立原正秋
血と砂
目 次
仮面舞踏会
海の音
東京の市場
春の足音
意馬心猿
花だより
夏の夜の夢
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仮面舞踏会
三十畳敷きほどの広さのホールと、その左右の十二畳と八畳の洋間が、今夜のパーティーに使われていた。八畳の北側はキッチンになっており、そこにも幾組かの男女がたむろしていた。踊っている者もいれば酒をのんでいる者もおり、寝そべっている者もいる。二千坪ある庭のなかに建てられた離れ屋で、まわりは雑木林である。
「なんでこんな家を建てたのかね。離れといったら、普通、数寄屋造《すきやづくり》だろうが」
真田茂が、ホールでゴーゴーを踊っている男女の群れを眺《なが》めながら訊《き》いた。彼は、快傑ゾロの仮面に真紅のミニスカートをはき、上半身は裸だった。
「この古川家は代々センスのない男ばかりでな。まあ、好意的に解釈すれば、こんな愚劣なパーティーがひらかれるのを、死んだ先代が予想して建てておいてくれたのかも知れない」
北ノ庄浩作が答えた。彼は痩男《やせおとこ》の能面に甚兵衛《じんべえ》を着ており、甚兵衛の下に越中褌《えつちゆうふんどし》をつけていた。二人は八畳の洋間の窓ぎわに胡座《あぐら》をかき、一本のウイスキーの壜《びん》を交互に喇叭《ラツパ》のみしていた。喇叭のみといっても、浩作は能面を顔につけているので、ストローを痩男のくちにさしこんでウイスキーを吸いあげていた。
男女あわせておよそ四十人もいるだろうか、みんなそれぞれに趣向を凝《こ》らした仮面をつけていたが、女の服装がなかなか面白かった。ロングスカートをはき、上半身は裸で豊かな乳房をぶらぶらさせているもの、二つの乳房と尻の個所だけ穴をあけて乳房と尻を外に露出させた服を着ているもの、片方の乳房と片方の尻《しり》だけ露出させた服を着ている者、裸身が透けている薄物を着ているもの等さまざまだった。
「なんで女連中はああも自分の裸をあらわにして見せるのかねえ」
真田がウイスキーをひとくちのんで壜を浩作に返しながら言った。
「女の本能さ。女という動物は、多かれすくなかれ、陰部暴露症という精神病を背負っているらしい」
浩作が答えた。
「陰部暴露症は精神病か?」
「俺《おれ》は精神病の範躊《はんちゆう》に入れている。今度、加賀精神科医に会ったときにきいてみろ。ここにあつまっている女のうち半数は人妻だ。なかには四十歳をすぎた婆あもいるが、みんな火遊びが好きな連中だ。火遊びはするが恋愛は絶対にしないんだな。しないのではなく恋愛が出来ないんだな。男達だってそうだ」
「何故みんなそうなってしまったのかね」
「国家が繁栄しているためさ。平和な時代に耐えられるだけの精神が欠如しているんだな。金はある、暇はある、しかし四方のどこを見まわしても刺戟《しげき》がない。マイホームだマイカーだと言っているうちはまだよかった。とにかくそこには、自分の家を建てる、自分の車を持つ、さらには別荘を持つ、という目的があった。それが全部|叶《かな》えられてみると、こんどは、なにを目的に生きているのか、焦点が見えなくなってきた」
「ところで、きみはどうなんだ」
「どうなんだって? もちろん俺もこんな愚劣な連中のなかの一人さ。もっとも俺は家も車も別荘も持っていないがね」
「あそこで同性愛に耽《ふけ》っている女の片方はなかなかよさそうじゃないか」
「尻を片方だけ丸出しにしている女か」
浩作はホールの方を見た。ホールのまんなかで、寝ころんで抱きあい、くちを重ねている二人の女がいた。
「そうそう。尻がいいじゃないか」
「なかなかいい女だ。やってみろ」
「やったことがあるのか?」
「今日の昼間、そこのモーテルで別れたばかりの女だ」
「素性は?」
「医者の奥方だ。今夜はたしかその医者も来ているはずだ」
「どうやってあの二人の女を離すかな」
「かまわないからそばに行き二人を剥《は》がすんだ。もしかしたらあの医者夫婦は麻薬患者かもわからん」
「剥がしたとして、あの女をどこに連れて行けばいいかな」
「雑木林のなかに連れて行け。四阿《あずまや》があるが、そこはもう占領されているかもわからん。どこだって場所はある」
「では、運動をしてくるか」
真田は起《た》ちあがった。
彼はミニスカートをひるがえしてホールに入って行くと、抱きあっている二人の横に胡座をかき、なにか言っていた。やがて二人の女が離れた。すると真田が浩作のいる方をゆびさした。やがて一人の女がこっちに歩いてきた。女は、右の乳と尻は両方とも丸出しにした黒いタイツをはいていた。
「恋路の邪魔をしたのはあなたなの」
と女は言いながら浩作の左側にやはり胡座をかいてすわった。鼻から上が仮面なので顔かたちはわからない。
「はなはだ失礼ながら、あの男が、あなたの相手の方を欲しいと言うもので。なにしろ餓鬼みたいな野郎で、言いだしたら手に入るまで泣きつづけている男ですよ」
それから彼はストローでウイスキーをひとくち吸いあげてのむと、壜を女に手渡し、失礼いたします、と言って左手を女の尻にまわした。固肥《かたぶと》りの滑らかな尻だった。尻の感触といい、女のくちもとのかたち、そして女のいくらか甲高《かんだか》い声からして、浩作にはこの女におぼえがなかった。
九月のはじめで、下弦の月が庭の雑木林を照らしており、虫の声がしきりだった。いま仮面舞踏会がひらかれている古川家の裏門を出て右にしばらく行くと、江《え》ノ島《しま》が目前に見える湘南《しようなん》海岸道路にでる。道路では車の往還がしきりだった。燈台のある江ノ島がくろぐろと浮いている。
古くから鵠沼《くげぬま》海岸とよばれているその辺一帯は、十年ほど前までは、まだ静かな住宅地だった。江ノ島に東京オリンピックのためのヨットハーバーが造られる前後から、この海岸は急激に開発され、その頃からここは東洋のマイアミなどと呼ばれてきていた。
海水浴にきた人々は八月いっぱいで殆《ほとん》ど引きあげていたが、海岸道路はまだ夏の名残りをとどめており、道路の陸地側に建っている高級レストランはどこも客がいっぱいだった。浩作に言わせると、これらの高級レストランのなかでうまいものを食わせてくれる店は一軒もないそうである。
古川家がこの鵠沼海岸に居を構えたのは、いまから十二年前である。代々、西洋家具の製造を家業としてきて当主の洋介は三代目である。十二年前は東京の目黒《めぐろ》に工場と家があったが、工場がせまくなってきたので、そこを売り、神奈川県の相模原《さがみはら》に工場は移転した。同時に、それまで三百坪たらずの土地に建っていた鵠沼の別荘の周囲を買いしめ、そこに家を建て直して一家は移転してきた。そして家を建ててから間もなく先代は病没した。当主の洋介は三十九歳の働きざかりだったが、応接セットや食堂のテーブルセットなどが売れすぎ、したがって金も儲《もう》かりすぎ、その金をさまざまな方法で無駄遣《むだづか》いしてみたが、しまいには虚《むな》しさだけが残り、一年ほど前から、今夜のように月いっかい人を集めてパーティーを開くのを、唯一のたのしみにしていた。彼より七つしたの彼の妻は、見目が整っているばかりでなく、いわゆるよく出来た女として知られていたが、彼は、知人から妻にたいする称讃《しようさん》の言葉をきかされるたびに、そんなものかな、と意にもとめなかった。自分の妻を美しいと惑じたのは昔のことであった。いま彼の裡《うち》を占めているのは倦怠《けんたい》であった。結婚して十年、夫婦の倦怠期はとうの昔にすぎていた。いまの彼は、目にするものすべてに興味が湧《わ》かなかったのである。
彼の妻は、里子というはなはだ古典的な名前であった。現在、三十二歳前後の女で、このような古典的な名をもつ女は、草深い田舎《いなか》にでも行かなければ見出せないだろう。
里子は良妻賢母であったが、当節流行の教育ママではなかった。だいいち車は運転できなかったし、子供の学校になど一度も顔をだしたことがなかった。自分の夫が、ありあまっている金をさまざまな方法で無駄遣いしていた頃も、彼女は夫の外側にいたのである。夫は一年前から月はじめに人を集め、離れ屋でパーティーをやっていた。どんなことをやっているのか里子は知らない。パーティーにあつまる人々は裏門から出入りさせていた。今夜は仮面舞踏会を催すのだと言って、夫は吸血鬼の面を持って出て行った。パーティーのある日は、あくる朝まで離れ屋から戻《もど》ってこない。たぶん酒に酔い乱痴気騒ぎをやっているのだろう、ぐらいにしか里子は考えていなかった。パーティーのある日は、昼間から離れ屋に酒や食物を運んでおく。二人の手伝女がそれをやっていた。手伝女の一人は庭師の細君のいねで、海苔巻《のりまき》や稲荷鮨《いなりずし》をこしらえるのが上手だった。パーティーのある日は彼女は昼からそれらをこしらえ、離れ屋に運んでおく。
「奥さまもたまにはパーティーに顔をおだしになればよろしいのに」
といねはよく言っていた。
「あなたはのぞいたことがあるの」
と里子はきいた。
「いちどだけのぞいたことがありました。みなさん、めいめい勝手なところに勝手な恰好《かつこう》で坐《すわ》っており、酒をのみながらしゃべっていました。あんなことをしてなにが面白いんでございましょうね」
「そんな面白くもないところをのぞいて見ても仕方ないでしょうに」
「いえね、面白くなくとも、一度はのぞいてごらんなさいましよ」
しかし里子は、離れ屋に足をむけたことがなかった。
池で鯉《こい》がはねている。月の光で水が光っていた。すでに十一時にちかいというのに、里子は窓をあけはなした居間から夜の庭を眺めていた。居間のあかりは消してある。蚊取線香のにおいがしている。里子は夫を待っているわけではない。ただぼんやり夜の庭を眺めていた。池は右側の食堂の前にあり、居間の前は枯山水の庭である。砂を敷きつめ、ところどころに石を配置してある。その砂の庭があかるかった。庭の向うは雑木林で、林のなかにある離れ屋はここからは見えない。里子は、雑木林の入口に人の影を見た気がした。しかと目をすえて入口を見たら、たしかにそこに人が立っていた。白っぽい着物に白っぼい顔だったが、男か女かさだかではなかった。
やがてその人影がこちらにむかって歩いてきた。人影は、きれいに文様《もんよう》を描いてある砂地の庭に無造作に踏みいり、こちらに近づいてきた。妙な歩きかたをしているな、と思ったら、人影は、能舞台で役者が歩いているような歩きかたをしていた。人影がいますこしこちらに近づいてきたとき、里子は、あっ! と声をのんだ。能面をかぶっていたのである。男にちがいなかった。膝《ひざ》までしかない甚兵衛を着ていた。仮面舞踏会だとはきいていたが、いったいあの男は誰《だれ》だろう……。男はだんだんこっちに近づいてきた。
浩作が、右の乳房と尻を両方とも丸出しにした黒いタイツをはいた女と雑木林のなかで縺《もつ》れていたとき、すぐそばに別の一組がやってきた。
「なにもここに来なくともいいだろう。庭は広い。もっとあっちへ行ってくれ」
と浩作は二人に言った。見られたり、あるいは見せる、という趣味が浩作にはなかったのである。
「いまあなたがお相手をしている女は、私の妻でな、私は妻の最後を見届ける義務があるのでな」
と男がこっちを見て言った。男は吸血鬼の仮面をつけていた。はて? と浩作は、早速|愛撫《あいぶ》をはじめた二人を眺めて首をかしげた。たしか当家のあるじの古川洋介が吸血鬼の面をつけている、ときいていたが……そして、彼の妻は、かつて一度もパーティーには顔をだしたことがない、ともきいていたが……。浩作は下の仮面の女を見おろし、あなたはあの吸血鬼の奥方か? ときいた。女はそうだと答えた。浩作は、仮面をとって顔をみせてくれ、と女に頼んだ。
「規則違反になることはよしましょうよ」
と女は答えた。今夜は、暁方に着換えて帰るまで仮面をとったりとらせたりしてはいけない規則になっていた。
女の躯《からだ》に密着したタイツは、露出した右の乳房のすぐ下にナイロンのジッパーがついており、浩作はそのジッパーを下におろした。ジッパーは腰の辺で上の浩作から見て右にまがり、さらに脚の方にひらき、太股《ふともも》のところでとまった。こうしてタイツをあけたら、女の白い裸身があらわれた。固肥りの滑らかな肌《はだ》をしていたが、下腹に皺《しわ》があり、子をうんだ躯《からだ》だった。キスが出来ないからその能面をはずしてちょうだい、と下から女が言った。
「規則違反になることはよしましょう」
と浩作は答えた。
そして時間が経って行き、浩作が女の上で果ててから間もなく、吸血鬼が声をかけてきた。女を交換しようというのであった。浩作はだまって吸血鬼と位置をかえた。
吸血鬼が相手にしていた女は痩せており背がたかかった。
「あの人、だめだったのよ」
と女は小声で言った。「奥さんが他の男に犯されている現場をみないと用をなさないんだって」
なるほど、と浩作は思った。不能者がしばしば用いる手段だとはきいていたが、自分がそれにまきこまれるとは思ってもいなかったことだった。
「古川さんではないな」
浩作もやはり小声で女にきいた。
「古川さんかどうか、あたしにはわからないわ。自分で不能だと言ったもの」
女は答えた。
それから十分ほどすぎてから、浩作は吸血鬼と二人の女を雑木林にのこし、ホールに戻った。そして甚兵衛と褌だけとり面はつけたまま浴室にはいったら、タイルの上で、一人の女を二人の男がサンドイッチにしていた。
浩作は下半身を洗ってから浴室をでた。それから褌をつけ甚兵衛を着ると、庭におりて草履をはいた。そして、母屋の方に通じる雑木林のなかの道にはいった。
やがて雑木林がきれ、目の前がにわかにひらけてきた。広い砂地の庭があり大きな家が建っていた。彼は一年も前から古川家に招かれて出入りしながら、この家を見たことがなかった。案内状にはいつも裏門から離れ屋にいたる地図がそえてあった。
浩作はそこで立ちどまり、母屋を見た。やがて、窓があいている部屋が見えてきた。そこに一人の女が庭を見てすわっていた。下弦の月の光はそれほどあかるくはないが、きちんと着物をきこなしている姿態からして、浩作は、女を当家の女主人とみた。
浩作は白砂の庭に足を踏みいれた。そして彼は、〈通小町《かよいこまち》〉の一節を低くくちずさみながら女の方に歩いて行った。
ふたり見るだに悲しきに、おん身|一人《いちにん》、仏道ならばわが思ひ、重きが上の小夜衣、重ねて憂き目を三瀬川《みつせがわ》に……
女は身じろぎもせずにこっちを視《み》ていた。やがて浩作は濡縁《ぬれえん》から三メートルほど手前で立ちどまった。
包めどわれも穂に出でて……
「誰方《どなた》ですか」
女の方から声をかけてきた。
君を思へば徒歩《かち》跣足《はだし》。……拙者《せつしや》は、今宵《こよい》当家に招かれて参上いたしましたる男でござる。地獄の苦しみで痩せ衰へた相の痩男でござる。
「パーティーにおいでになられた方でございますね」
さん候ふ。そなたは、当家の奥方でござるか。
「さようでございます。して、あなたさまは?」
恋のはげしさに、恋のはげしさに、かく成り果てたる痩男でござる。せめて、そなたの御名なりときかせ候へ。
「わたしは里子と申します」
げにも鄙《ひな》びたる御名かな。永く記憶にとどめおかまほしき御名かな。さらば、これにてごめん。いづれの日にかまた。
それから浩作は一気に白砂の庭を駈《か》けぬけて雑木林に入った。
鎌倉《かまくら》の稲村《いなむら》ケ崎《さき》の海べりに、修道館という剣道場がある。当主の高村有正は、国際的に名を知られた剣士であった。
この高村道場の板壁には、門弟達の名を書いた木札が、段位順に並べてかけてある。北ノ庄浩作の名は四段の場所にかけてあった。浩作が四段の免状を受けたのは二十三歳のときだから、いまから五年前である。彼が私大の経済学部を卒業した年であった。彼がそのまま剣に励んでいたなら、数年を経ずして六段くらいの腕前になっていたはずであった。ところが、彼は、ある夜、藤沢《ふじさわ》の駅前の一杯飲屋で愚連隊に絡まれて喧嘩《けんか》をし、戸じまりに使う心張り棒で相手を斬《き》ってしまい、二人の男に全治二か月の傷をあたえてしまった。もちろん傷害罪で訴えられ、相手が札つきの愚連隊であったことから、浩作は体刑は受けずに済んだが、そのかわり、高村道場から破門された。
浩作を高村道場に入れてくれたのは、大磯《おおいそ》に居《きよ》を構えている小説家の更級《さらしな》信彦で、浩作が十九歳のときであった。更級はむかし浩作の家庭教師だった。警察署に浩作の身柄を引きとりにきた更級は、有段者が棒を使えば兇器《きようき》と同じように見られる、と言った。
「浩作。おまえは俺の若いときに似ているが、しかし、今度の件は、道場で許さないだろう。破門だな」
そして更級は道場にとりなしてくれたが、浩作はやはり破門された。浩作が剣をやめたのはこのときだった。高村道場では、ある期間をおいて浩作の破門を解くつもりでいたが、しかし浩作は、更級がすすめてくれたにもかかわらず、道場には行かなかった。かわりに彼は木刀造りに熱中しだしたのである。
「しようがない奴《やつ》だな。勤めもせず木刀ばかりこしらえてどうするつもりだ」
と更級は言っていたが、やがて浩作のこしらえた木刀を見て、ほう! と感心した。
「これはたしかなつくりだ。どこでつくりかたをおぼえたのかね」
「小さいときからこしらえていたのですよ」
と浩作は物置小屋から昔こしらえた木刀を何本も持ってきて見せた。
「これは売りものになるな。就職試験には落ちるし、向う一年遊んでいるわけにも行くまい。木刀をこしらえてみろ」
と更級は言ってくれた。そして彼は、浩作のこしらえた木刀を五本持って行ったが、数日して、一本三千円で売れたから金をとりにこい、と電話をしてきた。浩作はびっくりして大磯の更級の家に行った。
「ほんとに三千円で売れたのですか」
浩作は、目の前に差しだされた一万五千円を見て更級にきいた。
「二本は、うちに来る編集者に売りつけた。三本は、高村道場に出入りしている剣道具屋に売りつけた。剣道具屋には、もっといいものが出来るから、と言っておいた。一本五千円ぐらいで売れるものをこしらえてみろ。月に七、八本もこしらえられたら、立派に商売になる。高村先生には、おまえの作だと言っておいた」
こうして浩作は木刀をこしらえるようになったが、この木刀が、剣道をやる人達のあいだで評判がよかった。以来、木刀を売りはじめてからすでに五年になるが、いまでは、彼のこしらえる木刀は、一本一万円の値がついていた。三年前までは月に十本前後はこしらえていたが、現在では五本前後しかこしらえていない。それも、最初の頃のように店に卸さず、直接注文者に売っていた。
鵠沼《くげぬま》に松ケ岡というところがある。松の多い土地で、その一角の小高い丘に浩作の家があった。本瓦《ほんかわら》ぶきの日本建築で七十坪ほどの家であったが、浩作は庭の離れ屋に棲《す》んでいた。ここはもと茶室であった。母屋には老母と兄夫婦が棲んでいた。兄は勤め人であった。亡父も勤め人で、ある船会社の社長を勤めて七十歳を超したとき引退し、庭いじりなどをしていたが、三年前に脳卒中で倒れ、幸福なことに倒れたまま世を去っていた。
離れ屋は八畳と三畳の書院造りの茶室である。浴室がついていた。亡父が本格的に茶をやっていたのでこんな家を建てたのであった。白い障子が初秋の陽《ひ》に照り映えている廊下で、浩作は蚊母樹《いすのき》の木刀をこしらえていた。いすのきは柞《ゆす》とも呼び、西日本の山中に自生している堅い木である。高さは約十五メートルに達するのがある。この木は、材質が堅く、みがけば艶《つや》がでるので、柱や机、火鉢《ひばち》や算盤《そろばん》などにこしらえられていた。示現流で使われる薩摩《さつま》木刀はこの柞でつくられていた。ほかに木刀の材質として適当なのに枇杷《びわ》の木がある。樫《かし》の木も使われていた。いずれも材質が堅く弾力性に富んでいるので木刀には適していた。
「馬鹿《ばか》げた話だが、どうもいかん」
浩作は、こしらえかけの木刀と木刀を削っていた小刀を投げだすと、ごろっと廊下に寝そべった。松の梢《こずえ》のむこうに鯖雲《さばぐも》が浮いていた。その鯖雲に里子の顔がかさなっていた。月あかりと庭の白砂の白さで、夜目にも端正な見目の女の顔が、三日前から浩作の裡《うち》に宿っていた。彼は、かつてこのようなかたちで女を心に宿したことがなかった。これまでの彼にとり女は使い捨ての道具みたいなものであった。
「馬鹿げたはなしだが、どうもいかん」
彼はもういちど呟《つぶや》くと、縁側からおきあがり、下駄《げた》をつっかけて庭をでた。
いねが廊下からごめんくださいと言ったとき、里子はテレビを観ていた。
「お客さまですが……」
といねは言った。
「わたしにお客さん?」
里子は、珍しいこともあるものだ、といった表情でテレビを消し、廊下のいねを見た。
「ワイシャツに下駄ばきの若い男なんです。痩男《やせおとこ》と伝えてくださればわかると言っていました」
「やせおとこ?……はい、わかりました。日本間にお通ししてちょうだい」
「痩男というのは渾名《あだな》でしょうか」
「そうらしいわ」
里子はわらいながら起ちあがった。それから自分の居間に行った。鏡台の前にすわったとき、心のどこかでひそかに待っていた人が訪ねてきたのだわ、と思った。あの夜、能面を被《かぶ》った男から名前を訊かれ、すらすらと自分の名を教えたのは、男の謡《うた》いのせいであった。
里子は鏡台の前でその夜の男との問答をおもいかえしてみた。
「パーティーにおいでになられた方でございますね」
さん候ふ。そなたは、当家の奥方でござるか。
「さようでございます。して、あなたさまは?」
恋のはげしさに、恋のはげしさに、かく成り果てたる痩男でござる。せめて、そなたの御名なりときかせ候へ。
「わたしは里子と申します」
げにも鄙《ひな》びたる御名かな。永く記憶にとどめおかまほしき御名かな。さらば、これにてごめん。いづれの日にかまた。
そして能面の男はくるっと踵《きびす》を返すと、文様を描いてある白砂の上を走って雑木林のなかに消えた。それはまるで夢幻の世界の幕間のような一場であった。そのとき里子は、男が消え去った雑木林をしばらく眺めていたように思う。しかし月の光の下で雑木林と白砂だけが濡《ぬ》れたようにひかっていた。能面の男は、いずれの日にかまた、と言い残して去ったが、その日がこんなに早く訪れてくるとは……。里子は鏡に顔を映し、化粧を直した。どんな人だろう……いねは若い男だと言っていたが……。
里子は藍《あい》の上布《じようふ》の襟元《えりもと》を直すと居間をでた。
客は、上座に正座して庭を眺めていたが、里子を見ると座蒲団《ざぶとん》からおり、
「先日の夜おあいした痩男でございます」
と挨拶《あいさつ》した。
「よくいらしてくださいました」
「北ノ庄浩作と申します」
「珍しい御苗字《ごみようじ》ですのね」
たいそう印象のよい青年であった。まっすぐこちらを見る目がよかった。
「先祖がむかし福井で野武士をやっていたことから、こんな姓がついたらしいのです。本来は北ノ庄の庄は荘園《しようえん》の荘だったらしいのですが、いつのまにか庄に変ってしまいました」
「謡曲をおやりですの?」
「はい。少々たしなみます」
「お仕事はなにをやっていらっしゃいますの?」
「木刀造りです。職人です」
「木刀を? こんな平和な時世に木刀が売れるのでございますか」
「ええ。いまのところ注文に応じきれないほどです」
「珍しいお仕事だこと。お家は代々が木刀屋さんですの?」
「いえ、そうではありません」
浩作は簡単に家族について話した。
「そういたしますと、ずうっとこれからも木刀をおつくりになるのかしら」
「わかりませんが、たぶんそういうことになるだろうと思います」
「いちど、あなたのこしらえた木刀を見せてくださいな」
「いつでもお見せします。……よろしかったら、出来のよいのを一本差しあげたいのですが」
「はい。それは拝見してからにいたしましょう。うちの人とは、古いおしりあいですの?」
「そうですね。古川さんとは、かれこれ三年ごしのおつきあいです。木刀をこしらえる蚊母樹を廉《やす》くわけてもらったのが縁でした。それまでは材木屋から買っていたのですが」
「あら、蚊母樹が木刀になりますの」
「そうです。このテーブルの木です」
浩作は目の前の座卓を手で撫《な》でた。蚊母樹の一枚板で出来た立派な座卓だった。
「それでは、その木刀は重いでしょうね」
「そうですね、一本の木刀の重さが二キロはあります」
「相当重いんですのね」
「いちど僕《ぼく》のところにお出かけ下さい。松ケ岡ですから、ここから歩いて十分ほどのところです。いろいろな木刀をお見せします」
「ありがとう……。あなたは、あの離れのパーティーには、かならずいらっしゃいますの?」
「いえ。こない月もあります。突然に伺って、たいへん失礼申しあげました。本日はこれでおいとましますが、また訪ねてきてもよいでしょうか……」
「はい。よろしかったら、またどうぞおでかけください。今日はたのしい話をいろいろ伺いました」
「では、これにて」
青年は正確に頭をさげると、起ちあがった。里子は玄関まで彼を見送った。玄関には、柾目《まさめ》のとおった桐下駄《きりげた》がそろえてあった。清潔な下駄だった。里子は、木刀のつくりを職業にしているというこの青年にすがすがしさをおぼえた。
出来のよい木刀はいつ眺めても美しかった。反《そ》りぐあいの正確な木刀は真剣と同じであった。地肌と鎬地《しのぎぢ》のあいだに鎬《しのぎ》の線が一本反って通っており、木刀の場合、切先《きつさき》は、鋩子《ぼうし》からいきなり上に反って切先になっている。もし地肌に木目があれば、それは刀の刃文と同じであった。同じ二キロの重さの木刀でも、握ってみて使いよいのと使いにくいのがあった。使いよいのは軽く、使いにくいのは重かった。
浩作は、出来あがった蚊母樹の木刀を左手に握ってまっすぐ前に突きだし、棟《むね》の反りを調べた。棟は一直線に走っていた。もし、あのひとが貰《もら》ってくれるというのなら、この木刀をあげよう……。浩作は木刀をさげて庭におりると、数度振ってみた。使いよい木刀だった。
浩作は縁側に戻ると木刀をおいて腰をおろし、煙草《たばこ》をつけた。里子を訪ねたのは二日前の午後だった。そのとき、彼が視たのは、九月はじめの月夜に見た姿態の女だった。まことに臈《ろう》たけたひとであった。現代にもこんなひとがいたのか、と彼は嗟嘆《さたん》にちかい感情で里子を眺めた。その感情のなかにはいくぶん苦いものがまじっていた。美しいものを目前にしたときに感じるある種の苦さだった。そして彼は里子の家をでるとまっすぐ家に帰りつき、こしらえかけの木刀を仕上げるのに精をだしたのである。なにかじっとしておれない気持だった。
こんどはいつあのひとにあえるだろうか……彼は木刀をこしらえながらそのことばかり考えてきた。
彼の木刀は全国から注文があった。剣に縁のない者までが、見映えがよいから是非一本こしらえてくれ、と言ってきていた。彼は、身もとのたしかな人にだけ木刀を売った。使えば真剣と同じ木刀を、やくざや愚連隊には売れなかった。
門の前で車の音がしたと思ったら、派手《はで》なスポーツシャツを着た男が松林をぬってこっちに歩いてきた。真田茂だった。
「いたか」
「俺はいつも家にいるよ。なんだ、今日は会社はさぼりか」
「今日は日曜日じゃないか」
「そうか、日曜か。まあ、あがれよ。パーティー以来だな。どうだ、その後」
「あの医者の奥さんと続いているよ」
「医者は知っているのか?」
「知っていないらしい。あの奥さん、俺の昼時をねらって会社に訪ねてくるんだな。それからすぐ近くのホテルだ。おかげで俺はそんな日は昼めしぬきになる」
「幸せなことじゃないか」
「きみはあの奥さんとどれくらい続いた?」
「俺はあの日の昼間いっかいきりだ」
「それより、きみの方こそその後どうなんだ」
「俺はあの日いらい、ずうっと木刀をこしらえている」
「女は?」
「ここのところ清浄野菜のような毎日だ」
「気の毒だな。あの医者の奥さんを返してもいいぜ」
「いや。思うところあって、しばらく女色とは縁をきっている」
「なんの風の吹きまわしだ?」
「なに、そのうちにわかるよ」
「ほんとかな。ほんとにまわりに女がいないのか?」
「みてみろ、部屋のなかを。木刀ばかり並んでいるだろう。金をさきに送ってきたから、そろそろ木刀を送ってやらねばならないが。俺はあのパーティー以来、ずうっとここにこもりきりだ。……実は、現世にいないようなひととめぐりあってしまったのだ」
「なんだい、そりゃ?」
「ある人の奥さんだ。現代日本の繁栄とは無関係にひっそりと生きている女だ。俺は、そのひとにまいってしまったのだ」
「きみらしくないじゃないか。この辺の人か?」
「ちょっと遠い」
「あわせろよ」
「そういうわけにはいかんな」
「別にその女を取りゃしないよ。現代日本の繁栄とは無関係というと、暮しに困っている人か?」
「いや、そういう意味の無関係ではない。金もちの奥さんだ。つまり、家の中から一歩も外に出ないで暮しているひとさ」
「かついでいるんじゃないだろうな。こんな時世にそんな女がいるのかな」
真田は半信半疑の目で浩作を見た。
「現代日本ではとうに見失われてしまった美しいひとだな、あのひとは。俺は、いのちをかけてもよいと思っている、そのひとのためなら」
「十九世紀的になってきたな。そのうちに、その女にあわせてくれるだろう」
「それはわからん。とにかく、俺は、あのひとのために、なにかをやらねばならん」
浩作は木刀をつかむと、真田に抜き胴をかけ、あがれよ、と言ってさきに部屋にあがった。
真田は部屋にあがってから医者の細君の話を続けた。彼は、浩作がもしその細君を必要とする時がきたら、いつでも返す、と言っていた。
「返すといったって俺の女じゃないんだぜ。おい、それより、海岸のレストランにビールでものみに行こう」
「ビールか。いいだろう」
それから二人は真田の車で海岸道路にでた。休日のこととて道路は車の往還がしきりだった。二人はカンツォーネというレストランに入った。店は混んでいた。店名が示す通りイタリア料理を主として客にだしているレストランだった。
二人はピッザとビールをもらった。
「人間が多すぎるのかな」
真田が店内を見まわしながら言った。
「そうらしい。戦争がないから人間はふえる一方さ」
浩作は答えながらとなりの席に気をとられていた。それは親子|団欒《だんらん》の光景であった。夫は四十歳前後で妻は三十三、四歳、二人の子は上が女で下が男の子でいずれも中学生らしかった。浩作は細君の方に見覚えがある気がしたのである。小柄な躯つきで、顔は十人なみだった。見覚えがあるといっても、浩作は女の顔に見覚えがあるわけではなかった。女のいくらか甲高い声とくちもとのかたちの方だった。そうだ、仮面舞踏会のときにであった女だ……すると、男はあのときの男か、と男の方を注意して見たが、どうもあのときの男ではなさそうだった。躯つきと声がちがっていたのである。あのとき、男は、いまあなたがお相手をしている女は私の妻だ、と言っていたが、そうではなかったのだ、とわかったとき、浩作はにわかに女の方に興味が湧《わ》いてきた。いま目の前にいる男は、実直そうな勤め人らしかった。
浩作は、男があのときの男ではなく、女があのときの女であることをたしかめたとき、女に話しかけるきっかけをさがしはじめた。浩作は、夫婦でいっしょにあのようなパーティーに現れる女には興味がなかった。彼が、いま目の前で健全な主婦になりすましている女に興味を抱きだしたのは、あの夜の女の固肥りの尻と、きわめて熟練した女の行為をおもいかえしたからであった。
四人の親子の食事光景はなごやかそのものだった。
「真田、来月の仮面舞踏会にもくるかい」
と浩作が言ったとき、フォークを動かしていた女の手もとがとまった。間ちがいない、と浩作は女の手もとから目を逸《そ》らし、真田を見た。
「もちろん行くよ。あれは実にたのしかったな」
「セックス遊びを消閑の余技と心得ている連中だから、そのうちに飽きてくるさ」
二人がこんな話をしているうちに、となりの席では食事が終り、やがて女だけハンドバッグをもって起ちあがった。手洗いに行くのだな、とみた浩作は、女が手洗所に入ったのを見すましてから手洗所に行った。
手洗所は、細い通路の右側が男、左側が女性用になっていた。浩作は通路にある鏡の前で水道の栓《せん》をひねり、水を流しながら女が出てくるのを待った。
やがて鏡に女の横顔が映った。
「こんにちは、奥さん」
浩作は鏡を見て声をかけた。女がびっくりしてこっちをふり向いた。
「あの晩の痩男《やせおとこ》です」
女の表情はあきらかに狼狽《ろうばい》していた。
「御安心ください。秘密は厳守します。あのときは仮面のおかげでわからなかったのですが、今日はじめてお顔を見て、美しい人なので、声をかけたくなったのです」
「どうしてあたしだとおわかりになったの?」
「そのお声とくちもとのかたちからです」
「それは迂闊《うかつ》だったわ」
女は安心したらしかった。
「来月もいらっしゃいますか?」
「来月は行かれません」
「いちどお逢《あ》いくださいますか。僕はいつも女の味方です」
すると女は、ちょっとだまっていたが、明日の正午、この店で、と答えると、通路から出て行った。
「やれやれ、妙なめぐりあわせだ」
浩作は呟くと水をとめ、通路から出た。レジで女が金を払っている姿が見えた。女の夫と二人の子供はすでに外に出ていた。
浩作は席に戻ると、表を見た。女がクリーム色の車のドアをあけていた。女が運転席に入り、夫はそのとなり、二人の子は後部の席にはいった。
「おい、なにを見ているんだ?」
真田がビール壜を持ちあげながらきいた。
「なに。日本の繁栄もここまできたか、と考えていたところさ」
浩作は欠伸《あくび》をしながら答えた。
あくる日、浩作は、正午すこし前に海岸のレストランに行くと、窓ぎわの席にすわり、ビールをもらってのんだ。月曜日のせいかレストランは空《す》いていた。
やがて十二時をちょっと過ぎた頃、レストランの駐車場に、前日のクリーム色の車がはいってきた。そして車から降りてきた女は、黒地に白の縞《しま》の通ったスーツに躯を包み、黒いサングラスをかけていた。
浩作は、ほう! と声をだした。実に見事な着こなしだったのである。
女は店に入ってくるとすぐ浩作を見つけ、歩いてきて席についた。
「見事な着こなしですね」
「ありがとう。あたし、昨日うっかり正午と申しあげたけど、お勤めじゃなかったかしら」
「いや、僕は家で仕事をしております。御心配にはおよびません」
「そう。それならよかったわ。お家でお仕事とおっしゃると……絵かきさんか、それとも……」
「いや、そんな高級な商売ではない。木刀造りの職人です」
「木刀造り……珍しい御仕事ですのね」
「いらして下さって、はなはだ幸福です」
「昨日はびっくりしたわ」
「あんな良い御家族がいらっしゃるのに、よくあの夜のパーティーに出てこられましたね」
「主人が出張中でしたの。おともだちに誘われ、黒いタイツを貸してくれるというので出てみたけど」
「おともだちというのは医者の奥方ですね」
「あら! 御存知だったの」
「御心配にはおよびません。あなたの身元をさぐろうなんてことは致しませんから。あの夜、お二人で抱きあっていましたが、どっちがレスボス島だったのですか」
「レスボス島って、なあに?」
「地中海にある女の同性愛の発祥地です」
「それは百合子さんの方。でも、あたし、酔うと、あんなことをしても、それほどいやだとは思わないわ。レスボス島って名をきくの、はじめてだわ。あなた、学者なの?」
「木刀造りの職人です」
「あなた、車の運転ができまして?」
「したことがありません」
「では、あたしがするわ。ここをでましょう。なにしろ家が近いから、ここは困るわ」
「何事も御意のままに」
浩作は伝票を持ってたちあがった。すこぶる好調な滑りだしだ、と思いながら勘定場に歩いて行った。
浩作が勘定をすませて表にでると、女は車のなかで彼を待っていた。
浩作は女のとなりの席についた。
「どこへいらっしゃる?」
「それも奥方の御意のままに」
「あなた、女のあつかい方がお上手《じようず》ね」
「なに、みんな女のひとから教わったのです」
「そんなに女を御存じなの」
「それも三人ほどです」
「本当かしら」
「僕は嘘《うそ》は申しません。嘘を言って警官につかまるとこわいですから、嘘は言わないことにしております」
すると、女はわらいながら車のキイを入れ、アクセルを踏んだ。
車は海岸道路を西にむかって走った。
「六時までには帰っていないと……」
女は言った。
「僕は北ノ庄浩作と申します」
「あたしは栄子。平凡な名前だわ」
「なに、何事も栄えるのはいいことですよ。休日はああしていつも一家団欒ですか」
「だいたいね。でも、主人は野暮《やぼ》な男よ。あんな店で一家そろって食事をしても、せいぜいあなたのような男からあたしがびっくりさせられるのが関の山でしょう」
「昨日の非礼はおわび申しあげます。野暮だとおっしゃるが、立派な御主人じゃありませんか」
「主人は、螺子《らし》会社に勤めているの。あら、いやだ、あなたの誘導|訊問《じんもん》にひっかかってしゃべってしまったわね」
「なに、今日も仮面舞踏会の延長にすぎません」
「百合子さんとは古い知りあいなの?」
「あの日の昼間知りあったばかりでした。カンツォーネでビールをのんでいたら、いやに派手な服装の女が僕のむかい側の席についたのですよ。そして、なんとなく話しあっているうちに、おたがいに仮面舞踏会に出ることがわかって……」
「そこで出来てしまったの?」
「いやいや、そんなことにはならなかったのです」
「でも、あの人、とても発展家よ」
「僕を見込みのない男と見たのでしょう。……ところで、これもあの夜の続きとしておききしたいのですが、あなたを自分の妻だと言った男は、ものの用に立ったのですか」
「立たなかったわ」
「相手が誰だったか知っていらっしゃいますか」
「知らないわ」
「百合子さんの御主人です」
「あら!」
「あとでわかったのです。あの夫婦は麻薬中毒にかかっていましてね。なみの事ではだめらしいのです」
「いやだわ、あの男、百合子さんの……」
「まあ、なんにしても、あなたがきれいな方なので、僕は安心しているところです。あのときのタイツはたいそうよく似合っていました」
「タイツって、変な衣裳《いしよう》だわ。あれをきると、なんとなく感情をそそられてくるから。百合子さん、あんなタイツを四枚も持っているって」
「ときどき借りたら如何《いかが》です。お似合いですよ」
やがて車は大磯をすぎ、二宮《にのみや》、国府津《こうづ》を経て小田原《おだわら》にはいった。
流れの音がしている。浩作が栄子とはいった宿は、早川《はやかわ》の上流の須雲川《すくもがわ》のほとりだった。まだ行楽の季節には早い湯本《ゆもと》温泉街は閑散としていた。
「枕《まくら》もとで流れの音がするなんて……」
栄子が言った。
「情緒|纏綿《てんめん》というところですか。もっとも、今日で二度目ですから、そういうわけにはいかんだろうな」
「あなた、そんな状態が好きなの」
「さあ、どうでしょうか」
女は下腹がすこしだけ出ており、浩作は、雑木林のなかで黒いタイツを脱がしたときの白い裸身を再び目の前に見た。障子を閉めただけの室内は昼のあかるさだったが、女は彼のいろんな仕草に応じてくれた。
浩作は女の躯に沈んで行きながら、消閑の余技にしては出来すぎていると思った。熟練した女の躯に彼はすっかり参っていたのである。俺は木刀をこしらえるほかに、昼間からこんなことしか出来ないが……彼は、女が静かになったとき、得体の知れない虚《むな》しさを覚えた。事後の虚しさはいつものことながら、やはり遣《や》り切れなかった。
彼は女の背中に自分の胸をつけたまま、しばらく睡《ねむ》った。
宿から出たのは四時すぎだった。
「また逢ってくださるかしら」
車が小田原の街にはいったときに女が言った。
「僕はかまいません」
「電話番号を教えておくわ。あなたの電話番号も教えて。主人が野暮な男だから、夜は電話しないで」
「何事も奥さんの御意のままに」
浩作は、質のよい女に出あったと思っていた。彼は未婚の女に興味がなかった。雑誌から性知識ばかり頭にいっぱい詰めこまれた若い女を一人前にするのは、容易なことではなかった。彼の経験によると、結婚生活十年以上の女がもっともよかった。彼女達は、夫に馴《な》らされて熟練し、歳月をかけて自分を発見するのであった。熟練した人妻は、時間をかけなくとも、その気になりさえすれば、直ちに歓《よろこ》びの極《きわ》みに達することが出来た。
「こうした経験はしばしばですか」
「いいえ。……これで三度目。……最初は一年前だったわ」
「それをきかせて下さい」
「そのかわり、あなたもきかせて下さる?」
「話しましょう」
「百合子さんの家でパーティーがあったときに、若いお医者さんに診察室で……。躯がふるえたわ。それから二度目がこのあいだのパーティーのとき。それにしては大胆だとお思いでしょうが、女って、いったん飛びおりてしまうと、あとは簡単なものよ」
「その医者とどうして続けなかったのですか」
「そのときはまだ怖かったわ。このあいだのパーティーですっかり変ってしまったの」
「百合子さんの家のパーティーもこのあいだのようなパーティーだったのですか」
「いいえ。普通のパーティーだったの。診察室と住んでいるところが別でしょう。廊下でつながっているところなの。あたし、廊下で涼んでいたとき、そのお医者さんがよってきて、あっちへいらっしゃいませんか、とさそうもので、診察室について行ったら、そこでいきなり診察台の上に押し倒され……」
「なるほど……」
「いやだ、そんな話をしたら、もういちどホテルにはいりたくなってきたわ」
「途中にモーテルがあるでしょう」
「あなた、かまわないの?」
「僕はかまいませんが」
「六時までまだ時間があるわ。モーテルであなたの話をきかせて」
二人はけっきょく辻堂《つじどう》海岸からすこし横にはいったモーテルに入った。そのモーテルは、まったくそのことだけのために造られた建物らしかった。一階が、車一台が入れる大きさに区切られた駐車場になっており、空いているところに車をいれると、うしろの扉《とびら》がしまった。そして正面の階段をのぼったところに戸があり、そこをあけると、ダブルベッドが入っている部屋で、洗面所と浴室がついていた。
「合理的にできているのね」
女は部屋と浴室を見まわして感心していた。
「現代では、男女の営みはスポーツと同じなんですよ」
「こんなところによく来られるの?」
「いや。僕はモーテルは嫌《きら》いなんです。できればさっきのような日本間がいい。あるいは、野原のまんなか」
「あたし、野原のまんなかでこんなことをしたことがないわ。いちど、そんなことをしてみたいわ」
「では、こんどは野原に行きましょうか」
「いつ連れて行って下さる……」
「いつがいいですか?」
「昼間なら土曜日曜をのぞけばいつでもいいわ」
「では、よく晴れた日をえらびましょう」
それから浩作は女の服を脱がしにかかった。彼は、女の下着を脱がしながら、これは性の氾濫《はんらん》ではない。女も俺も渇いているにすぎない、と思った。
一〇
そのモーテルは完全な密室であった。浩作はなんどか一流のホテルにも泊ったことはあるが、ホテルの部屋が密室だといっても、モーテルの部屋がそなえているような密室ではなかった。どこがちがうのだろう、と浩作は女の躯をまさぐりながら考えてみた。ホテルの建物は、外観がはなやかだったが、モーテルはどことなく淫靡《いんび》な外観を呈していた。浩作は、いま自分達がはいっているモーテルに幾室あるのかは知らなかったが、入るときに見た閉まった駐車室の戸の数から推して、すくなくとも十組の男女が部屋を利用している、と考えた。この十組のなかに夫婦ものがいることは考えられなかった。あと三十分も経てば俺達はここから出て行く、するとしばらくして今度は別の男女がこの部屋に入ってくる、まったく男女交歓の場だけに使われているが、ここに季節があるのだろうか……。
女は、脚をひろげ、腕を頭のうしろに組んで目を閉じていた。浩作は、前日の午後レストランで見た女の夫の顔をおもいかえしていた。事後の虚しさを考え、それならやめればよいだろう、と浩作は自分に言ってみた。女の夫の顔が目前の女の躯にかさなってきたとき、浩作は女にかぶさって行った。女は、自分がかつて若い医者から犯されたときの話をし終ったとき、もういちどホテルに入りたいと言ったが、そうしたおもい出が女の官能を刺激しているのかもしれない、そこには犯されたときの歓びが息づいていたのだろう……。
「ああ、ああ、これでは帰れそうもないわ」
女は目を閉じたまま首を左右にふりながら言った。
「大丈夫、帰れますよ」
「あなたがいけないのよ」
「仰せの通り」
「いけないと思ったら、もう一度あたしを天国に行かせて」
「それではますます帰れなくなる」
「ねえ、きちんと帰りますから、あたしの願いをきいて」
こうした女の貪欲《どんよく》さに浩作は何度も出あってきていた。性的に熟練した女は、若い女のように情調をつくることなしに交歓に入ることが出来た。男としたら面倒がはぶけるわけだった。その意味では娼婦《しようふ》と同じであった。
浩作が女の躯を折りたたんで最後の締めあげをおこなったとき、女は三度きわみに達していた。
それから二人は裸のまままどろんでいった。そして目をさましたのが六時すこし前だった。女は六時ちかいと知って慌《あわ》てた。そしてバスも使わずに服をつけた。
モーテルを出て海岸道路にはいったら、海面が西陽に輝いていた。
「ああ、疲れたわ。女って、欲が深いからしようがないのよ。あなたどこでお降りになる?」
「昼間おあいしたレストランの前でいいです」
「またあのレストランで女を攫《さら》うつもりかしら」
「ビールをのんでから帰りたいのです」
「いつ野原に連れて行ってくださるの?」
「来週の火曜か水曜日は如何ですか」
「ええ、いいわ。どこに連れていってくださるの?」
「やはり箱根でしょうね。高原の草原で、晩夏の陽に全身を灼《や》くのも一興でしょう」
「あなたは野原であんなことをしたことがあるの」
「三度あります」
「どこの野原?」
「最初は鎌倉の八幡様の裏山で日本舞踊の師匠と、五年ほど前だったかな。女の方が四つとしうえだった。そのつぎが丹沢山麓《たんざわさんろく》で、このときは秋も末で、お尻が寒かったのをおぼえている」
「お相手は?」
「これは女子学生だった」
「三人目は?」
「これは人の奥さんで去年の夏だった。軽井沢《かるいざわ》の友人の家に遊びに行き、となりの別荘の奥さんと仲よくなってしまいましてね、三十四、五歳の人だったかな」
「そのなかで誰がいちばんよかったの」
「三人目がすこぶる具合がよかったな。ほら、レストランが見えてきた。あそこの手前でおろしてください」
「明日、お電話をくださるかしら」
「差しあげましょう」
