うみねこのなく頃に
The Legend of the Golden Witch
制作 07th Expansion
プロローグ
「…………また。…お酒を嗜まれましたな?」
聴診器を外しながら、年輩の医師は溜め息を漏らす。
埃と甘ったるい異臭の入り混じった薄暗い書斎に、年輩の男たちの姿はあった。
書斎と呼ぶにはとても広い部屋の一角には高級そうなベッドがあり、診察を受ける男と、それを診察する医師。そしてそれを見守る使用人のように見えた。
「酒は我が友だ。お前に負けぬ友人であり、そしてお前よりも付き合いが長い。」
聴診器のために胸を肌蹴させていた男は、着衣の乱れを直しながら、悪びれる様子もなくそう言う。
「…………金蔵さん。…あんたの体が一見調子がいいのは薬が効いてるからだ。だが、そんな強い酒を飲み続けては薬の意味もなくなってしまう。…悪いことは言わん。酒は控えなさい。」
「忠告の気持ちだけはありがたくいただいておく。我が友よ。………源次。もう一杯頼む。心持ち薄めでな。南條の顔も立ててやれ。」
「………よろしいのですか。」
源次と呼ばれた老齢の執事は、酒を求める主と、それを止める主治医の双方を見比べた後、無言で小さく頷き、己の主の命令に忠実に従うのだった。
彼が酒棚で準備をするのを眺めながら、主治医の南條は再び深い溜め息を漏らす…。
室内を満たしているその匂い。
…心も、そして魂も溶かしてしまうような、毒のある甘い匂いは、主人の愛して止まないその毒々しい緑色の酒の匂いだったのだ。
「……南條。お前は私の長きに渡る親友だ。今日まで私を永らえさせてくれたことを、深く感謝する。」
「私は何も。……医者としての忠告など、金蔵さんはまったく聞いてくれませんからな。」
「はっはっはっは…。お前とて、指し間違えた手を待てと言っても聞かぬではないか。ならば相子というものだろう。」
「……お館様。」
「すまぬ。……薬は切れても死にはせんが、こいつが切れては死んでしまうでな。」
諦めの表情を浮かべる南條を尻目に、金蔵は源次に差し出されたグラスを受け取る。
…いっぱいに満たされたその毒々しい色を見て酒だと連想できる者は少ないだろう。
「………南條。正直に話せ。私の命はあとどの程度持つ?」
「さぁて…。どのくらいと申し上げれば、そのお酒を控えてくれますやら。」
南條はもう一度、諦めの溜め息を漏らす。
そして、結局はグラスを煽る金蔵を見ながら言う。
「………長くはありませんな。」
「…どの程度に長くないというのだ。」
「……このチェスで例えましょう。金蔵さんの詰めもなかなかですが、私のキングを追い詰めるには至りますまい。」
南條の目線の先には、サイドテーブルがありそこには重厚なチェスセットが置かれていた。
駒を見る限り、ゲームはだいぶ終盤に入っている。
黒のルークやビショップが敵陣深く食い込んでいた。
白のキングはすでにキャスリングして追い詰められており、素人目に見てもそう長い時間を掛けずに決着がつきそうに見える。
このチェスは、南條が診察に訪れる度に数手ずつを進め合ってきたものだ。
それを指して、決着に至るより金蔵が永眠する方が早いだろうと断言する。
…それは医者としてというより、長年の友人としての言葉だった。
「…………普通の患者になら、遺言を書くよう勧める頃です。」
「……遺言とは何だ、南條。私の屍をどのように食い散らせとハゲタカ共に指南する書置きなのか。」
「いいや違いますぞ。……遺言は、意思を残すことだ。遺産分配のことだけを書くものじゃない。」
「ほう。……遺産分配以外に書くこととは何なのか。」
「…………心残りや、遣り残し。受け継いで欲しいことや、……伝えたいこと。……何でもいいんです。」
「……ふ。………受け継いでほしいことや、伝えたいことだと? 馬鹿馬鹿しい。この右代宮金蔵、後に残したいことも伝えたいこともただのひとつもないわッ!! 裸一貫で生まれた。そして裸一貫で死ぬ! 馬鹿息子どもに残したいものなど何一つないわッ!! もしも訪れる最期が今日だとしても、今だとしても! 私は何も恐れることなくその死の運命を受け容れようではないか!! 全てを築き上げた。富も! 名誉も! 全てだ!! それらは私とともに築き上げられ、私とともに失われよう。後に残してやるものなど何もないわッ!! 何もないッ!! あとは野となれ山となれ! 墓も棺も何も望まぬわ!! それが魔女と私の契約だ! 私が死ぬ時に全てを失う! 初めからその約束だからこそ、何も残らぬのだ。何も残せぬのだ!!」
そこまでを一気に捲くし立てると、金蔵は急にがっくりと肩を落とした。
…その表情は、まるで憑き物が落ちたように弱々しいものだった。
「………………だが未練はある。残すものは何一つないが、残したまま逝けぬものが、ひとつだけある…。」
「………それを書き記せばいい。もちろん、生きている内にこなせればそれでいい。だが万一の時、残された者がそれを引き継いでくれる。自分に万一があっても、必ずその心残りが解決できるように残していく。 ……それが遺言というものです。」
南條がやさしく肩を叩こうとすると、急に激昂した金蔵が南條のその手を払いのける。
「駄目だ駄目だ駄目だ!! 私が生きている内でなくてはならぬ、私は死ねば魂はすぐに契約の悪魔に食らわれて消え去ってしまう! 死後の世界も安らぎも私にはないのだ! だから全ては私が生きている内でなければならぬ!! だから遺言状など私には必要ないッ!! そのようなものを書く暇があったなら……、あったならッ!! …私は見たい。もう一度見たい! ベアトリーチェの微笑む顔がもう一度見たい!! あぁ、ベアトリーチェ、なぜに私をこれほどまでに拒むのか!! 今こそお前に与えられた全てを返そう、全てを失おう!! だから最後にもう一度だけお前の微笑を見せてくれ…。 ベアトリーチェ、頼む後生だ、聞こえているはずだ、お前はそういう女だ! 頼む、姿を見せてくれ!! いるんだろう?! 聞こえていながら姿を消し、今もこの部屋のどこかで私を嘲笑っているのだろう?! 私の前にもう一度現れてくれ、そして微笑んでくれ!! なじってくれてもいい、望むならお前の手で私の命を奪ってくれてもいい!! このままひとりで死にたくないッ!! お前の微笑みを再び一目見るまでは絶対に死ねないのだ!! あぁ、ベアトリーチェ、ベアトリーチェ!! この命はくれてやる、お前にくれてやる!! 後生だ、ベアトリーチェぇぇえぇえぇッ!!!」
1986年10月4日08時00分
調布空港
「へー。時代ってやつは進歩してんなぁ…。たったの20分で着いちまうってんだから驚いちまうぜ…。」
頭を掻きながら時代の進歩を驚く他ない。
かつては船だった。
新島に着くまでで半日もたっぷりは揺られなきゃならなかったんだからな。
便利な時代になったもんだぜ。
しかし、あんな小さな飛行機には乗ったことがない。
でっかいジャンボジェット機ならあるんだが、こんなスモールサイズは初体験だ。
…やっぱ揺れるんかなぁ。
船なんかも小さい方が揺れは大きいって言うし、やっぱ飛行機もそうなんだろか。
…はー、勘弁願いたいぜ。
「はっははは、大丈夫だよ、戦人くん。船に比べたら全然揺れは少ないよ。」
「おわぁッ、じょ、譲治の兄貴かよ! へっへー、急に勘弁してくれよ、今ので寿命が3年縮んじまったぜ。つーか、揺れって何すか? いっひっひっひ、別に俺ぁ飛行機も揺れんのかな、まさか墜ちたりしねぇかなぁ〜なんて、夢にも思っちゃいないぜ〜?」
「ごめんごめん。もう小さい頃とは違うよね。あれから6年も経ってるんだし。もう戦人くんも子供じゃないか。はっはははは。」
「ちぇー、兄貴はタバコも酒もOKってかよ。タバコは興味ねぇけど、酒は飲んでみたいよなぁ、ひっひっひ! 兄貴なんか、叔父さんの遺伝子あんなら、相当飲めちゃいそうだけど?」
「僕の場合は、好きで飲むというよりは仕事で飲む方が多いからね。日本のビジネスは酒抜きでは難しいよ。」
「いっひっひー! そ〜っすよねぇ?! だから俺も日頃から予習復習を欠かさないんすよ〜!」
「だ、駄目だよ、戦人くんはまだ未成年じゃないか! 未成年の飲酒は発育に悪影響を及ぼす可能性が…、って、う〜ん。」
「こんだけ立っ端がありゃー俺の発育は充分っすから〜! むしろちょいと身長縮めた方が服が探しやすいくらい!」
俺は得意げに胸を張ってみせる。
成長期を迎えるまでは、俺の身長はクラスじゃ真ん中よりは前の方だった。
それが、あれよあれよという間にでかくなり、今じゃ180cmは超えてる。
これも、弛みない筋トレと怪しげな通販の筋力増強剤のお陰だろうなぁ。
早々に身長が伸びきった譲治兄貴を10cmも超えて見下ろせる日が来ようとは、夢にも思わなかったぜ。
……あぁ親戚連中に、戦人ちゃん大きくなったわね〜って言われるんだろうなぁ。
…アレ、恥ずかしくてたまんねぇから、勘弁願いたいんだけどなぁ。
しかし、俺の名前の戦人って、…なんつーか、すげぇ名前だよな。
付けた親のセンスを疑うぜ。
初対面でちゃんと読めるヤツはまずいないな。
一番多いのはセントくん。
残念、そいつぁハズレだぜ。
俺の名は、右代宮戦人。
読めるか? 苗字は“うしろみや”。こりゃまだマシだよな。
問題は名前だ。
………戦人で“バトラ”って読む。
右代宮戦人(うしろみやばとら)。
すげぇぜ。名付けた親もすげぇが、受理したお役所の窓口もすげぇぜ。…そのどっちも、俺の必ず殺すリストの筆頭さ。
んで、彼は俺の従兄にあたるお人だ。
名前は右代宮譲治(うしろみやじょうじ)。
俺より5つ上だから、今年で多分23のはずだ。
右代宮のいとこは男2人、女2人なので、兄貴とはいっつも一緒に遊んでた。
その名残で今も兄貴と呼んでるわけさ。
「しっかし、戦人くんは大きゅうなったなぁ。男子三日会わざれば刮目して待つべしとは、よう言うたもんや。」
「やっぱり血かしらねぇ。留弗夫も高校くらいまでは身長、そんなになかったのよ? 成長期が遅いほうが最終的には伸びるのかもねぇ。」
「んなことないっすよ。男は中身も伴わなくっちゃぁ!」
「そうや! 戦人くんはわかっとる! 男は中身で勝負なんや! 常に己の鍛錬を忘れたらあかん。そして虎視眈々とチャンスを待ってドカンと開花させるんや!
わしも、まさか今日、会社社長なんて一国一城の主になれるとは思わんかった…。そうや、あの無一文の焼け野原がわしの原点なんや…!」
この恰幅の良さそうな小太りのオヤジは、譲治兄貴の父親の、秀吉(ひでよし)伯父さん。
俺の親父の姉の旦那に当たる。
つまり血の繋がってない伯父ってわけだ。
とても気さくで子供にやさしく、しかもついでに小遣いのはずみもいい、最高の伯父さんってわけさ。
印象的な怪しい関西弁風の方言はオリジナル?のもので、本人は生粋の関東人だ。
何でも、ビジネスの世界では印象付けが大事とかで、他の人とは毛色の違う言葉を狙って話すことで自分をより印象付けようという演出らしいんだが。
……もっとも、本場の関西人の前では恥ずかしいので、標準語に戻すんだとか。
…よくわからんが面白い人なのは間違いない。
「すーぐ自分の自慢話に入っちゃうのが玉に瑕なのよねぇ。およしなさいな。戦人くん、耳にタコが出来ちゃってるんだから。ねー?」
「そんなことねぇっすよ、ひっひっひ! でも、いいじゃないすか。語れる武勇伝があるってのは男としてかっこいいことだと思いますよ。俺なんか、語るような話は何もないっすからねぇ。」
「あら、そーぉ? 戦人くんなんか、そのルックスでいっぱい女の子を泣かせてそうだから、さぞかし武勇伝が多そうだと思ったんだけどぉ?」
「わたたたッ、じょじょ、冗談じゃないっすよ! そんな妙な武勇伝、あるわけないじゃない〜! むしろ紹介してほしいくらいっす〜!」
「あらぁ、あるんでしょ武勇伝。…くすくす、伯母さんにも後で教えてね。譲治ったらそういう浮ついた話がぜぇんぜんないんだから。うふふふ…。」
この叔母さんは、譲治兄貴の母親の、絵羽(えば)伯母さんだ。
俺の親父の姉に当たる。
秀吉伯父さんともども、ひょうきんなお人で、昔っからよく俺をからかってくれたもんだぜ。
そのせいで、小さい頃、少々苦手だったこともある。
…いや、今でも苦手であることを現在進行形で確認中だがなぁ。
まぁでも、譲治兄貴の家族は、何だかんだで面白くてみんな仲は良さそうだよな。
……やれやれ、ウチの家族とは大違いだぜ。
「戦人くん。留弗夫さんを見なかった?」
「え? さっきお手洗いに行くのを見ましたけど? まぁだ出てこないんすか? こりゃあ、ぽっくり逝っちまったかなぁ、ナムナムナム。」
「自分のお父さんにそんな言い方はないでしょ。まぁ、あの人のお手洗いが長いのは今に始まったことじゃないしね。」
「あ〜、あんにゃろは昔っからそうです。雑誌持ってトイレに入るのやめてほしいんすよね。何の雑誌持ち込んでな〜にをしてんだか! いっひっひ!」
「あら、そんな心配は全然不要よ? 私と一緒にいる以上、そんなことひとりでさせやしないもの。」
「ひっひっひ! なぁんの話か、後でじっくり聞きたいっすねぇ〜! 親父め、タマまで握られてグゥの音も出ないわけだ。」
「握っとかないとどういうことになるか、よーくわかってるでしょ?」
「いやいやまったく。あのクソ親父の手綱は霧江さんにしか無理っすよ。実の息子の俺も、喜んで譲っちゃいますわ。」
「えぇ、任せてちょうだい。そういうの、得意なのよ?」
この人は、俺の親父の奥さんに当たる人。
名は、右代宮霧江(きりえ)。
会話を少し聞けばわかるだろうが、俺の実の母親じゃない。
いわゆる継母ってヤツさ。
俺の本当のお袋は6年前に死んだ。
その後に親父が再婚したのがこの霧江さんってわけだ。
俺もさすがにこの歳だ。
今さら再婚の相手をお袋とは呼べない。
向こうだって、こんなデカくて血も繋がってない連れ子を息子とは呼びたくないだろう。
お互いガキじゃない。
喧嘩したって得はないさ。
そんなわけで、無理に家族ごっこはしないってことにした。
家族でなく、近所のお姉さんというような感じで、比較的フランクに接しあうことにしている。
無理して互いに気持ち悪い思いをするよりは、他人と割り切った方がよっぽど気楽ってもんだ。
霧江さんもその辺りは非常にさばさばした人だったので、お陰で俺たちは何とかうまくやれてるわけだ。
そうして、トイレでいない親父の悪口で盛り上がっていると、当の本人がハンカチで手を拭きながら帰ってきた。
「んん〜? 戦人ぁ。」
「何だよ親父ぃ。…いててて! 耳つねんな、耳ぃ!」
「まぁた、母さんと俺の悪口を言ってたろぉ。なぁんでお前には父親に対する尊敬の念ってやつが沸かねぇんだ〜?」
「いてててていてててて! 痛ぇよクソ親父! 俺の耳、伸ばしたって空は飛べねぇぞ、痛ぇ〜〜!!」
「ほれほれ。上上下下左右左右。お父様、失礼なこといってごめんなさいって言ってみろぅ。」
「冗談じゃねぇぜ、そういうのは会員制のお店でやりやがれってんだ。痛ててて、だからは〜なぁせーって!!」
……このクソ親父が俺の親父だ。
俺の身長もなかなかのもんだと思うが、親父も同じくらいの立っ端がある。
絵羽伯母さんが、俺の身長を見て、親父の血だなと言うのも納得できるだろう。
ちなみに、親父譲りなのは身長だけじゃない。名前の酷さもさ。
親父の名前は右代宮留弗夫。
……読めるか?
留弗夫だぞ留弗夫。
これで“ルドルフ”って読むんだぜ。
たはは…、さぞや、この名前を付けた祖父さまを恨んだだろうよ。
だからって俺にまでその妙なネーミングセンスの伝統を受け継ぐんじゃねぇってんだ。
クソ親父が俺の耳をつねり上げて遊んでいると、さらにその後から、親父の耳を絵羽伯母さんがつねり上げる。
「こらこら留弗夫ぅ? 息子を虐待してるんじゃないのぉ。」
「いててて、痛ぇよ姉貴…。」
その構図は、例え図体が大きくても、いたずらっこな弟にお仕置きする姉という関係そのものだ。
「絵羽姉さん、そのくらいにしてあげてください。同じ分、後で反対の耳を私が引っ張って伸ばしておきますので。」
「あら、ごめんなさいね。霧江さんの引っ張る分も残しておかなくっちゃぁ。留弗夫ぅ? 後でたっぷり霧江さんにお仕置きしてもらいなさいねぇ?」
「ったく姉貴こそ弟虐待もいいとこだぜ。秀吉兄さんもこんな姉貴を拾ってくれて本当にありがとうございます。兄さんの寛大さがなかったら、今でもまだ売れ残ってますよ。弟として申し訳ないです。」
「…ん〜?! だぁれが売れ残るってぇ?」
絵羽伯母さんが2、3歩、ステップで間合いを取ると、相変わらず惚れ惚れしちまう上段後回し蹴りを、親父の鼻先ビッタリ1cmのところで止めてみせる。
美容だか何だかで太極拳を始めて、そこから中国拳法に興味を持って、それで空手だテコンドーだカポエィラだと渡り歩き、…最近は何を習ってんだっけ?
…まぁとにかく、絵羽伯母さんが、女の武器は下半身とかいう時は、言葉通りの意味を持つってわけさ。
「留ぅ弗〜夫ぅ〜? 側頭部直撃だと一発で昏倒するわよぅ? この間、演武でミスって相方、泡吹いちゃったんだからねぇ?」
「…はー、いやいや。足癖の悪い姉貴で本当に申し訳ないです。」
親父は、まったく動じない風で、肩をすくめて秀吉伯父さんに苦笑いを送る。
「わっはっはっは、わしには兄弟がおらん。だから絵羽と留弗夫くんのじゃれ合いを見とると、胸がぽかぽかしてくるんや。兄弟や家族はホンマにええもんやなぁ。」
「あら、譲治くんに弟を作ってあげるという話はないんですか? もう譲治くんも立派な大人になって手も離れたでしょうから、次の子がいてもいいでしょうに。」
「おいおい、霧江ぇ、生まれてくる子の苦労も考えてやれよ。よくこの性悪姉貴から生まれて、譲治くんはあんなにも真っ直ぐ育ってくれたもんさ。本当に譲治くんは偉いな。ウチのボンクラに今度、爪の垢をわけてやってくれよ。」
「そんなことないわよ。絵羽姉さんの教育が間違ってなかったから、譲治くんはあんなに素直ないい子になったんだから。ですよねぇ、姉さん。」
「あらあら、そんなぁ、うふふふ、どうかしら…! うちの譲治もまだまだ頼りなくって。そうそう、それよりお宅の縁寿ちゃんはどんな具合なの? 吐いちゃったって聞いたけど?」
「そうやそうや! 久しぶりに顔が見れると思って期待してたんやで。大丈夫なんか!」
「いつも季節の変わり目に風邪を引くんです。どうも弱くって…。本当は連れてきたかったんですけど、今回は私の実家に面倒見てもらってます。」
「それが賢明よぅ? 本家の毒気に当てない方が治りは早いもの。大人の都合より子供の病気の方が大事よ?」
「わしな、吐く風邪によーぅ効く薬、知っとんや! 帰ったらすぐ送るさかい、使ぅてくれや!」
「ありがとうございます、秀吉兄さん。いつもお世話になりっぱなしで…。」
…なぁんて話にいつの間にか発展しちまうと、俺ら子供の出番なんてありゃしないわけさ。
親父につねられた耳の分は絵羽伯母さんがきっちり仕返ししてくれたんで、とりあえず納得することにするか。
「まだ、天候調査中がなくならないね。」
譲治兄貴がカウンターを指差す。
俺たちが乗る予定の便の、出発予定時刻の脇には相変わらず「天候調査中」の札が付いたままだった。
兄貴が言うには、小型機というものは、風などの天候の影響を強く受けるらしく、天候次第で便の発着時間に大きく影響があることはザラにあるらしい。
……おいおい、本当に揺れないんだろうなぁ…?
こうして地上にいる分には、ただの曇天で風があるようには感じられない。
…まぁ、飛行機が飛ぶ上空は話が違うのかもしれねぇな。
「ちょっと天気が怪しいものねぇ。」
絵羽伯母さんが待合ロビーのテレビを見ている。
そこには天気予報が映し出されていて、関東地方に台風が近付きつつあることを教えてくれていた。
「また台風か。……親族会議が毎年10月ってんじゃ、これは宿命だぜ。もうちょい時期を選んでくれりゃあいいのによ。」
「同感ねぇ。私もお盆の時期にやってくれればっていっつも思うわよ。なら留弗夫、それ、今回の会議でお父様と兄さんに提案してみればいいじゃない。」
「…冗談。姉貴が言えよ。俺が何を言っても兄貴は聞かねぇよ。」
「嫌ぁよ。私は別に10月でも困らないもの。留弗夫が、台風が嫌だからって言うから、提案したら?って言っただけよぅ?」
「俺は台風が来るのはいつものことだなって言っただけだろ。お盆の時期がいいって言い出したのは姉貴だぜぇ?」
「あらぁ、去年留弗夫も言ったわよぅ? お盆の時期なら仕事のスケジュールとも合わせ易いのにぃって!」
「言ってねぇだろ、そんなことよ。」
「言ったわよぅ。私、そういうのは絶対忘れないもん!」
「いいや言ってねぇよ、言ってんのはいつも姉貴だよ!」
「知ってるぅ? 寸止めって高等技術なのよぅ?」
「ちぇ、いい歳した女がはしたなく股ばっか開いてんじゃねぇぜ!」
親父と絵羽伯母さんのやり取りを見ていると、まったくのガキの喧嘩にしか見えないな…。
「普段は父親や母親として振舞っていても、こうして親族会議で、元の兄弟に出会うと、子供の頃の自分に戻っちゃうからだろうね。」
「と、冷静に分析できる譲治兄貴の方がずっと大人に見えるぜ。……俺は将来、あんなクソ親父みたいにはなりたくないねぇ。なるなら、兄貴みてぇな知的な大人になりたいもんだぜ。」
「僕かい? 僕なんかまだまださ。社会経験が全然足りないし社交性も度胸も足りない。…戦人くんには、それらのいくつかがすでにあるように思うよ。だからきっと、成人したら僕なんかすぐに追い抜いちゃうさ。」
譲治兄貴は照れ隠しのように頭を掻きながら笑う。
だがもちろん、それは謙遜だ。
兄貴は、大学に入ると同時に秀吉伯父さんの会社に見習いとして入り、学業とビジネスの帝王学を平行して学んだ。
そして大学を出てすぐに伯父さんの側近として会社に入り、さらにバリバリと勉強に励みながら、様々な社会経験を重ねている。
やがては独立して自分の城を持ちたいという、立派な夢も持っている。
それに向かって努力を怠らない兄貴は、まさに男の鑑だ。掛け値なしで尊敬できるぜ。
そこへ俺と来たら。兄貴とは雲泥の差さ。
のんびりぼんやりとモラトリアム高校生活を満喫中ってザマだ。
将来の夢なんか全然ナシ!
楽してカッコよく荒稼ぎしてウハウハしたいが、そんなうまい話、あるわけもねぇさな。
…兄貴は同じ歳の頃、すでに立派な目標を掲げ勉強中だったんだから、俺なんか足下にも及ばねぇわけさ。
クソ親父は、お前も俺の会社で修行するか、まずは便所掃除からだけどなーとか言いやがる。
畜生、絶対にあのクソ親父の世話にはならねぇぞ。
俺は俺の人生を切り開いてやる!
………って、威勢だけは一人前なんだが。
巷で流行の自分探しの旅ってヤツでもやってみるかぁ?
……そんなゼニ、かじれるスネもねぇけどな。
その時、秀吉伯父さんが大きな声を上げた。
伯父さんは基本的にいい人なんだが、声のボリュームってやつをコントロールできないところだけが玉に瑕だ。
見れば、遅れてやってきた楼座叔母さんたちを出迎えているところだった。
「おーおーおー!! 楼座さんやないか! 真里亞ちゃん、久しぶりやのー!!」
「久しぶりー! うー!」
「真里亞! お久しぶりです、でしょ? 言ってごらん?」
「うー。お久しぶり、です…。」
「そうや! よく言えたなぁ! ご褒美に飴玉あげよなぁ! ……っとと、あれ? どこにしまったんや…。」
「楼座さん、お久しぶりです。真里亞ちゃんもお久しぶり。」
「ご無沙汰してます、霧江姉さん、秀吉兄さん。…と、……あら、戦人くん?! 大きくなったわね…!」
「いやぁ〜、はっはっはぁ…。今日は会う度に言われてて恥ずかしいっすよ…!」
「おう、楼座。遅かったな。飛行機がダイヤ通りだったらギリギリってとこだったぜ…?」
「ごめんなさい。列車の接続がうまく行かなくて。何、また天候調査中なの?」
「ボヤかないボヤかない。船で6時間も揺られるくらいなら、飛行機でほんの30分の方がずっとマシよぅ。例え、1時間余計に待たされたって、全然早いんだからぁ。」
「真里亞ちゃんも大きくなったでー!! 今、身長いくつあるんや!」
「うー! 身長いくつあるんやー!」
秀吉伯父さんの質問をオウム返しにして、真里亞は母親に聞く。
自分でも今の身長がいくつかよく覚えてないらしいな。
育ち盛りの真っ只中だろうから、身長なんて毎月変わってるだろう。
もう数年もすりゃ、一気に女らしくなるんだろうよ。
「えっと…、この間の身体測定でいくつって出たっけ。これでも少しずつは伸びてるんですよ。ねー?」
「うー!」
「去年よりもずっと成長したと思いますよ。えっと、今年で9歳でしたっけ?」
「9歳。うー。」
「そうだね、9歳だね。真里亞ちゃんも元気そうでよかった!よいしょ、…んん、もう高い高いをするにはちょっと重くなってきたかなぁ…。」
「うわ、譲治兄貴、そりゃあレディに失礼だろ。ほれ、俺がやってやるぜ、高い高い〜。」
「……うー。」
兄貴に代わって彼女を抱き上げてやろうとすると、真里亞はそれを拒絶するように身を固くし、俺の顔をしげしげと見て訝しがる。
…あーそうだよな。何しろ6年ぶりってことは、前に会ったのは真里亞が3歳の時だ。
俺の顔を覚えてるわけもねぇな。
「真里亞ちゃん、覚えてる? 戦人くんよ。一緒に遊んでもらったの忘れちゃった?」
「………うー。」
「無理だろ。最後に戦人と会ったのは3つの時だぜ。3つの時の記憶なんか残ってねぇよ。」
俺以外とは毎年会ってるから面識もあるだろうが、俺は6年ほど右代宮の家とは縁がなかった。
だから、9歳の彼女の記憶に残ってないのも無理はない。
俺だって、3つの頃の泣き虫な彼女の記憶がおぼろげに残ってるだけだしな。
「真里亞。戦人お兄ちゃんよ。留弗夫兄さんの息子さん。…わかる?」
「…………兄さんの息子さんが。兄さんが息子さん。…………?? ……うーーー!!」
そのうーという声は多分、ややこしい説明が理解できなくてパンクした音なんだろう。
ちょっと説明がややこしかったもんな。
「真里亞ちゃん。彼は戦人くん。僕と同じ従兄だよ。」
「……譲治お兄ちゃんと同じ?………………………戦人?従兄? ……うー。」
「そう。よくできたね。」
こういう辺り、兄貴は本当にうまいなぁというか、大人だなぁと思う。
未婚のくせに子供のあやし方が完璧過ぎる。さぞや将来、子煩悩な父親になるだろうな。
「…戦人お兄ちゃん?」
その呼び名でよいのかという風な目つきで、真里亞が俺をじっと見ている。
「おうよ、俺が戦人だ。よろしくな、真里亞!」
「うー! 戦人!」
「こら、真里亞! 呼びつけじゃ駄目でしょ、戦人お兄ちゃんと呼びなさい…!」
「いいっすよ楼座叔母さん。細かいことは気にしないっすから。なー、真里亞ぁ! 俺とお前は名前を呼びつけ合う仲だもんなぁ?!」
「戦人戦人ばとらー! うーうー!」
「おうよ、真里亞真里亞まりあー! うーうー!!」
6年のブランクを埋め合うように、しばらくの間、俺たちはくるくるとじゃれ合った。
彼女にとっては、未だ初対面のデカい兄ちゃんという域を出ないだろうが、その辺はゆっくり交流していけばいいさ。
いやしかし驚いたな。俺の中に残っていた6年前の彼女の記憶とまんま変わらない。
やっぱり人間はそうそう変わるもんじゃないんだな。イメージ通りのままの無垢な彼女でいてくれて少し嬉しい。
彼女の名前は、右代宮真里亞。
…真里亞は読めるよな? “マリア”と読む。
亞の字が十字架っぽいのがちょいとオシャレな感じだ。
感情をあまり顔に出さないので、何を考えてるのかわかりにくいが、それはあくまでも表情だけの問題だ。
内面は人懐っこい普通の女の子と変わりない。
そして、真里亞の母親の、楼座叔母さん。ウチの親父の妹に当たる。
楼座でローザと読む。…これじゃ丸っきり外人だぜ。
失礼だが、ウチの親父の留弗夫と双璧を成すとんでもないネーミングさ…。にも関わらず、親父と違って捻くれなった叔母さんは偉い。
…思えば、親兄弟の名前はみんな外人めいたものだ。
祖父さまの趣味なんだろうか。
そのお陰で孫の俺らまで迷惑してるんだけどな。
その癖、祖父さまの名前は普通に日本人っぽかったりするから腹立たしいぜ?
しかし、楼座叔母さんは他の親類と比べ、ほっとするところがある。
クソ親父や絵羽伯母さんには、人をからかったりおちょくったりしようとする、妙な性分があるが、同じ血を引くにも関わらず楼座叔母さんにはそういうところはない。
親兄弟の中では一番の常識人なのだ。
秀吉伯父さんと同じで、いつも子供の味方でいてくれるやさしい叔母さんだ。
……ただ、教育的には厳しいのか、秀吉伯父さんのように小遣いの気前が良かったりはしないのだけが残念だぜ。
さて。これで飛行機に乗る親族は全員揃った。
まるでそれを見届けたかのようなタイミングで、ロビーに放送があった。
「お待たせしました。新島行き201便の搭乗をこれより開始いたします。ご搭乗のお客様はカウンター前の、白線前に2列でお並び下さい。」
「楼座、搭乗手続きまだだろ、急げ急げ。」
「いけない…! 真里亞、いらっしゃい!」
「うー!」
滑走路に出る前に金属検査を受ける。
国際線のような物々しさはなかったが、小型機とはいえ一応は飛行機だ。
金属探知機を持った職員にボディチェックを受ける。
並んだ全員がチェックをクリアすると、職員の先導で滑走路に出た。
その行列を見てみると、何だ何だ、右代宮一族しかいないぜ。
これじゃまるで、貸切のチャーター機みたいじゃないか。
飛行機の搭乗口前で行列は停まる。
先導の職員は振り返り、名簿を見ながら言った。
「それではこれよりご搭乗となります。名簿をお読み上げいたしますので、前方の座席右側から順に、右、左、次の列の右、左と詰めてお座りになってください。それではお読み上げいたします。右代宮秀吉さま!」
「わしからか! はい! …そうだ絵羽、飴玉あるか? さっきから探してるんだが見付からないんや。」
「右代宮絵羽さま。」
「ハンドバッグの中よ。機内に入ったら出すわ。」
離着陸の時の気圧の変化で耳が痛むのの予防に、飴玉がいいとかいう噂を聞いたな。
それのことだろう。
「…俺の席、窓際だといいなぁ!」
「ははは、大丈夫だよ。窓際席しかないもん。」
譲治の兄貴が言うには、座席が2列しかないらしい。
さっすが小型機…。………本当に揺れねぇだろうなぁ…?
「右代宮譲治さま。」
「はい。大丈夫だよ戦人くん。あんまり揺れないから。」
「右代宮戦人さま。」
「あ、兄貴、あんまりってどのくらいだよぉ?! 船から落ちても泳げるからいいが、飛行機は墜ちたらそれでおしまいなんだぜー?! もちろん客席にはパラシュートがあるんだろ? え、ねぇのッ?!」
「右代宮留弗夫さま。」
「おら、戦人、感動してねぇでとっとと奥行け。」
「痛ぇよ親父! 押すなって! パラシュートがねぇんだよ!」
「右代宮霧江さま。」
「ほら、仲良くジャレてないの。進む進む。」
「痛ぇよ霧江! 押すなって! ボンクラが進まねぇんだよ!」
「右代宮真里亞さま。」
「うー! 進む進む!」
「右代宮楼座さま。」
「こら、真里亞! 静かにしなさい…。」
「こちらは機長の川畑です。本日は新東京航空201便をご利用いただき、誠にありがとうございます。新島空港までは約20分のフライトの予定です。上空の気流が乱れているとの報告が入っています。多少の揺れがあるかもしれませんので、離陸後もシートベルトは外さないようにお願いいたします。」
「あ、兄貴ぃ、シートベルト外しちゃいけない揺れって何だよ?! ジャンボ機なら、離陸後はシートベルト外せるぜぇ?! それが外しちゃいけないってどんな揺れだよ〜お?! くそー、騙されたぁ、何が揺れないだぁ! パラシュートはどこだよ?! やっぱり俺は船がよかったああぁあぁー!!」
■新島港
「………やっぱ船だよな…、……船……。」
「墜ちるー! 墜ちるー! うーうーうーうー!!」
「真里亞、もういい加減になさい!……でも意外ねぇ。戦人くん、てっきり怖い物なしだと思ってたら。」
「こいつ、昔から乗り物がなぜかダメでさぁ。二言目には、墜ちるだの沈むだの。なっさけない男だなぁ、お前ぇは。」
「……うるへー。ありゃぁさすがに揺れすぎだろ…。小型機乗るのは初めてだったからちょいと堪えちまっただけだぜ…。」
「あの大騒ぎでちょいとなのぉ? うふふふ、戦人くんとは海外旅行を一緒に行くと賑やかそうねぇ。伯母さんとエジプトとか行かない? 14時間も飛行機に乗れるわよぅ?」
「あっははは! いい提案ね。戦人くん、絵羽姉さんに少し鍛えてもらいなさいよ。それにしてもおっかしい! あっはははは!」
「わっははは、こらこら、人間誰しも得手不得手はあるもんや。そない笑ぅたら悪いで。わっはははは…!」
「と、父さんも笑うのは悪いよ。ほら、真里亞ちゃんももう笑っちゃダメ。」
「もう笑っちゃダメ? うー!」
畜生畜生! 飛行機が苦手なのがそんなに悪いかよ。
みんなが俺のことをウドの大木とか思ってるのが丸わかりだぜ…。ちぇ!
空港からタクシーに分乗し、俺たちは港にやって来た。
ここから船で島まで向かうのだ。
すぐ隣の島だから大した距離じゃない。
船でのんびり30分くらいってとこだ。
島へ向かう船が停泊している埠頭へ行くと、手を振っている人影が見えた。
「譲治兄さんー! お久しぶりだぜー!!」
「やぁ、朱志香ちゃん、1年ぶりだね! 背、また伸びたんじゃないかい?」
「きゃっはは、よしてくれよー、毎年言われんのは恥ずかしいぜ!」
「……お、おいおい兄貴、ウソだろ。こいつが本当に朱志香なのかよ!」
「ってことは譲治兄さん…。このデカブツ、…戦人なのかよ?!」
お互い、まじまじと相手を観察し合う。
…俺の記憶の中にこんな姉ちゃんの姿はないが、このひでぇ言葉遣いははっきり残っていた。
「いよぉ朱志香ぁ! 何だよお前! ウソだろ、なぁに女みたいな格好してんだよッ! 何だよこれ、乳かよ、お前にも胸なんか出来たのかよ! いっひっひ、揉ませろ揉ませろ〜ぃ!」
「ふざけやがれ、私ゃ花も恥らう18だぜ! 髪だって伸びりゃあ出るとこだって出るぜぃ! てめぇに揉ませる乳なんざあるもんかぃ! 戦人こそ何だよ、バカみてーに図体だけデカくなりやがって!! ちったぁ腕力付いたのかぁ?!」
「ざけんじゃねぇ、あれからどれだけ鍛錬積んだか思い知らせてやんぜ!!」
「うぜーぜ!! 返り討ちだー!」
この上等なヤツは、右代宮朱志香。
……俺と同じく不幸な星の下に生まれ、妙なネーミングを付けられた不憫な仲間だ。
何しろ、朱志香で“ジェシカ”と読む。
彼女は俺の親父の兄の娘に当たる。
その兄が右代宮家の長男坊になるので、一応、朱志香は右代宮家直系の跡取り娘ってことにもなるわけだな。
朱志香とは歳が同じということもあって、あと異性同士のいがみ合いみたいなのもあって、昔っから親類で集まる度に喧嘩し合いながらじゃれ合う仲だった。
朱志香の方が成長が早かったこともあり、体格や腕力はいつも負けていたっけな。
だから、こうやって取っ組み合いの力比べになったら、大抵は朱志香のペースだったもんだ。
だから、こうして俺の方が大柄になったことがはっきりわかっていても、未だ腕力では朱志香に勝てないような錯覚がしちまう。
「…………ぅお…お…! 何だよ、何、マジになってんだよ…! 痛ててて…。」
「おいおいおい、全然力入れてねぇぜぇ? 朱志香お前、貧弱になっただろ。」
「う、うるせーぜ。こちとら女やってんだ。いつまでも腕力で男に勝てるわけねーだろ!」
「ま〜そりゃあそうだよなぁ! 俺が腕に付けた分の肉をお前は胸に付けたんだもんなぁ〜。俺の腕とお前の乳ならちょうどいい力比べになりそうじゃねぇのか〜?!」
「だからお前ぇに揉ませる乳はねー!! それよりお前こそどうなんだよ、身長同様、可愛いゾウさんもちったぁ大きくなったのかぁ〜?!」
「バカやめろイヤン、痴女ぉお嫁に行けなくなるぅうぅ、股間触んないでぇ〜!!」
「ひ、人様が聞いて誤解すること言うんじゃねぇえーッ!!」
正直なところ、こうして馬鹿騒ぎをして誤魔化さなきゃならないほど、女らしく成長した朱志香に驚いていた。
……そりゃそうさ、6年前のガキ大将っぷりを思い出しゃあ、誰だって驚くはずさ。
もっとも、それは朱志香もだろうよ。
腕力じゃ未だ負ける気がしなかったんだろう。
それがあっさりと負けちまったもんだから、向こうも俺がこの6年であまりに成長したことに驚いてるはずだ。
………6年か。改めて俺は、短くない年月の空白を思い知る。
「やれやれ…、完敗だぜ。こりゃーもう、私じゃ敵わねぇなー。」
「そんなことないよ。戦人くんにもきっと弱点はあるよ。ね、真里亞ちゃん。」
「うー! 墜ちるー墜ちるー!!」
「ちょッ、バカよせ、真里亞ぁ〜、それはナイショにしようなぁ?」
「おちるー? 何だそりゃ。」
「へっへー! 生憎だが、この弱点は朱志香にゃもう晒さないぜぇ? 何しろ、悪夢の空路はもう終わっちまったんだからな! あとはのんびりチャポチャポとお船の旅さぁ。あのオンボロ漁船がこれほど恋しくなるとは思わなかったぜ。いっひっひ!」
「あーん??? 譲治兄さん、こいつ、頭どうかしたのか?」
「すぐにわかるよ。すぐにね。」
兄貴のにやにや笑う意味を、俺はこの時点では理解できずにいるのだった…。
「これはこれは……、はぁー! 戦人さんも大きくなりまして…!」
今度は誰だ。割烹着姿の婆さんだった。
………お、おうおう、懐かしいぜ、思い出した!
「戦人くん、覚えてるかい? ほら、お手伝いの熊沢さんだよ。」
「熊沢の婆ちゃんは忘れねぇぜ! 何しろ、この6年、ちっとも老けちゃいねぇぜ〜。むしろ若返ったんじゃねぇの〜?」
「ほっほっほ! 最近はお肌がぴちぴちしてきちゃってぇ〜! ほぅら胸もますますに大きくなっちゃいましたんですよ? …揉んでみますぅ?」
「ご、ご冗談んん! 俺が揉みたいのはピチピチした姉ちゃんの胸限定だぜ!」
「私とて、若い日にはそれはピチピチしておりましたよ〜? ほらほら、ぜひどうぞお揉みくださいませぇ!」
「ひょお、勘弁してくれよー! 若い姉ちゃんだ若い姉ちゃん! 熊沢の婆ちゃんじゃねぇよー!」
朱志香との悪ふざけをすっかりなぞり返されてしまった。そういや、昔っからよくからかう人だったっけなぁ!
「おいおい、よせよ熊沢さん。棺桶に半分足突っ込んだ人がはしゃいじゃいけねぇぜ。」
「若い方とじゃれるのが、何よりの若返りの薬ですよ。ほっほっほ!」
「熊沢さんが迎えに来るなんて珍しいじゃない。どういう風の吹き回しかしらぁ? 用事を頼まれるといつも腰痛になるあなたが。くすくす。」
「ほっほっほ、絵羽さまは相変わらず手厳しゅうございます。急なお買い物がありましたもので、そのついでに皆様のお迎えをしようと思いまして。もっともお迎え待ちの老いぼれのお迎えでは景気もお悪いでしょうが。ほっほっほ…!」
さらりと嫌味を言う絵羽伯母さんだが、熊沢の婆ちゃんはさすがに年季が入ってる。
さらりと涼しげに受け流して見せるぜ。
まぁ、こう言っちゃ何だが、熊沢の婆ちゃんは使用人としてはもう旬を過ぎているかもしれない。
元気そうには振舞ってるが、頭痛だの腰痛だのと体はボロボロ。正直なところ、まだ勤めてるってだけでも大したもんなくらいさ。
…今年でいくつだったっけ?
下手すりゃ80にも届くはず。
それでこれだけ元気に振舞えるんだから恐れ入るぜ。
「ますますにお元気なようで。そうだ、これ。前に話してたお茶です。ほら、買ってきました。後で飲んでみてください。」
楼座叔母さんは荷物からお土産の入った袋を出して見せる。
昨年に会った時にしたらしい約束をちゃんと覚えていて律儀にそれを買ってくるとは。…こういう辺りの律儀さは楼座叔母さんらしい。
約束は忘れず、そして破らない人だ。
熊沢の婆ちゃんは一年前の約束を覚えていたばかりか、使用人である自分にまで土産を持ってきてくれたことにとても感激しているようだった。
彼女は、熊沢チヨさん。
右代宮本家にもう何年も勤めてる古参の使用人だ。
さすがに高齢なので力仕事は得意じゃないが、台所仕事から掃除、洗濯と何でもこなすスーパー使用人らしい。
玉に瑕なのはサボリ癖があるらしいということか。
力仕事や面倒な仕事は、持病がどうのこうのと屁理屈を言ってよく逃げようとするらしい。
……サボリ癖というよりは、熊沢の婆ちゃんの場合、のらりくらりと要領がいいというべきなのかもしれない。
…給金を払ってる側からはたまったもんじゃないだろうが。
まぁ、それをひょうひょうとやってのけても、なぜか憎めない。
きっといつも笑顔を絶やさないその明るさのせいだろう。
「やー、相変わらずお元気そうで何よりでんな! あれから背中の具合はどないでっか。」
「薬を飲んでも、ちーっともよくなりませんで。こればかりはお医者さまではどうにもなりません。不治の病ちゅーもんですわ、ほっほっほ!」
「それにしても、朱志香ちゃんはますます美人になったなぁ。夏妃姉さんに似て良かったぜ。」
「そ、そうですか…? 私的には全然似てないつもりなんですけど…。つーか、親には似たくないです。尊敬してないんで。」
「こら、そんなこと言っちゃダメよ。くす、それにしても、親に似たくないって言ってる人が多いわね、うちの一族は。」
「あ、それ俺ー!」
「馬鹿言え、お前こそ俺に似るんじゃねぇ。お前の鼻が似ててムカつくんだよ。」
「何言ってんのよ。呆れるくらいそっくりよ、あなたもお父様もね?」
「おいおい、そりゃねぇだろ…。俺のどこが親父に似てるってんだぁ?」
「傲慢で偉そうなところとかそっくりよ。あんたと兄さんは特にお父様の血が強いわねぇ。ねぇ楼座?」
「えぇまったく。蔵臼兄さんも留弗夫兄さんも、信じられないくらいお父様にそっくり。」
「おいおい、参ったな、何で俺だけ女どもに集中砲火なんだ。秀吉兄さん、助けてくださいよ。」
「いやいやぁ、留弗夫くんはいっつも女性にモテてるなぁ。羨ましいでぇ! わっはっはっは!」
「ほっほっほ! 相変わらずモテモテでお羨ましいことです。それでは皆様、お船の方へお乗り下さいませ。ささ、真里亞さん、一緒にお船に乗りましょうねぇ。」
「一緒にお船に乗る。うー! みんなも一緒に乗る。うー!」
「おうよ、もう今度は怖くないぜ。波で揺れるのは慣れてるしなぁ。あのオンボロ漁船の場合、揺れて怖いってより、エンジンがぶっ壊れて漂流するんじゃねぇかって方が怖いぜ。」
「そうだ、戦人くん、言うのを忘れてた。…あの漁船はだいぶ老朽化してたんで数年前に引退したんだよ。今は他の船が島まで運んでくれるんだ。」
「あー、そうか。戦人は新しい船が初めてなんだなー! 快適だぜ? すっげえ速いんだ! 何しろ、とんでもないスピードが出るんだからさ!」
「ほー…。ってことは船旅の時間がさらに短縮されたわけか。そりゃあ素晴らしい! 何しろ、飛行機よりマシとは言え、沈没の危険に晒される時間が少しでも短くなるってんだから、こりゃあ極めて素晴らしいぜ〜。」
「…うー。戦人はまた、墜ちるー墜ちるー?」
「そりゃあ飛行機の時だけさ。もう大丈夫だぜぇ!」
「何しろ、船長自慢の改造高速艇らしいぜ? だいぶいじってるらしく、プロペラは高性能のが4基も付いてて最高速度は40ノットを超えるとか何とか自慢してたなー。いつも自慢されるんで覚えちまったぜ。」
「僕も毎年聞かされるんで覚えちゃったよ。船長は昔、外国の漁船と速度比べをして負けて以来、スピード改造に取り憑かれちゃったんだってさ。その時の相手は漁船なのに30ノット以上も出せたんだってね。」
「その雪辱の念が結実して、スカっと爽快な超高速改造艇の誕生となったわけさ。戦人もきっと気に入るぜー。」
…ちょ、超高速改造艇ぇ…?
……最初はいつ沈没するかもわからねぇボロ船よりはマシだろうと歓迎してたんだが……、
何だか嫌な予感がしてくるぜ…。……まさか。
「おい戦人ぁ、島までは泳いで行った方がいいんじゃねぇかぁ?」
「戦人くん、柵からあんまり身を乗り出しちゃダメだよ。落ちちゃうから。」
「うーうー!! 落ちるー落ちるー!!」
「ちっくしょおおぉおぉ…、さっきからみんながニヤニヤ笑ってたのはこれだったのかぁ!」
船長が個人的趣味で改造しまくったという超高速艇は、なるほど、あの6年前のオンボロ漁船とは比べ物にならなかった。
「うおおおおおおおお、揺れる揺れる揺れるー!! 落ちる落ちる落ちるー!!」
「うーうーうー!! 落ちる落ちる落ちるー!」
「落ちたら海じゃねぇかよ、溺れちまうぞ、パラシュートだ、じゃねぇぜ、浮き輪はどこだー!! ライフジャケットをくれぇええぇ!!」
「わーっはっはっはっは! 何だよ戦人、おめー、それ何の真似だよ、わーっはっはっはっは!」
「朱志香ちゃんも真里亞ちゃんもいじめちゃ悪いって。戦人くんも怖いなら甲板に出なきゃいいのに。船内ならもう少し怖くないと思うけどなぁ。」
「へっへー、そいつぁノーサンキューだぜ兄貴! 海難事故の犠牲者はいつも船内なんだ。生存者は大抵、事故時は甲板なんだぜ。だから俺はここにいる!! でも揺れるーー!! 落ちるー!! うおおおおおおぉおぉぉ!!」
「揺れる落ちるー!! うーうーうー!!」
「真里亞、よしなさいったら! ……でも戦人くん、本当に苦手なのね…。船長さんに速度を落とすように言ってきてあげるわ。」
「うおおおお、楼座叔母さんありがとおおおおぉ! 海の上でも安全運転、徐行運転指差し確認んんんんん!!」
「くっくっく! ダメよ楼座。青年には試練も必要なんだから。ね、戦人くん? これくらいへっちゃらで克服できちゃうわよねぇ? じゃないと伯母さんとエジプトに行けないわよぅ?」
「うおおおお、絵羽伯母さんの意地悪ぅうううぅ! あぁダメ落ちるぅううぅ!! ライフジャケットぉおおぉ、パラシュートぉおおぉ!! ふおおおおおおおぉおおぉおおおおおおおぉおぉぉ……!!! い、いや、ひっくり返して考えるんだ! 敵の狙いは何だ?! 俺をこうして怖がらせることか?! そいつが狙いなら甘いぜ、びびってなんかやるもんかぁああぁぁああぁ!! でもらめぇえぇ、落ちるゥウウゥゥウゥ!!!」
…なぁんて大騒ぎをした挙句、楼座叔母さんが船長に言ってくれたお陰で、何とかマシな速度にまで落としてもらえたのだった…。
「…………はぁ…。これくらいなら何とか…。………さっきのは生きた心地がしなかったぜぃ……。」
俺にとって許容できるこの速度は、どうもかなりの鈍足らしい。
…でもさっきのは異常だったぜ…。
もう船がばっかんばっかん揺れて! 海の上を滑るというか跳ねるというか!
船ってより、トビウオに乗ってるような気分だったぜ…。
疲れきり、げっそりと柵に持たれかかる俺を、朱志香は飽きもせずゲラゲラ笑っていた。
「さっきは力比べで負けたけどよー、もっと重要な部分で負けてなかったことがわかって、私ゃ嬉しいぜ。いやしかし、ぷーくっくっくっく!」
「くそー…、好きなだけ笑えよ。いつか弱点を見つけ返して、てめーの乳、揉み潰してやるぜー……。」
「あっはっはっは、見付られたら考えてやるぜー?! わーっはっはっは!」
「うー。戦人、へろへろ。」
「あぁ、戦人、へろへろだ…。海も空もごめんだぜ、俺は陸の上で死にたいさ…。」
真里亞が俺の背中をさするような仕草をしてくれたので、お返しに頭をぽんぽんと叩いてやった。
…表情は相変わらずの無表情だか、気遣いたい気持ちが伝わってくる。
「戦人くん、船長が罪滅ぼしにって、ドリンクをサービスしてくれたよ。飲んで一服しないかい。落ち着くよ。」
譲治の兄貴と熊沢の婆ちゃんが、よく冷えた雫の浮く缶ジュースを人数分、持ってきてくれた。
熊沢さんのニヤニヤ笑いを見る限り、船内では親たちが俺の大騒ぎをゲラゲラ笑い合っている真っ最中なんだろう。
くそ、恥ずかしくて親の誰とも顔を合わせたくねぇ…。
何か話題を切り返さないと、いつまでも俺がネタにされそうな気がしたので、何か無難な話題を切り出すことにする。
「…おう朱志香。蔵臼伯父さんと夏妃伯母さんは元気なのかよ。」
「親父とお袋ぉ? 残念ながら元気だぜー。二言目には勉強しろ勉強しろってうるせーけどよ。秀吉叔父さんとか留弗夫叔父さんとか、そういうこと言わなそうだから羨ましいぜー?」
「はっはは、とんでもない。僕も受験を控えてた頃はいっつも受験受験って言われてたよ。うるさくも思ったけど、今は感謝してるよ。」
「はー、やっぱり譲治兄貴は人間が出来てるなぁ…。ちなみにウチは絶賛放任中だからな。なぁんにも言われないぜぇ? まー言われたって聞かねぇけどなー、ひっひっひ!」
「戦人さんは、まだご実家には戻られておられないのですか?」
「…まー、ちょくちょく戻るようには。まだ服とかだいぶ前の家に残してるんで。」
「……うー? 戦人、お家が2つある?」
「ん、………んー。……まぁな。」
「どうして? どうしてお家が2つ? うー? うー?」
真里亞だけがよく事情が飲み込めず、素朴な疑問を口にする。
だが、みんな俺をちらちらと見て、知りながらも答えはしなかった。
「真里亞ぁ! ほら、船着場が見えてきたぜ…! ほら、あれ! 見えるか?!」
「うー! 船着場見えた、船着場見えた!」
朱志香が気を利かせてくれたつもりらしい。
……やれやれ。好んで語りたいことじゃないが、変にタブー扱いされるのも気持ち悪いな。
……俺はもうそんなに気にしちゃいねぇんだが。
俺は右代宮の人間だが、実はこの6年ほど、死んだ母方の祖父母宅に身を寄せ、母方の姓を名乗っていた。
その祖父母が相次いで亡くなったため、仕方なくクソ親父のところへ戻らざるを得なくなったわけだ。
言っとくが家出とかじゃないぜ。
一方的に非があるのは親父の方さ。
……霧江さんのことはそんなに気にしてない。
あのクソ親父の手綱を握ってうまく乗りこなせるなんて大したもんさ。
…だが、あのクソ親父が母さんに働いた裏切りだけは、……悪ぃが、未だ心の整理がつかない。
「こほん。もうすぐ着くねぇ。」
譲治兄貴が話題を逸らそうと咳払いをする。
「……失礼しました。年寄りが余計なことを言ってしまったようで。お気に触りましたら、」
「へっへー! 気にもしてないし触ってもないぜ。気にすんなよ、熊沢の婆ちゃん。」
熊沢さんも迂闊なことを言ってしまったと後悔しているようだったが、これ以上、変に気を遣われたくないので、俺は茶化すようにして立ち上がる。
それから缶ジュースに口を付け、島影を眺めている朱志香と真里亞のところへ行った。
「うー! 戦人、島が見えた、島が見えた! あれあれあれ! うーうーうー!」
「どれどれ、おぉ、見えてきたな。6年ぶりでも記憶と寸分変わらない島影だぜ。」
前方には小さな島影がだいぶ近付いてきていた。
島の名前は六軒島。
伊豆諸島の中に含まれる、全周が10km程度の小さな島だ。
伊豆七島ってくらいだから島は7つだろうと誤解してる連中がいるが、そんなことはない。
実際は7つ以上ある。
この六軒島も、そんな7つにすら入れてもらえないささやかな島のひとつだ。
それでなくとも、この島のことを知る人間はほとんどいないだろう。
なぜなら、この島へは右代宮家の人間以外は立ち入らない。
つまり、余所者や観光客にはまったく無縁なのだ。
だから旅行用パンフレットに島の名前が載ることはまったくない。
なぜなら、六軒島は丸ごと、右代宮本家が領有している私有地だからだ。
だから右代宮家だけが住んでいて、右代宮家の関係者しか出入りしない。
船着場とお屋敷があるだけ。
島のほとんどは未開の森林のまま残されている。
ゴルフコースでも作ればいいものを、勿体無い話さ。
でも、浜辺は全てプライベートビーチだと考えれば、何とも豪勢な話かもしれない。
今さらだが、はっきり言っちまうと、……まぁその、右代宮家は大富豪なわけさ。
本家は莫大な財産を持ってるそうだし、親父たち分家もずいぶんな資産を蓄えていて、それぞれが事業で成功している。
俺は6年間、祖父母の家で庶民の暮らしをしてたからすっかり忘れちまったが、…クソ親父の家は確かに立派だし、何から何まで嫌味な金持ち趣味剥き出しだったように思うぜ。
それを言えば、譲治の兄貴も、朱志香も真里亞も、もちろん俺も、資産家のボンボンやお嬢様ってことになるわけだ。
もちろん俺らにはそんなつもりはない。
俺には金持ちなんて自覚はねぇし、自己に厳しい譲治兄貴にもそんな甘えはない。
朱志香は、金はいらないから都会に引っ越したいといつもぼやいてたし、真里亞はまだ子供でお金に全然興味がない。
…それも嫌味か。
火の車で首が回らねぇ連中から見れば、何とも恵まれた話だ。
これ以上は過ぎた説明なんで控えるとしよう。
まぁ、生まれる親を選べないのと同じさ。
狙って金持ちに生まれたわけじゃねぇ。
それを妬まれるのもお門違いってもんだろ。
何をやっても正当に評価されず、二言目にはお金持ちだからと僻まれるのも、結構堪えるもんさ…。
そんな感傷に浸っていると、真里亞が柵から身を乗り出しながら騒ぎ出した。
「…………うー。……ない。」
「どうしたんだよ、真里亞。何か落としちゃったのか?」
「うーうー! ないない! うーうーうーうー!!」
真里亞がないないと騒ぎ出す。
言葉だけを聞けば、何か落し物かと思うのだが、彼女はないないと連呼しながら洋上を指差すのだった。
「どうしたの? 何がないんだい? 僕も探してあげるよ。何? ……………?」
落し物なら床を見るだろうが、真里亞は洋上を指差している。
洋上を指差すからには、そこに何かがあると思うべきなのだが、真里亞はないないという。………はて。
だが、6年前の風景を最後の記憶に持つからこそ、毎年ここに来ている兄貴より俺が先に気付くことができた。
「…………あれ…。……確かさ、この辺に小さい岩の上に鳥居みたいなのがなかったっけ。…そうだ、確かにあったぜ。島に近付いてくると最初に迎えてくれる目印みたいなもんだったからよく覚えてるぜ。」
「へー、戦人すごいじゃねぇか。6年ぶりなのに、よく覚えてるもんだぜ。」
「あったね…! 僕も思いだしたよ。鎮守の社と鳥居みたいなものが、岩の上にぽつんと建ててあったよ。……そう言えばないね。去年は確かにあったと思う。」
「ない。ない。うーうーうー!」
「大方、波か何かでさらわれちまったんだろー? 小さい岩だったしな、だいぶ風化で脆くなってたんだろさ。」
「私もそうだと思ってるんだけどよ。なくなっちゃったのはこの夏のことなんだよ。何でもよぅ、」
「ある晩に大きな稲妻が落ちて、御社を砕いてしまったんだとか…。……鎮守様に落雷があるなど、これは不吉の徴に違いないと、漁民たちは囁いておりますねぇ。…くわばらくわばら…。」
熊沢さんはからかうように悪戯っぽく笑いながら、両手を揉み合せるような仕草をする。
でも、真里亞は真に受けているようで、真剣な顔をしながら、鎮守様が祀られていた岩があったと思われる洋上をじっと凝視しているのだった。
「…………不吉の、徴。…………うー。」
「よせよ熊沢さん。真里亞はそういう冗談の通じない年頃なんだからさぁ。」
「大丈夫だよ真里亞ちゃん。偶然だよ。何も怖いことなんか起きないよ。」
譲治の兄貴が、真里亞を安心させるように肩に手を置くが、真里亞の険しい表情は解れなかった。
「…………不吉。…………不吉。」
真里亞はうわ言のようにその言葉を繰り返す。
ひとつの単語を連呼するのは真里亞の昔からの癖らしい。
だが、口にする単語が、文字通り不吉なので少しだけ気味が悪い。
「おいおい、真里亞。そんなに何度も繰り返してたら、本当に不吉がやって来ちまうぜ?」
真里亞のもう片方の肩を叩く。
すると真里亞はびくりとして振り返り、俺の顔をまじまじと見ながら言った。
「うー。………不吉、来る。」
「へぇ? 来るって、どこからさ。」
緊張を解してやろうと思って、俺は茶化したように応える。
…すると真里亞はすっと指を立て腕を高々と突き上げると、…天を指した。
見れば、空は相変わらずの曇天だったが、朝よりだいぶ鉛色になっていた。
そうだ、台風が近付いてるって言ってたな。
…島には一泊することになってるが、その間にうまく通り過ぎてくれないと月曜に登校できなくなっちまう。まぁ休める口実としては最高だが。
「…………………うー…。」
…この曇り空に不吉な何かを感じているらしい。
さっきからずっと唸っている。
真里亞だって多感な年頃の女の子だ。
よく女の子が、霊感が強いとか霊媒体質だとか騒ぎ出すのはちょうど真里亞くらいの年頃からのはず。
…子供らしい感受性と言えないこともなかった。
「大丈夫だよ真里亞ちゃん。天気は今夜くらいには崩れるかもしれないけど、明日にはよくなって綺麗な青空になってるよ。」
「うー。綺麗な青空………。………うー…。」
「そう、明日になれば綺麗な青空になるよ。止まない雨はないし、晴れない雲だってない。」
「うー…。………止まない雨。…晴れない雲。………………うー………。」
「確かに台風が近付いてるけどよ、すぐに過ぎちまうってぇ! 大丈夫さ真里亞。」
「……………うー。…うー!! うーうーうー!! うーうーうー!!」
真里亞がうーうーと騒ぎ出す。
…それはまるで、自分が伝えたいことがまったく伝わらないので癇癪を起こしているようにも見えた。
一体、真里亞は必死になって何を警告しようとしているのか。
それが理解できなくて、俺たちも漠然とした不吉さを感じるしかない…。
……人には誰しも霊感があるというが、それは加齢に伴って弱くなっていくものらしい。
だとすれば、真里亞は俺たちの中で一番幼く、俺たちが加齢によって失ってしまった何かの感覚を未だ持ち続けていることになる。
…その何かが、彼女に警告を与えているというのだろうか。
その時、熊沢さんが静かに口を開いた。
「………何でも、…六軒島はその昔、」
「熊沢さん。その話はなしにしようぜ。」
熊沢さんが何かの話をしようとした矢先、朱志香がそれをぴしゃりと遮った。
朱志香にしてはずいぶんバッサリだった。
単純な好奇心からその先を促したくなるが、話を遮った朱志香の様子から見て、一層、真里亞の不安感を煽り立てるような内容であることは想像に難しくない。
…無理に聞いても、心が晴れ晴れするような話では断じてあるまい。
「……ほっほっほ、それは申し訳ございませんね…。…ここの風は年寄りには堪えますんで、ちょっと失礼させていただきます…。」
おしゃべり好きにとって、しゃべるなと言われればその場にいる価値はない。
熊沢さんは、自分が出しゃばり過ぎたことにようやく気付くと、船内に戻っていくのだった。
入れ替わりで秀吉伯父さんがやって来る。
途中から来た伯父さんは、この場の複雑な空気など理解できないので、爽やかに無神経に、場の空気を掻き乱してくれるのだった。
結果的には、その無神経さのお陰で場が和むことになる。
「もう到着だそうやないか! おおぅ、もうちょいやのう! 今日はのんびりスピードだから時間が掛かってもーたわ。誰のせいやねん! わっはっはっはっは!」
「うっわ、秀吉伯父さん、もう勘弁してくださいよ〜…たはは〜!」
「あはは、もっと言ってやってくださいー。ったく、戦人のせいで時間掛かりすぎだぜ〜!」
「………うー。」
真里亞は、誰も自分の話を聞いてくれないと思ったのかもしれない。
むずかるような顔をして俯く。
そんな彼女に、譲治兄貴は目線を合わせるようにしゃがみながらやさしく言った。
「真里亞ちゃん。何も怖くないよ。だって、僕たちが一緒だもの。一緒だと何も怖くないんだよ。言ってごらん。」
「…………うー。…一緒だと、何も怖くない…。」
「うん。一緒だと、何も怖くない。」
「…………うー。」
「そうさ、譲治の兄貴の言う通りだぜ〜? 俺たちが一緒にいると、いつだって何だって絶対に怖くねぇんだ。なぁ朱志香!」
「ああ、間違いないぜ。譲治兄さんの言うことはいつも本当だよ、真里亞。」
「……うー。譲治お兄ちゃんはいつも本当。」
「うん。僕は嘘をつかないよ。だから信じて。みんなと一緒にいれば何も怖くないんだよ。」
「うー。……譲治お兄ちゃんは嘘をつかない。信じる。みんなと一緒にいれば怖くない。………うー、怖くない!」
真里亞が譲治兄貴の胸に飛び込んで、ぎゅーっとしがみ付く。
それを兄貴が撫でてやると、ばっと離れた。
その表情は見違えるくらいに元通り。
元の真里亞に戻っていた。
「うー。みんなと一緒だからもう怖くない。…うーうー。」
「あぁ、そうだぜ。…もう平気みたいだな。真里亞は強いな、偉いぜ!」
「なんや、どうしたんや。真里亞ちゃん、船酔いだったんか?ん?」
「ははは、まぁそんなとこです。もうじき着きますねー。」
船着場はもう、すぐそこまで迫っていた。
第1アイキャッチ:10月4日(土)10時30分
船が大きくガクンと揺れる。
船着場に接岸したようだった。
船の人が出てきて、舫い綱を持ちながら埠頭に飛び移る。
そこにはタキシード姿の大柄な男がいて、俺たちをにこやかな笑顔で迎えていた。
……面識はないが、服装から右代宮本家の使用人だろうと察する。
「お嬢様、お帰りなさいませ。だいぶ遅かったので心配いたしておりました。」
「うん、心配ありがと! ウドの大木が怖がっちゃってよー。それで徐行運転だったってわけ。マジでうぜーぜ!」
「う、うるせー…、いつか逆の立場になったら覚えてろー、…ぅぅ。」
この調子じゃ、親族中に言いふらされて、今日の晩餐は俺の話題で持ちきりだな。
ただでさえ6年ぶりってことで話題にされやすいってのに、さらに美味しい話題まで提供しちまうとは…!
畜生、何で右代宮本家は離島なんかに住んでんだー!
そうこうしている内に、船の接岸は終了した。
下船用の小さな橋板が掛けられる。
船内からぞろぞろと親たちも上がってきた。
「皆様、長旅お疲れさまでした。奥様、お手をどうぞ。」
「ありがと。お久しぶりねぇ、郷田さんもお元気?」
「ありがとうございます。お陰様で毎日元気にお勤めをさせていただいております。」
「戦人くんは郷田さんとは初対面じゃない? 確か6年前はお勤めじゃなかったですよね?」
「はい。ですので、戦人さまとは初めてご挨拶させていただきます。初めまして、戦人さま。」
「……俺も立っ端にゃ多少の自信があったんだが、でっけぇ人だなぁ。…紛れもなく初対面だぜ。こんな大男、会ったら絶対忘れないさ…! どうも初めまして。戦人っす。」
「お待ち申し上げておりました。一昨年から右代宮本家にお仕えさせていただいております、使用人の郷田と申します。どうぞよろしくお願いいたします。何かご用命がございましたら、いつでもお申し付けください。」
「郷田さん、お久しぶりです。」
「譲治さま、ご無沙汰をいたしております。お手をどうぞ。」
「あんた、相変わらず大した接客のプロや…。もし職に困ったらいつでもわしに声を掛けんやでぇ。いつでも雇ったる!」
「これは身に余る光栄です。どうぞお手を、秀吉さま。」
郷田さんは、その後も全員の下船を補助して挨拶をしていた。
挨拶や仕草が洗練されていて、何と言うか、プロの身のこなしだ。
見かけのゴツさの割りにとても優雅だった。
大男特有の威圧感があるので怖い人かと思っていたが、想像するよりずっと礼儀正しい人だ。
勤めて2年と言ってるが、その前にもどこかで同じような職だったに違いない。
全員が下船すると、舫い綱は解かれ、船は船着場を離れ始める。
新島の母港へ引き上げるのだろう。
船長がお別れの手を振ってくれる。
真里亞も律儀に手を振り返していた。
「…………ん〜、何だかさっきから違和感があると思ったら、あれだな。うみねこの声を聞いてないぜ。」
「うみねこぉ? 鳥のか?」
この島に来るといつも、うみねこがにゃあにゃあと賑やかな声で迎えてくれたんだっけ。
そのせいで、ここ以外でうみねこの声を聞いても、親族会議に来ているような気分になる。
六軒島は、右代宮本家が住んでいる極めて一部分以外は、手付かずで放置されているため、野鳥の天国になっているらしい。
どっかの岸壁がうみねこの巨大コロニーになってるらしく、この島はいつもはうみねこだらけなのだ。
そのうみねこの歓迎がなかったので、どこか少しだけ寂しかった。
「どうしたの、戦人くん。」
「あぁ、楼座叔母さん。…いやぁ別にぃ、うみねこの声が聞こえないんで、何か寂しいなぁ〜って。」
「あら、そう言えばそうね。いっつも賑やかなのに、今日はさっぱりいないわね。」
「……うー? どうしてうみねこいない?」
「うーん、うみねこたちも今日は他所で集まりがあるからかな? 真里亞もうみねこ見たかったの?」
「うー、見たかった。」
「何だってこうも丸っきりいねぇんだー? 朱志香がみぃんな焼き鳥にして食っちまったんかなぁ!」
「……うー?!」
「ぶ、物騒なこと言うんじゃねぇー! 真里亞が勘違いするだろー!!」
「うーうーうー! 朱志香お姉ちゃんが焼き鳥にした、焼き鳥にしたー! うー!!」
「してないしていない! そんなの私がするわけねえだろ?!」
「そうだそうだぁ〜、朱志香が焼き鳥にしたんだー! 皮につくねにレバーにねぎまぁ〜ん!」
「ワワに靴練り! レバーにねぎまぁーん!! うーうーうー! あははあはは! きゃっきゃ、きゃっきゃ!」
朱志香を囃し立てると、真里亞も面白そうに俺に追従してくれる。
おぉ、こんなにもノリのいいやつだったのか!
よしよし、今日から俺の子分1号に加えてやるぜ!
笑いかけてやると、ささやかな連帯感が嬉しいのか、とても嬉しそうに笑った。
「違うよ、真里亞ちゃん。野鳥って天気や気圧の変化に敏感なんだそうだよ。今夜辺り、天気が崩れそうだしね。巣へ早めに引き上げてるのかもしれないね。」
「…………うー。焼き鳥じゃない? 朱志香お姉ちゃんが焼き鳥にしたんじゃない?」
「違う違う!! わ、私はそんなことしないって! ほら戦人もウソだったって認めろよ!」
「戦人くん。真里亞ちゃんは素直な子だから、そういう冗談でも真に受けちゃうんだよ。冗談も少し選んだ方がいいよ。」
…譲治の兄貴にしっとりやんわりとお説教される。
…図体のでかさだけは兄貴を上回っても、やっぱり兄貴は兄貴だ。素直に謝るしかねぇ。
「お、おう、悪ぃ悪ぃ…。 真里亞、今のは冗談だ。うみねこたちは今日は巣で大人しくしてるってさ。」
「……戦人はウソ? 譲治お兄ちゃんは本当?」
せっかく楽しかったのに、実は騙されていた…?
無垢な瞳が俺を責めるようだ。
……ちょいとさすがに悪ノリし過ぎたかもなぁ。
「あぁ、そうだそうだ。譲治兄貴が言ったのが本当だ。天気が悪いんで今日は引き上げたんだろうよ。いなくなったわけじゃないんだぜ? ねぇ叔母さん!」
「そうよ。明日以降、天気が良くなったらきっと戻ってきて、みゃーみゃーと声を聞かせてくれるわ。」
「うー。天気良くなって戻ってくるの待つ。明日まで待つ。天気良くなるまで待つ。うーうー!」
真里亞は機嫌を直し、うみねこが空いっぱいに帰ってくる明日を楽しみにするのだった。
それにしても譲治の兄貴は小さい子の面倒を見るのがうまいぜ。
…6年前のガキンチョだった俺も、兄貴にいい感じで面倒を見られてた気がするし。
……兄貴、ちょっとした才能なのかもしれないなぁ。
「譲治くんは小さい子の面倒を見るのがうまいわね。保育士さんでも勤められるんじゃない?」
「あー、譲治兄さんの天職っぽいぜ。私的には社長室でビジネスってより、そっちの方が兄さんのイメージだぜ?」
「まさか。保育士さんは立派なお仕事だよ。単なる子供好き程度に務まる仕事じゃないね。」
「本当に譲治くんは謙虚ね。でも、戦人くんも子供のあやし方が上手よ? さっきはほんの少しの間だけど、真里亞、とっても楽しそうだった。これからも今みたいに遊んであげてね。冗談は選んで、だけどね? くす。」
楼座叔母さんがくすりと笑いながら、ウィンクするような仕草をしてくれた。
真里亞の楽しそうな仕草が嬉しかったという辺りは、なるほど母だなぁと思った。
「おおい、楼座ぁ。それにガキ共も何やってんだ、行くぞー。」
「はいはい、今行きます。」
クソ親父が早く来いと手を振っている。
そろそろ行かないとな。
同じ立ち話をするんでも、手荷物を部屋に置いてからでも遅くないはずだしな。
「それでは皆様、お泊りのゲストハウスの方へご案内させていただきます。どうぞこちらへ。」
郷田さんが全員に呼びかけ、先導を始める。
熊沢さんはしんがりだった。
薄暗い森の中を、蛇腹になった捻くれた道が続く。わずかに登りになっていた。
傾斜を少しでも感じさせないために道を捻ってあるんだろうが、俺的には潔く直線の階段か何かにしてもらった方が嬉しい。
……絶対これ、勿体ぶって距離感を出すためにわざと道を捻ってあるぞ…。
やがて石造りの庭園風の階段が見えてきた。
…あぁ、この辺からは記憶がある。
こいつを上がると確か…。
石段の向こうに、美しいゲストハウスが見えてくる。
その佇まいももちろん素晴らしいものだが、それ以上に、……その前に広がる美しい薔薇の庭園の美しさに心を奪われずにはいられなかった。
「はぁ〜! 今年も相変わらず、大したもんや…。目の保養とはこのことやで…。」
石段を登りきり、薔薇の庭園に迎えられた人たちは次々の感動を口にする。
「今年は少し花に元気がないんじゃない? やっぱり夏があまり暑くなかったせいかしら。」
「そのせいもあるかと思います。去年の咲きに比べると、今年は少々見劣るのが残念です。」
とはいっても、それでも立派な薔薇庭園だった。
6年前にも毎年、たくさんの薔薇が出迎えてくれたのを覚えている。
…六軒島を訪れた人間を最初に歓迎するこの薔薇庭園は、毎年訪れている親族であっても、感嘆を漏らさずにはいられないのだ。
その上、俺の記憶にある、6年前の庭園よりパワーアップしているように見えた。
「いつ見てもすごいわね。自宅にこれだけの薔薇園があったら、さぞや素敵でしょうに。」
「よせよ、誰が手入れすんだよ。薔薇は虫とか病気とか大変なんだぜ?」
「そうね。霧江姉さんは毎日、薔薇の手入れをしてて、虫が付かないようにしてるそうよ?」
「え? そうなのかよ、そんな話は知らないぜ?」
「そうなんです。この人の場合は、薔薇の方から虫を求めて行っちゃうから、どっちかというと性質の悪い食虫植物ってところね。」
「…あー、そういう話かよ。ったく、楼座、今日はそういう話は勘弁してくれよ。もうそういうのはすっかり足を洗ったんだぜ?」
「どうかしら。留弗夫兄さんは遺伝子的レベルでだらしないですし…!」
「大丈夫よ楼座さん。あんまりおイタする薔薇なら、根元からチョンって切っちゃうから。」
「ほっほっほっほ…、物騒なお話ですねぇ。」
「モテる男はいつもリスクと隣り合わせなんや。わしも来世じゃもうちょい美形に生まれたいもんやで〜!」
「だから秀吉兄さん、モテてなんかないって。…霧江も物騒な話なんかやめろぃ。俺の薔薇が萎れちまったじゃねぇか。」
「ほら、真里亞ちゃん来てごらん。こっちの薔薇は特に立派だよ。」
「…薔薇が立派。…うー!」
「ん〜〜、芳しい匂いだぜ。俺のエレガントさにぴったりだなぁ〜。」
「おいよせよ! 真里亞が真似してトゲで怪我するだろー!」
キザったらしく薔薇の匂いを嗅ぐような仕草をして見せたら怒られた。
…まさかなと思って振り返ると、真里亞が俺そっくりの真似をして、譲治の兄貴を大層笑わせていた。
「ほら、真里亞ちゃん、気をつけて。薔薇のトゲは痛いよ。」
「……うー? …………譲治お兄ちゃん。この薔薇だけヘン。うー。」
「ヘン? どうしたんだよ。」
真里亞が一本の薔薇を指差す。
すぐにその違和感はわかった。
立派な薔薇たちの中で、その一本だけが萎れかけていたのだ。
特別な理由があるわけじゃない。
元気な薔薇もあれば萎れる薔薇もある。
それだけのことなのだが、みんな元気なのに一本だけ元気がないというのが、真里亞にはとても気になるようだった。
…多分、ある種の仲間はずれ的な感情を感じているに違いない。
「この薔薇だけ元気がなくて、可哀想…?」
「……うー。他はみんな元気なのに、これだけ可哀想。」
「まぁ、咲いたり枯れたりはそれぞれだからなぁ。一足先に萎れる代わりに、その薔薇は他のどの薔薇よりも早く開花できたんだと思うぜ?」
「そうだよな。いっぱい咲いて、その役目を終えてお休みに入ったってだけのことだと思うぜ。そんなに気に病むことはねぇさ。」
「………うー。」
真里亞の無垢な感受性は、このぽつりと萎れる薔薇に何かの感傷を感じさせるらしい。
理屈ではわかっていても、寂しさが拭えないようだった。
「じゃあ真里亞ちゃん。帰るまでの間、この薔薇をお世話してあげるといいよ。」
「うー?」
譲治の兄貴は一度腰を上げると、ポケットをまさぐる。
取り出したのは、機内で舐めていた飴玉の包み紙だった。
それをこよりのように細くすると、目印をつけるようにその薔薇にやさしく縛り付けた。
「へー、なんだか可愛くなったね!」
「これが、この薔薇の目印だよ。あとでお水とかをあげに来てごらん。薔薇さんもきっと喜ぶと思うよ。」
「……うー! お水とかをあげに来る!」
「せっかくだから、この薔薇さんに何か名前を付けてあげるといいよ。そうすると、薔薇さんも喜ぶと思うし、真里亞ちゃんと心もきっと通い合うと思うよ。」
「名前…? 名前…。……うー…うー…。」
真里亞は腕組をしながら、相変わらずの仏頂面だけれども、真剣に悩み始める。
少なくとも、傷心からはすっかり立ち直ったように見えた。さすがは兄貴だ。
「譲治兄さんって、昔っから包容力があるよな。尊敬するぜ。」
「だな。人徳ってヤツだろ。後でツメの垢をもらってきてやるから一緒に飲もうぜ。」
「この庭園は、お前が子供の頃にもこんなに立派だったんか?」
「私が出てってからよ、こんなに立派になったのは。前の庭園の方が素朴で愛着があったんだけどねぇ。兄さんがちょっと悪趣味にいじり過ぎたのよ。前の方がずっとよかったんだから。」
「絵羽、ポジティブシンキングやで! 昔は置いといて、今のこの美しさを愛でなあかん。その方が心が安らかになるでぇ。」
「別にそんな意味じゃぁ。ただ私は、昔の方が素敵だった庭園をあなたにも見て欲しかったなぁってだけよぅ。」
「それでは皆様、よろしいでしょうか。そろそろお部屋の方にご案内いたします。」
郷田さんがそろそろ良いかとみんなに声を掛けるが、一年ぶりの薔薇庭園にすっかり心を奪われてしまって、なかなか耳を貸そうとはしなかった。
団体旅行じゃないから、厳しいスケジュールがあるわけじゃない。
それに、親兄弟たちにとっては懐かしき実家の敷地内なので、誰かに促される義理もないのだろう。
その辺りの事情を理解し、郷田さんは親たちが薔薇に飽きて部屋に案内してくれと言い出すまで、にこやかなまま待ち続けるのだった…。
「おや…! おおい! 嘉音くんやないか! 久しぶりやな、元気かぁ!」
秀吉伯父さんが唐突に大声を上げた。
手を振っている方を見ると、………小柄な少年がいた。
郷田さんのような大柄の男を見た直後だと、その小柄さが一層際立って見えたかもしれない。
少年は、手押しの猫車に園芸の道具などを積んで運んでいるところだった。
自分が呼び止められたことを知ると、猫車を置いて帽子を取り、頭を下げた。
「………………。………こんにちは。」
…多分、俺より年下だと思う。
雰囲気から彼も使用人であることがわかった。
秀吉伯父さんの挨拶に応える形で挨拶を返してくれたが、本来は無愛想なのかもしれない。
ちょっと感情の篭らない挨拶だった。
俺らの関心が彼に移ったのに気付くと、郷田さんは少年の脇に行き紹介してくれた。
「戦人さま、ご紹介いたします。右代宮本家にお仕えしております使用人のひとりです。…嘉音さん、お客様にご挨拶を。」
「………………初めまして。使用人の…………、嘉音(かのん)です。」
やはり第一印象に違わず、無愛想というか、口下手だなと感じた。
郷田さんが使用人として非常に洗練されていることと比べると、どうしても年齢相応の未熟さを感じてしまうのだった。
郷田さんが、もう少し自己紹介はできませんかと小声で促しているが、嘉音という少年は俯くだけだ。
「嘉音さん。もう少し何か挨拶することはできませんか…?」
「…………いえ。…………僕たちは、……家具ですから。」
俺らに悪意があってそれ以上の挨拶を拒んでいる、というよりは、これ以上何を挨拶すればいいかわからず黙っているしかない、という風に見えた。
「あ、あー、嘉音くんは寡黙でさ、余計なおしゃべりはしない性分なんだよ。愛想は少し悪いけど根はいい人なんだぜ。誤解しないで…! ここに勤めて3年になるっけ? 確か郷田さんより1年長いんだよな、嘉音くん?」
別に悪い印象を持ったわけじゃないのに、朱志香が慌ててフォローしてくれる。
…なるほど、普段から無愛想で損をしているらしい。
「そっか、よろしくな。俺は戦人! 18だけど、君はいくつだい?」
「………………………。」
答えるべき質問かどうか、値踏みするような沈黙。…これまた先に朱志香が教えてくれた。
「えっとえっと…! 確か、私たちの2つ下だから、…16だったよなー?」
「…………はい、…そうです。」
できることなら年齢を打ち明けたくなかったという風に見えた。
年齢を話したくないのは、それを理由に見下されるかもしれないからだ。
…俺も同じくらいの歳の時、大人に歳を聞かれるのが嫌いだった気がする。
…なるほど、16か。
その辺が微妙な年頃かもしれねぇな。
…だとしたら悪いことを聞いちまったぜ。
「へっへ〜、近い歳で嬉しいぜ! 気さくに戦人って呼んでくれよな! 俺も君のことは嘉音って呼ぶぜ!」
「………ありがとうございます。お気持ちだけで結構です、…戦人さま。」
朱志香が勝手にあわあわしてる。
嘉音くんの拒絶的な返事に俺が印象を悪くしているものと思っているらしい。
まぁ女の朱志香には、この辺のむずかる男心はわかるまいよ。
俺はほんの2年だが青年時代をリードしている先輩として、そこら辺を理解してやることにする。
「嘉音さん、もう少し愛想よくはできませんか? 笑顔も使用人の義務ですよ?」
「……………申し訳ありません。…努力します。」
「ほっほっほ…。郷田さん、嘉音くんもいろいろ頑張ってるんですよ、ねぇ?」
無愛想な点はよく注意されることらしい。
そして一向に改まらないことでもあるようだ。
郷田さんは営業スマイルのままだったが、諦めの小さな溜め息を漏らす。
「……それでは、まだ仕事がありますので。………失礼します。」
これ以上、この場で沈黙を守ることは嘉音くん自身にとっても居心地の悪いものらしい。
もう一度ぺこりと頭を下げると踵を返し、猫車を押し始めるのだった。
すると突然、猫車がぐらりと転んで積荷を散らしてしまった。
猫車のひとつしかない車輪が小石でも噛んだのでバランスを崩してしまったのだろう。
「何をしてるんですか…、ささ、早く片付けて…!」
お客様の前で無様な姿を見せるのは使用人の恥だとでも言わんばかりに、郷田さんが小声で急き立てる。
嘉音くんも、言われなくてもわかってるとばかりに、無言で落ちた荷を猫車に積み直す。
シャベルなんかの園芸道具は軽そうだからいいが、一抱えもあるような肥料の袋を持ち上げるのには苦労しているようだった。
「大丈夫かよ、そそっかしいな。ほら。」
「お嬢様、お召し物が汚れます。ここはお任せ下さい。」
朱志香が拾ったシャベルを、郷田さんは優雅な仕草で取り上げる。
その背中では、肥料の袋に難儀している嘉音くんの姿があった。
「……うー。お召し物が汚れる?」
「安心しろよ、俺が着てるのはそんなお上品なものじゃねぇぜ。それによ、俺はレストランで、落ちたフォークをウェイトレスに拾わせるってやつが大嫌いなんだ。」
俺は他にも転がる肥料を抱え上げる。
決して軽くはなかったが、俺にとっちゃ朝飯前だ。
嘉音くんは驚いた目を向ける。
まさか客人に手伝ってもらえるとは思わなかったって顔だ。
「…………ば、戦人さま…。結構です…、僕が全てやりますので…。」
「気にすんなぁ! こう見えても鍛え方が違うぜ! へへん!」
嘉音くんはまだ成長期前って感じで、少々ひ弱そうな体つきだ。
ちょいとこの重さは堪えるのかもしれない。
「結構重いね。嘉音くんが苦労するのも無理はないよ。嘉音くん、気にしないで。」
「これぞ俺の見せ場さぁ。これでさっきの船の分はチャラだよなぁ?」
「は! この程度のことじゃ、さっきの大騒ぎが帳消しになるもんかよ! あっはっはっは! 嘉音くんにも後で教えてやるよ、戦人ったら面白ぇんだぜ!」
「落ちるー落ちるー!! うーうーうー!!!」
そんな風にしている内に、積荷は全て元通り猫車に積みあがる。
「…………お見苦しいところをお見せして、申し訳ございませんでした。」
「ささ、もう結構ですよ。行ってください。」
もてなすべきお客にみっともないところを見せてしまったのは使用人としては恥ずべきことなのだろう。
退場を急かす郷田に促され、嘉音くんは去っていった。
「郷田さんもいじめ過ぎよぅ。意地悪言わないであなたも手伝えばよかったんじゃない?」
「…これは至りませんで。誠に申し訳ございませんでした。」
郷田さんは笑顔を寸分歪ませることもなく、優雅に謝罪の言葉を口にするのだった。
「嘉音くんもえぇところはぎょうさんあるんやで。ただ、若いんかのぅ、色々と損をしとる。勿体無いわ。」
「気難しい年頃さぁ。そっとしといてやれよ。使用人は寡黙なくらいが丁度いいさ。なぁ熊沢さん。」
「ほっほっほっほ、留弗夫さまは手厳しゅうございますこと! 私ほど使用人で寡黙な者はおりませんとも、えぇ!」
その白々しい言葉にみんなは思わず苦笑いを漏らす。
本人だって夢にもそう思ってなんかいない。
だから、場を和ますために言ってくれたのだ。
なるほど、熊沢の婆ちゃんってこういうキャラだったんだな。
ちょっと硬くなっていた雰囲気は、熊沢さんのカラカラとした笑いでみるみる晴らされていった。
「そろそろ荷物を置きたいわね。郷田さん、部屋割りはどうなってるのかしら?」
「昨年と同じになっております。さ、ご案内いたします。どうぞこちらへ。」
俺たちは瀟洒で小綺麗なゲストハウスへ向かう。
ここが、一泊の間の俺たちの仮の宿になるのだ。
「……………………………………。」
客人一行がゲストハウスに入っていくのを、嘉音は垣根越しに見送っていた。
それから、猫車に積まれた、あの重い肥料の袋に目を落とす。
脳裏に過ぎるのは、さっきのミスの時。
体躯の大きい戦人が、自分が満足に持ち上げられない袋を、さも軽そうに持ち上げて見せていた。
その好意が、嘉音に何の感傷を与えているのか、傍目に理解することはとても難しかっただろう。
でも、そのうな垂れた後姿を見る限り、そっとせずにはいられない何かを感じさせるのだった。
…ぽつりと独り言が零れる。
でもそれは、呟いた自分の耳にすら届かないほどの小さなもの。
「……………僕だって、………………………。」
嘉音はうな垂れ、下唇を小さく噛むのだった…。
「薔薇の庭園は記憶にあったんだけどよぅ…。このゲストハウスっつーのは記憶にねぇなぁ。これ建てたのは最近か?」
門柱らしきものに「渡来庵」と記されているが、みんなはゲストハウスと呼んでいたので俺もそれに習った。
薔薇の庭園を見下ろすように立つ真新しい洋館は、庭園との調和を大切にした見事なデザインだった。
「正解だよ。建ったのはつい一昨年さ。それ以降は、僕たちはこっちに泊めさせてもらってるんだよ。」
「へへ、年季の入ったボロ屋敷よりこっちの方が好評みてぇだしな。私も自分の部屋をこっちに持ちたいぜ。」
「うー! 真里亞も持ちたい! 持ちたいー!」
…俺の家も裕福な部類に入るだろうが、本家に比べたらまったくの庶民だなぁと思う。
年に何度も訪れない客人のために、こんな立派なゲストハウスを建てちまうってんだから、その富豪っぷりには驚かされるさ。
「絵羽さま、秀吉さま。こちらのお部屋をお使い下さいませ。留弗夫さま、霧江さまはこちらのお部屋をお使い下さいませ。」
「やっぱりここは綺麗で上品でいいわね。洋風って本当に素敵だわぁ。」
「ほんの2〜3日なら洋風もええやろが、ずっといて落ち着くのは断固和風やで! 日本人は畳みの上が一番くつろげるんや。」
「…はは、新しい家を和風にするか洋風にするかで喧嘩してね。お父さんが和風で着工させたのを母さん、まだ根に持って、よく言い合いをするんだよ。」
「譲治兄さんのところは両親仲が良くて羨ましいぜ? うちなんか冷め切ったもんさ。そのくせ、私の成績の話だけは連帯しやがる。」
部屋はみんなツインらしい。
お陰で、家族とかいう理由でクソ親父と同じ部屋を強制されずに済むのはありがたいことさ。
親父たちだって、俺なんかがいたら、よろしくできないだろうしなー、いっひっひ。
「何、気持ち悪い顔で笑ってんのよ。どうせ下世話なこと考えてるんでしょ。」
「いっひっひっひ〜! 下世話なぁんてと〜んでもないぃ! どうぞごゆっくりお過ごし下さいませぇ〜! あいててててッ! 痛ぇよクソ親父!」
またしても後から親父に耳をつねり上げられる。
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。俺ぁ、胃がキリキリ痛み始めててとてもそんな元気は湧かねぇぜ。今回はお前が主賓だろうが。せいぜい、親父や兄貴たちに可愛がられろよ。 ……親父の前では言葉遣いにだけ気をつけろ? あの人、本ッ当にシャレが通じねぇからなぁ。……朱志香ちゃん、我らが当主さまのご機嫌は最近どうなんだ?」
「…んー……、去年から相変わらず、かな。……余命3ヶ月、余命3ヶ月って割には相変わらずピンピン、
カリカリ、イライラしてるって話です。」
「今年も相変わらず不機嫌、ってわけね。……お守りができるのは相変わらず、源次さんだけなの?」
「お館様も、源次さんにだけは心を許しておいでのようです。私たち下々では、近頃はお目通りすらなかなか叶わず…。」
「また書斎に閉じこもって、怪しげな黒魔術三昧じゃねえのかな。何をやろうとてめぇの趣味だから構わねぇけど、臭いが立ち込める系は勘弁してほしいもんだぜ。…ついでにそのまま書斎から永久に出てくんなってんだ。へへへ!」
「年長の人にそんな言い方をするもんじゃないよ。右代宮家を復興させてくれた大恩人なんだから、もっと感謝しないと。」
「ん、…まぁ…。……ごめん。」
譲治兄貴にたしなめられては、朱志香も暴言を撤回するしかない。
右代宮家は大富豪だが、ってことはやはり世間とは完全にズレてる曲者ぞろいだ。
その頂点に立つ右代宮家当主、つまり俺たちの祖父さまは、その中でも特に曲者で恐ろしいお人らしい。
さっき親父が、胃がキリキリして…と言ったが、それは今日ここに来ている大人たちの率直な気持ちだろう。
孫である俺たちがきゃっきゃと遊んでいるのが、さぞや羨ましいに違いない。
親父に聞かされた話じゃ、何でもかんでも鉄拳制裁で、娘であろうと木刀で容赦なく打ち据える暴力当主だったそうだ。
そんだけの硬派さがあったら、息子たちの名前ももう少し硬派にしたらどうだよ。
お陰で孫まで迷惑してるぜ。
……まぁそのおっそろしいイメージには違和感は寸分もない。
俺も何度も会った記憶はないが、非常に気難しそうな顔をした祖父さんで、いっつも鋭い眼光で周りを萎縮させていたっけ。
祖父さんがいる時の張り詰めた空気は、窒息しかねない辛いものだったことも思い出す。
今頃になって親父の、今回はお前が主賓という言葉が重みを持って蘇る。
「………6年前は俺も小学生だったが、さすがに今は高校生だ。失礼のある態度なんか取ったら、大変なことになるかもしれねぇなぁ。…怖ぇ怖ぇ。」
「確かに強面だけど、そんなに硬くなるほど怖い人じゃないよ。決して理不尽なことは言ってないもん。口下手なだけでちゃんと筋は通す人だよ。」
「譲治兄さんは昔から成績優秀で一族の鑑じゃねぇかよ。私たちとじゃ祖父さまの待遇が全然違うぜ!
私なんか木刀で引っ叩かれたことあるしよー。尻だぜ尻! それも乙女の生尻をよー!」
「朱志香ちゃんは本家の跡取り娘だもん。お祖父さまも特に目をかけてくれてるんだよ。その厳しさは期待の気持ちの裏返しだと思わなくちゃ。」
「冗談じゃねぇぜ。…その跡取りってヤツは譲治兄さんに譲るよ。私が担ぐにはちょいとしんどいぜ。」
すでに紹介したと思うが、朱志香は本家の跡取り娘だ。
俺たち分家筋のいとことじゃ、肩に圧し掛かるプレッシャーも違うだろう。
「………うー? 朱志香お姉ちゃんが重い? 真里亞が持ったら軽くなる?」
「んー? あっはははは、サンキューな。大丈夫、真里亞ちゃんには押し付けねぇよ。……この十字架は、私が墓まで背負ってくよ。…安心しなって。」
真里亞の無邪気な気遣いに感謝するが、朱志香の表情には容易には晴らせぬ将来への不安が残っているようだった。
…お互い様か。受験を控えた高校生なら、誰だって将来への不安は隠せねぇさ。
「真里亞、いらっしゃい。お母さんと真里亞はこの部屋よ。」
「戦人くんは僕と一緒にこっちの部屋だってさ。」
「おー? 何々、こりゃあ驚いたぁ〜! 親たちの部屋より広めじゃないのよ、わ〜オ!」
「どうせ、いとこ同士で集まるだろうと思ってよ。大きめの部屋にするように言っておいたんだ。」
「うー! 真里亞もこっちがいい! お母さんと一緒よりこっちがいい! うーうー!」
「そうか、真里亞もこっちがいいか! よし、ここは俺と譲治兄貴の部屋だが、特別に出入りを許可してやろう! お母さんにはナイショだぞ〜?」
「うー! ナイショ!」
その母親の楼座叔母さんがすぐ後にいるわけだが、真里亞は元気よく握り拳で天を突き、返事をするのだった。
親たちは部屋に荷物を入れると、また廊下に集まっていた。
「おいガキども、お前らはどうする。ここでいとこ同士、おしゃべりでもしてるか?」
到着の挨拶をしに屋敷の方へ行くらしい。
…筋なら、付いていって一緒に挨拶するべきなんだが、そうなら親父はお前らも来いと一言、言って終わりだ。
来ないのも勝手だぞと言ってくれてるし、どうしよう?
「どうせもうすぐお昼や。子供はそこでくつろいでたらええ。それに表で遊べるのは下手をすると今の内だけかもしれんしの。」
「うー! 真里亞も行くー!」
「真里亞はここでお留守番してなさい。いたずらをしないで大人しく待ってるのよ。」
「……うー。」
真里亞が留守番することになった以上、置いてきぼりってわけには行かない。
譲治の兄貴はそれをすぐに察し、いとこ代表として明快に返事をした。
「じゃあ、僕たちはお言葉に甘えて、留守番してようか。1年ぶりに積もる話もあるしね。」
「それがいいわ。戦人くんなんか6年分積もってるんだしね。」
「へいへい。お子ちゃまな俺は大人しくお留守番してるぜ。」
「熊沢さん、私もこっちに残るからよ! 後は大人に任せて若者は退散してるぜ、へへへ!」
「それがおよろしいでしょう、ほっほっほ。奥様にはそのようにお伝えいたします…。」
「それでは皆様、お屋敷の方へご案内させていただきます。どうぞこちらへ。」
「…他の子はともかく、譲治は成人してるんだから連れて行った方がいいんじゃない?」
「そんなんで譲治だけ仲間外れは可哀想やで。いとこ同士の交流も大事や。ほな、行ってくるでー!」
大人たちはぞろぞろと表へ出て行く。
船着場からの先導と同じで、先頭は郷田さん、しんがりは熊沢さんだ。
俺たち用に割り当てられたいとこ部屋に集まろうとすると、譲治の兄貴がちょっとごめんと言い、ぞろぞろと出て行く大人たちの後を付いていく熊沢さんに駆け寄って、何か尋ね事をしているようだった。
用事はすぐ済み、戻ってきた。
「どうしたんだよ、兄貴。」
「あー、何でもないよ。ちょっと聞きたいことがあっただけさ。」
「うー! 真里亞にも聞いて! 真里亞にも聞いてー!」
「……ん〜? んふふふふー。何かなぁ、譲治兄さんが、私に聞かなくて熊沢さんには聞くことって何かなぁ〜? あー、全然検討がつかねぇぜー?」
「いや、誤解だよ…! 朱志香ちゃんが何を誤解してるのか知らないけど…!」
兄貴が何だかおたおたしている。
何かやましいことでもあって、それを朱志香に握られてるとでも言う感じだな。
…何であれ、朱志香だけが知ってて俺は知らないなんて面白くないぜ!
