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古典落語・長屋ばなし
矢野誠一編
目 次
長屋の花見
井戸の茶碗
粗忽《そこつ》長屋
小言幸兵衛《こごとこうべえ》
今戸《いまど》の狐
寝床
三軒長屋
富久《とみきゅう》
らくだ
解説
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長屋の花見
一年のうちで、いちばん心がうきうきする季節と申しますと、やはり春でございましょうな。春は花なぞと申しまして
佃《つくだ》育ちの白魚《しらお》でさえも花に浮かれて隅田川
花見どきは、まことに陽気なものでございます。
「おう、みんな揃《そろ》ったかい?……ところで、ゆうべ大家が来てなア、『あした仕事ィ行く前に、みんな顔を揃えて家ィ来てくれ』っ言《つ》うんだよ。で、まアなんだか判んねえが、とりあえず俺ンとこィ集まってもらったてえ訳なんだ」
「月番のおめえが判んねえんじゃ、しゃアねえなア」
「まア俺の考えじゃア、≪ちんたな≫の催促じゃねえかって思うがね」
「なんだい? その≪ちんたな≫てえのア」
「店賃《たなちん》だよ」
「店賃? 店賃、大家がどうしようてえんだ」
「どうしようてんじゃねえ。催促だアな」
「店賃の? ヘエえ、ずうずうしいねえ」
「まア俺の考えじゃア、みんな相当|滞《た》まってんじゃねえかって思うんだ。どうでえ、おめえ……店賃のほうア、どうなってる?」
「店賃? ……嫌《や》なこと聞くなよ……きまり悪いじゃねえか」
「てえと、持ってってねえな?」
「いや、なまじ一つ払ってあるだけィきまり悪いってんだよ」
「悪かねえやな。店賃なんてえのア、月々一つ持ってきゃいいんだ」
「月々一つ持ってってありゃア、きまり悪いなんてこたア言わねえや」
「そりゃアそうだ。じゃア、半年も前ィ一つ持ってったっきりってえのかい?」
「半年前に持ってってありゃア、威張《いば》っていられらア」
「じゃア、一年前か?」
「一年前なら澄《す》ましていられらア」
「てえと、二、三年前か?」
「二、三年前に持ってってありゃア、大家のほうから礼に来《く》らア」
「一体《いってえ》おめえ、いつ持ってったんだい?」
「この長屋ィ越して来た時」
「越して来た時ィ? おめえ、この長屋ィ来て何年になる?」
「月日のたつのア早いてえが、まったくだ。もう、十八年にならア」
「驚いたねえ……十八年住んでて、一つっきり? ヘエえ……。半公、おめえはどうだ? 店賃ア」
「ああ、店賃ね。うん、俺も一つやってあンぜ」
「まさか、十八年|前《めえ》ってえんじゃねえだろうな?」
「あたり前だい。自慢じゃねえが、親父の代だ」
「おいおい、冗談じゃねえよ。まともィ払ってんのアいねえのかい……どうだ、松公。おめえなんざ、人間が堅《かて》えから、ちゃんと持ってってンだろ?」
「えっ? なにを?」
「店賃だよ」
「店賃? なんだいそりゃア?」
「あきれたねえ。店賃知らねえ奴が出て来やがった。……店賃てえのァなア、大家さんとこィ、月々持ってくお金」
「えっ?」
「大家さんとこのお金ッ」
「ああ、まだ貰《もら》ってない」
「くれやしねえやな、こん畜生ッ。ずうずうしいこと言やがって……これじゃア店退《たなだ》てくらうのも無理アねえや。しゃあねえ、行くだけ行ってみようじゃねえか。……おう、そんなバラバラんなっちゃいけねえ、かたまって行ったほうがいいんだ。で、大家がなんか言っても、腹ア立てずィ頭ア下げてろ。そうすりゃア、小言だってなんだって、スウーッと頭の上ェ通り越しちまうからな。……おう、ごらんよ。おでこィ八の字寄せて新聞読んでらア。……大家さあアん。おはようござんすゥ。長屋の連中がねえ、揃って来たんすがねえ、なんかご用でござんすかア」.
「なんだなんだ、あんな遠い所で……なんて恰好してンだい? ええ? まるで鼻アかんでる団体だよ。……そこでどなんじゃないよオ。みんなこっちィ来なア」
「ここで結構ですゥ。済《す》いませんがねえ、店賃でしたらねえ、もう少々待って貰いたいんですがねえエ」
「なに店賃だア? フッ、そうか。俺が呼ぶってえのア、店賃の催促と思うのか。まア、そう思ってくれるだけ有難えな。……おーい、店賃の催促じゃねえよオ」
「じゃア店賃は、もうあきらめたんですかア」
「あきらめやしねえよオ」
「まだ未練があんですかア」
「馬鹿なことオ言ってねえで、こっちィ来なア」
「おう、店賃じゃねえとよ。もう大丈夫だ。そばィ行ってみようじゃねえか」
「おはようござんす」
「ええ、おはようす」
「おはようす」
「おはようがんす」
「へい、おはようがんす」
「おい、おい、そう、大勢でおはようおはようって言うない。一人言やアいいんだ」
「さいですか。じゃア、あっしが月番でござんすから、総|名代《みょうだい》てえことで……ええ、おはようございます」
「なんだい? 一番後で言う総名代てえのがあるかい。……しかし、なんだよ。俺もまア、あんな長屋を貸しとくんだから、満足に店賃とろうたア思っちゃいねえが……」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。あっしらだって、あんな小汚《こぎた》ねえ長屋ア借りてんですから、満足に払おうなんて、誰ひとり思っちゃおりませんから、ええ。大家さんもご安心なすって……」
「馬鹿なことオ言いなさんな、ええ? あんな長屋でも雨露《あめつゆ》アしのげんだ。ひとつ、精出して入れとくれよ」
「雨露てえますがね、大家さん。あの家ア、露アしのげますが雨アしのぎにくいンでがんすよ。こないだの大雨ン時なんざア、家ン中ィ居られねえんでね、しゃあねえから外で雨やどりしてたン」
「また馬鹿を言う。外で雨やどりする奴があるもんか」
「それにしても風流な家でがんすね。寝ながらィして月見が出来るってんですから……そのかわり、大きな風が吹きゃア、とんじゃいますがね。まア、あっしらア重石《おもし》がわりィあすこィ居るようなもんでして」
「てえと、お前さん達かい? うちの長屋のことオ貧乏長屋だてえ噂《うわさ》、世間ィ流したのア?」
「いえ、あっしらが流したってんじゃねえんですが……。本当《ンと》にあすこア、『貧乏長屋の戸無し長屋』でして……」
「なんだい、その戸無し長屋てえのア?」
「長屋中、戸が無《ね》えんす」
「そんな馬鹿な……戸が無いわけアあるまい」
「そりゃア、最初《はな》はありましたがね、なにしろおまんま炊《た》くったって燃《も》すもんがねえんですよ。で、まア、こういうこたア揃ってたほうがいいからってんで、長屋の連中と相談しやしてね、じゃア雨戸から先にってんで……」
「困るよ、そんなことされちゃア」
「で、今、天井裏ィかかってるン」
「おいおい、冗談じゃないよ、ええ? 家をこわしちまうじゃないか」
「ええ、どうせついでだもんですから、こわしちまって建て替えて貰おうじゃねえかってことンなってるんで」
「ああ、そうかい。いいよ、建て替えてやるよ」
「えっ? 本当ですかい?」
「ああ。みんな、今までの店賃、耳を揃えて入れてくれたらな」
「じゃア一生駄目じゃねえすか」
「だから、まア、大事にしとくれよ。……ところで、なんだな、いい陽気ンなったな」
「ええ、なりましたねえ」
「表にゃア、大勢人が出てるし」
「なんだって、ああ、出て来んでしょうねえ」
「ありゃア、花見に行くんだよ」
「ああ、そうすか」
「で、まア、うちの長屋も、世間から貧乏長屋なんて言われてちゃア心気《しんき》くさいんでね、ここらでひとつ、ぱアーッと、陽気に花見でもして、貧乏神を追っぱらおうってつもりなんだが、どうだい?」
「へえ」
「なんだい、気のない返事だねえ、ええ? 行きたかアないってえのかい?」
「いえ、そりゃアまア、行ってもよござんすがね。……一体《いってえ》どこィ行くんです?」
「上野の山なんてえのアどうだい? ちょうど今が見頃だってえから」
「上野ねえ……てえと、なんですか? 長屋の連中が、ずうっとこう、並んで歩きながら花ア見て帰って来んですか?」
「それじゃア幼稚園の遠足だアな。花見というからにゃア、まず酒肴《さけさかな》がなくちゃいけねえ」
「てえと、長屋の連中が出し合って……」
「いやいや、そんなこたアしなくていいんだ。酒と肴は、あたしが用意しといたから。……ほら、ここに一升瓶が三本。なア? で、この切溜《きりだめ》ン中に蒲鉾《かまぼこ》と玉子焼が入ってる。ま、こいだけは、あたしのほうで心配しといたから、お前さん達は、体だけむこうへ持ってってくれりゃアいいんだ。どうだ、行くかい?」
「ヘエえ、一升瓶が三本に、蒲鉾と玉子焼? こいつアすげえや。おう、みんな聞いたか? 大家さんの仰言《おっしゃ》ることオ……ええ? 一升瓶が三本とさア、蒲鉾と玉子焼……こいでもって、上野の山ィ花見ィ行くかてえが、行くかい?」
「行きますよ、行きますとも。ええ。……一升瓶が三本とくりゃア、山のてっぺんでも海の底でも」
「浦島太郎じゃねえやい」
「大家さん、みんな行くそうですが」
「そうかい。じゃア、みんなで陽気に、ワァーッと騒いでこようじゃねえか」
「すいませんねえ、大家さんにおごらしちまって。じゃア遠慮なくご馳走ンなりやす。そいから大家さん、大勢行くんですから、幹事てえのが要りましょ?」
「ああ、いたほうがいいな」
「じゃア、あっしゃア月番ですからね、ひとつ、幹事を引受けやしょう、ええ。幹事てえのア、まア、いろいろ働かなきゃなんねえが、ちょいと余計に飲めるてえ手段《て》もあるから」
「へえ、そうかい? じゃア大家さん。あっしゃア来月の月番ですからね、あっしもひとつ、幹事てえことに……」
「そうだな。二人ぐらいいたほうがいいな」
「そいで、大家さん。まア、たいてえ、幹事てえと、徽章《きしょう》かなんかつけて、いろいろ世話アやいて、気のきいてるもんですが、なんかこう……徽章かなんか、つけるもんアありませんか?」
「そいつア、気がつかなかった……そうか、つけるもんねえ……そうだ、醤油の口金があるが、つけるかい?」
「子供じゃあるめえし……。じゃア、ようがす。ええ。いりません。……じゃアみんな、大家さんにお礼申して、ご馳走ンなろうじゃねえか」
「ご馳走ンなります」
「どうもすいません」
「ありがとうがんす」
「ごっそうさまです」
「すいません、ごっそうィなりやす」
「おいおい、そうみんなでペコペコ頭ア下げて礼を言われちゃア、こっちがちょいと、きまり悪いんだ。まア、向うィ行ってから『こんな事じゃア来るんじゃなかった』なんて、こぼされてもいけねえから、今のうちィ、ネタ割《わ》っとくか……実アな、この酒は、本当の酒じゃねえんだ」
「ヘッ?」
「いや、番茶をな……」
「いいですよ番茶なんざア……向うへ行きゃア、茶店がいくらだってあんですから」
「おい、話はしまいまで聞きなよ。……で、番茶を煮出して水でうすめてみたんだ。どうだ、いい色だろ?」
「おう、なんだか様子が変ってきたぞ、ええ? 喜ぶのア早えや。……じゃア大家さん、こりゃアなんですか、お酒じゃねえんですか? おチャケですか?……で、これでもって、お酒盛りじゃねえおチャカ盛りをしようってんですかい?……道理で変だと思ったよ。ええ? この貧乏大家が、三升も酒買って、俺達を花見ィ連れてく筈アねえもん。……なに? そっちはどうか聞いてみろ? せめてあっちだけでも本物だったら? それもそうだな。大家さん、そっちの切溜《きりだめ》ン中は、本物なんで……?」
「冗談じゃねえ。本物入れるぐらいなら、僅《わず》かでも酒のほうへまわすよ」
「てえと、なんです?」
「まアいいから蓋とってみな」
「へい。……うはアーッ、大根《でえこ》の漬物《こうこ》に、ええと、こりゃア、沢庵《たくあん》ですかい?」
「ああ、沢庵だ。黄色いとこで玉子焼という訳だ。こっちの大根は、月型に切ってあるとこで、蒲鉾てえとこだな」
「ヘエえ、こりゃア驚いた。大変な蒲鉾が出て来やがった」
「まアいいじゃねえか。これでもって向うィ行って、小さな盃でやったり、とられたりしながら、『おう、蒲鉾ひとつ』かなんか言ってりゃア、ええ? 誰がどう見たって、蒲鉾で一杯やってるように見えらアな」
「見えるったって大家さん。行きあたりばったり、そんな……罪もねえ他人様《ひとさま》アだますなんて事ア、悪い趣向だねえ……ええ? どうするゥ? 行くかい?」
「しゃアねえ、乗りかかった船だから、行こうかア」
「行っとくれよ。……この沢庵だって、なんとか玉子焼に見せようてんで、婆さんが苦心して、こうやって、厚く、わざわざ四角に切ってあるんだ。なア? すまないが行っとくれよ」
「さいですか。……ようがす、行きやしょう」
「行ってくれるかい?」
「へえ。まア、向う行きゃア、大勢人も出てるだろうし」
「そうだよ」
「ガマ口の一つや二つ」
「落っこってねえとも限んねえ」
「そうだそうだ。そいつオ目当てに行きゃアいいんだ」
「変なことオ言うんじゃないよ。まア、ともかく行くンなら、ちょいとおかみさんにも声かけてやんな」
「じゃア、ちょいと嬶《かか》アを呼んで来やす」
「よしなよ、かみさん連れてくのア」
「そうかい? だけどなんだよ。なんか拾うのは、女のほうが手が早いよ」
「じゃア連れてけよ。その代り、おめえン家《ち》のかみさんが、明日からおめえにおチャケ飲ましたって、俺達ア知らねえよ」
「そうか。じゃアやめとくよ。うん。女てえのア、つまんねえことィ限って、すぐ真似しやがるからなア」
「ああ、どうせやけくそで行くんだ。女っ気なんていらねえや」
「てえと、お前さん達だけかい? じゃア、早速月番の幹事に働いてもらおう……そこに毛氈《もうせん》があンだろ? それを持って来な……」
「へいへい。……大家さん、どこにあんです?」
「土間に立てかけてあんだろ?」
「こりゃア、筵《むしろ》ですよ」
「いいんだよ。あたしが毛氈|言《つ》ったら、それが毛氈なんだ。さっさと持って来いッ」
「へいへい。……へいッ、お待ち遠ォ、米屋の毛氈……」
「余計なことオ言うんじゃねえ。そしたらな、この切溜《きりだめ》をその毛氈でくるんで、縄をかけるんだ。……かけたか? そしたら、そこの竹の棒……ああ、それだ。そいつを通してな、幹事のおめえ達、二人で担《かつ》ぎな」
「担ぐんですかア、これを?……どう見たって花見ィ行くようじゃねえやなア、猫の死んだの捨てィ行くみてえだ。なア?」
「嫌《や》なこと言うんじゃねえよ。そいから、一升瓶ァどしたい? ええ? めいめいに分けて持ちなよ。まとめて持っちゃアあぶねえからな。誰か奥ィ行って、婆さんに湯呑み茶碗出してもらって、持ってっておくれ。……じゃア、支度が出来たら、すぐ出掛けるから」
「なアに、どうせ着たきり雀だから、いつだって出掛けられまさア」
「じゃア出掛けるか」
「しゃあねえ、担ごうじゃねえか」
「へヘッ、驚いたね、どうも。……そいじゃ大家さん、もう出てもいいですかア? エエ、ご親類の方アそろいましたか」
「馬鹿ッ。葬《とむら》いが出んじゃねえや。さア、俺が音頭とって景気をつけるから、ひとつ、陽気に出ておくれ……ほら、花見だ、花見だ」
「夜逃げだ、夜逃げだ」
「誰だい? そんなことオ言ってんのァ」
「おい」
「なんだい?」
「どうして、おめえと俺ア、こう、担ぐのに縁《えん》があんのかなア」
「そりゃア、隣り合ってるからじゃねえか」
「そうだなア。ほら、去年だか一昨年《おととし》だったか忘れちまったけどさア、羅宇《らお》屋の爺さんが死んだ時もよオ」
「そうそう、焼場ィ、おめえと担いでったなア」
「あんときゃア、雨がショボショボ降りやがってさア」
「ああ、うすら寒くて、陰気だったなア……ほら、静岡に甥《おい》がいるってんでよオ」
「ああ」
「おめえが電報打ちィ行った」
「そうそう」
「けど、ひでえやなア。来《こ》らんなきゃア来らんねえで、お願いしますかなんか、手紙の一本も、寄こしゃアいいじゃねえか、なア? なんにも言って来ねえってえのア、ひどすぎんじゃねえか?」
「いや、ありゃア言って来ねえよ」
「だっておめえ、電報打ちィ」
「そりゃア打ちィ行ったんだけどさア、打つ金がねえやな。しゃあねえから、電報用紙を郵便ポストィ放り込んどいた」
「そいじゃア、なんとも言ってくる訳アねえや」
「だけどあれっきり、あの爺さんの骨《こつ》上げ行ってねえなア」
「ああいうお骨《こつ》ア、行かねえとどうなんのかなア」
「おいおい、花見だてえのに、骨上げの話なんぞしてちゃいけないよ。ええ? もっと陽気なことオ言って歩きなよ」
「ヘヘヘ……大家さん、ずいぶん人が出てますねえ」
「ああ。こう、多いとは思わなかったよ」
「あっしアさっきから思ってんですがねえ」
「なにを?」
「あっしがね、こいだけの人から、たった一銭ずつ貰ったって、たいへんな金ンなるんじゃア……」
「おい、貰うなんてえあさましいことオ言うんじゃねえ。ええ? もっと気前のいいこと言って歩きな」
「ああ、そうすか。大家さん、なんだね、ここンとこ札束でたき火をしてねえな」
「およしよ、馬鹿馬鹿しい。もっと本当らしい嘘を言いな」
「てえと、こんな具合で? 大家さんは、ずいぶん若く見えますねえ。とても九十八にゃア見えねえ、どう見たって九十五だ」
「冗談じゃない。あたしゃアまだ、六十三だよ。それをなんだい、ええ? でかい声張り上げやがって、九十五だと? 嘘つくのもいい加減にしろィ。馬鹿にすんじゃねえよ」
「そう怒っちゃいけねえや、花見なんだから……ねえ、大家さん、ずいぶん人が出てますけど、みんないい服装《なり》してますねえ。こっちは着てるから着物って言えますが、脱ぎゃアボロって代物《しろもの》なんで、ええ。雑巾にもなんねえや」
「お前さんね、なにも服装《なり》でもって花見をすんじゃねえんだ。いいかい?『大名も乞食も同じ花見かな』言ってな、どんな恰好してようと、花見に変りァねえんだし、『骸骨の上を鎧《よろ》うて花見かな』一皮《ひとかわ》むきゃア、誰しも同じ骸骨なんだ。なにも自分から卑下するこたアない」
「ああ……みんな骸骨ですかア? へえ……ずいぶん骸骨が出てやがんなア。ええ? 犬連れた骸骨までいらア。……おう、留公ッ、見ろよ。向うから来る、あの年増の骸骨なア」
「おいおい、指さすんじゃねえよ。向うが気にすんじゃねえか」
「でもさア、いい骸骨っぷりじゃねえか。ええ? どうせ花見すんなら、ああいうオツな骸骨と一緒ィやりてえなア」
「よそ見してんじゃねえよ。どうだ、このすりばち山の上なんざア……見晴しがいいからあすこでやろうじゃねえか」
「山の上? よしやしょうよ。下のほうがいいやな」
「よかアねえよ。下は、ほこりっぽくていけねえや」
「いえ、ほこりなんざアどうってこたアねえんですがね……上の方はみんな、本物食ってますんで」
「なんだい、まがいもんじゃ、恥かしいってえのかい?」
「いえ。ひょっとすると、うで玉子かなんか転がって来ましょ? そしたらあっしゃア、拾って殻アむいて食っちゃうもん」
「情《なさけ》ねえことオ言うない。まア、どこでもいい、おめえ達の好きなとこィ、毛氈を敷くがいいや」
「へい。じゃアここィ……あれッ? 毛氈ァどしたい? ええ? 毛氈の係ァいねえじゃねえか」
「本当だ。どこィ行っちまったんだろう? ……あ、居た居た。あんなとこィぼんやりつっ立って、本物飲んでんの、見てやがらア。しゃあねえ野郎だ。……おーい、毛氈、毛氈……毛氈持っといでェ」
「だめだ、だめだ。そんな呼び方じゃア……おーい、毛氈の筵ォ持って来ォい」
「おいおい、両方言うやつがあるかい」
「だけど大家さん。当人は毛氈かついでる料簡《りょうけん》じゃねえもん。……なにやってんだよ、あんなとこィつっ立って……ええ? こっちも始めようてえのに」
「え? なにを? ……ああ、こいつを敷いて、前にこう、入れ物かなんか置いて、おありがとうござい……」
「馬鹿っ、乞食をしようてんじゃねえや。花見だよ、花見」
「ああ、そうだ。ボオリボリのガアブガブってやつだな」
「つまんねえこと言ってねえで、さっさと毛氈敷くんだ。……そしたら、切溜《きりだめ》をまん中ィ出して……一升瓶アな、一本ずつ口ィあけて、……ああ、粗相するといけねえからな。さア、みんな、坐った坐った……湯呑み茶碗は適当に配って……なに、もう配ってある? ああ、それでいい。……じゃあ始めるよ。まずはおたいらにおたいらに」
「冗談じゃねえやい。ええ? こんなとこでおたいらにしてみろ。足が痛くてたまんねえや」
「今日はな、あたしのおごりだと思うと、気がつまっていけねえ。ひとつ、無礼講《ぶれえこう》で、遠慮なくやっとくれよ」
「誰がこんなもんで遠慮するかてえんだ」
「さア、どんどんやってな、酔いがまわったとこで、威勢よく都々逸《どどいつ》でも唄いな」
「てやんでえ。酔いがまわるかってんだ。ええ? こいで唄が出りゃア、狐ィ化かされてんだ」
「そんなとこでブツブツ言ってねえで……さア、やんな、やんな。おう、月番。ぼんやりしてねえで、どんどんお酌しなきゃアしゃあねえやな」
「へ、へい。……おう、お前からだ。ついでやっから覚悟しろ」
「そうかア? じゃアちょいと。ちょいとでいいよ。……おっとっと……おう、ちょいとだっ言《つ》ってんじゃねえか。なんでえ、上から押えつけやがって……こんなィいっぱい注《つ》いでどうすんだよ。ええ? おめえ、俺に恨みでもあんのか? あとで覚えてやがれ……こンの野郎」
「なんだい、その言い草はア……たんと注いで貰ったら喜べよ」
「冗談じゃねえ。そうア問屋がおろさねえや。ええ? こんなもんア一口飲みやアたくさん(と、口をつけて)……いくら陽気がいいったって、こんなもん飲めるかい。おう、そっちィ廻さア」
「あっしィ? じゃア少しだよ。あいつみてえに、捨てちまうってえのもなんだから……おっと、そこまで。……へえ。色だけア本物そっくりじゃねえか。これで飲んでみるってえと違う……うッ、ううゥ……」
「およしよ。それじゃアまるで、毒かなんか飲まされたようじゃねえか。ええ? 傍《はた》で見てんだからな、ちゃんと、お酒飲んでるようにやんなよ。それとね、お前さんの注《つ》ぎ方が悪いよ。片口に醤油あけてんじゃねえんだから、なにも瓶の底オ振り廻すこたァねえ。第一注ぐ前に、一献けんじましょう、かなんか一言言わなきゃア、注いでもらうほうだって気分出ねえやな」
「へえ。……おう、一献けんじ……」
「いや、献じられたくねえ」
「おい。断っちゃいけねえんだよ、これア。一人だって洩《も》れがあっちゃいけねえんだ。予防注射と同じなんだから……さア手ェ出しな」
「おいおい、変な勧め方アすんじゃないよ。さア、みんなもどんどんやっとくれ。おい、おめえも遠慮しねえでやんな」
「へえ。あっしゃア下戸《げこ》なもんで」
「下戸なら下戸で、なんか食ったらいいじゃねえか。だが、なんだよ。この酒ア、下戸だって飲めるんだ」
「へえ。折角なんすが、あんまり冷めてえのァやったことねえもんで」
「そうか……土びんでも持ってきて、燗《かん》でもすりゃアよかったなア」
「いえ、そりゃア、焙《せん》じたほうがいい……」
「なに言ってやんでえ。……さアさア、お前もおやりよ」
「あっしも下戸」
「じゃア、なんか食ったら……どうだい、玉子焼なんざア」
「玉子焼ねえ……あっしァこの頃、歯が悪くなっちまってねえ、玉子焼は、よく刻《きざ》まねえと食べらンねえんでして」
「馬鹿なこと言うんじゃねえ……おい、お前も飲んでねえとこみると、下戸だな? なんか食わねえか?」
「しゃあねえ……じゃア、あっちの白いのを、一つだけいただきやしょうか」
「色気で言うやつがあるか」
「しゃあねえすよ。大根《でえこ》がなんに化けちまったか、忘れちまったんだもん。大根言ったら、大家さん、気ィ悪くすンでしょ?」
「あれア蒲鉾ッ。……おう、蒲鉾とってやんな」
「おう、ありがとよ。……ヘヘヘェ、大家さんの前ですがね、あっしゃアこの、蒲鉾が好きでね、ええ。おつけの実ァいつも、こいつを千六本にして使ってんすよ。それに胃の悪い時なんざア、蒲鉾おろしィするってえのもよござんして」
「なんだとオ?」
「しかし、まア、この蒲鉾の本場てえと、なん言《つ》ったって……」
「小田原だ」
「いえ、練馬てえことンなってやすが、あっしゃア、どっちかてえと、三浦のほうが好きでして」
「しっぱたくよ、本当《ンと》に」
「大家さん、そう、怒っちゃいけねえ……まア、蒲鉾てえのア、いろんな食い方があっけど、あっしが好きなのァ……」
「わさび醤油かい?」
「いえ、蒲鉾の葉っぱをこう、細かく刻みやしてね、砂糖と醤油を少ゥし入れて、さっと煮たのィ、七味とンがらしをかけて……」
「もういいッ。黙っておあがりよ」
「おう、みんな……俺がいま、蒲鉾食うからなア、ときの声かなんか上げろィ。その間ィ食っちまうから……おっ、酸っぺえや。こりゃ漬けすぎだ」
「漬けすぎてえのがあるかい。……おい、そっちはやってるかい?」
「へえ、やってやす……みんな、もう、ぼりぼりがぶがぶ……」
「それにしちゃア、誰も酔わねえなア」
「酔いませんよ、これじゃア」
「そう、当り前みてえに言わねえで……なア? 花見なんだから。酔っぱらいの一人も出て、べらぼうめえかなんか言って、喧嘩の一つもなきゃア、花見らしくねえやな。ええ? ほかア見てごらん? みんな酔っぱらってんじゃねえか。こっちも誰か酔いなよ。……嫌《や》だア? どいつもこいつも役に立たねえなア……おい、おめえ。今月の月番なんだからな、ひとつ酔いなよ」
「大家さん。そう簡単に仰言いますがねえ、番茶で酔えってえほうが無理なんすよ」
「そりゃアあたしだって、無理ァ承知してるよ。ああ。……だがね、おめえ、そのくらいの無理ァ、きいてくれたっていいんじゃねえか? ええ? 恩にきせようてえんじゃねえが、あたしゃずいぶん、おめえの面倒みて……」
「そりゃアもう、よく分ってんすよ。そう言われりゃア一言もねえんすから、ええ。じゃアしとつ、ご恩返しのつもりで」
「そうかい。ひとつ威勢よく酔っとくれ」
「えェ、大家さん、つきやしてァ酔いやした。べらぼうめえ」
「そんな酔っぱらいがあるかい。もういい。頼まねえよ。おい、来月の月番。ひとつ、うまく酔いな」
「なにかってえとすぐ月番なんだから……いえ、やりますよ。酔やアいいんでしょ? 酔やア……おう、その湯呑み茶碗貸しっつくれ。手ぶらじゃ酔いにくいやな。……さア酔っぱらったぞオ」
「それだけかい?」
「酔うのも早えが、醒《さ》めンのも早えや……俺ア酔っぱらってんだぞオ……酒飲んで酔っぱらったんだぞオ。いいかア、酒だぞオ、おチャケじゃねえぞオ」
「ことわンねえでいいんだよ」
「ことわンねえと、気違いと間違いられちまう……おう、貧乏人、貧乏人て馬鹿ィすんな……借りたもんなんざア、どんどん利息つけて返してやらア」
「おッ、威勢がいいぞ」
「おう、大家ッ。てめえ、俺にこんなことオやらせやがって、店賃なんかとりやがったら承知しねえぞ」
「おいおい」
「てやんでえ、べらぼうめえ。俺アな、店賃なんざア払わねえからそう思えッ」
「悪い酒だなア、こりゃア。……いい酒だから、頭ィ来《こ》ねえ筈だが」
「頭にゃア来ねえが、小便が近くならア」
「馬鹿言うな。酒は吟味したんだ。灘《なだ》の生一本だアな」
「え? 灘ですかア? ……宇治かと思った」
「どうだ、口あたりア?」
「だいぶ渋口で」
「渋口なんて酒があるかい。どうだ、いい酒だろ?」
「てえと、日本橋の山本山ので」
「馬鹿ッ。山本山で酒を売るかってんだ。どうだ、酔った心持ァ?」
「心持ですかい? ……ああ……去年の秋、井戸ィ落っこった時とそっくりだ」
「変な心持だなア……が、まアいいや。酔ってくれたのァ、おめえだけだ。……さア、どんどんお酌してやんな」
「おう、注いどくれ注いどくれ。……おっとっとっと……おうおう、こんなィこぼしやがって……まア、こぼしたって、もってえねえってえ酒じゃねえやな……おッ、……大家さん。近いうち、長屋にいいことがありやすぜ」
「ほう。どうしてそんなことがわかんだい?」
「酒柱が立ちました」
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井戸の茶碗
世の中には、いろいろな商売がございますが、昔から商売というものは、お客様にものを差し上げて、代金をいただくという仕組みになっておりますのがほとんどでございます。が、中には、屑屋《くずや》さんのように、お客様からものを頂いて、代金を差し上げるという商売もございます。ところが、世の中が進んでまいりますってえと、もうひとつ、お客様からものとお金と両方頂いちまうという、新手の商売が現われまして……誰です? あたしもやりたいなんてえのア……で、その新手をつかってるってえのが、東京都清掃局というところでして、不要になった、大きな世帯道具は、いくらとか払わないと持ってってくれないそうですな。昔はこんなことアございませんでした。世帯道具から古新聞まで、全部屑屋さんが買いとってくれたもんでして、近頃のように、古新聞はちり紙交換、世帯道具はお金をつけて処分してもらうなんて、そんなしちめんどくさいことをしなくてすんだんですから、便利な時代でございました。