「あたし、あなたが気にいったわ」
「光栄です」
浩作は、レストランのすこし手前で車からおりると、カンツォーネに入った。そしてビールを注文し、煙草をつけた。まったく平和な世の中だと思った。
一一
橋田次は、ある螺子会社の総務部長を勤めているきわめて真面目《まじめ》な男だった。彼は自分の会社の株券を二十万株持っており、ここから入る配当金が大きく、おかげで、普通の部長級では出来ない生活をたのしんでいた。この螺子会社では年二割の配当を続けていたのである。彼がこれだけの株券を持つようになったのは、最初二千株持っていたのを、増資のつど買い増してきたからであった。つまり彼は堅実すぎる男だったのである。彼はいま四十歳の働きざかりだった。
この真面目な男が、月二万円の手あてを払う条件で若い女の子を囲いだしたのは、半歳ほど前からであった。相手の女の子は自分の部下であった。名を奥村才子といい、宮城県出身で、二十三歳になるかなりの美人だった。毎月二万円で週一回女のアパートに男が行く、という契約を、女の方から橋田に持ちかけてきたのである。小遣銭が足らないから、というのが契約の動機であった。
奥村才子のアパートは四谷《よつや》の荒木町にあり、六畳の日本間に四畳半のダイニングキッチンの二間で、家賃が二万円だった。つまり橋田は才子の家賃を払ってやるかわりに月に四回そこに行ける、ということだった。彼は才子のアパートに行く日を火曜から金曜までのあいだの一日をえらんでいた。月曜日は、日曜日の家庭サービスの疲れが出るので、また土曜日はこれも家庭サービスの日になるので、この二日は避けていたのである。しかし、才子のアパートに行っても彼は泊ることはなかった。ちゃんと終電車に間にあうようにアパートを出るのである。それに彼は、自分の妻の栄子を憎からず思っていた。たまには才子をつれて旅行でもしてみたいと思うこともあったが、家庭を空けるのは彼の好むところではなかった。土曜日曜は、妻子とともにすごす、というのが彼の現在の生活の軸になっていた。
橋田はこの月曜日の午後三時に鵠沼の自宅に戻ってきた。ふだんの帰宅はいつも八時前後だった。この日、彼は、会社に出るとすぐ社長室によばれ、経理部長といっしょに逗子《ずし》の会長宅に行くよう命じられたのである。会社では、社員の保養のための寮が箱根と伊豆にあったが、さらに軽井沢にもうひとつ保養所を建てる案をもっていた。こうした仕事は総務部長の橋田の管轄であった。
二つも保養所があるのに、さらにもうひとつ建てるのはどういうことか、と会長からその理由を説明にこい、と言われたのであった。
橋田は九時に出社して十一時にはもう逗子の会長宅に行っていた。経理部長といっしょに軽井沢に保養所を建てねばならない理由を説明し会長を納得させたのは、二時だった。その間、簡単な昼食が出た。
そして会長室から出てきたとき、橋田は、かなりの疲労を感じた。いまから会社に戻っても、またすぐ帰り支度をしなければならない、と考えた彼は、逗子からまっすぐ鵠沼に戻ってきたのである。
帰宅したら妻がいなかった。昼前におでかけになりました、と通いの家政婦が言った。買物だろう、と橋田は深くも考えず、茶をもらい居間で新聞をひろげた。
ところが、妻は五時をすぎても帰ってこなかった。六時には家政婦が帰るし、その頃には二人の子供も学校から戻る時間だった。家政婦は五時をすぎた頃に夕食の支度をしはじめた。
「適当に支度をしておいて下さい。煙草を買ってきますから」
と橋田は家政婦に言いおいて財布をもって家をでた。海岸のレストランに行ってビールを一本のんでこようと思ったのである。
彼は浴衣《ゆかた》に下駄ばきで、行きつけのカンツォーネに出かけた。ビールを一本のんで家に戻る頃には妻と子供も帰っているだろう、と考えた。家族のいない家のなかというのは妙に落ちつけなかった。
彼は窓ぎわに席をとりビールとウインナーソーセージをもらった。そして海岸道路を往還している車の流れを眺めながらゆっくりビールをのんでいるうちに六時になった。さて、戻ろうか、と彼は残りのビールをのみほすと、煙草をつけた。そして椅子《いす》からたちあがろうとして彼はまた腰をおろした。レストランの横の住宅地に入る道の角で、辻堂方面から走ってきた車がとまり、その車が自分の車だったのである。乗っているのは妻にまちがいなかった。やがて車から男が一人おりてきた。男は車の前をまわってこちら側にくると、車を見て手をふっていた。妻が車のなかから手をふっているのが見えた。
やがて車が走り去り、男がこちらに歩いてきた。男はカンツォーネに入ってきた。男は西側の窓ぎわの席についた。半袖のスポーツシャツに灰色のズボンをはいており、尋常な顔の男だった。
橋田はこの若い男に見覚えがなかった。いったい妻は今日どこへ出かけたのか、この若い男はいったい誰だろう……まさか……妻が若い男と浮気をしているとは考えられなかった。
彼は、若い男を見ているうちに、どこかで一度あったことのある顔だ、という気がしてきた。それもつい最近のような気がした。はて、どこでだったろう、と思いめぐらしているうちに、前日、この店で家族と食事をとっていたとき、となりの席で仮面舞踏会の話をしていた男だったと、わかってきた。
そうすると、いったいこれはどういうことになるのだ……昨日ここであの男と妻は挨拶《あいさつ》をしなかった、ときどき男はこちらの席を見ていたが、二人は挨拶はしなかった。それなのに、あの男は、たったいま妻が運転している車からおりてきた……。
一二
栄子が家に戻ったら、家政婦は帰り支度をしており、二人の子はテレビの前で菓子をたべていた。
「旦那《だんな》さまは今日は三時頃にお戻りになりました」
と家政婦が言った。
「そう、なにかあったのかしら。それで……」
「煙草を買いにお出かけになりましたが、ずいぶんながいですねえ。お散歩でもしていらっしゃるのでしょう」
やがて家政婦は帰って行った。
なんでまた三時に戻ってきたのかしら、と栄子はすっかり用意のととのった食卓の前に掛けてちょっと考えた。それから今日の半日をおもいかえした。若い男とすごした半日が、躯のなかでまだ余韻をひいていた。男は女の躯をあつかいなれていた。夫のように野暮ではなかった。動的でしかも繊細だった。
栄子は躯がだるく、頭のなかが空っぽになってしまったような気がした。
夫は七時すぎに戻ってきた。彼は不機嫌《ふきげん》な顔をしていた。
「会社でなにかあったのですか?」
と栄子はビールを食卓におきながらきいた。夫はだまっていた。父親の機嫌が悪いので、二人の子供もだまって食事をしていた。
「会社でなにかあったのを、家庭に持ちこんできては困りますわ。みんなが楽しく食事をしているのに」
すると夫はこっちを睨《にら》んでいたが、おまえは今日どこに行っていた、と言った。
「帰りがおそくなったのは申しわけありませんが、今日は百合子さんにさそわれていたのですよ」
「そこに半日いたのか?」
「女が四人あつまってしゃべっているうちに、ついおそくなってしまったのです」
「もう、いい。あとで話がある」
それから彼はビールを日本酒にきりかえると、コップに冷やで二杯のんだ。それから浴室におりて行った。
なにもおそくなったくらいでああ不機嫌になることはないだろう、と今度は栄子が不機嫌になり、どうしてあの人はあんなに野暮なのだろう、と思った。
栄子が食事のあとかたづけを終った頃には、二人の子供も風呂《ふろ》からあがっていた。栄子はネグリジェを持って浴室に行った。彼女は鏡の前で顔にコールドクリームをすりこみ、それからガーゼで丹念に拭《ふ》きとると、こんどは別のコールドクリームをすりこんだ。目尻には小皺があったが、まだ充分見られる顔だった。
それから浴槽《よくそう》に入った。昼間、若い男に抱かれた躯が、ひりひりするような感じだった。今夜はもうたくさんだと思った。あんなに不機嫌では求めてもこないだろう……明日はまたあの若い男に逢える、電話をくれると言っていたが、明日はどこで逢えるだろうか……。
橋田次は、妻が風呂に入っているあいだ、いらいらした気持で夕刊をひろげていた。カンツォーネで、彼は、若い男がたちあがるまで席についていた。若い男はビールを一本のんでからたちあがった。三十分ほどもかかったろうか。
彼は若い男に続いてレストランをでた。若い男は、さっき車からおりた道から入って行った。するとこの男の家はこの辺にあるんだな……。彼は百メートルほどのあいだをおいて男をつけた。
やがて男は鵠沼海岸駅前の商店街にでると、そこから電車の踏切を渡った。同時に踏切がおり、電車の走ってくる音がした。彼は舌打ちして電車が走りすぎるのを待った。男はもうかなり前方を歩いていた。
やがて電車が走り去り、踏切があがった。しかし男の姿はもう見当らなかった。彼は走った。そして、一本道から左右に通じている道を見たが、男の姿は見えなかった。
あの男がこの辺に棲んでいることはたしかだ、そのうちにわかるだろう、と彼は考え、来た道をひきかえした。
妻が寝室にはいってきたのは十時すぎだった。
「はなしがある」
と彼は言った。
「会杜のはなしでしたら、またにしますわ。疲れているんです」
「昨日、カンツォーネで食事をしていたとき、すぐとなりの席で、仮面舞踏会の話をしていた若い男が二人いたな」
「さあ、おぼえておりませんが」
「そのうちの一人が、さっきカンツォーネの前で、お前の車からおりてくるのを、私は見たのだ」
「おかしなことをおっしゃるのね。あたしは百合子さんの家からまっすぐ家に帰ってきたのですよ。仮面舞踏会がどうの、若い男がどうの、いったい、あなた、なにを話していらっしゃるの」
「それでは、さっきカンツォーネの前で若い男を車からおろしたのは、おまえではないというのか」
「あたしは海岸道路なんか通りませんよ」
妻は憤然として答えた。
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海の音
クルーザー南回帰号が江ノ島のヨットハーバーを出たのは朝の十時だった。
南回帰号は全長十六メートル、幅五メートル、排水量九トンから十二トンで、江ノ島のヨットハーバーのなかでは大型のクルーザーだった。持主は古川洋介で、彼がライセンスをとってこのクルーザーを動かしているのも、消閑の余技のひとつに過ぎなかった。
「えらく波が静かだな」
操舵室《そうだしつ》から前方を眺《なが》めていた真田が言った。
「嵐《あらし》の前の静けさというやつさ」
浩作が舵《かじ》をとりながら答えた。かたわらには古川洋介が立っている。浩作はすでにこのクルーザーには七回乗っており、古川洋介から操舵を教わった。
「おどかすなよ。天気予報は明日も快晴と伝えていたぜ」
「日本の気象庁をおまえは信じているのか」
「俺は日本を愛しているからな」
「幸福なことだ」
南回帰号は防波堤の外側の暗礁帯を迂回《うかい》し、舳先《へさき》を真南に向けた。
「どれ、俺《おれ》は下でいっぱいやるとしようか」
真田は操舵室から降りて行った。
下のキャビンではもう酒盛りがはじまっており、そのなかに百合子と栄子がいた。三十歳をすぎた女はこの二人だけで、あとは若い女が三人、若い男が二人いた。
「奥さんをどうしてお連れしなかったのですか」
浩作がきいた。
「あれは飾りものですよ。遊びを知らない女でしてね」
古川洋介は興味なさそうに答えた。
「遊びを教えてあげたら如何ですか」
「それが、素質がないんですな」
「当世ではまれな話ですね」
「さて、私もいっぱいひっかけてきますか」
古川洋介もキャビンに降りて行った。
浩作は舵をとりながら、里子が訪ねてきた二日前の午後をおもいかえした。その前の日の午後、彼が約束の木刀を持って訪ねたとき、里子は木刀を戴《いただ》いた礼になにかお返しをしなければ、と言っていたが、英国製のバーバリのレインコートをお返しに持ってきてくれたのだった。
「あれからすぐデパートに電話をして持ってこさせましたの。お気に召すかしら」
里子は包みを縁側におきながら言った。
「これではかえって恐縮です」
浩作は嬉《うれ》しかったが悪い気がした。
「ここがあなたのお仕事場なの」
里子は珍しそうに部屋のなかをのぞきこんだ。
「おあがり下さい。お茶を淹《い》れます」
「ありがとう。でも、この縁側がいいわ」
里子は縁側に腰をおろし、庭を眺めまわした。
浩作がお茶を淹れて縁側に運んだら、木《こ》もれ日《び》が散っている庭に里子が立っていた。芭蕉色《ばしよういろ》の地に藍《あい》の絣《かすり》が織りこんである袷《あわせ》、紫の無地の帯、そして、ぬけるように白い顔の片側が秋の陽《ひ》を受けていた。浩作は、美しすぎる人だ、と思った。この日、里子は、あたらずさわらずの世間話をして帰って行ったが、浩作は、里子が掛けていた縁側をみつめ、胸が締めつけられるような感じになった。
十六ノットの速度で南回帰号はきわめて快調に南下して行った。大島で魚を釣《つ》り、一泊して帰る、というのがこの船旅の予定であった。デッキに人の影がうつったと思ったら、栄子がこっちにやってきた。
「ウイスキーを持ってきたわ。しかし、酔っぱらい運転をしないで」
栄子はグラスを舵の横においた。
「よく出てこられましたね」
「明日の夜までに帰れば大丈夫。主人は明後日の朝でないと戻《もど》らないから」
「お子さんの方は?」
「家政婦にたのんできたわ」
「しかし、いずれは、外泊したことがわかってしまうだろう」
「わかったってかまわないわ。もう、あんな夫を持つなんて、うんざりよ」
「今日もスラックスがよく似合うな。箱根のときも似合っていたが」
浩作が、野原でまじわりたい、という栄子の希望を箱根で叶《かな》えてやったのは、けっきょく九月の末で、宮城野《みやぎの》から仙石原《せんごくばら》にぬける途中の高原でだった。そのとき、栄子はカンツォーネの前で車からあなたをおろす現場を夫に見つかったのは、あたしが悪いのではなく、夫が早く帰ってきたのが悪いのだ、と言っていた。浩作は、女の身勝手さというのはこういうことを指すのだろうか、と思いながら、しかし女の夫には同情を感じなかった。
海上では漁船が点々としていた。
「今夜はクルーザーのなかで泊るの?」
栄子が、浩作の手からグラスを横取りしてひとくちのんでからきいた。
「さあ、どうかな。キャビンのなかで十人は寝られない。どうせおとなしく寝るわけはないだろうから、デッキで寝ころんだり、砂浜にあがって行く奴《やつ》もいるだろう」
「あなた、他の女と浮気しないでよ」
「俺はあの医者の奥方は苦手だ」
「若いのが三人いるじゃないの」
「若いのは趣味に合わない」
「すると結局、あたしだということになるわね」
「そうそう。なにごとも奥様の御意のまま」
「本当に浮気しないでよ」
若い女の三人は実枝子、チーちゃん、寿子で、若い男の方は一人を宮石といい、もうひとりは柴野という名だった。二人とも大学生で、女の方は実枝子がバーのホステスで、あとの二人は鵠沼《くげぬま》にすんでいる金もちの家の娘だった。実枝子は古川洋介がつれてきたらしかった。
「それぞれパートナーがきまっているんじゃないのかな」
「百合子さんは学生をいまから口説いているわ」
「そうすれば真田が助かるだろう。なにしろあれは大変な奥方だからな。しかし、なんとも変な船旅だ。セックスが船いっぱいに充ちている」
「あなた、それが好きでしょうが」
「どこかの奥方ほどには好きではないが」
「それ、あたしのことかしら……」
「名誉な話じゃないか。何事につけ、好きでなければ上手《じようず》にはなれない」
「いろんなことを教えてくれたのは、あなたなのよ」
「素質があったと判断したからさ」
「ほめているの」
「もちろん。……こういう古典がある。……女の三十三歳は大事の頃なり。盛りの極めなり。多くの男に愛され、称讃《しようさん》を得べし。もし、この時分に、男の愛も不足に、男狩りも思ふほどなくば、自らいかなる上手なりと心得れども、未だまことの盛りを極めぬ女なりと知るべし。もし極めずば、四十より色は衰ふるべし。それ、後の証拠なり。さるほどに、盛りを男にほめられずば、女をきはめたりとは思ふべからず。なれど過ぎたるは良からず、かへすがへすも慎しむべし。また、三十三、四歳の頃は、過ぎし方をも覚え、行先の手立をもさとる時分なり。名文なのでおぼえているが」
「なんという本にあるの?」
「本の名は忘れてしまったが、室町時代に、ある人が輿入《こしい》れする娘にあたえた、いわば閨房訓《けいぼうくん》のようなものだったらしい。そうそう、おもいだした、本の名は閨房訓という。鎌倉の古本屋で見つけた本だが、なかなか面白かったな」
「男狩りも思ふほどなくば、って、あの封建時代に、父親が娘に男狩りをやれとすすめたのかしら」
「進歩的な親だったのだろう。というより、室町以前は、上にさかのぼるにしたがって、男女のあいだは自由だったのだから、閨房訓はその名残りだったのかも知れない」
このとき古川洋介が戻ってきた。
「かわりましょうか」
「かわってくれますか」
浩作は古川洋介と舵をかわり、グラスを持ってデッキに出た。
「おい、誰《だれ》かウイスキーを持ってきてくれないか」
浩作はデッキチェアに腰かけ、キャビンをのぞいて言った。
「はい、先輩、ただいま持って行きます」
柴野が答えた。やがて柴野がスカッチの壜《びん》を持ってあがってきた。
「なんだ、おまえ、砂利《じやり》のくせにそんなのをのんでいるのか」
「この船には日本製をおいてないんですよ。ところで先輩、ひとつ、頼みがあるんですがね」
「なんだ」
浩作はウイスキーの壜を受けとりながら柴野を見た。
「あの小母さんを戴いてもいいですか」
「どの小母さんだ」
「キャビンにいるグラマーですよ」
「真田にきいたか?」
「真田さんは、北ノ庄さんに許可を求めろ、と言っていました」
「誰が戴くんだ?」
「もちろん僕ですよ」
「いいだろう。しかし、相手がいいと言えばだ。宮石はどうなんだ」
「あいつは寿子に首ったけですよ。寿子はこの十一月に関西に嫁に行ってしまうんですが、いまからあれじゃ、さきがおもいやられますね」
「おまえ、自分のことは棚《たな》にあげているのか。しかし、おまえら、悪になったな。チーちゃんはおまえの女か?」
「まあ、そういうことになっているんですが」
「それだと、おまえがあの小母さんを戴くなら、チーちゃんは真田にやらねばならんぞ」
「それはかまいません。そろそろあきてきましたからね」
「しかし、チーちゃんがうんと言うかな」
「かまいませんよ。なんでしたら、先輩がやってくれますか」
「いや、俺は若い女はだめだ。やたらに声ばかりあげやがって、その実なんにも知っちゃいねえんだから。そんな女を教えこむのは大変だよ」
「じゃあ、先輩、あの小母さんは戴いておきます」
柴野がたちあがった。
「あの実枝子という女には手をだすなよ」
「わかっています」
柴野はキャビンにおりて行った。
柴野と入れかわりに、操舵室から百合子がデッキに歩いてきた。彼女はあかい顔をしており、この分ではかなり出来あがっているらしかった。
「あれっきり、お見かぎりね」
「おや、これはまた異なことを」
「栄子さんからきいたわよ。箱根の原っぱで宴会をなすったんですってね」
「まあ、それは、おたがいさま、というところでしょう。奥さんが毎日東京に通っていらっしゃるのとたいして変りませんよ」
「あたしも箱根で宴会をしてみたいわ」
「残念ながら箱根ではもう霜《しも》がおりています」
「では伊豆はどうかしら」
「あそこはいま別荘ブームで、どこへ行ってもブルドーザーがうなっているんです。といって、まさか赤城《あかぎ》山に行くわけにもならず……」
「あっさりことわられたようね」
「というより、僕は真田との友情を忠実に守っている男でして」
「うまいことをおっしゃるわね」
「柴野の奴、あなたにすっかりまいっているらしい」
「だって、あれ、坊やでしょう」
「坊やはお気に召しませんか」
「すぐ果ててしまうんですもの」
「何度も果てさせればいいでしょう。若い者を鍛えてやるのは、国家にとっても有益なことだと思いますが、なにも銃をとるばかりが国家に尽すこととは限りません」
「御忠告ありがどう」
「いちど電話を差しあげます」
「いつ?」
「大島から戻ったら」
「約束を破ったら、あたし、死ぬかも知れなくってよ。あら、栄子さんがあたし達を怪しんでやってきたわ」
みると栄子がこっちに歩いてきた。
「お二人でなにを話しているの」
「魚を釣《つ》る話ですよ」
浩作はウイスキーの壜をとりあげながら答えた。
浩作は、酒に酔った女が猥談《わいだん》を好む、ということを知っていた。彼は何度もそんな現場を経験してきていた。いまも百合子と栄子は、すれすれの猥談をやりはじめていた。つまり、ああいうときはどうすればいいとか、前がどうの、後向きがどうの、果ては畳とベッドのちがい、屋内と屋外のちがいなどについて、微細な話に興じていた。二人は話をたのしんでいた。浩作は、二人の女の話をきいているうちに、隠花植物を見ているような気がしてきた。
浩作は二人をデッキにおいてキャビンにおりて行った。キャビンでは、チーちゃんと寿子と柴野と宮石がブリッジをやっていた。
「加わりますか」
と柴野がきいた。
「いや、俺はいい。真田は?」
「操舵室でしょう」
「なんとも退屈な旅だな」
「僕らはけっこう面白いですよ」
「若いからだ」
「あとどのくらいで大島につきますか」
「四十分はかかるかな」
浩作は腕時計を見て答えた。
「元町に着けるんですか」
「いや、岡田に着ける」
「波浮《はぶ》の港に行きたいと言っていますよ、みんなは」
「古川さんに話してみろ。おまえら、そんなブリッジばかりしていないで、デッキに出て海でも眺めたらどうだ」
「みんな景色には興味ないそうですよ」
「伊豆と房総《ぼうそう》がきれいだ」
「先輩くらいのとしになったら、景色を眺めることにします。しかし、やはり景色を眺めておこう。あとで先輩にしごかれるのがこわいからな」
柴野はトランプの札をテーブルにおくとたちあがった。それにつられて他の者もトランプをおいてたちあがり、キャビンから出て行った。
「やれやれ、なんて奴らだ」
浩作は呟《つぶや》くとソファにごろっと横になった。空き腹にウイスキーをいれたせいか、躯《からだ》がだるかった。目を閉じた。すると間もなく、ある娘の顔がおもいうかんできた。丸顔で、目もとの涼しい二十三歳になる娘だった。浩作はこの娘と会ったことはない。兄嫁の杉子が持ってきた見合写真の相手だった。きれいな子ですね、とそのとき浩作は言った。十日ほど前の夜のことである。それなら会ってみろ、と兄が言った。見合をしてもしようがないな、と浩作は写真をみて思った。二十八にもなって木刀造りが商売だなどといっている男が、妻をもらって養って行けるかどうか。兄の浩一は、おまえは更級とつきあってこうなったのだ、と言っていた。つまり彼は、あの小説家がおまえをだめにしてしまったのだ、と言っていたのである。
群青《ぐんじよう》の空がどこまでもひろがっている。
「あれは房総か?」
真田がはるかな陸地を指さした。
「左が洲崎《すのさき》、右の方が野島崎《のじまざき》だろう」
浩作が答えた。
その向うは太平洋だった。南回帰号は、岡田よりすこし東よりの泉津《せんづ》に入り、そこからさらに東南に下ったところに碇泊《ていはく》した。碇泊した場所は岸から二十メートル離れており、宮石と柴野はさっそくゴムボートを海面におろしていた。海面に突き出ている岩が多く、船は二十メートル以上は岸に近づけなかった。
「えらく水が澄んでいるな。ひと泳ぎするか」
真田が海面をみおろして言った。
「水着を持ってきたのか」
「いや」
「じゃあ、ちんぼを出して泳ぐんだな。しかし、女達のてまえ、ちょっとおまえには出来んだろうな」
「できないと思っているのか」
「できやしないよ」
「よし。それなら裸で泳いでみせてやる」
真田はデッキで服を脱ぎだした。
「ばか。酒が入っているだろう。心臓|麻痺《まひ》を起すぞ。やるんなら酒がさめてからにしろ。暮方がいい。沈む太陽を見ながら裸で泳ぐのもいいだろう。それより、俺は魚を釣《つ》るよ」
「船をもうすこし沖にだしたほうが釣れるだろう」
「リールを投げる。百メートルは沖に届くだろう」
それから浩作はキャビンにおりて行き、釣りの用意をした。釣竿《つりざお》は、百メートル巻きの大型の竿をえらび、そこに道糸八号を仕掛けた。そして仕掛糸にはハリス六号糸を六メートル道糸に結び、そこに三十センチ長さの枝糸を六本、これはハリス五号をつかって八十センチ間隔で結んだ。錘《おもり》は五十号、餌《えさ》は、江ノ島をでるとき釣具屋でもとめたふくろいそめと、魚屋から仕入れてきた栄螺《さざえ》をぬきだし、肉を切って針につけた。
「岸から百二十メートル先というと、水深はどれくらいある?」
真田がデッキからおりてきてそばによってきた。
「十五メートルはあるだろう。いや、ここなら二十五メートルはあるかも知れない」
浩作は仕掛をすますと餌箱を持ってデッキにあがった。
岸にちかい海面では宮石と柴野が泳いでおり、ボートには水着姿のチーちゃんと寿子が乗っていた。
「ちくしょうッ、泳いでいやがる」
真田が口惜しがった。
「まずボートで岸に行くんだ。そこで服を脱ぎ、すこしずつ躯に水をかけ、水になれてきたら、それから泳ぐんだな」
浩作はわらいながら艫《とも》の方に歩いて行った。
「おうい、ボートを持ってこい」
と真田がさけんでいた。
浩作は沖合めがけてリールをいっぱいに投げた。
「若い者は元気がありますな」
そばに古川洋介が立っていた。彼のうしろから百合子と実枝子と栄子がこっちに歩いてきた。
「夕御飯のおかずを釣るの」
栄子がきいた。
「十人分だと、でっかいのを五ひきは釣りあげないといかんな」
浩作は赤い浮子《うき》をみつめたまま答えた。
「私は夕飯前にひとねむりするとしましょう」
古川洋介はあくびをするとキャビンの方にひきかえして行った。
「泳ぎたいわ」
と百合子が言った。
「あたしも泳ぎたいわ」
栄子が同調した。
「泳げばいいでしょう」
「だって水着を持ってこなかったもの」
「裸でいいじゃないですか」
「まさか、こんな昼間に」
「みていなさい。いまに真田の奴、裸で泳ぎだすから」
真田はゴムボートを岸に向けていた。寿子はすでに泳いでおり、ボートにはチーちゃんが同乗していた。
見ていると、真田は岸にあがり、こっちに背中を見せて服を脱ぎはじめた。
「男の象徴を見せないつもりなのよ」
と百合子がわらった。
「おうい。こっちを向いて脱げよ」
浩作がさけんだ。
すると真田が顔だけこっちに向け、馬鹿野郎! とさけびかえした。
彼は最後のものをとると、両手で前をおさえ、やはりこっちに背中を見せたまま、海に入ってきた。
「なんて野郎だ、うしろにむかって歩いていやがる」
船と海の上でわらい声がおきた。
真田は足首まで水がつかる場所に入ると、そこに坐りこんで躯に水をかけた。それからしばらくして、再びたちあがると、うしろ向きに海に入ってきた。そして、腰の辺までの深さに来たとき、躯を沈め、泳ぎだした。そして船の上を見あげ、ざまあみろ! とさけんだ。
浩作は伊佐木《いさき》を四ひき釣りあげた。いずれも体長三十センチほどはあった。ほかに小さい鯖《さば》が二ひき、小鰺《こあじ》が十二ひきあがっていた。
「秋の伊佐木はあぶらがないから、バタ焼きしか出来ないな」
「刺身にはできないの」
栄子がきいた。
「刺身にしようか。どれ、俺はボートを漕《こ》いでこようか」
浩作は魚を冷蔵庫にしまうと、ボートを持ってこさせた。栄子が乗りこんできた。百合子はキャビンで睡《ねむ》っており、古川洋介と実枝子は機関室のなかに入っていた。機関室のなかで抱きあっているのかしら、と栄子がボートの上で言った。
「あそこは機械油のにおいがしているからな」
「それ、なあに?」
「機械油というのは妙に脳を刺戟《しげき》するものらしい」
「あたしも泳ごうかしら。もし、あなたが泳いでくれるなら泳いでもいいわ」
「アダムとイブになるのか」
「いいじゃない」
「なら、連中から離れたところに行こう」
浩作は泉津よりの方にボートを向けた。そして、南回帰号から三百メートルほど離れた、岸がすこし突き出ている向う側にボートをつけた。そこから船は見えるが、泳いでいる連中は見えなかった。
「ほんとに裸になるのか?」
「なるわ」
栄子はいきなりスラックスから脱ぎだした。スラックスの下にはなにもはいていなかった。上は厚手のスポーツシャツ一枚きりだった。
「はなはだ煽情的《せんじようてき》だ」
箱根に行ったときと同じだった。いつどこででも脱げる、という技術を、栄子は短時日のうちに身につけてしまったらしかった。
二人は海のなかにはいった。
「いい気持」
栄子は浩作に抱きついてきた。
「こんなところを御主人に見られたら、どうするかな」
「平気よ。あの人、あたしからはなれられないんだから」
二人は腰の辺まで水につかり、正面から抱きあった。
「もう、あたし、あなたから離れられそうもないわ。ほかの女とこんなことをしないで」
箱根の原っぱでのときもそうだったが、栄子は、きわめて早く極みに達してしまっていた。これはあきらかに風景のせいであった。
やがて二人は岸に戻ると服をつけ、ボートで一同のいる岸に戻った。
「よし、真田の奴をいじめてやろう」
浩作はボートを岸につけ、脱いである真田の服をボートに積みこみ、船に戻り、ボートも船上にあげてしまった。真田は、船より南よりの方で、柴野と宮石の三人で魚を突いているらしかった。柴野達は潜水具を用意してきていた。チーちゃんと寿子もそっちの方に行っていた。
船に戻ると栄子は浴室でシャワーを浴び、潮水を洗いおとした。百合子はまだ睡っていた。古川洋介と実枝子はまだ機関室のなかにいるらしかった。浩作もシャワーを浴び、それからデッキにあがった。
みると、真田が岸にあがっており、ほかの連中はこっちにむかって泳いできていた。
「おうい、俺の服をどうしたあ」
と彼は前を両手でかくし、こっちをみてさけんでいた。
「ここにあるよう。なくなるといけないから持ってきたよう」
浩作がさけびかえした。
「ボートで誰か服を持ってきてくれえ」
「だめだ。泳いでこいよう」
「馬鹿野郎! 早く持ってきてくれえ」
このやりとりの声で、船の中にいた者がみんなデッキに出てきた。
柴野らは潜水具を船にあげていた。みんな真田を見てわらっていた。
「たのむから服を持ってきてくれよう」
「柴野。ボートと服を持っていってやれ」
浩作は柴野に命じた。
「あら。面白いじゃないの。彼が裸で船にあがるところを見物しましょうよ」
百合子が言った。
「それを彼に伝えましょうか」
「伝えてちょうだい。勇気がないのね。裸ぐらい平気じゃないの」
「おうい、真田。百合子夫人がおっしゃるには、勇気があるのなら、うまれたままの姿で船にあがってこれるはずだとよ。百合子夫人はそれを見物したいそうだ」
「おまえが吹きこんだのだろう」
「俺は清浄潔白だ。あきらめて泳いでこい」
「もぐって獲《と》った鮑《あわび》と伊勢海老を食わせてやるからよう、服を持ってきてくれよう」
「獲物はすでにこっちに届いているよう。早くこないとみんなで食っちまうぞう」
すると、真田はしばらくだまっていたが、いきなり両腕を頭上にふりかざし、馬鹿野郎! と天を仰いで吼《ほ》えると、海に向って走ってきた。彼の一物《いちもつ》が揺れていた。船上ではわらい声がおこった。
「面白いわあ」
百合子が言っている。
真田が泳ぎついたとき、女達はわらいながら彼が船にあがってくるのを待っていた。女達はたのしんでいた。
「おい。パンツをおろしてやろうか」
浩作が海を見おろして言った。
「うるさいッ! そんなに見たけりゃ見せてやるよ」
「真田。どうせ見せるなら、せがれが天を向いているようにしてからあがってこい」
「おう、言われるまでもないことだ」
そして彼は、言葉通り、一物を硬直させて船にあがってくると、女達の前を悠然《ゆうぜん》と歩いてキャビンにおりて行った。この彼の自然の姿をしっかりと眺めていたのは百合子と栄子である。ほかの女達は両手で顔を被《おお》っていたが、浩作が観察したところでは、彼女達は指のあいだから真田を観賞していた。
南回帰号は、岡田よりの行者《ぎようじや》ケ浜というところまで戻り、そこで夜をすごすことになった。
この日の夕食の卓ははなはだ豪華であった。栄螺、鮑、伊勢海老の刺身をはじめとする海の幸《さち》がどっさり食卓に並んだのである。伊佐木はバタ焼きにし、小鰺はたたきにした。庖丁《ほうちよう》さばきを見せたのは浩作である。彼は、木刀をこしらえるのをなりわいにしはじめた頃、大磯の更級の家に遊びに行っているうちに、更級から庖丁を習ったのであった。
「いやあ、今日は愉快でした」
食卓についたとき船長の古川洋介が言った。
「では、乾杯といきましょう」
浩作がビールのグラスを持ちあげた。みんながグラスを持ちあげた。
「真田君は、本日、つくりものではない、自然の、というより、うまれたままの、いや、神から授かったままの芸術作品を、われわれの前に見せてくれました。どうか明日もう一度あの芸術作品を観賞できるよう希望をこめて、乾杯いたしましょう」
浩作が言った。
「乾杯!」
「裸体万歳!」
これは百合子である。
「きんたま万歳!」
とさけんだのは他ならぬ真田であった。一同はわらったが、彼はきわめて厳粛な顔をしていた。
ところが、この賑《にぎ》やかな夕食のあとかたづけが大変だった。女達は酒に酔ってしまい、男達が全員でかたづけたのである。
あとかたづけを終ると、食堂は再びキャビンになる。食事のあとはめいめい勝手にコーヒーや茶をのんでいた。
デッキでは柴野がウクレレを弾いていた。ウクレレに合わせてチーちゃんが歌っている。栄子はソファに凭《もた》れてなかば居睡りをしていた。百合子だけはあいかわらず元気がよく、シェリー酒をのんでいた。
「あの青年が誰のためにウクレレを弾いているのか、知っていますか」
浩作はそばにいる百合子に小さい声で言った。
「知らないわ」
「あなたに捧げているのです」
「そうかしら」
「彼は、あなたの崇拝者ですよ、できたら今夜かわいがってあげなさい」
「それより、ここから帰ったらきっと電話をくださいね」
「それは約束しておきます。さてと、デッキにでて星でも眺めるとするか」
浩作は真田をさそってキャビンを出た。見ると、フライブリッジに古川洋介が坐《すわ》っており、彼は釣竿を握っていた。
「おや、夜釣りですか」
浩作が声をかけたら、退屈だから投げてみたのです、という答がかえってきた。
「釣ったら知らせて下さいよ。大物ならほめに行きますから」
それから浩作は真田を艫《とも》の方に連れて行った。
「おまえ、今夜、どうするんだ。百合子さんがいいのか」
浩作はさげてきたウイスキーの壜の栓をあけながらきいた。
「できたらあの女は避けたい。若い方がいいな」
「では交換しろよ」
「柴野が百合子を欲しがっていることは知っている。しかし、チーちゃんが俺になびいてくるかな」
「なびかせればいいだろう」
「どうやって?」
「まあ、見ていろ。なんでもないことじゃないか。おうい、柴野、ちょっとこっちにこい」
浩作は柴野をよんだ。
柴野はウクレレをチーちゃんに渡してこっちに歩いてきた。
「おまえな、なるべく早くあの小母さんを戴いちまえよ。そうしないと、真田がチーちゃんをやっつけられないからな」
「どうすれば早く戴けるんですか」
「あとしばらくしたらな、かまわず小母さんをここに連れてきて口説くんだ。すぐ相手は応じるよ。そうしたらチーちゃんもおまえをあきらめるだろう」
「それは名案ですね」
「俺はいまから下に行く。そして小母さんに、上で恋人が待っている、と伝えておくから」
そして浩作は独りでキャビンにおりて行った。
このように、海の上での南回帰号の一夜は、はなはだ楽しく、そしていくらかは放恣《ほうし》のうちに過ぎて行った。つまり、現代日本の繁栄は、海の上で一夜をあかすクルーザーにまでおよんでいたのである。
デッキにいるのは三組で、柴野と百合子は艫《とも》の方でもつれあっていた。宮石と寿子はデッキのまんなかにいた。そして浩作と栄子は、操舵室の屋根の上におり、浩作はときおりデッキを見おろして指図をしていた。
「おい、柴野、がんばれよ」
と声をかけていたのである。
「先輩、がんばっていますよ」
とデッキから返事がかえってくる。
「満天の星空だ。宇宙の神秘と生命の神秘をようく味わっておけよ」
「わかっていますよ」
「おい、宮石。おまえ、なんでじっとしているんだ」
浩作はこんどはデッキのまんなかを見おろして言った。
「ねむいんですよ、先輩」
如何にも睡そうな声である。
「馬鹿野郎! なんだ、そのざまは。もう一度奮起しろ」
「またにしますよ」
「よし、それなら俺がかわってやる」
「いや、先輩、奮起しますから、おりてこないでください」
とたんに宮石の元気な声がかえってきた。
「さてと、俺はちょっと下を見てくる」
浩作は栄子のそばをはなれると、デッキに降り、キャビンにはいって行った。
「真田、どうだ?」
「はなはだいいよ」
「あかりをつけてやろうか」
「あかりはいいよ」
「船長はあいかわらず機関室か」
「そうらしい」
「見舞いの言葉をかけてやろう」
浩作はキャビンを出て機関室の前に歩いて行った。彼は機関室の戸を叩《たた》くと、しばらく間をおき、状況は如何ですか、ときいた。
「申分ないといったところです」
と中から答があった。
「それは結構でした。では明朝また元気な姿でお会いしましょう」
それから浩作はデッキにあがると、まず艫の方に行った。
「がんばっているのか」
「がんばっていますよ。あまり近づかないで下さいよ」
「もっとがんばれよ」
それから浩作は宮石の組のそばに行った。
「先輩。奮起していますから大丈夫です」
宮石が慌《あわ》てて言った。
「おまえ、嘘《うそ》を言っているんではないだろうな」
「嘘は言いません」
「寿ちゃんはいい子だ。おまえの奮起が足らないようだったら、いつでもかわってやるからな」
「絶対に奮起します」
「では、また上から見張ってやるから」
そして浩作は操舵室の屋根の上に戻った。
「元気がいいのねえ」
栄子が《ものう》い声で言った。ふなべりを打つ波の音がしている。
「かつては秘事であったのに、このようなかたちでおこなわれるとは、日本も堕落したものだ。これは、民主主義のせいだな。それに、もうひとつ、スエーデンから入ってくる映画のせいだ。ひとつ、スエーデン映画撲滅運動を展開するかな」
「あたし達の仲も撲滅するの」
「そういうことになるね、理屈からいって」
「困るわ。ベッドの上で撲滅されるのならかまわないけど」
栄子ははなはだ現実的なことを言った。
「おや……岸でキャンプをはっている。ついいままでは見えなかったのに……」
浩作はおきあがって岸を見た。カンテラのあかりが樹の枝でゆれており、その下で三人の男がキャンプをはっている最中だった。
「おそくついたのね」
栄子が腹ばいになって岸の方を見た。
こうして一夜があけた。夜半をすぎてからはみんなキャビンにはいって雑魚寝《ざこね》をしたが、浩作が目をさましたのは十時すぎだった。そばには誰もいなかった。浩作は冷蔵庫からビールをとりだして栓《せん》をあけると、それを持ってデッキにあがった。
デッキでは、古川洋介がリール竿をたれており、そぱに実枝子がすわっていた。
「みんなはどこに行ったんですか?」
「真田さんと栄子さんと柴野さんと宮石さんは、栄螺《さざえ》をとりに行ったわ」
と実枝子が答えた。
「ほかの人達は岸にあがって行ったらしい」
と古川洋介が言った。百合子とチーちゃんと寿子が岸にあがっているわけだった。
「まったくみんな元気がいいな」
「だいぶ永くおやすみだったですな」
「深酒をしたのですよ」
浩作は洋介のかたわらに腰をおろすと、ビールを喇叭《ラツパ》のみした。乾いたのどがしめってくると、やっと目がさめた気がした。
このとき、岸から、北ノ庄さあん! とよぶ声がした。寿子だった。
「たいへんだ、早く来て。百合子さんとチーちゃんがキャンプの男達に連れて行かれたわ!」
浩作はこれをきくとビール壜を投げだし、魚をすくいあげる手網を引きよせ、先端の網と針金の輪をはずした。それからシャツとズボンを脱ぎ、パンツ一枚になると、網をはずした竹の柄を持って海にとびこんだ。柄は直径四センチ長さ二メートルの竹である。
岸につくと同時に寿子が走りだし、浩作が続いた。岩場になっている地帯をのぼると観光道路にでる。二人は道路をよぎって向うがわの松林にはいった。
「この辺よ!」
「そのとき寿ちゃんはどうしていたんだ?」
「あたしは二人とすこし離れていたの。それですぐ戻ったの。男が三人で、無理矢理にこの中に連れこんで行ったわ」
浩作は松林のなかを駈《か》けのぼった。松林をぬけきったところはせまい草原地帯で、浩作は、この草原地帯のはずれの方に、上半身裸になっている男を見た。百合子とチーちゃんの姿は見えない。
浩作は走った、距離は二百メートルはあったろうか。近づくにつれ、草に横たえられ押えつけられている二人の女の姿が見えた。百合子は胸をあらわにされ、その上に一人の男が馬乗りになっており、チーちゃんは二人の男に押えられていた。距離十メートルほどのところで男達は浩作に気がついた。
浩作は一気に走ると、百合子からはなれようとしている男の背中を一息に突いた。男が悲鳴をあげて前のめりになったところを、かまわずもう一度、こんどは上から肩を打ちすえた。男の背中が破れ、そこから血が溢《あふ》れ出ている。
「なんだ、てめえら!」
浩作は竹の棒を残りの二人に向けた。
「かっこいいところを見せてもらったな」
と二人のうちの一人が言った。そいつは登山ナイフを握っていた。二人とも二十五歳前後だった。百合子とチーちゃんはおきあがって浩作のうしろで服をなおしていた。
浩作はまず登山ナイフを握っている奴に竹の棒を向けた。剣道の構えでいえば八相のかまえである。登山ナイフを握った奴は浩作の正面に立って腰をおとして両脚をひらき、突進してくる構えだった。いま一人の奴は浩作の左側に立っており、こいつは石を握っていた。こういうときの喧嘩《けんか》の仕方を浩作は更級から習っていた。剣道で使われている竹刀《しない》のながさは百十八センチである。木刀は百八センチである。現在、浩作が振りあげている竹の捧は二メートルあるから、竹刀や木刀に比べて切先《きつさき》が届く距離がながい。もちろん浩作はこんな奴等を相手に剣術をやるつもりはなかった。
浩作は数歩前にふみ込むと登山ナイフを握った奴に竹をうちおろした、と見えたが、現実に胴を薙《な》ぎ払われたのは左側にいる石を握っていた奴だった。男は石をおとし、しゃがみかけた。浩作は容赦なくそいつの頭に正確に竹をうちおろした。目をまわしてしばらくは起《た》ちあがれないはずだった。
登山ナイフを握った奴は怯《ひる》んでいた。
「おい。どうした。かかってこないのか!」
浩作は今度は竹を槍にして構えると、男に詰めよった。
このとき、松林の方から真田と柴野と宮石が駈けてきた。
「あやまる」
と男は言うと登山ナイフを足もとにおいた。
「そうはいかんな。おまえらを婦女暴行罪で警察署につきだす」
「あやまるから勘弁してくれ」
男は草の上に膝《ひざ》をついてすわった。
「よし。あやまるのなら裸になれ」
「どうするんだ?」
「いいから裸になれ。パンツもとるんだ」
すると男はいきなり登山ナイフを握り毬《まり》のようなかたちで飛びかかってきた。浩作は左に躯を躱《かわ》すとうしろを向き、男の頭に棒をうちおろし、引いた棒で男の腰を突いた。男は前のめりに倒れた。浩作は登山ナイフをもぎとると、真田達をふりかえった。
「こいつらを全裸にしろ」
そして四人で手わけして、倒れている三人の男を全裸にした。
「柴野と宮石はその服をまとめてキャンプのところへ運べ。それから服のポケットやキャンプのなかをさがしてみろ。身分証明書のようなものがあったらとりあげておけ」
「もっと殴りましょうよ、先輩」
柴野が言った。
「もういいだろう。それより、こいつらを島から出られないようにしてやろう」
三人の男は動かなかった。浩作は手加減をして撃ったが、それでも相当に応えているはずだった。
一同は三人の男をそこに残し、松林をぬけて浜辺におりた。
「あいつら、日西製粉の社員ですよ」
と柴野がキャンプのなかで持物を調べながら言った。
「証明になるもの、つまり奴等の身分を証明するものは全部ぬきとれ」
浩作は命じた。
「どうするんだ、警察につきだすのか」
真田がきいた。
「いや、そんな手ぬるいことはしない。つきだしてみろ。やれ、現場検証だ、やれ、なんだ、と時間をとられて仕様がない。おい、宮石、船に戻ってマッチを持ってこい。奴等が海賊行為にでたのだから、こっちもそれ相応に報復してやるまでのことだ」
宮石がゴムボートで船にマッチをとりに行った。船の上からは古川洋介と実枝子がこっちを見ていた。
「どうして知ったんだ?」
浩作が真田を見てきいた。
「古川さんがさけんでくれた。あそこの崖《がけ》の下でもぐっていたのだ」
「とんだ茶番劇だ。日西製粉といったら一流会社じゃないか」
「どうするんだ?」
このとき、柴野が、マッチならキャンプにありますよ、と言いながらキャンプから出てきた。
「よし。奴等の持物を全部そのキャンプのなかに入れろ。そして火をつけるんだ」
「こいつは面白えや」
「古川さあん!」浩作は船を見てさけんだ。「錨《いかり》をあげてエンジンをかけておいて下さいよう」
「オーライ」
と古川洋介がさけびかえした。
「真田。みんなを船につれて戻ってくれ」
浩作は柴野のそばに歩いて行きながら言った。柴野はカンテラに火をつけ、それをキャンプのなかにいれ、上から奴等の衣服をかぶせていた。
「カンテラの燃料は石油か?」
「いえ、プロパンガスです」
「それなら炎を大きくしろ」
「おい、奴等が戻ってきたよ」
と真田が浩作の肩を叩《たた》いた。みると、三人の男は岩場の上からこっちを見おろしていた。
「おりてこい!」
と浩作が叫んだ。しかし三人の男は上半身だけこっちに見せ、おりてこようとはしなかった。
「真田。早く船に戻れ」
すでにキャンプからは煙が出ていた。
「大丈夫だ。女達はとっくに船に戻っている。おい、奴等がおりてきたよ」
「柴野、船に戻れ」
「先輩はどうするんですか?」
「キャンプが燃えつきたら戻る。早く戻れ」
三人の男がこっちに近づいてきた。一人は登山ナイフを握っており、あとの二人は棒切れと石を持っていた。
「おい、浩作、大丈夫か」
ボートの上から真田がさけんだ。
「早く戻れ」
浩作はそれから三人の男が近づいてくるのを待った。
「かかってこいッ! 日西製粉の下衆《げす》野郎ども!」
三人の男はもちろん素っ裸だったし、睾丸《こうがん》がさがっていることがはっきりわかったが、船の上からはわらい声もきこえてこなかった。
「どうした。もっと早くかかってこいッ!」
浩作は竹の棒を握ってさけんだ。
三人の男は浩作を三方から挾《はさ》んで詰めよってきた。
「浩作ッ、奴等の石に気をつけろ」
とボートの上から真田がさけんだ。
