ひぐらしのなく頃に 「鬼隠し《おにかくし》編」
どうか嘆かないで。
世界があなたを許さなくても、
私はあなたを許します。
どうか嘆かないで。
あなたが世界を許さなくても、
私はあなたを許します。
だから教えてください。
あなたはどうしたら、
私を許してくれますか?
*Opening
どうせ引き裂かれるなら、
身を引き裂かされる方がはるかにマシだと思った。
信じてた。
……いや、信じてる。
今この瞬間だって、信じてる。
でも……薄々は気付いてる。
信じたいのは、認めたくないだけだからだ。
自分に言い聞かせるような、
そんな涙声が…もうたまらなく馬鹿馬鹿しくて……。
さらなる涙が…顔をもっとぐしゃぐしゃにする…。
機械的に繰り返されていたそれはようやく収まり、とても静かになった。
ひぐらしの声だけが…いやに騒がしい。
なのに、
…彼女のそれはまだ聞こえる気がする。
…聞こえるはずはない。
彼女はもう、言うのをやめているのだから。
泣いているのは俺だけだった。
彼女は泣きもしなかった。
彼女がそれを繰り返し口にしていた時も、表情どころか感情もなかった。
彼女に、俺のために流す涙がないのなら、俺にだって。
…彼女らのために流す涙はいらないはずなのだ。
それなのに……痛み、目を潤ませてしまうのは……どうして?
それでも引き裂かれてないと、……信じていたいから。
もう充分だろ?
内なる、もうひとりの自分がやさしく語りかける…。
俺はもう充分に心を痛めたさ。
…そして何度も、その痛む心を捨てるべきかどうか迷ったんだ。
だけど俺は…頑なに、捨てることを拒んだんじゃないか。
捨てれば…もっと心が楽になれる…。
それを知りながらも、俺は信じることを選んだんじゃないか。
その辛かった苦労は、きっと俺にしかわからないし、俺にしかねぎらえない。
なぁ俺。
…俺は充分に頑張った。
……俺がそれを認めてやる。
だから。
……もう楽になってもいいんじゃないか……?
それに………捨てるんじゃない。
彼女と一緒に、置いていくんだ。
…花を手向けるように。
さぁ。
……心を落ち着けて…。
もう右腕が痺れているだろうけど。
……頑張って振り上げよう。
ひとつ振る度に忘れるんだ。
親切が、うれしかった。
愛らしい笑顔がうれしかった。
頭を撫でるのが、好きだった。
そんな君がはにかむのが、好きだった。
これで最後だから。
これを振り下ろせば忘れてしまうのだから。
君に贈る、……………俺からの、
最初で最後の花束。
ひょっとすると、…俺は君の事が、
…………………………………好きだった。
…誰かが、ずっと謝っている気がした。
彼女は何を謝っているのだろう。
それに聞き耳を立てるのは悪い気がしたので、意識的に聞かないようにした。
親類の葬儀のために戻った、久しぶりの都会だった。
つい先月まで住んでいたにも関わらず、都会の賑やかさに圧倒された。
高層ビルに何車線もの道路。
歌うように騒がしい横断歩道のメロディ。
駅前での騒々しい選挙演説すらも今では懐かしかった。
今、住んでいる土地にはそんな賑やかなものはない。
あるのはセミの声と清流のせせらぎ。そして、ひぐらしの声。
そんな静けさに寂しさでなく、安らぎを感じ始めたのは最近だ。
確かに今住む土地には何もない。
気の利いたハンバーガー屋はおろか、自動販売機すらない。
レコード屋もないし、レストランもないし、ゲームセンターもない。
アイスクリーム屋なんてもってのほかだ。
最寄りの町まで行けばあるにはあるが、自転車で1時間もかかる。
だが、考えてみればそれに不便を感じる必要はなかった。
前の町には確かにレコード屋もゲームセンターもアイスクリーム屋もあったが、別にそれらを頻繁に利用していたわけじゃない。
アイスクリーム屋に至っては、10年も住みながらついに一度も入ることはなかったのだから。
…一度くらいは食べに行けばよかった。
今更ながらちょっと後悔。
…誰かが、まだ謝り続けている。
彼女は誰に謝っているのだろう。
これだけ謝っているのだから、もう許してやればいいのに。
彼女だって、こんなにも謝り続けることはないはずだ。
いつまでも彼女を許そうとしない誰かに、俺は少し苛立ちを覚えた。
どんな過ちだって、許されないことはないはずだ。
取り返せないミスなんかない。
次から気をつければいい。
…それでも彼女は謝り続けている。
では…取り返しのつかない過ちを犯してしまったのだろうか?
一体彼女が何を犯したのか知らないが、取り返しがつかないものなら、なおのこと許してやるべきだ。
彼女がいくら謝ったって、どうにもならないのだから。
それでも彼女は、こんなにもみじめな声で謝り続けている…。
なあ、彼女に謝られている誰かさんよ。
もういい加減に彼女を許してやれよ。
こんなにも…みじめな声で謝っているんだから……。
「圭一《けいいち》、そろそろ着くぞ。起きなさい。」
親父に小突かれようやくまどろみから目を覚ました。
ようやく列車が終点に着いたようだった。
新幹線やら電車やらを乗り継ぎ数時間。
窓の外の風景は、半日前までいた都会と同じ国であることを、
いや、同じ時代であることすら疑わせる。
ここからさらに車で山道を走る。
うっそうと木々が茂る山道が急に開けるとそこが…、
そこが今の俺の住む土地、雛見沢《ひなみざわ》(ひなみざわ)だ。
■朝(朝食の食卓)
*1日目
夏を迎えても、朝の空気は切るように冷たい。
その代わり、肺の底まで存分に吸いこめるくらい澄んでいた。
窓をがらりと開ければそこは一面の緑。
木々以外何もない。
お隣さんの家だってずーっと向こうだ。
だからきっとこの風景と朝の空気は俺だけのひとり占め。
もう一度大きく吸いこんで、肺いっぱいに満たしてみる。
空気にも味があることを、この雛見沢《ひなみざわ》に来て初めて知った。
手早く登校の準備を済ませ、朝食のために階下へ降りる。
お袋のみで親父の姿はなかった。
おそらく、朝方まで仕事に精を出していたのだろう。
親父は画家などという風変わりな職業をやっている。
これが何とも呑気な商売なのだ。
好きな時に起き、好きな時に寝、好きな時に仕事をしている。
その気楽さがうらやましくて小学校の時、
将来なりたい職業に画家と描いたら親父は大層喜んだ。
もちろんラクそうだったから、なんてのは内緒だが。
お袋が食卓に朝食を並べてくれる。
食卓には、ノリに漬物に生卵に焼鮭。
我が母ながら恐ろしい。
完璧な、一寸の隙もない典型的な朝食だった。
スケジュールという言葉と無縁な親父とは逆に、お袋は何事にもソツがない。
鼻歌混じりに味噌汁のなべを持ってくるお袋は、今朝も上機嫌な様子だった。
「こっちに引っ越してきてから、圭一《けいいち》が早起きになって嬉しいわね。」
「早起きしないと朝飯を食いそびれるんだよ。」
よい子ぶりを褒められ、ちょっと悪い子ぶった言い方をする自分がかわいかった。
「ご飯はいっぱい? それとも半分くらいでいい?」
「山盛り。」
湯気を立てるご飯を、まずはノリで味わう。それからとき卵をぶっ掛ける。
喉ごしのよくなったご飯の合間に、漬物の歯ごたえを味わう。
うん、今日も悪くない。今日も絶好調。
お袋は俺の見事な食いっぷりを見ながら柔らかに微笑んでいた。
「こっちに引っ越してきてから、圭一《けいいち》が朝食を欠かさないんで嬉しいわね。」
都会に住んでいた頃は朝の寝起きは悪かった。
遅刻ぎりぎりまで寝ていたし、朝食だってほとんど取らなかった。
お袋が毎朝用意する朝食をボイコットすることが、塾通いを強要されていた自分にできる唯一の反抗だったのかもしれない。
…反抗期というやつだったのだろうか。
毎朝早起きして作ってくれる朝飯を、一瞥すらせずないがしろにする昔の俺。
同じ家に住んでたらひっぱたいているだろうな…!
お袋が時計を気にすると、にや〜と笑って俺を急かした。
「そろそろレナちゃんと待ち合わせの時間じゃない? 急いで急いで。」
お袋は息子が女の子と登校するというシチュエーションを楽しんでいるようだった。
レナってのは俺のクラスメートだ。
実に世話好きなヤツで、かいがいしくこうして毎日、俺を向かえに来てくれる。
俺としては、いい年をした男が女の子と一緒に登校なんてのは照れ臭いだけなのだが…。
ま、確かに毎日毎日、律儀に待っていてくれるクラスメートを無闇に待たせるのも悪い。
…ってゆーか、レナのヤツ、毎朝何時からあそこに待ってるんだ…?
最後に味噌汁をがーっと喉の奥へ流しこみ、玄関へ駆けていった。
「レナちゃんにお漬物ありがとうって伝えてね〜!」
そういや、今朝の漬物は市販じゃなかったよな。
…そうと知ってりゃもう少し味わって食ってやるべきだった。
「あいよ!」
■レナと登校
「圭一《けいいち》く〜ん! おっはよ〜ぅ!」
朝の爽やかさをそのままにした快活な挨拶が響いてきた。
「相変わらず早えなー。たまにはのんびり朝寝坊したっていいんだぜ。」
「お寝坊したら圭一《けいいち》くんを待たせちゃうじゃない。」
…本当にかいがいしい、いいヤツなのだ。
「そん時ゃ置いてく。」
「け、圭一《けいいち》くん冷たい。いつも待っててあげてるのにー…。」
「さくさく置いてく。きりきり置いてく。」
「どうして冷たいんだろ。…だろ?」
レナがちょっぴり困った表情をする。
人の言葉に、いちいち一喜一憂する本当に楽しいヤツだ。
「嘘。ちゃんと待ってるよ。」
その一言に、レナは全身の緊張を解いたようだった。
顔が一気に紅潮する。
「…わ、…あ、ありがと…。」
「レナが来るまでずーっと待ってる。いつまでも。」
「……わわ、わ……ず、ずーっと……。」
レナが真っ赤になって頭から湯気をあげ思考をショートさせている。
こいつはこっち系のネタにとにかく弱いのだ。
これだけからかい甲斐のあるヤツもめずらしい。
「レナはロマンスものの文庫本は読んだことあるか…?」
「…え……あ、…ないよ。よ、読んだ事ない。」
その反応から察するに、興味は津々なのだが恥ずかしくて買えない、ということか。
読んだら大変だ。
赤面して卒倒するんだろうな……。
「そうそう、お袋から伝言。漬物サンキューでしたって。」
「う、うぅん、どういたしまして〜。どうだった? しょっぱくなかったかな?」
別にしょっぱくはなかったな。
むしろあっさりめだったくらいか。
…素直においしかったと言えばいいのだが、俺はそう素直に言えないらしい。
「…その前に聞きたい。 あの漬物を漬けたのはレナか? レナのお母さんか?」
「え?…え? 何で聞くんだろ? しょ、しょっぱかった…?」
今度は一転、おろおろわたわたする。
「レナか? レナのお母さんか?」
「…な、何で作った人、聞くんだろ?……………だろ?!」
「どっちが作ったかで感想が著しく変わる。」
「……え、えぇ…?!」
調理過程を思い返し、あせあせと指を折りながら塩の分量を思い出している
…別にいじめてるつもりはないのだが、からかわずにはいられない。
こういうのに悦を感じる男はきっと最低なんだろうなぁ。…俺。
レナは何度か声を飲みこんでからおずおずと口を開けた。
「……レ、レナだけど…。」
「うまかった。」
「え?」
「前回に続きなかなかだったぜ。飯との相性は最高だった。」
また赤面する。ぽーっとした感じで。
つくづく、本当にからかい甲斐のあるヤツだ。
…レナが悪い男にだまされないことを願わずにはいられない。
がんばれよレナ。俺が人並みに鍛え上げてやるからな!…そう勝手に決心する。
「行こうぜ! 魅音《みおん》を待たせるとあいつ、うるさいぞ。」
このままほっとくと、いつまでもぽーっとしているレナを正気に戻し、俺たちは学校を目指した。
このすぐ真っ赤になってぽーっとするヘンなヤツは竜宮《りゅうぐう》レナ(りゅうぐうれな)。
まだ知り合ってひと月も経っていないが、変わっているのは名前だけじゃないことはよく判る。
■魅音《みおん》との待ち合わせ
「魅ぃちゃ〜ん! おっはよ〜ぅ!」
次の待ち合わせ場所で俺たちを待つ人影が見えた。向こうも気付き手を振ってくる。
「お、来た来た。遅いよ2人とも〜!」
「いつも遅いのはお前の方だろ!」
レナの律儀さとは逆にマイペースなヤツ。
こいつは園崎《そのざき》魅音《みおん》(そのざきみおん)。
一応、上級生でクラスのリーダー役だ。
「おはようレナ。そして圭ちゃんお久しぶり! 何年ぶりだっけぇ?」
「2日しか休んでねえよ!」
「あっはは! そうだっけか。前に会った時はあんなに可愛かったのになぁ!」
魅音《みおん》の目線が俺の胸元からつーっと下がって行き、俺の下腹部に集まり始める。
…前に会った時にあんなに可愛かったってのは俺の股間のことかよ。
ちなみに断っておくが、見せた試しはないぞ。……念のため。
「そうだよ立派になったぞ。驚くぞ。」
「たくましくなっちゃった上にヒゲまで生やしちゃってさぁ〜☆」
「毎朝、元気全開で大変なんだ。今度見せてやるから挨拶してみろ。」
「今度なんて言わないで今がいいなぁ。朝の新鮮な空気を吸わせてあげたらぁ?」
朝の新鮮な空気をここまで台無しにする下品トークは聞いたことないぞ…。
魅音《みおん》ってヤツはたまにノリにおっさんぽいところがあるのだ。
「よしわかった。大公開だ。後悔するなよ…ッ?!?!」
俺がジッパーに手をかけたところで、レナが慌てふためきながらまくし立てた。
「…ね、ねえねぇ…、何の話? 何の話だろ何の話だろ…ッ!!」
赤面しておろおろしながら無知を装うレナだが、がっちりと会話についてこれてるのは間違いない。
「どうだった? 久しぶりの都会はさ。」
魅音《みおん》は下品モードから復帰し、ようやく朝の爽やかさに相応しい話題に転向してくれた。
「葬式で行っただけだぜ。慌しいだけだったよ。」
「でさ!探しといてくれたぁ? ……頼んどいたヤツ!」
「お前、人の話、聞いてないだろ。俺は葬式で帰っただけだぜ! おもちゃ屋巡りをしてる余裕なんかなかったんだよ!」
「ちっちっち。おもちゃ屋とホビーショップは全然違うよ? 特に洋モノこっちじゃなかなか手に入らないからねぇ。」
「魅ぃちゃん、またゲームの話?」
レナがくすりと笑うと、魅音《みおん》は得意げに頷いて見せた。
「そ! 圭ちゃんに洋ゲーのカタログを持ってきてもらいたかったんだけどねぇ。」
洋ゲーってのは輸入品のゲームの略だ。
こーゆう略し方をするといかにもマニアっぽいよな。
「そんなのまた通販で取り寄せりゃいいじゃねえか。」
「ま、そうするかなぁ。またプレイングの熱いゲームを入荷するからねぇ!」
「…こ、今度は、私にも判り易いゲームがいいなぁ…。」
魅音《みおん》はカードゲームやらボードゲームやらの愛好家で、様々なゲームを収集しているらしい。
なんでも、レナの話によると、魅音《みおん》の部屋は国内外のゲームの博物館のような状態になっているという。
「俺にも判りそうなゲームがあったらやらせてくれよ。」
「へぇ…いいよ! 圭ちゃんさえ良ければね。でもウチらのレベルは高いよぅ?」
「上等じゃねえか。俺だって遊び百般、遅れを取るつもりはないぜ!」
「…わぁ…。じゃあ今度は圭一《けいいち》くんも仲間に加わるのかな。…かな!」
レナが全身で喜びを表現しながら、俺と魅音《みおん》の顔をきょろきょろと見比べる。
魅音《みおん》が肯定を意味するウィンクを送ると、レナは一層表情を明るくした。
「男の子ってきっと外で遊ぶ方が好きだと思ってたから…ダメかと思ってたよ。」
レナはやたらとうれしそうに笑った。
これだけ親しそうに話をしていても、実際にはここに転校してきてまだひと月も経っていない。
転校生の俺が解けこめるよう、色々と気を使ってくれているのがよく判った。
だから俺もこれ以上、気を使わせないよう、早く解け込む努力をしなければならない。
自分でも少々馴れ馴れしいかな、と思うくらいの方が、きっとこの場には相応しいと思った。
■学校(沙都子《さとこ》と梨花《りか》)
ここ雛見沢《ひなみざわ》は本当に小さな村で、学校どころかクラスもひとつしかない。
そのクラスも、年齢学年ばらばら。
そんなばらばらの生徒たちが30人くらい、ひとつのクラスで勉強している。
昔はもう少し大きな校舎でちゃんとクラスもいくつかあったらしい。
だが何らかのきっかけで合同教室になってしまい、それがそのまま習慣として残っているのだという。
当初は面食らっていたが、人間とは恐ろしいもの。今ではあっさりと馴染んでしまった。
朝っぱらから子供のはしゃぎまわる声。
学校というよりは、幼稚園のようなにぎやかさも、今ではそこそこ心地いいものだ。
それまで俺たちの先頭を歩いていた魅音《みおん》が不意に俺に先頭を譲った。
教室の引き戸の前。
俺に引き戸を開けて、先頭で教室に入れということらしい。
ふ…。残念だが、もうひっかからない。
「…ここで先頭を譲るとはな。お手並み拝見ってことかよ。」
魅音《みおん》は不敵ににやりと笑った。
「ど、どうしたの…二人とも…?」
「下がってろレナ。危ないぞ。……ヤツだ!」
「えぇ…? じゃあ…沙都子《さとこ》ちゃんが…?!」
ヤツの名は北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》(ほうじょうさとこ)。
年齢をわきまえないクソ生意気なガキンチョだ。
口調も腹立たしいが、それくらいで腹を立てては年長者として大人気ない。
問題なのは…こっちだ。
「…見え見えのワナだな。引き戸の上に挟んだ黒板消し。…見え見えだぜ!沙都子《さとこ》!」
引き戸の奥でくぐもった笑いが聞こえた。
「お見事、圭ちゃん!…こりゃあ今回は勝負あったかな?」
「…いや、相手は沙都子《さとこ》だ。これだけとは思えない…!」
転校初日から壮絶なトラップコンボを見舞われた俺だからこそ、慎重になれる。
複数のワナを多彩に組み合わせ、本命のワナへ誘う誘導や、連続でヒットさせる連鎖系トラップなどなど。
しかも狡猾なのは、やたらと乱発しないことだ。
忘れた頃に……仕掛けてくる!
実に油断も隙もない。
「見たところ、黒板消しは普通。石とかは入れてないみたいだな。」
初日に食らったのは黒板消しに石が入れてある強力なものだった。
「じゃあさじゃあさ、ガラガラって開けて落としちゃえばいいんじゃないかな…?」
「それだ!」
沙都子《さとこ》の狙いはそれだ。
俺の注意を上に引き付け、引き戸に手をかけさせ…。
引き戸の手をかける部分にガムテープと画鋲で、恐ろしいワナが仕掛けられていた。
攻撃力抜群の恐るべきワナだ。
そして、それを偽装するために黒板消しをこれ見よがしに仕掛け……。
「見事なコンボだ沙都子《さとこ》! だが所詮はガキの浅知恵だったな!」
俺は勝利を確信し、扉をガラリと開け中に踏みこんだ。
足首に違和感。それはなわとびを足に引っ掛けた時の感触によく似ていた。
やられた!…と思ったときにはもう遅い!
余りにも美しい角度で転んでいく俺。
「圭ちゃん、避けてッ!!」
魅音《みおん》の鋭い声に、俺は反射的に身をひねって床に倒れこんだ。
「……ぃてて…てッ?!」
俺の転ぶ予定地点に墨汁の満たされたすずりが置かれている…!
クリティカルヒット時の惨状を思い浮かべ、俺はぞっとした。
「あらあらこれはこれは。おはようございます圭一《けいいち》さん。朝から賑やかですわねー!」
無様な格好で倒れている俺を、小馬鹿にするような声が迎えた。
「一段とスペシャルなトラップワークになったじゃねえか、沙都子《さとこ》!!」
「私、何のことかわかりませんもの。朝からついてませんわねぇ。」
「てンめぇええぇえ〜…!!………ぃててて…。」
不覚にも、転んだ時に腰をひねったらしかった。…すずりよりはマシか。
す、と俺の頭を小さな手が撫でた。
「…圭一《けいいち》の痛いの痛いの、飛んで行けです。」
小さなかわいらしい手が、俺のあたまをぽふぽふと撫でる。
「…腰とかは挫かなかったですか…? こうして撫でていれば痛いの痛いのは消えてきますです…。」
腰を挫いたなら頭を撫でてもしょうがないだろ、とつっこもうと思ったがやめておく。
こういうのは行為じゃなくて、やさしさが大事なんだもんな。
「あ…あぁ、ありがとな。梨花《りか》ちゃんのおかげで痛みが引いてきたぜ。」
「わぁ〜…梨花《りか》ちゃん、おっはよ〜ぅ!」
「…レナにおはようございます。みんなにもおはようございますです。」
梨花《りか》ちゃんはぺこり、ぺこりと可愛らしい仕草で頭を下げて挨拶した。
つられて、俺もレナも魅音《みおん》もぺこりぺこり。
「梨花《りか》ちゃんはいい子だよなぁ…。それに比べて沙都子《さとこ》…!!」
ぎょろりと睨み付けると、沙都子《さとこ》は口笛を吹きながらわざとらしく目線を逸らす。
「沙都子《さとこ》はいい子でございますのことよ。」
「いい子はこんな凶悪なワナは仕掛けないぞ!」
「言い掛かりでございますわぁ! 何の証拠があって…ふわッ!」
俺は沙都子《さとこ》の後えりを掴み上げる。こうするとしつけの悪い猫みたいだな。
でも猫はワナなんか仕掛けないぞ。
…もっと始末が悪い!!
「ゴ・メ・ン・ナ・サ・イって言ってみな。言わないならぁ……!」
俺は右手でデコピンを作り、ぶるぶると振るわせながら沙都子《さとこ》のおでこに近付ける。
「ぼぅ、暴力反対ですのー!! 証拠もないのにぃ〜!!」
「言っとくが俺のデコピンは凄く痛い! ベニヤくらいなら割る!」
「ひぃいいぃいぃ…!!! やめて寄らないで、けだもの〜!!!」
「人様が聞いたら誤解するような言い方をするんじゃねぇえぇえ!!」
小さな手が、くい、と俺のすそを引っ張った。
「…圭一《けいいち》が2日間もお休みしたから寂しかったのです。」
…本当に梨花《りか》ちゃんって子は…。
こういう言い方をされたらこれ以上何ができるってんだ。
半べそをかきながら、いつ来るとも知れぬデコピンに耐えるべく、きゅっと目をつぶった沙都子《さとこ》を俺はそっと解放した。
「…ふ、ふわぁあぁあぁあ…ん!! 悔しくなんかないもん!! ふわぁあぁああん!」
「…泣いちゃだめです沙都子《さとこ》。ファイト、おーです。」
いたずら盛りの友人の頭を梨花《りか》はそっと撫でる。
この二人が同い年とは到底思えなかった。
沙都子《さとこ》は梨花《りか》ちゃんの爪の垢を煎じて1リットルくらい飲むべきだと思った。
「…今度はもっとすごいワナを仕掛けなさいですよ。」
…ちょっと待てぃ。
その光景を見て、レナが恍惚の表情でうっとりとしていた。
「…はぅ…沙都子《さとこ》ちゃん泣いてる……かぁいいよぅ……。」
「持ち帰っちゃダメだからね。」
「…ひぅ! …だってだって…こんなにかぁいいよぅ?」
「どんなにかぁいいくてもダメなの。」
「でも…ちょっとくらいなら……だめかな?だめかな?」
レナが可愛らしいカオでとんでもないことを口走っている…。
魅音《みおん》の話によると…レナは可愛いものにめっぽう弱いらしく、しかもそれらを何でもお持ち帰りしようとしてしまうらしい。
物でも人でも…!
「モノもまずいが誘拐はもっとまずいぞ。諦めろ。」
「じゃあ見てるだけ。見てるだけだよ…。それならいいよね。よね?」
悔し泣きする沙都子《さとこ》にうっとりするレナ。
もしもこの雛見沢《ひなみざわ》で幼女誘拐事件が起こったら、俺はレナのことを通報しなければならないだろう。
許せよレナ。
ちゃんと差し入れは持って行ってやるからな…!
「先生来たよ。早く片付ける! 沙都子《さとこ》、すずりあんたのでしょ!」
魅音《みおん》の一声で一気に場の空気が戻った。
すずりもまずいが引き戸の画鋲はもっとまずい!
俺は刺さらないように気をつけながらガムテープごと引き剥がした。
仕掛けたのは沙都子《さとこ》でも、後片付けはみんなでだ。
先生が教室に入ってきたときには、つい今あった光景は綺麗に片付けられていた。
「あははは、間に合ったね!」
「きりーっ、きょーつけー!」
クラス委員長の魅音《みおん》が号令をかけた。
■学校風景
この学年もばらばらなクラスで先生がひとりというのは大変だった。
ひとりひとりに違うことを教えなければならない。
必然的に先生は小さい子の世話にかかりきりになる。
最上級の魅音《みおん》やレナは、ほとんど自習状態。
それどころか先生といっしょに下級生たちの勉強を見ることもあるので、とても自分の勉強までは手が回っていないようだった。
実際、彼女らの勉強の進行度は俺に大きく遅れを取っていた。
その結果、俺は先生に代わってレナや魅音《みおん》の勉強を見るはめになったのだった。
「圭一《けいいち》くんはお勉強教えるのうまいね。わかりやすいよ。」
レナはチェック箇所をマーカーで塗り終えると一息ついた。
「教える端から自信がなくなるよ。自分の理解の浅さがわかるなぁ。」
「人に教えるには3倍理解してなければならない、って言うしね。圭ちゃんもうちらに教えながら、同時に復習も出来てるわけなんだよ。」
反面、こっちはちゃらんぽらんだ。
第一お前、俺より上級生だろ?!
「魅音《みおん》さ、他人事じゃないぞ。真剣にやんないとまずいぜ。こんなレベルじゃ…。」
「別に進学校を目指すわけでもないし。受験に必要なそこそこが出来てりゃ充分充分!」
開き直りの潔さだけは天下一品だな。受験前の達観したそれとは余裕が違う。
「魅ぃちゃん、圭一《けいいち》くんががんばって教えてくれるんだからさ。私たちも頑張ろうよ。」
「レナは素直ないい子だなぁ…。先生がきっといい学校に進学させてやるからな。」
「…わ、わぁ……あ、ありがとう……。」
「レナには特に教えてやるからな。2人きりでプライベートレッスンだぞ。」
「…ぷ、…ぷらいべと…れ、れっすん………。」
レナの頭から
ポン、と音がして丸い輪っかの煙が上がっていく。
一体、どんなプライベートレッスンを想像したらあんなに赤面できるんだろう…?
今度ぜひ声に出して実況してもらいたいものだ。
魅音《みおん》が単語帳をべらべらといじりながら投げやりに聞いてきた。
「都会じゃさ。こんなに勉強しなきゃいけないわけ〜?」
「この程度はできないと進学できないね。」
「進学できないから勉強するわけ?」
「まぁ。平たく言えばそうなるな。…将来、役に立たないのは承知で。」
「こっちじゃあさ、出席日数が足りてりゃみんな進学できるんだよ。」
「…そ、そうなのか…?!」
勉強イコール受験というニュートンの法則並の常識をあっさり否定され、さしもの俺も狼狽する。
「そうかもね。試験で振り落とさなきゃならないほど、人もいないし。」
「誰でも進学できるならさ、そんなにガリガリとやることもないんじゃない?」
「…まぁそうだけど…、でも一般常識程度にはできた方が…、」
「おじさんはそんな無駄な勉強に時間をかけるよりさ、この思春期の貴重な時間をもっと有意義に過ごすために使うべきじゃないかなぁ、と考えるわけよ。」
笑い飛ばすには含蓄のある言葉だった。
もっとも魅音《みおん》のことだからそこまで深い意味はないのだろうけど。
チャイムの代りに校長先生の振る振鈴の音が聞こえてくる。
「圭ちゃん、おしまいおしまい! さぁ楽しいランチタ〜イム!」
さっきまでの消極的な態度とは一変。魅音《みおん》がクラスに号令をかける。
「…圭一《けいいち》くん、お昼にしよ☆」
難しそうな顔をしていたのかも知れない。
レナはやけに明るく笑ってくれた。
「うっしゃ! 飯にするか!」
■昼食
このクラスでも各々のグループがあるようだった。
概ねのグループは同性同世代だが、俺たちのグループは別だ。
年齢もばらばらで男女混合。
だからといって遠慮があるわけじゃない。
その辺の気安さが、転校生の俺にはとても嬉しかった。
レナと魅音《みおん》が互いに机を向かい合わせにくっつける。
そこに沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんが自分たちの机をよたよたと運んでくる。
「圭一《けいいち》くん、早く早く!」
レナが行儀悪く箸を振りまわしながら俺を急かす。
全員揃わなきゃ弁当箱のフタも開けないらしい。
「圭一《けいいち》さんのお弁当はきっと貧乏臭くパンの耳に決まってますわ〜! さぁ恥ずかしがらずにお見せなさいな!ほらほら!」
憎まれ口を叩く沙都子《さとこ》でも、俺が揃うまでは弁当箱を開けない。
俺は手早く弁当箱を引っ張り出すと、イスを引っ張って彼女らの輪に加わっていった。
「おぅ、お待たせ!」
「…では魅ぃ委員長の号令でいただきますです。」
始めはとても恥ずかしかったが、そんなのはすぐに薄れた。
きっと俺も、この中の誰が遅れても弁当箱を開けないだろう。
年齢も性別も違う。でも、仲間だった。
「いっただきま〜す!!」
5人の綺麗な合唱が教室に響き渡った。
しかし、自分以外が全て女の子というグループ構成にもすっかり慣れたな。
もちろんクラスには男子もいたが、歳がやたらと離れており、俺を怖がって近寄らない。
まぁそんなもんだ。
男の子には年上は怖く見える。
そこへいくと女の子、少なくとも彼女らは分け隔てない。
おかずを中央に集め、みんなで自由に突っつく。
こういうのって結構、女の子は気にするんじゃないかな、と思ってドギマギしていたが、それを魅音《みおん》に見透かされずいぶんと囃したてられたものだ。
努力(?)の結果、今では誰の弁当箱のおかずであれ、箸を伸ばすことができるようになっていた。
「あらあら、圭一《けいいち》さんのお弁当は今日は大奮発ではございませんことぉ?」
「あらあら、沙都子《さとこ》さんのお弁当こそ大奮発ですこと。煮物がシックでイイ感じですわぁ。」
沙都子《さとこ》の売り言葉に買い言葉で返し、互いにクロスカウンター状態で箸を相手の弁当箱に突っ込む。
「あら美味!」
「お、里芋がイイ感じだぞ。煮物は冷めててもうまいよなぁ!」
俺の笑顔を確認すると梨花《りか》ちゃんが表情をちょっぴりほころばせた。
「…昨夜のお夕食の煮物を少し取っておきましたですよ。」
ちなみに、梨花《りか》ちゃんと沙都子《さとこ》のお弁当はいつも同じなのだ。
どうも梨花《りか》ちゃんが毎日作ってきてあげているらしい。
「この煮物も梨花《りか》ちゃんが作ったのかい? …こいつはお袋の味クラスだよなぁ!」
素直に感心する。
このニンジンで作った花型は型じゃなく、包丁によるものだ。
なかなか出来ることじゃない。
「梨花《りか》ちゃんって何気にそーゆうの得意なんだよなぁ。」
「お裁縫とかお洗濯とかも上手なの。すごいよね。すごいよね!」
「梨花《りか》はいろいろとすごいんですのよ。をーっほっほっほ!」
「お前が威張ることじゃねえ!」
「…ボクより、レナの方がお料理は上手です。」
「……え、あ、…その……ね☆」
思わぬタイミングで話を振られたらしく、レナは言葉を詰めらせ赤面する
確かにレナの弁当箱はこの食卓の花だった。
見た目にもうまそうで、実際にうまい!
みんなもレナの弁当箱には進んで箸を伸ばす。
「これ、前に評判良かったからいっぱい作ってみたの。…おいしいかな?…かな?」
「かなり合格点! あ、魅音《みおん》、お前取り過ぎだよ!」
魅音《みおん》の箸を払い、俺の分を確保しようと身を乗り出すと、沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんも一斉に身を乗り出してきて大変なことになった。
みんな口々にうまいうまいと言いながら、あっという間にレナの弁当箱を空にしてしまう。
誰もレナの分を残してやろうとは思わない辺りが恐ろしい。
でも、それを見てレナはすごく満足そうだった。
「いかがかしら。レナさんもとてもお料理が上手ですことよ? 圭一《けいいち》さんとは大違いですの!」
「だからお前が威張ることじゃねーだろ!」
「沙都子《さとこ》だって圭ちゃんと変わらないじゃんよ。あんた、ブロッコリーとカリフラワーの区別、付くようになったわけ〜?」
沙都子《さとこ》の顔色がさっと青く変わる。
「…おいおい、ブロッコリーとカリフラワーの違いなら俺だってわかるぜぇ?」
「わ、わわ、分かりますもの! ………分かるもん!」
つくづく嘘のつけないヤツだ。
「圭一《けいいち》くん、ど、どっちでも茹でてマヨネーズかけるとおいしいじゃない? いじめちゃかわいそうだよ…。魅ぃちゃんも!」
レナがあわててフォローに入るが、魅音《みおん》はにんまりと笑って沙都子《さとこ》に詰め寄る。
「まぁまぁ家庭科の授業ってことで。…んじゃ沙都子《さとこ》、これはぁ?」
魅音《みおん》が箸でひょいと摘み上げる、ベーコンに巻かれた緑の断面。
「…でもそれ、アスパラ…むぐっ、」
魅音《みおん》のアイコンタクトに俺はコンマ3秒で梨花《りか》ちゃんの口を塞いだ。
アスパラのベーコン巻きをもって2択を迫るとは…。恐ろしいヤツ。
「えーと、その!えーと…黄色がカリフラワー、うぅん、緑がカリフラ……、」
「さぁどっちだ!うぅん?!」
「多分、黄色がぶろっこりで青がかりふらわで……でも緑は……その……ぁぅ……、」
「本当にどっちか分かってるぅ〜? 降参した方がよくない〜?」
さすがクラス委員長。最年長。魅音《みおん》のいびり方、追い詰め方は年季が違う。
何の根拠もないが、園崎《そのざき》家に婿入りしたら大変なんだろうなぁ…。
「わかりますもの…! わかるもん!!」
「じゃあ答えなよぅ!」
「…わかるもん……わかるもん……ぅわぁあぁああぁあん!!」
とうとう堪えきれず、泣き出してしまった。
こうなると沙都子《さとこ》も歳相応だ。
「…は、はぅ〜…か、かぁいぃよぅ…。」
悔し泣きの沙都子《さとこ》にレナは狂喜している。
胸に飛び込んでくる沙都子《さとこ》の頭を抱え込むと、撫でながら頬擦りをし幸せの限りを満喫している。
…しかし…幸せそうな顔だよなぁ。
まるで今すぐこの世が終わっても悔いのないような、そんな満面の笑顔だ。
「レナレナ〜! 魅ぃ魅ぃがいじめるんですのー! わあぁあぁああん!!」
「かぁいいかぁいい…! 大丈夫だよ、レナお姉ちゃんが悪い人たちはやっつけちゃうからね!」
すぱぱーん!!
稲妻が閃いたように感じた。
「……今、……一体……何が……?」
レナの両腕から超音速の拳が繰り出され、俺と魅音《みおん》の顔面を直撃する。
気付けば、俺と魅音《みおん》は仲良く顔面にあざを残し、天井を仰いで大の字に倒れていた…。
「…圭ちゃんは食らうの初めてだよね。…今日のはまだ…甘い方…。」
「…あ、甘いって……これよりまだ上があるってのかよ…?」
そこまで言い、俺も魅音《みおん》も同時にガクッと頭を垂れる。
これからは、レナの戦闘半径では注意することにしよう…。
「ほぅら沙都子《さとこ》ちゃん、やっつけちゃったよ〜。……あぁん、かぁいい〜! お持ち帰りしたぃ〜!!」
レナから見えないよう、沙都子《さとこ》が俺たちを一瞥し舌を出す。
ち、畜生〜レナを上手に使いやがってぇえぇ!!!
梨花《りか》ちゃんが無言で、俺たちの顔面のアザを撫でてくれていた…。
■下校
どんなに起伏ある遠路でも、下校時だけは短く感じる。
俺たち3人の影が長い。
「ねぇ圭一《けいいち》くん、明日はさ、何か予定とか、あるかな?…かな?」
「え…?」
レナにしてはかなりの積極的なアプローチに思わず赤面した。
デ、デートってのはもっと慎ましやかに誘うものじゃないのか??
しばし言葉を失う俺を見て、レナはどういう風に誤解されたか気付き、勝手に赤くなる。
「…え、…あ、…ち、違うの、…そーゆうのじゃなくて…その…!」
深い意味はまったくなかったらしい。
でもレナが狼狽するのは楽しいので、そっちの角度でおちょくることにする。
「なぁんだ、…そーゆうのじゃ、…ないのかよ…。」
「え…?! えぇ?!」
俺は大袈裟に肩を落としてがっくりして見せる。
「……け、圭一《けいいち》くん、何でがっかりしてるんだろ?だろ?!…魅ぃちゃぁん!」
「…ぷ、あーっはっはっはっはっは!!!」
堪えきれなくなった魅音《みおん》が俺の背中をばしばし叩く。
「そっかぁ!そーゆう攻め方はおじさん知らなかったわ。わーっはっはっは!!!」
「…え?…え? なに?なに?!何なの?!」
腹を抱えて転げまわる魅音《みおん》に、状況が飲みこめずわたわたするレナ。
俺もつられてげらげらと笑いながら、ちょっぴりの罪悪感と共にレナの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「うそごめん冗談。…悪かったよ。」
つくづくかわいいヤツめ。
「……え、…え? ……冗談って?どこからだろ!どこからだろ?!」
「え、ぁ…途中から。」
「…途中からぁ?ってことは圭ちゃん、最初の真っ赤になったのはあれ演技じゃないんだ?」
「…え…?…そ、それって……?」
一瞬の心の隙だった。魅音《みおん》がこんなおいしい揚げ足を取らないわけがない…!
「え、いやその……、」
二の句もまずい…。
迂闊な狼狽がますます俺を不利にして行く。
その後、俺はたっぷりと魅音《みおん》におちょくられることとなった…。
「……………んで、明日がヒマだと何なんだよ。レナ。」
「え…?と、…何の話だっけ…?」
切り出した本人が忘れるほどの間、俺は魅音《みおん》におちょくられていたらしい…。
「圭ちゃんさ、まだこの雛見沢《ひなみざわ》、ひとりじゃ回れないでしょ。」
確かにそうだ。
恥ずかしいながら、スイカ割りのように目隠しをされて、3回ぐるぐる回されたらもう、そこがどこか分からない自信はかなりある。
「…そうだなぁ。町へ行くのと学校へ行く以外はまだ自信ないな。」
「そうそう。それでね、明日ね、魅ぃちゃんとレナでお散歩しながら圭一《けいいち》くんに雛見沢《ひなみざわ》を案内してあげようよってことになって…。」
まさに渡りに船。率直にこの申し出をうれしく思った。
「もちろん行くでしょ?」
「ヒマならな。」
「女の子が誘ってんじゃ〜ん?!」
「ヒマならな。」
「どーせヒマなんでしょー?」
「ヒマならな。」
魅音《みおん》の有無を言わせなさそうな口調に敢えて反抗する俺。
渡りに船とか思いながら、素直に歓迎できない自分がかわいい。
「…圭一《けいいち》くん、…ヒマじゃないのかな?………かな?」
魅音《みおん》との不毛なやりとりに、レナがおずおずと俺を覗きこんできた。
さっきは少々いじめ過ぎたと思ったから、今回はレナのペースに合わせてやることにする。
「……すまん、許せごめん。ヒマだ。」
「…よかったぁ!」
屈託のない笑顔でレナが破顔した。
「おうおう! 魅音《みおん》さんとレナさんじゃあずいぶんと温度差がありますじゃーん?!」
魅音《みおん》の申し出にはやたらともったいぶった俺が、レナにはあっさり頷いたのが面白くないらしい。
だが俺にはそんな魅音《みおん》のむくれる様子が実に面白いぞ。
なのでレナの背中を押して、魅音《みおん》を置き去りにつかつかと歩みを速める。
「行こうレナ。明日は二人っきりで出かけような。嫌味な魅音《みおん》は置いてって。」
「……え、わ…、…圭一《けいいち》くんが…それでいいなら……。」
「案内しようって提案したのは私〜!! シカトすんな前原《まえばら》圭一《けいいち》〜ッ!!」
「二人きりでピクニック嬉しいなぁ! 弁当はもってくかレナ。」
「……お、お弁当いるなら…レナ、…作っちゃおうかな……かな!」
「レナもシカトすんなー!2人がホテル街へ消えたって回覧す、
「じゃあじゃあ! レナ、今日は早く帰ってお弁当の準備するね…! 明日が楽しみ〜!じゃあね、圭一《けいいち》くんに魅ぃちゃん!さよぅならぁ!」
まるで月面を跳ねるかのような足取りで、レナは駆けて行った。
砂塵が消え、あとに残される俺と、大の字になって横たわる魅音《みおん》。顔面にはアザ。
「………大丈夫か…? 魅音《みおん》とレナの立ち位置、2mは離れてたはずだぞ…。」
「……あ……あんたが来て以来、キレ味は増す一方…。おじさん、身が持たないわ…。」
…食らうような不穏な言動を慎む方がいいと思うんだがな…。
あるいは魅音《みおん》なりのドツキ漫才なのだろうか。
だとしたらえらい命懸けだぞ…。
「挫けるなよ魅音《みおん》。レナのジャブを見切れるのはお前しかいない!」
「……私は膝じゃないかと思ってんだけどね……。」
…俺たちはとんでもない格闘王とお付き合いしてるんじゃないだろうか?
将来、エクストリームな世界でデビューするかもしれないな…。
「レナには負けられないぞ! 魅音《みおん》も鍛えてリベンジだ!」
「け……圭ちゃんがしてよ……。おじさんは応援してる……。」
俺と魅音《みおん》はレナの必殺技攻略への決意を新たにするのだった…。
<幕間>
1■うちって学年混在?
「……レナってさ、俺と同い年だったよな?」
「うん。そうだよ? 干支もおんなじだよね。」
おいおい、年が同じで干支が違ったらおかしいだろうが…。
「そんなことないよ。誕生日の違いがあれば、年齢が同じでも干支が違うこともありえるって!」
「あれ? あ、そーか。魅音《みおん》、頭いいじゃねぇか!」
「あははははは。ところで圭一《けいいち》くんは何月生まれなのかな? レナは7月なんだよ!」
レナがえっへんと胸を張る。
…おいおい、そりゃどういう意味だよ。
まさか、俺よりちょっとでも誕生日が早かったら威張ろうってつもりじゃないだろうな…。
「…ふ! だが諦めろ。俺に誕生日で挑もうったって無駄なことだ!! ……何ならひと月差ごとに100円の賭けをしてもいいぜー!」
「え? え?! なんでだろ? なんでだろ?!」
突然、賭けにされて狼狽するレナ。
…うろたえ具合から今月の小遣いは残り少ないと断定する。
しかし…、たかだか誕生日程度でこうもうろたえてくれると、楽しくて仕方がないぞ。
「ってことは圭ちゃん、ひょっとして4月生まれ?」
「そーゆうこったな! 残念だなレナ! 俺、もーとっくにレナより年上なんだよ。」
「へぇー! そうなんだ! じゃあ魅ぃちゃんと同い年なんだね!」
「まぁ、ほんの何ヶ月かはね〜! すぐにまた差を開いてあげるけどさ!」
魅音《みおん》が鼻でヘヘンと笑う。
…おいおい、威張ることじゃねーぞ…。って俺のことか(苦笑)
「……そう言えば…、魅音《みおん》って上級生なんだよなぁ。」
「下級生の方が萌えるってんなら、今日から下級生ってことでもいいけどー?」
「魅ぃちゃん、よくわかんないこと言ってる……。」
レナの赤面具合を見れば、ばっちり理解できてることがわかるんだけどな…。
「んで、沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんが下級生と。……どころか学校が違うくらいの下級生だよな?」
「け……圭一《けいいち》くんは、ちょっと好みの年齢が低すぎると思うな…。思うな……。」
レナこそよくわかんないこと言ってるぞ…。
とりあえず、頭部を鷲掴みにして、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。
「はぅ〜〜〜!! やーめーてーー……!」
「前から思ってたんだけどさ。なんでこの学校って、クラスが学年混在なんだ?」
「教室の数が足りないからだよ。仕方ないじゃん? 営林署の建物を間借りしてんだからさー。」
…そう言えばそうだよな。うちの学校って前々から変だと思ってた。
校庭は砂利だし、学校とは無関係な部屋はあるし、変な建設重機みたいのは止まってるし。
「何で借りてるんだよ。本当の学校はどうしちゃったんだよ?」
「戦前からずーっと立ってたらしいからねぇ…。老朽化でね。廃校ってわけよ。」
それは…さぞや趣のある渋い校舎だったんだろうな。
「まーそれで、生徒は町の学校に通うことになったんだけどさ、遠いでしょ?」
「どこの学校だったの?」
「興宮《おきのみや》の駅前通りを抜けて病院に曲がって、小児科の向かいに学校あるのわかる?」
「え、えーーーーーッ?!?! と、遠いよぅ…!」
地理的なものはさっぱりだが、レナの驚きようからかなり遠いことがわかる。
「まぁ、そんなわけでさ。
興宮《おきのみや》の学校に通いたくない連中は、こうして営林署の建物を間借りした仮校舎に通ってるってわけさ。」
「雛見沢《ひなみざわ》の子供の半分くらいかな? 朝早くに自転車で通ってる子たちも結構いるよ。」
「まぁ、こんなハチャメチャな学校に通ってたら、進学校とかはちょっと無理だろうからねぇ。」
「そんなことないよ魅ぃちゃん。ちゃんと頑張ればどこでだってお勉強はできるよ。」
「お、そうだぞそうだぞ! レナとは意見が一致したな!」
「うん、そうだね。そうだね! がんばろ!」
「せーぜー頑張って下さいな。おじさんはささやかに応援しとりますわ。」
「俺たちがじゃないぞ、魅音《みおん》がだぞ! お前、受験生だろ?! こんな成績じゃお先真っ暗だぞ?!」
「いーもんいーもん。路頭に迷ったら永久就職して圭ちゃんに食わせてもらうから☆」
「え、え、永久就職って何だろ?! 何だろ?!」
「こら! そこ、うるさいですよ! 自習は静かに!」
3人そろってばっさりと先生に怒られる。
いやまったく申し訳ない…。
それを見て沙都子《さとこ》がケタケタと笑う。
それに俺はあかんべー、と舌を出して応えてやる。
……確かに魅音《みおん》の言うとおりだな。この学校は進学とは無縁だ。
その代り、どこの学校にもない貴重なものがたくさんあるのだろうけど。
1■うちって制服自由?
まだ6月だってのに…暑い。
外ではセミがミンミンと鳴き、夜は蚊まで出る。…これって完全に夏だよなぁ。
…朝だけは涼しいのが救いか。
「暑いでございますわねぇ!」
沙都子《さとこ》が気だるそうにスカートをバタバタさせている。
…はしたないぞ、おい。
…ガキンチョとは言え、一応女の子なんだからさぁ。
「圭一《けいいち》はワイシャツ1枚で涼しそうですわねぇ…。羨ましいですわ。」
「俺から見りゃ、スカートの沙都子《さとこ》の方が涼しそうだよ。この時期のズボンの股座がどれだけ蒸すか、女のお前にゃわかるまい!」
「……む、…蒸すんだ………、はぅ……。」
またこの娘は、いかがわしい想像をたくましくさせてるな…。
「レナの夏服は涼しそうな色合いがいいよな。見てるこっちも涼しくなる。」
「あはははは。ありがと! 本当に涼しいんだよ。」
「私もレナさんみたいな涼しい夏服がよかったですわねぇ。」
「でも沙都子《さとこ》ちゃんの夏服、ワンピースですっごい可愛いし! レナは沙都子《さとこ》ちゃんの夏服、着てみたいなー☆」
「これ、結構蒸しますわよ? 絶対にレナさんの方が涼しいですわぁ。」
「でもかぁいい服の方がきっと楽しいよ。……はぅ!」
……レナと沙都子《さとこ》では根本的に価値観が違う気がするぞ。
「そう言えば…、この学校って指定の制服とかないんだよな。」
「うん。ないよ。相応しい服であれば私服でも大丈夫なんだよ。」
私服の生徒は確かに多い。制服を着ている生徒もいるが、みんなデザインは同じ、地味なものだ。
「…他の連中が着てる制服は何なんだよ。みんなお揃いだよな。」
「あれは町の学校の制服なんですのよ。別に決まってるわけじゃないですけど、みんな着てますわね。」
「そこへ行くと、俺らの仲間はみんないろいろな制服を着てるよな。…わざわざどこかから取り寄せたのか?」
「えぇ。魅音《みおん》さんが調達して下さいますの。」
「魅ぃちゃんの親類で、古着商をやってる人がいて、全国の学校の服を格安で仕入れてるんですって。」
「んで、その親類に頼んで、いろいろ個性的な制服を取り寄せてもらってるわけか。」
…魅音《みおん》のヤツ、仲間を着せ替え人形にして楽しんでるな、絶対。
………しかし変な古着屋だよな。
古着全般はわかるとして、全国の学校の服を仕入れてる?
…よくわからん古着屋だ。
遠くの知らない学校の制服など、何の役にも立たないんじゃないのか??
「…うん。それはレナも思うよ。他にも体操服とかスクール水着のお古とかも扱ってるの。…そういうののお古はちょっと嫌だよねぇ。」
「あんまり儲かってなさそうな商売だな。……きっと少しでも儲けさせるために、魅音《みおん》が一肌脱いでやってるんだろうな。」
「……でも、いつも魅音《みおん》さんが自信満々に言いますのよ? 今にきっと大ブレイクしてすごい商売になる!!って。」
……学校制服の古着屋が大ブレイクねぇ?
…わからん。
■レナと魅音《みおん》とお散歩。(巨大弁当の恐怖)
*2日目
休日の朝をのんびり過ごしていたら、すっかり遅れてしまった。
今日はレナと魅音《みおん》に雛見沢《ひなみざわ》をいろいろと案内してもらう日だ。
待ち合わせ場所ではすでにレナと魅音《みおん》が待っていた。
「圭ちゃん、遅いぞー!」
「わ、悪い悪い! 責めるのは昨夜の面白かった特番に言ってくれ!」
「ほー、女の子との待ち合わせに遅刻して、言い訳がそれってわけぇ?!」
「……魅ぃちゃんだって今、来たばかりなんだよ。」
「あっひゃっひゃっひゃ……☆ 昨夜の密着24時間、面白かったし、ねぇ?」
てめーも同罪だぞ。
レナはやたらと重そうなボストンバックを持っていた。
一体…なんだ?
その疑問に魅音《みおん》は目配せで答えてくれた。
そう、レナは本当に弁当を作ってきてしまったのだ!
「圭ちゃん、あのあとレナ、大張り切りだったらしいよ?!」
「別に俺がけしかけたわけじゃないだろ…!」
「…そ、そんな、…大変じゃなかったから…気にしないでよ……ね☆」
「昨夜から今朝まであのテンションらしいよ?! 責任取れんの?!」
「わ、わかった…。俺も男だ。責任は…取る!」
「……え、……せ、せ…責任って…?! 何だろ! 何だろ!」
俺と魅音《みおん》はゆっくりとレナに振り返り、そしてやたらと重たそうなボストンバックに目線を落とした。
あの中身が弁当箱とは、常識なら考え難い。
…だが相手はレナなのだ!
「……2kgくらい…かな?」
「レナね、荷物持つときよっこらしょ、って言ってた。……5kg。」
「…そ、それはオーバー! 圭一《けいいち》君、男の子だから! きっといっぱい食べるだろうと思って…たくさん…ね☆……あはは…もう行こ! …よっこらしょっと!」
レナの持ち上げ方は、とてもその中身が弁当とは考えられないものだった。
「…訂正。俺も5kg…。」
「手伝いはするけど。…全部食べるんだからね! レナを悲しませたら許さないよ?!」
俺に今できる努力は、少しでも運動してお腹を空かせることのようだった…。
■お散歩。村巡りをしながら。
適当ににぎやかさを楽しんだ後、俺たちはのんびりとお散歩を開始した。
朝のやわらかな日差しの中、優雅にお散歩…。
都会に住んでた頃には考えられないくらい健康的だ。
何しろど田舎だ。
無粋な休日出勤のサラリーマンもいない。
本当にのどかで静かな…いいところなのだ。
いくら寒村とは言え、歩いていれば人とも出会う。
「あ、こんにちはー。」
「こんにちは。あら、そちらは……確か…前原《まえばら》くんだったかしら?」
2人は人とすれ違う度にあいさつする。
しかもすれ違う人はみんな俺の名前を知っているのだ。
「なんで俺ってこんなに有名人なんだ?!」
3人にすれ違い、3人とも知っているとなると、さすがに怪訝に思わずにはいられない。
「あはは、悲しいかなぁ。雛見沢《ひなみざわ》は人が少ないからね。みーんな顔見知りなんだよね。」
「つまりなんだ。
知らない顔が歩いてれば、それは自動的に新しく引っ越してきた前原《まえばら》さん、てことになるわけか。」
「うん。そういうことになるね。」
いくら寒村の消去法とは言え……侮り難し。
今度からは一層、素行に気をつけなばなるまい。
うかつに書店でHグラビアでも眺めてた日にゃ、次の日には村人全員にスケベ男のレッテルと貼られているに違いない…!!
恐るべし雛見沢《ひなみざわ》…!
しかも恐怖はまだ続く。
「もちろんわかるよ。最初に会ったのが牧野輪店の竹蔵おじさん。趣味は盆栽と尺八なんだよ。」
「次が乾物屋の次男の大介くん。趣味は狙撃で将来の夢は超A級スナイパーだとか。」
「それで、今の人は入江診療所の看護婦のみよさん。趣味は野鳥の観察と撮影だって。」
「……すれ違った全員の名前までわかるのかよ…。プロフィールまで?!」
俺が驚いて見せると、魅音《みおん》とレナは顔を見合わせクスリと笑い合った。
「まぁねぇ。ここいらは都会みたいにご近所付き合いが希薄じゃないからねぇ。」
「試しに聞いてみよう。今ここにいる俺は誰だ?」
「あははは。前原《まえばら》圭一《けいいち》く〜ん。 いじわるなこと言うけど本当はやさしい照れ屋さん。」
「転校してきてようやく3週間。趣味は昼寝。最近、トランクス派に転向。…したよね?」
「もういいもういい!!」
「……と、とらんくす……。」
「それもいい!」
ここでは一切の隠し事はできないらしい。
恐るべし…雛見沢《ひなみざわ》!
「これじゃあさ、俺のための案内ってより、俺のお披露目みたいだな…。」
「そうだね。」
「うちらさ、これだけ賑やかに練り歩いてたからね。みんな思うんじゃない? 圭ちゃんも雛見沢《ひなみざわ》に馴染んでくれたんだーって!」
「雛見沢《ひなみざわ》は過疎だから。…村中みんなが新しい仲間を歓迎してくれてるの。」
そんなバカな。と笑い飛ばそうとしたがやめておくことにした。
自分がこれまで、ご町内に新しく引っ越してきた人に挨拶をしたことなどあっただろうか…?
それを思えば2人の言うことは、決して冗談ではないのかもしれない。
再び誰かとすれ違った。
そして、やはり同じように声をかけられる。
「あぁらこんにちは。仲良しそうでいいわねぇ!」
「藤嶋さんちのおばさんだよ。こんにちは〜!」
「あぁら前原《まえばら》くん、両手に花でいいわねぇ! どう? 生活はもう慣れた?」
俺は都会的な、社交儀礼的な言葉をぐっと飲みこみ、強く頷いて見せた。
おばさんは元気がよくていいわね、と笑いかけてくれた。
「グッド!」
振り返ると魅音《みおん》とレナがウィンクをしてくれた。
「…で、ね☆ そろそろお昼にしないかな?…かな?」
レナが最高の笑顔と共に、魅音《みおん》と二人して忘れようとしていた時間の訪れを告げた。
二人して顔を見合わせる。
「……俺も男だ。努力はする。…だが量が多過ぎる!」
「…よし圭ちゃん、ここはおじさんに任せなさい。」
…魅音《みおん》がこれほど頼もしく見えたことはない。
さすがはクラス委員長!
「レナ、どうせ食べるならさ、見晴らしのいいところで食べない?」
「……わぁあ……うん! それいい。賛成〜!」
魅音《みおん》の提案に、嬉しそうに頷くレナ。
■古手《ふるで》神社でお弁当
石造りの階段を登りきると、そこは想像した通りの感じの神社だった。
年季が入った様子ながらも、小奇麗に落ち葉が清掃されていて清潔感があった。
「ここはね古手《ふるで》神社って言うの。多分、見晴らしが一番いいところかな!」
「ここの場所、よく覚えといてね! 次の休みにはここでお祭りがあるんだから。」
「へぇ。祭りにしちゃちょっと早いシーズンだよな?」
「綿流し《わたながし》は夏祭りじゃなくてね、昔は冬の終わりを喜ぶお祭りだったらしいよ。」
お祭りは夏にやるものと決めてかかった自分の都会かぶれが恥ずかしい。
「さて、…弁当を広げて………と………」
色とりどりの弁当箱がシートの上に次々と並べられて行く。
美味そうな匂いは認める。レナの手作りだ。絶対美味いに決まってる。
…だが完食は本当に可能なのだろうか?!
なぁ魅音《みおん》!見晴らしがいいだけじゃあとても無理だぜ?!?!
「…こんにちはです。」
梨花《りか》ちゃんと沙都子《さとこ》だった。
…どうしてここに?!
魅音《みおん》が俺ににやっと笑って見せる。
そ、そうか、魅音《みおん》の秘策とはつまり、人海戦術のことだったのか…!
感謝するぜ魅音《みおん》!
ここまでお膳立てしてくれればあとは俺の方が得意だ!
「騒がしいから来てみれば……これは何ですのーッ?!?!」
「見りゃわかるだろ。これからランチタイムだ。ビュッフェスタイルだ。レナの手作り弁当に舌鼓だ。」
「そんなの見ればわかるでございますわぁ!! どうして人様の庭でゴザなんか広げてますのー?!?!」
「神社は公共の場所だぞ。勝手に独占するな。」
「…圭一《けいいち》の言う通りですよ。みんなのお庭にしますです。」
「くぅ〜…やっぱり梨花《りか》ちゃんはいい子だなぁ…!! 座りなそこ! 一緒に食べよう!」
梨花《りか》ちゃんに場所を空けると、俺はさっさと沙都子《さとこ》に背を向ける。
「ちょーっとお待ちなさいな! 私はどこに座ればいいんですのー?!」
「お前に座る場所はないし、食べる分もない!」
「…だ、大丈夫だよ、…沙都子《さとこ》ちゃんの分もちゃんとあるから…、」
「ない! 沙都子《さとこ》の分も俺がいただく!!」
「そんなことは許せませんのー!!!梨花《りか》ぁ!」
「…はいお箸です。」
沙都子《さとこ》と俺は争うように弁当箱に飛びかかった。
「いやはや…圭ちゃん、乗せるのうまいわホント。…才能、あるのかもしれない。」
「はいお皿。魅ぃちゃんも梨花《りか》ちゃんも。」
レナが紙皿とお箸をひょいひょいと差し出す。
「…ボクたちもがんばらないとなくなってしまうです。」
「そうだな。よし! 参戦といくかな?!」
「いっぱい食べてね! ちゃんとみんなの分、あるから☆」
レナはそう言いながら水筒のふたを開ける。
今更ながら。俺はこの弁当が5人を想定して作られていることに気付く。
それでも多いことに変わりはないのだが、意味はまったく異なるのだった。
「そのハンバーグは渡しませんわぁぁあ!!」
「げはッ!! 肘は反則だろ沙都子《さとこ》!!」
「襟首を掴むのも反則でございますー!!!」
激しい戦いは、豊富な運動量と肘によるブロックで序盤、沙都子《さとこ》が優位に立つかに見えたが、箸さばきの致命的な差が形勢を一気にひっくり返す!
「あぁぁー! 最後のミートボールぅうぅううぅ!!!」
「北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》ッ敗れたりぃいいぃいいぃ!!!がぶッ!!!!」
俺は沙都子《さとこ》と仲良く同時に喉を詰めて窒息、ひっくり返ってもがく。
喉に詰まったにも関わらず、頭を撫でて解放する梨花《りか》ちゃん。
レナはそれを見て、わたわたと興奮し赤面して光悦の表情を浮かべている。
そのレナの犯罪性の高い発言をいさめる魅音《みおん》。
それはいつもと同じ食事の光景だ。
これからもこれと同じ光景が続くなら。…俺はどんな努力もいとわないだろう。
激しい戦いもようやく落ち付き、ようやくみんなにも会話をするゆとりが生まれたようだった。
水筒からお茶をもらい、軽く一息をつく。
「日本語ってヤツはさ、どうしてこう味に対する賛辞が少ないんだろうな!」
「食事中の団欒って考えがそもそも近代に入ってからだからじゃない?」
「昔の人は無言で食事を済ませたそうだし。…作る人もちょっぴり寂しかったろうね。」
「きっと昔の人は食べるのに忙しくて、味を褒める暇もなかったのですわ!」
そりゃーお前だ。
「でもね、おいしいの一言だけでもうれしいよ。…苦労の甲斐があったかな、って。」
そう言って、ぽ、と頬を紅潮させる。
「……おいしいです。」
実に絶妙なタイミングで、梨花《りか》ちゃんの「賛辞」がレナを直撃した。
真っ直ぐな瞳。レナを悩殺する無垢な表情。
「………は、」
「…は?」
意味不明な発声のあと、レナの頭から
ぽん!と音がして煙の輪っかが登った。
「はぅ〜!!…り、…りり…梨花《りか》ちゃん、お、お持ち帰り…じゃなくて! ありがと〜!!!!」
「……本当においしかったですよ。」
レナは真っ赤になって興奮しながら、梨花《りか》ちゃんを抱きしめるとぎゅいぎゅいと音がするくらい頬擦りをしている。
「り、梨花《りか》ちゃんには褒めてもらったお礼に…じゃ〜ん! これをサービスね!」
りんごのうさぎさんにさく!と楊枝を刺すと、びし!と梨花《りか》ちゃんに差し出した。
梨花《りか》ちゃんがそれを受け取ると急激に場のムードがおかしな方向に転がり始める。
「…なんだよ沙都子《さとこ》。その挑戦的な目は。」
「皆さんには、レナさんのりんごを獲得できるだけの賛辞が用意できまして?」
「強気じゃんよ。ボキャ貧のあんたにどんな賛辞が思い付くってぇの?!」
「ほほほ…では。ごらんあそばせ。」
沙都子《さとこ》は俺と魅音《みおん》にもう一度挑戦的な眼差しを送ると、急に声色を変えた。
「あ、…あのね! ………レナお姉ちゃんのお弁当、
沙都子《さとこ》もおいしかったよ…。」
沙都子《さとこ》は上目遣いに舌っ足らずな口調ではにかんで見せた。
な!…何が賛辞だ!! こんなの泣き落としならぬ萌え落としじゃないか?!
だがレナには特効作用だ。
赤面して頭部をぐるんぐるんと回している…!!
だ、騙されるなレナぁあぁあ!!!!
「…は、…はぅ〜ッ!!」
もちろん無理な話だ。レナは沙都子《さとこ》にがばっと抱き付くと頬擦りをしだす。
「かぁいいかぁいい!!……沙都子《さとこ》ちゃんもかぁいい…よぅ…☆……お持ち帰り…はぅ!」
すちゃ、さく! びし! 沙都子《さとこ》にもリンゴのうさぎさんが進呈される。
そのうさぎさんを頬張ると、沙都子《さとこ》は俺と魅音《みおん》に再び挑戦的な眼差しを向けた。
レナ撃沈所要時間、わずか5秒。
き…汚ぇ! そんな手ありなのか…ッ!!
「悔しければレナさんにご褒美がもらえるような賛辞をお考えあそばせ〜!」
くっそぉおぉおおぉ!! 卑劣なワザを!!
第一それ、賛辞じゃねえし!!!
「沙都子《さとこ》。それで勝てたつもりとはね。あんたらの底の浅いワザとはわけが違うものを見せてあげようじゃない?!」
「そ、それは頼もしいぜ魅音《みおん》! そりゃあどんなワザなんだ?!」
「やるのは圭ちゃん。」「はあッ?!」
「ほっほっほ! 見せてもらおうではございませんかぁ。年増の足掻きをッ!!」
…魅音《みおん》の提案する作戦は苛烈だった。
だが沙都子《さとこ》に勝つにはこれしかない!!
俺はお茶をすすり終えると、とても自然に、和やかに切り出した。…完璧に。
「…本当においしいよな。…これってさ、全部手作りなのかい?」
「あ、うぅん。……実はね、これ…ほとんど冷凍ものなの…。」
「じゃあレナの手作りのって、どれだい?」
「…ぇ…え? ……ぇぇと………その………は、恥ずかしいな……教えなきゃだめ?………どうしても?」
レナは男の人と手作り弁当という相乗効果に、陶酔した表情になっていく。
「…………わかるよ。これ、でしょ?」
「ぇ?………ぇえ…?!………はぅぅ……!」
レナはこれ以上ないくらいに赤面しながら、信じられない…という表情を浮かべる。
「な…なんでわかるな…?! …かな?…はぅ……レ、レナの手作り……、」
もちろん、事前に魅音《みおん》から聞いてある。
…ここまでは完璧だ!!
ここで俺はちょっとはにかんだフリをしてから一心拍を置く。…次で…トドメだ。
「レナの、…匂いがしたから。」
場がシン、とする。
…レナは真っ赤になったまま、しばらくの間、身じろぎひとつできない。
ひぃ…と短く悲鳴をあげ沙都子《さとこ》も赤面する。もちろん俺もだ…。
「…レナの手作りの…りんごのうさぎさんが食べたいな………なんて…、」
いくら沙都子《さとこ》への対抗意識とは言え……俺は越えてはならない一線を軽く10mはオーバーしたように思う…。
………と、その時、
ど
しゃぁあぁッ!!!
それはタッパーいっぱいのうさぎさんだった。
「た、たたた食べてね圭一《けいいち》くん?!? いいいい、いっぱいあるんだよいいい…ッ!!」
ぐはぁッ?! 俺は瞬時に、口に十数個のりんごを詰め込まれ卒倒する。
「はは、ははい、ぁ、あ〜んしてぇえぇ…けけけ圭一《けいいち》くん……けけけけけ…☆」
強制膝枕の上、俺の口にはまだまだりんごが押し込まれていく。
奇声を発しながら次々とりんごを…俺の口に……次々………りん………ご………
「ほ、ほうははほほ…、ほへたひの…はひは……(どうだ沙都子《さとこ》。俺たちの勝ちだ)」
「圭ちゃん、殉職見事なり!! どうよ沙都子《さとこ》! うちらの完全勝利だね?!?!」
「こんな手…信じられないですのー!!!
く、悔しくないもんッ!!!!」
歯軋りをして悔しがる沙都子《さとこ》! やった!!
俺は遠のく意識の中で自らの勝利を確認した。
…その時、ふっとレナが気付き、奇声をやめた。
「……梨花《りか》ちゃん、食べないの? ……塩水…強過ぎたかな…? …かな?」
見ると、梨花《りか》ちゃんはりんごのうさぎさんから楊枝を抜き、両手で作ったお椀に乗せ、途方に暮れている様子だった。
「……うさぎさんが…かわいそうです。……助けて、あげてほしいです。」
ぷッ!
………それはレナが鼻血を噴き出す音だった。
「……か、…かか…かぁいいよぅ〜……今夜こそ……絶対…お持ち帰りぃ………☆」
ぶるぶると痙攣しながら頭をぶるんぶるんと回し出す。
そして我に返るとしゅぱぱぱぱ!と俺のまわりのりんごを回収し、お皿に盛り付けなおした。
「これでみんな寂しくないよね…! これ、梨花《りか》ちゃんにあげる…ね…ね!」
うさぎさんのお皿を押しつけられた梨花《りか》ちゃんは唖然とする紗都子の手をレフェリーのように振り上げると、ぼそりと言った。
「…ボクたちが勝ちましたです。」
「…え、……えぇえぇえぇぇぇえぇえッ?!?! 逆転負けぇえぇッ?!?!」
「……ほう…ほっひへもひぃひょ……(もう、どっちでもいいよ)」
……こうして…俺の死は……ただの無駄死にと決まったのだった…。
■レナと宝探しへ・夕方(これはもう主人公編??)
騒ぎに騒いだ一日だった。
だが暮れ始めると一日の終わりは本当に早い。
「じゃあね、レナに圭ちゃん! また明日ね〜!」
「魅音《みおん》、今日はありがとな。楽しかったぜ。」
「また明日ね〜!!」
沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんも帰り、魅音《みおん》とも別れ、俺とレナは夕方の空気を楽しみながら家路につく。
「…圭一《けいいち》くんも今日は付き合ってくれてありがとう。…楽しかった?」
「あぁ。楽しかった。まだ家に帰るのが惜しいくらいだぜ!」
「あ、……じゃあさ、ちょっとだけ寄り道しても…いいかな?…かな?」
「寄り道? 遠いのか?」
「ちょっと歩くけど…すぐ済むから!」
一日中歩いてはしゃいで、疲れたからだろうか。
少し毒気を抜かれた俺は、レナの揚げ足を取ることもなく頷いた。
…細い道と斜面を越えると一気に視界が開けた。
そこは荒涼とした…工事現場跡のように見えた。
沢を臨む斜面に粗大ゴミの山がぶちまけられていた。
きっと不法投棄だろう。問題になって新聞を賑わせたこともあった気がする。
「うっふふ! 今日は久しぶりだからぁ〜、何があるかな何があるかな…!」
「久しぶりって、…レナの用は、あの…ゴミの山かよ?!」
「ゴ、ゴミじゃないよ!…レナにとっては宝の山だもん…。」
レナはすでにお約束のかぁいいモードになっていた。
レナにとってのどんなかぁいいものがここにあるって言うんだ??
「…わぁ…新しい山だ。……わくわく……わくわく…!」
不安定な斜面をひょいひょいと降りていく。…さすがは田舎育ちだ。
「おい待てよ、今行くから……ぅわったたた……!」
都会育ちの俺はまったくにもって情けない…。
「いいよ圭一《けいいち》君はそこにいて〜! すぐ済むからぁ!」
レナは付いていこうとする俺を軽く制する。
「…転ぶなよー! 足元に気をつけろよー!」
「大丈夫だよ大丈夫。全然平気〜!」
ぴょんぴょんと文字通り跳ねるかのような足取りで、レナは廃材のゴミ山の向こうに消えていった。
置いてきぼりは嫌だったが、今日一日の疲れもあったので、結局俺は待つことにする。
にぎやかなレナがいなくなり、急に辺りは静けさを取り戻していった…。
……ひぐらしの声が空気をゆっくりと冷やしていく。
ほどよい疲れが、ちょっとした眠気を誘っていた。
その時、突然、砂利を踏む音と人の気配がし、俺は驚いて振りかえった。
そこにはいかにもカメラマン風体の男が、俺に向けてカメラを覗いていた。
日焼けした体格のいい体つき。なのにどこか頼りなさそうな、なんとも曖昧な雰囲気。
…ま、悪い人ではなさそうだ。
「お、おぉっと!…びっくりした!」
男は突然振り返った俺に驚き、やたらと大袈裟に驚いてみせた。
それはこっちのセリフだぞ、まったく。
「…驚いたのはこっちですよ。」
「ごめんごめん。驚かすつもりはなかったんだ。君は雛見沢《ひなみざわ》の人かい?」
その一言で、彼が雛見沢《ひなみざわ》の人間でないことがわかった。
俺のいぶかしがる様子も気にせず、男は勝手に自己紹介を始めた。
「僕は富竹《とみたけ》。フリーのカメラマンさ。雛見沢《ひなみざわ》にはたまに来るんだ。」
別に名前なんか聞いてないんだけどな…。
「写真てのは被写体に断ってから撮るのが礼儀なんじゃないんすかね。」
「ごめんごめん。メインは野鳥の撮影でね。断った試しがないんだよ。あっははは!」
ってことは何だ。俺の扱いは鳥並というわけだ。
「いやいや、夕闇にたそがれる少年があまりにも絵になっていたんでね…。本人の許可を撮らずにファインダーを覗いたことを謝るよ。」
…大人は本当にうまい。
程よくおだてられ、驚かされたことへの腹立たしさはすっかり引っ込んでしまった。
この馴れ馴れしいおっさんに付き合う気もなかったし、レナが戻ってくる様子もまたなかった。
だが、おっさん…富竹《とみたけ》さんは俺のそっけないあいづちにも気にせず、一人で喋り続けている。
「圭一《けいいち》く〜ん! 待たせてごめんねぇ〜! もう終わりにするから〜!!」
レナが斜面の遥か下のゴミ山から顔を覗かせ手を振っている。
「連れがいたのかい。……彼女はあんなところで何をしているんだい?」
それはこっちが聞きたい。
「さぁねぇ。昔、殺して埋めたバラバラ死体でも確認してるんじゃないすか?」
富竹《とみたけ》さんのリアクションが一瞬鈍った。
まずいまずい、ついレナたちのような感覚で受け答えしてしまった。
「……嫌な事件だったね。…腕が一本、まだ見つかってないんだろ?」
「ははは! 圭一《けいいち》くんお待たせ〜。待ったかな?……かな?」
「馬に蹴られる前に退散するかな。驚かせてすまなかったね。「圭一《けいいち》くん」」
富竹《とみたけ》さんは意味深に笑って見せると、夕闇へ溶けこむように去って行った。
反論するタイミングを逃し、なんだかとても気まずい。
「…圭一《けいいち》くん、怒ってる? ……どうしてだろ……だろ?」
別にレナは悪くないのだが、取り合えず叩いておくことにする。
「どうだった? 掘り出し物は見つかったか?」
「うん聞いて聞いて! あ、…あのね! あったの! ケンタくん人形ッ♪!!」
「ケンタくん人形?! …ってあれか、ケンタくんフライドチキンの店の前に必ず置いてある…あの等身大人形の?」
「…そう! ケンタくん☆ ……はぅ……かぁいい……お持ち帰りしたいぃ…☆」
レナのかぁいいものの定義がいまひとつ読めないが、取り合えず、本人は気に入っているらしい。
「あれはゴミだろ? お持ち帰りしたきゃしてもいいんだぜ?」
「他の山の下敷きになってるの。…簡単には掘り出せないし…。あそこ、灯りがないからすぐ暗くなっちゃうし…。」
レナはせっかく見付けた宝を持ち帰れず、とても残念な様子だった。
「俺も手伝ってやるよ。今日のうまかった弁当の恩返しってことでさ。」
「…はぅ……あ、…ありがとう……。」
ねぐらに向かう鳥たちが、夜の帳がすぐそこまで訪れていることを告げていた。
「圭一《けいいち》くんが手伝ってくれる☆…ケンタくんをお持ち帰りできる……はぅ…。」
レナは夢見心地でほわほわと、千鳥足のような足取りで歩いていた。
そんなレナの上機嫌を崩さないように、さりげなく聞いてみることにする。
「…なぁレナ。あそこで昔、なんかあったのか?」
「ダムの工事をやってたんだってね。詳しく知らないけど……はぅ…。」
「例えばさ、工事中になんかあったとか。事故とか。」
「知らない。」
いやにはっきりした声だった。
それは返答というよりも、拒否に近い響きを含んでいた。
俺はよほどきょとんとした顔をしていたのだろうか。レナはすぐに表情を柔らかくした。
「実はね、去年までよそに住んでたの。」
「え? レナも転校生だったのかい? 俺はてっきり…、」
「だからね、それ以前のことはよく知らないの。…ごめんね☆」
よく知らないし、話題にもしたくない。そういう含みが感じられた。
考えてみれば当然だった。女の子にとって楽しい話題のわけがない。
“……嫌な事件だったね。…腕が一本、まだ見つかってないんだろ?”
富竹《とみたけ》さんの言った事がそのままなら。
ひぐらしたちだけが知っているような気がした。
<幕間>
2■前原《まえばら》屋敷
「…圭ちゃんってさ、すごいお金持ちってわけでもないの?」
「何だよ、突然。…俺がいつリムジンで登校したよ?」
「月の小遣いはいくらもらってる?」
「1000円。」
「あら。結構、小市民的ですのねぇ。」
「……お弁当のおかずも普通ですよ。お金持ちじゃないです。」
一体の何の話だ?!
いきなり小遣いの額を聞かれ、それで小市民だの金持ちじゃないだの!
「あはははは。ごめんねごめんね!」
俺の怪訝な表情を悟ったらしく、レナがカラカラと笑った。
「圭ちゃん家ってさ、すっごく大きいでしょ? だから建築中から雛見沢《ひなみざわ》中で前原《まえばら》屋敷って呼ばれて注目の的だったんだよ。」
ま、前原《まえばら》屋敷ぃ〜?!
「あんなに大きいお家だから、どんなお金持ちなのかなって、みんなで噂し合ってたの。」
あぁなるほど。納得。
……確かに家は図体だけはでかいからな。そういう誤解もありえるな。
「私の推理では、お家を建てるのにお金をかけ過ぎて、貧乏になってしまったと考えてますのよ〜!」
「……貧乏でかわいそかわいそです。」
…梨花《りか》ちゃんが哀れみながら俺の頭をなでなでしてくれる。金持ち扱いから瞬時に貧乏人扱いかよ…。
「あー、諸君らの楽しい想像をぶち壊すようで悪いが、うちは金持ちでも貧乏でもないぞ。極めて平均的な普通の家庭だ。」
「あれだけ大きな家は普通とは言わないって! しかも玄関は立派で、門は大型車も入れるようになってるし!! 絶対、普通じゃないって!」
家のでかさが裕福さの尺度だとでも言わんばかりだな。
我が家がやたらとでかいのは、親父のアトリエを含むからだ。
作業場はいくつもあるし、過去の作品があちこちに飾られ…。しかもサイズはどれもデカイ。
そんなこんなで、家族が生活する部分はせいぜい全体の三分の一ってところか。
将来、自宅で個展を開くことも考えての設計なので、人や車の出入りに気遣ったものになっているのだ。
……ちなみに魅音《みおん》が立派な玄関と言ってるのはこのアトリエ側の玄関で、普段は締め切られている。
実際に前原《まえばら》家が使用している玄関はごくごく平均的な、ささやかなものなのだ。
見かけと中身は大違い、ってことだな。
「ぜひ今度、圭ちゃんの家を探検してみたいよなぁ。…お金持ちじゃないと主張しながらもあの邸宅!! 一体何が隠されているのか!!」
「か、かぁいいものが隠されてるといいなぁ! はぅ〜!」
「きっと家具を買うお金もなくなってて、殺風景な部屋がいっぱいなのですわ!」
「……絨毯のお部屋なら、ぜひごろごろしてみたいですよ。」
「わぁぁ〜! それいいねそれいいね! レナもごろごろしたい〜!」
…なんか楽しそうに想像が膨らんでいってるな…。
でもまぁ。…遠くない将来、みんなを自宅に招待してもいいかもな。
…親父は女の子には甘いから、アトリエの見学を許してくれるかもしれない。
セミの声はいよいよにぎやかで、空はどこまでも高い。
暑いけど澄んだ、初夏の匂いがした。
2■ダム現場のバラバラ殺人(新聞版)
昭和54年6月XX日夕刊より
鹿骨市《ししぼねし》興宮《おきのみや》署はXX日深夜、
建設作業員XXXX、XXX、XXXX、XXXXX、XXXXを殺人、死体遺棄の容疑で逮捕し、逃走中の主犯格XXXXを全国に指名手配した。
調べによると、6容疑者はXX日午後9時頃、雛見沢《ひなみざわ》ダム建設現場内の作業事務所にて、現場監督のXXXXさんを集団で暴行して殺害し、遺体を切断して遺棄した疑い。
XX日午前8時頃、鹿骨市《ししぼねし》内の病院から警察へ、「XXXXさんを殺害したことをほのめかす男性がいる」との通報があり、警察官が駆けつけ事情を聞いたところ、事件を自供。
供述通りの場所から遺体の一部が発見されたため、同日午後、殺人、死体遺棄の容疑で逮捕した。
他の容疑者も即日逮捕されたが、主犯格のXXXXは逃亡中。警察は行方を追っている。
動機について
「酒盛りをとがめられ口論になり、カッとなって殺した」
などと供述しているが、それぞれの自供に食い違いも多く、さらに追求するという。
■翌朝(学校)
*3日目
「ケンタくん人形ー?! あ〜そりゃあレナのツボだわなぁ!」
「…レナが沙都子《さとこ》や梨花《りか》ちゃんをお持ち帰りしたくなるのは分かる。だが、ケンタくん人形だけは理解できないぞ! あんな眼鏡親父のどこがいいんだ!」
「そりゃーレナに直接聞けばいいじゃん? どーせ「だってかぁいいんだもん☆」しか言わないだろうけどさ。」
「レナはよくあそこ…工事現場のとこへ宝捜しに行くのか?」
「…ちょくちょく見に行くって言ってましたです。」
「しかし…年頃の女の子がゴミ漁りねぇ…。」
「…レナが楽しいなら、いいんだと思いますです。」
「あそこは何だよ。ダムの工事だったのか?」
それは、言ってみれば昨夜から引っ掛かっている魚の小骨みたいなものだった。
「ははは! 何年か前に中止になっちゃったけどね。」
「…みんなで力を合わせて、戦いましたです。」
梨花《りか》ちゃんの口から戦うなんて物騒な言葉が出るとは思わず、驚いた。
「そうそう! 何しろとんでもない話だったんだよ! 雛見沢《ひなみざわ》が丸ごとダム湖に沈むことに、一方的になってさ!」
で、今ここに俺たちがいる、ってことはその抵抗運動が実ったわけだ。
「ごめんねごめんね! 待たせちゃったかな?…かな?」
「申し訳ありませんわね圭一《けいいち》さん。お化粧直しに時間をかけちゃいまして!」
「沙都子《さとこ》。便所には溜めてから行け。一気に出せて楽で早いぞ。」
「きゃ……きゃ…、花も恥らう乙女になんて口の聞き方〜ッ?!?!」
だれが乙女だよ。沙都子《さとこ》が乙女なら絶対にしないリアクションで返してくる。
あとはいつものノリだった。
■部活へのお誘い
「さてと。今日は会則に則り、部員の諸君に是非を問いたい! 彼、前原《まえばら》圭一《けいいち》くんを新たな部員として我らの部活動に加えたいのだが…いかがだろうか!!」
「レナは異議な〜し!」
「をっほっほっほ! 貧民風情が私の相手を務められるかしら!」
「…ボクも沙都子《さとこ》も賛成しますですよ。」
魅音《みおん》の問いかけに三人は賛成を示す。
「全会一致! おめでとう前原《まえばら》圭一《けいいち》くん。君に栄えある我が部への入部試験を許可する!」
「順を追って説明しろ! 俺はまだ入るとは言ってないぞ! 何の部活だ?」
「我が部はだな、複雑化する社会に対応するため、活動毎に提案されるさまざまな条件下、…時には順境。あるいは逆境からいかにして…!!」
「…レナは弱いから…いじめないでほしいな。仲良くやろうね。」
「レナは甘えてますわ! 弱いものは食い尽くされるのが世の常でございますわー!」
……なんだか物騒な話だぞ。…結局、どんな部活なんだよ?!
