矢野誠一
さらば、愛しき藝人たち
目 次
博奕狂いのアダチ竜光
律義でモダンな牧野周一
松葉家奴はでたらめ人間
殿様気分の清水金一《シミキン》
誇り高き泉和助
箱庭の頭・春風亭枝葉
無精のせっかち・三笑亭可楽
インテリに弱い吾妻ひな子
タレント議員第一号・石田一松
山茶花究は五黄の寅
傍若無人の鈴々舎馬風
広沢虎造に七人の妾あり
お笑いを一滴の吉原朝馬
洒落で死んだか? 大辻伺郎
北に消えた後藤博
後 記
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博奕狂いのアダチ竜光
下手の横好きもいいのだが、これがこと博奕《ばくち》となると、いささかやっかいになってくる。
アダチ竜光の博奕がそうだった。
奇術師だから手先が器用で、手先が器用だからちょっとしたいかさまなんかわけはない、だからウデのほうだってと、ついみんなが考えるところだが、これがてんで駄目なのである。それでいて、好きなことはひと一倍ときてるのだから手に負えない。
こういうのは、はたで見てるとかなり悲劇的な様相を呈するところだが、当のアダチ竜光センセイはと見れば、いつに変らず泰然自若としているのが、とてもよかった。そう、「泰然自若」という言葉は、このひとのためにあるのではないかと思われるくらい、物事に動じるということが、ついぞなかった。
だいたいアダチ竜光というひとの藝には、「うまく見せよう」という姿勢が、これっぱかしもなかった。無愛想きわまる表情で、ただ淡々と奇術を展開しているだけで、口をきくのも面倒くさいといった感じで前半の小手しらべを見せるのが、このひとの舞台のつねであった。あの、独得のとぼけた口調が出てくるのは、小手しらべをひとしきり披露してからあとのことで、それまではまったくとりつく島のないような風情が見えた。
そんな無言の小手しらべで、段取りが狂ってしまったのだろう、トランプの奇術がうまくいかなかったことがある。ほんとだったら、スペードのエースが出なければならないのに別のカードが出てしまったのである。なのにまったく表情を変えることなくやり直して見せたのだが、またまた別のカードが出てしまう。このとき、たったひとこと、
「ま、たまに、こういうことがあるの」
といっただけで、平然と次の奇術に移ってみせた。てれるでなく、恥じるでなく、もちろんあわてるでなく、ただただいつもと同じように藝をつづけていくのを見て、いったいこのひと、おどろくということがあるのだろうかと考えた。
あれはいつの頃であったか。たしか、ビートルズの来日騒ぎのあった年だから、十五年以上むかしであることは間違いない。
彦六という名で死んだ林屋正蔵が座長格になって、アダチ竜光、三笑亭夢楽、春風亭柳朝、それにまださん治といって二つ目だった柳家小三治などの面々で、北海道は旭川、小樽、札幌などの地を巡演して歩いたことがある。どうしてビートルズ来日の年といえるかというと、旅館のテレビで、彼らの演奏会の中継をじっと見ていたアダチ竜光が、
「ふゥん。あれがエゲレスの気違いどもか」
とつぶやいたのを覚えているからだ。
それはともかく、まだ開港して間もなかったはずの旭川の空港に着いて、ひとまずロビーに落ちついたとき、竜光がポツリといったのである。
「鞄《かばん》、帯広に置いてきちまった」
帯広の空港で、別の機に乗りかえて旭川まで来たのだが、そこに鞄を置き忘れたというのだ。鞄といっても、これがただの鞄じゃァない。舞台で使う奇術の道具のつまった鞄だ。道具がないことには仕事にならない。さっそくその晩の舞台にもさしつかえてしまう。
「これは大変、一大事」と、若い落語家が航空会社のカウンターにかけつけて、次の便に載せてもらうことではなしがつき、なんとか開演時間に間にあいそうだという。
「なんとかじゃァしようがねえ。かならず間にあってくれなくちゃァ駄目じゃねえか」
と口をはさむ林家正蔵の心配をよそに、忘れた当人は、落ちつきはらったものである。
「なァに、間にあわなきゃ間にあわないでかまわねェ。旭川の町だって、トランプぐらい売ってるやろ。トランプ一組ありゃ、三十分ばかしの高座、どうってことないヮな」
口ではいってみたものの、さすが心配は心配らしく、旭川で文房具屋を見つけるとトランプを買った。旅館の大広間でみんなが一服していると、
「少しは、手に慣らしとかんとな」
などとつぶやきながら、買ったばかしのトランプの封を切ると、そこはあざやかな手つきで二度三度とシャッフルしていたかと思う間もあらばこそ、
「ほいッ、みんな、なにぼんやりしてんの? 夢楽さん、柳朝さん、オイチョがいい? それともドボン?」
好きだとはきいてましたよ。きいてはいましたがネ、これはまさに寸暇を惜しんでというやつで、これほどだとは思わなかった。
その寸暇を惜しんでのよからぬ遊戯。どうやら竜光センセイの旗色、いつもと同じでかんばしくない。「とんがれッ、とんがれ」などとつぶやいてるときは丸くなって、「まあるくなれッ」と念じると、とんがってしまうことのくりかえしだ。にやにやしながら夢楽がたずねる。
「これまでに、センセイのカネ、いちばんまきあげたの、誰です?」
「そりゃ、柳好や。あいつにはいくら負けたか見当もつかん」
三代目春風亭柳好。『野ざらし』『蟇《がま》の油』が十八番の明るい落語家だったが、昭和三十一年に没している。
「柳好ってひとも好きだったネ。いっしょに旅に行くヮな、宿に着くやろ、すぐに始めるんや。俺が舞台で使うトランプ出させて、そいつで俺のカネまきあげよる。楽屋に贔屓《ひいき》がきて、お祝儀くれるヮな。『みなさん、いただきましたよ、あとで分けましょう』って、右の袂にいれる。出すときは左や。『あれ、あの旦那セコイね、これっぱかり』初めっから少なめの用意しとくんやな。俺の手品より、よっぽどうまい」
アダチ竜光の毒舌は楽しかった。辛辣きわまりないはなしが、決して陰気に落ちない。出身地の新潟、長いこと住んだ大阪、それに東京の藝人仲間のスラングなど、いろんな土地の訛《なま》りに独得のイントネーションが加わった、なんともいえぬ味わいのある話術だった。あれだけ他人の悪口をいいながら、自分は少しも悪くいわれなかったのも、あの愛嬌あふれた口調によるところ大にちがいない。
帯広に忘れてきた鞄は、無事旭川の舞台に間にあった。札幌の旅館では麻雀が始まった。竜光センセイの形勢、いぜんかんばしくない。なにしろ筒子《ピンズ》のチンイチしかつくろうとしないのだから、なかなかなことじゃァ勝てるわけがない。
「センセイ、あがれませんネ」
こちらは順調な小三治がひやかすと、
「なあに、カネですむこっちゃ。むかしはネ、旅に出て、そのギャラうちに持って帰ったら笑われたもんや、みんな博奕で取られてな、帰りの汽車でアイスクリームも買えねェの」
「ヘェ、おかみさんに、なんて言い訳するんです?」
「そりゃまァ、スラれたとか、泥棒にあったとかいうヮな。かあちゃんがよくいうとるわい。父ちゃん、むかしはようカネすられたけど、最近はあまりスラれないって……けどなァ、その時分、ふと長火鉢の引出しあけようとしたら、重くてあかないの。無理に引っぱり出したら、なんと一銭玉が一杯じゃ。俺が、うちにカネいれないから、かみさん、魚屋や八百屋を値切っちゃ一銭玉ためてたんや。これ見たときゃァ、さすがの俺も、ああ、すまんなと思うたな」
「で、もう博奕はするまいと……」
「いやァ、いっそう精だした」
満を持してた竜光センセイ、とうとう見事なハネ満をつもった。すかさず小三治が口をとがらした。
「ずるいよ、センセイ。ネタ使ったでしょう?」
下手な博奕で、ひと助けしたこともある。
戦争前の、のどかな時代のはなしだが、入谷の床屋の二階で世帯をはっていた。近所に仲間の奇術師がいて、かみさんが病気だというのに医者にかけられない。十銭しかないのである。見かねた竜光、いやがるその奇術師をむりやり博奕に誘ったのである。わざと負けて医者代をかせがせてやったのだ。真剣にやったって勝ったためしのない竜光だが、
「そういうときに限って、いい手がくるンだ。俺、オイチョの手であと一枚引いたのは、あとにも先にもあンとき限り……」
明治二十九年七月二十日生まれだから、干支《えと》は申《さる》。本名が中川一で、中川というのは、かみさんの姓である。藝名は、旧姓の安達を片仮名にしたものだ。戦争中に、片仮名の藝名つけるなんて、案外モダンなところがあったんだなァ、このおじさん。
新潟県東蒲原郡|鹿瀬《かのせ》の生まれ。生家は曹洞宗のお寺で、八人兄妹の長男である。ほんとだったら、寺を継いでお経をあげてなくちゃならないところだが、子供の頃からできが悪くて、なにをやっても駄目だった。これ、自分でそういっていたのだから間違いないだろう。
十八歳で家出。郷土出身の大立者大倉喜八郎ぐらいになって……と、志すこぶる大であったが、なに実際はその年に開通した磐越西線の車掌の詰襟に白手袋という格好に憧れて、岩倉鉄道学校を志願したのである。
なにせ不景気きわまる時代だったから、鉄道学校を卒業できたからといって、かならず鉄道員になれるというものでもなかった。おまけに成績もよろしくないとあっては、はやめにあきらめるにこしたことはない。
気がついたら藝人になっていた。
藝人になったといっても、いきなり奇術師じゃない。役者、それも女形《おやま》をやっていたというのだが、信じられる?
「柄が小さかったから、二枚目はできねェの」
なんていっちゃァいたけれど、あの訛りだくさんの台詞《せりふ》で女形……あんまりぞっとしないよなァ。あとは活動写真の弁士をしたり、ひと頃|流行《はや》った連鎖劇なる活動と芝居のいっしょになったものに出たり、声帯模写とも物真似ともつかない藝をやったりしたあげくの奇術師である。
物真似では、ずいぶん売れたことがあるらしい。十八番は、「鶯《うぐいす》の谷渡り」。鶯のなき声だけで四軒の寄席をかけもちしたという。おかしなもので、三軒目あたりの出来がいちばんいいそうだ。電車通りを歩いている客に、「あッ、いま竜光はんが出て鶯ないてはるヮ」といわせたのが自慢なのだ。もちろんマイクなんか使わない。
その「鶯の谷渡り」というのを、竜光が久方振りにやったのをきいたことがある。なにかの会で洒落《しやれ》でやったのだが、正直いってこれで売れたなんてほんとかしらと思われるくらい、面白くもなんともないものだった。
「猫八さんのと、あんまり変らなかった」
思ったとおりの感想をいったら、
「そりゃまァ、むかしどおりにはいかんわィ。ふだん演《や》ってねェんだもの。だいいち歯が入歯ンなっちまったしな」
と、それでもちょっぴりさびし気な表情をしたので、余計なことをいってしまったと後悔したものだ。奇術のほうで名人だとかなんとかいわれているんだから、洒落でやった余技の評判なんかどうでもいいように思うのだが、これがそうもいかないらしい。ここらがむかしながらの藝人気質というやつだろう。
奇術の修業は大阪でした。二十六歳で単身上京して、深川にあった常盤亭という寄席で、「東西会」の一員として看板をあげた。その時分の奇術師は、得意のネタひとつだけで商売してたのに、アダチ竜光は二十いくつ持ってたネタを、とっかえひっかえ披露してみせた。客は、やんやの喝采《かつさい》だが仲間からはねたまれる。「なんだ、あいつ。若造のくせして」というわけである。
かくして十日間でくび。やむなくふたたび大阪の地に戻るわけだが、
「世のなかに藝人もずいぶんいるけど、客にうけすぎてくびになったの、俺くらい」
うけすぎて、「くびだッ」といわれ、ふつうだったら文句のひとつもいうとこなのに、「はい、そうですか」と、すぐまた大阪に帰ってしまったあたりが、いかにもアダチ竜光である。どこか達観しているところがあったのは、若い時分からのことであった。
女にはもてたらしい。
旅先の宿には、婦人客の絶え間がなかったし、先輩の奇術師の夫人からいい寄られて往生したこともあったときく。だが、素人にはあんまり関心がなく、竜光の好みはもっぱら商売女のほうである。
函館で、大黒楼という遊廓の女に見染められたことがある。俥屋《くるまや》が手紙を持って迎えにくるのだ。三日三晩|流連《いつづけ》して、七円五十銭使い果し、女が貸してくれたお召の丹前着て、純金の指輪をもらって帰ってきた。ちょっとした色男ぶりである。
あくる日の昼間、女が訪ねてきていった。
「昨日の指輪、出して」
べつにほしくて貰ったものじゃないから返すと、女はその指輪を質に入れ十円こさえてきた。
「これで、今晩また来て頂戴」
しまいには女郎屋のほうから苦情がでた。
「あなたに来られると、女がほかの客をとらないから困る」
かといって、どこへ行っても、こんなにいい思いをしてたわけではない。
吉原で、割り部屋にあがった。一部屋を屏風で四つに分けて、天井からは薄暗い裸電球がぶらさがっているというわびしい光景だ。
その割り部屋で、敵娼《あいかた》にお説教されたのである。
「こういうところは、羅宇屋《らおや》だの、雪駄屋《せつたや》だののくるところなの。あなたみたいに藝道にはげむひとは、こんなところにこないで、三べんのところを一度にしても、本部屋で遊びなさい」
考えてみれば、ひとつの見識である。だが、割り部屋なら一円五十銭ですむけれど、本部屋ともなると八円五十銭かかる。ライスカレーが十銭で食べられた時分の八円五十銭だ。そうそう本部屋にばかり通いつづけるわけにはいきかねた。
日本全国歩いて、台湾、朝鮮、満州、樺太にも足をのばした。行く先々で、もちろん女にカネを使った。のべにして、千人はこえている。もし、女遊びをしないで、博奕にも負けなかったとしたら、銀行のひとつも建てて、
「いま頃は頭取じゃ、アダチ銀行の」
などと冗談口をたたいていたものだが、このカネ勘定というやつが、むかしからまったく駄目だった。
戦前の吉本興業で月給百円というのは悪くない。なのに、足りなくて前借りばかりしていた。吉本バンスキングだ。だいたい、吉本の専属になろうという気になった理由というのが、藝人のかけもち用に支給される阪急電車の定期券がほしかったからなのである。あれさえあれば、大阪から京都まで女を買いに行く足代がかからない。
「いいもんじゃ、定期券で女郎買いなんぞヮな。書生ンなった気分で」
その吉本をドロンしたことがある。旅の、いい仕事がはいったからである。悪いことはできないもので、岐阜で吉本の社員につかまってしまった。
月給、二百円にするから戻ってこいという。二百円くれるなら、なにもドロンなどすることもない。そのまま大阪に帰り、ふたたび吉本の舞台に立った。ところが月給日になっても、二百円はおろか、いままでくれていた百円もくれない。社長のところにかけあいに行くと、社長がいった。
「あほッ、おまえさん探し出すのに、ちょうど二百円かかっとンのや」
これは晩年のはなしになるが、ある玩具メーカーがデパートで、アダチ竜光の手品のネタを売り出したのである。これが思いのほか売れて、大枚のお鳥目《ちようもく》がアダチ竜光のところにころがりこんだのである。かといって、もう女にいれあげる年齢ではない。生まれて初めて金持になった竜光センセイ、このカネで生家の新潟のお寺に、立派なつり鐘を寄贈した。故郷へ錦をかざった気分だった。
ところが、このつり鐘と、デパートで売った手品のネタの両方に、ごっそりと税金がかかってきたのである。結局、その税金を支払うために借金することになるのだが、このはなしを伝えきいた、竜光よりひとつ年長の林家正蔵は、
「じつにどうも、いまどきのひとじゃありませんな」
と感嘆したものである。
寄席の楽屋で、何度かアダチ竜光からはなしをきいたことがあるのだが、いつも、
「どうしたの? きょうはなんのはなし?」
などいいながら、手のほうは一所懸命奇術のネタを仕込んでいたのを思い出す。きれいなハンカチを杖のなかに押しこんだり、これはまた、いったいなにに化けるものやら見当もつかない、チリ紙をまるめて糸でしばったものを箱につめたりしていたのである。
ふつう奇術師って、他人の前でネタを見せるなんてこと絶対にやらない。タキシードの内側に何羽かの白い鳩をしこむだけのことで、出演しているキャバレーの控室に鍵をかけ、扉の外にガードマンまで立たせる奇術師もいるというのに、このひとは平気だった。
素人風情が夕ネやシカケを垣間見たからといって、そう簡単にできやしないという気持もさることながら、「奇術はネタではない、藝なのだ」という六十年の舞台生活でつちかった信念があったからである。だから、
「天皇の前で奇術やったときだって、もし天皇にネタきかれたら、教えてあげるつもりだったんだ。いや、ほんとに。教えたって、民間に伝わらねえもン。けど、ネタを知りたいなんて、平民の持つ下賎な気持がねェの、あちらには……」
といっていた天覧奇術のことを、
「十七万円かけてタキシード新調して出かけて、宮内庁のくれたギャラが二万円」
などとぼやきながらも、
「あれは、昭和四十六年五月十四日」
と、すぐに答えるくらい名誉にしていたあたりが、天皇陛下の五つ年上という筋金入りの明治生まれだった。
その天覧奇術の当日だが、竜光は池袋でタクシーをつかまえて出かけている。ところがこのタクシーの運転手、皇居に着いて、坂下門に入れといったら、「冗談じゃない」と、はいってくれない。
「俺のこと、アダチ竜光って知らねンだ。きっと、どっかの農協の気違いが、直訴しに来たと思ったんだろうな」
直訴とはまた、いうことが古いが、農協のおっさんとは、自分を語るに妙のところがある。事実、敗戦前後、故郷の村役場で財務係をしてたのである。あのカネ勘定の駄目なセンセイを、財務係にする村役場も村役場だが、あの風貌を思いうかべるとこれはそんなに悪い役どころではない。黒い腕カバーなんかして、無愛想な顔で机にむかってる姿なんて、なかなかさまになったにちがいない。
天皇の前では、客からあずかった腕時計を、食パンのなかから出す奇術をやった。若い時分から、得意中の得意にしている藝で、博奕で負けてめしの食えないときには、終ってからそのパンを食べて飢えをしのいだこともあったそうだ。当日の模様を録音したカセットを持ち歩いて、
「いいか、ここでひとりだけ先に拍手するやろ、パンパンパンって、これが天皇様じゃ。ああいうところじゃネ、天皇より先にものいったり、手たたいたりしちゃいけねえの」
と、うれしそうに説明していたものだが、思えばあの時分が竜光センセイ得意の絶頂であった。
宮内庁の役人は洒落がわからないとか、皇室の絨毯《じゆうたん》がふわふわすぎてよろめいたとか、陛下が欧州旅行へおいでになる際、タラップでよろめかれたのは、あちらは鉄板の上じかに歩かれたことがないからだとか……アダチ竜光の天覧奇術体験記は、ずいぶんと活字になっている。
「いやァ、ギャラは二万だったけどな、あのはなしでは、ずいぶんと儲けさしてもらったヮい。おなじことはなしてりゃカネくれる。楽なもんや」
と苦笑していたものだった。
たしか昭和五十六年の正月だった。日本放送演藝大賞の「功労賞」というのを受けて、フジテレビのスタジオで久し振りに奇術をやった。皇居みたいに、ふかふかの絨毯なんぞ敷いてないスタジオのステージだというのに、竜光センセイ足もとがよろけて、どこから見ても、もうほんとうの老人になってしまったのがさびしかった。それでも、「泰然自若」とした高座態度は、むかしのままだった。
それからしばらくして、偶然会った若い落語家からアダチ竜光が入院したことを知らされた。
「なにしろ当人に、よくなろうという気がまったくないンで、医者も困ってるらしい」
ときいて、いかにもアダチ竜光だと思った。老いというものに対してすら、このひと泰然自若たる態度をとりつづけたのである。
昭和五十七年十月十三日。東久留米病院で逝った。訃報は、「心不全のため」となっていた。左の薬ゆびの、洒落たメンズリングのダイヤの光が、なんともさまになる八十六歳だった。
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律義《りちぎ》でモダンな牧野周一《まきのしゆういち》
「最初の三分なんです。ここで客をつかめなかったら駄目です。でも、そういうことがわかって、どうにかなったかなと思ったときは、もう五十五ンなってましたもんネ」
漫談の牧野周一から、何度となくきかされたはなしだ。
鶴を思わせるような痩身で、ややねこ背かげんの高座姿の牧野周一が、独得の、ふわァっとした声で、
「先日、電車ン乗ってましたら、面白いことがありましてネ……」
などとしゃべり出すと、それだけでもう客席はひきこまれてしまうのだった。ただただ大口あけて身をよじらせるといった式の即物的にすぎる「笑い」は、牧野周一の好むところではなかった。ききながら、自然と顔のほころんだ客を、思わず「そう、そう」とうなずかせてしまうあたりがこのひとの漫談の真骨頂であった。
無論、こうした生活感にあふれた語り口が一朝一夕《いつちよういつせき》で身についたわけではない。藝術祭奨励賞、紫綬褒章《しじゆほうしよう》を受け、東京演藝協会会長の肩書で世を去った牧野周一にも、つらくて長い失意の日々があったのである。
日本が戦争に敗けた頃、牧野周一の名も世間からすっかり忘れられていた。漫談で一本立ちしたくても仕事がない。しかたなく流行歌手の巡業に、司会役としてついて行った。未曾有の食糧難にあえいでいた時代、食事を保証されるのがなにより有難く、おまけに旅館の女中さんとしっぽりなんて機会も少なくなかった。その時分、ほとんどの藝人が中毒になっていたヒロポン代を、なんとかして捻出《ねんしゆつ》しなければならない事情もあった。
そんな、旅から旅のその日暮しで、西へ西へと落ちて行って、宇和島にたどり着いた。旅館に帰る途中の夜道で、ほんとうに天の声をきいたというのである。
――コンナコトシテイタラ駄目ダ。
すぐに荷物をまとめて、東京に舞い戻った。天の声をきいて、東京に帰るという牧野周一を、歌い手や、そのマネジャーたちは、
「とうとうヒロポンで頭がいかれてしまった」
と思ったらしい。
東京に帰って、戦前に演《や》っていた漫談の台本をひっぱり出してきて、時勢にあうようにつくりなおすのに、四十日かかった。その台本で、東京や京都の寄席の舞台に立って、
「なんとか、これならいけるかもしれない」
という感触を得たとたんに、胸をやられた。親友の世話で、一年間の入院生活。ついてない。
退院後、ふたたび寄席に出るようになってしばらくした時分、人形町の末広でひらかれた一流の落語家ばかりがならんだ特別の会に、漫談家として、ひとりおよびがかかったのである。そればかりではない。その晩の牧野周一の高座を、劇評家の秋山安三郎氏が新聞紙上で絶讃してくれた。
「うれしかったですネ。自信がついたというのか、ほんとうに涙が出てきて困りました。何度も何度も、その批評を読みました。切り抜いて、定期入れにおさめ、ときどき取り出しては読み返していたものだから、しまいにはボロボロンなってしまいましたが、いまでも全文暗記しています」
上野鈴本演藝場の応接室でこのはなしをしてくれた牧野周一は、立ちあがってその批評を暗誦しはじめたものである。おどろいたことには、その文章の点や丸、つまりは句読点まではっきりと指摘する。
かくいう当方とて、演藝批評家のはしくれだ。これほどまでに、その藝人に影響を与えるような批評を、一度でいいから書いてみたいよ、冥利につきる……と、そう思いながら懸命になって牧野周一の暗誦するのをメモしたことを思い出す。
家へ帰って、念のためにと、まだ元気だった秋山安三郎老人に電話してみた。秋山老人は、そんな批評を書いたことなどまったく記憶にないという。それでも秋山さんは、スクラップブックを調べてやるから、もう一度電話をかけ直せという。一時間ほどして電話をしたのだが、
「多分、こいつじゃないかと思うけど……」
と、電話口のむこうで老人が読みあげてくれた批評、牧野周一が暗誦してみせたのと、一言一句ちがっていなかった。
ちょいとばかし大袈裟ないい方を許していただけば、大正デモクラシーとよばれる、あの良き時代に青春を送ったひとには、独得の輝きがある。モダニズムの輝きといっていい。明治三十八年、石巻に生まれ、二歳のときから東京暮しという牧野周一には、大正リべラリズムの洗礼を受けた、典型的なモダンボーイの風情が、終生ついてまわった。
アルコールのほうはいけなかったが、コーヒーには目がなくて、ブラジル、コロンビア、モカ、ブルーマウンテンを自分でミックスしていれていた。三十六年間、おなじ味というのがご自慢なのである。
知らない土地で、見当つけてはいった喫茶店が意にそまないコーヒーを出すと、気にいった味に出会うまで、何軒でもはしごをしたそうだ。つきあわされた弟子など、しまいにはコーヒーの香りをかいだだけで、頭が痛くなった。
朝食はステーキ。さすが晩年は百グラム程度のものに落ちたが、自宅で朝をむかえる限り、この習慣は変えたことがなかった。焼き方の注文もうるさく、塩、胡椒《こしよう》、味の素をすりこんだ肉をレア気味に焼き、醤油《しようゆ》ににんにく、更に梅酒を加えたたれを、食べる直前にかけるのだ。
野菜サラダも、レタスを敷いた上に、トマトはきっちり五つにスライスしなくてはいけない。わきに太目のアスパラを、これも五本。自家製ドレッシング。さらに季節の果物二種類に、三杯酢《さんばいず》をかけたもの。レモン一個。蜂蜜カップ一杯。まだある。納豆に卵の黄身、バター大匙《おおさじ》一杯、粉チーズを加えてかきまわしたもの。輪切りのリンゴに干しぶどうをはさんで、数日間密封したという不思議な食べもの。不思議な食べものといえば、米酢に生卵を殻のまま二十日間漬けて、軟かくなった殻を取り除いてかきまぜたものなんて、どんな味がするものやら。
ジュースが三種類。一番はレモンプラス蜂蜜。二番がリンゴと人参をすりおろして、ガーゼでこしたのに蜂蜜。三は、ミルクとクロロフィル。さらにパンはドンクの焼きたて。これは皮だけ食べて中身は弟子の役目。そしてミルク紅茶。
あの痩せた身体の、いったいどこにこれだけのものがはいるのか、じつにおどろくべき朝食だが、なに、他人から健康にいいといわれたものを、単純にききいれ、ただちに実行にうつしているうちに、これだけにふくれあがってしまっただけのことなのである。
たまたまここに、自分で書いた最後のスケジュール表があるのだが、何日の何時に誰に電話するなんてこまかく記されたわきに、「衣裳着っぱなし」とか「ガウン持参」「靴はこび」なんてことまで書いてある。中日の楽屋にくばる寿司や、誰それに渡す祝儀まで、前日のうちに手配しておくように記されてるあたりが、このひとの律義さだ。
祝儀といえば、前座の落語家や、よその藝人の弟子などがなにかと手伝ってくれたときに与える小遣いにも、ひと一倍気をつかった。落語協会会長の三遊亭円生のくれる小遣いが、二百円か三百円が相場の時代、東京演藝協会会長牧野周一としては金千円也を奮発したものだ。
楽屋で、若い藝人たちと雑談していて、面白いはなしがあると、すぐにメモして、漫談の材料にするからと、二千円とか三千円を手渡していた。弟子の牧伸二が、すっかり売れっ子になってからでも、こんなばあいには、きちんと三千円支払った。
そのかわり、あまり売れてない、若い藝人などのとき、実際にはネタにならないはなしでも、使うようなふりして小遣いをやっていたふしもある。
真面目人間だったと誰もがいう。事実、まあ、やっぱり、真面目人間だったのである。
藝術家としての誇りを持てというのが信条だった。だから舞台で下《しも》ネタと称する卑猥なはなしをするのを、弟子たちに許さなかったし、ふだんの行動にも口うるさかった。売れ出した頃の牧伸二が、グリーン車に乗ってるのを専務車掌にとがめられて、
「よっぽどぶんなぐってやろうと思った」
とはなしたところ、牧野周一は涙を流して牧伸二をいさめた。
「藝術家は、間違っても他人をぶんなぐるなどと口にしてはいけない」
というわけだ。こういうときのお説教は長くて、二時間も三時間もつづいたという。
そんな真面目人間だから、御婦人の噂なんか、まるでなかったかというと、こればっかりはそうではなかったのだから嬉しくなる。なかなかの艶福家《えんぷくか》だったのである。あちらのほうも立派で、「色といい、艶といい、あれだけのものは、ちょっと見たことがない」と、そばにつかえていた弟子たちが口をそろえていう。
だいたいかなりの早熟で、四つのときに女中さんに男をささげている。父が小学校の校長、母も教員というかたい家庭だったのに、女中さんのほうはしごく軟かかったらしい。両親が出かけると、すぐに床をとって、「坊っちゃん、いらっしゃい」ということになる。
「なにしろ、こっちはまだ子供ですから……それでも、お粥《かゆ》のなかに指がはいった程度の気持にはなる。あチチというほど熱くはないけど、そうかといってぬるすぎるというわけでもない」
もちろん、「お父さんや、お母さんには内緒だよ」といわれていた。そのうちに、その女中さん、手癖が悪いことが露見して、首になってしまう。次の女中さんがやってきた。当然のことのように、新しい女中さんの着物の裾から手をいれると、いきなりその手をぴしゃりとたたかれて、「まあ、坊っちゃん、なんてことなさるんです。お母さんにいいつけますよ」とにべもない。女中さんというのは、子供相手にそういうことをしてくれる職業だと思いこんでいたというのだが。
住所は、原宿のマンションで、奥さんと娘さんといっしょに住んでいた……と、世間的にはそうなっていた。だが、弟子たちが奥さんと呼び、毎朝、ステーキをふくめた盛沢山の食事から、身のまわり一切の世話をしていた原宿の御婦人は、正式の夫人ではなくて、戸籍上の妻子というのがまた別にあったのである。世間によくあるはなしだし、まして藝人とあらば、といったところだが、ふたつの世帯を、これといったトラブルも起こさずにうまく切り盛りしてみせたあたりが、明治生まれならではの男の才覚である。
「あの先生は、女に対しても真面目で誠実だったから……」
というのだが、たしかにそうで、別の女と浮気の約束ができている日に、あいにくと食あたりかなにかでひどい下痢《げり》なんて事態にたちいたっても、脂汗流しながら、這うようにして出かけたものだという。決死隊だネ。
朝からステーキのせいか、見かけによらずあちらのほうも強かった。晩年まで、家族にバレることなくすんだ別の御婦人が、熱海方面にいたらしいのである。仕事が、二、三日休みになると、「静養」と称して、もっぱら熱海詣りに余念がなかった。あるとき、この熱海から帰り、思わず、
「疲れたから、床を敷いてくれ」
と口にして、娘さんにいわれたそうだ。
「お父さんたら、おかしいわネ。熱海に静養に行くたびに、疲れた、疲れたって……」
所属していた藝術協会の有志が、「花好会」と称する忘年会を、毎年温泉につかりながら催すのだ。「花好会」は、文字通り「かこうかい」と読むのだが、寄席藝人の符牒《ふちよう》で、「かく」といったら、婦人と特殊な行為をいたすことなのである。そちらの方面の洒落《しやれ》の意味もふくまれたこの宴会では、いろいろと趣向をこらした珍藝が披露され、優勝者には、なんと藝者が当ることになっている。
それでなくても一藝ある連中ばかりの席だ。なまやさしい趣向では、優勝の栄誉など獲得できるものではない。玄人《くろうと》を喜ばせる珍藝でなければならないのだから、これは大変なことなのだが、この会の、最多優勝者が牧野周一なのである。なにしろ、一年間、「なにをやったらうけるだろう」と、そればっかり考えて、ふだんは自分の弟子に、高座で下ネタを演《や》るのをきびしく禁じている身が、この夜ばかりは思いきってハメをはずした珍藝で勝負に出るのである。
弟子とふたり、ともに肉|襦袢《じゆばん》をつけて登場する。あんこ型の力士と、臨月間近いその妻という設定なのである。その気になったこの夫婦が、なんとか思いを達そうと、それこそあの手この手を、真剣になって試みる寸劇など、まさに抱腹絶倒だったという。
かと思うと、大きなトランクから、得体の知れぬ物体をとり出して、神々し気におしいただき客のほうにむける。なんと、膨大な量の布地、綿、毛糸を使ってつくりあげた、原色の御婦人の身体の一部。大きさは、きっとガリバーの訪ねた巨人国の女性のものがあの位ではないかというのだが……
ふだん、真面目人間で売っているあの牧野周一が、いったいどんな顔をして寸劇の稽古をしたり、あやし気な小道具の製作にうちこんでいたのか、想像するだにおかしくなってこようというものだ。
一年間の苦労が実を結んで、見事優勝しても、その栄誉だけを頂戴して、賞にかなう藝者衆のほうはきまって辞退した。御婦人が嫌いというわけでないことはみんなが知っているのだが、公式の場ではあくまで真面目人間としての立場を貫く、モダンボーイならではの一種の気取りなのである。
本名が宇野主一。大正十一年、赤坂にあった南川光作の個人経営になる帝国館という小屋の見習い弁士になったのが藝人としてのスタート。そう、なつかしき「活弁」である。
活動写真の弁士を略して「活弁」。無声映画の画面を見ながら、バイオリンやマンドリンのはいった、楽士たちの演奏にあわせて説明する、わが国独得のシステムであった。
「花のパリーかロンドンか、月がないたかほととぎす……」
とか、
「春や春、春南方のローマンス……」
などというあれだ。もちろん、
「東山三十六峰、草木も眠る丑三《うしみ》つ刻《どき》……」
なんて、メイドインジャパンのちゃんばら活劇もあった。
その時分の活弁には、生駒雷遊や染井三郎に代表される名調子が売物の浅草派とあくまでリアリティを尊ぶ山の手派があって、山の手派の第一人者が赤坂葵館の主任弁士徳川夢声であった。牧野周一は、この徳川夢声に憧れて活弁の世界に投じてしまった。ところが見習いで入った二日目に、主任弁士が八百屋の娘と駈け落ちする騒ぎがあって、いきなり一本立ち。その後、シネマ銀座、邦楽座と移り、昭和二年に新宿武蔵野館から招かれて、その時分そこに居た心の師徳川夢声と同座する。
酒びたりの徳川夢声は、映画の映し出される前の、客席の明るいうちはたしかに弁士の席にいるのだが、映画が始まり客席が暗くなると、頭の部分だけしゃべって、「おい、牧野、かわれ」と裏にひっこんじゃう。牧野周一が徳川夢声の声色《こわいろ》でつないで、終りのほうになるとふたたび夢声が、「映画全巻の終り」とやって客席が明るくなると慇懃《いんぎん》に挨拶をしてるという仕掛けなのである。
その徳川夢声が世を去ったのは、昭和四十六年の八月一日のことだが、いらい八月上席の東宝演藝場で、牧野周一は「徳川夢声をしのび」と題して、そっくり夢声の声帯模写で『宮本武蔵』を演ずるのが習慣になった。夢声に対する尊敬の念と、若い時分に活弁で代演してバレたことがなかった自信がやらせた趣向だが、さすが見事な出来で、声帯模写の藝人が、「すみません、テープにとらせてください」とやってきた。
「活弁」というのは、いってみれば時代の先端を行くはなやかな商売で、悪いものじゃなかった。だが、いいことはそうそう長くはつづかない。わが世の春を謳歌《おうか》していた弁士たちが、いっせいに首を切られてしまったのである。昭和四年に、アメリカのトーキー映画『進軍』が輸入公開され、昭和六年には日本初のトーキー『マダムと女房』が五所平之助監督によってつくられ、おなじ年に封切られたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『モロッコ』で邦文による字幕挿入が成功するや、あっという間のトーキー時代到来で、弁士も楽士も、いらなくなってしまったのである。
もちろん首を切られるほうだって、だまってはいなかった。ストライキなどで抵抗したのだが、結局は泣き寝入りに終った。職を失った、徳川夢声、松井翠声、山野一郎、大辻司郎、生駒雷遊、国井紫香といった人気弁士連中は、やむなく役者に転業するやら、講釈師に弟子入りする一方で、「漫談」という、まったく新しい演藝を誕生させたのであった。こと話術に関していえば、さんざんきたえ抜かれた技藝の持主だ。日常的な話題や時事問題、さらにはナンセンスに徹した材料などを俎上《そじよう》にあげることで、たちまち人気を博して、寄席やラジオの世界に進出するようになった。
ひと前で、上手にしゃべってみせる技術が特殊なものとされたような時代であったから、活弁から漫談へという移行が案外とスムーズにはこんだわけだろう。それでなくても、活弁には「前説」と称して、始まる前に台本なしの前口上をのべる習慣があったし、たまたまフィルムの到着が遅れたりすると、弁士が勝手なおしゃべりをして、時間をつながなければならなかった。そんな修業が、漫談の誕生に力を貸したことは想像に難くない。
漫談に転向してからの牧野周一も、山の手派弁士出身の意地をくずさなかった。当時のいいアルバイト口であった流行歌手のショーの司会をやっても、浅草派弁士出身の西村小楽天あたりが、「赤城の山も今宵限り。泣くな勘太郎、お前が泣けば、山の鴉《からす》がまた騒ぐ。ご存知『赤城の子守唄』、歌うは東海林太郎さん……」