ところが、麻布谷町におりました清兵衛《せえべえ》という屑屋は、江戸時代には珍らしい屑屋でして、紙屑しか買わなかった。と申しますのは、いたって正直な人だもんで、品物を買うと、自分は儲かるが、捨て売りする先方に損をさせることになる。そういう儲けかたをするのは厭だといって、鉄砲笊《てっぽうざる》ひとつ担《かつ》いで、紙屑を買いに歩いております。ある日のこと、いつものように
「屑ゥい、屑はござい……」
といいながら、芝|新網《しんあみ》の、とある裏長屋へ入ってまいりますってえと、上総戸《かずさど》を細目にあけて顔を出した、年の頃は十七、八でしょうか、粗末な身装《なり》はしておりますが、実に品のいい、磨き上げたらさぞやと思われる美しい娘さんの、恥かしそうな小さな声に呼びとめられました。
「あのう……屑屋さん」
「へえ」
「ちょっとお待ちを……もし、お父上……屑屋さんが参りました」
「おう、参ったか。……屑屋さん、中へ入って、そこを閉めておくれ」
「へい」
「そこにある紙屑と、これを買って貰いたいのだ」
「ヘエヘ。こちらの紙屑とそちらの……あア、品物ですかア」
「そうだ。この仏像を二百文ほどで買ってはくれまいか」
「折角でございますが、あたくし品物はいただきませんので……」
「品物は取らぬとな? ほう。屑屋というのは、何でも買ってくれるものと心得ておったが」
「へえ、まアそうですが、手前は目が利きませんので、へえ。屑の他は一切いただかないことにしておりますんで」
「いや、昔物であるから煤《すす》けてはおるが、決してあやしい品物《もの》ではない。また拙者とて、浪々中の身なればこそ、かようなむさくるしい身装、暮らしむきをしておるが、昼は近所の子供衆を集めて素読《そどく》の指南を致し、夜は芝切通しで|売ト《うらない》を致しておる千代田|卜斎《ぼくさい》と申す者、決してあやしい者ではござらぬ」
「いえいえ、別にそんな、お疑いなぞは致しませんが、さきほど申し上げましたように、手前は目が利きませんので」
「それは困ったな……二百文でいいんだが」
「……では、こうしましょう。これをお預りしまして、代りに二百文置いて参ります。で、こちらのご都合のよろしいときに、二百文で買い戻していただくもよし、さもなくば、この後、二百文分たまるまで、紙屑をいただくということにしては」
「おう、それは有難い」
「ではお預り致しますが、もしこれを欲しいという人がありましたら、売ってもよろしゅうござんすか」
「ああ。二百文返せない内はお前のものだ。どうしようと一向構わない」
「さようでござんすか。ではそういうことにして……もし、儲けましたら、儲けは半分ずつということで」
「いや、幾ら儲かろうと、一旦手ばなしたものだ。拙者には及ばない」
「では、とにかくお預りして参ります」
と、仏像を鉄砲笊の紙屑の上に重石《おもし》がわりに載せまして、
「屑ゥい、屑はござい」
白金《しろがね》の細川屋敷の窓下を通りかかるってえと、高窓から、
「これこれ、屑屋ッ」
「へえ」
「そのほうの籠《かご》に入っておるのはなんだ? 仏像のようだが」
「へっ?」
「それは座像か立像《りつぞう》か?」
「いえ、仏像でございます」
「いや、仏像は判っておる。坐ってるのか、立ってるのかと聞いておるのだ」
「へえ、寝かしてあります」
「判らんやつだな……それは売物か?」
「へえ、売ってもよろしいことンなっておりますが」
「ちょっと見せてくれ」
「へえ。では、ご門のほうへ廻ります」
「いやいや、今、笊《ざる》を降ろしてやる」
窓から紐《ひも》のついた笊を降ろしてくれたんで、その中へ仏像を入れてやるってえと、手繰《たぐ》り寄せて、ながめております。
「ほほう……かなり古い仏像《もん》だな……おう、屑屋。これの価《あたい》はなにほどかな?」
「へえ、今、二百文で買って参りましたんで、まア、いくらかでも儲けさして頂ければよろしいんで」
「では、三百銅ではどうかな?」
「へえ、有難う存じます。で、今日は屑のお払いはございませんか」
「いや、屑はない。さア、鳥目《ちょうもく》を降ろすぞ」
と、三百文入れた笊を降ろしてくれる。
「では、頂戴致しまして……屑が出ましたら手前どもにお払いのほどを願います」
「あア、よしよし。……良蔵ッ」
「へいッ。……お呼びでございますか?」
「ああ。新しい手拭《てぬぐい》とな、塩をふって清めた金だらいにぬるま湯を汲《く》んで持って参れ」
「はア?」
「そう、怪訝《けげん》な顔をするでない。お前も知っての通り、拙者国許から参ったばかりで、朝晩茶湯をする道具もなければ、手を合わせる仏壇《ところ》もない。ちょうど今、屑屋がこの仏像を持って通ったんで、三百銅で買ったんだが、何分《なにぶん》にも汚れておる。で、磨こうと思ってな」
「さようでございますか。では、すぐ持って参ります」
何気なくその仏像を振ってみるってえと、コトコトッてえ音がする。
「ははア、こりゃア腹籠《はらごも》りの仏《ほとけ》だ」
腹籠りの仏と申しますのは、仏様の中に、もう一つ小さな仏が入っている。大方それだろうと思って、気にもとめなかった。で、ぬるま湯につけて、ゴシゴシこすっておりますってえと、台座の下に貼ってある紙が、水につかったもんではがれてしまい、ざざアーッとすべり出ましたのは、仏と思いのほか、小判で五十両という大金でございます。
「良蔵ッ」
「へいッ」
「これを見ろッ。仏像の中から五十両出てきた」
「ヘェえ、そりゃアうまいことしましたなア……三百銅で買って五十両出てくりゃア、もう、大した儲けでして」
「たわけ者ッ。さような心得ちがいを申すでないぞ。ええ? 拙者が買ったのは、この仏像だ。中の小判まで買った訳ではない。持主に返してやらねばならん。ましてや持主は、仏像を売払うくらいのお人だ。定めし窮《きゅう》しておる者に違いない。あの屑屋に訊《き》けばとて、何《いず》れの屑屋か、とんと見当がつかん」
「しかし、屑屋というのは、一度|売買《うりかい》がありましたところは、再度廻るものでございます。しかも、このあたりは、朝から晩まで、幾人も屑屋が参りますんで、調べるのはたやすいことでございます」
「そうか。では、明日から屑屋を調べよう」
「屑ゥウい、お払い」
「おう、屑屋ッ」
「へい。……何ぞお払い物が……」
「ちょっと被《かぶ》り物をとれ」
「ヘッ?」
「笠をとれと申しておる」
「へえ」
「あア、そんな薬罐《やかん》頭ではない。行けッ」
「エエ、お払い物は?」
「ないッ。さっさと行けッ」
「……なんだい、あの野郎は? 私《ひと》の頭ア調べやがって……まさか、『屑屋における頭髪の実態』なんてえのを調べてんじゃねえだろうな」
「屑ゥい、屑はござい」
「これこれ、屑屋」
「へいッ」
「被り物をとれッ」
「へい」
「面《めん》を上げろ」
「へえ」
「もういい。そんなデコ助ではない。行けッ」
「ヘッ? 屑は?」
「ぐずぐずいってないで、向うへ参れッ」
「ケッ、嫌《や》な野郎だ。俺《ひと》の面《つら》ア見て、デコ助ってやがる。てやんでえ。こっちがデコ助なら、てめえァボコ助じゃねえか。ええ? てめえの面ア棚ィ上げやがってなんでえ……大きなお世話だってんだ」
そこを通る屑屋はたまったもんじゃアない。なにしろ、屑といったら最後、調べられちまうんですから……白金の清正公《せいしょうこう》様の境内に掛け茶屋がございまして、いつも昼頃になりますてえと、下金屋《したがねや》とか屑屋が、弁当を使いに集まって参ります。
「どうだい? 儲かるかい?」
「なアに、たいしたことアないよ。いつも変らずってとこ……じゃねえや。今日ばかりは変ったのに出くわした」
「ほう……で、掘出物《ほりだしもん》かい?」
「いや、そうじゃねえ。細川様の窓下を通ったらね」
「『被り物をとれ。その方ではない』を食らったんだろ?」
「よく知ってるなア……てえと、源さんもやられたかい?」
「あンの野郎、俺《ひと》のことオ、デコ助なんて言いやがったン」
「デコ助? なるほど……言い得て妙《みょう》とはこのことだ」
「そういうお前だって、何とか言われたんじゃねえか」
「言われたとも。……まアいいじゃねえか。だが、なんだって、ああして屑屋の顔を見るんだろう?」
「それにゃア訳があるんだ」
「なんだ、留さん、知ってんのかい?」
「ああ。……ありゃアね、デコ助だのなんだのって言われたほうがいいんだ」
「どうして?」
「そう言われるってえのアね、向うが捜してる敵《かたき》に似てないってことなんだ」
「てえと、屑屋ン中に敵がいるってえのかい?」
「どっかでそう聞いてきたんだよ。だから似ていようもんなら、今頃ア斬《や》られちまってるさ」
「うん、そうかも知れねえ。が、まア、俺達みてえに何とか言われた者は安心だが、まだ食らってねえ者は、うっかり通れねえな」
「まだ食らってねえのァ誰だい? そう言やア清兵衛さんが居ねえがどしたんだろう?」
「おかしいなア、あの人ァいつも、一番先ィここィ来てるんだが」
「屑ゥい、屑はござい」
「これこれ、屑屋」
「へい。あっ……、きのうは有難う存じました」
「おう。その方が来るのを待っておった。通用門を入って七軒目が拙者のおる所だ。入って参れ」
「へえ、屑がございますんで?」
「いや、屑はないが用がある。入って参れ」
「ご用と申しますと……」
「入れと申すのが判らんのかッ」
「へ、へい。……一体《いってえ》、なんの用があんだろう? きのうのあれが気に入らないってえのかなア? だったら、また、笊に入れて返してよこすだろうに……。それとも、あれの首かなんか落ちたんで、怒ってあたしの首をバッサリ……ああ、どうしよう。このまま逃げちまおうか。駄目だ、迎えに来られちまった」
「ここだ。さア上がれ」
「ヘッ、へえ」
「早速だが、きのう、その方より求めた仏像だが……」
「ヘッ、どうも申し訳ございません……あれはそのう、別に隠した訳じゃアないんでして、ええ……目が利きませんもので、つい、なにしたような次第で」
「その方が申さずとも、目が利かぬのは承知したわい」
「ああ、やっぱり……ど、どこがとれましたんで」
「台座の紙だ」
「首じゃないン? ああ、よかった。……てえと、今度ァ坊主かい」
「何をブツブツ申しておるッ……台座の紙がとれたというのはな、湯で洗っておるうちにはがれてしまったのだ。ところが、なんと、中から五十両という小判が出て参った」
「ええッ? 小判が?……五十両も……」
「そうだ。しかし、持主は、そうとも知らず手放したに相違あるまい。返してやらねばならん。あのような仏像を売払うというのは、よほど貧に迫ってるお人であろう?」
「ええ、ええ。迫ってるなんてもんじゃございません。もう、首までどっぷりつかっちゃっておりますようで」
「それは気の毒な……して、何をしておられる?」
「なんか、もとは立派なお侍らしいんですが今は、ご浪人のようでして、昼は素読の指南、夜は|売ト《うらない》をしておいでとか……へえ、千代田|ト斎《ぼくさい》という方でございます」
「さようか。ではこの金子を、その千代田卜斎とやらに届けてもらいたい」
「へえ、承知いたしました。このような大金を届けましたら、先様《さきさま》がどんなに喜びますやら……では、早速行って参ります」
「頼んだぞ」
「ええ、ごめん下さい」
「おう。どなたかな?」
「昨日《きのう》の屑屋でござい」
「済まん、まだ溜っておらんのだ」
「いえ、屑ではございません。きのうお預りした仏像《もの》が売れましたんで」
「おう、売れたか。そりゃアよかった」
「へえ、細川様のご家来が三百文で買って下さいましたんで、分け前の五十文を持って参りました」
「いくらで売れようと、拙者の手から放れたもの。分け前など要らぬ」
「そう仰言っては困りますんで……どうかお受取り願います。それから、これは、あの仏像をお買上げになった方から、こちらにお届けするよう預って参りました五十両でございます。併《あわ》せてお収め願います」
「拙者、そのような大金を贈られる覚えはござらん。大方、人違いであろう」
「いえ、人違いではございません。と、申しますのは、あの仏像があまりにも煤《すす》けておりますんで、そのお武家様が、湯で洗いましたところ、台座の紙がはがれまして、中からこの五十両の小判が出て参ったそうでございます。で、そのお武家様と申しますのが、実にこのオ……潔白な方でございまして、こういう訳だからお届けするように……こう申し付かって持って参った次第でして、へえ。どうかひとつ、お収めのほどを」
「ならん。あの仏像は拙者の手を放れておる。その中から、なにほどの金が出ようとも、それは拙者のものではござらぬ。受取る筋合いはない。さア、返して参れッ」
「そんな……勿体《もったい》ない。……五十両でござんすよ……これだけありゃア、お嬢様にだって綺麗な身装《なり》をさせて上げられましょうし、当分は生計の心配をせずに済みます。これはご先祖様が、子孫のあなた様に残して下さったお金なんですから、お受けになったらいかがでございましよう」
「さよう。先祖が残したものであろう。しかし、人手に渡ってから出るというのは、そうとは知らず、伝来の仏像を売り払った拙者の心得ちがいをさとしたのだ。天罰は受けるが、金は受取れん」
「それはあなた、正直すぎますよ。ええ。そりゃアあたしだって、正直じゃアひけァとりませんが、あなたのは、もう、馬鹿正直ってやつでして」
「馬鹿とはなんだ。無礼者ッ……。返しに参らぬと叩《たた》っ斬るぞ……娘、刀を出せ」
「ヘッ、行きます行きます。……あア、驚いた。だから侍は嫌《や》だってんだ」
「ええ、行って参りました」
「大きにご苦労であった。定めし喜んだであろう」
「いえ、喜ぶどころじゃアございません。かくかくしかじかでして……」
「判らんやつだなア……しかし、拙者とてこれは受取れぬ。もう一度返して参れ」
「何遍《なんべん》参りましても同じ事でして」
「黙れッ。武士に二言はない。返せと申したら返せ……ぐずぐず致すと手は見せんぞ」
「ヘッ。参ります参ります。……あア、命が縮まるよ……どうしよう……両方で受取らねえんじゃしようがねえや。かと言って、俺が貰う訳にゃアいかねえし……そうだ。家主《おおや》さんに訊いてみよう。口利きの太兵衛《たへえ》ってえくらいだ。いい知恵があるかも知んねえ」
「こんちワ」
「おや、清《せえ》さんどしたんだい?」
「実ァね、こういうような訳で、困ってんです」
「ほう……今どきィ珍らしい人がいるんだねえ……ま、あたしもいろんな口利きをしたが、こんな口は利いたことがない。ぜひ間に入ってみたいもんだ」
ってんで、家主の太兵衛が、高木佐太夫のところへ参りまして、
「……いかがでございましょう? この五十両を高木様と千代田様とで、二十両ずつお分けンなって、残りの十両は、あの正直な屑屋にやるということに致しましては……」
「ああ、それなら結構」
ところが、千代田卜斎のほうは、
「いや、たとえ一文たりとも、かような金は受取る訳には参らぬ」
「じゃア、こうなすったら……百両の形《かた》に編笠|一蓋《いっかい》ということがございますんで、高木様になにか差し上げることになされば……ええ、手拭でも紙切れ一枚でも、形のある物でしたらなんでも構いません。そうすりゃア、その品物を二十両で売ったことになりますんで」
「なるほど。……と言って、今のところ他人様に差し上げるものはないが……おう、この茶碗ではいかがであろう? 使い古しではあるが、祖父の代より家にあるものだ。……さようか。では、これを形《かた》ということに致そう」
こうして、五十両という金の納まりがつきました。さア、この話が細川の家中の評判となり、いつか殿様の耳に入りますってえと、「その正直者の使っていた茶碗を見せよ」と鶴の一声。早速高木佐太夫が、これを持って参上いたします。まア、殿様だって古いってえことぐらいは判りますから、お出入りの鑑定師《めきき》に見せる……
「殿ッ、これは大したものでございます。『井戸の茶碗』と申しまして、日本に二つしかございません名器でございます」
「さようであるか。これ、佐太夫。この茶碗……余が三百両にて求めつかわすぞ」
「ははアッ……」
殿様の所望とあれば、断る訳にゃア参りません。三百両の金を手に帰って参りますってえと、屑屋を呼びにやります。
「行って参りました。……へえ、旦那様に教えていただいた家主《おおや》のところで訊きましたら、すぐに判りまして」
「そうか。……おう、こっちへ上れ」
「へえ。どうもご無沙汰いたしまして……ええ……何かご用がございますそうで」
「ああ。あの時、お前が届けてくれた茶碗だが……」
「えっ? また、返すってえんですかい?」
「いや、返したくとも返せないんだ。あの茶碗は『井戸の茶碗』と申す、大した名器でな、殿が三百両でお買上げになった」
「おやおや、また、騒動か」
「で、その三百両であるが、先例にならって半分ずつ分け、お前さんへの礼は、双方にまかせようと思ってな。お前さんご苦労だが、こう、話して、この百五十両を届けてくれぬか」
「へえ。まア、行ってはみますがね」
「ええ、こんちワ」
「おう、屑屋か。この間は手数をかけて済まなんだ。今日は屑も溜ってるようだ」
「いえ、今日も商売じゃござんせんで」
「何かご用かな?」
「へえ。あっ、ちょいとお嬢さん、そこんとこ閉めないどいて下さい。ええ。こっちァ逃げる都合があるんだから……ええ、こないだのお茶碗でござんすが」
「ああ」
「あれは大変な名器だそうでして、細川のお殿様が三百両でお買上げになりました」
「それがどうした?」
「へ、へい。で、その三百両を、高木様が仰言るには、先例にならいまして、百五十両ずつ……分けて、ええ、こちらへお届け……するようにってんで……持って……参りましたんで……お納め……願います」
「さようか。では頂戴致そう」
「はア……ああ、そうすか……それァどうも……お嬢さん、もう閉めて下すってよろしゅうございます。ええ、もう大丈夫のようで。……どうも有難うございます」
「しかし、その高木佐太夫と申すお方は、実に……潔白なお人だな」
「へえ。あちらでも、こちら様のことを、そう仰言っておりました」
「お若い方か?」
「さいですなア……二十三、四でございますかな」
「で、妻帯はされておるのか?」
「いえ、良蔵さんてえ中間と、二人きりのようでございます」
「さようか……では、これを頼もうか」
「えっ? これって、今度ア、な、なんです?」
「いや、この娘の≪はる≫なんだが……ご覧のように、もう年頃だ。いつまでも手許に置いとく訳には参らんのでな。で、そのオ……高木と申すお方が貰って下さりゃア申し分ないんだが……どうだろう、そのほう、ひとつ橋渡しをしてくれんか」
「このお嬢様を?……さいですか。そりゃアあなた、もう、貰うに決まってますとも」
「さすれば、この百五十両は、持参金として先方へ差し上げ、先だっての二十両で、婚礼の支度は出来るのだが」
「そんなご心配はいりません。このお嬢様さえいただけるんでしたら、もう、着のみ着のままで結構でございます」
「お前に貰ってくれとは申しておらん」
「ええ、行って参りました」
「どうだった?」
「へえ。もうすんなりと貰ってくれましたんで」
「おう、それはよかった」
「ところで、あなた様に、是非貰って頂きたいというものがございまして」
「それは困る」
「いえ、これはあたくしがおすすめしますんで、へえ。是非お貰いなさい」
「何だ?」
「その、千代田様ンとこに、十八ンなるお嬢様がございまして、そのお嬢様を……へえ、あなた様のような潔白な、いいお侍に貰っていただけたらと、こう仰言いまして」
「そうか。いや、あの千代田卜斎と申すお方こそ、実に潔白な……武士の鑑《かがみ》とも言うべきお方だ。その方のお娘御とあらば、拙者、喜んで妻に致そう。……で、器量はどうだな?」
「ええ、いいのなんのって……まア、今ンとこは、ちょいとくすぶってますがね。とにかく早いとこお貰いンなって、磨いてごらんなさい。そりゃアもう、大した美人でして」
「いや、磨くのはよそう。また小判が出るといけない」
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粗忽《そこつ》長屋
鎌倉時代に、藤原定家《ふじわらのさだいえ》という歌人がおりまして、新古今集という和歌の本の編者として、有名な方なんですな。この人の手紙に、和歌を作る時の心得について書いたものがございますが、その中で、「粗忽は必ず後難《こうなん》 侍《はべ》るべし」といってございます。ま、和歌を作る時に軽はずみに作ると、必ず後で非難されるから、決して軽はずみに作っちゃアいけないってことなんでしょうが、どうも、「お前みたいにそそっかしいと、必ず後で難儀するぞ」って言ってるような気がする。
そそっかしいと言えば、粗忽長屋といいまして、粒よりのそそっかしいのが集まってるところがございまして、いきなり、ひとの家へとび込んで来て、
「ちょいと済《す》いませんが、持たずに出ちまったんで、あれ貸しッくんなさい」
「何を貸しゃアいいんだい?」
「何って……ほら、あれでさア……降って来やがったんすよ。……ああ、傘、傘ッ」
「ああ、傘かい? ちょいとお待ち」
「済いません……ここィあるのオお借りしやす」
言《つ》って、箒《ほうき》持ってとび出しちまった。あとでもって、長屋の者に、
「こないだ、ひでえ雨ィ会っちまってさア……ああ、もう、ひでえのなんのって……なにしろ傘さしてたって濡れちまうんだから……ぼたぼた柄漏《えも》りィしやがんで、ひょいと見るてえと驚くじゃねえか。あんまり雨がひでえもんだから、傘が箒みてえンなっちまった。あんなひでえ雨ェ、お前《めえ》知らねえのかい? フン、そそっかしい野郎だ。こっちア、傘一本損したってえのに……」
てめえの傘でもないのに、損も得もありゃアしない。
「こんちワ……こんちワ」
「なんだ、八つぁんかい? お上りよ。おいおい、土足であがっちゃアいけない」
「あっ、いけねえ……履物《はきもん》脱ぐの忘れてた」
「相変らずお前はそそっかしいねえ……ところで、何か用かい?」
「うーん。……何だったっけなア」
「どうした、また忘れたのかい? お前さんは、まめにあたしンとこに来るけどね、いつだって用件を忘れちまうんだから……。まア無精でそそっかしい熊さんよりは、ましだが……」
「そうそう、熊で思い出した。実ァね、今、長屋でね、こんな事があったン」
「おう、よしなよ。みっともねえから」
「何だい?」
「みっともねえってんだよ。朝っぱらから夫婦喧嘩しやがって」
「誰が?……俺がア?……やらねえよ、夫婦喧嘩なんて。……やらねえったらア……俺、独身者《しとりもん》だから」
「そうだ、お前、独身者だったなア。だけど大きい声でどなったじゃねえか。『嬶《かか》ア出てけッ』って」
「そんな事ア言わねえよ。……言わないッ。あれァ、折角掃除した座敷ィ、横丁の赤犬《あか》が上り込んで来たから、『赤犬《あか》アッ、出てけッ』言《つ》ってどなったんだ」
「そうか、赤犬《あか》ッ言《つ》ったのか。そりゃア惜しいことしたなア、犬追っぱらうとァ。そそっかしいことしやがって……儲け損なったじゃねえか」
「犬追っぱらって、何がそそっかしい?」
「だって、そうじゃねえか。俺だったら、その犬殴り殺して、熊の胆《い》とって儲けらア」
「お前こそ、そそっかしいじゃねえか。犬から熊の胆がとれるかってんだ。鹿と間違えんな」
「二人でこう言い合ってんだから、俺アもう、おかしくって……。まったくあいつらときたら、そそっかしいにも程《ほど》があらア……。ねえ、熊の胆ァ、豚からとれんだってことオ知らねえでさア」
「あきれたねえ。……まったく、お前ンとこの長屋ときたら、そそっかしいのが揃ってるんだから……何言ってんだい。お前だってそうだよ。いいかい? 人間というものはな、もっと落着いてなきゃいけない、そそっかしくてはいけない、と昔から言われている」
「ヘエえ。誰がそう言ってたン?」
「それはな、鎌倉時代にいた、藤原定家という歌人《かじん》だ」
「ははア、そりゃア野次馬だったんだな」
「なんだい? その野次馬ってえのァ?」
「だって、鎌倉で、わらの家が火事ンなったって……」
「いや、火事ではない、歌人だ。……歌人というのはな、和歌を作る人だ」
「てえと、やっぱりあんこかなんか入れて」
「お前さんね、まんじゅう作るんじゃないんだよ。和歌というのはな、心に思っていることや、見たさま、感じたことで作るんだ」
「どうも分んねえや。じゃ、ちょいと、その人ンとこィ行って、作るとこ見て来やす。……えッ? 死んじまった? じゃ、しゃアねえや」
「だが、この人の手紙があってな、作る時の心構えが書いてある。で、その中に、『粗忽は必ず後難《こうなん》 侍《はべ》るべし』というのがあるんだ」
「へえ。生きてるうちィ分るんですかい? 焼きすぎかどうかって。……だって、お骨《こつ》はあらず、粉があるって、手紙に書いといたんでしょ?」
「おいおい、火葬場の話をしてるんじゃない……これはな、そそっかしいと必ず後で難儀をするから、決してそそっかしくしてはいけないということだ。あたしもね、こないだ、雨ン時、こんな事があってね、粗忽長屋の者だってことオ忘れちまったお蔭で、箒《ほうき》一本損しちまった。婆さんには、掃除が出来ないって文句言われるし……その時、なるほど、粗忽は必ず後難侍るべし、とは良く言ったもんだと思ったよ。だからお前さんも、そんな事のないよう、精々気をつけなさいよ」
「なるほど、こりゃアいいこと聞いた。じゃあっしァこれで……へえ。忘れねえうちィひとつ、長屋の者にも教えてやりますんで。……じゃア、ごめんなすって」
「ええ? 隠居なんてえのァ、年がら年中、馬鹿なことオ言ってるようだが、なんだね、たまにゃアいいことも言うね。……そうだ、どうせ観音様の前を通るんだから、ちょいとお参りして帰ろう。……ええ、観音様。ええと……だるま横丁のご隠居、さっき何|言《つ》ったっけ……そうそう……観音様、あっしが死んだ時ァ、どうか焼きすぎねえようにしてくんねえ。粉じゃ拾いようがねえんで、長屋の者《もん》が困りやすから、骨だけは残るように、火かげんの方をしとつよろしくお頼《たの》申しやす。これでよし、と。……なんだい、雷門のとこィ、やけに大勢いるじゃねえか。仁王様が牢やぶりでもしたのかな?……ちょいと、なんです? この人だかりは?」
「なんでしょうねえ」
「知らねえで覗《のぞ》いてたってしゃあねえや。……ちょいと、あっしにも見してくんねえ」
「やい、押すないッ、こん畜生」
「見えねえから押したんでえ。押されんのが厭ならどきゃアいいじゃねえか」
「だめだい。こんなに大勢じゃどけねえよ」
「ああ、そうかい。そっちがどけねえってんなら、こっちだっていい手があらア……あらよッ、ごめん」
「おうおう、この野郎」
「あらよッ、あらよッ」
「な、なんでえ? 人の股倉《またぐら》くぐりやがつたのァ……」
「ごめんよッと、ほれ、前の方ィ出ちまった。……なんでえ、きたねえ面《つら》が並んでるだけじゃねえか……ははア、まだ始まらねえのか」
「ちょいと、お前さん。そこから這い出して来た、そう、お前さんだよ」
「なんです?」
「お前さんは、まだ見てないだろう?」
「へえ、まだでやんす。すぐ始まるんですかい?」
「いや、これは見世物じゃない」
「じゃア何です?……行き倒れ?」
「ああ、ゆうべ倒れたらしいんだ。が、どこの誰やらとんと見当がつかん」
「こんなに大勢いるんだから、見て貰やアいいじゃねえか」
「ああ、見ていただいたんだが、まだ手がかりがつかめん。お前さんもちょいと見ておくんなさい」
「さいですか。……おい、起きろよ。こんなとこで寝てちゃアみっともねえじゃねえか」
「ゆすぶったって起きないよ。死んでるんだから」
「えっ、死んでんの? だってお前さん、行き倒れっ言《つ》ったじゃねえか。死んでんだったら死に倒れだろ?」
「屁理屈きいてないで、菰《こも》をまくって、よく見ておくんなさい」
「見るのオ? しゃあねえや、折角前へ出て来たんだ……なんだい、横オ向いてやがらア。この野郎、こんなとこで死んじまってきまりが悪いとみえる」
「べつにきまり悪いわけじゃないが、そうやって死んでたんだ。さア、よオく顔をみてやっておくれ。お知り合いならこっちが助かる」
「べつにお前さんを助ける気アねえが……ああ、……やい、熊公、一体《いってえ》どしたってんだ」
「熊公って……知ってるお方らしいね」
「知ってるもなにも、俺ン家《ち》の隣の野郎でね、あっしとァ兄弟《きょうでえ》みてえなもんよ」
