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夏のエンジン
矢作俊彦
目 次
白昼のジャンク
皆殺しのベンツ
夏のエンジン
悍馬の前脚
ボーイ・ミーツ・ガール
月影のトヨタ
地図にないモーテル
インディアン日和
冬のモータープール
バンドワゴン
大きなミニと小さな夜
サンダーボルト・ホテル
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白昼のジャンク
広い駐車場の中、そこだけが日陰になっていたせいで、諒《りよう》も礼子も、はじめはそれがいったい何なのか、さっぱり判らなかった。
他のすべてには、夏の日が洪水のようにあふれていたのだ。
ただでさえ遮るものの何もない場所だった。舗装などもちろん、整地さえしていない。砂利敷きをブロックで仕切ったところがあるかと思えば、むき出しの赤土に石灰で線を引いただけのところもある。そのいたる所で雑草が背比べをしている。鉄条網で囲われたただの空き地だ。雨が降れば水たまりがタイヤをすくい、しばらく降らなければ埃で目を開けていられない。
その片隅に、壊れかけた映画の広告板が建っている。手前には錆だらけの巨大なレッカー車が止まっていて、そのふたつを覆うように、トタン囲いの残骸と、伸びるにまかせたカイヅカイブキの茂みがある。
八月第一週の日差しに炙り出され、その日陰は、コールタールの底無し沼のように黒い。
二人が目を細めていると、そこから作業衣姿の男が現れ、こっちへ歩いてくるのが見えた。
「受け取りにハンコをくださいな」
書類綴りを諒に突きだし、男は爺むさい口調で言った。彼には前歯がなく、歯茎は真紫色だった。
「なんの受け取りだって」
諒が聞き返すと、礼子が彼の肘を取り、
「警察から引き取ってきたのよ」と、囁いた。
「ハンコなんか持ってきてないよ」
すると、礼子は妙に改まった態度で、男の方へ向き直った。
「ねえ、サインじゃだめかしら」
「困るんですよ。警察に控えを回さなきゃならないんで。なんといっても、ありゃあお役所だからねえ」
「判ったわ。取ってくるわ。ちょっと待っててね」
彼女は、男にではなく諒にそう言い、都電通りの方へ出て行った。
似たような二階建てのアパートが三棟、ここと通りを隔てていた。克哉が借りていた部屋はその一番手前のアパートにあった。食堂のほかに寝室が二つ、蛇口から直接、湯がでるようなアパートだ。玄関にはインターフォンもついている。
礼子は、勢いよく二階に駆け上がった。
「いい女っぷりだね」と、男が言った。
目はなんの遠慮もなく、彼女を追いかけていた。ミニスカートからすらりと伸びた足ではなく、尻を追っているのだった。
そのことに、彼は何故か軽い怒りを覚えた。
「あんた、警察の関係?」と、尋ねた声に、もし棘があったとしたら、きっとそのせいだったのだろう。
「関係ってなんのこったね?」と、男は訊き返し、身構えた。
「いや、下請けとか、そういう関係」
「銭金のこと考えたら、こんな割にあわないことをしちゃいねえよ」と、男は言い、喉を雷のように鳴らして痰を吐いた。
「いいかい。俺は、お宅の方の弁護士事務所から頼まれて、あれを引き取ってきたんだ。普通はみんな、あんなもん、まっすぐジャンク屋行きよ。それを、何でか知んねえけど、引き取るって、──」
いきなり、口を閉ざした。
すると、真上から蝉の声が降ってきて、諒を打ちのめした。
『あんなもの』というのが、どんなものか、やっと合点がいった。
相手が押し黙ったのは、諒の足が知らぬ間、前へ踏み出していたからだった。手はふたつの拳をつくり、腰より上に構えていた。
鍛鉄の階段を駆け降りてくる足音が聞こえた。
「お待ちどおさま」
礼子が遠くから呼びかけた。蝉がいくらか静かになった。
彼女は小走りに寄ってくると、男の手から書類をひったくるように受け取り、判を押した。
男は、書類綴りにサンドウィッチされていたカーボン紙で指先を汚しながら写しを一枚選び、礼子に手渡した。
「あれ、ああ見えて使えるんですか?」
と、男は尋ね、返事も待たずレッカー車に歩きだした。
「何に使うんだろうね、本当に」と、慨嘆すると、彼は運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
レッカー車は、日陰と土地の窪みのせいで、あなぐらに半分落ちているみたいな格好で止まっていた。薄紫の煙を大量に吐き出し、車はあなぐらから後ろ向きに這いだした。
あなぐらに、すると光が一筋いって、広告板に色あせた映画スターの剥き出しの背中を浮かび上がらせた。牡丹と唐獅子の刺青の上に雪が舞っていた。それが、逆に暑苦しく、諒は額の汗を手の甲で拭った。
レッカー車はジーゼルエンジンをうんうん唸らせ、都電通りに出ていった。
礼子が書類の控えを丸めて棄てた。
ふたりは並んで、真っ黒な日陰の窪地に目を細めたが、結局は何も見えなかった。太陽が額のすぐ上にあったのだ。それは目がくらむほど光り輝いていた。
レッカー車が止まっていたあたりまで行けば、もちろん見えただろう。しかし、彼らはそれ以上近づこうとせず、目が馴れるのを辛抱強く待った。
「なんでここへ持ってきたんだよ?」と、諒が訊いた。
「なんでって、他のどこへ持ってくのよ」
「弁護士は、捨てるって言ってたぜ。エンジンまで割れちゃってるって」
「弁護士が、あんたにそんなこと言ったの?」
「弁護士が言ってたって、克哉の兄貴から聞いたんだよ。あれは、だって半分は兄貴のものだったんだからね」
「あら、そうだったの」
意外なほど素っ気なく、礼子は驚いてみせた。
「ちっとも知らなかったわ。だって、ずっと克哉が使ってたじゃないの」
「兄貴を乗せたんだよ。克哉のやりそうなことさ。奴の兄貴は、親の覚えめでたくてね。知ってるだろう慶応ストレートだったの。それで、まんまとせしめたんだ。だから半分どころか、名義上はそっくり兄貴のものなんだってさ」
諒は、そこでおそるおそる、ほんの一歩だけ近寄った。
暗がりに、やっと輪郭だけは見て取れた。
思ったよりずっと小さかった。これで全部なのだろうか。間違いなく、全部なのだ。警察が抜かりないことを、彼は痛いほどよく知っていた。現場に残っていたものは、余さず拾い集め、検証し、保存してあったはずだ。
それに、あれからまだ一週間もたっていないのだ。
「水曜だったっけ?」と、諒は振り返って訊いた。
礼子はもうこっちを見ていなかった。振り向こうともしなかった。
「そうよ。水曜。午後の十一時四十一分」と言って、都電通りに歩きだした。
駐車場の入り口を示すために打たれた二本の杭のところまで行くと、何か言おうとして立ち止まった。そこでしばらくぐずぐずしていた。結局、黙ったままアパートの玄関に入っていった。
諒はコットンパンツのポケットに両手を突っ込み、その後を追った。
二階に上がり、外廊下を歩いていくと、克哉の部屋から大きな音が聞こえてきた。
ドアを開けてすぐのキッチンで、礼子が流しに食器を放り投げていた。ヒステリーの発作には見えなかった。壊れない食器を少し乱暴に片づけているみたいだった。
しかし、彼女は食器棚の前に立ち、その中からひとつひとつ選びだしては、流しに投げ込んでいた。投げ込まれた食器は、激しい音をたて、あるものは粉々に砕け、あるものは壊れず跳ね返り、床に転げた。
諒はその脇を素早く通りすぎ、奥の居間までいってクーラーをつけた。アロハシャツの背中が、ひんやり体にまとわりついてくるのをじっと待った。
礼子はもう食器に当たるのをやめていた。肩で息をしていたが、泣いてはいなかった。彼の前で泣くような女ではなかった。
諒は、居間のキャビネットの中に仕込んだ冷蔵庫を開いた。電気はまだきていた。中身もつまっていた。
それは去年のクリスマス、諒と礼子が東京ヒルトン・ホテルの客室から盗み出し、克哉にプレゼントした飲み物専用の冷蔵庫だった。
克哉は、それをとても自慢にしていた。
「三回できるところを二回で我慢して盗み出したってわけだからな」と、彼は言った。
「最高に元手がかかってるよ」
諒はビールを取って窓辺へ行き、そこに腰掛けた。
直線の六車線道路の上で、都電のレールが大きく蛇行していた。オリンピックに間に合わせるため、むりやり道路を倍の広さに拡張したのだ。なぜ直さないかと言えば、いくらもなく、都電が廃止になることが決まっているからだった。
そう言えばいつだったか、都電がなくなることを喜ぶ諒に、克哉はこう言った。
「なけりゃあないで、寂しいと思うぜ」
しかし、都電なんてものは、自動車の敵だ。道の真ん中で戦車のようにふんぞりかえっている。そのくせ車椅子のように不自由な乗り物でしかない。
「それでなくても、東京は車で走って楽しくないのにさ」と、諒は言い返した。
「バカだな」と、克哉は笑った。
「ヘアピンやパイロンがなかったら、アメ公のレースだぜ。あいつらは、競輪場で自動車レースをするからな」
彼らのグループでただひとり、ハワイより東のアメリカに行ったことのある克哉がそう言うのだ、反論のしようはなかった。
「皮肉なもんだよな」と、思わず声が転げ出た。
「何が皮肉なのよ」と、礼子。これも思いがけず聞き返してきた。
「都電のレールなんかにタイヤを取られるなんてさ」
「タイヤを取られたんじゃないわ。ハンドルを取られたのよ」
「同じことだよ。意味は同じなんだ」
礼子はやっとこっちに向き直り、スカートの腰で両手を拭った。いまはじめて気がついたという調子で、足許に散った瀬戸物のかけらを拾いだした。
ひざ上二十センチのスカートを穿いても、彼女の脚にはまだ余裕があった。しゃがみこんでも、前からの視線に不安はなかった。そこを買われて、彼女は六本木のナイトクラブでときどきアルバイトをしていた。一晩、いつもより五センチ短いスカートを穿いて、席から席へと移動するだけで、ダンロップのラジアルが一本買えるほどの金になるのだ。
彼女は、食器の残骸をあらかた片づけおえると、居間に入ってきて、冷蔵庫からビールを出した。
「いったい何が皮肉なのよ」と、彼女は言い、ビールを飲みながら、キャビネットのドアに手をかけ、中の冷蔵庫を見つめつづけた。
「ねえ」と言った。言ったまま黙った。
外にあふれた日差しのせいで、室内は薄暗かった。冷蔵庫の庫内灯が白々と彼女を照らし上げていた。
「ねえ、何だよ?」と、諒は焦れて尋ねた。
「このビールよ」と、彼女は言った。
「これって、彼が買ったものじゃない?」
「だったら、何なんだよ?」
「別に。何でもないけど。変な感じがするわね」
そんなことを言ったら、この部屋全部が克哉のものだ。ここは受験のためと嘘をついて、彼が親に借りさせたアパートだった。克哉の家は、諒や礼子とは違い、都心から電車を一時間ほど乗り継いだ町にあった。
「それで?」と、諒はしつこく聞き返した。
「何が変な感じなんだ?」
「ここで、こうしてることよ」
「どうってことはないよ」
「そうでもないんじゃない」彼女は言い、口の端から白いきれいな歯を覗かせて笑った。
「あんたみたいに、四六時中、発情している人があたしに何もしないもの」
「バカ言ってら」諒は鼻で笑い返した。
「ここでそんなことしたかよ」
「チャンスがなかったからよ。克哉がいないときってなかったもの」
「ほらみろ」叱りつけるように、勝ち誇るように、諒は言った。
「じゃあ、恵子のうちではどうだったのよ。浩ちゃんのアパートは? あたしの家でもよ。あのときなんか、すぐ隣で弟が勉強してたんだからね」
「勉強が聞いて呆れらあ。何してたか判るもんか」
「たとえ、何をしてたってよ」
彼女は無理に生真面目な口調で言った。
「たとえ何であろうと」
「君だって、別に嫌がったわけじゃないだろう」
彼女はいきなり立ち上がった。ビールを一気に飲み干し、それを音をたててサイド・テーブルに置いた。そして言った。
「こんなことで、あんたと議論する気はないわ。あたしが誰と寝ようと、どんな気分になろうと、あんたとは別に関係ないんだから。関係あるときは、あんたと寝てるときだけなんだから」
彼女は、立ち上がったときと同じように、いきなりしゃがみこんだ。頭を両手で抱え込んだ。しばらくすると彼女は泣いていた。
諒は気分が悪くなった。
窓の外を、都電が通り過ぎたが、クーラーががたぴし動く音しか聞こえなかった。
彼はキャビネットまで行き、その上段のガラス戸の中にあれの鍵を見つけた。
鍵をそっとポケットに忍ばせると、ビールをもう一本持って外へ出た。日はいくらか西に傾いていた。通りの反対側のビルはすっかり陰になり、空にぎざぎざの稜線を刻んでいた。駐車場には生ぬるい風があった。都電通りの拡張に合わせて、金儲けが上手な誰かがせっせと買い集めた土地だった。今でも、あちこちに、家の基礎や水道の残骸、門の一部、生き残った庭木などがしがみついていた。
例の窪地はそうしたもののひとつだった。以前、そこには細い坂道と土手があり、家が両側まで迫っていたようだ。家を取り壊すついで、土手も削られ坂道を窪地に変えてしまった。生け垣の一部と告知版だけが中途半端に残された。
諒の後ろに回り込んだ太陽が、今では、そこを、そこに放りこまれたすべてを正面から照らしていた。
彼は眉をしかめた。血で汚れていたのだ。
ビールを開け、一口飲んだ。
艶消しの黒に塗られたボンネットは三つ折りになって、フロントシールドにめり込んでいた。屋根は完全に潰れ、塗装はほぼ引き剥がされていた。車体はくの字にひしゃげ、元の大きさの半分もなかった。バンパーもタイヤも、その内側に紛れ込み、得体が知れなくなっていた。タイロッドは逆にむき出しだった。エンジンの一部も覗けた。それは部品をいくつも失い、本体は明らかに割れていた。不思議なことに、ステアリングとギア・シフトだけはよく見えた。
本来それがある部分からは離れていたが、ベレット特有のフロントグリルも、何とか形を止めていた。
しかし、そのどれもが、どこをどう繋ぎなおし、組み合わせても、もう二度と自動車の形に戻りそうになかった。
エンジンの音が聞こえた。
彼はふり返るより前に、つい耳をすませた。
そんなはずはなかった。そうだ。いすゞの四気筒にしてはずっと硬く澄んだ音だった。
都電通りに向き直ると、白塗りのスカイラインGTBが車体をかしがせ、長いフロントノーズを、こちらに突っ込んできた。
「ひでえな」と、浩一が運転席で声を上げた。まだ、エンジンも切っていなかった。
「天下のベレGもこうなっちまうと、もう何をかいわんやだな」
浩一はオレンジ色のパイロットグラスを鼻の上にずりあげ、呟いた。声は明るかったが、表情は苦痛に歪んでいた。
「あいつ、俺なんかと違ってナンパだったのにな」
「ナンパって、どういう意味よ?」
「ガッツ入れて走ったりしなかったろう。──皮肉なもんだよ」
浩一は車から降りてきた。ぴったりしたジーンズに白のポロシャツを着ていた。胸にレーシングクラブのマークが刺繍してあった。
靴は舟底のドライヴィングタッセルだった。それは半年前、≪メンズクラブ≫の一ページに紹介されたのと同じもので、浩一はわざわざ、その一ページを切り抜き、ロンドンに旅する親戚の誰かに買ってこさせたのだ。
「おまえのどこが、走りにガッツ入れてるんだよ」と、諒は言い放った。
「俺は、デッドスローで六本木流したりしないもの」
「そのかわり、表参道うろうろしてるじゃないの」
「俺は、どっちかっていえば横羽だよ」
「横羽で何するんだ? 新山下でアオカンか」
浩一の目が尖ったが、諒は目もくれず、ビールを飲みつづけた。ビールはもうぬるくなっていた。
缶が空になると、それを窪地に放り捨てた。
「ひどいことするな」と、浩一が言った。
「ひどいことって何がよ?」
「もし、これが俺のでよ、今みたいなことされたら、カチンとくると思うぜ」
「大丈夫だよ。おまえのスカGなんか、誰も貰い下げにいかないから」
「たとえばの話だよ」
「たとえばの話なら、もっと簡単だ。死んじまったら、カチンとこようとニカッとしようと同じさ。こっちの知ったことじゃない」
諒はさらに残骸に近づいた。割れ残ったガラスに、内側から飛び散った血がくろぐろと光っていた。
彼はフェンダーの一部に手をやり、躰を伸ばし、それに指を触れた。
血はもうかちかちに固まっていた。力を入れると、古いかさぶたのように剥がれて落ちた。そこに爪をたて、それを剥がすことにしばらく熱中した。
「やめろよ」と、浩一がきつい声で言った。
「そんなことするなよ」
「何でだ」と、諒は訊いた。
「何ででもだよ。気味悪いじゃないか」
「血だよ。何が気味悪いんだ?」
「他人の血だぞ」
「そうだよ。それがどうしたんだ」
浩一が黙った。
諒はそれをつづけた。
「俺は、葬式のこと聞きにきたんだ」
しばらくすると、浩一がつぶやいた。
「うちわでやるんだってよ」諒は言った。
「密葬って、他人を呼ばないんだ。人が死んでるからな」
「死んだって? 殺したんだろ、要するに」
「どっちが、ひどいんだよ」今度は諒が怒鳴った。
「そっちの方がずっと、カチンとくるじゃないの。それもまだ生きてる人間たちがさ」
「警察の言い分、言ってるだけだよ」浩一は自分の車のところまであとじさった。
「俺の言い分じゃないよ」
「殺したのよ」と、言ったのは礼子だ。
彼女は冷えたビールを半ダース、シャツブラウスの裾に包み、かかえこんでいた。そのせいでへそが見えた。下着も見え隠れしていた。
浩一の車のところまで行き、ボンネットの上に六本のビールをのせた。
「気をつけてくれよ」と、浩一が言った。
「オールペンしたばっかなんだから」
言いながら、ビールを開けた。
「あんたは飲まない?」
「もういいよ」と、諒は言った。
実際、血管の中で血がかっかと熱を出して流れていた。毛穴からは火が、背中からは湯気が出ていそうだった。暑さと湿気でアルコールが少しも気持ちよくなかった。
「この暑いのに、──飲むなら中へ行こうよ」
「だめよ。克哉のお母さんが、遺品を整理にくるんだって。今、彼の兄さんから電話があったの」
「遺品か」諒は言い、窪地から出てスカGへ歩いた。
三人は車のドアを全部開け放ち、てんでの方向を向き、躰を半分外に出してシートに腰掛けた。そして、ビールを飲んだ。諒はビールは最初の一口だけ、缶を頬にあてて静かに空気を吸っていた。
「これだって、遺品じゃないのか?」と、諒は缶を頭のてっぺんに移して尋ねた。
「だから飲んでるのよ」
礼子が怒ったように答えた。
「ねえ、さっきのは何だったんだよ」と、浩一が訊いて、咳払いした。
「ゲップなんかしないでよ」
「そんなもん、してないよ。質問に答えろよ」
「さっきのって、何さ」
「殺したって言ったろう」
「あんたが言ったのよ」
「そうだよ、言ったよ。だって、俺と克哉とはつるんでたわけじゃないもの。知り合いだってだけだよ。諒の元同級生と、今の同級生ってだけの関係じゃないの。俺が殺したって言うのと、おまえが言うんじゃ違うよ」
「ああら、それならあたしだって同じよ。諒の今の恋人と、克哉の前の恋人ってだけの関係だもの」
「同じじゃないよ」と、諒が言った。
「礼子、おまえ酔ってるだろう」
それには答えず、しばらく考えて、
「あら、本当。同じじゃないや!」と声を上げ、急に笑いだした。
諒は、誰かが笑うのを一年ぶりに聞いたような気がして、あたりを見まわした。
彼女はずいぶん長いこと笑っていた。それから、
「でも、殺したってのは本当よ。あたし、それって、別に悪いことだと思っていないもの。アルファロメオだか何だか知らないけど、向こうから先に絡まれて、やり返して、それでただ自分だけ転がっちゃったんじゃ情けないもの」
「凄いこと言うなあ」と、浩一が言い、新しいビールを開けた。
「相手は、お父さんが運転して女房と子供が乗ってるアルファだぜ」
「でも、向こうから煽ってきたんでしょう」と、これは諒に訊いた。
諒はビールをスカGの中に残して、窪地の方へ歩きだしたところだった。
「知らないよ」と、諒は応えた。
「知らないけど、みんなそう言ってる。あの交差点で、二台が並んで、エンジンをブンブンふかして、煽りたててたってさ。それで、ゼロヨン競うみたいに飛び出したっていうのは、警察も言ってるんだ。でも、みんな死んじゃったからな。向こうも、こっちも」
「お父さんだって、ガッツを出すなら立ち場は同じよ。女房子供を乗っけてたなら、よけいに向こうの方が責任有りだわ」
「被害者と加害者なんて、警察が決めることだよ。それだけのことだよ」と、浩一。
「ガッツ入れて走ってる人間が、ずいぶん頼りないのね」
礼子が、鼻から熱い息を吐いた。それが嘲りのように聞こえた。
「後ろ足が滑って、結局、ぶつけちまったんだよ。都電のレールでさ。あれは尻を振りやすいんだ」
「それは、おまえの車も同じだろう」と、諒は言った。「おまえのよりは、ひどくないよ」
「タイヤのせいもあるんだよ。克哉は、見栄えを気にして、気取ったタイヤ履いてたからな」
ここぞとばかりに浩一は言った。しかし、
「あのこと、まだ気にしてるな」と、諒が指摘すると、両手をばたつかせて否定にかかった。
「じょ、冗談じゃないよ」
「あのことって何?」と、礼子。
「今年の初め、高速環状でやりあったんだよ。あんまり格好ばっかって言うもんで、有楽町からはじめて三周、やりあったのさ」
諒がおかしそうに笑った。
「ともかく、浩ちゃんはスカG・BでベレットのOHVなんかに負けた日本最初の男になっちゃったのさ」
しかし、その軽口に笑う者はなかった。
「ナンパとは、よく言ったもんだ」と、さらに言ったが、言った諒自身が、その言葉にうんざりしていた。
「格好ばっかの車で、格好をつけすぎたんだ」と、浩一は弱々しく言い、息を吐きだした。
諒はぐしゃぐしゃに潰れた克哉のベレットGTの真ん前に行き、覗き込んだ。
一体型のシートは、内側に爆弾を仕掛けられたのか、あるいは切り裂きジャックが女の体と間違えたのか、細切れになって骨組みをむき出しにしていた。
そのあちこちに、血が飛び、黒い染みがひろがっていた。
床には吐瀉物のようなものが乾燥してこびりついていた。
諒は、これがまだ自動車だったときのことを思い出そうとした。目をつぶったがうまくいかなかった。
運転席の足許にビールをかけた。吐瀉物だけが、水分を吸って元の形に戻ろうと膨れ上がった。不規則な泡が立ち、嫌な色の液体が流れだした。
彼は、ビールの缶を車内に投げ込んだ。
「奴の運転は、たしかにスマートだったからな。もちろん、アメ公が言うようにだぜ」
浩一は言ったが、誰ももう聞いていなかった。
諒は、車ではなく、そのスマートな運転を思い出そうとした。それができない理由はなかった。事実、首都高環状線で浩一のスカG・Bに二十秒近くの差をつけて勝ったとき、彼はこのベレットの助手席に座っていたのだ。しかし、それもまたうまく行かなかった。
その日のことどころか、どんな日のどんな場面も、いや、克哉の顔さえもうあやふやになっていた。
この残骸が残骸でしかなく、決して自動車に戻らないのと同じように。
「克哉の兄貴はなんだってこれを引き取ったんだ」
「あたしが頼んだのよ」と、礼子が言った。
「何かあるんじゃないかと思って」
「何かって、何がさ」諒が尋ねた。
「判らない」と、礼子は言った。
「何か判らないけど、必要なような気がしたのよ。見たかったけど、警察が押収してて見せてくれなかったじゃない。あんたは、見たくなかった?」
「ああ、どっちでもよかった」諒は晴々した顔を彼女に向け、そう言った。
浩一はつまらなそうにその顔を見つめ、ビールを飲んだ。
「片づけるのが大変なだけだ」
「それ、もらっていいかな」と、浩一が言った。
彼の指は、エンジンの上にもぎれかかってへばりついているSUツウィンのキャブレターを指さしていた。
「何にするのよ」と、礼子が聞いた。咎めるような口調だった。
「記念だよ」と、浩一も何故か晴々と微笑んだ。
「ほら、こんなやっちい車に負けたGTBオーナーの記念ですよ」
誰も返事をしなかった。正直に言って、返事をする筋合いもなかったのだ。
諒はそのままアパートの方に歩きだした。その玄関前に、彼は自分のホンダを止めていた。
「どこ行くのよ?」と、礼子が声をかけた。
「何か、ここにいたくないんだ」
「何でよ。お母さんが来るまで、まだ時間があるわ」
「君が引き取ったんだ、君が見てりゃいいさ」
「何、怒ってるのよ」礼子がさらに言った。
「厭になっちまっただけだよ。自分で自分が。──すごいつまらないこと考えたから」
「言いなさいよ」
「別に、──」
諒は苦笑して歩きだそうとした。
「言いなさいったら!」と、礼子が怒鳴った。
トランクから工具を出し、ベレットGTの残骸からキャブレターを外しにかかっていた浩一が、こっちを振り返った。
「言えよ。気分悪いぞ、おまえ」口を差しはさんだ。
「つまんないことだよ」
諒は立ち止まって言った。
「自分が生きてるかぎり、死ぬのはいつもずっと他人ばかりだって思ったんだ。あたりまえだけどさ」
「呆れた」と、礼子は乱暴に言ったが、声をたてて笑いだしたのは当の彼女が最初だった。
その日の午後いっぱい、三人は結局、克哉の遺したものを何から何まで公平に分け合った。
それはしかし、何故か不快なものばかりではなかった。
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皆殺しのベンツ
「手をあげろ」の一言がなかなか出てこなかった。それだけが厭にはっきりしている。
「手をあげろ」では、身も蓋もない。ありきたりすぎて、もしかすると冗談だと思われてしまうのではあるまいか。
瞬間、そんな思いが胸を過《よぎ》ると、もういけない。コンビニの袋の中で拳銃を握っていた手が、≪週刊朝日≫とシスコーンの狭間でがたがた震えた。もし現場にそれが残ったとき、自分が決して読まないもの、決して食べないものをと考えて買ったものだ。
もっとよく考えるべきだった。コンビニのレジにはたいてい防犯ビデオがついている。最近の犯罪捜査では、どんな場合でもまず近隣のコンビニのビデオを起こしてみるのが常道だ。
だいたい、なんだって袋が必要だったのか。彼がミッちゃんから手に入れた自動拳銃はインドネシア製だったが、それだって原型はブローニング・ハイパワーだ。ポケットに入らないほどバカでかいわけじゃない。コンビニのビニール袋が必要だなどと、袋の中に週刊誌やスナックと一緒につっこんで持っていこうなどと、しかもそれが相当に気のきいたアイディアだなどと、どうして思ったのだろう!