「なぁ真里亞、俺たちだけ除け者なんてねぇよなぁ〜? 何の話か聞きてぇよな〜?!」
「うー! 戦人と真里亞も聞きたいー! 戦人と真里亞も聞きたいー!」
「「うーうーうーうー!!!」」
真里亞と二人でうーうー唸りながら囃し立てる。
「いや、だから…大したことじゃ、あははは…、」
「嘘吐けぇ〜! 兄貴にしちゃ嘘がヘタだぜ、白状しやがれぃ! 真里亞、お前は右脇をくすぐれ、俺は左脇だ!」
「うー! 真里亞は右脇で、戦人は左脇だー! うー!」
「ちょっと!! 二人ともやめて…!! あははは、やめッ、あっはははははは!!」
ベッドの上を転げ回るように逃げる譲治の兄貴を俺と真里亞で追っ掛けてじゃれ合う。
高校生にもなって猫の子じゃあるまいしとは思うが、やっぱりこういうじゃれ合いは懐かしい。
温かみのある楽しさだった。
「はっはははは、譲治兄さんが熊沢さんに聞いたのはねー? ん〜? まぁほらアレだぜ。兄さんも本家は一年ぶりだからよ。その間に辞めた使用人とか入った使用人とか、そういうのがいたら挨拶したいーって、そういうことらしいぜぇ?」
「……うー? 挨拶する、真里亞も挨拶する!」
「何だよそれぇ、全然やましくねぇじゃねぇかよ兄貴。……う〜〜ん? 違うなぁ?? 真里亞、騙されるな、兄貴は何か隠してるぞ〜ん? 拷問再開だー!! うをりゃああ〜!!」
「や、やめてよ本当に! あっははははは! 真里亞ちゃんももうやめてー!!」
「あっははははは、あっははははは! きゃっきゃ、きゃっきゃ!!」
「多分、掃除とか昼飯の準備とかで忙しいんだよ。大丈夫、後でちゃんと挨拶に来るぜ。郷田の出しゃばりの出迎えより、紗音の出迎えの方が良かったーってんだろ? へっへへ!」
「紗音? ……しゃのん。……あぁぁあああぁ…。思い出したぜ、そんな子もいたな! 今も使用人やってんのか? 元気かよ!」
「そういや、夏妃姉さん。最近は頭痛の方はどうなんや。一時、だいぶしんどそうにしとったろ。」
「…お陰で、最近はだいぶ調子がいいです。心配をしてくれてありがとう。」
「そうだ、これ。夏妃姉さんにお土産。」
「……いつもありがとう。貴方には何かをもらってばかりね。…これは、紅茶?」
「ペパーミントとレモンバームのハーブティー。頭痛によく効くって有名なお店のブレンドなの。姉さんにも効くかなって思って。」
楼座は昔から気が効く女性だった。
…4兄弟の末っ子であり、上の3人と歳が大きく離れていることもあって、兄や姉たちの毒気を宿さずに成長できたお陰かもしれない。
その気遣いに夏妃は一瞬だけ表情を和ませるが、長年の気苦労によって凝り固まってしまったその淡白な表情を解すほどには至らなかった…。
「そう言えばあなた、いっつも頭痛だって言ってたわねぇ。しっかりなさいな? 朱志香ちゃん、今年は受験でしょう? 人生の節目じゃない。母親のあなたがそんなじゃ頼りないわよぅ? それに夏妃姉さん、私より3つも若いんだからぁ。もうちょっとしっかりなさい?」
「…………。………ごめんなさい。生まれつきの頭痛持ちなもので。」
絵羽は時折、言葉を選ばないが、夏妃に向けた言葉には微笑みで誤魔化しつつも、ちょっぴりの明白な悪意が含まれていたようだった。
もちろん、それは夏妃にも届く。
夏妃は苦々しく表情を歪めたい衝動を必死に抑えながら、軽く聞き流しているように振舞うのだった。
「うちの戦人くんも今年は受験でしょ? 留弗夫さんも少しは関心を持ったら? 自分の息子のために、夏妃姉さんみたいに頭痛になるくらい真剣になりなさいよ。」
「俺が何か言えば必ず反抗するヤツだぜ? じゃあ何て言うんだ、むしろ逆で遊んでていいぞって言うのか? あいつそういうのだけは素直に聞きやがるぜ。秀吉兄さんのところは受験、本当にうまく行ったじゃないですか。ぜひ子供操縦術の秘訣を教えてくださいよ。」
「うーむ、そうやなぁ…。何のために勉強するのかっちゅうことを説いたかもしれんなぁ! 個々の勉強に意味があるわけやないんや。そう、勉強っちゅうのは、わからんことを自分で調べて身につけるという行為の練習なんや! これが出来んヤツは社会に出ても使い物にならん! 国語算数が出来ろと言ってるんやない。勉強し身につけることを学べっちゅうことやな!」
「…ご立派ですわ。うちの朱志香にもそれが理解できればいいんだけど。今のままでは、とてもじゃないけど、右代宮家の跡取りとしては、」
「いいじゃないの、無理に跡取りにしなくても。女には女の幸せというものもあるんだしぃ。それを親が押し付けちゃ悪いわよぅ?」
「よさんか、絵羽。子供の育て方は家それぞれや。押し付けがましいのはあかんで。」
「ごめんなさい。夏妃姉さんも気を悪くしないでね。」
「………………………。」
窓から射す明かりは、曇天と言えどこんなにも温かなのに、室内の空気は澱んでいて、…夏妃ならずとも鈍い頭痛を感じさせるような気がした。
その空気を打ち払うかのように、霧江が明るく一同に提案する。
「でも、本当に素敵な香りの紅茶ね。さっそく頂いてみましょうよ。レオポルドの紅茶なんて、日本じゃ確か銀座でしか買えなかったはずよ?」
「霧江姉さんはお詳しいですね。買って来た甲斐がありました。」
霧江と楼座が席を立ち、紅茶を入れてこようとする。それを夏妃が制した。
「……お二人ともありがとう。それは後で頂きましょう。うちの者がすぐお茶を持ってきますので、どうぞおくつろぎください。」
「二人とも後にしろよ。ウェルカムドリンクくらいご馳走になろうぜ。」
留弗夫が席に戻れと、さりげなく目で合図をする。
…霧江と楼座はすぐに理解し、大人しく無言で席に戻った。
客人たちが挨拶に見えたのだから、すぐにお茶が振舞われるべきなのだ。
…そのお茶のタイミングが遅れて、客人たちが自分たちでお茶を入れようなどと言い出しては、ホストの顔は丸潰れだ。
夏妃は、お茶の準備が遅れている使用人たちの不手際に下唇を噛む。
…絵羽はその表情を見ながら、はばかることなく、くすくすと笑うのだった。
……もちろん、客間のそんな経緯など、紗音が知ろうはずもない。
ティーカップを積んだ配膳ワゴンを押してやって来た、という、ただそれだけで夏妃に痛みを伴う眼差しを向けられて、意味もわからず萎縮するしかなかった。
「……し、失礼いたします。お茶のご用意をさせていただきます。」
「おう、紗音ちゃん、久しぶりやのぅ! ますますべっぴんさんになりよったなぁ!」
「………いえ、…あの、………どうも…、」
「おしゃべりは配膳を済ませてからになさい。お茶が冷めます。」
「……もっ、…申し訳ございません、奥様。」
怯える小動物のように謝る仕草が、配膳ワゴンに触れ、ティースプーンを数本落として、耳障りな音を立ててしまう。
その無様に夏妃がますます表情を険しくし、それがますます紗音を萎縮させていた。
「いいのよ夏妃姉さん。挨拶のひとつくらいしたって、どうってことないわよ。もう充分待たされてる分、充分、お茶も冷めてるもの。うふふふぅ。」
「そ、…それは大丈夫です…。冷めてはおりませんので…、」
「………紗音、早く配膳を済ませなさい。」
「しっ、失礼しました奥様……。」
夏妃がイラついていることは明白だった。
…お茶が遅れた不手際も、使用人の無様も全ては夏妃の日頃の指導の至らなさということに結びつき、自分の顔を潰してしまう。
年に一度しかない日に、その無様を晒すことは、右代宮本家の台所を預かる身としては屈辱でしかなかったに違いない。
「よせよ夏妃姉さん。紗音ちゃんだって頑張ってるのにいじめちゃ可哀想だぜ?」
「いじめてなんかいません…!」
「いい香りね。お茶の銘柄を聞いてもいいかしら?」
「…………ぇっと…、……も、…申し訳ございません…。後ほど調べてまいります…。」
霧江は、険しくなった空気を切り替えたくて気を遣ったつもりだった。
…だが、かえって紗音は醜態を晒すことになってしまい、ますますに夏妃の表情と部屋の空気を険しくさせてしまう。
もうこの頃には、絵羽は、誰の耳にも届く声でくすくすと笑っていた。
「なぁにぃ? 紗音ちゃん、自分で淹れてるものが何かもわからないのぅ? ダメよぅ、そんな怪しげなものを来客に振舞っちゃぁ。こんなお茶じゃ銀のスプーンでもないと飲めないわよぅ?」
「………す、…すみません……。すぐに用意を…、」
「ねぇ紗音ちゃん。銀のスプーンって何に使うか知ってるぅ? 銀じゃないとダメなのよ? なぜかわかるぅ?」
「……………ぃぇ…、………ぁの……。」
絵羽がいたずらっぽく微笑みながら、配膳をする紗音を覗き上げる。
…絵羽のその表情は、それだけを見たなら小悪魔的な愛くるしいものなのかもしれない。
しかし、口から紡がれる言葉には、カミソリのような鋭利さが確かに含まれていた。
じっとその瞳を覗きつつける絵羽に、紗音は何とか目を合わせまいとするのが精一杯だ。
紗音が答えに窮したのを見て取り、すぐに楼座が助け舟を出す。
「銀は毒に触れると曇るって言われてるの。…くす、紗音ちゃんもひとつお勉強ができたわね。」
毒見をしなければ飲めないお茶扱い。
夏妃にとってそれは、お茶とそれを振舞った自分を貶されたのとまったく同じことだ。
留弗夫は軽薄そうに笑いながら絵羽の肩を叩く。
「はは、姉貴に銀食器なんていらねぇだろ。毒舌の姉貴がひと舐めしたら、銀の皿だって真っ黒に曇っちまうぜ。」
「わっはっはっは! わしゃあその毒舌を毎日聞かされとるから、もう毒に耐性がついてしもぅたわ! 絵羽も、わし相手には構わんが耐性のない相手にはちぃと加減せんとな! わっはっはっは!」
「あらあら、ひどぅい。紗音ちゃんにお茶の知識を教えてあげただけじゃない。くすくす。」
秀吉の馬鹿笑いに合わせるように、みんなも苦しげではありながらも笑いを重ねる。
夏妃だけは笑いに加わらなかったが、それでもとりあえず、客間内は談笑で盛り上がっていると誤解できる程度にはなった。;確認誤字
ようやくお茶の配膳を終えて戻ろうとする紗音に、霧江は助け舟にならなくてゴメンと小さく謝る。
…紗音は小さく頷き返し、そそくさと出て行くのだった……。
俯きながら、配膳ワゴンを押して廊下を歩む紗音…。
その痛々しい様子に、彼女が何かのいじめを受けたことは容易に想像することができた。
「……気を落とさないで。姉さんは何も悪くない。」
「……………見てたのね。」
「そういうお役目だから。」
「……………………。」
「奥様も絵羽さまも地獄へ堕ちろ。……でも、それより卑劣なのはあいつだ。」
嘉音が憎々しげに眼差しを向ける先は、客間とは逆の方向だった。
お茶の準備が遅れたのは、厨房でちょっとしたトラブルがあったからだ。
そのトラブルは紗音のせいではない。
実は郷田のちょっとしたミスだった。
そもそも、賓客が集まっているところへお茶を運ぶという派手な仕事を、あの見栄っ張りの郷田が譲るわけがない。
お茶をもう一度準備するのに無駄な時間を掛けてしまった。
だからポイントが稼げないことがわかり、たまたまその場を通りかかった紗音に配膳を押し付けたのだ。
……要領がいいと言えばいいし、卑怯だと言えば紛れもなく卑怯だった。
「……いいの、ありがとう嘉音くん。…私、全然気にしていないし…。」
「……………………………。」
嘉音のその沈黙は、紗音の言葉が心にもないことであるのを如実に語る。
「…………ありがとう。嘉音くんだけでもわかってくれたんで、ちょっと心が楽になったかな。」
「……姉さんは心に色々溜め込みすぎる。……たまには自分にやさしくしてあげて。」
「うん。……ありがとうね。」
その時、不意に人の気配がしたので、二人は慌てて振り返った。
そこには、初老の男の姿があった。
使用人の長である源次である。
「………………そこで何をしている。…紗音、早く厨房に戻りなさい。」
「は、はい。……失礼いたしました……。」
「……………………………。」
紗音は畏まり、すぐに配膳ワゴンを押して立ち去ろうとする。
だが、嘉音は言葉にできない何かを瞳に宿して、無言でそれを源次に訴えている。
「……………どうした。何かあったか…?」
「…しゃ、……紗音は何も悪くないのに、あいつら…、」
「やめて嘉音くん…。……失礼しました。すぐに仕事に戻ります。嘉音くんも自分の持ち場に戻って。……お願い。」
「…………姉さんがそういうなら。」
「………………。…何事もないなら、そうしなさい。」
「……はい。……失礼します。」
その姿を廊下の影から見守る割烹着姿の老婆は熊沢であった…。
……おいたわしや、紗音さん、嘉音さん…。
あの二人がいじめられる理由は何もないのです。
…しかし、郷田さんに嫌われているのは紛れもない事実…。
郷田さんは、右代宮本家へいらっしゃられるまで、どこかの立派なホテルにお勤めだったそうです。
そこで身につけられたというお仕事ぶりは、そりゃあ大したものだとは思います。
ただ、郷田さんはここではもっとも年季の短い使用人。
…ご自身のそれまでの積み重ねによるプライドもあられたのでしょう。
彼は、自分より長い年季を持ちながらも未熟で、人生経験も及ばない紗音さんと嘉音くんを、ことある毎にいびられるのです…。
また、…気の毒なことに、夏妃奥様にも嫌われております…。
もちろん、年季という意味では奥様の方が長くこの家におられます。
ただ、………こればかりは奥様にも同情しなくてはなりません。
…本当にお館様も罪作りな方でございます…。
ご自身の、ちょっとした気まぐれが、奥様にこれほどまでの劣等感をお与えになるとは、どうして思い至らなかったのでしょう…。
……もちろん奥様とて内心は、あの二人に辛く当たる謂れは何もないことを重々承知してはおります…。
…しかし、それが理屈でわかっているからといって、どうにもならないのが人の心…。
あぁ、おいたわしや…。
私には何もできず、こうして物陰から見守ることしかできないのです……。
第2アイキャッチ:10月4日(土)11時15分 ※12時00分に針が進む。
俺たちはいとこ同士4人で、色々な話に花を咲かせていた。
何しろ、男女の両方が揃い、その上、成人、高校生、小学生と世代も揃ってる。
それぞれが身の上話をするだけで、他の3人にとっては大いに興味深いことだった。
「なんかやっと馴染んできたぜ。朱志香も真里亞も6年前からは想像もつかないくらい成長しちまったからよ。正直なところ、少しだけ違和感を持ってたんだが、こうして話をしている内に、中身はあの頃から何も変わってないことがわかったぜ。」
「同じ言葉を返してやるよ。戦人だって、6年ぶりだってのに全然変わってねぇぜ。図体がいくらでかくなっても、中身は相変わらずお子様だってことだな。」
「うー! 真里亞もお子様! 真里亞もお子様ー!」
「真里亞だっていつまでもお子様じゃねぇぞぅ? お子様から可愛いお姫様に成長してくんだからなぁ〜? そうしたらまな板みてぇな胸も、すぅぐ朱志香並みになるぞ〜? そしたら揉ませてくれよー約束だぞぉぅ!!」
「うー! 揉ませる! 約束する! うー!」
「だ、駄目だよ真里亞ちゃん! そんな約束しちゃ、ダメダメダメ!」
「うー? 約束したから揉ませる! 真里亞、約束は守る! 絶対守る、うー!!」
「…真里亞ぁ、お前、本当に素直ないい子だなぁ…。お前と結婚する未来の旦那さんはきっと幸せ者だぜ。」
「って、いい話に摩り替えつつ、約束を保持してんじゃねぇぜ! 真里亞ちゃん、その約束はナシ! ナシ!」
「うー。約束取り消し? うー……。」
「やっぱり、戦人くんも揃って4人で集まらないと、いとこが集合した気がしなかったね。この6年は、やっぱり寂しかったよ。」
「…そうだなー。こういうふざけた話にはならなかったな。でも建設的な話はできてたと思ったぜ? 将来に対する心構えとか、受験とか就職とかよー。」
「へへーん、悪ぅござーましたね〜! 俺が来たらおマヌケなドタバタばっかりでよ〜!」
「でも真里亞は今年のが楽しい。うーうー!」
「そうだね。僕も同感、今年が一番楽しいよ。」
真里亞の率直な一言が、多分、この場にいる全員の代弁に違いなかった。
譲治兄貴が真里亞の頭を撫でてやると、真里亞は上機嫌の猫の子のようにころころと笑うのだった…。
「……失礼いたします。お食事のご用意ができました。」
慎ましやかなノックの音と、同じくらい慎ましやかな若い女性の声が聞こえた。
朱志香がそれに元気よく応える。
「紗音、入れよー! 戦人は覚えてるだろー?!」
朱志香がベッドから立ち上がり、扉を開ける。
そこには、俺らと近い歳に違いない使用人の女の子がいた。
「ご、ご無沙汰いたしております、戦人さま。6年ぶりでございます、紗音です。」
おずおずとした仕草で俺の姿を認めると、深々と会釈をした。
「…はーー…! 朱志香にも驚かされたが、紗音ちゃんにも驚かされたぜ…。あんたもすっかり美人になったじゃねぇのよ〜!」
「も、……勿体無いお言葉、恐悦に存じます……。」
「しかしよ〜、この島じゃよっぽど食事の栄養価が高いんじゃねぇのか〜ん? 何を食ってどこを鍛えたらそんなにでかいお乳になるんだか〜!! 朱志香とどっちがでけぇか、ちょいと触って確かめさせてもらうぜぇえぇ〜?!」
両手をわきわきさせてヨダレを垂らしながら迫る俺!
……俺の名誉と正義のために補足しておくが、これは別に、おっぱいを揉まないと首のリンパ腺が異様に痒くなって掻き破ってしまうような奇病に冒されたからじゃないぞ?
俺的なお約束のコミュニケーションなのだ。
こんな風に迫るシーンがあれば、十中八九、引っ叩かれたりどつかれたりするだろ?
そういうお茶目な展開を狙う戦人さまオリジナルのコミュニケーション術なわけさ!
………ま、まぁその何だ、十中八九の残り一くらいの確率で、本当にタッチできたらラッキーだけどな…?
いひひゃひゃひゃっ、そこまではさすがに期待してねぇってぇえぇ〜!!
と、俺の手は今や紗音ちゃんのお乳に接触するまで1cmくらいのところまで来たんだが、……未だ反撃が来ない。
何をされるのかは理解していて真っ赤になって俯いているのだが、両手は前でお行儀よく組まれたままで、拒絶してどつくとか、胸を庇おうとか、そういう行動を取ろうとはしないのだ。
…うををおおい、それは想定外だろッ!!
たた、頼むよどついてくれよ、このままじゃマジでお触りしちまうぞぉおおぉ?!
って、タイミングだったので、朱志香が俺の後頭部に肘鉄を叩き込んでくれて本当に嬉しかったぜ…。
「ふぐぉおおおぉおぉぉ、あいたたたたたぁ、朱志香ぁあぁッ、ありがとよっぉおぉ〜!!」
「なな、何で私が感謝されんだぁ?! ???」
「いやいや済まんぜ紗音ちゃん。魅力的な胸に思わず吸着されそうになっちまった…。つーか、さすがにあの間合いまで来たら痴漢確定だろ。駄目だぜ、抵抗しなきゃよぅ〜!」
「………で、ですけど、………戦人さまは、…大切なお客様ですし……。」
「あのなぁ、お客様でも痴漢は痴漢! 女の子の胸は大体、10cmくらいからが防空識別圏だなぁ。2cm圏まで侵入してきたらこれはもう領空侵犯だぜ、スクランブル発進で即ビンタを食らわせてやれぃ!」
「…………そっ、そんなことできません…! 私たちは……、…その、家具ですし…。」
もちろん触られたくはないのだが…、客人がそれを望むなら何とか応えようという自己犠牲精神。
…こんな子、トキより先に保護すべきだぞ…。
「…い、今時、こんな献身美徳な子がいるとは…。軽い眩暈すら覚えるぜ。……でも駄目だ! ダメなんだぁああぁ!! 俺がエロい顔で迫る! 張ッ倒す!! イヤ〜ン、エッチ! そういうお約束じゃないとオチがつかねぇんだよぉ、頼むよお願いだよ、俺を引っ叩いてくれよ! こう、バチンっと! バチンっとぉおぉ〜!!」
「お、…………お願いは聞けません。家具ですから。……でも、…………命令ならお聞きします。…それが勤めですから。」
「あはは、じゃあ命令させてもらうことにするよ。次から戦人くんが胸に触ろうとしてきたら、平手打ちで反撃すること。いいね?」
「……は、はい。仰せつかりました。以後、そのようにさせていただきます。戦人さま、ご承知おきくださいませ…。」
紗音ちゃんは優雅な仕草で俺にお辞儀しながらそう宣言する。
表情は晴れやかだった。
俺は、それでOKと親指を立てて応えてやる。
「6年前はお手伝いさんの連れ子がついでにお手伝いみたいな印象だったんだけど、……すっかり一人前の使用人さんだなぁ。今年で何年になるんだぁ?」
「はい。お陰様で10年ほどお仕えさせていただいております。」
彼女は紗音。……“シャノン”と読む。
これまた日本人離れしたすげぇ名前だ。
昔は俺もガキだったので大して気にせずこの名前を鵜呑みにしていたのだが、右代宮家の人間でないにも関わらず、このネーミングセンスは珍しい。
…恐らく、使用人の源氏名みたいなもんだろう。
…だとすると、さっき薔薇庭園で出会った嘉音くんのネーミングセンスも納得できる。
彼女は6つの時からここに勤めているという古参の使用人だ。
容姿がすっかり変わってしまったので記憶は繋がらないが、6年前の彼女にはお互い面識がある。
内気な感じの性格は今も昔も変わらないようだが、やはり歳相応の女の子らしい魅力が宿ったような気がする。
特に胸だな、胸。
「さっき会った嘉音くんは彼女の弟なんだよ。」
「…弟というわけでは…。でも、私のことを姉と慕ってくれます。…何か失礼なことはしませんでしたか?」
「はは! 相変わらずいつも通りだぜ。もうちょっと愛想よくすればいいのによ、勿体無いやつー。」
「…嘉音くんがご迷惑をお掛けしたようで、…申し訳ございません……。」
「別に迷惑なんか何も! 同じ男としてわかるさ、ありゃあ気難しい年頃だ。愛想が悪いのは当り前だぜ!」
「うー! 真里亞もよく言われる! 愛想悪いって言われるー! 嘉音と一緒! うー!」
「くす、……真里亞さまは愛想悪くなんかありません。」
「うー? 一緒が良かった…。うー。」
「えっと、食事の準備が出来たんだっけ?」
「あ、……はい! 失礼いたしました! …お食事のご用意が整いましたので、皆様をお屋敷へご案内いたします。」
紗音は形式的なお辞儀をし直して勤務モードに復帰する。
これ以上、下らない話に付き合わせれば、それはかえって彼女の仕事に迷惑をかけてしまうことを察した俺たちは、それ以上の脱線はせず腰を上げることにした。
「じゃ、お屋敷に行こうか。みんなもお腹が空いてたところでしょ。」
「だなー。郷田さんがいる時のメシは楽しみなんだよ。あの人、どこぞの有名ホテルでシェフをやってたらしくて、かなり料理の腕があるんだぜ!」
「ほぅほぅ! そ〜りゃ楽しみぃ!! 行こうぜ真里亞! ガツガツ犬みたいに食い散らかすぞ!!」
「うー! 犬みたいに食い散らかす!」
「ダメダメ! 戦人くんの言うことはいちいち真に受けちゃダメだよ? 全部冗談なんだから。さ、行こ行こ。」
俺たちは紗音ちゃんに先導され、お屋敷へ向かうのだった。
再び立派な薔薇庭園に迎えられ、さらに進むと見えてくるのが、………迫力ある、右代宮本家のお屋敷である。
戦後すぐに建てられたらしいから、すでに半世紀近くを経た貫禄を漂わせている。
見てくれは確かにゴージャスだが、古い建物だけあり、空調などの設備が今ひとつ弱いらしい。
朱志香の話によれば、特に真冬は隙間風に悩まされるそうだ。
…コタツでも出しゃあいいのにな。
玄関を入ると、老いた使用人が迎えてくれた。
彼はさすがに俺の記憶にも残ってる。
最古参で、使用人の長を勤める源次さんだ。
「…………戦人さま、お久しゅうございます。」
俺と目が合うと、落ち着きある声で挨拶してくれた。
郷田さんのお辞儀を優雅だと例えるなら、そこまで洗練されていないが、無骨だけれども気持ちが伝わるお辞儀だった。
「源次さん、本当にお久しぶりっす! お元気そうですね。」
「お陰様で健やかに過ごさせていただいております…。……戦人さまこそ、ご立派になられました。………お館様の若き日に、少し似てこられましたな。」
「俺が祖父さまに? ってことは、さぞや祖父さまは若い頃モテたろうなぁ、いっひっひ!」
「………ここからは紗音に代わって私がご案内申し上げます。どうぞこちらへ。」
紗音ちゃんは深々とお辞儀をして俺たちを見送る。
ここからは源次さんの案内で食堂へ向かっていった。
若者勢がこの6年で見違えるほど成長したのに比べれば、源次さんは熊沢さんと同じでまったく逆。
6年前の記憶とまったく姿が変わらない。
時間を止めたまま再会したかのようだった。
源次さんは非常に寡黙で真面目な人だ。
祖父さまの側近というか、介護者というか、……考えようによっては女房役とまで言えたかもしれない。
実際、死んだ祖母さまよりも常に側に控えさせていたらしい。
朱志香に言わせると、祖父さまはどんな肉親たちよりも信頼しているという。
しかし勤めてどのくらいになるんだろう。
詳しく聞いたことはないが、この屋敷が建てられた当初からいる、みたいな話を聞いたこともある。
…ということは、半生を奉公に捧げてるってことになる。…そりゃあ、信頼も厚いわけだぜ。
食堂に向かうため、源次さんの先導で吹き抜けのホールを通り抜ける時。
……俺は6年前の記憶にないものを見つける。
それは、2階に上がる階段の真正面に飾られた、とても大きな肖像画だった。
その迫力に、思わず足を止めてしまう…。
急に俺が立ち止まったので、後に続く真里亞が俺の背中に激突する。
「うー?」
「……あぁ悪ぃ。…なぁ朱志香ぁ。あんな絵、前はあったっけ?」
俺はホールに掲げられた目立つ大きな肖像画を指差す。みんなも足を止めた。
「…あぁ、…そっか。戦人が来てた頃にはアレは掛けられてなかったっけ。いつからだったかな…。」
「確か、……僕の記憶が正しければ、一昨年辺りだったと思うよ。」
「…………左様でございます。一昨年の4月に、お館様が兼ねてより画家に命じて描かせていたものをあそこに展示なされたのでございます。」
「あの祖父さまがねぇ。わざわざ描かせてか…。」
肖像画には、この洋風屋敷に相応しい、優雅なドレスを着た気品を感じさせる女性が描かれていた。
………歳はわからないが、目つきにやや鋭さと意志の強さを感じさせるため、若そうな印象を受けた。
よく名画にあるような中年女性の余裕ある雰囲気とは違う気がする。
この女性が普通に黒い髪だったなら、すでに亡くなって久しい祖母さまの若き日の肖像画かもしれないと思っただろう。
だが、肖像画の女性は美しい黄金の髪で、日本人的でない容姿を感じさせた。
「で。……誰だい、このご婦人はよぅ。」
その素朴な質問に、真里亞が、自分は知っていると言わんばかりに威勢よく答えてくれた。
「うー! 真里亞知ってる。ベアトリーチェ!」
「ベア、……何だって?」
「……ベアトリーチェ。魔女だよ。戦人くんは昔、聞かされたことない?」
「魔女ぉ。…って、…………この島の?」
…すでに話したと思うが、この六軒島は全周が10km程度の小さい島だ。
だが右代宮家だけが住むにしては広大だ。
だから住めるよう整地されているのは、船着場と屋敷の周りの敷地だけで、後はこの島が無人島だった時代から手付けずのままになっている。
一切の明かりもなく電話もなく通行人もいない無人の広大な森が、どれほど危険なものかを理解するには、都会的な常識を少し外す必要がある。
何しろ、万が一、森の奥深くで穴にでも落ちて捻挫したら、泣こうが喚こうが誰も助けに来てくれないのだ。
そのまま暗くなれば電柱の一本もない森は真の暗黒に包まれる。
また、道標があるわけでもないから迷いやすく、暗い森の中は方向感覚も見失いやすいのだ。
現在でこそ、森というと憩いのイメージを感じるが、文明の光が夜を駆逐するまでの前時代の人類にとって、森は海同様に文化を地理的に隔離する、地上の海同然だったのである。
海に出る漁師たちが、専門的な知識を有してなお命を脅かされることもあるように。
森に出る猟師たちにも専門的な知識が求められ、同じく命を脅かされることもあったのだ。
…そんな危険な森に、子供が遊びに行ったら大変なことになるかもしれない。
そう思った親の誰か。…祖母さまか、あるいは他でもない、祖父さまが言い出したのかもしれない。
さもなくば、はるか大昔からこの島に語り継がれているのか。
………森には恐ろしい魔女がいるから立ち入ってはならない。
そんな六軒島の怪談が生まれたのである。
それが、六軒島の魔女伝説である。
だから、この島で魔女と言ったら、それは広大な未開の森の主を指す。
そういえば小さかった頃、この屋敷に泊まり、風雨が窓を叩く不気味な夜には、森の魔女が生贄を求めて彷徨っているというような話にだいぶ怯えたもんさ…。
ベアトリーチェ、…か。
………兄貴に言われて記憶を探ると、確かにそんな名前だとだいぶ小さい頃に教えられた気もする。
「…なるほどなぁ。しかし、あの魔女伝説の魔女に、ベアトリーチェなんてオシャレな名前が付いてたとは、とんと忘れてたぜ。……祖父さまめ、孫たちが信じないもんだから、わざわざ絵に描きやがったかぁ?」
「……祖父さまの妄想の中の魔女だよ。…この絵を掲げた頃から現実と幻想の区別が付かなくなり始めた。……私たちにとっては想像の中の魔女に過ぎないけど、…祖父さまにとっては、彼女はこの島に“い”る存在。……“い”る。だから、それを理解することができない私たちにもわかるよう、あの絵を描かせたって言うんだけど。………はんッ、気持ち悪いったらありゃしないぜ。」
「……………………お嬢様。…お館様にとっては大切な肖像画です。……お館様の前でそのように仰られることがございませんよう、固くお願い申し上げます。」
「………わかってるぜ。頼まれても言わねぇよ。」
朱志香は忌々しいような目つきで肖像画を一瞥すると、そっぽを向く。
「…行こうよ。食堂にみんなを待たせてるよ。」
「うー! お腹空いたー!」
……この島で、右代宮家が支配している部分などほんのわずかだ。
残りの未開な部分を全て彼女、…魔女ベアトリーチェが支配しているというのなら。
……彼女こそがこの六軒島を真に支配する存在なのだと言える。
船で来る途中、洋上の鎮守の社が落雷で失われたということを知った時に感じたある種の違和感と不吉さが少しだけ蘇る。
そしてあの時、熊沢さんは六軒島について何か不吉な話をしようとして、それを朱志香に止められたことも。
………この島の何を話そうとしたのかはわからない。
でも、ひとつわかることがある。
…六軒島の支配者は、右代宮家じゃない。
魔女、ベアトリーチェなんだ。
そう。……ここは、魔女の島なのだから。
「戦人ー! うー、遅いー!」
見ればみんなはもう食堂へ向かっていた。
俺は慌ててその後を追うのだった…。
食堂の大きな観音扉の前までやって来る。
源次さんがノックする。
「……お子様方をお連れいたしました。失礼いたします…。」
扉が開けられ、中へ招かれる。
如何にも大金持ちーって感じの食堂には、来客に序列を思い知らせるのが目的としか思えない超長いテーブルが置かれ、その序列に従い、もう親たちが着席していた。
「遅ぇぞ、ガキども。早く席につけよ。」
クソ親父が着席を促す。
長いテーブルの、自分たちが座る場所だけがぽっかりと空いていて、一層、遅刻した感を煽った。
一番奥正面のいわゆるお誕生席が最上位の席、祖父さまの指定席だ。
そこはまだ空席だった。
…もったいぶって最後に来るつもりなんだろう。
席順の序列は、お誕生席を正面奥に見ながら、左・右と序列が続き、序列の順位が低いほどお誕生席から遠のいていく。
つまり、お誕生席に一番近い第1列目の左席、序列第2位の席は親兄弟の長兄の蔵臼伯父さんの席。
………伯父さんもまだ来てないようで空席だった。
そしてその向かいの、第1列目の右席には、序列第3位で親兄弟の長女の絵羽伯母さんが座る。
第2列目の左席は序列第4位。
親兄弟の3人目ということでうちのクソ親父、留弗夫が座る。
その向かいの第2列目右席、序列第5位は、親兄弟の末っ子の楼座叔母さんの席。
こう来れば、次は親たちの配偶者が来るだろうと思うかもしれないが、ところがどっこい、次の第3列目左席、つまり序列第6位は朱志香の席だったりする。
その向かい席は譲治兄貴。
そして朱志香の隣の席は俺で、その向かいは真里亞となる。
そして俺の隣、つまり第5列目左席の序列第10位まで来てようやく夏妃叔母さんなのである。
…その向かいが秀吉伯父さんで、夏妃叔母さんの隣の第6列目、一番手前の左席が霧江さんである。
霧江さんの向かいの席にも食事の支度がされていたが空席だった。
序列的に言うなら、そこは楼座叔母さんの旦那さんが座るべき席だ。
……来ていないはずなのに、その席にも準備がされていた。
普通、序列は配偶者にも準ずる格を認めるものだが、右代宮家は独自の序列を持っていた。
……多分、男尊女卑の名残だろう。
女の腹は借り物だとする考えに基づくと、直系の子供がもっとも序列が高く、孫が次。
血の繋がらない配偶者たちは一番ビリって考えになるわけだ。
……気の毒な話だが、その序列によるならば祖母さまが生きていたとして、その序列は俺よりも下だということになる。
若い日には父に従い、嫁いでからは夫に従い、老いてからは子に従え。
「女、三界に家なし」なんて言われた昔の名残だ。
そんなことに思い至らない昔は、親兄弟は親兄弟同士、いとこはいとこ同士とそれぞれのグループごとに座れて話が弾んでいいなんて思っていたが、この歳になって再び着席順を見直してみると、何とも複雑な気持ちにさせられる…。
本家の長男に嫁ぎ、家を切り盛りする実質上のナンバー2の夏妃伯母さんが俺の右側の席、…つまり俺より2つも序列が下だというのだから。
…伯母さんの胸中を察することは難しかった。
なので俺は、伯母さんに謝るような仕草をしてから着席するのだった。
「お久しぶりですね、戦人くん。ずいぶん背が伸びましたね。」
「え、ぁ、はい! 食ったり食べたり食事したりしてたらいつの間にかこんな身長に。」
「さすが男の子ね。身長はいくつくらいあるの?」
「180かな? つーか伯母さん、そこは、食べてばっかりじゃねぇかーって突っ込んでくださいよ〜ん!」
「え? ……あぁ、くす、ごめんなさいね。」
伯母さんは遅れて笑いに付き合ってくれたが、どこが笑うべきツボか理解できてないようだった。
この人は夏妃(なつひ)伯母さん。
親兄弟の長男の妻、つまり、うちの親父の兄の奥さんに当たる人だ。
朱志香の母親と言った方がわかりやすいか。
…こう言っちゃ悪いが、嫌いってわけでもないが、特別好きでもない伯母さんだ。
あまり子供の輪に入ってこないし、いつも気難しそうな顔をして、親たちと難しい話をしているという印象しかない。
…実際、あまり言葉を交わしたことがなく、今もどう掴みを取ろうかだいぶ迷ったのだ。
…甲斐なく外してしまったがなー。
テーブルの上には整然と食器が並べられていたが、まだ食事の配膳は始まっていなかった。
基本的に、上席者が着席するまでは食事は始まらない。
つまり、最上位の祖父さまが来ない限り、いつまでもお昼は始まらない。
前菜すら来ないわけだ。
つまりこの食堂の沈黙は、親たちが空腹を堪えながら祖父さまが来るのはまだかと待つものだったのである。
ただ、俺の記憶の中の祖父さまは、こうして会食などがある時には必ず時間通りに現れたものだ。
…全員が揃ってなお待たせるほど遅刻するなどということはありえない人だったはず。
「遅ぇな、祖父さま。……俺の記憶じゃ、時間に厳格な人だったと思うんだけどな。」
「あー、6年前はそうだったかもなぁ。…最近はそうでもねぇよ。というか、もう自分の世界オンリーって感じで会食にも顔を出さねぇぜ。さすがに今日くらいは足並みを揃えてくれるって思ってたんだけどな。…まー、私ゃ来ない方が気楽で嬉しいけどよー。」
「…朱志香!」
母親の夏妃伯母さんに叱られ、朱志香は舌を出しながらそっぽを向く。
……仕方ねぇぜ。
ホストさまがいらっしゃるのを待つとするか。
時計を見ると、もうじき12時の20分を指そうとしていた…。
右代宮本家の老いた当主、右代宮金蔵(きんぞう)。
その姿は、彼の書斎にあった。
時計は昼を指していたが彼は席を立とうとはしない。
老眼鏡を掛けながら、凝った意匠の装丁がされた古めかしい本を次々に積み上げ、それらを読みふけることに没頭している。
それは楽しくて仕方がない、というよりは、一分一秒が惜しいような焦燥感、あるいは危機感のようなものすら感じられた。
締め切られた室内は、濃厚な埃が舞い、胡散臭い異臭を放つ薬品の臭いを混ぜこぜにした空気で澱んでいる。
しかもそれはどことなく甘く、重く。
まともな鼻を持つ人間なら、入って最初にやることは間違いなく窓を開けて換気することだろう。
その書斎の扉を、さっきから叩き続ける音が繰り返されている。
その音には時折、「お父さん」という声が混じっていた。
金蔵は大きく溜め息をつくと、手にしている古書を乱暴に閉じて卓上に叩き付ける。
それから大声で、扉を叩き続けている蔵臼に怒鳴った。
「やかましいッ!! その音を止めぬか、愚か者ッ!!! 叩けば扉は開かれると誰が教えた! その馬鹿者は磔にしたぞッ!! お前もそうされたいのかッ!!」
「……お父さん。年に一度の親族会議の日ではありませんか。皆、下に集まっています。どうかお出で下さい。」
蔵臼は扉越しに父に呼びかける。
…金蔵はいつも書斎に篭りきりで、家人すらも部屋に入れることを嫌った。
そのため、こうして廊下から言葉をかけるしかないのである…。
「私に構うでないッ!! 皆とは何か、私をここから引き摺り出そうとする者どもなのかッ!! ならば殺してしまえ! バラバラにし薪にして魔女の炉にくべてしまえッ!! その炉には鍋を掛けてニガヨモギを煮るがいい! 黙示録の煮汁はそれでも私をここから連れ出そうとする馬鹿者どもに飲ませてやれッ! 残りは酒に漬けるのだ! あぁ、源次はどこだ! 源次を呼べい!! 苦艾の魔酒を用意させろ! 緑の妖精の囁きが届かぬ!! あぁ、源次はどこだッ、源次を呼べぇえぇいッ!!!」
…扉の前では、蔵臼と南條、そして源次が、出てこようとしない主を待ち続けている。
「ふ…。……すっかり嫌われてしまったようだ。もう私の声では何も届かんよ。」
蔵臼は、やれやれという風に肩をすくめて苦笑いをしてみせる。
…自分の呼びかけに父が応じるとは鼻から思ってはいない。
しかし長男の務めとして、形式的に声を掛けただけだ。
「……金蔵さん。あんたの顔を見に、息子や娘や孫たちが来てるんじゃないか…。ちょっと顔を見せてやったらどうだね…。」
「うるさい黙れッ!!! 私に意見するというか南條ッ!! 貴様など呼んではおらぬ、私は源次を呼べと言ったのだ!! さぁ急げ、すぐに呼べ!
時間は常に有限だ、使徒たちはすでにラッパを構えているぞ、なぜにそれがわからぬか愚かな羊どもめッ!!」
金蔵が重い古書を何度も何度も卓上に叩きつける。
その騒々しい音が、最上級の不快を示していることは明白だった。
金蔵は老眼鏡を置くと乱暴に席を立つ。
そして、満場のオペラ座で歌うように、訴えるように両腕を大きく広げて怒鳴った。
「なぜだッ?! なぜにいつも私には邪魔が入るのかッ?! 全てを捨てよう、全てを捧げよう、その見返りに私はひとつしか求めないというのにッ!! おぉベアトリーチェ、お前の微笑みをもう一度見られるならば、私は世界中から微笑を奪い取り全てをお前に捧げようッ!! おおぉ、蝗の軍団長たちよ、世界中から微笑を刈り取り収穫せッ、げほげほッ、ゲーホゲホゲホッ!!! あぁ全てが汚らわしい、全てが煩わしい!! なぜこの貴重な一日に私は邪魔を受けねばならぬのかッ!! ゲーホゲホゲホゲホ!!ゴホッゴホゴホッ!!! 源次を呼べぇえぇぃ!!! ゲーホゲホゲホ!!」
「……何を怒鳴ってるのかもさっぱりだな。もう頭がどうにかなっているのだろう。」
「蔵臼さん…。実のお父さんに、そりゃああんまりじゃないかね…。」
「親父はすでに死んでいる。……ここにいるのは、親父だったものの幻さ。いずれにせよ、本人にここを出る意思がない以上、どうにもならんね。」
「…………………金蔵さん。」
書斎からはまだ咽るセキの声が繰り返されている…。
「私は下に戻る。……郷田の自慢のランチをこれ以上、無駄に冷ましてしまうことはない。親類たちにとって、当家での数少ない楽しみだろうからな。…ふ。」
蔵臼は踵を返す。
腕時計を見て、わかりきっていたことに無駄な時間を費やしたという悪態を態度で示して見せた。
「源次さん。……親父殿がお呼びだ。相手を頼む。」
「………畏まりました。」
「南条先生。食事に行きましょう。……いつまでもここにいると、この甘い臭いで味覚までおかしくなってしまう。」
蔵臼は南條を待たず、階段を下りていった。
源次は、南條にも食事へ行くよう促す。
…南條は階下へ消える蔵臼の背中と書斎の扉を見比べると、深い溜め息をひとつ漏らすのだった。
「……すまんが源次さん。頼みます。」
「はい、……お任せ下さい。」
「お酒はなるべく与えないように。……あれは常習性が強すぎる。」
「源次はまだかッ!!! 何者が源次を阻んでいるというのか!! あぁ、源次はどこだッ、源次を呼べいッ!!!」
「さぁ、……ここはお任せ下さい。」
「…うむ。………すみませんな。」
南條は小さく頭を下げると、階段を下りていった…。
源次はそれを見送ると、書斎の扉をノックする。
「………お館様。源次でございます。」
「源次かッ!! 何ゆえ私をこれほどに待たすのかッ!! そこには誰もおるまいな?!」
「はい。私だけでございます。」
書斎の金蔵は席に戻ると、卓上の古風なスイッチを押す。
…すると少しだけ遅れて、扉の施錠が開く重い音が聞こえた。
金蔵は自分の書斎を家人が荒らそうとしていると信じていた。
あるいは、換気しようと誰かが窓を開けた際に彼にとっての重要な資料などが飛び散り、それがひどく彼を不愉快にさせたのか。
…今では金蔵は、自分の部屋に厳重な施錠を施し、自分の許可がなければ誰も入室できないようにして、自ら作った座敷牢に自らを閉じ込めているのだった。
もっとも信頼されている源次は比較的入室を許されているが、それも絶対ではない。
金蔵の機嫌が悪ければ入ることはできない。
………それ以外の人間には、顔すら合わせようとせず、扉越しに会話をするのがせいぜい。
しかも多くの場合、それは会話として成り立たなかった。
だが、それらは家人にとってさしたる問題にはならなかった。
気難しくなり、自らの怪しげな研究に没頭し引き篭もってくれる老いた当主の隠居に、わざわざ口を挟む理由もなかったからである。
……書斎から出てこないのを幸いに、使用人たちに世話を任せきりにして、自分たちもまた、隔離しているつもりなのだったから。
「源次、いつものやつを頼む。私は忙しい。」
「……はい。」
源次は、書斎の一角に向かう。
そこには怪しげなボトルが毒々しい色を自慢しあいながら陳列されていた。
…それは実際には酒なのだが、この怪しげな室内にあっては不気味な毒物だと疑ってしまいそうになる。
書斎の中は、金蔵が集めてきた奇怪なる蔵書が山を成していた。
それらはいずれも禁じられた、あるいは呪われた、あるいは封印された奇怪なる古書や禁書たちである。
もっともそれを古書と呼べば金蔵は猛り狂いこう言うだろう。
グリモワール(呪文書)と呼べ! と。
怪しげに溶けて奇妙な造形となった蝋燭や、黒魔術において何かの意味を持つのだろう、奇怪なオブジェクトの数々。
天球儀に記された星座は、今日の夜空をよく知る者が見たなら首を傾げるようなものばかりが記されている。
無造作に開かれたまま置かれた古書に記されているイラストは、いずれも宗教的な神秘的なもの、あるいは悪魔的なグロテスクなもの、そして様々な魔法陣の奇怪な図形。
そして何より、この部屋に充満する甘い毒の臭いは、この部屋に初めて訪れる者を、視覚的にも嗅覚的にも、そして感覚的にも深く冒し、現実感を喪失させるに違いない…。
そんな書斎の中で、源次はいつもの慣れた手つきで、金蔵の愛飲する酒を準備する。
複雑な意匠のボトルに満たされた暗緑色の不気味な液体は、酒だと教えられなければとても口に含む気にはなるまい。
……それをグラスに少々注ぎ、奇妙な形をしたスプーンに角砂糖を乗せてその上からピッチャーの水を注ぎ込む。
不思議なことに、暗緑色の液体は透明な水が注ぎ込まれると白く白濁する。
…それはまるで水と化学反応を起こしたかのような奇妙な錯覚を与え、ますますに酒だという認識を遠のかせた。
それに、金蔵が好む独自のフレーバーを加え、味を調える。
…レシピはない。
飲んだ金蔵の一喜一憂によってだけ出来具合を計り、数十年かけて身につけたものである。
源次はそのグラスを盆に載せ、金蔵の元に向かう。
金蔵はいつの間にか、窓の外を眺めていた。
「………どうぞ、お館様。」
「すまん…。」
ついさっきまで怒鳴り、叫び、絶叫していたのと同じ人物とは思えないくらい、金蔵は落ち着きを取り戻していた。
その男の背中には、ただグラスを傾けて窓から景色を見下ろすだけで示せる貫禄と知性が宿っていた。
源次は、金蔵がいつでもグラスを置けるよう、自らが生きたサイドボードであるかのように、じっとその左後方に控えていた。
すると金蔵は窓の外を見たまま、グラスだけを突き出した。
中身はほんの一口分ほど残っている。
それは源次の持つ盆に載せようという仕草ではなく、源次にグラスを譲ろうとするような仕草だった。
「……飲め。…我が友よ。」
「…………………勿体無いお言葉です。」
「私とお前の仲に儀礼はいらぬ。……飲め。友よ。」
「……………いただきます。」
源次はうやうやしくグラスを受け取ると、舐めるようにグラスをわずかに傾ける。
それから、くっと煽った。
「お前が作るのを真似ているのだが、どうにも同じ味が出ぬ。……お前が作る方が美味い。」
「………ありがとうございます。お館様のご指導の賜物です。」
「ふ…。」
金蔵は、無礼講にせよと言っても決してそうしない忠臣を鼻で笑う。
しかしそれは小馬鹿にしたものではなく、親しい友人の治らぬ癖に笑うような軽やかなものだった。
「………互いに老いたな。歳を数えることも忘れてすでに久しい。」
「今日まで過ごすことをお許しいただけたのも、全てお館様のお陰でございます。」
金蔵は、世辞はいらぬとでも言うように薄っすらと笑う。
「………今日まで、本当によく私に仕えてくれた。……息子たちは誰もが私を変人呼ばわりした。大勢いた使用人も皆、私を恐れて辞めていった。……お前だけが、今でも私に仕えてくれる。」
「…勿体無いお言葉です。」
「………私の余命もそう長くはあるまい。……息子たちは私の遺産がいつ転がり込んでくるかをうろうろ待つ禿鷹ばかりだ。」
「……………………。」
「蔵臼の愚か者は金を湯水のように使い、1枚の金貨を得るのに2枚の金貨を捨てておる。それで金を稼げたなどと妄言をッ!! 絵羽は金の亡者だ、あやつは私を鶏か何かだと思っておる!! 死んだらガラにしてダシまで取る気だ!! 留弗夫の間抜けは女遊びばかりッ!! 楼座はどこの馬の骨ともわからん男の赤ん坊など生みおって!! 朱志香は無能で無学だ!! 譲治には男としての器がない! 戦人は右代宮家の栄誉を自ら捨ておった愚か者だッ!! 真里亞など見るのも汚らわしいッ!! なぜだ、なぜに右代宮の血はこうも無能なのかッ!! 私の築き上げた栄光をッ受け継ぐに相応しい者はおらんのかッ?! あぁわかっておるとも、これがベアトリーチェの呪いであることもわかっておる!! …はッ、黄金の魔女め、それが私への復讐のつもりか。 憎みたくば憎むがよい! 逃げたければ逃げるがよい!! 逃がさぬ、逃がさぬ逃がさぬ逃がさぬわッ!! お前は私の物だッ!! 常に私の腕の中でなくてはならん! 私の生涯の全てなのだ!! 我が鳥篭にて永遠に私に、私だけに囁き続けるのだ!! ベアトリーチェ……。なぜに、…微笑み返してはくれぬ…。おおおおおぉ、おおぉおおぉぉ…!! ベアトリーチェぇえぇええぇぇえぇぇ!! おおおぉおおぉおぉおぉぉ……。」
それを咆哮すると、金蔵は再び咽る。
源次は盆とグラスを置くと、主人の背中をさする…。
源次の表情には何の変化もない。
………いつものことなのだ。
「…………ゲホン…。ンン。…………すまぬ、我が友よ。」
「……………………。」
さっきまでの錯乱のような発作が収まると、再び金蔵は落ち着きを取り戻していた。
…その変わり身は、まるでひとつの体に荒ぶる金蔵と落ち着きある金蔵の異なる二人が同居しているようにすら見えた。
「ゆえに。……私は決心した。…………………このままぼやけ切った余生を怠慢に過ごすことなど、もはや耐えられはせん。この身に、最後に賭するコインがあるならば、それを悪魔たちのルーレットに託してみたい。……魔法の力はいつも賭けるリスクで決まる。日本古来の呪術である丑の刻参りがそうであろう。七日間、儀式を目撃されてはならないというリスクを支払うからこそ魔力が宿る。困難なリスクが生じれば生じるほどに魔力は強く生じるのだ。
神話に登場する数々の奇跡は天文学的リスクに奇跡的な低確率を得て成就した驚愕すべき魔力の結晶なのだと言える! モーゼが海を割ったのは神の奇跡ではない、虐殺の秤に載せられ軍勢によって紅海に追い詰められた絶体絶命のリスクが奇跡の魔力を生んだのだ! 同じことが同じ規模で繰り返されようとも、再び海が割れることはないだろう。
なぜならモーゼは、力ある者たちのルーレットの、阿僧祇、那由他を掛けたよりも多く存在する目の中にひとつだけ刻まれた奇跡を見事引き寄せることができたからだ。その天文学的確率に勝利できる力!! そう、奇跡を掴み取る運気は即ち魔力なのだ!! 強大な魔力を得るためには絶望的なリスクを背負わねばならぬ!! 魔力持たぬ者はそれを賭けでなく自暴自棄と呼ぼう! しかし真に魔力ある者はその奇跡を掴み取り、神秘を成就させるのだッ!! もしも私にその魔力があるならば! 私はその奇跡を掴み取るだろう、生涯を費やした願いを実現できるだろうッ!!」
金蔵は窓の外の天を仰ぐ。
そして天上の何者かに訴えるように両腕を広げる。
「もしッ!!! 私にその奇跡を手にする資格があったなら!! ………おぉぉ…、ベアトリーチェ…、ベアトリーチェ…。お前の愛くるしい笑顔をもう一度だけ見せてくれ…。どれほどの月日を経ようとも、お前の面影が消えることはない…。ただお前の微笑が見たい…、それだけだ…! お前から授かったものを全て返そう! あの日からの栄光を全てお前に返そうッ! 富も名誉も黄金もいらぬ!! お前に授かった全てを返そうッ!! 私はただ、お前の微笑が見たいだけなのだッ!! 後生だ、ベアトリーチェ!! おおおぉぉぉおぉ…ぉおぉおお…ぉぉ…!!」
……世迷言の如き怒鳴り声は、いつしか絶叫になり、…そして慟哭になっていた。
金蔵はいつしか床の上に伏し、両手で床を掻き毟っていた。
源次は掛ける言葉もなく、慟哭する主を見下ろしているしかなかった…。
「やぁ、諸君。……当主様は具合が優れられないとのことだ。せっかくこうして一年ぶりの会合に集まってくれた諸君と、昼食を共にできないことを非常に残念にしておられた。……郷田、ランチを始めてくれ。」
「かしこまりました、それでは本日の昼食を始めさせていただきます。」
「……南條先生、そんなにお父様のお具合は悪いの? せめて顔くらい見せてくれてもいいわよねぇ?」
「体調というよりは、機嫌ですな…。こればかりは、付ける薬がありませんので。」
「おいおい、機嫌って、またかよ、そりゃないぜ。こちとら、秋のクソ忙しい時期にスケジュール都合してご機嫌伺いに来てるんだ。それをよぅ、」
「ふ…、良かったじゃないか、留弗夫。ご機嫌は伺えたんだ。……それとも、不機嫌な親父殿を私に代わり、お前が説得して連れてきてくれるのかね?」
「…………まっさかぁ。」
留弗夫は肩をすくめる。
自分勝手な親父だと憤りもするが、顔を見ずに済むならそれはそれで…というように見えた。
「夕食までにはその機嫌、直りそうなの? 蔵臼兄さん。」
「そんなことは知らんよ。親父殿に直接聞いてみるといい。…もっとも、声を掛けない方が機嫌の直りは早いと思うがね。」
「源次さんだけだよ、祖父さまの機嫌を直せるのは。情けないぜ、自分の親の機嫌を使用人に直させるんだからよ。」
「朱志香。余計なことは言わなくていい。」
いとこたちだけに聞こえるようぼやいたつもりだったが、しっかり蔵臼の耳にも届いてた。
叱られた朱志香はヘソを曲げた顔をしてソッポを向く。
「……機嫌が云々ってことは、病状はそんな悪くないんじゃねぇの? 元気がないってんならともかく、機嫌が悪いってのは、少なくとも気はしっかりしてる証拠だぜ。」
「お祖父さまは特に強い気力をお持ちだからね。…でも、体が必ずしもそれに伴えるとは限らないよ。去年からずっと、余命3ヶ月って言われ続けてる。…最初の診断が正しいなら、お祖父さまは気力だけで永らえてるってことになる。……気遣ってあげないといけないよ。」
当主の席を空席のまま始まる昼食。
…そこに座るべき人物はすでに老い、右代宮家を一代にして復興させた輝かしき栄光は忘れ去られつつある。
その席が空白のまま食事が始まることに、もう誰も違和感を感じないように…。
第3アイキャッチ10月4日(土)12時30分 が13時30分に進む
右代宮家の親族会議は年に一度。
10月の最初の土日に行なわれる。
世間一般的な家だったら、親族会議なんてもったいぶった名前で呼んだところで、久しぶりに親類が顔を合わせて寿司桶でも囲みながら挨拶する程度だろう。
しかし、莫大な資産の一部を息子兄弟に貸し出し、事業的な成功を以って一人前と見なそうという右代宮家では、それは文字通り会議であったという。
どれほどの資産を投じて、どのような事業を行い、どれほどの収益を上げたのか。
その結果、本家より借りた資産をどれだけ返済できるのか。
あるいは、さらなる事業のためにどれだけを借りるのか。
どのようなことが教訓となり、どのようなことから失敗が学べるのか。
そういうことをかつては大真面目に会議をしていたらしい。
それを指して親父は、針のむしろと呼んでいた。
相当厳しい親族会議だったらしく、罵声や怒声が次々と浴びせられ、いい年にもなって平手打ちをもらうこともざらだったらしい。
ただ、それも今では昔のこと。
皆がそれぞれに事業家として成功を収めた今では、世間一般的な、年に一度の挨拶的な会合になりつつあった。
それでも、祖父さまに近況を聞かれるのは非常にストレスになることで、俺たち孫にとっては単なる会合に過ぎなくても、親たち息子にとっては今でも胃が痛む会合らしい。
その張本人が、理由はどうあれこうして欠席してくれているのだから、さぞかし今日のランチは美味だったことだろう。
鬼の居ぬ間にとはよく言ったものだ。
さて、6年ぶりに顔を見る、朱志香の父親についても紹介しておこう。
うちの親父の左に座っているのが、親父の兄貴に当たり、朱志香の父親でもある蔵臼伯父さん。
……これは読みやすいな。
蔵臼で“クラウス”と読む。
…ここまで妙な名前が続くと、もうセンスが捻れてきて、クラウスいいじゃん、カッコイイなんて思うようになっちまうぜ…。
夏妃伯母さん同様、蔵臼伯父さんともあまりおしゃべりをした記憶はない。
あまり子供と話さない人で、いっつも大人たちと話している印象しかないという点では、夏妃伯母さんとまったく同じだ。
うちの親父の陰口によると、ずいぶんと陰湿で乱暴な人だったらしい。
親父の言い分が真実なら、昔は長兄として威張り散らしていたそうで、絵羽伯母さんにも楼座叔母さんにも嫌われているという親兄弟みんなの嫌われ者だそうだ。
……って割には、親兄弟、みんなで楽しく談笑してるじゃねぇか。
まぁ、子供の頃には仲が悪くても、大人になって互いが別々に生活をするようになると、関係が変わることもあるという。
そういうことなんだろう。
何しろ、それぞれが近い歳の子供を持っている。
近い境遇を持つ立場として、意見交換は互いにとって有益なんだろう。
そのせいか、さっきから親父たちの輪は俺と朱志香の受験の話ばっかりだ。
朱志香は左隣のうちのクソ親父に受験の話を振られないように、意識して逆の右方向を向きながら矢継ぎ早に話題を続けて隙を見せないようにしている。
あとは、蔵臼伯父さんたちとは逆側。
テーブル末席の霧江さんの向かいに座っている恰幅のいい老紳士だ。この人は初対面だった。
さっき紹介を受けたが、南條というお医者の先生で、祖父さまの主治医らしい。
隣の新島にでっかい診療所をお持ちだそうだが、息子にそれを譲り、今は悠々自適の老後だという。
祖父さまがこの島に屋敷を立てた当初からの付き合いだそうで、数十年の交流があるという。
まさか祖父さまの怪しげな趣味のご縁かと思ったら、意外にもチェス仲間なのだそうだ。
……なるほど、洋物被れの祖父さまらしい趣味だぜ。
親族と使用人を除いて、ただひとり六軒島に出入りできる存在とも言えるだろう。
席の近い霧江さんたち女性陣との会話を聞いている限り、落ち着きのある老紳士という感じだ。
……短気な祖父さまとこれだけ長く付き合えたのだから、その大らかさはただものではないだろう。
…ただ、今日という親族会議の日に、主治医とは言え右代宮家以外の人間が同席しているというのも、少し妙な話だった。
そのことから何となく、祖父さまの容態がだいぶ悪く、それが親族会議の議題のひとつとなっているのではないかと想像する…。
さっき譲治の兄貴も言ってる。
祖父さまは去年辺りから余命が短いというような宣告をずっと受け続けてると。
…汚ぇ話だが、これだけ大富豪の祖父さまだ。
死ねば遺産がどっと出て、親父たちの胃酸も同じくらいどっと出て、さぞや胃潰瘍になるだろうよ。
こういうのの分け合いは多ければ多いほどトラブルになるそうだからな。
…そういう話も、親族会議には含まれるのかもしれない。…まぁ、俺たち子供にゃ関係ないことだが。
……最後に、空席ではあるが、祖父さまの紹介をしよう。
あのお誕生日席に座るべき人物は、右代宮金蔵。
…ひでぇ話さ。一族にみんな妙な名前をつけやがった分際で、自分は金蔵(きんぞう)なんてえれー無難な名前を名乗ってやがる。
そこで金蔵と書いてゴールドスミスとでも呼ばせたら、素敵ー!って絶叫しちまうんだけどな!
さっきから何度か話題に上ってるので大体わかるだろうが、非常に短気でおっかないお人だ。
…俺は孫だし、最後に会ったのは6年前の小学生の時だったので、叩かれたりした覚えはないんだが、親兄弟たちはずっと鉄拳で教育されてきたらしい。
さっきの、不機嫌な祖父さまをお前が説得に行くのかという、蔵臼伯父さんとウチの親父のやり取りを、そういう裏を知った上で聞いてみると非常に微笑ましくなっちまうわけさ。
その祖父さまを語る上での重要なエピソードは、それこそ昭和以前にまで遡って右代宮家を語らなければならない。
右代宮家は、明治・大正の頃までは隆盛を極めたそりゃあ立派な家柄だったそうだ。
紡績工場をいくつも持ち、毎日笑い転げてるだけで金が転がり込んでくる富豪っぷりだったらしい。
ちなみに祖父さまは分家筋で、本来なら右代宮本家とは何の関係もない人だった。
当主継承権からも遠く、煌びやかな本家とは縁も遠かったらしい。
ところが大正12年の関東大震災で、当時、小田原に屋敷を持っていた右代宮本家はペッタンコ。
東京下町に持っていた紡績工場は大火事で全焼し、右代宮家は一瞬にして主だった親族と財産を丸ごと失ったんだそうだ。
それで右代宮本家の跡継ぎは誰だってことになったら、分家筋も分家筋の金蔵祖父さましか残ってなかったらしい。
本人は後にこのことを、運命がひっくり返るほどの強運だったと述懐してる。
それで、平凡だった祖父さまの生活は一転。
財産のほとんどを失った瀕死の右代宮家の再興を託されることになった。
もっとも、いきなり託されたって何ができるわけでもない。
周りの人間たちもそう多くを期待はしなかったろう。
だが、祖父さまが非凡な才能と強運を発揮し始めたのはここからだ。
祖父さまは右代宮家に残された全財産と自分の頭髪から足の爪まで丸ごと担保に入れるような状態で巨額の借金をし、莫大な資本金を築くと、すぐに事業を興した。
こんなのブレーキのない自転車で坂道を転がり落ちるような状態だ。
その状態のまま、隣の自転車へ飛び乗り、さらに隣の自転車へ! ってな大道芸もいいところ。誰だって祖父さまには商才がないと思っただろう。
だが、信じられないような強運や奇跡、偶然をいくつも積み重ねて次々にチャンスを物にし、いつの間にか進駐軍に強力なコネクションを持つようになっていた。
当時の日本は、マッカーサーとGHQは天上の存在ってな時代だ。
祖父さまは瞬く間に進駐軍の庇護下で大事業を成功させて成り上がっていくことになる。
そして、ここまで至ればもう運じゃなく情報勝ちだったんだろう。
よっぽどぶっといコネクションを進駐軍に作ったに違いない。
……祖父さまは朝鮮特需が起こるのを、その前から知っていた。
いや、それどころか、朝鮮特需が起こることを最初から見越していて事業を食い込ませていたのだ。
歴史の教科書じゃ、朝鮮特需で日本中が大儲けしたような感じで記されているが、現実にはそうじゃない。
ごく限られた大金持ちがマネーゲームに勝って濡れ手に粟だっただけだ。
ほとんどの国民は貧しいままだった。
……だからつまり、祖父さまは極めてラッキーな勝ち組の1人だったわけだ。
朝鮮特需が確か、昭和25年頃だっけ?
んで、関東大震災が大正13年ってことは。
……祖父さまは瀕死の右代宮家を、わずか20数年でかつて以上に復興させちまったわけだ。
それで、縁ある小田原に本家を復興すると思ったら、何と、伊豆諸島の小島を丸ごと購入するというとんでもないことをしちまった。
島を丸ごと買うなんて、今じゃ並大抵のことじゃできない。
だが、祖父さまはうまかった。
GHQを通じて、水産資源基地を建設したいと申請。
この島を事業地として取得し、その後、そいつを反故にして自分の土地にしちまったわけだ。
戦後の食糧難対策ってことで、しかもGHQの肝煎りじゃ誰も逆らえない。
当時の東京都はほとんどタダ同然のカネでこの土地を提供したそうだ。
後に東京都は返せとゴネたらしいが、強引とは言えGHQが絡んでる。
どうせ袖の下もばっちりだったんだろうぜ。
結局、都は泣き寝入りすることになった。
祖父さまは本当にうまく、そして強運に恵まれて時代の荒波を泳ぎ切り、莫大な財産と自分だけの島までをも手に入れたのだ。
もちろん、運だけでもないかもしれない。
西洋かぶれで培われた英語力。
それを武器にGHQに食い込むことができたのだから。
島にはすぐに屋敷が建てられた。つまりこの屋敷だ。
昔っから西洋被れだった祖父さまは、この無人島だった六軒島を、思う存分自分の夢を実現できるキャンバスにしたんだろう。
ずっと思い描いてきた情緒溢れる西洋屋敷に、様々な薔薇の植えられた美しい庭園。
そして自分以外は誰も足跡を残すことが許されぬプライベートビーチ。
……男子、ここまでできりゃあ本懐だよな。
その後は莫大な資産をうまく運用し、超安定の鉄鋼業界の大株主となり、その配当金だけで悠々自適というわけだ。
ま、そんなすげぇお人なわけさ。
こういう人物には大抵、時代を見通す先見の明があったとか、そういう評価が後付で付くもんなんだが、祖父さまはそれらを全て否定し、自分は単に並外れた運気に恵まれていただけであると言い続けたそうだ…。
……まぁ、そんな名君も、自分の夢を全て実現してこんな島に引き篭もっちゃ、だんだんおかしくもなるのも仕方ないってもんさ。
昔っから西洋かぶれだったってのは誰でも知ってるが、…怪しげな黒魔術趣味は一体いつ頃からなのか、親兄弟たちもよくは知らない。
大昔からの西洋かぶれが黒魔術趣味も含んでいたのか、それとも、戦後の奇跡的お家再興の強運に、自身が神秘的な何かを感じたのかもしれない。
…いつの頃からか祖父さまは黒魔術研究をライフワークにし始め、自分の書斎を怪しげな書物や薬品薬草、マジックアイテムで埋め尽くし始め、どんどんおかしくなっていったそうだ。
人生の成功者の余生なんだから、どう過ごそうと勝手だと、周りは温かく?見守ったそうだが…。
………絶対ぇウソだな。
気持ち悪ぃから関わりたくねぇとドン引きしてただけだろうぜ。
ま、…動乱の時代はチャンスとリスクの大博打時代だったわけさ。
祖父さまだって今の世に生まれてみろ。
何のチャンスもなく、のんびりまったりと義務教育から大学までコマを進めて、きっと平凡なサラリーマンをやってただろうぜ。
そうしたならあそこに座って、職場の上司の悪口に花でも咲かせてたかもな。
いやいや、こんなお屋敷の食堂じゃなくて、飲み屋の掘りごたつだったかもしれねぇぜ。
そうだったなら、さぞや気楽な親族会議だったろうによ。
さて、死に損ない祖父さまの話なんかもういいだろ。
それより、この素ン晴らしいランチの話をしようぜ〜ん?!
「前菜の、刺身のサラダで俺はすでに確信してたね! 郷田さんは大したシェフだぜ! しかも魚は近海で取れたやつだろ?! スーパーの刺身とはわけが違ったぜ!」
「おいおいよせよ戦人ぁ。育ちがバレちまうだろうが。」
みんなが大笑いする。
ちぇ、てめぇだって貧乏臭い一杯飲み屋が好きなくせに。
「はははは。僕も仕事の都合で珍しいところで食事をすることもあるけど、それらと比べても、これはかなりのものだよ。郷田さんは多分、その道じゃ少しは知られた人だったんじゃないかな。」
「よくは知らねぇんだけどよ。老舗ホテルで暖簾分けだか派閥の分裂だかややこしいことがあってよ。そのトラブルで辞めざるを得なくなっちまったんだってさ。それでその時、偶然、お袋が使用人の求人を出してたわけなんだよ。」
空いた皿を下げる郷田さんが笑顔は崩さないままに、決して平坦ではなかった自分の過去を振り返っていた。
「……世の中というのは難しいものです。しかし、そのお陰でこうして今日、右代宮家で再び料理人として腕を振るう機会を賜ることができました。大勢の方の笑顔も嬉しいですが、お仕えすると決めた限られた方々にだけ喜んでいただくために、繊細なお仕事ができるのも、とても楽しいことでございます。これも全て、機会を下さった奥様のお陰です。」
郷田さんはうやうやしく夏妃伯母さんに頭を下げる。
「応募のあった中で、郷田が一番腕がよかったからです。客観的判断に基づくもので私情はありませんので感謝には及びません。」
…やれやれ。夏妃伯母さんってどうしていつもこう、淡白な言い方なのねぇ。
もうちっとこう、やさしい言い方ができたなら、与える印象も違うだろうに。
廊下から配膳ワゴンと一緒に紗音ちゃんと熊沢さんがやって来た。
「……失礼いたします。」
「それでは本日のデザートに移らせていただきます。」
郷田さんたちが、美しく飾られたデザートをみんなの前に並べてくれた。
デザートは別腹って言うけど本当だな…。
あれだけの美味いものをこれだけ食わせられて、もう充分なんて思ってたら、このデザートを見た途端に、まだまだイケルぜなんて主張しだしてやがる。
俺はデザートには詳しくないんだが、とにかく美味そうだった。
白いプリンみたいなものに、真っ赤な2色のソースが添えられ、上品に薔薇の花びらまで飾られている。
こういう上品なお食事だと、全員の前に配られ、それからシェフによる料理の能書きが語られる。それが終わるまでは基本的にお預け状態だ。
だが、そういう堅苦しいルールとは無縁の真里亞は、綺麗でおいしそうなデザートに興奮し、目の前に置かれた途端にすぐにむしゃぶりつくのだった。
楼座叔母さんが、行儀が悪いと叱るが、譲治の兄貴がまぁまぁいいじゃないですかとフォローする。
「うー?! こっちの酸っぱい! こっちの酸っぱい! 戦人、こっちのはハズレー! うー!」
真里亞が2色のソースを味見して、大声をあげる。
「何だと、アタリとハズレがあるのかよ、よし俺も味見をしてやるぜ〜! むむぅ?!」
2色のソースは甘味と酸味の2つの味になってるらしい。
俺も行儀は悪いが小指に付けて舐めてみる。
おう、片方はなかなかキュっとくる酸っぱさだぜ。
黄色いソースならレモンかなとも思うが、赤い色だと何の酸っぱさか見当もつかない。
俺たちの後で配膳ワゴンを片付けている紗音ちゃんに聞いてみることにする。
「紗音ちゃん、この酸っぱいのは何のソースだい?」
「……ぇっと……、…………あの…、……ぅ…、」
紗乃ちゃんが言いよどむ。
配膳はしてるがよくは知らないということなんだろう。
にしちゃ、やたらと窮している。……悪いこと聞いちゃったかな?
それとも、聞いてはならない材料でも使ってるんだろうか。
夏妃伯母さんが頭痛でもするような仕草を見せると、向かいの席で配膳していた熊沢さんが、ほっほっほと笑い出す。
「何の材料を使っていると思いますか? ほっほっほ、驚きますよ…。」
「え、…ぜ、全然わかんねぇぜ。というか、熊沢の婆さんがそういう笑い方すると不気味でならねぇぜ。んで、何なんだよ正体は!」
「……ナイショですよ? お耳を拝借。」
向かいから熊沢さんが乗り出してくる。
耳を貸せというので俺も乗り出す。
興味を持ち、朱志香も譲治兄貴も、もちろん真里亞も熊沢さんに耳を寄せる。
「うー。何? 何ー? 早くー! 早くー!」
「この酸っぱいのはですねぇ。……実は、お魚の鯖の絞り汁ですよぅ、ほっほっほ!」
「「「ええぇーーッ、サバぁッ?!?!」」」
そんな馬鹿なと仰天する俺たち。
納得した顔でウンウンと頷くのは真里亞だけだ。
「うー? 鯖は酸っぱいよ? 絞ったらこうなる!」
「「…ぷ、わっはっはっはっは…!」」
真里亞が鯖は酸っぱいと騒ぎ出すと大人たちは笑いを堪え切れなくなった。
楼座叔母さんだけが赤面して真里亞に、違うわよ、酸っぱいのはしめ鯖でしょ! と小声で言う。
あーー、もう完ッ璧に思い出したぜ。熊沢さんってこういうキャラなんだよなぁ!
俺も小さかった頃、熊沢の婆ちゃんに色々と騙されてた気がするぜ!
中でも致命的なのはアレだ! 中華料理に入ってる黒いヘロヘロ! キクラゲだよ! あれのこと、ペンギンの肉って吹き込まれて、俺、得意げに学校で言いふらしてたんだぜー?!
「熊沢の婆ちゃん、相変わらずだなぁ…! 真里亞が信じちゃうだろー?」
「ほっほっほ、冗談ですよ? 今から郷田さんがソースの正体を教えてくれますからねぇ?」
郷田さんは自分の自信作を怪しげに笑われてちょっとだけ不満そうだったが、咳払いをひとつしてからデザートの紹介をしてくれた。
「それでは、デザートのご説明をさせていただきます。本日は、ご来賓の皆様が大層お気に入りでございました薔薇の庭園にちなみまして、パンナコッタをローズガーデン風に仕上げてみました。散らしてございます薔薇の花びらは当家の庭園より先ほど採取してきたものでございます。ソースはストロベリーとローズヒップの2色の赤をご用意しました。ストロベリーの甘味とローズヒップの酸味を交互にお楽しみになって下さい。なお花びらは観賞用となっておりますので避けてからお召し上がり下さいませ。それではどうぞお楽しみ下さい。」
……はーー…。…なんつーか、食う前から拍手したくなるよなぁ。
薬だってそうだろ、ただ飲むより、説明書のウンチクを読んだほうがより効く気がするしな。
郷田さんの能書きで、さらにデザートがパワーアップした気がするぜ。
しかし、芸が細かいというかうまいというか。このデザートはもともと予定されていたものだろうが、俺たちが事前に薔薇庭園で足を止めていたことからヒントを得て、表の庭園の花びらをちょいと添えるだけで、ものすごいタイムリーな季節感を演出している。
甘いのと酸っぱいのの2種類の取り合わせも絶妙だ。
ただ甘いだけだったら途中で慣れて飽きてしまう。
そんな時に酸っぱい方のソースを絡めると、とても鮮烈な味がするし、もう一度甘いソースに戻ると、口の中が酸っぱくなっているので再び甘味を楽しめるのだ。
それはみんなも同じだろう。
郷田さんが席の近くを通りかかる度に、味とその工夫を褒め称えるのだった。
「いかがですか、奥様。」
「相変わらず見事です。お客様を御持て成しするに値します。」
「恐れ入ります。……奥様、ご存知ですか? ローズヒップには頭痛に効く効果もあるそうですよ。奥様に特にお気に入りいただけるかと思い、特別にご用意させていただきました。」
「…そう。ありがとう。」
「ほら、言ったでしょ夏妃姉さん。ローズヒップは頭痛に効くって。」
「みたいね。…効くといいんだけど。」
「はぁー! 郷田さん、あんたにゃ惚れるで! なぁ、後であんたの待遇、聞かせてや! 無理ならあんたの欲しい年収、指立ててくれるだけでもええんやで! あんたの腕がこの島だけで独占されとるのは人類の食文化に対する冒涜や! その腕、わしの会社で振るって、お客の皆さんを喜ばせてみる気はないかのぅ!」
「はっはっは、秀吉さん。うちの郷田を引き抜かれるのですか? これは困った。郷田の待遇をもっとよくしないと引き抜かれてしまいそうだ。」
「くすくす、そうした方がいいわねぇ。じゃないと引き抜かれて、三食が熊沢さんの鯖料理にされちゃうわよぅ?」
「ほっほっほ、これはこれは手厳しゅうございます。すっかり根に持たれてしまいまして。」
「「「わっはっはっはっはっは!!!」」」
みんなが大笑いする。
朱志香によると、熊沢さんの「鯖ネタ」はある種の繰り返しギャグであるらしく、親族たちにとってはもうとっくにお馴染みのネタなのだそうだ。
熊沢さんは、鯖には貴重な栄養が含まれていて、老化防止にいいとか頭が良くなるとかいろいろ効能を説いてくれていた。
…外見の老化は防止できてないようだが、中身の老化は防いでいるようだ。
あの歳でこんな冗談が未だ言える元気があるなら、その効能は本物だ。
「ほっほっほ…。それでは失礼いたします。夕食には奮って! たくさんの鯖料理をお召し上がりいただきますので、どうぞご期待くださいませね?」
「わっはっはっは、期待してるよ。今晩はしめ鯖でキュっとしゃれ込みたいぜ。
;」
「それは素敵ね。ついでに日本酒のおいしいのも出てこないかしら。」
「えぇ、ございますよぅ? 六軒島名物の鯖焼酎なるものがございまして…。」
「「「わっはっはっはっはっは!!!」」」
熊沢さんは紗音ちゃんと一緒にお辞儀すると、配膳ワゴンを押しながら退出していった。
すっかりお株を奪われてしまった郷田さんが、今晩は仔牛のステーキですのでと大真面目に弁明しているのも可笑しかった。
「……あの…、
………熊沢さん、…さっきはありがとうございました…。」
配膳ワゴンを押しながら、紗音は深々と頭を下げた。
「ほっほっほ、なぁんもお礼を言われることなんてありません。」
熊沢は惚けるが、もちろんわかってて出した助け舟だった。
さっき、戦人にデザートの詳細を聞かれた時、紗音は言いよどんでしまった。
かわし方はいくつかあるかもしれないが、いずれもスマートであるべきだ。
答えに窮するとすぐに言いよどんでしまう紗音は、ただそれだけの短所のためにいつも損をしていた。
郷田のように、ミスがあってもうまく立ち回れる狡猾さがわずかにでも紗音にあったなら、もう少し気楽に日々を送れたろうに。
…そつなく仕事をこなせる分、その短所は非常に気の毒だった。
もっとも、ミスを言い繕って誤魔化すことを思いつかない紗音の素直さは、わかる人間にはわかる。
…だからこそ、熊沢もさらりと助け舟を出してくれるのだ。
「さっき源次さんが、午後のシフトに変更があると仰ってましたよ。確か紗音さんは、夕方までお休みがもらえたと思いました。ほっほっほ、うらやましい。」
「え、…ぁ、すみません、シフト表を確認していませんでした。」
「そうそう。オーブンでこれからちょっと鯖を焼こうと思ってるんですよ。できたら、お休みの前にちょっと手伝ってくれると嬉しいですねぇ。」
「あ、はい…! 喜んでお手伝いさせていただきます。」
紗音にとって熊沢は、使用人としての母親のようなものだった。
食堂は片付けがあるので追い出された。
その代わり、客間でお茶が振舞われることになる。
楼座叔母さんが夏妃伯母さんに買って来た紅茶を淹れてくれるらしい。
真里亞もその紅茶を飲みたいと主張したが、子供は表で遊んでこいとうちのクソ親父に言われて却下された。
「戦人くん、みんなで表に散歩に行かないかい?」
「薔薇でも見に行ったらえぇ。でも天気には充分注意するんやで。空はまだ明るいが、天気予報は降る降ると繰り返しちょる。」
「うー! 真里亞は海がいい、海がいい!!」
「あら、素敵じゃない。砂浜で遊ぶなんて、普段はなかなかできないものねぇ。」
「そっか。よし、じゃあみんなで浜辺でも行こうぜ!」
「うー! 行こう行こう!」
「真里亞、服を濡らさないようにするのよ。靴もよ。」
「うー! 濡らさない!」
「くす、素直で可愛いぃ。戦人くん、真里亞ちゃんの面倒、ちゃんと見てあげてね。」
「おうよ、任せろ!」
「ほ〜ぅ、お前も霧江に頼まれると素直で可愛いじゃねぇかぁ。…たまには俺の言うことも素直に聞いてみろよ。」
「ヘッ! まっぴらゴメンだぜぃ! 行こうぜみんな、ほらほら!」
子供たちは客間を飛び出していった。
入れ替わりに配膳ワゴンを押した源次がやって来て、紅茶を準備してくれた。
客間は気高い香りに満たされ、喉を潤す前からとても楽しませてくれた…。
「はっはっはっはっ は…。留弗夫のところは家族仲がいいじゃないか。良いことだ。」
「よせよ、兄貴のところにゃ負けるぜ。」
「そうよぉ。朱志香ちゃん、本当に可愛らしく育ったじゃない。これも夏妃姉さんの教育の賜物ねぇ?」
「………どうも。」
夏妃は素っ気無く答える。
…そこで会話が途切れたので、客間は沈黙してしまった。
それに耐えられないのか、秀吉が大袈裟に身振りしながら話題を再び切り出す。
「しっかし、成長は早いもんやで。…いつまでも子供だと思っとったが、図体は見る見るでかくなり、いつの間にか大人の仲間入りや。戦人くんなんか見違えたで!」
「体は大きくなりましたけど、まだ子供です。うちの主人も未だに子供ですけれど。」
「…子供と大人の境ってどこなのかしらね。私、未だに大人になったって自覚が持てない。」
「ふ、情けないじゃないか。一児の母の言うことではない。」
「そうね。私たちももう子供じゃない。大人同士よ。だから感情的にならず、知的な会話をしたいわねぇ。」
絵羽がちくりとする嫌味を込めて微笑むと、場の空気が少しだけ硬くなる。
…せっかくの紅茶の香りが飛んでしまった気がした。
「知的な会話なら昔からいつも心掛けているじゃないか。……お前の嫌味は、時に的を外している。昔から変わらない。」
「…昔からいつも、ですって? あらあら。その言葉を綺麗に包装して、何十年か前のこの部屋に届けてあげたいわね。ねぇ楼座ぁ?」
「………………。」
楼座は曖昧な顔で笑う。
…肯定しても否定しても兄か姉の不快を買う。
末っ子ゆえに養わざるを得なかった処世術だった。
「よせよ姉貴。ガキどもがいない間に本題に入ろうじゃねぇか。それこそ知的な話を。」
留弗夫が一同の顔を見渡すと、ある者は小さく溜め息を吐き、ある者は小さな観念を浮かべる。
……避けずにはいられない、本当の議題だった。
「去年の時点で余命3ヶ月だったんだ。ってことはすでにマイナス9ヶ月ってことじゃねぇか。いつお迎えが慌ててすっ飛んで来るかもわからねぇ状態ってことだぜ?」
「………当主様は今でも健在でおられます。このような不穏当な話を日も明るい内からなさろうとするなど、留弗夫さんの正気を疑わざるを得ません。」
「だがな夏妃さん。…こういうしょっぱい話は、いざことがあってからじゃあ遅いんや。今が元気だからこそ、余裕ある内にしとくもんなんやで。これも財産のエチケットみたいなもんや。」
「諸君の関心は親父殿のようじゃないか。…南條先生。あなたから説明して下さいませんか。彼らもそれをお望みらしい。」
「…………………コホン。」
窓辺で薔薇庭園を眺めていた南條は、自分が呼ばれたことに気付くと咳払いをひとつした。
「……南條先生。…お父様の具合はどんな感じなんですか?」
「まず初めに…。私が去年申し上げました余命3ヶ月という言葉が独り歩きをしているようですので、その訂正からいたします。」
「言われずともわかるわ。余命というのはあくまでも見込みであって約束ではない、と仰られるのよねぇ?」
「…左様です。ですから、皆さんから度々お尋ねを受けますが、いつ亡くなるのか、ということは決して断言できないことなのです。人の命は体と心に支えられております。…体が弱れば危うくもなりますが、それを補う心の強さがあれば、小康状態を維持することもあるのです。」
「体はともかく、お心はまだしっかりしていて意気軒昂でいらっしゃられる、ということですね。」
「………霧江、すまんがしばらく黙っててくれ。」
「……ごめんなさい。」
「左様です。金蔵さんの体はすっかり病魔に蝕まれております。増してや、あのような強いお酒を嗜まれ続けてはとてもとても…。」
「崖っぷちなのも酒のせい。永らえてるのも酒のせいか。酒豪の親父らしいな。」
「それで先生、もちろん見込みで結構なんですけども…。……お父様、来年の今日まではさすがにどうかしら…?」
「当主様に対してあまりに無礼な質問です。」
夏妃が憮然とした表情を隠すこともなく絵羽に突きつける。
それに対し絵羽は不敵な表情を返すが、それに気付いた秀吉がすぐに取り繕うように苦笑いする。
「あぁ、夏妃さん、堪忍な! 絵羽、お前も少し言葉を選ばんか。」
「ごめんなさい。お父様の容態が気になって仕方なかったもので。くす。」
「…………そうですか。それは気付きませんでした。」
「南條先生、聞かせてやってください。父親の寿命を気遣う娘の麗しい家族愛じゃないですか。」
蔵臼が嫌味をこめた笑いを向けると、絵羽もにっこりと、まったく同質の笑いを返す。
「…来年までお元気か、という質問ですが。……医者の私としてはとても難しい。この小康状態がまだしばらくは続くようにも思いますし、
何らかの発作が来ればその時にはどうしようもないかもしれません。……何しろ、六軒島は孤島です。すぐに救急車が飛んで来れるわけではありません。本来ならば、本土の然るべき大病院に入院していただきたいところなのですが…。」
「親父殿は高尚な研究を中断されたくないと仰せだ。……去年、無理に連れ出そうとしたのが仇になったらしい。外へ出れば病院に閉じ込められてしまうのではないかとひどくお疑いになられていてな。すっかりこのザマなのだよ。」
「南條先生の診察は受けておられるの?」
「親父殿は南條先生には心を許しておられる。…機嫌が良ければ診察も受けられるようだがね。」
「……容態を見はするが、薬を勧めようとも入院を勧めようとも、聞き入れてくれん。……本当に見るだけですがな。」
「お医者嫌いの方もおるもんや…。しかし困ったもんだのお!」
南條が大きく溜め息をつく。
医者の診察はその後の治療の指針とするためのものだ。
診察は受けても、その後に従わなければ何の意味もない…。
「つまりおさらいすると。相変わらず余命は3ヶ月。瀕死のまま後どれだけ永らえるか見当も付かねぇってことだ。」
「………留弗夫さん。言葉を少し慎まれてはいかがですか?」
「あぁ、すまんね。昔からこういう口の聞き方なんだ。勘弁してくれ。」
「南條先生のご意見はわかった。……蔵臼兄さんから見てどうなの?」
「……ふ。実を言うと、南條先生とは異なる意見でね。とても余命3ヶ月の重病人とは思えないというのが本心だ。怒鳴り声は相変わらず健在で、いつぶん殴られるかと冷や冷やしっぱなしだよ。……長男にだけ親父の世話を押し付けるのは実にフェアではないね。」
「はっはは。来世では俺より後に生まれろよ。………さて、話を戻そうぜ。そんなわけで、公正中立なお医者の先生の見解じゃ、いつお隠れになっちまってもおかしくない状態だ。兄貴にゃ悪いが、ここは専門家の意見を採用させてもらうぜ? となりゃ、決して親父の財産を話し合うことは時期尚早ではないってことさ。」
「お父様の個人資産は恐らく数百億にも届くでしょうねぇ? でもそれは、綺麗な現金で揃ってるわけじゃないわ。お誕生会のケーキみたいに、綺麗にナイフが入ってカットできるほど単純じゃないでしょぉ。」
「…姉貴の例えは面白ぇな。そうさ、ケーキの上には苺やらチョコの家やらが載ってて、綺麗に等分するのが難しいことだってあるだろ。それを加味して、どういう風にナイフを入れるのか、先に相談しておくのは大切なことだと思うぜ…?」
「それを、当主様が存命の内から、さも他界なされたかのように声高に議論される皆さんの気がしれません。」
「あらぁ、必要な話よぅ? だって遺産相続は、その時点で直ちに行なわれなきゃならないものよ? 増してや栄光ある右代宮家の財産は莫大。事前に入念な相談が必要なことはおわかりでしょうが。当家の資産は、あなたのご実家とは大違いなんだからぁ。」
「……失礼なっ。私の実家は関係ありません。」
夏妃が憤慨しながらも低い声で言い返すと、沈み込んでいた場の空気はさらに険悪さを増していく…。
「よさんか絵羽…。夏妃さん、堪忍な! 口が悪いのは許したってな。」
秀吉が取り繕うように、両者に愛想笑いを向けるが、それはかえって絵羽と夏妃の険悪さを引き立たせるだけだった…。
「…………これ以上は、お邪魔なようですな。失礼させていただきましょう。」
南條は席を立ち、客間を出て行く。
……部外者ならば当然の気遣いだろうが、この場を退出できることを羨む眼差しがその背中を見送っていた。
退出し、その足音が遠ざかって消えた頃、蔵臼は足を組み直した。
「つまり、お前たちの言い分はこうかね。……親父殿の余命は短い。遺産分配について早急かつ具体的な協議に入りたい。……何を焦っているのかね。確かにお前たちの言う通り、右代宮家の財産を算定し分配するのは簡単なことではないだろう。なればじっくりと算定すべきじゃないのかね? お前たちは今晩の内にもケーキを切り分けたいと焦っているように見える。そうだろう、楼座。何を焦ることがあるのかね?」
「……………焦ってるわけじゃない。…でも、兄弟の間での取り決めは必要。それはいつでもいいことだけれども、お父様の具合が悪くなっていて、その日が近付いているというなら、先に話だけしておいても…、それは性急とは言わないと思うし…。」
楼座は絵羽と留弗夫の方をちらりと見る。
…歳がもっとも開いた末妹の彼女にとっては、長兄の詰問は辛いものだった。
「………ほぅ。それはお前の本心かね? 兄弟で一番素直で綺麗な心を持っていたお前がそんなことを言い出すとは思えんね。そこの2人に吹き込まれたんじゃないのかね…?」
「……………………。」
「よせよ兄貴。楼座だって兄弟だぜ。親父の遺産に公平な権利がある。関心を持つのは当然じゃねぇか。…親父だっていつかは必ず死ぬし、それは遠い未来の話でもない。……むしろ兄貴が悠長すぎるくらいさ。まるで遺産分配から話を逸らしたくて仕方がないように見えるぜ。」
「………それはどういう意味ですか。主人にやましいところがあると仰いたいのですか。」
「ま、まぁまぁ夏妃さん。話は聞いておくんなはれ…。」
「兄さん、今は大変強気だそうじゃない? そうよねぇ、去年以降、空前の好景気で円は上がる一方。$が100円に至るのだって夢物語じゃなさそうよぅ? それに、与党は来年頃に保養地整備法を成立させようって言うじゃない。今や日本中のリゾート開発会社が、どれだけ軍資金を集められるかって奔走しているところよ。」
「……詳しいじゃないか。これから日本には空前の好景気が訪れる。親父殿が右代宮家を再興した時と同じ、朝鮮特需の再来さ。……日本国民は死に物狂いで働き高度経済成長を実現して世界で一番豊かな国民となり、我が世の春を謳歌するようになった。国民の消費は増大し、それを回収できる施設が泡銭を手にする時代になったのだよ。今や国民のニーズは三種の電化製品ではない。スキー場、ゴルフ場、総合プール。リゾートホテルにテーマパーク!