三人のうち一人が浩作の背後にまわった。
「おまえらの敗けだ。おまえら、みんな、きんたまが縮んでいる!」
浩作がさけんだ。これで勝負はきまったようなものだった。キャンプは炎をあげて倒れ、火のなかから爆発音がした。壜が熱で破れたのだろう。
浩作はいきなり背後を向くと、竹を槍《やり》にして、やあ! とさけびながら男にむかって走った。男は右に逃げた。浩作はそのまま海の中に走り、泳いでボートに追いついた。
「先輩、惜しいことをしましたね。乱闘場面を見物出来ると思っていたのに」
ボートの上から柴野が言った。
「馬鹿野郎。早くボートを漕《こ》げ!」
浩作はゴムボートの紐《ひも》につかまっていた。見ると、登山ナイフを握っていた奴が、ナイフをくちに銜《くわ》え、こっちに泳いできた。相当うまい泳ぎ方だった。
「もっと早く漕げ!」
浩作はさけんだ。水中での闘いにはまったく自信がなかった。しかしボートが船についた方がよほどはやかった。男は、ボートが船にひきあげられたときに船べりに泳ぎつき、浩作が上からうちおろした竹の棒の一撃で水の中に沈んで行った。船はすでに走りだしていた。
岸では二人の男がこっちを見て卑猥《ひわい》な罵声《ばせい》を浴びせていた。ナイフを握った男もやがて水中から顔をだし、南回帰号という名をおぼえておくぞう、とさけんだ。
「下衆《げす》野郎! 日西製粉をクビにならないようにしろ」
と浩作がさけびかえした。
一〇
南回帰号は進路を江ノ島に向けた。舵をとっているのは古川洋介で、浩作がシャワーを浴び服をつけて操舵室にあがったら、
「今度の航海で今日がいちばん愉快でした」
と古川洋介から言われた。
「僕もはじめて海賊みたいなことをしましたが、やってみれば結構たのしい運動ですよ」
「私は見物していた方がたのしい。またこのつぎもこのような航海ができますように、神に祈っておきましょう」
無責任というより、時間を持てあましている男の言葉だった。
「かわりましょうか」
「そう願いましょうか」
古川洋介は舵を浩作に渡すと、キャビンにおりて行った。
それからしばらくして栄子と百合子が操舵室にあがってきた。
「けっきょく、無事だったんでしょう?」
と浩作は百合子にきいた。
「もうすこしおくれてきてくれたら無事ではなかったわ」
「それを望んでいたのですか」
「半々というところだったわ。チーちゃんはだいぶこわがっていたけど、あたしなどはもう中年女の図々しさというのか、なるようになれ、といった気持だったのよ。考えてみたら惜しいことをしたわ。あんなこと、一生のうちに一度あるかないかでしょう」
「はなはだ穏やかならぬお言葉ですな」
「だって、試みるっていいことじゃないかしら、何事によらず」
「そんなものでしょうか」
浩作はやれやれと思った。この有閑マダムが最後に辿《たど》りつく場所はどんなところだろう、と想像したのである。
そこへ柴野がはいってきた。
「先輩。今朝とった鮑を刺身にしてくださいよ。舵は僕がとりますから。みんな腹がへっているんです」
「鮑だけか?」
「いえ、蛤《はまぐり》も栄螺《さざえ》もありますよ」
「よし。あまり速力をだすなよ。庖丁の手もとが狂うといかんからな」
浩作は舵を柴野に渡し、キャビンにおりて行った。
「どうも北ノ庄さんには一人四役くらいをおねがいして、申しわけございません」
古川洋介が言った。
「なに、おやすい御用です」
浩作は調理台の前に歩いて行った。ステンレスの流し台の上に、鮑が四つ、栄螺が十七、八個、蛤は五十ほど積まれていた。
「面倒くさいからみんな酒蒸しにしますよ」
浩作は古川洋介をふりかえって言った。
「なんでも結構です。食べられればいいんです」
古川洋介は実枝子とさしむかいで日本酒をのんでいた。
「朝、パンを一切れたべたきりだから、おなかがすいたわ」
寿子が調理場にはいってきて浩作を手伝ってくれた。
「その鍋に水をはってくれないか」
浩作は寿子に言うと、鮑に塩をふって揉《も》みだした。
「鍋を火にかけるの?」
「かけてくれ。十一月に嫁に行くのか」
「行くわ。ほんとは行きたくないんだけど、親がきめてしまったのよ」
「相手の男とあったのかい」
「一度だけ。私立の高等学校の先生なの。自分達一族で経営している学校だから、将来は校長になる人ですって」
「校長夫人か。けっこうな話じゃないか」
「それ、北ノ庄さんの皮肉なのね」
「そうとってもらってもいい。きみはいい子だから、校長夫人にはすこしばかりもったいないと思ったのさ」
「いい子って、どういう意味かしら……」
「いろいろな意味できみはいい子だよ。洋服の上から眺めただけの話だが、おっぱいと尻もかたちがよい。つらも十人なみ以上だし、背丈も頃合だ」
「北ノ庄さん、いつもそうやって女の子を誘惑するのね」
「そりゃ見当ちがいだ。ただ、俺は、きみをほめているにすぎない」
「ねえ、こんど、北ノ庄さんのところに遊びに行ってもいいかしら」
「歓迎しますよ。さて、湯がぬるんできたら、蛤を入れてくれないか。潮汁《うしおじる》をこしらえてやろう」
浩作は鮑をつぎつぎに塩で揉んでいった。
一一
浩作は、蒸しあげた鮑を一個もって操舵室にあがった。
「おい、下に行って食べてこい」
浩作は柴野に言うと、舵をかわった。彼は片手で舵をとり、片手で鮑をかじりながらウイスキーをのんだ。そして鮑をかじり終ったところへ、百合子があがってきた。
「ねえ、北ノ庄さん、あたし、すこしおかしいのよ」
と百合子は言った。
「どうしたんですか、蛤にあたったのですか」
「そんなのではないのよ。今日は朝から変な目にあっているでしょう。御存じのように、やられそこなったでしょう。だから、躯がすこし変なのよ」
「どんな風におかしいんですか」
「なにか、こう、もやもやっとしているのよ。このもやもやを、とりのけてくれないかしら」
「いまここでですか」
「いいえ、上陸してからでいいのよ、もちろん」
「柴野をつれて行けばよいでしょう」
「あの子、まだ若いからだめなのよ」
「やりそこなう、という言葉はあるが、やられそこなう、という言葉は文法的に成立するのかな」
「そんなこと、どうだっていいじゃないの。ねえ、このあいだのモーテルに行きましょうよ」
「今日あたりあそこは満員じゃないかな」
「どこだっていいのよ」
ところが、浩作は、どうも気がすすまなかった。
「真田がいるじゃないですか」
「さっき、あの人に話してみたのよ。そしたら、俺は今日は用があるからだめだというでしょう。あの人、本当は、チーちゃんに靡《なび》いてしまったのよ」
「あなたも柴野を靡かせたでしょうが」
「あたし、あなたに靡いてみたいの。もし出来たら、あなたを靡かせてみたいのよ」
「江ノ島につくまで時間はあります。柴野をつれて機関室に行きなさい。なるべくゆっくり走らせますから。実は僕も上陸したらすぐ用があるのです」
「どうやら、ふられたようね。ふられてもともとだけど。でも、電話して下さるお約束は必ず守ってね」
「それは守ります」
「では、ゆっくり走ってね」
百合子は浩作の手からウイスキー壜をぬきとると、ひとくちのみ、それから壜をかえしてキャビンにおりて行った。
ありゃ完全に色きちがいだな、と浩作は呟きながら船の速度をおとした。
しばらくして真田があがってきた。
「北ノ庄。相談があるんだ」
と彼は言った。
「女のことか」
「そうだ。あの百合子をなんとかしてくれないか」
「殺せというのか」
「正直のところ、持てあましているんだ」
「大島に捨ててくればよかったな。おまえ、気がつかないのか」
「なにを?」
「あれは色きちがいだよ」
「いや、俺もいまそのことを言おうと思っていたところだ。いちどくっついてしまったが最後、一時間はなれないんだな。いったい亭主というのはどんな男だね?」
「俺もよくは知らないが、やはり色きちがいじゃないのかな」
「あれは完全に陰部暴露症だよ。おまえはあれを精神病にいれていたな」
「実はな、あの女の亭主は精神科医らしい」
「なにか、怖い話だね」
「しかし、百合子は、おまえがチーちゃんに靡いてしまったとか言って、あぎらめていたよ」
「それが、実は、くちさきだけなんだ」
「見込まれた以上は仕方がないな」
「おまえに返すよ」
「返すといったって、はじめから俺のものじゃないよ」
「どうすればあの女と手が切れるだろう」
「呼びだしに応じなければいいだろう」
「それがそうは行かんのだよ。日に三度も会社に電話をかけてくるだろう……」
「誰か会社の同僚に譲っちまえばいいじゃないか。しろうとの人妻といえば、誰だって飛びついてくるぜ」
「そうしようか。……誰がいいだろう。しかし、どうやって譲る?」
「わけを話せばいいだろう。あんな女を好む男は案外多いよ」
「手伝ってくれるか」
「手伝ってやってもよいが……。おい、それより、あの女を、適当な値で売りとばせばいいじゃないか」
「売りとばす? どうやって?」
「男好きのする顔だろう。おまえが連れて歩くんだ。おまえの同僚とのみに行くときがいいだろう。酔ってくればあの女れいによって猥談をはじめるよ。色っぽい雰囲気《ふんいき》になる。そのときだよ、売り渡すのは。どうだ、三万円で買わないか、と持ちかけてみろ。一夜のちぎりだけではなく、色っぽい人妻を半永久的に自分のものに出来ると思えば、三万円は廉《やす》いものじゃないか」
「それは名案だな」
「だから、昼間あわないで夜にすればいい。あの女はいつでも自分の家を出てこれるんだから好都合じゃないか」
「よし早速やってみよう。うまく運んだら売れた額の半額をおまえに払うよ」
そして真田はほっとした表情をみせた。
一二
たった二日間の航海であったが、一同は、海の音をきき、海の幸を満喫して、江ノ島のヨットハーバーに戻ってきた。
「ああ、ああ、江ノ島についたとたんに、もう退屈しちゃったわ」
百合子が船からおりながら言った。
「しようがねえ女だな」
と浩作は呟きながら、真田に手伝ってもらって南回帰号を岸壁に繋留《けいりゆう》した。
「あの女につかまるといけないから、俺は早々に退散するぜ」
真田は浮き腰になっていた。
「大丈夫だよ。いま柴野がつかまっている」
クルーザーは、鎖でつなぎ、鎖の一端を岸壁に固定してある鉄輪に通して絡《から》ませ、そこに錠をかける。
栄子が浩作のそばによってきて、このつぎはいつ逢《あ》えるか、と小声できいた。
「電話をするよ」
浩作も小声で答えた。
「あなた、百合子さんに誘惑されないで」
「それは大丈夫だ」
「じゃあ、一足さきに帰るわ」
やがて古川洋介がクルーザーからおりてきた。
「どうもお疲れさんでした」
古川洋介は浩作のそばに歩いてきた。実枝子がうしろについていた。
「はい、これでいいでしょう」
浩作は鍵《かぎ》を古川洋介に手渡し、まわりを見た。寿子だけが残っていた。
「宮石はどうした?」
「百合子さんにつかまってタクシーに乗せられ、連れて行かれたわ」
寿子はわらっていた。
「かなしんでいるのか」
「ぜんぜん。あたしに関係がないもの」
「では、俺といっしょに行こう」
古川洋介は実枝子をつれてすでに道路にでていた。
「どこへ行くの?」
「俺の家だ。いやなら来なくてもよい」
「行くわ」
それから二人は道路にでた。いっしょに船に乗っていた仲間の姿は一人も見えなかった。
「みんなタクシーで帰ったんだな。きみは歩く元気があるかい?」
「あるわ」
「では歩こう。ここからなら、歩いて三十分だ」
「あたし歩くの好きよ」
「車は運転しないのか」
「まだ免許をとってないの」
「あんなものはとらない方がいい。人間、歩くのがいちばんいいんだ」
桟橋《さんばし》を渡ると片瀬の町で、私鉄の駅前をよぎって住宅街に入ると、そこら辺一帯が松ケ岡である。
桟橋では秋風が吹きぬけていった。磯《いそ》の香がする。
「おかしいわね」
「なにが?」
浩作は寿子を見た。
「ここに戻ってきたら、旅の感じがするのよ。大島ではそんな感じがしなかったのに」
「風のせいだ、それは、きっと」
「そうかしら」
「あんな馬鹿げた船の旅では、旅に出たという感じがしないよ」
「あの栄子さんて方、人の奥さん?」
「そうらしい。俺もくわしくは知らないんだ」
「ずいぶん仲がよさそうだったわ」
「そう見えただけだろう」
「ずいぶん陽灼《ひや》けしたわ」
「夏の陽灼けとちがい、なかなか落ちないだろう」
「黒いから嫁にもらうのはいやだ、と向うが言ってくれないかしら」
「そんなに行きたくないのか」
「行ってしまったら遊べないもの。二人きりで家が持てるわけじゃなし、教育者の両親がそろっている家で、一日中暮していくのだと思うと、やりきれないわ」
「本当に行きたくないのなら、そのように方法を講じればいいだろう」
「どんな風に?」
「不品行なところを相手に見せつければいいんだ。たとえば、宮石あたりをその教育者の家に連れて行き、ボーイフレンドだと紹介するんだな。こりゃ一度で破談になるよ」
「そんな勇気ないわ」
「右にまがるんだ」
浩作は私鉄の駅前から右にまがっている道をはいった。
「二日間シャワーばかり浴びたが、帰ったらすぐ風呂《ふろ》を燃そう」
離れにある風呂は、古びた檜《ひのき》の風呂桶《ふろおけ》で、浩作はいつも庭の松葉をかきあつめて燃していた。食事は母屋に行ったり行かなかったりの生活だった。そうだ、今日あたり、鶏肉の燻製《くんせい》でもこしらえてみようか。この娘と燻製をたべるのも悪くないな、と考えた浩作は、
「きみに、ほんものの鶏の燻製を御馳走《ごちそう》してやろうか」
と寿子をみて言った。
「ほんものって、よく鶏肉屋で売っているのとちがうのかしら」
「あれはインチキだ。よし、こっちに曲ろう。鶏を一羽買って帰ろう」
浩作は、今度は十字路を左にまがって行った。
一三
鶏の燻製のこしらえかたを浩作に教えてくれたのは大磯の更級だった。彼は、睡っているとき以外は、今日はなに酒をのみ、なにを食べようか、これしか考えていない男だった。
鶏の燻製は、まず内臓をとりだし、内臓をきれいに料理する。きれいにした内臓を再び腹に詰めこむ。このとき、セロリとか大蒜《にんにく》をいっしょに詰めこむこともある。それからこの鶏に塩をふって蒸龍《せいろう》でむしあげるのである。三時間くらいかけてじっくり蒸しあげると、鶏からは余分の脂がとりのぞかれ、軟らかく締まった肉になる。蒸しあげた肉はもちろんそのまま食べられる。
こうして蒸しあげた肉を燻《いぶ》すのである。これがまことに原始的な燻しかたであった。浩作は、更級の家の庭にこしらえてある竃《かまど》をまね、自分の家の庭に肉や魚を燻すかまどをこしらえてあった。
更級のところのかまどは、彼の書斎の前の庭にこしらえてあった。浩作がはじめて彼のこしらえた鶏肉の燻製をたべたのは、大学二年の秋だった。
「今日は鶏と野鳥の燻製のこしらえかたを教えてやるから、熊手で庭の松葉をかきあつめろ」
とその日更級は言った。
かまどというのがの字型に築いた石垣であった。浩作は以前から、ごみを焼くかまどにしては凝りすぎている、と考えていたが、肉や魚を燻すかまどだときいたとき、なるほど、と思った。石垣は、高さが五十センチ、辺の長さが八十センチの正方形であった。
「なにゆえに松葉で燻すか、松葉がふくんでいる香、味、匂《におい》が人間のからだに良いからである。松葉はオゾンをふくんでいる。オゾンはもともと防腐、殺菌、漂白作用をなす。たとえば、まいにち、青い松葉を三本、噛《か》んで汁を吸ったとする。この人間は癌《がん》にならないな。したがって、松の葉で燻した肉や魚を食べるのは、からだによいわけだ。かきあつめた松葉は、なかに乾いたのがある。乾きすぎた松葉には、オゾンがない。だから、なまの松葉をむしって、こうやって乾いた松葉にまぜる」
更級は、かまどのなかに松葉を積みながら言った。それから彼は、蒸籠から鶏をとりだし、尻からのどにかけて青竹の串《くし》を二本刺した。
「竹もオゾンをふくんでいる。串は青竹でなければならない。寿司屋《すしや》が寿司を折りにつめるとき、青笹《あおざさ》の葉を添えるのは、笹の葉が、魚が腐るのを防ぐ作用をなすからである。竹はからだによい。おぼえておけ」
そして更級は串刺しにした鶏を石のかまどに掛け、下の松葉に火を点じた。やがて松葉は煙をふきあげはじめた。
「炎がでるような燃やしかたをしてはいけない。燻すのである。雉子《きじ》、雀《すずめ》、山鳩《やまばと》、鶫《つぐみ》などは、なまのまま燻した方がよい。鳩は野生のものがいちばんおいしい。青年時代、鎌倉|八幡宮《はちまんぐう》の神域の鳩をつかまえて焼いてみたが、奴ら、餌《えさ》をたべすぎて肥《ふと》った女のような味で、きわめてまずかったな」
更級は串刺しの鶏の串を手でゆっくりまわした。
「松葉のほかに燻すのに適したものはありませんか」
と浩作はきいた。
「丁子《ちようじ》の葉がよいが、これはアフリカ、西印度に行かないとない。したがって丁子油を鶏に塗るとよい。丁子油でにおいをつけた煙草を喫《の》むと、肺癌にならずに済む。まあ、燻すのによい葉は、ほかには、杉、椿《つばき》、沈丁花《じんちようげ》、木蓮《もくれん》、朴《ほお》などがよいが、しかし松に勝《まさ》る葉はない。春なら水仙の花をいぶしてもよい。いまだと、菊の花をいぶしてもよいが、これは野菊にかぎる」
「魚はなんでもいいんですか?」
「いや、燻すのに適した魚がある。まず、鮭《さけ》、鱒《ます》、鰊《にしん》、室鰺《むろあじ》がいいな。蛸《たこ》もよいが、こいつは生きている奴を燻したのがいちばんおいしい。奴は、燻されると墨を吹く。一昨年の夏だったか、俺は、雌蛸を燻したことがあった。ところが、仕立ておろしの上布に墨を吹かれちまってな、四万円をふいにしてしまったよ。俺は彼女を丹念に燻してやったよ。目を剥《む》いて俺をにらんでいたが、あれは、蛸の天命というものだったろうな。おい、浩作。ていねいに燻しあげろ。その間、俺は、連載小説を一回分仕あげるから」
更級はこう言いおいて書斎にあがって行った。
こうして習いおぼえた燻製法が、いまでは浩作の特技のひとつになっていた。
一四
「面白いわ。燻製って、こうやってこしらえるのね」
寿子は青竹の串をまわしながら珍しがっていた。
「そうやって燻していてくれ。俺は風呂加減を見てくるから」
浩作は寿子を庭にのこし、茶室の裏口にまわった。いつもは風呂には松葉を燃すが、今日は薪《まき》をくべていた。鶏を蒸すのに薪をおろしたからである。肉を燻すのは一時間もかければ充分だった。永く保存するのなら二時間ほど燻す。
陽が暮れかけていた。浩作は風呂の湯をかきまわしながら、おかしな娘だな、と寿子のことを考えた。順応性に富んだ性格の娘だった。
浩作は、かまどに薪を二本くべ足しておき、庭に戻った。
「風呂にはいらんか」
「あたし? いいわよ、あたしはあとで」
「俺が燻しているから、はいってこいよ。きみがはいり、俺が風呂からあがる頃には、燻製は出来あがるよ。そしたら、とっておきの葡萄酒《ぶどうしゆ》をぬこう」
「じゃ、はいってこようかしら」
寿子は松葉をかまどに投げいれてから起《た》ちあがった。
「宮石はいま頃は百合子さんにつかまって音《ね》をあげているな。きみは彼とはつきあいがながいのか?」
「三か月ほど前からよ。全共闘で知りあったの」
「きみはどの派に属しているの?」
「あたしは中核。宮石さんも中核だったの」
「学生運動は、やっていて面白いかね」
「石を投げたり建物をぶっこわす時だけはすうっとするけど、あまり面白くもないわ」
「宮石はきみを好きなんじゃないかな」
「そんなことわからないわ。あたし達、どことなく刹那《せつな》的なのよ。好きとか嫌《きら》いとか言っても、その場だけのことで、明日になればもう忘れているもの」
「とにかく風呂にはいってきたまえ」
「じゃ、はいってくるわ」
寿子は裏口に歩いて行った。
浩作は、部屋からウイスキーとコップを持ってきて、ウイスキーをのみながら鶏を燻した。鶏からはときどき脂が滴りおち、じゅうと音がして灰が舞いあがる。
「あら、燻製をこしらえているの」
兄嫁の杉子がきてうしろに立っていた。
「出来あがったら半分進呈しますよ」
「お客さん?」
「ええ。いま風呂にはいっています」
「浩作さん、このあいだのお写真のお嬢さん、先方は、乗気なのよ」
「会ったってしようがないですよ。木刀造りだけで女を養って行けるものでもありませんしね」
「向うさまは、それでもいいとおっしゃっているのよ」
「なにをやっている家ですか?」
「お菓子の製造工場を経営しているのよ」
「お菓子か。酒屋さんなら見合をしても悪くはないが」
「なにを言っているのよ」
「売れのこりにしてはとしが若いし、まあ、会うだけ会ってみましょうか。しかし会うことで、なにか責任を感じると困るな」
「いい娘さんなのよ」
「やはり、会うのはよしましょう。こちらに意志がないのに会うのは、どうもよくない。だいいち、結婚したって、棲《す》むところがないし、金もない」
「ここに棲めばいいじゃありませんか」
「相手は箱入娘でしょう」
「箱入娘は現代では珍しいのよ」
「どうもいけません。気がすすみませんよ」
浩作はウイスキーをひとくちのみ、それから竹串をまわした。
「お客さんて、真田さんなの?」
「いや、ちがいます」
浩作はすこし慌てて答えた。
「女のお客さんなのね」
「え、まあ、そういうところです」
「遊ぶのもいいけど、そろそろ身を固めないとだめよ。とにかく、会うだけ会ってみなさいよ」
「そうですね、せっかくだから、会うだけ会いましょうか。しかし、会うだけですよ。それで姉さんの顔がたつのなら。ところで、その菓子屋さん、姉さんのどういう知りあいですか」
「あなたが会う人のお姉さんが、わたしの学校時代の同級生。磯村《いそむら》さんよ。ここにも何度か見えていますよ」
「ああ、あの人の妹さんか」
浩作は、磯村という女をおぼえていた。近くに私立女学園があり、そこの幼稚園に兄の娘と磯村という人の娘が通っていた。ときたま、磯村という女の人が姉のところに立ちよっていた。
「きれいな人でしょう。磯村さんが、うちの妹をあなたの弟さんにどうかしら、と言ってきたのよ」
「見込まれたわけですか。会うだけは会います。しかし、どうも気がすすまんな」
「すぐ連絡してみるわ。見合は東京のどこかがいいかもしれないわね」
「大袈裟《おおげさ》にしないでくださいよ。普段着のまま、なにげなく、といった見合がいいですよ。しかし、見合をするなんて、考えてみると、われながらおかしい」
「あとで鶏をちょうだい」
兄嫁はにわかに現実的なことを言いのこし、母屋にひきあげて行った。
一五
海の音がしている。夕方から風が出てきていた。風のない日は、ここまでは海の音はきこえてこない。海岸道路を往還している車の音が入りまじる夜もあった。風がやんでも海の音がきこえてくる夜もあった。それはたぶん風の余波なのだろう。そして、突然、海の音がやむこともあった。それは、まったく風が鎮まったときであった。
「海ではまだ風の余波がたっている」
と浩作は言った。
寿子は目を閉じており、返事をしなかった。こぢんまりした躯であった。
「あの風、もうじきやむのよ」
寿子がしばらくして答えた。
「わかるのか」
「わかるわ。小さいときからきいている音ですもの」
「きみはいい子だよ」
「どういう意味?」
寿子は目をあけた。
「いろんな意味でいい子だ」
「わらっていらっしゃるみたい……」
「わらってはいない。……やはり、刹那的なのかな、きみは」
「そうだと思うわ」
「日本はむかしはこうではなかったらしい。きみのような女は、もっとも家庭的な女になれる女なんだな、ほんとうは」
「あら。あたし、とても家庭的な女になれると思うわ。……北ノ庄さんの奥さんにしてくれれば、いちばん家庭的な女になれると思うわ。でも、それは望まないわ。望んでもだめだとわかるもの」
「俺は家庭的な男になれる性格ではない。ただ、きみがいい女だということはわかる」
「味がない男って、きらいよ」
「そんな男がたくさんいたのか」
「三人しか知らないのよ。三人とも味がなかったわ」
「それなら、味がある男というのがどうしてわかる?」
「お馬鹿さんねえ、北ノ庄さんは」
「なぜ刹那的なのかな」
「平和だからよ」
「なるほど、すると、希望なんてものはないな」
「ないわ。なにか強いものが目の前に現れてくると、そんなものに惹《ひ》かれて行くわ。でも、今の時代には、そんなもの、なんにもないでしょう」
「だからゲバ棒をふるうのか」
「そうだと思うわ。もちろん、なかには、何故ゲバ棒をふるうのか、目的をもって動いている学生もいるのよ。でも、大半の学生は、目的もなしに動いているのよ」
「セックスもゲバ棒みたいなものだろう。あれは、言いかえると、学生達の感傷にすぎないのじゃないかな」
「なんでもいいのよ、さわげば、それで気がすむのよ」
「目的があってゲバ棒をふるう学生は、なにを目的にしているのかね」
「革命よ」
「革命か。なんの革命だろう」
「平和な日本に安住している人達を変えるためよ」
「きみは、国家権力について考えたことがあるかい」
「それはあるわ」
「ゲバ棒で国家権力を変えられると思うかい」
「それはだめだと思うわ」
「とすれば、もっと有効な手段を用いるべきだよ。ゲバ棒をふるったって国家権力は変えられないだろう」
「でも、それが青春じゃないの。北ノ庄さんは学生運動をしたことがないの?」
「俺は剣に夢中になっていた。集団行動が出来ない性格なんだな。剣もひとつの集団行動にちがいないが、俺はいつも独りで剣をふっていた」
「それで自分を視《み》つめていたの?」
「さあ、それはどうかな。それほど内省的な精神は、俺にはなかったよ」
浩作は寿子の下半身に手をのばした。寿子が目を閉じた。虫のなく声がしている。要するにこれは遊びにはちがいないが、大島の帰りにひろった女を、自分の家につれこみ、風呂に入り、鶏をたべ、そして酒をのんでいっしょに寝ただけにすぎない、いったい、これはなんだろう、この娘は十一月には嫁に行くと言っている、相手は学校の先生だという、遊び好きな娘というわけではないのに、平気でいろいろな男と床をともにしている……いったい、日本人はどうしてこうなってしまったのか……。
海の音がやんだ。余波が鎮まったのだろう。
「今夜は帰るのだろう?」
「帰らなくともいいのよ」
寿子が目をあけた。
「大島に行っていることになっているのか」
「そうよ。追っぱらいたいの?」
「いや。きみはいい子だ。朝までいっしょにすごそう」
「北ノ庄さんとこんなことをするなんて、ちょっと哀《かな》しいわね」
「なぜ?」
「いいの。こっちのこと」
寿子は再び目を閉じた。
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東京の市場
銀座《ぎんざ》に、いったい何軒のバーがあるのか、たぶん、その数を正確に知っている者はいないだろう。そこで働いている女の数を正確にかぞえた者もいないだろう。真田茂は月に三度ほどの割りで銀座のバーに出かけていたが、自前で行ったことは一度もない。だまってすわっただけで五千円のチャージがかかるバーに、二十八歳のサラリーマンが、そう簡単に出入りできるわけがなかった。たいがい社用でバーに行くのであった。いわゆる社用族のはしくれだったのである。チャージは一人すわっても三人すわっても五千円であった。とすれば、仲間をかたらってバーに行く、という手もあった。こうすると、いわゆる割り勘で一人あたりの勘定が廉《やす》くつく。真田はもっぱらこれを利用していた。
バーも心得たもので、社用族からはきちんと料金をとっていたが、自前の客からは無体な金はとっていなかった。ウイスキーをあずかっている会員制のクラブのバーは比較的やすいといわれていたが、しかし計算してみると、ここも廉くなかった。まずウイスキーを定価の三倍の値で買わされる。それをあずけて飲みに行くと、つぎのような勘定になる。付足《つけたし》の煎餅《せんべい》か南京《ナンキン》豆が三百円、それを運んでくる、ビジター料五百円、このビジター料金というのが、わけのわからない料金であった。ビジターはvisitorで来客という意味である。それから壜詰《びんづ》めの水の小壜を二百円で買わされる。この水は小売値三十円もしない。それからオードブルと称する皿を運ばれ、これは千円である。そして、これに一割の税金がつく。勘定書を見ると、付足は付出になっている。煎餅か南京豆は酒の付足だが、付出は勘定書という意味であるのに、平気で付出という字をあてはめている。経営者が字を知らないのである。税金がついているのに、正式の領収証をよこす店はまずない。
「銀座が高いというが、新宿《しんじゆく》や四谷《よつや》のスナックバーだって高いよ。バーなんて、けっきょくは、人肉市場だよ。だから俺《おれ》は最近はもっぱら女のいないクラブに行っている」
と浩作は更級に言われたことがある。そして、二度ほど、その女のいないクラブに連れて行ってもらった。銀座六丁目の角にあるビルで、一階が七輪《ななわ》という宝石屋、地下がメコシカムというレストラン、そして三階がメコシカム倶楽部《クラブ》というバーであった。そのクラブは午後四時から午前二時までやっており、更級の言う通りほんとに女がいなかった。
「バーというのは酒をのみに行くところだ。それがわかったら、以後は女のいるバーに行くのはやめた方がよい」
とその日更級は言った。贅沢《ぜいたく》な造りの広々としたクラブであった。
「メコシカムというのはフランス語ですか?」
「知らんね。経営者がフランス文学を専攻した美人だが、メコシカムというフランス語はきいたことがない。アフリカのマサイ族の言葉に、メコシカムというのがある。紳士という意味だ。それかも知れない。マサイ族は、食べる、という意味にもメコシカムを使っている。アイ、メコシカム、ユーと言えば、俺はおまえを食いたいという意味だ。アイ、ラブ、ユーと同じ意味だろう」
「女のいるバーには行かれないんですか?」
「行かんね。面白くないからな。こうした静かな場所で酒をのむのがいちばんよい。女は魔物だ。女には近づかない方がよい。〈日本霊異記〉という本がある。このなかに、寺の坊主と密通した妻が、夫に見とがめられ、妻が夫の魔羅《まら》にかみついて殺す場面がある。女は妖怪変化だ。気をつけた方がよい」
浩作が、真田によびだされたのは、このメコシカムだった。取引の相手がメコシカムの会員だったのである。
浩作がメコシカムについたのは八時すぎで、百合子はすでにかなり出来あがっていた。酒のまわった百合子はすこぶる色っぽい。それでなくとも男好きのする顔だから、取引の相手の五十男は目を細めて百合子を見ていた。
「取引先の会社の部長だよ。おまえの持物だと言ってある」
と真田がささやいた。
「部長なら値あげだ。三万円じゃ、いくらなんでも百合子がかわいそうだからな」
「いくらにする?」
「じきに暮のボーナスがでるな。あの部長の月給はいくらだ?」
「よくは知らないが、二十万円ちかいんじゃないかな」
「そのたんびに女を現地調達すれば、かなりの出費だ。相手は人妻だから、そのつど出費せずに済む。二十万円でどうだろう」
「出すかな」
「出すよ。百合子にぞっこん参っているらしいからな」
「じゃあ、部長を別室に連れて行くよ。そこで商談をすすめてくれ。その間、俺は、百合子を相手にしているから」
「百合子には因果を含めたのか?」
「いや、言わない方がいいと思ってな」
「その方がいい。あの部長、なかなか好男子だ。みたところ、五十二、三というところだな。三十三歳の人妻が相手なら、申分ないじゃないか」
「あの部長の奥さんというのが、部長より二つとしが多いんだよ」
「梅干だな。それなら、この商談は成立する。では俺は向うの小部屋に行っているよ」
浩作は起ちあがり、小部屋に行った。やがてボーイが浩作の飲みかけのウイスキーを運んできて、間もなく取引の相手がはいってきた。
「譲りたいとおっしゃるのは貴方で?」
相手は遠慮がちにきいた。
「そうです。品物は上物かと思いますが。真田からすでにおききおよびかと思いますが、金持の医者の奥方です。昼でも夜でも欲しいときに呼びだせる女です。しかし芸は売っても身は売らない女です。したがって、きわめて貞操堅固です」
「お譲りになるのは、その、なんですか、飽きてきたから……」
「とんでもない。あんないい女は、そうざらにはいませんよ。じきに年末でしょう。冒険はしたいし、しかし金はない。お察し下さい、われわれ青年は、あなた方御年輩の方とちがい、金がないのですよ。手放すのは惜しいのですが、背に腹はかえられないので、泣くなく手放すわけですよ」
「もちろん取引は今日きりですね」
「それは申すまでもありません」
「それで、値段ですが……」
「掛値なしの二十万円です。なにしろ門外不出の奥方をあそこまで教育したのですから、本当は四十万と申しあげたいところです。しかし、相場というものもあり、そうそう、これはさきに申しあげるべき事でしたが、僕はその二十万円で友人から別の女を譲り受ける次第になっているのです」
「乗り換えですか」
「そうです」
「ほほう! どんな女ですか」
相手はにわかに新たな興味を示した。
「これは黒人女です」
「ほほう! それは珍しい」
「興味がおありでしたら、そのうちにこれもお譲りしましょう」
「どうでしょうか、十五万になりませんか」
「それはちょっと無理というものでしょう。銀座の女一人の面倒を見るとなると、毎月の手あてだけで二十万はかかりますよ。ところが、こちらは素人《しろうと》の人妻で、半恒久的で、たったの二十万円じゃありませんか」
「ま、それはそうですが……。如何《いかが》でしょう。今日、半額の十万円の小切手をきりますが、あとの半額は、ボーナス時に、ということにして戴《いただ》けませんでしょうか」
「それはかまいませんが、あとの半額を、先付小切手にして戴けませんか。なにしろ、黒人女を譲ってもらうのに金が要るものですから」
「先付ですか……」
相手はしぶった。
「あの女が名品だということは保証します。事実に反していたときは、もちろん、賠償の責任をとらせてもらいます」
「いいでしょう。あなたを信用しましょう」
相手はそこで上衣《うわぎ》の内ポケットから小切手帳をとりだし、額面五万円の小切手を四枚切り、そのうちの二枚を先付にした。
「これは五万円まで銀行が支払いを保証する小切手です。ですから四枚切りました」
浩作が四枚の小切手を受けとって見ると、バンクギャランティチェックと称する小切手だった。なるほど、小切手の左側に、赤い小さい字が刷ってあり、額面五万円以下でかつ金額訂正のない小切手をカードの記載事項にしたがってお受け取りになった場合には当銀行の保証を受けられます、と読めた。
「これで取引は紳士的に成立いたしました。よい年末を」
浩作は小切手をポケットに納めながら言った。
「もちろん、今夜から取引は効力をもつでしょうね」
「もちろんです。手放すのは惜しいのですが、ああした名品をいつまでも独りじめにしておくのは、社会的観点からいっても、どうかと思いまして、まあ、大決心をしたわけでした」
「こんなことはお訊《き》きするまでもありませんが、あの人には、余分なもの、つまり、スピロヘーターのようなものは、付録としてついていないでしょうね」
「われわれは心身ともに健全な日本の青年です。それに、相手は医者の奥方です」
「いや、どうも、失礼なことをおききしました。では、私は、これで」
「まず、われわれが先に、なにげなくこのクラブから出ましょう。それからあとは、あなたの腕次第です。では、これにて」
浩作は小部屋をでると、真田に目くばせし、クラブをでた。そして一階の出入口で待っていたら間もなく真田がおりてきた。
「どうだった?」
「二十万円で成立したよ。しかし、半額の十万円は先付小切手だ」
「不渡りにならんだろうね」
「大丈夫だ。しかし、現金に替えないと使えないな。よし、明日、百合子のところに行き、現金にかえてもらおう」
「大丈夫かい」
「大丈夫さ。では、すぐ引きだせる方はおまえに渡しておこう。俺は先付をもらっておく」
「どうだろう、あの栄子という女も売りとばさないか」
「しかし、あの女はまっとうだよ」
「変な仏心をおこすなよ。買手を見つけてくるからさ」
「百合子のように自由がきかない女だぜ。昼間しか出られないよ」
「それを買手に承知させればいいじゃないか」
「いや、駄目だ、百合子は、おまえが持てあましていたから売った。栄子はだめだ。ただし、おまえになら譲り渡してもよい。その小切手をよこすか」
「これはだめだよ。せっかくの十万円だ。有効に使わせてもらうよ」
「いまなら十万円でいいがね」
「いや、よすよ。それなら、寿子とチーちゃんを売ろうか」
「あれはおまえ、嫁入り前じゃないか。あれはいかんよ」
「嫁に行く前だからいいじゃないか」
「いや、いかんよ。百合子は色きちがいだから売り渡したのだ。そこのけじめをはっきりさせておけよ。変なまねをすると、あとで大変なことになるよ。ま、なんにしても、取引成立を祝って一杯いこうや」
「百合子を手放したはいいが、女がいないとすぐ困るのはこっちの方だ」
「拾えばいいだろう。おい、一杯のみに行こう。銀座はおまえの縄《なわ》ばりだ、おまえにまかせるよ」
「とかなんとか言って、俺に勘定をはらわせるつもりか」
「だまってどこかに案内しろよ」
「蛇《へび》に見込まれた蛙《かえる》になるか」
そして二人はメコシカムの前をはなれた。
「どこに案内してくれるんだ?」
「勘定を半分もつなら、美人のいるバーに案内するが……」
「わかった。半分もつよ」
「では、最初に、ここから近い林檎屋《りんごや》に案内しよう。つぎは鼻というバーにしよう」
「ハナ? フラワーの花か」
「いや、眉《まゆ》と目と鼻のハナだ」
「そこのママは鼻が大きいのか?」
「小さいよ。美人だ。鼻のつぎに、デブのママがいる魔の里に行こう」
「魔の里……魔羅《まら》に関係があるのか?」
「おいおい、その店にいるのは女だよ」
「女は魔物という意味か」
「そうそう。では、まず、林檎屋に行こう」
林檎屋は、メコシカムの前から歩いて五分ほどの場所にあった。あるビルの三階に店があり、二人がそこに入ったら、店内は満員だったが、テーブルがひとつだけ空いており、二人はそこに案内されて行った。
「なんだ、萎《しな》びた林檎ばかりじゃないか。水分のない女ばかりじゃないか」
と浩作は席につくなり店内を見まわして言った。
「はじめて来たくせにけちをつけるなよ。みんな処女なんだぜ」
「男をしらないまま年月を経た女ばかりということか」
「そうではない。ようく見ろよ、美人がいるだろう」
二人はウイスキーの水割りをもらった。女が二人きて浩作と真田のそばに腰かけた。真田のそばに掛けた女はクレオパトラみたいな髪のかたちをしており、浩作のそばにきた女は和服だった。
「あら、こちら、はじめてのおかたね」
と和服の女が言った。
「そいつはスポーツ用具屋さんだ」
と真田が言った。
「スポーツ用具屋って、野球のバットとかボールを売るお店のことでしょう」
「いや、そいつは木刀を売っている」
「木刀? あら、木刀って、スポーツ用具なの?」
「木刀はスポーツ用具ではない。あなたはいいことを言ってくれましたね」
浩作はかたわらの和服の女を見た。小柄で、着物の趣味もよかったし、なかなかの美人だった。
「あら、うれしい。ほめられたのかしら。でも、バットと木刀のちがいくらいはわかるわ」
「そいつのこしらえる木刀は一本二万円はするんだ」
と真田が言った。
「林檎屋か。すこぶる古典的な名の店だ。女も古典的かね」
浩作はかたわらの女に訊いた。
「さあ、どうでしょうか。でも、みんな、地味な子ばかりよ」
「それはいいことだ。人間、なにごとにつけ地味な方がいい。おい、真田、二軒目に案内しろ、鼻とかいう店だったな」
浩作は水割りを一気にのみほすと、もう席を起っていた。
「おい、あそこは俺のつけにしてあるが、あとで半分はらってくれるだろう」
林檎屋をでたとき真田が言った。
「だまってつぎの店に連れて行けよ」
「鼻か。もちろんそこも割り勘だよ」
鼻は八丁目にあった。やはりあるビルの四階にあり、ここも客はいっぱいだった。
「平和なんだな。不幸なことだ」
浩作は店に入って席につくなり言った。この店にはカウンター席がなかった。
「なぜ不幸なんだ?」
真田がきいた。
「日本は金があり余っているわけでもないのに、どうしてこんなにクラブとかバーが流行《はや》るんだろう。さしずめ、おまえなどは、社用族の卵みたいな人種だな。なぜこんな場所で金を使うのか。目的は酒か女か。酒ではないな」
「野暮なことを言うなよ。結局は、バーという雰囲気《ふんいき》が好きなんだな」
「鼻とは妙な名をつけたもんだ」
浩作が言うと、かたわらのホステスが、目というバーもあるのよ、と言った。
「それなら臍《へそ》という店もあっていいな」
「それはそうね」
客が煙草をくちにくわえると、さっとマッチをすってくれる。かなりの早業である。サービス過剰と言ってもよい。
「おい、真田、つぎの店に行こう」
浩作はウイスキーの水割りを一杯あけたところで席をたった。
つぎの店は魔の里という店で、ママというのがものすごいでぶだった。
「なるほどね、化粧している目にしても、あの目、魔の里という目だな」
浩作が真田に言った。
「ママのことか」
「目方どのくらいあるんだろう。十九貫はあるかな」
「そんなにはないだろう」
「まあ、とにかく、これで、おまえが通っている東京の市場の様子がわかったよ。さて、俺はこれで帰るよ」
浩作はここでもウイスキーの水割りを一杯あけたところでたちあがった。
「おい、割り勘、忘れないでくれ」
入口まで見送ってきた真田が小声で言った。
浩作は魔の里を出ると、新橋《しんばし》駅にむかった。どうしてこんなにバーが多いのだろう、と浩作は道の両側にならんでいるネオンを眺《なが》めながら、これは遊里というものではない、一種の市場だ、と浩作は考えた。
かつての色里には情緒があった、と浩作は小説などを読んできて知っていた。ところが東京の現代の市場には、ひとかけらの情緒も見あたらなかった。浩作がこう思ったのは、あるいは更級からいろいろ話をきかされていたせいかも知れない。
「銀座のバー? 行くところじゃないよ。むかし、といっても昭和三十年頃までは、店がひけると、下宿先かアパートに、お茶でものみによっていらっしゃいよ、などとさそってくれた女の子がいた。さそわれてよってみると、その子の生活のにおいがしている部屋なんだな。ところがいまの子は、冷暖房つきのマンションに棲《す》み、男から金をまきあげることしか知らない。あれではまるで人肉市場だよ。バーなどに行くものではない。屋台か一杯のみ屋に行った方がいいよ」
と更級は言っていた。だから更級は、メコシカムのような女のいないクラブに行って酒をのんでいるのかも知れなかった。
浩作は道の両側のバーのネオンを眺めて新橋にむかいながら、なんにしても俺などのくるようなところではないな、と考えた。
あくる日の昼すこし前に、浩作は百合子を訪ねた。手伝女に通されて百合子の部屋に入ったら、百合子はまだベッドのなかにいた。
「昨夜はおたのしみで……」
と浩作が言ったら、百合子はわらっていた。これでは自分が売られたことを知らないのだ、と浩作は小切手を二枚とりだし、
「これ、一週間の先付ですが、現金に変えてもらえますか」
と訊いた。
「いいわよ。いくら?」
「十万円です」
すると百合子はサイドテーブルの上からハンドバッグをとりあげ、なかから一万円札をかぞえて取りだし、浩作の前においた。
「昨夜の紳士、あなたの知りあいなの?」
「いや、あの人は、真田の取引先の会社の重役ですよ」
「ところで、ちょっと、ここに入らないこと」
「いや、もうじきに昼ですから、遠慮しましょう」
「遠慮することはないわよ」
そこで浩作はちょっと考え、いま目の前にいる女を売ったこと、売った代金のうち先付小切手をこの女に現金化してもらったことなどに思いを馳《は》せ、やはりベッドに入ってやるべきだろうか、と迷った。
「さ、お入りください」
百合子は、自分の躯《からだ》をベッドの片側によせた。
「ここで、そんなことをしていいのかな」
「大丈夫よ」
そこで浩作は、いくらかの後めたさのために、ベッドに入った。そして、やれやれ、と思った。相手は肉蒲団のような躯だった。しかし、なんにしても、見込まれた以上は仕方がないので、所定の手続きにしたがって行動をおこした。
「大島《おおしま》から戻ったらすぐ電話をくれると言っていたのに、あなた、嘘《うそ》つきね」
百合子は下から浩作を見上げて言った。
「なにしろ木刀の注文がたまっていたもので、つい……」
浩作は、二時には藤沢駅から東京行きの電車に乗らねばならなかった。水道橋《すいどうばし》の能楽堂に、里子を案内する約束をしてあったのである。スエーターに下駄《げた》ばきで来たから、一回家に帰らねばならなかった。
ところが百合子はなかなか浩作をはなさなかった。それに、浩作は、おちこんでしまったらなかなか離れられない躯であることを知っていた。肉蒲団といっても、そんなひどいものではなかった。
そんなわけで、浩作は、けっきょく、下駄ばきにスエーター姿で東京に出かけた。家に戻る時間がなかったのである。里子とは、水道橋の駅前でおちあう約束をしてあった。いっしょに能を観《み》る約束をしたのは、浩作が大島から帰ってきてからすぐだった。
「なんてことだ。下駄ばきじゃ、いくらなんでもあのひとに申しわけない。東京におりたら靴《くつ》を一足買おう」
しかし、東京駅や水道橋のすぐ近くに靴屋があるかどうか思いだせなかったので、浩作は新橋で湘南電車からおりた。
そして彼は銀座八丁目のある靴屋に入り、スエードのスポーツ靴を買い、下駄とはきかえた。靴下ばきで下駄をつっかけて出てきたから、とにかく靴だけ買えばよかった。
それから彼はタクシーで水道橋にかけつけた。駅前についたときは約束ぎりぎりの時間だった。
そして、浩作は、藍地《あいじ》の塩沢紬《しおざわつむぎ》に同系列の羽織を着た里子を人混みのなかに見出したとき、すこぶる幸福だった。
「お待ちになりましたか……」
「いいえ。それより、北ノ庄さん、上衣《うわぎ》も着ないで寒くありませんの」
「なに、大丈夫です。慌《あわ》てて出てきたもので、レインコートを着てくるのを忘れてしまったのです」
それから二人は能楽堂に向って歩いた。二人がこのあいだ逢《あ》ってからそれほど日が過ぎていったわけではないのに、浩作はずいぶん永いあいだに思えた。
「昨夜はいらっしゃらなかったようですわね」
「昨夜、僕のところにいらしたんですか?」
「ええ。ちょっと退屈しのぎに、と思いまして」
「昨夜は東京にいたのです。それは失礼いたしました。そうすると、縁側においてあったブランデーは……」
「はい。わたしが持って伺いました」
「僕はまた母屋から持ってきてくれたものだとばかり思っていた。それはどうも有難うございました。今度いらっしゃるまで、あのブランデーはあけずにおきましょう」
「いいえ。わたしはのめないんですのよ。どうぞ召しあがって下さい」
「まったくのめないんですか?」
「ビールをコップ半分くらい……」
「そうですか」
