矢作 俊彦
東京カウボーイ
目 次
第一部 東京カウボーイ
ワン・リトル・カウボーイ
シンデレラエキスプレス
サイドライン
六国封相
ジャップ・ザ・リッパー
第二部
暗黒街のサンマ
ボウル・ゲーム
ランデ・ヴー
西4丁目の変化
スズキさんの生活と意見
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第一部 東京カウボーイ
ワン・リトル・カウボーイ
傑《ジエイ》がまだベッドにいるうちに、レラニは窓辺へ行き、煙草に火を点けると、丸一本分の煙が風にまじる様子を目で追いかけた。
彼は睫の隙間からそっとそれを窺い、また目を閉じた。起きているのを気取られたくなかったのだ。言葉を交わさぬうちに服を着け、キスもしないまま出て行ってくれないものだろうか。コーヒーの在所ぐらい教えてやってもいいが、「お砂糖はいくつ?」などと訊かれたらたまらない。だいたい彼女は、コーヒーの在所などもちろんのこと、彼がコーヒーに砂糖を入れないことまでとっくに御承知だ。
「これ、はやってるの、J?」
レラニが尋ね、煙草をもみ消す音が聞こえた。
彼女は尻に、藍染めの布を巻きつけ、窓さきの横材《スツール》に腰かけていた。日本では紙袋代りに使われている四角い大きな布だ。他には何も、――ピアスひとつ着けていなかった。
「ハラジュクで、はやってるの?」
「フロシキっていうんだ」
ううん、と伸びをたっぷり効かせてから、彼は答えた。
「知らないのか? ここへ最初にやって来た日本人は、そ奴を接《は》ぎ合わせて洋式のシャツを作った。それがアロハ・シャツの起こりなんだぜ」
「また、あたしに恥をかかす気ね」
「本当さ。――欲しいならやるよ。アルマーニなんだぞ、それ」
「違うわ。本当はこれのこと、訊いたのよ」
言って、天幕庇《マーキー》の骨組に吊るされた三本の細長いフランスパンを突っついた。竹の鳴子みたいな音をたて、それがレラニの頭上で揺れた。
「何かのお呪い? それともお料理?」
「マラカスの代わりに使うんだ。ロッポンギじゃ、それで野球をやる」
彼女は声をたてて笑った。
「田舎者《ロコ》だと思ってからかってる|だな《ヽヽ》?」ほぼ完全な|ハワイ英語《ピジン》を真似して言った。
「パン粉をつくるんだよ」
「変なの。パンからパン粉をつくるのは、普通だわ」
「あそこじゃ、普通のことが珍しいんだ」
傑はつまらなそうに応じ、下着を引き寄せた。
「東京の流行だよ。パン粉じゃない、行ったこともない国の料理をこしらえるのがさ」
「コーヒーを飲む?」
レラニは枕許まで来て横坐りになり、彼に形のいい自分の胸を押しつけた。
「本当はベッドで使うんだ」
「どうやって?」
「昨夜みたいにさ。気がつかなかったのか」
「今度、あんたと寝るときは、ワインとバターを持って来るわ」
傑の顎の下で彼女は目を細めて笑った。
彼はそれを押しのけ、バネを利かせてベッドに一転した。勢いを駆って窓まで行った。吊した針金から引きちぎれないほど、パンは硬く乾いていた。傑は目の端に鋭い笑いをうかべ丁寧に針金を抜きとった。
「ワインじゃないよ、ウォツカだ」
「何か言った、J?」
台所の方で、レラニの声がした。食器がかちゃりと悲鳴をあげた。
「ウォツカだ。――東京のはやりさ」
パンを足許に並べ、傑は所狭しと積まれた運送会社の段ボール箱に腰かけた。窓から風がきて、短い前髪を掻きあげた。
太陽はまだダイアモンド・ヘッドの向うにあって、長い影を町へ伸し、昨夜と今朝の境目に線を引いている。眼下のワイキキは、粘土でこしらえた模型のマンハッタンだ。怪物だか宇宙人だかにぶち壊されるのを、今か今かと凍えながら待っている。
はるかの洋上に雨雲がある。海は、その雲とこちら側の朝日のせいで斑模様をこしらえている。
レラニが置いていった煙草とライターを拾い、彼は一本、口にくわえた。火はつけなかった。
彼女より先に、コーヒーの匂いが部屋へ入ってきた。ひだのある短いタンクトップに着替えていた。子供用のエプロン・ドレスを無理矢理に着て、形のいい胸の上半分をかろうじて隠したという風情だった。裸の腹は灼けて、よく引き締まっていた。その下は、彼が日本から土産に買ってきた縦|接《は》ぎのジーンズだった。尻の高さを万民平等に見せてしまう奴だ。これでもう五日、それを履きつづけている。
ベッドに足をのばし、コーヒーを口へ運んだ。
彼のカップは、慎重にサイドボードの自分に一番近い場所に置かれていた。傑がそれを取り、また窓辺へ戻ると、レラニは退屈そうに微笑んだ。フランス映画の大切なダイアローグのように、冷たく整った顔立ちの娘だった。この島ではめったにお目にかかれない。映画も、そんな女もだ。
「いくらで売れたの?」
段ボール箱で埋った室内を見回し、レラニは呟いた。
「いくらにもなりゃしないよ」
「高くなってるのよ。あたしのアパートだって二十ドルも上がったわ」
「フリーウェイの向う側ならそうだろう。だけど、こんな場所、日本人だって買やあしないさ」
「プールだってあるじゃない」
「昨今の日本人にゃ、あれはプールじゃない。風呂桶みたいなもんさ。日本の風呂桶はすごくでかいんだ」
「ギャレージだって広いし、庭もすてきよ」
「ボート・ドックもなけりゃ海も遠い。玄関先に松明《テイキ》をつけたって、こんな所、日本人は買やしないよ」
「じゃ、何で売ったのよ」
「金が要るからさ」
「お父さんの生命保険が出たんでしょう」
「葬式代でちゃらさ。ヴェトナムから帰った後でかけたんだぜ。率が変わったからな。幾らにもなりゃしない」
吐き捨てるように、足許に息を吐いた。
「憎んでいるみたいよ」レラニが言い、彼に眼を細めた。
「何を?」
「知らないわ」
「憎むわけがない」と、彼は力のない声で言った。
「何をよ?」
「親父のことだろう」
「違うわ」
「彼が俺を養子に引き取ったとき、俺は四つで何も持っちゃあいなかった。屋根のついた寝床と皿に乗った食いものをくれただけで、充分すぎるくらいさ。憎むっていうのは何の話だ」
「何を怒ってるの」
「何も怒っちゃいないよ」
「あんたと話をしていると、いつも怒られてるような気がするわ」
「気がするだけさ」
「とくに朝はそうよ。夜が幸福だったら、次の朝は必ずそうよ」
「何で、俺が親父を憎むんだ」
「お父さんじゃないわ――日本人が嫌いなのね」
今朝起きて初めて、傑は彼女の顔をちゃんと眺めた。口の端を動かしたが、結局は何も言わなかった。やがて、ゆっくり肩を竦めた。
「なんでここを売って、日本へ帰るの?」
「帰りゃしないよ。俺は日本人じゃない」
「親戚がいるんでしょう」
「俺の親戚じゃない、親父のさ。ウォーリィ・ゴロウ・スギウラ大尉の親戚だ。ミセス・スギウラの親戚なら、本土《メイン・ランド》にいる。俺の親戚はどこにもいないよ。ヴェトコンの爆弾で、一族郎党、三十人だか四十人、いっぺんに吹っ飛んだんだ」
「初耳だわ」
「初めて言ったからさ」
「何で言ったの?」
「知らねえよ」
「あなたヴェトナム系だったの?」
「馬鹿言えよ」
「じゃあ中国系《パケ》なのね」
「中国系社会《パケ・パーテイー》なんて言いかた、今どきホノルルの旧市街《タウン》だってもう使わないぜ」
「私、行くわ。仕事があるのよ」
レラニは立って来て、彼のコーヒー・カップを受け取った。自分のカップにそれを重ね、台所へ向かった。段ボール箱を迂回し、大きなスチーマ・トランクを掛け声かけて飛び越えると、姿が見えなくなった。
そこで、彼は木綿のトラウザースを着け、ラナイへ出た。
がたぴし鳴る木製の階段をだましだまし下り、芝庭を横切り、生垣を飛び越え、マヒニ・ブールヴァードへ下る坂道を、自宅のファサードの方へ引き返した。
玄関先のドライヴウェイに尻を突っこみ、トヨタのハイルーフ・ワゴンが停っている。嵩上げした屋根の上に小さな宣伝塔を乗せ、そのせいでギャレージに入れなかったのだ。
『アケボノ・ガンクラブ』
宣伝塔にはバンブー・レターが踊り、リア・ゲートでは下手くそなエアブラシのワイアット・アープが日本のカタカナでこう言っている。
「ウエルカム! トーキョー・カーボーイ」
傑は噛み煙草を吐き捨てるみたいな舌打ちをくれ、ポケットを探りながら運転席へ回った。
昨夜、彼女のバッグから抜き取っておいた鍵束を出し、運転席のドアを開いた。アームレストから下半分、そのドアの|内張り《インナー》はマジック・テープで着脱できた。それをゆっくり引きはがすと、銃床を三分の二、銃身を四分の一、それぞれ切り詰めたポンプアクションのショットガンが格納されていた。
インナーを元に戻し、ドアに鍵をかけ、傑はショットガンを手にギャレージへ足早に歩いた。そこには、父親が遺した巨きなキャディラックが横たわっていた。あちこちに錆が浮き、ドアを開けると、その重みでヒンジがぐらぐら揺れるような代物だ。
傑は、ショットガンをキャディラックの運転席の下に隠し、また外の通りを伝って家へ引き返した。
電話は、ラナイのガラス戸に手を掛けたときから鳴っていた。
居間へ飛び込み、レラニの手を払いのけ、受話器を取った。最初の呼びかけは英語だった。本土から来たアメリカ人と聞き違えるほど流暢な、ことにこの島では流暢に聞こえる英語だ。
「俺です」と、傑は日本語で応じた。
「どうなんだ。今日中に何とかしないと、旨かねえぞ」志垣の声は強い風にあおられ、しばしば濁った。自動車のエンジン音が横切った。
「どこからですか?」
「片桐のお供で、ゴルフへ行くんだよ。携帯電話をリースしたんだ」
「そ奴はいいや。試験放送ですね」
「馬鹿言う口があったら、そろそろ腰を上げちゃどうなんだ、傑。馬鹿はそのあと言ったって間に合うだろう」
「そんな余裕ありませんよ。ビギナーなんです」
「ビギナーズ・ラックっていうぜ。それとも手前、ブル咬んでるんじゃねえだろうな」
「ウフウム」
傑は、英語で曖昧に頷いた。そんな日本語は知らなかったのだ。『ブルを咬む』、今度調べよう。彼は二回、頭の中でそれを繰り返した。
「明日か明後日にも香港から経理の連中が来る。ロンドンの保険屋を相手に回して、じりっともひかねえ凄腕だ。奴らが来ちまってからじゃ遅いんだよ」
「黒い腕章をして来るんでしょう」
相手は少し考え、空電の雑音にせかされて鼻を鳴らした。「その覚悟があるんなら上等だ」
「例のゴルフ場ですね?」
「ああ、それがどうした」
「毎日じゃないですか」
「片桐は大枚はたいたんだ。使わにゃ損てふうに考えるんだよ、ああいう奴はな」
思わず鼻先で嗤った。――幸い、笑い声は日本人の耳に伝わらなかった。
「で、志垣さんみたいなタイプはどういうふうに考えるんですか」
「ハワイでゴルフの会員権なんて、どうかしてるよ。だいたい、ゴルフなんて、日本人とするもんじゃねえな。俺は三ホールごとにシャンパンを飲んで、ラフの木陰でランチバスケットと女を一辺に広げちまうようなゴルフが好きなんだ」
「それって、ヴィクトリア朝のエロ本の影響ですか」
「何だって?」志垣は当惑して甲高い声をだした。
「俺がビーバーショットを買いあさるような観光客に見えるかよ」
「そっちの準備はもういいんですね」
「でなけりゃ俺がこんな電話をするもんか」
「判りました。十九番ホールに、いい報せを届けますよ」
言って一呼吸置き、携帯電話の番号を聞いて電話を切った。
「日本語、旨いわね、J」
レラニが言った。窓辺に背中を凭れ、煙草を吸っていた。
傑は答えず、寝室へ引き返した。ベッドの足許に転げたレラニのショルダーバッグを足で引き寄せ、ポケットに鍵束を滑りこませた。
「マザータングみたいよ」声が追って来た。
ベッドへダイヴし、そこで全身を弾ませ、顔をのぞかせた彼女の注意をショルダーバッグから引き離した。そうして言った。「そんなもん、ありゃしねえよ」
「どこで習ったの」
「日本に十五年いたよ。親父が極東勤務を気に入っていたんだ」
「お父さんに習ったのね」
「日本語?――親父は片言しか喋れなかった。日本のキャンプが気に入ってただけさ」
「英語はどうなのよ」
「学校だよ」
「そうね。あんた、きれいな英語だわ」
「何だってかんだって、学校で習ったんだよ」
「人間が学ぶのは学校だけじゃないわ」
「そんなのは当り前だ」
「でも、あんたは違うんでしょ」
冷やかに言うと、レラニは煙草を揉み消し、外出の身繕いを始めた。両手で髪をかきあげ、黄色っぽいフクロウの形をしたクリップで止め、口紅を塗った。
「そうは言っても、日本語は町で覚えたんだぜ」
傑の声を背中で聞き、彼女はゆっくり振り向いた。口紅は、リップクリーム程度の効果しか上げていなかった。
「英語は違うじゃない」
「|ハワイ英語《ピジン》なんざ、糞くらえだ」
「だから日本へ行くの?」
「金が要るからって言ったろう」
「学校の友達もそう言ってるわ。日本語の教室なんて学生でパンクよ」
「ハワイにチャンスがうなっていりゃ、ピジンを習うさ。それだけのことだ」
「家を売ることはなかったわ。お父さんの葬式の後、あんた何て言ったか覚えてない? 一人で住むには広すぎるって言ったわ。ギャレージにも寝室にも、二台分のスペースがあるって」
彼は腕を組み、下腹に力を入れた。喉に唸り声を溜め、黒目を鼻柱に寄せ、その顔をレラニに向けた。唇がおそろしくゆっくり反りかえり、冷やかだが、――そして変てこりんな目つきにもかかわらず、――充分魅力的な微笑をこしらえた。
「何をしてるの」
「勉強したよ。どこの言葉でも同じさ。よく判らなかったら声をたてないで笑うんだ」
彼女はその言葉がよく判ったに違いない。声をたて、歯を見せて笑いはじめた。
そのせいで、傑は彼女と寝たことを後悔した。これで二十回目か、二十一回目のことであるにもかかわらず、――猿みたいだな。彼は、顔に深く刻まれた笑い皺と、そこでぴかぴか光っている金色の硬そうな産毛を見ながら思った。
玄関ポーチの、彫刻のある支柱に寄りかかって、レラニがワゴンに乗りこむのをぼんやり見ていると、雲が来て、山側の斜面を昏くした。そこから上にはもう家がなかった。木々が風に吠えた。ワイキキに向かって、雲の影が冷たい溶岩流のように氾がって行くのが見てとれた。
その先は、しかし上天気が水平線まで続き、海をあちこちで金色に光らせている。
「何ていう天気なの」彼女は、運転席から身を乗り出して言った。
「空が真っ二つね。良くて悪い日ってこのことだわ」
「すぐに持ち直すさ」
「西海岸じゃそうもいかないわ。だいたい天気だけのことを言ってんじゃないのよ」
「西海岸へ行くのか」
「ヨコハマ・ビーチの手前から山に入っていくの。地主から借りたの。野外だとお客が弾を沢山使ってくれるの」
「違法だな」
「社長《ボス》に言ってよ」
「字が違ってる」
「何のこと?」
「トーキョー・カーボーイ=\―それだと自動車小僧《カーボーイ》だ」
「ボスに言いなさい」
「日本人のことか」
「東京カウボーイ?――そうよ。本当はおちょくってるの。連中、知ってるのに、むしろ喜んで自分で自分のことをそう呼ぶのよ。お人好しだわ。お客は残らず日本人よ。馬鹿ね、中には拳銃だけ射ちにハワイへ来てるのもいるのよ」
「背中から射つのか?」
「自分の足を射つの。昨年なんか、新婚の若い男がふざけてマグナムをふり回しているうちに、自分のワイフの頭を吹きとばしちゃったのよ。それから、まともな射場が入れてくれないの」
「マグナム?!」
「それもフルロード。気がしれないわ。そんな手合いと山の中なんかへ行くもんで、こっちも重装備よ」
「へえ。そいつは凄いや」彼はとぼけて応え、声にせず笑った。
「銃を隠しているのよ。気がつかなかった?」
「ベッドで気付いたよ」
彼女がドアの中、足許へ体を倒したので、彼は周章《あわて》て、
「やめちまやいい。同じくらいの稼ぎなら他にもあるだろう?」と、言葉を継いだ。
「駄目よ」身を起こし、座席の位置をスライドさせ、レラニはきっぱり言った。
「勉強だもの。フィールドワークよ」
今度こそ、足許へかがんだ。彼は思わず、背中をしゃんとさせた。車の方へ一歩、走り出しそうになった。
「これもらって行くわね」
レラニの右手が例の藍染めの風呂敷を掴み出し、別れのハンカチよろしくひらひらさせた。
「アルマーニって本当なの?」
「本当さ。日本じゃキモノ・バスローブから下駄まで揃ってるんだぜ」
「さすがね。さすがに東京ね」
彼女は、ふうっと音をたて、羨望をこめた息を吐いた。「どうも判らない」
「何が判らないんだ?」
「だって、そうじゃない。その東京と、私の|カーボーイ《ヽヽヽヽヽ》達って、どうにもしっくり繋がらないもの」
「そんなもんさ。何でも、そんなもんだよ」
傑は笑い、軽く手を振った。
クラクションで応じ、『アケボノ・ガンクラブ』の送迎車は勢いよく坂道を下り始めた。
傑は笑い続けた。自分でも理由が判らなかったが、何故か、車が見えなくなってからも、ずっと笑い続けた。
キング・ストリートから中華街へ入る道はどれも、舗石沿いにベニヤ囲いが立てられ、車道を覆い隠していた。その中からのんびりと、ツルハシやスコップ、――そしてごく稀に、土木機械の音が聞こえてくる。
市はそれを再開発とよんでおり、ほとんどフィリピン人ばかりになってしまった住民は嫌がらせと呼んでいた。薬屋とか乾物屋、料理屋の添えもの司厨長として残った中国系の年寄りは、一杯飲み屋のカウンターにうなだれては、工事のついでに掘り出された孫文時代の秘密地下道の噂話で暇を賄うばかりだった。
ベニヤの衝立と低い軒に封殺された舗道では、女が立つにも、ちんぴらが身をひそめるにも様にならない。壊れた床屋の椅子での陽なたぼっこもままならない。もの好きな観光客の姿も、今ではめったに見かけない。
河岸にキャディラックを停め、中華街の目抜き通りを歩いたが、傑は一人として見知った顔に行きあわなかった。
からからに乾いたフランスパンを三本、ABCストアで買ったスミノフ・ウォツカを二本、家から持って来たギルビーのウォツカを一本、大きな紙袋に入れ、肩口に抱えて、彼は強い陽差しを背負いながら真直ぐ歩いた。荷物は重く大きかったが、背筋はしゃんとして、剃刀を呑んだような姿勢に乱れたところはなかった。すばらしく足が長く、アロハ・シャツとコットン・パンツ、踵の潰れたデッキ・シューズといった出立ちで、なお、どこかしら寒い国の軍人みたいな風情があった。この島では、それがさらに目立った。
マウナケア・ストリートの角までくると、立ち止り、辺りをぐるりと見回した。投網のように広がる、鋭いがゆるゆるとした視線だ。
街角に屯していた女たちが顔を上げた。そこは、キャバレーの軒先で、埃っぽいカーテンを虫干しするため、ドアを開け放し、その前にてんでに置かれた椅子の上、フィリピン系の女が五人、これもまた虫干しのためか、だらしなく坐って煙草や雑誌や通信販売のカタログで時間を潰しているところだった。何人か男もいたが、その中で彼に目を向けたのは、ここら界隈では有名な男娼だけだった。
傑は交差点を斜交いにわたり、ウォン・アパマの持ちビルに入った。一階は肉屋だの八百屋だの乾物屋が入ったマーケットで、古い天井扇がその空気をもっさり掻き回し、この世のものとは思えない臭いを醸していた。
通用口の脇階段を上りながら、その臭いを嗅ぎ、その音をきいた。二階のマージャン・パーラーから笑い声と牌を混ぜる音が響いてきて、するりと割りこんだ。ふいに傑は、こうしたすべてを決して嫌っていないことに気付いた。風の中、いきなりやって来るココナツ・オイルや、女たちのピーナツ・バターのような香りより、ずっと親しいものだった。それは、記憶にない記憶、芝庭とスプリンクラーと星条旗に囲まれた子供時代の、さらに以前の記憶と関係しているのに違いない。養父によれば、彼はサイゴンの中華街《シユロン》地区で生まれたのだ。
三階は四部屋のうち三つが空き部屋だった。残る一部屋に入っている貿易事務所も、一日のうち二十時間は人気がなかった。
四階まで上ると、彼は廊下の突きあたりへ行き、『黄・|※[#「耳+可」]波馬《アパマ》・洪全』と真鍮文字を打ちこんだドアをノックした。
「お入り」中国語が聞こえ、咳が後を追った。
「よく来たね、小龍子《シユウロンジー》」
事務机であり、食卓でもある、大きな丸卓子の向う側で、よく太った大柄な老人が傑を手招きした。古い冷蔵庫のようなテレックスの向うに、寝乱れたベッドが見えた。窓はすべて閉ざされ、黄ばんだシェードが降り、部屋の四隅がぼんやりするほど暗かった。エアコンがいきなり動き出し、キャビネットのガラス器が貧乏ゆすりをはじめた。
傑は紙袋を足許に置くと、不揃いの籐椅子から一脚を択び、具合をたしかめてから腰を降ろした。気分はすっきりしていた。手許が震えることも、手が汗ばむこともなかった。朝、ベッドの傍らにレラニを感じて目覚めたときよりずっと平静だった。
傑が正面から見つめると、黄は、卓子の上で水っぽい粘土から削り出したみたいな両の手を重ねあわせ、小さく頷いた。体の中へ、顎をめりこませたように見えた。
「カタギリはいいのか?」喉で声を出した。今度は日本語だった。
「奴は何をしている」
「ゴルフです。ミッド・パシフィックの会員権を手に入れたんです」
「それはすごい。――すごいことなんだろう?」頼りなく聞き返した。
「それにしても、この島にまでメンバーシップのプライヴェート・コースができるとは。いや、世の中変わったものだ」
「そうなんですか? 俺には判らないな。俺はゴルフをやりませんから」
「麻雀も?」
「ええ」
黄は穏やかに笑った。初孫に目を細める好々爺といったところだったが、こんな目で見られたら、どんな赤ん坊も火がついたように泣き喚いたろう。その目の正面から、傑はそっと自分の顔をはずした。
「君は何をするんだね、小龍子」
「スポーツですか?」
「いや、それに限らず」
「何って、――」と、言い淀み、彼は一言断って英語で言葉を継いだ。「プレイング・ゲームは何もしません。ゲーム・プレイ専門です」
老人が鳩のように笑い、目の前に置いた電気コンロのスウィッチを入れた。思ったより早く、土鍋がかたかた音をたてた。得体の知れない臭いが漂ってきた。十数種類の薬草を漬けこんだ水に唐辛子を三本とひと摘まみの塩、それでマヒマヒの切り身と日本の豆腐を炊いたものが、週日五日間、まったく変わらない彼の昼食だった。ワセダ大学を卒業した父親から伝授された日本の健康食だと、彼は説明した。そのおかげで黄は体重を百キロ以内におさえ、七十六歳の今も、四階の階段を一人で上がり降りできるのだった。
「彼らときたら、全部か零かだ」
老人は額に細かな汗を滲ませ、鍋に、――つまり傑の方へ身をのりだした。
「政府もヤクザも、――明日一日の銭金にしか目が行かない」
「そうでしょうか」
「違うかね。何年も日本にいたんだろう」
「俺には判らないな」
「君には、私と同じ血が流れている」
老人は背を立て、両手を鼻先でぱちんと重ねあわせた。
「望みはなんだ。小龍子」
「カタギリがあなたを殺そうとしている。俺はそれを伝えただけですよ、頂爺《テインイエ》」
「叔父さんと呼んでくれよ。どうぞそう呼んでくれ。君は恩人だ」
「本当にそう思っているんですか」
「君が教えてくれなければ気付かなかった。私も香港の兄弟も、日本人がまたぞろそんな冒険に乗り出すとは思ってもみなかった」
「麻薬じゃありませんよ」
「何だって?」
老人のありとも知れない肩がせり上って、その在所を主張した。それから何ごともなかったかのように土鍋に手を伸ばし、蓋を持ち上げた。甘草と枸杞《くこ》の匂いが入りまじり、卓上を満たした。
「片桐の狙いは、太平洋ルートなんかじゃありませんよ」
「じゃあ何だというんだね。我々は旨くやって来たんだ。それを今さら、――」
「叔父さんの馬仔《マーチヤイ》たちがFBIの囮捜査に協力したでしょう」
「まさか?!」
「彼はそう思ってますよ。去年、FBIにつかまったザ・ヤクザは二人とも、片桐の兄弟です」
「まさか、意趣返しで、この私を?」
「それは、理由です。彼らは、理由の正当性だけをとても重んじる」
「君は、――」
黄は豆腐をスプーンですくい、口へ運んだ。喉をゆすり、口をぬぐい、傑を見た。
老人の喉がひくひくと動き、巨漢のなかに豆腐が吸い込まれていくのを見つめながら、傑は自分が自分で思っているほど平静ではないことに気づいた。相手の一挙手一投足を、まるで遠くから望遠レンズで撮影するカメラのように見つめている自分が。
体が冷たかった。決して寒いわけでもなく、ただ背中や二の腕、腿の内側を冷たく感じているのだ。
「君はいくつだった?」
「二十四」
「それで?」老人は顎をしゃくり、またスプーンを動かした。
傑の目は、ますます長い望遠レンズに変わった。
「何が判るかって訊いてるんですか?」彼は言い、自分の声を遠くに聞いた。
「何が判ったんだ」
「土地ですよ」
「ワイキキの?」
「ここの土地です。もうワイキキは煮つまっている」
「ここをね?」甲高い声で笑った。
「ここで何をするんだ」
「知りません。聞きたいですね」
「私に?」
「ええ。叔父さんだって、慈善事業でここらの土地を買いあさっているわけじゃないでしょう」
また笑った。ずっと甲高く、大きな声で。しかしスプーンを動かす手は止まらない。
「それで?」
「俺に判っているのは、単に位置だけで言えばここが市の中心だってことです。東京なら新橋だ。空き地が一杯ある新橋なんですよ」
「カタギリも、とんでもない身内を持ったものだ」
「俺は身内じゃありません」
「じゃあ、何なんだ」
「ただの通訳です。月給で雇われているだけだ」
「通訳に、こんな大事な仕事を任せたのか」
「別に大事じゃないんです。人を殺しに行くのは、――あなたたちと違う。日本のヤクザは、鉄砲弾《ブリツト》って呼ぶ。行ったまま帰らないって意味だ」
「カミカゼだな」
「俺には判らない。判るのは大事に思ってないってことだ。大事なのはその理由だけで、殺すことじゃないんですよ」
「だというのに何故君が? 君が、何故今度はこっちの鉄砲玉を買って出るんだね」
「叔父さんたちの世界にはカミカゼも鉄砲玉もないでしょう。そして、俺がカタギリをやれば簡単だ。叔父さんが香港に借りをつくることもない」
「君はどうなる?」
「叔父さんが守ってくれる。片桐のこと、教えただけじゃ、ただの知りあいだ。俺がやれば身内だ。身内は絶対に守る。違いますか?」
傑は言い、目で投網を投げた。何がかかったのかは判らなかった。
しかし額のあたりで手応えを感じた。獲物の手応えだ。はじめて、自分の鼓動を身近に聞いた。喉の近くまで内臓が迫り上がってきたみたいだった。その感触が舌の根に苦かった。
やろうとしていることにではなく、白々と嘘を付いている自分に、彼はすっかり動転していた。鼓動はいよいよ大きくなって耳の内側に響いた。
「カタギリを取り除いて、なお、東京の連中が、君のしたことに気づかなかったとしよう。しかし、今度は君自身が、東京に土産を持っていかんとならんぞ」
老人は幽かに笑った。「連中は土産を受け取るまで、手を引くまい」
「だからって、同じ手は使えない。叔父さんにも香港にも、一度手の内を晒しちゃってるんだから。かといって全面戦争をする気なんて初手からない。すると、残る方法は、――」
「手打ちかね」
「五分五分、痛み分けで」傑は頷いた。
黄の太い指が卓子を叩いた。喉の奥から口の外へ、鳥が飛び発つみたいに笑った。
「そこに」と言いかけて、笑いをぶり返した。肩をゆすって、それを押さえこみ、自分の背後に手を振った。
「そこに酒の瓶がある」
傑は立ち上がった。丸卓子を回り、瓶のところに歩いた。
黄は、和紙の綴りを背後の袖机から取り出し、日本製の筆ペンで何か書き始めた。
「ぜひひとつ、盃を交したいよ、小龍子」書きながら言い、言い終る前にまた笑い声を洩らした。
素焼きの瓶を持って食卓に運ぶと、黄が紙片を綴りから切離し、彼に見えるよう掲げた。傑には、そこに書かれた文字が読めなかった。ピカソのエッチングとだって、区別がつかなかった。
「片桐が私を殺そうとしたと書いてある」黄が察して言った。
「だから、理も義もこちらにある。この書状を持つものにあるとな。――さあ、酒をついでくれ」
素焼きの瓶を両手で持ち上げ、黄のすぐ目の前に置いた。書状を受け取り、それを袖机の上に丁寧に乗せた。それから一歩退き、すぐ肩口を見下ろす位置に立ち、老人がのろのろと蓋を開け、口に掛けてあった竹のレードルを持ち上げるのを待った。
「盃を取りたまえ」
言い終える前に、傑は拳固を振り上げた。老人が素早くモーションを起こしたが、その両手はレードルと蓋でふさがっていた。頸椎の一番上、薄くなったはえ際に、自分の手が吸いこまれて行くのを、傑は溜息でも吐くみたいに見届けた。
くずれる頭を左手で支えた。僅かな髪を指にからめとり、くいと引きあげた。半歩、前へ出、右に拳をつくったまま身構えた。二呼吸、自分を押さえる必要があった。脳に傷を与えたら、何にもならない。三度、老人の頸椎に拳を振り降ろし、相手の頭が左手の中で急に重たくなったとき、傑は、だから手ぶらで海底から戻った海女のように、荒々しく、しかし力なく息を吸いこんだ。
黄の上体をそっと卓子に突っ伏せ、瓶の薬酒をそこへぶちまけた。もちろん、それで引火するほど強い酒ではなかった。火酒《ウオツカ》は紙袋の中だ。スミノフを二本とも、残らず黄の膝に振りかけた。透明の液体は、彼の両膝を濡らし、ペルシャ模様の絨毯にくろぐろ氾がった。
鍋は厭な音をたて、豆腐が崩れるほど煮えたぎっていた。それを火から降ろし、コンロのスウィッチを止めた。
次はフランスパンだ。二本を卓子の上へ並べ、ギルビーの栓を開けた。ベンジンの臭いが鼻と目を突いた。乾いたパンに、ベンジンは勢いよく滲みこんだ。残る一本のパンは、左手で慎重に捧げ持ち、ちょうど半分、ベンジンがいき渡るようにした。濡れた片端を二本のパンの上へ乗せ、まだ乾いている片端をコンロの熱線の上に置いた。
鍋を元へ戻し、酒瓶を袋に片付け、彼は息をついた。
それから、部屋をゆっくり見回し、自分が触ったものすべてを丁寧に拭い、電気コンロのスウィッチを入れた。
乾ききったパンが導火線の役目を果たし終えるまで十分近くかかった。ベンジンに燃え移ってからは、それに較べると一瞬の出来事だった。ベンジンがパンを榴霰弾に変え、何百もの小さな炎のかけらを卓子のまわりに弾け飛ばし、そこら中に火炎をみまったのだ。
傑は通りをはずれた、外と内の区別がほとんど無い酒場のカウンターでビールを飲み、その一部始終を身を硬くして見守っていた。
やがて、四階の窓のシェードに移った火が真赤な手のひらを振りかざし、通行人が騒ぎ出した。そのころには、もう彼はビール代をカウンターに置いて、道路を野次馬とは反対方向に歩き出していた。
車に戻り、一方通行をワイキキの方へ走りはじめると、一本南の大通りを行く消防車のサイレンとすれ違った。
ダウンタウンは、昼食帰りの車でごったがえしていた。風はなく、陽は空のてっぺんで勢いづいていた。
イオラニ宮殿の向うから聞こえて来たロイアル・ハワイアン・バンドの『竹の橋の下で』が、今日が金曜だったことを彼に伝えた。
黄金色のカメハメハ大王が、真正面で、あいも変わらず『アロハ』と呼びかけていた。その像は、ハワイ人ではなく、白人にも見えず、かと言って東洋系とも思えなかった。昔々、米軍PXでよく見かけたスペクタクル映画、――無理やりたとえるなら、孫悟空に扮したバート・ランカスターのような代物だった。
まったくもって、ここはホノルルだ。
彼は笑い出した。今日は、よく笑う日だった。
〈カタギリ・サンを呼んで下さい〉
〈カタギリ・サンは私の友達です〉
傑は何度か口に出し、中国訛を真似てから、アラモアナ・ブールヴァードの公衆電話に入り、クラブ・ハウスを呼び出した。
「近くにいるんだ」
電話に出た片桐に、英語で言った。「すぐ会えませんか」
「仕事は終わったんだな」
「英語でお願いしますよ。聞かれているかもしれない」
「バッド・ニュースがあるのか?」錆釘で砂地に書いたみたいな、ぎこちない英語で、相手は尋ねた。
「いや、旨くいった。会いたいんですよ」
「何故だ」言うと、急に日本語に戻り、
「志垣は帰っちゃったよ。今夜、一緒に会ったほうが面倒がないや」
日本人から電話があったと、ゴルフ場の従業員に知られないよう気をつけるんだ。志垣は何度も念を押した。しかし、考えてみれば、知られてまずいのは傑ではない。
彼は、そもそも日本人ではないのだ。
「二人で会いたいんですよ。志垣さんに知られないように。だから、こっちから出てきたんだ」
「何なんだよ。気味が悪いな」風で音をたてる枯れ葉みたいに、片桐は乾いた声をたててくすくす笑った。
「三十分後、自動車に電話を入れます。いいですか?」
片桐はOKを三連発して、一方的に電話を切った。
傑は、北へ大回りして混雑を迂回すると、キャディラックをワイキキの街に乗り入れた。クヒオに面したフォトサーヴィスの店でウォン老人が書き残した書状を二通コピーして、志垣に渡された封筒に一通を入れ、その場でポストに放り込んだ。封筒には、ワープロ文字で、すでに宛て名が書き込まれていた。ダウンタウンの住所と中国人の名だ。
それからアラワイ運河を渡ってフリーウェイに乗った。
フリーウェイでホノルルへ引き返し、思いきり遠回りして東海岸へ出るとカネオへの町はずれで、公衆電話から、今度は片桐の自動車電話を呼んで、落ち合う場所までの道筋を教えた。
それが済むとリケリケ・ハイウェイを南へ走った。最初の枝道に尻をつっこみ、通りを行き交う車に目をこらした。
片桐のコンティネンタルが現れるまで、だいぶ手間どった。運転席に人影はひとつだった。五メートルほど追走して、それを確かめ、大通りをはずれた。片桐に教えたのは、たしかに判りやすい道順だったが、ひどい遠回りをすることになるのだ。
傑は、狭い旧道や住宅地のドライヴウェイを抜けて、目的地へ先回りした。やがて家並が消え、舗装が終わった。道路はゆるい右カーブで斜面をのぼりはじめた。じきに海が見え、モンキーポッドの大木が立ちふさがった。そこで自動車道路は終わっていた。
木々の枝には、たわわに実ったさくらんぼみたいにマイナ鳥が止り、口々に勝手な歌を競っていた。全部が寄りあわさると、それは人類最後のテクノポップといった有様で、風と一緒に車体をゆすり、V8のエンジン音でさえ、ことりとも聞こえなかった。
傑はショットガンをシートの下から引きずり出し、グリップをスライドさせて薬室に散弾を送り込んだ。
銃口をドアのほうに向けて膝に置くと、ウォンの部屋で喉元に感じた自分の内臓の感触が蘇ってきて、彼を打ちのめした。しかし、いくら待ち構えても、心臓の鼓動は聞こえてこなかった。耳を澄ませ、挙句に待ちきれず左胸に手を当てても、鼓動どころか気配もしない。心臓が止っているみたいだと彼は思った。それで、こんなに体が冷たいのだろうか。いや、まさか。
片桐のコンティネンタルが癇性なスピードで近づいて来た。
二車身手前で、いきなりそのスピードを殺すと、運転席を寄せて止り、窓を開けた。
「何の音だい」彼は喚いた。車を降りようとはせず、額に皺寄せ、宙に苛々した視線を飛ばした。
「煩くてかなわねえなあ」
傑の車の窓は既に開いていた。もちろんエアコンも入れてはいなかった。一メートルと離れずに止った相手の車の窓から、新車のエアコン特有の薬臭い空気が漂ってきて、彼を不快な気分にさせた。
「鳥ですよ」
傑は、眸もやらずに応えた。そして初めて、鼓動が聞こえなかったのも、その気配を感じなかったのも、この音のせいだったのだと気づいた。
「あの木にたかってる黒いの、全部鳥なんですよ」
「本当に中間てもんがないんだな。何でも、しこたまたっぷりある。じゃなけりゃ何ひとつない。嫌になっちゃうよ。お前らは感じないのか。そういうの」
傑は相手の質問をまったく無視して、
「ウォンの店は燃えましたよ」
「そうか。気の毒になあ。あれは彼の親父が独力で建てたビルなんだってさ。だからって、別に文化財ってわけじゃないけどな。――上が動きだす前に、売ればよかったんだ」
「上って、香港の組織ですか」
「東京だよ。俺たちの上。東京の本社」
ふいに言葉を止めた。広く四角く陶器のような額が、今日は赧く火照っていた。きりっとした鼻梁も痛々しく灼けて、どこかしら間のびした印象だった。
片桐はサングラスの中心を、親指でぐいっと押し上げ、身を乗り出した。相変わらず降りてこようとはしない。窓を開けたせいで暑いのか、エアコンのパワーを上げた。窓が、白い息を吐き始めた。
片桐が何か言ったが、よく聞こえなかった。
傑は、エンジンを切り、窓に顔を近づけた。
「で、爺さんはどうしてる。まさか、病院に送ったりしてないだろうな」
「まあね」
「情ない返事だなあ」
「火事場へ戻ったわけじゃないから」
「どうだった?」
「火が回って十五分で、――窓まで炎がきてました」
「凄かったろ? ありゃあ、みごとに弾けるんだよ。音のしない火炎壜みたいなもんさ」
なあ、と同意を求めるように言葉を切り、ぺろりと舌で唇を湿らせた。すると、端正な顔も台無しになった。
「パンが残っていたら変じゃありませんか」
「残るもんか。炭も残らない。パン粉の炭から、パンに辿りつくのはちょっと無理だ。地上げをやっていた連中が、考え出したのさ。不動産屋の発明だ」
片桐は言い、唇の端をぎゅっとまくりあげて小さな音をたてた。ふいに目線をはずした。
「東京じゃ、不動産屋が家を燃すんですか」
「ああ。だって、不動産てのは土地のことだもん。その上にあるのは、家でも森でも同じ、商売の邪魔さ」
傑は口を噤んだ。引き金に指を這わせた。すると思わず飲みこんだ唾が喉で窮屈な音をたてた。おりよく高まった鳥の合唱に期待したものの、片桐のサングラスはおそろしく暗く、その音に気付いたのかどうかさえはっきりしなかった。
銃把を握り、両手でいつでも窓から銃口を突き出せるように、ショットガンを膝の上で構えた。
「ウォンは火の中ですよ」傑は言った。言葉が喉に絡んだ。
最後の電話で、志垣は片桐の拳銃は今も車のグローヴ・ボックスに入っているはずだと注意していた。しかし、それから一時間以上たっている。油断無く、彼は相手の右肩を見つめつづけた。
片桐は、しかしまったく動かなかった。そのうち、ゆっくり息を吐き出したが、それでも首から下は、シートに凍りついたままだった。
「火がすっかり回るまで、誰も助けには行ってない。判りますか。このこと、あんたに志垣さんが伝えろって」
「そうかい」力の抜けた声が、鳥の騒ぎを縫って切れ切れに聞こえた。
「それから、これを」
右手で銃把を握りしめたまま、傑はもう一方の手で例の書状のコピーを出し、窓から窓へ放り投げた。
片桐が足許に屈み込んだときは、さすがに緊張したが、相手は傑が銃口を窓の下縁から突き出したことにも気づかない様子で、拾い上げた書状を一心に読んでいた。
「中国語、読めるんですか」
「お前は読めないのか」
