと俯いている俺に気付き、声をかけた。
「………監督はああ見えても大人ですのよ? 圭一さんと喧嘩したくらいで自殺するような人ではありませんわ。…自分を責めるのはおよしなさいませ。」
「……………………………………………。」
初めは偶然だと思っていたが、……3人も続けば……ありえないなんて言ってられない。
……この世界には、“ありえない”はないのだ…。
「…………………この数日、…おかしいんだ。」
「………何がですの…?」
沙都子は苦しい息を漏らしながらも、…それでも俺の話を聞いてくれようとした。
「……一昨日の綿流しのお祭り、…お前は途中で帰ったから行かなかったんだよな。…そして、…俺は祭りに行って、みんなと遊んだ。」
「…………らしいですわね。……あの時は取り乱して申し訳ありませんでしたわね……。」
沙都子は昨日、教室で俺と怒鳴りあったことを思い出し、軽く頭を下げる…。
「……実は俺、……………祭りに行っていない…って言ったら、…信じるか…?」
沙都子が怪訝な顔をする。……無理もないことだった。
「…信じられるわけありませんわ。…何を今さら……。」
「……信じられないだろ? 信じられないのは俺も同じなんだ。……だって、…俺は祭りに行っていないのに、……俺が祭りに現れてみんなと遊んだ、って言うんだ。…こんなの信じられるわけないだろ…?」
「…………………………それ、……本気ですの…?」
「…あぁ…。……あの、……綿流しの夜から、……おかしいんだ。……いつの間にか、変な足音がぺたぺたと付いてくるようになって……。」
沙都子の表情から血の気が引く。
「………………足音が、……ぺたぺた……?」
「……そうなんだ。…最初は気のせいだと思ってたけど……、ずっと付いてくるんだ。……多分、今も付いてきてる。…沙都子の足音と混じって、よく聞き分けられないけれど。」
沙都子は俺の目をまじまじと見ていた。
……………俺の正気を…疑っているのかもしれない。
……監督もそうだった。
…こんなことを言い出せば、正気を疑うのは当然。
……そう思えば思うほど…監督を恨むのはお門違いだったのではないかと思え、いたたまれなくなってしまう…。
「………綿流しの日、…俺は祭りに行かず、…あることをしていたんだ。…ずっとだぞ。眠ったり意識がなくなったりしたことはなかった。だから夢遊病のようにふらふらと、記憶になく祭りに出掛けた…なんてことはありえない。」
「……それはおかしいですわね。……なら、どうやってお祭りで遊んだんですの…?」
「だから! 俺は祭りには行ってないんだよッ!!」
いけない! ……感情的になってどうするんだよ俺!
…ここで興奮して見せたら、それこそ頭が変だと証明しているようなもんじゃないか…。
「………あ、……ごめん。…みんなが信じてくれないで、…つい。」
「…………………圭一さんがそう言うなら…信じてあげますわ。……それで?」
「…あの夜、……鷹野さんに会ったんだ。……………それで、……見下されたと思って、……俺は心の中で念じたんだ。………お前なんか死んじまえ、…って。」
「……鷹野さんって、どことなくそういう雰囲気がございますものね。…その気持ち、……わからなくもありませんでしてよ…。」
「鷹野さんが死んだの、知ってるか? 昨日の話だ。どこかで焼け死んだらしい。」
「……それ、……本当ですの?! ……死んだんですの……。」
「…俺が……死ねと願うと、……次の日には……死んでるんだ。…それから警察の大石ってヤツも! 知ってるか? あのムカつく太った刑事みたいなヤツ…。」
沙都子は小さく頷く。
「…さっき、警察が話してるのを聞いたんだが、…どうもあいつ、行方不明になってるらしい。……………実は昨日、…………あいつにも、…死んじまえって、…念じてたんだ。」
「………………それ、……本当の話ですの……。」
「嘘じゃない。…俺だって信じたくないけど、…本当の話なんだ! …鷹野さんも監督も大石も、……俺が死ねと念じたら、…本当に死んでしまったんだ!!」
…沙都子はしばらくの間、言葉を失っていた。
……長い沈黙が続く。
「…………ほほ、…ほっほっほっほ…! …それは怖い話ですわね…。…圭一さんに、せめて嫌われないように気をつけませんと…。」
「……それだけじゃない。…………もっと……おかしい事もあるんだ。……それは……お前の…叔父なんだ。」
「…………叔父さまの話は…やめて下さいましな…。」
「……昨日、……居たんだろ? お前の家に。」
「……あの人の話はやめてくださいます?! 嫌なんですの!!」
「ありえないんだ。あいつが…いるわけがないんだ。」
「やめってって言ってますのよッ!! 嫌! 嫌ぁあぁ!!」
「あの男が綿流しの夜以降、いるわけがないんだ…!! だって、だってッ!!」
「嫌ぁあぁああぁあぁあ!! あの男のことはもう嫌なんですのぉおおぉお!!!」
「俺が殺したんだッ!!! この手でッ!!」
………セミたちすら、…なきやんだ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を…一層引きつらせた凄い形相で、……沙都子を俺を凝視していた。
「……俺が綿流しの祭りの夜に、…お前の叔父を殺したんだ。………だから、…お前の家に帰ってくるなんてことは、…ありえないんだ。」
でも!! 帰ってきてる!!
そして…昨夜、夕食に難癖を付けて沙都子に罵声を浴びせ、風呂に押し込み拷問まがいの真似をして見せた。
……そんなことは…ありえてはいけないのだッ!!
「………だから俺は、…あの男を確かに殺したと言う証拠を確かめるために、……埋めた死体を昨日、掘り返したんだ。……だが、そこには死体はなかった。…こんなことがありえると思うか?! 確かに殺したのに、死体がないんだ! そして…何事もなかったかのように帰宅して…お前の前に……!! こんなことが…あっていいはずないだろッ?!?!」
沙都子は全身を強張らせていた。
………まるで、目の前に危害を加える人間がいるように、…身を縮こめて…。
「……………………………………お前も、……俺のこと、……頭が変になった、って、……思ってるんだろうな。……無理もないさ。…俺だって、…信じられない。」
「…………け、…圭一さんはきっと…、偶然、呪った人が死んでしまったんで混乱してるだけに違いありませんわ…。……監督の自殺にショックを受けて、気が動転しているだけなんですのよ……。……今日はもう、…学校を休んでお家で休んだ方がよろしいと思いますわ……。…私はもう平気ですから、…どうかご自分の体を大事になさいまし……。」
…沙都子は俺に理解のあるようなことを言いながらも、…俺に帰れと告げた。
………顔に浮かぶ嫌悪感から、…俺とこれ以上一緒にいたくないのがわかる…。
「………沙都子をちゃんと診療所まで見送ったら、俺も帰る。…沙都子だって、まだ足元がふらふらじゃないか…。途中で倒れたら大変だぞ…。」
「私はもう本当に大丈夫なんですのよ…! 男の人に、いつまでも裸を晒していたくないんですのよ…!
…はぁ、……ぐ、……はぁ、……はぁ…!」
境内の階段によろめき、転びそうになる。…俺はすぐに駆け寄り、支えてやった。
………だが沙都子は、すぐに俺から飛びのいて離れる。
………その仕草があまりに拒絶的で…痛かった…。
階段を登りきる頃には、沙都子は息も絶え絶えになり…もう俺など眼中にないようだった。
……俺は、もう無視されていた…。
無視というより、…関わり合いになりたくないという…拒絶の感情だ。
…………それは、どんな刃よりも鋭く俺の胸をえぐる。
………沙都子のために、選んだ道だった。
その末路が、こんな仕打ちでは……あまりに悲しい…。
……甘えるなよ前原圭一。
…もとより、報いなど求めてなかったろ…。
……沙都子に感謝してもらいたくてやったんじゃない。
…沙都子に幸せになってもらいたくてやったんだ。
……それはつまり、………こういう結末のことなんだ。
梨花ちゃんの家は、町会の防災倉庫だ。
境内にある集会所の裏をもう少し行くとあるらしい。
沙都子はそこを目指して、境内の砂利を踏みしめながら早足に歩く。
……一刻も早く服が着たいのか、…俺から逃げたいのか、…どちらともつかない…。
………その時、……バサバサっという、鳥の羽ばたく力強い音が聞こえた。
振り向くと、…カラスだった。
雛見沢に来てからカラスはあまり見ていない。
だが、前の町に住んでいた頃はよく見かけた。
……生ゴミの日にはゴミ置き場に群がり、袋をくちばしで割いて、その中身を引きずり出して盛んについばんでいた。
…その光景が思い出されたので、
…社の賽銭箱の辺りにカラスが何羽か群がっているのを見た時、
……あんなところにゴミ袋を捨ててくなんて、悪いヤツがいるもんだと、…そう思った。
………………………セミの声が、止まる。
………息も止まる。
………思考も止まる。
………時間さえも、…止まる。
俺は…カラスたちの群がるそこへ駆け出す。
……脳裏に浮かんだ、…最悪の想像を払拭するために。
………でも、……俺は望んでない…。
……ソンナコト、…間違っても、……望むもんか…! ソンナコト、……ソンナコト……!!!
俺が猛然と迫るのに気付き、カラスたちがバサバサと空へ逃れる。
…カラスたちの黒い巨体が飛び去り、…………そのゴミ袋がむき出しになった。
「ぅ、………わああああぁああぁああぁあああぁあぁあぁあ……ぁぁ…ぁ…ぁ………………!!」
そこで俺が何を見たのか。
……何を見たのか、理解するよりも早く、…俺の喉から絶叫がほとばしった。
…………な、……なんだ、………これ、………これッ!!
沙都子も、何事かとやって来る。
………そして、…俺の肩越しにそれを見て、……………同じように、…悲鳴をあげた。
………こんな、……………こんなことって……、……………!!
ゴミ袋は……真っ赤で、…鮮血に彩られていた。
……あぁ、もうこんなまどろっこしい言い回しの必要なんかない…!
そうさ、…そう! そう!! …り、…梨花ちゃんだ! 俺たちの仲間の、沙都子の親友の! いつものんびりとしていて、それでいて狸みたいにずる賢くて、なのに可愛くて憎めない俺たちの仲間の…梨花ちゃんが、が、…がッ!!
……………梨花ちゃんは、……全裸だった。
……仰向けになって、大の字になって倒れていた。ガラスのような瞳が、……ただぼうっと…空を見上げていた。
……そして…そして……………、…ああぁああぁあぁぁああぁ………。
「梨花!! 梨花! 梨花ぁああぁああぁあぁあ!! わぁああああぁぁああ!!」
沙都子がその場に泣き崩れる。
……それでも、…親友の遺体の近くに、…近づけずにいた。
…………カラスがゴミ袋を割いて、…中身を…、例えば、…リンゴの剥いた皮なんかを引きずりだして…散らかして…。
……いや、…いや、…カラスに……そんなことできるものか…。うぐ、…ぉ…、
「ぅおえぇぇええぇええぇええぇえ…ッ!!!」
俺はその場に…たまらず嘔吐する。
……酸っぱい味がして、…苦い味になるまで、吐いて吐き続けた…。
……梨花ちゃんは、…………は、…………、……。
……は、………。
…………。
…………は、……腹…、…を、………。
…縦に…がっぱりと引き裂かれて…こじ開けられてるんだッ!!!