とさんざん鳴らした美文調で売ったのに対して、牧野周一のほうはというと、
「えェー、次にうたいます二葉あき子さんは女でございます。なぜか生まれたときから、ずうっと女でございまして、これが……」
なんて調子なのである。客にはうけたが、当のあき子女史のおぼえは、あまり目出たくなかったようだ。
かんじんの「漫談」のネタつくりの作業は緻密《ちみつ》をきわめた。晩年の高座にかけていた演目は、『現代七不思議』『音楽療法』など二十七、八本だったが、この一本一本に、きちんとしたコンテがあって、肌身離さず持ち歩いていた。たとえば、作品番号十一になっている『嘘オンパレード』など、「鯉と熱湯」「黄金の七人」「嘘とわかって面白い」「猫八と犬猫病院」「歯医者」「エレベーターガール」といった調子にはなしの内容がメモ風に記され、ここまでで十四分などとマークしてある。全部で二十五分のネタなのだが、高座の持ち時間によって、どことどこをカットすればよいか、すぐわかるしかけになっていた。
こうした綿密な作業が、徳川夢声の、その日あった出来事をすぐに高座にかけてしまえる才能に、「あれは特別のもの」と感服してみせる謙虚さと、昭和四十二年だったか、立川談志の「漫談は藝ではない」とする主張に、テレビで対決してみせる若さを両立させていたのだと、いまにして思う。それにしても、あの「漫談論争」、論理と信念の対決だから全然かみあわなくて、そこがなかなか面白かった。
もちろん客のなかにはこうした牧野周一の清潔さ、誠実さを嫌うへそまがりもいる。寄席演藝なんてものは、もっともっと汚れてたほうが面白いというのだろう。牧野周一が出てくると、そっぽをむいたまんまの格好になっちゃう。こういうのは困る。出番のあいだだけ客席を出て行ってくれたほうが、どれだけ有難いかわからない。まあ一種のいやがらせとしかいいようがない。
ある日、東宝演藝場の高座を拍手に送られてひっこんで来た牧野周一が、楽屋の鏡の前に坐ると、いきなり泣きだした。おどろいた弟子が、どうしたのかたずねると、真白なハンカチをくしゃくしゃにしながら、
「いつも、そっぽをむいてた客が、きょう初めてこっちをむいてくれたんだ」
といって、正座しなおすと客席のほうに頭を下げた。
昭和五十年五月は、一日から十日まで浅草松竹演藝場と新宿末広亭のかけもちというスケジュールであった。
四月の末から体調をこわし、朝のステーキが、特製のお粥にかわっていた。連日二席つとめる松竹演藝場の楽屋には、ガウンと毛布が持ちこまれた。
二日は、楽屋で頭におしぼりをのせているような状態だったが、ゴールデンウィークで客の入りもいいのに休んでは申し訳ないと、得意の『無責任時代』で客席を沸かした。ご都合主義の世相への皮肉もこもった、いい高座だった。夜の九時頃原宿の自宅へ帰り、三日になった午前一時四十分、息をひきとった。電話でよんだ救急車も間にあわなかった。急性心不全、七十歳。
三日の祭日、親しくしている新聞記者からの電話で、牧野周一の死を知らされた。追悼《ついとう》のコメントがほしいという。電話口で、「牧野さんは、終生徳川夢声の話術を尊敬していたが、晩年の生活感あふれた語り口は、ラジオによる物語の様式性から逃れられなかった夢声のそれを超えていた……」とはなしながら、おこがましいいい方になるが、このことを牧野さんの元気なうちに、なんらかのかたちで活字にしておいてあげたかったと思った。
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松葉家奴《まつばややつこ》はでたらめ人間
煮え湯を飲まされるような思いを、みんなが何度もしてきた。それでいて不思議と憎む気になれない。得な性分といっていい。大阪の演藝界にこの人ありと奇人ぶりをうたわれた、漫才の松葉家奴である。ひと呼んで、気違い奴《やつこ》……
大阪には、三人やっこと称する、これも楽しい藝を披露してくれるトリオがあって、こっちのほうの塚本やっこと区別するための命名ともいうのだが、実際のところは、数々の奇行を指して、誰いうとなく気違い奴の看板がつけられて、生涯それを背負うことになってしまった。
「しゃァないヮ、気違いやから……」
のひと言で、すべてがかたづいてしまったのだから、考えてみれば仕合せな藝人であった。
得意は、松づくし、貫一・お宮の紙芝居、そして魚釣り。なかでも魚釣りは絶品だった。着物を尻はしょりした格好で、端唄の『夕暮』にあわせて、パントマイムで魚釣りを見せるのである。
舞台の、なりがよかった。京都の大きな呉服問屋の長男なのである。背中に、「火の用心」と書いてある衣裳の奇抜さもさることながら、その着こなしが見事だった。腰に莨《たばこ》入れ。これがまたなんともさまになるのである。もう莨入れをさして高座にあがる藝人もいない。尻はしょりすると、パッチがのぞく。このパッチ姿というのも悪いもんじゃなかったが、こちらのほうは、必要に応じて身につけていたふしがある。脱腸だったのである。それもなみの脱腸ではなかった。
だいたい大阪の藝人には脱腸が多く、これは、高座できばるからだという説もあるのだが、あまりあてにならない。とにかく松葉家奴の脱腸は、見事なもので、楽屋であぐらをかくと座布団からはみ出した。誰かがいった。
「あれは、スティブ・マックインや」
スティブ・マックイン。『大脱腸(走)』。
毎晩、きまった時間に家の近くの銭湯へ行くのだが、松葉家奴の来るのを待ちかねている餓鬼《がき》が二、三人いて、奴がはいってくるといっせいに脱腸目がけて水鉄砲を撃つそうだ。標的である。
ミス・ワカナの追悼公演を、道頓堀の中座でやって、超満員の客をあつめたときだから、昭和三十一年のことだ。楽屋で、漫才の芦乃家雁玉と奴が、ささいなことから喧嘩《けんか》を始めた。おかしなことに、雁玉も脱腸なのである。言葉につまった奴が、いったものである。
「なんや、おのれはタイキンやないかい」
これには雁玉が激怒した。たしかにタイキンに違いはないが、タイキンのやつにタイキンといわれるのは筋ちがいというわけだ。あいだにひとがはいって、ここは後輩の奴が詫びをいれることではなしがついた。神妙な顔をした奴が、雁玉の前に出て、切口上でいった。
「えろうすんまへんでしたな、タイキン」
これではまた喧嘩にならないほうがおかしい。
実際に、よく喧嘩をした。
三人目の相方で、女房でもあった菊春が、奴と別れてこんどは橘家太郎といっしょになって、吉弥という三味線ひきを加えた三人高座で売っていた。ところが、この橘家太郎がやはり魚釣りをやるのである。こちらのほうは、奴の着流しに対して、ランニングシャツに半ズボンという子供の格好なのだが、魚釣りは魚釣りである。これが奴には面白くない。自分の前の女房といっしょになった男が、自分の売り物にしている藝をやるのである。
ある年の正月興行で、宝塚小劇場の元日の高座をつとめた松葉家奴は、舞台で引退宣言の口上をのべた。このひと、ちょっと面白くないことがあると、すぐに引退を宣言するのである。毎度のことだから、関係者も「また始まった」と笑っていたのだが、高座をおりたその足で、大阪新世界の新花月にかけつけた。
新花月では、自分の前の女房といっしょになった橘家太郎の一行がトリをとっていた。楽屋で、太郎をつかまえると、奴が啖呵《たんか》をきった。
「やい、おのれの女房はな、|かわらけ《ヽヽヽヽ》やないかいッ。そんなもん、ようさらしとるなァ」
これには、三味線ひきの吉弥が怒った。人間、どんなばあいにも口にしてはいけないことがあるというわけだ。かくして、枚岡《ひらおか》神社の境内で、奴と吉弥の決闘ということにあいなった。このとき、待ちぶせに現われた松葉家奴のいでたちというのが立派だった。『忠臣蔵』の道行の伴内の長|襦袢《じゆばん》みたいな着物を尻はしょりして、豆しぼりの手拭で頬かむりしてたのである。
酒は決して強くなかったが、好きなほうで、またすぐに酔った。
ある年の夏の暑い日。朝日座でひらかれた名人会の高座をすませてから、新花月に出演しなければならないのに、朝日座にも現われない。あわてた事務員が家までむかえに行くと、もうべろべろに出来あがっている。新花月のほうはともかくも、朝日座の名人会だけはなんとかしなくてはと、いやがる奴を無理矢理タクシーで朝日座まではこんで、高座に出した。新花月のほうは、とてもつとまらないと見た事務員が、楽屋にまだ残っていた浮世亭歌楽に事情を説明して代演してもらうことにした。
歌楽も、「なんせ、気違いのことやから、しゃあないな」と納得してくれたのだが、支度をして新花月にむかう前に、奴が高座からおりてきてしまったのである。
すぐに裸になって、ビールなどのみながら、ふと歌楽の姿を認めると、
「あんた、この暑いのに、これから何処へ行かれるん?」
これにはさすがの歌楽もむっときて、
「なにいうてんのや、おまえさんの代りに、これから新花月つとめんならんのやないかいッ」
「そりゃご苦労はん。わて、これから余興でんねン」
明治三十年生まれ。本名は、堀井覚太郎。
「覚太郎のカクは、覚醒剤のカクやで」
というのが口癖だった。名前からしてヒロポン中毒である。だが、このひとの奇行は、ヒロポンによるものばかりではなかった。
戦前の吉本時代、巡業に行くのに二等車に乗せてもらった。その時分、相当な売れっ子でなければ、なかなか二等には乗せてもらえず、赤切符の三等がふつうだった。得意の松葉家奴、二等の青い切符を、これ見よがしに帽子のリボンに挿すと、満員の三等車内にはいりこみ、大声でいうのである。
「へえッ。鉄道には、三等車いうのもあるんでっか?」
これは戦後の吉本時代のはなしだが、大阪の寄席と京都の寄席のかけもち用に、阪急電車の定期券を何枚か会社が購入していた。それぞれ適当な名前が書いてあり、これをかけもちの期間だけ、会社から借りるのである。この定期券で、奴が梅田の改札口を通ろうとして、駅員に見とがめられてしまった。年齢がちがいすぎるというのである。名前同様、年齢のほうもいいかげんに三十歳としてあった。明治生まれが三十歳の定期を使っちゃいけない。このとき奴少しも騒がずいったものである。
「藝人に、年齢はおまへん」
生涯、西成千本通りの長屋住いだったが、昭和三十年頃電話がひけた。闇で十万円ぐらいした時代だから、嬉しくてしかたがない。戎橋松竹の高座を終えて「おつかれさん」と帰ろうとする松葉家奴に、事務員が、「あっ、奴師匠、ちょっと」と声をかけると、
「なんです? 用事でっか? そやったら、これから急いで家に帰るさかい、電話かけてや、たのんまっせ」
ひと頃、藝人のあいだで十姉妹を飼うのが流行《はや》った。奴も、飼っていたが雛《ひな》がかえると鳥籠にいれてくばって歩く。そこまではいいのだが、くばった先の十姉妹が気になって、毎日様子を見にやってくる。貰ったほうは、なんだか十姉妹と奴をいっしょに貰ってしまったような気分にさせられたというのも無理はない。
下手なくせに麻雀が好きだった。雀荘で藝人仲間と卓を囲んでいて、奴があがる。点のかぞえられない奴が、「満貫やろ」というのに、振りこんだほうが、「なにいうとる、クンロクやないかい」と、千点棒を差しだすと、立ちあがった奴が別の卓で打っているひとのところへかけ寄って、
「ちょっと、あんさん、わたいの手見てくれまへんか。ほんまにクンロクでっしゃろうか?」
あがるたびにそれをやるから、「奴と麻雀するの、時間がかかってかなわん」と、みんながぼやいた。
負けがこんでくると、「ちょっとツキをかえに散髪行ってきます」と、ほんとに散髪に出かけたり、ダンヒルのライターを取り出して、「ちょっと、これ二千円で買《こ》うてんか?」。しかたなく相手が二千円さし出すと、
「おおきに。それ日本一の交差点で拾いましたんや」
相方も替ったが、女房もよく替えた。
いちばん初めが、花蝶という相方と組んでいた。無論、戦前のはなしである。次が喜久奴で、これは実際の女房でもあったが、死に別れた。三人目が菊春で、これも女房だったが途中で別れて、菊春が橘家太郎といっしょになったはなしは、前に書いた。このあたりは、もう戦後のことである。菊春の次がお竜。これは女房ではなく、亭主もちの女だったが、このお竜を相方にしているうちに二代目の喜久奴といっしょになって、晩年は、奴・喜久奴のコンビで仕事をしていた。
この二代目喜久奴といっしょになる前後のはなしは、いかにも松葉家奴の奇人ぶりを彷彿《ほうふつ》とさせてくれるものが多くて面白い。
だいたいお竜という藝人も、亭主と漫才をしていたのだが、その亭主が病いに倒れて困っているところに、菊春と別れた奴のほうからはなしがあって、一時のつなぎのつもりでコンビを組んだ。新コンビ結成で、名古屋の富士劇場に出てるとき、地元の新聞記者が来て、インタビューしてくれたのだが、「こんどの相方は、奴師匠の奥様ではないんですね」との質問に、
「へえ、そうやおまへん。こちらにはちゃんと亭主がおます。けどな、これから先はどないなるか、わかりまへんでェ」
などと答えてのける。
「たいへんなひととコンビを組んでしまった」と、お竜は思った。
四国に巡業に出かけたとき、通された旅館の部屋が四畳半一間の相部屋。奴のほうは動じた様子がないのだが、お竜は困った。べつに何事もなくても他人がなんというかわからない。そのことを奴に訴えると、「ほなら、私は廊下に寝ます」という。まさかそんなことはできないからと思案してると、押入れの上に奴が寝て、下の段にお竜が寝、「それを代表者に一晩中監視させとったらええ」といい出した。そんなバカバカしいことができるわけもなく、結局お竜がミス・ワカサの部屋で寝かせてもらうことではなしがついた。
昭和三十四年頃であったか。アメリカ行きのはなしが持ちこまれた。松葉家奴は、すっかり乗り気になって、お得意の奴凧《やつこだこ》の絵にそえて、Yakko-Matsubaya などとサインの練習に余念がなかったが、お竜のほうは気がすすまなかった。病身の夫を置いて行くのも気になったし、奴が、
「お竜はん、むこう行ったら、晩には流しやろうやないか」
などといっているのも心配だった。「あのひとやったら、ほんまにやりかねないし……」というわけだ。劇場で、ミヤコ蝶々が心配してくれた。
「お竜さん、断わるんやったら、はやいうちがええよ」
その言葉が奴の耳にはいったものか、ふいと姿を消した奴が、ふたたび現われて、
「アメリカへは行ってくれるひとができました。お竜さん、行かんでええヮ」
なんでも、京都の富貴という寄席で三味線をひいている女を連れて行くという。
「そら、よかったな。けど、そのひとほんまに行けるんか。兄《に》ィさんのひとり合点とちがわんのか?」
お竜が心配気にたずねると、奴は、ぽんと胸をたたいていったものだ。
「そりゃ大丈夫や、いま京都まで行って、ちゃんとスタンプおしてきた」
スタンプおしてきたというから、てっきりパスポートかビザの申請かとお竜は思ったそうだが、要するに口説いてものにしてきたというのである。事実この三味線の女を女房にして、二代目の喜久奴を名乗らせた。
アメリカ公演は、まずまずの成果だったらしい。珍道中の様子などきこうと、その時分千土地興行文藝部で漫才台本など書いていた三田純市が、松葉家奴を宗右衛門町のクラブに誘った。奴はご機嫌になって若いホステス相手にアメリカ談義をしていたが、あくる日の舞台をぬいてしまった。数日して、三田純市が文藝部の部屋をのぞくと、松葉家奴からとどけものが来ているという。見ると、ウイスキーの角壜で、のし紙に筆で「テーチャーミタ」と書かれてあった。
アメリカから帰ってから、二代目喜久奴が女房になって家におさまったが、高座のほうは、しばらくお竜とつづけたいという。舞台の呼吸は申し分なかったし、お竜も異存なかった。ところが、二代目喜久奴といっしょになる以前は、楽屋に必ずかざっていた先代喜久奴の位牌《いはい》が姿を消した。
それに気づいたミヤコ蝶々が、
「あんた、どっかにほかしてしもうたんとちがう? そんなことしたら喜久ちゃん可哀そうやで」
というと、
「いえいえ、ほかしたりなんぞしまへん。ここにちゃんとしまってあります」
手もとの鞄《かばん》を開くと、白い布にくるんだ位牌が出てきた。
「そんなら、ま、よろし」と蝶々は安心したが、お竜がよく見ると、白布と思えたのは、じつはふんどしである。
「兄さん。それ、ふんどしやないの。そんなもんにお位牌くるんで」
「へえ、これ、ふんどしでんねン。ちと汚れとりますさかい、お竜はん、洗うてきてや」
あれで、すぐに女ができた。やとなのマリさんなる御婦人に夢中になったときなどは、大変だった。楽屋に連れてきて、大はしゃぎなのである。
「見て、このマリさんの手。きれいやなあ、まるで紅葉みたいや、かわいいなァ。ちょっとお竜はん、手ェ見せて……わァ、きたない手ェや」
いいかげん腹が立つと、お竜がいうのも無理はない。このマリさんが客席に来ている日など、出の前から大変な騒ぎ。念いりに、若づくりの化粧をするのである。高座にあがって、お得意の『名古屋甚句』をうたうのだが、どうも調子がいつもとちがう。おかしいなと思いながら、お竜が三味線ひいていると、歌の途中でくるりと客席に背をむけ、口の中に指つっこんで、大きなふくみ綿を、それも四つとり出した。少しでも、こけた頬をふくらまそうという魂胆なのである。楽屋に戻って、お竜がいった。
「兄ィさんほどの名人のすることやないで、おやめなはれ」
思いのほか素直に奴がうなずいた。
「さよか、ほならやめるヮ。お竜はん、これ洗うてきて」
入歯を取り出して、いうのである。
晩年の松葉家奴の相方を、アメリカ巡業が縁で女房になった二代目の喜久奴がつとめていたことも前に書いたが、お竜とのコンビを解消したのは、いってみればお竜側の意向であった。アメリカから帰って以来、「藝は、他人とやってるほうが楽やけど、月給の点は不便やな」というのが、奴の口癖になったのである。
それまでは、月末に、その月の収入のきっかり半額を、封筒におさめて、自分で「月給」と達筆でしたためたものを、お竜に、「有難うさん」と手渡してくれた。その手順に少しも変りはないのだが、二代目の喜久奴といっしょになってからというもの、手渡すときに、必ず一口上つくようになったのである。
「あァ、もったいないなァ。喜久奴のありがたみがわかるなあ。喜久奴やったら、やらんですむ金、お竜はんやとやらんならん。ああ、もったいな、もったいな……ハイッ、お竜はん、有難うさん」
これが毎月つづくのである。しかも決して洒落《しやれ》ではなく、大真面目なのである。望まれてコンビになったものの、カネをもらうたびにきかされるのではかなわない。お竜のほうから、「おろしてください」と申し出た。
かといって、カネに対してきたないところは、まったくなかった。むしろ淡白で、吉本、千土地、松竹藝能と専属がたびたび変ったのも、単に気分的なもので、金銭上のトラブルは一度もなかった。お竜とのコンビを解消したときも、封筒に「退職金」と書いて、別に五万円つつんでくれたという。東京オリンピックで世間がわいていた時分のはなしだ。
自宅で、動脈硬化症のため死んでいる。七十三歳だったから昭和四十五年のことなのはわかっていたが、命日を誰も覚えていない。東京の新聞には、訃報《ふほう》も載らなかったのである。
じつは、この稿を書くため、「オール讀物」編集部の加藤保栄君と大阪へ取材に出かけたのが四月二十四日のことだった。まっ先に会った三田純市が、地元の新聞社へ電話をいれて命日を調べてくれたのだが、電話口で、
「へえへ、四十五年、それはわかってま、え、四月二十四日? ほならきょうでっか? えらい偶然やな、十四年前のきょうですな。おおきに、ごくろうはん」
などとやっている。送受器を置きながら、
「きいたやろ、きょうやて。誰ぞ、よばれてんのとちがうか。奴はんからよばれんならんような気違い、まだおるんかいな……」
とつぶやいた。
葬儀は、二十六日に、自宅で、最後の女房となった二代目喜久奴が喪主になって行なわれた。
「えらい、さびしい葬礼《そうれん》でしたで。あれだけのひとなのに……香典かて、三十万くらいしか集まらんかったように覚えてますヮ。けど、あのひと、最後まで女子《おなご》はんがありましたんや。そのひとが亡くなって、すぐでしたから、きっとそのひとンとこへ行かれたんですヮ。さびしい葬礼でも、当人仕合せやったンとちがいますか」
松葉家奴をよく識《し》るひとからそうきいた。さしたるひとづきあいをせず、横紙やぶりの身勝手につきる生き方を貫いたこの漫才師も、結局孤高の藝人だったのだと、あのなつかしい魚釣りの舞台姿を思いうかべながら、そう思った。
[#改ページ]
殿様気分の清水金一《シミキン》
第二次大戦中、いまの小学校のことを国民学校といったのだが、そこの生徒だった頃から、シミキンというのが清水金一の略称だということは知っていた。
その時分のことだから、みんながみんな軍国少年であったのだが、それでも近所には不良少年を気取るこわい中学生が何人かいて、彼らのスタイルはといえば、戦闘帽を中折状にくっつけてかぶり、ゲートル巻いたズボンの裾をたっぷりとかぶせかげんにして、腰には手拭をどういうわけか三角折りにしてさげるのだ。下校途中にある球突き屋から、気取った調子で、
「ミッタラッシャネェ」
とか、
「ハッタァスゾ」
などといいながら出てくると、こころなし視線をさけて、そそくさと足をはやめるのが常であった。彼らの口にする、「ミッタラッシャネェ」というのが、「みっともなくてしょうがない」、「ハッタァスゾ」が「はり倒すぞ」のことで、清水金一がひろめた流行語であることも知っていた。
それだけ知っていながら、シミキンの実際の舞台にふれる機会はなかった。親に連れられて、エノケンやロッパの喜劇は見ているのに、シミキンとは無縁だったというのも、ただただシミキンの出ている劇場が浅草だったからであろう。戦時中の山の手のサラリーマン家庭では、休日に子供を連れて浅草へ行くような習慣はなかったのである。
そんなわけで、僕がシミキンを見た最初は、戦後公開された映画で、たしか昭和二十二年の松竹作品『恥かしい頃』だった。柳家金語楼と星光子が共演しているこの映画を、僕は金語楼ファンだった従姉《いとこ》に連れていってもらった。新婚早々の清水金一が、新妻の星光子に朝起こされる。布団をゆすって、
「ねえ、ねえ……」
というのだが起きない。いや、実際は目を覚ましているのだが、わざと起きないで、
「僕、ねえっていう名前じゃないよ」
などと意地悪をいう。
「じゃあ、なんてよべばいいの?」
「あ・な・た」
星光子が、恥かしそうに小さな声で、
「あなたァ」
とよぶと、
「ハイッ」
と布団をはねのけてシミキンが起きあがる。
いまから考えれば、なんとも拙劣な、面白くもなんともないシーンだが、シミキンという喜劇役者の呼吸のよさに、中学生になったばかりのこちらは、すっかり感心してしまった。なによりも、名前だけでしか存在を知らなかった身には、たとえ映画であっても、その実像にふれた喜びは大きかった。
いらい、学校帰りの鞄《かばん》をさげたままの格好で、シミキンの映画を追い求めた。学校のすぐ近くに、広尾銀映座という松竹の三番館クラスの薄汚い小屋があり、ここは免税点ぎりぎりの二円九十九銭で見られるのが、小遣銭の乏しい中学生には有難かった。
やはり星光子と共演していた『シミ金の拳闘王』、晩年の伴侶となるSKD出身の朝霧鏡子と初共演した『シミ金の結婚選手』、『シミ金の探偵王』、ロッパと共演した『結婚狂時代』、『シミ金の忍術凸凹道中』などで、川島雄三が撮った『オオ市民諸君』以外は、ほとんど見ているのではあるまいか。
シミキンの映画を見つづけて、いつも相棒役をつとめている堺駿二の藝達者ぶりに魅かれた。堺駿二。浪花節の港家小柳丸の弟で、剣劇の子役あがりというよりも、堺正章の父親といったほうがわかりがいいだろう。シミキンが世を去って二年ほどした昭和四十三年八月十日、新宿コマ劇場の舞台下手のそでに引っこんだところで劇的な死をとげている。
この堺駿二とシミキンが、じつは犬猿の仲だったらしいのだ。そんなことはつゆ知らない、中学生の当方は、このコンビの呼吸のあったやりとりに、腹をかかえて笑ったものだ。その後、堺駿二は『ペコちゃんとデン助』でひとり立ちして、清水金一との共演を解消するのだが、思えばこれがシミキンの落ち目になるきっかけでもあった。
清水金一。本名は武雄。大正元年五月五日。山梨県甲府生まれ。大正改元は、七月三十日だから、ほんらいなら明治四十五年生まれでなければならないのだが、当人は生涯大正生まれに固執していたようである。
十六歳のとき、浅草オペラでならした清水金太郎一座入りしたのが藝界でのスタートといわれている。シミキンという略称は、清水金太郎ゆずりなのである。昭和十七年に、浅草花月劇場で新生喜劇座を旗あげした頃から、日本が戦争に敗れるまで、浅草で孤軍奮闘していたシミキンの人気にはすさまじいものがあったらしい。
喜劇など、時局にふさわしくないといった風潮に、身をもって抵抗したため、台本の検閲で憲兵になぐられたことも、一度や二度ではなかったという。長髪はいけないと、あの灰田勝彦やディック・ミネまで坊主頭にしたのに、シミキンばかりは最後までポマードでかためたオールバックの髪形をかえようとしなかった。こんな彼の反骨精神が、戦時下の欲求不満におちいっていた大衆の熱狂的な支持を得たのであろう。ただ、そうした人気者としてちやほやもてはやされているうちに、知らず知らずに傲慢な、思いあがりを生んでいったことは否定できない。こうして身についた殿様気分に、落ち目になってからまでふりまわされたところに、清水金一という喜劇役者の悲劇があった。
逗子とんぼが、シミキンに弟子入りしたのは、『オオ市民諸君』を大船で撮影していたときというから、昭和二十三年のことで、まだまだシミキンの栄光時代がつづいていた。明日から、毎朝赤羽の自宅に通えといわれ、逗子とんぼが、
「七時にうかがいます」
といってもシミキンは返事をしない。
「六時にうかがいます」
そっぽをむいている。
「五時にうかがいます」
といったら、やっと「よし」といってくれた。ほんとうに朝の五時に行ったら、まだ布団のなかで、目が覚めるまでマッサージをさせられた。かと思うと、いきなり、
「ジョン・ベック・ミーカー……」
などといわれて、とまどっていると、「精神がたるんでる」とお説教だ。「ジョン・ベック・ミーカー」ときたら、すぐに「便所へ行くから紙」というくらいわからなくては……というのだが、これは無理難題というものだろう。
万事がこの調子だから、鞄を持って仕事先までついて行くときなど大変だ。玄関では、かがみこんで靴のひもを結ばなければならないし、駅の改札など、
「俺、シミキン」
といいながら、すいすいはいって行ってしまう。あわてて切符を二人分買って追いかけるのだが、もう機嫌が悪い。あげくに、来た電車が混んでいると、「なんとかしろ」。
ロケで、伊東の温泉に行ったとき、スタッフの見まもるなか、
「とんぼ、温泉にもぐれ」
もぐったことのない者にはわからないが、プールの水中とちがって熱いなか、苦しくて、すぐ浮きあがってしまう。
「なぜ浮く」
なぜ浮くといわれても困る。「苦しいから」などと答えようものなら満座のなかでお説教されることは目に見えている。とっさに、
「軽石です」
「よし」と、にっこり笑ったシミキンは、このときのことを覚えていたらしく、何年かたって、「軽石よ はやくなれなれ 重石に」と書いてくれた。
達筆だったし、筆まめでもあった。弟子や仲間には口やかましく、いばりちらしたシミキンだが、ファンや客に対するときは、うってかわって愛想がよかった。色紙にサインを求められると、得意の筆で、「雨の降る日は天気が悪い それがわかればしめたもの」と『浅草行進曲』の一節をしたためて、人気漫画の主人公屋根裏の三ちやんの似顔をそえていた。「雨の降る日は天気が悪い」という自明の理に、「それがわかればしめたもの」と洒落《しやれ》のめしてみせた清水金一が、おのれが落ち目になった現実を、一面醒めた目で見つめていながら、「それがわかればしめたもの」と達観することができずに、全盛時代の夢のなかで生きつづけた姿は、あの天性ともいえる明るい藝と、まったく裏腹をなしたように見えるのだ。
妻子と別れたシミキンが、朝霧鏡子といっしょになったのは、昭和二十五年のことだが、この時分はもう仕事がなかった。エノケンといっしょに出た『らくだの馬さん』を最後に松竹と縁が切れ、東宝に転じて『無敵競輪王』を撮ったのだが、ここで例の東宝大争議が勃発したのも、シミキンにとっての不幸だった。
朝霧鏡子は、SKD出身の松竹清純派スターで、ひと頃は年間十二本も出演したことがある。いまの松竹は、年に九本しか製作していないのだから、やはり時代であるとしかいいようがない。それだけのスターでありながら、シミキンにはつくした。つくしぬいたといっていい。
「清水が、いい状態になって、私が捨てられるなら仕方ないと思っていた。でも、ご存知のとおりだったでしょう。そういうときほど、いてあげなくてはという気持だったんですね。でも、私、苦労したっていう気持まったくないんです。清水だって、とても明るかったし、貧乏を苦にしてるところ、ちっともなかった」
新宿で、カレーの店をひらいている朝霧鏡子は、いまだに、清水金一の思い出の世界に住んでいるようにうつる。
仕事がなくなって、大磯にあった朝霧鏡子の家にひっこんだ。昭和二十七年に、大磯の町役場から、海の家を出さないかというはなしがあり、夫婦はこれにのった。ほかの店から、「有名人に出されては困る」と苦情が出て、一軒だけ離れたところに出したのだが、これが当ったのである。仕事はなくとも、シミキンは、まだ有名人であった。ふたりとも、「SHIMIKIN - ASAGIRI」と描いたアロハを着て、よく働いた。近所の菓子屋が、シミキンの似顔をいれた「シミキン饅頭《まんじゆう》」なるものをつくったので、二円五十銭で仕入れて五円で店に出すのだが、これがまたとぶように売れたのである。
この海の家には、東京から森繁久彌や、トニー谷も遊びに来たというけれど、その時分の森繁、トニーといえば、売り出しの真最中である。先輩格になるシミキンは、どんな気持で彼らをむかえたのだろうか。
それだけ当った海の家だが、三年目の夏、シミキンに地方巡演のはなしがあって、出入りの大工さんにまかせたところ、客が全然来なくなってしまった。昭和二十九年といえば、テレビの本放送も始まっており、もうシミキンの名前では、客が呼べなくなっていたというのが実際のところだろう。
昭和三十三年の一月に、浅草国際劇場の美空ひばりショーに招かれている。このとき堺駿二も出ているのだが、これが堺との最後の共演になったし、シミキンにとっても、久々に陽のあたった舞台だった。
シミキンにひきかえ、堺駿二は着実に喜劇界にその地位をきずいていった。これがシミキンには面白くない。ビールにジンだのウイスキーをまぜたのをあおりながら、
「堺の野郎、さんざひとの世話ンなっときやがって……」
とやりだすのである。
堺駿二は、ホトケの堺といわれるくらいひとがよかった。芝居をしていても、ちょっとした大道具など、はこぶのを手伝ってやる気さくな面があった。殿様気分のシミキンには、これが気にいらない。怒ったシミキンが、堺駿二の顔をふんづけたこともある。
「俺が死んでも、堺は葬式に来ねえだろう」
というのが晩年の口癖になっていたというが、いまシミキンの生涯をふりかえってみて、相手役としての堺駿二の存在は小さくない。愛憎こもごもというよりも、裏がえしの愛情だったと見るむきもあるのだが、これは当っているように思われる。
清水金一の葬儀が終って、ほっと一息ついた朝霧鏡子が、
「やっぱり、堺さん、見えなかったわネ」
というと、葬儀を手伝っていたひとが口々に、お焼香に現われたし、香典も持って来て、記帳もちゃんとすませているという。ほかのひとが会っている堺駿二に、朝霧鏡子だけが顔を合わせていない不思議さは、
「きっと、私がお線香を絶やさないように、うしろをむいているときに、お焼香されたんでしょうね。私には、清水が『堺には頭さげなくていい』といったようにも思える」
という。
清水金一の死んだのは、昭和四十一年十月十日のことだが、それから二年たった四十三年の八月十日に、朝霧鏡子が訪ねてきた客に「十日は、清水の命日だからお線香あげて」といっているところに電話がかかってきて、堺駿二の死を知らされた。清水金一が呼んだのかもしれないという思いが、ふと朝霧鏡子を襲った。
昭和三十四年に、新宿文化演藝場で清水金一は、モカル座を旗あげしている。テレビが急速に茶の間にはいりこんでいた時期に、ほんものの喜劇をつくろうという意欲に燃えた旗あげだったが、成功しなかった。シミキンの名が、忘れられたわけではないのだが、クレージーキャッツや、脱線トリオがテレビで大活躍しているような、時代の波に乗りきれなかったのだろう。そのテレビから、まったくお呼びがかからなかったわけではない。あの軽快で明るい持ち味は、テレビでも存分に発揮できると考えたプロデューサーだって少なくなかった。
駄目なのである、これが。もともと台詞《せりふ》を覚えないことで売った役者だが、自分が座長をしてる劇団でやってるアドリブ芝居がテレビに通用するわけがない。『OK横丁』の生本番でカメラが近づくと、台詞をしゃべらなければならないという恐怖感から、小道具の机の下にかくれてしまった。シミキンをとらえてる画像から、かんじんのシミキンが逃げ出してしまったのではテレビにならない。
それでいて殿様気分はいっこうに抜けないのだからしまつが悪い。てんぷくトリオにたのまれて、いったんは出演を約束した番組の本番をすっぽかしてしまったのである。後輩の関敬六が月形半平太なのに、「なんで俺が茶店の親爺をやらなきゃいけねえんだ」という気持からである。出かけるつもりで家を出るのだが、一杯やらなければとても仕事をする気分になれない。途中でひっかかって、一杯が二杯になって、「ええい、面倒くせえや、抜いちまえ」となってしまうのだ。
昭和三十四年八月、新宿コマ劇場に出演している。これが、シミキンにとって最後の大劇場出演になった。当時人気絶頂だった、由利徹、南利明、八波むと志の脱線トリオが看板の『大学の脱線トリオ』と『この墓を暴露《あば》け』というスリラー喜劇の二本立公演である。シミキン、朝霧鏡子夫妻に声がかかったのだが、看板はあくまで脱線トリオで、シミキンの出番は、菊田一夫演出になる『この墓を暴露け』のほうの、「山形屋の悪企み」なる一景だけで、木戸新太郎の山形屋親分藤四郎の子分で、あわくい金太という役だった。キドシンと呼ばれた木戸新太郎も、もうこの時分はシミキン同様に、世のなかから忘れられかけていた。
声かけられたシミキンのほうは、そんな自分の置かれた立場がまるでわかっていなかったらしい。座長しか経験していない殿様気分が抜けきれず、新宿コマ劇場に対して、シミキン、朝霧のふたりだけでなく、自らひきいていた劇団モカル座の座員も使ってくれるよう申しいれている。コマ劇場側では、そんな条件はのめないと拒否したのだが、シミキンの面子《メンツ》をたててくれとの朝霧鏡子の願いをいれて、出演料なしでモカル座座員七名を出演させた。七人のギャラは、朝霧鏡子が自分の取り分から支払った。
そんな事情を知ってか知らずか、シミキンの態度は依然大きかったらしい。わき役のくせに、主役顔して登場してくるシミキンに、舞台稽古で作・演出の菊田一夫が「そんな古い芝居をしてるから、おまえは駄目なんだ」と、どなりつけたという。かつては、シミキンの芝居を、書かせてもらう立場だった菊田一夫も、大東宝の演劇担当重役になっているのに、シミキンのほうではいまだむかしの仲間意識が捨てきれなかったらしい。
舞台事務所につめていたひとが、インタフォンで、「清水さァん、電話です」とやると、「清水さんとはなんだッ、先生といえッ」というどなり声が戻ってきたこともあったりして、最後まで、自分の置かれた立場のわかっていないシミキンだった。
仕事もなく、モカル座も公演がうてないとあっては食べていくこともままならぬと、朝霧鏡子が新宿に酒場をひらいた。そんな状態になっても、悲愴感のまったくないのがシミキンのいいところで、毎晩、近所の公園まで犬を連れて朝霧をむかえに出て、屋台のラーメンをふたりで食べるのである。
そんなシミキンが、睡眠薬による自殺未遂事件をひきおこしたのは、昭和三十六年二月一日のことである。その前年の八月に、再起を期して、モカル座の自主公演に、有吉光也作『トテチテ夕』をとりあげた。東横ホールを十日間借りて、自ら街頭に出てポスターをはり、朝霧鏡子は知人縁故に切符を売り歩くという、その時分の新劇なみの手打ち公演だったが、結果は百数十万円の赤字だった。このときの借財にからむトラブルが、ある雑誌に報じられたことに、根は気の小さいところのあったシミキンが、いたく傷ついたのである。
その夜、帰宅したシミキンは、問題の雑誌をぽんとほうり出して、いつものようにビールにジンをいれて飲み出すと、同居していた弟子に、薬屋へ頭痛薬を買いに行かせている。このとき、
「薬屋で、あんまり俺のはなしをするんじゃねえぞ」