数年前に開業したデルゼニーランドには行ったかね? 素晴らしい遊園地じゃないか! あそこでは大人も童心に返り家族で楽しむことができるんだ。かつて家族を顧みずに滅私奉公することだけが美徳だった時代はもはや終わろうとしている。我々は、世界で一番豊かな国民として、ようやくそれを享受できるようになったのだよ。」
「蔵臼兄さんの読みは大したもんや。…わしも数年前に聞いた時はそんなアホなと思ったわ。……でもな、G5のプラザ合意聞いてから変わったんや。円は見る見る強くなり、地価はこれから天上知らずに上がるやろ。日本が世界経済の中心になる日も遠くはない。……兄さんは時代を見る目のあるお人や。それだけは間違いないで。」
「秀吉兄さんに同じだ。兄貴は10年越しで時代を読めてるよ。その嗅覚は親父譲りだろうな。大したもんだぜ。……だが、親父と違って、ちょいと見通しのタイミングを読み違っちまったところはあるよな?」
「兄さんは、必ず日本が好景気を迎えると信じて、あちこちにリゾート計画を起こし、そのほとんどで失敗し続けたわ。…兄さんの読みどおりの時代は確かに訪れつつあるけど、その時期を読むことには失敗したわねぇ。……早過ぎたのよ。そして焦って清算して、結局は傷口を広げたわぁ。…本当に嗅覚がアテになって、好景気が訪れることを読めていたなら清算するわけない。これって、兄さんが自分で自分の才能を信じてない証拠じゃないのぅ?」
「……失礼な! 主人を侮辱するつもりですか。」
夏妃が眉間にシワを寄せてソファーを立ち上がる。
絵羽はまったく気にせず、余裕ある微笑みで蔵臼を凝視していた。
…蔵臼もまた余裕を崩さず、夏妃に座れと告げる。
「よさないか夏妃。昔からこういう言い方しかできないやつだ。…少し落ち着きなさい。また頭痛に障る。」
「兄さんに才能がない証拠は、私たちのすぐ近くにもあるわよ。…………だって兄さん、この島をリゾート化するって張り切ってたじゃなぁい? 素敵なリゾートホテルも建てて、庭園も綺麗に整備してぇ。私は素人だからわかりかねるけど、相当のお金を使ったんでしょ?」
「だから何だと言うのですか! 主人の事業はあなたとは関係ありません!」
「いいや、そいつは違うぜ夏妃さん。六軒島は兄貴の物じゃない。親父の物だ。もちろん建てたホテルは兄貴の物だぜ? 何なら俺たちは今夜の宿泊料を払ってやってもいいさ。なぁ楼座。」
「……………それは、まぁ。…持ち合わせで足りるなら。」
「リゾート化できればこの島の資産価値は上がる。支出がかさんだことは事実だが、未来に大きな収穫を期待できる。そうなれば、結果的にお前たちにとっても有益なはずじゃないか。」
「それはわかるわよ。この島の価値が上がれば、それを遺産分配する時の私たちの獲り分も増えるもの。もちろん、島や屋敷を四分の一ずつ切り取れとは言わないわ。それを算定したお金で解決してくれればいいだけの話よ。」
「そこまでわかっているなら、私の事業に何の不満があるんだね。」
「不満じゃねぇさ、不安なのさ。第一、兄貴。あのホテル、いつになったら開業するんだ? このままじゃ俺たちの手垢だらけになっちまうぜ?」
「そうよぉ。大切な商売道具でしょう? 確かに開業するまでずっと鍵を掛けておくわけにもいかないわよね? 少しは使って風通しをよくしないと建物は傷んじゃうもの。でも、私たちが年に一度泊まるだけのゲストハウスっていうんじゃ、ちょっと豪勢過ぎやしないかしらぁ。ねぇ、楼座ぁ?」
「………………そうね。あんなに素敵なら、オープンしたらさぞや人気が出るでしょうね。」
「ぁぁ…、………あなたが前に言ってたホテルって、ゲストハウスのことだったのね…。」
「立派なもんだろ。楼座の言う通り、オープンできたら人気が出るだろうよ。」
彼らが案内された宿泊所であるゲストハウスは、そのために建てられたものではない。
…本来はリゾートホテルとして建てられたものなのだ。
だが、2年前に完成しているが、その後、開業の目処はまったく立っていなかった…。
「兄さんのいつもの事業と同じよ。着目や企画はご立派。そしていつも途中で立ち行かなくなって、何も回収できずに終わる。」
「この島を、ただ住むだけにしか使わないのは勿体無いってぇ兄貴の着眼は立派さ。そしてリゾート化して、マリンスポーツやらフィッシングやらハネムーンやらを誘致して盛り上げようってのはなかなかいい絵だったと思うぜ。俺だって長男だったなら、この島を何かに有効利用できないかと頭をひねったに違いないさ。」
「でも、もう出来上がってから2年も経つのよ? 2年経って未だに開業の目処はつかないの? 任せてる管理会社はどこぉ?」
「……失敬な! それは主人の手落ちではありません! 主人の仕事を請け負う会社間でトラブルが生じているだけで、うちはあくまでも被害者です!」
「しかしなぁ…。蔵臼兄さんが任せてる例のトコ…、あまりえぇ噂は聞かんでぇ?」
「はっきり言ってあげなさいよ。……不払い、横領、トラブルで計画が空中分解しちゃったって話、私たちの耳に届かないとでも思ってるぅ? 裏も取れてるんだから。」
「何の裏だか存じませんが事実無根です! 観光業への新規参入には方々への根回しが必要になります。相手が信用に足りるかを諮ることも大事です。それに手間取っているだけに過ぎません!」
「……ホテルの完成が早すぎて勇み足になったことは認めよう。だが維持費がかかってるわけじゃない。やがて大きな意味を持つ布石だ。」
「嘘吐けよ。清算したくても売れないだけだろ。観光ルートの確立してない何もない離島に、やたら豪華なホテルなんて、買い手がつくわけもねぇさ。それに、事業に集めた融資はどうなってんだよ。」
「維持費はかからんでも、返せん借金は膨らむ一方や。……すまんが蔵臼兄さん。この島の開発計画の話、ちょいと調べさせてもろぅたんや。…正直、こっちもえぇ話は聞かへんのや。」
「秀吉さん。確かに今の財政状況だけを見たらそういう印象を持たれるかもしれない。だが、これは先行投資なのだよ。その読みを誤り、これまでに多くの負債を生んでしまったことは認めざるを得ない。だが、ようやく時代が私に追いついた。これまでに失った分はすぐに取り戻せる。いや、それどころかこれまでの投資だってやがては私の元に戻ってくる。そう、例えるなら放った稚魚が鮭となり、肥えて返ってくるようにね。」
「それは認めるで。これからリゾート業界は空前の好景気を迎えるやろ…。これまでの負債を埋められるほどかはわからんが…。………だがな、蔵臼兄さん。これまで、さんざん負け続けた兄さんが、どこから軍資金を調達したって言うんや。それも半端ない軍資金や。あれだけの穴を埋められる軍資金やで?」
「……秀吉さんは何を仰いたいのですか。」
「あぁ、夏妃さん、ホンマ怒らんといてな! わしらも調べたんや。…これまで負け戦続きの蔵臼兄さんに、最近の強気な莫大投資を支えられるほどの融資を誰ができたんか、調べたんや。」
「…結果。いねぇんだよ、そんな後ろ盾は。弱り目と逆に張るのがマネールーレットの鉄則だ。兄貴はこの界隈じゃ、ちょいと知られた弱り目さ。確かに時代は好景気を迎えようとしているが、これまでの兄貴の失敗とを天秤に掛けて、その上で融資に値すると思う連中がいるのか、って言ったら、
誰もいなかったのさ。」
「ならねぇ…? そのお金をぉ、どこから調達したの? ってことになるのよ。」
「………ほぅ。興味深い話じゃないか。それで?」
「あ、あなたッ! このような暴言をいつまで放置されるつもりですか!!」
「座れよ夏妃さん。………短刀直入に言おう。兄貴は親父の個人資産を自分の事業に流用してる。これはほぼ間違いねぇ。これが俺たちの誤解だってんなら、どうかぜひそれを解いてもらいたいもんさ。」
「留弗夫、流用なんてもんじゃないわよぅ。これは横領よ? 刑事告発できる立派な犯罪なんだから。」
「ぶ、無礼極まりないッ!! 仮にも右代宮本家跡継ぎの右代宮蔵臼に向かって信じられない暴言ですッ!!」
「暴言じゃないわよ、図星でしょう? 何とか事業を成功させてこれまでの損失を埋めたいんだけど、その穴は広がっていく一方! 博打の穴をさらに大きく張った博打で埋めたいだけよ。その軍資金がすぐ近くにあったなら手をつけるのは道理! はっきり言うわ、兄さんがしているのは横領よ。お父様に対する裏切りよ? 然るべき決着が付いた後には司法に委ねることになるでしょうねぇ? そんな輩に右代宮本家跡継ぎを名乗らせるとお思い?」
「い、言うに事欠いて…、と、当主様への裏切りとは聞き捨て難いッ!! この栄光ある右代宮家の敷居を跨ぐ資格は、もはや貴女にはありませんッ!! 即刻、ここを出て行きなさいッ!! さぁ!! ほらッ!!」
すでに怒りの限界に達していた夏妃は、激高しながら絵羽を怒鳴りつける。
そして絵羽と廊下を交互に指差しながら出て行けと示した。
絵羽は扇子を取り出すと、それで扇ぐような仕草をしながら、悪意を持った眼差しで静かに聞き直す。
なのに、口元は三日月のように弧を描いて笑みを浮かべたままだった。
…その不気味な沈黙に、楼座はごくりと唾を飲む。
「ねぇ、…夏妃姉さん? 誰に向かってそんな口をお聞きなの?」
「無礼極まりない主人の妹に対してですッ!! これ以上は私も本家の台所を預かる者として聞き捨てなりませんッ!!」
「台所を預かるぅ? ふふふ、はははは、あっはっはっはっはっは!! 黙るがいい、この下女がッ!」
絵羽は扇子をバチンと畳むと威勢よく立ち上がる。
その直前までの優雅かつ小馬鹿にしたような振る舞いからは想像もできないくらいに攻撃的だった。
「馬鹿馬鹿しい、お前が下がりなさいッ!! この右代宮絵羽に! 当主様の左肩を許されている右代宮家序列第3位のこの絵羽に下がれとッ?! 身の程を知りなさいッ!! そしてお前のそのみすぼらしい姿を鏡に映してみるがいい!! お前の服のどこに翼が? どこに片翼の鷲が許されているのか? 貴様など右代宮家の跡継ぎを残すためだけの借り腹じゃないの!! 身の程を弁えるがいい、この端女があッ!!」
絵羽は醜く顔を歪めながら、夏妃の心に言葉で爪を突きたてて、ぎゅぅっと、捻りこむ。
「…………………………ッッ!!!」
……夏妃には言い返したい言葉が百はあった。
でも、怒りと悲しみで喉を潰され、それらのひとつも口に辿り着かせることができなかった。
…行き場を失った怒りは、一粒の熱い涙となってぼろりと零れ落ちる…。
「なぁにぃ? 何か言い返したいなら、どうぞ言い返しなさいよ。ほぅら。」
絵羽は挑発の眼差しを向ける。
……だが、夏妃は握り拳を震わせたままわなわなと震えることしかできない…。
その火薬の臭いすらする緊迫を、蔵臼は静かに破った。
「夏妃。席を外しなさい。頭を冷やすといい。」
「なッ、…!!」
夫が自分の肩を持たなかったことを夏妃は憤慨し、その矛先を向け直す。
「あッ、…あなたはさっきから何を言われているのかわかってるんですか?! この人たちは、言うに事欠いて、あなたのことを、お父様への裏切り者呼ばわりしているんです!! 私たちが右代宮家の栄光を守り、お父様からそれを受け継ぐため日々高潔であろうとする全ての努力を蔑ろにして踏み躙る、何という聞き難い暴言ッ!! あなたもあなたです、どうして言い返さないんですか! あなたが言い返さないから私が言い返しているのに、さっきからあなたは私に任せっきりで…ッ!! その私に頭を冷やして来いなんて言うんですか?! いっつも私ばかり!! 私はいつも真剣にこの家のことを考えているのにッ、それをあなたは…ッ!! うううぅううぅ、うううううううううう!!!」
夏妃はもはや涙も隠せない。
そのまま客間を飛び出していった。
後には痛々しい空気だけが残り、客間を満たしていた…。
足音が遠ざかり静寂が戻ると、蔵臼は小さく肩をすくめるような仕草をして見せた。
「……妻が失礼した。昔から感情を抑えるのが下手でね。私も苦労している。」
「あんなのに切り盛りされてたんじゃ、兄さんも気苦労が絶えないわねぇ? くすくすくす…!」
「ぅうううぅ。うううううぅううぅううぅうッ!!!」
「……お、……奥様……、」
「何でもありません…! 下がりなさい…!!」
夏妃は自分の寝室に飛び込むと、…ベッドに伏して号泣した。
その胸を掻き毟るような泣き声は廊下の熊沢の耳にも届くのだった…。
……おいたわしや奥様…。
奥様と絵羽さまは犬猿の仲。
…このお二人の関係を説明するのは、女の私にはとてもしんどくございます…。
右代宮家は血を特に重んじられますが、嫁いで家を出れば、本来は序列から除籍されます。
……ですから絵羽さまも本来は、秀吉さまとのご成婚の際に除籍されるはずだったのです。
ところが、…これは誰のせいでもありません。
増してや奥様のせいであろうはずもありません。
神さまの気まぐれとしか言いようがありません。
…蔵臼さまと夏妃さまにはなかなか子宝が授からなかったのです。
何しろ男尊女卑の右代宮家でございます。
妻は跡継ぎを残すための道具。
……その妻が唯一の役割を果たせないのなら、もはや人間扱いなどされません。
当時の奥様が、お館様からどれほど責め苛まれていたか、思い出すのも苦しゅうございます…。
そんな中、絵羽さまに秀吉さまとのご結婚の話が持ち上がりました。
……絵羽さまは狡猾でした。
…奥様がいつまでも身篭られないことに付け入ってお館様に取り入ったのです。
入り婿を取って自分が跡継ぎを産むと吹き込み、ご自分の籍を右代宮家に留まらせるよう認めさせたのでございます。
右代宮家に嫁ぎ外様扱いの奥様と、入り婿を取る形で血族として残った絵羽さまは、右代宮家の序列の中では雲泥の差。
しかも絵羽さまは先に、それも男児をご出産されております…。
どれほど奥様の立場が絵羽さまの前で弱いものであったか、お察しいただけますでしょうか…。
…奥様にとっては、もし自分がすぐに懐妊することができれば、絵羽さまの入り婿などお館様に認めさせずに済み、今日の絵羽さまの増長を許さずに済んだだろうという悔しい気持ちがあるに違いありません…。
しかし…、それは奥様のせいであろうはずもない……。
全ては気まぐれな神さまと、朱志香さんをお届けすることが遅れたコウノトリのせいなのでございます……。
だからといって、奥様にはそうと割り切れるはずもない…。
……ただただ、妻としての責務を全うできなかったことに、女として悔し涙を零すしかできないでしょう…。
あぁ、おいたわしや…。
私には何もできず、こうして物陰から見守ることしかできないのです……。
第4アイキャッチ:10月4日(土)14時00分 が13時30分に戻る
玄関を出る前に再びホールを横切る。
すると再び、あの魔女の肖像画が目に入った。
だが、目に入ったという言葉は妥当ではないかもしれない。
……むしろ、目が吸い込まれた、という方が相応しいだろう。
怜悧な魅力を持つその女性の瞳には、見る者を釘付けにする魔力が確かに宿っていた。
「…………魔女、ベアトリーチェか。……本当かねぇ。」
「うー? 戦人信じてない…?」
さっき、この絵は何かと聞き、最初にベアトリーチェであると答えたのは真里亞だった。
だから、戦人がそれを疑うのは、真里亞にとって自分を信じてないように感じられたのだろう。
…もちろん、戦人はそんな意味で言ったのではないのだが。
真里亞は肖像画に駆け寄ると、その下にあるプレートをパシパシと叩く。
そこに肖像画のタイトルが記されているのだろう。
真里亞は自分は嘘をついていないということを証明したくて、意固地になってそこを叩き続けていた。
「あー、悪ぃ悪ぃ、別に真里亞が言ったのを疑ったわけじゃないぜ。」
「うー! 戦人納得! うー!」
真里亞の頭を撫でながら謝ってやると、彼女は納得してくれたようで、胸を張る仕草をしながら、誇らしげにうーうーと唸っていた。
「………………何々。『我が最愛の魔女ベアトリーチェ』。………懐かしき故郷を貫く、…って、………何だこの怪しげな長い碑文はよ?」
プレートには肖像画のタイトルが記されていたが、それだけを刻むにはあまりに大きい。
そしてタイトルの下には、碑文のようなものが長々と記されていた。
その文言を斜め読みした時、物騒な単語がいくつも並び出してぎょっとする。
「すげーだろ、ソレ。祖父さまが書かせたものだよ。…意味深だろ?」
「うー! 真里亞知ってる! 黄金の隠し場所ー!」
「……おいおい、右代宮家の隠し黄金の話か? そりゃまた懐かしい話だな…。……ってゆーか兄貴、…これマジなのか?」
「これを書かせたお祖父さまは、この絵とこの碑文に関しては何も語ってくれないんだ。………でも親類たちの間では、お祖父さまの黄金の隠し場所を記したもので、この謎を解いた者に家督と黄金の全てを譲るという意味ではないかと、もっぱら囁かれてるよ。」
「うー! 真里亞聞いた真里亞聞いた! 黄金いっぱいいっぱい!」
「…さてなぁ。10tの金塊なんてねぇ。私ゃちょいと眉唾だけどな。」
「しかしよ、こんな碑文を読んじまうと、マジかなって気になっちまぅなぁ。」
………さっき、祖父さまの生い立ちについては説明したと思うが、右代宮家の黄金伝説についても説明しておこう。
祖父さまは関東大震災で潰れかかった右代宮家を継ぎ、戦後の荒波をうまく乗り切り莫大な富を手にした。
…そこまでは誰もが知る一般的な話だ。
だが、ここから妙な話が始まる。
…一部に、祖父さまの黒魔術趣味が絡んでくるせいで信憑性は極めて低いのだが、……。
……まぁ疑ったり馬鹿にしたりするのは全ての説明を終えてからでもいいだろう。
戦後、祖父さまは時代を先読みした大博打に勝ち、莫大な富を築くのだが、……その祖父さまが、最初の資本金をどう築いたか、ということである奇妙な伝説があるのだ。
祖父さまは分家筋から来た人間で、政界にも財界にもコネクションはなく、後に進駐軍に太いコネクションを築くにしても、一番の最初は誰の信頼も得ていない無名の人物だったはずだ。
カネは信用で集めるものでもある。
信用のできない人物にカネを貸す者はありえない。
……その信用がゼロの祖父さまは、如何にして最初の莫大な資金を手に入れたのか。
……このことを尋ねられた祖父さまはこう答えたという。
私はある日、黄金の魔女ベアトリーチェに出会ったのだ、と。
祖父さまは偉大なる魔術師で、錬金術、悪魔召喚の術を研究し続けていて云々かんぬん。
…そして、悪魔を呼び出す儀式の果てに召喚したのが、黄金の魔女ベアトリーチェなのだという。
そして祖父さまは己の魂と引き換えに、ベアトリーチェに富と名誉を授けるよう契約したというのだ。
魔女は、祖父さまに10tの黄金を与えたという。
祖父さまはその黄金を担保に莫大な資金を用意し、さらにそれを元手に何倍にも増やし、右代宮家を復興させたというのだ…。
この辺の話は、親たちが子供の頃からすでに聞かされている相当古い話らしい。
だから、親たちも小さい頃には、祖父さまが魔女より得たという黄金がこの島のどこかに隠してあるのではないかと信じて、色々と探検をしたりしたらしい。
だが、無人の森に入って迷子になったりして危なかったため、祖母さま辺りが、森には魔女が住んでいるから危ない、近寄ってはいけない、というような話を吹き込んだんだとか…。
「……そんな話があったなぁ。俺たちも小さい頃、親からその話を聞かされて、宝探しと称して島中あちこちうろうろして、………森で迷ってわんわん泣いて、使用人さんに見つけてもらって親に滅茶苦茶怒られたんじゃなかったっけ。…なーつかしぃぜ。」
「バカだったよなぁ。だってよぅ、祖父さまはその資本金で儲けた挙句でこの島を買うんだぜ? この島に来る前から黄金を持ってたってことになるじゃねぇか。この島にあるわけがないぜ。」
「……そうとも限らないよ。その黄金が、元からこの島に隠されていて、それを確実に自分のものにするために、この島を丸々買い取ったとかね。何しろ10tもあるんだもん。安全な場所に移すより、隠し場所そのものを確保する方が現実的だよ。」
「この碑文を書かせたのは2年前。それも祖父さま自身ってなると、……なるほど、黄金伝説も信憑性が増してくるじゃねぇか。祖父さまが右代宮家復興の資本金にしたという魔女に授けられた黄金が10t。……そいつがどこかに今も眠っていて、祖父さまはこの謎を解けたヤツに全部を譲ろうって、そういうつもりなのかもしれねぇ。………はぁ、祖父さまらしいセンスというか、何と言うか……。いっひっひ! マジなら何とも景気のいい話だぜ。」
プレートに刻まれた碑文には謎めいた、詩のような唄のようなものが記されている。
その文章は祖父さまの黒魔術趣味全開で非常に物騒な、実に悪趣味な内容だが、確かにこの謎を解けば黄金の隠し場所に至れるような、そんな風にも読み取れる内容だ。
「そういうつもりなのかどうか、お祖父さまの胸中は想像もつかないけどね。……ひとつ言えるのは、この胡散臭い碑文を、お祖父さまは一族全員に告示するかのようにここに掲示したこと。そして、黄金の存在はほのめかしながらも、未だにその隠し場所について一切触れないこと。………そこから、親たちが想像を膨らませて、お祖父さまの知恵比べに違いないって言い出した…。」
「…欲の皮が突っ張ってる、うちの親父辺りだろうぜ、こんな世迷言を真に受けてるなんてよ。祖父さまの黒魔術趣味は馬鹿にしてるくせに、この隠し黄金の話だけは信じてやがる。調子のいい話さ。」
「……確かに現実的な話じゃないよね。当時、無名で何のコネクションもなかったお祖父さまに、無償で莫大な金塊を融資する人物なんているわけがない。……それがいたからこそ、お祖父さまはそのスポンサーを魔女と呼んだ、というのなら考えられない話じゃないけど。」
「でもよぅ、10tだぜ、10t。一体、現金に直したらいくらくらいになるんだ? っていうか、とんでもない量になるはずだぜ?!」
「………とんでもない量だよ。人類が有史以来、採掘した黄金はせいぜい10万tって言われてる。人類の歴史が手にした黄金の、1万分の1を個人が手にしているっていうのは、とてつもないことだよ。…それが一箇所にあり、しかもそれをお祖父さまにポンと貸し出せるような『魔女』。……只者じゃないね。」
「私はよぅ、その10tって数字ももはや嘘くさいと思ってるぜ? 第一よ、祖父さま以外に見たヤツはいないんだろ? 仮に気前のいい魔女が実在して黄金を貸したとしても、それは10は10でも10kgぐらいの間違いじゃねぇのか? 10kgでも相当いい金額になるはずだぜ?」
「うー。…10kgの黄金っていくら?」
話についていけず、すっかり煙に巻かれていた真里亞が、ようやく質問できる場所を得て俺たちに問い掛ける。
その質問は俺もしたいと思ってたところだ。
黄金が10kgだの10tだのと言われても、すげぇ量だとは思うが、どのくらいすごいのか価値がわからない。
譲治の兄貴が腕組をしながら金相場を思い出している。
「………さぁ。金も相場の影響を受けるから何とも言えないし、純度や鋳造先の信用によっても変わってくる。換金に手数料も掛かるし。ただ、希少金属であることは間違いなくて、このまま採掘が進めば人類はあと半世紀ほどで全てを掘り尽くしてしまうんじゃないかって憶測もある。…………でたらめに言って、…1kg当たり、200万円程度の価値はあるんじゃないかと思うね。」
「ひゅうッ…。………私よ、10kgってのは今、適当に言った控えめな数字なんだけどよ…。…それでも、2千万円の価値があるってことになるじゃねぇかよ!」
「うー? 真里亞、体重28kg。」
「………ということは、真里亞ちゃんと同じ重さの黄金なら、その価値は5000万円を超えるって計算になるね。」
「そりゃたまげるなぁ…。
10tならいくらだ? 10kgで2000万が1000倍だから、……えっと。………はー! 200億円か?! こりゃあたまらねぇや!」
200億円がどれほどの価値を持つか、……俺たちはそれぞれが持つ金銭感覚で測るしかない。
何しろ、生涯賃金が2億円なんて言うくらいだ。
…社会人になって死に物狂いで働いて会社のために人生を捧げきって、老境に差し掛かってようやく解放され。その退職金までを全て含めて2億円だ。
…つまり、この額は人間の人生の金額、いや、命の値段と言い切っていい。
そんな、命が100必要な莫大な金額。
……20歳から就労して60歳まで40年働くとして、……4000年分の労働賃金に匹敵。
縄文時代からずっと毎日働き続けてようやく得られる額ってことじゃねぇか。
「…うー。200億円って、すごい…?」
「あぁ、すげえよ。真里亞の大好きなショートケーキだったら、多分、一生懸っても食いきれないくらい買えるぜ。」
「……でも、200億円という現金ならいざ知れず、それと同等の金塊が一所にあるなんて、とても現実的とは思えないね。さっきも言った通り、黄金は非常に重くて、財産をまとめておくにはちょっと便利とは思えないよ。ものすごい額面の有価証券とかものすごく価値のある宝石とか、そういうものなら考えられなくもないけれど。…戦時中の混乱期に、自分の資産を持ち運べるよう、全て宝石などに変えた人たちがいたのは有名な話だからね。……でも、黄金で資産を備蓄したというのはなかなか聞かない。」
「確かに重いけどよ、国際的に一番信用されてて価値も安定してるし、意味はあるんじゃないのかなぁ。証券とかだったら、国が滅びちまったら紙切れになっちまうわけだし。」
「そういう考え方もあるね。…でも、10kgのインゴット1つでも体感重量は相当のものだよ。聞いたことない? 50kgの人間は背負えても、50kgの俵は担げないって。それだけの莫大な重量の金塊を、個人が所有するリスクと手間は計り知れないね。」
「ってことはつまり、200億円の札束が唸ってるって話ならともかく、200億円分の黄金が山積みになってるってのは、ちょいと現実味がないわけだな。」
「そういうことになるね。…黄金伝説なんて響きはとても面白いんだけど、そもそも10tの黄金という時点で少々無理があるねぇ…。」
「そうやって理詰めで考えると、見る見る嘘くさくなっていくぜ。はは、夢のない話さ。」
「でも、そこは何しろあのお祖父さまだからね。親切な大金持ちからの融資を大袈裟に吹聴して、魔女から授かった10tの黄金、何て例え方をしたのかもしれないよ。10tという数字も象徴的な感じがするしね。」
「つまり、借りたカネのありがたさは10tの黄金に匹敵する価値があった、ってなことだな。」
「へへへ、祖父さまに、大金持ちの有閑マダムが気前よく恵んでくれて。そのご婦人を魔女と呼んだ、ってことじゃねぇのかー?」
なるほど、朱志香の例えは悪くない。
…社会信用がゼロだった祖父さまに、気前よく莫大なカネを貸し付けてくれたら、それは魔女と呼んでもいいほどのお人だ。
……しかも後に祖父さまはそのカネを元に莫大な富を築き上げる。
…人を見る目も並外れて優れてるとすれば、これも魔女と呼んで差し支えないだろう。
それに、それだけの莫大な融資をしたのだから、その使い方には熱心な指導もしただろう。
案外、進駐軍に食い込んで朝鮮特需で稼げ…なんていうこともその魔女が祖父さまに吹き込んだのかも。
その部分も含めて、魔女に富と名誉を授けられた、という言い方をするなら、そういうこともありなのかもしれない。
「なるほどな。…………ってことはつまり、この魔女さまは、右代宮家復興のための資金を恵んでくださった、復興の大恩人ってわけだ。…となりゃ、祖父さまが感謝の気持ちを込めて、こんだけデカイ絵を描かせて掲げさせたってのも、なるほど、おかしい話じゃないのかもな。」
「ひょっとするとよ、当の本人は見るからに魔女っぽい婆さんだったかもしれないぜ? それを祖父さまが美化して、こんな美人に描いてくれたってのは考えられる話さ。はっはははは、案外、当の本人に会ってみたら、こんなに美人じゃないかもしれねぇな!」
「はっはっはっは、ありえるね。ベアトリーチェって名前は如何にも洋風だけど、僕たち一族の名前がみんな洋風であることを考えると、このベアトリーチェって名前も、日本人名を無理やり洋風にアレンジしたものなのかもしれないよ。」
「なるほどなるほど。この美人は絵の中にしかいないってわけだな。それじゃあの立派そうな乳は揉めそうにないぜ〜、いっひっひ! ハナっから魔女なんておかしいんだよな。そんなのが地球上のどこにいるってんだ。」
魔女の森に怯えた6年前の自分と決別したくて、俺が小馬鹿にしたようにへらへら笑うと、真里亞が俺の袖を引っ張った。
…その力加減はちょっぴりの不快さを込めていた。
「ん? 何だよ真里亞。」
「うー! うーッ!! ベアトリーチェはいーるー!」
真里亞はじっと俺を睨む。
…いつも仏頂面だが、彼女なりに怒っているのが瞳の色でわかった。
「魔女いる! 魔女はいる! うーうーうー!!!」
「何だよ、そりゃいるだろうよ、テレビをつけりゃアニメとかによぅ。」
「いるー!! 魔女はいるー!! うーうーうー!!!」
真里亞が何でこんなにも突っかかってくるのかわからなくて焦る。
すると朱志香が俺の肩を叩いて小声で教えてくれた。
「…バカだな、子供の夢、打ち砕いてんじゃねぇぜ。真里亞は魔女とかベアトリーチェとかが確かに存在するって信じてんだよ。」
「確か真里亞ちゃんは学校の文集に、将来なりたいものは『魔女』って書いたんだっけ?」
真里亞は真剣に頷く。
目の端に涙がちょっぴり滲んでいた。
………なるほど、将来、魔女になりたいと願う少女にとっては、ベアトリーチェという存在は、確かに魔女がこの世に存在するという証でもあり、そして憧れる崇拝の対象でもあるに違いない。
「いるー! いるー! 魔女はいるー!! なのに戦人が信じない! うーうーうー!!!」
「うん、いるよ、魔女は。お兄ちゃんは信じるよ。」
譲治の兄貴が跪いて真里亞の頭を抱く。
…その様子を見ながら朱志香が俺の脇を小突く。
…つまりこれはあれか。
サンタクロースを信じてる子供の前で、サンタなんているわけねーぜと、クリスマスイブに爆弾発言しちまったようなもんだと。
…信じてる夢を砕いちまうのは俺のセンスなわけもない。
「………あー、悪かったぜ。別に真里亞の夢にケチをつけたわけじゃねぇんだ、謝るよ。ベアトリーチェはいるよな。今もこの島の森の中に住んでいて、夜な夜なこの屋敷で何をやってるのか覗き見しに来るんだろ。……だから森には入っちゃいけない。夜はいつまでも暗い森を眺めていてはいけない。……森の魔女、ベアトリーチェに見付かってしまうかもしれないから。…………祖母さまがそう言ってたんだもんな。」
「…うー……。本当に? …本当に戦人は信じる?」
「あぁ、信じるぜ。ケチをつけて悪かったよ。…ほら、仲直りしようぜ?」
俺が手を出すと、真里亞はそれを小さい手で握り、仲直りをしてくれた。
真里亞もそれ以上はぐずらずにいてくれたので、譲治の兄貴も朱志香もほっとする。
「……あら。皆様、ここにいらっしゃられたんですか。てっきり海岸へ行かれたとばかり…。」
バスケットを持った紗音ちゃんが、俺たちが肖像画の前にたむろっているのを見つけて驚いたようだった。
「紗音か。いやさ、戦人はベアトリーチェの肖像画を初めて見るからさ。まぁ見とれてたってわけだぜ。」
「そうですね、見とれちゃいますね。…ベアトリーチェさまって本当にお綺麗です。さぞやお館様を虜になさったろうと思います。」
「あはははは。パトロン説の他にも、お祖父さまの初恋の人だという説もあるんだ。…どちらにせよ、彼女に出会ってから数十年を経ているだろうにも関わらず、今なお心の中に大きく居座り続けているんだから、…それは今なお虜にしているということなんだろうね。」
「やれやれ。これじゃあ、祖母さまはさぞや嫉妬したろうぜー?」
「私はよく知らねぇけど、やっぱりそういうのはあったらしいぜ。祖母さまは金髪の浮気相手がいると信じてたらしいな。」
「……うー? いい匂い! 紗音からいい匂い!」
真里亞が鼻をクンクンさせながら、紗音ちゃんが持つバスケットに関心を寄せる。
言われて見れば、バニラエッセンスと香ばしい香りのハーモニーが。
「あ、申し訳ございません。熊沢さんから、これを皆さんにお届けするように言付かりました。」
「何だろう? ……あは、素敵だね! クッキーだ。」
「うー! クッキー食べたい! クッキー食べたい! うー!」
「えぇ、お召し上がりいただけますよ。…でも、その…、」
果たして肖像画前のこんなところでクッキーを振舞ってもいいものか、と紗音ちゃんが俺たちに判断を求めるような目線を投げかけてくる。
…まぁ普通に考えればお行儀はよくないよな。
「真里亞、ここじゃなくて他所で食べようぜ? クッキーをお弁当にピクニックに行こう。」
「うー! ピクニック行こうピクニック行こう!! クッキー食べれるなら行こう!」
「そうだな、ちょっと表の空気を吸いに行くか。魔女様の御前でつまみ食いもねぇもんだぜ。」
「そうだ、元々私たちは浜辺に行こうって言ってたんじゃねぇか。行こうぜ行こうぜ。」
「紗音ちゃん。申し訳ないんだけど、腰を下ろせる敷物と水筒にお茶を入れてきてもらうのをお願いしてもいいかな。」
「はい…! かしこまりました。」
紗音ちゃんは指示を受けると、優雅にお辞儀をしてから引き返す。
俺たちは先に浜辺へ行くことになった。
みんなでぞろぞろと玄関へ向かう。
…そんな俺たちの背中を、あの魔女が見下ろしているような気がして、もう一度だけ振り返る。
「…うー。……戦人、まだ信じてない…?」
「いやぁ、信じるぜ。……その方が夢があるしな! 黄金の魔女ベアトリーチェが祖父さまに10tの黄金を授けた! それでその黄金がどこかに眠っているかもしれない。しかもそいつを、祖父さまは怪しげな碑文に書き残し、見つけられるもんなら見つけてみろと俺たちを挑発してるってんじゃねぇか。こういうロマンはあった方がいいってもんさ。」
「200億円の黄金かー! へへ、私たち4人で山分けしたってとんでもない金額になるな!」
「1人頭50億円か。…すごいね! それだけあったらどんな事業でも興せそうだよ。いや、そもそも働かずに生涯を優雅に過ごせるだろうね。」
「うーうー! 50億円よりクッキー、クッキー!!」
「わっはっはっは、真里亞にはカネよりクッキーだな。しかし50億円かぁ、夢のある話さ!」
「馬鹿馬鹿しい。……まさかお前たちは、親父殿の黄金伝説を本当に信じているのかね?」
「…………魔女が黄金を与えた云々はさすがに信じねぇさ。だが黄金の話だけは間違いじゃない。」
「お父様が出自不明の金塊を持っていたことは複数の筋から確認されているわ。死んだマルソーの会長は生前、お父様に某所で積み上げられた金塊を実際に見せられたという。お父様はそれを指して、10t分あるとはっきり明言したわ。」
「老いぼれの戯言じゃないか。親父殿と一緒に、存在しない黄金の存在をでっち上げただけだ。取るにも足らない。」
「存在せん黄金にあないな軍資金は集まらへんで…! 会長さんは生前、その真摯なお人柄であれだけ大勢の財界人から尊敬を集めたお人や。詐欺の片棒なんか担がへん…!」
「兄貴。マルソーの会長は確かに見たんだ。10tの黄金をはっきりとその目で。しかも親父はそのインゴットの1つを任意で抜き取らせ、会長に持ち帰らせて鑑定させた。……それは10kgのインゴットで、鑑定結果は純度フォーナイン。インゴット表面には、右代宮家の家紋である片翼の鷲が刻印されていたという。」
「右代宮の黄金伝説は瞬く間に財界のフィクサーたちの間に広がったわ。鋳造元不明の黄金は換金率が悪い。ボロ儲けのチャンスだと思った彼らはそれを担保に認め、結果、お父様は莫大な融資を受けることができた…。」
「馬鹿馬鹿しいにもほどがあるじゃないか。…お前たちはいくつになるんだ。まだそんな子供の頃のお伽噺を真に受けているのかね? 第一、その10tの黄金の証拠はどこにあるんだ? 親父殿と親交の深かったごく一部の人間の虚言だけじゃないか。」
「……もちろん口伝だけさ。でもよ、兄貴。親父が調達した莫大なカネはそれに見合う担保が必要だった。仮に黄金がデマでも、それに匹敵する価値あるお宝を親父が見せたのは紛れもない事実じゃねぇのかぃ?」
「徒手空拳の親父殿が作った黄金幻想さ。ありもしない黄金をあるかに振る舞い、スポンサーたちを騙したんだ。一世一代の大博打だったのだろう。……運よく、その資産の運用に成功できた。もし朝鮮特需が訪れなかったら右代宮家の再興はならず、親父殿は世紀のペテン師として追われていただろう。」
「じゃあ蔵臼兄さんは、黄金など最初から存在せず、…全てお父さんのでっち上げだ、言うんか。」
「もちろんさ。だから、充分な成功を収めた後には黄金幻想など面倒なだけだった。だから親父殿は魔女だの黒魔術だのと、わけのわからないことを後に言い出して信憑性を薄めたのさ。つまり、黄金幻想がでっち上げであることを明かしたのだよ。魔女に黄金を授かった等と言えば、もはや誰も黄金の存在を信じたりはしまい? あるいは、お前たちのために言い出したのかもしれないな。なのに、ありもしない黄金を遺産分配に含めて議論しようという馬鹿な息子たちが現れる。……楼座、まさかお前まで、こんなでっち上げを信じてるって言うんじゃないだろうな…?」
「…………………私は、お父様が本当に黄金を持っていたかどうかを確かめることはできない。……でも、お父様の4人の子供の1人として、正当な分を主張したいだけよ。」
「ほぅ…。楼座も言うようになったじゃないか。なるほど、お前たちはこう言いたいわけかね。私が黄金を独り占めしようとしている、と…。」
「兄さんが莫大な軍資金を調達したのは事実。それが、お父様の個人資産の横領では断じてありえないと言うなら。……つまりはそういうことよぅ?」
「……兄貴はすでに10tの金塊を見つけてるんじゃないかって。俺たちはそう見てるのさ。」
「馬鹿馬鹿しい。そんなものは元より存在しない。」
「じゃあ説明なさいよぅ。お父様の財産の横領、お父様の隠し黄金。そのどちらでもないなら、どうやってあれだけの軍資金を調達できたって言うの?」
「私にも政界財界に友人が多くいてね。彼らから協力を得ただけに過ぎんよ。……それについて、お前たちに説明する義務はない。わかっているだろう? 話せぬ方面の筋もある。」
「……兄貴がそうだと言い張るんならそれでいいさ。でもよ兄貴。親父は長くない。来年の今日まで生きてるなんて、誰にも保証できねぇんだぜ? 親父が死ねばその時点で遺産相続だ。俺たちは全員の立場から中立な弁護士と会計士を立てて親父の財政状況を調査させるぜ。」
「その時、お父様の資産に兄さんが不当な干渉をしていることが発覚したなら…。……おわかりねぇ?」
「何の話だかさっぱりわからんね。妻でなくても憤慨したい気持ちだ。」
「…お父さんの黄金は、もちろんお父さんの財産や! 表に出せんカネやっちゅうのもわかっとる。しかし、4人に公平な権利があるはずや。」
「つまり、兄貴が黄金を独り占めしていないかどうか、兄貴についても財務状況を調査させてもらうぜ、ってことなのさ。」
「いい機会じゃない。兄さんの言うところの、友人知人にバックアップしてもらったというところを証明なさいよ。そうすれば兄さんは潔白。私たちは下らない疑いを持ってしまったことを潔く謝れるわぁ。ねぇ楼座?」
「……そうね。蔵臼兄さんこそ話をはぐらかしてるわ。やましいところがないというなら証明してくれればいいだけの話なのに、兄さんはまるで取り合おうとしてくれない。」
「だがまぁ、兄貴の立場にも配慮するさ。親父の名代ということで、俺たちよりひとつ多く責任を背負ってるところもあるだろ。今まで散々気楽に過ごしてきた俺たちが、それを察しないでぶーぶー言うのは、こりゃフェアな話じゃないぜ。」
「…………ほぅ。さっきから貶されたり持ち上げられたりと忙しい。本題に入りたまえ。」
「つまりな、……お父さんの財産をアレコレ調べて、重箱の隅を突っつくんは、無粋やないかって話なんや。蔵臼兄さんの言う通り、うまく説明できんカネの動きもあるやろ。そこを理解した上で、わしらは兄さんに相談を持ってきたんや。…お互いにとって悪ぅない相談や。」
「相談? ほぅ。」
「……遺産分配時に、今日まで親父の面倒を見てきてくれた兄貴のご苦労を最大限に汲み取り、分配に寛大な理解を示そうってことさ。」
「間違えないでよぅ? 別に私たちの権利を放棄するって言ってるわけじゃないのよぅ? ただ、その権利を主張する際に、兄さんの立場に立った寛大な理解があってもいいじゃないかしら、ということなのよ。」
「つまり、条件を飲んでくれたら、わしらは遺産分配時にお父さんの財務状況調査を蔵臼兄さんに一任してもいい、っちゅうこっちゃ。」
絵羽以下の兄弟たちは皆、蔵臼が父親の財産を掠め取っていると疑っている。
そのような状況下で、父親の財産状況を蔵臼自身に報告させようというのは、非常な矛盾で、大きな譲歩だった。
彼らが主張するように、蔵臼の財産横領が事実なら、蔵臼はそれを隠蔽できる。
そうでなくても、遺産分配を自分に有利なように主導することも可能なのだから。
蔵臼も、この話があまりに美味過ぎることには怪訝を感じざるを得なかった。
これほどの譲歩に対する見返りが何か、気にならないはずもない…。
「……ほぅ。信用ゼロの私に長兄としての信頼を返してくれるというのか。その見返りは何だね。」
「同じ兄弟としての公平な権利さ。……俺たちの兄貴は親父の財産を掠め取るようなヤツじゃない。だがしかし、兄貴に融資するパトロンも存在しない。…となりゃつまりこういうことなら兄弟は納得するわけさ。」
「……兄さんは、10tの黄金を見つけ、それを担保に軍資金を作った。…そう、お父様がかつてそうしたようにね?」
「そういうことなら、お父さんの財務状況におかしな点は一切あらへん。蔵臼兄さんはずっとお父さんの世話をしてきた孝行息子や。そないなお人を信用せんわけにはいかへん。」
「………回りくどくて判り辛いな。もっとはっきり具体的に言いたまえ。」
「条件の1つ目。まず、兄貴は親父の黄金を見つけていたことを認めること。」
「…ありもしない黄金を、私が持っていると認めろと?」
「条件2。その黄金について、兄弟の取り分を認めこれを支払うこと。」
「馬鹿な。ありもしない200億の黄金について、1人頭50億、合計150億を支払えというのか。……馬鹿馬鹿しい!」
「最後まで聞きなはれ! そない大金、出てこんのはわかっとる。出来へん取引はするつもりないで! もちろん黄金の取り分についても、蔵臼兄さんの今日までのご苦労を充分に労って換算するつもりや。」
「条件3。黄金の分配は右代宮本家当主跡継ぎの肩書きに50%。残りを兄弟の正当な取り分として分割。もちろん、蔵臼兄さんもこれには含めるわよ。」
「200億の内、125億を兄貴に。25億を絵羽姉さんに。25億を俺に。25億を楼座に。」
「…………ありがたくて涙が出る分配じゃないか。存在しない黄金のために、お前たちに75億支払えというのかね。」
「何よぅ。兄さんの取り分は私たちの5倍じゃない。私なら躍り上がっちゃう好条件よぅ? うふふふふ…。」
「条件の4。分配金は親父の死亡時に遺産分配に含めて清算する。ただし、手付金として俺たちの取り分の10%を即納してもらう。支払いは来年3月までだ。」
「……どや、蔵臼兄さん。お父さんの財産を巡る信頼を回復する絶好のチャンスやないか! さすがに75億の大金はお父さんが亡くなってからやないと無理やろ。だが、手付けの7億半は何とかできんこともないんとちゃうか?」
「半年で7億ってのはちょいとしんどい話だが、政界財界に友人が多いってのが自慢の兄貴なら、何とかできるだろ。」
「本当なら今すぐ75億を一括で払ってもらいたいところよぅ。でも兄さんの立場に配慮して、とりあえず1割を納める誠意を見せてくれたら、残りの9割は遺産分配時に持ち越してくれていいってことなの。…ね? 1割程度の誠意なら、兄さんにだって示せるんじゃない?」
「…………親父殿の財産状況調査を私に一任する権利を、7億5000万で売りつけようというのかね。………ふ、ふっふっふ。上等じゃないか。お前たちも成長したものだ。この私に取引を持ちかけられるようになるとは。」
「これらを兄さんが飲むなら、私たち兄弟はお父様の財産状況調査を兄さんに一任する。ただし、その調査結果は抗弁の対象となる。…当然よねぇ? 75億分、私たちの取り分が減るように調整されちゃったら悲しいもの。」
「原則的に文句は言わねぇつもりだ。兄貴が綺麗にやってくれたならそれでいい。…よっぽど露骨なことをしなけりゃ、俺たちは事を荒立てるつもりなんかねぇんだぜ。俺たちだって早く遺産は欲しい。いつまでもぐだぐだして取りっぱぐれたくねぇんだ。」
「……抗弁された場合の再調査は、誰がするのかね?」
「……………兄さんでいいわ。多分これが、兄弟が合議する最初で最後の機会だもの。…そんなことにはならないと信じてる。」
「ふふふ、くっくっくっく! 楼座もたまには言うわねぇ。」
蔵臼が長兄としてまったく信用されていないことは、今さら説明の必要がないほどに明白だった。
暴君だった長兄は、常に権利を詐取し続け、兄弟たちの取り分を侵し続けてきたのだ。
…それに対し、大人になった彼ら3人が連帯し、初めて兄に刃向かったということ…。
「申し訳ないが、条件はまだ続くんや。条件5。この取り決めはお父さんの遺言状に優先する。………後になって、この取り決めが反故になるような遺言が出てきちゃかなわんちゅうこっちゃな。」
「………入念じゃないか。…なら質問だが、仮に本当に黄金が見付かった場合、どうするのかね?」
「それに対する支払いを兄貴が済ませてる以上、俺たちは“本当に”黄金が出てこようがどうでもいいことさ。…俺たちの取り分は先払いってな感じになるわけだからな。」
「くすくす、夢があっていいじゃない。この島をリゾート化するつもりなんでしょう? その工事の途中で、ひょっこり黄金が見付かるかもしれないじゃなぁい。」
絵羽がころころと笑う。
蔵臼はそれを見ても、眉一つ歪めずにやり過ごしていた。
「……条件に7を付けて貰おう。私以外の兄弟が黄金を発見した場合、速やかに私に引き渡すこと。」
「えぇえぇ、もちろん保証するわよぅ? くすくすくす!」
詭弁だ。
存在しない黄金にカネを払わせた彼らが、仮に本当に黄金を見つけたとして、蔵臼に取り分を保証するわけなどない。
この取引は初めから蔵臼に対して脅迫的なのだ。
事実がどうかは別にして、蔵臼が父親の財産を横領している可能性は極めて高い。
やがて訪れる金蔵の死去に際して、遺産分配となれば、必ずや不明朗な事実が判明するだろう。
それは蔵臼にとって致命傷となりかねない事態だ。
その弱点を彼らは掴み切り、譲歩するふりをしながら兄を脅迫して莫大なカネを搾り出そうとしているのだ。
……だが、彼らは失念していた。
彼らが3人で連帯しなければ勝てないと思わしめた長兄の、悪知恵に限って回転の速い頭を忘れていたのだ。
勝利を確信して笑みを絶やさない絵羽に、蔵臼はリラックスを示して見せると小気味よく笑いながら言った。
「はっはっは。とても良い話じゃないか。……私も、お前たちとの関係が疎遠になっていたことには非常に心を痛めていた。この条件を飲むことによって、兄弟間の関係が再び友好なものにできるなら、それはとても嬉しいことだよ。喜んで話に乗らせてもらおうじゃないか。……喜べ楼座。取引は成立だ。」
「……………………。」
楼座の表情は曇る。
……兄がこういう言い方をする時、話は決して好転しないからだ。
…それは絵羽も敏感に感じ取っていた。
だから、蔵臼が素直に取引に乗ってくれたにも関わらず、その不安感を拭えずにいた。
「…いやに素直ね。兄さんらしくもないわ。」
「それはひどいじゃないか。私に下心があるというのかね? あるわけもないさ。お前たちと同じだ。」
“お前たちと同じだ”。
その部分だけが強調されたような気がした。
留弗夫の顔色も曇る。
“お前たちと同じ程度に、考えがあるさ”。…そう聞こえたからだ。
だから焦る。このまとまりかかった話を決着させようと結論を急いた。
「……ならいいんだ。…じゃあ兄貴。ここにサインをもらえるか。今の話を書き出した俺たちの誓約書だ。人数分ある。同じ内容に全員がサインする。」
留弗夫は懐より、取引の詳細が記された4人分の誓約書を取り出す。
「蔵臼兄さんの提案した、条件7ももちろん今から追記するで。安心したってな。」
「兄貴、ペン使うか?」
留弗夫が懐から万年筆を取り出し蔵臼に差し出す。
蔵臼はそれを受け取る仕草をしたが、ふっと薄く笑うと、受け取らずに手を引っ込め、言った。
「…………実は、この取り決めを確かに履行するために一点だけ修正を提案したい。」
蔵臼がその一言を口にした時。
…兄弟たちは皆、背中を何か忌々しいものがぞわりと上って来るのを同時に感じた。
「……ダ、ダメよぅ。もう決まった話よ? 黙ってサインを。」
「絵羽、何を焦っているんだね? もちろんサインはする。お前たちに黄金の分け前、75億円分を約束する。親父殿の遺産分配の時、綺麗さっぱり清算することも約束する。………だが、一点だけどうしても譲歩してもらいたい部分があるのだよ。」
「…………何の話だよ。どの点が気に入らねぇってんだ…?」
「分け前の1割、7億5千万円を即納する点だよ。お前たちの指摘通り、私の財政状況は決して裕福ではない。数々の先行投資によって、未来に必ず回収できると保証されながらも、今のこの時点では火の車であることは認めなければならない。つまり、今すぐに動かせる金はまったくないということだ。……私は無能で商才の嗅覚も鈍い。お前たちの言うところの、弱り目の私には7億半も半年で動かせる力はないということだよ。」
「そ、そんなはずはないでしょう。いい加減なことを言ってこの場を誤魔化す気?」
「遺産分配時に全て一括で清算する。1割を即納する条件を削除したまえ。…それが私にサインさせるための唯一の条件だ。」
「……蔵臼兄さん、この1割はな、あくまでも兄さんの誠意を測る数字なんやで? 本当なら取引の余地もない話や。そこを百歩譲った上で、とりあえず1割の誠意でこの場は丸く治めちゃるっちゅう大サービスなんやで。そう説明した上で、そこを断るっちゅうんは、互いの信頼関係にちょいと影を落とすんとちゃいますか…?」
秀吉は謙遜するような表情を浮かべながら揉み手のような仕草をするが、その瞳は決して落ち着いたものではなかった。
……蔵臼は、その瞳の中の影をすでに見抜いていた。
「………ふ。お前たちは何を焦っているのかね? …それとも、何に怯えているのかね? ………楼座、私にだけは教えてくれんかね。…他の兄弟たちには内緒でこっそりと。」
「……………べ、別に私は……、」
「よせよ兄貴。俺たちは兄貴がサインするかしないかしか聞いてない。妙な勘繰りも交渉もなしだ。」
「……ほぅ? 私には交渉の余地もないと。…立場が弱いのは私の方で、公平な関係ではないと、そう言いたいのかね…?」
留弗夫の背筋にぞっとしたものが這い上がってくる…。
子供の頃から、決して超えることの出来なかった兄の壁の高さとその長き影に、自分が飲み込まれつつあることに気付き始める…。
「取引は公平な関係であるべきじゃないのかね? この取引は私にとっては、弟や妹たちと長いこと失ってきた信頼を取り戻し、兄弟愛を深め合うもの。それは私にとって、緊急に解決したかった心のしこりだ。それが今日解決できてとても嬉しいと思う。………だが、お前たちも、この取引を急ぎ締結することがとても嬉しいんじゃないのかね…?」
蔵臼がぎょろりと兄弟たちを見回す。
…弟たちは動物的本能で目を背けた。
秀吉だけが背けるのに遅れる。…だから蔵臼の眼差しに捕まった。
「秀吉兄さん。あなたの会社、非常に好調子だそうじゃないですか。トントン拍子で上場を果たし、業績も株価も右肩上がり。実にお羨ましいことです。」
「……う、うちの人の話は関係ないでしょ。」
「だが、株主たちに対する還元を怠ったのが悪かった。そして上場した時に足回りを固め切らなかったのもまずかった。……気付いた時には性質の悪い連中に、自社株をだいぶ買い集められていたらしいじゃないですか。」
「………な、……何でそんな話、知っとるんや…。」
「秀吉さんと同じですよ。私に融資する人間などいないと裏を取れる程度に、私も秀吉さんの裏を取れるのです。ははは、そんな不思議がることはないじゃないですか。」
蔵臼がにやりと笑う。
…対照的に秀吉の顔は見る見る青ざめていく……。
秀吉の会社は、ゼロからスタートした外食チェーン運営会社だった。
秀吉の経営努力により次々と業績を上げ事業を拡大、ついに念願の株式上場を果たした。
株式制度の最大の利点は、株券を販売することにより巨額の融資を得られることにある。
その額は、本来の営業利益よりもはるかに大きい。
その為、会社をより大きく成長させるため大きな軍資金を集めるには非常に有効な手段であった。
だが、株主たちは会社に融資をするのと引き換えに、一定の権利を有する。
それは、自分たちが融資した会社が、融資した以上の利益を上げられるよう監視し、指導する権利である。
……その権利は株主総会で保証され、時には彼らによって無能な経営陣が更迭されることすらある。
経営を監視することによって、自分たちの融資した額が無駄にならないようにする「権利」なのである。
だが、その権利を強権的に行使すれば、会社の経営陣を全て追い出し、会社を乗っ取ることもできる。
…株主総会には、経営陣の罷免と新しい経営陣を指名する権限もあるからだ。
この権利は株主たちの多数決で決まる。
そして多くの株を持つ者が、その数分、多く投票できるのだ。
つまり、過半数の株を持つ者、もしくは勢力は、自分たちの自由に経営陣を追い出し、好きな者を社長にできるのである。
望めば、自らが社長に着くことすら可能なのだ。
多くの会社は、悪意ある者に株が買い占められて自分たちの立場が脅かされないよう、株券を自社の社員などの身内に多く購入させるなどして、敵対勢力が過半数を抑えることがないよう、何らかの防御策を取っている。
しかし、秀吉の会社は上場から日が浅く、その辺りの防御策を固める時間が足りなかった。
いや、秀吉自身、会社経営に現を抜かし、上場の恐ろしさをよく理解していなかったこともあるかもしれない。
それを、彼が経営に没頭する良心的な良い経営者と見るか、足下をさらわれた愚かな経営者と見るかは難しいのだが…。
…その甘さを、見逃さない連中がいたということである。
彼らは秀吉の会社の株を次々に買い集め、無視できぬ勢力を一気に築き上げた。
そして株主たちに怪文書を送りつけ多数派工作を仕掛けてきた。
曰く、「現経営陣は無駄な投資を繰り返し株主への還元を怠っている。現経営陣を退陣させ、投資の無駄を省き株主への還元の多い会社へと生まれ変わらせよう」と。
会社の経営実態を正しく知らしめることはとても難しい。
…秀吉が寝る間も惜しみ常に会社のためを思って出してきた成果を、悪意で曲解させ、株主たちの信頼を失わせたのである。
彼ら勢力は過半数に近い株を抑え始めていた。
…この時点で秀吉も気付き、株の買い戻しを始めたが、会社が買収工作を受けていることを理解している株主たちは、秀吉の買戻し、もしくは総会での白紙委任状への判子に対し皆がそれぞれ法外な金額を要求。
金額交渉の余地のない秀吉を苛み続けていた。
互いの勢力が欲しがる物は価値が上がるのは資本主義の必定。
そして、多数決に勝った者が全てを支配するのも民主主義の必定。
つまり最後には、より多くの株を買い集めることができたものが勝つ。
…つまり、より多くのカネを集めたものが勝つ。
秀吉は大量の金を手に入れなければ、自分が育て上げてきたもの全てを失いかねない瀬戸際にいたのである…。
ダカラ、現金ガスグニ大量ニ、喉カラ手ガ出ルホドニ欲シカッタ…!
いつ死ぬかもわからない金蔵の遺産相続など待てないのだ。
「留弗夫の方も、最近は大変だそうじゃないかね。海外は怖いとよく言うが、本当にそうらしいな。アメリカの裁判は極めて感情的に決まる。彼らは外国人に寛大な判決など出しはしない。……先方と和解した方が結局は安上がりになると弁護士に忠告を受けたんじゃないのかね?」
「…………何の話…?」
「……まぁ、仕事上のトラブルさ。大したことじゃない。カネでケリのつく話さ…。」
霧江は、留弗夫の浮かべる微妙な表情の意味をすぐに察する。
……夫は、自分の知らないところで大きなトラブルに巻き込まれ、ひとり苦悩していたのだ。
「その通りさ。世の中なんだってカネでケリが付く。失った兄弟の絆だって買い戻せるようにな! アメリカは権利侵害などには五月蝿い国だ。だがカネさえあれば何でも和解できる。資本主義万歳だよ。…もっとも、和解金は数百万$にも及びそうだとの噂もあるがね?」
留弗夫はある種の隙間産業で莫大な財を築いていた。
…だが、隙間は隙間。
決して日向の仕事ではない。
米国の巨大企業は留弗夫の会社を権利侵害で告訴しようとしていた。
様々な条件から、裁判での勝ち目は非常に薄いと考えられ、留弗夫は全面的な降伏を迫られていたのである。
…だが、それでもカネで解決する道がある。
そのカネさえ支払えれば、痛手ではあっても、まだまだ持ち直せるのだ。
…しかし、払えなければ全てを失う。
ダカラ、現金ガスグニ大量ニ、喉カラ手ガ出ルホドニ欲シカッタ…!
「………楼座は清く正しい妹だ。危険なマネーゲーム等には手を出さない。…だが、お人好しな性分が災いしたんじゃないかね…? 連帯保証人は、気安く引き受けるものではないと思うがね。」
「ん、…ぇっと、…そ、それは蔵臼兄さんとは関係ないッ!!」
楼座が珍しく感情を露にして叫ぶ。
…それは知られていないはずのことだったからだ。
蔵臼はその様子を見ながらくぐもった笑いを漏らす…。
……何のことはない。
彼らは全員が全員、現金ガスグニ大量ニ、喉カラ手ガ出ルホドニ欲シカッタ…!
つまり、立場は逆転したのだ。
なぜなら、彼らが脅迫している蔵臼にだけ急ぐ大金が必要ない。
それに対して脅迫する3人は、何としても急ぎ大金がほしい。
つまり、この取引は引き伸ばすほどに蔵臼に有利なのだ。
蔵臼は非常に狡猾だったのだ。
彼らのアキレス腱は初めから知っていた。
それでも確実ではなかった。
だからそれらを最後の最後まで伏し、彼らの出方を完全に見極めた上で反撃に転じたのである。
「私もできることなら、可愛い弟や妹たちの危機に金を工面してやりたいと思っているよ。…だが残念なことに持ち合わせがなくてね。……7億半もの大金が工面できるスポンサーに心当たりがあるなら、先にそちらを当たってもらいたいのだよ。」
勝ち誇った蔵臼の言葉はあまりに白々しい。
弟たちは、歯軋りしながらそれを聞き流すしかなかった。
………そんな都合のいいスポンサーに心当たりがあったなら、こんな真似はしないのだ。
万策が尽きたからこそ、このような大勝負に出ているのだ。
「……もしお前たちが、どうしてもこの兄を頼りたいというなら。私の口利きでスポンサーを探してやってもよいのだがね。………おっと、私にはそんなものはいないと言っていたか。それではどうにもならんねぇ。……ふっふふふふふふふふ!」
勝ち誇る蔵臼の低い笑い声が客間をじわじわ満たしていく。
さっきまで長兄を追い詰めていた弟、妹たちは、歯軋りしながら表情を歪ませることしかできない…。
「…………え、絵羽……、」
「……冗談じゃないわ…。兄さんに借りなんか作れるもんですか…。冗談じゃない、…冗談じゃない……!」
「………………く、……蔵臼兄さんを頼ったら、どう助けてくれるの…。」
「言ったではないか。私にできるのは他のスポンサーを探すだけだよ。もちろん、利息を融通してもらえるようには最大限、交渉するがね。ふふふふふ、くっくくくくくくく!!」
「……畜生……、足下見やがってぇ…………。」
「………あなた。落ち着いて。」
「落ち着いてるぜ、俺は極めて冷静だぜ……。……………クソッタレが…!」
霧江は夫の手を握る。
その仕草がかえって哀れに感じて、留弗夫はその手を振り払った。
…それを見て蔵臼はさも愉快なことのように笑う。
「こんな時、本当に親父殿の隠し黄金が見付かればいいんだがねぇ。そうすればすぐに25億ずつをこの場で切り分けてやれるのだが。残念残念、残念至極! 非常に極めて実にどうしようもなく残念だ!…………今宵は兄弟みんなで酒を酌み交わしながら、親父殿の隠し黄金を、……ベアトリーチェの碑文の謎を、みんなで解き明かしてみようじゃないかね。仲良し兄弟が4人揃えば、きっと解けない謎はないはずさ。…はっはははははははははははははははははははははははははははッ!!」
■金蔵の書斎
「………………ふ。面白いことをする。それでその、突きつけた条件というのは何か。」
「……はい。蔵臼さまは黄金の発見を問わずにその分け前として、絵羽さま、留弗夫さま、楼座さまに、計75億円を支払うこと。ただしその1割を3月までに支払うこと。」
「ふ、はっはっはっはっはっは…。蔵臼の間抜けめ。弟たちに足をさらわれるとはな。実に愉快ではないか。……しかし、詰めが甘いようだな?」
「………はい。蔵臼さまはそれを、絵羽さま以下お三人が緊急に大金を用立てする必要があるためと看破されました。」
「ふ。その程度のことは看破できるのか。中途半端に無能な男め。………今はどうしている?」
「……話は一度中断されました。今は、ベアトリーチェさまの碑文の話をされています。」
「私の黄金がどこに隠されているのか、その謎を解こうと、か?」
「……………はい。」
金蔵は老眼鏡を置くと、ふっと鼻で笑う。
「………奇跡の成就が先か、愚か者どもが黄金を暴くのが先か。…実に見物ではないか。……愚か者どもが我が謎を解き明かしたなら、その時は私の全ての敗北だ。我が屍を骨の一欠けらまでしゃぶり尽くすがいい。愚か者どもの貪欲さが偉大なる魔法に奇跡を宿らせるのだ。……だがもし!! 奇跡の成就が先だったなら…、先だったなら! ベアトリーチェは再び蘇る!! 私が半生をかけて追い求めたあの微笑が蘇るのだ…!
おおぉベアトリーチェ!! 奇跡を賭す聖なる夜がやって来るぞ、悪魔たちとのゲームが始まるぞ…! 私はきっと打ち勝つ、絶対に生き残る!! 他のやつらの命はくれてやる! 富も名誉も財産も黄金も何もいらぬ! ただお前の微笑みがもう一度見たいだけなのだッ!!
ゲホンゲホンゴホン!!」
金蔵は咽こんでしまい苦しそうにする。
嘉音は主人の背中をさすろうと近付くが、金蔵は来なくて良いと制した。
「…………なぜ、私が黄金の隠し場所をわざわざ人目に触れるように曝したかわかるか?」
「……いえ。」
「魔法の力はリスクで決まるからだ。ベアトリーチェの黄金を暴こうとする人間が多ければ多いほど。その危険が高まれば高まるほどに、それでもなお成就できた時、魔法の力は偉大なる奇跡を起こせるのだ。………魔法とはつまりゲームなのだよ。優れている者が勝者になるのではない。勝者には魔法が与えられ優れるのだ。わかるか? 生命の奇跡が数億分の一という神々しい確率に勝利するからこそ与えられるようにな。………………お前には少し難しいか。」
「………申し訳ございません。」
「よい。……つまりはこういうことだ。ベアトリーチェの碑文の謎を解いた者には、私が築き上げてきた全てを与えよう。富、名誉、黄金、そして右代宮家の家督、私が築き上げてきた全てだ! その謎に挑む資格があるのは、何も私の息子たちだけとは限らぬ。例えお前であっても、その謎を解けたなら全てを得る資格があるのだ。」
「………はい。ですが、……僕にはあのような難しい謎はわかりかねます。」
「無論だ。難解に作った。…だが、お前も挑め。それが我が魔法の奇跡を呼ぶ糧となる。誰もが挑み、誰にも至れなかったなら、その時はその時。だが、奇跡が集い魔法の力が生まれたなら、その時こそ! ベアトリーチェが蘇るのだ。だからお前も挑め。誰もが挑め。そして我が魔法に力を捧げるのだ!! わかるな?!」
「…………はい。…努力します。」
金蔵はしばらくの間、興奮した様子で頭を抱えながらぶつぶつと独り言を繰り返していた。
嘉音は、主から次の指示が与えられるまで、その場に直立不動でじっと待機していた。
…やがて金蔵もそれに気付く。
「もうよい、下がれ。……酒棚に菓子の袋があろう。駄賃に持って行くがよい。」
「……結構です。僕は、………家具ですから。」
「…………ふむ。……家具は菓子など食わぬか。…道理だな。ならばもう下がれ。」
「はい。……失礼いたします。」
嘉音はお辞儀をしてから書斎を出る。
扉が閉じられると、ゴトリという重々しい施錠音が響くのだった。
しかしそれは嘉音が施錠した音ではない。
扉がオートロックのためである。
金蔵が許可した者しか入れず、一度退出すれば再び入ることはできない。
……肉親の誰も信用できず、自らを書斎に閉じ込め外界と隔離する金蔵が施した、拒絶の仕掛けだった。
……彼はもはや、血を分けた息子たちではなく、自らを家具と呼ぶ使用人たちにしか心を許せなくなっていたのである…。
■肖像画前
「………………南條さま、いかがなさいましたか。」
「…あぁ、源次さん。いや何、居場所がなくなりましてな。」
南條は苦笑いしながら客間の扉の方を振り返る。
…その仕草で、南條の言いたいことは源次に伝わったようだった。
源次も一族の状況は大体わかっている。
…客間で現在、仕える主に対して不敬な話題が交わされているであろうことには、眉をひそめたい気持ちもあったに違いない。
だがそれを、その淡白な表情から測るのはとても難しかった。
「………しかし、…私にはわかりませんな。…どうして金蔵さんは、こんな挑発的なものを書かれたのでしょう。」
南條はベアトリーチェの肖像画を見る。
……いや、目線は肖像画の下の、碑文のプレートに向けられていた。
「……………私には、お館様のお考えはわかりかねます。ですが、深いお考えがあってのことと察しします。」
「……金蔵さんのチェスは、昔からずいぶんと遠大な読みで布石を打たれるものでした。いや、時には理解できない一手さえ。……私如き凡庸では、何を目論まれているのか、皆目見当も付きませんな…。」
「私は、これをお館様の何かの遺言状ではないかと考えています。………それを理解できた者に、財産や家督を譲られようということなのでしょう。」
「……つまり、私のような余所者に解かれてしまう前に、兄弟4人で協力し合って謎を解け、ということではないか、ということですな。金蔵さんは息子さんたちのことを口悪く罵ってはいますが、何とか兄弟が仲を取り戻して欲しいと願われているのかもしれません。」
「……………………。」
南條の言うようにこの碑文が、兄弟仲を取り戻させるのが目的だったなら、どれほど微笑ましいことか。
…しかし南條も源次も、それだけは絶対にありえないだろうと理解していた。
もっとも長く金蔵と縁を持ち、肉親たちよりも心を許されている二人であっても、金蔵の真意は測りかねているのだった…。
「……お館様は、一族の者でなくとも謎に挑む資格があると常々仰っています。……南條先生はいかがですか。」
「いやいや……、この老いぼれには少々難解が過ぎますな。……実は以前、この碑文を手帳に記しましてな。夜な夜な、寝る前に挑んでみたのですが、……はっはっは、実に難しい。お迎えが来るまでの間、ゆっくり楽しむことができそうです。源次さんこそ、いかがですかな?」
「………私めはお館様にお仕えする家具に過ぎません。黄金も財産も、私には不要なもの。」
「やれやれ、本当に謙虚な方です。…だからこそ、金蔵さんもあなたには心を許されるのでしょう。」
「ならば光栄なことです…。」
南條は軽く笑って応えると、再び碑文を見る。
「……懐かしき、故郷を貫く鮎の川。黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ…。」
我が最愛の魔女ベアトリーチェの肖像画の碑文に記されたものは以下のとおりである。
懐かしき、故郷を貫く鮎の川。
黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。
川を下れば、やがて里あり。
その里にて二人が口にし岸を探れ。
そこに黄金郷への鍵が眠る。
鍵を手にせし者は、以下に従いて黄金郷へ旅立つべし。
第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ。
第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け。
第三の晩に、残されし者は誉れ高き我が名を讃えよ。
第四の晩に、頭をえぐりて殺せ。
第五の晩に、胸をえぐりて殺せ。
第六の晩に、腹をえぐりて殺せ。
第七の晩に、膝をえぐりて殺せ。
第八の晩に、足をえぐりて殺せ。
第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。
第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう。
魔女は賢者を讃え、四つの宝を授けるだろう。
一つは、黄金郷の全ての黄金。
一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。
一つは、失った愛すらも蘇らせる。
一つは、魔女を永遠に眠りにつかせよう。
安らかに眠れ、我が最愛の魔女ベアトリーチェ。
第5アイキャッチ:10月4日(土)14時00分 が15時00分に進む
■海岸
「第十の晩に旅は終わり、黄金郷に至るだろう、か。しかし真里亞はマメだな、ちゃんとメモしてるとは偉いぜ。」
「うー! 真里亞は忘れっぽいからちゃんと書く! ママに言われたからちゃんと書く!」
真里亞がいつも持ち歩いてる手提げの中には手帳が入っており、そこには例のベアトリーチェの碑文が書き写されていた。
その為、俺たちはこうして海岸に出ても碑文の謎解きに挑戦できるのだった。
朱志香たちにとっては、すでに何度も挑戦し、すでに飽きてしまっている謎解きだ。
だが俺には初めてだからな、わくわくしちまってやめられたもんじゃない。
男のロマンをくすぐりまくりだぜ!
「まず1行目。懐かしき、故郷を貫く鮎の川、か。祖父さまの故郷ってどこだっけ?」
「戦前の右代宮家は小田原の辺りに屋敷を構えてたって聞いたぜ。んで、となりゃ、小田原に流れてる鮎の泳ぐ川に関心が行くわけだろ?」
「まずはその川が起点になるからなぁ。んで、黄金郷を目指す者はそいつを下って鍵を探せとあるわけだ。小田原にある川って何だ? 鮎が泳ぐ川だぜ?」
「小田原で鮎って言ったら、早川だろうね。渓流釣りで有名だよ。」
「うー。真里亞、魚嫌いー。」
「いっひっひ、真里亞ももう少し大きくなったらわかるぜぇ〜! 鮎の塩焼きをベロベロベロ〜ってなぁ! ンまいぜぇ〜! さっきメシ食ったばっかりだってのに、もう腹が減ってきちまうぜ。」
「……あの、ビスケットでもお持ちしましょうか?」
「え? あ、悪い悪い、そんなつもりで言ったんじゃないぜ、気にすんな!」
紗音ちゃんは、午後の仕事はしばらくないということで律儀に俺たちに付き合ってくれていた。
使用人という立場上、俺たちに付き合った方がかえって気を遣って疲れちまうんじゃないかと思ったが、彼女の場合はそうでもないらしい。
…むしろ、歳の近い人間たちと一緒に会話に加われるのが楽しいようだった。
聞けば彼女は住み込みで働いているという。
となれば、歳の近いのは朱志香だけだ。
なるほど、そりゃあ味気ないよな。
「さて、小田原で鮎の川って言えば早川だってことはわかった。となりゃ下るしかねぇよな! 早川を下ると何があるんだろうなぁ?」
「えっと、…………下流に出て、海に出ると思います。」
「そうさ、河口部に出る! そして碑文の三行目には、川を下ればやがて里ありとあるな。ちなみにそういう河口部は大抵、大昔から輸送の要衝になってて大きな都市があるもんさ。 ここが次のチェックポイントだなぁ。」
「ふむふむ。なかなかいい筋だね。戦人くんの想像通り、そこは大昔にとても栄えた古都だよ。小田原城があるところだね。」
「あ、修学旅行で小田原城に行った気がします。素敵なお城でしたよ。」
「あー、私も小田原城だったぜ。洋館に住んでて何だが、やっぱり日本人は和風の方が落ち着くよな!」
「うー。真里亞、お城退屈ー。遊園地がいい。うー!」
「そうかそうか、よしよし! 黄金を見つけたら、この戦人さまが気前よく遊園地を一日借り切って遊ばせてやるぜ〜!………しかし、小田原城とはなぁ。小田原城の隠し黄金…。おほ?! こりゃあ何だかいかにもって感じだよな?!」
「はっはははは! まぁ、2年前の私たちもそこまでは行き着いたぜ。小田原で鮎の泳ぐ川を下った里。そこが多分、小田原城辺りだろうってところまでは私たちも行き着いたさ。問題は次の行だろ。さて、戦人の珍推理はどこまで行けるか見物だぜ。」
朱志香がニヤニヤと笑う。
その程度で謎が解けるなら、とっくの昔に私が見つけてるぜと言わんばかりだ。
…くそー、きっと俺が見つけて独り占めしてやる!
「4行目。…その里にて二人が口にし岸を探れ。………二人ってのが何のことかわからねぇが、とにかく岸だな。………岸って何だよ?! うーんうーん、…岸って名前が付く地名でもあるのかなぁ?」
「えっと、……曽我岸という地名が小田原にあるんだそうですよ。」
「え?! おお、詳しいな!ってことは何だよぉ〜、紗音ちゃんも黄金を狙って、謎解きに挑戦してるんだなぁ〜? となりゃ俺たちゃライバルだぜ!」
「べ、別に黄金なんて興味は…。ただその、以前に譲治さまから教えてもらっただけで…。」
「2年前の私たちも同じ推理に行き着いたってわけさ。わざわざ地図を広げて調べたんだぜ!」
「小田原城の、北に5kmくらいだったかな。そこには確かに曽我岸という地名があるよ。……でも、そこからがわからないんだ。次の5行目にはその土地のどこに鍵があるかは記してない。真里亞ちゃん、読んでくれるかい?」
「…うー。……そこにオウゴンキョウへの、…カギが、ネムる。うー! 読めた!」
「曽我岸ったって、広いだろうし、かつてそこに右代宮家の家があったわけでもない。その広大な土地のどこかに鍵が隠されててノーヒントってんじゃ、こいつぁお手上げってわけだぜ。」
「確かになぁ。…鍵が手に入らないことにはその先の行に進めないぜ。譲治兄貴、曽我岸ってのはどんなとこなんだ?」
「さぁねぇ…。行ったことはないからわからないけど、地図によると山の中みたいだよ。確か、浅間山の山麓みたいだったね。」
「……うーん。何だかぱっとしねぇなぁ。宝の在り処を隠した謎ってのは、もっとビッタリとはまるモンじゃねぇのかよ。どうも曽我岸ってのがそもそも間違いって気がするぜ。」
「私は曽我岸を疑ってるぜ? 私たちが知らないだけで、例えば祖父さまの子供時代を過ごした家とかがあるかも知れないだろ。1行目に、懐かしき故郷を〜って行があるくらいだもんな。…紗音は祖父さまによく酒とか注がされてたろ。昔話とか聞かされたことないのか?」
「……お館様は昔の話はほとんどされません。…ただ、右代宮家が滅びかけた関東大震災について、非常に他人事のように話されることがありましたので、関東地方よりずっと遠方にお住まいだったかもしれません。」
「右代宮本家は小田原に住んでたかもしれないけど、分家はその限りじゃなかったろうね。お祖父さまはよく自分のことを、分家も分家、跡継ぎにもっとも縁遠かった、と言われるくらいだからね。」
「ってことはつまり! 懐かしき故郷ってのが、すでに小田原じゃない可能性もあるってことだなぁ…。」
「祖父さまの故郷なんて聞いたこともないぜ。聞いても、素直に教えちゃくれねぇだろうしよー。」
「懐かしき故郷というのが、右代宮家のルーツを指さないのであれば、小田原説は初めから間違ってることになっちゃうね。もちろん、曽我岸の疑いが晴れたわけじゃないけれども。例えば、幼少のころを小田原で過ごし、その後、遠方へ引っ越した可能性もあるだろうし。」
「うー…。さっきから何の話かわかんない。うー。」
真里亞がすっかり置いてきぼりにされていて、退屈だと頬を膨らませている。
「あー、つまりだな。黄金スゴロクの最初のスタート地点が決まらないことには、何も始まらないってことだぜ。……………いや待てよ? 最初の5行で見付かるのは鍵だろ? 鍵なんてなくても、扉はブチ壊して入ることだってできるはずだぜ。とりあえず最初の5行をすっ飛ばして、その先の推理に入ってもいいんじゃねぇか〜?」
「ほー…。その発想はなかったぜ。まぁいいや、どうせ暇潰しなんだ。続きを聞かせろよー、戦人の推理!」
「……でも、その先からは急に物騒になるんですよね…。」
紗音ちゃんがちょっぴり眉をひそめる。
どんなことが書かれていたっけと真里亞の手帳を見ると、…なるほど、納得する。
「第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ、…か。いきなり物騒になるな。」
「第二の晩には寄り添う二人を引き裂けと来たもんだ。恋仲を破談させるのか、文字通り引き裂くという意味なのか、わかりかねるけど、どっちにせよ気持ちの悪い話だぜ。」
「その第二の晩の解釈を別にしても、第一の晩に6人。第四の晩から第八の晩までで5人、少なく見積もっても11人が生贄にされなきゃならない。」
「うー。ベアトリーチェが蘇るための生贄ー!」
「…なるほど魔女復活のための生贄か…。そういう解釈にもなるな。その結果、第九の晩に魔女が蘇って……。…最後は極めつけだな。」
「…………第九の晩に魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。……結局はみんな死んでしまいます。」
「それでようやく次の第十の晩にゴールってことになってんな。みんな死んじまうのに、黄金郷へ至るだろうって言われても困ったもんだぜ。」
「…鍵を手に旅に出た当人も、生き残れないに含めるのかどうかは解釈のわかれるところだね。」
「しかしよ、最後のところには面白ぇことが書いてあるぜ? ゴールした後、魔女からもらえる4つの宝の行だよ。一つは全ての黄金。問題は次だ。全ての死者の魂を蘇らせるとあるぜ? みんな死んじまった、っていうのと掛けてるような気がしねぇか?」
「………それを言われれば、次の、失った愛すらも蘇らせる、という部分は、第二の晩の、寄り添いし二人を引き裂け、に掛けているようにも見えますね。」
「そうだね。そして4つ目も第九の晩に掛けてある。第九の晩に蘇った魔女を、4つ目の宝が再び眠りにつかせている。」
「…好意的に解釈すりゃあ、死んだり別れさせたりと忙しいが、最後には全部チャラになるわけだな。目覚めた魔女も再び眠るし、手元にはたっぷりの黄金だけが残るって寸法だぜ。」
「死んだり蘇らせたり、別れさせたりくっつかせたりと、魔女さまはお忙しいこったなぁ。」
「ついでに、起きたり眠ったりな。ははははは。」
「やれやれ、せっかくの隠し黄金の話も、魔女の話が絡んじまうと急に胡散臭くなっちまうぜ。」
「違いないな、あっははははははは!」
朱志香と二人して笑う。
魔女なんて馬鹿馬鹿しいという意味でだ。
…もちろん、そういう意味で笑えば、魔女の存在を信じる真里亞は機嫌を悪くする。
「うー! 魔女はすごいー! 魔法で何でもできる! 殺すことも。生き返らせることも。愛を与えることも、奪うことも。空も飛べるし、姿を透明にできるし、黄金もパンも生み出せる! うー! うー!! うーうーうー!!」
「ぁ、いけね…。悪い悪い…、冗談だよ!」
朱志香がぺろりと舌を出して謝るが、真里亞は納得してくれなかった。
俺の手から自分の手帳を取り返すと他のページを開きながら、魔女の存在を訴える。
それらのページには色とりどりに描かれた魔女のイラストがあり、魔女に対して持つ真里亞のファンタジックなイメージをよく表現していた。
それは鉤鼻の老婆が箒で空を飛び…、というような定番の禍々しいものではなく、夢見がちな女の子なら、誰もが少女時代に思い描くような、美しいドレスを着飾って、不思議な力で何でもできる、夢のような存在として描かれている。
空を踊るように駆け、虹を渡り、いくら注げども尽きない魔法の紅茶ポットやティーカップセットたちと踊り明かす。
杖を振るえば、空の星は飴玉となって降り注ぎ、道端にはお菓子を実らせる花々が芽吹いていた。
……真里亞にとって魔女は、彼女を虜にする魔法の夢を具現化できる唯一の存在。
成長すればするほどに知る、無味簡素な現実に潤いを持たせてくれる最後の存在。
だからこそ、真里亞は魔女を信じた。
それを穢されたくなかった。
だからこそ、魔女の存在を肯定する碑文も、穢されたくなかった。
魔女ベアトリーチェは、真里亞の夢そのものだから…。
「真里亞ちゃんにとっては、これは黄金の隠し場所を示すものじゃなくて、魔女を蘇らせるための、魔法なんだって。」
つまり、魔女と真里亞を結ぶ、唯一の架け橋。
真里亞はすっかりヘソを曲げてしまって、譲治の兄貴に抱きついていた。
俺と朱志香は頭を掻きながら謝る。
…さっき肖像画の前でヘソを曲げられた時はすんなり機嫌を直してくれたが、二度目はダメなのかもしれない。
真里亞はもう、簡単に機嫌を直そうとはしてくれなかった。
どうしたものか俯く俺と朱志香に変わり、紗音ちゃんがおずおずと口を開いた。
「あの、………真里亞さま、ご存知ですか…? 私たち使用人たちの間では、ベアトリーチェさまの怪談が語り継がれているんですよ。」
「……うー?」
「あ、あぁ、そうだったっけ! 紗音、聞かせてやれよ。私は知らないんだけど、使用人の間じゃかなり有名な話らしいぜ?」
「何の話だ? 怪談?」
「うん。僕たちが生まれる前からある話らしいね。母さんにも話を聞かされたことがあるよ。」
「……はい。この島にお屋敷が建てられてからずっと語り継がれている話です。……当時の使用人たちは、お屋敷には昼と夜で違う主がいると囁きあっていたそうです。」
紗音が語るその話は、学校の七不思議にも通じそうな、典型的な怪談話だった。
魔女の森があり、そこに住まう魔女がいるならば、…それが屋敷の中にやって来ないわけもない。
いつの頃から使用人たちの間に、自然と芽生えた怪談だった。
「ちゃんと締めたはずの窓や扉や鍵が、もう一度見回りに来たら開いていたとか。消したはずの灯りが付いていたり、付けたはずの明かりが消えていたり。置いたはずの物がなくなっていたり、置いた覚えのない物が置かれていたり。……そういうことがある度に、古い使用人たちは魔女が姿を消してお屋敷に訪れて、悪戯をしていったのだろうと囁きあったそうです。」
「うー! ほらいる! ベアトリーチェはいるー!!」
「あぁ、いるよな。私も昔よく、登校の時に限って鞄が見付からなかったりしたもんだぜ…。」
真里亞はこれこそ魔女が実在する証拠であるとでも言わんばかりに、うーうーと胸を張る。
口に出せばまた真里亞の機嫌を損ねてしまうだろうから、口にはしないが。
…まぁ、どこにでもよくあるような話だった。
地方によっては、それを小人の仕業だと呼ぶだろうし、妖精の仕業だと呼ぶだろう。
この島ではそれが魔女と呼ばれたというだけの話。
確かに、風情ある狭くない屋敷の中を夜回りすれば、不気味でないはずはない。
ひと気のない島だ。
隙間風の入る屋敷だそうだから、雷雨の夜の見回りはさぞかし薄気味悪いに違いないだろう。
「他にも、鬼火や輝く蝶々が舞っているのを見たという使用人も。……嘉音くんもそれらしいものを、以前、夜の見回りの時に見たことがあると言ってました。あと、最近ではお屋敷の中で深夜に、不思議な足音をよく聞くと使用人の間で話題です。私たちは、肖像画の中のベアトリーチェさまが姿を消してお屋敷の中を散歩しているんだろうと囁き合ってるんですよ。…ずいぶん前ですが、私もそうかもしれない足音を、夜の見回りの時に聞いたことがあります。」
「……ひゅう。そりゃ怖ぇな…。」
「あ、…でも、怯えることはないんですよ? ベアトリーチェさまはお館様とは異なる、もう一人のお屋敷の主です。だから変に怯えたりしないで、敬意を持っていれば、決して悪いことはしないのだそうです。」
「ただし、敬意を持たないと恐ろしいんだったね?」
「…はい。私が勤めを始める直前に、階段を転がり落ちて腰に大怪我をして辞めた方は、ベアトリーチェさまのことを悪く言っていたそうです。だから使用人たちは、ベアトリーチェさまのお怒りに触れたのだろうと噂しあったそうです…。」
「うー…。戦人と朱志香、きっとお怒りに触れる…。うー…。」
「わわ、悪かったぜ! お怒りに触れちゃたまらねぇ! 謝るよ真里亞。もちろん魔女さまにも謝るぜ。ベアトリーチェさまごめんなさい、余所者の戯言と思って勘弁してやってください。」
「私も謝るぜ。ベアトリーチェさまごめんなさい。………これで魔女さま、私たちを許してくれるかな?」
「…うー。わかんない。魔女は気まぐれだから、許してくれる時は許してくれるし、許さない時は許さない。うー!」
「それは困ったね…。真里亞ちゃん、戦人くんと朱志香ちゃんが、ベアトリーチェさまのお怒りに触れないようにする、いいおまじないとかないかな。何か魔除けとかさ。」
譲治兄貴は、魔女について一番詳しいと自負する真里亞に、その方法を尋ねることで自尊心を蘇らせようとしていた。
……本当に子供をあやすのがうまいと再び感心せざるを得なかった。
真里亞は、俺と朱志香に魔女の怒りが及ばないようにするおまじないはないものかと、腕組みをして真剣に悩んでから、手帳のページを捲り始める。
単なる落書き日記帳かと思っていたが、……何だか魔術書のようなページもたくさんある。
その中の、魔法陣みたいなものを模写したようなページをいくつも真剣に見比べていてた。
………どうやら、黒魔術趣味を持つのは祖父さまだけではないらしいな。
やがて調べ物を終えたのか、手帳をパチンと勢いよく閉じるとそれを手提げに放り込み、さらにその中身を漁り始める。
どうもごちゃごちゃと色々なものがしまわれているようだった。
しばらくの間、様々なガラクタ(真里亞にとっては重要なマジックアイテムなんだろう)を取り出しては、これは違う、あれは違うと出し入れを繰り返した。
まるで、取り出す道具を間違えたドラ○もんみたいでちょっぴりユーモラスだ。
やがて、お目当てのものをようやく発掘できたらしい。
さっきまでのむずかった表情からは想像もつかないくらいに晴れ晴れしい顔で、ソレを俺と朱志香に突き出した。
「うー!」
受け取ってみると、それはいかにも安っぽそうなおまじないアイテムだった。
プラスチック製の軽い数珠で作ったブレスレット風のもので、サソリをモチーフにしたようなデザインのメダルが付いていた。
ほら、よく12星座に対応した安っぽいアクセサリーがあったりするじゃないか。
ゲームセンターのクレーンゲームの景品にでもありそうな感じの。
まさにそんなものに見えた。
それが2つ。
俺と朱志香の分という意味だろう。
……しかし、変に2つあるせいで余計、量産品っぽい安っぽさがあり、とてもマジックアイテムとしてのありがたさが感じられない。
「これを私と戦人に?」
「うー! このお守りならベアトリーチェも大丈夫! サソリは魔除けの力があるから!」
「へー、そうなのか? サソリにそんな力がねぇ。」
「うー、戦人が信じない! うーうーうー!」
俺の余計な一言でもう一度真里亞に火をつけてしまった…。
真里亞は再び手帳を取り出すと、様々なページを開いては突きつけ、いかにサソリには神聖な力があって、古来から魔除けの魔法陣に描かれてきたかを延々と説かれることになった。
「……あ、他の使用人の子から聞いたことがあります。サソリって、魔術では魔除けのシンボルとして描かれることもあるんだとか…。」
「へー、そうなのかぁ…!」
「うー! サソリは悪い魔法や災厄から守ってくれる。そしてエメラルドは心に平和をもたらしてくれる。だから二重で効果がある! うー!」
「本当だ。サソリがエメラルドを抱いて守ってるね。なるほど、これはご利益がありそうだよ。」
あまりにも安っぽそうなお守りに、色々と減らず口でツッコミをしたい気持ちもあったが、俺たちのためを思って用意してくれたお守りの効能を一生懸命語る真里亞を見ていると、たとえゲームセンターの景品のお守りであったとしても、ご利益があるように感じられた。
お守りは材質が問題じゃないよな。
気持ちの強さの問題さ。
そいつを小馬鹿にするほど、俺も落ちぶれちゃいないつもりだぜ。
「そっか、ありがとな。ベアトリーチェさまには謝ったけどよ、万が一、崇りがある時でも、真里亞のこのお守りのお陰で安心だぜ。なぁ、朱志香ぁ。」
「あぁ、そうだぜ! ありがとうな、真里亞。」
「うー! 心に平穏が欲しい時は腕に付ける。お財布に入れるとお金が減らなくなる! ドアノブに掛けておくと悪いモノが入ってこられなくなる! 便利なお守り!」
「それはすごい効能ですね。真里亞さまが自信を持って勧めるお守りなら、きっと頼もしいものと思います。」
紗音ちゃんが小さく手を叩くような仕草をしてくれると、真里亞はえっへんと胸を張るような仕草をする。
もう完全に元気になっていた。
こんなにも上機嫌になってくれるなら、もうしばらく話の主役を真里亞に譲ってもいいだろう。
思えば、黄金の隠し場所の話で盛り上がっていた時は付いていけず、少し退屈そうにしていたように思う。
俺と朱志香は熊沢さんの焼いてくれたクッキーを食べながら真里亞に黒魔術のあれこれを尋ねる。
真里亞は嬉しそうにしながら、饒舌に質問に答えてくれた。
その度に譲治の兄貴と紗音ちゃんが驚いたり相槌を打ったりしてくれる。
空の雲の色はますますに重たくなっていくが、いとこ同士の一年ぶりのコミュニケーションを存分に満喫するのだった…。
「……ん。今、額にぽたって来なかったかい?」
「え? どうだろうな?」
譲治の兄貴が額を擦りながら空を見上げる。
空の色や空気の湿っぽい臭いを思えば、いつ雨粒が降って来てもおかしくない。
少しずつ風も強くなってきた気がする。
「うー? 真里亞、ぽたっと来ない。真里亞だけ来ない。うー!」
「安心しろ、俺にも来ねぇぜ。それに今夜になれば、誰にも等しく大雨が降るだろうよ。」
「そうだね。そろそろ引き上げた方がいいかな…?」
紗音ちゃんが時計を見るような仕草をする。 もう夕方のいい時間かもしれない。
「もう仕事に戻る時間かよ?」
「はい。…皆様と一緒で楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。」
「熊沢さんにクッキーをご馳走様って伝えてね。さぁみんな、片付けを手伝おう。」
紗音ちゃんは、それは使用人の仕事だからと固辞しようとするが、生憎、フォークを落としたらウェイトレスに拾われるより先に拾うのが俺の生き甲斐だからな。
俺たちは敷物を畳み、ゴミを集めてお片付けを手伝った。
「うー! ゴミが逃げるー! うーうー!!」
「そいつぁ逃がさないぜ、真里亞より先にいただきだ!」
「うー!! 真里亞が拾う! うーうーうー!」
「真里亞ー! 靴を濡らすなよ、怒られるぜー!」
ゴミが強い風に煽られて飛んでいくのを追いかけるのも、真里亞にとっては遊びの延長のようだった。
片付けが終わる頃には、だいぶ強い風が吹くようになっていた。
引き上げるにはいい潮時だったようだ。
「皆様のお陰で助かりました。ありがとうございました。」
「…もう本当に時間がないみたいだね。先に戻っていいよ。」
紗音ちゃんの慌しそうな様子に、残り時間が大して残されていないことを譲治の兄貴が悟る。
「源次さん、時間には厳しい人だからなー。定時に持ち場に付いてないと厳しそうだぜ。」
「また後でね。お仕事がんばってね。」
「は、はい! ……それでは失礼させていただきます。」
最敬礼のお辞儀をしてから、紗音ちゃんはぱたぱたと薔薇庭園に駆けて行った。
「じゃ、俺たちもゲストハウスへ戻ろうぜ。テレビでも見てくつろがせてもらうさ。」
「うー! テレビ見る! テレビ見る、うー!」
「なら決まりだな。戻ってみんなで一緒にテレビでも見ようぜ。」
まだ遊び足らなそうな真里亞も、テレビを見るということで納得してくれた。
俺たちは緩い階段を登って薔薇庭園に戻った。
■薔薇庭園
だいぶ風が強くなり、庭園のたくさんの薔薇たちが小波のように揺らめいていた。
この美しい薔薇もこれが見納めかもしれない。
今夜の台風がきっと目茶目茶にしてしまうだろう…。
「薔薇、今夜の風でやられちまうかもしれないな。」
「そうだな。薔薇たちもラッキーだったと思うぜ? 台風の前に戦人たちを歓迎できたんだからよ。」
「花はいつか必ず散る。でも、だからこそ咲き誇る今を愛でることができるんじゃないかな。」
「そうだな。…真里亞もよく目に焼き付けとけ。今この瞬間が、今年で一番の薔薇なんだぜ。」
「うー。目に焼き付ける。」
すると真里亞は急にぽんと手を打つ。
何かを思い出した風だった。
「……真里亞の薔薇…。台風で飛ばされちゃう。……うー!」
「あ、譲治の兄貴に目印のリボンを付けてもらったあの元気のない薔薇か?」
真里亞は薔薇の場所を覚えてるらしい。
一目散に駆け出していった。
俺たちもその後を追う。
「…………うー? うー。」
「あれはどこだったっけなぁ…? 確かこの辺だったと思ったぜ。」
周りをきょろきょろと探してみるが、何しろこれだけの薔薇の中の一輪だ。
この辺りにあるとはわかっても、なかなか見つけられなかった。
台風の尖兵の風たちが、庭園いっぱいの薔薇をうねらせる。まるで、そうすることで真里亞の薔薇の在り処をわからなくさせようと、意地悪しているかのように見えた…。
「ここじゃなかったかな…。少し手分けをして探してみようか。」
「そうだな。人海戦術で行こうぜ。………ん? 何だよ真里亞。」
俺たちが手分けして探そうとすると、不機嫌そうな顔をした真里亞が俺の上着を引っ張る。
……他所へ行くなという意思表示に感じられた。
「何だよ、どうした。」
「……うー。真里亞の薔薇はここなの。ここにあるの…!」
「でも現にないぜ…? この花壇の裏側だったかもな。みんなで探せば早いぜ?」
「うー!! ここなの! 真里亞の薔薇はここなの!! 探して!
さーがーしーてー!!うーー!!」
真里亞は地団太を踏む。
……間違いなくそこにあったと言って指し示すのだが、現にそこにはない。
かといって、他を探そうとすると真里亞は怒る。
…俺たちは途方に暮れるしかなかった。
しばらくの間、俺たちは真里亞に付き合い、薔薇の茂みの中を探すフリをしなければならなかった。
「……うー。うー…! ない。……ない! ない! うーー!!」
ここにあるはずなのにないとでも言うのだろうか。
真里亞はどんどん不機嫌になっていく…。
「…参ったな。真里亞がすっかり癇癪を起こしちまったぞ。」
「真里亞はたまに、すごくどうでもいいことを気にし始めちゃうんだよ。それがどうにかなる時はいいんだけど…。」
「ない物は探せないしね…。困ったな…。」
すっかり途方に暮れていると、真里亞が大きな声を上げた。
「ママー!! うーうー!!」
大きく手を振る向こうには、楼座叔母さんの姿が見えた。
台風が来る前にもう一度薔薇を見ようと思ったのか、ゲストハウスに用事でもあったのか。
屋敷の方から楼座叔母さんがやって来る。
すぐに娘の声に気付いてやって来てくれた。
「あらあら、どうしたの、みんな。何か探し物なの?」
「探してー! ママも真里亞の薔薇を探して! うーうーうー!!」
「真里亞の薔薇って?」
「この辺に元気のない薔薇をひとつ見つけて、それに目印を付けたんです。」
「飴玉かなんかの包み紙でキュっと。…しかし真里亞、確か俺の記憶が正しけりゃ、すぐ手前の目立つところに生えてたはずだぜ? 足が生えてどこかに行っちまったんじゃなきゃ、他の場所だったと思うぜ。真里亞の記憶違いじゃないのか?」
「うー!! ここなの!! こーこーなーの!!戦人が信じてくれない! うーうー!!」
「そのうーうー言うのをやめなさいって何度言ったらわかるの! ママも探してあげるから静かにしなさい!!」
温和なところしか見たことがない楼座叔母さんが怒るので、少し驚く。
楼座叔母さんも捜し始めるので、俺たちも一応それに付き合うが、この辺りにないことはすでに充分確認済みだ。
…だから楼座叔母さんも、すぐにここにはないと理解する。
「ここにはその薔薇はないわよ。他の場所の間違いじゃない? これだけたくさんの薔薇があるんだから、」
「うー!! うーーーッ!!! 違うの!!ここにあるの!! ママも信じてくれない! うーうーうー!!!」
「ちゃんと信じて探してるでしょ?! でもないじゃない!」
「うーうー!! でもここなの!! ここにあるのにないの!! うーうーうー!!」
「じゃあ誰かが抜いちゃったんでしょ! とにかくそのうーうー言うのをやめなさい!!」
「うーうーうー!! 真里亞の薔薇、抜いたの誰、抜いたの誰ッ!!返して、返して!!うーうー!! うーうーうーうー!!!」
「そんなの知らないわよッ!! やめなさい、そのうーうー言うのをやめなさい!!」
楼座叔母さんが平手で真里亞の左頬を打つ。
その瞬間だけ、真里亞の騒ぎが沈黙した。
もちろんそれは一瞬だけのこと。
真里亞は自分の願いが叶えられず、拒絶されたことを知るとますますに大きな声で騒ぎ出す。
「うーうー!! うーうーうー!! 真里亞の薔薇! 真里亞の薔薇!! うーうーうーうーうーうーうー!!!」
「その変な口癖をやめなさいって言ってるでしょ!! だからクラスの子たちにも馬鹿にされるんでしょうが!! いい加減にしなさいッ!!」
もう一度、平手が真里亞の頬を打つ。
今度は沈黙しなかった。
咳を切ったように泣き出し、ますますに大声で泣き喚く…。
楼座叔母さんは明らかにイラついていて、娘を黙らせようともう一度平手を振り上げる…。
「ろ、楼座叔母さん…。まぁまぁ…その、小さい子供のことですし、そんなマジになんなくっても…、いっひっひ。」
俺は苦笑いで揉み手しながら、とりあえず場に割って入ろうとするが、…マジな顔をした楼座叔母さんに凄まれ、余計なことはするもんじゃないと思い知らされる。
「ごめんね、戦人くんたちはちょっとお部屋に戻っててくれる? 叔母さんは真里亞とちょっと話があるの。」
「うーうーうー!! 誰も真里亞の薔薇を信じてくれない!! ここにあったのに!! うーうー!! 探して!! さーがーしーてー!! ここなの、ここにあったの!! うーうーうーうー!!!」
「でもないじゃないッ!! なら他の場所の勘違いでしょ?!」
「うーうーうーうー!! ここなの!! 絶対にここなのッ!! うーうーうー!!」
「じゃあなくなっちゃったのよ!! 諦めなさいッ!!」
「どうして?! どうして真里亞の薔薇がなくなっちゃうの? どうしてどうして?! うーうーうー!!!」
「知らないわよ、そんなのッ!! だからその、うーうー言うのをやめなさいッ!!」
楼座叔母さんが再び手を振り上げ、感情に任せて頬を打つ。
それは力強く、真里亞を転ばせるだけの力があった。
「へっへー…、楼座叔母さん、いくら娘でも暴力はいけねぇっすよ…。」
転んだまま、うーうーと泣き続ける真里亞を庇うように俺は間に入る。
……親子の問題に部外者が余計なお世話なのはわかってる。
だからって、俺はこういうのを黙って見学しろとは習わなかったからな…。
「戦人くんは変に思わないの? あなたの学校に、うーうー唸ってる女の子なんている?」
「いや、まぁさすがに高校には…。でも小学生ならそういう、うーうー言うのも可愛いじゃないっすか…。」
「可愛い? うーうー言うのが可愛い? 可愛いってッ?!」
その無責任な言葉が楼座叔母さんの逆鱗に触れたらしい。
叔母さんはすごい形相で俺の胸倉を掴み上げる…。
「馬鹿言ってんじゃないわよ!! 真里亞がいくつか知ってる? 9歳よ?!小学4年生なのよッ?! 幼稚園児じゃないのよッ?! それなのに、まだクラスでうーうー言ってるのよ!! わかる?!この子、クラスで何て言っていじめられてるか知ってるの?! この変な口癖のせいで、未だに友達のひとりもいないのよ?! 無責任に真里亞のことを可愛いとか言って現実から目を逸らさないで!! この子の将来のことを、もっともっと真剣に考えてッ!!!」
「うーうーうーうーうー!!! うーうーうーうーうーうー!!!」
「だからそのうーうー言うのをやめなさいッ!!やめろって言ってんでしょ!!」
うずくまりながら、ますますに不満の声を上げるその頭を楼座叔母さんは引っ叩く。
俺は止めようとするが、叔母さんに突き飛ばされてしまう…。
俺の背中が譲治の兄貴にぶつかった。
「……昔は楼座叔母さんも、真里亞ちゃんの幼児言葉のひとつだくらいにしか思わなかったんだけど…。小学校の中学年になっても、治らないのを最近はだいぶ気にしてて…。」
「別に、どういう言葉遣いをしようと関係ねぇだろ…。」
「そのまま社会人にはなれないよ。…だから、見ていて気持ちのいい光景ではないけれど、……これは叔母さんたち親子の問題なんだよ。」
「………ま、私も、この言葉遣いのせいでよくお袋に怒られるけどよ。」
そんな風に言われたら、この痛々しい光景も、部外者の俺が割り込むものではないのかもしれない…。
「戦人くんだって、小さい頃、悪い癖が治らなくて、怒られたことがあったんじゃないかい?」
「……まぁ、ひとつやふたつは。授業参観の日に、人前でずっと怒られてた時は恥ずかしくて堪らなかったぜ。」
「じゃあ、今の真里亞ちゃんたちの気持ちはわかるよね。……僕たちに、ここにいてほしいとは思わないんじゃないかな。……朱志香ちゃんにもわかるよね?」
「…………怒られてるところを、誰かに見られてぇとは思わないぜ。」
「行こう。ゲストハウスへ戻ろう。そして真里亞ちゃんが戻ってきたら、何事もなかったかのように迎えてあげようよ。…それが、一番じゃないかい?」
譲治の兄貴の言い分は多分もっともだと思ったし、…そういうもっともらしい理由をつけて、この胸の痛くなる場から退散できるなら、俺たちはそれでよかったのかもしれない。
俺と朱志香は、譲治兄貴に頷き、その場を後にする。
真里亞に、俺たちはゲストハウスに行ってるからなと声を掛けるが、耳には届いていないようだったし、言っている俺たちもどこか後ろめたくて白々しかった…。
「それなら好きなだけひとりで探しなさい! ママは知りませんッ!!」
「うー!!! 探す! 真里亞がひとりで探すー!! ママが知らなくても探す! うーうーうーうーうー!!!」
「勝手にしなさいッ!!」
楼座はその言葉を最後にぶつけると、ぐるりと踵を返して屋敷へ足早に戻っていく。
真里亞にとってそれは、とても冷たく傷つく仕草に見えただろう。
だが楼座にしてみればそういうつもりではなかった。
…感情的に頬を叩いてしまった手が、まだじんじんしていたから。
…このまま叫び続けていると、また感情に飲み込まれて、娘の頬を何度も打ってしまいそうだったから。
楼座が立ち去った後の薔薇庭園には、真里亞がたったひとりで残される。
風はますますに強くなり始め、時折、額に雨粒がぼたりと当たった。
…でも、真里亞はその場所を立ち去ることができない。
あの、可哀想な萎れた薔薇を見つけるまでは。
間違いなくそれはここにあった。
……なのに、ない。
場所はわかっていて、しかもそれはそこなのに、ない。
真里亞は恨めしそうに、あったはずの場所を睨み続けながら、必死に考える。
見る角度がおかしいのではないか。
見る高さがおかしいのではないか。
……たった一点を凝視しながら、真里亞は何度も立ち位置を変えては睨み続ける。
風はますますに強くなり始める……。
でも真里亞はいつまでも花壇の前で、あの薔薇を探し続けているのだった…。
■金蔵の書斎
………金蔵は窓を叩く雨粒の音に気付く。
とうとう降り出したらしい。
天気予報で予想していたよりは遅い降り出しであった。
金蔵は雨音に誘われるように窓辺へ近付く。
雨の音は静寂の音。
その音はどんな静けさよりも静寂を感じさせ、人間など結局は生まれてから死ぬまで孤独でしかないことを思い出させてくれる。
「……遅かったではないか、ベアトリーチェ。」
その言葉は降雨の空に告げたもの…?
金蔵の眼差しの先に応える者の姿はない。
「……さぁ、始めようではないか。私とお前の、奇跡の宴を。……今こそこの島は現世より切り離された。もう誰も、私の儀式の邪魔をすることはできぬ。お前に相応しい生贄は充分にあるぞ。息子たちが4人。その伴侶が3人。孫たちが4人。私に客に使用人たち! どれでも好きなだけ食らうがいい。運命の鍵は、悪魔のルーレットに従い生贄を選ぶであろう。そのルーレットが私を選ぶならば、私すらもお前の生贄となろう。……だが、だからこそなのだ…。それだけの狂気を賭けるからこそ、……私は必ずや偉大な奇跡を起こすだろう。…さぁ、好きなだけ食らうがいいッ…!! 私はそのルーレットに打ち勝つだろう。さぁ、全てを賭すぞ。まずは右代宮家の家督を返そう。受け取るがいいッ!!」
金蔵は乱暴に窓を開けると、指にはめていた黄金の指輪をむしり取り、力強く投げ捨てる。
……その時、雷鳴が響き、まるで稲光がそれを受け取ったかのような錯覚がした。
「そして………、お前が蘇った時、そこにいるのは私であるだろう。私が最後まで生き残り、お前の目覚めを見守るだろう。………さぁ、来たれベアトリーチェ…。ようこそ、我が宴へ…! 私が生み出した全てと引き換えに、私にもう一度だけ奇跡を見せておくれ。……おおおぉ、
…ベアトリーチェぇえぇ…………。」
▲第6アイキャッチ;10月4日(土)17時00分 が18時00分に進む
■ゲストハウス・いとこ部屋
番組の上に、ニュース速報のテロップが入る。
それは災害情報で、あちこちの自治体で大雨洪水警報や波浪警報が出されたことを告げ続けている。
もちろんそんなテロップより、窓を激しく叩き始めた雨粒の方がずっと説得力を持って教えてくれていた。
「……すっげぇ降りだなぁ。でもこれだけ盛大だと、すぐに止みそうな気もするけどな。」
「そりゃ甘ぇぜ。台風の速度が遅いそうだから、下手すりゃ明日も丸一日こんな調子らしいぜ? ちょっとの天気でも、船は欠航するもんだしよ。」
「やっぱり、日曜日の内には引き上げられないか。…念の為、月曜日に外部とのスケジュールを入れなくて正解だったよ。」
「ってことはぁ、いっひっひ、月曜の学校はサボれそうだなぁ〜。島生活ってのも悪くないもんだぜ! ……そういや、朱志香は登校って、毎日、船で通ってるわけだろ? 船が欠航したら学校はどうなるんだ? カメハメハ大王並みに、雨が降ったらお休みで風が吹いたら遅刻して、か?」
「船が出なきゃ休みになるぜ。もっとも、そう甘くはねーけどな。大抵、その代わりに自習が指示されて、後でかっちりと見られるからそうそう気楽でもねーさ。」
「例えば、梅雨なんかの長く天気が崩れる時期だと、数日間くらい登校できないこともあるんじゃねぇのか?」
「そういうこともあるぜ? でも、毎日、きっちり担任から電話が掛かってきて、どう自習しろ、何を提出しろとすっぱく指導されるけどなー。」
「戦人くんが考えてるほど簡単にはサボれないよ。船で通う人たちのルールに従って、しっかり勉強をしているよ。」
「むしろ登校できた方が気楽だぜ? 自分の部屋じゃ気が散るし集中もできねぇしな。それでいて、問題集ばっかり数日もやらされてるとかなり精神的に堪えるもんがあるぜ?……大学の時にはよ、寮のあるところに入って、さっさとこんな不便な島はおさらばしたいもんだぜ。」
「へー…。じゃあよ、ちなみに、行きは天気が良くても帰りは悪くて欠航ってなったらどうすんだ? 学校に泊まるのか?」
「そういうのはよくあることだぜ。だから帰島できない人用の宿泊所があってよ。そこに寝泊りするんだよ。下手すりゃ数日間、家に帰れないこともあったりするぜ。」
「乗車率が200%を超えるような満員電車で毎日通勤通学しなければならない人から見てみると、船の通学なんて趣きがあって良さそうだな、なんて無責任に思っちゃうけど。やっぱり色々と苦労があるんだね。」
「よく、無神経な観光客がそういうこと言ってるぜ。私は島の生活なんてもうお腹いっぱいだね。早く高校を出て、こんな島とはおさらばしたいぜ。」
「高校にだって全寮制のところとかあったろうよ。何でわざわざ新島の学校を選んだんだよ。」
「私は最初っからそれを希望してたぜ?! でもお袋がよ、当主跡継ぎとしての修行やらマナーやらが云々ってうるさくてよ。…結局、高校も地元になっちまったのさ。はー、こんな島はごめんだぜ。早く都会で生活したいよ。雨が降ろうが槍が降ろうが、ラフな格好でサンダルを履けば、5分足らずでコンビニに行けるような都会に引っ越したいぜ…。」
「はははは。もう少しの辛抱だよ。高校卒業まであとちょっとでしょ?」
「そのちょっとも我慢できねぇぜー。あ〜あ…。」
朱志香は大きく伸びをしながらソファーにもたれ込む。
時間帯がぱっとしないせいか、面白い番組もやっておらず、俺たちは夕食に呼ばれるまでの時間を気だるそうに潰すしかなかった。
真里亞は結局、このいとこ部屋には帰ってこなかった。
多分、楼座叔母さんに連れられ屋敷に行ったのだろう。
大人たちが難しい話をしている中で、真里亞ひとりがぽつんとしていてもさぞ退屈だろう。
……なら、俺たちも屋敷に移るか、とも思ったが、さすがにこの天気だったし、 夕食までの時間もそう長くはないだろうと思い、俺たちはここに留まっていた。
その時、慎ましやかなノックの音が聞こえた。
朱志香が応える。
「はーい!」
「………お食事の準備が整いました。お屋敷へお越し下さい。」
嘉音くんの声だった。
この雨の中、わざわざ屋敷から俺たちを呼びに来てくれたのか?
内線電話でも掛ければ良かっただろうに。
……まぁ、使用人の奉公というものは、時に合理化とは逆らうものなのだろう。
「何となくお腹が空いてきた頃だったしね。行こうか。」
譲治の兄貴がテレビを切って立ち上がる。
「俺はとっくにぺこぺこ〜! 本家の晩餐は毎回凝ってるしなぁ〜! それに郷田さん、仔牛のステーキとか言ってなかったっけぇ? う〜ん、たぁまらねぇぜ〜!!」
「親族会議の日は特に豪華になるしな。私だって楽しみだぜ! 行こ行こ。」
部屋を出ると、嘉音くんがうやうやしく黙礼をしてくれた。
「じゃあ行こうぜ。外の降りはだいぶ酷いだろ?」
「……はい。お召し物を濡らさぬよう、充分ご注意ください。」
俺たち三人の姿を認めた上で、嘉音くんは空っぽの室内を覗き込む。
「………真里亞さまはいらっしゃいませんか…?」
「一緒じゃないぜ? 楼座叔母さんと一緒じゃないのかよ。」
■洋館・客間
他に誰もいない客間のソファーに体を預けていた楼座は、いつの間にか寝入ってしまっていた。
…子供たちには想像もつかないような負担が、彼女の身には掛かっていた。
だから、少し気を緩めれば、その疲れはすぐにも楼座を眠りの世界へ誘ってしまうのだった。
それに気付き、源次は毛布を持ってきた。
それを掛けてあげようとしたところで楼座は電気に弾かれたように目を覚ます。
「………………ぁッ、…………。……ありがとう、源次さんなのね。」
自分の体に触れたものがただの毛布で、源次の厚意によるものだったと理解し、ようやく安堵の息を漏らす。
「……起こしてしまいましたか。失礼いたしました。」
「いえ、いいの。寝るつもりじゃなかったから。…今は何時なの?」
時間を問われ、源次は懐から懐中時計を取り出して確認する。
「………6時を少し過ぎたところです。」
ずいぶん、長く寝込んでいたような感覚だったのに、大して時間が経っていなかったことを知り、楼座は軽く頭を振る。
…まったく休んだ気がしないのに、彼女を包み込んだまどろみはだいぶ深いようだった。
「ありがとう、毛布は結構よ…。変な時間に眠っちゃ駄目ね。すっかり時間の感覚が狂っちゃったわ。………………雨、
とうとう降り出したのね。」
楼座はようやく、自分をまどろみに深く誘った静寂の音の正体が、いよいよ降り始めた雨であることを知る。
「風もだいぶ出ているようね。…いよいよ台風なのかしら。」
「……そのように、テレビでは申しております。遅い台風だそうで、明日いっぱいはこんな調子だそうです。」
「そう…。………この素敵な薔薇庭園も、日中のあれが見納めだったのね。」
窓から見える薔薇庭園は、すっかり風雨の向こうに霞んでしまっていた。
「…真里亞…。……そうだ、真里亞は?!」
「…………私はお見かけしておりませんが。ゲストハウスにお戻りではないでしょうか。」
楼座は我が子の性分をよく知っている。
そしてぞっとする。
真里亞は馬鹿が七つ付くほどの正直だから、……ないものを探していなさいと命じたら、ずっとずっと探し続けている。
……雨が降り出しても…!!
「……違うわ。いとこの子たちは先に行ってしまったから、あそこには真里亞ひとり…! あの子は、誰かにもう止めろと言われない限り、例え槍が降ってこようとあそこに居続けるわ! 傘もささずに!! ………ああぁッ、私は感情に任せて何てことをッ!!」
その愚直さを母である自分が一番知っていながら、自分はまた一時の感情に任せて何てひどいことをッ…!!
「真里亞ぁああぁッ!!」
楼座は源次の肩を弾き飛ばしながら、廊下を駆け出していった。
■ゲストハウス・外
表は実に台風らしい、豪快な降りになっていた。
地形的なものなのか、台風というほどの強風はなく、傘が風に奪われるほどのものではないようだ。
もっとも、それでも充分に風雨と呼べるものだ。
のんびりと雨に濡れる薔薇を愛でている余裕はないだろう。
「とりあえず今は真里亞が気になるぜ。………まさかあの後も、ずっとひとりでヘソ曲げて、あそこで薔薇探しをしてるなんてことはないよな。」
「…そうだね。さすがにこの雨じゃ、……と思いたいところだけど、真里亞ちゃんはたまにすごく頑固で、ものすごく愚直な時がある。」
楼座叔母さんが屋敷に連れて行ったんだろうと思い、深く気に留めなかった。
…だが、俺たちを呼びに、屋敷からやって来た嘉音くんが、こっちに真里亞がいると思っていたという点が気になる。
「………お屋敷ではお見掛けしませんでしたので、てっきりこちらにおられるとばかり。楼座さまは仮眠を取られておいででしたので…。」
「ここに来る途中に、見掛けなかったのかよ?」
「………申し訳ございません。傘をさし、急ぎ駆け抜けたもので、そこまでの注意を払いませんでした。」
お屋敷とゲストハウスを最短距離で結んで薔薇庭園を突っ切ると、そこは真里亞が薔薇を探していた場所とは少しずれる。
増してやこの雨だ。
嘉音くんが気付かなかった可能性は充分にある。
「ここで議論するより、直接確かめる方が早ぇさ。……兄貴、ちょいと駆けっこと行こうじゃねぇかよ。」
「6年成長したから、僕に勝てるつもりかい? よし、決着を付けようじゃないか。…………行こう!!」
俺と譲治の兄貴は雨の中へ飛び出していく。
その後を、朱志香と嘉音くんも追った。
「真里亞ぁーッ!! いるなら返事をしなさい!! 真里亞ぁーー!!」
「楼座叔母さんだ。叔母さん!!」
譲治の兄貴が返事をすると、楼座叔母さんがまるで取っ組みかかるかのように飛びついてくる。
「真里亞はどこ?! 譲治くんたちと一緒じゃないの?!」
「いえ、僕たちはあの後、真里亞ちゃんには出会ってません。」
「真里亞ぁああぁぁ!!!」
…………6年前の真里亞は3歳だった。
言われたことは何でもかんでも鵜呑みにする無垢な可愛いヤツだった。
…しかしあれから6年経ってるんだぞ!