「…つまり、みんなでゲームして遊ぶ部活なのです。」
俺の疑問に、梨花《りか》ちゃんだけが的を射た説明をしてくれた。
ようするにこの「部活」は、魅音《みおん》の趣味、ゲーム収集をフル活用したものなわけだ。
日毎に魅音《みおん》の所有する様々なゲームを遊ぶ。
その日その日によって、一番勝った者に賞があったり、一番負けた者に罰ゲームがあったりといろいろあるらしい。
「先に断っとくけど。ままごと遊びみたいなレベルじゃないからね! 一勝一敗に命がかかってるくらい本気でかかった方がいいよ?!」
「た、楽しくやれればいいじゃねえか…! そう凄むなよ。」
「会則第一条!! 狙うのは1位のみ! …遊びだからなんていう、いい加減なプレイは許さないッ!!!」
「会則第二条! そのためにはあらゆる努力することが義務付けられておりますのよ!」
…沙都子《さとこ》が言うと、どんな手段を使ってもいい、と言ってるように聞こえる。
「…もちろんボクもがんばりますです。」
「レナも弱いけどね…精一杯頑張ってるの。」
みんなの言うのもわかった。
みんなで優勝を争うゲームに、楽しければいいやなんていう考え方はアンフェアだ。
「よし、俺も……本気でやってやるぜーー!!」
こうして俺は、いよいよ入部の試験…洗礼を受けることになった。
「圭ちゃんに一応忠告ね。………レナも結構エゲツナイからね。」
入部試験は厳しそうだ…。
魅音《みおん》が教室のうしろにある生徒用のロッカーを漁っている。
…学校にゲームを持ちこんでいるのか。…ま、部の備品だからいいのだろう。
「難しいゲームは圭ちゃんだけに不利だからね。今日は誰にでも分かるゲームにしよう。スタンダードにトランプの……ジジ抜きはどうッ?!」
「よし! 受けてやるぜ!!!」
「やっぱり罰ゲームがないと燃えないよねぇ! 今回はビリに顔面らくがきの刑! どう?!」
「わ、わ、…油性じゃないよね? 油性じゃないよね…?」
…油性って……顔面らくがきが油性ってことか…?
「上等でございますわーー!!!!」
沙都子《さとこ》が気勢を上げる。
苛烈な罰ゲームにも恐れない。やる気満々みたいだ。
……こりゃあ俺も負けられないな!
「じゃあカード切って……みんなに配るねー!」
ジジ抜きってのはつまりババ抜きと同じゲームだ。
違うのは1箇所。ババが入っていない。かわりに最初にカードが1枚抜かれている。
つまり、抜かれたカードと対になるカードは最後に必ず1枚残ってしまうわけだ。
どれがジョーカーにあたるカードか分からない。そんなスリリングなゲームなのだ!
「じゃあ1枚抜くね。」
レナが1枚カードを抜き、裏返しのまま車座の中央に置いた。
みんなそのカードをじっと凝視する。
「ま、終盤になれば自ずと分かるし。最初はどうしようもないよな。」
だが…他の部員たちは真剣だ。俺のような弛緩した雰囲気はない。
手札と伏せたカードを見比べ、そして回りの人間の様子を伺う。
まるで…伏せたカードが見えているような……。
……まさか…
「…このトランプ、結構傷物だろ。……まさか、…みんなにはその傷で、そこに伏せたカードがわかってる…?」
「会則第二条ですわ〜。圭一《けいいち》さんも勝つために最善の努力をなさいませ〜!」
「いくつかのカードは特徴的だから……圭一《けいいち》くんにもすぐ覚えられるよ。」
あまりにもさらりと言われる。
「じょ、上等だぜ!! この程度でハンデになると思うなよ!!!!」
…と威勢良くタンカを切って見せたところで俺の不利は明白だった。
なにしろ…カードの傷や特長をどれだけ暗記しているかがものを言う…!
これはもはやただのジジ抜きじゃない。………麻雀風に言うなら…ガン牌ジジ抜き!!
来い! 貴様らの油断を逆手に取って返り討ちにしてくれる…!
…そんな、何の根拠もない自信も、すぐに打ち砕かれることになった…。
「くっくっく! 圭ちゃんの手札を右から言うぜ? 3、4、9、J、Q。」
「ぐわああぁぁぁあ!!」
「…ちなみに、ジジはダイヤのJなのです。」
「うがぁあぁああッ!!」
「どうカードを入れ換えたって見え見えですわ! あがりですのー!!」
「ぐおぉおおぉおお!!」
覚悟はしていたが……これほどまで…圧倒的とは…!!!
「お…鬼だ…こいつらは鬼だ…! レナ…は…鬼じゃないよな…?」
「ご、ごめんね圭一《けいいち》くん。……こっちがハートの3だよね?……あがり!」
「おわぁあぁああぁあぁああぁああ!!」
血も涙もない…!! レナや…梨花《りか》ちゃんまで…!!
恐るべし部活。この部のOBなら、どんな過酷な環境でも生き抜けるに違いない…。
多分、クラス全員が無人島で自爆首輪付きで殺し合いなんて状況下では水を得た魚と化すだろうな。
嬉々としながらクラスメートを狩る光景が目に浮かぶぞ…。
「ポイントは減点制ね。着順がそのままマイナス点。トータルで一番少ない人が優勝!」
「…では圭一《けいいち》はビリなので5です。」
俺のスコアボードにさっそく減点「5」が書き込まれる…!
「…や、やっぱりさ、綺麗なトランプでやらないと圭一《けいいち》くんに不公平だよ…。」
「いいのいいの。圭ちゃんだって男だし。
…これくらいの逆境ははね返せるよね?!」
「貧民風情は逃げ帰って涙で枕をぬらすのがお似合いでございますことよ〜??」
やりきれぬ悔しさに震える俺の頭に、すっと小さな手がかかる。……梨花《りか》ちゃんだった。
「…ファイト、おーです。」
梨花《りか》ちゃんの励ましに俺はようやく冷静さを取り戻した。
追い詰められた時にこそ冷静になれる。…それが俺の火事場の「力」だ。
冷静に考えろ前原《まえばら》圭一《けいいち》。
……時間をかけてカードをよく観察しよう。
レナの言う通り、いくつかのカードの傷はとても特徴的で、暗記は簡単そうだ。
この状況で考えられる、少しでも勝率を上げられる全ての努力をしてみよう。
「わ、…うまいよ圭一《けいいち》くん。その調子!」
カードの端に特徴的な傷のあるカードは手やカードに重ね、見えないように工夫する。
「…角が割れているのは5だったはずです。……あがりましたです。」
他のプレイヤーの貴重なヒント発言は聞き漏らさない。全ての情報が武器だ。
そして俺の順番になった。
上手の沙都子《さとこ》が仰々しくカードを扇状にして突き出す。
「ほしいのは7なんだが。……これかな?」
「…さぁてどうかしら…?? 引いてみないとわかりませんことよ…?」
沙都子《さとこ》の表情に陰りが浮かぶ。…いかにも引かれたくない、そんな表情…!
俺はその一瞬の表情を見逃さないッ!!
「見えたッ!! これだっぁああぁああぁああ!!!!」
当たり! スペードの7…!!!
おぉお!と歓声が沸く!
「な、なななんですってぇえぇ?! 7は一番分かり難いはずですのに〜?!?!」
暗記じゃない。カードを選ぶ時の相手の微妙な反応でも充分に参考になるのだ!
「ほら圭ちゃん隠さない!……この傷が確かダイヤの2だったよね。
……あれッ?!」
魅音《みおん》が自らの読み間違えに驚愕する。もちろん他の全員も…!
「…わ、…魅ぃちゃんがカード間違えるなんて珍しいねぇ。」
「ち、違う……。圭ちゃん……あんた…まさかぁ…ッ!!」
彼女らは「傷」でカードを識別しているのだ。その傷には「爪の跡」もある。
だから……付けたのだ。俺が…新しく!!
「ダイヤの2を…擬装したと言うですの?! あ、…あじな真似をするでございますわぁぁあぁああ…ッ!!」
「…圭一《けいいち》、一矢報いましたです。」
ぱちぱちぱち…。
「やったね圭一《けいいち》くん!大善戦だよ?!だよ?!」
首魁の魅音《みおん》を討ち取った俺は、自らの善戦に有頂天だった。
だが、すでにトータル得点では、優勝魅音《みおん》、ビリは俺が確定している。
俺は魅音《みおん》の神経を逆撫でしそうな声色を慎重に選び、たははと笑いながら言った。
「…まぁ…ビリは確定だけどさ、最後に魅音《みおん》から一本取れたから大満足かな☆ たはははははぁ〜…♪」
すでにトータル優勝の確定している魅音《みおん》には屈辱的なはず…!
「この回、仮に圭ちゃんが1着になってもトータルビリが確定するんだけど……嫌でしょ?」
「当り前だ!」
「一騎討ちしましょうよ。ワンチャンス! 勝てたら圭ちゃん1位で私ビリの大逆転!…なんてどう?! 乗るでしょ?!」
かかった!
優勝者魅音《みおん》を挑発することによってしか引き出せない逆転チャンス!!
「ワンチャンスだと? ルールを説明しろ。」
魅音《みおん》は2枚の手札の片方を捨て、今までゲームに加えていなかったジョーカーを加えると、それを背中に回してよく切った。
「右手のカードと左手のカード! どっちがジョーカーか当てたら圭ちゃんの勝ち!」
「今、後に回したときジョーカーを抜いた、ってことはないだろうな?!」
「圭ちゃんが負けたら反対の手のカードも公開するよ。それならOKでしょ?」
他の3人は思わぬラストギャンブルにごくりと唾を飲みこむ。
「…よしッ!! 乗ってやる!!!!」
魅音《みおん》がばっと両手に1枚ずつカードを持って俺に突き出す!
まずはじっくりと観察だ…!
右のカードは特徴的な傷がなく、まったく正体がわからない。
「……どっちだろ。…圭一《けいいち》くん…慎重にね!」
「あぁ、もちろんだぜ!…逆転の…大チャンスだ!!」
左のカードには良く見ると傷があり、どこかで見たような気がしなくもない。
「あ、…あのカードは…!!」
沙都子《さとこ》の些細な小言も聞き逃さない。
魅音《みおん》がちっ、と舌打つ。
左のカードの傷は、俺が暗記するほんの何枚かのカードの特長とは一致しない。
だが沙都子《さとこ》の反応を見る限り、左のカードが何であれ、それはゲームに登場したカードだということだ。
ゲームに登場した、ということは絶対にジョーカーではないということ!
「……ふぅん。圭ちゃんは右のカードを疑ってる? じゃあ右にする? 右?」
…左のカードは絶対にジョーカーでない、と推理できるなら、右のカードがジョーカーだと断言できるはずだ。
魅音《みおん》に挑発されるまでもなく、…右が一番あやしい。
だが、沙都子《さとこ》の反応だけで決め付けるのは早計過ぎないだろうか?! もっと…慎重に……あ!
…思い出した…!! あの傷は…左のカードは……間違いない! クローバーの7!!!
「うん…。きっとクローバーの7だね…。」
勝った! 左のカードはクローバーの7!
ということは残る右のカードが…ジョーカーだッ!!!!
そして、右のカードにまさに触れんとした瞬間、俺はぴた、と手を止めた。
「……ふっふっふ……くっくっく…。さすが魅音《みおん》だよ。」
場の誰もが右のカードがジョーカーだと確信した矢先の俺の「止め」に皆がざわつく。
「?? え? 圭一《けいいち》さんは何を言ってるでございましょう?? だって左…、」
「…シーです。」
「へー…。圭ちゃんはどうして右が「ジョーカーじゃない」って確信できるの?」
魅音《みおん》からの思わぬ発言。俺を除く全員が困惑する。
「右のカードが何かは俺にもわからないさ。だが左のカードがクローバーの7だってことだけはわかる。」
「じゃあ! 残る右のカードがジョーカーなのじゃありませんこと?! 必ず左右どっちかがジョーカーという約束でしょう?!」
「あぁ。…左右のどっちかにジョーカーがあるのは本当だろうな。」
「……圭一《けいいち》は勘がいいです。」
「え? 梨花《りか》ちゃんそれってどういう…、」
「つまりさ。…クローバーの7は。…さっき俺が沙都子《さとこ》のスペードの7と合わせて捨てたカードなんだよ…ッ!」
みんなが一斉に場に捨てられたカードを凝視する!
ぐちゃぐちゃに捨てられたこの状況では真偽はわからない…!
「つまり、……魅音《みおん》は捨て札を1枚拾って…左のカードに重ねている…つまりッ!!!」
「…そうか、わかった! 左のカードを…クローバーの7に見せかけているんだね?!」
このゲームが始まって初めて、魅音《みおん》の顔に影がさしたのを俺は見逃さない。
そして……俺は3回転半のひねりを入れてからビシリと指定したッ!!
「ジョーカーは……「左手」だぁあぁああああぁああッッ!!!!!!」
あまりに熱過ぎる一瞬…! その1秒間がその場の全員には何時間にも感じられた。
その沈黙を破り、始めに口を開いたのは…魅音《みおん》だった。
「……初代部長として私も様々なプレイングを見てきたけど。……圭ちゃん。…あんたは…ベストだよ。…ベストオブザベストオブザベストッ!」
おそらくは魅音《みおん》の最高の賛辞だろう。 魅音《みおん》は観念し…両の手のカードをこぼした。
……俺の……逆転勝利だッッ!!!!!!!
梨花《りか》ちゃんがぽん、と俺の頭に手を乗せ、俺の逆転勝利を祝ってくれた。
「え…? ……梨花《りか》ちゃん、が………?」
レナと沙都子《さとこ》がきょとん、とした顔で…まるで幽霊でも見たかのような顔をしている。
「なんだよレナ。別に俺はインチキしてないだろ?? 正々堂々と!」
「……梨花《りか》は……慰めるときにしか…頭を撫でませんの。」
え…? それってどういう……。
その時、レナが短い悲鳴をあげた。
「け…圭一《けいいち》くん…ッ! ……こんなことって…ッッ?!?!」
「圭ちゃんならさ。 ここまで読んでくれる、と思ってたよ。………くっくっく!」
誰もが凍り付く。…いや、それは俺だけなのか…。
「賭けだった。 圭ちゃんがおてんばさんの早とちりだったなら、負けてたのは私だった。」
……全員が確信した答えだった……。
魅音《みおん》がハズレの手のカードを拾う。
「圭ちゃんはさ、この負けを誇っていいよ。」
そのカードを裏返す……。
……それは…この一騎討ちの勝者を示すカードだった。
クローバーの7に重ねてあったのは……なんと、ダイヤの2!
う、裏の裏をかかれたのだ…!! 深読みなどせず、右を選んでおけば……!
「……部長、園崎《そのざき》魅音《みおん》の名において。…前原《まえばら》圭一《けいいち》。……あんたの我が部への入部を…許可する…ッ!!!」
放心しがっくりと膝をついた瞬間、みんなはこの好ゲームを割れんばかりの拍手で称えてくれた。
「これにて決着ッ!! 本日の優勝は私! 園崎《そのざき》魅音《みおん》!! 栄えあるビリは…前原《まえばら》圭一《けいいち》〜!!!」
みんながきゃっきゃと喜びながら拍手する。
敗北感はあったが、その傷口はとても鋭利で逆に爽やかなくらいだった…。
「魅ぃちゃんが後ろ手で細工した時、またやるんだ〜って思ってどきどきしちゃった!」
「圭一《けいいち》さんが、正解に触れる直前で止まったときにはかかった!って思いましたわ〜!」
「…見事にひっかかってくれましたです。」
…え?
ちょっと待て。
お前ら全員、最初から知っててあんなに真剣に盛り上がってたのか…??
「…楽しくなるようにみんなで盛り上げましたですよ。」
……………お、
「お前らみんな鬼だぁあぁああ! 人でなし〜ッ!!!」
「さぁて圭ちゃんに罰ゲームだねぇ…! 今日は部活の初日だしねぇ。ソフトに行こうかねぇ。…いきな登校拒否になられちゃ困るし!」
残りの3人が俺の両腕、両肩をがっちり抑える。
魅音《みおん》が舌なめずりをしながら近づいてくる…。
右手はポケットから何かを取り出そうとしている。
それは…マジック!! しかも……極太の油性ッ!!
「さぁて…行くよぅぅぅ〜!」
魅音《みおん》がマジックのキャップを外し、その先端を身動きできない俺の顔面にじりじりと近付け…!
「や、や、やめろおぉおおぉおぉ……ぉ……ぉ…!!!」
俺の断末魔がこだましていった…。
■魅音《みおん》と下校
レナは部活が終わると同時にすっ飛んで帰って行った。
きっと昨日持ち帰り損ねた、かぁいいケンタくん人形を掘り出しに行くのだろう。
だから今日は珍しく、魅音《みおん》と二人での下校となった。
「宝の山かぁ。…捨ててる連中も、まさかレナに感謝されてるとは夢にも思わないだろうねぇ。」
宝の山、例のダム工事現場のことだ。
…そうだ。魅音《みおん》なら教えてくれるだろうか。
あそこであったらしい、バラバラ殺人事件のことを…。
「あそこさ、ダムの工事現場。…なんかあったんだろ? 昔。」
「そりゃああったよ。戦いが! 座りこみやったりデモをやったり!」
聞きたい話とは少し違ったが、聞いておこうと思った。
「自分たちの土地がダム湖に沈むんだもんなぁ。俺だって戦うだろうな。」
「役人どもは本当に一方的だった。偉そうで威張ってた! 金で解決できないと悟るとあらゆる嫌がらせをしてきたんだよ?! 嫌らしいヤツらだった!」
魅音《みおん》はまるで目の前で繰り広げているかのように、声を荒げながら喋る。
「よく勝てたな…。相手は国だろ?」
「村長や村の有力者たちがね、方々に陳情した。 東京にも行ったし、いろんな政治家に根回しもした。……そうしてる内に計画は撤回されたんだよ。
私たちの完全勝利だった! あっはははは!」
「暴力沙汰とかには…ならなかったのか? 傷害事件とか…殺人、」
「なかった。」
ぴしゃりと言いきられた。
レナの時と同じ。
言葉にはピリオドがこめられていた。
富竹《とみたけ》さんは「事件」と言い「腕が一本見つからない」と言っていた。
俺はてっきり…バラバラ殺人とかがあったのかと思っていたのだが…違うのだろうか。
収まりのつかない俺の好奇心は、胸の中で所在なくうなだれていた。
「じゃね、また明日ねぇ! 圭ちゃんそれ、家に帰るまで消しちゃダメだからね!」
「わかってるよ消さねぇよ!」
魅音《みおん》は俺の顔をちらちらと見ては笑いを堪えている。
……いったい、どんなえげつないラクガキをしたのだろうか…。
覚えてろ魅音《みおん》め…!
もし逆の立場になったら、貴様の顔面にねっちりと! タワシじゃ落ちないくらいラクガキしてやるからなぁ…!!!
自宅に着き、見事にお袋と鉢合わせして、俺は改めて恥をかくことになったのだった…。
■自宅
帰宅早々、家は神経質なムードでぴりぴりしていた。
…うちではそんなに珍しいことではない。
親父は、新しい絵のアイデアが行き詰まるといつもこんな感じなのだ。
どかどかと家の中を歩きまわり、腕を組んでは唸っている。
お袋が俺の耳元に口を寄せる。
「お帰り、圭一《けいいち》。…お父さん、大変そうだからそっとしてあげてね。」
「またアイデアに詰まったわけ?」
「今回は締め切りが重なったからね。お父さん、充電期間がないと大変だから。」
親父の絵で一家が食っているんだから、親父のアイデアが枯れ果てたら、前原《まえばら》家はおしまいだ。
(…よく食って行けるものだ。…ひょっとして親父って…大画伯??)
「…家の中をうろうろしないで、表に散歩でも行った方がアイデアが出るんじゃねぇの?」
「今回は“生活空間”がテーマだから。お父さん、この家をモチーフにしたいみたい。」
…実に迷惑なモチーフだ。
「…圭一《けいいち》!! 部屋の中を少しは片付けなさい!! みっともないぞー!」
「ご、ごめんごめん! 後で片付けるよー!」
あーもー! 俺の部屋をモチーフにするのは勘弁してくれ…!
「圭一《けいいち》、お夕飯までまだ時間があるから。表でも散歩してらっしゃい。」
親父の機嫌が悪いのは一過性だ。
アイデアが思い付けば、機嫌なんかころっと直って鼻歌交じりになる。
それまで、親父を刺激しないよう、散歩に行くのも悪くない。
「じゃ、そうするかな。」
散歩ったって、どこへ行くあてもない。
ちょいと軽く、時間が潰せればそれでいいんだ。
自転車にまたがり、どこへ行こうか思案する。
本屋で立ち読みでもしたいが、町へは自転車で1時間。
帰りは暗くなってしまうから特に用がなければ行きたくはない。
ちなみに暗くなった雛見沢《ひなみざわ》の夜道はかなり薄気味悪いのだ。
こんなの魅音《みおん》や沙都子《さとこ》に知られたらまずいよな…。ちょっと苦笑する。
そうだ。
レナはまだ宝の山…ダム工事現場にいるのだろうか。
ひょっとするとケンタくん人形の発掘に手間取っているのかもしれない。
ここで恩を売っておくのも悪くないだろう。
「…次の部活の時に恩返ししてもらえるかもしれないしな。」
ちょっぴり打算的に、俺は足をダム工事現場へ向けた。
ひょっとすると富竹《とみたけ》さんがいるかもしれない。
レナにも魅音《みおん》にも知らないと拒絶された事件を知る、唯一の人。
もう一度会えたなら、詳しい話を聞いてみたい…。
…本当に雛見沢《ひなみざわ》でバラバラ殺人なんかあったんですか?、って。
それが本音だった。
■ダム工事現場
レナが斜面のゴミ山で奮闘しているのが見えた。
ケンタくん人形は、かなりしっかり埋まってしまっているように見える。
レナひとりじゃあ、とても発掘できるようには見えない。
富竹《とみたけ》さんの姿がないことを知った俺は、危なげに斜面を降りていった。
「よぅレナ。精が出ますなぁ。」
「……わ、わ、圭一《けいいち》くん!
…どうしたの、こんなところへ。」
こんなところ、か。なるほど、一応自覚はあるらしい。
「事故発生の緊急通報を受け参上しました! 負傷者はどこでありますか?!」
「え?!え?! 事故って?! …え?!」
「ケンタくん人形がゴミ山に生き埋めになっているとの通報でしたが…?!」
「え?…っな、なぁんだ。びっくりした…。圭一《けいいち》くん驚かさないでよ。」
「…冗談だよ。レナがひとりで困ってるだろうなって思ってさ、手伝いに来てやったんだよ。」
「……へ?…って……レナのため…に…?
……はぅ。」
取り合えず今日のノルマはクリア。
一日一回はレナの赤面を見ないと栄養バランスが悪くなる。
「冗談だよ。こっちまで恥ずかしくなるだろ!」
「……て、…え? ……冗談って…どこからだろ?どこからだろ?!」
取り合えず困惑するレナを無視しておく。
「ほれ、どいたどいた。で、どこだよケンタくんは。」
「…あ、ごめん! ……ほらこの隙間から…見える?」
「こりゃあ……本当に生き埋めだなぁ…!!」
横たわるケンタくん人形を、複雑に絡み合った木材や建材がまるで牢屋のように閉じこめていた。
レナの話によると、昨日まではこうではなかったらしい。
どうも昨夜のうちにまた不法投棄のダンプが来て、また捨てて行き、それに埋まってしまったらしかった。
「……この山をひとりでどけるつもりだったのか…?! その細い腕で…?!」
レナの華奢そうな腕では、とてもそんなことが出来るようには思えない。
「……でも……ケンタくん人形…かぁいいんだもん……。お店のケンタくんには鎖がついてるけど……これならお持ち帰りできる……はぅ……。」
このケンタくんを諦めさせれば、レナは多分、お店の店頭の人形の強奪を計画するだろう…。
レナの保護者として、断固犯罪に手を染めさせるわけにはいかない!
「どいてろよ。俺がやる。」
レナがまた赤面しているが、今回はからかわないでおく。
山はデカイ。
しかも無駄に日にちをかければまた不法投棄のダンプが来るかもしれない。
これ以上、山に埋まったらどうにもならないのだ。
「圭一《けいいち》くん、レナも手伝えるよ。手伝わせて。」
「かえって邪魔んなるから下がってろって! ぃよいしょぉおおッ!!」
廃材を抜いたり
折ったり
投げ飛ばしたり。
すぐに汗まみれの埃まみれになった。
黄昏時の空の中、次々と綺麗な放物線を描いて飛んで行く
木材、角材、ベニヤ板。
くっそぉぉぉっ!!捨てても、捨ててもまだ出てくるっ!!!
ケンタくん人形は見えているのに!!
レナに大見得を切った手前、たいして進まないスピードに焦りを感じた。
「…本気でやるなら…斧とかのこぎりとかがいるかもしれねえなぁ…!」
「もういいよ圭一《けいいち》くん…! すごい汗だよ。……そんな…無理しなくても…いいよ…。」
「レナのためにやってるだけだ。気にするな。」
レナが言葉をどもらせるとゆでダコみたいに真っ赤になった。
あ、しまった…。レナを犯罪者にしないために頑張ってるんだって言うつもりだったんだが……。
まぁいいか。
「さすがに…休憩……! こいつは…手ごわいぜ…!!」
俺は草むらの斜面にどかっと大の字になって倒れこむ。
「ごめんねごめんね…。すごい……汗だく……。」
レナのハンカチがペタペタと額に触れる。
ちょっと気持ちよかった。
「あ、あのさ、ちょっとここで休んでてね! 私、家近いから。麦茶とか持ってきてあげるね!」
ハンカチを額に置くと、レナはぴゅーっと駆け出して行った。
ひぐらしの声がゆっくりと空気を冷やして行く。
レナが走り去ったことを確認すると、俺は体を起こして、さっき見付けたものへ近付いて行った。
それは、紙紐で縛られた新聞や週刊誌で積み上げられたゴミ山だった。
さっきのが見間違えでなければ…。たしか…この辺に積まれていたと思う…。
あった。
それはあまり上品でない写真週刊誌を束ねて縛ったものだった。
過去数年分のバックナンバーが順番通りに重ねられている。
(……嫌な事件だったね。…腕が一本、まだ見つかってないんだろ?)
富竹《とみたけ》さんの言葉通りなら、それは間違いなくバラバラ殺人を示唆していた。
最近は物騒な世の中だ。こういう気色悪い事件は後を絶たない。
そして、そんな事件に好奇心を寄せる大衆だって大勢いる。
ならば載っているはずだ。どこかに。
手早く梱包を解き、雨で貼り付いたページを器用にこじ開け目次に目を通す。
ない。
次。
ない。
次。
事件がいつあったのか分からないのが痛手だった。
犯人も被害者も分からない。
分かるのはここであったということだけ。
時折顔を上げ、レナがまだ戻ってこないかを確認した。
ちょっとエッチなグラビアのある写真週刊誌を漁っているところなど絶対に見られたくなかったが、実際はそれだけではなかった。
レナも、魅音《みおん》も、知らないと言った。
だが間違いなくそれはあったのだ。
……富竹《とみたけ》さんが嘘をついていない限り。
レナも魅音《みおん》も。「うん。あったね。」と一言言ってくれれば、俺の妙な好奇心も収まったのかもしれない。
レナも魅音《みおん》も口にしたくないような「事件」。
好意で隠してくれていることをわざわざあばこうとしている……。
そんな、友人たちへの背徳感だった。
“雛見沢《ひなみざわ》ダム・作業員リンチ死! バラバラ殺人!!”
…あった!
特集記事は後のページで、巻頭のカラーページに写真が出ているようだった。
特集ページはがっちりと張り付いてしまって簡単に開かない。
そろそろレナが戻ってきてもおかしくない。
…焦った俺は諦め、写真ページの方を開く。
捜査官が死体袋を運び、報道陣が一斉にフラッシュを浴びせているシーンだった。
写真は黒ずんで分かり難いが、白抜きの見出しはくっきりと読み取れた。
“雛見沢《ひなみざわ》ダムで悪夢の惨劇! リンチ・バラバラ殺人!”
“被害者は現場監督。日頃から粗暴な振る舞いで加害者たちを…“
“日頃の鬱積が爆発? 現場監督は見るも無惨な……”
…あったのだ。……やっぱりあったのだ。
事件の詳細は次のページから始まるようだ。
…俺はためらいもなく次のページを開いた。
……そこには…、
“犯人達は被害者を鉈やつるはしで滅多打ちにして惨殺し、”
“さらに斧で遺体を頭部・両腕・両足・胴体の6つに分割、”
見出しだけでも十分わかる、……それは…あまりに無惨な…事件だ。
普通、リンチってのは殴ったり蹴ったりじゃないのか…?
鉈やつるはしや斧で? こんなのはリンチですらない。
文字通りの惨殺、残虐殺人だ…。
何人もでよってたかって。
…鉈で。…つるはしで。…斧、で。
「わああぁあぁあぁあぁあッ!!!」
「きゃッ!、ごご、ごめんなさい…!!! 驚いたかな?!驚いたかな?!」
レナもまた、俺の声に驚き、その手の斧をどさりと草むらに落とした。
「圭一《けいいち》くんね、さっきほら、斧とかがあると便利だって言ったじゃない?! そ、それでねレナ、物置からちゃんと斧、持ってきたんだよ…!!」
レナは慌てふためきながら弁解と謝罪の言葉を続ける。
どうやら、俺は相当険しい目つきをしているらしかった。
「ご、ごめん…、ちょっとオーバーに驚き過ぎたかな。」
「う、うぅん、…こ、こっちこそごめんね!…ごめんね!」
…もうすぐ日が落ちてしまう。
体はくたくただし、続きを明日にしてもいいだろう。
「最後の梁はその斧じゃないと壊せそうにない。せっかく持ってきてくれたんだし。…明日借りるよ。な?」
「…うん。」
「なにしょんぼりしてるんだよ。明日にはケンタくんが掘り出せるんだぜ?!」
「そうだよね。…あははは! 早くケンタくんをお持ち帰りしたい〜!」
互いに、これ以上謝り合っても意味がないことは十分に分かっていた。
俺たちはレナの持ってきてくれた麦茶で喉を潤すと、すっかり冷えてしまった汗を拭き、帰路についたのだった。
脱いだ上着にくるんで隠した写真週刊誌が、今はとても後ろめたかった。
<幕間>
3■雛見沢《ひなみざわ》ダム計画
昭和五十年十月。
総理府告示第XXX号を以て、雛見沢《ひなみざわ》発電所電源開発基本計画が発表された。
計画された「雛見沢《ひなみざわ》ダム」の規模は甚大で、雛見沢《ひなみざわ》村の受ける影響は余りに重大だった。
雛見沢《ひなみざわ》ダムにより水没する地域は雛見沢《ひなみざわ》、高津戸、清津、松本、谷河内の五ヶ部落に及び、
水没世帯は二九一戸、人口一二五一人、小学校一、中学校一、郵便局一、農協支所一、営林署貯木場一、神社五、寺院二、魚族増殖場一、等多数の公共的文化的生産的施設と信仰の対象を永久に湖底に没するものである。
この天恵豊かで住みよい郷土を、血と汗をもって築いてくれた父祖幾百年の艱難辛苦を思えば余りに痛ましいことであり、
水没地域はもとより全部落は郷土死守の決意を固め次々に決起、団結し鬼ケ淵死守同盟を結成。
ダム建設の中止、又は支流への計画変更を強力に要請し続けたのである。
平和的かつ民主的な話し合いを求めるも、政府とその傀儡である電源会社総裁XXXXXはこれを拒否。
筆舌に尽くし難い極悪非道を以て、村民の民主的運動と雛見沢《ひなみざわ》の郷土を踏みにじったのである。
だが村民はこれに怯むことなく益々団結、郷土死守の決意をさらに強固にしていくのである。
今日、恐るべき雛見沢《ひなみざわ》ダム建設計画は、その再開が無期限に凍結されている。
村民はこの凍結が自らの団結の祟高な力によってなされていることを理解しており、そしてこの恐るべき計画が依然撤回されていないことも理解しているのである。
すでに鬼ケ淵死守同盟はその役割を終え解散しているが、そこで育まれた団結の炎は消えていない。
村民の心にこの炎が灯り続ける限り、再び郷土が湖底に沈む災厄に見舞われることは断じてあり得ないのである。
鬼ケ淵死守同盟会長 公由《きみよし》喜一郎書
3■週刊誌の特集記事
雛見沢《ひなみざわ》ダムで悪夢の惨劇!
リンチ・バラバラ殺人!
X月X日、XX県鹿骨市《ししぼねし》の雛見沢《ひなみざわ》ダム建設作業現場で起こった血も凍るバラバラ殺人。
列島を震撼させたショッキングな事件でありながら、警察はその細部を語ろうとしていない…。一体、雛見沢《ひなみざわ》ダムで何が…?
「始めは殺すつもりはなかったのでしょう。
ですが被害者がシャベルを振り回して抵抗を始めると、加害者たちも一斉に得物を手にし、一気に殺し合いにエスカレートしたのです。」と前述の捜査関係者A氏は語る。
血の惨劇が終われば、そこには誰の眼にも生きているとは思えない無残な屍…。
日頃から粗暴な振る舞いで容疑者たちをいじめていたXXさん。
始めはちょっとした仕返しのつもりだった…。
「加害者たちは皆、自らの罪深さに恐れおののきました。警察へ出頭しようと言い出す者もいたのです。」
だがリーダー格のXXだけは、死体を隠そうと提案した。
始めは渋った彼らも、次第に捕まりたくないと思い始めるようになる。
人数は6人いて死体を隠す方法がいくらでもある建設現場…。
彼らは揚々と死体を隠し、その場を離れるはずだった…。
「しかしリーダー格のXXは、他の5人が良心の呵責に耐えられなくなり、自首して事件が発覚することを恐れ、恐るべき方法でその口封じを図ったのです。」
なんとXXは死体を人数分に切断し、それぞれの責任で隠すという悪魔の方法を思いついたのである。
「XXは、単なる暴行致死でなくもっと恐ろしいバラバラ殺人に仕立て上げ、ひとりひとりを深く関与させることで結束を固めようとしたのです。」
ひとりひとりを深く関与。…これが意味するのは何なのか。A氏は重い口を開く。
「XXは、ひとりひとりに自らの手で遺体を切断するよう命じたのです。彼らは始めは渋りましたが、結局誰も逆らえませんでした。」
毒食らわば皿まで…ということなのか。
かくして、想像するのも躊躇われる恐るべき血の儀式が始まったのである。
「被害者たちは泣きながら嘔吐しながら、死体を切断しました。頑強に抵抗する者もいましたが、XXに『今さらもうひとり死んでも同じことだぞ。』と凄まれ、結局は抗えなかったのです。」
だがXXの目論見はわずか一晩で崩れた。
死体の切断に最後まで抵抗したXXXが、乱闘時の傷の治療に訪れた病院で、泣き崩れながら告白したのである…。
犯人たちは芋づる式に逮捕されたが、リーダー格のXXの行方だけは掴めていない。
また、XXが隠した右腕部分も発見されていない。
警察の連日の捜査にも関わらず、悪魔のような男が未だ法の手を逃れているのである。
警察は何をしているのか…。
「XXが死体(右腕)を沼に捨てに行くと言っていたらしいのです。実際、沼の近くにXXの乗用車が乗り捨ててあったのですが、その後の足取りはまったくわかりません。」
仲間の裏切りを最後まで疑っていたXX。
仲間が警察に自供することを見越して、沼以外の場所に逃れた可能性は拭いきれない。
「もちろんそれも疑っています。…車はないはずなので、逃げられる範囲にも限度があると思うのですが…。署内では、死体を捨てる時に誤って自分も沼に溺れてしまったのではないかと囁かれています…。」
この沼、地元では底なし沼と恐れられ、その名を鬼ヶ淵《おにがふち》と言い、沼の底の底は地獄の鬼の国につながっているのだという。
まさに地獄の鬼とも言える残虐非道のXX。まさか沼から元の地獄へ帰ったのでは…?
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■4日目・学校風景
この学校は、学校として機能しているのか本当に怪しい。
中でも体育の時間はめちゃくちゃだ。
みんなで一緒にやったのは最初の準備体操だけ。
その後は先生すらいない。みんなてんで勝手に遊んでいる。
「仕方ないじゃん。年齢も性別もバラバラだし。」
「一応ね、体育の時間は校庭で体を動かすのだけが決まりなの。」
小さい子たちはめいめいにはしゃぎ回っている。
まぁ確かに体を動かしてはいる。運動量も豊富そうだが…。
「……きっと、教育委員会はこの学校を見落としてるんだろうなぁ。」
「…お待たせしましたです。」
「さぁてご一同様。今日の体育は何をいたしましょう?!」
「おっしゃ。これでいつものメンバー全員集合だな。」
「さて委員長、今日はいったいどんな体育をやるのかな? やるのかな?」
…ふぅむ、と魅音《みおん》が偉そうに腕組みして周囲を見渡す。
「瞬発力と持久力。スポーツの世界においては仲間などいない。全てがライバル! 信じられるのは己の肉体のみ!」
「何だそりゃ。漫画の読みすぎだろ。」
すかさず突っ込む。
「ってわけで温故知新!! 古いながらも全ての要素を詰め込んだ屋外乱戦の王様、
「鬼ごっこ」で行こう!」
しかし、すごい前振りの割りにはなんとも可愛らしいお遊戯が出てきたものだ。
「望むところですわー!!! のろまな圭一《けいいち》さんはイの一番に鬼ですのー!」
「…ボクだって負けませんです。」
「レナもがんばるもの!今日は負けないぞー!」
「…何でお前ら、そんなにやる気満々なんだよ…。」
「会則第三条ッ!! ゲームは絶対に楽しく参加しなければならない!!!」
「じゃ、これ、部活なのかよ?!」
みんなが不敵に顔を見合わせる。
みんな大した自信だ。俺は男だぞ。
身体能力的に同世代の女の子に遅れを取るとは思わない。
にも関わらず、魅音《みおん》や沙都子《さとこ》は勝てるつもりでいるし、レナは俺の不利を憐れんでいる。
「…上等だぜ。鬼ごっこ、乗ってやらぁあぁああぁ!!!」
俺の叫び声が校庭に響き渡る。
ルールはこうだ。
授業終了のチャイムまで逃げきれた者が勝者。
ただし鬼の交代はない。鬼に触られた者もまた鬼となるのだ。
結果、鬼はどんどん増殖して増えて行く。
終盤は阿鼻叫喚の包囲戦だ。
「ここいらではこの遊びのこと、「ゾンビ鬼」って呼んでるけどね。」
「なるほど。食われたヤツがゾンビ化するからな。」
「…なんでそんな怖いこと、言うんだろ。…だろ?」
「レナを捕まえたら、生きたままお腹を食い破ってやるからなぁ…!!」
「…や、やや、やだよ圭一《けいいち》くん、そんなのや…!」
梨花《りか》ちゃんがわたふたとするレナの頭に、ぽんと手を乗せた。
「……大丈夫です。…圭一《けいいち》に食われる前にボクがやさしく食べてあげますです。」
「梨花《りか》、それは全然慰めになってませんわ。」
俺と魅音《みおん》も深々と頷いた。
「最初の鬼…ゾンビはどうやって決める? ……ジャンケンか?」
「一応授業時間だからね。問題で決めよう。問題を出すから答えられなかったヤツがゾンビ!」
どこがどう授業なのか全然わからん。
「「6」は英語で?!」
へ? …突然の出題に思わず混乱してしまう。
魅音《みおん》は改めてもう一度言った。
「だから答えるの! 「6」は英語で?!」
「えーと、シックスだッ!!」
「なら「靴下」は?!」
「ソックスだね!」
「アルファベットの後から3つ目!」
「…エックスですよ。」
「では「性別」は英語で?!」
「もちろんわかりますわ〜!!
セッ……、」
沙都子《さとこ》が答えきろうとしてぐっと言葉を飲みこんだ。
…なるほど。実に嫌らしい問題だ。
「沙都子《さとこ》は大人だもんねぇ〜? 知らないわけはないよねぇ??」
「………し、知ってますもの…! 知ってるもん…!!」
「じゃあ言ってごらんよ。「アレ」だよ「アレ」。「アレ」は英語で〜?!?!」
「…はぅ……沙都子《さとこ》ちゃん困ってる、……かぁいい……。」
「持ち帰るなよ。犯罪だからな。」
釘を刺しとかないと、本当に持ちかえりそうだ…。
どもる沙都子《さとこ》への魅音《みおん》の追求は苛烈だった。
「さぁさぁさあ言ってごらんよ大声で!!
「アレ」は英語で何と言う〜?!?!」
「知ってるもん…!! 知ってるもん!!!……セッ、」
「…ザットですよ。“that”。」
「え? ……あ。」
梨花《りか》ちゃんの意外な解答にきょとんとする俺たち。
そうだ。「アレ」は英語でザットだ。……ハメられた!!
…俺が沙都子《さとこ》の立場だったらどうしたろう。
…逆ギレしてもろにその「単語」を叫んでいたのだろうか…。
敵に廻すと恐ろし過ぎるぜ園崎《そのざき》魅音《みおん》!
女に生まれてよかったよな。
お前、男だったらただのセクハラ野郎だよ…。
「し、……仕方ありませんわね。……不肖、この北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》がゾンビ役を務めさせてもらいますわ。……
みんな食い殺してやりますですのーッ!!」
ゾンビはやる気満々のようだ。
「百数えればいいんですの?!」
「百数えるのはズルするヤツがいるからな。俺の問題が解けたら追ってよし。」
「わ、圭一《けいいち》くん、簡単なのにしてあげてね…。」
「五分の一のケーキと六分の一のケーキと七分の一のケーキを一皿に乗せました。」
「うが!!ぶ、分母が違いますですの?!?!」
沙都子《さとこ》が慌てふためき、棒で地面に分数とケーキの絵を描き始める。
「ケーキ1個を60秒で食べられる沙都子《さとこ》がそれを全部食べると、お皿にはケーキがいくつ残っているでしょう?」
問題を出し終えると同時に、魅音《みおん》が叫ぶ。
「よーーいどんッ!!!!」
魅音《みおん》の合図に、沙都子《さとこ》をその場に残し全員が方々へ駆け出して行った。
「クスクス……圭一《けいいち》くん、それ問題じゃないよね?」
悩んだ時点で沙都子《さとこ》の負けだ。
全部食べたんだから、お皿にはケーキがゼロ個!
みんな、それぞれ思い思いの方向へ散っていく。
地の利がある分、みんな逃げるのに有利な地形を熟知しているのだろう。
俺の不利は早くも明白だった。
こういう場合、サバイバル能力に長けていそうな、例えば魅音《みおん》辺りについていくのは有効な手だったように思う。
……ゲーム開始時にそれに気付けなかったのは痛かったな。
ちらりと校庭をうかがうと、沙都子《さとこ》が今まさに立ち上がり行動を開始するところだった。
怒ってる怒ってる。くっくっく!…こんなまぬけな問題に引っ掛かりおって。
現在のポジションは校舎角だ。
2方向に長い視界を得られ、ゾンビの接近の際にはかなり早いレスポンスで行動することが可能だろう。
まず呼吸を整え、昨日さっそく鍛えられた部活的な思考に切り替える。
……冷静に考えろ前原《まえばら》圭一《けいいち》…。俺が鬼ならどうする?
仲間を増やすのが勝利の近道。
…ならばまずは弱いヤツから狙うのが定石。
つまり、俺だ!
「さぁて圭一《けいいち》さんはどこでございましょう?! 逃がしませんことよ〜!!!」
…当然だろうな。
だが俺を優先して探すにはどうする?
足跡とか匂いとか…何かの痕跡とか。
それを巧みに隠すことができれば……沙都子《さとこ》の追跡はかわせる!
だが警察じゃあるまいし…個人個人のゲームでそれは可能なのだろうか?
「富田〜岡村〜! 圭一《けいいち》さんを見かけなかったでございませんこと?!」
なッ、なんだそりゃああぁあぁああッ?!?!
最近のゾンビは獲物の逃げた先を聞きこみ調査するのかよ?!?!
富田くんと岡村くんは俺が潜伏するこの場所を指差している。
沙都子《さとこ》がこちらへ駆け出すのを確認すると同時に、俺はこの場所を放棄し逃走した。
好き勝手にはしゃぎまわる子供達から完全に隠れきるのは簡単なことではない。
俺に地の利がないことによる不利はますます明白…!
ならば…情報戦で挑んできたゾンビに対し、こちらも情報戦で対抗してやる…!!
俺はボール遊びをしている女の子達を手招きで呼び寄せた。
「…すまんが伝言を頼まれてくれ。北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》にご両親が校門に来てるぞ、ってな。」
「伝言伝言あははは〜〜!! いいよいいよ!」
走り出そうとする女の子達を手で静止する。
「待てまだ行くな! あと園崎《そのざき》魅音《みおん》にもだ。先生が校門のところで呼んでるぞって伝えてくれ。」
くくく、我ながら狡猾…!
うまくかかれば沙都子《さとこ》と魅音《みおん》は校門で鉢合わせだ!!
鬼が増えることは俺にとっても不利になるが、そこは魅音《みおん》。うまく立ち回って逃げ切るであろう。
…だが、それでいいのだ。時間が稼げるならば…!!
くっくっく、踊れ魅音《みおん》に沙都子《さとこ》!! 俺の手の平でなぁあぁあぁああ!!!
越後屋気分を満喫すると俺は隠れられる場所を探した。
冷静に考えれば、稼げる時間はわずかでしかない。……それどころか、やがてはしっぺ返しが来るのだ…!
伝言による情報戦が露呈する以上、俺自身にも「伝言」による魔手が迫るのは明白。
おそらく沙都子《さとこ》は「伝言者」に、一緒に圭一《けいいち》さんを探してくれと頼むだろう。
それは同時に……ゲーム参加者以上のゾンビが大量発生することを意味するッ!!
俺のいたずら心が生んだわずかなウィルスが大発生の大感染…。
クラスメートが次々とゾンビ化し……しかも俺だけを探して!
……この作戦、…かえって俺の首を締めたかもしれんな…。
俺はやがて起こるバイオハザードに戦慄しながら隠れ家を探した。
俺は校舎裏の焼却炉脇に物置を見つけた。
屋根によじ登ると身を伏せ、息を殺す。
悪くない篭城場所だ。
視界は良好な上、万が一の際には三方好きな方向に飛び降りて逃げることができる!
下が慌しくなった。物置の下を下級生たちが走り回っている。
「いないね前原《まえばら》さん。そっちいた?」
「いない〜。圭一《けいいち》さんどこだろ。お父さんが校門に来てるのにね。」
絶対ウソだ。
校門という俺と同じワードに復讐性を感じる。下手人は魅音《みおん》か…!
俺の一手早い対応の勝利だった。後輩諸君には申し訳ないがチャイムまでたっぷり探しまわってもらおう。
「ねぇねぇ、圭一《けいいち》さん知らないー? お母さんが急病で大変なんだってー!」
「前原《まえばら》さんに伝言だよ。家が火事だから急いで校門に来い!って。」
「前原《まえばら》さんちにジャンボ機が墜落したらしいよ!」
「警察が事情聴取に来てるって言ってた!」
…もう何でもありだな。
「趣味はお風呂覗きなんだってー。」
はぁああぁッ?!
「夜な夜な下着を盗んで回ってるって本当なのぅ?」
誰がぁぁああぁあッ?!
「ぱんつをかぶったり匂いを嗅いだりするんだって。」
なわきゃねえだらぁああぁあぁ!!
「魅音《みおん》委員長も被害にあったって言ってたよー!」
「え゛ーーーッッ?!」
ぐをおおぉおおおぉおぉおおぉおおぉおおおッ!!!!!
てめぇの仕業か魅音《みおん》んんんんッんんッ!!!
お、落ち付け前原《まえばら》圭一《けいいち》!! 俺をあぶり出そうとする魅音《みおん》の作戦だ! 耐えろ!!
後輩だちだって俺という一個人を冷静に考えればただのデマだとわかるはず!
……だが子供たちにそんな冷静さがあるはずもない。
彼らにとって「それ」は全て事実として認識されると、げらげらと笑い合って俺を探しに散っていった。
くくくく…がはははは…! 勝ったぞ魅音《みおん》! 俺の勝ちだ! がははははは…!!
俺はなぜか止まらぬ涙を拭いながら、ささやかな勝利に酔うのだった…。
「聞いたー? 転校生の前原《まえばら》さんてHな人なんだってー! きゃはははは!!」
勝利と魅音《みおん》をはめた代償はあまりにも高いようだった…。
っと! ………お、誰かが下に来るぞ。
あれは…レナに梨花《りか》ちゃんか。
「……はぁはぁ。梨花《りか》ちゃんはまだ無事かな?!」
「…なんとかがんばってますです。」
「……はぁはぁ。…魅ぃちゃんも鬼になっちゃったみたいなの…。」
魅音《みおん》がッ?! まさか…俺の作戦で鬼になったのか?!
執拗な魅音《みおん》の報復戦の裏がようやくわかった。…しかし…だとするとまずいな…。
「魅ぃちゃんは、なんとか巻いたけど……沙都子《さとこ》ちゃんは……。」
「…沙都子《さとこ》は土管のところを探してますから…ここはしばらくは安全ですよ。」
その一言に俺も安堵の息を吐く。
ぺたりとしゃがみこみ、荒い呼吸を整えているレナに梨花《りか》ちゃんが歩み寄る…。
梨花《りか》ちゃんが足音を立てずに歩くのはいつものことだが……変だ。…まさか…、
「わ?! ……梨花《りか》ちゃん? ……何かな? 何かな?! …えぇ…?!」
「……大丈夫ですよ。」
梨花《りか》ちゃんの笑顔がこれほど不気味に見えた事はなかった。
「な、何で近寄ってくるのかな? くるのかな?! 梨花《りか》ちゃんは…ゾンビじゃないもんね?!」
「…怖くないです。…ボクがやさしく…食べてあげますです。」
「う、ううう嘘だよね?! …梨花《りか》ちゃんがそんな……ひ…ッ!!」
レナが壁に追い詰められ、じりじりと梨花《りか》ちゃんがゾンビよろしく両腕を突き出しながらよたよたと近付いて行く…。
レナは震えながら背中を壁に押しつけていた。
これはすごい生ホラーだ…。
そんじょそこらのゾンビビデオを地で行っている。
その時、レナと俺の目が合った。
「け、圭一《けいいち》くん!! 助けてぇええぇッ!!!」
梨花《りか》ちゃんゾンビがエクソシストよろしくぐるりと180度反転し俺を睨む!
「いたぁ!! 圭ちゃん見っけッ!!!!」
ゴミ捨て場のブロック塀に仁王立ちする魅音《みおん》もまた俺の姿を発見した。
この地形の有利はゾンビがひとりの時だけだ。包囲されるとまずい!!!
「圭一《けいいち》さんを見付けたですって〜〜?!?!」
遠くから沙都子《さとこ》が駆けて来るのがわかる。
梨花《りか》ちゃんはレナを取り逃がしたらしく、今やその矛先を俺に向けていた。
「えぅうぅ〜……あぅあぅう〜……。」
「…お〜り〜て〜こ〜い〜…圭ちゃぁあぁあぁん…。」
呪いの言葉を吐きながらゾンビ3匹が俺を伺って物置の回りをぐるぐると徘徊する。
「お…お前ら怖い!! 怖過ぎるッ!!!」
「圭一《けいいち》さんのハラワタはどんな味がするのかしらぁぁ?? 圭一《けいいち》さぁあぁあん…!」
「…圭一《けいいち》も…ボクたちの仲間になってほしいです。」
「だ、だだ、誰か、たた助けてくれぇぇぇええ!!!!!」
助けてほしいレナが校庭の向こうで、俺に謝っているのが見えた。
謝罪。ごめん。見殺し?…レ、レナぁあぁぁぁぁあぁあ!!!!!
恐怖にかられた俺は屋根から飛び降りるも、
滑って転倒。
沙都子《さとこ》と梨花《りか》に飛びかかられ馬乗りされると、全身を存分に……くすぐられた。
「ぎゃっはっはっはッ!!! やめ!やめッ!! ぎゃ〜〜〜ッ!!!!!」
「…ってことはあとはレナか。チャイムまであと何分もないね。」
「…ぅのれレナぁあぁあ…!! よくも…俺を見殺しにぃいいぃいい!!」
ゾンビの気分。無念の怨霊の気分がとてもよくわかるぞ。
「…かわいそかわいそです。…でもこれで圭一《けいいち》も仲間ですよ。」
今度は吸血鬼に血を吸われ、自らも吸血鬼化した犠牲者の気分だな。
これまで自分を追いまわしていた側に、新しく歓迎されるのは何だか不思議な感覚だ。
「…ゾンビ鬼、なかなか奥深し!」
「気取っている場合じゃありませんわ!! レナを捕まえるですのー!!!」
「校長が廊下を歩いてる。…もうすぐチャイムがなるよ!!」
復讐鬼と化した俺はレナを食い殺すため、あらゆる手を尽くさねばなるまい。
だが今の俺はただのゾンビじゃない。闇の眷属を従えた吸血鬼なのだ!!
自らの首を締めた同じ方法を使い、クラスメートたちを悪の手先にする。
校庭で走りまわる下級生たちを集める。
「みんな聞いてくれ! レナが大変なんだ! 今すぐレナを探し出してくれ!」
「…前原《まえばら》さんちにジャンボ機が落っこちたことより大変なのー?」
…そういや、そういうことになってたな。魅音《みおん》が白々しく口笛を吹いてごまかす。
「あぁ! ジャンボ機なんか目じゃないぞ! レナんちに墜落したのはなんと……
スペースコロニーだッ!!」
「ス、スペースコロニーですってぇえぇッ?!」
「あぁ、ものすごい大惨事だぞ! 半径数百キロは壊滅だ! だがこれは悲劇の序章にしか過ぎない!! なんとこれこそは…ジオン広告社が引き起こした独立戦争の幕開けだったのだッ!!」
あまりの規模の大きさに下級生たちは目を丸く見開き、唖然としている…。
「そ…それでどうなるの…? 地球連邦は負けちゃうの?」
「このままでは負けるッ!! 赤い彗星に勝てるのはヤツしかいない!! それが竜宮《りゅうぐう》レナなのだぁッ!!」
下級生たちが唾をごくりと飲みこむ…!
地球の存亡を賭けた戦いに、レナが不可欠であることがよくわかってもらえたようだ。
「さぁ散れ、同志諸君ッ!! レナを探し出すのだぁあぁああッ!!!」
下級生諸君は、おーー!と意気込むと、猛ダッシュで校内各地へ散って行った。
…ん? 1人が行かずに残っているぞ。
「でも…連邦艦隊の拡散波動砲でも、彗星帝国には効かなかったんじゃ…。」
「惜しいな。それは白い方の彗星だぞ。効かなかったのは弱点を知らなかったからだ。もちろんレナは白色彗星の弱点だって熟知してる!」
「……竜宮《りゅうぐう》さんってすごいんだぁ……。」
一通り納得すると、彼もまたレナの姿を求め駆け出して行った。
…しかし…後輩の中にも前途有望なヤツがいるようだな。
「……圭ちゃんの才能を、おじさんは改めて知ったよ…。」
微妙に褒めていない気がするがまぁいい。
「…しかし……圭一《けいいち》さんもやるでございますわね…!! これは頼もしいですわぁ!!」
「でもこの人数なら…勝てる!! これだけいれば勝てるよ!!」
「…圭一《けいいち》はゾンビに立候補した方がよかったと思いましたです。」
梨花《りか》ちゃんの言葉がチクリとするが、今は気にしないことにする…。
いくらレナでもクラス総がかりでは逃げ切れない。
クラス全体の徹底的捜索の末、レナはとうとう体育倉庫奥に追い詰められた。
「こ、怖いよみんな!! 圭一《けいいち》くんまで…!! 怖いよぅ!!!」
学校中の生徒みんなに追っかけられりゃ、そりゃあ怖いだろうなぁ。
下級生たちが、地球を救えるのはレナしかいないと詰め寄って行く。
「みんなが何を言ってるのかわかんないよ! レナはロボットの操縦なんか出来ないよー!」
「レナぁあ、さっきはよくも見捨てたなぁ!! 覚悟はできてるだろうなぁ…?!?!」
「ささ、さっきはごめんね圭一《けいいち》くん、…だだ、だって仕方なかったんだもん…!!」
「大人しく…食い尽くされるでございますの〜…!!!」
「…みんなで…仲良しですよ。」
「さぁレナ…念仏でも唱えな!! うひゃっひゃっひゃッ!!!!!」
マットにつまづき、震えながら倉庫奥で涙ぐむレナ。追い詰める俺。
著しく不道徳的なシチュエーションを連想し、俺はちょっぴり赤らめドキドキする。
…両手をわきわきとさせている沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃん。きっとレナをくすぐる気だ。
レナもそれを知っていて、それだけは嫌だと身を硬くしている。
「……け……圭一《けいいち》くんは……みんなみたいなひどいこと…しないよね?…しないよね?」
「…さぁどうかなぁあぁあ〜?!?!」
「……ぅ…ぁ、………はぅ……………、」
「…さぁて…覚悟は決まったかなぁあぁあ?!」
「……いいよ…圭一《けいいち》くんなら……。」
覚悟の決まった笑顔に、一瞬俺の心臓がどきんと跳ねた。
「け…圭一《けいいち》くんはひどいことしないって……レナ、信じてるし…。」
…ぅが………体が…動かん……。…対ゾンビ用の僧侶魔法だろうか。
俺の中の理性がゴング開始1秒で俺の獣性を瞬殺した。
そこでチャイム!! ゲームセットだ。
「きゃ〜〜〜!! やったやった!! 生き残ったよ! わぁいわ〜〜い☆!!」
レナが呪縛が解けたかのように大はしゃぎして喜んだ。
「…フ、…あとわずかのところで日光が刺し、悪のゾンビ軍団は灰塵と帰したか…。ヒロインが生き残るのは……映画のお約束、だもんな…。」
「何を気取ってるですのー!!! 圭一《けいいち》さんがもたもたしてるからぁあぁあ!!!」
「…おしおきしますです。」
沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんが俺を組み伏せ、またしてもくすぐりの刑に処す。
「ひぃいいいぃいい許ッ許してッ!! ひぃいいいいぃいいぃ!!!!」
「じゃあ生き残ったで賞は、竜宮《りゅうぐう》レナと園崎《そのざき》魅音《みおん》。いぇ〜い!」
「あれ…? 魅ぃちゃん、ゾンビじゃなかったの…?」
「フリしてただけ〜。敵を騙すには味方からって言うじゃ〜ん?」
「…ぅおおぉおおおおぉお!! 魅音《みおん》〜てめっぇええぇえぇえぇ!!!」
「はいはい。急いで着替えないとね〜。次の授業に遅れんなよ〜!」
「離せ沙都子《さとこ》、梨花《りか》ちゃん!! ぎゃぁあぁあっぁああぁあ…ぁ…!!!」
俺は骨のずいまで我らが部活の恐ろしさを堪能すると、次回こそ魅音《みおん》に一泡ふかせてやろうと心に誓うのだった。
■自宅
帰宅後、俺はさっそく身支度を整えることにした。
レナと例の宝の山のケンタくん人形を発掘する約束だ。
「母さん、うちに軍手ってあるかな。あとタオル。」
「表の物置の中になかった? タオルは洗面所ね。」
よし。これで準備は万端だ。…それを見てお袋が怪訝な顔をしている。
「なぁに圭一《けいいち》。すごいいでたちでどこへお出かけ…??」
不法投棄のダンプがまたゴミを捨てていって、今度こそ完全に埋って救出不能、なんてことになれば……間違いなくレナは町のフライドチキン屋のケンタくん人形を狙うだろう。
「ちょっと発掘に。クラスメートを犯罪者にしないために。」
「??…あまり遅くならないようにね。」
お袋は怪訝な顔をしながら台所に戻っていった。
ダム現場への近道の林道を抜けて行くと、ぬーっとした人影に出くわした。
富竹《とみたけ》さんだった。
自慢のカメラは野鳥を撮れたのだろうか。
…まさか夕焼けにたそがれる美少年ばっかりを撮ってるんじゃないだろうな…??
「やぁ久しぶり。圭一《けいいち》くん、だったよね。」
「どうもその節は。」
失礼な想像を頭から追い出し、無難にあいさつをした。
「そう言えば……彼女は君の知り合いだよね…??」
レナのことだろう。富竹《とみたけ》さんの尋常でない慌てぶりから察するに…
「あ、あれは一体何だったんだい?! 彼女が剥き身の斧を持って歩いてるんだよ?! それもにやにやと笑いながら!!」
間違いなくレナだ。
今日にはお持ち帰りできるたろうからな、きっと笑いが隠せないのだろう。
「身に危険を察して隠れたけど……警察に電話した方がいいんじゃないかな…?!」
確かに年頃の女の子が剥き身の斧を持って徘徊しているのはヤバい。
富竹《とみたけ》さんの反応は極めて正常だ。
「いーんですいーんです。ほっといて下さい。また犠牲者を探して徘徊しているだけですから。」
俺のぞんざいな反応に富竹《とみたけ》さんは目を白黒させている。
まぁ、一般的な常識人にレナを理解するのはとても難しいことだろう…。適当にケムに巻いておくことにする。
「富竹《とみたけ》さんがここで殺されたら多分犯人はあいつです。…せいぜい嗅ぎ回らないようにすることですねぇ。」
意地悪っぽくにやりと笑ってやると、俺はとっととレナの待つダム現場へ向かった。
少し歩きかけて、不意に富竹《とみたけ》さんが呼びとめてきた。
「圭一《けいいち》くん、それ、よそ者の僕への警告のつもりかい?」
…え、そんなマジな意味で言ったんじゃないですよ。そう弁解しようとしたが、
「はっはっは! せいぜい気をつけることにするよ。」
それだけ言い残すと、富竹《とみたけ》さんは踵を返し、去って行った。
よそ者なんてそんな。…深い意味で言ったんじゃないんだけどな…。
ちょっとした冗談のつもりだったのに、何か悪い事を言ってしまったような気がした…。
■ダム現場
「圭一《けいいち》く〜ん! 待ってたよ。今日もがんばろ!」
富竹《とみたけ》さんの言うのもわかる。
斧をぶんぶん振りまわしながらはしゃぐのは確かにヤバい。
「斧は鞘とかをかぶせて持って来い。剥き身はさすがにまずいだろ!」
「なくしちゃったみたいで…ないんだもん。」
考えたら世間体もヘチマもないな。
レナの奇癖は多分、雛見沢《ひなみざわ》中で知れ渡っているだろう。
この雛見沢《ひなみざわ》で斧を持って徘徊しても不審に思われない唯一の人物だな…。
「ま、いっか! 今日で決めるぜ! 最後の梁をぶっ壊せば引きずりだせるはずさ。準備万端。任せとけ!」
「うん!」
レナから斧を受け取り、不安定な斜面を降りて行く。
「待っててね、ケンタくん。…今、圭一《けいいち》くんが助け出してくれるからね…☆」
「よっしゃ、下がってな。…一気にケリをつけてやるぜぇえぇ!!!」
カツーーンと、木こりのようないい音が沢に響き渡った。
「…どう? うまく行きそう? 無理そうだったら無理しなくていいよ…?」
「ここさえ折れればあとは何とかなる! 今日は気力も充実! 行ける!!!」
…だが思ったより敵も手ごわかった。
第一、俺は今まで斧を使った事なんかない。
林間学校の時、蒔き割りをやりたくて立候補したが、ジャンケンに負けてできなかった。
足場が不安定にも翻弄され、俺は早々にへばり、休憩を挟むことにした。
レナがシートを広げると水筒の紅茶と甘そうな駄菓子を広げてくれた。
「大丈夫! もう一息。今夜レナが寝るときにはケンタくんにお休みのキスができるようになってるさ。」
「…うん。……ありがとぅ。……ケンタくん……お休みのキス……はぅ……。」
「そう言えば…レナも転校生だったんだろ? 前はどこに住んでたんだよ。」
紅茶を飲みながら、レナにさりげなく聞いてみる。
てっきりレナは昔からここに住んでいるとばかり思っていた。
「ん? 関東の方だよ。ここほどじゃないけど、やっぱり田舎だったかな。」
「何で引っ越してきたんだよ。雛見沢《ひなみざわ》に。ほら、ここって結構田舎だろ?」
「圭一《けいいち》くんは何で引っ越してきたの? お父さんの仕事と関係あるのかな?」
「うちの親父がアトリエを移したいって言い出したんだよ。こーゆう山奥がいいって前々から言っててさ。」
「アトリエ?…圭一《けいいち》くんのお父さんて芸術家さんなの??」
「風景画ばっかり描いてる。年に2回くらいはどっかで個展を開いてるらしい。」
始めは都内某区の産業プラザだったらしいが、今は幕張メッセで開催しているらしい。
将来は臨海地区の国際展示場に出展したい、と意気込んでいたな。
「それってすごいね! 今度レナにも見せてね!」
…親父がどんな絵を描いてるのかよく知らない、なんて恥ずかしくて言えないよな…。
まぁその内な。曖昧に答えながら俺は腰を上げた。
「でも…学期途中の転校だったんでしょ? 大変じゃなかった?」
「別に。…都会ってのには飽きてたし。」
レナに質問していたつもりが、いつのまにか自分が質問されている。
軽く苦笑すると俺は斧を握り、再び現場に下りていった。
日が傾きだし、少しずつ空気が冷えてくる。
ひぐらしたちが、今日はもうやめて家へ帰れと合唱し始める。
もう少しなんだ。今日で…決着を着ける!
始めはレナに軽口を叩きながらの作業だったが、もうそんな余裕はなかった。
「うら!
てめ!
畜生!!」
今日一日、何度もそうしてきたように、斧を振る。叩く。木片が砕け散る。
“犯人達は被害者を鉈やつるはしで滅多打ちにして惨殺し、”
不意に週刊誌の、あの事件の一節を思い出した。
こんなもので殴られたら一発で頭は砕けてしまうだろう…。
斧やつるはしは間違っても人に振り下ろすものではない。
最後の一撃が梁を叩き折った。
斧にかけた重さが、梁を割っただけでなく、その下の人形の肩を打ち砕く。
嫌な音がして、腕がもげた。
それはごろんと、俺の足元に転がった。
「……ぁ、」
「ど、どうしたの大丈夫?! ケガしたの?!」
「ご、ごめん…、人形の腕、壊しちゃったよ…。」
「…なぁんだ。圭一《けいいち》くんがケガをしたんじゃないかって思っちゃった。」
よほど俺は申し訳ない顔をしていたのだろう。レナは表情を曇らせることもなく笑顔で言ってくれた。
「ガムテープとかでくっつけて、その上に上着を着せるもの。絶対わからないよ。」
「…そっか。じゃあ引っ張り出そうぜ。そっち持ってくれるか?」
「うん!」
“…腕が一本、まだ見つかってないんだろ?”
さっきのごろんと転がった腕がやけに不吉に思えたが、そこでふと気付き、俺はちょっと自分の情けなさに苦笑した。
胸くその悪くなる事件だってことはレナも魅音《みおん》も知っていた。
だから知らないふりをしてくれた。
それをわざわざ調べたのは自分だ。
…で、情けなくも俺は、怖がっている。
「…情けないぜ前原《まえばら》圭一《けいいち》! よっしゃレナ! 一気に行くぞ?! せーのぉッ!!」
「…わ! やった!…やったよ圭一《けいいち》くん!! わぁ〜い!!」
まさに万歳三唱! 2日がかりの偉業がようやく達成された瞬間だ。
すっかり汚れ、この雛見沢《ひなみざわ》の地で終焉を迎えようとしていた彼は再び迎えられたのだった。
ツイてたなケンタくん。次のご主人様がいい人で。
「…わぁあ…ケンタくんだ…やっぱ、かぁいいよぅ!!」
汚れているにも関わらず、レナは嬉しそうに頬擦りをしている。
すごく疲れたが、レナの嬉しそうな顔を見ているとそれだけで報われるような気がした。
「じゃ手伝うから持って行こうぜ。暗くなるとまずいだろ。」
「…うん。そうだね! 圭一《けいいち》くん本当にありがとうね! この恩は忘れないね!」
「恩返しは何がいいか、よく考えておくよ。」
「わ、わ…、…どんな恩返しだろ。…恩返しだろ?」
取り合えずは意地悪そうに笑い保留しておくことにした。
いよいよレナの家へ運ぶことになったが、さすがにこのままってわけにもいかない。
人形をシートでくるみ、二人がかりで運び出す。
薄暗くなる山道を、人間大につつんだシートを運ぶ若い男女に剥き身の斧!
富竹《とみたけ》さんと出くわさないよう、祈るしかなかった。
こんなところを目撃されて写真でも撮られたら……消すしかない(笑)
“…それは警告のつもりかい?”
俺のおどけた口調とはどうにも噛み合わない、富竹《とみたけ》さんの言葉が引っかかっていた。
<幕間>
4■レナってどういう名前だよ?
「……レナがいないです。圭一《けいいち》は知りませんですか?」
「あれ? たった今までそこにいたのにな。…おい魅音《みおん》。レナはどこ行ったんだ?」
「レナー? トイレじゃない? 最近、お通じが来ないって言ってたなぁ。」
そんなことは一言も聞いてない!
「……沙都子《さとこ》。レナを知りませんですか?」
「レナですの? さっき廊下ですれ違いましてよ。レナは日直だから、花壇にお水をやらないといけませんので。」
「あーレナが日直かぁ。そりゃお疲れ様なことで。」
…レナレナレナ。
…とレナの名が乱発され、ふと疑問に思った。
人の名前にこんなこと言っちゃ失礼だが、……変わった名前だよな。外人さんみたいな名前だ。
「レナってどういう名前なんだろうな。…レナって漢字だとどうなるんだ?」
「……レナはあだ名なのです。ちゃんとした名前がありますですよ。」
「え、そうなのか?! 俺はてっきり竜宮《りゅうぐう》レナってのが本名だと思ってたよ。」
「まぁ確かに。レナとしか呼んでませんから間違えるのも無理はないですわね。」
しかも、習字の名前も「レナ」になってるしな。学校では本名同然のようだ。
「本当の名前は何て言うんだろうな。…レナが戻ってきたら聞いてみるかな!」
沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんが顔を向かい合わせる。
「……聞かなくてもいいですよ。ボクたちが教えてあげますです。」
「お礼の礼に、奈良の奈。…竜宮《りゅうぐう》礼奈が本名ですのよ!」
「礼奈か。………ふーん。それでレイナじゃなくてレナって読むのか? 面白い読み方だよな。」
「……いいえ、違いますです。レイナで正しいのです。」
「レナが言ったのですわ。レナと呼んで欲しいって。だからレナなのですわ。」
「圭ちゃん。…レナはレナだよ? 礼奈って呼ぶのは他人だけ。そこんとこ、わかってるよね?」
魅音《みおん》の言いたいことはわかる。
本名が何だって、俺たちの間の通り名が全てに決まってる!
竜宮《りゅうぐう》レナはレナだ。それ以外の誰でもないさ。
「思ったんだけどさ、自己申請すれば俺も今日からあだ名で呼ばれるのか?」
「面白けりゃね。何て呼ばれたいわけ?」
「越後屋。」
やがてレナが教室に戻ってきた。
入り口で後輩が、レナを探している人がいたことを教えている。
「あれあれ? 誰かレナの事を探してたかな? かな?」
それを見てにんまりと笑う俺と魅音《みおん》。
「お代官様、竜宮《りゅうぐう》めがまんまと現れましたぞ!!」
「越後屋、主も悪よのぅ。…ふぉっふぉっふぉ!!!」
「なな、何かな何かな?! 圭一《けいいち》くんと魅ぃちゃんが悪代官だよ? 越後屋だよ?!」
「おのれ竜宮《りゅうぐう》レナの助! ここで会ったが百年目でおじゃる。いざ覚悟〜!!」
「わ! わ! 助さん角さん、こらしめてやりなさーい!!」
「アイアイサーですわー!!!」
「……報酬はスイス銀行に入れて欲しいのです。」
こうなっては仕方ない! あとは5人入り乱れての大乱闘…!!!
※レナのフリッカーが2発炸裂!
印籠のタイミングでレナの必殺パンチが炸裂する。
結局、悪は滅びる俺と魅音《みおん》…。
「…レナにはぜひ世直しの旅に出てもらいたいもんだ。…永田町なんかどうだ?」
「……ダメだよ。旅先でかぁいいものをチョロまかすから。」
振鈴が休み時間の終わりを告げる。
「ほらほら、圭一《けいいち》くんも魅ぃちゃんも。先生来るよ!」
レナに手を借りて起き上がる。
ちょうど先生が教室に入ってきたところだった。
……あと1時間か。やれやれ。……もうひと踏ん張りするかな!
■五日目(水)学校
「あははは! どうだった圭ちゃん!」
「レナさんの家に行ったでございますか! 凄かったでしょう〜?!」
「…あははは…そんなことないよね…? ね?」
竜宮《りゅうぐう》家はうちみたいな新築ではなく、すでに建っていた家を改修したものらしかった。
ま、家はいい。
問題は庭だった。
そこには……庭いっぱいに…未知のオブジェクトが並んでいたのだ!!
それはみんなケンタくん同様、町を歩けばどこかで見かけるようなものばかりだった。
ケーキ屋さんの店頭のペロちゃん人形。
薬局前のケロモン人形。
デパートの屋上につきものの空飛ぶゾウさんまでッ!!
「そこまでは百歩譲ってかぁいいことにしてもいい! だがあの郵便ポストはヘンだぞ?! あーゆうのってマズいんじゃないのか?!?!」
「…だって……はぅ……かぁいいんだもん…☆」
思い出したのか、うっとりと顔を赤らめるレナ
「デカけりゃいいのか! デカけりゃ!!」
「で、お部屋には小さいものがごっちゃりと陳列してありますの。…前に拝見したことがあるでございますわ。」
「で、梨花《りか》ちゃんみたいなかぁいい子は地下室にしまうのか。」
「…うんうん……なんでもしまっちゃうよ☆ はぅ……かぁいい…。」
自分の気に入ったものは何でも住処に持ち帰ってしまうわけだ。悪気もなく。
「なぁレナ。ニューヨークに自由の女神ってあるだろ。…あれ、かぁいいか?」
「……うん、かぁいいよ……はぅ……ほしぃよぅ……。」
合衆国政府は早急に対策を練るべきだろう。
このままでは遠くない未来、雛見沢《ひなみざわ》に本当に自由の女神がやって来てしまう…。
時間経過
「…お待たせしましたです。」
梨花《りか》ちゃんが戻ってきた。
「職員室に呼ばれるなんて面白くないよな。何かやったのか?」
「失礼な! 梨花《りか》は圭一《けいいち》さんのような不良とは違うでございます!」
「あはは。違うよ圭一《けいいち》くん。梨花《りか》ちゃんはお祭りの実行委員さんなの。」
「祭り? 学校の文化祭かなんかの?」
「圭ちゃん圭ちゃん、この前言ったじゃん。村祭りだよ。綿流し《わたながし》のお祭り。」
あぁ、そう言えば今度の休みに神社でお祭りがあるって言っていたな。
「そのワタナガシって何なんだ? 灯篭流しみたいなもんか?」
「最後に沢に流すってとこだけは同じかな。」
「痛んで使えなくなったお布団とかどてらとかにね。ご苦労さまって感謝して供養しながら沢に流すお祭りなの。」
雛見沢《ひなみざわ》中の住人が集まって布団やどてらを沢に積み上げる……???
流れが堰き止められて大変だな…。
そこに魚でも放してつかみ取り大会でもするのだろうか。
…串刺しにして塩を振って…お、うまそうな匂いがしてきた…!!
「それじゃあサマーキャンプですわ! 圭一《けいいち》さんて意外に想像力貧困でございますのね〜。」
「な、な! なんで俺が下らん想像をしたことがわかったッ?!」
「…表情に出てましたです。」
今の想像が伝わる表情って一体どんなのだよ…?!
レナがこんなカオだよ、といって再現してくれる。
…………なるほど。納得。
「はははは! まぁそんなに面白いものじゃないけどさ。楽しみにしてりゃいいじゃん。」
「みんなで行こ。当日は迎えに行くからね!」
お祭りなんて誰かと誘い合ってじゃないと行く気がしないからな。それにこのメンバーなら退屈はしまい。
「退屈どころか! 今年もやるぜッ!!」
魅音《みおん》が全員をぐるりと見回しそう宣言した。
一体何が始まるってんだ?
…魅音《みおん》の様子から見るに…おそらく…、
「我が部の夏の風物詩ッ!! 綿流祭四凶爆闘!!」
「セ、センスねぇーッ!! なんだよそのネーミングは!!」
「…レ、レナはかぁいい名前だと…思ぅけどなぁ……。」
鋭く却下しようと思ったが、レナは取り合えず幸せそうなので無理に否定しないでおく。
「…圭一《けいいち》もいますから、今年は五凶爆闘になりますです。」
何事もなく梨花《りか》ちゃんが訂正する。
「で、この仰々しいネーミングの部活動とお祭りがどう結び付くんだ?」
「をっほっほ! 日頃部活動で培った実力をご披露するのでございますわ!」
「その通り! 日々の厳しい試練を乗り越えた精鋭中の最精鋭たる我々の実力を…!!」
「でも去年は村長さんに怒られたし…。今年は迷惑をかけないようにしないとね…。」
「…つまり露店巡りをしながら部活動をするわけです。」
…例によって梨花《りか》ちゃんだけが的を射た説明をしてくれる。
なるほど、俺たちのあの騒がしさを祭り会場で「発表」するわけか。そりゃあ、レナの言う通り、村長さんにも怒られるだろうなぁ!
「あはは…、でも楽しいんだよ!」
その点に関してだけは疑いようもない。
きっと楽しいに違いない。
祭りの日はもう、すぐそこだった。
■部活(罰ゲーム有り大貧民)
「じゃ、それはそれとして。今日も始めようかね、部活動! 異議はぁ?!」
「な〜〜しッ!!」
俺たちの声が綺麗にハモる。
「やっぱり人数が多いときはトランプが一番の王道だよねぇ! まさにこれぞテーブルゲームのベーシック!」
「またガン牌トランプか?!」
「今日は新品。傷はないから本当に条件は互角!」
「本当でございましょうねぇ! そのカード、改めさせてもらいますわぁ!」
む、道理だな。念の為、みんなでカードを改める。
「うん。これなら大丈夫だよ!」
「みんな納得した? じゃあ今日はね……………「大貧民」にしよっか。5人て人数もいい感じでしょ!」
トランプのスタンダードなゲームのひとつだな。
手札を全てなくしたヤツがあがりだ。
基本は、前に出されたカードより強いカードを出して行く。
連番や2枚出し、革命等様々なテクがありゲーム性を増している。
ただ、知名度の高いゲームなだけに地方差やローカルルールが多数存在するらしい。
例えば名称。
俺の住んでた街では「大富豪」と呼んでいた。
「一応、細部を確認しとくぜ。ジョーカーはオールマイティーか? 3は3枚でも革命可能か?」
「ジョーカーはなし。2が最強。革命返しは有り。3でも4枚なきゃ革命不可。」
「あとね、ゲーム開始時に貧民がいいカードを上納するってルールがあるでしょ? あれはなしなの。」
俺の手馴れたルール確認の様子に沙都子《さとこ》が警戒した眼差しを向ける…。
もう少し素人っぽく振舞うべきだったかもしれない。
俺はこのゲームには多少慣れている!
大貧民で、しかもカードは新品。今日なら…勝てるかもしれない!!
さて、ルールはだいたいわかったが。…これだけじゃあるまい?
「で、今日の罰ゲームは何でございますの?!」
「それなんだけどさ、みんなで何枚かメモに書いて敗者に引かせるってのはどうかな。」
お、そりゃあなかなか面白そうだな!
「をっほっほっほ! ではどぎつ〜いのを書いて圭一《けいいち》さんに引かせてやりますわぁ!」
「あ、あんまりひどいのを書くと、自分で引いたとき大変だよ。」
「負けなきゃいい、ってんだろ?」
「わかってるじゃありませんの!をっほっほ!」
魅音《みおん》がメモを数枚ずつみんなに配る。
「じゃ適当に書いてこのかばんの中に入れてー。負けた人はこの中に手を突っ込んで1枚引くってことで。」
さて、罰ゲームは何がいいだろう。
最悪の場合、自分が引くはめになる。
…あまり過激な内容は自分の首を締めるな。
「…何もなし、て書くのは禁じ手にしましょうです。」
梨花《りか》ちゃんのさりげない提案に魅音《みおん》がぎくっ!と手を止める。
「あぁあぁあ!!魅音《みおん》さん卑怯ですわぁ!! 「何もなし」って書いて角を折ってあるですの〜!」
なるほど。
万が一自分が負けた時には「角の折ってあるメモ」を引き当てれば安全ってわけか。
…うまい保険だな。
相変わらず狡猾だぜ魅音《みおん》!!
それを看破する梨花《りか》ちゃんも侮れないな。
存在感が薄いからと言って甘くは見れない。
「みんな…あ、あんまり意地悪な罰ゲームはやめようね…?」
このレナの提案には誰も賛同しない。……みんな非情だ。
「大丈夫だよレナ。負けなきゃあいいんだからな!!」
「…う、うん。そうだね。
よし! 頑張ってレナの罰ゲームをみんなに引かせるぞぅ!」
気弱そうなわりに容赦のないレナのことだ。……あまり舐めてかからない方がいいな。
「同感ですわ…。特に「レナの罰ゲーム」ってのがとっても気になるでございます…!」
「…誰の罰ゲームでも怖いです。」
そういう梨花《りか》ちゃんの罰ゲームこそ得体が知れないぜ。
「つまり。このゲームには負けられないってわけ!! ご一同、覚悟はいいね?!」
皆、覚悟を決め、強く頷く。
それを魅音《みおん》が確認しカードが配られる。
……いよいよ…開戦だッ!!!