といっている。
「今夜は、早く寝る」
と、いつになく九時頃には床にはいったそうだが、午前三時頃ひきつけるようないびきに、朝霧鏡子が目を覚ますと、もうチアノーゼを起こしていた。
救急車で四谷の伴病院にかつぎこまれたのだが、折から右翼少年に中央公論社長邸が襲われた「嶋中事件」で、嶋中夫人が入院中とあって大勢の報道関係者がつめかけていたのである。わざわざ自殺未遂を明るみに出してくれと申しいれたようなものだった。
退院したシミキンに、世間は割に同情的で、ジャーナリズムの取材も多かったが、
「活字は、ひとを殺す」
とひと言もらしただけで、取材にはもっぱら朝霧が応じた。もう精も根もつきはてて、二度と立ちあがれないように見えた。
ちやほやと、みんなから持ちあげられていないと、まったく才能の発揮できないシミキンをはげまして、朝霧鏡子は昭和三十八年七月に、新宿厚生年金会館小ホールで、「シミキン新作発表公演」を催している。「このひとは、やはり主役で、自分の芝居を演じつづける以外にない」という気持だった。
竹内勇太郎が脚本を書いて、逗子とんぼ、宮地晴子らが出演し、大友純、今村源兵、天津浩一、起田志郎ら、むかしの仲間もかけつけてくれた。朝霧鏡子は、出演せずに、プロデューサー役にまわって、切符売り、広告あつめに歩きまわったのだが、やはり赤字が出た。このときの、『新宿三十五番街』の主役、トルコ風呂のマネジャー兼スカウト係の謙吉が、清水金一の最後の舞台となった。
昭和四十一年十月十日、代々木の自宅で、階段をふみはずし、脳内出血で死んだ。五十四歳だった。
再起の階段を、何度ものぼりそこねたシミキンは、最後にかんじんの生命《いのち》の階段までふみはずしてしまった。
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誇り高き泉和助《いずみわすけ》
「よしッ、さながら軍隊のようである」
親爺の、このひと言で、泉和助のコメディアンへの道が開けた。昭和八年のことである。
なにしろ泉和助の父親というのは、典型的な職業軍人。陸士花の十二期生で、畑俊六、杉山|元《はじめ》といった陸軍大臣をつとめた閣下と同期の中将だ。息子が、エノケン劇団にはいって役者になりたいなどいい出したから、烈火のごとくに怒った。軍人の子が、軟弱なる役者ごときに憧《あこが》れるなどとんでもないというわけだ。そんな時代だったのである。
なんとしても役者になりたい一心で、とにかく座長のエノケンに会ってもらってと、いやがる父親をときふせて、エノケン劇団の稽古場まで連れ出した。ところが、当時のエノケン劇団といえば、泣く子もだまる猛烈なスパルタ訓練できこえていたのだ。その、すさまじい稽古場風景に、こんどは連隊長までつとめた親爺のほうがいたく感動してしまった。
「よしッ、さながら軍隊のようである」
かくして、泉和助は、役者としてのスタート台につくことができた。
もっとも、エノケン劇団には無事入団できた泉和助も、ほんものの軍隊となると、そううまくはことがはこばなかった。昭和十五年に入隊して中国各地を五年間転々として、一等兵で帰ってきた。軍国時代の日本で、こんな例はそう沢山あるものじゃない。もちろん退役中将の父親は、「なげかわしき限り」と、泣いて怒った。
この五年間の軍隊生活で知りあった同僚に、月給八円八十銭の分際で六百何円貯金して満州から帰還したつわものがいた。なみはずれたアイディアマンで、仲間のカネを賭《かけ》でまきあげてしまうのである。たとえば、こんなぐあいだ。
丼一杯の食塩を一度で食ってみせると、三十銭ずつ賭けさせる。どうするかといえば、コップ半分の酢を食塩にかけて溶かし、水を加えて一気にのんでしまうのだ。
かと思うと、故郷から送ってきたみかん一箱、釘以外は全部食べると、五十銭で挑戦してきた。一同、自信をもって応じたのはいうまでもない。こちらのほうは、擂《す》り鉢《ばち》で木箱と縄を燃やすと、みかんをいっしょに擂りつぶし四時間かけて食べてしまった。もちろん、翌日は入院騒ぎを起こしたというのだが、こんな同僚も、兵隊としての出世はおぼつかない。
晩年、卓抜したギャグマンとして、次から次へと新しいギャグを生み出して、当時のストリップショーの幕間狂言のネタの九〇パーセントは泉和助のものといわれ、もしギャグに著作権があったら、大金持になれたはずの才能に、この軍隊時代に知りあった同僚が、まったく影響を与えなかったわけがない。五年つとめて一等兵というのは、陸軍中将の伜《せがれ》としてはいかにも不甲斐ない。だが、世俗的な兵隊の位よりも、泉和助にとっては、はるかに役立つ「笑いを生み出す知恵」 を身につけてきたのである。
大正八年生まれだから干支《えと》は|己 未《つちのとひつじ》。出身は佐賀。本名は和田佐紀。わだすけのりと読むのだが、戦前はこの本名で舞台に立っていた。
その時分の舞台を見ている色川武大さんによると、
「ワキのコメディリリーフとして面白い存在で、タップも踏めるし、唄もなんとかいける。ただしあくまでも小劇場レビューの人で、スケールが小さく、派手にスポットライトを当てにくい。しかし当人は才気があるから、下積みに甘んじにくい」
というのだが、いちばんはなやかだった日劇ミュージックホール時代の舞台の印象も、まったくこれと変らない。
エノケン劇団から、藤山一郎の門をたたいたり、藤原釜足の一座に顔をつっこんだり、昭和三十三年には矢田茂のダン・ヤダ・ダンサーズについて一年間パリに滞在するなど、このひとの経歴は多彩だ。自分で劇団をもったこともある。
一説によると、有名な男色家であった二村定一の稚児さんだったとか、巨根の持主でもあった二村のしごき係だったともいわれている。当人の立ち居ふるまい、物腰に、手の甲を内側にして、口のわきにななめに持っていく|あれ《ヽヽ》っぽい風情はまったくなかったし、そんな噂を耳にしたこともなかった。かといって、その周辺に女っ気のほうもあまりなかった。
踊り子のマネジメントをしていた、連れ子のある女性と別れてからは、死ぬまで大井町のアパートで、猫と暮していた。二カ月公演の日劇ミュージックホールの出番を、トニー谷とひと月ずつ分けあうことが多く、これはギャラの高いトニーを二カ月拘束できないからなどといわれたものだが、出演中踊り子とみればかたっぱしから口説きまわるトニーより、そういうことのまったくなかった泉和助のほうが幕内の評判はよかった。人間、なにがさいわいするかわからない。
戦後の一時期、新谷登と名乗ったことがある。深夜女体にのぼるという洒落《しやれ》であろうと色川さんはいっている。この新谷登時代の昭和二十三、四年頃でないかというのだが、京都で劇団をつくっている。座員八十名という大世帯だ。
十日がわりでバラエティ・ショー、時代劇、現代劇と三本立の公演だが、その作・構成・演出・出演・装置・衣裳・殺陣《たて》、そして製作・宣伝のすべてをひとりでやってのけた。まさにチャップリンなみの才覚だが、彼が生涯を通じて尊敬していたのはチャップリンよりもむしろ、ハロルド・ロイドであり、フレッド・アスティアであった。このあたりが、日頃、「俺は日本一になんかなりたいとは思わない。なれるものなら世界で八番目ぐらいになりたい」と口にしていた泉和助のセンスなのである。
それはともかく、この京都での新谷登劇団時代から、彼のギャグマン的発想が随所にあらわれてくる。
地元の新聞に、「明日のこの欄をごらんください」とだけ記した広告を出す。次の日も、その次の日も、また次の日も、同じ広告欄に同じ文句の広告を出す。何日かこれをつづけて、ある日、「いよいよ明日より新谷登劇団開幕!」とやるのだ。
こんなこともやった。やはり新聞広告に、「近藤勇、京洛に現わる! ×月×日より京都座でお目見得!」と出す。なにしろ場所が京都だけに近藤勇というのは気になる。その×月×日に、京都座に出かけてみると、小屋の前に大きな看板が出ていて、こうある。
「近藤勇、病気のため休演。新谷登が代役相つとめ候」
日劇や、日劇ミュージックホールに出るようになったのは、昭和二十七、八年頃だが、この時分に泉和助と改名している。なんでも階段をふみはずして、縁起が悪いからというのが改名の理由だときいた。
日劇ミュージックホールの踊り子、コメディアン、スタッフの誰もが、泉さんとも、泉先生ともよばなかった。和《わ》っちゃん先生なのである。和っちゃんという愛称と、先生という敬称が同居しているのが面白いという意味のことを、中原弓彦時代の小林信彦氏がなにかに書いていて、先刻からその出典をさがしているのだがどうしても見つからない。
日劇ミュージックホールの舞台こそが、泉和助のあふれんばかりの才能を存分に発揮してのけられた場所であったように思う。なにしろ芝居ばかりか、うたえて、殺陣ができて、タップが踏めて、日舞の心得があって、手品がうまくて、ガンプレーが達者なのだから、いうことない。
それなのに、かんじんかなめの芝居が、なんとも泥くさいのである。自分で演じてみせるより、そのアイディアだけ頂戴した弟子のほうがはるかに評判よかったりした。事実、岡田真澄、関敬六、E・H・エリック、田中淳一、ミッキー安川、などなど、彼の手にかかったコメディアンは少なくない。それでも、自分は役者だという誇りがあったから、世間が彼のことを、いくら日本一のギャグマンだとほめたたえても、当人はあまり嬉《うれ》しそうな顔をしなかった。
それにしても、日劇ミュージックホールのコントで見せた泉和助のアイディアの洒落っ気が、いまとてもなつかしい。いなくなってから、その大切さがわかってくるというのは、世のなかにいくらも例のあることだが、泉和助が去ってから、日劇ミュージックホールのコントはがぜん生彩なくなったのである。
そろいの白いタキシード姿の泉和助、空飛小助、田中淳一の三人がマイクの前にあらわれる。スピーカーから、プラターズの『ユネバノーン』が流れてくる。それにあわせて三人が口をぱくぱくと動かす。コーラスグループの形態模写というわけで、これだけだったら、空飛小助という小人タレントがまじっているだけの、別にどうということのないパロディである。和っちゃん先生の才気が発揮されるのはここからである。
コーラスなかほどで、ひときわ低音のソロがあって、「ユネバノーン」とうたっているのだが、その部分になると、泉和助と田中淳一が、まんなかにいる空飛小助を、ひょいと持ちあげるのである。
持ちあげられた小助の顔のまん前にマイクがあって、小助ひとり低音の「ユネバノーン」にあわせて口を動かす。ソロが終ると、そっと小助をおろすのだ。このコーラス、エンディングがまたまた低音のソロで、「ユネバノー……ン」と消えいるように音がひいていく。持ちあげられた小助の顔の前のエレベーター・マイクがそれにあわせてだんだんと降りて行く。小助の顔もだんだんさがって、しまいに舞台をなめるようなかたちになって、歌が終ると同時に、マイクの蓋《ふた》がパタリと閉まる。
こんな、コントのネタがぎっしり書きこまれた大学ノートを持っていた。ただ、
「喫茶店のウェイトレス三人。パイプくわえた作家。コーヒー」
と記されているだけでまさにちんぷんかんぷんのメモが、和っちゃん先生の手にかかると、たちまちこんなコントに仕上ってしまう。
ベレー帽にパイプをくわえた、いかにも作家然としたひとりの男が、いそいそと喫茶店にはいってきて、テーブルにつくと鞄《かばん》から原稿用紙をとり出して、仕事をはじめる。赤いドレスのウェイトレスが通りかかると、「コーヒー」と注文する。持ってこない。青いドレスのウェイトレスが通るので、「コーヒー」という。持ってこない。黄色のドレスのウェイトレスが通る。「コーヒー」。持ってこない。
しばらくすると、赤、青、黄、三人のウェイトレスがそれぞれコーヒーを持ってきて、テーブルの上に置く。コーヒーカップが三つならんだわけだ。作家風の男、平然として、一杯目のコーヒーに砂糖をいれ、二杯目をスプーンでかきまぜ、三杯目を美味《うま》そうにのむ。
昭和四十年の「キネマ旬報」ショー・ビジネス欄に、『泉和助のギャグコーナー』という連載コラムがあるのだが、そのなかで泉和助自身、「意地の悪いコント作者はこう書くでしょう」として、
第?景 切手
酔っ払い登場。ポストに手紙を入れる。
おかしみあって次景へ。
注=切手等を利用すると面白し。
とだけしか記していない台本のタネあかしをしてみせている。それによると、
[#この行1字下げ]「一人の酔っ払いが、ポストを見て手紙を出すことを思い出して、ポケットから手紙を出し、ポストに入れようとする。フト気がつくと切手が貼ってない。手帳に切手をはさんでいたことを思い出し、手帳を出して切手をとりだそうとする。切手がはりついている。そで静かにはがす。舌で切手を濡らす。やっととれた。手紙に貼ろうとすると、指にくっついてはなれない。舌でなめて手紙に貼りつけたつもりで手紙をポストに入れようとする。口の中がべトベトするので舌を出すと、切手が舌に貼りついている。そこで再び手ではがして手紙に貼りつけ、手のひらでおさえてポストに入れる。気がつくと切手は手のひらに貼りついたままだ。そこで切手をポストに貼りつける」
となるのだが、酔っ払いが大真面目になればなるほど、奇妙な滑稽感がただようはずのこんなコントも、和っちゃん先生が自分でやると、臭みの強い、あか抜けないものになってしまうのがつらいところだ。
舞台以外でも、いろいろと頭をつかった。
日劇ミュージックホールのエレベーターは、一台しかなくて、一般客も出演者もいっしょに利用する。このエレべーターの扉が閉まって五階に着いてふたたび扉が開くまで二十秒かかる。楽屋入りする和っちゃん先生、エレベーターに乗ると、誰かにはなしかけるのだ。
「熊本にいる俺のおじさんと、北海道のおばさんがネ、このあいだ日本橋の三越のライオン前で待ちあわせすることンなってね……」
と、ちょうどここまでが二十秒。なに、はなしの真偽なんてどうでもいいのだ。大声でこんなはなしをしていると、二十秒たってエレベーターの扉が開いても、その先がききたいのか誰もおりようとしない。
エレベーターでは、こんなこともあった。うっかり煙草《たばこ》に火をつけたまま乗りこんでしまった。乗りあわせた外人が、「あれを読め」と、No Smokingと書いてある標示を指さす。しかたないから、和っちゃん先生、大声で読んだ。
「ナンバー・スモーキング」
バーで勘定を払うとき、チップに千円置いて行く。さり気なく灰皿の下にはさむのだが、これがどう見ても二千円に見える折り方がしてあるあたりが洒落である。
キャバレーで、女の子に五百円札を持ってこさせて、目の前でこれをもみくちゃにするのだ。もんではひろげ、ひろげてはもんでいると、見る見るうちに、この五百円札が小さくなって、ピースの箱から果ては郵便切手くらいの大きさになってしまう。女の子が面白がって、みんな和っちゃん先生のテーブルに集まってきちゃう。女の子に去られて、しらけきった別の客が、一万円札でこれを始めた。和っちゃん先生、憮然《ぶぜん》として、
「やだネ。ああいうキザには勝てねェ」
こんな泉和助の才能に、当然のことながらテレビが目をつける。TBSの『コメディ・フランキーズ』やNHK『お笑い娯楽館』が、番組づきのギャグマンとして契約した。テレビ台本のスタッフ欄には、「戯動士・泉和助」とか、「Gメン・泉和助」などと刷られていた。
近藤勇が、ばったばったと勤皇の志士を斬りまくっているうちに、カメラマンまで斬りつけてしまったり、アル・カポネがマシン・ガンを振りまわすと、壁や人間の身体に銃痕《じゆうこん》が噴き出すのだが、この銃痕がなんと縦に真一文字……なんてギャグが評判になったが、なぜか泉和助のこころは晴れなかった。
うたって、踊って、芝居ができるという自負のあった和っちゃん先生は、自分はいわゆるコメディアンではない、ボードビリアンとよばれることこそふさわしいといった誇りを捨てきれなかったのである。だから、ギャグマンだの、アイディアマンだのとよばれて、そっちのほうの評価ばかりが高くなればなるほど、屈折していった。
そんな和っちゃん先生の真意をはかりかねた僕など、ギャグマンという、日本で最初のプロフェッショナルであることに、もっともっと誇りを持っていいのにと、そう思った。
それだけに、舞台はいつでも真剣勝負、いいかげんなアドリブや即興は共演者にも許さなかった。そのくせ、いいアイディアがあったら、思いきってやれというのが口癖で、そんなアイディアを思いついた大谷淳や空飛小助が進言すると、だまってうなずいている。OKが出たと、本番の舞台で、そいつをしゃべろうとすると、和っちゃん先生いきなり相手の口をふさいでしまうのだ。
昭和四十五年一月二十八日が命日。といってもこれは推定である。脳出血で倒れて、五日目に発見されたのである。
その二年ほど前から、日劇ミュージックホールの仕事からも手をひいた。持病の喘息《ぜんそく》が悪化したのである。喘息ばかりでなく、肝臓、糖尿、身体のほうはがたがたにむしばまれていた。渋谷道玄坂のマンションの妻子のところから、猫一匹だいて、品川区東大井の木造アパートの一間に移り住んだ。猫が後足に怪我をして元気がないので、割り箸で義足をつくってやったあたり、あいかわらずのアイディアマンぶりを発揮していたが、むかしのいきおいはすでになく、さびしさを酒でまぎらわせる毎日だった。
ときどき若いコメディアンが教えを乞いに来た。こんなとき、むかしとったなんとかで、たくわえこんだアイディアを惜し気もなく披露してくれた。それでも、誇り高き男としての面目は失わず、お礼のおカネは絶対に受けとらなかった。しまいには、机ひとつしかない六畳間の片隅に、青竹の貯金箱を誰かが持ちこんで、さり気なくなにがしかを入れていくようにして、さすがにこれは和っちゃん先生、見て見ぬふりをしていたらしい。
泉和助と最後にはなしをしたのは、コメディアンの大谷淳だった。だから、大谷淳は遺体発見、解剖のあと、大井警察署によばれて調書をとられている。
死の前日と思われる一月二十七日、大谷淳はテープレコーダー持参で和っちゃん先生を訪ねている。パントマイムのギャグを教わりに行ったのである。例によって、おカネは受けとらないので、ウイスキーを手土産にした。
二、三回、パントマイムを振付けてもらってから、「せっかく持ってきてくれたんだから、のむか」と、和っちゃん先生は、自分で封をきってストレートでのんだ。解剖された遺体の胃袋に、このウイスキーがあったそうである。「なにか食べなくちゃいけません」と、台所のガス台で、大谷がおかゆをつくってあげたのだが、これには手をつけていなかったらしい。疲れたといって敷きっぱなしの布団に横になった泉和助に、按腹《あんぷく》をしてやって大谷淳がアパートをあとにして、五日目に遺体が発見されている。
岡田真澄が世話をやいて、宇津秀男が葬儀委員長になって、通夜と告別式が桐ヶ谷の火葬場で行なわれた。通夜の席に集まった、関敬六、まろ恵一、空飛小助、田中淳一たちコメディアンが、ひそひそとはなしあっているのを、その時分まだ内外タイムスの演劇記者だった石崎勝久が、きくともなしに耳かたむけると、彼らの関心は残された和っちゃん先生のネタを記した大学ノートにあることを知って、藝人の持つ執念に少しばかりおどろかされたという。根性ともいうべき、そんな執念に圧倒されたためでもあるまいが、石崎勝久は、通夜・告別式とつきあっていながら、とうとう訃報《ふほう》を書くのを忘れてしまった。このノートの行方を追ったら、面白い記事が書けるなと思いながら、訃報には頭がいかなかったそうである。
ノートの行方はわからないのだが、アパートの机のひき出しに、脱稿寸前になっていた「ドサ廻り」という原稿があって、こんなことが書かれていた。
「ギャグもまた真なり。ギャグがストーリーの芯にならなければ本当の笑い、いい笑いは生まれない。そのために藝人は真剣に勉強を重ねなければいけない。ぶっつけ本番では絶対生まれないだろう」
ボードビリアンとしての誇りを捨てず、ギャグマンとしてしか評価されないことに、充たされない思いをいだきつづけていた泉和助だが、かんじんの身体がむしばまれ、再起もおぼつかないとひらきなおったとき、ギャグマンに徹することにすがろうとした悲痛な叫びが、
「ギャグもまた真なり」
という言葉ではなかったか。
昭和四十五年二月二日の午前十一時頃、管理人の石井とも子さんによって、遺体が発見されている。
二、三日前から、猫がしきりになくし、電気がつけっぱなしになっているので、おかしいと思ったのだそうだ。布団の上に横になって、酒でものんでいるように見えたそうだ。枕もとに、猫がなめつくしてからからになった、ミルク入れの丼が置かれていた。
アパートの扉をあけたとたん、猫が、すごいいきおいでとび出して行ったという。
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箱庭《はこにわ》の頭《かしら》・春風亭枝葉《しゆんぷうていしよう》
引出しの奥にしまいこんであった古い手帳を出して調べたら、昭和五十六年の三月十一日であった。ついこのあいだのことのように思っていたのに、もう三年たっている。
ロシア演劇の佐藤恭子女史に、日本でロシア人に日本語を教えているロシアの御婦人が(いささかややこしいいい方だが、要するに日本語の達者なロシア女性)、一度寄席をのぞきたいといっているので、いっしょに案内してくれないかとたのまれたのである。
おやすいご用……と引き受けて、三人で新宿末広亭の夜席をちょっとのぞいたのが、三年前の三月十一日というわけだ。落語協会の出番による三月中席の初日である。
問題のロシア女性は、どこから見てもスラブ民族といった風情《ふぜい》をたたえた、なかなかの美人で、これまでにも何度か歌舞伎や人形浄瑠璃にはふれているらしい。
新宿末広亭の高座では、意外なことに川柳川柳《かわやなぎせんりゆう》の『ジャズ息子』がいちばん面白かったという。立川談志の『二人旅』は、「ワタシ、コノハナシ、マッタクリカイデキマセン」と、困ったような顔をした。それはそうだろう。「じゃァ『おぬしと二人で歩いてんのと掛けてなんと解く』」「うん、あげましょう」「それを貰うと、『馬が二匹と解く』」「へえ、その心は?」「『同道』だから。な? 馬が二匹で、どうどうとこううまくやらなくちゃいけねェ」なんて、言葉の洒落《しやれ》による謎かけなど、いくら日本語の先生してるといったって、そこはほんものの外人だ。そう簡単にわかられちゃっても困るのだ。
たしか談志で仲入りになって、まだ数高座残していたのだが、どこかでゆっくりアルコールでもということにはなしがきまり、三人でおもてへ出た。
木戸口の丸椅子に、相変らずいなせななりのピタリときまった木戸番の五十嵐昭雄が腰をかけていた。このひとの渾名《あだな》が「箱庭の頭《かしら》」。五尺そこそこの身体だが、なりやかたちは、立派な町内の頭なのである。入場するときには、席をはずしていたのだろう。僕を見つけた箱庭の頭は、にやにや笑いながら近づいてきて、こういった。
「あれえェ、矢野ちゃん来てたのかい? きょうはまたなんだい? レキはオロシャだネ」
いたずらっぽく、こういうと、すぐに自分の持ち場に戻って、
「えいィ、らッしゃいッ」
と、いせいよく声はりあげた。
これが僕のきいた、五十嵐昭雄、いや箱庭の頭、いや、元・春風亭枝葉の最後の声になった。
昭和四年八月十五日生まれ。だから、十六からこっち、日本敗戦の日が誕生日になってしまった。東京・大塚は花柳界のまんなかで生まれて、母親が長唄のおっ師匠さんとくれば、間違っても銀行づとめや学校の先生になんかなる気づかいはない。
落語家になったのは、この母親のすすめによる。というよりも、母親がどうしても息子を落語家にしたかったのである。女手ひとつで育てあげた一人息子が落語家になりたいなどいい出したら、大いに嘆き悲しむのがふつうの母親なのだけど、ステージママよろしく、「なんとか立派な落語家にしたい」と願うあたりが、さすが花柳界で藝者相手に長唄の稽古をつけてたおっ師匠さんで、その辺の母親とはちょいとばかし了見がちがう。
昭和二十四年、つてをたよって古今亭今輔に入門がかなったのだが、このとき母親は、
「この子は、落語家になれなかったら、きっとぐれます」
といったという。落語界きっての真面目人間古今亭今輔の答も立派だった。
「冗談いっちゃいけません。うちは、感化院じゃありません」
今輔のつけてくれた名前が今雄。すぐ今次に変った。どっちにしても落語家の名前としちゃァあんまり色っぽくない。
名前は色っぽくなかったが、なりはよかった。ウールや化繊には目もくれず、いつも趣味のいい絹物を身につけていた。唐桟《とうざん》だって、ほんもの以外着なかった。大塚の母親が、「落語家はなりがよくなきゃ」と、カネにあかしていれあげたのである。いいお袋を持ったものだ。
よく、「かたちからはいる」というが、彼のばあいが、まさにそれであった。前座の身分でありながら、なりとかたちのほうだけは一人前。鹿皮の莨《たばこ》入れを腰に、半開きにした扇子を襟首に差した姿なんてものは、粋の国から粋をひろめにきたようだが、あくまでこれはなりかたちだけのこと。かんじんかなめの落語のほうは、あんまりうまくなかった。身なりほどには口調がなめらかでなく、高座で絶句することもしばしばで、前座としての必修課目みたいな、太鼓も下手で覚えが悪かった。
箱庭の頭《かしら》……という渾名をつけたのは、桂三木助である。それにしても、箱庭の頭とは、いい得て妙だ。自身、江戸前のいなせな落語家で、ひと頃は花柳太兵衛を名乗り、踊りのほうで身をたてた三木助だ。服装《こしらえ》に凝る箱庭の頭に、おのが若き日の姿を見出していたのかもしれない。
雨の、人形町末広の楽屋で、お茶をのんでいた三木助が、「頭、ちょいと来ておくれ」と声をかけた。
「へいッ、ただいま」
右手でかるく着物の上前をはねると、畳に正座して、こぶしをにぎって両手を右膝のわきの畳にそろえて置く。
「いいかたちだねェ」
と感心してみせた三木助が、「すまないけど頭、ちょいと立ちあがっとくれよ」
「へい。立ちあがりました」
「うん。そこでひとつ、尻はしょってくれないか」
さっと尻はしょりをする間もあればこそ、三木助がいう。「鉢巻をしめとくれ」
ふところから、豆しぼりの手拭を出すと、器用な手つきでねじり鉢巻をこしらえる。
「こんなもんで、いいですか」
「うん、ああ足袋《たび》を脱いどくれ」
「へい」
脱いだ足袋の底をあわせると、先刻まで手拭のはいっていたふところに、それをおさめて腕を組む。その姿をしげしげと見ながら、
「いいかたちだねェ。頭、せっかく裸足《はだし》ンなってくれたんだ、雨ンなかすまないけど、角の店に品物あずけてあるの、ひとっ走りしておくれでないか……」
三木助がいい終るより先に、雨のなか裸足でとび出していった。さすが、かつては隼の七と異名をとって、鉄火場出入りなどしていた桂三木助、ひと使いも上手《うま》かったが、苦もなくそれにのってしまうあたりが、やはり箱庭の頭である。
昭和二十六年に二つ目になった。二つ目になったのを機に、三遊亭円遊のところに移って喜円遊。新作落語の今輔から円遊へと、師匠を変えたのは、古典落語がやりたかったからである。それはそうだろう、箱庭の頭ともあろう者が、鈴木君、山下さんなんて落語は、性にあわない。昭和二十九年に玉遊と改名してるが、藝のほうより、悪い遊びのほうで知られ、師匠をさんざしくじっている。
なにしろ、落語が好きというよりも、落語家らしいなりのほうに憧れていたようで、道楽に身をもちくずすことに生甲斐を感じていた気味がある。いちばんかんじんなときに、いつもいないというのが、どこの世界にもいるものだが、箱庭の頭がそれだった。どこに行ってしまったかというと、これが吉原なのである。なにしろ、「頭をさがすときは、吉原をさがせ」というのが楽屋の合言葉になっていた。
いわゆる赤線の全盛時代だったから、若い落語家は競って赤線通いをしたものだが、そう毎日とはつづくものではない。ところが、箱庭の頭ばかりは毎日出かける。女遊びそのものよりも、あのなかをひやかして歩くのが好きなのである。好きというよりも、あのなかに居るときがいちばん落ちつくというのだから、これはもう病気みたいなものだ。
若い落語家のなかには、わざわざ電車の停留所もふたつ位手前でおりて、こそこそとかくれるように遊びに行くのが多かったのに、箱庭の頭ばかりは、自分が目立ちたくてひやかすのである。素足に雪駄《せつた》を突っかけて、くわえ楊子《ようじ》に弥蔵とくれば、姿かたちは決まっている。
「ちょいと、そこの小さいお兄ィさん。様子がいいわよ」
なんて声をかけるお女郎さんは素人で、すでに吉原中に知れわたっていた。それだけに、新宿末広亭が出番のときなど、ほかの落語家は近間の二丁目ですまそうというのに、彼だけは電車賃を使って吉原まで行くのである。カネがなくて、遊ぶことができずに、ひやかして歩くだけだったら、歩いて行ける新宿二丁目で充分……という考え方をとらないのだ。ひやかしだけだからこそ、ここは本格の吉原といきたいところで、あくまでも「かたちからはいる」という心意気に殉じてしまうのだ。
小沢昭一が、正岡|容《いるる》の弟子として、寄席にいりびたっていた早稲田の学生時代、永井荷風を気取って、亀戸の赤線を、外套《がいとう》の襟を立て、「隠微に」ひやかして歩いていたのだそうである。
「ねえ、ちょいとお寄りしてェ、お話だけ、ねェ、そこの学生さん、小沢さんッ」
と、男の声で名前をよばれて、びっくりしてふり返ると、小さな店のなかで、女の半纏《はんてん》ひっかけた箱庭の頭が、図体の割に大きな歯を見せながら妓楼《みせ》の女たちと笑っていたという。屈託のない笑顔で、
「落語《はなし》家じゃ食えねえから、牛太郎もやってんの」
とはなしかけてくる彼を見て、とっぷりと彼女たちのなかにはいりこんで暮してるさまに、ある種の羨望を感じたと、小沢昭一は自分の著書に記している。
べつに女郎買いにうつつをぬかしていたせいばかりでもあるまいが、よく師匠をしくじった。円遊のところに居られなくなって、こんどは落語協会の春風亭柳枝の弟子で枝葉となったのが、昭和三十一年の七月。
藝のほうは、まだまだだったが、若いに似あわぬ、いなせななりやこしらえのほうはかなり評判になっていた。どういうわけか『初天神』『雛鍔』『真田小僧』なんて子供の出てくるはなしが任にあっていて、よく高座にかけていた。その風態のよさが、天才プロデューサー湯浅喜久治の目にとまり、三十年十一月に発足した、第一生命ホールの「若手落語会」の第一回に出演して『初天神』を演《や》っている。小泉信三、志賀直哉、谷川徹三なんてひとが競ってプログラムに原稿を寄せたという「若手落語会」である。なりだけの落語家から、本当のホープとして、やっとスポットライトが当ったように誰にも思えた。これで、しくじりさえしなければ……
しくじるのである。やはり。
昭和三十二年の夏もすぎた頃である。松竹映画は木下恵介監督作品『風前の灯』から声がかかった。松竹映画といったって、年間十本そこそこの製作で、寅さんで細々といきをついているような昨今の松竹ではない。史上空前の映画時代に、しかも黒澤明とならぶ日本の巨匠と称された木下恵介の作品から、およびがかかったのである。これは、当時の若手落語家にとって破天荒なことであった。
高峰秀子、佐田啓二が主演のこの映画で、春風亭枝葉の役は、魚屋の兄ィ。もちろん演技力が木下恵介の目にとまってというほどのものでなく、「落語家で誰か、いせいのいい魚屋らしいキャラクターの持主はいないか」といったプロデューサーの思案に、「箱庭の頭」と渾名された枝葉の見てくれが、ぴったりはまったといったところだろう。
撮影所の演技課から連絡があって、大船撮影所へ出かけた初日、ワン・カットだけで、「きょうは、もうあがり」といわれた。あとは追って連絡するが、クランク・アップまで、五日ぐらいは大船に通わなくてはならないという。帰り際に、出演料の一部ですと封筒を渡された。くれたのは三分の一で、残り三分の一は中途で、撮り終ったところで残額を精算するのが、その時分のシステムで、封筒を渡されたときに、そういわれた。
ひとりになって、そっと封筒をあけて、びっくりした。三万五千円はいっている。若い落語家にとって、一度で手にする機会など、生涯ないと思われていた金額である。サラリーマンの初任給を題にした、『一万三千八百円』なんて歌がヒットしてた時分の三万五千円だ。枝葉にしてみれば、吉原に十日間も泊れるカネだ。寄席で出る「ワリ」とよばれる給金を、一銭も使わず貯めこんでも、いつ三万五千円に到達するものやら、見当もつかない。そこまで考えたら、あとの決断ははやかった。その場でドロンをきめこんでしまったのである。
もうあと五日も大船通いをすれば、三万五千円どころか、それこそ目のたまの飛びでる金額になるということに、頭がまわらなかったわけがない。それでも、五日先の十万より、いまの三万五千円に目がくらむというのが、なんともこのひとらしくて悪くない。
松竹をしくじった枝葉のことを、「なんで、そんなばかなことをしたんだ」と、みんなが責めた。これは責めるほうが当りまえである。ところが、責められたことで、ノイローゼ状態になってしまったというのだから、ふだんはいせいのいい箱庭の頭も、根は気が小さかったのかもしれない。しくじるたびに面倒をみてくれたお袋さんも、もうこの世のひとではなくなっていた。
古今亭今輔のところで兄《あに》弟子だった三笑亭夢楽のところへ悄然《しようぜん》として、やってきた。カネを貸してくれという。ちょうど持ちあわせがあったので、いくらか与えると、
「もう死にたくなった」
と、もらした。
「死にな、死にな。てめえで死ぬといって死んだやつはいないんだ。なんだったら、ヤッパがあるけど、持ってくか?」
ちからづけるつもりで、そういったら、ほんとうに死のうとした。芝の愛宕《あたご》山の山中で、薬をのんだのである。結局、死にきれず、朦朧《もうろう》として付近の人家の扉をたたいたのである。
「間違っても、うかつに死ねなんて口にするもんじゃないネ。自殺をはかったってきいたときは、ほんとにびっくりしたぜ」
と夢楽はいう。それにしても、選《よ》りに選って、愛宕山まで薬をのみに出かけるというのが、死のうとするときまで「かたちを選ぶ」箱庭の頭の……大袈裟《おおげさ》ないい方をするならば、「美学」とでも申しましょうか。
自殺未遂の騒ぎを土産に、寄席の世界から春風亭枝葉の姿が消えた。
昭和三十六年正月。初席でにぎわう新宿末広亭に、四年ぶりで姿をあらわした。箱庭の頭らしい心意気は失われておらず、真新しい半纏姿に身をかためて、手荷物はといえば風呂敷包がたったひとつ。身のまわりの品でもはいっていると思うところだが、これが火事装束の刺子《さしこ》なのである。落語に『火事息子』という名作があるが、そういえば箱庭の頭、落語家時代から火事が大好きだった。
新宿末広亭の席亭というより、新宿の大旦那で通っていた北村銀太郎の前に手をついて、「すみません、一所懸命働きますから、使ってください」と頭をさげた。その日から、末広亭の楽屋に寝泊りが許されて、木戸番として働くことになった。同期の落語家は、みんなもう真打の看板をあげていた。
木戸番になってから、渾名がもうひとつふえた。「元|兄《あに》さん」というのである。落語家の世界では、たとえ一日でも先にこの商売にはいった者には、兄さんとよぶ習慣があって、箱庭の頭が落語家ならば当然そうよばなければならない若い連中が、いまは落語家ではないのだからと、元兄さん……元は、選挙速報で自民元などとやる、あの「元」である。
元兄さんは、よく働いた。なんでも十日ごとにやってくる表の出演者の看板替えだの、正月初席用の松やしめ縄をかざるときなど、いっそう生き生きとしていた。どこまでも頭としての了見なのである。もちろん近くに火事でもあれば刺子姿でまっ先にかけつけた。新宿三丁目消防団の正式の団員になっているのが自慢なのである。
あるスポーツ新聞に、「寄席の裏方」という囲み記事を連載したことがあって、このとき当然のことながら箱庭の頭からも取材した。肩書はたしか、「新宿末広亭木戸主任・五十嵐昭雄さん」であった。
しくじって姿をかくしていたあいだ、どこでなにをしてたのかと訊ねたら、静岡で鳶《とび》の世界に身を投じていたのだという。鳶ならば好きな世界だろうに、なんでまた寄席に戻る気になったのかときくと、「よくぞ訊ねてくれました」というような表情になって、
「矢野ちゃんねェ、指が太くなっちまうんだよ、あの仕事」
と気取ってみせたから、「いうことが色っぽいネ」といってやると、嬉しそうに、
「そう、それよ」
と、大きな味噌っぱをむき出した。
通りかかった落語家が、あきらかにお世辞まじりに、
「ねえね、元兄さん、『初天神』の稽古つけてよ」
などいうのに、
「俺のは……柳枝さんのなんだよな」
と、まんざらでもなさそうな表情だった。
死ぬ間際には、もう落語家としてカムバックする気も完全に失せていたようだが、新宿末広亭に戻った頃は、ひそかに期するところもあったようだ。