9歳にもなりゃ、良いことも悪いことも経験して普通はスレる。
……なのにお前ってヤツはまだ純粋無垢なままでいやがるってのか…?!
「真里亞ぁあああぁあぁあぁぁ!!!」
薔薇の花壇を回りこむと、ひょこりと白いそれが振り返った。
……白い傘だった。
真里亞は白い傘をさしながら、しゃがみこんで、まだ薔薇を探していたのだ…。
「…………うー。」
泣き腫らして真っ赤になった顔は、雨と泥粒で汚れ、本当に痛々しいものだった。
「お前、……まだ探してたのか!!」
「……うー……。見付からない…。真里亞の薔薇、……見付からない……。…うー……。」
真里亞は雨が降り出してからずっとここにいたのだろう。
すっかり肩は冷えてしまっていた。
疲れ切ってはいるようだったが、幸いにも傘を持っていたため、全身ズブ濡れというわけではなかった。
…多分、真里亞がいつも持ち歩いている手提げの中に傘があったのだろう。
………よかった。本当によかった。
「戦人くん! よかった、見つけたんだね!」
「真里亞ぁあぁあぁあぁ!!
ごめんなさい、本当にごめんなさい…!!」
楼座叔母さんが、傘を投げ出して真里亞に抱きつく。
「……うー………。ない。…真里亞の薔薇がない…。……うー……。」
「あとでママも一緒に探してあげるから…。ね? だから今日はお預けにしなさい。……ね?」
「…………うー…。今日はお預け………。」
真里亞はまだ納得が行っていなかったようだが、冷え切った体は、それを拒む元気など残してはいなかった。
朱志香と嘉音くんたちも追いついてくる。
「……すぐにお屋敷でタオルの用意をさせましょう。」
「真里亞……。ずっとここにいたのか……。」
「ごめんね……。本当に悪いママでごめんね………。」
「……楼座叔母さん、とりあえずお屋敷に行きましょう。このままじゃ真里亞ちゃん、風邪を引いちゃう。」
「………そうね…。真里亞、行きましょう。ちゃんと綺麗にしないと、お祖父さまに怒られちゃうわよ。」
「うー…。お腹空いた。」
「もう食事の時間だぜ。真里亞はよく頑張ったよ。天気がよくなったら、私たちも一緒に探してやるから。」
いつまでもこの雨の中にはいられない。
俺たちは真里亞を連れて屋敷へ向かった。
真里亞は思っていたほど衰弱していたわけではないようだった。
夕食が仔牛のステーキであったことを思い出すと、お腹空いた空いた、うーうー!と連呼し、いつもの元気さを取り戻すのだった。
……楼座叔母さんは、真里亞のうーうーを咎めはしなかった。
「そっか。傘を持っていたのか。さすが真里亞は物持ちがいいぜ。」
「……うー。真里亞、傘なんか持ってない。うー。」
「何だよ、じゃあその手に持ってる白い傘はどうしたんだよ?」
「うー! 貸してもらった!」
どうやら、親切な人が傘を持ってきてくれたらしい。
普通の子なら、雨が降れば雨宿りを考えるだろうが、頑固な真里亞はそれくらいのことでは挫けない。
…だからその人物も雨宿りを勧めることを諦め、せめて傘を持ってきてくれたのだろう。
「そう。その人にお礼を言わないとね。誰?」
「うー!ベアトリーチェー!」
真里亞がとても嬉しそうに口にした名前は、この島の魔女の名だった。
楼座は一呼吸置いてから、上機嫌な真里亞の機嫌を損ねないように聞きなおす。
「そう、良かったわね。それで、誰なの…? 傘を持ってきてくれた人は。」
「うー。ベアト、リーチェー! うーうー!」
母が自分の言葉を信用してくれなかったことをすぐに感じ取った真里亞は、再び不機嫌そうな声を上げる。
なので楼座はそれ以上を追求するのを止めた。
真里亞に聞くより、夕食の席で貸してくれた人を聞いた方が早そうだ…。
■金蔵の書斎
「お父さん。せめて晩餐にだけは出席してください。これでは親族会議になりません。」
ドンドンと扉が叩かれながら、懇願する蔵臼の声が聞こえてくる。
だが、その声には、どうせ耳には届くまいという諦めが感じられた。
「………金蔵さん。せめて夕食くらいは出んかね。あんたの顔を見ようと、息子さんたちが集まってきてるんじゃないか。」
「黙れ南條。…………ビショップが効かぬか。………………一手足りぬ……。」
金蔵は、南條と長く続けてきたチェスの最後の攻防で頭がいっぱいなようだった。
眉間にシワを寄せ、老眼鏡越しに盤面を睨み続ける金蔵の耳には、蔵臼の声は届いていない。
「…………金蔵さん。私も腹が減った。下に降りて食事をせんか。」
「ならばお前だけで行くといい。私はもうしばらく、この一手を吟味させてもらうぞ。…今夜で決着をつけてやる。………さもなくば、お前との決着は金輪際つけられそうにないからな。」
南條は自ら席を立ち、金蔵にも同じように席を立つよう促したつもりだったが、それでも金蔵の目がチェス盤から離れることはなかった。
金蔵がチェスに対し、いつも盲目的な集中力を見せることは常々知っていたが、それでも今夜の集中力はこれまでとは比べ物にならないものだった。
…それはまるで、彼が言うように、今夜で決着をつけなければ二度とこの勝負を進める機会はない、とでも言うかのよう…。
これ以上、しつこく声を掛けても心に届くことはないだろう。
南條は諦め、蔵臼が叩き続ける扉へ向かう…。
■書斎の外の廊下
書斎の扉が開く。
…まさか本当に金蔵が出てきたのかと思い、蔵臼は後退った。
しかしその姿が南條のものだったので、安堵の息を漏らす…。
「……南條先生。親父殿は。」
「……………お役に立てなくて申し訳ございませんな…。…今や金蔵さんの世界はこの部屋だけです。」
南條は諦めきった表情で首を横に振る。
蔵臼はもう一度拳を振り上げ、扉を叩きながら怒鳴った。
「……お父さん、聞こえますか! 私たちは下へ降りますが、気が向かれたらいつでもおいで下さい。息子兄弟一同、ずっとお待ちしておりますよ…!」
これだけ大声を出し、騒々しく扉を叩いているのだ。
金蔵の耳にまったく届かないはずはない。
…………届いてはいるのだ。
しかし、届いていて無視をしているのだ。
しかし、昼に呼ばれた時のように激昂はしない。
……今の金蔵はただひたすらに心穏やかで、…それはまるで、運命に身を任せるかのような達観すら感じられた。
「……晩餐にも、息子たちの顔にも興味はない。…………私がここを出るのは、ベアトリーチェが蘇る時か、私が鍵の生贄に選ばれた時だけだ…。もう悪魔のルーレットは回っている。今さら晩餐に何の意味があろう………。」
耳障りな扉を叩く音などまるで耳に入らぬかのように。
…金蔵は達観の境地でチェスの一手に黙考するのだった…。
■食堂
食堂には相変わらず、金蔵の姿だけがなかった。
蔵臼が苦笑いを浮かべながら、南條と戻ってくる。
「親父殿は相変わらずご気分が優れられないそうだ。年に一度の、親族が集まるこの機会に同席できないことを、非常に残念がられておられた。」
絵羽と留弗夫が失笑する。
金蔵の性分からして、残念がるわけもないし、…そして、この席に現れないことを残念がる親類もいなかったからだ。
「ではディナーを始めようじゃないか。郷田、始めたまえ。」
「かしこまりました。それでは始めさせていただきます。」
郷田は、年間を通しての見せ場のひとつである親族会議の晩餐の開始をようやく告げられ、満面の笑みで頷いた。
「……えっと、真里亞に傘を貸してくれた人は誰かしら?」
静寂の食堂で楼座がおずおずと切り出すと、食堂の人間たちは一斉に注目した。
「…傘ぁ? 何の話?」
「その……。さっき、真里亞が薔薇庭園にいた時に雨が降り出して…。誰かに白い傘を借りたみたいなんだけど、お礼が言いたくて…。」
「俺たちじゃねぇぜ。楼座が出てった後は、部屋を移してずっと“仲良く”おしゃべりをしてたからなぁ。」
「はは、…そうやで。あの後も兄弟で仲良くおしゃべりをしとったのや。」
秀吉の仲良くという言葉にはかなりの違和感があり、その場に居合わせなかった人間でも、さぞや不愉快な会話だったのだろうと察しがついた。
「少なくとも、私と絵羽と留弗夫と、あと秀吉さんと霧江さんでないことも確かだがね。」
「私たちは、夏妃姉さんと楼座さんが出て行った後もずっと一緒だったわ。食事の時間までずっとね。」
「兄さんは源次さんと一緒にお父様を呼びに上の書斎へ。私たちはそのまま食堂へ直行したもの。だから私たちではないわね。…傘を貸すなんて親切、使用人の誰かじゃないのぉ?」
「じゃあ、郷田さん?」
「……私はずっと厨房で準備をしておりましたもので。申し訳ございません…。」
その人物が自分だったなら格好良かったのに、と郷田は少しだけ残念そうだった。
そこへ、オードブルを乗せた配膳台車を押して、熊沢と紗音が現れる。
「じゃあ、熊沢さんか紗音ちゃんかしら?」
「…はい? なっ、何か粗相がございましたでしょうか…。」
途中からやって来たため、何かのミスの犯人探しをされているのではないかと誤解し、紗音は萎縮する。
「違うよ。真里亞ちゃんが薔薇庭園にひとりでいたときに雨が降って来てね。誰かが傘を貸してくれたんだよ。楼座叔母さんがその人にお礼を言いたいって言うのさ。」
「……うー。……ベアトリーチェ…。」
真里亞は口を尖らせながら、小声で魔女の名を口にする。
楼座叔母さんが状況をもう一度説明してくれた。
すると熊沢さんはからからと笑う。
「ほっほっほ。私たちでもございませんよ。私も紗音さんも一緒にお部屋の準備をしておりましたから、お外には出ておりません。」
「…はい。……気が利かなくてすみません……。」
「部屋の準備? …とは、何のことかね?」
「………………この雨ですから、客人の皆さんがゲストハウスにお帰りになられるのも大変かと思って、使用人たちに屋敷内の客室の準備をするように命じたのです。」
「…あぁら、気が効くじゃない? そうねぇ、この雨の中、表に追い出すのは失礼だものねぇ?」
「もう、よさんか…。」
「はい。奥様からそのようにご指示を受けまして、私と熊沢さんと嘉音くんの三人で準備をしておりました。…そして御夕食の時間になり、源次さまからゲストハウスのお子様方をお呼びするようご指示をいただいた為、嘉音くんが行ってくれたのです。」
「えぇ。ですから、嘉音さんがゲストハウスに行かれる時に真里亞さんを見つけて、傘をお渡ししたのではありませんか?」
「……うー。ちーがーうーー!!」
傘を受け取った当の本人がそれを否定する。
楼座は困ってしまう。
傘を貸してくれた人に一言お礼を言いたいだけなのに、その人物が見付からない。
こうしてみんなが集まる晩餐の席で聞けばすぐわかると思ったのに…。
「…じゃあ、夏妃姉さん?」
「ごめんなさい。私は皆さんとの“仲良く”の語らいの後、頭痛が酷かったので、自分の部屋で休んでいました。ですから表へは出ていません。」
「………なら誰なの? 譲治くんたち? ……のわけないわよね。」
「いえ、僕たちじゃありません。僕たちはずっとゲストハウスでテレビを見てました。」
「むしろ私たちは、真里亞は叔母さんと一緒に屋敷に行ったとばかり…。」
「そこへ嘉音くんが来て、真里亞は一緒じゃないのかと聞いたんで、初めて屋敷にはいないのかってわかったんだよ。第一、俺だったら傘を貸すより先に、手ぇ引っ張って屋根の下に連れて行くぜ。」
楼座はすっかり困惑してしまう。
親類も使用人たちも次々に自分ではないと言い張る。
…決して隠すようなことじゃないのに。
となると、消去法で残る人間はわずかしかいない。
「もちろん、私でもありませんな。雨が降り始めてすぐの頃、金蔵さんの部屋を訪ねて、ついさっきまで一緒にチェスをしておりました。」
「……ということは、お祖父さまでもないようね。」
「何だ何だ…。妙な話になってきたぜぇ? あと残るのは誰だぁ?」
「じゃあ、…誰。…源次さん? え?あの、ちょっと待って、勘違いしないでくれる? 別に私は何かの犯人探しをしてるんじゃないのよ。雨の中の真里亞に傘を差し伸べてくれた人に、母としてお礼が言いたいだけなの……!」
…雨の中にたたずむ少女に傘を与えたなら、それは誇るべきことで隠すことじゃない。
…にも拘らず、誰も挙手しない。
……どうして?
誰もが、何とも妙な話になったとヒソヒソ話をしていた…。
「……落ち着けよ楼座。傘を借りた本人に聞けばいいじゃねぇか。」
誰もが思うもっともな話だ。
傘を借りた真里亞からどうしてそれを聞けないのか、小首を傾げていた。
だが楼座は下唇を噛む仕草をする。
真里亞に聞けば、何と答えるかもう知っているからだ。
「道理や! 留弗夫くんの言う通りやないか。真里亞ちゃん、おじさんに教えてぇな! 真里亞ちゃんに傘を貸してくれたのは誰や。」
「ベアトリーチェ!」
その答えに、一瞬だけ食堂は沈黙に包まれると、すぐにそれは弾けて笑いに包まれた。
「はっはっはっは。なるほど、森の魔女ベアトリーチェが不憫に思って傘を貸してくれたか。いい話じゃないかね。楼座、そういうことだ。」
「……ん、…………んん。」
楼座は納得が行かないようだった。
…ちょっと傘のお礼をしたいだけなのに、なぜこんなにも煙に撒かれなくてはならないのか…。
「うー! 蔵臼伯父さんの言う通り。ベアトリーチェが貸してくれたの! うーうー!」
「はっはっはっはっは…。それは良かった。無垢だというのは実に羨ましいことではないか。なぁ諸君。はっはっはっは…。」
蔵臼は明らかに馬鹿にした表情で笑うが、真里亞は自分の主張を信じてくれたように感じたらしく、非常に満足げに喜ぶのだった。
「……一体どうなってんだ? まさか本当に魔女が現れて傘を貸したってのかよ?」
朱志香が俺の正面の真里亞には聞こえないように小声で問い掛けてくる。
「真里亞って、冗談が言えるタイプだっけ?」
同じ話をウチのクソ親父辺りが言い出したなら、ユーモアのひとつだろうと受け取ることもできる。
……だが、真里亞が口にすると、それは何とも説明のし難い、不思議な違和感を伴う…。
「いや。昔から愚直なぐらい正直で真面目だよ。普通なら聞いただけで嘘とわかるような冗談すら鵜呑みにするタイプだぜ? 真里亞から冗談を言い出すなんて聞いたこともない。」
それを一番良く理解しているのは楼座叔母さんだろう。
妙な按配にすっかりわけがわからなくなってしまったようだった。
「じゃあ、真里亞がベアトリーチェに傘を借りたと言ったなら、それは間違いなくベアトリーチェなのか?」
「………真里亞に関してだけは、何かの比喩とか冗談とか、そういうことは考えられねぇぜ。…額面通りの意味だと思うべきだろうよ。」
「じゃあ何だよ。源次さん辺りが、あの肖像画のゴツいドレスを着て真里亞に傘を持って行ってやったって言うのかぁ?」
「…そんなことは知らねぇぜ…。私が聞きたいくらいさ。」
朱志香はおどけるように肩をすくめるが、表情まではおどけ切ってはいなかった。
オードブルの配膳が終わり、郷田が自慢のウンチクを垂れた後、食事が始まる。
ささやかな談笑が時折聞かれたが、それらはどこかよそよそしく、雨の音が食堂に忍び込んでくることを忘れさせない静かな晩餐だった。
■廊下
配膳台車を押して厨房に戻る途中の熊沢たちは、源次と嘉音に出会う。
「…源次さんですか、真里亞さんに傘を貸されたのは。」
「………傘? 何のことだ。」
「はい。……雨が降り出した時に、真里亞さまはひとりで薔薇庭園におられたそうで。…そこで、どなたかに傘をお借りになったそうなのですが、それがどなたかわからないのです。」
「……僕じゃないよ。真里亞さまはゲストハウスにいると思ってたくらいだからね。戦人さまが最初に見つけられた時には、もう白い傘をお持ちだった。」
「申し訳ないが、それは私でもない…。」
「………じゃあ、まさか、……お館様、でしょうか?」
食堂に集った面々と、この場に集った面々の全員が、自分ではないと明言した。
…となれば、残るのは金蔵だけとなるが…。
「何かの御用で廊下を歩かれている時、偶然、薔薇庭園に傘もささない真里亞さまが見えたとか…。」
「……………お館様は真里亞さまのことをあまりお好きではない。」
「同感だね。…………お館様が真里亞さまのために直々に階下までお越しになって、傘をお持ち下さるとは考えられないよ。」
「あら、……困りましたわね。では、真里亞さまに傘をお貸しになられたのは、本当にベアトリーチェさまってことに? ほっほっほっほ…。」
食堂の親族たちが笑い捨てたのと同じように、熊沢も笑う。
……それ以外に、この煙に撒かれた状況を打ち破る方法が思いつかなかった。
そこへパンパンと、手を叩く乾いた音が響いた。
一同が振り返ると、食堂から出てきた郷田だった。
「さぁさぁ皆さん。ディナーは配膳のタイミングも大事です。すぐにスープの配膳に取り掛かってください。源次さん、彼女らは大切なお仕事中ですのでお引止めになられないで下さい。」
「……………………。」
嘉音は、尊敬する源次に対し見下したような言葉遣いをする郷田に敵意の眼差しを見せる。
それに源次が気付き、表情に出ていることを咎めるかのように肩を一度、ポンと叩いた。
嘉音は渋々としながらも顔を背け、表情を戻す。
「……郷田の指示に従いなさい。今は晩餐の配膳を急ぐように。」
「ほらほら、時間がありません。たらたらしない! 急ぎますよ…!」
郷田は紗音から配膳台車を奪うと、ぐんぐん押して先に厨房へと向かっていった。
「…では私どもも厨房に戻らせていただきます。…郷田さんも気の短い方ですからねぇ、…ほっほっほ。」
「わ、私もこれで失礼いたします…。」
熊沢と紗音はその場を立ち去る。
後には源次と嘉音が残った。
窓からは時折雷鳴の轟く風雨の夜暗が見える。
「…………源次さま。ベアトリーチェさまが本当に、………お戻りになられたのでしょうか。」
「………………………わからん。」
「……お館様にお知らせしますか。」
「せずとも良い。………本当にお戻りになられたなら、やがて自ずとお館様の前へ現れよう。………それに、あれは気まぐれなお方。お館様にご報告申し上げたところで、お姿を現されないことには、何の意味もない…。」
「………………お館様の儀式は、すでに始まっているということでしょうか。」
「…おそらく。だがそれは、我ら家具には何の関わりもないこと。……お館様に受けたご恩を、最期の瞬間までお返しするのみだ。」
「………はい。…それが僕たち家具の、……………務めです。」
雷鳴がもう一度轟く。
その稲光が照らし出される瞬間以外は、窓の外は全て夜の闇が支配している。
日の当たる時間帯が人の支配する時間帯なら、日の当たらぬ時間帯は、人ならぬ者が支配する時間帯。
今や六軒島と屋敷を包み込む夜の闇は、右代宮家でない、もうひとりの支配者が支配していた。
その支配者は、薔薇庭園でひとり雨に打たれていた真里亞を不憫に思い、傘を貸したのだろうか…。
嘉音は窓の向こうにぼんやり見える薔薇庭園の外灯を見る。
それはぼんやりと光るだけで、周りを照らすには至っていない。
その光を見ることが、まるで魔女と目を合わせているように感じられて、嘉音は無理に目を逸らすのだった。
…さもないと、その光に、目を吸い込まれてしまいそうな気がして……。
■食堂
天気のせいもあるのだろうか。
気圧などは人間の体調や機嫌にも影響を与えると聞いたことがある。
先ほどから、この陰鬱な空気を晴らそうと度々みんなが挑戦するのだが、どんな話題も一時的なものにしかならず、結局は雨の音で食堂を埋めるほかなかった。
デザートは何とかショコラケーキに梨のシャーベットを添えた物。
郷田さんが、トドメとばかりにレシピについて熱弁を奮ってくれたが、細かい部分は記憶に残らなかった。
主賓である祖父さまを欠き、天気も最悪で、真里亞に傘を貸した人物も謎のまま。
何ともすっきりしない気分のまま、晩餐は終わりを迎えてしまった。
…今さらだが、食事ってのは味だけでなく、全体の雰囲気も大事なのだなと痛感する。
晩餐という名の演奏の指揮者でもある郷田さんは、場を盛り上げようと、色々と小洒落たスピーチなどで頑張ってくれたが、ひとつ及ばなかったようだ。
食後はコーヒー、紅茶、オレンジジュースのどれがいいかと全員の注文を聞くと、厨房に下がっていった。
その姿が見えなくなってから、蔵臼伯父さんが言う。
「……やれやれ。せっかく郷田が腕を揮ってくれた晩餐も、こうも沈み込んでしまっては実に味気ないというものだ。」
「………えぇ、まったくね。今日は何を食べても美味しく感じられない、そういう気分よ。」
「ほぅ。どうしてそういう気分なのか聞きたいね。心が晴れ晴れできるよう、兄として後で協力させてもらうよ。」
絵羽伯母さんは表情をちょっぴりだけ歪ませる。
…蔵臼伯父さんと仲が悪いことはすでに聞いていたが、それをはっきりと感じさせるものだった。
見れば、表情を歪めているのは親父も、楼座叔母さんもだった。
どうやら、一同の気が晴れないのは、天気以外にも理由があるらしい…。
「……絵羽叔母さんもウチの親父も、…ずいぶん機嫌が悪そうっすね。」
「そう? 私はそうは思いませんよ。」
右隣の夏妃伯母さんにそう尋ねるが、…どうやら伯母さんも機嫌が悪いらしい。
興味もないという風な感じで、ぴしゃりと言い切られてしまった。
「まぁ、ちょいと大人の話で込み入ってなぁ。戦人くんたち子供は気にせんでええ話や! ははははは、
なぁ、夏妃さん、霧江さん。」
秀吉伯父さんが笑いながら言ってくれるが、いつもの伯父さんらしい朗らかさがなく、大人の話とやらがどれほど込み入ったのか、おぼろげに想像させてくれた。
しかもその上、伯父さんが話を振った夏妃伯母さんも霧江さんも、まるで耳に入らなかったかのように無視をしている。
…子供抜きでどういう話をしているのかはわからないが、なるほど、親父が屋敷に挨拶に行く時、胃が痛い…みたいなことを言っていたことを思い出させられる。
親族会議というものは、子供にとっては再会を喜び合う行事だが、大人にとっては必ずしもそういうものではない、ということだ…。
秀吉伯父さんが大人たちに無視され、何だか重苦しい沈黙が訪れた時、霧江さんが答えてくれた。
「……子供たちの進路はどうなるのかしらとか、そういう話よ。戦人くんは将来はどうするの? ぼんやりと大学進学? そんなのじゃ長い人生レースのスタートラインとしては心細いわよ?」
「あいたたたた…、霧江さん、メシの最中にそんな話されちまったら、消化不良で便秘になっちまうぜぇ〜?」
「わっはっはっは…! そうやそうや、戦人くんや朱志香ちゃんの進路の話をしとったんや! 将来のことは真剣に考えんとあかんで! わっはっはっは…。」
秀吉伯父さんは、さもそういう話だったという風に相槌を打つが、多分違う。
霧江さんは、明らかに話をはぐらかしたのだ。
でも、霧江さんがそうするのが最善だと判断したなら、多分、この場はそういうことなのだろう。
それを理解し、俺はこれ以上、絵羽伯母さんや親父の不機嫌の理由について疑問を持つのをやめる…。
やがてコーヒーや紅茶を積んだ配膳台車が戻ってくる。
それを熊沢さんと紗音ちゃんが配膳した。
そして、これで今夜の晩餐は終わりであることを郷田さんが説明する。
もっと晴れ晴れとした気分で食えたなら、人生で最高のディナーだったろう。
最高のディナーを、最高のコンディションで臨めなかったことだけが残念だった。
「うー! 譲治お兄ちゃん、これでご飯は終わり? 終わり?」
「うん。これでおしまいだよ。」
「はしたないわよ。お席について、落ち着いてジュースを飲みなさい。」
「…うー。」
真里亞は、時折轟く雷鳴が面白くて仕方がないらしい。
早く食事を終えて窓辺に駆けて行きたいのだろう。
さっきからそわそわと食事の終わりを待っているようだった。
……雷って怖がるヤツと面白がるヤツの2つがいるが、どうやら真里亞は後者らしいなぁ。
だから、譲治の兄貴に食事はこれでおしまいだと教えてもらえて、満面の笑みを浮かべた。
そして席を立つと、椅子の下に置き、食事の時間にも側から離さなかった手提げを取り出しその中を漁る。
その仕草に、特別な関心を払う者はいなかった…。
「………何だい、それは。どこから持ってきたの?」
最初に気付いたのは譲治だった。
その言葉で戦人も気付く。
見れば、いつの間にか真里亞の手には綺麗な洋形封筒が握られていた。
その封筒の表面には、右代宮家の家紋である片翼の鷲をイメージしたものが箔押しされていた。
さらに赤黒い蝋で封までされていて、真里亞がいたずらに持っていていいものではない、格を感じさせた。
「……真里亞ちゃん、それは何?」
夏妃も、真里亞が持つその封筒の異様さに気付いたらしい。
小さな子に諭すにしては厳しすぎるその口調で、周りの親類たちもようやく気が付いた。
「どうしたよ、夏妃姉さん。」
「…………それ、…何?」
「真里亞…、あなた、それをどこで拾ったの…。」
「その封筒は、……金蔵さんの……、」
南條が呟いたその一言で、お子様な俺たちにもなぜ場が凍りついたのか理解できた。
真里亞が持つ封筒は、右代宮家当主、つまり金蔵がプライベート用に作らせた特注の封筒だった。
……つまり、意味するところはひとつしかない。
この封筒は、金蔵からのメッセージが収められているのだ。
「ほぅ………。…どうしてそんな封筒がここにあるんだね…?」
「……こ、……こいつぁ面白いもんが飛び出してくるぜ。」
「………ちょ、ちょいとわしに見せてみぃ…!」
「うー!! 駄目ぇ、真里亞が読むの! 真里亞がみんなに読んで聞かせなさいって言われたの!!」
秀吉伯父さんが真里亞の手から封筒を引っ手繰ろうとするが、真里亞は抱き締めるようにして庇い、それを拒む。
「秀吉兄さん、子ども相手に力尽くなんていけませんよ。………真里亞ちゃん、その封筒はどうしたの?」
「うー! 傘を貸してくれた時にベアトリーチェにもらった。ご飯が終わったら、真里亞がみんなに読んで聞かせろって言われた!
真里亞は魔女のめ、め…、“めっせんじゃ”なの!うー!」
「メッセンジャー…? ひっひっひ、この島の魔女さまはずいぶんと洒落てるじゃねぇかよ。」
戦人がおどけて見せるが、つられて笑ってくる者は誰一人いなかった。
「………………そ、それで中には何て書いてあるのかしらぁ、真里亞ちゃん…?」
「うー。読む! うー!」
真里亞は封筒を無造作に開ける。
…蝋で封をされていただけなので、ぽろりと封蝋が取れてそれは開かれた。
…その封蝋が机の上に転がる。
それを素早く秀吉が拾い上げてまじまじと見た。
そしてそれを机の中央に置くと、夏妃、霧江、南條が睨むように注目する。
封蝋には、右代宮家の家紋であり、金蔵の紋章でもある片翼の鷲が刻印されていた。
「…………これは、当主様の紋章…。」
「………私は金蔵さんに手紙をもらったことがあるからわかる。これは間違いなく、金蔵さんの封蝋だ。」
「でも、このお屋敷には、それと同じ紋章がいくつもあるのでは? 例えば、封蝋用のハンコのようなものがあれば、金蔵さんでなくても封蝋はできるのでは?」
「いや、金蔵さんは封蝋には必ず、自分が指にしている“右代宮家当主の証”の指輪で刻印をする。この形や複雑な意匠は…、間違いなく金蔵さんの封蝋だ…。」
「そうとは限らんよ。親族であれば一度くらいは親父の手紙を受け取ったことはあるはずだ。その封蝋を元に、偽の紋章を作り親父殿を騙って刻印した可能性が否めない。」
「兄貴に同感だ。封蝋に刻印されている紋章が、どれだけ親父の物に酷似していたとしても、間違いなく親父の物であるとは証明不能だぜ。だからその封筒が親父の物であるという証拠にはならない。」
「私もまったく同じよ。封蝋の刻印だけで、お父様の手紙だなんて決め付けることには同意できないわ。南條先生、曖昧な言葉は慎んでいただけるかしら…?!」
「…………これは失礼…。出過ぎた口でしたな…。」
蔵臼以下の兄弟たちが次々と、真里亞の持つ封筒は金蔵のものであるとは限らないと、南條の発言を否定する。
彼らは恐れていた。
その中に、金蔵の意思が書かれていて、遺産に関して何か決定的に不利な発表をするのではないかと心底恐れていた。
「…真里亞…。その封筒は、傘を貸してくれた人が、くれたのね…?」
「うー!」
「うーじゃわからないでしょ! そうなの?!」
「うー…。……うん。うー。」
「つまり、…魔女、ベアトリーチェが、傘と一緒に真里亞ちゃんにその封筒を…?」
「うー!」
真里亞が力強く頷く。
「…しゅ、主人に私も同感です。得体の知れない何者かが手渡した怪文書です。読むにも値しません。」
「せめて読むくらいいいじゃねぇかよ、なぁ?」
戦人は悪ぶりながら、小声で朱志香に言ったつもりだったが、ばっちり夏妃に聞かれていて、ものすごい目で凄まれる。
「そ、それで真里亞は、その、…ベアトリーチェに、食事が終わったら読めって言われたんだな?」
「うー!」
「………いいじゃないの、皆さん。これはお祖父さまの封筒ではなく、ベアトリーチェの封筒。誰が書いたのかはともかく、中身を聞いてからの判断でもいいんじゃないかしら?」
「そ、…そうやな。お父さんが書いたとは限らんが、中身が気になるんは事実や。……真里亞ちゃん、さっきは無理やり取ろうとしてすまんかった! 謝るから、みんなの前でそれ、読み上げてくれんか。」
「…………真里亞。読みなさい。」
「うー。」
真里亞は親族全員に凄まじい目で凝視される中、手紙をかさかさと広げる…。
「……本当に親父の手紙だと思うか。」
「ありえんね。親父殿が私たちに何かを発表する時は、直接でなければいつだって源次を通してじゃないか。……このような小洒落た方法でするとは思えんね。」
「そうよぅ。真里亞をメッセンジャーに? それこそお父様の趣味じゃないわよぅ…。楼座、これは真里亞ちゃんが私たちを驚かそうという何かの隠し芸なんでしょ…?」
「…………………ま、真里亞はそんな気の利いたことをできる子じゃない。」
「読む。うー。」
真里亞の口から出る言葉なのに、なぜかいつもと違う声のような気がして。
一同はシンと黙り込む…。
「六軒島へようこそ、右代宮家の皆様方。私は、金蔵さまにお仕えしております、当家顧問錬金術師のベアトリーチェと申します。」
「………そんなアホな…!」
「黙って!」
「長年に亘りご契約に従いお仕えしてまいりましたが、本日、金蔵さまより、その契約の終了を宣告されました。よって、本日を持ちまして、当家顧問錬金術師のお役目を終了させていただきますことを、どうかご了承くださいませ。」
「……下らん、戯言だ…!」
「き、聞くに堪えません…!」
「さて、ここで皆様に契約の一部をご説明しなければなりません。私、ベアトリーチェは金蔵さまにある条件と共に莫大な黄金の貸与をいたしました。その条件とは、契約終了時に黄金の全てを返還すること。そして利息として、右代宮家の全てを頂戴できるというものです。」
「む、無茶苦茶や!!」
「…は、初めっから無茶苦茶だぜ…。」
「要するにあれだろ? よくある悪魔の契約みたいなヤツなんだろ? んで、契約がおしまいってことになるから、利子を回収に来たってわけだ。いんや、長年の退職金のつもりかなぁ? ちゃっかりした魔女だぜ。」
「戦人くん、今は茶化さない方がいい…。」
戦人はここで茶化さなくてどこで茶化すんだという顔をする。
それくらいに大人たちの顔は、ある者は蒼白で、ある者は呆然としていた。
「これだけをお聞きならば、皆様は金蔵さまのことを何と無慈悲なのかとお嘆きにもなられるでしょう。しかし金蔵さまは、皆様に富と名誉を残す機会を設けるため、特別な条項を追加されました。その条項が満たされた時に限り、私は黄金と利子を回収する権利を永遠に失います。」
「……特別な条項…?」
「そ、それは何よ…?!」
「特別条項。契約終了時に、ベアトリーチェは黄金と利子を回収する権利を持つ。ただし、隠された契約の黄金を暴いた者が現れた時、ベアトリーチェはこの権利を全て永遠に放棄しなければならない。……利子の回収はこれより行ないますが、もし皆様の内の誰か一人でも特別条項を満たせたなら、すでに回収した分も含めて全てお返しいたします。なお、回収の手始めとしてすでに、右代宮本家の家督を受け継いだことを示す“右代宮家当主の指輪”をお預かりさせていただきました。封印の蝋燭にてそれを、どうかご確認くださいませ。」
「………これがそうだと言うのか…?! 親父が指輪を手放すなどありえん…!」
先ほどの封蝋を蔵臼は穴が開くほど睨みつける。
肩越しに絵羽と留弗夫も同じように睨みつける!
「た、確かに、チェスの時、金蔵さんの指に何か足りんような違和感は感じとりました………。」
「南條先生! おぼろげな記憶でいい加減なことを言わないように!」
「その真贋をここでは計れないわ。本当に指輪をお祖父さまは誰かに手渡したのか、この手紙が本当の話かどうかは、お祖父さまに直接確認すればいいだけの話じゃない。」
「そ、そうね。霧江さんの言う通りだわ…。」
「………果たして。…金蔵さんがそれを答えてくれますかな…。あの人のお考えは、時に人の世の常識では量りかねますからな…。」
「どの道、戯言の域を出んね…! 第一、黄金幻想自体が親父殿のまやかしだ。ありもしない黄金の話を始めるのはお前たちだけで充分だ!」
「でも、魔女様は仰ってるわよぅ? 黄金を見つけたものに、家督と全ての財産を引き渡す、ってね? つまりベアトリーチェさまは、お父様の顧問弁護士もしくは金庫番でもあられるってことじゃないのかしらぁ…?」
「こ、このような怪しげな文章を子どもに託すような怪人物を信用することなどできません!」
「兄貴…、腹を割ってもらうぜ。兄貴の知らない人物が親父の財産管理をしてるようなことはありえるのか!」
「い、いや、それはない! 私は当主代行として親父殿の全ての財産を把握している! 私に知られずにそれらを自由にできる人間はいないはずだ!」
「じゃあつまり、蔵臼兄さんの把握していない財産ってことじゃないの?」
「馬鹿な、そんなものあるわけがないッ!」
「………………あるわよぅ。兄さんが把握していないお父様の資産。」
「そんなものあるわけがありませんッ!!」
「いや、あるで。…………それがお父さんの、いや、ベアトリーチェの隠し黄金や!!」
「話を整頓しよう。つまり、親父には兄貴も知らない腹心がいた。そしてそいつはずっと黄金の番と運用を任されてきたわけだ。あるいは悪魔の契約紛いのルールで融資した好事家の大富豪か。」
「………その腹心のベアトリーチェさんは、自分の黄金を融資する相手として、息子兄弟の誰が相応しいか試したい、ということなのかしら?」
その霧江の一言は、兄弟たちの誰もがはっきりさせたい一言だった。
思えば今日まで、ホールの魔女の肖像画の下に、あれほどの怪しげな碑文が掲載され、それを暴いた者に全てが与えられるのではと囁かれながらも、……誰も、そうだとはっきり言明しなかった。
きっとそうに違いないと夢を見てきただけなのだ。
それが、今この場で、ベアトリーチェの手紙によって、はっきりと示される!
隠し黄金を見つけ出した者に、右代宮家の全てが与えられると、はっきり明示したのだ。
「黄金の隠し場所については、すでに金蔵さまが私の肖像画の下に碑文にて公示されております。条件は碑文を読むことができる者すべてに公平に。黄金を暴けたなら、私は全てをお返しするでしょう。それではどうか今宵を、金蔵さまとの知恵比べにて存分にお楽しみくださいませ。今宵が知的かつ優雅な夜になるよう、心よりお祈りいたしております。
――黄金のベアトリーチェ。」
■金蔵の書斎
「……お父さん、聞こえているはずです! 返事をしてください!」
金蔵の書斎の扉が、打楽器のように激しく激しく何度も叩かれている。
その向こうから聞こえる叫びは、蔵臼や留弗夫、時に絵羽の声。
怪しげな手紙の真相を問い質そうと押しかけた兄弟たちだった。
金蔵は食事を取っていた。
机の上には上品なテーブルクロスが引かれ、下の食堂で食卓を彩った素晴らしき晩餐を再現している。
黙々と食事を進める金蔵。
…空いた皿を下げる紗音は、叩かれ続ける扉と金蔵の顔を、不安げに見比べる。
「……………皆さんがお呼びですが、…いかがいたしますか…?」
「…捨て置け。神と我が晩餐は沈黙を尊ぶ。」
「…………黙らせますか?」
「必要ない。我が耳には届いておらぬ。」
金蔵は涼しげに食事を嗜む。
源次は静かに頭を下げると一歩下がる。
…すると、源次の斜め後に影のように控えていた嘉音が口を開く。
「………真里亞さまがベアトリーチェさまより手紙を受け取られたとのことで、その真偽を確かめたいのでしょう。」
「…はっはっはっは…。………あやつめ、さっそく始めおったか。…………さぁ、ベアトリーチェ。賭けるコインに不足はあるまい。存分に今宵を楽しもうではないか。……負ける気はないぞ。お前の微笑みは永遠に私のものだ。もう一度見られるなら、富も名誉も、我が命すらも惜しくはない。………さて、ルーレットは回り始めた。ボールはどのポケットに落ちるのか? ノワールか、ブラックか。それとも親の総取りか。さぁ始めるがいい、ベアトリーチェ。私が再びお前に奇跡の力と言うものを見せてやる…!」
▲第7アイキャッチ:10月4日(土)20時00分 が22時00分に進む
■客間
魔女が真里亞に託した不思議な手紙は、俺たち全員の頭から、どんな晩飯が並んだのかという記憶さえ吹き飛ばしてしまった。
真里亞は、楼座叔母さんや他の親族たちにさんざん質問責めにされ、いくら話しても信じてくれないと完全に機嫌を悪くしてしまった。
俺たちが声を掛けても無視する有様だった。
親たちは、黄金の話に色めきあったり、財産分与がどうのこうのと、俺たち子どもがいることも忘れて盛んな議論をしていた。
…そういう話を影でしてるんだろうなぁとは思っていても、こんなに露骨だとは思わず、少なからず俺たち子どもにショックを与えるのだった。
…漏れ聞く限り、親たちは全員、とにかくカネが少しでも多く、少しでも早くほしいらしい。
祖父さまの遺産がどうのこうの。
黄金を見つけた場合の配分はどうのこうの。
前払いだの現金だの。
……その浅ましさには、実の息子であっても眼を背けたくなってしまう。
…それはどうやら朱志香も同じらしかった。
俺たちは誰に頼まれずとも席を外し、大人たちのいないところでたむろしているのだった…。
「………なるほどな。祖父さまがメシの席にも顔を出したくない理由が、よーくわかったよ。うちの親たちにはすっかり幻滅だぜ! カネだの遺産だの! よくもまぁ、あそこまで大っぴらに!」
「俺の場合は、クソ親父に幻滅しきってるからよ。これ以上、評価の下がりようがないぜ。いっひっひ!」
「そ、そんなの私だって同じだぜ! しかし……、今夜のには呆れたぜ。心底呆れたぜ…。」
朱志香はイラつきながら俯く。
…普段は親のことを悪ぶって言っているが、実際は心の底からそうというわけでもないのかもしれない。
朱志香のショックの深さからそれがうかがえた。
「……未成年の君たちはご両親に養育してもらってるからわからないだろうけど。……お金を得るというのは、単純な綺麗事じゃないよ。未成年である今にそれを理解しろとは言わない。……でも、ご両親なりに何かの努力をしていることだけは認めてあげてほしいな。」
「………やれやれ。譲治の兄貴は人間ができてるぜ。」
「譲治兄さんは、社会人になってバリバリ働いてるけどよ。……カネとか財産とか、そういう話になったら、ウチの親父たちみたいに強欲むき出しのハゲタカになれるってのかよ…?」
「…………………自分だけの話だったら、そんなことはしたくないよ。でも、家族や社員、部下やその家族の生活を背負ったら、…戦わなければならない時もあるかもしれない。」
「………私はそんな戦い、嫌だぜ。祖父さまの遺産がどうのこうのなんて話、ヘドが出るぜ。」
朱志香は唾を吐き捨てるような乱暴な仕草をする。
…そのトゲトゲした様子から最大限の傷心が感じられた。
「…もうこの話はやめようぜー? 祖父さまの隠し黄金がどうのこうの、財産だ遺産だって話は親たちの問題で俺たちの問題じゃないさ。」
「僕も同感だよ。……せめて気を利かせて、親たちの話し合いを邪魔しないのが子どもの務めだと思うね。」
「……ちぇ。…何だか面白くねぇぜ…。」
大人は汚い、なんて定形文は誰だって知ってるが、…それをもろに見ちまったわけだから、俺たちお子様には少なからずショックがあったのは事実だ。
譲治の兄貴はすっかり大人だったし、俺はそもそも親父には幻滅してたしということもあって、ショックはそう大きくなかったが、……朱志香にはそうでもなかったらしい。
朱志香のショックは、どうやら俺が想像しているよりずっと深いものらしかった。
………こいつって、悪ぶった口の聞き方はしているが、中身は昔からまったく変わっていないのだろう。
…今でも相変わらず、人を疑うことを知らない、心の綺麗でデリケートなヤツなんだ。
親のことだって、多分、人並みには尊敬していたに違いない。
……それが、他の親兄弟たちと、子どもたちの目の前で堂々と、カネカネ遺産遺産、俺のカネだなんだかんだと騒ぎ出したのだから、さぞかしショックは大きかったろう…。
「…朱志香ちゃん。どうかお父さんとお母さんのことを嫌いにならないで。……理解しろとまでは言わないから、せめてどうか嫌いにならないであげて。」
「わかってるよ、少し放っておいてくれよ…!!」
6年前のお子様な俺だったら、消沈している朱志香に追い打つようにからかうのだが、……さすがに俺も6年分程度は成長した。
今の朱志香はそっとしておいた方がいいのがわかる…。
朱志香はぷいっと向こうを向くと、客間を出て行く。
…ひとりにしてほしいということなんだろう。
俺は、らしからぬその背中を無言で見送るしかなかった…。
「……そう言えば真里亞ちゃんはどこに行ったんだろ。」
「多分、まだ肖像画の前でいじけてるんだろうぜ。」
魔女を自分の憧れの存在と位置付ける真里亞にとっては、ベアトリーチェとの接触と、その証拠である手紙をもらったことは、みんなに驚き、そして喜んで欲しい出来事だったに違いない。
だが、大人たちはその真偽を疑い、真里亞の話を鵜呑みにせず、徹底的に質問責めにした。
…それがどれほど真里亞を傷つけたのか、いくら俺でも想像に難しくない。
真里亞にも、そして朱志香にも、俺たちは声をかけられない。
…結局、譲治の兄貴と一緒に、闇夜に振り続ける雨音に身を委ねているしかなかった…。
「台風はどんな感じなんだろうね。……ニュースをやってないかな。」
譲治の兄貴は、客間の隅に置かれたテレビの方へ歩いていく。
俺まで来いとは呼ばれなかったし、別に台風が今どこの洋上にいようとどうでもいいことだ。だから俺はテレビには行かず、窓辺でぼんやりしていた。
「……そんなに風は出てなさそうだけど、海の上はひどいのかしらね。天気予報では暴風警報も聞いてたんだけど。」
「霧江さんか。…大人たちの積もる話はどんな感じなんすかー?」
嫌味の意味は通じているらしい。
霧江さんは肩をすくめる。
「…この胃の痛くなる話は徹夜で続くのかしら。嫌になるわ。」
「まぁ、せいぜいよろしく、祖父さまの財産分配について、ハゲタカごっこをお楽しみ下さいってんだ。…最低の気分だぜ。」
「それに関しては同感よ。戦人くんみたいに席が外せるなら、私もそうしたいわ。…でも、そうも行かない。たとえ発言権がなくてもね? パートナーも大変よ?」
霧江さんは苦笑いをしながら溜め息をつく。
そりゃあそうだ。
嫁いできた霧江さんには発言権はないだろう。
でも、親父のパートナーとして側にいて支え続けなくてはならない。
……心的負担は、矢面にいる以上、俺よりずっと上に違いない。
謝ろうとは思わないが、口を悪くし過ぎたと思い、俺はそれ以上の嫌味をやめる…。
「どんな感じなんすか。相変わらず、謎の魔女ベアトリーチェの話題で持ちきりですか?」
「……まぁね。あの人たちは、お祖父さまが亡くなった時の遺産分配について、兄弟4人で話をまとめようとずっと密約を重ねてきた。…そこへ未知の5人目が現れて、話をややこしくしようって言うんだから、穏便な話のわけもないわ。互いを罵りあったり、かと思えば共闘しようってことになったり。……夏妃姉さんでなくても頭痛がしてくるところよ。」
他の兄弟よりも多く取り分がほしいという意味においては、彼らはライバル同士らしいが、兄弟以外に一円も掠め取られたくないという意味においては、仲間同士でもあった。
詳しくは話してもらえなかったが、兄弟は休戦協定と抜け駆け防止のルール、様々な状況化での取り分の防衛、最悪の場合の法的対応などを延々と協議しているらしい。
……ここまで来ると、呆れを通り越して逞しさを感じちまう…。
「ってことは、さしずめ。ベアトリーチェは祖父さまからの刺客ってとこですかねぇ。…自分抜きで遺産の分配なんて話を勝手に進めてた息子たちに一泡吹かせたかったんだろうぜ。いっひっひ!」
「何者かしらね、ベアトリーチェって。自称してることが全て本当なら、今日まで誰にも知られずにいた謎の人物で、しかもお祖父さまの隠し黄金の存在を知っていて。その上、当主の指輪まで委ねられている。…相当に信頼された人物ね。」
「さすがに箒にまたがった魔女だとは思わないっすけど。……でも、魔女と呼ぶに値する怪人物であることは間違いないっすね。」
「真里亞ちゃんがその辺りのことを詳しく話してくれればいいのだけど。……みんな、小さい子にがっつき過ぎだわ。すっかり怯えてしまって、聞けるものも聞けなくなってしまった。あの人たち、北風と太陽とか読んだことないのかしら。」
「確かなのは、真里亞がベアトリーチェと名乗る人物から手紙を受け取ったこと。……自分で現れて直接話せばいいものを、手紙を託して今もどこかに身を潜めているっていう、シャイな怪人物ですけどね。ははははは…。」
「……ねぇ、戦人くん。ベアトリーチェなんて人物が、本当にいると思う?」
「さぁ。あくまでも偽名じゃないすかね。祖父さまの代理人として、その妄想の中の魔女の名を名乗ることを許された、とか。」
「うぅん、そうじゃなくて。今、この六軒島には全部で18人いるの。……19人目が存在すると思う?」
この島には今、18人もいたのか。
そう思い、指を折って数えてみると、確かに18になった。
「19人目が存在すると思う、って。……どういう意味っすか?」
「言葉通りの意味よ。……真里亞ちゃんに傘を貸した人物は私たち18人の中にはいないらしい。なら、19人目がいて、その人物が真里亞ちゃんに傘を貸したと思うのが妥当じゃない?」
「…………まぁ、……そうなりますね。」
「なら、その人物は今どこにいるの? 少なくとも雨が降り出した瞬間には島にいた。そしてその後はどんどん天気は悪化して、とても船なんか出せない状態。となればその人物はまだ島の中にいて、どこかで雨宿りをしていなくてはならない。……私たちの誰の目にも触れずね?」
「………確かに、俺たちは屋敷やゲストハウスの中を勝手にうろつき回ってましたが、誰も19人目なんかには会ってないわけですよね。…でもまぁ、これだけの広さのある島ですし。屋敷やゲストハウス以外に雨宿りできるところだってあるのかも。」
この頃には、霧江さんが何を疑っているのか、何となく話の方向性から気付いていた。
霧江さんは、19人目を否定しているのだ。
……ベアトリーチェは、18人の中。
…つまり、俺たちがよく知る人物の誰かが騙っていると考えているのだ。
「ベアトリーチェが自称する通りなら、その人物は間違いなく最高の賓客よ。お祖父さまが信頼する最高の腹心。…そんな人物を、お祖父さまが歓待しないわけがない。お屋敷に迎え入れないわけはないのよ。でも私たちは誰も見ていない。」
「待ってくださいよ、それはちょいと性急な推理じゃないっすか? 確かに誰の目にも触れてはいないけれど、だからって19人目を否定することにはならないんじゃないすか?何かの理由があって、こっそり上陸して、ずっと隠れているのかも。……悪魔の証明ってヤツっすよ。いることを証明するのは容易い。ベアトリーチェってやつが、俺たちの前に現れて挨拶すりゃあ解決する。でも、19人目がいないことを証明するのは不可能っすよ。」
「……うん。戦人くんの推理の仕方は悪くないわ。現在の状況では、19人目の存在を認めるにも否定するにも情報が足りない。……でもね、チェス盤をひっくり返して考えると、ほぼ19人目はありえないって断言できちゃうのよ。」
チェス盤をひっくり返す、というのは霧江さんの口癖だ。
…俺もこの言葉に感化され、たまに使ったりする。
チェスや将棋は、手に詰まった時、盤面をひっくり返すと、相手側から全体を見ることで打開策が見えることが少なくないという。
転じて、敵の立場に立って物を考えるという意味なのだ。
「……いい? 仮に19人目の人物としてベアトリーチェが実在したとして。その人物は、誰にも知られることなくこっそりとこの島に上陸し、ずっと隠れていた。何かの理由があってね? なら、どうしてわざわざ姿を現して真里亞ちゃんに手紙を渡したの?」
確かにそれは矛盾する。
姿を隠したい理由があって、ずっと姿を隠していたはずなのに、真里亞の前には堂々と姿を現している。
「それは……、…ほら、真里亞も言ってた。メッセンジャーにされたって言ってたじゃないすか。真里亞が一番、年下で素直そうだったからじゃ…。」
「メッセンジャーなんて必要なの? 手紙を親族会議の席上に送りたかったら、郵送すればいいだけの話よ。4人の兄弟全員に郵送すれば黙殺することもできない。手紙を持参して、こっそり手渡す理由がないのよ。」
「…………………確かに、………何だかおかしな話っすね。」
「そもそも、ベアトリーチェが存在していて、その存在をアピールしたいならみんなの前に堂々と姿を現せばいいだけの話。なのに現れず、真里亞ちゃんという小さな子を通しておぼろげな輪郭だけでその存在を主張しようとする曖昧さ。矛盾。もっと考えて?…………真里亞ちゃんの前に姿を現し、19人目の存在を印象付けるという点と、にもかかわらず、今この瞬間も私たちの前に姿を現さず隠れ続けている点。これらの矛盾。……これを念頭に置いた上でチェス盤をひっくり返すの。つまり、19人目の人物としてベアトリーチェがいる、と印象付けたい人物の目論見は何か、よ。」
「……姿を隠したい人物なら、その存在をアピールするわけがない。そして、姿を現したい人物なら、手紙を託すなんて遠回しをするわけがない。……ってことは…?」
「簡単よ。ベアトリーチェは18人の中にいるのよ。だからこそ、18人以外の人物が存在するような幻想を作り出しているのよ。…これ見よがしな19人目のアピール。それで得をするのは、姿を潜めた19人目じゃない。すでにいる18人の方なのよ。……もちろん、この推理は穴だらけ。いくつかの前提がひっくり返るだけですぐに崩れるもろいものだけど。私はほぼ間違いないと見てるわ。」
…急に気味の悪い話になる。
真里亞に傘を貸して手紙を渡したのは誰か。
18人の全員が違うということになった。
にもかかわらず、ベアトリーチェは18人の中に潜むというのだ。
その人物は、自分の正体を隠し、ベアトリーチェを騙ることで何を企んでいるのか…。
「真里亞ちゃんの自作自演も疑ったんだけど、文章の内容が非常に手が込んでて、真里亞ちゃんが自前で用意したとは考え難い。……でも、真里亞ちゃんが何者かと共謀している可能性も否定できないわ。」
「お、おいおい…、真里亞は9歳のお子様だぜ?! 誰と、何を共謀するってんだよ! しかも愚直で真面目で素直なあの性分だぜ?!」
「えぇ、私も真里亞ちゃんの性分はよく理解しているわ。……でも、だからこそありえると思うの。魔女に憧れ、その存在を妄信している夢見がちな少女。そこに、ベアトリーチェと名乗る人物が現れて魔女だと名乗ったら、彼女はそれを大喜びで鵜呑みにして信じるんじゃないかしら。」
「………つまり、あの肖像画のゴツいドレスを着て変装すれば、真里亞は騙すことは難しくないと?」
「その論法になっちゃうと、私たち女性陣はみんな疑われちゃうことになるんだけどね。……とにかく、真里亞ちゃんが何者に出会ったのか。それの詳細を聞くことが、この謎を解く一番にしてもっとも身近な鍵なのよ。…しかしその鍵は、少女の心の奥に頑なに閉ざされてしまったわ。みんなが頭ごなしに魔女の存在を否定し、一体その人物は誰なのかと問い詰めすぎた。……真里亞ちゃんは当分、大人には心を開かないでしょうね。」
■肖像画前
薄暗いホールの、ベアトリーチェの肖像画の前で、……真里亞は泣きじゃくっていた。
「……うー…。うー。…誰もね、真里亞がベアトリーチェに会ったことを信じてくれない! ……うー……、うー……。ベアトリーチェのくれた手紙も見せたのに、それでも信じてくれないの…! ………うー……うっ、…うっ、……えっく…、ひっく!」
■客間
「とにかく、鍵は真里亞ちゃんが握ってるわ。ベアトリーチェが18人の中にいるのか、19人目なのか、それを知る鍵をね。」
「…真里亞は頑固だぜ? あいつ、ヘソを曲げるとなかなか機嫌を直さないからな。」
「大人の私より、子どもの戦人くんの方が機嫌を直せる確率は高そうよ。…彼女の機嫌が直ったら聞いてみて。……遺産分配がどうのこうのって話には関心ないけど、こんな王道洋館ミステリーみたいなシチュエーションにはわくわくしちゃわない? 真里亞ちゃんに手紙を渡した人物は一体誰なのか。……知的好奇心が疼くわ。」
「うんざりするようなカネの話に付き合わされても、わくわくとは、実にタフなことだぜ…。大人はすげぇや。」
俺は呆れて肩をすくめる。
…でも気付いていた。
俺が親たちの不穏な話を漏れ聞いてしまったため、消沈しているのに気付いて、気分転換をさせてくれたのだろう。
…少なくとも悪態をつけるくらいには気分も回復した。
……本当のお袋じゃねぇし、霧江さんをお袋と呼ぶ気もずっとねぇが。
…大人な人だな、と思った。
「おうガキども、ここにいたのか。霧江も長ぇ化粧直しじゃねぇか。俺も次からは化粧をしてくることにするぜ。」
「ごめんなさい。女の化粧は長いのよ。…………どう? 兄弟水入らずの話し合いは。」
「へっへっへ、さぞや和気藹々としてるだろうよ。」
霧江さんに、肘で脇の下の急所を小突かれる。
「…一度頭を冷やそうってことで小休止さ。こりゃあ夜通しになりそうだぜ。泣けてくらぁ。」
減らず口は相変わらずだが、疲れは隠し切れないようだった。
…同情するつもりはないが、普段の元気な親父と比べると少し痛々しい姿だった。
「しっかし酷ぇ雨だな。ゲストハウスに戻るのも嫌になるぜ。夏妃姉さんが、屋敷で泊まれるよう準備してくれたらしい。どうする?」
「……散会になった時に考えてもいいんじゃない? 部屋に戻る体力もなくなってたら、その時はお世話になりましょうよ。」
「そうだな。その時に考えりゃいいか。……戦人はどうする。」
「俺がいちゃあお邪魔だろうからよ。気ぃ遣って向こうに戻るぜ。」
「………そうか。すぐ戻るのか?」
「さぁな。ひとりで戻ったって寂しいしよ。子ども全員で揃って帰ることにするぜ。」
「そうだな。そうするといい。……………それで戦人。お前、今夜はそうは簡単には寝ないだろ?」
「多分、いとこたちとおしゃべりしてるだろうからな。夜更かししそうな気配はあるぜ? それがどうかしたのかよ。」
「……そうか。もし、大人たちの会議が終わってお前がまだ起きてたら、ちょいと家族でしたい話があるんだ。」
「…何だよ? ガラにもねぇな。」
同じことは霧江さんも感じたらしい。
何の話?と親父に小声で聞く。
…どうやら、霧江さんも親父が何の話をしているのかわかりかねているようだった。
「……霧江にも聞いてもらいたい話だ。……後で話すから、今は聞くな。頼む。」
「…………………?」
うちのクソ親父ほど「家族」ってものを顧みないヤツはいなかったと思う。
…その親父が家族で話があると言い出す。
……俺も霧江さんも、目を丸くするしかなかった。
「そうビビった顔すんなよ。ビビりてぇのは俺の方なんだ。…………何しろ、……。」
そこで一回言葉を飲み込む。
…勿体ぶるのは親父の性分ではないはずなのだが。
「…気持ち悪ぃぜ、親父。今、家族は全員揃ってるじゃねぇかよ。勿体ぶらずに言えよ。」
「…………………俺は多分。………今夜、殺されるだろうな。」
大きな雷鳴が轟く。
かなり近くに落ちたようだった。
その稲光で白く照らし出された親父のその表情は、俺の目に焼きつく。
……いつも自信満々で人を小馬鹿にした表情を崩したことのなかった親父が、……何とも説明のし難い、弱々しい表情を。
…………それは、親父に似た顔をした別人かと思うほどやつれたものに見えた。
「は、はぁ…?! …何言ってんだよ、ガラでもねぇ!」
「くす。同感よ。どうしたの、急に弱気ね。あなたらしくもない。」
「………俺も化粧直しに行ってくる。ついてくんなよ。」
親父は弱々しく背を向ける。
…後には、目を丸くしたままの俺と霧江さんだけが残されていた。
「何だってんだ………。今夜、殺されるゥ?
まさか、あの妙な手紙のせいで親父、ビビっちまったのかぁ? 連続殺人ものの映画の見過ぎだぜぇ?」
「………………うーん。」
霧江さんは俺の軽口には応えず、去っていく親父の背中をじっと見つめ続けていた…。
「……戦人くんは留弗夫さんに、今話せと言ったら、話さず立ち去った。みんなに話すことがあると言い出しながら答えなかった。どうして? ……チェス盤をひっくり返す。…………すると?」
「話すと言っておきながら話せない矛盾。…何すかね、親父側から見ると何か見えてきますか。」
「……くす。えぇ見えるわよ。話したいことがある。でも、自分から言い出す勇気がない。“だから、追ってきて俺に話しかけて聞き出してくれ”が正解ね。ついてくるなも、逆の意味よ。ついてきて俺を問い詰めてくれ、が正解。……まったく、甘えん坊さんなんだから。」
「えぇー?! そういう推理でいいんすかぁ?! そ、そんな滅茶苦茶な。」
「ふふふ、名探偵や名刑事が男女の気持ちや心を推理できる? できないでしょ? 異性の気持ちを探るのは、難事件のトリックを暴くよりはるかに高度な技術なのよ。私に言わせれば、名作推理小説より恋愛小説の方がよっぽど難解なミステリーなんだから。」
「は、…はぁ。そういうもんすかね……。」
「私はあの甘えん坊さんと一緒にいるわ。……普段は虚勢を張ってるけど、今夜はかなりの激論で疲れきってる。誰かに寄りかかりたい気持ちなんでしょうね。それに応えるのがパートナーの役目よ。」
「はー。そりゃあお熱いことで。じゃあうちのクソ親父の世話をよろしく頼みますよ。」
「えぇ、任せておいて。」
霧江さんが立ち去るその背中に、俺は声を掛ける。
「……え? 何?」
「いや、ありがとよって。お陰で陰鬱な気分がだいぶ晴れたぜ。」
「ならよかった。コミュニケーションは大事ね。」
霧江さんはウィンクで応えた後、去った親父を追っていった…。
■どこかの暗い廊下
灯りの満たされない薄暗闇の廊下に夏妃の姿があった。
時折、雷鳴が轟くが、それによって夏妃が表情を変えることはない。
……疲れきった表情だった。
夏妃の脳裏に、ついさっきまでの食堂での親族たちとのやり取りが蘇る…。
ベアトリーチェは、黄金だけでなく、右代宮家の家督と全財産についてまでも、謎を解いた者に与えると宣言してきた。
…つまり、長男である蔵臼が家督を継げるという絶対の保証を揺るがしてきたつもりなのだ。
弟と妹たちは本来ならば家督を継げるチャンスはまったくない。
そんな彼らにとって、このベアトリーチェの「提案」はこの上なく魅力的なのだ。
彼らが、ベアトリーチェの提案を呑もうと言い出すのは当然のことだった。
…下手くそな推理ごっこをするまでもなく、ベアトリーチェなどという19人目の存在がいるわけがないのはわかる。
これは、ベアトリーチェという架空の存在を使者にした、金蔵直筆のメッセージも同然なのだ。
その証拠に、金蔵はあの手紙の真偽について、頑なに不介入を貫き続けている。
……当主の指輪を預かっているという、金蔵が捨て置けるわけもない暴言を放置している。
…………つまり、金蔵は無言で、あの手紙を自分のメッセージだと認めているのだ。
おそらく、真里亞に手紙を渡したのは使用人の誰かだろう。
金蔵が凝った計画を編み出し、あの肖像画のドレスを用意し、……多分、紗音辺りにでも着せて傘と手紙を渡させたのだろう。
それで、肖像画の中の魔女を実在するかのように仕立て上げたかったのだ。
…いやむしろ、それゆえに金蔵が黒幕に違いないと断定できると言うべきか。
となれば、……兄弟4人の密談に、金蔵が割り込んで来たも同じこと。
そして金蔵は、自分の作った謎を解いた人間に、全てを引き渡すと宣言することで、蔵臼の絶対有利を揺るがしてきたのだ。
………もう間違いない。
金蔵は、日中の客間での兄弟会議を盗み聞いていたのだ。
そして、蔵臼が他の3人の攻撃を凌いでしまったことを知り、再び戦いの天秤に均衡を取り戻させるため、3人が有利になる怪文書を送りつけてきたのだ。
絵羽と留弗夫は、兄弟の中では年齢的に劣り立場の弱い楼座を抱き込み、3:1で再び蔵臼を圧倒して、滅茶苦茶な理論を押し通そうとしている。
……そして、一度は大勢の決した戦いを仕切りなおし、多額の現金を支払わそうと何度も畳み掛けてきている…。
絶対に家督を引き継げるというセーフティーを兄弟全員が保証することを条件に、一度は拒否した前払い金の話を蒸し返しているのだ。
確かに、隠し黄金の話を抜きにしても、右代宮家の財産は莫大だ。
その財産だけでも充分な価値がある。
隠し黄金が金蔵の死と共に永遠の闇に葬られたとしても、充分に納得できるだけの価値がある。
だからこそ、隠し黄金云々に関心はなくとも、万一それを誰かに発見された時、その人物に家督を譲らなければならないという怯えは一生付いて回る。
それにこのようなアキレス腱は、いつか必ずや何者かに利用されるのだ。
このアキレス腱は、当主跡継ぎである蔵臼だけのもの。
……兄弟たちは蔵臼だけが失うものを見つけ、…いや、金蔵によって知らされ、そこを徹底的に付け込んでくる。
…夏妃は苦しい立場の蔵臼の唯一の味方として、妻として、共に戦っているつもりだった。
隠し黄金など存在自体がまやかしだと繰り返し、蔵臼に譲歩する必要などないと説き続けた。
蔵臼はいつも夏妃に言ってきた。
兄弟全員に言ってきた。
隠し黄金など、金蔵の生み出した幻想に過ぎないと、いつもいつも言ってきた。
だからそれを夏妃は妻として信じ、それを拠り所に夫を支えてきた。
しかし、蔵臼には夏妃の言葉が届かない。
…夏妃がこれほどまでに戦い、力を貸しているのに、ひとりで戦いを進め、兄弟3人に妥協をしようとしている…。
夏妃はなぜ自分が力になれないのか、悲しみ、不甲斐なく思い、そして憤った。
頭を冷やすために一度小休止を取ろうということになった時。
夏妃は蔵臼に食って掛かった。
なぜ自分はあなたの力になれないのかと憤った。
……すると蔵臼は、話したいことがあると言って、夏妃を普段は立ち入らせない私室のひとつへ招いた。
その部屋には重そうな南京錠が掛けられており、それを見ただけで何か不穏な気持ちはしていた…。
■廊下
「他の3人の言うことも、ベアトリーチェを名乗る不審人物の言うことも何も気にかけることはありません!! 黄金など所詮はお父様が生み出したまやかし。それを見つけられることなどあるわけがない! あなたが跡継ぎであることは磐石です。何を恐れることがあるのです?!」
蔵臼が扉の南京錠を外す。
そして夏妃に先に入るように促した。
「入りたまえ。」
「な、……何ですか。」
「見せたい物がある。……君に初めて見せるものだ。」
夏妃は怪訝な表情を浮かべながら扉を恐る恐る開ける…。
真っ暗だった。
灯りを付けようとスイッチを探るが、初めて入る部屋だったのでよくわからなかった。
その背中を押すようにして蔵臼も入ってくると、灯りをつける前に扉を閉めたため、2人は真っ暗闇に包み込まれてしまった。
蔵臼が施錠する音だけが暗闇に響いていた。
「こ、これは何事ですか…。あ、灯りを…。」
「今つける。待ちたまえ。」
その言葉通り、蔵臼は壁のスイッチを押すと、頼りない明かりがつき、部屋を照らし出した。
「………………………そ、それは……?」
夏妃は息を呑む。
その部屋は窓のない、一目見ると空っぽの部屋のように見えた。
その部屋の中央には、小さな丸机が置かれ、灯りはその机だけを、まるで舞台の上の主役であるかのように照らし出していた。
その机の上には、埃の積もった凝った意匠の赤いテーブルクロスが敷かれ、……そこには成人の腕くらいの大きさのソレが置かれていた。
……夏妃はソレを見て息を呑んだのだ。
「凄まじい純度を持つ黄金のインゴットだよ。こいつがなければ、誰も黄金伝説を信じはしなかった。」
それは、大きな純金のインゴットだった。
おぼろげな灯りにもかかわらず、高貴で重厚な黄金色の輝きを放っている…。
「こいつはまともなインゴットじゃない。このインゴットを鋳造したのが、国内なのか国外なのか、それすらも私にはわからないんだ。」
最高純度の純金インゴットを作るには高度な技術力がいる。
そしてその純度の証明として、鋳造元や保証する銀行名などを刻印するのが通例だ。
…しかし、このインゴットにはその刻印はない。………鋳造元不明の謎の金塊。
「ここを見たまえ。…………怯えることはない。こいつはただの金塊だ。」
夏妃は蔵臼に勧められ、恐る恐るインゴットに近付く……。
「そこだ。」
インゴットの表面を指し示す蔵臼。
…夏妃はその示す部分に目を凝らす…。
「…………………!!」
そこには薄っすらと、片翼の鷲の紋章が刻印されている! 夏妃はもう一度息を呑んだ。
「そうだよ。これこそが、親父がベアトリーチェに与えられたと言い、保証人のマルソーの会長に任意でひとつを抜き取らせて持ち帰らせ、財界のフィクサーたちを信用させたという、伝説のインゴットなのだよ。方々に手を尽くして私が見つけた。……他の兄弟たちより早くね。」
「………そんな…………。……じゃあ、………お父様の黄金伝説は………、」
「実在する。……右代宮金蔵が授けられたベアトリーチェの黄金は実在するのだよ。」
「そんな……………! ほ、……本当にあるなんて…………。」
夏妃は呆然とする……。
金蔵の黄金などでっちあげだとずっと蔵臼は言ってきた。
だから妻としてそれを信じてきた。
しかし、事実は違った。
はっきりとした証拠を持ち、他の兄弟たちの誰よりも黄金伝説が間違いないという確信を持っていたのだ。
だからこそ、蔵臼は、見つけられぬ黄金を自分以外の誰かが見つけた時、全てを失うかもしれないリスクを心底恐れていた。
……しかし、夏妃にとってこの事実は心を引き裂いて余りあるものだった。
蔵臼の妻として、もっとも身近な理解者として献身的に支えてきたつもりだった。
…にもかかわらず、その自分に今日までこの事実は伏せられてきた。………なぜ?
「……そ、………そこまでに、…………私はあなたの信頼に足りないというのですか…………。」
「………そういうつもりはない。話す必要がなかっただけだ。」
「あ、……あなたにとっては、…………妻は! その程度のものなのですか…………!」
「落ち着きたまえ…。激情にすぐ駆られるのは君の悪い癖だ。」
「あなたがそうさせてるんじゃないですかッ!!! 私は右代宮家に嫁ぎ、今日まであなたの妻として仕えてきました…! あなたのために生まれた家を捨て、身も心も捧げてお仕えしてきました…!! その報いが、………これなんですか………!! そんな……、…………そんなことって……………!!」
蔵臼はうんざりした顔で表情を歪める…。
夏妃のこういう部分が嫌いなのだと、露骨に口にしているも同然な表情だった…。
「……私は………、もうあなたの力になれそうもありません…………。」
「ふむ、それでいい。………兄弟のトラブルを私が自分の力で解決する。君の力は借りんよ。」
「違います!! これは右代宮家のトラブルです! 確かに私にはこの身に家紋を刻むことが許されていません! でも、あなたの妻です!!なのに、……私には力添えする資格もないのですか…?! あなた………ッ!!!」
「…………………君を思えばこそ、あえて関わらせなかったのだ。これ以上は頭痛に触るだろう。君は今夜はこれで休みたまえ。兄弟の話は兄弟でつける。君は関係ない。それだけだ。」
■廊下
鈍い頭痛が夏妃を苛む…。
どんな薬や、どんな香を焚こうとも癒されることはない。
……むしろこうしてひとりで薄暗い廊下にたたずみ、雨音で頭を満たしている方が痛みを和らげてくれるような気がした…。
………私は、夏妃ではあっても、…右代宮夏妃ではなかったのだ。
借り腹と蔑まれ、…それすら出来ぬと罵倒され、………それでもなお妻の役割を全うしようとして、……夫にまで拒絶される。
娘の養育だけが自分に残された仕事なのかとがんばった。
…しかし、やり場のない怒りや悲しみは、無意識の内にそれらを歪ませてしまった…。
過剰に厳しくした教育のせいで、朱志香にはすっかり嫌われてしまった。
学校の成績にしか興味がないと蔑まれている。
……私にはもう、………右代宮家でできることは、ない………。
うぅん、……駄目だ。
それでも夫の力となり、他の欲深な兄弟たちの目論見を退けなければならない。
当主様だってもう長くない。
やがて当主は蔵臼が引き継ぐ。
そして次の跡継ぎは朱志香なのだ。
………厳密には、朱志香が連れ帰る入り婿が当主になるのだが、大筋は同じことだ。
……朱志香を、右代宮家を継ぐに値し、誰からも認められる立派な跡継ぎにしなくては。
あの貪欲な右代宮絵羽は、これから将来においても、何かと本家に難癖をつけ、あわよくば朱志香を跡継ぎから引き摺り下ろし、譲治をその座につけようと暗躍し続けるだろう。
……悔しいが、譲治は男子で、その上、人間として円熟している。
…反抗期真っ只中で成績も並み以下の朱志香と比べれば、どちらが当主跡継ぎに相応しいかは一目でわかる。
だから、そんなものに揺るがされないように、朱志香には立派になってもらわなくては。
そして、………立派になった朱志香には、そんな朱志香に相応しい立派な男性と結婚してもらいたい。
………朱志香のことを真に受け止め、生涯の苦楽を共にしてくれる素晴らしき男性と。
それは、……………自分の人生に対する何かを、娘に託そうとしているのか。
夏妃は逃れえぬ運命によって、右代宮家に嫁がなければならなかった日々を思い返してしまう…。
それは自ら禁じた記憶のはず。
………彼女はそれを意識して忘れ、右代宮夏妃として与えられた人生に、積極的に臨もうとしたのだ…。
そして積み重ねた新しい人生。
………でも、…その全てが、……さっき、呆気なく否定された気がする。
「…………………………。何を考えて生きていけばいいのか、……………わからない。」
夏妃は力なく窓ガラスに頭を持たれ掛ける…。
雨粒によって冷やされたガラスは、なぜか心地よく、無慈悲なはずなのに、…今は夏妃を唯一理解してくれる存在に感じられた…。
そこに、誰かが現れたとしても、今の夏妃は気にも留める気はなかった。
………でも、気に留める。
………愛娘だったからだ。
「………か、……母さんか。何だよこんなところに。幽霊かと思ったぜ…。」
いつも通りの、女の子らしくない悪い言葉遣い。
…反射的に、叱り付ける言葉が喉を突く。
………だが、その喉を突く力が弱かったお陰でそれを口に出すのを止まることができた。
「……………………朱志香。ごめんね、母さんは頭痛が酷いの。そっとしておいてくれる。」
「………………そう……。」
朱志香は初めて見る母の弱々しさに、少なからず狼狽する。
ついさっきまで、母を含め、親たちを軽蔑する感情でいっぱいに満たされていた。
…でも、そんな気持ちはもうわずかほども残っていなかった。
……全て、母のその疲れきった表情のせいで、抜け切ってしまった。
代わりに蘇るのは、譲治に言われた言葉。
親は親なりに努力している。
…そして、家族を背負うからこそ、綺麗事では済ませず、戦わなければならない重責。
……それを誰も理解しようとしなかったからこそ、母はこんな薄暗い廊下で、ひとりでたたずんでいるのではないのか…。
朱志香は、母のことなど嫌いだった。
……だから、少し弱々しそうな様子なだけで、やさしい言葉を掛けるつもりなどない…。
だから、それでもなおやさしい言葉を掛けようとするには、両拳を握り締め、胸の奥から言葉を捻り出さなければならなかった。
「ず、………ずいぶん立て込んだ話をしてるようじゃん…。」
「…………………お前には関係ありません。他所へ行っていなさい。」
「………頭痛ひどい? わ、私、薬もらって来ようか…?」
「……………構わないで結構です。…お願いだから、一人きりにして。」
夏妃は冷たくしているのではない。
…自分の短気をぶつけてしまわないよう、今の自分から遠ざけたいだけなのだ。
……でも、その気持ちが伝わるわけもない。
「…………………う、……うん。」
朱志香が悲しそうに俯く。
…その表情を見て夏妃は、朱志香が母に振り絞ったやさしさを感じ取る。
軽く頭を振り、邪険にしてしまいそうになる気持ちを追い払う…。
「じゃあ私、……行くよ。……大人の邪魔にならないように、いとこたちと一緒にいるから。…………じゃ…。」
「………お待ちなさい。」
寂しそうに立ち去ろうとする朱志香を呼び止める。
「……何…?」
「…………気遣いをありがとう。………お前を残して寝込むわけには行きません。」
「よ、よせよ、縁起でもないぜ…。」
「…心配を掛けました。もう大丈夫です。………私は行きます。」
これ以上、ここで弱々しい表情を見せればかえって娘を不安にさせる。
…夏妃はそう思い、感謝の言葉を残して立ち去ろうとする。
……その背中に、今度は朱志香が声を掛けた。
夏妃は立ち止まって振り返り、何の用か聞く。
でも朱志香は、どうして自分が呼び止めてしまったのか自分でもわからなくて、…しばらくの間、苦笑い気味に呻きながら、何を口にすればいいか悩んだ。
そしてポケットをまさぐっていると、何かが手に触れ、それを取り出した。
「あ、あのさ、母さん! 私さ、今日、お守りもらったんだよ。何だっけな、魔除けだったっけ?えっとえっと……、確かその、ドアノブにぶら下げてるといいんだっけ? あははは…、忘れちまったぜ…。私が持ってても仕方ないし……。母さんにあげるよ。」
それは、昼間、海岸で真里亞にもらったサソリのお守りだった。
真里亞に効能を色々聞いたはずなのに、この瞬間の朱志香は頭が真っ白で、そんなことを言うのがやっとだった。
朱志香は、どうせ受け取ってもらえないだろうと思い、お守りを握って突き出した手を、すぐに引っ込めてしまった。
……だから、夏妃がこちらへ戻ってきて、その手を取った時には、とても驚いた…。
「…………………これは? 何かの景品…?」
「ま、まぁその、私も多分そうだろうと思ってるけどよ…。こんな玩具みたいなお守りじゃ、…ご利益は期待できねぇよな……。」
しかし母は、その手に握られた、サソリのお守りを受け取る。
「ありがとう。大切にします。…………朱志香には今度、私が子どもの頃、大切にしていたお守りを代わりにあげましょう。」
「…べ、別にそんなつもりで渡すんじゃないぜ。……でも、まぁ、……どうしてもって言うんなら…。」
「では、私はもう休みます。頭痛が酷いので。………朱志香もあまり夜更かしを過ぎないように。」
「うん…。」
夏妃はお守りをポケットに収め、背中を向ける。
……そして、暗い廊下の向こうへ消えていくのだった…。
■客間
「…やっぱり、明日も丸一日こんな天気みたいだね。」
「やれやれ、今日の日中が嘘のようだぜ。」
客間のテレビ前で、俺と譲治の兄貴はぼんやりと過ごしていた。
そこへ朱志香が戻ってくる。
彼女も相変わらずぼんやりした表情をしていたが、先ほどに比べれば少しは落ち着いたようだった。
「……真里亞はまだ肖像画前?」
「いや。さっき戻ってきて、今はそっちのソファーで寝てるぜ。真里亞にはもう遅い時間だもんな。」
時計を見れば、午後10時を過ぎている。
…夜更かしするにしても、そろそろ部屋に戻るべき時間だった。
「一応、うちのお袋が屋敷にも部屋を用意してくれたんだけどよ。……どうする?」
「僕はゲストハウスに戻りたいかな。……親たちの様子を見る限り、僕たちはお屋敷にいない方がいいと思う。」
「俺も同感だぜ。子どもは邪魔せず引っ込んでろって感じみてぇだからなぁ。大人しくそうするさ。」
そんな話をしていると、客間に楼座叔母さんが入ってきた。
きょろきょろとしている仕草は、多分、真里亞を探しているものに違いない。
「楼座叔母さん、真里亞ならそこのソファーっすよ。」
「ありがとう。すっかり眠っちゃってるわね。……ベッドに移さないと。」
「よかったら、僕がベッドまで背負って行きましょうか。」
「ありがとう、助かるわ。………譲治くんたちは、ゲストハウスに戻るの? それとも夏妃姉さんが用意してくれた部屋に泊まるのかしら?」
「今、話し合ってました。ゲストハウスへ戻ろうかって話になったところです。」
「そう。なら真里亞も一緒にしてあげてもいいかしら。…いとこのみんなと一緒の方が、きっと安心できると思うしね。」
その言葉の影には、自分も含め大人たちが真里亞の心を深く傷つけてしまったに違いないことへの後悔が含まれているようだった…。
「任してくださいよ叔母さん。何しろこっちにゃ、真里亞をあやすことに関してはエキスパートがいるっすからねぇ!」
「そ、それは僕のことかい?
僕だけじゃ無理だよ。みんなでだよ。」
「そうだぜ。戦人だって、あんなにも真里亞と意気投合してふざけ合ってたじゃねぇかよ。」
そんなやり取りをしていると、楼座叔母さんは本当に嬉しそうな顔で微笑むのだった。
「みんな、ありがとう。……私たちの話し合いはだいぶ遅くまで掛かりそう。だから申し訳ないけど、真里亞をみんなにお願いするわ。」
「おーい真里亞ぁ、熟睡かぁ…? ゲストハウスに戻るぞ〜。」
真里亞はむにゃむにゃと何か答えたかのように口篭るが、寝返りをうつと再び寝込んでしまった。
……眠りは深いようだった。
「すっかり寝込んじゃったようだぜ。起こすのは悪いな。」
「うん、僕が背負うよ。」
真里亞の体は見た目よりずっと軽い。
担ぎ上げ、譲治兄貴の背中に背負わせる。
表は大雨だから、背負っている兄貴は自分で傘をさせない。
それをフォローするため、楼座叔母さんもゲストハウスまで来てくれるようだった。
だが、蔵臼伯父さんの呼ぶ声が聞こえたため、戻らざるを得なくなってしまった。
「……困ったわね。もう戻らないと。」
「………皆さん、ゲストハウスまでお戻りですか?」
ホールに出てから玄関に行こうとすると、使用人室が開き、紗音ちゃんが出てきた。
「だいぶ暗くなっておりますので、私がご案内させていただきます。」
「ちょうどよかったわ、紗音ちゃん。譲治くんが真里亞を負ぶって行ってくれるの。傘をさしてあげてくれないかしら。」
「はい、かしこまりました。」
紗音ちゃんは俺たちの分の傘と、案内用の懐中電灯を持ってきた。
玄関の扉を開けると、実に素敵な大雨が降っていた。
夜の薔薇を愛でながらのんびり散歩して戻る、なんて余裕をかましてる暇はなさそうだな…。
「兄貴、重くねぇか? 俺が背負うぜ?」
「大丈夫だよ。真里亞ちゃんくらい背負えるよ。」
「……本当にありがとうね。真里亞をよろしくお願い。」
「うん、わかりました。じゃ、お休みなさい、叔母さん。」
「それではお送りしてまいります。」
「えぇ、よろしく…。」
楼座叔母さんは俺たちの背中を見送ってくれた。
「………真里亞。……いつもごめんね…。」
楼座が呟くその声は、当人にも、そして子どもたちの誰にも届かず、雨音に掻き消えるのだった…。
■ゲストハウス
大雨の薔薇庭園をさっさと通り抜け、俺たちはゲストハウスに到着する。
「かー、俺が真里亞を背負うって立候補すりゃあよかったぜ〜! そうすりゃ、傘をさしてくれる紗音ちゃんのでっけぇお乳を二の腕でたっぷり堪能できたってのによぅ!」
「そそそ、そんなつもりじゃないよ、誤解だよ…!」
「そっ、そうしないと譲治さまが濡れてしまうと思いまして………。」
「ほーら、馬鹿なこと言ってないで入るぜー!」
朱志香に小突かれながら傘を畳み、ゲストハウスに入った。
「お召し物を濡らしてしまった方はいらっしゃいませんか? タオルを用意いたしますが…。」
「そこまで気を遣わなくていいぜぇ? ありがとよ紗音ちゃん。」
「そうだ。僕たちはこれからトランプでもして少し遊ばないかって話なんだけど、よかったら少し一緒しないかい?」
「あれ? 今日のシフト、深夜勤は誰になってんだ?」
「親族会議中は特別シフトになってたと思いました。少し変更も出てるみたいなので、ちょっと確認してきます……。」
「あぁ、わざわざ屋敷に戻らないとわからないんなら無理に、」
「あ、大丈夫です。ゲストハウスの使用人室でわかりますので。……ちょっと失礼しますね。」
紗音ちゃんはぺこりと頭を下げると、ゲストハウスの使用人室に入っていった。
俺たちはいとこ部屋に向かい、とりあえず、真里亞をベッドの中に入れてあげることにする。
真里亞はすっかり熟睡で、まったく目を覚ます様子はなかった…。
取り合えず、部屋の冷蔵庫からジュースを取り出して、それを飲みながらトランプでもして遊ぶことになった…。
■使用人室
「……あれ? 嘉音くん? 源次さままでこちらに。…今夜のシフトはどうなっているのでしょうか…?」
「…………蔵臼さまの命令があってね。シフトの大掛りな変更があったんだよ。」
「……うむ。郷田さんがお屋敷の深夜勤に変更になった。紗音と嘉音はゲストハウスの深夜勤。私と熊沢さんはゲストハウスに泊まるようにとのご命令だ…。お前も、今夜はこのままこちらに留まるよう、たった今、電話があった。」
「えぇ…? ず、ずいぶん大掛りな変更ですね…。お屋敷とゲストハウスのお当番が、丸っきり逆になってるじゃないですか…。」
本来は、紗音と嘉音がお屋敷の深夜勤になり、親族たち賓客が宿泊するゲストハウスの深夜勤が接待経験の豊富な郷田になるはずだった。
そして、熊沢がゲストハウスに宿泊、源次はお屋敷に宿泊となっていた。
だが、突然に蔵臼からシフトを変更するように命令があったらしい。
……お屋敷とゲストハウスのシフトを丸ごと交換し、源次はゲストハウスに泊まるようにと。
「…………多分、ベアトリーチェさまの手紙のせいだろうね。」
「多分って、……どうして?」
「………あんな怪しげな手紙が現れたら、蔵臼さまが僕たちを疑うのは当然だからね。………お館様直属の僕たちを、極力、親族会議の席から遠ざけたかったんだろうよ。」
源次、紗音、嘉音の3人は、右代宮家の紋章である「片翼の鷲」を身に着けることを許された、金蔵直属の使用人だ。
もちろん、右代宮家に仕えているため、誰の命令にも従うが、唯一の上司は金蔵だけだ。
人事権も金蔵のみが握っているため、たとえ蔵臼と言えど、彼らを勝手に解雇することはできない。
その為、蔵臼たちには時に、金蔵の手先と見られて疎まれることも少なくなかった。
実際、金蔵は彼ら以外の人物を書斎に入れることは滅多にない。
この突然のシフト交換は、まさにそんな不信感の表れと言えただろう。
金蔵の余命を思えば、これが遺産問題直前の最後の親族会議となるに違いない。
しかも、ベアトリーチェを名乗る奇怪な手紙が舞い込んで寝耳に水。
そんなデリケートかつ重要な会議の席から、金蔵の忠臣たちを締め出したかったに違いない…。
「……ではすまんが、私は向こうでくつろがせてもらう。…もし何かあったらすぐに呼ぶように。
今夜のお客様は、特別だ。」
「「はい、かしこまりました、源次さま。」」
源次は頷き返すと、衝立の向こうに行き、上着を脱いでようやく一日の緊張を解すのだった…。
「………今お戻りになられたのは、お子様方…?」
「うん。親族の方々はお屋敷で会議を。だいぶ長引きそうな雰囲気だったかな…。」
「……なら気楽だね。これ以上の深夜になって、しかもこの天気。多分、親族の皆さんはお屋敷の方のお部屋にお泊りさ。」
「多分ね…。源次さまがいないから言うけど、……ゲストハウス行きになって、ちょっと嬉しかった……かな…。」
「ふーん…? どうしてだい? 意地悪な奥様や絵羽さまから離れられたから? …それとも、別の理由があるのかい?」
「べ、……別の理由なんか…、…あ、ありません…!」
「………そっか。なら、二人で深夜勤をがんばろう。よろしく、姉さん。」
「あ、……えっと………。私、ついさっき、お子様方に、お部屋で遊ばないかとお呼ばれしてて…。」
紗音は申し訳なさそうに俯きながら、…ちらちらと嘉音の目を覗き見る。
嘉音は目を合わせようともせず、溜め息混じりに素っ気無く言う。
「姉」を甘やかすつもりはないらしい。
「…………駄目だよ。深夜勤を仰せつかってる。…それに、僕たち家具には遊びのお誘いは必要ない。…わかるね?」
「そ、…そんなことわかってます。………………んん。」
紗音は小さく肩を落とす。
…規律を重んじる嘉音が、多分そういうだろうことは予想がついていたが、それでも少しは気落ちしたようだった。
嘉音は日誌を捲りながら、紗音の方を向きもせずに言う。
「…………なら、お子様方をお待たせしてしまってるね。深夜勤に当たってしまったからご一緒できないと謝ってこなきゃ。……行ってきなよ。」
「え、………ぁ、うん! 私、謝ってくるね…。」
紗音は、弟の機嫌が変わってしまう前にそそくさと席を立つと、ぺこりと頭を下げて使用人室を飛び出していった…。
その背中を見送りながら、嘉音は深い溜め息をひとつ漏らす…。
衝立の向こうから源次の声がした。
「……嘉音。……私がここにいるから、お前も行くといい。」
「源次さま…。……誘われたのは紗音だけです。僕は別に誘われては…、」
「その場にいなかったからお声を掛けられなかっただけだ。いればお前も誘われている。……たまには子どもらしく遊んでくるといい。」
「…………………………………。……いえ、僕には必要ない行為です。……人の子には遊びも必要でしょうが。……僕らは、……家具ですから。」
「…………………そうか。」
「…………姉さんだって、…家具です。………人のふりをしたって、…後で苦しむだけなのに。…僕はそれがわかっているから、人に近付きたくないだけなんです。」
源次はそれ以上、何も言わなかった。
……しばらくすると立ち上がり、ポットのお湯で粉末のココアを作ると、それを嘉音にも振舞うのだった。
■ゲストハウス・いとこ部屋
「そりゃ本当かよッ?!?! そりゃあ知らなかったぜ…!!」
「馬鹿、声が大きいぜ! 真里亞が起きちゃうだろー!」
戦人は素っ頓狂な声を上げて、手持ちのトランプを散らしながら派手に驚いていた。
その声に、真里亞は一度寝返りをうって見せたが、すぐにすやすやと深い眠りに戻る…。
朱志香に小突かれ、声が大きすぎるとたしなめられるのだった。
「いや、しかし…、言われて見れば確かにそれっぽい雰囲気はあったんだよなぁ…。……はぁ、なるほどなぁ、譲治の兄貴がなぁ…。」
部屋に譲治の姿はない。
さっき、紗音が部屋にやって来た時、急に屋敷に忘れ物をしたから取りに戻ると言い出したのだ。
紗音は来た時同様、ご案内しますと言い、二人で退出していった。
「……いや、昔からそれっぽい気配はあったんだぜ? 好きな物を聞いてきたり、趣味を聞いてきたりさ。単に関心を持つだけにしてはどうも…、何て思ってたらよぅ!」
「そういや、昔っから譲治の兄貴は紗音ちゃんにやたらとやさしかった気がするぜ……。なぁるほどなぁ…。」
■雨天の薔薇庭園・雨宿りできる東屋
「天気予報によると、今夜が一番ひどいみたい。明日いっぱいも止まないらしいけど、もう少しマシになるそうだよ。」
「…そうですか。では、明後日までは、船は来られないかもしれませんね……。…譲治さまの月曜日のお勤めに差し支えが出ないか心配です…。」
「ははは、台風が来ていることは知っていたからね。万一に備えて月曜日には予定を入れなかったから大丈夫さ。…こう見えても、スケジュールは先読みできるタイプなんだ。」
譲治は胸を張って誇るような仕草をする。
それは、いとこたちの中で最年長である譲治の普段の落ち着きある様子から比べると、少し子供っぽくて微笑ましかった。
紗音はそのギャップをくすりと笑う。
「さすが、やがては会社を興される方はしっかりしていますね。」
「…やっぱり会社を興すというのは大変だね。お金とかそういうのだけじゃないものがとても大事だって、父さんのところで勉強していてわかるよ。会社を興すということは、城を持ち、部下を率いるということ。うちの父さんは秀吉って名前だけあって、戦国武将のエピソードがとても好きでね。会社経営の哲学をよくそこから語るんだ。…知ってるかい? 戦国最強の騎馬軍団と恐れられた武田信玄も、最初は部下たちの結束がバラバラで、統率力をまるで発揮できなかったんだそうだよ。」
「そうなんですか? 何だか意外ですね。」
「信玄は部下たちを結束させるため、数々のリーダーシップを発揮してるんだよ。例えば、戦場で武功を立てた部下に対し、すぐその場で褒章を与えたり。普通、こういうのは戦が終わってからまとめてやるものだからね。それを、戦場の本陣の中にいながらマメにやり続け、部下の武功を素早く評価しやる気につなげたというのは非常に大きいことだよ。それから部下が病気で伏せった時には誰よりも早く駆けつけお見舞いをした、とかね。…武田信玄は戦国最強の騎馬軍団を率いただけじゃない。戦国一の部下思いの人だったんだよ。」
「……そんな方だから、部下の皆さんも付いてきてくれたんですね。」
実は、この話は何年か前にすでに紗音は聞かされている。
…でも、父の話と絡めこういう話をする時の譲治はいつもとても輝いていて、楽しそうだった。
だから紗音は口を挟まず笑顔でその先を促すのだ。
「確かに資本主義の世界では、お金は力で石垣の高さでもある。でもね、戦も城も自分ひとりじゃ成り立たない。大勢の部下に支えられ、その力を借りて初めて成立するものなんだよ。……それを理解してから父さんの背中を見ると、自分がいかに未熟で、父さんがどれほどの切磋琢磨をして今日を築き上げてきたかがよくわかるんだ。」
「譲治さまは、お父様のことをとても尊敬されているんですね…。羨ましいです。」
「あ、あぁ、ごめん…、別にそういう意味で言ったんじゃないんだよ。」
「す、すみません…、私も別にそういう意味で言ったつもりは……。」
二人して気まずそうに俯きあう。
紗音に両親はいない。
彼女は金蔵が持つ、福音の家という名の孤児院で育った。
孤児院は名誉院長である金蔵の下へ、優秀な院生を奉仕活動に送っていた。
そこで認められれば、孤児院を出て右代宮家で使用人として仕えることができる。
…これが、院生の最大の名誉だとされていた。
福音の家出身の使用人は、奉仕活動中は「音」の文字を持つ名前を名乗ることになる。
だから「紗音」という名前も本名ではない。
それは「嘉音」も同様だ。
福音の家の院生たちはみんな孤児。
さもなければ特殊な事情により両親に離縁されている者ばかり。
……なので、院生たちは互いが唯一の家族であると教えられていた。
だから嘉音が、紗音のことを姉と呼ぶのは、彼らにとってとても自然なことなのだ。
そして、今日は紗音と嘉音が屋敷に詰めているが、他にも眞音(マノン)や恋音(レノン)といった、音の文字を持つ使用人が数人いて、ローテーションを変わることもある。
…もっとも、右代宮家で使用人を長く続けられる者はそう多くはない。
多くは3年程度で辞めていくのが通例だった。
なので、紗音の10年にも及ぶ勤続年数は例外中の例外だったと言えるだろう。
右代宮家で使用人として仕えるのは非常に負担の大きいことだが、給金は決して悪くない。
3年も働けば社会に出る充分な準備金になる。
だから院生たちは右代宮家で働くことがとても辛いことであることを理解していたが、それでもなお希望するのだった。
紗音の場合は、他の使用人たちより根性があったから10年を続けられたと見るべきではないかもしれない。
辞職を言い出せない気の弱さが勤めさせた10年だったのかもしれない。
それら福音の家から送られる“優秀な”使用人は、もはや血縁すら信用できない金蔵にとっては唯一信頼できる存在であった。
そのためある時、金蔵は彼らを直属の使用人として家紋をまとうことを許し、自分の身近に仕えさせたのである…。
「……えっと、……その、もう勤めて10年近くになるんだっけ? だいぶお金もたまったんじゃないかい?」
「どうでしょう…。別に私、買いたい物も特にありませんし…。ほんの何百万かあったって、それで残りの人生を過ごせるわけもありませんし…。」
「目標の額があってお勤めを続けてるわけじゃないのかい?」
「………そ、…そうですね。……私はこのお屋敷以外に行く当てもありませんし。……お嬢様とも、他の使用人の子たちとも仲良くやれてますし…。……奥様には時折お叱りを受けますけど、……薔薇の世話やお屋敷のお掃除も楽しいですし…。」
「でも、それは紗音ちゃんの、……うぅん、紗代(さよ)ちゃんの人生じゃない。」
「………えっと…。」
紗音は本名を出されて俯く…。
譲治が何を言おうとしているかわかり口篭った。
「僕は成人し、社会人になってからも勉強してわかったことがある。……子どもの頃、僕らが思っていたほど、人生は単調で短くないんだ。」
学生の頃、誰もが抱き恐れる妄想。
……自分の人生の残り全てが、退屈で単調な放課後の眠い授業のように、永遠にのんびりと怠惰に何も起こらずに終わってしまうのではないか…。
しかし、それは未成年の学生である内だけの話だ。
人の人生において学生時代など卵の殻を割るまでの未熟かつ瞬きする間の日々でしかない。
殻の内側は温かくも窒息しそうで退屈な世界かもしれないが、殻の外には無限の可能性に満ちた広大な世界が広がっているのだ。
「君の人生は、まだ紗音という殻の中でしかないんだ。君は自分の人生が、この生活のままずっと続いていくと勘違いしてるんじゃないかな。」
「それは……、…。…………………。」
紗音はその言葉を否定できない。
…自分の人生に明確な疑問を抱くこともできないし、それをどう変えたいという願望や目標もないから、今の生活を怠惰に続けている。
…それに、自分の人生がこれですでに満たされているのかと言われれば、…それはそれで頷けるものでもなく……。
彼女にとって、それはわざと目を背けていたことなのかもしれない。
…それを譲治に諭されない限り、彼女は気付かないふりをし続け、自分の本当の人生を少しずつ蔑ろにしていく…。
「……譲治さま。…………私は、……このままでいては、…いけないのでしょうか。」
「いけないよ。あ、それから今、ルール違反がひとつあったね?」
譲治は厳しそうに即答すると、すぐに悪戯っぽい顔で笑う。
紗音はすぐに何を注意されたのか理解したが、…それが恥ずかしいらしく、再び俯いた。
「僕たちしかいない時は、“さま”はなしの約束だよ…?」
「………や、……約束では聞けません。………ですが、ご命令でしたら聞かないわけにはいきません…。私は、…………家具ですから。」
「じゃあ、命令だよ。」
「えっと、………………はい。……かしこまりました、…譲治さん。」
紗音は俯き赤くなりながら、譲治をさん付けで呼び直す…。
「うん、それでいいよ、紗代ちゃん。」
譲治は紗音の、いや、紗代のわずかの勇気を褒める笑顔を浮かべる。
そのやり取りを見る限り、彼らの交際がすでに短くないことをうかがわせた…。
二人はしばらくの間、荒れる天気などまったく意にも介さぬかのように、誰にも内緒の交際で築いてきた様々な思い出を語り合うのだった。
時に稲光が水を挿そうとするが、薔薇も頬を染めるような時間を汚すことなどできなかった…。
「……………そ、…そうだ。…君に、見せたい物があって。」
「……な、……何でしょうか。」
雄弁と語る譲治が、急にどもり出す。
その様子に紗音も何かを悟った。
譲治はおずおずと自分のポケットを探る。
それはポケットの淵などに引っかかり、どもる譲治同様に少々間の抜けた様子で取り出された。
それは、小さな小箱。濃い青色のベルベット生地の小箱。
…その特徴的な形だけで、中に何が納められているかを想像させた。
紗音は、きっとそうに違いないとわずかの心の準備はしていた。
だがそれでも、それを直視すると再び顔が紅潮するのを拒めない…。
譲治はその小箱を開け、それを摘み取り…、紗音に受け取るように差し出す。
「これを君に受け取って欲しいんだ。」
「こ、………このような高価な物は、その、お、お受け取りできません…!」
「……受け取れない…?」
「い、…いえ、その…、………こんなもの、……私には、……す、過ぎていて………。」
「紗代。これはお願いじゃない。……命令だよ? この指輪を受け取って。…ね?」
「は、……ぅ…。め、……命令では、………従わなくてはなりません…。」
「うん、そうだね。…いい子だよ。」
紗音は、真っ赤な顔を見られたくなくて、俯いたまま、おずおずと譲治の手から指輪を受け取る…。
それは単なるアクセサリーとしての指輪ではない。
……古来より、特別な意味を持って特別な女性に捧げられてきた高潔なものだ。
…だからこそ譲治は、受け取ることを命じられても、それ以上を命令することはできない。
それ以上は命令でなく、紗音の、いや、紗代が自分の意思でしなければならないのだ。
「だから、ここからはもう命令じゃない。………紗代。明日までに、言葉でない形で返事がもらいたい。……………わかるね?」
「…えっと、…………ど、…どうすれば………。」
「もうこれ以上は命令じゃないから、僕は君に命令はしない。……でも、指輪は指にするものだからね。……気に入ってくれたなら、好きな指に付けてくれればいい。」
紗音は無知を装っただけだ。
どうすればいいのか、全てわかってはいた。
…でもそれは、彼女の人生にとっての大きな岐路となる…。
「……もうこんな時間だね。今夜はこれくらいにしよう。」
譲治はほんの少しだけ素っ気無くしながら、紗音に背を向ける。
「君に、左手に付けて欲しいと命令することもできるかもしれない。君も、命令されればそれに従えるという臆病な甘えがあるかもしれない。……でも、最後のここだけは、君の、……紗代の意思でしてもらいたいんだ。…わかるね?」
「…………は、………はい。」
「だから、…それが命令。………今夜よく考えて、明日その返事を見せて欲しい。」
「…………………。」
紗音は頷き返す。
……これまでの交際の日々の積み重ねがあり、今日がある。
…紗音にとって今日のこの瞬間は、決して不意打ちなものではない…。
「………そろそろゲストハウスに戻ろうか。これ以上遅いと、みんなを心配させちゃうよ。」
「……あ、……えっと…、…すみません、私! その、お屋敷に用を思い出しまして、…その、……お屋敷へ行かねばなりません…。」
「こんな時間に? ………本当かな?」
譲治は悪戯っぽく笑いながら紗音の顔を覗き込む。
それが紗音の嘘に違いないことを見抜いていた。
……しかしその気持ちを察すれば、恥ずかしくなりひとりになりたいと言い出す気持ちもわからなくはなかった。
だから譲治は、紗音の嘘を裏側まで理解した上で、それを認めてやるのだった。
▲第8アイキャッチ:10月4日(土)22時00分 が23時00分に進む
■屋敷〜屋敷の使用人室
紗音は、ふらついた足取りで屋敷の玄関を入る。
高揚感と不安感の入り混じった一言では言い表せない気持ちで胸が膨らみ、はち切れそうだった。
使用人室の前で一度だけ深呼吸をし、心を落ち着かせてから扉を開いた。
中には、今夜のお屋敷の深夜勤を言い付けられた郷田がいて、くたびれたクロスワードパズルの雑誌に没頭していた。
親族の誰かが来たのかと、一瞬だけ顔を向けるが、使用人仲間だとわかり何事もなかったかのように顔を戻す。
「……あの、…源次さまより、郷田さんのお手伝いに就くように言われてまいりました。」
「あぁ、そうですか…。それは助かります。そろそろ戸締りの見回りに行きたかったのですが、ここを空けてもいいものか困っていたのです。何しろ、旦那様方の会合はまだだいぶ続きそうですからね。いつ何時、お茶のご用命があるかもわかりませんし。」
「そうですよね…。では、どうしましょうか…、私が留守番を、」
「では紗音さん、申し訳ありませんがお屋敷内の見回りをお願いします。私はここで、親族の皆さんのご用命の待機をしておりますので。」
「は、……はい…。」
…紗音はちょっぴり呆れる。
自分は厚意でここに手伝いに来ているのに、本来の当番の本来の仕事を当然のように押し付けるなんて。
しかも、それを一方的に押し付けると、郷田は再び雑誌に没頭して、クロスワードパズルに浸りこむ。
一応、年長者に対する礼儀として頭を下げてから、紗音は見回りのため退出する。
ちょっとカチンと来たお陰で、さっきまでのふわふわした感覚が、少し治まることができたのだった。
それに、こんな顔を源次や嘉音には見せられない。
心が落ち着きを取り戻すまで、少し時間がほしかったから、見回りもそう悪いものではなかったかもしれない…。
食堂からは、親族たちが喧々諤々と議論する声が聞こえてくる。
誰かが冗長に語っては、それを誰かが否定し、それを長々と語ると、また別の誰かが否定する。
そんなことの繰り返し。
声にも不機嫌さが滲み出ているようだった。
自分はゲストハウスに行けと言われているのだから、蔵臼に見付かるとまずい。
紗音はそう思い、食堂の前を足早に抜ける。
そして、暗闇に支配された屋敷の中を、決められたルートに従いながら戸締りの確認をしていく。
廊下を歩き、その窓ひとつひとつの戸締りを確認した。
六軒島には右代宮家以外の人間はいないのだから、本来、戸締りにはそれほど重要な意味があるわけではない。
夏妃がそれを無用心だと叱るまで、右代宮本家には戸締りの習慣はなかったのである。
冷え切った窓の金具は冷たく、それらの確認をひとつずつ進めていく度に、心の火照りが冷まされていく気がした。
「…………………?」
その時、廊下の向こうに何かが瞬いたのを見た気がした。
……瞬き?