まずは軽快な滑り出し。
様々なカードが次々と場に出されていく。
魅音《みおん》は言うに及ばず、沙都子《さとこ》も梨花《りか》ちゃんもカードの切れは冴える。
やや長考気味なのは俺とレナだ。
レナの場合は純粋に悩んでいるだけのようだが
…俺は違う!
獲物を狙うサメの心持ちでじっと牙を伏せる。
「あれ? これ通るのかよ? じゃあ3出してあがりだぜ!」
「9! いないですの?! 8! 7! あがりでございます!!」
「…5と5。あがりますです。」
「じゃあ最後の1枚を捨てて、あがりね!」
「ち…! 機を逸したか…ッ!!!!」
緒戦で敗北を喫したのは…なんと魅音《みおん》だった! そして俺は確信する。
…今日なら…俺は勝てるッ!!!
「じゃあじゃあ! 魅ぃちゃん、この中から1枚引いてね〜!」
観念した魅音《みおん》はカバンをごそごそとまさぐり、1枚を取り出す。
「……だッ?! 誰これ?! 書いたヤツだれぇえぇえ?!」
魅音《みおん》は絶叫し、わなわなと震え出す。
「…えぇと、どんなの? どんなの?……………
えぇッ?!」
覗き込んだレナも驚く。
…一体どんなヤバイのが書いてあるってんだ?!
“校長先生の頭をなでる”
「…ちょっと待て。これがどうヤバいんだ?」
「圭一《けいいち》さんは気付きませんの?!! 校長先生はハゲ頭を恥ずかしがってますの!!」
沙都子《さとこ》が真剣な顔で叫ぶ。
でも魅音《みおん》が絶叫するほどじゃない。
何かあるのか…?
「…校長先生は武道の達人なのです。」
「若い頃は世界を修行して回って、武術の奥義を極めきったと豪語してますの。」
「戦後の日本の教育の乱れを憂いて教育者に転向したんだって…。」
すでに人間じゃねえぞ。……そいつの頭を撫でるのか…?
「部長の私が模範を示さないわけには行かないね…。ふぅ。
…………………うりゃああぁぁああッ!!」
気合いの雄叫びと共に、魅音《みおん》は廊下へ駆け出して行った。
「…静かにこっそり行って、穏便に済ます方が有利じゃないのか?」
「多分無理だよ…。だって気配でアメフラシが探せるって言ってたし。」
固唾を飲んで待つ事しか出来なかった。
ど
っがぁあぁあぁんッ!!! 教室を揺るがす轟音!!
「…校長先生のエアリアル起動技です。」
ずどがががッ!!!
きゅぴーん!
ばっかぁあぁあぁんッ!!!
浮かしてから弱弱中強?! しかもゲージ技まで持ってやがるッ!!!
「音からして…校長の空中強は多段ヒット技だな?」
「し、知らないよぅ……食らいたくないもん……!!」
俺は努めて冷静を装うしかない。……この学校に不良がいない理由がよくわかった。
しばらくの沈黙の後、よたよたとした足取りで魅音《みおん》が戻ってきた。
「……撫でた。……これで……いい…?!」
そう言って倒れこむ魅音《みおん》。
「取り合えず生きてますわね。ゲーム続行は可能でございますわぁ!!」
「……ぉ……鬼……。」
そーゆう部活にした本人がよく言う。
「でもでも! これで一番おっかない罰ゲームはなくなったね! ね?!」
気を取り直して笑うレナに魅音《みおん》が憎々しげな笑みを向ける。…こいつ、マジだな。
「もぉ手加減しないからねぇ!!! あんたたちにも思い知らせてやろうじゃーん!!」
ゲームの回転が異様に早くなった。ゲームがヒートアップしているのがわかる。
「A! 3・4・5!! あっがりぃ!!」
「…これでボクもあがりますです。」
「へへ! 俺もあがらせてもらうぜ!」
「3!! これであがりですの!!」
「ひぅ!! ま、負けちゃったよぅうぅうぅう……?!」
…そして天は敗者にレナを選んだ。
「ど……どんな罰ゲームだろ…どんな罰ゲームだろ…!」
不安がるのも無理はあるまい…。
初っ端の魅音《みおん》の罰ゲームの難度を思えば俺だって震える…。
そして…震えながら引き当てた罰ゲームの内容は!!!
………なんだそりゃ。
“メイドさん口調でしゃべる”
「ぇえ?! な、なにこれぇ?!?! …これって…どうすればいいの?」
「…ってことはつまり…そういう口調でしゃべれ、ということではございませんの…?」
「は…はぅ……。…はい…ご主人様ぁ…。」
くら!と来る俺。…だ、誰が書いた罰ゲームか知らんがそいつ最高だッ!!!
「じゃ、じゃあレナ、カード集めて…みんなに配ってくれるかな…??」
「は、はい…ご主人様ぁ……。」
あぁ俺、今すぐ死んでもいいや♪!!
「と、とととにかくゲームを続行しよう!!! なぁレナ!!」
「…はいご主人様ぁ…。」
むやみやたらとレナに話しかけてしまう自分の素直さがかわいくてしょうがない。
「うりゃ!! もう負けないよ! あがりぃ!」
「私も絶対負けられないでございますのよ!!」
「…あがりましたです。」
「ならこれで俺も……あがりだぁあぁあッ!!」
「そ、そんなあぁああ!! またレナの負けでございますかぁ?!」
またレナか…! 一体今度はどんな罰ゲームが…?
不思議な期待感に胸が踊る。
……期待? いや、これは確信だッ!!
“上下1枚ずつ脱衣。”
「そ、そそそそりゃまずいだろッ?!?! 誰だよこんなの書いたのッ?!」
俺は真っ赤になりながらいきり立つ。取り合えず何か叫んでないと動揺が隠しきれない!!
あぁ誰だよこんなの書いたの!! 神様、そいつにノーベル賞を渡してくれ!!
「きっとノーベルすけべぇ賞ですわね。」
いかんいかん、また表情で胸の内を語ってしまった。
「……はぅ………ぅ………魅ぃちゃん……。」
レナが目を潤ませながら魅音《みおん》に助けを乞うが…魅音《みおん》の答えは決まっている。
「ハイハイ! 甘えない甘えない!! 負けたら潔〜くッ!!」
「…わ、わかりましたご主人様…。…………はぅ……ぬ…脱ぎます…。」
え、えぇ?!?! 俺は誰かがやめさせるだろうとキョロキョロするが、誰もレナを止めようとしない?!
やがて衣擦れの音がして……スカートが床に落ちる音に俺の心臓がどきんと高鳴る!
「こ、これで…よろしいでしょうか…ご………ご主人様ぁ…。」
紳士的に顔を背ける俺。
…で、でも部活は…ひ、非情だもんな…!
「あ、………な、なんだ……あははは……は。」
「圭一《けいいち》さん、何を期待してますの〜?! 下に体操服着てなかったらさすがに脱げませんわぁ!」
沙都子《さとこ》が茶化すが、今の俺の耳には入らない…!
「圭ちゃんもやるねぇ〜!! こっちの方向で攻めてくるとはおじさん、予想もつかなかったわぁ。」
「ちちち…ちッ違う!! これは俺が書いたんじゃない!!」
「ご、…ご主人様が書いたんじゃないんですかぁ…?」
た、体操服姿でもじもじとする姿に、俺は何かを感じずにはいられない…。
お、おちつけ前原《まえばら》圭一《けいいち》…!!
多分、この罰ゲームは魅音《みおん》辺りが書いて俺のパニックを狙ったつもりなのだッ!!
敵のワナと知ってわざわざ踊るな前原《まえばら》圭一《けいいち》!! 心頭滅却! 冷静になって今の状況を分析しろ……!!!
俺は頭のコンピューターをフル回転させ状況判断に努めた。
…そして出た答えは非常に単純だった。
「ぉ……俺は勝ぁああぁあぁあつッッ!!!!」
そして俺は神になった!!!!
すでに神の領域に達した俺の前に…一体何の障害があるというのだ?!
まるで磁石に吸いつけられるかのように……Aやら2やらの強力なカードが舞いこむ!!
「…ひぇ?! 何でこんなにカード運が悪いでございますのー?!?!」
「沙都子《さとこ》の負けだな。引くぞ。“妹口調でしゃべる”!!!」
「ぅぅう!! …はい、お兄ちゃん…。…くぅぅ!!」
くぅうぅうう!!! 生意気ッ子を屈服させるこの快感!!
「くわぁ! …またおじさんの負けじゃーん!」
「魅音《みおん》の負けだな。引くぞ。“女子スクール水着に着替える”!!!」
「のぉおぉおぉ!! 圭ちゃんに引かせたかったぁあ!!」
くううぅうう!!! 魅音《みおん》の嘆きは蜜の味よのぉぉお〜ッ!!!
「ご、ご主人様ぁ…ま、また負けちゃいましたぁ…!!」
「レナの負けだな。引くぞ。“1位にひざまくら”!!!」
「……は、はぅ……この格好でですか…ご主人様ぁ……。」
くぅおおぉおぉ!! スカート履いてないから生ひざまくらッ♪!!!
「きゃ!! お兄ちゃん…強過ぎですの………くすん。」
「沙都子《さとこ》の負けだな。引くぞ。“1位にご奉仕”!! 肩でも揉んでもらおっかなぁ?!」
「はいお兄ちゃん……。」
「ほぅらもっと奥まで! 爪立てんじゃねーぞぉぉおお! ぎゃっはっはっは〜♪!!」
すでに悪の皇帝と化した俺はこれ以上ないくらいに絶好調!
今の俺なら眼力ひとつでカードを操り、念ずるだけで次に引くカードの絵柄まで決められる…そんな気分だッ!!
…気がつけば、そこはすでにハーレム状態。
俺はブルマーメイドと化したレナのひざまくらで高笑い。
沙都子《さとこ》は首輪付きで妹属性化。
魅音《みおん》はスクール水着で羽団扇を扇いでいる。
「はぅ……きょ、今日はご主人様は、圧勝でございますね…。
…きゃふ! あんまり頭をごろごろしないで下さいましぃ…。」
俺は思う。
…どうして人間の欲望には終点がないのか。
これだけのドリーム御殿状態でこれ以上、何を望むッ?!?!
「…どうしましたですか圭一《けいいち》。」
「どうして人の欲望には限りがないのか…憂いていたのさ。」
そう。
梨花《りか》ちゃんは1位こそ取らないものの、さっきからのらりくらりとビリを回避し続けている。
「…圭一《けいいち》は欲張りさんですよ。足るを知るともいいますです。」
「充分理解してるよ。……なんてゆーのかな。もう死んでもいいってカンジ♪♪♪」
「きゃふ! ご主人様ぁ…あんまりごろごろしないで……きゃふ…!」
「…死んでもいい、ですね。…かなえて差し上げますですよ。」
あまりに穏やかに、いつものようににこやかに言う。
…それは紛れもない、梨花《りか》ちゃんの宣戦布告だった…!
「いいぞ梨花《りか》ちゃん!! やっちゃえ〜〜!!」
「このどすけべ大魔王をやっつけるでございます〜!!!!」
「…ボクでは勝てないかも知れませんですが、…やっつけますですよ。」
沙都子《さとこ》の影にやや埋もれがちなこの少女の精一杯の克己!
それを受けて立たないのは失礼というものだろう。
…相手になってやるぞ小娘ぇえぇええッ!!!
ゲーム中盤、魅音《みおん》が数枚のカードを梨花《りか》ちゃんとすり替えているのを見抜くが、俺は知らないフリをする。
……その程度で今の圭一《けいいち》さまが敗れると思うのかぁあああ!!!!
「…2です。A・A・Aです。……8・8・8・8。革命しますです。」
みんなが一斉に、自信たっぷりに俺に振り返る。
……くっくっく! 4人揃って共同戦線を張って…この程度か…笑止千万ッ!!!
「有りだったよな。
……革命返しだぁああぁあぁああッ!!!!!」
「んなッ?! そんな馬鹿なことがあるわけ……ッ?!?!」
沙都子《さとこ》が絶望的な嘆きを漏らす!
……くっくっく! うつけ者めッ!!!
革命を前提にカードを切っていた梨花《りか》ちゃんにはもう強力なカードは残っていない!!
呆気ないくらい一瞬で勝負は決着した。
「……ボクの…負けです…。」
「がっはっはっは!!! ついに我が軍門に下ったり!!! さぁ1枚引くぞ?! をぉおお?!?!」
“猫耳・鈴付き首輪・しっぽ付き装備”
くっくっく!! もはや罰ゲームまでが俺の意のままに現われるわッ!!!
梨花《りか》ちゃんはうな垂れながら3種の神器を装備する。
そんなものがどうして魅音《みおん》のロッカーに入っているのか疑問だが異論はないのでつっこまない。
をお!! こ、これは!!……はぅ〜〜!! 俺までレナ化した気分だ…! こりゃあ確かに…か、かぁいい……♪♪♪
「かぁいいよねぇ?? ねぇ?! ……はぅ……お持ち帰り……☆」
これは俺のセリフじゃない。本家レナのセリフだ。
「…みぃ…。」
梨花《りか》ちゃんが涙目で泣き真似をした時、レナの両耳から
ぽん!と音がして輪っか状の煙があがる。
「……梨花《りか》ちゃん…お持ち帰りお持ち帰り…☆ …ちょ…ちょっとだけだよ☆…ヘ、ヘンなことはしないんだよ…しないんだよ……☆」
「そ…そうか…その手が残ってたか…ッ!!」
魅音《みおん》がはっとしてぽんと手を打つ。
「…レナがどうしてもって言うなら……ボクはお持ち帰りされちゃうです。」
「レナさんに圭一《けいいち》さんが倒せたらですわぁあぁああぁッ!!!」
かぁいい状態のレナなら俺を倒せると踏んだわけか!
そううまく行くかな?!?!
俺への反逆は神への反逆だッ!! 身のほどを思い知らせてくれよう!!!
「ちょこざいなッ!! レナなど返り討ちに……ひッ?!」
一瞬、何が起こっているのかわからなかった。
レナの両手を、52枚のカードがうねり、踊り、まるで手品師のカードさばきのように自由自在に駆け巡るッ!!!
l
そのカードのうねりの渦中でレナが恍惚とした表情で頭をぐるんぐるんと回している…!!
「や…ややややろやろ圭一《けいいち》くん……早くぅ早くぅッ!!!!」
俺は体全身で理解した。……俺は…負ける。
「出ない?! 出ないの圭ちゃん?!
……ならこれで…あっがりぃ!!!」
みんなが一斉に大歓声をあげる。燃え尽きる俺。
「ふっ……悔いはないさ……神さま…短い夢をサンキューな。」
「さぁ! 引くでございますよ?!?! 圭一《けいいち》さんの罰ゲーム!!!
…これですわ!!」
みんなが一斉にそれを覗き込み、文面と俺の顔を交互に見比べる。
「今日一日、はしゃがせてもらったからな。…なんでもやるぜ。内容はなんだ?」
「全部。」
「は?」
“今まで出た罰ゲーム全部”
「なッ、……なんだそりゃぁあぁあぁあぁッ?!?!?!」
「圭一《けいいち》さん、言葉遣いが弟属性になっていませんでしてよ?!」
「ぅう! ……はいお姉ちゃん。……くぅううぅ!!!」
「ふわぁあ……☆ こ、これは病み付きになるでございますわぁ! あと肩も揉んでもらいますわよ!!」
「圭一《けいいち》くん、ひざまくらはいいから…レナにも、ね?」
「うぐぐぅ……は、はいご主人様ぁ……。」
「は、はぅ…! 圭一《けいいち》くん…そ…それ……すごくかぁいい……もっと言って?! もっと言って?!」
「あぁん、もうお許し下さいご主人様ぁ〜…!」
はぅ〜〜!と叫びながら、レナは鼻血を噴き出して悶絶する。
もう俺のプライドなんか一山百円状態だ。
「次はおじさんだねぇ! まずはの〜んびりと団扇で扇いでもらおうかなぁ?!」
ばっさばっさ!!!
「…あ、そうか。これも着ないと駄目だよねぇ? スクール水着☆」
「ぇ、ええ?!?! それ女子用だろッ?! 俺は男子用でいいんじゃないのかぁ?!」
「ここにちゃんと“女子スクール水着に着替える”と明記してございますわぁあッ!!!!」
沙都子《さとこ》は借金の取立て屋なんか似合うと思った。
……っていうか、そんな現実逃避に走る自分がかわいくてしょうがない…。
「だだ、だって?! 誰のスクール水着を着るんだよ?! やだろ?! 俺なんかに着られたら!!!」
「あ、おじさん、そーゆうのはぜぇんぜん気にしないからぁ☆ いいじゃん役得でさぁ! 私、スタイルすっごく悪いからぁ圭ちゃんでも着れないことないと思うよ!!」
執行人たちが両手をわきわきとさせながら俺を取り囲む。
「ぎゃぎゃ………ぎゃああぁあぁあぁあぁああッ!!!」
第一感想。…胴回りがキツイ。第二感想。胸だけは割りとラク…。第三感想。股間が……………はぅ。
「あははは〜圭一《けいいち》くん、前屈みだぁぁ……かぁいいかぁいいッ!!」
「…あとこれに猫耳と首輪としっぽを付けて完成しますです。」
「圭ちゃん、鏡見る?……いやマジ凄いって。多分見といた方がいい。」
魅音《みおん》の面白がる表情に混じる、科学者的な冷静さがすごくコワイ。
「え、…遠慮しますご主人様……。」
「これで出来上がりですわね!! このままの格好で下校するってのもあれば良かったですのにぃ! をーっほっほっほ!!」
「じゃ…も、もういいかい? 着替えてさ…。」
そう言って肩紐に手をかけた俺の背後に音もなく梨花《りか》ちゃんだ立つ。
「…まだです圭一《けいいち》。…一番最初にやった罰ゲームが残ってますです。」
“校長先生の頭を撫でる”
「………この格好で、…か?」
梨花《りか》ちゃんは黙って俺の頭を撫でてくれた…。
「ぅ押忍ッ!! 失礼します!!」
「うむ。入りたまえ。」
俺は校長室に踊りこむ。首輪のちりんという音が無意味に可愛らしい。
校長は笑顔のまま、俺を見てフリーズしていた。
無理もない。
神聖なる学び舎で、それも校長室に。
失礼しますと言ってがらりと入ってきたのが、スクール水着に猫耳首輪しっぽ付き。
しかもそれを着ているのはむさ苦しい男子生徒……。
……正常な神経の人間なら誰だって思考が凍り付くに違いない…。
だがこれは科学的に説明できる現象なのだ。
つまりこれこそは擬態・カモフラージュの原点と言える。
人間は相手を見て「それは人間だ」と認識して始めて行動に移れるのだ。
……つまり、目の前に現われたものが何か理解できなければ、理解できるまでの一瞬は完全な空白時間となる…!!!
それが俺の唯一の……勝機ッ!!!!!
俺の罰ゲームはッ!!!
校長の頭をなでることぉぉおおぉぉぉ!!
「校長ぉぉおおおおぉおおおッ!!! 勝負ぅううぅううッ!!!!!」
きゅぴーんという音が3回した。3ゲージ技かッ?!
校長は一言俺に言った。
「漢(ヲトコ)とはなんぞや…?」
そして一心拍の間………。
ご
おぉおぉおおおぉおん……ッ!!
黄昏の雛見沢《ひなみざわ》に轟音が響き渡るのだった……。
■魅音《みおん》と下校。
レナは梨花《りか》ちゃんの頭を好きなだけなでなでできる権利を獲得したので、ほくほくしながら梨花《りか》ちゃんたちと下校した。
なので今日はまた魅音《みおん》と二人での下校だ。
「いやぁ…白熱したねぇ! 圭ちゃんがあんなに大貧民が強いとは思わなかった!」
「いや、俺自身が一番驚いてるよ。」
多分、男どもとやったらあんな力は出ないだろうな…。
「しっかし…ひっでえ目にあった。…あんな姿で担架で運ばれた日にゃ末代までの恥だ。」
「あっはは! でもいいじゃーん? 七代は自慢できるくらいイイ目も見たんだしぃ!」
はぅ。それを言われると弱い。二人で笑い合う。
「おや、また会ったね。圭一《けいいち》くん。」
富竹《とみたけ》さんだった。
彼とは何気にちょくちょく会っている気がする。
「どうも。いい写真は撮れてますか?」
「ま、そこそこにね。……で、」
富竹《とみたけ》さんが急に俺の肩を引き寄せボソボソ声でしゃべる。
「しかし圭一《けいいち》君も隅に置けないなぁ。今日はこの間とは違う彼女かい?!」
「そ、そーゆんじゃないですよぉ!」
「とぼけないとぼけない! 若いうちは経験が大事なんだからなぁ〜!」
富竹《とみたけ》さんの下卑た笑いのせいで、声は聞こえなくても魅音《みおん》には筒抜けだ。
「富竹《とみたけ》のおじさまだってなかなか隅に置けないって噂ですけどぉ?」
「え、いや、僕はそんなつもりで…!」
「はいはい。お仕事頑張ってイイ写真いっぱい撮って下さいな〜! バイバ〜イ!!」
魅音《みおん》はこの調子のいいおっさんを早く追っ払いたくてしょうがないみたいだな。
口調だけを聞いてると…魅音《みおん》は富竹《とみたけ》さんのことをよく知っているようだ。
「おじさまは今年は? 綿流し《わたながし》まで滞在ですかな?」
「ん、そのつもりだよ。お祭りを一通り撮影したらまた東京に帰るよ。」
「カメラマンってヤツぁ本当に気楽な商売ですことぉ! 早くでっかい賞を取って有名になって下さいよねぇ! 婚期逃してまで写真撮影に熱中してるんだからぁ!」
「そ、そんなことはないと思うな! 男は三十路から味が出るんだよ…?」
「ミソから味が出てどーすんですかぁバッチイなぁ!」
「ん、あ、あはははは! おっと、そろそろ宿に戻らないと暗くなっちゃうなぁ!」
富竹《とみたけ》さんは苦笑いしながら、そそくさとその場を去ろうとする。
どうも魅音《みおん》には全然頭が上がらないようだ。
「じゃあお二人とも。お祭りでまた会おうね。」
富竹《とみたけ》さんは陽気に手を振るとひぐらしの声の中に消えて行った。
「あんな調子で本当に有名になれんのかねぇ。個展開いたら私の写真、展示してもらう約束になってんだけど〜…当分実現しそうにないかね。」
「魅音《みおん》は富竹《とみたけ》さんのこと知ってるんだ。」
「ん、知り合いっていうか、ほら、ここじゃよそ者はすぐわかっちゃうからね。」
「昨日今日会ったばかりという感じじゃなかったな。」
「富竹《とみたけ》さんね、結構ちょくちょく雛見沢《ひなみざわ》に来るんだよ。年に2〜3回くらいかな? 季節の風景や野鳥を撮影してるんだってさー。ま、大した写真じゃないんだろうけどね!」
魅音《みおん》が口にする富竹《とみたけ》さんはずいぶんユニークなイメージだ。
俺の中での富竹《とみたけ》さんは……もう少しミステリアスだ。
それが自然に口を突いた。
「……富竹《とみたけ》さんって本当に野鳥撮影で来てるのかな?」
魅音《みおん》がきょとんとした顔で、なんで?と聞き返す。
「なんかこう…撮影以外の目的で来てるような…さ。…そんな気がしないか?」
例えば……例の…バラバラ殺人の何かを……
「へぇ? やっぱりそう思う? ……だとしたらいい勘してるよ圭ちゃ〜ん!」
俺の意見を肯定するが、その口調は極めておどけたものだった。
「知ってるのか魅音《みおん》。」
「まぁねぇ〜! 他のみんなはひょっとすると気付いてないかもしれないけど……このおじさんの目は誤魔化せないしねぇ〜…☆」
魅音《みおん》はやたらともったいぶったが、その答えが俺の想像する方向とはまったく違うことは容易に想像できた。
富竹《とみたけ》さんに対する一方的な杞憂が消えると、急に肩が楽になった。
俺は雛見沢《ひなみざわ》の、夕暮れの空気がこんなにも澄んでいたことをやっと思い出す。
「………ッ、はあぁあぁああぁぁ〜!!」
肺の空気を全て吐き出し、同じだけ思いきり吸いこむ。黄昏の匂いがした。
「どしたの圭ちゃん。」
「ひぐらしの声ってさ。こんなにも気持ちいいものだったんだな、って。」
「あはははは! 圭ちゃん、何を今更。」
どちらからともなく。二人そろって軽く笑い合う。
「レナは今頃どうしてるかな。梨花《りか》ちゃんを思う存分可愛がれたのかな。」
「今頃は夕食を振舞うから遊びにおいでって誘っている真っ最中だよ。」
「うまく持ち帰れるといいな。」
「どうだろうねぇ。梨花《りか》ちゃんってあれでなかなかうまいから!」
「あぁ、それは同感! 頭を撫でる罰ゲーム、あれきっと梨花《りか》ちゃんだぜ。」
「私も同感〜! 校長先生の頭を撫でられるのは梨花《りか》ちゃんだけだし。」
とりとめのないおしゃべり。
夕方の空気とひぐらしの声が、熱かった今日一日の熱をやさしく冷ましてくれた。
<幕間>
5■回覧板
例年になく早い梅雨明けを迎え、早くも夏の訪れを感じる今日この頃、皆さんにおかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
いよいよ今年も「綿流し《わたながし》」のシーズンがやってまいりました。
町会の皆さんで協力して、楽しいお祭りにしていきたいと思います。
つきましては、皆さんのご協力をよろしくお願いいたします。
(1)バザー品募集中!
毎年好評の雛見沢《ひなみざわ》大バザーへの出品をお待ちしています。
お中元の余り物や着れなくなってしまった古着などを大々募集中です!
なま物はご遠慮ください。
担当:牧野 Tel(X)XXXX
(2)ちびっ子祭り太鼓募集中!
丁寧な指導と実績で定評のあるちびっ子祭り太鼓サークル「蕉風会」が飛び入り参加を募集しています。
小学生から中学生の目立ちたがり屋さんを待ってます!
担当:公由《きみよし》 Tel(X)XXXX
(3)義援金募集中!!
一口千円からの義援金を募集しています。
一口につき模擬店券シートを1枚進呈しています!
担当:園崎《そのざき》 Tel(X)XXXX
お祭りの楽しいアイデアも随時募集しています。
おもしろいアイデアがありましたら村長宅 公由《きみよし》(X)XXXXまでどうぞ!
(キリトリ線の下に模擬店券が200円分付いている。)
■9日目(日)
それから数日がたった。
あれから今日まで、魅音《みおん》に用事があったり、梨花《りか》ちゃんにお祭りの手伝いがあったりとでなかなかメンバーが揃わず、部活はお預けになっていた。
部活の度に命を削るような大立ち回りをさせられて二度とやるものかッと思うくせに、いざないとなると今度はどうにも物足りない。
……つくづく俺って素直じゃない。
そして今日はその、久々の部活の日だ。
それもただの部活ではない。
その名も「綿流祭五凶爆闘」!!
我が部の一大イベントらしい。
「圭一《けいいち》〜。この浴衣、まだ着れるかしら? ちょっと袖を通してみてくれる?」
お袋がほこりの匂いがする浴衣を引っ張り出してきた。
「いいよ浴衣なんて…! 恥ずかしいから普段着で行くよ。」
「でもお祭りなんだから。着て行きなさいな?」
「レナとかは普段着でいいって言ってたぜー? 浴衣なんか着てったらかえって恥さらしだよ!」
俺はいつものよそ行きの上着を着る。
「祭りにはレナたちと行くからさ。俺のことは放っておいて大丈夫。」
「そう? じゃあ母さんは父さんが起きたら二人で行くわね。」
親父はソファーに毛布で高いびきだ。
「あの調子じゃ…昨夜も徹夜かな。」
「急ぎの原稿をようやく発送したとこなの。ひょっとすると起きないかもねぇ…。」
親父はたまに美術雑誌のコラムとかも書いてるらしい。
…一度も読んだことはないが。
俺の親父って…すごい画家なんだろうか。
…実の息子が言うのもなんだが、そんなに売れているとは思えない。
でも家族3人をしっかり食わせているし、生活には何の不便もない。
俺が知らないだけで……ひょっとするとすごい大画伯なのかもしれない…。
ぴんぽ〜〜ん!
「圭一《けいいち》くん、いらっしゃいますか〜〜!!」
しまった! もう待ち合わせの時間だったか!!
家に来られたくなかったから、早々に家を出て外で落ち合うつもりだったのに…!!
「あらあらレナちゃん! いつもうちの圭一《けいいち》がお世話になってまして…!」
「あ、…お、おばさま……こ、こちらこそ…お、お世話に…なって……、」
なんでうちのお袋に会うだけで赤くなるんだぁあぁあ!!!
「そこで真っ赤になるな! 実に気まずい! 行くぞレナ!」
放っておけばいつまでもぽやーっとしているだろうレナの手を取り、ずんずんと歩いて行く。
「レナちゃ〜ん! 圭一《けいいち》をよろしくね〜!」
「はぅ!……はいおばさま〜〜〜! 圭一《けいいち》くんはレナが命に代えましても〜☆」
じゃあ今すぐ代えろ!
引きずられながら手を振り返すレナ。
「ハ〜イ圭ちゃん! 今日はお腹空かしてる? 露店で済ますんだからね!」
「部活が露店勝負とわかってて、腹を無駄に膨らますと思ったかよ!!」
「そうでなくっちゃ!」
「沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんは? もう神社に行ってるのか?」
「うん! 梨花《りか》ちゃんはお祭りの実行委員さんだもん。沙都子《さとこ》ちゃんもきっと一緒だよ。」
「そっか。……よっしゃ! 今日は目いっぱい騒ぐぞぉ!!」
「お〜〜〜〜〜ッ!!!!」
俺たち3人、早くも意気は軒昂だった。
古手《ふるで》神社は以前来た時の様子からは想像もつかないくらいの大賑わいを見せていた。
色とりどりの提灯が並び、連なる露店やそれに群がる人々の雑多な雰囲気が、とても心地よい。
「すげぇ人だなぁ!! 雛見沢《ひなみざわ》ってこんなに人がいたんだ…。」
「綿流し《わたながし》のお祭りはみんな来るよ。多分、雛見沢《ひなみざわ》の人の半分くらいは来てるんじゃないかな。」
「それだけじゃないよ。近隣の町の町会や子供会も招待してる。」
「そうだよな。俺たちの学校、あれしか生徒いないのに。今日は子供の姿がやたらたくさんある。」
「お祭りのにぎやかさは、やっぱり子供のにぎやかさだからね。」
そうだよな。同感だ。
「あ、どうもこんばんは〜!」
二人にとってはすれ違う人は全て知り合いだ。
もちろん俺にもみんな挨拶してくれるが、肝心の俺はまだ顔を覚えるには至らない。
「あぁらレナちゃん。この間はお惣菜をありがとうね! うちの子もおいしいって喜んでたわ。」
「あ、いえいえ☆ 気に入ってもらえてうれしいです。和正くんにもよろしくお伝えくださいね!」
「よぉ! 園崎《そのざき》のお嬢ちゃんじゃねぇの! 今年も屋台担いで来てやったぜぇ!!」
「おっちゃん、太ったぁ?! 今からそんなお腹じゃ果ては心筋梗塞だね!」
「お。この兄ちゃんは新顔だなぁ。嬢ちゃんの後輩かい?!」
「うちの部員だよ。…期待のニューフェイス! 侮ると一晩で屋台潰されるよ!」
「嬢ちゃんのお墨付きかい! そりゃーお手柔らかに頼むぜ〜!!!」
想像通りというか、魅音《みおん》は屋台のおっさんたちととても親しげに話している。
「魅ぃちゃんは元気いいからね。おじさんたちにすごく人気あるの。」
「レナも人気あると思うけどなぁ。可愛いし。」
もちろん悪い病気が出なければ、という条件付きだが。
でも、レナも黙って赤くなってる分には充分可愛いヤツだと思う。
「…へ……レナが……? ……だ、…誰に人気あるのかな? あるのかな?!」
「誰かにだよ。」
レナの頭を乱暴にぐしゃぐしゃなでてはぐらかす。
「露天商は町からわざわざ来てくれてるんだよ。やっぱりこういうのがないとお祭りは盛り上がらないよねぇ!!」
「で、それを俺たちは荒して回るわけか。…どんな勝負にせよ、俺は負けないぜ!!」
「そうだね。……えへへ…がんばろ!」
「あーーッ!! 遅いですわ皆々様!! レディーを待たせるとは圭一《けいいち》さんもなってないでございますわ〜!!!」
「ほ〜。そりゃすまんな。で、その待たせた「レディー」ってのはどこにいるんだ?」
「ぬわんですってぇえぇええぇえッ!!!!」
OK! 沙都子《さとこ》も絶好調だな。久しぶりに揃ったメンバーに興奮しているようだ。
「…わぁ〜あ☆…梨花《りか》ちゃん……か、かかかかか…かぁいい…〜♪!!」
レナが感嘆のため息を漏らす。
どうやら本物のレディーの登場みたいだな。
「…こんばんはですよみんな。圭一《けいいち》もこんばんはです。」
「きゃー!! いいねいいねぇ! 今年もキマってるじゃーん!」
「か、かぁいいかぁいい…! お持ち帰り〜!!」
梨花《りか》ちゃんは巫女さん姿で登場だ。うん。レナの暴走もわかるぞ!
「梨花《りか》ちゃんの服装は本格派だなぁ…!! これって本物の巫女さんの服か…?」
「うちの婆っちゃのお手製。結構本格派でしょ。」
「梨花《りか》ちゃんはお祭りの最後に大切なお仕事があるから、その衣装なの。」
なるほどな。梨花《りか》ちゃんの実行委員ってのはつまり、祭りの神事の巫女さん役ってことなのか。
「…お仕事はお祭りの最後のところだけなのです。…まだまだゆっくり遊べますですよ。」
「ってことはここで時間を無駄にできないということですわ〜! 参りましょう!!」
「おっしゃあぁああッ!!」
5人の郎党で祭りを練り歩くのは実にいい気分だぞ!
魅音《みおん》は目に付いた屋台にみんなを誘っては珍妙な勝負を提案してくる。
「たこ焼き早食い勝負〜ッ!!! 各自購入の上、よーいどんッ!!」
屋台の定番、たこ焼き屋ッ!
たこなど名ばかりの小麦粉玉というエセっぷりがいかにもだ!!
「あッ熱ッアツがツがぁあぁあぁああッ!!!」
「け、圭一《けいいち》くん、大丈夫?!?! お水お水!」
「あ〜あ〜…そんなアツアツたこ焼き、丸呑みなんて自殺行為でございますわぁ!」
「作り置きの冷めたヤツを購入するのがコツかなぁ。」
「…実においしくないですよ。」
隣の屋台はかき氷だ。
ちょっと季節が早いが今は関係ない!!
「今度はかき氷にしようぜ!! 完食早食い勝負だッ!! レディ、…ゴーッ!!!」
「…か、かき氷の早食いなんて……む……むり〜…!!」
「体温で少しでも溶かせば……!! つッ?!
冷たいですのぉおぉおお!!!」
「甘いね! おじさんはシロップ大盛で頼んだのさ!! 混ぜればすぐに溶ける!!」
遅過ぎるぜのろまども!!
正攻法の時点でお前らの負けだぁあぁあああぁあ!!!
「ぷはぁあぁあぁッ!! 完食だぁああぁああッ!!!」
「け、圭ちゃんがぁ?! は、早過ぎる…ッ!!!!」
「ま、……まさか…圭一《けいいち》くん……後ろの……金魚すくいのお水を入れたんじゃ……!!」
「…実においしくないですよ。」
さらに隣はこれまた定番!
綿アメ屋だッ!!
「次はこちらにしませんこと?!
もちろん早食いですわっぁああぁあ!!!」
「ね、ねぇねぇ…綿アメの早食いなんて…どうやるんだろ? どうやるんだろ?!」
沙都子《さとこ》のよーいドンッ!!の合図と共に俺と魅音《みおん》、そして沙都子《さとこ》が手の平でばしんばしんと叩いて一瞬にして綿アメを潰してしまうッ!!!
割り箸ごと口に入れるまで……3秒ッ!!!
「沙都子《さとこ》はともかく、圭ちゃんも気付いてたとはね……!!」
「俺をいつまでも新入部員扱いしないことだぜぇえぇええぇ?!」
「…実においしくないですよ。」
そういう梨花《りか》ちゃんも両手でぺたぺたにしてから割り箸をしゃぶっている。
「こんな綿アメの食べ方。きっと日本中でもここだけだよ…。」
多分、レナに食べてもらえた綿アメが一番幸せだったろうと思う…。
しかし……このまま行くと終いには「トコロテンを鼻で食べる勝負!」とか「金魚すくいで人間ポンプ!」とかに発展しかねないな…。
「それでもおじさんは勝つけどねぇ!」
「悪食勝負では魅音《みおん》さんにはかないませんわねぇ…。」
「あぁまったく。」
「何あんたたち。次はヤキソバにブルーハワイかけて食べる勝負にしたいわけぇ??」
ぶんぶん! 沙都子《さとこ》と同じモーションで俺も首を振る。
「あ、あのさ…! 今度はちょっと食べ物から離れたゲームにしないかな? しないかな?」
レナの提案は渡りに船だ。そろそろ他のゲームでもいい。
それに大食い早食いはレナや梨花《りか》ちゃんの得意スキルではないしな。
「じゃあレナ。次のゲームをあんたに任せるよ!! 何でもいい!!」
「じゃあねじゃあね! レナは審判だよ! このお祭り会場でかぁいいものを探してくるの!! 制限時間は1分〜!!」
「上等ですわぁあぁ!! レナの好みはわかってますもの!!!!」
「よし…。……多分、あれなら勝てるッ!!!」
「よーいどん!!!
魅音《みおん》と沙都子《さとこ》は猛ダッシュで会場に散ったが、俺と梨花《りか》ちゃんは焦る様子もなく、ただ立ったままだ。
「ひょ、ひょっとして……もう見つけてあるの?? かぁいいの!」
「…もう見つけてありますです。…圭一《けいいち》もですね?」
「あぁ。」
「なんだろ!なんだろ!! 楽しみ〜!!」
魅音《みおん》と沙都子《さとこ》が戻るまでのわずかな時間を立ち尽くす俺と梨花《りか》ちゃん。
「こういう形で直接対決するのは……初めてだな。」
「…初めてしますです。」
「梨花《りか》ちゃん…………アレで勝つつもりか。」
「…ボクも部員です。…勝つためなら会則第3条ですよ。」
梨花《りか》ちゃんのせいいっぱいの冷笑。…上等だぁあぁあぁッ!!!
魅音《みおん》も沙都子《さとこ》もそれぞれ秘策を胸に戻ってきたようだ。
「じゃあじゃあ順番にね! 一番は部長さんの魅ぃちゃんからぁ!!」
「悪いけど。いきなりキメさせてもらうよ!!! おじさんはこれだッああぁあぁ!!」
どこから拾ってきたんだ。
…それはブリキでできた古いひし形の看板だ。
「…凡カレーに…緊張蚊取線香…オロ波ンCぃッ!!! どうッ?!?!」
し、渋い……渋過ぎるぜ魅音《みおん》…。
よく有刺鉄線の柵なんかにかけてあったよな。
かぁいいというよりは懐かしい…、…それのどこがどうかぁいいのか説明してくれ。
だが、レナは両耳と鼻の穴からチリチリと音を立てながら煙を吹いている?!?!
……わ……わからねぇ…。
「次は私が行くでございますわよッ!!! これでございます!!!!」
…それは婦人会の出店する焼とうもろこし屋の手作りの画用紙ポスターだった。
いかにも絵心のない主婦の手書き。
…まるでデッサンの取れていない擬人化された焼とうもろこしのイラストが哀愁を誘う……。
………ぷッ!!
それはレナが鼻血を噴き出した音だった…ッ!!
評価は…魅音《みおん》より上だッ!!
……わからねぇ…。お前のセンス、5世紀くらい先取りしてるよ…。
「をっほっほっほ!! 所詮は量産看板! 手書きには勝てませんわぁ!!」
お前らの考えもまったくわからねぇよ…。
「…では次はボクが行きますですよ。」
「次は梨花《りか》ちゃんかぁ! 小道具もなしにどんな手を使うやら!!」
忘れたのかよ魅音《みおん》も沙都子《さとこ》も。……梨花《りか》ちゃんがその気になりゃあ……。
梨花《りか》ちゃんは俺たちのところから10mくらい離れると、レナに向かってよちよちと歩き始めた。
…………その様子に魅音《みおん》と沙都子《さとこ》がはっとする!!
「し、しししまったぁあぁあぁ!!!」
もう遅いッ!!!!
梨花《りか》ちゃんは…何もない平らなところでコテン、と転ぶと動かなくなった。
……レナが慌てて駆け寄る。
「り、梨花《りか》ちゃん、大丈夫かな?! 大丈夫かな?!」
梨花《りか》ちゃんは額にこぶを作り、半分涙を溜めて……、袖からは指だけを覗かせて…。(そしてここが肝心だッ!!)でも手の甲は袖に隠れて見えないようにし……ッ!!
「……みぃ。」…と一言、「鳴いた」
「はッはぅ〜〜!!!! か、かかか、かぁいいかぁいい!!! お持ち帰り〜〜!!!」
「忘れてましたですのぉおぉ!! 一番身近な手を忘れてましたわぁあぁ!!!」
レナは真っ赤になって頭をぐるんぐるんと回しながら興奮した様子で梨花《りか》ちゃんに抱き付き頬擦りを繰り返している…ッ!!!
「さすがだぜ……。どこまで取っても一部の隙もない。ロリ!
「………圭ちゃんの方がわかんね〜センスしてるよー。」
魅音《みおん》のつっこみにカミソリを感じるが気のせいということにしておく。
完全にかぁいいモードに浸かり込んだレナをなでなでしながら、梨花《りか》ちゃんが不敵に俺に振りかえる。
「…さぁ圭一《けいいち》。…ボクに勝てますですか?」
…冷静な笑顔がコワイぞ梨花《りか》ちゃん。
時々悪魔に見えるのは気のせいだろうか…。
「圭ちゃんにも何か秘策があってのことだろうけど。……何を見せてくれるのかな?」
「私としましても、圭一《けいいち》さんのお手並み、拝見でございますわ。」
「……ひょっとして…圭一《けいいち》も芸をしますですね?」
みんなの視線を一身に浴びる…。
俺は未だかぁいいモードの冷めないレナを梨花《りか》ちゃんから引き剥がす。
「はぅ〜!! かぁいいのかぁいいの〜…☆ 圭一《けいいち》くぅん……離してぇ…!」
「今から俺がもっとかぁいいのを見せてやるから少し我慢しろ。」
「え? へ? も、もっとかぁいいの……??」
「だがここはちょっとギャラリーが多い。あっちの影へ行こう。」
俺は目を白黒させるレナを神社裏へ引きずって行く。
「…圭一《けいいち》さんの企みが見えないでございますわぁ?」
「圭ちゃんに限って……いやまさか……。」
「…ファイト、おーです。」
ほどなくして俺は戻ってきた。
……やや遅れてたどたどしい足取りでレナも戻る。
「まさか圭ちゃんのヤツ……ねんねのレナに…ヘンな事したんじゃあッ!!」
魅音《みおん》たちが俺を追い越しレナに駆け寄る。
「ヘ、ヘンなことって一体なんでございますのぉ?!」
レナはぽーーっとした様子で話し掛けられていることに一瞬、気付かなかった。
「は?! ……はぅ、なんだ魅ぃちゃんかぁ……はぅ…。」
「レナ! だ、大丈夫?! 圭ちゃんにヘンなことされなかったッ?!」
「ぅ……うぅん、…レ、レナ……ヘンなことはされなかったよぅ……はぅ…。」
「……か、かなりの重症ですわ…。圭一《けいいち》さんは一体、何を見せましたの?!」
「…うん………とってもかぁいかったよぅ……はぅ〜……☆」
「かぁいい?! レナあんた、何を見せられたのッ?!」
はぅ〜……と、大きくため息をもう一度つくレナ。
そして目を輝かせながら言った。
「かぁいかったよ☆…圭一《けいいち》くんのオットセイ、」
ぐしゃ、
どしゃああぁあッ!!!
瞬きするより早く、俺の顔面に魅音《みおん》と沙都子《さとこ》の肘が埋め込まれる……ッ!!!
「え? えぇ?! なに? なに?!」
「…レ、レナに汚ぇもん見せやがってぇえぇえ〜!!」
「こンのド変態〜!!! 調伏してさしあげますでございますッ!!!!」
「ちッちがちがッ、誤解だぁあぁああぁああッ!!!!!」
魅音《みおん》と沙都子《さとこ》の全身から黒い瘴気が噴き出すッ!!
駄目だ、こここ殺されるッ!!!!
「魅ぃちゃん?! なんだかわかんないけど…誤解だよ!! 圭一《けいいち》くんは…!!」
「…オットセイさんのキーホルダーですよ。」
梨花《りか》ちゃんが俺のポケットをまさぐって、カギに付いたキーホルダーを取り出す。
「ふぇ?」
「…昔、夏休みの宿題で作ったと言ってますです。恥ずかしいので滅多に人に見せないとも言ってますですよ。」
「うん。……ちっちゃくて、かぁいくて。…せいいっぱいがんばったって感じがとっても素敵だったよ…☆」
「な、…なぁんだ…! てっきりおじさんは圭一《けいいち》のかぁいいオットセイかと〜!!」
「をーっほっほっほ! さすが魅音《みおん》さんですわ〜! 間違える方向もワイルドですことぉ。」
互いを威嚇し合い一指即発状態の魅音《みおん》と沙都子《さとこ》!
…頼む。
……疑惑が解けたなら取り合えず、この踏みつけている足をどけてもらえないかな……。
そこをパシャリとカメラのフラッシュ。
「やぁみんな。相変わらず元気そうだねぇ…!」
やはり富竹《とみたけ》さんだった。
KOされた俺に、その上でいがみ合う魅音《みおん》と沙都子《さとこ》。
梨花《りか》ちゃんは俺の頭を撫でてるし、レナはかぁいい状態が継続中…。
……さぞや賑やかな写真になっただろうな…。
「こんばんはではございますがぁ! レディーに断りもなくお写真を撮るのはエチケット違反でございますのことよ!!」
「そうだな。少なくとも沙都子《さとこ》の許可は必要ない。
ぐぉをぅッ?!?!」
沙都子《さとこ》が靴のごつい踵で俺を踏みにじる!!
「こんばんは。…あ、…明日、帰られちゃうんですよね。素敵な写真はいっぱい撮れましたか?」
「御陰様でね。いい絵がたくさん撮れたよ。」
「富竹《とみたけ》のおじさまに会えるのも今晩限りなのねぇ〜! お名残惜しいですわぁ☆ いい加減、とっととメジャーデビューして下さいよねぇ〜!」
「あ、相変わらず口が悪いなぁ…! その毒舌もまた半年聞けないかと思うと残念だよ。」
「せいぜい今夜を楽しんでらして下さいな。明日の夜にはもう東京なんですからねぇ!」
「…そうだね。星が見える夜空なんて。…まぁた半年、……お預けだもんねぇ。」
富竹《とみたけ》さんは陽気に笑いながら夜空を見上げる。
笑顔なのに寂しさを感じさせる、そんな間があった。
「富竹《とみたけ》さん、いっそ住めばいいじゃないすか。雛見沢《ひなみざわ》。」
富竹《とみたけ》さんは一瞬言葉を失った。
「確かに不便なとこです。店もないし。娯楽もないし…何にもないかもしれないけど。」
俺の言いたいことがみんなにもわかっていた。
……きっと富竹《とみたけ》さんも、わかっていたに違いない。
だからレナも魅音《みおん》も。沙都子《さとこ》も梨花《りか》ちゃんも。誰も茶化さない。
「俺はまだここに引っ越してきてひと月も経たないからよくわからないけど。」
俺の普段なら饒舌な舌は、この時だけは言葉をなくしてしまったようだった。
これだけの喧騒の中にいるのに。急に音が遠のいた気がする。
「こ、ここにはきっと……!」
す、と富竹《とみたけ》さんが俺を手で制した。
「…ありがとな。圭一《けいいち》くん。魅音《みおん》ちゃんにレナちゃん。沙都子《さとこ》ちゃんに梨花《りか》ちゃん。」
薄い、吹けば飛ぶような笑顔だったけれど、富竹《とみたけ》さんは柔らかく笑った。
「僕もここに住めたらきっと楽しいだろうなぁ…って思うよ。」
働かなくても食事の心配をしなくてもいい子供の、残酷な言葉だったのかもしれない。
俺の背中に手が当てられた。
……レナだった。
「圭一《けいいち》くん。…大人をいじめちゃ、かわいそうだよ。」
そして再び喧騒が戻った。
「またしばらくのお別れなんですからね! 今夜は富竹《とみたけ》さんにもたくさん楽しんでもらわなくっちゃ!」
レナがぱーっと笑うと、一気に場の雰囲気が晴れていった。
「そうだね。ぜひそうさせてもらうよ。」
「あ! ねえねぇ魅ぃちゃん!! どうだろ?! 富竹《とみたけ》さんを部活に入部させてあげるのは!!」
それは名案だ!! …と思いきや魅音《みおん》はもったいぶって見せる。
「…入部条件のひとつに雛見沢《ひなみざわ》在住ってのがあるんだけどねぇ。」
「そんな魅ぃちゃん…、今日くらい意地悪しなくても…。」
「ま、こつこつ毎年来てるからね。名誉市民と認定してあげよう!!」
「わ!! やった!!!」
「さぁてさて! こんな旬を過ぎたご老体にこの私の相手が勤まるでございましょうかしらぁ?!」
「…老獪な大人の知恵を見せてもらいましょうです。」
「へへ! 俺たちの若さについて来れるかな?」
俺たちの不敵な笑いに、思わず富竹《とみたけ》さんは後ずさる…。
「部長ッ園崎《そのざき》魅音《みおん》の名において、名誉市民富竹《とみたけ》氏の我が部への入部を許可するッ!!」
それを打ち消さんばかりの俺たちの歓声!!
「な、なんだい、その部活ってのは…?!」
「我が部はだな、複雑化する社会に対応するため、活動毎に提案されるさまざまな条件下、…時には順境。あるいは逆境からいかにして…!!」
「…レナは弱いから…いじめないでほしいな。仲良くやろうね!」
「子供のごっご遊びと侮るつもりなら好都合でございますわぁ!!」
「身包み剥いでッ!! ケツの毛までひん剥いてやるぜぇえぇえッ!!!!」
「…つまり、みんなでゲームして遊ぶ部活です。」
やはり梨花《りか》ちゃんだけが、的を射た説明をしてくれた。
「よぅし! 望むところだよ。その挑戦を受けてたとうじゃあないか! お手柔らかに頼むよ先輩方!!」
一気に10は若返った富竹《とみたけ》さんがガッツポーズして奮起する!
上等だッ!!
俺たちは魅音《みおん》を先頭に祭りを練り歩く。何しろ6人の大所帯。
ちょっとした迫力すらある!
「ルールはいつも通り! ビリにはもちろんお約束の罰ゲーム!!」
富竹《とみたけ》さんは驚いたようだったが、俺たちにとっては日常茶飯事だ。
……どんなに過酷な罰ゲームだったとしても、
「負けなきゃいいんだからね!」
レナも気力充実。
負けるつもりなんか、これっぽちもないようだ。
「そうだな!!」
レナの頭を景気付けにぐしゃぐしゃと撫でた。レナも照れ隠しに笑う。
「なるほど。…これが童心ってヤツなんだなぁ。」
富竹《とみたけ》さんは誰にでもなくつぶやく。
そこへ威勢のいいオヤジの声が響いた。
見ればそれは祭前に魅音《みおん》が挨拶していた露店のオヤジだった。
「来たかい。園崎《そのざき》の嬢ちゃん!…今年は大人数みたいじゃねえの。」
「あんたの店、根こそぎかっさらいに来たよッ!!」
そこは射的屋だった。
鉄砲にコルク栓を詰めて景品を狙い、倒したら得られるというオーソドックススタイルだ。
「ルールは簡単ッ!! 3発撃って、得られた景品のデカさで勝負しよう!!」
全員が異議な〜し!と叫ぶ。
勝利条件が景品のデカさである以上、事前の品定めは欠かせない。
この店で一番デカい景品は……文句なし。あれだな…?!
「わぁ…あ……あの…くまさん、か、…かぁいいよぅ…☆」
レナが物欲しそうに眺めるのは大きなくまのぬいぐるみ。
わざと不安定な台の上に乗せてあるので、うまく当てれば獲得できるかもしれない!
「…と、一瞬思わせる絶妙な配置が見事だな。」
「さすが圭一《けいいち》さん。一発で看破すると思いましたわ。」
「ふむ。ここは無難にキャラメルや人形を狙うのが定石のようだね。」
さっそく熱い品定めが始まる。
この部は徒手空拳で臨めば食われるだけだ。
本番直前までにどれだけの策を講じられるかが全て…ッ!!!
いつのまにか、俺たちのまわりを人垣が囲んで大賑わいになっている。
我が部の悪名高きイベントにはこんなにもギャラリーがいたのか!
「…くまさんを落とせれば勝利は確定しますですね。」
「3発しかないんだぜ。それを確かめるために使うには…重いな。」
「へいへい! 他のお客さんも待ってるんだぜぇ?! 最初のチャレンジャーはだれからだい?!」
「先に挑戦した方がラクな景品を狙えて有利かもしれないけど……鉄砲のクセが見えない内の挑戦は危険だね。」
富竹《とみたけ》さんの読みもなかなかいい。
我が部をよく理解している…!
「じゃあさ、公平に…ジャンケンで決めるのはどうかな? どうかな?!」
「結局それしかないかね! じゃーんけーんッ!!!!」
何度かのあいこ合戦の末、1番バッターは魅音《みおん》に決まった。
「1番は避けたかったんだけど……ま、ハンデってことにしとくかな。おっちゃん!!銃ッ!!」「そらよッ!!」
射的屋のオヤジから鉄砲を借り、入念にチェックする魅音《みおん》。
弾のコルクのチェックも怠らない。
「OK。…この銃はおろしたてだね? クセはなし。悪くないッ!!」
魅音《みおん》がくわッ!!と一気に銃を構える!!
事前のチェックと違い、入念な照準などない、直感の射撃!!
撃つ! 詰める。
…撃つ! 詰める。
…撃つッ!!!
ぱたり。
…ぱたりぱたり。
…お菓子の箱が3つ、次々に倒れる。
大戦果だッ!!
ギャラリーがどよめきッ、そしてそれが歓声に変わる。
「わぁあぁああぁあッ!!! すげぇええぞぉおおぉおぉお!!!!」
「や……やるでございますわぁ……!!!」
富竹《とみたけ》さんは一瞬の射撃芸に思わず言葉を失っているようだ。
「す、……すごいよ魅ぃちゃん!! 3つ! 3つ!!!」
命中率もすごいが……標的の選別も悪くない。
魅音《みおん》が狙った3つはいずれもやや大きく、やや倒れやすいといった、非常にハイリターンな標的ばかりだ…!
「2番手は誰? 沙都子《さとこ》? ……気をつけて。弾が軽い。」
次は沙都子《さとこ》だ。
華奢な体にはちょっと大きめな鉄砲だが、重たがる様子はない。
「やはりここは………大物狙いで行かせてもらいますわぁッ!!」
それはくま狙いの予告だッ!!!
沙都子《さとこ》め!! 大胆に…来やがったッ!!!
「くまさんを落とせばその時点で沙都子《さとこ》ちゃんのトップは確定するね!」
「沙都子《さとこ》ちゃんがんばれ〜ッ!!」
沙都子《さとこ》は魅音《みおん》とは逆に冷静に的を狙い……引き金を絞る!
「……ちっ、…弾が軽いですわ…!」
始めの2発を見事くまの胴に当てるが微動するだけ。
…もっと上の頭頂部を狙わないとだめか…!
しかし沙都子《さとこ》の3発目はくまではなく、そのわきのキャラメルの箱を転ばせた。
「残念でございますけれど…私にくまは荷が勝ちすぎているみたいですわね…!」
大胆な大物狙いが、最後の最後で小物狙いに移ったので、ギャラリーは苦笑している。
度胸なし、と笑っているのだろうか?
……わかってないヤツらめ!!
「沙都子《さとこ》、いい仕事をするじゃん。腕を上げたね!」
魅音《みおん》の差し出す手の平をぱーん!!と小気味良く叩く沙都子《さとこ》。
一見大胆な口を叩きながら、その実は極めて冷静!
沙都子《さとこ》め、ビリを回避するため、敢えて手堅い目標に切り替えやがった…!
恥も外聞もなくッ!! 見事だぜ…。
「くまはレナさんに譲るでございますわ。健闘をお祈りしましてよ!」
「うんうん! ありがとね沙都子《さとこ》ちゃん☆ ……はぅ〜、くまさんかぁいいよぅ!!」
次のバッターはレナだ。
いつものレナなら的にかすりもしなさそうだが………あのくまをレナはかぁいいと言っているッ!!!
「レナちゃんはどうだろうね。…ひとつくらい当たるといいんだけれど。」
「富竹《とみたけ》さんはちょっとレナを甘く見てますね…。……ふっ。」
あのレナだぞ?
竜宮《りゅうぐう》レナだぞ?!
あのくまのぬいぐるみをもらえるのなら……
「うぉおおぉおぉおおおおッ!!!!」
観客がどよめき、富竹《とみたけ》さんも何事かと振りかえる!
あのぬいぐるみがもらえるなら…………画鋲の穴だって狙撃できるんだよッ!!!
竜宮《りゅうぐう》レナってヤツはなッ!!!!
「ゆゆゆ、揺れてる揺れてるよ………はぅ……かぁいいよぅ…!!!」
くまの緩やかな揺れに興奮を隠しきれない様子だ…! こうなればレナは負けない!!
「さすがレナさんですわ…!! 冷静を失えば失うほどに…、」
「強いッ!!!」
「ぅおおおぉおぉおおおぉッ!!!!」
また大歓声だ!
再びレナの着弾はくまの額を捉える!!
心なしか、さっきより大きくくまが揺れたように感じられた。
「…でも無理かも知れませんですね。」
「い、いやぁわからないよ?! レナちゃんの腕だったらひょっとすると…!!」
富竹《とみたけ》さんもギャラリーも興奮気味だが…梨花《りか》ちゃんの分析は冷静だ。
あとレナに10発も与えればきっと倒せるだろう。
……だが……あと1発ではどう考えても………無理かッ!
「あぁあぁあぁーーーーー…ッ!!!!」
ギャラリーの落胆の声が響き渡る…。
3発とも額に命中したのに……。
そしてやや遅れて健闘の拍手が鳴り響いた。
「……はぅ………くまさん……お持ち帰り…………はぅ……。」
健闘は称えられるべきだが…戦果はゼロだ。
…だがその時、屋台のオヤジがキャラメルの箱を手でぱたん、と倒すとレナに渡した。
「こいつぁ嬢ちゃんのだぜ。」
「………へ……? ……くれるの……? レ、レナに……はぅ、」
「あんなすげぇの見せられて手ぶらで帰しちゃあ…お天道様に申し訳が立たねえぜ!」
そしてもう一度割れんばかりの拍手!
すっかりのぼせて真っ赤になったレナの腕を引っ張ってこっちへ連れ戻す。
「頑張ったじゃないかよ! かぁいいモードのレナにゃ驚かされるぜ!」
「……はぅ………欲しかったよぅ……くまさん………ぅぅ……。」
もう一息だった分だけ、落胆している様子がよくわかる。
レナにはいっつも世話になりっぱなしだ。うまい弁当の借りもある。
「よっしゃ! そんなら俺が、」
「僕が取ったらプレゼントするよ。」
ん何ぃいぃいいいッ?!?!
俺が珍しく口にしようとしたサービスのセリフを富竹《とみたけ》さんに取られる!
「うん!うん! お願いね富竹《とみたけ》さん!! がんばれ〜!!」
とと、富竹《とみたけ》のおっさんめぇえぇええ!! 人のおいしいところを…!!
ギリギリと悔しがる俺の頭に、すっと小さな手が伸びた。
「…圭一《けいいち》もファイト、おーですよ。」
富竹《とみたけ》さんもやはり慎重にくまを照準している。
…一度目を戻すと、残りの2発の弾を握ったまま鉄砲を構えた。
「ん?! どういうことだ?!」
「……うん、間違いない!! 富竹《とみたけ》のおっさんの狙いは……!!!」
ぱかん!
ぱかん!
ぱかん!!
発射の感覚が短い!!
一撃ごとに揺れが収まってから撃つのでは何の意味もない!! つまり、富竹《とみたけ》さんは連射で勝負に来たのだッ!!!
これまでとはまるで違う、誰が見ても揺れとわかる大きな揺れ…!!!
……だがそこまで!! 転げ落ちるには至らない!!!
「はぅ〜〜〜………ざ、残念だったぁ………。」
レナは大きな揺れに一瞬期待するも、すぐに落胆のため息を漏らす。
「…う〜ん…結構行けると思ったんだけどなぁ…!!」
「をっほっほ! 男だとキャラメルはもらえないようでございますわね!」
つまりはそういうこと! 富竹《とみたけ》さん、戦果ゼロだ!
「つまり、圭ちゃんと梨花《りか》ちゃんは手堅く、ラクなものを撃ち落せばビリ回避ってわけだね。」
「ビリ回避、か。………………あ、すみませんね。」
「今度は圭一《けいいち》くんの番だよ。健闘を!」
5番手は俺。
富竹《とみたけ》さんから鉄砲を受け取る。
非情に徹するなら魅音《みおん》の言う通り、ここは小物狙いだ。……だが……!!
鉄砲を受け渡す時、その鉄砲を伝って確かに感じたのだ。…熱い…気合ってヤツを!!
富竹《とみたけ》さんは俺に託した。
レナの欲しがるぬいぐるみを落とせなかった男としての無念を…俺にッ!!
あぁ、そうさ。ここでくまを狙わなかったら……
男じゃないッ!!
「約束しちまったからな。…レナに。」
「…え、……え? …約束って……なんだろ? なんだろ?」
「あのくまを撃ち落して。……レナにプレゼントするって。」
「へ………へ………それって………はぅ…………。」
このやりとりを見て、ギャラリーがヒートアップする!!
「おぉおおぉおぉ!!! 兄ちゃんいいぞぉ!! 男見せたれぇえぇええぇッ!!!!」
ち、違うぞギャラリーの諸君!
……こうしないと、この屋台のオヤジ、帰りにレナに追い剥ぎされるかもしれないからだよ…!!
じゃなくてじゃなくて!
どうして俺ってヤツはもっと素直な言い方ができないんだ?!
「圭一《けいいち》さんも男を見せますのね。……でも実際、どうやってくまを落とす気ですの?」
「…レナや富竹《とみたけ》の弾で幾分、傾きはしましたですが……難しいと思いますです。」
「…圭一《けいいち》くぅん………。」
「もっと素早い連射力があれば…一撃ごとの揺れにパワーを上乗せできるのに…!」
「頑張って! 圭一《けいいち》くん!!」
……俺は2つ深呼吸してから、オヤジに注文した。
「鉄砲をもう2丁貸してくれ。」
どよ?! ギャラリーがざわめく。
「圭一《けいいち》さんは何を企んでいるのでしょう?! …1人じゃ3丁は扱えないですのよ?!」
「読めたよ…。圭ちゃんも…考えたじゃん!!」
魅音《みおん》が俺の秘策を見事看破する!
「つまり…一番時間がかかってるのがこの…コルク弾の装填なんだよ。」
「そ、そうだよね…! じゃあ……先に弾を詰めた鉄砲を3つ並べておけば…!!」
富竹《とみたけ》さんは何も言わずファインダー越しに俺とくまを捉える。
カメラマンの血が、これから起こる奇跡を予見させるのだ!!
そしてギャラリーも遅れて俺の意図を読み取る!
割れんばかりの大歓声!! 圭一《けいいち》コールが巻き起こる!!!
連射が命! 外せば意味もなし!!
……ふーーーーーッ!!
息を深く吐いてから…止める。……緊張が止まる。
………今だッ!!!!
その瞬間、時間が止まったようにすら感じた。
俺にはコルク弾が飛んで行く軌跡まで見えていたのかもしれない。
当たれ……、そして……倒せッ!!!!!
くまの頭に弾が1発
2発
……3発
ッ!!!!
大きく揺れるくま!! そして……!!
「きゃ、…きゃーーー!!! やったぁあぁあぁあぁあッ!!!!」
「ぅおおぉぉおおおぉおぉおおッ!!!!」
大歓声はぬいぐるみがごろりと棚を転げ落ちるのを待たずに巻き起こった。
それが地面に落ちる前にオヤジがキャッチし、俺に投げてよこす。
「……まさか本当に落としやがるたぁなぁ。…完敗だぜ!!」
「すごいや! おめでとう圭一《けいいち》君!!」
「圭一《けいいち》さんも頭を使えるようになりましたわねぇ!! 少しは見直しましたですの〜!!」
「俺ひとりで落としたわけじゃないぜ。みんなで当てて、少しずつずらして落としたんだ。……こいつぁ俺たち全員の戦果だぜッ!!!」
「そうそう! 全員の力の結晶だね〜!!」
「…魅ぃは1発も当ててませんです。」
「……う。」
俺はトロフィーのように大きくぬいぐるみを抱え上げると、それをぼすんとレナに押し付けた。
「そら。こいつは俺から……いやみんなからだな。いつもうまい弁当をありがとな。」
レナはまさか本当にもらえるとは思わなかったらしく、一瞬面食らったようだった。
「だ、だめだよ圭一《けいいち》くん……、だってこれはみんなの……はぅ、」
「じゃあ落としたのは俺! だからこれは俺の! 俺のだからレナにやるッ!」
もう一回、レナの胸にぬいぐるみを押しつけてやる。…今度は素直に抱いてくれた。
「俺が引っ越してきてから、いろいろ面倒を見てくれたよな。…すげぇ感謝してるんだぜ? ありがとな!!」
「……は、はぅ〜〜!! 圭一《けいいち》くぅん!! ありがとぉ〜〜☆!!!!」
レナが飛びついてくる。
後日魅音《みおん》に、レナはキスしてたよって言われたが、この時は興奮しててよく覚えていない。
さっき自分で富竹《とみたけ》さんに言った言葉がよみがえってきた。
ここは何にもないところだけど。
……ここにしかないものもたくさんある。
俺はきっとこの雛見沢《ひなみざわ》に来てたくさんのものを手に入れた。…今この瞬間だって。
ギャラリーの大歓声がいつまでもいつまでもこだましていた。
■綿流し《わたながし》
やがて社の前の祭壇からどーんどーんと大太鼓の音が響き始める。
もうこの賑やかなお祭りもフィナーレなのだ。
「…じゃあボクはお先に行くですよ。」
「おっと! 僕も早く行っていいポジションを確保しないとな。…じゃあみんな、後ほど。」
梨花《りか》ちゃんと富竹《とみたけ》さんはぺこりと頭を下げるとぱたぱたと人ごみへ消えていった。
「2人ともお勤め、しっかりでございますよ〜!! ささ! 参りましょうでございます!」
「ふむ、梨花《りか》ちゃんの艶姿を見に行きますかね。行こ!」
「おう! あれ、レナは? ……な、何やってんだよ??」
「け、けけ、圭一《けいいち》く〜ん! 魅ぃちゃ〜ん、……たすけてぇ〜…!」
ばかでかいぬいぐるみを抱いてるものだから人の流れにすっかり翻弄されている。
「何やってんだあいつ…。くまの世話で手いっぱいなんだな…。」
「じゃあ圭ちゃんにはレナの世話を頼むかねぇ。私は沙都子《さとこ》の世話で忙しいし。」
「誰が魅音《みおん》さんの世話になるでございますの〜!!
痛い〜! 手ぇ引っ張らないで下さいましぃ〜…!」
魅音《みおん》を見失う前にレナの後襟をふん捕まえる。
「けけ、圭一《けいいち》くん……そこ違う…、つかむとこ違う…!」
「注文のうるさいヤツだな。どこならいいんだ。」
「…え……と………はぅ…………、」
レナが俺の分まで恥ずかしがってくれるものだから、俺に恥ずかしさはあまりなかった。
レナの手をきゅっと握り、小走りに魅音《みおん》たちを追う。
「置いてかれる。早く行こうぜ!」
「………う、うん…!」
レナの手ってこんなに華奢だったのか…。……少し運動と栄養が足りねえんじゃねーのか?
……じゃなくて!じゃなくて!!
自分の耳がカーッと熱くなっていく。
冷静になろうとしても、頭の中が「冷静になれ前原《まえばら》圭一《けいいち》」という活字でいっぱいになるばかりで、ちっとも冷静になれそうになかった。
そんな顔をレナには絶対見られたくないと思ったので、俺は振りかえらずにレナを引きずってずんずん進んでいった。
社の前の祭壇はもうすごい人だかりだ。
焚かれた祭壇の炎が真昼のように明るく、熱い。
社の前に作られた祭壇にはしめ縄で飾られた布団の山が積まれている。
そう言えば、布団の綿をなんだかするお祭りだって言ってたな。
「圭一《けいいち》さん! レナさーん! こちらでございますのよ〜!!」
沙都子《さとこ》が最前列で手を振っている。
「お! すまんすまん!」
人ごみの間をすり抜け、魅音《みおん》たちが陣取ってくれた場所へ辿りつく。
「どう〜? ちょっとはレナとドキドキできた〜?」
「やや、やっぱりてめぇ、そーゆうつもりだったのかぁッ!!!」
魅音《みおん》は返事の代りにいやらしい笑みを浮かべて見せる。
「レナはどうだった? 圭ちゃんの手って意外に大っきいとか思わなかった〜?」
「はッ、…………は
ぅ〜……………、」
レナが真っ赤になってしゅうしゅうと蒸気を上げている。
風を切る音がしたので振りかえると、魅音《みおん》が顔面にあざを残して倒れている。
「…魅音《みおん》、…お前、いつ食らったんだ…?」
「はぅ〜、の「は」と「ぅ」の間くらいだったか…な…。」
「レナ…。照れ隠しに友達を殴るのはよくないぞ…。」
「レ、レナ殴ってないよ…し、しし知らないもん…………はぅ。」
どーんッ!!と大きい太鼓が響くと一気に場がシーンとした。
「お静かになさいませ!! 始まりですわ!!」
それは厳かな神事だった。
巫女役の梨花《りか》ちゃんが神官に扮した町会の爺さま方を引き連れて登場する。
お年寄りは梨花《りか》ちゃんの姿にありがたがりながら手を合わせている。
静寂を乱すことを許されるのは富竹《とみたけ》さんのフラッシュだけだ。
「梨花《りか》ちゃんが持ってるあのデカイのは何だ?」
「祭事用の鍬《くわ》だよ。巫女さんしか触っちゃいけない神聖な農具なの。」
農具にしちゃややこしい形をしている。祭事用なんてそんなもんだ。
祝詞をあげた後、梨花《りか》ちゃんは祭壇に積まれた布団の山に歩み寄っていく。
そして、作法に基づいて鍬《くわ》を振ったり、布団を突っついたりしだした。
こういうのって、動作ひとつひとつが決められたものなんだろうな…。
それは間違いなく、儀式だった。
「今度は何だ? 布団叩きかな?」
「あれはね。人間に代って冬の病魔を吸い取ってくれたお布団を清めてるの。」
「圭ちゃんの布団叩きって表現も、まぁハズレじゃないかね。」
梨花《りか》ちゃんの顔はすでに汗だくだ。
……あの鍬《くわ》は本当に重いのだろうな。
梨花《りか》ちゃんが振りまわす度に、重さに負けて体を右に左に振られている様子がよくわかる。
それをじっと見詰め、沙都子《さとこ》は声に出せぬ応援を続けていた…。
「…心配か?」
「梨花《りか》は毎日毎日、お餅つきの杵で練習してましたですの…。…きっとやりきるでございますわ。」
沙都子《さとこ》は手に汗を握り、梨花《りか》ちゃんがよろけそうになる度に息を飲んでいる。
「…魅音《みおん》とかは巫女役、立候補しなかったのかよ。…梨花《りか》ちゃんにあの重さは気の毒だよ。」
「そりゃ頼まれりゃやるけどね。…まぁ、誰にでも勤まるものでもないし。」
「そうだよな。巫女は清らかじゃないと駄目だもんな。
……ぎゅおぉをぉ…ッ!!」
魅音《みおん》がわき腹の急所に肘を捻り込む!!
大太鼓がどん!と鳴ると、梨花《りか》ちゃんは黙礼をし、祭壇を降りる。
…そしてそれを大きな拍手が迎えた。
神官役が、清め終わった布団をお御輿のように担ぎ上げると、見物人たちが一斉に腰を上げる。そして神官たちの後に付き従い、みんなぞろぞろと移動を始めた。
神社の大階段を行列がぞろりぞろりと降って行く。
「今度は何が始まるんだ? 布団を川で洗濯か?」
「あははは。だから、綿流し《わたながし》だってば。」
行列は歩き続け、沢のほとりまでやって来た。
かがり火がこうこうと焚かれ、ここも真昼のように明るい。
人々が一箇所に群がり始め、きゃあきゃあと騒いでいる。
「はい、順番順番。並ぶよ圭一《けいいち》くん。」
…何だろう?
お神酒でももらえるんだろうか? 紅白まんじゅうかな?
「あはははは…。食べ物じゃないよ。だから、ワ・タ。」
あぁ、…そうだもんな。綿流し《わたながし》だもんな。ようやく理解した。
そこでは町会の人たちが、布団の中身の綿を手際よく引き出して、お餅のように丸めてどんどん配っている。
レナがひょいと行列をくぐって、俺の分ももらってくれた。
そしてもらった人々はめいめいに沢のほとりへ向かう。
「圭一《けいいち》くんは初めてだから、レナのやり方を真似するんだよ。」
ワタを右手にもち、左手で御払いみたいにしてから、額、胸、おへそ。そして両膝をぽんぽんと叩く。
「これを3回繰り返すの。心の中ではオヤシロさま、ありがとうって唱えるんだよ。」
「オヤシロさま? ってなんだよ。あの神社の神様の名前か?」
「うん。雛魅沢の守り神さまなの。御利益もあるけど、祟りもあるんだからね! ちゃんと敬わないとだめだよ。」
そりゃー物騒な神様だな。でもまー、郷に入りては郷に従えってヤツだ。
俺も今ではれっきとした雛見沢《ひなみざわ》の住人なんだから。
レナに習い、綿でぽんぽんと3回繰り返す。
オヤシロさまありがとう…オヤシロさまありがとう…オヤシロさま……。
「これでね、体に憑いてた悪いのがこの綿に吸い取られたの。……で、あとは沢の流れにそっ、と流してね、おしまい…。」
レナと一緒に、俺も綿をそろりそろりと水面に浮かべる。
雛見沢《ひなみざわ》中の病魔を吸い取り、綿の花が次々と水面に咲き、そして流れに消えて行った。
テレビで見た灯篭流しのような華やかさはなかったが、雛見沢《ひなみざわ》の住人として認めてもらえたような、通過儀礼的な心地よさがあった。
■沢のほとりにて…昔話
*9日目-2
沢の流れをぼんやりと見詰めていた俺は、いつのまにかレナとはぐれていた。
そんなに心細いとは思わない。
もうここは知らないところじゃないんだ。…自分が住む、地元だ。
ヘタにうろちょろしないで、ここで待っていた方がいいだろう。
きっと夕涼みでもしている内に誰かが見つけてくれるに違いない。
…ふと、知っている声が聞こえた。富竹《とみたけ》さんの声だった。
俺はそちらへ足を向ける。
「どうですか富竹《とみたけ》さん、いい写真はいっぱい撮れましたか?」
「あぁ。御陰様でね!」
富竹《とみたけ》さんは女の人と一緒だった。……ちょっと悪いことをした気がするな。
「圭一《けいいち》くんはどうだったかしら。お祭りは楽しめた?」
その女性の口調からすると雛見沢《ひなみざわ》の人のようだ。
……そろそろいい加減、俺も住人の顔を覚える努力をしないといけないな…。
この人は何て名前だっけ……。
「その………えぇと…、楽しかったです。」
俺が必死に名前を思い出そうとする様子がよっぽど表情に出ていたのだろうか、女性は愉快そうに笑った。
「圭一《けいいち》くんはまだ引っ越してきて日が浅いんだそうだね。他の子たちととても親しげだったから、とてもそうは思えなかったよ。」
もしもそう見えたなら、それはレナや魅音《みおん》や、みんなのお陰だろう。
「あなたも今日のお祭りに参加して、自分が雛見沢《ひなみざわ》の人間になれたんだ、って自覚できたんじゃないかしら…?」
「………うーん…どうなんでしょうね。」
「おや、圭一《けいいち》くんらしくない返事だね。」
自分ではもう雛見沢《ひなみざわ》に馴染めたつもりでいる。
だが…俺にはまだまだ知らないことが多過ぎる。
例えば、こうして出会う人たちの顔とか。……過去の出来事とか。
「…なぁんだ。その程度のことで君は疎遠に感じていたのかい?」
「疎遠なんて大袈裟なもんじゃないですよ。…ただその、……なんていうのか……。」
この村の大事件、ダム工事のこととか。それを巡る戦いのこととか。
…聞いても知らないふりをされる、過去の残酷な事件のこととか。
終わったこととは言え。…雛見沢《ひなみざわ》に住まう人間として、明るい部分だけでなく、暗い部分についても知っておきたいと思ったのは間違いなかった。
「それを知ることで君が納得するなら……僕の知っている範囲で何でも教えるよ。」
富竹《とみたけ》さんの笑顔がいつになく頼もしい。
だが、いざ何でも聞いてくれと言われるとなかなか考えがまとまらない。
…聞きたいことは山ほどあるはずなのに。
「じゃあ………ダム工事について聞かせて下さい。雛見沢《ひなみざわ》が水没するとかいう、大事件だったんですよね…?」
「ダムについては……多分、ここの人に聞いたほうが詳しいと思うけどなぁ。ま、僕が知っている範囲でいいんなら。…新聞で読んだ程度だけどね。」
富竹《とみたけ》さんは遠くを見るような目で記憶を辿ると、それを語ってくれた。
「ダムの計画が決まったのは7〜8年くらい前なんだ。黒部に次ぐ巨大な計画だったと聞いてるね。」
当時の日本の重点課題は3つ。
交通網整備による列島改造と需要の高まる電力供給。そして治水だった。
中でも発電と治水、そして莫大な経済効果を生み出すダム建設はラッシュだったという。
そしてこの地でもダム建設の気運が高まり、この雛見沢《ひなみざわ》に白羽の矢が立ったのだった。
「ダムの完成に伴って生まれるダム湖はかなりの面積になったらしいね。この雛見沢《ひなみざわ》からずーっと上流の谷河内(やごうち)辺りまでが全部沈むことになったらしい。」
「…しかし…なんだって人が住んでる雛見沢《ひなみざわ》にわざわざダムを作るんすか? もっと他の、人が住んでないところに作ればいいのに。」
「んん〜…、…よくは知らないんだが…ダムを造るのに適した地形ってのがあったって聞いてるね。」
雛見沢《ひなみざわ》では当然、反対運動が起こった。
以前、梨花《りか》ちゃんが「戦った」と表現したが、それからも激しいものだったことが伺える。
「裁判にもなったし議会でも取り上げられたんだ。東京の新聞にも載ったよ。」
魅音《みおん》も確かそんなことを話してたな。
きっと雛見沢《ひなみざわ》住民は一丸となって戦ったんだろうな。
…雛見沢《ひなみざわ》の、アットホームの一言だけでは言い表せない連帯感は、きっとこの戦いの賜物なんだろう。
「で、いろいろな不祥事や汚職が発覚してね。ややこしいことになっている内に工事中止が決まったんだそうだよ。」
聞いてみるなら今しかないだろう。
いかにも年頃の男の子が興味を持ちそうな猟奇事件。
レナや魅音《みおん》にちょっとお預けをくらったからといって、かえって興味を持つ自分の安っぽさがちょっぴり恥ずかしかった。
でもせっかくなので聞いてみる。それでこの妙な好奇心が引っ込むなら。
「あの………バラバラ殺人って…ありましたよね?」
「あったよ。偶然、その時期に雛見沢《ひなみざわ》にいてね。だからよく覚えてるよ。」
恐る恐るの切り出しに、富竹《とみたけ》さんはさも何でもなさそうに答えてくれた。
「……ちょうど4年前の今頃だったかなぁ。あれも確か綿流し《わたながし》の日だったね。」
ダム工事の継続を巡って論議が紛糾、相次ぐ不祥事に揺れに揺れたダム騒動の末期の出来事。
…ダム計画に終止符を打った事件だった。
ダム工事の現場の人たちで喧嘩があり、被害者を殺してしまったという。
発覚を恐れた加害者6人は遺体を6分割し、それぞれが遺体を隠したらしい。
結局、良心の呵責に耐えられなくなり6人の犯人の内、5人は自首したというが、残ったひとりは依然逃亡中。
彼の隠した右腕部分は今でも見つかっていないという。
大まかな内容は、以前拾った写真週刊誌で読んだのと同じだ。
確かに悲惨な事件だが……レナや魅音《みおん》が俺にひた隠すほどのものとは思わなかった。
引っ越してきたばかりの俺に雛見沢《ひなみざわ》のマイナスイメージを持たせたくなかったんだろうな…。
そんな友人たちの気遣いに感謝すると共に、にも関わらず興味をもたげてしまった自分をちょっぴり悔いた。
「当時はダムのトラブルの末期だったからね。オヤシロさまの祟りだ、って言ってずいぶん騒がれたんだよ。」
「オヤシロさまの祟り…か。」
オヤシロさまってのは確か…今日のお祭りをやったあの神社で祭られている神さまの名前だったと思う。
なるほど。
雛見沢《ひなみざわ》を水没させようとする悪のダム工事に守り神さまがバチを当てた、ってことなのだろう。
「若い人たちはそうは思わなかったみたいだけれど…。お年寄りたちはオヤシロさまの祟りだと疑わなかったみたいね。」
富竹《とみたけ》さんの連れの女の人が、そう言いながらいたずらっぽく笑った。
合わせて富竹《とみたけ》さんも笑ったので、俺もつられて笑うことにする。
「…でも、…今ではどうかしらね。結構いるんじゃないかしら。若い人にも。」
「いるって、…何がですか?」
「信じてる人だよ。…オヤシロさまの、祟り。」
富竹《とみたけ》さんも女の人も、笑顔のままだったが、目からは笑いは消えていた。
「その後ね。毎年起こるんだよ。……決まって今頃にね。」
「起こる、って…何が。」
富竹《とみたけ》さんはそこで少し、もったいぶるように間を置き。周りを伺うようにしてから小声で続けた。
「毎年…綿流し《わたながし》の日になるとね。
………誰かが死ぬんだよ。」
「バラバラ殺人の翌年の綿流し《わたながし》の日。
雛見沢《ひなみざわ》の住人でありながらダムの誘致派だった男が旅行先で崖下の濁流に転落して死亡した。奥さんに至っては死体もあがってない。」
「雛見沢《ひなみざわ》の人間でありながらダムに賛成していた男だからね。事故当時、お年寄りたちはオヤシロさまの祟りだと囁きあったものよ。」
女の人はやはりいたずらっぽく笑って言った。
「さらに翌年。綿流し《わたながし》の晩。今度は神社の神主が原因不明の奇病で急死した。奥さんはその晩の内に沼に入水自殺した。」
「神社の神主って……今日のこの神社の神主ですか?」
女の人は頷いた。
「村人たちは、オヤシロさまのお怒りを鎮めきれなかったんだ、って噂したわね。」
「さらに翌年。これもまた綿流し《わたながし》の晩。今度は近所の主婦が撲殺体で発見された。」
…主婦?