そこまで十分の一秒、考えが巡り巡ると頭の中身はぱっと沸騰し、もう目の前は真っ白だった。
「強盗だ。金を出せ」は、どうだろう?
いや、大きな声を出しちゃいけない。拳銃をそっと見せ、カウンターで囁くのだ。
「客をひとり殺すぞ」
そうだ! そう囁くのだ。何度も何度も考え、練習したではないか。拳銃を、他の客に気取られないように持っていく。そして、いきなり、鼻先に見せつける。そのために袋が必要だったんだ。袋をカウンターの上に差し出し、拳銃を抜き、
「本物だ。金を袋に入れろ。早くしろ。客をひとり殺すぞ」
ところが、この作戦は、まず大量の金、数千万の金が、めざす窓口に積まれた瞬間を狙わなければならなかった。町金融の親爺とか、不動産屋の女将とかが窓口に来た瞬間を。
それが何だ、この態《ざま》は。
ひどいもんだ。彼は、今、ゆっくり思い出す。
そのとき、この信用金庫には客なんかいなかったのだ。
袋を手に入っていくと、店中の行員の目が彼に吸い寄せられた。
「いらっしゃいませ」全員が声をそろえた。
彼らは、今数えてみると九人。それが固唾を呑んで、こっちを見つめていた。少なくとも、彼にはそう思えた。
「動くな。ばかやろう! 強盗だ」
彼は叫んだ。≪週刊朝日≫とシスコーンが床に落ちた。手の拳銃が剥き出しになった。
すぐ目の前の女が悲鳴をごくりと飲み込んだ。斜め右の男が後ろにのけ反り、そのずっと奥にいた金縁眼鏡の中年男が走りだす気配を見せた。
たぶん知らぬ間に、袋の中で撃鉄をあげていたのだろう。安全装置など、はじめからかかっていなかったのだろう。だが弾丸は? 大丈夫だろうか。
大丈夫だった。拳銃が火を噴き、彼の右手に電撃が走った。
そんな具合に事は運んだのだ。
「日本人、ハジキに慣れてないでしょう。見せただけでオッケーよ。タマ必要ないよ」
ミッちゃんと仇名されている中国人は、彼に拳銃を手渡したとき、言ったものだ。
慣れていない日本人は、むろん銀行員ばかりではなかった。
「撃っちゃだめよ。一発も撃たないで持ってきたら、六折り下取りするよ」
六折りとは、日本語でいう六掛けだと説明した。売値が十五万だから、使わずに返せば九万円戻ってくるわけだ。
それでも、万が一の場合にと言って、三発の九ミリオート弾をゆずってくれた。最初、一発五千円だったものが、公園のベンチで十五分ねばるうち、三発で一万円になった。
ミッちゃんはクリーニング屋のバイクで来ていた。仕事の途中だったのだ。まだ配達が山のように残っていると言って、渋い顔をした。早くしないと親方に給料を引かれてしまう。
「人の足許見る、それ、よくないよ」
「時は金なりさ」と、彼は言って笑った。
「撃つときは、殺すときよ」ミッちゃんは煙草を出し、神妙な顔でそれをくわえた。
「天井に撃つの、あれ映画だけ。人に撃たないと、言うこと聞かないよ。とくに日本人、ハジキよく知らない。知らないもの怖くないでしょう。だから血を見せないとだめなのね。困ったもんだよ」
しかし、彼が最初に撃ったのは人ではなく、天井でもなかった。
弾丸は床を打ち抜き、弾けた床石のかけらに驚いて、自分でその場に飛び上がった。
目の前の女が笑った。そんな気がした。目が合ったのは事実だ。
彼の頭がまた真っ白になり、カウンターの上に飛び乗った。何かさかんに叫んでいた。熊のように、カウンターの上を歩き回った。奥に金庫室が見えたが、ドアは開いていなかった。
パトカーが、外の通りに止まった。
「いくらだっていいんだ。金が手に入ったら逃げる。それが、一番よ」と、ミッちゃんは以前から言っていた。
彼が、これを思い立つずっと以前から。
ミッちゃんは台湾では相当に経験のある強盗だった。そのことを知ったのは、もう半年以上前、組からふたりして放り出される前後のことだった。
そのころ彼が所属していた組は、組長を刑務所に取られ、左前になっていた。代貸の鈴木は悪い男ではなかったが、この世界には不向きだった。目端がきかず押し出しもよくなかった。組の財政は日に日に苦しくなり、不法入国のイラン人だってしたがらないような仕事に手を染めるか、すすんで暴力団新法の罠のなかに飛び込んでいくか、それしかしのいでいく方法がなくなっていった。
彼はミッちゃんとはからい、テレクラに網を張って高校生の女の子を集めた。そこらのホテルで、それを働かせようなどというケチな了見では決してなかった。
ミッちゃんに何とルートがあったのだ。香港との太いパイプが。香港には、日本の若い娘とねんごろになりたいと願っている金満家が掃いて捨てるほどいる。
「日本の小金持ちが、何かというとパツキンとやりたがるのと同じことよ」ミッちゃんは言った。
「ファッションもテレビドラマも歌も日本でしょう。女も日本よ。それが、香港のはやりなんだ」と。
「じゃあ、日本の男が行ったらモテモテだな」
「ところが、さにあらず。男はゼンゼンなんだよね。香港だけじゃなく、世界中で」
これは壮大な事業だった。うまくいったら、ベンツにドンペリは間違いないところだった。
それが彼を燃えたたせた。
彼は、たった一度だけ自分のオヤジの兄貴筋にあたる男のベンツに乗ったことがあった。それは当時発表されたばかりで、まだ日本には入荷されていないはずの600SLだった。まだ彼が二十代、世間はバブルの最中、彼の所属するチンケな組の代貸ですらベンツに乗っていた。ずいぶん前の280だったけれど。
この仕事が軌道に乗れば、ベンツなんか屁でもないのだ。もちろん、この俺にも。
彼は自分のアパートに芸能プロの看板をかかげ、香港で半年働く気があるという娘を六人集めた。売れ先も見つかった。さあ、あとは現地に送りだすだけというときになって、この計画が代貸の耳にはいってしまった。
暴力団新法以来、クスリと博奕と女にいくら神経質になっているからといって、こんなことで破門にはならない。ところが、彼らは破門になった。香港の売り先を探すためにミッちゃんが組の名前を使ったものだから。
「だいたい暴力団が、クスリと博奕と女がだめだなんて言いだしたら、いったいどうなっちまうんだ」と、彼はミッちゃん相手にぼやいたが、後の祭だった。
女の子をかき集め、パスポートをとってやるのだってただではない。売り先を見つけるために、二度ばかり香港へも行った。
気がつくとあちこちに百七十万の借金が残っていた。
ハンドスピーカーが彼を呼んだ。
「多くの人が迷惑している。すぐ中止しなさい。その行動はすぐに中止しなさい」
無駄な抵抗は止めろだの、君は包囲されているだの、映画みたいな台詞を期待していたわけではないが、これには気が抜けた。相手の声には、北関東の訛があった。
それで、頭から血が引いていった。ずいぶん冷静になって、カウンターの向こうに下りた。
行員がざわめいた。
「机をどかせろ」と、彼は年長の男に命じた。
言いながら、それはそうとなぜ俺はまだ金を持っていないのだろうと首を捻った。
足許に一万円札が飛び散っていることに気がついたのはそのときだった。いったい何が起こったのかまだ思い出せなかった。
一万円札は二、三百枚しかなかった。
「それしかないんです」と、女が言った。
「本当にそれだけなんです」
「本当なんだよ。今朝、ちょっと手違いがあってね」年かさの男が言った。土気色の顔をした小太りの男だった。
「大口のお客さまが引き出されることを忘れてたんだ。こっちも、金が届くのを待ってたところなんだ」
窓口ですんなり手渡されたなら、それだけで満足したかもしれない。そう思うと、変な気分だった。
拳銃を一発撃ったとたん、それだけでは収まりがつかなくなってしまったのだ。
「なんだったら金庫の中、見てくれてもいいですよ」金縁眼鏡が言った。こっちは背が高い。
土気色と金縁眼鏡と、いったいどっちが偉いんだろうと、彼は思った。
「機械を開けろ」と、彼は叫んだ。
「機械の中にも入ってるだろう!」
「機械って何ですか?」
「金を出し入れする機械だよ!」
「ああ」
土気色は軽く頷き、金縁眼鏡にふり返った。ふり向かれた金縁眼鏡はあからさまに嫌な顔をして相手をにらみ返した。
「おまえ、支店長か」彼は叫んだ。
金縁眼鏡が、びくっと体を揺すり、彼にではなく近くにいた若い男に叫んだ。
「ATMの現金を。早く」
「その前に机だよ」彼は思いきり怒鳴った。
「机をどけて、入り口のほうに並べろ」
「これ、動かないんです。作り付けなんです」一番手前にいる娘が涙声で言った。彼女は最前から動くに動けず、他の八人が金庫室の近くにかたまって退いているのに、彼女だけ、彼のすぐ目の前に立ったまま残っていた。
「本当なんです。建築事務所がやっちゃったんです。私たち関係ないんです」
いよいよ泣きだした。
「吉岡君、やめたまえ」と、金縁眼鏡。
「おい、動くな」怒鳴って、彼は銃口を若い男に向けた。その男は、カウンターの端まで、もう歩いていた。
「しかし、ATMの現金を」と、立ち止まって言った。別に怯えている様子はなかった。特別、度胸があるようでもなかった。きっとどこか鈍感なのだろう。
ATMは二台あった。その裏側に通じるドアは、鉢植えの陰になって、ここから見えなかった。しかし、自分がそこまで行くと、今度は奥の七人全体を見張ることができなくなる。彼は、ちょっとのあいだ悩んだ。
わっと、声をたて、吉岡と呼ばれた娘が泣きだした。その場にしゃがみこみ顔を両手で抱えてしまった。
「おい、おまえら、服を脱げ」彼は叫んだ。それは、昔、渡哲也が出ているテレビドラマで銀行強盗がやったことだった。
「いいか、素っ裸になるんだ」
誰も動かなかった。誰も何も言わず、こちらへ目も向けなかった。それぞれが、あらぬ方向に顔を向け、何も見ずにすまそうとしているみたいだった。
彼は、引き金に指をかけた。手がかちかちに凍りついていた。つい撃鉄を親指で起こそうとしたが、それはとっくに撃発状態になっていた。
拳銃を天井に向けた。
そのとき目の前で、吉岡嬢がすっくと立ち上がった。彼の方を向いたまま、自分の家の風呂場でするみたいに手際よく、服を脱ぎはじめた。
残る四人の女があとに続いた。最も年上の女で、せいぜい三十、吉岡がいちばん若かった。
男たちはぐずぐずしていた。彼が、
「早く脱げよ。一番最後の奴を撃つぞ」と、感情を押し殺し、静かな口調で付け加えるまでは。
全員が服を脱ぎおえると、彼は奥の七人に、椅子に座り、机の上に肘を乗せ、両手で手近の書類を捧げ持つように命じた。
「ノートでも紙一枚でもかまわない。ただ、手から落としやがったらただじゃおかねえぞ」
それから吉岡を連れて、ATMの裏側が覗ける場所まで行った。
そこで、例の若い男に命じて、機械を開けさせた。自分は、その場と、残り七人が座っている場所の中間に陣取り、机の上にあがって待った。
「ざっといくらある」と、尋ねると、
「両方で一千万円ほどです」と、吉岡が事務的に言った。
背は低いがスタイルはよかった。胸の形も悪くはなかった。彼は、自分が集めた女子高生の一人を思い出した。
彼らが放り出された後、その娘は代貸が手をつけ、どこかにアパートを借りてやったということだった。むかつくことに、組は、彼がつくったルートをそのまま使って、香港に『日本娘』を売りはじめたのだ。
ある夜、酒場で出くわしたついで、そのことを詰《なじ》ると、組では五分の仲だった男が、さもバカにしたような顔でこう言った。
「おめえらとは違って、テレクラで拾った素人の高校生なんか使わねえからよ。納得ずくの商売女だもんよ。罪にはならないよ。俺たちは、香港にゲーノー人を送り込むだけだもの、売春させるのは向こうの勝手、こっちとは関係ない。これが大人の商売だ」
てめえの女にして、囲うならいいのか? と喉まで出かかったが、辛うじて飲み込んだ。
せせら笑ったその男は、着慣れないダブルのスーツを着て、ネクタイを締めていた。香港で買ったエルメスだと自慢した。
送ろうか? と、彼に聞いて、ポケットからひねり出した鍵束には、ベンツのあの三つ矢サイダーみたいなマークの入ったキーが光っていた。
「十年落ちの中古だよ」と、わざとらしく照れてみせた。
「Eクラスのか?」と、混ぜ返すと、
「バカ言ってらあ、そんなババア車に乗れるかよ」と、またあざ笑った。
彼が、その男を殴ったのは、そのときだった。病院送りにしてしまったのは、ものの弾みだ。腕が互角だったので、つい気合を入れて始めてしまった。それで借金がさらに三百万。組が彼に請求してきた医療費と慰謝料だ。払わなければ、町にいられなくなる。
「ヤクザが慰謝料ってどういうことよ。殴られたら殴り返すのが、男の道でないの。どこに、この国、人間の道があるのよ」と、ミッちゃんは大げさに悲嘆してみせたが、彼だって本気で嘆いたわけではない。
そんな世の中だと、ミッちゃんは身をもって知っている人間のひとりなのだ。
「これ、どうしますか」と、吉岡が訊いた。そのとき、彼女のへそにピアスが光っていることに彼は気がついた。
ふいに目があった。なぜだろう、へそから上も、その下も、頭のてっぺんからソックスで隠されたくるぶしまではまるまる剥き出しだというのに、彼女はとっさにヘソを隠した。
知らずに彼は苦笑していたのだろう。
でなかったら、彼女の口許が恥ずかしそうに笑った理由がない。
「すぐに中止しなさい。聞こえるか。返事をしろ。聞こえるか」
外の騒ぎが、唐突に聞こえてきた。
サイレンは、先刻から聞こえなくなっていた。最初のパトカーだけがサイレンを鳴らして駆けつけた。後は、音もなかった。
外の様子も、よく判らなかった。
見ると、ガラス戸にはシャッターが落ちていた。これでは目立って仕方ない。
「シャッターを開けろ。いったい何だ、これ。誰がシャッターなんかおろしたんだ」
「あの、立ってもよろしいですか」と、奥で声がした。
いいと言うと、土気色の男が壁のコントロールボックスを開けた。土気色なのは顔だけだった。尻などは雪のように白く、だぶついていた。
吉岡が、今度はかすかに声をたてて笑った。
思わず睨みつけると、
「だって、自分で、──」と、言って震えた。
「自分で閉めさせたんじゃない」
「シャッターをか?」
「はい。そうです」
「非常ベルは誰が鳴らしたんだ」
「誰も、そんなことしてません」
「嘘をつけ!」彼は怒鳴った。ガラス戸がびびりあがるほどの大声で。
シャッターが上がり、光が入ってきた。赤い光。そして黄色。どの光も、落ちつきなくちかちかと動いていた。
「じゃあ、あれはどうしたんだよ!」
彼はガラス戸の外側に銃口を振り上げ、叫んだ。
今ではもうシャッターは完全に開いていた。パトカーが衝立のようにそこを埋め尽くしていた。回転灯が音もなく瞬いていた。戦闘服姿の機動隊こそ見当たらなかったが、警官はほとんどヘルメットを被り、防弾ベストを着ていた。蒲鉾形の機動隊車両も一台見えた。屋根の上に放水銃のキューポラがついているやつだ。
「誰が呼んだか聞いてるんだ」
叫んだものの、長くは続かなかった。体から一気に力が抜けた。彼は思わず吹き出すのをこらえるので精一杯だった。ふいに、机の前にかしこまって座り、紙きれをうやうやしく捧げ持っている男女七人が目に飛び込んできたのだ。
「覚えてないんですか?」吉岡が、やはりおかしくてしかたないといった調子で言った。
「本当に覚えてないの?」
「吉岡君!」と、金縁眼鏡が叱声を飛ばした。
「黙れ!」と、それに怒鳴り返し、彼は吉岡を銃口で小突いた。
そのままの勢いで、彼女を椅子に押し倒し、左手を首にかけた。
「俺が何を覚えてないっていうんだ」
「だって、ほら、あれ」彼女の口のなかで奥歯がかたかた鳴った。唇がみるみるうちに白くなった。もう、どこにも笑いの気配はなかった。
「あれ」ともう一度言って指さしたドアは、真っ赤に汚れていた。手で、その赤をこじった跡があった。床にも、赤は飛び散っていた。透明ガラスのドアには、穴があき、鋭く乱暴な罅《ひび》が縦横に走っていた。
その向こう側、歩道の赤は、まるでペンキをぶちまけたみたいだった。
血だと気がつくのに、ずいぶん時間がかかった。
「支店長、あの傷で出てったんですもの、警察が来るのあたりまえです」
彼女は震える声で言った。
彼は大きく息を飲み込んだ。
血溜まりの向こうに、タイヤの跡があった。いくつもの靴跡もついていた。何かを引きずった跡もあった。そのどれもが、むろん真っ赤だった。
彼は拳銃を下げ、奥の連中に気取られないよう、そっとクリップを引き抜いた。そこに、弾丸はなかった。薬室にすでに送り込まれた一発きり、──つまり二発撃ってしまったのだ。しかし、一発しか記憶にない。また息が転げ出た。ため息に聞こえたんではあるまいか。彼は慌ててこう叫んだ。
「金だ。おまえ、金を集めろ」
吉岡が床の一万円札にしゃがみこんだ。尻の割れ目が目に飛び込んできた。彼は変な気分になった。
先刻ATMから金を出した若い男に、それを入れる袋を用意しろと命じ、ガラス戸を背にして机に座った。
電話が鳴ったのはそのときだった。
彼は拳銃で、まだ金を拾い集めている吉岡の尻をつついた。
「警察です」と、彼女は電話を取って言った。
「あの、失礼ですけどお名前は?」
「ばか!」彼は思わず叫んだ。
「素っ裸で間抜けなこと聞くんじゃないよ」
「すみません。そう教えられてるもんで」と言うと、受話器にも同じ調子で謝った。
「すみません、お名前はちょっと判りかねます。──ええ、お金はありったけお渡ししました。はい、皆さん服を脱ぐようにって、──ええっ!」と、彼女は叫び、受話器をにぎりしめたままその場にしゃがんだ。電話機がコードにひっぱられ床に落ちた。
「いやだ。見えるんですか? そっちから」
彼女が受話器にうめき声で尋ねた。
「あら、いやだ。どうしよう」
「明かりだ。明かりを消せ」彼は叫んだ。
拳銃を手に、机のあいだを縫って、奥へ走った。
「金をこっちへ持ってこい」と、声をかけると、若い男が、紙袋で前を隠しながら走ってきた。「すみません」と、声が聞こえた。
彼が立っているすぐ脇の机で、電話が鳴りはじめた。
「すみません。四番とってください」妙に事務的に吉岡が言った。
「警察の方が、是非、お客さまと、──」と、言いかけて彼女は息を継ぎ、
「いえ、その、そちら様とお話がしたいとのことですので」
電話を取ると、いきなり破れ鐘のような声が飛び出してきた。声とは逆に、そのしゃべり口は区役所の戸籍係とたいして変わらなかった。もちろん、格別に態度の悪い戸籍係と。
「車は用意したんだがね」と、彼は言った。
「その、裸はまずいんじゃないかね。ただの強盗ですまなくなっちゃいますよ」
「強盗殺人だろうが!」彼は怒鳴った。声がついうわずり、なんとも悔しかった。
「ああ、それね」と、妙に馴れ馴れしく、そして横柄に言った。
「やっぱ、心配してんだろ? 判ってるって。つい当たっちまっただけだもんな。あんなことで、人殺しになっちゃまずいよな」
「うるせえっ! なめんなよ」
「まあまあ、俺には判るのよ。──支店長は助かるって。病院にいるけど、意識もしっかりしてるよ。大丈夫。だから、あんた、女の子の服をなんとかしなさいな。まずいよ、それ、そんなことしてると、人権問題よ」
「パトカーをどけろ。どけないと、服だけじゃないぞ。一人ずつ殺すぞ」
「だからさ、車が来たから、警官をどけますよ。その連絡だよ。いい? 頼まれたベンツを用意しましたから、ともかくこっちは約束を守ったんだから」
ベンツ? と、首をひねった。そんな要求をした記憶はとんとなかった。しかし、それについては何も聞き返さなかった。先刻、吉岡に笑われて懲りていたからだ。どうやら、記憶が数分間、完全に抜け落ちているらしい。
彼は、片手で金の入った紙袋を持ち、もう一方の手で、背後の八人に銃口を向けなおした。そうしたまま、腰をかがめ、身を低くしてカウンターの方に歩いた。
吉岡は、まだしゃがんでいた。
彼は彼女の傍らに体を沈め、頭をカウンターの上に半分だけ覗かせた。
店内の明かりは全部消えていた。外の光が、だからストロボのように眩しく、赤と黄色のネオンサインのように目まぐるしく、天井を瞬かせていた。
パトカーの列の手前に、銀色のベンツが止まっていた。
息を呑むほど美しかった。彼はびっくりした。それは、彼が求めていたベンツではなかった。これが本当にベンツだとでも言うのだろうか、もしそうなら、誰とも張り合えない。女は口説けるかもしれないが、どこに押しを効かせられるだろう。
ふいに、ミッちゃんの顔が思い浮かんだ。
「六掛けで買い戻すなんて、ケチ言うない」と、彼は言ったのだ。
「ベンツで迎えにくるからよ。そうしたら、こんなチンケななりとはおさらばだよ」
機動隊の放水車がバックして下がると、パトカーが二台どいた。すると午後の陽がやってきて、そのベンツを照らしあげた。
銀色というより、それは黒真珠のような色をしていた。肌触りも、きっと同じに違いなかった。尻には、昔のアメ車のような羽がはえていた。目は縦長でふたつしかなかった。そして、──ドアもふたつしかなかった。
屋根は、風になびく女の髪みたいな曲線を描き、そのくせボディは真っ直ぐな線からできていた。
「電話、持ってこい」と、彼は吉岡に囁いた。
「誰かの携帯電話を持ってこい。その電話にかけなおすよう、あのお巡りに言うんだ」
奥へ這っていく吉岡に、彼はこう言い足した。
「それから、おまえだけ服着ていいぞ」
彼は携帯電話がくると、相手がかけてくるのをロビーで待った。
もう背後の八人はまったく気にしていなかった。
「もっと道を開けるんだ」と、彼は警官に命じた。電話と話しながら外を窺うと、相手がどこにいるのか判った。
声の主は、人工毛皮の衿がついたジャンパーを背広の上に着た、衝立のような体つきの男だった。まわりにガス銃を持っている警官が四、五人いた。しかし、武器らしいものは、見えるかぎりそれだけだった。
制服警官の拳銃のホルスターにはフラップがかかったままだった。
「ベンツを玄関の前に着けるんだ」と、彼は衝立に電話で言った。
「いいか、ぴったり着けるんだ。ドアとドアが一メートル以上離れてたらやり直しだ。そのとおり止まったら、全員後ろに下がるんだ」
「人質を出してくれよ。まず、それが先じゃないか」
彼は電話を切って、賭に出た。
吉岡を立たせ、彼もその背後に立った。
鉢植えの陰から、ガラス戸にふたりして身をさらした。それからゆっくり狙いをつけて、パトカーの背後にある雑居ビルの二階を狙って拳銃を撃った。
窓ガラスが割れ、警官のいちばん後ろの列にかけらをまき散らした。
拳銃は最後の薬莢を吐き出し、スライドオープンの状態で止まった。彼は素早くスライドのリリースボタンを押し下げ、遊底を閉じた。何事もなかったかのような顔をして拳銃を構えつづけた。
インドネシア製のコピー商品だからといって、マガジンはダブル、一ダース以上装弾できる。日本の警官が、そこまで知っているとは思えないが、六発か七発は撃てると思っているだろう。
案の定、相手は折れてきた。ベンツが動き、正面出入口に乗りつけた。同時に、パトカーがもう二台どいて、駅前の商店街へ出ていく道が拓けた。
彼は携帯電話を吉岡に持たせ、紙袋と拳銃を手に、外へ出た。
まず、吉岡を先に立て、トランクルームを開けさせた。それから車を半周、助手席に彼女を押し込み、ドアロックをかけさせた。後部シートに怪しいものはなかった。キーはささったままだった。
警官は彼を遠巻きにしていた。こと、ここにいたっても彼らは拳銃を手にしていなかった。びっくりしたことに、竹刀を持っている者が二人いた。長い木の棒を持っている者はもっと大勢いた。そして、それが目に見えるところにある武器のすべてだった。
彼はベンツに乗り込んだ。
ドアロックをかけ、エンジンを回した。
音が大きかった。なんだか、昔のタクシーみたいな音がした。彼は悲しくなった。