そんなものが廊下の闇の向こうに見えるわけがない…。
何かの勘違いかと思ったが、しばらくの間だけ息を殺し、カーテンの束を抱きながら、恐る恐る廊下の奥を凝視する……。
しかし、時折轟く雷鳴が廊下を照らし出す以外には、二度とあの瞬きを見ることはできなかった。
……やっぱり気のせいだろう。
心が落ち着かないので、ありもしないものを見てしまったのかもしれない。
紗音は再び戸締りの確認を再開する…。
しかし、その脳裏には、ある薄気味悪い想像が蘇っていた。
…それは、右代宮本家に使える使用人たちの間で語り継がれる、あの怪談。
屋敷には昼と夜とで違う主が。…その夜の主、ベアトリーチェが時に、輝く蝶の姿で屋敷を飛びまわるという、怪談。
……そう言えば、嘉音くんが前に見たことがあるなんて言ってたっけ……?
私は何かの見間違いだろうと信じてあげなくて、不貞腐れていたけど…。
………まさか、…本当に……………?
轟く雷鳴は、それに答えてはくれなかった…。
▲第8アイキャッチ:10月4日(土)24時00分 が5日(日)06時00分に進む
■ゲストハウス使用人室
源次は蝶ネクタイを固く締め直すと、カーテンの隙間から外を見た。
昨夜に比べればほんの少しは雨脚も弱まっただろうか。
…でも、分厚い雨雲はわずかほどの朝の太陽も、その気配さえも許すつもりはないらしい。
清々しさとは程遠い、薄暗い朝だった。
「………やはり、今日いっぱいは止みそうにないか…。」
「お待たせしました、源次さま。」
嘉音が身なりの確認を終え、洗面所から出てくる。
普段のシフトなら、深夜勤から早朝勤につながるような辛いことはそうない。
親族会議の2日間だけの特別体制だった。
もっとも、この台風が今日も去らなければ、親族たちは明日まで島に滞在を続ける。
特別体制はもう1日続くと覚悟しておいた方がよいだろうと嘉音は思っていた。
ゲストハウスを出て、二人は傘を開く。
薔薇庭園は一晩の風雨で荒れてしまっていた。
親族を迎えるために数日をかけて綺麗に手入れしたのに、それを台無しにする手間はたった一晩の風雨で充分とは。
嘉音は溜め息をつく。
二人は屋敷に向かう。
郷田と合流して、朝食の準備をするためだった。
凝り性の郷田のことだから、もうとっくに起床していて、ガラス細工のように精巧で絶妙な朝食を準備しているに違いない。
屋敷の玄関の軒下に入り、傘を畳む。
源次は自分のポケットより数本の鍵を束ねたものを取り出し、それで玄関の鍵を開錠した。
六軒島には右代宮家の屋敷以外はないため、その昔は施錠の習慣はなかった。
だが、夏妃の命令により深夜から早朝にかけては施錠が義務付けられたのだった。
そして朝の開錠は早朝勤の使用人が行なうことになっていた。
郷田は起床してすぐに朝食の準備に入るため、それは源次たちが行なうことになっていたのである。
屋敷の中は静まり返っていて、屋敷そのものがまだ眠りについているような印象を感じさせた。
「………では、朝の仕事を始めよう。」
「はい。」
二人は手分けして屋敷内のカーテンを開けることにした。
…カーテンに閉ざされたままでは、屋敷の中は未だ昨夜から抜け出せていないかのような薄暗闇を掃えない。
嘉音は慣れた手順で、屋敷内をうまく一筆書きで描けるように回りながら、次々にカーテンを開けていく。
このようなひどい天気であっても、カーテンを開けることによって、少しは朝の気配を迎え入れることができるのだった。
その途中で厨房の前を通りかかった。
…まだ嗅げてもいないはずなのに、郷田自慢の料理の匂いを先に期待して、空腹の胃袋が疼くのを感じる。
「………おはようございます。………………?」
中で準備に勤しんでいるであろう郷田に挨拶しようとしたが、厨房に郷田の姿はなかった。
厨房は薄暗く、カーテンどころか換気扇すら回っていない。
火の気もなく寒々しいままで、無論、朝食の準備が行なわれている様子もなかった。
…あってはならないことだが、郷田が寝坊しているのかもしれない。
使用人も人間だ。
時には起きられなかったりして遅刻することもある。
…そのようなことが万一あった時、騒ぎにして無様を晒さないよう、さり気無くフォローし、そのようなミスがあったことすら主人たちに悟らせないのもまた、使用人の美徳であった。
嘉音は壁に備え付けられている電話の受話器を取ると、使用人宿泊室の内線番号をダイヤルする。
「……………………?」
……独特のツーという機械音を感じない。
嘉音は受話器を取り直してみるが、それでもいつもの機械音を聞くことはできなかった。
ダイヤルし直してみるが、何の反応も示さなかった。
……ひょっとすると、昨夜の落雷で何か機械に異常でも出て、内線電話が壊れてしまったのだろうか?
この屋敷の設備は老朽化している。
ささやかなことで故障することがあるのを嘉音は充分に承知していた。
嘉音は電話で起こすことを諦め、使用人宿泊室へ駆けていった。
■夏妃の寝室
いつまで眠っていたのか、いつから目を覚ましぼんやりと天井を見上げていたのか。
……そんな曖昧な目覚めが、いつもの夏妃の朝であった。
眠りはいつも浅く、薬に頼らなくてはそれすら至れない。
…夏妃にとって、眠りは決して甘美なものではなかった。
外を見れば相変わらずの大雨。
わずかばかりの明るさが感じられなければ、未だに昨夜が続いているのではと勘違いするほどだった。
…自分はホスト側の人間なのだから、客人よりも後に起床するわけにはいかない。
夏妃はそう自分を鞭打ち、疲れの抜け切らない体を起こす。
この部屋にいる内は、誰も彼女を苛まない。
頭痛もこれ以上ひどくはならない。
……この部屋だけが彼女にとって安らぎの空間だった。
だから、ここを出れば夫の兄弟たちとの腹の探りあいの世界に戻ることになる。
…ならいっそ、ずっとこの部屋に篭ったままでいられたら…。
夏妃はそんな妄想を考え、苦笑した。
…これでは、金蔵と同じではないかと。
…普段は、自分たちを顧みず自室に篭る金蔵に悪態を付いておきながら、実はそれに憧れている矛盾。
……夏妃は頭を軽く振って、その妄想の代わりにいつもの頭痛を呼び覚ますのだった。
部屋から出ようと扉のノブに手を掛けると、昨夜、寝る前にノブにぶら下げたサソリのお守りが手に触れる。
……朱志香が夏妃に譲った、あの真里亞のお守りだった。
朱志香は確か、これには魔除けの効果があって、ドアノブに掛けておくといいと言っていた。
…ひょっとするとそのお陰で、少なくともこの部屋だけは、夫の兄弟たちの毒気から守られていたのかもしれない。
……そう思えば、今朝の気分もほんの少しだけは晴れ晴れとしてくるのだった。
「……………朱志香のお陰で、…少しはゆっくり眠れたということかしら…。」
そこで夏妃は思い出す。
そうだ、昨夜、朱志香に、このお守りの代わりに自分のお守りをあげようと約束したんだっけ。
夏妃は化粧台の引き出しを開け、子どもの頃から大事にしている年代物の小物入れを取り出す。
その中には、当時の夏妃にとって価値があると思われた様々な小物が収められていた。
そこから小さな赤い巾着袋を取り出す。
…開けると、中には直径10cm程度の小さな丸い鏡が入っていた。
相当古いものらしいが、鏡の背の意匠は凝っており、歴史的価値が感じられそうな気配があった。
少なくとも、プラスチック製のサソリのキーホルダー風情と比べれば、はるかにご利益がありそうに見える。
この鏡は魔除けの霊鏡だそうで、祖父の形見分けの時に祖母から特にと贈られたものだ。
鏡には不思議な力が宿ると古来より信じられている。
光を跳ね返すその様から、災厄や悪意をも跳ね返すと信じられたのだろう。
夏妃はそれを再び巾着袋に戻す。
…朱志香に渡すに相応しいものだろう。
それを懐に収めたところで、唐突に扉を叩くノックの音が響き渡った。
「………はい。」
「おはようございます、奥様。源次でございます。早朝から申し訳ございません。」
「……今行きます。何事ですか?」
使用人がこのような早朝に、それも直接やって来るなど、これまでにないことだった。
…何かマズイことでもあったのだろうか。
例えば、朝食の準備に致命的な手抜かりがあり、客人たちの前で恥をかくことになる、とか。
…夏妃は、これから聞かされるであろうトラブルに先んじるように溜め息を漏らす…。
扉を開くと、源次は最敬礼して再び朝の挨拶を口にした。
一応、夏妃もそれに応える。
「………おはようございます。何かありましたか?」
「申し訳ございません。………昨夜の落雷で電話機器に故障が出たようです。…内線電話が不通になっておりますもので、直接のお伺いになってしまったことをお許し下さい。」
「内線電話が不通? それは面倒になりましたね。修理は可能ですか?」
「……残念ながら故障箇所がわかりません。後で業者を呼んで修理させたいと思います。」
「ということは、この台風が過ぎるまでは修理不能ということですか。…つまり、客人たちの滞在中はずっと不通ということですね。…客人たちのお世話に支障は?」
「…………出ないよう、最善を尽くします。」
「結構です。…粗相のないようよろしく頼みます。」
夏妃は少しだけ胸を撫で下ろす。
どのようなトラブルが起こったのかと身構えていたが、電話の故障程度だったら想定するトラブルの内に入らない。
…もっとも、それでも絵羽辺りの嫌味を聞かされずには済まないだろう。
夏妃は軽く頭を振る。
「朝食の準備は順調ですか?」
「……それが、…郷田の姿が見えません。朝食の仕度もまだ行われておらず…。」
「何ですって?」
夏妃は憤慨する。
…彼女にとっては、電話の不通よりもそちらの方が大事だった。
にもかかわらず、その報告の方が後回しだったからだ。
普段、何事もそつなくこなすのに、なぜ親族たちが訪れているこの朝にこんな失態を…。
夏妃は額に手を当て、ふるふると首を振った。
「大方、朝寝坊でもしているのでしょう。とにかく、誰でもいいから急いで朝食の準備を。……………なッ、」
夏妃は廊下に出て、自分の部屋の扉を閉めようと一度振り返った。
そこで目にした気持ちの悪い“それ”に絶句したのだ。
…それは、赤黒い液体を指につけてドアノブの辺りを掻き毟ったような、不快なもの。
まるで両手を血に浸し、扉やノブを弄ったかのような…、そんな風に演出したくて何者かが残した悪趣味な悪戯だろう。
「こ、……これは何の悪戯ですか………。悪趣味な…!」
「………私も、今ここにお伺いして初めて気付きました。後ほど清掃いたします。」
「…お、…大方、趣味の悪い客人の冗談でしょう。……不愉快です、実に不愉快です…!」
このような幼稚かつ不愉快な悪戯を一体誰が!
夏妃は大体の想像がついていたが、どうせ証拠などないし、詰め寄ってものらりくらりで独り相撲になるだろうと思った。
むしろ、こんな悪戯がされていたこと自体、気付きもしなかったという方がかえっていいに違いない。
夏妃は、綺麗に汚れを落としておくようにと改めて命じると、踵を鳴らしながら客間へ向かうのだった。
■客間
夏妃と源次が客間へ行くと、そこにはもう絵羽と秀吉が来ていた。
「………おはようございます、皆さん。」
「おはよう、夏妃さん。朝食も郷田さんが作るっちゅう話やないか。朝から胃袋が大喜びで騒ぎっぱなしなんや。わっはっはっは。」
「本家の楽しみは食事くらいがせいぜいですものねぇ? くすくす。」
「………絵羽さんも、朝からご機嫌がよろしいようで何よりです。」
朝っぱらからの鍔迫り合いに、夏妃はうんざりした表情を返す。
そこへ嘉音が小走りにやって来た。
親族たちの姿に、屋敷内で走ったことの非礼を詫びるように頭を下げると、源次に近付き小声で何かを報告する。
「……嘉音。郷田はまだ見付からないのですか。」
「………申し訳ございません、奥様。お屋敷内もゲストハウスも回ったのですが、…まだ。」
「一体、どこへ行ったというのです。……とりあえず今は郷田より、朝食の準備が先決です。至急、対応しなさい。」
「………はい。」
嘉音はちらりと源次を見る。
…まだ報告すべきことがあるのだが、それを自分の口から言ってもいいものかと、源次に尋ねているように見えた。
…源次は頷き、自分の口から報告することにする。
「…………奥様。郷田だけではありません。…旦那様の姿もありません。」
「主人が?」
「はい。奥様より先に旦那様に朝食の準備がないことをご報告しようと思い、寝室をおうかがいしたのですが、お姿がありませんでした。それから、旦那様だけではありません。……留弗夫さま夫妻と楼座さまのお姿もありません。」
「ゲストハウスにも? 屋敷にもですか?」
「………はい。ゲストハウスのお部屋にもおられません。」
郷田ひとりだけ姿が見えないと聞いた時は、寝坊したのか、どこかで油を売っているのかと思ったが、親族たちも含めての不在だということになると、もう少し楽観的な考え方に変わって来る。
昨夜の親族会議は、下手をすると徹夜となり未だに続いているのではないか。
それで、部屋の空気も澱んできたので、頭を冷やそう等ということになり、この雨の中、ぞろぞろと散歩に出ている可能性も考えられた。
…頭を冷やそう、等という辺りは、実に蔵臼が好んで言いそうな言葉だった。
多分、郷田も何かの世話に呼ばれ同行しているのだろう。
郷田は時間を忘れる男ではない。
もう戻らなければ朝食の準備に差し支えるとわかっているに違いない。
にもかかわらず、抜け出せないような雰囲気で、今この瞬間も会議が続いているのではないか。
……なるほど、それは夏妃にとって、非常に説得力のある想像だった。
夏妃は今朝、目を覚ました時、昨夜がまだ続いているような錯覚に陥ったことを思い出し、…それが決して錯覚ではなかったことを知り、再びうんざりとした溜め息を漏らす。
まだ、金蔵の財産を巡る汚らわしいハゲタカたちの宴が続いているのだから。
「……大方、庭園のどこか、あるいは海岸の方で相も変わらず遺産の話を繰り返しているのでしょう。…とにかく、郷田を呼び戻さなくては、いつまでも朝食の準備が整いません。」
「ってことは何や。…兄さんたちの話し合いはまだ続いとるんか…!」
小声で言ったつもりだったが、夏妃のそれは秀吉に聞かれ、状況を把握されてしまったようだった。
「兄さんも留弗夫もタフねぇ。楼座の場合は若さかしら? ……私たち、昨夜の24時過ぎにはもう眠くてベッドに戻らせてもらったんだけど。確かにあの時点でもまだ兄さんたちは熱論を交わしてたわ。……男って熱くなると嫌ぁねぇ。」
夏妃は無表情のまま鼻で笑う。
「嘉音、表を探してらっしゃい。郷田を見つけたら、すぐに戻って朝食の準備をするよう伝えなさい。」
「……かしこまりました。」
「夏妃姉さん、表とは限らないわよぅ? お父様の書斎ってことはないかしら?」
「…なるほど、考えられん話やないで。どういう話の流れかはわからんが、お父さんの書斎に場所を移して、お父さんにも混じってもらって議論を続けてるっちゅう可能性は充分あるやろ。」
「……そのような汚らわしい話題を好んで、お父様が書斎へ招き入れることなど考えられません。」
「あらぁそう? じゃあ仕方ないわね。源次さんと嘉音くんは申し訳ないけど、外を探してきて頂戴。確かに兄さんなら、頭を冷やすために外を散歩しようなんて言い出しても不思議はないわ。たとえこんな天気でもね。私はお父様の書斎に行って来るわ。ひょっとするとそこにいるかもしれないしねぇ?」
「………………客人である絵羽さんにそこまでのご足労はお掛けできません。私が行ってきます。朝のご挨拶もかねて。」
「あら、じゃあお願いするわね? でも、朝の挨拶を交わしてくれるかは疑わしいわねぇ? 夏妃姉さんって、お父様とは仲、よろしかったかしら?」
「………仲が良いかはわかりかねますが、右代宮家の跡継ぎの妻を許されるだけの信頼を得ていると確信しています。」
「なら、きっと返事くらいはしてくれるわねぇ? お父様とは朝食くらいご一緒したいの。ぜひ降りてきて下さるよう、説得してくれないかしらぁ? ……私たちはすっかり嫌われちゃってるみたいだけど、そこまで信頼を得ている夏妃姉さんの言うことなら、聞いてくれそうですもの。…そこまで啖呵を切って、お父様を説得できず、ひとりで降りてきちゃったりしたら………、信頼を得ているなんて、二度と言えないかもねぇ…? くすくすくす!」
「…………自信はありませんが、努力はします。」
夏妃は憮然として言い返す。
だが、金蔵の気性を知っている以上、書斎から連れ出せる自信はまったくなかった。
…絵羽だって、どうせ連れ出せないだろうと高を括っている。
だからと言って、自分には無理だと引き下がり絵羽に行かせては自分の立つ瀬がない…。
夏妃は、絵羽の意地悪な無理難題に、小さな握り拳を揮わせるのだった。
…その様子に気付いた源次が、肩越しにそっと語りかける。
「……奥様。よろしければ、これをお持ち下さい。」
「それは…?」
源次が、金色に輝く凝った意匠の鍵を夏妃に差し出す。
それは金蔵の書斎の鍵だった。
書斎の扉は常にオートロックで施錠されていて、金蔵が入室を許さない限り開錠されない。
だが、源次だけは金蔵の特別の信頼を得ていて、扉の鍵を持つことが許されていたのである…。
「でも、この鍵を使ったら、あなたも咎めを受けるのではありませんか…。」
「……お館様は、深くお休みになられている時は、扉を叩くくらいではお耳に届かないこともございます。…それに、お館様にお部屋を出ていただくよう説得するには、扉越しでは難しゅうございましょう。ぜひお使い下さい…。」
「……源次…。」
夏妃はこれまで源次のことを、金蔵直属で自分に仕えることはない冷たい使用人と思ってきた。
しかしその認識を、少し改めなければならないようだった…。
感謝の気持ちを伝えたかったが、その時にはもう源次は背を向けて、嘉音と一緒に廊下を歩み去っていた。
…だがそれを見送る夏妃の背中にかけられる言葉は嘲笑的だった。
「じゃあ、お父様を必ず連れてきてね? 息子の可愛い嫁の言うことですもの。きっと聞いてくれるわよ。くすくすくす。私たちは客人だから、ここでのんびりくつろがせてもらうわぁ。」
「よさんか絵羽、口が過ぎるで。すまんが夏妃姉さん、お父さんのこと、よろしく頼むわ…。」
夏妃は返事をせず、踵を強く打ち鳴らしながら足早にその場を去るのだった。
■ゲストハウス・いとこ部屋
あれだけ昨夜、盛大に騒いだのだから、誰も起きられるわけもない。
俺、譲治の兄貴、朱志香の3人はいとこ部屋のベッドで高いびきだった。
だが、それに加わらず、真っ先に就寝していた真里亞は、きっちりさっぱり目を覚ます。
「…………………………………。」
寝惚け眼を擦りながら見渡せば、3人のいとこたちが累々と高いびき。
…真里亞はしばらくの間、どうしたものかと思案しなければならなかった。
それから、自分が母親と一緒でないことに気付いて急に心細くなる。
真里亞は、自分たち親子が泊まることになっていた部屋へ行こうと、いとこ部屋を出て行く。
熟睡する3人などお構いなしに、バタンと大きな音を立てて。
その音に反応して、戦人はむにゃむにゃと寝返りを打ったが、目を覚ますほどではなかった。
しばらくすると、真里亞は再びバタンと賑やかな音を立てて扉を開き、戻ってきた。
「………………うー。」
出て行った時は眠そうな顔だったが、戻ってきた時は不満そうな顔だった。
そして、手近にいた戦人のベッドに這い上がり、トランポリンのように飛び跳ねて大騒ぎし出す。
「うーうーうー!!おーきーてー!!うーうーうー!!」
「おわぁッ、何だ何だぁッ?! 敵襲かぁ?! 回せーー!!」
俺が起きたのを確認すると、真里亞は次は譲治の兄貴のベッドに飛び移り同じことをする。
…そんな調子で、俺たち3人は非常に快適な朝の目覚めを振舞われたのだった。
「ありがとう真里亞ちゃん、起こしてくれたんだね。僕たちは昨夜が遅かったから寝坊しちゃったのを起こしてくれたんだね…。…でも、もう少しだけ起こし方をやさしくしてくれると完璧だったかな…。」
「…譲治兄さんは本当に大人だよ、尊敬するぜ…。」
「もうすぐ7時なんだな…。まぁ確かにもう起きてもいい頃だぜ。ふわぁあぁ。」
「うー! ママがいないー! うーうーうー!」
「楼座叔母さんが? 部屋にいなかったの? もう起きてお屋敷の方に行っちゃったのかな。」
「いーなーいー!! うーうー! うー! マーマー! うーうーうー!!」
真里亞は不愉快そうに、うーうー唸り続ける。
母の姿が見えなくて寂しいというよりは、いると思っていた場所にいなかったので、肩透かしが不愉快だったという風に見えた。
今どこにいると一言教えてあげられればそれで納得してくれるのかもしれないが、生憎、楼座叔母さんがどこにいるのか、ここにいる以上わかりようもなかった。
「どうせ、朝食に行くことになるんだし、屋敷の方に行こうぜ。」
「そうだなぁ。真里亞、一緒に屋敷へ行こうぜ? きっと楼座叔母さんもそこさぁ。」
「うー? ママはお屋敷? なら行く。うー。」
「そうだね、お屋敷に行こうか。多分、親たちはもう向こうに行ってるんだよ。」
真里亞の直前までの癇癪は嘘のように収まり、いつもの冷静を取り戻してくれた。
俺たちは身支度を整えると、部屋を出て、屋敷へ向かうのだった。
■金蔵の書斎
書斎の扉を再び叩く。しかし返事はなかった。
…まだお休みなようなので、起こせなかった、…等といって下に戻れば、絵羽はさぞや鬼の首を取ったように面白がるだろう。
それに、絵羽の話は抜きにしても、年に一度の親族会議を、昨日丸々引き篭もり、未だ挨拶さえしていないというのには問題があった。
…たとえ当主であっても、いや、当主だからこそ、姿を現さないわけにはいかないのだ。
…自分に説得できるだろうか。
夏妃は意を決し、源次に借りた鍵を挿し込んで、扉を開ける…。
細く開いた扉から、むわっと溢れ出して来る脳を蝕むような甘い臭いは、覚悟があっても顔をしかめずにはいられないものだった。
まだ休んでいるかもしれないと思い、夏妃は音をさせないよう静かに入室する…。
すると、金蔵はすでに起きていて、窓から外を見下ろしているところだった。
「お、……お目覚めでしたか…。おはようございます…。」
「………………どうやって入ったのか。」
金蔵は背を向けたまま聞いた。
その声が激昂したものではなく、落ち着いたものだったので、夏妃は少しだけほっとした。
…だが、起きていたにもかかわらず、あれだけ叩いたノックを無視する程度には不機嫌なのだ。
夏妃は緊張を解くことはできなかった。
「……申し訳ございませんでした。源次さんにお願いして、書斎の鍵をお借りさせていただきました…。」
「ほぅ…。源次がか。………我が友がそれに足ると思ったならば、話を聞かぬわけにも行くまい。して、…私に何用か。」
「は、はい…。………もうじき朝食の準備が整いますが、ぜひ、お父様にもお出でいただきたく思いまして…。」
「朝食はここで取る。いつものように運ばせるがいい。」
「しかし、お父様…。年に一度の親族会議です。せめてお顔をお見せになってください。」
「………下に降りて。私の死後、遺産をどのように食い千切るのかを決める議論に加われというのか。馬鹿らしい。………そのような話は私を抜きで好きに進めるがいい。そしてそれが親族会議だというなら、私がこの部屋を出るほどの価値はない。私は忙しいのだ。構うでない。」
最後の一言には、これ以上の問答は無用だという凄みが込められていた。
…夏妃は、これ以上の言葉を重ねれば、今度こそ逆鱗に触れることになると感じ取った。
絵羽に、やはり説得できなかったかと嫌味を言われるのは癪だが、これ以上はどうしようもない…。
「………そうですか……。…わかりました……。みんな残念がるでしょうが、そう伝えます。」
夏妃は諦めることにする。
黙礼し、金蔵が発作的な激昂を起こす前に退室しようとした。
すると、そんな夏妃に金蔵が声を掛けた。
……普段の金蔵を思えば、まるで別人のように落ち着いた、やさしい声だった。
「……夏妃。…右代宮の家に嫁ぎもうずいぶんになるな。」
「は、……はい。…右代宮を名乗ることを許されてから、もうずいぶんになります。」
「……前の家が恋しくなることもあるか。」
「……………いえ。…嫁ぐとは生家を捨てることです。私は右代宮夏妃。帰る家も懐かしむ家も、全てはこの右代宮の家のみです。」
それは決して誇張ではない。
夏妃はそれだけの決意を持って右代宮の姓を名乗っている。
……だからこそ、それが夫にすら認められず空回りするのが、あまりに悲しいのだ。
「………蔵臼が女で、…お前がその夫であったなら。…………いや、…それは言うまい。」
「そ、……それはどういう意味ですか、…お父様。」
夏妃はどきりとする。
……今の金蔵の言葉が、もし言葉通りの意味だったなら…。
………それは今の夏妃にとって、今日までの苦難を報って余りある言葉だったからだ。
「……………忘れよ。年寄りの戯言だ。」
金蔵は再び背を向ける。
…忘れよとは言われたが、夏妃は胸の中が温かくなるのを感じずにはいられなかった…。
「…お父様。…………この夏妃は、血は繋がらずともお父様の娘です。………右代宮家の名誉も栄光も、…そしてお父様が残された物も全て、…この夏妃が必ずや守って見せますから……!」
「………………お前に片翼の鷲をまとう資格はない。…しかし、お前の心には確かに片翼の鷲が刻まれている。………ならばお前は間違いなく我が血族で、右代宮家の栄光を引き継ぐ者だ。…………お前の衣服に鷲がないことを嘲笑う者もいよう。しかしそれに耳を貸すことはない。…心に鷲を持つ者だけが、真の私の血族なのだ。…………お前を右代宮家に迎えられたことを、今は光栄に思っている…。」
金蔵はそれ以上は何も言わず、夏妃に背を向けたままだった。
だが、夏妃は子供の頃以来、忘れて久しい、熱い何かが目元にこみ上げてくるのを感じずにはいられなかった…。
夏妃はその背中に黙礼し、部屋を後にした…。
■書斎前
「…あら、ちょうどいいタイミングだったわねぇ。お父様の様子はどう? あんまり遅いから、様子を見に来ちゃったのよぅ?」
書斎を出ると、絵羽が階段を上がってくるのが見えて目が合った。
絵羽は、金蔵を説得できずとぼとぼとひとりで夏妃が出てきたと思っており、嫌らしくにやにや笑っていた。
しかし、今の夏妃にはそのような軽薄な笑いは侮蔑になりはしなかった。
……彼女は衣服に家紋を刻むことは許されなかった。
………しかし、心に刻むことは許されたのだから。
だから平然と、涼やかと、…そして、右代宮本家の栄光を守る者の威厳で堂々と言ってやった。
「お父様は親族会議にはおいでにならないそうです。汚らわしい議題に関心はないと仰せです。」
「…とか何とか言っちゃってぇ。お父様を説得できなかったんなら、素直にそう言えばいいじゃなぁい。」
「……哀れですね。お父様が嘆かれるお気持ちもわかろうというものです。」
「な、……それはどういう意味よ…。」
夏妃は応えない。
さっき金蔵が見せていたように、堂々とした背中を見せながら階段を下りていく。
絵羽は自分が馬鹿にされたことと、何があったのか知らないが、急に夏妃が自信満々になったことを理解するのがやっとだった。
それでも、金蔵の逆鱗に触れる勇気はないのだろう。
その扉を叩くこともできず、舌打ちして、扉を引っ掻くような仕草をしてから夏妃の後を追うしかなかった。
「そ、それで、兄さんたちはいたの? お父様に聞いたのぅ?」
「……聞きそびれましたが、書斎の中にはいませんでした。…お父様が、夫たちの下賎な話のために入室を許すこともありえませんから、行き先を知ることもないでしょう。下に降りて、使用人たちが探してくれるのを待ちましょう。…朝食は遅れますが、お茶でもいかがです、絵羽さん?」
「……べ、…別に結構よ。」
絵羽は、夏妃の様子が、行きと帰りでまったく違うことに戸惑いを隠せなかった。
…堂々としていて、悔しいが何らかの貫禄さえある。
特に揚げ足も取れず、夏妃に従って客間に戻るしかなかった。
■客間
夏妃たちが客間に戻ると、秀吉だけでなく、子どもたち4人と南條も合流していた。
秀吉と話をしていた源次は、夏妃が戻ってきたことに気付くと現状を報告してくれた。
「主人たちはまだ見付からないのですか。」
「……はい、申し訳ございません。……あと、熊沢が朝食の準備に入りました。もう少し時間をいただきたいとのことです。」
時計を見れば、午前8時を過ぎたところだった。
本当なら8時が朝食の時間だ。
それをオーバーしてしまった時点でホストとしては、本来なら失態だ。
「……今、嘉音が表を探しています。…それから、紗音の姿も見えません。」
「紗音まで? ………まったく、主人は何人を従えて散歩に出掛けたのですか。」
一体、何人の姿が見えないというのか。
ここまで盛大な人数だと、まるで自分たちだけが何か面白いことの除け者にされたようで実に不愉快だった。
どうも、子どもたちも、いや、特に真里亞も同じ気持ちらしい。
母親たちが自分を除け者にしてどこかでこっそり美味しい物を食べているに違いないと、腹の虫を鳴かせながら憤慨している。
その不機嫌を直そうと、他の子どもたちはテレビのチャンネルを次々替え、真里亞が興味を持ちそうな番組を探すのだった。
南條は、そんな子どもたちの様子を幸福そうに眺めながら、ソファーで本を読んでいた。
チェスに関する本に違いない。
ぱたぱたと駆けてくる足音がする。
それはひとり分の音だったので、姿を現す前から蔵臼たちでなく、嘉音だろうと察することができた。
「…………奥様、失礼します。」
「その様子では見つけられなかったようですね。」
「…申し訳ございません。まだ…、」
「もう充分です。ご苦労をかけました。」
どこにいるか知らないが、どうせこの島のどこかにいる。
昨夜から何も口にしていないなら、今頃お腹が鳴り出している頃だ。
向こうからのこのこと帰ってくるに違いない。
…もう夏妃は呆れ果て、無理に彼らを探し出す必要性はないと考えるようになっていた。
「私はお客様方にお茶のご用意をしに厨房へ行きます。二人とも早朝からご苦労様でした。」
夏妃は、緊張が解けたら頭痛が押し寄せてきたというような仕草をしながら、客間を出て行った。
…その背中に嘉音は声を掛けようとするが、夏妃はさっさと行ってしまうのだった。
「…………どうした? まだ何かあるのか?」
「………はい。…旦那様方のお姿を見つけることはできませんでしたが、………その。」
嘉音の歯切れが悪い。
彼らの行方は依然わからないが、それと関係するかもしれない何かを見つけたという感じだった。
そのやりとりに気付き、絵羽と秀吉もやって来た。
嘉音の、どこか様子のおかしいところに気付いているのだろう。
「どうしたんや嘉音くん。蔵臼兄さんたちは見付かったんか?」
「……実は…。薔薇庭園の倉庫の様子がおかしいのです。」
「……………様子がおかしい、…というのはどういう意味だ?」
「……それが、その、………何と説明すればいいのか…。」
嘉音は再び言いよどむ。
…普段の物怖じしない彼とは到底思えない言い方だった。
その様子に、絵羽と秀吉も小首を傾げ合う…。
「どういうこと? 倉庫の中に兄さんたちがいたんじゃないの?」
「いえ、…中はこれから調べます。その鍵を取りに戻ったところなのですが…。……その…。」
「よぅわからんが、とにかく中を調べればいいだけの話やないか。その倉庫の鍵はどこにあるんや?」
「………使用人室にあります。すぐに中を確かめましょう。」
嘉音が使用人室へ駆けていき、鍵を取ってくる。
源次は、確かめてくると言い残して客間を出るが、絵羽と秀吉もそれに付いていった。
…普段、物怖じしない性格である嘉音が言いよどむ“倉庫の様子がおかしい”とは何事なのか。
表は相変わらずの大雨だったが、それより嘉音にそう言わしめる“何か”に対する好奇心の方が勝っていたのだろう。
子どもたちがテレビを見て騒いでいる間に、嘉音たちは玄関へ駆けていくのだった…。
■薔薇庭園〜そして倉庫前
薔薇庭園の倉庫は、庭園管理用の様々な園芸道具をしまっているところだった。
決して綺麗な建物ではない。
そのため美観的な都合から、薔薇庭園の隅に隠れるように建てられていた。
傘を差した4人が薔薇庭園を、嘉音、源次、絵羽、秀吉の順で駆け抜けていく。
薔薇庭園を抜け、普通に薔薇を鑑賞する人は立ち入らない管理用の小道に入っていく。
それをさらに駆け抜けていくと、前方に倉庫が見えてくるのだった。
それはだいぶ古くなった倉庫小屋で、完全無欠な美しさを誇る薔薇庭園と比べると、あまりに貧相しいもので、なるほど、目に付かないような場所にしてあるのも納得できた。
嘉音たちにだいぶ遅れて、絵羽と秀吉も到着する。
「はぁ…、はぁ…。嘉音くんたちは速いなぁ…! わしは心臓が爆発しそうや…。」
「こんなところに倉庫なんか建ててたのねぇ。………ってッ、…な、……何よそれ…。」
嘉音が指差す先を見て、絵羽が絶句する。
それに気付き、秀吉も嘉音の指の先を見て同様に絶句した。
倉庫の入り口はシャッターになっていた。……そこに、………。
……嘉音が、自分の見たものを言葉で形容できなかったことを、今こそその場の全員が納得するほかなかった。
長いこと風雨に晒され汚れきったシャッターに、……べったりと。
……不気味な赤黒い…、液体? 粘液? あるいはネバつく塗料のようなものなのか…。…そんな不気味な何かで、口で形容できない不気味な図形が描かれていた。
それは雨のせいで、まるで傷口から鮮血を零すかのように何本も垂れ落ちていた…。
もう言葉は選ばない。
……血をイメージさせる赤黒い不気味な何かで、……不気味な何かを暗示させるような図形、マークのようなものが描いてあるのだ。
…二重の円が描かれ、その内側には十字をイメージさせる意匠が描かれていた。
十字は上下左右の辺が広く誇張されていて、ヨーロッパ辺りの何かの紋章を思わせた。
そしてそれら図形の隙間には、得体の知れない文字、あるいは記号のようなものがびっしり細かく、書き込まれていた……。
「………なんちゅぅ悪趣味な落書きや…。……これ、あれか? 悪魔の儀式とかの、魔法陣ゆうやつとちゃうか?!」
真っ赤な何かで滴り落ちるように描かれた不気味な図形を指し、秀吉がそう例えたとしても無理はなかった。
「これ、いつ書かれたの…?!」
「……昨日、雨が降り出す前にここに来ましたが、その時には何も書かれてませんでした。」
「…………他の方々の目に触れる前に何とかしよう。ご覧になられたら、ご不快になられるだろう……。」
「そうね…。ただの倉庫小屋とはいえ、こんな気持ち悪い落書きを一秒たりとも放置したくないわ。」
「倉庫の中に塗料もあります。応急処置で取り合えず塗り消して、後日、天気のいい日に改めて塗装しましょう。…………………………。」
源次は、これと同じ色の、赤黒い不気味な何かで落書きされているのを、ついさっき見たことを思い出す…。
………それは確か…、………そう、夏妃の部屋の扉で見た…。
「嘉音くん。さっさとこの落書きを消して戻りましょ? たとえ倉庫とは言え、実家の落書きは本当に腹立たしいわ。」
「……はい。すぐに済ませますので…。」
嘉音はシャッター前にしゃがみ込み鍵を開ける。
そして力を込めて一気に引き上げた。
騒々しい音が響き渡り、不気味な図形を描いたシャッターが上部の収納部分に飲み込まれていく。
…仮とはいえ、不吉なものが眼前から消えて、一同はほっと胸を撫で下ろす…。
■客間
子ども向けの番組にめぐり合えたお陰で、真里亞はすっかり機嫌を直していた。
戦人や朱志香は、幼児番組にいちいちツッコミを入れてはケタケタ笑っている。
譲治は真里亞の目線で、一緒に番組を楽しんでいるのだった。
南條は離れたソファーに座り、静かに読書で時間を潰していた。
廊下から慌しい足音が聞こえてくる。
それは一人分の足音だった。
…ということは、さっき出て行った嘉音たち4人ではないのだろうか?
戻ってきたのは源次だった。
息を切らすことすら使用人の美徳に反すると考える源次が、ぜいぜいと肩で息をしているのはとても珍しいことだった。
おそらく、表から駆け戻ってきたのだろう。
肩はぐっしょり濡れていて、いつものスマートな源次の雰囲気ではなかった。
源次は、南條と目が合ったことに気付くと、軽く黙礼してから早足に近付いてきた。
「………南條先生、申し訳ございません。至急お越しください。」
「な、………何事ですかな。」
源次が南條の耳元で何かを小声で伝えると、南條の顔色が変わった。
テレビに夢中な子どもたちに気取られないようにソファーを立つと、二人で足音を殺しながら早足に客間を出て行く。
ちょうど客間を出るところで、配膳台車にお茶の道具を積んだ夏妃と出くわした。
源次が夏妃に小声で何かを伝えると、夏妃もまた顔色を変えて驚愕した。
…そして配膳台車を放ったらかしにして、3人で玄関に向かって駆けていく…。
彼らが薔薇庭園を駆けて行くのを、窓越しに譲治が気付く。
「……何だろう。源次さんと南條先生と、……あれは夏妃伯母さんかな。」
「どうしたんだよ、兄貴。」
「………何かあったのかな。ひどい慌てようだったね。」
朱志香と真里亞も、いつの間にか絵羽と秀吉と南條が席を外していて、客間の出入り口外に配膳台車が置き去りにされているのを見て、何かがあったことを感じ取った。
「何か事故でもあったとか…?」
「…行ってみようぜ。俺たちだけ除け者なんて面白くねぇしなぁ? いっひっひ!」
戦人のその一言は、なぜか非常に不謹慎に聞こえた。
…だが、大人たちがこの雨の中を形振り構わず走っていく様子に、不安感と関心を持ったことを否定できなかった。
「……行ってみようぜ? 何があったか気になるぜ…。」
強がらない朱志香のその一言は全員の胸中を代弁していた。
「おい真里亞、お前も来るか? それともテレビを見てるか?」
「うー! 真里亞はテレビがいい! うーー。」
「僕たちだけで行こう。真里亞ちゃん、すぐ戻るからね。テレビを見て待ってるんだよ。」
「うー!」
子どもたちが外へ出た時は、先に出て行った大人たちの姿は見えなくなっていた。
でも、朱志香には駆けて行った方向から大よその目安が付いているようだった。
朱志香に先導され、雨に濡れる薔薇庭園を駆け抜けていく…。
風が急に強くなった気がした。
…意地悪な雷鳴がまた昨夜のように騒ぎ出す。
まるで、島を包む不気味な何かが、自分たちをこの先へ行かせまいとしているかのような、そんな感じだった。
「朱志香、この先には何があるんだ?!」
「確か、園芸道具なんかの倉庫があったはずだぜ。」
「そんなところに、一体何があるんだろうね…。」
向こうに朱志香の言うとおりの倉庫が見えてくる。
そこには、大人たちの姿があった。
倉庫のシャッターは開き、数人の大人たちが物色しているように見える。
なぜか夏妃だけは倉庫の外にいて、傘も差さずに彼らに背を向けて俯くような仕草をしていた…。
さっき出て行った源次や南條、夏妃。
先に出ていた嘉音と絵羽、秀吉の姿もあり、大勢の人影があったが、まったく賑やかさはなかった。
子どもたちがやってくるのに夏妃が気付くと、ものすごい形相を浮かべながら、両手を広げてこちらへ駆けて来た。
「来てはいけませんッ!!! お屋敷へ戻っていなさい!!」……でも、…いや、だからこそ、子どもたちは夏妃が遠ざけようとするその光景を見てしまう。
シャッターの開け放たれた倉庫内は、頼りない蛍光灯で照らし出されていた。そこには、……、
「きゃああぁあああぁぁぁああぁあぁッ!!!」
朱志香の絹を裂くような悲鳴が響き渡る。
…しかしそれは、朱志香の悲鳴が一番大きかったというだけのことで、…戦人の口からも、譲治の口からも等しく零れたものだった…。
絵羽も夏妃同様に両手を広げながら、ものすごい形相で子どもたちに怒鳴りつける。
「譲治ッ、みんなを連れて屋敷に帰っていなさい!!! 早くッ!! 今すぐに!!」
夏妃が両手を広げた時、それはこれ以上先に進ませないためのものだと思った。
…しかし、今、絵羽が両手を広げているのはそのためではない。
…そこにある惨状を子どもたちに見せないためのもの。
その惨状を、せめて自分の腕一本分でも視界を遮って、子どもたちの瞳と心を庇おうという母の心!
「……何の冗談だってんだよ、こりゃあよぉ…ッ?!」
…こんな安っぽい光景、今日まで散々見てきた。
漫画やテレビ、アニメに映画、いくらでも腐るほど見てきたぜ…。
ただ、そういうちょいと刺激的な映像が、現実に目の前に現れたってぇだけのことじゃねぇか…ッ!! それだけのことで、…あぁあぁ、でもあの、スーツは、…うちのクソ親父のなんだよな…? …わかってるよ、そいつは蔵臼伯父さんだ…。霧江さんにッ、楼座叔母さんにッ、うおおおおおぉおおおぉぉおおおッッ!!!
「父さんッ、お父さん!!!」
「駄目よ朱志香!! 入っては駄目ッ!! 見ては駄目!!!」
「お父さんお父さんッ!!ひぃいいいぃやああぁあぁああッ!!!」
「………死後硬直をほぼ全身に認められる…。……多分、死後6時間以上は経過しとるだろう…。損壊部位の状況を見る限り、死後に破壊された可能性が高い…。……いや、滅多なことは言えん…! 私は町医者だ、検死は専門外だ…!」
「……ちゅうことは何や。殺しただけじゃ飽き足らず、…さらにこんな無体なことをしたんゆうんか!! 悪魔や、悪魔の所業やッ!!」
夏妃伯母さんは朱志香を、絵羽伯母さんは譲治の兄貴を抱きとめていたので、……俺だけが倉庫の入り口までやってくることができた。
…………あぁ、…俺にも、抱きとめて引き止めてくれる人がいりゃあ、……こんな最低最悪な光景を、目に焼き付けずに済んだだろうよ…。
……いや、そいつは違う。
…俺を抱きとめてくれる人がいないからここにいるんじゃなくて、抱きとめてくれる人が、そこにいるから、ここにいるんじゃねぇかッ!!
…朱志香の言うとおり、そこは確かに園芸道具をしまっておく倉庫のようだった。
草刈機やその替え刃、草刈鎌や金槌、鋸などと大工道具…。
積み重ねられた植木鉢や肥料の袋。
それらと同じ扱いのように、何人もの死体が寝かされていた。いや、放り込まれていた!
服装でわかる。
……ウチのクソ親父に、霧江さん。…蔵臼伯父さんに楼座叔母さん。……向こうは、…郷田さんに、…まだいるのか? 何人死んでんだよ…。……ふざけんなよ、片手じゃ折る指が足りねぇぞ、畜生ぉおおおおぉッ!!!
ここにある、用途以外に用いたなら残忍性を剥き出しにするに違いない園芸道具を使用したのか、それとも他所からその為だけに残酷な道具を持ち込んだのかはわからない。
……とにかく、………ここに転がっている遺体は、どれも惨い化粧が施されていた。
…化粧じゃねぇよ、…こいつは…、“顔面を耕す”って表現の方が相応しいだろ…!
顔面は粉砕され、真っ当な人間なら例え死後でも浮かべられないような表情を作らされている。…目の位置も鼻の位置もわからねぇ、口はわかるぜ、歯茎が剥き出しになってて口をぽっかりと開けているから! でも、前歯は飛んでるし、そもそもそれを覆う頬っぺただってぐちゃぐちゃで剥き出しで! 男のくせにやたら気遣ってたお洒落化粧も何の役にも立っちゃいない…!!
「…うおおおぉおおおおおぉおぉおぉぉ!!!親父ぃいいぃ!! てめぇは絶対地獄行きだとは思ってたぜッ?! でもよ、ここまでじゃねぇだろ? ここまで惨ぇ目に遭わされるほどの悪党じゃなかっただろうがよッ!! だから霧江さんもさぁ、……こんな男と付き合うのはやめろって言ったんだ…。…あんたまで、……そこまでの目に遭わされる理由は何もねぇじゃねぇかよ……。…顔がねぇ…、顔がねぇよ…。くそくそくそくそッ、ひぃいいいいいぃいいいぃッ!!!」
「……戦人さん、これ以上を見てはいかん…。こんな姿を、お父さんもお母さんもあんたに見せたいわけがない…! お父さんとお母さんのためにも、…これ以上を見てはいかん!!」
「死者ってのは安らかに眠る顔ってやつを拝ませてくれるんじゃねぇのかよ?! 顔がねぇんだよ、俺の親父と、霧江さんの顔がねぇんだよッ!!どういう顔して死んじまったのか、…それすらもわからねぇんだよ!! 何だよ俺はッ!!親父たちのことを思い出す時は、このぐちゃぐちゃの化け物みてぇな顔をいつも思い出せってのかよ?!そいつぁ最高だぜ、クソ親父のにやにやとした顔を思い出さなくていいんだからよぉ、最高だぜ最高だぜ!!でもよ、霧江さんの顔くらいはいいだろ…? 霧江さんは悪党じゃねぇ…。たまにはムカつくと思ったけどよ…、ちょいとカッコいい俺の姉貴分だったお人じゃねぇかよ……。……こりゃねぇよ…、こんなのってねぇよ……!! 蔵臼伯父さんなんかまだマシじゃねぇか!! 顔面じゃなくて側面だぜ?! 少なくとも顔半分は残ってるじゃねぇかよ!! まだマシだぜまだマシだぜ!!」
「いやああぁあああああああああぁああああああぁああああああぁああああああぁああぁあぁッ!!!」
俺の暴言を耳に入れまいと、朱志香は自らの悲鳴で自らの耳を満たす。
「…よすんだ、戦人くん…! もうよすんだ…もうよすんだ……!」
「兄貴、兄貴ぃッ!! うおおおおおおぉおおおぉおぉ!!!」
俺は歳甲斐とか形振りとか、そんなの全然関係なく、……膝を落としながら、兄貴の胴にしがみ付いてわんわんと泣いた。
それはまるで、その場に居合わせた全員の泣き声を俺が代弁したかのよう…。
俺は全員分の気持ちを代表して、いつまでも泣き喚くのだった……。
「……………お父さん…。………死、………倒れているのは、蔵臼伯父さん、留弗夫叔父さん、霧江叔母さんに、楼座叔母さん、郷田さんで、……………5人…?」
「…………いや。……6人や。……ここに、…もう1人おる…。」
秀吉が今、見下ろしているその遺体は、…たまたま荷物の山奥の物陰で、入り口の譲治からは死角だった。
…だから、それが誰の遺体か、…譲治にはわからない……。
…だから、………譲治は我が身を呪う。
いつも……、最悪の想像だけは当たってしまう我が身を呪う…!
「…じゃあ、……お父さんの足元に倒れているのは、………しゃ、…紗音なんだね………。」
「………あぁ。……紗音ちゃんや。」
「…………………。」
譲治は沈黙する。
……下唇を噛みながら、小さく震える…。
本当なら、…彼は泣き叫びながら愛する彼女の遺体に駆け寄りたかった。
…だが、………軽率に駆け寄る前に、……彼は冷静さを振り絞って、父に聞いた。
「……紗音も、………蔵臼伯父さんたちと、…………同じなのかな。」
「……………………………。」
秀吉は、その言葉の意味を深く理解する。
…だから即答できなかった。
……いや、……これが今の譲治にとって、誠意と慈しみのある唯一の返事だと思った。
譲治の聞いた、同じかな、というのは、…同じような遺体なのか、という意味だ。
……それを秀吉が否定しなかった以上、
………同じような惨い遺体なのだ。
「…………紗音を、……見てもいいかな………。」
「…………………いや、………あかん。」
「……どうして…? だって、……もう二度と紗音の顔を見られないんだよ…? その、……最後の顔を、……どうして見たらいけないんだよ……。」
「……お前が最後に紗音ちゃんに会ったのは昨日か?」
「………うん。」
「そうか…。…………その紗音ちゃんは、別れ際に、お前にどんな顔を見せたんや…。」
「……………………………、素敵な笑顔だったよ。」
指輪を渡して、……心は決まっていたはずなのに戸惑って、はにかんで、…そんな表情を見せるのが照れくさくなって逃げ出してしまった、…あの表情が蘇る…。
「…………そうか。……なら、紗音ちゃんも、……その笑顔をお前に残したいと願うはずや。」
…秀吉は、足元の紗音の遺体を見下ろす。
………それは、他の遺体と同じような目を覆いたくなるような惨状。
……頭部を側面から砕かれ、表情は半分しか残っていなかった。
………血で真っ赤に染まったその半分の表情は、綺麗に拭いてあげたなら、あのお淑やかな笑顔をそこに覗かせてくれるのだろうか。………半分だけ……。
秀吉は思わず自分の目を叩くように覆う。
……何という惨さ…。
どうせ砕くなら、全部砕いてくれたなら、これは紗音の服を着た別の誰かなどという苦しい言い訳で、一時、譲治の心をごまかすこともできただろう。
なのに、半分、顔が残してある…!
これほどの屈辱を遺体に与え、……しかもこの遺体が紗音以外の何者でもないという事実をはっきり残している! 何という非道、何という外道…。
そんな秀吉の足元には、そんな紗音の半分だけ残された表情を、必死に目に焼き付けようとしている嘉音の姿があった。
……嘉音は泣いていなかった。
…涙を浮かべてはいたが、零してはいなかった。
だからといってそれが、誰よりも悲しんでいないということにはならない。
……同じ孤児院で生活し、姉と慕った紗音を失うことは、肉親を失うこととまったく同じに違いない…。
「…………譲治。……紗音ちゃんはきっと、ありがとう、言うてるぞ…。お前に、恥ずかしいところを見られとうなかったんや。………きっと、……お前が堪えてくれたこと、感謝しとるで…。」
「……わかってる。………わかってるよ父さん、……わかってるよ……。」
譲治は倉庫の外の壁に寄りかかり、…力なくへたり込む。
「………父さん。……頼みがあるんだ。」
「何や……。」
「……僕の代わりに見て欲しいんだ。……………紗音は指に、………指輪を付けてるかな…。」
「…指輪……? ……ちょいと見てみる…。」
秀吉がしゃがみ込む。
…すると嘉音が、すっと紗音の一方の手を指差す。
「…………あぁ、……あるで。こりゃ、ダイヤの指輪や。屑ダイヤとちゃう。…なかなかの値打ち物や…。」
「それは、………………どっちの手の、どの指にあるのかな。」
「……っと、左手の薬指や。……そっか、…紗音ちゃん、…婚約しとったんか…。」
「……………譲治…。……あなた、まさか、」
「絵羽ッ!! 今はそんなん関係ないで!! 紗音ちゃんは男に将来を約束されとったんや…! 一生を幸せにしちゃると男に言わせたんや…。それが誰かは問題とちゃうで! 男にそこまで言わしめて…、……女の本懐やないか…。…いつこの指輪をもらったんかは知らん。誰が渡したかも知らん! だが、………それでも紗音ちゃんは指輪をもらえたんや。そして、…それを受け容れ、左の薬指に通したんや。…指輪を贈った男も、…きっと喜んだんとちゃうか。」
その場にいた多くの者は、秀吉が異常事態に混乱して妙なことを口走っているくらいにしか思わなかっただろう。
………でも、……本当の意味で、譲治と紗音の仲を知る者だったなら、……その言葉は全て理解できた。
「…………そっか。………ありがとう、…………父さん。」
譲治は立ち上がる。
涙の跡はまだ残っていたが、表情はいつもの落ち着きを取り戻していた…。
「……行こう。戦人くん、朱志香ちゃん。……これ以上、僕たちがここにいると、大人の邪魔になる。」
「…………ぐす。………そうだな…。」
朱志香は一度鼻をすすり、ずっと自分を抱きしめていてくれた母に、もう大丈夫だという顔を見せる。
…それから譲治に向き直った時には、もういつもの顔だった。
……笑顔は取り戻せなかったけれども。
「……戦人…。しっかり………。」
戦人は、ずっとずっと、両親の遺体の前にしゃがみ込んでいた…。
「……………………すまねぇな。…がっつり泣いたら落ち着いたぜ…。親父の野郎、…普段はクソクソ言ってるくせに、ちょっと死んじまったくらいでピーピー泣くんじゃねーぜって笑ってやがらぁ。……仕方ねぇだろ…、親が死んだら泣くように遺伝子刷り込まれてちまってんだからよぅ…!」
戦人も涙の跡を真っ赤に残していたが、苦笑いだとしても、…笑っているふりをできるくらいには立ち直り始めていた。
「……嘉音。…お前もこれ以上ここにいてはいけません。子どもたちを連れてお屋敷に戻っていなさい。」
夏妃は、倉庫に踏み入ることもできず、ずっと雨に打たれていた。…戦人とは違う、彼女なりの、…悲しみ方があったのかもしれない。
夫亡き後、自分が責任感を持たなければならないことを自覚し、……彼女は、嘉音にそう命じた。
「……………はい。奥様。」
嘉音はすっと立ち上がり、こちらを振り返る。
……まるで、紗音と一緒に自分の心も殺されてしまったかのような、…真っ白い顔、……生気を感じられない表情だった。
平凡な日常の中で、美しい薔薇庭園を案内しなさいと言われれば、嘉音は先陣を切って子どもたちを案内もしたかもしれない。
……しかし今は、子どもたちと嘉音の区別はない。
…近しい者を亡くし傷心する…、歳の近い子どもたちでしかなかった。
子どもたちが帰っていくのを見届けてから、夏妃は源次に指示する。
「………源次。…すぐに警察に連絡しなさい。台風が通り過ぎるまでは来られないでしょうが、どうすればいいか指示を与えてくれるはずです。」
「……わかりました。防災用の無線機がありますのでそれで連絡します。」
それを聞いて夏妃は思い出す。
そうだ、今日は電話が故障しているんだっけ…。
しかし、離島での生活は電話機のトラブルも想定していて、無線機も備えていた。
……とにかく、警察に連絡して指示を仰ごう。…全てはそれからだった。
「………南條先生。………もうこの場は、どうしようもありませんか?」
「残念ながら…。………私には何もできませんな………。」
「…………わかりました。…源次、せめて主人たちの顔を何かで覆ってやることはできませんか。このような姿を晒すことは、当人にとっても屈辱的でしょうから…。」
「………はい。」
源次が、倉庫内に干してあった手ぬぐいを数枚、手に取ると、絵羽が甲高い声でそれを制した。
「ちょっとちょっと! お待ちなさいよ。ここは犯行現場なんでしょ? なら変に手を加えちゃ駄目よ。私たちは混乱してて現場に土足で踏み入っちゃったけど、それはきっと警察の捜査の邪魔になったわよぅ?」
「……………………。」
夏妃はむっとした表情で絵羽を睨む。
……客観的には絵羽の言うとおりだ。
しかし、このような無惨な骸を残し、死してなお辱めを受けている彼らに、顔を隠してやる程度の施しさえさせないつもりかと、せめて睨みつけて抗議する。
……しかし、絵羽の言うそれは極めて冷静で正しかった。
この凄惨な状況は断じて事故などではない。
事件だ。……何者かが、彼らを殺した。殺人事件なのだ。
だったら、この場をこれ以上荒らすことは慎むべきなのだ…。
少しでも警察に協力し、憎むべき犯人を見つけ出す手掛かりを引き継がなければならない。
「…………私も絵羽さんに賛成ですな。…警察が来るまで、ここは手付けずにしておくべきです…。」
「……奥様、いかがなさいますか。」
「……………そうですね。…わかりました。ここを閉ざしなさい。…それから、念のため、ここに別の施錠をするように。」
「……別の施錠?」
「えぇ。……ここに来た時、シャッターの鍵は閉じていました。…ということは、シャッターの鍵を使い、犯人が施錠したということです。」
「た、……確かに道理や。じゃあ、ここを開けた鍵に犯人の指紋が残ってるんとちゃうんか?!」
「……警察に証拠として提出する価値はあるでしょうけど、嘉音くんが普通に持って、ここを開けるのに使用しちゃったわ。多分、嘉音くんの指紋も付着しちゃってるわよ。そしてその鍵はさっき、源次さんに手渡され、源次さんも素手で受け取ってる。…大した証拠にはなりそうにないわねぇ。」
「………それは無用心でした。…申し訳ございません…。」
「源次さん。この倉庫の鍵は他にもあるんか?」
「……いいえ。この1つだけです。」
「ということは、犯人はその鍵を使用人室から持ち出し、…そして律儀に、元の場所に戻した、っちゅうことになるな……?」
秀吉の話はもっともで、考えてみればおかしな話だった。
奪った鍵をなぜわざわざ元通りに戻したのか。
……いや、さらに深く考えてみれば、まだ奇妙な点が見えてくる。
犯人が死体を隠すのは、普通、犯行発覚を遅延させその隙に遠方に逃げるための時間稼ぎだ。
実際に殺した場所がこことは限らないが、この島のどこかで6人を殺し、この倉庫に担ぎ込んだのは、死体を隠し、事件発覚を遅くさせるためだと、普通なら考える。
……だが、シャッターに書かれたあの不気味な魔法陣のような落書きは、ここに死体が隠してあることを雄弁に物語っている。
……そうだと具体的に書いてあるわけではないが、6人も失踪し、あのような目立つ落書きがされていて、しかもここを開ける鍵が所定の場所に戻されていたなら、……それはまるで、ここにある死体を見つけてくれといわんばかりなのだ。
「……とにかく、一度は犯人が開け閉めをした施錠だけでは信用できません。犯人の手からもこの場所を保護する意味で、施錠を新たにしたいと言っているのです。」
「良い案だと思います…。私も賛成です。」
源次は倉庫内をごそごそと漁ると、小さな箱に入った新品の南京錠を開封した。
「鍵はどうなさいますか…?」
「……私が持ちましょう。責任を持って警察に手渡します。」
源次の手から、南京錠の鍵が夏妃に手渡される。
それから全員が外に出て、シャッターを下げた。
……それによって、彼らの死体は再び、不気味な魔法陣の描かれたシャッターによって封印されることになる。
源次はシャッター前にしゃがみ込むと新品の南京錠を括り付ける。
…シャッターには本来の施錠の他に、自前の錠前を付けることができるものもある。これはそういうタイプだった。
雷鳴の混じる大雨の中、不気味にたたずむ倉庫…。
閉じられたシャッターには血を思わせる不気味な何かで魔法陣が描かれ、6人もの遺体を飲み込む。
……新しい鍵をつけさせた夏妃には、警察のための現場保全というよりは、……この不気味な魔物に、これ以上の犠牲者を飲み込ませないために、その口を永遠に開けないよう封じたかったという気持ちもあったのかもしれない……。
「……さぁ行きましょう、皆さん。…南條先生、ご足労をありがとうございました。…源次は急いで警察に連絡を。」
「戻りましたら、すぐに連絡します…。」
大人たちは倉庫を後にする。
…シャッターに描かれた不気味な魔法陣は、6人の遺体を飲み込んだまま、時折の雷鳴に照らされながら、不気味に浮かび上がるのだった……。
▲第9アイキャッチ:10月5日(日)08時30分 が08時45分に進む
■客間
聞こえるのは、雨の音と、真里亞が見続けているテレビの幼児番組の音声、そしてそれに夢中でけたけたと笑い続けている真里亞の声だけだった。
だからつまり、……この世のものとは思えない惨状を目にして呆然としながら帰ってきた彼らを迎えたのは、テレビに笑い転げる真里亞の笑い声だったことになる…。
戻ってきた彼らは、真里亞の母である楼座の死を何と伝えればいいかわからず、息苦しく沈黙するしかできない。
真里亞は最初、自分の顔をジロジロと見る彼らに怪訝な顔を返したが、自分を咎めているわけではないらしいと結論付けると、それらを無視して再びテレビに没頭するのだった…。
子どもたちは無言でソファーに深く腰をかける…。
ショック状態で頭が真っ白になっているのだろう。
みんなあれだけ泣き、悲しんだのに、…今は全ての感情を失ってしまったかのような表情で、ただぼんやりと座っている…。
嘉音だけはいつものような落ち着いた表情に戻っていた。
…しかし、だからといって、ショックが拭えたとは限らないだろう。
…何もない虚空を睨み続けている彼の目には、今は何も映っていなかった…。
秀吉はそわそわしながら、先ほどの惨状を思い出しては、信じられない、この世のものとは思えない、悪魔の仕業やと呟き続けている。
それらを時々、問い掛けの形に変えて南條にぶつけていたが、南條は医者らしく冷静に、少し見ただけでは何もわからない、警察が調べなければわからないと繰り返すのだった。
でも、南條が冷静に見えたのは、あくまでも興奮や恐怖が抑えられない秀吉に比べればというだけの話。
南條も実際は強いショックを受けていて、顔面は蒼白だった。
そんな中だからこそ、リーダーシップを発揮しようと奮い立つのだろうか。
夏妃は普段と変わらぬ態度のように見えた。
そしてきびきびと指示をする。
「……私はお父様のところへ行ってきます。…源次は急ぎ、警察へ連絡を。」
「かしこまりました…。」
「私も一緒させていただいていいかしら、夏妃姉さん? ……蔵臼兄さんがいなくなった以上、お父様の補佐は私の仕事だもの。その私が夏妃姉さんに任せっきりでここでくつろいでるわけにはいかないわ。」
このような事態に何と逞しいことかと、夏妃は絶句する。
蔵臼が死んだなら、次に指揮を執るのはその妻ではなく、次の序列である自分だと、そう主張したいらしい。
…あるいは、この非常事態に夏妃が自分を差し置いて切り盛りしているのが気に入らないのか。
もっとも、絵羽とて直前までショックで頭が真っ白だった。
…夏妃が指示を始めて、初めて我に帰ったのだ。
「………………………。……お好きになさるといいでしょう。」
夏妃はそれ以上、何も言わず、先に歩き出す。
その後に絵羽も付いていくのだった。
…それと入れ替わるように、客間に熊沢が駆け込んできた。
普段は走るような人ではないので、何かあったのかと思うのが正常な感覚だが、…今は誰もがショックに打ちひしがれていて、その程度のことを気には留めなかった。
「……あ、あの、…奥様、…奥様………!」
「夏妃姉さんなら、お父さんのところへ行ったで。すぐ戻ってくるやろ。…どないしたんや、熊沢さん。」
「そ、それが、………食堂に、……血が…、……血が……!」
客間にいた全員の耳がびくりと震える。
誰もが思った。
…聞き間違えであってほしいと。
……どんな器にだって入る限界の量があるように、…もうこれ以上の惨劇を受け容れることのできる器など、誰にもなかった。
だから思った。聞き間違えであってほしいと……。
「な、……何やて、……食堂…?」
「朝食の準備に…、食堂に配膳に行ったら…、……あわわわわわ…わわ…。」
真っ先に走ったのは譲治だった。
その荒々しい足音に我に帰った秀吉と南條が後を追う。戦人たちもそれに続く。
彼らは次々に食堂に飛び込むが、熊沢が真っ青になるほどの変化は見つけられなかった。
…あの倉庫の凄惨さを知る者たちにとって、それは一瞬、拍子抜けだった。
だが、後から来た熊沢が指差して教えてくれた。
……確かに、床に血の跡が残っていたのである。
…あの惨状を思えばそれは決して派手ではない。
…しかし冷静に考えたなら、これは相当の出血を物語るのに間違いなかった。
「…………ここにも血溜まりがあるよ。…………これは一体……。」
「……だいぶ、時間が経っているように見えますな…。……おそらく、昨夜……ここで殺されたんだと見て良いでしょう…。」
「そ、そういうことになるんやろな…。…わしらは昨夜はずっと食堂で話し合いをしとった…。そして、ここに何者かが押し入ったに違いない…。」
「父さんたちが打ち合わせを抜けて休んだのは何時だっけ……?」
「…うむ…。昨夜の24時を少し過ぎたくらいの頃や…。……だから、…その後に、…と考えるんが妥当やろな…。」
「………マジかよ…。………勘弁してくれよ………。」
「お嬢様、……しっかり……。」
「…へへへへ…。…俺はもう、さっきの倉庫でこの世の地獄ってヤツを拝んじまったから、今さらこのくらいじゃ堪えねぇぜ…。」
「……そうかよ、良かったな…。私は頭がどうにかなっちまいそうだぜ…。……ここは食堂だぜ? 私は毎日ここで食事をして、学校のことをぼやいたり、宿題のことをぼやいたり、……親父に学校の成績の話をされたり、……そういうところなんだぜ……?」
「…………お嬢様。これ以上、ここに居るのはよくありません。…客間へ戻りましょう。」
「俺も同感さ…。………秀吉伯父さん! この部屋は多分、警察にとって重要な意味があると思います。俺たちが踏み荒らしちまうのはマズイじゃないんすか?」
真っ青になって震える朱志香の肩を、嘉音と共に抱き、戦人は少しだけ力強い声で提案する。
「………戦人さんの言う通りですな。この部屋にこれ以上、好んで居続けることはありますまい。」
南條が全員の蒼白な顔を見て言う。
……あの倉庫の惨状は、この世のものとは思えないものではあっても、少なくともこことは離れた場所で、切り離して逃げてきたという気持ちで誰もが自分を納得させていた。
……でもこの食堂は違う。
母屋である屋敷の中にあり、…そして朱志香の言う通り、この屋敷の中でも心落ち着く場所のひとつだったはずだ。昨日、親類みんなでランチやディナーを楽しんだ場所だ。
……そこが、血で汚されていることの衝撃は、倉庫の惨状を再び思い出させ、自分たちが決して惨劇現場から逃れてはいないことを無理やり認識させるのだ……。
「…うむ。わしも同感や…。この部屋には犯人の痕跡が残ってるかもわからんしな!素人のわしらがかき回すべきとちゃうで。…早ぅ出るんや。早う早ぅ!」
秀吉も戦人の言う意味を理解し、急き立てるように食堂から出ろ出ろと叫ぶ。
…これ以上、血を見るのは今の自分たちには酷に過ぎることなのだ。
その言葉に逆らう者はいなかった。
皆、先を争うように食堂を後にする。
…………まるで、最後の人はこの部屋に取り残されて閉じ込められてしまうかのように…。
廊下で、未だ震えて壁にもたれかかる熊沢に肩を貸すと、一同は客間に戻ってきた。
…そこへ源次が戻ってくる。
「……おお、源次さん。警察に連絡はつきましたか。」
「………………それが、申し訳ございません。…無線機の故障か、それ以外の理由によるものかわかりませんが…、」
「何や…、警察に連絡がつかんのか…!! 電話も無線もどっちも駄目なんか!」
「…申し訳ございません。月曜の朝に船が来ることになっていますので、その船の通信機を借りることができると思います。」
「この島には船はないんか?! 新島の警察署までちょっくら行ってくることはでけんのか!」
「…秀吉さん、この天気では無理だ…。少なくとも、台風が通り過ぎるまではどうにもなりません。」
「蔵臼さまのボートは今、修理中で島にありません…。ですので、月曜の船を待つ他ないかと……。」
「そ、そんなアホな話があるか…! 6人も死んだんやで!! そして電話も無線も通じず、船もない! 台風が過ぎて船が来るまで…、つまり明日の朝までわしらは警察にも連絡できず、この島におれっちゅうことなんか?!」
「………ってことはつまり。……俺たちだけじゃなく、…伯父さんたちを殺した犯人も、この島から出られず、足止めってことだな…。」
「……そういうことになるね。……みんなを殺した犯人は、まだこの島にいる。」
「お、……親父たちを殺したヤツは、この島から逃げ出せず、まだ潜んでやがるってことかよ…。……くそ、くそくそくそ!見つけ出してやるぜ、警察になんか引き渡すもんか!! 私がこの手で八つ裂きにしてやる…!!! ううぅうぅぅ!!!」
「………………………………。」
真里亞はようやく、客間の様子がおかしいことに気付く。
…おかしいというよりは、彼らが自分だけがわからない何かで盛り上がっていることに対し疎外感を感じ不愉快に思った、という方が正しいだろうか。
「………うー。…朱志香お姉ちゃん。誰か死んじゃったの?」
本当にきょとんとした言い方。
…まるでテレビドラマの登場人物の話をしているように他人事だった。
…それが朱志香には気に入らなかったのだろう。
……これほど悲しみに暮れる自分を見てそれが理解できないのかと言わんばかりに、真里亞に食って掛かる。
「死んじまったぜ、みんなみんな!! 私の親父も、戦人の父さんと母さんも!! 郷田さんも紗音も!! そして真里亞の母さんも!!」
「よすんだ、朱志香ちゃん…!! 悲しいのは君だけじゃない…!」
「…真里亞さん…。ショックだろうが聞いてください。……あなたのお母さんがな…。……死んでしまいました。」
「…………ママが死んじゃった? ……うー…?」
「……あぁ、誰かに殺されちまった。…悲しいだろうがよ、心をしっかり…、」
「……………………何人、死んじゃった?」
「6人だぜ!! 6人だッ! ……くそくそくそ! あんな残酷なことしやがって!! 程ってもんがあるだろうがよ、人間ならよ…! 誰だか知らねぇが、犯人は人間じゃねぇぜ!! 血の色が赤いわけがねぇ!!」
「…………うー。犯人は人間じゃない。…*が選んだ**なだけ。」
「え? ……………おい真里亞、今、何て言った?」
今、真里亞は何か言ったが、それが、会話の流れから想定される単語から大きくかけ離れていたため、一瞬、意味を理解できなかった。
それをもう一度聞きなおそうとした時、客間の入り口で夏妃伯母さんの大きな声が突然聞こえて驚かされた。
祖父さまのところへ行っていた夏妃伯母さんと絵羽伯母さんが戻ってきたのだろう。
「無線でも連絡できない?! ………こんな時に使えなくて、何のための防災無線ですか!」
「……………申し訳ございません。毎年、保守点検はさせているはずなのですが…。」
「ほら、光をチカチカさせるみたいな船舶信号ってあるじゃない? そういうので向こうの島に連絡することはできないのかしら?」
「……そのような設備はございません…。…申し訳ございません…。」
そこへ、朝食を載せた配膳台車を押す熊沢がやって来る。
……あの食堂で食事などできるわけもないため、秀吉が客間へ運ぶよう指示したためだ。
「なぜ朝食をこちらに?」
「……あぁあぁ、夏妃さん…、それは後で話す。それより絵羽、お父さんはどうなんや。」
「ご一緒でないところを見ると、………このような事態になっても、部屋から出ませんか…。」
「いないわ。……部屋は空っぽだったのよ。」
「なんやて…。こんな時にどこ行ったんや…!」
「…………お館様が、書斎を出られたというのですか…?」
「…そうです。私も驚いています…。いつの間に部屋を出たのやら……。あなたたちに心当たりはないのですか?」
夏妃はそう言い、源次と嘉音を見る。
…片翼の鷲を許された直属の使用人なら行きそうな場所を知っているのではないか、ということだろう。
………しかし、実際は逆のようだった。
…金蔵のことを知り尽くしている彼らだからこそ、むしろ部屋を出ることの方がありえない、という顔つきだった。
「………僕たちにも、見当がつきません。」
「…ご存知の通り、お館様はあの書斎の中に、お休みの場所からご不浄まで全てを設けさせました。お館様があの部屋をお出になることなどよっぽどの事がない限り、考えられません。」
「…………となると、…何や。その“よっぽどの事”があった、って考えるのが自然だっちゅうことになるんか…!」
「まだそうと決まったわけではありません!
とにかく気まぐれな方ですから、現状をご存知なく、おひとりで散歩をされている可能性もあります。……仮にそうだとしたら、一刻も早く、現状をお知らせして、ご指示を仰がねばなりません。」
「……そうねぇ。………考えたくはないけど、…お父様の身に何かあったのかもしれないしねぇ…?」
「そのような不吉なことは考えたくもありません…!」
6人が無惨な死体で発見され、金蔵の姿が見えない。
その上、電話は故障し、無線も通じず、警察にも連絡が取れない。
…台風も明日には去り、船も来てくれるらしいが、……それまでこの島は、外部の誰にも頼れず、そして誰も逃げ出すことができないということだ。
誰もがあまりに突然の惨劇に、冷静さを失っていた。
…重苦しい沈黙と焦燥感。
…何かをしなくてはならないのに、何も思いつかず、ある者はイラつき、ある者は頭を抱えるだけ。
………誰にも、…今、この六軒島で何が起こっているのか説明することはできなかった……。
■時間経過シーン…
その後、熊沢さんが作ってくれた朝食を、客間でぼそぼそと食べた。
もちろん、あんなことがあった直後だ。
誰だって食欲などわかない。
…でも、食べなければ体が参ってしまうのは理屈でわかっている。
…それに作ってくれた熊沢さんにも悪い。
郷田さんが、凝りに凝った料理のために取り寄せただろう珍しい西洋野菜は、熊沢さんによって、和風に料理され、違和感のある彩りとなっていた。
これらの材料によって、郷田さんがどんな料理を作るつもりだったのか…。今となっては想像することもできない。
それを想像すれば、郷田さんの死に様が再び蘇り、口の中が酸っぱい何かで満たされる…。
みんなは一応、食べるふりだけするのだが、箸が進むはずもなかった。
そして、現状についての周知が行われた。
まず、……蔵臼伯父さん、ウチの親父、霧江さん、楼座叔母さん、郷田さんに紗音ちゃんの6人が、薔薇庭園の倉庫で無惨な死体となって発見されたこと。
にもかかわらず、電話も無線も使えず、警察への連絡が未だできないこと。
……つまり、ってことはこの台風が通り過ぎるまで、俺たちにできることは何もないってわけだ。
さらに、この事態に少しはリーダーシップを発揮してくれるかと期待した祖父さまはいつの間にかいなくなっていた。
……郷田さんが朝食を作らなかったのだから、未だ空腹なはずで、単にぶらりと散歩に出ているだけなら、今頃空腹で向こうからぴーぴー言ってくるはずだ。
にもかかわらず、現れない。
……事件に巻き込まれた可能性は少なくなかった。
夏妃伯母さんたちは、祖父さまを呼びに行った帰りに、その姿を探して各階に声を掛けたそうだが見つけられなかったという。
…タイミング的に考えて、事件に関係があると考えるのが妥当だろう。
食堂で殺されたと思われるうちの親父たちが、わざわざその遺体を倉庫に移されていたように、祖父さまもすでに殺されていて、その遺体が妙な場所に運び込まれていて、未だ発見されていないだけ…、というのは誰も口にしないが、非常に説得力のある想像だった…。
「私たちは、お屋敷の戸締りを確認してきます。お父様も念入りに探さなければなりません。子どもたちはこの部屋を出ないように。絵羽さんと秀吉さんは、申し訳ありませんが、ここで子どもたちと一緒にいてください。南條先生もお願いいたします。」
「…わかりました。ここでお待ちしています……。」
夏妃伯母さんは、使用人たち、源次さんと熊沢さんと嘉音くんを従え、客間を出て行った。
残ったのは、絵羽伯母さんと秀吉伯父さん。南條先生と、俺たち子ども4人の合計7人だった。
「みんなで仲良く、テレビでも見て待ってよな。しっかし、日曜日の午前中はロクな番組やっとらへんなぁ。」
秀吉伯父さんは暗くなった場を盛り上げようと、陽気そうに振舞う。
「うー。ロクな番組、見る見る。うーうー!」
「おう、そうか。真里亞ちゃんはテレビ見るか。じゃあ伯父さんと一緒に見ようなぁ。」
乗ってきたのは真里亞だけだった。
…真里亞は母である楼座叔母さんが殺されたと教えられえても、特に感情のゆらめきを見せなかった。
…真里亞の9歳という年齢は、こんなにも幼いものだったのだろうか……。
周りはとてもそういう気分になれず、各々がソファーに身を沈めて放心するのだった…。
「…………兄貴。聞いていいか?」
「…何だい?」
「……さっき倉庫で。兄貴は紗音ちゃんの指輪の話をしたよな。……あれ、贈ったのは兄貴か?」
譲治の兄貴は応えなかったが、俯き、固く両目を瞑った。……それ以上明白な答えはなかった。
「よせよ戦人。……少しは察しろよ。」
「……だな。悪ぃことを聞いたぜ。」
「……………そうさ。僕だよ。………彼女に、昨夜、求婚したんだ。…その時、指輪を渡した。……明日になったら、それを好きな指にはめて、返事としてくれって、……はは、キザったらしいことを言ってね。」
……そして、その指輪は、……紗音ちゃんの左手の薬指にあった。
「…………………私さ。…数年前から、紗音に相談を受けてたぜ。…譲治兄さんのことでさ。」
「……何て言ってたのかな。」
「……………紗音は嘘をつくのが下手だったからよ。譲治兄さんのことを言っているのはすぐにバレバレでさ。……………自分は、…使用人の身分だけど、親しくしてもいいのだろうか、とか。……男の人の好きそうな物は何かとか、どういう服を着たら喜ぶかとか、そんなことを色々とさ。………………なんつーのかその、まぁ妬けたぜ。」
「………それが、婚約指輪を渡されて、そこで、……おしまいかよ。」
「……価値観は人それぞれだけどよ。……男から求婚されるってのは、………ある意味、人生の到達点なんだと思うんだよ。……だからきっと。昨夜の紗音は、心の底から、……いや、生まれてから今までの中で、一番幸せだったと思うぜ…。」
「……………………………………。」
…譲治の兄貴は顔を上げず、深い溜め息を漏らす…。
……あるいは、涙を滲ませているのか。
「…………紗音は昨夜、ゲストハウスの当番だったらしいんだ。……でも、…紗音は僕と一緒にゲストハウスに帰るのを恥ずかしがって、……お屋敷に行ってしまった。」
「……紗音の気持ちを察しろよ。…婚約指輪をもらえば、どんなに予告されてたって普通は舞い上がっちまって頭は真っ白になっちまうぜ。……気恥ずかしくて仕方なかったんだろうよ。」
「……それで紗音は、…………当番でないはずのお屋敷へ行き、…そこで郷田さんの仕事を手伝い、……………事件に巻き込まれてしまった………。僕が、…あの日、あの場所で、……指輪なんか渡さなければ……、紗音は、……紗代は、……事件に巻き込まれなかったんだ…!…ううぅうぅぅッ!!」
「兄貴。それだけは違うぜ。断じて違う。……だから、それ以上泣くんじゃねぇ。」
「………………ぅうぅぅぅ…。」
「戦人くん。そっとしてあげなさい。」
絵羽伯母さんに言われ、俺はそれ以上、言葉をかけるのをやめる。
…慰めの言葉は、間違えれば心を傷つける。
朱志香が兄貴の隣に座り、静かに肩を抱いていた。
………兄貴と紗音の馴れ初めからを知り、紗音から交際についての相談まで受けていたという朱志香にしか、…兄貴を慰めることはできないだろう。
俺は、絵羽伯母さんのところへ行き、向かいのソファーに腰を下ろした…。
「戦人くんは強いわね…。もうだいぶしっかりしているように見えるわよ。」
「…まぁその、ほら、愛の深さが傷の深さじゃないっすか。俺は別にあんなクソ親父、どう死のうが知ったことじゃないし。…霧江さんは気の毒ですが、…まぁ本当の親ってわけじゃないですしね。」
「あらぁ。というわりにはさっき、すっごく大泣きしてたわよぅ?」
「まぁ、育ての親に対する恩は、あのくらい泣けばOKかと思いまして…。へへへ…。」
「………その辺の切り替えの早さやドライな辺りは、本当に留弗夫譲りね。…あの子は昔から激しく喜んだり悲しんだり怒ったりしたけれど、すぐにケロリと平静を取り戻したわ。」
「……そんなことはないっすよ。俺だって、まだまだ心のショックから立ち直れちゃいません。…ただ俺がみんなと違うのは、…それによってどういう感情が生み出されるかってことだと思います。」
「どういうこと?」
俺は譲治の兄貴や朱志香に比べたら、ずっと涼しそうに振舞っている。
…それは悲しみが浅くて、もう立ち直ったからではない。
悲しみが、別の感情に徐々にすり替わっていったからだ。
「…………悲しい、ってよりは、………腹立たしいって気持ちなんすよ。どこのどいつがこんなことをしやがったのか。…横っ面に一発お見舞いしてやらないことには腹の虫が治まらねぇんです。」
それが、俺の本音だった。
このまま悲しみに暮れて膝を抱いているだけじゃ、自分を許せないのだ。
「……親父たちが殺されて以降、この島は台風に包まれたままです。……つまり、これだけの上等をキメてくれやがった野郎は、まだこの島の中にいるってことです。」
「そういうことになるわね。………今も暗い森のどこかに身を潜めているのかしら?」
………よく似た話題を、…昨夜、ここで霧江さんとした気がする。
そうだ。昨日の晩餐の席でベアトリーチェを名乗る手紙が現れて、……19人目の人物は果たして存在するのか否か、という話をした時だ。
「絵羽伯母さん。………この殺人、…昨夜のベアトリーチェの手紙と何か関連があるんでしょうかね。」
「…あぁ、例の? …………さぁ、どうかしらね。あの手紙は、お父様が遺産問題に絡みたくて出した怪文書という見方で兄弟は一致したんだけれども。………それと今朝の事件に関係があるかは、今の段階ではわかりかねるわね…。」
「あの手紙、ホントにベアトリーチェなんて魔女が真里亞に渡したんすかねぇ。」
「まっさかぁ。全部、お父様の仕組んだ茶番でしょう? 紗音ちゃん辺りに肖像画のドレスを着させて、真里亞ちゃんを騙したんでしょ? お父様らしい、手の込みすぎた悪戯だと思うけどぉ?」
「………昨夜、霧江さんと、ベアトリーチェは実在するんだろうかって話をしたんすけど、霧江さんも俺たち18人の中にベアトリーチェがいるだろうと言ってましたね。」
「そんなの当然じゃない。この島には、私たちしかいないのよぅ? なら私たちの中の誰かがベアトリーチェを騙ったに決まってるじゃない。」
「この島には俺たち以外はいない、っすか…。」
「当然でしょ? 私たち以外の誰がここにいるって言うの? この島には私たちしかいない。18人しかいない。…なら、ベアトリーチェを騙るのも18人の中の誰かしかいないじゃない。」
霧江さんが“チェス盤をひっくり返して”至った19人目の否定。
絵羽伯母さんは、そこまで理論立てて至ったわけではなさそうだが、意見だけは同じようだった。
…ただ、だとすると、非常に嫌な話になる……。
ベアトリーチェの手紙の時には誰かのいたずら程度で済ますことができた。
…しかし、19人目を否定した場合、話はそれだけでは済まなくなる。
………つまり、
「…19人目がいないなら。……親父たちを殺した犯人も、18人の中にいるってことになっちまうじゃないっすか。………つまり、今この屋敷にいる誰かが殺したってことになる…!」
「…………………………………。」
絵羽伯母さんは意味深に笑う。
…それは伯母さんにとって、当然かつもっとも最初に気付くべき結論のようだった。
「犯人は倉庫の中に6人の遺体を運び込んだわ。でも、よく倉庫の中に運び込めたわよね? あのシャッターは常に閉められていて、施錠されていたそうよ?
つまり、倉庫内に運び込むには、シャッターの施錠を開ける必要があった。…わかる?」
「……たまたまその日、シャッターが開けっ放しになってた可能性は?」
「使用人たちは常に閉めていると言ってたわ。つまり、鍵を使用人室から持ち出さなくては、倉庫は絶対に開けられない。」
「鍵は使用人室の1つしかないんすかね…。」
「源次さんはそうだと言ってるわ。ということは、犯人はそのたった1つの倉庫の鍵の在り処を知っていて持ち出した。
さっき、嘉音くんが使用人室に鍵を戻すところを見たわ。壁にびっしりと鍵が掛けられていて、とても素人にはどこに何が掛けてあるのかわからなかった。犯人は、その中から倉庫の鍵を見事選び出したのよ?
しかも、札も何も付いていない鍵を手にして、薔薇庭園裏にある倉庫の鍵だと理解した。…ついでに言うと、倉庫の場所すら理解していた。………もっとはっきり断言するわ。犯人は使用人室の内部にも熟知している。」
それは非常に単純明快な話だった。
……遺体が薔薇庭園のどこかの茂みにでも放り込まれていたなら、まだ理解は容易だった。
しかし、たった1つしかない倉庫の鍵は使用人室にあり、しかも大量の鍵と一緒にしまわれており、素人目にはとても判別できない。
となると、普段、使用人室に出入りしていて、鍵の所在などについて熟知している人間が犯人ということになる。
…使用人室には普通、家人だって入らない。
……ということは…………、
「………ってことは、………使用人の誰かが、……犯人………。」
「悪いけど、それ以上は伯母さんも言えないわよ。……でも、ひとつだけ教えられることがあるわ。」
「……何すか。」
「犯人、……うぅん、犯人たちは複数で、そして充分な武装をしていたと考えられるわ。だってそうでしょう? 食堂にいた兄さんたち4人を一度に襲って殺し、合計6人分の遺体を、遥々と薔薇庭園の向こうの倉庫まで運んで、悪趣味な化粧と落書きを施してる。……これだけのことを単独犯で行えるはずもないでしょう?」
道理だ。時間さえ掛ければ1人でも不可能ではないだろうが、それではあまりにも手間が掛かる。
少なくない人数が関わったと考えるのが妥当だろう。
「……………ひゅぅ。ってことは絵羽伯母さんは、……、使用人の人たちがみんなグルだろうって言ってんすか。」
「静かになさいな? 憶測で言っちゃ悪いわよ。……それに、もし本当にそうだったらどうするつもり? 彼らは私たちを生かして帰さないでしょうねぇ。しかも、兄さんたち4人をやすやすと殺した相手なのよ。今、この部屋に残っていて、まともに戦えそうな人間は、うちの家族の3人にせいぜい戦人くんで4人ってところ? 状況は昨晩と何も変わらない。……つまり、犯人にとって、残る私たちを皆殺しにするなんて簡単なことなのよ。」
俺は、親父たちを殺した犯人を、警察よりも早く暴きたいと思い、こうして絵羽伯母さんと推理ごっこをしていた。
…もし見事犯人を看破できたなら、その証拠を突きつけたかった。
……そうすれば、よくある探偵映画みたいに、犯人は観念して降参すると思い込んできた。
しかし、犯人が降参するのは、抗っても無駄だからという前提があるからだ。
今この島で起こっている事件の犯人たちは、無力どころか、島に残った人間全員を皆殺しにすることすら可能かもしれない。
…しかもこの島は台風によって切り取られた巨大な密室で、殺す時間も、そして何かの工作や偽装をする時間も、明日までたっぷり丸一日ある……。
つまり、今の俺たちはまだ推理ごっこに興じられるような安全圏にはいない…。
それどころか、犯人たちが機嫌を損ね、再び大量殺人を繰り返すかもしれない恐怖に怯えていなければならない段階なのだ…。
「…まぁ、あくまでも可能性の問題よぅ? ……でも私は、使用人の人たちをまだ信用できないわね。それに、私は使用人だけを疑ってるわけじゃないわ。さらに黒幕がいるかもしれないと思ってるわよ?」
「黒幕? ほぅ…、どうしてっすか。」
「勘よぅ。……使用人は書いて字の如し。誰かに使用されて手足となる存在よ?殺されたのは右代宮家の親族ばかり。なら、その結果で利害が発生する人間が関わるのは当然。」
これまた単純明快…。
右代宮家では今まさに、祖父さまが死んだら遺産の分配はどうするかなんて話の真っ最中だ。
古典の推理小説で使い古された典型的な設定なら、これは間違いなく遺産問題に絡む右代宮家縁者の犯罪…。
多分、伯母さんもその辺りの小説をいくつか読んだことがあるのだろう。
……絵羽伯母さんの理論は、やや決めつけっぽいところはありながらも、誰もが至る考えである王道的なものだ。
恐らく、至る筋道は違っても、最終的にはほとんどの人間が使用人たちを疑うことになるだろう。
特に、シャッターの鍵を巡る話は、使用人の誰かが事件に関わっていることを濃厚かつ容易に疑わせる…。
「…………………だぁから、…なぜか気に入らねぇんすよねぇ。」
「気に入らないって、何の話ぃ?」
「いえいえ、こっちの話っす。いっひっひ!」
俺はおどけながら誤魔化すが、自分の中の違和感をどうしても拭えなかった。
……あまりにも至る推理が安易だからだ。
誰でも至れる推理。
…それがどうしても納得できねぇ。
…霧江さんに習った“チェス盤をひっくり返して”の考え方だと、……だからこそ、使用人が犯人ということはありえないと思うのだ。
本当に使用人たちが犯人なら、自分たちの縁のある場所には遺体を隠さない。
自分たちが鍵を管理する薔薇庭園の倉庫などもってのほかだ。
警察は真っ先に鍵の管理方法などで追求してくるだろう。
そこから何かが露呈する危険もある。
……彼らが犯人であると仮定すればするほど、倉庫に遺体を移す理由がない。
…というのを逆手にとって、わざと倉庫に置いたのか?
いや、それだけは断じてありえない。
警察が来て現場検証を行えば、様々なことが判明するだろう。
犯人たちがどんなに注意深く殺人を実行しようとも、必ず何かの痕跡を発見される。
つまり、彼らにとって百害はあっても一利はないのだ。
こうして考えると、犯人サイドからこの殺人ゲームを見た場合、遺体をアピールすることに意味が感じられない。
遺体が見付かれば、警察への通報とか、残った人間たちが用心深くなるとか、犯人探しを始めるとか、…とにかく犯人にとって居心地のよくなることは何一つ起こらない。
…最近読んだ『ひぐらしのなく頃に』とかいう小説でも主人公の母親が言ってたぜ。
完全犯罪ってのは、“起承転結の「起」”を起こさないことが肝要だと。
……今、祖父さまの姿が見えない。
すでに犠牲になっているのか、あるいは犯人の1人なのかはわからないが、………このわからない状態の方が、犯人にとっては好都合のはず。
遺体をこれ見よがしにアピールして、殺人事件がさぁ起こりましたよなんて宣伝するのは、まったく犯人にとって得るものがない。
いや、そこでこそ“チェス盤をひっくり返す”ところさ。
なら、このこれ見よがしなアピールは犯人の目的そのものってことになる。
……つまり犯人にとっては下手すると、(殺すことよりも、あそこに6人の死体を用意する方が意味があったってことになる。
つまり、犯人はこの殺人を誇示しているわけだ。
誰に?
……俺たちにだ。
こいつはメッセージだ。
犯人たちは俺たちに、何かを突きつけている。
…それが何か、わからない。
現時点では、この趣味の悪い大量殺人は、俺たち全員への悪意以上のものは感じ取れない。
……全員への、悪意、…か。
殺された6人は、今、生き残っている人たち全員にとって、みんな何らかのつながりがある。
蔵臼伯父さんの死は、朱志香の一家に悲しみを与えた。
俺の親父と霧江さんの死は、俺に悲しみを与え、楼座叔母さんの死は真里亞に悲しみを与えた。
……郷田さんの死は使用人仲間に衝撃を与えただろうし、紗音ちゃんの死は、婚約した譲治の兄貴や、姉と慕っていた嘉音くんに悲しみを与えた。
……今この島にいる誰もに、均等に悲しみを与えているのだ。
絵羽伯母さんは、使用人たちがグルに違いないと言い切ったが、……なら郷田さんや紗音ちゃんの遺体はどう説明するのか。
……それにこの論法で行けば、この6人の死によって全員に与えられている悲しみが、絵羽伯母さんと秀吉伯父さんだけは免れている。
使用人たちに疑いを向け、蚊帳の外を気取る絵羽伯母さん自身、疑いの余地がないとは言い切れないのだ。
……そもそも、シャッターの鍵の話で煙に撒かれたから使用人が疑わしいという論法になってしまったが、……この殺人で誰が得をするのかという、動機の線から疑うと、…………絵羽伯母さんはもっとも怪しい人物に浮上する。
「……戦人くんが何を考えてるか、伯母さんわかるわよぅ?」
「え? いっひっひ、嫌だなぁ、内緒にしててくださいよぅ、卑猥なことで頭をいっぱいにしてたなんてぇ。」
「私が、この殺人で一番得をする。……どうせ疑われるだろうから、先に自己申告しておくわ。」
茶化して誤魔化したつもりだったが、通用しないようだった。
「遺産は兄弟の数で分割する。でも今や、4兄弟は私ひとり。右代宮家の全財産は全て私のものになるの。……うふふふふふ。」
「秀吉伯父さんが聞いたら、よさんか絵羽、洒落にならんって言うところっすね…。」
「ごめんねぇ? どう取り繕ったってどうせ疑われるだろうから、ふざけただけよ。……だからこの殺人は、私の立場から見れば、私を疑わせるためのものではないかと思ってるの。……困ったことに、昨夜のアリバイは弱いわ。」
「聞かせてもらってもいいっすか。昨夜のことを。」
「戦人くんたちも知っている通り、兄弟が遺産をどう食い千切り合うかという話し合いは、深夜まで続いたわ。でも、何時まで続いたかは知らない。私と主人は朝が早かったからね。もう眠くて眠くて、24時を過ぎた辺りで抜けさせてもらったの。そしてゲストハウスに戻って休んだわ。」
「……それを、秀吉伯父さん以外の誰かに証明できるっすか? いやいや、別に絵羽伯母さんを疑ってるわけじゃないっすよ〜? ひっひっひ!」
「あら、どうだか? くすくす。証明になるかわからないけれど、ゲストハウスに戻ってきた時、源次さんに出迎えを受けてタオルはいるかと聞かれたわ。
だから私たちがゲストハウスに戻ってきた時間は24時過ぎだと証明してくれると思うわよ。……もっとも、私の仮説通り、使用人たちもグルなのだとしたら、こんなのアリバイにならないけどねぇ?」
「確かにそうっすねぇ? ってことは俺、今、真犯人と推理ごっこをしてるってことになるんすか? いっひっひ!」
「でも、私の名誉のために言わせてもらうけど、遺産目当てだったなら、こんな変な殺人はしないわよぅ?だって、遺産相続権を喪失させるだけなら、どんな死に方だって構わない。むしろ事故死に見せかけた方がスマートでしょう? 使用人たちを抱きこんで、周到に計画していたなら、なおさらそうするでしょうよ。」
「確かにそうっすね…。営利で人を殺すなら、それは常に殺人に見せるべきではない。」
「そういうことよ? だから伯母さんは、今からとてもブルーな気持ちなわけ。……警察には黒幕扱いされて、さんざん調べられるでしょうねぇ。やだやだ…。」
絵羽伯母さんは、肩をすくめて苦笑いして見せた。
……使用人たちが疑わしく思えるのが容易なように、絵羽伯母さんを疑わしく思うのもとても容易だ。
なら“チェス盤をひっくり返したら”、……容易に疑えてしまう絵羽伯母さんでもありえないのか…?
しかし、その論法がまかり通るなら、動機なんて何の役にも立たなくなってしまう。
いや、そんなことはないはず…。
動機を知ることは犯人を知る強力な手掛かりになるはずだ。
…だから古今の殺人者たちは、巧みにそれを気取られないよう、事件を複雑に偽装するのではないか……。
………わからない、…わからない…。
チェス盤をひっくり返す度に、表と裏が何度も行ったり来たり…。
…俺の思考は真相に近付いているのか。
……それとも………。
絵羽伯母さんは、それ以上の会話を望まなかったので、俺は腕を組みながら窓辺へ行き、少し頭を冷やした。
客間を見渡してみると、譲治の兄貴たちも集まって話をしていた。
…どうも、例のシャッターに描かれていたとかいう魔法陣の話らしい。
秀吉伯父さんは、それを思い出しながら、真里亞のノートの余白にそれを書き出している。
……なるほど、祖父さまの次にオカルトに詳しい真里亞には、その意味がわかるかもしれない。
「うーん、多分こんな感じだったと思うで! 十字架をアレンジしたみたいなマークが描かれとったんや。そして、こんな感じで外周の円を取り囲むように妙な文字がびっしり書き込まれていて、十字架の上下左右の辺と、その四隅にも何か書かれていたんや。アルファベットとかそういうのとちゃうで。あれはよく言う古代文字とかいうやつや。」
「……あと、円周部の頂点に小さなマークがありましたな。…小さな丸を5つ、十字状に並べ、それぞれを直線で結んだようなマークでした…。」
「あぁ、確かにそんなのも描いてあったで…! うん、図形的には間違いなくこれや。細かい文字はわからんが、配列はほぼ同じや。」
その図形をみんなが覗き込むので、俺も覗き込んでみた。
…聞く話では、こいつがあの倉庫のシャッターに、血みたいな塗料か何かでべったり描かれていたらしい。
……なるほど、こいつは不気味だな。
「…こんなわけのわかんねぇもんを描きたがるのは、祖父さまだけだろ。……まったく、どこに行っちまったんだ?! とっ捕まえて、意味を聞き出してやりたいぜ!!」
朱志香の声には短気な怒りが含まれている。
祖父さまが犯人だとまでは言わないが、祖父さまが犯人の素性を知っているに違いないと考えているようだった。
……確かに、右代宮家とオカルトの2つを結びつけたら、十人が十人、うちの祖父さまを名指しするだろう。
……そして、オカルトの知識がない人間には、この妙なマークの意味はわからない。
ってことは、………、こいつは、…祖父さまに宛てたものじゃねぇんだろうか……。
そうさ、犯行をアピールするのはそれを生き残った者たちに見せ付けたいからだ。
……じゃあ、メッセージの相手の、肝心の祖父さまはどこに消えちまったんだ……?