「ええ。読む方はまったく」
片桐は鼻で笑った。五歳の子供でもカチンと来るような笑い方だった。しかし、彼が笑ったのは自分以外の何者でもなかった。
「だからさ」と、言って、また笑った。
「無理やり押しつけられたんだ。こんな仕事、――ついてねえよなあ」
「何て書いてあるんですか」
片桐は、先刻ウォンが言ったこととほぼ同じ内容を、日本語で伝えた。
「みんな、俺に背負わせるってことか。――これ、お前が書かせたのか」
「いや、自分で書いて、ファックスで流したんです。あちこち流してました。一通、志垣さんに持っていけと、――」
志垣に言われたとおりのストーリーラインを、傑は思い出し思い出し、ゆっくり口にした。ファックスは『流す』でよかっただろうか。それとも、『回す』だったか。あるいは『送る』が正しいのか。
「その上で、やったのか」
「さあ、何をやったのか俺にはよく判らない。火を点けたのはたしかに俺だけど」
「あこぎってえのはこのことだよなあ。――何で俺だけ、こんな目に会うのかな。志垣を、応援に寄越すだなんて言ってきてよ。それならそうと、言ってくれりゃいいのに」
傑は、銃身を窓に凭れかけたまま、銃把とスライド・グリップから力を緩めた。
「どうしろとも、志垣さんは言ってなかった」
「お前には?」
「俺にも、片桐さんにも。この後、何をしろとも言われてない」
「畜生め。悔しいったらねえや。ガキの使いじゃないんだ。それならそれで、ちゃんと面と向かって、――」
片桐は言葉を詰まらすと、両手をハンドルにかけ、唐突に「なあ」と、同意を求めた。
ハンドルを握る手の関節が真っ白になっているのに、傑は気づいた。
「何がですか?」
「煩せえな!」ふいに怒鳴った。
「日本語だと、もう一つよく判んなくて」
「鳥のことだよ。煩くてたまらない。――暑いな。暑くねえか」
また、なあと同意を求めるように付け加え、舌で唇の縁を素早く舐めた。
「暑くてたまらないよ」手を伸ばし、パネルのスウィッチ類を乱暴に動かした。
ワイパーが動きだし、それを慌てて止めた。何のスウィッチを探しているのか、パネルの上でさらに手を動かし続けた。
「まったく、アメ車はどうしちまったんだ。すっかり勝手が違って困るぜ」
片桐はまた、なあと同意を求めた。しかし、舌は出さなかった。
いきなり、クラクションが鳴った。太く、長々と。
モンキーポッドの大木から、マイナ鳥がイナゴの大群のように、一斉に飛び立った。
羽音が空を覆い、あたりが薄暗くなった。さえずりが高くなり遠くなった。後には空気のざわめきしか残らなかった。そのころになって、遠い山に谺したクラクションが幽かに戻ってきた。
片桐は、それに目もくれず、ハンドルに両手を支い、ぶつぶつと独りごちていた。唇の端に唾が泡のように浮き上がっては引っ込んだ。
大木の梢に、もう生き物の姿は見えなかった。にもかかわらず、傑は、上空でフクロウが鳴く声を聞いた。
片桐よりだいぶ若いのに、組織での階級はずっと高いのだと、常々本人から聞かされていたが、志垣はどこをどう見ても四十を越えていた。そのくせ『若者頭』と言うのが、その職の名なのだ。
アラワイ・ヨットハーバーにやって来た志垣は、生成りの麻のスーツを素肌の上に着て、せいぜい若者のボスらしく振る舞おうとしていたが、この島ではそれでさえ、老人のいきがりのように見えた。
彼が歩いてきた方角は、ヒルトン・ハワイアン・ヴィレッジの、それだけで小都市を造っているビル群に覆い尽くされ、空がなかった。
海も、その小都市の庭やプール、人工の浜辺に扼殺され、まったく見えなかった。
傑は、ボードウォークの手摺から腰を上げ、そっと志垣の周囲に眸を配った。
犬を連れた老婦人がひとり、日本の新婚カップルが一組、後は誰も怪しく思えた。だいたいFBIが、片桐なり志垣なり、噂どおりこの島に出入りするザ・ヤクザにすべて注目しているなら、買い物クーポンの切り抜きの他、楽しみなどありそうにない老婦人も、しおたれたレイを首にして間抜け面で写真を撮り合っている若い二人の日本人も、犬以外は誰も怪しくないとは言い切れない。いや、その犬でさえ。
志垣は筋肉ではち切れそうな太い脚をどこか不満そうに交互させ、傑の目の前を通り過ぎた。白いモカシンの靴を裸足で踵を潰して履いていて、今にもそれを遠くへ蹴り飛ばしてしまいそうだった。
彼は浮き桟橋に舫われた外洋クルーザーに目をやりながら、ゆっくりボードウォークを歩き、ときおり『売りたし』の看板を見つけては時間をかけて覗き込んでいた。
管理小屋の陰に姿が消えるのを待って、傑はその後を追いかけた。
小屋の角を曲がると、そこからは鋼鉄の杭で支えたキャットウォークが大型船を係留するためのケーソンまで伸びていて、志垣はケーソンに横付けされた数隻のうち一番手前の白い大きなモーターヨットに本格的なタラップを使って乗り込もうとしているところだった。
フォアキャビンのドアまで行き、こっちに振り返った。やっと傑の顔を見咎め、軽く頷いてキャビンの中に消えた。
傑はケーソンへ海を渡った。志垣の船は、五十フィートを越えようかという大型船だった。船尾には、上陸用のテンダーと潜水用のダイヴィングデッキまで付いていた。
船体は近くで見ると白と卵色の二色に塗り分けられ、『ミネルヴァ』という船名とロバの尻尾がついた半裸の女が派手に描かれていた。
キャビンは空調が効いていた。
志垣は、スーツの上から厚手のサマー・スウェーターを羽織り、半円形のソファのど真ん中に座って、顎でテーブルの酒を勧めた。
傑が、氷を入れたグラスにミネラル・ウォーターだけ注ぎ、一息に飲むと、彼は大きな声で笑った。
「お前に、首尾はどうだったなんて聞くつもりはねえぞ」
傑は答えなかった。水をもう一杯注ぎ、半分ほど飲んだ。
「真っ直ぐここまで来たのか」
「寒いですね」傑は身震いした。実際、キャビンの空気は窓ガラスがすっかり曇ってしまうほど、よく冷やされていた。
「寒くありませんか」
「だから、酒を飲むんだ」志垣は言った。
「ハワイの陽気じゃ、こうでもしないと酒らしい酒なんざ飲めたもんじゃない」
傑はコニャックの瓶を手に取ったが、しばらくレイベルに書かれたフランス語を読んだだけで、すぐにテーブルに戻してしまった。
「どうしたよ。気分でも悪いのか?」
「酒はもう充分です。ウォツカを一本空けてきたから」
志垣は喉でしゃくり上げるように笑い、傑に椅子を勧めた。
海図テーブルの回転椅子に座ると、傑は自分が酒を決して嫌ったのではなく、我慢したのだと気づいた。
「ウォンが、いろいろと言ってました。片桐も言ってたな」
「生きてるうちは何でも言うさ」
志垣は、ソファを四つに仕切っている肘掛けの一つを上半分跳ね上げた。その中へ手を突っ込むと、いきなりキャビンが音楽で満ち溢れた。
「四十番だ。あんまりいいテープを持ってきてないんだ。まあ、これだってモーツァルトには変わりねえや」
言って立ち上がり、傑の脇まで歩いた。海図テーブルの引き出しを開け、中から書類ホルダーを捜し出し、傑の前に音をたてて置いた。「読んでみろ」
「何ですか、これ」
傑は、ホルダーに閉じられたファックス用紙を漫然と捲った。
「香港からの連絡だよ。香港はこっちに傾いてる。――ウォンの野郎、香港が二股かけてるなんて死んでも気づきゃしまい」
「血は水よりも濃いって言うんでしょう。彼は古いタイプだもの」
志垣は、ソファに戻り、また酒をつくった。今度は水で割らなかった。
「遠い親戚より近くの他人とも言うぜ」彼は喉を湿らせると言った。
「おまけにあそこは、北京とも地続きだ。十年後には自転車でも行き来できらあ」
「どういうことですか? それ」
「言ったって判るまい。ま、ホノルルの華人社会ってのは、けっこう大切だってことさ。北京にとっても、台北にとってもだ。銭金じゃない。シンボルなんだ。どっちの政府も、孫文がホノルルの雀荘ではじめたようなもんなのさ。香港筋としちゃ、今のうち、そこをきれいに掃除しとかないと夜も眠れねえってところだ」
「土地が目的だったんでしょう」
「それは経済よ。政治は別だ。どの道これで両方ともこっちのもんだ」
傑はホルダーを閉じ、引き出しに放り込んだ。
「読まないのか」志垣は太く短い首を捩じり、こっちを見つめた。顔は笑っていたが、眸に棘があった。
「読むもんだよ、こういうときは。俺が見せてやるって言ってる。有り難うございますって見るもんだ」
「何で?――志垣さんから話を聞けば、充分だ」
志垣は舌を打ち、頭を軽く横に振った。口を半開きにして、傑をぼんやり見つめた。やがて、酒のグラスを両手で持ち、それがマイクででもあるようにかがみ込んで、笑い始めた。喉で、鳥のような音をたて、背中を小刻みに揺すって笑い続けた。
「志垣さん」今度は傑が言った。
「ウォンが土地を持ってたんですよ。彼をやっちゃった以上、もう土地は手に入らないんじゃないですか」
「俺たちは泥棒じゃない、買うと言ってるんだ。ちゃんとした値で買い上げる。売らないといっていたのはウォン一人だけだ。こっちは金を出して買いたい、あっちにも売りたがっている奴がいる。殆どの奴が売りたがっているんだ。こっちはただの商売さ。邪魔を取り払っただけだ」
「じゃあ片桐はどうなんですか」
「あれは、けじめだよ。けじめ。知ってるか、けじめなんて言葉」
傑が黙っていると、志垣は俯いたまま、
「どんな感じだ」と、訊いて、口の端に笑いを泛かべた。
「何がですか」
「おまえさ。やりおおした気分だよ。――あの爺さん、知らねえ仲じゃないんだろう」
傑は口を噤んだ。しばらく、そうして窓からやって来る日差しに目を細めていた。
「高い腕時計を失くしたみたいな気がする」傑は、やっと言った。
「カルティエなんざ持ったことはあるまい」
「今度買いますよ。買ってみないと何ともいえない」
背凭れに深々と背を預け、志垣は口から息を吐いた。「失くしたもんが何で、どんなもんかはっきりしているだけ俺なんかよりずっといいや」
「どういうことですか、それ?」
「尖んがるなよ。悪く言ったんじゃねえや」
「志垣さんは何も失くしちゃいないよ」
「今度の件か?――今度の件じゃねえよ、俺が言うのは。――俺は、おまえのこと羨ましいって言ってんだ」
「俺の何をですか?」
「おまえはあっちにもこっちにも、東京にも中華街にも、町場の連中にもそうじゃねえ連中にも――ほら、こうしてこの国にもよ。何にもかににも、ちょっとずつ何かとっかかりがあるじゃねえか。ちょっとずつってとこがいいやな」
「こんな所、国なんてもんじゃない」
「どこでもさ。たとえ、どこでもってことだよ」何故だか苛々と声を荒らげ、志垣は視線を背けて言った。
「それを言うなら、逆ですよ。俺から見れば、まったく逆だな。あんたたちの方が、――」
「口答えの多い野郎だ」志垣がぴしゃりと言った。
「すいません。日本語だと、ピンとこなくて」
「いろいろ択べたってことだよ。二つから択ぶのと、十から択ぶんじゃ大違いだ。俺なんざ、下手すりゃ、それひとつ択んでそれっきりってえのが常々さ。判るか?」
「片桐は、いくつ択べたんですか」
「さあな。あれは自業自得だ。一家も構えていないくせに、欲をかきすぎたんだ。あ奴の裁量で、組の金使って土地に手を出すなんて、そもそも大馬鹿さ」と、低い嗄れた声で言った。
「俺が収拾に来たって、毎日、脳天気にゴルフに誘って、それで何とかなるって高くくってやがる」
「つまり、ええと」傑は口ごもり、暫く考えた末、
「失敗の代償として自分の生命を提供するしかなかったんですね」と英語で尋ねた。
「そうしたけりゃ、そうするさ。逃げるんならどんどん逃げりゃいい。どっちにしろ犯人がいる。警察のためにだけじゃねえよ。犯人の首を差し出してやらないと、あそこの土地を売りたがっている奴らが、香港の大老に対して面子が立たねえと言いやがる。あ奴が駄目なのは、自分からは何も始められないってとこさ。こっちが、道をつけてやらなきゃ、いつまでもゴルフ三昧、泣き言を並べてるだけなんだ」
志垣は、傑から渡されたウォンの書状をつまみ上げ、それを海図テーブルに投げ出すと、鼻を鳴らし、顔を歪めた。
「最後の土壇場に来たって、お前相手に同じことしていやがる。そうじゃないか? 奴は得物を持ってたんだ。言ったろ、危ないからショットガンを持ってけってな。奴がそこで気合を入れて、お前の首を屠《と》って、向こうに差し出すなり、俺に投げ返すなりすりゃ、それはそれで道が拓けた。――違うか」
「そうしてたら、志垣さんはどうするつもりだったんですか」
「どうもしないよ。一番得な収め方を、その時になって考えるさ」
志垣は残っていた酒を一息に空け、ちらりと傑をいたずらっぽい眸で窺った。
傑は、だまって、その眸に笑い返した。
「どうした。不服か?」
「いや。家を売ってよかった、そう思っただけですよ」
「バカ。お前の親父のあんな土地のことで、誰が命張るかよ」
志垣は喉を鳴らし、鳥のように笑った。そのまま、ソファにごろりと身を横たえた。何秒もなく、鼾をかきはじめた。そのままの恰好で、凍り付くように、志垣は眠りに落ちた。
傑は、もう一杯、水だけ飲んで、キャビンを出た。
夜になるとワイキキの通りを快い風が走った。日本人の娘たちがそのたびに笑い、ある者は男の腕にしがみつき、ある者は無いも同然の裾をひっぱり、昼の間は水着と呼ばれている布きれを隠そうとした。
他の娘たちは誰も胸をはり、なるべく沢山その風を受けとめようとして歩いていた。身をこごめるのは、ストローハットを買ったばかりの年寄りだけだった。
小さな三角旗をひるがえし、辻から辻をねり歩く、レンタル・モペッドの連中は、大袈裟な悲鳴でそれに抗ったが、ちょっと離れて聞く限り、誰の耳にも笑い声にしか聞こえなかった。そして彼らも、決して速度を落としたりしなかった。
ティキ・スタイルの松明があちこちで激しく炎をゆらし、キャディラックをゆっくり転がす傑に昼間の出来ごとを思い出させた。
クヒオ・アベニューをデューティフリー・センターの方へ少し入ったオフィス・ビルの前で、レラニのワゴン車をみつけた。案の定、ドアにロックはかかっていなかった。目の前が、アケボノ・ガンクラブの事務所なのだ。
傑は自分の車をぴったり寄せて止め、辺りを見回すこともなく、ワゴン車に乗り移ると、ショットガンをインナーの隠しポケットへ突っこんだ。
ドアを閉め、しばらく迷った。
そこで素早く車を出し、一方通行をぐるりと回ってカラカウア通りへ出た。ホテル街の渋滞をやっとやりすごし、右手にパームの影と海の気配がひろがる辺りまで来ると、後ろから来た車が彼にパッシングをくれた。
『アケボノ・ガンクラブ』
宣伝塔に灯が点っていた。
傑は速度をおとし、路肩に寄った。デッド・スロウ。しかしブレーキは踏まなかった。
トヨタのワゴンが左に並んだ。高い位置からレラニが見降ろしていた。
「何か用があったんでしょう」彼女は叫んだ。頭をすっぽり、例の風呂敷で山賊の親分みたいにくるんでいた。
「用なんかないよ」
「事務所の前でうろうろしてたじゃないの」言いながら、何度も風呂敷からはみ出した前髪をかきあげた。
「フィールドワークってやつが気になってたんだ」
「何ですって?」
「フィールドワークさ。ガンクラブで何を学ぶんだ」
「日本人よ。私、人類学を取っているのよ」
「人類学ってのは、サファリジャケットを着てヴィクトリア湖を見つけに行く学問じゃなかったのかい?」
「探検に変わりはないわ」
「何の探検か判ったもんじゃねえや」
「ボスの家に荷物を届けたらフリーなのよ」
「サシミ、テンプラ、スシ、スキヤキ以外の食いものならつき合ってもいいよ」
「何、笑っているの。――中華料理はいかが」
「いいね。ちょうど考えてたところなんだ」彼は叫んだ。車はもう殆ど停っていた。いくつかのクラクションが彼らを追い抜いて行った。
「何を?」レラニがこっちへ体をたおした。
「広東語を習うんだ。学校でじゃない、町でだぜ」
「それなら中華料理屋よ」
「しこたま奢るぜ。当分会えないからな」
「いつ帰るの?――明日帰っちゃうの?」
「どこへも帰りゃしないよ」
「嘘よ。ジャルのエアチケットを見たわ。ブッキングしてあったわ」
「帰るんじゃないよ。行くんだ。いつだってどこへだってさ」
「だったら何故、家を売っちゃったの?」
「いいかげんにしろ!!」ハンドルをひっぱたいた。声が頭に抜けた。
「お願いよ、J」
「Jなんて言うなよ。発音が違うんだ。本当は漢字で書くんだぜ」
車はもう完全に停っていた。
レラニはハンド・ブレーキをかけ、助手席側の窓から顔を突き出した。
「売りたかっただけさ」と、彼は言った。
「ウォーリィ・ゴロウ・スギウラ大尉のものを全部売っちまいたかったんだよ」
「それで?」
「それだけさ」
「車は?」
「よかったら売るよ」
「いくら?」
「五百ドルでどうだ?」
「百ドルだってごめんよ。そんな馬鹿馬鹿しい大きい車」
「みんな同じことを言うよ」
「今どき黒人だって乗らないわ」
傑は頷いた。スクラップ屋でさえ、廃車料金を払わない限り引き取らないと、昨日言われたばかりだった。そう背の高くない、あの日系の父親は、何だってこんなフル・サイズのV8をずっと乗りついできたのだろう。それを思い、くすくす笑った。
「二十五ドルで買うわ。ハワイに帰って来たとき、あんたが泊まる場所にすりゃいいのよ」
帰るわけじゃない。――むきになって言いかけ、彼は寸前、口を閉ざした。アクセルを踏みながら、レラニに視線をぱっと投げた。
「その二十五ドルでチョップスイを奢るよ」
「ついて来なさい、トウキョウ・カウボーイ」
いきなり走り出したワゴンを追いながら、彼は大声を出して笑った。動物園に沿って海岸通りを外れるまで笑い続けた。
これほど何回も笑う一日など、これまでもこれからも、多分彼にはなかったに違いない。
[#改ページ]
シンデレラエキスプレス
「恭謙《アテンシヨン》!」
金切声が飛んだ。油の切れた自転車が、いきなり声をはりあげたみたいだった。キャンプの南、窪地になってうだうだ続く日本人住宅からキニック・スクールの教会へ、それは毎朝、悲鳴をあげつつ牧師を運んで来るのだ。
軍服の衿ぐりから白いローマン・カラーをのぞかせて、当の牧師は今、目の前に立っていた。
「恭謙《アテンシヨン》!」
牧師は自転車のスタンドを立てた。ヴェトナムから帰ったばかりの大きなニグロだった。
傑とその仲間はプールの縁にだらしなく並んでいた。白人の子供は一人もいなかった。
牧師が聖書を腰だめ三点射に構え、煙草好きの前歯みたいな色の目でこちらを睨《ね》めつけた。
傑は、全身を耳にして背筋を伸した。
「お呼び出しを申し上げます」自転車は語調を変えた。日本人の英語だった。
彼はあわてて立ち上がった。教室という教室からプールへ注がれている無数のひややかな視線に立ち向かうべく顎を引いた。すると、正面からやって来るカートが見えた。ぶつかる寸前、カートはブレーキをかけ、デューティ・フリーのビニール袋を振りおとした。レミ・マルタンが転げ出た。
空港ロビーのベンチで、つい舟を漕いでいたのだ。目を閉じた数瞬に、けっこう長い夢を見た。そのことに気づくと、彼は改めて慌てた。仕事中に夢、――それも、学校時代の夢などを。
我知らず、勢いづけて立ち上がっていた。
ゴルフ・ウェアの老人が不快そうに口を曲げ、目の前でビニール袋にかがみこんだ。脇のベンチでは、傑の唐突な挙動に、思わずつられて腰を泛かせた娘が、その腰のやり場に困っていた。天井の方では夢の中の自転車が、アンカレッジからBAで到着したミスタ・ダンカンを探してのんびりペダルをこいでいた。
「アテンション・プリーズ、ミスタ・ダンカン、ミスタ・ダンカン」
老人の尻に別のカートがぶつかった。
公衆電話にできた列からぼんやりした視線を投げていた国際線のスチュワデスが疲れた笑いをうかべた。
傑は投網のような眸差しを、あたりへぱっと投げこんだ。スチュワデスが全身で振り返った。ベンチの娘はまた腰を泛かせ、老人は目をそらして口をもぐもぐさせた。亭主同伴の女が他にも二人、彼の眸差しにからめとられた。
ソウル発の早朝第一便は、すでに到着手続きを終えていた。
彼は、二つあるアライヴァル・ゲートのちょうど中間まで歩いた。そこに飾られた一番新しい白いトヨタの前まで行くと、展示台のへりに腰かけた。絹のポケット・チーフを抜きとって懐へしまい、そこからおそろしく地味なネクタイを引きずり出し、シャツのボタンをきっちり掛けて胸許に光っていた純金のチェーンを隠した。ネクタイを締め、その端を抓み、うんざりした顔で自分の白麻のスーツと見較べた。
TVカメラを担いだ男とマイクを握った女がノース・ウイングの方へ駆けて行った。腕章をした男たちが、口々に短く叫びながらその後に続き、若者たちの視線が舌なめずりのようにそれを追いかけた。
傑の膝すれすれを、そのとき大袈裟なガンクラブチェックのジャケットを着た男が横切った。怒り肩でがっしりした体格、足は短いが一旦走り出せばすごく速そうだった。
傑は軸足に力を入れ、ネクタイをゆるめた。
男はいきなり別の方向へ歩き出した。
「おお、こっちだ」ゲートに声をかけた。
「こっち、こっち」
ゲートから出て来たフィリピン人の娘が五人、彼の声に顔を向けた。誰も若く、少くとも三人は美しかった。TシャツにGパンという恰好もいれば、安ぴかもののパーティ・ドレスといった恰好も混っていた。
男は思いきり唇を曲げて話しかけ、返事も待たず、荷物ひとつ引き受けようともせず、先に立って歩きはじめた。娘たちはあれもこれもはねのけるといった態度に神妙な顔を乗せ、その後に続いた。
人波が引くころになって、安田はゲートに姿をあらわした。窺うような目であたりを見回し、気がすむまで傑に注意を向けようとしなかった。やっと目をあわせ、小ぶりなアタッシェ・ケースを持ちかえて出口に歩き出した。ドレス・シャツは洗いたてだった。髪もよく梳かしてあった。青いサマーポーラのスーツには皺ひとつなかった。
傑は別の自動ドアから車寄せに出て、安田がこっちへやって来るのを確かめると、黙ってドライヴウェイを渡った。空に日はますます高く、ジェット機の轟音を冷くはね返していた。広い駐車場が、倍に広く見えた。彼は干柿色のメルツェデスまで行き、後ろのドアを開けて待った。
「トイレで髭を剃ってたんだ」追いついた安田は不安そうな声で言った。
「寝ぼうしちゃって、――」
「それでも眠れたんですね」
「三時間かな。よく働くよ、奴らも」
安田は傑が開けたドアを締め、助手席に乗りこんだ。
「誰かに見られたら、言いわけがたたないじゃないか。ハイヤーだって、めったに後ろにゃ乗れないんだ」
傑がちょっと乱暴に車を出すと、彼は周章てて言った。
「このあいだ、飛行機のトイレで失敗しちゃってね」さらに周章ててつけ加えた。
「何がですか?」
「何? ああ、髭剃りさ」
「電気じゃないんですか」
「かぶれちゃうんだよ。何でかな、色々試したんだが、電気だとかぶれるんだ」
とがった顎を片手でひねった。「かぶれちゃうんだ。君の、――社長もそうだぜ」
「電気剃刀で?」
「社長でいいんだろう」験すように聞き返した。
「志垣ですか?――ぼくはちゃんとした社員じゃないから」
「志垣さ。――あ奴も電気だとかぶれるんだ。学生のころからさ」
「そうですか、気がつかなかった」
安田が突然すごい勢いで動き、シートベルトを掛けた。東京へ向かう高速道路のランプに上ったところだった。傑は苦笑して、それに従った。反対車線前方の検問所に、機動隊員の姿が見えていた。
「安田さんは気にしすぎですよ」傑は言った。
「何が?」
「やつらは交通の取締りなんかしませんよ」
返事はなかった。傑はFM放送をつけた。日本人の男がニグロを真似た英語で、三浦半島の天気を予想していた。
「暑くなりそうだ」と、男は言った。「暑くなりそうなので、二十五年前の今日のビルボード一位から、――」
音楽がはじまった。道路は混んでいなかった。トラックは多かったが、どれも追越車線をけっこうなスピードで走っていた。路肩側は小さな商用車に前を塞がれていた。
「こんな時間に帰って来る月給取りなんていませんよ」
「月給取り?」安田が声音を高くした。
「ええ」
「すげえ言葉を知ってるんだな」
「すいません。俺、ほら、言葉が足らないもんだから。――サラリーマンって、悪い言い方でしょう」
「そうでもないよ。植木等からこっち、全然そんなことはない。知らないか、植木等なんて」
「知ってますよ。そのころ、俺、横浜ですから。四つの年から十四、五年、こっちにいたんです」
「ネイヴィ? 日系かい」
「親父はね。俺はもらいっ子だから」
「そう」彼は頷き、ちらりと傑を見た。
「マザータングみたいだぜ、君の日本語」
「だから余計ね。ビジネスマンが日本語で通じるかどうか、ふいに判んなくなっちゃうんだ」
「どこなの?」
「マザータング?――ヴェトナム語か中国語。どっちか判らない。どっちにしろ喋れない」
空輸会社のマークが入った保冷トラックの尻に、傑はパッシングを浴びせた。後方のハイエースが、これでもう数分間、メルツェデスを煽りつづけていた。
「そんなに急がなくてもいいよ」
安田は腕のローレックスで時刻を読み、そのまま細おもてな顔に皺をよせた。腕時計をはずすと、膝に乗せたアタッシェ・ケースの中でデジタル表示のリコーと取りかえた。
傑はウィンカーを出し、アクセル・ワークだけで保冷トラックを追い抜いた。
「同僚の目を気にしているわけじゃないんだ」
安田が嗄れた声で言った。「会社がね。ことに総務がさ、最近、ちょっと、――」
彼はふっと息を吐《つ》き、助手席に身じろぎして自分の身形《みなり》を見回した。カマボコ形の指輪と宝石のついたタイタックをみつけ、慎重にむしり取った。
「こういうもので人を値踏みするからね」彼は顔の下半分に笑いをつくった。「韓国人は金ピカの数で勝負してるんだ。まるで、――」
安田は口を開いたまま言葉を失くした。胸ポケットから抜きとったハンカチに、金ぴかを包み、アタッシェ・ケースの中に片づけた。
「まるでヤクザみたいですね」と、傑はつないだ。
「似てるから余計目立つんだよ」安田は溜息まじりに言った。
「何が?」
「いや、そういうディティールが。異文化のディティールがさ」
「ヤクザとカタギのですか?」
「意地が悪いな。ぼくと君んとこの社長とは、ゼミ仲間だぜ。二十年近いつきあいだ。だから引き受けた仕事だよ。会社の規則にゃ反してるが、イリーガルだとは思っちゃいない。そうだったら、引き受けないよ。志垣はマーケティング会社の経営者だ。そうじゃないのか」
「そうですよ」
「だったら、そのままにしておいてくれ。他で何をしていようと、ぼくとは無縁だ。ぼくは何も聞いてない。――判るだろう」
「判りました。すいません」
「いや、別にいいんだ」
安田は、傑が口の端に浮かべた笑いから、顔をそらせた。ケースから出した眼鏡を、無言で時間をかけて磨き、真左に向きを変えた朝日に翳してたしかめた。それをかけると、安田は月曜の朝、会社へ向かう計測器メーカァの技術者そのものに戻ったようだった。
「兄貴が」と、傑は笑い声で思わず言いかけ、
「志垣さんが俺に押っつけたんですよ、このネクタイ。身形をきちんとしてけ、目《ガン》はとばすんじゃない、あれはするな、これはこうしろって、幼稚園の面接《ラインナツプ》じゃあるまいし」
彼はハンドルを左手で支えてネクタイをはずし、ポケット・チーフを戻した。
「どうしても一緒に来れないからって、テンション上げちゃって、こっちが弱りましたよ」
「他の人はどうしてるの?」
「他の?」
「ソウルでアルバイトしている人さ。――ぼくだけじゃないだろう」
「人によりますね。向うの会社にもよるんです。こっちに支社があるメーカァなんかだとタクシーのチケットを一ヶ月分まとめて出すし、自家用車を成田に置いとく人も多いんですよ。本人の希望でね。駐車料金は、こちらでペイに乗せるけど」
「送り迎えは?」
「ええ」
「ぼくだけか」
「ええ、今のところは。――みんな金曜の夜に行って、日曜の夜、帰って来るでしょう。かちあっちゃいますからね。バスを出すわけにも行かないし」
「バスか?」
「ええ」
「土建屋の口入れだな、まるで」
「だから、――」
「ま、お互い知りあいにはなりたくないもんな」
「でも、顔なんか判っちゃってるでしょう」
「そうだな。二、三人はね。ことに行きはほとんど毎週同じ便に乗りあわせてるんだから」
安田はくすくす笑い、両膝を両手でぎゅっとつかんだ。
傑はウィンド・シールドから目を移し、隣に坐った日本人技術者を盗み見た。
会社帰りの金曜最終便、二十人近い男たちが、同じような背広に同じようなネクタイを締め、お互いがお互いから顔をそらせ、そのくせ夕刊の上へり越しに互いを捜しあって短く視線をとばしている、その姿を容易く思い描くことができた。玄界灘上空で、彼らは一様に、同じようなアタッシェ・ケースから同じような金ピカを取り出し、身につけるのだろうか。
「君、朝飯は?」安田がふいに尋ねた。
「いや、寝てないんです。いつが朝飯に手頃か判らない」
「君も仕事か?」
「博奕です」
「はあ、博突ね」安田が吐息とともに言った。
「なるほどね」
「飛行機の軽食、出ませんでした?」
「だから髭剃りさ。トイレが狭くてね、手間がかかる。おかげでいつも食いそびれちまうんだ。十時から会議なんでね、今食べそこなうと一時、二時か、でなけりゃホカ弁だな」
「まさか?」
「本当さ。技術屋の昼なんてそんなもんだよ」
「成田で気がつけばな」傑は気のない嘆息で応えた。
「この先、もう浦安までホテルなんかないですよ」
「ホテル?」
「他にないでしょう、まともなメシ屋って言ったら。時間が時間だから」
安田は不思議そうに首を回し、傑の目を窺った。
「うどんでいいんだよ」
「ソバ屋だって、十時、十一時でしょう」
「立ち喰いでいいんだよ」
「そんなことしたら、志垣にドヤされちまいます」
「いいんだよ、立ち喰いで。俺がおごるよ」苛々した声で言った。
傑は、顎をひくほどびっくりした。おごりですか? と口の中、喉の奥でくりかえし、それから笑い出した。ついにいいとも悪いとも言わず、左車線へ転じた。
東京の方角に赤茶けた雲がはり出していた。空の下半分は、嗽シロップみたいに濁っていた。道がそっちへ大きく旋回すると、朝から夕へひと続きになったパノラマを見せられている具合だった。いきなり高い防音壁が左右に現れ、空からますます朝を奪った。
「土、日とホテルの朝食だったからね。寝不足でさ、いや、まったく、うどんぐらいしかうけつけないんだ」
「俺はいいんですよ」
「まったく、技術情報を売ってるんじゃなくて、休みを売ってるようなもんさ」
「向うは何か言ってましたか。日曜に帰さなかったことで」
「帰さなかったんじゃないんだ。帰らなかったんだ」
「安田さんが帰るのを希望しなかったんですか」
「いや、そうじゃなくってさ」ふと言葉を切り、今度は正確な英語で、
「データのすりあわせが終らなかった。向うは来週でいいと言った。そうすると向うの技術者を一週間、まったく無駄にあそばせておくことになる。それがいやだった」と言った。
「帰れなかったってことじゃないですか」
「帰らなかったんだよ」不機嫌に応じた。
「日本語は難しいや」
「そうかな?」
「どっちにしろ、志垣が取るものは取るようはからいましたから」
「解析装置が古いんだ。つい自分の研究室みたいな気になってね、手間を読みちがえた。こっちの責任さ」
「判んないなぁ。時間給なんですよ」
「いいんだ。俺の見こみ違いさ。中途で帰れないよ」
「仕事が好きなんですね」
「好きなもんか。もう四十だぜ。ただの性分だ」
「性分って?」
「性質だよ。キャラクター。君が博奕で帰らないのと同じだ」
「ショーブンね」
「ああ、そうさ」
傑は言葉を探してぐずぐず時間を使い、しまいに英語で、
「あんたを認めた」と、言った。
「ふうん」安田は彼を見て、口をとがらせた。「そうかい?」
サーヴィス・エリアの待避線に入り、スピードを落とした。後ろから来ていたハイエースのヴァンが、そのままの車線、そのままの速度でメルツェデスを追い抜いて行き、ほんの一車身先で急ブレーキを踏んだ。ウィンカーも点けず、いきなり目の前へ躍りこんできた。
傑は、シフト・ダウンしてクラクションを鳴らし、窓を開けて呶鳴ろうとした。途中で空気をがぶりと咬んだ。昨夜、別れぎわ、志垣は彼に都合三度、くりかえしこう言い残した。
「でけえ声を出すんじゃねえぞ。お前のでけえ声ときたら格別だからな」
「馬鹿野郎!」安田が叫んだ。傑の耳が強《したた》かしびれた。
「こういうときじゃないとできないからな」彼は言った。
「煽らないで下さいよ」
「たまにはいいじゃないか」
「窓を開けてやりゃあいいのに」
「窓か?」
不思議そうにそこを見上げた。
「気がつかなかったよ」
花の落ちはじめた夾竹桃の生垣にそってパーキング・エリアを回りこむと、がらんと拓《ひら》けた駐車場の角、ハイエースがトレーラーの陰にちぢこまるようにして止ったところだった。乗用車は一台もいなかった。
傑は白線を無視して、駐車場のど真中に停車した。
ヴァンの運転席から、両眉の端を剃り落とした若い男が降りて来て、後ろのスライド・ドアを開いた。フィリピン娘が五人、つながって出てきた。その間に助手席のドアが開き、ガンクラブチェックのジャケットを着た四十年配の男が路上で背伸びした。そっぽを向いていたが、目は注意深く傑の方を見ていた。空港ですれちがった男だった。
「イート、イート」眉の足らない男が娘たちに声をかけた。
「イート・サムシング。エニー・OK・ユウ・ライク」
娘たちが弱々しく笑った。一人だけ、ずいぶん長く笑っていた。頑丈で肉感的な脚をした娘で、ジーンズのたち切りパンツからそれが思う存分のぞけていた。
食堂の長い立ち喰いカウンターには、老婆と二人の少女、揃いのTシャツを着た夫婦一組の家族連れと、トラックの運転手が二人しかいなかった。暑くなりはじめていたが、硝子戸はぴったり閉ざされ、空調がむっとする音をたててケチャップと醤油と揚ものの匂いを混ぜこぜにしていた。
食事中の者もそうでない者も誰一人口をきいておらず、傑と安田がフィリピン人の一行からだいぶ遅れて入って行くと、大人たち全員が短くこっちを睨んだ。子供は笑っていなかった。トラック運転手の目は、すぐにフィリピン娘の一人に戻った。ラテン系の顔立ちの巻き毛の娘だった。子供たちも彼女を見ていた。
例の男は、目を離さないまま彼らの脇をすり抜け、自動販売機が並んだ通路からトイレの方へ歩き去った。他の目は、ふわふわ宙にさまよった。
「けつねうどん」と、安田は言った。「君は?」
「同じものを」
「たまごは?」
「すいません、生はちょっと、――」
「生たまごは駄目か。そうか。そうだね」
「納豆は平気なんです」
「うどんに?!」
「いや、スチーム・ライスに」傑は真顔で言った。
「ああ、そうか。中国にもあるからな、同じようなの」
「そうですか」
「うん。大丸の地下で売ってるよ。かみさんが好きなんだ」言葉が口細り、彼は苦笑した。
「北関東の生れでさ、まいっちゃうよ」
「どういう意味ですか、よく判らないけど、――」
「ひとつが、たまご入り。ね」三角巾で頭をまとめた中年の賄い女が、金歯をひらつかせて訊ねた。こっちが答えないうち、湯気の中で手を動かしはじめた。
三人のフィリピン娘が、真剣な表情で何か喋りはじめた。巻き毛が話題の中心になっていた。その三人は、もし日本人の顔にあったら美容整形まちがいなしの鋭く高い鼻をして、額が張り、頬も高く、三人とも美しかった。カウンターにフランクフルト・ソーセージ入りのドーナツが四皿並んだ。眉の足らない男が自分の一本をスウィッチ・ナイフのように構え、巻き毛に突き出し、タガログ語を喋った。三人はくすくす、体をぶつけあって笑った。
残る二人の娘は、こちら側に少し離れて立っていた。一人はジーンズのたち切りパンツを履いた脚のすばらしい娘だった。もう一人は腰のすぐ上に巨きなリボンがついた、まるでクリスマス・プレゼントの化粧箱みたいなドレスを着て、背中だけむき出しにしていた。彼女の方が背が低く、年も少し若かった。おずおずとした態度が余計に小さく、若く見せていた。二人とも、他の三人より浅黒く、ぽっちゃりとした唇、肌つやはぴかぴかで笑顔を想像するのがたやすい丸顔だった。
うどんの碗が三つとハンバーガァの紙皿がひとつ、カウンターのこちら寄りに並んだ。
「すうどんは誰かね?」と店の男に訊かれ、二人の娘は体をこわばらせた。眉の足らない男は、一番端のミニ・ドレスとふざけあっていた。
「どっちがプレーン・ヌードルだ」傑は言った。
大きい方がリボンの娘にそれを取ってやった。
安田はすごい迅さで食べはじめた。一口ごと、顔の方を碗すれすれに近づけていた。
大きい方の娘はハンバーガァを取り、一口食べて目を大きく見開き、それからすぐ目を瞑って喉を鳴らした。バウンズをめくると、ソースの滲みたコロッケがのぞけた。鼻を近づけ、怖々、匂いをかいだ。本当のハンバーガァもあるにはあったのだが、傑は黙っていた。先刻、カウンターの上に並んだ写真入りのメニュウを指さし、娘は自分でそれを択んだのだ。
彼女はやがて大きく息を吐き、黙って食べつづけた。
「あなた、日本人?」彼女は笑って傑に尋ねた。
「さぁね」
「違うでしょう。あたし、判るわ」
「最近多いなぁ」運転手が言い、楊子をくわえて背後の戸を開いた。
「多いですねえ」もう一人の運転手が言った。彼らは戸を閉めて行かなかった。
「こないだの、どうしたの?」
「飯おごって、三千円やって、それきり」
「へえ」
「しかし、土浦の|あれ《ヽヽ》とは違うな。新宿行くんだろうね、あぁいうのは」聞こえよがしに声が大きくなった。
「鼻が違うな、鼻だよな、いちばん」
片方が「値段も」と言い、二人は笑い声をたてた。
安田が、素早く動いて片手で硝子戸をぴしゃりと締め、またうどんを啜りはじめた。
「何でだ」傑は娘を目で促した。
「何が何でなの?」
「俺のことさ」
「判るわ。日本人は指で判るわ。真直ぐ、ぴんとさせて手を開かないわ。ぎゅっと力を入れて握らないわ。絶対にそうなのよ」
「気がつかなかったよ。――日本ははじめてじゃないんだな」
「最初が九ヶ月。今度が二度目だわ。あなたは?」
「最初が十四年、今度が四年めだ」
リボンの娘が、彼女に何か言った。
「妹ははじめてなのよ」脚のすばらしい娘が、その肩に手を回した。
「名前は何ていうんだ」
「マリーア。私はジーン。あなたは」
「ジェイ。――それ、本名か」
「本当はヌネーよ。あなたは?」
「ああ、きっと本当の名前だよ。妹さんは何ていうんだ」
「妹は本当にマリーア」渋面をつくってみせた。
おそろしくひっそりと、遠い端の硝子戸から家族連れが出て行った。
「妹が心配してるわ」ヌネーが言った。
「あ。きれいなお姉ちゃん」小さな方の少女が、硝子戸の外で声をあげた。