ある日、楽屋に忘れ物を取りに戻った夢楽が、もうはねたあとの高座でなにかきこえるので、そっとのぞくと、おろした幕にむかって、元兄さんが落語をしゃべっていた。なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がしたという。カムバックの望みを捨ててから、前座に対して急に口うるさくなった。自分が前座の時分に師匠からさんざくらった叱言《こごと》を、そのとおりにいうのである。
昭和四十八年三月三十一日のことだ。
三笑亭夢楽が、新宿末広亭の高座で一席やっていると、二階の客が騒ぎ出した。どうやら近所で火事があるらしい。このまま下手に客が逃げだすようだと大変な混乱がおこると思った夢楽は、高座から語りかけた。
――みなさん、当末広亭には三度のおまんまよりも火事が好きという、火事の専門家が居りますから、ここへよんで火事の様子などくわしくきいてみましょう。五十嵐さァん……
「へいッ、ただいま」
と、その時分はもう刺子でなく、『銀河鉄道999』みたいな、銀鼠色の化学繊維の消防服に身をかためた箱庭の頭がやってきて、身振り、手振りの説明で、「この分じゃ、ここまでこないで消えちまう。絶対大丈夫ッ」と保証した。夢楽は、
――この火事の専門家が大丈夫と保証すればほんとうに大丈夫。まず、二階のお客さま、ゆっくり外に出てください。次に、階下のお年寄り、御婦人、お子様連れの方。若い男の方には、これから私が艶笑落語をみっちり……
と、三段階に客を誘導して、あとで、夢楽は消防署から表彰された。
そんなことよりなにより、このとき高座で火のまわりぐあいの説明にあたった箱庭の頭の表情の、なんとまあ生き生きとしていたことよ……思えば、春風亭枝葉でしくじっていらい、久方振りに与えられた高座の出番であったが、これが最後の、彼にとっては一世一代の藝になった。
昭和五十七年四月下席の新宿末広亭に出番のあった入船亭扇橋が楽屋入りすると、待ちかねたように箱庭の頭がやってきた。
「ねえ、きょうカメラ持ってきてる?」
扇橋このところカメラに凝って、もっぱら植物など専門にパチパチやっている。
「あるけど兄《あに》さん、モノクロだよ」
「いよッ、モノクロ結構ッ」
新しく縞の半纏こさえたので、写真を撮ってくれというのである。
早速、扇橋がカメラを持ち出して表の木戸口のほうへ行こうとすると、
「表はよそうよ、裏、裏のほうがいいんだ」
という。新宿末広亭の楽屋口のある裏通りは、新宿という天下の繁華街に似つかわしくない、さびれた通りなのだが、その裏通りがいいというのである。道のまんなかに、頭《かしら》を立たせて扇橋がレンズをむけると、端へ端へと寄っていく。
「もっと、まんなかへ出てよ」
「いいんだよ、こっちのほうで」
そんなやりとりがあって、四、五枚もシャッターを切っただろうか。三日程して出来あがった写真を渡すと、ばかな気にいり方で、
「どうだい、ええ、いいだろう、よく撮れてるね、さすがだネ」
と、前座やお囃子《はやし》さんに見せびらかして歩いていた。
扇橋が写真を渡して、さらに三日程した五月二日の夜。寄席がはねて、これからのみに行こうと外へ出ようとする三笑亭夢楽が、顔をあわせた箱庭の頭に、声をかけた。
「どうだい? 久し振りに一杯?」
「こんち、ちと息苦しゅうげす」
「そいつはいけねえな。はやく寝なよ」
五月三日の朝。新宿末広亭からの電話で起こされた入船亭扇橋は、箱庭の頭が昨夜死んだことを知らされた。葬儀のときの遺影に扇橋の撮った写真を使いたいので、すぐにネガをとどけてくれないかという。
扇橋がかけつけると、遺体の顔に白布がかけてあった。小さな身体が、またひとつ小さくなったように見えた。九十歳を越す席亭の北村銀太郎が、線香をあげながら、
「おめえは、ほんとによくやってくれたな……」
と、嗚咽《おえつ》していた。
五十嵐昭雄。享年五十三。
結局、現役の落語家だった時代の倍の年月を、木戸番で過ごしてしまった。
生涯独身を通した箱庭の頭だったが、それでも晩年には、行く末を誓いあった女がいたらしい。新宿のトルコの女だというのだが、
「いま、ちょいとわけがあってムショにはいってんだ。そいつの出てくるのを待っててやってる……」
すべてのことに、かたちからはいった箱庭の頭らしくて、ちょいとばかしできすぎたはなしという気もするが、本寸法の吉原まで足をのばさず、ついつい近間の新宿のトルコというのが、頭も年齢《とし》ンなってしまったようで、なぜか哀しかった。
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無精《ぶしよう》のせっかち・三笑亭可楽《さんしようていからく》
よっぽどのことか可楽が駆けてくる
落語家仲間でつくっていた、川柳の「鹿連会」で、誰かがよんだ句である。
八代目三笑亭可楽。ほんとうに急がないひとであった。
ふつうの人間だったら、交差点で信号が青になったら渡るものだが、これが渡らない。その次の青になるまで待つのである。
タクシーだってそうだ。運転手のことを、生涯このひとは「車屋さん」とよんでいたのだが、停めて乗りこむや否や、
「車屋さん、たのむからゆっくり行ってくださいな。その分は面倒見るから」
と、いっていたものである。
かといって、泰然自若というのともちょっとちがう。気持のなかには、かなりせっかちの部分もあったのに、急ぐのが面倒なのである。性にあわないのである。はやいはなしが、無精なのである。そういえば、ほんとに無精な落語家で、その無精なところになんともいえぬ味があった。
無精だったから、藝惜しみすると他人からよく誤解された。十八番の『らくだ』でも、『芝浜』や『子別れ』のような、いうところの大作でも、ほかのひとの口演よりも、ずっと短かった。『らくだ』など、三遊亭円生が演《や》ると小一時間かかるのに、このひとはサゲまで二十数分で演じてみせた。NHKから『芝浜』をたのまれたとき、三遊亭生之助が、その時分の若手ではいちばん速記本をあつめてるときいて、早速に電話をかけた。
「おまえさん、『芝浜』のいい速記《ほん》ありませんかね? あたしのはなし、みんな短いんで」
はなしのなかで、扉をたたく場面、左手に持った扇子で高座の床を「トントン」とやりながら、右手でたたくしぐさをするわけだが、落語家によっては高座に傷がつくんじゃないかと思われるくらい、力一杯扇子をたたきつける。これが可楽だと、音が出るか出ないかといった程度だし、右手のほうの扉をたたくしぐさにしても、あからさまに「面倒くせえな」といった表情をこさえながら、それこそほんのかたちだけといったやり方だったのを思い出す。
無精で急いだことのない可楽だったが、あれで意外とそそっかしいところもあった。東宝演藝場の事務所の電話を借りて、先刻すましてきたばかりの新宿末広亭の楽屋をよびだすと、前座相手にいったものだ。
「あ、おまえさんかい? あたしはネ、あんたが草履《ぞうり》をそろえてくれたんで、そのままはいて、いま東宝に来てますがネ。ひょっとすると、あたし、きょうは下駄じゃなかったかしら……」
いつもにが虫をかみつぶしたような顔をして、ひとはそれを「ブルドッグが風邪をひいた」と形容した。舌が少々短いのか、ろれつがまわらないような、まわり過ぎるような、怪し気なるアーテキレーションの、不思議な落語家であったが、一部に根強い、しかも熱狂的なファンを持っていた。
あの小島正雄さんは、
「放送局の廊下ですれちがっただけで、小便ちびっちゃう」
などと、ダンディに似つかわしくないことを口ばしったものだし、フランク永井と可楽がむかいあって、たがいにくわえた煙草《たばこ》の先端が接している大きな写真が、スポーツ新聞の紙面をかざったこともあった。いまはみんな、なつかしい思い出である。
本名が麹地元吉。麹地の「麹」という字は東京麹町の「麹」だから、てっきり「こうじもときち」とでも読むのかと思ったら、これが大違いで、「きくち」というのである。めずらしい苗字で、ほかにきいたことがない。
明治三十年の正月、下谷は黒門町の経師屋の伜《せがれ》として生まれた。総領息子だったから、小学校を出るとすぐ、家を継ぐべく糊|刷毛《はけ》など手に、いっぱしの修業はしたそうだ。
僕が、イイノホールで、「精選落語会」というのをプロデュースしてたとき、こっちはせいぜい気取ったつもりで四つ折りにしたプログラムをこさえたのだが、可楽は、
「紙てェものは、こう折っちゃいけません。天地があべこべです」
と教えてくれて、
「あたしは、経師屋だからこういうことはくわしいんだ」
とつけ加えた。
その経師屋の修業のほうをそのままやっていれば、宮内庁御用達の大店の旦那の身が約束されていたのに、これがなんでまた落語家なんぞになっちまったかというと、すぐ近くの父親の家作に若き日の古今亭志ん生が出入りしていたからなのである。
「昼近くまで寝てて、湯から帰ってくると、鼻緒かなんかこせェてました。暗くなると出て行って、酔っぱらって帰ってくる。きけば、落語家だてェじゃありませんか。ああ、呑気ないい商売だな、なりてえなって……なってみたら、呑気どころか、大変な目にあった。けど、志ん生ってひとからは、そんなところが少しも見ェなかったからネ。えれェひとだよ、あのひとも……」
事実、生前の古今亭志ん生も、しばしば、
「可楽はネ、あいつァ、俺が落語家にさせたようなもんだ」
と語っていた。
その志ん生とふたりして、向島に遊びに行って、可楽のほうだけ淋病をうつされたことがある。もちろん戦後のはなしだが、
「藝者だから大丈夫と思ったんだがネ。それにしてもあたしにだけ……あちらは、運も強いんだネ」
と、しきりにぼやいていたという。
そういえば、このひとのぼやき口調、ふだんでも高座の調子とまったく同じなのが面白かった。
新宿戸山町の、柳の木のある、瀟洒《しようしや》な、いかにも落語家にふさわしい家に住んでいたのだが、あるとき訪ねると工事音がしている。きけば近所に大駐車場ビルができるとかで、そのための工事なのだそうだ。
「折角《せつかく》の陽あたりが、悪くならなければいいですがネ」
というと、可楽は、例の舌なめずりをすると、口をひらいて、
「近所でも、いま頃ンなって、やれ反対運動がどうの、署名がどうだってやってますがネ」
と、ここまではボソボソとしゃべっておいて、「やることが遅いよッ、やることがッ」と急に調子が変ると、
「このあいだ、大臣が来て祝詞《のりと》読んじまったいッ」
と結んだのが、そっくりそのまま高座の呼吸《いき》で、思わずこちらはふき出した。
落語家としてのスタートは、名人といわれた初代三遊亭円右の門で、右喜松という名をもらっている。落語家にも同期生意識のようなものがあるらしく、彦六という名で死んだ林家正蔵が、よく、
「金馬、今輔、可楽と、このへんがあたしの『よまんどし、かかんどし』ってことンなりますかね」
といっていた。
「よまんどし、かかんどし」とはまた、耳なれない言葉だが、要するに、読まぬ同士書かぬ同士ということで、つまりは同期の桜といったところだ。金馬は、『居酒屋』や『孝行糖』のラジオ放送で全国にその名を知られる人気者となった三代目だし、今輔は、お婆さんものの新作落語で当て、晩年には藝術協会の会長をつとめている。正蔵だって長年の長屋住いがすっかり有名になって、ほとんど恍惚《こうこつ》のひととなる寸前まで高座にあった。
こう考えると、可楽ひとり、いかに可楽でなければ駄目だとする熱狂的ファンが多かったとはいえ、落語家として充ち足りぬ思いを残したまんまで逝ってしまったような気がしないでもない。だいたいが、このひと自身、いつもなにかひとつやり残したような感じで高座をおりていた。根っからの無精だったのかなァ、やはり……
初代円右の門から、八代目桂文治門に転じて、さん生から馬之助。この時代、亭号は翁家である。それから六代目の春風亭柳枝のところに移って、さん枝。さらに五代目柳亭左楽の門で、柳楽から小柳枝。昭和二十一年に、やっと八代目三笑亭可楽を継いでいる。
こう見てくると、可楽を落語家に引きこんだ古今亭志ん生の十六回には及びもつかぬが、このひともよく師匠や藝名を変えたものである。志ん生のばあいは、志ん生自身があまりそうしたことにこだわらぬ大らかさを有していたように思われていて、事実そうした面もないではなかったが、当人がしくじりを重ねて、名前でも変えないことにはどうにもおさまりのつかぬこともあったらしい。
可楽のばあい、志ん生とは事情がちょっと違っていた。ほかの落語家のように、他人に対して媚《こ》び諂《へつら》うことができない。落語家仲間でいう、「よいしょ」ができないのである。その癖、不平不満、愚痴の類がすぐ口をつき、それがそのまま他人の耳にはいってしまうから、いい結果になるわけがない。好きな酒を前にして、「冗談いっちゃいけねェ」とつぶやきながら、ますます内攻して、沈んでいくのである。
戦後、三笑亭可楽になってからでも、藝術協会から、二度謹慎の処分をくらっている。一度は、柳家金語楼の実弟である昔々亭桃太郎が藝術協会に入会するにあたって、看板の順番を可楽のひとつ上に置いたことに、可楽が不満の意を表したのが、当時の会長春風亭柳橋の逆鱗《げきりん》に触れたのである。こういうケースでは、たとえ可楽ならずとも文句のひとつもいいたくなるところで、世間は多分に可楽のほうに同情的だった。
もうひとつは、上野鈴本演藝場の大旦那とよばれた席亭の葬儀に、協会の申しあわせを無視して花輪を贈ったのが問題になったのである。このときだって世話になったひとの葬式に、花輪を出してどこが悪いという頭が可楽にはあった。
「冗談いっちゃいけねェ」
以来、なにか面白くないことのあったときの、これが口癖になった。この口癖をさかなに酒をのむのである。
師匠や藝名もよく変えたが、女房も何度か変えている。あれで女にはよくもてたらしい。
柳楽の時代に、最初の女房を貰っている。小唄幸兵衛の三味線を弾いていた久和がその女房で、幸兵衛が死んだので久和派の家元となって幸久和を名乗り、黒門町のうさぎ屋の裏で世帯をはっていた。
「稽古に来たひとに、あたしがお茶を出すんです。ま、ヒモみてえな気がしねえでもなかったが、よく稼いでくれる女でしたよ。だから仲間うちじゃ割に羽ぶりがよくてネ。志ん生のところで清が生まれたときなんざ、鶏の卵を十《とお》ばかり届けてやったもんです」
清というのが、金原亭馬生で、すでに鬼籍のひとなのだから、ずいぶんと古いはなしだ。
そのうちに、上野の鈴本演藝場のお茶子とわりない仲になって、子供までできてしまった。幸久和のほうだってだまっちゃいない。当然のことながら一騒動あったらしいが、そこは藝一筋で暮していける女、あっさりと身を引いてくれた。春子という、その鈴本のお茶子を改めて女房にむかえた、このときの娘さんが、可楽のただひとりの子供で、洋子さんという気立てのいいお嬢さんだったが、いまどうしているのだろう。もう年増といわれてもいい年齢のはずである。
この春子夫人とは死に別れて、その後に貰った後添いにも世を去られたというから、女房運は決していいとはいえなかった。一番弟子の夢楽が知っているだけでも、五人の女とひとつ屋根の下で暮しているという。僕が、何度かお邪魔した戸山町のお宅には、何年か前から寝たっきりの奥方がいて、その奥方さんの妹というひとが、いつもお茶など出してくれるのだが、
「あれも、奥方」
と、夢楽はいって、にやりと笑った。
決して二枚目とはいいかねたが、よく女ができるというのは、どこか母性本能をくすぐるようなところがあったのだろうか。とにかく御婦人には滅法やさしかったらしい。
上野鈴本に可楽が出ていると、和服の似合う三十前後のいい女が必ず寄席に姿を現わすのである。そればかりか、可楽の出番が終ると、そそくさとふたりでどこかへ消えてしまうというから、おだやかじゃない。
「師匠、おやすくありませんネ」
やっかみ半分の気持もあって、夢楽がひやかすと、
「おまえさんネ、あたしだってネ、そうそう若い者に負けちゃいられませんよ」
と、目尻をさげた。しばらくたって、その女が現われなくなったので、「まさか、どこかに囲ったわけでは」と、たずねてみた。
「冗談いっちゃいけねえ。あいつ、俺にカネ貸してくれっていいやがる」
開場したばかりの、内幸町イイノホールを根城に、「精選落語会」というのを、毎偶数月開催でスタートさせたのは、昭和三十七年のことで、桂文楽、三遊亭円生、柳家小さん、林家正蔵、それに三笑亭可楽の五人がレギュラーであった。その少し前に、桂三木助が彼岸のひととなっていて、古今亭志ん生は前年の暮に巨人軍の優勝祝賀会の会場で倒れて、まだ退院できないでいた。
だから、五人のレギュラーを選ぶのに、いろいろと頭を悩ましはしたのだが、可楽を加えることはすぐに決めていた。ひときわ個性的な落語家と思われたし、可楽が加わることでホール落語会として特徴的な色彩もつくと考えていたのである。
これが、こちらの考えていた以上に当の可楽を喜ばしたらしい。いくら志ん生が倒れているといったって、三遊亭金馬も、春風亭柳橋も、先代の三遊亭円歌も、桂小文治も、元気な高座をつづけていたのである。それらのひとをさしおいて、自分が古典落語ベストファイブに選ばれたことが、素直に嬉しかったらしいのだ。民間放送局が開局するたびに、専属として迎えられることから、いつも遅れをとっていた可楽だけに、必要以上に喜んでくれた気持、わからないでもない。なによりも、自分のいちばん尊敬する桂文楽と、いっしょの高座をつとめられるのが楽しかったらしい。
精選落語会が縁で三笑亭可楽とつきあいのできた僕は、江國滋と語らって、意外やバーやキャバレーが好きだという可楽を、そういうところに連れ出したり、ふたりして戸山町のお宅を訪問したりした。そんなとき、無愛想でひとづきあいが悪いという噂を信じかねるような、サービス精神を発揮してくれた。お宅へお邪魔したときなど、折を見はからって、
「ちょいと弥助を、そういっとくれ。セコなほうじゃありませんよ」
などと、お嬢さんを通じて寿司などたのんでくれるのだ。当人は、符丁を使ってるつもりなのが、なにかおかしかった。その時分のことだが、
「このあいだ、なんでも二百年から前の外国の酒ってェやつを頂戴して、矢野さんと江國さんが見えたらあけようと思ってんですがね、ちょいと余暇《ひま》をみていらっしゃいませんか」
という御招待である。喜んでおうけしたのはいうまでもない。そういう事情だったから、割勘で手土産を持参したか、いつものとおり手ぶらで出かけたのか、そっちのほうの記憶はさだかでないのだが、出された酒のほうはじつによく覚えている。なんの変哲もないホワイトホースの丸壜《まるびん》のラベルを指さしながらいうのである。
「ほれ、ごらんなさい。ここに書いてあるでしょ。ほんとに、千七百何年って……」
なるほど、書いてありました。established 1742 ……
もどかし気な手つきで、封を切ると各人のグラスに注いでくれて、「それじゃ」かなにかいいながら乾杯のしぐさなどして、口にはこんだのだが、当の可楽はと見ると、ゆっくりと味わうごとくに口にふくんで、一呼吸あって、いった言葉というのが、
「ふん。こいつァ、やっぱりウイですな……けど、二百年ねェ、二百年」
であった。
その可楽当人から、
「矢野さん、えれェことンなっちまいましたよ、ちょいと入院しなくちゃならねえんで」
と電話があったのは、たしか昭和三十八年の十二月なかば頃であっただろうか。とるものもとりあえずという感じで、戸山町に近い国立第一病院に見舞った。ベッドに横たわった可楽は、思ったより元気で、点滴を受けながら、
「よかったらウイ召しあがりませんか。ありますよ」
などと、いたずらっぽく笑ってみせた。なんでも、「鶏のソップ」みたいなゲップが出るので、医者に診せたらすぐに入院させられて、胃を切るのだという。二月に予定されている精選落語会のことが気になっていた様子なので、代演を誰かに頼むから安心して養生してくれるように頼んだ。
手術が成功して、無事退院したのに、どうもはかばかしくないというので、三遊亭円生に、可楽の代演とあわせて二席やってもらおうと、柏木の円生の家までたのみに行くと、布団にうつぶせになって、出入りの指圧師らしい白衣を着た若い男に背中をもませながら、円生は、
「ようがしょう。おタロは二席分でしょうね」
などといいながら、
「可楽さんはネ、あれは癌《がん》です。もういけません」
とつづけた。
事実、膵臓《すいぞう》に癌ができてきて、手術といってもひらいただけで、摘出できなかったのである。弟子の夢楽には医師から伝えられていたという。可楽に、「医者はなんといってる」ときかれた夢楽は、「単なる胃|潰瘍《かいよう》だそうです」と答えたのだが、「おまえの傷を見せてみろ」と、夢楽の胃潰瘍の手術の跡をじっと見て、「俺のとは、だいぶ違うようだ」とつぶやいたそうだ。
江國滋と、最後に三笑亭可楽を戸山町のお宅に見舞ったのは、死ぬ三日前だった。いつも寿司を御馳走になったり、二百年昔のウイなるホワイトホースを出された座敷で、可楽はただ昏々《こんこん》と眠りつづけていた。
「なんだか、みんなして死ぬのを待ってるみたいで」
と、夢楽が脂ぎった顔でいった。弟子のほかに、桂小文治や事務員の長谷川藤太郎など大勢がつめかけていた。
数日前には、可楽がつねづね名人といって尊敬をおくあたわざるところだった桂文楽が見舞いにやってきて、枕もとで、
「ああ、惜しいひとだったネ」
とやってのけ、周囲をあわてさせたらしい。昨日は、これまた寝たっきりの奥方を、夢楽が枕もとまでだいて、涙の対面をさせたとかいっていた。
三笑亭可楽が、ほんとうにいけなくなってしまったのは、昭和三十九年八月二十三日のことなのだが、その日、小康をとり戻した可楽は、
「酒がのみてえ」
とつぶやいた。好きだった菊正を、吸い口にいれようとすると、
「お猪口《ちよこ》でくんな」
という。お猪口に注いだ冷酒を一杯、きれいにのみほすと、
「うめえなァ」
といったそうだ。
この分なら当分大丈夫そうだと、つきっきりの看病が四日もつづいた夢楽は、下着もよごれたことだしと、一度家に帰るべく、タクシーをひろった。明治通りをまっすぐ、渋谷にさしかかろうとするあたりで、なにか胸騒ぎがするので、車をUターンしてもらい可楽の家へ戻ったら、もう顔に白い布がかけられていた。
四日間、つきっきりで看病していながら、かんじんの死に目にあえなかったことに、くやしい思いもあったが、
「結局、師匠と弟子の関係なんて、そんなもんだろう」
と夢楽は、自身大勢の弟子ができたいまなお、そう思っているそうだ。
このあいだ、妙な夢を見た。
マラソンのテレビ中継を見ているのである。先頭きって走ってるランナーが、どうやら三笑亭可楽らしいのだ。生涯かけ出すことなどないと思われていた可楽がなんでまた、などと考えていると、沿道で声援を送っているひとのなかに知った顔を見つけたらしい可楽が、コースをそれてそっちへ足をむけてしまったのである。
一瞬のうちに、ほかのランナーたちが可楽を抜き去って行ってしまった。抜いて行ったランナーは、多分みんな落語家なのであろう。可楽はと見れば、沿道の群衆のなか、知った顔をさがし求めているのだが、レースのほうはもう放棄してしまったらしく、ただ口のなかでぶつぶついいつづけているのだ。なんだか、
「冗談いっちゃいけねェ」
といっているようにきこえてならなかった。
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インテリに弱い吾妻《あずま》ひな子
東海道新幹線の開通が待たれていた時分である。
大火で話題をよんだ千日前のビルに寄席があって、大阪へ出かけるたびにそこをのぞいて桂米朝をきいた。だだっぴろい、まるで体育館みたいな寄席で、その広い客席が一杯にうまっていることがついぞなく、悪餓鬼どもが鬼ごっこかなにかしてるのを無視しながら、米朝は『崇徳院《すとくいん》』など熱っぽく語っているのだった。思えば上方落語の復興も未だしという時代であった。
そんなある日、終演後に米朝の楽屋を訪ねるつもりで寄席にまわった。その日の米朝は、落語の出番がなかったのか、めずらしく背広姿で「お笑いトンチ袋」なる大喜利の司会者の席にすわっていた。笑福亭松之助、桂文紅、桂米紫、小春団治だった露乃五郎、我太呂だった桂文我、小米時代の桂枝雀、それにまだあどけなさの残っていた桂朝丸(ざこば)、こんなところが解答者で、彼らの口にする珍答の罰として、米朝は顔に墨などぬりつける係を如才なげにつとめていた。
その解答者の紅一点に、吾妻ひな子がいたのである。
目のさめるような黄色の高座着を身につけたひな子は、小柄な身体つきにあわせた名前どおりの「ひな」、つまりは「ひよこ」をなんとなく連想させた。ところが、このひよっこが「お笑いトンチ袋」で発揮してみせた才気には、なみの珍藝タレントのそれを超えるものがあって、なかなか感心させられた。したたかな男の解答者連を手玉にとるかと思えば、こんどは一転して女ならではの甘えを見せる。そのあたりの緩急自在なかけひきに、さすが司会の米朝もほんとうに翻弄されているかにうつった。
いらい、吾妻ひな子の「女放談」と称するひとり高座を注目するようになった。
三味線を手にしての女のひとり高座というやつ、その時分の東京では、べつに珍しくもなんともないものだった。名人西川たつはすでに亡かったが、都家かつ江が、檜山さくらが、日本橋きみ栄が、滝の家鯉香が、玉川スミが、それぞれの持味を発揮して、はなやかな高座をくりひろげていたものだ。ところが、漫才が主流の大阪となると、「かしまし娘」のように、女ばかりでチームを組んだ藝達者はいても、女ひとりで、あの広い舞台をわがものにしてという藝人は、浪花節くらいしか見当らなかったから、吾妻ひな子の高座はもの珍しさも手伝って、結構人気をあつめていたのである。
手にした三味線を、弾くのかなと思うと、これが弾かない。舌っ足らずの、甘えたような口調で、「それはそうと……」などと、また世間ばなしにはいってしまう。それも、
「うちら、こないなことは趣味でやってますねン。他のやつらは知りまへんで。あいつら、みな米代やら電気代かせぎのためにやっとりますのやろ」
などとにくまれ口をさんざたたいておいて、やっと「のん気節」をうたうと、それでもう高座は終りの挨拶になってしまう。この挨拶で、「趣味でやってる」はずの身が、「……これで日当になりました」などとうたうのが、いかにも大阪らしくておかしかった。
父親とふたりで漫才を始めたのが、この世界へのデビューになった。もちろん、戦前のはなしである。
米子《よなご》で米屋をしていた父親というのが、よくある藝人道楽。その時分さかんだったどさまわりの藝人に、いれあげるのである。もちろん藝人ばかりでなく藝者遊びもさかんにした。この道楽が嵩《こう》じて、お定まりの店をたたむというやつ。娘とふたり、夜逃げ同然の姿で大阪へ出てきた。母親は、はやくに死んでもういなかった。藝人道楽でつぶした身上《しんしよう》だから、自分が藝人になってとりかえそう……というのはよくあるはなしだが、あまりうまくいったためしもない。浅田家朝次・日奈子の名前で、娘とコンビを組んでみたものの、やはり売れなかったらしい。
父親から離れて、売れに売れていた玉松一郎・ミス・ワカナの弟子になった。戦時中のことである。弟子になって、すぐに師匠の玉松一郎によって、女にされている。
「だって、漫才は、師匠にはさせなあかんもんやと思ってた」
というあたり無邪気なものだが、巡業先の旅館を、夫人のミス・ワカナの目を気にしながら玉松一郎の送るひそかな合図でぬけ出すのが、たまらなく嫌だったそうだ。
戦後は、一時期室町京子と名乗って歌謡曲をうたい、伏見直江の一座についてハワイ巡業などにも出かけている。
大ベテランの浮世亭夢丸とコンビを組んでいたこともある。藝の上では、ミス・ワカナに心酔していたひな子にとって、夢丸の古めかしさには、体質的についていけないところがあった。ふてくされた、気のない舞台であったらしい。藝を終えて、楽屋に引っこんできた夢丸が、ひな子にひと言注意をしようと、なにかいいかけるのだが、ひな子はひな子で、「とんびがくるりと輪を描いた……」などと鼻唄をうたっている。この鼻唄が、終ったところで、
「はい。なんでしょう?」
これには夢丸もむっときて、
「なぜすぐに返事せん」
「だって、歌の途中やもん」
すぐにまた、「とんびがくるりと……」とやり出すのである。こんなコンビが長つづきするわけがない。
松鶴家光晴・浮世亭夢若という、いっとき割に売れた漫才があったが、この夢若のほうが白浜温泉で自殺してしまう。相方を失った光晴からはなしがあって、光晴・ひな子のコンビで出たのだが、これもあまり長くはつづかなかった。なによりも年齢差がありすぎて、漫才という対話藝の面白さが生きてこないのである。
結局、ひとり高座が、「誰にも気ィつかわんと、楽やから」ということで、例の「女放談」を始めることになる。あの六〇年安保で、世情が騒然としていた頃である。
仲のよかった笑福亭松鶴や、その時分千土地興行の文藝部にいた三田純市が、ひとり高座を始めるにあたっては、いろいろと知恵を貸した。ふたりとも見事にカネがなかったから、知恵ぐらいしか貸せなかったのである。どうやってみても、東京の都家かつ江の亜流ととられそうなのがつらいところなので、なにかひと味ちがったものを出したかった。手にした三味線を、弾きそうでなかなか弾かないという売りものは、晩年の立花家扇遊が尺八を吹くと見せかけて吹かなかったやり方を真似してみたらという、ふたりのアイディアであった。扇遊は、心臓を悪くして、ほんとうに尺八が吹けなくなってしまったのだが、吾妻ひな子は我流とはいえ達者な三味線を最後には実際に弾きながら、「のん気節」をうたってみせる。弾けば弾ける三味線を、じらしてなかなか弾こうとしないのが藝人らしい洒落《しやれ》なのだが、大阪の客にはこの洒落が、「もうひとつピンときませんのや」と、ぼやいたことがある。
敗戦直後の藝人で、ヒロポンをやらなかったのはいないといっても過言にならない。もちろん吾妻ひな子もよく打った。あれを打つと、いてもたってもいられない気分になって、衝動的になにか仕事がしたくなる。室町京子の名で、一座の芝居に出ていたとき、出番の寸前まで洗濯にはげむのである。そこらにあるもの手あたり次第、洗って洗って洗いまくるのだ。もう洗うものがなくなって、はいてる下着まで洗濯して、舞台に出た。客席の一番前にすわっていた子供が、大きな声でいったそうだ。
「あのお姐《ね》ェちゃん、チンチン見えてはるワ」
かと思うと、割烹《かつぽう》着に大きなポケットを二つも三つもぬいつける。「そんなもンこさえてなにすんねン」とたずねると、
「パチンコ行くンやがな」
玉がいくらでも出てくるような幻覚にとらわれるのだろうか。
何人かの落語家やら、三田純市などで新世界を遊びまわり、薄汚い旅館の広間で雑魚寝《ざこね》したことがある。これもヒロポンにいかれていた松鶴が布団のなかから、情なさそな声を出した。
「ひなちゃん。わて、おえてきてもうて、たまらんのや。やりたいなァ」
こういうときの吾妻ひな子は洒落っ気があった。
「おえては子にしたがえやなァ」
財布から五百円出すと、「飛田へ行ってきィ」と松鶴に手渡した。その時分は、五百円で女と遊べたのである。
男には、よく惚れたし、またよくつくした。最初の結婚相手は、宝とも子のマネジャーだった。
「ふたりで、丘の上に赤い屋根の家を建てようネ」
というひと言に、ころっと参ってしまった。彼女、こういうのに滅法《めつぽう》弱いのである。もちろん、赤い屋根の家など建つわけがなく、すぐに破局が訪れた。
次が、京唄子と結婚する前の鳳啓助。ふたりとも、まだ売れていなかった。藝人どうしの夫婦は、うまくいけば長つづきするが、いかないとなるとしごくあっさり別れてしまうのが多いものだが、そのうまくいかないほうの口だった。うまくはいかなかったが、子供ができた。
その子ともども、こんどは新世界ではちょっと顔のきくお兄《に》ィさんの世話になった。
「どっちかいうと、うち面喰いでんネ」
などと冗談口たたいていたけれど、この新世界のお兄ィさんは、ちょっとした色男だったという。色男はともかく、そっちのほうに顔がきいたから、そろそろ簡単に手にはいらなくなっていたヒロポンのほうで、みんななにかとお世話になった。お世話になった御礼というわけでもなかろうが、この兄ィさんがつかまったときは、藝人たちが刑務所慰問に手銭《てせん》で出かけた。
千土地興行の専属だった時分、そこの事務員をしていた杉森楢次郎といっしょになって、結局それが最後の家庭となった。ひとり高座の「女放談」は、千日劇場の千土地にいるよりも、角座《かどざ》のある松竹藝能のほうが売れるだろうと、この杉森が口をきいて松竹藝能に移籍させた。事実、それから売れ出したのだから、このご亭主、マネジャーとしての才覚のほうもなかなかである。
そんなこともあってか、ひな子もこのご亭主にはずいぶんとつくしたようだ。例の野球賭博で、ご亭主が百万からの借金をこさえてしまったときなど、天満《てんま》に出していた喫茶店を処分して、ポンと支払っている。天神祭りに、夫婦で西瓜売りまでして出した喫茶店である。
次女の智以子に、口ぐせのように語っていたそうだ。
「男に捨てられそうになったらな、先に捨ててやらなあかんで。すがりついていくような女にだけはならんといて」
子供に対して、「勉強しろ」というようなことはひと言もいわなかったそうだが、いわゆるしつけにはきびしかったらしい。
まだ子供に手のかかっていた時分、留守番をかねた家政婦をやとったことがある。ところがこの家政婦、ひな子が出かけると男をひっぱりこむのだ。いくら子供でも、目の前でとはいかないので、子供に押入れのなかで昼寝させるというから、ひどいはなしだ。いずれことが露見して、この家政婦はくびになるのだが、このときのひな子の家政婦へのお説教が泣かせる。
「あんた、そないな思いまでしてしたかて、ちっとも身ィにつかんやろ……」
ちゃんとした教育を受けなかったせいか、変なインテリコンプレックスがあったらしい。
「丘の上に赤い屋根の家」なんて台詞《せりふ》に、すっかりいかれてしまう心情は、生涯ついてまわったようである。
たとえば永六輔みたいなひとと、ただ食事をするというそれだけのことで、もう口がきけなくなってしまうのだ。楽屋で、仲間の藝についてあれだけ毒舌をあびせてるひとが、うって変ったしおらしさで、ぽうっと顔あからめて、もじもじするばかりというのだから、これはもう相当な重症である。
「永はんの、どこがそないええねン」
やっかみ半分で誰かがたずねると、
「だってェ、みんな、うちのこと『ひなちゃん』とか、『ひな子はん』いうやろ。あの方は、ちゃんと『ひな子さん』と呼んでくれはるもの……」
と恥かしそうに答えた。
本もよく読んだ。武者小路実篤から高木彬光まで。ひと頃山本周五郎に凝《こ》ったときなど大変だった。楽屋に文庫本つみあげて、誰かれかまわずはなしかけてくる話題はといえば山本周五郎のことばかり。おかげで、若い落語家など、かたっぱしから山本周五郎を読んだという。
「だって、読んどらんかったら話題にはいっていけしまへん。けど山本周五郎でよかったワ。『戦争と平和』やったら、えらいこってっせ」
と、「枝雀兄ィちゃんが、楽屋でひな子師匠の帯結ぶン手伝うてるの見て、ごっつううらやましかったワ」という桂朝丸など、おかげでいっぱしの山本周五郎通になってしまった。
好き嫌いが激しく、歯に衣《きぬ》きせないほうだったから、楽屋では煙ったがられていた気味がある。だがその毒舌は、きびしい批判精神からくるもので、そのきびしさは自分の藝に対してもむけられていた。だから、みんな煙たがりはするが、ひな子を非難しようとはしなかった。できるわけがないのである。
弟子はいなかった。というよりとらなかったのである。弟子をとって、教えこむような藝でないことを、自分がいちばんよく知っていたのである。弟子がいなかったかわりに、気にいった若い落語家をよく可愛がった。桂枝雀、桂朝丸、桂春蝶……
その朝丸と春蝶が、たった一度だけ、吾妻ひな子にひどく叱られたことがある。
朝日放送のラジオで週一回「ポップ対歌謡曲」という番組があった。春蝶が司会で、朝丸がポップスを、ひな子が歌謡曲を受けもつのである。レコードをかけながら、他愛のない世間ばなしなどするわけだ。たまたま本番中に、競輪の車券の売り上げが落ちているということから、春蝶と朝丸が「売れる、売れない」を話題にしたのである。突然、ひな子が血相変えて怒りだした。
「売れないひとの前で売れないはなしは洒落にならんで。ええか、年齢《とし》いってない女子《おなご》に、『年齢やなァ』いう、これは洒落や。けど、ほんとに年齢いってるのに、『年齢や』いうて洒落ンなると思うか」
ふたりとも、ひな子がなぜあれほどに怒ったのか、いまだによくわからない。ひな子が売れていないなどと、ひと言も口にしたわけでなく、だいいち当時吾妻ひな子の「女放談」はかなり売れていた。あまりの見幕に、ふたりともただおろおろするばかりだったが、翌週また同じ番組で顔をあわせるのがこわかったという。