「梨花ああぁああぁああぁあぁあ!! うわあああぁあああああぁあああぁあッ!!」
カラスに…こんなこと出来るもんか!!
…そして…開かれた腹から……ぅぐ…ッ!! ……ぐ、………………内臓、とか、……ちょ、…腸が……引きずり出されて、…………まるで、……散らかしたままにされた……子供のおもちゃかなんかみたいに…ッ!!
信じられない光景に……頭が酸欠を起こす。
……視界が色彩を失い、…ガンガンとした頭痛と……眩暈……、……そして、…吐き気……!!
まるで……悪夢のような…儀式めいた虐殺のあとだった。
……誰かがどこかで梨花ちゃんを殺して……ここに運び、……大の字に寝せてから……、…は、……腹を裂き、………腸を……引きずり出したのだ…………。
腹からは赤や桃色の臓器があふれ出し、……腸が、…面白半分のように…四方、八方へ……散らされて………。
……辺り一面は……赤黒い血の海…。カラスの羽がいくつも、その海に散りばめられていた。
血の海を歩き、足に血を付けたカラスたちが残した…血の足跡が……梨花ちゃんの全身に…いくつもいくつも残っている。
……その禍々しい跡が……一層、この儀式めいた異常殺人を際立たせた…。
…俺は確かに、…鷹野さんに監督、大石の死は願った。
…だが、…梨花ちゃんまで死ねなんて…願った覚えは一度だってないぞ…。
「…そうさ、……俺じゃない……俺じゃない…。……俺じゃ、……ない………。」
■全ての破綻…
よろよろと後退った時、グシャリと、新聞紙を踏みつけた。……新聞? こんなところに……?
……その新聞紙は、…俺が自分の鉈に包んでおいたものだった。
沙都子を背負うため、俺はずっと新聞紙を巻いた鉈をベルトに差していたのだ。
……その新聞紙が、……抜け落ちたのだ。
…なんだ、…びっくりさせるな…。
……屈み、新聞紙を拾った時、………沙都子が………これまでに一度も見たことがないような……信じられない形相をして…硬直していた。
…………目線の先には、俺。………俺のベルトに差した、……鉈。
「………………ひ………………………ぃ………………、」
「……お、……………………落ち着け沙都子。…これは、……違うぞ?」
沙都子は……ガクガクと震えながら…後退る…。
「……………俺じゃない……。…俺じゃないんだ…。……俺じゃ……、」
「……と、…………ひと…ごろし…………ぃ……。」
タオルがはだけてしまったことすら、どうでもいいようだった。
…ただ、ガクガクと震えながら……目の前の殺人鬼から……一歩ずつでも…遠ざかろうと…。
「…沙都子、…落ち着いてくれ。……頼むから冷静になってくれ…。沙都、」
「い、……嫌ぁああああぁぁあぁ…ぁぁあぁ………!」
弱々しく叫んでから…沙都子はヨロヨロと駆け出す。…いや、…逃げ出す。
「ま、……待ってくれ沙都子…!! 違うんだ! 違うんだ!!」
沙都子の足取りは駆けているというのは、あまりに弱々しいものだった。
…だから追いつく気なら追いつけた。
……だが、…今の沙都子の肩でも掴もうものなら…本当に錯乱するかもしれない…。
……俺は……沙都子を追いながら、…誤解を解くしかないのだ。
「…鷹野さんを殺して…、監督を殺して…、…大石さんも殺したんでございましょう?! ……叔父さまを殺そうとして、……梨花まで……梨花までッ!! 人殺しぃいいぃいいいぃいいッ!!」
「違う!! 俺じゃない!! 俺は殺してなんかいない!!」
「何を言ってるんですの?! あなた、さっき自分で言ったじゃありませんの!! 死ねって、死んでしまえって!! それでみんな死んでしまったんでしょう?!」
「お、……俺は……その! 死ねって思っただけで……、別に……!」
「自分で何をしたか、記憶に残っていないんでございましょう?! そんな人の話なんか信用できるわけありませんわッ!! 人を殺した時の記憶が…欠落してるだけなんじゃありませんの?! いや、…………記憶がないふりをしてるだけなんじゃありませんの?! 第一、…その鉈は何なんですのよッ!! 説明してごらんなさいな!!」
「…………ぅ、……これは……………、」
「ほらほら、ほらぁ!! 圭一さんは…殺人鬼じゃありませんの!! どうしてですの?! ちょっと意地悪だったけど…楽しくて、…やさしい…一度は…本当のにーにーかもしれないとまで思ったのに………どうしてそんな風になってしまったんですのッ!!」
…………沙都子の問いかけは、ひとつひとつ、ゆっくりと時間をかければ説明できるものかもしれない。
…だが、……今のこの状況下で、…俺が身の潔白を、短時間の内に説明することなど……不可能なのだ…。
大体……俺は潔白なのかどうかも怪しい。
少なくとも、…沙都子の叔父を“殺した”!
…死体はないが、でも殺した!! 間違いなく!
その時点ですでに潔白とは程遠い。
…そして…鷹野さんや監督、大石の死を願い、…それが成就されてしまう、……俺の、呪い。
…………鷹野さんの死を願った時、…それは割と良くある恨み言葉くらいにしか思わなかった。
……でも実際に鷹野さんが死に、…俺が呪えば人が死ぬということに気付いた。
……そして、…それが再び起こることに期待して、監督と大石を呪ったのだ。
……だから、……鷹野さんの死は除くとしても……監督と大石に限っては…完全に確信犯なのだ!
俺は……沙都子の言うとおり、殺人鬼なんだろうか。
……現実と見分けのつかない幻を見て、……記憶すら残さずに…鬼となってオヤシロさまの祟りを代行した、殺人鬼なんだろうか…。
いや、……それだけはない。
“ありえない” ……あぁ畜生!!
この雛見沢では、ありえないと言う言葉こそ、ありえないんだった。
俺は…この三日で何回この言葉を繰り返したんだ畜生畜生ッ!!
沙都子は…いつの間にか泣きながら…ヨロヨロと歩いていた。
…初めのうちはそれでも駆けているような感じだったが、今はもう、いじめられて、泣きながら歩くような感じだった…。
「………どうして…………。……どうして……こんなことになってしまったんですの………。………どうして……どうして……! ぅぅ…!!」
……それに答えがあるならば……俺だって知りたかった。………どうして。……どうしてこんなことに………!
「………にーにーがいなくなって…ずっと、寂しかったけど……。……圭一さんが転校して来てくれて…、……また……みんな明るくなって……。……楽しくなって……、…毎日が…………光ってたのに………。」
……あぁ。……そうだよな…。
……毎日が、…光ってたよな。
……なのに、………なのに…。
……そこから先は、俺も沙都子も、まったく同じ言葉を嘆いていた。
「「…どうして……こんなことに……ッ!!」」
セミたちが、俺と沙都子の奇妙な追いかけっこを、見世物のように嘲笑っていた。
……あぁ…うるさいうるさいうるさい…。
やがて沢のせせらぎが聞こえてきた。
……森が開け、…つり橋が姿を現す。
沙都子は…今にも落ちてしまいそうなくらいにフラフラと…危なげに渡っていく。
……そして、俺もつり橋にさしかかった時、橋が大きく揺れ、沙都子はよろめいてその場に転んでしまった…。
「…大丈夫か…、……沙都子………!」
「ち、…近寄らないでぇええぇええぇ…!! この、…人殺しぃいいぃいい!!」
嫌悪感を剥き出しにして…沙都子が叫んだ。
……悲しかった。…言葉で、身が千切れるなら……、この目から溢れる熱いものは…血に違いなかった。
「…………どうして……こうなってしまったんですの……? 圭一さんのこと……ぅっく、……だい、……大好きだったのに………。」
……沙都子に…近寄って手を差し出してやりたかった。
…でも、……この距離が、…絶対距離だった。
……これ以上近付けば…沙都子はまた叫び出す。
……そして…俺を深く傷つける言葉を…投げかけるのだ…。
だから…これ以上はもう近寄れなかった。
「…………………沙都子、……俺にも、……何でこうなったか…わからないんだ…。……でも…これだけは言える。………梨花ちゃんを殺したのは、俺じゃないんだ。それだけは……絶対に………。」
「……いい加減なことを言わないでほしいですわ!! 自分の記憶にも自信が持てない人が…何を言ったって…どう信じればいいって言うんですのッ!!」
………………両手をギリギリと握り締める。
……悔しかった…。
…俺はおかしくなんかない。
…おかしいのは……あの夜から迷い込んでしまったこの雛見沢の方なんだ。
……こんな、居ないはずの俺が祭りに居て、殺したはずの叔父が生きていて、……念じただけで死が訪れてしまうような…狂った世界の方が…悪いんだ!!
…魅音もレナも、まるで何かに取り憑かれたように奇妙な言動をするようになり…、……監督も…俺の話を信じてくれなくて………。
………守ってやるはずだった沙都子にまで…こんな言葉をぶつけられて………。
……人を殺す代償って、……こんなにも高いのかよ…?!
こんなにも…俺は辛い世界を強いられなきゃならないのかよ?!
俺は正しいことをしたんだ!!
したつもりなんだ!!
なのに……、……なんで………ッ!!!