「こんな図形に、何か心当たりはあるかい…?」
「…………………………。……うー。」
真里亞は真剣な顔をして図形に見入っている。
…得意分野とあって張り切っているのだろうか。
…だが、その様子はどこか他人事で、…自分の母の遺体を閉じ込めていたシャッターに描かれていたもの、という風には見えなかった…。
「…僕の第一印象では、ドイツの十字章に似たデザインだなって思ったかな…。」
「あー…。確かにこんなデザインや。ということはドイツと何か関係があるんか。」
「ドイツの十字章はもともと、聖地巡礼者を守るための騎士修道士たちの紋章だったそうですな…。」
「……つまり、この魔法陣には、宗教的な意味があるってことかよ…? ますますにちんぷんかんぷんだぜ……。」
俺もその議論に加わろうと全体を見渡した時、……ぎょっとする。
真里亞が、…何とも形容できない不気味な表情で笑っていたからだ。
…それはまるで、議論し合うみんなの無知さ加減を馬鹿にするような、そんな笑い。……真里亞が浮かべられるなんて、夢にも思わなかった表情だった…。
そして、……笑う。
その不気味な、軋むような笑い声を、…俺は目の前で見ているにもかかわらず、断じて認めたくなかった。
「きひひひひひひひひひひひひひひひひ。全然違うよ、みんな。きっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ…。こんなの見てわっかんないかなぁ。きっひひひひひひひひひ。」
誰もが度肝を抜かれている間、真里亞はひとり、機嫌良さそうにけたけたと笑い続けていた…。
やがて、その笑いは唐突にぷっつり途切れる。
でも表情は、真里亞とは到底思えない誰かのままだった。
「これは太陽の7の魔法陣だよ。……書かれてる文字はヘブライ語。貸して?」
「あ、……あぁ。」
呆気に取られる秀吉の手から真里亞は筆記用具を奪う。
そして、秀吉の描いた魔法陣の隣に、さらさらと魔法陣を描き込んでいく…。
「……ね? こんな図形だったんじゃないかな?」
「ぅ……、うむ…。そんな図形だった…。」
「…ま、真里亞、すごいな…。さっすが詳しいぜ…。」
朱志香が取り繕うように褒め言葉を口にする。
……みんなのよく知る真里亞であることを確かめたかったのかもしれない。
…でも真里亞は特に返事を返してはくれなかった。
真里亞は、図形の隙間に見慣れない文字をさらさらと書き込んでいく。
…それを見る秀吉伯父さんと南條先生の目がみるみる見開かれていく…。
「天地と左右に書かれているのは風火水土を司る天使たちの名。
"Chasan、Arel、Phorlakh、そしてTaliahad。"
そして斜め四方には四大の王たちの名。
"Ariel.、Seraph、Tharshis、そしてCherub。"
…合ってる?」
見たものを正確に書くことはできなくても…、見たものと同じものをもう一度見せられたなら、それだと断言することは難しくない。
真里亞に合っているかと聞かれ、秀吉伯父さんと南條先生はうんうんと何度も頷く。
「間違いない…、そうや、確かにこんな文字が書かれとった…! 何でこんなん書けるんや……。」
「あ、…あと、円周部にも文字が書かれておりましたな……。」
「わかってるよ。……………………………こうでしょ?」
真里亞はさらさらと円周部にもヘブライ語をぐるりと書き込んで行く…。
「旧約聖書の詩篇、第116編の16節と17節だよ。……聖書くらい、読んでなきゃ。きひひひひひひひ……。」
知っていることがさも当り前であるかのように、真里亞は笑う。
しばらくの間、俺も含め全員が絶句するしかなかった。
…やがて譲治の兄貴が我に帰り、ようやく言葉を口にできた。
「……すごいね、驚いたよ…。…それで、この魔法陣にはどんな意味があるんだい?」
「太陽の力を借りる魔法陣だよ。……黄金で描き護符にして身につけたる者は、いかなる牢獄であろうとも束縛から逃れ、自由を得られる力を授けられる。」
「…束縛から逃れ、……自由を得られる…? 意味深だぜ…。」
「この束縛という意味は、何も肉体的なものだけを指さないと解釈されている。…だから、縛られて牢屋にいる人ばかりに意味があるわけじゃないよ。しがらみや逃れ得ぬ運命など、精神的な束縛からの解放も意味してるんだよ。」
「……しがらみや、逃れ得ぬ運命、……か。…これまた意味深だな。」
「しかしさっぱりわからん…。それとあの6人の遺体とどんな関係があるっちゅうんや。…束縛からの解放どころか、殺された上に倉庫に閉じ込められてたんやで?!」
「別にその6人のために魔法陣が描かれてるわけじゃないね。魔法陣のために、6人はそこにいるんでしょ。お気の毒だよ。…きひひひひひひひひひひひひひひひひ。」
「どういう意味だい…? 魔法陣のために、6人がいるってのは一体?」
真里亞は、人差し指を立てて、小馬鹿にするような仕草で振ってみせる。
「それは円周部に書いてるよ。読めないかなぁ? 詩篇、第116編、16節と17節。……読んであげるよ。“主は私の枷を解かれました。私はあなたに感謝の生贄を捧げ、主の御名を呼ぶでしょう”。……ね?」
「ね、って…、………何を言ってるのかさっぱりだぜ。」
「…………生贄だ、……ってのか?」
今、真里亞が読み上げた部分が魔法陣の肝要な部分なのだとしたら、……この魔法陣はご利益の代償として生贄を捧げると言っている。
…そして、この魔法陣が描かれた倉庫の中には生贄が捧げられていた………。
同じ想像には、やや遅れて全員が至ったらしい。
…ある者は呆然とし、ある者は狂っていると吐き捨てながら拳を膝に打ち付ける…。
……何とも薄気味悪い話になってきやがった。
…しかも納得できねぇし理解もできねぇ。
……どんな魔法陣だろうとお呪いだろうと、信じてるヤツが勝手にやればいいさ、イチャモンなんか付けねぇさ。
…でもよ、そんな下らねぇことの生贄に親父たちは殺されたのかよ……!
何とも遣り切れない気持ちだった。
……これならまだしも、遺産が絡んでどうのこうのって話でうんざりしてた方がマシだってもんだ…!
俺は怒りとも悲しみともつかない感情に苛立ちながら、みんなの輪を抜け、再び窓辺に戻った。
……昨日から何かが狂っている。
昨夜の晩餐で真里亞が読み上げた、魔女ベアトリーチェの手紙。
…あの時から俺たちは、…いや、この屋敷やこの島が、何か奇妙な世界に取り込まれ始めている気がする…。
そう。思い返せば、あの手紙は魔女の誘いだったのだ。
この島の夜の支配者が、昼間の俺たちを、もうひとつの世界へ招待したのだ。
電話も無線も途絶し、台風に閉ざされたこの島は、今や切り取られた異世界とすら言い切れる。
……そう、今のこの島じゃ、魔女が手紙を送り、魔法陣に生贄が捧げられるのが当り前ってわけだ。
………そして次は何が起こるってんだ?
山羊の仮面でも被ったおかしな連中が盆踊りでも始めるってのかよ…!
…あぁ、ダメだダメだ、わけがわかんねぇ…。
頭ん中がぐちゃぐちゃで、何を考えればいいのかもわかんねぇ…。
怒り、悲しみ。相反する感情が渦を巻き、俺を飲み込んでいく。
俺は抗うこともできず、…こうして両目を手で覆って飲み込まれていくに身と心を任せるだけだ………。
………俺の心が挫けかけた時、小さい頃の記憶が蘇る。
俺が小さかった頃のことさ。
テレビでオカルトものの怖い映画を見ちまって、ひとりでトイレにも行けなくなっちまった時だ。
…あんのクソ親父は大層笑ってこう言い放ちやがったぜ。
……なぁ戦人。
どうして悪魔だのオカルトだのってのを、わざわざこうして映画にすると思う?
ねぇからだよ。…そんな滑稽なもんは地球のどこにもねぇのさ。
ねぇから、わざわざ見たくて作るんだよ。
だから俺はオカルト映画なんて、ちゃんちゃら可笑しくて笑っちまうってんだ。
俺に言わせりゃ、悪魔やら妖怪やらより、今年度の収支報告や、機嫌を悪くした女房の方が一億倍も怖ぇってもんだぜ。
さらに言うぜ? 俺に言わせりゃな。
怖がるってのは、心と生活にゆとりのある連中の娯楽的感情なのさ。
暇で暇でしょうがないから、連中は変わった感情で心を遊ばせたくて、悪魔だのオカルトだのって文化を作り出したんだよ。
………………………………………。
……まったくだぜ、俺は何をぼんやりしてやがったんだ。
すっかりヤラれちまってたぜ。
………ふざけんじゃねぇ、ここは人間の世界さ。
魔女も悪魔も魔法陣も生贄も知ったこっちゃねぇさ。
俺の親父たちを殺した人間が、今まだこの島にいる。
ただそれだけのことじゃねぇか…!
次に俺の心に語り掛けてきたのは霧江さんだった。
チェスや将棋ってね?
終盤の終盤、詰めの最後の段階に入れば入るほど、最善手は限られてくるのよ。
……だから、自分が追い詰めている、あるいは追い詰められているというその時、両者の手は限りなく読みやすくなるのよ。
つまり、完全に追い詰められて打つ手なしって思ったその時こそ、もっとも読みやすい瞬間なのよ。
……でも、守勢に立った人間はどうしても考えが硬くなって相手の手を読むことにまで考えが至らない。
……そういう時はね、“チェス盤をひっくり返す”の。
俺は勢い良く、両手で自分の頬を叩く。
………すっかり目が覚めた。
さっぱりわからねぇと、完璧に追い詰められた今こそが“チェス盤をひっくり返す”タイミングじゃねぇのか…!
守勢に立った俺たちには、犯人の目論見はさっぱり見当が付かない。
…ひっくり返して見てみたら、一体何が見えるのか。
……まず、犯人は殺人を犯す時点で、島が台風に閉ざされているのを知っていた。
だから、殺人を実行しても翌朝にすぐ逃げられるわけではないことも理解していたはず。
つまり、犯人は退路の確保もなく殺人に踏み切ったわけだ。
しかもその死体は倉庫にぶち込み、ご丁寧にも、ここにありますよと妙な落書きでアピールまでしてくれやがった。
つまり、やがて死体を見つけるだろう俺たちに“見せたい”のだ。
……もし俺たちが全員トボけていて、あの倉庫に気付かなかったら、犯人の目的は“達せられていなかったのではないか”。
へへ、こう考えてくると、犯人のやつめ。
朝からの俺たちの動きにハラハラしてやがっただろうよ。
何しろ、あの倉庫を見つけてくれなかったら、昨晩、さんざん苦労して準備したものがパーになるところだったんだからなぁ。
犯人は、倉庫の死体を見せて俺たちに何を感じさせたいんだ?
6人の遺体はみな顔面を著しく破壊されていた。
…怨恨? 見せしめ?
遺体の破壊は死後だ。
つまり、殺人の手段じゃない。殺した相手への意味じゃない。
…それを“発見する者たちへの意味”だ。
これだけ惨たらしく殺した、と、俺たちにアピールしたいわけだ。
は! そう考えてくると、舐めんじゃねぇって気になってくるぜ。
誰が踊るかよ、ビビって下さいって言われて、ハイそうですかというわけにゃ行かねぇぜ。
…この右代宮戦人、入口はコチラと言われたら、窓から入り込みたくなる性分と来らぁ!
次に気になるのは、シャッターの魔法陣もどきだ。
…オカルトに関しちゃ、祖父さま並みの知識を持っていることを披露してくれた真里亞も認める、本格派魔法陣と来た。
そんなものを、傘を片手に真っ暗な中、時間を掛けて書いたってんだから、その手間と凝り性には恐れ入るねぇ。
それだけの手間を掛けた意味は何だ?
…この屋敷でオカルト的なものがあったら、俺たちはほぼ自動的に祖父さまの関与を疑うだろう。
俺たちに、“祖父さまが関わっていると思わせたい”ってのか?
だが、それだけが目的なら、魔法陣風のいい加減な落書きでもよかったはずだ。
どうせ俺たち素人にはそれが本格派かデタラメかなんて理解できないんだからな。
…しかし、魔法陣は本格派、しかもヘブライ語とやらでまで書かれてるって話だ。
………つまり、この魔法陣は、“オカルトの知識のある人間にだけは読み取れる”メッセージ性があるってことだ。
メッセージってのはコミュニケーションのひとつだ。
……送ったら、相手からのリアクションを期待するものでもある。
…リアクション?
………祖父さまは今、どういうわけか姿が見えない。
祖父さまがどうやってあのシャッターの魔法陣を見たのかは知らないが、…その結果のリアクションとして姿を消した、ということなのか…?
いや、そう見せ掛けて俺たちに祖父さまの関与を疑わせようという罠なのか。
…どっちにも読めるぜ、うぜえ真似じゃねぇか。
……犯人は、俺たちにこんなオカルトの真似事を見せて、どんなリアクションを期待してるってんだ…?
どうやらそこに、犯人の尻尾があるような気がするぜ…。
昨夜の晩餐で真里亞が読み上げた、あのベアトリーチェの手紙の一部が脳裏に蘇る。
……知恵比べをお楽しみ下さいとかのたまったやつだ。
面白いじゃねぇか。
こいつは俺たちと魔女さまの知恵比べだ。
てめぇのオカルトごっこに俺たちが飲み込まれるのが早いか。
俺がてめぇの化けの皮を剥いでやるのが早いか。
……台風が過ぎるまで、たっぷり一日あるわけだぜ。
楽しませてもらおうじゃねぇか…!
気付けば、客間の中は静まり返っていた。
みんな、思い思いのソファーに腰を沈め、何かを考え込んだり、イラついたり、落ち込んだりしている。
真里亞はさっきからずっとそうであったかのように、再びテレビの前に戻り観賞を続けている。
…退屈な番組よりCMの方が楽しいらしく、うーうーきゃっきゃと喜んでいた。
そんなみんなの様子を、俺はジロリとひとりひとり眺める。
19人目などいないなら、
………この部屋の中に、犯人がいるからだ。
…今は、夏妃伯母さんが使用人たちと屋敷内の見回りをしているところだったか。
……なら、この部屋の中に、ではない。
……この屋敷の中に、と言うべきだ。
…何しろ、夏妃伯母さんだって黒幕の可能性はあるし、
…使用人が下手人である可能性は未だ否定できない。
………誰もがクロの可能性があった。
しかし、夏妃伯母さんたちは遅いな…。
確かに狭くはない屋敷だが、戸締りを見て回るだけにしては少し時間を掛け過ぎではないだろうか…。
そう思った頃、夏妃伯母さんたちは帰ってきた。
誰かが欠けていたりはしない。
……安心しようとしたのも束の間。
全員がぎょっとして夏妃伯母さんを見る…。
……絵羽伯母さんに聞かされた話が蘇る。
犯人たちは、親父たちを6人も一度に殺せるほどの人数、あるいは武器を用意していた可能性があると。
「………驚かせてしまいましたね。万が一に備えて持ってきたものです。」
夏妃伯母さんが手にしていたのは、ライフル銃だったからだ。
ぱっと見る限りは、猟銃とよく似たシルエットだったが、全長が非常に短く、何だか子どもサイズの鉄砲というイメージだった。
だが、その重厚感は、この銃が断じて子どもの玩具ではないことを語っている。
「…それは金蔵さんの銃ですな…?」
「ご存知でしたか。そうです。お父様の古いコレクションの中にあったことを思い出し、探し出してきました。」
「ひゅぅ! すっげぇ…。夏妃さん、それホンモノなんすか?」
「えぇ、本物です。実弾を発砲できますよ。昔、お父様は野鳥を追い払うのに使ったりしていました。」
「……あら懐かしい。どこから出てきたんやら。私がいくら触らせてって言っても、指一本触れさせてくれなかったやつよぅ。」
「へぇ…。祖父さま、こんなの持ってたんですか…。知らなかったですよ。」
「お父様は昔、西部劇にどっぷり浸かってたことがあってね。あの世代はこういうライフル銃が大好きなのよぅ。」
「ウィンチェスターですか? でも、こんな短い仕様のは初めて見ました。」
「あーーッ! 思い出したわ、その銃ッ!懐かしいなぁ、拳銃宿無しでスチーム・マックィーンがぶっ放しとったやつだわ!! お父さんも渋いなぁ…!」
「………お館様がだいぶ昔に、アメリカより特別に取り寄せさせたものです。…ご覧の通り実銃ですので、どうかこの件はご内密にお願いいたします…。」
「手に入れられたばかりの頃は、大層気に入られておりまして。撃つより、薬莢を出す動作が面白いらしくて、裏の森でいろいろとカッコつけて遊んでおられたもんですよ。ほっほっほっほ…。」
「……しかし物騒ねぇ。そんなものまで持ち出しちゃうのかしらぁ?」
「万が一に備えてです。………賊はおそらく1人ではないでしょう。しかも、主人たちを6人も殺した恐ろしい相手です。……私には主人に代わって、皆さんを明日まで守る義務がありますので。」
夏妃さんはそう言うと、どっかりとソファーに腰を下ろし大きく溜め息をつく。
屋敷内の戸締りの確認と、…あと祖父さまを探すということになっていたはずだ。
そして祖父さまと一緒じゃないところを見ると、その行方は未だわからないというようだった。
「…屋敷内の戸締りは厳重に確認してきました。ですが、万が一ということもあります。皆、なるべくここに一緒にいた方がいいでしょう。」
「そうねぇ? ここに全員が集まって、相互監視をしている方が安心だわ。」
「………それはどういう意味ですか、絵羽さん。」
「別にぃ? 夏妃姉さんの意見に賛成しただけよ?」
険悪な雰囲気になる二人…。
遺産問題で誰が一番得をするかと考えれば、一番疑わしいのは絵羽伯母さんだ。
…しかし、夏妃伯母さんが怪しくないという保証もない。
……いや、そもそもベアトリーチェの手紙が祖父さまの仕組んだ手の込んだ悪戯で、この事件すらもその延長だと言うなら、祖父さまだって充分に疑わしい。
そして、夏妃伯母さんは、犯人は外にいると思っている。
…だが絵羽伯母さんは、犯人は内にいると思っている。
それはつまり、19人目の存在を認めるか、否かということ。
………昨夜の晩餐でベアトリーチェと名乗る魔女からの手紙を受け取って以来、何度も繰り返されている疑問だ。
……果たして、俺たちの中に犯人はいるのか、
いないのか。
そして、魔女ベアトリーチェは存在するのか、
しないのか。
魔女なんて馬鹿なものがいるわけがないと言うのなら、それはつまり、ここにいる血を分けた親族たちの中に犯人がいると言うのと同じだ。
それが嫌なら、魔女なんてお伽噺の中の存在を認める方がはるかに気楽だ。
…………魔女が?
怪しげな魔法陣を描いて生贄を捧げた?
その寝言を受け容れられるなら、…俺は今、この部屋にいる人間を全て信じることができるのだ。
だが、下らない常識が邪魔をする。
……魔女なんて存在しないと何度も繰り返す。
……なら、…………この中に、犯人がいるのだ…。
いつ止むとも知れぬ雨音の中で、俺たちは沈黙を拭えない…。
▲第10アイキャッチ:10月5日(日)09時30分 が13時00分に進む
昼食が終わり、使用人たちは食器を下げ、厨房にいた。
風雨は強くも弱くもならず、この島を異界に切り離したままだ。
夏妃は当初、誰も部屋から一歩も出さないつもりらしかったが、さすがにそれは無理だと、昼食の準備の時間になってようやく気付く。
ただし、厨房にひとりでいることがないよう、使用人たち3人で行くように言われた。
その為、11人もごった返して空気が澱んだ客間を、最初に出る権利を得たのは使用人たちだった。
……あのような事件があった直後ということもあり、朝食が進まなかった者も多かったため、昼食はみんな無言でもくもくと食べた。
「私が洗いますから、源次さんと嘉音くんは、少し休んでいてくださいな。…何か飲みます?」
「………私は結構。………嘉音は?」
「……僕も結構です。」
「お二人とも、早朝から大変だったでしょう…。参ってしまうのも仕方ないことですよ…。」
厨房の中を、熊沢が食器を洗う音だけが響き渡る。
源次と嘉音は、少し離れたところにある椅子に座り、軽く目を閉じていた。
熊沢の言う通り、二人とも疲労が溜まっているのだろう。
だからと言って、親族たちの前でそれを見せることはできない。
…それが彼らの美徳だった。
しばらくの間、沈黙が続いた後、………嘉音がぽつりと口にした。
「……………紗音…。……………どうして…、あんな酷い死に方を…。」
「……死に方のことは忘れなさい。………ただ、…運がなかっただけだ。」
「………そうですね。…ただ、運がなかっただけです…。」
二人は再び沈黙する。…嘉音の表情は悲痛だった。
「紗音ちゃんが死んじゃったなんて…。未だに信じられませんよ。……本当に可哀想に…。……もう会えないなんて嘘みたいですよ…。もう一度あの子の笑顔が見たかったのに…。」
熊沢は背を向けたまま言う。
…紗音の遺体を見ていない熊沢だから、もう一度笑顔が見たいと表情のことを口にできる。
…嘉音はその言葉を聞き、半分しか残されなかった紗音の面影を再び思い出し、悲痛な表情をさらに歪めた…。
「………どうしてベアトリーチェさまは紗音を…。……生贄が欲しかったなら、他にも大勢いただろうに…。……どうして…、……どうして…!」
「………ただ、運が悪かっただけだ。…少しの運が違えば、紗音の代わりにあそこに横たわっていたのは、私だったかもしれないしお前だったかもしれない。
あるいは他の誰かだったのかもしれない。……全ては運命だ。」
「源次さま。………奥様の部屋の扉に、血のような跡が付いていたと仰っていましたね…? シャッターに描かれていたのと同じもので?」
「……うむ。…気味の悪い跡だった。まるで、血の付いた指でドアノブを引き抜こうとするかのような、…いや、扉を掻き破ろうとしたのか…。…そんな気味の悪い跡だった。」
「ベアトリーチェさまが、奥様の部屋を訪れて、……そして、扉を開こうとしたけれど、開けなかった…、ということでしょうか…?」
源次は夏妃の部屋の扉の、あの血の跡のようなものを思い出す…。
ドアノブの周りに付着したそれと、掻き毟ったような痕跡は、ドアを開けたかったが開けられなかった、
というように確かに見えた…。
「…どうして、………奥様は生贄を免れたんだ…。もし奥様が選ばれてたなら、……紗音は、……紗音は、死ななくて済んだのにッ…。」
その時、廊下からコツリと音がした。二人は驚き、振り返る。
「……………………面白そうな話じゃねぇか。 俺も混ぜてくれよ。」
厨房の入口にはいつの間にか戦人の姿があった。
「……戦人さま。これは失礼いたしました…。」
源次さんと嘉音くんは驚いて立ち上がり慌てて頭を下げた。
…だが俺にとってはそんなのはどうでもいい。
今の話の続きの方が大事だった。
「便所って言って抜けさせてもらったのさ。ずっとあの部屋に閉じ込められてると窒息しちまいそうだったからなぁ。…水でも飲ませてもらおうかと思ったら、面白そうな話が聞こえてきたんでよ。……頭なんか下げなくていいぜ。今の話の続きを聞かせてくれよ。」
「…………今のは、……別に……。」
「ちょいと前から話は聞かせてもらってるんだ。今さら隠すなよぅ。…………だから短刀直入に聞くさ。…ベアトリーチェってのは何者だ? どうやらお伽噺の魔女、ってだけじゃなさそうだな。」
「……………………。」
嘉音くんは目線を逸らした。
…聞かれたくない話題であったことが見え見えで、…だからこそ一層聞きたくなっちまう。
俺は努めて笑顔を見せながらその胸倉を掴み上げた。
「……昨夜までなら俺は無関係さ。だがな、今朝からは違う。親父たちを殺された時点で、俺は立派な関係者だ。………俺にもその胡散臭そうな話を聞かせてもらう資格があるはずだぜ…?」
それでも苦しそうに逸らし続ける嘉音くんの目を睨み込んでやる。
…身長差がだいぶあるため、嘉音くんは爪先立ちになり少しだけ苦しそうだった。
「…………戦人さん…。…手を離してやってくださいな…。別に嘉音さんは隠しているわけではないのです…。」
「じゃあ話してくれたっていいじゃねぇか。仲間ハズレたぁ寂しいぜぇ?」
さらに嘉音くんの胸倉を捻りあげようとすると、源次さんが割って入りながら言った。
…その表情にはわずかの覚悟がある。
……隠す気はないらしかった。
「………お話しすることはできます。……ただ、戦人さまがお気を悪くされるかもしれませんから、嘉音は躊躇しているのです…。」
「躊躇なんて男らしくねぇぜぇ? 内緒にされる方が気持ち悪いさ。……聞かせてくれよ。どうせ明日までできることはないんだ。多少は胡散臭い話の方が退屈も紛れるってもんだぜ。」
源次さんと嘉音くんは互いの顔を見合った後、話す覚悟を決めたかのように頷き合う…。
「……わかりました。何でもお聞き下さい。…………お話しします。」
「あぁ。じゃあ聞くぜ。……ベアトリーチェってのは一体何なんだ。…俺が知ってる限りでは、六軒島の森に住まう魔女ってことになってる。…森に入ると危ないからってんで、祖母さま辺りが作り出した脅し話だって聞いてる。……違うのか?」
「…………いえ、…違いません。その通りです。ベアトリーチェさまは、六軒島の森に住まわれる魔女であらせられます。」
「……戦人さま。………にわかには信じられないでしょうが…。ベアトリーチェさまは存在するのです。…お館様に莫大な黄金を授け、長いことお側にお仕えした、実在する方なのです。」
「はぁ…? よせやい、よせやい…。祖父さまの受け売りを言うのも給料の内だってぇのか…?」
俺は茶化すように笑うが、源次さんも、嘉音くんも、……慌てて目を逸らして食器を洗い始める熊沢の婆ちゃんも、誰も笑わない。
だから仕方なく、俺だけが笑った。…苦しく、苦く。
「……なるほど、源次さんが断るだけはあるぜ。…こいつぁ確かに、正気じゃあ気を悪くする。……………つまり、ベアトリーチェっていう名の人物は実在するんだな?」
「……はい。お館様がこの島にお屋敷を構える以前から、ずっとお仕えしている方でございます。…恐らく、私よりも長くお仕えしているでしょう。」
「何てこった、霧江さんの仮説は外れたな…。……祖父さまに、ベアトリーチェという名の腹心は実在したってわけだ。……そいつは今、この島にいるんだな…?」
「……………はい。いらっしゃっていると思います。」
「…曖昧な言い方だな。ってことは、昨日今日、そいつの顔を見たってわけじゃなさそうだな。」
「……はい。…………大変申し上げ難いのですが…、…その…。」
嘉音くんがそこで一度俯き、再び目線を逸らす。
「…何だよ、そこで切るなよぅ。寸止めみたいで気持ち悪いぜぇ?」
俺は再びおどけた仕草をしながら先を促す。
…しかし、嘉音くんは言っていいかどうか、まだ迷っているようだった。
………すると、熊沢の婆ちゃんがボソリと言った。
「…ほっほっほ…。お顔を見ようにも、………ベアトリーチェさまには、お姿がありませんから…。」
「………お姿が、………何だって?」
「ベアトリーチェさまには、お体がありません。…ですからベアトリーチェさまがお望みにならない限り、私ども凡庸にはお姿を見ることすら叶いません。」
「ベアトリーチェさまが人の姿をされていた頃の絵が、あの肖像画のものなのだとか…。……そのお姿を懐かしみ、よく肖像画の前にたたずまれているそうな…。…ほっほっほ…。」
「ベアトリーチェさまは時折、輝く蝶の姿に身を変えられて現れることがあります。……万一、お屋敷の中でお見掛けした場合には、決してその後を追ってはならない決まりです。追えば不幸があると囁かれています。…その禁を破り、大怪我をして辞めた使用人も実際にいます。」
「……おいおい、マジかよ。あんたら本気でそんな話をしているのかよ……?」
「…戦人さま、すでにベアトリーチェさまがお越しになっておられます。そのようなお言葉は、よろしくないかと思います。」
「ベアトリーチェさまは、ご自身を冒涜される方を好みません。……その存在を疑えば、必ずや不幸が降りかかるでしょう。」
「戦人さん…、気持ちの悪い話とお思いでしょう。ですがね? ベアトリーチェさまは“い”るんですよ?」
「……“い”ます。それを疑われることを、ベアトリーチェさまはことの他、嫌われます。」
「…………わかりませんか、戦人さま。……ベアトリーチェさまは、今すでに、ここにお越しになっております…。」
「…おいおい、よせよ。俺、そういうのは弱いんだぜ…? 脅しっこなしにしろぃ…。」
だが、使用人たち3人の目に冗談めいたものは欠片ほども見当たらない。
俺の上辺だけの強がった笑いが、みるみる乾いていく。
…彼らの目も、みるみる乾いていく。
「……戦人さん…、お願いですから、ベアトリーチェさまを冒涜することはおやめ下さい。悪いことは申し上げません…。」
あの、いつも朗らかで人をからかってばかりいる熊沢の婆ちゃんが、……今まで一度も見せたことのない、乾ききった顔でそう言う。
「………い、……いや…。いるって言われてもよ。俺には何も見えないぜ…? 今、俺の隣にいるとでも言うのかよ? 冗談よせやい…。」
「きひひひひひひひひひひひひひひひひひ……。」
その時、あの薄気味悪い笑い声が突然、厨房中に響き渡った…。
…振り返れば、入口にいつの間にか真里亞の姿があった。
…だがその表情や雰囲気、気配は、…使用人たちとまったく同じものだった。
「…波長の合う合わないは生まれつきだよ。戦人は、生まれつき波長が合わないタイプなんだよ。だから見えない、会えない、話せない。…きひひひひひひひひひひひひひひひ。ベアトリーチェの一番嫌いなタイプだよ。」
真里亞はさもおかしそうに、…だけれども不気味に笑う。
……まるで、この中で俺一人がわかっていないというような笑い方だった。
「ベアトリーチェのことが知りたい? …………ベアトリーチェはね、千年の魔女なんだよ。……あらゆる悪魔を使役し、錬金術を究め賢者の石を生み出し莫大な黄金を生み出すことができる。お祖父さまは彼女と契約することで右代宮家に莫大な富を築いたんだよ。……昨日、私がベアトリーチェの手紙を読んだでしょ? あれはホントウなんだよ。…まぁ、戦人に信じろと言っても無理な話だろうけど。…六感が、生まれつきサッパリみたいだからね。きひひひひひひひひひひひひひひひひひ…!」
「……何だよそれ。魔女ぉ、悪魔ぁ? そんなの誰に聞いたんだよ…。」
「きひひひひひひひひひひ。ベアトリーチェ本人に聞いたんだよ。きひひひひひひひひひひひひひひひ!」
気持ち悪い笑い声を上げ続ける真里亞。
…しかしそれを見守る使用人たちの表情は眉ひとつ歪みもしなかった。
あの、玄関ホールに飾ってある肖像画の魔女に、聞いた。
それ以上でも以下でもないと、真里亞は奇声で笑い続ける…。
「…真里亞、聞くだけ野暮だろうがもう一回聞くぜ…? 昨日、真里亞にあの手紙を渡したのは誰だ。」
「ベアトリーチェにもらったって、何度言えばわかるかなぁ?……わかんないよね? 見えないんだもんね。信じられないもんね? …きひひひひひひひひひひひひひひ。」
そこでピタリと、真里亞は笑いをやめる。
「………戦人。まだわかんない? ベアトリーチェさまが“い”るのが。」
「“い”るって、………どこにさ。」
「だからベアトリーチェさまが、ここに、“い”るのが。」
……そうさ。
思えば、さっきからずっと使用人たちの目の焦点がずれていると感じていた。
…みんなぼんやりとしているなんて思っていたが、……そうじゃない。
ここにいる、源次さん、嘉音くん、熊沢さん、…そして、真里亞の4人は、……俺を除く全員は、……………俺のすぐ後を見ているのだ……。
俺は硬い唾を飲み込みながら、ゆっくりと背後を、肩越しに見る。
…もちろん、そこに誰がいるわけもない。
そんなことはさっきからずっと承知してる!
………しかし、この部屋にいる俺以外の全員が、そこにいるらしい人物に焦点を合わせているのだ。
「ベアトリーチェは千年を生きた偉大な、黄金の魔女。……でも、波長の合う人間にしか自分の姿を見せられないし、話しかけられない。…だからね? それがとても悲しいんだよ。…だから、戦人みたいな、生まれつき魔法のセンスもカケラもない人に、存在を否定されるのがものすごく嫌いなんだよ…!………戦人は幸運だよ。昨日、私にお守りをもらっていて良かったね? それを身につけてなかったら、今頃、ベアトリーチェのどんな呪いが身に及んでいたかわかったものじゃない。…ホントウに幸運なんだよ戦人は。きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ…!」
「………あぁ、あのサソリのキーホルダーかよ。あれって安っぽい景品か何かだと思ってたんだが、ちっとはご利益あったってことなのかぁ?」
「きひひひひひひひ。それがなかったら今頃、戦人があの倉庫の中で顔面を砕かれて生贄にされていたんだよ。きひひひひひひひひ、幸運だったよ戦人は…! きっひひひひひひひひひひひひひ!」
「……そうか。あれがなかったら、俺は今頃殺されてたってのか……。」
「何で戦人はベアトリーチェを信じないの…? “い”るのに。今、そこに、ほら。きひひひひひひひ! ね、信じる気になったでしょ。信じなよ。真里亞にお守りをもらったことを感謝しながら…!あれがなければ、戦人は今頃倉庫の中。代わりに誰か1人が助かっていたかも知れないね? きっひひひひひひひひひひひ!」
ぷ。
……俺はそこで笑いが堰を切る。
魔女ごっこは確かに途中まで面白かったが、最後のツメは、残念だが綺麗に決まらなかったらしいな。
「ふっはっはっはっはっはっはっは。……じゃあ全然駄目だぜ、真里亞ぁ? ってことなら悪いが、あぁ全然駄目だ。」
真里亞は俺が突然笑い出すのを見て、笑うのを止める。
俺が何を笑っているのかわからず、不快そうなのがよくわかる。
「…………………………。」
「お前が傷つくだろうと思ったから、俺、黙ってたけどよ。……お前にもらったお守りよ、俺、ポケットに入れたつもりだったんだけどよ。どっかに落っことしちまったんだぜ?……だから俺が今この瞬間に無事なのはお守りのお陰でもねぇし、なら魔女さまの呪いがあって当然なのに、今この瞬間もピンピンしてる。……悪いが俺は自分の目で見たものしか信じねぇ。第六感? 波長? 魔法のセンス? 悪いが俺はそういう眉唾なモンは一切信じねぇぜ。クラスの女が、霊感がいいの悪いのって言い出すのを聞いてると虫唾が走るのさ! …あんたらがいくら祖父さまに給料もらってるか知らねぇが、俺を妙な宗教に勧誘しようったって、そう簡単には行かねぇってこと、よく肝に銘じておきやがれってんだ。」
「……………戦人さま…。」
「…嘉音くんたちが信じるのは自由だぜ。だが、俺が信じるかどうかは、常に・俺が・自分で決めるッ! 悪ぃが、この目で見るまで、ベアトリーチェなんて胡散臭いものの存在を信じるわけには行かないぜ…!!」
力強く啖呵を切ってやる…。
すると真里亞も再びけたけたと笑い出す。
「きっひひひひひひひひひひ…! ならそれでいいんじゃない…?
いずれ、お前のような、波長が全然合わない人の目にもベアトリーチェは見えるようになる。………もうじき、蘇るんだよ。ベアトリーチェはね。……そうしたら、一緒にいっぱいお話をしたり遊んだりしようって、約束してるんだよ。…疑う必要も、無理に信じる必要もまったくない。……現れるんだよ、もうじきね。きひひひひひひひひひ…!」
■廊下
食事が終われば、便所に行きたいヤツもいれば一服したくなるヤツもいる。
俺が厨房へ水を飲みに行ったように、客間から外出した人間は少なくないようだった。
結局、夏妃伯母さんの、全員客間に缶詰の号令は、ひとりにならないこと、客間から離れないことが守られるならと、渋々ではあるが撤回されることになった。
何しろ11人も人間が早朝からずっと同じ部屋に篭っていれば、空気だって澱もうってもんだ。
…それに、多少の時間が経ち、みんなが朝のショックから立ち直れてきたこともあるし、危機感が薄れてきたこともあるのかもしれない。
……だが、この屋敷の中で6人もの人間が殺されたのだけは、疑いようもない事実なわけで、誰もが完全に油断しきっているわけではなかった。
だから、ほんのちょっと悪ぶって廊下の空気を吸うと、……そこにぽつんといるのが怖くなり、結局は客間に戻ってくるのだった。
…ほらあれだ。北風と太陽ってヤツ。
無理に閉じ込めようとするとみんな抵抗するが、じゃあどうぞお好きにというと大人しく戻ってくる。
人間ってのは天邪鬼なもんだ。
………使用人たちは、食器の片付けが済むと、夏妃伯母さんの言い付け通り、客間に大人しく戻ってきて、入口に近いソファーに座り、じっと待機していた。
真里亞は、魔女ごっこは終わったとでも言うかのように、俺のよく知る無垢な真里亞に戻って、うーうー言っていた。
…さっきのあれは一体何だったってんだ。
………俺は、自分の後にベアトリーチェなんてヤツが透明な姿で立っているなんて気配は微塵も感じることができなかった。
…だが、真里亞の中には、その気配をわずかに垣間見た気がする…。
「確かに。真里亞ちゃんは魔女とかの話になると人が変わるね。…昨日、海岸で戦人くんも見たでしょ?」
「あのサソリのキーホルダーの時か。…いや、あんな機嫌を損ねるみたいな感じじゃなくてよぅ。まるでその、二重人格みたいな感じで。」
「あぁ、たまにそういうこともあるな。……さっき、真里亞が魔法陣の話を始めた時みたいなやつ、たま〜にあるぜ。気持ち悪いけどな。」
朱志香の話によると、あの、きひひひひひと笑う真里亞は、たまに見掛けるものらしい。
タイミングがタイミングだったし、しかも俺は初めて見たから度肝を抜かれたが…。
「あれってのは何なんだ? 真里亞は二重人格か何かなのか。それとも本当に霊感が強かったりとかして、そういうのに憑依されたりとかしちまうのかよ。」
「…うーん、そういうのじゃないと思うよ。戦人くんにも経験ない? 小さい頃、自分以外の誰かになりたかったなんてこと。」
人間、生まれたばかりの時は誰だって没個性だ。
ところが成長期を迎え、自我ってやつが生まれ始めると、没個性なのが許せなくなる。
人と違う何かを持ちたくなる。
…しかしだからと言って、学校で等しく同じことを習い、同じ生活を強いられている自分に、クラスの他の連中と違う何かを得られるはずもない。
すると最初に始めるのはルール破り、いわゆる反抗期だ。
みんながルールを守るから、自分だけルールを破って個性を示したい。
…周りを子どもっぽいと言って馬鹿にしながらワルぶる連中も、こうして見りゃあ可愛いお子様の自分探しってわけだ。
……なんて、偉そうに講釈を垂れてるが、この辺は譲治の兄貴の受け売りだ。
俺自身、小悪党ぶっててそれがカッコイイと思ってきた恥ずかしいヤツでもある…。
まぁ、そうして目立って、異性の気を引きたいお年頃もあったと。
「成長期の根底には子どもから脱却したいという、ヒヨコが殻を破るのに似た衝動がある。子どもと大人の違いは何かわかるかい?」
「年齢? それとも体格?」
「違うよ、経験だよ。大人が子ども見下すのは人生経験が少ないからだよ。子どもが何を言っても鼻で笑ってしまうのは、世間知らずのくせにと見下しているからだよ。」
「あぁ、そういうのわかるぜ。子どもの頃って、妙に人生ってもんを悟りきったようなことを口にして、年長者ぶりたくなるよな。…大人は子どもが何を言っても、世の中甘くないとか、社会に出ればわかるとか鼻で笑ってる。…まぁ、実際そうなんだけど、子ども的にはそういうのって見下されてるみたいでムカつくんだよな。」
「……なるほどな。知識や経験の有無か。…確かに年齢だけ無駄に食ってても尊敬はされねぇよな。」
「となるとつまり、子どもから脱却したいという衝動を持つ時期に、かつ他者とは違うという個性を持ちたくなる。子どもからの脱却がつまり、知識や経験なのだとしたら?」
「…………なるほど、他人の持ち得ない知識を持つことが、ひとつのアイデンティティになるわけか。」
「小学校の頃なんかさ、クラスの誰も知らないことを知っていたり、持っていたり、身につけていたりするとヒーローになれたよな。戦人もそういう経験あるだろ。」
「あるある。何か一芸に秀でたいと思うお年頃って確かにあるな。…なるほど、それが子どもからの脱却、つまり成長期ってわけか。」
「健全な意味での成長期は、そうして没個性を脱却するために、人が持たない知識やスキルを身につけることを促す。…これは社会学的にも面白いことだよ。人が没個性を嫌うために、人と違う技術を身につけようとする。これにより社会は幅広い技術を獲得して立脚する。…神々の高度なプログラミングに驚かされるね。」
「まぁ、個性がネガティブに働くこともあるぜぇ? クラスみんなが真剣に勉強してるから、俺だけはサボって目立とうとかよ。」
…そりゃー、俺のことだがな。
そんな俺を放課後にビンタしてくれた中学の先生には、ようやく最近になって感謝できるようになったが。
「でもまぁ、誰も飛べない跳び箱を飛んでやりたいとか、成績のいい連中を周回遅れにさせてやるぜってマラソンで全力疾走とか、そういう気持ちはあったなぁ。…勉強は駄目だったから、少なくとも運動では見返してやるぜって根性はあった。……なるほど、ちゃんと成長期してるな俺。」
「男子って、やっぱり肉体的な方面に関心が向くよな。でもよ、同じ時期に女子は、精神的な面に向きやすいんだよ。……戦人のクラスの女子にも、占いとか霊感とか、そんなこと言ってる女子連中のグループがあったりしただろ。」
「あーあー、あったあった! 人の星座とか血液型とか聞いてきて、あーやっぱりぃ、クスクス! とか笑われると大いにムカついたもんだぜ。どこのクラスにいっても女子は、占いが好きだし、決まって霊感に強いだの弱いだの、感受性がどうこう、見えないものが見えちまうだの、そういう手合いが必ずいたもんだぜ。」
「占いも霊感も、学校では教えないものだからね。男の子と違い、内向的な世界に関心を持ちやすい女の子にとって、それはアイデンティティを確立しやすくて、かつ興味深いジャンルなんだよ。」
「男子が成長期に入ると、急にワルぶったりして大人に反抗を始めるのとまったく同じに、女子も成長期に入ると、そういうのに興味が出るようになるんだよ。……私はそうでもなかったけどさ!」
「……つまり、真里亞がオカルトに関心を持つのは、年頃の女の子としては、そう珍しくもないってことか。」
…そこまでは納得できても、…あの気味の悪い二重人格のようなものは説明できるのだろうか…
。…………いや、何となく納得できるような気がする。
「さっきも言った通り、大人になるというのは、知識や経験を持つことを言う。だから、それを得るために子どもたちは色々なことを学んで子どもを脱却しなければならないんだけど。
…子どもの世界に今も昔も蔓延っている、ある便利な妄想があるんだよ。わかるかい?」
「漫画やアニメに多いだろ? ほらアレだよ。前世の記憶が蘇って、とか。偉大なる何とかの魂が乗り移って、とか。」
「あー、他にも遺伝子が覚醒したりとか、封印されていた能力やら記憶やらが戻ったりとか、色々あるな。どういうわけかあの時期はそういうのがやたらと流行るもんさ。…どうしてだ?」
「今あげたキーワードは全て、子どもの自分に、知識や経験を直ちに付加できる幻想だからだよ。9歳の女の子も、千年を生きた魔女が私に憑依していると言い出せば、1009歳のアイデンティティが得られるわけだからね。」
「まぁつまり、勉強するのは面倒臭い。でも人とは違うスキルを持って周りに威張りたい、チヤホヤされたい、っていう連中にとっては、便利な妄想なんだよな。」
勉強せずに、ラクして威張れる。
……なるほど、子どもの願望そのものなわけだ。
「あとは、子どもからの脱却願望には、必ず自分の理想像の自己投影が行われ、その願望の姿が別人格として形成されることが少なくない。戦人くんだって、家と学校では多少キャラクターが違うということがあるんじゃないかな? 多分、家での自分の姿を、クラスの友人たちに見せるのは恥ずかしいはずだよ。学校の自分は、自分のなりたい姿の投影で、家の自分は本来の姿だから。」
「………つまり、キャラクターの使い分けというか、……人格の多重化はごくごく当り前だと言いたいわけか。」
「オカルトが好きな女子は、それを憑依と言ったり覚醒と言ったりするぜ。正直、ドン引きするくらいにキャラを変える子もいるよ。……男子にもいるだろ? キレたとか言って、やたらめったら粗暴キャラに変身するヤツが。あれ、本人はカッコいいと思ってるんだろうけど、見ててイタイよな。」
「つまりおさらいするとだ。…真里亞くらいの年頃の女の子が、さっきみたいな不気味な二重人格みたいなのを見せても、それほど珍しいものじゃないと言いたいのか…?」
「簡単にまとめるとそういうことだね。…アイデンティティは自己を形成するための大切なもの。それを馬鹿にしたりすると、かえってその殻に閉じ篭ってしまうこともある。だから、ほどほどに付き合ってあげるのが大切なんだよ。…それを丸ごと受け容れてあげるのが、親の包容力というものなんだけどね。」
「……兄貴、それで独身って信じられねぇぜ…。もう子どもが中学くらいに上がってそうな貫禄さぁ。………じゃあ、楼座叔母さんもあの真里亞の二重人格についてはよく知っていたのかな。」
「知ってたぜ。………ここだけの話、楼座叔母さんはすっごく嫌がってた。気持ち悪いし、クラスでますます孤立を深めるだけだって。だから楼座がオカルトの話を始めたり、魔女みたいな声で笑い出したりすると、必ずビンタしてたぜ。…だから真里亞も、楼座叔母さんがいる時にはそういう話をしないようになったみたいだけど。」
………成長期を迎えた女の子に起こる、ちょっとした遊びみたいなものなんだろうか。…さっきのあれは。
人と違う何かを身につけて没個性を脱却したいと願った少女が、オカルトや魔女に興味を持つ。
…そして、幼い自分とは違う自分を持ちたくて、真里亞が理想とする魔女的人格を持ち、使い分ける。
………それは最初、非常に不気味なものだと思ったが、こうして譲治の兄貴に諭されると、誰もが一度は通る道だと言う気もしてくる。
……俺も内緒だが、幼稚園の頃は、地球の平和は俺たちで守るとかいって、悪ガキたちと一緒に地球防衛軍を結成していたような。
戦闘訓練と称してEDF!EDF!と連呼していたことを思い出すと赤面しちまうぜ…。
真里亞はけろっとしていて、相変わらず、うーうーきゃっきゃと年頃の女の子らしい笑い声をあげながらテレビに没頭している。
……でもその内面には、彼女が憧れ、妄信する魔女を理想としたもうひとりの人格が眠っているのだ。
でもそれは異常なことでも何でもなく、年頃の女の子のひとりとして、当り前なこと…。
…………少し、落ち着いた。
さっきの厨房での奇怪な経験のショックが和らぐ。
…兄貴たちと話をしなかったら、俺は今も背後に、姿の見えぬ魔女がひたひたとつけて来る妄想に怯えていたかもしれない。
…しかし、……本当にそれだけでさっきの出来事を納得してしまっていいのだろうか。
真里亞ひとりの問題だったなら、成長期の女の子の、気まぐれな妄想と片付けることもできた。
…しかしあの場には、源次さんも嘉音くんも、そして熊沢の婆ちゃんまでいた。
彼らは誰も真里亞のそれを否定しなかった。
………無言で、ベアトリーチェが“い”ることを肯定していた。
何だか、気分が悪くなってくる…。
絵羽伯母さんは19人目など存在しないと主張し、親族のゴタゴタに絡む内部犯行の事件だと断じている。
一方、夏妃伯母さんはこの屋敷の外に犯人が潜んでいると主張している。
それは即ち内部犯行の否定、19人目の肯定だ。
そして厨房で真里亞は、そして使用人たちまでもが19人目を肯定した。
だが、彼らが断じた19人目は人間ではなかった。
……不可視の魔女が、怪しげな何かをしでかしていると言い出すのだ。
19人目は、いるのか、いないのか。
そして犯人は、人間なのか、魔女なのか。
いずれの話も、なぜか笑い飛ばせない。
…一番滑稽なはずの魔女の話さえもだ。
「……朱志香。ベアトリーチェの話ってのは、俺の認識では、森に子どもたちが迷い込まないようにってんで作った、大人の脅し話だってことになってんだが。…この屋敷じゃ違うのか…?」
「…………んー…。私も戦人と同じ意見だぜ?こんなのは子どもに言うことを聞かせるために親が作った間抜けな怪談だと思ってる。……でも、そうだと口にはできない空気が屋敷内にあることは否めないな…。」
「……お祖父さまが、ベアトリーチェは存在すると公言されているからね。使用人たちは立場上、それを疑えないし。蔵臼伯父さんたちも、お祖父さまと喧嘩がしたいわけもないから、表向きは口を揃えてる。……だから多分、このお屋敷では、ベアトリーチェの存在を疑うことは、ある種のタブーだと思うんだよ。年に一度しか来ない僕たちと違ってね。……そうでしょ?」
朱志香は感服したかのように大きく息を漏らす…。
どうも、兄貴の見立ての通りらしい。
「……譲治兄さんの言う通りだぜ。みんな腹の中じゃ信じてるわけじゃない。…でも、表向きはその存在を認めてる。ほら、神さまの存在を認めるような、そんな雰囲気だよ。実際にはいないことを知ってても、それを口に出して否定したら野暮みたいな空気だな…。」
「……使用人たちの間ではどういうことになってんだ? やっぱり、雇い主の祖父さまが“い”るって言ってんだから、それに口調を合わせてるわけか…?」
「さぁ…。詳しくはわからないけど、……使用人たちの間では、ベアトリーチェの話は、ある種の怪談扱いになってるよ。…ほら、昨日、海岸で紗音が話してくれたろ? 夜、見回りをしている時、不気味な何かを見かけたとか、そういう話。」
言ってたな、そんな話…。
あの時は、機嫌を損ねた真里亞に合わせてくれてるんだろうと、深く気に留めなかったが、…確かに大真面目に言っていた気がする。
……そうだ。確かに言っていた。
…さっき、厨房で源次さんたちに口々言われたのと同じようなことを確かに言っていた…。
「他にも、鬼火や輝く蝶々が舞っているのを見たという使用人も。……嘉音くんもそれらしいものを、以前、夜の見回りの時に見たことがあると言ってました。あと、最近ではお屋敷の中で深夜に、不思議な足音をよく聞くと使用人の間で話題です。私たちは、肖像画の中のベアトリーチェさまが姿を消してお屋敷の中を散歩しているんだろうと囁き合ってるんですよ。…ずいぶん前ですが、私もそうかもしれない足音を、夜の見回りの時に聞いたことがあります。」
……そうだ。確かにそう言った。
それはさっき聞かされたのとまったく同じ話だ。
「あ、…でも、怯えることはないんですよ? ベアトリーチェさまはお館様とは異なる、もう一人のお屋敷の主です。だから変に怯えたりしないで、敬意を持っていれば、決して悪いことはしないのだそうです。」
「ただし、敬意を持たないと恐ろしいんだったね?」
「…はい。私が勤めを始める直前に、階段を転がり落ちて腰に大怪我をして辞めた方は、ベアトリーチェさまのことを悪く言っていたそうです。だから使用人たちは、ベアトリーチェさまのお怒りに触れたのだろうと噂しあったそうです…。」
「……敬わないと、お怒りに触れて怪我をする。…つまり、使用人たちにとってベアトリーチェって存在は、お稲荷さんにイタズラしたら、おキツネさまの崇りがあるってくらいには信憑性があるわけだ。」
確かに、祟りなんて存在しないと誰もが認めるこの現代であっても、…人はそれを恐れ、最低限の敬いを残している。
家を建てる時に、神主さんを呼んで土地の神さまに敬いを示す儀式は、住宅地でもよく見かけるはずだ。
…あんなの時間とカネの無駄遣いだろうと思うかもしれないが、職人たちはこれをやらないと必ず大きな事故があると言って、決して疎かにしないという。
稲荷神社を区画整理なんかで不用意にどかすと、おキツネさまの崇りがあるってのも聞く話だ。
占領軍が飛行場を拡張しようとして、邪魔なお稲荷さんをどかそうとしたら、作業員が次々と謎の高熱で倒れたなんて話をどこかで読んだことがある気がする。
近代的なビル街でも同じで、まるでそこだけを避けるように、近代的ビルが昔ながらの稲荷神社を挟むように林立しているというのは、東京でも珍しい景色ではない。
何も日本に限ったものじゃない。
多分、外人が赤ん坊に洗礼を受けさせるのも似たようなもんだろう。
確か、キリスト教の教義じゃ、洗礼を受けない魂は一番罪が軽いとは言え、地獄送りの要件を満たしていたはずだ。
赤ん坊の額に水なんか掛けたって子どもが泣き叫ぶだけだ。
でも、それだけの手間で、子どもが地獄行きを免れられるなら、親はそのお呪いを喜んで行うだろう。
……つまり、これほどに合理的な近代社会を迎えながら、それでもなお我々は、ある種の信仰と畏怖を捨てられずにいるのだ。
…それは消極的ではあっても、ある種の超常的存在の肯定とも言える。
この島では、それが、ベアトリーチェという名で崇められている、というだけのことなのか…。
「…じゃあつまり、この島で、とても人間業とは思えない何かが起これば、それはベアトリーチェの仕業だ、となるわけか。………紗音ちゃんも言ってた気がするな。ちゃんと締めたはずの窓や扉や鍵が、もう一度見回りに来たら開いていたとか。消したはずの灯りが付いていたり、付けたはずの明かりが消えていたりとか。……で確か朱志香は、朝、出掛けようとしたら鞄が見付からないのもベアトリーチェの仕業だってふざけたんだよな?」
「よく覚えてるなぁ。…普通なら小人さんが隠したとでも言うところが、この島ではベアトリーチェが、になるってだけの話だぜ。まぁ、そんなくっだらない話さ。」
「このお屋敷も、築30年くらいになるそうだからね。それだけになれば、多少の怪談やオカルトは生まれてくるものだよ。学校の七不思議なんかのようにね。」
「…………………そこで、“チェス盤をひっくり返す”ぜ…?」
「え?」
「………つまり、この島では、人間にはできないことはベアトリーチェの仕業と置き換えることができるルールがあるってわけだ。人間にはできないこと。……人間は何人だ? 18人だ。…………つまり犯人は、この島のルールに則って、この事件は魔女の仕業だとアピールしてることになる。つまりそれは、19人目の仕業ですよと、訴えたくて仕方がないわけだ。…………気に入らねぇぜ。全然気に入らねぇ。」
「気に入らないって、何がだよ…。」
「…………仮に、不可視の19人目が存在して、そいつが自分の存在をアピールしたいなら、……俺ならもっと完璧なタイミングでやるぜ?」
「……完璧なタイミングで、ってのはどういう意味だい。」
「…あぁ。だって、事件は深夜から未明に掛けて起こったろ? 深夜まで話し合いをしてたり、夜勤をしてたり、あるいは部屋に帰って寝ていたり。…どいつもこいつもアリバイがあやふやで、充分、内部犯行が疑える段階だ。譲治の兄貴も、絵羽伯母さんに聞かされてるんだろ? 内部犯行の可能性が高いって話。」
「…ん、……うん。…まぁね。」
「……つまり、不可視の19人目が実在したなら、最初の事件は自分のアピールに失敗してるんだ。…いや、そもそも時間帯がミステイクだ。不可視の19人目をアピールするためには、死んだ
6人以外の12人が全員シロであることが確定している状況下で行われなければならない。疑わしい人間がゼロにならなきゃ、自分の存在をアピールできないんだよ。だから、全員のアリバイが一番あやふやになる深夜の時間帯は、19人目にとって自分が一番あやふやになる時間帯でもある。にもかかわらず、その時間を選んで犯行に及んだ。」
「……そんな時間に犯行を起こせば、18人の誰かが疑われるのは明白。…にもかかわらず、真里亞に手紙を渡して魔女を名乗り、誰もが自分でないと否定している。」
「つまり、……ベアトリーチェという19人目がいるように見せ掛けたい人間が、18人の中にいると、こう言いたいのかよ…?何だかぶっ飛んだ発想だな……。…まだお袋の、屋敷の外に不審者が潜んでいるって話の方が信憑性があるってもんだぜ…。…まさか戦人は、この客間の中に犯人がいると疑っているのかよ…?」
「あぁ。…何者かが、俺たちにベアトリーチェが存在すると、認めさせようとしている。……そうさ、昨夜のあの手紙からもう事件は始まっていたんだ。…証拠も根拠も何もねぇけどな…。……チェス盤を逆さにした限りじゃ、俺の見立てはこんなところだ。」
「……ぶっ飛びまくってるにも程があるぜ…。妙な推理小説の読みすぎじゃねぇのかよ…。」
「でも、無視できない着眼点もあるね。……19人目がいるかいないかは別にしても、その犯人は確実にこの島のルールに則って、何かを仕掛けてきている。……僕はね、今、戦人くんの話を聞いていて、少しだけ気持ち悪いことを思い出してたんだよ。」
「気持ち悪いことって…?」
「うん。……覚えてるかい? ベアトリーチェの手紙。……ベアトリーチェは利子の回収を行うと言っていたね。そして利子とは、右代宮家の全てだと言った。」
俺と朱志香は、昨夜、真里亞が読み上げた内容を思い返す…。
「…言ってたぜ。確かに言ってた。そして利子の回収をこれから行うが、黄金の謎を解いたら、その権利を失うとも言ってたよな。」
「…お祖父さまは黄金を授かり、右代宮家を再興した。つまり、黄金を資本に生み出したもの全てが利子だってベアトリーチェは言っている。……つまり…、」
「………冗談キツイぜ、兄貴…。……まさか、右代宮家の全て、…つまり、祖父さまが生み出したもの全てってことは、……祖父さまから血を分けた一族のことを指すってのかよ…!」
「あの手紙をそう読み解いたなら、…この殺人はベアトリーチェが行った正当な利子の回収ということになる。…となれば、この事件はまだ続くよ。…利子の回収は、まだ途中なんだからね。」
譲治はぐるりと客間を見渡す。
……右代宮の名を持つ者はまだ大勢いるのだ。
右代宮の姓を持たない使用人たちもこれを免れてはいないことは、郷田さんと紗音ちゃんが殺されたことからわかる…。
「わ、…私たち、………全員を殺すつもりかよ…。…でもおかしいよ譲治兄さん! ならどうして6人だけ? 他に大勢殺せたはず。下手をすれば、寝込みを襲って全員を一晩で殺すことも可能だったはず。どうしてそれをしなかったの?!」
「…………特別条項だよ。…黄金の謎を暴く者が現れたら、利子の権利は失われる。……そして、手紙の最後にはこう結ばれていたはずだよ? …お祖父さまの黄金の謎をみんなで説いてみろとね。」
「ジーザス…! ……ようやく犯人のメッセージがわかってきたじゃねぇか…。つまり犯人は俺たちに、祖父さまのあの碑文の謎を解いてみやがれと言ってるわけだ。……しかも、ぼやぼやしてれば、どんどん利子の回収を進めちまうつもりだ…。」
ぶっ飛びまくった想像をいくつも重ねているのは自覚している。
……だが、世の中の出来事ってのは全てが結びついて線になってるわけじゃない。
…未知の事象のほとんどは点でしかない。
……それらを結んで線にすることで、俺たちは理解をしていく。
その結ぶ線の両端の点は、距離が近ければ近いほど理知的で理解に容易だ。
…そして離れていれば離れているほどそれを欠いている。
ゆえに距離的に、ぶっ飛んでいると称する。
…だが、その結べる距離が狭ければ、発想が狭いとも言う。
発想は推理と異なるのか?
俺は安直な想像で無理やり事件を理解しようとしているだけなのか?
いいや違う。
暗闇の中を手で探る、その探りこそが想像だ。
想像だけが、結ぶべき点と点を見つけ出す。
…推理は、その間に線を結ぶ行為に過ぎないのだ。
想像なくして推理もない。
……俺のしていることは、ぶっ飛んでいるかもしれないが、…間違ってもいないはずなんだ。
想像の力だけが、闇の中から手掛かりを見つけ出す。
……そしてそれを、推理の力で結びつける。
…それは敵の弱点を探し出し、そこを貫くという手順によく似ている。
ぶっ飛んでいてもいい。
弱点をまず探せ。
貫く方法をそれから探す!
今は結ぶ先の点を探す段階なんだ…!
俺は、19人目が存在するかどうかは一旦保留し、犯人の目的が、碑文の謎を俺たちに解かせることにあるのではないかという仮説を発表した。
秀吉伯父さんは非常に強い関心を示してくれたが、夏妃伯母さんは馬鹿馬鹿しいと一蹴した。
「確かに。そう考えるとあの怪しい手紙も納得が行くというもんや。その動機はなかなかええ線を行っとると思うで…! 真里亞ちゃんに手紙を渡したのが誰かはさておきな。」
「うー! ベアトリーチェはいるー!! うー。」
昨日からずっと見せてきた、可愛らしく頬を膨らませるその仕草が、…可愛らしく見ることができない。
…それを茶化すと、突然、不気味な笑い声を上げそうで…。
「…隠し黄金など存在しません。ですが、その存在を妄信する犯人が、お父様の黄金を目当てで、それを私たちに解かせて横領を企んでいるという動機は、なるほどと頷けるものがあります。
しかし、ならばなぜ右代宮家の主要な人物ばかりを最初に殺したのです?」
「………道理ですな。謎を解かせるなら、金蔵さんに近しい人物を先に殺すことは得策ではないはずです。」
「そうねぇ…? それに、その論法で行くんだったら、最初にお父様を脅迫した方が早くない? 私たちに謎を解かせるよりも、本人に答えを聞いた方が早いはずよぅ。」
「確かにその通りや。…もっとも、お父さんが並大抵の脅迫で口を割るとは思えんが。」
「金蔵さんをよく知る方なら、金蔵さんが並大抵の脅しには屈しないことをよく存じているでしょう…。」
「……これだけの財産を持つ右代宮家を背負われる方です。今日まで様々な攻撃や脅迫に晒されてきました。それら全てに打ち勝ってきたからこそ、今日の繁栄があるのです。」
「それに関しては私も同感だぜ。うちの祖父さまが脅されて何かに従うなんて、ちょっと想像もつかないぜ!」
「…朱志香、言葉遣いがはしたないです。」
「…………ぅ、……はい。」
「なら、………こういう発想はどうだろう。……いや、これもぶっ飛んでるか…?」
…俺が躊躇するな。
ぶっ飛んだ発想は弓と同じだ。
…当たり難いだろうが、彼方にいる敵を討つことができる優秀な武器だ。
……研究では、合戦の死者のほとんどは矢傷が原因だったという。
……戦では矢は一本しか飛ばさないわけじゃない。
大量の矢を一度に射て、そして敵兵に面で襲い掛かる。……だから射て、次々と!
“面で真実に襲い掛かれ…!”
「犯人が隠された黄金が狙いってんなら、俺たちに解かせるのは効率が悪い。謎を作った本人に答えを聞く方が手っ取り早いさ。………じゃあさ、これはつまり、…全て祖父さまに宛てたメッセージってことじゃないのか?」
つまり、この殺人は、祖父さまに対する脅迫だ。
……黄金の在り処を教えなければ、親族たちを次々と殺していくぞというメッセージだ。
謎を解けと突きつけられているのは俺たちだけじゃない。…祖父さまもなんだ?!
そう考えれば、祖父さまの不自然な失踪にも説明がつく。
犯人が祖父さまを襲ったなら、6人の遺体の状況から考えて、必ずや悪趣味な化粧を加えてこれ見よがしにどこかに晒す。
なのに未だ見付かっていない。
……つまり祖父さまは拉致されて、どこかに捕らわれている?!
「………そんな…。………まさか、そんな……!」
「くすくす。面白い話じゃない。…つまり、お父様はどこかに監禁されていて、黄金の在り処を話さないと次々に殺人を繰り返すぞと脅されているわけ?」
「その話のどこが面白いのか、理解に苦しみます…!」
夏妃伯母さんが凄むが、絵羽伯母さんは涼しそうに微笑むだけだった。
「……この時間になっても姿を現さない以上、お祖父さまが事件に巻き込まれているのはほぼ間違いないと思います。それを思えば、戦人くんの仮説も無視することはできないんじゃないですか…?」
「譲治は黙ってなさい。……そもそもお父様って、いついなくなったのかしら?」
「…最後にお父さんの姿を見たのは誰や?」
「………多分、私でしょう。今朝、主人たちの姿が見えないと騒ぎになった時、お父様の書斎にいるかもしれないという話になり、私がお部屋におうかがいして、そこでご挨拶をしました。………そう言えば、書斎の鍵をずっと借りっぱなしですね。源次、これは返しておきます。」
夏妃伯母さんは金色の鍵を取り出すと、それを源次さんに手渡す…。
その鍵を見ながら、絵羽伯母さんがくすりと笑う…。
「…ねぇ、源次さん。どうせ警察はお父様の部屋も徹底的に捜査すると思うわ。…何を隠していても、どうせ暴かれちゃう。……だったらちょっと早く、今この場で話してくれてもいいんじゃないかしらぁ?」
「…………何の話でしょうか。」
「シンプルな話よ。………お父様の書斎はその鍵がなければ外から入ることはできない密室よ? その定義の確認をしたいの。お父様の部屋には入口がひとつある。あとは窓? 他に出入り口は?」
「……………ありません。中に入るには入口しかありません。」
「間違いなくね? 秘密の隠し扉なんかがあったりはしないのね? ……お父様が不在である以上、右代宮家の最高序列者は私よ。その右代宮家の当主代行として聞いているの。それを理解した上で答えなさい。あの部屋には入口以外に、他に出入り口は? ……お父様の最高の側近だったあなたは知っているはずよ。」
夏妃伯母さんは、最高序列者の辺りでむっとした顔をしたが、とりあえず口を挟まず、源次がどう返事をするのか待っていた。
……俺は一抹の違和感を拭えない。
何で隠し扉が云々なんて話になるんだ…??
「嘉音くんも熊沢さんも、知ってるなら教えてくれない? あるならあるって言ってくれた方がいいの。…じゃないと、今からある人がとても追い詰められることになるわよぅ? ……隠し扉があると仮定されたら、私の話は全て水の泡。」
絵羽伯母さんは、追い詰められるとかいうある人のことを特定しなかったが、…何となく話の流れから、夏妃伯母さんを指したものではないかと感じてしまう。
「……母さん、…何の話?」
「譲治は少し黙ってなさい。………どうなの? 源次さん。嘉音くん。そして熊沢さん? 隠し扉はあるの? ないの? 源次さんはお父様が書斎を改造した時、施工業者の監督をしていたはず。知らないとは言わせないわよ。」
「…………そのようなものは、お館様の書斎にはありません。」
「間違いなく? 片翼の鷲を許された嘉音くぅん?」
「……はい。間違いなく。……お館様の書斎に隠し扉などありません。」
「熊沢さんは?」
「い、……いえ、私も聞いたことがありませんよ…。」
「お父様と親交の深い、南條先生は?」
「……わ、私もそんなものは聞いたことがありませんな…。」
「結構! じゃあいい? 話を始めるわよ。とってもシンプルな話なの。」
誰もが、絵羽伯母さんは何を得意げに語りだすのかと首を傾げていた。
…絵羽伯母さんは、自分だけが知っている秘密を明かすかのように得意げな顔で笑う。
「お父様を最後に目撃したのは夏妃姉さんよね? …詳しい時間は忘れちゃったけど、今朝の9時前くらいのことだと思ったわ。……姉さん、覚えてる? 私、あなたがお父様の書斎からちょうど出てくるところに出くわしたわよねぇ?」
「……えぇ、覚えています。それが何だというのですか。」
「そして、次に姉さんがお父様の書斎を訪れたのは? 兄さんたちの遺体が見付かってからよね? それを報告しに書斎に上がり、そこで私と一緒に不在を確認したわ。………ところで姉さん。その時、お父様の書斎に入ろうとして、気付いたことはなかったかしらぁ?」
「………気付いたこと? …何のことですか?」
「ほらぁ。ゴミを拾ったでしょ? 畳んだレシートを。」
「……確かに、そんなゴミを拾った気がします。それが何か…?」
「そのレシートは、私が飛行場に着く前に寄った売店で飴玉を買った時にもらったものよ。」
絵羽伯母さんは、ハンドバッグから小さな飴玉の袋を取り出す。
「…あぁ、あの時に買った飴のレシート? …でも母さん、そのレシートの話が何と関係あるの…?」
「譲治、もうちょい黙って聞いとってや…。」
秀吉伯父さんの表情が少しだけ険しい。
…どうやら、絵羽伯母さんが何の話をしているか、理解しているようだった。
「本当にこれは気まぐれよ? 何かを予見してたとか、ましてや夏妃姉さんを罠に掛けようとか、そんなのじゃ断じてないんだから。……実はね、そのレシート。姉さんがお父様と最後に会って出てきて、そこで私と会ったでしょ? その時、書斎の扉に私が挟み込んだものなのよ。」
「……ってことは、どういうことっすか。つまり、夏妃伯母さんがそのレシートを拾うまで、誰もドアを開けていない…?」
「ちょ、ちょっと待ってよ絵羽叔母さん…! レシート挟むなんてバレバレだって! 祖父さまが外出した時に気付いて、面白がってもう一回挟み直した可能性も…。」
朱志香が慌てて反論する。
…意味するところはまだ曖昧でも、自分の母に何かの嫌疑が掛けられつつあることは理解できていたからだ。
「もちろん、バレないようレシートは小さく折り畳んだわ。でもね、レシートが落ちるところを仮に見たとしても、扉のどこの高さの部分に挟みこんであったかは、正確にはわかんないんじゃない?私は夏妃姉さんが鍵を取り出している間に確認したわ。レシートが挟み込まれた位置は、寸分の1mmの違いもなく、私が挟んだ場所だった…!」
「な、……なぜそんな子ども染みた悪戯をされるのか、理解できません! お、大方、私の部屋の扉に悪戯をしたのも貴方でしょう!」
「……夏妃さんの部屋の扉?」
「…不愉快な話だったので、話しませんでしたが、今朝、目が覚めたら、扉の外側に、あのシャッターの落書きと同じと思われる赤い塗料で悪戯がされていたです。掻き毟ったような気持ちの悪い跡で…。」
「何や、その話! 何で今まで黙っとったんや…!!」
「申し訳ありません。あの後、立て続けに色々と恐ろしいことが起こったため、今の今まで失念していました。」
「知らないわよ、そんなの。私がしてるのは姉さんの部屋じゃなくて、お父様の部屋の扉の話よぅ? 姉さんがお父様がいるのを確認してから、私と一緒に不在を確認するまでの間、あの扉は一度も開かれてないのよ。扉を使わず、どうやってお父様は外に出たのかしらぁ?」
「………そ、…そんなことは知りません…! 私が知りたいくらいです!!」
「夏妃姉さんの他に、お父さんの在室を確認したのは誰や。」
「昨夜、金蔵さんとチェスをしたのが会った最後ですな…。…夕食の直前までご一緒だったはずです……。」
「それより後の時間は誰かおらんのか?」
「……………私です。昨夜の晩餐のお世話をしております。」
「……はい。僕と紗音も一緒でした。」
「ここまでは間違いなくお父さんも部屋にいたやろな。…だがな、夏妃姉さん。不在だった書斎は窓も扉も全て締め切られた状態だったそうやないか。……なのに夏妃さんは今朝、お父さんに会って話をした言うとる。」
「……わ、……私には皆さんが何を険悪になっとるのかわかりません。…どなたか、説明してくださいますかな…。」
「と、……父さんと母さんは、………夏妃叔母さんが今朝、お祖父さまに会ったというのは、……嘘だと言っているのかい?」
「う、嘘なんかつくもんかよ、母さんは潔白だぜ!! 何で嘘なんかつくんだよ!!」
「朱志香! 言葉遣いを直しなさいといつも言っています!」
場が一気に騒然とする…。
応接テーブルを挟んで、絵羽伯母さんと夏妃伯母さんが対峙し合い、譲治の兄貴と朱志香が対峙し合う…。……何なんだよ一体…!!
「複数の人間の目撃があるのは、昨晩までよ? でも今朝以降、お父様の姿を見たと称するのは夏妃姉さんただひとり。……そして、私の挟んだレシートが物語る奇妙な事実。…さぁ、この点と点はどうやれば結べるのかしらぁ…?」
絵羽叔母さんは、全員に想像するように促す…。
……確かにこのレシートは、何かの点になり得る。
…だが、何の点とどう結べば線が引けるのかわからない…!
絵羽叔母さんが期待する答えを探るなら、………夏妃伯母さんが、あたかも祖父さまが在室しているように今朝、嘘をついたことになる。
それを、絵羽叔母さんの気まぐれが看破した……??
「わっけわかんねぇぜ!! 何で母さんが嘘をつかなきゃならないんだよ!! その理由がねぇじゃねぇかよ!!」
「……その理由は私も知りたいわよぅ。でもね、朱志香ちゃん? お父様の在室を偽る価値がまったくないとは限らないのよぅ? 推理小説でもたまに出てくるでしょ? 生存時刻を偽ることによって自分のアリバイを偽証するトリックよぅ。」
「な、何だそりゃあ?! そんなの聞いたことないぜ!!」
「…お父様はまだ見付からないけれど、普通に考えれば、もう殺されていると考えるのが自然でしょうねぇ。となれば、必ず近い内に死体は見付かる。…その時、死亡時刻をうまく偽ることができれば、夏妃姉さんはアリバイを作ることができるのよ。……わかる? みんな?」
…今朝、夏妃伯母さんが在室を確認したのが実は嘘で、…その時刻に祖父さまは死んでいて?
…それで、とある場所に遺体を移し、そこで今、殺されたように偽装する。
……そして自分はみんなと一緒にいたりして、アリバイを用意できるようにする。
……そして、誰かの悲鳴が聞こえた! とか言って駆けつけて、みんなと一緒に第一発見者になって…、っていう話なのか……?
「馬鹿馬鹿しい。推理小説など所詮は娯楽小説! そんなものばかり読んでいるから、そのような不謹慎な発想に至るのです!」
「そうだぜ!! 死亡時刻を少しくらい誤魔化したって、そんなの警察が検死すりゃ一発でバレるじゃねぇかよ!! 古典の世界だったらともかく、現代日本でそんなトリック、本気で通用すると思ってんのかよ?! おっかしいぜ?!」
「……そうかしらぁ? 今朝、南條先生が亡くなった人たちの死体を見て、死亡時刻を曖昧に見積もられたわよぅ? 検死結果は、環境や個体差に非常に左右されやすい。数時間単位で誤差の出る非常にアバウトなものなのよぅ。
しかも困ったことに、警察の科学的な捜査は明日にならないとできない。そこまでの正確な死亡時刻を測ることなんて、朱志香ちゃんの言う現代日本でも、そうそう簡単なことじゃないのよぅ? ねぇ、南條先生…?」
「…………検死は、経験と勘の必要な、非常に難しい作業です…。誤診率も非常に高いと聞いております…。確かに、ほんの数時間程度の誤差を出してしまうことは大いにありえるでしょうな…。」
「…しかしアリバイの世界は数時間もあれば充分やで! 古典のトリックとちゃう! 充分に通用するトリックなんや! ……夏妃姉さん。わしら、あんたを疑いたいわけやないんやで? 疑いとうないから、潔癖を示してほしいだけなんや。」
「何の潔癖を示せというのですか!! 今朝、私は確かにお父様にお会いしました!! そして心の中に片翼の鷲を刻めとお言葉をいただいて…。……あのお言葉をも否定するというのですかッ!! それだけは断じて許せません!! お父様が掛けられた言葉までも否定することは断じて許せません!!」
「……あるいは、お父様の遺体は出てこないのかしらぁ? 普通失踪は死亡宣告に7年掛かるもの。余命残りわずかなお父様を、7年も延命しその財産を独占するには、何ともうまいやり方じゃなぁい!」
「き、聞き捨てなりません!! それ以上は聞き捨てがなりません!! 私は右代宮夏妃ッ!! この身に片翼の鷲をまとう資格はなくとも、胸の中にしかと刻まれています!! 当主跡継ぎの蔵臼の妻として、その責務を代行する私に向かって何たる暴言ッ!!!」
「なぁに? その銃で私を撃つのぅ? いいわよぅ? 撃っちゃえばぁ?! どうせ、言い逃れも思いつかなくて苦し紛れなんでしょう?! やりなさいよ、暴力で真実を誤魔化してごらんなさいよ…?!」
「く……、このぉッ!!!!」
別に夏妃伯母さんは銃を構えて威嚇してたわけじゃない。
でも、絵羽伯母さんに誘導されるように銃を構えさせられてしまう!
…さすがにこの段階になって、朱志香や源次さんが止めに入った。
「…奥様、どうかお気を鎮めください……!」
「母さんは嘘なんかついてない! ならこんなの聞き捨てなきゃ!!」
「……落ち着いてぇな、夏妃姉さん。確かにお父さんは部屋にいたと誓ってくれればいいんやで? それだけなのに、何でそんなに取り乱しとるんや…?」
「…そ、…それもそうです。夏妃さんは嘘をついていない。それだけのことじゃありませんか…。」
「だから説明してほしいのよ。お父様がどうやって部屋からいなくなったのか。…窓は内側からしっかり閉じられていた。扉も同じよぅ?……今朝、夏妃姉さんが間違いなくお父様に会ったというなら、…夏妃姉さんには、“開かぬ扉”の密室から如何にしてお父様が部屋からいなくなったかを説明してもらわなくちゃ。じゃないと、姉さんが嘘つきってことに、やっぱりなっちゃうものねぇ?」
「貴方という人はどこまで私を愚弄すればッ……!!!」
「反論したいなら、ぜひしなさいな?! そうね、今すぐこの場で釈明をしてみなさい? そうしたら、貴方を疑ったことを謝ってあげてもいいわ。あの書斎の密室から、お父様は如何にして抜け出したのか!!」
「そんなこと、説明もできませんし、不要です!!」
「そう? なら私が説明してあげるわよぅ? 私の立場も姉さんの立場もいいとこどりの、とても仲良しな説明なんだから! ……姉さんの言う、今朝の時点でお父様が在室していたことを信じてあげるわよ。でも、次に扉が開かれた時にお父様はいなかった。ここまでは異存ないわよねぇ?」
「貴方の言うことにこれ以上、耳を傾ける気はありませんッ!! その軽薄な口を噤みなさい!!」
「私の推理はこうよ? 扉から姉さんしか出入りしていないことは、私が2回確認している。そしてレシートもそれを立証している! にも関わらずお父様を部屋から出すパズルの答えは?窓よ! 窓から出したのよ。……夏妃姉さんはお父様を、3階の書斎の窓から中庭に突き落としたのよッ!!!」
「おおっぉおぉお、おのれぇええええぇえぇッ!!!」
「奥様、堪えてください…!!」
「絵羽さま…、どうかお止め下さいませ……!!」
「その後、中庭に転落して死んだお父様の遺体は、夏妃姉さんが屋敷内の戸締りを確認すると言って出て行った時にどこかへ隠したのよぅ! 多分、その時に、死亡時刻を偽る工作もしたんでしょうねぇ?!」
「……蔵臼兄さんたちの事件も、さらに昨夜のベアトリーチェの事件もひっくるめて! 夏妃さんが怪しい可能性が非常に高いっちゅうことだ…。本当ならこんなこと言いたくはない。…だが、もうぶちまけてしまったからには仕方がない…! 頼むわ、夏妃姉さん! どうか自分の無実を説明してくれんか!! さもないとわしは、あんたを疑わなきゃならんのや…!!」
「なぜこの私がッ!! この私が、右代宮夏妃がこのような辱めをぉおおおぉ!!!」
……………ふむ。…言い分は出揃ったようだな。
「いっひっひっひ。…駄目だな、全然駄目だぜ?絵羽伯母さん。」
「…だ、…駄目って何がだよ、戦人…。」
朱志香がすがるような目で俺を見上げる。
絵羽伯母さんは相変わらず余裕ある表情だった。
「……全然駄目って、何が? 戦人くん。聞かせてよぅ。」
「一方からしか見られないから、夏妃伯母さんしかありえないって思い込んじまうのさ。…別に夏妃伯母さんを擁護するわけじゃねぇが、そんなハッタリのチェックメイトじゃ、通用しねぇってことさ。レシートを軸にした推理はまずまずだとは思う。筋は悪くない。だが、俺の採点じゃせいぜい65点ってとこだ。これが答案なら、居残りで補習ってとこだぜ? いっひっひ!」
「…あら、じゃあ、レシートで封印されている扉をどうやって破って、お父様を失踪させられると言うのぅ? 私の説以外に!」
「絵羽伯母さんの説は確かに面白い。そして、その説以外に祖父さまが失踪できる方法がないって言い切れるなら、最終目撃者である夏妃伯母さんがクロであると確かに言い切れるだろう。だが、夏妃伯母さんが無実で、濡れ衣である可能性が残っている以上、そうだと断言することはできねぇ!!」
「……ふぅん。なら戦人くんは、夏妃姉さん以外の誰にお父様を失踪させられたというの? 姉さんしかありえないのよ。私のレシートがそれを証明してしまったわぁ? 一度目に書斎に訪れた夏妃姉さん。そして二度目に私と訪れるまでの間、書斎は完全に密室で、密室開封後には失踪している! これで夏妃姉さんが犯人じゃないというなら、どんなトリックがあるっていうのぅ?!」
「だから65点なんだよ、絵羽伯母さん。じゃあここで“チェス盤をひっくり返す”ぜ? どうやって、外部から祖父さまを失踪させるか、じゃない。どうやって、内部から祖父さまが失踪するかって考えるんだ。扉にはレシートが挟まれていたから使用されていない。窓も、出ることはできても、外側からは施錠できず、しかも絵羽叔母さんは書斎を訪れた時に窓の施錠を確認している。だから窓も使用されていない。その時点では確かに書斎は密室だった。これは認めるしかない! だがしかし、書斎は永遠に密室だったわけじゃない。レシートの封印さえ解かれれば、扉は使用可能になり脱出可能になる。…つまり、夏妃伯母さんがどうやって祖父さまを失踪させたかじゃない。…どうやって、祖父さまは書斎を脱出したのかって考えるんだよ!!祖父さまの書斎は、ただの書斎じゃねぇんだよな? 源次さんの話じゃ、トイレからキッチン、ベッドルームまであるちょいとした家並みじゃねぇか。……例えば、ベッドの下にでも潜って隠れたら、伯母さんたちは部屋からいなくなったと思い込めるぜ?絵羽伯母さんも、そこまで調べてきたわけじゃねぇだろ? そして伯母さんたちは失踪したと思い階下へ戻る。この時、レシートはもうない! つまり、祖父さまは密室である間は部屋に隠れ続け、絵羽伯母さんたちをやり過ごした後に部屋から脱出することで、この密室を破ることができるッ!!」
「な、何よそれ! どうしてお父様がそんな妙なことをして部屋を抜け出さなきゃならないの?! 荒唐無稽にも程があるわよ!」
「あぁ、荒唐無稽かもな。だが、それでも夏妃伯母さんが濡れ衣かもしれない可能性は示してる。絵羽伯母さんのレシートは完璧じゃねぇ。チェスで言えばチェックくらいにはなったろう。だが、チェックメイトじゃねぇ!!
そして、俺が最高に気に入らねぇのは、それを夏妃伯母さんに釈明しろと迫って、それが出来なきゃクロだって断定しようとした絵羽伯母さんのその論法さ! それがまかり通るってんなら、この右代宮戦人、ここでもう一回チェス盤をひっくり返させてもらおうじゃねぇかッ!!絵羽伯母さん、あんたの論法によるならよ。……あんたと秀吉伯父さんが昨日、親父たち6人を殺害してから、のこのことゲストハウスに帰ったんじゃないってことを、この場で釈明してもらわなくちゃならねぇぜ…!夏妃伯母さんに釈明を強いたんだ。あんたにはもちろん、自身の潔白を釈明できるんだろうなぁ?! 祖父さまの遺産が全部転がり込む絵羽伯母さんよぅ!!」
「そ、そうだぜ、絵羽叔母さんだって充分怪しいじゃねぇかよ!! 母さんが祖父さまの最終目撃者だから怪しいって言うなら、絵羽叔母さんだって、父さんたちの最終目撃者じゃないか!! 戦人の言う通りだぜ、自分たちは殺してないってことを証明してみせろよ!!」
「………僕も、お母さんの推理は少し勇み足だと思うな。……レシートの件は、確かに重要なヒントだと思う。でもそれは、戦人くんの言うとおり、夏妃伯母さんが何某かの犯人であることを断定できるものじゃない。……僕たちは等しく全員が容疑者なんだ。夏妃伯母さんだけが責められる道理はない。」
「ほ、誇り高きお父様が、床に這いつくばってベッドの下に? そんな戯言で説明がつくと思って?!」
「それなら絵羽叔母さんが先に説明しろよ!! 6人を誰がどうやって殺して、そして自分が関わっていないという証拠を示してみろってんだッ!!……ゲホン、ゲホゲホゲホン、ゲホッ、ゴホッ!!! うー、ゲホゲホゲホ!!ゲホゲホッ!!ゲホゲホガハガハッ!!!」
「お嬢様…、お嬢様…!!」
朱志香が急に咳き込み始める。
威勢よく叫びすぎて咽てしまったのかと思ったが、それにしては長く本当に苦しそうだった…。
朱志香はなおも咳を続け、床に四つん這いになりながらも咽続ける…。
「朱志香…、しっかり…!! 南條先生…!」
「…朱志香さん、吸入器を早く。……いえ、私が持ってきているのがあります。」
南條先生は、ソファーに置いてあった自分の鞄から気管支拡張剤の吸入器を取り出し、朱志香に渡す。
……そう言えば、6年前の朱志香も、時折激しく咽こみ始めると、あれで薬を吸ってたっけ…。
でも、朱志香がこんなにも苦しむ様子は、6年前には見られないものだった。
「……兄貴、朱志香ってこんなに喘息ひどかったっけ…?」
「ここ数年でだいぶ悪くなったんだよ…。大丈夫な時はいいんだけどね…。突然発作が来ると咳が止まらなくなるんだよ。」
「ゲホンゲホン!! うー、ガハッゲホゲホゲホ!! ゴホンゴホン、ゴホンゴホン!!」
「……お嬢様、お薬です。………さぁ…。」
「……………ん、…。……ゲホンゴホン!!」
嘉音くんの手から吸入器を与えられ、朱志香が慣れた手つきでそれを吸う。
…しばらくは喉に痒さを感じているようだったが、次第に治まっていった…。
「大丈夫かよ、朱志香…。びっくりしたぜ…。」
「……大したことねぇよ。…心配すんじゃねぇぜ…。」
朱志香は全身に玉のような汗を浮かべて荒い息を隠せずにいたが、とりあえず突発的な喘息発作は治まったようだった…。
この騒ぎで、さっきまでの険悪な雰囲気はうやむやになってしまった。
だが、それでいい。
……こんな、互いの猜疑心を駆り立てあうようなことはまったく不要なのだ。
思えば、互いのアリバイを探り合うことも犯人探しも、まったく不要なことかもしれない。
なぜなら、自分たちは無力な市民でしかないが、明日になって警察が来てくれれば、必ずや最先端の技術を駆使して徹底的に捜査し、全ての謎を解いて犯人を逮捕してくれるのだから…。
「…………確かに戦人くんの言う通りかしら。…夏妃姉さんが疑わしいように、私たちも疑わしさを拭えていない。それを今、議論し合うのは確かに不毛ね。…明日、警察に全てを任せれば済むだけの話よ。………でも、戦人くんだって知りたいんじゃないの? 犯人を。…大切な人を失った痛みを思い知らせてやるために、一秒でも早く知りたいんじゃない?」
「………それは否定しないです。これだけの上等をキメてくれやがった野郎を、たとえ一日であったとしてものさばらしたくはない。……でも、だからと言って、18人の中の誰かを疑いたくはない。さっきはああ言ったが、俺は絵羽叔母さんだって疑いたくない。…俺にとっての絵羽叔母さんは、茶目っ気があっていつも楽しくさせてくれる最高の伯母さんだ。……そんな伯母さんと、こんな罵り合いはしたくねぇ。ここにいる誰だってそんなことは望んでねぇはずさ。………だろ? みんな。」
「………………戦人くんに同じ。…意味のない罵り合いだね。……多分、これだけの人数が、朝から一所にずっと集まってるから、みんなストレスが溜まってるんだよ。」
「……でしょうな。無理もないことです…。言ってできるものではありませんが、なるべく皆さん、リラックスしましょう…。」
「……………絵羽。わしらも頭を冷やすべきとちゃうか。…レシートの件は確かに、お父さんの失踪を探る上で重要な手掛かりになると思うで。警察が来たら話すといいやろ…。」
「…そうね。…そう。レシートの一件で、つい鬼の首を取ったような気持ちになっちゃったのね。……確かに夏妃姉さんだけを疑うのはフェアじゃないわ? 私たちだって等しく疑わしい。……でもね、戦人くん? レシートの話だけは本当よ? これ、…忘れないでね。そして、これがどういう意味を持つか、もう一度よく考えてみてね…?」
「…………………。」
「………………………………。」
絵羽叔母さんと秀吉伯父さんは立ち上がる。
客間を出て行こうというつもりらしい。
「結局、私たちは、こんな推理ごっこしても意味はないのよ。だって、どうせ警察が全て明かしてくれるんですもの。」
………そう。
俺たちがこんな推理ごっこをしなくても、台風が過ぎ去って、…あの、賑やかなうみねこたちが船着場に戻ってくる頃には、勝手に解決するのだ。
そう。こんな事件は、思えば本当に下らない。
……必ず解決するのだ。
俺たちが何もしなくとも、うみねこのなく頃に。
「…これ以上、夏妃姉さんも私の顔を見ていたくはないでしょう? 私も同じよ。…確か、姉さんは昨日、ゲストハウスに帰らなくて済むようにって、客室を用意してくれたのよねぇ?
あそこはバスもトイレもあるし、鍵もチェーンも掛かる。横になれるベッドもあるし、主人も真里亞ちゃんとチャンネル争いをせずにテレビを見ることができるわ?」
「………………………………。……お好きになさるといいでしょう。…でも、…くれぐれも用心を。」
「ありがとう、姉さん。…そして余計なお世話よ。姉さんはみんなの監視をよろしくね? 犯人は、この中に必ずいるんだから。…そして姉さんも自分が監視をされていることを、お忘れなく。」
「………捨て台詞はそれで充分ですか。」
「…えぇ、充分よぅ。………じゃあね、夏妃姉さん。……源次さん、夕食になったら呼んでね。それまでチェーンを掛けて閉じ篭ってるわ。」
「………………………。」
「……源次、嘉音。お二人を客室までお送りを。」
「結構よぅ。送り狼なんて嫌だもの。むしろ、私たちが部屋に行くまで、誰もこの部屋を出ないでくれる方が安心よ。………譲治、行くわよ。」
「……………僕は、ここでみんなといるよ。」
「譲治…! この部屋に犯人がいるのよ。そんなところにいるつもり…?!」
「……この部屋を出るということは、…親族の誰かを疑うのと同じことだよ。…僕は、……あんな恐ろしいことができる人間が、親族にいるなんて、信じない。」
「譲治…! ……あなたからも言ってやってよ…!」
「………譲治ももう、一人前の男や。…その譲治の仁義が、この部屋から出ぇへん言わせるなら、それも勝手やろ。好きにさせたれ…。」
「…父さん…。」
絵羽伯母さんと秀吉伯父さんが出て行く。
見送りの言葉は雨音だけだった。
客間を殺伐とした空気が埋めていく…。
時計を見ると、いつの間にか夕方になっていた。
………そんなにも長い時間、俺たちは不毛なことを考えたり、話し合ったり、罵りあったりしていたのか…。
うんざりした気持ちになりながら、頭を掻き毟ると、……真里亞と目が合った。
てっきり、テレビに没頭しているのだと思っていたので、少し驚く。
「……今なら信じるぜ。」
「うー…?」
「手紙も殺人も全て、ベアトリーチェの仕業だ。…いや、むしろ頼むからそうだと名乗り出てほしいぜ。………19人目の仕業ってことにさせてくれ。じゃなきゃ、俺たち18人はいつまでも互いを疑い合わなくちゃならねぇ…。…これなら19人目の存在を信じる方がマシさ…。」
「…………………………。」
「…扉も窓も開けずに祖父さまを外へ連れ出すなんて、ベアトリーチェならお茶の子さいさいなんだろ…?」
真里亞は、一度だけ小さな溜め息を漏らしてから俯き、……そして顔を上げる。
「…………そうだよ。きひひひひひひひ、魔女の前に扉の鍵なんて何の役にも立たないんだよ。……ベアトリーチェは72柱の全てに精通する。33位のガァプは望む相手を臨む場所へ瞬時に運ぶ力を与えるし。…彼女にとって、どのような密室に閉じこもった人間だろうと、連れ出すことは難しいことでも何でもないんだよ? きひひひひひひひひひひひひひひひひひ…。」
「魔女はすげぇな。……頼むから、もしまだ事件を起こす気なら、絶対に人間には無理なことをして、……俺に19人目を、……いや、魔女の存在を信じさせてくれよ。」
「……………………………きひひ。……いいよ。会ったら伝えておくよ。」
くそ…。さっきから自分でもわけがわからなくなるぜ…。
19人目を信じ込まされると、それを否定し、18人しかいないと信じ込まされると、今度はそれも否定してしまう。
18人以外の何かがいてほしいと思うのに、その19人目を認められない。
……つまり、18人以上なのに、19人未満。
……この屋敷にいる人数は、19>X>18。
つまり、人数は整数で表せないってわけだ。
……だが、小数点以下なんてありえないさ。
人の数は整数でしか示せないはずだ。
…なのに、19>X>18。
1未満の小数がどうして絡んでしまうんだ…!
無理もないさ。
…その19人目は、視えない不可視の存在。
だから、整数でしか書けない人数表記では、視えない・・・・。
その魔女は、視えない。
ベアトリーチェには体がないから。
ゆえに、不可視。
19人目はいるのか、いないのか。
魔女はいるのか、いないのか。
19>X>18。
…このXの中に、魔女がいる…!
▲第11アイキャッチ:10月5日(日)16時00分 が19時00分に進む
■客間
絵羽伯母さんたちが去った後も、気まずい雰囲気は残り続けた。
犯人は誰かということを考えること自体が、誰かを疑うのと同じ意味であるという雰囲気が蔓延し、…事件を論ずること事態がタブーのような感じになっていった。
だからみんな、口にだけは事件のことを出さなくなっている。
……しかし、その分、頭の中はいっぱいに違いない。
口から吐き出せない分が、みんな頭の中ではち切れそうになっているだろう…。
なので、とりあえずの表向き、客間は平穏を取り戻していた。
全てをうやむやにしながら。
「……少しだけ雨脚が弱まった気がするね。」
「うー…? まだいっぱい降ってるよ。うー…。」
「仮に止んだって、この島には船がねぇんだしな。…船が、明日すぐに来てくれりゃいいんだがよ。洋館バカンスはもうお腹いっぱいだぜ、いっひっひ。」
「母さん、明日、船はいつ来るのかな。」
「本来なら、帰りの船は今日の3時に来てくれることになっていました。先方も、台風が過ぎてから来直すと電話をしてくれたでしょうが、生憎、電話は不通ですから…。……でも、向こうも子どもの使いではありません。客人の方々の送迎目的だと教えてありますから、恐らく、明日の朝一番で…、多分9時頃くらいに来てくれるでしょう。」
外はすっかり真っ暗になっていた。
時計を見ると、7時を少し過ぎたところ。お腹も減り始めたところだ…。
■厨房
厨房では、熊沢が張り切って料理をしていた。
色々なお皿が並び、郷田の芸術料理からはだいぶ見劣るにしても、充分に華やかなものだった。
落ち込んだ心を、少しでも食事で盛り上げたいという熊沢の気遣いだった。
熊沢は、郷田のような職業的料理人にはだいぶ劣るが、決して下手なわけではない。
…むしろ漁村育ちの彼女の手による素朴な料理は、時にとても高い評価を受けるのだった。
熊沢が調理を終えた料理を、嘉音が教えられながら皿に盛り付けていた。
嘉音も時には厨房を手伝うが、それが役割として与えられることは少なかったため、懸命ではあったが少々だけ稚拙だった…。
盛り付けがうまくできていないことを自覚し、嘉音は少しだけ表情を曇らせる。
でも熊沢はそれでいいと微笑んでいた。
「ほっほっほ、綺麗に盛り付けられてますよ。嘉音くんもお上手ですよ?」
「……………紗音姉さんだったら、…もっと綺麗に…。」
盛り付けの手を少しだけ止め、嘉音が俯く…。
熊沢の料理の補助はいつも紗音だった。
…嘉音は今夜、それを代わっている。
……そして、紗音の面影と、無惨な最期を思い出し、顔を歪める…。
「…………今は忘れなさい…。」
源次はポーンを一手進めながら嘉音に気遣う声を掛ける。
…客間の空気が気まずくなり逃げ出してきた南條に求められ、チェスの相手をしているのだった。
「………はい。……今は、忘れます。」
「…うむ。それがいいだろう。」
源次はわざと嘉音の方を向かずに言う。
…今の嘉音にとって、自分の瞳を誰かに見られることは、かえって辛いことなのかもしれないと理解していたからだ。
南條もそれを理解していて、安易な言葉をぐっと堪えるのだった。
「……金蔵さんも、どこへ行かれたんでしょうな…。……ご無事だといいのですが…。」
「………わかりません。…ただ、全てはお館様が望まれ、仕組まれたことのように思っています。……それを邪推することは、お館様にお仕えする家具には過ぎたことです。」
「…源次さんは怖くないのですか…? 私には、今夜まだ何か、良くないことが起こるような気がして、怖いのです…。」
「…………怖いことなど何も。…私はただ、右代宮家にお仕えするだけですので。」
南條は、ふぅっと鼻から深く溜め息を吐き出すと、熟考の一手を指すのだった。
…南條は少しだけ怪訝に思う。
……ひょっとして源次は、自分のことを蚊帳の外だと思っているのではないかと。
この屋敷の中で今何が起こっているのか、まったく想像がつかない。
…しかし、金蔵が仕組んだ何かである可能性は決して否定できない。
…この島をチェスに見立てて金蔵がゲームを行い、その結果、6人の駒が倒れた。
……源次はそれを、自分だけはチェス盤の外側にいるから安全だと思い安心しているのではないだろうか。
南條は思う。
……このチェス盤の上には、誰という例外はなく、全員が等しく駒として並べられているのではないだろうか。
……金蔵から最高の信頼を得ている源次であっても、…いや、唯一の親友であると自負している自分さえも、…このチェス盤の上に置かれた駒に過ぎないのではないだろうかと。
「………源次さん。…私は、今夜が本当に怖いのです。……無事に明日の朝を迎えられることを心より願っています…。」
■絵羽たちの客室
絵羽たちが移動した客室は、ゲストハウスが建てられる前、来客を泊めるのに使われていた本来のものだった。
だからほんの数年前までは、親族会議の度に世話になっている馴染みの部屋でもあった。
この部屋はホテルの客室と同じで、ベッドルームにバストイレが付き、同じ閉じ篭っているだけなら、客間よりもはるかに居心地がよかった。
「やっぱり、家族だけだとリラックスできるな。……他のみんなも客室に篭って鍵を掛けてりゃええんや。」
「夏妃姉さんが客間を出るなって威張り散らしてるんだもん。誰も口答えなんてできないでしょ。あの人、ずっと冷や飯を食ってきたから、兄さんが死んでやっと天下が来たって張り切ってんのよ。…まったく、ずうずうしいったらありゃしない。」
「…まぁ、そう言うな。夏妃さんもあれで結構がんばっとるんやで。お前も、そう突っ掛からんでもええやないか。………さっきのレシートの件も、あそこまでは言い過ぎやで。」
「……だってぇ。あそこで言わなかったら、もう言うタイミングがないんだもん…。」
絵羽は可愛らしく膨れながら、テレビを見ながらベッドに横たわっている秀吉の脇に座る。
「でも、…………こうして二人きりになるのはずいぶん久しぶりよね。」
「そうやなぁ。思えば、わしもお前も老けたもんや。譲治が生まれてから、何もかもがあっという間や。」
「…本当にあっという間よ。……子どもを作るの、焦り過ぎたかしら。」
絵羽は遠くを見る目をする。
……そう、あれは千載一遇のチャンスだと思った。
…兄の蔵臼がいつまでも子どもを設けられなかったのだ。
夏妃と結婚してから6年を経ても懐妊の兆しが見えず、金蔵はそれを不快に思っていた。
自分は、どうせ結婚すれば右代宮の籍を失うのだから、当主跡継ぎが生まれるだの生まれないだのはどうでもいい話。…そう思っていた。
それが、ある日。……天の啓示を聞いたのだ。
……あるいは、欲深な自分が聞いた悪魔の囁きだったのか。
自分が先に跡継ぎを出産できれば、右代宮の籍に残れるのではないか。
…あわよくば、右代宮家を自分が引き継げるのではないか…。
相談を持ちかけられた秀吉は、二つ返事で頷いてくれた。
……これは、秀吉も欲深な考えがあったからではない。
…身寄りのなかった秀吉にとってそれは、忘れて久しい親族というものをもう一度感じることのできる機会だったのだ。
だから、結婚する上でどちらの苗字になるかはこだわらないと、あっさり頷き、右代宮姓で入籍することを認めてくれた。
金蔵を口説き落とすのは簡単ではなかったが、絵羽も娘として金蔵の性分を知り尽くしていた。
……だから、夏妃に対する不満がもっとも高まっているタイミングを見計らい、見事、婿養子を迎えることを認めさせたのだ。
……裸一貫から立身した秀吉に、金蔵はどこか自分と重なるものを見たのかもしれない。
すぐに秀吉を気に入り、入籍を認めてくれた…。
譲治をやがては右代宮家の跡継ぎにする。
その一念で厳しく育ててきた。
甲斐あり、譲治はどこに出しても恥ずかしくない素晴らしい青年に成長してくれた。
…だから、使用人の紗音如きに恋心を寄せているのが許せなかった。
……だから、紗音が死んで婚約が無効になったとわかった時、……凄惨な事件に衝撃を受ける自分と同時に、可愛い譲治を使用人女如きに奪われなくてよかったと安堵する自分が同時にいた…。
「………………。………私、………蔵臼兄さんのことが、昔から嫌いだったわ。偉そうで、威張ってて。自分がやがては当主になるのだと自慢してて。……だから、それに一矢報いてやりたかった。…でも、それは子どもの頃の感情なのよ…? でも、その感情は、……結局、自分の人生のほとんどを支配した。それだけならまだいい! ……その感情は、あなたや譲治まで巻き込んで、振り回してしまった。」
「…………絵羽、そない自分を責めるな。」
秀吉は起き上がり、絵羽の肩を抱く。……温かい包容力が伝わる。
「…わしはな、自分の人生はもうとっくに折り返しに入っとる。…でもな、今日までの生活を後悔したことは一度もないで。一度もや。………絵羽と一緒で、他の男どもじゃ味わえん楽しい人生になったと思っとる。……戦争で身寄りを失ったわしに、もう一度家族の温もりを教えてくれた。だから右代宮の家には感謝しとるし、わしの唯一の家だと思っとる。………わしとお前が歩んできた人生にな、無駄なことなんか、なーんにもなかった。今日まで、ホンマに楽しい人生やったで。」
「……ありがとう、……あなた。」
絵羽は俯き、秀吉の胸に顔を埋める…。
……客間にいる誰にも、絵羽のこんなもろい姿を想像することはできないだろう。
「感謝するのはわしや。今日まで、お前と一緒にいて、後悔した日なんてあらへん!」
「………………私もよ。あなたと一緒になれて、…よかった。」
「譲治ももう立派な大人や。わしが見張ってなくてもしっかり仕事ができる一人前や。……どや。正月辺りをのんびりモルジブ辺りで過ごさんか。わしら二人水入らずや。」
「……いやぁよ。毎年、年賀状の返礼で寝る暇もないとか言ってるじゃない…。」
「次の正月だけはナシや! 年賀状は見ん。黙って、下のお年玉くじだけチェックするんや。今年はカラーテレビくらい当てたいで!」
「いやぁだぁ…。モルジブでお年玉くじのチェックなんてしたくないぃ…。」
「じゃあ、そいつもナシや! ……水入らずのんびりで、譲治が生まれる直前の新婚時代の、続きをちょいとしてみんか。」
「………うん。…それならいいわね…。」
「モルジブはええとこらしいで。何もない島に美しい珊瑚礁と水上コテージが並んでてな…。」
「……新婚時代の続きって、いつからなの…?」
「仕事納めしたらすぐや。旅行店に聞いてみんとわからんが、多分、大晦日前には、」
「いやぁ。………今、…すぐがいい。」
ぐずるように、あるいは甘えるように、絵羽は唇をねだる…。
部屋を満たすものは、秀吉が付けっ放したニュースの遠いアナウンサーの声と、無粋に窓を叩きつける雨音だけだった…。
■時間経過シーン
コンコンとノックがあってから源次さんが入ってきた。
「………奥様。お夕食の準備が整いました。お食事は、またこちらでよろしいですか…?」
「…えぇ。ここへ運ばせなさい。南條先生はまだ厨房にいるのですか?」
「…………はい。次の一手を熟考したいと仰っております。…ご安心を、他の使用人たちと一緒です。」
「源次さんは祖父さまの相手ができるくらい、チェスが強いもんな。南條先生よりも強いらしいぜ?」
「…そうなんだ。昔、相手をしてもらったことがあるけど、あれは勝たせてくれたのかな。」
「真里亞、もうすぐメシだそうだぜ。しかし、よく一日中テレビを見ていて飽きねぇなぁ!」
「うー。いつもテレビいっぱい見てるから平気。うー。」
「へー、真里亞ちゃんはテレビっ子なんだね。」
「食事だから、机の上を片付けないと駄目だぜ。」
さっき、真里亞のノートを何ページが破いて、みんなでお絵かき大会をした残骸が残っている。
それを朱志香が手早く片付け始める。
……しかし、みんな絵心あるよな。びっくりだぜ。
「……源次。絵羽さんたちにも、せめて食事くらい一緒にしないかとお声を掛けなさい。……どうせ断るでしょうが。」
「…かしこまりました。」
「お父様の次は絵羽さんですか…。つくづく、右代宮家の食卓には全員が揃いませんね。」
夏妃は再び頭痛が疼き出すのを感じ、軽くこめかみを押さえるのだった…。
■絵羽たちの客室の前廊下
厨房から客室はそう離れていないから源次もひとりで行き来したが、客室は少し遠ざかる。
夏妃にみだりにひとりにはならないようにと注意されたし、ついさっき、南條にも危機感をもっと持った方がいいと諭されたばかり。
…源次は嘉音を伴い、二人で絵羽たちの客室を訪れていた。
源次が、コンコンとノックする。
「……絵羽さま、秀吉さま。お夕食の準備が整いました。」
しばらくの間、出てくるのを待ったが反応がなかった。
「…………源次さま、……これは。」
嘉音が扉の下を指差す。
……そこには洋形封筒が差し込まれていた。
こういう差し込まれ方をしたら、それは外部の人間が室内にいる人間に対し、メッセージを残していったように受け取るのが普通だろう。
…だから、これは絵羽たちに充てた私文書で、彼らが関心を持っていいものではないはず。
…しかし、その洋形封筒は、……昨夜、真里亞が取り出して全員を驚かせた、あの金蔵の封筒なのだ。
「…………………。…間違いない。お館様の封筒だ。」
「……あるいは、…………。」
金蔵の封筒ではあっても、……昨日の夜、真里亞が読み上げたその手紙の主は金蔵ではなかった……。
源次は一層強くノックを繰り返し、大きい声で呼んだ。
「絵羽さま。絵羽さま…! 源次でございます。いらっしゃいますか?! お返事をお願いいたします、絵羽さま…!!」
しかし中からは何の返事もない。
食事に呼びに行った時、客人が深く眠ってしまっていて起きないことはたまにある。
…そういう時は、呼びに来たことを示す手紙を挟んでそっとしておくことになっている。
……しかし、源次はそれにもかかわらず、さらに激しく扉を叩いて絵羽の名を呼んだ。
だが返事はない。
嘉音は扉に耳をつけ、息を殺し室内の物音を探る…。
「…………テレビの音らしきものが。…でも気配が感じられません。…お部屋は空っぽかも…。」
源次はハンカチを取り出し、直接指で触れてしまわないように注意しながら、扉の下に差し込まれている封筒をそっと引き出す…。
そこには真っ赤な封蝋がされていた。
…封蝋の印は、紛れもなく右代宮家当主の指輪によるもの…。
「絵羽さま! 絵羽さま!!どうかお返事を!!もうお部屋にはいらっしゃいませんか?!」
それでもやはり返事はない…。
二人が屋敷内をぶらりと散歩している可能性はある。
…絵羽にとってこの屋敷は生家だ。
気楽に出歩くことは充分に考えられる…。
源次はポケットをまさぐり、客室が開けられる鍵を含んだ鍵束を取り出す。
「……源次さま…?!」
嘉音にも意味はわかっている。
……客人の外出を見届けた後に、ベッドメイク等のために鍵を開けて入ることはある。
だが、それ以外の理由で、ましてや在室の可能性がある状況下でしかも客人の許可なく鍵を開けることは、使用人にあるまじき行為だ。
…しかし源次は決断する。
………もし、ただノックに返事がないだけだったらここまではしなかった。
しかし、扉に下にある封筒は紛れもなく金蔵のもの。
……いや、右代宮家当主の洋形封筒。
…そしてその封筒は昨夜の時点から差出人を金蔵に限らなくなった。
……もしそれが、金蔵以外の人間から差し出されたものなら………。
「絵羽さま…! 申し訳ございません。お部屋を失礼させていただきます…。」
源次は最後にそう断ってから、鍵穴に鍵束の内のひとつを差し込む。
鍵が開く音。
……そして、ゆっくりとノブを捻り、扉をゆっくりと開けていく。
その隙間から灯りが漏れてきた。
……在室している? それとも、……電気の消し忘れ…?