さすが次の週には機嫌もなおっていて、
「先週は大人気ないこというて、えらいすまなんだな」
といってはくれたけど、あの突然の怒りはなんだったのかという思いは残った。
吾妻ひな子の「女放談」は、その時分売れてはいたが、しごく不本意な売れ方で、自分に対してひと一倍きびしい身としては、それがいたたまれぬ思いとなって蓄積していったのかもしれない。
住吉区の西長居の団地住いだったが、昭和四十九年にミナミの千年町にスナックを開いてから、店の二階に泊ることが多くなった。以前は、ビール一本で真っ赤になったが、店をはじめてから強くなった。遅くまで客とのんでいると、店を閉めてから家へ帰るのが、どうしても億劫になる。
べつに商売をはじめたからというわけでなく、この時分になると気にそまない仕事は、断わるようになっていた。時間をみつけては、温泉に出かけたり、スキーに行ったり、なんだかやっと自分の楽しみを見出したようにも見えた。もともと身につけるものの趣味は悪くなかったが、目立たぬところにブランドものを用いたりするようにもなった。
いまのご亭主といっしょになったとき、じつは夫妻でひな子の郷里の米子に墓まいりに行っている。割に大きな墓だったが、周囲の鉄柵は戦時中に献納されたままで、草が生え茂り、無縁になりかけていたのである。
「あれを、なんとかしなくては……」
と、絶えず気にしていたその墓を、「もういいだろう」と、なにがしかの金を送って、きれいにしたのである。中途半ぱなときにそれをやったのでは、「ちょっとテレビで名が出たから……」と、郷里のひとに痛くもない腹をさぐられかねない。見違えるようにきれいになった墓の写真が送られてきて、
「ああ、ほんまにこれで肩の荷がおりた」
と、ほっとした表情でいったのが、逝くちょうど一年位前のことである。
桂朝丸が、かみさんに江戸|褄《づま》でもこしらえてやろうと殊勝な気になって、呉服屋と親しい吾妻ひな子に相談をもちかけた。
「先に喪服つくらなあかん。留袖は、貸衣裳でもかめへんのや。けど、喪服は貸衣裳いうわけにいかんのや」
いわれるとおりにしたのだが、朝丸夫人は結局吾妻ひな子の葬儀で初めてこの喪服に袖を通すことになってしまった。
昭和五十五年の三月八日だった。
前の晩がたしか土曜日で、テレビ局のひとたちがスナックにあつまって、モスクワ五輪の参加問題で喧々|囂々《ごうごう》やっていた。ひな子もそれに加わって、水割をぐいぐいやっていた。雨も降ってきたことだし、今夜は家へ帰らず店に泊ることにして、夜食を近くの焼肉屋まで夫婦ふたりでとりに行った。食事を終えて、まだパチンコ屋がひらいていたのだが、「今夜はやらない」というひな子だけ一足先に店に戻った。「蛍の光」までパチンコをして、ご亭主が店に帰ると、ひな子は二階の炬燵《こたつ》に足つっこんで寝入っていた。
あくる朝。亭主が目を覚ますと、次女はもう起き出していたが、ひな子の姿がない。
「お母ちゃん、どないした?」
「なんや先刻《さつき》、階下でうがいしとったみたいやで」
次女の答をききながら、顔を洗って、なじみの店に、コーヒーをのみに行くつもりで、ご亭主が階段をおりた。
とりあえずトイレを使おうと、扉をあけると、ひな子が便器に腰かけたまま眠っている。これまでにも二、三度そういうことがあって、「おい」と腕をたたくと、びっくりして目を覚ますのだった。「またか」と思いながら、それをやったら、たたかれた腕がだらりとゆれた。
そういえば、この数日「なんや頭痛がしおる」とはいっていたが、まったくの健康で医者の世話になどなったことがなかった。藝能人健保組合から、毎年記念品がくるくらい病気とは縁のないひとだったのに、突然襲った発作には、勝てなかった。次女が「うがい」とききちがえたのが発作の症状で、ひな子の悲しい別れの精一杯の挨拶だった。
鏡台の引出しに、現金で百二十万円あったそうだ。
本名米沢芙美子。大正十三年生まれだから、享年は五十六になりますか。
葬儀では、三田純市が弔詞を読んだ。
皮肉で、警句の好きだったあなたを送るため、いまここに大勢のひとがあつまっていますが、きっとあなたは「そんなん、よう知らんワ」とつぶやきながら、ひょいと横をむいているのでしょう……と読みながら、やはり涙が出てきて困ったそうである。
持ち前の批評精神は生涯失われることがなく、思えばそれが吾妻ひな子という女藝人にとっての不幸だったかもしれない。他人の藝と同様に、おのれの藝の限界もまた見通してしまうのだ。
テレビの世界では、まだまだ大阪の演藝パワー、なかなかのものがあるように見える。だが、吾妻ひな子の去ったあと、角座の消えた寄席の現状は、ほんものの藝のなによりも好きだったひな子に見せるにしのびない。ひな子の藝を愛したひとは、口をそろえて、こういう。
「考えてみりゃ、ええときに死なはった」
長生きも藝のうち……だが、吾妻ひな子に限っていえば、「死に方も藝のうち」と、彼女を送って四年がたったいま、そう思う。
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タレント議員第一号・石田一松《いしだいちまつ》
中年過ぎのお方ならたいてい覚えているでしょう。『東京五人男』という映画があった。
昭和二十年十二月二十七日封切ということは、敗戦後最初のお正月映画で、東宝製作・斎藤寅次郎監督作品である。
軍需工場の徴用を解除された五人の仲間が東京の焼跡に帰り、明るく復興に励むというもので、当時の「GHQ指導にしたがって企画された第一号」などと『東宝五十年史』には出ているが、なに、実際は敗色濃い時期に戦意昂揚の目的で撮りはじめてあったものを、それらしく手直ししたらしい。五人男が、古川緑波、エンタツ・アチャコ、柳家権太楼、それに石田一松で、これは当時としてかなりの豪華メンバーであった。それまで名前しか知らなかったロイド眼鏡の石田一松を、この映画で初めて見たのだが、その役はといえば、たしか配給所の係員であった。配給所なんてものがあったのを、みんなもう忘れている。
渋谷の東急デパートの旧館を、その時分東横といったのだが、そこの四階だったか五階だったかに、いくつかの小劇場、映画館がひしめいていた。応急の処置で、隣との仕切りがされているだけの、なんだかお祭りに出る仮設の見世物小屋めいた、もちろん椅子なんか満足にそろっていないそんな映画館で、満員にふくれあがった大人たちのあいだに首をつっこんで、この『東京五人男』を見たのである。小学校の五年生だった。
古川緑波が得意ののどで、
※[#歌記号]お殿様でも家来でも、風呂へはいるときゃみなはだか……
とうたった場面以外、石田一松も権太楼も、どんなことをどんな風にやったのか、まるで覚えていない。ただ、満員すしづめの列車の場面と、そっくり同じような状態の客席で、大人たちといっしょにじつによく笑ったことだけ記憶にある。長いあいだ、こころの底から笑うということができないでいたあの時分の大人たちは、きっとどんな単純な、他愛のないことにも、大きな口を開いて笑いころげてみせたのだろう。貧しかったが、奇妙な解放感にみちあふれていた時代であった。
『東京五人男』が、僕の見た最初の石田一松であったが、その名前はかなり前から知っていた。ハイケンスのセレナーデのテーマ音楽で始まる「前線へ贈る夕べ」というラジオ番組が戦時中にあって、そこで「のん気節」をうたうのである。「のん気節」が、添田唖蝉坊《そえだあぜんぼう》によって遠く明治時代からうたわれていた演歌であることを知ったのは、ぐっとあとになってからで、子供の頃は石田一松のうたう歌と、そう単純に思いこんでいたのだから罪はない。石田一松の「のん気節」は、最後の「はァのん気だネ」とか「ははのん気だネ」とうたうくだりが、「へへのん気だネ」となるのである。
色川武大さんの家には、十返舎亀造の太神楽《だいかぐら》とか、千太・万吉の漫才だとか、蝶花楼馬楽を名乗っていた時代の林家彦六による新作落語とか、戦時中の名人会の高座を一本にまとめた不可思議なるテープがあって、先日小沢昭一さんとお邪魔した際きかせてもらったのだが、なかに石田一松の「のん気節」もちゃんとはいっている。なにせ、戦争中とあって、
※[#歌記号]鬼畜米英
アメリカという字は米と書く
米は朝日にてらされて
やがて日本の|まま《ヽヽ》になる
へへのん気だね
などとやっているのが、やはり面白い。
「とかく戦争は勝たねばならぬ、なにがなんでも勝たねばならぬ、勝たねば我等の敗けになる」などとうたってさえ、官憲にしばしば引っぱられた時代である。
戦後、「平和理想主義」の旗印をかかげて、衆議院に連続四期の当選をはたし、タレント代議士のはしりとなる萌芽は、かなり以前からひそんでいたように見えるのだ。
石田一松。本名である。戦前の一時期、石田一涙と藝名を名乗ったことがあったが、その生涯をほとんど本名で通した。それにしても、「一涙」とは、いかにもこのひとのつけそうな名前だ。万年大学生というのは、チェホフの芝居に出てくるトロフィーモフだが、石田一松は万年文学青年で、しかも熱血漢であった。どちらにしても、あまりいまどきのはやりではない。
明治三十五年十一月十八日、広島県安藝郡府中の生まれ。父は井戸掘職人だったらしい。一松という名は、その村出身の鈴木という分限者にあやかって父親がつけたものだが、子供時分の一松は、この名がいやでたまらなかったという。
※[#歌記号]イチマツ 二マツ 三マツ サクラ
桜の枝に……
と、近所の悪餓鬼どもに囃《はや》されては、泣いて帰ったのである。
母とは生別して、以後四人の継母の虐待に耐えぬいたと自身語っていて、幼年時代にあまりいい思い出はないようだ。
広島の、私立明道中学というのにはいった頃は、手のつけられない不良になって、少しばかり知られる存在だった。硬派の相撲部員としてならしたものだというが、五年のとき、沖仲仕十数人と渡りあって、退校処分を受けている。このとき、左手のくすり指に受けた刀傷の跡は生涯消えなかった。
日本が、戦争に敗けて、最初に行なわれた昭和二十一年四月の、第二十二回総選挙に、日本正論党なる一人一党から立候補した石田一松は、鳩山一郎、野坂参三、浅沼稲次郎などのいた東京第一区の七位で見事当選をはたして、タレント議員のはしりとなる。たまたま、そのとき新聞社に提出した、自筆の「候補者調査表」のようなもののコピーがここにあるのだが、略歴欄にこう書いてある。
[#ここから1字下げ]
〈十九才ノ時広島市ヨリ上京、前東京交通労働組合中央執行委員長熊本利男ハ幼少ヨリノ竹馬ノ友彼ト同居生活中、故添田唖蝉坊、元東京市参会員倉持忠助等ノ組織スル東京青年倶楽部ニ入り演歌師トナル、後民謡と俗謡社ヲ倉持ノ元ニテ添田|知道《さつき》等ト結成シ其編輯同人トナル
二十才ノ四月法政大学予科一部一年ニ入学シ六年間苦学シテ右大学ノ学部卒業後二年間高文司法科試験ニ落第シ、昭和四年頃ヨリ舞台進出ヲナス、爾後、時事小唄ヲ自作自演シ国民大衆ノ叫ビヲ唄ヒ政治社会風俗等ヲ諷刺シ、検束留置科料等ノ弾圧アリシモ、合法的ニ社会教育ノ一端ヲ荷ナヒツヽ昭和五年ヨリ現在マデ引続キ吉本ノ専属ナリ
二十九才ノトキ西巣鴨町議候補ニ立チテ見事落選ス、レコード吹込数十枚、ノンキな父さん、酋長の娘等ノ作者ナリ〉
[#ここで字下げ終わり]
演歌師になったきっかけは、些細なことであった。下宿の二階から、行末のことなど考えながら縁日のひと通りを見ていた。そこへバイオリンを手にした演歌師がやってきて、弾きながらうたい出すと、結構ひとが集まるのである。
明道中学時代、多少バイオリンをいじったことのある石田一松には、これがきくに耐えない、ひどいしろものなのである。
「あんなに下手くそでも商売になるのか」
と思ったら、決断のほうははやかった。すぐに下におりて、その下手くそに、「仲間にいれてくれないか」と、持ちかけたのである。その晩から麻布十番の街頭に立ったというから、度胸はよかった。
当時の演歌師には、いわゆる苦学生が少なくなかった。かすりの着物に袴姿で、バイオリンをギーコギーコやりながら自作の歌をうたうというから、当節流にいうシンガー・ソング・ライターてなところでしょうか。ときには歌詞の載った本を売ることもある。流して歩く場所にも、自然縄ばりのようなものができ、一松のばあい下宿に近い巣鴨、池袋、大塚周辺が多く、のちにこのあたりが選挙の地盤にもなるのだが、ときには麹町辺まで遠出することもある。かんじんの演歌だが、世の無情を嘆き悲しみ、ロマンの涙を流すというよりも、世の不正に対して、悲憤|慷慨《こうがい》してのける。自由民権運動の伝統をふまえた正統演歌といえばさまがいいが、あんまり色っぽいものじゃない。ただ、社会悪を憎み、それを糾弾してやまない姿勢は、最後まで変るところがなかった。
演歌のほうは色っぽくなかったが、女はよくできた……と当人がいろいろのところで口にしている。
流して歩く先々で、女が待っている。なりがよくなければ演歌師はつとまらないから、しつけ糸を抜いたばかりの着物で出かけるのだが、花柳界を流そうものなら、女中や仲居がみんな出てきて、この着物を引っぱりあう。藝者なんか大変だ。二階の窓から五円札のはいった名入りの祝儀袋をほうってよこすのである。「今晩、これで遊びに来てね」というわけだ。遊廓でもかなり顔は知られていた。なじみの妓楼へあがろうとすると、妓夫《ぎゆう》太郎《たろう》がとんできていう。
「おカネ差しあげますから、よそで遊んでください」
なぜかといぶかると、これが「あなたに遊ばれると、女が夢中になって、追っかけて行きかねない」というのだ。
もっとも、藝人仲間にいわせると、「口でいうほど、もててもいなかった」ようである。女郎買いは嫌いではなく、柳家三亀松や木下華声などと連れだってしばしば出かけたものだというが、石田一松ひとりもてないことのほうが多かった。お女郎さんを相手に、例の悲憤慷慨を始めているうちはまだいいのだが、しまいにこれが決ってお説教になるのだそうだ。女郎屋というところは、あまりお説教しに行くところじゃない。
吉本興業の専属になったのは昭和五年のことだが、これは当時おなじ吉本にあって人気絶頂だった柳家金語楼の推輓《すいばん》によるものだった。商売のうまい吉本は、苦学して法政を出た石田一松の肩書をフルに活用した。「インテリ・時事小唄・法学士」の看板を、浅草万成座にあげ、寄席藝人として活動させる一方で、その時分から提携の始まっていた東宝の喜劇映画に、エンタツ・アチャコ、金語楼らと出演させたのである。ラジオやレコードの吹き込みとあわせて、演歌師出身の本格的藝人石田一松の誕生である。
仕事先に家族が訪れてくるのを極端に嫌った。吉本は、東京にも何軒かの演藝場を持っていたが、根拠はなんといっても大阪である。ましてかきいれどきの正月興行ともなると、大阪の寄席を何軒もかけもちさせられる。だから長男の幸松氏は、十三の年齢まで家族三人で雑煮を祝った思い出がない。たまの日曜日、夫人がこの長男を連れて、出演している劇場の楽屋をのぞいて、頭ごなしにしかられたことがある。だいたい、かみさんが夫の仕事場を訪れるなど、ふつうのサラリーマン社会にだってあり得ない。まして藝人においてをやというわけだが、インテリで、文学青年だった石田一松は、寄席の楽屋の猥雑な雰囲気が、子供の教育によろしくないと考えていたのだろう。
昭和二十一年の四月十日に行なわれた、新選挙法による戦後最初の総選挙は、「憲法より食糧だ」という国民心情のもとでのものだったが、定員十人のところ百二十人もの立候補者のいた激戦の東京第一区で、三四、九四〇票を獲得、堂々第七位で石田一松が当選を果したのだから、世間はあッといったものである。典型的な一人一党たる、日本正論党なんて誰も知らなかったが、石田一松の名は売れていた。それに、このときの選挙は、連記制だったことも知名度のある一松に幸《さいわい》した。
息子とふたり、脚立で町々にポスターを張って歩き、得意の演説一本槍という選挙運動だったが、演説をきいているひとの表情で、自分に投票してくれるかくれないか、ピタリわかったというから、だてに舞台で「のん気節」をやっていたわけじゃない。三四、九四〇票という票数は、こうした自身の票読みよりも二、二一〇票も多かったと、『のんき哲学』なる自著に記している。
※[#歌記号]代議士に当選しましたけれど
稼がにや生きては行かれない
のんき哲学なぞといふて
儲けてをりますのんき節
へへのん気だね
当選すると、かけつけた新聞記者の前で、こんな「のんき節」をうたってみせて、代議士になっても寄席の舞台に立つことはやめないと宣言した。「ひょっとすると」という思いは、みんながいだいていたけれど、「まさか」という気持のほうが強かったから、当選したことに藝人仲間はみんなおどろいた。
いちばんおどろいたのが、吉本でしばしば同じ舞台をふんでいた奇術のアダチ竜光である。竜光センセイ、その頃は疎開したまま居ついてしまった郷里新潟県|鹿瀬《かのせ》の村役場の財務係として失意の日々を送っていた。上京して寄席に出たくても、当時は「転入証明」がないことには東京へ出てこられなかったのである。早速に、「衆議院・石田一松」宛に電報を打った。
ジ ヨウキヨウシタシ」アダ チ
代議士になった石田一松の最初の仕事は、アダチ竜光のために、「転入証明」をつくってやることだった。あんまり天下国家に役立つ仕事じゃないが、こと志どおりにいかないのが世のならいというものなのである。
衣裳行李と、奇術の道具のつまったトランクかついで上京してきたアダチ竜光は、雑司ヶ谷の石田一松の家で荷をといた。一泊して、翌日、一松がさがしておいた池袋の仮住居に移って行ったが、
「こころばかりのお礼に」
と、舞台衣裳だけ抜き出した行李を差し出した。衣裳の下に、純白の米が一杯に敷いてあったのである。なにしろ、「憲法より食糧だ」の時代である。国会議員とえらそうな顔をしても、腹一杯食べるわけにはいきかねたから、米は、なににもまして有難かった。有難かったし、米どころ越後のものとあって美味くもあったが、この米ひどくナフタリン臭かった。
彼もまたひどいヒロポン中毒であった。ヒロポン中毒の代議士がいたというのも時代である。その時分、ヒロポンにやられてる藝人は、みんな自分用の注射器を持参して歩いたものだし、注射液のほうだってアンプルは手間がかかっていけないと、一升|壜《びん》がでんと楽屋に置いてあるありさまだった。あたりかまわず打ちつづけたおかげで、皮膚のほうがかちんかちんに固まって、針がなかなか通らない。ツベルクリン用の注射器だと、圧力が強くていいのだが惜しいことに二ccしかはいらない。
「こいつの五ccがあればなァ」
と、ため息をついた。石田一松は、一升壜で買ってきた注射液を、ジョニーウォーカー赤ラべルの四分の一サイズのボトルに移しかえ、鞄《かばん》のなかに注射器ともどもしのばせていたのだが、代議士当選を記念して、注射針をプラチナで新調してみせた。うらやましがった柳家三亀松が、すぐに真似した。
政治の世界に限らず、日本全体が混乱していたから、新代議士はなにかと忙しかった。忙しくはあったが、なにせ日本正論党なんて名もなき小会派の一匹狼である。関係書類の党事務所欄には、「都電池袋終点前」と記入され、電話番号には丸括弧して「呼」としてある。先代円歌の新作落語だ、まるで……いずれ、どこかの政党に身を寄せるだろうと、みんなが思っていた。
徳島から出て、戦前からの代議士だった三木武夫は、そのときまだ四十歳で、国民協同党をひきいていた。小なりといえど党主だから東奔西走の忙しさだった。ある日、遊説のため大阪駅のホームに降りると、待ちうけていた支持者の群れのなかから石田一松が姿を現わし、近づいてきて手をにぎると、
「これから、いっしょにやっていきたいのだが……」
といった。三木武夫のほうに、異存のあるわけはなかった。なによりも私利私欲のための動きが先行する政治の世界を、実際にこの目で見て、若く、清潔で、理想家肌とうつった三木武夫と政治行動を共にすることは、自分で選んだ結論であった。以後七年間にわたる四期の国会議員生活を、石田一松は改進党、民主党と、三木武夫とともに歩むことになる。
政治家になっても、「のん気節」はやめないという公約は嘘ではなかった。会期の余暇を見つけては、じつにしばしば寄席に出た。神田立花、人形町末広、新富亭などだが、いちばん数多く出演したのは、やはり新宿の末広亭であろう。ここの席亭が吉本と親しかった縁を大切にしたのである。
僕も、この新宿末広亭で何度か石田一松をきいているが、別看板であったように覚えている。「時事小唄」という看板が、なんとなく古風にうつったものだが、やはりこのひとが出ると客席は沸いた。紺のダブルの背広の胸ポケットに白いハンカチ、手にバイオリンというのが石田一松の高座姿だったが、あの時分、寄席に出る色物の藝人って、どうしてみんな紺のダブルを着ていたのだろう。十返舎亀造、戸上英二、リーガル千太・万吉……石田一松のそれらのひととちがうのは、胸に議員バッジをつけていることくらい。高座は相変らずの悲憤慷慨。国会の裏ばなしなどはなすのだが、面白おかしく伝えようというサービス精神などまったくないから、武骨でなんだか選挙演説をきかされているようだった。
※[#歌記号]相撲や拳闘やレスリングでさえも
高い入場料とられるに
国会の乱闘劇タダ見せる
なるほど税金高くつく……
とか
※[#歌記号]むかし廓《くるわ》で一番稼ぐのを
オショク女郎といいました
いまは官吏で一番稼ぐのを
汚職官吏と申します……
へへのん気だね
と、二、三曲の「のん気節」をうたったあとで、「男なら」という歌を、「男なら、元の日本にして返せ、男ならやってみな」とうたって高座をおりるのがきまりだった。藝人というより、やっぱり代議士の余興を見せられているような感じなのである。
ヒロポンのほうは一向にやまなかった。委員会で質問する前など、当然のことながら一本打つのだが、ささらない皮膚に、「えいッ」とかけ声もろとも渾身のちからをこめて針を突き通すのである。見かねた三木武夫が、逓信病院に入院させたが……そう簡単に治るものじゃない。
悪を憎む正義感と、文学青年らしい理想に燃えたこころは、代議士を四期つとめて少しも衰えなかった。昭和二十六年十月二十六日「平和・安保両条約の承認の件」が、本会議に上程されたとき、かねてから「全面講和」を主張していた石田一松は、党議に反して、反対の青票を投じて、ただちに脱党している。そんなこともあってむかえた、昭和二十八年四月の、彼にとっては五回目の選挙は苦しいたたかいだった。前回次点とわずか八七票の、それこそハナの差で辛勝した東京五区は、左派社会党の新人神近市子が人気をあつめ、そのあおりをもろにくらって、結局次点で涙をのむのである。その次の、昭和三十年の選挙では、党の公認もとれず無所属で出馬したのだが惨敗に終った。落選を伝える選挙速報の「無元」という表示が哀しかった。前回の落選のときは、
※[#歌記号]のん気節さえうたっていたら
石田のピン松よい男
なまじ代議士落選し
自分でのん気だネの種をまく
へへのん気だね
と、洒落《しやれ》のめして、選挙でつくった借金は、「のん気節」で稼ぐさといきまいたものだが、もうそんな意欲も失われていた。
事実、長年にわたって打ちつづけたヒロポンのために、身体はがたがたに蝕まれていたのである。その年の九月、胃痛を訴えて東大分院で開腹手術をしたのだが癌《がん》細胞がほかに転移していて、手のほどこしようがないまま縫合されてしまった。こうしたケースではよくある一時的な小康を得たときに、息子で作曲家の石田幸松氏を枕もとによんで、
「症状がおかしい。癌ならば癌で、どのくらいの寿命なのか、はっきり告げてくれ」
とせまった。かくしおおせるものではないことをさとった幸松氏が、「じつは、あと半年の寿命」と涙ながらに告げると、
「よく伝えてくれた。これで胸のしこりがとれた。医者が半年というなら、がんばって一年でも二年でも生きのびて、おどろかしてやろうじゃないか」
と笑ってみせた。
その数日後、ふらつく身体でバイオリンを手にすると、荻窪にあった三木武夫の家を訪ねている。折から、党の婦人幹部会がひらかれて、それの慰問にと、「のん気節」をうたったのである。なにもいわなくても、石田一松がみんなに別れを告げにきたことは、すぐにわかった。涙、涙、涙の「のん気節」だった。三木武夫も、むろん泣いた。
年の暮の二十七日。新宿末広亭で、「石田一松を助ける会」をひらいた収益金十七万円を持って、柳家三亀松と宝井馬琴が病床をたずねた。こんどは、石田一松が泣いた。
あけて昭和三十一年一月十一日夜、静かに旅立った。五十三歳。医者の宣告どおりそれから半年の寿命だった。
中曾根再選問題でなにかとあわただしいなかの、エアーポケットのような十月二十六日、麹町の三木武夫事務所に、元総理を訪ねた。石田一松のことをうかがいに出かけたのである。出かけてよかったと思った。三木さんが、石田一松という人間を、とても好きだったことがよくわかったからである。
「いままでに出会った多くのひとのなかで、忘れ難くなつかしいひとといったら、やはり竹久夢二と石田一松……」
こんなことをはなしているときの三木さんの表情が、政治家でもなんでもない、ただのお爺さんのそれになってしまうのが、何だか嬉しかった。
石田一松、もって瞑すべしである。
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山茶花究《さざんかきゆう》は五黄《ごおう》の寅《とら》
戦前、川田義雄のひきいた「あきれたぼういず」の人気のすさまじさは、いまだにオールド・ファンの語り草になっている。後楽園球場を一杯にしてみせたのである。敗戦後に再建されたほうの「あきれたぼういず」の舞台は、僕も見ている。昭和二十三、四年の頃で、まだ中学生だった。
新宿の、甲州街道と明治通りの交差したところに第一劇場というのがあって、実演と称する歌謡ショーを上演していたのだが、岡晴夫であったか、小畑実であったかのそれに応援出演していたのである。戦前のリーダー川田晴久(義雄)は、戦争孤児あがりのメンバーを加えた「ダイナ・ブラザース」をやっていたし、はなしにきく芝利英はすでに亡く、この「あきれたぼういず」のメンバーは、坊屋三郎、益田喜頓、そして山茶花究の三人であった。
学校帰りの肩|鞄《かばん》をさげたまま、悪友とふたりこの第一劇場へもぐりこんだわけだが、かんじんの歌謡ショーよりも、美文調でならした西村小楽天の颯爽《さつそう》たる司会ぶりと、軽妙洒脱につきた「あきれたぼういず」の印象のほうがずっと強く残っている。オカリナという名はあとで知ったのだが、妙な楽器を吹きならしポパイの真似と田舎|訛《なま》りがおかしい坊屋三郎、うら声でヨーデルをひとくさりやって、とぼけてみせる益田喜頓にくらべて、山茶花究はといえば、ただ面白くなさそうな顔をしながらギターを弾いてるだけの、無愛想につきる態度に終始した。
山茶花究のことを、「三三が九」と発音した僕の悪友は、この無愛想ぶりを、「やっぱり三人のなかでは、いちばん藝がある」と褒めちぎったものだから、少しばかり妙な気がした。だいたいそいつの好みというのが、中学生としては小なまいきで、歌舞伎の真髄はやはり時代物にあるので、世話物を好むのは素人だというのである。こんな中学生が、いいやつであるわけがない。僕には、やはり素直に笑わせてくれる益田喜頓や坊屋三郎のほうが、ずっと面白く感じられたのである。
織田作之助の原作を、豊田四郎が映画化した『夫婦善哉』が封切られたのは昭和三十年のことだが、この映画は、「頼りにしてまっせ」という言葉を流行させるとともに、森繁久彌という役者の地位を不動のものにしてみせた。森繁の地位を決定的にしたと同時に、本家の冷酷な番頭を演じた山茶花究の評価もいっぺんにあげてみせた。それまでは、軽薄な喜劇役者にすぎないとみられていた山茶花究に、こんなシリアスな芝居ができるなんて、誰も思っていなかったのである。縁なしの眼鏡ごしの、鋭い視線を効かした山茶花究の映画演技に、僕もいたく感心しながら、益田喜頓や坊屋三郎よりも、「三三が九のほうが上手い」といい放った、中学時代の悪友の顔を思い出していた。
苦節三十年。山茶花究は、満を持していたのだろう。
大正三年のエイプリルフールに大阪で生まれた。
大正三年というのは、五黄の寅である。強い星のもとにあって、必ず出世するという信仰があるらしい。上方落語で一世を風靡してみせた桂春団治も、明治十一年の五黄の寅で、「わいは五黄の寅やで、後にはひかん星や」と、なにかにつけて口にしていたらしい。山茶花究にも、そんな気風がなくはなかった。ついでに記すなら、この大正三年の五黄の寅の星に生まれた演劇人に、宇野重吉、木下順二、尾崎宏次という名を見出すことができる。みんな、後にはひきそうもない人達だ。
本名は、末広峯夫。末広というのは、母方の姓を継いだものである。生家は、船場でも指折りの米問屋であったが、山茶花究の幼い時分、例の米騒動のあおりをくらってつぶれてしまった。父親は、九歳のときに先立ったが、母親は、最後まで船場のご寮《りよん》はんとしての矜持《きようじ》を失わなかったといわれる。後年、『佐渡島他吉の生涯』で、山茶花究の持役として評判になった裏長屋住いの売れない落語家〆団治を演じたときなど、絶対に舞台を見ようとしなかったそうだ。
長男の実兄が画家志望だったので、二男としては進学せざるを得ず、神戸工業学校の建築科にはいり、建築会社への就職もきまった。ところが、兄の志している画家への道が捨てきれず、卒業試験をすっぽかして兄のいた東京へ出て来てしまったのである。昭和七年のことだ。
東京で、絵の勉強をするといったって、つぶれた米問屋の二男坊に仕送りなどあるわけがない。ご寮はん然とした母親は、
「峯よ、おまはんもか……」
と、なげき悲しむばかりだった。
本郷にあった、なんとかいう絵の研究所に通い、志を同じうする友人と、三畳間を借りて、食うや食わずの暮しをはじめた。一日三食なんてとんでもない。一膳めし屋で、ご飯が大盛り五銭、小盛りが三銭の小盛りのほうを、友人とふたりでひとつだけとって、そなえつけのウースターソースをかけて食べるのだ。もちろん、着たきり雀で、寝具や家具などあるわけがない。すべて質屋の蔵のなかだ。その質屋へはこぶものもつき果てて、「さてどうしたものか」と、同室の友人と思案していると、その友人が、
「しかたがない。これを持っていこう」
と、左の眼をはずした。この男、義眼だったのである。世のなかに、あまた役者もいるけれど、
「友だちの義眼を質に入れて、飢えをしのいだことのあるのは俺くらい……」
と、功なり名とげてから語ったそうだが、あんまり自慢になるはなしじゃない。
当時の若い者の例にもれず、彼もまた左傾する。プロレタリア美術家同盟なんてところに出入りして、ひとかどのマルクス・ボーイを気取っていたのだ。街頭レポなどに出ることもあって、連日のように尾行がついた。
いつの間にか、浅草の興行街にはいりこんで、レビューの台本書いたり、舞台でうたったり、タップを踏んだり、トロンボーンを奏でたりするようになるのだが、なんでまた絵を捨てて、舞台に生きるようになったかというと、これが尾行をまいているうちに、浅草にもぐりこんでしまったというのだから、おかしい。
浅草にもぐりこんで、絵から舞台へと志を変えてみても、貧乏のほうはついてまわった。八百屋から、一山十銭の茄子《なす》を買ってきて、毎日茄子ばかり焼いて食った。しまいに、紫色のうんこが出るようになった。そのくせ、酒だけは欠かさなかった。その酒をのむカネにも窮すると、薬屋の店先にサンプルとして置いてあるヘアートニックを持ってきちゃう。こいつをウイスキーよろしくグラスに注いでのむのだが、
「結構、いい気持になれる……」
のだそうだ。
浅草では、カジノ・フォーリイ、田谷力三のいたオペラ館、吉本ショーなどを転々として、笠井峰と名乗っていた。峰は、本名峯夫から取ったものだろう。昭和十三年、古川ロッパ一座に加わり、ここで森繁久彌と出会うのである。ひとつ年上の森繁も、おなじように青雲の志をいだいていたから、はなしは合ったのだが、その森繁は内地に見切りをつけて、満州へ発ってしまう。ロッパ一座では、座員が古川の「川」の字を入れた藝名をつけるしきたりがあって、ここでは加川久と名乗った。
昭和十四年に、新興キネマの演藝部というのができて、当時この世界に圧倒的な勢力を誇っていた吉本興業傘下のタレントを、かたっぱしから引き抜いたのである。人気抜群だった「あきれたぼういず」にも当然のように触手がのびて、秘密裡にことがはこび帝国ホテルで川田義雄が代表となって新興との契約に調印したのである。吉本時代は、川田義雄、芝利英、益田喜頓、坊屋三郎の四人で月給千円だったのだが、新興は、ひとり六百円の月給に四人で一万円の契約金を用意した。ところが、吉本に義理のあった川田義雄だけ、契約後に寝返って、吉本に戻ってしまったのである。その補充にロッパ一座にくすぶっていた加川久を引き抜いて、新「あきれたぼういず」を誕生させたのである。同時に、それは山茶花究という藝人の誕生であり、彼売り出しのきっかけでもあった。
ながい貧乏暮しから抜け出して、天下の「あきれたぼういず」の一員になったものの、山茶花究のこころは晴れなかった。絵かきになりたくて上京したときの志は、ギターを弾きながら、ナンセンスなギャグで、軽薄な笑いをとることにエネルギーを費すよりも、もう少し高いところにあったようである。それに、かつてマルクス・ボーイとして、特高の尾行をまきつづけたことのある身としては、世のなかの風潮がだんだんと戦時体制の色を濃くしていくことも気にいらなかった。
ただ、のみたいだけ酒ののめる収入のできたことは、理屈抜きに嬉しかったし、有難かった。新興演藝部から出たギャラをつかんで、真っ先に、出世払いということで毎日通いつめていたハトヤに、たまりにたまったコーヒー代を支払いに行ったのだが、
「お祝儀だよ」
と、受け取ってくれなかった。浅草ならではの人情というより、こうして藝人を育てていこうとする土壌が、あそこにはまだあったのである。
そうこうするうちに、本当に戦争が始まって、浅草は産業戦士と称する軍需工場の工員相手の戦意昂揚劇ばかりがならぶようになった。この時代の浅草にいりびたっていたという色川武大さんは、
「特に山茶花はやや衒気《げんき》のある退廃派で、戦争芝居などやらず(空襲の最中に自身脚本の鼻のシラノなど演《や》っていた)薬好きで、もっぱらパビナール(であろう)など打っていた」
と書いている。
薬といえば、ヒロポンというのがだいたいの通り相場なのだが、パビナールだのモルヒネなどに手を出していたのだから、これはもう本格派である。みんながやってるヒロポンでとめておけば、手にはいりやすいし、だいいち安くてすむだろうに、そんなものでは満足できないあたりが、こういうものには一級品志向の強かったこのひとである。薬のほうとはあんまり関係ないけれど、身につけるものすべてが一級品で、まがいものを嫌った。日本にまだ数えるほどしか輸入されていない時代に、BMWを乗りまわした山茶花究にとって、ヒロポンなんて薬は子供だましのお茶ぐらいにしかうつらなかったのだろう。
それでなくても、多少世をすねて、つねに醒めた目を持ちつづけていたこのひとは、絶えず充たされない思いをいだいていたように見える。
「あいつは、望んで麻薬中毒になろうとしている」
と、周囲のひとが心配しないでもなかったが、さいわいそうひどい中毒症状は起こさないですんだらしい。もっとも、
「いくら打っても、中毒できねえんだよ」
と当人が苦笑してたというのだが……迫力あるなァ。
晩年のはなしだが、森繁劇団の仙台公演で胃|痙攣《けいれん》を起こして、七転八倒の苦しみを演じたことがある。ホテルに、おっとり刀でかけつけたインターンあがりみたいな医者が、あわててブスコバンを打とうとした。苦しがっている山茶花がいうのである。
「そんなもんアカン。効かへん、効かへん」
医者が怒った。打つ前から、「効かへん」とは何事だというわけだ。打ってから効き目があらわれないというのならまだしも、打つ前から、ブスコバンをそんなもんとは……と怒る医者のほうに一理も二理もあるのだが、患者はといえば、
「そんなもん、アカン」
の一点張りだ。そんな叫びに耳もかさずに医者がブスコバンを打ったのだが、案の定効かない。
「それ見ィ、効かへんやないか。あれや、はよう、あれ打ってェな……」
苦し気ながら、勝ち誇ったような調子の山茶花究に、医者がいったそうだ。
「あんた。常用してますネ」
麻薬のほうはともかく、睡眠薬とは生涯縁が切れなかった。食べものを、ほとんどとらず酒ばかりのんでいたから、べつに薬のちからを借りずとも眠れるはずなのだが、こればっかしは手放せなかった。夜中に、半目醒めの状態になって、魑魅魍魎《ちみもうりよう》が出てくるのがたまらないのだそうだ。いつも充たされぬ思いをいだいていた役者の、見果てぬ夢がどんなものであったのか、いま知ってみたい気がしないでもない。
「越路吹雪に睡眠薬を教えたンは、ワイやでェ」