当世の女に酒がのめないひとがいることも、浩作には稀《まれ》なことに思えた。
浩作に能楽堂通いを教えてくれたのも更級である。そして彼は、ついでだ、と言って謡曲を教えてくれた。
つまり更級は、当世では役にたたないことばかり教えてくれたのである。就職試験の面接のとき、特技はなにか、と試験官に問われ、料理です、と浩作は答えた。
「料理? それは何料理ですか?」
「フランス料理とかイタリア料理とかいったことではなく、つまり、庖丁が使えるのです」
「庖丁が使える? それでは板前ですね。なるほど。ほかになにが出来ますか?」
「謡いをやります」
こうして浩作は三つの会社を受け、三つとも落ちてしまったのである。
「ばか。落ちた理由は、庖丁が使えると答えたからだ。会社の上層部にいる連中なんて石頭だし、それに何事につけ実利的に出来ている。庖丁が使える、と答えるかわりに、車の運転が出来るとか、野球が出来るとか答えていたら、受かったのに」
とそのとき更級は言った。
「能舞台を観にくるのは、かれこれ十年ぶりですわ」
舞台まですこし間があり、二人が廊下の椅子《いす》にかけたとき、里子が言った。
「では、御結婚前ですね」
「ちょうど、結婚前でした」
「どこの能楽堂でした?」
「大曲《おおまがり》でした」
「では、いまの御主人といっしょに観られたのでしょう」
「よくおわかりになりますのね」
「見合をしたのでしょう、その日に」
「そんなところでした」
「それ以後は舞台はごらんになっていらっしゃらないですか」
「観ておりません」
「すると、興味もないのではありませんか」
「いいえ。こんな場所に連れてきて下さる人がいないのです。わたし、独りで見物に行くことが出来ない性分なのです。ほかに歌舞伎《かぶき》なども観たいのですが、古川は、やれゴルフだ、やれ車だヨットだとばかり言っているでしょう」
「このつぎは歌舞伎におともしましょう」
「そう願えるとうれしいわ」
「それだけ趣味がちがう御夫婦も珍しいのじゃありませんか」
「さあ、どうでしょうか。趣味がちがっていても、うまく行かないなんてこともなかったようですから、それでいいのかも知れません」
それからしばらくして二人は見所《けんじよ》に入った。見所の席は八分の入りだった。橋掛りの奥の鏡の間から、大鼓《おおかわ》や小鼓《こつづみ》や笛を調べている音がきこえてくる。墓前のこの調べの音は、これから舞台で緊張した舞いがくりひろげられるだけに、浩作にはいつきいても気持のよいものだった。彼は、調べの音をききながら、三日後には義姉のすすめる娘と見合をしなければならんな、とおもいかえしていた。
目白《めじろ》の料亭《りようてい》でめしを食いながら見合をする、ということになっていた。普段着のまま、と浩作が希望しておいたのに、向うは、それで結構だ、と言いながら、料亭にしたのだった。どうせだめになる見合だと思えば気は楽だった。どういうつもりで向うの人達がこんな職を持っていない男を見合相手にえらんだのか、浩作には見当がつかなかった。
「北ノ庄さんは、能舞台には月に何度ぐらいいらっしゃいますの?」
「ここのところ、年に数度というところです」
浩作は橋掛りの方を見たまま答えた。調べの音がやみ、やがて囃子方《はやしかた》が舞台に出てきた。舞台がはじまる前の緊張したそれでいて静かな一瞬である。
「向うさまは大変気乗りなんですから」
と目白の見合場所を知らせにきたときに義姉は言っていた。
「会う前から見込まれるなんて、ちょっとおかしいな」
「だって、その人の姉があなたに御執心だもの」
「正直にいって、料亭で見合だなんて、気が重いですよ」
「仲人《なこうど》は正式に立てると言っていたわ」
「そんなところまで話がすすんでいるのですか。なにか、どうも、話が変だな」
目白の料亭というのは、庭が広いので有名な料亭で、見合とか結婚式場に使われている、と義姉は言っていた。浩作もその料亭の名前はきいていたが、まさか自分がそこに見合のために行くとは思いがけなかった。
「欠点のない娘だったら、このさい、身をかためるべきだ。いつまでも独身ではいられまい」
と兄は言っていた。
囃子方が席についてしばらくして、幕口の幕が揚がり、僧が橋掛りに出てきた。
「十年前はなにをごらんになられたのですか」
「さあ、憶《おぼ》えておりません。たいそうはなやかな女の衣裳《いしよう》だったことはおぼえておりますが」
里子は舞台を観たまま答えた。浩作は、その横顔を美しいと感じた。俺は、三日後に見合の席上で、娘を目の前にしてこの人をおもいかえすかも知れないな、と思った。しかし、もし、気にいるほどの相手だったらどうするか、そのときはそのときでいいだろう……。しかし、浩作は、自分がこれから世間の男なみに見合をし、結婚をするなど、とうてい考えられなかった。見合はする、これはしなければならない羽目におちいってしまった、しかし、それだけだ、それが結婚に発展するなど、まず考えられないことだ……。
舞台では僧が口上を述べていた。
「女は出て来ないのかしら」
と里子がきいた。
「あとで出てきますよ」
能を知らない人に、舞台のことを話しても仕方がないと思った。
やがて僧の口上が終ると、僧は舞台のはしに行ってすわり、橋掛りから若女の面をつけた役者が出てきた。
舞台に出てきた女は常座で立ちどまった。水衣女出立《みずごろもおんないでたち》で紅入《いろいり》である。そして手に櫂棹《かいざお》を持ち、小舟をあやつっている姿態である。
「夢幻能の四番目物です」
浩作が言った。
「浮舟って、源氏物語のなかの浮舟のことでございますの?」
「そうです」
柴積《しばつ》み舟の寄る波も、なほたつなき憂き身かな。憂きは心の咎《とが》ぞとて、誰が世を託《かこ》つかたもなし。
「あれは、浮舟が、二人の男に躯《からだ》をまかせたことを暗示している台詞《せりふ》ですよ」
すると里子は、あら! と小さくさけび、舞台の役者から目をはなそうとしなかった。浩作は、二人の男に躯をまかせた、という表現が里子には強すぎたのだろう、と思った。
そして、里子が能舞台に見入っているあいだ、浩作は、兄嫁がすすめてくれた見合の相手の娘のことを考えた。
〈浮舟〉が終り、仕舞が二曲あった。それから二番目物の修羅物《しゆらもの》である〈忠度《ただのり》〉が演じられ、この日の能舞台は終りだった。終ったのは七時半で、里子が、どこかへ夕飯をたべに行こう、と言った。
「どこか店を御存じですか」
「いいえ。わたしは東京に不案内ですの。あなたの御存じのお店につれて行ってくださらないこと」
浩作は、ちょっと考え、メコシカム倶楽部に里子を案内しよう、と決めた。メコシカムなら更級の名を告げれば入れたし、だいいち店内が静かだった。倶楽部で更級の酒をのみながら、地下のレストランのメコシカムから食事をとりよせればよかった。
それから浩作は里子をつれタクシーで銀座にでた。そしてメコシカム倶楽部に入ると、受付の人に更級の名を告げ、中にはいった。
更級はそこにとびきり上等のブランデーをおいてあり、浩作はそれをもらってのんだ。
「あとで更級先生がお見えですか?」
とブランデーを運んできたボーイが訊《き》いた。
「行けるか行けないかわからんが、とにかく行っておれと言うので……」
浩作は答えた。
里子はブランデーを一杯だけのみ、あとは食事にした。浩作は食事をすませてからもブランデーをのんだ。
「いいお店ですのね」
里子が店内を見まわしながら言った。
そこへ、見おぼえのある顔の男がはいってきた。百合子を二十万円で買った紳士だった。
「やあ、これはこれは……」
男は挨拶《あいさつ》しながら浩作のとなりの席についた。
「先日は失礼。今日はお待ちあわせですか」
浩作が挨拶をかえした。
「真田さんとです」
男は里子の方をちらちらと見ていた。
「あれは如何でしたでしょうか」
「いやはや、たいへんなものですな、あれは。ときに、ちょっと……」
浩作は男のそばに席を移した。
「なんですか」
「その、いま、あなたとごいっしょの方も、その、なんですか、売物ですか」
男は小声できいた。
「いや、あの人はちがいます」
「そうですか。美人ですなあ。どうせなら、ああいう女の人の方がよかったですなあ」
「お気に召さなかったのですか」
「いや、そういうことではありません。なんと言いましょうか、まことにすごいもので」
「その方がよろしいでしょうに」
「ま、それはそうですが……」
男はそこでくちをにごした。
浩作は、真田が現れるというので、ここら辺できりあげようと思った。里子をみられたら、あとがうるさくなりそうだった。
そこで浩作は、男に挨拶すると、里子をつれてメコシカム倶楽部を出た。そして、エレベーターに乗り、一階におりたところで、入ってくる真田とばったり会ってしまった。
「おや、なんだい?」
「上で待っているよ。俺は今夜はちょっといそぐんでな」
浩作はどんどん出入口に歩いて行った。
「明日の夜行くよ」
と真田が背後からさけんだ。
「お茶をのんでいらっしゃらないこと」
里子が自宅の門の前で言った。
「もうこんな時間ですから、ここで失礼します」
浩作は腕時計を見た。間もなく十一時だった。
「わたくしはかまいませんのよ。古川は京都に出かけていますし。どうぞ」
里子は門のわきのくぐり戸を開けた。浩作があとをついて入ると、里子は玄関の方には行かず、勝手口の方に歩いて行った。そして、勝手口の戸を押して入ったのである。浩作もそこから入った。なにか秘密めいたよろこびが浩作の胸にひろがってきた。
案内された部屋は八畳だった。姿見があったから、里子の私室だろう、どことなくなまめいた感じがした。幽《かす》かに香のにおいがした。能楽堂でとなりあって腰かけていたあいだ匂《にお》っていた香だった。
「本日は御苦労さまでした。夜中ですから、こんな部屋でがまんして下さいね」
里子は魔法瓶《まほうびん》の湯をつかって茶を淹《い》れながら言ったが、浩作は、こんななまめいた私室に通してもらっただけで有難かった。
「そうそう、北ノ庄さんはブランデーの方がよろしかったかしら」
「いえ、お茶で結構です」
「こんどはいつ歌舞伎におつれくださるんですの」
「正月は電車も混みますし、といっても、十五日すぎれば空くと思いますが」
「その頃でかまいませんわ」
「切符をとってみましょう」
「お金を差しあげておこうかしら」
「いえ。いいです、それは。レインコートとブランデーを戴《いただ》いてあるんです。そのお礼もまだですから」
そして浩作は茶をのみながら、この人の前にいると言葉がすらすら出ないのは何故だろうか、と考えた。ことに二人きりのときがそうだった。
「北ノ庄さんが痩男《やせおとこ》の面をつけて庭からいらしたとき、わたし、ここにおりましたの」
「この部屋がそうですか」
浩作はにわかに九月はじめの下弦の月が空にかかっていた夜をおもいかえした。あれはまことに夢のような一夜だった。浅茅生《あさじふ》で女に出あったような一夜だった。
「あのとき、北ノ庄さんが謡《うた》った言葉を、いまもおぼえておりますわ」
「僕は、あの夜いらい、仮面舞踏会には出られず、といってほかに遊びに出かけるわけでもなく、ひっそりと家にこもりきりのひとのことを、なんとなく考えてきました」
浩作は言ってしまってから、これは恋の告白ではないか、とすこしばかり後悔した。そうとられたらそれでもいいと思った。しかし、待てよ、いまの俺の告白は、きいていて歯の浮くような台詞にはきこえなかっただろうか……。
「わたし、もともと出不精ですから」
と里子は言った。ああ、これでは、このひとは、いまの俺の言葉を理解していないことになるではないか……。浩作はすこしばかり落胆した。しかし、このひとは、俺のところに何度も訪ねてきた。そのうち一度はブランデーを持って、そして一度はレインコートを贈ってくれた。いくら木刀をやったお返しだとしても、俺に好意をよせていなければ出来ることではない……。
「能はいかがでしたか。好きになれそうですか」
「はい。好きになれそうですわ」
「それはよかった。また御案内します。それでは、もう時間もおそいことですし、これで失礼いたします」
「さようですか。それではまたお出かけください」
そして浩作は、入ってきたときと同じ勝手口から里子の家を出てきた。さんざ女あそびをしてきながら、しかもげんに女遊びをしているのに、俺の胸にこうも甘酸っぱい感情をかきたてるとは、いったいなんというひとだろう……。浩作は夜道を自宅にむかいながら、里子の挙措《きよそ》をおもいかえした。おもいをかけても、栄子や百合子のようになる女ではなかった。それがまた浩作の胸をかきたてた。
そしてあくる日の午後、浩作は、大磯の更級を訪ねた。そして、メコシカム倶楽部で更級のつけで食事をしたことを話した。そして、見合をしなければならなくなったことや、人妻に恋をしたが、それがとてもかなえられそうもないことなどを話した。
「見合はやってみるだけのことはあるだろう。会う前からいやだと言ってもはじまらんではないか」
と更級は言った。
「里子さんが頭からはなれないんですよ」
「あの人は里子というのか」
「あの人って……先生は里子さんを知っているんですか?」
「昨日、水道橋の能楽堂にいた人だろう」
「あれ、先生、昨日いらしていたんですか」
「遠慮して声をかけなかった、というより、俺は常に見物人だからな。たいした美人じゃないか。まあ、見合は見合だ。里子さんは里子さんだ。使いわけろ」
受けとりようによっては無責任な言葉だったが、浩作は、そうか、使いわければいいわけだ、とにわかに目がひらけてきたような気がした。
そして、更級の家で夕飯を御馳走《ごちそう》になって鵠沼《くげぬま》に戻って間もなく、真田が約束通りやってきた。
「弱ったよ」
と真田は部屋にはいってくるなり言った。
「なにがだ?」
「百合子を返すから金を返してくれと言うんだ」
「なんだ、あの男。いったん売り買いしたものを」
「つまり百合子が尋常でないんだよ。それでは、損料として五万円だけは支払うから、十五万円を返してもらいたいと言っているんだ」
「いまさらなにを言う。百合子が不感症であるとか、あるいはぐあいが悪いとか言うのなら、まあ、そう言われても仕方がないが、良すぎるくらいの女じゃないか」
「浩作。そんなことを言うけどな、俺達のような若い者でさえ、持てあました女だ。あの男がそう言うのも無理はないよ。売主はおまえになっているから、一応おまえに相談してから、と返事しておいたが」
「まあ、無理な相談だな。といっても、まあ、あの男がたいへんだということはわかる。どうだろう、いますこし待ってくれれば、他の女と交換してやるから、と言っておいたらどうだ」
「ほんとに交換できる女がいるのか?」
「そのうちに向うもあきらめるさ」
「ところで、百合子は、売られたことを知っているのか?」
「いまのところは知らないだろう」
「それで承知するかな」
「するもしないも、金がないから仕方がないと言えばいいじゃないか。しかし、百合子は、そのうちに、自分が売られたことを知ってくるよ。というのは、俺は、あの小切手を、百合子に現金にかえてもらったからな。まあ、二十万円で買ったのがあの男の不運だな」
「そう伝えておこう。ところで、昨夜の女は?」
「そうだ! 昨夜俺がつれていた女をそのうちに百合子と交換してやってもよいと伝えておけ。その女も売物ですか、とあの男欲しがっていたから。そうだ、それであの男承知するよ」
「どんな素性の女だ? えらく日本的なしとやかな女だと言っていたが」
「まあ、そのうちにわかるよ」
「ほんとうに交換できるのか?」
「それも、いずれ後のはなし」
「人妻か?」
「それもいずれわかる」
こうして真田は浩作に入知恵されて帰って行ったが、あくる日の夜またやってきた。
「今年いっぱいで交換してくれるなら、条件をのむと言うんだな。その場合は、契約書を欲しいとも言っていた」
「ばかだなあ、おまえは。契約書を渡したら、人身売買の証拠が残るじゃないか。だいたいこの話は紳士協定のもとに進められてきただろう、それをいまさら契約がどうのこうのって、紳士らしくないじゃないか。そう伝えておけよ。いちいち俺のところに来ないで、適当にまるめこんでおけよ」
「それが、会社の取引先の人だろう。そうも行かないんだ」
「なにを言っているんだ。うまくまるめこんでおけよ」
こうして真田は再び入知恵されて帰って行ったが、あくる日の夜またやってきた。
「おいおい。話がまたこじれてきたよ。昨夜俺がここに来ていたとき、奴《やつこ》さん、百合子とあっていたんだ。そのとき、百合子から、小切手に署名してある名前を問いつめられ、奴さん、二十万円で買ったとしゃべっちまった。それからがたいへんだったらしい。買ったのなら、死ぬまでつきあってちょうだい、と百合子から言われたらしい。百合子は、俺達を恨むどころか、自分に二十万円の値がついたんで、すっかり喜んじまったらしいんだな。それで、奴さんが言うには、俺は今日の昼間よびだされていっしょにめしを食いながら話をきかされたが、とてもあの女のお相手は出来ないから、どうか半値の十万円で買い戻して欲しい……」
「ばか。そうなったら、こちらがだまっていても、百合子は男から離れないよ。かりにだ、男の言う通り、男に十万円返して百合子を引きとったとする。こんどは百合子は、以前のようにおまえの会社に押しかけて行くよ。それでいいんなら十万円を返すんだな。百合子に言いふくめて、これこれこういうわけだから、もうあの男のところに電話をしてはいけないし、会社に訪ねて行ってもいかん、と説明するんだ。そうしたら百合子だって承知するだろう。五つや六つの子供じゃないから、百合子も、そういうわけなら、ということで、今度はおまえと元の鞘《さや》におさまる、という寸法だ」
「おいおい、冗談じゃないよ。俺は百合子はもうたくさんだ!」
「だいたいね、おまえが持てあましたからこうなったんじゃないか」
「どうすればいい?」
「だまって見物しておれよ。そのうちに相手の男がなにか方法を考えつくさ」
「とんだことになってしまったなあ」
「おまえが嘆くことはないよ。相手の男は、そのうちに、自分の部下の若い者に百合子を押しつけるとか、なにか方法を考えつくさ」
「だけど、浩作、おまえは悪党だよ。俺はおまえを見直したよ」
「見直したのなら、百合子の新しい買手を見つけろよ。商談は俺がやってやる」
そして浩作は、このあいだの銀座のバーの支払分を半分よこせ、という真田に、ブランデーをふるまって酔わせていった。
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春の足音
年末から年始にかけての一週間を伊豆ですごす、というのが古川家のならいであった。まいねん川奈《かわな》のホテルを予約し、洋介はたいがいホテルに隣接しているゴルフ場で半日をすごすのであった。とにかく日がな一日ゴルフをやってあきないらしかった。去年の正月は、里子の希望をいれて京都ですごしたが、こんな底冷えのする街はいやだ、と洋介は今年からまたもとの伊豆にきりかえたのであった。彼には、古い寺を訪ねるとか仏像を観賞するなどの趣味がなかった。どだいが現世的な享楽いがいには目を向けない男であった。
ホテルには娯楽室がいくつかあり、里子の二人の子はホテルについた日からボーリングに興じていた。里子は温泉につかるかテレビをみるか、ときにはホテルの近くを散歩するかして日をすごした。夫の洋介が言っているように、里子には遊びをおぼえるとかそれに熱中する素質が欠けていた。遊びにたいする反射神経がまったくないと言ってよいくらいだった。といって、仲間をかたらっておしゃべりに興じる、といった面もなかった。それでいて何の不満も抱かずに時間をすごして行けるなど、まことに不思議な女であった。
川奈のホテルで夫はゴルフに熱中し、子供はボーリングに興じていたあいだ、里子は、はたから見ると無為な時間をすごしていた。しかし、里子の頭をしめていたのは北ノ庄浩作のことであった。彼が自分のなかでどのような位置をしめているのか、里子にもよくわかっていなかった。ただひとつわかっていることは、自分が浩作にたいしてまったく無防備な点であった。生来、他人を警戒することを知らない女だった。木刀造りをなりわいにしていることが里子には面白かった。もちろんサラリーマンではないし、といって職人とも違っていた。能にくわしいことも、里子には面白かった。したがって、里子の裡《うち》では、まだ恋心などというものは起きていなかった。当世では珍しい若者だったのである。一月なかば頃に歌舞伎《かぶき》につれて行ってくれる約束をしてくれたが、里子はいまからその日をたのしみにしていた。
古川一家が鵠沼に戻ってきたのは五日の午後だった。ずうっと晴天続きで、洋介は正月をゴルフをやってすごしてきたことで満足していた。
「来年は京都にしますわ」
と里子は家に帰りついたときに言った。
「京都はごめんだな」
洋介は、僕はいかないよ、とつけ加えた。
「京都にだってゴルフ場があるでしょうに」
「寒いのでやりきれん。おまえは子供をつれて京都に行ってもいいが、子供だってお寺まわりじゃ面白くないだろう」
「それでしたら、あなたが子供をつれていらっしゃい。わたしは母をつれて京都にまいりますわ」
里子の母は本年五十七歳になり、東京にすんでいた。
「一年さきのことだ。そのときにきめればよい」
洋介は一週間もゴルフをやってきたというのに、もうこのつぎのゴルフ場のことを話しだした。つまり、この日曜日にはどこのゴルフ場に行くか、という心配をしていた。このとき、里子のなかを、なんて幸福な人だろう、という思いがよぎって行った。感情の起伏をおもてに出さない夫であったが、ゴルフだヨットだパーティーだと時間をつぶしている男に、里子ははじめて奇異の目を向けた。こんなに遊びに熱中できるのは、この人になにかが欠けているからではないだろうか、と考えてしまったのである。
里子に、浩作から電話がかかってきたのは、あくる六日の午後だった。歌舞伎の切符を届けにあがりたい、ということだった。いつがいいか、ときくので、いますぐいらっしゃい、と里子は返事をした。そして里子は姿見の前に行き、これから訪ねてくる青年のために姿をととのえた。
浩作は年末から正月にかけてまったく独りですごしてきた。というのは、栄子は亭主と子供といっしょに志摩《しま》半島に正月をすごしに出かけ、寿子は仲間とスキーに、そして百合子は伊東に出かけてしまい、つまり彼はまったく女気のない日をすごしたのである。兄嫁がすすめてくれた見合の相手とは目白の料亭であっていた。三国房子という名で、十人なみのあたたかい感じのする娘だった。ただ、房子は、左足がすこし跛《びつこ》だった。少女時代に火傷をし、それが原因で跛になったそうであった。この跛の点をのぞけば、房子は家庭の女としたら申しぶんのない女に見えた。両親は、足だけははじめから承知してもらわないと困る、と言った。浩作のみたところ、娘は、足のためにいじけたところもなく、といって劣等感に裏打ちされた反抗的な個所もなかった。ひっそりと暮している、そんな感じがした。そして浩作は、どういうわけか自分でもわからなかったが、この娘とならしばらくつきあってみてもよい、と考えた。
彼は見合を終えて帰った日の夜、兄嫁にその旨を伝えた。
「足だけね。ほかには欠点がないのに」
「足なんかどうだっていいですよ。感じのいい娘だから、しばらくつきあってみますよ」
つきあうということは結婚を前提にしなければ出来なかった。浩作は、更級に言われたように、あれはあれ、これはこれ、と使いわけてみてもよいと考えたのである。
そして正月には、房子が鵠沼の姉の家に遊びにきて、浩作の家に姉といっしょにたちよってくれた。浩作は、房子を離れに招き、茶を点《た》てた。房子の作法は控え目だった。控え目なことに浩作は好感を持った。
「僕は無頼の徒ですよ」
房子が茶碗《ちやわん》を返してよこしたとき浩作は言った。
「え? ぶらいのとって、なんですの?」
房子は、はりのある目を大きく開いて浩作を見た。
「つまり、月に旅行ができるという時代に、定職をもたず、木刀なんかこしらえてなりわいにしている、それも気が向けばこしらえるし、気が向かなければ何日も遊びまわっている、そんな男をさして言っているのです」
「おもしろいと思いますわ」
「え? おもしろい……」
「だって、やすい月給取りなどつまりませんわ」
「しかし、木刀をこしらえないことには金がはいらないんですよ。それに、そのうちに木刀だって売れなくなってくるかも知れないんです」
「そうしたら、わたしが働きますわ」
「あなたが働く……。だって、僕はまだあなたと結婚するとは言っていませんよ」
「はい。もし、あなたが、わたしをもらってくださるなら、そうしたい、と考えているだけです」
このとき浩作は、これは相当しっかりした娘だな、と思った。それに、おかしな娘だった。正月だというのに、若い娘のくせにあでやかな着物ではなく、渋いしぼのある結城《ゆうき》を着ていた。半襟《はんえり》と足袋《たび》の白さが、娘をきりっと引きたてていた。
「変なことをきくようですが、あなたは紬《つむぎ》が好きですか」
「はい。……わたし、足がわるいでしょう。派手な着物をきると、かえっておかしいんです。もしかしたら、紬の地味な色のかげに、足のわるいのを隠そうとしているのかも知れません。いけないことでしょうか」
「いけないなんて。僕はそんなことを言っているのではありません。よく似合うからです」
「そうでしょうか。ほめられたのははじめてですわ。……うれしいと思います」
房子はここで膝《ひざ》もとに視線をおとし、顔をあからめた。このとき浩作は、この娘といっしょになってもよい、と思った。世の中が変転して行くのに、この娘だけは移ろわない存在だ、という気がしてきたのである。彼は、房子の上に里子を重ねあわせて見ていた。
こんなわけで、浩作は正月を木刀をこしらえてすごした。いちど真田の家に電話をしたが、スキーに行っているとの返事だった。
「やれやれ。ほんとに遊びの好きな連中ばかりそろっていやがる」
浩作は呟《つぶや》きながら五日までのあいだに木刀を二本こしらえた。
里子に電話をした六日の午後、浩作は歌舞伎の切符をもって家をでた。そして五分ほど海岸の方にむかって歩いた頃、むこうから寿子が歩いてくるのを見た。ミニスカートに脚がすらっとのびており、なかなかの美人に見えた。
「誰とスキーに行ったんだい」
と浩作はきいた。
「学校の仲間とよ。どこへ行くの?」
「ちょっと用があってね。きみは?」
「あなたのところよ」
「じゃあ、俺のところで待っていてくれないか。炉を掘りおこせば炭がいけてある。三十分くらいで戻《もど》ってくるから」
「そうするわ。ブランデーを持ってきたのよ」
寿子は手にさげている袋を持ちあげてみせた。
「そいつはありがとう」
「親父《おやじ》のところに届いた到来物よ」
「じゃあ、すぐ行ってくるから」
浩作は寿子と別れると、里子の家を往復して三十分では戻れないな、と思った。どうせひまを持てあましている娘だから、待たしておいてもいいだろう……。
「十七日の昼の部ですのね。ありがとう。もちろん北ノ庄さんもごいっしょして下さるでしょう」
里子は切符を受けとってからきいた。
「はい。おともします」
「正月はどうやっておすごしでしたの?」
「木刀つくりでした」
「あら! 正月早々から」
「ほかにやることがなかったのです」
「でも、好きな仕事なら楽しかったでしょう」
「奥さんはどうやって正月を……」
「主人と子供達といっしょに川奈のホテルにいましたの。あの人、ゴルフ気ちがいでしょう。わたしはただぼんやりと日をすごしてきただけですの。去年は京都ですごしたのに、古川は、京都はつまらんからなどと言って、また伊豆にしましたの。来年は、わたしだけ京都にまいりたいと思っておりますの」
「おひとりでですか?」
「実家の母といっしょに参りますわ。でも、ひとりで行くかも知れません」
「もしおひとりなら、おともしたいですね」
「北ノ庄さんは京都をよく御存じ?」
「いえ、知りません」
浩作は、里子が玉露を淹《い》れる手つきを見ていた。しなやかすぎる手だった。それでいて生活のにおいがする手だった。
「どうぞ」
里子は淹れた茶を浩作の前においた。浩作はやはり里子の手を視《み》ていた。あれは、男に希望を抱かせる手だ、と浩作は思った。人形のような手ではなく、女のにおいがたちこめている手だった。
「北ノ庄さんは、能と同じくらい歌舞伎をご存じですの?」
「いえ、歌舞伎はそれほど知りません。能も歌舞伎も、まったく縁がなかったのですが、更級という小説家につれられて舞台をみに通っているうちに、なんとなく好きになりまして」
「そんな小説家がいるんですの?」
「喧嘩《けんか》ばかりやっている小説家ですが、ご存じないんですか?」
「はい、存じません。森鴎外とか夏目漱石なら知っておりますが。その小説家、どうして喧嘩ばかりやっているのですか?」
「僕もよく知らないんです、なぜ喧嘩ばかりやっているのか」
ほんとにこの人は当世ではまれな人だな、と浩作はあらためて里子を見直した。だが……と浩作はそこで考えた。見合結婚をして古川洋介といっしょになり、二人の子をうみ……ほかになにがあるのだろう、それでこのひとは満足しているのだろうか……。
里子は、浩作を目の前にして爽《さわ》やかな感情になっていた。前年、能を観に行ったとき以来だった。川奈での一週間は蟄居《ちつきよ》同然の日々だった。それは、普段家にいるときと変らなかった。ただ場所が変っただけのことであった。
そして里子は、この爽やかな感情はいったいどこから来たものだろう、と考えた。すると、里子の裡に、浩作とはじめて出あった夜のことがおもいかえされた。
恋のはげしさに、恋のはげしさに、かく成り果てたる痩男でござる。せめて、そなたの御名なりときかせ候へ。
と謡《うた》ったあのときが、あざやかにおもいかえされたのである。そしてさらに、能を観た帰りにここに立ちよったとき、浩作から言われたことをおもいだした。
「僕は、あの夜いらい、仮面舞踏会には出られず、といってほかに遊びに出かけるわけでもなく、ひっそりと家にこもりきりのひとのことを、なんとなく考えてきました」
とあのときこの人は言っていた……わたしはなんとはなしにこの言葉をきいていたが……まさか……。
そして里子はにわかに愕然《がくぜん》となった。このひとはわたしに好意をよせている……。里子はあわてた。あわて方が尋常でなかった。なにしろこんな感情になったのはうまれてはじめてであった。これまで、男から好意をよせられたことはあったかも知れない。しかし、そのことをこちらが意識したのははじめてであった。
「いけませんわ……」
と里子は呟くように言った。
「え、なんですか?」
浩作がこっちをまっすぐ視た。
「いえ、はい、なんでもありません」
里子は目を伏せた。
浩作は、里子の顔があかくなったのをみた。なぜだろう、このひとはいまあかくなっている、何放だろう……。
こうして、浩作が里子を恋しているのを里子が知っているのに、浩作はそれに気づいていない、という状態がうまれた。
「北ノ庄さんはどうしていままでおひとりですの」
「さあ。なんとなくこうなってしまったのです」
「ご結婚なさればよろしいのに」
「このあいだ、見合をしました」
「あら! どんなかたと」
「びっこの娘です」
「びっこの娘さん?」
「僕は、そのひとといっしょになってもよいと考えたのです」
「くわしく話してちょうだい」
里子は急に好奇心を見せた。自分に好意をよせている若者が、びっこの娘と結婚すると言っている……是非はなしをきいておかねばならなかった。
ところで、真田茂は、年を越してからというもの、はなはだ弱った立場に追いこまれていた。百合子を売りわたしたれいの取引会社の男から、早く女を交換してくれと迫られていたのである。
「約束は守ってくださらないと困ります」
と男は言っていた。メコシカム倶楽部で浩作といっしょにいた女を、百合子と交換してくれというのであった。真田は浩作に何度も電話で連絡したが、浩作は、あれはもう時効だと言っていた。
「俺があのとき連れていた女は、年末に流感にかかって死んでしまったと言っておけ」
といった調子でとりあわなかった。
「そんなこと言っても相手は承知しないよ。おまえが直接説明してやってくれないか」
「しようがないなあ、このいそがしい時に」
「今夜、東京に出てきてくれよ」
「しようがねえ奴だな」
「メコシカムに来てくれ。六時だ」
そして彼は会社がひけてから、メコシカムに相手の男と行き、浩作が現れるのを待った。
「去年ここで会った女を連れてくるんですか?」
と男はそわそわしながら真田にきいた。
「さあ、それはわかりません」
二人がこんな話をしながらウイスキーの水割りをのんでいるうちに、浩作が入ってきた。浩作が一人で入ってきたのを見た男は、あきらかに失望の表情になった。
「なにしろ、あの女は、去年の暮に流感にかかっちまいましてね、なんでも四十五度の熱を出して死んでしまったらしいのです」
浩作は男のむかいがわに掛けるなり言った。
「四十五度? 体温計は四十二度までしか目盛がついてないでしょうが」
と男は信じられないといった目を浩作に向けた。
「おや、御存じないんですか。去年、香港《ホンコン》からはいってきた風邪《かぜ》にかかると、最高四十八度まで熱が出るというので、体温計メーカーが大いそぎで五十度まで目盛のついたやつを製造したんですよ。いい女でしたがねえ」
「そうしますと、ほかに交換できる女がいるのですか?」
「ありませんね」
「いつか話していらした黒人女はどうですか?」
「いやあ、あの黒人女はだめです。なにしろ、すごいスピロヘーターを持っていましてね。なんでも、去年の夏、その黒人女のために鼻が落ちてしまった目出度《めでた》い男がいるんです。私は事前にそれを知って、黒人女をやめ、死んでしまった女にしたわけですよ」
「すると、ほかに女はいないんですか」
「いません。残念ですが、いまのところ、私は、死んだ女に二十万円投資したものですから、文無しですよ。死ぬとわかってりゃ、保険をかけておいたのですが」
しかし男は、やはり信じられない、といった目で浩作の話をきいていた。
「ところで、あの百合子ですが、ちょっと私には荷が重いといいましょうか、とにかく私には合わないので、他に交換できる女がいないとなれば、引きとってもらうよりほかありませんが」
「買手を見つけてみましょう」
「買い戻して欲しいのです。もちろん全額を返せとは申しません」
「さっき申しあげたように、女が死んでしまったので、その女を他に売り渡せなくなったでしょう。ですから、いま文無しですよ」
「買手はすぐ見つかりますか?」
「さあ、それはあたってみないとわかりません。なにしろ一月二月は不景気でしょう、どこも」
「困りましたな。とにかく、買手が見つかるまで、百合子を私のところに出入りさせないでくれませんか。昼間、執務中に会社に現れて困るのです」
「正直に申しあげて、そこまでこちらが責任を持たねばならない義務はありません。女というのは、あつかいかた如何《いかん》でどうにでもかわるものです。まあ、こちらも適当な買手をさがしますが、そちらもさがしてみてくれませんか。それに、女がすこぶるぐあいが悪かったとか、あるいは藪睨《やぶにら》みであるとかいうのでしたら、こちらで責任をおいますが、五体満足な女とあれば、おっしゃることは贅沢《ぜいたく》というものでしょう」
「とにかく、あの百合子を、私の会社に訪ねてこないようにして欲しいのです。真田さん。あなたの会社とはいろいろお取引きねがっておりますが、あの女だけは、以後、いっさい、私の会社によこさないでください」
男は、あきらかに腹をたてていた。彼はこれだけ言うと席をたち、店から出て行った。
「えらいことになりゃがったなあ。おい、浩作。百合子の足をとめる方法はないか。ひょっとしたら俺は会社をやめなければならなくなるなあ」
真田はしおれきっていた。
「そりゃ簡単じゃないか」
「どうするんだ?」
「百合子に、もうあんな男のところには行くな、と言えばいいんだ」
「冗談いうなよ。そうすれば百合子はまた俺の会社にくるじゃないか」
「若いくせになにを泣いているんだ。馬鹿野郎、ひとりで処理しろよ。いいとしをして、女ひとり左右できないのか」
こう言いながらも浩作はわらっていた。
ところが真田としたらわらい事ではなかった。彼は、相手が取引先の重役であったことを改めて考え、あくる日の夜、百合子を訪ねて行き、以後、あの重役の会社に行ってはいけない旨をくわしく説明した。
「いいわよ。あたしはもともと真田さんのような若い人がいいんだから」
百合子は、要するに男さえいればどうでもいいんだ、といった態度だった。
「それでね、もうひとつ話があるんだが、僕の会社にも訪ねてこないで欲しいんだ。会社が退けてからならともかく、昼間はいろいろ仕事があるし……」
「わかったわ。では、夜なら逢《あ》ってくれるというわけね。あたし、これからはそうするわ。ねえ、こんど六本木か青山につれて行ってよ。あの辺、ずいぶん面白いところがあるそうじゃないの」
「わかった。ここしばらくは時間がないが、月末にいちど連れて行くよ。だから、昼間は会社に訪ねてこない、と約束してくれ」
「約束するわ」
そして、結局、この夜真田は百合子の部屋で泊る羽目におちいってしまった。いったい百合子と彼女の主人のあいだがどういうことになっているのか、真田は知らなかったが、百合子の部屋で泊ったのはこれで三度目である。彼は、今夜ひとばん無事にすごせば、ここしばらくは百合子から逃れられる、と考え、壁に鏡をはってある百合子の部屋に泊った。
そして彼はあくる朝、やっとのことでベッドからぬけでると、顔も洗わず歯もみがかず、会社に出るため藤沢駅にかけつけた。そして駅のホームに入ると、売店で牛乳を一本買ってのんだ。牛乳をのんだくらいでは前夜の疲れはとれなかった。
会社についてから彼は居眠りばかりしていた。ああ、いやだ、もう女はたくさんだ……。
彼は夢とも現《うつつ》ともつかぬ状態で居眠りをしながら、女はもういやだと自分に言いきかせた。そして、なんとか午前中をきりぬけたとき、こんどはひどく空腹を覚えた。腕時計をみたら正午にちかかった。朝から牛乳を一本のんだきりだった。前夜も、腹がすいたから外でなにか食べてくる、と百合子から逃れる口実をつくったが、たべものならそこに入っているわよ、と百合子から冷蔵庫を指さされ、冷蔵庫をあけたら、生卵、ハム、ソーセージ、大蒜《にんにく》の砂糖漬、ブルーチーズ、といったものしか入っていなかった。
「僕は、なにか温かいものを食いたいんだ。蕎麦《そば》とか湯豆腐とか、こんなつめたいものは、どうもいかん」
真田は冷蔵庫のなかをみて尻込《しりご》みした。
「なにを言ってるの。いま三時ですよ。どこの店が開いていると思っているの」
百合子は裸のままベッドからおりてくると、冷蔵庫からソーセージを一本とりだし、それをかじりだした。
「海岸に行けばまだ店は開いているよ」
「だめよ。これをおあがりなさい」
百合子はかじりかけのソーセージをいきなり真田のくちに押しこむと、さあ、おあがり、あたしのかわいい男、とソーセージを押しこまれているのか百合子の舌を押しこまれているのか判らない接吻《せつぷん》をしてきたのである。
真田は、時計がきっかり正午になったとき席をたった。腹がへっていた。疲労困憊《ひろうこんぱい》していた。有楽町《ゆうらくちよう》駅のちかくに札幌《さつぽろ》ラーメン屋があり、そこに行ってラーメンを二杯もたべれば元気が回復しそうな気がした。会社から歩いて七分ほどの距離だった。彼の会社はビルの五階にあり、下におりるにはエレベーターを使わねばならなかった。彼はエレベーターに乗った。そして一階につき、エレベーターから出たとき、目の前に見おぼえのある顔があった。百合子だった。
「なにしにきたんだ……」
真田は一瞬心臓がひやっとして、低い声で訊《たず》ねた。
「朝なにもたべずに出て行ったでしょう。だから、お昼を御馳走《ごちそう》するわ」
「いいよ、いいよ。僕は今日はラーメンをくいたいんだ」
「ラーメンのおいしい店に案内するわ」
「僕はやすいラーメンでいいんだ」
「なにを言っているの。だまってついていらっしゃい」
そこで百合子はいきなり真田の腕に腕を絡ませると、ビルの外に向って歩いた。
「おねがいだから腕を解いてくれないか。みんなが見ている」
「あら、たのしいじゃない。これから仲よくラーメンを食べに行くのよ」
真田は、百合子の声をききながら足もとを視つめ、なんで俺はこんなに女に苦しめられねばならないのか、となかばあきらめた気持になった。
真田は二時すぎに会社に戻った。彼は戻るとすぐ医務室に行き、しばらくやすませて下さい、と看護婦にたのんだ。
「疲れだな、顔色がわるい、流感がはやっているから、念のために熱をはかっておけ」
医者は看護婦に命じて真田の体温をはからせた。
真田は靴《くつ》をとりベッドに横になると、ああ! とためいきをして目を閉じた。
熱はなかった。ただもう躯《からだ》を動かすのが大儀だった。
「ビタミン剤でも注射しておこう」
医者は看護婦に薬の名を言い、それを静脈注射しておけ、と言った。
くちのなかがきなくさくなってくる注射だった。なんの注射だと看護婦にきいたら、ザルブロとビタミン剤だ、と看護婦は答えた。ああ、これで夕方までに疲労が回復するだろうか、と真田は考えているうちにまどろんでいった。彼が百合子と札幌ラーメンを食べに行った店は、百合子の知っている日比谷《ひびや》の中華料理店だった。その店の五階に通されたのである。六畳の個室だった。
「僕は札幌ラーメンを食べたいんだよ」
真田は個室に通されてにわかに慌《あわ》てた。
「なにを言ってるの。ここのラーメンは世界一おいしいんだから」
百合子はとりあわなかった。そして女中にいろいろな料理を注文した。真田は、しようがないなあ、と思いながらも、とにかく腹はへっていることだし、社に戻るのがすこしくらいおくれても構わんだろう、と酒と料理に手をつけた。ところが、途中から、百合子がしなだれかかってきたのである。それは、なまめかしくよりかかる、といった態《てい》ではなく、強引にこちらに躯を押しつけてくる恰好《かつこう》だった。
個室だから、料理を運びおわったらもう女中はあがってこない。そして真田は竟《つい》に百合子の言いなりになり、真昼だというのに洋服を脱がされる羽目になった。浩作は、百合子を色きちがいだと評したが、百合子は真田の上に馬のりになり、途中やすみやすみしてかたわらのテーブルから料理をつまみ、酒をのみ、飽くことを知らなかった。
そして彼はようようの思いでその中華料理店から脱出してきたのである。あの取引先の相手の重役が百合子を返したいと言っているのも、当然のことか、と思った。
真田は医務室のベッドで四時まで睡った。目をさましてみたら、いくらか疲れがぬけたような気がした。五時に社がひけたら、まっすぐ鵠沼の家に帰り、睡りをむさぼろう……そうしないかぎり、明日は会社に出てこれないだろう……。
彼は五時ちょっと前までベッドのなかにいた。
「いかがですか」
そばに看護婦が立っていた。
「大丈夫です。どうもありがとう」
真田は起きあがった。
「あまり御無理をなさらないように、との先生の伝言でした」
そして看護婦は薬の包みを渡してくれた。
真田は医務室を出て自分の部屋に戻ると、課長に、よくなりました、と一応報告をし、それから会社をでた。東京駅まで歩いて七分ほどの距離であった。彼はエレベーターに向って廊下を歩きながら、前夜から今日にかけてのことをおもいかえしてみた。いくら自由な世の中とはいえ、これはすこしひどすぎると思った。たしかに浩作が言っているように世の中が太平すぎるからあんな女が出てくるのだろう……だが、どうすれば百合子から遠ざかれるだろう……。彼は、自分の上にかぶさってくる肉の塊をおもいかえし、思わず叫びだしたくなった。両脚をおしひろげて、それを彼の顔の上にかぶせてくる女、それは、なまめかしいなどというものではなく、完全に化けものだった。まるでそこだけが生き物のように見える化けものだった。ああ、もういやだ! 彼は思わず呟くと、自分の声に気づき、急にあたりを見まわし、それからエレベーターの前に立ちどまった。エレベーターの前は退社時間で行列だった。
やがて順番がきて彼はエレベーターに乗った。ああ、これでやっと自由になれる、と思うと、すこし元気が出てきた。
そして一階につき、エレベーターを出て、ビルの出入口にさしかかったとき、彼は右から声をかけられた。ふり向いたらそこに百合子が立っていた。彼は百合子のあぶらぎった白い顔をみたとき、心臓がとまったように感じた。
「あれから、あそこで睡っていたわ。今夜、六本木《ろつぽんぎ》につれて行ってよ」
百合子はにこにこしていた。
真田は声が出ず、ただじいっと百合子の顔を視つめて立っていた。如何なる理由でこのような暮方を迎えねばならないのか、彼にはわからなかった。
百合子はにこにこしていた。真田は、ああ、いま俺の目の前に立っているのは間違いなく化けものだ! と思ったとき、なにがなんでも逃げだしたくなった。だが、どうすればこの化けものから逃げられるだろう……。
「こんな早い時間じゃ、六本木はどこもまだ店をあけてないよ。銀座だってまだだ。居酒屋かおでん屋ならもう開いているが」
「なら、おでん屋で時間つぶしをして、それから六本木に行けばいいわ」
百合子は百合子らしい提案をした。
「明日の朝が早いから、今日は早く帰らねばならんのだ」
「早いといったっていつものように会社に出るだけじゃないの」
「いや、出張なんだ。家を四時ちょっとすぎに出なければならないんだ」
「じゃあね、赤坂《あかさか》に行かないこと。あたしの知っている店があるの」
「あまり気がすすまないなあ、疲れているし」
「疲れがいっぺんにふきとんでしまう料理をたべさせてくれるのよ、そこのお店」
「料理屋か?」
「ちがう、サパークラブよ。おいしい肉をたべさせてくれるのよ」
「そこ一軒だけで帰るのなら行ってもいいが」
「とにかく行きましょうよ」
それから二人はタクシーをつかまえて、赤坂に行った。
赤坂は、TBSのちかくのある路地をはいったところにある店で、百合子はそこに自分の酒をおいてあった。
「いつものお肉をちょうだい。ひとり二人前にしてね」
百合子はボーイに注文した。それから百合子はウイスキーの水割りをこしらえた。
やがて二人のテーブルに肉料理が運ばれてきた。みると、大きな皿のなかに、まず玉葱《たまねぎ》の輪切りを敷いた上に牛肉がのっていたが、この牛肉は、さっと表面を灸《あぶ》っただけのなま肉であった。そして、小鉢に、割った卵が入っており、そこに、すりおろしたなま大蒜と生姜《しようが》を小匙《こさじ》いっぱいずつ入れてかきまわし、そこに肉と玉葱をつけて食べるのであった。
「おいしいのよ」
百合子は食べかたの見本を示してくれた。しかし真田はちょっと箸《はし》をつけかねた。料理した大蒜はたべられたが、しかしなま大蒜はたべられなかった。
「僕は、このなま大蒜だけは食べられないよ。生姜だけでいいよ」