「そうか、そりゃア良かった」
「ちっとも良かァねえやい。おいッ、熊ッ、しっかりしろィ」
「お前さん、気の毒だがね、もう死んじまってるんだよ。だがまア、手がかりがつかめて何よりだ。で、この人のところはどこだい?」
「言えねえよ。……この野郎ンとこだって、あっしンとこだって、金目のもんなんかねえよ」
「驚いた人だね。あたしは泥棒じゃないよ。……この人の内儀《かみ》さんにでも知らせて、引き取りに来てもらうんだよ」
「嬶アはいねえよ、独身者《しとりもん》だから。……身内? そいつもねえな」
「そりゃア困ったなア。引き取り手がないってえと……お前さん、兄弟《きょうでえ》同様につき合ってるって言いなすったね。……じゃ、すまないが、ひとまず引き取っておくれでないか。いつまでもこうして置いとく訳にゃアいかないんで」
「そりゃアかまわねえがね、確かに、こいつとあっしが兄弟みてえにつき合ってるってえのがはっきりしねえうちィ、あっしに渡しちまっていいんですかい?」
「そりゃアはっきりした方がいいんだが……」
「それ見ろィ。じゃアね、こうしやしよう。今、あっしがここに当人を連れて来やすからね、そいつが、あっしとァ兄弟みてえなもんだって言やア、はっきりするでがんしょ?」
「なんだい、その、当人てえのは」
「だからさ、ここで死んでる当人でさア。今朝ね、あっしが出掛けるんで留守頼もうってちょいと寄ったらね、気分が悪いっ言《つ》ってたんすがね、あいつァそそっかしいから、死んだってえのまだ気ィついてないんすよ」
「いや、この人はね、ゆうべっからここに倒れてるんだよ」
「だから当人が来なくちゃアわかんねえってんだ」
「困るなアこの人は……お前さんね、もっと気を落着けなさいよ」
「そっちこそ落着かなきゃアいけねえ。なにしろ当人が雛形《ひながた》だから、よオく見くらべて、当人の口から、あっしの事オよオく聞いて、ああ、こりゃア間違えねえってことンなりゃア、どっからも文句くう筋合いァねえだろ?」
「どうしょうもないねえ、まったく」
「じゃア、一つ走り行って来やすから、もう少し番してておくんなせえ」
「おいおい、お待ち、お待ちったら……しようがないねえ、行っちまったよ。……ああ、ああ、気違いと知ってらなア……見せるんじゃなかった」
「やいやいやい、熊、熊ッ」
「なんだい、あいつァ? 隣りの家ィたたきやがって、熊、熊ってやがる……どうした? 俺ン家はこっちだい。そこァ空店《あきだな》じゃねえか」
「あっ、そうか。……おめえ、大変なことンなっちまった」
「草履《ぞうり》ぐれえぬいで上れよ」
「それどこじゃねえてんだ」
「なんかあったのかい?」
「ああ、大ありさァ。いいかい? おめえ、驚いちゃアいけねえよ。俺、今朝あすこィ行ったんだ」
「手水場《ちょうずば》か?」
「いや、その後……ああ、本所の隠居、あすこィ行ってね、帰りにちょいと寄ったんだよ。……どこってほら、金比羅さま、じゃねえ、水天宮、じゃねえ、ええと、お不動さま、ちがうなア、ほら、あすこにあるじゃねえか」
「明神さまかい? 神田の……」
「神田じゃねえよ。浅草のさア、何|言《つ》ったっけ?」
「浅草にゃア明神さまアねえだろ?」
「明神さまじゃねえやい。その、かん、かん……」
「観音さま」
「それそれ。早く言やアいいじゃねえか。話がはかどんねえや」
「観音さまがどうかしたのかい?」
「だからさア、俺が観音さまィ寄ったらね、雷門ンとこィ、いっぱい人がたかってんのよ。なんだか知んねえが見てやれってんで、かき分けて前ィ出てみるってえと、これが驚くじゃねえか」
「なんだった?」
「行き倒れ……じゃねえ、死に倒れよ」
「木戸銭いくらとられた?」
「たださア。死に倒れだもん」
「ただ? うめえことやりゃアがったな。まだやってんのかい?」
「ああ、菰《こも》オかけちまってあるんだ。もうあきらめな」
「菰をまくりゃア見られンだろ?」
「だからあきらめなってんだよ」
「なんだかさっぱりわかんねえや」
「俺だってはじめァわかんなかったさァ。で、菰オまくってよく見つくれってんで、よくよく見たら……熊公、おめえだったんだよ」
「俺が? 死んでる? 冗談じゃねえやい。俺ァ今しがた起きたばかしじゃねえか。第一《でえち》、死んだような心持ァしねえや」
「しねえったっておめえ、まだ死んだことアねえだろ?……おめえ、初めてだからわかんねえんだよ、心持なんてのァ」
「だっておめえ、今朝出掛ける時ィ、俺に声かけてったろ? 話《はなし》したじゃねえか」
「ああ、したよ。けどおめえ、出て来なかったじゃねえか。だから死んでんだよ。ゆうべおめえ、居なかっただろ?」
「ああ。本所《ほんじょ》の知り合いンとこィ遊びィ行ってたんだ」
「そこで、何か飲み食いしなかったかい?……なに? 酒ェ飲んで……それからどうした?」
「吉原《なか》ィひやかしィ行って、それから……帰りの馬道ンとこに夜明しが出てたんで、そこで、そうさなア、あれで五合も飲んだかな、それからブラブラ歩いて帰って来たんだ」「どこオ通って?」
「観官さまの横オ抜けて、淡島さまンとこィ出たまでは覚えてんだが、それからさきァ、覚えてねえなア」
「それ見ろ! 大方、夜明しでへんなもん食わされて、それでやられちまったんだよ。虫の息で仲見世までたどりついてさ、もうたまらなくなっちまって、あすこでぶっ倒れて、そのまま死んじまったんだよ」
「そうかなア」
「そうさア。だからおめえ、今朝、具合|悪《わり》いっ言《つ》って出て来なかったじゃねえか」
「そう言われてみりゃア、どうもまだ心持がよくねえ」
「そりゃアよくねえ筈だアな、死んでるんだもん。とにかくおめえ、俺と一緒に行っつくれ」
「どこへ?」
「死骸を取りにさア」
「誰の? ……俺の? よすよ、きまり悪《わり》いもん」
「きまり悪《わり》いったってさ、おめえが雛形なんだから、行かなきゃくらべようがねえだろ? それに俺が困んだよ。おめえと俺が兄弟同様につき合ってるてえのをおめえが言ってくれねえと、向うが渡しちゃアくれねえんだ」
「何|言《つ》うんだい?」
「こう言やアいいんだ。『どうもお世話ンなりやした。こいつアあっしの兄弟みてえなもんすから、どうかお渡し願いやす』ってな。てえと俺が、『当人はこの野郎でやんす。よく見くらべて聞違《まちげ》えなけりゃアお渡し願いやす』……向うだって当人に出て来られちゃアどうしようもねえだろ。こっちァ大いばりでもらって来りゃアいいんだ。……ああ、大いばりでいいんだよ。当人が行って当人のもんを貰って来んだから」
「そうかなア」
「あたりめえだ。まごまごしてると、他のやつに持ってかれちまう。さア、早く行こうぜ」
「おう、ここだ。一緒に入れよ。……おう、ごめんよ……ごめん。ちょいとどいつくれ。当人が来たんだ、どけってんだよ。……こっち、こっち。遠慮することァねえんだ、当人じゃねえか。……ああ、どうも、遅くなっちまって」
「また来たよ。困るんだよ、あの人ァ……どうだ、違ったろう?」
「いえ。あれから帰ってすぐ、当人に話しやしたン。どうもそそっかしい野郎なもんで、死んだような気ァしねえなんて強情はりやしてね……へえ、あっしも困ったんすがね、だんだんと話ィして、よオく言いきかせやしたら、ゆうべの食い物でやられたらしいってのが、当人にもわかりやして……へえ、この野郎でがんす。おめえ、よオくお礼申し上げろィ」
「どうもお世話ンなりやして相すいません。あっしァふだんからそそっかしいもんで、ここで倒れちゃったなんてちっとも知らねえで……」
「しようがないねえ。同じような人がもう一人ふえちゃったよ、ええ? 行き倒れの当人だと……。あのねえ、お前さん。……いや、その当人てえ人……そう、お前さん、こっち来て、よくごらんよ」
「いえ、もう見なくったっていいんす。わかってんだから」
「見てくれないと困るんだよ」
「いえ、死目にゃアあいたかねえんで」
「そりゃア、おめえがそう言うのァ無理ァねえが、見てやれよ。向うじゃ、間違えがあるかねえか見くらべんだから」
「しゃアねえ、見るか。……これが俺かア?汚ねえ面《つら》アしてんじゃねえか」
「死顔なんてそんなもんよ」
「なんか、面が長すぎんじゃねえか」
「一晩夜露ィ当りゃア、面だってのびるさ」
「そんなもんかなア……着物? あっ、これァ、俺ンだ。去年、質ィ入れて流しちまったやつだ。間違えねえ。これァ、俺だッ。ああ、ああ、こんなあさましい姿ンなりゃアがって。こんなことンなるンなら、ゆうべ遊んじまやアよかったんだ」
「なに言ってやんでえ。今更泣いたってしゃあねえや」
「どうしょう」
「俺が足のほう手伝うから、おめえ、頭のほう頼むぜ」
「すまねえ」
「おいおい、だめだよ、さわっちゃア……。抱いちゃ困るんだよ、おまえじゃないんだから……よくごらんよ」
「うるせえ。当人が見て俺だっ言《つ》ってんだ、間違えねえだろ。……おめえ、いいから抱けよ。なにも自分のもんを抱いて、なア……」
「ああ。抱かれてんのァ俺に違えねえが、抱いてる俺ァ、一体《いってえ》誰だろう?」
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小言幸兵衛《こごとこうべえ》
むかし、家というものは、ま、たいていは借家でして、自分の家を持ってる人てえのは少のうございました。で、借りたい家があるってえと、じかに家主ンとこに借りに行った。家主にもいろんな人がおりましてな、ずぼらなのもいりゃア、おっちょこちょいもいる。麻布の古川におりました、幸兵衛《こうべえ》という家主はと申しますと、人呼んで小言幸兵衛。小言を言ってないと口寂しくってたまらないという人で、朝起きるってえとすぐに、小言を振りまきながら町内を一廻りいたします。
「おいおい、伊勢屋の小僧さん。そんな掃《は》きかたしちゃア、箒《ほうき》がいたむじゃないか。おい、魚屋さん。なんだってこんなとこに盤台《ばんだい》置いとくんだい? ええ? 通行人の邪魔ンなるんだ。片づけとくれ。ああ、ああ、赤ン坊が泣いてるじゃないか。お前さん子守だろ? 泣かしちゃアいけませんよ。……どこの家だい? 猫に魚ァとられたのは……ええ? 間抜けなかみさんだ。亭主の顔がみたいよ。なんだい、お隣りのおかみさん。水をまくのはいいがね、そう、まくことァないんだよ。火事じゃないんだから……ごらんなさい。あたしンとこの≪おもと≫が水びたしンなっちまったじゃないか。……婆さん、いま帰ったよ。なに? 朝飯を早く食べちゃえ? 判ってますよ、そんな事は……だいたい、お前はお節介が過ぎるんだよ。なんだい? きのうお隣りでいただいた干物ァどうした? 今朝食べるからってんで、ゆうべ一枚残しといたんじゃないか……え? 猫が持ってっちゃった? 間抜け……ああ、そうかい。……いや、いいんだ。茶をついどくれ……そらそら、よそ見をしながらつぐんじゃありませんよ。そら、こぼした。だから言わないこっちゃない。……えっ? 誰か来たって?」
「ちワ……幸兵衛さんてえのァこちらで」
「はいはい、あたしが幸兵衛だが……お前さんは?」
「あっしァ通りがかりの者ですがね、表の家ィ借りてえと思って来たんで……ありゃア、店賃ァいくらなんです?」
「いくらって、誰がお前さんに貸すって言ったんだい?」
「貸さねえんですかい?」
「いや、貸したいから『貸家』の札を貼《は》っとくんだ」
「だから、店賃はいくらだって訊いてんじゃねえか」
「まだ、貸すか貸さないか決まんないうちに、店賃を訊いてどうすんだい、ええ? お前さんが借りたい、こっちが貸しましょうってことンなってはじめて、『では店賃はいかほどで』と、こう来なくちゃアいけない」
「なるほど。じゃア、貸して下さい」
「ああ、貸してやってもいいがね、お前さんの商売も知らずに貸す訳にゃアいかないんだ」
「商売は豆腐屋でして」
「そりゃア結構。この近所にゃア豆腐屋がなくってねえ……で、おかみさんは?」
「へえ、一人おります」
「なに?」
「へえ、今ンとこァ、嬶《かか》ァ一人だけでして」
「てえと、近いうちにおかみさんが二、三人になるのかい?」
「冗談じゃねえ。嬶ァは一人に決まってんで」
「当り前だ。お前さんは私の言うことをよオく聞いてないから、そういう無駄なことを言うんだ。ええ? あたしはね、『おかみさんは?』と訊いたんだ。そしたらお前さんは、『あります』とか『ありません』とか言やアいいんだよ。こっちは、おかみさんの数を訊《き》いたんじゃアないんだから……そうだろ? 一人ってえのは余計なんだよ……で、子供は?」
「へえ。いい塩梅《あんばい》に、餓鬼ァ無《ね》えんで」
「なんだとオ」
「へえ、何しろ、食い物《もん》を扱ってるもんで、小汚ねえ餓鬼ァ無《ね》えほうがいいんでして……いい塩梅に餓鬼ァ出来ねえ」
「なんてことを言うんだ、お前さんァ……子供は子宝といってな、銭金《ぜにかね》にゃア換えられないもんなんだ。子供が無いって自慢になるかい。一体お前さんは、おかみさんと何年連れ添ってんだい?」
「へえ、十年ンなります」
「フン、あきれた野郎だ。お前さんね、『三年添って子なきを去るべし』ってえくらいだ。十年も連れ添って子供一人産めねえような、そんな女ァさっさと追い出すか、別れちまえ」
「馬鹿野郎、大きなお世話だってんだ。黙って聞いてりゃいい気ンなりやがって、ふざけたことオ抜かすないッ。ええ? てめえみてえな、すっとこどっこいと一緒ィされてたまるかってんだ。こっちァなア、そんななまっちょろい仲じゃねえやい。つべこべ抜かしやがると、潰《つぶ》して豆腐ィしちまうぞオ。てやんでえ、誰がてめえン家《ち》なんぞ借りてやるもんか」
「こっちだって、てめえなんかにゃア貸さねえや。……あきれた奴だ。婆さん、表に塩オまいとくれ」
「ごめん下さいまし」
「はいはい」
「少々うかがいますが、お家主《いえぬし》の幸兵衛様のお住居は、こちらさまでございましょうか」
「おや、今度ァまた、ィやに丁寧な人が来た……はい、家主の幸兵衛はあたしですが」
「はッ、さようでございますか。お初にお目にかかります。手前は通りがかりの者でございますが、実は、表に、二間半間口の結構なお借家がございましたが、あれはもうお約定《やくじょう》済みでございましょうか。また、もしお約定なければ、手前どものような者にでもお貸し下さいますや、否《いな》や、この段をちょっと伺《うかが》いに上りました次第でございます」
「これは恐れ入りますなア。ま、どうぞ、こっちィお上んなさい。……婆さん、お茶ァ入れとくれ……さァさ、どうぞおあて下さい。……まア、ああして店《たな》を空けてあるんで、借り手が来ることァ来るんだが、どうも、こっちが貸したいようなのァ、なかなか居なくって……お前さんのような学問のある人に借りてもらうのを待ってたんだ。……『もし、お約定なければ、手前どものような者にでもお貸し下さいますや、否や、この段をちょっと伺いに上』っちゃうってんだから……≪この段≫なんてえものはね、なまやさしい学問じゃアとても、伺ったり上ったり出来ませんよ、ええ。階段や石段てえなら、うちの婆アだって上れますがね」
「これはこれは……ご冗談がお上手でいらっしゃる」
「また如才ないねえ……お前さん、ご商売は?」
「へえ、仕立職を営んでおります.」
「うまいねえ。仕立職だから糸なむ、か。言うことに無駄がない。いやア、ますます気に入った。で、ご家内は幾人《いくたり》だい?」
「手前と妻《さい》、それに伜《せがれ》が一人、以上三人でございます」
「妻《さい》ねえ……婆さん、お茶ァまだかい? 早く出しなさい。ちょいと菓子かなんかつけて……その伜さんてえのァ、おいくつかな?」
「当年二十二歳でございます」
「ほう、そんな大きな伜さんが……で、なにをしていなさる?」
「へえ、手前と同職の仕立を致しております」
「てえと、ゆくゆくは、家業を伜さんにゆずってお前さんは楽隠居……といくかどうかだ。伜さんの腕はどうだい?」
「へえ、近頃では、手前よりも、息子に仕立てさせるようにというご注文が多うございます」
「そんなに腕がいいのかい。じゃア、お前さんは、もう大船《おおぶね》に乗ったようなもんだ。なんの心配もないやな」
「しかし、人というものは、世帯を持って半人前、川の字に寝《やす》むようになってはじめて、一人前、とか申します。それが、川の字はおろか半人前さえなっておりませんうちは、まだまだ……」
「年頃で腕が良くって独身者《ひとりもん》……てえと、失礼だが、伜さんてえのァ余程の小男とか醜《ぶ》男とか……」
「いえ、そんな事はございません。背なぞは手前より高《たこ》うございますし、顔の方もまア……お得意さまやご近所の方なぞは、仕立より立役をやらしたい、と、こう仰言《おっしゃ》って下さいますくらいで……」
「役者にしたいほどの男前ってえのかい……そうか……そりゃア困ったなア……婆さん、お茶ァ見合しとくれ。雲行きが変ってきたんだ……こりゃア、ひと騒動持ちゃがるな」
「はア? ひと騒動と申しますと?」
「お前さん、夫婦仲は……」
「へえ、いたって円満でございまして、騒動なぞのご心配はご無用でして」
「だから心配なんだよ。円満てえのァ困るんだ」
「はア? 夫婦仲がよろしいと困りますか」
「ああ。それともお前さん、お内儀さんと二人でどっかィ行くってえことァないのかい?」
「いえさきほど申し上げましたように、伜の仕事が多くなりまして、手前のほうは手が空くようになりましたものですから、家内を連れて芝居とか寄席へ、ちょくちょく……」
「ますますいけないよ。これじゃアとてもお前さんにゃア貸せないね」
「と申しますと? ……なにか、お気に召しません事でもございましたか?」
「ああ、あるとも。大体、お前さんの伜ってえのがお気に召さないんだ。ええ? 年は二十二で、腕がよくって、男前で、独身者《ひとりもん》……その、独身者てえのが困るんだ」
「なぜでございましょうか?」
「お前さんが借りたいてえ家の向側に、古着屋があってな」
「ええ。あそこのおかみさんに、こちらさまを教えていただきました」
「そうかい。あのかみさんに、十九ンなる一人娘の……ええと……婆さん。向うの古着屋の娘ァ何|言《つ》ったっけ? ……そうそう、お花ちゃん。お花ちゃんてえ、可愛い娘がいるんだ」
「あのおかみさんに、そんな娘さんがいらっしゃるんですか」
「お前さん、感心してる場合じゃないよ。大変な事ンなるってえのに……いいかい? お前さんとこが越して来りゃア、向う三軒両隣りィ、そばの切手かなんか持って挨拶に廻るだろう?」
「はア、それはまア、しきたりでございますから」
「廻るったってお前さん一人じゃア大変だ。そこでお前さんは、『古着屋と仕立屋は同じような商売だからとくに心易くしといたほうがいいが、いずれは伜の代になるんだから』ってんで、古着屋のある向う三軒は伜に廻らして、お前さんは両隣りィ挨拶に行くだろう?」
「そこまでは考えておりませんでしたが……なるほど。それはいいお考えですなア」
「で、伜が古着屋ィ行って挨拶してるってえと、奥からお花ちゃんが『ねえ、おっ母さん。襟《えり》ンとこのコテはどうすんの?』かなんか言いながら出てくる。が、若い男がいるんでハッと立ちどまる。伜は伜で、若い娘の声がした方をひょいと見る……ここで二人の目が合っちまう。で、お花ちゃんは真っ赤ンなってうつむいちゃうが、伜ァ違うよ。お前さんに似て如才ないからね、おかみさんに『こちらのお嬢様でいらっしゃいますか。なんとまア、ご器量がよろしいんでしょう』かなんか、うまいことオ言っておだてるよ。まア、親なんてものァ、そう言われりゃア悪い気ァしないもんだ。なア?」
「へえ。どこの親も同じ事で」
「だが、一応は『さいですかア? なんですか姿形《なり》だけァ一人前ですけどねえ、この通り赤ン坊で困っちゃうんですよオ……。お手すきの時で結構ですから、この娘にお針を教えてやって下さいな』ぐらいの事オ言うだろ?」
「親馬鹿まるだしには、出来ませんからな」
「こう来りゃア、伜だってすかさないよ。『へえ、どうぞどうぞ。お針のことで判らないことがありましたら、いつでも構いません。どうぞお出でなさいまし。教えて差し上げましょう』てなことオ言うんだ」
「まア、そのくらいのことは申し上げるかも知れません」
「ああ、言うとも。お前さんの伜ってえのァなかなかだからねえ」
「なかなかと申しますと?」
「図々しくって、手が早いン」
「いえ、手前どもの伜は、どちらかと申しますと気が弱い性質《たち》でして、図々しくはございません。が、手は速いほうでして、袷《あわせ》でしたら、一日に三枚は縫い上げます」
「そっちの手じゃないよ」
「と申しますと……め、めっそうもない。伜に限ってそんな……他人《ひと》さまのものに手なぞは出しゃアしません」
「それが親馬鹿だってんだ。ええ? 越して来て半月もすりゃア、近所とも馴染ンなるだろう。なア? てえとお花ちゃんが、『いま、お針のお稽古をしてるんですけど、うまくいかないとこがあるんです。あいにく、おっ母さんが出掛けてるもんですから、すいませんけど教えて下さいな』かなんか言って、お前さん家《ち》ィ来るようンなる。てえと伜が、『はア。どういうところがお判りンなりませんので』てなことオ抜かしやがったついでに手ェ出すんだ」
「ああ、その、手のほうですか。こりゃア、手前としたことが、とんだ手違いをいたしまして……」
「その、手違いってやつが困ンだよ。そういう時に限ってお前さんは、夫婦で芝居かなんかィ行っちまって、伜一人にしとくんだから……ええ? 若い者《もん》が二人っきりンなりゃア、どういうことンなるかってえのが、判んないかい? そりゃア、はじめァ判んないのも無理ァない。うん。隠してるから。が、女は受身だアな。腹がせり出して来て、親に気付かれちまうんだ」
「そう仰言いますが、まだ越して来ちゃアおりません」
「おりませんたってお前さん。あたしがあの家を貸そうてえことンなりゃア、越して来るだろう?」
「はア。それはもう、明日にでも」
「だから話してんじゃないか。ええ? お前さん、後悔先に立たずってえたとえがあんのを知らないかい?」
「いえ、知っております」
「それなら私《ひと》の言うことオ黙って聞いてりゃアいいんだ。越して来ちまってからじゃア遅いんだから」
「へえ」
「ええと、どこまで話したっけ?」
「親が気付くとこまででございます」
「あ、そうそう……で、ある日、おっ母さんに呼ばれたお花ちゃんは、問いつめられるってえと、仕方がないってんで『実ァ、お向いのお兄さんとこれこれこうで』こう、白状しちまう。てえと母親が、怒ると思いきや……どうなると思う?」
「木屋《きや》と申しますと、日本橋の刃物……ああ、腹を切れという訳でございますな」
「いや、切腹しろなんてことァ言わない。第一怒んないんだから……『ああ、お向いのお兄さんなら、腕はいいし、男もいいし、年頃もいい塩梅だ。じゃア、お父《とっ》つぁんに話して、養子に来て貰ってあげよう』てんで、亭主と相談して、お前さんとこに『こういう訳でございますから、お宅の息子さんを、ぜひとも手前どもの養子に』と貰いに来るが、お前さんどうする? 伜をやるかい?」
「いえ、とんでもない。一人息子を養子にやれるもんですか。まア、どういう娘さんか存じませんが、出来てしまったものは仕方ありませんので、その方を嫁には致しますが」
「そうはいかないよ。一人娘なんだから。嫁に出す筈ァないじゃないか」
「こちらも養子には出せません」
「両方でやれないてえことンなりゃア、出来てる若い者はどうなると思う? ええ? これじゃア、とてもこの世では添いとげない。せめてあの世とやらで添いとげようじゃないかてえことンなる」
「と申しますと……し、心中……ど、どこで?」
「心中てえと、やはり向島《むこうじま》が本場だアな」
「心中にも本場がございますんで? それは存じませんでした」
「まず、幕があくてえと」
「本場ンなりますと、幕がありますんで?」
「お前さん、黙っといでよ。……ええ、幕があくてえと、向うはずうっと土堤ンなってて……」
「はア、まぐろの?」
「まぐろじゃねえ。向島の土堤だ。その土堤の向うに波の遠見が見え、そのまた向うに、ぼうっと、待乳山《まっちやま》の五重塔が霞んで見える」
「なにか、お芝居のようでございますな」
「黙ってろてえのにィ……てえと、鳴物がドンドンジャンジャン、上手《かみて》と下手から迷子やアいと出てくるのが、両方の親達と家主のあたしだ。『見つかりましたか?』『どこィ行ったんでしょう?』『もう一遍廻って探そうじゃないか』『さア、行こう行こう』てんでまた、『迷子やアい』と、騒々しくひっ込む。そこで、バタンと土堤がひっくり返るてえと、今度ア、山台《やまだい》てえ台の上ィ太夫連中がずうっと並んでて、チチンツ、チチンツ、トチチリチン……置浄瑠璃《おきじょうるり》というのが始まる」
「あア、あれは置浄瑠璃と申すんで?」
「口出すなってんだ。で、それが終るってえと、バタバタバタバタッ、柝《き》が入って、揚幕《あげまく》から、対模様《ついもよう》の小袖に、さらしの手拭、握飯のような顔を三角にして、手拭の端をくわえたお花ちゃんが駈け出て来る。花道の七三とこまで来るってえと、何につまずいたか、バッタりころんじまって、なかなか起きない」
「あそこは、つまずきやすいところのようですなア」
「うるせえなア、いちいちィ……そこへ、女と同じような身装《なり》ィしたお前さんの伜が揚幕から出て来るン。これが花道ンとこでころんでるお花ちゃんにつまずくんだが、そのままひょいと向うへとび越しちまう」
「起してやらないんで? とんでもねえ伜だ」
「ああ、嫌《や》な野郎だ。情がねえやな。だが、まったく知らんぷりてえんでもねえんだ。あとからふり向くんだから。で、ふり向いて顔を見かわした途端、ハッと気づいて、気取るよ」
「伜が気取りますか?」
「ああ、気取るとも。『そこにいるのァお花じゃないか』なア?……『そういうお前は……』お前さんとこの伜の名前は何てンだい?」
「へえ、百左衛門《ひゃくざえもん》と申します」
「百左衛門? なんだい? その名前は? これから心中しようてえ色男についてる名前じゃないよ。ええ? 色男てえのァね、徳次郎とか半九郎とかって、たいてい決まってんだよ。本当に野暮な名前つけやがって……まア仕方ない、やってみるがね。『そこにいるのァお花じゃないか』『そういうお前は、ひィ、ひゃく左衛門さん』どうも言いづらいねえ。お前さん、伜の名前を替えなさい。先へ進まないから」
「それは困りましたなア。伜の名前は替える訳には参りません。かといって先へ進まないってえのもなんですし……」
「だから名前を替えなさいってんだ」
「いえ、百まで生きるようにってつけた名前ですから替えられません」
「百までァ生きないよ。心中しちまうんだから」
「ああ、そうか。まったく親の心子知らずで心中なんて馬鹿なことオ……が、もとはと言やア親のあたしが……ちょっと待って下さいよ。ええと……そうか、あの家を借りるから伜が心中するんだ。借りなきゃア、心中しないですみますな?」
「そうだよ」
「では、いろいろとお骨折りいただいて申し訳ございませんが、あの家をお借りするのは見合せたいと存じますんで、へえ。これで失礼をいたします」
「婆さん。そそっかしい奴てえのァいるんだねえ。おや? また誰か来たな。婆さん、出ておくれ……なに? 半纏《はんてん》一枚ひっかけた?……ものすごいのが?……足で格子オ開けて入って来たって?」
「やいッ。家主の幸兵衛ってえのァてめえかッ」
「へえへえ。なにかご用で?」
「表に小汚ねえ貸家があらアな。あいつァ俺が借りてやっから有難く思えッ。高《たけ》え家賃取りやがったら承知しねえぞオ」
「へえへえ、有難う存じます。で、ご家内はお幾人《いくたり》で?」
「俺に道祖神《どうろくじん》に、山の神に河童野郎だッ」
「なんです? その道祖神だの山の神だのってえのァ?」
「このぼけなす奴《め》ッ。道祖神てえのァお袋、山の神ァ嬶《かか》ァ、河童野郎ァ餓鬼のこった。よく覚えとけッ」
「へえへえ。で、ご商売は?」
「俺ァ鉄砲鍛冶だ」
「道理でポンポン言う」
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今戸《いまど》の狐
一口に賭けごとと申しますが、サイコロ遊びひとつとりましても、やはり時代によりましてはやりすたりがございまして、その昔、キツネという遊びがたいへんはやったことがございます。どういう遊びかと申しますと、サイコロを三つ使いまして、一個の目が合えば、張ったお金がそのまま戻ってくる。二個合えば三倍、三個合えば四倍のお金ンなるという、遊びというより博奕《ばくち》ですな。ま、こういう博奕で暮らしているような人というのは、サイコロだって、象牙とか骨でこさえた、そりゃアいいのを持ってたそうですな。で、また、こういうのを持ってるような人てえのはサイコロなんて言いません。「コツ」とか「コツのサイ」とか言ってたそうで、まア、骨で出来てるのを持ってるというよりも、「俺は素人じゃアないぞ」ってことなんでしょうな。