これまで怪死した人々は、みんなダム関係者やオヤシロさまに縁がある人ばかりだった。
それを思うと……ひょっとしてこの主婦も何か関係があるのでは……と思ってしまう。
「その通りよ。」
女の人はいたずらっぽく、…いや、むしろ残酷にそう断じた。
「被害者の一家はね、…その2年前に転落死したダム誘致派の男の弟一家に当たるのよ。」
「弟本人はまだ生きてるらしいね。でもやはり……かなり気にしてね。近隣の町に引っ越してったらしいよ。」
…しばらくの間、開いた口を閉じることができなかった。
雛見沢《ひなみざわ》存亡を賭けたダム工事との戦い。
そしてその最中に起きた凄惨なバラバラ殺人事件。
俺が知っているのはそれだけだったし、また聞きたかったこともそれだけだったはずだ。
だが…実際はそれだけではなかった。
殺人。死体遺棄。事故死。病死。自殺。撲殺。
……俺は、基本的に現代っ子だ。
祟りなんて本当は信じたくない…。
…だが…こんな怪死が毎年、それも綿流し《わたながし》の日に起こり、しかも死ぬ人がいつもダム工事の関係者だなんて……?!
そのいずれも個々に偶然だと断じるのはあまりに容易だ。
だが……それらもこうして積み重なっていくと……それを偶然だと決め付けることの方がよっぽど冷静を欠いているように思えてくる…。
祟りなんか、信じない。…だけど……毎年、綿流し《わたながし》の日に何かが起こるという「意思」だけは確実に、……ある。
俺のそんな様子を見て取ったのか、女の人はくすりと笑った。
あたかも、怖がらせ過ぎちゃったかしら、とでも言わんばかりだ。
内心を見透かされたのが恥ずかしくなり、少し苛立つような、急かすような口調で富竹《とみたけ》さんに先を促した。
「で? その翌年の綿流し《わたながし》の晩にもまた人が死ぬわけですよね…? 今度は誰です?」
「さぁてね………圭一《けいいち》くんは誰だと思うかな?」
「は……はぁ?!」
自分の口調とは釣り合わない、嫌味な言い方にちょっとかちんと来た。
「はぐらかさないで下さいよ…! 俺は結構、真剣に…!」
「…まぁまぁ圭一《けいいち》くん、落ち付いて。」
女の人にやんわりとなだめられ、自分が取り乱していたことに気付く。
「別にはぐらかしたつもりはないんだよ圭一《けいいち》くん。つまり……その翌年の綿流し《わたながし》ってのはつまり…、」
「今日よ。」
富竹《とみたけ》さんの躊躇をあっさりと女の人が片付けた。
……じっとりとした汗を誘う、嫌な風がどっと吹く。
「みんな口にしないけど……今夜また何か起こるんじゃないかって思ってる。」
「こ、こんなにお祭りで賑わっているのに?!」
「あのね、去年の被害者の主婦は不信心者だったらしくてね。綿流し《わたながし》のお祭りに参加しなかったらしいの。」
「今年の綿流し《わたながし》に参加しないと…オヤシロさまの怒りに触れるかもしれない、って噂。…圭一《けいいち》くんなら聞いてるんじゃないかい?」
そんな噂、微塵も聞いていない。
「…じゃ、じゃあみんなのお祭りの参加は…………祟りを恐れて?!」
「そうなんじゃないかと思うね…。…今年の綿流し《わたながし》は例年になく参加者が多いよ。」
「やっぱりみんな、……怖いんでしょうね。オヤシロさまの祟り。」
「………………。」
絶句するしかなかった……。
この昭和の時代。
あらゆる分野が目覚しい進歩を遂げ、無知と未知の闇を照らし出してきた。
白黒テレビは絶滅したし、宇宙ロケットは人類を月へ運んだ。
なのに…。そんな近代社会なのに……?
「サクラってことで近隣の町の子供会をかなり招待したらしいけど、やっぱり一連の事件を受けて…あんまり参加はなかったみたいね。
人集めに苦労してる、って町会の人がぼやいてたもの。」
「警察もね、過去の事件は全て別個のもので関連性はないとしてるみたいだけどね。……警備ってことで私服警官をだいぶ立たせてたみたいだよ。」
レナや魅音《みおん》の口が重かった理由が…少しずつ見えてきた気がした。
今年の綿流し《わたながし》で何も起こらなかったなら、俺には何も知らせずに済むのだろう。
……何も起こらなければそれでいい。そうすれば、全ては杞憂だ。
俺は始めから何も知らないふりをすればいい。彼女らも何もなかったかのように振舞うだろう。
…そしてまた、いつもの日常が戻ってくるんだ。
「…やっぱり刺激が強過ぎたかしら?」
女の人は緩く髪をかきあげながらため息をつく。
「い、いえ、…そんな、全然…、」
精一杯強がったつもりだったが、かえって狼狽ぶりを露呈するだけだ。
富竹《とみたけ》さんはそんな俺の様子を見て、少し後悔しているようだった。
そしてひとつ息を吐くと、いやに明るく振舞いながら言った。
「まさか圭一《けいいち》くん、祟りなんて信じてるわけじゃないだろ?」
「…そりゃ…まぁ……。」
「全ての事件が原因不明で犯人も手口もナゾ、っていうなら僕も祟りを疑ってもいいよ。
だけど実際には違う。どの事件もちゃんと警察が捜査して真相や犯人を究明してる。」
警察という単語がなんだかとても頼もしく感じられた。
祟りというキーワードと最も対に位置すると思ったからだ。
「……例えば、一番最初のバラバラ殺人。言ったよね? 犯人は1人を残して全員逮捕されてる。残った1人だって時間の問題さ。動機だって、酒の上での口論からと判明してる。祟りなんかじゃない。……だろ?」
確かに…綿流し《わたながし》の日に起こった事件でさえなければ、祟りとは無縁な事件だと思う…。
「次の、誘致派の男の夫婦の事故死だってそうさ。恨みを買う立場だったからね、警察が特に入念に捜査したと思うよ。それで発表は事故。他殺じゃない。」
「でも……また綿流し《わたながし》の日に起きたんですよね…?」
「ははは。考えてもみなよ圭一《けいいち》くん。…雛見沢《ひなみざわ》に敵が多かった彼が、地元のお祭りにおちおち参加できると思うかい?
彼にとっては綿流し《わたながし》の時期は特に雛見沢《ひなみざわ》に居ずらい時期に違いないよ。
だからわざわざこの時期に旅行をし、意図的に雛見沢《ひなみざわ》を離れようとしたんじゃないかな?」
いまひとつピンと来ない説明だったが、富竹《とみたけ》さんが何を言おうとしているのかはなんとなく伝わった。
だから俺は敢えて素直に、そうだと思えるに足る疑問をぶつけてみた。
「じゃあ富竹《とみたけ》さん…その次に死んだ神主さんはどうです? 原因不明の奇病だ、って。…それも、またしても綿流し《わたながし》の日に…。」
「神主さんはもっと説明が付き易いよ。綿流し《わたながし》のお祭りは神主さんにとっては年に一度の大行事。過労に体調不良が重なったんだろうね。あるいは元々持病持ちだったのかもしれない。」
「でも、奇病ですよ? この医学の進歩した時代に原因不明なんて…。」
「尾ひれだよ。噂が噂を呼んだだけさ。
2年立て続けに事件が起これば誰だって過敏になるよ。……急死は確かに不自然だったかもしれないけど。
こういう死に方をすると必ず警察が検死をする。…で、事件性は発見されなかったんだろ? 本当に偶然の病死なんだよ。」
「…確か神主の奥さんが自殺してますよね? じゃあこれは?」
「すでに説明したとおりさ。3年目の事件に村人たちは動揺していた。信心深い人たちはすぐに祟りだと決めてかかったのさ。……もちろん、神主の奥さんもね。
自殺の際に、死んでオヤシロさまの怒りをお鎮めする……みたいな遺書が見つかったらしいし。」
「じゃあじゃあ……次の主婦の事件は? またしても綿流し《わたながし》の日に!」
「この事件は犯人も逮捕されて解決してるよ。一種の異常者で、雛見沢《ひなみざわ》の祟り騒ぎを面白がって再現したと自供してる。」
「じゃあじゃあじゃあ!…次の年の事件は?! …あ、えぇと…。」
そうだ。その次の年は今年だ。
富竹《とみたけ》さんが明るく笑う。
「もう何も起こらないよ。今度こそね。…オヤシロさまの祟りなんて元々ない。一連の偶然を、あると信じている人たちがそうだと吹聴しているだけさ。」
…ようやく、脳のコンピューターが冷静を取り戻してきた。
冷静を失い、ややもするとパニックを起こしていた自分のお子様加減が恥ずかしい…。
「僕は圭一《けいいち》くんが雛見沢《ひなみざわ》をとても好きだと思ってること、よく知ってるよ。……仮にオヤシロさまの祟りが実在したとしても。そんな圭一《けいいち》くんに祟りがあるなんてとても思えないね。」
心が軽くなる。
今夜聞いた話は早く忘れるべきなんだろうな。
レナや魅音《みおん》たちには明日、いつものように笑顔で向かい合おう。
みんなだって今夜が無事過ぎ去り、俺を不安がらせることなく明日からを過ごして行くことを望んでいるはずだ。
俺のそんな様子を見て取ったのか、岩に腰掛けて耳を傾けていた女の人が、伸びをしながら立ちあがった。
「……さて、と。そろそろ私は戻らないとね。」
「おっと…! 僕も少々長くお喋りし過ぎたかな!」
あれだけいた大勢の人々の姿はすっかり減り、今では夕涼みを楽しむ何組かの家族連れが目に留まるだけだ。
時計を見ると…たっぷり小一時間くらいは話しこんでしまったようだった。
「圭一《けいいち》くんもお友達といっしょに来たんでしょ? みんなを探したら?」
「…そうだった…! みんな、俺のことを探してるかもしれない!」
「はははは! 女の子に探させるなんてなかなかの罪人だねぇ。」
「じゃあね、おやすみなさい圭一《けいいち》くん。…ジロウさんもね。また後ほど。」
…富竹《とみたけ》さんも充分に罪人みたいだぞ。(そうか、ジロウさんて言うのか…)
女の人はお尻の埃を払うと、まだ撤収で賑わう境内の方へ去っていった。
「圭一《けいいち》く〜ん!! ごめんなさぁ〜い!!」
入れ替わりでレナが駆けて来るのが見えた。
その後にはみんなの姿も見える。
噂すればなんとやらだな。
「悪ぃ悪ぃ圭ちゃん…! すっかり話しこんじゃっててさ!」
俺の方だってみんなのことをすっかり忘れて話しこんでいたからな、おあいこだ。
「あぁら、富竹《とみたけ》さんもご一緒でございましたの! 丁度よかったですわぁ〜!!」
「今日の射的の結果発表がありますです。」
「あ、…そ、そうだったねぇ…! 結局、ビリは僕なのかな?」
結局今日の勝負は、俺の劇的な勝利の後、梨花《りか》ちゃんが挑むが、何しろもう標的がほとんど残っていない。
…あるにはあるが、どれも小さくて難度の高い的ばかり。
しっかり狙って撃つが3発とも見事に外し、富竹《とみたけ》さんと同着ビリとなったハズだった。
…が、店頭でみぃみぃと泣きだし、露店のオヤジを秒殺。
残念賞としてガムを入手。
これによってビリを回避するという暴挙にて見事ビリを回避したのだった。
「……思うに梨花《りか》ちゃんて、…結構タヌキだろ。」
「圭一《けいいち》の言ってる意味がわかりませんです。」
「なワケで! ビリは富竹《とみたけ》さんに決まり〜!!!」
みんなできゃっきゃと騒ぎながら拍手。富竹《とみたけ》さんはよくわからず照れて苦笑している。
「じゃ〜富竹《とみたけ》さん、覚悟はいいかなぁ? 罰ゲーム!!」
「え? あ、……忘れてた!!」
甘いぜ富竹《とみたけ》さん。これがあるからうちの部は負けられないんだよ…。
魅音《みおん》がポケットからマジックを引きぬく。……あぁ、アレだな。
「魅音《みおん》、武士の情けだ。せめて水性にしてやれ。油性は辛い。」
「あはは、油性じゃないとだめだよ。お洗濯したら落ちちゃうじゃない。」
「わわ! なんだいなんだい?! お手柔らかに頼むよ?!」
みんなで富竹《とみたけ》さんを羽交い締めにし、そこに魅音《みおん》がマジックを片手に近付いていく。
「きゅきゅきゅ、っと!」
だが魅音《みおん》が書いたのは顔面でなく、富竹《とみたけ》さんの着ているシャツにだった。
“今年こそメジャーデビューだね! 魅音《みおん》”
次にマジックを受け取ったレナは”今度写真も見せて下さいね☆ レナ”。
ちょっぴり微笑ましくなり、苦笑いしてしまった。
「はは、これじゃあ罰ゲームってより、寄せ書きじゃないか。」
「ほほほ! 私は甘くはありませんのよ? ちゃんと罰ゲームで行きますわぁ!」
“やーいビリ! 沙都子《さとこ》”
“次回はがんばりましょう。 梨花《りか》”
「圭一《けいいち》さんもどうぞです。」
なんて書いていいか戸惑ったが、この罰ゲームを考えれば……これが一番妥当だろう。
“また遊びに来てください。 圭一《けいいち》”
富竹《とみたけ》さんはずっと黙っていた。
始めは面食らっている様子だったが、最後の方は違う表情を浮かべていた。
「これを来たまま帰京するのも…罰ゲームの内に入るのかな?」
「もっちろん! ちゃんと来たまま家に帰ってね〜!」
「あははは、次に来るときにも着てきてくれるといいな。…いいな!」
感極まった様子だった。
恥ずかしさとか、他にもいろんな感情のごちゃ混ぜになった、真っ赤な顔だった。
「わかった。次に来るときもこれを着てくるよ。約束する!」
みんなの歓声と拍手。
今夜でお別れする仲間への最高のプレゼントだった。
境内の方に富竹《とみたけ》さんの連れの女の人がいるのが見えた。
富竹《とみたけ》さんもそれに気付いているようで、もう別れの時が来たことを悟る。
「お連れ様がお待ちみたいじゃ〜ん? そろそろお時間かなぁ? ん〜?」
「ん、ん〜、そうみたいだねぇ…はは。」
富竹《とみたけ》さんは女の人の元へ歩いていき、待たせたことを詫びているようだった。
俺たちはめいめいの言葉を富竹《とみたけ》さんに投げかける。
その度に富竹《とみたけ》さんは振り返り、手を振ってくれた。
……やがてその後姿は夜の闇に溶けこみ見えなくなった。
わりとあっさりとした別れ際だったな。
みんなにとってはこれが初めての別れじゃない。
もう何度もしてきたことなんだ。
「…行っちゃったね。」
「じゃ、うちらも引き上げるかね!」
梨花《りか》ちゃんは実行委員さん同士で集まりがあるらしいので残るらしい。沙都子《さとこ》もそのオマケだ。
俺はいつもの下校チームで帰宅する。
帰り道で、今日の戦果についていろいろと盛り上がった。
あそこはああすればよかったとか、これにはやられた、とか。
魅音《みおん》と別れ、レナと2人。
そして俺の自宅につきレナとも別れる。
「こんな時間だけど、…1人で大丈夫か?」
「うん、全然平気だよ! 近いし。走って行くし。」
「…ヘンなヤツがいたら大声出せよ。」
「出したら…助けに来てくれるのかな?……かな?」
「聞こえたらな。」
「はぅ…! …………ぅ、うん! 聞こえるくらい、大きな声を出すね!」
レナはこれ以上ないくらい、ぶんぶんと腕を振りまわしながら元気よく去って行った。
大丈夫。あの状態のレナなら大の大人でもかなうまい。
レナの賑やかな気配が消え、ようやく静寂が戻る。
誰もが微塵ほども口にしない祟りの話。……知れば知るほどに不安になる、今夜。
みんなも…表情に出さないだけで、きっと不安に思っているに違いない…。
だが、何も起こらなければそれはただの杞憂だ。
何も起こらないさ。不吉なことなど、何も。
「どうしたの圭一《けいいち》、そんなところで。…中に入りなさい。風邪を引くわよ?」
お袋だった。
「母さんは行った? 綿流し《わたながし》のお祭り。」
「結局、お父さんが起きなかったからね。行きそびれちゃったわ。残念。」
お袋はさも残念そうに舌を出すのだった。
<幕間>
9■北条《ほうじょう》両親の転落事故
ダム推進派の夫婦の転落事故
昭和55年6月XX日夕刊より
XX日午後2時頃、鹿骨市《ししぼねし》雛見沢《ひなみざわ》村X丁目、会社員XXXさんと妻XXXXさんが、
県立白川自然公園内の展望台から27m下の渓流へ転落、行方不明になった。
警察と消防で下流を捜索し、同日夜7時頃、XXXさんの遺体を発見した。
妻のXXXXさんは依然見つかっていない。
渓流は先日の台風3号の影響で増水しており、捜索は難航している。
XXさん夫妻は展望台で柵にもたれかかっていた所、柵が壊れ転落した模様。
柵は老朽化しており、警察は公園内の設備管理が適正だったか関係者から事情を聞いている。
9■古手《ふるで》神社の神主の病死
昭和56年6月XX日夕刊より
XX日午後10時頃、鹿骨市《ししぼねし》雛見沢《ひなみざわ》村X丁目、古手《ふるで》神社神主のXXXXさんが不調を訴え病院で手当てを受け一時は回復したが、深夜に容態が急変、死亡した。
関係者の話では、当日開催されていた祭りの準備等で相当の心労があったと言う。
また、XXXXさんの死亡直後、妻のXXXXさんが遺書を残し行方不明になった。
警察と青年団で捜索を続けているが、遺書で自殺をほのめかした鬼ヶ淵《おにがふち》沼は地元では底なし沼として知られており難航している。
9■主婦殺人事件
(新聞には掲載されなかった……)
9■無線記録
「興宮《おきのみや》STより、3号どうぞ。3号どうぞ。」
「3号です。感度良好ー。」
「応援が向かいました。別命あるまで維持で願いします。どうぞー。」
「はいー、3号了解。」
「それから回転灯は付けないでお願いします。静か静かで願います。」
「STー、今、先生が到着しました。運びたいそうですがどうしますか。どうぞ。」
「了解しました。先生に任せてください。」
「はいー。了解です。……あ、応援も到着しました。先に写真取らせた方がいいんじゃないですか?…ガイ者、もームダだと思いますしー。」
■10日目(月)
「おっはよ〜! 圭ちゃん、昨日はお疲れ様〜!」
「魅音《みおん》こそお疲れさんな! 昨日は楽しかったぜ!」
「そうそう、圭一《けいいち》君、本当にありがとね! くまさん!」
「気に入ってもらえてうれしいぜ、裁縫針とか刺したりするのに使うなよ。」
「し、しないよそんなこと…!」
みんなで談笑しながら教室に入ろうと足を踏み入れると、
ドポンと嫌な感触。
そこには…なみなみと水を張った掃除用のバケツ。
俺の足が無常にも突っ込まれている。
「あぁら朝から雑巾がけとは熱心でございますわねぇ〜!」
すたすた。ひょい。びし!
「ふ、ふわぁあぁあぁああん!! 圭一《けいいち》さんがデコピンしたぁ〜!!」
「今度はもっと凶悪なワナを仕掛けなさいですよ。」
その様子を見て悶絶するレナに呆れる魅音《みおん》。
何もかもが全ていつものままだ。
欠けているクラスメートもいないし、雰囲気が変わったところもない。
昨夜からずっと頭の隅でもやもやしていたものが一気に晴れる。
「どしたの圭一《けいいち》君? ひょっとして寝不足かな? かな?」
「ばっちり爆睡したよ。なんなら授業中にも実演するぜ?」
「だめだよそんなの…!」
魅音《みおん》が先生が来たことを告げると、みんなはぞろぞろと着席した。
「みなさん、おはようございます。昨日はお祭りでしたね。最後まで後片付けに参加した人たちは本当にお疲れ様でした。」
俺たちは不良なのでまるで後片付けなどしていない。
……どちらかというと、祭りを引っ掻き回してきただけのような…。
「さて、この時期にはお祭りの取材で遠くから雑誌なんかの取材の方が見えたりします。」
いつものお題目と思い聞き流していたが、少し先生の声色が変わったので意識が戻った。
「皆さんが取材を受けることがあるかもしれませんが、曖昧なことやいい加減なことは言わないように。……いいですね?」
は〜〜い! とみんなが合唱する。
巧みに言葉を濁していたが、先生が何を言いたいのかよくわかった。
なにしろ…今年で5年目なのだ。
祟りを期待して三流雑誌の記者などが出入りすることもあるのだろう。
村としてはマイナスイメージを助長するだけで百害あって一利なし。
面白半分にいい加減なことをしゃべるな、と言っているのだ。
今度は俺も、黙っている側の人間なのだ。
こういうささやかなところで結束を感じてしまう自分がちょっぴり可愛かった。
■部活再開
放課後、やはり部活の召集がかかった。
昨日の疲れもあるだろうから今日は大人しく…なんて思いやりはここにはない!
「今日は…本格派の推理ゲームで行こう! こんなのはどうかな?!」
「お! 海外もののゲームかぁ! 面白そうだなぁ!」
「説明書も英語ですけどね。…ルールはそう難しくはありませんのよ!」
「……ま、負けないからね。」
「ボクはこのゲーム、苦手じゃないですよ。」
どうやらレナはこのゲーム、苦手みたいだな。
「ルールはね、事件の犯人と凶器、あと犯行現場の3つを当てられた人が勝ち!」
犯人、凶器、犯行現場の3種のカードがあるらしい。
犯人のカードを見ると…「魅音《みおん》」やら「梨花《りか》」やら…みんなの名前が書いてある。お、俺の名前のカードもあるぞ!
「凶器のカードにもいろいろ種類があるな! 斧やらナイフやら毒物やら! 犯行現場のカードも渋いぞ! リビングやら書斎やら中庭やら!」
「つまりね。これらのカードが1枚づつ抜かれるの。それが正解のカード。」
「で、残ったカードはシャッフルしてみんなで等分。互いに手持ちのカードを質問しあって、抜かれた正解のカードが何かを探るわけ!」
なぁるほど。誰も持っていないカードがすなわち、真犯人なわけだな!
「それで、答えがわかったら挙手! ゲームを終了して答えが正しいかを確認。」
「正解なら勝ちで1ポイント! 外れていればマイナス1ポイント! 正解してもしなくてもゲーム終了だからカードは集めて仕切り直しってわけ!」
「やってみればわかるでございますわぁ! 結構アタマを使うでございますわよ!」
「メモを取りながらじゃないと混乱しますです。」
「あとはやって覚えるさ。…で魅音《みおん》! 今回の罰ゲームはなんだ?!」
みんなの目線が魅音《みおん》に集まる!
「そうだねぇ…。じゃ、昨日の疲れも多少あるだろうから今日はソフトに。「使いっぱしりの刑」はどう? みんなからお使いを頼まれてそれを買いに走るってわけ!」
「つまり、ジュースとかお菓子とかを買いに行かされるんだね。」
「…今日の罰ゲームは簡単そうな気がしますです。」
……果たして…そうだろうか…?
「やはり、圭一《けいいち》さんもそう思いますですの?」
「あぁ…。何を買いに行かされるかわからないからな…。」
魅音《みおん》のことだ、負けたら「痔の薬」やら「明るい家族計画」やら、まともでないものを買いに行かされるに違いない!!
さっそくカードがシャッフルされみんなに配られる。
真犯人と正しい凶器、犯行現場のカードはそれぞれ抜かれているから、手元にあるカードは全て「無実」のカードということになるわけだ。
「じゃ〜一番は部長の私からいくよ? じゃあねぇ…「魅音《みおん》」「ナイフ」「書斎」!」
犯人、凶器、犯行現場を1つ選び、全員に尋ねる。
その内、1枚でも持っていたら「持っている」と答えなければならない。(何を持っているのか言わなくていいところがポイントだ)
「あ、俺持ってるぜ。」
「レナもあるよ。」
「…ボクも持ってますです。」
「あら、完全な通しですわね。」
「魅音《みおん》」「ナイフ」「書斎」はないかとの問いに3人があると答えた。
つまりこれは「魅音《みおん》」も「ナイフ」も「書斎」もシロ、というわけだ。メモメモ…。
「じゃあレナはねぇ……「レナ」「斧」「ラウンジ」だよ!」
む、あるとの答えが2人しか出なかったぞ? ってことは…「レナ」「斧」「ラウンジ」のどれかひとつは…犯人、正解ということか?!
いや待てよ、あると言っても、何枚持っているかは言っていない!
今あると答えた沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんのどっちかが、内2枚を持っていることも考えられる…!!
「じゃあ次は圭ちゃんだね。どうぞ〜!」
「まま、待ってくれよ…! まだ整理中!」
…このゲーム、思ったより頭を使うぞ…!
まずいな…苦戦の予感ッ!!
「よっしゃ! 犯人確定!!」
「なに?! もう?!?!」
右往左往してゲームを進める内にとうとう魅音《みおん》が挙手。
「犯人は「梨花《りか》ちゃん」! 凶器は「毒物」で犯行現場は「医務室」! どう?!」
箱の中に隠していた正解のカードを取りだし、魅音《みおん》の推理を検証する…。
「正解だねッ!!」
「き〜! あと1手だったですのに〜! 「毒物」か「ピストル」かわからなかったでございます〜!!」
「ピストルなんか使わないです。毒物でじわりじわりがいいのです。」
梨花《りか》ちゃんがソフトな顔してハードな事をさらりと言っている…。
みんなであと少しだったのにと大賑わいしている。蚊帳の外なのは俺とレナだ。
「…圭一《けいいち》くんはどうだったかな…? レナは全然…。」
「安心しろ。俺もさっぱりだ。」
「二人ともなぁに自信ないこと言ってんだか! 二人なかよくビリになっちゃうよ〜?」
それは極めてまずい!!
2人で仲良くお買い物。で買うものが「明るい家族計画」だったりした日にゃ…ッ!!!
「…圭一《けいいち》はこのゲーム、苦手そうな顔してますです。」
「なッ! 全然そんなことはないぞッ!! 次でシャーロック前原《まえばら》の実力を見せてやる!」
「あらぁ〜、それはいいですわねぇ!!! 徹底的に叩きのめして差し上げますわぁ!」
その後、何とかコツらしきものを掴むがどう戦っても数手遅れる。
……魅音《みおん》などは相手が発した質問からも何らかの情報を得ているように見える。…場数の違いが圧倒的だ!
この不利を覆すには……俺も非情に徹しなければなるまいッ!!!
推理という狭い思考を捨て、ゲームに勝つための部活的思考に切りかえる…。
大切なのは犯人を見付けることじゃないぞ……このゲームに勝つことだぞ……!!
……むッ!
閃いたぜ!!!
「あ、ごめん、ちょっとトイレ行って来るな。」
「ゆっくりブリブリしておいで〜!」
「魅ぃちゃん、それ下品…!」
俺はゲームを中断させ、廊下へ出た。
空気が澄んでいるぜ。
いかに教室が俺たちの熱気で澱んでいるかわかる。
校庭では俺たち同様、帰らずに遊んでいるクラスメートたちがにぎやかに騒いでいる。
しばらくの間、混乱して熱くなった額を覚ましていると、向こうからレナがやってきた。
「…圭一《けいいち》くん、ひょっとしてレナのこと、呼んだ?」
「あぁ、呼んだ。」
席を立つ時、俺はレナに目配せをしておいたのだ。
うまく通じてよかった。
「時間の無駄なので単刀直入に行く。レナ、お前の今日のゲームの過去の戦績は?」
レナは一瞬戸惑ってから…おずおずと口を開いた。
「え…と……うん。…全敗だよ。……どうしてそんなこと聞くんだろ。…だろ?」
レナの自信なさそうなプレイから想像はついていた。
「このままで行くと…俺もそうなる。今日のゲームは大逆転の秘策が思い付かない!」
「じゃ、じゃあ、…今日の罰ゲームは圭一《けいいち》くんと一緒なのかな…?」
「おいおい! 早くも負けを受け入れるなよ! 勝ちに行こうぜ?! 俺たちで!」
「で、でも…どうやって?!」
レナの耳元に口を寄せる。ごにょごにょごにょ……。
「え? そ、そんなのありなのかなぁ?!」
「忘れたのかレナ。会則第二条だぞ! 勝つために全ての努力をしよう!」
「う、うん! が、頑張るよ。」
俺とレナの作戦は非常にスタンダードなものだ。
ゲーム開始時、全員にカードが配られるとしばらくの間はメモ書き等のため、みんなの視線が手元のみに集中する。
その瞬間、隣り合って座り合うレナと俺のカードを公開し合うのだ!
机の下でさっと済ませればまずバレない!
他の連中の倍の情報を持ってのゲームスタート!
情報が多いということは質問内容にも無駄が少ないということだ!!
「……この作戦なら他の連中よりも確実なリードを持って開始できる!」
「う、うん! これなら…今度こそ勝てそうだよ…!」
にやりと二人で笑い合う!
俺が越後屋ならレナは悪代官だ。くくく、お主も悪よのぅ!!
「じゃあさっそく戻ろうよ! 二人で組んでみんなをあっと言わせちゃおう!」
「おいおい! 二人で一緒に戻っちゃ意味ないだろ! いかにも打ち合せしてきました〜ってカンジだぞ!」
「あ、ごめん。じゃあどうしよ…?」
「レナは先に戻れ。俺は洗面所で顔でも洗って、のんびりしてから戻る。」
「うん。わかったね!」
レナは踵を返すと教室に戻って行った。
ん、もうちょっと引き止めてから戻した方がよかったかな?
ちょっと早過ぎてトイレっぽくない。魅音《みおん》辺りに勘付かれると厄介かも…。
ま、いずれはバレるだろう。なにしろ俺とレナがこれから連勝を続けるんだからな!
魅音《みおん》が勘付く頃には俺とレナはビリを回避できるだけの充分なポイントを稼いでるという寸法だ!!
グッド!! こいつぁ悪くないぜ!!
「前原《まえばら》くーん。ちょっといいですか?」
え? 先生だった。…何だよ今いいトコなのに!!
「なんですか? 今ちょっと大事な…、」
「前原《まえばら》くんにお客さんがいらしてますよ。昇降口へ行って下さい。」
「お客さん? 俺、別にお店なんか開いてないし。」
「待たせていますよ。早く行ってきなさい。」
これから大勝負というこの時に来客とはツイていないが、それ以上に俺への来客という珍事に興味を覚えた。
時間を無駄にするつもりはなかったので、とっととその用件を済ませることにする。
■大石《おおいし》刑事の尋問
昇降口は暑い日差しと日陰の明暗のくっきりしたコントラストに彩られていた。
その中を、暑そうに小脇にジャケットを抱え、だらしなくネクタイを緩めた中年のおっさんが待ち受けていた。
「前原《まえばら》さんですか? 前原《まえばら》圭一《けいいち》さん。」
雛見沢《ひなみざわ》の人間でないことは間違いなかったし、初対面なのも間違いなかった。
……どうも富竹《とみたけ》さん以降、俺は中年男に縁があるようだな…。
「そうですよ。…どちら様ですか?」
「私の車はエアコンが効いてますから、そっちでお話しましょう。ここ、暑くありません?」
男はこちらの問いかけをあっさり無視すると、校門に停まっている車を指差し、とっとと歩き出す。
じょ、冗談じゃないぞ。こんな見ず知らずのおっさんに付き合う気もないし、しかも車に乗れだって?!
「捕って食やしません。どうぞどうぞ!」
車の後部座席を開けて俺を呼んでいる。
……気に入らないオヤジだが、話の内容も気になる。
…昔からこういう切り出し方をする話にはろくなものがないとは知りつつも。
車内は本当に涼しかった。
カーエアコンなんて結構高級品のはずだ。
少なくともうちの親父の車には付いていない。
「冷え過ぎだったら言って下さいよ? 私、ガンガンに冷やしちゃう性質ですから。」
「で、俺に何の用ですか?」
お返しに俺も相手の問いかけを無視して切り出すことにする。
男は胸ポケットから手帳を取り出しぱらぱらとめくると、そこに挟まれた1枚の写真を取り出した。
そこには……寝ぼけたような顔をした男の顔が写っていた。
「この男性のことで、ご存知のことがあったら教えて下さい。」
誰だ、このおっさん。
……こんな免許の写真みたいな感情のない様子だったら身近な友人でもそれと判るまい。
「シャツにマジックで落書きがありましてね。前原《まえばら》さんを始めクラスメート何人かの署名入りでした。」
「……え、…これ…富竹《とみたけ》さん?!?!」
いつものあの、どこか頼りなさそうで、でも飄々とした雰囲気はこの写真からは微塵も感じられなかった。
寝ぼけた、感情のない顔…。
「ではこちらの女性はわかりますか?」
見る前から何となく察しはついていた。
「……えぇと、名前は知りませんけど、昨夜、富竹《とみたけ》さんと一緒に居た女の人です。」
名前こそよく知らなかったが、雛見沢《ひなみざわ》の住人であることは知っていた。
「この二人に最後に会ったのはいつですか?」
「綿流し《わたながし》のお祭りの晩、一緒に話をしました。…二人とも仲良さそうでしたよ?」
「何か気になったこととかありませんか? 何でも結構です。話して下さい。」
こう根掘り葉掘り聞かれると正直困る。
…この頃には、俺にもこの親父の正体の見当がついていた。
「富竹《とみたけ》さんたちに…何かあったんですか?」
その問いかけに答えはなかった。
だからこっちも同じくそれを沈黙で返してやることにする。
多分おそらく……いや、間違いなく…このおっさんは警察だ。
だったらなぜ??
どうして富竹《とみたけ》さんのことを尋ねる? 彼に何かあったのか?
それよりも何で俺なんだ?
俺よりも詳しそうなヤツは大勢いるはずなのに?
カーエアコンの唸る音がやたらとうるさく感じる…。
………長い空白時間ののち、彼はようやく口を開いた。
「前原《まえばら》さんはまだこちらに越されて来たばかりですよね? ご存知ですかな? 例の………………オヤシロさまの話は。」
心臓がどきんと跳ね上がる。
隠し事のヘタな俺のことだ。さぞや表情に出してしまったことだろう…。
「まったく知らない? 知らないんなら結構なんですがね…。」
「………まぁ……聞いたことくらいは。富竹《とみたけ》さんに教えてもらったんですけど…。」
「どの辺までご存知ですか?」
バラバラ殺人。事故死。病死に自殺。それから撲殺。
毎年、必ず綿流し《わたながし》の日に起こる怪死事件…。
富竹《とみたけ》さんが隠し事をするとは思えない。あれが全てだと思う…。
…いや、あれ以上があるとは思いたくない。
「前原《まえばら》さんは…その…祟りとかを信じていますか? 率直なところで結構です。」
「信じてません。」
即答だった。
……それには信じていないというよりも、信じかけているからその疑念を晴らしたい、という感情の方が強く出ていた。
「本当に? ならよかったです。やっぱり前原《まえばら》さんは都会育ちですねぇ〜。」
「信じてなかったら何なんですか。俺、仲間を待たせてるんであまり時間取れないんすけど。」
「その写真の男性は昨晩、お亡くなりになりました。」
頭の中が真っ白になる。
……え? 富竹《とみたけ》さんが…どうしたって?
「よりにもよってね、お亡くなりになられたのが昨日なんですよ。つまり綿流し《わたながし》の当日。………前原《まえばら》さんにはどういう意味があるのか、わかりますよね?」
「意味って、…意味なんか……、」
死因とか理由とかじゃない。
…問題なのは綿流し《わたながし》の日に死んだということだ…。
つまり……今年も……オヤシロさまの祟りは……ッ!
「富竹《とみたけ》ジロウさんがお亡くなりになられたことはまだ内緒です。どうしてかは、何となくおわかりになりますよね?」
わかりたくもない。
「………教えて下さい。…一体、何があったんですか?」
「…特異なんですよ。雛見沢《ひなみざわ》の方にはちょっと刺激の強い。」
もったいぶった言い方だったが、その先を聞くことに一瞬、躊躇した。
俺は、無用の好奇心で知らなくてもいいことを無理に知り、その結果、後悔してきた。
……これから聞こうとしている話にもそんな気配が感じられる…。
「第一発見は祭りの警備を終えて帰還中のうちのワゴンでした。時刻は24時5分前。場所は、…えーと、町へ出る道路がちょうど舗装道路に変わるところありますよね? 坂を下りきった辺りに。あそこの路肩でした。」
街灯もほとんどない道だ。
月明かり以外は車のライトしかない暗闇。
そんな中で路肩に倒れている富竹《とみたけ》さんを発見したのは偶然中の偶然だった。
血塗れで道路に突っ伏した富竹《とみたけ》さん。…アスファルトいっぱいに広がった血と汚物…。
「みんな始めは轢き逃げされたものだと思っていました。
ですが、意識を確かめるために近付いた警官はすぐに異常に気付きました。
…喉がね、引き裂かれていたんですよ。」
「ナ、…ナイフとか……?!」
「いいえ。爪でした。」
爪?! 爪って、指についてる…この爪か?! それで…ガリガリと?!?!
「検死の結果、それも自分の爪で、ということが判明しました。」
「え? え?…それって…どういうことですか…?」
つまり……これは他殺じゃなくて……自殺なんだ。
富竹《とみたけ》さんは…何を思ったか、自分の爪で力いっぱいガリガリと! 喉を掻き毟りだしたのだ。
…皮が引き千切れて血が滲み出して…。それでも富竹《とみたけ》さんはやめない。ガリガリと!!
爪が剥がれるくらいの凄まじい力で…ガリガリ! ガリガリ!!
そして…傷つけてはいけない大切な血管にまで爪が届き……ガリガリ! プチ、
……辺り一面に鮮血を撒き散らす!
血を吐きながら。嘔吐しながら。…そして倒れ…痙攣しながら………悶死。
「薬物を疑いましたが、そういう類のものは検出できませんでした。」
でもこれ……自殺なのかッ?!
こんなの聞いたこともない!!
…こんな尋常でない死に方…!!!
これを怪死と言わなくてなんと言う…?
こんな死に方……この5年間の死で、…一番祟りらしいじゃないか…!
それもまるで、祟りなんかないと力説した富竹《とみたけ》さんと、俺に見せ付けるような…!!
「他にもいくつか不審な点があります。体内分泌物、発汗、脱毛等から、富竹《とみたけ》さんはお亡くなりになる直前、極度の興奮状態だったようなのです。」
そりゃあそうだろうな…。冷静な状態で自分の喉を掻き毟るなんて考え難い…。
「手の傷と付近に落ちていた角材が一致しました。…周囲の木やガードレールに叩いた跡。周囲に散乱する富竹《とみたけ》さんの血痕…。………つまりですね、」
富竹《とみたけ》さんは喉を掻き毟り血塗れになりながらも、角材を片手にそれを振り回していたということだ。
「体からは本人によらない外傷がいくつか発見されました。…富竹《とみたけ》さんは何者かに暴行を受けた可能性があるということです。外傷の部位から見て、複数犯の可能性もあります。」
まとめるとこうだ。
富竹《とみたけ》さんは、何者かに取り囲まれ、襲われた。
夜道を興奮状態で逃げ惑い、とうとう逃げ切れなくなり、落ちていた角材を拾い抵抗を試みた…。
その最中、富竹《とみたけ》さんは錯乱しながら自分の喉を掻き毟り始めたのだ。…ガリガリと!!
そして……絶命した。
「死亡推定時刻は21時から23時頃のようです。つまり…お祭りで前原《まえばら》さんが富竹《とみたけ》さんとお話して別れてからからすぐの出来事なんですよ。」
みんなで富竹《とみたけ》さんのシャツに寄せ書きを書いて…お別れして……。…すぐ……。
そう言えば…富竹《とみたけ》さんは女の人と一緒だったはずだ。…彼女は?!
「行方不明です。出勤もしていませんし、昨夜は自宅にも帰っていません。…事件に巻きこまれた可能性が極めて高いようです。」
しばらくの間、俺は放心するしかない。
身近な人の不幸が、これほど鮮烈なものだとは思いもしなかった…。
俺と富竹《とみたけ》さんの共にした時間は呆れるくらいわずかかもしれない。
……だが、同じ祭りで、同じ時間を過ごし、同じゲームで競った。…仲間だ。
「我々もあらゆる面から捜査を進めますが、村人たちはオヤシロさまの祟りの話になるととにかく口が重くなる…。」
…それはよくわかる。
…俺自身、富竹《とみたけ》さんという村人でない人間に聞かされるまで何も知らなかったくらいなのだから…。
「…だから、俺なんですか? 俺が雛見沢《ひなみざわ》の人間じゃないから。」
それが俺から話を聞こうとした理由なら憤慨すべきもののはずだった…。
「このままでは、富竹《とみたけ》ジロウさんはオヤシロさまの祟りで死んだことになってしまいます。」
男は視線を俺から外し、遠くを見つめた。
「……綿流し《わたながし》の晩、神聖な儀式の時、無神経にカメラをばしゃばしゃやってたものだから、オヤシロさまの怒りに触れた、…そういう話になってしまうんですよ。」
「と、富竹《とみたけ》さんにオヤシロさまのバチが当たるわけがない…!」
富竹《とみたけ》さんを殺したのは人間の、それも卑劣な連中だ。
…祟りなんかのせいにされてうやむやにされて……たまるか!
「私もそう思います。バチも祟りもあるわけがない!!」
シンとした緊迫の中、…やがて男はにっこりと笑って語気を緩めた。
「つまりそういうことですよ前原《まえばら》さん。……祟りを信じていない雛見沢《ひなみざわ》の方の協力が不可欠なのです。わかりますね?」
富竹《とみたけ》さんも俺も、祟りなんか信じない。
…だが、このままでは富竹《とみたけ》さんの死は5年目の祟りとして上乗せされてしまうだけだ。
それは、富竹《とみたけ》さんを雛見沢《ひなみざわ》が拒絶したことを認めることになる。それだけは…許せない。
富竹《とみたけ》さんは俺たちの仲間だ。
雛見沢《ひなみざわ》に住んでこそいないけど、毎年毎年訪れている、…ある意味、俺なんかよりもずっと雛見沢《ひなみざわ》の人間と言える。
その富竹《とみたけ》さんに…オヤシロさまの祟りなんか、あるわけがない…!
「でも、…俺に協力できることなんか何もないですよ。あの晩のことは何も知らないし…。」
「いえいえ、何か気になるものを見たり、聞いたりしたら教えて下さればいいんです。」
見たり聞いたり? 未来形だ。
「モノでもヒトでもウワサでも。何でも結構です。不確かなもので構いませんから。……これ、私の電話番号です。不在でしたら出た者に伝言して下されば結構です。」
電話番号の書かれたメモを渡されたが、一瞬、受け取るのに躊躇した。
これを受け取れば…否応なく俺は当事者になる。
「富竹《とみたけ》さんの無念を晴らすためにどうか、ご協力をお願いしたいのです。」
そうだ。…俺は何を躊躇する?
…仲間を殺した犯人を…見つけなきゃ!
力強くメモを毟り取ると、男は満足そうに笑ってから一気に表情を険しくした。
「今日ここでした話は全て内緒です。絶対に他言無用でお願いします。」
「わかりました。」
「お友達にも内緒です。
特に、園崎《そのざき》さんや古手《ふるで》さんには絶対に知られないようにして下さい。」
「園崎《そのざき》って、魅音《みおん》のことか?! なんでだよ!……事件に関係あるっていうのかよ?!」
急に身近な仲間の名前を出され、しかもその仲間には内緒にしろと言われ、俺はとっさに憤慨してしまう。
「…う〜ん、捜査上の都合、ということなんです。」
「煙に巻くなよ! 魅音《みおん》は俺の大切な仲間だぞ!!」
食って掛かるが男は特に気に留める様子もない。
「言ってもいいですが……気を悪くしないで下さいね?」
「言えよ!!」
男は少し躊躇した。
目線を車外へ躍らせ、少し思案してから口を開く。
「雛見沢《ひなみざわ》で起こった一連の事件は、村ぐるみで引き起こされている可能性があるのです。」
「…………そ、…そんなことあるわけないじゃないか!!」
バカも休み休み言え!!
第一、そんな証拠はあるのかよ?!
「証拠はありません。しかも過去の事件は個々に解決し、いずれの犯人も村とは直接関係ありませんでしたしね。」
「じゃあどう考えたらそんな考えに至るんだよ!!?」
「毎年、綿流し《わたながし》の日に村の仇敵が死ぬ!! それだけで充分に疑えると思いませんか?」
綿流し《わたながし》の日に神聖性を感じるのは雛見沢《ひなみざわ》の人間だけだ。……つまり、その日のみに事件が起こるのは「雛見沢《ひなみざわ》と関係」があるからだ…???
「始めはダム工事の監督! そして次にダムを誘致した村人! 村の仇敵は次々に怪死しました。過程はともかく、結果はそうなのです。」
理不尽な証拠なき疑惑だ。
……だが、それを一笑に伏すことは難しかった。
「じゃあ…、次に死んだ神主や、その次に死んだ主婦はどうです?! 別に村の敵だったわけじゃない…!!」
「神主はダム騒動当時、リーダーシップを期待されながらも、積極的な働きがなかったため、一部の村人から失望、反感を買っていました。」
「反感があったにしたって……別に村に害を与えたわけじゃないだろ?!
その次の主婦なんかどうだよ! 誘致した男の弟夫婦だったってだけの理由だろ?! もっと殺される理由が薄いじゃないか!!
そして富竹《とみたけ》さんに至ってはどうだよ!! ダム工事とは関係すらないじゃないか!!! ただよそ者だ、ってだけの理由だぞッ?!」
始めこそダム工事関係者に偏っていたかもしれないが、後年になればなるほど、犠牲者の「敵対度」は希薄になっていく。
「…それがね、怖いんですよ。徐々に希薄になって行くのが。」
「何がだよ…!」
「つまり、村の敵でなく、よそ者だというだけの理由で犠牲になりつつあるんですよ。」
「じゃあ…来年の被害者は…「村のよそ者」から選ばれるっていうのか?!」
「あるいは引っ越してきたばかりの人かもしれません。」
「それってどういう……、」
言葉を飲みこんだ。
この雛見沢《ひなみざわ》で…今一番のよそ者がいるとしたら……それは…うちだ。
俺自身がいい証拠じゃないか。
…未だすれ違う人々の名前も十分にわかってない……。
じゃあ……次の犠牲者は……うち、………俺だって言うのか…ッ?!
「でも…それと魅音《みおん》とどう関係があるんだよ?!」
「詳しくは申し上げられませんが、園崎《そのざき》さん一家はダム騒動時の抵抗運動の旗頭だったのです。それも過激なね。
例えば園崎《そのざき》魅音《みおん》さんについても同様です。抵抗運動時、いくつかの軽犯罪と公務執行妨害で補導歴があります。」
魅音《みおん》が「戦った」ことは知っている。
…だが一家が抵抗運動のリーダー格なのは初めて知った。
……じゃあつまり…どういうことだ…、
「…魅音《みおん》の一家が……一連の事件に関係しているとでも言うのかよ?」
「そうまでは言いません。……もしもそうだったら、一番確率が高い、それだけのことなんです。」
よくわからない説明だった。
俺の、本当に知りたい部分はさっきから見事にはぐらかされている気がする…。
「誰が一体どれだけ関わっているのか、まったくわかりません。……だからこそ、村人に口外してほしくないのです。」
俺は露骨に渋い顔をして返事の代りとした。…それは充分に伝わったようだった。
「じゃあこう考えましょう。…祟りを盲信する村人の皆さんに心配させたくないから内緒。……そういうことでどうです?」
何がそういことだとどうなのか、さっぱり判らない。
ただ、迂闊に口外すべきでないことなのは理解に難しくなかった。
犯人はどこかにいる。
それは祟りとは無縁だ。
そしてそいつはきっと警察が逮捕して、然るべき報いを与えるだろう。
…そしてその過程はみんなには関係のないことだ。
祟りに過敏になっているみんなに…余計な心配をかけることなどないのかもしれない。
「……みんなが俺に心配させないために内緒にしてくれたように。……今度は俺がみんなに心配させないために内緒にする番、てことなのか…?」
独り言だった。
俺と違い、毎年起こる怪事件に不安を募らせてきたみんなにとっては、今度の事件が意味するところは大きいだろうな…。
みんなの心に…余計な負担をかけたくない…。
結局、男の言う通りに事が進んだのが面白くなかったが、仕方なかった…。
「わかりました。俺だけの秘密にします。それでいいですよね、…えぇと……名前、」
「興宮《おきのみや》(おきのみや)署の大石《おおいし》です。なんなら蔵ちゃんでもいいですよ?」
「あ、いや、大石《おおいし》さんでいいです…。」
いやらしい喋り方のくせに妙に敬語な、いかにもスケベ親父な感じの刑事だ。
…俺の知るどんなドラマにもこんなデカはいないぞ…。
「…時間を取らせ過ぎました。お友達を待たせていますよね? もう戻った方がいいでしょう。」
がちゃりと扉を開けると、茹だるような熱気がぶわっと入り込んできた。
車の外は凄まじい熱気だ。今日はこんなにも暑い日だったんだっけ…?
機械的な涼しさの車内とは対照的に、意地悪するような暑さ…。
まるで、雛見沢《ひなみざわ》という土地に急に嫌われたような、…そんな悲しい錯覚がした。
「お友達を疑え、と言ったわけではありませんからね。誤解しないで下さいよ。」
今更勝手なことを言うな、と思ったが口には出さない。
「前原《まえばら》さんが何も見つけず、聞きもしなかったとしても、それで充分なのです。……それは村が関わっていないという証拠になるのですから。」
「見たり聞いたりしたら連絡しますけど。……俺は探偵じゃないですからね。へんな期待、しないで下さいよ。」
「しませんしません! 探偵になんかならなくていいですよ。今までのように自然に生活して下さい。その中で見聞きしたことを教えてくだされば結構なんです。」
俺は大石《おおいし》さんに一礼すると校舎へと足早に戻って行った。
「またお会いしましょう。さようなら前原《まえばら》くん!」
俺は振り向きもせず校舎に戻った。
■部活おわり
どのくらい時間を潰してしまったかわからない。
みんなを待たせてしまって悪いという気持ちもあったが、今は他のことでいっぱいだった。
……富竹《とみたけ》さんの死だけでも充分に大変なことなのに……それが村ぐるみの可能性がある?
しかも……それに魅音《みおん》が関わっている可能性もあるだって??
馬鹿馬鹿しい…。
魅音《みおん》やレナや沙都子《さとこ》や梨花《りか》ちゃんに限って、あるわけがない。
富竹《とみたけ》さんを襲った犯人は複数?
一体誰が犯人なんだろう。
…そして…その犯人は雛見沢《ひなみざわ》に潜んでいるんだろうか…?
……わからない。
…確かに言えることは、魅音《みおん》に限って犯人ということはないということだ。
「魅ぃちゃんだよ!! 犯人はッ!!」
え、………レナの声に一瞬、ぎょっとする。
「凶器はロープで、犯行現場は……う〜ん………ラウンジ!!!」
「わっはっはっはッ!! ハッズレ〜〜!!」
「いやぁあぁあぁああぁ!!!」
頭を抱えてのたうち回るレナ。
……派手に自爆したようだな、おい。
「あぁあー!! 圭一《けいいち》さん、遅かったですわねぇえぇ!! ぷんぷんでございますのことよ?!」
「あ、あぁごめんごめん………。ちょっと先生に職員室呼ばれてさ…。」
「素行が悪くて怒られましたですか? …かわいそかわいそです。」
「ま、こっちも白熱してたしね! もういい時間だから次で最後のゲームにしよう。」
「俺の今の持ち点って…確か0点だろ…。…ビリ確定じゃないのかよ?」
「だ、大丈夫だよ圭一《けいいち》くん。……レナ、マイナス1点。………はぅ…。」
なんだそりゃ! ゲームに参加してなかった俺より点数が低いぞ。
「罰ゲームはレナがひとりでか、圭ちゃんと二人でかを決める最終戦!!」
「冗談じゃねぇぞ。罰ゲームはレナひとりでやってくれ!」
「……圭一《けいいち》くんと…二人で勝とうって約束したのに……ずーっと待ってたんだよ? …だよ?」
「……ぅ……そりゃ俺が悪いな…。」
俺は当初の取り決め通り、レナにカードを公開するが、犯人が判っても答えず、レナがあがるのを黙って待った。
「わかったよ!!! 犯人は「私」!! 凶器は「毒物」で犯行現場は「玄関ホール」!! どうかな?! どうかな?!」
「おーおーレナ、回答早いじゃ〜ん? また当てずっぽうじゃないのぅ? ……お。」
「…レナの正解ですよ。」
「をーっほっほっほ!! じゃあこれで圭一《けいいち》さんも罰ゲーム決定ですわねぇ!!」
「やったぁああぁ!! 圭一《けいいち》くん、一緒にがんばろうねぇ☆」
「あ、あぁ、一緒にがんばろうな…ははは…。」
俺が悪いのだから仕方ない…。
「ではゲームセット! トップは私、園崎《そのざき》魅音《みおん》! ビリは前原《まえばら》圭一《けいいち》と竜宮《りゅうぐう》レナ!!」
みんなが拍手してゲーム終了だ。
……問題は…罰ゲームだよな…。
「じゃあ、使いっぱしりの刑の買って来るものはトップの私が決めようかねぇ!」
「………な、何を買いに行かされるんだろ? …だろ?」
「薬局は禁じ手にしような。図星だろ!!」
「はぁ? 薬屋なんかに用ないよ。
おじさんが買って欲しいものはね、このメモに書いてあるから〜!」
「わぁ……いっぱい書いてあるよ…。」
い、いっぱい?!
畜生、一体何を買わされるんだよ?!
「……豆腐2丁。シャンプーとリンス。みりんに油揚げ。何だこりゃ。」
「罰ゲームってより…お買い物に見えるでございますわねぇ…。」
「…今日の魅ぃは勝つ気満々でしたです。」
「会則第七条!!!! 罰ゲームの内容に逆らわな〜い!!! はい、お金。シャンプーはうち、果物物語だからね。よろしくぅ!」
「こ、これ、お前が頼まれたお使いだろぉおおぉおぉおお!!!」
俺は今度こそ勝ったなら、魅音《みおん》に痔の薬を買わせようと誓うのだった…。
<幕間>
10■犯人は4人以上?
「自分で喉を掻き破った出血性ショック死。
爪の間に肉や皮がびっしり詰まっとった。他人の爪じゃない。間違いなく本人の爪じゃわい。傷の形も一致する。」
「えぇえぇ。直接死因が自殺ってのはわかってますよ。」
「わかっとるわい。人為的にこういう症状が起こせんかと言っとるんだろう?」
「背中が痒くて掻きすぎて、血が出ちゃうのとはちょっと訳がちがいますからねぇ。」
富竹《とみたけ》氏の指には爪が剥がれたものもある。
爪自体は割りと簡単に剥がれる。
だがとても痛い。
だから普通は剥がれるような無茶はしない。
そして、富竹《とみたけ》氏の遺体に残る数々のアザ。
…形状その他から素手の暴行によるもの、それも複数人に囲まれてであることは明白だ。
「分泌物から見て、仏は極度の興奮状態にあったのは間違いないのう。」
「では乱闘になって、興奮のあまり自分の喉を引っ掻きだしたってことですか? 襲った連中、さぞや度肝を抜かれたでしょうなぁ。」
確かに異常な環境で異常に興奮した人間は、健常者には考えられない行動を取ることはありえる。
無論、極めて稀有なケースだが。
「実はな、大石《おおいし》くん。仏が武器にしたらしい角材な。砂粒とかガードレールの塗装片とかそんなのしか出んかったぞい。」
「ホシの服の繊維とか、皮膚片とかは?」
「出んかった。仏は犯人を殴っとらん。…あるいは殴った角材を、ホシが持ち去ったのかも知れんの。」
「なら、わざわざ角材なんて置いてきませんよ。全部持ってっちゃいます。」
「かっかっかっか! それもそうじゃのう。」
「富竹《とみたけ》氏は結構、体格もいいし肌も焼けてるし。…スポーツマンですよねぇ。」
「ん? そうだな。よく運動しとるようだの。」
…生前に何のスポーツを嗜んでいたか想像はつかないが、身体能力は高い方だと思う。
つまり、乱闘では決してひけを取らないはずなのだ。
これだけ体格のいい男が、身に危険が迫って、死に物狂いで武器を振り回して。
それが犯人にかすりもしないなんて、ちょっと普通では考えられない。
しかも相手は素手。
こっちは角材なんだから、1回くらいは殴れたと思うのだが…。
「こんだけ体格のいい相手を取り囲んで襲おうとしたら、…何人くらいいりますかねぇ。」
「あほぅ。それは大石《おおいし》くんの方が得意だろうが。悪タレ時代を思い出さんかい!」
私が彼と喧嘩するなら何人ほしい?
群が時に大型獣を倒すように、多人数で襲うのは狩りの鉄則だ。
……4人くらいはほしい。
多少の体格差があってもこれだけいればなんとかなる。
「だとすると、結構犯人は多人数だの。
祭りで泥酔した4人以上のグループが怪しいとなるかの?」
………4人以上のグループ。
しかし…それだけの人数がいれば、遺体をもっと目に付きにくいところに隠せなかっただろうか?
あるいは…瀕死の状態で監禁されていたのをなんとか抜け出してきたのか…。
だとしたら自殺する理由がわからない。
それ以上に、あの異常な死に方の理由がわからない……。謎だらけだ。
「こっちもそこは重視しとる。徹底的に調べるつもりだが…あまり期待できんな。何しろ、過去にこんな例はないんだからな。」
「期待はしませんよ。ですが結果を楽しみにしてます。」
「大石《おおいし》さん〜! 課長が呼んでるっすー!」
「すみません、ではまた来年お会いしましょう。」
「おう。いいお年をの!」
10■捜査メモ
富竹《とみたけ》ジロウ(仏)
・鹿骨市《ししぼねし》内の安ホテルに滞在
・宿帳に富竹《とみたけ》ジロウと記名 > ペンネーム
・折り畳み自転車で行動。免許の類なし。
・自転車は現場から300m離れた林道脇に放置。
・祭り当日、会場にいた。
・失踪中の鷹野みよと一緒にいた。
・9時ごろに警察官が目撃。その後は不明。
・雛見沢《ひなみざわ》には5〜6年前から、季節毎に1週間ほど滞在。
・野鳥専門のフリーカメラマン > 雑誌社調べろ!
・遺品のフィルムには不審物なし
・遺品に財布 > たんなる暴行?
・財布の内容物から、生活基盤は東京〜千葉? 国鉄総武線沿線?
・都内各区の住民基本台帳に富竹《とみたけ》ジロウの同姓同名なし
・歯型から都内歯科へ照合 > 警視庁へ
・顔写真の送付 > 警視庁へ
・各雑誌社に富竹《とみたけ》ジロウ問い合わせ
鷹野みよ(失踪)
・入江診療所に勤務の看護婦
・趣味の野鳥撮影で富竹《とみたけ》と親しい
・自宅は興宮《おきのみや》X丁目XXX番地。独身。
・富竹《とみたけ》と共に祭り会場で目撃され、その後行方不明。
・誘拐された? それとも容疑者? > 重要参考人!
・仏を殺す動機がない > 痴情のもつれ?
・人間関係を徹底的に調べる! > 勤務先他
・会場警備の警察官に再度聞き込み!
・シュークリームが食べたいなぁ。ジャンボで4つ。> 大石《おおいし》
■11日目(火)
眠い。
「わぁ…圭一《けいいち》くん、でっかいあくび。」
飯を食う時って結構目が覚めてるもんだが…今日に限ってはだめなようだ…。
「昨夜遅くまでテレビ見てたら……眠くて眠くて……。」
「圭ちゃんが喜びそうなH番組なんかやってたっけぇ?」
「ふ、ふふ不潔千万でございますわぁあぁあぁ〜!!」
「勝手に決め付けるんじゃねえぇえぇ!!!」
「…男の子なら当然です。恥ずかしくないですよ。」
梨花《りか》ちゃんのまったくフォローにならないなでなでが駄目押しする。
「ちょっと…この昼休みは爆睡させてくれ。…いや本当マジで。」
「あぁら、私が黙って見過ごすとお思いでぇ?」
「邪魔したら怒る。すごい怒る! …ふぁあ〜〜あ……。」
凄みなんかありゃしない。
とにかく……眠い……。
俺は問答無用に机に突っ伏し、昼寝を決め込む。
沙都子《さとこ》が何か言い返してきたようだが、聞こえないふりをしてやる。
「…沙都子《さとこ》ちゃん、やめなよ。圭一《けいいち》くん寝ちゃった。………寝顔、かぁいい☆」
「あとでお持ち帰りしていいから。そっとしときな。」
「…向こうへ移動しましょうです。圭一《けいいち》にうるさいと悪いですよ。」
…やっぱ梨花《りか》ちゃんっていい子だよな…。
「先生が来ても起こさないであげましょうです。」
前言撤回。
テレビを見ていて寝不足だったのは…嘘だった。
いつもの時間に消灯したが…昼間の大石《おおいし》さんの話がちらつき、少しも寝付けなかったのだ。
こうして過ごしていると…富竹《とみたけ》さんの事件など、始めからなかったように思える。
……ひょっとして大石《おおいし》さんに騙されたんじゃないかな…とすら思える。
だけど……きっとそれは事実なのだ。
……そして、それは誰にも喋ってはいけないこと。
協力を求められたが…どうせ俺にわかる事など何もない。
何の役にも立てないなら、最初からこんな話、聞かされなきゃよかった。
結局俺はまたしても……知らなくていい事を知って後悔してしまったわけだ…。
何も知らなければ、俺は今この瞬間も、みんなと一緒にお昼のバカ騒ぎをしていたに違いない。
………大石《おおいし》さんのことを逆恨みせずにはいられなかった。
「……え、…それっていつから?」
「もう次の日にはいなかったって。……綿流し《わたながし》の晩に失踪したらしいよ。」
魅音《みおん》の辺りを伺うような小声だったが、俺には鮮明に聞き取れた。
逆にレナの声は聞き取りにくい。
それでも不安そうな様子が声から伝わってきた。
…まさか…富竹《とみたけ》さんの話…?!
「……さん………けなの?」
「わかんない。私の知る限りではね。」
富竹《とみたけ》さんの事件を胸にしまう自分としては、あくまでも知らないふりをしていなければならない話題だった。
起きあがり、話に混じって嘘を重ねるくらいなら、こうして寝たふりをしながら耳を傾けている方がよっぽど気が楽だった。
しかし……どうして俺は寝たふりをしながら仲間の会話を盗み聞かなきゃならないんだろう…?
後ろめたさに…胸が痛んだ。
「……で……ってこ………他にもいるんでしょ? ………が。」
「…彼女が祟りにあったのか、オニカクシにあったのかはわかんないけどね……。」
オニカクシ…? 鬼カクシ…? 鬼隠し《おにかくし》?
不思議な単語だった。
……ただ、言い知れぬ不吉な気配に彩られていることだけはわかる。
「……ゃあ……らにせよ……もう一人いるんだよね? ……だよね?」
「オヤシロさまなら……ね。」
「でもでも! ……今年は………てないよ…?」
「婆っちゃと村長さんが話してたんだけどさ。……今年は事前に警察と話が付けてあるらしいんだよ。……何が起こっても、騒ぎにしないで穏便に片付ける、って。」
「じゃあ、……レナたちが知らないだけで………どこかで誰かが………たかもしれない……ってこと…?」
「…かも、ね。」
「………次は……レナ、……かな……。」
「……安心しなよ。レナはちゃんと帰ってきたよ。」
「……でも………は…駄目だったんでしょ……?」
「昔の話だよ。もうやめよ、この話。」
気まずい雰囲気になったのか、二人は沈黙してしまった。
全体像のおぼろげな会話だったが…いくつか気になるものがあった。
まず鬼隠し《おにかくし》という単語だ。
…鬼隠し《おにかくし》にあう、という言葉の使い方と前後関係から見て、類似語の神隠しと同等のものだろうか。
…富竹《とみたけ》さんと一緒にいた女性(名前がわからないのが実に歯痒い…)は綿流し《わたながし》以降、消息不明ということからもそれを伺うことができる。
次に気になったのは、レナのもう一人いるんだよね、という言葉だ。
魅音《みおん》も、オヤシロさまならね、と言い添えている。
オヤシロさまの祟りなら、…必ず2人犠牲者が出るということなのか…?
そう言えば冒頭に魅音《みおん》が、祟りにあったのか鬼隠し《おにかくし》にあったのかわからない、と言ったのを思い出す。
祟りと鬼隠し《おにかくし》は、どうやら別のもので、必ず対になって起こる「現象」らしい…。
富竹《とみたけ》さんの惨たらしい最期を思い返した…。
それはとても隠しなんてスマートなものじゃない。…それこそ祟りという形容が相応しい、壮絶な最期だ。
じゃあ…連れの女の人は…鬼隠し《おにかくし》にあって失踪したことになるのだろうか……?
ひとつわかったのは……正しい祟りの犠牲者は、常に偶数人らしいということだ。
そして…最後に気になったのはレナだった。
レナは怯えていた。
…どういう理由でかはわからない。
だが、何か身に覚えがあり、自らがオヤシロさまの祟りの標的になる確率が高いことを知っている…。
オヤシロさまは…確か、雛見沢《ひなみざわ》の守り神のはずだ。
…守り神ってのは住民を守り、外敵を追い払うものじゃないだろうか…?
確かに昨日、大石《おおいし》さんが言っていたように、始めこそ村の敵が標的だったが、近年、よそ者であれば見境なし…な状況にはなってきている。
でもそれなら…レナよりも引っ越してきて日が浅い俺の方が狙われるべきだと思う。
レナの雰囲気からは、次こそ自分だ…というような悲壮感すら感じられる…。
…今聞いた話を大石《おおいし》さんに伝えた方がいいんだろうか。
寝たふりをし、仲間から盗み聞きした話を警察にする…。
………気分は沈むばかりだった。
いくつもの疑問が生じ、俺を嫌な気分の黒雲で包んでいく…。
これらの疑問に…答えを求めない方がいいのだろうか…?
これまで同様、知る事によって、俺はもっともっと…戻れないくらいの深みに落ちて行くのだろうか…。
いつか、きっと俺は後悔しそうな気がする。
……知らなければよかったと、きっと後悔するんだ…。
「先生が来るでございますわよ〜!! 圭一《けいいち》さぁん! お起きなさいなぁ!!」
遠くで午後の授業の始まりの振鈴の音がする。……げ! ほとんど寝れなかった!
俺は慌てて目を覚まし顔を上げる。
背もたれに背中を押し付けた瞬間、
「痛ぇえぇッ?!?!」
俺の席の背もたれに、いつのまにかガムテープで画鋲が仕掛けられていた。
…状況証拠だけで充分だ…!!
「沙都子《さとこ》ぉおおおぉおぉおおぉッ!!!」
法廷不要で即有罪!!
極刑に処すッ!!!!
威勢よく席を立ち上がる!!
と、俺は足をもつれさせ転んでしまう。
いつのまにか…俺の両足の靴紐が結び付けられていたのだ!
「や、やるじゃねぇか沙都子《さとこ》ぉおおぉお!! 俺が寝ている間に…気配を消してこれだけの上等をやってくれるたぁよぅ…!!!」
上靴を脱いで沙都子《さとこ》に飛びかかろうとした矢先に、ちょうど先生が入ってきた。
「をっほっほ!! 先生が来ましてよ圭一《けいいち》さん? 着席あそばせ〜!」
つかつか、ひょい、びし!!
そんなのお構いなしにデコピンを食らわしてやる。
「ふ、ふわぁあぁあぁああん!! 圭一《けいいち》さんがいじめたぁあぁああぁ…!!」
「こら! 前原《まえばら》くん、下級生をいじめてはいけません! 謝りなさい!」
沙都子《さとこ》がべーっと舌を出しているのが見えた。…こんのクソガキぃぃいぃい!!!
「ほら! 前原《まえばら》くん?!」
「ヘイヘイ謝りますよー。沙都子《さとこ》サン、ゴメンナサイ。」
丸っきりの棒読みだが取り合えず謝る。
…沙都子《さとこ》め、覚えてろよぉおぉおッ!!
「圭ちゃん圭ちゃん、その恨みは部活でね! 着席着席。」
委員長モードの魅音《みおん》に促され、俺は着席することにした。
■放課後
退屈な授業も終わり、ようやくの放課後だ。
さぁて今日の部活は何だろう?!
俺的には…昨日の推理ゲームをもう1回やってもらいたい。
…大石《おおいし》さんのせいでろくろくできなかったからな。
レナとのフォーメーションも全然活かしてないし!
「そうだね。今日こそ圭一《けいいち》くんと二人で大勝利だよね!」
「でもどうでしょうね。同じゲームを続けて2日やった試しはありませんし。」
「…………魅ぃにお願いしてみたらどうでしょうです。」
魅音《みおん》に振り返り目線を合わせると、おもむろに手をぽんと叩いて叫んだ。
「いっけね! 今日、叔父さんの手伝いの日だ…! 悪い、みんな! 今日なし!」
「叔父さんの手伝い〜? 柄にもなく孝行なヤツだなぁ!」
「悪い悪ぃ…! ホントすっかり忘れてた。……じゃあごめんねみんな! 今日はおじさん、これで帰るわぁ!」
魅音《みおん》は一方的にそれだけ告げると、カバンを引っ掴み、どたどたと昇降口へ走って行った。
「魅ぃちゃんね、たまに町にある叔父さんのお店の手伝いに行くんだよ。」
へぇ…そんな面倒臭いこと、絶対に引き受けないヤツだと思ってたけどなぁ。
「バイト代が出ると言ってましたですわ。結構なお小遣いになるらしいですの。」
なぁるほどな。山ほど持ってるゲーム代はこれで稼いでるわけだ。
「しかしそれは…アルバイトと言うんじゃあないのか? 校則で禁止されてないか?!」
「…家業手伝いは除くと書いてありますです。」
そうとも言うか…。
……じゃあなんだ。今日の部活はお流れなのか?
「…じゃあ…今日はこれで解散かな? …かな?」
「別に部長不在でもいいだろ? ……やろうぜ部活!」
俺は部活ロッカーを開け、積み上げられたゲームの山から昨日のゲームを探し始める。
「お、あったあった! 昨日の推理ゲーム! ようやくコツが分かって来た所で中断しちゃったからな〜。」
せめて沙都子《さとこ》に今日の昼休みの復讐をしないとな!!
「私は構いませんけど。レナさんと梨花《りか》はどういたします?」
「う〜ん、…圭一《けいいち》くんがどうしてもって言うんなら…ちょっとだけいいかな。」
「……ボクは…みんなが揃っての方がいいな、と思いますです。」
ん、…それを言われると…う〜ん。
「部活がないなら、ボクはお買い物に行きたかったのです。…お醤油とかを買いに行きますですよ。」
「あ、…そうでしたわねぇ! すっかり忘れてましたわ。」
「なら……、レナも久しぶりに宝捜しに行こうかなぁ…!」
なんだなんだ。…場はすっかり部活という雰囲気ではなくなってしまった。
これ以上、わがままを言うと逆に策があることを勘付かれてしまうかもしれないな…。
……仕方あるまい。今回は諦めるとするか。
「ちぇ〜、このゲーム、楽しみにしていたのになぁ……。」
未練がましそうにカードをべらべらとめくる。
「またの機会に叩きのめしてさしあげましてよ! をっほっほ!!」
「犯人は「沙都子《さとこ》」! 凶器は「ピストル」! やはり貴様の仕業だったか!!」
「な、なんですってぇええぇ!! じゃあじゃあじゃあ!!」
沙都子《さとこ》が机の上のカードを探し、3枚のカードを俺に突きつける。
「犯人は「圭一《けいいち》」! 凶器は「ロープ」で犯行現場は「ラウンジ」ですわぁ!!」
「ロープなんかいらねぇ! このまま絞め殺してやらぁあぁあ!!」
「いっやぁあぁあぁあ!! 圭一《けいいち》さんのケダモノぉおぉおぉ!!!!」
ふぅ。…取り合えずうっぷんは晴らせたので良しとするか。
「ふわぁあぁあぁあん!! 圭一《けいいち》さん、覚えてらっしゃあぁああぁい!!」
「…いっぱいいっぱい慰みものにされましたですね。かわいそかわいそです。」
「あははは☆…かぁいいかぁいい…☆」
みんなが帰り支度を始める。
俺も散らかしたカードを集め、片付けることにする。
手がふっと止まった。……ただの犯人カードなのに…違和感があった。
「レナ」「沙都子《さとこ》」「梨花《りか》」「圭一《けいいち》」「魅音《みおん》」………
「悟史《さとし》」。
悟史《さとし》?
………犯人カードの名前はみんな創作じゃない。
少なくともこの名前以外は全員、部活のメンバーの名前だ。
……じゃあ、この悟史《さとし》というヤツも…部員?
クラスの男子に悟史《さとし》って名前のヤツはいただろうか…?
壁に貼ってあるクラス全員の名前には悟史《さとし》という名は見当らない。
「圭一《けいいち》くん、早く片付けよ!」
レナに急かされ、はっとする。
賑やかな沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんはもう下駄箱に向かい、教室に残っているのは俺たちだけだ。
当のレナもカバンを担ぎ、もう帰る体勢だ。
「レナ。やっぱりこのクラスからも、転校で出て行っちゃった生徒って…結構いるんだろ?」
ちょっと遠回しにレナに聞いてみる。
レナはちょっと困った顔をしてから答えた。
「…うん。雛見沢《ひなみざわ》って田舎でしょ? 転校して行っちゃう人も時々いるよ。」
「じゃあ、この悟史《さとし》ってヤツも転校してったのか?」
「ごめん! ………よく知らないの。」
ちょっと間はあったが、ほぼ即答だった。
「ぁ、その…意地悪で言ってるんじゃないの!……ちょうど去年。レナが転校してきてから…入れ替わりだったかな。だからあんまりお話したことないの。…ごめんね!」
よく知らない、ごめん。
以前、レナにバラバラ殺人のことを聞き拒絶された時とよく似た答え方だった。
拒絶されたことに寂しさも覚えたが……ほんの少しだけ怒りも感じた。
俺は…みんなの仲間だろ?
仲間同士で隠し事なんて…ないはずだろ?
薄気味悪い祟りの話を隠してくれるのはありがたいさ。
……だけど…みんなが不安なら、俺だってみんなと同じ不安を共有したい。
……それが…仲間ってもんだろ…?
悲しさと苛立たしさが入り混じった今の俺は…一体どんな表情をしているんだろう…。
「け……圭一《けいいち》くん、…怖い顔してる。……なんでだろ?…なんでだろ?」
レナの、言う通りの表情なのだろう。
…レナは俺の険しい表情に怯えているようだった。
「あ、ごめん。…今日の部活、楽しみにしてたからさ、残念だっただけだよ。」
レナの頭をぐしゃぐしゃと撫でてはぐらかす。
「帰ろうぜ。」
ちょっと気まずい雰囲気を引きずりながら、俺たちは下校した。
なぜだろう。
…なぜ最近、こうも面白くない気持ちになるんだろう…?
何も知らなかった頃は…何も心配はなく、ただ日々が楽しかっただけのはずなのに。
俺の素朴な疑問に、長く伸びた影は答えてくれなかった。
「…圭一《けいいち》くん、疲れてるのかな…? …かな?」
レナが恐る恐る俺の顔色をうかがっている。
…気まずい雰囲気が余計気まずくなる、そんな表情だった。
「…そうか?」
「う、うん。…今朝から圭一《けいいち》くん、なんだか元気ないよ。風邪……かな?」
そう言う意味では健康体だと思う。小学校はこう見えても皆勤だ。
俺がなかなか返事を返さないので、レナは勝手に先を続けた。
「きっと圭一《けいいち》くん、引越しの疲れが今になって来たんだよ。……前に住んでた所とは全然違うところだもん。いろいろ慣れたり覚えたり……疲れて当然だよ。」
「そうなのかな。」
「うん。絶対にそうだよ。レナも最初、そうだったから。わかるんだよ?…だよ?」
俺が今感じている些細な疎外感を、レナもまた去年、感じていたのだろうか。
……そう思うと、レナだけは俺の気持ちをわかってくれるんじゃないかという気がした。
「レナが雛見沢《ひなみざわ》に転校してきた時の話が聞きたいな。…どんなだった?」
俺が話しに乗って来たのに気付くと、レナの顔が急に明るくなった。
「あははは。圭一《けいいち》くんと同じだよ。人の名前も村の中も全然わかんなかった。魅ぃちゃんとかが親切にしてくれたから全然寂しくなかったけど……やっぱり心細かったよ。」
レナは自分が引っ越してきた時のことを細かく話してくれた。
出会いや驚き、不安や喜びをいろいろと。
「じゃあ…レナも沙都子《さとこ》にやられたのかよ?!」
「うん。椅子に座ろうとしたら画鋲が置いてあったの。どっさり。…そしたらそれを、……………うん。懐かしいなぁ!」
「魅音《みおん》の部活にはいつ頃誘われたんだ? さっそく初日にか?」
「うぅん。…最初は部活なんてなかったんだよ。途中からできたの。………放課後にみんなで残ってゲーム大会をやろうって言い出して。」
「そう言えば…魅音《みおん》、初代部長とか言ってたっけなぁ。納得。」
「内緒だけどね、魅ぃちゃん、最初は弱かったんだよ。全然勝てなかった。」
「えぇ?! 魅音《みおん》が?! ……ちょっと想像つかないぞ?!」
「自分で言い出した罰ゲーム、ほとんど自分でやってたんだよ。
あはは! 本当に内緒だからね!」
あの魅音《みおん》がねぇ…!
…んで、その内、勝つためには手段を選ばない鬼みたいなヤツへと変貌していくわけだ。
ダーティプレイになってからが魅音《みおん》の真骨頂だからなぁ!
「魅ぃちゃん以外ともちょっとずつお友達になれて……でも、うん。圭一《けいいち》くんが引っ越してきてからかな。ようやくここに馴染めたって自覚したのは。」
レナもやはり…引っ越してきた当初は、オヤシロさまの話は内緒にされていたんだろうか。
……オヤシロさまの話を打ち明けられて初めて、俺は仲間と認められるんだろうか。
「俺はいつになったら、仲間だと認めてもらえるんだろうな。」
「え? 何て言ったの?」
「……いやごめん。独り言。」
「あははは。圭一《けいいち》くん、へんなの。」
レナはからからと笑ったが、それにつられて俺が笑う事はない…。
俺はふと足を止めた。
そして……意を決し、それを口にした。
「なぁレナ。……みんなは俺に、嘘や隠し事なんかしてないよな…?」
「え。…してないよ。全然。」
「嘘だろ…?」
レナも足を止める。
その表情は冷たく、険しかった。
「どういう意味だろ…? …圭一《けいいち》くん。」
口調だけはさっきまでの明るい、ちょっとおどけたものだった。
「してるよな。…俺に、隠し事を。」
レナがその意味を理解すると表情を強張らせた。
…その顔を見て、軽はずみなことを口にしたと後悔してしまう。
…だがレナの切り返しは俺の想像とは違った。
「じゃあさ、圭一《けいいち》くん。……圭一《けいいち》くんこそ、レナたちに嘘や隠し事をしてないかな?」
「…………え。」
口調こそいつもと変わらなかったが、…レナが初めて見せる表情だった。
とてもレナのそれとは思えない鋭い眼光に俺の両目を射抜かれる。
「してないかな? 嘘や隠し事。……してないかな?」
してるよね。隠し事。
…レナは口にこそ出さなかったが、…そう続けていた。
富竹《とみたけ》さんの事件や…………みんなに感じている疎外感。
…自分の胸に聞くまでもなく…俺はいくつかのやましさを持っている…。
でも……富竹《とみたけ》さんの事件をみんなに知らせないのは……気を使っているつもりだからだ。
…みんなが俺に気を使ってオヤシロさまの話を隠すように、俺だって隠すさ…。
なら…おあいこじゃないのかよ…?!
「……してないよ。…嘘も。隠し事も。」
「嘘だよ。」
即答され、俺はぎょっとする。
レナは食い入るように俺を見つめていた。
その眼光は……まるで、鷹だ。
「……どうして嘘だって…、」
「圭一《けいいち》くん、昨日の部活の時、先生に呼ばれて職員室に行ってたって言ったよね?!……レナは知っているよ。圭一《けいいち》くんは職員室になんか行かなかった。」
ごくりと唾を飲みこむ…。
それははったりなんかじゃなく…事実だからだ。
「先生はお客さんが来たって言ったんだよね? でも昇降口ではお話してなかった。校門の所の車の中で話をしてたよね。知らないおじさんと!」
レナは……全部知っているのだ…。
俺が大石《おおいし》さんに呼ばれ、車中で富竹《とみたけ》さんの話を聞かされていたことも……全部?!
「誰、あのおじさん。」
「し、知らない人だよ…!」
「知らない人がなんで圭一《けいいち》くんに用があるの。」
「お、…俺が知りたいよ!」
「じゃあ何の話をしていたの!」
「みんなとは関係のない話だよ…!」
嘘だ。
「嘘だッ!!!」
レナの叫びが木々の合間を木霊していった…。
それに驚いた鳥たちが慌てて羽ばたく。
大きく吸いこんだ息が、吐き出せない。いや、息を吐き出す事すら許してくれない。
ここで俺は……初めて悟った。
……俺の目の前にいるのは…竜宮《りゅうぐう》レナじゃない。
…じゃあ……俺の目の前にいるのは…一体、誰なんだ?
……竜宮《りゅうぐう》レナの外見をした、誰なんだ?!