「なんだ、これ、ベンツじゃねえぞ」と、つなぎっ放しにしていた電話に怒鳴った。
「仕方ないんだよ。これは、信用金庫のご好意なんだ。借り物なんだよ。これだって、マニアにとっては宝物だそうだよ。我慢してよ。警察には、そんな権限がないもんでねえ」
警官が寄ってくるのが見えた。それは、投網のようにじわじわと、彼とこの車を取り囲みつつあった。
しかし、彼は悠然と笑った。拳銃と女とドアロックがあるかぎり、ベンツの車内は彼だけのものだった。充分に安全な世界だった。
奴ら、こんな中古を借りてくるしか能がないのだ。警察といったって結局は役人だ。彼はそのことをよく知っていた。あいつらに、ベンツを傷つけるような度胸はない。窓ガラスを叩き割ったり、パトカーをぶち当ててくるなんて、映画だけの話だ。しかも、ベンツに。
彼は、笑い声をあげ、サイドブレーキを解き放った。
それでも、アクセルを踏むまでのわずかな時間、彼は失望した。服を着た吉岡はただのそこらのOLにすぎず、そのくせ妙に、ベンツの助手席にぴったりハマっていたからだ。
[#改ページ]
夏のエンジン
崖に波が砕ける音で、礼子は目を覚ました。
海に面したフランス窓が厭な音をたてて揺れた。それは、礼子が寝そべっているベッドにも、ふらりと伝わった。
つけっぱなしのラジオが、新宿の鉄道火災を伝えていた。昨日の夜中、アメリカ軍のジェット燃料を運んでいた貨物列車が、別の列車と衝突して、今朝の明け方まで燃えつづけていたのだ。そのせいで、東京の方ではまったく交通が麻痺していた。ビアフラでは、一日に八千人が飢え死にしているとBBCが伝えていた。アメリカの国防長官が、来月行われる南ヴェトナムの大統領選挙には何の幻想も抱いていないと発言し、物議をかもしていた。──暗いニュースが続いたので、ここで夏らしい音楽をと、笑い声で、アナウンサーが言った。
礼子は迷わずFENへチューナーを回した。それなら、たとえ何をしゃべっていても音楽と同じだ。それも、夏らしい音楽と。
また波が大きな音をたてた。潮の匂いがした。甲高い笑い声。人々のさんざめき。
部屋の向こう側で、フランス窓が半開きになっていた。風はなかった。とても暑い日だった。だのに、それまで部屋の中にたまっていた汗くさい熱気のせいで、外の空気をすがすがしく感じることができた。
ベッドの隣に、すでに温もりはなかった。彼の服も靴も見当たらなかった。礼子は、アッパーシーツで裸の胸を隠し、半身を起こした。
ホテルは、崖に沿って部屋を数珠つなぎにした、平たく低く細長い建物だった。フランス窓から崖までの猫の額のような庭がテラスになっていて、隣の部屋とは竹垣でしきられていた。しかしそれでも、素っ裸で窓まで行く勇気は持ち合わせていなかった。
彼女は少し焦って、シーツの中で下着を探しはじめた。
ようやくそれを身につけたとき、下の海から、彼が崖に刻まれた石段を登ってくるのが見えた。
礼子は腰を上げ、声をかけようとした。
しかし、彼は庭の真ん中に置かれた籐椅子にぴょんと飛び乗り、こっちに尻を向けてしまった。
「何か用事? 俺に用事?」
と、彼が言うのが聞こえた。竹垣越しに隣の部屋のテラスを覗き込んでいる。喧嘩をうるといった気配ではない。ナンパの切り出しみたいな調子だ。
礼子はアッパーシーツの下から足を出し、ドレッサーの椅子に脱ぎ捨ててあったシルクのシャツを引き寄せた。それを大急ぎではおり、窓へ歩いた。
もうちょっとで、隣のテラスが覗けるというところで、電話が彼女を引き止めた。
「はい」と、短く応じると、|※[#「令+羽」、unicode7fce]《りよう》が陽気な声でこう言った。
「どう? うまくいってる?」
「どうしたのよ。何で、ここが判ったの」
彼女は驚きの声を上げた。
「英二のやつが、車を見かけたんだよ。昨日の夜中、その前を通ったんだ。玄関に『起こさないでください』って、でっかい立て札があるだろう。あれを、ナンバープレートの前に立てとくんだよ。そうしないと、通りから見えちゃうんだ。そこはモーテルじゃないんだからね。まあ、後学のために、ひとこと」
「わざわざ、ご苦労さま。朝から電話なんて、ちょっと悪趣味なんじゃない?」
「俺も、そうは思ったんだけどね。実は車が心配でさ。おまえらのことなんか、どうでもいいんだけど」
彼女は、時計を見た。午前十時をまわったところだ。
「ロケットね、あれ」と、彼女は言った。
「ギアも全然違うの。タッカー・スミスのナイフみたいに、カチカチ決まるの」
「カチカチ?──ああ、スウィッチナイフのことか。相変わらず古いな、おまえ」
「ほっといてよ」と言って笑うと、
「それで?」と※[#「令+羽」、unicode7fce]が尋ねた。
「それでって何が」
「あいつ、どんな具合? 飯は食ってる」
「あたりまえでしょう。昨日なんかステーキ二枚よ。ただ二枚じゃないの。横須賀のGIが行く店。靴みたいなステーキよ」
「それってあたりまえじゃないよ。食い過ぎだよ。あいつ、そんな大食いじゃないもの」
「食べないより、食べるほうがいいわよ。出かけるまで、朝、パンを一枚かじるだけだったんだもの。昼を過ぎると、飲み屋のお通しでさえ食べなかったのよ」
「でも、食ったんだろ。それも肉を一キロ近く。やっぱり、旅行が効いたんだ。いったい、どこへ行ってたんだよ」
「神戸。そこまでしか高速ができてなかったのよ」
「ずっと、あっちにいたのか」
「ううん。昨日は箱根の温泉。御殿場から厚木まで、まだ通じてないの。あの車で箱根へ登ってみたいって言いだして」
「それで? 昨日は小田原から海沿い走っててそこまで?」
「そう。車、昨日返す約束だったし、真っ直ぐ横浜、帰ろうかと思ったんだけど、このホテルはいつものコースだから、つい寄っちゃったのよ。ごめんなさい、連絡しないで」
「いつものコースだから、ついね。ごちそうさま」
「あら、そんなんじゃないのよ。あの人が横須賀で肉を食べて、ここに泊まりたいって言うから」
「へえ、まともじゃないか」
「そうよ。いたって、まともよ。あの人のこと、おかしいおかしいって言ってたのはあんたじゃない」
「おまえだよ。それ、少し手前味噌だぜ。でも、豪勢だよな。二週間も。金、どうしたんだ?」
「このくらい誰だって貯めてるわよ」
「普通の十八歳は貯めてないよ」
「あら、あたしは十九だもの」
「十九でも二十でも。ハーフの功徳だよ」
「何がよ?」
「コロラド州アレンフィールド空軍基地にいるお父さんに感謝するべきだって言ってるの。君が銀座で金鉱掘り当てたのは、お父さんのおかげなんだから」
「|あいのこ《ヽヽヽヽ》がちょっと流行してるだけよ」
「いいじゃないか、一浪の予備校生なんてどこでも流行してないよ」
※[#「令+羽」、unicode7fce]は少しすてばちに言った。「俺も、ときどき奴みたいな気分になるよ」
「どんな気分なの? あたしには何も言わないのよ」
「俺にも、何も言わないよ。ただ、ときどきむらむらっとくるんだよ。女の子の手を引いてベッドに突撃したくなるのと同じさ」
「同じって何が?」
「何か突撃したくなるの。赤いドア見ると黒く塗りたくなるって、──あれさ」
「ヴェトナムにでも行けば?」
「馬鹿言ってるよ」※[#「令+羽」、unicode7fce]が笑い声をたてた。
「黄色い花なんて珍しくも何ともないぜ」と、庭で言う彼の声が聞こえた。足下の海が騒いで、その先をかき消した。
気をつけて、と、※[#「令+羽」、unicode7fce]は言った。「なにしろ、おまえはブルネットの爆薬だからな」
「何よ、それ」彼女は尖った声を出した。
「あたし、そんなに髪、赤くないよ」
「先月、車ぶつけて死んじゃったじゃないか。ジェーン・マンスフィールドだよ。あいつのこと、ブロンドの爆薬っていうの知らないのか」
「髪の毛のこと言われるの、厭なのよ。子供んときから学校でブツクサ言われてきたから」
「そんな意味じゃないよ。写真を見たんだよ。ライフに載ってたんだ。首が吹っ飛んで、ボンネットの上に転がってるやつ」
「やめてよ、縁起でもない」
「そりゃあそうだった。──ともかく、気をつけてこいよ。十六号線はヴェトナム帰りの軍用車がブンブンすっとばしてるから」
電話を切り、彼女はシルクのシャツのボタンを三つほど止めた。裾を手で引っ張り、下着が完全に隠れることを確かめて、フランス窓まで歩いた。
開いた窓から熱気が入ってきて、彼女は顔をしかめた。太腿の内側がすごい速さで汗ばむのがよく判った。
窓に手をかけたとたん、彼が部屋に入ってきた。
「誰かと話してた?」
「※[#「令+羽」、unicode7fce]から。英二君がこの前通って、見かけたんだって」礼子は応えた。
「あいつら、俺たちのこと見張ってるんだよ」
「ばかね、そんな、──」
「隣の女もさ。あんな黄色い花、珍しくも何にもないのに」
「隣の女がどうしたのよ」
「気を引きやがって、──」
彼は言いかけてふいに止め、大きな図体を細かく折り畳むようにして、彼女のほうへ屈み込んだ。耳元に顔を近づけると、彼の首筋から潮の匂いがした。
「泳いだの?」と、彼女は訊いた。
「ここの海、怪我するわよ。岩が刃物みたいなんだから」
「大丈夫だよ。俺は、大丈夫なんだ」
「ごはん、どうするの。十時を過ぎると部屋に運んでもらえないんですって」
「俺はいらない。腹のなかに靴が入ってるみたいだ」
彼女は大きな声で笑いだした。
「靴、食べたもの。それも一足」
「やっぱり、あれは靴だったのか」と、彼は言って、やはり笑った。
笑いながら風呂場へ入っていった。やがて、お湯を溜める音が聞こえてきた。
彼女は開けっ放しのフランス窓から、体を外へ出した。
隣の庭には誰もいなかった。片隅に、真っ赤なブーゲンビリアが咲いていた。夏になると、温室から運ばれてくる鉢植えだ。黄色も白も、ほかには花など見当たらなかった。
棟割りコテージの軒先に置かれたホンダはとても小さく見えた。もし屋根がついていたら、大人二人が乗ることさえできそうになかった。さいわい、その赤いホンダに屋根はなく、幌も取り外されていた。
※[#「令+羽」、unicode7fce]は、なけなしの小遣いをはたいて、それを修理に出したのだ。ガレージではなく中華街の外れにある帆布屋に。オープンカーの幌に関しては、ホンダが自転車に焼き玉エンジンをつけて売っていたころからのスペシャリストなんだと、彼は言った。
『マッカーサーのジープの幌を直したんだってさ』
ともあれ、この車に屋根はない。雨が降ったら、どこか軒下を探すしか手がなかった。
礼子たちはそのためにフード付きの防水マントを持ってきていた。アメリカ軍が雨期のヴェトナムで戦うようになってから制式化したやつ。彼はそれにくるまると、ものも言わずに助手席に丸くなってしまった。
「暑くないの?」と、彼女は尋ねた。
彼は空を見上げ、口でキュッと音をたてた。
「あたしが運転していくの?」彼女は言った。
「いやあよ、あたし。これ、難しいんだもの」
「何が難しいんだ」やっと、口を開いた。
「男に急かされながらお化粧してるのと同じよ。何か、運転がうまくいかないの」
「判ったようなこと言ってらあ」
彼女が黙ると、彼はマントにくるまったまま降りてきて、フロントを回り、すぐ横に立った。腕を組んで運転席を見下ろした。
「何を見てるの?」彼女は訊いた。
「見てるんじゃない。考えてるんだ」
「何を考えてるのよ」
「今からこれを動かして、走り出して、取りあえずそこの信号を右に曲がって、それから十六号に入って、横須賀を通って──ずっと、横浜まで、──考えてもみろよ」
「何を?」
「考えるんだよ。何だって、やる前にひととおり考えるんだ。俺は、そういうふうにしてるんだよ」
彼女はまた黙り、足音を忍ばせるようにして彼の脇を離れた。それでも、彼が運転席に座るまでは、車には乗らなかった。
エンジンは空中ブランコの始まりを告げる、サーカスのドラムソロのようだった。ときおりそれに、小さく不規則な破裂音が混ざった。
ねっとりと熱い空気をかき分け、ホンダは走り出した。
駐車場のゲートまで行くと、制服を着た老人が出てきて、ホテルの領収証をチェックし、車止めの横木をはね上げた。
道路は海とつかず離れず、くねくねと続いていた。金網に囲まれた狭い波止場では白い運動服を着た防衛大学の学生が、ハンガーからカッターを降ろしていた。
「いい気なもんだ」と、彼は言った。
「カモメの水兵さんだね。戦争ごっこにもなりゃしない」
「何、怒ってるのよ」
「何も怒ってないよ」と、彼は言ったが、頭上でさかまく風にあらがい、怒鳴っているも同然だった。
「こんなときに、あんなことをしている奴もいるってことさ」
「こんなときってどんなときよ」
「こんなときは、こんなときだよ。俺がこんなふうにしてる今ってこと」
「運転が厭になったの?」
彼は口をぽかんと開け、礼子を見つめた。しばらく、凍ったようにそうしていたので、車がセンターラインを跨ぎ、二人は前から来たトラックに大いにどやしつけられた。
「怒らないでよ」と礼子は言った。
「怒ってねえよ。何も怒っちゃいねえんだ」と、彼は大声で怒鳴った。
「※[#「令+羽」、unicode7fce]が、ブロンドの爆薬の二の舞だけはやめてくれって」彼女は話をそらした。
「何だそれ、──」と、言いかけ、
「ああ、そうか。ジェーン・マンスフィールドの交通事故な。あいつも、写真を見たんだな」と、神妙な顔で頷いた。
「写真ってなあに?」
「ライフに載った事故の写真だよ。生首がふっ飛んで、壊れた車のボンネットにころりと乗っかってるんだ」
「いやあだ。そんなに凄かったの?」
「凄いも何も、首がズッパリだよ。車なんか、形も残ってないんだ。隣に乗ってた恋人も、人間の形してなかったってよ。そのくせ、後ろの子供は無事だったんだ。三人とも、無傷で助かったんだって」
「紙一重ってこのことよね。生きるのと死ぬのと」
「紙一重ってんじゃないんだよ。俺は、思うんだが、それは紙一重っていうのとは違うんだ」
「きっとそうね」
「考えもしないで、返事するな!」
彼は怒鳴った。今度こそ怒っていた。
ギアを落とし、アクセルを踏み抜くと、礼子は空気を大きな重しのように感じて身を縮めた。髪が逆立ち、風にまぎれた。決して気持ちのいい風ではなかった。
隣の席では、彼のマントが大きな音をたて、暑苦しく羽ばたいていた。
彼女が取ってやらなかったら、それはどこかへ飛んでいってしまったろう。反対車線から何台もの車をごぼう抜きにしている最中だったので、飛んでいったマントは、とんでもない惨事を引き起こしたかもしれない。しかし、たとえそうなっても、彼は瞬きひとつせず、真っ直ぐに伸ばした手で、扼殺者のようにハンドルを押さえつけ、前を見据えていただろう。
マントを取られた彼は、素肌にTシャツ一枚だった。汗がとびちり、見る間に鳥肌がたった。
正面から来た路線バスがけたたましく吠えかけた。
彼は怯まなかった。左手には傷だらけのヒルマンがいた。前に入ろうとすると速度を上げた。相手は意地になっているようだった。ゆるい下り坂、バスはすぐ目の前、右も左も路肩の外には逃げ場がない。
ヒルマンとバスの隙間を縫うようにして車線に戻ったとき、礼子は思わずマントを抱きしめ目をつぶっていた。
クラクションが十字砲火のように彼女の周囲を駆け抜けた。
「混じってるんだよ。ぐちゃぐちゃに混じって、勝手気ままに転がっているんだ。それが問題なんだ」
と、彼は大声で言った。もう周囲に車はなかった。右手の防波堤の向こうで波がかすかな音をたてているだけだった。左手には角砂糖のような住宅がびっしり建て込んでいた。
またゆっくり熱にうれた空気が押し寄せてきた。
「何のこと?」と、思わず礼子が訊いたのは、その先を左に折れ、国道へ出た後だった。
「だから、紙一重なんてきれいごとじゃないってことだよ」
彼は答え、彼女は黙って頷いた。
汐入の信号でトラックに両側を挟まれた。タイヤしか見えなかった。排気ガスが正面から襲いかかり、熱気は耐えがたいものになった。
彼女は激しく咳き込み、小さなホンダを短く罵った。
「怒るなら、トラックに怒れよ」と、彼は言った。
「悪いのは、この車が小さなことじゃない」
彼女は、返事をしなかった。ハンカチをビーズのバッグから取り出し、口許を抑えた。信号が変わった。
下士官クラブの駐車場から飛び出してきた兵員輸送車が轟音を蹴たてて前に割り込もうとした。彼は四文字言葉を張り上げ、その鼻先をすり抜けた。
拳を振り上げて、後ろの運転手に怒鳴り散らした。
後輪がキャタピラになった兵員輸送車は、トンネルの手前の上り坂でずっと遅れた。すぐ見えなくなった。それでも彼は、怒鳴りつづけた。
横浜に入ると、FENの入りが悪くなった。音楽が雑音に途切れると、彼が手を伸ばしチューナーを回した。先月死んだジョンのために一曲、と男のアナウンサーが低音を効かせて言い、『至上の愛』がかかった。
「ジョンだなんて言いやがって」
彼は鼻で笑い、チューニングを変えた。
「驚くじゃねえか。何がジョンなもんか」
しかし、ラジオは雑音を拾うばかりだった。彼は手を離し、
「金はまだあるか?」
いきなり聞かれたので、彼女はとっさに自分のバッグの中に手をつっこんで財布を探した。
「まだ、五、六千円ならあると思うよ」と、彼女は言った。
「今夜おいしいもの食べて、どこかに泊まるぐらいならなんとかなるんじゃない?」
「違うよ。まとまった金だ。おまえ、貯金はこれで全部か?」
「あとは定期にしてるから」と、礼子は言って、何やら新しい事態に身構え、眉をひそめた。
「定期だって! それ、定期預金ってことか?」
「言うだろうと思った」
「何をだよ」
「何か、バカにしたようなこと」
「バカになんかしてない。感心してるんだ。本当に、おまえは俺じゃないんだな」
「あたりまえじゃない」
「あたりまえか」彼は、本当に感心した様子でその言葉をもう一度繰り返した。
「それって、あたりまえか?」と。
それから前に遠い目を投げ、
「そりゃそうかもしれないな」
「知り合いのコマンダーがいてね、彼に頼んで、バンカメリカに預金してるの。だから崩すのが大変なのよ。あたし、市民権だけしかないじゃない。──本当は違法なんですって」
「なんでそんな面倒なことをするんだ」
「だって、利息がぜんぜん違うんだもの。やっぱり、戦争してるからかしら。戦争公債が買えるともっといいらしいんだけど」
「やめちまえ、そんなもの」
彼は妙に甲高く、冷やかな声で言った。
礼子が黙っていると、なぜか少しうろたえて、彼はこう付け加えた。
「金なんか、使うためにあるんだ」
「言うと思った」
「言うって何を?」
「そういうようなこと」
今度は彼が黙り、それは富岡のトンネルを潜り、埋め立て地のなかの産業道路を走りはじめるまで続いた。
「貯めたってしかたないって言うんでしょ」と、彼女は言った。
「明日死んじゃうかもしれないのに?──でも、あたしは自分が死ぬ方になんか賭けられないもん」
「そんなことは言っちゃいないよ」
「目的なしに貯めてるんでもないのよ」
「目的とか、そういうんじゃないんだ。銀行なんか、明日にも原爆が落ちて無くなっちゃうかもしれない。自分が最後まで生き残るほうに賭け続けてもさ、ドッカンときたら、何の意味もないじゃないか。俺はそういうことを言ってるんだ」
「アメリカに行こうと思って貯めてるのよ」と、彼女は言った。
彼はまた黙り、それが今度は本牧埠頭の工事区間にさしかかるまで続いた。
「ハワイへ行けるくらいなら、貯まったか」と、彼が切り出したのは、小湊のT字路に音をたて、タイヤを引きずり、ホンダが市電通りに飛び込んだ直後のことだった。
「ハワイ?」と、礼子が聞き返した。
「おお、ハワイへ行こうぜ」
彼は歌うように言った。
「ハワイに行こうと思って、金のこと訊いたんだ」
「飛んで火に入る夏の虫ってあたしね」
「おまえのそういうのって、いつも何かちょっとズレてるぞ」
言われると、眉間に皺を寄せ、礼子はすこし悲しそうに彼を見上げた。
ラジオがまた電波を拾い、低い空電を割るようにしてビーチボーイズの声が聞こえはじめた。
彼女がくすくす笑った。
「なんか、取ってつけたみたいね」と言い、
「取ってつけたみたいって言うでしょ? こんなときは」
「船があるんだ」と、彼はおかまいなしに言った。
「貨客船で、うんと安いんだ。飛行機の四分の一もかからない。客室が三十一ついてる。ちゃんとした個室だぜ。風呂は大風呂だけど、シャワーとトイレは部屋についている。どうだ、いい話だろう。新高丸っていうんだ」
「何、それ?」
「船の名前だよ」と、彼は言った。
「ニータカマルなんてすごい名前ね、戦争にでも行くみたい」
「馬鹿じゃねえのか!」
彼は怒鳴った。彼女が首をすくめ、斜め前を走っていたタクシーの運転手が振り返るほど大きな声で。
「いまどき、戦争に行くのはコーラルリーフとかブルーヘイブンてえような名前の船なんだ」
彼女がラジオを大きくした。ビーチボーイズは歌いつづけた。しかし、それは夏どころかハワイでもサーフィンでもなく、月の出ていない夜の海についてだった。
彼が手を伸ばし、ラジオを切った。
「どうなんだよ」と、彼は訊いた。
「考えとくわ」彼女は目線を膝に落として言った。長い睫毛が深い影をつくった。
彼はそれを見なかった。何も見ていなかった。彼は目をつぶって海岸通りを走ろうとしていた。
「あたしが行きたいのは、コロラド州なの」
「帰りに寄ればいいさ。ハワイからなら国内線だ。飛行機もぐっと安いんだ」
「ひと! 危ない、人!」と、彼女が叫んだので、彼は目を開き、車を止めた。
目の前の横断歩道を黒人の兵隊が二人連れ立って、港に迫《せ》り出した公園の方へ渡っていくところだった。
クラクションがあちこちで切れ切れに鳴った。その信号は赤だったのだ。
「信号が見えないのかしら」彼女が言った。
「赤が嫌いなのさ。赤が嫌いなだけだよ」
彼は言い、今度はこっちの信号が赤になっていたにもかかわらず、ホンダを前に出した。
「クロンボなんてとことん無神経な生き物なんだよ。あいつらは、殺されなけりゃ死にもしないんだ」
「よしなさいよ、そんな言い方。そっちのほうが、ずっと無神経じゃない」
「戦争に行って頭のなかに雑巾を突っ込んで帰ってくるような連中よりましさ」
「やめなさいよ」
彼は市バスの後につき、車をゆっくり前進させた。シルクセンターのロータリーまで、ぴったりとバスの尻にへばりついて行き、そこで急に右へ膨らみ、ロータリーをこれ以上ないというほど小回りに、しかもものすごい速度で回った。後輪が滑り、消しゴムのようにアスファルトをくしけずった。
礼子が悲鳴をあげた。彼は、水上タクシーの乗り場の前までまったく速度を緩めなかった。そこからは逆にのろのろと、保税地区の立入禁止標識を馬鹿にするみたいにやり過ごした。大桟橋の中に入ってしまうと、小さなホンダはキャリアやクレーン、フォークリフトなどに隠れてしまい、まるで目立たなかった。彼らは上屋の反対まで行って、送迎デッキから降りてくる階段の下に車を止めた。
礼子は、車から飛び出すようにして降り、陽の中へ歩きながら伸びをした。日差しは溶けたアイスクリームみたいにべとついていた。とても伸びをして歩くような代物ではなかった。
彼は、車から降りようとしなかった。またマントをひきよせ、それにくるまってしまった。額には汗がわきだし、それが厭な色に光っていた。
彼女が呼ぶと、運転席に身をかがめ、
「俺は、イナフだ」と言った。
「一日に、陽に当たれる量は決まってるんだ。屋根のない車に乗ってたから、もうそれを使い切っちまったよ。俺はしばらくここにいる」
「そんなこと言って、ハワイなんか行ったらどうするのよ。太陽だらけよ、あそこはきっと」