俺も沙都子も、……楽しく平穏だった日々が、なぜ狂いだしてしまったのか、…その理由を何度も自問しては……悔やんだ。
「…………沙都子、………信じてくれ。…俺は、………人殺しじゃ、…ない。」
「では、その鉈は何なんですの? …納得の行く説明は出来まして…?!」
「…この…鉈が怖いのか…? …じゃあ……捨てるよ。…それなら安心だろ…?」
沙都子は頷かなかったが、その提案に賛成するようだった…。
俺は不器用にベルトから鉈を抜き、…それを橋から下の沢に落として、捨てた。
「……………捨てたぞ。……これで、…話を聞いてくれるな…。」
「…武器を捨てたくらいで……気を許すと思いまして…? 圭一さんほどの方なら、…私を素手で絞め殺すなんて簡単でしょうに…。」
………沙都子を殺す気なんか…あるもんか…。…この…馬鹿野郎……。
「……じゃあどうしたらいい。…両手を頭の上で組んだらいいか…?」
「…そうですわね。…両手を頭の上で組んで、後ろを向いて下さいます?」
………部活でも狡猾な、沙都子らしい提案だった。
…両手を頭の上で組んで後ろ向きなら、そう簡単に沙都子に襲いかかれるものじゃない。
…それで沙都子が安心するならと、俺はすぐに快諾する。
「……これでいいか? ……俺の話を聞いてくれ。」
「…………………………………。」
沙都子は起き上がり、慎重に俺の背中に近付いてきた。
そして…本当に背中の…すぐ後ろまでやって来た。
……それほどまでに近くにいるのに…振り返ることが許されないのが…とても悲しかった…。
「……………圭一さんが悪くないのは、……何となく、…薄々わかってましたわ。」
「……え…?」
「……………多分、……あなたは…何か悪いものに乗り移られただけなんですの…。」
「……………………………。」
「………さっきまでは…圭一さんが殺人鬼なんだと思ってたけど、……私、わかりましたの。……あなたの目を見ていたら。」
沙都子の声は……涙混じりだったけれども…やさしいものだった。
「圭一さんが、……人殺しなんかするわけがない。………圭一さんの体を…何か悪いものが乗っ取って……悪事に駆り立てただけ。」
………文字通りの意味なのか。
…俺を諭すために言っているのか、…わからなかった。
「……………思えば、………………ひょっとすると…。…………あの人たちも、…圭一さんと同じものに乗り移られていたのかもしれない。…………あの時は…殺されるとしか思わなかったから、…そこまで考えは及ばなかったけど…。……今ならわかる。………あれは……乗り移った、…何か悪いものの仕業だった。」
「………………沙都子……? …何の……話だ……?」
それは俺に語りかけているというよりも…、…俺の背中にする懺悔のような、独り言だった。
「…………わかってるんですの、…私。………身に覚えが、…ないわけじゃないんですのよ…。」
沙都子の声に…また嗚咽が混じり始める。
……その痛々しい声に、…俺の胸が掻き毟られた…。
だが、……沙都子が何の話をしているのかは、…わからない。
「……祭具殿の屋根に、……よじ登ったことがありますの。…何年も前のことですわ。」
沙都子は、…みんなで境内でかくれんぼをしている時、…近寄ってはいけないと言われていた祭具殿の屋根によじ登り、…身を隠した。
そこで沙都子は……通気窓の隙間から…中に入れることを知ってしまう。
沙都子にとって、…祟りという言葉は充分に怖いものだったが…、それ以上に、未知の祭具殿の中への好奇心の方が強かった。
通気窓の外れかかっていた格子を外し、…小柄な体を割り込ませ…中に飛び降りた。
中は薄暗くてわからなかったので、飛び降りて初めて相当の高さがあることを知った。
…中は暗かったが、通気窓から入るわずかな明かりで周りを何とかうかがい知ることができた。
……そして、期待はずれのとてもつまらない倉庫であることも知った。
外へ出ようとしたが、………扉は外から厳重に閉められていて、内からは開けられない構造になっていた。
……外へ出るには、入ってきた通気窓からしかない。
だが…その通気窓は…高く、……とてもではないが…よじ登れそうになかった。
沙都子は…泣きたくなるのを必死に堪えながら…、そこまでよじ登れるよう知恵を絞った。
……天井にはたくさんの鳥篭みたいなものが鎖で吊るされていた。
…その吊っている鎖は壁を伝い、垂れ下がっていた。
……あの鎖の束をよじ登れば…何とか通気窓まで登れるかもしれない。
そうする他に出る方法がないなら…やるしかない。
…必死だった。
……こんな暗くて薄気味悪いところにいつまでもいたくなかった。
そう思えば思うほど、焦った。
鎖の束をよじ登る。
……ガシャガシャと音がし、沙都子の重みでいろんなものがきしむ音が聞こえた。
……そして、……通気窓に……手が届いた、という時、鎖の束を壁に固定していた金具が飛び、鎖の束がものすごい音を立てながら暴れ狂った。
その音に背中を押されるように…沙都子は通気窓から屋根の上に抜けることができた。
……暴れた鎖の束の重みか何かで、他の金具が壊れ…、吊ってあった大きな鳥篭がひとつ、…ものすごい音を立てながら落下した。
…その下には…オヤシロさまの御神体があり、片腕をもぎ取って……さらにまわりの祭具を下敷きにした。
………自分のしたことが…恐ろしくなるのに時間はかからなかった。
その凄まじい音は境内にも聞こえたようだった。
……何人かの子供たちが聞きつけて集まってきた。その中には…もちろん梨花の姿も。
そして……梨花の父親の…神主さんも形相を変えて走って来た。
……そして…………………どういうことになったのかは、……思い出すのも苦しい…。
梨花の父親は、……祭具殿に入れるカギの所在を知っているのは梨花だけ。
…だから、…梨花がかくれんぼで、この中に隠れていたずらしたからこうなったのだろう、と………梨花を叱った。
……すごい剣幕で怒っていた。
……見ていて…怖くなるくらいに。
……梨花の背中を向き出しにして、変な形をしたお祭り用の杖みたいなもので何度も打ち据えていた。
その時の……梨花の、……ボクじゃないのです……ボクじゃないのです……ごめんなさい……ごめんなさい……、…という…哀れな声が…今でも耳から離れない。
私は、……名乗り出るべきだった。
……梨花の父親の恐ろしい形相に怯えず、…濡れ衣の親友を救うために……名乗り出るべきだった。
梨花は…身に覚えのない罪に……涙を流しながら歯を食いしばっていた……。
それからだ。………“世界”がおかしくなったのは。
「……わかってるんですの、私には。……これは、……オヤシロさまの、…祟りだ、って。……あの時、祭具殿を汚して、親友を見捨てた私への…天罰だ、って。」
「…………オヤシロさまの……祟り…。」
「………父も母も、…濁流に消えた。……意地悪だった叔母も死んだけど、……誰よりも私を可愛がってくれた…にーにーも私を捨てて…家出してしまった。……そして…。…………そして!! …圭一さんが転校してきて…やっと楽しい毎日が戻ってきたと思ったのに、……今度は…圭一さんが取り憑かれて……。……梨花も……殺されて……。……ぅうううぅううぅううぅッ!!
………聞いたの私! オヤシロさまは…本当に祟りを成すときは…本人をすぐに殺さないんだ、って!! 親しい人から順に殺して…みんな殺してから…最後に殺すんだ、ってッ!! だから…圭一さんも……祟りにやられて………ぅうううぅううぅううッ!!! きっと……今度はレナさんや魅音さんが祟られてしまうんですわ!! そして…殺したり…殺されたり…!! もう…いやッ! 嫌ぁあぁああああぁあぁあああぁッ!!!」
「……落ち着けよ沙都子!! 祟りなんかない! 誰もお前をいじめたりなんかしないって!!」
振り返ろうとした時、…ものすごい力で…後ろから突き飛ばされた。
両手を頭の上で組むという無様な格好だったので、……まったく受身を取れず、バランスを崩す。
しかも、突き飛ばされた方向は…橋ではなく、横。
…沢へだった。
嘘……、……嘘だろ………、……う、……わぁああぁあ……ッ!!
…………最後の奇跡が、偶然にも一本のワイヤーを握らせてくれた。
はるか眼下は…沢。
……かなりの高さがありそうだったし、…下は大小の岩がごろごろしている。
……落ちたら、ただじゃ済まないのがわかる。
俺の体重を受け、橋全体がぎゅうぎゅうと傾く。
あまりに脆弱な握力は、多分、一分も持たずにこの指を開いてしまうだろう…。
「…………沙都子……!! …沙都子ぉ…!!!」
…どういう意味で沙都子の名を呼んだのか、…俺にもわからなかった。
……沙都子、たすけてくれ、なのか……、沙都子、どうしてこんな真似を? なのか…。
……ようやく目の焦点が合い、…沙都子の姿を認めた時。
……その……あまりに奇怪な表情に…驚いた。
それは…初めて見る顔。
……死すべき者にしか許さない、般若のような形相だった。
「死んじゃえ人殺しぃいいいぃ!! 返してよ! にーにーを返してよ!! 梨花やお母さんを、……圭一さんを返してよ!!