ガチャン。
…それはドアチェーンを引っ張る音だった。
チェーンが掛けられていたのだ。
チェーンは外から掛けられないものだ。それは同時に在室も示す。
部屋の中からはテレビの音声も漏れ聞こえた。
…灯り、チェーン、そしてテレビ。
それらが示すのは明らかな在室なのだが、………気配がない。
源次は扉の隙間より再び絵羽を呼んだ。
だが返事はなかった。
「…………………源次さま…。…………いかがしますか…。」
使用人たちはその職務上、屋敷内のほとんどの施錠を開けることができる。
しかしチェーンを開ける術は持たない。
……このチェーンを開けるには、切断するしかない。
…それは使用人が通常の業務の中で許されたことでは断じてない。
……すでに不気味な悪寒が二人の背中を駆け上っていた…。
嘉音は再び息を殺し、室内の気配をうかがうが、それでも誰の気配も感じ取ることができなかった。
「……………私は奥様をお呼びしてくる。…嘉音はチェーンの切断を。」
「は、……はい…!」
切断する工具を取りに、慌てて駆け出していく嘉音を源次が呼び止める。
「待て嘉音…! ………厨房に戻り、熊沢と行動するように。断じて、ひとりで行動してはならんぞ。」
「……はい…。かしこまりました…。」
嘉音は、この緊急事態に何を面倒なことを、と思ったようだった。
……だがそれは源次の用心深さゆえのことだった。
…自分はどうなろうと構わない。
……しかし嘉音には、万一のことはあってほしくなかった。
■厨房
厨房には、配膳台車に食事を積み込んでいる熊沢と、起死回生の一手がようやく思いついたらしく、それを見せたくて源次の帰りを待っていた南條がいた。
…だが、戻ってきた源次の様子がおかしいことにすぐ気付く。
「……おや、……どうしましたか、源次さん…。」
「………南條先生、申し訳ありませんが、この勝負は一度中断させてください。………嘉音はチェーンを頼む。熊沢、食事の配膳は一時中断し、嘉音と同行するように。私は奥様のところへ行く。南條先生もご一緒に。」
「な、…何かあったんですかな……。」
源次は事情の飲み込めないままの南條をつれ、足早に出て行く。
「…熊沢さん。申し訳ありませんが、僕と一緒に来てください。」
「な、…何があったんですか、嘉音さん……。」
熊沢も、南條同様、事情が飲み込めずまったく同じことを口にしながら、廊下へ飛び出していく嘉音の背中を追うのだった…。
嘉音は熊沢を伴い、倉庫へ行き、工具箱や壁いっぱいに掛けられたものの中から、チェーンの切断に使えそうな工具を物色する。
「何を探してるんですか…。…私も手伝いますよ……。」
「……ドアチェーンを切断するんです。…大きめの番線カッターはどこだっけ…。」
「ドアチェーンを…? ど、どうしてそんなことをするんですか…。」
「…………絵羽さまたちのお部屋にチェーンが。…中にいらっしゃるはずなのに、お声を掛けても返事がないんです。」
熊沢は、チェーンを切ることと絵羽たちの返事がないこととを結びつけるのに、若干の時間を要したが、切迫した事態であることを理解した。
「これなら多分…。」
嘉音は壁に掛けてあった大型の番線カッターを手に取る。
カッターという名だが、形状は大型のペンチとでもいった方がわかりやすい。
……指を容易に切断してしまえる危険な工具だと注意された記憶が蘇る…。
嘉音はそれを持ち、階段を駆け上がっていく。
………もう、直感していた。
…一分一秒を争って開けた方がいい。
…………あるいは、……もう…………。
「待ってください、嘉音さん……! はぁ、…はぁ…!」
「……早く!」
ようやく熊沢は追いつき、両膝に手を付いてぜぇぜぇと息をする。
嘉音は番線カッターを持ち直し扉を見上げた時、あっ、と絶句した…。
「………な、……何ですか、これは………。………ひぃぃぃぃぃぃ……。」
顔面を蒼白にして、熊沢が力なく叫ぶ…。
無理もない…。なぜなら、そこには、………扉には、……あの、薔薇庭園の倉庫のシャッターに書かれていた魔法陣のように、血のような塗料で、また不気味な図形が描かれていたからだ。
もっとも、今度のものを「魔法陣」と呼んでいいのかは怪しい。
…なぜなら、それは魔法陣と聞いて一般人が想像するような、円の内側に図形が掛かれたものでなく、もう少し幾何学的な図形が描かれていたからだ。
……しかし、その図形の隙間に書き込まれたアルファベットとは異なる奇怪な文字は、紛れもなく、あのシャッターの魔法陣と同じもの…。
しかし嘉音が絶句しているのは、この魔法陣の不気味さだけではない。
……こんなものは、さっきはなかったのだ…!!
厨房に一度戻った。
それから倉庫に工具を取りに行き、そのままここへ直行した。
時間に直して5分も経っていないはずだ。
…その間に、こんな不気味なものが書き加えられているなんて…?!
それらは本当に、今さっき描かれたものらしく、まるで扉が生きて血を流すかのように、だらり、だらりと滴り落ちて、不気味な垂直の赤い筋を下に伸ばしていく……。
「……ひぃいいぃぃぃぃ…、……ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃ…!」
熊沢は腰を抜かして、その場にへたり込む。
…もし熊沢が先にそうしなかったなら、嘉音もそうしたかったに違いない。
「……ベ…アトリーチェ…さま……………。」
「ひぃいいぃいぃ…! ベアトリーチェさまの仕業ですよ、恐ろしや恐ろしや…!!」
「………………………っ。」
嘉音は唾を飲み込んでから、番線カッターを構えて扉に近付く。
…不気味な魔法陣に近付きたくなんかないし、滴り落ちている不気味な血のようなものに触れたくもない。
……だが、近付かなければチェーンは切断できないのだ。
悪寒に耐えながらもう一度唾を飲み込み、意を決してからさらに近付いて番線カッターをチェーンに当てる。
……そして渾身の力で絞ると、チェーンは想像していたよりもはるかにあっさりと切断された。
切断されたチェーンは左右に分かれ、ちゃりちゃりと音を立てながらまだ揺れ続けている…。
「………嘉音さん、………足元に封筒が……。…しかもこれは、…お館様のもの……。」
熊沢も扉の下の洋形封筒に気付いたようだった。
そして、封蝋が当主の指輪で刻印が打たれていることにも。
嘉音は、封筒の中身を検めるのと、部屋の中を確認するのとどっちが先か一瞬だけ迷ったが、自分の本来の目的を最優先することにした。
…嘉音はポケットからハンカチを取り出す。
自分の指紋を扉に残さない工夫だった。
……もしも最悪の予想が当たっていたなら、………この部屋も警察が調べることになる…!!
扉をゆっくりと押し開ける…。
部屋の中から漏れていたテレビの音声が、より一層わかるようになる。
「……………………絵羽さま……?」
ベッドの上に仰向けになっている絵羽の姿があった。……靴を履いたままベッドに…?
後から嘉音の背中に隠れながら、恐る恐る入ってきた熊沢が、その絵羽を見て、ひぃッ!と再び短い悲鳴をあげる。
嘉音は、絵羽の靴が最初に目に入ったので、土足でベッドにいる違和感が先に頭に入ったが、…そのまま視線を絵羽の頭の方へずらしていった時、…嘉音も同じように短い悲鳴を口にせざるを得なかった…。
絵羽の、眉間からまっすぐに、……何かが。
……置いてある? 生えている…?
違う。…眉間にまっすぐと、…古風なナイフ?
のような凶器が突き立てられているッ!!!
突き立てられた根元から、血が滴り落ち、向こう側のシーツを真っ赤に濡らしていた…。
熊沢は再び腰を抜かして床にへたり込む。
…口をぱくぱくとさせるが、悲鳴を零すこともできなかった。
……絵羽は、眉間に何かの凶器を打ち込まれ、絶命していた。
両目はかっと見開き、自分を殺した相手を確かにその目に焼き付けたのだろうが、…それを伝える口は、すでに永遠に閉ざされていた。
一番見たくないはずの眉間にどうしても目が行ってしまう…。
そこには、凶器が絵羽の眉間から直立するように刺さっている。
その、柄の部分には、単なる工具では考えられないような複雑な意匠がされていた。
……それは、…一言で言えばオカルト的。
…何かの悪魔をデザインしたかのような悪趣味なものだった。
「……秀吉さまは…? …秀吉さま…!」
絵羽の姿はベッドの上にあったが、もうひとつのベッドは空っぽだった。
…秀吉はどこに?!
腰を抜かして放心している熊沢を尻目に、念のためバスルームを確認する。
その扉を開けた途端に、湯気とシャワーの音が迎えた。
バスルームは、ホテル等で馴染み深いバストイレの一体型だった。
シャワーを浴びる時は防水のカーテンで水が飛ばないように仕切って使用する。
その防水カーテンが半分開かれていて、……そこには全裸の秀吉が両目を見開いたまま、バスタブの中に崩れ落ちていて…、その目は嘉音と真正面から向かい合っていた。
眉間には絵羽と同じく、悪魔を思わせるデザインの凶器が打ち込まれている。
頭部はずっと温水シャワーを浴びっぱなしだったせいで、絵羽のように顔の半分を血で汚しているということはなかったが、…シャワーを浴びたまま絶命する姿は、あまりに悲惨だった……。
その時、廊下から夏妃の声が聞こえた。
源次と一緒にやって来たのだろう。
「……ま、またしてもこのような落書きが……。…この手紙は…? 中には何と?」
「いえ、…まだ読んでおりません。」
「………迂闊に触らん方がいいですな…。犯人の指紋が残っとるかもしれん…。警察に渡した方がいい…。」
「……わざわざ手紙を残すくらいです。どうせ指紋など残っていません。」
夏妃はそう言い切ると、封筒を拾い上げるのだった。…そして、中身を検める前に、自らも部屋に入り、……そして絶命している絵羽を見つける。
「え、……絵羽さん……ッ!!!!」
「……奥様…、こちらには秀吉さまも…………。」
「こ、……これは……、惨いですな……。」
「…嘉音、シャワーを止めてあげなさい…。気の毒にもほどがあります…!」
「は、…はい。」
嘉音はハンカチを握りながらバルブをひねり、シャワーを止める。
バスタブの中には、ボディソープの小瓶が蓋を開いたまま落ちていた。
……まさに入浴中を襲われたのだろう。
……血の飛沫がまだわずかに白いバスタブに付着していて、白と赤の不気味なコントラストを見せていた。
「…………南條先生…。」
「…わ、……わかっとる……。……死斑は出とらんな…。死後硬直も始まっとらん。おそらく、殺されてから1時間経ったかどうかというところだろう…。しかし、……このような柄の短い凶器で頭蓋骨を……。考えられん…。」
脈拍や瞳孔の確認をし、南條は二人が絶命していることを改めて確認する。
…嘉音はその事務的な対応を見て、思った。
……そんなことをしなくても、ひと目で絶命してるのがわかるじゃないか、と。
南條は刺さっている凶器を抜こうかと考えたが、なるべく現状を保持して警察に引き渡した方がいいと判断し、手をつけないことにした。
しかし、根元の部分をよく見ると刃がない。
…というより、刃物状ではなく、むしろ円錐状。
…ナイフというよりは、柄の短い槍のような、切ることではなく、突くことを目的とした特殊な形状であることがうかがえた。
人によっては、短い槍ではなく、太いアイスピックと例えるかもしれない。
しかしいずれにせよ、このような不気味な意匠の施された凶器が、本来どのようなおぞましい目的のために生み出され、そして如何にしてそれを全うしたかは、それ以上言葉で語る必要がまったくないくらいにこうして歴然と示されている…。
夏妃は、バスルームに充満するおぞましい蒸気から一刻も早く逃れようと、ハンカチで口元を押さえながら部屋を飛び出す…。
彼らの惨い姿は、一瞬見ただけでもう眼に焼きついてしまっている。これ以上を見ていたら、永遠にその姿が眼から消えないに違いない…。
こみ上げてくる嘔吐感は、今朝のあの園芸倉庫でのものとまったく同じ…。
夏妃は客室に背を向けたまま、しばらくの間、嘔吐感と戦わなくてはならなかった…。
「……と、………とにかく、この部屋を子どもたちに、…譲治くんに見せるわけには行きません。至急、この部屋を閉じなさい…!」
「………え、…えぇ、見せられませんとも…。両親のこんな惨い姿をとても譲治さんには……。」
だが、廊下を猛烈に走り近付いてくる足音は、部屋に飛び込んでくる前から譲治のものであることが理解できた。
譲治は、子どもたちと一緒に客間で待っていた。
だが、源次が夏妃を呼び出し、夏妃が真っ青になって客間を飛び出していくのを見て、虫の報せを感じたのだった。
そして、客室に大勢が集まっているのを見て、確信する…。
「父さん!!! 母さんッ!!!」
「………ぅあッ、な、……何だよこれ、また、……魔法陣かよッ?!」
「………………………………。」
「絵羽伯母さんたちは無事なんだよな?! おい、嘉音くん! これは何の騒ぎなんだ?!」
「…戦人さま…。……………………………。」
嘉音が語らなくとも、部屋に飛び込んだ常時の叫びで、彼らは全てを理解するのだった。
「……うわああぁあああぁあぁぁぁああぁぁあぁあぁ!! 誰がッ、…誰がこんなことをッ!! 殺してやるッ、殺してやるッ!!!」
「…譲治くん、………しっかり……。」
夏妃は譲治の肩に手を触れるが、それは乱暴に振り払われる。
…譲治は絵羽のベッドの傍らに崩れ落ち、母の面影の前でベッドに顔を埋めながら号泣する。
そして何度も何度も握り拳をベッドに打ちつける…。
「………じょ、…譲治兄さん、……し、しっかり……。………って、…戦人?」
「…………戦人さま…。」
戦人は、………廊下の壁に背中を付き、……はばかることなく、右手で両目を覆いながら嗚咽を漏らしていた……。
「酷ぇ……。…………酷ぇぜ……。……心に決めた女を婚約した次の日に失って。………同じ日に、…親父とお袋まで殺されるなんてよ…。…………そんなの、あんまりにも惨いじゃねぇか……。」
…もちろん、死んだ誰もが等しく気の毒だった。
でも戦人にとって、……死なれ、残った者の方がずっと気の毒だった。
今この場にいる誰もが近しい人を失ってる。
譲治だけが気の毒なわけじゃない。
……しかし、…譲治のそれは、群を抜いた。
「………………戦人………。」
「そりゃよ、…人はいつか死ぬぜ…。人間、誰だっていつかは死別の悲しみと戦わなきゃならねぇ日が来るだろうよ。…でもよ、そいつは兄貴にとってはずっと未来の話で、……しかもそいつは、ひとつずつ順番に訪れるべきもんじゃねぇかよ…!! ……惨ぇ…。惨過ぎるぜ……。……野郎……、野郎………!少しは、……人の情けってもんがねぇのかよ…!! ううっぅううぅぅッ!!!」
「………うー…。戦人、…泣かない泣かない…。」
真里亞が無機質な声で戦人を慰める…。戦人は乱暴に自分の涙を拭った。
「あぁ…。くそ、…もう流さねぇぜ…。悔し涙も悲しみの涙も、もう二度と流さねぇぜ…。………あぁ、全然駄目だ。俺たちは魔女さまに詰めを食らってるわけだ。守勢一方ってわけだ…! そりゃあ駄目だぜ、全然駄目だ! チェス盤が引っくり返っちまうぜ…!! 野郎は俺たち羊が、明日まで逃げる手段もなく怯えてるだけだろうと思ってるだろうよ。…だがな、引っくり返すぜ!! 明日までこの島から逃げられねぇのは野郎も同じだ…! 小便チビりそうになりながら逃げ隠れするのは俺たちじゃねぇ、野郎の方だ! 暴いてやるぜ、必ずな。明日までに…、いや、明日なんか待たねぇ、今夜だ。今夜中にその胸倉を掴みあげてやらぁ…!!」
■少し時間経過…
「……とにかく、この部屋は警察が来るまでこのままにして施錠します。……いいですね?」
夏妃が全員に、有無を言わせない口調でそう宣言する。
…反論する者がもしもいるとすれば、それは譲治だったが、…譲治ももう充分に涙を流したのだろう。
譲治が背中を向けたまま小さく頷き、立ち上がると、それで他の全員も同意した。
夏妃は拾った当主の洋形封筒をまだ開けていなかった。
…だが、話の流れから、この部屋を出ることになってしまったので、開封は客間でみんなの前で行うことにした。
そして客間へ戻ろうと廊下を歩き出すと、………すぐに違和感、…あるいは異常に気付く者が現れた。
「……………うー。……臭いよ?」
「あ、…真里亞もわかるか?
…こりゃ何の臭いだよ、…酷ぇ臭いだぜ…。」
皆、鼻をくんくん鳴らせると、…確かに、これまで嗅いだことのない、焦げたような酷い悪臭が廊下を漂ってくるのを感じた。
「……私、ちょっと厨房を見てきます…。火はちゃんと消したはずなんですよ……。」
焦げた臭いがすれば、さっきまで厨房で火を扱った熊沢が、真っ先に自分の不手際かと疑いたくなるのも当然だった。熊沢はあたふたと駆け出していく。
「……嘉音、熊沢と行きなさい。ひとりにさせないように。」
「は、はい…!」
源次の指示に頷き、嘉音は後を追っていった。
…走るわけではないが、それ以外の面々も臭い元を探すため、その後を追った。
「…うー。臭い。……うーー。」
「これは確かに……、鼻が曲がりそうな臭いですね。…しかし換気のために窓を開けてもいいものか…。」
夏妃は、防犯上の都合から窓を開けることを渋る。
「……換気扇を回させましょう。窓を開ける必要はないと思います。」
「…譲治の兄貴。……話し掛けても大丈夫かよ?」
「……犯人を探す相談なら構わないよ。」
譲治はもう悲しみの淵からは這い上がっているようだった。
…今、譲治の胸を満たしているのは、自分の愛した人と両親の命を奪った犯人を憎む静かなる炎の感情だけだ。
「…部屋にはチェーンが掛かってた。…さっき構造を見たが、とても外から細工できる代物じゃねぇ。……つまり、完璧な密室だったってぇことだ。」
「………そうなるね。薔薇庭園の倉庫の時は、シャッターの鍵を使用人室からこっそりと持ち出したのだろうとか、あるいは複製の鍵を持っていた可能性とか、いくつか方法が想像できた。………でも、チェーンは違う。チェーンは一般に浸透した施錠方法の中で、もっともシンプルに密室を構築できる。」
「チェーンだけは、物理的に破壊しない限り、外からはどうにもならないぜ。じゃあつまり、犯人は扉からは出入りしなかったってことなのか…?」
「……こりゃ面白ぇや。つい数時間ほど前にも、扉以外でどうやって部屋から出入りしたのかって、みんなで騒いだ気がするぜ。」
祖父さまが部屋から消えたと騒いだ時。
…絵羽叔母さんが気まぐれに挟んだレシートによって、扉は封印されていたことが明かされ、その間、出入りした唯一の人物として夏妃伯母さんが疑われることとなった。
絵羽叔母さんは、夏妃伯母さんが祖父さまを窓から突き落として、自分は扉から出たのだというそれはそれで筋の通った説を展開してみせた。
しかし今度の扉はもっと単純だ。
内側からドアチェーンで封印されていた。
窓も内側から閉まり、遺体も室内にある。
……今度こそ掛け値なし、本物の密室だ。
…そう。祖父さまの失踪も含むなら、事件は三度起こり、三度、扉の話が話題に上った。
最初はシャッター。
使用人室に鍵があり、それを知る者を仮定するならば、とても密室とは言えない代物だった。
次はレシートで封印された扉。
だが、夏妃伯母さんが室内に入っている以上、祖父さまを例えば窓から出して、あるいは突き落として、夏妃伯母さんが窓を施錠してから退出することもできる。
もしくは俺の珍説のように、レシートがなくなるまで隠れていて、その後に部屋を出たとか。……とにかく、苦し紛れないくつかのトリックで破れなくもない扉だ。
その意味では、これまた密室とは言えない代物だ。
そして今度はドアチェーンで封印された扉。
…今度こそお手上げだった。
扉も窓も全て内側から施錠されていた。完全な密室だ。
最初の密室は、全員が疑えるので成立しない。
…次の密室は、夏妃伯母さんを疑えるので成立しない。
…だが今度の密室は、誰も疑うことができない!
部屋は完全に密室で、全員を等しく拒むドアチェーンという封印がある…!
「……なら、犯人は室内に入らずに犯行に及んだ…? 部屋の外から何らかの方法で…。」
「確かに…。チェーンである以上、人が通れるほどは開けなくても、多少の隙間を開けることができる。ノックして顔を覗かせたところを襲うとか…。いや、…甘いか…?」
「甘いよな。………絵羽伯母さんの遺体が扉のすぐ側だったならそれも考えたぜ。だが絵羽伯母さんは部屋の奥のベッドの上! しかも秀吉伯父さんはバスルームだった。チェーンの隙間からでは、姿を見ることもできねぇし、手を伸ばすこともできねぇ。…畜生、全然駄目だぜ、さっぱりだ!!」
……くいくいと、俺の袖が引っ張られる。…真里亞だった。
「…………うー。…満足?」
「満足って、何がだよ。」
「………きひひひひひひひひひひひひ。…戦人は親族の誰かを疑うのが嫌だから、犯人はベアトリーチェであってほしいと願ったよ? だからベアトリーチェは叶えた。…戦人が言ったとおり、“絶対に人間には無理なことをして、戦人に魔女の存在を信じさせて”くれた。…………なのにわがまま。きひひひひひひひひひひひひひひひ、あ痛っ。」
気持ち悪く笑う真里亞の頭を拳骨で小突く。
「おう、叶えてくれてありがとよ。今のはその礼と、不謹慎な時に笑ったことへの教育的指導だ。それより教えやがれ。絵羽叔母さんたちの部屋の扉にも、また怪しげな落書きがされていた。あれもまた魔法陣なのか?!」
「……きひひひひひひひ。あれは特に覚えやすい特徴的な形なんだから、あのくらい知ってて欲しいね。あ痛っ。」
「知らねぇから花を持たせてやってんだ。ごちゃごちゃ言わねぇで解説しろぃ。」
「………戦人は暴力的だね。あんまり意地悪すると教えないよ……?あ痛っ!うー……、言うよ言うよ、このゲンコツ男。………あれは月の1の魔法陣だよ。」
「何の意味がある。その魔法陣のご利益は?! 書かれてるヘブライ語の意味は!」
「記されているのは、旧約聖書、詩篇第107篇の16節。……“主は青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを打ち破って下さいました”。……魔法陣の効用は2つ。1つは、如何なる方法によって閉ざされた扉でも開くことができる。」
「そりゃ便利な魔法だぜ。…つまり、魔法の力に頼らなきゃ開けぬ密室の扉っていう、魔女さまのアピールってわけか…! もう1つの効用は?!」
「開かぬ扉を八方塞の事態に見立て、扉を開く。……難解な事態の時に用いることで、それまで思いつきもしなかった解決策を与えてくれるんだよ。……平たく言うと、観察力や洞察力、ひらめきや直感を授けてくれるんだね。…………きひひひひひひひひひ。ベアトリーチェは、戦人如き人間風情に、この扉の開き方がわかるものかって、挑発してるんだよ。きっひひひひひひひひひひひひひひ、あ痛っ。」
「ようし、もう黙れご苦労。……上等だぜ、その魔女の挑戦、受けてやらぁ!」
「……真里亞ちゃん。…この世に魔女も悪魔も存在しない。…父さんと母さんは誰かが殺した! それが僕のよく知る人間なのか、知らない人間なのかはわからない。でも、そのどちらであっても必ず人間なんだ…!!」
「………しかし、……どうやって。せいぜい10cm程度しか開かない扉の隙間から、どうやったら室内の二人を…!」
「それにしても耐え難い臭いです。……一体、何事なのですか…!」
■厨房
先行する熊沢と嘉音は、厨房に着く前に、臭いの発生元は厨房ではないことに気付く。
なぜなら、厨房に至る途中にある、地下への階段からさらに濃密な悪臭が登ってくるのに気付いたからだ。
「………ボイラー室…。」
「……またボイラーの調子が悪いんでしょうか…。」
その階段は地下のボイラー室へ通じるものだった。
屋敷のボイラーは古く、このところ調子も悪い。
二人も何度かボイラーの不調に立ち会ったことがあるが、このような臭いを噴出す不調は初めての経験だった。
バタン。
「い、今の音は……?!」
地下より聞こえたその音は、確かに扉が閉じる音だった。
……熊沢も、問い掛けるように言いはしたが、それ以外の何の音でもないことをすでに理解している。
熊沢はその音に大層驚き、再び腰をぬかしてへたり込んでしまう…。
……なぜなら、今この瞬間、ボイラー室にいられる人間はいないからだ。
さっきの絵羽たちの部屋に全員が揃った! なら、今の扉の音は何者に発せられる音だというのか!
「……………………………!」
「嘉音さん…!!」
嘉音は瞬時に状況を整理し、地下へ駆け下りる…!
今、扉を閉じる音がしたのに、誰の気配も登ってこないということは、扉を閉めた何者かはボイラー室の中にいるということ
だ もしボイラー室が袋小路だったなら、嘉音は焦って飛び出したりはしなかった。
…しかし、嘉音は使用人だから知っている。
ボイラー室には屋敷側からの入口と、中庭側からの入口の2つがある。
今追わなければ、取り逃がすかも知れないのだ…!
熊沢も、嘉音にだいぶ遅れて、その思考を理解する。
…しかし、ひとりで行かせてはならない…!
もし、ボイラー室にいる存在が犯人で、…最初の殺人で大人6人をやすやすと殺して見せたほどの相手なら、嘉音1人が取っ組みかかったところでどうにかなる相手ではない。
…その論法なら、熊沢が1人加勢したところで何の意味もないのだが…。
とにかく熊沢は、嘉音をひとりで行かせてはならないと思い、遅れて階段を駆け下りる…!!
■ボイラー室
その時点で、嘉音はすでにボイラー室にいた。
ボイラー室独特のじめじめした熱気が苛む。
…もともと、不快な湿気と臭気の篭っている場所だった。
しかもその上、あの悪臭が充満していて、嘉音は吐き気すら催す。
……この部屋が発生元であることは疑いようもなかった。
なら、それがどこから発せられているのか、嘉音は探るべきなのだ。
だが、嘉音は正面を見据えたまま、入口のすぐ脇にある工具棚から鉈を掴み取る。
……鉈が欲しくて手を伸ばしたのではない。
…武器になるものなら何でもいいから、手に取りたかったのだ。……なぜ?
「……………………………………………。」
嘉音は、裸電球程度では到底切り裂けぬ闇の中を凝視する。
……そして、答えた・・・。
「………………ルーレットは、数字と赤黒に賭けて配当を競い合う。……だが、赤か黒かのような、リスクの低い賭けは、その程度の配当しか与えられない。」
嘉音の口から紡がれる言葉が、…深い闇に飲み込まれていく。
その闇が不意に、煌きながら、渦を巻き始める…。
それは、……とても幻想的な光景…。
ボイラー室のあちこちの影に隠れていた黄金に輝く蝶たちが、…美しく瞬きながら羽ばたき、…闇の中へ集い消えていく…。
嘉音は、蝶たちを飲み込む闇に向かって言い続けていた。
……しかし、闇の中に集った蝶たちは、………多分、恐らく、いや、どうせ、……笑う。
…しかし嘉音はまったく怯むことなく、言葉を続けた。
「…逆に、より的中率の低い賭け方をすれば、そのリスクに比例した配当が与えられる。…………お館様は、天文学的なリスクを的中できることを“奇跡”と呼び、その結果得られる天文学的な配当を“魔法”と呼んでいた。…………お館様とお前が、どんな“魔法”を求めてルーレットに挑んでいるのか、そんなことには興味ない……。しかし、お前は忘れている。……ルーレットには、赤でも黒でもない目が出得ることを、忘れている。」
ルーレットには“0”という特殊な目があり、ルールによっては親の総取りを意味し、盤面に賭けた全てのコインが流れてしまう、あたかも没収試合のような目がある…。
「………僕は、ひとつだけ心に決めていた。……もし。………紗音が殺されて、僕が生き残るようなことがあったなら。………この身を投げ出して、お前のルーレットを全て台無しにしてやろうと…!」
「…………これは、お館様が決めたルールでも、…ましてやお前が決めたルールでもない。………このルールは僕が作った。………僕は、もう家具じゃない。………お前のルーレットの、ゼロなんだ…!」
…嘉音の顔が、屈辱に、歪む。
………彼の克己に対し嘲りが与えられたのは明白だった。
嘉音の眉間がさらに、歪み、…嘉音が誰にも見せたことのないだろう激情を表情に浮かべる。
……鉈を握る手が震える。…汗が雫となって伝い落ちる…。
嘉音の手を震えさせているのが、怒りの感情だけではないことは明白だった。
…だが、嘉音はその感情を飲み込む…。
「…………………僕はもうお前の言葉に惑わされたりはしない。………悪魔のルーレットはこれでおしまいだ。…じ、……地獄にてさらに千年、次の召喚者を待つがいい、ベアトリーチェえええぇええぇッ!!!」
嘉音が鉈を振り上げて闇に飛び込もうとした時、闇は確かに嘲笑った。
その勇気を、低俗かつ無為無駄無意味だと嘲笑った。
……そして嘉音は、鉈を振り上げた姿のまま、………もうそれ以上、一歩も踏み出すことはできなかった…。
ガランという音は、嘉音が握っていた鉈を落とし、それが床に転がったもの…。
そして、次に二度続くドサリという音は、嘉音が両膝を、左、右…と順に着く音…。
鉈を落とした後は、まるで空を掴もうとするかのようにも見える、その腕は徐々に下がり。……胸元に当てられる。そしてもう片方の手も。
……そこには、……悪魔を描いた意匠の掘り込まれた柄が。
嘉音の胸に、……絵羽たちの眉間に刺さっていたあの凶器が……。
「……………ぅ…………………く、…………。」
苦悶に歪む嘉音の口の端から、鮮血が零れ落ちる…。
…それは、嘉音の白い肌には過ぎた化粧…。
その様子に、闇の中に煌く黄金の蝶たちが蟲惑的に舞い踊る…。
それは美しき美しき、ひとりの少年の克己への賛辞と嘲りと侮蔑と葬送の舞い。
…嘉音は自身の絶命をすでに覚悟していたが、……与えられた死を、そのままの形で受け容れることにだけでも、最後の抵抗を試みる。
…そして両手で胸に刺し込まれた凶器の柄を握り、…………この世のものと思えぬ激痛に歯を食いしばりながら……………、…………………………抜く。
一瞬だけ、真っ赤な飛沫が噴出す。
……そして、ごぽりと、…不快な音をさせた。
それは多分、嘉音の魂を死者の沼が飲み込んでいく時と同じ音…。
「……………嘉音さんッ?! ひぃいいいいいぃッ!!! だ、誰かぁああぁあぁぁ!! ひぃぃぃぃいいぃぃッ!!」
熊沢は眼前の受け容れがたい光景に絶叫した。
血の海に横たわる嘉音…。
…熊沢の胸中は混乱で滅茶苦茶だった。
あぁ、何という不運!
自分と一緒だったなら殺されなかったのに!
あぁ、何という幸運!
自分と一緒だったなら自分も殺されていたかもしれない!!
だからその絶叫する表情は、顔の全ての筋肉を吊り上げた、まるで泣き笑いのような…、錯乱の形相だった。誰にもその表情を嘲笑えはしない…!!
「何事ですか、熊沢ッ!! 返事をしなさい、熊沢!!!」
一番最初に飛び込んできたのは、ライフル銃を構えた夏妃だった。
その後に戦人と源次が飛び込んでくる。
彼らは本来なら、このボイラー室に充満する猛烈な悪臭の発生源について議論するだろう。
……だが、血の海に溺れるかのように倒れている嘉音を前に、それは二の次だった。
「嘉音! 返事をしなさい!! ……源次、南條先生をここにッ!!」
夏妃は嘉音が瀕死とはいえ、まだ意識があることに気付き源次に託す。
…夏妃はライフル銃を高々と構えると、ボイラー室の奥の暗がりに向けながら怒鳴る!
「……そこに隠れている者は何者ですッ!!! 大人しく出てきなさいッ!! そちらから出てこないなら、容赦なく撃ちますッ!!」
「ライトだ! 伯母さん、照らすぜッ!!」
戦人が咄嗟の機転を利かし、入口脇の工具棚から大型の懐中電灯を取って、夏妃が睨みつける闇をその灯りで切り裂いた。
だが、そこには無機質な配管と扉が照らし出されるだけだった。
扉はわずかに隙間を残して開いており、何者かが慌しくそこから出て行ったらしいことは明白だった。
「……夏妃伯母さん、あの扉はどこへッ?!」
「げ、源次…! あの扉はどこに通じているのですか?!」
「…な、中庭です…!」
「に、逃がすかよッ、クソこの野郎ぉおおおおぉおおおぉッ!!!」
戦人は雄叫びを上げながら扉に体当たりする。
冷たい外気がどっと噴出してきた。
…そこには細く粗末な登り階段があった。
…戦人は絶叫しながらそれを駆け上がっていく!
「待ちなさい戦人くん!! ひとりでは危険ですッ!!」
戦人の後を追い、夏妃も階段を駆け上がる。
そこは中庭だった。
…屋敷の中庭はもっぱら採光のために設けられたもので、それほど立派なところではなかった。
四囲を囲まれているため、強い風の音を聞くことは出来ても、風の一切吹き込まぬ穏やかな空間だった。
そして、そこにはしとしとと悲しみの雨だけが降っていた…。
ぱらぱらと冷たい雫が降る中を駆け上がり、中庭に出た戦人は四方を見渡す。
……無論、不審な人影がのこのこと待ち構えていようはずもなかった…。
戦人はぐるぐると四方を見渡す。ぐるぐると、ぐるぐると。方向感覚を失いそうになるくらいに、ぐるぐると。その光景の中に、犯人の姿があることを祈って…!
だが、あるわけがない。
屋敷の壁と窓がいくつも無情に並ぶのがぐるぐると目に入るだけだ…!
しかも、中庭から屋敷に入る入口は2つもあり、そのどちらにも鍵は掛かっていなかった。
中庭の構造上、屋敷の外から入れないため、鍵が設けられてなかったのだ。
……これではどちらを出たのかわからない! お手上げだった。
戦人は罵りの言葉と共に、握り拳を壁に叩きつけるのだった…。
「……戦人くん!! ひとりで先走っては駄目です!!……………………。…………戦人くん……?」
戦人は壁に額を付き、…爪を立てて掻き毟りながら泣いていた…。
「………畜生、……畜生畜生…ッ!! 絵羽伯母さんに、秀吉伯父さん! さらに嘉音くんかよッ!!! 6人も殺しやがった!! 飽き足らずさらに3人も殺しやがった!! ふざけるな、ふざけるなぁああぁあぁッ!! 絵羽伯母さんも秀吉伯父さんも、昔からいつもやさしくしてくれる愉快な伯母さんたちだったじゃねぇかよ…!! 嘉音くんとは昨日会ったばかりだが、きっとこれから仲良くなれたと思うぜ?! 何で殺したんだッ!!どうして、どうして…ッ!!! 人ってのはな、殺しちまったらな、二度と生き返らねぇんだぞ?! 竹の子みてぇにひょいひょい生えてきちゃこねぇんだぞッ?! ………どうして殺すんだよ?! どうして…、どうして…ッ!!!うおおおおおぉおぉぉぉ…!!」
…戦人は、人の心の痛みや無念がわかる男だった。…だから、泣く。力の限り。
夏妃は、豪放そうな性格だと思っていた戦人に、こんな繊細な一面があったことを知って少しだけ驚くと共に、…まだ未成年である傷つきやすい戦人の心を理解し、受け止めた。
「……………………大丈夫です。…あなたも、譲治くんも。真里亞ちゃんも朱志香も、私が絶対に守ります。………母として、…そして、右代宮家の代表として…!」
「……ううううぅうぅううぅ!! うおおおぉおおぉおぉぉぉ!!」
戦人はしばらくの間、夏妃の胸で号泣した後、これまでもそうだったように、涙を拭きながら苦笑いして、充分に泣き尽くしたことをアピールした…。
「とにかく、一度、下に戻りましょう。……犯人を捜すより、自分たちの身を守る方が最優先です。明日になれば船が来る。そうすれば警察がやって来て、全てを白日の下に晒し出してくれるでしょう。………犯人がどう足掻こうとも、この島から逃げられるものですか…!!」
「……そうっすね。…警察さえ来れば。」
うみねこのなく頃には、…事件は解決している。
でも、…なぜか戦人は、うみねこがもう二度と鳴いてくれないような、そんな不安感をわずかに覚える。
……そんなことがあるわけがない。
台風が過ぎ去れば、再び船着場には賑やかなうみねこたちが帰ってくるはずなのに……。
■ボイラー室
俺は夏妃伯母さんと一緒にボイラー室に戻り、何の収穫もなかったことを力なく伝えた。
嘉音くんは、南條先生と譲治の兄貴が二人で使用人室に運んだという。
使用人室には救急箱や流しがあり、保健室的な機能を持っているらしい。
熊沢さんと朱志香もそれに同行した。
…床には、嘉音くんが残した血溜まりが残っている。
そのおびただしい出血量と、無造作に転がる凶器の無慈悲な形状から、……多分、南條先生の手当ては徒労に終わるだろうと思った…。
その凶器は紛れもなく、絵羽伯母さんたちの眉間に刺さっていたものと同じだった。
……いや、柄の部分の悪魔のデザインが少し違うだろうか…?
その辺は多少の個性差だろう。
とにかく、同じ形状の凶器という意味ではまったく同じだった。
絵羽伯母さんたちの時は、少々残酷だが、現場保全の意味もあり、凶器は突き刺さったままの状態にされた。
…だからこうして、完全な状態で凶器全体を見るのはこれが初めてだった。
やはり凶器は、ナイフのような刃物ではなく、アイスピック状、…いや、細い杭状のものだった。
しかもそこには、ドリル状?のような螺旋の意匠が施されていた。
…悪趣味に例えれば、生贄の心臓に杭を打つために作られたような、そんな悪魔の儀式ご用達っぽくも見える…。
全長は柄の部分も入れて25cmくらい。その半分ほどが真っ赤に血で染められた杭状の部分。
……血に染まった部分の長さが、嘉音くんの胸をどれだけ深々と貫いていたかを想像させる…。
だが、夏妃伯母さんたちは凶器には目もくれず、凄まじい臭いを噴出している焼却炉の前にいた。
かつて、炉の中にくべられていたそれを、引きずり出したのだろう。
…それは未だ燻り、不快この上ない悪臭をもうもうと放ち続けていた…。
源次さんと真里亞が、…それをじっと見下ろしている。
夏妃伯母さんは正視に堪えないのだろう。…首を何度も振りながら背を向けていた。
「……………………う…!」
…もうこれ以上、何を見ても驚かないつもりだったが、……これは、……、うぐ…!
思わず込み上げる吐き気に俺はしばらく呻いた…。
………あのこの世のものと思えない悪臭の正体は、………焼却炉で焼かれていた、死体を焦がす臭いだったのだ……。
着衣も体の表面も髪の毛も全て焼け爛れたそのグロテスクな死体は、こうなってしまっては顔や年齢はおろか、性別さえ見当がつかない…。
しかし、冷静に考えれば、現時点で出てくる死体は、1人しかいなかった。
………朝から姿を消し、行方のわからなかった、………祖父さまだ。
「………おそらく、…お館様だと思います。」
「……………私も、…同感です。…………このようなお姿でお亡くなりになるとは……。………おいたわしや…。」
「…でも、この死体、……本当に祖父さまだって保証はあるんすか…? こうも黒焦げじゃ、性別さえも想像つかないってのに…。」
「戦人くん、…足を御覧なさい。」
夏妃伯母さんは、ハンカチで口元を覆い眼を背けながら、焼け焦げた死体の足を見ろと指し示す。
………………?
「……両足の指が6本あるのがおわかりになりませんか。」
「え?………………あ、……本当だ………。」
足の指が、確かに源次さんの言う通り、どちらの足にも6本ある。
それぞれの指が実にもっともらしく並んでいるので気付かなかった…。
「……お館様はお生まれの時から両足の指がそれぞれ6本でした。…そして、ゆえにお館様は右代宮家の再興を託されたのです。」
「右代宮家には昔から、生まれつき多指症の方が多かったそうです。…多分、遺伝的なものでしょう。」
多指症ってのは、書いて字の如し。
生まれる時のちょいとした神さまのミスで1本になるはずの指が2本に分かれてしまって、増えてしまうことがあるのだ。
ただ、多指症が世間で騒がれることはそうそうない。
なぜなら、これは病気ではなく、生まれつきのものだからだ。
だから赤ん坊の時にもう病院は把握していて、1歳くらいになったら、手術して元通りに直してしまう。
だから、仮に多指症だったとしても物心が付く前に治療されてしまっていて、子ども自身は覚えてすらいないわけだ。
ちなみに、赤ん坊二千人に1人くらいの可能性で起こりえるものらしいので、人目には触れないながらも、決して珍しいものではない。
そう言えば、秀吉伯父さんに昔、聞かされたことがあるような。…あの豊臣秀吉も手の指が6本あったんだとか…。
夏妃伯母さんが言うには、右代宮家の歴代当主の中でも名君と讃えられた何人かが、みんな多指症だったらしい。
……そのため、祖父さまが生まれた時、名君の再来かと親族たちに騒がれたのだそうだ。で、関東大震災で主だった親族たちが全滅し、そこからお家を再興できるのは、吉祥の徴を持って生まれてきた祖父さまだ、ってな論法になったらしい。
もし祖父さまが当主もまんざらじゃないって思ったんなら、その6本目は幸運の指ってことになるのかもな。
……そう言えば、どこかの国では多指症の人は神さまの使いだと信じられてて崇められてる、なんて話も聞いたような…。
余談だが、推理小説なんかで死体を焼く時は、身元を不明にするための目的ですることが多いもんだ。
……しかし、祖父さまの場合は、ちょっと焼いたくらいじゃ誤魔化せない、ちゃんとした証があったってことか…。
そして、……祖父さまの遺体はただ焼け焦げているだけではなかった。
……絵羽伯母さんたちと同じように、…そして嘉音くんの胸にも突き刺さっていた、あの“悪魔のアイスピック”が、…眉間に突き立てられている……!
「…………指に、“当主の指輪”がありません。」
「…昨夜の手紙のとおりということですか。………………お父様、……さぞやご無念でしょう……。」
夏妃さんはうな垂れ、硬く目を瞑る…。
……この部屋も、警察に引き渡すべき重要な犯行現場となった。
……祖父さまの死体はここに残し、部屋は施錠して封印することとなった。
祖父さまの遺体はいつ頃から焼却炉で焼かれていたのかははっきりしない。
源次さんが言うには、火勢がそんなに強くなかったので、だいぶ前から焼かれていて、炉から漏れ出した臭いが室内に少しずつ充満し、あふれ出して階段を登ってきたのではないかという。
……レアかウェルダンかはとりあえず置いとくが、…とにかく祖父さまが、オートロックの密室に閉じこもっていたにもかかわらず、連れ出され、殺されて焼かれた。…そう見て間違いないだろう…。
しかし、源次さんが言うには、ボイラー室は普段から施錠されているという。
……俺たち以外の誰かが潜んでいて犯行に及んでいる可能性が限りなく高くなり、しかもそいつはマスターキーのようなものを持ち歩いている可能性も高い。
…何しろ、今の屋敷内は戸締りがされていることになっている。
にもかかわらず、犯人はこうして屋敷内を自由に闊歩しているのだから。
この一件で、19人目が存在することは確定したのか?
今までまったく姿を現さず、にもかかわらず存在をアピールするという矛盾。
それを俺は、霧江さんのチェス盤理論で、逆に19人目を否定してきた。
…またしてもチェス盤をひっくり返すならば。これほど明らかに19人目の存在がはっきりするなら、…ならばこそ、19人目の存在など、なお一層ありえないということになる。その19人目が姿を現さない限り…!
……レシートで封印した扉から祖父さまを連れ出し、チェーンで封印した扉の向こうの絵羽伯母さんたちを殺せた犯人なら、……怪しげなトリックや仕掛けで、見事架空の19人目を生み出すことも可能なのか…?!?!
もし、18人の中に犯人がいると今でも信じているなら、
……その容疑者は今やあまりに限られている。
俺たち子ども4人に、夏妃伯母さん。そして源次さん、熊沢の婆ちゃん、そして南條先生。…この中に犯人がいるってことになる!
いや、そうとも決め付けられない。
……さっき祖父さまの遺体が本当に本人か疑ったじゃないか。
…同じことを、他の遺体についても考えてみるべきじゃないだろうか。
例えば、最初に殺された6人は顔面を酷く破壊されていた。
……面影を確認できる遺体もあったが、例えばウチのクソ親父辺りなんかは、綺麗にお面でも剥がすかのように、きっちりと顔面を失わされていた…。
俺たちは服装と状況だけで遺体を特定したに過ぎない…。
予め身代わりの死体を用意し、自らを死んだと偽装してどこかに隠れ潜んでいて犯行に及んでいるとか…?
…そんな馬鹿なと思うが、それでも不可能なトリックじゃない。
……19人目、……いや、………魔女に屈服するにはまだ早い……!
「真里亞ちゃん、それ以上しげしげと見てはなりません。さぁ戦人くんも。嘉音の容態も気になりますし、いつまでもこのようなところにはいられません。戻りましょう。」
「……うー。」
真里亞はみんなと一緒に出て行かず、ボイラー室に残っていた。
しげしげと見ているのは多分、祖父さまの遺体じゃなくて、その眉間に付き立てられた“悪魔のアイスピック”の方だろう。
…多分、マニアにゃ堪らない一本に違いない。
その頭をコツンと叩く。
「おい真里亞。……ベアトリーチェの目的は何なんだ。俺たち全員の命か…?」
「……きひひひひひひひひ。ベアトリーチェはもうすぐ蘇るんだよ。…その時、誰も生き残れはしない。……きひひひひひひひひひひひ。」
「よくも笑えるもんだぜ。自分だけ蚊帳の外だと思ってるのか? どうして自分の身に危機が迫っていると感じない? どうして怯えない?!」
「……ベアトリーチェは約束してくれたもん。…真里亞は黄金郷へ連れて行ってもらえるんだよ。………そこはね、しがらみも何もない、全ての人たちがずっと一緒に、いつまでもやさしくしあって行ける素敵な場所なんだよ。………真里亞は楽しみだよ? その時は、もうすぐだもん。…きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ…。」
…一体、真里亞は何者なんだ…。
………俺は、6年前の3歳の時の真里亞しか知らない。無垢で素直ないい子だった。
そして6年経ったこの真里亞と、…俺の知る真里亞が繋がらない。
……誰なんだ、この、真里亞と名乗る“魔女”は…。
魔女の存在を頑なに妄信する彼女にとっては、……この一連の不可解な事件は全て、魔女が確かに存在する証。
人間には困難な何かが起こる度に、俺たちはベアトリーチェという魔女の存在を信じなければならなくなる。
それは真里亞にとって、…かつて頑なにその存在を否定し続けた親族たちが、次々に魔女の存在を認めていくという“痛快”なことでもある…。
……だから、上機嫌だってのか…?
「………真里亞。もういっぺんだけ聞く。どうせ答えは同じだろうが、もういっぺんだけ聞く。」
「うー…?」
「…お前は昨日、薔薇庭園で手紙をもらった。……そいつは誰なんだ…!」
「うー。…だからベアトリーチェ。…戦人がまだ信じない。うー。」
真里亞は従来の言葉を繰り返すだけだ。
……真里亞は19人目の魔女に会っている。
それは本当に19人目なのか、それとも18人の誰かに、そうだと言えと吹き込まれたのか。
ひとつだけ確かなのは、真里亞は俺たちとずっと一緒にいて、常にアリバイがあるし、不審な行動も一切ない。
……ベアトリーチェのメッセンジャーにされ、心酔しているだけで、決して19人目ではない。
………………はず。
そうだ。絵羽伯母さんたちの部屋で拾った手紙は、中に何と書かれているのだろう…。夏妃伯母さんがまだ持っているはず…。
▲第12アイキャッチ:10月5日(日)19時30分 が20時00分に進む
■使用人室
……嘉音くんはついに、意識を取り戻すことはなかった。
南條先生たちの懸命の治療にもかかわらず…。
…いや、薬も施設もないこの島で可能な治療など元々何もない…。
しかし、犯人と唯一対峙した人間だった。
その手掛かりをせめて聞ければ…。
しかし、嘉音くんは運ばれた時からもう、………手遅れだった。
「………申し訳ありません。あのような重症を、設備のないところではどうしようも…。」
「…いえ、無理もないことです。最善を尽くして下さり、ありがとうございました。」
南條先生のシャツは激しい返り血を浴び、最後の一秒まで献身的な治療に当たったことが想像できた。
廊下では朱志香がしゃがみ込み、さめざめと泣いていた。
……嘉音くんの死の瞬間を、看取ったのかもしれない。
譲治の兄貴が慰めの言葉を掛けているが、朱志香がそれを拒絶したため、それ以上は無理に関わろうとせず、そっとしておいていた。
「…………私が、嘉音さんをひとりで行かせなければ……、……ううぅ…。」
「……気に病むことはない。…仮に一緒だったら、熊沢も襲われていたかもしれん。……それに、愚かにも先走った故の自業自得だ。」
「そんな言い方ってねぇぜッ?! 嘉音くんは犯人の姿を見つけて、勇敢に立ち向かったんだ!! 熊沢さんも一緒だったら、犯人は躊躇して逃げることを選んだかもしれない!!」
普段、細かい気遣いのできる朱志香の口から出たとは思えない、感情的な言葉が飛び出す。
…熊沢さんは申し訳ないと、うな垂れるしかなかった…。
「朱志香…。」
「………今は言葉を掛けるべきじゃない。…僕だって、……そして戦人くんもだろ?
もう何が何だかわからなくて、心が張り裂けそうだよ……。」
譲治の兄貴は、再び目頭に涙を溜める。
…泣き崩れる朱志香を見て、再び両親を失った悲しみがぶり返してしまったのだろう。
…………俺は、まとめて一気に泣いた。
…だからさらに泣きたいとは思わない。
…しかし、彼らの胸中は痛いほどわかった。
「…………大丈夫だよ、朱志香。………嘉音にだってまたすぐ会えるよ。」
「…よしてくれよ! そういう慰めはいらねぇぜ…!」
「ベアトリーチェは死者も、失った愛すらも蘇らせる。……だから、きっとすぐに会えるよ。そしてきっと、みんなで穏やかに過ごせるから。」
「嘉音くんを殺したのが、真里亞に昨日手紙を渡したっていうベアトリーチェなのか?! そいつはどこにいるんだよ?! どこに隠れてるんだよッ?! 私が見つけて引き裂いてやるッ!!! 言えよッ、知ってるんだろ、犯人の正体を!!
お前は何を知っていて何を隠してるんだッ!! 話しやがれぇええぇッ!!!」
「お、……お嬢様、お止め下さい…!」
「うー! うー! ベアトリーチェはいるー! “い”るー!! うーうーうー!!」
「畜生、源次さん離せよ!! 真里亞が犯人を知ってる!! しかもそいつは知ってて隠してるんだ! そして、俺たちの内情を伝えて、殺しの手引きをしてるに違いないんだぜ!!」
「朱志香ッ、静かにしなさい!!」
真里亞に掴みかかる朱志香…。
源次さんがそれを押し留めようとするが、それでも朱志香は収まらない。…続いて聞こえたのは夏妃伯母さんが頬を打つ音だった。
後には、朱志香のすすり泣く悲しい声が響き渡るだけだった…。
「……真里亞ちゃん。…僕は、君が断じて犯人ではないことを知っている。…君はいつも僕たちと一緒にいたし、犯人なんかと通じている時間はなかった。…………だから、聞かせて欲しい。……君に昨日、手紙を渡したベアトリーチェとは、…誰なんだい。」
……その言葉は、やさしそうに見えるが、…真里亞に対し拭いきれぬ疑いを持つことを如実に物語っていた。
……取っ組みかかりこそしない。
しかし、気持ちは朱志香とまったく同じだったのだ。
「……兄貴。同じことは俺もさっき聞いたぜ。…返事は同じさ。」
「真里亞ちゃんの口から聞きたい。……ベアトリーチェとは誰なんだい。」
「……………………………。言っても、どうせ、……信じない。」
「それはどういう意味だい?! …ひょっとして、僕らのよく知る人物が犯人で、…君は何かの事情からそれを庇うために黙っているというのかい?! 君は、あの手紙を誰にもらったんだい!」
「…………ベアトリーチェにもらったんだよ。何度だって言う。手紙はベアトリーチェにもらった。……きひひひひひひひひひ。譲治お兄ちゃんがベアトリーチェを信じないのは、殴れる相手じゃないから?譲治お兄ちゃんは、やるせない気持ちを暴力に変えて誰かにぶつけたいと思っている。だから、殴れる相手がニンゲンじゃなきゃ収まりが付かない。………だから、そんな譲治お兄ちゃんには真実を話しても、受け容れられない。だから、言っても無駄。信じない。…………でも真里亞は何度も言うよ。真実だから言うよ。……ベアトリーチェはね、“い”るの! きひひひひひひひひひひひひひひ…! 黄金郷の扉はもうすぐ開かれるよ。真里亞はそこに行くの。ベアトリーチェが約束してくれたの!その世界では、ママもやさしくて、パパも一緒でやさしいの。真里亞は早くそこへ行きたいの。……みんなはベアトリーチェのことを恐れている。そしてそれは無理もないことだけど。……なら安心して。…ベアトリーチェは言ってたよ。台風が去るまでに、全てを終わらせるからって。………あ痛っ。」
「……饒舌な真里亞も嫌いじゃねぇが、とりあえずはそのくらいにしとけ。…魔女はいるいる言ってたお前にとって、さぞや現状は愉快だろうが、とりあえずそいつはお前だけで噛み締めとけ。他人にまで押し付けるんじゃねぃ。」
「うー。」
「こ、こいつ、前から気持ち悪いやつだとは思ってたけど、……おかしいぜ、どっかおかしいぜ!!戦人は思わねぇのかよ、源次さんは?! 熊沢さんは?! 母さんはどうだよ!! 真里亞は犯人の正体を知ってて隠してる! 確かに直接手を下してるわけじゃないかもしれない! でも間違いなく犯人の一味だぜ!! そうさ、スパイさ! 私たちと一緒になんかいさせられないぜッ!!」
「………………………きひひひ。」
「………真里亞ちゃん。…不謹慎な話を慎むべき時もあることを知りなさい。これ以上、混乱に油を注ぐような真似が過ぎれば、伯母さんも本気で怒ります。」
「………………。」
夏妃伯母さんが怖い目をして睨む。
…真里亞は、楼座叔母さんのような、賑やかな叱り方には慣れていたが、無言系にはまだ免疫がなかったらしい。…肩をすくめ口を噤んだ。
荒涼とした空気が満ちる…。
誰が何を口に出しても、余計に何かがこじれる気がした。
……一体これで、何人が死んだんだ。
親父たちが6人。
それから絵羽伯母さんたち夫婦2人に、嘉音くん、祖父さま。
………この島には18人もいたはずなんだ。…その内の10人が殺されちまった。
半分以上が殺されちまった。
……そして、残り8人は大丈夫なんて保証は今やまったくない…。
「……とにかく、今は仲違いをしている時ではありません。……犯人が神出鬼没に屋敷内を出入りしていることが間違いなくなった今、私たちは明日まで身を守ることだけに専念しなくてはなりません。」
「…夏妃伯母さんに極めて同感だぜ。……犯人探しは今夜、ゆっくりできるさ。今はどこで篭城するかを考えた方がいい。」
俺はそう言いながらみんなに時計を示す。
もう夜の8時を回っている。
…朝早くから俺たちは次々とショックを受け続け、身も心も疲れ切っていた。
……明日まではまだまだ長い。
体を休められ、最低限の安心ができる篭城場所を見つけなければならない…。
「………私も同感ですな…。私も含め、もうみんな体も心も限界まで打ちのめされています。今からそれを考えた方が賢明でしょうな…。」
「そういうこった。………敵はマスターキーに準ずるものを持っている公算が高い。」
「…紗音や嘉音くん、郷田さんはマスターキーを持ってましたか?」
「………はい。勤務時間中だったなら身につけていたはずです。」
「…現場をいじらない方がいいってんでそこまでは調べなかったろうが、誰かの鍵が奪われている可能性は否定できねぇな。」
「………そもそも犯人は、薔薇庭園倉庫のシャッターを開けるために、一度使用人室を訪れている可能性があります。そこでマスターキーをすでに入手していると考えて間違いないでしょう。」
右代宮家は使用人の人数も少なくはない。
そのため、マスターキーは複数本あった。
また、勤務が交代する度に、それらを使用人の間でやり取りしていたため、その辺りの管理が若干ずさんであったことを認めなければならなかった。
「仮に、殺された使用人の誰かのポケットから鍵束を拝借したとして、その鍵でも開けられない安全な場所はあるのか…?」
「………私たちはお仕事の都合上、全てのお部屋の鍵を預かっております…。お屋敷もゲストハウスも全てです…。」
「つまり、……私たちはどこへ立て篭もって鍵を掛けようと、意味がないってわけだ。…上等だぜ、鍵なんかいるもんか、来るなら来やがれってんだ! 返り討ちにしてやるぜ!!」
「………敵は正面から来ないよ。最初の6人はともかく、絵羽伯母さんたちや嘉音くん、…そしてお祖父さまの例を見る限り、敵は孤立した人間だけを狙ってる。一部屋に固まっている僕たちのところへ堂々と乗り込んでこられるほどの力はないんだよ。」
「そうだな。兄貴の言う通りだ。……ひょっとすると、伯母さんのライフル銃が抑止効果として成立してるのかもしれないぜ。」
「…………なら、良いのですが。」
「…………………………。」
「真里亞、言いたいことがあるんだろうが、そいつは飲み込んで、しばらく黙ってろ。」
「…うー。」
どうせ真里亞は、魔女は銃など恐れないとか言いたかったのだろう。
だがそれを口にすればまた雰囲気は険悪になる。それを察し、先に釘を打っておく…。
「……………よろしいでしょうか。一箇所だけ、使用人の鍵束でも入れない場所が。」
「それはどこです?」
「……はい。お館様の書斎です。」
「わ、…私は反対だぜ!! 祖父さまの気持ち悪い部屋になんか入りたくない!」
「あの部屋に入れる鍵は何本あるんですか。」
「……2本です。1本は常に私が。もう1本はお館様がお持ちでしたが、先ほど、ボイラー室の遺体からこれを。」
源次さんが、懐からハンカチを取り出して開くと、焦げて汚れた書斎の鍵を見せる。
そして、一度夏妃伯母さんに貸した自分の鍵を並べて見せる。
「…本来なら、警察のために鍵も残すべきだったのですが、……お館様より書斎の留守は必ず守るようにと仰せ付けられておりましたもので、私がお預かりさせていただいておりました。」
「………なるほど…。ということは、金蔵さんの書斎は唯一の安全地帯というわけですな…。」
「…そういうことになりますね。……あの怪しげな臭いの部屋に一晩も立て篭もるなど、考えたくもありませんが、あの部屋が一番安全であることを今は認めなければならないようです。」
「……………その安全な部屋に閉じ篭ってた祖父さまを、犯人は連れ出して殺してる。…絶対安全とは言い切れねぇけどな。」
「戦人くんの説の、お祖父さまがうまくレシートをやり過ごして自分の意思で部屋を出た、…と考えるなら、篭城の価値はあるかもしれない…。」
「……楽観的過ぎだぜ、兄貴。」
しかし、……同時に面白い話でもあると思った。
なぜなら、これは封印の扉を如何にして開けたのかを敵に、魔女自らに問い質せるからだ。
犯人が何らかの方法で祖父さまを書斎からさらったと仮定したなら。
書斎に篭った俺たちを襲うために、祖父さまを連れ出した時と同じトリックを再び披露しなければならない。
……それを目の前で証明させるチャンスでもある。
本当に魔女だというなら、俺たちの眼前で、開けゴマと唱えて魔法で開けるところを見せてみろというのだ。……しかし、それは不可能だろう。
チェス盤をひっくり返して考える限り、犯人は自分を魔女だと思わせようと振舞っていることは明白だ。
……本当に魔女なら、俺たちの目の前に現れて、グゥの音も出ないほどにカラフルな魔法を披露すればいい。
…しかしそれを避けている以上、そうだと思わせたいニセ魔女の仕業ということになる。
……だからこそ、魔法以外の方法で密室を破った犯人には、俺たちの眼前で再び書斎の扉を(開けられない。
「……祖父さんの部屋ってのは8人で押しかけても大丈夫なくらいの広さなんすか?」
「………はい。ベッドにソファー、毛布類もありますので、贅沢を言わなければ充分に夜を越すことができます。流しにご不浄、冷蔵庫に酒棚もあります。」
「ひゅぅ。そいつはすげぇぜ。…しかしおかしなもんだな。自分の家の中に、さらに自分の家を作ったってのか? 島を丸ごと買って自分の夢を全て実現しきった祖父さまの最後の家にしちゃ、ずいぶん手狭なんだな。」
「……………………。そうですね。……いつの頃からか、お父様にとっては、屋敷内ですら、心を許せる場所ではなくなってしまったのでしょう。」
「………そこに引き篭もっていたのを私たちは嘲笑い、そして今度は私たちがそこに立て篭もろうってわけだ。…は!」
朱志香は吐き捨てるように言う。
「朱志香ちゃんは…、立て篭もるより、犯人を捜しに行きたいという感じだね。」
「…もちろん、こっちから捜しに行って見つけられるなんて思っちゃいないぜ。…結局は待つしかない。ならどこで待ったって同じだろ?! 逃げも隠れもしない。客間でテレビでも見ながら、のんびり現れるのをまとうじゃねぇかよ、ベアトリーチェさまをよぉ!」
「……現れなければ現れないで充分です。犯人を暴くのは私たちである必要がないからです。」
「正論ですな……。警察が来るまで、危険を冒すべきではありません。」
「ありがとう、南條先生。………私はお父様の書斎に移るべきだと思います。…確かに、お父様が連れ出された可能性があり、絶対の安全が保証されているわけではない。……しかし、戦人くんの推理の、お父様が何らかの方法で自ら書斎を出て、外で襲われた可能性も否定できません。」
…あの時は、とりあえずそういう珍説を唱えた。
しかし、絵羽伯母さんが反論した通り、トリックとしては成立しても、なぜ祖父さまがそんな面倒をしてまでこっそり書斎を抜け出したのかという動機は、まるで説明できない。
そして、ベッドの下に隠れてやり過ごし、レシートがなくなってから脱出するというトリックも、祖父さまが“扉にレシートが挟まれていることを知って”いなくては使えない。
絵羽伯母さんはそこまでを指摘はしなかったが、……荒唐無稽な珍説であったことは明らかだ。
ならやはり、絵羽伯母さんが主張していたように、扉は封印され密室だったのか。
犯人は夏妃伯母さんで、部屋が密室であったことは疑いようもない事実…?
…………今この場に伯母さんがいてくれたなら、堂々とそう主張して俺の珍説を吹き飛ばしてくれただろう。
…だがとにかく。
寝床とトイレを同時に持ち、8人全員が立て篭もれる部屋で、…その部屋を開けるたった2本しかない鍵がここに揃っている以上、現在のこの屋敷の中でもっとも安全な場所であると言わざるを得ない…。
少なくとも、相変わらず客間に篭るので問題ないだろうと言うよりはマシに思えた。
いや、……客間だったからこそ、俺たちは無事だったのか?
そこを出て、未知の場所へ移動するのはかえって危険じゃないのか…?
…あぁ、駄目だ駄目だ全然駄目だ…。
………俺の安っぽい頭もそろそろ熱で焼け付いてきた頃だ。
…チェス盤をひっくり返し続けると、真と逆が延々といつまでも入れ替わり続けて、何も信じられなくなる…。
18人の中に犯人がいそうになるとベアトリーチェを信じたくなり、ベアトリーチェを信じそうになると18人の中に犯人を見つけたくなる。
…それらが延々とぐるぐる回り続け、結局俺は、思考的に一歩も元の場所から踏み出していないのではないか…。
……俺がチェス盤思考を霧江さんから教えてもらったのはいつの昔だったっけ…。
状況をひっくり返し、敵側の思考から状況を探るというコンセプトが面白くて、当時の俺は面白がり、全ての思考にこの考えを採用していた気がする。
……ちなみに当時の霧江さんは親父の同僚。
…まさか家族に加わる日が来るとは夢にも思わなかった…。
…霧江さん、……言ってなかったっけ。
チェス盤思考はひとつの考え方ではあっても、決して万能ではなく、むしろ拘り過ぎるとかえって良くないと言っていた気がする…。
「チェス盤思考ってのはね。昔、本で読んだゲーム理論というものを私なりに解釈したものよ。とても面白い学問だから、戦人くんも大学に入ったら挑戦してみるといいわよ。」
「ぜひやってみたいっす! それを勉強してチェス盤思考をもっと鍛えたら、どんな相手の手の内も読めるみたいで楽しいじゃないっすか。」
「でもね、妄信しちゃ駄目よ。ゲーム理論は非常に奥深く複雑な学問なの。チェス盤思考はその上辺だけを私なりに解釈した考え方に過ぎない。……戦人くんが想像するほどに、相手の手の内を読みきるには、相当の勉強が必要よ。しかも、チェス盤理論は応用の利く便利なものではあっても完璧ではない。便利ではあっても弱点が多い。」
「……弱点?」
「えぇ。…チェス盤思考の基礎はゲーム理論。ゲーム理論は突き詰めると数学に行き着くの。数学の弱点は何か知ってる? ………ノイズよ。」
1+1=2と数学を書いたら、この式は何億年経とうと1+1=2で、それ以上にも以下にもならない。
ノイズが一切混じらないからだ。
だが、例えば、……数学ではなく、国語だとノイズが混じる。
例えば漢字がいい例だ。
古い漢字と新しい漢字で微妙に違うように、時代の変化によってノイズが混じり変化が起こっていることを示している。
歴史もそうじゃないか。
…現代から見て愚行と思える政策も、その当時にあっては意味のあるものだったことは少なくない。
チェスのルールは一定だからこそ、ある盤面について達人同士が議論したなら、百年前の人だろうと百年後の人だろうと、同じ見解に達することがありえる。
…しかし、チェスのルールが時代の変化に伴って大胆に改定されたなら、同じ盤面についての議論が、時代の変化によって変わってしまうことはありえるのだ。
「その通り。人の世の事象は本来ノイズだらけなのよ。人の感情だってそうでしょう? まったく同じことが起こったからといって、人は必ず決められた反応を示すとは限らない。……それを数学の理論で当てはめ、相手の行動を読もうとする時点で、すでに理論には弱点と限界があることを知らなければならない。……手っ取り早く言うと、チェス盤思考は、ノイズや気まぐれ、そして誤解、認識ミスに非常に弱いの。」
…そうだ。
確かに霧江さんはそう言っていた…。
そもそもチェスというゲームは、双方が同じルールで戦い、勝利という同じ目標で戦うからこそ、双方の手の内を読みあえるのだ。
………常に相手が最善手でゲームを進めていると仮定できるから読みあえるのだ。
……だがもし。相手がちょっとした疲れや気まぐれで、最善とは言い難い一手を指したなら?
あるいは、…実はこのゲームには特別なルールがあって、敵だけが知り、行使できる未知の何かがあったら?
いや、そもそも、実は相手には勝利以外の隠された目的があったら?
敵の立場に立っての思考。
これこそがチェス盤思考の基本。
…ということはつまり、……自分が敵を見誤っていたら、そこから導き出される答えは全てデタラメであり、何の役にも立たないことになってしまう…。
俺はチェス盤思考で、事件の裏に潜む何者かの輪郭を、何度か捉えたような気でいる。
しかし、俺は犯人のことを何もわかっていない。
……全ては思考の迷路遊びでしかないのか。
………こんな時、霧江さんがいてくれたなら……、もっともっと研ぎ澄まされた思考で何かに気付いてくれるだろうに……。
……朱志香は最後まで祖父さまの書斎に移動することを嫌がった。
だが、結局は夏妃伯母さんが無理やり押し通して移動することになった。
もう、みんなすっかり疑心暗鬼に陥ってしまっていた。
…熊沢さんが、夕食を一度は用意したのだが、絵羽伯母さんたちの一件で一度、厨房と客間を無人にしてしまっている。
その際に毒を盛られたかもしれないと誰かが言い出した。
…そのため、俺たちは熊沢さんが腕を振るってくれた夕食に手を付けることができなくなったのだった。
………親父たち6人を殺した方法は未だ不明だが、毒殺の可能性もあった。
…確かにこれなら、大の大人6人の殺害を、例え犯人が1人であったとしても実行できる。
…しかもこの想像は、犯人が単独で且つ、夏妃伯母さんのライフル銃を恐れていることを想像させ、自分たちの精神安定上とても良かった。
しかし、疲労と空腹は想像する以上に辛いものだった。
……そこで熊沢さんの提案で、みんなで一緒に厨房へ行き、缶詰などの毒物混入を疑い難いものを集めて持ち込もうということになった。
このような殺伐とした一日を、せめて夕食でだけはねぎらいたいという熊沢さんの努力は、このような気の毒な形で水泡に帰す…。
配膳台車に積み込まれた食事が少しだけ悲しかった。
みんなで階段を上がっていく。
先頭は夏妃伯母さんで、用心深く暗がりを両眼と銃口で睨み付けた。
3階に辿り着くと、事前に夏妃伯母さんに脅されていた通り、薬品系の臭いと甘ったるい臭いの入り混じった、脳を蝕むような臭いが漂ってくるのを感じた。
「……なるほど、こりゃ一晩も篭ったら頭痛にでもなりそうな臭いだな。…今さらながら、祖父さまの書斎に反対した朱志香に賛成だぜ。」
その臭いは、この一際立派な扉から漏れ出てくるように感じる。
……これが、来る者をみんな拒んだという開かずの書斎の扉か…。
源次さんが鍵を開けるまでの間、真里亞はその扉やドアノブを興味深そうにじっと見ていた。
「………うー。…すごいドア。」
「古く厳めしくて冗談の通じなさそうな、如何にも祖父さまの書斎に相応しい扉だよな。」
「……霊的な悪意を退ける力がとても強く込められている。………多分、ベアトリーチェはこの扉を開けられないね。」
「ほぅ…? そりゃどういうことだよ。」
真里亞がドアノブを指差す。
………そこには、サソリの紋章…、…いや、サソリをあしらった魔法陣のような意匠が刻まれていた。
…このデザインは、……そうだ。
俺と朱志香が昨日、真里亞にもらったあのキーホルダーのお守りにそっくりじゃないか…。
「………火星の5の魔法陣は強力な魔除け。しかもこの魔法陣は相当、丹念に作られていて、力がよく満ちている。…………魔の者であるベアトリーチェにとって、この魔法陣はとても厄介だろうね。」
「それは心強いじゃねぇか。この部屋ならベアトリーチェの魔手から逃れられるってことだろ? うちの小魔女さまは実に頼もしいぜ。」
「……なら、ベアトリーチェはどうやって中のお祖父さまを…?」
「…………戦人が推理した通りだよ。…ベアトリーチェは中に入れない。でも、彼女には魔法があるし、使い魔だっている。それらを使って、お祖父さまが自分から書斎を出てくるように仕向けることはできるかも。」
「あー、漫画で読んだな。吸血鬼は十字架が怖くて近付けねぇけど、使い魔たちはへっちゃらなんで、使い魔に襲わせるみたいなシーンを読んだことがあるぜ。」
「戦人たちに昨日あげた、サソリのキーホルダーのようなお守りも、この火星の5の魔法陣だよ。込められている力は微々たるものだけど、この島を出るまでの間を守ってくれるだけなら充分だった。………なくしちゃったそうだけどね? きひひひひひひひひひひ…。」
「……サソリのキーホルダーのお守り?」
「あ、……あぁ、その…。昨日、私が母さんに渡したお守りは、真里亞にもらったものだったんだよ。ドアノブに掛けると魔除けになるとか言われて、…私より母さんの方がいいかなって、あの時は思って…。」
「……そうでしたか。…朱志香にしては変わった物を持っていると思っていました。」
「…………夏妃伯母さんがあれを…? ドアノブに?」
「えぇ。…昨夜、そう聞き、寝る前に扉の内側のドアノブに掛けました。」
「なら、夏妃伯母さんはとても幸運だよ。………そうだったなら昨夜、ベアトリーチェは夏妃伯母さんに指一本触れられなかっただろうね。…ベアトリーチェはさぞや悔しがったと思うよ。……きひひひひひひひひひひひ…。」
…ベアトリーチェが悔しがる…?
指一本触れられない…?
夏妃は今朝見た、あの扉の外側にあった、血の付いた指で掻き毟ったような不気味な落書きを思い出し、……はっと息を呑んだ。
まさか、………ベアトリーチェを名乗る魔女は、……自分の部屋の扉を入ろうとしたのではないだろうか…?
だが、内側には魔除けのお守りが掛けられていた。
…だから扉を破れなかった。だから悔しかった。…だから、引っ掻いた…?
「よせよ、そういう話…。魔女なんかいないぜ。いるのは犯人。それも私たちと同じ人間だ。……それを確かめる必要があるってんなら、八つ裂きにして血が赤いかも確認してやろうじゃねぇか。……くそ、………くそ……。……よくも…嘉音くんを………。」
ガチャン。源次が鍵を開ける。
8人は金蔵の書斎に入るのだった…。
■金蔵の書斎
祖父さまの書斎は、………事前に噂を聞いていたので、それほど驚きはしなかった。
オカルト好きが自分の趣味で徹底的に固めきっただけのこと。
…もし祖父さまがアイドルの追っかけが趣味だったら、壁中がアイドルポスターで埋まっていただろうというだけの話だ。
理解はできずとも、趣味の塊の部屋であるということだけはよくわかった。
しかしそれでも、怪しげな薬物の臭いと、脳を溶かすような甘い臭いにはさすがに閉口するしかなかった…。
扉が閉まると、自動的にガチャンという音がする。
…なるほど、閉じると自動的に閉まるオートロックというわけか…。
そしてこの扉を外から開けられる鍵は2本しかなく、その2本が今この室内に存在している。……つまり、この部屋はこれで“密室”になったのだ。
………シャッター、レシート、チェーン。……そして、オートロック。
…四度目の扉はそれまでで最高の形で施錠され、文句のない形で密室を構成してくれた。
それをより確実に確認するため、まず最初に部屋全体の戸締り確認から行なわれた。
窓はしっかり施錠されていた。
ならこれで完璧なのだが、念には念を入れて壁をぐるりと叩いてみる。
……隠し扉があるのではないかと囁かれたからだ。
…だが不審な点は見つけられなかった。
祖父さまの書斎はとても大きかった。書斎といっても一部屋ではない。
そこは簡単に区分すると、書斎部分と寝室部分、トイレ・風呂部分と賄い用の流し部分の4区画となっていた。
なるほど、この書斎だけで充分、生活空間は成立している。
…祖父さまがこの部屋を出なくても充分生活ができるのも納得だった。
祖父さまにテレビを見る習慣はなかったらしく、この部屋にはテレビはおろかラジオもなかった。
……俺たちは明日の朝まで、風雨の音だけを聞きながら過ごすしかないということだ。
南條先生が、ソファーの前のテーブルに置かれたチェス盤を見つめ呟く…。
それは、昨日まで進めていた祖父さまとのチェスの途中らしい。
……黒が白をかなり追い詰めており、もう数手でチェックメイトに至るだろうという、終盤の終盤だった。
あと一息でチェックメイトだったが、……詰めを焦り、……ついには届かなかった。
「……金蔵さん。…やはり、………この勝負は決着が付きませんでしたな…。」
「………南條先生…。」
「…わしは長く金蔵さんの友人だったが、……金蔵さんのことを知っているのは半分だけでしかなかった。…金蔵さんにはいつも、聡明な金蔵さんと、何かの狂気に囚われた金蔵さんの二人が同居していたように思う…。…………わしは、金蔵さんのことを何も理解してはおらんかった…。」
「…特にベアトリーチェさまのことになると、人が変わったようでしたっけねぇ…。」
熊沢の婆ちゃんが見上げる先には、ベアトリーチェの肖像画があった。
玄関ホールに掛けられている巨大なものではなく、この部屋用に作らせた小さいもののようだ。
祖父さまは、毎日をこの部屋で過ごし、そしてどれほどの時間を、あの肖像画の魔女に話し掛けて過ごしてきたのだろう。
……そもそも、祖父さまにとってベアトリーチェとは何者なのだろう。
…今や子どもが森に迷い込まぬように親たちが作った脅し話の域では説明できない…。
俺たちは厨房から持ち込んだ缶詰を食べながら、そもそもベアトリーチェとは何者なのかを話しあった。
……犯人がベアトリーチェ本人なのか、あるいはそれを騙る別人なのか、魔女なのか人間なのかはともかく、事件の根底や背景には、この肖像画のご婦人が強く関わっている。
………彼女の話抜きに、この事件は何も語れないのだ。
「……そうだ。…母さん、絵羽伯母さんたちの部屋で、犯人の手紙を拾ったんでしょ?」
「えぇ…。まだ開けていませんでしたね…。……開けてみましょう。」
…夏妃伯母さんはあの洋形封筒を取り出す。
源次さんが書斎机の引き出しからペーパーナイフを取り出し、手渡した。
その開封作業を見ながら、譲治の兄貴が少しだけ表情を歪める。
……何しろ、自分の親の殺害現場に残されていた手紙だ。
…兄貴にとって堪え難い内容が記されている可能性は充分ある…。
それは夏妃伯母さんも理解しているようだった。
…だから、読み上げず、まずは自分が先に内容を目で読んだ。
俺たちは、その表情がショッキングなものに歪むのではないかと少し怯えたが、伯母さんの眉が不愉快そうに少し歪んだだけだった。
「……内容は、何と…?」
「…不愉快な一文があります。……私たちを挑発するつもりなのでしょう。」
夏妃伯母さんは、子どもたちに見せても問題ない内容だと判断し、それをテーブルの上に公開してくれた。みんなが一斉にそれを覗き込む。
「“我が名を讃えよ”。………何だよこれ。……うぜぇぜ。」
「………ベアトリーチェの勝ち名乗りみたいなものだろうね。…………くそ…。」
「…………………………。」
「大方、また怪しげな魔法陣でも出てくるのを期待してたんだろ。」
「……魔法陣ではなかったけどね。……想像は裏切られなかったよ。…きひひ。」
「どういう意味でしょう……。自分の存在を誇示したいのでしょうか…。」
「そう考えるのが妥当でしょう。……この手紙で初めて、私たちは昨夜の手紙の主が犯人であると理解できる。……ここに書かれている内容よりも、昨夜と同じ封筒で、というところに意味があるものと思います。」
「……………封筒も封蝋も、間違いなくお館様が使われていたものです。」
「…おおぉぉ…。もう私には何が何だかわかりませんよ……。こんなことは、右代宮のお家にお仕えして以来、初めてのことです…。」
「昨日の手紙の言う通りなら、……ベアトリーチェは自称、祖父さまの最古の腹心だ。……祖父さまも常々、そう口にしてたんですよね?」
源次さんと熊沢さんに言ってやると、二人は一緒に頷いた。
「…ってぇことは、祖父さまの次に詳しいのは、源次さんと熊沢さんってことになる。………話してくれないっすか。」
「………私は長いこと、わざと耳にしなかった話です。ですがこの期に及んではそうも言っていられません。…源次、知っている限りを話しなさい。」
「…………………………………。」
源次さんは答えない。
…知ってて黙っているのか、それとも何も知らないのか。
…でも、俺には想像がつく。
…ベアトリーチェという魔女は、使用人たちの間ではすでに神格化した怪談だ。
……オカルト趣味の祖父さまとも、さぞや親和性が高いだろう。
だから、祖父さまにさらに妙なことを吹き込まれ、ますますに魔女を神格化していった可能性は高い。
祖父さまに忠誠を誓う最も信頼された使用人だからこそ、祖父さまの生み出した魔女幻想にもっとも感化されているとも言える…。
だから、源次さんが黙っている理由はたったひとつ。
……口にしてもいいが、必ずや反感を買うことになるので、口にしない方がマシだし、どうせ言ったって信じない。ってところだろう。
…真里亞はその辺りを、歯に衣を被せずにしゃあしゃあとのたまって、さっき朱志香に取っ組みかかられたばかりでもある。
源次さんが沈黙を守るのは当然だ…。
「……お父様の、…妾、ですか?」
妾。……ありえる話だった。
普通の貧乏人が一夫多妻に否定的なのは、何も道徳観だけじゃない。
養えない経済的都合があるからだ。
……だが、大金持ちにはそれがない。
だから、堂々と正妻以外に女を囲うことがありえる。
…祖父さまに、祖母さま以外の女がいたことは否定できない。
「かもな…。祖母さまは生きてた頃、よく疑ってたらしいぜ。浮気相手がいるってな。……俺はてっきりそれは、祖父さまの想像の中の魔女のことを指してるんだとばかり思ってたんだが…。」
「…そりゃ、何とも面白い話になってきたぜ。……源次さんは俺に言ったよな? ベアトリーチェはこの屋敷ができる以前から祖父さまに仕えてたって。」
「お屋敷が竣工したのは昭和27年と聞いています。」
「ってことは、ベアトリーチェという人は、30年以上も昔からお祖父さまと連れ添っていたということになるね…。」
「その、30年前の妾、もしくはその縁者や隠し子が、何かの恨みがあって、何らかの復讐を企んだ、か。…いっひっひ、なるほど、洋館ミステリーっぽいありがちなストーリーになってきたじゃねぇか。」
「…………汚らわしい話ですが、一番納得できる筋書きです。…どうですか、源次。」
「…………………………。……………恐らく、お館様に恋愛の感情はおありになられたでしょう。亡くなられた奥様より、愛しておられたに違いありません。」
「……ベアトリーチェってのは何者なんだよ! そして今はどうしてるんだ?!」
「………………。……お屋敷が出来るより前に、お亡くなりになったと聞いています。」
「すでに死んでいる…?」
「……はい。……お館様は大層深く悲しまれ、………ベアトリーチェさまを蘇らせる方法として、黒魔術に傾倒なさっていったのです。……お館様はベアトリーチェさまを、心の底から愛しておられたのです。…このような狂気に駆り立てるほどに。」
源次さんはそう言いながら、……祖父さまの狂気が詰まったこの部屋を見よと言うように、両手を広げた。
…一同は絶句する。
普通に考えるなら、黒魔術趣味など不気味なだけで、何を考えて傾倒したのかまったく理解できなかった。
…金蔵は狂気の中で右代宮家を復興させた“変わり者”だからと、誰も理解しようとしなかった…。
祖父さまの胸中にあったのは、愛する女性を失い、……それを諦めきれぬ悲しみだけ。
……ついさっきまで、不気味だと思っていたこの部屋は、…その瞬間に全て理解できるものとなって変わった。
不気味な蔵書も、魔法陣も、薬物も、…全て全て。
……すでにこの世を去って30年以上も経つたったひとりの女性の面影をもう一度蘇らせたいがためだけに…。
「…………一度だけ、深く酔われたお館様にベアトリーチェさまのお話を聞かされたことがあります。………詳しいことは忘れてしまいましたが。……それはもう、…女の私が聞いて羨むような、深い深い愛情でございました。」
「……金蔵さんは右代宮家の当主を継いだ時、…当時、まだ生き残っていた右代宮家の長老たちの意向で、亡くなった奥さんとの結婚を決められたのです。」
「…つまり、右代宮家にとって得になる女性との結婚を、……強制された?」
「……左様です。……金蔵さんは、お家復興のためだけに当主に据えられ、全ての重責を背負わされたのです。………そんな金蔵さんが、どこでどういう経緯でベアトリーチェと知り合ったのかは、…わかりかねます。」
「…………それ以上を語るのは、無粋だな。」
祖父さまは、そこで初めて、本当の恋に落ちた…。
それがどれほど深い感情だったか。…それをうかがい知るのは容易だ。
……この部屋いっぱいに詰め込まれた黒魔術関係の山々。
そして祖父さまが今日まで一日も惜しまずに閉じ篭り続け、自身の研究に没頭した気の遠くなるような日々。
……そこから、祖父さまが如何にベアトリーチェを愛したかを感じずにはいられない…。
「…………………。……私、……誤解してたよ、源次さん。」
「……………何を、でしょうか。」
「私、……使用人の人たちが、魔女を妄信するのは、祖父さまの気持ち悪い黒魔術趣味に感化されてるからじゃないかってずっと思ってきた。……違ったんだな…。」
彼らは、ベアトリーチェの魂だけでも蘇り、……この屋敷の中にいるということにして、……祖父さまの心を慰めていたのだろうか…。
源次さんは目蓋を閉じ、遠い日の何かを思い出すような表情を浮かべながらも、……無言を貫いた。
…………それを告白することは、すでに死んでいても、自分の唯一の主に対する最大の裏切りになってしまうからだろう。
……ベアトリーチェは魔女として蘇り、今もこの館にいる。
……そう語り、信じ、…信じさせ。
………源次は墓の中までそれを持っていく。
それが、主に捧げられる最後の奉公なのかもしれない。
使用人たちの間で囁かれ続け、六軒島の怪談となってきた魔女伝説。
……その正体は、最愛の人を失った祖父さまへの、……悲しい嘘。…いや、心遣い。
「………………。……私は、お父様の前で、魔女を否定する話を何度か口にした覚えがあります。………今なら、それがどれだけお父様を傷つけていたか、わかります…。」
「……今の僕にならわかるよ。………紗音を蘇らせる方法が黒魔術だというなら、……僕は今すぐにもこの部屋の次の主となって研究を始めるよ…。」
「…………………………兄貴。」
譲治の瞳から、再び一筋の涙が零れ落ちる。
……もらい涙だろうか、朱志香も涙を浮かべ、鼻をすすっていた…。
「…………ベアトリーチェは言っていたよ。………もうじき、蘇ることができる。会うことができる、って。」
――もうじき、黄金郷の扉が、開かれる。
そこは黄金色に輝く約束の地で、全ての死者の魂を蘇らせ、失った愛をも蘇らせる。
……そして私は、安らかな世界にて永遠に眠り続けるであろう。
「……そう言ったのか。真里亞に手紙を渡したベアトリーチェは。」
「……………信じないよね? ……きひひひ。」
「……ここに祖父さまがいたなら。きっと喜んだろうな。もうじきベアトリーチェが蘇ることに、さぞや躍り上がって喜んだろうなぁ…。…なら、俺は信じたぜ。…祖父さまが半生を掛けて研究したことで蘇り、愛した女の魂が蘇ったと信じて寿命を全うできるって言うんなら、…俺も信じたぜ。」
「………戦人……………………。」
「…ひとりの女性をずっと愛し続けた気持ちが、……周りにも伝わり、真実となる。………それを気遣いと呼べばそれまでだろうけれど。………今の僕は、…あえてそれを魔法と呼んであげたいね。」
「…………気遣いじゃないよ。………本当に、…魔法だよ。…魔女だよ。……きひひひひひ。やっぱり、誰にもベアトリーチェの姿は見えないんだね…。」
しばらくの間。俺たちは雨音だけを聞きながら、……この部屋の主が、どんな愛情と狂気で半生を過ごしたのか、思いを馳せるのだった…。
「………女の私から聞けば、お父様の純愛の気持ちも少しは理解したいところですが、……それではお母様の立つ瀬がありません。」
「はは、同感だぜ。浮気は浮気。綺麗事にされちゃかなわねぇよな…。」
「……それもそうだな。祖母さまが気の毒になっちまうぜ。」
「それで、……ベアトリーチェとお祖父さまの間に子どもがいた、なんて話はある…?」
今回の事件には、ベアトリーチェという強いキーワードが隠されているように思う。
となれば、ベアトリーチェの縁者を疑うのは当然の流れだった。
「いえ。………そのような話は聞いたことがありません。」
「……仮にいたとしたら、最愛の人の忘れ形見として、きっと全ての愛情を注ぎ込んだだろうね。…それがなく、黒魔術に没頭していったなら、子どもはいなかったと考えるべきなのかな。」
「………………そう言えば、こんな噂を聞いたことがあるぜ。…知ってるだろ? 祖父さまが福音の家っていう、孤児院に莫大な援助をしてるって話。」
「…よしなさい。それはお父様を冒涜する中傷に過ぎません。」
「教えてくれよ夏妃伯母さん。…隠し事はなしなのは伯母さんもだと思うっすよぅ?」
「……………下らない話です。お父様は孤児院に莫大な援助をし、社会勉強の一環として、当家の使用人雇用枠を開放していました。…それを、お父様に汚らわしい趣味があると吹聴する愚か者がいたというだけの話です。」
「一時期それが、黒魔術の生贄にするためだ、みたいな噂になってさ…。実際、いつもこの部屋で怪しげな実験や儀式を繰り返してたわけで、私も半分は信じてたところがあったぜ…。」
「……その、福音の家出身の使用人ってのは?」
「…………何人かいますが、親族会議中のシフトでは紗音と嘉音の二人でした。」
ベアトリーチェを蘇らせるための、……生贄に、孤児院から使用人として呼び寄せた…?
「確かに祖父さまが使用人として選ぶのは、いっつも紗音や嘉音くんくらいの若い子ばかり。…私だって、祖父さまには妙な趣味があるに違いないって信じてたぜ。」
「朱志香! 言葉を慎みなさい。」
夏妃伯母さんが叱り付けると、一気に気まずい空気になり、みんな閉口してしまった。
…しかし、俺の脳裏に何かが引っ掛かった。
生贄…。生贄…。
………孤児院から連れてこられた生贄…。
……何だ?
生贄なんて物騒な言葉は、なかなかお目にかかるもんじゃない。
…なのに最近、この単語をどこかで見聞きした。………記憶のどこかに引っ掛かってる。
……なぁ、ベアトリーチェ。
お前は何を知ってるんだ…?
俺はベアトリーチェの肖像画の前に来ていた。
玄関ホールにあるような巨大さはないが、名のある画家に描かせたに違いないその肖像画は、サイズは小さくなっても威厳は充分だった。
…その下に、玄関ホールと同様に、例の隠し黄金の場所を示しているとか言われる碑文が書かれている……。
「………………あ、……………! 生贄、……だ。」
「な、何だよ戦人。急に気持ち悪いこと言うなよ…。」
「………生贄を、6人。…………あ、………ああああぁああぁぁあッ!!!」
俺の両眼が皿のように見開かれていく…。
……そこには、全てが最初から予見されていた……!
みんながそこに群がる。
そしてみんなも俺と同じに愕然とした表情を浮かべる…!
そう。碑文には記されていた。
“第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ”
「あ、……あぁ、間違いない。最初に死んだのは6人だ! そしてシャッターに描かれた魔法陣、じゃねぇ、ヘブライ語でも生贄を捧げると書いてあった…!!」
「……うー。…私は最初からそう言ってるー。」
そうだ、真里亞は一番最初に言ってる!
6人の遺体が見付かり、客間でテレビを見ていた真里亞が言ってる!
“…………うー。犯人は人間じゃない。鍵が選んだ生贄なだけ”
「これは黄金の隠し場所なんかじゃねぇ!! 黒魔術か何かの、復活の儀式の手順なんだ! 確かこの碑文には大勢の“死”が必要になるはず!」
「…た、確かに。ざっと読むだけでも6+2+5で、…13人は死ななくちゃならないことになってるぜ…!」
「…普段はこの島には、何人いるんですか?!」
「し、…使用人のシフトにもよるでしょうが、お父様、夫に私に朱志香。そして使用人が2〜3人。…昨日今日は5人いてもらってますが、普段はそこまでいません。」
「ってことはだ。……この“儀式”を実行しようとしたら、普段じゃ生贄が足らないってわけだ。……いや、違うぜ。……祖父さまは孤児院から、不気味な儀式の生贄にするために使用人を採ったという噂…。」
「つまり何だよ?! 生贄の人数を増やすために使用人を増やし、……さらに人数が集まる年に一度の親族会議は、…この儀式を執り行える年にたった一度、唯一のタイミングだったってことじゃねぇか!」
朱志香がそれを叫んだ時、真里亞が実に気分よさそうに、あの気持ち悪い声で笑い出す。
「……………きひひひひひひひひひひひひ。…人は運気を試すために、ある種の確率に願掛けをすることがない?」
ゲタを放り投げて、表が出たら明日は晴れるとか。
…もしもこのコインが表だったら明日はいい日だとか。
……そういうちょっとした迷信みたいなものはいくらだってある。
ツキがなくてうんざりしている時に、たまたまサイコロを振って6が3つも並んだなら、これは何かの奇跡の前触れだと信じたくなるだろう。
…ゲタの表裏程度じゃせいぜい二分の一の確率。
仮に表が出てもそれほどのありがたみはない。
…しかしサイコロ3つが、無意識に振ってぞろりと6が揃ったなら、これは何かの奇跡だと思うに違いないだろう。
「………魔術にもそういう考えはあるんだよ。…限りなくありえない出目を期待して、ひたすらに祈祷を続ける。……そうして蓄えられた祈祷の念は、奇跡の出目が現れた時、魔力を持って具現化される。…………お祖父さまがしようとした魔術は、多分、そういうもの。鍵が無作為に選ぶ生贄の抽選。それに万が一自分が当たることがないように、この島にもっとも人が多くなる日を選んで儀式を実行した…。」
「馬鹿馬鹿しい!! これらが全て、怪しげな魔法の儀式の過程で起こった事件だと言い出すのですか!」
夏妃は叫ぶ。
……脳裏に浮かぶのは、サソリのお守りによって、自分がそれを免れたかもしれないという恐怖感。
………もし、自分が朱志香にあのお守りをもらってドアノブにぶらさげなかったら、……私も6人の中の1人に混じって殺されていた?!
しかも奇怪なのは、お守りを内側にぶら下げたにもかかわらず、扉が破られなかった点だ。
……犯人は、扉の外から、お守りの存在を理解し、扉を開けることを断念している。
……そんなのは人間には知覚不能だ。
人間以外の何者かを防ぐお守りが防いだ、人間以外の何者か…!! ありえないありえないありえない!!!
「だが、夏妃さん…。確かに、……碑文の内容は、その後をなぞっとる…。」
「だ、第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け…。…これは、絵羽さまたちのことを指しているのでしょうか…。」
「………く、悔しいけど、…そうだと判断せざるを得ない。…そして、母さんたちを殺した犯人は、続く“第三の晩”の言葉を手紙に書き、その場に残したんだからね。」
「そ、そうだな…。第二の晩を実行し、第三の晩をその場に残した。…第三の晩は、まさにさっき夏妃伯母さんが読んだとおりだぜ…!!」
“第三の晩に、残されし者は誉れ高き我が名を讃えよ”
ああああぁぁ…、こうして読むと、まだまだ続いているんじゃないだろうか。
“第四の晩に、頭を抉りて殺せ”
頭を抉(えぐ)りて殺せ。
……絵羽伯母さんたちは頭に“悪魔のアイスピック”を抉りこまれて殺されていた。
…だが、それを第二の晩にカウントするなら、
……それ以外に、頭に抉りこまれていた人物…。
「……祖父さまだ…。焼却炉の中で焼かれてたから、そっちに目が行っちまって気付かなかったが、……祖父さまも眉間に、
…いや、頭を抉られてた。」
「祖父さまが、……第四の晩の犠牲者? じゃ、…じゃあ嘉音くんは…!」
「…“第五の晩に、胸を抉りて殺せ”。……嘉音くんについては、犯人との突発的な遭遇による犯行だと思ってたけど、………違う。誰か一人を誘き出し、胸を貫くことを初めから狙っていたんだ…。」
「…………もし、犯人がこれをなぞっているとしたなら。…まだ3人が死ななければならないというのですか…!」
“第六の晩に、腹を抉りて殺せ”
“第七の晩に、膝を抉りて殺せ”
“第八の晩に、足を抉りて殺せ”
「……た、……確かに、…そう読み取れますけど…。……ひぃぃ…。」
「いいや、そいつはどうかな…。………あと3人が死ねば“第九の晩”になる。見てみろよ…。」
“第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない”
「私たちは、……ベアトリーチェに、みんな殺される……。」
「………わけがわかんねぇ。結局、何人いようが最後には全員死ぬってことじゃねぇか。……祖父さまは何が目的だったんだ。この儀式じゃ、祖父さま自身、何をどうしたって生き残れねぇじゃないか…!」
「……………誰も生き残れなくていいんだよ。……第十の晩には、黄金郷にたどり着く。」
“第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう”
“魔女は賢者を讃え、四つの宝を与えるだろう”
「……お祖父さまは死を恐れてなんかいなかったんだよ。………ほら、四つの宝の2番と3番を見てごらんよ。」
「…………“一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。一つは、失った愛すらも蘇らせる”。……つまりお祖父さまは、自分がこの儀式の途中で死んでしまっても、やがては復活できると信じてた…?」
「馬鹿馬鹿しいぜ、妄言だぜ!! 死んだらそれまでだろ?! 死者は生き返らない。人類が何千年もかけて追い求め、結局は未だに成し遂げられない奇跡だぜ?! つまり、こういうことだろ? 死後の世界で再会できて蘇ることができるとか、そういう類だろ?!」
「……朱志香の言い分通りだとするなら、……こいつはつまり、老い先短い祖父さまが恋に狂っての自殺紛い、いや、…壮大な無理心中ってことなのか…?!」
「………………………………。」
「……源次。…その可能性は考えられるのですか…!」
「…………わかりません。…お館様は時に千年の未来を見越されるほどの聡明なお方です。しかし、凡庸な私にはそれが狂気としか映らないこともあります…。」
「それって、イエスって意味だよな?! 熊沢さんはどうなんだよ?!」
「わっ、私は何も知りません…! えぇ、知りませんとも…。知っていたなら、今日この島にいると思いますか? 仮病でも何でも使ってお休みしていますよ、えぇ!!」
「お祖父さまの長年の友人である、南條先生のご意見は…?」
「………げ、源次さんに同じです。…金蔵さんは凡人をはるかに超越した方だった。そこに、ある種の人間離れした力すらも感じることはありました。
………私にも、………金蔵さんが何を考えてこの碑文を残されたのか、……わからない…!」
「…ひとつだけ言えるのは、…仮にこの筋書きを作ったのがお父様であっても、実行しているのは別の人間だということです。」
「確かに。………少なくとも、祖父さまと嘉音くんを襲った犯人は他にいる。しかもそいつは、この碑文通り、まだ事件を続けようとしている…!」
「…僕たちが深く考えなかった最初の手紙…。あれには何て書いてあっただろう?」
俺たちは昨夜の、手紙の朗読を思い出す…。
手紙の中でベアトリーチェは宣言した。
金蔵との契約に従い、利子として右代宮家の全てを貰い受けると宣言した。
だが、それには特別条項があるとも明かした。
祖父さまが隠した黄金の在り処を暴いた者が現れたなら、それを放棄するというものだ。
あの手紙の時点で、祖父さまはまだ生きていた。
…しかしあの時点ですでに“当主の指輪”による封蝋はされていた。
…ということは、祖父さまの存命中にすでに指輪はベアトリーチェの手に渡っていたことになる。
………それは普通に考えるならば、ベアトリーチェがこの怪しげな契約を実行するに当たって、祖父さまがその権利を保証したと見るべきだろう。
……つまり、祖父さまはこの手紙の内容を知っていて、許可したも同然だということだ。
つまり、謎を解かないとベアトリーチェが利子の回収を始めるぞ、というのは、ベアトリーチェと祖父さまの連名のメッセージも同然なのだ。
……つまり、祖父さまとベアトリーチェは、この碑文の謎を解いてみろと言ってるわけだ。そして、それが出来ないなら、碑文に則って皆殺しにしようと言っているのだ。
それに何の意味がある?