その頃、良輔《りょうすけ》という噺家《はなしか》がおりました。この人、もとはと申しますと、乾坤坊良斎《けんこんぼうりょうさい》という、講談の作者の弟子だったんですが、文才はないが話術にたけてるってんで、中橋《なかばし》の三笑亭可楽に預けられ、中年過ぎて噺家になったという人で、年齢はもう五十八歳になっておりましたが、まだ二ツ目の噺家でございます。この中橋の可楽という師匠が、まことに親切な人で、年老いた良輔が、あちこちかけ持ちするのは辛《つら》かろうってんで、今戸の小梅へんへ、家を一軒持たせてやりました。おかげで良輔も、紺献上《こんけんじょう》の帯に、古渡《こわた》りの道行きかなんか着まして、宗匠《そうしょう》頭巾に雪駄《せった》ばき、手には合切袋という、気のきいたお爺さん姿で、近所の二、三軒の寄席を歩いて廻るだけで済むようになりました。当然お鳥目《ちょうもく》のとり方も少なくなりましたが、交際《つきあい》の方も少なくて済みますから、まアなんとかやっていけるという暮らしむき。
「ちワ、良輔さんいるかい」
「へえ。……ああ、これはこれは、瓦屋のお職人さん、まア、どうぞお上り下さいまし」
「じゃア、ちょいとごめんなすって……いや、伺《うかが》ったのァ他でもねえんだが、ちょいと話してえことがあってね、が、まア、大勢いるとこで言うってえのもなんだし、折《おり》ィみてたんだが、いい塩梅《あんばい》ィ今日は誰もいねえようなんで……」
「ありがとう存じます。へえ、今日は誰も来ておりません。で、お話と申しますと」
「そう改まんねえで、気楽にきいてくんねえ。あっしの話ってえのァ、もう、良輔さんも若いとァいえねえ年齢《とし》だアな。そりゃア寄席もいいが、雨だの風だのってえ日ァ、外ィ出るのァ大変なこった。それよりどうでえ、子供相手の今戸焼のおもちゃでもこさえたら……結構|手間《てま》ンなるんだ。といって、寄席にゃア、良輔さん目当ての客もいようから、まったくやめちまう訳にもいくめえ。まア、寄席のほうァ一軒ぐれえにして、あとァそういうのをこさえてたほうが楽じゃねえか? なアに、竃《かま》アあっしンとこの瓦ァ焼くんで、空《あ》いてんのがあんだ。そいつを使やアいいさ。で、いろんな型があるから、そん中ィ泥をつめて、干したところで塗り上げて彩色《えつけ》すりゃアいいんだ。どうでえ、しとつやってみちゃア……結構売れるぜ」
「それはご親切にありがとう存じます。早速やらしていただきたいもんで」
「そうかい。じゃア、型ア持ってくらア」
「へえ、お願いいたします。が、なんせ初めてのことでございますから、しとつ、やさしいのを……」
「じゃ、狐がいいだろう。天神様だの猫だのってえのァ、顔がうまく描けねえんだ」
ということで、あくる日っから泥の狐をこさえ始めました。ま、芸人が内職してるってえのはみっともないってんで、表の雨戸を閉めきりまして、寄席へ行く合間に一生懸命こさえております。もともと器用な男ですから、最初は不ぞろいだった狐の顔も、慣れるにしたがってそろってくるし、はかもゆく。結構いい内職になりました。
この良輔の家の裏に、小間物屋がおりました。小間物屋といっても、店などァありません。小間物を入れた箱を一反風呂敷に包んで売って歩くという、背負い小間物屋でございます。ご婦人相手の商売ですから、この小間物屋も、最初《はな》のうちは置屋《おきや》を廻っていたんですが、さっぱり売れない。なにしろ資本金《もとで》が少ないから、芸者が買うようないいものは持ってない。で、どうしたかってえと、小塚原《こづかっぱら》に行った。小塚原ったって、別に高橋お伝に売りつけようってんじゃアない。当時、小塚原というのは、千住《せんじゅ》の宿場でございました。まア、その頃の宿場といいますと、「みなみ」と呼んでいた品川とか、「コツ」といわれた千住とか、どこの宿場にも、宿場女郎という女郎がおりました。で、このコツの女郎に小間物を売りに行った。と、これが売れる。ものは悪くっても、目先が変ってりゃア安いほうがいいってえんだから、売れる筈です。足しげく通っておりますうちに、
「ねえ、ちょいと」
「ヘエヘ。お気に召したのがござんすか」
「お前さん……やだよオ、鳩が豆鉄砲くらったような顔してさア……ねえ、あたし、もうじき年季《ねん》が明けんのよ」
「さいですかい。そりゃアお名残り惜しいこって」
「でね、頼みがあんのよ。お前さん……あたしを引き取ってくれないか」
「引き取るって……そいつァありがてえが、なにも俺みてえなもんと……」
「何言ってんだい。そりゃア、ここにゃア客だの出入りのもんだの、いろんな人が大勢来るけどさア、お前さんみたいに如才なくって働き者で親切な人ってえのァ、ちょっといないよ。……かまアないよ。あたしゃア財布じゃないんだから。銭や金がなくったっていいんだよ。……本気さア」
ってんで、年季《ねん》が明けると夫婦《いっしょ》ンなった。
「ねえ、あの小間物屋のおかみさん、千住の女郎だったんだって? それにしちゃア当ったねえ」
「ああ、大当りさア。なにしろ、あの千住《コツ》の妻《さい》てえのァ、気はきくし、働き者だし、いいおかみさんだ」
コツの妻《さい》、コッの妻と、たいへん評判がいい。この、コツの妻が、亭主が商いに行ったあと洗濯をして、二階の物干ィ干して、ひょいと、下を見るてえと、良輔の家の引き窓が開いておりまして、良輔が一生懸命に何かやってるのが見えた。
「あらッ、なにやってんのかしら……まア、面白そうな内職してんじゃない……あたしもやらしてもらおうかしら。うちの人ばかし働かしといちゃ済まないから。……良輔さん。ちょいと、良輔さん」
「ヘッ? あ、あのオ、ど、どちらさまで……ああ、さいですか。いま開けますんで、ちょいとお待ちを。……さア、どうぞ」
「あらッ、片しちゃったの? ……なにって狐よオ」
「狐? なんです? そりゃア。……内職でしょって、あたしゃア噺家だもんで、出職ってことンなりますかな」
「ごまかしたって、あたし、だまされないわよ。見たんだもん」
「えッ? どっから? ……引き窓から? あアあ、えらいとこ見られちまったなア」
「いいじゃないか。きれいな仕事だし……」
「へえ、仕事ァいいんですがね。これをやりゃア、だいぶ楽ンなるもんですから……だが、どうも芸人が内職してるってえのはみっともねえんで……。しとつ、世間には内緒にしといて下さいよ」
「わかってるわよ。そのかわり、あたしにも教えてくんない? ……あたしもやりたいのよ」
こうなったら教えない訳にゃア参りません。良輔が彩色《えつけ》を教えてやるってえと、このコツの妻《さい》なるおかみさんが、また、たいへん器用にこなす。さア、それからは背中合わせの二軒が、相手に負けちゃアいけないってんでせっせと狐をこさえている。
一方、中橋の三笑亭可楽の家では、寄席がはねまして……その時分の寄席ってえのは、四つがはねだったそうですな。で、木戸にあがったお鳥目を前座が背負って帰ってきた。それを番頭が、誰がいくら、誰にはいくらと割《わり》をこさえております。と、ざアーッと雨が降ってまいりまして、可楽の軒下にとび込んで来たのが、近所に住んでるやくざの下っ端。
「なんてひでえ雨だ。ええ? やみそうもねえじゃねえか。ううッ、寒《さぶ》いッ。あアあ、今日ァついてねえや。丁と張りゃア半と出るし、半と張りゃア丁と出る。両方張りゃア、さいころが重なっちまいやがって、ええ? すってんてんになっちまった。おまけに帰りにゃア、この雨だ。ろくなことァねえや。おッ? なんでえ、あの音ァ……ここァ可楽の家だが……ははアン、客かなんか引っ張り込んでやってんな。何ィやってんだろ……≪ちょぼ一≫じゃねえな。が、丁半でもねえ……そうだッ、キツネだ。この頃素人ンとこで馬鹿にはやってるってえ話だ。キツネに違《ちげ》えねえ。こりゃアいいとっかかりが出来た。あしたの朝しとつ、掛けあってやれ」
「おう、師匠ァいるかい?」
「へえ。……どちらさんで」
「ちょいと師匠ィ会いてえ者だ」
「へいへい。ちょいとお待ちを……あのオ、師匠」
「なんだい? 表の掃除ァ終ったのかい」
「へえ、ただいまやってるン……へえ、が、ちょいと師匠に会いてえ者てえ人が来たんで」
「来たア? 来たとァなんだい。ええ? あたしを訪ねてらしたんなら、あたしのお客様じゃないか。ええ? ふだんからそ言ってるでしょ? あたし達の商売ァ、お客様あってのものだってえことオ……何のためにこうやって神棚にお灯明あげて朝晩手を合わせてるンだい? どうかお客様に怪我や禍《わざわ》いがないようにって……そうでしょ? その大事なお客様の耳に届かなくっても、そういう時ァ、お出ンなったとかいらっしゃったとか。ええ? もっと言葉づかいに気をつけなさいよ。……で、その方は?」
「へえ、表に待たして……いえ、表でお待ちで……」
「なぜお通ししないッ。お客様を外でお待たせするような了見だから、お前さんァいつまてたっても前座なんだ。さア、すぐお通ししなさい」
「へえ。……どうぞこちらィ」
「おう。じゃアちょいと、あがらして貰うよ……ヘェえ、いい家ィ住んでやがンな……えっ? あ、いいんだよ、茶なんざア……そうかい、済まねえな。……ああ、どうも。さすが噺家だけィ、いい湯呑ィ使ってやがんな。この煙草だって、俺たちが喫んでるのたァ違うんだろうなア、一服頂戴するか」
「どうもお待たせ致しまして。手前が可楽でございます」
「あっ、師匠……朝っぱらからあがりやしてどうも、済まねえこって」
「いえ。で、どういうご用件でございましょうか」
「へえ、そのオ……いや、用件てえほど大げさなもんじゃねえんだがね、少オし、こしれえてもれえてえんだ」
「と、申しますと……」
「実ァ、あっしが、ここンとこちっとも目が出ねえもんでね、にっちもさっちもいかねえんだ。で、師匠ンとこのオちょいと廻してもれえてえ。と、こういう次第《しでえ》で」
「はて、どういうことでございましょう?」
「ヘヘヘェ、こっちァ、ちゃアんと判ってんだ、キツネだってことァ……」
「手前にァさっぱり判りませんなア。まるで狐につままれたようなお話で」
「なにもそう、しらばっくれることァねえんだ。師匠ンとこでキツネやったって、別にこっちァどうってことァねえ、かまわねえんだ。が、そんな事オ世間に知られちゃア師匠が困る。あっしだって、世間に触れて廻るようなケチな真似ァしたくねえ。で、どうでえ、幾らかなにして、この話ァなかったことィするってえのァ」
「なにか賭けごとのお話のようでございますが、あたくしそういうものは、嫌いでございます。勿論、弟子にもさせませんし、した者は破門をいたします。どうやら家をお間違えのようなんで、これで失礼をいたします」
「おうおう、待っとくれ、師匠……ちェッ、行っちまいやがった。俺《しと》に恥ィかかせやがって……しらばっくれンのもほどほどにしろィ。冗談じゃねえやい……こっちァな、キツネができてんのァ、ちゃアんと知ってるんだ。覚えてやがれ。そのうちきっと……誰だい? そっから覗《のぞ》いてんのァ……」
「へっ。ええ、替りあいまして」
「寄席じゃねえやいッ。何でえおめえァ」
「へえ、あたくしァ、可楽の弟子でございまして……ここにゃア狐アございません」
「てやんでえ。ここでできてんの知ってるから来たんでえ。ええ? てめえみてえなかけ出しにゃア用アねえんだ。引っ込んでろィ」
「いえ、本当に狐ァここじゃアないんで……うちが違うんです、家《うち》が」
「嘘オつくないッ。何でえ、師匠の真似ェしやがって」
「嘘などついてやしません。ええ。これァ内緒なんですが、狐が出来ンのァ……そのオ……今戸のほうなんでして。……くわしく教えてもいいんですがね、よそィ行って言われると困るンですよ。……さいですか、じゃア、お教えしますがね、決してよそでしゃべっちゃアいけませんよ」
「ああ、判ってらア。言わねえから安心しな。……うん、おめえの相弟子の……良輔ってえ噺家ンとこで……朝っから? こいつァありがてえ。で、今戸のどの辺だい、その良輔ってえ噺家ン家《ち》ァ? ……うん……よし、判った。ありがとよ。儲かったらな、おめえに小遣いやるから、楽しみにしてな。じゃアごめんよ。……なるほどね。犬も歩けば棒に当たる、か。……ええと、雨戸がしまってるっ言《つ》ったな。と……ああ、ここだここだ。おう、良輔さん。いるかい?」
「ヘッ? へい。ど、どちらさまで」
「中橋の師匠ンとこで聞いてきたんだが……」
「えッ? 中橋の? ち、ちょいとお待ちを……すぐ開けますんで、……へえ、すぐ開けます……」
「いいんだ、いいんだ。そう慌《あわ》てねえでも……判ってんだから」
「へいッ、ただいま……さア、どうぞお入りンなって」
「おめえが良輔さんてえのかい? ……師匠ンとこで聞いたんだが、なんだって? おめえンとこでキツネができてんだって?」
「こりやァどうも……師匠ンとこで聞いてこられちゃア、隠しようがありませんな……へえ、出来ております」
「どんなのができんだい?」
「へえ、金張りとか銀張りとか、時によって違いますんで」
「ヘェえ、金張りに銀張り……で、顔ァどうでえ?」
「へえ、この頃やっと顔がそろうようになりまして」
「そりゃア大したもんだ。顔オそろえるってえのが、素人にゃア一番難しいンだ。ところで俺にもしとつ、こしれえてくんねえか」
「いえ、一つってえのァ困んですよ、まとめてもらァなくっちゃア。こっちも苦しンでやってんですから」
「そいつァありがてえや。まとめてくれりゃア、こっちァ大助かりだ。ちょいと見してもれえてえな、できてんのオ」
「へえ。その戸棚ン中でして」
「戸棚ン中? そいつァすげえや」
「へえ、こちらで。……どうです、これなんざア……いい顔でござんしょ?」
「何だい? こりゃア」
「これは金張りでございます。……こちらが銀張りで……」
「おう、ふざけるないッ。なにもこんな泥の狐ェ見に、今戸くんだりまで来たんじゃねえやい」
「へえ?……あのオ、狐じゃないんで?」
「俺が言ってるキツネってえのァなア、骨《こつ》の賽《さい》だ」
「ああ、千住《コツ》の妻《さい》ですか。そりゃア、裏のおかみさんです」
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寝床
旦那芸と申しますと、近頃では、小唄とか謡《うたい》のようでございますが、明治大正の頃は、その頃盛んでした、義太夫をなさる方てえのが、たいへん多うございました。まア、一口に下手の横好きなぞと申しますが、たとえ下手でも、ご自分だけで楽しんでる分には、まことに結構なことでございます。ところが、どういう訳か、下手な人に限って、他人様に聞かせたがるようでございまして
「旦那様。蔵から座蒲団を出しました」
「新しいのを出してくれたかい? ……新しいのばかり五十枚? ……ああ、それぐらいありゃアいい。じゃアそれをな、舞台前へずっと敷いて……もう敷いてある? そうかい。お湯は沸《わ》いてますか? ……たくさん沸かしといて下さいよ。お酒を召し上がる方に、お燗《かん》をします。あたしも汗をかきますから、あとで身体を拭くのに使います。羊羹はとどいてますか? 出す時は気をつけて下さいよ。この前みたいに大きな容物《いれもの》に入れると、図々しい方がひとりで食べちまったあげく、持って帰ったりします。召しあがるとも、お持ち帰りンなるとも、どちらでもいいように、めいめい紙にのせてお出しなさい。料理番は来てますか? ……そうかい、じゃア、いつお客様が見えてもいいようになってますね。で、繁蔵《しげぞう》はまだ戻ら……遅いねえ。帰ったらすぐここに寄こしなさい。そうそう、見台《けんだい》はな、こないだ出来た新しいの、あれを使ってみましょう。師匠はどうしてる? ……二階で調子を合わしてる? そうかい。師匠にそ言っとくれ、『今日はちょいと咽喉《のど》をやられておりますから、調子は一本がた、まけていただきたい』とな。お昼の煮物が、少ウし辛すぎると思ったら、案の定、てきめんに来ました。みんな気がきかないんだから……。誰か使いにやって、晒《さらし》を五反と、卵を二十ばかり……なに? 怪我人がある? なにを言ってるんです。誰も怪我なぞしちゃアいません。あたしが義太夫を語るのに要ります。卵は咽喉のすべりをよくします。晒は腹に巻いて、声に力をつけます。すぐに買いにやんなさい。……おうッ、おうッ、おおゥ、えへん……どうも調子がよくないな。おお、繁蔵か。ご苦労ご苦労。すっかり廻ってくれたかい?」
「へえ。お長屋、全部廻って参りました」
「ああ、ご苦労さま。今日は洩《も》れなく廻ったろうね。この前、定吉に廻らしたら、提灯《ちょうちん》屋に寄るのを忘れてしまったもんで、あとで会った時に『先だっては、お浄瑠璃をお語りなさったそうですが、手前どもにお知らせ下さらないとは、ひどいじゃございませんか』いやみを言われて困ったよ。今日は廻ってくれたろうね」
「へえ。一番先に参りました」
「そうかい。喜んだろうあいつ?」
「ええ、そりゃもう、たいしたお喜びで……なんでも提灯屋さんでは、屋形のほおずき提灯を三|百《ぞく》五十ばかり請け合っちまって、今晩のうちに仕上げて納めないと、川開きに間に合わないというんで、家中総出で、手をまっ赤にしておりました。へえ。で、折角のお招きですが、今晩はうかがえないので、悪しからずということで」
「おや、そうかい。なんて非運なやつだろうねえ。年齢《とし》まわりが悪いんだよ。また力をおとすといけないから、そのうち、さしでみっちり語ってやるからって、言っておやり。……金物屋はどうだ?」
「ええ、金物屋さんは、そのオ、今晩|無尽《むじん》がございまして。その無尽が、初回親もらいの無尽なんで、休むわけにいかないから、残念ながらうかがえない。と、こう仰言って……」
「まア、用があれば仕方がない。こっちは遊びなんだから。……裏の吉田の息子は?」
「吉田さんのご子息は、今朝がた、商用で小田原へいらっしゃいまして、お帰りは終列車になるそうでして。おっ母さんのほうは、ご存知の通りお年寄のところへもってきて、夏風邪をめしましたそうで、たいへん寒気がするとかで、このあったかいのに、夜着を三枚重ね、湯たんぽ三つに懐炉を七つ、それでもまだ寒い……こんな訳で、うかがえないのでよろしく……」
「今年は病人が多いねえ。陽気の変り目なんだから、気をつけなくちゃいけない。小間物屋はどうした?」
「へえ。小間物屋さんは、おかみさんが臨月《りんげつ》でございまして、今朝から、急に虫がかぶったそうで、家内が産をするのに、亭主が義太夫をうかがってたということが、後日、おかみさんの実家にでも知れますと、うるそうございますので……」
「さっきも、そ言ったでしょ? 病人は仕方ないって……で、豆腐屋は?」
「へえ、お豆腐屋さんでは、そのオ、お得意に年回がございますとかで、生揚げとがんもどきの註文を受けまして、夜なべ仕事を……と申しますのは、生揚げのほうは、豆腐の水を切って揚げるだけでございますから、よろしいんですが、がんもどきのほうは、中に入るものがございますんで、ちと、手数がかかります。蓮《はす》に牛蒡《ごぼう》に紫蘇《しそ》の実なんてものが入りますが、蓮は、皮むきでむきまして、切ればすぐ使えますからよろしゅうございますが、牛蒡のほうは皮が厚うございますから、庖丁でもって、こう、なでるようにいたしますが、なにぶんにも灰汁《あく》が強いもんですから、すぐ使うという訳には参りません。酢水で一旦、灰汁出しをいたします。紫蘇の実も、ある時分はよろしゅうございますが、ない時分は、塩漬けンなってるのを漬物屋から買って参りまして、塩出しをして使いますが、あまり塩出しをしますと、味が悪くなって……」
「なにを言ってるんだ。誰ががんもどきの製造法を訊《き》いてる? あたしが訊いてんのは、義太夫を聞きに来るのか、来ないのか……」
「へえ。ですから、そんな訳で、旦那さまによろしく……」
「それならそうと、さきに、来られないと言えばいいじゃないか。生揚げがどうの、がんもどきがこうの……高い米食って、余計なことを言いなさんな。鳶頭《とびがしら》はどしたい? なんのために印物《しるしもん》の一枚もやってんだい? ええ? こっちが黙ってたって、こういう時は、先にたって捌《さば》いてくれんのが当り前でしょ? どうしたんだい? 鳶頭は?」
「鳶頭はそのオ、なんですか、成田の講中にごたごたが起きまして、とても深川のほうでは話がまとまらないというんで、明朝一番で成田へ発たなきゃならない。一番と申しますと五時でございます。五時に発つには……」
「わかった、わかりましたよ。……おい、わかったと言ってるんだ。……お前さん、いくつだい? ええ? いちいち誰は来られません。誰は都合悪い……参りましたら、みんな来られません……これでわかる。いい年齢《とし》しやがって……長屋の者で来られんのは、一体、誰と誰なんだ?」
「へえ、それが……どうもお気の毒さまで……」
「なにがお気の毒だ。よろしい。長屋の方はみなさん、ご用で来られない。ましてや他人さまだ。やむを得ません。が、店の者はなにしてる? 宇兵衛《うへえ》はどうしました?」
「ええ、一番番頭さんは、昨晩お客様のお相手で、たいそうご酒をいただきすぎて頭が痛いから、失礼ではございますが、お先に寝《やす》ませていただくと申して、二階でふせっております」
「藤蔵はどうしたい?」
「藤どんは脚気でございまして、なんでも脚ががくがくして、まともに坐っていられないそうで、旦那さまのお浄瑠璃を、脚を投げ出してうかがっては失礼だからと、これも寝んでおります」
「常吉《つねきち》はどうした?」
「ええ。常どんは胃けいれんが起こりまして、黄色い水を吐いて苦しんでおりまして、ただいま注射をうっていただいておりますが」
「文吉《ふみきち》はどうだ」
「文どんはここんところ、神経痛が出まして、節々が痛くてたまらないが、お湯に入って暖《あ》ったまると、一|時《とき》楽になるからと申して、今しがた薬湯《くすりゆ》へ出掛けました」
「幸太郎は?」
「え? 幸どん? 幸どんはそのオ、なんでございます。ええ……あのオ……あれでございまして、そのオ……まったく……ええ、口が悪うございまして……いえ、歯じゃございませんで、あのオ……歯のつぎは……ええ、つまりそのオ……ええ……眼病ということで」
「眼病というのは、眼が悪いんじゃないか」
「へえ。眼病と申しますのは眼でございますが、脳病となりますと頭でございまして、腹痛は腹でして、足痛が……」
「なにを言ってる。耳が悪いから義太夫が聞けないというのなら話はわかるが、眼が悪くて義太夫が聞けない……そんな馬鹿な話がありますかッ」
「いえ、旦那さま。それは少しばかりお考え違いでございます。と申しますのは、旦那さまの義太夫は、ありきたりの義太夫と違いまして、ことのほか、お上手でいらっしゃいます。で、このオ、悲しいところへ参りますと、聞いてる者の眼に、自然と、涙が出て参ります。ところが、この、涙というのは、熱をもちますんで、眼病には一番悪いそうでございまして、眼が治るまで、旦那さまの義太夫は伺ってはいけないと、こう、眼医者のほうからのきついお差し止めで……」
「ばあやはどうした?」
「ばあやさんは、寸白《すばこ》でございまして、坊ちゃんとお寝みになりました」
「繁蔵。お前はどうだ?」
「ヘッ?」
「どうだ、お前は?」
「へえ、あたくしはただいま、ええ、お長屋のほうをずっと廻って参りまして、へえ。残らず廻りましたもんで……いえ、疲れたという訳ではございませんが、なにしろ一人で、このオ、ずっと……」
「ああ、ご苦労だったね。……だからさっきから、廻ってくれてご苦労だったと礼を言ってましょ? お前の身体の具合はいいのかい? 悪いのかい?」
「へえ、あたくしは、因果《いんが》と丈夫でございまして……」
「因果と丈夫たアなんだ? 無病息災、これ以上結構なことはない。それを因果と丈夫たア、なんて罰あたりなことを言うんだッ」
「ご立腹恐れ入ります。………いえ、よろしゅうございます。うかがいましょう……へえ、手前もう、覚悟いたしました」
「なんだい? その、覚悟したてえのァ」
「ええ。義太夫をうかがいます。うかがえばよろしいんでございましょう? へえ、うかがいます。さア、お語りあそばせ。てまえはこれまで、風邪はおろか、くしゃみひとつしたことがないという、丈夫な身体でございます。義太夫をうかがったからとて、命に別状はございますまい。てまえが、うかがいさえすりゃア、旦那さまのお腹立ちがおさまり、長屋の者、奉公人が、どれだけ助かるかと思えば、たとえ、てまえはどうなりましょうとも、うかがわなければ……さア、お語り……を……」
「馬鹿、泣いてやがる。……わかった、わかった。もういい。もう、わかりました。あたしの義太夫がまずいから、ない用事を無理にこさえたり、仮病をつかったり。聞かない算段をしてるんだ。よろしい、よしましょう。もう、語りませんから……かたづけなさい。かたづけとくれ。……一体《いってえ》なんて奴らだい。あきれ返ったよ、まったくウ……ええ? あんな、情《なさけ》ねえ奴らたア思わなかった。義太夫の人情なんてもんは、これっぽちもわかんねえんだから……。長屋の奴らだってそうだ。まともなのは一人だっていねえ……あの金物屋、世の中にあのくれえ無尽が好きな奴はいねえや。なんかてえと無尽無尽|言《つ》ってやがって、満回ンなったり、初回ンなったり、忙しいったらありゃしねえ。年がら年中無尽だらけじゃねえか。ああいうのが、不正無尽の会社おっ建てて、世間さまに迷惑をかけるんだ。小間物屋の嬶《かかあ》アだってそうだ。世の中に、あれくらい産をする嬶アなんていやしねえ。泥棒猫だって、ああ年中は妊《はら》まねえや……鳶頭にそ言っとくれ、鳶頭にィ。ええ? そんなに成田がありがたけりゃア、不動さまに金借りろってな。なんだい、暮《くれ》ンなりゃきまって、旦那《ダァ》さま、百……一度だってあたしが、嫌な顔をしたことがあるかい? ええ? 利息一文取ったことがあるかい? ……ま、おまえに言ったってしようがないが……。おい、繁蔵。義太夫なんてものはね、面白おかしいもんじゃないんだよ。だがね、昔の名人、上手と言われた人が、苦心してつくったものだけに、一段のうちには、喜怒哀楽の、情《じょう》てえものがこもってるんだ。なア? 悲しいとこ、武張ったとこ、勇ましいとこ、みィんなそれぞれ、脚本《ほん》を素読《すよ》みにしても結構なもんだ。それをなんでもかんでも、あたしが節をつけて語ってきかす……なに? 節がついてるだけ情けねえ? 誰だい? 陰でこそこそ言ってんのァ? ……こっちィ出て来いッ……そりゃア、あたしはまずい、ええ、まずうござんす」
「そうです」
「なにがそうですだ? そりゃアあたしだって、まずいのは承知している。けどねえ、あたしゃ素人だよ。商売人じゃないんだ。なア? だからこうして、みなさんを招待して、ご馳走をさしあげて……いいかい? 仮にもただで聞かせるんだ。……なに? これで金取りゃア詐欺です? おいッ、言いたいことがあんなら、こっちィ出て来て言いな……おい、繁蔵。もう一遍長屋を廻ってな、明日正午までに、店《たな》を全部ひきはらうよう、いい渡してきとくれ。……なにが乱暴だ? ええ? 店《たな》を貸す時に、いつ、なんどきでも、ご入用の時には、明け渡しますという証文が入ってるんだ。ちっとも乱暴なことはないだろう。店《みせ》の者もそうだ。あたしのうちに奉公してれば、たまには下手な義太夫の一段も聞かねばならず、定めし辛かろう。ましてや、病気とあっては、奉公さえも大儀だろう。今日かぎり一同に暇を上げるから、宿元へ帰って、ゆっくり養生するがいい。定吉、師匠をお帰し申しな。模様がえになりました、いずれ二、三日うちにお礼に伺いますってな。湯なんざあけちまえッ、菓子なんざ捨てちまえッ、料理番帰しちまえッ、見台なんざ踏みこわせッ。床《とこ》敷いとくれッ、あたしゃ寝ます」
「あのう、旦那さま」
「誰だいッ」
「繁蔵でございます。ただいまお長屋の方が参りまし……」
「長屋の者が来る訳ないでしょ? みんな用があるんだから」
「それが、みなさんお揃いで参り……」
「揃って来たって、あたしゃもう、語らないよ。帰しておしまいッ」
「さようでございますか。では……」
「おいおい、ちょいとお待ち。まアお入りよ。……一体、なん言《つ》って来たんだい?」