「本当にねえ」彼女の手をひき、老婆は応じたが、まったくの無表情だった。二人は、彼らの真後ろを回りこむと反対端の硝子戸から再び店内に入り、トイレに歩き去った。
入れ代りに、ガンクラブチェックのジャケットを着た男が戻って来た。
若夫婦の方は、すでに大きい方の娘を連れ、すぐ前に停めたマークUのドアを開いていた。こっちへ向けた視線をあわててそらせた。
傑は、首を傾げた。
「何を心配してるんだ」彼は言った。
姉妹が短く、言葉を交した。それから、
「日本には教会があるのですか」マリーアが英語で訊いた。
「キャンプにならあるさ」
「キャンプって何なの」姉が言った。
「米軍のキャンプだ」
「そこしかないの?」
「知らないな。他のは気をつけて探したことはない」
「キャンプにはパトロンがいないと入れないわよ」
「教会にだってパトロンがいないと入れないよ」
「教会がパトロンなんだよ」と、安田が言った。碗は汁まで空になっていた。
「失礼、割りこんでしまって」ヌネーにたいそう丁寧な調子で詫びた。
「キャンプにカソリックの教会はないよ。牧師はみんな、おかまのニグロなんだ」傑はぴしゃりと言ってのけた。中華包丁で豚足を切るみたいに掌《て》のひらを動かした。
「アメリカン・スクール?」口をハンカチで拭い、安田が訊ねた。
「戦争中でしたからね」英語で応じた。
「それも最後のころ。学校っていうより注射器《ポンプ》の置いてない公衆便所って感じだった」
カウンターを掌ではたいた。大きな音がして、向う側の娘たちまでたじろいだ。
「おい、どうかしたのか?!」甲高く、力のこもった声が飛んだ。
その主を探して眸を動かすと、眉毛の足りない男が、熱っぽい姿勢でこっちに身構えた。
「大丈夫よ」ヌネーが鋭く言いきかせた。堂々と胸を張り、男に背中を向けた。
「兄さん、女にからまねえでくれよ」
「君はカソリックかい?」傑はゆっくりヌネーに尋ねた。
「ほんとに教会はないの」
「あるよ。あるけど看板だけさ。サン・ピエトロ寺院の絵ハガキと同じだ。あることはある。安心したか。――もう、行きますか」安田に向き直った。それから日本語で、
「ごちそうさまでした」
「まだいいよ」安田が英語で言った。「コーヒーをどうだ」
マリーアが、眉の足らない男に何か言った。
「黙れ」彼は言い返した。「俺、セブの言葉判らない。英語、言う」
「あれは何なの?」ヌネーが、ピンク色の爪で保温ケースの中のヤキトリを指さした。マリーアは下を向き、両手でカウンターのへりをつかんでいた。うなだれていたが、姿勢はよかった。目の前のうどんはほとんど手つかずだった。
「ヤキトリを食いたがってるんだよ」傑は眸もやらず、眉の足らない男に言った。
「ちゃちゃ入れねえでくれよ。先刻から言ってんじゃんかよ。なぁ、兄さん」男が言った。
「妹は、これ、フィリピンの食べものと勘違いしたのよ。あのサテを入れれば食べられるのよ」
「ヤキトリうどんが食いたいんだとさ」
「ちッ」と、歯の間に音をたてたきり、眉の足らない男は目をそらせ、カウンターに寄りかかった。肩がいきんでいた。
「あんちゃんにゃ任せられねえ仕事だよな」傑は言った。それから、カウンターの中に、
「そのヤキトリ、全部くれ」
「全部って、お客さん、――」
賄い女におびえた目を向けられ、調理場の男がおずおず声をかけた。
「全部だよ。あるだけだ。幾らになる」
「若いのを、脅かさねえでもらえませんかね」ガンクラブチェックのジャケットを着た男が、初めて口を出した。
「あれにはあれの面子がありますから」首を、ぐいとばかりに縮めた。胸が倍に厚くなって見えた。握っていた皺だらけのスポーツ新聞をゆっくり丸めてゴミ箱へ抛った。
「ここは、まぁ、ひっこめてくんねえか」
「幾らだ?」傑はカウンターの奥に声をとばした。
「何の関係があるんだね」嗄れた声で、男が言った。
眉の足らない若い方は、もう、マリーアのすぐ脇まで歩いて来ていた。その後ろで、ラテン系の三人は身をひそめ、視線を一束にしていた。
「関係はある」安田が、英語で言った。「同業者は助けあうもんだ」
「ああ、外人さんですかい」男の肩から力が抜けた。
「ガイジンじゃない。同じような身の上だと言っている」
「この人は日本人だぜ。俺は外人だけどな」傑はそのときになって初めて、兄貴株の男に顔を上げた。
「働かなきゃ食えねえって、誰かが教えてやんねえとならないんですよ」
ガンクラブチェックのジャケットを着た男は安田に向き直った。「みんな食うに困ってるんでね」
「俺も困ってるよ」安田の返事は、また英語だ。「みんなそれで困ってるんだ」
「しょうがねえやな。ここじゃ何だから、ちょいと手間、かけましょうか」
「ヤキトリィ!」
ヌネーが大きな声で叫んだ。男はびっくりして彼女を見つめ、若い方が一歩退いた。
彼女は小さなビーズ細工のポシェットからくしゃくしゃの千円札を取り出し、急いでひろげると、カウンターの上に音をたてて置いた。傑の方を見て胸を張った。脚と同じくらいすばらしい胸だった。ヌネーはマリーアを躯全体で彼と安田と男から押し隠し、春先の木蓮のように立派に微笑んだ。
それで、傑の肩から空気が抜けた。男たちの体からも、他の誰からも力が抜けていった。彼はヌネーを見つめた。彼女は、正面から静かに見返してきた。
「騒がせたね」
傑はカウンターの中に言い、安田を先に立てて外へ出た。
後ろ手に硝子戸を閉じ、振り返らず歩いた。
「まいったな」安田が息を吐き出した。声も、首のすぐ後ろも、シャツのカラーも、同じくらい慄えていた。
「まいった。まいった」
「すいません、迷惑かけちゃって」
「まいったのはそのことにじゃないよ」
「安田さん、威勢がいいんですね」
「英語だったからさ」
彼は言い、メルツェデスの助手席まで足早に歩いた。
センターロックを開けると、急いで乗りこみ、ロックを落とした。それから苦笑して、
「昭和二十三年の生まれだぜ。佐世保で育ったんだ。抜けないんだよ」
「それ、さっき言ったことと関係あるんですか。同じ身の上って、――ゴロツキですよ、あ奴らは」
「そうじゃないよ。奴らのことじゃないんだ。そうじゃないんだよ」安田は、苛立ったように言い、困ったように笑った。
「まぁいいさ、ちょっと不遜だった」
「フソンって?」
「ビッグ・フェイス。ちょっと違うか。全然違うな。――君は嫌いだろう、ぼくみたいの」
傑はエンジンをかけ、車を出した。硝子戸の中で、ヌネーが小さく手を振るのを、彼だけが見た。
「安田さん、他のどの客とも違いますよ」
アプローチ・ウェイを走り出すと、傑は前を見たまま言った。
「そうかなあ」
「みんな、自分は他の誰とも違ってるって思ってるんですよ。安田さんは、他のみんなと同じだと思ってるでしょう」
安田はあわてて運転席に向き直った。やっと慄えが止った。
「今のこと、兄貴に黙っててくれませんか」
「いいよ」安田は笑った。「うどんの一件とバーターだ」
「バーター?」
「そうさ。ホテルで食うってさ、君、言ったじゃないか。金がなかったんだよ。アルバイトにクレジット・カードは持って行かないんだ。他の金ぴかとは違うからな。時計なら時間を教えるだけで済むが、カードだと金が出ていくんだ。――金がなかったんだよ。俺だって、関東の真黒なうどんなんて、冗談じゃないんだよ。なあ。金がなかったんだよ」
「だから、俺が、――」
「送り迎えだって契約のうちじゃないんだ。志垣の気持ちだぜ。飯までおごられたら、こっちはやりきれない」
「気にしなくてもいいのに」
「気にしなくなったら、もっとやりきれないさ」
メルツェデスは本線に戻った。追越し車線で百二十キロを保つのは難しくなかった。空が明るくなり、空気は重たくなった。
「先刻ぼくのことを何って言ったんだ?」
「何って?」
「英語で何か言ったじゃないか。うどんを食いに入る前さ」
「好きになったって言おうと思ったんですよ」傑は言った。
「それはどうも、光栄だね」
安田は大きく胸を迫《せ》り出し、たいそう物静かな物腰で応じた。それからネクタイを、きゅっと締め上げた。
空はますます明るくなった。
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サイドライン
傑《ジエイ》は、強いがじっとりと湿った日本の真夏陽の中で、グラウンドを見回した。
ナイター用の照明塔は三基もあるのに、バックネットはなかった。ダッグアウトの位置には、丸太に見せかけて作られたコンクリートの腰かけがいくつも置かれ、そのあたりにだけ芝生が生えていた。外野を緑にしているのは、踏まれつづけたせいですっかりへこたれてしまったセイタカアワダチソウとその仲間だった。ホームラン・ゾーンに背中をひっつけた商店街のビルが、そこだけ日陰をつくっていたが、こちら側よりずっと暑そうに見えた。
彼は巨大なアイスボックスを担いで三塁側のファウル・ライン沿いに歩き、頑丈な木製の階段ベンチのてっぺんに腰かけた。上から下まで、グリーンのペンキでぼてぼてに塗りたくられ、十分も坐ればその波目が尻に跡を残すような代物だ。そのくせベンチは新品だった。
傑は腰板の凸凹とステンレスのナットを手で確かめ、端整な顔を皺よせて笑った。
対戦チームのシート・ノックが続いていた。一、二、一、二のリズムで繰り返される、金属バットと皮のグラヴの音を聞くうち、彼はハワイを憶い、いたたまれない気分に駆られた。ハワイなら、すぐそこから海がはじまる。木立がつくる日陰は見るだけで涼しい。汗がいつまでもカラーにまとわりつくはずがない。第一、こんな時間には、シニア・スクールのガキだって野球なんてしない。
サングラスを伝った汗が、鼻をくすぐった。彼はアイスボックスを開けて缶ビールの隙間から氷を探り出し、それを齧った。
氷までぬるい。
がっかりして、傑はそれをグラウンドに吐き捨てた。
「先に行くもんじゃねえよ」
肩を斜めにして、志垣が近づいてきた。赤いアンダーシャツのユニフォームにサンダル履き、両手にスパイクを持った姿では、いくら眉間ですごんでも何の効果もありはしなかった。
そのスパイクでいきなり殴ってこなければ、だ。
傑はそれでも、すぐに額をかばえるよう身構えた。
身長百七十、傑より十センチは低かったが、子供にあわせて造られたベンチの、彼は一番下の段に坐りこみ、傑を遠くから見上げた。
「ま、いいやな」と、言った。急に笑い、スパイクの爪先でこっちを突つく真似をした。
「だって、荷物を運べって、――」
「後からついてくるもんなんだよ」
「車に鍵もかけたし、兄貴の荷物も全部持ちましたよ」
「それでもさ」
「それが、――デューティなんですか?」
「セレモニーだ」
「なるほどね」
「他人《はた》の目があるだろう。兄弟とか、下の奴らとか、――俺はいいんだ。俺はな。だがよ、今日は連中がいらぁ」
志垣はグラウンドの対戦チームに顎をしゃくった。猪首の彼がそうすると、胸の中から顎を掘り出しているようだった。
「俺がまず挨拶《アイツキ》しなくちゃなんねえ。奴らが俺をどう見るか、うちの下の奴らが気にする。――判ったか?」
「判りました」
「何か言いたそうだな」
「ミステリアスだ」
「日本で育ったんだろうが」
「十四年ですよ。それもフェンスの内側だ」
「フェンス」
口にして突然、おそろしく厭な顔になった。東部のプレッピーに納豆をはじめて食べさせたときみたいだった。
「ま、俺だってパリのレストランじゃゲップはしねえ。マラケシュのパーティに呼ばれりゃ、無理にでもゲップする。その類だ」
「兄貴のたとえは判りやすくていいや」
「俺だからさ。俺だから済んでるんだぜ。|ここ《ヽヽ》で伸びたけりゃ、その辺覚えといた方がいい」
「野球のグラウンドは道場と同じってことですね」
「それ、皮肉ってんのか」
「そうですよ」
志垣がぐっと身をのり出した。
傑は腰を泛かせた。
ところが志垣はふいに動きを止め、大きな声で笑い出した。両手のスパイクで拍手しながら段を上がってくると、傑の横に坐った。笑い続け、背中を揺すり、靴を履きかえた。
「買いだよ」と言い、靴紐を結んだ。
「おまえは、絶対に買いだよ。おまえが買えない奴は、もう時代遅れだ」
それから急に真顔になり、
「それでも今んとこ、買うのは俺だけだがよ」
「それで野球をするんですか?」傑は尋ねた。
「野球?――似合わねえか?」
「ええ。まったく似合わない」
「府中へ行くとな、楽しみがこれっきゃなくてよ」しんみりしたふうに言った。そのふうばかりは、何より下手くそだった。
「府中?」
「ジェルハウス。寄せ場だよ。――いや、ほら、刑務所」
「Jail Houseね」
「ああ」
志垣はスパイクの足を叩きあわせ、にやりと笑った。
「フェンスの中さ。な、そうじゃないか」
眉間を皺が割った。すると、辺りの空気がぴんと張り詰め、もはやシカゴ・カブスふうのユニフォームも、赤いスパイクも関係がなくなった。この日本の夏陽が傑にとって六年ぶりのものでなかったら、汗だってひっこんでいただろう。
「フェンスのよ、――」急に弱々しく言い、途中で言葉を止めた。
一ダースほどの男たちが、揃いのユニフォームを着てグラウンドに入ってくるところだった。口々に対戦チームへ声をかけ、志垣に深々と腰を折った。
「要は判っているな」
「ええ」
「ブツは?」
傑はアイスボックスのポケットを開け、大ぶりのクッキー缶をひきずり出した。
「おまえ本当にできねえのか」志垣は頷きながら尋ねた。
「何がですか?」
「野球さ。アメリカンスクール、出たんだろう」
「からきしですよ」
「からきしか。――変な言葉は知っていやがる」
言って立ち上がった。「立つんだよ、おまえも」
顔見知りの男たちが二人、近くまで寄って来て、志垣に頭を下げた。
志垣がそれに応え、傑もグラウンドに降りて彼に倣った。
「助っ人てのはどうしたんですか」図体の大きな丸刈りの男が言った。
「今、来るよ。驚くな、3Aに四年だぞ」
「傑、あんたはやんないのか」
「体が弱いんだ」
「抜かしやがれ」
バットを振った。グリップを握る指は九本しかなかった。
「毛唐の運動は苦手でね」と応じると、志垣だけがたからかに笑った。残る数人はとんちんかんな笑顔をうかべ、丸刈りは不思議そうに傑をのぞきこんだ。
「じきに来るからな」誰にともなく志垣が言い、手招きで後をついてくるよう示した。
マウンドの近くで対戦相手の監督に紹介した。
不動産会社の社長だと言われたものの、身のこなしに隙はなく、どんなに腰を低くしても、相手の目より自分の目を低くしなかった。白に緑のユニフォームには『グリーン・フィールズ』というピンクの文字が縫い込んであった。
志垣の率いるチームは『ニューリィズ』という名だった。多分、関東新生会からのインスパイアなのだろう。
試合は、二列に向きあって並んだ一礼からはじまった。審判も礼をするのだった。高野連から正式なライセンスを受けた審判だと聞かされてきたのだが、傑にはコーヤレンというのが何か判らなかった。おまけに四人の審判のうち三人は、かつてその筋だったとしか見えない男で、もう一人は個人タクシーの運転手だった。
傑は、丸刈りがボテボテの内野ゴロでアウトになるのをダッグアウトで見守ってから、階段ベンチの観客席に戻った。
一回の裏表が0対0で終るのを待ち、彼はビールを飲んだ。
フォアボールで歩いた四番打者を一塁に置いて、志垣が三塁線の安打を放った。外野がそらし、ショートが受けそこね、走者が還った。
志垣は二塁に止った。酒を一週間も絶てば三塁まで行けたろう。志垣はタイムをかけ、グラウンドにしゃがんで大きく咳こんだ。
「小間物屋、広げんといて下さいよ」と、敵のピッチャーが声をかけたが、傑には何のことやら見当がつかなかった。
「シーちゃん、六本木で励みすぎたんと違う」今度は外野が大声を出した。
友軍の選手も笑い声をあげた。しかし見る限り、目だけはどれも笑っていなかった。
二回裏の守りは長かった。先守した一点をすぐに取りかえされた後、フォアボールとエラーがらみで二点をとられ、返球をぽろぽろこぼすうち単打がホームランになってさらに二点とられた。
一対五で引きあげてくると、丸刈りがダッグアウトからビールをくれと叫んだ。
「俺もだ」志垣が言った。
傑は煙草をくわえたまま、缶ビールを二本、アンダー・スローで抛った。
「他には?」
こっちを見ていた何人かが、言葉に詰まった。目のあたりが険しくなった。
「箱ごともってこい!」
志垣がぴしゃりと言ったので、傑はアイスボックスをそこまで運んだ。
「回せや」志垣が、乱暴に全員を顎でしゃくった。
彼はビールを配り、黙って階段ベンチへ引き返した。
「下手投げが、おまえの礼儀だってんだろう?」志垣がついて来て、小さな声をかけた。
「すいません」傑は頭を下げた。少し、角度が深すぎた。何故、連中はああも容易く無段変速で頭を下げ分けられるのだろう。
「せめて野球でもできりゃあなあ」
「次からは出ますよ」
「ああ。――それが一等いいや」
傑の返事にちょっと驚いて、志垣は顔をひいた。それから声をさらにひそめ、
「サウスポーってのはちゃんとした英語か?」
「ぎっちょのことでしょう。――アメリカでも使いますよ」
「アメリカでも使う、か」大きく息を吸いこんで笑った。
「ぎっちょときたね。いやまいった」並の人間なら首筋にあたる辺りを叩き、笑いながら背を向けた。歩き出して言った。
「あれは先に渡すんじゃねえぞ。――成功報酬なんだからな」
「3Aって、どこのですか?」
「シシリー島じゃねえよ」
言い捨ててまた笑ったが、それがジョークだと気付くまで、傑は数秒、考えなければならなかった。
三回終っても、しかし、3A出身の助っ人は来なかった。
得点は六対三になっていたが、ピッチャーの実力は敵がはるかに勝っていた。本人の脅喝沙汰で甲子園大会をフイにした選手がいると聞いたが、そ奴がそうなのだろう。切れのいいカーヴが友軍バッターの膝を嘲い、キャッチャー・ミットに音をたてるたび、志垣は公園の入口に振り返った。
金が賭かっているのかもしれないと、傑は思った。
何しろ、高校生の野球大会に億に近い賭金を動かしてしまう連中だ。その額だってこの夏、傑自身が志垣から言われて扱った、全体のほんの一部なのだ。関西ではオマワリだって賭けるのだと、そのとき聞かされた。それも嘘とは思えない。彼に同行して二、三度訪れた関西で見聞きする警官は、何よりアメリカのそれに似かよったところがあった。
彼は、自分のための二本めをアイスボックスから取っておかなかったことを後悔した。そのアイスボックスは今、控えを三人ほど残したダッグアウトに置かれていたが、中のビールを手にするまでにどういった手続きが必要か見当もつかなかった。
その手続きに思いを馳せた自分に、彼は苛立ち腹をたてた。
敵のバットが大きな音をたてた。
傑は金属バットの音が嫌いだった。クッキーの缶を小脇にはさんで車の方へ歩き出した。観戦が、今日の彼の任務ではないのだ。車の冷房で涼んでいるのは、何ひとつ問題はないはずだった。いや、それにしても、――はずなだけだ。
また腹がたってきた。
何故、通訳なんかが必要なのだろう。志垣の英語は、メリルリンチの日本支社でも充分に通用するほど立派なものだった。第一、向うが通訳を連れてくるというではないか。
「だからなんだよ」と、志垣は昨日、傑に答えた。
何が、だからなのだろう。思えば、志垣は彼よりちょっとでも目上にあたる者がそばにいるとき、決して英語を喋らない。志垣の兄弟分、つまり傑にとって『叔父』にあたる男が、まるで脚の折れたバッタみたいな英語でフィリピン人との取り引きに四苦八苦しているときでさえ。
「だからなんだよ」
それだけ喋れるのにと、取り引きの帰り道、訊ねたときもそう不機嫌に応じたものだ。何が、だからなのだろう。
志垣のメルツェデスはウィンドゥ全部に特殊加工がほどこされ、まるでジャン・ギャバンがサングラスをかけたようだった。通りの陽があたっていない側へUターンさせ、クーラーを入れれば、充分に涼しいはずだ。こちら側は公園の入口だというのに、背より高い木は一本も生えていないのだ。
しかし、彼は車を回さなかった。この日盛りの道ばたでも、除湿が働くと、ずいぶん違った。暑さそのものは、彼に馴染みだ。
ハワイに六年、日本で育った十四年に較べたら半分にも満たないのに、いったいその十四回の汗くさい夏をどうすごして来たのか、今となっては見当もつかない。さらにそれ以前は、だいたいがヴェトナムで暮らしていたのだ。日本の湿気などものの数ではないと、戦傷兵から聞いたことがある。彼が育ったころ、日本の米軍キャンプは半ばヴェトナムの野戦病院をかねていた。
「空気ひとつとったって、ここは天国だぜ」
特務曹長だった傑の養父はすでに年老いて、日本で事務職に就いていた。北爆攻勢の初期にはサイゴンにいたのだが、ヴェトナムについて何ひとつ語ろうとしなかった。
「おまえはヴェトナム人なんかじゃないよ」
訊ねるともなく、話題がそこへ向く度、日系二世の養父は彼に言った。
「ほとんど中国人だ。そして今はアメリカ国民だ」と。
すぐ目の前の路肩に、相当古いタイプのホンダ・アコードがすべりこんだ。バンパーは傷だらけで、片方のフェンダーには錆が穴を穿っていた。肌色のパテに埋もれているところもあった。縦列駐車の切り返しで、女の運転だということに気がついた。
傑は車を降り、舗道に立った。
アコードから出て来た女は、まだ若かった。背が高く、首が長く、足は強い陽差しに混じりこんでしまうほど細かった。化粧はまったくしていなかったが、化粧をしているような顔立ちだった。
「何か御用事?」
女が、傑の視線をいきなりねじ返した。こんな経験は久しぶりのことだった。
「この国じゃ、新車ばかりだからさ」傑は思わず口を開いた。
「どこもかしこもぴかぴかの車ばっかりで、変な気がしてたんだ」
「タダよ、この車」と、女が言った。笑うと面立ちがまったく違うものになった。
「貰ったのよ。くれる方が謝るのよ。きたなくって悪いって」言って笑った。言葉の調子がどこかおかしかった。
「志垣さんの関係者?」
「関係者?」
「そう。――あら、おかしかった?」
助手席のドアが開き、そこから赤毛の大きな男が出て来た。ニューリィズのユニフォームを窮屈そうに着ていた。
傑は一昨日、二十八センチの赤いスパイク・シューズを探しに神田まで行かされたことを思い出した。
「ライリー・ケーツさんかい?」傑は英語で尋ねた。
「そうよ。あなたは」女が英語で応じた。こっちの方がよほど自然だった。
「ジェイだ。ジェイ・スギウラ。シガキから言づかってる」
女は今日子と名乗り、傑に日系かと訊ねた。
彼は答えず、赤毛を急がせ、グラウンドへ歩いた。
スコア・ボードに点が加わっていた。敵が2、こっちは1だ。
傑は二人をベンチの近くに待たせ、三塁の方へゆっくり歩いた。四回の裏で、一、二塁に走者がいた。
志垣がタイムをかけ、三塁から走り寄った。
「素人《トウシロ》ですよ、あっちの通訳って。学生かもしれない」傑は小声で囁いた。
「かまわねえよ」
「取り引きのこと、知られちゃっていいんですか」
「缶ごと渡しゃいいさ。助っ人の礼だって言ってな」
「開けたらどうしますか? ヤクは包んであるんでしょうね」
「ヤク?!」言って、目をかっと開き、傑をのぞきこんだ。
「そいつはいいや。ヤクは包んであるってか? 包んであるに決まってら。ヤクは問屋が包むもんだ」
濁った大声で吠えるように笑い、赤毛のアメリカ人に手招きした。
もっそり体を動かして、ケーツはグラウンドに入って来た。さいわい、今日子はベンチの下に立ったままだった。
「ウォーミング・アップが必要か訊いてくれ」と志垣は言ったが、ケーツはそのカタカナ言葉を聞きつけ、
「すぐにはじめられる。どこを守ればいい?」
「どこって、ピッチャーじゃないのか」傑は英語で尋ねた。
「ピッチャーなんかやったことはないぞ。どこでも守れると言っただけだ。キャッチもやれないと思うぜ」
「やったことがなくても、うちのよりは巧いだろう」志垣が言った。
「素人相手ならできるだろう」傑はケーツに向き直った。
妙によく光るはしばみ色の目を、くるりと回してみせた。肩をすくめ、助けを求めてその目をベンチに向けた。
今日子はもう、こちらへ歩き出していた。
「まずクスリを見せてくれ」ケーツが言った。やって来た今日子に、
「ピッチャーなんかできないよ。俺のコントロールがどんなもんか、こ奴らに教えてやってくれ」
「彼はショート・ストップなのよ」
「そんなこたぁ承知だよ。しかし、プロだったんだ。マウンドで投げたことぐらいあるだろう」
今日子がそれを伝えると、ケーツは打者に向かって投げるのはいやだと、頭を振りたてて叫んだ。
「怪我をさせたらどうするんだ」
「一人、二人、病院に送ったってかまわねえんだ」
今日子がびっくりして志垣を見た。
「兄貴、日本みたいに一番巧い子がピッチャーやるってもんじゃないんですよ」傑が助け舟を出した。
「だから、どうした」
「子供のころからずっと野球だけってこともないんです。本当に病院へ送っちゃうかもしれません」
「おい、いつまで待たせんだ。シーちゃんよ」
不動産屋の社長がホーム・ベースの近くから叫んだ。傍では敵のバッターが突き立てたバットの尻に腰かけ、腕組みをしてこちらを睨んでいた。
「頼むぜ」志垣がとがった声を出した。
「投げりゃいいんだよ」
ケーツが、しなっと体を折り、今日子にかがみこんで喋りかけた。
彼女は鼻に皺をため、一、二度頷いた。
「薬指を複雑骨折したことがあるんですって。それでリタイアしたのよ。肩と足には自信があるから外野にして欲しいそうよ」
「本塁は絶対に踏ませないよ」
「勝手なことを抜かすな」志垣が突然、英語で怒鳴った。
「投げるか投げないかはっきりしろ。投げねえんなら今すぐ帰れ。今日中に帰れ。明日になったら厚生省にてめえのしてることを密告するぞ」
はしばみ色の目が窄まり、志垣を睨んだ。相手の肩に入った力に気が行くと、弱々しく首を振り、グラウンドを見、今日子を見、小さく頷いてマウンドに歩き出した。
「契約金は決まったのかよ」不動産屋が叫んだ。
「こっちは、外人枠がどうのこうのなんてケチなことは言わないぜ」
「外人枠を言われて困んのはそっちだろう。ガイジンばっかじゃないかよ」
「違いねえや」金属バットみたいな声音で笑い声をあげ、ダッグアウトへ後退りして行った。しかしそうする間、決して志垣から目を離そうとはしなかった。
志垣も背中に力を溜め、相手をじっと見送った。
ケーツは、五球ほど投げて腕をぐるぐる回した。どれも山なりのゆるいカーヴだったが、くせがあり、低いところに集っていた。ほとんどノーコンのストレートも、スライダーだかパームだか判らないその球筋のせいで、けっこう速く、しかも打ちごろに見せていた。
最初のバッターは三振した。
「日本語は誰に習った」
階段ベンチに並んで坐り、傑は今日子に英語で尋ねた。
「こっちでか?」
「いやあね」と、今日子は笑った。
「だって、あたしは日本人だもの」
「へえ。――そうか」
「父の仕事でずっとキャリフォルニアだったのよ。オークランドに八年、他にもあちこち。――あなたは?」
「俺は日本人じゃないよ」
「意外ね。中国人には見えないわ」
「フランスが四分の一入ってるんだってさ」
「中華街?」
「何が?」
「生れたところよ」
「ああ。そうらしい」
「あたしも横浜よ。四つまでだけど」彼女は口を尖らせて微笑んだ。
「俺のはシュロンだよ。サイゴンの中国人地区だ」
「あら。――それが、何でフランスなの。戦争をしてたのはアメリカでしょう」
傑はほんの一秒沈黙し、それから体をゆすって笑いはじめた。
「誤解しないでね」彼女はあわてて言った。
「そんなことを言ったんじゃないのよ」
「そんなことって何のことだ?」
「華僑にだって、お友達はいっぱいいるわ」
傑はしばらく黙り、オークランドという町で中国系がどんな憂身に甘んじているか思いめぐらせた。きっとハワイとはまったく違っているのだろう。
「あたし、みんなに訊かれるのよ」今日子はさらにあわててつけ加えた。
「中国人だろうって。こっちへ戻ってきてからは余計によ。逆さまね」
「俺はずっと日系だよ。ハワイじゃ天気の挨拶にもならねえや。第一、天気のことなんか口にする奴もいない。天気を気にするのは東京カウボーイだけさ」
「何、それ」
「日本人の観光客だ。やたらと拳銃を射ちたがるんだ。銭払って、本当に射ちに行くんだぜ。今じゃ立派なオプショナル・ツアーだ」
金属バットの音が彼を黙らせた。見ると、ケーツが大きなファウル・フライを打ちあげたところだった。あまり大きすぎたので、補球どころか、外野手はボールを探しに行くことさえすぐに諦めてしまった。
丸刈りの男が、ダッグアウトできたならしい野次を飛ばしていた。先発のピッチャーが三塁に回り、志垣が外野に入って、彼を押し出してしまったのだ。
次のボールを見送り、ツー・ワンからの一振りで、ケーツは球を右中間へ運んだ。飛びつけば取れそうな低空だったが、それは一直線であまりに速かった。おじぎをしないまま、結局、公園に背中を向けたビルにぶつかり、遠くへ跳ね飛んだ。赤毛の男は、そのころにはもう、二塁を回っていた。たしかに脚はすばらしかった。長いだけではなく、振りものびやかだった。三塁を回ると速度をゆるめた。歩幅も振りも変えず、上体の動きも同じままで、ホームに向かってスローモーションをかけたみたいだった。足がホームを踏んだとたん、フィルムが止まり、溶暗して行くのだ。
しかし、そうなる前に、志垣が彼のヘルメットをひっぱたいた。他の連中がそれを取りまいた。
「俺は二世に見えるか」
「日系の?」と訊き返し、相手が頷くのを今日子は待った。
「判んないわ。どっちかって言えばね。だって全然違うもの」
「何が?」
「日系の子と私たちよ。あなた、区別つかない?」
「ああ。つかないね」
「そう」
「傑。彼女にクッキーを渡してやれ」志垣がグラウンドから叫んだ。
「そうしたらもう一本打つそうだ」
「勝ったら、この倍はもらうわよ」
彼女がいきなり日本語で叫んだので、傑は体をびくんとさせた。
「ライリー! 勝ったらクスリを倍くれるって」今日子は立ち上がり、英語で叫んだ。
「どこで知りあったんだ」傑は、彼女が坐り直すのを見届けて尋ねた。
「知らないわ。大麻のやりとりじゃないの?」
「大麻《グラス》と|ヤク《ハード》は違う」
「ハードってなあに?」今日子は目を丸くした。
「日本人が使う意味で言ってるの?」
「日本人はどう使うんだよ」
「カタカナでよ。|丸出し《ビーバーシヨツト》のことでしょう」
傑は苦笑して、彼女から目をはなした。
「大麻の商売なんかしてるのか」
「誰が?」
「君さ」
「知り合ったって、――それ、誰と誰のことを言ってるのよ」
「赤毛《レツド》と君さ」
彼女は肩を竦め、鼻先で笑った。
「電話よ。ホテルのイエロウ・ページを見てかけて来たの。セキュレタリー・サーヴィスに登録しているのよ」
「君が?」
「そうよ。父がまだオークランド気分なのよ。一ドル二百五十円ぐらいの気分で、お小遣いをくれるんですもの。とても、やっていけないわ。――さあ、クッキーをちょうだい」
差し出された缶を、今日子は無造作に開けた。
「彼らが何者か判ってるのか?」
「ビリー・マーチンじゃないことはたしかね」
缶の中には一杯に錠剤のシートがつまっていた。今日子はその数を丹念に数えはじめた。途中で指を折り、頭を振り、最初から数え直した。
「たしかにあるわ」と言ったときは、後続が出ないままチェンジになっていた。
「ねえ、ハードって何?」彼女はこわい顔で傑を見つめた。
「私のこと何か勘違いしているんじゃない?」
彼は手を伸ばし、薬のシートを一枚とりあげた。裏面のアルミ箔にグリチロンUという文字がいくつも印刷されてあった。
「何だ、これ」彼は一錠、破りとろうとした。
「駄目よ。これは彼のものだわ」
「何なんだ」
「知らないわ。たしか肝臓の薬でしょう」彼女は箱をかき回し、効能書きを底から探り出した。
傑が素早く奪い取り、手許でそっと広げた。
「二日酔の薬じゃないか。じんま、――。じんま何って読むんだ、この字」
開いた紙にのぞきこみ、今日子は顔をくしゃっとさせた。「読めるわけないじゃない。漢字はそっちの専門でしょう。隣のは円形脱毛症《ラウンド・アロピーシア》って意味よ」
「ハゲのことだろう」
「ハゲとは違うわ。うちの父がオークランドでかかった病気よ」自慢そうに言った。
「ハゲなのか、あ奴」
「ハゲとは違うのよ。――本当に何も知らないの?」
「アメリカ人がヤクの買いつけに来てるっていうから変だと思ったんだ」
「サンフランシスコへ持って行ったら、これ一箱で百万はするわ」と彼女は言った。
「グリチロンって名前の市販薬よ。もともとは肝炎とかアレルギーの薬なんだけど、副作用でエイズに効いちゃうんですって」
「エイズ。――馬鹿言うなよ」
「本当よ。向うの友達から、聞かされたもの。日本では、エイズの特効薬を薬屋で売ってるんだろうってね。小遣い稼ぎに送ってくれなんて、あまり付き合いのなかった子から国際電話を貰ったこともあるわ」
「効き目は嘘なんだろう?」
「ワシントンDCの連中は、――とくに連邦保健局が懸命に嘘だって言ってるけど、みんな信じてるわ」
「君もか?」
「どうかな。――これ、ルートビアと同じ原料の草から抽出してるの。草って、まだ人間の知らないパワーがいっぱい隠されてるのよ。だから、――」
「うちの親父は漢方薬に凝ってたが、つまらない病気で簡単に死んだよ。ハワイで肺炎で死んだんだぜ」
「でも、信じる価値はあるんじゃなくって? 他には何もないんだから。この薬をアメリカでも買えるようにしろって、ゲイ・グループはあちこちでデモをしてるわ。アメリカ政府が市販を許可していないの」
「それなら、そこいらの薬屋で買って帰りゃあいい」
「以前までは彼もそうしてたのよ。アメリカに言われてうるさくなっちゃったんですって。日本政府って、言うなりだもの。これでお金もうけをする人が大勢でてきて、立場をなくしちゃったのね」
「百万って、円だろう」傑は笑って立ち上がった。
「太平洋一往復で百万じゃ、足が出るぜ」
「お金儲けをしている連中は、もっと大量に買い占めていくのよ」
「じゃあ、奴は何なんだ」
「パートナーがエイズなの。十年以上暮らしてきたパートナーよ」
傑はゆっくり今日子を見た。すると志垣の薄ら笑いを思い出した。|ヤク《ハード》のわけがなかった。いくら賭けているのか知らないが、こんな草野球、それほどのリスクを背負って勝つまでもあるまい。
「効くのかよ」やっと声が出た。
「知らないわ」
「効くもんか」
彼は確信を持って言った。「誰がそんなこと信じさせたか、あらかた見当がつくぜ」
グラウンドの大歓声が、彼を振り向かせた。
ダイアモンドを三人の走者が埋めていた。相手チームは総立ちで騒いでいた。バッターボックスには例の甲子園崩れが入ったところだった。
マウンドの上で赤毛のアメリカ人は肩をおとし、うつむいていた。志垣が三遊間をマウンドへ走り抜けた。
彼に呼ばれるよりずっと早く、傑はマウンドへ歩き出した。
[#改ページ]
六国封相
「日本語のできる奴がまだなんだ」
坐るより早く志垣は言い、口の端をくぼませてキュッと音をたてた。
「英語は?」傑は訊ねた。
「両方とも駄目だ」
「両方って、二人なんですか」
「ああ」
傑は、小卓の向うで、両足の間に両手をたらして坐っている男を瞶《みつ》めた。目が細くエラの張った男だった。肌は浅黒いのに、表情には紛い真珠のような白さがまとわりついていた。
「三人て聞きましたよ」
背凭れに手を支い、顔を寄せた。男性用のゲランが襲ってきたが、この店の臭いよりはずっとましだった。遠い異国の下水道のような臭いが、性能を大きさで計れた時代のスピーカーから流れるベートーヴェンと一緒になって絶えまなく降っていた。
「こ奴は呉《ウ》だ」志垣が言った。
男が広東語で挨拶した。
「専門家だよ。いいじゃないか。二人で充分だって、向うがそう言うんだから」
通路の方へ競輪の選手みたいな太い脚を投げ出したまま、志垣は隣の席の背中あわせの椅子をごつい金の指輪をつけた手で叩いた。
傑がそこで横坐りになると、古風なエプロンをしたウェイトレスがやって来て困ったように三人を見較べた。
「御一緒ですか?」彼女は訊いた。
「コーヒー、熱い奴だ」傑は言った。
「リクエスト、頼むよ」
志垣が、二つ折りの紙片を差し出した。
彼女はそれを開いて読み、顔を上げると、何か決意したような表情を泛かべた。
「今日はシンフォニーの日なんです」硬い声で言った。
「そう言わずに頼むよ」
「シンフォニーしか用意してないんです」
「そこを頼むよ。店主の荒井にゃ、よろしくってな」
「訊いてみます」
「ああ、せいぜい聞いてみてくれ。九回裏のスクウィズみたいにいい曲だぜ」
彼女は音をたてて水のグラスを置き、力んだ足取りでごてごてした手摺りに飾られた螺旋階段を降りて行った。
「フルオケをかけねえと、山手線の音が響いてきちまうのさ」
「何も、こっちから目立つこたあないのに」
「ブル咬むんじゃねえよ」
「何を咬むんですって」
尋ねると、口を半開きにして傑の顔をのぞきこんだ。弱々しく笑い、ポケットからダビドフの紙巻を出してくわえた。呉にも一本やった。傑はライターを出したが、志垣は両方の煙草に自分で火を点けた。
「ねえ、何とかを咬むって、それ、どういう意味ですか」
「どうってことじゃないっていうんだよ。マンモス交番の中で会ったってよかったんだ」
「兄貴はタフだからな」
「タフね」怪訝そうに眉をひそめた。
「ま、いいんだ。本当さ。これはまったくこ奴らの仕事なんだ。因縁も行きがかりも、筋目も白黒も、何もかにも俺らとは一切関係なし、奴らの問題だ。屠《と》るのも屠《と》られんのもな。道具だって手前で都合してきたもんだ」
「じゃあ、何で、――」
「奴らは、言ってみりゃ出稼ぎだ。向うもそうだ。人の庭先で喧嘩するとなりゃ、地主に挨拶くらいしなくちゃならない。こりゃあ、こっちの貸しになるわけだ」
「俺は地主の監視員ですか?」
「後見っていったって、真正直に後見しちゃ面倒ってもんだぜ」急に声をひそめた。
「せいぜい見物客を気取って行ってくれや。プールの監視員なんて気負わずによ」
「見物ね」
「ああ、線から出ねえようにな。あの向うっかわは黒田一家の仕切りだから」
「志垣さんの縄張《シマ》内でうちとまったく関係ない連中がドンパチやったら、泥を塗られたことになるんじゃないですか」
志垣はまた口を半開きにした。
「俺のじゃない、|うち《ヽヽ》のだろう」
「そうか。そう言うべきですね」
「あたりめえだ」
「どっちにしろ、面子が立たないことになりゃしませんか。そうしたらそれこそ明日からしのいでいけなくなる。それがタブーだ」傑はさらに言った。
「タブーか?」半開きの口がやっと動いた。
「おまえ、ときおり横文字を混ぜるなよ。せめてカナで言ってくれや」
「すいません」
「面子がたたねえか」と、独りごち、短く息を吐いた。