窒息するくらい長い時間、俺はそいつに文字通り息の根を止められていた……。
「ね?」
そいつは、レナがいつも浮かべるようなにこやかさで表情を崩した。
…それはいつもの、やわらかなレナの笑顔だったにも関わらず、………俺は凍り付いたままでいる。
レナが顔を近づけてくる。
その吐息が顔にかかる。
……なんのときめきもない。
このレナの顔をした誰かに鼻を食い千切られる…!!
…そう思い身がすくんだ。
そして…そんな俺の内心を見透かしたかのように、にやぁと笑った。
「圭一《けいいち》くんに内緒や隠し事があるように、…レナたちにだってあるんだよ?」
レナは…いつもの笑顔で。
…でも鷹のような目つきで。
……互いの鼻がぶつかるくらいにまで顔を近づけ……「やさしく」、そう諭した。
俺は頷く事も、頭を振る事もできない。
ただ…無性に……目の前の誰かが…レナに見える誰かが、怖い。
ごくり、と飲みこむ唾の音が、聞かれるんじゃないかと怖くなるほど大きく感じた。
永遠とも思える…長い空白の時間を経て、…そいつは言った。
「行こ。…だいぶ涼しくなってきたよ。」
レナだった。
彼女はもう一度にっこりと微笑むと、まるで何事もなかったかのように踵を返し、歩き始めた。
……あいつの眼差しから解放された途端に、俺の両膝がかくんと抜け、だらしなく地面につく…。
…結局、俺はレナの後姿が視界から消えるまで、指一本動かす事もできなかった。
「…あれは、……誰だったんだよ……?」
……体中に冷えた、それでいてべたべたした汗をいっぱいにかいている。
俺は喉の奥からやっと声を搾り出し、もう一度自問した。
あれは……竜宮《りゅうぐう》レナの姿をした、…誰だったんだよ?!
■大石《おおいし》刑事よりの電話
夕食まで特に何もする気も起きず、ただぼーっと…放心して過ごしていた。
俺はレナに逆上されて…恐怖していた?
…いや違う。
あれはレナに似た別物だった。
じゃあ……あれは誰だったんだ?
そういう恐ろしい気持ち。
あれとレナは別人なんだから、明日、レナとはいつものように話せるよな。
そういう奇妙な安堵。
今は何も考えずに、頭を空っぽにすべきだという理性。
…それらが頭の中でごちゃまぜになり、ずっと騒いでいるだけだった。
ふと意識が戻り、階下の母が呼んでいるのが聞こえた。
「圭一《けいいち》〜! 本屋さんから電話よ〜。」
本屋? 電話を受けるような覚えはない。
…取り合えず階下に降り、受話器を取った。
「夜分遅くに申し訳ありません。私、興宮《おきのみや》書房の大石《おおいし》と申します。」
「大石《おおいし》さん? …大石《おおいし》さんじゃないですか!」
「ごめんなさいね。ご両親が出られたので本屋さんということにしておきました。
警察ですって名乗ると、いろいろ気分を害されるでしょうしね。」
大石《おおいし》さんなりに気を使ってくれたつもりらしい。
それでも警察の人と話をしているところを親に見られたくない。
…俺は子機に持ち帰ると2階の自分の部屋へ駆け戻った。
「夜分遅くにすみませんですね。実は昨日お渡しした電話番号のメモ、あれ古い番号だったんです。本当に申し訳ない。これから申し上げる番号を控えておいてもらえますか?」
「あ、はい。……えー…どうぞ。」
職場の直通番号を教えてもらい、それを書き留める。
それだけで用件が終わりかと思ったが、下らない世間話が始まり、なかなか電話を切らせようとはしなかった。
「さてどうでしょう、前原《まえばら》さん。何か変わった事はありましたか?」
…なるほど。これが本題だ。
まわりくどい、大人的な話術にしばし閉口する。
「大石《おおいし》さんは…ここの、地元の方ですか?」
「ええ、そうです。生まれも育ちも興宮《おきのみや》ですよ。」
地元の人間なら…知っているかもしれない。
「あの、大石《おおいし》さん。……「鬼隠し《おにかくし》」って何の事か知ってますか?」
「ん、…それはですね、人が鬼にさらわれ忽然といなくなってしまうことなんです。この辺り独特の言い回しですね。世間様で言う、神隠しと同じ意味です。」
仲間から聞く事もかなわないことを、歳すら大きく離れているこのおっさんは即答してくれる。
……その包み隠さない即答ぶりが少しだけ嬉しかった。
「雛見沢《ひなみざわ》は、……うーん、前原《まえばら》さんにこんなこと言っていいんでしょうか。」
「もったいぶらないで下さいよ。大石《おおいし》さんが言わないなら俺も何もいいませんよ!」
「あ、いやいや! そういう意味じゃないんですよ。ただその、気を悪くされないかと思いましてね。………実はですね、雛見沢《ひなみざわ》はその昔、鬼の住む里って呼ばれて恐れられていたんですよ。」
「鬼? 鬼って地獄にいる、金棒を持ったあの?」
「う〜ん、というよりは人食い鬼ですなぁ。里に降りてきて人をさらって食い散らかしてしまう、なぁんて怖ぁい昔話があるんですよ。」
この、鬼が人をさらってしまうことを本来、「鬼隠し《おにかくし》」というらしい。
「…祟りと鬼隠し《おにかくし》は一緒に起こるって言ってましたけど。…どういうことですか?」
5年連続で人が怪死していることはすでに知っている。
…だが、それと同時に5年連続で人が消えているという話は聞いていない。
「祟りと鬼隠し《おにかくし》が必ず一緒に? それは初めて聞きました。そうなんですか前原《まえばら》さん?」
「それは俺が聞きたいですよ。…レナと魅音《みおん》が話してたんです。オヤシロさまの祟りなら必ず、祟りと鬼隠し《おにかくし》が起こるって。」
大石《おおいし》さんは受話器の向こうでうなり始める。
……思い当たるフシがあるのだろうか。
「前原《まえばら》さん。最初の事件、ご存知ですよね? バラバラ殺人。」
「えぇ。6人の犯人の内、1人はまだ逃走中なんですよね?」
「例えばそれ。……逃走中じゃなく、鬼隠し《おにかくし》にあったんじゃないでしょうかね?」
え?! ……それは大石《おおいし》さんの、あまりに大胆な仮説だった。
4年前の事件は稀に見る凶悪な事件。
犯人はすでに特定されていた。
警察は顔写真入りの手配書を多量に刷った。
あらゆる場所に目を光らせ、その逃走路をきつく締め上げていたはずだ。
だが…4年経った今日でも手がかりはない。……警察が無能でないなら。
そんな大胆な仮説も…今は笑い飛ばせない。
「じゃあ、その翌年の事故はどうです? 誘致派の男と妻が一緒に事故死したんですよね?」
「実はですね。……正式には事故死したのは夫だけなんです。妻は死体が上がりませんでしたから。………現行法では死体が発見されない限り行方不明扱いなんですよ。」
事故当時、崖下の川は増水し濁流となっていたという。
数十キロに及ぶ本流支流を警察のダイバーがくまなく探したが、結局、妻の死体は見つからなかった。
「でも…死体が見つからないだけで、亡くなったんですよね? 鬼隠し《おにかくし》とは違うんじゃないですか…?」
「死体が出ない以上、亡くなったとは言えません。法律で定めた年月が過ぎるまで生存扱いなんです。」
これを鬼隠し《おにかくし》と呼んでいいかわからない…。
妻は行方不明。
これだけが事実だ。
「3年目はどうなんですか? 神主は病死。妻は自殺ですよ…?」
「前原《まえばら》さん。実はね、これもまぁったく同じなんですよ。」
妻は雛見沢《ひなみざわ》の奥にある底無し沼に身を投げたらしいのだ。
……つまり、状況証拠だけ。
遺書と沼の前に揃えられたぞうりだけ…。
…ダイバーが沼に潜りいくつかの遺品を回収したが肝心の死体は発見できなかった。
捜査本部は擬装自殺の疑いから、重要参考人として今日も捜索中だという。
「これらを鬼隠し《おにかくし》と呼んでいいかはちょぉっとわかりませんがね。前原《まえばら》さんの言う通り、確かに毎年1人、行方不明になっています。」
「今年の事件では…富竹《とみたけ》さんの連れの女の人が行方不明……。……じゃあ去年の主婦の撲殺事件はどうです? 誰か行方不明になりましたか? …確か犯人は逮捕されたんですよね?」
「えぇ逮捕されてます。覚醒剤の常習歴もあるトンチンカンでしてね。別件で取調べ中に犯行を自供してます。………ですがですね。犯人逮捕からしばらくして、被害者宅の子供が行方不明になったんです。犯罪に巻きこまれたのかどうなのか……。現在も捜索してます。」
「だって犯人は捕まったんですよね? それともその仲間が?!」
「さぁ…多分単独犯だと思います。もっとも、今では確かめようもないんですよ。……実はその男、取り調べ中に、拘置所内でお亡くなりになっちゃいまして。」
食事用の先割れスプーンを喉に詰まらせ窒息死したというのだ。
自殺なのか事故なのかはよくわからなかったという。
「つまり…………過去5年間、必ず死者と行方不明者が1人づつ出ているわけなんですよね…?」
「そうなります。……いえね、私も驚いていますよ。こんな共通項には気付きませんでした。」
これが事件解決の糸口になるとは思わない。
…単なる共通項でしかない。
「……例えば…鬼隠し《おにかくし》にあって失踪した人には…何か共通点があるとか?」
大石《おおいし》さんはう〜んとうなり思案している様子だ。
代りに俺が整理する。
「1年目はダムの作業員。2年目は誘致派の男の妻。3年目は神主の妻。4年目は被害者宅の子供で、5年目は交際相手…かな。……特につながりはなさろうだし。」
「1年目はともかく、妻とか交際相手とか、…そういう人が目立ちますなぁ。」
…確かに多いように感じた。
だとすると…4年目の被害者宅の子供というのが変わっている。
夫婦ごとの被害が目立つのに、ここだけ夫婦でなく、親子だ。
…そう言えば…確か富竹《とみたけ》さんも「弟本人は生きていて引っ越した」みたいなことを話してくれた気がする。
「4年目に行方不明になった子供って…どんなだったんですか?」
「大人しい感じの方だったらしいです。歳はあなたのひとつ上です。
名前は北条《ほうじょう》悟史《さとし》さん。」
「…え、悟史《さとし》…?!?!」
聞き覚えのある名前だった。
…確か悟史《さとし》ってのは、去年、転校して行ったって言ってた……?!
「あなたの学校に去年まで通っていました。話を聞いていませんか?」
そう言えば……転校してきて、席に案内された時、「転校した生徒の席」だと言われたような気がする…??
じゃあ……俺が座ってる席は……鬼隠し《おにかくし》にあって……失踪した男の席なんだ?!
俺は…机の天板の、ひんやりとした手触りを思い出し、ぞっとする…。
連続怪死事件は…いや、オヤシロさまの祟りはとうとう……俺につながったのだ。
だから、あの冷たい手触りは……オヤシロさまに首筋を撫でられたような、…そんな感触なのだ…。
「………オヤシロさまの祟り、か。」
……本当に…オヤシロさまの祟りは実在するんだろうか?
正直に白状する。
…俺はオヤシロさまの祟りを信じている。
そして怖い。
…だからこそ、祟りなんかじゃなく、何者かの起こした陰謀であると決めつけたい。
だが…調べても調べても、それらしい気配はない。
いや、むしろ調べれば調べるほどに不可解さは増していくばかりだ。
…このまま調べていくと……やがて、………本当に知ってはいけないことにまで、辿り付いてしまうかもしれない…。
このまま知らずに過ごすことと、後悔するかもしれない答えを求めて深入りを続けるのと、…果たしてどちらが俺にとって幸せなのだろう。
ひょっとすると……来年の祟りは自分かもしれない。
…それは1年間だけの執行猶予。
…そこで俺は思い出す。…レナだ。
レナは、次の祟りの犠牲者こそ自分だと言っていた。
「…竜宮《りゅうぐう》レナさんがですか? 去年転校されて来た、前原《まえばら》さんのクラスメートですよね。……女の子には刺激の強い事件ばかりです。怖がるのも無理ないんじゃないでしょうかね?」
そんなのじゃない。
次こそ自分だとはっきり言った。
具体的な心当たりがあるとしか思えないような言い方だった。
「…もっと確信じみたものだったように思います。……なんていうのか、その…、」
レナの怯え。
レナの豹変。
レナに似た、レナじゃない誰か…。
…それは関係のない話なのか。
今日一日、レナに感じた違和感がぶり返す。
「そうですか…。ではこちらでも少し調べてみます。前原《まえばら》さんも少し竜宮《りゅうぐう》さんの様子に注意してあげて下さい。」
「…それは…レナを見張れってことですか?」
「そんな意味ではありませんよ前原《まえばら》さん。お友達が次の被害者にならないよう、少し気にしてあげて欲しいということです。」
本当に大人的な、うまい言い回しをするなぁと感心し、閉口しかけた時…、
ドンドン!
突然のノック音に心臓が飛びあがった。
咄嗟に、意味もなく受話器を隠してしまう。
「圭一《けいいち》〜、ちょっとここを開けてくれ〜。」
ドアの向こうから親父の妙に機嫌の良さそうな声がした。…なんだ?
しかもこんな時間に。
「すみません、親父が来ました。…今夜はこれくらいでいいですか?」
「えぇ。夜分遅くに本当に申し訳ありませんでしたね。…何かわかりましたら教えて下さい。こちらも進展がありましたらご連絡しますよ。では失礼します。」
「圭一《けいいち》〜、早く開けてくれ〜。父さん、両手がふさがってるんだー。」
何やってんだ親父…。
長い時間、同じ格好で電話をしていたので、立ち上がると体の節々が痛んだ。
扉を開くと、親父が両手でお盆を持って立っていた。
お盆の上には…うちじゃ貴重品のクッキーと紅茶のティーカップが2つ。
角砂糖にレモンスライス付き。至れり尽せりだ。
……どう見てもサービスが良過ぎるぞ。
「な、何、父さん。……それ、何のつもりだよ??」
「もーぅ、はぐらかすなよ圭一《けいいち》〜。入るぞー。」
親父はにやにや笑うほどの上機嫌だ。
しかし…生まれてこの方、こんなサービスをされた覚えはない。
…一体、どういう風の吹き回しだ?
「…で、何の話をしてたんだ?」
ぎくりとする。
……親父に隠さなければならない話ではないが、…警察の刑事(なのかな?)と夜に電話しているなんて、うまく説明できない。
「べ、別に何も…。友達だよ…!」
「電話の話じゃなくて。来てたんだろ〜今。
レナちゃんが。」
?
「……来てないよ?」
「も〜、誤魔化さなくったっていいぞ〜! さっきレナちゃんが遊びに来てたじゃないか。だいぶ話しこんでるみたいだったから、お茶でも、って思ったらすれ違いだったんだよ。」
親父の言っている話がよく理解できない。
……なのに、俺の背中を凍るくらい冷たい汗がどろりと流れる。
「ど、……どのくらい話し込んでたかな…?」
「レナちゃんが2階に上がったのが半くらいだったから…小1時間くらいかな?」
「2階に上がったの……父さん見たの?」
「あぁ見たよ。圭一《けいいち》の部屋は階段を上がって奥の扉だよって声もかけた。」
レナが1時間前に俺の家にやって来た。…親父が玄関に迎えて…2階の俺に声をかけた。
(きっと、大石《おおいし》さんの電話に集中していて…聞こえなかったに違いない…。)
俺の返事がなかったが、部屋にいることはわかっていたので、親父はレナにあがってもらった。
…そして俺の部屋は2階の奥だと教えた。
……レナは親父にお礼を言って、階段を上がった…。
そして小1時間して。
…お茶を持って上がってきた親父とすれ違い、帰って行った。
階段を上がってから、小一時間。
それから親父とすれ違って、帰宅。
じゃ……じゃあ、…階段を上がってから…帰るまで……レナは…どこに居たんだよ…?
俺の部屋と階段の間には……狭い廊下があるだけだ。
つまり……レナは………小1時間もの間………廊下に、…いや、…俺の部屋の前にずーっと立っていたわけだ……。
俺の部屋の扉はいい加減だ。
中での話し声はほとんど素通しだろう。
……大石《おおいし》さんとしていた、不穏な、不用意な数々の会話が頭を過ぎる……。
「お父さん、あまりからかっちゃ駄目よ。………それより、アトリエを片付けてー。またこぼすわよー。」
階下のお袋が親父を呼ぶ。
親父は、残念そうに笑うとお盆を残したまま降りて行った。
親父が部屋を出て行くのを目で追いながら、……レナがずっと立ち尽くしていたかもしれない、廊下の床を見る。
さっき…俺が大石《おおいし》さんと話していた時…背中の向こう、わずか200センチのところに……ずっとレナが立っていた……?
こんな薄暗い廊下に、ずっと……?
何を見て?
何を聞いて?
何の為に?
2人分のティーカップのほのかな湯気が、不吉な形にぐにゃりと歪みながら、俺の部屋いっぱいに紅茶の香りを満たしていった……。
<幕間>
■本部長通達
11■本部長通達
捜査メモ
昭和57年7月1日
総総管イ1−12号
XX県警察本部
本部長 XXX
各警察署長・施設管理者殿
雛見沢《ひなみざわ》村における事件について(通達)
鹿骨市《ししぼねし》雛見沢《ひなみざわ》村の近年の事件は、すでに一部マスコミでも報道されるように、
世間の好奇の目を引き地域住民の穏便な生活に重大な影響を及ぼしつつある、大変憂慮すべき事態となっている。
地域住民の生活と財産を保護するため、以下の遵守を通達する。
(1)秘匿捜査指定
興宮《おきのみや》署昭和57年第X号
雛見沢《ひなみざわ》村主婦殺人事件(6月XX日発生)
興宮《おきのみや》署昭和57年第X号
雛見沢《ひなみざわ》村生徒失踪事件(6月XX日発生)
(2)情報の非開示
興宮《おきのみや》署昭和54年第X号
雛見沢《ひなみざわ》村現場監督殺人事件(6月XX日発生)
白川署昭和55年第X号
白川自然公園転落事故(6月XX日発生)
興宮《おきのみや》署昭和56年第X号
雛見沢《ひなみざわ》村神主妻失踪事件(6月XX日発生)
(3)関係各機関への報道自粛要請
別添資料1・2・3参照
担当 XX県警察本部
警務部XX・XX
■12日目(水)
倦怠感と頭痛。
目覚めは…とても悪かった。
「どうしたの。圭一《けいいち》。……今朝は顔色悪いわよ? 昨夜は何時に寝たの?」
お袋が俺の冴えない様子に気付いたようだった。
…昨夜、……俺は深夜に何度も目を覚ました。
それは間違いなく、気配だった。
…俺の部屋の扉の前に立つ、誰かの気配。
気のせいに違いないと何度も自分に言い聞かせ、寝付こうと足掻く。
だが………それにも耐え切れなくなり、勇気を振り絞って…扉を開くのだ。
……もちろん、誰もいるわけはない。
三度は繰り返したと思う。
…あるいは覚えていないだけで、もっとなのか…。
こうして何事もなく、朝の食卓に着けることに安堵を覚えずにはいられなかった。
「風邪かもしれない。……なんだか食欲ないんだ。」
「…あら。…ちょっと熱あるんじゃない…? どうする? 学校、行ける?」
学校って言っても、ほとんど自習状態なのだ。……今日一日休んだって問題はないんじゃないだろうか…。
ひょっとすると…ここ何日か気分が優れないのは本当に風邪のせいなのだろうか。
薬でも飲んで、一日よく休めば、明日にはみんなに笑顔で挨拶できるかもしれない。
ピンポーン…!
びくっとして玄関と時計を交互に見た。
…いつものレナとの待ち合わせの時間から10分以上が過ぎていた。………レナだ。
「レナちゃん迎えに来ちゃったけど……どうする? お休みする?」
……レナはいいヤツだ。かなりズレたところはあるが可愛いヤツだと思う。弁当だってうまいし、面倒見もいいし。
……それを、何で俺はこんなにも怖がらなくちゃならないんだろう……?
レナは悪くない。
悪いのはきっと俺の方なんだ…。
きっと風邪のせいなんだ。…きっと。
「休む。…ごめん。」
「じゃあ、母さんが断ってきてあげるわね。」
お袋は玄関に出て行った。
…俺の部屋に戻るためには玄関に行かなくてはならない。
レナに会わせる顔がなく…俺はソファーの上の毛布に包まると目を閉じる。
寝不足のせいもあって、俺はすぐに深い眠りに落ちて行った……。
■診療所へ
軽く横になったつもりだったが、目を覚ますともうお昼前だった。
呼んでみたが両親の気配はなく、食卓の上に昼食の準備とメモがあるのを見付けた。
親父とお袋は車で遠くまで出かけたらしい。
親父の仕事の関係だろう。
たまにあることで、そう珍しいことではない。
夕食までには帰るが少し遅くなるかもしれない。
たんすに保険証があるから、それで病院へ行きなさい。
…そう書かれていた。
メモには丁寧に病院までの地図も書かれていた。
…そう。俺は行った事がないから場所もよく知らないのだ。
昼食、と言っても朝の残り物だが…を軽くつまむと、一応、病院へ行くことにした。
本来なら絶対にこんなところにいるはずもない、平日の日中。…ただ歩いているだけでもやましさを感じる、変な気分だった。
お袋の地図に従い、いつもは行かない道に入り、しばらく歩くと病院の看板が見えてきた。
看板には「入江診療所」とあり、割と綺麗に書かれていた。
診療所は決して大きいものではなかったが、雛見沢《ひなみざわ》の規模を思えば立派過ぎるくらいだった。
駐車場もしっかりあり、バス専用のスペースまである。…儲かっているんだろうか。
俺は冷房の効いた涼やかな待合室で、自分の番が来るのをぼーっと待っていた…。
「前原《まえばら》さん。診察室へどうぞ。」
やたらとおしゃべりな先生の問診に適当に答えると、やはり先生も定番の「風邪ですね」という言葉を返してくれた。
注射をしてお薬は3日分。
…ちょっと大袈裟かなとは思ったが、昨日までの陰鬱さがこれで払拭できるなら安いものだ。
会計を済ませ、お手洗いに行ってから帰ろうとした時、いかにも常連っぽいお年寄の会話が耳に入ってきた。
もちろん気の留めるつもりはなかった。……その言葉さえなければ。
「………やっぱり鬼隠し《おにかくし》かいね。」
「どうかね。まだまだ若い子だきゃあ。駆け落ちかも知られへん。」
「どこの誰とよ。」
「季節の度に東京モンが来ちょったろ。でっけえカメラ持った若者が。あれと仲が良きゃったって話、知られへんの?」
……富竹《とみたけ》さんのこと?!
自分の耳がピンと立つのがわかった。
「そら知らんけど…。でも…普通、駆け落ちっても仁義あるだろ。書置きとか、辞表とか書かんかいね。」
「すったらん書かんから駆け落ち言うんね。」
「…若きゃあ看護婦さんの顔、見られんようなるんは寂しいんねぇ…。」
「鷹野さんはしっかり者よ。…どこへ行ってもやって行けるん。」
鷹野さんって言うのか? ……富竹《とみたけ》さんの連れの女性は。そして…この診療所に勤めていたのか…!?
またしてもオヤシロさまの影は、俺につながる。
しばらく耳を傾けていたが、話題が釣りの話になり戻ってくる様子がなかったので、諦めて帰ることにした。
こうして、学校という日常を離れている時ですら、俺はオヤシロさまの影を抜けることはできないのだ。
…当然か。
だってオヤシロさまは守り神さまなんだからな。…ここ、雛見沢《ひなみざわ》の。
雛見沢《ひなみざわ》にいる限り、逃れられはしないのだ…。
■大石《おおいし》刑事と再会
表を歩いたせいか、さっきまでなかった食欲が急に戻ってきた。
診察代のお釣りで菓子パンでも買って帰ろう。
そう思い、知っている道を曲がった。
その時、突然、後からクラクションを鳴らされた。
…俺、車の邪魔になるくらいど真ん中を歩いているか?
もう少し路肩に寄るが、それでもクラクションを鳴らされたので、むっとして振り返った。
「前原《まえばら》さ〜ん。こんにちは。」
大石《おおいし》さんだった。エアコンをガンガンに効かせた車から身を乗り出して、大きく手を振っている。
「今日はどうしたんです? 学校はお休みですか?」
「ちょ、ちょっと体調悪かったんで、今日は休みました。…お昼を買って帰ろうとしてたところです。」
「それは良かった。実は私、お昼に行こうとしてたんですよ。よかったらご一緒にいかがです? …………あぁ、お体に障る様でしたら構いませんよ。」
どうせ帰ったって横になるだけだ。
…それに本当は風邪じゃない。
「地元の食堂だといやでしょう。町まで行きましょう。ちょっと走りますがよろしいですかな? 私、おいしいお店知ってるんですよ?」
大石《おおいし》さんの遠回しな言い方が何となくわかってきた頃だった。
…大石《おおいし》さんは多分俺に、雛見沢《ひなみざわ》ではしにくい話をしようとしているのだ。
大石《おおいし》さんの言うところの、ガンガンに冷やした車に乗り込む。
外の日差しが嘘のようだ。
「昨夜は遅くまですみませんでしたね。ご家族に怒られませんでしたか?」
「いえ…。」
扉のたった一枚向こうで、ずっとその電話を聞いていたレナを、思い出す。
…こうして陽光の降り注ぐ日中であっても…気味が悪かった。
町へ続くじゃり道が、ガクンと大きく揺れてから舗装道路になった。
はっと思い出し、後方へ振り返る。…………そう。富竹《とみたけ》さんが亡くなった場所だ
「…富竹《とみたけ》さんの捜査は暗礁に乗り上げています。」
大石《おおいし》さんは俺の様子を横目に見ながら口を開いた。
「自分の爪で喉を掻き破るという異常さから、幻覚作用のある何らかの薬物によるものだと信じているのですが……こういう症状をそれも急激に引き起こす薬物は…なかなかないらしいんです。
もちろん、検死解剖もそれを念頭において十分に行なったのですが…手がかりはやはりありませんでした。」
「あの、…漫画なんかによくあるじゃないですか。体内に取り込まれると分解したりして、証拠が何も残らないなんて、そんな薬…。」
「ありますよ。塩化サクシ……なんでしたっけ…。まぁ、えぇ結構あります。
でもですね、富竹《とみたけ》さんのような症状を引き起こす薬物にはそういうものはないそうなんですよ。」
「………じゃあ…警察は富竹《とみたけ》さんは祟りで死んだって、そう言うんですか?!」
警察の不甲斐なさに憤慨したのではなかった。
…富竹《とみたけ》さんの怪死から、一刻も早く祟りという要素を払拭したかっただけだ。
「悔しいですが今のところは。ですが、死因はともかく、死ぬ前に何人かの人間に囲まれて暴行を受けたことだけは間違いありません。……祟りでなく、人間が事件に関わっているのは疑いようがありませんよ。」
ちょっとだけ…ほっとする。
やがて寂れた(それでも雛見沢《ひなみざわ》よりは賑わった)駅前に出た。
レストランの駐車場に入り、大石《おおいし》さんの後に続いて店に入った。
賑わっているが、この時間にいるのは大人の人ばかりだ。平日の日中に子供がいるわけがない。
「2名です。タバコは我慢します。」
「こちらへどうぞ。ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい。」
風変わりな格好のウェイトレスさんに案内され、大石《おおいし》さんとボックス席に座った。
「どうです? このお店のウェイトレスさんの格好、可愛らしいと思いません?」
「え? まぁ…その…どうでしょうねぇ??」
「……このお店ね、いっつも大人気なんですよ。お料理よりもウェイトレスさんがねぇ〜。」
「はぁ。……大石《おおいし》さん、目がやらしいですよ。」
「んん? そうですか? んふふふふふふ…!」
…ウェイトレスさんの格好がどうとかはともかく、まぁ美味しかった方かな…?
他愛ない話をしている内に料理も終わり、大石《おおいし》さんの頼んだ食後のコーヒーが到着した。
「昨日、雛見沢《ひなみざわ》の昔話が出ましたよね?」
「えぇ。人食い鬼の里だって言われてた、って話でしたっけ。」
「私もあんまり詳しい方じゃないので、うちの婆さまに今朝、ちょっと聞いてみたんです。」
大石《おおいし》さんは胸ポケットから畳んだメモを取り出した。
「何でもですね、大昔は雛見沢《ひなみざわ》は「鬼ヶ淵《おにがふち》」って呼ばれてたんだそうです。」
「鬼ヶ淵《おにがふち》…。…すごい名前ですね…。」
「今でもその名前、残ってるんですよ。…神主の妻が入水自殺した沼の名前は今でも鬼ヶ淵《おにがふち》と言うんです。……沼の底の底は鬼たちの住む国とつながってると言われてたんだそうです。」
もちろん、こんな薄気味悪い沼のことは誰も教えてくれない…。
「でですね。鬼ヶ淵《おにがふち》は恐れられていたと同時に崇められてもいたんだそうです。」
恐れ敬う。…一種の神聖視だったのだろうか。
人でないものたちの住まう、村。
「鬼たちはある種の仙人でもあったらしいんですよ。
例えば…不治の病にかかった村人を鬼ヶ淵《おにがふち》に運んで、治してもらったりとかしたんだそうです。」
鬼って言っても……天狗とかみたいな、仙人みたいなイメージだな。
「鬼って言っても、そんなに悪い人たちじゃないみたいですね。」
「でもそこはやっぱり人食い鬼らしいんです。………婆さまに聞いた昔話ではですね、息子を治療してもらった代償として、連れて来た母親を食わせろ! と、こうなるらしいんですよ。」
「…息子を治療してもらった対価が…自分ですか?! …それは怖いな。」
「もちろん母親は息子を連れて逃げます。これをですね、鬼ヶ淵《おにがふち》に住む村人、鬼たちがですね、全員で追いかけて取り囲んで捕まえたんだそうです。」
村人総出で、か。
……それは想像するとかなり恐ろしい光景だ。
「結局、母親も息子も捕まって、食べられちゃったんだそうです。おしまい。」
「その話、矛盾がありますよ。…当事者の2人が食べられちゃったんですから、その話が残るはずがありません。」
「ありゃ? …なはははは! 昔話はこういうの多いですよねぇ。」
大石《おおいし》さんは凄惨な昔話とは正反対にからからと笑いながらコーヒーをすすった。
「でもですね。…他の昔話にも結構あるらしいんですよ。鬼ヶ淵《おにがふち》の鬼たちが総出で獲物を捕まえに来る、というのは。」
ダム工事に抵抗したとき、村人一丸となって戦った、という魅音《みおん》の言葉がふと蘇った。
……その一丸という部分にささやかな重なりを覚える。
「鬼たちの獲物は常に1人で、しかも前もって決められているらしいんです。」
「…え?」
聞き流せない部分だった。
…大石《おおいし》さんも同じらしく、意味深な表情を浮かべている。
「婆さまが言うにはですね、「鬼の狩り」の時には絶対に邪魔をしてはいけない。家に閉じこもって布団を被ってろ、って言うんです。」
「…つまりどういうことですか?」
「獲物の人を助けたり、かくまったりしてはいけないんだそうです。鬼の狩りを邪魔しない限り、村人には危害を加えない。そういうルールなんだそうです。」
つまり、被害者を助けるな。
凶行を見てみぬふりをしろ、…というわけか…。
「ルールを破ったらどうなるんです?」
「さぁ…。…なにしろ人食い鬼ですからねぇ。」
気になる部分の多い話だった。
……話の内容は大石《おおいし》さんの言う、犯人は村ぐるみ説と一部重なるからだ。
犯人が村まるごとでなかったにせよ、数人の犯人の「狩り」を村人たちが「布団を被って見殺しにした」ことは十分に考えられる……???
口にしていて恐ろかった。
「…じゃあ大石《おおいし》さんは…やっぱり村ぐるみ、もしくは村人数人の犯行だと見てるんですね…?」
「前原《まえばら》さんはどう思います?
…あ〜、すみません。コーヒーのお代りいいですか。」
聞いているのはこっちだ。
……あるいは…互いに口にしたくない最後の一言を相手に転嫁し合っているだけなのか……。
ウェイトレスさんがお代りのコーヒーを注ぐ間、口を開くことはなかった。
「………去年、悟史《さとし》くんが失踪した頃から私は不審に感じていたんです。」
大石《おおいし》さんはコーヒーカップの中のミルクの渦を見ながら呟いた。
「それで悟史《さとし》さんのお友達、…つまり、前原《まえばら》さんのお友達グループの皆さんを、ちょっぴりだけ。…本当にちょっぴりだけですよ? 調べさせてもらったんです。」
以前、俺は仲間を疑うようなことを言った大石《おおいし》さんに逆上した。……だが、今度の俺はそうはならなかった。
「とてもつまらない話になります。…前原《まえばら》さんがつまらない、と感じたらいつでもおっしゃって下さい。終わりにしますので。」
大石《おおいし》さんはこれまで見せた表情の中で一番真剣になった。
……俺に、覚悟を決めて聞け、と言っているのだ。
大石《おおいし》さんに聞かされて後悔した話はいくつもある。
…だが、そのいずれの話でもここまで脅したものはない…。
心の中のもう一人の自分が警鐘を鳴らす…!
よせ圭一《けいいち》。これが多分、最後の……!
その声を、大きく息を吸いこんで黙らせる。
………俺は真実から…逃げない。
「……お願いします。」
短くそれだけを告げた。
……大石《おおいし》さんはしばらく沈黙し、俺の両目をじっと見。覚悟の程を確認してから切り出した。
「1年目の事件の被害者は現場の監督さんだったんですが、事件の数週間前に園崎《そのざき》魅音《みおん》さんと取っ組み合いをしてるんですよ。何度か。」
…魅音《みおん》が過激な抵抗をした、という話は以前、大石《おおいし》さんに聞いている。
…まぁあの魅音《みおん》がヒートアップしたなら、想像に難しくはない。
「2年目の事件で誘致派の夫婦が事故に遭いましたよね。現場にはお嬢さんも一緒にいたんです。…それが北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》さんなんです。」
「え?! 沙都子《さとこ》って、……沙都子《さとこ》?!?!」
大石《おおいし》さんは目配せで、声が大きいとたしなめる。…俺も気付き、トーンを下げる。
「3年目には神主夫婦が亡くなられますよね。そのお嬢さんが古手《ふるで》梨花《りか》さんです。」
「……梨花《りか》ちゃん…がッ?!?!」
「4年目に亡くなった主婦は、もうわかりますね。北条《ほうじょう》沙都子《さとこ》さんの義理の叔母です。……当時は沙都子《さとこ》さんはご両親を事故で失っていましたので、預けられていたのです。被害者宅に。」
唇が乾いていくのがわかる……。
俺は…だらしなく開けられた口を閉じる事も忘れていた。
異常な事件だとは思いながらも…ほんの少しだけ、距離の開いた出来事だと思っていた。
……それがぱちんぱちんと音を立てながら…俺の足元の周りに組み合わさっていく…。
「ちなみに…4年目に失踪した北条《ほうじょう》悟史《さとし》さんは、沙都子《さとこ》さんの実の兄になります。」
「え………その………あ、……ちょっと……待ってください………。」
やっとそれだけを言うのが精一杯だった。
……お冷のコップを一気に飲み干し、おしぼりで改めて顔をごしごしと拭く…。
冷静になれ前原《まえばら》圭一《けいいち》……!
だが大石《おおいし》さんは残酷だった。
…俺の気持ちの整理がつくのを見届けることなく、それを告げた。
一番…聞いてはいけない事を…。
「被害者たちはなぜか、あなたのお友達グループに全てつながるのです。」
「……偶然に決まってるじゃないですかッ!!」
「前原《まえばら》さん、静かに静かに…。みんな見てますよ…。」
魅音《みおん》が…? 沙都子《さとこ》が?! 梨花《りか》ちゃんが?!
つながるから何だってんだ?!
俺の仲間たちが、グループが丸ごと…だって?!?!
そんなはずは…そんなはずは…。……そうだ、レナは違うじゃないか!
レナは今のところどの被害者とも縁がないぞ。
「竜宮《りゅうぐう》レナさんは昨年まで茨城の郊外にお住まいでした。まぁ確かに、いずれの被害者とも直接の面識はありませんが…。」
煮え切らない言い方だ。
何か関係があると言うのか…?!
「実は調べてみたら、竜宮《りゅうぐう》さんは引越しの少し前に、学校で謹慎処分を受けているんですよ。何でも、学校中のガラスを割って回ったんだとか。」
「レ、レナが?! ………学校中のガラスを割った?!?!」
あの…ぽやーっとした…レナが…?!
とても想像はつかなかった。
「3日間の謹慎が明けた後も復学しなかったようです。その間に神経科に通院し、自律神経失調症と診断され、何週間かの間、投薬と医師によるカウンセリングを受けています。」
ノイローゼみたいなものだろうか。
…そういうのは几帳面な人や神経質な人がかかると聞いたことがある。
………それはいずれも能天気なレナのそれとは一致しないはず…。
「…でですね、そのカウンセリングをした医師のカルテにレナさんの会話内容が記載されているんですがね………。その中に、出てくるんですよ。結構。」
「何がです…?」
俺は無防備のその先を促した。
……これ以上、もう後悔することなどあるものか…。
「出てくるんですよ。
オヤシロさまって単語が。」
背筋を、冷え切った誰かの手に撫でられたような気がした…。
……どうして…雛見沢《ひなみざわ》に来る前のレナが………オヤシロさまなんて言うんだ…?!
「オヤシロさまって言う、幽霊みたいなものがですね、夜な夜な自宅にやってくるって言うんですよ。枕元に立って自分を見下ろすんだ、って。」
……思考が凍り付いてしまう。
……何を言われてるんだか…さっぱりわからない…。
「その後、しばらくして雛見沢《ひなみざわ》に引っ越されたんです。…………あぁ、そうそう。レナさんはよそ者なんかじゃないですよ。」
「え?」
「住民票でわかったんですが、竜宮《りゅうぐう》一家は元は雛見沢《ひなみざわ》の住人です。レナさんがちょうど小学校に上がるときに茨城へ引っ越されたんです。」
頭の中が真っ白な星でいっぱいになる…。
…それは深夜の、放送を終了したテレビの砂嵐によく似た感じだった……。
耳もキーンとしてよくわからなくなる…。
「…前原《まえばら》さん、大丈夫ですか? もう終わりにしましょうか?」
その一言にはっとする。……まだ、ここで終わりにしてはいけない…!
「…レナのことはわかりました…。じゃあその……最後の被害者の富竹《とみたけ》さんはどうなんですか? …誰と接点があるんですか…?」
焦燥しきった俺の、最後の反撃だった。
「…全員ですよ。お忘れですか前原《まえばら》さん。みんなで楽しくお祭りの晩を過ごしたじゃないですか。何人もの警官が皆さんの楽しそうな様子を見ていますよ。」
…もう今更何も言い返せなかった…。
……俺は頭を垂れ、沈黙する…。
「そろそろ出ましょう。あ、前原《まえばら》さん、お昼の薬は飲みましたか?」
大石《おおいし》さんに言われるまで、今日自分が病院へ行き薬をもらったことも忘れていた…。
お冷をもう一杯もらい、一気に流しこんだ後、店を出た。
車に乗り込み、再び雛見沢《ひなみざわ》への悪路を戻る。
…自転車ではあまり気にならなかったが、車だとこんなにも揺れるのだろうか…?
…まるで、道路たちが何を伝えようと死に物狂いに猛っているように感じられた。
がくん!
……その大きな揺れは、舗装道路からじゃり道に変わる時の段差だ。
富竹《とみたけ》さんの声なき叫びを、俺は確かに聞いた…。
俺は一言もしゃべらず、ただ車の揺れに身を任せてるだけだった…。
「おうちの前まで送りましょう。…今日は病気でお休みだったんですよね? 長々とお話してしまって申し訳ありませんでした。」
「……なんで俺に話すんですか?」
ぼそりと言い返した。
…本当に、ぼそりと。返事なんか期待しなかった。
「私、一応、確認しましたよね? お話やめましょうか、って。」
「じゃなくて! ……どうして俺に接触してきたんですか。」
…大石《おおいし》さんが一連の怪しい事件の関連性を調べていることはよくわかった。
だけど、…なんでそれを俺に話してくれたんだ…?
俺は何も知らないし役にも立てない。大石《おおいし》さんの話はどれも初めて聞く話ばかり。
……第一、引っ越してきたばかりの俺に…何がわかるってんだ。
もし……大石《おおいし》さんが俺に接触する理由はあるとすれば…。
……俺が、大石《おおいし》さんが怪しいと目する…魅音《みおん》たちの仲間の一人だからだ。
「……私ね、今年で定年なんです。定年したら婆さまの意向で、引っ越しちゃう予定なんですよ。…だからこそ在職中に、この事件だけははっきりさせておきたかったんです。」
「…………で、……大石《おおいし》さんは疑ってるんですよね。みんなを。」
大石《おおいし》さんは特に返事をしなかった。
今更、とは思ったが、大石《おおいし》さんなりの良心だったのかもしれない。
「これは…この道、30年の勘です。……前原《まえばら》さん。危ないのはあなたなんですよ。」
「…え?」
そんなバカな、と反論しようと思ったが、すっかり意気消沈した俺にそんな気力はなかった。
「私は今年で定年ですから、来年の綿流し《わたながし》の日にはもういません。…だから今年中に決着をつけたいのです。」
それは暗に、来年の綿流し《わたながし》の日に、俺が被害者になるかもしれない…と脅しているのだ。
「署長からも注意を受けています。…一連の事件は個々に解決しているから蒸し返すな、というのです。……これは一種の圧力です。」
「圧力って…何のですか。」
「雛見沢《ひなみざわ》の誰かですよ。………着きました。この辺でいいですか?」
何時の間にか車は自宅へ続く坂道の前に来ていた。時計は2時。…食事に行ってからまだこれしか時間が経っていないことに驚いた。
車の外は暑かった。セミの喧騒も耳に痛い。
「今日の話は全て忘れてくださっても結構です。…ですが私は捜査を続けますよ。オヤシロさまの祟りは今年で終わらせます。」
「……何かあったら連絡しろってことですか?」
「いいんですよ。……前原《まえばら》さんが「どうしても」連絡したくなった時だけでいいんです。」
大石《おおいし》さんの遠回しの言い方を理解できるほど、今の俺は冷静ではなかった。
「ゆっくり休んでください。…病気でお休みの時に、よくない話ばかりして申し訳ありませんでしたね。」
特に相槌は打たなかった。
「私はいつでもあなたの味方です。…それだけは信じといて下さいよ。それじゃ失礼。」
車はじゃり道の上をがりがり言わせてUターンすると、砂塵の中、消えて行った。
それは、鮫の潜む海に浮き輪ひとつで放り出し、ブイの向こうに消えて行くボートのようにも見えた。
………俺は初めて、大石《おおいし》さんを卑怯な人だと思った。
次の被害者にそれを教えた上で、何かあったら自分を呼べと言う。
…こんなのは警察の捜査じゃない。
こんなの、ただの魚釣りと同じだ。
……俺はただの巻き餌に過ぎないのだ。
釣れる魚は犯人なのか。それとも本当にオヤシロさまの祟りなのか。
……どちらにせよ、俺という餌は魚のお腹の中だ…。
「……畜生……俺、…死にたくないよ…。」
しばらくの間、大石《おおいし》さんの車が作ったエアコンの水溜りを見ていることしかできなかった……。
■レナと魅音《みおん》のお見舞い
横になってどのくらいたっただろう。
外は暗くなりかけていた。
体は汗でぐっしょりだった。……ちゃんと寝巻きに着替えた方がいいかもしれない。
その時、階下の電話が鳴った。
多分、お袋じゃないだろうか。
お袋は結構心配性だからな。……ひょっとすると気付かなかっただけで、もう何度目かの電話かもしれない…。
「もしもし前原《まえばら》ですけど。」
「お、生きてた! もしもし! 魅音《みおん》だけど。具合はどう〜?」
「ん、圭一《けいいち》のお友達ですか? 圭一《けいいち》は休んでますけど。代りましょうか?」
「へ?! あ、お、お父様で?? あはははは、すす、すみません!!」
「わっははははははは!! ばかで〜! 引っ掛かってやがるよ!」
「え?! け、圭ちゃぁああぁあぁああぁん!!」
いつものノリの応酬に、互いにしばし笑い合った。
……だが、笑い合いながら、疑ってしまう…。
……みんなは…本当に事件と関係あるんだろうか…?
……ない、とそう言い切れない自分が悲しかった。
「元気そうで安心したよ。レナもすごく心配してたよ? 沙都子《さとこ》はざまぁないですわ!って喜んでたな。梨花《りか》ちゃんは病気でかわいそかわいそです、ってさ!」
「ちぇ、みんなで勝手に大盛り上がりしてたみたいだなぁ!」
「まぁまぁ。でさ圭ちゃん。お見舞いに行っちゃ都合悪いかな?」
「お見舞い? いいよ、そんな。重病人ってわけじゃないんだから。」
「うちの婆っちゃが山ほどおはぎを作ってさ。お裾分けに持ってけって言ってんだよ。だから持ってくね!」
「…おいおい、風邪が移っても知らねぇぞ。」
「おじさんもレナもおバカさんだから大丈夫! じゃね! すぐ行くから!」
電話は威勢良く切れた。
レナも来るのか?
そんな言い方だったな。
……レナに会うのはまだちょっと気になったが、魅音《みおん》と一緒ならと思った。
やがて、10分もしない内に玄関のチャイムがなった。
「どんなカンジ? ちゃんと薬飲んで寝てた〜?」
「そりゃもうしっかりとな。」
「げ、元気そうで良かった。心配してたんだよ…。」
「悪かったな。…明日にはもう大丈夫だよ。」
全然病み上がりを気遣わない魅音《みおん》と、心底から心配そうな顔をしているレナ。
……その表情に裏はないように見えた。
「……ちょっとお邪魔しようかと思ったけど、まだ本調子じゃないみたいだねぇ。」
「ん、そ、そうか?!」
俺の表情が陰るのを見られたようだった。
「…じゃこれ、圭一《けいいち》くん。…魅ぃちゃんのおばあちゃんが作ってくれたおはぎだよ。」
レナが新聞紙で包んだそれを差し出す。
5つくらいは入っているのかもしれない。
…ずっしりとした重さがある。
「あ、サンキューな。…魅音《みおん》のばあちゃんによろしく伝えといてくれよ。」
「うん。あ、その中にね、レナが作ったのも混じってるんだよ! 圭一《けいいち》くんに見つけられるかなぁ…。」
「これ、今日の部活を欠席した圭ちゃんへの宿題ね! おはぎにアルファベットがついてるから明日回答すること!」
「お、お見舞いなのか部活なのかどっちかにしろーッ!!!」
「うんうん、元気元気。これなら明日は大丈夫そうだね〜。」
「この騒ぎで熱がぶり返したらどうしてくれんだよ、まったく。」
「み、魅ぃちゃん、あんまり騒いじゃ悪いよ…。もう行こ。おうちの人にも怒られるよ。」
…二人は両親がいると思っているらしかった。
うちの玄関は乱雑だからな。
「そうだね、もう行こっかね。………あ、そうそう圭ちゃん。」
「なんだよ。」
「お昼、何食べた?」
ぴくっと反応し、魅音《みおん》を見上げてぎょっとした。
……これまでに見た事のない、…薄気味悪い顔だったからだ。
しかし…なぜ…俺に今日のお昼の話を聞く……?
魅音《みおん》の言葉は無気味なくらい空虚だった。
…俺が何を食べたかなんて始めから興味ないような、そんな言い方だったからだ。
「お、表で食べたよ…。」
……大石《おおいし》さんと一緒だったことを勘繰られているんだろうか……。
とにかくはぐらかせても、躊躇しても深読みされると思い…俺はなるべく早く返事を返したつもりだった。
だが……俺のそんな努力とは裏腹に、二人の返事には間があった。
「…ふ〜ん、圭一《けいいち》くん、お昼は外食だったんだね。」
レナもいつの間にか瞳の輝きを変えていた。
……それはギラギラとして、…一層、言葉に白々しさを感じさせた。
………自身はすでに知っていながら、無知を装っている…そうにしか見えなかった。
「どう? おいしかった?」
「…な、なんでそんな事を聞くんだよ……。」
魅音《みおん》のオクターブは変に低かった。
…まるでそれは……俺が…町のレストランで食事したことを…知っているかのような……。
いや……考え過ぎだ。
…だって…お昼の時間には2人とも学校にいたはずなんだ。
……俺の所在を知るはずはない……。
「渋いおじさまとご一緒だったみたいだけど、……誰?」
どさり。
…俺の手からおはぎの包みが滑り落ちる。
自分の顔から血の気が、音を立てながら引いて行くのがわかった。
「…へぇ。圭一《けいいち》くん、それ誰? …ひょっとしてこの間の人かな? ………かな?!」
舌の根までカラカラに乾いていく…。
もはや……はったりですらない。
……こいつらは……全て知っているのだ……?!
「な、………なんで………そんな事……わかるんだよ……?」
やっと、それだけを喉から搾り出すのが精一杯だった。
…膝がかくん、かくんと鳴り出す。
「………さぁてね。…おじさんにわからないことはないからね。」
…魅音《みおん》は意味深ににやりと、…糸を引くように笑った。
「で、圭ちゃん、何のお話をしてたの? ずいぶんと熱くなってたみたいだけど…?」
「み、みんなの話はしてないよ…! 魅音《みおん》ともレナとも関係ない…!」
「ふぅん? …聞いてもないのにレナたちの名前が出るなんて、なんだか怪しいなぁ?」
レナはねっとりとした目線で、俺の瞳のさらに奥をうかがっていた。
墓穴だ。……心臓の鼓動が爆発しそうなくらい大きくなる……。
「ま、何を隠れてやろうとも、おじさんには全てお見通しってこと。…それだけを忘れないでくれればいいかなぁ。」
「……………………。」
頭を振ることもできない。
…奥歯ががちがち鳴りそうになるのを必死に押しとどめるのが精一杯だ…。
魅音《みおん》は小首を優雅に傾げるような仕草をしながらも、決して俺の目をその眼差しから解放しようとはしなかった。
「…圭一《けいいち》くん、顔色悪いよ? もう横になった方がいいと思うな。」
「そうだね。私たちはもう帰ろ。」
二人はまるで何事もなかったかのように笑い合い、玄関を後にしようとした。
俺はさっき、おはぎの包みを落とした格好のまま、指一本動かすこともできないでいる。
二人が扉を出、…その扉が…ゆっくりと閉じていく。
……俺はそれをじっと見ているしかない。…まるで、扉が閉まりきるまで動いてはいけないかのように。
その閉じかけた扉がぐいっ!と開けられ、俺の心臓がもう一度跳ね上がった。
扉の隙間から片目だけを覗かせて、再び魅音《みおん》の鷹の目が俺を貫いた。
「じゃあね圭ちゃん。」
「…あ、…あぁ…。」
「………明日、学校休んじゃ“嫌だよ”?」
ばたん。
……扉が閉まった。
二人の低い笑い声が遠ざかり、静寂が戻ってきても、俺は指一本動かすことはできなかった……。
我に帰り、俺が最初にしたことは扉にカギをかけることだった…。
魅音《みおん》たちは…俺が大石《おおいし》さんと話していたことを知っている…?!
どうして…?! どうやって?!
いや、…そんなことはどうでもよかった。…知られた、ということだけが事実なのだ。
今にして思えば……大石《おおいし》さんが俺を尋ねてきたその最初から…話は全て筒抜けだったのかもしれない。……魅音《みおん》の言う通り…俺には何も隠し事などできはしないのだ…。
じゃあ……魅音《みおん》たちは…俺に何が言いたいんだ…?
…そんなのは決まってる。
…俺に“余計な話”はするな、と釘を刺しているのだ。
余計な話って何だ…?
俺が大石《おおいし》さんとしている話はひとつしかない。……そしてそれが余計だと警告しているのだ。
大石《おおいし》さんが俺にしている話……それは毎年起こるオヤシロさまの祟りは個々の事件でなく、全て関連した事件であり、……しかもそれは複数犯で雛見沢《ひなみざわ》に潜伏しているかもしれない……というものだ。
いや…もっと踏み込んで言った。
…魅音《みおん》がレナが、沙都子《さとこ》が梨花《りか》ちゃんが怪しいと名指しで言ったのだ。
それに対しての警告だというなら……?
「な……なに馬鹿なこと考えてんだよ……俺ッ!!」
ぱしーん!と大きな音が立つくらい大きく、自分の頬を打った。
……それで悪い夢が覚めればと思ったが…なぜか布団を叩いたような手応えしかなく…虚しいくらい痛くない。
冷静になれ前原《まえばら》圭一《けいいち》…!
俺はいつからこんなネガティブなことしか考えない男になったんだ?!
冷静になれ冷静になれ!
落ち付いてよく整理するんだ…!
魅音《みおん》が、俺が大石《おおいし》さんと昼飯を食っていたのを知ってたのは………きっとあのお店に雛見沢《ひなみざわ》の人がたまたま来ていたんだろう。
それで魅音《みおん》に俺が来ていたことを伝えたに違いない…。
そう思えば一番自然だ。
それに…よくよく考えれば……魅音《みおん》は俺がどこで昼飯を食ったかしか聞いてないぞ?
…それでおいしかった?って聞いただけだ…!
たまたま俺と同席が雛見沢《ひなみざわ》の人間じゃなかったから興味を覚えられただけで……別に…他意なんかないのかもしれない…。そうだ、そうに違いない…!
今にして思えば、レナの時もそうだ。
俺が大石《おおいし》さんに会ったことを変に濁したので、レナに正されただけなんだ。
それを俺が、いつものおっとりしたレナとのギャップに面食らってしまい……驚いてしまっただけなんだ…。そう考えるのが一番自然だ…!
……頭の中がぐちゃぐちゃのスパゲッティになったような気分だ。
…こうして頭をぎゅっと抑えていたなら、耳や鼻から真っ赤なミートソースがはみ出てくるかもしれない。
そう思ったら、急に吐き気と頭痛を感じた。
……本当にそうなったらいやだったので、俺は頭を抱えるのをやめる…。
誰が何を言っているのか、最近、全然わからない…。
みんなと一緒にいる時は楽しい。表裏なんか感じない。みんな…本当にいいヤツらだと思う…。
引越して来て、右も左もわからない俺に本当に親切にしてくれた。
レナは本当に親切な、面倒見のいいヤツだ。変な病気さえ出さなければ本当に可愛いヤツなんだ。
魅音《みおん》も最高にいいヤツ。歳や性別を気にせず、ポジティブでアクティブ。あいつと一緒だと退屈しない。
…退屈しないなら、賑やかな沙都子《さとこ》だっていいヤツだ。いろいろ生意気だが、それがあいつのコミュニケーションなんだよ。
…梨花《りか》ちゃんだってそうさ。口数は少ないけど、無口なんじゃない。…仲間さ!!
…だが…富竹《とみたけ》さんや大石《おおいし》さんに、知らなくてもいい雛見沢《ひなみざわ》の秘密を……オヤシロさまの祟りの話を聞かされた頃から……おかしくなり始めた。
そして大石《おおいし》さんから…みんなが、…魅音《みおん》がレナが沙都子《さとこ》が梨花《りか》ちゃんが怪しいと聞かされた。
……そして……みんなが変わってしまった。
…そうだ。
大石《おおいし》さんが変な話を始めてからだんだんとおかしくなり始めたんだ…。
……やっぱりあの時……変な話なんかきっぱり聞かなければよかったんだ。
……それならそもそもあの綿流し《わたながし》の晩、富竹《とみたけ》さんに過去の事件の話を聞いたことからいけなかったんだろう…。
……俺が変な好奇心さえ出さなければ………出さなければ………。
そうだ…。だからみんなは富竹《とみたけ》さんを*したんだ。みんながせっかく俺のために隠してくれていることを、よそ者の分際で俺なんかしゃべったから。
じゃあ大石《おおいし》さんだって*されるだろう。みんながこんなにも知らないほうがいいと忠告してくれることを掘り返そうとしている。それに…俺にみんなを疑わせるようなことを吹き込んだ許せない男だ。…あんなヤツ*されて当り前なんだ…!!!
富竹《とみたけ》さんも大石《おおいし》さんも所詮はよそ者なんだ。雛見沢《ひなみざわ》の人間とは相容れない存在なんだよ。そんなヤツらこそオヤシロさまの祟りにあって*されるべきなんだ!!
みんなは悪くない。
…悪いのは好奇心を抑えきれなかった俺の方なんだ。
みんなは悪くない。
みんなは悪くない。
みんなは悪くないみんなは悪くないみんなは悪くない…。
ぼーっとした…寝起きのような鈍い感覚だったが、さっきまであった嫌な悪寒は薄れていた。……もう大丈夫。…もう怖くない。…もう完全復活。
明日は元気に学校行こう。みんなに挨拶。部活もやろう。きっと楽しい。絶対楽しい。
……俺はみんなの仲間なんだから。
「……あ、そうだ。おはぎ食べないと…。どれがレナの手作りか、当てないといけないんだよな。」
さっき二人が持ってきたお見舞いの宿題を思い出す。
しかし、部活練習がデリバリーされるなんて、うちの部ってすごいよな。
床に落ちたままになっていたおはぎの包みを拾い上げ、居間へ持って行った。
せっかくだからお茶を飲みながらの方がいいかもしれない。
…お茶を飲みながら頬張る手作りおはぎ。……お。結構うまそうなシチュエーションだぞ。
新聞紙の包装を開くと、中にはこじんまりとした、それでいてずっしりとしたこし餡のおはぎが5つ。
新聞紙には左端のものから順にA、B、C…とアルファベットが書きこまれている。
さて。この中のひとつがレナの手作りだと言うが……どれだろう?
見た目はどれも大差ない。
匂いも雰囲気もほとんど同じだ。……これは…手応え十分な問題だぞ?!
一番差が出るとしたら…おそらく形だろう。
魅音《みおん》のおばあちゃんがどんな人なのかはわからないが、レナのそれとは絶対に違うはず…!
よく見ると中にひとつだけ、とても丁寧につくったおはぎがあった。
じっと見ればすぐわかるくらいに。
「……この1個がレナか否かが、勝負の分れ目みたいだな。」
さらに頭を落ちつけて良く考える…!
…このおはぎ、魅音《みおん》は確か、おばあちゃんが山ほど作ったのでお裾分けって言ったよな。
…ってことはつまり、この中の4つはその山ほどの中の4つのわけだ。
対してレナはどうか?
多分…これ1個しか作ってないだろう。
だからその1個に手間を惜しまないに違いない。
……つまり、…レナの手作りおはぎはこの…Eだ!!
一瞬、それを見越した魅音《みおん》のワナではないかとも思ったが、それはないだろう。
…魅音《みおん》が作ったならいざ知れず、レナが作ったと言ったのだからそういう引っ掛けはないはずなのだ。
「よし。お茶も準備OK。まずはディフェンディングチャンピオンの魅音《みおん》のばあちゃんからだ。……どれ。」
ふむ。…悪くない。
こし餡の滑らかさと十分な食べ応えの両立は侮り難し!!
その後にすするお茶も引きたてている。…これは…素晴らしい仕事だぞ!
さて、レナの方はどうかな?
高級和菓子を思わせる繊細な作り。
食べ盛りの俺としてはボリュームに若干の不安を感じるが…。まずは一口…。
……これは…難しいジャッジになりそうだぞ?!
使っている材料はまったく同じなのだから味に大差はない。
違うのは最後の握りの部分だけなんだから、そりゃそうだ。
となると勝負は芸術点と…ボリュームが分ける事になるだろう。
しっかりとした食べ応えのチャンピオンに、食べ飽きない大きさのチャレンジャーレナ!
まだレナのは一口しか食べていない。
取り合えず食べ終わってからのジャッジにすべきだろう。
……ひょっとすると…何か逆転になるようなすごい仕掛けが隠されているかもしれないんだからな…!
「もぐもぐ。………………ん、」
俺の予想は的中したようだ。
俺の舌が何かに触る。
食べるものとは少し違うようだったので、取り合えずそれを指につまんで取り出してみた。
…………………これは。
…なんだ?
それが何かを頭が理解する前に、俺は食べかけのおはぎごと、それを力いっぱい投げ付けた!!!
壁に叩きつけられ、餡が飛び散る。
そして、一心拍置いてからぼろりと剥がれ落ちて床に落ちた。
…呆然とする俺自身。
何やってるんだ、俺は…?!
せっかくのレナの手作りに…何て事をッ?!
呆然と、凶行に及んだ俺の手を見、そして…口の中から取り出したそれが何だったのかを思い出す……。
それは始め、髪の毛かと思った。
だけど、魅音《みおん》より短いレナにしたって髪の長さは結構ある。あんなに短くはないはずだ。
それに、髪の毛というにはちょっと硬かった。
舌の上でちょっと転がすだけの太さもあった。
…ちょっと銀の輝きがあり、…一方の端には、そう、裁縫針のような、糸を通すような穴が空いていて……。
うん、そうだ…。
裁縫針によく似ていた。
…そっくりだった。
…先端も尖っていた。かなり鋭く。
…本当に裁縫針にそっくりだった。
あれ?
…さっきのあれは……“裁縫針によく似た”、何だったんだ……?
…………答えなんか出ない。
だが、俺の中にいるもうひとりの俺にはわかったらしく、…それを奥歯をがちがちと鳴らせて教えてくれた。
…湧き上がってくる恐怖を打ち消せない…。
急に鉄の味がし、舌の奥がぴりぴりと痛くなる。
…出血を確かめるため、指を口の奥へ突っ込み、ぺたぺたと触ってみた。
……突如こみ上げて来る嘔吐感。
ひりひりする味の胃液が喉の奥を刺激する。
両の手で喉をぐっと抑え、しばし悶え苦しむと…嘔吐感はなんとか収まった。
ようやく正常に息ができるようになると、今度は心臓が早鐘のようにばくばく言い始める。
………そして、ようやくこっち側の俺も理解する。おはぎに何が混じっていたのかを。
その単語を脳裏に浮かべるより手が動く方が早かった。
どしゃッ!
びたッ!!
べしゃッ!!!
俺は残ったおはぎを次々と壁へ叩き付けた。
飛び散った餡の描く幾何学的模様がどこか不吉なものを想像させる…。
それから目を背けると、俺は廊下に飛び出し、階段をどかどかと駆け上がり自室へ、朝のままになっている布団の中へ飛び込んだ。
そして自らの肩を抱き、恐怖と悔しさと怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになりながら吠えた猛った…。
これは脅しとか脅迫とか釘を刺すとかそんな生易しいものじゃなくて……ッ!!!
雛見沢《ひなみざわ》で何が起こってきたのか。
何が起こっているのか。
何が起ころうとしているのか。
…そんなのはどれもわからないし、大事なことでもなかった。
一体、どこで禁忌に触れてしまったのか?!
とにかく俺は…レナや魅音《みおん》や…あるいは他にも? 敵を作ってしまっている!!
そしてそいつらは…俺なんか死んでしまえと思っている!!!
殺されてたまるかよ!! こんな、…わけもわからずに!!!
様々な負の感情はまるで渦巻く底無し沼のように、俺を安らかでない眠りへと引きずりこんで行った………。
<幕間>
12■自殺を誘発するクスリは?
「単刀直入に…自殺させる薬ってないんですか?」
「直接的にはない。」
「遠回しですねぇ。…では間接的にはあるってことですか?」
「自殺したくなる精神状態を誘発することはできる、っちゅうことだ。」
「…難しい言い方になりましたねぇ。何ですかその、自殺したくなる精神状態ってのは。」
「例えば重度の躁鬱病患者だが、一般に鬱状態から躁状態に転じる時にもっとも自殺が多いと言われちょる。」
躁鬱(そううつ)病というのは鬱(うつ)病とは異なる。
鬱病は鬱状態という非常にネガティブな精神状態のみを引き起こすが、躁鬱病は、このネガティブな鬱状態と交互に、非常にアクティブな躁状態を引き起こす。
「鬱状態の患者は自信を喪失し非常に悲観的だ。だが自殺もせん。自殺をする気力すらないからだ。…躁の状態もまた自殺をせん。
今度は逆に、非常に自信過剰で行動的なので、自らを順風満帆と思う。だから自殺などせんのだ。」
「…面白いですねぇ。どっちの状態でも自殺をしないのに、状態が入れ替わる時に自殺するんですか。」
「鬱状態には自殺願望はあるが、自殺という大仕事を遂げる気力すらもない。だが躁状態が始まると徐々に気力が充実し、体の自由が利くようになってくる。」
「なぁるほど! つまり自殺する気力が回復するわけですね。」
「そういうことじゃの。だからこの時期に変な気を起こさんように、向精神薬をたっぷりと処方するわけじゃな。」
「…では富竹《とみたけ》氏はこの躁鬱病患者だったんですかねぇ?」
「躁鬱病患者の自殺はちゃんとした文化的な自殺だ。飛び降りとか首吊りとか。ヤクの禁断症状のような自虐行動とはまったく違うぞい!」
「富竹《とみたけ》氏の自殺は文化的じゃないですよねぇ。
……ではやっぱり薬物中毒と考えるのが自然ですか。最初に言った、自殺したくなる精神状態を起こす薬ってのを教えてください。」
「メトアンフェタミン中毒は躁鬱病に近い症状を起こすと報告されとる。覚醒剤のことだ。
……それからバルビツール酸誘導体中毒にも異常行為が報告されとるがあまり一般的ではないのう。こっちは睡眠薬のことだ。」
「覚醒剤反応、出なかったんですよねぇ。…他の可能性は?」
「あとは病気しか考えられん。
バセドー病等の甲状腺異常を引き起こす病気にしばしば躁鬱病に似た症状が報告されとる。だがバセドー病は特徴的な症状が多い。仏は違うの。」
「もっと突発的に発生するものはありませんかねぇ。今回のケースと合うような、突発性で自殺したくなるようなヤツです。」
「急性器質性精神病、っちゅうのを知っとるかの?
早い話が、脳障害によって精神がとんちんかんになる状態じゃな。これは薬物中毒でも起こるが、脳の外傷や脳炎、脳卒中、脳腫瘍なんかでも起こる。」
「つまり、薬によらなくても異常な精神状態に陥る可能性があると。」
「仏は犯人に囲まれて命に危険が迫っとったんじゃろ?
極度の緊張が続いて、それに分泌異常が重なって、さらに打ち所が悪くて脳に障害が起こり自虐行動に走った…可能性もあるかもしれんの。」
「……………もうちょっと省略して言ってくれませんかねぇ…。」
「かっかっか! つまり、乱闘中に豆腐の角に頭ぶつけて、それでとんちんかんになったんじゃないかと言っとるんだ。」
「なっはっはっはっはっはっは!!! じゃあホシには殺意はなかったってことですかねぇ。ちょいと小銭を巻き上げようと殴ったら、たまたま殴り所が悪かったと!」
でっぷりした中年が二人してげらげらと下品に笑い合う。
「………なんてわけはありませんねぇ。」
「こほん。…いかにも。」
「薬物の常用にせよ、精神的なものにせよ、仏の身元がカギを握っとるぞい。そっちはどうなっとるんじゃ?」
「ありゃぁこんな時間! そろそろ戻らないと熊ちゃん、怒っちゃいますねぇ。」
「おう! 頑張れよ! いいお年をの!」
「いいお年を!」
12■脅迫
「……おんやぁ? 今の皆さんは確か…。」
「議員バッヂが二人いたっすね。」
「じゃー、県議と市議の園崎《そのざき》だ。」
「面白いっすね。親戚同士で県議と市議やってんすか。」
「これがズルイんですよ。お互いの名前で事前運動バンバン。片方の選挙中にはもう片方が別に講演会を開いて、二重に選挙運動やってんですよ。堂々と。」
「よくわかんないんすけど、それって公選法違反じゃないんすか?」
「事前運動にならない限り、政治活動は無制限ですからねぇ。…熊ちゃん、そんなんじゃ選対本部付きになった時、大変ですよぅ? 公選法くらいは勉強して下さい。」
「俺、知能犯課は無理っす。バカですから。えっへっへっへ…!」
いたのは園崎《そのざき》県議と園崎《そのざき》市議。
それから…雛見沢《ひなみざわ》の村長もいたな。
……どいつもこいつも園崎《そのざき》家の息のかかった連中か。…面白くないですねぇ。
「お見送りしてんのは…副署長とうちの課長っすね。」
ピーンと来る。
その日の夜、おでんを食いに行かないかと課長に誘われた時、やっぱりなぁと思った。
「大石《おおいし》さんは友達多いから聞いてるかもしれないけど……聞いてるかな?」
「いいえ。何も。」
「お母さん、ガンモにはんぺん頼みます。……署長んとこに議員の怒鳴り込みがあったんだよ。」
「あれま。そうなんですか。…お母さん、私にもう一杯下さい。」
園崎《そのざき》は県議も市議も恫喝タイプだ。
あんなヤクザと政治家のぎりぎりみたいなのに怒鳴りつけられたら、キャリアのハナタレ若署長にはキツイでしょうねぇ…。
「雛見沢《ひなみざわ》事件の捜査の仕方で、君を指名して陳情してきたよ。」
「ありゃ私? はてはて。」
「とぼけるなよ。例の雛見沢《ひなみざわ》の、過去の事件。蒸し返してるだろ。」
「私、富竹《とみたけ》殺しで手一杯でそんな余裕ないですよ? なっはっはっは!」
「本当に? 本当にそうならいいんだけどさ…。」
しばしの沈黙。
お互い黙ってもくもくと箸を進めビールを飲み干す。
「いやぁご馳走になっちゃいました。今月は負けっぱなしだったんで財布辛かったんですよ。助かりました。」
「いやいいよ。また馬、教えてよ。大石《おおいし》さんと同じ馬を買うから。」
「なっはっはっは! 最近はダメです。馬の声がさっぱりですから! …タクシー!!!」
私は電車。
課長はハイヤー。
自家用車は辛いですねぇ。退職前にして飲酒運転でパーってわけには行きませんから。
舌はよく回っても、課長の腰から下はもうすっかり砕けている様子。
タクシーに押し込み、課長の自宅の住所を伝える。
「ではではまた明日。よいお年を…!」
「大石《おおいし》さん。」
「はいはい。」
「過去の事件は全部個別に終わってる。縦に並べるのはやめるんだよ。村の連中は半ば本気で祟りを信じてるんだから。」
「私だって祟りなんか信じちゃいませんよ。」
「大石《おおいし》さんは来年で退職じゃないですか。
退職金でローン返して、お母さんと北海道に引っ越すんじゃなかったっけ?」
「婆さまがどうしても生まれの北海道に帰りたいって泣くんですよ…。最後のご奉公なんです。退職金は、まぁススキノで楽しむことにします。なっはっはっは!!」
「署長は退職時特別昇給を見直すかもってさ。」
官公署の退職金は、退職時の月給を掛け算して算出する。
そこで、退職直前に特別昇格で二号給(2年分)給料を昇給させることによって、退職金を水増しするなんてことが、この辺の地方では慣習で行なわれている。
もちろん、あまり褒められた慣習じゃないんですが…。
ちなみに二号給違うと退職金の額はかなり違う。
「さすがインテリの若署長は言い出すことが模範的です。…でもまぁ。私たちの給料が血税で支払われてることを思えば、まぁ時代の流れですかねぇ。」
本当はすごく笑えないのだが、取り合えず笑い飛ばしておく。
「僕も模範的な事とは思わないよ。でもまぁ、大石《おおいし》さんはそれだけの退職金をもらってもおかしくない活躍をしてきたからさ。僕としてはぜひもらって欲しいんだよ。」
「もらえるもんなら、そりゃー欲しいですけどね。…なっはっはっは!」
「もらえるよ。大石《おおいし》さんが大人なら。」
「運転手さん、引き止めてすみませんね。お願いします。」
威勢良くドアを閉め、課長の会話を少し乱暴に遮る。
課長はまだ何か言いたげだったが、苦笑すると手を振った。こちらも手を振って応える。
タクシーは徐々に加速し、すぐに光の川に飲み込まれていった。
「なっはっはっは!……まいったな。ローン返済できるかなぁ…。」
■13日目(木)
…ひた、…ひた、…ひた…。
その殺したような足音は俺の部屋の前で止まった。
中を伺うような…沈黙の間。
…俺は事もあろうか、まだ浅い睡眠のまどろみの中にいた。
意識は徐々に鮮明になっていくが、体がそれについていかない。
…危機がすぐそこ、扉のたった一枚向こうでうかがっているのに…まるで金縛りにでもあったように動かせない。
……それは紛れもない、恐怖だった。
頼む……このまま去ってくれ…。
あぁ、体はまだ目覚めないのか? 今、部屋に踏み込まれたら……!!
「うわぁあぁあぁあぁああぁあッ!!!!」
「きゃあッ?!」
威勢良く跳ね起き、その布団を扉を開けたお袋に投げ付ける!!
「ちょッ! 何、圭一《けいいち》?! どうしたの?」
「ぁ………あ、…ごめん。…寝ぼけてた…。」
まだ深夜の1時か2時だと思っていた。
だがカーテンの隙間からは朝の空虚な日差しがこぼれてきている。
……まったく実感のない、朝だった。
昨日、俺は…あの後、そのまま寝入ってしまったはずだ。
……なら、たっぷり10時間は眠っていたはず……。
…だがとてもそうとは思えなかった。
体内時計は完全に狂い、体の平衡感覚もどこか鈍い。
熱っぽさまで感じ、明らかに自分が健康体でないことを自覚する…。
「…どう圭一《けいいち》? 身体の調子はどう? 学校、行けそう?」
……とても学校に行けるような体調、…いや、精神状態ではなかった。
昨日の恐怖が、じっとりと蘇ってくる…。
あの針をそのまま…飲みこんでいたら…どうなっていたんだろう…?
あるいは口の中に、舌に突き刺さっていたなら…?
殺意は間違いなかったが、それでも…完全なものじゃなかった。
俺を殺す気なら、もっと確実な方法でやるはずだ。こんな、針を飲ませるなんて確実性の低い方法に訴えるはずがない。
……つまり……信じたくはないのだが……、ここまでしようとも…レナや魅音《みおん》にとっては…脅迫なのだ。
死ななくてよかったね、…でも次はもっと確実な方法でやるよ…?
そんな感じの。
手紙と一緒にカミソリの刃を送る…なんて、これと比べればシャレでしかないだろう…。
「…ちゃんと病院は行った? お薬は飲んだの?」
「ん、…うん。まぁ一応…。」
お袋の怪訝な表情がどこか不愉快だった。
なぜなら……病床の息子を気遣う様子よりも、2日続けての病欠への不快感の方が色濃く出ていたからだ。
…そりゃ確かに、精神的なショックがあったにせよ…別に病気というわけじゃないさ。
「一度生活のリズムを崩すとなかなか戻らないんだから。ささ、起きて起きて! 病は気から、って言うのよ。」
昔からよく聞かされたセリフだ。
俺は小学校卒業の時、無欠席で表彰されたが…別に人一倍強健だったわけじゃない。
「ささ、顔を洗ってらっしゃい。ご飯はもう出来てるわよ。…もうレナちゃんが来るまであんまり時間がないわよ。」
お袋の有無を言わせなさそうな口調に、俺は2日目のズル休みを諦める。
「そうそう。…居間の壁にぼた餅を投げつけたのは圭一《けいいち》? だめよあんなことしちゃ! お父さん、怒ってたわよ?」
……別に罪の意識はなかったので、特にリアクションは返さない。
また、お袋もそれ以上の追及はしなかった。
俺がもぞもぞと寝床を抜け出すのを確認すると、お袋は階下へ降りていった。
魅音《みおん》が昨日、帰り際に言った「明日、休んじゃ嫌だよ?」という言葉がねっとりと脳裏に蘇った。
あれはどういう意味だったんだ…?
考えるまでもない。…もう欠席するな、と言っているのだ。
もっと踏み込んで考えればつまり……、いつもと同じように生活しろと言っているのだ。
俺が明らかに普段と違う様子を見せれば、それは特異に移るだろう。
そんな俺の様子に……例えば大石《おおいし》さんのような人間に「何かの異変」を気取られかねない、ということなのだろう。
つまり、…俺自身が口を閉ざしていようと、いつもと違う振る舞いをすれば、それは結果的に「好まざる者」たちに何かを伝えてしまう結果となるわけだ…。
そして彼女たちは、それすらも俺に許さないつもりらしい…。
じゃあ……俺がいつも通りに生活するなら……何も危害を加えない……ということなのか…?
昨日までの陰鬱さが気味悪いくらい薄れていく…魅力的な取引だった。
この数日の間に見聞きしたことを綺麗に忘れるだけで、…俺はいつもの生活に戻れるのだ。
「そ……そんな虫のいい話……あるわけ………。」
ごくり、と溜まった唾を飲み込む…。
…一度は否定しかけたその想像を…俺はもう一歩踏み込んで考えてみた…。
魅音《みおん》はきっと…仲間思いのいいヤツなんだ。
…知りえない何かのルールに違反してしまった俺に……チャンスを与えてくれたのだ。
俺が犯した何かは…本当は許されないものなのだろう…。
だが魅音《みおん》はチャンスをくれた。
…全部を忘れてこれまでと同じ生活を送れるなら、許そうと言ってくれているのだ…。
「圭一《けいいち》〜! ご飯冷めちゃうわよー! 急いで降りてらっしゃい〜! 早くしないとレナちゃんが来ちゃうわよー!」
「あ、…い、今行くよ!」
俺はカバンに乱雑に教科書を詰め込むと、あわてて階下へ降りていった。
何だか精彩のない朝飯を箸でついばむ。
時間はもうほとんどないようだ。レナとの待ち合わせ時間はもう過ぎていた。
昨日の様子だと…あと5分もしない内に迎えに来るだろう。
…それまでには登校できるようにしないと…。
昨日までのことは全部忘れるんだ…。
全部忘れて普通に生活するんだ…。
普通ならもうレナとの待ち合わせ場所に行ってないと…。
…こんな日に限って、ご飯はパサパサで喉の通りが悪かった。
ピンポーン!
びく!として思わず箸を落としてしまう。…レナの訪れを知らせるチャイムだった。
お袋が俺を急かす。
「ほら、レナちゃん来ちゃったわよ…! 急いで急いで!」
お袋の浮かれたような笑顔と、俺の顔の影がなんだか対照的だった。
玄関の向こうにいるレナを迎えるのには正直、抵抗があった。
…扉の向こうにいるレナは…俺のよく知っているレナだろうか?…と。
だが待たせてはいけない…。いつものように振舞わないと……。
「おはよう〜!」
扉の隙間から聞こえた朝の挨拶はとてもさわやかだった。
「…圭一《けいいち》くん、遅かったから来てみたけど……今日はどうかな?…かな?」
レナの気遣うような様子は、俺がレナだと思っているレナのそれに違いなかった。
…だがそれはきっと、俺がいつものように振る舞えばこそなのだ。
昨日までをすべて忘れて……何事もなかったように…。
残酷なバラバラ殺人のことも忘れる。その後毎年起こる怪死事件も忘れる。…転落事故も、病死も自殺も、撲殺も失踪も、全部全部忘れる。
レナが怖いのも、魅音《みおん》が怖いのももちろん忘れる。みんな忘れる。おはぎのことも全部忘れる。忘れる忘れる忘れる。
レナがもう一度、念を押した。
「…学校、行けそう?」
「あ、……あぁ。…大丈夫だよ。」
「よかったぁ! じゃ行こ! 魅ぃちゃん待ってるよ。」
レナはいつも見せるような、明るい笑顔を見せてくれた。
とても表裏があるような表情には見えない。……緊張が解け、自分が安堵したことを知った…。
「なのに沙都子《さとこ》ちゃんね、絶対にできるって意地になっちゃってー!」
歩きながら、レナはいつも以上にいろいろと話しかけてきた。
「……ふぅん。…それで?」
「沙都子《さとこ》ちゃんぶきっちょだから、何度やってもできないの!…はぅ、かぁいかったんだよぅ…。」
レナのする話はどれも他愛ないもので、適当に相槌を打ったり、時に笑って見せるだけで十分の楽な会話だった。
ご近所さんがすれ違い、俺たちに声をかけてきた。
「あぁれ、圭一《けいいち》ちゃんにレナちゃん、今日はちょっと遅いんじゃないの〜? 魅音《みおん》ちゃん、先に行くって言ってたわよー?」
「わわ! 魅ぃちゃん怒ってるかな? 怒ってるかな?! 早く行こ圭一《けいいち》くん!」
ご近所さんに笑顔に挨拶したあと、俺に振り返りぺろりと舌を出してみせた。
そんな仕種に思わずつられて、自然に頬が緩んだ気がした。
「……あ、圭一《けいいち》くん笑った。」
「え、…な、なんだよ。」
レナが足を止めて、じっと俺を見入った。
「…圭一《けいいち》くん、今朝もなんか元気なかったから、まだ風邪が治らないのかなって思ってたけど、…大丈夫みたいだね。…だね!」
そう微笑むと、俺の頬をちょこんと突っ付いた。
表裏のないさわやかな笑顔だった。
…なぁ前原《まえばら》圭一《けいいち》。
…この笑顔を見てもなお俺はレナを疑うのか…?
昨日までの俺はひょっとしてものすごい高熱を出して寝込んでて、ありもしない幻を見ていたんじゃないのか?
……本気でそう思わずにはいられなかった。
もしも神様がひとつ願いをかなえてくれるなら…。俺が望むことはひとつしかない。
この何日間かの出来事。
…もっと限定するなら、綿流し《わたながし》の晩から昨夜までの全ての出来事を……なかったことにしてほしい。
この何日間かの間で、俺は何度これを願っただろう……。
このままいつもでもレナが微笑み続けてくれたなら…それはかなうかもしれない。
だからレナにはいつまでも笑っていて欲しい。…いつまでも…笑っていて…。
「で、圭一《けいいち》くん。
昨日のおはぎ、ちゃんと食べてくれた…?」
そんな俺の儚い願いはあっさりと打ち消された。
心臓がどきんと跳ね、朝のゆるやかな空気が一瞬にして氷結させる。
レナの笑顔は…いつもの笑顔で、瞳もいつものやさしい瞳のように…見えた。
昨日のおはぎ、ちゃんと食べてくれた…?
…もちろん文字通りの意味のわけはない。
つまりレナは……私たちの意思は伝わったかな?……そう言いたいのだろうか…。
「…………………………圭一《けいいち》くん?」
レナは歩みを止め、返事に躊躇する俺の瞳をじっと覗き込んだ。
「……………あ、」
…ちゅ、…躊躇するな前原《まえばら》圭一《けいいち》。
……レナはいつもの様子で振る舞ってるじゃないか。
俺もいつもの様子で返すんだ。……それも自然に…!