これも生前の口癖だが、あんまりいいもの教えなかった。
『夫婦善哉』は、古い友人の森繁久彌の推輓《すいばん》によるもので、山茶花究の成功は森繁も鼻が高かった。
いらい、独得の|あく《ヽヽ》の強い人物、軽薄なおひとよし、朝鮮人、非情に徹した男などで、日本映画のバイプレーヤーとしてなくてはならない存在となった。舞台では、畏友森繁久彌が旗上げした森繁劇団の番頭格として、座長の片腕となって活躍した。森繁久彌がいかに山茶花究をたよりにしていたかは、山茶花が逝《い》ってから「森繁劇団」の看板を、ほかの事情もあったにせよ、いともあっさりおろしてしまったことでもよくわかる。
舞台に映画にと、それこそ東奔西走の忙しさがつづいた。「あんなにまで仕事をしなくても」と、ただでさえ薬に冒されている身体のほうを心配するむきもあったが、そんな身体に鞭うつように稼ぎまくった。
これも個性的なバイプレーヤーで、いろいろ逸話の多かった沢村い紀雄とふたりして、どう考えてもスケジュール的に無理だとわかっている宝塚映画の仕事を、かけ持ちでとってしまったことがある。宝塚の撮影をすませて、伊丹からの最終便に乗りこめば、東京の仕事になんとかすべりこめるという計算なのである。うまくことがはこびそうになったのだが、最後のカットで沢村い紀雄がNGを出して、撮り直しになってしまった。ふたりそろって東京に戻らないことにはどうにもならない。
ひと足先に伊丹空港に着いた山茶花究は、東京行最終便の出発ギリギリまで沢村い紀雄を待つのだが来ない。アナウンスが、「おはやく御搭乗を……」とせきたてる。
意を決した山茶花は、できるだけゆっくりと搭乗口に歩をはこんだ。昨今のように、バキュームカーのチューブのお化けのようななかを通って乗る飛行機ではない。ちゃんとタラップをあがって行くやつだ。そのタラップを、一段一段、ことさらにゆっくりのぼっては、後をふり返るのだが、まだ来ない。とうとう搭乗口に片足ふみいれるところまで来てしまったのである。ここで、山茶花究一世一代の大芝居をうったのだ。
片手で横腹おさえ、片足は機内に入れたまんまの格好で、
「いてててて……」
と、あぶら汗ながしてみせたのである。
「どうなさいました」
心配気にかけよるスチュワーデスを制して、いうのである。
「いいんだ、いいんだ。動かなきゃいいんだ。わかってるんだ、このまま、動かないで、じっとしてりゃすぐ治る……」
じっとしてたって、すぐに治りゃしない。十分ほどねばって、汗をふきふき走ってくる沢村い紀雄がタラップの下までかけつけたのを認めたところで、
「よし、だいぶんよくなった」
機中で、沢村い紀雄とならんで、大声でばかばなしに興じる山茶花究に、スチュワーデスの視線は、最後まで冷たかった。
小津安二郎に乞われて、『小早川家の秋』に出た。中村鴈治郎相手に、一歩もひかない芝居を見せて好評だったが、撮影がすんなりとはこんだわけではなかった。
役者の演技にも、凝りに凝った注文をつける小津安二郎ときいてはいたが、これほどだとは思わなかったのだろう。
とうとう怒りが爆発してしまった。いい啖呵《たんか》をきったのである。
「いいかげんにさらしてやッ。こっちはな、東宝でも、どこでも、『究はん、ここ三分だけつないでや』『さよか、じゃ、こないな芝居でどうだっしゃろ』『よろしいな、そいでいこ』こないして映画撮ってますのや。それを、あんさんみたいに、『そこは一歩だけ、いや、首振って、立ちあがって……』いわれたとおりに動くだけやったらな、あんさん役者やのうて、素人使いなはれ、素人を……」
天下の小津安二郎に、撮影所でからんでみせたのは、山茶花究だけである。
小津安二郎とならぶ巨匠黒澤明のことを、「ばか」だの「チョン」だのと、悪口雑言の限りをつくしているところへ当の黒澤センセイがやってきたときだって、顔色ひとつかえるでなく、平然として、
「おはようございます」
と挨拶してのけたというが、動じないひとであった。
『夫婦善哉』いらい、一見して順風満帆にうつる歩みをつづけていたのだが、当人は絶えず「やり足りない」思いを残していたのである。親しいひとに、「あきれたぼういず」 が解散したとき、「ギターをたたきこわした」ともらしたり、まだ名もない役者が、山茶花究や八波むと志のように、九九をもじった藝名をつけたいと相談したとき激怒したなどというはなしをきくにつけ、このひとはいつも内心|忸怩《じくじ》たる思いを持ちながら仕事をしていたのではないかという気がしないでもない。
無類の読書家で蔵書も相当なものだったと伝えられながら、どちらかというとかくれて勉強していた気味のあるこのひとのことを、「本当は新劇志向」というむきもあるのだが、マルクス・ボーイで絵かきになりたかった若き日のかげは生涯ついてまわった。
戦時中、森川信の新青年座で、本格的な『勧進帳』の弁慶を演《や》ったことが、ひそかなる誇りでもあった。一にも二にも、「三井はん、三井はん」で、中村|※[#「習+元」]《かん》右衛門《えもん》大崇拝だったというのも、彼の志の一面を知る手がかりになるかもしれない。前進座の芝居は、余暇《ひま》を見てはのぞいていたが、簾内のチョボが眼鏡をかけて義太夫を語ってはいけないと怒ったこともある。
昭和四十五年の五月だった。
森繁劇団の明治座公演の舞台で倒れた。井上和男作・演出による『船頭小唄』で、山茶花究は大杉栄の役であった。森繁が辻潤で、伊藤野枝を水谷良重が演っていた。山茶花究好みの芝居である。
そでに酸素ボンベを持ちこんでまでして舞台をつづけたのだが、とうとう五月十二日に初台の内藤病院に入院したのである。気管支拡張症というのだが、どうやら癌《がん》に冒されていた気味もある。それでなくても、長年の薬づけで身体はがたがたになっていた。
颯爽《さつそう》とした山茶花究の楽屋入りの姿を見たさに、毎日二時間もはやく劇場に通って、結局自分の青春のすべてを捧げてなお悔いがなかったというある舞台女優が見舞いに行った。もともと太ってはいなかったが、見るかげもなく瘠《や》せ細って、パジャマの袖口が広すぎるからと洗濯挟みでカフスボタンよろしくとめているのを見たら、「あれだけダンディだったひとが……」と、涙が出そうになった。山茶花究は山茶花究で、彼女がやっと認められ、新聞評でほめられてるのを読んでいて、
「よかったな、よかった」
といいながら、うるむ両眼をそっとおさえるのだった。洗濯挟みが、かすかにゆれた。
とうとう病院から出ることができなかったわけだが、年があけて三月になると病状は急激に悪化した。ものがまるで食べられず、血圧がさがる一方だった。「もう長いことない」ときいて、森繁久彌が最後の見舞いのつもりで病室を訪れたのが三月三日の夜中の二時すぎであった。
「ながいはなしが、いっぱいあるねん、きいとくれ……」
森繁久彌にうったえるような眼差しでそういったまま、また眠りこんでしまうのだった。
それから、まる一日たった三月四日午前六時十六分、静かに息をひきとった。五十六歳。新聞の訃報《ふほう》には、「心不全」と出ていた。
通夜は、入院いらい帰ることのなかった駒場の自宅で行なわれた。
森繁久彌、三木のり平、加東大介、坊屋三郎など大勢がかけつけた。夫とともに、病院に寝泊りして看病したすずゑ夫人に寄りそうように、そのとき九十二歳という実母のらくさんが遺体のそばにすわりつづけているのが、涙をさそった。三木のり平が、
「おばあちゃん。少しは横になって休まないと、こんどはおばあちゃんのほうが参っちまうぜ」
と、睡眠薬をすすめるのだが、
「峯やんのいるところに、わしも行きたいんや……」
といって、頑としてのもうとしない。
しばらくすると、その薬をのんだ三木のり平がいびきをかきだした。
生まれてすぐの娘を失ってから、子供ができなかったから、母方の姓である末広家はこれで絶えてしまうことになる。
「お骨は、どこに。お墓は……」
と、誰かが母堂にたずねると、かつての船場のご寮はんは、凜然として答えた。
「そないなもん。高野山におさめればよろし……」
この母親も、また醒めた老人であった。
だから、いまだに墓がないらしい。
色紙を出されてサインを求められると、「非情」とそえるのがつねであった山茶花究だが、自らの墓碑銘を記してるつもりだったかもしれない。
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傍若無人《ぼうじやくぶじん》の鈴々舎馬風《れいれいしやばふう》
傍若無人の落語家であった。
鬼瓦のような面構えは、まさに容貌|魁偉《かいい》、泣く子もだまろうという先代の鈴々舎馬風である。仲間に鬼という渾名《あだな》をつけられて、「あいつは殺されても死なない」などといわれたなんてのは、落語家の世界にそうそういるもんじゃない。
煙管《きせる》をくわえたまんま高座に出てきたときは、さすがにびっくりした。だが、びっくりしたのはこちらぐらいで、たいていの客はもう馴れっこになっていて、「また馬風がおかしなことをやっている」といった程度の受け方であった。馴れっこといえば、高座について開口一番の、
「みんなよく来たな。わざわざこんな所まで出てこねえで、家にいたらどうだい。そうかイ、家にはいられねえ事情があるのか」
という例の挨拶だって、先刻客のほうで承知をしていて、馬風が口にするのを楽しみに待っていた気味がないでもない。馬風のほうもこれだけ客に受けてしまっては、いまさら「ようこそのおはこびさまで……」なんて、口がくさってもいえたもんじゃなかった。
もともと、客を客とも思わない乱暴な態度で売った藝人には、いまの江戸家猫八の実父である初代猫八、ひとつ毬で知られた春本助治郎などのような先例が、ちゃんとあった。だが、猫八も助治郎も、「俺の藝は、わかる奴だけがわかればいい」といった、きわめて強い藝人としての自負がそうした態度をとってみせたように見える。だが、「あれで、案外と気が弱くて、やさしいところがあった」といわれる鈴々舎馬風は、客に対する一種のはにかみが、あんな態度をとらせたので、いってみればサービス精神の裏がえしであった。
だから、刑務所慰問に出かけた際に、
「満場の悪漢どもよ」
とやって関係者をあわてさせ、
「ま、みんな仲よくやってくれ。着物だってお揃いなんだから……」
と結んだ馬風の面目躍如たるエピソードも、彼としては精一杯のサービスで、それこそ慰問精神の発露であったにちがいない。
顔に似合わず、本名は色っぽかった。色川清太郎というのだ。明治三十七年、浅草向柳原の大きな弁当屋の伜《せがれ》として生まれた。この弁当屋、仕出し専門だから近くの警察署にも納めている。
あるとき、さる高貴なお方が両国駅から総武線で旅行されるというので、付近一帯の不良少年狩りが行なわれて、清太郎少年もこの網にかかってしまった。一晩の留置所入りである。そこで出された弁当が、自分の家で納入した最下等のしろもの。商売柄、幼い頃から口だけはおごっていた身には、とても食べられたものじゃない。放免されて帰ると、店の番頭にいったそうだ。
「これからもあることだ。ちっとは気をつけろイ……」
結城昌治さんが、『志ん生一代』を書くときに、資料として手にいれた、おそらく昭和二十三年頃のものと思われる落語協会の「落語家経歴写」をコピイさせてもらったものがある。二代目の柳家小せんから事情あって事務員になった上原六三郎が達筆で書いたものだが、そのなかから、鈴々舎馬風の項をひくと、
大正八年六月 先々代金原亭馬生ノ門ニ入リ馬次トナル
大正十二年三月 全亭武生ト改名
昭和四年二月 三升家小勝ヨリ馬風ノ名ヲ貰ヒ馬風ト改名(真打)
昭和十八年 大幹部昇進 其間ニ馬生死後 四代目小さんノ門ニ入ル
とある。落語家として悪くない系統だ。
入門した金原亭馬生は、のちに四代目志ん生になった鶴本勝太郎で、なかなかいい落語家であったといわれる。だから馬風は昭和四十八年に死んだ名人五代目古今亭志ん生の弟《おとうと》弟子にあたるわけだ。
事実、志ん生は生前しばしば、
「馬風の奴には、帯のしめ方からなにから、みんな教えてやったし、稽古もずいぶんつけてやったもんだ」
と語っていた。もっとも、志ん生が稽古をつけてる最中に、「大きな欠伸《あくび》をしたのでひっぱたいてやったことがある」という。兄《あに》弟子に稽古してもらっていながら欠伸をしてのけたというのだから、あのふてぶてしさはやはり生来のものであったのだろう。
鶴本の志ん生にしても、四代目の小さんにしても、馬風の師事した落語家はいわゆる正統派のひとである。なのに、客を客とも思わぬ態度で売った馬風の高座はといえば、漫談めいたおしゃべりか、仲間や先輩たちを俎上《そじよう》にのぼせた声帯模写でお茶をにごしたものが多かった。
よく斜にかまえるひとがいるけれど、鈴々舎馬風というひとは、いつも落語という藝を斜めから見ているようなところがあったような気がする。だから、きわめて優秀なるパロディの精神があって、いうところの名作落語も、彼の手になるとなんともばかばかしいおかしみに充ちた珍作と化してしまうのであった。桂文楽の至藝で知られた『素人鰻』の鰻を大蛇にしたてて演じた『大蛇《おろち》屋』だの、『あくび指南』に描かれる、夏の船遊びの一|齣《こま》、
「船頭さん、船ェ上手《うわて》へやってくんねェ。船もいいが、一日乗っていると退屈で、退屈で、ならねえ……」
という台詞《せりふ》を、なんと汽車になおして、
「運転士さん、汽車ァ土手へあげてくんねェ。汽車もいいが、一日乗っていると、退屈で、退屈で、ならねえ……」
とやってのけた高座など、ナンセンスなおかしさで、ひとをおどろかせたものである。
徳川|瓦解《がかい》で物情騒然たる時代を背景に、吉原通いの駕籠《かご》を浪士の一隊が追剥になって襲う『蔵前駕籠』という落語も、この馬風の手にかかると、時代の設定が明治維新から今次大戦の直後に移し変えられて、題名もなんと『蔵前トラック』に化けてしまう。場所は同じく蔵前で、追剥の一団が出てくるあたりの趣向は、『蔵前駕籠』とさしたる変りはない。ただし、この一団の襲う対象が駕籠ならぬトラックなので、
「われわれは由緒あって徳川家へお味方いたす……」
という追剥の台詞を、
「われわれは由緒あって進駐軍にお味方いたす……」
とやったおかしさといったら、なかった。
あの時分、人心は荒れすさみ、巷では追剥、強盗、かっぱらいはそれこそ日常茶飯事だったものである。こんな時代を、明治維新になぞらえて、徳川家の味方を、進駐軍の味方とするあたりの着想に、馬風というひとが単なる楽屋落ちの名手といってしまうには惜しいなにかを持っていたことを感ずる。歴史が激動するときの、物情騒然たるありさまが、『蔵前駕籠』というはなしに、欠くことのできない色彩を与えていたことを、馬風という落語家は見事にとらえていたのだ。
こんな特異な感覚が、ごくたまによんでみせた俳句のほうにも結実していたが、いささかやぶれかぶれの気味がある、
氷屋が出ると噺家削られる
などという句とならぶ、
菊もはや盛りをすぎてやかんかな
となると、若干の説明を要する。やかんが、落語『やかん』にみる、知ったかぶりのご隠居であることまでは推察がついても、どうしてそれが菊と結びつくのかは、ちょっと見当がつきかねる。この菊、じつは自分の師たる、四代目柳家小さんのことなので、本名が平山菊松だからとは。
たしかに、鈴々舎馬風の落語は、いうところの正統派を好む客の耳をそむけさせるものがあった。だが、思い出したように、
「えェ、今日はいつになく、たまには落語ォやらないてえと、『馬風、くだらねえことばかりいって、落語知らねェんだ』なんていうひとがいるんでネ。そいで、なんか落語やるから、うゥン、そのつもりでいなよッ。たまには人情噺かなんかやってネ……こないだ、それで懲りたんだ。みっちりやって皆んな寝かしちゃった。本当にィ……今日もそろそろ寝かそうか、嘘だよ、そんなこと……」
などと枕をふってからやる正統落語の小品に、なかなか結構なものがあったことも、忘れられない。のどかな雰囲気の『権兵衛狸』なんてはなし、いまの立川談志のものにかなり影響を与えているはずだ。
落語家に限らず藝人は着るものに格別の気を使うものだが、鈴々舎馬風くらい、そっちのほうに凝らなかったひともめずらしい。長|襦袢《じゆばん》の袖口のほころびが客席からのぞけても平気だった。半襟が煮しめたような色になっても、なかなか取りかえようとしない。派手なアロハシャツに、太いズボンのまま高座にあがったこともある。藝人というより香具師《てきや》だ、まるで。その癖、袴をはくことが好きで、よく袴姿でおもてを歩いていた。あの顔で、袴をはいて歩いていると、道ゆくひとがよけたものだ。
高座にあがる段になって、扇子を忘れていることに気がつく。そこらにある、誰かの扇子を借りて高座に出ていくのはいいのだが、はなしをしながらその扇子を逆に開いては閉じ、閉じては開くのである。だから、
「馬風に使われると、扇子が一日|保《も》たない」
貸した落語家がぼやいた。
貸した扇子を返してくれたなら、まだいい。そのまま自分のものにしてしまう。若い二つ目の落語家が、「返してください」とたのんだ。
「冗談いっちゃいけない。こいつは俺ンだ。見ろ、ここにハンコが捺してある」
見ると鈴々舎馬風というゴム印が捺されていた。
三遊亭小円馬が、その時分ひそかに菊屋橋にあった外食券食堂を利用していた。ほかのところより量がいくらか多いので、若い落語家にとって有難かったのである。ところがある日、扉を開くと鈴々舎馬風が食べている。なにしろ相手は大看板である。外食券食堂で食事してるところを、若い者に見つかって、気づまりな表情でもするかと思いのほか、これがまったく動じないで、
「なんだい。おまえもここでやるのかい?」
といった。要するに頓着というものをしないのだ。
そのくせ若い落語家の面倒はよく見た。というより、いい年齢《とし》をして、若い連中とつきあうのが好きだった。
三遊亭円楽が、円生のところに弟子入りして、全生という名を貰い、寄席の楽屋に行くと、火鉢を前に、ところどころ綿のはみ出た褞袍《どてら》を着た馬風がいて、
「わがドクロ団に加入せよ」
という。「ドクロ団って、なんですか」とたずねると、
「上にいる者の足を引っぱって、下からあがってくるのを蹴落す会だ」
と、あのいかつい顔でにやりと笑った。
酒をのませたら、あびるほどのみそうなのに、これが意外で、まったくといっていいほどのまなかった。コーヒー党なのである。楽屋で、所在なげにしている若い落語家などがいると、近所の喫茶店へ引っぱり出してコーヒーをご馳走してくれる。だが、このコーヒー、ただご馳走してくれるわけじゃない。のみ終ると、自分の独演会の切符を取り出して二十枚ほど神田にある贔屓《ひいき》の電器屋までとどけてくれなどというのである。先方には、はなしが通じてあるから、二十枚分代金も貰ってこいというわけだ。ところが、この贔屓の電器屋なるものが、
「あら、またァ? 馬風さん、いつもそうなんだから。自分じゃ来られないもんだから、こうやってお使いさん出すんだから。え? 二十枚? 冗談じゃないわよ。そんなはなしきいてやしないわよ」
とにべもない。かわいそうなのは若い者で、コーヒーの一杯もご馳走になったてまえ、手ぶらで帰るわけにはいかない。不承不承、
「しょうがないわネ。こんどだけよ。馬風さんによくいっといてちょうだいッ」
などといいながら、おカネを出してくれるまでねばらなければならない。はやいはなし、コーヒー一杯で切符押売りの手先の役をやらされるのである。
楽屋で、若い落語家をあつめて、「とんがれとんがれ」などという、よからぬ遊びに興じたこともある。あまり大看板の落語家のやることじゃない。これが会長だった桂文楽の目にはいってしまったから大変だ。全員よばれて長時間お叱言《こごと》を頂戴したのはいうまでもない。このお説教から解放されると、こんどは当の馬風がみんなにいったそうだ。
「いいか、みんな。俺がまじっていたから、あの程度ですんだんだぞ」
先代の三遊亭円歌というひとは、なかなかの悪戯《いたずら》ずきで、珍妙なる手品などを楽屋で披露してはみんなを煙にまいていた。そんな手品の小道具を売っている店から、ウンチを模した玩具を買ってきて、楽屋の座布団の上に置いておいたのである。これに、滅法ひとのよかった春風亭柳枝が、見事にひっかかった。
「おやおや、いけませんよ。こんなところでセコをふかしたひとがいます」
セコをふかすというのは、落語家の隠語で脱糞することである。もちろん、ひっかかった柳枝ともども大笑いの結果となった。落語家ならではの「洒落《しやれ》」というやつである。
事件は、その翌日である。
こんどは馬風が、チリ紙にのせたほんものを、同じ場所に置いたのである。楽屋入りしてきた柳枝がこれを見つけて、
「ふふふ、また円歌さんがひとをかつごうと思って……しかし、きょうのはよくできていますネ」
と、思わず手にしてしまったのである。
酒のはいっていないときは、借りてきた猫のようにおとなしかった春風亭柳枝だが、さすがにこのときばかりは怒った。
「ほんものは、洒落になりません」
あれで案外器用なところがあって、鍼《はり》がうまかった。道具を持っていて、自分で打つのである。鍼に凝った若且那がやたらみんなに打ちたがる『たいこ腹』という落語があるが、馬風の鍼にもその気味があった。
新宿末広亭の席亭で、新宿の大旦那とよばれていた北村銀太郎などは、
「あいつの鍼は、なかなかのもんだよ」
と、しばしば打ってもらっていたようだが、患者らしいのはこのひとだけで、あとはみんな煙たがって、馬風が鍼の道具を持って楽屋入りすると、いつの間にか誰もいなくなってしまう。
「だって、いやだよ。きたないんだもの、あのひとの鍼、つばつけてから打つんだぜ……」
これでは、みんな逃げるわけだ。
その時分の前座に、奇妙なことに左右の手が両方いっしょに動いてしまうのがいた。ふつう、はなしのなかで扉をたたく場面などでは、右手がトントンとたたくしぐさをして、左手のほうは、扇子で床をたたいて音を出すのだが、これが両手を同時にあげてたたくしぐさをしてしまう。これでは落語にならない。ほどなくして、落語家志望をあきらめてしまったが、あきらめてよかった。この前座が、寄席の高座のそでに正座して、先輩の藝にききいっていた。うしろから近づいていった馬風が、この尻に、着物の上から鍼を打ちこんだのである。
「ギャあッ」
まさに大音声であった。打たれた前座ばかりか、高座の落語家も、寄席も、楽屋も、みんな一様におどろいた。打った当人まで、
「ばかッ、こっちがびっくりすらイ」
とやるしまつである。この前座が落語家への道をあきらめたについては、鍼事件のほうが原因という説もある。
「弱ったよ、また女ができちまった」
こんなことをいいながら、楽屋にはいってくる。嘘なのである。なんとか楽屋でみんなを楽しませようという、彼一流のサービス精神なのだ。
「こんどの女はネ、クリスチャンだよ。クリスチャン」
「嘘だろう」
しかたがないから、誰かがはなしにのってやる。
「ほんとだとも。だって、いざってときに、『ああ、神よ、このあわれな男をお許しください』ってやんの。許されちゃったよ、俺……」
はなしだけなら、何人だってできる。
嘘から出た誠じゃないが、ほんとうに女ができてしまった。かわいい女ばかりのバンドがあって、このバンドと何人かの落語家、講釈師などが一座を組んで旅に出たのだが、旅先でアコーデオンをひいてるご婦人と、わりない仲になってしまったのである。
こうなると男はだらしがない。あくる日から駅の乗り換えの際など、このアコーデオンを持ってやる。自分の高座衣裳のはいった鞄《かばん》に、もうひとつ重いアコーデオンをかついで駅の階段をあがっていると、うしろのほうで講釈師が、こちらはコントラバスを不器用そうにかかえて、ふらふらしている。にやりと笑って、馬風が声をかけた。
「ご同役、この次はハモニカにしよう」
このアコーデオンの女性とは、長くつづいた。つづいたどころではない。子供までできた。本妻とのあいだにだって三人の子供がいたのだから、二世帯のやりくりは大変だっただろうと、いまになってみんながいう。なにか魂胆があって、若い者にコーヒーをおごるのは相変らずだった。おごっておいて、
「おまえはうまい」
だの、「筋がいい」だのと、おだてまくるのだ。さんざおだてたあげくに、ふところからカネのはいった封筒をとり出すと、
「すまないけど、これ、あっちへとどけてくれないか」
といい出すのだ。あっちというのは、アコーデオンのほうである。だが、ふだんはそんな世帯の苦労をみじんも見せず、いつも陽気だった。もっとも、いつ会っても陽気なのは、ヒロポンのせいでもあった。
出番まで時間のあるときなど、前座に断わってパチンコ屋に出かける。そろそろ時間になって、前座がむかえに行って、ぞっとしたことがある。球が一発もなくなっているのに、真剣な表情でガラス板を見つめながら手だけ必死に動かしていた……禁断症状をおこした目には、幻覚で球が見えるものらしい。
昭和三十五年九月、高血圧で倒れた。二年ほど自宅で療養して、三十七年四月にカムバックしている。自宅というのは、無論本妻のいるほうで、この本妻は看護婦をしていたこともあるので、意外とはやく復帰することができた。
中風になってからの高座は、講釈師よろしく前に釈台を置いてのものだった。晩年の桂三木助も、足を怪我したあとの三代目三遊亭金馬も、再起したばかりのときの古今亭志ん生も、みんな釈台を前に、それによりかかるようにしながらはなしをして、またなかなかさまにもなって悪いものじゃなかった。だが、鈴々舎馬風のその姿、あまり似合わなかったし、不自然にうつった。
だいたい奇抜な警句、ひとをひととも思わぬ毒舌で売ったこのひとに、病みあがりの姿というのがふさわしくなかった。だから、自分の闘病記を、そんな格好で『よいよい談義』なる一席に仕立てても、面白くもなんともなかった。当人としては、自分の病気まで洒落のめして、落語家らしいバイタリティを発揮したつもりなのだろうが、なんだか哀しさのほうが先に立って笑うに笑えないのである。哀しい漫談なんて、およそ傍若無人で売った馬風らしくないではないか。
それに、病後のこのひと、すっかりおとなしくなってしまった。そう、まるで人間が変ってしまったのである。それまでは、
「あいつじゃしょうがねェ」
と、馬風の横暴ぶりをあきらめていた連中までが、
「馬風が馬風でなくなっちまった」
と、さびしがるしまつだ。
いったんは寄席に復帰した馬風だが、ながくはつづかなかった。一年ほどして、ふたたび倒れたのである。
さすがの鈴々舎馬風も、こんどばかりはもう駄目だと観念したのだろう。枕もとに本妻をよんで、アコーデオンの女と、子供の一件を打ちあけた。
「俺が死んだら、みんなで仲よく暮しておくれ」
というわけだ。こんなときになって、初めてきかされた本妻としては、おだやかでいられるわけがない。その日から、一切病人の面倒を見てくれなくなってしまった。このままのたれ死にはかなわないと、世をはかなんだ遺書など書きたいところだが、不自由な身体とあってそれもできない。とりあえず、睡眠薬を大量にのんでみた。ところが本妻は看護婦あがりだ。胃洗浄などお手のもので、すっかりはかせてしまったのである。
「死ぬに死ねねェ」
と、布団のなかでぼやいた。
そんなことのあった直後、見舞いにきたNHKの演藝プロデューサーに、
「いいか、どんなことがあっても……」
といいながら、布団のなかから痩せ細った左腕を出すと小指を立てて、
「このことだけは、うちあけちゃいけねえよ」
と、結んだ。
その年もおしつまった昭和三十八年十二月十六日の夕刊に、こんな訃報《ふほう》が載った。
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|鈴々舎馬風氏[#「鈴々舎馬風氏」に傍線](落語家、本名・色川清太郎)十五日午前一時四十九分、脳いっ血のため東京台東区浅草北松山町二五の自宅で死去、五十九歳。告別式は十七日午前十一時から自宅で行なう。
人を食った毒舌的漫談で人気があり、得意な出しものは「夜店風景」「演説会」など。
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同じ日に、暴力団員に刺された力道山が死んでいる。
「殺されても死なない」といわれたのが連れ立って彼岸に渡った。
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広沢虎造《ひろさわとらぞう》に七人の妾《めかけ》あり
さて、なにから始めましょうか。
そう、御存じ先代広沢虎造である。
やっぱり東京駅は丸の内口駅舎正面大時計のはなしが、虎造伝のお粗末を語る皮切りにはふさわしいのかもしれない。
アムステルダム駅を模したといわれる、東京駅丸の内口の赤煉瓦の駅舎は、戦災で焼失したものを、ほぼ以前のかたちに復旧したのだが、大正三年十二月十八日に開業式を行なったときの建物の正面入口にかかげられた大時計は、広沢虎造がはめこんだものといわれていた。旅行案内書のたぐいにも、そう記しているのがある。
浪花節語りになる前の虎造は、安立電気の職工をしていたというから、あり得ないはなしではない。ところが、ながらく虎造の台本を書いていて、虎造の死後その名跡をあずかっていた浪曲作家の小菅一夫老などは、
「冗談じゃねえ、嘘っぱちに決ってら」
と、この伝説を一笑にふしていた。旅行案内書にまで明記されていることを一笑にふすからには、なんらかの根拠でもあるのだろうと、いつか訊ねてみようと思っているうちに、昨年十一月十一日、小菅老の訃《ふ》をきいた。
ところがこの稿を書くためにあつめた広沢虎造に関する資料のなかに、虎造自身がこのことを告白している記事があったのである。昭和三十一年十二月七日付の東京新聞に、「広沢虎造藝談」の第一回というのが載っていて、須田栄記者の筆でこう書いてある。
[#この行1字下げ]「おおぜい職人はいるがよしおれが担ぎ上げてやろうという人がない。そのとき十五六の、見るからに小生意気そうな小僧がみんなをかき分けて出て来て、さあどいたどいた、おれが担ぎ上げてやるからと……長い方の針を担ぐと足場をどんどん時計台へ上っていった。下で見ている連中はただあれよあれよと口あんぐりだったが、その小生意気な小僧というのがだれあろうあたしだったんです」
自ら野球チームをこしらえるなど、運動神経は悪くなかったし、万事派手好みの、なにかにつけて目立つことの好きだった虎造の面目躍如たるものがあり、まさに栴檀《せんだん》は双葉より芳しといったところである……と、この記事を読んでそう思った。
これが、やっぱり嘘なのである。小菅老のいっていたほうが正しいのである。
だいたい広沢虎造のよたばなしというのは、楽屋うちでも有名で、罪のない大ぼらを吹いたり、はったりをかましては相手を煙にまいて喜んでいたそうだ。
趣味は俳句と称して、売物の『清水次郎長伝』で使う、
旅行けば駿河の国に茶の香り
は自分の持句といっていたが、これも大嘘で、ちゃんと出典があるそうだ。ほんとの持句は、
東海道石松さんはお人よし
という、俳句にもなんにもならない、ちょっとどうかと思うしろものくらいだという。
ただ、虎造のつく嘘には悪意がなく、なんともいえない愛敬にみちているのが身上で、東京駅の大時計の一件も、当時の大ベテラン演藝記者須田栄氏が、まんまと一杯くわされたといったところらしい。そんなわけで、広沢虎造に関する資料で、虎造自身の語っているものは、多分に眉につばなどつけながら読んだほうがいいらしい。
本名は山田信一。平凡な、定期券の見本にあるような名前だ。明治三十二年五月十八日生まれで、干支《えと》は|己 亥《つちのとい》。猪突猛進の亥《いのしし》武者を任じていた。父親は、日露戦争のときの憲兵だったという。東京は、神田ならぬ芝白金の育ちである。
ちゃきちゃきの江戸っ子である虎造が、藝の修業は大阪でしたことになっていて、それはそれで間違いではないのだが、大阪の前に九州へ行っていたことは、あまり知られていない。浪曲中興の祖などといわれている桃中軒雲右衛門の売出しが九州であったことにあやかってのものだろう。車の後押しなどやりながら小遣いかせぎをして、博多の雄鷹座で浮世亭繁吉という浪花節の三味線ひきに仕込まれたらしい。
大阪では、二代目広沢虎吉の経営する広沢館に出入して、下足番やお茶子の真似ごとをしているうちに虎吉の目にとまり弟子になることができた。大正六年、十九歳のときである。最初の藝名が広沢春円、次が天勝。松旭斎天勝の天勝だが、こうした乱暴な命名がいかにも浪花節である。その松旭斎天勝の一座に天華という花形がいて、この名前がいいというので今度は広沢天華。天華になったところで徴兵検査のため一度東京に帰っている。
徴兵検査は、甲種合格であった。因果と丈夫だったのである。麻布三連隊に入ったのだが、運よく器械体操で鉄棒からおっこって左足を骨折、十一月に入隊して翌年の二月には帰されてしまった。
ふたたび大阪に戻って二代目広沢虎造を襲名したとき二十三になっていた。この時分の虎造には、それほどの藝もなく、ネタといっても『寛永三馬術』『水戸黄門』『雷電為右衛門』のたった三つで、昼席の三番目あたりの出番をつとめていたといわれる。だいたい江戸っ子ならではの、からっとした性格の虎造に、低調子の関西節はあわなかった。威勢のいい関東節のほうがむいていたのである。かといって虎造が、生まれ育った東京に帰ったほんとの理由は、どうしても関東節を身につけたかったからではない。
女なのである。
女には目がなかった。なにしろ全盛時代には七人のお妾さんを囲っていたという。男というものは、家を出れば七人の敵がいるそうだが、敵ならぬお妾さんが七人というのは相当なものである。こればっかりは、例の眉につばつけてきくはなしではなく、正真正銘の七人というからすごい。ほかのことには、あまりカネ離れがいいとはいえなかった虎造が、こと女にだけは惜し気もなくカネを使った。だから、戦後ハワイに巡業に行ったときなど、女に買って帰る土産だけでたいへんな荷物になった。
選り好みしないのがほんとうの女好きだとしたら、広沢虎造の女好きはほんものだったといえる。このハワイ巡業に連れて行った「ちんけのおハナ」なる渾名《あだな》の曲師とも、ちゃんと巡業先でできてしまったのだそうだ。この、ちんけのおハナさん、帰国してから、「私は、虎造のお手つきだ」と、楽屋でいばっていたそうだ。
いけない。はなしが横道にそれた。
広沢虎造上京のきっかけである。
その頃、大阪の女流浪曲師に相沢通子というのがいて、これに若き虎造がぞっこん惚れていたのである。その相沢通子が、東京の初音会に引き抜かれたので、それを追って、べつに自分は引き抜かれたわけでもない虎造も、大阪を後にした。
東京に戻ったことから、いいかえれば相沢通子を追っかけてきたことから、虎造の運がひらけた。通子のいる初音会に年中顔を出している虎造を、初音会の会長大谷三蔵が見込んだのである。男っぷりはいいし、将来性もあるからと、大谷三蔵がすすめて美弘舎東盛の娘トミと結婚させたのである。トミは、虎造のために三味線をならい、広沢美矢古となって虎造の合三味線をつとめる。これが本妻で、虎造の本名山田はトミのほうの姓を名乗ったのである。
広沢虎造の名を天下に高めたのが、『清水次郎長伝』であることは、いまさらいうまでもない。あのなかの、石松代参の三十石船で、
「寿司くいねェ、江戸っ子だってネ」「神田の生まれよ」
というやりとりは、浪花節をきいたことのないひとでも知っている。
虎造の、『清水次郎長伝』は、講談の名人三代目神田伯山のものに、のち虎造節とよばれた独得の節づけをしたものといわれている。そのため、伯山の出ている金車や小柳亭に日参して、かけ持ちする伯山の人力車を追いかけたとも伝えられている。前に紹介した東京新聞の「広沢虎造藝談」にも、
[#この行1字下げ]「ひどく小便が出たくなったんで客席をぐるり回って便所で用をたしてると――モシ、あんた虎造さんじゃありませんかという声がする。へエ、さいですが……と振り向くと、
[#この行3字下げ]――わたしは伯山の支配人の秋山というもンですが、うちの先生があンたにちょッと楽屋までと申しますンで……
[#この行1字下げ] 言われた時にしめたッと思ったね。小便をすっかりしたか、途中でやめたかわからないくらいによろこんで、さっそく秋山支配人に案内されて楽屋へ行くと、楽屋の正面に、見たこたあないが、次郎長という人はこんな人じゃなかったかと思うような伯山が座っていて、あのしゃがれ声でまず言ったのが――さぞ、まいにちくたびれるだろ……知ってたんだね、わたしがまいにち車とかけッこしてたのを……そしてその次に言ったのが――あしたから金車も小柳も木戸御免にしてやるよ……」
と出ていて、『清水次郎長伝』は、三代目伯山からの直伝のように思われる。
じつは、これも虎造流のはったりらしいのだ。浪曲研究家の芝清之氏によると、虎造に講釈ネタの『清水次郎長伝』を教えたのは、神田伯山門下の先々代のろ山なのだという。