「なにを言っているの。大蒜を入れなきゃおいしくないのよ」
百合子はかまわず真田の小鉢《こばち》に大蒜を小匙二杯いれてかきまわすと、さあ、と言って真田の前においた。
「二杯は多いよ。スプーン半分でいいのに」
「あたしも二杯いれたのよ」
肉の量はどのくらいあるのだろう、おそらく四百グラムはあるだろう、と真田は皿を眺《なが》めて考えた。
「玉葱のなまはたべられるの?」
「水にさらしたのならたべられるが」
「それならなま大蒜もたべられるわよ」
真田は仕方なしに覚悟をして箸をつけた。くちいっぱいになま大蒜のにおいがひろがってきた。
「ウイスキーをのみながら食べるのよ」
百合子は実においしそうに肉をたべていた。真田は、これは文明人の食物ではないな、などと考えながら、ゆっくり肉を食べた。
やがて、この店のママと称する三十がらみの和服の女が席に挨拶《あいさつ》にきた。
「いかがでございますか」
と女は言った。
「いやあ……」
真田はすでになま大蒜に辟易《へきえき》していた。女の話では、一流の芸能人がこの肉料理をたべにくるのだという。奴等《やつら》はきっと野蛮人にちがいない、と真田は内心腹をたてていた。女は日に一回はこの肉料理を食べるのだという。虫も殺さぬような顔の女だった。百合子は女を相手にこの店に来る芸能人の噂話《うわさばなし》をしていた。真田は、女と話している百合子の顔を眺め、百合子から逃げる方法を考えた。この店を出てどうするか、おそらく百合子は六本木に行こうと言うにちがいない……。真田は、百合子をこの店に残して出れる方法はないだろうか、と考えた。
結局、真田は肉を全部たいらげた。食べざるを得なかったのである。百合子が、最後のひときれを食べるまで監視していたからである。
「こんどは沢蟹《さわがに》のからあげを食べましょう」
百合子はボーイをよぶと沢蟹をちょうだい、と言った。
「ちょっと待ってくれ、沢蟹をたべると肺臓ジストマになるよ」
真田は、ここはまことに野蛮人のくる店だ、と思いながら言った。
「油で揚げてあるのよ」
「なんにしても沢蟹だけはいやだな。なま大蒜だけでたくさんだ」
「ばかねえ。疲れたからというのでこの店に連れてきたのに」
「肉はみんなたべた。俺は、くさやを焼いてお茶漬《ちやづけ》をたべたいよ」
「あんなの食べるの野蛮人よ」
「お茶漬をたべるのが野蛮人かい?」
「あんな臭い魚。ああ、きいただけでもいやよ」
「大蒜はくさくないのか」
「大蒜は文明人が食べるのよ。とにかくここの沢蟹はおいしいから、食べましょう。沢蟹をたべたら六本木に連れていって」
「六本木はだめだ。俺は帰るよ」
「いっしょに帰るのよ」
「俺は明日から出張だよ」
「出張なら、当分逢えないでしょう。それなら朝までつきあいなさい」
やがて沢蟹が出てきた。揚げてあるので赤い色をしている。真田は目の前の赤い蟹を眺め、足が十本ある、と思った。いやだ、俺はこんなものは食べられない……。真田は、蟹や蝦《えび》は姿を見ただけでいやだった。
「おあがりなさい」
百合子は沢蟹をひょいと手でつまみあげるとくちに入れ、ばりばり音をさせて噛《か》み砕いた。
「俺はいやだ」
「なんでいやなの?」
「足が十本あるのがいやなんだ。化けものだよ」
「いいとしをした男がなにを言っているの。さ、早くたべて六本木に行くのよ」
「六本木には行かないよ。ここを出たら俺は帰るんだ」
「坊やみたいなことを言っても駄目《だめ》よ」
百合子はつぎつぎに沢蟹をくちに入れ、音をたてさせた。沢蟹は十五ひきはあったろうか、百合子は十ぴきほど食べたところでひとやすみした。
「早くおあがりなさいよ」
「いや、俺はよすよ」
「大きい蟹は食べるのでしょう?」
「あれはほぐしてあるもの。姿のままだと俺はだめなんだ。殊に毛蟹など見ただけて怖気《おぞけ》だってくるんだ」
「男のくせしてしょうがないわね。一ぴきだけあがりなさいよ」
百合子は沢蟹を一ぴきつまむと、真田のくちの前に差しだした。
「いやだ」
「一ぴきだけ。食べてみればおいしいのよ」
真田は仕方なく蟹を手で受けとろうとした。
「だめよ、くちをあけるのよ」
真田は目を閉じくちをあけた。とたんにくちのなかに蟹が押しこまれた。がりがりした足が舌にふれる。
「思いっきり噛むのよ」
言われる通りに噛んだ。甲羅《こうら》がつぶれ、どろどろした液状のものがくちのなかにひろがってきた。真田は声をあげて吐きだしたくなった。
「もっと噛むのよ。どう、おいしいでしょう」
真田はだまって百合子を視つめ、蟹を噛み砕いた。それはまるで義務をはたすような態度であった。
「おいしいでしょう。もう一ぴき」
百合子はまた蟹をつまみあげた。
「もうたくさんだ!」
「こんなおいしいものを……」
百合子はつまんだ蟹を自分のくちのなかに放りこみ、れいによって音を立てて噛み砕いた。
「ああ、おいしかった。そろそろ六本木に行きましょう」
百合子はナプキンでくちを拭《ふ》きながら目をかがやかせた。
「六本木はこのつぎにしよう」
「肉をたべて元気がでたでしょうに」
「俺はまだ元気がでないよ」
「六本木に行けば元気がでるわよ」
こんなことを言いあいながら二人は帰り支度をした。そして店を出て、TBSの前の道にでたところで、真田は、逃げようと決心した。TBS前の通りは人通りが多かった。
「煙草を買ってくるから、ここで待っていてくれ」
真田はこう言いのこして十メートルほど先の煙草屋に歩いて行った。彼はそこで煙草を買うと、百合子の方をふりかえり、それから人混みにまぎれて走りだした。ところが、ものの数歩も走らぬうちに、
「泥棒! どろぼう! 誰かその男をつかまえて!」
と百合子の金切声が背後からあがったのである。真田はびっくりしてまるで声に追いかけられるように、今度は脱兎《だつと》の如く走りだした。すると一人の男がいきなり前方から腕をつきだし真田の顔面を殴った
「なにをするんだ!」
「うるさい、この泥棒め!」
するとまわりを歩いていた男達がいっせいに真田をとりかこみ、腰を蹴《け》るやら、背中をつつくやらした。
「おい。あの女のなにを盗んだんだ。ハンドバッグか」
「おまえ、ひったくり魔か」
「ちがう、ちがう、俺は泥棒じゃない!」
「盗人のくせになにを言う。おまえ、にんにく臭いなあ」
真田はさらにまわりの男達から小突かれた。
「俺は泥棒じゃない!」
真田は絶叫したが、さけべばさけぶほど、男達から小突かれるだけだった。
そこへ百合子がやってきた。
「奥さん。つかまえました。こいつ、おとなしい顔なのに、なにを盗んだのですか」
「みなさん、どうもありがとう。つかまえてくださればよかったのよ。どうもありがとう」
「泥棒じゃないんですか」
「はい。みなさん、どうもありがとう」
百合子は真田の腕に自分の腕をからませると、さあ行きましょう、と通りかかったタクシーをとめ、なかにはいった。
真田が百合子から解放されたのは、あくる日の朝だった。泊ったのは藤沢の百合子の自宅で、彼は会社に出るべく藤沢駅のホームに入ったが、なんとも疲労困憊しており、もしかしたらこれで死ぬのではないか、と考え、ホームから出ると、タクシーで自宅に帰った。そしてベッドにもぐりこむと、死んだように睡りにおちて行った。目をさましたのは暮方で、彼は顔を洗うと車を運転して浩作のところに行った。
浩作は木刀を削っていた。
「なんだ、冴《さ》えない面をしているな」
浩作は木刀をおくと茶を淹《い》れる用意をしながら言った。
「冴えないわけだよ。きいてくれよ」
真田は、ここ数日来の百合子との出来事を話してきかせた。
「そいつは面白かったな」
浩作は声をあげてわらった。
「なあ、浩作。わらい事じゃないんだ。あの女を引きはなす方法を考えてくれよ。友達|甲斐《がい》がないよ、おまえは」
「まあ、いま考えられるのは、車で遠出して、崖から突きおとすことだな。会社の同僚に、百合子に似合う奴はいないのか」
「それはいるにはいるが」
「そんな奴にゆずればいいじゃないか」
「しかしなあ、また問題をおこすと困るだろう」
「三人か四人の男に、事情を話して、交互に相手にしてくれ、とたのんでみろ」
「おまえはどうなんだ」
「俺は遠慮するよ。ここのところ木刀造りでひまがない」
「たとえば、おまえと俺とが交互に相手になる、というのはどうだろう」
「そういう趣味がないんでな、残念ながら。こういう方法も考えられるじゃないか。柴野と宮石にゆずるんだ。奴等なら百合子を適当にもてあそんでから捨てるだろう」
「そうか、そんな方法もあったな。俺はいままで柴野と宮石のことをすっかり忘れていた。奴等、若いから、百合子は似合いかもしれない」
「そうしろ。俺はここのところ、にわかに身辺が多忙になってな」
「なにかあったのか?」
「この四月に結婚することになってな」
「結婚? おまえが結婚するのか?」
「誰が結婚すると思ったのかね」
「おい。それ、本当か?」
「本当だ」
「信じられないねえ。で、相手は?」
「びっこの娘だ」
「びっこ?」
「もしかしたら結婚式は三月にあげるかもわからん」
「びっこの娘、というと、このあいだの女ではないな」
「あれは他人の奥さんだ」
「そうすると、その奥さんは不要になるわけだな」
「いや。あれはあれ、これはこれだ。ゆずれといっても駄目だ。もっとも俺はあの奥さんとは手ひとつ握っていないが」
「それも信じられない話だな、手もにぎっていないなんて。いったい、どこの人だ、あの奥さんは?」
「教えるわけにはいかん。酒をのみに行こうか」
浩作は起ちあがると外出の支度をした。彼が結婚すると言ったのは本当だった。三国房子は彼にとってよき妻になりそうな気がしたのである。
「なんで跛《びつこ》の娘をえらんだんだ。よほどの美人なのか?」
「十人なみの女だ。跛が気にいってしまってな」
「びっこが気にいったって?」
「おまえにはわからんだろう。ま、そのうちに見せてやるよ。藤沢駅前の屋台にもつ焼きを食いに行こう」
「俺は明日にでも柴野と宮石にれんらくしなけりゃいかんな」
「しっかりやれよ」
「なにをしっかりやるんだ」
「百合子をゆずることさ。下手にゆずるとまた舞い戻ってくるからな」
それから二人は家をでると、真田の車にのりこんだ。
「結婚すれば、青春とはおさらばだな」
真田がハンドルをきりながら言った。
「そういうことになるが、俺はそんなことはあまり考えないことにしているんだ」
「すると、俺もそろそろ結婚しなければならんな」
「そういうことになるのか」
浩作はわらっていた。
一〇
浩作は栄子とはしばらく逢っていなかった。彼は、栄子が志摩半島から戻ってきた頃に電話をいれてみたが、手伝女が、風邪で寝ている、と知らせてくれた。たちの悪い風邪が流行《はや》っていたから、半月は出られないだろう、と浩作は考え、半月ほど経った頃に電話したら、男が出てきた。浩作はだまって電話をきった。栄子の亭主にちがいなかった。
その間、浩作は、里子と歌舞伎を観《み》に出かけたり、真田と百合子が別れるのを手伝ったり、三国房子と結婚する件で向うの両親に会いに行ったりしているうちに、日がすぎて行き、栄子のことはなんとなく忘れたかたちになってしまったが、二月末のある日の午後、彼は、一人の男の訪問を受けた。
「橋田というものです」
と男は名乗った。
「どういう御用件でしょうか」
浩作は男に見おぼえがなかった。
「栄子の夫です」
そうだった、栄子の苗字は橋田だったな、と浩作はにわかに興味をおぼえたが、
「栄子さんとおっしゃると……」
と眉《まゆ》をよせて相手にききかえした。
「栄子はすべてを白状しました。……私は、あなたにうらみを言いに来たのではありません。以後、栄子には近づかないようにして欲しい、ということを言いにきたのです」
「ちょっとお待ちください。どうも話がよくわかりません。橋田さんでやっとおもいだしましたが、あれは去年の夏の終りの頃だったかな、酒下精神科医院で、あそこの奥さんの百合子さんから、たしかにお宅の奥さんを紹介されたおぼえはあります。あなたの奥さんには、そのときにお会いしたきりですが」
「それはちがいます。あなたは嘘《うそ》を言っている。去年の九月、栄子は、カンツォーネの手前であなたを車からおろした。あなたはカンツォーネにはいってきた。その前日の日曜日にも、あなたはカンツォーネで友人らしい人と話していた。あなたは、たしか、ビールをのんでいた。私は、いま、事実を話しているのです。さっきも申しあげたように、私は、あなたにうらみを言いに来たのではありません。栄子に近づかないようにして欲しい、そのことを言いにきたのです……」
「橋田さん、ちょっとお待ちください」
浩作は相手の話を折った。彼は、目の前の男をおもいだしたのである。真田とカンツォーネにビールをのみに行った日、俺はたしかに一家|団欒《だんらん》のこの男を見ている……。
「僕は、ごらんのように、木刀造りが商売です。あなたがどういう御職業のおかたかは存じませんが、いまあなたがおっしゃったような事実はありません。あなたの奥さんとは酒下精神科医院であったきりです。それも、あそこの奥さんの紹介でです。だいいち、僕は、カンツォーネという店を知りません。僕は一介の職人です。職人が、そんなしゃれた名の店に出入りするかどうか……」
「では、栄子は、私に嘘を言った、とあなたはおっしゃっているのですか」
「僕は、あなたの奥さんのお顔をおぼえていないんですよ。まことに失礼ですが、奥さんは、なにか誇大妄想《こだいもうそう》といいましょうか、そんな風になっていらっしゃるのとはちがいますか。このことは、御承知かどうか知りませんが、酒下さんの奥さんは精神病患者です。精神科医の御主人も精神病にかかっている、ときいております。奥さんが精神病にかかっているとは申しませんが、なにか、そんなこととかかわりがあるのではないでしょうか」
「すると、あなたは、私の妻を知らないとおっしゃるのですね」
「そうです。いちどお会いしたきりです」
「そうしますと、カンツォーネの手前で妻の車からおり、カンツォーネにはいってきた人は、あなたではない、とあなたはおっしゃっているのですね」
「さっきも申しあげたように、僕は、カンツォーネという店を知らないのです。失礼ですが、あなたは、そのとき、かりに僕を認めたとして、奥さんも認められたわけですか」
「男の人はカンツォーネに入ってきて、私の近くの席にすわりました。私があなたの顔を忘れるはずがありません」
「奥さんのお顔は?」
「店に入ってこなくとも、自分の妻の顔を見忘れるはずがないでしょう」
「人ちがいということもあります。いちばん大事なことは、僕がカンツォーネという店を知らないことです」
「あなたは、あの日、半袖のスポーツシャツに灰色のズボンをはいていた」
「それは九月ですね?」
「九月です」
「僕は真夏でも半袖シャツは身につけません。色物のシャツは着ないことにしているのです。白いワイシャツ以外は持っておりません。完全な誤認です。なんでしたら、奥さんに会わせてください。しかし、身におぼえのないことを、このように言われるのは、あまり愉快ではありませんね」
すると男はしばらくだまった。
「私は、あの日、カンツォーネから、あなたのあとをつけた。あなたは、鵠沼海岸駅の近くの踏切を渡った。同時に踏切の遮断機《しやだんき》がおり、電車の通過であなたの姿を見うしなってしまったが、あなたのこの家は、あの踏切からちかいではないか」
「それは僕ではありませんな。他人のそら似というやつでしょう」
「妻はあなたのこの家の場所を知っている」
「それは酒下さんからきいたのでしょう。だいいち僕はあなたの奥さんの訪問を受けたことがないのです」
「あなたがいないとき妻はあなたを訪ねたかも知れない」
「それは僕のあずかり知らぬことです。失礼ですが、お気を悪くなさらないでください。できましたら、いちど奥さんを精神科医にみせたら如何かと思います」
「すると、あなたは、私の妻の妄想だと言われるのですか」
「そうとしか思えません。どうか、おひき取りください」
すると男はしばらく自分の膝元を見おろしていたが、私には信じられない、妻が嘘を言ったとは思えない、と言いのこして起《た》ちあがった。
それでも男は、失礼しました、とあいさつして帰って行った。
浩作は、男が庭から出て行くのを見届けてから母屋に行き、栄子に電話をかけた。
話をきいた栄子はびっくりしていた。そんなことを白状したおぼえはないと言うのであった。
「たしかにいろいろ訊かれたわ。でも、知らぬ存ぜぬで押し通したのよ。で、あなたはなんと返事をしたの?」
「こちらも知らぬ存ぜぬで押し通しておいたよ」
「どうして電話をくださらないの」
「風邪だったでしょうが」
「もう直ったわ。寝てばかりいたら、目方がふえてしまったわ。どこかに連れて行って」
「見張りがきびしいんじゃないのかな」
「大丈夫よ。あのひと、あたしから離れられないんだから。いま、表で車のとまる音がしたわ。帰ってきたらしいわ。明日、電話してよ」
ここで電話がきれた。
「浩作さん」
とこのとき背後から兄嫁に声をかけられた浩作は、びっくりしてふりかえった。
「あなた、どこかの奥さんとつきあっているのでしょう」
「いや、そんなことはありません」
「かくしてもだめよ。いつかもきれいな女の人が訪ねてきていたじゃないの。趣味のいい着物をきたひとが」
「ああ、あの人は、木刀の木をゆずってもらっている家の奥さんです。この近くですよ」
「いまの電話の人?」
「いえ、ちがいます」
「トラブルをおこさないでちょうだい。つい去年の秋も、うしろの相馬さん、夫婦別れしたでしょう。御主人が入院していたときに、奥さん、若い男をこしらえてしまい、結局御主人と別れてしまったのよ。女なんて、自分では利巧《りこう》にたちまわっているつもりでも、どこかでぼろを出してしまうんですから、ひとさまの家庭はこわさない方がいいわよ」
「はいはい、わかりました」
浩作は離れ屋にひきあげながら、明日、栄子に逢おうと思った。彼はここのところ寿子とつきあっていた。前年の十一月に関西に嫁に行くはずだった寿子は、相手の家で不幸があり、この春まで挙式をのばすということだった。寿子は正月にスキー場から戻ってくるとすぐ浩作を訪ねてきたが、以来、彼女は、週に二度は浩作を訪ねてきていた。
浩作は自分の部屋に戻ると、つくりかけの木刀をとりあげた。そこへ寿子が訪ねてきた。
「甘栗《あまぐり》を買ってきたわ」
「そいつはありがとう。もうそろそろ嫁に行く支度にかかっているのだろう」
浩作は木刀をかたわらにおくと起ちあがり、茶を淹れる用意をした。
「やはり行くのはよそうかと思っているの」
「行った方がいいよ。あとになって嫁に行こうとしても、もらってくれる相手がいないと困るぜ」
「結婚なんかしなくともいいじゃない」
「それはそうだが……」
「学校の教師の奥さんなんかつまんないと思うわ」
「そう思っているだけだ。いっしょになっちまえば、結構たのしいものじゃないかな」
「もし行くとなれば、お医者にかからなくちゃ」
「母親からうまれたままの躯に戻すのかい」
「だって、そうしなければ困るでしょう」
「それはそうだな、教育者の妻ということになると、ま、その手術はやむを得ないだろう。実に平和な世の中だ。あれは、何度でも手術できるそうだな」
「そんな女を知っているの?」
「俺の友達と三年間|同棲《どうせい》した女が、友達と別れて結婚するために手術をした。ところが、籍をいれる前に二人は別れた。三か月いっしょにいたきりだった。それから彼女はもう一度手術をし、もう一度結婚した。もう子供が二人いるよ」
「浩作さんとも、あったんじゃない?」
「いや、俺はなかった。友人の女だったひととそんなこと出来やしないよ」
「でも、そんな話きかされると、女っていやだと思うわ。……いまお使いに出てきて寄ったのだけど、夜、来てもいい?」
「ああ、いいよ。歓迎するよ」
浩作は大きな欠伸《あくび》をしながら答えた。
一一
あくる日の正午すこし前、浩作は、カンツォーネからかなり離れた湘南道路で、栄子の車がやってくるのを待っていた。彼が立っている背後は丈のひくい松林で、松林のむこうは砂浜になっており、すぐ海に続いている。
「とにかく、しようのない世の中だ」
と彼はぼんやり空を見あげて呟いた。人妻が夫いがいの男と遊ぶのは、彼の倫理観からすれば良くないことに入っていた。どうして女達は良くないことをするのだろう……。
やがて一台の車が浩作の前に来て停《とま》った。栄子は地味な洋服を着ていた。
「目だたない服装にしたの」
「そりゃいい考えだ」
浩作は車に入った。
「どこにする? 五時までに帰ればいいけど」
「どこでもいいよ。昼間堂々と旅館に入るのはいやだろう。やはりモーテルがいいだろうな。あんなのを考えだした奴がいるおかげで、日本の女はますます駄目になってくる」
「おかしなことを言わないでよ。それより、昨日あれからが大変だったのよ」
栄子はアクセルを踏みながら言った。
「どういう風に大変だったのかね」
「俺はいま北ノ庄浩作に会ってきたが、彼はおまえとのことを全部白状した、と言うじゃないの」
「そいつはけっさくだ」
「あたしね、自分の女房を寝盗られた男の醜い顔というのをはじめて見物したわ」
「そういう表現はよくないな。家族をやしなってきた男じゃないか」
「ずいぶん逢っていないけど、どんな女と遊んでいたの」
「女なんていなかったよ」
「嘘おっしゃい」
「どうも今年は女運に恵まれないらしい。易者にみてもらったら、そう言っていたからな、仕方がないので、四月に結婚することにしたよ」
「あら、本当?」
「本当さ」
「結婚するんじゃ仕方ないわね。でも、あたしとは逢ってくださるんでしょう。そうしてくださらないと、あたし、困るわ。相手はどんなひと?」
「なに、平凡な娘さ」
「平の辺にモーテルあったかしら」
「あるだろう」
「いやあね、結婚するなんて」
「去年入った辻堂のモーテルの前をいま通りすぎた」
「あたしもいま看板を見たわ。どうして、只今空室あり、なんて札をぶらさげておくのかしら」
「俺達のような者の便宜をはかってくれているのさ。親切なことだよ。国鉄職員の不親切さに比べれば、あの札の親切は、そう悪くないよ」
「国鉄はいまも不親切なの?」
「あそこは電力会社と同じだよ」
「丹沢がきれいだわ」
「それで、昨日の夫婦喧嘩の結末はどうなったの」
「昼間だというのに、あの人、あたしを脱がしたのよ。それで腹の虫がおさまったらしいわ」
「なるほど。そういう結末は夫婦にしか出来ないだろうな」
「昼間そんなことをした経験がないのよ、あの人とは」
「平にでるには、いったん大磯に行ってから戻るのかな」
「そうらしいわ。……人間って、結局は動物と同じなんでしょうね」
「そうだろうと思う。自分でそう思っているのか」
「いやだと思うけど、結局そうでしょう」
「女は化けものだよ」
「そうかも知れないわね。こんど、お嫁さんになる人を見せてよ。悪いことは教えないから」
「ああ、見せてやるよ」
やがて車は大磯に出ると、そこから右にまがって平の方にむかった。
「どのくらい目方がふえたのかね」
「一キロちょっとよ」
「たいしたことじゃない」
久しぶりで逢った栄子が、浩作にはすこぶる美人に見えた。
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意馬心猿
栄子は、浩作と平のモーテルですごしたあくる日の夜、夫の橋田次から、一通の書類を見せられた。それは、ある私立|探偵社《たんていしや》の報告書で、無罫《むけい》の便箋紙《びんせんし》二枚にタイプ文字が打たれており、前日の栄子の行状が書かれてあった。
この報告書によると、栄子は、前日の午前十一時四十五分に、湘南海岸道路で一人のサングラスの男を車にひろいあげ、それから二十五分後の十二時十分に、平の馬入川《ばにゆうがわ》のほとりのモーテル馬入にはいり、午後四時二十七分に、モーテル馬入から出てきた、としるされていた。
「それで納得できないのなら、これがある」
夫は封筒から数枚の写真をだして栄子の前に並べた。写真には左肩に1、2、3と番号がふってあり、最初のは湘南海岸道路で栄子が車をとめ浩作をのせている場面、二枚目のはモーテル馬入に車がはいる場面、三枚目のはモーテルから車が出てくる場面がうつっていた。
「よく調べさせたものね」
栄子は写真をちらと見たきり、ベッドの方に目をやり、投げやりな調子で言った。
「これでもおまえはあの男と関係がないというのか」
「どうとも勝手にしてください。なにも、わたし、あなたに執着しているわけではないんですから」
栄子は覚悟をきめていた。不貞《ふて》くされではなく、なるようにしかならない、といった気持の方が大きかった。浩作に責められた躯《からだ》のおもいでだけが、このときの栄子のなかを占めていた。適度に野蛮人で適度に繊細な男だった。
「おまえはこのあいだ嘘《うそ》を言った。あの男も嘘を言った。くちうらを合わせていたんだな。そうだろう」
「あれはね、くちうらを合わせていたのとはちがいますよ」
「では、なんだ」
「あなたがかわいそうだから、自然にくちうらが合うようになってしまったのですよ」
「かわいそうだ?」
「浩作さんは、あたしをかわいそうだと思ったのでしょう。ついでにあなたをもかわいそうだと思ったにちがいありません」
「馬鹿にするな! 俺《おれ》にだって女の一人や二人はいる」
「それは結構でしたね。そんな男が、なぜまた私立探偵をつけるんですか」
「おまえは淫売《いんばい》と同じだ!」
こうなったらもう泥仕合《どろじあい》である。夫婦は、たがいに相手を罵倒《ばとう》してありとあらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけた。普通の夫婦喧嘩《ふうふげんか》なら時間が経てばおさまるし、ときとして喧嘩前より睦《むつ》まじくなることもあり得るが、なにしろこの喧嘩はたがいにとって決定的だった。夫は妻の不貞をいやおうなく知らされているし、妻は夫から淫売よばわりされているので、まったく収拾がつかなかった。
栄子は寝巻を服に着がえた。
「おい、どこへ行くんだ」
「どこへ行こうとあたしの勝手でしょう。どうせあたしは淫売ですからね」
栄子は寝室をでると、食堂に行き、棚《たな》からウイスキーの壜《びん》をおろし、喇叭《ラツパ》のみした。
「おい、酒をのんでどうするんだ」
「うるさいわねッ!」
栄子はウイスキーをもうひとくちのむと、テレビの上においてある皿から車の鍵をつかみ、勝手口から外にでた。
「おい、どこへ行くんだ」
と夫はパジャマ姿で外に出てきたが、栄子は返事をせず、車を門の外にだした。
「おい、待ってくれ」
と夫は車にすがりついてきた。
「女の一人や二人いる男が、いまさら淫売にむかってなにを言っているの」
栄子は捨て台詞《ぜりふ》すると、車を海岸道路に向けた。夫から淫売だと言われたことで栄子は頭が変になっていた。女の自尊心に、それはささくれのように突き立った。
彼女はいったん海岸道路に出ると、迂回《うかい》して浩作の家に行った。彼女は門の前に車をとめると、車からおり、浩作のいる離れ屋の前に行き、戸をたたいた。
「誰方《どなた》?」
なかから浩作の声がした。
「あたし」
「あけて入ってきてくれ」
栄子は戸をあけた。浩作は木刀を削っていた。
「どうした、いま時分?」
「喧嘩をして出てきたの。卑劣だわ、私立探偵をつかって昨日のことを調べさせているのよ。写真まで撮っているのよ」
「動かぬ証拠というわけか。そうだとすると、御主人はここに来るな」
「来ても帰らないわ」
「そうはいかんだろう。あそこからここまで歩いて十三分かかるな」
浩作は置時計を見た。
「どこかに連れていって。今夜はあの家には戻りたくないわ」
「明日は戻るのか?」
「明日も戻りたくないわ。それはまた考えるとして、とにかく今夜は戻りたくないのよ」
「動かぬ証拠をつかまれた以上、ここから逃げても仕方ないな」
「あの人、ここに来るわよ」
「来てもいいだろう。まあ、お茶でもおあがり」
浩作は削りかけの木刀をわきにおいた。
栄子の夫が現れたのは、それから二十分後だった。
「やはりここに来ていたな!」
橋田次はかなり興奮していた。
「なにしに来たのよ。帰ってよ」
栄子はおだやかに言った。
「あんた、このあいだ嘘を言ったな。やはり女房といちゃついていたじゃないか」
橋田次はこんどは浩作に鋒先《ほこさき》を向けてきた。
「言葉を慎んでもらいましょう。この人はあなたの奥さんですよ。もし奥さんを尊敬していらっしゃるのなら、言葉を慎んでもらいましょう」
「なにを! 盗人《ぬすつと》たけだけしいとはおまえのことだ。ちくしょうッ、戦前なら姦通罪《かんつうざい》があったのに」
「あなた。みっともないまねはよして帰ってちょうだい」
「いっしょに帰るんだ!」
「いやよ。あたしを淫売だと言ったくせに、なによ」
すると、浩作が栄子の耳にくちをよせ、これではここで一晩中争いになる、だから、ちょっと帰るんだ、そして、家の前で御主人が車からおりたら、そこにおきざりにしてここに戻ってこいよ、俺は外出の支度をしておくから、とささやいた。
「おい、いま、なにを話したんだ?」
と橋田が浩作をにらんだ。
「いえ、なに、奥さんに、帰ってあげなさい、と言ったんです」
「仕方ないわ。帰るわ。ここの家に御迷惑だから」
栄子がたちあがった。
夫婦は浩作の家から出て行った。出て行くとき橋田は、浩作をふりかえり、嘘つきめ! と言った。
二人が出てから、浩作は火のしまつをし、財布をポケットに入れ、コートをとりだし、家のなかのあかりはそのままにして、家を出た。
そして門の前にたたずんで煙草を三本のみ終ったとき、栄子の車が戻ってきた。
「どこがいいかしら」
浩作が車のなかにはいったら栄子が言った。
「明日の朝までに帰った方がよくはないかな」
「とにかく、どこかに連れていってよ」
「どうだろう、江ノ島は。かえって近くで盲点になっている場所だ」
「いいわ」
そして二人は江ノ島に車を向けたが、栄子が、腹がすいたというので、途中カンツォーネにたちよった。
カンツォーネで浩作はビールをのみ、栄子はマカロニを食べた。栄子はマカロニのあとカンパリ酒の水割りをのんだ。
カンツォーネにいたのはおよそ一時間ほどだった。二人がそこから出て車に戻ったとき、外は小雨になっていた。
「なんだかセンチメンタルになってきたわ」
道路に出て江ノ島に車を向けながら栄子が言った。
「雨のせいだな」
「たぶんそうだと思うわ。少女時代にかえったみたい」
「では、江ノ島で波と雨の音をききながら、恋をしますか」
「それがいいわ」
やがて二人は江ノ島につくと、ヨットハーバーの手前の広場に車をとめ、ある旅館にはいった。
その部屋は、片瀬と鵠沼の町が窓の向うに見える場所だった。
「わからない世のなかだ」
浩作は海の向うの鵠沼の夜景を眺《なが》めて呟《つぶや》いた。そこには栄子の家があり、彼女の夫と子供が待っているはずだった。夫婦というのは一蓮托生《いちれんたくしよう》の身ではないのだろうか、と彼は思った。
二人が江ノ島の旅館を出たのは午前五時だった。栄子が、やはり子供が学校に行くのに支度をしてやらねば、と言いだしたからであった。
二人とも前夜の肉の歓びは忘れ、にがい感情で旅館を出た。そして車をとめてある場所までだまって歩いた。
「夫婦のことをとやかく言う資格はないが、御主人の態度からして、あなたと別れるつもりはない、と俺は見ている。そこのところを考えてやった方がいいんじゃないかな」
「そうね。……でも、いまは、あの人の顔を見るのもいやなのよ。数日したらまた電話をくださらないかしら」
「どうだろう、俺は、いま、御主人に同情しているんだが……」
「よしてよ!」
「自分がみじめに思えるからか」
「あなたとのことは、遊びではないのよ」
「はじめは遊びだった」
「でも、途中から遊びでなくなったのよ」
「何故あそびで終らせなかったのだ」
「そんなことをあたしに訊《き》くの? カンツォーネで声をかけてきたのはあなたじゃないの」
「それはそうだ。あれは遊びだった」
「もうだめよ。あたしはいま遊びであなたとこうして朝帰りしているんではないんですから」
やがて浩作の家の前につき、浩作は車からおりた。
「数日したら電話をちょうだいね」
「わかった」
浩作は栄子を見ずに返事をすると門をはいった。
栄子はそれから自宅に戻ると、勝手口から家のなかにはいった。夫は食堂でウイスキーをのんでいた。目がとろんとしており、彼が一睡もしていないことはあきらかだった。
「なぜ帰ってきたのだ」
と彼はぽつんと言った。栄子は返事をせず、前掛をかけると流し台の前に歩いて行き、朝食の支度をはじめた。
「俺は、あれからまたあの男の家に行った。鍵がかけてなかったので、なかに入り、二人の帰りを待った。三時間待った。それからここに戻ってきた。……何故こうなってしまったのだ」
栄子は背後に夫の声をききながら、朝帰りの苦い感情をかみしめていた。
「なぜこうなってしまったのだ……」
「別れてあげるわよ」
栄子は背を見せたまま答えた。
「別れるとは言っていない。子供がいる。簡単には別れられないよ」
「ごはんの支度をするあいだ、だまっていてちょうだい。あなたが私立探偵をつかってあたしを調べ、そしてあの人といっしょにいるところを見られ、そして朝帰りをした。これで充分じゃないの。なぜこうなってしまったのか、と言われても、あたしには答えようがないわ。つまんない喧嘩はやめましょう。事実を認めれば、ほかに言うことないじゃないの」
「おまえはあの男が好きなのか? それとも単なる浮気なのか。どうか、正直に答えてくれないか」
「はじめは浮気だったわ。でも、いまは、あの人なしじゃ、困るわ」
「いつからだ?」
「去年の九月からよ」
栄子は臆面《おくめん》もなく答えた。
「あの男のどこがいいのだ。俺のどこに不満があるのだ」
「あなたに不満などないわ。……たぶん、もっとも完全な家庭の夫よ。不満といえば、あなたが完全すぎる点かも知れないわ」
「俺にはわからない。経済的に困っているわけではないし、車が欲しいと言えば車も買ってやった」
「そんなことじゃないのよ」
「では、なんだ?」
「わたしにはわからないわ。……あの人が言っていたけど、世の中が平和すぎるのよ」
「なんだって?」
「あの人はね、あたしのことを、姦通はよくないことだ、と言っているのよ」
「ちくしょうッ、よくもぬけぬけとそんなことが言えるな」
「あなたが怒ってもしようがないわ。あたしは何度もあの人と寝たんですもの。怒れば怒るほど、あなたの価値がさがるだけよ。あの人はなにひとつ痛痒《つうよう》を感じていないんですからね」
そして栄子は、おほほほ、とわらった。
「なんでわらうんだ!」
「だって、おかしいからよ。いきり立つのはおよしなさいよ。あなた、睡っていないの?」
「睡れるはずがないだろう」
「あたしも睡ってないのよ。子供を学校に送りだしたら、すこし睡らなくちゃ。あなたは会社に出かけるんでしょう」
「こんな顔で会社に出られると思っているのか」
「もしおやすみになるのなら、おひとりでやすんでよ。あたし、疲れているんですから。もし女が必要なら、あなたの女のところに行ってよ」
食事の支度をすませ、それから子供を学校に送りだしたのは八時ちょっとすぎである。それから栄子は寝室にはいると、なかから錠をおろし、服のままベッドにもぐりこんだ。なにか金属的な疲れをおぼえ、なかなか睡れなかった。そこで枕《まくら》もとのブランデーの壜をひきよせ、二口ほど喇叭のみした。
「おい、あけてくれ」
ドアの外で夫の声がした。栄子は、だめよ、と答えると、再びベッドにもぐりこんだ。
橋田次から毎月二万円の手あてを貰っている奥村才子は、最近恋人をこしらえた。相手は真田茂であった。才子が勤めている螺子《らし》会社では、日本舞踊を習っているグループがあり、才子は、同じ総務課で机を並べている木村豊子とこのグループに入っていた。二月末のある日の昼食時、才子は、豊子から誕生日に招かれたのである。
豊子の家は鎌倉だった。誕生日は水曜日で、この日、才子は、会社が退けると、豊子といっしょに鎌倉に行った。豊子の家に泊り、あくる日は豊子といっしょに会社に出る、という予定になっていた。
才子は、この豊子の家で真田茂を知ったのである。真田は豊子の従兄《いとこ》にあたっていた。要するに、この日の誕生パーティーで出会った二人は、たがいに心にくからず思いはじめたのである。才子は、真田のスポーツマンタイプに心惹《こころひ》かれ、真田は才子の美しさに惹かれた、といってもよい。二人は、この日、つぎに逢《あ》う日を約束した。
ところで、才子は、部長の橋田次から月に二万円もらっているのを、どのように考えていたか。彼女は割りきって考えていたのである。二万円もらうかわりに月に四回橋田と一夜をともにしていることは、言いかえれば一回五千円で躯を売っていることになるわけであったが、才子にそんな意識はなかった。
ところが、真田と知りあってからは、真田にうしろめたい気持を抱くようになった。
「なんといっても女は結婚まできれいな躯でいた方がいい。遊び好きの女を嫁にもらったら一生の不覚になりますからね。その点、あなたは真面目《まじめ》なBGだし、うちの両親もすっかり喜んでくれましてね」
これは、才子が鵠沼の真田の家に遊びに行った日曜日、才子が帰るのを藤沢駅まで見送ってくれたときの真田の言葉である。才子は胸が痛くなり、なるべく早いうちに部長とは手を切らねば、と考えた。部長と手を切れば二万円がはいらなくなるので、これは別の方法でなんとかしなければならなかった。
そこで才子はある夜アパートに現れた橋田に、援助は今月かぎりで辞退したいと話した。
「なんでだ?」
橋田は怪訝《けげん》な顔を見せた。
「ちょっとわけがありますの」
「結婚するのか」
「そういうわけではないんですが」
「では、恋人が出来たのか」
「そんなところです」
「そっちはそっち、こっちはこっちでいいじゃないか」
「そうはまいりません。……その人を、ここに連れてくることが出来ないんですもの」
「そこをうまくやればいいじゃないか。たとえば、僕は夜ここにくるのはやめるよ。そのかわり、昼やすみの一時間を利用できるじゃないか。地下鉄で四谷三丁目、そこから荒木町のアパートまでの往復を三十分とみる。あとの三十分で、なんとか出来るじゃないか」
「一時間じゃ無理ですよ。だいいち、昼食をたべる時間もないでしょう」
「だって、きみ、毎日じゃないんだ。週一回じゃないか。週に一日ぐらいは昼飯をぬきにしてもいいじゃないか」
こう言われてみると、週に一回、それも昼間なら、出来ないこともなかった。
「それに、きみ、僕と切れたら、早速おかねに困るんではないのか」
「それは困りますが……」
「そうしろよ」
これは橋田の四十男の貪慾《どんよく》さだった。
「では、しばらくそうしますが、でも、なるべく近いうちに、切れて欲しいのです」
「ねえ、きみ、恋人にわからなければ、それでいいじゃないか。きみとこうなってまだ日が浅い。それに、その恋人とだめになる場合だって考えておかねばならないよ」
たしかにそれはそうだった。真田と結婚できるかどうかはわからなかった。
そして結局、橋田の言うように週に一回昼間の慌しい情事を持つことになったが、これはまたなんとも索漠《さくばく》としたまじわりだった。ことが終ると橋田はそそくさと服をつけ、さきにアパートから出て行く。才子は蒲団《ふとん》をしきっ放しのまま、髪の乱れだけ直すと、これもまたそそくさとアパートを出る。なんとも味気ないかたちだった。
三月なかばのある日の夕方、才子は、会社が退けると、真田と待ちあわせの銀座のコーヒー店に行った。
「こんどの日曜日に家にこないか。近くにすんでいる友人をひとり紹介するよ。木刀造りを商売にしている男だが、いい奴でな、是非あなたを紹介しておきたいんだ」
真田はこの日こんなことを言った。
「伺うわ」
「ところで、あなたは、アパートに独りですんでいるのか」
「ええ、ひとりよ。以前は、お友達と二人で借りていたけど、その人、結婚してしまったのよ。だから、いまは、部屋代の半分を、田舎《いなか》から送ってもらっているの」
「そりゃ大変だな。部屋代はいくら?」
「二万円」
「サラリーは?」
「四万円にちょっと欠けるわ」
「それじゃ大変だろう」
「でも、なんとかやって行けるわ」
こうした嘘は、女が本能的に身につけた技術である。
「僕に出来ることがあったら、言ってくれよ。いちど、あなたのアパートを見物したいな」
「それはかまわないけど、あたし、四月には、休暇をとって田舎に行ってくるつもりなの。もし、よろしかったら、あたしの両親にも会って下さらないかしら」
「そいつはありがたい。宮城県だとか言っていたな」
「白石《しろいし》というところ。福島と仙台《せんだい》のまんなかあたりですの」
「そりゃぜひ一緒に行きたい」
「ほんとは三月にしようかと考えたの。二十一日が春分の日であくる日が日曜日でしょう。だから、二十日の夜行で行き、二十二日の夜帰ってくれば、と考えたの」
「それがいいじゃないか。なるべく早い方がいい。なんなら、僕の方で乗車券を手配しようか」
「そうしてもらおうかしら」
ということになり、真田は、才子の両親に会える日を楽しみにした。
そしてつぎの日曜日に、才子は約束通り鵠沼に来た。
真田は、結婚してもいいと思う娘を見つけたから、こんどの日曜日に紹介するよ、と浩作に電話で伝えてあったので、彼は才子を車にのせて浩作を訪ねた。
浩作はれいによって木刀を削っていた。
「おい。連れてきたよ。おまえの方はあわせてくれないのか」
「びっこの娘はいま風邪でやすんでいる。そのうちに紹介するよ」
浩作はちらと才子を見てから答えた。
それから紹介が終り、才子は壁にたてかけてある木刀を珍しそうに眺《なが》めた。
真田は茶をいっぱいのむと才子をうながして起ちあがった。
「なんだ、もう帰るのか」
「この人を三浦《みうら》半島に案内しようと思ってね」
「そりゃおたのしみだ。行ってこいよ」
浩作はぶっきらぼうだった。
真田は浩作のところを出ると、湘南道路を鎌倉を経て逗子《ずし》にぬけた。そして葉山《はやま》から長井《ながい》をぬけて三崎《みさき》に走らせた。三崎では城《じよう》ケ島《しま》まで渡り、そこで栄螺《さざえ》のつぼやきをたべた。
「たのしかったわあ」
帰りの車のなかで才子が言った。海の香を満喫しただけでも都会のほこりを洗いおとしたような気がしたのである。
帰りは鎌倉の海岸のレストランで食事をとり、才子は鎌倉駅から帰って行った。
真田は才子を鎌倉駅に送ると、浩作のところにたちよった。
「おい、どうだい、あの娘は」
「どうだいって、なんのことだ」
浩作はぶっきらぼうだった。
「ちょっといい娘だろう」
「さあ、どうかな」
「どうかなって、よくなかったのか。美人だろう」
「そりゃ美人だ」
「なにか欠点があったのか?」
「ありゃ、おめえ、おぼこじゃねえな」
「え? おい、変なことを言うなよ。おまえ、けちをつけるのか」
「からだつきが生娘《きむすめ》ではない」
「ほんとかよ?」
「年上の男と関係があるな。目つきがそうだ。若い男とかかわりがあるのなら、目がもっと溌溂《はつらつ》としていていいはずだ。翳《かげ》がある」
「おい、ちょっと待てよ。俺はあの娘と結婚するつもりなんだ」
「そりゃかまわんだろう。祝福するよ」
「月末に宮城県の彼女の両親に会いに行くことになっているんだ。俺のおやじもおふくろも、彼女を気にいってしまってな」
「そりゃ結婚すべきだよ」
「おまえ、無責任なことを言うなあ。おまえの方はどうなんだ」
「びっこの娘は完全に生娘さ」
「てめえのだけは生娘で、俺のはそうでないと言うのか」
「そういうことだ」
「それをきいたら彼女の田舎に行くのがいやになってきたな」
「だけど、結婚は結婚、別に考えればいいじゃないか。おぼこを一人前にするのは大変だ。あの女なら、そんな手間がはぶけていいだろう。結婚しろよ」
「おい。ほんとにあの子は生娘ではないのか? 俺の一生の問題だからな」
「テストしてみればいいだろう、俺の言葉が信じられないのなら」
「テストか。……おまえの方はもうテストしてみたのか?」
「いや、箱入娘だから、手ひとつ握らせてくれないよ」
「俺はもうキスをしたよ。今日、車のなかでだがね」
「そのとき彼女の頬《ほお》があかくなったか?」
「そういえば白い頬をしていたな。持てよ、どっちだったかな……。いや、あかくなったと思ったよ」
「車のなかは暖房がきいているからな。死にかけている病人の頬だってあかくなるさ」
「ちくしょうッ、おまえ、俺の頭を攪乱《かくらん》させるつもりか!」
「頭の体操にもってこいじゃないか」
「おぼえておれ!」
真田は捨て台詞《ぜりふ》して浩作のところをでてきた。そして、車で家に帰る道々、才子が生娘かどうかと考えているうちに、車を電柱にぶつけてしまった。
「浩作の奴め!」
彼は舌打ちすると車から降り、破損個所を調べた。
真田が帰ったあと、浩作は畳に寝ころび天井を見あげて大声で笑いたてた。
「しかし、色っぽい女だったな。とにかく生娘でないことだけはたしかだ。……どれ、俺も出かけるとするか」
浩作はむっくりとおきあがった。里子から夕飯に招待されていたのである。といっても里子の自宅ではない。最近、海岸道路沿いにビーフステーキ専門の店が一軒開業したので、そこで肉を御馳走《ごちそう》する、というのであった。
浩作はその店まで歩いた。歩いて二十分はかかる。師匠の更級に似て味にうるさい浩作は、その店が開業したばかりの頃肉をたべに行ったが、肉が新しすぎて旨《うま》みがなかったことをおぼえていた。
その店についたら里子はすでにきていた。渋い木綿紬《つむぎ》に芥子《からし》色の無地の帯で、朱色の帯じめが女を引きたてていた。
「お待ちになりましたか」
「いいえ。つい五分前についたばかりですわ」
里子は微笑した。
「僕はいますこぶる幸福です。さてと、今日は腹をすかせておいたから」
「お好きなものをどうぞ」
里子がボーイを手招きした。ボーイはメニュー表を二つ持って近づいてくると、二人の前においた。
「僕は、まずワイン。サーロインの大きいやつを一枚。それからオニオンスープ。最後にビーフシチュー」
「わたしはテンダロインの小さいのにしてちょうだい。それに野菜サラダとスープ」
「パンかライスをおつけになりますか?」
ボーイがきいた。
「わたしはパンをちょうだい」
「俺はめしだ」
「ライスですね」
「ライスじゃない。めしだ」
ここでボーイはさがっていった。
「今日はなにをなさっていたの?」
里子がきいた。
「木刀をけずっていました。そこへ友人が婚約者という女をつれて訪ねてきたので、すこし奴の頭を狂わせておきました」
浩作は真田の話をしてきかせた。
「あなた、悪いことをなさるのね」
里子は微笑をくずさなかった。どんなときでも声をあげて笑わないのが里子であった。まさしく能面の増《ぞう》のような表情であった。一月に歌舞伎を観に行ったとき、里子は、わたしは何も能のない女ですわ、と言っていたが、浩作にしてみれば、増のような里子の表情そのものがひとつの芸術品であった。
「あなたの婚約者は、その後お元気?」