だが喉も唇もいつの間にかからからに干上がり、上と下の唇をぴったりと貼りつけてしまっていた…。
早く返事するんだ圭一《けいいち》…。
今ならそんなに時間は経ってない。まだ…自然に会話はつながるんだ…。
何はともかく……早く言葉を………。
「……う、」
「う〜?」
俺がようやくひねり出した声をレナが愉快そうになぞる。
レナの反応は常識の範囲内だった。……俺が思ってるほど、間はなかったみたいだ。
なんとか続く言葉をひねり出す。
「う、…うまかった…!」
だが、そんな俺の必死の苦労にも、レナは表情を晴れも曇らせもしなかった。
一瞬、返すべき言葉を誤ったのかと焦る。
だが数瞬の後、レナはいつもそうするようにやわらかく顔を崩し、朝の空気を澄み渡らせてくれるような軽快な声で笑ってくれた。
つられて笑いを誘う、そんな笑いだったから…俺も自然に笑うことができた。
「そうなんだ〜。
で、全部食べたのかな?…かな?」
俺のささやかな笑いがもう一度凍りつく。
…裁縫針を飲まずに済んだの? そう聞いているんだろうか…?
飲んでいたら無事にここにいられるわけがない。
「い、いや…全部は…食べきれなかったからさ。………まだ残ってるんだよ。」
恐る恐るだが…そう言い逃れた。
「……あれれ? どれがレナが作ったのか、当てる宿題はどうなっちゃったのかなぁ…?」
「あはははは…、あの宿題って…今日までだったっけ?」
「うん。今日までなんだよ。…魅ぃちゃん怒るよ〜。きっと罰ゲームだね。」
もう一度二人で笑い合う。
誰が見たって違和感のない朝の風景だった。
俺だって、…ちょっと気を許せばいつもの朝の風景に思えてしまう…。
だが…決して勘違いしてはいけないのだ。
このからからと笑うレナだって、その内には見かけからは想像できない何かが潜んでいるのだ。
「嘘だよッ!!」
あのレナの喉から出されたとは思えない、刺さるような声が思い出される。
それを思い出した途端、背中を冷たいどろりとしたものが流れ落ちた。
あの時だけ、レナに何か悪いものでも取り憑いていたのだろうか…?
いや違う。あれもまたレナなのだ。大石《おおいし》さんは確かに言ったじゃないか…。
「実は調べてみたら、竜宮《りゅうぐう》さんは引越しの少し前に、学校で謹慎処分を受けているんですよ。何でも、学校中のガラスを割って回ったんだとか。」
レナには…常人とはかけはなれた魔性があるのだ。どんなにさわやかな笑顔で笑っていても……その事実はかわらない。
しかし…どのような状態でこのような蛮行、校内のガラスを割って回ったのかは……想像が付かない。
ひとつ言えることは、ささやかな瞬間的衝動によるものではないということだ。
瞬間的な怒りに任せてガラスを1枚割るくらいなら…まぁ、あるかもしれない。
だが学校中のガラスをだ。
自分がバットを持って実際に学校にガラスを割りに行ったところを想像すればいい。
ガラスを力任せに1枚2枚。砕け散る破片をものともせず…。
呆然とするクラスメートたち。
…突然の出来事に、身じろぎひとつできまい。
ガラスが一番たくさん、それもずーっと並んでいるところはどこだろう。…多分廊下だ。
割って、
歩いて、振り上げて。
割って、
歩いて、
振り上げて。
その恐ろしい光景を、今こうして笑顔を浮かべるレナと重ねるのはとても難しい…。
だが、…それでも俺は、想像しなければならない。
……想像できないからありえない、という子供染みた考えはすでに…通用しないのだ。
ガラスが砕け散る不穏極まりない音を立て、じゃりじゃりとその破片を踏みつけながら、まっすぐにこちらに向かってくるレナ。
……真っ青になって息をすることも忘れてしまったクラスメートたち。
彼らはガラスを叩き割りながら近づいてくるレナにどういう行動を取ったのだろう。
レナを説得するために懸命に何かを説いた?
あるいはその蛮行を制止するために飛び掛かった?
あるいは職員室に先生を呼びに走ったのだろうか?
多分どれも違う。
鬼気せまるその様子で、次々にガラスを誅していくレナに……黙って道を空けることしか出来なかったに違いない。
呆然としながら…レナの行進に道を空ける。
…それを見て見ぬふりだと非難するのはあまりに暴力的だ。
彼らは見て見ぬふりをしてたんじゃない。……それが、唯一の護身術だと知っていたからだ。
周りの人間と違う行動を取ることで…突然、レナの興味が自分に移るかもしれない。
自分に興味を持ったレナはどのような行動を取るだろう…?
そんなのは簡単だ。……レナは興味のままに行動しているだけに違いない。
…つまり、自分が、…俺が次のガラスにされてしまうのだ。
レナが俺だけの瞳をじっと見つめながら、じゃり、じゃり、とガラスの破片を踏みしめながら近づいてくる。
……俺もまたレナの瞳に吸い込まれ、身動きひとつできない。
そしてレナは、他のガラスと同様に自分をバットで何度も殴打する。
俺は床にうずくまり必死で頭だけは守る。レナは頭でも背中でもどうでもいい。がむしゃらに何度も何度も殴りつける。
レナはどんな表情でこの行為を繰り返しているんだろう?
…そっとその様子を伺ってみた。
………その表情はあまりに淡白で、とても不愉快そうだった。
いくら叩いても他のガラスのような軽快な音が出ないのだから。
何度も何度も。叩き続ける。レナの期待するような音は出ない。周りのクラスメートたちも止めない。次のガラスになりたくないから。
誰か助けてくれよ…。…楽しく遊ぶ時以外は知らんぷりかよ…?!
…そりゃそうだよな、偏差値ってのはクラス内での奪い合いなんだから。…俺みたいな塾三昧のガリ勉を助けて得をすることなんかないもんな…。
その内、くるみの殻を割る時にするようような軽い音に混じって、赤とも黒ともつかない飛沫が飛び散るようになるのだ…。
とにかくそのレナの様子は、怒りに我を忘れるといった瞬間的なものではなかったに違いない。
……深く息を吐き鼓動を抑えてから、俺は大石《おおいし》さんの言葉をもっと深く思い出す。
「…でですね、そのカウンセリングをした医師のカルテにレナさんの会話内容が記載されているんですがね……。その中に、出てくるんですよ。結構。」
「何がです…?」
「出てくるんですよ。
オヤシロさまって単語が。」
その後、レナは謹慎処分となり、病院へ通院して診察を受けた。
そこでレナは医師とのカウンセリングの中で何度となく口にするのだ。「オヤシロさま」、と。
「オヤシロさまって言う、幽霊みたいなものがですね、夜な夜な自宅にやってくるって言うんですよ。枕元に立って自分を見下ろすんだ、って。」
医師と話した会話の一部なのだろうから話の全体は見えないが、……それは薄気味のいい話ではない。
ではレナは…、自身の行なった蛮行は、オヤシロさまに取り憑かれたからだと告白したのだろうか…?
俺はこれまで、オヤシロさまの祟りを認めたくなかった。
だから、毎年起こる怪死事件を人間の犯人の仕業だと思い込もうとしてきた。
そして大石《おおいし》さんと会話を重ねる内に、祟りでなく、人為的に繰り返されてきた事件であるとの確証を深めた。
だが……その人間の起こしてきた事件には…みんなが深く関わっていた。
祟りを認めないことへの代償は、こともあろうか………俺にとってもっとも親しい者たちの事件への深い関与だったのだ。
なぜ? どうして? 何のために? レナが? みんなが??
それはオヤシロさまの祟りが実在することを受け入れること以上に苦痛で困難なものだ。
だがそのレナは蛮行の後、病院で医師に、オヤシロさまに取り憑かれていたからだと告白した。
俺はここで奇妙な安堵感を覚えた。
やはりそうなんだ。
レナに表裏があるわけがない。
……オヤシロさまなんていう怪しげなものに取り憑かれたからこそ…あんなことをしてしまったのだ。
レナは悪くない。悪いのはオヤシロさまなんだ…!
…わかっている。
それは本末転倒だった。
祟りを信じまいとする俺は人間の犯人を切望し、……近しい仲間たちにその嫌疑がかかった今、都合よくすり替え、今度はオヤシロさまの祟りのせいにしようとしている。
俺にとって、レナたちが一連の怪死事件に深く関わっているかもしれないことと、オヤシロさまの祟りが実在することを認めるのと……どちらがマシなんだろう?
考えたくなかった。
考えないことによって、これまでと同じ日々が維持できると…そう信じたかった。
だが…………それはもう無理なのだ。
彼女らのメッセージは受け取ってしまった。
…それを何とか都合よく曲解しようとする自分の女々しさが情けなかった。
敵が人間だろうと祟りだろうと。……俺は殺されない。
殺されてたまるかよ! ……こんな訳もわからずに…!
「圭一《けいいち》くん? …さっきから変な顔してる。何でだろ? だろ?」
レナの声にはっとし、我に帰った。
気付けばそこはもう昇降口だった。
頭を軽く数回振り、たった今まで頭を満たしていた恐ろしい妄想を振り払った。
いくらなんだって…レナがこんな恐ろしいことをするわけがない……!
それはまるで、自らに言い聞かせるようなか細さがあった…。
■教室へ
がらりと扉を開き、教室へ踏み込もうとすると同時に、頭にチョークだらけの黒板消しが落ちてきた。
チョークの粉末が目に入り、しばし苦痛を味わう。
「をっほっほっほ! ズル休みの圭一《けいいち》さんにはお似合いですことよ〜!」
「圭一《けいいち》もレナも、おはようございますです。」
「おっはよー☆ 沙都子《さとこ》ちゃんに梨花《りか》ちゃ〜ん!」
何となくテンションが合わなかったので、沙都子《さとこ》のトラップにも過剰に反応はしなかった。
沙都子《さとこ》は俺が横を通り過ぎる時、何らかの攻撃があるものと思って身構えていたようだったが、俺が黙って通り過ぎただけだったので拍子抜けした様子だった。
「な、なんなんですの…? 張り合いがありませんわ。」
「…圭一《けいいち》、まだ本調子じゃないみたいです。」
「うん。……だから今日は加減してあげて、ね。」
突然、俺の肩がバシンと叩かれた。ちょっと痛い…。
「よ! 圭ちゃん、しっかり休んできたー?」
魅音《みおん》だった。
レナのことで頭がいっぱいだったが……魅音《みおん》だって当事者のひとりなのだ。
思い出すんだ圭一《けいいち》。…昨日の鷹のような眼差しを。
「……あぁ、………おはよ。」
「なんだなんだ、ずいぶんと覇気のない挨拶じゃ〜ん? 差し入れのおはぎ、ちゃんと食べてくれなかったのー?」
ちゃんと食べたからこの様子なんだよ…。言葉が喉のそこまで出掛かった。
「…やっぱ食欲がなくてさ。…いくつかは食べたけど、だいぶ残しちゃったんだ。」
「あれ? じゃあ宿題は? どれがレナの手作りか、ってのの回答は?」
「圭一《けいいち》くん、宿題忘れなんだって。あはははは。」
「……ありゃあ……じゃあ仕方ないねぇ、罰ゲーム。…いっしっしっし!」
嫌らしい笑いを浮かべると、魅音《みおん》は席へ戻って行った。
そんなやり取りをクラスメートが不審がる様子はなかった。
そりゃそうだ。
今朝までのやり取りを誰が聞いたって。…不審な様子があるわけがない。
だからこそ……怖かった。
前原《まえばら》圭一《けいいち》という一個人にどんなハプニングが起ころうと、絶対に疑われなさそうなそんな素振りが…逆に恐ろしかった。
やがて先生がやってきた。
俺の体調を尋ねると出席を取り、そしていつもの退屈な日常を再開した。
■作戦会議の授業中
自習状態の授業中は、今の自分の置かれている立場を考えるのに都合がよかった。
俺は軽く目を閉じ、自分が置かれている理不尽な状態について考えてみることにする。
まず…忘れてはならないのは…自分がどれほど危険な状態にあるか、だ。
自分は彼女らにとって好ましくないことを知る人間になってしまった。
大石《おおいし》さんと何度かの接触を重ね、核心に迫ろうとしているかに見える。
昨日のおはぎはそれへの警告だと考えるのが妥当だろう。
……いや、…警告という言い方自体、相も変わらず女々しい言い方だ。
彼女らにとってあのおはぎは俺を萎縮させ時間を稼ぐ意味しかないだろう。
…俺を完全な方法で「消し去る」までの………時間稼ぎ。
俺が脅しに屈したって、知りすぎた人間には変わらないのだから。
その時、机のひんやりとした手触りが、去年までこの席を使い、そして失踪した男、北条《ほうじょう》悟史《さとし》のことを思い出させた。
彼もまた…俺と同様だったのだろうか?
余計な事まで知ってしまい……消されてしまった…?
………くそ…! 俺は…簡単に消されたりはしないぞ……絶対に…!!
だが…本当に俺は命を狙われているんだろうか…?
レナたちを疑いながらも…同時にかばうような、そんな二律背反の気持ちはさっきからずっとあった。
不審な行動・言動をあれだけ目の当たりにしながらも、こうして朝日の中にいると全部ウソなんじゃないかと思えて……いや、思い込もうとしてしまう。
俺は仲間を疑っている?
かばっている?
命を狙われている?
いない?
本当にずれた論点だった。
自らが置かれている現状を思えば…そんなのはとっくの昔の論点のはずなのだ…。
なぁ……本当に俺は…命を狙われているのか…? レナたちに……。
そんな俺の煮え切らない思考を、俺の中のもうひとりが罵倒した。
馬鹿かよ前原《まえばら》圭一《けいいち》!! そんなのは決まってるじゃないか!!
で、…でもひょっとしたら……裁縫針は本当に偶然の、事故かもしれないだろ…?
裁縫針がどう間違ったらおはぎに混ざるんだ?! お人好しも大概にしろ!!
確かにレナも魅音《みおん》も…不審な態度や言動があるけど…ひょっとしたら何かの誤解で…。
何の誤解だよ?! 不審どころか…異常なのは明白だろッ?!
レナには嘘を正されただけだし……魅音《みおん》には昼飯を聞かれただけだし……。
そのレナは部屋の前で1時間も聞き耳を立ててたんだぞ?!
そ、それはきっと…俺の電話が終わるのを待ってて……。
1時間もずっと部屋の前で?! そしてそのまま何も告げずに帰るか普通?!
………………。
大石《おおいし》さんに聞かされただろ?! レナが前の学校で何をしたかを!!
で、でも…それはオヤシロさまのせいだって病院で……。
「いい加減にしろよ前原《まえばら》圭一《けいいち》。お前、命を狙われてるって自覚、あるのかよ?!」
ッ?!
それは自分が、無意識の内に口にした言葉だった。
自らのあまりにストレートな言葉に…しばし呆然とし、誰かに聞かれはしなかったかと周りを伺った。
……今の独り言は…あまりに真を突いていた。
俺はレナたちから殺意を感じながらも、…心のどこかで、それを否定している。
この期に及んで…そんな躊躇は命取りだ。…それはわかってる。
だが…俺は平均的な男子生徒で……ごく普通の生い立ちのごく普通の男なんだよ!
先週の日曜日まで楽しく笑い合ってた仲間たちが…自分に殺意を抱いてるなんて…急に信じられるかよ…?! なぁ…?
「甘えるな圭一《けいいち》ッ!!!!」
今度は意識して、自分だけに聞こえるよう下腹に力を入れて小さく叫んだ。
ひとつわかったことがある。
俺は…甘い。
レナたちがどれほど恐ろしい存在なのかを理解していない。いや、理解しようともしていない。
大石《おおいし》さんの心遣いに甘え、核心に耳を貸さなかった。
落胆したふりをすることで、聞かなかった。理解しなかった。逃げていた。
俺に理解できないから殺意はない、などという甘えはもう捨てるんだ…!
そう決意したとき、終業の鐘の音が聞こえてきた。
…早い。
今日という一日はもう終わりだった。
食事をした記憶も、授業を受けた記憶も、何も残っていなかった。
仲間たちは机を向かい合わせて放課後の部活の準備中だ。
今までの俺なら、大喜びであの輪に飛び込んでいくのだろう…。
「あらあら圭一《けいいち》さん? 帰り支度とはあんまりですことよー?」
沙都子《さとこ》の口調があまりにいつも通りで……胸が痛んだ。
「あれ? 圭一《けいいち》くん、今日は都合悪いのかな?…かな? 今日こそ二人で大勝利………はぅ…。」
レナの、せっかく楽しみにしていたのに…という表情が辛い。
なぁ圭一《けいいち》。……実は大石《おおいし》さんが大悪党で、俺をみんなから引き離すために嘘をついてるんじゃないだろうか…?
パシーンッ!!
軟弱な考えを追い払うため、自らの手で頬に平手打ちした。
「け、圭一《けいいち》くん…?」
あぁ…レナは本当に俺を殺そうとしているんだろうか…??
誰か嘘だと言って欲しい。嘘でもいいから嘘と言って欲しい。
……く、また甘えた考えを…!!
俺ってヤツは…どうしてこうまで甘いんだ?!
「だ、大丈夫…? 頭痛いの?」
俺がひとり苦悩する様がレナにはそう映ったようだった。
「顔色悪いよ? ひとりで帰れる? …送ってった方がいいかな?…かな?」
「いや……いい。…ごめん。ひとりで帰れる。部活はみんなでやってくれよ。」
俺が部活に参加しないことを知ると魅音《みおん》が不満そうに口を尖らせた。
「圭ちゃんがリベンジ熱望してたってんで、今日はせっかくこの間の推理ゲームにしたってのになぁ。」
「圭一《けいいち》さんにはリターンマッチに望む熱いハートはありませんですの? なっさけないですわね〜!」
低俗な挑発には乗らない。
特に買い言葉も返さず、俺はカバンを掴んで席を立とうとした。
そんな俺の頭に、すっと誰かが手を乗せた。
「………圭一《けいいち》、具合悪そうです。………かわいそかわいそですよ。」
梨花《りか》ちゃんだった。
小さな手で、精一杯の背伸びで俺の頭をよちよちと撫でてくれた…。
とても気持ちよく、…それがかえって悔しかった。
「…ごめんな。みんな。………じゃ!」
それだけを言い残し、俺は足早に教室を後にした。
俺の背中を見ながら、何やら言っているようだったが、俺の耳には届かなかった。
そのまま昇降口へ向かい、靴を出し、履いて、前へ。前へ。
心を空っぽにしろ……前原《まえばら》圭一《けいいち》…!
あいつらは…どうしてか知らないけど…俺の命を狙ってる!!
怪しげな企みをしていて、俺の挙動を虎視眈々と伺っている連中なんだ!!
でも…憎めないッ…!!
だって……仲間じゃないかッ!!!
自らの甘さを悔やむ自分と、それを悔やむこと自体、失ってはならないものを失ってしまったのではないかと悔やむ自分。
自分という人格が体ごと引き裂かれてしまうような…そんな感覚だった。
もしもこれがオヤシロさまの祟りというものなら。…あまりに…辛いじゃないか。
なぁオヤシロさま…、あんたの祟りを信じなかったのは俺が悪かったよ…。
でももう信じる。
絶対信じる。
あんたの祟りは実在する…。
だから、もう本当に……勘弁してくれよ…………。頼むよ…………なぁ…。
■夕食
いつになく、夕食はおいしくなかった。
味はなく、匂いもなかった。
…普段なら食欲をそそる味噌汁の湯気ですら、ただの水蒸気としか感じられなかった。
今夜の食卓には親父も一緒だった。
うちでは珍しい部類に入る。
仕事に熱が入れば、食う寝るはマイペース。時間などお構いなしの親父だ。
その親父が食卓に着く、ということは、ちょうど仕事のキリがいいのか、さもなければスランプで不調のどちらかということになる。
「とにかく、作家のモチベーションってものを理解してないんだよ、彼は。」
「タイアップの話だって口約束なんでしょ? そんなにそりが合わないならきっぱりお断りしたら?」
「助け合いの世界だからお互い様だとは思うんだけど…。…これじゃ仕事になぁ…。」
親父とお袋の会話から察するに、あまりムードのいい会話ではない。
……まずい食事がさらにまずくなるのも道理だった。
両親のそんなやり取りを見ながら、俺はぼんやりと今日一日続けてきた思考を続けてみた。
…身近な友人、いや、友人と思っていた人間たちが信用できなくなった今、俺には味方が圧倒的に不足している。
信頼に足りる人間、いざという時に頼れる人間がまったくいないのだ。
…ひとりでも味方がいれば、この絶望的な状況でどれほど心強いことか…。
箸を休め、仕事の話を続ける両親を見上げてみる。
全てを両親に打ち明ける、という選択肢は一番始めに考えた。
雛見沢《ひなみざわ》の誰もが100%信用できなくなった今、唯一信用できるのは自分の両親だけなのだから。
だが……、これまでのことを話したところで、理解してくれるだろうか?
例えばレナ。
転校以来、甲斐甲斐しく世話をしてくれ、毎朝迎えに来てくれ、たまにお裾分けまで持ってきてくれるご近所さんのレナ。
その彼女が俺の命を狙っていると、…どう説明する??
どう説明しても、それに理解を求めるのはとても難しいだろう…。
少々浮世離れした親父はとても理解できないだろうし、神経質なお袋なら、俺を引きずってそのまま精神科につれて行くだろう。
悲しいが…これが俺が築いてきた信頼関係の程だ
仮に理解してくれたとしても…どんなことができる?
真相を暴けるわけでもなければ、俺の命を守れるわけでもない。
…いやむしろ……俺から“余計なこと”を知らされることによって、両親も危険にさらされるようになるわけだ…!
過去の事件の被害者が夫婦丸ごとのことが多かったことを思うと…とても笑えない。
この雛見沢《ひなみざわ》から、前原《まえばら》一家という3人家族があっさりと事故で、もしくは蒸発して消えてしまうということもありうるのだ……。
ここで大事なことは“余計なこと”を知ると危険になる、という点だ。
気味が悪いのは……どうやってヤツらは自分が“知ってしまった”ことを知ったのか、という点だが…
裏返せば、“何も知らない限り”両親に危害は及ばないのではないかという言い方もできるんじゃないか…?
少なくとも俺の場合がそうだ。“知ってから”おかしくなってしまった。
…つまりこういうことだ。
何も知らない両親がいる限り、両親には何も起こらない。
そんな両親がこの家にいる限り、この家はヤツらからの安全地帯になるというわけだ。
……詭弁の上に詭弁を塗り固めた憶測なのはわかっている。
この家だけは安全地帯であって欲しいという、俺の弱気が求めたご都合主義だ。
…表よりは安全という程度で、…絶対安全ではないことをよく理解しなくてはならない。
両親が頼りない…、いや、両親を巻き込めないことはわかった。
なら俺に味方してくれるような人は……大石《おおいし》さんしかいないことになる。
大石《おおいし》さんは現在の俺の状況を理解している唯一の人間だ。
俺の身の安全こそ軽んじているが、事件解決に情熱を燃やしているのだけは間違いない。
……ちょっと悔しかった。
…こんな事態になった大元は大石《おおいし》さんのせいなのに、その事態を打開するのにまた大石《おおいし》さんの世話にならなければならないとは……。
つまり……大石《おおいし》さんの目論み通りに進んでいるわけだ。
俺は海に蒔かれた餌で、波間を美味しそうに漂うのが仕事。…そして、俺の周りに魚たちが群がってきたところで大石《おおいし》さんがそれを一網打尽!
少し悔しいが、……それがベストとしか思えない。
じゃあつまり……俺はどうすりゃいいんだ?!
…釣りの鉄則は待ちだ。
魚が食いつくまで、ひたすらじっと伏して待ち続ける…。
だが俺は餌じゃない。
食われる直前にあらゆる努力をすることができる。
ヤツらが仕掛けてきた時、なんとかそれを紙一重でかわし、大石《おおいし》さんに引き継がなくてはならない。
無論、簡単ではない。…大石《おおいし》さんに継ぐタイミングが難しい。
大石《おおいし》さんは雛見沢《ひなみざわ》じゃなく、町にいる。だから緊急時に電話をしても、駆けつけてくれるまでに30分はかかるだろう。この30分間を何とか逃げ切らなくてはならない……。
例えば…予め緊急時の待ち合わせ場所を決めておくとか。…俺はそこで大石《おおいし》さんが来てくれるまで隠れていればいいわけだ。
「…よし………少し…見えてきたぞ…。」
疑心暗鬼の暗闇の中にいることに間違いはないが、自分がこれからどう進めばいいのかわかることが、これほど心強いとは思わなかった。
そうだ。
いざと言うときの為に、何か携帯できる武器を用意した方がいいかもしれない。
……代表的なものは折り畳みナイフだろうか。
だが戦うには心細い。
また、社会的に武器だと認知されている点もよくない。
やはり、いざという時は…バットのような長い武器の方が有利だろう。
学校に金属バットがあったのを思い出す。…あれならいざという時、心強い。
…素振りの真似でもしていれば、いつも持っていても不審に思われない。
…明日、早めに登校して確保しよう。
武器の所持が、それだけで相手の行動を抑止する効果があるかもしれない。
あともうひとつ…保険だ。
メモでも書置きでもいい。これからの出来事を簡単に、日記風に書き記しておこう。
もしも、俺が“蒸発”してしまっても日記は残る。
…大石《おおいし》さんは俺の日記を元にヤツらに復讐をしてくれるだろう。
仕事の話に没頭している両親を尻目に、自室へ戻る。
さっそく俺はノートのページを破り取り、机に向かった。
……日記なんて小学校の夏休みの宿題以来だな。
万が一の時、警察は俺の日記を手がかりにするのだ。…だから事実のみを簡潔に書こう。
書き出しはどうしよう……。
思いつくままにさらさらっと書き出してみる。
“私、前原《まえばら》圭一《けいいち》は命を狙われています”
ちょっと苦笑した。よく推理小説に出てきそうなこんな文章を、自らが書く羽目になるとは…夢にも思わなかった。
“なぜ、誰に、命を狙われているのかはわかりません”
レナたちを疑わしいと思っているが、確証はない。……だからこれ以上のことは書けないだろう。
あまりにミステリーめいた文章に、自嘲気味に苦笑いしてしまう。
この文字通り謎めいた文章を読んで、警察になんらかのヒントになるだろうか。
なることを祈るしかない。
…一番祈りたいのはこの日記の出番が訪れないことなのだが…。ここでやはり苦笑する。
あまりに簡素だったので、思いつくままにもう1行加えてみた。
“ただひとつ判る事は、オヤシロさまの祟りと関係があるということです”
これはさすがに…書き過ぎか…?
……これ以上は書かない方がいいかもしれない。……これ以上を書き連ねると妄想日記になってしまう。
書き手の冷静さをアピールする意味ではこれ以上のことは、現時点では書くべきではない。
……新しい事実が判った時、書き足せばいいだろう。
俺はそのメモを畳み、どこに隠したものか思案する。
……簡単な場所に隠したのでは、万が一の時、ヤツらに見つけられてしまう恐れがある。
逆に難解な場所では、誰にも見つけてもらえなくなる危険性がある…。
考えた末、俺は壁に掛けてある時計を外し、その裏に畳んだメモをセロテープで貼り付けることにした。その後、元通りに時計を掛け直す。
…うん。とても裏に隠してあるようには見えない。
あとは、このメモを「俺に何かがあったとき」両親に見つけてもらえるよう、仕掛けるだけだ。
角度を変えて何度か見直し、納得したところで俺は階下へ戻る。
両親はまだ飽きもせず仕事の話をしていた。
しばらく待っても話は途切れそうになかったので、自分から切り出すことにする。
「あー、話し中ごめん!! ……ちょっと聞いてもらっていいかな。」
俺がこういう切り出し方で話すことはないので驚いたのか、両親はぴたっと話しをやめて振り向いてくれた。
「どうしたの圭一《けいいち》?」
「お願いがあるんだけど、聞いてほしいんだ。……その、もしもだよ?」
「圭一《けいいち》、急ぎの話じゃなきゃ後にしなさい。お父さんとお母さんはちょっと今、急ぎの話をしているんだ。」
こっちより急ぎの話だとは思えない。とにかく用件を伝える。
「もしもだよ? 俺が死んだらさ。」
両親が目を丸くする。
「死んだらさ。……俺の部屋にある時計、あれを棺に入れてほしいんだ。」
そうすれば気付いてくれるだろう。あの日記のメモに。
両親は目を丸くしたまま微動だにしない。
……無理もないかもしれない。
「あの時計、工作の授業で作ったお気に入りなんだ。頼むよ。」
「…どうしたの。圭一《けいいち》。……何かあったの?」
お袋が怪訝な顔でようやく口を開いた。
突然息子がこんなことを言い出したら、普通こういう反応を返すだろうな。
心配をかけて申し訳ないが、今は俺の部屋の「時計」を意識さえしてくれればいい。
シンとして、すっかり居心地の悪い空気になってしまったので、自室へ戻ることにする。
「俺さ、明日は早くに学校に行きたいからもう寝るよ。お休み。」
それだけを言い残し、居間を出た。
明日は早い内に登校し、武器のバットを確保しよう。
レナとの登校も今日限りにすべきだ。
階段を上る時、お袋が俺の名前を呼んだが聞こえないふりをした。
両親に相談できることなど何もない。
相談すれば…その分、危険が増えるだけだ。
誰にも頼ることのできない、俺だけの、たったひとりの戦いが始まる。
俺は殺されない。…こんなわけも判らない内には…絶対に。
<幕間>
13■元気ないね。
「最近、圭一《けいいち》くんの元気がないね。機嫌が悪いのかな。」
「さぁてどうしたんだろうね。生理でも来てんじゃないのー?」
「みみ、魅ぃちゃんそれ下品…!」
「うっひゃっひゃっひゃっひゃ!!」
「……どう思う?」
「さーね。」
「………。」
「圭ちゃん、ひょっとして…。………かな?」
「……わかんない。」
「あの日、圭ちゃんと車で話してたの、中年のでっぷりした男だったんでしょ?」
「うん。間違いない。」
「大石《おおいし》のヤツ、圭ちゃんに何を吹き込んでるのかなぁ…。」
「真剣そうだったよ。圭一《けいいち》くんは顔面蒼白だった。」
「………あのねぇ、レナはよく知らないだろうけど、
実はあいつ、オヤシロさまの使いなんだよ。」
「え? 何の話?」
「あいつが現れるとね、…必ず鬼隠し《おにかくし》が起こるの。……本当だよ。」
「…………あれ? そうなの?」
「……一昨年、梨花《りか》ちゃんのお母さんが入水したでしょ? その直前に大石《おおいし》が尋問してたんだよ。」
「………そう言えば、悟史《さとし》くんが転校する前にもいたね。」
「転校〜? あはははははは、レナはいいヤツだよなぁ。」
「で、今度は圭一《けいいち》くんの前に現れたんだ。……じゃあ圭一《けいいち》くんも鬼隠し《おにかくし》になっちゃう?」
「……………………。」
「……………………。」
沈黙の空白がじんわりと続く。そしてふと途切れた。
…哄笑だった。
■14日目(金)
これほどはっきりと意識が戻る目覚め方をしたのは初めてだった。
仕掛けた目覚ましがなる直前の5時59分。…自身の体内時計の正確さに驚く。
寝る前に登校の準備は全て済ませておいた。
手早く着替え、ひと気のない階下に降りていく。
まだお袋も寝ているようだった。…朝食も弁当も用意がない。
昨日、一方的に明日は早いと告げただけだから仕方ないのか。
食パンとジャムを並べ、あとインスタントのココアを付け、何とか朝食の体裁を整えた頃、もぞもぞとお袋が起き出して来た。
「…あら圭一《けいいち》、今日は早いのね。……学校の行事か何か?」
「別に。」
そっけなく返事をし、パンを2枚胃袋に収めると俺はカバンを掴み立ち上がった。
「もう行くの? お弁当は? もうちょっと待ってくれないとできないわよ。」
弁当ができるのを待っていると、いつもと変わらない時間になってしまう。
そうすれば、途中でレナや魅音《みおん》に出くわす率が高くなる…。
そう。今日からはひとりで登校するのだ。
「今日はいいよ。」
「じゃあお昼はどうするの?」
「抜け出して商店で菓子パンでも買うよ。」
「そう? …じゃあこれお昼代ね。ちゃんとレシート持ってくるのよ。」
お袋から千円札をもらい、それを無造作にポケットにねじり込む。
「こんなに早いけど、レナちゃんたちもこんなに早いの…?」
「いや。俺だけ。」
「…レナちゃんには早く出るって伝えてあるの?」
……そんなことまでいちいち聞かれる筋合いはないだろ…?
いちいち説明しにくい質問攻めに、俺はうんざりとした顔を返した。
「レナが来たら、圭一《けいいち》は先に行ったって伝えてよ。」
「ちょ、ちょっと圭一《けいいち》?! 待ちなさい…!」
両親を信用しないわけじゃない。…だが頼りにもならないのも事実だ。
俺の助けにならないなら…せめて関わり合いにならないでいてくれ。その方が安全なんだ。
お袋の耳障りな声を、扉をぴしゃりと閉じて遮る。
俺は転校してきてから初めて経験する、たったひとりの登校路に足を踏み出した。
今まではいつも同じ時間に同じ場所を歩いていた。
だから、会う人もいつも同じところで会っていた。
だが今日は違う。
会うはずの人に会わず、いるべきところにいるべき人がいない。
もちろん、いつもの待ち合わせ場所にレナはいなかったし、魅音《みおん》との待ち合わせ場所にも誰もいなかった。
木々の影の長さも朝の空気も日の強さも、俺が良く知っている朝のそれとはまったく違う。
それは紛れもない違和感だった。
雛見沢《ひなみざわ》という土地が用意したシナリオを俺が破ったため、俺を騙すために配置されている配役が配置に間に合わなかった……、そんな印象を感じずにはいられなかった。
「…あぁら圭一《けいいち》くん。今朝は早いわねぇ。みんなで早朝から待ち合わせ?」
話しかけてきたのは、いつも畑のあぜを散歩していてすれ違う人だった。
……名前は…えぇと……忘れた。…もちろん、すれ違う場所もいつもと違う。
「今朝は早くに目が覚めちゃったので…気分転換なんです。あまり気にしないで下さい。」
適当にはぐらかすことにする。
「レナちゃんや魅音《みおん》ちゃんはどうしたんだい? 今日はひとりなの?」
「えぇ、…まぁ。」
お袋にされたのと同じような問いかけをされる。
だからお袋にしたように、曖昧に味気ない返事を返した。
…いちいち人に会うたびに、レナたちの同行を聞かれるのは面白くなかった。
もっとも、無理もないことなのかもしれない。
…あれだけ長い時間、いつもいつも一緒に、仲良く過ごしていたのだから。
俺だって、気を許せば今でもみんなとは仲、……………………。
…よせ圭一《けいいち》。それ以上は考えるな。
そんな甘さがどれほど危険か、昨日一日ずーっと考えたじゃないか…。
パッパッパーーッ!!!
突然の車のクラクションだった。
いくら考え事をしていたにしても、そのクラクションはあまりに俺の至近距離だ。
背後より高速で迫るその無機質な巨体の接近に、俺はあまりに無警戒だった。
後ろを振り返ったときには、その大型のワゴン車の巨体はすぐそこにあった。
歩行者を避けるために逆の路肩に寄る車はいくらでも見かけるが、この車は逆だったのだ。
それはまるで、反対の路肩に誰かがいて、それを避けるためにこちら側にはみ出てきたような……そんな感じだった。
そんな平和ボケした思考の遅れはもっともっともっと大切なことに気付くのを遅れさせる。
眼前に迫ったその巨体。……俺は「轢かれる」ッ?!?!
瞬間的に頭の中に痛いくらい冷たい液体が満たされる…!!
その瞬間、目の前の光景、いや、時間が凍り付いた。
その無音の凍った時間の中で、俺は避ける術もないくらい眼前にせまったワゴン車と、後ろに振り返るために半身をねじった無様な姿を見比べた。
こんな体勢では飛びのいて回避するなんて芸当はできるわけがない…。
気を許せば、すぐにでも凍った時間は動き出し、この間抜けな姿のまま俺を弾き飛ばすだろう。
上体を路肩の田んぼに反らすんだ。
…うまく反らせば、サイドミラーに殴られるだけで済むかもしれない…!
そう思った瞬間、凍った時間が車の爆音で打ち砕かれた。
サイドミラーが俺の肩を殴り飛ばし、俺のねじれた体勢をそのままぐるぐると、コマのように回転させて弾き飛ばす…ッ!!
ドッパーン!!!
きりもみ状態で吹き飛ばされた俺は、路肩の泥田に叩き込まれていた。
全身泥まみれのびしょ濡れ…!!
だが、あの瞬間に選べた選択の中では一番のものだったに違いない。
泥まみれだったが、車にはねられたことを思えば限りなく無傷に近い状態だった。
田んぼから起き上がり、停車しているワゴン車を睨み付けて馬鹿野郎と怒鳴りつけるだけの余裕があったのだから。
俺のその様子を見届けたのかどうなのか、ワゴン車は急発進し逃げ去っていった。
「待てよクソ!! これって……轢き逃げって言うんじゃねえのかよッ?!」
悪態をつかずにはいられない。
身体的ダメージよりも全身泥だらけによる精神ダメージの方がはるかに大きかったからだ。
俺は泥田の中をどっぷんどっぷんと歩き、道路に這い上がる。
「これって犯罪じゃねえのかよ畜生…!!」
くっそう!! 絶対に見つけて訴えてやるからな!! この狭い村の中で、ワゴン車なんて探せばきっと見つかるんだからな…!!
今、俺がいた道は両側は田んぼで車一台がようやく通れるくらいの細いものだ。
歩行者を追い抜けるどころか、アクセル全開で走り抜けるような道では絶対にない。
しかも今の車は追い抜く時、ただでさえ狭いこの道で、さらに俺側に寄せて走ってきた…。
…悪態をつきながらも、心の奥で必死に黙殺していた黒い影がもやもやと沸きあがってくる。
轢き逃げとかそういうのじゃなくて……今の車、……俺をはねようとしてたんじゃないのか…?
思い出してみると…少し前から俺の後ろをずっと車が、徐行でついてきていたような気がする。
そう、さっき散歩中の人と別れてからくらいから…ずっとのような気がした。
俺を追い抜きたいなら、いくらでもチャンスがあったはずだ。
普段の俺なら不審に思って振り返っていただろう。
だが…考え事にうつつを抜かし、そんな気配に気付き損ねたことを悔やむ。
そして…道が細くなり、ひと気がなくなったのを見計らって……アクセルを…。
一瞬判断が遅れていたら…笑い事では済まなかったはずなのだ。
はねられたことによる興奮が冷めてくると……俺はようやく今起こったことがどれほど恐ろしいことか…理解できてきた。
あの車は間違いない。俺をはねるべくしてはねに来たのだ…。
冷たいどろりとした液体が俺の脳からこぼれ、つつーと俺の背中を伝って滴り落ちていく。
……ある種の錯乱状態に陥りそうな自分を、ぎゅっと自制する。
本当にただの偶然の事故の可能性だってある。
……落ち着け圭一《けいいち》!!
だけど甘えるな圭一《けいいち》!!
あんな弛んだザマじゃ次には殺されてるぞ!!
常に警戒するんだ。
隙を見せちゃいけない!!
もしも敵に俺を殺すつもりがあるなら、次はもっともっと確実な方法で襲ってくるだろう。
その時にも今のようなザマだったなら……!!
…俺はこの泥まみれを自らの甘さの代償として受け入れることにする。
泥まみれなだけでまったくの無傷。ねんざとかもしなかった。
こればかりは不幸中の幸いと言えるだろう。
今度こそ用心深く、俺は歩き始める。
もう微塵の油断もしない。
俺は今までレナたちだけを疑ってきた。
…いや、レナたちを疑うことによって、レナたち以上に敵がいないと信じようとしてきた。
大石《おおいし》さんが言ってたじゃないか…。
…犯人は村ぐるみの可能性があるって…!!
そんな状態に陥ってまで、俺は日常の生活をしなければならないのだろうか…?
自宅に閉じこもっているのが一番安全ではないのか…?
だが…俺が日常を放棄した途端に、周り中全ても日常を放棄してくるのではないだろうか…。
それは余りに恐ろしい想像だった。
大石《おおいし》さんがしてくれた雛見沢《ひなみざわ》の、まだ鬼ヶ淵《おにがふち》と呼ばれていた頃の昔話を思い出す。
鬼たちは村中総出で獲物を追い回し、囲んで、食らい殺したという、恐ろしい話。
鬼の狩りは邪魔をしてはいけない。
見て見ぬふりをしなくてはならない…。
敵は複数、村ぐるみ。…祟りを妄信する村人たちは俺を助けない。
急に強くなった日差しが俺に軽い眩暈を起こさせた。
………もう何が何だかわからないよ…。
人間の仕業を疑えばオヤシロさまの祟りの影がちらつき…、
オヤシロさまの祟りを疑えば人間の影が見え隠れする。
何が偶然で何が恣意的なのか。
…誰が敵で誰が傍観者なのか。
いやそんなことよりももっともっと知りたいのは……、なぜ自分が命を狙われるようになってしまったのかだ。
いつかきっと…俺にだってわかるような形で答えが出るに違いない…。
それがいつだって構わない。
……それまで…絶対に死んだりはしないからな……!
それだけが、俺の生き抜こうとする闘志だった。
■学校にて
武器となる金属バットは確か体育倉庫の中で見かけたが、扉には南京錠がかかっていて入れなかった。
せめてみんなが登校してくる前には確保したい…。
少し焦りながら校舎の周りをぐるっと回った。
だが見つかるのは角材のようなものばかりで、とても教室に持ち込めるとは思えない。
なら…逆転の発想だ。…教室で探せばいい。
教室の中にあるものなら問題ないわけだ。
昇降口の下駄箱には、全員の上靴が入っているのがわかった。
早く来た甲斐があった。まだ誰も来ていない。
教室の中に…何があるだろう?
バットのような強力な武器があるとは思えなかった。
だが今は仕方がない。
体育倉庫が開くまでの代用品が必要だ。
…これまでなら、学校にいる間は襲われないだろうというある種の甘えがあった。
だが…そんな甘えた考えではもはや俺の身は守れないのだ。
ヤツらは少しずつ、俺の生活の不可侵だった部分に踏み込んできているように思う。
…やがては…自宅すらも安全ではなくなるかもしれない。
……それはとても恐ろしい考えだ。
…だが、最悪の事態から目を逸らすことの方が、かえって恐ろしいことのように思える…。
とにかく生き残るんだ。
…生きてさえいれば、この理不尽の迷宮から抜け出すことがきっとできるのだ。………きっと。
教室の探索はすぐに行き詰った。
当り前だ。
教室に武器になるものが転がっているわけがない。
有事の際には自らの椅子を振り回すくらいしかないのだろうか…。
そんな俺の目に私物入れと化したロッカーが映った。
魅音《みおん》が部活の備品と称してゲームを大量にしまい込んでいるロッカーもそのひとつだ。
クラス全員の分がずらーっと並んでいる。もちろん、俺のロッカーもある。
そうだ、俺のロッカーの中にはジャージがあったっけ。
…この泥だらけの様子ではさすがに変だ。あとで着替えておこう…。
…その前に武器だ。
誰かクラスメートが来てしまったらロッカーが漁りにくい。
手早く、端のロッカーから順に開けていく。
中身はほとんどが体操服等の着替えや私物、傘などだった。
……傘か。
…もしも何も見つからなかったら武器にしよう。
ろくな物が見つからず諦めかけた時、開けたロッカーの中に望みの物があった。
それは紛れもなく金属バットだった。
使い込んだものらしくだいぶ汚れてはいたが、実用には申し分なかった。
かび臭いロッカーの中には他にも野球チームのユニフォームも吊るしてあった。
きっとこのロッカーの生徒は少年野球のチームか何かに所属しているのだろう。
……だとしたら返せと言われてしまうだろうか。
その時、ろうかをぞろぞろと騒ぎながら歩いてくる子供たちの声が聞こえてきた。
その中に混じって、沙都子《さとこ》と梨花《りか》ちゃんの姿もあった。
「…おはようございますです。」
「あらあらあら、今朝はお早いですわね圭一《けいいち》さん。」
握っているバットをさりげなく背中に隠す。
「な、何なんですのその身なりはー?! 泥だらけでしてよ?!」
「あ、あぁ、まぁちょっとあってな。すぐ着替えるから勘弁しろ。」
そう言って、さっそく脱ぎ始めると想像通り沙都子《さとこ》が赤面しだす。
「レ、レディーの前でお着替えなんて、躾がなってませんことよー!!」
「着替えをじーっと見てるレディーも躾がなってないと思うぞ。男子は更衣室がないんだから諦めろ。」
沙都子《さとこ》は呆れたふりをすると、赤面したまま廊下へ出て行った。
逆に梨花《りか》ちゃんは俺の着替えようとするところをじーっと見ている。
「…梨花《りか》ちゃんもレディーなら、着替えを見てるのはよくないと思うぞ。」
「ボクはレディーじゃないですからいいのです。」
わざと拗ねるような表情を浮かべて、俺を上目遣いにじっと見つめる。
「……じゃあ梨花《りか》ちゃんも今からレディーだ。」
「レディーなら仕方ありませんです。」
梨花《りか》ちゃんは自分もレディーと認めてもらったことに満足すると、沙都子《さとこ》を追って廊下へ出て行った。
ほっと胸を撫で下ろした時、梨花《りか》ちゃんが足を止め、振り返った。
「…圭一《けいいち》は野球を始めますですか?」
梨花《りか》ちゃんが金属バットに気付いたようだった。
「あぁ…ちょっとさ。…体がなまってさ。ちょっと素振りでも始めようかなってな…。」
「健康に気を使うのはとても良いことだと思いますです。」
見かけによらずババくさいことを言う。
それだけを言って出て行こうとする梨花《りか》ちゃんは足を止め、再び振り返った。
「そのバット、なくさないで下さいね、です。」
人のロッカーから拝借したものだということはバレているようだった。
ロッカーの扉には名前は貼ってなかった。
誰のバットだかわからないが、文句を言われるまでは拝借させてもらおう。
体育倉庫が開くまでの短い間なのだから。
俺は手早くジャージに着替えると、時計を確認した。
早く来ただけあり、まだ始業までには余裕がある。
俺はバットを片手に校庭へ出ることにした。もちろん素振りのためだ。
俺がいつもバットを肌身離さず、素振りをしている、という既成事実を作らなければならない。
いつの間にか日差しは強くなっていた。
登校してくるクラスメートたちを尻目に、俺は校舎脇の日陰を陣取る。
別に俺は文系じゃないが、かといって体育系でもない。
いきなり素振りなんか始めたら筋肉痛でも起こすかもしれないな。
…一応、準備体操から始めるか。
…その様子はとても健康的でさわやかそうに写るに違いない。…俺の内心とは裏腹に。
金属バットを握り締め、軽く振る。
…手ごたえは決して軽くない。
だがその分、いざという時に頼もしい武器となるだけの重みがあった。
もちろん、武器として使うときがこないことを祈るしかない。
…これを持つことによって、俺への何らかの攻撃が躊躇されるかもしれない。
その効果に期待したかった。
「あれぇ?! 圭ちゃん?!?! あんた何やってんの?!」
すっとんきょうな声が浴びせられぎょっとした。
「わ、圭一《けいいち》くん、…野球部だよ? 野球部だよ??」
レナと魅音《みおん》だった。
「先に行ったって言われて驚いたけど……圭ちゃん、あんた何やってるわけぇ?」
「見てわからないかよ。素振りだよ甲子園だよ。別にダイエットでもいいぞ。」
「…ダイエットって圭ちゃん、そんなに太ってたっけぇ?」
「あぁ知らなかったろ。実は三段腹なんだ。モチモチでタプタプなんだぞ。」
「…モ、モチモチでタプタプ……。」
「……レナ。変な想像しなくていいぞ。」
レナの下品な想像をかき乱すため、ぐしゃぐしゃと乱暴にその頭を撫でてやる。
「じゃあまぁ、頑張って県大会を目指してちょうだいよ。おじさん、応援してるわ。」
「…県立大島が強いらしいよ。左腕の亀田くんがすごいんだって。…頑張ってね!」
なんだかいつの間にか球児にされてしまったが、まぁいいか。
確かに俺が本当に出場したら甲子園なんてオチャノコサイサイだろう。
何しろ、ピッチャーもキャッチャーも俺ひとりなのだ。
自分で投げて、投げたボールを追い抜いてキャッチャーに早変わりし、それをキャッチできるだけの超々瞬発力があるのなら。
その光景のあまりのマヌケさにしばし苦笑する…。
それから我に返り、俺は持っていたバットで地面を強打した。
「………くそッ!!! 何笑ってんだよ、俺ッ!!!」
何度も何度も地面を殴りつける。…その度にがつんがつんと伝わる振動が痛かった。
あんな風に微笑まれたら…俺は………俺は…ッ!!
誰にも気を許すなって、誰も信用できないって、そういくら自分に言い聞かせても……あんな風に微笑まれたら……俺はッ!!!
やさしく微笑む仲間たちに魔性が潜んでいることを俺はよく知っているじゃないか!
……でも……やっぱり信じられないよ。
あんな二重人格みたいなことって本当にあるのか…?
レナが医者で告白したように……オヤシロさまに取り憑かれてたんじゃないだろうか…?
つまり……オヤシロさまという超常存在が実在して、みんなに憑依して俺の命を狙っている…?
あぁ…そうだったらどんなにいいことだろう…。
みんなは元からいい友人で、全てはオヤシロさまのせいなのだ…。
「前原《まえばら》圭一《けいいち》の馬鹿野郎ッ!!!!! だからッ!」
そう腹の底から力の限り叫び、思い切りバットを振り上げる。
「…甘えるんじゃねえぇえぇええぇッ!!!!」
渾身の叫びと共に、振り上げた金属バットで何度も大地を叩きのめす。
ひとつ殴る度に、自分の甘さを打ち消していく…。
殴る。忘れろ。
殴る。甘えるな。
殴る。敵を知れ。
殴る。殺されてたまるか。
肩で息をしながらようやく冷静さを取り戻したころ、始業の振鈴が聞こえてきた…。
■下校へ
はっと気付く。…………それは終業のチャイムだった。
全身の緊張が解け、俺は深く息を吐いた。
一日中、気を張り詰めているような、眠っているような、どっちともつかない灰色の時間だった。
それはとても心地いいものとは言えなかったが、学校という神聖な日常が侵されずに済んだという安堵にも感じられた。
いつまで俺はこんな気持ちで暮らさなければならないのだろう…。
耐えるだけの光明の見えない責め苦は、俺を少しずつ痛めつけている。
「圭一《けいいち》くん! やろやろ! 部活の時間なんだよ。だよ!」
突然のレナの声に俺は我に返った。
「ほらほら圭ちゃん、ぼーっとしない! 机を寄せて寄せて!」
みんなはまたいつものように、机を向かい合わせている。
そう、楽しい楽しい部活の時間なのだ。
だが俺はそれに加わるつもりはない。
机の中身を乱雑にカバンに詰め込み帰り支度を始める。
俺は先に帰るよ、という言葉を出すことができない、自分なりの女々しいジェスチャーだった。
「……なんだよ圭ちゃん。今日も直帰なわけぇ…?」
魅音《みおん》の口調は露骨に不満げだった。
「…気分が乗らないんだ。しばらくほっといてくんないかな。」
俺の口から出た言葉は、魅音《みおん》の不満げな様子に負けないくらい不満げな声色だった。
なんだか空気が乾いた気がした。
沙都子《さとこ》が何を言おうとしたが、その空気を嫌ったのか、言葉を飲み込むと黙ってしまった。
誰も何も言わない。…だから俺は教室を出て行ってもいいはずだった。
だが4人の眼差しはまるで昆虫標本の虫ピンのように、俺をこの場に縫い止めていた。
その乾いた空気を破ったのはレナだった。
「……………圭一《けいいち》くん、…やっぱり女の子と一緒に遊ぶのなんか、…嫌だったかな。……かな。」
胸の内に痛みの走るいやな声色だった。
この痛みで俺が死ねるなら、痛みを感じてしまう甘えた自分をいっそ殺してほしかった。
俺は胸元を掻きむしり、俺を縫い止めている虫ピンを乱暴に引き抜く。
「そういうわけじゃねえよ…!」
それ以上はどんな言葉を続けても、自分も傷つけてしまいそうだったのでぐっと飲み込んだ。
そこで区切り、俺はきびすを返して教室を出て行く。
その背中には何の言葉をかけられることもなかった。
■下校中・レナとの不穏な会話
退屈で長い帰宅だったが、俺は気を許すことはなかった。
ぎゅっと握り締めた金属バットの柄はすでに汗でぬめっていた。
それに気付き、俺はいざという時、汗で滑らないよう袖で拭い取る。
俺は今朝の一件以来、車の気配には敏感になっていた。
だから歩きながらもじっと耳を澄ませ、不穏な音・気配の接近を探っている…。
だからこそ気が付いた。
それは紛れもない足音だった。
その足音は少し前から俺をぴったりつけていた。
気配から察するに…………それはひとりだった。…だが油断する気はない。
今朝の車のように、俺を襲うのに都合のいい場所にたどり着くまでつけてくる気だろうか…?
だとしたらこのまま歩き続けるのは得策ではない。
俺は歩みを止めると、後ろを振り返った。
木々でうっそうとした林道は、まるで初めから誰もいなかったかのように静まりかえっている…。
だが俺は騙されない。確かに足音がずっとつけてきていたのだ。
そして俺が立ち止まると同時にその足音も止んだ。
…つまり、後続者は俺との距離を維持したいのだ。
それは紛れもなく、俺を意識している証拠だった。
息を殺し、その気配が焦れて動き出すのを待つ…。
木々がそよ風にざわめく。
ひぐらしも不愉快に合唱し、俺の集中力を乱そうとする。
5分は経ったのか。それとも30分はこうしているのか…。
……窒息しそうなくらい息がつまり、焦れたのは俺の方だった。
その木陰で息を殺してこちらをうかがっているのは間違いないのだ。
…なら…こっちから仕掛けてやる…!
俺はバットの柄を握り直す。…いつでも振り下ろせるよう、それを肩に担ぎ上げた。
「…おいッ!!! いるんだろ、そこにッ!!」
力の限り精一杯、俺は木陰でやり過ごそうとするそいつに怒鳴りつけた。
だが…その木陰の気配は微動だにしない。
俺が見つけるその瞬間まで、自ら正体を明かすつもりはないのか……。
「わかってんだよッ!!! そこにいるのはよッ!!!!」
もう一度怒鳴ったが、それでもそいつは動かなかった。
ならこっちから近付いてやる!!
慎重に警戒しながら、一歩一歩近付いてゆく…。
木陰を大きく回りこむと…そこには人影があった。
その人影は……小動物のように縮こまっていた。
「………レナ…!」
…レナは俺に見つかったことに気付くと観念した表情を浮かべた。
だが申し訳なさそうにするだけで、決して口を開くことはなかった。
「……何か俺に用かよッ…!」
沈黙を許さない俺は、間髪入れずに怒鳴りつける。
「べ、別に……その………えっと…、」
レナは目に涙を浮かべながら狼狽する。だが俺をつけていたことは明白だった。
「部活はどうしたんだよ。」
「………け……圭一《けいいち》くんがお休みしたから…レナもお休み……。」
「関係ないだろ! 俺なんか気にしないで遊んでろよ!」
「…だ、…だって……圭一《けいいち》くんのこと…心配で……。」
ここ最近の自分の振舞いを思えば、俺の様子が変に見えても不思議はあるまい。
だからレナが気を使って……という流れは一見自然なように思えた。
……だが、俺は安易に気を許さないよう気をつける。
だったらこんな尾行するような真似はしなくていいはずなのだ。
…下校する俺に声をかけ、堂々とついてくればいい。
だがレナはそうしなかった。
常に俺と一定の距離を保ち、歩速を合わせていた。あまつさえ足音まで合わせ、その気配を巧みに隠そうとしていた。
そして俺が気配に気付いたこと気取ると今度は息を殺し、こっそりと隠れてやり過ごそうとしたのだ。
慈悲を請うような表情を弱々しく浮かべているが、レナがしていたことは間違いなく………尾行なのだ。
「もうついてくんなよ。」
「は、……はぅ…。」
俺はレナを睨み付けたまま、ゆっくり歩き出す。
少し歩いたところで、レナが俺の制止を無視して歩き出したので、もう一度怒鳴りつけた。
「ついてくるなって言ってるだろッ!!!」
「ひぅッ!!………だ、だって! …レナの家も同じ方向だし……!」
「じゃあレナが先を歩けよ!! レナが見えなくなったら俺も歩く。」
俺は道を開けるとバットを乱暴に振り、レナに前を歩くよう促した。
「レナは…圭一《けいいち》くんと一緒に……帰りたい…な……。」
哀れみの表情を浮かべながら、俺の胸の痛いところを知り尽くした声色で、レナは細く鳴いた。
……それが無性に腹立たしかった。
嘘だからだ。
一緒に帰りたいなら声をかければよかったのだ。
今さらそんな出任せを…ッ!!!
「ご、ごごごご、ごめんなさいごめんなさい…ッ!!!」
俺の煮えくり返るような腹の底が、そのまま表情に出ていたようだ。
……俺が何も口に出さずとも、レナは俺の胸中を理解したようだった。
「わかったならほら、行けよ!」
バットを振り、先を歩くよう改めて促す。
レナはバットと俺を何度か見比べてから、おずおずと歩き出そうとし、また歩みを止めた。
「…早く行けよ。早くッ!!」
「い、行くから! そのバットをやめてよ…!! こ、怖いの…ッ!!」
レナは自らをかばうようにしながら、俺とバットを交互に指し示した。
このバットが野球に使うためのものでないことに気付いているのかもしれない…。
俺はバットを下ろし、だけれど油断せず慎重に、レナに道を開ける。
「行けよ。…これなら文句ないだろ?」
「…………………………………。」
レナにはもはや抗う術はないようだった。
…俺を刺激しないように、おどおどしながら脇を抜けていく。
そのままその後姿を眺めていると、大して歩かない内にレナがぴたりと立ち止まった。
「おい、立ち止まるなよ……!、」
その時、一際強い風がざぁっと吹き、砂粒が顔を激しく叩いた。
目にも砂粒が飛び込み、視界を涙でぐちゃぐちゃにしてしまう…!
俺は左手で目をごしごしとこすり、そのわずかな隙を補うため、右手では闇雲にバットを振り回した。
だが俺のわずかな隙に、レナが振り返って襲い掛かってくるということはなかった。
…いや、…襲い掛かってこないどころか、レナは身動きひとつしなかった。
通り過ぎた風の軌跡を、スカートをなびかせて教えてくれているだけだ。
スカートの波がゆるりと落ち着き、静寂が戻る…。
その時、俺の中のもうひとりの俺が、何かの危機を鋭く警告した。
……はっとする。
…空気の匂いが……変わった…?
いつの間にか、どんな天変地異が起こっても不思議でないような、奇妙な空気で世界が満たされていた。
その空気はまるで透明なコンクリートで出来ていて、俺とレナの二人をこの空間に埋めて固めてしまったかのようだった。
微動だにしないレナ。……俺もその背中をじっと凝視し、動くことができない。
その静寂を初めに破ったのはレナだった。
とっさに身構える。
……目の前のレナが、レナによく似た別人に豹変したような気がしたからだ。
だが……その声は俺のよく知った声で、困惑に満ちた哀れなものだった。
俺は不謹慎にも、その哀れな声に安堵する…。
「……あ、あの、そのごめんね! ……そのっ、聞いてもいい?!」
振り返るのすらためらって、レナは必死で声を絞り出していた。…震えながら。
「…なんだよ。」
「あ、…あのね、あのね! ど、どうしてバットなんか持ってるのかな。…かなッ!」
…レナの質問は決して逸脱したものではなかった。
「俺が何を持ってたっていいだろ。」
「でも、でも…昨日まで持ってなかったし…! ……ど、どうして突然…ッ!」
「別に突然でもいいだろ。…俺がバットを持ってるとおかしいかよ。」
「だ、だって圭一《けいいち》くん、…野球とかしない人だったでしょ?! おかしいよ…!」
レナの聞きたいことが今ひとつ見えないが、事細かに説明するのは面倒くさかった。
「…突然、野球がしたくなったんだよ。それじゃおかしいか?」
「おかしいよ…!」
即答され、ちょっとむっとする。
「突然野球がしたくなった。素振りがしたくなったから、バットを持ち歩いてる。それのどこが変なんだよ。」
「変。おかしい。絶対。なんで圭一《けいいち》くんまで…。」
「ぶつくさとうるせえ奴だなぁ。…俺がスポーツに目覚めるのがそんなに変かよ!!」
ちょっと暴力的に話を終わらせようと凄んだ。
レナへの疑惑が晴れない以上、説明の義務はないのだ。
「………ご、ごめんねごめんね…! そんなに怒らないで…!!」
レナは振り返ることもできず、びくびくと謝罪の言葉を並べる。
「さ、最後に一個だけ!! 一個だけ教えて…!!」
「…これ以上、話す気も教える気もねぇよ。早く行けよ!!」
強く怒鳴りつけるとレナがびくっと弾かれたように震えだす。
…そのあまりの痛々しい様子に胸がちりちりと痛む…。
だが怖がっているにも関わらず、レナは強固に踏み止まっていた。
俺がもう一押し怒鳴りつけようとした矢先に、レナが最後の疑問を口にした。
「な、なんでバットまで同じなのッ?!?!」
バットが何と同じだって? レナの論点がよく見えない。
「……お前、何言ってんだ…?」
「だから…ッ、…なんでバットまで同じなのかなってッ!!!」
「何を言ってんだか全然わかんねえよ! もっとはっきり言えッ!!!」
それでもレナは振り返らない。ぐっと息を飲み込んでから、叫んだ。
「だから………どうしてバットまで悟史《さとし》くんと同じなのッ?!?!」
「悟史《さとし》…って……………え…?」
思わぬ名前が出、一瞬ぽかんとしてしまった。
悟史《さとし》ってのは…確か去年転校した生徒だ。………いや、違う。
レナは転校したと誤魔化したが、大石《おおいし》さんははっきり失踪したと言った。
俺の席を去年まで使っていた生徒で、去年のオヤシロさまの祟りで鬼隠し《おにかくし》にあったと思われる生徒だ。
失踪にいたる詳細は一切知らない。
同居する叔母が綿流し《わたながし》の晩に麻薬常用者に殺され、そのしばらくの後に忽然と失踪、行方不明になった………。
その悟史《さとし》と俺が……何だって?
俺は握り締めたバットに目線を移す。
………ひょっとして…。
“北条《ほうじょう》悟史《さとし》”
ちょっとわかりにくかったが、バットの柄の部分に貼られた白いテープには確かにそうか書かれていた。
……そうか…これ、悟史《さとし》のバットだったのか…。
「…ぁ、…ぁあ。これ、悟史《さとし》のバットだったんだな。…誰も使ってなかったんでちょっと借りたんだよ。…いいだろそれくらい!」
「そ、…そんなことじゃないのッ!!!」
レナのその言い方はまるで、このバットが触れてはならないものであるかのような…そんな響きがあった。
神棚へのお供え物とか、…死者への遺品だとか…、そんな感じの。
切り替えせず、戸惑うだけの俺を待たずにレナは続ける。
「…悟史《さとし》くんの時と…どうして……どうしてそんなにまで同じなのッ?!」
レナが言っているのは、このバットが悟史《さとし》の物だという以上の何かだ。
「…悟史《さとし》くんもそうだった!!
野球チームには入ってたけど…本当は野球なんか好きじゃない人だったのに………!」
「それが俺とどう関係が……、」
「悟史《さとし》くんも、…ある日突然バットを持ち歩き始めたのッ!!!! チームに入ってただけで…スポーツなんかしない人だったのに…!!」
それがどうした…! そう言おうとして口をつぐむ。
…よく聞け圭一《けいいち》!
レナは何か重要なことを告げようとしている…。
「悟史《さとし》くんもね、…ある日突然、ひとりで登校するようになったの。圭一《けいいち》くんみたいに!!!
そしてね、ある日突然、素振りの練習を始めたの。圭一《けいいち》くんみたいに!!!
そしてね、ある日突然、バットを持ち歩くようになったの。圭一《けいいち》くんみたいにッ!!!!
そしてね、ある日突然…………ッ、………………。」
………そしてある日突然、…何だよ?!
そこでレナは言葉を飲み込んでしまった。
レナの沈黙によって辺りに静寂が戻る。
…そしてようやく、話の全容が飲み込めた。
俺の一連の行為が…悟史《さとし》のそれとまったく同じだと言っているのだ。
それは…どういうことだ?!
俺は今の今まで悟史《さとし》のことなんか忘れていた。
悟史《さとし》を意識した覚えは一切ない。
それどころか、悟史《さとし》が何をしてたかなどまったく知らないのだ。
俺が今日取った一連の行動は、考えに考えた末に取った俺のオリジナルの行動のはずだ。
………それが…悟史《さとし》とまったく同じだと言うのか…???
じゃあ悟史《さとし》は……、いや…そんなことよりも…!!
俺と悟史《さとし》の経過が同じ以上、その先も同じになる可能性は極めて高い…??
「レナ、…ある日突然、…悟史《さとし》はどうしたんだよッ?!」
レナは知っているのだ…。悟史《さとし》がどうなったのかを。…いや、過去の男のことなんかはどうでもいい!
レナは…これから俺がどうなるのかを…知っているッ!!!
「こ、答えろよレナ!! 悟史《さとし》は…どうしたんだよッ!!!!」
そう言いながら、乱暴にレナの肩を掴み、無理やりこっちを向かせた。
レナを強引に振り向かせた瞬間、俺の全身を電気が走りぬける…!!
「言ったよね。圭一《けいいち》くん。」
それは、知らない誰かだった。
少なくともたった今まで話していた竜宮《りゅうぐう》レナでは断じてない。
その声にはたった今まであった怯えや激情は一切ない。
…俺は安易に振り向かせたことをこれ以上ないくらいに後悔する…!
あの……冷たく針のように突き刺さる眼差しに、鋭利な刃物の切れ込みを思わせる笑みを浮かべた口元……。
背筋が凍りつき、思考すらも霜の中に閉ざしていく。
レナの両の眼に貫かれ、俺は目線すらそらせない。
……そしてあの時の恐怖を思い出させるように、レナはその息がかかるくらい間近に顔を寄せた。
…俺の視界の全てがレナで埋まる。
……そして…切れ込んだ口元をさらに鋭利に、孤月のように切れ込ませ、にぃ…と笑った。
「言ったよね。圭一《けいいち》くん。」
ふた呼吸ほど置いて、レナがもう一度同じ言葉を繰り返す。
「悟史《さとし》くんはね、…
“転校”しちゃったの。」
転校って……なんだよ…。
……俺の辞書の中に、レナの言うような意味の転校という単語はない…。
喉も唇もからからに乾き、相槌を打つこともできなかった。
ただ、ごくりと唾を飲み込むことができるだけだ。…
…レナにはそれが頷いたように見えたようだった。
俺をその眼差しから解放し、すっと二、三歩下がった。
その途端、俺のひざがかくんと抜け、だらしなく両ひざを地面につける。
……感情のない笑みを浮かべたレナと、その前に呆然とひざまずく俺……。
それはきっと異様な光景だったに違いない…。
レナはそんな無様な俺を、あざ笑いもしなければ手を差し伸べもしなかった。
だが、俺の眼をただ静かにじっと射抜き、立つことも逃げることも許さない。
金属バットは確かに俺の手にあった。
だが…蛇に睨まれた蛙のような俺には何の役にも立たない。
脂汗が全身を伝い、ぽたぽたと零れ落ちるのがわかる…。
「…しないよね? 圭一《けいいち》くんは。」
…無限とも思える時間の檻から、ようやくレナは解放してくれた。
だがその問いかけは主語を欠いた、とても抽象的なものだった。
ごくりともう一度唾を飲み込み、先を促す。
「……な、…なにをだよ…。」
俺が……何をしないって…??
「“転校”」
<幕間>
14(昼)■二重人格???
「よく映画などに登場しますが、簡単にいうとどのようなものでしょうか。」
「複数の人格を持つことによる逃避と考えられています。」
「多重人格は逃避のひとつなのですか?」
「左様です。そのメカニズムは完全には解明されていませんが、精神を守るために脳が行なう防御行動のひとつではないかと考えられています。」
「例えば、貧乏な人がお金持ちになった自分を想像するという現実逃避ってありますよね? これも多重人格なわけですか?」
「極論はできませんが、広義的にはそう解釈できます。つまり誰にでもありえる現象なのです。」
「その現実逃避の見境がなくなると二重人格になるのですか?」
「…ちょっと難しいですね。…そう提唱する説もありますし、否定する説もあります。諸説紛々です。」
「では精神医学の世界ではまだ、多重人格というのは未知の解明されていない現象なんですか?」
「残念ながらそうなります。今後の研究が期待されます。」
「でもでも〜、二重人格なんて何だかカッコイイですよね〜! どういう人が二重人格になれるんですかぁ?」
「なれるといいますか…、なりやすいといいますか…。最近の研究では、遺伝と心因が複雑に絡み合い…。中でも幼少期の虐待が大きく作用するのではないかと言われています。」
「そう言えば、このA君も幼児虐待を受けてるんですよね〜。カワイソ〜…。」
「7つの人格を持つ青年A。ではVTRの続きをどうぞ。
…ですがその前にコマーシャル!!」
■14日目(金曜日・夜)
俺と悟史《さとし》が…何だって?
俺が良かれと思ってしてきた今日一日の行為は、全て悟史《さとし》の模倣に過ぎなかったのだ。
やはり悟史《さとし》も…俺と同じ境遇だったのだろうか……?
仲良く過ごしてきた仲間たちが豹変し…何の理由もなく(…俺が気付いていないだけなのだろうか…)命を狙うようになったのだろうか…?
そして俺と同じように悩みぬき、護身のためにバットを取り、素振りと偽って常に持ち歩いた…?
そしてある日突然……
“転校しちゃったの。”
全身の血流に冷たくて痺れるものが流れていく。
それらは心臓から近い順に体内を巡り、頭のてっぺんから足のつま先まで…まんべんなく凍えさせた。
転校ってなんだよ。転校ってなんだよ。転校した先には悟史《さとし》がいるのか?
そいつだけは俺のことを理解してくれるのか?
なんでこんなことになってしまったのかを全てを教えてくれるのか?
それより転校先ってどこだよ?!
…転校ってなんだよ。転校ってなんだよ……。
いつの間にか、自宅の扉の前だった。
ひんやりとしたノブは重い。……留守?
それほど珍しいことでもないので、俺はポケットをまさぐり、オットセイのキーホルダーのついたカギを取り出す。
玄関に入り、靴を脱ごうとしたその瞬間ッ、背筋が凍りつく。
玄関の扉を、俺にぴったりくっついて入ってきたヤツがいるからだ。
まるで学校のクラスメートがふざけてそうするかのように、…そいつはぴったりと俺の背後にくっついて立っている…。
嘘だろ…? 絶対に気のせいだ…。
こんな密着の距離で、玄関に入るまで俺に気配を悟られずについてくるなんて真似、常識で考えてできるわけがない…。
だが、紛れもなく、後ろのそいつはいた。
……おいおい圭一《けいいち》。
…後ろにいるのに、何で「いる」ってわかるんだよ…?!
……だって……髪が流れる音がした。
そんな音、するわけない。そんなのは気配だ。
……だって……まばたきをする音がした。
そんな音、するわけないだろ。前原《まえばら》圭一《けいいち》!
もっとも野生に近い全ての知覚が背後の気配を警告し、もっとも理性的な一般常識が、俺の背後の気配を気のせいだと否定する。
こんなのは気のせいだ、後ろには誰もいないと頭の中の不気味なイメージをかき乱す。
だが同時に、「いない」なら、今後ろに「いる」のは何なんだよ……という不気味さも背筋を昇ってくる。
むしろ…誰かいてくれた方がいいんじゃないのか…?
もしも……振り向いて誰もいなかったら……お前はそれを受け入れられるのか…?
首を後ろに向けるだけで、俺の疑問は全て解決する。
…だが、それが簡単にできるほど…俺は勇敢ではなかった…。
そうだ……声をかけてみよう…。後ろの人が…答えてくれるかもしれない。
迷走した思考が、振り返らずに済むならどんな方法でもいい…と提案した方法はそれだった。
…冷静に考えれば…それによって何の解決にもならないことに気付けるのに……。
「ど、…………どなたですか……?」
とても自分のものと思えないかすれた声が、喉の奥からぼろぼろとこぼれる。
後ろのそいつは答えあぐねるかのように感じられた。
…感じられた、なんてことがわかるわけない!
落ち着け圭一《けいいち》、これは気のせいなんだよ…!!
その時、俺は確かに聞いた。
俺の問いかけに躊躇しながらも、答えようと。……すぅ、と息を飲み込む音を確かに聞いた。
聞いた。
聞いた。
はっきり聞いた。
女だった。
若い女だった。
誰かは知らないけれど。とにかくとにかく…、
俺の中の一粒の勇気、蛮勇が、俺に叫びをあげさせるというもっとも原始的かつ、今のこの状況を解決するのに相応しい力を与えてくれた。
全身全霊の力を肺から、喉から解放し、脳内の全ての思考を切断する。
全ての思考と感情を殺し、俺は崩れ落ちるように倒れながら、だけれども体をひねりながら後ろを振り返った。
確かにいた。
そこにはいた。
誰かがいた。
俺が振り返り、後方を視界で照らすまで確かにいた。
仰向けに倒れ、虚空に残る気配を目でなぞる…。
…まさか…こいつは透明なヤツで…いないように見えて…まだここに立ち続けている…???
叫びとともに堰き止めていた感情の波が一気にあふれ出してくる。
だが俺はその感情というダムの決壊に極めて冷静だった。
…濁流のように押し寄せる感情の波を上手に誘導し…攻撃性に転化する。
今まさに眼前にある異常事態を打開するには…絶対に必要な感情だった。
俺は極めて冷静に、激情に身を委ねる…。
金属バットは手に吸い付くように、ぴったりと右腕の中にあった。
中段を横に払う攻撃はもっとも避けにくい…と剣道か何かの本で読んだはずだ。
「おおぉぉおおぉおおぉおッ!!!!!」
気合一閃。
銀に輝く金属塊の残像が左から右へ玄関を薙ぐ!!!!
バットは右の壁に激突し、凄まじい反発力で先端を跳ね返した。
…俺は極めて冷静にその跳ね返る力と方向を調整し、左方向への攻撃として切り返す。
靴箱の扉をぶち割った。
今の二振りは空を切ったが、敵に与えた心理効果は大きいようだった。
…空間に焦りが漏れ出しているのが感じられたからだ。
必要なのは攻撃だけではなかったのだ。
…靴箱にめり込んだバットを引き抜き、そのまま体ごとの大回転を加え、咆哮する。
「うッおおぉおおおおぉおおぉおおおぉッッ!!!」
叫びが空気を揺るがし、続けて繰り出される渾身の一撃にさらなる破壊力を上乗せする…!!
バッカーーーーーンッ!!!!
一打必殺の名に相応しい渾身の強打が、情け容赦なしに靴箱の天板を叩き潰す。
いずれの攻撃も敵には当たらなかったが、俺の激情は確かにぶち当たったようだった。
俺が肩で息をし、全身を熱い汗でぬらす頃には、あの、いないけどいる見えない敵は霧散していた。
敵の退散を気配で確認すると俺は、俺は玄関にカギを下ろしチェーンもかける。
まさか退散と見せかけて、すでに俺の家の中に踏み込んだのでは?!?!
再び攻撃性をむき出しにし、家の中の気配を探る。……だがその気配はなかった。
撃退に、成功したのだ。
……その途端、全身の力が抜け、大きなため息がこぼれ出た…。
たった今まで制限を加えていた脳内分泌物がぐちゃぐちゃと混ざり合い、恐怖感やら達成感やら不信感やらを混ぜこぜにして、俺に流れ込んできた。
それらの感情をひとつひとつ相手にせず、疲労感という最強の感情でねじ伏せる。
この瞬間においても、…俺は冷静だった。
家中の戸締りを再確認した後、俺は二階の自分の部屋に戻りカーテンを引いた。
それから直立して、少し頭を後ろへそらし、……雑念を全て消し去り、脳内をさらに冷静に冷却する…。
今の玄関の出来事は一体何なんだ……。
確かにいた。
こうして冷静になれば、実は錯乱状態の自分が見た幻だと思えるんじゃないかと思ったが……やはりそうとは思えない。
落ち着け前原《まえばら》圭一《けいいち》……。もっともっとクールに……。
だがいくら冷静に考えても、…さっきの出来事は幻なんかじゃない。
さっきのは明らかに超常現象で、間違いなく俺の背後に何かがいた。
俺が錯乱したとか混乱したとか幻影を見たとか、そんなのじゃない!
証拠? ひとつだけある。
……俺が「どなたですか?」と聞いたとき、後ろのそいつは答えようとして息を吸った。その「音」ははっきりと俺の耳に聞こえたのだ。
俺が今おかれている状況は依然不透明だ。
オヤシロさまの祟りという超常現象に取り込まれているか、
それを妄信する、あるいは模倣する村人たちに仕組まれているのか。
いずれにしろ動機は不明。
その遠回しなやり口も謎のままだ。
人間が犯人なら(それはレナたちが犯人であることを認めることになるのだが…)解決はまだ容易だ。
大石《おおいし》さんたち警察は必ずや敵を検挙してくれる。
だが、……もしもオヤシロさまの祟りが実在するとしたら……どうだろう。
大石《おおいし》さんは祟りなど実在しない、とはっきり明言した。
あの時はその言葉をとても頼もしく思ったが……、今こうして、人間が犯人でない可能性が浮上してくると……急に頼りなくなる。
大石《おおいし》さんに一言、これはオヤシロさまの祟りなんです、と伝えたらどうなる?
……リアクションは想像できないが、大石《おおいし》さんとの距離が急激に開くのだけは間違いないだろう。
ただでさえ味方が少なく、また祟りか否かも断定できない今、そんな行為は何の得にもならない。
ついさっき玄関であった「事実」は俺の胸だけにしまった方がいい。
…時計裏に隠してあるメモにも今の出来事は書かない方がいい。
俺が、実は冷静に思っているこの状態がすでに錯乱状態で、つい玄関で暴れてしまった……という可能性だって、ほんのわずかに残されているのだ。
そうだったらどんなにいいだろう。
オヤシロさまの祟りを否定できる。
だがオヤシロさまの祟りを否定すれば、それはレナたちが犯人であることを認めることになる。
レナたちが犯人であることを否定すれば、それはオヤシロさまの祟りを認めることになり…。
両方とも否定すれば……、それは自分が異常であることを認めることになる。
三つの選びようもない選択肢が三すくみになり、それらはドロドロと渦を描きながら交じり合って、俺の目をぐるぐると回していく…。
もう一度、俺は直立し、頭を後ろへ軽くそらして頭を冷却した。
…落ち着け圭一《けいいち》。
……起こったことだけが真実なんだ。
…それ以上のことを考えるのはやめるんだ……。
だけど……考えずにはいられない。
……実は俺は異常で、今までの出来事が幻だったとしたら…どんなにいいだろう。
オヤシロさまの祟りは実在しないし、レナたちも相変わらず最高の友人で……。
俺は、おかしくなりたい。
生まれて初めて、俺はそれを望んだ。
■親からの電話
階下の電話がけたたましく鳴り出す。
基本的に俺にかかってくる電話はないから、俺が進んで電話と取ることは少ない。
だが今は親は留守だから仕方がない。
もそもそと寝床を抜け出し、階下へ降りていく。
「もしもし、前原《まえばら》です。」
「圭一《けいいち》? お母さんだけど。」
…直感的に嫌な予感がした。買い物を頼まれると思ったからだ。
だから先に言ってやることにする。
「何? 別に俺、夕食はインスタントでもいいよ。まだいっぱいあったでしょ。」
先日、家族で買出しに行ったときカップラーメンを箱買いしてあるのだ。
本当はいろんな種類をいっぱい買いたかったが、高いからと断られ、好物のデカカップ豚骨ショウガ味を1ダース買った。
だが両親はこてこて系は苦手らしく手を出さない。なのでたっぷり在庫があるのだ。
「だからさ、買い物に行く必要はないんじゃないの?」
「圭一《けいいち》、買い物のお願いじゃないの。お父さんとお母さんね、お仕事の関係で急遽、東京に行かなくちゃならなくなったの。」
「えぇッ…?! 今から?!」
それは本当に…唐突だった。
「うぅん、もう着いちゃってるの。お昼には出発してたからね。」
東京は雛見沢《ひなみざわ》からでは半端な距離じゃない。車で高速をぶっ飛ばしたって6時間。
……親父は免許を持ってるが、高速が嫌いだそうなので行くのは鉄道。…もっとかかる。
「圭一《けいいち》もお父さんとお母さんの話を聞いてたから分かるかもしれないけど、お父さんのお仕事の契約がね、今ちょっとうまく行ってないの。」
言われてみれば昨夜、両親が仕事の不景気な話をずっとしていたのを思い出す。
「お父さんはそういうのに繊細な人だから、このままだとお仕事にも影響が出ちゃうの。」
親父は芸術家特有のガラスのアイデンティティ、秋の空のような変わり易い感情の持ち主だ。……単に打たれ弱いとも言うが。
「でも…そんなの電話でやり取りすればいいじゃないか!」
「圭一《けいいち》、お父さんのお仕事なんだからもうちょっと応援してあげて、ね? とにかく電話よりも直接会って話した方が早いの。誤解もないし。」
仕事の話を持ち出されては、息子の俺に何も言えることはない。
「だから帰るのは明日の晩になっちゃうの。圭一《けいいち》、ひとりで大丈夫よね?」
「別に死にゃしないよ。」
「………圭一《けいいち》、死んじゃうなんて軽々しく言っちゃだめよ。…心配ごとがあったら相談してね。母さん、きっと相談に乗れると思うから。」
昨夜の俺が急に「俺が死んだら」なんて言い出したから、一応親として心配してくれてるのだろうか。
……もっとも、相談したところで解決にならないとわかっているのが悲しかった。
だけど死ぬ気はない。
…少なくとも、何も分からない内には絶対に。
「死なないよ。俺は。…足掻いてでも生き延びる。」
「そう。…じゃあね。明日の朝、ちゃんと起きるのよ。朝ごはんは食べてね。お風呂と歯磨きも忘れないのよ。」
「へいへい。……そんじゃ。」
電話はそれで終わった。
……たまに両親が仕事の打ち合わせで上京することはある。
だが何しろ東京は遠いのだ。普通は電話で済ませてしまう…。
仮に行くとしてもそれは事前に決まっていることで、こんなにも突然のことはない。
その辺に違和感というか…不自然な感覚がないとも言えなかった。
とにかく……事実だけを認識するなら。
…今夜、この家は俺一人ということだ。
両親が仕事から帰ってきたら俺がいない、行方不明。蒸発。
……過去5年間の一連の、オヤシロさまの祟りを思い返すと、あってもおかしくない。
そうい言えば……そろそろ夜も更けてきた。
明かりが二階の俺の部屋にしか灯っていないのはまずいんじゃないだろうか?