わああぁああぁああ!! うわあぁああぁああぁああぁあッ!!!」
絶叫しながら、橋をぐらぐらと揺らす。
……そんなこと…しなくったって、………もう、……落ちるから………。
「私は…お前なんかには負けないんですのよ…!! 祟りなんかに…負けてたまるもんですかッ!! お前になんか絶対に負けない! みんなを奪った…お前に絶対に負けたりなんかしないいいぃいいいぃいいいいいぃいッ!!!」
「……………………沙都子。………これだけは、……聞いてくれ。」
…その時の俺が、どんな表情だったかはわからない。
……だが、…沙都子の興奮を醒ますもののようだった。
「………………俺のしたことは、……確かに、褒められるものじゃない。……いや、…いけないことだったかもしれない。……だけど、…………お前に幸せになって欲しくって、…したことだったんだ。…それだけは…信じてくれ。」
「………こ、……こいつ……! 最後の……最後で………、…圭一さんの…ふりを……!!」
沙都子は…もう俺の言葉に耳を貸す気は………ないようだった。
最後の最後で、……それはあまりにも悲しかった。
「…………お前に褒められたくてやったわけじゃなかった。…お前に、幸せになってさえもらえればよかった。…俺たちは、駄目なんだ。……お前が笑っていないと…駄目だんだ…。………だから、……俺が消えたら、………笑ってくれ。…俺が死ぬことで、…新しい生活を迎えたなら、…きっと、…笑ってくれ。……………それだけ、…約束してくれないか………。」
「しゃべるなッ!! 圭一さんの口調でしゃべるなッ!! 落ちろ!! 落ちてしまえええぇええぇええぇええぇぇぇ…ッ!!!」
………それが、……沙都子から俺に向けられた…最後の言葉になった。
…あまりに………報われない、…悲しい悲しい……言葉だった。
俺は……一体何だったんだ。
…沙都子を幸せにするつもりが……こんなことになってしまった。
間違いはどこからだったのか。
…何が間違いだったのか。
いつからが間違いだったのか。
狂っていたのは、俺か、雛見沢か。
この期に及んでも、思う。………俺は狂ってなんかいなかった。
あの夜を境に迷い込んでしまった…この不気味な世界が…狂っていたのだ。
だって、…あの、部活で大騒ぎし、永遠に続くことを疑わなかった楽しい世界が…、こんな異常な世界に豹変してしまうなんて…普通じゃ考えられない。
あの楽しかった世界の延長線上に、…俺が沙都子に突き落とされて死ぬなんて……そんな結末があったはずはないのだ。
………結局、俺は……この狂った世界に飲み込まれ、……消えていく。
いや、……多分、俺はもう消えていたのだ。
…多分、…そう。綿流しの夜に。
…きっと、…俺のいた本当の世界では……俺はあの夜に失踪したことになっていて大騒ぎになっているのだ。
……その俺自身が、自分が失踪したことにとうとう気付けなかったというのは…滑稽な話だった。
5年目のオヤシロさまの祟りは、……沙都子の叔父が死に、俺が消えたこと。
俺の本当の世界では、…もう沙都子は解放されている。
仲間たちは俺の失踪を嘆きながらも…たくましく立ち直ろうとしているかもしれない。
………そして…4人になってしまったけれども、……部活を再開して…4人で賑やかにやっているのだ。
………いつの日にか、…俺が帰ってくるのを待ちながら。
ごめん、みんな。……………………俺、…帰れなかった。
………でも、…これは俺が望んだこと。
沙都子の笑顔を願う、にーにーとしての勤めだった。
もうこれで、…お前をいじめるヤツはこの世にひとりも残っていない。
…俺と悟史の、二人のにーにーが二年かけて成し遂げたから。
お前の小憎らしい、八重歯の似合う笑顔…。………もう一度、……見たかった。
痛みは、やさしく慈悲深くなどなかった。
…本当に暴力的な、強大で無慈悲な…激痛だった。
……せめてもの慈悲は…それが一瞬で遠のいたことだった…………。
これで…死ねる。
……この狂った世界からおさらばできる。
あばよ、狂った雛見沢。
……俺に、念じたら殺せるなんて超能力を授けてくれてありがとうよ。
……もし許されるなら、最後にもうひとつ念じてやる。
…この狂った雛見沢という世界、そのものの死を。
………もう誰も、……この狂った雛見沢に迷い込まなくて済むように…。
■幕間 TIPS入手
■タイトル: 研究ノートU
<オヤシロさまについて>
オヤシロさまだが、どういう字で書くのかはあまり知られていない。
と言うのも、時代によって様々な修飾詞が付き、微妙に名称が変わったり、当て字が変わったりするため、@本来の正確な名称が何なのか、知る事が大変難しいからだ。
全ての時代に共通するのは、名称の読みに必ず「オヤシロ」の4文字が入るということだけ。@
オヤシロさまを祀る「社(やしろ)」が、そのまま礼拝対象になり、@「御社さま」と呼ばれるに至ったと言う説があるが、実にセンスの欠片もない。
これに関連するかわからないが、オヤシロさまを祀る高貴な血筋である古手家の人間には、オヤシロさまの血が流れているという。
そして古手家に伝えられる伝説では、八代続いて第一子が女子ならば、八代目のその娘はオヤシロさまの生まれ変わりである…というのだ。
この伝説に従うなら、オヤシロさまは「御八代さま」と書くのが正しいように思う。@(この当て字はあくまでも私の思いつきなので、真偽は確かめようもないが)
だとするなら、御八代さまは再び降臨することを前提にした名称ということになる。
崇拝対象の再臨は、いくつかの宗教でも見受けられるので、そんなに珍しいものではない。
だが、さらにその中のいくつかでは、崇拝対象の再臨を、「審判の日」等と呼び、世界の終末を意味するものであることも忘れてはならないだろう。
村中の年寄り連中に、目に入れても痛くないくらいに甘やかされている少女、古手梨花。
……彼女が、その八代目、「御八代さま」であるという噂がある。
古手家の家系図はわからないが、少なくとも、過去2代の間、第一子が女子であることは私も確認している。
雛見沢を見守る少女、古手梨花。
彼女の加護を村が失ったなら、どうなるのか?
人と鬼は和を失い、どうなるのか?
再び、人食い鬼たちが跋扈する地獄が再現されるのか?
泣き、叫び、逃げ惑うしかできないひ弱な人間どもと、それらがいかに美味であったかを思い出した鬼たちの、凄惨な宴。
……それはどんな光景だろう。
想像するだけでも…胸が、躍る。
■雛見沢の、死
……………頭がガンガンする。
……空が……眩しい。
……寒い。………痛い。
様々な感覚が…次々と異なる感覚を目覚めさせていった。
気付くと…俺は河原にうつ伏せになって倒れていた。
…全身のあちこちがものすごく痛い。
あちこちの間接の皮が破れ、青くなったり赤くなって血を滲ませたりしていた。
……体を動かす度に走る激痛から、あちこちの骨が痛んでるのがわかる。
…見上げて、俺が落ちた橋の高さを見た。
………あそこから落ちたことを思えば、……再び目を覚ませたのは奇跡だろう。
自分のすぐ近くに…子供が遊びで持ってきたのだろうか、…車から取り外されたらしい壊れたシートがひっくり返っていた。
……ひょっとして、…こいつがうまい具合に下にあったお陰で、俺は即死を免れたのかもしれない。…奇跡だった。
もっとも、その奇跡が幸運なのか不運なのかは…わからない。
死に損ねた以上、……俺はまだ、この狂った世界にいるからだ。
………俺はどのくらいここで気を失っていたのだろう。
…日はまだ高く、あれからほんの1〜2時間しか経っていないように見える。
…だが、体のだるさを思うと、とても1〜2時間しか経っていないとは思えない。
……気分的には、十年もここで眠っていたような感覚だった。
「………い、…………いてて………………。」
体の感覚が戻れば戻るほど…、全身の痛覚が目覚めていった。
……いっそ起きなければよかったと思うくらいに痛み出す。
……医者へ行かなくちゃ。…そうだ、…監督の診療所へ…。
監督の診療所、という単語から………、次々と…思い出さなくてもよかった記憶が蘇って行く。
沙都子は、もう橋の上にはいない。
…さすがにもう、雛見沢に帰っただろう。
そして、服を着て診療所に行って診察を受け、……俺の様子がおかしいことを告げるだろう。
警察は俺を、待ち受けているに違いない。
叔父殺しが今度こそバレて逮捕か、それとも今度こそ精神病院送りか。
………でも、…どちらでもいいと思った。
この全身の痛みを止めてくれ。
…そのあとは煮るなり焼くなり好きにしたらいい。
びっこを引きながら…俺はひょこひょこと歩き始める。
沢を下り、…獣道のような林道を抜け……。…見知った道を求めてでたらめに歩く。
…その内に…ようやく馴染んだ道に行き当たり…、俺は診療所を目指して歩き出す。
………家でなく、…俺を異常者扱いしてくれた診療所へ、だ。
………蒸し暑い。
……風もなく、空気もよどんでいた。
さきからずっと…卵を煮焦がしたような嫌な臭いがしつこく鼻を突き、顔をしかめさせる。
……そして今頃になって気付く。
セミの声がないのだ。
こんな静寂に包まれた雛見沢は初めてだった。
…こうして思い返すと、朝は小鳥がさえずり、昼はセミが賑やかに鳴き、夕暮れにはひぐらしが合唱する雛見沢のなんとにぎやかだったことか。
虫の声ひとつ聞こえない。
聞こえるのは、風が梢を擦り合わせる時のざわざわという音だけ。
…………こんな静けさは初めてだった。
その唯一の音を聞かせてくれる木々も、どこか精彩がない。
木々は黄色くなり、路上に季節外れなたくさんの落ち葉を落としていた。
…路肩にたくましく生えているはずの雑草ですら、黄ばんだり茶けたりして勢いをなくしていた。
………日差しだけが、俺の知っている6月の雛見沢なのに。……まるで、季節がまるごとずれてしまったかのような錯覚。
「…………………………………。」
そんな落ち葉や朽ちかけた雑草を見ていると、小さな昆虫たちが何匹か、仰向けになって転がっていた。……ぴくりとも動かない。
死骸だった。
………よく見れば、その死骸はあちらこちらにバラバラと散らばり、…まるで子供が標本に集めた虫をバラ蒔いたかのようであった…。
……この異臭は…何なんだろう。
卵を煮焦がしたような…嫌な臭い。
…そしてたくさんの虫の死骸と、季節外れの落ち葉を散らす木々。
……………除草剤とか殺虫剤でも散布したのだろうか。
……学校なんかでも、年に1〜2回、殺虫消毒とか言って薬で虫を燻り出すというし…。
さっきから、こんなに明るいのに誰とも行き会わない。
真昼間なのに、……まるで深夜を徘徊しているような錯覚に陥ってしまう。
こんなに表が臭いなら、誰も表なんか歩きたくないに決まってる。
………一体、何だというんだろう、…これは…。
…………………何の音も、雑音も、息吹も聞こえない…静寂の雛見沢。
ここを曲がれば、……もうすぐ、学校が見えてくるはずだ。
…なのに、何のざわめきも聞こえない。……子供独特の騒ぎ声も奇声もない。
…………ただただ、…静かだった。
その静けさを、無関心を装って無視するのにも…そろそろ耐え難くなってきた頃、…学校が見えてきた。
そこで、俺はようやく音を聞くことができた。
……それは、何台かのトラックの音だった。
何台かの車高のとても高いトラックがアイドリング状態で校庭に停車しているのだ。
そして10人くらいの、…雨ガッパの作業員がその荷台から荷降ろしをしていた。
…俺みたいなラフな格好でも蒸し暑いと思うのに…あれではたまったものではないだろう。
……そうだ、思い出した。
うちの学校は営林署の建物を間借りしてるんだもんな。…校庭に営林署のトラックが入って作業をしてても、何の不思議もないのだ。
…そもそも、……営林署の人って、どんなことをする仕事なんだろう。
………こんな暑く、…嫌な臭いが充満する中でも働かなくてはならない彼らが気の毒だった。
彼らは、トラックに積まれたカラフルな積荷を次々に校庭に並べていた。
荷物は……色とりどりのツギハギみたいな袋に入った、結構大きなものだった。
しかも重いものらしく、2人1組で運んでいる。
それを、まるで魚河岸のまぐろ市場のように、整然と並べているのだった。
そのまぐろがいくつもいくつも何百も、…結構広い校庭全体にぎっしりと広がっていた。
…全身が痛むのもしばし忘れ、……俺はこの初めて見る営林署の大仕事に目を奪われていた…。
ぼー…っと、校門前に突っ立っている内に、…校庭のずっと向こうで働いている雨ガッパの人たちが俺に気が付いたようだった。
……俺を指差して、盛んに言葉を掛け合っている。
………仕事の邪魔をするなと怒られるな…そう思い、足早に立ち去ろうと思った。
その時、後ろからトラックが2台やって来た。
俺が道を開けると、校庭に入っていく。
……荷台にはシートがかぶせられているが、積荷は満載であることがわかった。
……そのトラックが通り抜ける時のものすごい汚臭に鼻が曲がりそうになる。
……それはさっきからの焦げ卵の臭いとはまた異なる…蟹味噌を腐らせたような最低の臭い。
何なんだ一体…。
……今日は何だってこんなに異臭や悪臭ばかり立ち込めてるんだ。
その時、通り過ぎるトラックの横腹に書かれた白い文字の一部が目に飛び込んだ。
『陸上自衛隊』
……………え?
自衛隊って、…軍隊の自衛隊? そんなのが、何で校庭に…?