「ああ、びっこの娘ですか。いま風邪をひいてやすんでいます」
「いちど、あわせてくださるお約束だったでしょう」
「そうでしたね。肉がきました」
ボーイがステーキと葡萄酒《ぶどうしゆ》とスープを運んできた。
「古川は今日は伊豆にゴルフに出かけておりますが、ゴルフって面白いのかしら」
里子はナプキンを膝の上にひろげながら言った。
「やってみれば面白いでしょう。あれは老人の運動ですがね」
それから二人は約一時間かけて食事をすませた。里子は、浩作の健啖《けんたん》に目をみはった。サーロインステーキは四百グラムはあるやつだった。それにワインを二本、ビーフシチューもかなりの量があった。眺めていて気持のよい食べっぷりだった。
二人が店を出たのは八時すこし前だった。それから二人は海岸道路に沿った歩道を歩いて鵠沼の方にむかった。
「あたたかい夜ね」
「そうですね」
浩作は、栄子をおもいかえしていた。栄子と里子のちがいを考えたのである。里子とは手ひとつ握っていなかった。
やがて里子の家についた。門をはいって玄関の前で向きあって立ったとき、浩作はごく自然に里子の肩に手をかけ抱きよせた。くちびるがかさなった。しかしすぐ里子が身をひいた。
「いけません」
そして里子は玄関をあけるとなかに入り、しずかに戸を閉めた。
浩作は、里子が玄関の戸を閉めてからしばらく玄関の前にたっていた。玄関のなかでは里子が動いた気配がしなかった。
やがて玄関が開いた。
「もう、お帰りください」
と里子はやさしい声で言った。
「つれないことを……」
「つれないとは思いません」
「そうでしょうか。つれない仕うちにしか思えませんが」
「今夜はこれでお帰りください」
「明日の昼、訪ねてきてもよいでしょうか」
「明日は困ります」
「では、明後日にします」
「明後日もいけません。いえ、しばらくお逢いしないことにします」
「何故ですか?」
「あなたがいけないからです。では、さようなら」
里子はしずかに玄関を閉めた。しかし、そこから動いた様子はなかった。浩作はなおも立っていた。すると、また玄関が開いた。
「お帰りください、と申しあげましたのに」
「足が釘《くぎ》づけになってしまったのです」
「どうしてですの?」
「足が痺《しび》れてしまったのです。どうやら、さっき、くちをかさねたとき、毒をのまされたらしい。どうぞ、僕におかまいなく、戸を閉めてください」
「うまいことをおっしゃるのね。では、おあがりになって、お茶をのんでいらっしゃい」
「痺れが直りました」
浩作は言うなりいきおいよく玄関の中に入った。
里子は、自分の居間に浩作を案内した。
「お茶はなにがよろしいかしら」
「玉露を所望します。なにしろ、目が朦朧《もうろう》としているので、濃いのをください」
「どうして目がそんなことに……」
「あなたがいけないからです」
「しかたがない方ね」
里子はたちあがると居間を出て行き、やがて茶を淹《い》れる支度をととのえてきた。そして、里子が茶を淹れているあいだ、浩作はつぎのように謡《うた》った。
君を思へば徒歩《かち》跣足《はだし》、拙者《せつしや》は、恋のはげしさに、恋のはげしさに、かく成り果てたる痩男《やせおとこ》でござる。せめて、お茶なりと所望し、かなしみをやはらげたく存じ候。
「それはなんの曲?」
「鵠沼悲歌、という曲です」
すると里子はくちに手をあてて、おほほほ、とわらった。
「おかしいですか」
「おかしいというのではありませんが、本当の謡曲のようにきこえるからですわ」
「これは本当の謡曲です」
「いや! そんな真面目なお顔をして」
「不真面目な方がいいんですか」
「不真面目はなおいやですわ」
「では、どうすればよいのですか」
「いままで通りのおつきあいでいいのよ」
「そんな酷な……」
「だって、わたしは人妻でしょう。あなたもじきに御結婚なさることだし、それ以外に方法がないではありませんか」
「それは常識というものでしょう」
「あなたは常識がおきらいなの?」
「いえ、嫌《きら》いではありませんが」
「わたし、常識を守らない人はきらいよ」
「すると、ずうっと片思いでいろ、とおっしゃるのですね」
「片思いはなにもあなただけがしているのではありません……」
「そんな古典的な恋がありますか」
「あら、あなたは、古典的な方が好きだったのではありませんか」
「僕のなかには、すでに毒がはいってしまったのです。さっき、玄関の前でですがね。毒はすでに五臓六腑《ごぞうろつぷ》にまわり、いまや死ぬばかりです。こうなれば、古典も現代もありません」
「どこでそんな殺し文句をおぼえていらしたの」
里子はわらっていた。
「あなたが僕をこうさせてしまったのですよ」
「どうぞお茶を」
里子は茶碗《ちやわん》を浩作の前においた。浩作は茶をのんだ。
「すこぶる苦い」
「それで朦朧とした目はおなおりになって……」
「いえ。お茶ではだめらしい。もう一度毒をのめば直るかも知れない。毒をもって毒を制する、これ以外に直す道はなさそうです」
浩作は茶碗を右に押しやると、つと里子の前ににじりよった。
「いまいちど毒を……」
浩作は里子の腕をつかみ、自分の方に引いた。里子はそのまま倒れてきた。そしてくちびるが重なった。しかし里子は躯《からだ》をねじってすぐ浩作からはなれた。
「いけません。これでお帰りください」
里子はあきらかに興奮していた。
「明日、伺います」
浩作はたちあがった。
「見送りませんから……」
里子は畳を視《み》ていた。
浩作は里子の家を出ると、あるひとつの思いに突きあたった。里子とはこれが限界かも知れない、という思いだった。
結局、浩作は、あくる日もそのあくる日も里子を訪ねなかった。そのかわり、彼は、びっこの娘の病気見舞に出かけた。
三国房子の家は横浜|保土《ほど》ケ谷《や》の高台にあった。菓子の製造工場は戸にあり、房子の父は保土ケ谷から戸に通っていた。
「風邪はいかがですか」
浩作は房子がやすんでいる部屋に通され、枕もとにすわった。
「もう起きられると思います。暮から家族みんなが風邪をひき、最後にわたしにまわってきたのですわ」
「いちばん重かったわけですね。ところで、僕達の結婚の件ですが、あなたは、いつ式を挙げたらいいと思いますか」
「それは、あなたのお気持次第ですわ」
「御両親はやはりこの春を望んでいらっしゃるんでしょう」
「はい……」
「秋まで待つと、ちょっと日があるし、僕は初夏はどうかと思いますが」
「初夏ですか……。いいと思います」
「新婚旅行には、初夏の東北にでかける、ということにしたいのです」
「おまかせしますわ」
こんな具体的な話をとりきめながらも、浩作は、心のどこかで、自分が結婚することを信じることが出来なかった。里子にも気があったし、栄子の躯にもまいっていた。そして寿子ともつきあいがあった。彼は、ただ、この跛《びつこ》の娘の気質が気にいっていたのである。それに、跛が彼には珍しかった。どいつもこいつも五体満足にそろっており、やれスキーだ、やれボーリングだ、やれスポーツカーだ、と遊びに夢中になっているのに、この娘は跛のためにひたすら自分の内面に沈潜していた。跛の妻は、木刀造りをなりわいにしている俺の周囲に雅致《がち》をそえてくれるかも知れない、と彼は考えたのである。
浩作はこの日も娘とは手ひとつ握らずに出てきた。いつのまにか彼は娘の跛を観賞する立場にいたのである。彼女の歩きかたは一種独特で、ミニスカートをはいたすらっとした脚がきれいな線をみせて歩いているのより、雅趣があった。そして彼は、中年になった房子の姿態を想像してみた。彼は、そこに、すこぶる艶っぽい中年女を視たのである。
浩作がびっこの娘を訪ねた日の夜、真田がやってきた。
「おまえの言う通り、あの女は生娘《きむすめ》ではなかったよ」
と真田は言った。彼は、興信所に奥村才子の調査をたのんだのであった。その結果、才子が、上役の橋田次とかかわりあいがあることが判明した、というのであった。
「そんなことはどうだっていいじゃないか。結婚しろよ」
浩作は無責任なことを言った。
「いや、やめるよ。しかし、きれいな女なのになあ」
「おい。おまえ、いま、女の相手は橋田次だとか言ったな?」
「そうだ」
真田は調査票をひろげてみせた。
「これは、おまえ、栄子の亭主だよ」
「そう言えば、番地が鵠沼だな」
「あの男がねえ」
「栄子とはいまも会っているのか」
「このあいだ、亭主がどなりこんできたよ」
「栄子に教えてやるか」
「その方がいいかも知れない。そうすれば、あの亭主もここにはどなりこんでこないだろう。どれ、その調査票を俺に貸せよ。しかし、待てよ。……なにもこんな紙きれ一枚であの家庭をこわすこともないな。と言って、すでに毀《こわ》れてしまった家庭だし……。そうだ、栄子がこれを知れば、夫婦でおたがいの浮気が帳消しになる、という手もあるな」
「どなりこんできたとは面白いな。そんな亭主持ちの女の方が無難だ。俺はあれからまた百合子につかまってしまってな」
「柴野か宮石にゆずらなかったのか」
「二人とも、あんな婆さんはもういやだと言ってな。でも、そう言いながら、二人とも適当にやっているらしいよ。このあいだは、百合子が二人を自分の部屋に呼びよせ、朝まで二対一ですごしたそうだ」
「あの女の考えそうなことだ。ところで、あの才子とかいう女、やはりよすのか」
「やめるよ。相手の男がわかっちまっちゃ、興をそがれることおびただしいじゃないか」
「そんなものかね。どうだ、その才子を俺にゆずらんか」
「どうするんだ」
「橋田の妻を盗んだついでに二号さんも盗んでやった方が、慈悲というものじゃないかな」
「なるほど。しかし、うまく行くかな」
「おまえは、理由をつけて交際をことわるんだ。そうすれば今度は俺があの女の前にでる。なびかせるまでにそれほどの時間はかからないと思う」
「ひとつだけ条件をつける。それをのんでくれれば才子をゆずるよ」
「なんだ?」
「百合子をつけてゆずりたい」
「いいだろう」
「いいだろうって、おまえな、百合子を俺の会社にこないようにしてくれないと困るんだ」
「要するに、おまえと百合子を会えないようにすればいいんだろう」
「そういうことだ」
「それは簡単だ。まあ、俺にまかせておけ」
浩作には、ある計画があった。
あくる日の午後、浩作は真田の会社を訪ねた。といっても真田を訪ねたのではない。真田の会社に、浩作の兄の学友である広田行成がいたのである。広田は人事課長をしていた。
「久しぶりだな。兄貴ともここしばらく会わんが、元気かね」
広田は応接室に現れると、待っていた浩作に磊落《らいらく》に話しかけた。
「元気ですよ。実は、今日は、真田のことで相談に伺ったのですが」
「真田のことで?」
「奴はいまどこにも相談しに行くところがなく、毎日僕のところに現れるんですが、親友として奴の苦境をなんとかしてやらないことには。実は、あいつは、ある年上の人妻と仲がよくなり、はじめは火遊びだったのですが、そのうちに女の方であいつに夢中になってしまい、いまでは、毎日その女に追いかけられている始末なんです。その女というのが、いくらか精神病の気があり、このまま放っておくと、真田はもしかしたらその女に殺される可能性もあるわけです。受付にきいてもらえばわかりますが、女は昼間ここに真田を訪ねてきて、ホテルに引っぱりこんでいるのです。真田が、もう来るな、と言っても女は来るわけです。女と手を切る方法がないんですよ。そんなわけで、できたら、真田を大阪支店に勤務替えにしてもらえれば、と思いまして……」
「ふうん……。真田の勤務成績が最近よくないという報告はあったが、その女が原因なんだな」
「真田は、このことが会社に知れるのをいちばん恐れているのですよ」
「相手が気ちがい女では、きみの言うように、大阪あたりに飛ばした方がいいかも知れないな」
「ひとつ、おねがいしますよ。あいつ、最近は、めしもろくに食っていないんですよ。見るに見かねて相談にあがったわけですが」
「友達は持つべきものだな。有難う。真田にはだまっていよう。四月から大阪勤務にしよう」
「ありがとうございます」
「とにかく、受付の女の子をよんできいてみよう」
広田は電話で受付の女子事務員をよんだ。やがて丸顔の若い事務員が部屋に入ってきた。
「最近、総務部の真田を訪ねてくる中年の女がいるかね」
広田は訊いた。
「はい、いらっしゃいます。週に三回は訪ねていらっしゃいます。真田さんは、なんだか気のすすまない顔で出て行かれますが」
「よし、わかった」
事務員はさがって行った。
「四月といわず、すぐにでも大阪にやろう。気ちがい女のために一人の社員がだめになるのを見ているわけにはいかん。浩作くん、知らせてくれて有難う」
広田は礼をのべた。
それから二日たった日の夜、浩作のところに真田が訪ねてきた。
「おい。俺は急に大阪支店に飛ばされることになったよ。東京をはなれるのはいやだが、社命じゃしようがないよ」
真田はがっかりした顔をしていた。
「それは羨《うらやま》しいなあ。東男《あずまおとこ》に京女というくらいだから、関西はいいよ。鵠沼から東京にでる時間くらいで大阪から京都に出れるからな。俺のような浪人とちがい、おまえは実にいいよ」
浩作は、自分の身にひきかえ、宮仕えの身分がどんなによいかを羨んで見せた。
「よろこんでくれるのはおまえだけだ。なにしろ大阪は独身寮にはいるだろう。会社の寮の食事なんて味気無いと思うなあ」
「いまから嘆いたんでははじまらないよ。ま、元気で行ってこい。ちょうどいいじゃないか、百合子からも逃れられるし、才子という女とも手が切れて」
「だがなあ、あの才子には未練があるんだ」
「馬鹿野郎、しっかりしろ。なにをいまさら」
「それはそうだ」
「で、いつ出発だ?」
「明後日の朝だ」
「朝か。朝じゃ見送れないが、ま、京女の便りでもよこせ。しかし、おまえが大阪に行ってしまうと、実にさびしくなるなあ」
浩作は友情をみせた。
一〇
浩作が、奥村才子に呼びだしをかけたのは、真田が大阪に転勤した日の午後である。彼は、真田がにわかに大阪に転勤になったこと、その真田から手紙をあずかっていることを告げ、夜にでも会いたい、と電話で話した。
二人が会ったのはその日の五時半で、帝国ホテルのロビーだった。ロビーのそばにバーがあり、浩作は五時にここにきてカンパリソーダを飲んでいた。バーからはロビーが見渡せる。彼は、ロビーに奥村才子が現れたとき、たちあがって手招きした。
「おのみになりますか? カンパリソーダですが。苦い酒です。真田としばらく別れると思うと、さびしくなりましてね、苦さを味わっているところです」
「戴きますわ」
才子は浩作から真田の手紙を受けとりながら答えた。
急に社命で大阪転勤を命じられました。なにぶんにも急だったので、あなたにお会いしてゆっくり事情を説明するひまがなかったのです。どうかお赦《ゆる》し下さい。大阪のつぎはベトナム駐在、ということにきまっています。御承知のようにベトナムでは日本人商社員が危険な目にあっております。身の安全を保障できない場所です。そんなわけで、あなたとのことは、無かったことにして下さい。御多幸を祈ります。
真田の手紙を読みおわった才子は、気をおとした、という表情になった。手紙は浩作が教えて書かせたのであった。
「あいつはいい奴でした。あなたのような美人を思いきることが、いかにつらかったか、僕にも彼の心中はよくわかりますよ。ところで、今夜はおひまですか?」
「ええ。アパートに帰るだけです」
「では、つきあって戴《いただ》けますか。真田の奴、俺のかわりにつきあってやってくれないか、と言いのこして行ったのです。真田の代りじゃつまらんでしょうが」
「いいえ、そんなことはありません」
「つきあって戴けますか。ありがとう」
それから二人はカンパリソーダをのみおえると、ホテルのバーを出た。浩作は才子をメコシカムに連れて行った。
「ずいぶん素敵なクラブですのね」
「なに、たいしたことはありません」
浩作はれいによって更級のブランデーを持ってきてもらった。
それからブランデーをのみながら、浩作は真田のことをありとあらゆる角度からほめた。ききようによっては、故人をほめそやしているような口調だった。すると才子は悲しげな顔になり、ブランデーの酔いが手伝ったのだろう、涙を数滴おとした。
「こりゃいかん。あなたを泣かせるつもりではなかったのに。どうも湿っぽくなってきましたね。ひとつ、にぎやかなバーに行きましょうか」
「はい、まいりますわ」
そこで浩作は才子をつれて三軒のバーをまわった。真田といっしょに行ったことのある林檎屋・鼻・魔の里である。
「真田につれてきてもらったことがないんですか?」
浩作は、珍しがっている才子にきいた。
「ございません」
「あなたにはこういう場所を見せたくなかったんだな。つまり、彼は、あなたを大事にしていたのですね」
どんな場合でも、浩作は、目の前にいる女のかつての恋人をほめそやすことを忘れなかった。
「きれいな人がたくさんいるんですのね」
「いや、あなたの方がきれいですよ。ここにいる女の子たちは、どっちかというと、つくりものの美しさですよ。あなたは地の美しさがある。さて、どこかへめしを食いに行きましょう」
それから浩作は才子を四谷につれて行った。四谷二丁目にピッザを食べさせてくれる店があり、浩作はそこに数度しか行ったことがなかったが、才子のアパートが四谷だと真田からきいていたので、彼女のアパートの近くがいいだろう、と考えたのである。
二人はそこでもウイスキーをのみながらピッザパイを食べた。
そして、その店を出たときは十二時にちかかった。
「お送りしましょう」
「いえ、よろしいですわ。ここから近いんですの」
「そうですか。お宅の近くまでお送りしましょう」
「北ノ庄さんは電車でお帰りになりますの?」
「いや、もう電車はありません。タクシーで帰ります」
それから二人は歩いて才子のアパートの前まで行った。
「タクシーでお帰りになるのでしたら、あがってお茶をのんでお帰りになったら……」
と才子が立ちどまりながら言った。
「それはありがたいが、かまいませんか」
「きたないところですがどうぞ」
才子はアパートに入ると、さきに廊下を歩いて行き、鍵をだして自室の戸をあけた。
一一
あくる朝、才子が目をさましたらすでに十時をすぎていた。会社に出勤する時刻はとうに過ぎていた。彼女は、となりで睡っている浩作の顔を眺めおろし、成り行きでこうなってしまったにすぎない、と自分に言いきかせた。とはいえ、大阪に去ってしまった真田には後めたさは感じなかった。橋田次にも後めたさはおぼえなかった。
彼女はおきて服を着がえると、会社に電話をするため部屋をでた。公衆電話のある場所まで歩いて五分とはかからなかった。風邪をひいたから、と会社に電話をすると、彼女は煙草を二箱買った。浩作が前夜煙草を切らせてしまったのであった。そしてアパートに戻りながら、妙だと思った。一夜をともにしただけの男に、いま自分はあたたかい感情を抱いている……何故だろう……。彼女は前夜浩作に抱かれたとき、生娘《きむすめ》のようにはふるまわなかった。彼は真田とちがい遊びなれている男である、という感じを受けたのである。そんな男の前で幼稚な芝居をしてもはじまらなかった。しかし、成り行きとはいえ、あの人とは二度目に会ってこうなってしまったが、あたしは若い男を求めていたのだろうか……。考えてみると、橋田とは早く手をきりたかったし、そんな矢先に、真田が理由も告げずに大阪に去ってしまい、かわりに浩作が現れ、いろいろとなぐさめてくれ、酒をのみ、そしてアパートに男をつれてきて……。ここまで考えてきて、才子は、要するにさびしかったのでこうなってしまったのだ、と思った。
アパートに戻ったら、浩作は寝そべったまま灰皿から吸殻《すいがら》をひろっていた。
「煙草買ってきましたわ」
「そいつはありがたい」
浩作は煙草を受けとると封をきって一本ぬきとった。それから火をつけ、才子の方は見ずに、ここにもう一度はいりませんか、と言った。
部屋のなかに煙草のけむりがたちこめていた。けむりは下から上にあがっていた。才子は煙をみているうちに、もう一度男の言いなりになってもいいと思った。何故だかわからなかった。
才子は、しばらく間をおいて服をぬぎ、男のそばにすべりこんだ。
「僕は、はじめからあなたを誘惑するつもりでいた」
と浩作が言った。
「途中で、そうじゃないかと、あたしも思いました」
「そのときなぜ振りきらなかったの?」
「わかりません。……真田さんは、あたしの身元調査をしたと思います。それで大阪に転勤になったのではないでしょうか」
「どうしてそれを知っている?」
「アパートの管理人が知らせてくれたんです。あたしのことをききにきた人が二人いたって。あたし、それをきいたとき、興信所の人じゃないかと思ったんです。会社でも、人を雇うとき興信所に身元調査をたのむのです。あたし、その書類の整理をする係ですから、ぴんと来たんです」
「アパートを変えるべきだったよ、真田と知りあったとき」
「そうだと思いました。でも、もうおそかったのです」
「管理人がみんなしゃべってしまったのかね」
「いいえ。あたしに教えてくれたくらいですから……。両となりの部屋の人がしゃべったらしいのです」
「深く考えることはないさ。正直に言おう。真田があなたをつれて鵠沼にきたとき、俺は、あの人は生娘ではないよ、と言ってやった。奴は生娘でなければ嫁にもらわない、とわめいていたから、ちょっとかわいそうになってね。ことをおこしたのは俺だ」
「それでなさけをかけに来たのですか」
「怒るなら怒ってもよい」
「あたし、怒ってはいません。怒っても、しかたのないことです。……いいんです、もう、こうなってしまったのですから」
しばらく間があり、やがて男が動いた。煙草のにおいがした。橋田次にはじめて抱かれたとき、煙草のにおいをいやだと思った日が続いた。それが、日が経つうちに、煙草のにおいのしない男をもの足りないように思うようになった。橋田はフィルターつきの煙草をのんでいた。浩作はピースをのんでいた。才子が買ってきたのはピースである。自分の上に浩作がいた。それは男の顔だった。才子は目を閉じた。さっきよりさらに強い煙草のにおいがした。それは煙草のにおいというよりも男のにおいだった。橋田次は、はじめの頃は夜きて数時間をすごして帰ったが、現在では昼間の一時間を利用してやってくる。こうして一夜を男とともにすごしたことのなかった才子に、前夜の続きがまたくりひろげられていた。男から、ここにもう一度はいりませんか、と言われ、才子はそのようにした。なんの抵抗もなしに蒲団に入ったのは、男を求めていたせいだったのだろうか……。
才子はこれらのことを断片的に考え、男にからだをまかせた。どうなってもよい、と投げやりな感情が才子の裡《うち》を走りぬけて行った。
一二
才子は、戸を叩《たた》く音で目をさました。同時に浩作が目をさました。枕もとの置時計を見たら正午をすこし過ぎていた。
「誰かきたらしいぜ」
と浩作がふとももに手をいれてきながら言った。橋田かも知れない、と才子は咄嗟《とつさ》に思った。
才子は浩作の手を静かにはらいのけると、蒲団から脱けでた。
「どなた?」
「僕だ。風邪だというんで、見舞にきた」
橋田の声だった。才子は浩作を見た。
「あの男とは切れたいんだろう」
才子はしばらく浩作の目を視つめ、うなずいた。
「なら、戸をあけてやれ。あとは俺が引き受ける」
才子は起きあがって戸をあけた。
「おっ、なんだ、これは!」
橋田はせまい玄関で立ちすくんだ。
「よくお目にかかりますね、橋田さん」
浩作は蒲団の上にすわっていた。
「あなたは……どうしてこの女の子を……」
橋田は怒りよりもびっくりした顔をしていた。
「あなたのために、この人は、結婚をふいにしてしまった。わかりますか」
すると橋田はしばらく浩作をにらんで立っていた。
「まるで泥棒だ!」
橋田が呻《うめ》くように言った。
「僕の友人が、この人と結婚するはずになっていたのです。ところが、あなたのおかげで、この人はその友人と結婚できなかった。おわかりになりますか」
「なんだ、おまえは! おまえは泥棒だ!」
「あなたの奥さんを盗んだついでにこの人も盗んだわけです。少々苦しいでしょうが、まあ、これは、あなたの自業自得というものです。どうなさいますか。まさか、この人をくびにする、というわけにはまいらんでしょう。くびにしたら、奥さんに言いつけますよ。さっきからこの人と相談していたのですが、結婚をふいにされた慰藉料《いしやりよう》をどのくらい貰えばいいか、三百万円ではどうだろう、と僕はこの人をなだめていたところでした。この人は、会社の重役にそのことを話すと言っていたのですが、僕は、そこまでやると橋田さんのくびに関係するから、それはよした方がよい、と説得していたところでした。まあ、おあがり下さい」
浩作は女物の寝巻を着ており、なんとも奇妙な恰好《かつこう》だった。彼は橋田を見てわらっていた。すると、橋田の態度が突如かわってきた。
「あなたは今日ここにおりますか?」
と彼は浩作にきいてきたのである。
「いや、僕はもう帰ります」
「お家にいらっしゃいますか?」
「居ります」
「伺います。そこで話しあいましょう」
「いいでしょう。では、おひきとり下さい」
浩作はそこで蒲団にもぐりこんでしまった。彼は蒲団にしみついている女のにおいをかぎながら、やがて橋田が出て行くのを見ていた。
才子はうろたえていた。
「いくらか金をとってあげよう」
しかし才子はだまっていた。
「三十万円とれればいい方だろう。その金でほかのアパートに越しなさい。また橋田のような男が現れるといけないから」
才子はやはりだまっていた。
「ここに入りなさい」
浩作は才子の腕をつかむと蒲団にひきずりこんだ。才子のなかを、さっき、どうなってもよい、と投げやりな感情で男にからだをまかせた時の感覚がよみがえってきた。浩作は、煙草をのみながら足をからませてきた。
「あなたは、わからない入です」
才子は蒲団に顔を埋めながら言った。
「そうかな。俺にはあなたの方がわからない」
「あたしは、真面目にやってきました。それが……」
「こんなになってしまったというのか。よした方がいい。どだい、会社の上役のおもちゃになっていた事がまちがいだったのだ。俺はもちろん今日かぎりでおまえさんとは切れる。あの男から金をとってやるから、もうすこし常識的にものを考えた方がよい。上役と関係しながら、それを隠して真田と結婚するつもりだったのか。秘密はない方がいいよ」
浩作は煙草をもみ消すと才子にかぶさって行った。才子は油をのまされたような目で浩作を見あげていた。
「いい顔だ。これじゃ別れられなくなるな。いい女だ。真田が惚《ほ》れたのも無理はない」
浩作はこんなことを言いながら女をしめあげていった。
一三
橋田次が浩作を訪ねてきたのはその日の夜だった。彼は、十万円の現金をとりだして浩作の前におき、これで奥村才子とは手を切る、と言った。
「橋田さん、十万円では、新しいアパートは見つかりませんよ。慰藉料として五十万円、引越代として二十万、計七十万円をだしてくれれば、才子さんは、穏便に別れてあげてもよい、と言っていました」
浩作は目の前の十万円には目もくれずに答えた。
「そんな無茶な……。私はサラリーマンですよ。七十万の金がどこから出ると思いますか」
「それは僕の関知しないことです。とにかく、それだけ出してくれなかったら、才子さんは、会社で、あなたとのことをさわぎたてると言っていました。そこで、僕は、相手もサラリーマンだから、そんな大金はとれないだろう。半額で手を打ったらどうだろう、と言っておきました」
「半額というと……」
「三十五万です」
「ほんとにそれできっぱり別れますか」
「彼女は返事をしませんでした。しかし、現実に三十五万円の金を積まれたら、彼女もおそらく承知すると思います」
「北ノ庄さん。三十五万をだしてもよい。私としたら大金です。しかし出しましょう。そのかわり、もうひとつ私の条件をのんで戴けますか」
「話してみて下さい」
「私の女房とも手を切って欲しい」
「それはおやすい御用だ。僕は、かなり以前から、姦通罪復活論者ですよ。よろしい、承知しました」
「あなたの方がそうでも、もし女房のやつが別れられないと言ったときはどうしますか?」
「相手にしなければいいでしょう」
「ほんとうにそうしてくれますか?」
「約束しましょう」
「では、明日の夜、三十五万円をお渡ししましょう。才子自筆の領収証を用意しておいてもらえますか」
「いいでしょう」
「ついでに、以後、橋田栄子とも手を切る、という念書をおねがいします」
「いいでしょう」
浩作はいとも簡単に応じた。
「三十五万円のうち、才子との手切代が二十五万、十万円が私の女房との別れ代、ということにして下さい」
「いいでしょう。しかし、僕はそんなに要りませんよ。才子さんに三十万円あげましょう」
「しかし、あなた、五万円で、ほんとに私の女房と別れてくれますか?」
「約束しましたよ、さっき」
「そうでしたね……。では、明日の夜九時に、海岸のカンツォーネにいらして下さいませんか。あそこで一杯やりながら、話をとり決めたいのですが」
「いいでしょう」
「では、明日の夜までに、領収証と念書を用意しておいてください」
そして橋田次は帰って行った。
橋田が帰ってから、浩作は天井を見あげて畳に寝ころび、大声で笑いたてた。なんて平和な世の中だ! これでは女は堕落して行く一方だ、と彼はさけび、さらにわらいたてた。
あくる日の午前、浩作は才子に電話をした。
「俺だ。いま目の前に橋田部長の姿が見えるかい」
「はい、見えます」
「今夜、金を渡してくれる約束だ。おまえさんから領収証をとっておいてくれと言うんだな。だから、今日は、会社がひけたら、まっすぐこっちにこないか」
「そうしますわ」
「俺のところの場所はおぼえているだろう」
「はい」
「では、くわしいことはそのときに」
浩作は電話をきると、今度は橋田次に電話をした。
「やあ、昨夜はごくろうさんでした。いま、あなたの目の前に、才子さんの顔が見えますか」
「いますよ」
「彼女、承知しました。ところで、九時というのはすこしおそいですよ。八時にしてもらえませんか」
「いや、九時でないとまずいんです」
橋田の声はなにか慌《あわ》てていた。おかしいな、と浩作は考えながらも、それで電話をきった。
一四
浩作が、橋田のなにか慌てた調子をおかしい、と感じたのはあたっていた。橋田は、前日の夜浩作を訪ねたときすでに、平のある親分を介して三人の男を雇いいれていたのである。彼の計画は、九時から十時まで浩作をカンツォーネに足どめして酒をのませ、そこを出て帰宅する浩作を三人の男がつけて行き、人気のない道に入ったら、いきなり襲いかかり、腕を一本折るか足を一本折って片端《かたわ》にし、ポケットから金を奪いかえす、という案だった。片端にする件では、匕首《あいくち》で浩作のアキレス腱《けん》を斬っておけば、歩くのに不自由するだろう、と橋田は三人に言ってあった。三人の男には六万円の謝礼を約束してあった。彼は平の親分をゴルフ場である友人に紹介されていた。三か月ほど前のことである。その親分は、貸金の取立て、手形の割引などをなりわいにしていた。
そうとは知らない浩作は、今夜は才子を相手に一晩あそべるな、などと考え、才子が現れるのを待った。
才子は七時すこし前に来た。
「九時の約束だ。その前にめしを食うかな。それとも酒でものむ?」
「お酒の方がいいわ」
「海岸のカンツォーネというレストランで待ちあわせ、そこで金をもらう約束だが、おまえさんもいっしょにくるかい」
「行きたくないわ。……でも、あの人、よくそれだけの金をだす気になったのね。とてもけちな人なんです」
「背に腹はかえられない、そういう状態に追いこまれたのさ」
浩作は氷を割り、ウイスキーの水割りをこしらえた。
「では、おまえさんがあの男と切れるのを祝して乾杯といこう」
才子は、こんな浩作を、暗い目で見ていた。浩作と一夜をともにしてから、油をのまされたような状態はまだ続いていた。
やがて八時半になった。
「あたしも行きます」
と才子が言った。酒の酔いが彼女を大胆にしていたのである。
それから二人は家を出たが、浩作は、待てよ……と庭でたちどまって暫く考え、それから家のなかに引きかえすと、杖《つえ》のようにこしらえた細身の木刀をさげて出てきた。
「女連れの夜道は危険が多いからな」
浩作は木刀を振ってみせた。空をきる音が鋭い。杖のようにこしらえてあるから反《そ》りはない。
カンツォーネまでは歩いて十分ほどの距離である。
浩作がカンツォーネに入ったら、橋田はすでに来ており、彼はウイスキーの水割りをのんでいた。
「すこし苦いでしょうが、才子さんを連れてきました」
浩作は橋田のむかいの席に腰かけながら言った。才子も掛けた。
「領収証と念書を用意してもらえたでしょうね」
橋田が浩作を見てきいた。
「もちろんです」
浩作はポケットから二枚の紙をとりだし、それを橋田の前にひろげてみせた。橋田は二枚の紙に書かれた文章を読んでいた。一枚は領収証で三十万円の金額がしるしてあり、念書の方はつぎのようになっていた。
私こと今般貴殿より金五万円を受けとるについては、今後貴殿の奥方殿とは一切関係しないことをここに誓います。また、万が一、路上において貴殿の奥方から、あら、なつかしや、などと声をかけられても、相手にしないことを、ここに誓います。
「それでいいですか」
浩作はわらっていた。
「いいでしょう。約束は守ってくださいよ」
橋田は二枚の紙を折りたたむと、上衣《うわぎ》の内ポケットから封筒をとりだし、それを浩作の前においた。
「お調べ下さい」
「なに、大丈夫でしょう。たしかに受けとりました」
浩作は封筒の中をちょっとのぞいてから、それを上衣の内ポケットに入れた。
「では、のみましょう。私もこれでさっぱりしました」
橋田はボーイに命じ、ウイスキーを運ばせた。
「男女の離合は世の常です。橋田さん、こんどからは、こんな生娘を相手にせずに、人妻をさがしなさいよ。たとえば、あなたの奥方の友人である酒下百合子さんなどは、ちょうどお似合いかと思います。実は、僕の友人が百合子さんの愛人をつとめていたのですが、その友人が大阪に移ってしまい、彼女は目下、恋人をさがしているらしいのです。だいいち金がかからないから、人妻の方がいいですよ」
そして浩作は、橋田が、今夜の勘定は私が持ちます、というので、とびきり高価な料理を注文した。
浩作が、三人の男の存在を知ったのは、橋田から金の入った封筒を受けとったときだった。彼等は壁の方の席で酒をのんでいた。やくざやちんぴらと何度も喧嘩《けんか》をした経験があるだけに、木刀を持って出てきたときの浩作の予感はあたっていた。
浩作と橋田は世間話をした。橋田はしきりにウイスキーをすすめてくれた。
「では、これで失礼しましょう」
食事がすんだら九時四十分になっていた。浩作は御馳走になった礼を述べ、席を起った。
「私はどうせ近いですから、もうすこしいてから帰ります」
と橋田は言った。
一五
浩作はカンツォーネを出ると、あとからついてきた才子に、こっちだ、と言って、江ノ島の方にむかって歩きだした。
「うしろから三人の男がついてくるだろう。ふり向いちゃいけない。ハンドバッグをおとすんだ。ハンドバッグを拾いながら、何気なく後方を見るんだ」
すると才子はハンドバッグを足元におとし、それを拾いながら後方を見た。
「来るわ」
「よし、前を向いて歩くんだ。橋田に頼まれた奴等にちがいない。前方にレストランが見えるだろう。あそこまで行ったら、俺は陸橋を渡って海岸に出る。おまえさんはあのレストランに入って待っていてくれ。おそくとも二十分以内に戻るから」
「こわいわ」
「大丈夫だ。おまえさんに現場を見物させてあげられないのが残念だが、女がいるとこっちが危くなるからね。では、しばらくさようなら」
浩作はレストランの前から、螺旋状《らせんじよう》になっている陸橋をのぼりだした。彼は後方をふりかえらなかった。ふりかえったら、こっちが相手を意識していることを相手に知らせてしまうことになる。
彼は陸橋を渡りきると、海岸の低い松林のなかにはいった。そして、すうっと松林のなかに背をかがめて砂地に腰をおろした。
それからものの二分と経たぬ頃、足音が近づいてきた。
「野郎、なんでこんなところに入りやがったんだろう。スケはレストランに入ったのに」
「うんこをしに来たんじゃないのかな」
「うんこならレストランで出来るべえに」
「それもそうだな。しかし、見えねえぞ」
「どこかにいるさ。野郎、都合のいい場所をえらんでくれたな」
「おい、いねえよ」
そして足音は浩作の前に近づいてきた。
「いねえじゃないか」
と一人が立ちどまりながら言った。
「ここにいるよ」
浩作がたちあがった。
「おッ! この野郎」
三人は身構えた。
「橋田から頼まれたのかね」
しかし三人は一言も返事をせず、じりじりと詰めよってきた。
「どうやらそうらしいな。しかし、なんて薄鈍《うすのろ》な連中だ、匕首をぬくんなら、いまのうちにぬいておけ」
浩作は木刀を右手に握ると、いきなり駈けだして松林をぬけ砂丘をおりた。そして波打際でたちどまり、三人が駈《か》けてこっちに近づいてくるのを待った。
匕首を握っているのは二人だった。あとの一人は、打ちあげられた流木をひろって握っていた。
「はじめにことわっておくが、出来たらこのまま引きあげた方がよい。さもないと、おまえら、みんな、片端になるな」
しかし三人の男はやはり一言も発しないでじりじり詰めよってきた。
「もう一度言っておく。引きあげた方がよい。俺は、いったんやりだしたら後には引かない性分だ。まあまあで仲直りはしない。もしかしたら、おまえらより酷薄になれる性分だ。……どうやら、俺の言っていることがきこえないらしいな」
浩作は、流木を握った奴から最初に倒そうと心にきめると、そいつに木刀を向けた。
「ほう。おまえ、すこし出来るらしいな。三段くらいかな」
浩作は、右足をひき、躯《からだ》を右斜めにして木刀を右脇にとると剣先を後方に向けた。背後の二人を警戒しての脇構である。相手は中段の構えで対峙《たいじ》し、動かなかった。
「うしろの二人の薄鈍《うすのろ》。かかってこい!」
浩作は正面の奴の目を見据《みす》えたままさけんだ。
このとき、正面の奴がちょっと目をはずした。浩作の背後にいる二人になにか合図を送ったのである。浩作が飛びこんだのはこのときだった。相手の喉《のど》を突いたのである。相手はひとたまりもなかった。防具をつけていない喉を突かれたのだから、暫くは起ちあがれないはずだった。相手は流木を足もとにおとすと喉を抱えてしゃがみこんだ。
浩作は流木をひろいあげると、のこりの二人にむかって投げつけるふりをし、海に投げた。
浩作は、一人を倒したとき、さっき三人の相手に予告したように酷薄な感情になっていた。彼はもう言葉をくちにする必要がなかった。残されているのは、相手を正確に痛めつけることだけだった。
二人の男のうち一人は匕首を正面に突きだして詰めより、残りの一人は逆に匕首を握って詰めよってきた。浩作は念のため倒れている奴を見た。うずくまったまま当分は起きあがれそうもない恰好だった。
このとき、匕首を正面に突きだした奴が突進してきた。
匕首を正面に突きだした奴が突進してくると同時に匕首を逆手に持った奴が浩作の左横にまわった。
しかし勝負は一瞬のうちにきまった。浩作は正面の奴の匕首を木刀で横に受けて流し、流しざま左横の奴の足を左から右の方に薙《な》ぎはらったのである。そして薙ぎはらった木刀を大きく上段に振りあげ、そのまま最初の奴の肩にうちおろしたのである。三秒ほどの間だった。
浩作はこれだけでやめなかった。倒れている三人の相手の肩に、さらに一撃をあたえ、二振の匕首をとりあげた。そして、最後に倒した奴の睾丸《こうがん》を足で踏みつけ、木刀を相手の腹に突きたてると、
「橋田にたのまれたのか」
と訊いた。
相手はだまっていた。浩作は、睾丸を踏みつけた足にちからを加えた。
「橋田だ! おう、やめてくれえ!」
男は悲鳴をあげた。
浩作は男からはなれると砂浜をひきあげた。そして道路に出て陸橋を渡ると、レストランに入り、なかにいる才子を手招きした。才子は勘定をはらって出てきた。
「どうしたの、あの人達?」
「海岸でのびているよ。しかし、橋田の奴、卑怯な野郎だな」
「あの人、もともと卑怯な人ですよ」
「もう奴の奥方とは寝ないと奴に約束したが、こうなったら、奴をひいひい言わせてやろう」
やがて浩作は才子をつれてカンツォーネに戻った。橋田は週刊誌を読んでいた。浩作は二振の匕首を橋田の目の前においた。
「橋田さん。三人の殺し屋は海岸でのびていますよ。それから、さっきお渡ししました奥さんに関する念書ですが、こうなったからには、あれはもう無効だということをお知らせしておきます」
橋田は見るもあわれなうろたえ方で、私は知らん、なにかのまちがいだ、と言った。
「そうですか。まちがいであってくれればいいですがね。ついでにもうひとつ、あなたの会社で、この人が、あなたとのことを騒ぎたてないと約束しました件、やはり騒ぎたてた方がよいのではないか、といま考えているところです」
「それは、あなた、北ノ庄さん、私はなにも知りませんよ」
「そうですか。まあ、いいでしょう」
浩作は匕首をとりあげてハンカチでくるみ、それをズボンの後ポケットにさしこむと、才子をうながし、カンツォーネから出てきた。
「どうする? 帰るかい」
「どこへですか?」
「東京へ。それとも、俺についてくるか」
「ついて行きます」
「では、あそこのホテルに行こう。家に帰れば、どうせおそかれ早かれ橋田が訪ねてくるにきまっている」
そして浩作は才子をつれて辻堂よりの方にすこし歩き、陸橋を渡って向うがわの歩道におりると、空車をつかまえ、ホテルにむかった。
彼はシーサイドホテルのフロントで、いちぱんいい部屋を、と言った。
「ただいまは二間続きのお部屋しか空いておりませんが」
とフロントの男が答えた。
「それでいい」
そして浩作と才子はボーイに案内されて五階のその部屋に入った。
チップをもらったボーイが出てから、浩作は才子をソファに押し倒し、くちを重ねた。
「あたしをどうなさるおつもり……」
「明日別れよう。そうだ、忘れないうちにおまえさんに金を渡しておこう。これであそこを引っこすんだな」
浩作は上衣のポケットから封筒をとりだし、そのなかから五万円だけぬいてポケットにおさめ、封筒を才子のハンドバッグに入れてやった。
「五万円はホテル代に使おう。明日は朝早くここを出るかい?」
「やすんでもいいんです。……別れるのは明後日でもいいではありませんか」
「おまえさんに惚れたら別れにくくなってくる」
「あたしがいやですか」
「いや、きれいな子だ」
「でしたら、しばらくつきあってください」
「よし。では、明後日の朝までつきあおう。そして明後日は、まちがいなく左右に別れるとしよう。おまえさんの目を見ていると胸が痛くなってくる。じつにきれいな子だ」
浩作はつぎからつぎへと殺し文句を並べて才子をくたくたにして行った。
一六
あくる日、二人はホテルの部屋から一歩も出ず、食事はルームサービスをさせ、終日ベッドに入っていた。
「これでは死んでしまう」
と才子はくちばしった。
「なに、明日は左右に別れるんだ。おまえさんから忘れられないように、おもい出をのこしておかないと」
浩作の殺し文句は、彼の剣の正確な一撃に似ていた。つぎからつぎに殺し文句がくちをついて出てくるのだから、才子は事実死ぬほどくたくたになっていた。
「ねえ、もう、ほんとにだめよ。これでは、ほんとに死んでしまう」
頭のなかで火花が散ったのは前夜から今朝までだった。いまはただ目前のものすべてが霞《かす》んで見え、感覚が遠くにあった。
「死んではいけないよ」
と浩作の声が耳もとでしたと思ったら、くちに強烈な液体がはいってきた。ブランデーだった。前夜、ホテルのバーで一本買っておいたのがまだ残っていた。
「ほら、薬だ。これで生きかえるよ」
「薬って……毒薬なのかしら」
「そうかも知れない。生きかえってまた死ぬんだ。明日は、このきれいな顔とも別れなければならない。さあ、死んでくれ」
こうして二夜をともにし、三日目の昼すぎに、才子はホテルに浩作をのこして東京に戻った。帰りの電車のなかでも目をあいておれないほどの疲れかただった。
こうして才子にたっぷり毒を盛りこんで帰したあと浩作は三時すぎまで睡った。そして彼は目をさますと百合子に電話をした。
「どうしたの。もう、お見かぎりかと思ったわ。真田さんは行方不明になるし」
百合子の声はうきうきしていた。
「実はね、栄子さんの旦那《だんな》さんが、あなたにぞっこん惚れてしまったらしい。僕はつい昨日その告白をきいたのですよ」
「あら、それはうれしいわ」
「それでね、百合子さん、いますぐ橋田さんの会社に電話をし、これから行くからと言いなさいよ。なにしろ相手は身も世もあらぬおもいでいるのですから」
「ありがとう。早速電話するわ。でも、あなたもたまにはあたしとつきあってよ」
「その光栄はいずれ後の日に。では、また逢う日まで」
浩作は電話をきると、今度は栄子の家に電話をした。
「三日続けて連絡したのよ」
栄子はなにか弱々しい声だった。
「いまシーサイドホテルにいる。来れますか」
「行かれるわ。なんでホテルにいるの?」
「あなたを迎えるために」
「うまいことを言っているのね。ほんとは、誰かとそこですごしたんでしょう」
「僕は常にあなたには貞淑ですよ。これはもっとも男の貞淑ですが」
「すぐ行くわ」
電話をきってから、これでひとつ平地に波瀾《はらん》をおこさせるな、と浩作は呟き、ブランデーをのんだ。
栄子は三十分ほどしてやってきた。
「はい、ブランデー」
栄子は紙袋をテーブルにおいた。
「こいつはありがたい。ちょうど切れていたところだ」
「誰とここですごしたの?」
「話すまいと思っていたが、話しておこう。御主人が囲っていた若い女の子とだ」
「どういうこと?」
そこで浩作は、才子と橋田の関係、才子と真田の関係を、栄子に語ってきかせた。
「それは知らなかったわ」
「亭主に妬《や》くかね」
「妬ければいいけど……。つまらない男だわ。自分のことは棚《たな》にあげておき、あたしを売女《ばいた》だなんて罵《ののし》るなんて。それで真田さん、失恋して大阪に行ってしまったの?」
「そうだよ」
「いいわ。こうなったら、あたしも堂々とやってやるから。今日はね、家政婦がきていないのよ。あたし、これからちょっと家に帰り、子供達の夕食の支度をしておいてから、すぐ戻るわ」
「それで、朝までここにいるつもりかい」
「このあいだみたいに朝帰りすればいいでしょう」
「いよいよ本格的になってきたな。ま、いいでしょう。お待ち申しあげております」
そして栄子が出たあと、浩作は再び百合子に電話をした。
「橋田さん、今夜は都合がわるいそうよ。それで、かわりにあなたをつかまえようと電話したけど、あなた、三日前からお家にいないそうね」
百合子の声がきんきん響いていた。
「実は、ある奥方にとっつかまり、ここから出れないんだ。それより、橋田さんは、いつ逢《あ》ってくれるって?」
「明日ならいいと言っていたわ」