それはそうだろう。あの時分の講釈師ときたら、気位が滅法高かったから、「浪花節ごときに、大切なネタをゆずるわけがない」というほうがほんとうだ。ましてや、「次郎長伯山」と呼ばれているくらいの、得意中の得意にしている商売ものなのである。やはり神田ろ山から虎造に伝わったと見るほうが自然だろう。事実、ろ山はこのため師伯山の勘気をこうむって、一時破門状態になっていたという。虎造は、恩になったろ山をなにかと大切にして、いっしょに旅興行に出かけたり、「虎造・ろ山二人会」を開いたりしている。
一世を風靡《ふうび》しただけあって、虎造の『清水次郎長伝』、それは結構なものだった。
まず声がよかった。大きな声を、のどもさけよとばかりにふりしぼって出す浪花節ではなく、ごく自然な、軽い発声であることが親しさを増したのである。このことは、当時発達しだしたマイクロフォンと無関係ではない。桃中軒雲右衛門は、マイクのない時代に、持ち前の大声で大劇場を制してみせたが、広沢虎造は自分の声を、魅力的にマイクに乗せることで大劇場に進出し、ラジオとレコードの世界に確固たる地位をきずいてみせた。実際に、彼のマイクテクニックは抜群だったし、彼くらいマイクを自分のものにすることに腐心した日本の藝人は、そういない。マイクを媒介にしたラジオとレコードのおかげで、「馬鹿は死ななきゃなおらない」という名文句が津々浦々までひろがったのである。
啖呵《たんか》が無類にうまかった。あれだけ会話にいい味をもった藝人もそういるもんじゃない。それこそなみの落語家や講釈師が舌をまくうまさで、なによりも生活感に充ちていたことが多くの客の共感をよんだのであろう。
そして、はなしのはこびの面白さということになろうか。ちょっと気取ったいい方をすれば、今日性を有した演出力とでもいったところだ。実際に、いまなお売れつづけているレコードやカセットをききくらべて、同じ演目のまくらがどれもちがうことにおどろかされる。ときに応じていろいろと工夫を凝らしているのである。
おなじみ『清水次郎長伝』は<本座村為五郎>のくだり。すでに都鳥の吉兵衛の手にかかって森の石松が殺されてしまったことを知らずに次郎長が旅をしている。為五郎に一夜の歓待を受けているのを、都鳥の吉兵衛が物置のかげに身をひそませてうかがっているのである。それを知っている為五郎が次郎長に、指さしながらいうのである。
「あの、物置の……ねッ」
と、ここで、「チョーンッ」になって、
※[#歌記号]ちょうど時間となりました……
となる呼吸のうまさといったら、なかった。あるひとが、虎造にきいたそうだ。
「あの先、どうなるんです?」
虎造の答がよかった。
「そんなこと、俺にもわからねえ」
広沢虎造の声が、初めて電波に乗ったのは、昭和六年九月十三日で『次郎長と為五郎』を放送している。この頃から、レコードも売れ出して人気も出てきたのであろう。その虎造の名を天下にひろめ、このひとにまれに見る強運のついていることを教えるような事件が起きた。
昭和八年四月十一日のことである。
その日も虎造は忙しく、蒲田と三軒茶屋とほかにもう一軒の寄席をかけもちしていた。蒲田をすましたのが夜の八時頃というから、三軒目の三軒茶屋のほうはおそらくトリであったのだろう。番頭の中川海老松といっしょに円夕クをひろって三軒茶屋にむかった。車が、目黒区山谷町の東横線の踏切にさしかかったとき、桜木町行の電車と側面衝突してしまったのである。
新聞によれば、円夕クは電柱などを押し倒しながら、「十四間も引きずられて滅茶滅茶に大破」したという。この事故で、円夕クの運転手とその助手、番頭の中川海老松と乗っていた四人のうちの三人が死亡したのに、虎造ひとり軽い怪我ですんでしまったのである。死んだ番頭の中川海老松はそのとき四十三歳、虎造は三十五になっていた。
事故から二月たった、六月一日から四日まで、当時東京一の大劇場だった浅草の松竹座で「広沢虎造負傷全快記念公演」というのをやって超満員の客をあつめている。虎造の人気はいやが上にも盛りあがった。
この事故で死んだ中川海老松の夫人は、三枡家つばめという三味線ひきだったが、虎造のことをうらみぬいて死んでいったという。虎造が海老松の遺族に、なにもしなかったからである。女にはカネを使った虎造も、こういう面ではひどくカネ離れが悪かった。おかげで、以後虎造は海老をたべると必ず腹痛を起こしたというのだが。
浪花節語りには、不器用なひとが多いのだが、虎造は例外だった。なによりも啖呵がうまかったくらいだから、役者としてもしばしば起用され、映画にもずいぶん出ている。先代段四郎夫人で、いまの猿之助の母親である高杉早苗がまだ十六の小娘の頃いっしょに出たのがはじまりで、「優に百本は超えている」というのだが、この数字は当人の言だからあてにならない。あてにならないが、映画に舞台にと、引っぱり凧《だこ》にされた、浪花節語りにはめずらしいスターであったことは事実で、先代猿之助などといっしょの舞台もつとめたことがある。浅草国際劇場の前進座公演で、『荒神山』に特別出演したときは、行列が田原町の地下鉄入口までならんだという。
どこの劇場に出ても満員にしてみせる藝人なんて、そうそういるものじゃないが、それだけのちからのあった広沢虎造のさらに立派なところは、「自分から一枚の切符も売ったことがない」ことだ。そんなことする必要がなかったのである。夏の大阪の劇場に出れば、新橋の藝者がそろいの浴衣《ゆかた》で総見にくるといったあんばいだが、女にはカネ離れのいい虎造だったから、自前でやってきた藝者衆には、するだけのことをしたのだろう。
興行師にとっては、こんな有難い藝人はいない。まさに金の卵を産む鶏なのである。それだけに、広沢虎造の興行権をめぐってのトラブルは絶えなかった。いちばん大きなものは、昭和十四年に起こった浅草仁丹塔での殺傷事件である。これは、その時分浅草の興行街に進出していた下関出身の籠寅興行部と、大阪の吉本興業が、虎造の興行権をめぐって対立するところとなり、吉本側に加担した山口組と籠寅との抗争をまき起こし、浅草仁丹塔付近で斬りあいを演じ、双方多数の死傷者を出すのである。山口粗の二代目組長山口昇が死んだのは、このときの傷がもとだといわれている。
広沢虎造の藝がほんとうによくなったのは、むしろ戦後のことだと、みんながいう。ラジオの民間放送ができて、マーケットが拡大されたことが虎造の藝をますます完成に近づけた。いま、この頃の録音で残されたレコードやカセットをきいて、つくづくそう思う。あれだけ面白くて、楽しい浪花節は、あとにも先にも広沢虎造しかいない。
昭和三十四年の五月。街には鯉のぼりが泳いでいた。虎造の大好きな光景である。
ラジオ東京といっていたいまのTBSのスタジオで、『清水次郎長伝』の連続放送を録音していた。絶句するのである。何度録音しなおしても絶句するのである。そのうちに舌がもつれ出して……気がついたら病院のベッドの上だった。
さいわい軽い脳出血だった。足と手にしびれが残る程度だったのだが、かんじんの舌の回転が悪くなった。売物にしていた啖呵のろれつがあやしくては、虎造が虎造でなくなってしまう。しかたがない、しばらく仕事を休むことにしたのだが、しばらくがしばらくでなくなった。
広沢虎造の名が、劇場からは消えたが、声だけはラジオから絶えることがなかった。前にとった録音をくりかえし出したのである。このひとの声が出なくては、浪花節の番組がくめなかったのである。
「なんにいたしやしょう」
「いつものやつよ」
「マテニーですね」
「そうよ」
「いつ見てもいい男だなあ」
――お粗末。
というへルメス・ジンのコマーシャルも、毎晩のようにラジオから流れていたが、これは仕方なく浪曲物真似の前田勝之助が代演してたのだが、気づいたひとは、あまりなかった。
仕事をしないからカネがはいらない。あれだけ稼いだひとなのに、女にいれあげてばかりいたから、貯えはなかった。仕方なく三軒茶屋の大邸宅を売りはらって、田園調布の長唄の杵屋勘次の二階に引っこんだ。ちょっと世間からかくれてみせた風がある。それでも、たまに訪れる新聞記者などには、相変らずのはったりを、ろれつのまわらない口でかますのだった。
「おもてへ出ないのは、変に他人の家など訪問すると、『虎造のやつカネ借りに来やがった』なんて思われるのがいやだから」
といいながら、
「いまの浪曲界はスターが出ない。浪花節やめて、流行歌手ンなったほうが手っとりばやいってやつばっかしだ……」
と、暗に三波春夫や村田英雄の行き方を批判するいきおいは失われていないのだが、老人の繰り言の感があるのは否めなかった。
当人に、いくらその気があっても、現実にもう浪花節ができない身体になってしまったのだからしかたがない。家族ぐるみで引退を説得したのだが頑としてきかない。結局、「このままずるずるべったりというのはよくない、一度けじめをつけなくては」という周囲の説得に負けて、
「なおったら、もう一度やる」
という条件づきの引退興行をやることになった。昭和三十八年の六月二十六、七日の浅草国際劇場で、超満員の客をあつめた。この興行は僕も見ている。
当の虎造は、「口上」だけの出演だったが、紋付、羽織袴と威儀を正した老人が、ただ舞台にすわっているだけのことで、ひと言も口をきかなかった。ききたくても、きけなかったのだろう。
「目からは大粒の涙が」と報じた新聞もあったが、二階の後方の客席からでは、そんなことわかるわけがない。
「浅草で売り出した虎造が、いま浅草で消えていく……」
と書いたのは、たしか秋山安三郎氏でなかったか。
興行師というのは残酷なもので、ひと言も口をきかず、ただ頭を下げているだけでも、「広沢虎造引退興行」の看板さえかかげれば客が来ると、こんな身体の老人を一年間日本全国引っぱりまわした。虎造は虎造で、「最後の御奉公」というより、少しでもカネがほしかったというところが本音であった。
引退してからの虎造は、みじめだった。なにもすることがなくて、ただ家でじっとしているうちに、恍惚《こうこつ》のひととなり果ててしまったのである。いつの間にか家をとび出すと、どこかとんでもないところへ行ってしまうのだ。七人いたお妾さんのところを順にまわって、どこからも厄介者扱いされてるなどという噂がとんだこともある。
芝清之氏は、三軒茶屋のマーケットで褞袍《どてら》を着て買物籠をさげた虎造を見かけたといっている。浅草の路上で浴衣一枚の姿で迷子になって警察に保護されたはなしが伝わったのもこの頃のことだ。警察では浴衣姿の男が、広沢虎造の名刺を持っていたのでびっくりしたらしい。家では、まさか座敷牢というわけにもいかず、充分看視しているのだが、あるときなどは便所の窓からはい出して外へ出てしまったそうだ。
昭和三十九年もおしつまった十二月二十九日、豊島区西巣鴨の自宅で、六十五年の生涯を終えている。訃報には「老衰」とあったが、六十五歳の老衰というのが、威勢のよさで売った虎造らしくなく哀しかった。
葬儀は立派なものとはいえ、「天下の虎造」のものにしては、さびしかったという。あれだけのひとでありながら、レコードやカセットの著作権以外、なにひとつ財産を残さなかった。
十八番の『清水次郎長伝』のなかで、子分の森の石松を語るのに、
「男というものは、勝つことを知って負けることを知って、進むことを知って、しりぞくことを知らなけりゃ男になれません」
というくだりがある。強すぎた石松は、しりぞくことを知らなかったから、助からなかった。むこう傷ばっかり受けていたのである。ここのところの虎造の語り調子が、なんともいえずよかったのだが、なんだか広沢虎造自身のことをいっていたような気が、いましきりにしてならない。
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お笑いを一滴《いつてき》の吉原朝馬《よしわらちようば》
少しばかり舌が短いらしいのだ。だから、どうしても「舌っ足らず」のしゃべり方になってしまう。これが、ふつうの成人男子なら他人から、「じれってェ野郎だ」と、いわれるくらいで、べつに健康で文化的な生活を営むのに、なんの痛痒《つうよう》も感じはしない。
落語家だけにぐあいが悪いのである。舌っ足らずの落語家なんて、ただそうきいただけで、なんとなくしまらないではないか。
昭和二十九年に、あの古今亭志ん生のところに入門して、とうとう花を咲かせることなく散ってしまった、先代の吉原朝馬である。
志ん生の弟子になって、すぐに金助という名をもらった。将棋の好きだった志ん生は、自分の弟子によく将棋の駒にちなんだ名をつけたものである。
「金助。稽古つけてやるよ」
と、志ん生に声をかけられ帯などしめなおして、正座する。
「えェ、お笑いをイッテキ申しあげます……」
「ちょいとお待ち。イッテキてのはなんだい?」
「へえ? イッテキはイッテキで……」
なにしろ舌が短いので、「お笑いを一席」といっているつもりが、どうしても「イッテキ」になってしまうのだ。
「おまえねェ、一滴、一滴って、目薬さそうってんじゃないんだからネ。いいから、つづけな」
「へい。……『おいッ、ハッサン』『ああ、誰かと思ったら熊さんか』……」
「ちょいとお待ち、お待ちってんだよ。おまえネ、八ッつぁんだろう、江戸っ子らしく、八ッつぁんといっとごらん。ハッサンじゃないよ」
「はい。『おい、ハッサン』……」
とうとう志ん生も匙《さじ》をなげた。
「『アラビアンナイト』やってるんじゃないんだよ」
二つ目に昇進して、吉原朝馬になった。
いい若い者が、酒のいきおいで吉原にくりこんだはいいが、あくる朝になってカネがない。やむなく馬を連れての朝がえりで吉原朝馬。粋な、いかにも若い落語家にふさわしい藝名である。
ところが、この朝馬、粋なところがひとつとしてなかった。だいたいが、「お笑いを一滴」で、「ハッサン」のくちである。色の黒い丸顔に、金《かな》つぼまなこ、おまけにひどい脂肪性《あぶらしよう》ときては、どう考えても吉原から馬をつれてくるような色男の役どころはつとまらない。名は体をあらわす……というのは、彼にはあてはまらないのである。
事実、女郎買いなんてしたことがなかった。当時は、まだ売春防止法の施行される前で、赤線はなやかなりし頃だったから、若い落語家は、「廓《くるわ》ばなしの研究」と称して、競うようにしてあの土地へくりこんだ。いまの柳亭燕治であったか、いわゆる「ちょいの間」の遊びをするべく、ポケットから寄席の給金のはいった「ワリ」の袋を出したら、敵娼《あいかた》に、
「あら、また落語家……」
といわれたなんてはなし、この時分のことである。
朝馬の兄《あに》弟子にあたる、馬太郎といったいまの志ん馬や、今松だった円菊なども盛んにこの「廓ばなしの研究」に出かけたから、当然のようにそういうとき、弟《おとうと》弟子たる朝馬にも声をかけるのだが、絶対に行こうとはしなかった。身ぶるいなどして、
「あんなところへ出かけて、瘡《かさ》っかきにでもなったらどうします……」
とくるのだから、いうことだけは『明烏』の若旦那だ。
そればかりではない。たとえば今松が、ちょいとオツな年増となにかあって、羽織の一枚もこさえてもらったりする……若いうちにはよくあるはなしで、まァ、藝人にとっては勲章みたいなものだ。こんなはなしを耳にすると、朝馬は真剣になって怒った。
「きたない。兄《あに》さんは不潔です。いやだ。そんな不潔な兄さんとは、つきあいたくありませんッ」
などというのである。
「不潔、不潔って、てめえのほうがよっぽど不潔じゃねえか」
といってやりたくなるくらい、吉原朝馬は見た目が汚かった。
俗に、「よごれの藝人」というのがあって、かんじんの藝ばかりではなく、そのなりふり風体までが、なんとなく薄よごれているように感じられるのだが、そう、朝馬こそはこの「よごれの藝人」の典型であった。
ひどい脂肪性だったのは、風呂とは無縁の暮しをしていたせいもある。だから、前座時代に、「朝馬さんの着物をたたむのが嫌だった」と述懐する落語家が少なくない。
師匠の古今亭志ん生の半身が不自由になってから、仕事先への送り迎えは、いまの円菊と、この朝馬の役目になったのだが、こんなことがあった。
「東横落語会」に出番のあった志ん生について朝馬も円菊とふたりで東横ホールに出かけたのである。身体の不自由な志ん生は、いったん緞帳《どんちよう》をおろして、高座まではこばれて正座してから、お囃子《はやし》とともにふたたび緞帳があがるというしくみになっていた。例によって、円菊とふたりで志ん生をかかえて高座ぶとんにすわらせてから気がついたのだが、新調したばかりの所作台に、舞台のそでから点々と足跡がついている。所作台というのは、檜の銘木をみがきあげてこしらえる、非常に高価なものだ。その所作台の、しかもおろしたてのものに、まるで泥棒がしのび込んだような足跡がついてしまったのである。無論、なみはずれた脂肪性の朝馬のしわざである。ことに気づいた師匠の志ん生が、じれったそうにいったそうだ。
「お逃げッ、いいから、はやく逃げな」
それじゃ、ほんものの泥棒だよ。
入門した昭和二十九年当時に前座が「ワリ」を持ち逃げした事件があって、落語家として入門のかなった者は、三万円の保証金を協会へおさめる制度になっていた。もちろん、二つ目になったときに返してくれるのである。
一万円札のまだなかった時代とあって、千円札で持ってきた朝馬の保証金を算《かぞ》えながら、志ん生夫人がつぶやいた。
「あの子の家、いったいどんな商売してるんだろうネ。お札のあいだから、やたら藁が出てくる」
きけば、練馬のほうで父親が箒《ほうき》の製造をしていたという。父ひとり子ひとりの家で、箒屋の息子にしては吉原朝馬、掃除のほうもうまくなかった。
酒はのまない。煙草《たばこ》もやらない。そして女遊びなんかとんでもないというのだから、いってみれば真面目人間である。
そんな真面目人間が、なんでまた落語家なんぞを志したのだろう。べつに、落語家が道楽者のなれの果てだなどと考えるわけではないけれど、そうした世界にまったく関心のない、いうならばいちばん落語家にむいてはいない、もっときびしいいい方をするならば、落語家にだけはなっちゃあいけない人間が、あえて落語家になってしまった悲劇が、吉原朝馬の人生であったような気がする。
それともうひとつ。この時分から世間の落語や落語家に対する目がいくらか変ってきたのである。真面目に、こつこつと、あきずにやることが大切なので、そうした努力をつみかさねていれば、いつかはきっと花開くといった生き方が、藝人の世界にも通用しそうな雰囲気がつくり出されてきたのである。
意欲を失わず、努力をつづけてさえいればというわけだが、その意欲と努力に、朝馬は賭けた。
まだ二つ目の分際で、「新劇ばなし」と称して、松本清張作『いびき』を自主公演したのである。
高座に照明《あかり》がはいると、いきなり大きないびきがきこえて、朝馬がほんとに横になっていびきをかいているのである。いまなら、実験的な試みをしようとする若い落語家も大勢いるから、こんなことではおどろかないが、その時分のことである。朝馬の藝にかかわりなくこうした趣向に感動して、絶讃を惜しまぬひともいたのである。
この評判に、朝馬は少々舞いあがってしまった気味がある。どんな風に舞いあがったかというと、この会の感想をよせた客からの手紙を、「読んでくれ」「読んでくれ」と、楽屋で仲間に見せまわるのである。あまりうるさいので、誰かが声を出して読みあげた。
「……が、とても素晴しいと思いました。とにかく、あなたの演じた松本清張作の『あくび』は、近来にない……ちょっと待った。朝馬さん、あんたの演《や》ったのは『いびき』だろ? この手紙には、『あくび』って書いてあるぜ」
「……うん。ま、いいんだよ、どっちにしろ褒《ほ》めてくれてるんだから」
その翌年、凝りずに、こんどは樋口一葉の『わかれ道』にいどんで、舞台にいっぱい雪を降らした。
さすが二番せんじとあってか、『いびき』ほどの評判にはならなかったが、思えばこの二本が、落語家としての生涯であびた、朝馬のわずかな脚光であった。
正面のきれない藝人というのがいるけれど、吉原朝馬がそれだった。例の「お笑いを一滴」だって、まっ正面から客を見すえて堂々としゃべれば、結構それらしい愛嬌になるのに、それができない。いつも、うつむきかげんで、ぼそぼそとやるから、どう贔屓《ひいき》目に見ても明るい高座とはいえなかった。なにかにおびえ、ものを見つめることを恐れているようなところがあった。
僕が初めて朝馬の落語をきいたのは、改装前の上野本牧亭で、いまの古今亭志ん朝が、「朝太の会」というのをやっていて、それの前座をつとめていたときである。無論、まだ金助の時代だが、例の調子でうつむきかげんの「お笑いを一滴……」で『鮑《あわび》のし』かなにかをはじめた。
満員の客席に、その時分日刊スポーツに寄席の評を書いていた近藤又六なる老人と、青蛙房から出た『円生全集』の校訂などしていた、これまた長老の飯島友治が連れだってきていたのである。ふたりの老人の、どっちのほうであったかが、
「ふふふ、これはまた見事に下手だな」
とつぶやいたのである。思わず口から出たつぶやきで、きこえよがしにいったわけではないが、これが当人にきこえてしまった。
それでなくても、たどたどしいしゃべり方であるのに、客席のそんなつぶやきが耳にはいったものだから、それからはもうしどろもどろ、到底はなしの体をなさぬまま、サゲまでいかずに高座をおりた。おりるときの一瞬の、おびえきったような表情が忘れられない。気の弱そうな落語家だなというのが第一印象であった。
おどおどしているくせに、妙なところで強情だったらしい。
たとえばタクシーに乗って、運転手が自分の思ってるとおりの道を行かなかったりすると、はたがおどろくくらい怒った。ふつうのひとだったら、「そんなこと、いいじゃないか」のひと言ですんでしまうことが、絶対に許せないのである。
寄席の番組というものは、予定どおりにはこばないのがあたり前みたいなところがある。売れっ子の落語家がとびこんできて、「すまないけど、急ぐんで先にあげとくれ」とやったり、その逆に、「仕事がのびて予定の時間にあがれそうもないから、誰か代りにあがって」なんて電話がはいるのが毎日のことなのである。これを調整するのも前座の大切な仕事なのである。
こんなとき、まったく融通のきかないのが朝馬だった。どんなに前座がたのみこんでも、たとえ相手が大看板であっても、「駄目ッ」といって、あらかじめ定められた時間に、きちんと高座をつとめた。
誰かのところに、お菓子の差しいれなどがあると、楽屋入りした藝人に、お茶といっしょにこのお菓子をそえて出す。こんなとき、「朝馬さんには三回すすめること」というのが、前座のあいだで申しあわせ事項になっていた。頑固な朝馬は、三回すすめないと菓子に手をつけようとしないのだ。
頑固で、強情で、融通のきかない朝馬の性格が、いちばん発揮されたのが将棋であった。これがなかなか強かったのである。
将棋が大好きだった師匠の志ん生は、毎日のように相手をさせた。いい勝負だったらしい。いや、ほんの少し朝馬のほうが強かった。これが志ん生には面白くない。たとえ将棋であっても、弟子に負けたというのが志ん生の面子《メンツ》をいたく傷つけるのである。二番もつづけて負けようものなら、もう機嫌が悪くなってしまうのだ。
見かねた志ん生夫人が、朝馬をかげによんで、小遣いなどやりながら、
「たまには、ひとつくらい負けてやっとくれよ。それでお父ちゃんの機嫌がなおるんだから……」
などとやろうものなら、血相かえて怒り出すのである。
「冗談いっちゃいけません。将棋は真剣勝負です。いくら師匠と弟子のあいだでも、こればっかりは譲れません」
寄席の楽屋で、志ん生が、
「ちょいと、この手、待っとくれ」
といったのに対し、「駄目ッ、待ったなし」とどなりつけた朝馬の見幕に、居あわせた者がみんなおそれをなしたことがある。こと将棋に関してだけは、師匠でも弟子でもない、ほんとのライバルになってしまうのだ。
そのくせ、志ん生が、
「どうだい? たまにはちょいと賭けないかい?」
などと誘うと、これが不思議と勝てなかった。わずかな、それこそ百円というはしたガネであっても、カネがかかっているという事実だけで緊張してしまうのだ。
だから、博奕には、まず手を出さなかった。出しても勝てないことを知っていたのだろう。
先代の一竜斎貞丈が元気だった頃、「一心会」という若手の藝人たちの集まりをつくっていて、これの忘年会で網代《あじろ》に出かけたことがある。お定まりの御開帳となって、あちこちで花札だ麻雀だ、ドンピンだということになり、珍しくも朝馬がこれに加わったのである。
千五百円位負けたところで手を引いた。まあ、「遊び」のうちにはいらない金額である。しばらくして、おもてに遊びに出ていた落語家が戻ってきてたずねた。
「ちょいと、朝馬さん、なんかあったの。さびしそうに、じっと冬の海を見つめてるぜ」
母親は、二歳のときに死んでいる。
舌が短いのも、足があまり高くあがらなかったのも、男手で育てられたせいで、子供の時分に栄養がよく行きわたらなかったのでは、というひともいる。
その父親が死んだ。箒職人をしながら、とにもかくにも朝馬を育てあげてくれた父親である。
練馬の自宅で葬儀をするというので、仲間や、弟《おとうと》弟子が手伝いに出かけて、おどろいた。箒屋のくせに、掃除というものをした気配がまったくないのである。部屋にあるべき壁は、天井にとどくまでつみあげられた古新聞紙で遮蔽《しやへい》され、階段は埃がこちこちに固まって、洗剤でごしごしやったってとれるものじゃない。きれいにすることはあきらめて、そのまま葬式を出すことにした。
出棺のとき、沈痛な表情の朝馬を見ながら、誰かがつぶやいた。
「このままじゃ、朝馬、埃に殺されるよ」
昭和四十八年の九月二十一日に、師の古今亭志ん生が逝った。雨の秋彼岸、眠るが如き大往生であった。師を失った朝馬は、そのまま志ん生の長男金原亭馬生の一門に移った。
志ん生の逝くほんの少し前、馬生夫妻は朝馬から相談を受けている。世帯を持ちたいというのだ。夫妻は、喜んで仲人をつとめた。
吉原朝馬なんて粋な名前を持ちながら、まったく女には縁がないと思われていたひとである。なにしろ機嫌のいいときの志ん生が、何人かの若い者を前にして、「うちにネ、吉原朝馬っていう、粋ないい名前があるんだけどネ。俺が三十時分に名乗ったことがある。誰か継ぐやつはいないかネ」
といったのである。きいていた朝馬はもちろんあわてた。
「師匠、私、私。私がもう朝馬になっていますよ」
きょとんとした表情で朝馬を見つめてから、こんどはがっかりした口調で、
「そうか、そうだったネ」
なんてことがあった。
これがよほどのショックを朝馬に与えたらしい。
名前にふさわしい粋なところを見せなくては……と考えたのかどうか知らないが、すぐに浅草はマルベル堂へかけこんで、ブロマイドをつくってもらうべく、カメラの前に立ったのである。
できあがったブロマイドというのが、派手な吉原つなぎの柄の着物に、扇子を横にして口のところに持ってきたポーズ。手にしたとたんに、「プッ」とふき出した失礼な奴は何人かいたけれど、
「粋だねえ」
と感心したのは、残念ながらひとりもいなかった。
そんな朝馬が、世帯を持つといい出したのだから、仲人をつとめた馬生夫妻は、喜ぶと同時におどろきもした。しかも相手は美容師だという。
これから先、突然売れ出す可能性など、正直いってあまり考えられない朝馬が、手に職のある御婦人を選んだこともさることながら、それが美容師というのがいい。美容師とくれば、むかしでいう髪結《かみゆ》いさんだ。髪結いの亭主といったら落語の世界では、これはもうちょいとばかりオツな役どころなのである。
名前のほうが勝ちすぎて、粋なところのまったくないといわれていた朝馬が、実生活で髪結いの亭主になるなどとは、誰も考えていなかったから、このときすでに四十二歳になっていた朝馬の祝言を、仲間はみんなこころから祝福した。
男手ひとつで育てられ、落語家になってからは老いた父親の面倒を見なければならなかった身には、世帯を持つことなど、はなからあきらめていたのかもしれない。いつの間にか四十二年がたって、思いがけなくめぐってきたひとなみの暮しであった。
すぐに子供ができた。二人である。上が女で、下が男。四十過ぎて、初めて子を得たひとがすべてそうであるように、朝馬もこの子を目のなかにいれても痛くないように可愛がった。それよりなにより、家庭の味を知らずにきた身にとって、「わが家」は、まさに新天地であった。
「家のなかに、女っ気があるっていうのが、こんなにいいものだとは思いませんでした」
馬生の夫人に、こんなことをいっている。
遅咲きの小さなつぼみが朝馬にもやっとひらこうとしていた。十人いっしょの量産ではあったが真打にもなった。藝のほうは、相変らずの「お笑いを一滴」だったが、そこはかとない味がでてきたようにも思えた。
すべてが、それなりにうまくはこんでいるかに見えた。
ついていない。
病魔に襲われるのである。
昭和五十二年に生まれて初めての入院をした。膵臓に癌《がん》が巣くっていて、もう手遅れだという。酒も煙草もやらなかった朝馬が、よりによってそういう病気にやられるというのだから、不運としかいいようがない。ごくたまに手を出した博奕に、必ず負けたという朝馬を象徴するには、ちょっと残酷にすぎる運命の神のいたずらである。
意識が混濁して、死線をさまよいながら、朝馬は幼いわが子の姿をさがし求めた。あの金つぼまなこをいっぱいに見ひらいて、子供の顔を追い求めるのである。生涯なおらなかった、正面きれない悪い癖が、病床でやっととれたというのも悲しいが、とにかく目を見ひらいていなくては、子供の姿が消えてしまうという思いにかられるらしいのだ。
眠りにつくことは、子供と別れることだと知っていた朝馬は、傷《いた》みきったあらゆる神経をまぶたに集中して、まばたきすることすら恐れるようになった。しまいには、とうとう、まぶたから眼球が離れて……とても、この先は書けるものじゃない。
昭和五十三年四月十八日、その生涯を終えた。昭和五年生まれというから、享年は四十八になる。
先日、古い手紙の類を整理していたら、こんな葉書が出てきた。昭和五十三年度のお年玉つき年賀葉書で、練馬局の消印で日付が一月四日になっている。
ボールペンの、あまりうまくない踊ったような字で、差出人の欄に、千代田区飯田橋三の五 日本医科大学第一病院 Cの四の二一 吉原朝馬こと西沢貞一とある。
その文面。
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昨年九月二十七日に突然入院し十一月一日に手術を受けましたが経過が思わしくなく初春早々二度目の手術を受ける予定です
二十三年目にして初めて高座を休みます 退院しました暁には下手は下手なりに努力します 可愛がって下さい
○看護婦の世辞を信じて直りかけ
○麻酔から覚めて児の顔妻の顔
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[#地付き]朝馬
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洒落《しやれ》で死んだか? 大辻伺郎《おおつじしろう》
数寄屋橋のソニービルの裏手の見当になる。「漫談や」というお汁粉屋があった。
甘いものはにが手なのだが、夏になると赤地に「氷」と描かれた旗がはためいてるのに誘われて、ひと休みしたことが何度かあった。昭和三十七年だかに、この店姿を消しているのだが、「漫談や」という変った屋号は、活弁あがりの漫談家大辻司郎の店だったからである。洋画喜劇を得意とする説明者としてならした大辻司郎は、
「胸に一モツ手に荷物」
などというナンセンスな説明が、当時のインテリ客にうけ、徳川夢声や松井翠声たちと肩をならべる人気弁士であった。トーキーの出現で、漫談に転向してからは、おかっぱ頭姿でかん高い声はりあげて、エノケンや大河内伝次郎とともに声帯模写の格好の材料にされていた。
昭和二十七年四月九日、羽田をたった日航定期旅客機「もく星」号が、伊豆大島三原山に激突、乗客乗員三十七人全員が死亡する事故があり、この乗客のなかに大辻司郎がいたのである。講和条約こそ締結されていたが、朝鮮の戦争は激しさを増していたし、日本の空といえども米軍の管理下にあった時代に起きた事故とあって、不審な要素もいくつかあり、松本清張が小説にしたりしている。
いったんは全員救出のはなしが伝わり、早とちりしたどこかの新聞はこれを大々的に報じ、「またひとつ漫談のネタができました」なんて大辻司郎の談話まで載せる失態を演じている。
さて今回のおはなしは、この大辻司郎の伜《せがれ》の大辻伺郎である。
本名は大辻寿雄。「としお」と読むのだが、自らは「雅堂」と称し、親しいひともみなそう呼んでいた。昭和十年四月三日生まれ。
もく星号事故のとき、十七歳で、「漫談や」の二階を出て、板前になろうと修業をしていた。
子供の頃から、正義感が強く、喧嘩《けんか》ぱやいほうだったから、母親と遺体の発見された三原山に出かけた際、取材と称してしつこくつきまとう新聞記者をなぐりつけ、相手の眼鏡をこわしている。
高校は、早稲田の高等学院に進んだのだが、学業なかばで板前を志したについては、父親に対する反発もあった。「おやじの名前をいわなくてもすむ職業」ということで、柳橋の柳光亭のチーフについて、魚河岸の買出しから修業を始めたのである。退学届を出して、おやじにその旨伝えると、父親は、ヒヤ酒など注いでくれながら、
「きょうからは、おまえを一人前の社会人として見てやろう。はやく、おまえと自然に猥談《わいだん》ができるようになりたい」
といったあと、ぽつんとひと言もらした。
「それにしても、きょうはやたら角帽が目につく」
不幸な事故で父親に先立たれたとき、なぜかいちばん先にこのことを思い出した。「角帽は、きっとおやじの憧れでもあったのだろう……」そう思うと、とたんに板前修業に身がはいらなくなった。生まれつき熱しやすくて、醒めやすかったのである。すぐに早稲田の高等学院に復学の手続きをとって、高校一年からやりなおした。ひねた、二年遅れの高校生である。ここでは、のち早慶戦のスターになる森徹と同期であった。
大学にすすんだとき、角帽かぶって、母親と多磨墓地に報告している。文学部演劇学科だから、もう父親と同じ道に進む気持になっていた。同期に、読売文学賞の劇作家清水邦夫や毎日新聞で劇評を書いている水落潔などがいる。
新潟県から出てきた清水邦夫など、東京育ちならではのスマートさを身につけて、わがもの顔にふるまってみせる大辻伺郎の大人びた態度が、まぶしくうつったものらしい。フランス語の授業で読まされて往生していると、いちばん前の席からふりむいて、にやりと笑ってみせたりするのだそうだ。会話のなかに越後なまりなどはいろうものなら大変だ。すぐに、そのなまりを大辻伺郎が真似てみせるのだ。
希代の浪費家であった。それも一流のブランド志向なのである。たとえば万年筆。モンブランがいいとなったら、極太から極細まで一度に十本も買いこむのである。モンブランにあきると、こんどはペリカン、それにあきるとパーカー、結局ふたたびモンブランに戻ったときは前に買ったものはみんな他人に与えてしまっていて手許にないから、また十本買いなおす。カメラだってそうだ。ライカがいいとなるとカメラ店に行き、
「すいませんが、ライカ三台……」
とやるのである。
なにしろ当時は、貿易が自由化されていなくて、国産ウイスキーが三百二十円だかなのにジョニー・ウォーカーの黒ラベルときたら一万円がとこすっとんだものだ。昨今のようにOLまでがセリーヌやエルメスを身につけてるのとは時代がちがう。しかも、学生の分際でそれをやったのである。学友が、新宿のマーケットで一杯三十五円の梅割焼酎でおだをあげているとき、彼は銀座通いをしていたのである。行く先はといえば、ラモール、エスポワール……学生どころか、社会人だってそう簡単に行けるところじゃない。
こんな一流好みの浪費家になったについては、子供時分のしつけも影響している。漫談家の父親は、相当の稼ぎがあったのに、子供には贅沢《ぜいたく》をさせなかった。ふとんは一枚きり、毛糸のものは身につけさせない。自転車なんかもいちばん安物を買い与えた。
「おまえが自分で買えるときになったら、いくらでもいいものを買え。いまは俺の保護下にあるんだから、その方針にしたがえ。人間、最高と最低を知っていれば、こわいことはない」
というのが、おやじの口癖だったのである。まだ自分で買える身分にならなくても、おやじの保護下でなくなったとたんに好きなものを買い出した。
早稲田では、「自由舞台」に参加した。学生演劇とはいえ、その時分の自由舞台には、いま劇作家として活躍している秋浜悟史や、女流演出家の第一人者渡辺浩子などがいて、その実力はなかなかのものだった。ここで、その頃大流行していたスタニスラフスキー・システムを徹底的にたたきこまれた。「身体的行動」「貫通行動」「ポド・テキスト」なんて単語がとびかい、「俳優は役になりきるために、その役の人間の全生涯を信じこまなければならない」なんて、お題目まがいのことを口ずさんだりしてたのである。