「あそこのは、いいんだ。だって、おまえ、あそこには蛇がいないんだぞ。アフリカから来たやつは何もいないんだ」
礼子はそのとき、すでに階段の裏側で、港の向こう岸の軍用埠頭に錨を降ろした巨大な上陸用舟艇を見ていた。そこから、次々と降りてくる戦車の行列に見とれていた。
だから、大きな水音があたりに轟くまで、小さなホンダが海に向かってゆっくり走って行ったことには気がつかなかった。
「ハワイへ行こうとしたんです」と、彼女は最初に飛んできた荷役業者に言った。
「本当なのよ、ハワイ行こうとしただけなの」
どこへ行ったかは別として、そのときはもう、車も彼も泡さえも、海には何も見えなかった。
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悍馬の前脚
東側の遠く高い空から、かさかさに乾いた風がひっきりなしに吹き下ろしていた。
空はどこか粉っぽい水色で、パームの並木が、道のずっと先まで大きく揺れていた。しかし、風が巻き起こすたとえどんな音も、そちらからではなく、みんな足許から、とりようによっては地の底から聞こえてくる。
ガレージのシャッターが開くモーター音は、だから最後まで聞こえなかった。
「早く乗れよ」と、タカシがせき立てなかったら、その車がすぐ背後まで来ていることにさえ気がつかなかったろう。
真っ赤なボディの中に真っ白な革製の座席がふわふわ浮かんでいるように見えた。巨大な風呂桶みたいでもあった。彼の全身が、真下から彼女を見上げたので、エリエーヌはやっと、その車に屋根がないことに気がついた。
こんな風の強い日にオープンカーなんかで大丈夫なのだろうかと、彼女は思った。
「いいから、早く」と、切羽詰まった調子でタカシは言った。
足許に置かれた二人分の荷物を後ろへ放り込み、彼女が乗りこむと、彼はドアも閉めないうちからブレーキを放した。赤いオープンカーは、大きく跳ねて道路へ飛び出した。
「これ、何ていう車?」
彼女は、唸り声を上げているエンジンと競い合って怒鳴った。
「マスタング」と、タカシが怒鳴り返したとき、車は最初の信号を左に曲がった。足許でタイヤが悲鳴を上げた。
「フォードかと思ったわ」
「フォードだよ。フォードが作ってるマスタングの、──」
「まだ先があるの?」と、彼女が訊いたので、
彼は首を振り振り、
「その中の一番高いやつ」と応じた。
「そんなのが、よく借りられたわね」と、彼女が言った。
そのころになると、もう風の音には、二人ともすっかり慣れていた。大声を出さずとも、相手が何を言っているか、お互い分かり合うコツのようなものを掴んでいた。
そこで、彼は声を落とし、ゆっくりこう言った。
「人徳ってもんさ」
事実、車のほうも、だいぶゆっくりになっていた。
「何をあせってたのよ?」彼女が尋ねた。
「何もあせっちゃいないよ」
「ヨーロッパのスポーツカーみたいな運転だったわ」
エリエーヌは、小鼻にごく知的な皺をよせ、肩をすくめてみせた。すると、彼女はどう見ても東洋人ではなくなった。半分はヨーロッパ人だというのに、普段、その血はどこかに完全に隠れている。彼女はただ背の高い中国人にしか見えない。しかし、ときおりこうしてそれは逆転するのだ。
「それって、どんな運転のことを言うんだ」と、彼は尋ねた。
そのころにはもう、ブールバードを離れ、マスタングはフリーウエイを東に走りはじめていた。左手の小高い丘の中腹に、例のハリウッドの文字看板が大きく見えてきた。風は、背に回っていたので、もう煩くはなかった。
「ロケットスタート」と、彼女は言った。
「軽くてエンジンの大きな車だとそうなるでしょう。パパがジャギュアを持ってたのよ」
「Eタイプがヨーロッパふうだと思ったら大間違いだよ」
「あら、そう」
「そうさ。力任せに飛び出すのは、むしろアメリカふうなんだ。フランス人が聞いたら気を悪くするぜ」
「いいも悪いも、ママはけっこう楽しんでたわ。いつも、助手席できゃあきゃあ言ってたもの」
「ヨーロッパの速い車はね」と、彼は言った。言いながら、深く腰掛けなおし、ハンドルに手をゆったり伸ばした。
「ほとんどアメリカ人のために造られてるんだ。あんなものを買うのはアメリカ人だけだったからね。ドルの威力だよ」
彼女は興味なさそうに頷き、ラジオをつけた。今週に入ってからサイゴンに加えられていたヴェトコンの攻勢は、夜になってぴたりと止んだとアナウンサーが囁いた。
午後一時、彼はダッシュボードの時計を見る。サイゴンでは明日の午前四時。このところ、その換算がすっかり習い性になってしまった。
「不気味な沈黙、嵐の前の静けさとでも言うのでしょうか」
まったくだ。彼は馬鹿正直にラジオの声にひとつ頷き、煙草を出して口の端にくわえた。
「軍事顧問団をはじめ、大使館員など、サイゴンに止まっていた我が国民はほとんど脱出を完了した模様です。なお統合幕僚本部の発表によれば、フォード大統領が緊急派遣を約束した空母機動部隊は、すでにカムラン湾南東洋上に待機しています。サイゴンは現在、ヴェトコンによって完全に包囲され孤立しています」
彼は、アラモ砦をたちどころに思い浮かべた。リチャード・ウィドマークは言うまでもなく、あのジョン・ウエインですら絶望的に死んでいく、あの砦を。
その映画で皆殺しを企てたのは、待てよ、メキシコ軍のはずだ。それが、どうしてもイメージを刻まない。頭のなかで、いつもお馴染みのインディアンの大群が、砦を幾重にも包囲しているのだ。
そこで、彼は、この連想がアナウンサーの思うつぼなのだと気がついた。
だいたい、三大ネットをはじめとして、気のきいたメディアは、今年に入ってから南ヴェトナムに取り残された朋友の敵を『北ヴェトナム軍』と呼んでいる。
V・Cどころかヴェトコンですら、近頃では声をひそめないと口にはできない。便所の落書を読み上げるようなものなのだ。
「音楽」と、彼女は言った。
手を伸ばして、チューニングのスイッチを次々と押した。しかし、満足に音が聞こえるところはひとつもなかった。
「なあに、これ」彼女は怒ったように呟いた。
「全部狂ってるじゃない」
「こっちの車じゃないからね」
「じゃあ、どっちの車なのよ」
「テキサスのナンバーがついてる」
「じゃあ、ヒルビリーしか聞けないってわけね。呆れちゃうわ。ほら、娼婦と牧童の音楽ってやつよ。ミリーがロイと別れたのも、もっともだと思うわ」
「ミリーって演劇科の赤毛か」
「そうよ」
「ロイって誰だよ」彼は尋ねた。
エリエーヌはなかなか答えなかった。
車はダウンタウンのビル街を掠めてさらに西に向かって進んでいた。ロサンジェルスのダウンタウンにたいして高いビルはない。しかし、のんべんだらりと広がるこの町に丸二年住んだ者にとって、そこは間違いなく大都会に見えた。それも、ハリウッドがつくった巨大なオープンセットの大都会に。
「あなた、おなかがすかない?」と、彼女は言った。
「ここから南に行ったら、日本食はもちろん中華だってないのよ」
「タコがあるからいいよ」
「タコ、タコ、タコ」彼女は口を窄《すぼ》めた。
「エンチラーダ、トルティーヤ」
彼は火を点けそこねた煙草を吐き捨てた。それから首を伸ばし、彼女の唇にキスした。
車がぐらりと揺れて、前輪が車線を踏んだ。後ろから来たトレーラートラックが蒸気機関車のような警笛を浴びせ、脇をすり抜けていった。
その巨体が巻き起こした風で、マスタングはまたぐらりと左右に振れた。
「なんてえハンドルだ。まるで、UFOだね。ウオーターベッドでやってるみたいだ」
「いやあね」と言ったが、彼女は空の色と同じくらい透明な声で笑った。
「バカなこと言わないでよ」
「ふわふわしてつかみどころがないや。よっぽど間抜けなヒルビリーのものだったんだぜ」
「みんなこうなんじゃないの?」
「そんなことはない。前に乗ったやつはもっとシャキッとしてたよ」
「また女にたとえたら、今度こそ本当に怒るわよ」
「何を何にだって」
「あれを女のあれによ」と、彼女は言って、思い切り蓮っ葉な調子で彼の肩口を小突いた。また笑った。それから、ラジオにかがみこみ、マニュアルでFM放送を探しはじめた。
そのうち、本当にカントリー&ウエスタンが聞こえてきた。彼女はあわててそこを飛ばした。
また電波をつかんだ。
「ドゥービーっていうのも、今ひとつだね」と、彼は言った。
「あら、あたしは好きよ」
「知ってるよ」彼は言った。
「ぼくと君が唯一気の合わないところさ」
「唯一ですって!」彼女は大げさに驚いてみせた。
「だったら、なんて素敵なんでしょう」
「ぼくは一週間くらい前から、ずっと素敵だけどね」
「あたしにも分けて欲しいもんだわ」
彼はまたキスをしようと首を伸ばした。彼女は身を反らし、向こう側のドアに体を預けてしまった。
「何を怒っているんだよ」
「何も」と、彼女は歌うように呟いた。
「あなたが私に求めてるものなんてたかが知れてるから」
「洒落た口をきくな」と、彼は言った。
「|たかが知れてる《ヽヽヽヽヽヽヽ》なんて、どこで仕入れた言葉かあててみようか」
エリエーヌは鼻を鳴らした。すると、彼女の小さく上向きに鎮座した鼻が、顔の真ん中で別の生き物みたいに動いた。
「おなかがすいているのよ」
彼女は思い出したように言った。
日が雲に隠れ、地平線がぼんやりと陰った。見ると、あたりにはもう家並みが途切れていた。左右の土手は赤い土が剥き出しで、雑草も木立もどこもかしこも埃っぽかった。
「忘れちゃった?」
「もう手遅れだよ」と、彼は言った。
「どっちにしろ、この先はサンディエゴまで碌なものはない」
「マックでいいのよ」
「ビールがないからな」
「あたしはコークで充分よ。あなたもそうしなさい」
「じゃあ、ガソリンスタンドと一緒のところがあったら寄っていくことにしよう」
「なかったら?」
「サンディエゴでタコだ」
「タコ、タコ、タコ。これからメキシコへ行こうっていうのに。メキシコに入ったら、嫌でも毎日タコよ」
「そんなこともないさ。七面鳥が食えるかもしれない」
「おお、許してちょうだい。あのチョコレートソースの七面鳥ね。真っ黒けのけ。思い出しただけで寒けがする」
サービスエリアの案内は、すぐに現れた。あと十五マイル。その十五マイルのあいだ、彼女はひとことも口をきかなかった。黙ってラジオのチューナーを弄《いじ》っていた。
ドゥービーが終わると、例の放送は恐ろしい勢いのスペイン語でまくしたてはじめた。当面、音楽をかけそうになかった。それでも、他は、喧しい電磁ノイズのような音楽ばかりで、彼女の気に入るような局にはなかなか当たらなかった。
そこは、セルフサービスのガソリンスタンドとハンバーガーショップが一軒在るだけの狭い場所だった。すぐ後ろが牧草地になっていたが、羊も牛も見当たらなかった。その向こうはゆるゆるとひろがる果樹園だった。しかし、まだその木々は葉もつけていず、何の実がなるのかも判らなかった。
彼らはガソリンを満タンにして、煉瓦敷きのテラスに席を取り、チーズ入りのハンバーガーをそれぞれひとつと、大盛りのフレンチフライを三袋、注文した。
番号を呼ばれ盆を渡されて、タカシが席に戻ると、彼女はすぐさまフレンチフライの袋を破り、紙皿に全部、乱暴に盛りつけた。何も言わずにケチャップで、その山を真っ赤にしはじめた。
「おい、少しは残しておいてくれよ」
「何を?」
「イモだよ。ぼくは塩で食べるんだ。そんなアメリカ人みたいなもの、よく食えるな」
「あら、だって、アメリカ人だもの」
「ああ、そうだ。そのとおりだ」
「変な人」
「ケチャップとマヨネーズが嫌いなんだよ」
「それなら、そう言えばいいのよ」
と、彼女は言って、プラスチックのフォークで、山の下から赤く染まっていないポテトを掘り出し、紙ナプキンに取り分けた。
彼は塩もかけずにそれを食べた。機械油のような臭いがした。
彼は黙って口を動かし、ポテトとハンバーガーを交互にかじった。
食べ終わると、黙ったままカウンターへ行き、コーヒーをふたつ買って戻った。
「ところで、さっきの話だけど」
と、彼は言った。彼女のコークはまだ半分以上残っていた。ハンバーガーも、大半、残っていた。
「ロイって誰だよ」
「いやあね、お爺さんみたい」
エリエーヌは、また例の鼻を動かしながら呟いた。
「わかったわよ。あなたの大嫌いな、あ奴のことよ。映画学科のけちん坊」
「やっぱりあの熊野郎か」
「毛深いからって劣等感を持つことはないわ。あなた、東洋人にしては充分毛深いわよ」
「そんなことで嫌ってるんじゃないよ」
彼は言った。「ああいう、訳知り顔の奴が嫌いなだけさ。溝口健二を見たことがないからってどうしたって言うんだ」
「どうもしないわ。あなたがどうこう言ってるだけよ」
そのとき、遠くでガラスの割れる音がした。ドライヴスルーの料金所の近くだった。
どこかでドアが大きな音をたてて閉まった。
彼女が頭を抱え、ぱっと卓子の下に飛び込んだので、タカシはやっと、それがドアの音ではないことに気づいた。
また、同じ音がした。悲鳴がふたつ続いた。空気が耳の近くでジンっと痺《しび》れた。
彼は歩きだした。物音がした方に向かって、まっすぐ早足で歩いていた。
「ばか。どこ行くの」という声が追ってきた。その声はひきつっていて、今にも一オクターブ跳ね上がってしまいそうだった。
「よしてよ。死んじゃうわよ」
彼はよさなかった。死ぬとはとても思えなかった。謂れのない義務感に駆られていたが、それは義侠心や正義感とはぜんぜん縁のない性質のもの、しいて言うなら好奇心に近かった。しかし、好奇心にしては、妙にクールだった。
ドライヴスルーの出口に止まっている小さなトヨタが見えた。大柄な黒人が運転席に丸くなっていた。白目がぴかっと光ってみえるほど白く、そこだけが印象に残った。
さらに歩くと、その車がピックアップだということが判った。荷台にはもう一人、色の浅黒い男がテンガロンハットを目深に被って座っていた。そ奴は散弾銃を握っている。
ただぼんやり手にしているだけで、構えているわけではない。これから猟にでも行こうというように。
「やあ」と、タカシが声をかけた。
「今、こっちで鉄砲の音が聞こえなかったか」
テンガロンハットの男がこっちを向いた。真っ赤に灼けた首にビーズのネックレスが幾重にもかかっていた。襟足の毛だけを一筋長く伸ばし、そこをネズミの尻尾のように編んでいた。
何も言わず、彼は運転席のリアウィンドーを拳で軽く叩いた。黒人がさも億劫そうに首をねじった。
テンガロンハットの男がタカシを指さしてみせた。
「行きな」と、黒人が言った。車の窓は開いていた。
ドライヴスルーのカウンターには誰もいなかった。その窓は粉々に砕けて、かけらが地面で光っていた。
「とっとと消えちまえよ」と、黒人が言うと、テンガロンハットを被ったインディアンは生真面目な生徒が教師に同意を示すみたいに大きく頷いた。
「俺はあんたにものを尋ねたんだ」
タカシは不機嫌になってインディアンに言った。「そっちの人に聞いたんじゃない」
「こ奴ははにかみ屋なんだよ」
黒人がおかしそうに笑った。とたんに空気が和《なご》んだ。
「喋らせようとすると、代わりに撃つぞ。気をつけろよ」
タカシはそれでも腹をたてていた。彼はさらに一歩、前に出た。
インディアンの散弾銃がさっと動き、銃口が光った。目の前が破裂した。トヨタが烟《けむり》に包まれた。火薬の匂いがたちこめた。
爪先のアスファルトがえぐり取られていた。足首がなぜかちくちくと痛んだ。
紫煙を一筋たてる銃を、インディアンはしっかり構えていた。銃口は、彼の目を睨んでいた。黒人はもうこっちを見ていなかった。
ドライヴスルーの出入口がほんの少し、内側から開き、男が顔をのぞけた。こっちを一瞥すると、ドアを慌てて閉めた。
鍵穴が銃撃で壊されているのが見えた。
強い風が吹いてきて、タカシを打ちのめした。それは、頬にひりひりするほど熱く乾いていた。
背中で悲鳴が聞こえた。引きつけをおこした子供のような甲高い声だった。
ドライヴスルーのドアがばたんと開いた。とたんに上の蝶番《ちようつがい》が吹っ飛んだ。それが路面にからから音をたてて転がった。
男がふたり、空気に体当たりをくわせるように勢いよく飛び出してきた。ひとりは拳銃を、もうひとりはスーパーマーケットの大きなビニール袋を持っていた。それが重そうにふくれ、がさごそ鳴った。
男はふたりとも背が低かった。肌が浅黒く、ごつごつした顔だちで、拳銃を持っているほうは野球帽を被っていたが、どちらも硬い黒い髪をしていた。
ふたりは助手席のドアを開けて、ピックアップに乗り込んだ。ドアが閉まる前から、タイヤを泣かせて、黒人は車を出した。
インディアンは散弾銃を構えていたが、荷台はがたがた揺れて、体を支えるので手一杯だった。道路に出るところで、後輪が大きく弾み、振り落とされそうになった。彼は銃を下ろし、テンガロンハットを片手で抑え、何か怒鳴った。また揺れた。エンジンが高鳴り、怒鳴り声はどんどん遠くなった。
タカシは再び強い風を感じた。
汗が首筋を伝い、Tシャツに包まれた背中に流れ落ちた。それをきっかけに、あちこちから汗が吹き出してきた。
マスタングの方で悲鳴が上がった。
彼は車へ普通の歩調で引き返した。
「ポテトを買いにいったときは何もなかったのにな」と、助手席のドアの脇に立って彼は言った。足許には食べ物や飲み物を乗せたトレイが引っ繰り返っていた。
彼女はシートの上で、両足を抱え込み、丸くなっていた。
「いったい、いつ来たんだろう」
「何バカなこと言ってるのよ」
エリエーヌの声はぶるぶる震えていた。言葉を喋らないでいると、奥歯がカスタネットのように鳴った。あまり景気よく鳴るので、タカシはおかしくなった。笑いを抑えるのに苦労した。おかげで汗がひっこんだ。
「バカよ、あんた」彼女は口の中でカスタネットを鳴らしながら言った。
「死んじゃうじゃない。死んじゃうとこだったのよ」
「そうか」と、彼は頷いた。
「まったく気がつかなかった」
「何言ってるのよ。撃たれたのよ。足撃たれたのに、何言ってるのよ」
「足じゃないよ。道路を撃ったんだ」
「バカ言わないでよ。死んじゃうとこだったくせに」
彼女は自分の口を両手で抑えた。窒息して死のうとでもするみたいに強く。
それで、こみ上げてくる悲鳴を抑えているのだった。
タカシはドアを開け、彼女を抱き寄せた。
背中に手を回すと、どれほど震えているかよく判った。
彼女は声をたてて泣き、数分間に何度も洟をかんだ。
遠くでパトカーのサイレンが聞こえたので、彼はエリエーヌをシートに戻し、車に乗った。さいわい、マスタングが道路に戻ったとき、パトカーはまだ地平線のへりにかすかに青ランプを点滅させているだけだった。
駐車場にいた車の半分が、彼と一緒にその場から逃げだした。
店の中から出てきた店員たちは、ぼんやりパトカーのやって来る方に眸《め》を投げているだけだった。引き止めようとするどころか、注意も払わなかった。
「何故逃げたの」と、彼女が訊いたのは、十マイルほど走った後だった。
「事情聴取なんかされたら、半日仕事だ。夜になっても、国境を越えられないよ」
「でも、損だわ」エリエーヌの声は、涙ですっかり嗄《しわが》れていた。
「何が損なんだよ」
「こんなひどい目にあったんだもの、補償させるべきよ」
「補償って、誰に何を?」彼は呆れて聞き返した。
「けちな強盗が目撃者に精神的慰謝料《ヽヽヽヽヽヽ》を払ったなんて聞いたことがない」
「セイシンテキイシャリョウって何?」
「怖がらせた詫び賃」
「ああ、精神的慰謝料ね」彼女は発音を訂正し、彼にそれをゆっくり言って聞かせた。
「そんなんじゃないわ」
「じゃあ、どんなんだ」
彼女はラジオを入れた。ますますスペイン語の放送が増えていた。そのうち可もなく不可もないといった音楽を探し当て、手を止めた。六〇年代の、どこかで聞いたようなポップスだった。
「別に、言ってみただけよ」彼女はバツが悪そうに呟いた。
「強盗に襲われて客が危険な思いをするなんて、半分は店の不注意よ」
「州間ハイウエイなら当局の管理がどうこう言えるかもしれないね」
「あら、そうじゃなかったの?」
「ガソリンスタンドの標識が見える少し前で、道路工事をしてたろう」
「そうだった?」
「ああ。そこから、ただの州道だよ。工事で迂回させられたんだ」
「じゃあ、州の責任は」
「ばかばかしい。いったいいつからそんな考え方をするようになったんだ。孔子とか孟子が泣くぜ」
「知らないわ、そんなの。うちはクリスチャンだもの」
「孔子や孟子は別に仏教じゃないよ」
「あなた、日本人のくせに変なこと詳しいのね」
タカシは、黙って煙草を出した。火を探していると、音楽が終わり、アナウンサーがニュースを読みはじめた。
ホワイトハウスの報道官の発表。サイゴンでは明け方、タンソニュット空港で激しい撃ち合いがあり、死傷者が多数出た模様。空港は閉鎖、解放軍の旗が管制塔にひるがえったという情報もある。
ABCネットワークは、一週間後にトロントで行われるジョージ・フォアマンの敗戦後初のエキジビションマッチの解説者として、ムハメド・アリと契約した。フォアマンは抗議。しかし、ドン・キングの仕掛けでは太刀打ちできまい。
「可哀相に」と、彼は呟いた。
「自業自得よ」彼女は言った。
「私たちに帰れと言いだしたのは彼らのほうなんだから」
「私たちって、それ、誰のことだよ?」
タカシはきょとんとして尋ねた。
切り通しを過ぎると景色がぱっとひらけ、風が頭上でさかまいた。真っ赤な地面が左右にずっと広がっていた。右手の地平線には黒っぽい山陰があったが、左手は低い雲がものすごい速度で流れているだけだった。
風はいよいよ強く、彼は怒鳴らなければならなかった。
「ねえ、私たちって、それ誰だよ」
「だから、アメリカ軍に出ていけって言ったのは彼らじゃない。彼らだけじゃなくて、フランス人も日本人も、あちこちみんな」
「ヴェトナム戦争のことか?」
「じゃあなかったら何なのよ」
お互いに風に逆らい怒鳴りあっていたので、まるで喧嘩をしているみたいだった。
「フォアマンのことを言ったんだよ。ボクシングの話だ」
「フォアマンて誰よ」
「呆れたね。去年、アフリカでアリとやりあったチャンピオンを知らないのか」
「その試合なら知ってるわ。アフリカのボクサーね」
「何を言ってるんだ。アメリカ人だよ」
「あら。何で?」彼女は聞き返した。
「アリだってアメリカ人でしょう? アメリカ人同士が何でアフリカでボクシングをしたのよ」
さあ、なぜだろう? 彼は一瞬、考え込んだ。答えなど永遠にみつかりそうになかった。
去年の十月、いや、十一月になっていたのかもしれない、カムバックしたムハメド・アリがヘビー級のチャンピオン・ベルトを賭けてジョージ・フォアマンに挑んだとき、タカシはそれをホノルルの中華料理屋のTVで見ていた。
中華街の入り口にひしめき合っていたGIバーは、すでに半分が店を閉じ、真珠湾循環のバスが兵隊を休みなく運んできていた時代を知る者に、そこはゴーストタウンのように見えたものだった。
つい二、三年前まで、アラワイ運河のぎりぎりこっち側まで、けばけばしいネオンと安っぽい掘っ建て小屋が点在し、あの辻この辻で観光客の眉をひそめさせていた。ワイキキのディスコですら、ヴェトナムから命の洗濯に来た兵隊の獣のような臭いがいつもどこかに漂っていた。
彼は、そんなことをぼんやり思い出しながら、がらんとした中華料理屋の片隅でTVに目を投げていた。
驚いたことに、中華街では、誰もそんなものに興味を持っていなかった。アメリカや日本の観光客が来る店なら違っていたのだろうが、そこは、窓際の席で店主の老母が日がな一日うたた寝をしているような店だったのだ。
「面白いのかよ。こんな殴り合い」
と、誰かに聞かれたのを覚えている。
「面白いさ」と、答えたのはなぜだったのか?