「おい君! どこから入ってきた?!」
突然、後ろから俺の肩を強く叩かれた。
振り返ると…幌を被った自衛隊のジープが停まっていた。
…その自衛隊の人は緑の雨ガッパのようなものに、映画で見たような防毒マスクを被り、ボンベを背負っていた。
…肌の露出は一切なく、その身なりはとても異様だ。
「…………どこから入ってきたって、……いてててて……。」
しゃべろうとしたら、頭の傷が引きつって痛んだ。
…その仕草を見て、自衛隊の人たちが顔を見合わせていた。
……表情はマスクで全然わからないが、…驚いているように見えた。
「君は雛見沢の住民か? 住所と名前は言えるか?」
「…………一応、ここに住んでますけど。…名前は…前原、圭一です。…あ、住所は、鹿骨市雛見沢村XXX番地…。」
俺が躊躇なく名前と住所を言い出したのを見て、ジープから様子を伺っていた自衛隊の人が、無線機にしゃべり出す。
「…本部、応答願います。本部、応答願います。402、生存者発見。繰り返す、402、生存者発見。場所は営林署入口前。」
『本部了解。生存者を至急保護されたし。生存者の容態は。』
「生存者は健在。全身に外傷認められるも、生命に支障なし。自立歩行可能。これより保護し本部へ送致します。」
………警察に世話になる覚悟はあったが…、…自衛隊にとは……。
…さすがに行き過ぎだと思った。
彼らに促されるまま、ジープの後ろに乗せられる。
それから…みんながしているでっかい防毒マスクを被るように指示された。
…大人しく被ると、それを隊員の人がいじり、バンド等を止めてぎゅっと締めてくれた。
……重くて視界が狭くて、暑くて息苦しい。
…レンズごしに見る世界は…それだけで現実感が喪失していた。
自分の呼吸音が、コーハー、コーハーと、まるで怪物の息吹のように聞こえた。
……何が何やら…もう本当にわからない。
俺のマスクを調整している隊員の人に…恐る恐る聞いてみた。
「……あの、……すみません。………何かあったんですか……?」
「君はどこにいたんだ? 何をしていたんだ?」
…質問に質問で返されると困る…。聞きたいのはこっちなのに…。
「………ずーっと山に入ったところにある吊り橋から…落っこちて。……河原で、多分気絶してました。……今日が何曜日かもよくわからないです。」
「今日は昭和58年の6月22日。水曜日だ。」
…驚く。……俺が沙都子に突き落とされたのは、21日の火曜日。
……つまり俺は…あの河原でたっぷり丸一日は眠っていたのだ。
「……改めて聞きますけど、…何があったんですか? 何で自衛隊が来てるんです? 何かの訓練ですか?」
「…………………………………。」
……俺の質問は、そんなにも世間ズレていたのだろうか。
…隊員の人たちは応えてくれなかった。
運転席でさっき無線とやり取りをしていた隊員が、車のラジオを付けた。
…チューニングを合わせ、どこかの放送局につなぐ。
……聞きなれたラジオのアナウンサーの声が聞こえてきた…。
『…より首相官邸で行なわれました。記者団からの、自衛隊の災害出動が迅速に行なわれなかったことが、前例のない未曾有の大災害に直結したのではないかとの質問に対し奥野官房長官は、次のようにコメントしました。』
『〜でありまして…、県知事からの派遣要請を受けて、迅速に対応したものと思っております。』
『と、このように述べ、要請を受けてからの自衛隊の出動は迅速であった。むしろ県側の事態把握に遅れがあった可能性を示唆しました。
そもそも自衛隊の派遣を要請した県知事は、災害発生から前例のない大災害であることをいつ認識できたのか。そして災害派遣要請までに、いわゆるお役所的なロスタイムが生じ、被害の拡大を招いたのではないか。今後の究明が待たれています。』
『首相官邸より報道部の緒方記者がお送りしました。さて、ここでもう一度、災害発生からの行政の対応を振り返ります。』
6月21日から22日にかけての深夜。
鹿骨市雛見沢村にて大規模な災害が発生。
詳細はまだ究明されていないが、雛見沢村地区の某所から猛毒の火山性ガスが噴出。
比重の重いガスが溢れ出し、ガス流となった。
ガス流は沢沿いに下り、雛見沢村地区を直撃。数時間をかけて全地区を覆った。
時刻は深夜。午前2時〜4時。
雛見沢村の全戸、全世帯が罹災。
住民のほとんどは睡眠中で、災害に気付くことなく死亡したと推定。
深夜の就寝中の大災害が、その発覚を遅れさせたのである。
…だが、その災害に気付ける小さな機会もあった。
午前3時。
興宮の新聞販売店が、朝刊を運ぶ車を雛見沢村の出張所に送っていた。
いつもなら到着すると伝えてくる事務連絡の電話が、その日に限り、なかった。
新聞販売店店主は電話を繰り返すが、応答がない。
様子を見てくるように、長男を向かわせたが、これも音信不通になった…。
『…非情に悔やまれています。この時点で警察か消防への連絡があったなら、事態はもっと改善されていた可能性が高いでしょう。少なくとも、村全滅という惨劇は免れた可能性があります。』
午前6時。
雛見沢村地区に近い住民から、卵の腐乱臭、めまい・吐き気・頭痛などを訴える119番通報が続々と入った。
消防司令部は同様の通報がが同時多発的に、限定された地域から発生したことから、化学薬品を積載したトラック等の事故によるものではないかと推測、地元警察に通報した。
午前6時半。
雛見沢村地区に巡回に向かった警邏車から、卵の腐乱臭を伝える連絡を最後に通信途絶。
地元警察は致死性の高いガスによる広域災害の可能性があるとして、午前7時15分、県と県警本部に通報した。
午前8時。
知事は近県へ視察旅行中であったため、規定に従い県環境防災部長が臨時の本部長となり災害対策本部を設置した。
だが、知事への連絡が付かず、その対応は遅れに遅れた。
『近年、市民団体によって指摘されていますが、議員待遇者との視察旅行は完全に親睦を目的にしたもので、酒宴三昧だと噂されています。
近い筋の話では、知事は徹夜で飲んだくれて、泥酔状態で就寝していたそうです。環境部長から電話があった時も泥酔していて、まったく取り合ってもらえなかったのだそうです。』
こうして行政は、知事が事態を把握し、酔いから醒めるまでの約1時間の間、情報収集に徹するのみとなってしまう…。
『知事は言うに及びませんが、知事不在時には本部長を務めることになる環境部長にも、怠慢の責任が問われるでしょう。また県としても大災害を想定したマニュアルが用意されておらず、対応が常に後手に回ってしまったのが致命的でした。』
午前9時12分。
県警本部の助言を受け、県知事は自衛隊に災害派遣を要請。
ガス防護の装備を持った化学防護隊が到着した時には、災害発生から実に8時間以上が経過していた…。
『とにかく、深夜の就寝中というのが不運でした。同じ災害でも日中に起こっていれば、まったく違ったでしょう。』
雛見沢村地区の全世帯が、全滅。
犠牲者は1000人以上。
自衛隊が現在、被害状況を確認中だが、その結果さらに犠牲者数は増えるものと予想される…。
『スタジオにはゲストとして、火山性の災害にお詳しいXX大学教授の藤原先生にお越しいただいております。…先生、このような恐ろしい毒ガスが突然湧き出すようなことはあるのでしょうか。』
『火口部に限定して申し上げれば、決して珍しいことではありません。
火山大国日本にはたくさんの活火山がありますが、それらの火口部はいずれも危険なガスの噴出する危険性があり、一般登山者も火口部周辺には立ち入らないのが一般的です。』
『では今回、雛見沢村を襲った卵の腐乱臭のするガスというのも、火口部では一般的なガスということですか?』
『卵の腐乱臭という特徴から、恐らく火山ガスの中でも事故例の多い硫化水素によるものだと考えられます。高い濃度であれば、非常に危険なものです。』
『雛見沢村は火山の火口部とはまったく縁遠い場所にあるわけですが、そういった火口部でない場所にもその硫化水素が発生することがあるのでしょうか?』
『詳しいことがわかっていないので、まだはっきりとしたことは申し上げられませんが……。外国の例で、温泉の地下のマグマ溜りからガスが噴出したという記録があります。極めて希少な例ですが、必ずしも火口部でなくても発生の可能性はあるということです。』
『先生、ありがとうございました。…今、防衛庁から発表があった模様です。防衛庁の森川さん?』
『ハイ、防衛庁です。先ほど防衛庁は雛見沢村ガス災害の主原因となった火山性ガスについて、陸上自衛隊化学学校での分析の結果、二酸化炭素と硫化水素の混合ガスによるものだったと発表しました。』
『森川さん、そのガスは依然として噴出を続け、周囲に拡大しているのでしょうか?』
『現在、雛見沢村で救助活動に入っている自衛隊第9師団の報告として、ガスの濃度は徐々に薄まりつつある。これ以上の被害の拡大はないと発表しました。
ですが、依然、雛見沢村地区は危険な状態にあることには変わりなく、今後も注意深く監視を続ける必要があるようです。』
『防衛庁から報道部の森川記者がお伝えしました。続きまして、避難を余儀なくされている興宮地区住民の模様をリポートします。現在、避難所のひとつとなっている下篠崎小学校に報道部の……、ザザ、……者が…ってい、…ザザ…ザ、』
「………………なんですか、……………それ。」
ガタンゴトンと粗い路面に跳ねるジープの中で、…俺の呟きに応えてくれる人はいなかった。
未曾有の大災害により、……雛見沢が…一夜にして滅んだって…?
雛見沢村って、どこの村だよ。
…きっとどこかの遠い山奥のことだろ…?
ラジオに出てくる地名なんていつもそうだ。
…どこのことやら、…わからない…聞いたこともない地名ばかり………。
全滅…?
全滅って、どういう意味だよ…?
よく…死者何名、負傷者何名なんて言うだろ…?
生きてる人は何人いるんだよ?
みんなは…どこへ避難してるんだよ…?
やがて、前方に見えてきたのは…監督の診療所だった。
診療所の国旗掲揚のポールに旗がかけてあるとことなんか初めて見た。
……日本の、日の丸の国旗がくたびれたかのように垂れ下がっていた…。
診療所の広い駐車場には自衛隊のテントがたくさん張られ、物々しい車両が何台も停められていた。
ジープが来たことを認めると、診療所の中から防毒マスクを付けた白衣の人たちが担架を持ってバラバラと走ってくる。
「もう大丈夫だよ。具合は? 歩けるかい?」
「…………歩けます。…いてて……。」
いてて…なんて言ったばかりに、彼らは俺を無理やり担架に横たわらせた。
……医者らしい人が無線機で俺の様子を見ながら容態を連絡している。
「外傷多数。骨折もしくは内臓損傷の可能性大。頭部に大きな裂傷。瞳孔正常、眼底に出血なくも脳内損傷の可能性は否定できず…。」
その時、…診療所の入口から、担架に横たえられた人たちが、俺とは入れ替わりに表へ出されてきた。
…………服装の雰囲気から、雛見沢の住人、…犠牲者だとわかる。
その担架はトラックの前に停められる。
…二人の隊員の人が、肩と足を持ち、…まるで荷物みたいに…ひょいっと、トラックの荷台に投げ上げて……。
「………わ、…………ああぁ……、……あぁああぁああぁぁぁあぁ………。」
…トラックの荷台には、……人の体が、…累々と積まれていた。
…そのあまりに荷物的な扱いが、……すでに骸であることを悟らせる。
その瞬間、…色とりどりのズタ袋を荷台に満載して………学校の校庭に…魚河岸のように並べられていた…あの光景が……蘇る…。
何百という、………骸。
…死体…死体…死体、…死体…死体…死体、…死体…死体…死体、…死体ッ!!!