敵に両親不在を、チャンスを教えてやってるようなものだ。
まず居間へ走り、明かりとテレビをつける。ボリュームは心持ち大きめに。
次に親父の書斎に走り、同じように明かりと音楽をつける。
これで、外からは両親が在宅しているように見えるはずだ。
もう一度、家中を見回り、戸締りと隙がないかを確認する…。
……ベランダを見た時、洗濯物が出っ放しになっているのを見つけ青ざめた。
これじゃバレバレだ! 早く取り込まないと…!!
乱雑に洗濯物を取り込み、お袋が不在である証拠を消す。
もう大丈夫だろうか…。………あ! ガレージだ!! 両親は車で東京へは行かないが、興宮《おきのみや》の駅までは車で行く。
開けっ放しで車のないことが見え見えのガレージは…まずい!!
慌てて表へ駆け出し、普段は閉めることのないガレージのシャッターを下ろす。
これで大丈夫…、あ、あとは新聞受けだ!! 新聞はいつもお袋が持ってきてる。昼に出発したということは…夕刊が入りっ放しだ!!
予感的中。郵便受けの中身を洗いざらい取り出し、玄関にぶちまけた。
……これで……今度こそ大丈夫なはず…。
そう言えば…さっき暴れて壊してしまった靴箱だが…このままはまずいだろうな。
すべって転んで、持っていたバットで叩いてしまった…なんてことにしておくか…。
にしても、このままで放置というのはまずい。…お袋に怒られる前に少しは片付けておいた方がいい。
納戸にほうきとちりとりがあったのを思い出し、取りに行こうといたところ、家の奥で再び電話がなった。
「もしもし、前原《まえばら》です。」
「あら、圭一《けいいち》くん? お母さまはいらっしゃいますかしら。」
「あ、あの、いまちょっといないんですけど…、」
馬鹿か前原《まえばら》圭一《けいいち》!! 親の不在をわざわざ暴露するな…!! まだフォローできる、落ち着いて対処するんだ…!
「す、すぐに戻ると思います…!!」
この切り返しも良くない…!
これじゃあ、また電話しますとか、戻ったらお電話を下さるようお願いしますとか、そんな風に続けられてしまう…!!
「なら結構です。大した話でもありませんから…。では、失礼しますわね。」
俺が恐れるような形にはならず、ほっとする。
不幸中の幸いだった。
……今夜かかってくる両親への電話の対応もうまくやる必要がある。
今の電話はこれで済んだが……こんな甘いアドリブでは通用するはずもない。
今のうちに、両親は在宅しているけど電話には出られないという、上手な嘘を考えておく必要があるだろう。
天ぷらを揚げているので手が離せない。…ダメだな。
病気で具合が悪く寝込んでいる。……無難な辺りか?
考えながら、部屋へ戻ろうとした時、電話がまたしても鳴り響いた。
それはまるで、俺がこれからつこうとする嘘を知っていてかけてきているかのようだった。
電話に出たくない。…だが出なければならない。不在を疑われる。
……受話器が外れているのに気付かなかった…ということにして受話器を外しておけば良かった…。
だが、今鳴り響いているこの電話だけは出なければならない。
覚悟を決め、受話器を取る………。
「もしもし……。」
前原《まえばら》と名乗るのもやめにする。素性の知れない相手に親切にする必要はない…。
だが、俺の無愛想な声に釣り合わないくらい、電話の相手はマヌケに陽気な声だった。
「どうも夜分遅くに申し訳ありません。私、興宮《おきのみや》書房の大石《おおいし》と申しますが、」
「お、大石《おおいし》さんですか?!」
「前原《まえばら》さんですか? こんばんは。お元気そうでなによりです。」
「ちょ、ちょっと待ってくださいね!」
俺は子機に持ち帰ると二階の自室へ駆け戻った。
家族が誰もいない以上、どこで話しても同じなのだが……大石《おおいし》さんとの電話は少しでも安心なところでしたかった。
■大石《おおいし》さんの電話
「お、お待たせしました。」
「いかがですか、その後おかわりは。」
その後、っていつからのその後だよ。
……何となく白々しい言い方に少しかちんと来たのは間違いなかった。
大石《おおいし》さんと最後に話したのは……一昨日か。学校を休んだ日、病院の帰り道に大石《おおいし》さんと出会って…昼食を取りに街へ行って、話をして…。
…そしてその後、お見舞いに来たレナと魅音《みおん》に詰問された。
大石《おおいし》さんと話をすると…必ず看破されている。
それは初めて会った時からそうだったのかもしれない。
今日の、この電話もまた、彼女らに筒抜けなのだろうか…。
「もしもし…? 聞こえてますか前原《まえばら》さん?」
「え? あ、すみません…。その…何て言いました?」
「その後、何か変わったことはありませんか、とお尋ねしたんです。…お返事がないんで焦りましたよ?」
「え、と………特には…、」
そう言いかけて口をつぐむ。
変わったことは山ほどあった。どれも不可解なことばかりだった。
何て言って話せばいいか…、わからないようなことばかりだが…聞いてみよう。
今、聞かなければもうチャンスはないかもしれない。
…両親不在という今夜を、…無事に越えられる保証などないのだから。
「その、大石《おおいし》さん、…やっぱり俺、……命を狙われているみたいです。」
「本当ですか?!」
「……偶然の可能性もあるんですが…先日、俺が病気で休んだ日、夕方にあの二人がお見舞いに来たんです。」
「あの二人?」
「レナと魅音《みおん》です。…そしてそこで、大石《おおいし》さんと一緒に昼飯を食ったことを正されました。」
「……………それで?」
「お見舞いってことでおはぎを置いていったんですが、……その中に針が入ってたんです。…偶然、飲み込まずに済みましたが……。これってやっぱり脅迫でしょうか…。」
「その針は?」
「…えっと、よく見かけるような、普通の裁縫針のようでした。糸を通す穴が空いていて…。」
「違いますよ前原《まえばら》さん、針です。…証拠になります。脅迫だと立証できるかもしれません。その針はありますか?」
……そ、そうか…そうだったッ!!!!
俺は子機を放り出し、階下へ駆け出していく。
あのおはぎを投げつけた時、恐怖心でつい目をそらしてしまったが…あの針は重要な証拠になったのだ!
確か…針はおはぎと一緒に壁に投げつけた。あるとすれば…やはり居間のあの壁!
だが、居間の壁は几帳面なお袋によって綺麗に掃除され、おはぎを投げつけた痕跡は完全になくなっていた。
壁と絨毯の隙間とかに落ちてないだろうか?!
乱暴に手のひらで撫でて探すが手応えはない。
試しに机やソファーをどかし、絨毯を引っ張り出し、ばっさばっさとはたいてみる。
だが針は見つからない…!
お袋が気付かずにおはぎごと片付けてしまったのだろうか?!
せいぜい一昨日のことだ。燃えるゴミの日がいつだかは知らないが、まだ台所のゴミ袋の中に入ってるかもしれない!!
そのまま台所に駆け込み、ゴミバケツのふたを開け、その中身を広げてみる。
だが…一目見てこの複雑なゴミの山から針を見つけ出すのは至難であることを知る。
文字通り、砂漠のビーズを捜すような手間になるだろう…。
そうだ、手で叩いてみよう。
ちょっと汚いが、探しているのは針だ。ちくりと手応えがあれば見つけられる!
乱暴な方法かもしれないが手っ取り早い。
ぐっと息を止めてから、両手でゴミの山をベタンベタンと叩く。
汚物が飛び散り、汚らしいことこの上ないが、今はそんなことを言ってる場合じゃない!!
……しばらく繰り返すが手応えはなかった。
もっと丹念に調べたいが…今はまだ電話中だ。大石《おおいし》さんをあまり待たせるのも良くない…。
後でお袋が帰ってきたら、針がなかったか聞かなければならないだろう。
俺は冷蔵庫に磁石で貼り付けてあるメモに赤ペンで乱暴に、
“針がなかった?!”
と書きなぐっておく。
それから、待たせすぎた大石《おおいし》さんの電話に戻るべく、階段を駆け上がった。
「もしもし? どうでしたか?」
「……見つかりません…。あの時はつい気が動転していて……。」
「…そうですか。見つかればでいいんです。保管しておいて下さいね。」
そうだ、針の件だけじゃない。今朝の車の轢き逃げの件も話しておこう。
「あ、あと大石《おおいし》さん、それだけじゃないんです。…実は今朝、」
……あの車は絶対に俺を狙った。数々の状況証拠からそうだと断定できる。
「その車のナンバープレートは見ましたか? こちらでも探して見ます。」
しまった…!!
あの時は怒りにまかせて怒鳴りつけただけで…ナンバーは見なかった…。
しかし…針にせよナンバーにせよ何たる失態!
俺は自分の身を守ることばかりに執心して、肝心なことが片手落ちだ…!
悔しさと不甲斐なさで、俺は枕を殴りつける。
「す、すみません……白いワゴン車ってこと以外は…わかりません…。」
「仕方ないことですよ前原《まえばら》さん。轢かれかければ気も動転します。」
「…やっぱりこれらって…偶然じゃないですよね。」
「………………………………。」
大石《おおいし》さんは電話の向こうで唸り始めた。
腕組みをしている様子が目に浮かぶ…。
「あと……レナの様子もやっぱり怪しいです。」
「…それはどんな感じですか?」
今日の帰り、レナは俺に言った。……どうしてそんなにも悟史《さとし》くんと同じなの?と。
今ならはっきりと断言できる。
レナは悟史《さとし》がどうなったかを知っている。
…ただ単に失踪した…という以上のことを知っている。
「…レナは……知っています。…去年の鬼隠し《おにかくし》にあった悟史《さとし》のことを…何か知っています。」
「それは具体的にどういうことですか…?」
「……レナが言うには…俺は悟史《さとし》とそっくりらしいんです。このまま行くと…俺も悟史《さとし》と同じ運命を辿る、と………そんな感じのことを言うんです。」
「運命、ですか。…具体的にどんな「運命」を辿るか言及しましたか?」
「…えっと……“転校”…と。」
「転校?」
「レナは、悟史《さとし》は“転校”したって言ってるんです。…で、俺もこのままだと“転校”しちゃうぞ、って…。」
大石《おおいし》さんが一際厳ついため息をつき、大きくうなった。
「……………前原《まえばら》さん、それはおそらく…何かの脅迫…もしくは警告ですねぇ。」
「俺もそう思ってます…。」
ここで俺は…思い出す。
今まで起こってきた出来事を人間の犯人の仕業と決めつけていいのかどうかだ。
レナたちが犯人であるという説の他に、オヤシロさまの祟りが実在する、という説も残されているのだ……。
無論、そんなことは大石《おおいし》さんに話せないが。
だが…レナが怪しいというのはどちらの説でも共通している。
オヤシロさまの祟りが実在するにせよ、村ぐるみの何らかの犯罪にせよ。
…レナは関わっている。
…レナは何を知っているんだろう。レナは怪しい。レナは何者?
過去の連続怪死事件との関わりだけは疑いようもない…。
大石《おおいし》さんは確か、レナのことを少し調べた…と言っていた。
少し、と言ったのは多分、大石《おおいし》さんの遠回しな言い方だろう。
…つまり、実際にはかなり深く調べてるんじゃないだろうか。
……レナのことを聞きたい。
前の学校でのことや…俺の知らないことを知りたい。
レナが…疑わしき人間なのか、…いや…そんなことじゃない。
……俺は真実が知りたいのだ。
今夜、この広い家に俺ひとり。
……頼りにならないとは言え、在宅している限り安全を保証してくれると思っていた両親はいない。
別にこの家は砦でもお城でもないのだ。
…悪意ある人間が、強硬的手段に訴えれば、たやすく侵入を許すだろう。
前原《まえばら》家の周りには民家はない。どんな物音がしたって、誰にも聞こえない。
親父が芸術家気取りで、こんなへんぴなところに家を建てたことを今ほど恨むことはなかった…。
……はたして明日の朝、…俺はまだここにいるのだろうか……。
だから聞こう。今聞こう。次に聞けるチャンスが、訪れるかどうかもわからないから。
「あの、…大石《おおいし》さん、聞きたいことがあるんです。……隠さないで下さいね。」
「えぇ。何でも聞いてください。」
電話の向こうというこの上ないくらい遠くにいながら、これほど頼もしく感じることはなかった。
聞こう。
レナのことを聞こう。
…前の学校で何があったのか…!
「……実は…レナの、」
その音はさっきから聞こえていた。
電話に夢中で、初めは聞き流していたが……それはやがてチャイムだと気付く。
時間は…7時。
郵便屋が来るような時間じゃないし、ご近所が尋ねてくるような時間でもない。
居留守を決め込もうかと思ったが、それはまずい。
せっかくの家族在宅の演出が台無しになってしまう。
出なければならないのだ。
「……もしもし? 前原《まえばら》さん?」
「あ、すみません、誰か来たみたいですので、ちょっと玄関に行ってきます。」
「お客さんですか、すみませんすみません。今夜のお電話はこれくらいにしましょうか?」
それは困る!
「あ、いえ、すぐ戻りますから! 電話はこのままでいいですか?!」
「…はいはい。構いませんよ。」
受話器を布団の上に投げ出し、玄関へ走っていく。
うまいこと言いくるめて、追っ払ってしまわないと。
何となく、大石《おおいし》さんの電話の直前にかかってきた電話の女性のような気がした。
…ならお袋の友達かご近所さんだ。
お袋は具合が悪いと言って今日は早めに寝てしまいました…。…無難な辺りか。
まさか具合が悪くて早寝したのを起こせとは普通言うまい。
相変わらず、さっきから等間隔でチャイムが鳴り続けている。
…これだけ鳴らしても出ないなら、普通は諦めて帰らないだろうか…?
チェーンを外さないまま、そうっと隙間を開け…来客の様子を伺う。
………背筋にぞわりと悪寒が走り抜ける。
わかってる。
…心のどこかで覚悟してた。
……お袋の友人だろうと、一番無難な想像をして“逃げていた”。
■レナの訪問
「…こんばんは。」
「レ、……レナ………。」
こんな時間にレナが来る様な用事はないはずだ。
タイミングも気味が悪かった。
…大石《おおいし》さんに、今まさにレナのことを聞こうとした矢先だったからだ。
単なる偶然と片付けたい。
だが、この玄関で先日、魅音《みおん》に言われたあの薄気味悪い言葉が蘇る…。
“………さぁてね。…おじさんにわからないことはないからね…。”
「レ、…レナひとり…?」
「……うん。」
魅音《みおん》は一緒ではないようだった。……だからといって何も事態は変わらない。
「何しに来たんだよ…。」
「………ねぇ圭一《けいいち》くん、ちゃんとドアを開けてお話したいな…。レナは玄関に入っちゃ、だめなのかな? …かな?」
確かに、チェーン越しはクラスメートへの応対ではない。……だが………。
「うち、夜は必ずチェーンかけてるんだよ。気にすんなよ。」
「……………………なら、…仕方ないかな。」
レナはとても悲しそうにうつむく。
でも口元だけは笑みを浮かべていて、その笑顔を保とうとする努力が痛々しかった。
…だが、痛む胸を掻きむしりながらも、警戒は解かない。
こうしている限り、心は痛んでも命だけは脅かされない。
俺が真に恐れるのは…単にこのチェーンを外して、暴漢たちに踏み込まれ襲われることよりも、………信用してチェーンを外したレナに…襲われ、友情を裏切られることだった。
こうしてチェーンを外さない限り、心は痛んでも、…レナに裏切られずに済む。
無言で攻めても俺にチェーンを外す様子がないので、レナは玄関への侵入を諦めたようだった。
「……あのさ、圭一《けいいち》くん、…ご飯食べた?」
いや、食べていない。
お袋がいないから待っていても夕飯は出ない。
帰ってきてから横になり、電話で起こされ、ずーっと話をしていたのだから、食べる余裕なんてなかった。
…どうせカップラーメンだ。食いたければいつでも食える。
「…いや、…まだだよ。それがどうしたよ。」
「あ、あははは、じゃあ良かった☆ これ見て。お惣菜とか持ってきてあげたの。」
レナはそう言って、風呂敷で包んだ重箱を差し出して見せた。
「お、お台所とか貸してくれればお味噌汁も暖めてあげられるよ☆」
「いいよ、そこまでしてくれなくても…。」
「でもでも、お豆腐もお野菜もたっぷりなの! 圭一《けいいち》くん、そういうの嫌いかな?…かな?」
嫌いなわけない。
俺は具沢山な味噌汁は大好きだ。
大根、にんじん、ごぼうにジャガイモ、パワフルな食感とボリューム……あぁ…その味噌汁、最高だよ…。
「ご飯も持ってきてあげたから、レンジで暖めればすぐ食べられるし☆」
もちろん、味噌汁にご飯は欠かせない! ご飯をばくばくと喉にかきこみ、合間に味噌汁をすする…。あぁ、よくぞ日本人に生まれけり…!!
「それからね、またお漬物を作ってきたんだよ☆ 今度は山菜のお漬物なの!」
雛見沢《ひなみざわ》に引っ越してくるまで、俺は山菜という山の幸を侮っていた。
だが…一度食してその魅力の虜になったのだ!
淡白な中にも深い味わい。
これに比べたら、俗に言う八百屋野菜などは大味でダメだ!
あんなものは言ってみれば野菜初心者向け。
俺くらいのエキスパートになって初めてわかるのが山菜というものなのだ。
さらに竜宮《りゅうぐう》家直伝の漬物がすばらしくうまいのは周知の事実!
……あぁどんな漬物だよ…。
さぞかしふかふかの白米によく合うことだろう…!!
「…それからね、それからね!」
あぁ、まだ続くのかよ…!!
うまそうだ、実にうまそうだ!!
カップラーメンでいいやなどと言っていた不健康な自分よさらば!
レナはとても上機嫌な様子で、実にうまそうな夕飯を提案してくれた。
…おなかが一気に緊張感をなくし、空腹を訴え始める…。
また、同時にレナに対して持っていた警戒心も急に薄れていった…。
レナひとりだと言ってるし……入れてやってもいいんじゃないだろうか…。
毒でも盛られるかもしれない…という疑念は確かに晴れないのだが……。
…………その時、俺の背中に再び、ぞわりとした悪寒が走った。
この瞬間の俺はなぜそのような感情が走ったのか理解できない。
……だが…心の中のもうひとりの俺が…警鐘を鳴らす。
……レナの楽しそうな、魅力的な夕飯の話は……あるひとつの前提に基づいている。
それは………うちに今夜の夕飯がない、…つまり、作ってくれるお袋が不在である、という前提に基づいているのだ。
普通の家なら7時頃は夕飯の最中だ。
うちだってお袋がいればそのくらいの時間には夕飯にしている。
その時間帯に、夕食の材料を持って訪れるということ自体がすでに異常なのだ。
……知っている。
レナは…………両親が不在であることを………知っている?
だが…はったりの可能性だってある。
…両親が居るよう、部屋の明かり等でいろいろ偽装したのだ。
……レナ自身、両親が不在との確証がない可能性だってある…。
……でも…どうだろう…。洗濯物やガレージ、夕刊。…慌てて始末した痕跡は多い。
……レナには両親の不在を疑えるチャンスがなかったとは言い難い…。
だが…こちらからわざわざそれを白状することはないはずだ…。
ぎりぎりまで粘ってみよう…。
第一、チェーンをかけているんだ。
これを外さない限り、レナは俺に何をすることもできないのだ…。
「あ、……ありがたいんだけどさ…、もう少しで夕飯が出来るみたいなんだよ。」
「え…? …そうなの? そうなの?」
「……せっかくで申し訳ないんだけどさ……その…、」
上手に断る言葉が思いつかず、語尾が弱々しくなってしまう…。
「でも……ちょっとはおかずになると思うな。…思うな。」
「悪いけど…間に合ってるよ。…うちのお袋ってさ、結構おかずをいっぱい作るんだよ。だから…、」
「え…? おかず、あるの?」
苦笑いしながら申し訳なさそうにレナをのらりくらりとかわす…。
だが…無視することで忘れようとしている感覚が……背筋をじわりじわりと登ってくる。
俺はお袋が夕飯を今まさに並べてくれているように話しているのだが……レナと話が噛み合わない。
レナは……ある当り前な前提を元に話をしている。
そしてそれは…俺も当然自覚していることを前提にしている。
「圭一《けいいち》くんもおかずとか作れるんだね。…何を作ったのかな?」
「…い、いやその……別に俺が………。」
レナは、そのおかずは俺が作ったものといきなり決め付けてかかる。
いや……俺が作った、というより、お袋は晩飯を作ってなどいない、と断じているのだ。
「……本当に作ったの? おかず。…圭一《けいいち》くんが?」
「だ、だから…俺が作ったんじゃないよ。…お袋が作った…いや、作ってるんだよ。今!」
「…………………………………。」
「だからさ……悪いけど、レナの持ってきてくれたのは食べられないんだよ…。」
そこでレナは口を閉ざす。その時、瞳にすっ、と影が降りたような気がした。
「………圭一《けいいち》くんのお夕飯、当ててみようか。」
「な、……なんだって…いいじゃないか…。」
「………うーんとね…………。」
会話は一見自然だが、主導権がすでにレナに移っている。
……しかも心なしか、俺が詰問されているかのような流れだ。
「…そのお夕飯、…お湯だけで作れるんじゃないかな…?」
「お、おいおい侮るなよ?! うちのお袋のスペシャルなディナーを見くびるなってんだ…!! そりゃあもー満貫全席状態で……すごいのなんの…、」
精一杯強がるが、奥歯が上手に噛み合わない。
…かえって狼狽しているかのような印象を与えている…。
だがレナは、そんな茶化しにも何の反応も示さなかった。
「……圭一《けいいち》くん。……本当にお母さん、ご飯作ってってくれたの…?」
「いやだから…、くれたんじゃなくて、…今作ってるんだよ! もうすぐ晩飯に…!」
レナはお袋が在宅していて今、晩飯を作ってくれている…という俺の前提をことごとく無視する。
俺が焦れば焦るほど…レナが冷めていくのがわかる。
「ね、圭一《けいいち》くん。」
……その時、扉の隙間からいやに冷え込んだ空気がにじんできた…。
「お母さん、お家にいるのかな?…………かな?」
もう…とぼけようもない。
レナは。…両親が不在であることに絶対の確信をもって訪れているのだ。
だが…それを今さら認めることはできない。
とにかく……両親は在宅していて晩飯はもうすぐ…、そういうことになっているのだ…!!
だから俺は答える。
お袋はいると、答える。
「い、いるよ…、もちろん…!」
空気が乾いていくのがわかる。
……レナの瞳はますます冷え込み、俺を凍てついた視線で突き刺す…。
「………どうして?」
「え、なな、何のことかな……?」
ちょっと茶化した態度のつもりだったが…そんな薄皮の演技は、レナの瞳を見てしまった瞬間に吹き飛ぶ。
その眼差しは……口を開くよりも早く、俺にレナの返事を教えてくれていた…。
「………どうしてさっきから、…嘘をつくのかな?……かな。」
「…う、……嘘なんか………、」
「……嘘だよね?」
「…嘘なんかじゃ…、」
「嘘だよッ!!!!」
レナの一括に全身に電気が走りぬける…!!
チェーン越しに守られ、レナとの接点は扉の隙間のわずか10数センチ。
にもかかわらず、俺は追い詰められていた。
それは家という安全地帯に守られていると言うよりは、誰も助けてくれる者のいない袋小路と言える…。
「…………圭一《けいいち》くんのお夕飯、当てるよ? えっとね。」
レナが今夜、両親が不在であることを知っていることはわかった。
……だが、ここまで来るとまた変だ…!
両親不在を何らかの方法で知ることができたとしても……、俺が今夜食べようとしているものまでを当てることは絶対にできないはずだ…!!
でもレナは…当てるという。……どうして当てられる?! どうして俺がインスタントの、
「カップラーメン。……………………当たりでしょ。」
であることがわかるんだ……?!
いや……家事のできない男が作れるメニューなんてどうせカップラーメンだ。
…そんなのは統計的に見て一番確率が高いに決まってる。
……当てた内には…入らないさ…!!!
「………ラーメンだけじゃきっとお腹すくと思うな。ご飯とかも一緒の方がきっと、腹持ちいいと思うよ。」
落ち着け前原《まえばら》圭一《けいいち》…。
これは偶然だ。
…このところ俺はレナをある種の特別視している。
…だからちょっとでも看破されると大きくうろたえてしまうのだ。
だが…別にレナに俺の心が読まれているわけじゃない。
もしも本当に読めたら、それは妖怪だ。
…………………妖怪とかじゃなく……あるわけないのだ。そんなことは。
「……………好きなの?」
「ラーメンが…かよ?」
「うぅん、…*******。」
レナはまず、俺の返事が角度違いであることを告げた。
その否定があまりにも短かったので、俺は続くレナの言葉の意味するところがしばらく理解できずにいた。
「……ご、ごめんレナ。……今、なんて?」
「え? 何が?」
「今さ、…………何が好き?って聞いたんだよ?」
数瞬後、俺はあまりに無防備に先を促したことを後悔する。
あまりに呆気ない回答だからこそ、……俺はその意味するところが理解できずにいたのだ。
「…豚骨ショウガ味。」
頭の中の真っ白な空白が回復するまで、俺はどんな様子だったんだろう…。
視界がぐにゃりと歪みながら…ゆっくりと反時計方向に渦を巻き…平衡感覚を混乱させる…。
「なんでそこまでわかるんだよッ?!!」
もう俺は否定しなかった。これは一種の逆上だ。
……どうしてレナは…こんなことまでわかるんだッ?!
俺は扉に顔面を打ち付けるのも気にせず、レナに食い入る。
…だがレナはそんな俺の様子にもまったく臆さなかった。
「確かに買った。まとめて買った。俺が箱買いした! それがどうしてわかるんだ?!」
「……なんでかなぁ? 不思議だね。だね?」
この期に及んでなぜはぐらかす?!
今や扉のチェーンは俺だけを守るものではなくなっていた。
「どうしてわかる?! なぜ知ってる?! 答えろッ!!!!」
「……買ったのはセブンスマート。…だよね?」
背中をぞっとするものがこみ上げる…。
それを俺はうわべだけの怒りで誤魔化す。
「だから……なんでわかるんだよ?!?!」
「……圭一《けいいち》くんの後ろ、ずっとくっついてたから。」
「な、…何を言ってんだよ…?!」
くっつくという言葉の意味がわからない。
「だから。……レナが。圭一《けいいち》君の。後ろに。ずっとくっついてたの。…うふふふ。」
あの晩のように…?
俺が大石《おおいし》さんとの電話に夢中だった時、その気配も感じさせず……ずっと扉の向こう、俺の背後で…立ち尽くしていたように…?!?!
「圭一《けいいち》くんがいろんなラーメン選んでるとこ、後ろからずっと見てたの。
いろんな種類を選んでたんだよね。それでお母さんに怒られたの。高いラーメンばっかり選ぶから一種類にしなさいって。
それで圭一《けいいち》くん、大好きな大きいカップの豚骨ショウガ味を選んだんだよね☆ レナも好きだよ。豚骨ラーメン。でも、大きいカップは全部食べきれないけどね。」
脳みそがひりひりと痺れ、感覚を鈍らせていく。
それは…恐怖を薄れさせ精神をガードしようという防衛本能なのかもしれない。
恐怖の感情が薄れ、レナが今何を言っているのか。
そして…それが何を意味するのかを…脳内から雲散霧消させる……。
だからといって恐怖心が消えるわけではない。
…それは言ってみれば…崖っぷちの上で、下を見ずに目をつぶっているだけのような、何の根本解決にもならない、そんな感情だ。
よろりと、後ろに一歩下がる。……その下がった分、レナは入り込む。
「……………だから圭一《けいいち》くん。…………ここを開けて? レナと一緒にご飯食べよ☆ きっとおいしいから、……………ね…?」
レナの白すぎる細すぎる指が何本も、一本一本が生きているかのように、扉の隙間からするすると入り込み、チェーンをかちゃかちゃと言わせる…。
いっそチェーンを引きちぎってくれれば、俺も恐怖と言う感情を素直に爆発させられたのかもしれない。
…だがレナはそうしない。
あくまでも俺に、チェーンを開けさせようとするのだ。
俺の胸の中の…しけった火薬に必死になってライターで火をつける。何度も試す。かちゃかちゃと。…だがつかない。…つかない…!
「…………開けて? …………圭一《けいいち》くん…?」
「か……帰ってくれ…。……頼むから……帰ってくれ…!!」
「…………どうしてそんないじわるを言うのかな…? ……かな?」
「帰ってくれ!! 帰れよぉッ!!! 帰れぇえぇええぇッ!!!!」
俺の中の火薬にようやく火が付く。
それはくすぶらず、一気に爆発した。
扉に体当たりする。
レナは扉越しの衝撃に少し体勢を崩したようだった。
ここで躊躇してはならない…!!
ドアノブを両手で掴み、両足で踏ん張って一気に引っ張る!!
だがバタンという軽快な音はしなかった。
ぎりぎりと嫌な手応えが伝わり、扉が閉じることを拒むのだ。
それは…レナの指だった。
一本一本が蠢きながら、まるで食虫植物とかの触手のように扉の狭間で揺らめく…!
「…………痛い……痛いよ圭一《けいいち》くん…………痛い………ぅ、」
それは悲鳴のような激しいものでなく、かみ殺したような、静かなうめきだった。
「帰れ……帰れ……帰れ……ッ!!!」
俺はいよいよきつく扉を引き絞る…!!
一度扉を緩めなければレナの指が抜けない、だから閉められない、なんてことは思いつかなかった。
「………本当に痛いの圭一《けいいち》くん。………悪ふざけが過ぎたなら謝るよ……ぅぅ……。」
謝罪の言葉なんかどうでもよかった。
レナがいくら謝罪したって、レナがしてきたことは何も変わらない。…何も変わらない!
「……痛いの……痛いの……、ごめんなさい……ごめんなさい…ごめんなさい…。」
「帰れ帰れ!! 帰れぇええぇえぇええッ!!」
レナが帰りたくても帰れないのは、俺がレナの指を挟んでいるからなのに…。
レナの白い指先は真っ赤になり、もはや蠢きもしなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…、」
「帰れ、帰れ、帰れ…!!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、」
レナの謝罪は、時に苦痛に歪みながら……壊れたテープレコーダーのように…それだけをただひたすらと繰り返した…。
帰れ帰れ帰れ…やめろやめろやめろ!!!
俺はさらに強く扉を引き絞る!!!
やがて、何かの拍子に一気にレナの指が扉の枷から外れた。
その途端、扉は威勢良く閉まり、その向こうでレナがしりもちをついた音がした。
間髪入れずに俺はカギをかける。
それは大きなガチャリという音を立て、レナに拒絶を宣告した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、……圭一《けいいち》君、ごめんなさい…、ここを開けて……圭一《けいいち》くん……。」
レナは扉にしな垂れかかって、ただひたすら謝罪の言葉を繰り返していた。
俺はレナと自分の空間を完全に遮断できたことをゆっくりと確認しながら…そろりそろりと……扉から後ずさる。
扉の向こうから、レナの謝罪の言葉が、…ごめんなさい、ごめんなさい、という哀れな言葉が…、俺の許しを得られるまで永遠に繰り返されていた。
気の毒に思ったりはしなかった。
だが、冷酷な感情でそう思ったのではない。
……ただ、レナから逃れることが出来たという、灰色の安堵感だけだった。
以前、俺はこの玄関で魅音《みおん》に、知らないことは何もない…と脅された。
そして今再び同じ場所で、レナにもそれを教えられた。
…俺のささやかな両親不在の偽装は初めから何の役にも立たなかった。
…ならばいっそ居留守を決め込み、玄関を開けない方がましだった!
俺のささやかな策略なんて…何の役にも立たない。
ここ雛見沢《ひなみざわ》で……ヤツらを出し抜くなんて……できやしないのだ……!!!
俺は扉越しとは言え、少しでもレナから離れたかった。
一歩、一歩、離れる度にすすり泣くようなレナの謝罪が遠ざかる…。
一気に階段を駆け上がり、部屋に飛び込む。
…さすがにもう、レナの無限に繰り返される謝罪を聞こえなかった。
布団に飛び込み、ごりっとした手応えにぎょっとする…。
布団の中に…何かあるッ?!?!
……受話器だった。
ようやく思い出す。…大石《おおいし》さんとの電話中だったことを。
時計を見ると、玄関へ降りてから全然時間が経っていないことがわかる。
…俺の時計、電池が切れ掛かっているんじゃ…??
あれだけレナと話をして…これしか時間が経ってないわけがない…!!
だが時計の秒針は、さも当り前なように、俺が1秒と思う時間を1秒ずつ刻みながら、…動き続けていた。
まだ、自分のぬくもりがちょっと残った受話器を耳に当てなおすと、…凍っていた時間が…ゆっくり解け出す。
「…もしもし、…大石《おおいし》さん? お待たせしてすみませんでした。」
「いえいえ。大してお待ちしていませんよ。」
大石《おおいし》さんと俺とで、時間の経ち方が異なるのは明白だ。
電話の向こうから漏れ聞こえる、スポーツ番組か何かのにぎやかな声が、大石《おおいし》さんの遠さを教えてくれた…。
■大石《おおいし》さんとの会話
「…今、レナが来ました。」
「遊びに来たんですか?」
「………………………。」
大石《おおいし》さんに今の状況を的確に説明できる自信はなかった。
だが今の俺に必要なのはそれを説明することでなく、レナのことだ。
そう、レナの訪問によって話が中断されてしまったが……俺は大石《おおいし》さんにレナのことを聞こうと思っていたのだ。
何が真実で何が偽りなのか……何もわからない。
ひとつわかるのは、レナは怪しい、というたったひとつの厳然たる事実だ。
レナの正体を大石《おおいし》さんに聞くことで、何かわかることがあるかもしれない。
………これまで俺は、知らなくていいことを無理に聞き、何度も後悔してきた。
だが、もうその意味では底の底まで落ちてきたと言っていい。
これ以上の後悔などあるわけもない。
いや……むしろ、これ以上があるならそれすらも知りたい。
今や俺は、明日どころか今夜、何があってもおかしくない、そんな状況だ。
俺が知りたい全てを知りたい。
……絶対にこのままでは死ねないのだ。
…こんな、何もわからないうちには絶対に…!
「…竜宮《りゅうぐう》レナさんのことですか? 調べましたよ。…えぇまぁ…簡単には。」
大石《おおいし》さんの言い回しはわかっている。”…簡単には”は、友人であるあなたには話し難いくらい調べた、という意味だ。
「その簡単な全てを知りたいんです。」
「……あなたが聞いて面白いような話はありませんよ?」
「大石《おおいし》さん。」
俺は努めて冷静な声で、はぐらかし続ける大石《おおいし》さんに告げる。
そして……断じた。
「竜宮《りゅうぐう》レナは怪しいと思っています。
過去の事件がたとえオヤシロさまの祟りによるものだったにせよ、…竜宮《りゅうぐう》レナは関わっています。」
「レナさんが怪しいと思える、具体的な証拠があるのですか?」
大石《おおいし》さんの口調がぐっとシビアになる。
…証拠はあるのか。
それは刑事としての言葉だった。
「状況証拠だけです。」
「………そうですか。」
大石《おおいし》さんの落胆する様子が受話器ごしにわかる。
釣竿に反応があって竿を引いてみたら、俺と言うエサに何の変化もなかったので……落胆してもう一度竿を振り上げる……そんな感じだった。
「…大石《おおいし》さん。…目に見える証拠がなければ…動けないんですか?」
言葉の裏には、証拠がなければ俺を助けられないんですか? というトゲも含めた。
さすがに遠回しな言い方を好む大石《おおいし》さんは、俺の言いたいことが理解できたようだった。
「大丈夫ですよ前原《まえばら》さん。あなたは私が守ります。」
…ちっとも頼もしくない。
大石《おおいし》さんは俺を利用して捜査しているだけだ。
俺が殺されたって、その死体は貴重な捜査資料になるくらいにしか思っていまい。
「大石《おおいし》さんの捜査は俺の生死と無関係でしょうが、俺は死ねば終わりなんです!」
電話先の大石《おおいし》さんは沈黙する。
……直情的に言ってしまったが、構わない。
…大石《おおいし》さんに、自分がいかに危機的状況にいるか伝わればそれでいい。
「だから、話してください。レナのこと。」
「…………………………。」
「悟史《さとし》は転校しました。…多分、俺もそれほど遠くない将来、レナの言う“転校”をするでしょう。…ですが大石《おおいし》さんには俺の死体を見つけることもできないでしょうね。
……現に悟史《さとし》の死体だってまだ見つけられてない!!」
「ま、前原《まえばら》さん、どうか落ち着いて……。」
大石《おおいし》さんに諭されるまでもなく、俺は興奮を抑える…。
ここで警察に対する不信をわめいても何の解決にもならない。
結局、身を守れるのは自分自身、そして悟史《さとし》の遺した金属バットだけなのだ。
ならばせめて教えてほしい。レナに転校前、何があったのかを。
「…つまらない話になるのは覚悟の上ですね?」
俺の決意が揺るがないことを知った大石《おおいし》さんはついに折れる。
「今の俺にとって、つまらない話は何一つありません。…お願いします。」
「………まずいくつかお断りすることがあります。」
「はい。」
「他言無用でお願いします。
また、内容には一部憶測も含まれているかもしれません。……全てが真実ではないかもしれないということです。……よろしいですね?」
「真実ではないかもしれない…? 言ってる意味がよくわかりません。」
「雛見沢《ひなみざわ》の連続怪死事件は捜査本部がありません。毎年の事件は個々に扱われています。
ですから竜宮《りゅうぐう》レナが捜査線に浮上したことは一度もないのです。……つまりですね、」
「……レナの調査は警察としてでなく、個人として行なった、ということですか?」
「…ご理解いただけて助かります。…話のほとんどは電話、もしくは会って聞かせてもらったものばかりです。ですからウラが取れていません。鵜呑みにしないでほしい、……………ということなんですよ。ご理解いただけますね?」
「…全部、聞いた話だけなんですか?」
「えぇ、申し訳ないです。個人調査ですのでねぇ。」
「あれ……。…以前、レナのカルテを見たって言いませんでしたか? 確かにそう聞きましたよ。」
電話先の大石《おおいし》さんが一瞬の間を置く。
「…そんなこともいいましたかねぇ? なっはっは! 気のせいと言う事にしてください。」
大石《おおいし》さんの大人の都合などにいちいち興味はない。
それに証拠なんかなくても充分だ。
たとえ噂話だったとしても、火のないところに煙は立たないのだから。
「……話して下さい。大石《おおいし》さん。」
「わかりました…。」
大石《おおいし》さんは重い口をようやく開く。
レナは大昔は雛見沢《ひなみざわ》に住んでいたらしい。
それが小学校に上がる時に遠くの、茨城へ引越しした。
そして……やがて。…転校直前。
校内のガラスを割ってまわるという凶事に至る。
そして医者でレナが告白するのだ。
「オヤシロさまが、」と。
これだけが俺が知る全てだ。
「………私が知る話も前原《まえばら》さんと大きくは変わりません。」
「では、どこを詳しく調べたんですか…?」
聞くまでもない。
…転校直前に引き起こした事件についてだ。
「レナが起こした事件と、…その後の医者での告白、…ですね?」
「………………はい。」
「大石《おおいし》さんはその内容を知っているからこそ、レナたちを疑っているんですね?」
「…………えぇ。疑っています。」
「やはりレナたちが犯人…?」
「あ、いえ………疑うとはそう意味ではないんです。」
?
大石《おおいし》さんは割りと自信たっぷりな言い方をする人だが、この言葉だけは非常に頼りなかった。
「じゃあ何を…、疑ってるんですか?」
「……………オヤシロさま、………ですよ。」
「え?」
「…………オヤシロさまの祟りって、本当にあるのかな……なんて、まぁ…はっはっは…!」
大石《おおいし》さんの笑いは乾いていて、とてもつられて笑い出せるようなものではなかった。
大石《おおいし》さんは少しずつ話し始めた。
悟史《さとし》の失踪の頃からの不審感。
…レナの過去を調べ始めるまでの経緯。
その時、遠雷と共に突然強い雨が降り出した。
本当に突然、それも叩きつけるような激しい雨だった。
部屋の熱気を逃がすため、隙間を空けておいた窓から狂った風が踊りこみ、カーテンを騒がしくはためかせている。
「どうしました?」
「あ、いえ、急にすごい雨が…。すみません、どうぞ続けてください…。」
電話を続けながら腰を上げ、窓に手をかける。
「始めに事件と申し上げましたが、学校側も被害者も告発してないので、正式には事件ではないのです。
……でですね、この辺りがどうも関係者皆さん、口が重いんですよ。……被害者のひとりは片目に後遺症を残すぐらい殴られてるのにも関わらずです。
学校側か、もしくは表沙汰になるのを望まない何者かがいろいろ根回しをしたのかもしれませんね。……またカウンセリングを担当した神経科医も職業倫理に厳格な方で……。………もしもし? 前原《まえばら》さん? 聞こえてます?」
門の郵便受けのところにある外灯に、ずっとひとりの人影が立ち尽くしていた。
この土砂降りの中、傘もさしていなかった。もちろん全身はずぶ濡れ…。滝のような雨に、髪の毛からぼたぼたと水を滴らせている…。
それは両手をだらりとさせ、ただ、立ち尽くしているという表現が似合っていた。
片手には……風呂敷で包まれた重箱。
瞳には……俺の部屋。……窓を閉めようとカーテンを開け放った俺の、姿。
口元は…もごもごと…ずっと規則的に動き続けていた。
まるで、何か噛み切りにくいものを口いっぱいに頬張っているかのようだった。
あいつは……あんなところで…何を食っているんだ…?
どうしてこのときの俺は……大石《おおいし》さんから明かされている衝撃的な内容よりも…レナに釘付けになってしまったのか…。
雨さえ降らなければ窓に近付くことはなかった。
そうすればレナに気付くことも、レナの“それ”に気付くことも…なかったのだ。
レナの口の動きが、ずっと同じ形で反復している。
それは食っているのではなく……繰り返しているのだ。
何て?
しゃべっている?
俺に…?
何て……?
なぜ俺は…ガラスにびったり張り付き……それに目を凝らしてしまうのだろう。
「もしもし? 前原《まえばら》さん? 聞こえてますか? もしもーし……。」
「ごめんなさい。」
「え? 前原《まえばら》さん?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…、」
「もしもし? 前原《まえばら》さん?! どうしましたか…?!」
レナは……この土砂降りの中、…まだ謝り続けているのだ…………。
俺の中のもうひとりの俺が、右腕を素早く振り、カーテンで外界を遮った。
だがそんなことでは、レナの繰り返す謝罪の言葉が俺の耳を離れることはない。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…、
許してやったら、それを許してくれるのかよ?!
やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ…!
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…、
くそぉ…!! 何で俺が…許さなくちゃならないんだよ!!
むしろ許してほしいのは俺の方だろ?!
俺の何が許されないんだよ!!
俺は絶対に殺されないからな!!
俺が許されないなら俺だって許さない。
…許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない、許さない…!!
「前原《まえばら》さん? 聞こえてるなら返事をして下さい。…もしもーし!!」
<幕間>
14(夜)■セブンスマートにて
セブンスマートは市内にある、酒類食料品の安売量販店だ。
「なぁに、圭一《けいいち》。こんなにたくさん! 全部違う種類にすることはないでしょ?!」
色とりどりのカップめんをどっさりとカートに載せたんだ。
「最近のカップめんは凝ってて種類も多いんだよ。どれも一通りは食ってみたいし。」
半ばわがままだとはわかっていたが、一応はと思っての挑戦だった。
「圭一《けいいち》。箱売りしてるのにしなさい。安いから。」
親父が渋る。
まぁこういう展開は読めていた。
親父が出てきたらどうしようもない。
「それじゃ1種類しか食えないよ! 飽きちゃうって!」
形式だけの抵抗だ。
心の中では早々に諦め、どのラーメンの箱を買うか迷っていた。
「決められないならお母さんが決めちゃうわよ。」
そう急かされても困る…!
手早く目当てのラーメンの箱を探しに行く。
「豚骨ショウガ味、デカカップ? ねぇ圭一《けいいち》、もう少し普通のにしない?」
お袋に選ばせると醤油味だと塩味だの、手堅いチョイスに固まる傾向がある。
「豚骨はうまいんだよ! 大盛りだけど大味ってわけじゃないし…!!」
回想の中の俺が、自らの選択したラーメンの正当性を主張している。
この、すでにラミネートでパッキングされてしまった、終わってしまった時間の世界で振り返るなんてことができるわけがない…。
だから…俺にできるのは、この時間の俺の視覚と聴覚、気配をさらに鋭敏にすることだけだ。
どんなに視界内を探しても……レナは見つけられない。
時間を遡らせて探す。
だがもちろん見つけられない。
では…俺の視界外、死角から俺を伺っていた…?
聴覚や気配を遡り、探りなおす。
他の買い物客の気配。
どれも雑多で…好き勝手に動いている。
じっと伺うものもいなければ、俺の背後を付回す気配もない。
ない。ないはず。多分ない。
いくら無警戒な当時の俺でも…ぴったり後ろを付けられれば絶対に気付くはず。
多分という曖昧な表現を使いながら、絶対という矛盾した形容詞を使ってしまうことに苦笑する…。
その時、ぞくりとして時間の再生を止めた。
………確かに後ろに影の気配があった。
それは…例えようもない恐怖だった。
本当の俺の後ろに現れた気配なら、振り返って確かめることもできる。
だが、すでに終わってしまった時間の世界にいる俺には振り向くことはできない…。
そんな恐ろしい影を背負いながら…俺は嬉々として店内を走り回り、カップめんの箱探しをしていた…?
お袋への悪態をつきながら、インスタントのコーナーを駆け回る俺…。
だが…その背後には常に気配がぴったりと。影のように付きまとっていたのだ。
それを……確かめようもない、今になって自覚することが……これほど恐ろしく、おぞましいものなのか……。
終わった時間の世界を……俺が嬉々として走り抜けている。
ダンボールを抱えて。
パタパタと。
……だが、その足音はよく聞きなおすと……ぺたぺたという、俺の足音以外の何かを確かに含んでいた。
パタパタパタ。ぺたぺたぺた。
パタパタ。ぺたぺた。
パタパタパタ。ぺたぺたぺた。
俺が走るのとまったく同じように、そのぺたぺたというまるで素足のような足音が、俺の後ろをつけていた。
終わった時間の世界を……俺が嬉々として走り抜けている。
だがそれは……聞こえていないから。
いや。聞こえていたからこうして思い出せる。
…聞こえていたが気にしなかった。
だから振り返らなかった。
だから、俺は振り返られない…!!!
終わった時間の世界を、俺はぺたぺたと付ける足音にずっと追われている。
もっと早く走って逃げることもできない。
終わった時間の俺は、すでに決められた速度でしか走れない。
振り返ることもできない。
終わった時間の俺は、一度も後ろなんか振り返らなかったから。
そして、両親の元にたどり着き、会話を始めるのだ。影のような気配を背負ったまま。
俺が動かないから、影も動かない。だから音がしない。それだけのこと。
その時、俺は一歩も歩かずに両親と会話をしていたはずだった。
立ち尽くしたままだった。間違いなく。
なのに、
……ぺた。…と音がした。
そんなはずはない。
俺が3歩駆けたら、3歩追う。それがルールのはずだろ…?
もうそれ以上は音はしなかった。
その時、世界中が停電になった。…突然の真っ暗だった。
もう回想の旅は終わりだ。
今日はもう眠い。
やめにしたい。
誰か明かりを付けてくれ。
だが体は動かない。
…終わった時間の世界に…縫い止められたように。
ぺた。
前身の毛が逆立つ。
こんなバカな…?!
さっきからルール違反ばかりだ!!
俺は歩いてない!
だからお前も歩いちゃだめなんだ!!
俺は動けない! だからお前も動けないんだぞ!! ルールを守れッ!!!
ぺた。
なのにもう一回、その音が暗闇に響き渡った。
後頭部の髪の毛がチリチリとざわめく。
髪の毛が触れるか触れないか、というくらいすぐ後ろに、……来ているのだ。
後ろの気配が動けるように、どうして俺は動けないんだ?!?!
…すぐに気付いた。
俺は動けるのだ。
……怖くて振り返れないだけなのだ。
振り向けるのは今しかない。
終わった時間の世界では絶対に許されぬ行為…。だが……今、振り返らなければ……!!
体中の全細胞が、許されざる行為を止めようと、毛穴という毛穴に針を突き立てたような痛みを訴え始める…。
振り向いてやる!
振り向いてやる!
怖くなんかないぞ!!
振り向いてやる!
振り向いてやる!
怖くなんかないぞ!!!!
声に出せぬ、胸の中での雄叫びだった。
ぉおぉおぉおおおおおぉおぉおおぉ!!!!
後ろを振り向いた。
……そこには、………始めそれの意味はわからなかった。
「………え、………………え?」
これって……………え?
自分の目の前の状況を、まるで人の口がリンゴをかじって汁を啜り、リンゴであることを知るように………脳がリンゴを食べ始める。
しゃりしゃりと咀嚼し始める…。
汁を啜り………リンゴであることを知る。
つまり……俺の目の前のそれは、
ぎゃああああぁあぁあぁああああぁあぁああぁああぁあああぁあぁぁぁ………
■15日目(土)
一睡もしなかった、というのは嘘になるのだろうか…。
一晩中起きていたつもりだったが、記憶は明らかに何箇所か欠落していた。
何度も眠りに落ちては、その度にあわてて顔を上げるということをずっと繰り返していたのだろうか…。
俺は結局一晩中、バリケードのように布団で部屋への入り口を塞ぎ、その上で金属バットを抱きながら座り込んで、ただただじっと…窓から来るかもしれない侵入者を見張り続けていた。
俺がここを立ち上がれば、扉からの侵入者は布団を跳ね飛ばして襲い掛かり、
俺が窓を見張るのを怠れば、窓からの侵入者はガラスを破って襲い掛かり…、
被害妄想に過ぎないと何度も自分をたしなめたが……眠れはしなかった。
眠るという無防備状態がただひたすらに怖かった。
そんな怖い思いをしてまで眠る必要なんかない。
…それならずっと起きていた方がよっぽど気が楽だった。
そんな時間をずっと繰り返すうちに、いつの間にか表が明るくなった…、それだけの事だ。
だからこれは朝というよりは、日が昇っただけの夜と言えるのかもしれない。
カーテンの隙間からこっそりと家の前を見る。
すでにレナの姿はなくなっていた。
………周りをいくら見渡してもその姿は見つけられない。
そこで初めて、俺は深く息をつき、夜が終わったことを知ったのだった…。
眠くないと言えば嘘になるが、今すぐ寝たいとは思わなかった。
まだ時間はある。
だが朝食の準備は自分でしなくてはならないのだから、早めに起き出した方がいいだろう。
…学校を休むという選択肢もあった。
お袋がいない以上、ズル休みは簡単だ。
正直に言って…迷う。
家を出ることに対するリスクは計り知れない。ここに篭城しているのがおそらく、一番安全だろう。
だが。……このままいても何も解決しない。
大石《おおいし》さんは目に見える証拠がない限り、何も助けてはくれない。
でもそれは大石《おおいし》さんだけじゃない。…両親だって同じことだ。
つまり……目に見える何かが得られない限り、終わらない夜はずっと続くのだ。
いつもそうするように、ぐっと伸びをしてから頭を後ろへそらし、目を閉じる。
息を落ち着ける…。…冷静さを取り戻す…。クールになれ前原《まえばら》圭一《けいいち》…。
登校しよう。
俺に対して何かが仕掛けられるのを待とう。
だがそれは手をこまねいているわけではない。…その魔手を紙一重でかわし、逆に動かぬ証拠として押さえるのだ。
車が近付いてきたらナンバーをチェック。
不審者は服装や顔などをチェック。
自分の身を守る…というよりも、敵の攻撃を逆手に取る、反撃の心構えだ。
それは侍が刀を抜きあい互いに一撃必殺を狙い合う、そんな緊迫感に似ている。
俺だけに一方的に不利なんじゃない。
俺にだって反撃のチャンスがある…!
胸の奥にようやく、ちょっぴりの勇気が戻ってくる。
…よし。登校しよう。
悟史《さとし》のバットを握り直す。俺の心強い唯一の相棒だ。
……悟史《さとし》、どうか俺に力を貸してくれ。
そして(多分殺されたのだろう)お前の無念を俺に託してくれ。
俺がきっと…それを晴らす。
決意を新たに時計を見上げる。
まだ時間は早かった。
もちろん今日も一人で登校する。
レナや魅音《みおん》と鉢合わせしたくないなら、もう出ないとまずいだろう。
…玄関は壊した靴箱の破片が散らばって、ひどい有様だった。
そうだ。昨日、片付けようと思って、電話やら何やらで片付けられなかったんだっけ…。
学校に行っている間に両親が帰ってきたら、うるさいかもしれないな…。
だが、片付けをして時間を無駄にし、レナや魅音《みおん》と鉢合わせになることを思えば、帰ってから片付けても遅くはない…。
俺は入念に戸締りを確認し、家を出た。
制服は昨日泥だらけにしてしまったので、洗濯機に突っ込んだまま。
だから今日はジャージでの登校だ。
昨日までの朝と違う服装が、今朝という朝が昨日までと確実に異なることを認識させる。
本能的に悟る。
俺は今日、殺されるかもしれない。
気を許すな前原《まえばら》圭一《けいいち》。
今日が最期の一日になるかどうかは…他でもない、俺自身が決めることになるだろう…。
■学校
朝を当然の日課であるかのように素振りで過ごす。
やがてレナも登校してきた。
目が合ったが挨拶はしない。
レナは昨夜のことを何も言わなかった。
…まるで何事もなかったかのように。
だが、レナの十指には昨夜の出来事が確かにあったことを示す傷がざっくりと刻まれている。
そのバンドエイドだらけの両腕を、台所で怪我をした…と沙都子《さとこ》たちに釈明しているのを、さっき聞いた。
…もうまるで胸は痛まない。
昨夜、大石《おおいし》さんに聞いた、レナが転校直前に起こした事件がまざまざと脳裏に蘇る。
それを知った今、レナが可愛らしい理想的な女の子だなどと夢にも思わない。
「圭ちゃーん、相変わらず甲子園一直線だねぇ。」
魅音《みおん》だった。
その接近は少し前から察していたので、特には驚かない。
「魅音《みおん》か。…わかってるなら放っておいてくれよ。俺は甲子園で忙しいんだ。」
俺は茶化す様子もなく、素っ気なくそう返事をする。
そしてさらに一際大きくスイングし、魅音《みおん》の接近をささやかに牽制した。
「圭ちゃんさ、ちょっと休憩ちょっと休憩。」
魅音《みおん》もそれを理解しているのか、俺に休憩を持ちかける。
「ホームルームまであとちょっとだろ。…もう一汗かかせてくれてよ。」
魅音《みおん》を拒絶する意味を込めてさらに力強くスイングする。
「……圭ちゃんって野球、好きだったっけ?」
「最近好きになった。」
「最近って、昨日から?」
「…わかってんなら聞くなよ。」
「……あれまぁ。スポーツマンにしては爽やかじゃないお返事だことで。」
「気が散る。…放っておいてくれ。」
魅音《みおん》を無視し、俺は素振りを続ける。
普通、これだけ素っ気無くされれば、怒るか呆れるかして行ってしまうものだが。魅音《みおん》は立ち去らず、俺の素振りが終わるのをのんびりと待っていた。
…特に殺気も感じない。
場所も見通しのいい校庭だ。
突然襲い掛かってくるようなこともないだろう。……甘いか?
だが少し疲れても来た。
…一休みし、魅音《みおん》の話を聞いてやってもいいかもしれない。
「……何か用なんだろ? 何だよ。」
素振りをやめると汗がどっと溢れてきた。
肩で息をしている自分に気付く。……普段の運動不足に呆れる。
これではいざと言うとき、自在に体が動かせるかどうか実に不安だ。
……素振りはバットを携帯するアリバイ作りだけでなく、体力作りの意味でも続けた方がいいだろう。
「用ってわけでもないけどさ。…お疲れのようなら後にするけど?」
「今でいい。」
今の状況が安全だと判断したから付き合うだけだ。
二人きりでひと気のいないところで相談…なんてのはよくない。
「……えっとさ。うーん……、」
魅音《みおん》にしては言葉を選んでいる。
だが大石《おおいし》さんのするような、先を聞くことを躊躇させるような話題ではないようだ。
うまい言い方が思いつかず、悩みこんでいる魅音《みおん》。
……やがて行き詰ったのを打開するように豪快に笑い出す。
「あっはっはっは! おじさんダメだわ、こーゆうの。ボキャ貧は辛いわぁ。」
「…何だよ突然。言いたいことがあるならはっきりと言えよ。」
「やめてよ。素振り。」
それはあまりに単刀直入だった。
あまりの率直さに、魅音《みおん》の言っている意味がよくわからない。
ちゃんと素振りをやめて話を聞いてるじゃないか。
「…ちゃんとやめてるだろ。」
「じゃなくて。今日で終わりにしてほしいの。悪いけど。」
言っている意味がわかるまでにしばらく時間がかかった。
…素振りをするのがなぜいけない?!
「なんでだよ。余計なお世話だよ! 別に誰にも迷惑かけてないだろ?!」
「かけてる。」
魅音《みおん》はきっぱりと言い放った。
何がなにやらわからず、とても不愉快だ。
「俺がいつ誰に迷惑をかけたよ!!」
「…えっと………んー………。」
言いよどむ魅音《みおん》。
だがやがて意を決して口を開く。
でもその口調は歯切れが悪い。
「だ、だってさ圭ちゃん、それ、人のバットだしさ。無断借用は悪いしー…。」
「転校した生徒の忘れ物だろ? 本人が取りに来るまで借りてるだけだよ。」
「え、あ!……まぁね……転校したし……。」
魅音《みおん》が柄にもなくうろたえる。
転校が偽りであることがあまりに明白だ。
「でも変わってるよな。兄貴だけ転校なんだろ? 妹は転校しなかったんだろ?」
俺の揺さぶりに魅音《みおん》は露骨に反応する。
「……け、圭ちゃん、…知ってたの…?!」
「北条《ほうじょう》悟史《さとし》。…沙都子《さとこ》の兄貴、だろ? 去年、鬼隠し《おにかくし》にあって消えた。」
魅音《みおん》は切り返せず沈黙してしまう。
「レナにも言われた。何で素振りを始めたのかってな。」
「…………………。」
「悟史《さとし》もやってたんだってな。素振り。それも失踪の直前に。」
「…………………。」
「これってさ、オヤシロさまの祟りにあう前兆ってわけなのか?」
「シーーーーー!!」
魅音《みおん》が慌てて周りをきょろきょろ伺う。
「…頼むよ圭ちゃん。オヤシロさまの話は迂闊にしないでよ!……私はそんなに信じてないからいいけどさ、他のみんなはすごく信じてる。レナなんかやばいくらいに!」
「やばいくらいに…?」
「とにかく! みんな怖がってるんだよ!! もしもこれが悪ふざけならやめな! 悟史《さとし》の真似は絶対にやめて!!」
怖がらされてるのは俺の方だ。
…誰のお陰で素振りをする羽目になったと思ってるんだ。
……だが自分の行為が悟史《さとし》と重なる点だけは今でも腑に落ちない。
誰かにそそのかされたのならともかく、自らの意思で選択した行為のはずなのに…。
「先に言っとく。俺は悟史《さとし》のことは何も知らない。…みんなが隠してたからな。」
「…か、隠してたってわけじゃ……。」
「毎年起こる事件のこと、隠してたろ?」
「あ、それは…圭ちゃんを……、ん……。」
「怖がらせたくなかったってのか?! それが理由で俺だけ除け者かよ?!」
「いや、そんなつもりじゃ…、」
「魅音《みおん》に直に、ダム現場で事件がなかったかって聞いたよな。…魅音《みおん》はないって言ったじゃないか!!! バラバラ殺人があったのによ!!! 嘘つき野郎ッ!!!」
「ご、ごめん…!! 嘘ってわけじゃ…、」
「仲間ってのは隠し事なんかなしだろ? そうだろ?! じゃあお前らは仲間じゃない!!」
「け…圭ちゃん……そんなのって……、」
魅音《みおん》は頼りなさげにおろおろする。
心なしか涙まで溜めている。
…いつもの魅音《みおん》からはとても想像できない。
「あぁそれに、先日の見舞いのおはぎ、あれ、うまかったぜ。血が出るかと思った。……やったのはどっちだ? お前か? レナか?!」
「……………………………私。」
あまりにあっさり認める。
そのあっさりさに驚かずにはいられない。
「死ぬかもしれなかったんだぞ。仲間にあんな真似をするのかよ…?!」
「………そ、そんな……ちょっとしたいたずらじゃん…。」
狼狽しながらもどこか苦笑いのような笑みを浮かべる魅音《みおん》に、今さらながら怒りがこみ上げてくる。
「あれがいたずらで済むかよッ?!?!」
俺は魅音《みおん》の胸倉を掴み、ねじりあげる!!
おはぎにタバスコ混ぜるとか、そんなのとはレベルが違うんだぞ!
針だぞ裁縫針!!
飲み込んで…喉の奥とかに刺さったら…どうなると思ってんだよ?!?!
魅音《みおん》は表情を強張らせてかたかたと震えている。
……もうそれは、俺のよく知っている園崎《そのざき》魅音《みおん》ではなくなっていた。
「とにかく。お前は仲間じゃない。…仲間じゃないヤツの指図は受けるいわれはない。…俺のことは当分放っておいてもらうぜ。…いいな。」
もう魅音《みおん》は何も言い返せなかった。
「俺を消そうとしても簡単にはいかないからな。お前らは最初から警察に疑われてんだ。悟史《さとし》を消せたように、簡単に消せると思うなよ!!」
はっきりと言い切る。
これは…宣戦布告だ。
「俺も過去の事件はお前らが怪しいと思ってる。ダムの反対運動の時から、お前が警察の世話になってたこともよく知ってる! 隠しきれてると思うなよ…いいな!!」
「ど……どうして……そんな……ことまで…………。」
魅音《みおん》は表情を失い、呆然と立ち尽くすのみだった。
その時、向こうから校長先生の振る振鈴の音が聞こえてくる。
朝のホームルームの時間だ。
「…行こうぜ。委員長がいないとまずいだろ。………?」
その時、初めて、魅音《みおん》が嗚咽混じりに涙をこぼしていることを知った。
「………ぅ………ひどいよ………圭ちゃん………、」
「………………魅、………。」
慰めようとするが、口を閉ざす。
俺が罪の意識を感じる必要はないのだ。
「…俺、行くぜ。ホームルーム、遅れるなよ。」
俺は震える魅音《みおん》を残し、昇降口へ向かうべく踵を返す。
女に泣かれるのがこんなにも厄介だとは思わなかった。
その背後に、ぼそりと。…本当にぼそりと、その独り言が聞こえた。
「………………そっかぁ……。」
「え?」
誰に言ったものでもない。…間違いなく魅音《みおん》の独り言だ。
だが、嗚咽に混じりながらも、笑うような、呪うような声だった。
思わず俺は足を止め、魅音《みおん》に振り返る。
「……圭ちゃんに…全部バラしたの……あの野郎かぁ……。」
両拳をぐっと握り、ぽたぽたと涙を流しながら。…地面の一点を睨みつけ…恐ろしい顔で……でも笑顔で……呪っていた。
その鬼気迫る表情に、背筋が凍りつく…。
レナの豹変とはまた違う、魅音《みおん》の豹変。
「………あの時、殺しとくんだったなぁ……。今年で定年だからって…容赦してやった恩も忘れやがってぇ………。」
今年で定年…。……大石《おおいし》さんのことか…?!
「畜生…畜生…あのじじぃ……。…絶対に殺してやる…………ぅぅッ!!!」
大気がぐにゃりと歪んだ気がした。
魅音《みおん》を中心に、世界が掻き混ぜられたかのように…歪む。たわむ。渦を巻く。
……それは初めて知る、いや、体感する恐怖だった………。
「きりーつ! きょーつけーー!」
魅音《みおん》はコンタクトがどうしたとか言って、真っ赤になった目をごまかしていた。
その後一日、レナも魅音《みおん》も、俺に話しかけたりはしなかった。
沙都子《さとこ》も梨花《りか》ちゃんも、俺に目も合わせない。
不思議と胸は痛まなかった。……元に戻っただけなのだ。
思えば、転校してきてからのこのひと月間が楽しすぎた。それだけのこと。
もともと、学校っていうのはこういうところだったじゃないか。
その感覚は、かつては嫌っていたはずなのに……今日はなぜか心地よかった。
■帰宅
緊張したような、ぼーっとしたような、灰色の授業時間の終わりを告げる振鈴が聞こえてきた。
部活に誘われるとまたいろいろと不愉快な思いをしそうだったので、彼女らには目を合わせないようにしてさっさと帰り支度をする。
机の中身をカバンに詰め込み、すっかり手に馴染んだ悟史《さとし》のバットを持つと、昇降口へ向かった。
今日も何事もなくてよかったと思う気持ちと、明日も同じ一日が繰り返されるのかという脱力感が交互に襲ってくる…。
だが………体のずっと奥の奥。……心の奥の奥の奥底が、…疼いて…教えてくれるのだ。
その繰り返しは今日で終わると。
その終わり方が、…俺の望む終わり方なのか。
…望まない終わり方なのか…それはわからない。
だが…今の俺にとって、どのような終わり方になるのかよりも…もっと重要なことがある。
知りたいことがある。
なぜ俺が殺されなければならないのか。
どうして。なぜ。何のために。
表の日差しは、まだ厳しい。
太陽も熱気も、そして空気も。それを答えてはくれない。
…それとも……セミたちの声を借りて、俺に何かを伝えようと必死に叫んでいるのだろうか…?
きっと、セミたちに混じり、…富竹《とみたけ》さんや悟史《さとし》が必死に俺に訴えかけている…。
そして俺はそれにまだ気付けない…。
…それに気付いた時、俺もこうして…セミたちに混じり、次の犠牲者にそれを伝えようと哀れな努力を繰り返すのだろうか…?
ふと足元を見ると、セミがひっくり返り、弱々しく体を震わせている…。
ジジ、ジ……。
本当の夏もまだなのに、もう力尽きようとしているセミが最後の声を振り絞っていた。
いくら耳をそばだてても……何を言っているのかはわからない。
…でも……俺は努力しなくてはならない。
……何かを伝えようと必死になっているこの声を、聞こうとする努力をしなくてはならないのだ……。
その時……セミたちが叫びをあげるのを一斉にやめた。
まるで…自分たちを恐ろしい目に会わせた当の本人の登場に、一斉に縮こまるかのように…。
間違いなかった。……それは気配の接近。
足音は最小限だ。
…セミたちが鳴き止むことによって教えてくれなければ…気付けなかった。
疲労感が一気に引き、代わりに五感を研ぎ澄ませる脳内物質が分泌され始める。
そして…そぅっと…こみ上げてくる恐怖心を静かに抑えつけた。
……そう長く抑えきれる感情ではないだろうが…。
……研ぎ澄まされなければならないこの一瞬に…冷静さがもたらされる。
…今日は昨日のように怒鳴りつけたりしない。
…冷静に木陰に身を隠し、尾行者の影を待ち受ける。
やり過ごせるだろうか…?
いや、俺に足音が聞き取れたように、相手も俺の足音を聞き取っているだろう。
…俺が身を隠して息を潜めていることは見抜かれているかもしれない…。
尾行者は…やはり昨日と同じに、レナだろうか?
レナだったら容赦しない。
怒鳴りつけて昨日と同じように先を歩かせればいい。
レナでなかったら…?
……相手の出方次第、だな…。
足音がひたひたと近付いてくる。
唾を飲み直し、汗ばんだ手をズボンのすそでぬぐってバットを握り直す。
一度は抑えた恐怖心が、ぶり返そうと俺の隙を伺っているのがわかる…。
一体…誰だ…?
木陰から尾行者を覗き込む。
……それは想像を裏切らず、レナだった。
未知の相手でなかったことによる安堵感はあったが、それは一瞬で引いた。
…レナの…様子が違ったからだ。
光を失った死者の瞳。
…なのに唇は弧を描いて切れ込み、そう、…まるで薄く笑うかのように見えた。
……そして、その右腕には……
斧。
再び木陰に身を隠し、今見た信じられない光景を思い出す。
今のは……なんだッ?!
あまりにも露骨な……恐怖の具現!!
俺のバットには野球とか素振りとか…ごまかしの効く大義名分がある。
…だがあの斧はなんだよッ?!
ごまかしも何もない!!!
そのまんまの…斧だッ?!?!
「……圭一《けいいち》くん。かくれんぼ、かな? かな?」
心臓が大きく跳ねる。
……呼吸が潰れるかと思うほどに。
辛うじて保っていた冷静さは粉々になって吹っ飛び、代わりに全身から噴出す冷たい汗が、自分が今どんな感情に支配されたかを教えてくれる…。
だめだだめだ…。
隠れきれていない。
バレている…!
「……レナを驚かせようとしたのかな?…かな?」
レナにこれ以上の接近を許すくらいなら、間合いがあるうちに姿を現した方がましだと判断する。
もう一度バットを握りなおし、…覚悟を決め、隠れていた木陰から姿を現した。
「あはははははははははは。…圭一《けいいち》くん、見ーつけた。」
奇怪な笑い声をあげ、俺の姿を見つけたことを喜ぶレナ。
……顔こそは笑っているが、俺が姿を隠していたことを不快に思っていることを、目が語っている。
その目の……あまりの深さに…足がすくみ始める……。
あぁ……だめだ………。
お腹の底から…熱くて冷たいどろどろとしたものが滲み出してくる…。
そのどろどろは…俺が気を許した途端に血流に乗って、臓器と言う臓器を凍えさせてしまうに違いないのだ…!
だめだ………だめだ…!
このままレナに飲み込まれてはいけない…!
切り返すんだ! 負けるな!!
「な……何の用だよッ!!」
虚勢を隠すために大きな声を張り上げる。
……だがレナはそれに臆したりはしなかった。
「…圭一《けいいち》くんと同じ。…帰り道だよ。」
「じゃあその斧は何だよッ?!」
「…じゃあ圭一《けいいち》くんのそのバットは何なのかな?」
「お、俺は素振りで…!!」
「じゃあレナは宝探しなの。」
レナは自らの持つ凶器の正当性をあっさりと説いた。
「た、宝探しぃ…?!」
「ダム現場の宝の山にね、また新しいかぁいいのを見つけたの。だからね、それを発掘するために、必要なの。」
「し、……信じるかよそんなのッ!!!」
「信じないよね。あはははははははははははははははは。」
レナの今日の笑いは明らかにおかしかった。
…これまでにもレナの豹変は何度か見た。
……だが今日のは明らかに違う。
思わせぶりな、とか、眼光が鋭い、とか。…そんな遠回しなのじゃない。
………何と言えばいいのか……露骨だ!!
「……待ってよ圭一《けいいち》くん。あはははははははははははははははははははははは。」
レナは奇怪に笑いながらも、決して足を止めたりはしない。
俺はそんなレナに追いつかれまいと、レナが一定距離に近付く度に小走りに逃げ振り返る、を繰り返す。
……それはどう見ても、レナに追われて逃げているようにしか見えなかった。
「つ……ついてくるなよ…ッ!!!」
「それはできない相談だよ。…レナの家もこっちだもん。あはははははははははははは。」
昨日、この道で出会ったレナは俺に怯え、震えながら指示に従った。
だが今日は違う。
レナには何の怯えもない。
…いやむしろ…怯えているのは俺の方なのだ?!
レナと帰宅路が同じというならいいさ、道を変えてやる! それでいいだろ?!
俺は曲がったこともない、よく知らない小道を入る。
だがレナは俺のその様子をけたけたを笑いながら、ついてくるのだ…!
どうして?! どうして?! レナは帰るんだろ?! じゃあいつも通りの道で帰ってくれよ!!
どうして…こんな変な脇道にまで…追って来るんだよ?!
そんな俺の、叫びのような思考は…そのまま口からこぼれた。
「…ど、どど、どうして付いてくるんだよッ…?!」
俺の声にはすでに恐怖が色付いていた。
「…圭一《けいいち》くんとお話したいから。……圭一《けいいち》くんもレナとお話したいんじゃないかな? かな?」
「お、俺は何も話したいことなんかない…!!」
「嘘だよね…? 相談したいこと、きっとあるはずだよ?」
「ない! レナと話すことなんか何もないよ!!」
「嘘だよね?」
「嘘じゃないよ…!」
「嘘だッ!!!!!!!」
レナの叫びがこだまし、驚かせた鳥たちが羽ばたいていく。
俺はすくみあがり、歩みを速めることしかできない。
「お話しようよ圭一《けいいち》くん。………お話お話。……あはははははははははははははは。」
何で俺はこんなひと気のない、知らない道を走っているんだろう?!
「圭一《けいいち》くんには悩んでることがあるんじゃないかな?」
「な、ないよ! 何にも悩んでない!!」
「嘘だッ!!!! あははははははははははははは。」
俺は走ってるのに。
レナは歩いてるのに。
どうして距離が開かない?!
「わかるよわかる。レナはわかるよ。怖いんだよね圭一《けいいち》くん?」
「こ、怖くなんかない! 何も怖いことなんか、」
「嘘だッ!!!! あははははははははははははは。」
俺の息は乱れ、足はもつれつつあった。
だがレナの息は少しも乱れない。
「レナだけは相談に乗ってあげられるよ。今度こそ乗ってあげられる。」
レナが何の話をしているのか、何をしたいのかわからない…!
「今度こそ相談に乗ってあげられる。悟史《さとし》くんのときとは違うもの!」
悟史《さとし》の名が出、一瞬振り返る。
だが、そうしている間にもレナは歩みを進めてくる。
俺には立ち止まる余裕もない…!
「悟史《さとし》くんも悩んでた。辛そうだった。でもレナは相談に乗ってあげられなかった。とても悲しかった。」
この道はどこに続いているんだろう?!
曲がりくねり、登ったり下ったり!
本当に…自分の家に向かっているのかも怪しい。
すでに方向感覚は失われていた。
「悟史《さとし》くんが“転校”しちゃった時ね、本当に後悔したんだよ。レナが相談に乗ってあげれば…悟史《さとし》くんは転校せずに済んだかもしれないって。すごく後悔した。」
道はますます深く、俺を森の中に誘い込む。
…走れば走るほどに、俺は人里から遠ざかっているんじゃないだろうか…?!
そう思えば思うほど、冷静さが失われていく…。
その冷静さが失われていくことを理解する、内なる自分だけがいやに冷静だった。
「だからね、誓ったの。もしも悟史《さとし》くんみたいに、苦しんでいる人にもう一度会えたなら、レナが助けてあげようって!
もう人が“転校”するところは見たくないの。あははははははははははははは。」
くっそぉおぉお!!
転校って何だよ!!
転校させられてたまるか!!
悟史《さとし》と同じ目に会ってたまるかよ!!!
「さぁ圭一《けいいち》くん、レナに話して。
レナはきっと圭一《けいいち》くんを理解してあげられるよ。レナだけは圭一《けいいち》くんの味方。」
ぜえぜえと息が乱れる。
肺は爆発しそうに熱くなり、心臓はこれ以上ないくらいにバクバク言っている。
…素振りよりランニングの方が必要だったか…!!!
馬鹿な現実逃避に苦笑いする余裕もない。
「悩みがなくなればきっと圭一《けいいち》くんも元通り。みんなとも仲良しに戻れて、また楽しく部活ができるよ。今度は一緒に組んで魅ぃちゃんをやっつけようね。あはははははははははははははははは。」
あぁそうだったらどんなに楽しいだろうな…。
この何日間か、どれほど時間を巻き戻したいと願ったか、レナには想像も付くまい…。
「レナともきっと仲良しに戻れるよ。
また一緒に宝探しに行きたいね。今度はお弁当も作っていくよ。何なら今から宝探しでもいいよ。行こうよ一緒にダム現場。見つけたばかりのかぁいいの、圭一《けいいち》くんにも見せてあげるね。きっと圭一《けいいち》くんも気に入るよ。あははははははははははははは。」
俺の足ががくがくと揺れながら、ぺたぺたと情けない足音をたてる。
それを追うレナの足音は、小枝をバリバリと踏み割りながら俺を威圧する。
もう俺は認めるしかない。
……俺はレナに追われ……逃げているのだ。
捕まったら、終わる。
…本能がそう告げていた。
…何がどう終わるのかは…具体的には思いつかない。
だが捕まったら終わる。それだけはわかる。
だが……どんな終わり方にせよ……まだ終われない。
…こんな…わけもわからない内には絶対に…ッ!!!
そんな一瞬の心の隙だった。
あろうことか、膝が笑うようにかくんと抜け、その場に崩れるように転んでしまう…!
慌てて立ち上がろうと、ばてて言うことを聞かない足を鞭打つ!
バットを杖に何とか立ち上がる俺の眼前に、もうレナはいた。
疲労困憊で息も絶え絶えの俺に比べ…レナは凍えるくらいに冷え込んでいて、息が乱れないどころか、心臓の鼓動さえ感じられなかった。
「何がこわいのかな…? 怯えるなんて圭一《けいいち》くんらしくないよ? あははははははははははははははははははははは。」
それは慈愛の表情にも見えた。
…瞳に生気の宿らない、仮面のような慈愛だった。
怯えるなと諭しながら、レナの両手はすぅーっと、頭上に差し上げられる。
その両手は幾重もの残像を残しながら…まるで千手観音のような神々しさを見せた。
…そして頭上で両手が組まれた時、そこには斧が握られていた。
それを呆然と見ていることしか出来ない………自分。
「ぉ………教えてくれ………。悟史《さとし》は…どうなったんだよッ!!!」
レナはそのまま、斧を振り上げたまま、厳かに口を開いた…。
それはまるで、二度と会うことのない友人に告げる別れのような……そんな残酷さが宿っていた…。
「言ったよ。…悟史《さとし》くんは“転校”したの。」
「その“転校”ってのをやめろよッ!!!!」
「……………………………。」
「鬼隠し《おにかくし》、ってことなんだろ? そうだろ?!」
「……………………………。」
「もう教えてくれたっていいだろ…?! 悟史《さとし》を消したのは誰だよ?! レナか?! 魅音《みおん》か?! それとも村の誰かかッ?!?!
答えろよッ!!!!」
俺が必死になって叫べば叫ぶほど、レナは凍った笑顔を浮かべるだけだった。
「……圭一《けいいち》くんが何を言ってるか、わからないな。」
「じゃあわかるように言ってやる!! 連続怪死事件の…犯人は誰だ!!!」
「……………圭一《けいいち》くんは勘違いしてるよ。」
「……え。」
「……ニンゲンの犯人なんかいない。…全てはオヤシロさまが決めることだもの。」
「オヤシロさまの祟りなんて……迷信だろッ?!?! レナは信じてるってのか?!」
「信じるとか信じないとかじゃない。…オヤシロさまは“いる”の。」
レナの眼差しがさらに冷え込む。
…有無を言わせない、そんな威圧感がひしひしと伝わってきた…。
「…オヤシロさまなんて……いるわけが…!」
「圭一《けいいち》くんは信じないの…? オヤシロさま。」
「…し、信じられるはずないだろッ?! そんなのいるわけがない!!」
「“いる”よ。オヤシロさま。……圭一《けいいち》くんだって身近に感じてるはずだよ?」
「そ、そんなもの…感じたことないよ!!!」
「…圭一《けいいち》くんさ、誰かに謝られたことない? それもずっと。」
世界から音が消え、レナの声だけがいやに大きく響いた。
「それはね、許してもらえるまで……ずっとついてくるの。学校へも。お家へも。…枕元へも。」
レナが何を言っているのか、わからない。
「レナのところへも、来たんだよ。オヤシロさま。……だからレナは“転校”して雛見沢《ひなみざわ》に帰って来たの。」
わからない。
わからない。
“転校”って何だよ。
レナは何を言ってるんだよ…。
「圭一《けいいち》くんのところにも……オヤシロさま、来てるんじゃない? きっと相談に乗れるのは私だけ。……圭一《けいいち》くんを“転校”なんかさせないから。…ね?」
あはははははははははははははははははははははははは。
レナの狂った笑い声が頭の中をがんがんとこだまする…。
…レナのところへも、オヤシロさまが来たというのか…?
そうだ。
…昨夜、大石《おおいし》さんに聞いたレナの話でも出てきた…。
■回想
「他言無用でお願いします。
また、内容には一部憶測も含まれているかもしれません。……全てが真実ではないかもしれないということです。……よろしいですね?」
大石《おおいし》さんは語り始めた…。
「被害者も学校も告訴していないので、調書がないのです。
つまり…警察が関与してないわけなんですよ。…ですから詳細は関係者からの聞き取りのみなのです。…つまり信憑性が高くない。」
「被害者って言いましたか? レナはガラスを割っただけじゃないんですか?」
「いえ、男子生徒が3人ほど竜宮《りゅうぐう》レナに殴られています。金属バットでです。……2人はアザで済みましたが、1人は片目に後遺症を残すほどの大怪我をしたそうです。」
「そ、それって傷害事件じゃないんですか?! 警察は逮捕とかしないんですか?!」
「どういうわけか、被害者が告発しないんですよ。警察に届出がないので…。」
金属バットで殴られて…大怪我したんだぞ?!
普通なら警察沙汰だ。…それがなんで…告発しない?!
「被害者の男子生徒3人にもそれぞれ話を聞こうとしましたが、全員、口が重いんです。
こういっては何ですが……怯えてるんですよ。彼女が転校した今でも。」
「……大石《おおいし》さん。…話を最初から整理して話してくれませんか…?」
レナはガラスのついでに人も殴った?
それとも…人を殴って、それでも飽き足らずガラスを割ってまわった??
似ていてその意味は大きく異なる…。
「某月某日。
…竜宮《りゅうぐう》レナは親しい男子生徒3人と一緒にプール倉庫の辺りで話をしていました。」
「……その3人って何者ですか?」
「個人名は伏せますが、3人とも竜宮《りゅうぐう》レナととても親しい、仲良しグループだったそうです。彼女は紅一点だったんですな。」
…なら4人で一緒にいてもおかしくはないか…。
「それで、どうなったんです?」
「理由はわかりません。竜宮《りゅうぐう》レナはプール倉庫脇にあった野球部のバットを手に取り、3人を次々に殴り倒しました。」
「えぇ…ッ?!」
目撃者はいない。
以下は事件当時を記憶する人間たちからの情報を組み合わせて再現したものだ。
ある日の放課後。
レナは男子生徒3人と一緒にプール倉庫脇で話をしていた。
それは何かの相談でなく、いつもそうするようにたむろって、話に花を咲かせていただけらしい。
その時、レナに“変化”が起きた。
その変化はあまりに突然で、3人は何が起こったのか理解できなかったらしい。
そして金属バットを手に、仲間たちを次々に殴り倒した。
額を割られ、血まみれになって倒れる仲間たちを残し、レナは校舎へ向かった。
そして教室の窓ガラスを次々に割っていったのだ。
何分もしないうちに教師たちがやってきて…レナを取り押さえた。
「レナに起こった“変化”って、何ですか。」
「3人の証言で一致するのは……突然人が変わった。豹変した、という点です。」
「……豹変…。」
俺も…レナの豹変には覚えがある。
…いつものレナとはあまりに違う、レナによく似た別人としか思えない、…そんなレナに変わるのを何度か見ている。
「……その豹変って言うのは……度々あったことなんですか?」
「いえ、そういうのはまったくなかったそうです。…私も調べられる限り、彼女の過去や病歴等を追ってみましたが、見つけることはできませんでした。」
「……その、レナみたいに、突然人が変わる現象って…結構あるんですか…?」
「もちろんありますよ。精神的なものから性格的なものまでたくさんあります。」
「では……レナには潜在的に豹変する要素があったってことですか?」
「…断言はできません。ですが、竜宮《りゅうぐう》レナをよく知る友人たちからの証言では、とても彼女にそういう要素があるようには思えません。」
……やさしく親切で可愛らしい。
きっと転校前の学校でも、今のレナと同様に誰からも好かれる理想的な女の子だったのだろう。
…そんな子が、突如豹変して、金属バットで殴りかかってくるなんて…誰が想像できる?