「ったく。雪の言問橋から、転げた蜜柑と一緒にタイムスリップしてきたみたいな野郎だな」
「何ですか、それ」
「見たことないのか、ヤクザ映画。ずっとこっちで育ったんだろ?」
「日本映画、苦手なんです。PXで見てるぶんには映画なんかタダだったし」
「縄張なんてこの十年あってないようなもんさ。あると思いこんでる奴にしかないんだ。そんな連中はじきにしまいだ。しかし、つきあいはまだつきあいだ。当分、あるようにふるまわなきゃならない」
鼻から息をそっと吐いた。何かのメロディが、その息づかいを弾ませていた。
「だけど、その縄張を、ハワイじゃああまでして取ったじゃないですか」
「ハワイ?」額に皺寄せて、志垣が言った。
「ハワイって、おまえ。――バカ。あれは土地だよ。決して縄張じゃねえや。いいか、あれはただの土地だ。百七十億の銭だ」
「縄張ってのが、そんなものなら、俺が見てる必要なんか、それこそないや」
「おまえ、そういった口、他の人間の前で絶対、叩くんじゃねえぞ」志垣が、呶鳴った。目の前の中国人が、上体を後ろに反らすほどの声だった。
「すいません。どうも、よく判らないもんで」
「ふりをすりゃいいんだよ。死にたくなかったら、そうするんだ。――縄張のことだって、まあ、同じ理屈だ。有るようなふりをするんだ。有ると思って振る舞うんだよ」
傑は、胸ポケットに突っ込んで垂らした絹のバンダナで頬を拭った。暫くそれを玩び、
「見物か」と、独りごとのように言った。
「見てないと、何しでかすかわからねえしな。いつも横で線引いててやんなきゃならない」志垣は応じ、声を落として、
「ここは、|奴らの国《パターナルランド》じゃないんだってところをさ」
「なるほど」傑は頭を強く振り、続いて出かかる言葉を追いはらった。
――いったい誰の国だろう。
もう一人の中国人は、白地に青くスポルディングの文字をプリントしたスポーツ・バッグのジッパーのすき間から、タオルを垂れさげ、都営プールか、いやそれより銭湯へでも行こうとしているみたいな出立ちで現れた。軽く会釈して呉の隣に坐ると、やはり両足の間に合わせた両手をしまいこんだ。
二人とも背中を丸めて、こっちに顔だけ乗り出した。
「わたし、陳《タン》です」開いた口にミソッ歯がのぞけた。たるんだTシャツの衿からは、黄色いケプラーの防弾チョッキも見えた。
「あんたらの頂爺《テインイエ》とは話したんだが、どこかまで持ってってやれないかね」志垣が言った。「あそこはまともな住宅地なんだ」
陳が呉に何か言った。開槍《ホイジヨン》だけは判った。笑って使うなら『ドンパチ』の意味だ。
二人とも笑っていた。呉が短い言葉を吐き、陳が頷いた。
「話、ちがうんじゃないの」
「できたらって言ってるでしょうが」
「あっちの人もね、紅棍《チーホン》だった人。攫うの難しいよ」
「車ならこっちで何とかする」
「車ね」
また二人で話しはじめた。
志垣は腕時計をながめ、天井のシャンデリアを睨んだ。陳のコーヒーが運ばれてくると、彼はそれを舐め、一度、志垣の方をうかがって、また早口で喋りはじめた。志垣は凝っとしたまま、爪先だけかすかに動かしはじめた。ピアノ協奏曲がはじまっていた。たしかに、山手線の音が聞えた。
「モーツァルトだ」と、志垣が唸り声で言った。曲が変った。「どうだ。十三番だぞ」
「スクウィズってより、メジャー・リーグのダブル・プレーみたいだ」
「まぁ、聞いてろ。そういつまでもスタンドを沸かせちゃおかないんだ。ほら、ハ長調だ」気を詰めて黙った。いくらもなく調子が変った。ピアニストが葬式から運動会へ、いきなりひっぱり出されたみたいだった。
「いいよ、陳さん」志垣は大きく息を吐き出した。
「出来たら、そうしてくれりゃあ、それでいい。こっちの立場もあるんだしさ」いかにも困った顔をして言った。
二人は、また声高に広東語を喋りはじめた。
「まだ、こんな店、あるんですね」傑は、背凭れに身をのり出した。
「クラシック喫茶っていうんでしょう」
「何だと思ってるんだ。いつもこの前、通ってるじゃねえか」
「こんなノイシュバンシュタイン城みたいな建物、――今どきディズニーランドか連れ込みぐらいのもんですよ」
「ラヴホテルっていうんだよ」
「それは知ってます」
「もう、ラヴホテルにだって、こんな造りはありゃしないよ。おまえ、それ、六年前の記憶だろう。今は、ラヴホテルよりアパレルの本社ビルの方がずっと派手なんだ」
「アパレルって何ですか?」
志垣は、傑の眸をぐいと身を乗り出して覗き込み、訊かれたことには答えぬまま、
「ここは名曲喫茶っていうんだ」と、怒ったように呟いた。
それから、目の前でまだ何やら言い合っている二人に割って入り、
「車が要りようなら、この男に言ってくれや」
「この人が来るの?」
「ああ。若いが使える男だ」
呉の方がぐいと体を乗り出し、傑を見つめ、広東語で喋りかけてきた。
「Are we all ready?」傑は思わず言い、相手を見返した。
「是」
呉が言い、二人はゆっくり立ち上がった。
「油断がならねえや」志垣は、太い脚を組もうとして、ちょっと手こずっていた。目を上げなかった。
「英語がやれるとはな。――手前の庭で口に戸を立てなきゃ、心配で内輪話もできないんだ」
「別々に出ますか?」傑は前へ回って尋ねた。
「おお、そうしてくれ」
彼は卓子の端に置かれたリクエスト・カードを一枚とり、細かい字を書きはじめた。
傑は先に立って階段を降りた。
陽はすっかり西へ傾いていた。高い建物の下で、路地にはあちこち夜が来ているのも同然だった。彼らは、上下左右に飲み屋が広がる中、高架線路へ向かって歩いた。傑が先頭になり、それぞれ五メートルは距離をとっていた。
町で働く女たちが、路上で駐車場所を奪いあい、その隙をおしぼり屋の車、花屋の車が右往左往していた。水商売の人間が何人か、大きな声で挨拶を送ってよこした。客引きは、黙ってそっと頭を下げた。たいていの者はその数で自分を計るのだ。傑には煩しいだけだった。
マッサージ・パーラーが並んだ一角は比較的静かだった。そこらだけが、まだ白々と明るかった。
映画館や劇場へ向かう人の流れを直角に横ぎり、彼らは高架駅の下を潜った。パチンコ屋からおどり出して来た歌が、そこで電車と張りあっていた。
質流れの店から出て来た黒人が、巨きなラジカセと小さな東洋人の娘を両手にして、彼らを押しのけて行った。
不動産屋の前では素足に運動靴をはいた色の黒い青年たちが、物件のビラを懸命に読んでいた。
五歩、歩くたびに違う音楽が聞こえた。
人の流れはおおよそ二通りで、駅に向かうスーツ姿の男女と、駅からあちこちのビルに点在する日本語教室へ向かうGパン姿の男女に分けることができた。
中央線のガードが見えて来る手前で、彼らは右へ曲った。
そこは自転車同士がすれ違うにも、どちらかのブレーキが悲鳴をあげなければならないような路地だった。靴直しの看板が斜めになってかかり、その隣は、習ったところで仏壇にタンポポ一輪飾れないような生花教室で、発泡スチロールの空箱に植えられた赤い花が軒下でしおたれていた。魚を焼く匂いがした。どこかで女が子供を呼び、電車の音にそれが紛れた。
自動車道路へ出て、そこを渡ると二人が追い縋った。
「腹ごしらえをしたいんだ」呉が、楊子をくわえたまま話しているみたいな英語で言った。
「何だ、喋れるんじゃないか」
「ちょっとね。ちょっとだけ。――飯、食っていいかね」
「いいよ。俺は見物だ」
呉が陳にそれを伝え、陳だけが笑った。
「タダ見、よくないよ、お兄さん」陳は笑顔で傑を見た。
「何を食うんだ」
「何でもいい」
「台湾料理なら旨いところがある」
「普通のでいい。軽くね」
「普通って何のことだよ?」傑は英語で訊いた。
「食いすぎると動けない」呉は答え、相棒に何か言った。彼の方が頭ひとつ背が高かった。向うが答えると、小刻みに頷き、傑に向き直り、
「旨すぎても、居坐ることになるだけだとさ」
「しょうのないもので間をつなぐなら、後でゆっくり居坐る方がいいんじゃないか?」
呉はすると、陳に鋭く呟いた。
「おなか、力が入らない。何でもいい。今、食べるよ」陳は、日本語で言った。
「お兄さん、中国言葉しゃべらないか」傑に尋ねた。
「からきしだ」
「華僑か。華僑、二世か」
「そうかもしれない、――いや、そうじゃない」
「何だ。判らないよ、それ」陳は曖昧に笑った。
また路地へ入った。陽はもういくらも残っていなかった。二人は、広東語でやりあっていた。
「パンでいいんだ」呉が言った。「何かを口、入れたいんだ」
「何がそう、何がそうじゃないの?」陳が訊ねた。
「この先に何か店はないのか」
「本当の親父はそうだったって話だが、サイゴンから一歩も出たことはなかった」
「サイゴン」陳が言った。
「俺は覚えちゃいないよ。四歳になる前、別れたからな」
「ずっと日本?」
呉が低く呶鳴り、陳が短くたしなめた。それから日本語で、
「ずっとかね」
「ずっとじゃねえよ。あっちこっちだ」
「何か買って来る」今度は呉だ。英語だった。
「そこらを探してみる」
「すぐそこにABCストアがあるはずだ」
「何がある?」
「饅頭があるだろう」
「どことどこかね。どこ行ったかね」
「いいかげんにしてくれ」傑は少し声を荒げた。
「志垣のところ、長いのかね」おかまいなしの風情で陳が訊いてきた。
「高校までこっちさ。ほとんどな。その話は終りだ」
「それだと、あれはもらえるか」
「あれって何だ」
「あれよ。ほら」呉に向き直り、何やら訊ねた。
「官制の保険に入ってるかって」呉が英語で言った。
「健康の保険だよ。AIUとかアメリカン・ホーム・スタンダードじゃなく、国の奴だ。病気すると国が面倒見てくれる奴」
「兄貴は会社を持っているからな、入ってるかもしれない。会社員でないと、何だって駄目なんだよ。だから、俺は関係ない」
「会社員、何か?」
「シンジケートだよ」
「判らないねえ」
次の通りを右へ曲ると、その手の店が一軒、店を開けていた。もちろんABCストアではなかった。
「これローソンよ。ローソンだよ」呉が勝ち誇るように言った。
「ハワイじゃまとめてそう呼ぶんだ。洟紙をクリネックスっていうのと同じだ」傑は、もうすっかりうんざりしていたので、それこそクリネックスを丸めて捨てるように答えた。
「それは便利だ」
呉は陳に、二言三言、言い残して店に入って行った。
「同じの、香港にもある。中国も同じ」
陳は軒先に、瀬戸物屋の狸か薬屋の蛙みたいにして立ち、うれしそうに笑った。「何か言葉、中心つけるね。食べ物中心。買い物中心。同じだね」
言うと、傑にスポーツ・バッグを預け、相棒の後を追った。呉は、硝子戸の向う側で雑誌の棚をあれこれ品定めしているところだった。
傑は道路を渡った。そちら側の路肩は背の低い植込みに仕切られていた。舗石も新しくきちんとしたものだった。そこから道路はゆるいカーヴを描き、山手線に沿って広がる住宅地に向かっていた。
彼は生垣の陰でスポーツ・バッグを開いた。だらしなく垂れていたタオル――しかもその端には土木会社の名が織りこまれている――をつめこもうとして、鉄《くろがね》色の林檎をみつけた。タオルに包まれた拳銃は旧式のリヴォルヴァだったが、そ奴は最新式の米軍手榴弾だった。
傑はポケットチーフでグリップをきつくしばり、トラウザースのポケットに手榴弾をねじこんだ。
呉は、カレーパンを食べながら自動ドアから出てきた。陳の方は瞬間接着剤のパッケージを手に、笑いながら道路を渡ってきた。
植込みに沿って行くと、舗石がさらにしゃれたものに変った。植込みの足許は色タイルでかためられていた。車道には石畳みたいなレリーフがほどこされていた。空が巨きくなり緑が濃くなった。線路はすぐ裏手だったが、それも遠いものに見えた。
そこは新都市型何とかかんとかと名付けて売りに出された公団住宅で、あきらかにロンドンあたりのタウンハウスを真似してつくられていた。シヴォレーを真似しているうち、いつの間にか完成されたトヨタ車と同じで、こうした夕暮れどき、遠くから目を細めて見るには申し分なかった。
陳が、目ざす対手のビル番号を書いた紙片を出し、三人はさらに歩き続けた。
こうした場所のエントランスにはつきものの噴水だの人工滝だのの代りに、円筒型の劇場が建っていた。ホールの屋根と居住棟の軒がひとつにつながってピロティをつくり、そこをやってくる人影がいくつも見えた。みんなラフな出立ちで、それだけ見ると、劇場の客というより公民館にヤクザやら猫好きの婆さまやらを吊しあげに行こうとする自治会役員といった風情だった。
バス通りの方から来る客は、誰も一様に着飾っていた。背広姿の男たちも、決してビジネス・スーツではなかった。女たちは大したことのない体の線を必要以上に見せつけるか、布を沢山使っていることを自慢するかのような服を着ていた。
みんながパンフレットを持ち、半分は情報誌を丸めて脇挟んでいた。
「何、やってる」陳が訊ねた。
「芝居だよ」
「あ奴らがか」
「中でやってるんだ。シェイクスピアだ」
「知ってるぞ。ロミオとジュリエットだろう」
「違うだろう。ヘンリー四世って書いてある」
「じゃ、シェイクスピアじゃないな」
「ああ」傑は生返事をした。
開演までには、まだ三十分近くあった。玄関前には人だかりができていた。人待ちの顔もいたし、ただの時間つぶしもいた。もぎりは、ずっと奥でやっているようだ。ホールは出入り自由で、おまけに客全員を収められるほど広くはなかった。
居住棟のあちこちにも、こちらを見降している顔があった。
呉が鋭く短く何か言った。それから傑に、
「車が多すぎる」
「客の車だろう」
ゆるくうねった道路の片端は車でほぼ埋まりかけていた。
植込みの小枝で車体がこすられるのを嫌い、どれもたっぷりした止めかたをしていた。おかげで、擦れちがうのもままならず、数台がエンジンをふかし、窓から運転手が頭をつき出し、うんうんやっていた。BMWを三台つづけて見た。メルツェデスも多かった。ゴルフやプジョーのせいで、カローラが目立つほどだった。ほとんどのナンバーが、このあたりの住人のものではなかった。
「攫うのは駄目ね」陳が言った。
「これじゃ、駄目ね」
「ここの駐車場は別にある」
「知ってるよ。調べたよ」
「ここでやるのも難しいぞ」
「大丈夫よ」
「この車は何しに来たんだ」
呉が尋ねた。
「だから客の、――」と言いかけ、陳の背中を睨み、また同じことを説明した。
「有名なスタァが来てるのか」
「ああ」
「こんな団地にか。姑爺仔《フーイエチヤイ》の住んでるような団地にか。――慰問に来たのか」
「知らないね」
「ボランティアか?」
「スウェーデンの王立劇場だそうだ」
「スウェーデン語が判るのか。みんな判るのか?」めずらしく、呉の目が表情を持った。
「判るわけがないだろう」
「じゃ何を喋るんだ」
「台詞だよ。台詞、台詞」傑は力なく言った。
「お兄さん、手順、知りたい?」
「As fuckin' you like it」と思わず応じ、
「好きにしてくれ」あわてて言い替えた。
「そこから電話で呼ぶのよ。私、張《チヤン》の味方、奴はまだ思ってる」
「相手はどっちだ」
「どっち?」
「チャンなのか、フー・イエ・チャイか」
彼は笑い出した。笑いながら、呉にこまぎれに話しかけた。すると呉も深海魚のようにもっさり笑った。
「姑爺仔《フーイエチヤイ》、スケコマシよ。日本語、言うでしょうが。スケコマシ。それが女にいかれたね。品物とるわ、金よこさないわ、何度注意しても直さない。この男のお兄さん、それで、――」口ごもり、二本の指でこめかみを叩いた。呉に何か訊いた。呉が応え、陳はまた何か言った。
「魚にされたんだ。魚の|※[#「月+南」]《ハラミ》、――日本語じゃ鴨に葱だろ」呉が代って言った。
「いくら食われた」
「二十八万」
「ドルか」
「円だ」呉は難しい顔をして言った。
「金の多い少いじゃないよ」何故かするりと、陳が弁明した。
「面子の問題だ。この男の兄さん、香港の友達、親、名付け親、親戚の前へ出られない」
「プライドの背中《バツク》は緑《グリーン》じゃない」呉が言った。
少し歩くと、傑はこの中国人が、誇りは|ドル紙幣《グリーンバツクス》では買えないと言ったのだと気付いた。はたして、ジョークのつもりだったのかどうか、そこまでは判らなかったが。
「このビルの裏側へ、私が連れて行く。そこの通路を通る。お兄さんは、好きなところにいてくれ」
その言葉を合図に、二人は母国語で手順をお復習《さら》いし始めた。外から見ればまるで喧嘩腰だった。
それが済むと、陳は土建屋のタオルに包んだ拳銃を出し、相棒に手渡した。拳銃は二丁あった。自分のベルトに挟んだのは、どう見ても護身用にしかならない小口径だった。手榴弾を探して確かめようとはしなかった。そのままジッパーを閉じ、やっと傑に何かを促すような眸差しをくれた。
「志垣から聞いてると思うが、俺が止めろと言ったら、どうしても止めてもらうぜ」
傑は、その眸に重々しい声で応じた。
「OK、OK」呉が、ただ頷いた。
「お兄さん、こういうものいるか?」陳は上着の内ポケットから外国人登録証を出し、街灯に翳した。
「いるなら作るよ」
「結構だ」
「国籍はどこなの」
「アメリカだよ」
さあ早くしやがれ、傑は爪先で空気を蹴飛ばした。
「それはいい」陳は怯まなかった。言って、大きな声で笑った。
「それがいいよ。それ、一番よ。みんなあそこの人、なっちゃえば、いいんだ」
呉はすでに歩き出していた。円型劇場の方角も、少しは落ちつきをとりもどしていた。空の一角に赫みは残っていたが、通路の向う側はもう暗闇だった。
居住棟の目の前は、ドライヴウェイをはさんですぐに線路が走っていた。ドライヴウェイと建物の足許を飾った植込みとの段差は二メートルとなかった。建築家は厭気がさしたのか、棟と棟の狭間の通路を抜けてこちらへ出ると、すべてがいきなり昔ながらの公団アパートに変身した。路肩駐車している車はどれも国産車だった。線路を仕切る柵にしがみついて生えた雑草は、赤錆に覆われていた。そこから虫の声が聞こえた。
通路からドライヴウェイへ降りる石段を上り下りして高さをたしかめ、呉は線路の方へ後ずさりした。少し右へ移動すると、そこに停められたマークUの陰に入った。頭をのぞかせ、何かを目測した。それでも足らず、石段のすぐ下までの距離を大股で歩いて体にたたきこんだ。
四度くりかえすと、やっと車の向う側に姿を隠した。
すでに何度か、くりかえした行動に違いなかった。ただ車の位置が、前回とは変っていたのだ。こんなのは、――日本ではもちろん、ハワイでさえめったに見たことはなかった。ハワイでなら弾丸の数で補う。志垣たちは、いったい何で補っているのだろう。傑は道路の真中で、煙草に火を点けた。
とっつきの壁面にへばりついて、通路から出てくるのを待つのが、それは一番だった。しかし、その場所は他よりも低い位置にある街灯で明々と照らしあげられている。
生あたたかい風が来た。背後を電車が通過した。その窓明りが、正午の海の反射光のようにゆれながら流れ去った。あそこにへばりついていたら、電車からは格別のパフォーマンスに見えるに違いない。
傑は煙草を靴でもみ消し、車へ歩いた。
上空の小窓に笑い声が聞こえた。水音がはげしくひびいた。誰かが誰かを呼んだ。その声が風呂場で反響した。小窓が閉ざされた。どこからか、鍋に投じられた刻み葱の匂いがゆっくり漂って来た。
路肩に停った車と土手の間にしゃがみ、傑は腕時計を見た。芝居はもうはじまっていた。
ヘッドライトが、こちらを照らし、すぐまたそっぽを向いた。数回それが繰り返された。小型のワンボックスが、百メートルほど後ろに縦列駐車をしたのだった。ヘッドライトは消え、エンジン音も止んだ。
「兄貴からはいくら入る?」傑は尋ねた。
「五万だ」呉は背中で言った。
「日本円で?」傑はびっくりして言った。
「そうよ。もちろんよ」
「陳はいくらだ」
「そのうち二万だよ」
「そのうちか。三人要るけど、三人じゃやってられないな」
「金じゃないんだ」
「俺の頼みだったらいくらだ」
「|ドル紙幣《グリーンバツクス》なら千五百だ」
傑は溜息をついた。「相変らずドルか」
「俺じゃない」呉が、弁解口調になって言った。
「義のある仕事じゃないなら、私、人に請けさせる。私、そこらの飛仔《ちんぴら》じゃないよ」
また電車が来た。今度は反対方向だった。電車の窓明りが消え残っているうちに、住居棟の通路から陳ともう一人の男が出て来た。衿つきの高価なカーディガンだけがやたらと目立った。
二人はほとんど並んでいた。石段の一番上へ来るまでの数歩で、陳がわずかに退いた。
彼が張の背に体あたりをくわす瞬間、傑は、車の陰から顔を出した。
まず最初に、走って来る子供が見えた。走ることを覚えたばかりの足取りだった。親の姿は見える限りに無かった。
張は石段をみごとに落ちた。両膝をつき、両手をつき、痛みでひっくりがえりアスファルトに音をたてた。こちらに背を向けて、上半身を起こしたとき、ちょうど真後ろに子供が来た。子供はふいに動きを止め、両手で頭を押えている張に見入った。彼は今、予定される火線の真ん中に立っていた。
母親の声が聞こえた。甲高い声で子供の名を呼んでいた。乱れた足音がした。そっちへ振り返ったのは張の方だった。
陳は石段の上でぼんやり立っていた。手は腰のあたりでふらふらしていた。
呉が、車のボンネットに駆け上がった。
ポンッと空気がはじけた。最初の弾は、子供の頭をかすめて、張の首にあたった。血は、街灯の光に煙のようだった。次の弾は子供の肩の上を通過し、張をなぎたおした。どこに当たったかは判らなかったが、カーディガンが血だらけになった。
母親が悲鳴をあげた。
子供が尻もちをついた。まだ泣いてはいなかった。
母親は見えるところまで来ていた。悲鳴は途切れずに続き、両手に提げたスーパーマーケットの買物袋がざわざわと鳴り響いた。
呉はボンネットから飛び降り、子供を蹴倒すように跨いで、張に駆け寄った。
すぐ真上から、銃口をくっつけるようにして、残りの弾を全部射ちつくした。髪の毛がちぎれて舞い上がり、赤いものや白っぽいものがほとんど垂直に飛んだ。それで張の頭の形と右腕の形がすっかり変ってしまった。
拳銃は捨てなかった。張を蹴上げることもしなかった。
呉はいきなり走り出した。石段を上り、通路から劇場の方へ姿を消した。陳がその後を追った。そのときになって、次の電車が来た。
母親は子供と買物袋を二ついっぺんに抱き締め、自分が停めてきた自動車の方へスカートが切れそうな歩幅と勢いで走り去った。
傑は、ドライヴウェイを、母親とは反対方向にむかって走った。道は弧を描き、劇場の裏手を巡っていた。そこから、例のピロティへ上って行く階段があった。
劇場入口のすぐ近くまで行って歩を休め、ゆっくり元来た方をうかがった。
同じようにして、銃声だの悲鳴だのがやって来た方角を探そうとしている者が何人かいた。二、三人の男があの石段に続く通路の方へ走っていた。無用心に後を追う者もいた。
色タイルのエントランスに立っていると、植込みの暗がりでコオロギが鳴いた。
劇場ホールの奥からは、かすかに耳慣れない言葉が聞こえてきた。
いったい誰がこんな言葉で四百年の昔を了解するのだろう。
彼は劇場のファサードを横切り、高層ビルと、そのあたりをぼんやりさせている町灯りの方へと歩き出した。
途中で、煙草の吸殻を拾ってこなかったことを思い出した。そうすることに気付きもしなかった。腹がへっていた。口からものを食べたかった。まだ、帰りたくなかった。電話で報告するのもいやだった。何故、あんなふうにやれるのか、考えもつかなかった。あの男は何か得物を持っていたのだろうか。持っていなければ、走り寄って射つのが当然だった。まったく違った計算式で、得意の二次函数を解かれてしまったような具合だった。何故あんなふうにやれるのか考えつかぬまま戻れば、きっと綻びのない報告をすることだろう。手をひろげ、けっこう話し上手にだ。それがいやだった。何故、あんなふうにやったんでしょうね? すると志垣なら、きっとこんなふうに答えるだろう。
「奴には子供がいないのさ」
それとも、ただ、判ったように振る舞っていればいいのか。
少し後になって、傑は、ポケットにくすねてきた手榴弾に気付いたが、そのときはもう、大通りで拾ったタクシーが、そこそこの速度であの出来事を跡形もない彼方に押しやっていた。
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ジャップ・ザ・リッパー
ホテル・アパートメントと言っても、夜になると玄関に鍵を掛け、ロビーの灯を落とし、たったひとりのコンシェルジュは毛布にくるまって長椅子で鼾をたてている、――キッチンのついた旅籠といった案配だ。
その朝、ムフタール通りの賭場から帰ってみると、例によってコンシェルジュは行方不明、早番の賄婦は上階で朝食後の仮眠、――表の硝子扉を開ける者はなかった。
いつもなら終夜キャフェか公園で、もう三十分ほどぶらぶら時間を潰すところだったが、今朝、傑には空港で用事があった。シャツはまだしも、髭ぐらいは剃らないとならない。ヴォルテール河岸に乗り捨てて来た車へ戻り、薬局を探した方が利口だろうか。空港のトイレでなら、髭を剃って何の不都合もない。
捨て台詞の代わりに一度、真鍮板の下框を蹴り飛ばすと、内側で気配がした。
傑は、硝子扉から素早く身をかわし、ごてごてとレリーフがある抱き柱に肩を押しつけた。そのときにはもう、右手が上着の内側で鯨の歯でこしらえたナイフの柄を掴んでいた。
こめかみが、しんと冷え込んだ。
鍵が室内で解け、カーリンヘン・ポッゲが顔をのぞかせた。ちょうど真上の部屋に住んでいるドイツ系スウィス人の娘だった。
傑の体から力が抜け、右手は刃渡り九インチのボウイナイフを放した。
彼が硝子扉に身をさらすと、カーリンヘンは笑おうとした。
旨くいかなかった。笑おうとするたび、いつも旨くいかない、その様子がすでに彼女の顔の一部になっていた。目は腫れぼったかったが、外出着を着ていた。足許も金具のついたハイヒールだった。髪は整い、化粧は半分ほど終っていた。それで全部なのかもしれない。どちらにしろ、大した変わり映えはないだろう。
彼女は、ふっくらと肩をすくめ、ドイツ訛の英語でおはようを言った。
「朝食は? 今朝は食べ放題よ」
やっとの思いで部屋へ上がり、風呂へ入り、湯に足を伸していた数秒間、傑は郊外へのドライヴを想った。実際、そんな天気だったのだ。
風呂の途中で湯から出て、窓を開けた。風はすっかり温かくなっていた。
窓の外は非常階段だった。そこの鍵だけは、ドアを塞がれたとき、いつでも逃げ出せるよう常に掛けずにおいた。代わりに窓枠の内側に空き瓶をびっしり並べ、用心にしていた。
そのすぐ下の床には、釘を打って剣山のようにした板切れが何枚か敷いてあった。
風呂から上がり、シルクのシャツを着て、彼は電話でタクシーを呼んだ。
外出の身支度を整え、剣山を風呂場の床全体に広げ、廊下へ出て、ドアに三つ、鍵をかけた。そのうちの二つは、先週、営繕係のド・ボスに金を渡してつけさせたものだった。
赤と金のストライプ・タイを締め、キャメルのジャケットに袖を通しながら降りて行くと、カーリンヘン・ポッゲは下のバァでまだコーヒーを飲んでいた。
「コーヒーいかが?」
自分の居間でそうするような風情で言ったが、自分の居間で、そんな物腰で男を迎えることがあるとはとても思えなかった。
彼女の尻が半回転すると、スツールは片足のフラミンゴみたいに慄えた。
空港での約束まで、時間はまだあった。彼は立ったままコーヒーを飲んだ。
カーリンヘンはカウンターの籠に盛られた『食べ放題』のクロワッサンを三つ食べた。フロント係がいれば、一つにつき三フランと五十とられる代物だ。
「先刻、お帰り?」
「ああ」
「一晩中、よくすることがあるわね」
「博奕だよ。それで、少し熱くなった」
「儲かったの」
「ひと月通せばプラスマイナス・ゼロってところだ。儲けじゃないよ。博奕は勝ち負けだから、――」傑は、ふいに思いたち、苦笑を籠めて、
「そこであの男とすれ違ったぜ」
「誰。ああ、アリね。モハメド・アリって言うのよ、あの人」
彼女は悪びれず、生真面目に答えた。それから、思い直した様子で、
「だからって一晩中じゃないわ。――あなたはいかが? 朝までずっとでしょう」
「博奕は|あれ《ヽヽ》と違ってなかなか終わらないからな」
「でも、私は眠ったもの。四時間は、眠ったわ」
多分、|あれ《ヽヽ》という遠回しな言い方を、何かと取り違えたのだろう。まるで勝負を張るみたいに、彼女は顎をしゃくり上げてそう言った。
傑はサングラスをジャケットの懐に探し、濃い色のレンズで目を隠した。中庭の方から強い日差しがやって来たのだ。
「することなんかないさ」彼は言った。
「俺は、何もしないでいるためにここに来てるんだ。日本にいると、いるだけで何か為になることをしちまうからな」
「何の為になるの?」
「知らないよ。俺がそう思ってるんじゃない。俺が来たかったわけでもないんだ」
「でも、あなた、博奕をするわ。クラブに行くわ。一晩中得体の知れない連中と遊んでるわ。結局、何かしてるじゃないの」
「為にならないことならな。それを言や、お互いさまだ」
「私は為になるわ。私のは違うわ」
傑は、苦笑してカウンターから離れた。今度は『|為になる《サリユテール》』が通じなかったようだ。
「これから車で出かけるの?」彼女が背中に尋ねた。
「人を迎えに行くんだ」
「北の駅? 南の駅?」
「パリじゃ、そんな訊き方をしないよ」
「北の方へ行くんなら送ってって下さらない?」
電話で呼んだタクシーが二十分も遅れて通りに止まり、傑がドアを開けて促すと、彼女は軽く驚き、しばらくその場に足を止めた。
「タクシーだったのね」と、済まなそうに彼を見上げた。
「かまわないよ。方向は同じようなものだ」
タクシーは一方通行をぐるりと回り、オルセー美術館の脇から河岸にでた。車内が、朝日で急に明るくなった。
「あなたの車かと思ったのよ」
彼女は、日差しに手を翳し、呟いた。
「あんな車で迎えには行けない」
「どうして? きれいにしてるじゃないの」
「ドアが二つしかないよ」
「四人乗りでしょう」
「目上の人を迎えにいくんだ」
彼女は、目上という言葉を口の中で転がし、やがて肩を竦めた。
「日本人の礼儀なのね?」
傑は、こんなときはいつもそうしてきたように、黙って軽く頷いた。
車がセーヌを渡った。石畳の広場が目の前で陽光を撥ね返し、運転手が歌うような口調でパリの天気を褒めちぎった。サンバイザーを下ろすと、根元からもぎれて下に落ちてしまったが、それにも決して悪態をつかなかった。助手席の黒犬に、何か警句めいたことを囁いただけだった。
「君はどこへ行くんだい」傑はカーリンヘンに尋ねた。
「ランデ・ヴーがあるのよ。新しい|お友達《アムールー》」
「また、これから?」
彼は驚いて、彼女の横顔をみつめた。
気立てのいい丸い頬に、今日はとりわけソバカスが目立った。庭箒みたいな強《こわ》い金髪が大きくウェーヴして、目の上を鬱陶しくさまよっていた。彼女は日本の戦争世代の男たちだけが『グラマー』と称ぶ、白人特有の肉付きを気にするあまり、いつもぶかぶかの無神経なカットの服を着ている。
「もうすぐ四月ですもの。沢山の人と知りあわないと、――」
言って、自分に頷いた。弁解のようにも聞こえた。今週に入って、これで二人めの新しいお友達だ。いつもの男も週のうち幾晩かは泊まっている。
彼女は勉強家の短期留学生だったが、何を学びにきたのか彼はついに知らなかった。
家族思いで、毎日故郷の村の誰それに絵はがきを書き、一週間に一度は、フロントの公衆電話からスウィスの自宅に電話して、少なくとも七人以上の家族と代わる代わる話していた。その方が、部屋からかけるより安いのだ。酒も飲まないし煙草も吸わない。麻薬は、マリファナ一本やったことがない。倹約家で、質素な田舎娘だ。しかし、お友達の多さと、付き合いの良さには際限がなかった。
「もうすぐ四月よ。ほんとうに、時間なんかすぐ経っちゃうんだから」カーリンヘンが言った。
「ああ」彼は、音を殺して大きな息を吐き出した。「ああ。そうだ」
すると彼女はくすくす笑い出した。
「変だわ。私、モハメド・アリを四人も知っていることになるんだわ」
「好きなのか?――何かあるんだね」
「何に?」
「その名前さ」
彼女は、何だかとても弱々しく頭を振った。「何もないわ。ただの偶然よ。もしかすると、ムスリムに格別好かれる何かがあるのかもしれないわね」
「声をかけられたって、断ることはできるんだぜ」
言った途端にしまったと臍をかんだが、そのときはもうカーリンヘンがこちらに体を寄せ、
「何で、私と寝ないの?」と、真顔で尋ねていた。
「私に興味がない?」
「そんなことはないよ。興味はあるさ。――ないって言うなら、どんなものにもみんな興味がない」
「私が美しくないから?」
「君の問題じゃないね。俺の問題だ」
傑が彼女の手の甲を軽く握ると、カーリンヘンは一瞬、その手を引っ込めようとした。肩がぴくんと震えた。結局、思い止まったが、身を硬くして耳を赫くした。
傑は、不意に自分のベッドの真上に広がる滲みだらけの天井と、その四隅で崩れかけている|回り縁《コーニス》を思い浮かべた。その辺りからときおり、ベッドが軋む音や、彼女があのときに上げる大きな歓声が幽かに聞こえてきて、彼を不快にする。音ばかりか、十九世紀からひたすら塗料を塗り重ねてきた古い天井は、あちこちで剥離を起こし、漆喰や塗料の滓をぱらぱらと撒き散らすのだ。
傑は、思わず彼女の手を握りしめた。カーリンヘンはますます体を硬くして、恥ずかしそうに眸を逸らせた。
「あなた、立たないの?」消え入るような声で尋ねた。
何が? と訊きかけて、彼は気がつき、苦笑した。
「君こそ、|いかない《ヽヽヽヽ》のか?」
「何故、そんなことを言うのよ」
「理由がないからさ。君が、誰ともみんな友達になっちまう理由だよ。君のは、まるで、――」
「まるで?」
彼は、軽く息を継ぎ、
「まるで体力の限界を試してるみたいだ」
カーリンヘンが笑い出した。初めて、手をぎゅっと握り返した。
「お願いがあるの」やがて彼女が言った。
「写真を撮らせてくれない?」
「何の写真だ」
「あなたの写真よ。私と一緒に写っていれば、どんなのでもいいの。ホテルで日本人と知り合いになったって手紙に書いたのよ。そうしたら、写真を見せてくれって、うるさくいわれて。――わたしの故郷の村はね、百七十人も人がいるのに、誰も日本人に会ったことがないの。ね、呆れちゃうでしょう」
呆れたのかどうかは判らなかったが、傑は言葉を無くしてシートに腰を深々と埋め、ぼんやり外を眺めた。
タクシーはオペラを巡る道路で渋滞にひっかかり、先刻からほとんど前に進んでいなかった。その窓から見る限り、ギャルリ・ラファイエットの小径を通ってクリシーに向かう車が百万台はいる様子だった。
「私、一週間後にはそこに帰るのよ」カーリンヘンが溜息のように言葉を吐いた。
「嫌なら、帰らなけりゃいいさ」
「そうはいかないわ。結婚しないとならないもの。十一歳のとき婚約したの。帰ったら、すぐ結婚式よ。――言わなかった? 私、パリには花嫁修業に来てるのよ」
「すごい花嫁修業だ」
「何が?――ああ、私とお友達のことね。そんなことはないわ。私はあなたたちと違うもの。ここにいる誰とも違うのよ。私と同じなのは、村の人だけなんだわ」
「百七十人?」
「そう。そのうち三分の一だって、ジュネーヴにも行ったことがないのよ。外国へ行ったなんて、私を含めて四人きり。私だって、これで帰ったら、もうそこを出ることなんて無いと思うわ。アントンはとってもいいチーズを作るから、品評会にノミネートされてチューリッヒに出かけることがあるかも知れないけど」最後だけ嬉しそうに言い、眸を細めた。
車が発進して、また止まった。その勢いで、彼女は頬を彼の肩に埋めた。
傑は脇の下にスリングベルトで吊った大型ナイフを気遣い、身を反らせた。
するとカーリンヘンは、自分の方から慌てて体を引き離し、もじもじと笑い、こっちを見た。今度は頬まで赫くした。
「ますます、帰らなけりゃあいい」彼は乱暴に言った。
「そんなの駄目よ。私、アントンを愛してるもの。アントンって、私の婚約者なの。でも、村にはアントンが十九人もいるの」
「彼は、村の暮らしに満足してるのか」
「もちろんよ。――あら、私もよ。村から出て暮らすなんて考えられないわ。私は、ずっとあそこで暮らすの。パリは、これでもう充分。一生に一度の旅行だからいいけど、こんなところ、住むどころか、何度も旅して来るなんてとんでもないわ」
彼女は少し伸び上がり、フロントグラスを埋め尽くしたデパートの壁面広告と自動車の群を見渡した。
「あなたが思ってるようなのと違うのよ。私が沢山の男性と知り合うのは、パリの、そこらの娘たちとは全然違うわ。私は、帰ったらアントンに絶対忠実に過ごすわ。村の男たりは、全員家族みたいなものなのよ。みんな、顔も名前も、お誕生日や好きな食べ物まで知ってるの。でも、私が、これからずっとアントンに忠実なのは、世間のためじゃないわ。そうしたいから、そうするの。――あなたに、どう思われたっていいんだけど」
「写真みたいなものなんだな」傑は優しく言った。決して尋ねたわけではなかった。
「何が?」カーリンヘンが聞き返した。
「君の連れてくる男たちさ。君のお友達」
「写真ってどういうこと?」
「観光客が、やたら沢山写真を撮るじゃないか。何もないただの川面や、ただの鳩や、そこらの大道芸人の後ろ姿にまでシャッターを押してるだろう。あれみたいなものなんだ」
「判らないわ。自分でもよく判らないのよ。ただ、沢山の人を知りたいの。その人のいろんなことを、つまり出来るだけ沢山を。だって、チャンスはこれ一度きりなんだもの。だから、私はあなたとも寝たいわ。写真を欲しがってるのはアントンよ。私の父と母も見たがってるわ」
「残念だけど、俺は日本人じゃないんだよ」
「そうなの?」
彼女は、とてもがっかりして眸を自分の膝におとした。何か不味いことを言って、手非道く傷つけてしまったのではないかと気遣うほど、肩が打ちひしがれ、小さくなっていた。
「中国人なら、村に一度来たことがあるわ」
「国籍はアメリカなんだ。ヴェトナムで生まれて、アメリカ人に貰われた。育ったのは日本だから、――」
「でも、それじゃあアントンを騙すことになっちゃうわ」
「中国系ヴェトナム人の写真じゃ駄目なのか?」
言ってから、かつて一度も自分をそんなふうに言ったことが無かったことに気がつき、傑は何故かばつの悪い思いに駆られた。
カーリンヘンは何も言わなかった。それきり、黙ってしまった。
クリシーを過ぎると、道は上りになり、車も少なくなった。