この頃、テレビに初出演している。初出演といっても、それこそ仕出しに毛の生えたようなほんのちょい役なのだが、テレビはテレビである。日本テレビは村上元三アワーの『春風数え唄』。役はといえば、寄席の木戸番で、「ええ、いらっしゃいッ」などやるわけだ。この、「ええ、いらっしゃいッ」に、役者としての勝負を賭けた。
顔合せの日、自慢の長髪を、さっぱりと角刈りにして現われた彼は、ディレクターに原稿用紙にして百枚以上になろうというレポートを提出した。見ると、「寄席木戸番の研究」とあって、自分の役である木戸番が、どこで生まれ、どんな生き方をしてきたか、この日どんな気持から、どんな声で、どんな調子で、「ええ、いらっしゃいッ」と叫ぶのか、とにかくこと細かに記されている。スタニスラフスキー・システムというのが、新劇俳優のあいだでもてはやされていることは知っていたが、自分の役について、それも仕出しに毛の生えたようなちょい役について、こんな大論文を書いてきた役者なんてこれまでに見たことも聞いたこともなかったから、ディレクターはびっくりしてしまった。
無論、ビデオなんて便利なものは実用化されてなく生放送だったが、当日は朝はやく、まだスタッフも誰も来ていない時間から、たったひとりスタジオ入りして、セットの前で、「ええ、いらっしゃいッ」とやっていた。前の晩、浴衣《ゆかた》姿で炬燵櫓《こたつやぐら》に乗っかって、かまぼこ板たたきながら家でやった徹夜稽古には母親もつきあってくれた。おかげで、かんじんの本番では、声がからからになって、出来のほうはいまひとつといったところだったが、この一種狂気じみた熱心さは、多くのスタッフの目をひいた。そのあとに出た、別の番組では、浮浪者の役だったが、このときは小道具として用意されたほんものの残飯を、むしゃむしゃとやってしまったという。
大辻伺郎と、父親の名の「司」に人偏のついた名をつけてくれたのは、新派の伊志井寛である。おやじの縁で伊志井寛に弟子入りして、木下藤吉郎よろしく草履《ぞうり》とりから始めたのである。早稲田の演劇科は四単位とっただけで自然中退のかたちになった。伺郎と、人偏をつけたのは、「まだまだ人に頼らなければ一人前にできない」からで、一日もはやく人偏をとって、立派に二代目としておやじの名を襲うようにというふくみがあった。
昭和三十四年に、市川崑に見出されて役者としての目が出た。『女経』で周旋屋の番頭、『足にさわった女』では、岸恵子の弟の掏摸《すり》と、あまり品のいい役ではなかったが、その個性は目についた。テレビからも声がかかるようになり、昭和三十八年には『赤いダイヤ』で主役に抜擢《ばつてき》されたのである。このとき二十八歳だが、新聞記者のインタビューに答えて、
「目標は、あくまで五十歳。それまでには一人前の役者になってみせます」
などといっている。
『赤いダイヤ』につづいて、『喜びも悲しみも幾歳月』『おはなはん』と仕事のほうは順調だったが、浪費癖のほうはいっこうにおさまらなかった。稼げるようになったというのに、その稼ぎを絶えず支出が上まわるようになっていた。マイカーはまだはやいと、オートバイにするあたりは殊勝だが、そのオートバイがハーレー・ダビッドソンというのだから念がいっている。
テレビ局の友人のところに電話があって、これから銀座でのもうという。夏のこととてゴム草履姿でこの友人が現われると、いっしょにフタバまで行き、
「すまないけど、三十分であう靴こさえて」
とやる。
かと思うと、大勢で意気があがったところで、「熱海にくりこもう」などといい出す。どうせ遊ぶなら、変った趣向を試みようと、それぞれ役割を決めて行く。誰それは大演出家、誰それは役者、誰それはそのつきびと、俺はシナリオライターといったあんばいである。こういう遊びは、顔の知られていない、初めての旅館でなくては面白くない。女中や仲居の前で、みんな最高の演技をしてのけて、一夜があけて大辻伺郎に現金の持ちあわせがない。大演出家や大スターの一座が、初回で旅館代をつけにして行くわけにはいかない。仕方なく、大辻伺郎が知りあいの藝者に電話をかけてカネを持ってこさせた。電話を切ってからいうのである。
「こんなことなら、昨夜あいつもよんでやればよかった」
結局、この借金は倍額くらいにつくわけで、こんな遊び方をしていたら、いくらあっても足りはしない。激しいカネの使い方をしていたが、彼が現金を持っていたのを誰も見たものはいない。みんな母親が尻ぬぐいしていたのである。父親の形見という、天井までまがらずにのびるという絹の角帯を、質にいれて一晩で使い果したときも、横ッ面をはり倒してから母親が請け出しに行った。だから、数寄屋橋にソニービルができることになって、母親が「漫談や」を処分したときも、みんな「とうとうあの店も、伜に食いつぶされた」といったものだ。
早稲田でスタニスラフスキーの洗礼を受けた、この世界に身を投じたときの原点のようなものは、生涯ついてまわったかにみえる。
松本典子が、『喜びも悲しみも幾歳月』で、大辻伺郎と夫婦役を演じたのは、昭和四十年のことだが、撮影中彼の家に招かれたとき、モスクワ藝術座の役者たちのサイン・アルバムを見せられて、びっくりしている。『桜の園』『三人姉妹』『どん底』などを持って、モスクワ藝術座が初来日したのは昭和三十三年なのだが、まだ民藝の研究生だった松本典子はなけなしの小遣いをはたいて『三人姉妹』だけやっと見た。それを、ほとんど同世代のはずの大辻は、新橋演舞場に日参して、立派なサイン・アルバムまで持っている。そのことにおどろかされて、
「素敵じゃない」
とつぶやくと、大辻伺郎がきおいこんでいった。
「これ、松本さんにあげる。持って行って」
そばで、やりとりを見ていた母親が静かにたしなめた。
「それは、おまえの青春の記念だろう。ひとにあげたりするもんじゃありません」
松本典子だって、大辻伺郎がモスクワ藝術座に日参していた事実が興味ぶかかったので、べつにサインをほしいなどとは考えてもみなかった。ところが大辻伺郎は、どうしてももらってほしいときかない。だいたい、他人にものをあげることの好きな男で、せっかく三台買ったライカもすぐ手もとからなくなった。このサイン・アルバムも、どうしてももらってもらうのだと、家を辞した松本典子を追いかけてきて手渡す始末である。
「そこまでするのなら、ご迷惑でしょうが、もらってやってください」
という母堂のすすめで、これを受け取った。だから、このアルバムはいまでも松本典子のところにある。
屈折した役者だったと誰もがいう。
撮影時間には、必ずといっていいくらい遅れてきた。計算なのである。みんなをいらいらさせておいて、いざ撮影となると、ぴしッとやるだけのことはやるのである。こんな仕事ぶりを、あまりいい顔しないで見ているひともいたから、スタッフやほかの役者との衝突はしょっちゅうだった。そこへ持ってきて、生まれついての正義感もある。好評だった『おはなはん』の馬丁・亀吉役を途中でおろされたのも、その辺に原因があったときいた。テレビドラマの収録中、ディレクターをなぐりとばしてしまったこともある。こんなときは、終了後にスタッフの全員を、どこかの待合によんで、藝者をあげて、シャンシャンシャンと手打ちをするのである。
喜劇俳優、得難いバイプレーヤーといった世間の評価に、いつもすねていたようなところがあった。もの足りない思いをいだきつづけていたのである。棟方志功が好きで、彼の絵を買いあさったり、自費を投じて、幇間《ほうかん》の生活を記録映画にするべく、吉原は松葉屋に通いつめたのも、そんな充たされない思いを、発散させたかったのかもしれない。
それにしても、幇間の暮しをおさめたフィルムは、どうなっているのだろう。もしあれば、いまや貴重な資料のはずである。
最初の結婚は、学生時代にしている。
子供が二人生まれて、パイプカットした。もっとも、このパイプカットを一度復元したというひともいるし、パイプカットしてるのに、「子供ができたから」と、水商売の女にカネをせびられたこともあったらしい。
ご婦人には、滅法やさしかった。「とにかくマメでしたよ」とみんながいう。『喜びも悲しみも幾歳月』は、大船で撮影していたから、東京まで帰る松本典子は、ときどきミニ・クーペで送ってもらったりしたのだが、後部座席にはいつも女性への贈りものの包みが、それも複数で置かれていたという。この時分の大辻は、最初の夫人とはすでに離婚していて、再婚のはなしがすすんでいるときだが、そういう忙しさを少しもいとうことがないのだ。
日劇ダンシングチーム出身のある踊り子が、大辻伺郎と知りあったのは、大辻が伊志井寛のところにいた、まだ世に出る以前なのだが、デートの待ちあわせは、いつもデパートの特選売場だったという。それでなくても、女性問題のスキャンダルがついてまわった大辻伺郎だが、この日劇出身の踊り子だけはかなり大切にして、長い交際を望んでいたふしがある。なにか悩みごとのあるとき、気分的に落ち込んでいるときになると、必ずといっていいくらい電話してきた。いっしょになれないなら、「せめて写真を撮りたい」と、高島屋の写真館まで連れて行かれたこともある。昭和三十六年だかに、新宿に自分でマンションを借りてきて、「いっしょに住みたいから、部屋を見てくれ」と頼まれた。どうしてもふんぎりのつかなかった彼女は、仕事もかねて一年ほどハワイへ行くことになるのだが、ハワイ滞在中、大辻伺郎の友人の日航パーサーに託したメッセージの絶えることがなかった。しまいには、このパーサーが感にたえた様子でいったそうだ。
「しかし、大辻もマメですねェ」
順風満帆の感があったのに、だんだん仕事が減ってきた。いろいろな面で、使いにくい役者という評判がたってきたのである。世のなかが変ってきて、テレビの世界などスタッフがすっかり若返ってしまうと、彼のような強烈な個性の持主を使いこなせる人がだんだんいなくなる。いつ問題を起こすかわからないような役者は、安心して使えないというわけだ。松竹のえらいさんの持物といわれた女性とのスキャンダルが表沙汰にされたのも、いい方向にむくわけがなかった。
根が気の弱い男だけに、こういうときに耐えていくたくましさが意外となかった。ポルノ映画に出て小遣い稼ぎをするのはいいのだが、藝名を大辻しろとするあたりに、そんな彼の心情があらわれていなくもない。
仕事がないのに、浪費のほうは、いっこうにやまなかった。いや、ますます激しさを増していた。その頃から一般化されだしたカードによる信用販売が、それに拍車をかけた。コマーシャルに出たことからつきあいのできた、月賦の緑屋に対する支払いだけでも、毎月百万円に達したという。いっておくが、十五年前の、それも月割にした百万円である。
最後のことは、新聞の切抜きを見ながら、新聞記事風に書くと、こうなる。昭和四十八年の五月のことである。
二十一日午前五時十五分頃、東京港区赤坂葵町三、ホテルオークラの七七六号室で、同区赤坂七の五の三四、リキマンション四〇号室、俳優大辻司郎こと大辻寿雄さん(三八)が首つり自殺しているのを訪ねてきた友人が見つけ、赤坂署に届けた。
大辻さんは二十日午後八時四十分ごろ、一人でホテルに来て七階の和室に入り、二十一日午前三時二十分頃、五階の会計で一万四千円の部屋代を払い「午前八時半頃起こして」といって部屋に戻った。
その後、午前五時前に「おれはだめなんだ。助けてくれ」と友人のマージャン店経営者A子さん(三四)に電話、A子さんが同五時十五分頃、ホテルにきたところ部屋のドアが一〇センチ程開いていた。
A子さんが中にはいると、かもいから寝巻きのヒモをつり、洋服姿のまま首つり自殺していた。遺書はなかった。同署の調べでは、大辻さんは最近、仕事がなく、借金も六、七百万円あるといわれ、前途を悲観したらしい。
おそらく警察発表の資料をもとにして書かれた新聞報道は、どれも似たりよったりだが、いずれも藝名を司郎と報じている。一年ほど前から、当人が人偏を取って、「司郎」にしたからである。ひとにたよらなくてもやっていける一人前の役者になれるまではと、かたくなにつけつづけてきた人偏を、いちばん他人のちからを借りたい苦しい時期に、あえてはずして、一年たらずを生きたダンディズムが、なぜか哀しい。
自殺の報をきいたとたんに、大勢の債権者がリキマンションにおし寄せている。数々のブランドものも、棟方志功も、みんな持っていかれたらしい。
「もう少しがんばれば、きっとテレビでカムバックして大辻伺郎の時代をつくれた……」
という早大時代の学友は、形見分けに、グッチの靴と、イヴ・サンローランのタオルケットをもらった。
「ああいう死に方をして、世間に迷惑をかけたのだから、葬式はしない」
といいはる母堂を、友人たちが説得して、駒込のほうのお寺で形ばかりの葬儀をした。どんなに大声あげて笑ってみせても、眼だけは笑っていなかったといわれる、いちばん大辻伺郎らしい表情の遺影に、「あんた、馬鹿だね。死んじまったらなにもならないじゃないか」と、語りかけた清川虹子以外、役者は誰ひとりとして来なかった。
葬儀が終ってからの、母堂の身の処し方は見事の一語につきる。息子の不面目の責を負って、世間のつきあいのいっさいを断って、姿を消してしまったのである。養老院にいるという噂を耳にしたひともいる。
はやいもので、ことしが十三回忌。
生きていれば、当人が一人前になる目標としていた五十歳になる。
ところで、自ら生命を絶ってみせたことについて、「ほんとうに死ぬ気があったのだろうか」と、いまだに若干の疑問をいだいているひとが、少なくない。破滅型ではあったが、いや破滅型であったからこそ、人生にたいしても甘えの姿勢が多分にあって、「ちょっぴりおどかしてやろう」ぐらいの冗談半分の遊戯に、壮絶な失敗を演じてしまったのではないかというのである。最後の演技をしくじった役者なのだろうか。
他人に紹介するときは、必ず「僕のいちばん大切なひと」といってくれたというかつての日劇の踊り子は、いま赤坂で小さなスナックをやっているのだが、カウンターのなかでひとり立っていると、いまにも扉があいて、
「いやァ、俺、また洒落やっちゃったァ、ごめん、ごめん」
といいながら大辻伺郎がはいってくる錯覚におそわれることがあるそうだ。
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北に消えた後藤博《ごとうひろし》
この四月、東京は銀座の博品館劇場で、
――おれらJAZZが好きでね、だから死ねないの
なんて刺激的なうたい文句の、最年長者八十三歳、いちばん若くて七十歳、平均年齢七十四歳というオールド・ジャズプレーヤーによる『オールジャズバッシュ パートU』なる催しが開かれた。楽しかった。時間さえ許せば五日間通して日参したいくらいだった。
レイモンド・コンデ、ジミー原田、井手忠なんてひとたちの、昔に変らぬ演奏をききながら、夢中になってジャズを追いかけていた、そう昭和二十年代のなかばから後半の頃を思い出していた。ちょうど中学から高校にかけての生意気盛りである。それにしても、みんなちっとも年齢《とし》をとっていないじゃないか。むかしと同じような顔で、嬉々として楽器を扱っている。こちらが子供時分にふれたひとの顔って、いつまでたっても老《ふ》けこまないらしい。
満足しきった表情のいわゆる中高年層の多い客にもまれて、帰りのエレベーターに乗りこみながら、この催しの出演者のなかに後藤博の名が見当らないのが、いたしかたないこととはいえ、やはりさびしかった。
とにかく颯爽《さつそう》としていた。
白のタキシードが、なんともさまになる、いい男だった。トランペットを吹き、ときには渋いのどなどきかせて、デキシーランダースというバンドを率いて、常時日劇に出演していた後藤博である。なにしろ、「後藤博とデキシーランダース」といったら、その時分「渡辺弘とスター・ダスターズ」や「多忠修とゲイ・スターズ」と人気を分けあっていたビッグ・バンドだったのである。
学校帰りに日劇にもぐりこむことを覚えたのは、たしか中学の二年くらいだったが、たいてい下町のほうから通っていた悪友二、三人といっしょだった。その時分の日劇は、いわゆる「映画と実演」で売っていたから、その映画と実演の両方を見終えて外に出ると、冬などすっかり夜の町で、酔った大人や、ロングスカートにくわえ煙草《たばこ》姿の進駐軍相手の街娼などがうろうろしていた。鞄《かばん》をさげたまんまの中学生としては、なんだかひどく悪いことをしているような気分になって、そそくさと家路をたどるのだ。
その時分、「実演」といっていた「ショー」がそろそろ始まろうという頃ともなると、本舞台とエプロンステージのあいだにあったオーケストラボックスに、プレーヤーが三々五々はいってきて、楽器の調子などをテストする。指揮棒を、もてあそびながら、そんなプレーヤーと談笑している後藤博には、なんとなくゲーリー・クーパーの風情があって、いちばん前の客席に陣取った中学生には、いささかまぶしかったものである。
いちばん前の席を悪友たちとならんで占めたについてはわけがある。ショーが始まって、エプロンステージで高く脚などあげている踊り子目がけ、かくし持ったるピストル型の水鉄砲で狙いうちするのである。悪餓鬼どものこんないたずらが、指揮をしている後藤博の目には当然はいっていて、ほんとだったら恐い顔してにらみつけなければいけない立場なのに、これがにやにや笑いながら、こころなしか「もっとやれ」とこちらをけしかけるようなそぶりまでして、今度はプレーヤーのほうにむきなおり、もっともらしく棒など振りつづけるのである。
踊り子から伝えきいたのであろう。係のひとがおっとり刀でかけつけて、僕たちをつまみ出しにかかる。こんどは二階の最前列に場所をうつすと、長いつり糸の先端に五円玉を結びつけたものを階下までたらして、舞台に夢中になっている客の頭をコンコンとやって、たぐりあげるのだ。
なんといっても、開幕を告げるファンファーレといっしょに、スポットが指揮者の姿を照らし出す、この一瞬が後藤博をいちばんはなやかにかざりたてるのだが、ときにはオーケストラボックスを出て、ステージで演奏することもあった。『スウィング・フェスティバル』なんてショーのときには、後藤博とデキシーランダースだけで一景を受けもつのである。こんなときには、後藤博だけメンバーとはちがった色の上衣を着て、ハリー・ジェームスを気取ったトランペット・ソロをふんだんにきかせた。
そのトランペットだが、ふつうのプレーヤーのように、真っすぐ正面にむかって吹かない。ほんの少し、斜め上にむけて、だからマウスピイスで唇全体をふさぐことなく、唇の動きまで客席に見せながら吹くのである。興にのると、右手だけで器用にトランペットを扱って、いかにも軽く吹いているぞといった顔つきで、その実ホットな音を出して、客席をわかせた。気障《きざ》といえば、かなり気障だが、その気障な奏法が、あんなにさまになったプレーヤーというのも、そういない。
ごくたまに、英語でうたってみせたりしたが、やさ男の顔に似合わぬしゃがれた声で、これがまたなんともジャズのフィーリングなのである。どこかで、ナンシー梅木とデュエットしたのをきいているのだが、あれも日劇であったか、それとも共立講堂か日比谷公会堂の『ジャズ・コンサート』であったのか。
そんな風に、いっときは日劇の主のような扱いで、昭和二十五年の九月には、「デキシーランダース創立十周年記念」と銘打った『デキシーランド』なんて、特別ショーまで上演してもらっている。なつかしさついでに、日劇ダンシングチームの踊り子でいえば、荒川和子、大島由紀子、倉本春枝なんかの時代で、谷さゆりや重山規子がこれから売り出そうという時分だ。それくらい日劇を、いわばホームグラウンドのようにして活躍していた、「後藤博とデキシーランダース」の名が、昭和二十六年十二月の『ショウ・イズ・オン』の公演を最後に、突如消えてなくなるのである。
日劇ばかりではない。その時分、「スイングジャーナル」でやっていた、読者による人気投票のランキングにしてもそうだ。昭和二十六年度のトランペットの部は、当然のことながら南里文雄が一位で、以下北里典彦、石川陽一郎とつづき、後藤博が四位になっている。五位は松本文男だ。それが翌二十七年には、どこをさがしても後藤博の名が見当らない。それでなくても離合集散の激しいこの世界だから、誰かがどこかへ行ってしまっても、さして気にすることもないのだが、あれだけ売れていたスター・プレーヤーが、ある日|忽然《こつぜん》と姿を消してしまうなんて例は、そうそうあるものじゃない。
後藤博。明治四十三年七月、九州生まれ。朝鮮系のひとだときいた。
いつ、どこで、どうやって音楽の勉強をしたものか、これがどうもよくわからないのだが、とにかく昭和のはじめ頃の東京では、相当知られた存在になっていた。昭和十四年春、新橋ダンスホールに飯山茂雄と東京スインガーズが、アメリカに生まれたばかりのスウィング・ジャズを売物に登場して衝撃を与えるのだが、そこで第一トランペットを吹いたのが後藤博だった。クラリネットがレイモンド・コンデ、テナー・サックスが松本伸だから、この飯山バンドは錚々《そうそう》たるメンバーであった。このメンバーを紹介した当時の音楽雑誌「バラエティ」の、後藤博の項を、内田晃一『日本のジャズ史』から孫引きさせていただくと、
[#この行1字下げ] 東京・関西・上海をマタにかけて荒し回った猛者《もさ》。有名なケンカ好きでちょっとしたことでバンドを飛び出す――
とある。
「手に職がある」というやつで、トランペット一本あれば、どこへ行ってもというのであろう。喧嘩《けんか》っぱやいのもさることながら、はったりのほうも相当のものだった。仲間は彼のことを「ゴッちゃん」と呼んだのだが、これがときには、「はったりのゴッちゃん」になったし、ひどいのは、
「はったりが背広着ている」
と評したものだ。
南里文雄と人気を二分したといわれる、トランペットの腕だが、やはり南里のほうに一日の長があったというのが本当のところだろう。ただ、後藤博は見た目が派手なうえ、独得のフィーリングを持っていて、「実際は、それほどうまくはないのに、うまいようにきかせるテクニックは抜群」だったから、たいていのひとはごまかされてしまったらしい。
その時分、すでに売れていて後藤博よりも先輩格になるトロンボーンの周東勇は、初対面の後藤博から、
「よう、周ちゃん」
とよびかけられて、
「てめえなんかに、周ちゃんなんて呼ばれる筋合はねえやいッ」
と啖呵《たんか》をきったことがある。
N響の前身にあたる新響に籍があったといっていたのも、クラシックを手がけたという彼一流のはったりで、籍があったというより、見習いとしてもぐりこんで、楽器はこびの手伝いなどしていたといったところらしい。だいたい、正式に音楽の勉強なんかしているはずがなく、譜面だって勘で読んでいたのじゃないかというのだが、相当に器用だったことはたしかだ。なんでも、学校は歯医者になるための専門学校を中退しているときいた。
稼ぎがあったから、博奕《ばくち》三昧の毎日だった。麻雀、ポーカー、花札……。大麻をまぜた特製の煙草なども、その時分からたしなんでいた。いい男だったから、滅法もてた。女のほうで、ほうっておかないのである。どことかのダンスホールのナンバーワンといっしょになったこともあるのだが、じきに別れたらしい。
戦前、エノケン劇団の文藝部にいたことのあるテナー・サックスの津田純が、一流プレーヤーを集めてバンドをこしらえたことがある。東京スウィンガーズをつくる前の飯山茂雄や谷口又士、栗栖ジェリーなどといっしょに後藤博も参加して、相当に売れたのである。ところがこのバンド、仕事をとってもひとが集まらなくなってきた。気がついたときはもう遅い。後藤博が、中心メンバーをごっそり引き抜いて、ほうぼうのダンスホールで内職をしていたのである。
かなりはやくから、いうところのミュージカルに関心を寄せていたエノケンは、昭和十四年に、ポケットマネーで自分のバンドをこしらえている。「エノケン・デキシーランダース」がそれで、ここに指揮者として後藤博が招かれた。翌年、日比谷公会堂で開かれた演奏会には、満員の客があつまり、エノケンや二村定一も出演し、『セントルイス・ブルース』や、『ワン・ローズ』『マイ・メランコリー・ベイビイ』などで沸かせた。太平洋戦争突入をその翌年にひかえた、冬の時代の最後の輝きのようなものだった。
太平洋戦争に突入すると、まず米英映画の上映禁止令が出て、八社あったアメリカ映画の日本支社が解散させられる。つづいて、ジャズも敵性音楽であるとの理由から、その演奏が禁止され、レコードは憲兵の軍靴で踏みくだかれた。そればかりではない。歌手は自分の声でうたえ、器械を使うなどは卑怯千万であるとして、マイクロフォンまで奪われてしまった。後藤博ばかりか、すべてのジャズマンにとって、失意の時代である。
連日の空襲があたりまえになって、誰の目にも日本の敗戦が時間の問題に見えた頃、神奈川県下の大秦野で農村慰問の演奏会に、何人かのプレーヤーがかり出された。「東海林太郎とその楽団」で指揮をしていた後藤博も国民服にゲートル姿で参加していた。軍楽隊まがいの演奏で、軍事歌謡のような曲ばかり吹いていたのだが、会場に憲兵の姿のないことに気づいた後藤博が、いきなりジャズをはじめたのである。手ぐすねひくようにメンバーがそれに応じて、じつに久々のジャム・セッションがくりひろげられた。
日本の敗戦でやってきた進駐軍と呼ばれた占領軍は、ジャズマンにとっては文字通りの解放軍であった。マッカーサーが厚木の飛行場に降り立った数日後に、当時の総理であった東久邇宮邸で、歓迎のパーティが開かれている。そこに呼ばれた後藤博や井手忠は、戦後ジャズ演奏第一号の栄誉をになうのである。つづいてその年のクリスマスに、帝国ホテルでの進駐軍将校ファミリーパーティで、後藤博は、和製ハリー・ジェームスの印象をアメリカ人たちにうえつけてみせた。
占領軍が、ジャズマンにとって解放軍だったのは、なんといっても彼らに沢山の仕事場を与えてくれたからだ。全国各地に接収したクラブができ、旧華族の邸宅は、レストラン、クラブつきの将校用宿舎と化していた。それよりなにより点在したハイツ・キャンプ・基地などの将兵用娯楽施設が格好の稼ぎ場となったのである。必然的に、ギャラはうなぎのぼりになるし、野放し状態になってくる。このため、終戦連絡中央事務局が中心になって、バンド、プレーヤーの格付審査をすることになった。オーディションを行なって、スペシャルA・スペシャルB・A・B・C・Dの六段階のランキングをつくったのである。このランクをもらわない限り、進駐軍関係の仕事はできないことになった。
指揮者の部では、スペシャルAが紙恭輔と菊池滋弥の二人だけ。後藤博は、渡辺弘、小口※[#「至+至」]と三人、スペシャルBにランクされている。これがバンドの部となると、後藤博とデキシーランダースは、紙恭輔とアーニーパイル・オーケストラ、多忠修とゲイ・スターズ、渡辺弘とスター・ダスターズ、バッキー白片とアロハ・ハワイアンズなどといっしょに堂々スペシャルAの扱いであった。得意のはったりをまじえた怪し気な英語で、進駐軍を煙にまいて獲得したスペシャルAだと、かげ口をたたく者もいたが、そんなことどこ吹く風で、外車を乗りまわし、悦にいっていた。思えば、後藤博、得意の絶頂期である。
肩で風を切っていた後藤博が、なんでまた日劇から突然消えてしまったのだろう。それが不思議でならなかった。
「なあに、首ンなったんですよ」
と、当時のバンド仲間は、こともなげにいう。戦前から手を出していたという大麻に加えて、おさだまりのヒロポンをはじめた。しまいには、注射ならなんでもよくなって、ビタミンBを大量にブスッとやるしまつである。無論、酒と博奕はやめるわけがない。バンスと称する前借りが重なって、給料日に集金にくるのみ屋から逃げまわるしまつだった。日劇から突然姿を消した頃は、身体のほうも相当がたがきていた。
日劇を追われた後藤博に、仕事はなかった。いや、むかしのダンスホールに代って、その時分からふえはじめていたキャバレーには、常時出演しているバンドが沢山あって、講和条約の締結後、少なくなった米軍の仕事に見切りをつけたジャズマンたちが進出していたから、男ひとり食っていくくらいどうにかなったかもしれない。しかし、仮にも自分のバンドを持って、一世を風靡《ふうび》したことのある身が、いまさら頭をさげてというのは、はったりのゴッちゃんがその看板をおろすことでもあり、とてもできることじゃなかった。それに、傷みきった身体は、もうトランペットが吹けなかった。日劇でも、最後はもっぱら楽な棒ふりだけですましていたのである。
結局、ひとり三沢へ行くのである。三沢には米軍基地がある。東京から流れて行ったジャズマンを、受けいれてくれる余地はまだまだあったし、それにまともな方法では手にはいるわけのない大麻だって、米軍関係にはそれなりのルートがあるかもしれない。
三沢のキャンプでは、テナー・サックスを吹いていた。トランペットは、もう無理だったのである。大麻は、手にはいらなかったが、もっといいものを手にいれた。クラブでウェイトレスをしていたスージーという名の女性と結婚したのである。面長の、目鼻だちのはっきりした、なかなかの美人だったという。酒びたりで、荒れすさんだ、だめな中年男になり果ててはいたけれど、母性本能をくすぐるところが、まだ多少は残されていたらしい。仕事のあい間をぬっては、釣りに出かけるなど、優雅といえば優雅な暮しだった。昔の名声さえ捨ててしまえば、はったりだって必要がなくなる。
だが、一度ついた栄光の座は、そう簡単に忘れられるものじゃない。酒量は日ましに増えていった。身体を心配した夫人は、自分の故郷である稚内に、いっしょに帰ることをすすめ、後藤博もそれに従った。反対してみせる気力ももう失せていたのかもしれない。日本最果ての街、稚内にも基地がある。
「人間、駄目になると西へ西へ落ちて行くのがふつうなんだけど、後藤博ってひとは、北へ北へと流れていく。北志向のところがあるんだよな」
と、僕に語ってくれたのはジャズピアノの山崎唯なのだが、北も北、これ以上行きようのない果ての地まで流れて行った心中には、なにがあったのだろう。
稚内での暮しは荒れていた。ほとんど仕事をしないで、酒ばかりのんでいた。酒をのんでいないときは、ただひたすら眠りこけているのである。これでは夫人も愛想をつかしてしまう。酒をのみに外に出ると、家の扉に鍵をかけて閉めだしてしまうようになる。
北海道全域を支配していた本間興業が、旭川にキャレドニアという大きなキャバレーをオープンさせたのは昭和三十年のことである。東京から、かつて淡谷のり子の専属バンドを指揮していた大山秀雄を招いて、タンゴバンドとスウィングバンドを編成させ、最盛期にはホステスだけで百五十人を数えた、旭川では最高の接待所であった。
昭和三十二年頃のことだ。このキャレドニアに、テナー・サックス一本持って、後藤博が、稚内からたどり着いたのである。疲労|困憊《こんぱい》のあまり、食べものをとることもできず牛乳一本のむのがやっとのありさまだった。むかしのよしみで、大山秀雄も見捨てるわけにはいかず、翌日からスウィングバンドで吹くことになった。以来三年ほどキャレドニアで働くことになる。
「やせこけて、赤ら顔で、見るからにアル中って感じなんだよねェ。そんな、むかしいい男だったなんて、とても信じられんかったよォ……」
当時ホステスをしていた、静代さんも、好美さんも、文子さんも、口をそろえてこういう。タキシードの似合う、あの颯爽としたダンディぶりは、どこにもなかった。午後二時にやる音あわせのとき、もう手がふるえてる状態で、上衣のポケットにいつもウイスキー用の水筒をしのばせて、ひと目をしのんではぐいとやっていた。中身は、焼酎を牛乳で割ったもので、これが切れると、バンドでいちばん若かったドラムの赤岩政雄に、
「すまないけど、薬買ってきて」
とたのむのだ。薬というのは、焼酎の二合瓶なのだが、この薬代、立て替えたままになることが多かった。
バンド・チェンジのとき控室に帰るプレーヤーは、カウンターの前を通るのだが、月に何回かこのカウンターの隅に後藤博が腰をおろすことがある。プレーヤーが店の酒をのむのは御法度なのだが、焼酎を買う金にも事欠いてるのだろうと察した、バーテンの桜井迪夫が手早くほかの客の伝票につけて、ウイスキーを注いでやると、「ありがとう」と、美味そうに、のみほすのだ。
ドラムの赤岩政雄は、坊やがわりの仕事もしていたので、後藤博には可愛がってもらった。めずらしくカネを持っているときなど、ジャズ喫茶に誘ってくれて、これからのジャズについて一席弁じたりしたし、給料日には必ず中華料理屋でたらふく食わしてくれたという。ドイツ製の、いい懐中時計を持っていたのだが、あるときこれを差し出して、
「赤岩君、これ質屋へ持っていって、いくらか借りてきてくれないか」
という。苦労して買ったものだときいていたし、「もったいないからおやめなさい」と、ちょうど持ちあわせていた二千円を貸してやった。若かったといっても、すでに子供がいた身にとって、この二千円はかなり痛かった。とうとう返してもらえなかったのである。
バンドのメンバーは、みんな後藤博のむかしの名声を知っていたが、当人が一切古いはなしをしないで余暇さえあれば英字新聞を読んでいるのをさいわい、あたらずさわらずの態度をとりつづけていたらしい。ただ、先輩格になる新響出のトランペットの安井清とは仲が悪く、たえず喧嘩《けんか》して、そのとばっちりが若い者のところにとんできた。酒のいきおいが手伝って、喧嘩をしてみても、音は出ない、ただ員数あわせの扱いをうけている身では、もうはったりもきかなかった。
めずらしく身体の調子がよかったのか、バンド演奏中に『聖者の行進』をうたったことがある。サッチモばりのしゃがれ声で、「セントゴーマーチニィ……」とやったのである。満員の客がそれに和して……後藤博の受けた、これが最後の喝采になった。
昭和三十五年を限りに、キャレドニアをくびになった。本間興業としても、大山秀雄としてもこれ以上面倒を見ることができなかったのである。心配した仲間が、旭川のべつのキャバレーの仕事を、月六万円でとってきてくれた。条件面では、キャレドニアよりもよかったはずで、こんなときにはやはりむかしの名声がものをいった。ところが、これを蹴ってしまったのである。
「冗談じゃねえ。六万ばかしのはしたガネで……」
精一杯の、最後のはったりであった。
旭川をあとに、行く先といえば、もう稚内しかなかった。夫人とよりを戻すなんて、格好のいい帰り方ではなかった。酒、酒、酒で、酒にのまれて、そのまま果てることを望んでいるような毎日だった。
稚内に戻って半年もたっていない頃である。この地を訪れていたトランペットの安井清と再会した。ささいなことからまたまた喧嘩になって、やけになった後藤博は、正体なくなるまでのみつづけた。
それでも、家へ戻ろうとしたのだろう。朦朧《もうろう》とした足どりで、意味なく「セントゴーマーチニィ……」と口ずさみながら、残雪のなかに倒れこんでしまった。
こころよく睡魔が襲ってきてくれた。
[#地付き]〈了〉
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後 記
好きだった、なつかしい藝人の面影をつづってみた。
おこがましいいい方をあえてさせていただけば、もし僕が書かなかったら、そのままひとびとの記憶から薄れて、消えていってしまったであろう何人かも含まれている。書いているあいだ、そんなひとたちと再びめぐりあっているような気分がして、楽しい仕事であった。機会があれば、「続篇」のようなものを、また書きたいと思っている。
無論、僕のたよりない記憶以外に、種々の文献を利用させていただいたが、そのほか直接御教示をあおいだひとが大勢いる。感謝の意をこめてお名前を列記させていただくと、
[#この行2字下げ]田島顕悟、田中かずい、桂米朝、長谷川渉一、浜お竜、三田純市、朝霧鏡子、色川武大、金沢友也、逗子とんぼ、谷口守男、村尾一郎、石崎勝久、大谷淳、白井佳夫、入船亭扇橋、三笑亭夢楽、桂|朝丸《ざこば》、杉森智以子、杉森楢次郎、小沢昭一、木下華声、三木武夫、大河内豪、清水郁子、古今亭円菊、芝清之、五街道雲助、美濃部治子、清水邦夫、中島忠史、平塚乃里子、松本典子、赤岩政雄、井手忠、大川幸一、鏡栄、桜井迪夫、里吉しげみ、周東勇、鈴木琢二、津田純、野口久光、藤井栄子、三木のり平、村越一夫、山崎唯、山本紫朗、
の諸氏である。
連載中は、「オール讀物」編集長田所省治氏及び加藤保栄、名取昭の両氏にいろいろお手伝いいただいた。出版にあたっては、文藝春秋出版部長豊田健次氏と高松繁子さんのお世話になった。あわせてお礼申しあげる次第だ。
一九八五年 秋彼岸
[#地付き]矢 野 誠 一
初出 オール讀物/昭和五十九年五月号〜
昭和六十年七月号
単行本 昭和六十年十二月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成元年二月十日刊