「そいつはいいね。うらやましいかぎりだ」
「ところで、あんた、どこにいるの。こっちに来てよ」
「そちらに行きたい思いは募る一方だが、なにしろ檻《おり》に入れられている状況でね。そりゃ、おまえさんのあの偉大なおっぱいやお尻を考えると、居ても立ってもいられない思いだが、ま、いずれの日にか」
浩作はここで電話をきった。
一七
栄子が再び現れたのは五時だった。
「子供さん達は大丈夫なの?」
「大丈夫よ。あの人、数日前からいやに落ちつきがないと思っていたら、そんなことがあったのね」
「その女には、金を三十万円やって、手を切ってもらった。橋田さんは、俺にも五万円くれたよ。もし、うちの女房から、あら、なつかしや、と声をかけられても、ふり向かないでくれ、という代金だと言っていた。そこの上衣のポケットに入っている。けっきょく、あの人は、おまえさんを愛しているんだよ」
「お金は惜しくないけど、卑劣な男だわ」
「そんなことを言うものではない。夫婦じゃないか。ま、俺はおまえさんのストレス解消のお相手しかつとまらないから、そのつもりでいてもらいたい。しかし、人妻の浮気がこんなにも増え、しかも、むきだしで遠慮のない世の中になってしまったのはもしかしたら、日本が滅亡する前兆かも知れんな。女が国を危くするんだな」
「そんな風にして人を煙にまかないでよ。あら、雨かしら」
窓に雨滴が散っていた。その向うに海がひろがっており、江ノ島が望見できる。
「春雨だ。愛しあいましょう。白状すると、俺は、おまえさんにかなり参ってしまっているんだ。さんざ遊んできながら、こんなおもいを味わうのははじめてだ。どうしてだろう、と俺は考えてみた。おまえさんがきれいだという事実は動かせない。これは、俺がおまえさんを好きになった第一条件だ。つぎはなにか。そうだ、これは、おまえさんが子を二人もうんでいるし、あらゆる面で訓練されてきている。これはなにより良いことだ。すると三番目はなにか。これは、おまえさんは、相手を愛するためにはすべてを抛《なげう》ってぶつかってくる。つまり無償の行為だな。これがまたいい。おのれのセックスにたいしてこれほど忠実な女も珍しい、俺はベッドに入るたびに思ったものだ。つぎはなにか。おまえさんは無欲だ。無欲だということは、心のなかがきれいだということだ。これはいちばん大切なことだ。そのつぎはなにか。いや、もう思いだせない。これほど俺はおまえさんに参っているんだ」
浩作は栄子のそばに寄り、顔をひきよせ、じつにいい女だ、とささやきながら、くちにくちを重ねた。
栄子が、浩作からこんな殺し文句をきかされたのははじめてだった。彼女はうっとりし、からだのちからをぬいた。
それから二時間ほどすぎてから、浩作はベッドからおりた。
「のどが渇いた。ビールをのんでくる。おまえさんは?」
「あたしは要らないわ。すぐ戻ってきて」
「わかった」
浩作は一階のバーにおりて行った。そしてビールを注文しておき、栄子の家に電話をかけた。電話口に出てきたのは橋田だった。
「僕ですよ。たぶん、僕をさがしているんではないかと思いまして」
「栄子といっしょだな!」
「お静かにして下さい。その通りです」
「どこだ!」
「ちかくのホテルですよ。いらっしゃいますか。歓迎しますよ。五二五号室です。どうぞ、おでかけ下さい」
浩作は電話をきると、カウンターの前に戻り、ビールをのんだ。栄子が車を運転してきたから、あの男は歩いてくるか、タクシーを拾ってくるだろう。すると、タクシーでくるとなると、十分後にはホテルに現れるわけだ……。
浩作はビールを半分ほどのみのこし、部屋に戻った。そして鍵をかけずにドアをすこし開けておいた。橋田がいきなり入って来れるようにしたのである。そして裸になると、栄子のそばにもぐりこんだ。
橋田が音もなく現れたのは、それから間もなくだった。浩作が栄子の上になっていたときである。
「ちくしょうッ、なんて野郎だ!」
橋田はベッドのかたわらに立ってふるえていた。この声に栄子が目を開き、浩作からはなれようとしたが、浩作は栄子を締めつけてはなさなかった。
「少々にがいでしょうが、ま、そこの椅子《いす》におかけになってお待ち下さいませんか。すぐ終りますから」
しかし浩作はすぐ栄子からはなれ、ベッドからおりると、絨毯《じゆうたん》の上に脱ぎすててあった浴衣《ゆかた》をひろい、ゆっくりと腕を通した。その間、橋田は、ベッドで裸になってこっちに背を向けている、妻の頭と、浩作の裸を視つめていた。
「なんという売女だ!」
彼は呻くように呟いた。
「およしなさいよ、橋田さん。それは見当ちがいというものです。さそったのは僕の方ですよ」
浩作は浴衣の紐《ひも》を結び、椅子にかけると、煙草をつけた。橋田はつっ立ったままだった。
「おかけください」
浩作が言った。
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花だより
四月のはじめ、寿子は、浩作におもいを残して関西に嫁に行った。宮石と柴野が、いい女が関西に行っちゃうのはさびしいな、と言ったが、浩作は、なに、向うへ行ったら真田がいるよ、と早速真田に通知してやった。真田からは、大阪がいかにつまらないところであるかの便りが数度来ていた。それにたいして浩作は、すめば都というから、愚痴をこぼすな、百合子は橋田次に世話したから、もうおまえを追いかけて行くことはあるまい、というような返事をだしてやった。
ところで浩作と三国房子との挙式は、五月はじめの吉日にきまり、浩作は、この跛《びつこ》の娘をもらうことに満足していたが、房子の両親は、浩作を自分達の経営している製菓会社に入れたがっていた。木刀造りは趣味でやってもいいが、出来たら会社に入って欲しい、というのであった。これには浩作もまいってしまった。自分が時間で動ける男でないことを浩作は知っていた。製菓会社ではかなりの部署を用意するし、したがってそれ相応の報酬も考えている、という話だった。
兄と兄嫁は、こんないい条件はないのだから、受けなさい、と言ってくれたが、浩作はその気にはなれなかった。朝はきめられた時間に会社に出て、夕方もまたきめられた時間に家に帰ってくる、こんな時間に縛られた生活が、彼に出来るはずがなかった。
彼は数日考えた末に、兄嫁の杉子を通して、自分は木刀造りだけで充分生活できるから、もしそれを認めてくれないで、会社に入れ、とどうしても望むのであれば、この縁談はなかったことにして欲しい、と伝えた。これを伝えたのは四月はじめだったが、三国家からは、その後一週間過ぎても返事がなかった。
「むこうだって、娘をやるからには、生活が安定していた方がいいにきまっているでしょう」
と兄嫁は言っていた。
そうしたら、浩作が兄嫁と話しあったあくる日に、三国房子の姉が訪ねてきた。木刀造りだけではどうも心配だから、娘をやるわけにはいかない、という返事を持ってきたのであった。そして、いまいちど考えなおして欲しい、と言うのであった。
浩作はその場でこの話をことわった。妻の実家の禄《ろく》を食《は》むのは、なんとしても自分の信条に悖《もと》るので、この縁談はなかったことにして欲しい、と答えたのである。そして、跛なんて当世では珍しい存在だったのに、ちょっと惜しいことをしたな、と考えながら、あくる日は栄子の家に行き、栄子の運転する車で箱根を一周して戻《もど》ってきたら、家に房子がきて待っていた。
「わたし、着のみ着のままで家を出てきました」
と房子は言った。
「こんなことをなさっては御両親がお困りになるから、お帰りなさい、と話したのですが、房子さん、どうしても帰りたくないと言うのよ」
兄嫁の杉子がそばからくちをそえた。
「手鍋《てなべ》さげても、という精神は、当世ではまことに珍しい。しかし、あなたの御両親が反対しているのに、それはどうかな。たとえば、この近くにすんでいらっしゃるあなたのお姉さんがさんせいしてくださるのなら、つまり、あなたの身内で、誰か一人さんせいしてくれるのなら、あなたの家出に、僕もさんせいしますがね」
と浩作は言った。
「姉はさんせいしなかったのです」
房子は答えた。
「それはいかんな」
「いけないことはないでしょう。わたし、今日から、ここに棲《す》みます」
「それは困る。あなた対僕だけの話なら、あなたの御両親の思惑《おもわく》など無視してもよいが、うちの兄嫁が、あなたの姉さんと友人でしょう。これが困ります。……あとをよろしく頼みます」
浩作は杉子に言うと、家を出てきた。そうしておけば、杉子が房子の姉にれんらくして、房子を連れて帰るだろう、と考えたのである。
そして彼はその足で再び栄子を訪ねた。
「妙なことがおきあがっちまってね」
浩作は栄子に房子の話をした。
「じゃ、その娘さんに見込まれてしまったわけなのね」
「そういうことらしい」
「いつか話していた跛の娘さんでしょう」
「そうだ。俺は今夜は家に帰れないな。ホテル泊りになりそうだな」
「なら、あたしもホテルに行くわ」
橋田夫婦は、シーサイドホテルでの一件いらい、二人も子がいる以上、家庭をこわすのだけはやめよう、そのかわり、たがいの浮気は承認する、というような夫婦関係になっていた。離婚よりはましだ、という橋田次の考えからそうなったのであった。そのとき橋田は、妻に、夜家をあけるのだけはやめてもらいたい、と言ったが、あなたが夜家をあける以上、あたしだってやっていいじゃないの、と答えた。つまり橋田は、ホテルで妻の情事を見ていらい、夜家をあけるようになっていたのである。
こういう約束が出来てからは、橋田の苦しみもいくらか楽になったらしかった。夫婦は、約束ができてからは、寝室を別にした。その方がたがいのために都合がよい、と考えたからである。
「では、俺はさきにホテルに行っているよ。しかし、旦那さんの帰りの時間がわからないだろう」
「大丈夫よ。あの人が帰ってこようとこまいと、あたしは朝までにここへ戻ってくればいいんだから。あの人、いま、百合子さんに夢中になっているのだから」
「しかし、旦那さんは、いまでもおまえさんを愛しているんだろう」
「そうらしいわ」
「珍しい夫婦もいるものだ」
浩作はやがて栄子の家を出ると、暮方の海岸道路を歩いてシーサイドホテルにむかった。彼は歩きながら、あれも妙な娘だ、と房子をおもいかえしていた。彼の予感では、房子は自分の姉の説得に応じないのではなかろうか、という気がした。まあ、なんにしても、なるようにしかなるまい……。兄の浩一は、木刀をこしらえて一生を送るのは考えものだぞ、と言っていたが、しかし、いまのところ浩作はほかにすることがなかった。なにかをしてみよう、という気もおきなかった。
栄子はあくる朝六時に帰って行き、浩作はチェックアウトぎりぎりまで睡り、そして家に戻った。家についたら、房子の両親と房子の姉が来ていた。
「おや。これはこれは……」
浩作はちょっとびっくりして濡縁《ぬれえん》に腰かけ、煙草をつけた。
「娘が御迷惑をおかけしまして」
と房子の母親が言った。
「房子さん、この部屋で泊ったのですか?」
浩作が房子を見てきいた。
「はい、そうです。姉が見張役でした」
「それはたいへんだったですね。僕は、このことを予期して昨夜は逃げたのに」
「姉が、自分の家に行って泊ろう、と言ってくれたのですが、わたし、ここに来た以上、もうここからは動かない、と言ったのです。そうしましたら、見張らなくっちゃ、ということになりました」
「それはたいへんでしたね」
「たいへんだとお思いでしたら、わたしの両親と姉に、ここから帰るよう、すすめてください」
「いや、それは僕には出来ません。といって、あなたがそこから動かないんでは、僕が困るし。決着がつくまで、僕は留守にしましょう」
浩作は起ちあがるといきなり走りだした。うしろから、ちょっとお待ちください、と房子の姉が呼びとめる声がしたが、浩作は門を出ると、里子の家にむかった。
里子とはしばらくあっていなかった。
「お珍しいこと」
里子はにこやかに浩作を迎えてくれた。
「お元気ですか」
「あなたもお変りなくて」
「僕はあれから毎日、にがい思いにひたっていました。来てはいけない、とおっしゃるので、よく門の前をうろうろしましたが」
「お上手《じようず》だこと」
「嘘《うそ》だとお思いですか」
「はい」
「どうしてですか」
「おもいだしてお出でになられたのでしょう、今日は。わたしが、いつも、あなたの胸の中に棲《す》んでいるなど、とうてい考えられませんわ」
「これはまたひどいお言葉ですね」
「御結婚はどうなりまして?」
「出来なくなったのですよ」
「どうして?」
「風来坊みたいな奴には娘はやれない、と親が言いだしましてね」
浩作は事情を説明した。
「まあ、それは面白いこと、いま時分、そんなお嬢さんがいらっしゃるのね。おもらいなさいよ、そのかたを。わたし、応援してあげますわ」
「かなり野次馬的な要素をお持ちのように見受けますが」
「そうかしら。でも、おもしろいおはなしですもの。わたし、あなたとは良いお友達だと思っております。あなたがいらっしゃらないので、お訪ねしようかと思いましたが、御結婚なさるのではないかと考え、遠慮したのですよ」
「それが本当ならうれしいんですが」
「お友達ですもの。また能の会に連れて行ってくださらないかしら」
はて、見込みがあるのかな、と浩作はこのとき内心里子の気持を考えてみたが、どうもわからなかった。
「能の会は、だいたい演能当日に行っても席がありますから、なんでしたら、今日、これから出かけましょうか。さっきおはなし申しあげたように、僕はいま帰ることが出来ないんで、時間つぶしに困っているのです」
「そうしてくださるとありがたいわ。古川はまた三泊四日で、こんどは九州までゴルフに出かけておりますし、わたしも時間があまっておりますの。ちょっとお待ちになってね、すぐ支度をしますから」
里子は浩作を応接間にのこして居間にひきあげて行った。
浩作はこの日、大曲《おおまがり》の能楽堂に里子をつれて行った。この人とはこれ以上はどうにもならない、ということがわかっていながら、浩作はやはり里子から離れられなかった。房子の跛に魅せられていたとはいえ、ああも親がかりでは、なんとも面倒で、幸いにして房子には手をつけていなかったから、だめならだめで、跛の娘は思い切ろう、と考えたのである。
浩作は能楽堂で居睡りをした。能の鑑賞どころではなかった。前夜の疲れが出てきたのである。それでもどうやら一曲だけは観た。
「睡眠不足ですの?」
里子がきいた。
「あの跛の娘のおかげで、昨夜は睡れなかったのですよ」
「どこにお泊りだったの?」
「宿屋ですよ。ところが、となりの部屋で麻雀をやっていましてね、……」
「藤沢の宿屋?」
「ええ。江ノ島ですよ」
「それで、今夜はどこにお泊りなの?」
「まだ決めていません」
「かわいそうね」
「同情してくださっているんですか」
「いいえ。面白いと思っています」
「やれやれ。ひまな人もいるものだ」
浩作はあくびをした。
能楽堂を出てから二人は銀座にでた。おそい夕食をとるためであった。
里子が、和食がいいというので、浩作は更級につれて行ってもらったことのある料亭に里子を案内した。その料亭は一階がカウンターになっており、部屋にあがらなくとも食事が出来た。
能を観て銀座で食事をとる、これは里子にしてみればささやかな気晴らしかも知れなかったが、浩作にはすくなからず物足らなかった。いっしょにいる女のためにこちらの心が平安でないときに能など観ても、能は心に入ってこなかった。それに、このさっぱりした和食はどうだろう……。
料亭を出たとき、時刻は九時にちかかった。
「さ、帰りましょう」
「いや、僕は帰れないのです。すみませんが、おひとりでお帰りくださいませんか。新橋駅までお送りしますから」
浩作はこのとき奥村才子をおもいうかべていたのである。四谷のアパートに行けばよかった。
「どこかお泊りになれるところがあるの?」
「いや、ありませんが、どこかで泊れますよ」
「わたしのところに泊めてあげてもいいのよ」
「え、ほんとですか」
「友人として」
「では、やめましょう」
「ずいぶんあっさりしているのね」
「和食を好む奥さんのような人は、あっさりしているものです。ですから、これ以上つきまとうと、嫌《きら》われますからね」
「変な理屈ね」
「とにかく新橋駅までお送りしましょう」
そして二人は夜の銀座を歩いて新橋駅にむかった。
「もし、泊るところがなかったら、うちにいらっしゃい。いつかのように、お庭からいらっしゃい。雨戸を叩いてちょうだい」
駅で里子が言った。
「雨戸を叩いても、急に心変りして、返事をもらえないのではないのかな」
「わたし、そんなつれない仕打ちはいたしません。でも、泊るところがなかった場合よ」
「おぼえておきましょう」
浩作は、里子が新橋駅の改札口を入るのを見届けてから、タクシーで四谷に行った。
しかし四谷のアパートに才子はいなかった。彼女のいた部屋の入口には別の人の標札がかかっていたのである。
仕方なく彼は鵠沼《くげぬま》に帰った。だが、里子を訪ねるよりさきに自分の家に帰ってみよう、と彼は電車をおりると、まっすぐ自宅に向った。
離れにはあかりがついていた。やはり、いるのかな、……。浩作は濡縁の前でたちどまり、障子のなかの様子をうかがった。部屋の中はしいんとしていた。浩作は指につばをつけ、障子を濡らし、小さな穴をあけた。そして穴に目をあてた。やはり房子がいた。炉の上では鉄瓶《てつびん》がたぎっており、かすかな音をたてていた。そして房子がその前に坐っており、なにか本を開いていた。……すると、あの両親はあきらめて帰ったのかな……。浩作は迷った。なかに入ろうか、それとも、やはり、里子を訪ねるべきか……。母屋はもう閉まっており、あかりも消えていた。
やがて彼は庭をでると、駅の方に歩きだした。そして駅につくと、藤沢行の乗車券を買い、ホームに入った。
浩作は藤沢につくと、駅前の広場を出はずれる道ばたに並んでいる屋台店のひとつに首をつっこんだ。彼はそこで冷やざけをもらった。
「しかし、妙な娘だなあ」
彼は呟《つぶや》きながら焼きあがったもつ焼の串《くし》をとりあげた。駅前に出てきたのは、あの跛の娘が待っている自宅に帰るべきか、それとも里子の家に行くべきか、迷ったからであった。
彼は冷やざけを一杯、もつを五本食べてから再び海岸に戻った。そして海岸駅を出て、自宅の方に足を向けた。
やがて浩作は自宅の庭に入ると、離れの前に歩いて行き、さっきの障子の穴から部屋の中を見た。房子はさっきと同じ姿勢で本を読んでいた。
「どうもわからない」
浩作は首をかしげながら家の前をはなれ、庭をでた。やはり、未通の娘が待っている部屋には帰れないと思った。彼は里子の家に行った。門から横庭をまわって前庭にでると、里子にはじめて出あった部屋の前でたちどまった。雨戸がしまっていたが、あかりがもれていた。
浩作は雨戸を軽く二つ叩いた。返事がなかったのでもう二つ叩いた。と間もなく、なかで人の動く気配がし、やがて雨戸があいた。
「やはり、いらしたのね」
里子はわらっていた。
「宿命ですよ」
「変な宿命だこと。ここからおあがりください。お靴は廊下にあげて。それから、明日は朝なんじにおきられるの?」
「僕は朝寝坊ですよ」
浩作は靴をもって廊下にあがりながら答えた。
里子は、客間に蒲団をのべてくれた。
「ここは、週に一回しか戸をあけませんの。ですから、明日も雨戸はあけませんから、ごゆっくりおやすみなさいな」
里子は寝巻を蒲団の枕元におくと、こう言いおいて出て行った。
浩作は寝巻に着がえ蒲団に入ったが、なかなか寝つかれなかった。疲れすぎて眠れないのだろう、と考え、蒲団からぬけでると廊下に出た。ブランデーかウイスキーが調理場にあるだろうと思ったのである。
酒類は食堂のにあった。
浩作は、アルメニヤ産のブランデーを見つけ、それをからおろした。いつだったか更級から、ブランデーはアルメニヤ産のがいちばんおいしい、ときかされたことがあった。浩作はアルメニヤのブランデーをグラスにつぎ、舌の上でころがしてみた。すこぶるよい香りだった。
「なるほど。こいつはたいしたものだ」
浩作は食堂の椅子に腰をおろした。そうしたら、寝巻の上に羽織をかけた里子がはいってきた。
「盗み酒です」
「あら、おっしゃればお持ちしましたのに」
里子はグラスをおろして浩作のむかい側の椅子にかけた。
「わたしもすこし戴こうかしら」
「おつぎしましょう」
浩作は壜を持ちあげた。
「アルメニヤ産がお好きなの?」
「なに、のむのははじめてです。いいと聞いていたもので」
里子はつがれたグラスをテーブルにおくと、調理場からチョコレートを持ってきた。チョコレートをくちのなかで溶かしながらブランデーを味わうのがいい、と言うのであった。
「あなたにはバターかチーズをあげましょうか」
「いえ、チョコレートで結構です」
そして二人はブランデーをのみながら、雑談をした。
「そのお嬢さん、よほど、あなたに傾いているのね」
「どうも僕にはよくわからないんです」
こんな話をしながら、二人はブランデーをあけた。
「わたしは、これでやめておきましょう」
里子はグラスをあけたところで起ちあがった。
「僕もこれでやめます」
「お部屋に持っていらしたら……」
「そうですね。そうしましょう」
そして二人は食堂から廊下に出ると、左右に別れた。
浩作は壜とグラスを持って部屋に入ると、それを枕もとにおき、煙草をつけた。しかし、やはり、睡れそうもなかった。このあいだ、俺は、あの人と接吻《せつぷん》をした、それが、今夜は、こうして、ここに泊れる身分になったのに、接吻ひとつしていない、何故だろう……接吻しようと思えば出来たのに……。ここまで考え、彼は、このあいだは里子から拒まれたのに、今夜はすすんで宿を提供してくれたために、かえって近づきにくくなった、そのために接吻するおりを逸してしまったのにちがいない、と結論を下した。
そこで彼は、さらにブランデーをのんだ。そうすれば睡れるだろうと思ったのである。
ところが、アルメニヤ産のブランデーは、浩作を睡らせるどころか、反対の結果をもたらした。つまり、浩作の脳髄をあやしく刺戟《しげき》しはじめたのである。
「妙なブランデーがあるものだ」
浩作はブランデーの壜を持ちあげ、レッテルを読んだ。ロシヤ語のようで、浩作には読めなかった。ただ、アルメニヤ産だということだけはわかった。こんどはグラスの中の液体を眺めたが、これも普通のブランデーと変らなかった。
「すると、この中には媚薬《びやく》がはいっているのかな」
浩作はグラスにのこっているのを一息にのみほすと、また壜を持ちあげ、グラスに充たした。そしてまた一息にのみほした。
すると、浩作の脳髄は、さらにあやしくなってきた。
「どうもこれはいかん」
浩作は壜を持って起ちあがった。そして部屋をでた。里子の寝室の場所はだいたい見当がついていた。さっき南側の廊下からあがったところは、里子の居間だったから、寝室はそのとなりの部屋にちがいなかった。
浩作は、まず、居間の前まで忍び足で歩いて行き、そうっと襖《ふすま》をひいた。部屋の中は二|燭光《しよつこう》のあかるさだった。浩作はなかに入り襖を閉めた。部屋のすみに衣桁《いこう》箱があり、そこに、たたんだ着物が入っており、そばのもう一つの衣桁箱には、帯とか足袋《たび》などが入っていた。たぶん隣室に通じる襖にちがいない、入口のと同じ一枚張りの襖が部屋の壁にあった。
浩作はそこを引いてみた。襖は音もなくあいた。そこはやはり寝室だった。香を焚《た》きこめてある部屋の中央に、蒲団がのべてあり、里子の顔はそこからは見えなかった。
浩作はなかに入った。そして襖はそのままにしておき、蒲団のそばに行ってすわった。里子はよく睡っていた。
「里子さん」
浩作は小声でよんでみた。返事はなかった。浩作はそばによって里子の顔をのぞきこんだ。となりの部屋の余光のなかで、女の顔がぼんやり浮いていた。やはり香のにおいがした。
そこで浩作は、つぎのようにひくく謡《うた》った。
恋のはげしさに、恋のはげしさに、かく成り果てたる痩男でござる。せめて一夜の宿をお貸し申し候へ。
しかし寝顔は動かなかった。……すると、やはり、熟睡しているのかな、だが、睡っているひとに手を加えるのは、どんなものだろう……浩作は暫時《ざんじ》このように考え、しかし、犯人はこのアルメニヤ産のブランデーだ、と思いなおし、壜を枕元におくと、するするっと里子の蒲団のなかにすべりこんだ。しかし里子は動かなかった。そこで浩作は里子の躯《からだ》をゆすってみた。ところが、まったく反応のない躯だった。
「まさか死んでいるわけではあるまい」
浩作はこんどは里子の鼻に耳をあててみた。規則正しい寝息がきこえた。くらいのでわからなかったが、里子の寝巻は、さっき食堂でみた寝巻ではなかった。肌《はだ》ざわりからして、絹の長襦袢《ながじゆばん》のような感じがした。浩作は里子の胸もとに手を差しいれた。まことに豊かな乳房がそこにあった。それでも里子は目をさまさなかった。
「ひょっとしたら睡眠薬をつかっているのかな……」
反応のない躯がそんなことを思わせた。浩作はこんどは里子の下半身に手を差しいれた。襦袢の下はなにもつけていない躯だった。こんどは伊達巻《だてまき》を解いた。
そして、浩作は、女の躯のなかに入って行ったが、里子のくちからは、あ、という小さな、それもごく低い声がもれただけだった。
「やはり睡眠薬をのんでいるんだ。しようがねえな」
ところが、しばらくするうちに、里子のくちから、さっきよりやや高めの声がもれてきた。しかし目は閉じたままだった。これは完全に睡眠薬のせいだ……。浩作はここで更級の言葉をおもいかえしていたのである。女は睡眠薬をのんでいても感じるものだ、と言っていたことを。
浩作の見たところ、目ざめている女より、げんにいま目の前で睡眠薬のために不覚になっている女の方が、劇的であった。睡ったまま、そばから人が呼んでも返事が出来ず、相手も見えず、しかし感覚だけはわかる、という女に出あったのは、浩作もはじめてだった。大阪に行った真田から話にはきいていたが、目前の女体はすこぶる劇的であった。里子のくちからもれる声は間断なく続いていた。そして躯をのけ反らせるのであった。もし目ざめている女なら、とてもこんなことは出来ないだろう、と思われるほどの姿態を見せてくれたのである。睡眠薬が、あのしとやかなひとを、こんなにしてしまったのか……。浩作は、かるいサディズムをおぼえた。サディズムは彼の感覚にはなかった。それが、いま、乱れている女の躯を目の前にして、軽いサディズムにおちいっていたのである。
浩作が目ざめたのは九時すぎだった。彼は枕もとの水差から水をのみ、それから煙草をつけた。前夜のことがおもいかえされた。彼は、里子の躯を、彼が蒲団にすべりこむ前の状態にしてこの部屋に戻ってきたが、しかし、朝になって里子が目ざめれば事は判明する、ということはわかっていた。
浩作は煙草を消すと蒲団からぬけでて服を着た。そして部屋をでると、廊下を歩いて里子の居間の前に行った。
「はいっていいでしょうか」
彼は襖を見て声をかけた。
「どうぞ」
いつもの里子の声がした。
浩作は襖をあけ、なかにはいった。
里子は、障子をあけはなした南側の廊下の椅子にかけて新聞をひろげていた。きちっと身繕《みづくろ》いし、すこしのすきもない姿態だった。
「よくおやすみになれまして……」
こう訊《き》く里子の表情から前夜の乱れた姿態を見つけだすことは、とうてい出来なかった。
「よくやすみました」
「これから、足のわるいお嬢さんのところにお帰りになるのね」
「そういうことになりますが……僕は、できたら、ここにいたいと思います」
「いいえ。お泊めしたのは、泊るところがないとおっしゃったからでした。もうお泊めいたしませんから」
「そうでしょうか」
「お茶を淹《い》れますわ」
里子は椅子からたちあがり座卓の前にくると、魔法壜の湯をつかって茶を淹れた。何事もない朝のひとこまにすぎない光景であった。浩作はたちあがって廊下に出てみた。沓脱石《くつぬぎいし》の上に自分の靴がそろえてあった。
「奥さんは、昨夜、よくおやすみになれましたか」
「はい。わたしはもう、それに、ブランデーを戴いたでしょう。朝七時に目がさめるまで、なんにも知らずによく睡れました」
それは嘘だ、感覚が残っているはずだ、と浩作は思いながらも、それをくちに出せなかった。
「実にさわやかな朝だ」
「目がさめるように、濃いお茶を淹れました」
里子が茶をはこんできた。
「目はさめていますよ」
「これから足の悪いお嬢さんのもとにお帰りになるのですから、もっと目をしっかりさましていないといけません」
里子も浩作のむかいがわの椅子に腰をおろした。
「これ以上は目のさめようがありませんよ」
「いいえ。目をさまさなければいけません。その足のわるいお嬢さんのためにも」
そうか、このひとは、もしかしたら、あのとき、目ざめていたのかも知れない、と浩作はにわかに今度は別のかたちで目がさめた気持になった。
「奥さんは、ブランデーをのむと、ぐっすり睡れるのですか?」
「ええ。わたしは、もう。つねられても目をさまさないんです。ですから、よく、主人からわらわれているんです」
里子のくちから主人という言葉をきいたのはあまりなかった。
浩作は茶をのんだ。それはまことに濃い苦い茶だった。
「もう、ここに伺ってはいけないでしょうね」
「あら、なぜですの。おかしなことをおっしゃるのね。あなたは、わたしのよいお友達ですのよ。その足のわるいお嬢さんと御結婚なさったら、御夫婦でお友達になってくださいな」
「わかりました。……ありがとうございました」
浩作はのこりの茶をのむとたちあがった。そして沓脱石の上におりた。
「こんどは玄関からいらしてね」
「はい、わかっています」
浩作は靴紐を結びながら答えた。
「お嫁さんをおもらいになったからといって、それっきり友達の縁をきるのはいやよ」
「はい、わかっています。では、いずれまた」
浩作は靴をはくとたちあがり、里子をふりかえった。しかし、妙なことに、里子の顔をまっすぐ見られなかった。
浩作は、そこから横庭にまわろうとして急に足をとめ、南側の砂地の庭にはいった。そしてそこを渡り雑木林にはいった。彼は雑木林の入口で、うしろをふりかえった。
あのときと同じだ……あのときは、下弦の月がかかっていた夜だったが、あのひとは、やはり、あそこに、あのような姿ですわっていた……。浩作はしばらく里子を見ていたが、里子は庭を見たきり動かなかった。横顔だけが、ぬけるような白さで沈んでいた。
浩作は里子の家の裏門を出ると、悩ましいおもいを抱いて自宅への道を辿《たど》った。あのひとと、あのようなことになるのは、再びあるまい、と浩作は前夜をおもいかえしていた。栄子と一夜をともにしたあくる日は、いつも、ああ、あれが女だ、といったおもいが残ったが、前夜の里子には華やかなものだけつきまとい、もうあのような華やかさに出あうことはあるまい、という思いが、浩作を悩ましくさせたのである。栄子は肉の歓びをそのまま表現する女であった。したがって彼女は暗い部屋を好まなかった。いつも自分の肉慾に忠実であった。
だが、昨夜のあの暗い部屋は……香が焚きこめてあったあの部屋で俺が見たものは、あれはまさしく絵巻物であった。……世のなかに、あのような華やかな女がいるとは……ああ、まことに悩ましいことだ……。
帰宅したら、離れには房子のほかに房子の姉と浩作の義姉の杉子がいた。
「まだ話しあいがつかないんですか」
浩作は杉子にきいた。
「そんな他人事のようなことを言わないでよ。あなた自身のことではありませんか」
「両親も、房子の希望通りにしてあげるからと言っているのですが、この子が、ここから動かないというものでして」
房子の姉が言った。
「おや、そうですか。すると、僕達は、結婚できるのですか」
「なにをそんなのんきなことを言っているのですか」
杉子がたしなめた。
「式は、予定通り五月はじめ、ということで、きめさせてもらいました。ですから、もう、あと、十日もございません。それなのに、房子が、もうここで暮すと言っているのです。御迷惑でしょうが、ここにおいてくださいますか」
房子の姉が浩作を見て言った。
「それはかまいませんが、しかし、式をあげる前に同棲《どうせい》するのはどうかな。たとえば、近くにお姉さんがいらっしゃることだし……」
「そう話したのですが、この子は、どうしてもここから動きたくないというもので」
「いいでしょう。どうせいっしょになるのですから、これも当世風でいいではありませんか。御家族のみなさんが、認めて下さるのなら、よろしい、おひきうけしました」
「浩作さん。そんな気軽な返事をして大丈夫なの?」
杉子が心配した。
「なに、大丈夫ですよ。言うことをきかなかったら木刀でお尻《しり》をぶちますから」
「まあ、あきれた……」
杉子がびっくりして目をまるくした。
「気のつよい子ですから、そうして戴いた方がいいかも知れませんわ」
房子の姉が言った。
「それにしても、娘さんをあずかるからには、僕の方から、御両親に挨拶《あいさつ》をしてきた方がいいかな」
「そうしてくださいますか」
と房子がはじめてくちをひらいた。
「そうするよりほか方法がないでしょう」
「すみません。勝手なことばかり申しあげて」
「妙な春だ。これで独身生活ともおわかれか。さて、それでは、あなたの御両親にあってくるとしましょう」
浩作は部屋にもあがらず、その足で家を出てきた。
彼はすこぶる満足していた。里子を房子に重ねあわせていたのである。房子を里子のような女につくりあげるのは、そうむずかしいことではなさそうに思えた。それに、跛《びつこ》はそのために好都合であるように思えた。なにしろ彼は当世風な活発な女を好まなかったので、跛は、房子の動きを制限し、そのためにかえって心の動きに綾《あや》が出て来るのではなかろうか、と考えたのである。まあ、なんにしても、あの跛は珍重すべきであろう……。浩作はこんなことを考えながら、私鉄の駅にいそいだ。
浩作が鵠沼に戻ってきたのは午後二時すぎだった。
房子の両親から、よろしく頼む、と言われたとき、浩作は、実に妙な春ですな、と答えた。房子の両親も、当人同士が気があっている以上、もう、よけいなせっかいはやめよう、と言っていた。それに、跛の娘にこれからいい縁談が舞いこむことは、ちょっと考えられなかったのだろう。
「お母さんが夕方見えるそうだ」
「こなくともいいんですのに」
房子は茶を淹れながら答えた。
「着がえを持ってくるんじゃないのかな」
浩作は茶をひとくちのむと、房子の手をとった。そして手をぐいと引いたら、房子はこっちに倒れてきた。
「困ります」
房子の顔にみるみる血がのぼった。
「俺の女房になるからには、文句を言うものではない」
浩作は房子のくちにくちを重ねた。房子の躯が小刻みにふるえていた。
「すこぶるいい。これは、今夜夫婦のちぎりを結ぶための予行演習みたいなものだ」
浩作は何度もくちをかさねた。房子は、もうこれ以上はあかくなれない、といったほど顔があかくなり、浩作のなすがままになっていた。
「ところで、足はどの辺が悪いんだね」
浩作は房子をはなすときいた。
「ふくら脛《はぎ》のところです」
「みせてごらん」
「困ります」
「すると一生、俺に見せないつもりか」
「ええ」
「しかし、火傷で跛になるというのはおかしいな。筋が短くなったのかな」
「よくはわかりませんが、たぶん、そうだと思います」
「じゃあ、跛はもう直らないわけだ」
「はい。……おいやですか」
「いや、そんなことはない。これから、跛の妻を連れて歩くのだと思うと、なにかしら悩ましい感情になってくる。もし跛でなかったら、結婚しようなんて気持はおきなかったと思う。なにしろ珍しいよ。いい子だ、もう一度接吻しよう」
浩作は再び房子を抱きよせると、こんどはながい接吻をした。
「明けて二十四歳か。さて、これからいろいろと教えこむのが大変だ。しかし、そう時間はかかるまい」
「なにをですか? わたし、ごはんなら炊《た》けます。お洗濯《せんたく》もちゃんと出来ます」
「そんなことではない。男と女のあいだのことだ」
「どういうことでしょうか」
「たとえば、いまやった接吻のやり方などだ」
すると房子は目を伏せた。
「抱きかたなどもいろいろある。そういうことを教えこまなくちゃ、夫婦の生活はうまくいかないものだ」
「そんなに、女のひとを、知っていらっしゃるんですか」
「なに、女のひとは知らない。ただ、ものの本で読んだだけだ」
「そうでしょうか」
「なんだ、信じないのか」
「いつも、さっきのように、いきなり女のひとに、ああやるんですか」
「あれもうまれてはじめてだ。やり方は、やはりものの本に書いてあった」
「本当でしょうか。……昨夜とその前の夜は、どこにお泊りだったのですか」
「友達の家だ」
浩作は、房子の目をみつめ、この娘は、いまから俺を縛るつもりでいるのだろうか、と考え、すこし妙な気持になってきた。
「これまで、女を愛したことは、何度くらいあったでしょうか」
「おまえさんで初めてだ」
「本当でしょうか」
「これは神様にちかってもよい」
「わたしは、あなたで初めてですが、これからは、わたしだけを愛して下さいますか」
「もちろんだ。おまえさん以外の女には目をくれないと誓おうか」
「そうやって簡単に誓って、また簡単に約束を破るようなことはなさらないでしょうね」
「そんな悪いことはしないよ。もし、悪いことをしたら、警察に訴えてもいいよ。おまえさんはいい子だ。もういちど接吻しよう」
浩作はこんどは房子を畳におし倒してくちをかさねた。
こうして房子を煙に巻きながら、浩作は里子を考え、栄子に思いを馳《は》せていた。
やがて彼は房子をつれて買物にでた。
「式はまだあげていないが、新婚所帯と同じだろう。店の場所を教えておくよ」
そして彼は、まず房子を魚屋につれて行った。
「この魚屋は、高い店だが、いつもたしかな品を並べてある。といっても、必ず自分の手で魚をさわってみて買ってくれよ。海鼠《なまこ》などは、手でさわってみてこりこりと固いやつでないといけない。小鰺《こあじ》なども、見た目は光っていても、さわってみるとやわらかいものがある。こんなのは昨日の品だ。ぴいんと反《そ》った奴は今日はいった品だ」
つぎに浩作は肉屋に房子をつれて行った。
「百グラム二百二十円以下の牛肉は買わないこと。なぜかというと、それは輸入肉でまずいからだ。バラ肉ですごい霜ふりのがある。霜ふりだからいいだろう、なんて考えたらだめだ。それは輸入肉だ。とにかく三百円前後なら、なんとか食える牛肉だ。それから、豚肉は、どれもあまり変らないから、これは安心して買ってよい。つぎに鶏肉、これはあまり変化はない。ただし、臓物だけは今日入荷したのを買うこと。古いのはくずれているからすぐわかる。それから、俺は既成品は食わないから、おぼえておいてくれ。カツ、コロッケ、シュウマイから、漬物《つけもの》にいたるまで、全部自家製でないと食べない主義だ」
「沢庵《たくあん》などはどうするんですか?」
「沢庵なら家にある。毎年、冬のはじめに、近くの八百屋《やおや》にたのんで漬けてもらっている。これ以外の沢庵は食べないから、おぼえておいてくれ。つぎはお茶屋だ」
浩作は房子をお茶屋につれて行った。
「あれを見ろ。黒く色もいいのがあるだろう。あれは韓国海苔《かんこくのり》だ。香りがない。こっちに色のわるいのがあるだろう。あれは日本海苔だ。いろはわるいが香りがある。日本の海苔は汚い海で養殖されるから香りがある。ところが韓国海苔はきれいな海でとれるから、色はいいが香りがない。俺は日本のしか食べないからね。それからお茶は、百グラム五百円以下の茶はのまない。だから、いつも俺のところでは玉露だ。そうだ、もうじき新茶が出まわるな」
浩作は、ききようによっては実に手前勝手なことをならべながら房子をあちこちの店の前につれて行った。
房子の母は、四時すぎに来て、すぐ帰って行った。房子の着換衣類を持ってきたのだった。
「手鍋さげても、というのは、実に珍しい。これは、なんとしても一度あのひとに引きあわせなくっちゃ」
浩作は夕食の膳《ぜん》を前にしてビールをのみながら呟いた。
「あのひとって……誰方《どなた》ですの?」
房子が箸《はし》をとめた。
「なに、独り言だ」
「あのひと、といまおっしゃったでしょう」
「ああ。更級という先生のことだ。一度ひきあわせてやるよ。俺に料理を教えてくれた先生だ」
浩作は話をはぐらかした。いま里子のことを持ちだしたら、房子に疑われるのはあきらかだった。
「料理の先生って、男のかたですか?」
「もちろん男だ。俺にいろいろな料理を伝授してくれた。そうだ、明日は、しばらくぶりで鶏の燻製《くんせい》をこしらえよう。おまえさんに教えておけば、なにかと役に立つだろう」
浩作は、これからこの娘にいろいろなことを教えこむのは大変だが、しかし考えてみれば楽しいことだ、とさまざまに思いをめぐらしながら酒をのんだ。
そして夕食を終え、茶をのんでいたときに、門の前で車のとまる音がし、やがて、浩作さん、いるの、と女の声がした。栄子の声だった。
浩作は縁側の障子をあけると、
「やあ、どうもすみません。おくれてしまって」
と栄子に目くばせしながら言った。そして房子に、僕が家庭教師をやっている家の奥さんだ、と紹介した。
「これは、もらったばかりの女房です」
栄子には房子をこのように紹介した。
「あら、いつ式をお挙げになったの?」
栄子はきょとんとしていた。
「まだ式前です。新婚生活の予行演習をしているところです」
「それは面白いわ」
「そんなわけで、今夜教えに行くのを、うっかりしていました。明日は必ず伺います」
「いいえ、かまいませんのよ。今日からまた主人が出張なので、子供ものんびりしていますわ。それでは、明日、お待ち申しておりますわ。では、ごめんあそばせ」
栄子は茶ものまずに帰って行った。
「あのひと、おかしいわ」
と房子が言った。
「なにが?」
浩作は慌《あわ》ててきいた。
「だって、電話ですむ用件なのに、わざわざ訪ねてくるなんて……」
「ひまなんだよ」
「男が独りでいる家に、しかも、夜、女がひとりで訪ねてくるなんて、おかしいですわ。それに、浩作さん、だなんて親しげに名をよんだではありませんか」
「電話よりも、車で迎えに行く方が早いと思ったからだろう。教育ママなんだ、おまえさん、教育ママの実態を知らないだろうが、子供の教育のためなら、とにかく我武者羅《がむしやら》な連中だからね」
「信じられませんわ……。男がひとりで棲んでいる家に、女がひとりで、しかも夜訪ねてくるなど、覚悟がなくては、出来ないことですわ」
「そうかな……。すると、おまえさんは、覚悟をしてここにきたわけか」
「あたりまえですよ。……昨夜と一昨夜、あなたは、どこでお泊りだったのですか。お泊りになったお友だちのお家は、どこですか」
「さっき話した料理の先生の家だよ」
「先生とお友だちでは、話がさっきとちがうではありませんか」
「その先生は俺には友達のような人だ。疑うなら明日つれて行ってやるよ、そこに。大磯だ。そうだ明日、大磯に行き、料理を習うとよい」
こうして浩作がくちから出まかせを言っている最中、今度は、栄子よりもたおやかな声で、縁側から、今晩は、浩作さん、いらっしゃるの、と女の声がした。
一〇
「女の客が多い。実に不思議な夜だ。天変地異でもあるのかな」
浩作は呟きながら障子をあけた。藍《あい》の紬《つむぎ》を着た里子が立っていた。
「あら、お客さん」
「いや、女房です。どうも済みません。お宅には、昨夜教えに伺う予定が、今夜もまた所用でのびてしまいました。明日の夜は必ず伺います」
そして浩作は、やはり家庭教師をしている家の奥さんだ、と里子を房子に紹介した。
「そう。このかたが奥さんになられたひと。浩作さんから、奥さんをおもらいになられる、というおはなしは、だいぶ以前から承っておりました。おきれいなかた。して、いつお式をおあげになりましたの?」
「いえ、式はまだです。どうぞ、おあがりください」
「いいえ、そうもしていられないのよ。近くの工藤さんのお宅まできて、ちょっとたちよっただけですのよ。奥さんもどうぞ御主人とごいっしょにお出かけくださいませ。では、わたしはこれで失礼させて戴きます」
里子は頭をさげると縁側の前から離れて行った。
「やはり、おかしいと思います」
と房子が里子の出て行った暗い庭を見て言った。
「なにがだ」
「一夜のうちに二人も人妻が訪ねてくるなんて、どう考えてもおかしいですわ。それに、二人とも、きれいすぎるひとです。殊にいまのひとは、とてもよいお家の奥さんだと思います。あなた、一昨夜と昨夜、ほんとはどこにお泊りだったのですか。人妻が夜ああして家を出て独り者の男を訪ねてくるなど、よほどひまを持てあましている方達とちがいますか」
「あれはね、さっきも言ったように、教育ママ達なんだ。自分の子の勉強が一日でも遅れようものなら、たいへんなさわぎを起す連中でね。ま、そのうちに、おまえさんも、あの奥方達とはいい友達になれるさ」
「では、明日、大磯とかにすんでいらっしゃるお料理の先生のところに連れて行ってくださいますか」
「もちろん。身の証《あかし》をたてるためにも行かねばなるまい」
「あなたが、ほかの女のひとと親しげにしているのを見るのは、いやなんです」
浩作は、こんなことを言っている房子の目をみて、俺は、もしかしたらたいへんな女につかまってしまったのかも知れない、と考えた。しかし、なんにしても、明日は更級のところに連れて行かねばなるまい、あの人なら、うまくごまかしてくれるだろう……。
まだ式を挙げていないこの夫婦が床に入ったのは十一時すぎだった。
「蒲団が一組しかないんだ。母屋から持ってこよう」
蒲団をのべる時になって浩作が言った。
「いまから蒲団をもらいに行くなんて、恥ずかしいわ」
「じゃ、どうするんだ」
「あなたにおまかせします」
というような会話をかわした後で、二人は結局|三幅《みの》の蒲団に同衾《どうきん》することになった。
浩作はさきに蒲団にはいった。最初は栄子が俺をさそいにきた、きっと亭主と喧嘩《けんか》でもしたか、あるいは亭主が今夜は留守なのだろう……つぎは里子が訪ねてきた、あれは何の用だったのだろう……俺は今日の昼間、里子に悩ましい感情を抱きながら里子に別れてきたが、訪ねてきたところを見ると、これは脈がきれていないと解釈してよいかもしれない、すると、あのひとは、あの華麗な寝姿を、再び俺の前で見せてくれるのだろうか……それにしても、一夜に三人の女に出あうとは……。
「実に妙な春だ」
やがてあかりが暗くなり、房子がそっとそばに入ってきた。微《かす》かに脂粉の香がした。浩作は枕もとのスタンドをつけた。
「おねがいですから消してください」
「うすいあかりにしよう」
「全部消してください」
「全部消したんではおまえさんの顔が見えない」
みると、房子は目を閉じ、棒のようにかたくなっていた。浩作は、房子の寝巻の上からそっと乳房に手をふれてみた。とたんに房子の躯がぴくっとふるえた。
「おねがいですから、あかりを消してください」