……想像できるわけがない。
俺自身、今でもあのレナは見間違えではなかったか…と思わずにはいられない時があるのだから…。
「そして……どうなったんですか…?」
「学校の正面が病院でしたので、3人はすぐに病院に担ぎ込まれ手当てを受けました。」
「レナは…? 警察は…?! どうして警察沙汰にならなかったんですか?!」
「警察は呼ばれなければ関与できませんからねぇ…。」
「ひとりは後遺症を残すくらい大怪我したんじゃないんですか?! どうして訴えないんです?!」
「…私もそこは引っ掛かりました。何かの圧力、もしくは脅迫があったのか。それとも訴えたくても訴えられない理由があったのか……。」
「もちろん大石《おおいし》さんのことですから……調べたんですよね?」
「えぇ…まぁ。……ですが、始めに言いましたよね? 被害者たちの口がとにかく重いのです。
触れたがらないと言うか、関わりたくないと言うか…。」
口が重い。
触れたくない。
関わりたくない。
……それはどこか、この村の人々とオヤシロさまの祟りの関係に似ていた。
「学校の先生とかからは何も聞けなかったんですか?」
「学校は聖域なんですよ。隠蔽体質とでも言いますか。…私も捜査令状を取ってませんから弱いんですよねぇ…。」
「じゃあ…学校側はノーコメント?」
「いえ。事件の存在自体を否定しました。」
「……………。」
「ですが、某日。間違いなく病院に3人の男子生徒が打撲で担ぎ込まれたのは事実なんです。…病院にその記録が残ってますので。」
「……被害者は語らず、学校は否定する。……何もわからないじゃないですか!」
「えぇ。その事件があったという事実以上のことは何もわかりません。
……被害者たちもこの事件が公になることを望んでいませんので…私と前原《まえばら》さん、私たち二人が忘れれば、事件はそのまま闇に消えるでしょうな……。」
……しばらくの間、二人して沈黙する。
一見するとただの暴行事件だ。
…だが重要な何かが深く隠蔽されている。
それはさらに幾重ものベールに包まれ、そっと……まるで初めからなかったかのように、闇に溶け込もうとしているのだ……。
「その後、学校を謹慎で休学します。そしてその間、神経科医のカウンセリングを受けました。」
「その医者からは何か聞けたんですか?」
「…これがまた…職業倫理のしっかりした尊敬すべき方でしてねぇ。…口が堅いんですよ。も〜とにかく!」
「警察手帳を見せてもダメなんですか?」
「書面で申請しろと言われました。手帳自体に法的拘束力は何もありませんからねぇ…。」
「じゃあ、大石《おおいし》さんはどうやって…レナがオヤシロさまのことを告白したことを知ったんですか?」
「一部を聞いてた看護婦さんがいましてね。この方は手帳を見せただけで協力してくださいました。」
「……それで…なんと?」
その看護婦も意識して会話を全て聞いていたわけではないらしい。
…漏れ聞こえてきたことを少し覚えていたという…その程度らしい。
「看護婦さんが言うには、その時の竜宮《りゅうぐう》レナはとても淡々としていて落ち着いていたそうです。」
それは…カウンセリングというよりは教会の懺悔のような感じだったという。
母親と一緒にしばらく話していたが、途中からは退出してもらって、医師とレナの二人でのカウンセリングとなった。
「例の、オヤシロさまの話はどこで出てきたんですか…?」
「途中です。その名前を、突然叫んだのです。だから看護婦さんもびっくりして聞き耳を立てたのです。」
「………オヤシロさまですッ!!!!!」
突然、レナはそう叫んだ。
…直前の会話はわからないので、どう意味でそう言ったのはわからない…。
医師は落ち着いた様子で、レナに着席を促したという。
「そのオヤシロさまというのは何ですか?」
やさしく、やさしく。…カウンセリングの基本は聞きに徹することだ。
「雛見沢《ひなみざわ》を捨てた人は…必ずオヤシロさまに追われるんです!! そして…とうとう私のところにも来たんです!!!」
「竜宮《りゅうぐう》さんが今のお家に引っ越される前に住んでいた町ですね?」
「私は引っ越したくなかったけど…お母さんとお父さんの都合で…仕方なく引っ越しました。…でも……オヤシロさまは許してくれなかったんです!!」
「竜宮《りゅうぐう》さんはきっと雛見沢《ひなみざわ》にもお友達がたくさんいたんでしょうね。今でも懐かしいんじゃないですか?」
「…帰りたい…。……雛見沢《ひなみざわ》に帰りたい…。うぅん、帰りたいんじゃない、帰らなきゃいけない!
本当はもっと早くに帰らなきゃいけなかった!! でももうだめ…!!!
オヤシロさまが来てしまった!!!」
「オヤシロさまというのは、その雛見沢《ひなみざわ》の神さまなんですね?」
「誰でも知ってる…雛見沢《ひなみざわ》の守り神さまなんです…。それで、雛見沢《ひなみざわ》を捨てて出て行こうとすると……バチを当てるんです。」
「竜宮《りゅうぐう》さんが引っ越しをされたのは…もうずいぶん前ですよね? では…今になってその神さまがやってきた、ということですか?」
「……信じないでしょうけど……オヤシロさまはいるんです!」
看護婦はここで別の看護婦に用事を頼まれ退室。
…ここまでしか覚えていないらしい。
「オヤシロさまが…か……。」
「確かに雛見沢《ひなみざわ》にはそういう迷信があります。
里を捨てて出て行くとオヤシロさまのバチが当たる、という。…この辺りは前原《まえばら》さんもすでにご存知ですよね?」
…村に仇なす者にバチを当てる、ってのはよく知ってる。
ダム建設を妨害するために、建設現場の監督を祟り殺した。
そしてその翌年にはダムを誘致、推進した沙都子《さとこ》の両親を祟り殺した。
でも、村を捨てて出て行くと祟られる…というのは初耳だ。
「初耳です。村の外敵が祟られるのはわかりますが……、どうして出て行く村人まで? 普通、出て行く者は祟られないものじゃないんですか?」
踏み込む者を祟るのが、こう言っては変だが……祟りのルールだと思う。
触らぬ神に祟りなし。
…去る者を追わないのが祟りじゃないのか…?
大石《おおいし》さんは受話器の向こうで軽く、うーんとうなると、再び口を開いた。
「えー……雛見沢《ひなみざわ》が大昔、鬼ヶ淵《おにがふち》と呼ばれていたという話はしましたよね?」
そんな話も聞いたような…。
大昔、雛見沢《ひなみざわ》は鬼が住まう里として恐れられながらも崇められていたという。
「ふもとの村人たちは鬼たちを崇めていました。で、鬼ヶ淵《おにがふち》は神聖な土地なので絶対に不可侵。むやみに立ち入るとオヤシロさまの祟りがある、とされてきたんです。」
鬼ヶ淵《おにがふち》、つまり雛見沢《ひなみざわ》に土足で踏み込む輩を祟る。…それは理解できる。
「それはわかります。…でも、出て行くのまでだめってのは……。」
「鬼たちもまたですね。俗世に出て行かないよう、オヤシロさまに厳しく見張られていたんだとか。
……つまり、オヤシロさまってのは、俗世と鬼ヶ淵《おにがふち》の交流を禁じていたんでしょうなぁ。」
…なるほど。
ようやくオヤシロさまというものが理解できてきた。
「つまり……オヤシロさまってのは、守り神ってよりも…監視者なんですね? この地を外界から隔離しようとする。」
「そんな感じになるんでしょうなぁ。………すみません、私も詳しくないんです。この辺りは婆さまの受け売りでして…。」
そういう話なら少しはわかる。
雛見沢《ひなみざわ》に来るよそ者も祟るし、出て行こうとするものもまた祟る。
レナは元は雛見沢《ひなみざわ》に住んでいて、引越しで出て行ったのだから、祟られる条件は満たしている…ということなのか。
「……つまり、レナは望まない引越しをしたため、オヤシロさまの祟りにあったと、そう話しているわけですか?」
「要約すると…そういう意味なんでしょうなぁ。…実際、この後しばらくして雛見沢《ひなみざわ》に引っ越していますから。」
……雛見沢《ひなみざわ》を捨てて出て行こうとする者を祟る。
だが…どうしてレナだけ?
祟られるなら一緒に引っ越した両親だって同罪じゃないのか?
それにこの現代日本、人の出入りなんていくらでもあるはずだ。
…それらの人間を全員祟ってまわってたらとんでもないことになってるだろう。
だが実際にはささやかなものだ。
……せいぜい、綿流し《わたながし》のお祭りの日に1人が死んで1人が消えるくらいだ。…このせいぜいというのも実に嫌な言い方だが…。
「…まぁとにかく。わからないことだらけなんですよ。
…オヤシロさまの祟りがどうだったにせよ、クラスメートを金属バットで殴った理由にはなりませんし、被害者が訴えない理由にもなりません。
………まさか前原《まえばら》さんも、恐ろしい祟りが起こって、被害者たちがすくみあがった…なんてこと、信じるわけないですよね?」
もちろん信じたくない。
だが…俺はそれよりも……今、あるひとつのことが気になっていた…。
それは…レナもまた、「オヤシロさまの祟り」と「金属バット」という奇妙な共通点を持っていたことだ。
悟史《さとし》はオヤシロさまの祟りに会い、失踪した。
失踪の直前、金属バットに執心していたことは俺も最近になって知った。
そしてレナも。
自身がオヤシロさまの祟りにあったと医師に告白した。
…そして事件時に凶行に及んだ武器はやはり金属バットだった。
そして…俺だ。
自身も様々な不可解な出来事を体験し、今こうして金属バットを握っている…。
悟史《さとし》と同じことだったことを知った時にも衝撃を受けたが……まさか…レナも同じだったというのか…?!
だがレナと悟史《さとし》には決定的に違う点がひとつある。
それは、悟史《さとし》は祟りにあって失踪し、レナは現にこうして生活している点だ。
二人は共にオヤシロさまの祟りに会いながら違う結末を迎えた。
……そして…俺だ。
もう偶然だなどと言っていられない…。
レナ・悟史《さとし》。…そして…俺なのだ。
やはり…俺はオヤシロさまの祟りに…取り込まれているのか?!
…いや、そんなことよりも……俺はこれからどうなるんだ……?
悟史《さとし》は鬼隠し《おにかくし》に会い失踪。
レナは無事だった。……無事?
そしてレナは変わった。
レナでないレナを内に宿したとしか思えない。
そして………今こうして……俺を追い立てている!!!
■再び現実
「レナ……教えてくれ……。俺は……どうなるんだよ…?!」
レナは仁王立ちのまま、答えてはくれない。
「悟史《さとし》は消えた。だけどレナは消えなかった。…じゃあ俺は…どうなるんだよ?!」
「……あははははははははははははははははははははは。」
これほど爽やかでない笑い声は聞いたことがなかった。
…それはまさに…連続する呼吸音。
すでに声や感情表現ですらない。
「………大丈夫だよ。レナが助けてあげるから。」
レナは斧を大きく振り上げたまま……さらに一歩踏み込んでくる。
「………さぁ。」
さらに一歩。レナの顔が俺の眼前いっぱいに広がる。
「………話して。」
さらに一歩。
レナの鼻が俺の鼻にかするぐらい…間近に迫る。
「………話したいことがあるんだよね?………レナが聞いてあげる。助けてあげるから………ね? 話してね? 話してね?」
俺はぺたんとしりもちを付いてへたり込む。
……それは情けないことじゃない。
…少しでもレナから離れるための、精一杯の逃げだった…。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは……、」
その笑いが終わらせてはならないと直感する。
…その笑いが終わった時、……!!
それを感じ取った瞬間に体が反射的に動いた。
自分でも信じられないくらいの素早さで跳ぶように起き上がり、レナを両手で弾き飛ばす!
レナはまるで羽で出来ているかのような軽さだった。
不釣合いな斧の重さに大きく振られ、まるで風に乗るかのように軽々と飛ばされる。
それを視界の隅に確認すると、あとは一目散だった。
脱兎のごとくという言葉がこれ以上似合うことはないだろう。
…レナから離れよう。
逃げよう。
生き延びよう!!!
それ以上のことは何も思いつかなかった。
走りながら、俺はずっとバットを握り締めていたことを思い出す。
……なんて役に立たない武器なんだ。
…肝心な時に武器であることすら忘れているとは…!!
曲がりくねった道をさらにさらに駆け抜ける!!
息苦しさも足の重さも一切感じなかった。
…俺の体も理解しているのだ。…ここで走らなかったら…命がないことにッ!!
後ろからあの、あはははははは…という笑い声を模したレナの威嚇が聞こえてくる。
それは木々と俺の頭の中にこだまし、少しでも俺の正気を失わせようと作用していた。
木立がまばらになり視界が一気に開ける。
ここは…?!
知っていそうで覚えのない光景に一瞬混乱する…。
すぐに気付く。
ダム現場だった。
あんなにめちゃくちゃに疾走して、このような場所にたどり着くこと自体、何だか誰かの筋書きに従わされているような薄気味悪さがあった。
見通しはいいが、ひと気のまったくないところだ。
逃げる者にはあまりに辛く、襲う者にとってはこれほど都合のいい場所もない。
心臓はすでに爆発寸前だった。
足の筋肉も悲鳴を上げている。だが構わなかった。
ここで休んだら、もう悲鳴をあげることさえできなくなってしまうかも知れないのだから。
それでも、一休みする口実が欲しくて後ろを振り返った。………レナの姿はない。
かわりに、村人が2人ほど歩いてくるのが見えた。
レナでなく、かつ、第三者が登場したことに、ほっと胸を撫で下ろそうとする…。
だが、俺の中のもうひとりの俺が再び警鐘を鳴らす…。
村人が歩いていることに不審はない。だが、気になった。
服装は2人ともラフ。手ぶらで、いかにも散歩のような感じ……。
だが……時間帯と、大人が2人して意味もなく、というところに何か不審な印象を受けなくもなかった。
……それよりも……目だった。
2人で談笑しながら散歩…ではなく、2人とも押し黙り、…まっすぐ…こっちを見据えて歩いてくるのだ。
神経が高ぶっていて、ついついそう見えてしまうのか…?!
……走って逃げよう。
多分最善の選択だ。
無関係な人間なら、走れば簡単に振り切れる。
……もしも俺を狙う連中なら…同じように走って追って来るはず。
どちらにせよ、もたもたしていればレナが追いつく。
そうだ……走ろうッ!!!
そう思い、踵を返そうとした瞬間、そんな俺の考えを見透かしたかのように…その2人が駆け出した!!
俺は心のどこかでレナに怯えながらも、怖いのはレナひとりだと決め付けてきた。
レナだけが怖いから、それ以外は怖くないと…そう思い込もうとしてきた。
だが……今こうして赤裸々に…これ以上ないくらい明白な形で思い知らされる!!
…鬼たちは村総出で獲物を追い回した、という大石《おおいし》さんに聞かされた鬼ヶ淵《おにがふち》の昔話がふっと脳裏をよぎった………。
後ろを振り返らないでも、2人が俺に追いついてくるのが、その荒々しい足音でよくわかった。
レナのように、振り切れず追いつかれずの間合いで、真綿に締められるように追われるのも恐ろしかったが…、そんなのは比にならない。
あまりにも暴力的に迫る、この直接的恐怖に勝るものなどあるわけもない…ッ!!!
追跡者の腕が、一度肩をかすった。
…荒々しい足音だけでなく、すでにその呼吸音まではっきりと聞こえる。
…いや、…その吐息をうなじに直接感じるくらいに!! 俺のすぐ後ろまで迫ってきている…ッ!!!!
…クールになれ前原《まえばら》圭一《けいいち》。
俺は全力疾走のまま、空中に静止するかのような……、いや、時間が静止するかのような感覚を味わっていた。
その全てが凍りついた世界で…俺は少しだけ後ろを振り返り…追跡者がいかに俺の間近に迫っているかを改めて知った。
…大人の足には勝てない。
凍った時間が解け出せば、まばたきをふたつもしない内に…俺は組み伏せられるだろう。
組み伏せられて……それから…?
考えるな圭一《けいいち》。
…このままでは振り切れないことをまず認識しろ。
逃げ切れないことが確定したなら…あとは俺が決断するだけでいい…。
次の右足でそれをやるか、それとも左足でやるか…決めるだけでいい。
…左足で行こう。
そう決心した瞬間、凍った時間が木っ端微塵に砕け散るッ!!!
右、左!!!
右腕のバットを大きく振り、その遠心力を使って、急停止、急旋回。
「……なッ?!」
2人は明らかに驚いた。
…俺の姿を瞬間的に見失い、俺を組み伏せようとして繰り出した両の手が空を切る!
右の男が(よく気付けたと賞賛するべきだ)後方に振り返り、いるばずがない場所に立つ俺と目が合い、驚愕した。…だがもう遅いッ!!!!
俺はバットを振る必要もなかった。
ただ、遠心力のままにその軌道を延長するだけでいい!!
軽い当たりだったが、バランスを崩させ転倒させるだけの威力はあったようだ。
だが転倒したくらいで怯むことはなかった。
すぐに起き上がってくる!
2人はすぐに俺に振り返ると身構え、対峙した。
これにより、単なる散歩の二人連れでなく、俺を対象にした追跡者であることが確認される!!
レナよりも気楽だった。
顔も知らない村人が、知らないがゆえにこれだけ気楽だとは…夢にも思わなかった。…心の中で苦笑する。
「俺に何か用かよッ?!?! 次は眉間にお見舞いするぞこの野郎ッ!!!!」
強がりでもいい!
吠えることにより、自らの内に眠る起爆力を呼び覚ます。
男たちはそれに応えたりはしなかった。
信じられないくらい、冷静な表情で俺の左右に散った。
1人はバットに組み付き、もう1人は俺を組み伏せる、そういう算段か。…1対2では…どうにもならない!!
体中から熱い汗がどっと吹き出る。
ならば先手必勝だ!!
先に踏み込み、1人を打ち崩すッ!!!
先に先制攻撃を加えた右の男に的を絞り、渾身の踏み込みによる強打を振り上げる。
素手の人間にとって、どのような防ぎ方をしても…致命的なダメージになる!!
腕で防げば骨ごとへし折り、背中でかばえば内臓の奥にまでダメージを送り込むことが可能!!
相手もそれを理解しているようだった。
俺の必殺の間合いのさらに内側に飛び込み、その拳で俺の腹部を狙う!!!
まずい…、この間合い、この姿勢、この状態では…回避する術は何もない!!
世界がでんぐり返り、自分の体がまるで木の葉ように…軽々と吹っ飛んでいくのがわかった。
音もなく、柔らかに地面に打ち付けられ、顔面でがりがりとした砂利の感触を味わう。
…痛みはなかった。
……と思ったのもつかの間、すぐに皮膚が擦り剥けるあの嫌な痛みと、胃の内容物がこみ上げてくる時にする、あの苦い感覚が口中を満たす。
そんな痛みを堪能する時間もないことを、今の俺はよく理解していた。
すぐに立ち上がるが、その時にはすでに次の男が眼前に迫ってきていた。
…回避できないことを冷静に理解できることが、かえって悔しい。
もう一度、腹に渾身の一撃を入れると、そいつはぐるっと俺の背後にまわり、ぶっとい腕で俺の首をがっちりとロックする!!
…凄まじい腕力に、喉がつぶされるッ!!
窒息するとか昏倒するとか、そんな理屈は思いつかなかった。
…ただ、視界が真っ暗になり、頭の奥でじーーんという音が聞こえるだけ。
意識を途切れないように保つのだけが精一杯だった。
こうしてもがいてる間にも、もう一人の男は無防備になった俺の真正面に立っているに違いない。
目を開けることはできなかったが、気配でそれを感じることができる。
俺になす術はない。
腕も振り解けず、逃げることも反撃することもできない。
絶対絶命…という複雑な単語は、もう思いつかなかった……………………。
■圭一《けいいち》の家
*15日目_2
見慣れた天井だった。
…まくらや布団のにおいも…とても馴染んだもの。
……ここは……俺の部屋だ?
普段なら俺以外がいることもないはずの室内に、俺以外の気配を感じたので、ばっと飛び起きた!……その途端、全身に痛みが走った。
「……大丈夫かな? 横になってた方がいいと思うよ…。」
なぜ俺がここにいてレナがここにいる?! 全身の血管と筋肉が収縮する!!!
………だが…レナの微笑みは俺のよく知るレナのものだった。
…気を許してはいけない…と知りつつも、今のレナは大丈夫だ、と勝手に安心してしまう…。
「………俺は……どうして……。」
「…覚えてないの?」
「………意識がなくなってからのことは……全然………。」
体は俺が想像する以上に鈍重になっていた。
…あの一瞬で俺自身の持つ限界を出し切ったのだから、ガタが来ても当然かもしれない…。
せめて意識だけでも鮮明にしようと足掻くが、…頭の中にもやがかかったような鈍さはなかなか抜けなかった。
「一応、お医者さんにも電話したから。もうすぐ来ると思うよ。…それまで横になってた方がいいと思うな。」
医者を呼ばれるほど大袈裟な怪我じゃない。
……だが医者という公正な立場の人間に来てもらえるのは少し心強い…。
「……俺、どうしてここにいるんだ…? 確か…ダム現場で……。」
「それはレナが聞きたいな。…何があったのかな? レナが行った時には圭一《けいいち》くん、倒れてて……。」
「…だから聞きたいのは俺の方だよ。…変な二人組みに襲われて……。」
口に出し、ようやく意識を失う直前の記憶が蘇ってくる。
その記憶が、恐怖として蘇るにつれ、頭の中のもやも少しずつ晴れていった。
あの2人のことはともかく。
…レナが俺を介抱してくれたのが…意外だった。
俺はレナに命を狙われていると思っていた。
…なら、意識を失っていたときは最高のチャンスだったはずだ。
にもかかわらず、俺は殺されず、どころかこうして介抱されている。
「……よく、俺を引きずってここまでこれたな。…重かったろ。」
レナの華奢な体つきを見れば、俺を自宅の、それも二階まで引きずってきたのは尋常じゃない。
………他に仲間がいるのか…?
「………圭一《けいいち》くん、覚えてないの?」
レナはきょとんとしながらも笑顔で応える。
「…レナは圭一《けいいち》くんに肩を貸しただけだよ? 大丈夫、自分で歩けるって圭一《けいいち》くんが………。………覚えてない?」
…覚えていない。
意識が途切れた後の記憶は不鮮明だ。
「……二人組みはどうした?」
「え?」
「……レナが来た時、俺と一緒に…あるいは側に、2人組の男が…、」
「いなかったよ。」
ぴしゃりと言い切られた。
その言い切り方はどこか不快な色があった。
この時の俺はあまりに弱気だった…。
……レナに詰め寄ることもできたかもしれない。
だが、そうするときっと…、やさしいレナは、俺の知らない怖いレナに変わってしまうかもしれない…。
それが怖くて……それ以上踏み込むことを避けた。
考えてみれば…当然だ。
…もしもあの二人がいたら、いくらレナでもかなわないだろう。
…俺を連れて行くにはあの二人がいなかったと考えないと説明できない。
レナは笑顔のままだった。
瞳の輝きも暖かだった。
……なのに……顔の影が少しずつ暗くなっていくような…奇妙な錯覚を感じる…。
…そのわずかな予兆に…背筋がぞくりとした……。
まだレナがレナでいる内に………連絡しなければ。
……大石《おおいし》さんに連絡しなければ。
俺が寝床を抜け出そうとすると、レナがそれを制した。
傷に障るから寝ていろ、と言う。
「………トイレに行きたいんだけどな。」
「…あ、……ごご、…ごめん。」
それ以上はレナも何も言わなかった。
レナを部屋に残し、足早に階下へ降りて居間の電話機を目指す。
玄関の前にさしかかったとき、ピンポーンというチャイムの音がなった。
レナが呼んだ医者だ。
患者自らが医者を迎えるというのも変な話だが……大石《おおいし》さんが駆けつけるまでの数十分間、いてくれるだけでこれほど心強いことはない。
そう安直に思い、無警戒に玄関を開けたことを…数瞬後に悔やむ。
「み、…………魅音《みおん》……?!」
「あれ、元気そうだね。倒れてたって言うから、様子見に来たんだけど?」
「…な……なんで俺が倒れてたって知ってるんだよ。」
「レナが電話してきたから。……他に理由が必要?」
医者に電話するならわかる。
だが……どうして魅音《みおん》まで?!?!
俺の背後の階段をレナが降りてきた。
「レナ、圭ちゃん大丈夫そうだよ? ったく心配して損したー。」
「そうだね。レナも心配して損したかな?」
二人は勝手に笑い出す。
…陽気に笑うように見えたが…やはりどこか影のあるような感じは拭えない…。
「…うわ、何この下駄箱。どーしちゃったの?」
昨日からそのままになっている叩き割られた靴箱…。
「あ、……えっと。……転んでさ。その拍子に持ってたバットで叩いちゃったんだよ。」
「持ち慣れないもん振り回してるから、こーゆうことになるんだよ。」
……心の中で余計なお世話だと言っておく。
「でもこれじゃ、おばさまたちが帰ってきたらびっくりしちゃうね。
……あとでレナが片付けておくね!」
「さー、ほら圭ちゃん。重病人なんだからちゃんと寝てないとだめだよ。さーさー、お布団に戻った戻った!」
二人に促され、階段を登らされる。
……大石《おおいし》さんに電話をかける隙は、ない。
俺は布団の中に押し込められてしまった。
魅音《みおん》は初めて入る俺の部屋を興味深そうに物色している。
あれやこれをいじっては、レナにたしなめられる…そんな光景だった。
部屋を物色されることは落ち着かないが、会話は至って平凡、微笑ましいものだ。
そんな平凡な会話の中で、さも当り前のことのように魅音《みおん》が言った。
「…レナ。監督には電話した?」
「うん。魅ぃちゃんに電話した後、すぐにね。…すぐ来るって言ってたよ。」
監督?
場違いな単語に違和感を覚えた。
レナは医者を呼ぶために電話をし、
魅音《みおん》を呼ぶために電話をし、
そして…監督に電話をした??
……監督って、誰だよ。
レナと魅音《みおん》の会話があまりにも安穏としているので、その違和感は些細だ。
「……二人とも何の話をしてるんだよ? 監督ってなんだよ。」
「あははは、圭ちゃん知んないの? 監督ってったら監督だよ。」
「映画の監督とか。工事現場の監督とか。あははははははははははははははははは。」
俺に関係のある監督という単語を全記憶の中から洗い出す。
……該当は一件しかない。
…それはレナが最後に言った、工事現場の監督。
一番最初の事件、バラバラ殺人で被害者になった、ダム工事の…現場監督?
でもおかしい。
その監督は死んだはずだ。
電話などできるはずもない。
「…お前らが何の話をしてるのかわからないよ。……その監督が俺と何か関係あるのか?
……来るって言ったけど…うちに来るのか?」
当り前な疑問を次々とぶつける。
だが…二人は至って涼しげに笑い合うだけだ。
そんな二人の様子と、怪訝に思う俺の温度差には明らかに開きがあった。
…徐々に、不愉快さと焦りが湧き上がってくる…。
……レナと魅音《みおん》が、何を言っているのか理解できない。
「…圭ちゃん、最近は野球に凝ってるんだよね? 監督、それ聞いたら喜ぶと思うなぁ。」
「……だから監督って誰だよ。」
「あはははは。監督は監督さんだよ。あははははははははははははははははは。」
「…だから、監督って誰だよッ?!」
「あはははははははははははははははははははははははははははははははは…」
レナと魅音《みおん》は二人してかおを見合わせると…けたけたと笑い出す。
それはこの上なく不快な…嫌な笑いの合唱だった。
「あははははははははははははははははははははははは。」
気味が悪いくらいに長かった笑いは、その長さとは逆に、あっさりと途切れた。
「そうだ。監督が来る前に済ませとくかな。……圭ちゃん、覚えてるかい?」
顔は笑っているのに、…魅音《みおん》の瞳からいつの間にか笑いが消えていた。
「……覚えてるって、…何をだよ。」
「あはははははははははははははは。圭一《けいいち》くん、忘れちゃったのかな? 罰ゲームなんだよ。罰ゲームなんだよ!」
「…忘れちゃったのかなぁ?……おはぎの宿題。どれがレナの作ったおはぎかを当てる宿題。……あれ、確か宿題忘れだったよねぇ?」
そんな宿題も確かあった。
でも裁縫針が出てきたので残りのおはぎは全部投げてしまった。
だからどれがレナの作ったものかは解答していない…。
それの…罰ゲームだって…?
なぜ今?!
「あははははははははははははははははははははははははははは。」
俺の疑問は表情に出ていたに違いない。
その疑問に対する答えが、二人のこの乾いた笑いだった。
何が何やら……わからなくなってくる。
今日一日…、思えば初めから…何かが狂っている。
おかしい。
理解できない。
レナに追われ、怪しい男たちに襲われ、魅音《みおん》とレナがやってきて罰ゲーム。
「あははははははははははははははははははははははははははは。」
こいつらは…何が可笑しいんだ……?!
すでに異常な空間に引きずりこまれていることを気付くのに、そんなに時間はかからなかった。
……こいつらは…一体誰なんだ?!
レナや魅音《みおん》によく似た……誰なんだッ?!?!
いつの間にかレナが俺の後ろにいた。
なぜと思う間もなく、後ろから羽交い絞めにされる!!
「な、何の真似だよッ?!?!」
「動かないでね。罰ゲームだから。あはははははははははははははははは。」
自分の体が鈍重とは言え…、レナの羽交い絞めはがっちりと極まり身動きができない。
あまりの力強さに…俺もほんのちょっと本気になって抵抗したが…それでもびくともしないのだ。
焦りが噴出し、冗談の領域を超えたことを悟る。
こんな尋常でない万力のような力を…俺のよく知っているレナが出せるわけがない…!
じゃあ…俺をがっちりと締め上げているこの細くて華奢そうな腕は…誰の腕なんだよ?!?!
「……圭ちゃん、抵抗しちゃだめだよ〜。会則第……何条でもいいや。罰ゲームに抵抗しちゃだめなんだからさ〜!」
魅音《みおん》、いや、魅音《みおん》によく似たそいつは、まるで魅音《みおん》のように、俺に語りかける。
だが…間違いなく、魅音《みおん》じゃない。
……魅音《みおん》じゃない何者かが…魅音《みおん》のフリをしているッ!!!
「くっくっく…。監督が来る前に済まさないとねぇ。」
魅音《みおん》がポケットをまさぐると…そこから奇妙な物を取り出した。
……それが何か、視覚的には理解できたが、なぜ魅音《みおん》のポケットから出てくるのかを…常識的に理解できなかった。
「……なんだよ………それ……。」
それは……小さな…注射器だった。
子供の頃、高熱を出して医者に行くと…必ず射たれた……あの小さな透明の注射器…。
レナはさらに俺を強く押さえつける。
そして耳元で、げてげてげて、ともはや笑い声にも聞こえないような声で大笑いした。
その奇怪な笑い声は…絶対に、俺の知っているレナの喉から出せるものではない。
…レナのふりをする…こいつの本当の笑い声なのだ…?!
抵抗することもできない俺に…魅音《みおん》が注射器を構えながら…迫ってくる!!
そしてその針先を、俺の目の前で何度もちらつかせた。
「大丈夫大丈夫。痛くないから痛くないから…。くっくっくっく…!!」
「な……何をする気だよ……。これは一体何の真似だよッ?!?!」
「…圭ちゃん、何言ってんだか。……わかってんでしょ?」
「何が! 俺には何が何やらさっぱりわからねえよ…!!」
「……知ってるくせにー。今さらカマトトぶられてもなぁ。」
「わけのわからないことを言って俺を煙に巻くのはやめろッ!!!」
「………富竹《とみたけ》さんと同じ目にあってもらう。」
「…え、………え?!」
富竹《とみたけ》さんと…同じ目…?!
よく意味がわからない。
それとこの注射器に…どんな関係があるんだ…?!
「……圭一《けいいち》くん、とぼけてるね。薄々は気付いてたくせにぃ☆」
レナが耳元に口を寄せて、諭すように笑いかける。
……だがその口調にも、例えようもないおぞましさが含まれていた。
とぼけてるって?
俺が? 何を!!
富竹《とみたけ》さんと同じ目…だって?!
「みんな始めは轢き逃げされたものだと思っていました。
ですが、意識を確かめるために近付いた警官はすぐに異常に気付きました。…喉がね、引き裂かれていたんですよ。」
「ナ、…ナイフとか……?!」
「いいえ。爪でした。」
爪?!
爪って、指についてる…この爪か?!
それで…ガリガリと?!?!
そうだ。
……富竹《とみたけ》さんは…自らの爪で喉を引き裂いての絶命だった。
そんな死に方あるわけがない!!
もしも考えられるとしたら……!!!
「薬物を疑いましたが、そういう類のものは検出できませんでした。」
そうだよ。
警察は富竹《とみたけ》さんの遺体からは薬物は検出できなかったはず………!
「け、警察は……富竹《とみたけ》さんの遺体からは…薬物は検出できなかったって言ったぞ?!」
げてげてげてげてげてげて…!!!!!
二人は笑い声ともつかない、奇怪な声で笑い合う。
笑うのは当然だ。
……警察にわからなかったから、そんな薬物は存在しないなんて決め付けが…いかに愚かしいことか…!
つまり……富竹《とみたけ》さんにあんな異常な死に方を遂げさせる薬物は…実在するのか?!
このまま魅音《みおん》に、それを注射されれば否応なくそれを実証することになるだろう…。
それはつまり…富竹《とみたけ》さんと同じ末路。
……錯乱し、最期には自ら喉を引き裂いて…死!
こんな奇怪や薬物が実在すること、
そしてそれを魅音《みおん》たちが所持していること、
そしてそれが自分に注射されようとしていること。
……今この瞬間、それらを疑問に思う必要は、一切ない。
自分の顔面目がけて飛んでくるボールをかわす時、飛んできた理由を考える阿呆がどこにいる?
「……観念しなって。んじゃ、」
魅音《みおん》の仕草があまりにも呆気なくて、それが恐ろしかった。
死刑を執行する時の厳かさなどない。
…まるで日常風景のありふれた行為であるからのように、躊躇がなかったからだ。
魅音《みおん》がもう片方の手を伸ばし、俺の胸元を掴んだ瞬間ッ!!!!
後頭部に電気が走り、世界中が停電になったような錯覚を感じた。
立ちくらみ?
それとも…誰かに後頭部を思い切り殴られた?
平衡感覚が失われ、めまいに襲われる……。
……しばししゃがみ込み、…意識がしっかり戻った時、部屋は一変していた。
頭の中のジーンとした痺れが取れ、…ゆっくりと…全身に血の通いが戻ってくるのがわかる。
俺は…どの位の時間、ここにうずくまっていたのか…?
何分?
それとも何十分なのか…。
………見上げた時計の針は、まるで俺が目を閉じていた間分だけ、きっちりと止まっていたのではないかと思うくらい、進んでいなかった。
…本当に?
今、室内を覆う空気は、さっきまでの狂気に満ちたものでなく、……灰色の静寂だけになっている。
羽交い絞めにしていたはずのレナもいなかったし、今まさに注射しようと迫っていた魅音《みおん》もいなかった。
……まさか…全部……何かの……幻?!
部屋には俺以外の気配はまったくなくなっているのだ…。
かつてない異常な体験。
…………俺は確かに……レナと魅音《みおん》に………。
自分の正気を一瞬疑うが、同時にある種の安堵感も感じていた。
ははは、……やっぱり……あの恐ろしい出来事は…幻だったんだ。
レナも魅音《みおん》も…あんな恐ろしいことをするわけが……ないんだ…。
目頭が…熱くなる。
感情がこみ上げてくるのがわかった…。
どうして…?
それは涙がこみ上げる理由にではない。
どうして…?
……それは………悲しみだった。
……どうして悲しくなるんだろう…?
わからない。……わからない……。
男女とか、年齢とか…分け隔てなく、親しくしてくれた。
…魅音《みおん》。
……その魅音《みおん》は、窓際に不自然な格好で横たわっていた。
頭から胸元が血でべっとりと赤黒くなっている。
壁一面に飛び散った真っ赤なものは……魅音《みおん》が撒き散らしたものに違いなかった。
いつも明るい笑顔を絶やさず、転校してきた初日から親切にしてくれた。
…レナ。
…そのレナは俺の足元でうずくまり、魅音《みおん》と同じように血溜まりを作っていた。
……………………………………。
何があったのか理解できない。
……誰かが俺を助けに来てくれたのか?
そしてこの二人を打ち倒したのかッ?!…この、金属バットで…?
右腕の重さにようやく気付いた。
いつ握ったのか。
……それは悟史《さとし》の金属バットだった。
べっとりと赤黒い血が貼り付き、…二人を叩きのめした凶器であることは疑いようもなかった。
その、明らかに凶器の金属バットを俺が持っている。
家の中には俺以外に誰もいない。
「え、………………
俺、」
客観的に見て、俺がやった以外に考えられない。
「俺が……やったのか……?」
…そうだよ。前原《まえばら》圭一《けいいち》。
俺がやったんじゃないか。
俺は…まるで自分自身を諭すように…やさしく告げた。
なぁ俺。
…無理に思い出さなくていいし、後悔する必要もない。
……やらなきゃやられてた。
それはわかってるだろ…?
「でも……血が、血が、……こんなに………!」
レナも魅音《みおん》もぴくりとも動かなかった。
額が割れて血が一筋…なんて甘いものじゃない。
…辺り一面に真っ赤な飛沫が飛び散り、二度三度では済まない打撃が加えられたことを教えてくれた。
「……し、死んじまったのか…? 二人とも……。」
心の奥底は冷静なのに、心の表層だけが焦り、動転する。
落ち着け前原《まえばら》圭一《けいいち》。
いつものクールな俺はどうしたんだ?!
さぁほら。…いつもやるみたいに、頭を後ろに下げて大きく深呼吸をするんだ。…ほら。
…………一度。……二度。……大きく深呼吸する。
「……………………………。」
冷静になれ。
冷静になれ…。
心の中で何度も唱え、落ち着ける…。
ようやく景色が色を取り戻し、空気にも匂いが戻った。
それと一緒に…あの空白の時間に何が起こったのかを思い出す…。
レナと魅音《みおん》が襲ってきた。
俺に「富竹《とみたけ》さんと同じ症状を起こさせる」注射をしようとした。
そしてその直前、俺は反撃したんだ…。
羽交い絞めにするレナを全身をひねって投げ飛ばした。
そのままさらに回転し、踵で思い切り魅音《みおん》の腹部を蹴り抜いた。…柔らかかった。
レナが俺にとびかかろうとしたので、思い切りの体当たりで、壁に打ちつけた。
二人が共に体勢を崩し、一瞬の隙が生じたことをその時の俺は見逃さない。
机の脇に無造作に置かれた悟史《さとし》のバット………!!!
…………ぷつん。
と、…ここで真っ暗になる。
俺と言うビデオが、ここから先を録画していないとでも言いたげだった…。
いや…違う。
………録画してないんじゃない。
ちゃんと録画されている。
ただ………俺の中のもう一人が……見るなといってテレビを消しただけなのだ。
画面が真っ暗になって見えなくなっただけで……俺の中のビデオテープには間違いなく録画されている。
テレビを切っただけで……ビデオの再生はまだ続いている。
俺の中のビデオが……カラカラと…再生を続けている。
真っ暗になったブラウン管の向こうで………恐ろしい映像を流し続けている…。
それと比べたにしたって…。
…眼下の惨状は……それでも容易には受け入れ難いものだった。
部屋中の壁と言う壁に血が飛び散り、不自然な格好で倒れる二人。
…微動だにしない。
…息をしているのかもわからない……。
どんな経緯があったにせよ……俺は、女の子を、仲間を、……殴ってしまった。
…あるいは殺してしまったかもしれない。
だが……こうしなければ俺がやられていた。
それを天秤にかければ…俺がこうして気に病むのもなんだかおかしな気がした…。
過剰だったにせよ、…これは正当防衛なんだ。
そうさ、ここには全てがある。
倒れた2人と魅音《みおん》の注射器。
魅音《みおん》の注射器に詰まっている未知の薬物が、富竹《とみたけ》さんの事件の謎を解き明かすだろう。
そしてこの二人の関与の事実から、犯人たちを芋づる式に検挙できるだろう。
それでも俺は罪に問われるかもしれない。……だが、それでもいい。
とにかく、これでちゃんとした警察沙汰になる。
レナの過去の事件のように、うやむやにはならない。
とにかく警察が関与すれば……すべて決着が着くはずなのだ。
警察は過去の一連の事件を再び捜査するだろう。
……大石《おおいし》さんがきっと…全てを暴いてくれる。
つまり……俺の望み。
…死にたくない。
全ての真相を知りたい……は、最低限の形で達せられるのだ。
それはもうじきかなうだろう。
レナが呼んだという医者が直にここにやってくる。
全てを告白しよう。
その前に大石《おおいし》さんにも連絡を……。
その時、思い出す。
ここには、医者の他に、「監督」という人物が呼ばれていることを。
レナと魅音《みおん》の会話から、事件に深く関与のある人物であることは想像に容易だ。
……凄惨な出来事に心を痛める余裕すらも、急速に失われていく。
まだ…終わっていない。
ここは…もはや安全ではなくなった。
クールになれ前原《まえばら》圭一《けいいち》。
…まだ終わっちゃいない。
警察に事件を伝えるまで……俺は生き延びなければならない…!!
…その時、表から人の声が聞こえた気がした。
人の会話ということは、二人以上の人間がいるということだ。
カーテンをほんの少しずらし、表を伺う。
……それは異様な光景だった。
4〜5人の大人の男性たちが、門の前に群がっているのだ。
彼らの雰囲気は、今日、ダム現場で襲い掛かってきたあの二人の雰囲気にもよく似ていた。
…この中に混じっているかもしれない。
その中のひとりは白衣を着ていた。
……でもとても医者には見えない。医者のふりをした変装だと直感する。
多分、あいつはチャイムを鳴らして、俺に玄関を開けさせる係なのだろう。
医者だと偽って扉を開けさせて……他のやつらが一気に踏み込むつもりなのだ…。
その時、男たちの後ろに止まっていた車を見て、心臓が飛び出しそうになる。
……白い……ワゴン車ッ!!!!!
間違いない。
…俺を轢こうとした…あの車だ…?!?!
白衣の男が門を入り玄関に近付いてくる。
他の男たちは茂みの影に隠れながら、それを伺っている…。
居留守を使っても恐らく無駄だ。
…彼らならあっさりと窓を破って侵入するに違いない…!
…なんとかここを脱出。
そして…公衆電話で大石《おおいし》さんに連絡。
どこかで落ち合おう。
まず必要なのは武器! あと靴ッ!!
だがその前に…ひとつだけやらなければならないことがある…!!
…俺に死ぬつもりはない。
絶対に生き延びて……この理不尽な「オヤシロさまの呪い」の真相を究明する…!!!
だが…これから起こる出来事によって、…俺のそんな決意とは無関係に……俺は終焉を迎えるかもしれない。
……だからこそ。
…今すぐここを逃げ出すよりも、大切なことだった。
あのメモを隠した時計を手早く外し、裏に隠したメモを剥がす。
…畜生…! こんなにも丁寧にがっちりとセロテープで貼り付けやがって…!!
多少破れてもいい。
少し破き気味にメモを広げ、サインペンで新たな一文を書き加える。
……俺が大石《おおいし》さんに伝えることがかなわなかったら。……頼みになるのはこのメモだけ。
………これほど、破けた大学ノートの1ページが頼もしいことはなかった。
時間はない。今知りうる真実だけを。…真相究明に役立てる、何かの情報を書き残さなければ!!
“レナと魅音《みおん》は犯人の一味。”
これは疑いようのない事実。…今でも信じたくない。…だが事実なのだ!
とにかく…犯人の手がかりになりそうな情報は全て残そう。
“他にも大人が4〜5人以上。白いワゴン車を所有。”
…さっき窓から見た限りではそのくらいだった。…もっといるのかも知れない。
そして…監督という未知の存在。
…そもそも…監督なんてこの雛見沢《ひなみざわ》に似つかわしくない単語だ。
……もしも……過去の事件で唯一監督という単語が絡むとしたら……一番初めのバラバラ殺人の被害者の現場監督だけ。
一連の事件の、一番最初の被害者だ。
リンチで殺され、遺体は6つに切り刻まれた。
見つかっていないのは右腕だけ。
……その死は警察が確認しているはずでは…?
でもレナと魅音《みおん》は確かに、監督を呼んだと言った。
監督と言った。
死んだ人間を呼べる訳がない。
…警察だって、死んだはずの人間が関わっているなどとは思うまい。
……それが…何かの盲点なのか??
わからない。
だが…俺にはわからなくても…大石《おおいし》さんには重要なヒントになるかもしれない。
…そう。
……一番最初の事件から洗うべきなのだ。
あれがただのバラバラ殺人でなく、その後に続く、連続怪死事件の始まりなら………絶対に……何かが隠されているはずなのだ!
“バラバラ殺人の被害者をもう一度よく調べてください。生きています。”
人の死ってのは検死とか経て、しっかりと調べられるはずだ。……理屈ではそう思ってる。
…だが、本当にそうなのか?
警察を巧みに欺く…狡猾な仕掛けがあるのではないか…??
断定はできない。……だが、…生きているかもしれない…。
だが、それを想像するには、今はあまりに時間がない。
……そうだ。
それよりももっと書かねばならないことがある…!
“富竹《とみたけ》さんの死は未知の薬物によるもの。”
そう。この薬物が…唯一無二の証拠だ!
これさえあれば…全てを解明できるに違いない…!!!
床に転がる、そんな重要な証拠をここに放置するわけにはいかない。
“証拠の注射器はこれです。”
そう書き、転がっている証拠の注射器をセロテープで時計の裏に厳重に貼り付ける。
絶対に転がり落ちたりしないように…厳重に……厳重に!!
ピンポーン………。
チャイムがなった。
……来たッ!!!
もうこれ以上を書くことはできない。
……それでも! 俺は最後に……これを書かずにはいられなかった。
“どうしてこんなことになったのか、私にはわかりません。”
………………………………俺がこのメモに記した中で、一番の真実はこれだけかもしれない。
“これをあなたが読んだなら、その時、私は死んでいるでしょう。
…死体があるか、ないかの違いはあるでしょうが。”
…………………………これも全て筋書きなら。
…俺は祟りで死ぬのか。
鬼隠し《おにかくし》で消えるのか……。
“これを読んだあなた。どうか真相を暴いてください。それだけが私の望みです。”
これで……俺の遺言はすべてだ。
別に俺が死ぬと決まったわけじゃない。
…だが…万が一の時のための……懇願だった。
メモを畳み、時計の裏に貼り付け、その時計を元の位置に戻す。
祈らずにはいられない。
……大石《おおいし》さん。
…俺にもしものことがあったら…全部、頼むからな…!!
それから、累々と横たわるレナと魅音《みおん》を見下ろした。
…多分、これが今生の別れだな。レナ。魅音《みおん》。
「俺、……みんなのこと……本当に友達だと思ってたんだぜ……。」
なのに……どうしてこんなことになってしまったんだよ……?
前の学校では楽しいことなんか何もなかった。
…偏差値の上下に一喜一憂し、志望校が合格圏か安全圏かとか…そんな話しかしなかった。
…灰色の生活だった。
友達ってのはクラスの勉強のライバルのことで、内申書と校内偏差値を競い合う敵だった。
そんな生活がいかに不健全かを教えてくれたのが、みんなだったんだ。
この一ヶ月間、本当に楽しかった…。
弁当で大騒ぎをし、部活で大騒ぎをし、お祭りで大騒ぎをし……。
目から熱いものがボタボタとあふれ出る。
……不覚にも…涙だった。
こいつらのために涙を流す義理なんかないはずだ。
…でも止められない…!!
例え命を狙われたとしても。
殺されそうになったとしても。
…この一ヶ月間の思い出は……忘れられないのだ…。
それとも……あの楽しかった日々は…虚偽だったのだろうか…?
俺をはめるために…今日まで周到に続けられた……罠だったのだろうか?
俺だけが一方的に仲間だと思い込んでいただけなのでは………?
そんなはずは……ないッ!!!!
レナも魅音《みおん》も……本当に俺の仲間だったッ!!!
あの楽しかった日々に……わずかの曇りも虚偽もあるものか…!!!
きっとレナたちは……俺を殺すよう、何者かに強要されたに違いないのだ。
あるいは…オヤシロさまという超常存在が取り憑き、意識を乗っ取られていたに違いないのだ!
とにかく…レナも魅音《みおん》も…最高の友人だった!!
そして…俺に襲い掛かってきたのは……二人の意思とは異なるものに違いないのだッ!!!!!
だが…どんな強要があったにせよ、仲間を売るようなやつらじゃなかった。
オヤシロさまなんてものに乗っ取られるような、非現実的なことがあるわけもなかった。
じゃあ…やっぱり……本物のレナと魅音《みおん》が…襲い掛かってきたんだ…?!?!
俺は…何を考えてるんだろう………。
滑稽な、馬鹿な話だった。
…レナと魅音《みおん》を殴り倒しておきながら。
…あのレナは本物だったかとか偽者だったかとか論議しているのだ。
本物も偽者をあるわけがない。
…結果だけが真実なのだ。
足元にレナと魅音《みおん》が横たわる、それだけが真実…!!
仲間を殴リ殺シタ事実を……都合よく捻じ曲げようとしているだけ……!!
どう捻じ曲げたって……レナと魅音《みおん》が……死ンデしまったことには何も変わりはないと言うのに…!!!!
抑えていた異常な感情のダムに亀裂が入るのを感じた。
……虚勢という、平常心が退き、その隙間に…狂気が漏れ出してくるのをひしひしと感じる…。
俺が殺したんだ。
俺が殺したんだ。
…レナを魅音《みおん》を…。殺したんだ…!!
再びチャイムが鳴り響く。
その容赦ない響きが、俺にもう一度だけ冷静さを取り戻させてくれた。
もう一刻の猶予もない! 早く…逃げなければ!!!
とにかく…死にたくなかった。それから全てを暴きたいと思った。
俺をここまで追い込んだ何かの正体を……!!!
泥を啜ってでも、草を食んででも…!!
生き残る生き残る絶対にに生き残る!!
そのためにレナを殺した。
魅音《みおん》も殺した。
そこまでして生き延びた。
…だから死ねない。
俺が生き残るために殺されたレナと魅音《みおん》のためにも…
絶対生き延びなければならないのだッ!!!!
玄関へ走り、靴を鷲づかみにした時、急かすように再びチャイムが鳴った。
……この一枚の扉の向こうに……いるッ!!!
足音を殺しながら…台所へ。…勝手口へ向かう。
勝手口を開け放つ前に、耳を当て表の気配を伺う……。
気配はない…?
靴を履き…音をさせないようにゆっくりと扉を開く…。
「いたぞ!! 裏口だ!!」
鋭い声が響き渡った。
…その声が体を突きぬけ……戦慄が駆け抜けるッ!!!
走るしかない!!!!!
逃げろ圭一《けいいち》ッ!!!!!!!
頭から知性とか理性とか、そういうゆとりあるものが次々こぼれていった…。
梢で腕や頬に擦り傷が出来ても、何も痛みは感じない。
ばくばくと機械的に収縮する心臓にも何の痛みも、疲労も感じなかった。
体中の全細胞が、ただ生きたいと…。
それ以外の何も望まなかったから。
……何も不平を言わなかったに違いない。
だから疲れを感じるわけもないのだ…。
ただただ…走った。
自分が前だと思う方向に、がむしゃらに走り続けた。
…例え誰も俺を追っていなかったにせよ、俺は疾走をやめないに違いない…。
どこを目指して走っているかなど、もう頭にない。
振り向けば、すぐそこに気配がいる気がした。
その気配は間違いなくぴったりと、影のように俺を追い立てる。
一瞬でも足を違えれば……食われる。
そう思った。
だから振り返らなかった。
止まらなかった。
走り抜けた。全力で…!!!
カナカナカナカナ……。
それは夕暮れを教えるひぐらしの鳴き声。
…俺に何かを教えようとし、そしてついにかなわなかった犠牲者たちの、泣き声。
俺も…それに加わるのか。
カナカナカナカナカナ………。
ひぐらしだけが知っている。
……全部知ってる。
きっと知ってる。
だから、…たくさんひぐらしの鳴く声の聞こえる方へ走った。
だが鳴き声は…走った分だけ遠のく。…近づけない。
どうして逃げるんだよ、みんな…!!!
俺が悪いのかよ。
悪かったのかよ?!
なら謝るさ!!
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
ひぐらしだけが、知っている気がした。
喫煙スペースには紫煙が立ち込めていた。
高額備品扱いの分煙機も、チリチリという何だか電気のはぜるみたいな音がうるさいだけで、ちっとも役に立っているようには見えない。
どうしてこんな日当たりの悪い廊下の奥に、喫煙家が押し込まれなければならないのか?
…たばこの税収ってのは確か、自治体の税収の1割くらいはあるって聞いたことがあるような…。
私たちは地方自治体を支える高額納税者なんですから、もう少しいい待遇にはならんもんですかねぇ…。
「……うーん、どうしてこれが五萬切りなんすか? 待ちが狭くなっちゃうっすよ?」
後輩の青年が麻雀雑誌の「次の一手」のコーナーとにらめっこをしている。
「五萬切ってもテンパイ崩れませんから。」
「ハイテーに賭けるなら、両面で受けた方がチャンスあるんじゃないすか?」
「熊ちゃん、河を見て下さい。五萬は全員切ってますから安牌なんですよ。終盤で形テンに走った誰かがダマで待ってたら嫌でしょ。」
青年はうーんと唸りながら、タバコを捻り、もう一本を取り出す。
「…納得いかないっすねぇ…。わざわざ自分で当たり牌減らすなんて。」
「ちなみに、ハイテーで当たり牌出てもロンしちゃダメですよ。」
「え?! どうしてっすか?!」
その時、廊下の向こうから声が聞こえてきた。
「大石《おおいし》さん、いますかー? 一般の方から外線でーす。」
「ありゃ、こりゃどうも。それじゃ、ちょいと失礼!」
「ど、どうしてロンしちゃダメなんすかぁ?! あ、待ってくださいよ大石《おおいし》さぁん!」
大石《おおいし》の向かいの席の男が受話器を振っている。
「外線です。公衆から。」
「あーどうもすみません! ……お待たせしました、大石《おおいし》です。もしもし?」
「お、大石《おおいし》さんですか?! もしもし?!」
「前原《まえばら》さんじゃありませんか。どうもどうもこんにちは…!」
前原《まえばら》くんの声色から、すぐに異常事態を察する。
…前原《まえばら》くんからこちらに電話をかけてくるのは始めて。
そしてかけてきたのは公衆電話。
「落ち着いて下さい。何がありました?」
「えっと、その、……あぁぁ…ッ!!!」
電話口の声は混乱し、完全に冷静さを失っていた。
他の連中に聞かれないか確認してから、受話器の口元をかばい小声で先を促す。
「何があったんです?!」
「あぁぁあぁあの…お、…ぉぉ……俺……、」
「…落ち着いて前原《まえばら》さん! 今そこに近場の警官を行かせます。私もすぐそっちに行きますよ!」
「………あ、その……多分……無理です。」
声に怯えと達観…。
……まさか、電話をかけながら、すでに何者かに囲まれている?!
「前原《まえばら》さんは今、公衆電話からかけてますよね? どこの公衆電話ですか?!」
前原《まえばら》くんの声以外の環境音がまったくない。
電話ボックスからか。
メモに殴り書きをし、対面の同僚に突きつける。
(ヒナミザワ、デンワボックス!!)
同僚がすぐに事態を飲み込み、慌しく内線を回す。
「…落ち着いて前原《まえばら》さん! 今はどういう状況なんです…?!」
混乱した相手に余計あおるような言い方はよくないのだが…、今回はそういうケースじゃない。
…前原《まえばら》くんは危機に襲われ、逃げて電話をかけてるんじゃない。
……今この瞬間も何らかの危機にさらされている…!
だが…こっちがまくしたてたって、前原《まえばら》くんは余計に焦るだけなのだ。
前原《まえばら》くんは助けを求めるためだけに電話をしてきたんじゃない。
…それ以上の何かを伝えたくて電話をしてきてるのだ。
そしてその何かは、……この電話の機会を逃すと、もう二度と伝えられないという確信に基づいている…!
同僚がメモを回してきた。
(雛見沢《ひなみざわ》にボックスは1ヶ所。パトを向かわせました。5分です。)
「かかり過ぎです。警邏には何人乗ってます?」
「2人です。」
足りない。
……もしも私の想像通りなら…前原《まえばら》くんは多人数に囲まれている。
それに5分じゃ遅すぎる!
「雛見沢《ひなみざわ》の駐在さんには電話しました?!」
「定時巡回の時間です。家人は留守で連絡不能。」
「くそッ!! 熊ちゃん、車を回して下さい。」
「了解っす!!!」
「…もしもし? 大石《おおいし》さん…? ごほっごぼッ!!」
「もしもし! 大丈夫です。ちゃんと聞こえてますよ!」
前原《まえばら》くんの様子がおかしい…。
今の咳の音は普通じゃない。
……嘔吐?
それともまさか…血?!
すでに襲われ負傷している?!
「前原《まえばら》さん、今そこに警官が向かってます。2〜3分で到着しますから何とか持ちこたえて下さい! もしもし?! 聞こえてますか?! 前原《まえばら》さん?!」
受話器の向こうで咳き込むのが聞こえた。
……脳裏に最悪の予感が過ぎる。
「前原《まえばら》さん!! 犯人は誰です?! 何人なんですッ?!」
「……お、…俺も……最初はニンゲンが犯人なんだと思いまし……げぼッ!!」
咳とも嘔吐ともつかない呻き。
「大丈夫ですか!! 前原《まえばら》さん!!」
「犯人はニンゲンなんだって、オヤシロさまの祟りなんかないんだって、そう思ってました…。ついさっきまで。……だけど……やっぱり…、げほげほ…ッ!!」
激しい咳。それに続いて嘔吐。
「……でも…やっぱり…オヤシロさまってのは……いるんだと思います……。いや、います。今。」
「前原《まえばら》さん、どうか、どうか落ち着いて…、」
「なんかさっきからおかしいと思ってたんです…。ずーっとつけてくるんですよ…!!
走っても走っても、走っても走っても…!!! 影みたいにぴったりくっついて!! だけども少しずつ…少しずつ…。俺の背中ににじり寄ってくるんです……。」
「……前原《まえばら》さん、…そいつは………今、ひょっとして…、………前原《まえばら》さんの…後ろに?」
「……………後ろに。……すぐ、……後ろに………。」
「お願いです前原《まえばら》さん。……怖いのはわかります。ですがお願いです!! ……あなたの後ろに……誰がいるんですッ?!」
「振り向けるわけ…ないじゃないですか…。振り向いたら……俺……俺…、」
「怖いのはわかります!! でも教えて欲しい!! ちょっと振り返るだけでいいんです!! 前原《まえばら》さんの後ろに……誰がいるんですッ?!?!」
直後に激しい嘔吐が聞こえる。それから何か嫌な音。
「…前原《まえばら》さん、……あんたまさか、…喉を引っ掻いてたりは…しないでしょうね…?」
返事はない。
…ばりばりと…掻きむしるような音……。
ガタンガシャン! とぶつかり合う音がした。
…前原《まえばら》くんが受話器を落としたのだろう。
電話の向こうからは唸りと嘔吐、そして繰り返される……異音。
「もしもし! もしもし?! 前原《まえばら》さん?! もしもーしッ?!?!」
離された受話器の声がどんなに遠いかよくわかってる。
でも…叫ばずにはいられないのだ。
その時、受話器の向こうから…つぶやきが聞こえた。
何を言っているのかはわからない。
……口調からして…独り言?
それとも…そこにいる誰かに言っているのか?
「もしもし…? ………………………前原《まえばら》…さん…?」
それはつぶやきというより……お経みたいな、単調な何かの繰り返しだった。
その何かを聞き取ろうと…神経を研ぎ澄ます…。
何を繰り返してるんだ彼は……。
一体……何を………!!!
ぶつん!
あまりに唐突に切れた。……10円が切れたのか?!
公衆電話だったから…!!
「…………あ。」
唐突に切られたから。
…むしろ最後の一言は鮮明に脳裏に戻った。
「大石《おおいし》さん、車はOKっす!!! 大石《おおいし》さん…?!」
「……ごめんなさい、だ。」
「大石《おおいし》さん……??」
前原《まえばら》くんはずっと繰り返してたんだ。
…ごめんなさい、って………。
その時、直感した。
…………もう、そんなに急ぐことがないことに。
……その時、開け放たれた窓の向こうから…ひぐらしの声が聞こえてきた。
カナカナカナカナカナ……。
ずっと聞こえていたはずだった。…特に気にも留めず。
どうして今になって急に気になったのか。
カナカナカナカナカナ……。
何か、伝えようとしている?
ひぐらしだけが知っている。……そんな気がした。
容疑者のメモ
某県鹿骨市《ししぼねし》の寒村、雛見沢《ひなみざわ》で女子生徒殺人事件が起こった。
容疑者は、前原《まえばら》圭一《けいいち》(1X歳)
容疑者は自宅にクラスメートの女子2名
(竜宮《りゅうぐう》礼奈・園崎《そのざき》魅音《みおん》)を呼び寄せ、金属バットで撲殺。
犯行現場は自宅2階の容疑者の自室だった。
室内は凄まじい返り血に彩られ、被害者ともみ合った形跡が認められた。
また、犯行現場とは別に、玄関、居間、台所でも荒らされた形跡が認められた。
玄関では、靴箱と壁に激しい打撲の痕跡。
凶器のバットによるものと断定。
痕跡に血液反応が出なかったことから、犯行以前に破壊したものと推定。
被害者の逃走を阻止するため、容疑者が威圧行為を行なった可能性がある。
居間では絨毯が剥がされ、投げ捨てられていた。
これは被害者ともみ合った際のものとは考え難く、その真意は不明。
台所ではゴミ袋が破かれ、その中身が床にばら撒かれていた。
ゴミは周囲に飛散し、容疑者のものと思われる手形も発見された。
容疑者は何らかの理由でゴミを出し、それを掌で叩いたものと考えられる。
その真意は不明。
また、冷蔵庫に貼り付けられていたメモには「針がなかった?」と記されていた。
意味不明。
念のためゴミを探すが、針は発見できなかった。
荒らされてはいなかったが、引越し以来、開放したままになっているガレージのシャッターが閉じられていた。
シャッターからは容疑者の指紋を検出。
その真意は不明。
容疑者は犯行現場から逃走したが、
警邏中の警察官(雛見沢《ひなみざわ》駐在所)が電話ボックス内で倒れているのを発見する。
発見時、容疑者は意識不明の重体。
直ちに村内の診療所に搬送し手当てをしたが、意識は戻らず24時間後に死亡した。
検死の結果、直接の死因は出血性ショック死。
自らの爪で喉を引き裂き、その結果の出血で死に至ったと断定した。
先週に発生した富竹《とみたけ》氏事件の異常な死に方との酷似に、警察は関連性があるものとして捜査を開始する。
(ただし、地元からの強い要望により非公開捜査)
異常な死に方に何らかの薬物の使用を疑うが、富竹《とみたけ》氏事件と同様に一切検出されない。
当初はあまりの不可解さに、衝動的な突発的犯行と断定していた。
だが、容疑者の犯行直前までの奇行が次々と露呈するに従い、その方針は変更されることとなる。
親しかったグループとの離縁。孤立。意味不明の言動。
犯行の数日前からは金属バットを持ち歩くようになっていた。
攻撃的な言動、独り言は学校でもしばしば見られ、クラスメートが実際にその一部を聞いている。
犯行の前々日には、両親に自らの死をほのめかす発言もしていた。
警察は、これらの状況から、この事件が突発的なものでなく、数日前から予定された計画的犯行の可能性があるとして捜査を開始する。
その後、
容疑者の自室から直筆のメモが発見された。
メモはB5の大学ノートを半分に裂いたもの2枚で構成され、まるで隠蔽するかのように、壁時計の裏に貼られ、隠されていた。
内容は別添の通り。
警察は事件と密接に関係するものとして重視。
容疑者が、何らかの事件に巻き込まれていた可能性があるとして再び捜査方針を転換した。
だが、その後なんの手がかりも掴めず、メモそのものの信憑性も疑われるようになる。
この事件は突発的なものなのか、計画的なものなのか。
真相もわからず進展もなく、事件は文字通り迷宮入りの様相となった。
だが……後年。
そのメモにひとつの不審が浮上した。
2枚のメモは、B5のページを半分にしたものが1枚ずつではなく…。
元はB5の1ページに書かれたものを…何者かが、
“真ん中の数行を削除するために”
破り捨てたのではないか…というのだ。
文字の大きさと、破かれた部分から推定して、削除されたのは2〜3行。
削除した人物は容疑者以外である可能性が高い。
また、時計裏に付着していた大量のセロテープ跡から、
“メモ以外にも何かが貼り付けられていたのではないか”との憶測も出た。
第一発見者は、かねてから事件との関係を噂される疑惑の刑事。大石《おおいし》蔵人《くらうど》。
任意で事情聴取をしたが、メモの破損については否定する………。
容疑者のメモ
私、前原《まえばら》圭一《けいいち》は命を狙われています
なぜ、誰に、命を狙われているのかはわかりません。
ただひとつ判る事は、オヤシロさまの祟りと関係があるということです。
レナと魅音《みおん》は犯人の一味。
他にも大人が4〜5人以上。
白いワゴン車を所有。
(ここまでが1枚目。ここから下は真横に破られている。)
(ここからが2枚目。ここから上が真横に破られている。)
どうしてこんなことになったのか、私にはわかりません。
これをあなたが読んだなら、その時、私は死んでいるでしょう。
…死体があるか、ないかの違いはあるでしょうが。
これを読んだあなた。どうか真相を暴いてください。
それだけが私の望みです。
前原《まえばら》圭一《けいいち》
テストチップス
古手《ふるで》神社の伝承
昔々この地には小さな村がありました。
山間に囲まれた村は、日々を平穏に暮らしていました。
平和な暮らしは、突然破られました
遥か西方から悪鬼の集団が現れたのです。
爛々と光る目、鋭くとがった牙、そして角。
そして岩を砕く怪力に村人達がかなうはずもありませんでした。
悪鬼の集団は村人を殺し、食らい、奪いました。
村人達も必死の抵抗など意に介さず暴虐の限りを尽くしました。
しかし、悪鬼達の跳梁は長くつづきませんでした。
黄昏の空の下、やってきました。
一人の供を連れて現れました。
ご降臨した神の名は、弥都波能雛女神《みづはのひなのめのかみ》と言いました。
そして村にご降臨すると、供のものを連れて悪鬼達と戦いを始めました。
右手を振るうと、雷を呼び、
左手を振るうと、雨を呼び、
その眼光は、見る者を屠りました。
そして悪鬼達を沢に追い詰め両の手を振ると、たちまち沢の水が怒涛のように押し寄せ悪鬼達を飲み込んでしまいました。
弥都波能雛女神《みづはのひなのめのかみ》は、悪鬼達との戦いで傷ついた体を癒しこの地を守護するために天へ登っていきました。
その後、供の者は村に残り天に帰っていった神を祭るために社を建ました。
これが古手《ふるで》神社の始まりです。
「坂本観光パンフレットから抜粋」
綿流し《わたながし》における神事
例祭における神事としての村周りがあります。
赤、青鬼を先導とし、
鶏頭楽、神楽台、獅子、太鼓−笛方−五色吹流し−大榊《おおさかき》−裃《かみしも》−雅楽−巫女−裃−五色吹流し
後衛の渡御列をなし巫女を中心として村中を巡り歩きます。
人々は巡路に川砂を撒き、不浄の処には柴を覆いて敬います。
そして、村を巡り歩いた後に神社にて「不浄払いの儀」を執り行います。
『古出神社における神事』から抜粋
<おまけコーナー>
■おつかれさま会
「この度は当サークル、07th Expansionのノベルゲーム、ひぐらしのなく頃に〜鬼隠し《おにかくし》編〜をお買い上げ下さいまして、誠にありがとうございました! いかがだったでしょうか? ちょっぴりでもお楽しみいただけたなら幸いです。」
「ちょっぴりも何も! あんなすごいバッドエンドで終わられたら、ぷんぷんでございますのことよー?!」
「…ぷんぷんなのです。」
「なんでも、今回の「鬼隠し《おにかくし》編」は全体の物語のプロローグみたいなお話なんですって。」
「そのプロローグが…こんな凄まじいバッドエンドでございますのー?」
「うーん、でもそーゆうのってあるじゃん?
この最悪のバッドエンドを回避するために、プレイヤーさんが物語を模索していくのがサウンドノベルだし。」
「…まだ第一話ですよ。ボクは次のお話が楽しみなのです。」
「次の話はどんなのになるわけ? レナは聞いてるー?」
「うん。次のシナリオは今回のシナリオとはまた別の側面を紹介する物語…って言ってたよ。」
「……難しい言い方ですわねぇ。何なんですの?」
「今回の鬼隠し《おにかくし》編では、雛見沢《ひなみざわ》で近年起こった連続怪死事件が紹介されたでしょ?
次回のシナリオでは雛見沢《ひなみざわ》の古い歴史なんかが紹介されるんですって。」
「異常事態の連続ですっかりわかんなくなっちゃったけど……オヤシロさまの祟りって、どういうものなのか。いやそもそも、オヤシロさまって何なのか、あまり説明なかったからね。」
「…う〜ん、よくは聞いてないんだけど…。……でも……なんか嫌ぁな予感。」
「……またしても祟られそうな、嫌な物語です。」
「圭ちゃんも大変だねぇ〜! 今度はどんなタタリにやられるやら!」
「でも、どんなお話になるのか楽しみにございますわね!」
「いやいやいやいや、遅れてすみませんねぇ。」
「やぁみんな! お疲れ様!」
「お疲れ〜!! あれ? 圭ちゃんはー?」
「圭一《けいいち》くんはもう、次のシナリオの台本読みに行っちゃってるんだよ。主人公だから大変だね!」
「…あれー。…残念ですね。ちょっとだけでも顔を出してくれればよかったのに。」
「………きっと立ち絵がないので登場できないのです。」
「梨花《りか》さん、そーゆうのは大人の事情って言うんですよ。んっふっふっふ!」
「しかし…圭一《けいいち》くんやレナちゃんなんか特にだけど、大変なお話だったねぇ!」
「大変も何も! 大々バッドエンドでございますわー!!」
「結局…圭一《けいいち》くんを襲った者の正体って何なのかしら。」
「祟りに見せかけておいて、実は人間の仕業…ってのが僕の推理なんだけどね。」
「……でも圭一《けいいち》、最後な電話をしてましたです。」
「うん。私もあの電話は変だと思ったね。
あの時点で圭ちゃんは犯人は人間だと確信してたはずなのにさ。」
「……おかしな電話でしたわよね。なんかオバケに追いかけられてる、みたいな。」
「あの電話だけだと…やっぱり犯人って人間じゃなくて、祟りなのかなって思っちゃうよね。」
「せっかくですから、意見を出してみようじゃあないですか。じゃー園崎《そのざき》さんから。」
「私は絶対に人間説!
雛見沢《ひなみざわ》の怪しい昔語りかなんかになぞらえて、誰かが起こしてる人為的事件だと思うね!」
「確かに。毎年、お祭りの日になると起こる連続怪死事件なんて、怪しいもんね。」
「その連続怪死って言うのも、きっと、何かの昔語りの再現なんだよ。きっと!」
「私はタタリだと思いましてよ!!
玄関で圭一《けいいち》さんが暴れたシーンとか、ラストの電話のシーンとかを見れば、人間が犯人では説明がつきませんもの。」
「そう言えばそうよね…。とても人間の仕業とは思えないシーンだったし。」
「…うーん、僕はそれでも……人間が犯人だと思うねぇ。
あの玄関やラストのシーンは、追い詰められた圭一《けいいち》くんの、被害意識からの妄想じゃないかって思うんだ。」
「む、難しい言葉を使われてもわかりませんわー!!」
「……つまり、怖がりの圭一《けいいち》が見た幻だと言ってるのです。」
「じゃじゃ、じゃああのシーンの正体は…、圭一《けいいち》の後ろにいた謎の気配は何なんですのー?!」
「引っ掛けだよ。ヒッカケ。」
「魅ぃちゃん、引っ掛けってどうゆう意味?」
「富竹《とみたけ》のおじさまが言うようにさ、あのシーンは追い詰められた圭ちゃんの被害妄想のシーンなんだよ。
それを濃密に描くことで、プレイヤーに祟りだと思わせようとする演出なんだよ。だから引っ掛けってワケ!」
「そ、それを言われると……むむむー……でもでも………。」
「ははは、まぁそういう可能性もあるってことだよ。」
<<<<※富竹《とみたけ》さん※
「だとすると…犯人は複数で村ぐるみって言う、劇中の大石《おおいし》さんの推理は正しいのかな?
当の本人の大石《おおいし》さんはどう思いますか?」
「私ですか? なっはっはっは……。……うーん。悩みますねぇ。」
「あれ? 僕はてっきり、大石《おおいし》さんは人間説だと思ってましたけど。」
「……劇中の私は犯人は人間だと断じてますが、人間が犯人だとすると、いろいろ不可解なことが多いんですよ。」
「例えばどんな? 大石《おおいし》刑事さんの推理をお聞かせてください…!」
<<<※レナ
「まず人間が犯人だとすると、絶対に動機が必要なんです。…こういうことをして誰が得をするのか、ってことなんです。」
「つまりおじさま、人間が犯人なら、連続怪死事件を起こすことによって、誰かが得をしなくちゃいけない、ってこと?」
「そういうことです。ダム開発の関係者が死ぬ内は利害も感じられましたが、近年の犠牲者はそれとも無縁です。
…第一、圭一《けいいち》くんを殺して誰が得をすると言うんです?」
「なるほど。…そう言われると…僕も弱いな……。」
「だってお金とかも盗られてないんですもの。人間が犯人なわけありませんわー!」
「でも、そうとばかりは限らないんじゃない?
さっき魅ぃちゃんが言ったように、何かの昔語りの再現そのものに意味があるんだとしたら……。」
「そーゆーこと。これは営利殺人じゃないんだよ。きっとこれは…村の血塗られた歴史を再現するための………何らかの儀式的殺人じゃないかなって思うわけ!」
「……では聞きますですが、それを再現すると誰か得をするのですか…?」
「得をするんじゃなくて…もっと心理的なもの。……僕は……何かの復讐じゃないかと思うね。土着的な何か。…今回のシナリオでは騙られなかった因縁だよ!」
「なるほど。虐げられた某家の人たちが先祖の恨みを晴らすために…ってな感じですか? うーん………私はそれにも反対ですねぇ。」
「じゃー何。大石《おおいし》さんはまさか、祟り派なわけ?!」
「そうですわそうですわ!! 刑事役の大石《おおいし》さんが言うんですもの! タタリに決まってますわー!!」
「劇中で前原《まえばら》さんが言うように、オヤシロさまがレナさんや園崎《そのざき》さんに乗り移って悪さをしている…って考えると……一番つじつまが合うんです。残念ながら。」
「えっと……実は私も大石《おおいし》さんと同じ意見なの。…あんなにやさしかったレナや魅ぃちゃんが突然おかしくなるなんて、そうじゃなきゃ説明つかないもの。」
「……魅ぃの話の意味がわかりにくいですよ。説明がほしいです。」
「あ、ごめん。…つまりさ。これってすっごく残酷な話なんじゃないかって思うんだよ。」
「え、……何、魅ぃちゃん。…それってひょっとして……。」
「突き詰めるとそうなるのかな。…僕もちょっと疑ってる。」
「つまり、レナさんも園崎《そのざき》さんも、実は本当にああいう性格で、引っ越してきたばかりの前原《まえばら》さんを騙している悪魔なんだ、と。…こういうわけですか?」
「そんなの嫌ですわーーー!!!!
わぁあぁああぁああぁああん!!! これは全部祟りの仕業なんですのよー! レナさんも魅音《みおん》さんもみんなやさしい、いい人がいいですのーーー!!!!」
「わ、私もそうだな! レナや魅音《みおん》ちゃんって本当にいい人なんだって思う。…きっと劇中で出てきた厳しいシーンは、何かに取り憑かれてたんだって思うの。」
「レナも祟り派か。じゃー祟り派の皆さんにお聞きしますけどさ。…祟りが起こるからにはそれなりの理由があるんでしょ? 無差別に祟るとは思えないなー。そこんとこ説明できるの?」
「祟りは祟りですもの!! 人間の考えでは想像もつきませんわー!」
「あはは、沙都子《さとこ》ちゃん。擬人化された神さまという存在は、結局は人間の生み出したものなんだよ。だからその考え方も、人間に理解できるようにできてる。…ギリシャ神話の神様を見てごらんよ。泣いたり怒ったり嫉妬したり…とにかく人間的なんだよ。」
「えっと…、つまり、オヤシロさまもまた、人間同様に何らかの利害に基づいて祟りをしている、ということですか?」
「変な言い方になっちゃったけど、つまりはそういうこと。」
「……触らぬ神に祟りなしって言いますからねぇ。なっはっは、一理あります。」
「……つまり、オヤシロさまにせよ、人間にせよ、何か理由があるはず、ということなのです。」
「でも梨花《りか》? その理由がはっきりしないなら…どうなりますの?」
「……つまりは、わかんないということなのです。」
「あははははは! そうだね。まだプロローグだもんね。明かされていないことがたくさんあるだろうし。」
「そうだね。現時点ではこれ以上の推理は難しいねぇ。」
「いーや! 白黒付けないと納得できないね!」
「魅音《みおん》さんもこだわりますのね。」
「あははは! 限られた状況で最大限に推理する!! ちょっぴり部活感覚で面白いでしょ?」
「あ、うん! そう考えれば面白いかも!」
「じゃあ、整理してみましょうか。えーと、私は祟り派です。富竹《とみたけ》くんは人間派でしたよね?」
「えぇ。僕は人間が犯人ってことで行きます。」
「私も人間犯人説! もちろん、祟りというファンタジーは嫌いじゃないよ? だけど今回の事件に限っては、祟りの線は薄いねー。」
「人間派が2人出ましたね。レナさんは祟り派でしたよね?」
「はい。私と沙都子《さとこ》ちゃんは祟り派です。ねー?」
「えぇ!
祟り派ですわよ! レナさんや魅音《みおん》さんのことを悪魔みたいに言う人の方がよっぽど祟りにあうべきですの!!」
「そりゃまー、私も自分のキャラがそんな悪魔みたいなヤツだとは思いたくないけどさ。……部活モードの時にはクールでなきゃ! 感情論だけで選ぶと大ヤケドするよ〜?」
「まぁまぁ。どっちを選んだっていいじゃあないですか。」
「あれ? 梨花《りか》ちゃんがまだだね。どっちだと思う?」
「………ボクはオヤシロさまが悪い神様だとは思わないですよ。」
「あれ、面白い意見だね。」
<富竹《とみたけ》
「……祟ってばかりの悪い神様なら、祀るの嫌です。ボクは祟るより、ご利益のある神さまの方が好きですよ。」
「そっか、梨花《りか》ちゃんって巫女さんをやったんだよね…! うん。いい意見。」
「じゃあ何? 梨花《りか》ちゃんはオヤシロさまじゃないって思うなら、…やっぱ犯人は人間って思うわけ?!」
「……そういうことにしますです☆」
「ありゃまぁ。…票がざっくり分かれましたねぇ! 祟り派と人間派で半々ですか。」
「レナちゃん、参考まででいいんだけどさ。
β版までをプレイしてくれたテストプレイヤーさんたちの感想ではどんな感じなんだい?」
<富竹《とみたけ》
「えっとー。うん。人間派がとっても多かったの!」
「ほらほら見たことか! 冷静な百戦錬磨の同志諸兄はよく見てるよ!」
「……でも、β版は途中までしかできてませんでしたです。」
「そうね。β版をプレイしてくれた方も、最後まで通して見てみたら、また意見が変わってるかもしれないね。」
「どうすんのさ。これじゃ意見は半々。決着が着かなくて面白くないよね!」
「裁判官が奇数なのは、つまりそういうことだからねぇ。あとひとり意見がほしいなぁ!」
「あ、ならちょうどいいかな。圭一《けいいち》くん本人に聞いてみない? 電話で!」
「……祟り殺された本人の意見は貴重ですよ。」
「そうと決まればさっそく電話ですわー!!!」
「もしもし圭一《けいいち》くん? レナでーす。今、お仕事お忙しいですか?」
「あー忙しいぞー。シナリオが一本終わって一休みって思ってたら、すぐに次のシナリオだもんなー!!」
「圭ちゃん、どんな感じ? 忙しいって?」
「うん。スネてる。」
「聞こえてるぞこらー!! お前らは打ち上げ会でいいよなー! 俺も出たかったー!!!」
「……立ち絵を描いてもらえたら圭一《けいいち》も来れますですよ。」
「梨花《りか》、それは内緒ですわ…。」
「つまりさ、圭ちゃんを殺したのは人間か、オヤシロさまの祟りかってことで意見が分かれちゃってるのよー。」
「本当にごめんね! 台本読みで忙しいところ…。圭一《けいいち》くんはどっちだと思うかな?」
「そんなの決まってんじゃねーかー!!」
「どっち?」
「どっちなんてもんじゃねーよ!! 村の怪しげなヤツらに狙われて、さらにオヤシロさまとかいう怪しいのに祟られて!!! 人間も祟りも全部!!! これはイジメだーー!!!!」
「………かわいそかわいそです。今度、頭をなでなでしてあげますですよ。」
「結局、意見がわかれちゃったねぇ。」
<富竹《とみたけ》
「私ももう一度考え直してみます。見落としがあるかもしれませんので。」
<大石《おおいし》
「それでは引き続き、『ひぐらしのなく頃に〜綿流し《わたながし》編〜』をお楽しみ下さいね!」
<レナ