何を求める?!
さっぱり意味がわからない!
「…………………。………ほら、ベアトリーチェからまた手紙だよ。」
「……え? 何だって?」
真里亞が指差すのは、みんながさっき食べた缶詰がまだ置かれているテーブルの上。
そこには、確かにベアトリーチェの洋形封筒が置かれているが、……それが何だというのか。
「……えぇッ?!」
夏妃伯母さんが素っ頓狂な声を上げて、自分の手元とテーブルの上を見比べる。
……だって、伯母さんがさっき開封した封筒はまだ自分が手に握っている。
……なのに、テーブルの上に、まだ封筒がある…?!
「な、……何だよッ?!?! どういうことだよ真里亞!! その封筒はどこから出てきたんだ?!」
「……今、見たら置いてあった。うー。」
「わ、……私は何も知りませんよ、何も!!」
「冗談じゃねぇ、ここには俺たち8人しかいねぇんだぞ!! 9人目が、こっそり忍び込んでいたなんてこともあるわけがねぇ!! 俺たちがちょいと肖像画の前に集まっていたわずかの隙しかないんだぞッ?!」
「全員下がりなさいッ!!! 壁へ下がりなさいッ!!」
夏妃伯母さんはライフル銃を源次さんたちに向けて吠え立てる…!
源次さんは何が何やらわからないという顔をして気圧される…。
それはもちろん俺もだが、……数瞬遅れて、夏妃伯母さんと同じ思考に至る。
たった今の今まで、この机の上にこんな手紙はなかった…! そして誰もこの部屋には入ってきていない! となれば、この中にいる誰かが、全員が肖像画に気を取られて目を離した隙に置いたということじゃないか…!!
「戦人くん、この封筒を開けて中身を読んで!」
「お、おうッ!!」
俺は封筒を拾う。……封蝋はされたまま。
中身を検める前から、これは未開封の、未知の封筒であることがわかる!
俺はペーパーナイフになど頼らず、乱暴に千切り開け、中の手紙を引きずり出した。
内容は、以下の通り。
“金蔵さまの碑文の謎をお楽しみいただいているでしょうか。すでにご存知と思いますが、皆様方には時間が多くは残されてはおりません。どうか、嵐が過ぎ去れば逃げ出すことができるという甘えをお捨て下さいませ。このゲームには、私と皆様方のどちらが勝つかの結果しかない。時間切れは私の勝ちとなる。引き分けはありません。そこをどうか誤解なきようお願い申し上げます”
「って、内容だぜ……。」
「………この手紙を誰が置いたかは明白ではありません。ですが疑わしき人物を絞ることはできました。貴方たちです!!」
「……お、奥様…。それは、……あんまりにございます……。」
「私は肖像画の前に行く直前、ここに缶詰を置きました。その時、このような怪しげな手紙は決して置かれていなかったことを確認しています!!そしてその時、すでに朱志香と譲治くん、戦人くんは肖像画の前にいたッ!! そして彼らはこの手紙が現れるまで肖像画の前を離れていない! つまり貴方達4人の中に、その手紙を置いた人物がいる!! ベアトリーチェがいるッ!!!」
「………うー。ベアトリーチェは真里亞たちじゃない。…ベアトリーチェは“い”るもん!」
「お黙りなさいッ!!! 貴方達の中の1人が疑わしいのか、全員が疑わしいのかわかりません。…しかし、確実に貴方達の中に犯人が混じっているッ!!!」
「……そ、…そうだぜ。19人目なんかいるわけがない…! 魔女なんかいるわけがないんだ!! 嘉音くんを殺したのだって、
……そうさ、熊沢さんなら説明できるよ!!熊沢さんは本当は嘉音くんと一緒にボイラー室に入り、殺したんだ! そして後から来たらもう倒れていたとウソをついた!!」
「ご、誤解ですお嬢様…!! 私がなぜそのようなことを…!!」
「…母さんたちをどうやってあの密室で殺したのかは、見当もつかない。でも、母さんたちが殺された時、使用人の人たち以外の全員にはアリバイがあった。……なかったのは使用人の人たちだけ…。でも、…本当に疑ってもいいんだろうか…?!」
「……た、…確かにそれを言い出したら全ての件でアリバイはないが…。………くッ!!」
こんな短絡的な決め付けでいいんだろうか?!
だが、今この部屋この場所この瞬間というミニマムな単位の中では明白だ。
彼ら4人だけが、俺たちの死角で手紙を置けた…!!
誰が置いたかは識別できないが、彼ら4人の中の誰かが置いたのは明白なんだ…!!
「…な、……夏妃さん。どうか落ち着きなさい…。今日一日色々なことがあった! 心が参っているのはよぅくわかります…!」
「南條先生をお疑い申し上げるのは非常に心苦しいです…! ですが、お父様の主治医として、唯一無二の親友として! 長くお父様と共にあられた。ベアトリーチェのことも知っているかもしれない。何かの古いしがらみを知っていて隠しているのではありませんか?!」
「そんなはずはない…!! 落ち着きなさい…!」
南條先生が必死に潔白を訴えるその姿は見ていて痛々しい。
嫌疑を掛けられれば、誰もが返す正常な反応だろう。
それは熊沢も同じ。
朱志香に嘉音殺しを疑われ、先ほどからうろたえ続けている。
だからこそ、平然とし続ける源次の様子が不敵に見えるのだ。
夏妃伯母さんは銃口を向ける。
「…………源次。あなたはお父様の一番の部下です。…ベアトリーチェとは、あなたがお父様に見せた幻想で、あなたこそがその実行者だったのではないのですか?!」
「………そうお疑いいただけるのは、奥様が私を、お館様の一番の僕だとお認めいただけたということで、……このような場ではありますが、とても名誉なことだと存じます。………しかし、この手紙を置いたのは、私ではありません。」
「それを私が鵜呑みにできると思いますかッ!! お前が首謀者に決まっています! あるいは熊沢も南條先生もその共犯かもしれない!!………真里亞ちゃんもです。」
大人を疑うだけならともかく、夏妃伯母さんは真里亞にも容赦なく銃口を向けた。
しかし真里亞はけろりとしている。
………あるいは、撃たれても平気だとでも言うかのように。
「真里亞ちゃん。…今この場ではもう、幼いから疑いの枠から外すという段階にない。だから誰もが昨夜からずっと持ってきた疑問をもう一度ぶつけさせてもらいます!…昨日、薔薇庭園で貴方に手紙を渡したベアトリーチェは誰ですッ!!」
「………………うー。」
「……真里亞、誤魔化すんじゃねぇぜ!! この際はっきりさせろ! お前に手紙を渡したのは誰なんだよッ!!」
「…きひひひひひ。…だから何度も言ってるよ。ベアトリーチェだよ。千年を生きる黄金の魔女なんだよ。…………姿を知りたければ後ろを振り返ればいい。…ほら、そこにいるよ。ベアトリーチェが。……きっひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!」
「ば、馬鹿にしてんのかてめぇえぇええええぇッ!!!」
「よせ朱志香! 真里亞もよせ。状況がわかってんのか?! そんなこといって何になるってんだ! 無意味な挑発はよしやがれってんだ!」
「……真里亞にはわかんないよ。…戦人たちは、誰が犯人ならいいの? 自分たちの中に犯人がいると信じたくない時だけベアトリーチェを信じて、……親しい人を殺された恨みを晴らしたい時だけ、暴力をぶつけられるニンゲンの犯人を信じたがってベアトリーチェを否定する。…………だから、視えないんだよ。……ベアトリーチェは“い”る。お前たちには視えない!」
「黙りなさいッ!!! 貴方が犯人だと決め付けたくはありませんが、この状況を不愉快にさせて楽しんでいる利敵行為者であることは、もはや疑いの余地もありません!!」
「……きひひひひひひひ。…なら、どうするの? 真里亞を撃つ? 別にいいよ。もうすぐ黄金郷の扉が開かれる。そして全ての死者が蘇る。……今や死は恐れるべきことではないんだよ。……きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!」
「か、母さん、やっぱりこいつは怪しいよ!! 一緒になんかいられないよッ!!」
「でも夏妃伯母さん、どうか落ち着いて…! 真里亞ちゃんを撃つ理由は何もない! どうか冷静に…! 手紙は挑発するけど、何も恐れることはない! 犯人だって、明日が怖いんだ。警察が怖いんだ! この島は今、無秩序に支配されているけれど、それは台風で隔離されているからだけに過ぎない! 台風が過ぎれば、秩序が戻ってくる! だから伯母さん、撃っちゃいけない…!!」
「…なんで譲治兄さんはそんなにも冷静なんだよ!! この4人の中に犯人がいる! いや、あるいは4人が全員グルかもしれない! この中に、絵羽伯母さんたちを殺した犯人がいるかもしれないってのに、何でそんなに冷静なんだよ!!」
「僕だって、犯人を見つけて殺してやりたい気持ちはあるさ…! でも、それは単なる蛮行だ。僕は罪の裁きを秩序に任せる! だからどんなに疑わしくても、引き金を引いてはいけないんだ!!」
「じょ、譲治の兄貴に同じだ…。夏妃伯母さん。ここはちょいと冷静になろうぜ…。とにかく撃つのはまずいぜ、いっひっひ…! こういう時はよ、頭を後に反らして、クールになれって3回唱えるといいらしいぜ…。」
「……………はっきりさせておきます。魔女などいない! ここは六軒島で、ここは右代宮家の本家屋敷です! 右代宮家代表、右代宮夏妃として宣言しますッ!! ここには魔女などいない! ベアトリーチェなど認めない!! 何を企もうとも、娘たちには指一本触れさせないッ!!! それが母としての、当家代表としての務めですッ!!」
その言葉が、……全てに決着を付ける最後の決別の言葉となった。
…夏妃伯母さんは、娘である朱志香を守るためなら、疑わしき人物の全てを敵と見なせるのだ。
……俺と譲治の兄貴がこちら側にいるのは、たまたま俺たちが、この手紙についてだけアリバイを証明できたに過ぎない。
もし俺が、肖像画に近付かなかったなら、……俺も銃口を向けられて、疑わしいと罵られていたのだろうか…。
……だが、そう思う自分がいると同時に、…疑わしい人物を全てこの部屋から追い出せば、ようやく安全が確保できるのではないかと考える自分もいる…。
源次さんも熊沢さんも南條先生も、祖父さま側の人間だ。
真里亞だって、ベアトリーチェを妄信しているという点で祖父さま側と言えるだろう。……そうさ、全員疑わしいんだ。
しかし、それでいいんだろうか…?!
疑わしきを全て追放するなんて無秩序で、俺たちは魔女という無秩序に抗してもいいんだろうか…?!
夏妃伯母さんは、自らの口から、彼らに出て行けとは言わなかった。
……しかしそれは、無言の圧力で、彼らが自らそう言い出すよう、仕向けたようなものだ。
……だから、南條先生がその言葉を言わなかったなら、この冷たい沈黙はいつまでも続いたに違いない。
「…………落ち着きなさい、夏妃さん。………だが気持ちはよくわかる。わしだって、今朝からの異常な事件続きで、頭がどうかなってしまいそうだ…。だから、わしらを疑いたい気持ちもよくわかる…。」
「………………もし本当に南條先生が無関係なら、…私は無礼極まりないことをしているのだと思います。………ですが、…今だけはわかってください。」
「………わかった。…わしらは部屋を出ましょう。………どうですかな、源次さん。…客間に戻って、チェスの続きと行きませんかな。」
「……………………それをお望みでしたら、……ぜひ。」
「……わ、……私は嫌ですよ…! だって、この中に狼がいるとわかってて部屋から追い出されてしまうんですよ…?! 嫌ですよ奥様、どうかお許し下さい、ひいぃいいぃぃぃぃぃ……!」
熊沢さんの言いたいことはもっともだ。
自分が潔白なら、自分は犯人と一緒に危険地帯へ放逐されるも同じ。
……今のこの状況化で、この部屋から容疑者たちと共に出て行けと促すのは、限りなく見殺し行為に近い…。
だが、熊沢さんは確かに、嘉音くんの殺人に関してだけは第一発見者という疑わしさがある。
…あの時点では、熊沢さん以外の全員にアリバイがある。
……何かの仕掛けや、19人目の存在が立証できない限り、熊沢さんはもっとも疑わしい容疑者のひとりなのだ。
それを信じたくはない。
しかし、彼女も含めて疑わずにはいられないほど、夏妃伯母さんも俺たちも、心が追い詰められていた…。
だから、俺たちは高圧的に彼らを部屋から追放しようとする夏妃伯母さんに、何も口を挟まない。……発砲こそ引き止めたが、彼らの部屋からの追放を、消極的に賛成している…!
なおも愚図る熊沢さんに、真里亞が言う。
「…………大丈夫だよ。……ベアトリーチェは敬う人にはやさしいから。…熊沢さんはベアトリーチェが“い”るって、信じてるもん。…だからきっと大丈夫だよ。……真里亞は客間でテレビを見るよ。一緒に見ようよ。…ここ、テレビがなくてつまんないもん。…………きひひひひひひひひひひひひひひひひ。」
真里亞の悪戯っぽい笑いは、今の熊沢にとってさぞや恐ろしいものに見えただろう…。
しかし、自分以外の3人は部屋を出ることに同意している。
熊沢は流れに逆らえず、泣きながら部屋を出ることに同意せざるを得なかった…。
「…それでは夏妃さん。今夜はこれで。……また、明日お会いしましょう。」
「……えぇ。今夜だけは、わかって下さい。警察が来たら、全員に今夜のこの無礼を必ず謝罪しますから。…チェスもよろしいでしょうが、できたら安全なところに。…源次、頼みます。」
「………かしこまりました。」
「…ほ、……ほほほ…。仕方ありませんねぇ…。子連れの熊が一番恐ろしいと言いますから。」
「……源次も熊沢も、本当に申し訳ありません。……また明日、お会いしましょう。…………真里亞ちゃんも。…冷たい伯母さんを、どうか許して。」
「うー。真里亞は許す。うー!」
「奥様、この部屋の鍵です。……2本全てを、お預けします。」
源次さんの懐から、2本の金色の鍵が取り出され、夏妃伯母さんに手渡される…。
「…それから、私が持っているお屋敷内の鍵束もお預けいたします。」
10本くらいの様々な鍵が束ねられた鍵束を取り出し、それも手渡す。
………使用人にとってその証は、実は鍵なのかもしれない。
鍵を預けられるということは、信頼され、任されるということ。
……それを返却しなければならないということは、…その信頼を、失ったということ。
…そう考えたなら、……長年にわたり仕えてきた彼にとって、これほどの屈辱はないかもしれない。
……しかし、源次さんはいつものように、淡白な表情のままでいた。
「……源次。……私はお前を、お父様がお亡くなりになったら、長年の苦労を労って退職を許すつもりでいました。………なのに、このような仕打ちを…。…私は、心より恥じます…………。」
「私はお館様より、すでにご恩は受けております。……今日までの日々はそれに対するご恩返しの日々であっただけです。………どうか、お気に病まれませんよう。」
「……それでは、…参りますかな、皆さん。…おやすみなさい。」
「うー。おやすみ。戦人もおやすみ、うー!」
「……あ、……真里亞。ちょっと待て。」
罪の意識が、真里亞を呼び止める。
…俺はポケットをまさぐり、……あのサソリのキーホルダーを取り出す。
「…………これ、魔除けなんだろ。…身に付けとけ。」
「うー…? 戦人、確か落としてなくしたって……。」
「…あん時ゃ、何かシャクんなって、なくしたとかホラを吹いただけだ。……お前の大切なお守りを無くすわけねぇだろ。」
「……………………。」
真里亞は無言でお守りを受け取る。
……俺は、それ以上の何の言葉も掛けることはできなかった…。
「…………それでは皆様、おやすみなさいませ……。」
俺たちは、返事を返すこともできず、……疲れきった表情で、彼らが出て行くのを見送る。
……そして扉が閉まり、オートロックの音が聞こえるまで、次の呼吸すら許されずにいるのだった…。
そして、呼吸をようやく許された時。
…俺はずっと握り締めていて、汗で歪んでしまったベアトリーチェの手紙が、実は2枚目があったことに気付く。
…紙がぴったりくっ付いていたので、1枚と勘違いしてしまっていたようだった。
その2枚目に文字はなかった。
……描かれていたのは、血のような赤いインクで書かれた魔法陣。
………これまでの魔法陣が皆、違うものだったように、この魔法陣も初めて目にする新しいものだった。
それは円の中に、大小2つの三角形が組み合わされたような、シンプルなもの。
でも、例によってそこにはヘブライ語が書かれていて、何かの意味を持っているのは明白なようだった。
それが何なのか知りたいが、…唯一、魔法陣の意味を理解できる真里亞はもう部屋から追放されている…。
…………魔法陣は、ベアトリーチェからの第2のメッセージでもあると、俺は考えている。
…この魔法陣は何の意味があるのか。…………………くそ…!
疑わしき人物を全て追い出し、後は朝までここで篭城しているだけで全てが終わるのだろうか。
……台風が過ぎ去り、うみねこのなく頃には、全てが解決しているのだろうか。
だが、書斎に忽然と現れた手紙はその甘えを一蹴している。
……時間切れは魔女の勝利になると、はっきり明記していた。
時間が切れたら、魔女は打って出るつもりなのか。
……今度こそ、6人の大人を一度に殺して見せたような、恐るべき魔力を振るうつもりなのか。
…いや、そもそも時間が切れるとはいつのことを指すのか。……何も、わからない…。
「…………これで、……もう安全です。……もう。………絶対に…。」
そう言いながらも、ライフル銃を手放せない夏妃伯母さん。…その表情から緊張が抜けることはない。
無論、俺たちも安堵の息を漏らす気には、まだまだなれなかった。
………少なくとも、うみねこの鳴き声を再び耳にできるまでは……。
▲第13アイキャッチ:10月5日(日)22時00分 が23時30分に進む
■時間経過シーン〜金蔵の書斎
俺たちは、彼らを追放してから、……もう誰も、ただの一言も発しなくなった。
…疑わしきを全て追放した。
その中に潔白な人間がいるかもしれないことを知りながら、追放した。
……互いを疑い合わなくてよい楽園から、彼らを追放した。
しかし、彼らの追放の動機は人が人を疑うという、人として最低の罪によるもの。
……もし、19人目の存在として、魔女の存在を受け容れられたなら、……自分たちは今も、互いを信じあってこの部屋で膝を寄せ合えたのではないだろうか。
あの瞬間。疑わしきを全て追放することに、自分たちは賛成した。
……しかし、それが正しかったのかどうか。
……いくら過ごせども尽きぬ沈黙の時間は、ただただ静かにその罪を苛み続ける……。
夏妃伯母さんはライフル銃を片時も手放さず、扉を正面にしながら、ソファーに深く腰をかけていた。
……多分、今夜は一睡もせず扉を見張り続けるだろう。
譲治の兄貴は、カーテンを閉じた窓の隙間から、中庭と、それを囲む屋敷を眺めている。
……不審者の影が窓に映らないか確認しているのか、…何かに対し自問自答しているのか、…わからない。
朱志香は、夏妃伯母さんの脇のソファーに斜めに腰掛け、…死んだような表情を浮かべていた。
……そして、時折思い出したように、あの喘息の発作の時に使っていた吸入器を取り出し、くわえていた。
…さっき兄貴に教えられたが、……朱志香は嘉音くんのことが好きだったらしい。
それは本人もまだ自覚に至っていない淡いものらしかった。
…ほらあれだ。周りで見ている人たちの方が、本人よりも先に察してしまうというやつだ。
…だとしたら、……想い人の死で初めて、自分の想いに気付いたのかもしれない。
………それは、とても気の毒で悲しいことに違いなかった。
そういえば、…あの吸入器は嘉音くんが差し出してた。……それを思い出しているのだろうか。
俺は、……あの2枚目の手紙に書かれた魔法陣が何の意味を持つのか調べようと思い、祖父さまの蔵書を漁っていた。
ここに閉じ篭るという守勢に回りながらも、何かの鍵を見つけたいという攻勢を維持したい俺の反抗心だった。
…どうせ、明日の朝まで時間はたっぷりあるのだ。
その時間に何をしようと、誰も咎めない。
みんなは、この魔法陣にはそれほどの興味を示さなかった。
…意味不明だし、わかったところで、余計に不快な思いをするメッセージが込められているのだろうと思ったに違いない。
……それについては俺も同意する。
…だが、だからと言って放置もできず、こうして調べ物のふりをしながら時間を潰している…。
「………熱心だね。…何か手掛かりになるようなことは見つけられたかい…?」
「…さっぱりさ。そもそも、日本語で書かれた本を探すことからして骨だぜ。…祖父さまは一体、何ヶ国語を読めたってんだ。大したもんだぜ。」
「戦人くんは眠くないの? ……誰かが起きていてくれる内に休んだ方がいいよ。夏妃伯母さんは不寝番をしてくれると言ってるけど、体が持つわけない。ローテーションで休んだ方がいいよ。」
「じゃあ、兄貴が先に休めよ。………俺は眠気が来るまで、ちょいと調べ物をしてるさ。」
「……さっきの魔法陣?」
「…まぁな。どうせ時間は腐るほどあるさ。……ベアトリーチェさまがどういうメッセージを込めやがったのか、面白そうだと思ってよ。」
「…………よせよ。そういうのやってると、妙なのに取り憑かれちまうぜ。」
「安心しろよ。俺は真里亞にお墨付きをもらってるぜ。…俺には霊的才能はからっきしなんだとよ。いっひっひ…!」
「………真里亞のこと、…………邪険に、し過ぎたかな。」
「…………朱志香。…今はそれを考えてはなりません。」
「でも母さん…。もしも真里亞が無関係で、犯人が他にいたなら、……犯人は襲いやすい相手を狙うに決まってる。……それで殺されたなら、………私たちは、…見殺しにしたことになるよ…。」
重苦しい沈黙が、再び訪れる。
…朱志香は、感情に任せて言葉をぶつけてしまったことを後悔しているようだった。
……こいつは昔からこうだな。
…悪ぶってやり過ぎて、後になって後悔してる。
「……気持ちはわかりますが、真里亞は犯人と接触し、こともあろうか、その肩を持つように煙に撒く発言を繰り返しています。………私は、この部屋から追い出せてせいせいしています。」
「…夏妃伯母さんって、結構キツイっすね。……9歳の女の子の戯言かもしれないじゃないっすか。」
自分で言っていて白々しい…。
俺は今日、何度も真里亞の存在を不気味に思い、その正体を疑っている。
……そして、真里亞がこの部屋を追い出される時、安堵の感情さえ覚えたことは否定できない…。
「………………もしそうだったなら。明日、謝罪します。…彼らをこの部屋から追い出したのは全て私の責任です。……だから、貴方達が気に病むことはないのです。」
夏妃伯母さんのその言葉には、悲壮な決意が感じられた。
……自分の娘を守るためなら、疑わしきは断固として追放する。
…その結果、不幸にして疑われた人物を見殺しにしてしまうことがあったとしても仕方がない、…そしてその責任は全て自分が負うという覚悟だ。
「…何で真里亞って、あんなことばかり言うんだよ。自分で自分の首を絞めてるぜ…。」
「………………もともと、真里亞ちゃんが魔女や魔法に傾倒するようになったのは、………僕は楼座叔母さんのせいじゃないかと思ってる。」
「楼座叔母さんのせい? 何がどう関係してるってんだよ。」
「……戦人くんだって気付いてるんじゃないかい。…真里亞ちゃんの本当の父親はずいぶん昔に蒸発してるんだ。…叔母さんはそれを、海外出張とか言って誤魔化しているけど、ね。」
「…………右代宮家では、楼座さんたちに関わる話はタブーとされているところがあります。」
「叔母さんは再婚だって考えたと思うよ。……でも、真里亞ちゃんの存在が枷になって、非常に難しかったんじゃないかと思うんだ。…………だって叔母さんは時折、…ものすごく感情的に真里亞ちゃんに当たっていたから。」
「…………それについては同感だぜ。……楼座叔母さんは、真里亞を好きになろうと努力してるように見えた。……ってことはつまり、……好きじゃないってことなんだよな。………再婚の妨げになっている真里亞に、思うところがあったんだろうよ…。」
「…母親の感情的な拒絶が、きっと彼女の幼い心に深い傷を残したと思うんだ。……そして、どこかでオカルト趣味と出会い、心の隙間を埋めるように没頭していく。……知ってるかい? 真里亞ちゃんにとって、魔女のイメージは決してネガティブなものじゃないんだよ。…ほら、昨日、海岸で、真里亞ちゃんのノートを見せてもらわなかったかい…?」
「……あぁ。…何だか楽しそうな落書きでいっぱいだったぜ。」
昨日、海岸で魔女の存在を疑った時。
…真里亞は熱くなって魔女について説明を始めたっけ。
そして開いたページには、醜悪な姿をした魔女の絵は一枚たりともなかった。
色とりどりに描かれた美しく、可愛らしく、楽しそうな魔女たち。
男が想像するような禍々しさはまったくなく、…美しいドレスを着飾って、人の夢を何でも叶えてくれる、不思議な魔法でみんなを幸せにしてくれる存在。
……母に愛されないという悲しみ。
…真里亞は、そこから自分を助けてくれて、幸せにしてくれる存在として、魔女に救いを求めたのか。
いつか魔女がやってきて、素敵な魔法で自分を幸せにしてくれる。
……そう信じても、成長と共に淡い夢が少しずつ引き裂かれていく現実。
………そんな彼女の前に、六軒島の魔女を名乗る存在が現れて、幸せになれる黄金郷へ連れて行ってあげようと囁いてくれたら。
「………………………。……僕は、……今頃になって胸中を告白するよ。……真里亞ちゃんを、……いや、……源次さんたちを追い出したのは、……多分、…いけないことだったんじゃないかな…。」
「……………気まずくは、………あるぜ…。」
面と向かって拒絶の声をぶつけた朱志香だからこそ、…今、呵責に強く苛まれているに違いない。
「なら、皆さんはあの手紙をどう説明するのですか。私の後にいた4人以外の誰にも置くことはできなかった。それは私がこの目ではっきり確認しています。…あの4人が潔白だというなら、どうやって、この密室の、8人もの人間がいる中で手紙を置けたというのですか。」
「…………そうなんだよ…。……その話が始まっちまうと、確かに4人は怪しいってことになっちまう。………だが、…全然駄目なんだ。あぁ、全然駄目だぜ…。」
「駄目って、…何がだい。」
「あぁ。………もう今さら何の役にも立たないかも知れねぇが、またチェス盤をひっくり返させてくれ。…つまり、あの4人が本当に犯人だってんならよ、おかしいんだよ。」
「………………………そうだぜ…。……あんなテーブルの上に堂々と置いたら、この中に犯人がいますよと告白するようなもんじゃねぇか。…そうだよ、おかしい。……やるなら、例えば扉の隙間に置いて、廊下側から差し込まれたように見せかけるとか! そうだよ、部屋の外に犯人がいるように見せかけなきゃ、自分が疑われてしまうことがわかってたはず!」
「あぁ、そういうことなんだ。…あの4人の中に犯人がいたとして、テーブルのど真ん中に手紙をポンと置くことは、リスクばかりで何の意味もないんだ。…………だが、どうやってそこに手紙を置いたかのトリックは置いといて、……あの4人以外の誰か、…即ち、この部屋の外に犯人がいたと仮定した時、あの手紙には大きな意味が生まれる…。」
「……………よしなさい、戦人くん。…今さら些細な問題です。」
俺の言った言葉の意味を、夏妃さんは真っ先に察する。
……いや、あるいは、俺が思いつくずっと前からもう気付いていて、口に出さなかっただけなのか…。
「……この部屋の外に犯人がいて、…俺たちが外からは手出しをできない密室に立て篭もっちまったらお手上げだ。………そうだよ。この部屋から祖父さまがいなくなったって話の時、俺が披露した説じゃねぇか。……祖父さまが、自分から出て行くという説。…自分から出て行くような、何かの細工を犯人がして、まんまと外へ誘き出していたのだとしたら…。」
それを言ったら、…この書斎のドアノブにサソリの魔法陣を見つけた時、真里亞だって言ってる。
……ベアトリーチェはこの扉を破れない。
でも、自分から書斎を出てくるように仕向けることはできるかもって。
「……だとすると、…………私たちは犯人の罠に見事はまって、新しい生贄候補を送り出しちまったことになるぜ…?」
「…………源次たちも馬鹿ではありません。身を守ろうと思うなら、この部屋の次に安全な場所をすぐに思いつくでしょう。そこできっと身を潜めています。」
夏妃伯母さんの言葉は返事になっていない。
……夏妃伯母さん自身、もし犯人がこの中にいなかったなら、あの手紙は罠として意味があることに気付いているのだ。
しかし、一度は追放した人間をわざわざ呼び戻すリスクに意味がない。
…夏妃伯母さんにとって、子どもたちを守るのが今は唯一にして最大の責務………。
そのためになら、多少の犠牲は止むを得ないと考えている…。
「………なぁ、夏妃伯母さん。キツイこと聞くぜ?……もし、あの時、たまたま朱志香も伯母さんの後にいたなら、………伯母さんはこの部屋から朱志香も追い出してたかい?」
「…………………………………。」
「確かに残酷なところはあったかもしれない。…でも、夏妃伯母さんは母として、娘を守りきろうと思った。その責務から、自分がやがては糾弾されることを覚悟で、彼らを追放したんだ。…………俺は別にそれを責めてぇわけじゃねぇ。ただ、その。………朱志香はいいお袋を持ったなって、そう思ったのさ。」
「……そうだね。…夏妃伯母さんは、朝からずっと続いているこんな事件の中でも、冷静さを失わず、ずっとみんなを牽引してきてくれた。……もし伯母さんまで混乱していたら、僕たちは今頃全員、犯人の手に掛かっていたかもしれない。…だから、僕たちは伯母さんに、感謝しなくちゃいけないと思う。」
「……………………ありがとう。」
「……………。…戦人たちの言いたいことは、…つまり、こういうことだろ?………真里亞の母でもあってほしいって……。」
「……………………………。」
「……私、………真里亞のことを、実の妹みたいだとずっと思って可愛がってきた。………なのに、……色んなことがあって、ちょっと混乱しちゃって…。……酷いことをたくさん言って傷つけてしまった…。………………母さん、…お願いだよ。………真里亞も、………うぅん、みんなも、一緒にいようよ…。………私たちの中に、…犯人なんていなかったんだよ……。この事件の犯人は、………魔女の、ベアトリーチェでいいじゃないか…。だから、もう、……疑い合うのはやめようよ……。」
夏妃伯母さんは少しだけ目を閉じた。
…再び疼き出した頭痛に耐えているのか、…それとも何かに思いを馳せているのか…。
「……………………………。朱志香は、…………主人と結婚してから、12年もかけてようやく授かった、……大切な娘です。私は、朱志香を守るためなら、どのような鬼にでもなります。」
少しだけ強い語尾…。
綺麗事は充分に理解している、その上でなお、自分は鬼となってでも娘を守りたいという強い決意。
…………しかしそれは、罪の意識に苛むからゆえのもの。
………何て長い一日なんだ。
…今日の一日で、どれだけのことが起こって、…俺たちはどれだけ追い詰められちまったってんだ…。
……今の俺たちに、明日を迎える資格などあるのだろうか……。
……………あ、…あった。
「……見つけた。…この魔法陣だ。」
俺はずっと捲り続けていた本から、ついに、2枚目の手紙に書かれた魔法陣と同じものを見つける。
譲治の兄貴も覗き込んでくる。
その魔法陣の名は、……火星の3の魔法陣。
ヘブライ語で書かれているのは、旧約聖書の詩篇、第77篇13節の一部。
“あなたのように偉大なる神が、他におりましょうか”。
魔法陣の意味するところは、………“不和”。
…内部分裂を煽り、敵を自ずから瓦解させる。
「…………おいおい…。マジかよ……。」
今の俺たちの状況や心境に、これ以上相応しいものがあるだろうか。
俺たちは絶句する他ない。
「……じゃあ、……この手紙は罠だってのかよ…?! どうやってここに置いたんだよ?! この部屋には私たち8人以外には誰もいなかったんだぜ?!」
「と、とにかく、どうやってここに置いたのか、その方法は捨て置くぜ。……とにかく、犯人の狙いはたったひとつ! この鉄壁の書斎に疑心暗鬼を引き起こして、生贄羊を俺たちの手で外へ放り出させることだったんだ…!!」
「だとしたら…、狙いは、外へ出された人たちだ……!!」
「か、母さん、……どうしよう!! あの4人が危ない…!」
「………………………………。」
夏妃伯母さんが苦々しく沈黙するのは当然だ。
…仮に全てが犯人の罠で、さっき部屋から追放した4人が危ないとしても、今ここにいる4人の安全とは関係がない。
しかも追放した4人の潔白を証明する方法はない。
……彼らを見殺しにする覚悟があるのなら、何があろうともこの部屋を出るべきではないのだ。…それが、一番安全!!
その時、突然、けたたましい電話の音が響き渡った。
それは、祖父さまの書斎机の上に置かれたアンティークな内線電話だった。
……こんな話をしていてすぐに鳴ったのだ。
その電話が、追い出された彼らからのSOSの電話に違いないと思うのは当然のことだった。
だが夏妃伯母さんは言った。
「ど、………どうして電話が?! 故障していて使えないはずなのに…!!」
「そんなことは関係ねぇさ…! もし、真里亞たちが助けを求める電話だったら…!」
「そもそも、電話の不通が犯人の工作によるものならば……、この電話は、………おそらく……。」
その一言で、助けを求める悲鳴のように聞こえた電話の呼び出し音は、正体不明の何者かからの不気味な呼び出し音に変わる…!
夏妃伯母さんは受話器を取るべきかどうか躊躇した。
「と、取ろう、伯母さん…! 何かの理由で電話が回復したのかも…。真里亞ちゃんたちからの緊急の電話の可能性もある…!」
「そうだぜ…! それに万一、犯人からの電話だったら上等さ! 話を聞いてやろうじゃねぇか…! それにどうせ電話だ。受話器越しに何をほざいたって痛くも痒くもないぜ…!!」
「……伯母さんが取らないなら、……俺が取るぜ……!」
「わ、……私が取ります。……もしもし?」
俺が受話器を取ろうと手を伸ばすと、それには及ばないと夏妃伯母さんが受話器を取った。
…俺たちは固唾を呑んで、その電話の相手が何者か探ろうとする…。
しかし夏妃伯母さんは、しばらくの間、もしもしを連呼するだけ。
………無言電話…?
真里亞たちがそんな不気味な電話を掛けるわけもない。
……ということは、……この電話は、………まさか、…本当に…………。
夏妃はもしもしと繰り返すのを止め、耳を澄ました。
………受話器のずっと向こう…、遠くから、何か聞こえる気がするからだ。
…………何だろう……?
「……え? …………………これは、………………歌…?」
「歌って、……何ですか、伯母さん。」
「………わかりません。電話の向こうでかすかに、……誰かが歌っているのが聞こえます……。何の、ことやら……。」
「ちょ、ちょっと受話器を借りますぜ…。もしもし?! ……………………………………?!」
呆然とする夏妃伯母さんの手より受話器を半ば強引に奪い、耳を押し付ける。
……………最初、何も聞こえなかった。
…でも、……言われているから気がつける。
…………小さい声というよりは、受話器の遠くで、……………女の子が歌を歌っているのが聞こえる。
……その声は、何となく真里亞のように聞こえたが、…だとしてもますます状況が理解できない。
少なくとも、電話を掛けてきたのは真里亞じゃない。
真里亞は受話器から離れたところで何か歌を歌っているからだ。
……なら、電話を掛けたのは、源次さんか熊沢さんか南條先生の中の誰かのはず。
…………なのに、何もしゃべってくれない。…なぜ…。どうして…。…………この電話を掛けてきたのは、誰なんだッ……?!?!
「おいッ!! もしもし!! 誰だ、返事をしろ!! 歌ってるのは真里亞なのか?! 返事をしてくれ!!」
「な、…何が起こってんだよ! どういうことだ?!」
「わからねぇ…! ひとつ言えることは、…多分、これは罠で、……そして真里亞が危険だってことだけだ…。」
夏妃伯母さんは再び受話器を取り、何度呼びかけても埒が明かないとわかると、電話を一度切った。
そして素早くダイヤルする。……そして舌打ちした。
そうか、電話が回復したなら警察にだって通報できるはず。
……しかし、伯母さんの反応を見る限り、外線電話は相変わらずつながらないようだった。
「……い、行こう! 罠かもしれないことはわかってても、行かないわけにはいかない!」
「あぁ、まったくだぜ!! 朱志香と夏妃伯母さんはここにいてくれ!」
俺と兄貴が駆け出そうとすると、夏妃伯母さんが制した。
「お待ちなさい。………貴方達だけに行かせるわけには行きません。私も行きます。朱志香はここで待ちなさい。」
「私だけ除け者かよ?! 冗談じゃない、私も行くぜ…!!」
「そうだな、その方がいいかもしれねぇぜ。…電話が、俺たちをさらに分散させる狙いがあるってんなら、留守番を残すのは適当じゃねぇ。」
「議論する暇も惜しい。みんなで行こう!」
夏妃伯母さんはライフル銃を高々と構え、先頭に立つ。
俺も素手というわけには行かない。
怪しげな儀式に使いそうな三叉の燭台を見つけ、得物とした。
蝋燭を挿すトゲが短いながらもついているそれは、さながら三叉の槍のようだった。
そして俺たちは書斎を出る。
この屋敷の中で、一番安全な場所だったはずの書斎を、出る。
こうして俺たちは、安全な密室に篭城したにもかかわらず誘き出され、…ひょっとするとそれは…、……祖父さまがこの部屋から失踪した時のことを、再びなぞり直すことになってしまう…。
「真里亞ー!! どこにいるんだよー?! 返事をしろー!!」
耳を澄ますが、何も聞こえない…。
屋敷は狭くないし、過ぎ去ろうとしている台風は最後の足掻きとばかりに、雨音を一層騒がせる。
「…真里亞ちゃんは確か、客間でテレビを見たいと言ってたよね?! 階下に下りてみよう!」
「…………そうですね。行ってみましょう。……みんなは周りに用心して!」
「おうッ!!」
ライフル銃を構え、引き金に指を掛ける夏妃伯母さんを中心に、俺たちは背中を寄せ合うようにしながら、周囲を警戒しつつ一塊になって移動する……。
さっきの不和を目論むという魔法陣が、まるでその魔力で成したように。…俺たちは分裂し、しかもその上、危険地帯へ引きずり出されている。
……ということはつまり、今この瞬間、犯人のシナリオに乗っかっているということになる。…ここからは突然何が起きてもおかしくない異空間なのだ…。
夏妃伯母さんは物陰や暗がりがある度に神経質に銃口を向ける。
その動きは警戒よりも怯えを強く感じさせる…。
しかし、手にするライフル銃は、きっと犯人を恐れさせる切り札でもあるはずなのだ…。
「……僕はずっと思ってたんだ。…嘉音くんのように、胸にあの“アイスピック”を突き刺すことは、不可能ではないと思う。……でも、母さんたちのように、頭蓋骨を打ち抜いて眉間に突き立てるなんて、簡単なことじゃないと思うんだ。」
「犯人はそれだけ馬鹿力ってことか…?!」
「…多分、あの“アイスピック”を飛ばす、あるいは打ち込む、射出機のような武器があるんだよ。人力だけで、あれだけ深々と刺突するにはあの柄は短すぎる。」
「……いずれにせよ、頭蓋骨を打ち抜くほどに強力です。…嘉音の傷も、肺にまで届いていたそうです。……もし、相手の姿を見ても決して前に出ないように。私の後から出てはいけませんよ。」
あんな不気味なアイスピックを撃ち出すという武器は、一体どれほどに禍々しく恐ろしいものなのか。
……そしてそれは、今、俺が手にしている燭台のようなもので抵抗できるものなのか。
最初の殺人で犯人は、多分、食堂で遺産問題を話し合っていた親父たち4人を一度に襲って殺している。…そして、俺たちも、4人。
……同じことを考えてるのは、俺だけではないようだった。
……譲治の兄貴も、朱志香も、…そして当然、夏妃伯母さんも、……神経を極限まで研ぎ澄まし、最高最悪の緊張状態を維持しながら、一歩、一歩と、じりじりと歩を進めていく…。
………あぁ、俺たちは何と罪深いことか。
…これほどの恐ろしき世界に、……あの手紙一通によって蒔かれた疑心暗鬼によって、真里亞たち4人を突き落としたのだから…。
一階にたどり着く。………客間は、廊下の向こう、すぐだ。
耳を凝らすと、………かすかに聞こえる。……真里亞の、不思議な歌声が。
それは、機嫌がよくて自然と口に出てしまうような歌い方ではない。
………それはまるで、学校の授業などで、歌うことを命じられて歌うような、無機質な歌い方。
…歌っている歌は、誰もが学校で一度は歌ったことがあるに違いない平凡な民謡。
……しかし、それを、なぜ、こんな深夜に、ひとりで、一生懸命に、ずっと、どうして…?!
書斎を出たばかりの時、俺たちは大声をあげ、真里亞はどこかと呼びかけた。
…しかし、今度は誰も何も、一言も発しない。
……息と足音を殺し、神経を研ぎ澄ましながら、神経質なくらいに辺りをうかがいつつ、……歩を進める…。
客間の扉は閉まっていた。
だが、真里亞の歌声はその中から聞こえてくる…。
夏妃伯母さんが扉の取っ手状のドアノブに手を掛ける…。それを譲治の兄貴が制した。
「…扉は僕が開ける…。夏妃伯母さんと戦人くんは、武器を構えてて。」
「…………わかりました。……気をつけて。」
「開けると同時に攻撃してくるかもしれないぜ…。譲治兄さん、注意して…!」
「…うん…。………じゃ、……行くよ…? …………ん?!」
押してみるが、すぐに硬い施錠の手応え。
夏妃伯母さんがポケットから鍵束を出すと譲治の兄貴に託す。
……10本近くも鍵があり、どれが何の鍵かさっぱりだった。
そのため、兄貴はガチャガチャと、数本の鍵を試さざるを得なかった。
……それは、足音を殺し、客間を奇襲しようという俺たちにとっては、致命的に感じられた…。
客間の中からは、同じ歌をいつまでも何度も繰り返す真里亞の声がずっと聞こえている。
……それは例えるなら壊れた、狂ったカセットテープ…。
今朝からずっとこの部屋の中にいた。
…いつも恐ろしいことはこの部屋の外で起こった。
…だから、この部屋だけは安全だと思い込んできた。
………その、根拠なき思い込みが、あっさりと崩れ去っていく……。
「…………ん、………開いた。」
「…ありがとう。譲治くんと朱志香は後に下がって。」
「……伯母さん。一気に飛び込んで左右に分かれよう。扉を開けてぼさっとしたら、例のアイスピックがど真ん中に飛んでくるかもしれねぇぜ…!」
「承知しています。………いいですか…?」
「いっひっひ…! やっぱ嫌だって言いてぇなぁ…!」
俺は覚悟を決める。
…向こうがアイスピックを投げてくるってんなら、俺だってこの燭台をお見舞いしてやるッ!!
「……行きますッ!!!」
俺と夏妃伯母さんは、扉に体当たりをするようにして客間に飛び込み、左右に素早くわかれ、客間の中で待ち受けているかもしれない何者かを探した。
しかし、俺たちの目に飛び込んできたのは、…………あまりに、
………異様な光景だった…。
客間は、………血で染まっていた。
俺たちが今日の一日のほとんどを過ごし、何者かの悪意から身を守るために身を寄せ合っていたその場所が、鮮血で染められていたッ、血の海になっていたッ…!!
床には、源次さん、熊沢さん、南條先生の3人が、全身を血で真っ赤に染めて横たわっていた…。
………しかし、彼らを彼らだと識別できたのは、あくまでも服装からだ。
……なぜなら、……あぁ、そうさ、そもそも今日一日の惨劇はこいつから始まったんだ…!!
3人の顔面は、…親父たちが倉庫の中でぐちゃぐちゃにされていたように、…どこが目で鼻かもわかりゃしない!! パイ皮で包んだトマトのポットシチューをみっともなく食い潰したみてぇに、……ぐちゃぐちゃで、…うおあああああああああああああぁあああぁあぁッ!!
そしてそれだけじゃない。彼ら3人の体はまだ傷つけられていた。……それは、あの、“悪魔のアイスピック”! それが、……源次さんは腹、南條先生は腿…、いや、膝? そうさ、膝だろうさ…! 碑文にゃ、第六の晩には腹を! 第七の晩には膝を抉れって書いてあるッ! だから熊沢の婆ちゃんのふくらはぎの辺りにも突き立てられているのを見て、あぁそうだろうよと自虐的に笑わざるを得なかった…!!
第六の晩に、腹を抉りて殺せ。
第七の晩に、膝を抉りて殺せ。
第八の晩に、足を抉りて殺せ。
あああぁ、……これで第八の晩までが終わってしまった。そして迎える第九の晩は、……何だったっけ…?
真里亞は……、いた。
………部屋の奥の壁に向かい、……たったひとりで立ち尽くしていた。
この惨状に背を向け、壁の前に立ち、ずっとずっと、歌を歌い続けていた…。
部屋には、それだけ。
……惨殺された3人の死体と、…この部屋から電話が掛けられたことを示す、未だ外れたままの受話器。
………そして、この光景に背を向け、壁に向かってずっと歌い続ける真里亞だけ……。
その、……異様な光景に、……俺たちはもう、悲鳴すらも口から出ない。
…ただただ、呆然と目を見開き、口をだらしなく開け放つだけだ……。
「ま、………真里亞…………?」
朱志香が声を掛ける。
…だが真里亞に反応はない。
………ひとり、ずっとずっと、歌を歌い続けている……。
俺たちは、真里亞に迫っているだろう危機から、救い出そうとしてここへやってきた。
…だから、真里亞の姿を認めたなら、その無事を喜び、駆け寄って肩を抱くべきなのだ。……なのに、それが誰もできない…!
誰もが思った。でも口にできなかった。なぜならだってだって、そうさ馬鹿なでもどうせ、いやそんなはずは………!!
「ま、……真里亞!! 歌うのをやめろ!! 聞いてるのか!!」
俺も夏妃伯母さんも、…いつしか武器を真里亞の背中に向けていた。
……俺は乱暴な声で真里亞に叫ぶ。
……しかし、反応はない。いつまでも、歌い続けている…!!
燭台を構えたまま駆け寄り、俺は力強く、……いや、むしろ暴力的にその肩を叩く。真里亞を振り返らそうと、無理やり肩を引っ張る!
「……うぁう。…………うー。」
真里亞の小柄な体はあっさり引き倒されて転んだ。
…そして、歌うことを邪魔されたことを不愉快に思うように、……いつもの真里亞の表情で俺を見つめる。
このような、凄惨な状況下で、いつものように!!
「真里亞ッ、これはどういうことなんだ?! だ、…誰がやったッ?!」
「………うー。ベアトリーチェ。」
「い、いい加減にしろッ!!!」
持っていた燭台を壁に投げつける。
それは乱暴な、音の暴力となって真里亞の心にぶつかった。
……しかし、真里亞の表情はまったく歪まない!
「よすんだ、戦人くん! 真里亞ちゃん、……今度こそ君は、3人を殺す犯人の顔を見たはずだよ。犯人は、……君に手紙を渡したという、ベアトリーチェなのかい?!」
「……うー。ベアトリーチェ。」
「あぁ、ならこれで確定したぜ。19人目はいるんだよ、ベアトリーチェは実在するんだ!!じゃあ、真里亞、これくらいは教えてくれるよな? やつはこの3人をどうやって殺したんだ。何をどうやったら、あんな惨い殺し方ができるんだッ?!」
「……知らない。」
「知らねぇってことはねぇだろッ?! この部屋での出来事だぞ!! 歌を歌うのに夢中で気付かなかったとか言い出すんじゃねぇだろうなッ?!」
「落ち着いて戦人くん!! ま、…真里亞ちゃん。僕とお話ししよう。…ね?」
譲治の兄貴は、いつも真里亞にそうしていたように、彼女の目線に合うようにしゃがみ込むと、やさしくやさしく語りかける…。
「…真里亞ちゃんは、……どうして壁を向いてお歌を歌っていたのかな…?」
「………うー。…ベアトリーチェが、ここでね、壁を向いて、お歌をずっと歌っていなさいって言ったの。うー。」
「じゃあ、ベアトリーチェがここへやって来たんだね?! その時にはまだ源次さんたちは生きていたんだよね?!」
「……うー。みんなで客間に来て座ってた。……源次さんはちゃんと鍵を掛けてたよ。」
「確かに鍵は掛かってたが、……じゃあどうやってベアトリーチェは客間に入ってきたってんだよ!!」
「うー。でもベアトリーチェは魔女だから鍵なんか関係ない。蝶々になって、扉の隙間から通り抜けてきたんだよ。」
「はぁッ?! 冗談も休み休み言いやがれッ!!! そんなわけねぇだろ?! お前は何を言ってやがるんだ?!」
「きっひひひひひひひひひひひひひひひひ!! 信じられないよね? だから言いたくなかった。どうせ言っても信じないもん。でもベアトリーチェは魔女なの。不思議な魔法で何でもできるの。だからベアトリーチェは鍵の掛かった扉なんか全然関係ないんだよ。きひひひひひひひひひひひひ…!」
「そ、それで?! 現れたベアトリーチェは、そしてみんなはどうしたの?!」
「……ベアトリーチェは言ったよ。お祖父さまの書斎は強力な力に守られていてどうしても入れない。だから、あと3人の生贄はこの客間の4人の中から選ぶって。……みんな嫌だって言ったよ。きひひひひひひひひ、熊沢さんは嫌だ嫌だってすごい言ってた。でも、ベアトリーチェは選ぶよ。……そしたらね、ベアトリーチェは真里亞はいいよって言ってくれたの。………どうしてだと思う? 戦人が、真里亞の安全を祈って念を込めてくれた、あの火星の5の魔法陣の、サソリのお守りがあったからだよ。だからその力で、ベアトリーチェは私にだけは何もできなかった。だから、生贄は真里亞じゃない3人に決まったの。そしたらね、ベアトリーチェはね、言ったの。」
“さぁさ、壁に向かって、お歌を歌って聞かせなさい。……あなたはたくさんたくさんお歌を歌うから、何が起こっても何が聞こえても、聞こえない聞こえないわからない。さぁさ、楽しいお歌を私にたくさん聞かせておくれ”
「だから真里亞はずっとお歌を歌ってた。ずっとずっと歌ってたんだよ。だから何も聞こえないわからない。…そしたら戦人たちがやって来たんだよ。うー。」
「それを信じろってのかッ?! 馬鹿にするんじゃねぇぜ!!!」
「きっひひひひひひ! じゃあ今度は誰を疑う? 真里亞を疑う? 真里亞をこの場で殺してみる? そんなことしてもベアトリーチェは“い”なくならない。これで第八の晩は終わったよ、ベアトリーチェは蘇る!!」
「ふざけんな、もうそんな話は金輪際ごめんだぜッ!! 魔女なんているもんか、煙に撒かれてたまるかッ!!! 俺は認めねぇぞ、ベアトリーチェなんて“い”ねぇ!! 絶対に俺が認めねぇ!! だから存在なんかさせねぇ、蘇りもさせねぇ!! 伝説は永遠に伝説のままだ。この俺がそんなことを認めねぇええぇえ!!!」
「よせよ戦人…!! 真里亞が殺したわけでも見殺しにしたわけでもない! ベ、ベアトリーチェが来て、真里亞は抵抗できず従わざるを得なかっただけだぜ…!!」
「…………あれ?! な、……夏妃伯母さん? お、伯母さんがいない…!」
「え? あれ?!」
「か、母さん? どこ行ったの……?!」
「……………さっき、手紙を読みながらひとりで出て行ったよ。」
手紙ッ?! そ、そりゃそうだろうな、第八の晩までがスッキリ爽快に決まったんだ。
また能書きのひとつもタレたくて手紙を残してただろうよ。
俺たちは真里亞に詰問することに夢中で、手紙を探そうなんて忘れてた…!
でも、それを読んだら、どうしてこの危険な屋敷の中で、いくら武装してるとは言え、たったひとりで部屋を出るんだッ?!
朱志香が後を追おうと扉の取っ手を引っ張ろうとすると、妙な手応えで開かない…!
「母さん、お母さんッ!!
何これッ!! 開けて…、開けて…ッ!!!」
無理もない。……さっき、戦人が壁に投げつけて床に転がった燭台を、夏妃は拾っていたのだ。
………そしてそれで観音扉が開かないよう、うまく取っ手の間に挟んでかんぬきとしたのだ。
…燭台の複雑な意匠がうまい形に引っかかり、それは実に頑丈に扉を封印していた。
母を呼ぶ娘の悲壮な叫び…。
それは、夏妃の耳に、届いていたのか、いないのか…。
夏妃の姿は、
………ひとり、玄関ホールにあった。
そこは、あのベアトリーチェの肖像画の飾られた場所。
夏妃は、客間で読んだベアトリーチェの最後の手紙をその場に捨て落とすと、ライフル銃を構え直し、朗々と響き渡る声で、玄関ホールの巨大な空間で叫んだ。
「……右代宮家代表、右代宮夏妃ですッ!!! 姿を見せなさい、…黄金の魔女、ベアトリーチェッ!!!」
玄関ホールは薄暗い。
わずかな灯りで中央が照らし出される以外は、漆黒の闇で塗りつぶされている。
……その、闇の中に、………黄金に輝く蝶たちが、蠢き、煌きながら、……嘲笑う。
夏妃は硬い唾を飲み込み直し、黄金の蝶たちに、冷たい銃口を向ける……。
「…………ようやく…。………姿を現しましたね。……………あなたのような存在が、本当に存在したなんて、………私は未だ信じることができない…。……でも、それは問題ではありません。……右代宮家の代表であると自負する私と、右代宮家の当主を引き継いだと自称する貴女が、今この場にいる。……あなたが本当に魔女なのかどうかは、今となっては些細な問題です!……………さぁ、…決着をつけましょう。…右代宮家を真に引き継ぐ者はどちらか。…この右代宮夏妃か、…………貴女、……ベアトリーチェかッ!! 貴女の決闘の申し出、謹んでお引き受けさせていただきます…!!」
黄金の蝶たちはゆっくりと人型を作り、薄明かりの中に歩み出る…。
夏妃が、ライフル銃を構え、……睨む。
魔女が、黄金の杖を振り上げ、…笑う。
夏妃の指が、引き金をゆっくりと、絞り込んでいく………。
「せぇのぉおおぉおおおおお!!!」
戦人が思い切り助走をつけてから体当たりすると、かんぬきになっていた燭台はひしゃげて壊れ、扉に大きな隙間を作ることを許してくれた。
その隙間から燭台に何度も蹴りを加え、ついに扉を開放する。
その時、確かに聞いた。…乾いた銃声が一度、確かに聞こえた…!
「母さん!! お母さぁあぁぁん!!!」
「朱志香ちゃん、ひとりで先走っちゃいけない…!!」
「今のは銃声だぜ?! 夏妃伯母さんが撃ったんだッ!!」
誰を? 犯人をだッ!!!
音がしたのは玄関ホールだった。
そして、玄関ホールは、……まるで舞台の上のようだった。
悲劇のヒロインが、ライトを浴びて横たわっているかのように、………そんな静寂の美しさをまとい、……夏妃伯母さんが、仰向けになって倒れていた……。
朱志香が半狂乱になりながら夏妃伯母さんに駆け寄る。
…夏妃伯母さんの額には、
…まるで、ピジョンブラッドの煌きを一粒、あしらったかのよう。
……そして、……そこから一筋の、………血の化粧が、目元を掠めて、表情を横断していく……。
微かに香る硝煙の臭いは、夏妃伯母さんが握ったままのライフル銃の銃口から。
…………え? じゃ、………じゃあ、…………伯母さんは、……自分で、額を……撃ったのか…ッ?!
どうして?!
「母さん、母さん母さんッ!!! うわあああぁあああぁああぁあああぁん!!!」
「…わ、…わけがわからない!! どうして伯母さんはひとりで抜け出して、……どうして自分の額を撃ち抜いてるんだよッ?!」
「……真里亞ちゃん、夏妃伯母さんは手紙を読んでから部屋を出たんだよね?! 手紙がない! くそ、伯母さんは何を読んで、どうしてここに誘い出されたんだ?!」
「知らねぇぜ知らねぇぜ、そんなことはどうでもいいぜ…!! 何なんだよ、どうして自殺なんだよッ?! 何で……、私を置いてくんだよ?! うわぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!」
朱志香は母の屍にすがり付いてひたすらに泣き続ける…。
俺はどこへぶつければいいのかもわからぬ怒りに身を焦がし、夏妃伯母さんの手よりライフル銃を奪って、全方位の暗闇に銃口をぐるぐると、まるで灯台のように向けては犯人の姿を探す。
譲治の兄貴は、この状況においても、冷静に何かを理解しようと努めていたが、それは実るわけのない努力だったかもしれない。
…………そして、真里亞だけが、淡々としていた。
……これは、最初から決められた運命なのだからとでも言うつもりなのか。
違う。
これは全て、……素晴らしき世界へのプレリュード。
黄金郷への扉がいよいよ、開く。
「……第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。……そして、第十の晩に旅は終わり、黄金の郷へ至るだろう。……これで全部終わったね、ベアトリーチェ。おめでとう、おめでとう。…だから真里亞を導いて、あなたの話してくれた黄金郷へ、……今こそ……!!」
そこでは全ての死者は蘇り、失われた愛すらも蘇る。
…………だから、今日の惨劇の全ては真里亞にとって、ないも同じ。
今日までの、愛の失われた日々すらも、ないも同じ。
「いい加減にしやがれッ!! 何が楽しい、何がおめでたい!! この島には18人いた! 14人死んだ! 残りは俺たち4人だ!! 俺は絶対に死なねぇぞッ! 夜が明けるまで…、いやッ、台風が過ぎ去って、また船着場にうみねこたちが帰ってくるまで俺は絶対に死なねぇんだよッ!! 生き残ってやる、生き残ってやる絶対ッ!!」
「…………きひひひひひ。よしなよ戦人。…ベアトリーチェに銃なんて意味ないよ。それに、生き残るも何も、もうおしまいなんだよ。もう、旅は終わったんだよ。……ほら、時計を見てごらん。」
…え? 時計?
その言葉に俺は自分の腕時計を見る。
2本の針は頂点で交わろうとしている。
……もうじき、午後12時を迎える。…つまり、24時だ。
思えば、24時とは何と奇妙な時間なのか。
…24時とも呼び、0時とも呼ぶ。
一日の全てが満ちた時間にして、…同時に新しい一日が始まるゼロの時間でもある。
「…………ベアトリーチェ!!」
真里亞が突然、嬉しそうに叫び、暗がりへ駆けて行く。
それはまるで、……その暗がりの中に、ベアトリーチェがいて、駆け寄っていくみたいじゃないか。
俺は銃口越しに、朱志香は母の屍を抱きながら、譲治の兄貴は呆然としながら、……その闇の向こうを見る…。
そこは、ベアトリーチェの肖像画の前。
そして、真里亞が飛びつくのは、………肖像画の、…人物。
嘘だ、……馬鹿な、ありえねぇ…。
…こんな滅茶苦茶あって堪るもんか、…魔女なんて“い”ねぇ、認めねぇ…!
お前みたいなやつが“い”ちゃいけねぇんだ、だってここは人間の世界なんだぞ、人間じゃない存在なんて認められるかよ、俺は断じて認めねぇ!!
ライフル銃のレバーを力強く引くと、薬莢が排出されて床に転がり次弾が装填される。
そして銃口越しに、俺は黄金の魔女を捉える…。
真里亞は振り返る。
……黄金の魔女にしがみ付いたまま、振り返る。
「……だから、意味なんてないってば。…………ベアトリーチェに鉛弾なんて意味ないってば。……馬鹿だね、人間は。……きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。」
「俺は魔女なんて認めねぇぞッ!! 貴様は誰だ!! 一歩でも動いてみろ、指一本でも動かしてみろ!! こいつをブチ込んでやるッ!!!」
「きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ、くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす、「くっくっくっくっくっく、くっくっくっくっくっく、あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」」
魔女の、……いや、魔女たちの笑い声に合わせ、ホールの大時計までが、笑い出す…。
それは、24時を知らせるものだっただろう。
今日という日の全てが満ちたことを知らせる音色にして、それが全て無に戻ったことを知らせる音色。
時間切れは、魔女の勝利となると、ルールは明記されていた。
「………戦人。…譲治兄ちゃんに朱志香。……旅は、終わって、魔女は、蘇ったよ?」
そして、誰も生き残れはしない。
魔女は賢者を讃え、四つの宝物を与えるだろう。
一つは、黄金郷の全ての黄金。
一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。
一つは、失った愛すらも蘇らせる。
一つは、魔女を永遠に眠りにつかせよう。
安らかに眠れ、我が最愛の魔女ベアトリーチェ…。
第14アイキャッチ:10月5日(日)23時59分 が24時00分に進む
■お茶会
「おー、みんな『うみねこのなく頃に』、お疲れさん! やれやれ、わけがわかんない内に物語が終わっちまったなぁ!」
「つまり何だ? あれは結局、犯人は暴けず時間切れのバッドエンドでしたーってことなのか?」
「うー。きっとバッドエンド。うー。」
「そうだね。一日目の夜に真里亞ちゃんが読んだ、ベアトリーチェの手紙に、碑文の謎を解いてみろとちゃんと予告してたもんね。僕たちは自衛や犯人を探るのに忙しくて、全然その謎に挑まなかったし。」
「………そうですね。ちゃんと碑文の謎に挑んでいたら、違う結末もあったのでしょうか。」
「それはどうかな。紗音ちゃんもお疲れ! お茶の給仕なんてしなくていいぜ。何しろここはお疲れさま会なんだからよ。酷ぇ目に遭った者同士、仲良く傷の舐めあいをしよぅぜ〜〜! べろべろべろ〜!!」
「酷ぇ目って言ったら、紗音がぶっちぎりだったぜ? 綺麗どころのキャラだから、てっきり最後まで生き残るかと思ったら、一番最初に殺されるし、しかも、何だっけ? 顔面を半分砕かれてたんだっけ? 最悪だよなぁ!」
「…………そういうお役目でしたら、……その、仕方ありませんし…。」
「…姉さんが気にすることはないよ。お嬢様方も、ラストのエピローグを見る限り、相当悲惨な最期を遂げられたようだしね。」
「あっはっはっは…、どうもそうみたいだね。何だか、全身を食いちぎられてばらばらにされたみたいな、恐ろしい描写があったような気がするよ。」
「それを言ったら、嘉音くんの最期が一番かっこよかったと思うぜぇ? 返り討ちとは言え、犯人と一騎打ちだろ?俺らのよくわからん最期よりは数段マシだぜ〜?」
「………結局、何も歯が立ちませんでしたが。」
「でも、…嘉音くんの死は大きなヒントになったと思うな。だって、あのせいで、19人目の存在が明らかになったんだから。」
「そうだね。あの時点では全員の所在が明らかだった。だから嘉音くんを殺せるのは、未知の19人目しかありえない。」
「うー! 真里亞は最初からベアトリーチェだって、ずーっと言ってるー。うー!」
「……信じたくはねぇけど、ベアトリーチェを名乗る、魔女が犯人ってことになるんだろうぜ。」
「そうですよね…。人にはできない、不思議なことがいっぱいありましたし…。」
「うー。絵羽伯母さんの密室殺人とか、魔女にしかできない。人間にはできない! うー!」
「…………19人目が存在することが明らかで、しかもその人物は人間では考えられない力を持っている。」
「となれば、その人物をベアトリーチェと呼んでも、差し支えはねぇだろうぜ。」
「…多分、僕たちはラストで、出会っているよ。…黄金の魔女にね。」
「だから真里亞は、ベアトリーチェがいるーってずっと言ってる。みんなずっと信じなかったから駄目だった。うー! 信じないと奇跡は起きないって、友達の魔女も言ってる! うー!」
「そうですね。ベアトリーチェさまは、敬う者に寛大だそうですし。」
「……真里亞さまは、恐ろしい事件が次々と起こっていっても、最後までベアトリーチェさまの脅威からは外されていたように思います。」
「真里亞は、一番の最初っからベアトリーチェを信じてたもんな。…でも、それじゃあ、同じように信じてた嘉音くんたちも殺されたのは納得がいかないぜ?」
「……それは多分、ベアトリーチェさまなりのご都合があられたのでしょう。」
「碑文の歌が、ベアトリーチェさまの復活の儀式を意味するものなら、大勢の生贄が必要だった。……そのひとりにご指名をいただけたということなのでしょう。」
「…紗音ちゃんは、酷い最期だったよ…。せめて、もう少し綺麗で安らかな方法もあったろうに。」
「………まぁその、…痛かったわけじゃないですし…。それにほら。今はこうして全然平気ですから、へっちゃらです。」
紗音が劇中では砕かれていた頬を撫でて見せると、みんなは微笑ましそうに大笑いしました。
「でも、こう言っちゃ何だけど、…僕はてっきり本格ミステリーだと思ってたからね。ファンタジーだとわかってちょっと驚いてるよ。遺産を巡る外界から隔絶された孤島の洋館ものなんて、推理ものの王道だと思ってたからさ。」
「……うー。ファンタジーじゃないい! ベアトリーチェは“い”るのー! うー。」
「………えぇ、わかっています。ベアトリーチェさまは“い”らっしゃいます。」
「そうですね。……ベアトリーチェさまは“い”らっしゃいます。」
「…悔しいが認めざるを得ねぇよな。19人目の魔女の関与は明らかだしなぁ…!」
「人間には不可能なことをいくつもやってのけてる。劇中の僕らは、それを否定したくてあれこれと考えたけれども。…今なら、はっきり言えるよ。どれもいずれも、全て、人間には不可能な犯罪だった。……魔法の力を使いこなす、魔女のベアトリーチェにしか為し得ない犯行だよ。」
「犯人は魔女だった。その一点において、何の曇りもねぇぜ。ベアトリーチェさま万歳ってわけだ。はっははははは。」
「うー。みんな信じた。真里亞は嬉しい。うー!」
「……神さまも魔女も、怖がる人には恐ろしい存在かもしれませんけど、信じ、敬う人にとっては、きっと慈しみのある存在に違いないと思います。」
「…………姉さんの、言う通りだと思います。」
「じゃあさ、せっかく殺人事件ごっこは終わったわけだし。ここで気を取り直して、ちゃんとベアトリーチェの言う通り、碑文の謎に挑戦してみねぇか?」
「うー! 賛成! きっとベアトリーチェも喜ぶ。」
「ははははは…。劇中ではみんな無視してたからね、あの手紙は。」
「……せっかく、出題されたのに、ほとんど無視されて。何だか可哀想ですね、ベアトリーチェさま。」
「碑文のメモがある! みんなで謎解き、みんなで謎解き…!」
「物語は多分、この時点から間違ってたんだろうね。」
「………そうかもしれません。私たちは、ベアトリーチェさまのご指示通り、碑文の謎に挑むべきだったのかもしれません。」
「まぁ、すっかり遅くなっちまったけどな。今からでも再挑戦するってことで、魔女さまには許してもらおうぜ。ささ、碑文の謎に挑戦してみよう。……何々、“懐かしき、故郷を貫く鮎の川”…。」
真里亞がテーブルの上に、碑文を記したノートのページを開くと、みんなはそこを覗き込みながら、楽しげに碑文の謎をあれこれ推測して賑わうのでした。
紅茶の香りと、焼きたてのクッキーのバニラの香りが、それに彩を加える、とても楽しげでゆったりとした時間……。
「………………ちょいと待てよ、お前ら。」
なのに、戦人が水を挿すような言い方で、それを口にしました。
見れば表情はどこか不愉快そう。
この楽しい時間の何が気に入らないというのでしょうか。
「…お前ら、さっきから聞いてりゃ、何を思考停止してんだ? 何で魔女の仕業ってことで決まってんだよ。…そんなのあるわきゃねぇじゃねぇかよ。」
戦人のその一言に、…お茶会の楽しい空気があっという間になくなってしまいました。
譲治も、朱志香も。
紗音も、嘉音も。
そして真里亞も。
……戦人は何を変なことを言い出すんだろうと、きょとんとしています。
愚かで身の程知らずの戦人も、さすがに自分が失言したことに気付きました。
「…だ、………だって。明らかに人間には無理な事件だったじゃないか。」
「そ、そうだぜ、そうだぜ。…どの事件も人間には無理なことばかり。」
「そうですよね…。だって、人間じゃ、説明がつかないことばかりじゃないですか…。」
「…戦人さまが、何を言い出すのか、僕にはわかりません。」
「お…、お前たちこそ、何を口々に言い出すのかさっぱりだぜ。こんなの人間が起こした事件に決まってるじゃねぇかよ。魔女なんているわけねぇだろ…?」
「じゃ、…じゃあ。…私が倉庫の中で殺されてた時、顔の半分を酷いことにされていましたが、……あれは人間が犯人なら、どう再現するというのですか…?」
「…そりゃ、……まぁ、どうやったらあんな酷ぇことができるのか、ちょっと想像はつかねぇけどよ。でも、あそこは薔薇庭園の倉庫だぜ? きっと中に妙な道具とかがいくらでもあっただろ。わかんねぇけどよ、例えば、電ノコとかグラインダーとか、そんな電動工具でも使ったのかもしれねぇじゃないか。」
「……………そ、………それは……、…その…。」
「じゃあ、戦人…。祖父さまが密室の書斎から消え去っていたのはどう説明するんだよ…。扉は封印されていたのに、祖父さまは忽然と消え去ってたぜ…?」
「その話は劇中でも出ただろ。祖父さまが何らかの方法を使えば、レシートを誤魔化すことは不可能じゃない。あるいは窓から出て、あるいは落ちて、夏妃伯母さんが窓を内側から施錠した可能性もある。別に、魔法を使わなくたって、他にもいくつか手は思いつくだろうぜ…?」
「…………そ、……それはそうだけどよ………。」
「なら戦人くん。僕のお母さんたちが客室の中で殺されていたのはどう説明するんだい? 扉には鍵もチェーンも掛かってた。無論、窓もね。どうやって人間に、母さんたちを殺せたって言うんだい?」
「…まぁ、……確かにそのトリックは劇中でも保留になったままだったな。とにかく、犯人は鍵だけは持ってる可能性が高いからな。チェーンに許される程度の、扉の隙間は確保できたわけだ。……非常に苦しい話だが、その隙間から何かの仕掛けを施した可能性はありえるな。…いや、あるいは、その隙間から、何かを出したとか…?……んんん、確かにチェーンってのは、偉いシンプルだが、密室を構成するでかい要素だな…。………だが、密室トリックなんておよそやり尽くされてるんだ。そこいらの書店で密室ミステリーを数冊買ってくりゃ、どうせビンゴなトリックが見付かるだろうぜ。……とにかく、俺には思いつかねぇが、どうにかやりくりすりゃあ、人間にできないことはないだろうって断言できる。」
「それは酷い暴論じゃないかい…? 説明できないのに、人間に可能だと断言できるなんて、めちゃめちゃだよ…。」
「……何がどうめちゃめちゃなんだよ。兄貴たちは何を思考停止してんだよ。一見できなさそうに見えても、どうせできるんだよ。それがお約束ってもんだろうが。」
「めちゃめちゃなのは戦人の方だぜ。……人間にできるってんなら、説明してみろよ。できねぇだろ?」
「できなきゃすぐに犯人は魔女ってことで落ち着くのかよ。その論法で行っちまったら、世界中の未解決事件は全部、魔女が犯人ってことで決着しちまうぞ!」
「……戦人は問題を摩り替えてるし、何も説明してない。…真里亞たちは、“人間にはできない。だから人間じゃない存在が犯人。それが魔女”だと、そう言っている。なのに戦人は、説明できないけど魔女はありえないとか、一方的な決め付けで言ってる。
……きひひひひひひひひひひ、まるで、無知な時代の人類のようだね。地球が回ってるはずがない、説明はできないけど、宇宙が地球を中心に回ってるんだと言い張る愚か者のよう。」
「……………な、…何だか気に入らねぇ論法だが。つまりお前らはこう言いたいのかよ。…人間に可能だと説明できないなら、犯人が魔女、…ベアトリーチェであることを受け容れろってことかよ。」
「…………そこまで押し付けているわけではありません。ただ、戦人さまが、何を根拠にそのような世迷言を言い出すのか、と思いまして。」
「よ、…世迷言って、………。……な、…なぁ、俺ってさっきからそんなに変なこと言ってるか?!おかしいのは俺なのか?! さっきから偉ぇ不愉快だぞッ?!」
「……戦人さま。僕は、自分が死んだ時、ボイラー室で、存在しないはずの19人目に殺されています。…それが人間の仕業だと説明できるのですか? あの時、18人の所在は全員がはっきりしていました。にもかかわらず、僕は殺されている。」
「その件も劇中で言ってるぜ…?! 例えば、熊沢の婆ちゃんだ。嘉音くんがボイラー室に下りてからすぐ後を追ったと言ってるが、実は嘘かも知れねぇ。一緒にボイラー室に入って、不意を突いてブッスリ行っちまったのかも知れねぇ! あるいは、ボイラー室に踏み込むと、何かのトラップが発動して、例のアイスピックが打ち込まれるように仕掛けられていたのかもしれない。何しろ焼却炉からは祖父さまの遺体の悪臭だ。必ず誰かがやってくるわけだから、仕掛けだけ施せば、犯人はその場を離れ、嘉音くんの死亡時刻にアリバイを作ることは充分できる…!」
「……ボイラー室のトラップって、どんなのですか…?」
「そうだよ。あの後、すぐみんながボイラー室に駆けつけた。でもそんな変な仕掛けは見つけられなかったじゃないか!」
「……左様です。戦人さま、どんな仕掛けで、僕は殺されたというのですか…?」
「いや、…………それはわからねぇ。…でも、とにかく、何かの仕掛けをうまくやってだな、あるいは誰かが嘘をついて…、こうも考えられるぜ?! そもそもあれは嘉音くんの自作自演だったとかな?! そ、そうだ、自作自演だ!! 絵羽伯母さんたちも自作自演なんだよ。自分で密室を作り、死んだふりをした!」
「………戦人…。………お前、さっきから頭、…大丈夫か……?」
「……あの、………冷たいお飲み物でもお持ちしましょうか…?」
「そ、そこまで憐れみの目で見られるほど妙なことは言ってねぇだろ…。俺はあくまでも、トリックを考える上での可能性について言っただけだぜ?それにほら、死者が実は死んでないなんて、推理物のお約束じゃねぇかよ!」
「お約束って…?」
「つ、つまりだ。嘉音くんが殺された時、確かに俺たち全員の所在ははっきりしていた。そして熊沢の婆ちゃんも嘘はついてないとする。でも、それは生存者だけの話だ。……もし、死んだふりをして犠牲者に混じり姿を眩ましていた犯人が別行動をしていたとしたら、全ては説明できる!」
「…………はぁ…。つまり、絵羽叔母さんたちが犯人だと言いたいわけか…? でも、叔母さんたちの死亡については南條先生が医者として判断してるぜ?」
「……そうです。南條先生は、全ての犠牲者について確認しています。…もし戦人さんの説を採用するなら、南條先生も犯人ということになりますか?」
「あ、あぁっ、そうだな!! 南條先生が犯人の一味で、嘘の死亡宣告をしていたかもしれないと考えりゃ、話は変わってくるぜ…!ほら、これも推理物のお約束じゃねぇかよ!!」
「……でも、南條先生も殺されたよ…?」
「っと、………それはだな。…そうさ、南條先生は偽装死なんだ!何しろ、南條先生以外に検死ができるやつはいねぇし、あの時はもう混乱してる状況下だ。本当に脈が止まってるかなんて、のんびり確かめてる暇もなかったぜ! この論法なら、死者は誰だって歩き回れたことになる!」
「………私たち最初の6人は難しかったんじゃないかと思います…。……だって、シャッターを閉められた上に、…内側からは開けられない南京錠を掛けられちゃいましたし…。」
「そうだぜ。その鍵は母さんが預かった。じゃあ、母さんも犯人の一味だってのかよ?」
「…あぁあぁぁぁ、いやいや、…、最初の6人は無理そうだが、絵羽伯母さんたちは外から鍵を掛けただけだろ。なら内側から開けられるし…、…そうさ、俺たちが部屋を出た後、窓から飛び出して、ボイラー室に先回りしたとか!く、……苦しいか…?! あるいは南條先生も検死を誤ったとかな?!ほら、自分でも言ってたぜ? 検死は誤診率が高いとかって! うまく偽装したとか、身代わり死体を用意したとかで、死を誤魔化したんだ!! 方法やトリックは、これから考えるとして、とにかくとにかく、19人目を否定することはそう難しいことじゃないんだ!ましてや魔女ぉ? それだけは断じてありえねぇ!!」
「…………戦人がさっきから、何で頑なに、みんなの中に犯人がいるようにしたいのか、わかんない。きひひひひひひひひひ、つまり戦人は、親族の誰かを疑いたいんだよね…?」
「そういうわけじゃねぇ…。ただその、安易に19人目を肯定はできねぇし、仮にいたとしてもそれは人間だって見地から話を構築すべきであって、それら全部を否定しきった最後の最後で苦し紛れに出てくるのが魔女だろって話をしたいんだ。魔女なんているわけないだろ?! 何でさっきからみんなは、魔女が犯人ってことでひょいひょい納得したがるんだ? そりゃ、身内に殺人犯がいると思いたくねぇ家族愛は立派さ。でも、それで誤魔化しちまっていいのかよ?! あれだけ大勢を殺した憎き犯人を見つけ出したいとは思わねぇのかよ?!兄貴だって、両親の仇を見つけたいだろ?! 朱志香だって嘉音くんの仇を、そして嘉音くんだって、紗音ちゃんの仇を見つけたいだろ?! 紗音ちゃんだって、自分を殺したのが誰なのか知りたいはずだ。何でこうパーンと全面降伏して、魔女が犯人ってことになっちまうんだよ?! お前らさっきから何なんだ?!」
短気で愚かな戦人は、自分の無知を他者に求めようと食って掛かります。
…しかし、みんなは憐れみの眼差しで、ただ静かに見守るのでした。
すると、聡明なる真里亞は笑いながら、戦人に間違いを指摘してあげました。
「……………きひひひひひひひひ。…呆れてるんだよ。……戦人はさっきから、支離滅裂なことを繰り返しては何かをわかったような気になってるだけ。……だから? それで? 人間にどうやって? 具体的には? そう聞くと、決まって戦人は、今は思いつかないけど、とか、何かの仕掛けで、とか、抽象的な言葉で逃げたりお茶を濁したり。……むしろ、知りたいよ戦人。どうしてベアトリーチェを信じないの? “い”るのに、どうして?」
「“い”ねぇからだよ! 魔女なんか“い”ねぇ!! いるわけがねぇ!!」
……それは、まるで認めたくないというだけの、子どものわがままのよう。
憐れみの眼差しが、静かに戦人を包みましたが、頑なな彼の心にそれは届きません。
「…………まるっきり、駄々っ子のわがままだぜ?」
「……戦人さま。お気持ちはわかりますが…。」
「………ベアトリーチェさまは、“い”らっしゃるのです。」
「戦人くん…、どうして、信じないんだい? これほどまでに、状況証拠は揃ってるのに。」
「説明できなきゃ全て魔女なんて、俺はそんな論法は認めねぇ。どうして電球が明るくなるのか、仕掛けを知らなきゃ全て魔法ってことになるのか?違うだろ?!魔法じゃなきゃ説明がつかないことなど存在しない!! 魔女だの魔法だのってのは、思考の放棄だ!兄貴たちは、わからねぇ事件に屈服して降参しただけなんだ! そうだろ?!」
「…………………き、ひひひひひひひひひひひ。…やっぱり、……戦人だけはどうしても信じないね。……誰かひとりでも信じなかったら“奇跡”は起きない。……だから、戦人のその蒙昧な思い込みを改めさせなきゃ、奇跡が、……魔法が完成しないんだよ。」
「へへ…。なぁるほどな。……ようやく一端が見えてきたぜ。…つまりお前らは俺に、魔女様は存在する、って言わせたいんだろ? 全員が認めた嘘は“真実”になる。……そういうこったろッ?!……生憎だな。ここばかりは生憎だが、そいつぁ全然駄目だぜ、お断りだ。……お前らが俺にそう詰め寄るからこそ、だからこそ全然駄目なんだ。」
「…………………どうして?」
「悪ぃが、最後の最後でもう一回、チェス盤をひっくり返させてもらうぜ…? 魔女の存在を俺に認めさせたいなら、一番簡単な方法があるはずさ。……それは、人間にはできないから魔女なんていう遠回しな方法じゃない! 魔女が魔法でやって見せた、それを俺に見せるだけの話なんだ。さらにだ、さっき真里亞が言ったことが一番墓穴を掘ってる。……誰かひとりでも信じなかったら“奇跡”は起きないってな。真の奇跡は、誰が信じようと信じまいと勝手に起こる! たとえ俺一人が信じなかったとしてもだ!! だからこそ、俺が信じれば成立する奇跡も魔法も、そして魔女も嘘っぱちだってわけさ!!」
「…………………………………。」
その戦人の無知な暴言によって荒んでしまった空気を、とても涼しげで軽やかな笑い声が吹き飛ばしてくれました。
誰の笑い声…? 戦人は初めて聞くその声に驚きました。
見れば、いつの間にか、譲治や朱志香、紗音に嘉音たちは畏まるように口を噤んでいます。
「………………ベアトリーチェ。」
「………良い。…久しぶりに愉快な人間に出会えたものよ。」
「お、………………お前、………誰だ…。」
「……招かれた茶会のホストも知らぬか。……良い良い。くっくっくっく…!」
「…こちらのお方は、千年を生きる黄金の魔女、ベアトリーチェさまにあらせられます。」
「ご機嫌麗しゅう、ベアトリーチェさま…。」
「……戦人くんの暴言をどうかお許し下さい。」
「こ、こいつは頑固でその、まだ、自分の置かれた状況がわかってなくて……!」
「くっくっくっくっく…。良い良い。……千年も生きると、大抵の魔女は生き飽きる。そなたのような気骨ある男も時には良い。」
「……………ベアトリーチェがお姿を現してくれるのは、とても光栄なことだよ、戦人。」
「……へ、………へっへっへっへ…!! こりゃあ、……たまげたぜ。…そこまでして、俺に魔女が、…19人目が犯人だと思い込ませてぇのかよ…。ますますに気に入った…! だから全然駄目だぜ…!! お前は、真里亞たちが主張する、魔女ベアトリーチェの幻影というわけだ。………そして、全員がその存在を信じることでようやく存在を許される。…そういう虚実の存在なんだろ? だから俺にも信じさせたい。俺だけが信じないから、存在できない。………そうなんだろ?!」
「………魔に通じぬ凡夫の分際にしては、理解力は悪くない。………なるほど、どうやらそなたは生まれながらにして、魔力に強い抵抗力を持つらしいな。…我ら魔女の天敵よ。…どう逆さに振るって見せようとも、決して我らを信じない。だから魔法が及ばない。…お前のその態度にも納得が行こうというものよ。くっくっくっく…!」
「何を言ってやがるかさっぱりだぜ、いっひっひ! わざわざお姿まで現してもらって恐縮だが、俺はお前さんの存在なんて、これっぽっちも信じやしないぜ。 確かにこの2日間、妙なことは何度か起こった。さっき真里亞に言われた通り、俺はそれら全てにトリックの説明がつけられると思っているが、個々に具体的にはまだ挙げられてねぇ。だが、だからといって屈するわけじゃない。
俺は兄貴たちとは違うぜ? 説明できないから、魔女の仕業だなんて論法には絶対ぇならねぇぜ。」
「………ますますに気に入ったぞ。お前は屈服させ甲斐がある…。……お前のような男にこそ、我が名を讃えさせてみせたいぞ……?
お前のような男にこそ、爪先にキスをさせてみたいものよ。…くっくっくっくっく!」
「寝言言いたきゃ好きなだけ言ってろ…! 俺はお前なんか否定してやるぜ。全ての出来事を“人間とトリック”で説明してやる…!! そこには一片たりとも魔女も魔法も入り込む余地はねぇッ!!」
「良い! ……それでこそ千年の退屈も紛れるというものよ。ならば聞こう。お前は先ほど、絵羽たちを殺すのに、扉の隙間を利用すれば良いと言ったな…? 人間とトリックで、どう殺してみせるのか、説明するがいい。」
「……へ。いきなり、一番辛いところから切り込んできやがったな。…ってことは、このトリックが一番の自信作、ってことなんだろ?真犯人さんよぅ。」
ベアトリーチェが黄金の煙管を振るうと、そこから七色の煙が柔らかく尾を引きました。
…それらは見る見る周囲を覆うと、……いつの間にかそこはお屋敷の廊下に。
目の前には、チェーンで閉じられ、わずかに開いた客室の扉が…。
そう、絵羽たちが殺された部屋の入口なのです。
「……べ、便利じゃねぇかよ…。」
「さて。このわずかの隙間から、どうしてみせるのか、戦人とやら。」
「く、…………。……た、多分、あの“アイスピック”を打ち出せる射出機があるんだ。そいつを使って……。」
「その隙間からは見えぬ、ベッドの上の絵羽をどう狙うのか? ……そして、バスルームに篭り扉を閉めた秀吉をどう狙うのか…?」
「……………………………くそ、………。…隙間はある…。何か方法があるはずなんだ……。」
「くっくっくっく。お前に思いつかぬなら、妾がやって見せても良いぞ。」
「……ほぉ。魔女さまならどうやってみせるってんだよ…。お手並みを拝見してやろうじゃねぇか…。」
「……………戦人、ベアトーリチェに口の聞き方がぞんざい…。」
「良い良い。愉快な男よ。…それでこそ屈服させる楽しみが増すというものよ。」
「……へ! そんなに俺に爪先にキスをさせてぇかよ…! 俺が降参したらな! だが見てろ、きっと俺がこのトリックを暴いて、逆に手前ぇを俺のケツにキスさせてやるぜ!」
「……………くっくっく。愉快な男よ。覚えておこうぞ、その約束を。…弱き魔女は、力を得るために悪魔の尻にキスをする。それを超える屈服の誓いはないからな。そこまで言わせたからこそ、妾はお前を屈服させてみたくなる。………くっくっくっく…!」
ベアトリーチェは、戦人の品なき暴言を気に留めることなく、黄金の煙管を再び振るいました。
……そう、この黄金の煙管は、彼女にとっての大事なケーンなのです。
「さぁさ、お出でなさいな子どもたち。我こそは煉獄の案内人。大罪を赦せし七つの杭を持て。」
謳うような魔法の言葉に導かれ、7つの杭が集います。
…それは、罪深き人の大罪を象徴する七人の悪魔たちの杭。
「ベルゼブブにアスモデウス。さぁさ、罪を赦しなさい。罪人の魂を解放なさい…!」
「ぅおッ…?!」
ベアトリーチェの呼びかけに、ベルゼブブの杭とアスモデウスの杭が応えます。
その2本の悪魔の杭は、まるでキューに弾かれたビリヤードの玉のように弾かれ、扉の隙間に吸い込まれていきます。
そして、部屋中の壁に何度も乱反射する音が、まるで啄木鳥の啄ばむ音のように聞こえてくるのです。
そして最後に、気持ちのいい音が聞こえました。
……例えるなら、薪割りの時、振るい下ろした斧が綺麗にさっくりと薪を割ったような、とても小気味よい音。
それは、2本の杭がそれぞれ、絵羽と秀吉の眉間に深々と打ち込まれた時の音。
「…………ど真ん中というところよ。見てみるか…?」
部屋からは確かに、眉間が砕ける音が二人分聞こえました。
扉越しの戦人には見ることも叶いませんが、二度死ぬ二人は、二度目も寸分違わぬ同じ姿で倒れ、同じ模様の血痕を描くのでした。
「ば、…………馬鹿野郎…。そ、……そんな滅茶苦茶で……! こ、殺せてたまるかよッ!!!」
「殺せるとも。……このように殺せるとも…! くっくくくくくくく!」
気付けばそこは廊下ではなく、元のお茶会の席。
……戦人以外のみんなは神妙に座っていましたが、……嘉音が呻きながら口から鮮血を垂らし始めます。お茶会の席で、はしたないですね。
嘉音の胸には、サタンの杭が深々と打ち込まれていました。
「………………ぅ、……………く………。」
「か、……嘉音くん……、嘉音くんッ!!く、……くそぉおおぉおぉ!!」
激昂するのは戦人ばかり。
他の、譲治や朱志香、紗音は、まるで先生に怒られている生徒のように、神妙に俯いています。
「…嘉音は瑣末な怒りに囚われ、妾の宴を乱そうとした。……怒りに囚われやすいのがお前の大罪よ。清め、悔いてやり直すがいい。」
「……ァト……リーチェ……、……さ、ま……………。」
「ベ、…ベアトリーチェさま…。どうかお許し下さい…。嘉音くんは充分に反省したと思います……!」
「良い。妾は敬う者に寛大である。……くっくっくっくっく…!」
「ふざけるなッ!!!こんな三文芝居で俺がお前の存在を認めると思うなよ?! 何が千年を生きた魔女だ! 手前ぇのトリックなんざ、千年じゃねえ、せいぜい百年程度のミステリー界が作ったお約束の累積上にあるだけだ!魔法なんかじゃねぇ!! 断じてねぇ!!事件の全ては“人間とトリック”で説明がつく!!」
「くっくっくっく! 我が千年を人間共の百年で語るか…。良い良い、だからこそ妾はお前を気に入る…!」
「……………愚かな戦人…。きっひひひひひひひひひひひひひひひひ…!」
「……よすんだ、戦人くん…。ベアトリーチェさまに逆らっちゃ…、い…けない……。」
「…………ん、………ぅ、……………ぅ…。」
紗音が頬を押さえながら呻き始めます。
…虫歯でも痛むのかもしれません。
ですが、それはどうも虫歯ではないようでした。
……うっすらと赤い模様が、紗音が抑える頬全体に広がっていくのです。
その赤い模様は、紗音にとって、堪え難い苦痛を与えているようでした…。
頬に当てる手はいつしか爪を立てるほどになり、全身に汗が玉のように浮いていきます…。
「…紗音…、紗音…!! しっかり…しっかりッ!」
「どうしたってんだよ! くそ、何なんだこりゃ、この赤いのは…!」
それは見る見る広がって、紗音の顔半分を覆ってしまいます…。
…そして、ようやく愚鈍で間抜けな戦人は気付くのです。
「た、頼む、戦人くん…! ベアトリーチェさまを信じてくれ…! 後生だから…!! あぁあぁぁ、君が信じないから、信じないからぁ、ぁぁああぁ…、魔法が、……魔法が解けてしまうぅうぅうぅッ!!」
戦人は、……生まれて初めて、石榴が裂ける音というものを聞きます。
その、赤い飛沫が、戦人の顔にも飛び散りました…。
哀れ、紗音の顔は半分がばっくりと裂け、…あの倉庫の中でのおぞましい最期をもう一度そこに繰り返してしまいます。
「う、うわぁああああああああぁああああぁ、紗音、紗音ッ!! うわああああぁあああああぁぁあぁあああああ!!!」
「く…、うぐぐ、くそお、くそおぉおおおおッ!やめろ、やめろやめろぉおおぉ!! 死者を辱めるな、死者を辱めるなあああぁッ!!」
「ぅうう、……く、………ひぃッ!!」
今度は、譲治の全身に赤い模様が広がっていきます…。
それはまるで、紅茶にたっぷりと落としたミルクが描くかのような美しき雲模様。それらがじわりと、そして全体に、広がっていきます。
……それらは色濃くなるに従い、譲治に苦痛を与えるようでした。
その奇怪な模様を見て、……戦人は、譲治たちがどのような奇怪な最期を遂げたのか、哀れなほど拙い想像力で必死に考え、立ち竦みます…。
やがて、……その赤い模様はさらに隣の朱志香にも……。
「く、………ぃ、……く、…………ッ!!」
「や、やめろやめろやめろッ!!! 兄貴が何をした、朱志香が何をした、もうやめろぉおおおおおおぉ!!!」
「ば、……戦人……、……ま、…魔女なんかに、…挫けるんじゃねぇぜ……! ……否定しろ、ぶっ消してやれ…。こいつは、……誰かひとりでも否定する限り、存在できない幻影なんだ……! ううぅううぅ、くぅッ!!!」
「だ、大丈夫か朱志香!! うわッ、あ、兄貴ッ?!?!」
もう譲治は人の形をしてはいません。
…まるで、お肉屋さんがおいしいお肉を削いだ後に残した残骸の山のよう。
…せいぜい、人の頃の痕跡を残すのは、下顎の部分とあばら骨の形状くらいでしょうか。
そして、赤い模様がどんどん色濃くなる朱志香も、同じ末路を辿ることは明白でした。
「…………うー。…戦人。……早く、ベアトリーチェを信じて…。………じゃないと、………みんなの魔法が、………解けてしまう…。」
「ま、真里亞、お、お前も全身に……ッ!!!」
「私は魔法で、全ての死者を蘇らせる。……でも、お前が信じない限り、それは真の力を持たない。くっくっくっくっく! もっともお前ほどの男が、この程度のことで屈服することはあるまい…?」
「ば、…戦人……ッ! 私たちは、……身内を疑いたくなかった…。現実から目を逸らしたから、…魔女に屈してしまった……! でも、…戦人なら…。……戦人なら、……魔女になんか屈しない……! ひぐッ、ぐかかか、……くかかかかかかかッ!!!」
「朱志香ッ、朱志香ぁぁああぁ、わぁああああああああぁあああぁあッ!!」
哀れ、朱志香も同じ末路。
…譲治と同じ、お肉屋さんの残骸のよう。
崩れて解けて、混じってしまうから、もうどれが譲治で朱志香か、わからない。
「……………戦人。泣かないで。…ベアトリーチェは、死者を何度でも蘇らせてくれるよ。だから悲しくないよ…。……だから、…………死んでも、……………平……、気…、」
真里亞の全身にも赤い模様がじわりじわりと蝕んでいきます…。それを見て、愚かな戦人は絶叫します。
「手前ぇは許さねぇ、絶対に許さねぇッ!! 何が魔女だ、何が魔法だ!! 俺は全身全霊を賭けてお前を否定してやるぞ…!! 何が何でも手前ぇを認めるわけにはいかねぇ!! 俺をここまで敵に回しやがった以上、絶対ぇに手前ぇだけは許さねぇ!!許さねぇ許さねぇ絶対許さねぇ!! よくもこの右代宮戦人を敵に回しやがったッ!! 何が何でも貴様を否定してやるぞ!! どんな不可解だろうと全部、“人間”で説明してやるッ!!! 手前ぇをこの世から、細胞の一欠けらまで残さず消し去ってやるッ!!!」
「よくぞ言ったぞ、戦人とやら…! それでこそ我が千年の退屈も紛れるというもの!さぁ、説明するがいい。“人間とトリック”とやらで説明してみせるがいい! そして人間の身の程を知るがいい!! 我が千年を、人間共が築いたとかいう百年で太刀打ちできるか試してみるがいいッ!! それでこそお前を屈服させる楽しみが増すというものよ…!!さぁ聞こう、戦人とやら! 真里亞の手紙は? 6人の殺し方は? シャッターは? レシートの封印は? チェーンの密室は? 嘉音のボイラー室は? 源次たちの客間は?! 夏妃の自殺は?! 碑文の謎は?! 隠された黄金の在り処は?!さぁ、戦人とやら、“人間”の力を見せてもらおうではないかッ! ふっはははははははははははははははははは!!!」
「うをおぉおおおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおぉッッ!!!」
■お茶会、END。
■裏お茶会
「…次は何の紅茶を淹れようか? 古今のありとあらゆる銘茶を披露しようぞ。」
「……梅干紅茶。……梅干は1パック200円のヤツよ。」
「くっくっく…! …千年、紅茶を嗜んだが、そのようなモノは知らぬ。…つくづくこの世は生き飽きぬものよ。」
「……………ベアト。そんなにも敵意を剥き出しにしなくてもいいわ。…私は単なる旅の魔女。あなたの領地のルールを侵しに来たつもりはないわ。」
「…くっくっく、敵意など微塵も。…伝説の魔女、ベルンカステル卿に粗相がないか、気が気でならぬだけよ。」
「………誤解があるわね。私は無力よ。あなたのような、1人を百殺す恐ろしい力を持った魔女の前にはまったくの無力。」
「その無力な魔女殿が、何人たりとも寄せ付けぬ力をお持ちなのだから恐れ入る。かの大魔女、ラムダデルタ卿を単騎にて退けられたのだから。」
「……根競べに勝っただけよ。あの子が飽きただけのこと。」
「ラムダデルタ卿は、そうは言ってなかったがな? …くっくっく、過ぎた謙遜はかえって醜くもあるぞ、ベルンカステル卿?」
「……あの子は恐ろしい力を持ってる。…………1人を“必ず”殺す力。しかしこの世に“必ず”は存在しない。1をいくら割ろうとも決してゼロには出来ぬように。あの子は、それを“限りなくゼロ”に近付け、“限りなく絶対”を生み出す力を持つ。……あんな恐ろしい魔女と戦うのは二度とごめんよ。」
「しかしそなたは、“ゼロでない限り”必ず成就させる力を持つ。……この世に“必ず”は存在しないとのたまう卿ご自身が、“必ず”の力をお持ちでおられる。……恐ろしい恐ろしい、くっくっく…!」
「……1人を“無限に”殺す力。…私は貴女の方が恐ろしいけれども。」
「ご冗談を。……そなたから見れば、こんなのは瑣末な力。褒めても何も出ぬとはまさにこのこと。」
「……世辞は滞在費代わりに。…私はカケラを渡り退屈から逃れ続ける逃亡の旅人。……貴女が面白そうなことを始めたと聞いたからやって来ただけのこと。貴女が面白くなくなったら、勝手に出て行くからご心配なく。」
「くっくっく…! 大ベルンカステル卿にご高覧頂け、このベアトリーチェ、恐悦至極に存じるぞ? くっくっくっく! して、ご感想は?」
「…………ラムダデルタは、とても残酷で恐ろしいけれども、理解できる子だった。…貴女は一見、慈しみがあるけれども、まったく理解できない。だから、あの子よりずっと恐ろしい。」
「くっくっくっくっく…! 気まぐれなのは我が性分。許すがいい。…それに、気まぐれなる賽の目に運命を託すは、ベルンカステル卿も好まれることだったのでは?」
「……私は賽を振る時、はっきりと出したい目がある。貴女とは違う。でも貴女にとっては、全ての目が、貴女の掌を出ない。そして、どの目であっても、貴女の期待を裏切らない。サイコロが何の目を見せようとも“必ず”貴女は満足する。………その意味において、貴女は私を遥かに凌駕する。………貴女とだけは戦いたくないわ。貴女の中にはゼロしかない。だから、私の力では貴女から勝機を得られない。…最悪の相性よ。……ラムダデルタなら、逆に相性がいいのかしら。貴女の“無限”を殺せるでしょうから。」
「くくくく、くっくっくっくっく! ……やはり、紅茶を飲むなら魔女とに限る。退屈しない。くーっくっくっく!」
「……なら良かったわ。退屈は私を殺す唯一の毒なの。……だから、私を殺さないでね? 無限の魔女、ベアトリーチェ卿。」
「それがお望みならこのベアトリーチェ、さらに楽しませてお見せしましょう。……なら、すぐにでも次のチェス盤をお持ちした方がよろしいか? そなたにはどうも、紅茶よりも次なる物語の方が御代わりに相応しいらしい。」
「……………………………。」
「しばし待たれよ。……くっくっくっく!」
…………貴方も厄介なのに好かれたようね。
力を貸してあげたいのは山々だけれど、聞いての通り、あの子の力と私の力では相性が悪いの。お生憎ね。
でも、さすがに気の毒だから、少しだけ力を貸してあげるわ。
まず、あの子のこと。
ベアトリーチェという名の存在を持っているけれども、だからといってそれは“一個体の女性”とは限らない。
意味がわかる?
つまり、あれはニンゲンの誰かじゃない。
この世界のルールが擬人化した存在だということ。
あの子を倒すには、この世界のルールを暴き、それを解きほぐさなければならない。
それは例えるなら、ルールを知らないチェスを、観戦しながら学んでいくようなもの。
まずはチェス盤を見渡しなさい。
そして駒の動きと役割に気付きなさい。
そしてあの子のゲームの勝利条件を探りなさい。
それらが暴けた時、そこにあの子の心臓が曝け出される。
後は引き裂くも握り潰すも思いのまま。
……私も気前がいいわね。
かつて人の身だった頃、私はたったこれだけのことを気付くのに百年をかけたのに。
これは、ベアトに囚われた憐れな貴方へのささやかな餞別。さながら一本のスプーン。
スプーンは、スープを飲むのに使うだけじゃない。
貴方を閉じ込める岩牢を掘り抜き、魔女の目玉を抉る武器にもなる。
……もちろん、永遠の岩牢の中で、水のようなスープを延々と啜り続けるのにも使えるだろうけど。
……勘違いしないでほしいのは、私は貴方の味方のつもりはないということ。
貴方に感情移入はするけれど、貴方の手助けはしない。
…貴方が、テレビの前でその向こうの人物にいくらエールを送っても届かないのに似てるわ。
ダカラ、私ガ魔女ダッテ判ルデショウ?
私は、ベアトがこれから紡ぐ無限の物語を飽きるまで楽しむつもり。
でも、きっとそれだけじゃ飽きちゃうから。
……だから、貴方に力を貸すの。私が飽きないために。
私は世界で一番残酷な魔女なの。
どんな相手でも、絶対に屈服させる。
…無限の魔女、ベアトリーチェであってもね…?
お前は、私の駒よ。せいぜいがんばりなさい。
あの子の目を盗んで、時折助言を与えるわ。
私を退屈させないでね……?
くすくすくすくす……。
/end