アメリカにいる自分の、それが義務であるかのような気がしたのだ。
だらだらと続く試合だった。一ラウンドが七分くらいはありそうだった。
アフリカからの衛星中継は、映りがひどく悪かった。なぜか、ときどきカメラが野球中継のようにズームバックして、会場全景を映し出した。打ち合いの最中であるにもかかわらず。
その会場は、まるで暴動が起こったワールドカップのサッカー場といった具合だった。何万もの人が磁石で踊る砂鉄のように波うち、沸き立っていた。ほぼ全員が、アリの味方だった。カメラが引ききると、リングはマッチの頭ぐらいの大きさになってしまったが、勝負の流れは、群衆の反応ですぐにわかった。
「そう、あ奴は戦争へ行かなかったからね」と、タカシはふいに思い立って言った。
「何が」と、エリエーヌが首を捻った。
彼らのマスタングは横風を気持ちよく感じながら、ループを上り詰め、州間ハイウエイに入ろうというところだった。
「ねえ、何の話よ」
「今の話だよ。なぜ、アメリカのボクサー同士、アフリカで試合したのかって聞いたろう」
「ああ、そのことね。──なぜかなんて聞いてないわよ。アフリカでやったっていうから、アリの相手はアフリカ人なのかと思ってただけよ」
たしかに、昼寝で見た夢のようにぼやけた衛星中継の映像は、それをおそろしく遠い出来事にしていた。フィルムで撮られたヴェトナムの戦場より、ずっと遠い闘いに。
「アリは、兵役を拒否してチャンピオンの資格を剥奪されたんだ。それは知ってる?」
「ちょっとね」と、エリエーヌは言った。まったく興味がない様子だった。
「だからだよ」と、彼は言った。
「だからって何が。ムスリムになったのも結局、あの六〇年代のムーブメントってわけでしょ」
タカシは返事をしなかった。
どちらかといえば、アリは好きなボクサーではなかった。ことに、蝶のように舞いもせず、蜂のように刺しもしない、あの夜のようなムハメド・アリは。
「それがどうしたの?」と、彼女が言った。
「ムスリムに帰依したのは、もっとずっと前だよ」と、彼は不機嫌な声で言った。
「どちらにしろ、戦争へ行きたくなかっただけでしょう」
それで、タカシはまた黙った。
前の車が、ブレーキをかけたように見えた。いや、他の車すべてが、いまでは静止していた。知らぬ間にアクセルを踏み抜いていた。しかも、緩く長い下り坂にさしかかっていた。マスタングの速度計は、九十マイルを振り切っていた。
それでも、タカシは右足をゆるめず、車線を替えて、何台かごぼう抜きにしていった。風が頭上でごうごうと音をたててさかまいた。
「大変だよなあ」と、あの夜、ホノルルの中華街で知り合った華僑の青年は彼に言った。
「ふたりとも、こんなところでさ」
「何千万ドルももらえるんだぜ」
「殴り合いで? それもこんな場所で?──割にあうかよ!」その青年は、口の端で笑いながら尋ねた。
「金のためだけじゃないんだろう」と、応えると、
「そんなはず、あるもんか」と、言い残し、自分の連れと中国語で話しはじめた。
彼は、また一人になって、TVを覗き込んだ。
アリは、まったく足を使っていなかった。その舞いは、蝶どころか、パリの枯れ葉ほどにも優雅ではなかった。いや、だいたい舞おうとはしていなかったのだ。
それは、アリが徴兵を拒否し、アメリカ人としての資格をことごとく取り上げられた直後、日本で流行したボクシング漫画の主人公を思わせた。
両手をだらりと下げ、相手を挑発するノーガード戦法。顔だけをかばい、敢えて打たせ、相手の懐に飛び込み、疲れた隙を狙う。
アリは、≪あしたのジョー≫を読んでいたのだろうか。
フォアマンの方はいたって無残だった。打って打って打ちあぐみ、しまいには肩で息をしていた。
本当なら、もっともアメリカ人受けするボクシングをする男だった。それが、遠いアフリカで、独りぼっちで戦っていた。味方はどこにもいなかった。
八回、疲労で、足は泥のようになっていた。
アリの肩がそよぐと、目にも止まらぬワンツーが顔に決まり、リングに沈んだ。
「アメリカに言いたいことがいっぱいあったんだろう」と、タカシはエリエーヌに言った。
「アメリカ? 政府にってこと?」
「世の中、全部にだよ」
「そんなのって、変だわ」と、彼女は口を尖らせた。
「この話はもうしたくないわ」
「何が変なんだ」
「アリは、アメリカの成功者じゃない。もう、やめようよ、この話」
「いや、やめたらフォアマンに気の毒だぜ。だって、あの夜、ゴングが鳴ってからこっち、TVに映ってるのはアリも含めて全部アフリカ人でさ。たったひとり、フォアマンだけが星条旗背負って戦ってたようなもんなんだ」
「それで負けたのね」
「ああ、そうだよ。あまり、気持ちのいい試合じゃなかった」
「八百長だったんでしょう」と、エリエーヌは言った。
「あら、もうラ・ホヤを過ぎちゃうわ」
「用があるの?」と、タカシは訊いた。
「用なんかないわ。素敵な町だけど、とってもデゴラスなのよ」
「デゴラスって何だ?」
「フランス語よ。英語で言ったら、パパにお尻を叩かれちゃうわ」
「言ってみろよ」
彼女は、ほんの一瞬ためらったが、いきなりシートから腰を浮かすと、真正面に向かって手を振り上げ、怒鳴った。
「クソッタレッ!」
それから、しばらくのあいだ二人で笑った。
「どこがどうクソッタレなんだ?」と、タカシは聞いた。
「海辺に素敵なバーがあるのよ。何にも言わずに入れてくれるけど、注文を取りにこないの。一番眺めのいい席に案内するけど、いっさい無視するの。客が怒って帰るまで、いっさい何もしてくれないの。あたしたち東洋系にはね」
「黒人にはどうするんだろう」
「あら。ラ・ホヤには黒人なんかいないのよ。ヒスパニックならいるけれど、彼らは上着も靴も持ってないから、もともとバーへなんか来られないの」
≪メキシコ国境二十四マイル≫という標識が、後ろに飛んでいった。
≪サンディエゴ北出口≫が、それに続いた。
「寄っていく?」と、彼は聞いた。
「どこへ? デゴラスな町に?」
「サンディエゴ。最後の中華料理」
「おなかがいっぱいだもの」
エリエーヌはため息をついた。
雲が割れ、鋭く切れ味のいい光が落ちてきて、あたり一面をぴかぴかに磨き上げた。大地が赤くなり、木立が青くなった。
「食べ終わってなかったんじゃないのか?」
タカシが聞くと、彼女はびっくりしたようにこちらを睨み、
「あんなことがあったっていうのに、あなたはまだおなかがすいているの」
「あんなこと?」と、彼はほんの数秒、考え込んだ。
「ああ、あのかっぱらいか?」
「かっぱらいですって! 死にかけたのよ、あなた」
「大げさだよ。あんなの、どうってことはない」
「あなた、どこかおかしいわ。ショットガンで撃たれたのよ」
「足の近くをだろう。はじめから、外して撃ったのが判ってたもの」
「あなた、絶対おかしいわ。それとも、日本人ってみんなそんなに度胸がいいの?」
「誰かから撃たれるなんて慣れてないからな。ピンとこないのかもしれない」
「そうね。日本人は、撃つより斬るだものね」と、エリエーヌは真顔でいい、自分で自分に頷いた。
そのときはすでに、サンディエゴ中央の出口も通り越していた。
「南で降りたんじゃ、中華料理屋までだいぶ戻らなけりゃならない」タカシは言った。
「あら、サンディエゴはタコだったんじゃなくって」エリエーヌは鼻に皺を寄せて尋ねた。
「タコタコタコ!」
「小さいけど、中華料理屋がかたまってる場所があるんだ」
「意地悪ね。だったらさっき言ってくれればよかったのに。そしたら、あんな目にあわなかったわけだし」
「すごく不味いんだ。でも、最後の中華料理屋だぜ」彼は、風に逆らって怒鳴った。
「そんなに、おなかがすいてるの」
「ああいうことがあったからさ、逆にね」
「どこがどう逆なのよ」
「君はあれで胸がいっぱいなんだろう。こっちは、エネルギーを使ったから、腹が減ってしかたない。まあ、そういうことさ」
「いいわよ。それなら、つきあったって」
「いや、戻るのは面倒だ」
「大した距離じゃないじゃない」
「それでも、何か、嫌じゃないか。ドライヴで、後ろにちょっとでも戻るのって」
「ドライヴだからじゃない。車だから、一キロや二キロ戻っても、どうってことないんじゃないの?」
「いや、そういうんじゃないんだ」
「別に目的だってないんだし」
エリエーヌは、おかしそうに笑って言った。
「目的はあるじゃないか。メキシコへ行って強い草を思いっきり吸うんだろう。そうじゃなかったのか」
「あんなのは、口実よ」
そのとき、サンディエゴ市の最終出口が後方に吹っ飛んでいった。
彼も彼女も、もうそれについては何も言わなかった。
「口実って何のって聞かないの?」と、エリエーヌはまた笑いながら言った。
「聞きたくないな」
「あら、なぜよ」
彼女はゆっくり目を細め、思い切り効果を測って足を組みなおした。
「聞いたら、こっちが損するに決まってるんだ」
「敗北主義なのね」
とは言ったものの、またおかしそうに笑って、彼女はその話をやめにしてしまった。
彼らは、強い太陽光線をハリケーンの風みたいに感じながらさらに南へ走った。
サンディエゴ郊外の町並みが途切れ、また荒れ果てた真っ赤な平野が見えてくると、彼はやっと路肩側へ移り、速度をゆるめた。
「ねえ」と、彼は聞いた。
「君はフォアマンとアリとどっちが好きなんだ」
「何よ、急に」
「アリって、何かリベラルのマスコットみたいなところがあったろう?」
「リベラル?」と、エリエーヌは繰り返した。
小鼻の皺が額に伝染した。
「反戦とリベラルは違うわ」
まるで四文字言葉のようにそれを口にした。
「ともかく」と、彼女は思いなおして言った。指で輪をつくり、神経質に爪と爪を擦り合わせていた。
「彼が試合ができたのは、ウォーターゲートのおかげよ。ニクソンを追い払って、私たちはもういちど公正であることを大切にしはじめたんだと思うわ」
「私たち?」と、思わず聞き返した。
「うん」彼女はきっぱり頷いた。
「でも、アフリカでやるなんて狡いわ」
「どっちが?」
「アリがよ。対戦相手がアメリカ人だったなんて知らなかったから今まで考えてもみなかったけど、あなたの言うとおりよ。たとえ八百長でなくっても、アリは相当に狡いわ」
「八百長だって言ってるのは、フォアマンひとりだぜ。フォアマンは、アフリカで体調を崩してたんだよ。薬を盛られたなんて言い訳さ」
「それにしてもよ。──なんで、この話題にこだわるの?」
エリエーヌは苛立って叫んだ。「もうよそうって言ったじゃない」
彼は口を噤《つぐ》み、運転に集中した。
やがて国境のイミグレーションが見えてきた。高速道路の料金所と寸分変わらないつくりだったが、高速道路にまったく料金所がついていないこの国では、それはそれで国境らしい厳しさがあった。
ゲートは一ダース以上あった。開いているのは二つきりで、どちらにも長い列ができていた。その後ろに車を着けると、彼はやっと口を開いた。
「なんかあったのか?」
「何かって?」と、エリエーヌは真正面を見つめたまま聞き返した。
「今の話題さ。何か気に障った?」
「ねえ、楽しいことを考えない」
「ああ」彼は力なく頷いた。
「烟《けむり》、テキーラ、タコ」と、彼女は言った。
「タコタコタコタコ」
歌うように早口で言うと、いきなり声をたてて笑いだした。
「別に、俺はとりたててタコ好きってわけじゃないぜ」
「≪タコ≫を食べるなんて日本人くらいのものよ。中国でだってめったに食べないわ」
しばらく黙っていると、彼女は急に心配そうな顔をして、
「タコって言うんでしょう? 蛸《オクトパス》のこと。違う?」
今度はタカシが笑った。
あと三、四台というところになって、エリエーヌは突然、彼の肩に手を置き、喉の奥の方で声を出した。
「ねえ、お願いがあるの」
彼女の眉間を縦皺がふたつに割った。すまなそうに唇を尖らせた。
「ここまで来て悪いけど、トイレに行ってくれない?」
「すぐだよ。向こうにもレストハウスはあるじゃないか」
ゲートの向こうに広がる殺伐とした駐車場と、アドビ煉瓦で造られた平屋の建物を指さして、タカシは言った。
「テュワナは初めてなんでしょう?」
「テュワナも何も、メキシコは初めてなんだ」
「だったら、私を信用することよ」
彼女が目をこらし、真っ直ぐ見つめてきたので、タカシは肩をすくめ、車を列から外した。かまうことはない。閉鎖されている車線を堂々と横切っていった。一番路肩側に行くと、あたりを見回し、グリーンベルトに沿ってレストエリアの出口まで勢いよくバックさせた。
隣で非難とも歓声ともつかない悲鳴が聞こえた。
出口と本線の合流点で一度、車を止め、出てくる車がないのを確かめた。それから、バックでそこを逆行した。さいわい、最後まで車とはでくわさなかった。
レストエリアの駐車場は、愛想も何もないつくりで、広大無辺な墓石といった感じだった。その真ん中を、金網のフェンスが真っ二つにしていた。フェンスのこっちと向こう、それぞれ一メートル位に、平行して鉄柵が設けられていた。ガードレールにしては高く、塀にしては低い。その中間はコンクリが割れて、雑草があちこちに緑を覗かせている。
「あっちのトイレはこの世のものとは思えないほど不潔なのよ」
エリエーヌは言って、テンガロンハットのような形の建物のほうに歩きだした。
タカシは、マスタングを白線の中にちゃんと入れて止めた。空がずいぶん変わっていた。青さはさして違わないが、ぐっと高くなっていた。日本の秋の空のような天井知らずの高さだった。筋ばった雲にも、どこか懐かしい風情があった。
彼は車を降り、ゆっくり金網のフェンスへ歩いた。
背後から、エンジン音が近づいてきた。古ぼけたエンジンの、だらしない音だった。
首筋に風を感じた。空のてっぺんで肉食の鳥が鳴く声がした。
フェンスの向こう側には、さっきゲートの前で見かけたアドビ煉瓦の建物が見えた。遠い山が青くかすんでいた。そのふたつに挟まれた空間はどこまでも埃っぽく、見ているだけで喉が痛くなってくるほど乾燥していた。
そっちの駐車場は罅だらけで、あちこちに補修のあとがあった。コールタールを流し込んであるのはまだいい方で、砂で埋めたてただけの穴なども珍しくはなかった。植込みは枯れ果て、セメントでこしらえたサボテンが壊されて転がっていた。グリーンベルトはどこも完全に雑草の山だった。ゴミ箱が見当たらず、ゴミだけがあちこちに舞っていた。置かれている車はどれも錆だらけで、昔のフルサイズのアメ車が多かった。ドイツ車ならメルセデスだ。それも十年ほど前のものばかり、日本車など影も形もなかった。
そのあいだを縫うように歩いてくる男がふたりいた。
まるでタカシが知り合いだとでもいうように、真っ直ぐこちらを目指してきた。
背後でエンジン音がいきなり高まり、彼のすぐ脇をすり抜けていった。
小さなトヨタのピックアップだった。どこかで見覚えがあった。助手席にテンガロンハットを被ったインディアンがいた。
すると急に、フェンスの向こう側を歩いてくる男たちが何者か気づいた。ドライヴスルーのキャッシャーから飛び出してきた強盗の仲間に違いなかった。
「いやだ」という嗄《しわが》れ声が背後に聞こえた。エリエーヌが鋭く甲高く空気を吸い込んだ。
タカシの背中に手が触れた。おそろしく熱い手だった。その手が小刻みに慄えていた。
やがてそれがシャツをしっかり握りしめ、すごい力で彼を後ろに引っ張った。
「行きましょう」と囁いた。
「お願い。変なことしないで」泣き声に近かった。
タカシは振り返って彼女の肩を抱き、マスタングへ戻った。
エリエーヌは泣いていた。クリネックスでそれを拭くあいだ、肩がカスタネットのように震えていた。
「厭なのよ。こういうの。もう沢山」
「こんなところで撃ったりしないよ」
「そういうこと心配してるんじゃないの。何かを心配してるわけじゃないのよ。──あなたは死ぬことが怖くないのね」
「そんな、──まさか」彼は笑おうとした。
「早く行きましょう。お願いよ」
タカシは、車を出した。その場を離れ、トヨタのピックアップが止まっているところから百メートルほど離れたガソリンスタンドにマスタングを乗り入れ、ハイオクのノズルが垂れている真下に止めた。
彼がガソリンを入れていると、トヨタの方から声が風に乗ってきた。
「よお。うまくいったか」と、黒人が言った。
「うまくいったよ」と、フェンスの向こう側でメキシコ人の青年が言った。
両方とも訛が強く、互いに外国語でしゃべり合っているみたいだった。
「それはよかったな。せいぜいその調子で頑張るんだぜ、兄弟」と、黒人。
「ありがとう」野球帽のメキシコ人が、手を振った。
黒人は車から降り、フェンスを挟んで二人のメキシコ人と向きあっていた。インディアンはトヨタのボンネットの上に仁王立ちになっていた。彼らはそれぞれ、メキシコ人に拳を差し上げて見せた。
「世話になったな兄弟」
「困ったときはお互いさまだよ。気にするなって」
「これが、礼だよ」と、メキシコ人が言い、四角い煉瓦ぐらいの大きさの包みを投げた。
黒人がフェンスの近くまで走り、それを受け取った。インディアンに渡すと、彼は紙包みを少し開き、中に指を突き入れた。
それを舐めると、インディアンは笑ってボンネットから飛び降りた。
「これは、豪勢だ」
「ありがとうよ。兄弟」と、黒人が言い、ピックアップのドアを開いた。
「困ったことがあったら、また連絡をくれ」
帽子を被っていないほうのメキシコ人が、ジーンズの尻ポケットに手を回し、そこから何かを一束探り出した。札束のようだった。それを頭のすぐ脇に翳《かざ》して振った。
インディアンが助手席に乗り、ピックアップは走りだした。ガソリンスタンドの前を通りすぎ、上り線に流入する立体交差橋へ、ランプウエイを上りだした。
ガソリンがいっぱいになった。タカシは会計の窓口へ行き、代金を払った。
トヨタは、ハイウエイを跨いで、もう向こう側の車線に紛れ込んでしまった。
「何だったの?」と、エリエーヌが落ちついた声で聞いた。
「何か取引したんだろう」と、彼は言った。
「こっち側でかっぱらいの手引きをした代わり、向こう側の特産品を安く分けてもらったってところさ。ドルとペソじゃ価値が違いすぎるからね」
「いやね」と、彼女は言って、マスタングの革シートのなかで、体をリラックスさせた。
「ここってまるで感化院みたいね。あの金網のフェンスのせいよ」
「どっちが中で、どっちが外なんだ」
タカシが言うと、彼女は不思議そうにこっちを見上げた。しかし、返事はなかった。
車を出し、検問所にできた列に戻ると、開いているイミグレーションは六列に増えていた。彼は、いちばん内側の列につけて、待った。
上下線を分かつ、小高い土手のようなグリーンベルトの上から声が降ってきた。
「いいかげんにしろよ」
見上げると、そのすぐ上には鋳鉄の国旗掲揚ポールの礎石があった。ふたりの国境警備隊員がポールの根元に取り付き、話していた。片方は、国旗を上げ下げするワイヤーのリールにハンドルを取り着けているところだった。
「いったい、どっちの言うことが正しいんだ」と、もう片方が言った。
「知らないよ、俺は所長の言ってることを伝えにきただけさ」
「隊長は別のことを言ってるぞ」
男はハンドルを着け終え、ワイヤーのロックを外した。
遥か上空で、弛《ゆる》んだワイヤーが鞭のような音をたてた。
「しかし、この旗を管理しているのは、財務省だ。所長の方なんだ。だから、おまえ、旗に関しちゃ、向こうさんの言い分が通るんじゃないか」
「たしかにな。誰が死んだってわけじゃないしな」
男があきらめ顔で言い、ハンドルを回しはじめた。
タカシが頭を思いきり反らして見上げると、ポールのずっと上の方で、星条旗が半旗になっていた。
列が動いた。彼は車一台分、前に出た。
「同盟国が戦争に負けたってだけだぜ」
男の声がまた降ってきた。
タカシはラジオに手を伸ばし、電源を入れた。オートチューニングのスイッチを押したが、ニュースはやっていなかった。そもそもほとんどがスペイン語の放送だった。音楽も、マラカスがカチャカチャ鳴るようなやつが多かった。
「戦争に負けたからって、半旗にする習慣なんかなかったろう」
「どんなもんかね。今までなかったからな。俺は聞いたことがないが。どこかにマニュアルがあるんじゃないのか」
また前が空いた。もう一度、車を前進させると、男たちの声は聞こえなくなった。
バックミラーの中で、国旗が再びポールのてっぺんまで上げられるのが見えた。
「ねえ」と、タカシはエリエーヌに言った。
「烟を思いっきり吸うってのが口実だって、──あれは何の口実だったんだ」
「鈍感!」と、彼女は冷たい声で言った。
「あなたと一緒に旅行をするの、初めてなのよ」
「こんな日にね」
「こんなって、どんな日?」
「聞こえなかった? 戦争が終わったらしいよ」
「あたしには関係がないわ。あるとしたら、うちの兄さんよ」
「兄さんがどうかしたのか?」
「私の兄さんはヴェトナムへ行ったのよ」エリエーヌは、ますます冷たく言い放った。
「中華街に住んでいない中国系のアメリカ人は、沢山行ったものよ」
タカシは話すのを止めた。それからアクセルを踏んだ。また前が一台分、空いたのだ。今度は彼らの番だった。
そこで、ポケットからパスポートを取り出した。少し考えて、ダッシュボードの上に置いた。
金色の菊が刷り込まれたそれが、何だかバカバカしいほど大きく感じられ、タカシは自分の番が回ってきても係官に手渡すのがためらわれてならなかった。
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ボーイ・ミーツ・ガール
坂は、タライに立てかけた洗濯板みたいに港に向かって下っていた。見上げれば、その上に空がやたらと巨きく、見下ろせば、町がちまちまと息苦しく海に入り混じっていた。
朝、坂は、小学校までの最後の数十メートルを永遠の道のりにして、彼をうんざりさせた。帰りは、校門からそこまで一気に走り、立ち止まって息をつくのが新入生の始業式から三カ月以上、彼の日課になっていた。
朝、えいやっと気合を入れて格闘しなければならない高い塀のような坂は、午後も同じように彼を押し止めたが、決して通せんぼするわけではなかった。
そこからは、左右の外防波堤と、それぞれの端に立つ赤と白の灯台まで見ることができた。ことに天気のよい夕暮れ時は、湾の向こう岸にいくつもの煙突が揺れて見えた。
そんなときは決まって、ランドセルがとても重く感じられ、その場で何度も背負いなおし、しまいにはため息をつくのが習わしだった。
いつだったか、同級生の母親がそれを目撃し、彼の母に笑って告げたものだ。
「まるで、物知りの仙人みたいに深呼吸していたのよ」と。
仙人と呼ばれたことに、彼の母は気を悪くした様子だった。爺むさいという意味に取ったのだろう。しかし、彼にはどこか超然としたところがあった。まだ七歳になったばかりだったので、超然というのが無理なら、心ここに在らずという風情と言いなおすべきだろうか。
坂の上に立ち、目をどこか遠くに飛ばして大きく息を吐きだす姿は、たしかに同級生の誰とも違っていた。連れだって帰る仲間たちも、この時ばかりは少し遠巻きにして待つか、足早に坂を駆け下っていった。
「バカみてえ!」などと罵声を浴びせる者も、ときとしていたが、その声音にはどこか畏れがあった。
夏が近づき、「仲良しさん」と帰るよう命じられていた下校が自由なものになると、彼がそこに佇む時間はどんどん長くなった。上級生が通るころになっても、まだそこに立ち尽くしていることがあった。
校門から坂までの百メートルは、両側に大きな家が立ち並んでいた。山茶花の生け垣がずっと続き、どの家にも、芝生の庭に花の咲く木が植わっていた。玄関先にはコンクリートのスロープがあり、巨大な犬小屋みたいなガレージがあった。
ある家にはバーベキューの炉が置かれ、ある家にはハンモックを吊るした銀杏があった。またある家には青と黄色のタイルを張ったプールがあり、今月に入ると、そこから英語の歓声と一緒に水しぶきが聞こえてくるようになった。
その日は、正午すぎから港に霧が出ていた。
しかし、霧が何だろう。放課後彼は坂のてっぺんで立ち止まり、ゆっくり空気を吸いながら、ぼんやりと霞む町、煙った空気の中に泛《う》かぶ家々の屋根、それを縫って港へと続く黒い運河に目を投げた。
霧はすでに町に上陸し、足許を右から左にゆっくり行進していた。トンネルから出てきた市電が、それをかき分けかき分け、市役所の方へ走り去った。車輪の音が、すこし遅れて聞こえてきた。かすかな汽笛、遠い焼き玉エンジンのいななき、そうしたものがひとつになってその後を追いかけてくる。風向きが変わったのだ。
それにしても、大きすぎる。運河を行くダルマ船の物音にしては。
彼は坂道のすぐ足許に目を落とした。
霧を引きずりながら、丸っこいものがよたよた揺れて上がってくるところだった。タイヤがついているようには見えないが、間違いなくタイヤがついた乗り物だった。汽笛も焼き玉エンジンの音も、そこから出ている。
小さなタイヤを張り出した卵というところだった。赤く塗ったイースターの卵だ。もし本当の卵だったら、とっくにひびが入っていただろう。それほど全身を激しく揺すり、青息吐息で坂道を登ってくる。
彼の脇を、通りすぎるとき焼き玉エンジンが小さく咳き込んだ。ガソリンの匂いがした。
赤い卵は尻に向かって急にすぼまって、そこにタイヤは一つしかなかった。
三輪車なのだ。御用聞きの善さんが乗っているミゼットとは逆さ、前が二輪後ろが一輪の。
彼はあきれて見送った。
卵は彼のすぐ後ろで右に折れ、生け垣の中に吸い込まれていった。
その奥にはハッカ色の洋館が建っていて、ガレージには流線型のフォードとカルマンギアのオープンカーが置かれていたはずだ。
卵は、そのガレージの板張りのシャッターの前でUターンした。Uターンというより、くるりと振り向いたというほうがずっとぴったりしていた。
危うく傾き、エンジンが止まった。
彼はランドセルを背負いなおし、数歩近づいた。
その彼に向かって、卵の正面がぱっくり割れたのだ。
思わずたじろいだ。息をのんだ。
ボンネットはもちろん、運転台のすぐ前にはグリルもライトも何もなかった。しかし、そこがドアになって開くとは思いも寄らない。まるで、茹で卵の殻を剥くように、ぱっとこちらへ。
中には、栗毛の大男と小さな女の子が窮屈そうに座っていた。その様子は、ちょっと間が抜けていた。床から生えたハンドルも、足許のペダルも、何もかも丸見えだった。
男はハンドルを押し退けるようにして腰を上げた。ハンドルは、苦もなく前に倒れた。二人が降りてしまうと、そこには歯医者の待合室にあるようなビニールの椅子が残された。そのさらに後ろは崖下の商店街にあるスーパーマーケットの紙袋でいっぱいだった。
男はガレージのシャッターを開いたが、車を入れる気配はなかった。オープンカーは無くなっていた。かつてそれが置いてあった場所は、学校の理科実験室にある大机みたいな作業台に占領されていた。分厚い木の天板に万力やボール盤が据えつけられ、後ろの壁には真新しい大工道具がきちんと吊るされていた。