「それは勿論、旦那さまの義太夫を、これっぽっちでもいいからうかがいたいと……で、仕事のほうは、なんとかやりくりをつけまして参ったそうでして……まア、むげに帰すのはなんでございますんで、いかがでございましょう、お腹立ちのところは、いくえにもてまえがなりかわって、お詫び申し上げます。たとえ五分でも十分でも、ほんのさわりだけで……、ええ、なんでもよろしいんでございまして、旦那さまが舞台へ顔を出して下さりゃア、大喜びで、へえ。まア、てまえも間に入りまして、まことに困っておりますんで、ひとつ、あたくしを助けると思召《おぼしめ》して……いかがなもんでございましょう、お語り下さるというわけには……折角、あれだけのご趣向をなすって、それを全部むだにするというのも……」
「ごめんこうむるよ。あたしゃアね、お前さんの前だが、語らないといったら語りませんから、ええ。お前さんにゃアわかるまいが、義太夫なんてものは、いいかい? こっちが語りましょう、先方が聞きましょう。ぴたりと意気が合って初めて、語れるもんなんだ。こんな気の抜けた時に語れりゃア苦労しないよ。長屋の者だって、今更来られた義理じゃないだろ? いつだつてあたしゃ、陰ンなり日向ンなり、それ相応に尽したつもりだ。それを、あたしが義太夫を語るとなると、なんだかんだ言って、来なかったくせに……えっ? 芸惜しみ? おまえさん、変なこと言うねえ、ええ? あたしがいつ、芸惜しみした? ……なに、今? そりゃア今は、ちょいと気分が悪いから……え? みんなが一段でもうかがわないうちは帰らないって? そんなこたアないでしょ? ……いや、別に、勿体《もったい》なんてつけちゃいませんよ。……うん……そりゃア困るよ、聞かないうちは動かないてえのは……ま、そこまで言われて語らないてえと、後でまた、芸惜しみのなんのって言われるから……じゃア、今晩のところは、少うしだけでご勘弁願うとして、語ろうじゃないか」
「じゃア、そういうことに願います」
「定吉や……お前ね、師匠にすぐ支度を……なに? 帰してしまった? いけませんよ。誰かすぐ迎えにやらせな。お湯は沸いてるな? ……もう、洗濯物つけちまった? 料理番……それも帰つちまったのかい、しようがないねえ、早く呼んどいで。じゃア、とりあえず、お茶とお菓子を……お菓子は食べちまった? また、馬鹿に早いじゃないか。ええ? こういうことンなると、やけに気が揃ってんねえ……なに? まだ見台踏みこわしてないから、それほどじゃない? 冗談じゃないよ。とにかく、早いとこ支度しておくれ」
「今晩は」
「さきほどはどうも……」
「へえ、今晩は」
「ええ、今晩は」
「さア、どうぞどうぞ……いや、もうご挨拶ぬきで、さアさ……お忙しいとこをすいませんな……さア、遠慮なさらず奥のほうへ……おや、豆腐屋さん。おまえさん今晩、夜あかしで仕事だって聞いたが」
「へえ、さきほどお使いの方に申し上げた通り、夜あかしのつもりでおりましたが、なんせ好きな道のこってすから、仕事をしておりましても、今頃は旦那さま、なにをお語りンなってらっしゃるかと思うと、もう、仕事が手につきませんでな、三角のがんもどきやら丸い生揚げなぞをこさえちまって、家内から小言を食う始末でして、へえ。で、家内が、そんなにうかがいたいなら、かわりを入れたらいいだろうってえもんですから、仲間に頼みましてね、ようやくうかがえたような次第でして」
「まったく、あんたの義太夫好きなのには、恐れ入ったよ。職人を都合してねえ……そりゃアお気の毒だ。まア、職人の手間賃ぐらいはあたしのほうで考えさして貰うから、ひとつ、ごゆっくりとな……おや、鳶頭。おまえさん明日、成田だって?」
「なアに、成田へ行くなんざア……本当でして、さっき繁蔵さんが来て、今晩義太夫をやるから来いってんで、しまった……いや、ありがてえ、たとえ、腐った半纏《はんてん》……いえ、腐るほど半纏下さる旦那が、へっぽこ……なに、結構な義太夫を聞かして下さるってえんだ、是非出掛けなきゃなんて……ふだん、長屋の者も言ってるんで、あの旦那もいい旦那だが、義太夫さえやら……義太夫をやるから、ありがてえ。どうせ旦那のこったから、上手なこったろうてんで、まアなにしろ、おめでとうござんす」
「なんだか、さっぱりわからないが、まア、いいやな。さア、座敷のほうへ行って……」
「どうもご苦労さまで……しかし、驚きましたなア、店《たな》立てとは……」
「ええ、ええ、驚きましたとも」
「なんの因果で、ああ、義太夫を語りたがんでしょうねえ」
「まア、幾ら語ろうと構わないが、そのたんび聞かされる、こっちの身にもなって貰いたいよ。ああいう悪い声……いや、あれは悪い声てえんじゃないね、ああ。悪い声てえのァ、世間にゃいくらもあるが、ここの旦那みたいな、不思議な声てえのは、ちょっとないからねえ。夜中に動物園の裏手を通りゃア、ああいう声が聞こえてくるが、とにかく、身体に悪いてえ、不思議な声だ。こないだ、横丁の袋物屋の隠居が、この義太夫聞いて患《わずら》っちゃったんだから」
「ほう……どんな具合で?」
「なにしろ、家へ帰るてえとドッと熱が出ちまってね、医者に診せたが、さっぱりわからない。『なんか心当りはありませんか?』『義太夫を聞いたら、熱が出ました』『ほほう、じゃア、義太熱だ』てえことンなったが、医者でも薬の盛りようがないそうだ」
「大変な義太夫だ」
「だからあたしは、気付薬を用意してきた」
「実は、あたしも石炭酸の強いのを少しばかり持って来たン」
「そりゃアいい思いつきだ。石炭酸ならたいがいの黴《かび》菌は死んじまう……おやッ? 吉田の若旦那、どうなすったんで? ……気が早いじゃございませんか。義太夫を聞かないうちから泣いてらっしゃるとは……」
「へえ、今晩はとんだ親不孝を致しまして……まアお聞き下さい。今朝、あたくしは小田原へ用達《ようた》しに参りまして、終列車で帰るつもりでおりましたところ、いい塩梅に用事が早く片付きましたんで、急いで帰って参りました。途中で胸さわぎがしたものですから、駆け足で宅へ戻り、格子を開けますと、患ってるおふくろが、床から這い出して参りまして下駄を出してくれと申します。『おっ母さん、どこへ行くんです?』と聞きますと、『旦那のところから義太夫を聞かしてやるから来いという使いがあった。一度はお断りしたんだが、最前の使いで、聞きに来なけりゃ店立てをくわせると仰言るから、行ってくる』と申します。『そりゃアおっ母さん、とんでもない。身体の達者なものが聞いてさえ、二、三日は熱が出るという義太夫、ましてや病人のおっ母さんが聞かれたら、たちどころに命を取られます。あたくしが代りに参ります』と言いますと『いやいや、お前はまだ、先の長い身体、万が一のことでもあったら、私が、親類の者に会わす顔がない。私はどうせ長いことはない身体、生命を落したところで惜しくはない。どうしても私が行く』と申します。『そりゃアおっ母さん、いけません。親のかけがえはないと言うじゃありませんか。子のわたしが、みすみす母親が殺されに行くのをだまって見ていられましょう。わたしが参ります』と、すがりつく母親を振り切って出て参りましたが、後でどうなったかと、心配でなりません。近頃、警視庁でも、悪疫流行の折から、衛生上についていろいろ注意して下さるのに、なぜ、この義太夫のような、人間に害を与えるものを取締っては下さらないんでしょうか。あまりにも片手落ちじゃございませんか。それとも買収されてるんでしょうか? いずれにしろ、私は警視庁を恨みます」
「まアま、少し辛抱なさい。今にうまく場所をずらして、声があたらないようにしてあげるから……今晩、どのくらい語るつもりかな? それによって、こっちの覚悟を決めるんだから」
「さいですねえ、ひとつ訊いてみましょう。……ええ、旦那さま、今晩はどういうお浄瑠璃が出ましょうか?」
「えらいッ。そう来なくっちゃア……この義太夫というものは、演目を聞くだけで、気分がいいもんだ。いや、恐れ入りました。あなたがたが、それほどに力を入れて下さると、こっちも張り合いが出る。ひとつ今晩は、みっちり語りましょう」
「これじゃ、やぶ蛇だよ」
「まず最初は、咽喉調べのため、簾内《みすうち》を語ります。橋弁慶」
「なるほど、お勇ましいお浄瑠璃ですな」
「次が、伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》、御殿政岡《ごてんまさおか》忠義の段。続いて艶容女舞衣《あですがたおんなまいぎぬ》、三勝半七《みかつはんしち》酒屋の段。その後が三十三間堂|棟由来《むなぎのゆらい》、平太郎住家《へいたろうすみか》から木遣《きやり》。これはあたしの十八番《おはこ》だから、気を入れて聞いて下さい。その次が菅原伝授手習鑑《すがわらでんじゅてならいかがみ》、松王丸《まつおうまる》屋敷から寺子屋まで。次が、関取千両|幟《のぼり》、猪名川《いながわ》の家から櫓太鼓《やぐらだいこ》の曲弾きで、糸にもうけさせる」
「ああ、お三味線にもうけさせて、しめくくる」
「いえいえ、まだ肝心のものが出てません。玉藻前旭袂《たまものまえあさひたもと》三段目、道春館《みちはるやかた》の段。本朝|二十四孝《にじゅうしこう》三段目、勘助住家《かんすけすみか》の段。彦山権現誓助剣《ひこやまごんげんちかいのすけだち》、毛谷村《けやむら》六助|家《うち》の段。播州皿屋敷《ばんしゅうさらやしき》、鉄山館《てつさんやかた》の段。恋娘昔八丈《こいむすめむかしはちじょう》、城木屋店《しろきやみせ》から鈴ケ森まで。近河原達引《ちかごろかわらのたてひき》、お俊伝兵衛《しゅんでんべえ》堀川猿廻しで、また、糸にもうけさせます」
「それでおしまい?」
「いやいや、まだあたしの好きなものが出てません。伊賀越道中双六《いがごえどうちゅうすごろく》、沼津の段。碁盤太平記《ごばんたいへいき》、白石噺《しらいしばなし》新吉原|揚屋《あげや》の段。釜淵双級巴《かまがふちふたつどもえ》、継子苛《ままこいじ》めの段、その後《あと》、一の谷|熊谷陣屋《くまがいじんや》。仮名手本《かなでほん》忠臣蔵、大序《だいじょ》より十二段までぶっ通し、のちに紀州返《きしゅうがえ》しまで語る」
「大変お語りんなりますな」
「そうだな、夜の白々明けまではかかるだろう」
「さアさ、始まりましたから、みんな注意して、頭ァ、下げときなさい……だめだめ、もっと下げないと、まともにぶつかっちまうから……そうそう、そのくらい下げりゃア、声が上を通過するから大丈夫だ。油断して頭ア上げちゃいけませんよ。胸にズドンと一発来りゃア、致命傷ンなりますよ。まア、義太夫はまずいが、このご馳走のほうは、なかなかよござんす。なんせ、料理番が入ってるてえますから。お前さんもなにか……え? 酒がいいから、つまみはいらない? そっちは、やってるかい?」
「ええ。結構なお味ですな。そちら、お銚子はありますか? あなた、おひとついかがです? ああ、下戸ですか。じゃア、この羊羹を……」
「だけど、こうやって飲んだり食ったりしてるだけじゃ悪いんじゃねえんすか? ちったアほめなきゃ……」
「なにをほめんだよ? ほめるとこなんかありゃしねえやな」
「なくたってさア、ほめなきゃ義理が悪いじゃねえか?」
「よオッ、うまいぞオ、羊羹」
「羊羹ほめてちゃいけねえや」
「いいぞ、いいぞ、三味線……もいいぞオ」
「どうするウ、どうするウ」
義太夫を聞いてる者なんか一人もありゃしない。みんな勝手なことを言って、飲んだり食ったりしておりますうちに、腹の皮がつっ張り、目の皮がたるんで来る。最初は、コックリコックリ居眠りをしておりましたが、しまいには、横ンなって、グウグウ高いびきという始末。旦那のほうは、夢中ンなってやっておりましたが、あまり前が静かなので、さては感に堪えて聞いているのかってんで、そっと、御簾《みす》を持ち上げて見るてえと、まるで魚河岸のまぐろみたいンなってる。
「師匠、ちょいと待って下さい。あきれ返った奴らだ。私《ひと》に義太夫語らしといて寝てるたア、何事だい? なんだい? 番頭まで寝てんじゃねえか……鼻から提灯出しやがって……おいッ、宇兵衛ッ、起きろ起きろッ」
「よオッ、どうするどうするウ」
「どうもこうもねえや、義太夫はしまいだ。……さアさア、みなさんも帰って下さい。帰ってもらいましょう。うちは木賃宿じゃないんだ。お帰りお帰りッ……誰だい? そこで泣いてんのは? 定吉じゃないか、こっちィ来な。……泣くんじゃない、泣くんじゃない……どうした? ええ?」
「悲しゅうございます」
「悲しい……そうか。おまえはえらいッ。ああやって大人たちが、だらしなく寝てしまうってえのに、子供のおまえだけが、あたしの浄瑠璃に身をつまされて、悲しんで泣いてる。……うん? どこが悲しかった? そうだな、子供のおまえが悲しむとこてえと、先代萩の千松か?」
「そんなとこじゃない」
「じゃア、宗五郎の子別れだな?」
「そんなとこじゃない、そんなとこじゃない」
「釜淵双級巴《かまがふちふたつどもえ》の継子|苛《いじ》め」
「そんなとこじゃない、そんなとこじゃない」
「そこでもないってえと、一体どこが悲しかった?」
「あすこでございます、あすこでございます」
「あすこ? あすこって……あそこはあたしがいま、義太夫を語った床《ゆか》じゃないか」
「あすこは、あたしの寝床でございます」
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三軒長屋
ご近所づきあいというのは、あまり立入り過ぎてはいけませんし、かといって、まったく知らん振りしている訳にもいかない……なかなか難しいものでございます。ましてや、長屋で、住んでいる方のご商売があまりかけ離れておりますってえと、なにかと不都合なことが起こりますようですな。
ここにございます三軒長屋。とっつきが、江戸の華といわれます鳶頭《かしら》の家で、威勢のいい若い衆が集まっては、畳たたいて木遣《きや》りの稽古。酒でも入るってえと、都々逸《どどいつ》とか二上《にあが》り新内《しんない》とか、小粋な声が聞こえてくる。
そのお隣り、まんなかの家はってえと、玄関先に南天竹《なんてんちく》かなんか植えてあるという、粋《いき》な構えで、ご商売はってえと……お妾《めかけ》さん。旦那でも来れば、台広の駒に二十匁の絃をかけて、一中節《いっちゅうぶし》か端唄のひとつも始まるが、ふだんはひっそりとしている。
その奥の家の住人はってえと、|楠 軍 平 橘正 国《くすのきぐんぺいたちばなのまさくに》という、名前からしていかつい剣術の先生で、ここへ集まってくるのもまた、肩いからした、つんつるてんの着物にひだがのびちまって行燈《あんどん》のようになった袴《はかま》ァつけたのが、
「やア、近藤|氏《うじ》。あの宮本武蔵と佐々木巌流の試合こそ、痛快無比と申すのであろう」「うむ。さすがは武蔵。飛上って、相手に空《くう》を払わせたそうだのう。ワッハッハッ」
ちっとも面白かアない話を、割れ鐘《がね》のような大声で話しているんですから……、ま、難しいですわな。
「こんちワ」
「誰だい? ああ、辰かい。鳶頭《かしら》だったら居ないよッ」
「居ない? どこィ行ったんで」
「どこだか知らないよオ。亀の尾の寄合いに行ったっきり、鉄砲玉さア」
「てえと、三日も帰《けえ》って来《こ》ねえんですかい? ヘヘッ、それで姐《あね》さん荒れてんのかア。こりゃアまずいなア」
「なにブツブツ言ってんだい。まア、お上りよ」
「へい。……鳶頭ァ居ねえのかア……。弱ったなア」
「なんだい? ……頼み? あたしが聞いとくよ。どうせ、吉原《なか》ィでも引っ掛かってんだろうから」
「いや、品川《みなみ》じゃアねえか。なんでも、品川にゃア鳶頭《かしら》ィ夢中の女郎《おんな》がいるってえから。ま、鳶頭ぐれえ男っ振りァ良し、銭離れァきれい、そこィもってきて、おだやかで下の者を可愛がるとくりゃア、女が放っとく筈ァねえが……」
「おい、辰ッ。あたしが鳶頭ァ放つといたとでも言うのかい? お前、夫婦喧嘩させようって来たのかい?」
「とんでもねえ。実ア姐さん。ちっと二階ィ貸してもれえてえんで」
「なにすんだい? ……駄目ッ。駄目、駄目ッ」
「ひでえなア姐さん。なんにも言わねえうちから駄目ってんだから。なにも賽子《ガラ》ア振ろうの、花札《しっぺえ》引こうのってんじゃねえんだ」
「じゃア、なんだい?」
「実ア、喧嘩の仲直りィしちめえてえと思って」
「またやったのかい? あきれたねえ……。のべつまくなしじゃアないか、ええ? 相手代って主|代《かわ》らず、どうしてお前は、そう、喧嘩ッ早いんだろう」
「どうも姐さんア早合点でいけねえや」
「お前じゃないのかい? ……ヘコ半と久次? じゃ、お前はなんだい?」
「あっし? ヘヘエ、あっしゃア神様」
「なにが神様だ。フン、喧嘩の神様かい? 自慢にゃなんないんだよ」
「ところがギッチョン。時の氏神《うじがみ》ってやつでさア」
「てえと、仲裁人《ちゅうにん》かい? へええ、どういう風の吹きまわしかい。お前が仲裁人ねえ。こりゃア、恐れ入谷《いりや》の鬼子母神《きしもじん》だ。……で、どこでやったんだい? ……横丁の湯ゥで? また、熱いの、うめたのでやったんだろう」
「いや、最初《はな》ア、湯ン中で背中のおっつけっこなんかしてふざけてたんすがね、そのうちィ、久次の野郎がいい心持で唄いはじめた。と、半公が、てめえも負けずに唄おうとした途端、やっちまった」
「二人で歌ア唄って、喧嘩ンなる筈ないだろう?」
「てえのァ、半公が唄う前に下の方で唄っちまってね」
「なんだとオ?」
「なんせ、庇《へ》コ半ってくれえだ。あぶくだってでかいや。そいつがポコポコポコって浮いてきたかと思うと、久次の鼻ッ先で、ポワーソと開きやがった。だもんで、久次の野郎が『やいッ、なにしやがんでえ。ひとの鼻ッ先で臭い庇ェたれるとァ……。俺ィ恨みでもあるってえのかッ』ってえったんだ。そこんとこで半公の奴、済まねえとかなんとか、一言いやア良かったんだが、『出物腫物《でものはれもの》ァしゃアねえだろう。いちいちケチつけるない、黙って嗅ぎやがったくせィ。臭かったら嗅がなきゃいいじゃねえか。臭くなかったら銭ァとらねえやい』ってえったもんだから、『なにをッ』ってんで、流しィ出るや桶《おけ》の投げ合い。これが本当の≪桶狭間の合戦≫てやつで」
「馬鹿馬鹿しい」
「そのうち取っ組みあいンなって、久次の野郎が、半公のこめかみィガブッと喰らいついて肉ウ喰いちぎっちまった。半公が『痛えッ』、久次が『酸っぺえッ』ってえった隙《すき》イ、あっしと源太とで、グイッと二人を分けた」
「フーン。人間の肉って酸っぱいのかい」
「それがおかしいン。久次の野郎が吐き出したのオ見たら、梅干でやんの。半公の野郎、頭痛がするってんで、梅干|貼《は》ってたんだ。酸っぺえ筈だアな」
「くだらないねえ」
「まア、その場アなんとか納めたが、いつまた、もつれるとも限んねえ、今のうちィ手打ィしといたほうがいいんじゃねえかってことンなって……。が、祭ィ控《ひけ》えてることだし、入費《かかり》ィかけずにやりてえってんで……」
「うちの二階を、ってんだね? ……で、いつだい? ほかのことならいざ知らず、喧嘩の仲直りとなりゃア、鳶頭《かしら》ィ知れたっていいからいつだっていいが。ま、こういうことァ早くしといたほうがいいよ」
「あっしもそう思いやしてね、いま、表ィみんな待たしてあるン」
「あッきれた。貸さないってったらどうすんだい、ええ? ……貸すよ。貸すけどもね、今日ァおまきが居ないよ」
「なに、あっしらでやりますんで。二階さえ貸してもらえりゃア、もう、こっちのもんで……」
「だからって騒ぐんじゃないよ。本当にお前達ときたひにゃア、すぐ、この野郎だの、こん畜生だの、言葉が荒っぽすぎんだよオ。あたしゃ慣れてるから構わないが、近所迷惑だよ、ええ? ……ま、静かにやっとくれよ」
「へえ、承知いたしやした。姐《あね》さんの顔オ潰《つぶ》すような真似ア、あっしがさせねえ。乱暴な口ィきくやつがいたら、もう、ただじゃおかねえ。腕の一本や二本へし折って、舌アひっこ抜いて口ィきけねえようにしてやる」
「その分じゃお前が一番心配だ。……そうかい? じゃ、みんなア入れてやんな」
「へえ。……おう。みんなア入《へえ》んな。静かィすりゃア、姐さんが貸して下さるってえから」
「姐さん、こんちわ」
「おや、松つぁんかい」
「お邪魔しやす」
「ああ、寅さん、上っとくれ」
「ええ、こんちわア。姐さんどうもご無沙汰を……」
「なんだ、金坊か。いいからお上り」
「姐さん、済いません」
「源さんかい。ご苦労だねえ。……ああ、いらっしゃい。……はい、こんちわ。……ああ、お上り。……はい、いらっしゃい。……いいよ、お上り。辰ウ、随分大勢なんだね。いちいち挨拶してたら首が痛くならア。もういいから」
「おう。姐さんが挨拶抜きでいいとさ。さっさと上っとくれ」
「あいよ」
「ほいきた」
「あらよ、っと。誰だい? 押すのア。危ねえじゃねえか」
「馬鹿ッ。静かァしろってんだ、この間抜けッ。静かィしねえとぶん殴るぞオ」
「辰ッ。お前がうるさいんだよ」
「みんな上ったか? おう、次郎。てめえ何だって上ンだ」
「だって、上ンでしょ?」
「てやんでえ。二階ァ役付きばかりだい。てめえァ下でお燗《かん》番でもしてろィ」
「なら、最初《はな》からそう言やアいいじゃねえか。上れってえから……」
「次郎。逆らうんじゃないよ。こういうことァ順送りだアな。お前もそのうち役付きンなったら、みんなと一緒にあぐらかいて飲めるようになんだから」
「へえ。姐さんのように言って下さりゃアいいんすがね、あンの野郎、役付きンなったもんで、やけにでかい面《つら》アしやがる」
「いいんだよ。役付きにゃアそれなりの苦労があんだから。……奴。誰か来たよ。……誰だい? ……炭ィ持って来た? なんだい、炭ぐらい、うちで達引《たてひ》かアな。ま、いいや。次郎、炭取りァあすこにあるから。なにやってんだい、爪で縄《なわ》ア切るんじゃないよ。奴に鯵切《あじき》り出してもらいな。……炭ィ出すのに手づかみにするやつがあるかい。その手ェどうすん……ああ、ああ。あんなとこで拭いてェ……。坐る時ァ、尻《けつ》ゥはたいとくれよ。そこらに焜炉《こんろ》が……そう。渋団扇《しぶうちわ》ア、へっついの後にあるから。ここの火種ェ持ってって、そっちで起こしな」
「こんちわ」
「なんだい、徳。遅いじゃないか」
「ええ。……ああ、そこィ置いてっとくれ」
「そうか。酒と肴《さかな》ア誂《あつれ》えて来たのか」
「さいでがんす。おいッ、次郎。その刺身の上ィ紙でも布巾でもいいから掛けときな。火ァ俺が起こしてやるから、燗徳利ィ五、六本と片口の大きいのオ、奴に出して貰《もれ》えな。……姐さん、隣りィふさがったんですかい?」
「ああ、こないだ。……なぜだい?」
「なに、今、ちょいとオツな女が入ってったんでね」
「あれが隣りの……」
「何者ですゥ? 堅気じゃねえようだが」
「徳は目が利くねえ。ありゃア、人の持物。……伊勢勘《いせかん》の」
「だって、あすこァこないだ嫁が来たばかりで」
「ありゃア伜《せがれ》のほう。隣りァ親父の……」
「あの禿《はげ》ちゃびんの? フン、いい年齢《とし》しやがって、なんでえッ。爺イも爺イならあの女も女だ、あんな薬罐《やかん》のどこがいいってんだ」
「そりゃア懐さァ。金があらアな。金があるってえのァ、強いよオ」
「うーん、そうだなア。あんないい女が自由になんだから……。俺ァ腕っぷしァ強いんだがなア……。ああ、シャクだ。畜生ッ」
「お前《めえ》、どこあおいでんだよオ。……なあに、いいったってどうせお化粧《つくり》さ。一皮むきゃアそれほどのこたアないよ。そうだ、お前《めえ》達がいるうちィ、一《ひと》ッ風呂《ぷろ》浴びて来ちまおう」
「奴ッ。姐さんが湯ゥ出掛けなさる。履物《はきもん》出しな。……へい、大丈夫でござんす。喧嘩なんか決してさせねえんで……。じゃ、行ってらっしゃいまし」
「へい。ごゆっくり。次郎、俺ァ食物《のせもん》上ィ運ぶから、おめえ、燗《かん》つけっつくれ。……お待ちどおさん。酒ァいま来るから待っつくれ」
「徳ッ、ちょっと隣りィ見てみろイ。こないだまで空店《あきだな》だったのが、四ツ目垣ィして、青で新規に柵ウ結《ゆ》って、赤松のヒョロ五、六本植え込んで……なッ。あの石燈籠なんざア、大分銭がかかってんだろ。障子だって、どうでえ、弁慶の腰高《こしだか》とおいでなすった」
「なるほど。あんないい女が住むんだ、こう来なくっちゃア」
「ああ。今|入《へえ》るとこ見たんだ。で、姐さんに訊いたら、質屋の勘兵衛の囲い者だとさ。中肉中背、目はぱっちり、鼻すじのツーンと通ったすこぶるつきの別嬪《べっぴん》よ」
「本当かい?」
「嘘ついたってしゃあねえだろ?」
「出て来ねえかなア……。姐さんよりいい女か」
「あたりきよ。そりゃア姐さんだって悪かアねえが、三葉じゃねえがトウが立ってらアな。そこィいくと隣りの女ってえのア、……何てったらいいかなア……うん、そうだ。何とも言えねえいい女だ。……見てえだろう? ……ああ、見せてえ、見せてえ」
「なんとか見てえ……おッ、こうしようじゃねえか。誰か隣りィ行ってさ、何か訊《き》くんだよ」
「俺が行かア」
「てやんでえ。てめえァ口のききよう知らねえやい、あっしが行こう」
「ひとりだけってえのァ不公平だ。第一《でえち》、何訊くんだい?」
「そうだなア……『鳶頭《かしら》の政五郎ン家《ち》はどこでござんしょう』なんざアどうでえ?」
「そいつァ駄目だ。『隣りですよ』ピシャンて閉められちまうのがオチだぜ」
「だからさ、そこオうまくやりゃアいいんだ。『お隣りってえと、右隣りっでござんしょうか、左隣りでござんしょうか。左隣りってえと、向かって右でござんすか、こちらア背にして右でござんすか』いろんなことオ言ってるうちィみんなで見ちまやアいいじゃねえか」
「さすがア寅さんだ。だが、誰が行くんだい?」
「くじで決めようじゃねえか。おい、半公、おめえも引くんだろ? 窓ンとこでつっ立ってねえで、こっちィ来いよ」
「行けねえよ。いま、表の格子があいたとこだ」
「なにッ、あいた?」
「こりゃア手間が省けたぜ」
「出たア……なんだい? ありゃア……女中かい」
「女中? 手足が胴ィめり込んじまって、達磨じゃねえか」
「達磨? 悪いよオ、そんなことオ言っちゃア。達磨が気ィ悪くするぜ。ありゃア化物だアな」
「おう、化物。真っ昼間っからどこィ行くんだア、まだ出番じゃねえぞオ」
「そうだ、そうだ。引っ込んでろォい」
「達磨のお化けエ、引っ込めエ」
わアーッとはやしたてたもんですから、かわいそうに、女中は泣きながら家ィ駆け込んだ。
「おかみさアーン、お暇アーン、下せえエーン。もうウォーン、こちらでご奉公できねえエーン」
「どうしたの? 大きいなりして泣いたりしてェ、ええ? ……お前が表へ出たら……隣りの若い衆が……達磨のお化けだって……だからそ言ったでしょ? 今日はお隣りに若い人が大勢集まってるから、外に出るんじゃない、お使いはいいって……それを行こうとすんだもの……しようがないねえ。そんな泣顔して、旦那様がお見えンなったら……そら、いらしたじゃないか。みっともないから涙ァお拭きよ。……あアら、いらっしゃいまし」
「今日は暑いねえ。……どうした、竹や。ん? 粗相《そそう》でもしたか?」
「いえね、隣りの鳶頭ンとこに若い人が大勢集まってましてね、この子がちょっと表へ出たら、からかったんですよ」
「何てったか知らないが、そんなことで泣いちゃいけない。……ん? 達磨のお化けだって? なるぼど、うまいこと言うねえ。……なアに、あいつらの言うことだ。右の耳から左の耳にきき流しておきな。まったく口の悪いやつらなんだから。今も、あたしが横丁を入って来るってえとね、『薬罐がとんでる』って声がした。で、ひょいと上ェ見ると、あいつらが、あたしの頭ア指さして笑ってやがんだ。年寄りつかまえてさえこうなんだから、気にすることアないよ。うん」
「旦那。そう仰言《おっしゃ》いますけどねえ、からかうだけならよござんすよ。けど、集まりゃアすぐ、生かすの殺すのって喧嘩なんですから。物騒ったらありゃしない。そこへもってきて、奥の楠《くすのき》さん。『お面だア、お胴だアッ』って、朝から晩まで……いえ、この頃ァ、夜稽古があるんですから。間にはさまったこっちは、気のぼせがしてたまったもんじゃありませんよ。ねえ旦那ア。どっか静かなとこへ越したいんですけどオ」
「なにを言うんです、ええ? 越して来たばかりじゃないか。人間ァ辛抱が肝心ですよ。石の上にも三年。横丁の占者《うらない》見てごらん、ええ? ドブ板の上に七年もいるじゃないか」
「旦那は一ン日《ち》いらっしゃらないから、お分りンならないんですよ」
「分ってらィ。姐さんが静かにしろったってなア、葬式やってんじゃねえやい、手打ちじゃねえか、そうだろ。仲直りのめでてえ酒だ、じめじめ飲めるかってんだ。やい、仲裁人《ちゅうにん》、もっと注げッ」
「もう、よしなよ。そろそろ姐さんが帰る時分だアな。おひらきにしようじゃねえか」
「姐さんが何でえ。てめえは仲裁人じゃねえか。飲めッ」.