彼女は、二度道を間違え、丘の方へ遠回りして、ピガールの近くのアパートでタクシーを停めた。三部屋に一部屋は、窓を硝子ではなくベニヤ板で塞いでいるようなアパートだった。
道路には肌の黒い男達が目立った。男たちの半分は、道端にただ漫然としゃがみこんでいた。甘酸っぱい臭いがどろりと低く漂っていた。
ここがどんな場所か教えてやろうと思ったが、彼が口を開くより早く、カーリンヘンがドアを開け、大声を出した。
道路にいた全員が、値踏みするような鋭い視線を向けた。彼女はいっこうに構わず、声をたててアパートに手を振り続けた。
ベニヤ張りの窓のひとつが開き、口髭を生やした北アフリカの黒人が顔を覗かせた。一日の仕事を終えた肉屋の前掛けのようなシャツを着て、ボタンをひとつしか止めていなかった。背後の暗い室内は焼け跡のようにくろぐろとして、家具らしいものは何も見えなかった。
男は、カーリンヘンを認めても、眉ひとつ動かそうとしなかった。
「ここでいいのか」傑は眉をひそめて尋ねた。
「そうよ。彼もモハメド・アリなのよ」
「待つ時間はないぜ」
「野暮は言わないでよ」
彼は肩を竦め、ドアを締めた。結局、今彼が見ているものは、彼女にだって見えているのだ。聞こえるものは聞こえるし、臭うものは臭っているはずだ。しかし、それにしても、――
「アーリガト」
カーリンヘン・ポッゲは車の窓に顔を近づけ、彼に言った。声には笑いがあり、豆腐屋のラッパみたいなメロディがあった。日本語だと気がつくのに時間がかかった。
彼女は笑い、指をいっぱいにひろげ、外から車の窓ガラスに触れた。
「そう言うんでしょう。違うの?」
「ああ」と、自分の手首に頷いた。七時四十五分。少し遅れている。それでも、傑は、
「何故、一度きりなんだよ」と、彼女に訊かずにいられなかった。
「何が一度なの」
「故郷へ帰ったって、またどこかへ行けるかもしれないじゃないか」
「そんなことないわ。そう決まってるのよ。だいたい私が、そんなこと考えてもいないんだもの」
男が刺々しい声で彼女を呼んだ。フランス語のようだが意味の判らない言葉で、さらに怒鳴った。
「行ってくれ」傑は、運転手に声をかけた。
シトロゥエンのタクシーは、パドリングをはじめるサーフ・ボードよろしく車線へ戻った。最初のピッチをもっそり乗り切ると、石畳の波に逆らい、進みはじめた。
空が氾がり、明るくなった。右手の屋並のすぐ上方でサクレクール寺院の円天蓋が埃っぽく煌った。
しかし、背後には光が届いていなかった。道路の東側は土地が高く、石垣の上、建物がカーヴに沿ってぴったりとスクラムを組んでいるのだ。
カーリンヘンは、その影を嫌うように胸を張り、大股で日の当たる方へ道路を渡っていくところだった。
タクシーの運転手が何か言った。助手席の黒い犬が、喉鳴りで凄みながらむっくり起き上がった。舌が空気を掻いた。息が彼のところまで臭った。
運転手がまた何か言った。犬は頭をゆすり、助手席に丸くなった。
三度め、やっと相手が「もう春だね」と言っていることに気づいた。
「ああ」と応じて、窓を五センチ開けた。
「これでもう寒さが戻ってくることはないだろうな」
「ああ。ないだろうな」
客がフランス語で答えたことに安心し、運転手は鼻歌を歌いはじめた。
『ハーツ』から『ヨーロピアン』まで、一列すべて当たったが、空港のレンタカー・カウンターに用意されているメルツェデスは300Eどまりだった。
悪くても300のSクラスが要るとねばっても、向うが腹の底で笑って聞き流すのは初手から判っていた。
「ルノーの25にしたらどうですか」案の定、係の女はしまいに言った。
「ミッテランだって、それに乗ってるのよ」
「俺が要るんじゃないんだ。俺ならホンダで充分だ」
「あら、ルノーの方が速いのよ」
傑はちょっと意地になって、一番大きなヴォルヴォを一週間借りた。
それを到着口のコンコースへ回し、ハイヤーや社用車がたむろしているあたりに乗りつけた。鍵をかけていると、背後のメルツェデス600から、運転手のお仕着せを着た男が顔を覗かせ、車内で待たなければ駄目だと呶鳴った。
鋭くたわめた背中でそれを無視した。
また呶鳴り声が飛んで来た。熱いものが空気に混った。メルツェデスのドアが鳴った。
傑はゆっくり振り返り、眉とサングラスの隙間から相手を睨んだ。
背骨を伸すと、そこに刃物がすべりこんだ。猪首のフランス人運転手が、ドアから手も離せず、中腰のままその場に凍りつくまで、彼はそれをやめなかった。
「俺はショーファーじゃねえよ」
言い残し、回転ドアへ歩いた。
空港ロビーには警官と若い娘が目立った。
警官の半分は、球形のヘルメットを被ったCRSだった。娘たちは誰も美しかった。三十人のうち二十九人は有無を言わせぬ美しさだった。警官はひっそりと立っていた。娘たちは皆、顎をすいと上げ、引ききった弓のような姿勢で、素早く、真直ぐに歩いていた。どちらも表情は硬かった。やがて来る事件に身構えているのだ。事件が幸か不幸か、違いはそれだけだった。
つられて傑も身構えた。構えた相手は他の誰とも違う、しかし彼にもよく判らない何かにだった。到着ロビーを数歩往くうち、その何かはますます姿形を失い、そのくせ確かなものになっていった。
傑は、鯨歯の柄がついたボウイナイフを、ヴォルヴォの運転席の下に隠し置いてきたことを後悔した。警官の臨検に備えたのだ。
ペルシャ人もアラブ人も、めっきり少くなっていた。無駄に笑いを泛かべているのは東洋系の観光客と日本人ビジネスマンだけだった。
ドーナツ状のロビーを一周した。どんな係員に尋ねても、結局、相手が何番ゲートから出て来るのか判らなかった。
腕を組み、総合案内板の前で立ち尽くしていると、女の声がいきなり傑をフルネームで呼んだ。
振り向いた人ごみに、知った顔はない。
彼は三歩、真右へ移動した。あまり性急だったので、後ろからきたポーランド人労働者が飛び退り、それを見咎めたCRS隊員が、脇下に吊った木工用ステプラーのような短機関銃に手をかけた。
そのときはもう、彼はその二人の視野からはずれていた。
さらに壁際へ寄り、パリの地図を描いた巨大なパネルに首筋から尻まで、自分の後ろ側をぴったり押しつけていた。右の二の碗に力がたわんだ。ジャケットの上からも、見てとれるほどだった。それで、知らずに心臓のあたりを押えていた。もちろん、そこに得物はなかった。
「ここよ。いやね。あたしよ」
銀行の両替カウンターの列に、手を振る女がいた。KLMの制服を着て、キャリアに縛りつけたリモアを引いている。黒い髪を制帽のなかへ詰め上げ、華奢な首筋がすばらしく目立った。すぐ後ろに北欧系の男たちが四、五人、かたまっていた。彼女は、今までその陰になっていたのだ。
傑はゆるゆる息を抜きながら、その列に近寄った。
「どうしたの?――お出迎え」
「ああ」
「日本の娘ね。そうなのね?」
「おじさんだよ」
「意味深ね。スカートを穿いているおじさんじゃないの」
彼は空っぽの両手を大きく広げて見せた。
「花束なんか、先にベッドルームへ届けておけばいいのよ」
「今、帰りか」
彼女は頷いた。同時に目が軽く閉じられた。両目でウィンクをしたみたいだった。
「アジアの外れ。こっちの外れ。とんぼ返りよ」と言って、鼻にバッテンをつくった。
「このあいだ、どうした?」
「どうもしないわ。あのまま、インターコンチへ直行よ。非道い夜、非道い男、非道い朝。あなた、謝らないのね?」
「何に?」
彼女は鼻のバッテンを二重にした。いきなり声をたてて笑った。前後に体をゆすると、案外、胸が大きいことに近くの男たちが気付いた。
「レイディによ。あたしに。送ってくれる約束じゃなかった?」
「賭場でそんな約束はしないよ」
「六度もあなたと同じ目に張ったわ。四度勝って、最後に六千フラン行ったとき、――」彼女は言い淀み、あたりに目を走らせた。
「六千に行ったとき、シャンパンを奢ったわ」
「そう?」
「あきれた!――フランにしてちょうだい。いやね。そうよ、これで全部」
醤油で煮ふくめたような紙幣を数枚、彼女は、カウンターのスリットに差し入れた。
「カラチなんて、本当に厭。一度手放したドルは二度と戻らないのよ。そのくせ、十ドルか二十ドルあれば充分なの。大西洋線に戻れないのかしら。アンチグアバブーダより酷いところがあるなんて知らなかったわ。あら、ありがとう」
彼女は、ホチキスで束ねられた紙幣を受け取り、数え始めた。「あきれたわ、あなたには」
「何が?」
「エリックに送らせてさ。あたし、彼を部屋に上げなかったのよ。あなたが後で来るって言ったからよ」
「そんなこと言ったか?」
「言ったわ」
「本当に?――駒がずっとこっちに回ってたんだ。言うわけがない。勝ちに乗ってるときにそんなことは言わないよ」
「何を怒ってるのよ」
「怒ってるわけじゃない。賭場で口実になるようなことはしないって言ってるのさ」
「何の口実?」
「女とか酒とか。――負けるための口実さ」
「だって、あなた勝ってたじゃないの」
「だからさ。勝ち続けることに我慢ならなくなると、人間、ひょいと場当たりに、負けるための口実にしがみつくもんだからな」
「よく判らないわ。とにかく、あたしは待ってたのよ。いやね。本当。あなたって変ってるわ。もう一度許してあげるわ。明日からオフなの。コペンハーゲンへはいつ戻ってもいいのよ」
「電話してくれ」
彼女は耳のすぐ横で手を振り、口をへの字にして、
「電話してくれ」と、傑のちょっと崩れた英語を真似してみせた。
くるっと尻を見せ、リモアを引きずってタクシー乗場の方角へ立ち去った。
到着案内のボードが、トランプ手品のシャッフルみたいな音を立て、上から順に書き替った。ロンドンから来るBAは、半時間も前に到着している。
傑は肚を決め、ドーナツ回廊になったロビーをゆっくり歩き出した。二周するより早く、昔馴染みの嗄れ声を聞いた。酒、煙草、おまけに選挙にでも駆り出されなければこんな声は出ない。
その声の来る方へ、彼は人込みを割って行った。
老人はバァカウンターの真ん中に陣取り、ステンレス・スティールのスツールでオランダ・ビールを飲んでいた。一口ごとに顔を歪め、光にグラスを翳し、透し見た。真先に『キリン』と注文した様子が見てとれた。
年をとっていたが、背はしゃんとしていた。腹は出ておらず、背中より胸の方が厚く、四肢に現役の筋肉が盛り上がっていた。ひとなり五百万からする身形も、この筋肉がなければ、きっとゴルフへ行くボードビリアンの出立ちより意味がなかった。
「つまみだよ。サーモン。スモーク・サーモン。判らんかね、おい」老人は言った。
セネガル人のボーイは、肩をすくめるばかりだった。とぼけようにも、他に注文する客はいなかった。バァコーナァは自動販売機の利用客のほうが、はるかに多いのだ。
「なぁ。つまみ、スナックだよ。スナック。弱ったな」
傑は静かに背中に近寄り、声をかけた。
「本当に、そんなもんが食べたいんですか」
おおっと胸一杯の大声をあげ、振り翳した手で彼の肩口をぎゅっと掴んだ。
眸の隅で手首のローレックスがぎらりと光り、五本の指を肩の骨で感じた。
カウンターの上に散らばった紙ナプキンが、音もなく床へ落ちた。
「寝てないんだ。つまみがないと回りそうだ」
「遠いところを、お疲れさまです」
「遠かない。ロンドンにいたんだ。寝てないのは、用事だよ。ヤボ用だ。五日もいたんだ、家の者は言ってなかったか?」
「ええ」
「五日もさ。食いもんが不味くてな、往生したよ。俺の縁筋でな、麻布の直哉、あ奴を知ってるか? あ奴が、――じゃあ、ずっとパキスタンにいたのを知らないのか」
喋りながら、スツールの腰を左右へひねった。
遠くで硬い音が床に弾ぜ、真上の天井に撥ね、降ってきた。
老人はさっと顔を上げた。
「スモーク・サーモン、注文しますか?」
「気を遣わないでくれよ。お前に気を遣われたりしたら、俺は神経が攣っちまうよ」
傑は微笑で応じ、スツールの足許からハンティントン・ウェアのボストン・バッグを拾い上げた。「これだけ?」
「後はこれだ」手許に置いたカルティエの皮のポーチを持ち上げて見せた。形が崩れるほど、それは膨れ上がっていた。
「連れがいるんだ」老人は言って、ビールを空けた。「先に行かせた」
「先に?」
老人の瞼が重そうに動いた。何か言おうとして、それをやめた。
「すいません」傑は腰を折って頭を下げた。
「こっちこそ、叔父さんに気を遣わせちゃって」
「用事だったんだよ。一人で来るわけにゃいかねえや。――ほれ、その直哉がな、パキスタンのゴロツキと意気投合してな、あっちで商いはじめたのが三年前だ。大学出たってのに碌でもないよ。なまじ、ヒンズー語だか何だかできるばっかりに、――」
「喋れるんですか?」
「そうよ。京都だか大阪だかの外語だよ。――どうだい、ビールを少し?」
「おじさんはせっかちだからな」
「エンコの生れじゃ仕方あんめえよ」
言うと、老人は顔全体で笑い声をたてた。
「パリへ入ってからでも逃げやしませんよ、ビールも話も」
「判るもんか。――お前はふいに流れちまうからな。一言もなしにさ。ビールと話だけ残されたって、こっちはかなわない。あん時だってそうじゃあねえか。関西の連中に印《しるし》をつけられたとき、ひとつ声をかけてくれたって損はなかった」
「損だなんて、――」
老人は、ポケットから百フラン札を出し、親指で弾いて音をたて、カウンターに置いた。
そのまま立ち去ろうとすると、ボーイが目を丸くした。メルシにボクゥとムシュウが付いた。
「臭いな。何か、ビールが臭くっていけねえや。まったく」
老人は歩きながら言い、鼻から大きく息を継いだので、傑は、
「で、直哉さんがどうしたんですか」と、話を促した。
「あいつ、ボーイスカウトの資格なんか持っててな。何とかいう、先生みたいな資格だ。それで、あちこち、外国へ旅して回ってた。頭が働くよ。イギリス中、あっちの町こっちの町へ出歩いちゃ、ボーイスカウトの少年ラグビー大会だのボート競技だのに優勝カップや記念品を寄附して回ったのよ。ハクが付いて、貴族や政治家の名刺をごっそり溜め込んだところで、ボーイスカウトの仕事にかこつけてペイを運んだんだと。パキスタンの四番銘柄だよ。一年に七、八回、一回五キロから十キロ、粗利で八百――いや、一千万ってところかな」
「円で?」
「まさか。ドルさ。グリーン・バック・ダラーでな。――つかまっちゃ元も子もないさ。それもロンドンなんて不案内なところで」
「ペイでパクられたって、それ、叔父さんの、――?」
「いやあ、関係ねえよ。どこもよ。日本のどこもだ。俺らはもちろん、香港の清ちゃんも、マニラのダブ公も、誰も係りあっちゃいないんだ。言ったじゃないの、意気投合したって。個人貿易よ。ゴロツキって言ったって、取り引き相手は半端じゃないんだ。元大統領の娘婿なんだものよ」
「向うの?」
「そうさ。パキスタンのよ」
言って、しばらく大きな声で笑い続けた。物陰から一人、音もなくCRS警官が姿を現し、こちらへ眸を投げた。
そのあたりの床には、一面、紙片が散っていた。空港職員の組合が配ったビラと、ソニーのパンフレットだった。その上を歩くと厭な音がした。彼は足を早めた。
何かを思い出し、老人がまた大声で笑った。高い天井が嗽をするみたいにそれを撥ね返した。CRS警官が、こっちに眸を細めた。
「TV局のロビーみてえだな。いい女がいやに多いじゃねえか。この町は、いつもこうなのかい」
傑は首を横に振った。「ファッション・ショウの季節なんでね。モデルですよ。世界中から集ってくる。出稼ぎの人夫と同じだ」
「ヘッ。さすがだね。こういう日雇いなら、こっちも口入れ願いたいや」
最初に動いたのは、CRS警官だった。脇の短機関銃を腰だめに構えた。
人のざわめきが、左右に割れながら近付いて来た。硬い音が響き渡った。金属棒が何本か勢いよく倒れる音だ。
CRS警官が腰を落とした。音の来る方向に見とれるうち、彼はやって来た黒人の白い杖に脛をはたかれそうになった。
黒い盲人は犬に引かれていた。ルビーのように赤い目をしたシェパードだ。その吐息の威嚇がなかったら、ぶつかっていただろう。
「なんだね、こりゃ。ハイジャックでもあったのか?」嘆息するみたいに老人が言った。
「テロ警備ですよ」
盲人は犬に従い、腰を振り、気に障る音を残して行きすぎた。ウォークマンのイアホーンから零れる電子ラップだ。白い杖は、見れば8ビートでフロアを叩いている。
「叔父さん」
言って袖を引き、壁際へ退った。
慌ただしい足音の主が、回廊のカーヴから姿を現すより早く、ボストン・バッグを床に置き、傑は足音と老人の間に立ちはだかった。
人並みがぱっと散って、フロアが急に広くなった。背の高いアラブ人がふいに姿を現した。散った人々は、折り重って小さくなった。散りそびれた者は腹這いになった。女が何人か、胸で喚いた。
アラブ人は手ぶらだった。ロンドン・シルエットの三ツ揃も、決して得物で崩れてはいなかった。
追い詰めた巡査が五人、口々に制止を命じた。三人が警棒を握り、二人が銃の上に手を当てていた。
「あれは何だ」老人が喚いた。「あれがアラブ・ゲリラって奴か?」
傑は、さらに自分の背中で、老人を壁へと押しやった。
彼らのすぐ右脇から、先刻のCRS警官が姿を現し、短機関銃を捧げ持って、騒ぎの方向へ飛び出した。
三歩行かず、蹴つまずいた。盲導犬の引き綱に足をとられたのだ。
引き綱がぴんと張り、勢いあまって、黒人がころんだ。白い杖がからから音をたてた。
「ロンドンの連中が行くなって言ったのは、このことだったんだな」老人が言った。
アラブ人が滑った。ビラとパンフレットが宙に舞った。
そのずっと手前で、盲の黒人は、四つん這いになって手で床を叩いていた。杖を探したいのか、コンガの代わりに叩いて助けを求めようという気か判らなかった。
つまずいたCRS警官が立ち上がり、低い姿勢のまま、また一歩、強引に突進した。犬が引きずられた。警官は足首にからんだ引き綱にやっと気づいた。
アラブ人の捕もの騒ぎを遠まきに、次第に、フロアに人々が戻りつつあった。しかし、まだ誰も、こちら側の些細ないざこざには注目していなかった。
CRS警官は焦って手を振った。拍子にスリングベルトで吊った機関銃が振れ、黒人の額に音をたててぶつかった。イアホーンがすっぽ抜けた。ウォークマンが転げた。
ここからでも音楽が聞こえた。
そのとき誰かが笑い声をあげた。
「やっちまえ、アロイス」盲の黒人が叫んだ。
「弱い者を叩いて何がおかしいんだ。やっちまえアロイス」
「待て。俺は警官だ」
その声は、こちら側にしか届かなかった。
シェパードが頭をぐいと下げ、下顎を床と水平にした。前肢の中間で低く唸った。背に怒りが充ちた。一声吠え、警官の肩口に飛びかかった。目が朱を増して光るのが見えた。
向うのアラブ人は三本の警棒で叩きのめされ、ぐったりと横たわっていた。口が青黒く腫れ、耳から血が流れ、シャツ・カラーは半分、真赤だった。二人がかりで手錠をかけると、残りの巡査が犬に組み敷かれたCRS警官に気づいた。
犬の背で毛が逆立った。後ろ肢が硬直した。尻尾が痙攣し、全身がほんの一瞬、ぐっと縮んだように見えた。
CRS警官が、犬を払いのけ、床に反転した。左手がスタン・ガンを握っていた。もう一回転。放電しきったスタン・ガンを抛り出し、短機関銃を両手で構えた。その姿勢のまま半身を起したとき、真正面から犬が、よろけながらも再び襲いかかった。
「そうだ。負けるな、アロイス」
女の悲鳴がひとつあった。
駆け寄った巡査が、散り敷いたビラとパンフレットに足をとられ、尻もちをついた。
その頭上を三点射の銃声がひとつになって通り過ぎた。
CRS警官は銃を降ろして立ち上がった。見降ろした犬の死体は硝煙に包まれていた。血はなかなか流れ出さなかった。背中の毛が辺りに散っているだけだ。皮のついたものもあった。
三人の巡査が、素早く通行人を整理しはじめた。
傑はボストン・バックを拾い上げた。
老人を促して外へ出た。車溜りとは、大分離れた出口だった。空港ビルに沿って四分の一周しなければならなかった。
空港ビルを巡る歩道は暗くひんやりしていた。設計の失敗か、あるいはそれが狙いなのか、一年のどんな日差しも車道の外側のほんの一部にしか届かないように造られているのだった。
「最初のは何だい。長物《ながもの》を射つ前よ」老人は歩きながら言った。
「電気だろう? あんなもの犬には効きゃしねえよ。なんではじめから射たなかったんだ」
「犬の方が問題になるんです」
「殺すとかい? アラブ人より?」
「いや、誰によらず。――被疑者より、犬の方がね」
「いやはや、判ったよ、ロンドンの兄弟が行くなって言ってたのが。何て物騒な所だ」
老人には首がほとんどなかった。頭をゆっくり横に振ると、かみ合わないナットにボルトを捻じこんでいるみたいだった。
ヴォルヴォの後部ドアを開けると、老人は腰に手を充て、彼の顔を真直ぐ見つめた。親指の腹で鼻をさすった。目は、彼から離さなかった。車が何台か通り過ぎ、ざらざらした風が二人の間をかよった。
そっと手を伸し、そのドアを閉め、老人は一人で助手席に乗り込んでしまった。
彼は何も言わず、後尾に回ってボストン・バッグを片付けた。車道側を運転席へ歩いた。
ドアにキーを差し、回すより早く、気配にさっと体を起した。
彼の尻すれすれを、鈍銀色のメルツェデス300SEが走り抜けた。
目の前でウィンカーを灯し、その車体が路肩へ乗り上げて止った。
老人が、傑にカードを差し出した。ホテルの名とアドレスが仏文と邦文で書いてあった。
車線に出るには、メルツェデスの尻が邪魔だった。傑はクラクションを鳴らした。三度鳴らして舌を打ち、ハンドルをいっぱいに切ってから車をリヴァースさせた。
小刻みな切り返しを繰り返していると、メルツェデスの窓から四十がらみの日本人が顔をのぞかせた。こちらに向き直る前から、どこかで見かけた顔だと気付いた。全集本の化粧箱のような額に、確かに見覚えがあった。
相手は視線を張り合い、頭を下げた。
傑は目でそれに応酬したが、右足はアクセルの上で寛いでいなかった。手は、足と足の間でシートの下に隠したボウイナイフまでの間合いを探って動いていた。
「犬も大変だよなあ」老人がのんびり言った。
「警官にだって条理ってものがなくちゃいけねえや」
傑は、ヴォルヴォを車線に斜交いにしたまま、ブレーキをかけた。
こちらが完全に止ってしまうと、音もなくメルツェデスの窓が上がり、ブロンズコーティングした硝子に男が顔を隠した。そのまま走行車線に出ていった。エンジンの音も聞こえなかった。
「本当に、直哉さんのために来たんですか」
傑は、コンコースを巡る車の流れに混じったメルツェデスから眸を離さず、助手席に尋ねた。
「そうともよ。一等古い兄弟によ、悴を頼むと頭下げられりゃ、厭とは言えねえや。保釈金持って、弁護士連れて駆けつけたのよ。船の保険のことで、たまたまロンドンで顔の効く弁護士を知ってたんでな」
「それだけ?」
「それだけも何も、お前、そりゃあ、お前が流れてるって聞かされりゃあ、――」
「今の車の男、顔を知ってますよ」
老人が大きく息を吸い込んだ。
「弱っちまうなあ、お前にも」無い首を、無理に捩じった。うんうんと声をたて、何度か自分に頷くと、ポーチを開けて、分厚い札束の中から白い封筒を取り出した。
「今夜、飯でも食いながらゆっくり話そうと思ったんだがよ。――せっかちなのは、いったいどっちでえっ」
タクシーが、背後からクラクションでどやしつけた。
傑は車を路肩に戻し、右後輪を縁石に乗り上げ、サイドブレーキをかけた。
老人が、封筒を渡し、傑はしっかり糊着けされた封を、破って開いた。
中には、和紙でできた便箋が一枚、入っているだけだった。
左端に毛筆で志垣の署名があり、朱の印が押してあった。ただの印鑑ではなく、ヨーロッパの封蝋のように、複雑な図柄の大振りの押し印だった。
「何ですか、これ?」
「何ですかって、志垣の手紙さ。たしかに、お前の兄貴の字だろう」
「でも、何も書いてない」
「どうも、いけねえな。その辺が、やっぱり、ぴんと来ないんだなあ」
老人は嘆息を洩らし、
「そこが、阿吽の呼吸って奴なんだが。――ま、無理かねえ、お前さんにそれを言うのは」
老人の声が、ぐいとばかりに反り返り、力を持って降ってきた。顔は傑より低い位置にあるのだが、声は確かに上からやって来た。
老人の眸が、暗がりの鏡みたいに煌っていた。
傑は身構えた。しかし、そのどれも、ほんの一瞬のことだった。老人は、ひび割れた大声で笑いたて、
「だがよ、そこが好いとこだよな。志垣が惚れてんのも、そんなところだ。そうじゃなけりゃあ、あんな見事な仕事はできねえや」と、言って、気安く肩を叩いた。
「一刺しとは畏れいったよ。みんな、それは言ってる。あの野郎を一刺しにするなんてな。おまけに、野郎はポケットから手も出せなかったそうじゃないか」
「ねえ。頼むから教えてください。この手紙はどういうことなんですか」
「お前を俺に預けたって、まあその証拠みたいなものさ」
今頃になって、救急車がサイレンを鳴らしてやって来た。脇を通り過ぎるとアールのついた空港ビルに隠れ、見えなくなった。事件があったのは、円筒形の建物の、ちょうど真裏に当たるはずだ。
それでも、グレーの車体に赤い楯のマークを描いたCRS警察の警備車両が、ひっきりなしに走っていた。ロビーの出入口は回転ドアが折り畳まれ、その代わりに鉄柵を置いて警官が固めていた。
「預けたって、どういうことですか」傑は尋ねた。気持ちの上では、すでにシートの下のナイフまでの距離を計り終えていた。
「悪いようにはしないから、この俺の言うなりにしろって、――お前、こうまで言わんと判らねえのかい?」
静かに、諭すように言ったが、そんなつもりがないことは、傑にもよく判った。
「ええ。簡単に言ってもらわないと駄目なんです。ア・ウンなんて言われたって、さっぱり俺には理解できない」
「俺の話は単純だよ」老人は両手を広げてみせた。
「お前はよ、いい仕事をした。志垣はあれで男が立った。組としても奴らを西の方へ押し戻した。まあ、箱根の麓ぐらいまで押し戻した。ただ、この後の処理が大変だ。どっちも戦争をしたいわけじゃないんだから、どっかで手を握らなけりゃならない。志垣と、志垣の上の奴とが、まあ、ある先生の仲立ちで先週手を握ったんだ」
老人が丸腰なのは、もう判っていた。その上、何メートルと離れていない所に、重武装の警官とCRSの通信車両がいるのだ。しかし、老人は、とても古い世界に属する男だと、かねがね志垣から聞かされていたので、そうした考えが弱々しい三段論法にも思え、彼を脅かしていた。
「それで、叔父さんは俺をどうするんですか」傑は言った。喉が渇き、口を動かすと舌が粘ついた。
「聞いちゃいけねえよ。お前は、それを聞く立場にないんだ」
「俺は聞きますよ。訳の判らないものに自分を放り込むのは御免だ」
「馬鹿野郎!」老人が怒鳴った。
密閉された車内で、その声は破裂音になり、耳を痺れさせた。コンソールボックスの陰で、傑は足を使い、ナイフをすぐ手の届くところまで引きずり出した。
「この俺が、悪いようにはしないって言ってるじゃないか。そのために、織原を立てさせたんだ」
「織原って、先刻の?」
「ああ。顔を見たことくらいあるだろうが」
傑は頷こうとする頭を中途で止めた。今は何に対しても頷く気になれなかった。
「関西じゃあ名が通ってるよ。匕首《ドス》使わせたら、今、あ奴の右に出る者はいねえ」老人は言った。
「難しいこと言ってやしねえんだ。向うは、手打ちの質にお前の首よこせってほざきやがった。そんな外道な真似、志垣にはできねえ。俺だって、させられねえ。首が腕、腕が指まで下がらせて、志垣が、やっとここまで事を持って来たんだ」
傑は、ナイフに向かってかがめていた上体をそっと起こし、背凭れに預けた。
知らぬうち、目が、自分の右手の小指を見ていた。指を切り落とすのは処罰だったはずだ。処罰を受けるようなことは、何ひとつしていない。
これは、つまり裏切りだ。志垣は多数のために彼一人を売ったのだ。普通なら命で贖われるものが指の関節二つ分だというだけだ。
「お前にはお前の考えがあるだろうよ」
口を開きかけた傑を制して、老人が言った。
「しかし、選んだのは手前だ。志垣がやってくれと言ったって、それを選んだのは手前だよ」
「この仕事じゃなく、この世界をね。それは、そのとおりだ」
「だろう?――だったら、織原の匕首、一太刀浴びちゃあもらえないか」
「一太刀、――?」
傑は、老人に顔を向けた。サングラスを外した。
老人は笑っていた。
「ここまで下げるにゃ、志垣が、そりゃあ骨を折ったんだぜ。ガイジンだから、指は値が張り過ぎるだなんて変な理屈までこさえてよ。向うは間尺に合わねえって、まだ何か言ってるよ。しかしな、――」
「待って下さい。一太刀浴びるって、何を浴びるんですか」
「ああ焦れってえ奴だな。切るんだよ。首のここだ」
老人は、満面に笑みを湛え、自分の首の付け根を、手刀で何度か叩いてみせた。
「ここさ。ほんのちょっと切る。浅く、長くよ。痛かねえんだ。全然痛かない。上手い奴が切るんだ。織原は、おまえ、本当にその辺、芸術的な腕してるんだ」
「それだけでいいんですか?」
「おう」老人は頷き、顎を胸の中に埋めた。
「ちょこんと切るだけだ。痛かないのに、血だけはたんと出る。そこを狙って切るんだ。そのために、おまえ、織原を引っ張ってきたんだ」
「それで、どうするんです? 写真にでも撮って、奴らに見せるんですか」
「馬鹿言うなよ。おまえには、かなわねえな」老人が喉を嗄らして笑った。
「だから、俺が来てるんじゃないか。引退した身だし、――俺は中立だ。俺が、見届けるんだよ」
傑は、音をたてずに長々と息を吐いた。足で、ナイフをシートの奥へ追いやり、背を立てた。
「だったら、切らなくても構わないんじゃないのかな」その声は、自分でも驚くほど嗄れていた。
「呆れた奴だなあ。俺が立会い人だぞ。俺に嘘をつけってえのか。それじゃあ、俺の男はどうなるんだい」
老人がえらく楽しそうに笑ったので、傑もそれにつられた。
サイドブレーキを解き、ミッション・レバーを引いて、彼は手を休めた。
「お願いがあるんですよ」やっと普通の声が出た。
「服はひとなり賄ってやるよ。結構血が出るからな。医者はそっちで賄ってくれや」
「そんなことじゃない」傑はハンドルに凭れ、じっと老人の方を見やった。
「写真、撮らせてくれませんか」
「切ったところをか?」
「叔父さんの写真ですよ。女の子と一緒のところを。彼女が、日本人の写真を欲しがっているんです」
「写真って。おまえ、芸術だの何だのって、変な奴じゃあんめえな」
「あたりまえだ」傑は眸を細め、冷たい声で言った。
「ただの女学生です」
「白人かい?」
老人が身を乗り出した。
「パツキンって言うんでしょう。あれですよ」
傑は前を見たままアクセルを踏み、乱暴なリヴァースで老人をのけ反らせた。次のブレーキで、今度は前にのめらせた。
「彼女の故郷に送るんです。日本人を見たことのない奴らが百七十人もいるんだ」
言い終わるとぴったり口を閉じ、彼はパリに帰るため、大きなヴォルヴォを引き立てるように発進させた。
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第二部
暗黒街のサンマ
市電は一六〇〇系の最新型だった。
蛇腹の自動ドアが、フウと切ない音をたてて大きく開いた。背後の人波にのまれたランドセルが、ぐいと吊り上がり、彼は月面の宇宙飛行士みたいな恰好で停留場へ吐き出された。流れに逆らい、足を踏んばり、大人たちの茶封筒やハンドバッグに嬲られながらも市電に向き直った。
後ろから来る少女に、こんな姿を見せたくなかった。車内で貸していた本を受け取り、すぐさま引き返さなければならないせいもあった。彼の通う小学校は、まだ六駅も先だ。列の尻尾まで流されたら、次の電車にだって乗れるかどうか判ったものじゃない。
十数系統の電車が接続するターミナル駅の停留場は、車道まで人であふれている。国電から乗りかえる者、バスに乗りかえる者。雨あがりの放水路みたいに人波が揺れるいくつもの道路。運河ひとつ渡れば市で一番のオフィス街だし、二つ渡れば五階建てのデパートが肩をそびやかす商店街だ。
少女は最後に降りてきた。もう一歩を待たずに飛び込んだ大人たちが、彼女を突きとばし、あやうく彼は正面で抱きとめるところだった。
寸前、身をかわした。足が勝手に跳ね退った。彼は耳許まで赧くなり、目線を足へおとした。自分の足がズック靴ではなく、今日、たまたま皮の編み上げを履いていたことに気付き、何故かそのせいで息を整えることができた。
「終りまで読んじゃっていい?」
手にした『0マン』の最終巻を翳してみせた。「もうちょっとだから」
栞代りにはさんだ指は、しかしまだ数十頁を残している。
「明日でいいんだよ」と、彼は言った。
市電が発車のベルを鳴らした。
「あら、すぐ終るわ」
「だけど、――」
「大丈夫よ。スクール・バス、次のまで十分あるもの」
「乗るのかい!!」窓から顔をつき出し、車掌が呶鳴った。「行っちゃうぞ」
「うん――」
「気になるわ。ずっと借りてたら、ずっと気になってるでしょ。――遅刻しちゃう?」
「いいよ」
「ありがとう」
「どうするんだ、坊主?」
また彼の耳許が赧く火照った。
「乗らないんです」彼女が代りに大声を出した。
上空を横切っていく車窓を、彼はぼんやり見送った。同級生の顔はなかった。同じ制服も見あたらなかった。
彼女は歩き出した。胸のあたりで、もう漫画本を開いていた。すんなりと高い鼻に漣をたて、くすくす笑った。自転車の急ブレーキにも、縦横無尽の靴音にも無頓着だった。
「ね、面白いだろう?」と、後ろから声をかけた。
「そうね」
「そいつ、ランプっていうんだよ。鉄腕アトムにも、よく出てくるんだ」
「違うの。――笑ったの、車掌さんのことよ」
「何の?」
「市電のよ。坊主だなんて、失礼しちゃうわ。失礼ね、ロームシャって」
「ロームシャ?」
「ああいう人たちよ。ママが言ってたわ。気にしちゃだめよ。失礼なんだから、あの人たち」
「ロームシャじゃないよ、あの車掌さんは」
「でも、失礼なこと言ったわ」
「知ってるんだよ。いつも二十四分発のに乗ってるからね」
「お知りあいなの?」本から目を上げた。
「あなた、車掌さんとお知りあいなの?」
「まあね」
「うわぁ。すごいのね」
「それほどでもないよ」
青みがかった大きな眸に見つめられ、彼は微笑み、ゆっくり胸を張った。
彼女はすぐ本に戻った。つるりとした額に、第三の目があるみたいだった。バス待ちの通勤客で舗道は混みあっていたが、誰の体にも当たらず、そこをやりすごした。
メリーゴウラウンドみたいに大きな、円形の交番を二人は半周した。八方にドアがあり、どのドアからも制服警官の顔がのぞけていた。彼の頭ごし、視線はどれも遠くに飛んでいたが、彼はぴかぴかの皮靴を見つめたまま歩き続けた。
いきなり、パチンコ屋の音が聞こえた。金属性の滝壺とそこで熱唱する浜村美智子だ。
交番の裏は荒地だった。その向う側には商店街があり、パチンコ屋を旗頭に、馬肉専門のすきやき屋だの、軍手と地下足袋で飾られた洋品店などが軒を並べている。風はなかった。路地の奥には、バザーの出店みたいな酒場がひしめきあっていた。だが今の時間、そこには人気がない。
荒地の片隅に、人ごみの名残りがあるきりだ。十四、五人の、それこそ本物のロームシャが、ある者はしゃがみ、ある者は電柱によりかかり、またある者はひろげた新聞紙に寝そべって、上空を流れて行く朝の雲をぼんやり数えあげていた。
サンマが匂った。
彼は思わず立ち止まり、その煙がたつ方角を睨めすえた。彼女をこんな場所にではなく、たとえば自宅の応接間にさそったのだが、何を思い違いしたのか、母親がスルメと番茶でおもてなしをしてしまったとでもいうような、重い絶望感を胸に立ちつくした。
彼女はいきなり振りむいた。「変な匂いがしない?」とでも聞かれたら、百メートルは飛び上がっていただろう。
「すぐそこよ」と、彼女は言い、そっと首を動かし、彼を促した。
「ごめんなさい。つきあわせちゃって」
三歩進んで、それが判った。
交番の真裏に、彼女と同じような制服を着た娘たちが、行儀のいい列をつくっていた。中学生はもちろん、高校生も混じっていた。荒地とその向う側の景観に顔を向けているのは、ボンネット帽を被った少女たちだけだった。大きな娘は誰も、本か、話相手の顔か、交番のポスターを見つめ、めったに目を動かさなかった。
その列の十メートル手前で、彼はまた立ち止まった。
「どうしたの?」
「ここにいるよ」
「並ばないと坐れないわ」
「いいよ。ここで待ってるから」
「だって――」
「読み了ったら呼んでくれればいいよ」
「そう」
彼女は、空から降ってきた羽毛みたいな声で、くすくす笑い、列の最後に走って行った。肩越し、くるりと振り返り、こっちを確かめるみたいに目をくれ、にっこり笑った。その一メートル四方がぴかっと光り、他の風景から一瞬、色彩が途絶えた。
彼は慌てて目をそらせ、ランドセルをクッションにして、交番の壁にもたれかかった。ふうと息を吐くと、それが喉に甘かった。正面から朝日がやって来た。波止場の真上あたり、高架線の向うに頭をのぞかせたクレーンの林より、日は高く上っていた。急に時間が気になった。しかし、ここから駅の大時計は見えなかった。窓に爪先立って、交番の時計をのぞくには、少々勇気が不足していた。彼女がいつ振り向くか判ったものじゃない。
彼はセーラー服の行列に顔を向けた。ページをめくるたび、幽かに揺れる三ツ編みが見えた。セーラー・カラーから垂れたワイン・レッドのリボンが『国産・絹一〇〇パーセント』のラベルをむき出しにしていた。いつも皮靴に赤い靴下を履いてくる上級生に言わせると、それは彼女たちの学校で流行している『コイビト募集中』のシグナルだそうなのだ。それ以上のことも教わったのだが、今はそれが思い出せない。
パチンコの音とこの匂いのせいだ。おかげで『コイビト』という字も思い出せない。わけなく胸が高鳴った。
音楽はマーチにかわっていた。戦争の歌に違いなかった。白い服を着て兵隊の帽子を被っている連中が、アコーディオンで弾いて唄っている歌といっしょだ。あの前を通るたびいつも胸がどきどきする。そのせいにきまっている。彼は、後れ毛にけぶった真白いうなじから目をひき離した。
一筋に立ち上る煙が向うに見えた。そこにだけ人の動きがあった。僅かだが、朝のこの町で唯一、笑い声もあった。サンマの匂いはいよいよ強く、胃に重いほどだった。もう夕暮どきで、どこからか「ごはんよ」と、自分の名を呼ぶ母親の声が聞こえてきそうな案配だった。
溶けはじめたクリーム・ソーダみたいな色あいのバスがやって来た。
彼女が本を振り上げ、手招きした。
「また貸してね」
「読んじゃった?」
「まだよ。でも、次のバスだとお当番に間に合わないから」
「うん」
「漫画を読むのって難しいのね」
「ムツカしい?」