男はその台の下から、一輪車のカートを引きずり出してくると、紙袋を次々と乗せ替えた。紙袋は全部で五つもあった。五つとも、彼の母親が夕方、商店街から持ち帰る買い物袋よりはるかに大きかった。きっと電気の、それも牛一頭冷やしておけるほど大きな冷蔵庫を持っているのだろう。
アメリカ人に違いないと、彼は思った。
女の子は、手伝いをしながら、紙袋の中に手を突っ込み、お菓子を一つくすねた。エプロンドレスのお腹のポケットに、それを素早く隠した。
彼女は彼と同じくらいの背丈があった。髪の毛は淡い栗色で、自然なウエーヴがかかっていた。小さな子供のくせにぴかぴか光るバレッタをして、革靴を履いていた。エプロンにはレースの縁取りがあり、スカートはペチコートで膨らんでいた。
しかし、そんなものはまだこのとき、かけらも目に入っていなかったのだ。
でなかったら、彼は彼女にこんなに近づいてはいなかったろう。事実、
「何か用事?」
と、聞かれたとき、彼は生け垣の内側に立っていた。
彼の目は、ハンドルと床のつなぎ目に吸いついて動かなかった。ハンドルがなぜ、どうして倒れるのか。簡単に倒れるようなハンドルで、なぜ、舵を切ることができるのか。エンジンはいったいどこにどう取り付けられているのか。彼の頭は、そのふたつの疑問でいっぱいだった。
だから、このとき、彼女がとてもきれいな日本語で喋っていることにもとんと気がつかなかった。
「ああ、ごめん」と、思わず謝り、自分がもしかすると英語を喋っているのではあるまいと疑った。
「ごめんって、何よ」
「その車さ。すごい珍しいね」
「だから、何がごめんなの?」
「勝手に見てたから」と、彼は言い、やっと自分たちが日本語で喋りあっていることに気がついた。まだ、心のどこかで疑いつつ。──もしかすると、外人と喋ると、自然に英語が喋れちゃうんじゃないか、というふうに。
「見たっていいけどね。そこ、家《うち》んちの中よ」
しかし、彼はそれには応じず、
「それハンドルでしょう」と尋ねた。
「決まってるじゃない」
そこで、初めて相手に目が行った。
まず、巻き毛が見えた。きらきらと眩しかった。日が出ていたら目がつぶれていたかもしれない。次に、薄いピンクの唇とハシバミ色の目、そして血管が浮いてみえるほど透きとおった首筋。心臓が苦しくなり、次の言葉がどこかへ飛んでいった。
「どうしたの」と聞かれたが、応えようがなかった。
耳の鼓動がボクシングのゴングみたいだった。こめかみで血が沸騰した。
「ねえ、ハンドルがどうしたのよ」
彼女は尋ねた。彼は俯いたまま、目を上げられなかった。悪いことに、先端がギザギザに変形した自分のズック靴と、顔が映るほど磨かれた彼女の革靴が同時に目に飛び込んだ。彼は靴下を履いていなかった。昼、学校の裏手にある兵舎の跡地で遊んでいたとき、溝にはまったのだ。彼女のソックスは、言うまでもなく真っ白だった。
「何でそこにドアがついてるのかなと思って」
彼はいつになく、はっきりしない聞き方をした。
「車が小さいから」彼女は、小さな手を腰に当て、ちょっと胸を反らせた。
「両方にドアをつけたら、ボディが弱くてすぐ潰れちゃうでしょう。道路の方一個だけだと、ボディはいいけど、運転席の乗り降りにすごく不便じゃない。だからよ」
「ハンドルは、どうして動くんだろう」
彼女は困ったような顔をして、そっと家の方に顔を向けた。そこには誰もいなかった。ドアももう閉まっていた。やがて決心したように向き直り、少し怒ったみたいにぶっきらぼうに、
「見たい?」と、尋ねた。
「うん」と、彼が頷くと、なぜか彼女はほっとして、手を差し出した。
「いらっしゃい。見せてあげる」
彼女の手が、いきなり彼の手に伸びた。思わず腕が縮んだ。それでも、相手の手を感じた。心臓が、また耳のすぐ近くで鳴りはじめた。
彼女は、一瞬、動きを止めて、ものすごい目で彼を睨んだ。それから、急に微笑み、手をさらに伸ばし、彼の手を引いて車の方へ歩きだした。彼女の手はひんやりと心地よかった。
車の前に行っても、彼はしばらくぼんやりしていた。
「ねえ、どうしたの?」と、彼女が聞いた。
「ハンドルを見なさいよ」
彼は素知らぬ顔で、ドアノブを握った。それを半回転して引くと、車はたやすくふたつに割れた。
ドアは重かった。ダッシュボードもハンドルも、みんなドアにくっついているのだ。
床からはペダルが突き出ていて、運転席に座るにはそれを跨いでいかなければならない。
「映画のみたいだね」と、彼は言った。
「映画の何よ」
「だから、映画を作るのに使う自動車。あるんだよ、こういうの。運転している人をこっちからカメラで撮れるようにしてるの」
言うと余裕が生まれた。やっぱり女の子だ。≪少年サンデー≫の特別図解なんて見たことも聞いたこともない連中なのだ。
彼はバンパーの前にしゃがみこんだ。ハンドルは、そこでドアと一緒に外側に折れ曲がっていた。折れ目には、特殊な金具がついていた。ロボットの腕の関節みたいな金具だった。
車の中は、コードやバネ、金具類が、残らず剥き出しになっていた。車体に内張りはなく、シートは座卓のように薄く低く、カバーもかかっていなかった。
本当に小さな車だった。運転席だけ比べたら、ミゼットよりずっと狭い。
「ハンドルに仕掛けがあるの?」と彼女が聞いた。
「何が」
「映画に使うってやつよ」
「違うよ。前が開くからだよ。この車、前がなくなっちゃうでしょう。映画作ってるところには、前のない車や後ろがない車があるんだよ。そういうのを、別の車でひっぱって、乗ってる人を撮影するんだ」
「ああ、そうだったのか!」
彼女が、感に堪えないといった調子で言い、頷いた。
彼の気分は、すっかり落ちついた。ゆっくり、車とハンドルの仕掛けを見ることができた。もう、彼女の体温を間近に感じていることに、恐れはなかった。
「それで、運転してる人の足まで映ってるのね。雨のなかをびしょびしょで走るのなんかはどうするのかしら」
「雨を降らす機械があるんだよ。煙が出る機械もあるんだ」彼は自信を持って言った。
半分は≪少年サンデー≫の受け売りだったが、残る半分はとっさの思いつきだった。
それでも彼女はますます感心した様子で、
「ねえ。じゃあ飛行機の運転席で、パイロットの足まで見えてるのは。あれはどうやってるの」
「吊るして撮るんだよ。前がない飛行機を、空の絵が描いてある大きな看板の前に吊るすんだ」
大きく頷き、彼女は胸から満足そうに息を吐き出した。同じ胸から次にまんまるい色とりどりのドロップが入った袋を出した。
「ねえ、食べない?」
彼は慎重に手を伸ばし、緑色のドロップをひとつ受けとった。口に入れると不思議な味がした。案に反してメロンの味ではなかった。それから、ドアをそっと閉め、爪先立って覗き込んだ窓からハンドルが元どおりになるのを確かめた。
それから後ろに回っていき、しゃがみこんでひとつしかない後輪を見た。左側フェンダーに数本の溝が切ってあった。そこがほのかに熱かった。覗くとガソリンの匂いがした。
その奥にエンジンが隠してあるようだった。そうだとすると、すごく小さなエンジンだ。
溝が切られている部分は蓋になっていた。蝶番でそこを引き開けることができるようになっている。鍵が壊れていたのだろうか、それとも初手から鍵などなかったのだろうか、蓋は開き、案の定エンジンが覗けた。
それは小さなエンジンだった。彼の家のダッツン1000のエンジンと、彼が今年のお年玉に買ってもらったUコン機のフジ09エンジンのちょうど中間くらいの大きさしかなかった。
それはよく磨いてあった。こんなにぴかぴか光るエンジンを、他で見たことはなかった。そのせいで、よけい模型のように思えた。
これなら、自分にも手に入るだろう、と、彼は思った。TVのまぼろし探偵のように、子供にも運転できる車が必ずあるはずだと、彼は長いあいだ信じてきたのだ。
親たちは一笑に付したが、いや、親が世界中の出来事や仕組みを逐一知っているのではないということに、彼は去年ぐらいから薄々勘づいていた。
だから、どこかにきっとあるはずだ。子供にも運転できて、お巡りさんに叱られることのない自動車が。日本にないのなら、きっとアメリカに。
それはただの夢想ではなかった。なぜなら、彼は何度かアメリカの通信販売の雑誌で、子供用の小さな自動車を見かけていたのだから。それには立派なエンジンがついていた。芝刈り機と同じくらいのガソリン・エンジンが。しかし、残念ながら、それは骨組みだけで、ボディがなかった。タイヤも大きなホットケーキ四枚重ね程度のものでしかなかった。何もかも剥き出しで、おそろしく格好が悪かった。
どうやらアメリカでは、その骨だけの四輪車を使って子供同士のレースが行われているようだったが、いや、そんなことに彼の興味はなかった。
彼が必要としているのは屋根のついた車だった。エンジンが外から見えない車で、もう一人、隣に座れなければならなかった。
なぜそうなのかは、判らない。ただ、そうであるべきだと決めていただけのことだ。
アメリカでなら、きっとそんな車を売っているに違いない。そして、その自動車は、子供のお小遣いでも買えるような値段であるはずだ。いつのころからか、それは確信に変わっていた。
多分その確信は、≪少年サンデー≫がエンジン付きの自動車を宣伝用に作ってからのものだった。あくまで宣伝用、決して懸賞の賞品ではなかった。抽選で読者の小学校を回り、公開試乗と交通安全教室を開いて歩くという話だ。
級友の中には、毎週熱心に応募している者もあったが、彼はとんと興味がわかなかった。なぜ、自分が応募したのに学校に来るのか。なぜ、自分ひとりで乗れないのか。だいたい、安全運転教室というのは何なんだろう。どうせ歯の臭そうな大人がやってきて、偉そうに退屈な話を聞かせていくのだろう。どうにも胡散臭くてならないではないか。そして、何より、自動車が自分のものにならないのでは、箸にも棒にもかからない。
しかし、彼の夢見る自動車は、別のどこかにきっとある、そしてここにあったわけだ。
「ねえ、これ子供でも乗れるよね」と、彼は彼女を見上げて言った。
「そうね。あたし、運転したことあるわ」
「本当に! ちゃんとできた?」
彼は、起上がり小法師のようにぴょんと跳ね起きた。
「ゆっくりやらないと倒れちゃうのよ」と、彼女は言った。
彼は少し不安になった。
「でも、ちゃんとできたわ」
「何か言われなかった?」
「言われなかったって、何をよ」
「子供が運転すると、うるさいだろう。ほら、お巡りさんとかが」
「ああ、ぜんぜん。問題なかったわ」
彼は、うん、と頷き、それからなんだかとても恥ずかしそうに、
「それって、君がアメリカ人だから?」と、尋ねた。
「そんなの関係ないわよ。だって、ベースの中でやったんだもの」
「ああ」と、声が頭のてっぺんから転げ出た。
「君のお父さん、GIなのか」
「失礼ね。GIなんかじゃないわよ」彼女は、ぴしゃりと言った。
なんか? と、彼は頭のなかで繰り返し、首を捻った。彼の知っているGIという言葉は、失礼ね! などと応じられるものではないはずだったから。
「ベースの駐車場。あたし、キニックスクールに行ってるから。パパは会社の社長なのよ。石油を売ってるの」
石油を売っているやつの方が、GIより偉いのか、──思わず聞きそうになって、彼は堪《こら》えた。今は、そんな質問をしている場合ではなかった。
「ベースの外では運転したことないの」
「そう、公園でやったことがあるわ。ほら、税関の向こう側の公園」
「そこって、保税地区だね」
「ホゼーチクって何よ」
訊かれて彼は口ごもった。それが何か、彼は知らなかったのだ。ただ、普通の道路ではないことだけ、よく判っていた。つまり、子供たちだけで、学校帰りに花火をしていてもお巡りさんに絶対叱られない場所と。
だが、ベースとは違って、そこはたしかに日本の場所だ。
どう考えたらいいのだろう。
「アメリカでは、これで子供が道路を走ってる?」と、彼は尋ねた。
「知らない。だって、あたし、行ったことないもの」彼女は、つまらなそうに答えた。
「でも、きっと、いいんじゃない。ステーツってすごく自由だから」
「そうか。自由なんだね」
彼は思わずそう応じた。
「椅子が低いのよ」と、言いづらそうに彼女が言った。
「運転するところの椅子がね。だから、立ってしないとならないけど」
「ぼくなら、大丈夫だ」
「だめよ。決まってるわ。背、同じくらいだもの」
「そんなことないよ」
彼は知らず知らず、彼女と自分を見比べていた。よく見ると、体はしっかりしていたが、彼よりほんの少し背が低かった。
彼は運転席のドアをもう一度開いた。
運転席に乗り込もうとすると、彼女は、
「だめよ」と、言った。
「パパに聞かなきゃ、だめよ」
「ちょとだけだよ」彼は言った。言うと同時に、床に足をかけていた。
「ちょっと座るだけだから」
真正面から、自動車に乗り込むのは、何とも不思議な気分だった。ペダルを跨ぐのかと思ったが、助手席側から回り込めば簡単だった。
彼女は、外に立ったまま、家の方向を気にしていた。しかし、玄関にもガレージにも、何の変化も起こらなかった。
そこで、彼はドアを閉めた。
ハンドルが彼の方に倒れてきて、ドアがカチッと閉まると同時に、しっかり固定された。
そうすると、自動車の車内というより、そこは遊園地の乗り物の内部、たとえば宙返りロケットとかテントウ虫型の観覧車なんかを思わせて、彼をしたたかに打ちのめした。
彼は、小さなため息を吐いた。
なぜこうして、いろんなことにたびたびがっかりしなければならないのだろう。大きくなるっていうのは、つまりがっかりすることなのだろうか。小学校へ通うようになってから、それは連日のように彼を悩ませている大問題だった。
つい昨日も、≪少年≫という月刊誌の付録に手ひどく失望させられた。超弩級宇宙戦艦発進基地、──先月号の予告で知ってからひと月、夢にまで見て待ちわびたものだった。それが、いったん手にとってみると何のことはない、ゴム輪とボール紙でできたパチンコにすぎなかった。弾が軍艦の形をしているという点をのぞけば。
彼は今朝、それを丸めてごみ箱に捨てて来た。癇癪を起こしたわけではない。ボール紙が裂けて、すぐに使い物にならなくなってしまったのだ。
彼は車内を見回し、もう一度息を吐きだした。
それから思いなおし、ハンドルに手を伸ばした。ハンドルは、バスのように上を向いていた。手は届いた。腰を上げなくても、ハンドルを持ち、ペダルを踏むことはできそうだった。しかし、それだと前がほとんど見えない。
彼は、アメリカの子供がやたらとでかいのを思い出した。
彼女が、外からドアを開けた。
「もういいでしょう」と、言って、手を差し出した。
今度はすんなりそれを握り、支えにして、彼は車から降りた。
「なんて言うの、これ?」と、彼は尋ねた。ナンテンの木の下に置いてあったランドセルを取り上げ、掛け声をかけて背負った。
「アイセッタ」と、彼女は言った。
「ビームダブリュ・アイセッタ」
そこだけは、ちゃんとした英語だった。だから、残念ながら彼はその名前をもう二度と口にできそうになかった。
まあいい。彼は完全な一九五六年版のアメリカ自動車カタログを持っているのだ。
そこで、いちばん肝心なことを尋ねた。
「これ、いくらぐらいするのかな」
「知らないわ。パパが買ったんだもの」
「だいたいでもいいんだけど」
「知らない」と、彼女は言った。
「でも、聞いといてあげるわ。今度までに」
「今度って?」
「あなた、だって、よくそこ通るでしょう。急ぐなら、帰りにベル鳴らしてくれればいいのよ」
「ぼくが? 君ん家《ち》の?」彼はびっくりして聞き返した。
「そうよ。よそん家《ち》のベル鳴らしたら、ただのいたずらじゃない」
彼女は笑った。笑い声も、ちゃんとした英語だった。彼はそのことに心から感心した。
「今度までにパパに頼んでおいてあげるわ。きっと乗せてもらえるわよ」
「ぼくが、──」と言いかけて、その先は続かなかった。頭のなかがくらくらした。
「テニソンさん家《ち》のバックヤードなら、とっても広くて、ときどき、あそこん家《ち》の子と一緒に乗せてもらえるのよ。あそこん家《ち》には、ゴーカートもあるの」
テニソンさんもバックヤードも頭には入らなかった。ゴーカートという名の自動車には覚えがなかった。
彼は夢心地だった。足が地面についていないような気がした。
「いつでもいいわ。午後なら、あたし、いるから。九月まではね」
「九月にどっかに行っちゃうの?」
「ううん。小学校がはじまるのよ」
彼女は言った。まだ六月だぞ。なのに、九月までずっと夏休みなのだろうか? と彼は思ったが、それは訊かなかった。まさか、まだ彼女が小学校にも上がっていないなどとは思いもつかないことだった。
その後、母親が家の中から彼女を呼ぶまで、二人はナンテンの木の下で長いこと話をした。
それから数週間後に、彼はテニソンさんの家の裏庭で、その車に乗せてもらうことができた。ゴーカートというのは大きな石鹸箱に芝刈機のエンジンをつけた手製の自動車のことだった。
子供が乗って道路を走ることができる自動車は、結局、アメリカにもなかったのだ。そのことが、彼を(これで何千回目だろう)死ぬほどがっかりさせた。アメリカにないということは、この広い宇宙のどこにも存在しないというのと同じことだった。
しかしその代わり、自分が自動車より、そしてアメリカより素晴らしいものを手に入れていたのだと気づくには、まだまだ彼は子供すぎた。
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月影のトヨタ
白樺の木立の向こう側に、別荘地の区画を巡ってくねくねと行く自動車の灯火が、まるで巨きな蛍のように見えていた。家々の窓に灯はなく、明かりはそれだけだった。こちらの並木道は足許が闇に消えるほど暗かった。
そのくせ空は隅々まで明るく、遠いアスファルトは月に青々と炙られているのだった。
路肩に置いた車の黄色いボディが緑がかって見えた。英二は手さぐりで鍵を開け、ドアを開いた。夏の草いきれを割って、新車の匂いが漂ってきた。
車内のあちこちが、月を返してきらきら光った。
彼はわざわざ一歩、後じさり、磨きこんだ木のハンドルや、長いクロームのシフトレバー、何かの実験装置みたいな丸い一列のメーターを見下ろした。
すぐ近くで虫が鳴きはじめた。
英二は腕を組み、笑みを浮かべて頷いた。それからゆっくり運転席に座り、エンジンに火を入れた。回転は軽やかだった。かつて聞いたどんなエンジン音とも、それは違っていた。鉄でできたものとはとても思えなかった。ブレーキを放すと、高く美しい音をたてて走りだした。
しばらく行くと両側の並木がぐっと高くなった。もう空はほとんど見えず、まっすぐ続くアスファルト道路だけが月に輝いていた。
灯を落としてひっそり静まり返った厩舎の角を曲がると、軒の低い商店が並んでいた。半分ほどがもう店を閉じていた。東京の有名なフルーツパーラーが、夏のあいだ出している支店の店先にだけ賑わいがあった。テラスには、TVでよく見かける司会者が若い娘とぼんやり座っていた。
そこから道が少し広がり、やがて二股に分かれていた。Y字の真ん中は、貸し馬屋の三角形の屋根だった。その右手がやはり夏のあいだだけやっているスーパーマーケット、左手がバスターミナル、ディスコはそのすぐ向こう側に建っていた。
彼はバスの時刻表が張り出してある大きな看板の下に車を止めた。この時間になると、ディスコの駐車場とバスターミナルの区別はないも同然だった。
田舎の小学校の体育館をペンキで塗りたくったような建物の入り口に、ちっぽけな片仮名のネオンが激しく瞬いていた。≪スプートニク≫の「ト」が切れかかっているのだ。
英二が肩にしていたジャケットの袖を通し、入り口から入っていくと、ぼんやり立っていた店員が顔を上げた。今夜はまったく不景気だというように手を振った。
フロアで踊っているのは四人だけだった。四人とも男で、しかも外国人だった。全身で、壁際の女たちにおいでおいでをしていたが、誰もそっちを見ていなかった。ミラーボールの光が気の抜けたサイダーの泡みたいにあたりを漂っていた。
「来てますよ」と店員が言った。
「バーのほうです」
「礼子も?」と、英二は聞いた。
「今日はいちばん最初に。──何かあったんですか?」
「何もないよ。明日、親が来るんだ。夏が終わるまでずっとね。だから、今夜が最後みたいなもんなのさ」
「アバンチュールはおしまいってことですね」
英二は目を丸くして彼を見つめた。
「東京から来てるんだろう?」
「そうですよ。ここは赤坂のムゲンの系列なんです。それがどうかしました?」
「いや、そうじゃない。あんたがだよ」
「ええ。いやだな、何かあったんですか?」
「アバンチュールなんてさ、俺の婆さんしか言わないと思ってたから」
「リバイバルですよ。今年の夏は、リバイバル・ブームですからね」
彼は素直に頷いて、奥のカウンターに歩いた。
礼子が気がついて手をあげた。二の腕が細く、とても白かった。大きな目と広い額が遠くから目立った。隣の雅史は彼女と向き合い、こっちに背中を向けていた。
彼は二人をやり過ごし、礼子の向こう側のスツールに腰掛けた。
「ジントニック」と、彼は言った。
「難しいものはできないわよ」と、礼子が言って、カウンターを叩いた。
「何しろこんな場所だから」
カウンターの天板は樹脂張りのベニヤで、かすかに波うっていた。スツールの足は錆だらけだった。酒棚は、組み立て式の本棚に鏡を張り込んだものだった。
そこからジンを取り上げたバーテンダーに、英二は尋ねた。
「いつからジントニックが難しくなったんだ?」
「シンガポールスリングなんて言うんだもの。まいっちゃいますよ」
「マラスキーノがないんですって。マラスキーノなんか必要なの?」
「知らないよ、酒のことなんて。雅史に聞けよ」
「それが全然役に立たないのよ」
「あああ、どうせ役に立ちませんよ。だいたい、他人の役に立つために生きてるわけじゃないんだから」
雅史は顔を上げ、ビールのグラスを持ち上げて乾杯のしぐさをした。
「出来上がってるのか、おまえ?」
雅史は答えず、ビールを飲んだ。
バーテンダーがカウンターにジントニックを置き、小声で囁いた。
「まだ二杯目なんですけどね」
言葉を途中で止め、彼は笑った。
「どこかで飲んできたの」
「知らないわ」と、礼子。
「何で俺に聞かないのさ」と、雅史が言った。
「聞いちゃ悪いような雰囲気だからさ」
「どこにそんな雰囲気漂わせてるかよ。からまないで欲しいもんだね」
「踊らない?」と、礼子が英二に言った。
彼はダンスフロアに振り返った。もう誰も踊っていなかった。だいたい、明かりのある場所に人の姿が見えなかったのだ。
「貸し切りみたいでいいでしょ?」
ローリングストーンズの去年のヒット曲がかかっていた。礼子が立ち上がり彼の手を取った。
そのままフロアの真ん中まで、止まらずに歩いた。英二は、控えめにステップを踏みはじめた。
「明日帰るんですって」と、彼女は言った。
「君が?」
「違うわ。雅史君よ」
「何で? あいつ、来週いっぱいいるはずだぜ。だいたい、明日、ゴルフ行く約束になってるし」
彼は音楽に逆らい、大声を出した。
「帰国命令が出たのよ。医学部二浪でしょ。お母さんが、タテガミを振り乱してるって」
「ざまはないや」
「あら、そんな言い方ってないわ。友達じゃないの」
「いつから、友達になったんだよ。馬とヨットをいっぺんに持ってるような奴に友達はいませんよってんだ」
彼女は声をたてて笑った。すると、曲が『青い翳』に変わった。
彼がそっと礼子の肘に手を伸ばそうとすると、彼女はくるりと身を翻し、バーのほうへ歩きだしてしまった。
「だから、判るでしょう」と、彼女は背中で言った。
「判るって、何が?」
「たまには親切にしてあげましょうよ」
カウンターに戻ると、彼のジントニックは空になっていた。
「飲んだのか、おまえ」
「新しいのを頼んであるよ」雅史が言った。
「氷が溶けたら飲めたもんじゃないからね。気をきかせたんだ」
「別に文句つけてるんじゃないよ」
「私ももう一杯」と、礼子が言った。彼女は、長く真っ白な首筋を汗で光らせていた。
「明日のゴルフの時間なんだけど」と、英二は言った。
「ああ」雅史はうめき声で応じた。
「それ、行けなくなった」
「そうか、残念だな」
英二は薄笑いを泛かべ、礼子が彼の踝《くるぶし》を靴の先でつついた。
「予約がもったいないから、一緒に行かない?」
「私?──駄目よ。平日の午前中はずっと乗馬だって言ったじゃない。今年中に馬を覚えちゃうの」
「おまえは何を覚えに行くんだよ」と、英二が雅史に尋ねた。
「俺? どこへ」
「こっちが聞いてるんだ」
「およしなさいよ」
「何だ、そんなことか」と、雅史は言った。
「言ってなかったっけ? 俺、家に明日帰るんだよ。人生、無限じゃないってことは医学的にも明らかだからな」
「だから何だ?」
「おまえみたいに、いつまでもぷらぷらしてられないってことですよ」
「やあ、今晩は」と、背の高い男が礼子に声をかけた。色が黒く髪が短く肩にまで筋肉が張り出していた。バミューダショーツにアロハという出で立ちだった。
英二はコットンのジャケットから出した煙草をくわえ、注意深くその男を窺った。
「お元気ですか」
「あら、昼間はどうも。いらしてたの?」
「ええ。ぼくらはもう、帰るところ」
そこで礼子が彼らを紹介し、男は永原だと名乗った。
「礼子ちゃんとは、乗馬学校で一緒なんです」
「この辺から通ってるんですか」
「ええ。それがどうかしました?」
「いや、海までは二百キロあるから」
永原は不思議そうな顔をして頷いた。
「あなたの家の奥なのよ」と、礼子が言った。
「奥って言ったら、石油会社の寮しかないよ」
「そこなんです」永原は、苦笑して頭を掻いた。
「じゃあ、あの角の大きな丸太の二階屋ですか」
「ああ、そう。別に大きくはないけど」
「薪にしたらひと冬はあったかい」と、雅史が言った。
男は豪快に笑った。
英二も雅史もにこりともしなかった。
「ぼくたち、これからボーリング行くんですよ。よかったら、どうですか」
「ボーリングは苦手でね」と、雅史。
「温泉を掘るならつきあってもいいけど」
「おもしろい人だね」
「ええ、とっても」と、礼子が言った。
「幼なじみみたいなものよ」
「じゃあ、また明日」と、永原は礼子だけ見つめて言った。
「後で伺うかもしれないわ。ボーリング場ってスケートセンターのところでしょう」
「ああ、あれひとつだよ」
永原は、入り口の手前で待っていた男と、外へ出ていった。ドアを開ける寸前、こっちを振り向いたが、礼子はもう見送っていなかった。
「礼子ちゃんだってさ」と、英二が言った。
礼子が乾いた声で笑った。
「だって毎日、顔を合わせているんですもの。しょうがないじゃない」
「なにがしょうがないんだよ」
「あなたたちにだって見せたこともない、あられもない姿態を幾度も見せているのよ」
彼女は言い、二人は黙った。
「鞍から逆さに落ちたり、馬にのしかかられたり、それはもう恥ずかしい姿」
「そんなところだろうと思った」と、雅史は言い、頷いた。
英二はジントニックを音をたてていっぺんに飲んだ。
「だいたい何よ。あの、海まで二百キロっていうのは?」
「海っぽい奴だったじゃない。こんなところじゃなく、海辺に相応しいだろう」