「大概《てえげえ》にしろイ」
「なんだとオ。声がでけえの、大概にしろの、黙ってきいてりゃいい気ンなりゃがって。てめえなんざア、そんな口ィきけた義理アねえ筈だ。てめえ、八年|前《めえ》のことオ忘れたか」
「また、古いことオ持ち出しやがったねえ……八年前にどしたってんだ」
「どうしたア? 忘れてんなら教えてやらア。耳の穴アかっぽじって、よオーく聞けイ。てめえ八年前の暮ィ、尻切半纏一枚で俺ンとこィとび込んで来やがって、『兄イ、あがきがつかねえ。何とか助けっつくれ』って、ひとを兄イごかししやがつた。『しゃあねえ、うちの二階ィでも居ろよ』ってえ置いてやった。どうでえ、覚えあンだろ。一夜あけりゃア正月だ。『これから獅子ィ持って廻るんだ、てめえも手伝え。どうだ、与助(鉦《かね》)ァ出来るか?』『いや、出来ねえ』『じゃア、笛ア?』『ホラなら吹けるが、笛アからっきし駄目だ』『いくらなんでも、太鼓ぐれえァ叩けんだろう?』『ああ、夜番の太鼓ァ叩いたことがある』。夜番の太鼓叩かれてたまるかってんだ。……『じゃ、なんにも出来ねえじゃねえか』ってったら、この野郎、『獅子ィ手伝う』ってやがった。獅子ィかぶるのア、喜助の役だ。与助一つ出来ねえ野郎が、獅子ィかぶれる筈がねえ、おかしいとァ思ったが、『後生だから』ってんでやらしたら、この野郎、寒《さぶ》いもんだから、暖《あった》まろうてえ了見なんだ。布《きれ》ィくるまったっきり動かねえ。『こんなうすみっともねえ獅子じゃア、下町ァとても流せねえ、山の手ィ行こう』ってんで、麹町ィ行ったら、立派なお屋敷から声がかかった。祝儀を二分くれたんで、『おう、二分いただいたぜ。威勢よくやれよ』ってったら、てめえ、二分の銭ィ目ェ眩《くら》んじまいやがって、玄関ィ突込んで、ぐるぐるっと廻ったもんだから、そこで遊んでた坊ちゃんの頭ィ、獅子の鼻面ァコツンとぶつけやがった。坊ちゃんがワッと泣きだしたんで、俺が、『坊ちゃん、あれは獅子がおどけたんですから、勘弁して下さいよ。あっしが坊ちゃんの代りィ、獅子を怒ってやりますからね、泣いちゃいけませんよ』って宥《なぐさ》めてるってえと、『こんなとこで遊んでやがって。この餓鬼ィ、やかましいやいッ』って、てめえ、獅子の口から拳固オ出しやがって、坊ちゃんの頭ア殴りやがつた。こっちァどうにも恰好がつかねえ。てめえを二つ三つ殴って、旦那に平謝りィ謝まって、そこオとび出した。やっぱり下町ィしようってんで九段坂ァ下りてくるってえと、子供が大勢ついて来て、『獅子の鼻から煙《けぶ》が出てる』ってはやしたてた。おかしいなア、そんな筈ァねえんだが……で、ひょいとまくってみるってえと、この野郎、焼芋オ食らってやがった。日本橋までくるってえと、魚屋の親方が、『さア、威勢よくやっとくれ』ってんで、祝儀ィ一両とはずんでくれた。二分さえあの始末だ。一両ときいたら気イ狂うんじゃねえかって、よっぽど言うのァよそうかと思ったが、言わねえと、なんだか俺がギッた(ごまかした)ようでけったくそ悪い。で、『おう、ご祝儀一両……』ってったか言わねえうちィ、てめえ、めくらめっぼうぐるぐる廻りやがってどっかイ居なくなっちまった。獅子が消えちまったってんで大騒ぎしてたら、『助けてくれエッ』って声がする。あの声ァどこだってんで探したら……二分で目エ眩《くら》んだくれえだ。一両と聞いて盲《めくら》ンなりやがって、穴倉の蓋《ふた》がとれてんのが見《め》えずに、そン中ィ落っ込っちまいやがったんだ。野郎ァどうでもいいが、獅子ァ借物《かりもん》だからってんで、ようやっと引き上げたら、獅子の鼻面ァぶっ欠いちまってる。てめえの鼻ならうっちゃっとくんだが、獅子の鼻とくりゃアそのままじゃ済まねえ。塗師屋《ぬしや》ィやって、でかい銭とられて直したんだ。てめえ、そン時の割前もよこしやがらねえで……」
「なんだとオ。ふざけたことオ抜かすないッ。何が世話しただ、べらぼうめえ。世話しなきゃなんねえことがあったからじゃねえか、こん畜生ッ」
「冗談じゃねえやいッ。俺がいつてめえの世話ンなったんでえ。面白えや、聞こうじゃねえか、この乞食野郎」
「なにをッ」
そばにあった刺身皿をとるが早いか投げつけた。相手がパッと体をかわしたもんですから、的を失った皿は、後《うしろ》の柱にガッシャーン。
「さア、殺すなら殺せッ」
「生かしておくもんか、待ってろィ」
ダダダダダアーッ。二階から駆けおりるってえと、台所から鯵切りィつかんで二階へ上ろうってえ時ィ、姐さんが湯ゥから帰《けえ》って来た。
「お待ちッ、なにすンだよ、馬鹿ッ」
「姐さん、うっちゃっといてくんねえ。野郎と一匹|取替《どっけえ》だ。叩っ斬ってやる」
「なに言ってんだい。喧嘩にうち貸したんじゃないんだ。物騒な真似しやがって。こっちィ寄こしな」
「いいから離してくんねえ」
「いいかげんにしろッ。みんななにやってんだいッ。誰か来とくれッ」
「いやア、お待たせ申した。早速稽古にかかろう」
「先生はお帰りのところでお疲れのご様子。暫時《ざんじ》休息なされては……」
「けしからん事を申すでない。剣術をなんと心得る? 遊芸とは違うぞ。武士たるもの、敵と戦う段になって、疲れておるからと勝負をよすことが出来るか、たわけ者めッ……さア、お相手致そう。かかって来い」
「はアッ」
「さアさアさアさア……どうしたア」
「お胴ゥ」
「まだまだまだ」
「お面ッ」
「まだまだ……来いッ」
「お小手エーッ」
「よオーし。……行くぞオ。……お胴ゥ、一本」
「あららららア」
ドッシーン。
ダダダダダッ
「お待ちったらッ。誰かとめておくれエッ」
「やいッ、息の根エとめてやるぞッ」
「さア殺せエーッ」
「やりゃアがったな、この野郎ッ」
「ウッ。……こん畜生めッ」
「こりゃアひどいねエ。おいおい、棚のもんを下ろしときな……あッ、痛ッ。ああ、痛え。なんだ、お神酒《みき》徳利か。こんなもんでも、もろにぶつかると痛いもんだねえ。だから棚のものを……あッ、そこの薬罐が……棚はいいッ……薬罐を押えろッ。……あアあ、薬罐に漏《も》りをこしらえちまった」
「旦那ア、お願いですから越して下さいよ。なんでしたら、あたしが探しますから」
「まア待ちなさい。お前が辛抱出来ないというのは無理ァない。……だがね、なにもこっちが越すにゃア及ばないんだ。と言うのはな、お前にゃアまだ話してなかったが、実ァ、ここは、あたしンとこの家質《かじち》抵当に入っててな、もうすぐ年限《ねん》が切れるんだ。そうなりゃア、両隣りを立たしてしまうから、三軒を一軒にして使えるようになる。そしたら、鳶頭ンとこは物置と、竹やの部屋にでもして、奥の楠さんの方は庭にすりゃア、大分広くなるだろう。それまでの辛抱だ。……なアに、たかの知れた仕事師に棒振りだ。引越料の少しも握らせりゃア、喜んで引越すよ。……ま、そんな訳だから、も少し辛抱しとくれ」
それを聞くと、妾の方はホッとしたんですが、女中の方は、部屋をもらえる嬉しさと、達磨のお化けと言われたくやしさがゴッチャンなって、もう、ウズウズして来た。夕方になるのを待ちかねるってえと、井戸端へ行ってしゃべったから、たまらない。その日のうちに鳶頭《かしら》のおかみさんの耳ィ入った。
鳶頭が帰らないんで、ジリジリしているところへ、そんな話を聞かされたもんですから、さア、姐さん、腹ン中はひっくり返るよう。まア、並の女なら、泣くか、わめくか、ふてくされて寝ちまうかなんでしょうが、もともと勝気な女《ひと》ですから、そんな事ァしない。長火鉢の前に坐ったっきり、おっかない顔してジーッと一点をにらみつけてる。こういう時ァ、側に寄らないほうがいいってんで、誰も近付かない。姐さんァ、あたるもんがないからってんで、やたらに煙草をふかしちゃア、キセルにあたってる。キセルのほうこそいい迷惑で……。いつもだったら、ポンと灰を落とすのに、バシーッ。叩きつけられんですから。……雁首が落ちゃしないかって、ハラハラしながら火あぶりンなってる。
そこへ鳶頭が、鼻歌まじりで帰って来た。といっても、三日も家ィ空けたんですから、まさかそのまま格子ィ開ける訳にゃアいかない。で、鼻歌ア叱言《こごと》にかえまして、
「おうおう。奴オ。奴ッ、表が汚ねえじゃねえか、掃除ぐれえしろイ。これじゃアまるで掃き溜めだい、掃いとけ掃いとけッ」
「奴ッ、うっちゃっときな。どうせ店立《たなだ》て喰ってんだ。掃除なんかすることァないよッ。掃くんじゃないよッ」
「なんだい、でかい声出して、みっともねえ」
「お帰ンなさい。鳶頭ア、お前さん、どこのたくってたんだい? 居所ぐらい知らしといて呉んなきゃア困るじゃないか」
「なんだい、その、のたくるってえのァ……。蛇じゃねえやい。なにも二日や三日家ィ空けたからって、家鴨《あひる》じゃあるめえし、ガアガア言う事ァねえだろ。きのう今日、半纏着の嬶ァになったんじゃあるめえ」
「あたしゃアね、なにも嫉妬《やきもち》で言ってんじゃないよ」
「じゃ、何だってんだ。ひとが帰る早々、でかい声でわめくたア……。野中の一軒家じゃねえやい」
「だから、大変な事ンなっちまって。……店立て喰ってんだよ」
「そいつァしゃあねえや。『ご入用の節ァ、いつなんどきでも、明け渡します』ってえ証文入れて、ここィ入ったんだから」
「だって、それァ家主《おおや》に入ってんだろ? 何も隣りの妾や、伊勢勘に入れたんじゃないんだろ? だったら、店立て喰わせるなんて事ア出来ないよねえ」
「あたりめえだ。だが、何だって伊勢勘が店立て喰わすんだ? ……わかんねえなア」
「あたしだって、何だかわかんないよ。≪かじき≫程度って言われたって……」
「かじき程度オ? じゃ、刺身にしてもらったらいいんじゃねえか。だが、おめえ、質屋の話ィしてんだろ? 何だって魚屋の話ンなんだよ」
「かじきったって、魚じゃなくてさア、ほら、なんでも入れちゃうとか、入ってるとか」「魚じゃなくって、かじきィ入れちゃう……てえと、盤台かい?」
「違うよッ。どうしてわかんないんだろうねえ。ああ、じれったいッ」
「じれってえのァ、こっちだい。おめえが何か言うと余計こんがらがって来《く》んじゃねえか。……ところで、おめえ、その話ィいつ聞いたんだ? ……今日の夕方? で、俺が居ねえ間ィなんか……おめえ、心当りアねえのか?」
「でもオ、店立て喰うってほどのこっちゃないよ。……実ァ、お前さんの留守にね、『喧嘩の仲直りィするんで、二階貸してくれ』って若い者《もん》が来たんでね、まア、貸してやったのさ。で、飲んだ揚句がまた喧嘩でさア、取っ組み合いが始まったんだよ。だけど、そんな事ァ、いま始まったことじゃないだろ? ……なのにさア、隣りのあの女ときやがったら、うちと、楠さんとこの剣術の夜稽古とで血のぼせがするの、気のぼせがするの言《つ》ってさア、越してくれって、あの薬罐頭ァ煽《あお》ったらしいんだよ。そしたら、薬罐がすっかり沸《わ》いちまってさ、『ここァ、俺ンとこのかじき程度に入っててもうすぐ年限《ねん》が切れるから、そしたら両隣りィ店立て喰わして、三軒を一軒にしてやる』って。だもんで、女中が『ここァ、うちのかじき程度だ、かじき程度だ』って……ああ、それそれッ、家質抵当《かじちていとう》……そう言い触らして歩いてんだよ」
「ふーん。……別に感心してるんじゃねえよ。……だが、あの伊勢勘とこァ、親父が出入りしてて、盆暮にゃア半纏の一枚も貰ってたんだから、そう、むやみな事ァ出来めえ」
「なに言ってんだい。お父っつぁんが貰ったからって、お前さんまで遠慮するこたアないじゃないか。こっちァ出入りがとまってて、手拭一本貰っちゃアいないんだから、なにもでかい面アさしておく事《こた》ァないよ。お前さんだって男だろう? 『たかが知れた仕事師』だの、『引越料の少しも握らせりゃア、喜んで引越す』だの言い触らされて、それでもお前さん、黙ってんのかい? フン、男がすたらア」
「うるせえッ。静かにしろイ。どうせ、いま行ったって、隠居ア居ねえんだ。あしたまで待ちな」
さて、あくる日ンなりますってえと、
「おい、羽織出しねえ」
「羽織? 刺ッ子かなんか着てきなよ、鳶口《とびぐち》持ってさ。薬罐のどてっ腹ィ穴アあけとくれよ」
「いいから羽織出しな」
羽織を引っかけて、表へ出ますってえと、隣りを素通りして奥の剣術の先生のところへ……いかにも剣術の先生の家らしく、武者窓がきってあります。正面の長押《なげし》にゃア、槍が一木、錆《さび》を着て寝そべってまして、両側の高張提灯はってえと、退屈だとみえまして、大きな口ィあけて欠伸《あくび》している。一刀流指南処楠軍平橘正国と書かれた控え目な表札に、蝿が一匹とまっていて、鳶頭が、フッと吹くってえと、蝿と一緒に表札もとんじまった。掛け直そうと、ひょいと裏ア返すと、ちゃアんと焼印が押してある。『ああ、これが本名か。聞いたことがある名前だ。はて、どこで聞いたんだっけ』よくよく考えたら、かまぼこ屋の名前だった。ま、あまりいい先生じゃアないようで……。
「お早ようございます」
「どオれ……いずれから参られたか?」
「あっしァ、角の政五郎てえ鳶の者でやんすが、先生ィちょいとお目にかかりてえんで」
「ああ、さようか。しからば暫時《ざんじ》お控えのほどを」
「なに、政五郎殿が? こちらへお通し申せ。……おう、これはこれは、政五郎殿か」
「どうも、先生、ご無沙汰いたしやして」
「いやいや、無沙汰は互いのこと。さ、さア、そこは端近《はしぢか》、いざまず、これへ。お越し下されエ……」
「ははアー。先生、芝居しに上ったんじゃねえんでやんす。ちと、内々《ねえねえ》のご相談がござんして。……恐れいりやすが、ご門弟衆をちょいと……」
「遠ざけよ、と仰《おお》せか? ……心得た。これこれ、石野地蔵、山坂|転太《ころんだ》。政五郎殿より、ご内談がござる。そのほう達、次に下がって休息いたせ」
次ィ下がれったって、次の間なんてありゃアしない。しょうがないから、井戸端で陽なたぼっこかなんかしている。
「して、いかなるご内談でござるか……フムフム……なにッ? 伊勢屋勘兵衛が、さような事を申しておるのかッ。おのれ、にっくき奴めッ」
「先生、これア内々の話なんすから、そう、でかい声されちゃア困るんで。もっと調子ィ落として貰わねえと。……で、まア、そんな事オ言い触らされて、黙ってるってえのもどうかと思いやしてね」
「うーむ。たわけ者めッ。たとえ借家とは申せ、この|楠 軍 平 橘 正 国《くすのきぐんぺいたちばなのまさくに》が住まわば、城廓でござる。表口は大手となし、裏口は搦手《からめて》、引窓を物見|櫓《やぐら》といたし、前なるドブは、堀とみなしておる。それを店立てとは、城攻めにも等しきこと、不届《ふとどき》千万なり。……いや、加勢はいらん。手勢をもって滅してくれん。おう。……石野地蔵、山坂転太。戦さの用意をいたせ。火薬をもって、隣りに地雷火を仕掛け……」
「先生、ちょいと、待っとくんなせえ。なにも、そんな大げさな事ァしねえでも、あんな家の一軒や二軒、あっしがひょいとアゴで合図すりゃア、うちの若え者《もん》がひっくり返しちまうんですがね、まア、じかに言って来たわけじゃねえんで、そうもいくめえ。で、まア、ここンとこァ、勘兵衛の鼻アあかしてやりゃアいいんじゃねえかってんで、ご相談に参った次第でして」
「して、その相談とは?」
「へえ。先生、ちょいとお耳を貸しとくんなさい」.
「うむ、計略でござるな……なるほど……フムフム」
「先生、どうですゥ?」
「なんでござる?」
「おわかりンなンねえンですかい?」
「さっぱりわからん」
「えッ? わかんねえのに『なるほど』ってえのァ、ひでえじゃござんせんか」
「いや、これは失礼をいたした。拙者、壮年の頃、武者修行に参った折、日光中禅寺において天狗と試合を致し、こちらの耳を木刀でしたたか打たれた。以来、聞こえなくなっておる」
「聞こえねえ耳ィ出したってしゃあねえや」
「いや、他人に貸すのは、悪い方からと申す」
「冗談言っちゃアいけねえ。聞こえる方の耳にしておくんなせえ。……じゃ、ちょいと前をごめんなすって……」
「……なるほど。……これは面白い。早速とりかかることにいたそう」
どんな相談が纏《まと》まったものやら……鳶頭《かしら》は帰っていった。間もなく、行燈のような袴《はかま》に長い刀を腰に差した先生が、鉄扇を手に、朴歯《ほうば》下駄ひっかけて、出て参りました。
「頼もう。……頼もう」
「おいおい、どなたかお出でになったようだ。出なさい。……え? お隣りの楠さんが? ……ああ、そうかい。こちらへお通ししておくれ。……さアさ、どうぞお入り下さいまし。おい、お座蒲団を……さア、こちらへどうぞ」
「ごめんつかまつる。まずははじめてお目にかかる。拙者、隣家に住み居《お》る楠軍平橘正国と申す武骨者、以後お見知りおかれたい」
「申し遅れました。手前がここのあるじ、伊勢屋勘兵衛でございます。まア、手前どものほうからご挨拶に伺《うかが》わなきゃならんのですが、なにやかやと忙しいもんで……失礼をいたしております。……しかし、まア、女ばかりを残して手前が留守に出来ますのも、先生がお隣りということで、まア、安心していられますんで……。今後ともひとつ、よろしくお願いをいたしとう存じます」
「これは恐れいる。……いや、どうぞお構いくださるな。さて、ご主人。拙者が参ったのは、ほかでもござらん。実は、暇乞《いとまご》いかたがた、少々お願い申したいことがござる」
「はあ? お暇乞いと申しますと?」
「左様。実は、拙者の道場も門弟も増え、手狭となり、稽古もままならぬ有様。折しも応分の家が見つかりしゆえ、転宅致すことに相成った」
「それはそれは、結構なことで……いやいや、折角こうしてお近付きになりましたのに、ご転宅を。さいですか。それはお名残り惜しいことでして。まア、ご繁昌でなによりでございますな」
「されど、転宅には、何かと入費《かかり》を要するが、拙者、浪々の身、まとまったる金子の貯えはござらん。さればとて、門弟どもの世話になっては、武士たるものの面目が立たん。ついては、千本試合をいたし、その収入《あがり》をもって、転宅致そうと、かように存ずる」
「それは結構でございますな。が、まア、そのようなことでございましたら、手前ども、お稽古には慣れておりますんで、わざわざお越し願わずともご心配には及びません」
「いや、この千本試合と申すのは、他流他門の者が集まり、試合を致すのでござるが、道場が手狭なれば、三日はかかろうかと存ずる。また、稽古とは異なり試合でござるゆえ、木刀、竹刀《しない》のみならず、中には、意趣遺恨《いしゅいこん》により、真剣をもっていどむ者もあるやも知れん。されど、大勢のこと、拙者の眼の届かぬ場合もござろう。さすれば、切り合いは知れたこと。腕の五、六本、生首の二つ、三つは、ご当家へ転がり込むやも知れん。また、手負いを受けし者が、垣根を踏み込え、乱入致さんとも限らん。甚だご迷惑とは存ずるが、三日の間、堅く戸を閉められ、表へ出んよう、お願いかたがた、お断りに参った次第でござる」
「先生、そんな勇ましいことをおやりンなるんでございますかア? ……ところで、そのオ、まことに失礼な事を伺うようでなんですが、そのご転宅料というのは、いかほどぐらいございましたらばよろしいんで」
「うむ。収入《あがり》高のうちから諸雑費を引いて、手元に五十金は残ろう、という心づもりでござる」
「五十両……さようでございますか。実は、手前は、伜に代を譲りまして隠居の身でございますが、俗に申す年寄りの小袋銭が五十両程ございますんで、差出がましいようでなんですが、これをご用立て下さいましてはいかがなもんでございましょうか」
「いや、折角でござるが、お断り申そう。拙者、昔と違い浪々の身、返済申すあてもござらん。あてのない金を拝借するは、まことに心苦しい。お断り申そう」
「いや、お返し頂かずともよろしいんで、へえ。その、千本試合とやらをおとどまりさえ願えますれば、こちらはもう、助かりますんで」
「拙者とて、命にかかわること、好んで致すわけではござらぬ。……しからば、折角の思召しゆえ、拝借仕まつる」
「さいでございますか。おいおい、その皮文庫を持って来なさい。……どうぞお収め下さいまし」
「これは千万かたじけない。いずれ一度は返済致す所存でござる。……あいや、拝借致そう。金子調達なりし上は、明日、転宅致す所存。早朝のことゆえ、暇乞いは致さん。転宅の上、ご挨拶申そう。お内儀《ないぎ》、大きにお邪魔いたした。しからばこれにて、ご免ッ」
「ああ、びっくりした。……ええ、ええ、あの勢いじゃアやりかねませんよ。まア、五十両で事が済みゃア安いもんだ。あたしゃア、『武士たる者に無礼千万』とかなんとか言われやしまいかって、ひやひやしてたんだ……まア、済んで良かった。……なに? ……隣の鳶頭《かしら》が見えた? ……いや、こっちでいい」
「どうも旦那ア……へえ、じゃア、ちょいとごめんなすって。……どうもご無沙汰致しやして」
「なアに、あたしの方こそ、こうやって、近所に越してア来たが、鳶頭ンとこは、つい心安立で、まだ近付きにも出なかったが、まア勘弁しとくれ。しかしまア、鳶頭が隣りってえのは、心強いんだ。何しろ、こうして女ばかりで置いとくんだから……。ま、近いんだからね、たまにゃア遊びに来てやっとくれ」
「へえ。まァ、あっしもそうしてえンですがね、実ア、お暇乞いに参りやしたんで」
「おやおや。どっかへ行くのかい?」
「いえ、今度、大仕事を請負いやしてね、大勢若え者《もん》を家ィころがしとかなきゃなんねえんだが、今ンとこじゃ狭くてしゃあねえんで、わきィ移ろうてえ……こう思いやして」
「引越すのかい? だって鳶頭んとこは、こないだうちィずっと大工が入ってて、やっと手エ引いたばかりじゃないか。勿体《もったい》ないよ。……だが、まア、そんなでかい仕事なら、儲けだって……なア。まア、結構な事だ」
「へえ、そりゃアそうなんすがね、あっしらの仕事てえのァ前金じゃねえんで、まア家ァ決まったもんの、大井川ンなっちまってね」
「なんだい? その、大井川てえのは」
「越すに越せねえ。まア、若え者《もん》に助《す》けて貰やアいいんだが、頭《かしら》だの尻尾《しっぽ》だのって言われてそんな事《こっ》ちゃア、あっしの男がすたる。これまで手拭一本配った、猪口一つ振ったてえこともねえんだが、今度《こんだ》ばかりはしゃあねえ、花会《はなけえ》やらかして、そいつで引越そうてえ事ンなって。まア、茶屋小屋借りりゃアいいんだが、銭がかかンで、家でやりてえ、……こう思いやしてね」
「大勢集まんのかい?」
「そりゃアもう、江戸中の組の者が集まるんで、どしたって三日アかかりやすんで……まア、入費《かかり》ィかけずにやろうてえくれえだ。酒だって菰《こも》っかぶりの鏡ィ抜いて、柄杓《ひしゃく》放り込んで座敷ィ据えときゃア、飲みてえやつァ勝手に飲むだろうし、鮪《まぐろ》の胴身《どて》の五、六本も、醤油と刺身庖丁つけて転がしときゃア、食いてえやつアてめえで切って食うだろうてえ……」
「そ、そんな。危ないじゃないか」
「ま、あっしも気ィつけちゃアおりやすが、何しろ大勢だもんで、気の荒え野郎がいるのァ勿論、ふだんァおとなしいが、気違《きちげ》え水が入りゃア、命知らずンなるってえのもいる。いつ喧嘩ンなるか、とんと見当がつかねえ。あっしだって、喧嘩が五つ、六つと始まりゃア、とても押えきれねえ。てえと、血だらけの者だの、野郎の切身だのってえのが、こちらィ飛び込んでくるかも知れねえ。で、まア、そんな事ンなんねえように、三日の間アひとつ、表裏アしっかり戸オしめて、外ィ出ねえようィ願えてえ。で、ちょいとお願《ねげ》えに上ったんでがんす」
「ああ、そうかい。おやりよ。……いつでもいいから、おやんなさい。威勢が良くていいじゃないか。あたしゃそういうの、好きだよ。……いいからお前は黙ってなさい。……だがね、いくらあたしが好きだっ言《つ》っても、女達は驚く。ええ、肝《きも》オ潰《つぶ》すよ。……いくら引越の入費をこさえるからったって、そりゃア鳶頭、あんまり趣向が若過ぎやしないかい? それより『これこれこういう訳ですから、旦那、何とかして下さい』って、なぜ言って来ない? ……そりゃアお前の代になって出入りを止めたが、あたしが止めたんじゃない、伜がああだから、止めたんだ。お前とあたしの仲だ。そう言ってくりゃア何とかしてやる。一体、いくらありゃアいいんだ? ……五十両? そうか、じゃアあたしが出してやろう。……いいよ、そんな……上げるから。……おい、また持っといで。……さア、持って行きな」
「どうも相済んません。何だか催促に来たみてえで……悪く思わねえでいただきてえんで」
「そりゃア良かア思わないよ。……で、いつ越すんだい?」
「へえ、明日越しやす。朝が早えんで、ご挨拶ァ引越してから改めてさしていただきやすんで、へえ。……どうもお内儀さん、済いやせん。旦那、ありがとうござんした。じゃ、これでご免なすって」
「おーい、鳶頭《かしら》ア……ちょいと待ちな。そう言やア、さっき楠先生が来て、明日の朝、引っ越すって言ってたが、お前、何処《どこ》へ越すんだい?」
「へえ。……あっしが先生ンとこィ越して、先生があっしンとこィ越しやす」
[#改ページ]
富久《とみきゅう》
十二月というのは、なんか落着かない、気忙《きぜわ》しい月でございますが、町のあちこちに、お正月の飾り物を売る歳の市が立つ、なかば頃になりますてえと、一段と気忙しさが増すようでございます。
昔は、この、歳の市が立つ頃になりますてえと、紋付の着物に、葱《ねぎ》の枯れっ葉みたいな袴《はかま》アはきまして、白足袋に、白い鼻緒の日和下駄アつっかけまして、
「ええ、大神宮さまのお祓いイッー…ええ、大神宮さまのお祓《はら》いイッ」と言いながら、家から家を、右手に御幣《ごへい》を持ち、風呂敷包みを、脇にこう、抱えて廻って歩く、大神宮さまのお祓いというのが参りました。
その頃、ま、たいていの家には、入った正面の高い所に、大神宮さまと申しました、伊勢神宮を祀《まつ》った神棚がございまして、どこの家でも、年の暮れになりますてえと、伊勢神宮の御師《おし》に、大神宮さまのお祓い、つまり、祈祷ですな、それをしてもらいます。そして、古い大麻《たいま》、平たく言やアお札《ふだ》のことですが、古いお札を、新しいお札と交換してもらいまして、注連縄《しめなわ》も、歳の市で買った新しいのに張り替え、家によっては、お宮も買い替えまして、新年を迎えたものでございます。
この、新しいお札を持って、お祓いに廻ってくる、伊勢神宮の御師のことを、大神宮さまのお祓いと言っておりましたが、まア、暮ンなりますてえと、大変目立ったものでございます。
「おや、そこへ行くのは、久さんじゃないかい?」
「ヘッ? ……エヘヘ……どうもしばらくでございます」
「どこ行くんだい?」
「どこってこたアないんですがね、家にいると掛けとりが来て、うるさくてしようがないもんですから、ええ。ここんとこずうッと、夜ンなるまで外に出てるようにしてんです」
「商売はやめちまったのかい?」
「いえ、やめたって訳じゃないんですがね、ちょいと、このオ……休むようになっちまって」
「また、しくじったのかい?」
「ええ、ええ、もう、ばかなしくじりかたでねえ、自慢じゃないが、江戸中一人だって客はいませんや、ええ」
「しようがないねえ。また、酒だろ? まったくお前さんときたら、飲むってえと、だらしなくなっちまうんだから。折角、江戸で一、二と言われる幇間《たいこもち》になったってえのに」
「どうも、そう言われると面目ねえんでして……ところで、どちらへ?」
「うん、風が出て来たんでね、早々に店仕舞いして、家へ帰るとこだ」
「てえと、こちらのほうでも、ご商売を?」
「なに、商売というほどじゃないがね、遊んでても勿体《もったい》ないから、あすこで、富の札《ふだ》を売ってるんだよ」
「ああたが? 富の札を? えらいッ。ああたてえ方はたいした方ですよ、ええ。伜《せがれ》さんに代をゆずって、ねえ? 楽隠居の身だってえのに、遊んでちゃ勿体ないって、こうして、粋な身装《みなり》ィして、富の札売るなんざア、気がきいてますよ。ええ。見上げたもんですよ、まったくゥ……手前なんざア、借金で首が廻らなくなっちまって、目エ廻してるってえのに……ああたてえ方は、本当に、ちょいと、憎いよ」
「お前さんね、こんなとこで世辞言ったってしょうがないよ。もっとも、しくじってるんじゃア、座敷でやりたくたって、やれねえしなア」
「まア、身から出た錆《さび》でね、くよくよしたって始まらないたア思っちゃいるんですが、なにしろ、商売がえしようにも資本金《もとで》が……その、ああたが売ってる富てえのは?」
「ああ、湯島の天神さまの境内でやってるんだ。千両冨だよ」
「てえと、いくらで千両ンなるんです?」
「一分だ」
「それで千両当る? ほんとに当るんですか?」
「そりゃア、誰かに当るさ」
「さいですか。ちょいと待って下さいよ……ああ、あった、あった……すいませんがね、この一分で、ひとつ、当るやつをいただきたいんですがね」
「当るかどうか、そんなこたア判んないよ」
「てえと、やっぱり、いかさまなんで?」
「いや、お上でやってんだから、いかさまなんてこたアないがね、なにしろ、千両の当りてえのは、何万と売ったうちの一本だけしきゃない。おまけに、あたしンとこにゃア、もう、二枚しきゃ残ってないんだ」
「うーん、二枚ねえ……何番と何番ですか?」
「ええと……これこれ。亀の四百四拾七番と鶴の千四拾九番だ」
「どっちが当りますかねえ」
「なに言ってんだい。この二枚のどっちかが当るって判ってりゃア、両方ともあたしが買っちまうよ」
「そうか。どっちがいいかなア……じゃア、ああたが先に一枚とって下さい。いえ、別にああたが買おうと買うまいと、そんなことはどっちだって構わないんですが、とにかく、残ったのを手前がいただきますんで」
「どうして? お前さんが気に入ったのを、先にとりゃアいいじゃないか?」
「いえ、ちょいと、こっちの都合がありますんで」
「そうかい? じゃア、こうしよう。後で文句のないようにね、お前さん、これを、あたしに判んないように、両の手に一枚っつ持っておくれ。そしたらあたしが目エつぶって、どっちか言うから」
「へいへい。よござんすか? さア、どっち?」
「そうさなア……右ッ……ほう、亀の四百四拾七番か」