「馬鹿ッ!! 犠牲者を粗末に扱うな! 彼は村の住民だぞ!」
ズタ袋を運んでいた隊員たちがかしこまったように敬礼をして応えた………。
……こんな狂った雛見沢なんか、死んじまえ。
俺の、……最後の、……願いが、……またしても、…………かなったわけで……。
…………もう、……わけがわからない……。
…どうでもいい…。………俺が願って、…祟って、……それが次の日にかなうなら。
…………明日の朝には俺を死なせてくれ。
……そして、……早く、あの日から未だに終わらない狂った夜を、…終わらせてくれ。
「………?! おい、意識が喪失したぞ!! 患者の名前を呼びかけろ! 早くッ!」
「前原くん! 聞こえるかい?! 聞こえるなら瞬きでいいからしてくれ!! 前原くん! 前原くん! 前原くん!!」
急に、…世界がどうでもよくなる。…呼びかけにも興味は湧かなかった。
「呼吸が停止したぞ! 気道確保! 人工呼吸!! 絶対に生かせ!! 畜生畜生…!! もうこれ以上、死者は御免だぞ!! 死んでもいい命なんかないんだ!! 殺すな! 殺すなぁあぁああッ!!」
…耳元で、泣きながら怒鳴る男の声が聞こえる。
彼の言った、………死んでもいい命なんか、ないんだという、心からの言葉。
そんな、……すごくすごく、…当り前な一言が、…胸に染み入る。
……沙都子を救うためでも、……人の命を奪うのは…誤りだったのかもしれない。
…もし、…この大惨事が、……それへの代償なのだとしたら。
……………そんなのってあんまりだろ、オヤシロさま。
………………どうして、…俺だけにバチを当ててくれなかったんだよ…。
……そう言えば、…沙都子、言ってたよな。
本当のオヤシロさまの祟りってのは、…本人じゃなく、…本人の親しかった人から殺してくんだ、って。
オヤシロさまの、……祟り。
…俺の祟りでなく、オヤシロさまの祟りで滅んだと、……最後の最後で都合のいい言い訳。
……………………担架に横になっているから、当り前なのだが…。
……最後にひとつだけ気が付いた。
……あぁ、……………今日はもう、……あのついてくる足音、………一度も……なかったんだな…。
俺、……これで、解放されたんだ…。
聞こえるはずのない、ひぐらしの泣き声が…頭の中にいっぱい広がっていく。
その泣き声の合奏だけが、…俺への葬送曲だった。
■エピローグ1
昭和58年6月22日未明。
XX県鹿骨市雛見沢村で、広域災害が発生。
雛見沢地区水源地のひとつ、鬼ヶ淵沼より火山性ガス(硫化水素・二酸化炭素)が噴出し、村内全域を覆った。
犠牲者1200余名。
行方不明者20余名。
周辺自治体から約60万人が避難する空前の大災害となった。
その後の調査により、鬼ヶ淵沼の直下にマグマ溜りと温泉があることがわかり、
そこより湧き出したガスが、災害の原因であると断定した。
また、災害発生直後から、雛見沢村の伝承になぞらえてこの災害を「祟り」と騒ぐ者が続出し、初期の混乱を煽り立てた。
雛見沢村には、祟りがあると瘴気が湧き出して、村を滅ぼすとの伝承があったといい、
学者からは過去にも同様のガス災害があり、それが伝承として残ったのではないかと指摘する声があがっている。
一部の過激な週刊誌報道は、雛見沢村で数年間にわたり起こっていた連続怪死事件の延長にあるのではないかとし、「オヤシロさまの祟り説」を煽り立てた。
また、災害を免れた雛見沢村住民の親類筋の人間たちが、災害後、体調不良を次々に訴え入院し、
その一部が原因不明の病死を遂げた事も、それをさらに過激に煽り立てた。
その上、オヤシロさまの祟りに取り憑かれたと自称する親類筋の何人かが奇怪な方法で自殺を遂げると、
…もう全国に波及する衝撃には歯止めがなくなっていた。
真夜中に音もなく忍び寄り、人々を殺してしまう恐ろしい毒ガスの妄想は日本全国へ飛び火し、
不眠・呼吸困難・頭痛・めまい等を訴える人間を続出させた。
中には取り憑かれたと自称し、奇行を行なう者もいた。
それらのほとんどは過激な報道による思い込みによるものだったが、
…後にこれらの雛見沢大災害に起因する精神疾患を雛見沢症候群と呼ぶまでに至る…。
さまざまな噂や憶測の的となった雛見沢村地区は現在、封鎖され、その上空の飛行も禁止されている。
ガスの濃度低下により、一度は封鎖が解除されかけたが、同年秋に再びガスの噴出が確認され、再び周辺一帯は封鎖された。
現地には、生活の痕跡を残したまま、朽ちるに任せた村が、こんこんと眠り続けているという話である…。
最終的な生存者は、雛見沢村XXX番地在住の男子、前原圭一(1X歳)のみ。
救出時はガスによる呼吸困難で肺水腫を起こしかけていたが、必死の救命活動の結果、一命を取り留めた。
現在は県内の総合病院に入院している。
連日取材陣が押しかけているが、一切の面会は謝絶されている。
……彼が、雛見沢で何を見たのか。
6月の21日から22日にかけて、雛見沢で何があったのか。
今日でも彼は、黙して語ろうとしない…。
■エンディング:雛見沢村ガス災害追悼者リスト
富竹ジロウ(本名不明)
昭和58年6月19日、村内にて自殺?捜査は中断。
鷹野ミヨ
昭和58年6月19日、岐阜県山中にて絞殺。遺体は焼かれる。捜査は継続中。
大石蔵人
昭和58年6月20日、捜査中に行方不明。捜査は継続中。
熊谷勝也
昭和58年6月20日、捜査中に行方不明。捜査は継続中。
入江京介
昭和58年6月21日、診療所内で自殺? 捜査は中断。
古手梨花
昭和58年6月21日、神社にて他殺?捜査は中断。
雛見沢村ガス災害追悼者リスト
竜宮礼奈
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて死亡。
園崎魅音
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて死亡。
園崎お魎
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて死亡。
北条沙都子
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて行方不明。
北条鉄平
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて行方不明。
前原伊知郎
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて死亡。
前原藍子
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて死亡。
富田大樹
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて死亡。
岡村傑
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて死亡。
知恵留美子
昭和58年6月22日、雛見沢大災害の避難中に事故死。
公由喜一郎
昭和58年6月22日、雛見沢大災害にて死亡。
亀田幸一
昭和58年6月22日、雛見沢大災害の避難中に事故死。
葛西辰由
昭和58年8月11日、収容先の病院にて死亡。
園崎詩音
昭和58年8月27日、収容先の病院にて自殺。捜査は終了。
前原圭一
昭和58年8月29日、収容先の病院にて自殺未遂。
災害による重度精神障害を診断され、県内医療施設にて長期
療養中。マスコミの取材要求は全て却下され、平穏な日々を送っ
ている…。
■エピローグ2
平成15年 晩夏
大阪府内に住むある老夫婦が、8年前に死亡した息子の遺品を整理中に一本のカセットテープを発見した。
夫婦の息子(47歳・事故当時)は、平成7年に釣り船の転覆事故により行方不明となった。
平成15年をもって8年が経過し、心の整理をつける意味で息子の遺品の整理を始めた際、問題のカセットテープを発見する。
故人は昭和50年代後半から平成元年まで、過激な写真週刊誌に記者として勤務していた経験があり、この時の取材テープのひとつだと思われる。
テープのラベルには、昭和58年11月28日・前原圭一と記されていた。
昭和58年6月に発生した、かの雛見沢大災害の唯一の生存者、前原圭一を取材した際の録音テープだと思われる。
大災害を生き残り、謎に包まれた6月21日の深夜を知る唯一の人間として、当時多くの関心が集まったが、公の場で肉声で語ることは一切なかった。
…ゆえに、このテープは極めて価値のあるものではないかと騒がれることになる。
…ガチャリ。
「………何だか録音されてると思うと、すごくしゃべりにくいですね。」
「気にしない気にしない。ほら、こうすれば録音してるのも気にならないでしょ?」
(これ以降、急に録音状態が悪くなる。録音機に何か被せた?)
「じゃあ始めるね。…まず、最初の質問から。圭一くんは、あの大災害の夜、どこにいたのかな?」
「………神社から裏に抜けて…ずっと林道を進んで…。………吊り橋があるんですよ。山に入る少し前に。…そこから落ちて気を失ってました。」
「それは大災害の夜、つまり21日から22日にかけての深夜のこと?」
「………いいえ。21日の火曜日の朝です。それで、次の日の昼間に目を覚ましたわけですから……一日半はそこで気を失ってたと思います。」
「どうしてそんなところに? 誰もが持つ疑問だけど、当日は平日で、しかも落ちた橋は君の家と学校からは大きく離れているよね?」
「………………………………。」
「ざっくばらんに言って、君が大災害の発生を事前に知っていて、村から逃げる途中に吊り橋から落ちたんじゃないかっていう声もあるんだけど?」
「…冗談じゃないです。勝手なことを言わないで下さい。」
「私もずいぶんひどい言い分だと思うよ。気を悪くしないでね。……さて、次に圭一くんが落ちたという吊り橋なんだけど、…地図で言うとココだよね? 神社の裏から林道を抜けて至る吊り橋というのは。」
「………………多分。…俺も、あんまり行かないところなので自信はないですが。」
「ははははは。そんな行かないところにどうして平日の朝に行ったのか、疑問は尽きないけどなぁ。」
「…………………………………。」
「それで、……この、君が気絶していたという河原なんだけど、実はそれはありえないという噂は知っているかい?」
「…“ありえない”…。……また、……ありえない、…ですか…? また…。まだ…。」
(しばらくの間、前原圭一は“ありえない”を何度か口ごもる)
「…どうして、…ありえないと?」
「火山ガスが発生したのは鬼ヶ淵という沼なのは知ってるよね?