「それも、海の家があるような海。カレーライスと缶ビールのな」と、雅史が付け足した。
「海の家にスーパーカブで来ちゃうんだろう」
「もちろん」
「いいコンビね、あなたたち」礼子が冷たく笑った。
「でも、彼の海の家はマヒマヒにマイタイなのよ。先月はずっとハワイの家にいたんですって」
「それで、今月は石油会社の寮にいるのかい?」
「税金が高いから、国内の別荘は全部、会社のものにしちゃったんだそうよ」
「本当かな」と、雅史が言った。
「なんだか、結婚詐欺によくある話だよね」
「それで?」と、英二が聞いた。
「これから、ボーリングへ行くの」
「あなたたちは? だって、空っぽじゃ踊っても楽しくないわ」
ダンスフロアは、もう誰もいなかった。目を凝らしても、動くものの影はなかった。音楽も、いつのまにかヴォリュームが絞られていた。
「≪ミズノ≫へ行って飲もうか」
「お酒で泳ぎたがるのはあなただけよ」
「そう。俺はこれ以上、脳細胞に負担をかけたくないね」と、雅史。
「じゃあ、こうしよう。雅史を横浜まで送って、≪ホフブラウ≫で朝飯を食べる。それからトンボ帰りでここへ戻る」
「駄目よ。乗馬が朝の九時からでしょう。最悪、午前二時までには眠らないと」
「じゃあ、仰せのとおり」
彼はジャケットの袖をたくしあげ、時計を見た。午後八時四十五分。
「いいよ。送って戻って一時半。これでどう?」
「そんなの無理よ」
「いや、無理じゃないよ」
「おまえ、一昨日、横浜まで戻ったのって、それだな?」と、雅史が言った。
「車が来たんだろう」
「ああ。取りに行ってたんだ」
英二が薄笑いを泛かべた。
「能天気な奴だ」と、雅史は言った。
「あんなマッチョにガン飛ばすから、どうも変だとは思ってたんだ。それ、よくない性格だよ。ちょっと何かあると、すぐに気が大きくなっちゃうの。それも極端に」
「そんなことはないよ」
「あるさ。昔、空気銃を買ってもらったとき、おまえ、中華街の隆司に喧嘩売って大怪我したじゃないか。その調子だと、ヘリコプタ手に入れたら力道山に殺されるぞ」
「力道山はとっくに死んじゃったよ」
「もののたとえだよ。これだから教養のない奴と会話するのは骨なんだ」
「いいわ。ともかくその車を見にいきましょう」と、礼子が言った。
三人が外へ出たとき、駐車場に他の車はなくなっていた。バスターミナルも空っぽになっていた。
待合所の屋根の下では、頭に手拭いを巻いた老婆が、大きな籠を持ってじっと丸くなっていた。籠は空で、その底に青菜のくずがへたばりついていた。彼女のすぐ目の前に新聞が転がっていた。遠くを犬が横切っていった。そのどれもが、青々と輝いていた。
「なんだ、コロナじゃない」と、雅史が言った。
英二はにやりと笑い、
「これがコロナなら、フェラーリは月見うどんだね」
「どこがそうじゃないんだよ」
「でも、きれいな色ね。ワーゲンの黄色より素敵だわ」
「色だけじゃないよ」
「ああ、そうか。ハードトップなんだ」と、雅史が言った。
「まあ、こっちへ来てみろ」と、英二は言い、車の前に回った。
「これがどうしたんだ」
「フロントグリルが黒いだろう。フェンダーミラーも違う、コロナのは女のコンパクトみたいに平たいんだ。それにこれさ」
彼はフェンダーの上に切られた吸気口を軽く叩いた。
「あ、穴が開いている」と、雅史が言い、英二はボンネットにかけていた手をひっこめた。運転席のドアのところへ行き、鍵を開けた。
「まあ、乗れよ」
「おお、感心。ビニールをちゃんと取ってあるぞ」
雅史は、しかし後ろのシートに押し込まれると、さかんに狭いと文句を言った。
「これだから日本の車は嫌だ」
「おまえがでかすぎるんだよ」
「車はキャディラックに限るよ」
「ドアが四枚もついているような車は年寄りの道楽だ」
「とにかく、こんなんで横浜へ行くのは御免こうむるぞ。俺は荷物じゃないんだからな」
「ねえ、本当は何ていう車なの?」
「トヨタ1600GT5」と、英二は言い、エンジンを回した。
「五種類あるのね」
「何が?」
「トヨタGTよ。5なら、1から4もあるんでしょう」
「5っていうのはシフトの数だよ。前進五段なの。トップギアの上にもう一段あるの」
「それ、相当にすごいことなの?」
彼は黙って車を出した。慎重に、静かにギアをつないでいった。ときおり、タコメータを覗いた。四速で三千まで回すと、景色が流れ、道路が浮き上がって見えた。それは鏡のように月夜の空を映しこみ、まばゆく輝いていた。
ギアを上げると、それがぐっと長くなった。黒々した森を真っ二つに切り裂いた光の刃の上を走っているようだった。
「ヤマハのエンジンなんだぜ」
「ピアノにもなるんだな」と、雅史が言い、礼子が隣でくすくす笑った。そして少し自慢そうに、
「いやあね、ヤマハは最近オートバイも造ってるのよ。知らなかった?」
駅前まで出ると、国道を右へ曲がった。そうするように礼子が言ったのだ。右手には国鉄の線路が沿って走っていた。次の駅まで行って右に折れると、彼らの別荘地まで真っ直ぐ戻ることができた。
彼は新品のエンジンをいたわり、もうそれ以上の力を引き出そうとはしなかった。
国道はコンクリート舗装で街灯も対向車も多く、月は空の片隅に押しやられてしまった。
やがて、駅が見えた。
「真っ直ぐ行って」と、彼女は言った。
「次の信号を右よ」
「どこへ行くんだ」と雅史が言った。
「ボーリングじゃないの」と、英二は呟いた。
「ボーリングがしたいってわけじゃないけど、まだ家にも戻りたくないし。ほかにアイディアがあれば聞くわ」
「いや、何もないよ。ここじゃあ、することなんて別にないんだ」
「だったら、つきあいなさいよ」と、彼女は言った。
英二は何も言わず、スケートセンターまで走った。
「あら、彼ら来ているわ」と、彼女は意外そうに言った。
指さす方に、黒塗りのコーベット・スティングレイが停まっていた。
「練馬ナンバーじゃないか」と雅史が言った。
「杉並区でも練馬ナンバーなのよ」と、礼子は言ったが、残る二人は返事をしなかった。
「ともかく、行かない?」
礼子がドアを開けた。
「俺はいいよ」と、言い、英二はシフトをカチカチ鳴らしてみせた。
「もう行くよ」
「行くってどこへよ」
「いや、もう帰るよ。帰る前にそこらを走るんだ」
「だって、横浜から走ってきたばかりなんでしょう」
「まあ、そうだけどね」
「新車って、あんまり走らせるといけないのよ。最初の何千キロかは、おばさん運転しないと駄目なの」
「おばさん運転はどんなときでも駄目なんだよ」と、彼は言って、口の端で笑った。
「まあ、いいじゃない。一ゲームくらい付き合いなさいよ。私だって、ひとりであの人たちと遊ぶの嫌だもの」
彼は雅史の方を振り向いた。彼の顔を覗いた。
「おまえ、どうする?」と、聞くまで、ずいぶん長いこと、雅史は黙っていた。
「ああ」間抜けな声を出した。
「俺を送ってくれるって話だったんじゃないのか。こっちはすっかりその気だぜ」
「悪いけど、私は遠慮するわ」
礼子はもう車から降りていた。運転席のところまで車を半周してくると、窓に身をかがめ、
「どうするの、あなた?」
「送っていくよ。考えたら、出征兵士みたいなもんだぜ。来年の三月まで会えないかもしれないんだ」
「おお、嫌にセンチじゃないかよ」
と、雅史が言い、礼子はくすくす笑った。
「君はどうするんだ」
「そうね、だったら一ゲームやってくわ。景子か君江がいるみたいだし」
すぐ向こうの列には、たしかに彼女たちが使っているオレンジ色のミニが停まっていた。
彼女はその近くまで歩き、車内を覗いて戻ってきた。
「やっぱり景子たちのだわ」
「そう。じゃあ、俺は行くよ」
「うん。じゃあ、雅史君、頑張ってね。息抜きが必要だったらいつでも電話してよ」
彼女はボーリング場の明かりの方へ歩き去った。
英二は車を出した。
「荷物は?」と、彼は聞いた。
「これからだよ」雅史は答え、
「──おまえ、本気か? 俺は行きがかりでああ言っただけだぞ」
「行きがかりって、いったい何の行きがかりだ」
「鈍い奴だな。まあいいや。行ってくれるなら助かるよ。明日は指定券が取れなかったんだ。もしかしたら上野まで立ち詰めだよ」
「ありがたく思え」
「荷造りは一時間かかるぞ」雅史は笑った。
「≪ホフブラウ≫で朝飯をおごれよ」
車は国道から旧街道に戻った。英二は小刻みにシフトを上げていった。
「幼なじみみたいなものっていうのはどういうことかね」
四速で走りながら、英二が言った。
「中学からの知り合いだからな。幼なじみではないし、クラスメートってわけでもない」
「適切な指摘だな」
「医師を目指してるからね。いつも適切なんだ」
雅史は言って笑った。
「これ、いいな」と、付け加えた。
「何がいいって、名前がいいや。コロナとかクラウンとかブルーバードとか、おやつの名前みたいでいかさないからな。コロナじゃなくトヨタというのがすごくいいや」
「ああ」と、英二は大きく頷いた。
「≪ホフブラウ≫は、俺がおごるよ」
「いいのかよ、そこまで気がでかくなって」
「へ。かまうもんか」
それから彼はアクセルを踏み、ギアを一つ上げた。
月が正面に来た。
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地図にないモーテル
彼らが入っていっても、カウンターの中の店員は顔を上げようとしなかった。油の切れたスウィングドアが嫌な音をたてて背中に鳴った。
おそるおそる、
「ハーイ」と声をかけてみたが返事はない。
体中の毛がチリチリと音をたてて逆立ってくるほど冷房が効いていた。身震いして、彼は光を背に立ち止まった。明かりは少なく、窓もなく、暗闇に慣れるのにだいぶ時間がかかった。目の前の床に、長い真っ直ぐの影が揺れていた。
「おい、閉まってるんじゃないか?」と、後ろからやって来た英二が囁いた。
「客がいるじゃない」
彼は首をひねって、英二に言った。
「よく見えるな。真っ暗だぜ」
「古い店は、みんなこんなもんだよ。外が明るいから、よけいさ」
「電気がきてないのかよ」
それには応えず、彼はカウンターに歩いた。
「ビールをくれ」と、店員に言った。
やっと顔を上げた。むさくるしい風体の中年の白人だった。不精髭がぼさぼさの髪の毛とひとつになって、顔を取り囲んでいた。
「ビールは何にする」
「生ビール」
「ミラー? バドワイザー?」
「何でもいいよ」
「何でもいいなんていう生ビールはないぜ」
「おい、からむなよ。雰囲気よくないぞ」と、英二が日本語で言った。
「からんでるのは、向こうだよ」
「どうするんだ? 相談は終わったか?」と、店員が聞いた。
「ミラーがいい」と、彼は言い、カウンターに肘を乗せた。
「相棒も?」
「ああ、ふたりとも」
店員は数回に分けて二つのジョッキにビールを注ぎ、膨れ上がった泡をテーブル・ナイフでそぎ取った。
ビールはあまり冷たくなかった。
「一ドル二十五セントだ」
「一人? それとも二人?」
「一人に決まってるよ。いくらニューメキシコの片田舎だからって、そこまで安くないさ」と、言って、英二が二人分の金をカウンターに置いた。
「オリーヴはあるか」彼は訊いた。
「おまえ、もう少し丁寧な口きけよ」と、英二がまた日本語で言った。
奥のテーブルで誰かが立ち上がった。その方向には、トイレの非常灯しか光がなかった。
「何びびってるんだ」と応えてから、
「何かスナックが欲しいんだ」
「オリーヴ!」と、店員は忌ま忌ましそうに言って鼻を鳴らし、カウンターの端から籠を滑らせた。中にはカレーの匂いがするチップスが入っていた。
「サルサはないの?」と、彼は聞いた。
「サルサが好きか?」と、店員が言った。初めて、目つきが緩んだ。
「エルパソの近くだからね、きっと旨いんだろう?」
店員はにやにや笑ってカウンターの下から、大きな瓶を出して、チリのいっぱい入ったピンク色のサルサを木ベラですくいだした。小皿に盛られたそれをしゃくって、彼はチップスを食べた。
「旨い。やっぱりニューメキシコだ」と、彼は大声で言った。
「パンチョ・ビリャが食ってたのと同じだな」
店員は汚れた前掛けで両手を拭った。その前掛けには、シルクハットを被った鼻の赤いアンクル・サムがこっちを指さし、アメリカ建国二百年を祝っていた。
「じゃあな、エド」
例の大きな人影が、カウンターの端で店員に声をかけた。
「ああ」と、店員が頷いた。
大きい影が出ていった。店にはエドと彼らだけになった。
ビールのジョッキを手に、英二が店の奥へ歩いていった。そこには布切れを被ったビリヤード台が置かれていた。派手な色ガラスで囲われたランプが天井から吊り下がっていたが、明かりは点いていなかった。
天井の太い梁には、カウボーイ時代の馬具や幌馬車の部品が飾られ、みごとに埃を被っていた。
「ビリヤードしていいかどうか聞いてくれよ」と、英二が言った。
「自分で言えよ」
「ビリヤードなら駄目だよ」と、エドが言った。「水準《レヴエル》が狂ってるんだよ」
「レヴェルって何だ?」と、英二。
「ほら、あれだよ、平たくないんだ」
「おまえの友達はハスラーか」
「俺は疾風のエディだよ」と、英二が英語で言った。
「俺もエディだ」と、エドがにこりともせずに言い返した。
「すまないな。床が沈んじゃったんだ。金がないんで直せないんだ」
「ここは、あんたの店かい?」と、彼が訊いた。
「いや、兄貴のなんだ。本当は親父のなんだよ。親父は、俺を信じてなかったのさ」
「≪エデンの東≫だね」と、英二が割り込んだ。
「ビールをもう一杯くれよ」
エドは新しいジョッキを冷蔵庫から出して、ビールを注ぎはじめた。
「あんたは、俺の知らないことばかり言う」と、エドが言った。
「映画の話をしてるんだよ。昔の映画だ」
「日本の映画なんて知るわけがない」エドは言った。「あんたらは日本人だろう?」
「ああ、そうだよ」
「やっぱりな。最初っからそうじゃないかと思ってたんだ」
「しかし、今、言ったのは両方ともアメリカ映画だよ」と、英二は言い、新しいビールを受け取って、金を払った。
「そうか。日本でもアメリカ映画を見るのか」
「世界中、どこへ行っても見てるよ」
「本当かね」エドがにっこり笑った。
「それはすごいな。兄貴にも、女房にも教えてやらないと。何しろ、日本人に会うのはあんたたちが初めてなんだ」
「聞いたか? 今の」と、英二が彼に日本語で言った。
彼はエドに向かって、
「驚いたな。ロスでもダラスでも、行けばごろごろしてるんじゃないか」
「ロスもダラスも、かれこれ二十年は行ってないよ」
「じゃあ、ラスヴェガスは? エルパソにだって、いるだろう」
「うん。見たかもしれないな。しかし話すのは、間違いない、これが初めてだ」
エドは言って、カウンターの下から電話を出し、ダイヤルを回した。
外からガラスが割れる音が聞こえてきた。英二がびくっと震えた。彼はビールを飲むのを止めた。
そこらの瓶や窓ガラスが割れるのとは全然違う種類の音だった。
英二が足早に表へ出ていった。
彼は、ビールの泡で濡れた口を拭い、その後を追った。
店の前は前世紀風のボードウォークになっていた。西部劇の村にはつきものの、板張りの舗道だ。それは最近造られた複製で、アーケードの支柱は軽量鉄骨だった。庇は三色のモールで飾られ、数カ月後に迫った建国二百年の記念日を祝うポスターがあちこちに張り出されていた。
二人がロサンジェルスから乗ってきたホンダ・シビックは舗道に横腹を迫《ひ》っつけて停めてあった。ボードウォークは高さが一フィート以上あったので、小さなホンダは背丈半分、車道に埋まっているように見えた。
「こっちへ来てみろよ」と、ホンダの向こう側で英二がわめいた。
かんかんと音が聞こえそうなほど強い日差しが車道に降りそそいでいた。運転席の窓ガラスが粉々に砕けて、そこに散っていた。反射光が、英二の体のあちこちでまだらに揺れていた。
「先刻のでかいやつだぞ」と、英二が日本語で言った。
「さっき出ていったやつだ」
「さっき出ていった大きな男は誰だい?」
スウィングドアのところまで出てきたエドを、彼は振り仰いで尋ねた。
「保安官のことか?」
「保安官? ポロシャツを着てたぞ」
「Tシャツだよ。ほら、建国二百周年のTシャツだ。今年、村の役人はあれを着るんだよ」
「バッジをつけてたか?」
「さあな。休みなのかもしれない」
「じゃあ、誰がやったんだ」
通りに人影はなかった。日は強く重く、たとえ百ヤードでも、背負って歩く気になれなかった。事実、町並みの片側は日陰が暗黒をこしらえていた。風もなかった。動くものは、虫一匹見当たらなかった。
「あと三十分もすると、保安官事務所が開くよ。そうしたら被害届けを出せばいい」
「ああ、そうするよ」彼は言った。
「おい、これは嫌がらせじゃないか」と、英二が日本語で呟いた。
「よくあるじゃないか、田舎町で悪徳保安官が余所者をイビリ殺すなんていうのが」
「それは、映画以下だね。TVドラマだ」
「保険はかかってるんだろう」と、エドが尋ねた。彼は、軒下に並べて置かれた木の椅子に腰掛けて、煙草を巻いていた。
「かかってるよ。俺たちの車じゃないんだ」と、彼は言った。
英二はドアを開け、車内に飛んだガラスを掃除しはじめた。
「それは不味いね」と、エドが言った。
「いや、レンタカーだってことさ。だから、そんなに不味くはないんだ。警察の証明書があれば問題ない」
「こんなに小さなレンタカーがあるのか」
手巻きの煙草に火を点けながら、エドは立ち上がり、車道を見下ろした。
「レンタカーと言っても、レンタカー会社のものじゃないんだよ。でも、最近ロサンジェルス空港のレンタカーは、普通この大きさだよ。何しろ、カローラばっかりだからね」
「そいつは、呆れたね。ロサンジェルスに行ったら、バスに乗るしかあるまいな」
「電話を借りるよ」
彼は真っ暗な店内に戻った。一瞬よろけ、手さぐりでトイレの明かりに向かって歩いた。公衆電話でロサンジェルスのダイヤルを回すと、オペレータが出て、最初の料金を伝えた。
「小銭が足らない」と、彼は言った。
「クレジットカードでもいいのよ」
「学生なんだよ。カードなんて持ってない」
「じゃあ、コレクトにしたら」
彼は、ホンダの広報部から教えられた電話番号と担当者の名前を伝えた。
一分近く待たされた挙句、オペレータは何も言わずに、突然、回線を繋いだ。
「四日前に車を借りた、京南大学の自動車部の者なんですが」と、彼は聞かれる前に言った。
「ああ、あなたね。ハロー。旅はいかが? 私よ、サンドラ、駐車場まで連れてってあげたの、覚えてない」
「ありがとう。覚えてるよ」
「そう、よかったわ。ボスは今、席を外してるのよ。私ですむ用事かしら」
「借りた車の窓ガラスを割られちゃったんだ」
「あなたたちは大丈夫なのね」彼女はのんびり尋ねた。
「ああ、まったく怪我はない。路に停めておいたら、割られてたんだ」
「盗まれたものは?」
「それもない。全部トランクの中だったからね。ただの嫌がらせだよ」
「大きな町?」
「いや、メインストリートが二百ヤードもない村だよ。名前はまだ聞いてない。今夜予約をいれたモーテルの近くだ」
「モーテルに予約?」大声で聞き返した。
「ああ、それがどうかした?」
「モーテルに予約ね」くすくす笑った。
「まあ、いいわ。ともかく、そんな場所はとっとと離れなさい」
「被害届けを出さないと保険が下りないだろう」
「身の安全とガラス代じゃ比べものにならないわよ。田舎町の保安官は旅行者より身内に寛大なんだから」彼女は、そこだけ言葉を選びながら言った。そして、
「悪いことは言わないわ、とっとと離れることよ。被害届けなんてどこで出してもいいのよ」
「判った。そうするよ。それで、窓はどうしようか」
「昼は車を離れないこと、夜はバッテリーを外して寝ること。ダラスまで行けば、ガレージがあるわ。ガラスの在庫があるかどうか調べておいてあげる。五時前にまた電話してちょうだい。OK?」
「ああ。判った。──バッテリーのコードを外すのね?」
「バッテリーを外すのよ。バッテリーと一緒に寝るの。OK? じゃあ、後でね。幸運を祈るわ」
彼は切れてしまった電話に礼を言い、受話器を戻した。受話器で何度かラッチをがちゃがちゃ鳴らしたが、小銭はついに戻ってこなかった。
トイレから出ると、英二もエドも、もうカウンターに戻っていた。
彼は英二の隣に立って、
「余所者に冷たい土地柄らしいぜ」と、日本語で囁いた。
「電話機に金を食われた」
「そんなの、アメリカでは普通さ。余所者も何も、誰からも平等に食うんだ」
「それ、新しいビールか? それで買収されたな」
「彼のおごりさ」
「ああ、車なら大丈夫だ」と、エドは頷いた。
「プラグからコードを抜いてある」
「プラグを抜いて持ってこなくちゃ駄目なんだってさ」と、彼は言った。
エドが新しいビールを出した。
「まあ、飲めよ」
「もう、行かなくちゃならないんだ」
「そう言わずに、もうちょっと飲んでいけよ」
エドはにやにや笑って、肩をすくめた。
「自分の町だからな、責任を感じてるのかもしれないぜ」と、英二が言い、それから英語で、
「アメリカで飲むとビールは百倍旨い」
「ニューメキシコだからさ」と、エドが言った。
「砂漠の空気のおかげなんだね」
「ここらは砂漠じゃないよ。牧草地さ」
「原爆の実験をした砂漠があるだろう?」
「原爆? そんなことは知らないな。砂漠なら、ずっと北にあるけどね」
「日本人だから、隠してるのかな」と、英二が日本語で囁いた。
「そんなことないだろう。本当に知らないんだよ。何しろでかいからな。ニューメキシコだけで日本と同じくらいあるんだ」
「え? ニューメキシコがどうしたって」と、エドが尋ねた。
「何って言ったんだ? 俺にも教えろよ」
「日本と同じくらいの広さだって言ったんだ」
「日本ていうのは、そんなに狭いのか」
「住めるところで比べたら、もっと狭いよ。山ばっかりなんだ」
「砂漠もあるのか」
「砂漠なんかないよ。国のなかで原爆の実験なんかしたら、何万人か必ず死んじゃう」
「それは、気の毒に。大変だろうなあ」
エドは言って腕を組み、大きく頷いた。
外で自動車のドアがパタンと鳴った。
英二はスツールから腰を浮かせ、スウィングドアの外を窺った。
通りから女の話し声が聞こえてきた。
すぐにスウィングドアが開き、客が二人、入ってきた。大柄な女と痩せた男だった。女はぺたんこのサンダルを履いていたが、背丈は二人、たいして違わなかった。
「あら、エディ、元気だった?」と、女がガサついた声で言った。
外の光を背にしていたので、顔はまったく判らなかった。
「シュガーだよ。俺の兄貴のつれあい」と、エドが言った。「それに、こっちが兄貴のドゥエイン」
兄貴は汗で濡れた手を差し出し、彼らの手を交互に握った。冷たく、力もなかった。
「あらやだ」と、シュガーは言った。
「あたしったら、こんな格好で」
「いいポロシャツだね」と、彼は言った。
ポロシャツの胸には≪1976≫という数字と、ジョージ・ワシントンに扮したバックス・バーニーの刺繍が施されていた。手の込んだ分厚い刺繍だった。
彼女は皺だらけで、三十をだいぶ越えていた。
「そうかしら。ありがとう」
「何しろ、急いで来たもんでね」
「そんなに心配してくれなくてもよかったんだ」英二は言った。
「ああ、被害届けはいらないんだよ」と、彼も言った。
「彼が保安官なのか」
「違うよ、何を言ってるんだ」エドが笑った。
兄貴夫婦はきょとんとしてこちらを見下ろしていた。
「保安官は、さっき出てったやつだよ。昼飯を食ったら、まず二時間は起きないね。書類なんか頼んでも無駄さ。銀行に強盗が入ったって、起きるかどうかあやしいもんだ」
「銀行なんかあるのか」
「ありゃあしないよ」と、兄貴のドゥエインが言い、三人は、彼らを取り囲むようにして大笑いした。
「まあ、とにかく見てもらおう」と、英二が言い、外へ歩いた。
「こっちだ」
夫婦がついていったので、彼はビールのジョッキを手に、その後を追った。
「これだよ。盗まれたものはない」と、英二がボードウォークの縁に立って言った。
「窓ガラスを割られただけなんだ」
「それは、大変だったな」と、ドゥエインが言った。
「引っ張って欲しいなら、はじめに言ってくれればよかったのに。ねえ、あなた。ロープも何も用意してこなかったわ」
「引っ張って欲しいんじゃないんだ」
英二は言い、困ったように彼の方に向き直った。
「あんたたちは、修理にきてくれたんじゃないの?」
「いや、こんなことになってるなんて聞いてなかったんだ」
「見たことのない車ね。バータワースのガレージに部品があるかしら」
「ないと思うね。あそこにはエドセルの部品しか置いてないんだ」と言うと、ドゥエインは自分でくすくす笑いだした。
女房がおかしそうに微笑んだ。
「俺が呼んだんだよ」と、エドが、スウィングドアの内側から顔だけ覗かせていった。
「やれやれ」
彼はボードウォークに並べられた椅子に腰掛け、ビールを飲んだ。椅子の背もたれには、≪ティバン・アロージョ、歴史の町。アメリカの二百年を祝う≫と記されていた。
「パーティーでもするのかい?」
「それはいい考えだな」
「たしかに、いい」と、ドゥエインは言った。
「兄貴はここの経営者なんだ」と、エド。
「ああ。ここは、俺の店なんだ。だから、自由にやってくれ」
「それは、どうもありがとう」と、彼は言った。「しかし、何だってそんなによくしてくれるんだ」
「俺は、日本人に会うのはこれが初めてなんだよ」
「それはそれは」
「あんたたちは日本人なんだろう」
「そうだよ、しかし──」と、英二が言いかけると、
「いや、嬉しいな。いろいろ話を聞かせてくれよ」と、ドゥエインが大きな声で遮った。
「車のことは心配するな。エル・パソから修理屋を呼んでやるよ」
「いや、もう行かなくちゃならないんだ」
「そんなこと言わないで。夕食までいいじゃない。うちの牧場で食べてってよ」と、シュガーが言った。日の下に出ると、彼女はさらに歳取って見えた。
「君たちはいったいどこから来て、どこへ行くんだ」と、ドゥエインが訊いた。
「ロスからニューヨークだよ」
「ニューヨークだって!」エドが大きな声を出した。
彼は椅子の上ですっかり寛いでいた。ビールはもう空だった。ボードウォークに突っ立っている三人をぼんやり見上げ、欠伸をした。
「ニューヨークだったら、何でこんなところを通るんだ。何で四十号線へ出ないんだ」
「テキサスからメキシコ湾沿いに行くんだ。その辺から、あちこち見ながら北に上るつもりさ」
「何の旅行?」とシュガーが彼を覗き込んだ。
「大学のクラブ活動だよ。車で一カ月かけて、アメリカを回ってるんだ」
「あら、学生なの?」
「勉強かね?」と、ドゥエイン。
「そう、勉強みたいなものだ。社会勉強ね」と、英二が割り込んだ。
「この車は? 君たちが造ったのか?」と、ドゥエインが真顔で尋ねた。
「まさか。借り物だよ」と英二は言い、声をたてて笑った。
「自動車会社から借りたんだ。クラブの先輩が宣伝部にいるんだよ」
「へえ、こんな小さな車をね。疲れるだろう」
「そうでもないよ」
「俺は少し疲れる」と、彼は言った。
「都会で乗る車だからな」
「何だ、こういうのがニューヨークのはやりかい?」