「では、手前はこちらをいただいて……じゃア、お金を払いましたからね、いいですか? これはもう、あたくしのもんですよ、取替えてくれったって駄目でござんすよ……ねえ、鶴の千四拾九番、当ったッ」
「なに言ってんだい。当るかどうかは明日ンなんなきゃ判んないよ」
「いえ、これは当ってんです。ええ。なにしろ残り物ですからね、福があるんです。もう、間違いなく当ってます」
「お前さんね、そう思っちゃいけないよ、ああ。はずれた時に腹が立つからね。けどね、もし万が一、当ったら、その札と引換えに千両渡してくれるんだから、明日まで大事にしまっとかなきゃいけない」
「ああ、この札がないと……さいですか。じゃア、急いで家ィ帰ってしまってきます、へえ。……じゃごめんなさいまし」
家へ戻りますてえと、早速、大神宮さまのお宮の中へこの札をしまいまして、お灯明《あかり》をあげ、近所の酒屋で掛売りして貰いましたお神酒を上げまして、
「ええ、大神宮さま、毎度勝手なお願いばかりでございますが、今日《こんち》また、格別のお願いでございますんで、ひとつお聞き届け下さいまし。実は、あたくし、今しがた富の札を買いましたんですが、なにしろ、なけなしの一分で買ったもんですから、当らないと困るんでございます。だもんで、どうか当るようにして下さいまし。まア、ふだんは、商売柄、うまいことオ言っておりますんで、また、嘘かとお思いでしょうが、今日《こんち》ばかりは本当でございます。ちょいとその札を見て下さりゃア、お判りいただけるかと思いますんで、見て下さいまし……ねえ? 本当でござんしょ? 勿論、当りましたら、お礼を……ええ、大神宮さまのお宮を立派にしまして、それから、お神酒も毎日一升ずつ上げますんで、へえ。なんでしたら、伊勢までお礼に伺ってもよござんすから、どうか当りますように、この通り手を合せてお願いいたします」
頼むだけ頼んじまったあとはてえと、すぐにお神酒を下ろしまして、湯呑で飲みはじめるン。
「どうだい、ええ? これだけ念入りに頼んどきゃア間違いない、千両はもう、こっちのもんだ。てえと、こんな小汚ねえ長屋に住んでるこたアねえな。ちょいと粋なつくりの家でも建てて、そっから座敷へ……いや、この際だから、芸人はやめちまって、なんか小|商《あきな》いをしよう。資本金《もとで》はたっぷりあんだから……なにがいいかなア、やっぱり女相手の商売の方がいいな。だけど俺に出来ねえ商売じゃしょうがねえし……そうだ、小間物屋がいいや。だてに幇間《たいこもち》やってたんじゃねえってとこ見せられるし、第一、色っぽい商売だあな。けど、小間物屋の主人《あるじ》てえからにゃア、かかあがないと恰好がつかないから、まず、女房を貰って……そういやア、逃げたかかあは、今頃どしてんだろうなア。俺が千両|分限《ぶげん》と知ったら驚いちまって、腰抜かすんじゃねえか? それともあいつのこったから、うまいこと言って、戻ってくるかも知んねえな。だがね、そうは問屋がおろさないよ、うん。こっちにゃア、新しい女房がいるんだから……ねえ? こうやって、酒飲んで、ごろっと横ンなるてえと、『あなた、風邪をひきますよ』かなんか……はァ……はァくしょん……いけねえ、本当に風邪をひいちまわア、小便して寝ちまおう」
ジジャーン、ジャーン、ジャーン。
「おーい、鳴《ぶ》つけてるぜ」
「またかよ、ええ? 今年ゃ二の酉《とり》のくせィまた、馬鹿に多いじゃねえか」
「あたりきよオ……掛け取りてえ酉《とり》ィ入れりゃア、三の酉《とり》まであらア」
「冗談言ってる場合じゃねえ。火事ァどこなんだい?」
「うん。今、屋根ィ上がってみたらね、芝のほう……ありゃア、久保町見当だ。おめえ、知り合いはねえかい?」
「ねえな。おめえは?」
「俺もねえ筈なんだが、あるような気がしてなんねえんだ。誰かが久保町に住んでるとか言ってたんだが」
「待てよ。そう言やア俺も聞いたなア……誰に聞いたんだっけ……ああ、久さんだ」
「そうそう。久保町にいい客がいる言《つ》ってたんだ」
「じゃア、早速教えてやンなくちゃア……久さん、久さん……おう、久さん。起きろッ」
「へえ。なんでござんしょう?」
「なにじゃねえよ、火事だってえのにィ」
「火事? ……よござんす、ええ。どうせ店《たな》は借りもんだし、布団だって損料屋のもんだ。それよりもう、寒くて寒くて、火の気が欲しかったとこなんで、ええ。ちょうどよかった。ちょいと暖まってから逃げ出しますんで」
「のんきなこと言ってんじゃないよ。火事は久保町だぜ」
「えっ? 久保町?」
「ああ。おめえ、久保町にいい客がいる言《つ》ってたじゃねえか」
「だけど、しくじってるからねえ……本当《ンと》にあの旦那さえしくじらなきゃア、あっしだって、こんな小汚ねえ長屋に住んで、お前さん達みたいなしみったれたアつき合っちゃいねえんだが」
「そんなこたアどうでもいい。早く行っといでよ」
「そうだよ。ことによったら、詫《わ》びがかなうかも知んねえぜ」
「そうか……へえ、ありがとうござんす。すぐ行ってきます」
と言うが早いか、足袋《たび》はだしのまま家をとび出した。
「おいおい、そう、あわてちゃいけない。こういう時こそ落着きが肝心なんだ、いいかい? 火ィかぶった訳じゃないんだから、落着いて、落着いて……」
「旦那ア。お手伝いに参りましたッ」
「おっ? 久蔵じゃないか?」
「へえ、久蔵でございます。どうもお騒々しいこって……」
「お前、どっから来たんだい?」
「日本橋の竃河岸《へっついがし》から、へえ、とんで参りました」
「そうかい、よく来てくれたなア、ありがとよ。よし、今までのことは忘れてやろう。明日から出入りしていいぞ」
「へえ、有難う存じます。ヘヘ、うまくいったぞ」
「なんだ?」
「いえ……旦那、なにを手伝いましょう?」
「そうだなア……いや、お前は芸人だし、力仕事は出来まい。なにか持ち出して、怪我でもされた日にゃア、かえって面倒だ。一段落するまで、あっちィ行ってな」
「なにを仰言《おっしゃ》います? ええ? 芸人こそしてますがねえ、こういう時ァ、力が出るもんです、ええ。なにしろ、四十九歳、男盛りてんですから。なんかこう、重たいもんァありませんか?」
「本当に大丈夫かい? じゃア、この風呂敷包みを頼むよ」
「これだけですかい? そこに茶箱があるじゃござんせんか。そいつを先に背負って、風呂敷包みァ、その上にのっけて……いえ、大丈夫でござんす、ええ。こういう時こそ、ふだんのご恩返しを……入れてくれましたか? ……よオッ……いよオ……」
「だから言わないこっちゃない。全然持ちゃがらないじゃないか」
「こんな筈じゃないんですがねえ。ちょいとそのオ、掛軸を抜いてみて下さい」
「そんなもんとったってしようがないよ」
「いえ、気のもんですから……とりましたか? じゃ、いきますよ。いよオ……すいませんがね、仏さまとって……」
「さア、とったよ」
「こんだア大丈夫だ……いよッ……ウ、ウーン、風呂敷包みがね、ちょいと邪魔なんで、……へえ、とっちゃって……いいですか? 茶箱一つぐらいなら、ちょちょいのちょい……てな具合にゃアいかねえなア……よいしょ……いよッ……すいません、中のもの出しちゃって……」
「それじゃなんにもなんないよ。さア、いいから、あっちィ……おう、どうした? ……なに? 鎮火《しめ》ったようだ? ああ、風が変ってね……そうかい、そりゃア良かった、良かった……おい、みんな、鳶頭《かしら》の言うこと聞こえたかい? 火事はな、鎮火《しめ》ッたそうだ、ああ。久蔵……お前、なにやってんだい?」
「へえ、茶箱ン中のもん、減らしてるんで」
「もういいんだ。火事は消えたよ」
「なんだ……消えちまったんですか?」
「なんだてえ奴があるかい?」
「へえ、どうも……よござんしたなア、まアとにかく、おめでとうございます……でも、なんですねえ、疲れてえのは、消えたって聞いた途端に出るもんですなア」
「きいた風な事オ言うない。なんにもしねえくせに……さアさ、これからがお前さんの出番だ。お見舞の方が見えるからな、お取りもちをしておくれ」
「へいへい。……おや、もうお見えで? さいですか……どうもお早々と有難う存じます。……ああ、ご町内の方で……さいですか。やはりね、何と申しましても、こういう時に真っ先ィ駈けつけて下さるのは、ああた、遠くの親類より近くの他人、ご町内の方てえのは有難いもんですな。さアさ、どうぞあちらィ……おや、これはこれは、上総屋《かずさや》の旦那……どうもお久しゅうございますな……へえ、しくじっておりましたんですがね、この火事ィ駈けつけたてえんで、お詫びがかなって……へえ、いずれ伺います。まア、ちょいと一杯召し上がってらして……へえ、あちらィどうぞ……。へい、どなたさまで? 金杉《かなすぎ》の山新さんで……どうも有難う存じます。……へえ、お蔭さまで風が変りまして……これはどうもご丁寧に、恐れ入ります……さいですかア? じゃ、お帰りンなりましたら、ご主人さまによろしくお伝えのほど……へえ、よろしくどうぞ。……金杉の山新さん、お見舞を頂戴しましたんでね、つけといて下さいよ。お酒が一升……いいですか? お酒ですよ。つけたかい? じゃア、あたしゃちょいと奥へ行ってくるから頼みますよ。……旦那ア……ちょいと……金杉の山新さんからお酒を頂戴しまして、へえ。いかがしましょう? こちらィ持ってきましょうか?」
「いや、帳場の隅ィ置いときな。こっちィ運んだら、とるものもとりあえず、駈けつけて下さったお客様が気になさる」
「さいですか、じゃ、そういうことに。……おや、宇田川町の旦那……へい、久蔵でございます……エヘヘ、どうも相すみません……こりゃどうも、恐れ入ります。奥に旦那が……まア、そう仰言らずに、なんだって、外は寒うございますんで、一杯召し上がって……さいですか?……へえ、申し伝えます。……旦那、旦那……宇田川町の大宮さんから、お酒を頂戴しまして……」
「定吉ァどしたい? ええ? 帳面つけてないのかい? ……だったら、いちいち言いに来なくていい。そっちィ置いときなさい」
「へえ。……ええ、蔵徳さんで? ……へえ、有難う存じます。おかげさまで……いかがです? 奥で……さいですか? 有難う存じました。……なんですゥ?……奥ィ行ってる間に?……近江屋の若旦那が見えて? ……お見舞にこれを? そうかい。……旦那ア……ちょいと、旦那ア……」
「なんだい?」
「近江屋の若旦那が、お見舞に角樽を……」
「そっちィ置いとけ言ってんのに……しようがないねえ、お前、飲みたいんだろう? ええ? 飲んでもいいがね、たんとはいけないよ」
「へえ、ほんのちょっとだけ。なにしろ、こんな恰好でとび出しちまったんで……いえ、少ウし頂きゃア、身体が暖まりますんで、ええ、大丈夫でございます。じゃ、あたくし、店の方で……まだ、お見舞の方が見えましょう?」
「だが、店じゃおちおち飲んじゃいられまい?」
「じゃア、飲む間だけ番頭さんに替ってもらって……いえ、帳場ン中で結構でございます。……番頭さん、すいませんねえ。本当にここの旦那てえ方は、ああた、人間が出来てますよ、ええ。ああいう旦那のとこィ奉公できるなんてえのア、番頭さん、ああたは幸せな方だ、ねえ……へいへい、こちらィいただきやしょう。じゃ、すぐ替りますから……頂戴しますよ……うん、こりゃアいい酒だ。身体が冷えきってるとこイ、この熱いのがきゅうっと入ってく心持てえのァ、なんとも言えないね。だが、この、猪口《ちょこ》てえのが、あたしゃどうも気にくわないね、うん。なんかこう、大きいもんじゃないと……定どん。そこの茶櫃《ちゃびつ》ン中に湯呑がありましょ? ……ちょいと取って……へい、ありがと……ねえ、これでなくっちゃア……うまいねえ。番頭さん、ああたもやりませんか? ……そうそ、ああた下戸《げこ》でした。すっかり忘れちまって……だけどなんですよ、あたしゃアね、こちらの事ア、忘れちゃいませんでしたよ、ええ。芝が火事って聞いた途端、旦那の顔が、ぱっと見えましてね、気がついた時ァ、もう、ここィとび込んでたんすから。だからね、旦那が、詫びィ許してやる言《つ》った時は、ああ、駈けつけた甲斐があったと思いましたよ、ええ。こうして飲めるてえのも……ああ、鳶頭《かしら》ア、どうもご苦労さんでした。どうです? ひとつやりませんか? ええ? あたし一人でやってるてえのァどうも……よろしいじゃござんせんか、外ァ寒うござんしたでしょう? これで暖まったらいかがです? ……火の粉で火照《ほて》っちまった? ちょいと待って下さいよ……おーい、お清どん……お銚子を二、三本、冷やでおくれ……なに? 旦那さまが、お銚子のおかわりはやっちゃいけないって? いえ、これはね、あたしじゃないの。鳶頭の分だから、早くおくれ……驚いたねえ。鳶頭だっ言《つ》ったら、七本も寄越したよ……へい、お待ちどお……あれっ? 鳶頭アどこィ行っちま……居た、居た……鳶頭ア、こっちィおいでなさい……どうも、お疲れでござんしたね、さア、どうぞ……やらないんですかア? ……え? お不動さまに? ……鳶頭ア。お断ちンなったって仰言いますがねえ、ここァ芝でござんすよ、ええ? 成田から見える筈ァないじゃござんせんか、飲んだって判りゃアしませんよ……なんです? お不動さまはお見通し? だったら、鳶頭のお働きだって、お見通しでござんしょ? ……じゃア、お不動さまだって、今日は格別じゃ、飲め飲め言って……そんな事は言わない? ……ヘエえ、お不動さまてえのァ、なんて、話がわかんないんでしょうねえ。この家を灰にしちゃア、男が立たねえなんて台詞は、あの、えらい火の粉ン中で言えるもんじゃないてえのが、判んねえんですかねえ。あたしゃアね、あれを聞いた時ィ鳶頭ァほれ直したよ、うん。まったくおそれ入りました。これァね、あたしのほんの気持ですからね、ひとつ、受けて下さいよ……そうそ、断《た》ったんでした、ははは、じゃアこれは、あたしが代りに……ねえ鳶頭ア……風が吹きゃア桶屋が儲かるって言いましょ? けどね、あれは間違い。本当はね、風が吹きゃア、幇間《たいこもち》が儲かるてえの……聞いたことないてえますがね、このあたしをご覧なさい、ええ? ……判んない? いいですか? まず、風が吹きましょ? てえと、火事ンなりやすいですわな? どっかで火ィ出すてえと、風の勢いにのって、久保町に火の手が上がる。こりゃアいけないてんで、あたしが駈けつける。旦那が、久蔵、よく来てくれたなアてんで、詫びィ許してくれる……そう、良かった。これが儲けはじめ、お祝儀てえわけ、あとは、まア一杯飲めってんで、飲ましてくれるン……ねッ? ここでひとつ、儲かりましょ? で、一人でやってるてえと、鳶頭が入って来る。ひとつやりませんかてえと、これがやらない。うん。お不動さまに断っちまったから……で、こうして、あたしが代りにいただいちまう。どうです、大分儲かってんでしょ? もとはって言やア、風エ吹いたおかげ、ありがたい風じゃござんせんか、ねえ? ……そう、旦那のおかげ。けど、なんですよ、こう、たんと飲めるてえのァ、なんたって鳶頭のおかげ、ありがてえや。あたしゃ嬉しい、もう、馬鹿に嬉しい、うん。おい、番頭、お前も嬉しいだろ? ……なにィ? なんだい、ええ? 酒ェやめて寝ちまえ? てやんでえ、大きなお世話だってんだ。そんなとこでブツブツ言ってねえで、こっちィ来てお酌でもしろイ……来らんねえなら、こっちが行ってやらア」
「おい、久さん駄目だよ、足許がふらついてんじゃねえか。定どん、ちょいとこの辺、かたしておくれ。さア、久さん、横ンなんな」
鳶頭に支えられて横ンなるが早いか、ぐうーッと高鼾《たかいびき》。
「あ、鳶頭《かしら》ア、今日《こんち》ァどうも、有難う存じました。おかげさまで、かぶらないうちにおさまりまして、どうもご苦労さんでした。それに、久蔵の面倒まで見ていただいたそうで、どうも申し訳ございません。さア、あり合せのもんですが、ひとつ召し上がって……えっ? また鳴《ぶ》つけてる?……ああ……近くじゃない? さいですか……おう、番頭さん、どこだい、火事ァ? ……日本橋の? 竈河岸《へっついがし》あたり? その辺《あたり》ィお得意先はなかったかい? ……無い? そりゃア良か……あっ、そうそう、久蔵が竃河岸とか言ってた。すぐ起こしてやんな」
「へい。……おい、久さん、久さアん……」
「う、ううん、もう、飲めねえ」
「まだ、飲む気でいやがる。おう、火事だよ、火事」
「火事ィ? 火事ァ消えたン」
「今度ァ、日本橋、竃河岸だよ。おめえンとこだろ?」
「えっ? あたしンとこ? そいつァいけねえ……」
「おいおい、久蔵は行っち……あ、まだ居たか。……ああ、急いで行っといで。そこの提灯《ちょうちん》持って……お前ね、まさか、そんなこたアないだろうけど、もしものことがあったら、いいかい? 他家《よそ》へ行くんじゃないよ。ここィ帰っといで」
「へい、有難う存じます。じゃア、ちょいと行ってきます」
「気をつけてな」
「へい。……驚いたね、どうも。ええ? 一晩のうちに、火事のかけ持ちしようたア思わなかったよ。……えっさッ、ほいさッ、えッさッ、ほいさッ……さッ……さッ……さッ……さッ……さッ……ああ、この煙じゃア、こりゃア大きいぞ……えッさッ、ほいさッ……さッ……さッ……さッ……ここまで火の粉がとんで来てらア……さッ……さッ、あらよッ……ごめんよ、ごめんよ、おう、ちょいと通しておくれ」
「縄ア張ってあって、通れねえよ。なんだ、久さんじゃねえか?」
「あっ、源さん。火元ァどこです?」
「おめえンとこの隣家《となり》、糊《のり》屋の婆《ばば》アンとこ」
「あの、しみったれ婆アめ、爪の先ィ火ィとぼして、銭ィためやがるから、爪の先からぼおッ……」
「久蔵が帰って来た? どうした、家《うち》は? ……そうか、焼けちまったのかい……そりゃア、かわいそうなことをしたなア。うちの火事見舞にきてる留守に焼けちまうなんて……泣くな、泣くな。あたしンとこで、当分ア面倒見るから……なア?」
「ヘッ、あ、有難う存じます」
居候置いて合わず、居て合わずとか申しまして、置いてやる方が引き合わないのは勿論ですが、厄介ンなる方でも、肩身が狭いもんでございまして、あくる日ンなりますてえと……
「お早ようございます。旦那、なにかお手伝いいたしましょう」
「いいんだよ、どうせ、なんにも出来ないんだから。もっと、ゆっくり寝てな」
「しかし、旦那ア、使い走りぐらいでしたらあたしだって、へえ。なんか、お手伝いしませんと、どうも……」
「なに言ってんだい、そんな気ィつかうこたアないんだ。お前の家だと思って……なんだい? 番頭さん……ああ、ゆうべお見舞に来て下すった方の? ご挨拶廻りを? ……そうそう、押しつまっちゃア、かえって迷惑ンなります。……ここと、ここと、まア、このあたりまでは、あたしがご挨拶に廻ります。残ったとこと、このご近所は、番頭さんと店の者で手分けして……なんだい? ……本郷の三河屋さんと蔵前の和泉屋さんは? ……遠くから駈けつけて下すったから? ああ、あたしがねえ……行かなきゃいけないんだが、なにしろ、年だからねえ、こう遠くちゃア……番頭さん、すまないが行ってくれないか? ……とても廻りきれない? そうだろうなア……弱ったねえ」
「旦那ア、そこ、あたしが行ってきましょう」
「そうだ、久蔵がいたのを、すっかり忘れてた。じゃアひとつ頼むよ」
「へえ、よござんす。じゃア、行ってまいります」
まず、本郷へまいりまして挨拶をすませ、これから蔵前へ行こうと、湯島の切り通しへさしかかりますと、どっからか、ウワーッ、ウワーッという、喚声がきこえてくる。
「もしもし、あれは、どっから聞こえてくるんです?」
「湯島天神だイ」
「天神さまで、なんかある……行っちまったよ。もしもし、お急ぎのとこ、すいませんが、湯島天神でなんかあるんですか?」
「千両富だよ」
「さいですか。千両富で……あッ、おれも買ったんだ」
「なんだい、忘れてたのかい? そんなこっちゃ当る気遣いアねえが、まア、行ってみなよ。……なに、あっしァ買ってねえんだが、はずれた奴の顔が面白《おもしれ》えんで、見に行くんだ。ちょっとした見物だぜ」
こんなのまでいるんですから、境内ン中はもう、黒山の人でございます。
「ちょいとどいとくれ、ちょいと……」
「おう、押すない」
「すいません、前へ出してくださいよ。あたしゃア買ってんだから」
「てやんでえ、俺だって買ってらア」
「しようがないねえ……よし、こうなったら」
「おッ? こん畜生……」
「だ、誰だい? 俺の股ぐらくぐりやがったなア?」
この、千両富てえのは、木でできた富の札が入った、まん中に穴があいてる、大きな箱をゆすってかきまぜます。その上で、目かくしした人が、三尺七寸五分という、長い錐《きり》で、中の札を突きまして、ぐいっと前に出しますってえと、立合いの寺社奉行が、この札に目を通しまして、番号を読み上げる男に、その札を渡すというやり方でして、百両、二百両、中富の三百両、二番富の五百両、といったような順序で突いていきまして、突きどめが千両。いよいよ、突きどめてえことンなりますてえと、さすがの境内も、しいんと静まりかえって、水を打ったよう。一瞬のしじまの中で、
「こんにちのオ……」
ちょんと柝《き》が入りまして、
「突きどめえッ」
稚児の張り上げる甲高い声に続けて、
「おん富、突きまアす」
「鶴のオ、千、とんで、四十、九ばァん」
「ああ惜しいッ、わずかな違いだ」
「おう、何番|違《ちげ》えだ?」
「わずか千五百……」
「違いすぎらア。俺なんか……おっとっと……なんだい、この野郎? 倒れてきやがった」
「あた、あた、あた……」
「おう、しっかりしろイ。一体《いってえ》どうしたんだ? ええ? びっくりすんじゃねえか」
「あた、あた……当ったア」
「てめえがか? 本当かい? おい、この野郎に当ったんだとよ。驚いて腰抜かしやがったんだ。あっちィ連れてってやろうぜ」
大勢で、本堂へかつぎ込みます。
「ああ、こちらが? さいですか。ご運のよろしいお方でございますなア」
「おやッ、久さんじゃないか? うまくやったなア」
「えっ? ああ、ああた……おかげさまで当ったン……さア、下さい」
「下さいったって、金がこっちィくるのは、あさってだ」
「今日はくれないんですか?」
「いや、どうしても今日欲しいってえなら、渡さないこたアないがね。今日だと、お立替料二割ひかれる、八百両ンなっちまうよ」
「へえ、よござんす。さア、八百両……」
「二百両も損するが、いいのかい? ……じゃア、札をお出し」
「札ア?」
「どうした? 忘れてきちまったのかい?」
「いや、札は、ぼおッ……」
「なんだい、その、ぼおッってえのア? えっ? 火事で焼いちゃった? 本当かい? なにやってんだよオ、ええ?……しようがないったって、札がなきゃア、金は取れないんだよ」
「なぜです? 鶴の千四十九番、これはあたしが、ああたから買ったんですよ。ああただって、売った覚えがあるでしょ?」
「ああ。お前さんに売った札は、なんでも、仏にかかわりが……そう、たしかに、鶴の千四十九番だ」
「あたしだってよく覚えてますんで。あの札をね、あたしゃ、こう、覚えてた。鶴は千年、あたしゃ四十九……こりゃア、あたしの年ですから、もう、間違いっこないんで、ええ。ああたが売った、あたしが買った、両方で番号に間違いないてえ、これだけちゃんと判ってて、なんで、金が貰えないんです? そんな馬鹿な話はないじゃござんせんか?」
「だがね、久さん。この千両富てえのァ、札と引替えてえ、そういうきまりンなってるんだよ」
「じゃア、こうしようじゃありませんか。こっちも札がないんですから、まるまる貰おうなんて、そんな虫のいいこたアいいません。せめて半分の五百両、いや、お立替料の二百両でいいや。そっちだって、あさって取りィ来られたら、どうせ払わなきゃなんねえ金だ、あさって取りィ来たと思って……だめ? じゃア、百両ッ……五十両……三十両……」
「久さんねえ、札がなきゃア、どうにもなんねえんだ。鐚《びた》一文渡せねえんだよ」
「そんな馬鹿な……いらねえやいッ。なんでえ、胴親のかすりみてえィなれ合いやがって……畜生めッ、覚えてやがれ、首ィくくって死んで、化けてやるからッ」
「おう、久蔵じゃねえか?」
「ヘッ? 鳶頭《かしら》かア」
「おめえ、ゆうべどこィ行ってたんだよ、ええ? てめえンとこが火事だってえのに……」
「へえ」
「おい、しっかりしろよ。一体《いってえ》おめえ、どこィいるんだい?……そうか……いや、ゆうべの火事んときィな、おめえがいねえんで、うちの若えもんに、おめえンとこの道具を出さしたんだ。なアに、道具ったって、せんべえ布団に釜ぐれえしきゃ、道具らしい道具ァねえ……」
「大きなお世話だ。そんなもん出したって、しゃあねえや」
「なんでえ、その言い草はア? ええ? 若えもんがきいたら、怒るぜ。けど、なんだな、さすが、おめえ、芸人だけあって、いい大神宮さま持ってんじゃねえか。あんな立派なお宮焼いちゃアもってえねえから、まア、役にゃア立たねえだろうが、ついでに出しといたぜ」
「ど、泥棒」
「なにしやがんでえ。この野郎……だしぬけィ俺《ひと》の首しめやがって」
「大神宮さま返せッ」
「てやんでえ、いつだつて返《けえ》してやらア。家ィ来いッ、べらぼうめえ。……おう、いま帰ったぜ……おう、ここィ飾ってあらア、さっさと持ってけッ」
「べつに持ってかなくたって……こン中にあればよし、もし、なけりゃア……あッ、あ、あったア……」
「なんでえ、富の札じゃねえか。こんな紙っ切れ一枚で、俺を泥棒あつかいするたア、まったく、狂人《きちげえ》みてえな野郎だ」
「どうもあいすいません。実ァ、こういう訳で、千両当ったんですがね、この札がねえばっかりに、金が貰えねえ。そいで、つい……」
「そうか、そりゃア狂人《きちげえ》ンなンのも無理ァねえ。が、まア、良かった、良かった。うまくやりゃアがったなア、この暮ィ千両たア……久さん、おめえ、どうする?」
「へえ、これもみんな大神宮さまのおかげ、ご近所のお支払《はらい》(お祓い)をいたします」
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らくだ
ある貧乏長屋に、大酒飲みで酒乱、長屋中の者から毛虫のように嫌われている男がおりまして、名前が馬、仇名がらくだ、てんですから、どっちみち柄は大きいようでして、
「おう、いるかッ、馬公……なんでえ、こんなとこィ寝てやがって……おう、起きろいッ、いつまで寝てやンだよ……おッ、この野郎、くたばってやがる。……そうか。昨晩《ゆうべ》、湯の帰りィこの野郎に会った時ィ、でかいトラフグぶらさげてやがったんで、『てめえ、時期はずれィそんなもんやったら、あたるぜ』言《つ》ったんだが、こん畜生、やりゃアがったんだ。だいぶ苦しんだとみえて、身体の色が変ってらア。近所の奴が気がつかねえ訳ァねえんだが、こいつァ、ふだんがふだんだからなア。ま、いい塩梅《あんばい》に俺が来たからいいようなもんの、なんだってこんな間抜けな時ィ、くたばりやがったんでえ。こっちァここんとこ取られっぱなしで、一文無しの素寒貧《すかんぴん》ときてらア、早桶どころか、線香一把買えねえじゃねえか」
「屑ゥい……」
「おッ? 屑屋が来やがった、お誂《あつれ》いだよ。こういう時ァ屑屋がなによりだ。ここン家《ち》のもんをバッタにたたき売って……おうッ、屑屋ッ」
「へいッ……悪いとこで呼ばれちゃったなア、らくださんとこじゃねえか。あすこで呼ばれるとロクなこたアねえんで、黙って通っちまおうてえつもりが、つい声が出ちゃった。弱っちゃったなア、どうも」
「なにをぐずぐず抜かしてやがる。いいからこっちィ入《へえ》れッ」
「こちら、らくださんとこじゃア……」
「そうだ」
「らくださんは、お留守なんで?」
「いいから台所見てくんねえ」
「へえ。……ああ、よく寝てらっしゃいますな」
「そうよ、よく寝てらア、もう生涯起きねえや。……なアに、昨晩《ゆうべ》こいつに会ったら、大きなフグぶらさげてやがったン。『陽気はずれィそんなもんやった日にゃアあたるぜ』言《つ》ったのにやりゃアがって……≪ふぐ≫死んじまいやがった」
「へえ、らくださんがねえ……しかし、よくあてましたねえ、フグも」
「身寄りてえなア誰もいねえ。兄弟分てえなア俺だけだ。なに、俺だってべつに、兄弟分になったつもりァねえが、こいつが俺のことオ兄貴兄貴ってやがる。年齢《とし》は、こいつのほうが五つも上だってえのに……ま、そんな訳でその、なんだ、兄貴らしいことのひとつもしてやりてえんだが、すまねえがおめえ、ここン家《ち》の道具《もん》、なんか買ってやってくんねえか」
「そりゃア駄目です」
「なぜだい? おめえ、いい得意なんだろう?」
「冗談言っちゃいけません。あたしゃこう見えても、らくださんにゃアずいぶんご奉公してるんですよ。こないだだって、角の欠けた皿出して五百に買えって……十枚揃ったってそんなもん誰も買やァしませんよ。それを、らくださんときた日にゃア、買わなきゃこうしてやる言《つ》って、あたしの首をしめるんですから……あたしゃ、あんまり苦しいんで、五百置いて逃げちゃいました」
「そこの土瓶《どびん》はどうでえ?」
「蓋《ふた》がないんで、へえ。薬罐ですか? ありゃァ漏りがきてます。……七輪なんぞ、持ちゃげてごらんなさい。グズグズっていっちゃうから」
「よく知ってやがんなア」
「ええ、ここの家にあるもんは、たいがいわかってます。もう、見放したものばっかり」
「屑屋に見放されちゃ、しゃアねえな」
「そりゃアあたくしも商売でございますから頂けるものさえありゃア頂戴していくんですが……しかし、らくださんも、お気の毒なことをしましたなア。ずいぶん乱暴な方だったが、とうとう仏さまンなっちまって……死んじゃえばもう、罪も報いもありませんからねえ……。親方、怒っちゃいけませんよ。こりゃアあたしの、ほんの心持でございますが、これでひとつ、らくださんにお線香の一本もあげてやって下さい」
「そうか、すまねえなア。じゃ、まア、仏になりかわって、これァ礼を言って貰っとくよ」
「いえ、もう、ほんの心ばかりなんで、そんな……じゃ、あたしゃこれで……」
「おう、待ちねえ」
「あの、ちょいと今日ア急ぎますんで」
「ああ、急いでるとこすまねえがな、俺にゃアこの長屋のこたァさっぱりわかんねえんだ。だからって、このまま、らくだァうっちゃって帰っちまう訳にゃアいくめえ。なア、そうだろ? ……じゃアちょいと頼まれてくんねえ」