「次にどこを見ればいいか判んなくなっちゃうのよ。ページがいっぱい仕切ってあるんだもの」
「ああ」彼は曖昧に頷いた。
「台詞だって読む順番があるんでしょう」
「フキダシっていうんだよ」
「順番があるんでしょ」
「馴れれば簡単だよ」
「そうね。また貸してね」
「ぼく、いつも二十四分のだから」
「いつもは、もうちょっと早いのよ」
「そう?」
「ひとつ早い電車よ」
「それ、乗るようにするよ」
「うわぁ」彼女の顔が、ぱっと桜色に輝いた。「何かすごい」
前の方で、くすくす笑いのハーモニイが聞こえた。
いくつかの眸が、こっちに向いていた。
彼女の鼻息が前方のさんざめきに唱和した。
彼は唾を飲んで自分の心臓をなだめた。
「新しいの買ったら、――乗るようにするよ」
「どうもありがとう」
言って三ツ編みをひるがえし、バスのステップを上った。この上もなく丁寧に、運転手へ朝の挨拶をすますと、奥の友人たちの方に走り去った。ドアが閉った。
知らぬ間、彼は十数歩、バスの後ろを追うようにして歩いていた。「すごい」という言葉が背中の真中にまだ聞こえていた。足が止った。
「小僧!」という声がした。
甲高いクラクションが彼を追いたてた。大きな空荷のトラックが、国道の方から回りこんで来るところだった。猛スピードで広場を横ぎり、パチンコ屋の斜め前へ、バックで乗りつけた。荷台から半纏姿の男が、一人飛び降りた。
「小僧、危ねぇぞ」
叫び声は、サンマの煙が立つあたりからだった。白い服を着た男が、中腰になってこっちに笑いかけていた。
「ぼやぼやしてると持ってかれるぞ、この色男」
顔一面で、さらに笑った。しかし、その半分はごついサングラスに隠されていた。
歩こうとして叶わず、彼は一瞬、停留場を振り返った。子供の姿は、もうほとんど見られなかった。背広姿も少くなっていた。ジャンパーやナッパ服を着た男たちに、そこはすっかり占領されていた。動きはどれも乱暴で、市電のドア近くでは呶鳴りあいさえ聞こえた。腰や首のあたりで、タオルが揺れていた。波止場に勤める連中の時間がはじまったのだ。
運河に沿って走り出した市電がカーヴに大きくゆっくり一揺れすると、後部ドアの窓が破裂音をたて、硝子《ガラス》のかけらを吐き散らした。斜め後ろのオート三輪が急ブレーキをかけ、荷台に人をいっぱい乗せたトラックが警笛で吠えた。
「第四バース、沖積み、日当七百五十円!」
パチンコ屋の近くで、トラックの荷台に仁王立ちになった男が叫び、彼を荒地へ引き戻した。白い服の男は、もうこっちを見ていなかった。
「十五人だ。十五人だよ」
あちこちで動きがあった。新聞を広げていた男が、それを畳みはじめた。舗石にしゃがんでいた男は、渋々腰をあげた。寝そべっていた男は背を立て、きたならしい手拭いで耳の下をこすった。誰もトラックの方へ歩いていこうとはしなかった。
「ちょっとは色がつかねぇかい?」誰かが言った。
「七百五十円だ。半日仕事だぜ。十五人だ。十五人だよ」
二人、トラックへ近寄ると、何も言わずに荷台へ上った。すると、何人か、今度は周章《あわて》た足どりでトラックの方へ歩きはじめた。
風がきて、サンマが匂った。
「どうだ。七百五十円だ。後はないぞ」
煙の近くには、もう白い服の男しかいなかった。
荒地とまばらな舗石の間をバラ線が仕切っていて、男はその支柱に凭《もた》れて七輪でサンマを焼いていた。バラ線には汚れた毛布がひっかけてあった。腰かけた石油缶にはデパートの包装紙が敷いてあった。白い服はまったくの新品で、上下どことなく、色あい肌あいともに違ったが、スーツに見えないこともなかった。
「サボリか、小僧」男は振り向かずに言った。
「お寺の子供じゃないよ、ぼく」
「ぼくがどうしたって?」
「小僧さんじゃないよ」
男は喉をしゃくりあげ、前後に揺れて笑った。彼を手で招き寄せ、サングラスと眉の隙間から凝っと見つめた。
彼は立ちすくんだ。生れて九年間、かつて見たことのない光がそこにのぞけたのだ。
足許がぐらりときた。男たちを乗せたトラックが、猛スピードで広場を横切って行った。砂埃が収まると、そこが急に大きく、広くなり、彼をたじろがせた。円形の交番も、再び少女たちが並びはじめたスクール・バス乗場も、そして馴染みの駅前の日毎の混雑も、ここから見ると、どれも遠くよそよそしかった。
「食うか?」と、男が言った。
七輪の上に新しいサンマが二匹、乗ったところだった。
「これ、朝ごはんなの」
「ああ。朝メシだ」
「家がないんだね」
「誰が?」
「おじさん」
「おじさんはねぇだろうが。よォ、坊っちゃんよ」
唇が、生ガキのようにくねっと曲った。
彼は一歩、飛び退った。
「お兄さんってとこが妥当じゃないかい」
言って、石油缶の脇から団扇を取り上げ、おもむろに構えた。
サンマの節々から、黄金色の脂が泡になって沸きあがってきた。真赤におこったレンタンに、最初の一雫が落ち、音をたてた。煙が男の顔を揺った。匂いが、彼のヘソのすぐ上にジュッとばかりに滲みこんだ。
「プータローが麻なんか着るかよ」と、男は言った。
「アサ?」
「服だよ。この服だよ。一サオ何ぼの背広じゃねぇんだ。判るか?」
トラウザースの膝をたくしあげた。グレーに赤い縞の入った靴下が現れた。白い皮靴はぴかぴかだった。
「汚れないの?」
「服がか?」
「よそいき着て、ごはん食べたら汚れちゃうよ」
「朝メシじゃねぇよ」
「朝ごはんだって言ったじゃない」
「これはそうだがよ」
「何で家で食べないの?」
「売りもんなんだよ」
「朝ごはんを売ってるの?」
「これは、俺の朝メシだよ」
「売りものを食べちゃうの」
「旨いぞ。とれたてだ。おまえ、そこの川でとれたんだ」
「その運河で!!」びっくりして身をのり出した。
「ああ、そうだ」
「嘘だい」
「嘘なわけあるかよ。毎年、今くらいにな、東京湾の奥まで間抜けなサンマが入って来ちまうのよ。川一面、銀ぴかでよ。出口が判んなくなって、そこらでバシャバシャやってるんだ。昨日の夜がそれでよ、バケツで三杯すくったよ」
「バケツで!!」
「そうよ。いつもは、干物とか、ま、鯨のナンバンとか売ってんだけどな」
「逃げないの?」
「馬鹿言え。俺はトーシロじゃねぇよ。このバッヂが見えねぇかよ」
親指でごついサングラスをずり上げ、上着の衿を自分で見降した。ベーゴマをそのまま小さくしたようなバッヂが、そこで光っていた。
彼がきょとんとして突っ立っていると、男は何故だかきまり悪そうにそのバッヂを爪で研きだした。ちょっと上目遣いで、
「逃げるって、坊っちゃん、それ何からだ?」
「サンマだよ」
男は団扇で空気をひっかき、笑い声をたてた。
煙が彼をはがいじめにした。
「取り放題さ。うじゃうじゃいたよ。あんまり多くて身動きできないんだ。川一面、銀ぴかのバシャバシャだ」
「川ぢゅう、全部、サンマなの?」
「おうさ。取り放題よ。夜店の金魚、タライですくうようなもんだ」
「どうしてさ?」
「どうしてもこうしてもねぇよ。年に一ぺんか二へん、今頃、あるんだ。方向音痴の親方がいて、群を引っぱって来ちまうんだろうさ」
男は中腰になった。ドレスシャツがはだけ、中に金のネックレスとそれに吊したお守り袋が見え隠れした。
「何でネクタイしないの?」と、彼は訊いた。
「何だって、おまえ――。そりゃ、俺もしてぇけどよ」
「したいのに持ってないの?」
「持ってるよ。馬鹿抜かすんじゃねぇよ。黒にピンクの縞柄だよ、おまえ。裕次郎とおんなじ奴よ」
「ユージロウ?」
「俺らはドッラッマッてな。歌ってるの、知らねぇのか、おまえ」
「知ってるよ。映画スターでしょう。――同じなの?」
「そうさ。松屋で買ったんだぜ。映画のとまったく同じさ」
「何でしないの」
「何でったって、――」
男は苦笑した。唇が、また生ガキのようにくねくねと動いた。それから彼に尻を向け、後ろにつくねてあった古新聞の山から風呂敷に包んだお櫃を掘り出した。
「いけねぇ。売り切れだ」蓋を開けて呟いた。
「メシが、売れちまったよ」
「ねぇ、なんでネクタイしないの」
「ひつっこい坊っちゃんだなぁ」
大きな溜息をつき、お櫃を放り出した。石油缶に、音をたてて坐り直した。
「ネクタイして、魚なんか焼けるかよ。ちょっと油断すると、先っぽを焦がしちまうし、脂は飛ぶし、醤油ははねるしよ――、それでなくたって、おまえ、汚れねぇよう技がいるんだ。これでなかなか技がいるんだ」
男がいきなり立ち上がった。そうして見ると、ひょろりと大きな男だった。拍子にドレスシャツの懐からお守り袋が飛び出した。
「おい、ミッちゃんよ。ミッちゃん」
呼ばれてこっちに向き直ったのは、彼の父親よりずっと年寄りの男だった。膝の抜けたトラウザースの上に腹巻をしていた。二十メートルほど向うの街路樹の下にドラム缶のかまどを置き、大鍋で何かを煮ている様子だった。
「シャリが残ってないかね。ミッちゃんよ」
「今、洗いざらい食っちまったところだ」
ミッちゃんが叫び返した。「ニギリのトラックが出ちゃしまいだよ」
「そうか」
「豚汁ならあるぞ」
「おう」
男は、にやりと笑って彼にかがみ込み、
「鼻が曲っちまうんだ」と、小声で言った。
「ありがとうよ。今朝は間にあってる」
「シャリって何」
「メシのことだよ」
言ってまた坐り直し、鉄の箸を握った。
「さあ、ここからが技要りだ」
二匹いっぺんに箸で持ち上げると、脂はサンマの腹を伝い、尾びれから滴りおちた。レンタンまで届かず、宙でちかっと燃えあがった。線香花火みたいな小爆発が続けざまにおこり、紫色の煙が男の手許をやわらかに包んだ。
彼は唾を飲み、胸を熱くした。
「どうだ旨そうだろう?」と訊かれ、
「うん」と力一杯答えている自分を不思議に思った。
男はしばらく、箸にはさんだ二匹を高々、火にかざしていた。火花が収り、音がしなくなるまで、慄える手で我慢し続けた。
「売りもんにゃ、こうまでしねぇけどよ」と、男は歌うように言った。
「こうしねぇと、脂が黒くなっちまうんだ」
彼はランドセルを降した。弁当箱を探し、布袋から出した。蓋を開けると、後悔だの贖罪だのが飛び出して来た。決して弁当箱から飛び出して来たわけではなかった。
彼は弁当の蓋に、白飯を半分ほど択り分けた。
「おっ、メンチか?」男が言った。
「ハンバーグだよ」
「坊っちゃんの弁当はハンバーガー・ステーキでござんすかい?」
「ハンバーグだよ。ハンバーガーじゃないよ」
「ハンバーガー・ステーキってんだよ。本当はよ。俺はPXのダイナーで食ったことがあるぜ。アラン・ラッドがそう言ってたよ。アラン・ラッドが慰問の帰りに来てたんだよ。アラン・ラッド、知ってるか?」
「知ってるよ」彼は少し得意になって言った。
「『マッコーネル物語』でしょう」
「お、こ奴め、相当のワルだな。『シェーン』じゃねぇとこが渋いじゃんか」
心臓が喉までやって来た。甘酒より熱いものが腹を蹴り、彼は頭がくらくらした。膝をかかえ、目を伏せた。額に皺を寄せた。
「おお、どうしたんだよ」男が陽気に訊いた。
「ぼく、学校へ行かなくちゃ」
「どこの学校だ、色男」
「市電でずっと先だよ」
「相当にやるじゃんかよ。山手のお嬢ちゃんにコナかけて、途中下車かい?」
「本、貸してただけだよ」
「コナかけたってんだよ、そういうの」
「そんなんじゃないよ!」
「やるじゃねぇか。誉めてんだぜ、こっちは」
「そんなんじゃないよ!」大きな声で叫んだ。
「ま、いいや。食ってけよ。食ってく時間ぐらい、今さら大したことねぇよ――。その飯、俺にかい?」
「うん。――ああ。そうだよ」
「そうか、済まねぇな」
彼は、箸の先を網の縁にひっかけ、器用に魚を網ごと持ちあげた。七輪の火から外し、片手でさっと醤油をかけた。
「売りもんにゃこうまでしねぇんだ」
網を火に戻し、サンマを弁当箱の上に乗せた。
「もらうぜ」白飯を入れた蓋を引きよせた。
「頭とってくれないの?」
「残しゃいいんだよ」
「どろどろしてるよ、これ」
「ワタ、食ったことないのか、おまえ」
「ワタって何?」
「腹ワタのことだよ」
「腹ワタなの、これ」
「そうだよ。そこが旨いんだよ」
彼は、腹ワタのすぐ上に箸を入れた。サンマの身は桃のようにつややかだった。口に入れると舌に甘く、腹に苦かった。醤油の香りが鼻の奥に残った。
「どうだ、旨いか?」
彼は黙って箸を動かした。腹ワタがどろりと流れ出し、白飯を汚した。それを箸先でかきまわした。
魚をひっくりかえし、また背の身を食べた。皮が口の中でぱりっと音をたてた。
「どうだ、旨いだろう」
腹ワタと白飯を、またかきまわした。おそるおそる、それを一かたまり、口へ運んだ。校庭で迎えた夕陽のように切ない、不思議な味がした。もう一かたまり、口へ運んだ。もう、不思議でも何でもなかった。苦いものと甘いものがからまりあい、もどかしく、口の中に氾がった。
「うん、旨いよ」
彼は食べながら、ごったがえす朝の停留場を見はるかし、暗黒街にその第一歩を刻んだ自分を知った。
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ボウル・ゲーム
夜が近づいていたが、空は隅々まで厚い雲に覆い隠され、ここからではどうにも判然としなかった。朝から町中の灯りが、雲の内側を酔払いの首筋みたいに赧々と照らしあげていたのだ。
ダウンタウンの摩天楼は、頭半分をその中へ突っこみ、天を支える柱廊といったところだった。蓋をされた空気はじめじめ暑く、どこもかしこも鬱陶しい。
よいしょっ。
彼は、買い物籠を担ぎ直し、勢いつけてキャナル・ストリートを下りはじめた。くるぶしからずぶりと、泥沼にめりこむような気分だった。五時だというのに、気温は摂氏で三十度を下っていない。昼にビールを飲み過ぎた。おかげで腹の中にまで、この天候を呑んだ具合だ。何という気分だろう。これから鍋をつつこうなんて、――いやはや、何かを食おうと口を開いたとたん、四文字言葉が百でも千でも飛び出て来そうだ。これは決して、ビールのせいなんかじゃない。
「えっ、いったい誰なんだ?」
彼は、前を行くムン・タイに声をかけた。
「暑気払いに鍋大会《ボウル・パーテイー》だなんて、誰が言い出したんだよ」
中国語のざわめきに、それが掻き消された。二人の間にいくつもの汗くさい背中が割りこんだ。ムン・タイが振り向いたが、茜色に煌く坊主頭がてらっと見えただけだった。
「何だって?」
「ナベなんて誰が言い出したんだ」
彼は人垣の向うに伸びあがった。
「ジョージだよ」と、ムン・タイも伸びあがり、大声で応じた。
その声がすぐに、早口の中国語とのろまな英語のざわめきに紛れた。町中の言葉に、もちろん彼らの言葉にも、ブリキの玩具の歯車みたいな訛があった。
「まるで上海だ」と、ムン・タイがぼやいた。
彼は、人の流れを掻き分けて、ムン・タイに追いすがった。
「ジョージも来るのか」
大声で怒鳴った。
「そうさ。――日本のチコリを買ったか?」
「何だ、それ」
「ゴジラのチコリだよ」
「ああ、白菜か。――まだだよ」
「この先には八百屋がないぜ」
「戻ればいいさ。蟹が先だ」
「何でさ。戻る必要なんてないぞ」
「ナベには野菜が必要だよ」
「だからさ、どうして戻るんだ。ここで買えばいい。七番街じゃ、日本の野菜なんか売ってないぞ」
「蟹が先だよ」彼はきっぱり言い捨てた。
「どうして?」
「日本のか中国のか、チコリを入れるか入れないか、蟹によって野菜が変わるんだよ」
「何で?」
「蟹の顔を見ないと決められない。日本のやり方さ」
「誰が決めるんだ」
「俺さ。決まってんだろう。俺が決めるんだ」
彼は面倒になって言い、先に立って人ごみを掻き分け、甲高い魚屋の呼び声の方へ歩き出した。
「ファッシスト!」という声が背中に飛んだが振り向きもしなかった。
キャナル・ストリートは、そこで大きく右に曲りながら、ハドソン河へ向かってゆるゆると下っていた。この町で、ことにセントラル・パークより南のこの町で、こうした景色はそう見られたものではなかった。おまけにそのカーヴのとっつきに、極彩色の漢字の看板が群れ集まり、黒髪、黒い目、濃い肌色の人間たちが押しあいへしあいしあい、まるで砂糖にたかる蟻みたいに魚と乾物を売り買いしている。ますます見られたものじゃない。
いや、すごい人だかりだ。
「ナベ統領《ドウチエ》なんて言葉があるくらいさ。日本のナベはファシズムの温床なんだぞ。知らなかったのか」
彼は人だかりの直前でムン・タイに向き直った。「世界を取りこみ、閉じこめ、仕切りきるんだ。その快楽を人に教える」
「こないだは芸術だって言ってたぞ。ナベの中の関係性と物質性の配置、――まさしくもインスタレーションだってな」
「それは西部《ウエスタン》のナベだ」
「カウボーイがナベなんか食うか」
「関西《ウエスト・オブ・バリア》。日本のウエスタン。オーサカ、キョートのナベだ。あいにく俺は東の生れさ」
「魚の頭が入ってなけりゃ、何だっていいよ」
ムン・タイは疲れきった表情で肩をすくめた。
彼は籠をプロテクター代りにかまえると、雑踏へ斬り込んだ。
この町の魚屋に魚の臭いは希だ。中国の乾物の臭いが、たいていは勝っている。あとは人間の体臭だ。
そこを掻き分け掻き分けて、砕氷を盛り上げた露台の縁まで行った。氷の上には得体の知れない魚がごろりと並んでいた。獲れた釣られたというよりも、頓死したといった方がずっと相応しい案配だ。中には憤死と見まがうものもあった。顔立ちはどれも、オコゼより品が無く、銀鱗は、配線に奢りすぎたハンダみたいだった。
つい十年前まで、町のマーケットで買える魚介類は、こちこちに冷凍した海老か鱈、パック入りのスモークサーモン、缶詰の珍味に限られていた。他の魚は、――ことに銀色の魚は、肉を買えない貧乏人がヤケになって食べる『靴底ステーキ』よりも格下の扱いを受けてきた。ハーレムの公設市場では、今でも牛より鶏、鶏より魚が人気商品だ。スポーツも音楽も勉学も苦手だという黒人が上目使いで口にする食物、――食われる方だって、それではヤケになる。イタリア人と中国人の食への努力も、この国ではめったに報われない。普通の市民がこぞって魚を食べるようになったのだって、結局は、近頃のはやりの『肥満バッシング』のおかげじゃないか。
さて、蟹と伊勢海老には、そうした魚どもとは違う台座が用意されていた。
彼は、氷で麻のドレスシャツを濡らさないよう爪先立ち、人垣と魚の隙間を横這いになって移動した。
そっちの露台は、ずっと丁寧に砕かれた氷を盛られ、光も注意深くあてられていた。パセリの緑や、レモンの黄色で飾りたてられ、鋏にはゴム製のリボン、一匹ずつに出身地と体重の札までつけられていた。
「安い」と、彼は小さく叫んだ。
それは、さらに隣の台だった。こっちの蟹には、パセリもレモンも札もない。しかし、――「すげえ、安い」思わず日本語が転げ出た。
「何だって!!」と、ムン・タイ。向うから人波に攫われ、むっとする空気と一緒にぶつかって来た。
「ジョージに蟹を食わすのは惜しいって思わないか」
「俺はスキヤキでもいいんだよ」
「USプライム・ミートのスキヤキなんか、少しも嬉しかない」
「スキヤキってのは、嬉しいのか」
「嬉しいんだよ」
「美味いと違うか? お前、英語間違ってないか」
「嬉しいんだよ。君は真実の日本を知らない。スキヤキは、決して美味い食いものじゃないんだ」
うーんとムン・タイは唸ったが、
「ま、俺は魚の頭じゃなけりゃなんでもいいんだ」
「ブロイラーの水たきなんて勘弁ならないしなぁ」
言いながら彼は暗算した。一万円で一ダース近くだ。この両手に余るほどの蟹が一ダース。昔のオーストリア軍のヘルメットみたいな色と形の甲羅、細い足、長い鋏、――ワタリ蟹の一種だろうか。それにしては大きい。
突然、気付いた。オンスとグラムの換算を間違っていたのだ。
「こ奴で何ポンドだい?」
白人の店員が計りに乗せた。二十五ドルでだいたい二ダース、――三千円そこそこで二ダースじゃないか。
買うかね? とも訊かず、店員の太い腕がそ奴を氷の上に戻した。元気はよくないが、たしかにまだ生きている。
「この蟹は、何て名だ?」と彼は訊いた。
「フレディ」と相手は答えた。非道いスペイン訛だ。
「こっち、レイナルド、あっち、カルメン。そ奴がホセ、こ奴がマイケル」
「腹がへってるんだ。どんな冗談でも笑えないね」
相手が大きく肩をすくめた。いきなりスペイン語で話しはじめた。中国人が雇う白人だ。よほどの人件費がみこまれているのだろう。
ムン・タイがスペイン語を喋った。男がそれに答えた。いくらかのやりとりがあり、もはやどこの国の言葉か判らない英語が入りまじり、二人は凝っと見つめあって、真剣に頷いた。
「そ奴は、ソフトシェル・クラブのなれの果てだ」と、ムン・タイが言った。
「イタリア料理でよく出る奴さ。脱皮したばかりの殻のない蟹だよ」
「何のない蟹だって?」
「殻さ。シェルがないんだ。ほら、このあいだマックス・ブロス・ブラザースで食ったろう。ホボーケンのさ」
「ホボーケン? いったい、いつのことだ」
「君が、キャロラインに叩き出された日だよ。ほら、例によって、ジョージの研究会から彼女がなかなか帰って来なくて。君が酔っぱらって、――」
「先々週の木曜?」
「そうかもしれない」
「飯なんか食ったか?」
「ああ。君は夜中に食い残しのトマトソースを持ってって、夜食にそれでスパゲティを作ってやるって、――彼女をますます怒らせた」
「ううん」
彼は傍目にも悲痛な身振りで、低く長い呻き声を絞り出した。
ムン・タイが思わず後退った。
「ちくしょう。それで、あんなに怒ったんだ」さらに呻いた。
「何が?」
「食い残しだよ。彼女、ドギーバッグを大の侮辱だと思ってるんだ」
「アーリア人だからな。文化が違うよ」
ムン・タイは慰めるように頷き、彼の肩にそっと手を当てた。「でも、まあ、そんなに、――」
「覚えてない」また呻いた。
「何にも覚えてない」
「蟹のこともか」
「いや、問題はそれさ。あの蟹のフライのことはよく覚えてるんだ。それなのに、前後の事情を、てんで忘れてる」
彼は、眼下で蠢く蟹の群れを見下ろした。
「これが、あのときの蟹か?」
「ああ。それさ」
彼は籠を足許に置き、蟹を手に取った。
その夜、食べたフライは、まさしく蟹の丸揚げだった。足も、鋏も、甲羅も、丸ごとパン粉をまぶしてバターでフライにしたものだ。脱皮したばかりで、まだ新しい角質はできておらず、蟹肉のゼリー寄せといったところだった。殻は、口の中でぷるぷると音をたてるほどだった。中国の坊主が発明した新手の精進料理だと言われたら、誰一人、疑う者はなかったろう。ニンジンとサンショと豆腐を葛で固めた透明の蟹というわけだ。
しかし、こ奴は違う。オーストリア軍のヘルメットより、下手をすればずっと丈夫な殻に覆われている。
「このシェルはソフトと言えないね」
彼は店員に言ったが、ムン・タイは通訳しなかった。
「運ぶのにしくじったんだよ。きっと」代わりに言った。
「バイト先で、中国人のコックから聞いたんだけどね。生きてる奴を放っとくと、一日で普通の蟹になっちゃうんだってさ。デラウェアの方で獲ってるんだ。うんと冷やして運んで来て、その日のうちに売りきっちまう。冷蔵車が壊れたって言ってるよ」
「運んでいるうちに殻ができちゃったのか?」
「ああ、だから捨て売りにしてるんだとよ」
「ナベなら充分だろう?」
「どんなものかなあ」
首をひねって、スペイン語に変え、店員に短く訊ねた。相手が答えると、また大真面目に頷き返した。
「ジェリーがシェルになるのにエネルギーを使うんだとさ。くたくたに疲れて、栄養も旨みもあったものじゃない」
「ミソ・ナベにするなら、かまやしないよ」
「ミソ・ペースト!」
ムン・タイが、顔を歪めた。それから、教会の壁に殴り書きされた四文字言葉を読みあげるように、低くゆっくり繰り返した。
「ミソ・ペースト!――キャロラインがどれほど嫌っていたか思い出してみろよ」
「ジョージは大好物だ」
彼は、うんと狷介な気分に駆られて言った。
「ジョージがミソ・スープを旨そうに啜るところを彼女に見せたら、今夜はちょっとした展開になるような気がしないか」
「彼女は、匂いを嗅いだだけで帰っちまうよ。ドアを開けるだけさ。玄関にだって上がりゃあしないよ」
「議論なら余所でしてくれ!」
店の奥から、初老の中国人が呶鳴った。
「議論じゃないよ。相談だ」
目の前で、大柄な店員がぼんやり笑った。
「何、相談する?」
「ミソ・ナベさ。キムチをどっさり入れたらどうだろう」
「き・む・ち?」中国人が目を丸くした。
「それなら、辣椒醤《ラアジヤージヤン》買いなさい。毛肚火鍋《マオトウフオングオ》、美味いよ」
「それはいいや。バナナの花もしこたま入れてやろう」
「バナナの花違う」中国人が嫌な顔をして、手を横に振った。
「うちの、本物。四川直送。本物の金針菜《ガムジヤンチヨイ》よ」
「なら、余計いい」
「冗談はよせよ」ムン・タイが、うんざりした様子で遮った。
「キャロラインはメインの生れだぞ。蟹にゃ煩いんだ」
「辣椒醤が入っちゃえば何だって同じだ」
「普通のワタリ蟹にしようよ」彼の肘を掴み、ぐいと引っ張った。
「五十ドルから予算があるんだ。今日は、キャロラインのパーティーなんだぜ」
「ホストは誰だ? 俺だぞ。ジョージじゃない」
「先刻から何を怒ってんだよ」
「ジョージが来るって言うからさ。奴はパーティーを横取りする名人だ」
「面白い奴じゃないか」
「ヴェトナムを駆けずりまわるボブ・ホープってところだよ。頼まれもしないのに笑わせに来るんだ。ボブ・ホープは女を連れて来たけど、ジョージはかっさらって行くんだ」
「まあ、ちょっと無茶はするけど、――」
「奴がナベって言ったのか」
「そう聞いたよ」
「俺は|仕出し屋《ケータリング・サービス》じゃないぞ。――ミソとキムチだ。君は好きだろう」
「キャロラインはどうするんだよ。彼女が言って来たんだぜ」
「何を言ったって?」
「彼女が言ったんだよ。ジョージがナベを食べたがってるってさ」
「キャルが、――」
雑踏の中、湿った空気を飲みこむ自分の喉の音を、彼は大きく聞いた。それを吐き出すには時間が必要だった。中国人がのんびりと言葉を択び、
「買う? 買わない? 買わない、邪魔になる」と言い了るほどの時間だ。首筋に熱波の名残がべっとりまとわりついていた。
「何人来るんだっけ?」彼は、やっとの思いで尋ねた。
「俺たち入れて六人。ピアは二人前食べるよ」ムン・タイは、ほっとして勢いづいた。
「魚だな。白身を入れて、ピアとジョージにうんと回してやろう」
「頭じゃなきゃあ、何でもいいよ」
「何で、頭が苦手なんだ」
「睨むんだもの、でかい真ん丸い目玉でさ」
二人を、上品な出で立ちの白人夫婦が押しのけた。その夫婦は、さらにその後ろの婆さん連中に押しやられた格好だった。
「これはソフトシェルだ」と、夫の方が言った。それから、妻に向かって先刻ムン・タイが通訳したのと同じ講釈をたれた。
「でも安いわ」と妻が言った。
「シンシアには素晴らしいごちそうよ」
「多めに買って冷凍すりゃいい」夫は、オールAの通信簿にそうする父親みたいに、静かに力強く頷いてみせた。シンシアが猫だということは、誰の耳にも明らかだった。
いやはや、変わったものだ。つい数年前まで、猫に魚を食わすと腰が抜けるだとか、黒目が白くなるなどという戯れごとを心から信じていた連中がこれなのだから。
二人は呆れてその場を離れ、別の台から、中国人に促されるまま、人数分の太ったワタリ蟹と甘鯛によく似た魚を買い、八百屋の方へ引き返した。
日本風の長ネギをみつけるのに、少し手間どった。ムン・タイは、買った野菜がいつもと少しも変り映えがしないと言って彼を詰ったが、ヴェトナム人が営《や》っている乾物屋で本物の魚醤《ニヨクマム》を買い、ポン酢ともみじおろし、魚醤と香菜《ツアンツアイ》、つけだれは二種類用意するつもりだと教えると、機嫌を直し、すっかり重くなった籠を一人で引き受けた。
車を停めた場所へ向かって、大通りから外れると、やっと夜がやって来た。
彼らは、波打った石畳の小径を下っていった。道は暗く、両翼に店はなく、どのドアもみんな裏口にしか見えなかった。それに相応しい荷やゴミ箱や、ゴミにしか見えない洗濯物で玄関先が飾られていた。壊れかけたエアコンが吐き出す熱風がひっきりなしに降ってきて、全体、あたりを古い下水溝のように見せていた。
「ジョージがキャロラインにちょっかい出してると思うかい?」ムン・タイは不安そうに尋ねた。
「俺には、そうは見えないんだけどね」
「どうでもいいじゃないか、そんなの」
「俺にはね。――君は違うんだろう」
「別に彼女と一緒に暮らしてたわけじゃない」
「ミラノへ行くったって、三ヶ月のことじゃないか」
「仕事が続いてありゃあ、もっとになるさ」
「仕事、ありそうなのか」
「知るもんか。もともとジョージが紹介した仕事だ」
「キャロラインは、アパートを手放してないんだぜ。サブレントにも出してないよ」
「どうして、――」彼は顔を上げ、言葉を見失った。
「知らなかったのか? 妹が留守番に来るんだってさ。三ヶ月したら、きっと戻って来るよ」
「だから、どうしたっていうんだ」
「ジョージは、便利にしてるだけだよ」
「誰が誰を?」
「キャロラインが彼をさ」
「へぇ」と、興味もなく頷いて一呼吸、彼はいきなり笑い出した。
「そんなのでムッと来てたんじゃないぜ」
笑い終えると、彼は言った。「奴が、――とくにナベのときに、あ奴が来るってんでムッと来たんだ」
「ナベがどうしたってのさ?」
「奴は、仕切ろうとするからね。知ったかぶってナベまで仕切られちゃあ気鬱だよ」
「ムッソリーニは二人いらないってわけだね」
言ってムン・タイは喉で笑った。「しかし、大変だね」
「何がだ?」
「日本のファシズムさ」
「ああ」と応じ、大変なんだよと続けようと、顔をひょいと動かしたその瞬間、何かが目の隅をかすめた。
爪先を、かさこそいう音が横切った。その音を目で追うと、道の真中にできた水溜りに、大ぶりの蟹が走りこんだのが見えた。どこかもぐり込むところを探して、そ奴は身をよじり、足をざわつかせていたが、昼の間に溶け出したアスファルトに邪魔されて、せいぜい泥水をはね上げるだけだった。
彼が覗き込むと、蟹はぐっと甲羅を持ちあげ、道端の暗がりを睨んだ。
アパートの階段の下、湿ったごみの山に目ぼしをつけた様子だった。
彼が走り出したとき、蟹は、まだその暗がりを見つめていた。だいぶ弱っていたのだ。慌てるまでもなく、すぐ両手でつかまえることができた。
鋏をじたばた動かしたが、両方とも黄色いゴム・バンドで枷をはめられていた。先端で彼の指を突っつくことさえままならなかった。
彼はムン・タイに言って、野菜の入ったビニール袋をひとつ空けさせた。中に抛り込むと、またあばれた。
「なれの果ての一匹だぜ、こ奴」と、ムン・タイは言った。
「ソフトじゃなくなったソフトシェル・クラブ」
嬉しそうに袋を覗き込んだ。
「どうやって逃げてきたのかなあ」
「どうやっても、こうやっても、エネルギーを使い果したにしちゃ元気じゃないか」
「まあね。何しろ中国人の眼を掠めてきたんだから」
「誰からも注目されてなかったんだろうな」
彼は言い、自分で言ったことにちょっとの間、驚いた。何故か胸の奥、少々熱いものを感じた。それから、食べる蟹と、食べない蟹の袋をぶら下げ、車へ歩いた。
ムン・タイも、それをどうするのだとは、ついに訊かなかった。
錆だらけ、穴だらけのシヴィック・カントリーワゴンに荷物を片付け、少し迷った挙句、荷室からバケツを出して逃亡者を移し替えた。バケツは助手席の足許へ置き、ムン・タイがくるぶしで縁を支えた。
廃車置場みたいな風情の公園を半周し、一方通行を西へ走った。
ブロードウェイを横切ると、上り線では夕方の大渋滞がはじまっていた。ミッドタウンの高層ビルは、はるかで排気ガスにまかれ、雲の王宮といった具合だった。彼らの車にはエアコンなどついていなかったが、窓から入ってくる風も、また気持ちのいいものではなかった。
「六人だと、|お椀《ボウル》が足りないな」ムン・タイが言った。
「何が足りないって?」
「ボウルだよ。やっぱり七番街へ戻って、あの朝鮮人の店で|紙の椀《ペーパーボウル》を買っていかないと」
「スープ皿でいいじゃないか」
「絨毯を入れたんだぜ。やつら、皿で食べるとぼたぼたこぼすんだ」
「|お椀《ボウル》じゃないと、|浮かれ騒ぎ《ボウル・パーテイー》にならないか?」
「麻薬《スタツフ》を溶かすには深匙《ボウル》にかぎる。尻《ボウル》まで痺れて、糞壺《ボウル》に落ちた」ムン・タイは歌うように言って、げらげら笑い出した。
「|詰め物《スタツフ》がどうしたって?」
と、彼が真顔で尋ねたので、ムン・タイはいよいよ体を揺すって笑い始めた。
ハドソン街で信号に停められるまで、ムン・タイはそうしていた。
彼はハンドルを抱き寄せ、赤信号ひとつ分、たっぷり眉間に皺だてて考え込んだ。ウィンカーは出ていたが、結局、真っ直ぐ突っきった。
「どこへ行くんだい」
ウィンカーを手で戻すと、ムン・タイが訊いて来た。そこを曲がれば、ムン・タイが去年手に入れたロフトまで四ブロックとなかったのだ。
「なあ、どこへ行く気だよ」
彼はかまわず走り続けた。あたりは古ぼけた倉庫街に変り、赤錆まみれのブリキのような煉瓦壁がどこまでも続いていた。やがて真正面に広々、重たい夜空が氾がった。ニュージャージーの稜線に、明かりが滲んでは揺れていた。
「思ったんだけどさ」と、彼は言った。
「ソフトシェル・クラブって、そんな旨かないよな」
「旨いさ。あれはこの四半世紀で出色の食いものだよ」
「フライ以外に食い方がないじゃないか」
「俺、茄でて食ったことあるよ。唐辛子と醤油でさ」
「旨かったか」
ムン・タイはにやにや笑って、首を横に振った。「フライにタルタル・ソースだな、やっぱり」
「ほらみろ」
「蟹だと思うからさ」
「いや、あれは二流の味だよ。フライド・チキンとか、フィッシュン・チップスと戦って一等賞なのさ。それでもやっぱり蟹は蟹だね」
「例のバイト先のコックの話じゃ、食いはじめて二十年ってところだそうだ。昔は食わなかったんだってさ」
「あれはね、二流なのさ。歯ざわりが勝負なんだ。何しろ、鋏から足から、骨から臓物まで丸々食っちまえるんだ」
「だからどうしたのさ」
「パフォーマンスだよ。日本料理屋の手打ちウドンとか鉄板焼きと同じだよ。胡散臭いじゃないか」
「そんなことより、ボウルを買いに回るんだよ。キャロラインを待たすとえらいことになるぞ」
「電話すりゃあいい。直接迎えに行ってやろう」
「ナベの下拵えはどうするんだ」
「手伝わせりゃあいい」
「手伝わせる? 彼女に?」びっくりして言い、さらに何か尋ねようとしたが、
「迎えに行くにしたって、七番街に戻らないと」
ムン・タイは弱々しく抗議しただけだった。
マンハッタンの西|縁《へり》を走る廃れた高架道の下で、やっと右へ、河の方へ曲った。
十三号バースの跡地へ乗り入れると、河辺まで土埃を蹴たてて行き、バケツを持って車を降りた。
上屋を取りはらい、ボマーも係船リングも失った桟橋は、海に突き出たテニス・コートみたいだった。その向うで、ハドソン河が、凪の海のようにのっそり揺れていた。
「食べたってしかたないからね」彼は弁解するように言い、バケツをゆすった。
「へぇ。亀の恩返しってところだね」
「鶴だろう」
「亀さ。俺の国の昔話だ。子供にいじめられてる亀を漁師が助けてやるんだ。すると、その夜、金銀財宝と美人の嫁さんを持って、亀が礼をしに来るのさ」
「それなら亀だ」
「いったいどっちなんだよ」
「日本の話は、美人がうじゃうじゃいるパラダイスに連れてってくれるんだ」
「亀が?」
「ああ、亀だよ。鶴の方は、自分が嫁さんになって来るんだぜ」
「ヴェトナムにも似た話がある。きっといろんなヴァリエーションがあるんだろう」
「鶴か、亀か」
「それは、亀だ。でもパラダイスには連れていかない」
「どこへ行くんだ?」
「行かないよ。いくらでも米が出てくるライス・ボウルをくれるんだ。フィリピン人からも似たのを聞いたことがあるぜ。それはサメだかクジラなんだ」
「サメをどうやって子供がいじめるんだ」
「忘れちまったよ。――いいとこあるじゃないか」
ムン・タイがにやりと笑って、彼を小突いた。
「馬鹿言うな。こ奴の幸運にあやかろうってだけさ。まんまと殻をせしめて、猫のエサにもならず、おまけに中国人の商人の手を逃れて来たんだぜ。ドレスデンで生き残ってダッハウの収容所から脱走するようなもんだ」
「まあいいや――おい、礼は二人分だぞ」
バケツの中に声をかけ、ムン・タイは電話をかけて来ると言い、高架道の向う側へ走り出した。
彼はバケツを提げて、桟橋を歩いた。キャット・ウォークの先端では、男同士のアヴェックが数組、肩を寄せ合い対岸をながめていた。いくらかはましな風が、その方向から吹いていた。
河岸で、彼はバケツを降ろし、慎重に、時間をかけて、鋏のゴム・バンドを取ってやった。蟹はまだ生きていた。
川面に放すと、真直ぐ沈んだ。すぐさま、同じ場所に泛んで来た。それから斜め下方へ滑るように消えた。わずかな間だったが、自力で泳いだことはちゃんと見てとれた。
シヴィックの荷室にバケツをしまっていると、ムン・タイが何やら大声で喚きながらウェスト・ストリートを渡って来た。
「彼女、自分で来るってさ。自転車で来るんだって。考えてみりゃ、ミラノ行きまでもう何日もないもんな」
「何が考えてみりゃあなんだ」
彼は荷室のドアを閉め、車によりかかった。
「酒を飲んだ後、八十七丁目まで自転車じゃ帰れないよ。君の部屋なら逆立ちでも帰れる。――だろ?」
「勘繰りすぎだよ」
「そんなことはないさ。アーリア人ははっきりしてるよ。――今夜は、君にあんまり飲ませないでくれって、今、釘を刺されたもの」
彼は相手を見つめ、黙って肩をすくめると、運転席に座った。
ドアを閉めるより早く、ムン・タイが隣へ乗りこんで来た。
「ジョージは来ないよ。手を怪我したんだってさ」生真面目な顔で言ったが、声は笑っていた。
「地下鉄のドアに捲かれたんだって」
「ひどいのか」
「骨は折ってないってさ。病院と警察で手間どってるんだ」
「警察?」
「あの性分だ。補償と保険をしぼりとるには、事件にしてペーパーを作らないとならないじゃないか」
「へぇ」彼は拍子抜けして、息を吐いた。
「裏目にでたな」
「何がさ」
答える代りに鼻を鳴らし、車を出した。しばらくすると、ムン・タイがくすくす笑い出した。
「笑うなよ」と、彼は言った。
「挟んだのは地下鉄のドアだ。蟹の鋏じゃないんだぜ」
「だったらずいぶんと安い礼だよな」ムン・タイは言って、さらに激しく笑った。足でグローヴ・ボックスの下をばたばたと蹴った。
「少しも礼なんかじゃないさ」
と彼は言ったが、顔は笑っていた。だからと言って心の底からよろこんでいたわけではなかった。ジョージが来ないことでたしかにほっとしたものの、今まであった軽い苛立ち、軽い緊張と一緒に、夕食に入れこんでいた熱意まで自分から遠退いてしまったことに気がついたのだ。