浩作は仕方なくあかりを消したが、房子の躯のふるえはとまらなかった。着痩《きや》せするたちなのだろう、意外に豊かな躯だった。くちをかさねたら、すこしふるえがとまったようだった。それから房子の躯をひらくまで、それほどの時間はかからなかった。これまで場数をふんできたせいであった。房子は浩作の首に腕をまいたきり離れなかった。さて、これからの教育がたいへんだ、と浩作は考えながら、再び房子のなかをおしわけて入った。
一一
あくる朝、浩作がおきてみたら、房子はすでに洗をすませ、朝食の支度をしていた。
「おはよう」
「おはようございます」
房子は顔をあげずに答えた。一夜をともにしたために、こんなにも変るものか、と思ったほど房子の物腰はやわらかくなっていた。
「もう、おひるちかいだろう」
「はい、十時ちょっとすぎです」
「俺達は昨夜結婚したんだっけな」
これにたいする返事はなく、房子は流しの方に起って行った。
浩作は寝巻のまま縁側に出ると、煙草をつけた。
「ああ、実にさわやかな朝だ。おうい、ビールをくれないか」
庭では春の花がさかりだった。
やがて房子がビールを運んできた。
「起きぬけにビールを召しあがるんですか」
「大磯の先生が教えてくれたのだ」
「その料理の先生、不良じゃないんですか」
「不良? とんでもない。当世では珍しいくらい家長制度をかたくなに守っている人だ」
「料理学校をやっているのですか?」
「いや、本職は小説家だ」
「それでは不良ですわ」
「日本の小説家には不良が多いが、うちの先生だけはちがうね。女のひとといったら自分の奥さんしか知らない人だからな。めしが済んだら連れて行ってやるよ」
浩作はビールをのみながら勝手なことを言った。
二人が大磯の更級を訪ねるために鵠沼をでたのは正午にちかかった。海岸道路からタクシーをとばせばすぐだったが、それでは風情《ふぜい》がないということで、二人は藤沢駅から東海道線を利用した。
更級の家についたら、ちょうど更級が庭を歩いているところだった。いつもの着物姿で、前掛をかけており、浩作を見て、なんだ、連れのひとは? ときいた。
「昨夜結婚したんです。まだ式はあげていませんが」
「なるほど。足がわるいとか言っていたひとだな。部屋にあがれ」
更級は庭から座敷にあがり、浩作は房子をつれて玄関からはいった。
房子は座敷で改めて更級に挨拶《あいさつ》した。更級は房子の顔を穴のあくほどみていた。房子が思わず膝《ひざ》もとに視線をおとしたとき、
「美人だ。浩作にはもったいないな」
と更級の声がした。
「わたし、足がわるいんです」
房子が消えいりそうな声で答えた。
「足がわるいのは、現代では美徳のひとつに数えてもいいですよ。なにしろ五体満足にそろっている奴等が多すぎる」
「この人も、そう言ってくれるのですが。……この人、一昨夜とその前の夜、ここでお世話になりましたそうで」
「浩作。おまえ、そのときどこに泊ったのだ」
「先生、変なことを言わないで下さいよ。僕はここで泊ったではありませんか」
「俺は知らんね。女のところだな、どこかの」
「平地に波瀾《はらん》をおこすんですか。しようがねえな。来るんじゃなかったな」
「房子さん。浩作は女にもてますから、充分気をつけなさいよ。もっとも、女にもてない男なんて、なにをやってもだめだから、もてないよりはいいにきまっている。しかし、女房があまりやきもちを焼くと、亭主はどこかへ逃げてしまうし、そこのかねあいが肝心です。亭主が行くところには何処《どこ》にでもついて行く女房がいますが、そういう女はすぐ亭主にあきられます。といって、どこにも女房をつれて行かない亭主も、あまりよくないが。それから、亭主の仕事に口出しする女房は、悪妻の最たるものですから、これも気をつけなければいけません。ところで浩作、子供はすぐこしらえるのか?」
「そのつもりでいますが」
「それはいい。子供は多いほどよい。六人ぐらい続けてうんでしまえよ。房子さん、教育ママになってはだめですよ。浩作、式はいつ挙げるんだ?」
「来月早々です」
「さきにお目出とうと言っておこう。美人だ、大切にしてやれ」
「しかし、平地に波瀾はよくないですよ」
「馬鹿、なにを言っている。波瀾は早いうちにおこしておいた方がよい。女にもてない男に自分の女房がついてくると思っているのか。前祝いに酒でものもう」
更級はテーブルの上にあった鉄製の風鈴を左手にとりあげ、煙草盆の中から大きなビールの栓《せん》ぬきをとると、それで風鈴を叩いた。澄んだ鉄の音が座敷から廊下にぬけて行き、間もなく更級の妻が廊下を歩いてきて敷居に手をついた。
「この男、昨夜結婚したそうだ。式は来月にあげるらしい。前祝いに酒をのみたいが」
「はい。すぐ用意いたします」
「魚をなにかとりよせてくれ。酒の順序は、まずビール、つぎがウイスキー、つぎに日本酒、という順にしてくれ」
「浩作さん、また悪酔なさるんじゃないかしら」
「なに、大丈夫だ。こいつはいつまで経っても酒の修練が足らん。今日は夜中までかかって揉《も》んでやろう。門出はさかんな方がよい。いいか、浩作、明日の朝、月がかくれるまでつきあってやる。途中で睡ったり吐いたりしたら承知しないぞ」
こうして前祝いがはじまったが、房子はただもうびっくりして二人の酒ののみっぷりを見ていた。二人とも、なんとも壮烈な酒のみだった。冷やざけをコップにつぎながら、それを水のようにくちに流しこむのであった。
房子は空いた皿を台所にさげにでたとき、いつもあんなですか、と更級の妻にきいた。
「そうですよ。浩作さん、いまからだと、夕方頃にはまいってしまうでしょうね」
更級の妻はわらっていた。
一二
浩作は、更級の妻が言ったように夕方五時にはもうべろべろに酔ってしまい、先生、もう勘弁してくれ、とさけびだした。
「馬鹿、なにを言っている。おまえ、俺が祝ってやっているのに、それを途中でたちきるつもりか。風呂に入ろう。そうすればいくらか酔いがさめるだろう」
更級はのみかけの一升壜をつかむと、浩作をうながし、浴室におりて行った。
「お風呂のなかでお酒をのむんですか?」
房子が更級の妻にきいた。
「あのひとの酒ののみ方には順序がありましてね。冷やざけのつぎに、お風呂のなかで壜ごと燗《かん》をつけ、それをのみながら躯を洗うんですよ。いっしょになった頃はびっくりしましたが」
更級の妻は、もうすっかり慣れてしまった、といったくちぶりだった。
二人は風呂からあがると、ビールにきりかえ、それもめいめいコップ一杯だけにし、すぐ風呂で燗をした酒にきりかえた。
「あの残ったビールはどうするんですか?」
と房子は更級の妻にきいた。
「捨ててしまうんです。あんな贅沢《ぜいたく》な酒のみですから、お金はかせぐそばから消えてゆくんですのよ。さあ、わたし達は食事にいたしましょう」
筍《たけのこ》と蕗《ふき》と身欠鰊《みがきにしん》の炊きあわせ、鰹《かつお》の刺身、蛤《はまぐり》のすいものに漬物、といった簡単な夕食だったが、房子はこれらのこしらえ方を台所で習った。たとえば、身欠鰊のあくをぬくには、米のとぎ汁を使うよりも糠《ぬか》をいれた水で煮たてた方が早くあくぬきが出来る、ことなどであった。
浩作はそれから二時間ほど後に完全に酒にまいってしまい、とうとう倒れてしまった。
「しようがねえ奴だな。おい、毛布をかけてやれ。しばらくしたら目がさめるだろう。どれ、俺はめしを食おう」
更級は、皿をさげにきた自分の妻と房子に言うと、食堂にはいった。
房子が、浩作をつれて鵠沼に戻ったのは、午前三時すぎだった。更級の家で車をよんでくれ、それで帰ってきたのであった。浩作が九時頃目をさましたとき、更級は、今度はブランデーがいいだろう、と言い、それからまたのみだし、浩作はしばらくしてまた倒れてしまった。相手が倒れると更級はそばで原稿を書き、相手が起きるとまた酒をのみだす、というような男であった。
浩作は服のまま蒲団に入り、前後不覚になってねむってしまった。房子も疲れていた。
あくる朝九時すぎに房子が目をさましたら、縁側に人が掛けている気配がした。障子をあけてみたら、着流しの更級が縁側に腰かけ、新聞をひらいていた。
「いや、そのままでいいです。土産《みやげ》を持たせるのを忘れていたんで、鰺《あじ》の干物ですが僕がこしらえたものです。浩作に言っておいてください。酒をあまりのまんように」
更級は新聞をおくと起ちあがった。縁側に竹籠《たけかご》がおいてあった。
「すぐお茶を淹れます」
「いや、いい。式にはよんでください。しかし、その日の都合で行けないかもわかりませんが」
更級はこう言いのこして庭を出て行った。房子は浩作をおこした。
「ねむいよ。このままにしておいてくれ」
「更級先生がいらしたのよ」
「酒はもうたくさんだと言ってくれ」
「そうじゃないのよ……」
房子は事情を説明した。
「酒をのむなって! くそッ、俺にこんなに酒をのませておいて」
浩作は蒲団から起きあがった。
「もう行かれたわ」
「くそッ! 更級の馬鹿野郎ッ」
「どなっても、とてもあなたが太刀打ちできるおかたではないわ」
「ねかせてくれ」
浩作はまた蒲団にもぐりこんだ。
「更級先生は、あなたをかわいがっていらっしゃるのね」
「そんなことがあるものか。俺にこんなに酒をのませやがって」
「わたし、これからは、困ったことがおきたら、大磯に相談に伺うことにします」
「藪蛇《やぶへび》だったよ、あそこに行ったのは。水をくれ」
浩作はもういちど蒲団の上に起き直った。
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夏の夜の夢
古川洋介の家では、六月にはいると同時に、再び仮面舞踏会をひらいた。冬のあいだやすんでいたので、六月初旬の本年はじめての舞踏会には、ほぼ四十人ちかくの男女があつまった。
北ノ庄浩作は今夜も痩男《やせおとこ》の能面に甚兵衛《じんべえ》を着ていた。甚兵衛の下には越中褌《えつちゆうふんどし》をつけていた。真田茂は、この夜のために休暇をとってはるばる大阪から来ていた。これも去年と同じ快傑ゾロの仮面に真紅のミニスカートをはき、上半身は裸だった。
だいたい仮面や衣裳《いしよう》は前年と変らなかった。女の服装は、れいによって二つの乳房と尻の個所だけ穴をあけて乳房と尻を露出させたのが多かった。それから、裸身が透けている薄物をつけた女が多かった。
今年は新顔がかなりいた。栄子の夫の橋田次がそうだった。また、一週間ほど前、浩作が大磯の更級の家に遊びに行ったとき、浩作は同席していた二人の男に紹介され、浩作はこの二人を今夜の舞踏会につれてきていた。
「この二人は好奇心のつよい男でな、その仮面舞踏会につれて行ってやってくれないか」
と浩作は更級に言われたのだった。二人とも若手の小説家で、一人は高山有七、いま一人は前藤明八であった。前藤明八ははるばる草深い埼玉県の田舎《いなか》から参加してきたくらいで、かなり好奇心のつよい男らしかった。二人は、更級の家から借りてきたという小面と増《ぞう》の面をつけていた。前藤も高山もじつによく笑い声をたてた。前藤はイッヒヒヒとわらい、高山はウェッヘヘヘとわらった。酒もかなり強いらしかった。そして女にたいしてもかなり好奇心はつよい方らしく、いろいろな女と愛撫《あいぶ》をかわしていた。面白いことには、高山が女の腕を愛撫するのが多いのにたいし、前藤は女の脚を愛撫していた。
「今夜は栄子の亭主もきているのか」
真田が浩作にきいた。
「あの夫婦は、セックスを竟《つい》にスポーツ化してしまってね。そうだ、栄子と百合子を、あの二人の笑ってばかりいる男に娶《めあわ》せてやろう」
浩作は席をたつと、栄子の前に歩いて行った。栄子は右の乳房と尻を丸出しにした黒いタイツに黒い仮面をつけていた。浩作は、チンザノをのんでいる栄子の手をひっぱると、まず高山有七の前につれて行った。
「この人のお相手をしてください、高山さん」
「冗談じゃない、俺はそんな趣味がないんだ、ウェッヘヘヘ」
高山は腕をあげて振った。しかし、栄子はもう高山のかたわらにすわりこみ、露出した片方の乳房を高山の胸に押しつけていた。
浩作はつぎに百合子をつれてきて前藤にあてがった。
「この人を俺にくれるの、イッヒヒヒ」
と前藤はわらったが、百合子が巨大な尻を前藤の膝にのせたとき、前藤のわらいがとまった。
それから浩作が真田のところに戻ったら、真田は肥った女と話していた。
「誰か見つけたかい?」
と真田がきいた。
「いや、まだだ」
浩作の目的は別のところにあった。彼はウイスキーをストローですいあげてのみながら、高山と前藤の方を見た。二組とも仲良く話しあっていた。二人の前途有望な若い小説家は、どうやら栄子と百合子の巨大な乳房と尻にまいっている様子らしかった。
「さて、俺も誰かをさがしてくるとするか」
浩作はコップをおくと起ちあがった。彼はホールから裏口にでると、母屋に通じる雑木林に入った。彼は里子を訪ねたのである。
里子の居間の雨戸は閉まっていた。しかしあかりがもれていた。
浩作は雨戸を二つ叩いた。しばらくして、誰方《どなた》? と声がした。
「痩男です」
すると間もなく雨戸があいた。
「そういえば、今夜はパーティーだったのね」
「あがっていいですか」
「それはかまいませんが」
そこで浩作は下駄をぬぎ、廊下にあがった。
「その面をおとりになったら」
「そうですね。とりましょうか」
浩作は面をとると、それを廊下におき、部屋に入った。
「ことしも痩男の面ですのね」
「結婚しても恋の苦しさは渝《かわ》りませんからね」
「また誰方かに恋をなさったの」
「はぐらかすのはよくありません」
「あら、奥さんをおもらいになって、まだ以前の人に恋しているんですの」
「痩男の面がそのことを証明しているでしょうが」
「そうでしょうかしら」
里子は不思議な微笑をたたえていた。それはまさしく能面の増の表情であった。
「信じないのはよくないことですよ」
「今度は、奥さんをおつれして遊びにいらっしゃい」
浩作は、やはりあの一夜はあれでおしまいだったのか、と考えながら、里子の目を見た。すると、浩作のうちに、あの夜、このひとは、すべてを知っていたのにちがいない、という思いが湧《わ》いてきた。里子としたら、一夜の宿を貸したにすぎなかった。そして彼女は睡眠薬をのんでねむってしまったのである。それだけだった。とすれば、あの一夜の愛のあかしを求めても、それは無理なことだろう。
浩作が里子の部屋で茶をもてなされて離れの会場に戻ったら、高山有七と前藤明八と栄子と百合子の組の姿が消えていた。真田もいなかったし、男は五人しか見えなかった。それなのに女の数は十人以上だった。
「売れのこりか」
浩作は呟《つぶや》きながらウイスキーの水割りをこしらえ窓ぎわに行ってすわった。そうしたら、ひょっとこの面を被った女がそばによってきた。女は白いパンタロンに黒い柄物のブラウスを着ていた。
「そばにすわっていいかしら」
と女は言った。
「どうぞ」
「あなた、浩作さんでしょう」
「そういうきみは?」
「名前はいいでしょう」
浩作は女の躯《からだ》つきをみた。どうやら寿子らしかった。
「いつ、こちらにきたんだい」
「わかっちまったわね。主人が、東京に会合があってきたの。それについてきたのよ」
「こんなところに出て大丈夫かい」
「いま十時でしょう。あと一時間もしたら帰らなくっちゃ。主人は十二時には戻ると思うわ」
「明日帰るのか?」
「ここにきて三日目よ。明日は帰るわ。向うで真田さんと会ったわ」
「遊んだかい」
「そういう機会がなかったもの。結婚したんですってね」
「年貢のおさめ時さ。旦那さんはいい人かい」
「ええ、いい人よ。おとなしすぎるのが欠点よ」
「贅沢《ぜいたく》をいうものではない」
「あっちの部屋に行かないこと」
寿子は奥の日本間を指さした。
「あそこは暗いよ」
「暗い方がいいわ」
どうやら寿子はむかしの寿子に戻りたいらしい様子だった。
「では希望にそうとしようか。せっかく関西から出向いてきたのだから」
二人は日本間に入った。そこではすでに数組の男女が乱れていた。
浩作は寿子を相手に愛撫をはじめた。
「あたし、こちらに帰ってきたいわ。だって、あの家にいると、息がつまりそうだもの」
「そんなことを言ってはいけないよ。人の奥さんになった以上は、貞淑にくらすべきだ」
「困っちまうのよ、まいにちが」
「旦那さんはかわいがってくれないのかい」
「あの人、学者なのよ。こういうことをするのを、なにか汚いことにしか考えていないのよ」
「なら、きみが教えてやればいいじゃないか」
「まさか、せっかくうまれたときの躯にして嫁に行ったのに、そんなことが出来るものですか」
「そういうときは、ものの本にはこう書いてあるけど、あたし達もこういうことをしてみましょう、と旦那さんをさそえばいいんだ。本ならいっぱいあるだろう」
「どうしてそんなけがらわしい本を買ってくるんだ、とおこられるにきまっているわ」
「いまどき珍しい男がいるものだな。そりゃ、大事にしてやらねばいかんな」
浩作は無責任なことを言いながら寿子の躯をひらいて行った。
「帰りたくないわあ」
寿子が幽《かす》かな声をあげた。
「太平な世の中だ」
浩作はウイスキーをのみながらのん気なことを言っていた。彼はウイスキーをのみながら事をおこなっていた。
「離婚して戻ってこようかしら」
「それはいけないよ」
「どうして?」
「あそびをまことの事と思いちがいしてはいけないよ」
浩作は寿子を締めあげて行きながら、寿子の耳にくちをつけてささやいた。
「こんなことをされると、なおのこと帰りたくないわ」
「帰らねばいけないよ。そして、旦那さんを愛してやるんだ」
「あなたは今夜はここですごすの?」
「いや。女房が待っている」
「それなら、あたしを家まで送ってよ」
「そうしよう」
こうして浩作と寿子は天の彼方《かなた》にのぼって行った。
浩作は十一時に寿子をつれて仮面舞踏会場からでると、寿子を彼女の生家まで送り、それから自宅に帰った。
家では妻の房子がまだおきて彼を待っていた。
「仮面舞踏会はいかがでした」
「ああ、たいしたことはなかった」
浩作は仮装の面と甚兵衛を包んだ風呂敷を部屋の入口におきながら答えた。
「香水のにおいがするわ」
と房子が言った。
「変なことを言うなよ」
「いいえ、ほんとですよ」
「そんなはずはない」
浩作は自分の腕をもちあげ、においをかいだ。
「あなたの服じゃないのよ。その風呂敷包みですよ」
房子は風呂敷包みを持ちあげると部屋のまんなかに運び、それを解いた。そして、甚兵衛を持ちあげ、鼻の下に持って行った。
「これですわ。ここからにおってくるわ」
「ダンスをしたからだ」
「嘘! ダンスなら移り香のはずです。こんな強いにおいがするはずがありません」
房子は言うなり浩作の前ににじりよると、浩作のくちにくちを重ねた。
「女のにおいがします。それに、香水のにおいがします」
「冗談じゃないよ」
「冗談か、そうでないかは、あなたの胸にきいてみて下さい。これはずいぶん高価な香水です。どんな人を抱いてきたんですか!」
「女を抱いた? 変な言いがかりをつけるのはよしてくれよ」
「わたしは言いがかりなどつけていません。あなたの躯から香水がにおってくるではありませんか」
房子は目を据えていた。寿子の奴だ! と浩作はほぞをかんだが、もう逃れ道はなかった。
「以前ここに訪ねてきた女の人が二人いましたが、その人のうちの一人ですか!」
「ちがう」
「では誰ですか!」
「誰でもない」
「わたし、承知しませんから」
「仮面舞踏会というのは、男が女の服をつけ、女が男の服をつけるものだ。俺は、女の服をつけ香水をいっぱい躯にふりかけた男とダンスをしたのだ」
「それでわたしをごまかせるとお思いになっていらっしゃるの」
「ごまかしようがないから本当のことを言っているのだ」
「嘘ならもっと上手におつきなさい。それが出来なかったら、更級先生みたいに、だまれッ!とどなりつけなさい。ごまかそうという精神がいけません。さあ、白状なさい、どんな女の人といっしょにいたかを」
「さっき言ったように、女の服をつけ香水をいっぱいにふりかけた男といっしょにいたよ」
「では、あなたは、男色ですか」
「冗談じゃない。俺にはそんな趣味はないよ」
「女は誰ですか!」
「誓って言うが、俺は女とはいっしょにいなかった。神様にちかってもよい」
「そうでございますか。……わたし、これから、大磯の先生のところに伺いますから」
房子はたちあがると部屋の入口にむかった。
「おい、よしてくれよ。夫婦喧嘩を大磯に持ちこんだら、俺があとで先生に叱《しか》られるだけじゃないか」
「それなら白状なさい!」
「言うよ。わかったよ」
「誰ですか」
房子は浩作の前にすわるとにじりよってきた。
「仮面舞踏会だろう、相手が誰だかわからないんだ」
「あなた、その女の人を、抱いたのですか」
「ああ、抱いた」
「どのくらい抱いたのですか」
「三十分」
「おこなったのですね」
「仕方ないだろう」
と答えたとたん、浩作の頬がピシャッと鳴った。そして嗚咽《おえつ》の声が部屋のなかをしずかに充たしていった。そして、こんなにあなたを好きなのに、と言ったかと思うと、房子は畳に泣き伏した。
「やれやれ、これでは俺は外出もできない」
浩作はしかし房子を抱きおこすと蒲団に運んだ。そしてくちを重ねようとしたとき、再び頬をはられた。
「お風呂に入っていらっしゃい」
「わかったよ」
浩作はしかたなく妻から離れた。そして煙草を一本のみ、それから風呂場におりて行った。
彼は湯を躯にかけながら、どうすれば亭主関白になれるだろうか、と考えた。この調子では房子の尻に敷かれてしまいそうだった。そうだ、明日、大磯を訪ねよう、更級から、亭主関白になれる方法を教えてもらおう……。彼はそう決めると、浴槽《よくそう》のなかに入った。
「なに、亭主関白になれる方法を教えろって。そりゃな、浩作、資質がそなわっていなけりゃ、亭主関白にはなれないよ」
更級は煙草をのみながら、浩作を見てわらっていた。
「僕には資質がないんですか?」
浩作は首をかしげた。
「いったい、どうしたんだね」
「ほら、いま、あちこちで、女上位とかなんとか言っているでしょう。どうも僕は、そんな女をもらったのじゃないかと、いささか後悔しているところなんです」
「房子さんはそんな女じゃないだろう」
「ところが、こっちの自由がまったくきかないんですよ」
「結婚すればどうしたってそうなる。それは女上位とはちがうな」
「先生ははじめから亭主関白だったのですか?」
「これは資質でね」
「たとえば、努力して関白になれる方法があったら、それを教えて下さいよ」
「浩作。おまえ、女房を殴ったか?」
「殴っていません」
「努力といったら、殴るしか方法がないな。だいたい女の頭というのは単細胞に出来ている。なにかひとつ言いつけられても、それを一度でおぼえない。味噌汁《みそしる》の味噌はのむ直前に溶くものだ、と何度教えても、なかなかおぼえないものだ。三度くらい注意する。そして四度目もまた、沸《わ》かしざましの味噌汁をのませるようだったら、そのときをねらって怒るんだ。殴るんだ。すると女は泣きだす。殴るのは一度でいい」
「どこを殴るんですか?」
「もちろん頬っぺただ。ただし、こぶしで殴っちゃいかん。殴ったあと、おまえみたいな頭の悪い奴とは、とうてい一緒には住めん、実家に帰れ、と威厳をつくろって命令するんだ」
「それで帰ってしまったらどうするんですか」
「三日だけ待つ。それで帰ってこなかったら、そんな女とは別れた方がよい。しかし、帰れ、とどなっても帰らない女は、かなりいい女だ。はい、そうですか、と帰るような女では、まず駄目だな」
「わかりました。ところで、先生はそれを実行したのですか?」
「俺ははじめから亭主関白だから、そんなことを経験するひまがなかったよ。当世では、亭主関白のような面をしていながら、その実マイホーム主義の毒に汚された男が多い。ああいう男になってはいけないよ」
「わかりました。では早速家に帰って女房を殴ることにします」
「おい、理由もなく自分の女房を殴るなよ」
「そんなことはしません。先生、女房を殴って、あいつが実家に帰ったとしますね。それで、もし、三日すぎても戻ってこなかったら、そのときはどうしますか?」
「別の女房をもらえばいいだろう」
「そうか、そんな方法もあるな」
「どうやら、房子さんの方が、おまえより一枚上のような気がするな」
「そんなことはありません。僕は絶対に女房を殴ります。殴ったら知らせに来ます」
そして浩作は、いいことを教わった、ひとつ機会を見てあいつを殴ってやろう、と考えながら家に戻った。
房子は、前夜のことでまだ不機嫌《ふきげん》な顔をしていた。
「おい。早く夕飯にしろ」
浩作は亭主らしく威厳をつけて言った。
しかし房子は返事をせず、洗濯物《せんたくもの》をたたんでいた。
「おい、きこえないのか!」
「きこえていますよ」
「それなら早くめしの支度をしろ」
「どこへ行っていらしたんですか」
「亭主がいちいち女房にそれを報告せねばならんのか」
「お教えくださらなくともようござんすよ」
「それなら、はじめからきくな。なんだ、その脹《ふく》れっ面は。もうちょっとまともな面が出来ないのか」
「わたしをこんなに苦しめておいて、いまさら、なにをおっしゃるんですか!」
房子はきっとなって浩作を見返した。
「なんだ、その鬼のような面は」
「鬼のような顔にしたのはあなたですよ。考えてみたら、口惜しくてしようがない」
「馬鹿! まだ昨夜のことを言ってるのか」
「そんなに簡単に忘れられることではないでしょう」
「いつまで憶えているつもりだ」
「生涯《しようがい》忘れられないことですよ」
「生涯? 冗談じゃない。ようし、それなら、俺は、もっと昨夜のようなことをしてやる」
「やってごらんなさい、どんなことになるか」
房子はにわかに表情をかえた。浩作は、おかしな女だ、と思った。妖《あや》しい顔になっていたのである。ああ、これは能面の女だ、と思ったとき、房子が不思議なわらいを浮かべた。
「なにをわらっている。出来ないと思っているのか。俺はやってやる」
「わたし、やるな、とは申しておりません。どうぞ、いくらでも、昨夜のようなことをなさって下さい」
「俺を馬鹿にしたわらい方をしたな」
「御自分でそうお思いになっているだけですよ。わたしは自分の旦那さまを馬鹿にするほどの女にはうまれついておりません」
「つべこべ言わずに早くめしの支度をしろ」
こうして、いったんは納まったかに見えた夫婦喧嘩が、夕食のときにまた起ってしまった。
「なんだ、この味噌汁は!」
と浩作がどなった。
「味噌汁がどうしたんですか?」
「甘いじゃないか。俺は辛い味噌汁しかのまないと言ってあるだろう」
「だって、お味噌を買いに行く時間がなかったのですよ。おねえさんのところから借りてきたのです」
「馬鹿、こんな味噌汁がのめるか!」
浩作は味噌椀を持ちあげると、それを庭にむけて投げつけた。
「ごめんなさいね。明日はお味噌を買っておきますから」
「もうおそい。おまえのような奴とはもう一緒にすめん。実家に帰れ!」
すると、房子はしばらく夫の顔を見上げていたが、すうっと起ちあがり、茶箪笥《ちやだんす》のひきだしをあけ、財布を持つと、部屋を出て行った。
「おい、どこへ行くんだ」
しかし房子は返事をせず家から出て行った。
浩作は、房子が出たあと、あいつ、本当に実家に帰ったのかな、先生の言葉によれば三日たって戻ってこなければだめな女だ、とのことだったが、ようし、三日だけ待ってみよう、と考えながら、夕飯をたべた。しかし、どうも味気のない夕食だった。
こうして浩作は三日間のにわか鰥夫《やもめ》暮しをする羽目になってしまった。
房子はほんとに三日たっても戻ってこなかった。更級が言った三日間という日数が妙にうらめしく感じられはじめた。
そして四日目の朝、あいつは本当にここには帰ってこないつもりなのか、と房子を追い返したことを後悔しだした。房子の実家に行ってみようか……いや、いや、連れ戻しに行くのは男の沽券《こけん》にかかわる……しかし、家庭的ないい女だったのになあ。……浩作はすこしばかり苦い感情になり、その日一日、妻の帰りを待った。
しかし房子は夕方になっても帰ってこなかった。四日たっても帰ってこないところを見ると、これは本物だな、よし、それなら、こっちにも考えがある。再び独身時代の気楽な生活に戻るだけだ、よし、先生のところに報告に行こう……。
浩作はそれから大磯にでかけた。
「先生、あいつ、四日間も戻ってこないのですよ」
浩作は経緯を話した。
「四日目か。そりゃ見込みないな」
更級はわらっていた。
「殴らなかったのですよ。それなのに帰ってこないんですから、あの女は、もう見込みないですね」
「そうだろうね。まあ、酒でものんで行け。帰ってしまった女を追っても仕方ない。また新しい女をもらうんだな。しかし、なんだな、さっきの話だと、悪いのはどうもおまえの方のような気がするがね」
「たしかにそうなんです。喧嘩の原因がすこし曖昧《あいまい》なんです。味噌がなかったのですから、それを怒ったのは、僕の方が悪いですよ」
「亭主関白になりそこなったな」
「どうもそうらしいです」
「それなら、房子さんを迎えに行くか」
「いや、それはよしましょう」
「あきらめられるか。いいひとだったのになあ。いまどき、あんな女の人はちょっといないよ」
「どうもすこし勇み足すぎたようです」
「覆水盆《ふくすいぼん》に返らず。実にいいひとだった。まあ、今夜は、別れて去った女房をしのび、ゆっくりのんで行け。しかし、再びあんないい女を見つけるのは、ちょっと出来ないだろうね。とかく世の中はままならぬものだ」
「あんちくしょう、ほんとに戻ってこないつもりなのかな」
「未練があるのか」
「いや、そんなことはありません」
それから浩作は自棄《やけ》酒のようなのみ方をした。
そして更級の家を出たのは九時をすぎていた。酔っているから車で帰れ、と更級がタクシーをよんでくれた。浩作はタクシーで鵠沼の自分の家の門の前につくと、車からおりて庭を千鳥足で歩きながら、房子のばかやろう! とさけんだ。そして、今夜は栄子をさそってやろう、と考えながら家の前についたら、あかりがついていた。
「おかしいな。帰ってきたのかな……」
浩作は首をかしげながら家の中にはいった。
房子はなにか縫物をしていたらしかった。彼を見ると、あら、もうお帰りになったのですか、と笑顔になった。
「ここは俺の家だ」
「それはそうでございます」
「なぜもっと早く帰ってこない。四日も実家でなにをしていた?」
「おそくなって申しわけありません。大磯はいかがでした」
「大磯? おい、おまえ、大磯にいたのか?」
「四日間、大磯で奥さんから料理を教わってきました。わたし、あの夜、まっすぐ大磯に伺ったのです。そして、理不尽なあなたの仕打ちを話しましたら、先生は、あなたのことを、なんておっちょこちょいな奴だ、とおっしゃっていました。つぎの日、わたし、帰ってくるつもりでいたのです。そしたら、先生が、すこしこらしめてやった方がよい、とおっしゃり、ここでしばらく待っていろ、そしたら、必ずここに来るから、と奥さんもおっしゃって下さるので、ついさっきまであそこにいたのです」
「更級のばかやろうッ!」
「あなた、亭主関白になる方法を教わりに伺ったそうですわね」
「ああ、ああ、最初、あそこにおまえを連れていったのは、なんとしても藪蛇《やぶへび》だった」
「先生は、仮面舞踏会の話をおききになってから、今度だけ勘弁してやれ、とおっしゃいました」
「水をくれ、水を」
浩作はコップに水をもらって一息にのみほすと、実家に帰るなら帰ってもいいぞ、と房子をにらんで言った。
「はい、はい。亭主関白で結構でございますから、喧嘩はよしましょう。おなかはいっぱいでございましょう。甘鯛《あまだい》のうす作りは如何でございました?」
「あれはおいしかったな。おい、あれは、おまえがこしらえたのか?」
「さようでございます。こんどは、家でも、こしらえられますわ」
浩作は、更級から、房子さんの方がおまえより一枚上だな、と言われたのを、あらためておもいかえし、俺はなんてへまなことをやってしまったのだろう、もうすこし肌理《きめ》こまかに女房を教育すべきだった。これでは、こいつは貞淑な妻のような顔をして、その実、俺を上手に料理してしまうにちがいない、と臍《ほぞ》をかんだ。
あくる朝、浩作は八時すぎに目をさまし、つめたい水をコップで三杯のむと、庭に出て素振りをやった。そして汗が出たところで素振りをやめ、浴室にはいって水を浴びた。それから冷蔵庫からビールをとりだし、縁側にでた。房子の姿が見えなかった。どこへ行ったのかな、と思っているうちに、兄嫁の杉子が庭からこっちにやってきた。
「房子さん、母屋にいるわよ」
杉子はにこにこしていた。
「そうですか。なにか用でも?」
「浩作さん、よろこびなさい」
「なんですか?」
「あかちゃんが出来たらしいのよ」
「あかちゃん? 姉さんですか?」
「ばかねえ。房子さんがですよ」
「あいつに赤ん坊が?」
「悪阻《つわり》ですよ。ひどい悪阻なのよ」
「こいつは驚いた! 赤ん坊って、そんなに簡単にできるものですか?」
「なにを言ってるのよ。さ、ごはんは母屋でおあがりなさい。あれじゃ、房子さん、しばらくは動けないわ」
杉子はこう言いのこすと帰って行った。
俺の子が出来る……信じられないことだった。ああ、これではほんとに独身時代に別れを告げなければならない、なんということだ……。しかし彼は、一方では、妙に浮きうきした気持になり、ビールをのみ終えると、母屋に行った。
房子は蒼《あお》い顔をして座敷でやすんでいた。
「ごめんなさいね。でも、しばらくやすんだら、おきられると思います」
「なに、いいよ。そうだ、あんまりひどいようだったら、家に帰っていればいい」
「それはいけません。わたしのいないあいだに、またあなたが悪いことをなさるといけませんから。わたし、ここで頑張《がんば》りますわ」
「信用がないんだな」
「信用などするものですか。お姉さんにお礼を申しあげておいて下さいね」
房子は急に弱々しい口調で言った。
「これで、俺も、とうとう父親になるのか」
「子供がうまれるのは、まだ先のことですが、すこしは父親らしくなさらないと。いまから覚悟をきめておいて下さいね」
「なんとも妙な感情だ。俺に子供がねえ」
「あなたより若い父親もいますよ」
「これでほんとに独身時代とはお別れだな」
「あら、あなた、まだ独身のおつもりでいらしたのですか」
「いや、そういうわけではない」
浩作はあわてて手をふった。
七月初旬、梅雨があけた土曜日の朝の十時すぎ、江ノ島のヨットハーバーでは、クルーザー南回帰号が大島に向けて出航の準備をしていた。乗組員は、古川洋介、北ノ庄浩作、真田茂、宮石、柴野、それに女は栄子、実枝子、チーちゃん、友成繁子、梶田理恵の五人で、繁子と理恵は新顔だった。この二人はいずれも遠洋航路の船員の妻で、二十五歳だというのに、一年のうちの四分の三、つまり九か月を夫なしで日を送っている、という気の毒な女であった。
「あの二人、どこから拾ってきたんだい?」
真田が浩作にきいている。二人は操舵室《そうだしつ》で煙草をのんでいた。
「十日ほど前のことだ、藤沢駅前のバーで知りあったのさ。二人とも亭主が留守なものだから、バーに出かけて気晴らしをしているらしい。船の旅の話をしたら、すんなりついてきたよ」
「あのおっぱいの大きい方のがいいな」
「繁子というんだ。気があるのならやってみろ。俺はおっぱいの小さい理恵の方がいい。大きいおっぱいはもう食傷気味だ」
「栄子はどうする?」
「あの女は最近柴野にうつつをぬかしている」
このとき、下のデッキから、出航していいよう、と宮石が声をあげた。
浩作が舵《かじ》をとった。
「やっぱりこっちの方がいいよ。関西の女は計算の方がさきにたつから、どうもいかん」
「よく戻ってこれたな」
「おふくろを重病人にしてしまったのさ。明日知れぬいのち、とあらば、致しかたがないだろう、ということで、転勤を認めてくれたのさ。しかし、百合子が精神病院に入ってしまったときいて、俺はほっとしたよ」
「麻薬かと思っていたら、睡眠薬中毒だったらしい」
「なんにしても平和な世の中だ。しかし、古川さんは実枝子という女とまだ続いているんだな」
「よほど気にいっているのだろう」
南回帰号は防波堤の外側の暗礁帯《あんしようたい》を迂回《うかい》して舳先《へさき》を真南に向けた。このとき、繁子と理恵が操舵室にはいってきた。
「紹介しよう。こちらが繁子さん、こちらが理恵さん。そしてこいつは友人の真田です」
浩作は三人をひきあわせた。繁子はいわゆるグラマラスな躯で、すこぶる煽情《せんじよう》的な顔をしていた。理恵は、反対にほっそりした躯で、着物が似合う顔だった。二人の女は、操舵室で浩作と真田を相手にしばらくおしゃべりをしてから、キャビンにおりて行った。
「浩作。おまえはもうあの二人をテストしてみたのかい?」
「いや。そんなひまはなかったよ」
「繁子というのがいいな。あんな女をのこして航海に出る男の気がしれないな」
「あの女の亭主は、自分の妻を信じているのだろう」
「大きな目といい、濡《ぬ》れたようなくちびるといい、そうざらにはない女だぜ」
「やってみろよ」
浩作は前方を見ていた。梅雨あけで、海上にはかなりの数のヨットが走っている。釣舟もかなりいた。
「おい、真田。古川さんに舵をかわってくれと言ってくれ。俺は流し釣りをやるから」
真田がおりて行き、やがて古川洋介があがってきた。
「やあ、すみません。釣舟をみていたら急に流し釣りをやってみたくなりまして」
「では、速度をおとしましょうか」
古川洋介が舵をかわりながら言った。
「そんなにおとさなくともいいですよ」
浩作はキャビンにおりて行くと、棚《たな》から釣具をとりだし、艫《とも》に出た。彼は、道糸八号に、六号糸を仕掛け、そこに枝糸を五本結んだ。これはハリス五号をつかった。錘《おもり》は六十号を、餌は罐詰《かんづめ》の牛肉をつかった。そして糸を海に流したところへ、理恵がそばによってきた。
「なにが釣れるの」
「さあ、なにが釣れるやら。そうそう、真田の奴、繁子さんに気があるらしい」
「そう伝えておくわ。あのひと、男に好かれるんだから。あなた誰に気があるの?」
「さしあたり、そばにいるひとかな」
「うまいことを。……あたし、繁子さんといっしょじゃ、見劣りするのよ」
「ああいう型は食傷気味でね」
「そんなに遊んだの」
「スポーツと同じでね」
流し釣りにかかってきたのは真鰺《まあじ》だった。三回流して鰺が十三本あがった。浩作は、糸を宮石に渡すと、鰺を調理場に持って行き、三枚におろして皮を剥《む》いた。そして皿に盛り、上からタバスコソースをかけ、ラム酒といっしょに操舵室に運んだ。
「俺達には食わせてくれないのか」
と真田が声をかけた。
「いま宮石が釣っている。まず古川船長に敬意を表さなくちゃ」
「ほう! 手ばやいものですな」
古川洋介は鰺をひときれつまみながら感心していた。
「かわりましょう。こうしてタバスコをかけた鰺の刺身にはラム酒があうのです」
浩作はラム酒のグラスを持ちあげ、舵をかわった。
「北ノ庄さん、なにか面白いことはありませんか。最近はなにをやっても、これといった面白いことがない」
「平和すぎるんですよ」
「プロ野球を観るのは結構ひまつぶしになっていましたが、れいの八百長問題がおきてからは、とんと興味をうしなってしまいましてね」
「競馬はいかがですか」
「むかし、さんざんやったのですが、なんとなくやめてしまったのですよ。そうだ、この秋には、ひとつ、競馬に戻るか。北ノ庄さんは競馬は?」
「いや、僕はまったく知りません」
「如何です、この秋にごいっしょしませんか」
「考えておきましょう」
浩作は、舵を取りながら、幸福な人だ、と思った。なんでも、十年ほど前に買っておいた小田急《おだきゆう》沿線の山を去年の春に売ったら、その所得だけでも二億円を超えた、というような話で、金の使いみちに困っているらしかった。
南回帰号は、去年は泉津《せんづ》から東南に下った海岸に碇泊《ていはく》したが、今度は、元町《もとまち》の港に入った。
「みなさん、自由行動をとってください。船には明日の正午までにお戻りになればいいですから」
と古川洋介は言った。
「船長はここで泊るんですか?」
柴野がきいた。
「いや、私はホテルです」
「ここには俺が泊るよ」
と浩作が言った。
「先輩、独りで泊るんですか?」
「もちろんだ」
「さびしくないですか」
「おまえ、俺といっしょに泊るか」
「いや、そんな趣味は持ちあわせていません。僕もホテルにしますよ」
柴野はあわてて答えた。
やがて一同はそれぞれ上陸の支度をしはじめた。
「あなた、ほんとにここで独りで泊るの?」
栄子が浩作のそばによってきてきいた。
「ああ。おまえさんは柴野をつれて行くんだろう」
「あたし達、変なあいだになってしまったわね。……あの坊やをことわってもいいのよ」
「何故? 変なことを言わないでくれよ」
「それはそうね。もっとも、あなた、木刀造りの無形文化財になってしまったのだから、こんな遊びにもあきてきたのでしょう」
栄子はこんなことを言いのこして船からあがって行った。浩作の木刀造りの技術が、文部省から無形文化財に指定されたのは、六月のなかばだった。彼は、指定を伝えられたとき実に妙な気がした。放埓《ほうらつ》な生活をしてきた者が、しかも三十歳前の者が、文部省から指定を受けるなど、思いもよらなかったことだった。指定を受けるかどうかについて、彼は返事をするのを一日待ってもらった。大磯の更級に相談に行ったのである。
「浩作。ありがたく受けておけ。しかし、木刀造りの技術を無形文化財に指定するなど、文部省の役人の頭も進歩したものだな。これで、おまえがこしらえる木刀は、これまでの二倍か三倍は値があがるな。飾りものとして売れるよ」
更級はよろこんでくれた。
「しかし、妙な気持ですよ」
「そりゃそうだろう。やることがなくてやりだした木刀造りが、こんなになるなど、考えてもいなかったことだろう。しかし、世の中はおもしろくできているものだ」
浩作も、いつまで木刀造りを続けるかをきめていなかったし、また、いつやめてもいい、とも思っていたが、これで生涯木刀をつくる身分になってしまった。
みんなが上陸した後の南回帰号のキャビンには、午後の陽《ひ》だけが射しこんでおり、浩作は再び釣の用意をして冷蔵庫からビールをとりだし、デッキにあがった。
今度はリール竿《ざお》を投げた。
三十分ほどして小さな石首魚《いしもち》が二ひき釣れた。体長十センチにもみたないやつで、浩作は海に放してやった。
「ここではなにが釣れるの」
と背後で声がした。ふり向いたら理恵が立っていた。
「みんなといっしょじゃなかったのか」
「戻ってきたの。……そばにいるひとがいい、とさっき言っていたでしょ」
「おもいだして戻ってきたのか」
「そうよ。あたしにもビールちょうだい」
「コップと、ついでにもう一本ビールを出してきてくれないか」
すると理恵はキャビンにおりて行った。浩作がうしろ姿を見たら、スラックスにぴったり包まれた尻のかたちが左右に揺れていた。
「何故みんなといっしょに上陸しなかったの」
理恵は浩作のそばに腰をおろしてビールをコップにつぎながらきいた。
「何故かな。きみが戻ってくるのを待つために上陸しなかった、と答えればいいかな。いつもバーに行くときは繁子さんといっしょかい?」
「そうよ。だって女ひとりでは入りにくいもの」
「家庭をもって何年ぐらいになるの?」
「二年よ。でも、いっしょに暮したのは、正味半年ぐらいかしら。だから、いまでも、結婚をした、という気がしないのよ」
「不幸というべきかな」
「おかしなものね、自分の主人を愛している、という感じがしないのよ」
「遊んでいるわけか、航海に出ているあいだに」
「ゴーゴーを踊るとかボーリングをやるとか、それから繁子さんとお酒をのみに行くとか、せいぜいそんな遊びよ」
「男遊びはしないわけか」
「まだしていないわ」
「何故船員といっしょになったのかね」
「成り行きでそうなってしまったのよ。そして会社の社宅に入ったら、あたしのような女がいっぱいいるでしょう。変な気持だったわ」
「つまり、夫がいるのに未亡人の生活を強《し》いられているわけだ」
「そうなの。いろんな人がいるわ。遊びのきらいな女もいるわ」
「きみは遊びがきらいか」
「きらいでもないわ」
定期便の客船が汽笛をならしながら、港に入ってくるのが見えた。
「いちど、あの船でここに来たことがあるわ」
「結婚前のことか」
「そうよ。よくわかるわね」
「一年中船にのっている旦那さんがこんなところに自分の女房をつれてくるはずがない」
「そのとき、三原山《みはらやま》で駱駝《らくだ》にのったわ」
「夢があった時代だな」
「いまでも夢はあるわ」
「どんな夢だい」
「そうね、とりとめのない夢よ」
入船と反対に出船もあった。やはり汽笛をならしながら港を出て行く。デッキは暑かった。小魚ばかりがあがるので浩作は糸をまき竿をあげた。
「町にあがるの?」
「いや。昼寝だ。といっても、もう間もなく夕方だが」
それから二人はキャビンにおりて行った。浩作はラム酒の壜《びん》をとりあげてグラスにそそぐと、それをひとくちでのみほし、ソファに寝ころんだ。
「きみもむこうのソファでやすみたまえよ。なんだか疲れた。ひとやすみしよう」
キャビンの天井に、陽に輝いている水の影が映ってゆれていた。舷をうつ水の音がしている。彼は妻の房子のことを考えた。要するにこれで俺も曖昧な時期は通りすぎてきた、という気がした。
「あなたには夢があるの?」
理恵がきいた。彼女はテーブルをはさんだ向うのソファに腰かけ、新聞をひろげて拾いよみしながらマティーニをのんでいた。
「夢か。もう、そんなとしではないな」
「通り越えてきたのね」
「さあ、それはどうかな……」
天井に水の影がゆれていた。浩作はそれを眺めているうちに、目がとろとろとしてきた。理恵がなにか言っていたが、はっきりききとれなかった。
目をさましたら暮方で、天井の水の影が赤くそまっていた。浩作はソファからおりると、冷蔵庫の前に歩いて行き、ビールをとりだした。
理恵は向うのソファで睡っていた。浩作は理恵の顔をちょっと眺め、ビールをあけた。窓の外の港はすべてが赤く染まっていた。鈍い単調なエンジンの音がきこえてくる。岸壁の方で大きな声をはりあげている男がいた。空腹をおぼえた。浩作はもう一度冷蔵庫をあけてみた。流し釣りであげた鰺が二十本ほど、あとは罐詰と壜詰の飲みものが入っているきりだった。
浩作はソファに戻ると、のこりのビールをのみほした。それからテーブルの上からメモ用紙と鉛筆をとりあげ、買物をしてくるから、と書いた。
そして浩作は船からあがった。彼は暮方の港町を肉屋と八百屋を見つけて歩きながら、この船の旅を最後に、俺も青春に終りを告げねば、と思った。里子のことがおもいかえされた。栄子や百合子のことも。そして関西に去った寿子のことも。
やがて右側に肉屋の看板が見えた。浩作は肉屋の前に歩いて行き、ウインドウのなかをのぞき、それから店の中に入った。
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、時代的背景と作品の価値とにかんがみ、そのままとしました。
[#地付き](角川書店編集部)