それで学者の先生が緻密な模型を使ってシミュレーションをしたら、興味深いことがわかったんだってさ。」
「………………………………。」
「例の火山ガスってのは空気よりも重いらしくて、地形に沿って、低いところへ低いところへ流れ込む、水みたいな性質があるんだってさ。それで、発生源の鬼ヶ淵沼からそういうガスが噴出し、どれくらいの時間をかけて村を覆うかの実験がされたんだ。………そしたらさ。君が気絶していたという河原。流れ込むんだよ、ガスが。」
「…………よく言っている意味がわからないんですが。」
「つまり、君が本当にこの河原で気絶してたなら、君は丸一晩、猛毒の火山ガスの中にいたことになるんだよ。だからつまり、君がここで気絶をしていた可能性は否定されたわけさ。」
「………………………………。」
「もっとざっくばらんに言うよ。私はね、…君がウソをついてるんじゃないかなぁって思うんだ。
……君は大災害の時、安全なところに身を潜めていて、…ガスが薄れた頃合を見計らって村に現れて自衛隊の人に保護された。……どうかな? 図星かなぁ?」
(しばらくの間、記者は前原圭一をおちょくるように問い詰めるが、深いため息が聞こえるだけだ。)
「…………別に、仮にそうだったとしても、…俺は今さら驚きませんけどね。」
「驚かないとは、…どういう意味だい?」
■…この録音テープが本当に前原圭一を取材したものなのか。疑問視する声もある。
「………あんたもさっき言いましたよね。“ありえない”って。……あの雛見沢では、ありえないことなんて、いくらでも起こるんです。
…あそこじゃ、いないはずの場所に人がいる。死んだはずの人が生きてる。…そんなこと、珍しいことじゃないんですよ。……まさか、俺自身が、死んだはずなのに生きているってヤツを、…立証しようとはね、……はははははは。あはははははははは…はっはっはっはっはっはっは!」
「あっははははははは! はっはっは…。」
(記者も前原圭一もしばらくの間、笑い合う。)
■真偽を確認するため、前原家の親戚筋にテープの声を確認してもらったが、録音状態が明瞭でなく、またかなりの時間が経っているため、確認した親類が声を思い出せず、前原圭一本人の声であるとの確証を得ることができなかった。
「じゃあ圭一くん、話を変えるよ。あの大災害が雛見沢連続怪死事件の5年目の祟りではないかという話には、どう思う?」
「いや、それはないですね。5年目の祟りは俺ですから。」
「え? あははははは! 何のこと?」
「何のことって、……あんたの話に対する答えですよ。」
■…また、テープに記された11月28日という日付にも疑問が残っている。
「あの大災害は、…まぁ、言っても信じないでしょうけど。……俺が起こしたんです。……俺がね、…こんな村、丸ごと死んじまえって願ったから、起こったんです。」
「ははははは…。それは…豪快な話だね。」
「豪快? …そういう面白い言い方もあるんですね…。」
■なぜなら、前原圭一は災害から2ヶ月たった8月某日の自殺未遂を期に、精神障害が指摘され、医療施設に移送されていた。
「鷹野さんも俺が殺したし、監督も大石も俺が殺した。…あの時の俺にはね、何か神懸かり的な力が宿ってたんですよ。………そう、…例えるなら、足音かな。」
「足音…? って、…はははは、何だいそれ?」
「あんた、…足音を聞いたこともないんですか。…ぺたぺた。ひたひた。くっくっく。」
■施設は一切の取材を許さなかったため、昭和58年8月以降の日付でマスコミのテープに肉声が残されている可能性は、極めて低いからである。
「あんたも、今日からは歩いてる時、不意に立ち止まってみると面白いですよ。………それでね。…自分がちゃんと立ち止まったにも関わらず、……足音がひとつ、余計に聞こえたなら、…………気をつけた方がいいですよ。……ふふふふふ。」
「あ…あははははは! そ、そうだね、気をつけるようにするよ。はは、ははは!」
「…………そんなに俺、…面白いこと話してますか?」
■ただし、記者は現役当時、非常に強引な取材方法で非難を浴びたことがあり、施設に不法侵入して前原圭一を強行取材した可能性も否めない。
「あんた、…さっきからへらへらと笑ってばかりですね…。……監督と同じだ。…俺のこと、同情したり話を聞いたりしてるふりをしながらその実、……人のことを異常者扱いしてる目だ。」
「はは、はは。…そんなことはないよ。ははは…。」
「いや、…俺にはわかるんです。あんたの目は監督と同じだ。」
■これは本当に前原圭一の肉声なのか…? この録音テープの真偽は…未だ謎に包まれている。
「…………あの日以来、もう足音は聞こえない。…だから俺にはもう、あんな恐ろしい力は残ってないだろうけど。……今ここでもう一度、……あんたの死を願ってみるよ。俺に不愉快な話ばかりをするあんたの死を。
…そうだな、今回はひとつ、死に方も決めてみようかな。………鷹野さんは焼け死にだったから、…………じゃああんたは逆に水だ。…水に溺れて死ぬ、ってのはどうだい?」
■記者はこの取材から十数年後。平成7年8月に、テープ内の前原圭一の予告通り、水の事故、海難事故で命を落とすことになる。
「…絶好調だった当時の俺なら、次の朝までには必ず死んでる。………さてあんたは、…何日後に水で死ぬかな? …ふ、ははははははははははははははは。…あんたも気をつけろよ。俺如キニ、祟リ殺サレルナ?……はははははははははっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは
(前原圭一の笑い声の途中で録音は止められている。)
■そして、前原圭一は……
■取材の翌々日の昭和58年11月30日深夜。原因不明の高熱により急死した。
■死亡の前日、ナースコールで何度か告げた不審な言葉が記録に残ってる。
■「足音が、またひとつ余計に…。」
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:*祟殺し編お疲れさま会
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「この度も、ひぐらしのなく頃に〜祟殺し編〜を最後までお楽しみいただき、誠にありがとうございました。これまでのシナリオとは少し違う雰囲気でお送りしましたが、いかがだったでしょうか。お楽しみいただけたなら幸いです☆」
<レナ
「くすくす! 今回も胸の好くようなバッドエンドだったわねぇ☆
私個人としては、ガスに包まれて、ひとり、またひとりと村人が痙攣して泡を吹きながら息絶えていくシーンの描写も欲しかったところだけど、みんなの感想も同じかしら?」
<鷹野
「そんなわけありませんでしてよーッ!! またしても! またしても!!」
<沙都子
「大々々バッドエーンド!! くっくっく!
あっはっは!!」
<魅音
「あれれ…? バッドエンドって割には、魅ぃちゃんは楽しそうだね。」
<レナ
「ってゆーか、もう笑うしかないってのが本音でしょうねー。」
<詩音
「なっはっは。毎回、嫌ぁな終わり方がエスカレートすると思ったら、とうとうここまで行き着いちゃったわけですからねぇ。」
<大石
「……みんな仲良しで死んじゃったのですよ。仲良しなのです、にぱ〜☆」
<梨花
「う〜ん、そういう見方もあるのかなぁ! 毎回死んでる僕はもうごめんだなぁ! たまには死なずにエンドを迎えたいねぇ。」
<富竹
「富竹さんって、時報みたいな役割なんですよねー。富竹さんが死んだら、あ!後半戦突入だー! みたいな〜!」
<魅音
「「「わっはっはっはっはっは!!」」」
「さて! ではここで、今回のシナリオから立ち絵新登場の皆さんです。拍手でお迎え下さい〜!! まずは監督こと、入江京介さん〜〜!」
「ご紹介に預かりまして光栄です。どうもどうも。脇役だったわけですが、トータルで見てみるとかなりおいしい役だったなぁなんて思ってます。」
「本当ですわねぇ。今回限りの脇役にしては出番もセリフも多過ぎでしてよ。」
<沙都子
「はははは☆ 次回のシナリオでも出番があるかはわかりませんが、その節は応援よろしくお願いしますね〜。」
<監督
「ありがとうございました! では次に、第1回から登場していたにも関わらず、ずっと立ち絵がなかった、知恵先生〜!!」
「皆さん、どうもこんにちは! 第1回からずーっと学校シーンで登場させてもらってたんですけど、どういうわけか立ち絵がいただけなくて。…どうしてなんでしょうねぇ。」
<知恵
「……あ、はは、はははははは! ど、どうしてなんでしょうね! あ、知恵先生に席を空けてあげてください〜!」
<レナ
「さて! これでとりあえず全員揃ったね!  レナ! また乾杯をよろしくね!」
<魅音
「では皆さん〜! 各卓のコップをお持ちになって下さい〜! お飲み物はいろいろありますよ〜!」
<レナ
「本当にお疲れさま会もにぎやかになりましたねぇ。今、何人くらいいるんです?」
<大石
「私たちを加えて、多分10人くらいはいると思います。」
<知恵
「未成年陣と成年陣の人数比がこれでやっと互角かな! これで胸を張ってアルコールが飲めるね!」
<富竹
「ビールって、何で冷えてるとあんなにおいしいのに、ぬるくなるとあんなに不味くなるのかしら。七不思議のひとつよね。」
<鷹野
「くすくすくす! 何ででしょうね!」
<知恵
<監督
「……み〜♪ ボクも泡麦茶がいいのです。」
<梨花
「梨花ちゃんは、お酒は、だぁめ!!」
<レナ
「ではレナさん、そろそろお願いします。」
<詩音
「ハイハイ! 皆さん、ご清聴ですわよ〜〜!!」
<沙都子
「では皆さん! 『ひぐらしのなく頃に〜祟殺し編〜』、本当にお疲れさまでした!! 乾杯〜〜!!!」
「「「乾杯〜〜〜!!!!」」」
わ〜〜〜!!! ぱちぱちぱちぱちぱち!!
「さぁて。では毎回恒例の今回のシナリオ議論でもやってみますかね!」
<大石
「とは言ったものの…、今回のシナリオも煙に巻かれっぱなし。…うーん、意見のある方は挙手をお願いしますね!」
<レナ
「……………………お、みんな慎重。挙手ないね。」
<魅音
「……じゃあ私が先陣を切ろうかしら?
あの、申し訳ないんだけど、音楽を変えてもらってもいいかしら?