大きな息が転げ出た。
「どうしたんだよ」ムン・タイが笑うのをやめた。
「溜息なんかついちまってさ」
「火をおこしたら、バーベキューの半分は終りだって、マーク・トゥエインが言ったろう」
「そうかい? それがどうしたんだ」
「いや、別に、――」
彼は言い、言ったとたん面倒になって、
「今夜は何となく、キャルに会いたくないな」と呟いて、この異国の友人を相当驚かせたが、あながちそれが口からでまかせでないことに気がついたのは、ボウルの足らないボウル・パーティーが始まって、大分経ってからのことだった。
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ランデ・ヴー
よく考えもせず約束《ランデ・ヴー》を取ってしまったので、フーチィは長いこと鏡の前で考えに沈んだ。
アメリカ煙草に二度火をつけ、二度とも三口で錫の灰皿に捻じつけた。窓を開けたがまだ明るい。モンマルトルのあたりに垂れこめた雲が下腹を赤黒くしている。
彼女は窓を閉め、椅子の上に足をのせ、両手を頭の後ろに組んだ。小さな下着ひとつきりでそうすると、自分を丸ごと鏡の中に投げこんだような気分だった。
三本目の煙草をくわえたが、火をつける前に箱にもどした。結局、シルクはあきらめた。向うがどの程度のレストランを用意したのか判らなかったのだ。黒いニットのワンピースに金の腰鎖と金のチョーカーをつけ、飾りけのないハイヒールを択んだ。口紅だけつけると、フーチィはハイヒールを手に持って、狭く暗く、おそろしく急なアパートの階段を四フロア降りた。中庭《クール》へ出たところで靴を履いた。その階段で何度か、足首を痛めたことがあったのだ。
ショワジー街にはもうネオンが灯っていた。アメリカ人がバンブー・レターと呼ぶ艶めかしいアルファベットが漢字と入り混じり、もう少し暗くなれば、通りは中国製花火のようにやかましく光り輝くはずだった。倉庫を改造した組合の市場に、会計待ちの長い行列が出来ていた。学校帰りの子供たちが、不法投棄されたタイアのない自動車の屋根に上って騒いでいた。そこをやり過ごすと、『ハワイ』という名のヴェトナム食堂から白い湯気が勢いよく舗道に湧き出して、彼女の行く手を遮った。
三年前、その店が開店したとき、彼女はここで背筋を凍らせたものだった。『夏威夷《ハワイ》』を『河内《ハノイ》』と読み違えたのだ。まだその当時は手書きだった看板は、『HAWAII』のWがひん曲がっていてNに見えた。
中国語は喋れるだけで、フーチィは漢字をまったく読めなかった。
クラクションが人ごみを掻きわけて来た。東洋訛のフランス語と、ヴェトナム訛の広東語があちこちに塹壕を築いていた。香菜《ツアンツアイ》の匂いが小銃弾のようにやって来て、通り過ぎた。その匂いは何故かいつも、鼻でも腹でもなく、胸を貫くのだった。彼女は匂いの来た方角に目を細めた。方角が判るわけはなかった。パトカーの『ピーポー』がパリの基調音であるように、その匂いはこの通りの一部なのだ。
またクラクションが高鳴った。振り向くと斜め後ろをのろのろやって来るMGBの運転席にゴロウの顔がのぞけた。クラクションはしかし、その背後のトラックがMGに鳴らしている。
ゴロウが肩をすくめ、助手席のドアを押し開けた。
ヒンジの腐りはじめたドアは、きちんと閉まらなかった。彼女は言われるまま、シート・ベルトの端でそれを車体に縛りつけた。
トラックに急かされて次の辻を折れると、MGはイタリー通りへ抜けた。中華街は、土産物屋やキャフェやキオスクに姿を変え、この大通りにまで溢れ出していた。
イタリー広場を過ぎると空気から香菜《ツアンツアイ》が消えた。やっと暗くなった。じきに八時だ。白ワインが飲めればいいのだがとフーチィは思った。日本人の男は、三回に一回しか、君は何を飲む? と訊かないのだ。
「アパートの前から?」と、彼女は尋ねた。
「あんまり遅いからさ。――七時だぜ、|顔合わせ《ランデ・ヴー》は」
「何で声をかけなかったの?」
「見蕩ていたんだよ。姿勢がいいね。足も真直ぐで、早く歩くんだね」
「ありがとう」彼女は声をたてずに笑った。
「でも、いやあね」目を細め、ゴロウを睨んだ。
「テスト、それ?」
しかし、相手はそれには応えず、
「生まれつきか? それとも、訓練か」
「理由は三つよ。いつも胸を張ってろって、父がとても煩かったの。それが九歳まで。その先はトレーニング」
「九歳?」
「父が死んだの。それでこっちへ来たのよ」
「へぇ。それは知らなかった。お母さんは?」
「いないわ。一人で来たのよ」
「で、三つめは?」
「生まれつきよ。姿勢で階級がわかるのよ」
ゴロウは肩をほぐすみたいな調子で頷いた。
「君、中国人だったよな」
「まぁね。――それがどうかして?」
「クライアントの要望なんだ」
「問題ないわよ」
彼女は言い、ネー将軍の足許で夜毎くりかえされる大混雑を、錆だらけのMGが乗り切るまでたっぷり黙りこくった。
「中国人よ」妙にきっぱり言った。車はすでにリュクサンブール公園の裏手を、乱暴なスピードで走っていた。
「名前だけなら漢字で書けるわ」
「漢字じゃ駄目なんだよ。オーレリアじゃなきゃ、雇用主《パトロン》がうんと言わない」
「オーレリア・ウォンよ」
「だからさ。それがいいんだ。フーチィ・ウォンじゃ駄目なんだ」
「黄虎姫《ウオン・フーチイ》よ。あなた日本人でしょう」
「どっちにしろさ」と、ゴロウは無頓着に続けた。彼女に目を向けもしなかった。
正面にサンジェルマン・デュ・プレが見えて来た。正確にいうなら、教会の一部とその混雑が、だ。
「オーレリアと黄《ウオン》がくっつかないと駄目なんだ」
「変なの」と、細くしなやかな喉で囁き、彼女はセーヌ上空に垂れこめた強《こわ》い色あいの雲に目を投げた。空はもう昏く、そこだけがぼんやり煌いていた。
「だったら、ヨーコと黄《ウオン》の方が受けがいいでしょうに」
「それならヨーコとオーレリアだ」
「ファミリー・ネームはどこへ行っちゃったのよ」
「オーレリアも要るし、ウォンも要るんだ。エスニックが連中のニーズさ」
「何がエスニックなの。それじゃあニューヨークの雑貨屋じゃない」
「ニューヨークの雑貨屋がニーズなんだよ。日本の化粧品キャンペーンだもの。『秋はエスニック』ってヘッド・コピーだそうだ」
「変なの」今度は強く、ぴしゃりと言った。
広場を突っきり、河岸に出る二ブロック手前で美術学校の方へ曲った。
「ここらに停めないとな」
ゴロウは後続の車など意に介さず、一方通行路の真中を、右路肩に空きをみつけながらのろのろ走った。
「お食事は何?」
「中国料理《シノワ》」
「広東料理?」
「さぁね。向うの指定だから」
「こんなところに、大したお店、なくってよ」
「知らないか。今年、ミシュランで星取ったんだってさ」
「中国料理が!!」彼女はびっくりして訊ねた。
「俺も初耳だよ。最近の日本人ときたら何でも知ってやがるんだ」
ゴロウは前方の路肩に背伸びしながら、吐き棄てるように言った。
「あなただってそうじゃない」
「こっちは商売だもの。それも、四年住んでさ、ネットワークだってある。――向うは三回来たきりで、フランス語も喋れない。なのに、俺よりよく知ってるんだ。ことに、ホテルとディスコとレストランに関しては『パリ・スコープ』の編集者より知ってるんじゃないかなぁ、奴ら」
「日本人だけね。日本人てすごいわ。日本から来るマヌカン、たいていそうよ」
何故だか嬉しげに、彼女は言った。「シャルシュ・ミディの定食屋あるでしょう」
「五十五フラン均一?」
「そう。あんなところまで知ってるの。あたしが、案内されちゃったのよ。まだ十七歳だって。日本からコレクションに来て、パリに着いて三日目の娘《こ》によ」
彼女は口をへの字にした。額に皺を寄せ、やがて声をたてて笑った。美しい唇から粒ぞろいの歯がのぞけ、五色の舞扇をひらつかせるような効果をあげた。
ゴロウはそれを見もしなかった。弱々しく首を横に振り、やっと見つけた僅かな隙間にMGの頭を突っこんだ。バンパーで前後の車を押しのけて停めた。
ドアからシート・ベルトの縛めを解《ほど》くのに散々苦労した挙句、フーチィは舗石に立って軽く伸びをした。
ゴロウは、あちこちのクランクをギリギリ鳴らし、MGの幌を畳みこんだ。
「停めると屋根を開けるのね」と、彼女が訊いた。
「こんなの盗る奴はいない」彼は答えた。
「でも幌を切る奴はいる」
「左岸のこの辺で!!」
「この辺だからさ。クリシーのあたりなら盗る奴もいる」
彼女はまた笑い、口許で舞扇をひらき、彼に腕をからませた。
ゴロウはつまらなそうな顔をして頭を振った。そっと、腕をほどいた。それから歩き出した。
「パトロンに見られるとね」振り返り、振り返り、彼は言った。
「見られるとどうなるの?」
「嫌がるからさ」
「何を?」と尋ね、目を細めた。長い睫の間で眸差しを煌らせ、彼を一歩たじろがせた。
「何を、何がよ? スカートを脱いだわけじゃないわ」
「通訳がちょっとでも親しげにすると怒る奴もいるんだよ」
「通訳? 誰が?」
「俺さ」
「あなたが? いつからライセンス取ったのよ」
「奴らにとっては同じようなもんさ」
彼女は憮然として両手を腰に当て、歩を止めた。
「イラン人のお金で働いているみたいね」
「日本人だよ。カメラ以外はスタッフ全員、日本人だ」
「日本人といってもパリ通なんでしょ」
「デパートとホテルとレストランだけさ。――日本でランデ・ヴーって言うと、逢引のことなんだぜ」
「なあに、それ?」
「半世紀前の流行語だ。だいたい、日本でパトロンなんて言ったら、腰抜かすよ。ゲイシャ・ガールの旦那のことなんだからね。――アメリカ人がフレンチ・キスだのフレンチ・ラヴって言うのと同じさ。日本は何でもあそこから輸入したからね」
「保護関税があるのね」
「納税者がシャイなんだよ」
「あたしフランス人じゃないわ。中国人でもないわ」
フーチィは硬い声で言い、腰の金鎖を鳴らして歩き出した。
目指す店はすぐに見つかった。ネオンにも看板文字にも、漢字はひとつもなかった。『ティエンタン』というのが店の名だったが、フーチィはそれが天国という意味だと少し自慢そうに教えた。
「でも、漢字には直せないわ」
それから空気を大きく吸いこみ、
「これ、ヴェトナム料理屋よ」
「混ざってるんだろう。クロス・オーヴァーさ。最近流行だからな」
「ヴェトナム料理屋よ。漢字がないし、――」
「ドクダミが匂わないよ」そこだけ思わず日本語で、彼は応酬した。
「ドクダミって何?」
「香草だよ。ヴェトナムの|パセリ《ペルシ》。あの臭い奴」
「ヴェトナムの女が|男を引きずりこむ《アレ・オ・ペルシ》」
「何だい、それは」
「掛け言葉よ。料理学校で二日目に覚えたわ。それでモデル学校に移ったの」
彼女は鼻をつんとさせ、目を遠くに細めて微笑んだ。
「香菜《ツアンツアイ》のことね。たしかに匂わないわ。きっと、最近はやりのタイプなのよ」
「本当に星を取ったのかなぁ」
「本当らしいわ。ここに書いてあるもの。そういえば、お友達から聞いたことがあるわ。ロメオ・ジリが、このごろごひいきなんですって」
「ぞっとしないな」
フーチィは、彼の顔を見つめ唇をとがらせて微笑んだ。目と目の間に小さな漣がたった。さっとばかりに彼の腕にからみつき、回転ドアに飛びこんだ。黒いダブルのスーツを着た東洋人が彼らに気付き、ドアに力を加えたので、二人はつまずくようにして店内に入った。
ゴロウが会社の名を告げ、タキシードの男が二階へ案内した。カーテンのついたアルコーヴ席がとってあった。床は御影石、食卓の天板は|あられ石《アラバスタ》、壁は一面ダマスカス鋼そっくりの模様がある金属に覆われていた。両側に束ねてくくられたカーテンは、ドル札の裏側みたいな色柄だった。
「東京《トキオ》みたいね」フーチィは楽しそうに言った。
「東京?――こんな店があるのか?」
「キャフェはみんなこんなふうだわ」
「四年でそんなに変っちまったのか?」
「よく知らないわ。先月、一ヶ月行っただけだから」
「コマーシャル?」
「香港映画。――ロケーションがあったのよ。こんな店ばっかり使ってたわ。大事な役だけど台詞がないの」
「カンフーをやるのか?」
「いやぁね。恋愛映画よ。ロミオとジュリエットが原作だけど、ウェスト・サイド・ストーリィには全然似ていないの。私が中国語も英語もあんまり上手じゃないのを、向うのエージェントに知らせてなかったのね」
「それで?」
「私がやったのはロザラインにあたる役よ。ロミオの心変りを知って、ショックで声が出なくなっちゃうのよ」
「台本をそう変えたのか」
彼女は大きく頷いた。首のチョーカーにマニキュアをした指でさわりながら身をのり出した。
「私、好きよ。すごくよく判るわ」
「香港映画かい?」
「ロザラインよ」
大きなメニュウを持って先刻の東洋人がやって来た。こうしたレストランにしては、身のこなしがどこか崩れていた。反対にすばらしく丁寧な口をきいた。そのアンバランスが、彼をゼンマイ仕掛けの人形のように見せた。
「お飲みものはいかがですか」
「マティニをつくれるかい? アメリカン・バァで出すような奴だ」
いきなりゴロウが言った。フーチィは上目使いで、それを憤然と聞き流した。給仕はいっさいかまわず、
「もちろん」と応えた。「お嬢さまは?」
「ワインがいいわ。はじめから」
「ワインは彼らが択びたがると思うよ。そういうのを規則《レーグル》だと信じてるんだ」
すると彼女は給仕へ顔を向け、口許で例の舞扇をひろげた。
「イラン人の奢りなのよ」
給仕は彼女ににっこり笑い返し、
「ワインはもう御注文いただいております」
「注文?」ゴロウが訊き返した。
「ええ、テレックスで。――私どもの東京支店のごひいき様なんです」
「東京から?」
「ええ、さようで。――白になさいますか、それとも赤?」
「白が飲みたかったのよ」
「じゃあ、ぼくもワインでいい」
「かしこまりました」
「東京支店だってさ。――すげぇな」
給仕がひっこんでしまうと彼は言った。
フーチィは何も喋らず、凝っと飲みものを待った。今度の仕事のスポンサーがどれほど大きな会社か、ゴロウはさかんに言いつのったが、彼女は上の空だった。
頼みもしないオードブルがやって来た。中国式に四皿が卓子の真中に置かれ、取り皿がくばられた。
「お料理の方は任されていますので」
「テレックスで?」
「ええ、こちらでメニュウを組むようにと」
「東京から?」
「ええ」
「日本人の経営なの?」
「いえ。――東京の店は、当店の主人と日本の画廊主が二人で出したもので。――シェフはこちらから送りこんだんです」
「ミシュランで星を取ったって本当かい?」
「ええ。大変ありがたいことです。こうした料理店ではまだ二軒目なんですよ」
「これ、なぁに?」
と、フーチィが象牙の箸で一皿をつついた。
「ウナギです。ウナギと揚げ豆腐、そちらの二皿が魚、それに蒸した春巻と揚げた春巻」
ボナ・ペティートと、そこだけイタリア語で言い、給仕がひっこんだ。
「すごいわね。一週間も十日も前からその日何が食べたいか判るなんて。――さすがに日本人ね」
フーチィは心から感心した様子で言った。
「すごくなんかないよ」
「あら、すごいわ、そういうの。あたしだってやってみたいものだわ」
「すごいのはこの店だ。すぐさま食べものがやって来る。ワインより先にだぜ」
「こういうのもいいじゃない」
「いい悪いなんて言っていないよ」
「何かしら、この魚?」
「キモアエに似てるな」
「朝鮮料理?」
「日本の、漁師町の食いものだよ。カワハギの刺身を肝のペーストであえるんだ。でも、油がまざってるぜ、これは」
「中国のお刺身みたいね」
「こんなのが、あるのかい?」
「よくは知らないわ」
「パセリにチャービルだ。色々入ってるよ」
「魚醤《ニヨクマム》よ、これ。やっぱりヴェトナム料理なんだわ。その春巻は見た目が完全にそうだもの。タレがちょっと変だけど」
彼女がひき寄せた小皿には、緑色のペースト状のソースと、薄い赤紫の液体が入っていた。小指の先で交互にすくい、それを舌でたしかめた。
「ピーナツ油と魚醤だわ。でも、ずいぶん変ってる」
「不味いかい?」
「不味くはないわ」
「不味かないな。そうとしか言いようのない食いものだな。うんと熱けりゃいいのに」
「そうね。そのとおりよ」
「うんと熱いと白人が嫌がるからな」
「そうなの?」
「ああ。中華饅頭なんか、冷まして食べるんだぜ」
フーチィは、そっと店内を見渡した。たしかに客はフランス人ばかりだった。シルクを着てくればよかったのに、と思い、彼女は少し悲しくなった。
やっとワインが来た。鬢のあたりが白くなった背の低いアジア人がメス・ジャケットの衿にぶどうのバッジを光らせ、ワインを捧げ持ち、ラベルを回して見せた。
「モンラッシェ」フーチィは小さな歓声をあげた。
「モンラッシェ、ルイ・ラトゥール。少々若いですが、この年だとタイユヴァンのリストで十八点つけられているんです。――よろしいですか?」
ソムリエが言った。
「ぼくらが頼んだものじゃないんだ」
「ああ、さようですか」
「東京からこれを頼んできたのかい?」
「ええ、白はモンラッシェを、と」
「赤は?」
「ポムロールのシャトー・ペトリュス」
「置いてあるの?」
「もちろんです」
「ヴェトナム料理屋だろう」
「パリ風にアレンジしておりますから。うちは|ワイン蔵《キヤーヴ》が自慢です」
言って二人の顔を見較べた。彼が促したので、フーチィのグラスに少し注いだ。
一口飲んで顔を上げ、オーディション最終審査の会場で自分の名前を呼ばれたときみたいな笑いをぱっと泛べた。
「キャーヴだけなら≪ピラミッド≫にだって負けません」
ゴロウは苦笑して素っ気なく頷いた。
「すごいわね」と、フーチィは言った。
注がれた酒を、二人は一口飲んだ。二口目を飲むまで、二人とも顔を上げなかった。
「あたしの知ってるモンラッシェとずいぶん違うわ」
「お気に召しましたか?」
「とっても」
それだけの時間に、ゴロウのグラスはほとんど空になった。ソムリエが素早く注ぎ足した。
「よかったら、ワイン・リストを見せてくれないか」
「もちろんです。――お気に召しませんか?」
「ここのキャーヴをのぞいてみたいだけさ」
「よろこんで」
ソムリエは半身を返して、そっと指で合図した。すぐさま給仕が皮表紙のリストを持ってやって来た。
「すごいね。――たしかに」
「この頁のワインは、畑ごと買ったんです」
「畑?――じゃあ私家銘柄を持っているのかい?」
「ええ。私が好きなもので」
「フランスの生れ?」
「いや。――サイゴンですよ。昔々のサイゴンには、結構なワインが入っていたものなんです」
「君の店なのか?」
「私と、家内の兄と、二人でやってるんです。義兄が厨房をまかなってます」
「シャブリがすごいな。これだけのシャブリがあるのに、ぼくたちのパトロンは何でモンラッシェを予約したんだ」
「日本へ入ってるシャブリは非道いですからね。千本に九百九十九本は死んでる。日本の方は、たいていシャブリにがっかりなさっているようです。そうでない方は、――」
言いかけて言葉を止めた。
「そうでない者は?」
「日本の方でしょう?」
「こっちに住んでいるんだ」
鬢の白くなった東洋人は、ひとつ頷き姿勢を正した。
「まあ、そうでない日本のお客様は、どんなシャブリにでも、ただシャブリだというだけで、いくらでもお金をお支払いになるんですよ」
軽く頭を下げ、ワインを砕氷の中に深く差し込み、一階へ降りて行った。
「聞いたようなことを言うぜ」ゴロウは言った。グラスを高々と持ち上げた。
「ソムリエじゃなくって酒屋の親爺だ」
「あら、どうして?」
「ビールだってこんなに冷やして飲むもんじゃないよ」
「あたしにはおいしいわ。うんと冷たいのがちょうど飲みたかったのよ」
彼は手をのばして、氷の中からモンラッシェをひっこ抜いた。こっちへ歩きかけた給仕を制し、瓶をナプキンで拭って卓子の上に置いた。給仕はその場に凍りつき、弱々しくゴロウの背中を睨んでいた。
「十五分後に、もっとおいしいって言わせてみせるよ」
「イランのお坊さんたちにはどう説明するの?」
「もう一本頼めばいい。ワイン・リストを見てみろよ。すごく安いんだ。ぼくの小遣いでも買えるよ。一ツ星値段てやつさ。しかし、普通の一ツ星には、こんなワインは置いていない。――君との仕事は初めてだからな、その記念ってところさ」
「あなた、すてきよ。そういうところ、好きだわ」
彼女は言って澄んだ声で笑った。それから相手を真正面に見つめた。「同じこと、フランス人の店でもできる?」
彼はしばらく黙った。耳たぶが赧くなった。黙ったまま箸をのばし、春巻を食べた。ワインを飲み、ほうれん草で包んだ鮪を口へ運んだ。表面をさっと炒め、ソースとビネガーをかけたものだった。
「わかったよ。元気がないんだ」
「あなたが?」
「馬鹿言え」
「何がよ」
「食べものさ。元気がないんだ」
「ワインが来たらおいしくなったわ」
「元気がないよ」
「これはこれでおいしいわ。ヴェトナム料理じゃないってだけよ。おいしくない?」
「すごくは旨くない」
「何もみんながみんな、すごくおいしくなくちゃいけないってことはないわ」
「ワインをもっとどう」
彼女はグラスを持ち上げた。「きっと、ワインで星を取ったのね。ワインとそれにすっかり合わせた料理。彼らのいつものやり方よ」
きつい目をして、厨房の方角を見やった。
「おかしいぜ。――彼らだなんて」
「あたしは|ヴェトナム国籍華人《ヴエトナミエンヌ・ドリジヌ・シノワズ》だもの。彼らは華僑よ」
「いつものやり方って?」
「国際世論にじかに訴えるの。彼らの十八番よ」
彼女はワインをおいしそうに飲み、ウナギを食べた。
「これには例のが必要ね。例の、――ほらドクダメ」と言い、またワインを飲んだ。「判った?」
「ドクダミだろ」
「そう、それよ」またひと箸、口へ運んだ。
「彼らはそうよ。いつも、その調子。ヴェトコンの味方をして、父を爆弾で吹っとばしたの。母は陥落後、労働キャンプで死んだわ。そのくせ彼らは、アメリカ軍より早くに、お金を沢山持って逃げ出したのよ」
「サイゴンの中華街《シユロン》?」
フーチィは大きくこっくりした。「父が言ってたわ。国際社会でお金持ちになるには二つしか方法がないって。アメリカ人とぴったり呼吸をそろえるか、アメリカ人の不倶戴天の敵にまわるか。――敵ならフランス人の共感を呼べるわ」
「なるほど」
「そうやって星を取ったのよ。彼ら」
「今まで、君のこと、ただの女優だと思っていたよ」
「あら、ただの女優よ」
彼女はさっと立ち上がった。茶色と青の背広を、まるで海外小包みたいにきちんと着こんだ日本人が、階段から上ってくるのを見つけたのだ。青い背広が笑いかけたので、手を差しのべ、彼女は口許にあの舞扇をいっぱいに広げた。
「こんばんは。すてきな夕食をありがとう」
ふと見降ろすと、ゴロウはまだ坐っていた。ぼんやりワイン・グラスを見つめていた。今、事の次第に気がつき、大周章で腰を泛すところだった。
何かとんでもないことを言って、この日本人を痛めつけてしまったのではあるまいか。マダム・オーレリア・ウォンは不安になって、さらに笑いで顔中を埋めた。
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西4丁目の変化
七番街で立ち止ったとき、酔いはもう足まで降りてきていた。
ぼくは、道路標識に寄っかかり、息を吐いた。友人の経済学者は、大麻売人《プツシヤー》からもらった釣り銭を数え数え、あめんぼみたいな足どりで、シェリダン・スクウェアを横切ってくるところだった。足は動いていないのに、体がすいっと前へ出るといった具合だ。広場に溜った失業者と、失業者にしか見えない学生たちが、目を丸くして彼を見送った。
聞こえていないスケーターワルツにのって、公園を渡りきり、
「泣きっ面にハチだね」と、遠くから言う。
「いや違った。すきっ腹に酒だ」
「似たようなもんさ」
「ビスキーの挑発に乗るからだよ」
「何だって、あ奴、あんなにムキになったんだい」ぼくは言い、道路標識を抱き寄せた。
体のどこかが、何か温いものを求めていた。ところが、道路標識の奴ときたら、芯まで冷え冷えしていた。
「ダイエットだよ」彼は、ぼくから道路標識を奪い取ろうと、引っ張った。
「ダイエットって何だ。心臓でも悪いのか、あ奴」
「心だよ。悪いのは心だ。心臓じゃない」
「気持ちのいい奴なんだぜ。悪いのは口だけなんだ」
「気持ちはいいんだ。心だよ。病んでるね。一日二食、肉は週に一度って決めているんだ。問題はそれさ。もう一年続けてる」
「知らなかったな」
「知らせないようにしてるのさ。俺たちに気を使ってるんだ。その辺、この町ぢゅうに転がっているヴェジタリアンとは違うよ」
「その心のどこが悪い?」
「恐怖心のかたまりさ。エイズもヘルペスもガンも、みんな食事を摂りすぎるのが悪いって信じこんでる」
「誰が信じこませたんだ」
「エスクワィアさ」
立ち止って何度目になるのか、とにかく信号が青に変った。ぼくが歩こうとすると、経済学者がついに道路標識を奪い取り、心棒にむしゃぶりついた。
彼の袖を引き、ぼくは、ぼくたちの共通の友人、ちびでやせっぽちの広告代理店経営者、ビスキー・マイヤーのことを思い、七番街をハドソン河の方へ渡った。
「ところで、彼のダイエットと飯を食いそびれたのと、何の関係があるんだよ」
ぼくの頭が、ふいに一秒だけ回転して尋ねた。
「今週の分の肉を、もう食っちまったんだろう」
「それで、議論をふっかけてきたってぇのか」
「強いのを三杯飲んだら、夕食なんかどっかへ飛んじまうタイプだからな、君は」
「そうだったっけ?」
「そうさ。現にまんまと食いそびれた。飲み屋のハンバーガァ一個で、よく保つよ」
言うなり、左手一本でティ・ショットを打つみたいに、大袈裟に腕を振り上げた。二度、三度と繰り返した。ワイシャツのカフスから腕時計が出てくるまで続け、
「もう十一時を回ってるんだぜ」
腕に顔を引っつけ、目を瞬かせた。
「おまえだって、保ったじゃないか」
「プリッツェルの効用さ。ポテトチップスにピーナッツだ。品川巻が恋しかった」
ぼくたちは、別々の方角に顔を向け、埃っぽい風にさらされながら笑った。
「軽く食べようか」と、言ったものの、この国で供される『軽い夜食』がどれほどのものか知らないわけではなかった。ウォツカが二人で一本。そこへ軍靴の底みたいな肉を、たとえ二人で一人前にしろ、押しこめるだろうか。
朝鮮人がやっているテイク・アウト専門の弁当屋が、一ブロック先にネオンを※[#「火+玄」]かせていたが、そこのイナリ寿司にしたところで、リトル・リーグのキャッチャー・ミットほどの大きさがある。海苔巻をバットにすれば、茄でタマゴで野球が出来る。当然ボックスの蓋がベース代りだ。
「おまけにキムチの味がするんだぜ、あそこのタクアン」経済学者は言い、
「こうして贅沢が資本主義に暴力的な変革を生む」と続けた。
「この町のことか?」
「東京のことを言ったんだ」
「東京のどこで贅沢が手に入る?」
「ラーメンがあるさ。――こんなときこそラーメンなんだがなぁ」
「それはそうだね」
「ニューヨークにもあるにはあるぞ」
「最後まで言うなよ。あんなもののどこがラーメンだ」
「大阪屋≠フことじゃないよ。チャイナタウンまで行って韓国製のサッポロ一番を買うんだ」
「上等なアイディアだと思って喋ってるかい?」
彼は口を開き、何も答えなかった。答えないまま、その口が欠伸をした。
ぼくは口を開くどころか、首を振るのさえ億劫だった。
「また店が増えていやがる」
経済学者は、西四丁目の曲り角に立ち止り、熱く甘酸っぱい息を吐いた。
そのずっと奥が、ぼくたちが半年の約束で借りたアパートだった。閑静な住宅街だったはずの西四丁目は、数年ぶりに来てみると、六番街からこっち、エルメスのブティックと見まがうばかりのセックス・ショップや、ペンキ屋にしか見えない洋服屋、ガソリン・スタンドとしか思えないレストラン、そしてどこをどう見てもセックス・ショップに見えるキャフェに埋めつくされていた。
この町の『竹下通り』は毎年変るんだ、と、経済学者がわけ知り顔で言ったものだ。
「秋までには別の場所へ移ってるよ」
今は十月だ。九月に喧噪が七番街を渡った。アパートの一階、半地下、小さな食品店や集会所が、次々とそうした店に変り、意匠を競いはじめた。壁から自転車を生やしたケニヤ料理店、ウィンドゥから軍服姿のマネキンが通行人を凝っと監視する洋服屋、『サロン・ド・テ』という名前のチョコレート専門店、――アパートまであと二百メートル、百メートルと、敵の前線は北上していた。
「イタリア料理屋だね」彼は酔いにまかせた素早い足取りで六歩行き、ぼくに振り向いた。
そこが、今週の敵最前線だった。真新しい明かりが道路に流れ出し、彼を照らしていた。
「店構えはまともそうだぜ」
ぼくたちは明かりに覗き込んだ。
ヴァージンのオリーヴ・オイルが匂ってきた。匂いの中にオレガノはなく、どこかしら爽かな、たとえば二日酔いの朝、歯ブラシ前のよく冷えたエヴィアン水といった風情の香りがまじっていた。
「サフランだ」経済学者は、大きなフランス風の窓の前で鼻を鳴らした。
「南かもしれないな」
「何がだよ?」
「南イタリアの料理さ」
「だったらすごいな」
ぼくは言い、言いながら何か寄りかかる柱をさがした。店の天幕庇《マーキー》を支えている鉄柱はとっくに彼のものになっていたのだ。
「パスタって線で行こうよ」
「うんざりだ。スパゲティ・アメリカーナ。ゆるゆるのべちゃべちゃ」
「そうは言っても、うちの冷蔵庫は空っけつだぜ」
「パリならなあ。いつでもどこにでもパンとチーズがあるのに」
「鼠みたいなこと言うな。こんなときは、ラーメンか茶漬けだ」
「なるほど君は国際派だよ。だから日本の大学からパージされたんだ」
「ラーメンを思い出させたのが、いけない」
「勝手に思い出したんじゃないか」
「そうだっけ」彼は、鉄柱に手を支《か》って、ぐるりとそこでひと回りした。
「おい。ピザがないぞ、ここ」
ぼくは抱きついた軒先の小卓の上にメニュウをみつけ、それをひと渡りながめて言った。
このあたりの小さなイタリア料理店にピザがないのは希有な出来事だった。どの店も、大きな黒いオリーヴで具が見えなくなるまで飾り立てた奴が、最低三種類置いてある。たとえ素面でも、味の区別などつかないようなものが三種類だ。そんな店の料理は、どこもトマト・ソースと焦げたチーズをたっぷり奢った北部イタリア風で、たとえば仔牛のカツなど頼もうものなら、赤い風呂桶に泛した相撲取りのワラジに、チーズの足袋を履かせたものが出てくるといった案配だ。
「イタリア料理は、ちょっときついぞ」ぼくは抗った。
「スパゲティだけならいいだろう」
「スパゲティならね。――しかし、コールマン髭のスノッブに、また鼻で哄われるのはいやだぜ」
「何のことだよ、それ」
「すぐ向うに出来た店さ。先月、昼にスパゲティだけ頼んだら、『日本人は日本のレストランでミソ・スープだけ頼むか?』って聞きやがった」
「それで何てったんだ」
「それだけさ」
「君が何か言い返さないわけがない」
「日本じゃ、サシミを出す料亭でお好み焼きを売ったりしないって言ってやったよ」
「通じたのか」
「通じてたら、くよくよ覚えているもんか」
「もう一度試そう。一分以内に、もっと気の利いた捨て台詞を考えておいてくれ」
「捨て台詞なら学者の仕事だ」
彼は、何か言い返してやろうと身構えたが、結局、何も言えず、天幕庇《マーキー》の支柱に頬すり寄せるだけだった。
その時、ドアが開き、マオリッツォ・ジョバンニが出て来た。
小肥りで、背が低く、若いくせにずいぶんと禿げあがった丸い額をしていた。髭ははやしていなかったが、実際彼を思い出すたび、髭がついていたんじゃないかと疑うような顔立ちで、小さな目だけが若く愛嬌があった。しかし、もちろんそのときはまだ名前など知らなかった。
「まだ開いてます」と、彼は私たちに言った。
おそろしくぎこちない英語だった。喉の奥で、鳩時計のネジを巻いているみたいだった。
「真夜中まで開いている。真夜中までは厨房の火はおとさない」
「酒を少々やりすぎている。ワインとパスタだけでいいかな」
「もちろん。おお、もちろん」
ニューヨークにしては、えらく清潔な店だった。新装開店という点をさっぴいても、だ。
卓子クロスは、どれも真白で、仄明るい照明にぴかぴか光っていた。一人も客が入らなかったのではないとしたら、客が帰るたび、それを取り替え、掃除したに違いなかった。入口の小さなバァカウンターに汚れた食器が積み重っていることもなかった。ジョバンニの白い服にトマト・ソースのシミはなかったし、黒いボウタイは、驚いたことにクリップオンではなかった。
「今晩は」という声に顔を上げると、カウンターの中で若い美しい女がブランディ・グラスを磨いていた。亜麻色の髪を頭に綿菓子のようにまとわりつかせ、首を細い貝殻のチョーカーで飾っていた。イタリア系には間違いないが、くっきりした顎と目許がマグレブの血を思わせた。もしかするとフェニキアの末裔かもしれない。
ジョバンニが白ワインのキャラフとメニュウを持ってやって来た。卓上のグラスをひっくりかえし、自分の名とシチリア生れのワインをほぼ同時に紹介した。
ぼくたちはアオリオリオのスパゲティを注文した。彼は一度奥へ引っこみ、青ピーマンと青唐辛子のちょうど中間のような野菜の酢漬けを小皿に乗せてもって来た。
「酔う、もっと飲む、間に食べると大変よろしい」彼は言い、笑いを顔一杯に氾げた。
「ウェイター帰った。私、一人二役、大変忙しい。用がある、シルヴァに言ってくれ」
「シルヴァって誰だ」
「誰だ、誰だ」経済学者が日本語で繰り返した。
「ダレタ、タレタ」ジョバンニが真似た。笑いながら、カウンターに眸を投げた。
「すごくきれいだな」ぼくは言った。
「東洋的だね」
「南方の人だ」と、彼は訂正した。
彼の言う南方が何か、ぼくには判らなかった。今でも、たとえば一部のイタリア人がエジプト人を差別し、また一部のイタリア人がチュニジア娘に意味なく憧れるのが何故か判らないように。
「私の女房、とてもかわいい」
「君の奥さんか」
「南の娘だ。ニューヨークが大好き」
十五分で、スパゲティはできあがった。
「アルデンテ」と経済学者は叫んだ。誰かが"Ubi pedes, ibi patria"と宣言するように、重々しく二度繰り返した。
「すごいぞ。ふにゃふにゃじゃない。水びたしでもない。本当のアルデンテだ。日本の、どこよりだ」
「ボローニャで食ったのより旨い」
と、ぼくが言うと、金融発生の地へ行ったことのない経済学者は、あからさまに厭な顔をしたが、学識を武器に応酬する気配はなかった。
固めに茄だったスパゲティが、彼から戦意を奪っていた。もちろん、ぼくからもだ。
できたての厚焼タマゴみたいに、ふっくらした舌ざわりだった。それでいて、歯ごたえがあった。油はぴりっとして、九月の空みたいにさらさら澄みきった味がした。いや、油の味などなかったのだ。ニンニクは匂わなかった。味もなかった。にもかかわらず、そこに在ることだけは判るという具合だった。
「旨いよ。ニューヨークで一番だ」
「本当かね!!」
ジョバンニの顔が笑いに崩れ、初孫をほめられた老人のように溶けだした。
「本当さ。スパゲッティ・アメリカーナって、知ってるだろう」
「本当かね? 知らないよ」
「聞いたことがないか」
「知らないよ。ニューヨークははじめてだ。来て、一ヶ月たってない。親戚いない。友だちいない。シルヴァと二人きり」
「スパゲティ・アメリカーナ。腰の据ってない|ちんぴら《スマート・アレツク》のことだ」
「ちんぴら? それ何」
「不良だよ。ヤクザの子分のそのまた子分」
「判った。チキンのことか」
「そうだ。逃げ腰って奴だ。とにかくアメリカのスパゲティときたらふにゃふにゃだからね」
「ふにゃふにゃ、役にたたない、――それ知ってる」
彼は大きな声で笑った。カウンターの中でシルヴァの頬が赧くなった。ジョバンニはそれに気付くと、笑うのを止め、誰にともなくすまなそうな顔をして、肩をすくめ、唱うように叫んだ。「オー、ラッラー!」
彼女は鼻をツンと立て、奥へ歩き去った。微笑をうかべていたが、ぼくには花車な胸板にゆれる大きな胸しか見えていなかった。それが目に焼きつき、すぐさまスフレを思った。しかし、――
「カスタード・プディングはあるかい」と、思わず訊いていた。
「パンナ・コッタのことだ」
「この後、甘いものか?」経済学者が驚いて言った。
「あるとも」ジョバンニが笑った。
「アメリカのと違うわ」
いつの間に戻ったのか、カウンターの中でシルヴァが答えた。ガラスのコンポートを開けてみせた。
「焼いてあるの。シロップが違うの。私がつくったの」
彼女は、単語帳をたどたどしく捲るみたいな調子で言った。
「二人前もらおう」
「ぼくは洋ナシのワイン煮がいいな」
「それも二人前だ」
その前に、ぼくたちはアオリオリオのスパゲティをもう一人前注文しようとした。
「二人で半分ずつ食べたいんだ」
「任せなさい。私、任せなさい」
彼は言い、ワインを注ぎ、厨房で音をたてはじめた。
数分後、真赤なフェットチーネを大皿に盛って引き返してきた。
生トマトのソースだった。アメリカ風トマト・ソースとは縁も由縁もない、甘酸っぱい生トマトとオリーヴ・オイルだけであえたものだ。上に乗ったバジルの葉も、決してただの飾りではなかった。
ぼくたちは五分でそれをたいらげた。
酔いは、もはや膝にしか残っていなかった。胃からも、頭からも、いつの間にかそれが遠離っていることに気付いた。満腹だったが、胸は苦しくなかった。
デザートは甘かった。ヨーロッパの甘みだね、と経済学者は言った。
「カルタゴから奪った最高の戦利品がこれさ。価値の交換なんかくそくらえだ。やっぱり略奪に限るよ。消費としての甘露さ」
彼は、プディングの表面で硝子のように輝いている焼けた砂糖を、ばりばり音をたてて頬張った。
「おいしい?」ジョバンニが尋ねた。
「おいしいさ。ニューヨーク一だ」
「ボローニャにだってこれほどのはない」ぼくは言った。
「オーッ」と歓声をあげ、ジョバンニがカウンターに早口のイタリア語をまくしたてた。負けじと早口で、シルヴァが応じた。二人は顔中を煌らせ、喋りあい喜びあった。
「言いすぎじゃないか」
「言いすぎじゃないさ」日本語で、ぼくは答えた。
「ボローニャは車で通っただけなんだ。ドライヴインで昼食を摂っただけさ」
「それじゃサンプリングになってない」
「学会で報告しようってんじゃないんだ。かまうもんか」
「ま、ニューヨーク一は、掛け値なし本当だな」
それからぼくたちは甘い酒を飲み、エスプレッソを飲んだ。コーヒーは、新品の機械特有の何とも言えない金属臭がしたが、二人とも苦痛には感じなかった。