「なにをです?」
「まア、どんな長屋にだって、祝儀、不祝儀《ぶしゅうぎ》のつきあいてえものがあらアな、これをまとめんのァ月番の役目。おめえ、今月のここの月番知ってるかい? ちょいと行ってもれえてんだ」
「へえ、じゃ右隣りのお宅なんで、ちょいと寄っていきます」
「おいおい、待ちな……おめえ、なにしに行くかわかってんのかい?」
「らくださんの死んだの、知らせりゃいいんでしょ?」
「知らせるだけじゃねえ。香典《こうでん》集めてもれえてえ」
「いけませんよ親方ア。そうでしょ? あたしゃこの長屋に住んでる訳じゃねえんだから。ま、知らせるぐらいのこたアしますがね、香典のことまで立入る訳にゃア……」
「いかねえってえのかい? なにも、自分《てめえ》のこと頼むんじゃねえ、他人《ひと》のこと頼むんだ。まして相手は仏じゃねえか。……言えねえのか? おう、言えねえってのか? 仏のことでも言えねえってんだな? よオしッ」
「行きます行きます」
「おう、その笊《ざる》ァおいてけ」
「いえ、こりゃア駄目なんで、へえ。秤《はかり》が入ってますし、第一、鑑札がついてますんで」
「うるせえッ、笊おいてとっとと行ってこいッ」
「へ、へいッ……なんだい、ありゃア? あアあ、えれえとこィつかまっちゃったなア……ええ、こんちわ」
「おう、屑屋さんか」、
「今月の月番、こちらでしたね?」
「そうだよ」
「あの、隣のらくださん……」
「らくだ? またなんかやったのかい?」
「ええ、死んだんです」
「死んだ? まさかア。あいつァ殺したって死なねえや……本当って、いつ? ……昨晩《ゆうべ》? ……フグ食って? ヘェえ、あいつがねえ。そうかい、そりゃアよかった。めでてえや。なア?」
「へえ、そりゃまアそれでいいんですがね、その、らくださんの兄ィってひとがきてましてね、どんな長屋にだって、祝儀、不祝儀のつき合いってものがある。それをまとめんのァ月番の役目。で、香典集めてもらいたいって……」
「おい屑屋さん、つまんねえ使い頼まれてくンじゃねえよ、ええ? 子供じゃねえんだから……そりゃア、この長屋にだって、つき合いはあるよ。それをまとめんのが月番の役目なんてこたア、言われなくったってわかってらア。けどね、あいつがどんな人間か、おまえさんだつて知らねえわけじゃねえだろ? それじゃなくたってこっちは、何べん立替えさせらェたかわかんねえや。催促すりゃア、いきなりけんつく喰わせやがって、一度だって、とれたためしはありゃしねえ。駄目。駄目だよ」
「ところが、その兄ィって人がね、らくださんに輪アかけたようなものすごい人なんで。あたしが、そんなこと言えない言《つ》ったら、らくださんの死骸とあたしの顔を、チラッ、チラッと、こう見て、行ってこいって。おまけに、笊と秤をとられちまって……」
「なんでえ、商売|道具《もん》とられちまったのかい? しようがねえな。ううん……じゃア、こうしよう。言っとくけどね、こりゃア、らくだにするんじゃねえ、おまえさんにしてやるんだ。この長屋じゃア、あいつが死んだら、みんなで赤飯《こわめし》ふかして祝おうってことンなってるんだ。そいつをまげて、香典のほうにしてもらうよう、俺がひと廻りしてやらア。おまえさんも笊もらって、早く行っちまいなよ」
「そうして頂けりゃ助かります。じゃア、ひとつその、香典のほうをよろしく」
「どうしたい? 香典持ってくるってか?」
「へい、すぐ届けるってました。笊ゥください」
「いや、もう一軒行って……」
「親方、勘弁してくださいよ。今朝からまだ百も稼いじゃいねえんで。あたしが稼がなきゃ、家の釜のふたがあかねえんですよ。女房子と、おふくろと店賃《たなちん》、しめて五人暮らしなんですから……。すいません、その笊ゥ……」
「大家ンとこ行ってからだ。おめえ、大家ンとこ行って、らくだが死んだ言《つ》ってな、今夜、長屋で通夜の真似ごとをいたします。ついてァ、大家てえば親も同然、店子てえば子も同然、子どもに飲ませると思って、いい酒を三升。悪いのァごめんこうむるよ。さかなのほうァぜいたく言わねえ、こんにゃくに、はんぺんに蓮《はす》、こいつをダシきかせて、少ゥし辛目に、大きなどんぶりィ二杯。なかにゃア、おまんま食いてえてのがあるかも知んねえ、めしを二升ばかり炊いて、届けてくれって……」
「言えませんよ、そりゃア……そんなこと言った日にゃ、あたしゃ、この長屋で商売できなくなっちまう……」
「おう、逆《さから》うんじゃねえよ。俺《ひと》が静かに頼んでるうちィ行ったほうがいいんじゃねえか?」
「ヘッ、い、行ってきます」
「よくない目つきだね、あの目ァ。のどぶえくらいつくみてえな目だよ、まったく。……ごめんなさいまし」
「はいはい……なんだ、屑屋さんか。おまいさん、一昨日《おとつい》持ってったばかりじゃねえか。そう、すぐにゃア溜《た》まんねえよ。……えッ? なんか用かい?」
「あのゥ、らくださんが死んだんです」
「えッ? いつ? ……昨晩《ゆうべ》? どうして?」
「フグにあたって死んじまった」
「そうかい。そりゃア有難えや、助かったよ」
「で、そのらくださんの兄ィてえ人がいましてね、この人が、らくださんに輪ァかけたものすごい人なんで、へえ。今晩、長屋で通夜の真似ごとをしますんで、大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然。子どもに飲ませると思っていい酒を三升……いえ、こりゃアあたしが言うんじゃありません、その兄ィてのが言うんですよ。悪いのァごめんこうむる。さかなのほうはぜいたく言わない。こんにゃくに蓮《はす》にはんぺん、これをダシきかせて、少ゥし辛目に、大きなどんぶり二杯。おまんま食いてえってやつがあるといけねえ、めしを二升ばかり炊いて、届けてもらいてえ。こ言ってますんで、どうかよろしく」
「おいおい、おい、屑屋、待ちな……ちょいとそこへお掛け……おい、婆さん、お茶入れてきな」
「いえ、どうぞもう、お構いなく」
「あたしが飲むんだ。屑屋さん、おまいさんいくつンなるんだい? ええ? いい年してそんなこと黙って言《こと》づかってくるやつがあるかい。大家と言えば親も同然……そんなこたアおまいさんに言われないだって百も承知だよ。けどね、あいつが子どもらしいことしたことがあるかい? ええ? この長屋にきて三年になるてえのに、店賃一文、入れやしねえ。ま、最初《はな》のうちァ催促に行ってたんだが、そのたんび、薪《まき》持って追っかけてきやがる。しようがねえ、物置にしたと思ってあきらめちゃいたが、死んでみりゃ、三年間の店賃、棒引きじゃねえか。その上ィ酒、さかな? 冗談じゃねえ。寝ぼけたこと言うなっ言《つ》ってやんな」
「弱っちゃったなア。なんとかなりませんかね」
「ああ、駄目だね……やれねえ言《つ》ってくりゃいいんだよ」
「さいですかァ……じゃ、まア、そ言ってみます」
「いくらなんだってひでえや、三年も店賃払わねえってんだから。よく住んでられたね、よっぽど人間が図々しく出来てんだよ、あのらくださんて人ァ。大家さんが怒ンのも無理ァねえや」
「遅《おせ》えじゃねえか」
「そう早かァいかねえんですよ」
「どうした、持ってくるっ言《つ》ったか?」
「いえ、駄目なんで」
「どうして?」
「なにしろ、らくださんときた日にゃ、この長屋ィきてから三年てもの、店賃は一文も入れてねえんだそうで」
「あたりめえじゃねえか」
「ヘッ? あたりまえですか?」
「あたりめえだよ。こんな小汚ねえ長屋貸して店賃取ろうなんざ、図々しいにも程があらア。ま、店賃なんざどうでもいい、酒ァどしたい?」
「ですから、三年間の店賃が棒引ンなっちまうてえのに、その上、酒だなんて、寝ぼけたこと言うなって……」
「よしッ、もう一遍行ってこい」
「勘弁してくださいよ、親方ァ……もう、きりがねえんで」
「なに、すぐ、きりがつかア。いいか、ほかのこたア言わねえでいい、今のこと、ずうっとしゃべって、それでも寄こさねえ言《つ》ったらこう言やァいいんだ。『死骸のやり場に困っております。こちらさまへ死人をかつぎ込んで、かんかんのうを踊らしてご覧にいれます』ってな」
「あたしが言うんですか、それを……」
「ああ。きりィつけてえんなら行ってこい」
「こりゃア商売休みだな、きょうァ。大家さんだって、早く出すもんは出しゃいいじゃねえか、金があンだから。なにも、貧乏人の真似するこたァねえんだよ……ごめんなさい」「誰だい? ……なんだい? 今度ァ」
「ちょいとご相談がありましてね……どうでしょうね、旦那。仮に、らくださんが、この先五年生きようと十年生きようと、店賃は鐚《びた》一文入りませんよ。それを思やァ、ここで死んでくだすったんですから、酒の三升なんて安いもんじゃア……」
「冗談じゃないよ、ええ? らくだが死んだとなりゃア、こっちは、三年間の店賃、棒引ンなっちまうんだ。それだけだって、安い金じゃねえってえのに、その上、酒が持てる訳アねえじゃねえか。そうだろ?」
「へえ、そりゃアまア、そうなんですが、そこをなんとか……」
「なんねえや。おまえ、やけにらくだの肩ア持つじゃねえか」
「いや、べつに持ってる訳じゃねえんですが、その兄ィって人が、出さなきゃ、死骸のやり場に困るんで、こちらさまへ死人をかついできて、かんかんのうを踊らせるてえもんで……」
「へえ、そりゃア面白えや、踊らしてもらおうじゃねえか。あたしゃこの年齢《とし》ンなるまで、死人の踊ったのァ見たことねえや……おい、婆さんや……長生きはするもんだなア、死人が踊ンの、見せてくれンだとよ。……おい、屑屋さん、どこの馬の骨だか知んねえが、その野郎にな、見損なっちゃいけねえって。そんなこけおどかし言われて、黙って酒出すような大家たア大家が違わァ。こっちァな、自慢じゃねえが、このあたりじゃ、ちったア睨《にら》みのきいた大家だ。そんなんで驚いてたまるかってんだ。ちゃんちゃらおかしくて、酒はおろか、舌さえ出せねえ、早いとこ連れてきて見せろっ言《つ》っとくれ」
「どうだ、きりァついたろ?」
「駄目です」
「かんかんのう言ったか?」
「へえ、そう言いましたらね、『長生きはしてえもんだ。死人が踊ったてえのァ見たことない、早いとこ連れてきて見せろ』って」
「たしかにそう言ったのか? よしッ。そっち向け」
「ヘッ? こっちィ……あッ? ……うわアッ、嫌《や》だ嫌《や》だ……なにすンです、ああた、勘弁して、あッ、食いつくよッ」
「静かィしろイ。死人が食いつくもんか、てめえが動くから、そう思うんだ。さア、うしろィしっかり手エ廻して背負《しょ》うんだ。俺が、帯押えていってやるから。さア、立てッ……さっさと歩きな……ここか。俺が戸オ開けてやる。……さア、かまうこたアねえ、あのへっついンとこ、立てかけときな。……ああ、硬直《つっぱっ》てるから大丈夫《でえじょうぶ》だ。そしたらおめえ、かんかんのう唄うんだ。あとァ俺がやらア」
「唄えったって、そんな……」
「嫌《や》だってえなら俺が唄わア。おめえァ、らくだ踊らすんだ」
「そんなら、あたしゃ唄うほうがいい……いや、良かアねえけどしょうがねえ、唄います」
「いいか? 俺が障子開けたらすぐ、でかい声で手エ叩いて唄うんだぞ」
「へ、へい。……♪かんかんのう、きゅうのれす……」
「おい、婆さん、いけねえ。本当に来やがった。おい、やめとくれッ、あげるから、あげるから……へえ、ただいま、ただいまお届けしますんで、どうかお引き取りを……へえ、もう、すぐィでもお届けしますんで、お引き取りください。お引き取り願い……ああ、驚いた。まさかやりゃアしめえと思ったら、本当にやりゃアがつた。また、あの屑屋がでかい声で唄いやがって。馬鹿だね、あいつァ……おい、婆さん。なにが、まったくだよ。おまえだって薄情じゃねえか、私を置いて逃げちゃうやつがあるかい。本当にまア、どいつもこいつも……なんだい? ええ? ……へっついンとこィ塩をまくから? ……ついでにあたしに? なに言ってんだい、あたしに先ィまいとくれ」
「骨折らしたな。まァ、一休みして……」
「いえ、もうこのまま笊ゥいただいて……」
「じゃ、もう一軒頼まれてくんねえ」
「もう勘弁してくださいよ。家じゃ女房子とおふくろと店賃、一人稼ぎの……」
「五人暮らしだってんだろ? わかってら、そんなこたア。角の八百屋ィ行ってな、らくだが死んだ言《つ》って、菜漬の樽の空いたやつ一つもらってこい……ああ、いい早桶《はやおけ》ンならア……で、よこすの、よこさねえのったら、今の手使うって言え」
「また踊らしちゃうんですか? しようがねえな……いえ、もうこうなったら八百屋かぶれ、行ってきます」
「こんちわ」
「なんだい、きょうァまた、馬鹿に早えじゃねえか」
「いえ、らくださんが死んだんで……」
「なんだって? らくだが死んだ? おいッ本当か? そんなこと言って、俺を喜ばせようてんじゃねえだろうな……うん……うん、生き返ったりしねえよう、おめえ、よオく、頭アつぶしといたか?」
「いえ、こっちが肝《きも》つぶしたんで。なにしろ≪ふぐ≫死んじゃったんで、生き返るこたアありませんよ」
「そうかい、そいつァ有難えや。まったくあン畜生ときやがったら、店の品物《もん》黙って持ってっちまうんだから。沢庵なんぞ、何本持ってかれたかわかりゃしねえや。これでもう、安心して商売《あきねえ》が出来らア。わざわざ知らしてくれて……」
「いえ、それだけじゃねえんでして、実ァその、らくださんの兄ィて人がいましてね、こちらさんで、菜漬の空樽一つもらってこいって」
「早桶の代りィしようてえのかい? 冗談じゃねえ、俺ンとこァ商売に使うんだ。やれねえよ」
「そりゃアわかってますがね、その兄ィてえのが、らくださんに輪アかけたものすごい人なんで……」
「輪アかけようと縄かけようと、あん畜生の兄弟分じゃ、ろくなもんじゃねえや。やれねえったらやれねえよ」
「じゃアちょいと貸してください。空いたら返しますんで……」
「おめえ、どうかしてんじゃねえか? そんなもん入れちまったら、どうしょうもねえや。駄目だよ」
「駄目ですかア……この分じゃ、お座敷がふえんな」
「なんだい、その、お座敷てえのァ?」
「ええ、もし、駄目てえなら、死骸のやり場ィ困っちまうんで、こちらさまへ死人《しびと》をかついできて、かんかんのうを踊らせるっ言《つ》うんですよ」
「おう、踊ってもらおうじゃねえか、ええ? 死人がかんかんのう踊るなんてえのァ、まだ見たことねえんだ。景気よくやっとくれって、そ言っとくれ」
「本当にいいんですか? ……あアあ、またお座敷がかかっちまった」
「また? おめえ、もう、どっかでやってきたのかい?」
「ええ、いま、大家さんとこで。酒三升よこさねえってんで」
「やったのオ? で、どしたい大家ア」
「へえ、もう真ッ青《さお》ンなって、すぐ届けるからやめてくれって……」
「おいおい、冗談じゃねえ、やめとくれ。ああ、やるよやるよ、持ってきな。……いや、ここィあんのはみんな、二、三べんしか使ってねえんだ。裏に古いのが五、六本置いてあらア、どれでもいいから持ってきな……縄? そこにあんだろ?」
「すいません親方、天秤《てんびん》はねえんですか?」
「その辺に立てかけて……あ、あったあった。こいつァすぐ返しとくれよ。一本しきゃねえんだから」
「へえ、そう言っときます」
「行ってきました」
「どうした、樽は?」
「へえ、ちょいとがたがきてるんで、水を張って、あすこに……いえ、最初《はな》ァいろんなこと言ってましたがね、かんかんのう持ち出したら、驚いちまつて……へえ。まア、ついでですから、縄と天秤を……」
「おめえ、なかなか気がきいてんな……天秤? ああ、用がすんだら返してやらア。おめえと入れ違《ちげ》えに、月番が香典持ってきやがってな、そのあと、大家ンとこから酒三升と|煮〆《にしめ》持って……おまんまァ、いま炊いてるんであとで届けるとさ。ま、いろいろ骨折らしたな、ご苦労、ご苦労。どうでえ、おめえも一杯やんねえ。いまちょいとやってみたら、こいつァ悪かねえ。さ、ひとついこうじゃねえか」
「いえ、あたしゃもう、笊さえいただけりゃア結構なんで」
「まア、そう言わねえで、ちょいとやってきなよ」.
「折角ですが、きょうァまるっきり商売《あきねえ》してねえもんで……なにしろ、一人稼ぎの五人暮らし、あっしが商売しねえことにゃア、釜のふたが開きません」
「だっておめえ、死人《しびと》かついだんだろ? 商売行くてンなら尚更だ。きゅうっと一杯《いっぺえ》ひっかけて、身体浄めていきねえ」
「ま、そうしてえんですがね、飲んじまうと、商売出ンのがおっくうィなっちまうんで」
「なアに、一杯や二杯つき合ったって、どうってこたアねえやな。さア、俺がついでやらア……どしたい? 俺がつぐんじゃ気に入らねえってえのか?」
「いえ、そんな……じゃ、ほんの気持だけいただきますんで……こんな大きいもんで? じゃ、少ゥしにしてくださいよ、へえ、真似ごとでいい……あ、あア、ああ、こんなにああた……弱っちまったね、どうも。じゃ、いただきます。……いい酒ですなア(一気に飲み干して)……どうも、ごちそうさんでした」
「おい、もう一杯《いっぺえ》やんな」
「いえ、あたしゃこれで……」
「なに言ってやんでえ。その飲みつぷりじゃア、おめえ、だいぶいけるんじゃねえか?」
「いえ、本当にもう、結構で……」
「ま、いいからもう一杯……飯だって、一膳飯てえなア縁起が悪いや、なア? 仏じゃあるめえし。死んじまやア、飲みたくたって飲めねえや、そうだろ?」
「へ、へえ……じゃ、ほんの一口、一口でよござんすよ……おっとっと……いけませんよ親方ア、こんなに注《つ》いじまってどうすんです? 飲みゃアいいったって、こぼしちゃもったいねえ……こりゃア、こう、お迎えに行かねえと(口を湯呑に持っていきながら)……本当にこの酒はうめえや。ねえ親方、こりゃアね、あの大家が出すような酒じゃありませんよ、なにしろあの大家てえのァ、大したにぎりやでね、悪い酒だって、一升とまとめて出したこたアねえって人なんで、へえ。それが、こういうのを三升も出すてえのァ、よっぽどかんかんのうが恐かったんですな。じゃア、あたしゃ行かなきゃ……」
「なにも、そう急ぐこたアねえだろ? かけつけ三杯《さんべえ》てえじゃねえか。もう一杯やってきなよ」
「いえ、もう駄目なんで」
「おう、飲めねえてえのか? 俺がやさしく言ってるうちィ飲んだほうがいいんじゃねえかい?」
「うーん……じゃアもう、これでしまいですから、ちょっとにして……あアあ、また、こんなに入れちまって……だけど、親方ァえらいね、……いえ、あっしゃアお世辞なんて言えない人間だけどね、そう思うン。そうでしょ? 他人《ひと》の世話てえのァ、なかなか出来るもんじゃありませんよ、ええ。有ったってしねえやつァしねえんだから。それを、なくってするってえのァ、こりゃア大したもんだ。あっしもよく、婆さんから、銭のねえくせィつまんねえこと引受けてくるって、しょっちゅう笑われてんですがね、やっぱりこりゃア、性分でしょうかね。見ねえふりてえのが出来ねえんですから。まア、親方のおかげでらくださんも、どうにか、葬いの恰好がついたからいいようなもんの、これで、親方がいなかったらどうなってたかわかんねえや。なにしろ、こんな憎まれていた野郎ァちょっといねえからな、うん。およしよ、その睨《にら》むの。そりゃア兄弟分のこと悪く言われりゃ、誰だっていい気ァしねえ、その心持ァ分らア。だけどね、あんまりいい目つきじゃねえんだから、おめえは。下向いて煮〆でも食ってりゃいいんだ。どうだ、辛口にうまく煮えてんだろ、なア? この、蓮てえのァ噛んだ時ィ、こう、サクッと歯ごてえがなくちゃいけねえんだ。酒だってそうだ。はんちくな飲み方すると、また飲みたくならア。こう、ぐうーッと、おう、酒がねえじゃねえか、注《つ》げッ」
「おめえ、もうよしねえ。なア? その辺でやめにして商売《あきねえ》行かねえと、釜のふたがあかねえんじゃねえか」
「釜のふたがあかねえ? おう、ふざけたこと抜かすなってんだ。はばかりながら言っとくがな、こちとらの商売にゃ、雨降り風間、病み患《わずら》いてえもんがあンだ。そのたんび、釜のふたがあかねえような、そんなどじな屑屋たア屑屋が違うんだ。屑屋の久六ったら、立場《たてば》じゃちったア知られた男だ。なめやがったら、ただじゃおかねえ」
「なめるなんて、そんなつもりで言ったんじゃねえんだ。おめえがさっき、女房子とおふくろと店賃、一人稼ぎの五人暮らしで、休むと釜があかねえ言《つ》った……」
「うるせえ、黙って注《つ》げィ。……なんでえ、けちけちしやがって……こりゃアな、てめえの酒じゃねえぞ、かんかんのうが稼《かせ》えだんだ。なくなりゃ酒屋行って、一升ぶらさげてこいッ。よこすの、よこさねえのって、つべこべ抜かしやがったら、かんかんのう踊らせるって言やアいいんだ。さア、もう一杯注げッ。おう、やさしく言ってるうちィ注ぎな」
「なんでえ、いつの間ィ、あべこベンなっちまったんだ?」
「なにぐずぐず注いでやァんだよ。おう、てめえみてえなぐず一人じゃ、仏の始末ァつけられめえ……」
「ああ、どうやって始末つけりゃいいか、わかんねえんだ。おめえ、つけらィるかい? ……じゃア兄弟、ひとつ、頼まア」
「よし、俺が引受けてやらア。とにかく、あん畜生、坊主にして……剃刀《かみそり》? そんなもんありっこねえや。台所ィな、菜切り庖丁があらア。持ってこい。……棚の上ィのってんだろ? 鋸《のこ》みてえのが。……世話やかせんなってんだ、このどじッ。……ここン家《ち》の菜切り庖丁が、まともな恰好してるわけねえじゃねえか。使うときだって、こうやって鋸《のこ》引くみてえにしねえと……これでよし、と。さア、樽ン中ィらくだ入れるんだ。足から突込んでな……じゃア縄かけて……なんでえ? 縄アかけたが寺がわかんねえ? いいんだよ、おめえン家《ち》の寺で……だらしねえ野郎だなア、てめえン家《ち》の寺もわかんねえのか。……俺? そりゃアあるがね、あの世で近所にゃアなりたくねえや、こん畜生たア。ごめんこうむらア」
「どうすんでえ? まさか、このままおっぽり出す……」
「そう言やア、俺の友達で、落合で隠亡《おんぼう》してんのがいるんだ。そいつンとこで焼いちまやア、道端にうっちゃっといたところで、馬の骨か犬の骨かわかりゃしねえ。うん、そうしよう。じゃア、俺が先かつぐからな、おめえ後棒かつげ。いいか、しっかりかつげよ。……どっこいしょっと……こりゃア相当重いぜ。尻《けつ》で拍子とって歩かねえと、途中でへたばっちまう……どっこいしょ、こらしょ、どっこいしょ、こらしょ」
「兄貴ィ、あんまり景気つけんなよ。樽がふれちまってしゃあねえや」
「じゃ、声だけ景気つけらア。どっこいしょ葬式でえ。こらしょっと、葬式でえ」
「いいよ、いちいち断んねえでも。そら、人が笑ってんじゃねえか」
「なに言ってやんでえ。断んねえと、沢庵と間違《まちげ》えられちまう。この土橋の先ィ田んぼがあるぜ。すべるから気ィつけろ……どっこいしょ、こらしょっと。どっこいしょ、こらしょっと。どっこいしょ、こら……あッ、ああ、どしてえ? 滑ったア? それみろッ、言わねえこっちゃねえ。さア、あの灯《あか》りンとこだ。急いでいこうぜ……え? 肩変える? じゃ俺も……わっしょい、こらしょ。わっしょい、こらしょ……着いたぜ。おう、留公。……留公」
「誰だい? ……おう、久さんじゃねえか? どういう風の吹きまわしだい、ええ? こんな時分に、一体《いってえ》なにしに……」
「仏さま持ってきたんだ。ひとつ、焼いとくれ」
「切手、あんのか?」
「そんなもんありゃしねえやな。ちょいと、内緒で頼みてえんだ。近所の野郎だから身許ァ確かだ、なア、頼まア」
「どうも、おめえに頼まれると、嫌《や》たア言えねえんだなア、気が弱いから」
「なに言ってんだよ、割り前返せねえからじゃねえか。あの割り前、棒引ィしてやっから、早いとこ焼いとくれよ」
「そうか、すまねえな。で、どこにある?」
「その樽ン中だ」
「樽って? ああ。……おい、なんにも入《へえ》ってねえぜ」
「ねえ? あっ、底が抜けちまってらア。そうか。さっき、田んぼンとこですべったとき落っことしちまったのかア。軽くなったのア、肩かえたせいかと思ったんだが。しようがねえ、すぐ、探してくらア。ぐずぐずしてると、誰か拾ってっちまうといけねえ。さア、おめえもこいッ……暗くてよくわかんねえが、土橋のこっちだから、たしかこの辺だったぜ」
その時分は、焼場へ参ります道に、願人坊主《がんにんぼうず》てえのがおりまして、どこそこの寺へ寄進するなぞと、うまいこと言っちゃア、あちこちでもらい歩いてるという、坊主とは名ばかりの乞食が、もらいがあるてえと、酒くらっちゃ素ッ裸《ぱだか》で寝ていたもんでして、
「あっ、おい、みろッ。こんなとこィ転がってやがつた。おめえ、頭のほう持ちゃげとくれ」
「よいしょっと。兄貴、少ゥし温《あった》けえぜ」
「地温《じいき》であったまったんじゃねえか」
「やに、ぶくぶくしちゃったなア」
「そりゃアおめえ、夜露にあたりゃアふやけらア。さア、樽をかぶせンぜ、縄アくくりつけて……いいか? じゃア急ごう、留公が待ってらア……どっこいしょ、こらしょ」
「うんうん、うんうん」
「唸《うな》ンじゃねえ、こん畜生、死んでまで世話かけやがって」
「痛えッ……おいおい、どこへ連れてくんだよ」
「うるせえ、焼場でえ」
「なにしに行くんだ?」
「てめえを焼くんでえ」
「焼かれんのァいやだ」
「ぜえたく言うねえッ、こん畜生……おう、留公、拾ってきたぜ。火ィついてるかい?」
「ああ、ちょうどいい塩梅だ。……おい、久さん、やけに赤い身体じゃねえか」
「ほんとだ。この樽ァな、水張っといたんだ。きっと、樽にしみ込んだ紅生姜《べにしょうが》かなんかの色が出ちまって、染まっちゃったんだ。まア、そんなこたアどうでもいい。おう、おめえ、手エ貸しとくれ、いいか? 持ちゃげるぜ。こりゃ重てえや……さア、火ィかけるぜ」
「熱ッ、熱ッ、熱いよオ……」
「こん畜生、生き返ンじゃねえ。いいかげんに成仏しろィ」
「おう、よせやい、ひでえことしやがって……一体《いってえ》、ここァどこだ?」
「日本一の火屋(焼場)だ」
「ひや? 冷酒《ひや》でいいから、もう一杯《いっぺえ》……」
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解説
「落語」という言葉で、「長屋」を一番先に連想するひとが少なくないはずである。「落語」は、江戸時代の、長屋を舞台にした、おもしろおかしい物語であると、かたくなに信じているひともあろう。ひと頃、いろいろな落語から、設定を借りあつめ、一篇の物語をこさえて映画化するのが流行ったが、題名は、きまって、落語長屋はナントカで、といった式のものだった。
落語と長屋が、切っても切れない関係にあるのは、要するに長屋における庶民生活を描いたはなしがいかに多いかということをしめしているのだが、そのことは、この芸が、ながいあいだ、長屋生活に代表される庶民に受けいれられてきた事実の証明でもある。都会生活に欠かせない存在であった、その長屋も、いまではすっかり姿を消してしまった。
長屋の生活が、どうして落語になり得たかを考えてみるとき、それが一種の生活共同体であったことを、無視するわけにいかない。米を借りあうような生活をしながらも、祝儀不祝儀のつきあいにかたく、大家から声がかかれば、いやいやの文句たらたらではあっても、下手な義太夫をききに出かけ、酒の代りがお茶なんてひどい花見にも参加する。
こうした、ひとづきあいのルールみたいなものは、いわゆる厚い人情というやつに支えられて初めて成立するもののように思われる。たしかに、その通りなのだが、それは彼らの本能的な生活の知恵でもあるので、よく見ると、そこにはかなり狡猾な打算や、防衛本能が発見できて、おどろくことがないではない。
だが、そうした人間的なズルさや、ダメな部分にたいして、落語は、きわめてやさしく、あたたかい目をあてている。ダメなやつをダメなやつとして描き、泥棒や無頼漢や酒乱を堂々と主役にもってくるような芸は、落語しかない。そして、そういうダメなひとたちの生活する場が長屋なのである。
ひとつの井戸を、いくつもの世帯が共有する生活にあっては、意識する、しないにかかわらず連帯してことにあたらなければならない。どんなばあいでも、熊さんの問題は同時に八っつぁんの問題になるわけで、ひとりひとりの意志のように見えても、じつは、それが長屋という組織の意志に昇華してしまう。だから、大家から呼び出しがあったといっては、雁首あつめて、大家の意向をさぐろうと相談しあい、そうした手続きをスムースにはこぶため、月番という役目がある。
団地だの、マンションのことを、現代の長屋だとする説があるが、これは形状から単純に発想されたものにすぎず、およそ似て非なるものといっていい。鍵ひとつで、外部から遮断されることの可能な構造から、あの長屋的生活感は生まれない。有名タレントの暮らしぶりについては、飼ってる犬の数まで知ってるひとが、隣に住むひとの顔も知らないことが当りまえとして通用する生活からは、あの長屋に象徴される落語の笑いは創り得ない。
落語が古典化されるのも、やむを得ないなりゆきの、ひとつの例が、この長屋生活にうかがえるのだ。その意味では、「長屋ばなし」こそは、典型的な古典落語であるといういい方も可能だし、結局のところ、落語の面白さは「長屋ばなし」につきるんじゃないかといった思いがしてくるのだ。
江戸から東京へという流れに身を置いてきたひとたちは、町人文化から独特の美学を生みだした。なかでも、人情の機微をうたいあげた「人情噺」や「世話講釈」に描かれる世界は、上方の風土には得られない色彩をもっている。長屋生活の世態人情から生まれる、豊かな笑いを、「落語」という芸に還元するのに、「人情噺」や「世話講釈」を完成させた江戸っ子の感覚と技術が、どれだけ大きな支えになっているかは、計りしれないものがある。
本書に収めた落語は、そうした江戸から東京にかけての長屋の生活感に横溢した、おなじみの名作ばかりだ。これによって、落語の本当の面白さを識り、実際の高座に魅かれるひとが増えれば、編者として、これ以上の喜びはない。(矢野誠一)