もう少しミステリアスな感じの。
………あぁ、これがいいわね。」
<鷹野
「……ムードが出まくりなのです。」
<梨花
「では…鷹野さん、お願いします!」
<レナ
「多分ね、「祟殺し編」のシナリオだけを吟味しても、謎は解けないんじゃないかと思うの。」
<鷹野
「……それは同感だね。ここまで物語が重なれば、そういう仕掛けがあることは明白だし、ね。」
<富竹
「………そんな仕掛け、ありましたかしら?」
<沙都子
「これが正しい例かはわからないけど…。…鬼隠し編で、前原くんが大石さんとレストランで食事をして、それが園崎さんに知られていて不思議だった、って行がありますよね?」
<知恵
「鬼隠し編だけだと、実に不思議な出来事ですけど、綿流し編を読めば別に不思議でも何でもないことがわかります。」
<詩音
「劇中の私が、制服の可愛いレストランと言っているのは、きっとエンジェルモートのことに違いありません。で、エンジェルモートってのは園崎一族が持つお店ですから…。」
<大石
「圭ちゃんの顔を知る者があの店にいて、それを私に伝えた…と考えれば、比較的筋は通るでしょ。そういうことよ。」
<魅音
「『ひぐらし』の物語は、微細に異なる場所もありますけど、大筋の設定においては、多分、3つのシナリオは共通していると思います。例えば、キャラクター設定。」
<監督
「……鬼隠し編の私はコワイ人だけど、それは鬼隠し編だけの設定、ということじゃなくて。…私は私で、3つのシナリオに、まったく変わらない設定で出演している、ということですね?」
<レナ
「まったく変わらない設定、というのは同感。
…僕がどのシナリオでも、常に同じ場所で同じ死に方をするのはその最たるものだね。」
<富竹
「……どんな物語になっても、必ず同じ日に死にますです。」
<梨花
「綿流し編で、お祭りの最中に鷹野さんと富竹さんが祭具殿に忍び込む、というシーンがありますけど。…あのシーンも、他のシナリオでは描かれなかっただけで、起こったことになってるのかもしれませんね。」
<知恵
「なっているそうです。……綿流し当日のお天気や、部活の内容、沙都子ちゃんの叔父さんの帰宅など、いくつかのイベントを除けば、ほとんどが共通するそうです。」
<レナ
「……だとすると、…………新しい疑問がいくつか湧きますね。まったく同じ環境で語られる物語なのに、なぜああも違う物語に派生するのか。」
<大石
「一般的なサウンドノベル的に考えると…物語が派生する分岐点が存在したってことになりますね。」
<監督
「綿流し編で言うと、…お姉に人形を渡さなかった、という辺り?」
<詩音
「……あんな序盤の選択肢一個でバッド確定とは…恐ろしい選択肢だねぇ!」
<魅音
「では……うーん。祟殺し編の場合ですと、…叔父を殺そうと決意する辺りですかしら。」
<沙都子
「私はずっとそれ以前。…愛人がトラブルで失踪して、叔父が雛見沢に帰ってくることになった辺りから、もう分岐しちゃってると思うわね。」
<鷹野
「……では一番最初の、鬼隠し編の分岐はどこなのですか。」
「やはり、…劇中の私が登場して、オヤシロさまの祟りに関する連続怪死事件のことを話す辺りからだと思いますね。」
<大石
「………今、思ったんですけれど。…ちゃんと圭一さんが魅音さんにお人形をあげて。それで大石さんも私の叔父さんも現れなかったら、……何も起こらずに平和に過せるってことなんじゃありませんの?」
<沙都子
「…へぇ……。沙都子にしちゃ本質ズバリじゃないのよ。確かに! 言えてる!」
<魅音
「じゃあ、この暗ぁい物語は、大石さんと叔父さんが現れないことを祈りつつ、園崎さんのご機嫌を損ねないようにすれば、みんな幸せになれるということなのかしら。」
<鷹野
「や〜〜い、お姉、バッドエンド要員〜!! みんな気をつけてね〜! お姉の機嫌を損ねるとバッドエンド確定ですよ〜!!」
<詩音
「な、何よそれぇえぇえ!! 詩音んんん!! あんたにゃ次は容赦なく釘を打つからね!! もうガシガシにー!!! 待てこらぁあああぁあ!!」
<魅音
「あははははははは。…これまでの物語の謎は全然解けないけど、どうやったらこの物語が大団円で終わるかの、グッドエンドの推理はできちゃいましたね。」
<レナ
「………本当に、…それで幸せになれるんでしょうか。大石さんと北条鉄平さんの不登場。魅音さんのお人形の件。…本当にそれさえ気を付ければいいんですかね。」
<監督
「そうそう。…みんなはひとつ大きな最後を忘れてるよ。雛見沢大災害という天災を忘れたかい?」
<富竹
「天災は…防ぎようがないですわよ?! 村のみんなにガスマスクを配って引越しでもしますの?!」
<沙都子
「……あれはきっとオヤシロさまの祟りなのです。だからオヤシロさまを怒らせないようにしなければならないのですよ。」
<梨花
「なっはっは! ややこしい話になってきましたね。つまり、オヤシロさまも怒らせてはダメ、と。オヤシロさまを怒らせないにはどうすればいいでしたっけ。」
<大石
「ダムの計画そのものがきっと駄目なんでしょうね…。ダム計画がそもそもなければよかったんじゃないでしょうか。」
<知恵
「それは…難しいわよね。…だとしたら、お怒りになったオヤシロさまを鎮める儀式が必要ね。」
<鷹野
「鬼ヶ淵の沼に生贄を沈める…生贄の儀式、ですね!」
<詩音
「…い、生贄って、…誰を生贄にするんですか?」
<レナ
「そりゃー決まってるでしょ。どんな分岐にも関係なく死亡が確定している人だよ!
どうせ死ぬなら、雛見沢の為の人柱になってもらわなくちゃね!」
<魅音
「……あー…、…その死亡が確定している人って、…やっぱり僕のことかな。」
<富竹
「やっぱりジロウさんは…この物語に欠かせない重要な役割の人だと信じてたわ。お役目を立派に果たしてちょうだいね☆」
<鷹野
「これで…今度こそ、グッドエンドの大団円シナリオの青写真ができましたね。せっかくだからちょっとやってみましょうか。役者は全員そろってることですしね!」
<監督
まずは…愛人に逃げられた北条叔父が、雛見沢へ戻るのを阻止!
「やぁ、私が北条叔父ですよ〜。(立ち絵がないので代役です☆)、愛人に逃げられてロンリーブル〜♪ 早く雛見沢に帰って、沙都子ちゃんを拉致監禁してハァハァに調教してご奉仕メイドですよ〜〜♪
では雛見沢にバイクで帰りますか。キーを入れて、カチっと。
……カチ?」
<監督
「成・敗ッ!!
灰塵に帰せでございますわよー!!!」
<沙都子
「さ、沙都子ちゃん、火薬の量、多過ぎじゃないかな…。」(監督、大丈夫かな…(汗))
<レナ
次に大石の登場を阻止!!
「今度は私ですか。んっふっふ! 私の名前はクラウド・大石☆
ジャジーでブルースな感じがだいぶイケてるナイスミドルですよ。
むっふっふ!」
<大石
「……み〜! 成敗なのです。」
<梨花
「そして忘れちゃいけないのがお姉へのアフターフォロー!
ささ、お姉! かわいらしいお人形さんですよ〜☆ よかったでちゅね〜!」
<詩音
「ぅぅ、何だか納得いかないぃいぃ!!!」
<魅音
「で、………最後にオヤシロさまの怒りを鎮めなくちゃならないと。」
<富竹
「では、…最後のお役目、よろしくね。」
<鷹野
「ふん縛って、簀巻きにして、吊るして! 3日かけて沈めるんでしたっけ?」
<大石
「面倒くさいですから、ここは一気にいっちゃいましょう〜!」
<監督
「がぼがぼがぼがぼーー!!!!」
<富竹
<ひぐらしのなく頃に〜完〜>
>>スパパパパパパパパパパパン ドガガガーン!! とレナがフリッカーでその場の全員を成敗するというエフェクト
「あははははは…、何でかなぁ☆ 突然、私の腕が光って唸って、大変なことに☆」
<レナ
「……屍累々で大変なことになってますのです。」
<梨花
「あれ? 電話だ。
………もしもし? あ、圭一くん?! お疲れさまですー!」
<レナ
「おうおう、相変わらず大盛り上がりみたいじゃねーか。こっちは次回の台本読みで相変わらず忙しいってのにー!! まぁいいや。今日の俺は機嫌がいいから嫌味はなしにしてやるぜ。……詩音はいるか? 出してくれ。」
「あれ? 今ここで発表しちゃうんですか? もう少し秘密にしたかったけど、まぁいいか。」
<詩音
「詩音さんと圭一さんの二人っきりの秘密ですってぇ?!」
<沙都子
「なななな、何よそれぇえぇええぇえ?! 聞いてない聞いてない聞いてなぁああぁいッ!!」
<魅音
「じゃあ圭ちゃん、私と一緒に言いましょうね。せーの!」
<詩音
「「「え、えぇええ゛ぇえぇえー?!?!」」」
「…まぁつまりはそういうことです。初登場以来、断トツの人気ナンバーワン。
双子姉妹の遅れ登場妹は絶対に人気が出るってのは、東鳩の時代から決められたお約束ですしー♪」
『ワケわかんねーことはどうでもいいよ。とにかく俺は次回に限り、主人公のお役御免! 風の噂じゃ、とうとう俺にも立ち絵が実装とか?! ひゃっほ〜い!!』
「まー、圭ちゃんの立ち絵なんてディスク容量の無駄遣いもいいとこですからね。ディスク1枚に納まらなくなったら、バッサリ没になる可能性激大ですけど。」
<詩音
「……でもいいんですの詩音さん? 主人公は毎回、ろくでもない最期を迎えると決まってましてよ?」
<沙都子
「くっくっく! まぁ、これまではね。でもね、次回からは必ずしもそうはならないんですよねー。」
<詩音
「『ひぐらしのなく頃に』も、今回の祟殺し編で3作目。ミステリアスな謎を次々と提示してきた前半部はここで折り返しになり、
次回からはこれまでの謎を解決していく後半部、究明編(仮称)のスタートとなります。」
<レナ
「つまり、私が名探偵になって、理不尽な謎をバスバス解決していく痛快ストーリーなわけです。今のうちから決め台詞を考えておかないとねー! あなたを、犯人です。みたいな〜☆」
<詩音
「納得行かない納得行かない!! 御三家の秘密に近付きすぎて、監禁されて拷問されて! 非業の最期を遂げる役に決まってるー!!」
<魅音
「お姉こそ、私に全ての謎と秘密を看破されて、謝罪の言葉を口にしながら自害なされる心の準備はOKですー?」
<詩音
「……オヤシロさまの祟りの可能性はナシなのですか?」
<梨花
「さて。その後半部の新シナリオ、仮称「目明し編」は現在鋭意製作中です。近い将来、皆さんに公開できると思いますので、どうか楽しみにしていただければ幸いです。」
「………「鬼隠し編」「綿流し編」そして「祟殺し編」。この3つのシナリオを重ね透かし、皆さんにはどんな真実が見えてくるでしょうか。……推理はまとまるどころか、ますます煙に巻かれていくだけ? う〜〜ん、あははは。レナも全然わからないです。あははは…。」
「この3つの謎に挑み、どんなに辛くとも挫けることなく戦い続けてくれた全ての方に。……その熱意に感謝するために、本来お送りする予定でなかった最後のシナリオをお送りします。どうかお楽しみ下さい。」