ジョバンニは、明日の朝食のためにと言って、生ハムの根っこと粒マスタードをたっぷり、ドギーバッグに入れてくれた。
「どこに住んでいるんだい」ぼくは帰り際シルヴァに訊ねた。
彼女は目を伏せ、そのまま困ったように亭主の方を窺った。
ジョバンニの唇が、きっと引き締った。目はおずおずと、私たち二人を見較べた。
「すぐ近く。すぐ近く」それしか言わなかった。
「じき、引っ越しする。もう、すぐにね」
彼は、ぼくたちが自分のアパートを教え、今度、是非ジャパニーズ・スキヤキ・うどん≠食べに来てくれと言った後になっても、電話番号ひとつ教えようとしなかった。
それから一週間、ぼくたちは夜毎、その店に通った。
別々に行くことが多く、たいていはそこで出食わし、再びリターン・マッチに酒場へくりだすというパターンだった。それに、いつの間にかジョバンニが加わるようになり、場所も閉店後の彼の店ということになった。
しかし、シルヴァはついに、宴に加わらなかった。女房とは一緒に大酒を食らうもんじゃないと主張して、彼はぼくたちを嬉しがらせた。これもまた、この町で聞くにはあまりに遥かな、夢物語のような台詞だった。
そんな夜が半月以上続いても、なお、彼らは自宅の電話番号はおろか住所さえ教えてくれようとしなかった。
季節が変わる頃、ぼくはヨーロッパへ出掛けた。
ビジネス・クラスで往復九百九十九ドルのチケットが手に入ったのだ。
火曜と木曜は何とか言う財団の手前、必ず教室に顔を出さなければならない経済学者は、ぼくを失業者呼ばわりして悔しがった。
「失業者はいいよ。スケジュールってものがないんだ」
十日の予定が二週間になり、さらに留守のあいだ犬の世話をしていてくれるなら、パリのアパートを使っていいという知人の好意で、それが三週間に延びると、失業者は浮浪者になった。
「浮浪者に就労意欲があるなんて、エンゲルスだって信じちゃいないよ」
ニューヨークに帰ったとき、パークの木々は紅葉をとうに通り越し丸裸になっていた。スキー帽で重武装したビジネスマンが、ちらほら通りに目立ちはじめていた。
帰って最初の夜は雨で、翌日も雨だった。雨があがった三日目の夜遅く、経済学者が、外から電話をしてきた。
「夜食でもどうだ?」
「ジョバンニの所なら出てってもいい」
「ジョバンニかぁ」彼は、気鬱な口調で繰り返した。
「他のものを食うぐらいなら、ここで飯を炊く」
「米がなくなってるんだよ」彼はすまなそうに言った。
「醤油も切れてる」
「大食いめ。――ジョバンニ≠ヘ君の奢りだぞ」
「それはいいんだけど、――」
「何か不味いことでもあるのか」
「いや、別に。――十五分で来られるか」
「二十分」と答えたものの、ぼくは十五分後には、ジョバンニの店のバァカウンターでシェリーを飲んでいた。
シルヴァの姿は見えず、新顔の白人青年がバァに入っていた。レストランの方も同様だった。店は信じられないほど混んでいた。ぼくはウェイティング・リストに名前を書かされた。
「繁盛しているじゃないか」
『二十分後』きっかりに現れた経済学者に、ぼくは言った。
彼は、殺し屋に扮した大部屋俳優みたいに、口をきゅっと窄め、顔を歪めてみせた。
「ジョバンニに会ったか?」
「いや。――厨房だろう」
「だといいがな」
「どうかしたのか」
「今に判るよ」
給仕は三人に増えていた。客も顔ぶれがすっかり変っていた。落ち着いて眺め渡すと、照明にもインテリアにも変わりがないのに、どこかしら薄暗くなったような印象があった。
やがて、見るからにイタリア風の腰付きの(頑丈なくせに動くと柳腰に見えるという、あれだ。)青年が、私の名を呼んだ。尻ポケットに鼈甲の櫛を入れていた。近寄ると、耳の後ろから女もののオー・デ・コロンが匂った。
給仕が置いて行ったメニュウには、ピザが加わっていた。それも六種類、シシリアンとかミラネーズとか立派な名前のついた写真が、メニュウに貼り込まれていた。
ぼくが目を上げると、経済学者が下唇を二重にして頷いてみせた。
スパゲティが運ばれてくるまで、彼は何も言わなかった。言う必要もなかったのだろう。
皿が卓子に置かれたとたん、ぼくの顔を見て苦笑した。ぼくはボローニャ風ソースを注文したのだが、そこにあるのは『チリ』みたいな色のソースで肉ダンゴをあえた、――何のことはない、スパゲッチ・ミートボールだった。しかも、そのミートボールたるやテニス・ボールと見紛がうほどの大きさだ。
「何てことだ」と、ぼくは呻った。
「まあ、食べてみろよ」
それは『まあ、食べて』みないでも感じとれた。ソースの下で、スパゲティは完全にくたばっていた。十五ラウンド、腹にパンチを食らいつづけて、やっと立っているボクサーのようなものだった。汗だらけで腰に力なく、頭はふにゃふにゃなのだ。口に運んだのは、ただそのことを確認するためにだけだった。
「ジョバンニは追い払われたのか」
「まだ、いるよ。ここは彼の店だ」
「忙しいもんでコックを雇ったな」
「さあな。とにかくよく働いてるよ。家も遠くなったらしいしな」
「招かれたのか。どこに住んでた?」それは、常々ぼくたちの話の種だった。
「いや、大学の近くで見掛けただけさ。家財道具を一式、リース屋のモーター・ホームに積み込んで、マンハッタンのずっと北の方にすっ飛んで行ったよ」
彼は、ふうと息を吐き出すと、給仕を呼び、次に運んで来る仔牛のカツは、決してトマト・ソースに泛すんじゃないぞ、ソースなんか一滴でもかかってたら俺たちは帰るぞと、ほぼ脅すように注文した。
レモンの輪切りを添えてくれ、それに別の器に澄しバターを入れて来い、と。
「こうすりゃ、前と同じさ」
たしかに、前と同じだった。
「デザートはよしておこう」と、彼は食後に言った。
「甘いぞ。べた甘だ。黒人好みの甘さだ」
「どうしちゃったんだよ」
「シルヴァは何も変っちゃいないって言ってたよ。ジョバンニにはまだ訊いてない。忙しくて声を掛けるのが気の毒なくらいさ。君が帰るのを待ってたんだよ」
郊外人士然とした身形の男女が席を立った。次に帰ったのも、ツウィードにネクタイとカシミアにタイト・スカートの男女だった。以前、そういえばそんな人種はここで見かけたことがなかった。
もう一組客が帰ると、シルヴァがバァカウンターの中に現れ、いやにもの馴れた調子で「ハーイ」と、声をたてず、口の形だけでぼくたちに挨拶した。
その口は真珠色の口紅でてらてら光っていた。
「ジョバンニはいるかい」
「いてもいなくても同じよ」
肩を竦め、目をそらせた。それが、あまり素っ気なく冷え冷えしていたので、ぼくたちはちょっと怯んだ。
彼女はそれでも奥へ声をかけた。イタリア語はさっぱりだが、何はともあれ女と男のことだ、その声の調子がどんなものか、判らぬはずはなかった。
ジョバンニはすぐに出て来た。ぼくたちの卓子、きっかり三フィート手前で、いきなり体の力を抜き、笑いかけた。
「いったい、どうしたんだ」
「私?――元気。あなた、元気?」
「どうしたってのはスパゲティのことだよ。何はともあれ、スパゲティだ」
彼はぱっと飛び退き、背中に鋼を呑み込んだ。
「仔牛頼んだの、君たちか。レモンだけ、ソースなし」
「ああ、そうだよ」
「待ってくれ。十五分、待ってくれ」
彼は私たちの前にグラッパとグラスを置き、厨房へ戻った。皿が出て来るまでに、グラッパが各々、二ショット空いた。彼が私たちにサーヴしたのは、まさに、最初の夜のスパゲティだった。もう満腹だったのに、何なくそれはぼくたちの腹に収った。
「他にコックを雇ったのかい?」ぼくは訊ねた。
ほっとした顔で、空の皿を見つめていたジョバンニがあわてて首を横に振った。
「お客、増えた。沢山、増えた」彼は言った。
「ニューヨーク・マガジン、この店紹介した。ヴィレッジ・ボイスも、この店のせた。同じ記事。とても旨い。この町一番。ただ、ピザがない。とても不親切だと書いた。ソースちょびっと。肉もちょびっと」
「気にするなよ、アメ公は、――」
「いや」彼は、ぼくの言葉を遮った。
「それ、どうでもいい。どうでもよくないの、スパゲティ。この店のスパゲティ、生茹で。芯がある。固い。歯を折るかもしれない」
「そう書かれたのか?」
彼は弱々しく頷いた。
「生茹で!――驚いたね」友人が叫んだ。
「今の今まで、美味いものを知らないだけだと思っていたよ。アングロサクソンって、味覚の基準がそもそも違うんだなあ」
「スパゲティ・アメリカーナにする。客は、とても増えたよ」
ジョバンニは情け無い顔で笑った。
「来たら、声をかける。私を呼ぶ。ちゃんとしたスパゲティ、必ず食べさせる」
「これからは、そうするよ」ぼくは言った。
「君はナポリの人かい?」経済学者が尋ねた。
「私シチリア人。シルヴァと二人、追い出されたシチリア人」
「追い出された?」
「ああ。組が違う。私の組と彼女の組、三百年、仲が悪い。彼女はニューヨークが好きだ、私は彼女が好きだ」
「君は組の幹部だったのかい?」
「私の父親がね」
「相当な家柄なんだろうな」友人は、誘うように尋ねた。
彼はまた頷いた。
「コックが、家に三人いた」大きな息を吐き出した。
「なるほどね」
「何がなるほどなんだ」と、日本語でぼく。
「シチリアのお館様の悴さ。組関係なんだよ」
「組って、――」
マフィアの? と訊きかけて、ぼくは言葉を呑み込んだ。『マフィア』では、場所を問わずに通じてしまう。
「ああ、君の推測のとおりさ。親分《カポ》って呼ばれる連中だ。まさに、口に綿をつめたマーロン・ブランドさ」
ジョバンニは、今しがた席を立った客を送って、店先へ出ていったところだった。
ぼくは、それでも卓子に身を乗り出し、声をひそめた。
「そんな奴が、駆け落ちして、何でニューヨークへ逃げて来るんだ。親父の仲間がうようよしているだろうに」
「そうでもないんだよ。大戦後は、ルーツが途切れてるんだ。シチリア本島は進化の袋小路さ。日本の野球とアメリカの野球の違いを思やあいい」
「だったら、助っ人外人を雇う手だってあるぞ」
「だから、ああして暮らしているんだろう」
ぼくは溜め息をついた。胃の中から這い上がってきたオリーヴ・オイルの香りが、舌の根に苦かった。
ジョバンニが、ラベルの貼っていない赤ワインとグラスを三つ持って戻ってきた。
等分にワインを注ぎ分けると、入念に匂いを嗅ぎ、私達に勧めた。
「私の家のワイン」ジョバンニが言った。
「私家銘柄を持ってるのか」
「お祖父さん、畑を持っている。美味いか?」
「うん。イタリアのワインを見直したよ」
「イタリア、違う。シチリアのワインだ」グラスを翳し、胸を張った。
「彼らはすごい食い道楽なんだ」経済学者が日本語で言った。
「もちろん、一部のマーロン・ブランドだけだがね。考え方が違うんだよ」
「スパゲティに関して?」
「スパゲティでも何でもさ。味覚に限らず、ありとあらゆるものの値打ちを自分で決められる身分なんだよ」そこで、ジョバンニに顔を上げ、
「|誇り高い人々《ウオミーニ・リスペツターテイ》、そう言うんだろう」
「そう」ジョバンニは、また胸を張った。
「そう。私は先祖の誇り傷つけない」
彼は、目であたりを窺い、小声でつけ足した。「でも、シルヴァの親爺、パン屋の職人」
「だから?」
「いや、だから、とてもしつこい。怒っている。――私のお祖父さん、死んだお祖母さんの花嫁衣装くれた。このワインも、お祝いに送ってきた。でも、シルヴァの親爺、自分の誇り、自分の手の中にない。私を許すと、何もなくなる。私たちをずっと探す」
彼はワイングラスに俯いて、ゆっくり頭を揺すった。「私は友達、家に呼べないのが一番辛い」
ぼくたちは面食らって、返す言葉もなく、ただ黙ってワインを飲んだ。
「私は腰抜けのスパゲティ作る。でも、先祖は傷つけない。彼女も困らせない」
「大変だね」
「少しも大変でない。家族、裏切らない。友達、裏切らない。他の奴らは別のことだ。別の食事だ。――今度店に来る、必ず私に声を掛けてくれ」
「どうだい。久しぶりに飲もうじゃないか」
「待つ? 私、仕事が沢山ある。伝票、集計、皿洗い。待ってくれるか」
「もちろんだよ」
ジョバンニが行ってしまうと、シルヴァがグラッパと甘いシェリーを持ってカウンターから出て来た。思えば、カウンターの外で、彼女を見るのはこれがはじめてだった。
私たちに酒を注ぎ、客がもう一人もおらず、三人の店員のうち、二人が帰ったことを確かめると、席に座った。
「あの人に、あんまり飲ませないでね」と、彼女は言った。甘い声だが調子は高かった。歌うような抑揚で、クラブやディスコでならかなり競争力のある英語だった。
ぼくたちはど肝を抜かれ、ただ頷くばかりだった。
わずかひと月ほどで、彼女がすっかりニューヨーク風のイタリアン・ワイフになっていたことにではない。カウンターに隠れていた、彼女の半分にだ。
言い直さなければならない。彼女は、ヘソから上だけ、大変美しい女だったと。その下には、どんな中華鍋より大きな尻があり、力強い頑丈な足がくるぶしまでずっとつながっていた。
シルヴァは自信に満ちあふれた仕種でスカートの裾を摘み、その足をマディスン街のレディみたいに組み直し、ぼくたちに微笑んだ。
「代りに、私がお相手するから。――ね、いいでしょ」
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スズキさんの生活と意見
スズキさんの朝は、たとえようもなく豊かだ。
朝食には味噌汁とベーコン・エッグ、それに御飯かパンがつく。御飯かパンか、近頃その決定権を七歳の悴に奪われそうなのが、唯一、彼の心に疵だ。
しかし、その悴が何と言おうと、時に、学生時代から共に並んで生きて来た彼の妻が、怪しげな今朝の空模様とか、来日中のロイヤル・ファミリーの昨夜の笑顔を理由にTVをつけようとしても、それだけは頑として許さない。NHKのニュースぐらい、いいではないかという彼女を、スズキさんは事大主義者め、と決めつける。たとえ何であろうとTVはTVだ。TVを見ながら食事をサーヴする妻、朝刊を読みながら食事を摂る父を、彼は心の底から憎んでいる。自分の両親はもちろん、親族、友人、果ては隣近所まで、もしそんな朝食風景が展開するならば、できることなら土足でその場へ上がりこみ、実力を以て阻止するも吝かではない!――ま、それくらいの気構えなのだ。
「でも、ぼく、今日ばっかりはプロ野球ニュースの再放送が見たかったな」と、息子が言った。
まだ食卓には、箸と漬けものしか並んでいない。
スズキさんはすでに顔を洗い、髭を剃り、木綿の部屋着に着換えて食堂からL字形になって続くリヴィング・ルームで、会社へ持って行く書類を整理していた。
「御飯がはじまる前なら、いいんじゃないかなぁ」
「朝起きて、何も食べないうちにTVを点けるなんて、体によくないよ」彼は目を上げずに答えた。
「どっちが勝ったか知らないんだよ、ぼく」
「大丈夫、巨人は負けたよ」
スズキさんは朗らかな声で言った。目のなかに、痛々しいほどの喜びがのぞけた。彼は一九八〇年十月二十一日、つまりあの『暴虐の10・21』以来、読売巨人軍を布団の中に侵入した蛇の百倍は、――いやいや千倍、万倍も嫌っていた。
読売新聞を日経に代え、TVセットから四チャンネルのチューニングをずらした。新聞は、妻のたっての要望でその後、朝日になってしまったが、彼の家のTV受信機は今も四チャンネルでNHK放送大学をうつし出す。
「どうしたんだ」
湿っぽい沈黙が伝わって来て、スズキさんは息子に目を上げた。
「パパ、怒るでしょ」
「怒りゃあしないよ」
「ぼくね、――」また口ごもった。
スズキさんは書類をブリーフ・ケースに収め、食卓へ歩いた。
「どうしたんだい」
「昨日はジャイアンツに勝って欲しかったんだよ」
「パパが何度も教えただろう。ジャイアンツはアンフェアな球団なんだ。スポーツで、――いや、おまえ、どこの誰だろうと、アンフェアな者にはそれなりの制裁が与えられなくちゃならないんだ。礼儀のない者とアンフェアな者は、必ず敗れるんだよ」
「だけど、中畑が、――」息子は小学校の制服の詰襟に首をうずめ、悲しそうな上目使いで彼を見た。
「中畑が?」スズキさんも上目使いになった。上体を丸め、卓上に顎を近づけ、その視線で息子をのぞきこんだ。額にへの字の皺が、思いっきり集った。
中畑清は、このところ九試合、スタメンからはずされていた。スズキさんの、父として社会人として大人としての意見によれば、それは正しい人がアンフェアな集団にとどまらざるを得ない苦衷のあらわれであり、長嶋茂雄を追い出した陰謀団とその走狗である現監督のリンチ行為でもあった。
息子は、彼の言うことをいつも正しく認識していた。
「六対三で満塁だったんだよ」彼は言った。
「ツー・アウトで中畑がピッチャーの代打に立ったんだ。一発出れば逆転でしょう。ワン・ツーまでは見てたんだけどなぁ」
「そこで放送が終っちゃったのか?」
「放送は終ってないけどね」
息子は誰かに気兼ねするみたいに言葉を切り、声を小さくした。「八時半になったから、――」
「自分でTVを切ったのよ。偉いでしょう」
妻が明るい声で、歌うように、台所から割って入った。
スズキさんは空気を大きく呑みこんだ。それは生あたたかで、二日酔いのニコチンみたいに喉にねばついた。
「そんな場合は、――」と言いかけて、結局何も言わなかった。息子を抱き寄せてやりたかったが、台所の明るい声がそれを中止させた。
「さぁ、二人とも御飯ですよ」
「偉かったね」と彼は言った。「でも、そんな場合は」と出かかる言葉を、ぽっちゃり出っぱりはじめた腹に圧殺した。「そんな場合、ことに中畑なら」いや、しかし、――
彼は朝刊をとりあげ、すばやく野球欄をひろげた。試合経過に目を通し、それをマガジン・ラックへ戻し、息子に向き直った。
トーストの甘く香ばしい匂いが、ふっとやって来た。
「いただきます」と、息子が大きな声で言った。
「召し上がれ」妻が応じ、スズキさんは何処かに取り残された。
「そうか、中畑か」彼は独りごちた。何のために何を言おうとしているのか自分でも判らなかった。判らないまま、味噌汁の椀に手を伸ばした。今朝の味噌汁は、大根だった。
「次の日曜は」と口が声を出し、はっとしてそれを止めた。その口を、味噌汁に運んだ。
日曜の後楽園の殺人的な人ごみを思ったのだ。局地的な人ごみを、やたらとつくるのは後進国の証しだというのが、かねがね彼をして憤らせるこの町の、この国の、実情だったではないか。その人ごみへ、さらに三人の人間が、それも人生を十二分にパースペクティヴに捉えている家族が出かけて行く謂れがどこにある。そこで、――
「野球でもしようか」彼は言った。
「本当!!」息子が歓声をあげた。
「ほうれん草も食べなさい」妻がパン皿の横に緑色のペーストを押してよこした。
「ぼく、おひたしの方がいいんだよ。ゴマで和えた奴」
「パンって言ったから作ったのよ」
「別にいいじゃないか」とスズキさん。「ペーストでなくてもさ」
「味があわないわ」
「合わないと言えば、味噌汁だってそうじゃないか」
「これは歴史的な妥協よ。サダト的な、ね」
「何を言ってるんだ」
「味噌汁とパンよ。あなたとお坊っちゃまのイェルサレムでしょう」
「だから何がサダト的なんだい。キリスト教徒が妥協だなんてよく言うよ」
「あら、俗世の政治については、バチカンも仏教に学ぶところが多いと思うわ」
「ママは、あれなんだよ。ほら、南米の戦争しちゃう神父さん」
「戦争なんかしないわよ」
「剣か貢かコーランか、だね」
「ねぇ、パパ、野球のことなんだけどさ」
「ドライヴでもいいな」スズキさんは、ちょっと慌てて息子に向き直った。
「天気がよかったら屋根をいっぱいに開けて走るんだよ。まるで二頭立ての馬車で走るみたいだぞ。何てったって二馬力だからな」
「野球ってプロ野球のことなんだけどさ」
「スポーツ・ニュースを見るくらいなら、――あら」言って妻は時計を振りあおいだ。
「もう終っちゃうわ。ニュースなら普通のニュースがいいわ」
「何がいいんだ」
スズキさんは、目玉焼きの黄身を、器用に箸ですくい取り、一滴もこぼさず口に放り込んだ。「TVをつけようなんて言ってないよ」
「パパは、最後まで見てたの?」息子が、ジャムの瓶に手を伸ばしながら訊いた。
「何を?」
「気にならないの? 放射能。雨なのよ」
「うわッ。雨なの」息子が叫んだ。
「広島も降ってるのかな」
「津田に変ったとたん、ピンチ・ヒッターだなんてさ。考えてもごらん、中畑は本調子じゃない。ちょっと上向いて来たとたん、津田にぶつけて、――また潰そうってのが王の魂胆だ」
「ロシアの放射能」と妻が言った。
「ねぇ、気にならないの?」
「子供の前で不正確なことを言っちゃいけない。あそこはロシアじゃないでしょう」
「じゃ、何、ソヴィエト社会主義共和国連邦?」またおかしそうに、歌うように彼女は言った。
「雨だと、代りに『フラッシュマン・スペシャル』をやるんだけどな」
「食事中に席を立っちゃいけないよ」
「昨日、北陸で放射能が降ったのよ。ウクライナ=ソヴィエト社会主義連邦共和国の原発事故を御存知ないの?」
「食事中の話題じゃない」
「野球だってそうよ。野球と自動車。それが会話のある食卓っていうなら、うちの父と同じじゃない」
スズキさんの顔がくしゃっと歪んだ。
「ねぇ、中畑がどうしたって?」と息子が訊ねたが、彼の耳には届かなかった。目の下が赧くなり、アメリカ人が肩をすくめるみたいに眉毛が動いた。
「中畑は打てなかったの、パパ?」
スズキさんの口は凍っていた。
「放射能は降ったりしないもんだ」凍った口が、やっと言った。
「いやに肩を持つのね」
「降るのは放射性物質を含んだ塵だよ」
「大変だわ」
「パパはサ会主義者だったんだよね」
「それがどうしたんだい?」
「だからソ連が好きでしょ」
「誰がそう言ったの?」
「あたしじゃありませんよ」と、素早く妻が言った。
「先生だよ。パパがサ会主義だって教えたげたら、そう言ってたよ。だから巨人軍が嫌いなんでしょう」
「ね、御飯を急いで食べて、ニュースを見せてちょうだい」
「新聞みればいいじゃない、ママ」
「一番新しいニュースが知りたいのよ。放射|能《ヽ》物質を含んだ塵のニュース」
「嫌いなんじゃないよ」
スズキさんは、そこだけきれいに残したパンの耳を四つに折り、ジャムをつけて食べ始めた。
「長嶋選手がサ会主義は野球の敵だって言ったんでしょう」
「それを言うなら組合主義は人類の敵なんだ。――日教組め!」
「ハゲるのよ。死なないまでもね」
「嫌いじゃないんだよ。悪い奴らに乗っとられちゃったんだ。だからジャイアンツは、――」
スズキさんの目が、夜道の懐中電灯みたいにぱっと見開かれた。妻に勢い込んで向き直った。
「ぼくはハゲないよ」
「あら、放射能にあたると女でもハゲるのよ」
「親父のはハゲじゃないよ。下がっているだけですよ」
「お祖父さまは、みごとなボールディじゃない。目黒の叔父さまもよ。若いころからだって叔母さまからうかがったわ」
「ぼくは違うよ」
スズキさんは瓦を割ろうとする空手使いみたいに、目の前の空気を手刀で何度も切り裂いた。「違いますよ!」
「お義父様の話よ」
「パパはハゲないよ」
「ママだってそんなことは言ってないのよ」
「言ってないんだよ」
反復し、スズキさんは弱々しく頷いた。イヤイヤをしているようにも見えた。
「雨水をバケツ一杯ずつ、毎日、二ヶ月間飲みつづけないと人体には影響がないんだよ。判ったかい?」と、妻に言い、
「と、――そういうことを聞きたかったんだよ。ママは」
息子に言った。
「ホーシャノーって何?」
スズキさんは聞こえないふりをした。疲労が肩まで迫り上がって来た。
「パパにお訊きなさい」
「次の日曜は野球をしような」
「七時に起きなくちゃだめだよ」
「七時?」彼はびっくりして目をむいた。
「放射能のことはもういいの?」
「何でそんなに早く起きなくちゃいけないんだい」あわてて訊いた。
「モ試があるんだよ」にこにこ笑いながら息子が応えた。
「ああそうか。――えっ、なな何だって」
「塾の模擬試験があるの」
「塾って、君はまだ二年生じゃないか!!」
尋ねたものの、顔だけは完全に妻に向かっていた。
「行きたいって、自分で言うんですもの」彼女は、冷やかに眼を細め、その視線をゆっくり息子の方へ動かしてみせた。もちろん、それが何の合図か、スズキさんに判らないわけはなかった。
「何故、ぼくに言わなかったんだ」
「すごく面白いんだもん」
「だけどね、――」
「水泳教室で五級をとったら、好きなところへ行かせてあげるって約束したのよ。続くかどうか判らないから、――正会員になる気があるようだったら、あなたに相談するのはそれからでいいでしょ」
「塾なんて、君、この子はまだ、――」
「塾ってね、パパ、学校よりずっと楽しいんだよ」
「た、楽しい?」
「本当なんだよ」
「ああいう所の方が、学校の先生方より意欲があるのよ。志が高いっていうのかな」
妻が大きく頷いた。
スズキさんは、すっかり混乱して、そっと漬物に箸をのばした。
「誰が、――」
「だから、塾の先生がよ」
「すっごい面白いこと、何でも教えてくれるんだ」
「学校の先生は教えてくれないのかい?」
「うん。それはまだやってないからとか、教科書に載ってないとかね。質問しても、そんなふうなんだ」
「うーん。そいつは大問題だな」
「で、しょう?」と、妻が間髪入れず、もう一度頷いた。
「うーん」スズキさんはまた唸った。
「さあ、さあ」妻は、ここぞとばかり、時計を見上げて叫び声を上げた。
「早くいかないと大変よ。きっと、環七へ出る通り、また浸水しちゃってるから」
「冠水っていうんだよ。そういう場合は」スズキさんは応じた。それでも、体はすでに動き出していた。
「あら冠水っていうのは畑のことよ」
「道路だって言うよ」
「言わないわよ」
「自動車がなかったころの言葉じゃないのかなぁ」息子がぽつんと呟いた。
「だから、――」
「自動車がないころでも道路はあったわよ」
「だから?」スズキさんは息子を促した。
「だから、自動車に使ってもいい言葉なんじゃないのかな」
「自動車がない頃でも道路はあったわよ」
「いや、正しいよ。そうだね。パパもそのとおりだと思うよ。正しいよ」
「どうでもいいけど、早く出た方がいいわよ」
そのとき、天井の方でバラバラっと、雨が暴れた。
「嵐みたいだね」
「ああ」
「大丈夫かな、パパのシトロゥエンは」
「コーヒーをいかが」
スズキさんはマグ・カップを差し出し、味噌汁をあわてて空にした。
「でも自動車も馬車も、――人間が車輪を発明するずっと前から道路はあったのよ、覚えておきなさいね」
「畑を発明する前から?」
「ええ、そうよ」
「もういいよ」スズキさんは、カップを引いた。
妻が手にするポットからコーヒーが卓上に滴った。
「あら、あら」
「じゃ、やっぱりいいんだよ。カンスイって使ってもいいんじゃないかな」
「そうだよ。それが合理ってもんだ」
「ゴーリって何?」
「放射能のことはもういいの?」妻が冷たく言った。
「それは、今夜ゆっくり話してあげようね」
スズキさんはコーヒーを二口飲み、立ち上がった。妻の鋭い視線にはっとして坐り直し、
「ごちそうさま」と大きな声で言った。
「学校まで送ってあげるよ」
「本当!!――本当にいいの?」
「今日は特別だよ」
「特別な日ばかりね」卓子を拭き、テーブル・クロスを丸めた妻は、彼ら二人にもう背を向けていた。風呂場へ歩きながら、陽光が微笑むように、歌うように言った。
「例外ばかり設けるのね。そのために原則があるのね。日本人の特性ね。うちの父もそうだったわ」
言いながら小さく舌を出したが、食卓の二人からはもちろん見えなかった。
「ママ、怒ってるわけじゃないと思うよ」
息子がスズキさんに小声で囁いた。
彼はその頭をゆっくり不器用に撫でた。息子が自分の手の中で、自慢気に笑うのが判った。
「ぼく、歩いていっていいんだよ」
「かまわないさ。雨は不可抗力だ。車で送られたり、お家に車があるのがあたりまえだって、君が思うようにならなけりゃそれでいいんだ」
「うん、そうだね」
「パパは思いあがった人間が大嫌いなんだ。そしてこの国の人間は、このところみんな大いに思いあがってるんだ。君だけにはね、――」
スズキさんはぐっと言葉を飲みこんで、息子の前に腰を落とした。両肩に手を置き、力を籠めた。「君だけにはそうなってほしくないんだ。『ありがとう』と『ごめんなさい』ぐらいはちゃんと言える人間になってほしいんだ」
「何で思い上がってるの」
「神様を捨てちゃったからよ」
妻が言い、皿を拭きながら食堂を横切って行った。行った先で、洗濯機の音が聞こえだした。
「ママは、だって教会に行ってるじゃない」
息子が洗濯機の音に向かって叫んだ。
「捨てちゃったってどういうことなんだろう」
「アメリカ人とお金のことしか考えない連中にね、昔、よってたかって神様が殺されちゃったんだよ」
「あらあら、大変」
皿を拭きながら、また妻が背後を横切った。洗濯機がおそろしい悲鳴を上げて身悶えしはじめた。
「神様を殺すのはね、本当は正しい人間がすべきことだったんだ。神様を殺して、はじめて人間は人間になるんだよ」
「でも人を殺すなんていけないことだよ」
「それは人だからさ。人の命は大切だからさ、でも神様とは違うだろう」
「教会ではもっと違うこと言ってたなぁ」
「それはそうさ。教会なんか麻薬と同じだ」
スズキさんは、妻に聞こえないよう、思いきり声をひそめた。
「麻薬って何?」
「チョコレートと同じさ。おいしいけど、おいしいだけなんだ。栄養にもならないし、食べすぎると鼻血が出てお腹が痛くなっちゃうんだ」
「チョコレートだって栄養はあるよ」
「ないんだよ。パパの言うことをお聞きなさい!」思わず呶鳴った。
息子がぶるんと慄え、身をちぢこめた。ぎゅっと目を瞑った。
「呶鳴って悪かったね」彼は言い、立ち上がった。
「ごめんなさい?」息子が訊ねた。
「ああ、そうだ。悪かったよ」
「歩いてったほうがいいかな」
「そうしたいのか?」
「みんな自動車で来るんだけどね」
「みんながそうするからそうしたいのか?」
スズキさんの声は鋭かった。
「だから、それが、――」呶鳴りかけて、言いとどまった。
妻がフル・ヴォリュームでTVを点けたのだ。
窓越しに思うより、ずっと非道い降りだった。雨は幾束もの水柱のようで、砂利敷きの駐車スペースと家の前の路地との間にちょっとした溝を穿っていた。屋根で恐しい音がしていた。傘を開くと、その音がすぐ頭上に飛び移った。
「パパが傘を持っているから、鍵を開けなさい」
胸を使って叫ばないと、聞こえなかった。路面は雨足に真白く煙って大通りまで見渡すこともできなかった。
ドアを開き、息子を乗せ、彼は運転席へ回った。
玄関先に顔を出した妻が何か叫んだ。
スズキさんはシトロゥエン2CVの窓を押し上げた。硝子面にしがみついていた雨水が、ザッと音をたてて流れこみ、彼の太腿を思いきり濡らした。だが、それでも彼女の声はよく聞きとれなかった。2CVのキャンバスの天蓋で、雨がまるで祭り太鼓のようにはしゃいでいたのだ。
「聞こえないよ」彼は叫んだ。
「何を言ってるんだよ」
妻の顔がひっこみ、傘を差して現れた。それでも軒先からこっちへは出てこようとしなかった。
「こんな日は、さすがにゴルフを買っときゃよかったって思うでしょう」
「何言ってるんだ。そんなこと言うために出て来たのか」
「違うわよ。環七へ出る道、やっぱり浸水しちゃってるって」
「カンスイだよ、ママ」助手席で声が上がった。
「ゴルフなら通れたかもね――。雨にあたっちゃ駄目よ。死の灰が混ってるんだから」
スズキさんは黙って窓硝子を降ろした。
すると、雨の音が急に激しくなった。見上げた天蓋はところどころへこみ、ぶるぶる慄えていた。
「こんな日こそだ」彼は言った。
「ほら背が高い車の方が見晴しがいいんだよ。な、そうは思わないか」
「よくないなんて、ぼく一度も言ったことないよ」
「そうだったっけ」
「環七で止っちゃったときだって悪いなんて言ってないよ。シトロゥエンだからしょうがないってママに言ってあげたんだよ」
「なあんだ、そうか」スズキさんは笑い声で応じた。
「そうだったのか」
彼はエンジンを回した。「ほら、――」
と言ったが、言うほどすぐにはかからなかった。自分を励すために言ったようなものだった。
「な、すぐかかったろう」
「うん」
「暑すぎたり寒すぎたりしなきゃ平気なんだ。パリはカラッとしてるからね。日本みたいにじめじめしてないんだよ。空気も人もね」
「ふう。パパって何でもぼくより沢山知ってるんだね」
「そりゃそうだ」
「お夕食のとき、ホーシャノーのことも教えてね」
「もちろんさ」スズキさんは雨より陽気に大きく笑った。
ハンドブレーキを切り、一速へ入れ、クラッチをつないだ。重いハンドルをいっぱいに回すと、ガツンと揺れて、2CVは半身を路地へ乗り出した。
前輪が滑った。スズキさんは、靴の踵、丸ごと呑みこんだ、砂利敷きの駐車スペースのことを思い出した。下の泥が、まるで沼のようになっていた。足許に目を転じた。たしかに沼地を歩いて来たような有様だった。
彼は全身に力をこめ、平静を装った。
「ぼく、世界ぢゅうで二つめにこの車好きだよ」
「ひとつめは何だい」スズキさんの声は舌で上滑りしたが、さいわい助手席には気取られずに済んだ。
アクセルを踏んだ。前輪が水音をたて、空転した。砂利が飛び散り、家の外壁を叩いた。
「ひとつめは何なんだ」
「ソアラ」と、息子が言った。
「ソアラ!」父親は悲鳴をあげた。
「ね、パパは言ったろ。思いあがった人間になっちゃいけないって。あんな車はね、後進国の思いあがりなんだよ。この国の民主主義と同じなんだよ。寝るときも食べるときも、本を読むときも、――ああ、いや、そんな人間は本だって読まないんだ。自動車のことで頭がいっぱいで、ちっぽけなウサギ小屋に住んでカップ・ラーメンしか食べないのに自動車を買っちゃうような奴が夢に見るんだ。パパは君に、そんな人間にだけはなってほしくないんだよ、だから、――」
「でも、もうじき母の日じゃない」
「だから、どうしたんだ」彼はアクセルを諦めた。前輪は完全に地面から見離されていた。
「ママが、一緒にこれでお買物行くたび、腰が痛いって言うんだよ。楽ちんな車が欲しいんだって、年をとると腰が痛いんだってさ。楽ちんな車が好きになるんだって」
スズキさんは黙ってドアを開けた。雨の中へ降り、両肩をびしょ濡れにさせながら傘をさした。
裏木戸の下に煉瓦があった。厚手のベニヤ板もみつかった。それを前輪にかませた。しゃがんだとき、尻を雨に直撃され、瞬間レイン・コートを想った。玄関へ歩こうとして思いとどまった。今さらレイン・コートを着たのでは、馬鹿の上塗りだ。余計にじめじめしてたまらない。
車に乗るため傘を閉じようとして、傘伝いの雨水が衿足から背中へ流れこんだ。またレイン・コートを想った。今度こそ遅すぎた。
ベニヤ板を派手に弾き飛ばし、2CVはやっと路地へ出た。自転車の空気入れみたいなシフト・レヴァーに手を伸し、二速に入れようとして、急ブレーキを踏んだ。
行手をトヨタ・マークUが塞いでいた。四軒、大通り寄りに住む土建屋の車だ。
クラクションを鳴らそうとして、やめた。
息子がクラクションのレヴァーの上で凍った彼の手を不思議そうに見つめていた。
「近くの家に失礼だからね。クラクションをやたら鳴らすなんて卑しい人間なんだよ」
「そうだね」
「ちゃんとお願いするんだよ、こういうときはね」
「そうだね」
息子は当惑したように笑い返した。
スズキさんはリヴァースで家の前へ引き返した。玄関の戸は鍵がかかっていた。彼は大きく続けざまにそこをノックした。ノックというより、サンドバッグにやつ当りしているボクサーという風情だった。
「どちら様でしょう」妻の声がかすかに聞こえた。
「どちら様じゃありませんよ。ぼくですよ」
「あらやだ。どうなすったの」
「小林さんちの車が、また不法駐車してんだよ」
ドアが開いた。妻は眉をひそめた。スズキさんはすでにずぶ濡れだった。
「会社をもう四往復したみたいね」
「電話してどかすように言ってくれよ」
「まだお出かけじゃないのかしら」
「知るもんか」
「いつも、あなたより遅く帰って来て早くに出て行かれるのよ」
「無神経な無礼者だよ。都会の住宅地に田舎の畔道の生活ルールを持ちこむんだ。冗談じゃないですよ」スズキさんは静かに言った。彼には怒りにかられると、言葉遣いが丁寧になる癖があった。
「でも、そうは言うけどね、――早く帰ってらしたときなんか、わざと大通りに停めてて、あなたが戻ってから車を動かされるのよ。あれでも気を使ってるのよ」
「気を使うくらいなら駐車場をつくりゃいいじゃありませんか」
「うちのが駐車場だって言うの、庭に停めてるだけじゃない」
「それにしても、そうすりゃいい」
「そんなこと言ったって、あなた、あのお宅、敷地いっぱいに新築なすったんですもの」
「庭がないような家に住むならマンションに住めばいいんですよ。それが近代国家の都会の暮しでしょう」
「ここは近代国家じゃございませんことよ。東京も都会ではございませんわ。それが宅の御主人様の御意見ですの。――違った?」
「早く電話してくれよ」
「あらやだ。御自分でなすってよ。自分の意見を世界に主張するために妻の口を使うなって、――あなた、うちの父のことそう言ってらしたじゃない」
「判ったよ。電話番号を教えてくれ」
「無駄よ。御主人、もう行っちゃったと思うわ。環七へ出る道、やっぱり通れないのよ。ものすごい渋滞ですって」
「だったらうちの車はどうなるんだ」
「うちも当然歩いて行くと思ったのよ」
「うちはうちだよ。電話番号は?」
「知らないわ」
彼は口を開いたまま、相手の顔をじっと見つめた。それから静かに頭を振った。
傘を差しかえ、歩き出した。車の脇を抜け、路地へ出た。
「あら、やだ、まだ乗ってるの!!」背後で追って来た妻の声が響いた。
「駄目よ。学校に遅れちゃうじゃない」
「降りることはないぞ」
「何言ってるの」声が彼の方へ向きを変えた。
「あなたもあなたよ。そこの角、曲ればすぐに地下鉄の駅じゃない。乗っちゃえば、会社の真下まで二十七分なのよ」
「でも、ママ。パパはね、――」息子の声が雨にまぎれた。
「何言ってるの!――あなたもよ。学校はすぐこの裏でしょ。走れば一分もかからないのよ」
「降りなくていい!」父親は呶鳴った。
「降りたら無法と非礼を許すことになるんだ」
彼は、路地を歩き出した。胸を張り、雨を額で受けながら歩きつづけた。
「パパ、今、何て言ったの」
彼の背を見送り、助手席で息子が尋ねた。
「文化がないのよ」妻は言った。
「車で暮す文化がないの。パパなら言いそうでしょ」
「それ、パパのこと言ってるんじゃないよね」
妻は返事に困り、溜息でごまかした。旨いことにそれは誰にも聞こえなかった。雨の音があんまり大きすぎたのだ。
この作品は平成四年七月新潮社より刊行された。