「あら、やだ!」と、シュガーが叫んだ。
彼女はボードウォークの端まで行って、シビックのフロントに屈み込んでいた。
「これ、ホンダのマークをつけてるわ。ホンダの車なの」
「そうだよ。知らなかったのか?」と、英二が言い返した。
「ホンダは自動車も造ってたのか」ドゥエインが大声で尋ね、車道に飛び下りた。しばらくのあいだ、車の回りをうろうろ歩き回った。
「知らないのか? F1で優勝したこともあるんだよ」
「F1て何かしら」と、シュガー。
「さあな、インディ・カートの日本版じゃないのか」と、ドゥエイン。
「違うよ。世界的なレースだ」と、英二が言ったのだが、相手はそんなこと意に介さず、
「うちにも、ホンダのバイクがあるよ。二台もだぜ。あんたたち、バイクは?」
「ホンダのは持ってないよ」と彼。
「俺はバイクに乗らないんだ」と、英二。
「この車は日本向きだな」と、エドが言った。
「広さがニューメキシコと同じくらいしかないんだってさ」
「それは、大変だ」と、ドゥエイン。
「ホンダのバイクは日本でも売ってるのかい」
彼は英二と顔を見合わせた。しばらく黙っていると、
「じゃあ、ますます、うちで夕飯を食っていってもらわないとな。社会勉強に来たなら、ぜひホンダのバイクに乗っていくべきだ。だいたい、アメリカへ来てカウボーイの暮らしっぷりを見ていかないって手はないぜ」
「誰がカウボーイなのよ」と、シュガーが言った。口を開けて笑うと、夫の倍は歳を食っているように見えた。
「せっかくだけど、この先のモーテルに予約を取ってるんだ」と、彼は言い、立ち上がった。
「予約だって?」と、今度はエドが言った。店の中から出てきて、彼の目の前に立った。
「驚いた奴だな。モーテルに予約なんか、どこのどいつが入れるんだよ」
「モーテルって、いったいどこのよ」
「この先だよ」英二が言い、トランクに回り込んで、そこを開けた。
彼は地図を出して、閉じたトランクの上に広げた。
シュガーが馴れ馴れしく擦り寄って、それに覗き込んだ。
「この町の手前だよ。ロードウエイ・インっていうモーテルだ。チェーン店で、割引のクーポンを持ってるんだよ」
「ドウ、ちょっと来て」
ドゥエインが車を半周していくと、彼女は地図を彼の方に寄せ、
「ねえ、こんな道ある?」
「ああ、これは旧道だ」と、彼は言った。
「十年以上前に、竜巻で橋がなくなったんだよ。そのとき、この先の町も吹っ飛んで、結局、道を誰も使わなくなってしまった」
「だけど、モーテルはあるんだろう」
「予約を受け付けたならあるんだろうよ。しかし、回り道をしないと駄目だ」
「引き返すのか?」
「そう、州道301まで戻って一度西に走るんだ。三百マイルくらい遠回りになるな」
「やれやれ」と、彼は言った。
「ビールをもう一杯もらえるかな」
「そうこなくっちゃ」
エドは嬉しそうに笑って店に戻っていった。
彼は木の椅子に座りなおした。ドゥエイン夫妻は、少し離れたところからベンチを引きずってきた。その背もたれにはこう書かれてあった。
≪神、ここにあり。我、信ず。アメリカンエクスプレス。一九七六年から再び≫
ドゥエイン夫妻はそのベンチに並んで腰を下ろした。
「まあ、ゆっくりしていくといいよ。うちの牧場は、ホンダのバイクで一周しても一時間はかかるんだぜ」
「中に郵便局や映画館があるんじゃないだろうな」
「郵便局はないが、映画なら見られるわよ」と、シュガーが言った。
それは嘘ではなかった。彼らはその夜、十六ミリ映写機で≪ベン・ハー≫を見せられた。フィルムをかけ替えかけ替え、エンド・マークまで六時間近くかかった。
郵便局はなかったが、郵便ポストは牧場の中に置いてあった。牧場の中を、州道が走っているのだった。
彼らはその夜、州道の側に建つゲストハウスに泊まった。車は、建物の反対側に置いた。バッテリーも、もちろん外して眠った。
しかし、翌朝になってみると、彼らの手許には、そのバッテリー以外何も残っていなかった。
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インディアン日和
日は傾きつつあった。
気づくと、手前の丘の斜面には、彼らふたりの長い長い影が刻み込まれていた。真下の道路は陽を浴びて明るく、側溝に落ちた赤いマーボロの箱にいたるまで、くっきり見えた。
「ここはススキの原っぱだったんじゃなかったのか?」と、彼は尋ねた。
「どこが」と、克哉が聞き返す。
「この丘だよ。道路側の斜面は、見渡すかぎりススキだったろう」
「いつのことだよ。ガキのころは、道路なんかなかった」
「つい去年までさ。覚えてないのか。みごとにススキだらけでザワザワ音をたててたじゃないか」
克哉が首をひねった。それから面倒くさそうに上体を起こし、伸びをしてあたりを見回した。
「そうか」と、頼り無い声を出した。
彼はあきれて黙り、眼下の道路を目でたどり、すっかり黄色くなったひと盛りの銀杏の木立の中に消えている道路の南端にその目を細めた。そこで道路は町に向かい、大きくカーヴしながら下っている。相当に急な下りだ。おかげでここからだと、ぷっつり木立に行き止まっているように見える。
北の端は、彼らが今陣取っている丘の裾を回り込んで見えなくなっている。
その間、三百メートルほど。ほぼ、一直線。
「どのくらい出してくるかな」
「あの坂を上ってくるんだからね」と、克哉は言い、ちょっとのあいだ、考えた。
「いくらアルファと言ったって、一三〇〇には変わりない。あそこから踏み抜いたとしても、俺たちの前を通るときは、せいぜい六十、出ても八十キロってところだろう」
「まあ、あいつの運転だからね」
彼は頷き、茶色くなった草原にしゃがみこんだ。
「それにしても、ススキはどうしちゃったんだろうな」
「ススキ、ススキって、ススキが何か問題なのか」
「問題っていうんじゃないけどさ。去年の月見の日は、たしかにここでススキを刈ったんだ。後ろのシートいっぱいになるほど」
「だから?」
「今年は、何も生えてないってのが変じゃないか」
「何か建つんだろう」克哉は鼻を鳴らし、こともなげに言った。
「県の土地だからな。何か建てる気なんだろう。下の方に看板が出てたぜ」
「つまり、切っちゃったってことか」
克哉が彼の横に新聞を移動させ、そこに腰を下ろした。何事にも用意のいい男だった。真っ白なコットンパンツを汚さないように、古新聞を一束持ち込んでいた。その他にも、ナップザックのなかには缶コーヒーや漫画雑誌、ラジオや軍手まで入っていた。
「見ろよ」と言って、克哉は茶色に立ち枯れした草を引き抜いた。
「機械で切ったんだよ。バリカンみたいにさ、すっぱりやったんだ。だから、隠れるところもありゃしない」
「それで、こんなに早く秋っぽい色になっちゃったんだな」
「秋っぽいなんて、やめろよ。どこかの女の雑誌みたいで気味が悪い」
「そうか」と、曖昧に頷き、彼は斜面を見渡した。
たしかにこれはススキの根なのだ。枯れたススキの根が斜面を隅から隅までびっしり覆い尽くしている。そこここに別の雑草が白い花をつけている。それが、よけいに朽ち果てた印象を与えている。
「じゃあ荒野だ」と、彼は陽気に言った。
「デスバレーで騎兵隊を待ち受けるインディアンってところだね」
「何を能天気なことを言ってるんだ。インディアンが新聞敷いて待ち伏せするかよ」
「新聞持ってきたのはおまえだよ」
「貸してくれって頼んだのは誰だ」
彼は黙って中腰になり、新聞紙をさらに大きく広げた。そこに腹這いになり、顔を腕の上に乗せ、下を見張れるようにした。
銀杏の向こうには坂下の町並みが、神経質な子供が描いた絵地図のように広がっていた。その向こうには海が見えた。午後の東京湾に波はなく、釣り客相手の漁船が錨を投げているあたりから水平線にかけて、黄金色に輝いていた。対岸の房総半島は、川辺に打ち上げられた鰐の死骸のように見えた。
眼下の道路はつい最近舗装し直したばかり、路面は鏡のようだった。その向こう側は急な崖で、数十メートル下の小川まで、背の低い雑木が繁っていた。そこはとても暗く、午後の陽は道路ばかりを赤々と炙りだしている。
「どうせなら、この方がいい」彼は言った。
「何がいいんだ」と、克哉が聞いた。
「座ってたら向こうから見えちゃうだろう」
「見えないよ。立ってても大丈夫だ」
「そんなこと、あるもんか。ススキがないから丸見えだぜ。直線で、それでなくても見通しがいいんだから」
「それが、そうでもないんだ。おまえ、ここ走るとき、この斜面のてっぺんを見上げたことあるかよ」
訊かれて、彼はわずかなあいだ、黙りこんだ。
「そんなこと、いちいち注意して走るかよ」
「じゃあ、今度から注意するんだな。まったく見えないんだよ。あの銀杏に葉がついているうちは、坂を上ってくる途中、見えてるのは銀杏だけだ。で、こっちの道に差しかかるだろう。そうすると、この丘は左手だ、あの車は左ハンドルで、しかもフロントグラスは丈がない。ハンドルの上に顔を乗り出して、上目遣いで見ないと、このてっぺんは見えないんだよ」
「ふうん」とすっかり感心して、彼は声にだし、息を吐き出した。
「それ、ちゃんと確かめたのか」
「あたりまえだろう」
「それじゃ、まるで完全犯罪だな」
「何を言ってるんだ。犯罪だぞ。俺たちがすることは」
彼ははっとして目を上げた。その目に、克哉の横顔が眩しかった。それは日を背にしていた。病院を出てからひと夏、むさぼるように灼いた肌がぴかぴかに光っていた。切れ長の目が数本の皺で一つにつながっているように見えた。まばらに不精髭の生えた口許には、不敵な笑いが浮かんでいた。
それは、テレビや映画で見る犯罪者の相貌だった。
彼はゆっくり息を吸った。すると、友人であり、主犯でもある男の声が聞こえた。
「向こうは崖だ。ガードレールもありゃしない。死ぬことだってあるんだぜ。それが目的じゃないけどな」
それは太く低く、どこか笑いを含んで、彼の耳に心地よかった。
彼は上半身を起こし、新聞紙の上に横座りになった。
エンジン音が町の方角から上ってくる。腕時計はまだ二時四十分。だいたい、この音はあの赤いクーペのものではない。
やがて木立の中からトラックが一台、道路へふいに姿を現す。
港の水産加工場から東京に荷を運ぶ、マグロ屋の保冷トラックだ。青息吐息で坂を上り詰め、ゆるゆると加速を始める。道路の真ん中あたりまで来たとき、ギア鳴りがして、動きがやっと軽くなる。
運転手の顔は最後まで見えない。日は車の正面にある。サンバイザーを深々と下ろして、フロントグラスの上半分は、それで隠されている。克哉の言うとおりだ。
彼は、身を乗り出してそれを確かめる。道路は真下にあり、銀杏の木立からこちら側は、自分の足でひと踏みにできそうな案配で横たわっている。
克哉が自分の腕時計を覗いて、
「さあ、いよいよだな」と呟いた。
腰を上げ、ナップザックから軍手を出した。一組を彼に投げ、もう一組を手にしながら、丘のさらに上の方に歩きだした。
彼は軍手をジーンズの尻ポケットにつっこみ、その後を追った。
四歩上って、彼は立ちすくんだ。すぐ上は、真っ平らに整地されてあったのだ。金網が張られ、あちこちに穴が掘られていた。それは、建物の基礎工事ではないようだった。
「井戸を掘ってるみたいだな」と、克哉が言った。
「井戸を掘って何をするんだ」
「幼稚園を建てるんだってさ。温水プールのついた、金持ちしか入れない幼稚園」
「アホくせえ」
「まったくだよ。洟垂れに温水プールとはね。──もしかすると、温泉を掘ってるのかもしれないな」
言って、克哉は戸惑いもせず、金網にたてかけてあったゴルフバッグをとり、ジッパーを開けた。
「用意がいいんだな」
「ああ、近くに車を置いとけないからな。しょうがない、朝、ゴルフ行くふりしてバスで持ってきたんだ」
「車、直ったの」
「一昨日、戻ってきた。おまえ、まだ見せてなかったっけ」
「うん。何か長引いてるとは聞いてたけど」
「ついでだからオールペンしたんだよ。あのペパーミント、本当の色じゃないしな」
「俺、好きだったよ。あの色」
すると、克哉は彼にくるりと振り向いて、額に皺をいっぱいため、
「バカ。あんな色! あれは、コーリン・チャップマンの色じゃないんだぜ。東淀川の町工場かなんかででっちあげた色なんだ」
「東淀川ってどういう意味さ」
「前のオーナーが大阪の田舎者だったんだよ。わざわざ、オリジナルをあれに塗り替えたんだ。あきれてものが言えないよ」
「で、今度はどんな色にしたの」
「どんなも、こんなも、そりゃあアイボリーにグリーンの帯さ。それ以外ないだろう。横浜のフェンダー商会で、本物のペンキを塗ったんだぞ」
「ボディはいいけど、中は大丈夫だったの。捩じれちゃったんだろう」
「まあな」と、克哉は口先で言い、急に黙ってゴルフバッグを覗き込んだ。
「ハンドルがぶらつくんだよな」と、小さな声で呟いた。
「どうも、頼りないんだ。──ちきしょうめ。あのアルファの野郎」
彼は黙ってその背中を見守った。
やがて、克哉の手がバッグの中からテンダーの櫂のようなものを掴んで出てきた。
構えて、狙いすます格好をして見せて、それが何か、はじめて彼に判った。
「何だよ!」彼の声が、思わず裏返った。
「それ、何だよ。ライフルなんか持って。それじゃ、赤軍派のM作戦じゃないか」
「バーカ。銀行襲おうってんじゃないよ」
「あたりまえだ!」彼の声はますます甲高く、大きくなった。
「これは、ライフルじゃないよ。ただの散弾銃だ」
「それで何をしようってんだ。人を、──」
いつのまにか彼は肩で息をしていた。言葉が思わず、そこで途切れた。
すると克哉はみなまで言わせず、
「あ奴を撃つなんて言ってないよ。落ちつけよ。いいか? 俺のコーティナはもう真っ直ぐ走れないんだぞ。片端にされちまったんだ。このままじゃ済まない。だから、今日、襲撃することにしたんじゃないか」
「それはそうだけど」
「だけど何だ? いったい、何をすると思ってたんだ」
「ここで待ち伏せるって言うから、てっきり石でもぶつけるんだろうと思ったんだよ」
「おまえな、いい加減にしろよ。高校三年だろう。じき未成年じゃなくなるんだぞ。それが『石ぶつける』だなんて、よく、恥ずかしくないもんだ」
克哉はゴルフバッグの底から、剣菱の一升瓶を出した。
それを差し出して、彼がまだ軍手をしていないことを見とがめ、短く怒鳴った。
「指紋が残るだろう」
指紋?──その言葉を額の奥で反芻すると背筋に冷や汗が流れた。
軍手をした手で受け取った一升瓶からは、ガソリンの臭いがした。コルクの栓はビニールテープで何重にも巻かれていた。
言われるままに、彼は斜面を下り、道路の向こう側の側溝にそれを置いた。
「俺、前に本で読んだんだけどさ」と、彼は斜面を上りながら言った。
「ばか、大きな声を出すな」と、克哉がまた鋭い声で怒鳴った。散弾銃を手に、もう斜面のてっぺんで伏せ撃ちの姿勢をとって、準備していた。丸めて枕みたいな形にした古新聞の束を、銃の射撃ベンチにしていた。新聞はガムテープで巻かれ、銃が固定しやすいよう真ん中をへこませてあった。あらかじめ造って持ってきたのに違いなかった。
「ガソリンって、銃で撃っただけじゃ、映画みたいに一発で火がつくってもんでもないらしいぜ。知ってるかい」彼は言った。
すると、克哉はにやにや笑いながら、バラキューダのジャンパーのポケットから、大きな緑色の散弾を出した。プラスチックのケースの中に、大きな丸い玉が四つ五つ透けて見えていた。
「黄燐を塗ってあるんだ」
「あ」と、小さく叫んで彼は言葉を飲み込んだ。つい先日、克哉に言われて、彼は学校の理科室から黄燐を持ち出したのだ。
克哉は真顔で頷いて、
「こいつは、祖父《じい》さんのだよ」克哉は勝ち誇ったように言った。
「まだ、このへんに熊が出たころ、用心に持ってたんだって。祖父さんの代までは、うちは山でも働いてたからな」
「アメリカ軍の間違いじゃないのか」
「山にアメリカ兵が出るようになったのは、戦争のあとだよ。奴らに取り上げられないように長いこと納屋に隠してあったんだ。だから、まったく無許可なんだよ。警察で登録してないんだ。──親父が、今でも時々、海へ持ってって鮫を撃ってる。それで弾がでかいんだ。普通は九粒あるんだけどな」
銃身は二本あった。その根本で銃はくの字に折れ、内臓を晒した。克哉がそこに、弾を二つ押し込んだ。銃把を元へ戻し、箪笥の引き出しの把手のようなロックをかけ、また腹這いに身構えた。照星に片目を細め、一升瓶に狙いを定め、何度も体の位置を動かした。やがて、それが決まると、ふうと息を吐き出し、
「何時だ?」と、尋ねた。一度決めた姿勢を、腕時計を見るために動かしたくないのだ。
「三時、ちょっと前だ」
「ちょっとってどのくらい」軽く叫んだ。
「四分。いや、もう四分を切ってる」
「ちきしょう。時間がたつのが遅くていけねえや」
克哉は苛々と声を上げた。
遠い海では、釣り舟が帆を畳み、岸に回頭しはじめていた。もう、そのあたりは黄金色ではなかった。どんよりと雲がたれ、さざ波を目立たせていた。町の輪郭もずいぶんぼんやりしていた。
「三時ぴったりなのか」と、彼は尋ねた。
「なんで、そんなに正確なんだよ」
「奴はさ、横須賀で店をやってるんだ」
「兵隊じゃなかったの?」
「北爆やめてからこっち、アメリカの兵隊にアルファロメオ・ジュリエッタなんか買えるかよ。買えたとしたって、あいつらにそんな趣味はないよ。奴は、ずっと昔に除隊になって、そのまま日本に住んでるのさ」
ちぇっと唾を吐き、克哉はまた銃を構えなおした。
「奴は、こっちに別荘を持ってるんだ。ヨットハーバーの向こう側の崖上に何軒か建ってるだろう。あのいちばん右の日本風の」
「ああ、玄関が隆史ん家《ち》の畑に面しているのだね。畦道とおってかないと、入れないんだぜ、あれ」
「うん、違法建築だよ。アメ公だから、市も何にも言わないんだ」
「よく調べたね」
「調べたわけじゃないよ。県道にいつもあのアルファが停まってるの、隆史が教えてくれたのさ」
「じゃ、まずいな」
「何がまずいんだ」
「隆史はお喋りだもの、あの車が銃撃されたって知ったら、黙ってられないよ。あいつの兄貴、自衛官なんだぜ」
「それがどうしたんだ?」不思議そうな顔で、克哉が尋ねた。
「自衛隊と警察はぜんぜん違うぞ」
「どこからだって、警察の耳に入っちゃうだろうな。狭い町だから」
克哉は銃から手を放し、体を起こしてこっちに向き直った。
「おまえ、水をさしたいのか」
「そんなことはないよ」とは、言ったものの、彼の声は穴の開いた風船みたいだった。
「そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、──」
「ただ、──何だよ?」
彼は考え、舌で唇を湿らせてからやっと口を開いた。
「だって、俺が手伝うことなんか何もないじゃないか」
今度は克哉が黙った。舌打ちをしたが、怒っている様子はなかった。
「それは、おまえ」と、克哉は言い、一度、口を引き結んで彼を睨んだ。
「おまえも一緒にいたじゃないか。あのアルファにやられたのは一緒だろう」
「でも、コーティナは俺のじゃないよ」
「おまえのほうが怒ってたからさ。野郎、必ずフクロにしてやるって、おまえ、空気はいってたじゃないか」
言われて彼はその夜のことを思った。冷たい雨。割れたフロントグラス。エンジンの方から漂ってくる髪の毛が焼けたような嫌な臭い。そして、自分の腕に落ちてくる、鼻血の赤い感触。
あれは、まだフロントグラスに打ちつけた顔が腫れ上がる前、痛みを感じる寸前だった。その瞬間、真夏の浜のスイカ割りのスイカのように、彼の感情がぱっくり破裂した。
救急車が来たときは、腫れで片目が見えなくなっていた。激痛で頭を立てていられなかった。それでも、彼は手足をむずかる赤ん坊のようにばたつかせ、有らん限りの言葉で復讐を誓っていたのだ。
それを思うと今でも不思議な感覚に捕らわれる。そうした自分を痛みも何も感じない自分が遠くから見つめていて、それをまた別の自分がもっと遠くから見つめている──ちょうど合わせ鏡のなかに紛れ込んだような具合だった。
克哉は肩を脱臼していた。右足は落ちてきたダッシュボードに挟まれ動かなかった。ちょっと力を入れれば動いたのだが、そのときはてっきり粉々に砕けていると信じきっていたのだ。
それで克哉は、彼がわめきたてているあいだ、絶え間なく、こう繰り返し呟いていた。
「大丈夫だ。大丈夫だよ。絶対、大丈夫だ」
彼らの乗ったコーティナは、砂浜に転がっていた。タイヤを下に、屋根を上にしていたが、そんなこと、どれだけ意味があったろう。そのとき、車はもう丸めて捨てた煙草の箱とまるで区別がつかなくなっていた。
ちょうど、今、彼らが陣取っている峠から十キロほど、海辺を通って、市から横須賀へと続く国道に合流する抜け道の途中だった。終バスを抜きあぐねてぐずぐずしていた彼らを、あの赤いジュリエッタはバスごとごぼう抜きにしていったのだ。反対車線をやってきた軽四輪が、タイヤを引きずり大きな音をたてて路肩に急停車した。その脇をすり抜け、豆腐屋のラッパみたいな趣味の悪いクラクションをあたり一面に吐きかけて、それは去っていった。
克哉はいきなりギアを落とし、アクセルを踏み、停まってしまったバスを追い抜いた。小さな漁村の真ん中にある信号で追いついた。バスが二台すれ違うには、どちらかが停まって譲らなければならないような道路だ。茶畑やスイカ畑のアップダウンがゆるゆると続き、ときおり唐突に折れ曲がる。
食い下がって走ったが、なかなか追い越すチャンスはなかった。
こちらも、追い越してどうしようという気でいたわけではない。ただ、人を小馬鹿にしたラッパの音に頭の血が沸きたっただけだ。
そして、あのカーヴに来た。右に防波堤があって、路肩が少し膨らんでいた。どうしたことか、その手前でジュリエッタは速度を落とした。克哉は当然追い越しにかかった。
右に出たとたん、相手が加速した。防波堤は高さ一メートル四、五十センチ、それが大きく右にカーヴしていた。克哉はアクセルを踏み抜いた。
相手がそれに気がついていたかどうかは判らない。ただ、こちらからは防波堤の影になり、まったく見えなかった。ゴミを満載したリアカーが停まっていたのだ。ジュリエッタからはずっと見えていたはずだ。彼らには、物陰から躍りかかってきたかのように見えた。ブレーキを踏むと後輪が流れた。後は判らない。運よく、海岸に下りる階段があり、そこだけ、防波堤が途切れていた。
おかげで、彼らは粉々にならずにすんだ。車ごと、路面から一メートルほど下の砂浜に転がり落ちた、それだけで。
瞬間、二人ともあれを聞いた。例のラッパの音だ。耳に刻まれ、病院の枕元にまでついてまわった。
「ああ、そうだね」と、彼は弱々しく言った。「克哉が、ただ穴開けるだけなんて言うからだよ。丸焼けにして、あの崖からたたき落としてやればいいんだ」
自分をなだめるように言って時計を見た、とっくに三時は回っていた。
「平日、別荘に来たときは、三時少し前に必ず帰るんだ」と、克哉は銃を構えたまま言った。
「店を五時半に開けるんだってよ」
「飲み屋か?」
「そうさ。ただの飲み屋の親爺だよ。まったく、馬鹿にしやがって」
エンジンの音が近づいて来た。トラックでもバスでもなかった。ただでさえ、この抜け道に乗用車は珍しかったが、それは普通の乗用車の音とも違っていた。内燃機関の爆発音より楽器の音色に近かったが、もし楽器が出す音なら、それは世界一音楽的ではない音だった。
なぜか銀杏が揺れたようにも見えた。
そして、そこからふいにあの車が姿を現した。小さいが胸の大きい、我の強そうな女みたいだった。それが足を剥き出しにして走ってくる。
彼は、努めてそれから目を離さなかった。克哉の気配をじっとり感じたが、決して目を向けなかった。
しかし、それでも彼の目は、寸前、車を離れ、側溝の火炎瓶に吸いついた。
小さな金属の舌打ちが聞こえた。
「あっ」と、克哉が間抜けな声を出した。
それからあわてて、上半身を起こした。
すぐ脇で、空気が破裂した。景色が粉々になった。銃声がどこかにぶつかり戻ってきた。
気がつくと、赤いジュリエッタはもう見えなくなっていた。
側溝では一升瓶が粉々に砕け、そこらじゅうをガソリンで濡らしていた。それはゆっくり溝に流れ、虹色に光った。
「どうしたんだ」と、聞いたとき、遠くで例のラッパが鳴った。
ふたりは顔を見合わせた。ほんの一瞬、目があった。すると、手品師の鳩みたいに、どこからか薄笑いがふって湧き、彼らの口許にこびりついた。
「何、笑ってるんだ」と、克哉が言った。
「引き金が二つ、重なってついてるんだ。銃身二つ、別々に撃つんだよ。それを間違えた。大昔の銃だからな、しかたなかったんだよ」
「そんなこと、聞いてないよ。なんで、ガソリンに火がつかなかったのかな」
「さあな。ボンドがよくなかったのかな。黄燐をつけるの、ボンドでやったんだ」
克哉が大きく息を吐きだした。
彼にそれが伝染した。ため息に聞こえたんじゃないだろうか、彼は本気で心配した。
「しかたないよ」彼は、それをごまかすようにあわてて言った。
「インディアンが勝ったためしはないんだ」
「ちきしょう、白人め」
克哉は、なぜだか嬉しそうにそう応え、ぺっと唾を吐いた。
「次は皆殺しだ」
[#改ページ]
冬のモータープール
冬になると、朝のうち、駐車場はとてつもなく日当たりがいい。東以外を高いビルに囲まれ、その東には公園の銀杏の老木がそびえ立っている。銀杏は、この季節になると葉を落とす。すると、東西に細長い公園が、本来の効果を発揮して、陽光をたっぷりここに呼び込む。
彼は、長い影を引きずってその真ん中を歩いた。
遠くからでもすぐ判るわよと、彼女は言ったが、たしかにアパートのエレヴェータホールから出てきたとたん、それと判った。
真っ黄色なワーゲン・ビートルなど、今ではそんなに多くない。ことに、マークIIなんかが高級車面をして、でんと収まっているこんな場所に。
鍵を手に、後ろから近づいた。さすがに、鍵穴を探すまではしなかったが、ほんの半秒、彼はそこを開け、荷物を入れようとしていた。
何てえ間抜けだ。彼は、自分自身に舌打ちし、そのまま車を半周して、フロントのボンネットを開いた。
記憶にあるトランクルームより、それははるかに狭かった。彼女に頼まれた旅行鞄は、せいぜい四、五日、そこいらへ出かけるためのものだったが、それでもすんなりとは収まらなかった。
彼は、ドアを開け、椅子の背を寝かせ、後部シートにそれを放り込んだ。
車内が、また狭かった。
彼は首をひねり、運転席に乗り込んだ。シートをいちばん後ろまで下げたが、クラッチペダルをひと踏みすると、膝がハンドルにぶつかった。
いったい、こんなに狭かったろうか。かくれんぼをした洋服ダンスに大人になってから入ったようだ。しかし、彼が甲虫型のワーゲンを手に入れたのは、十九歳の春、──それから、背は伸びていない。体重も五キロと変わっていない。腹回りだけは、ずいぶん変わったけれど。
息を吐くと、それがフロントグラスにぶつかって、はね返ってきた。手を伸ばすまでもない。ガラスはやたらと切り立って、すぐ目の前にあった。
ためしにエンジンをかけてみた。情けない音だ。しかし、こればかりは変わっていない。もともと、こんなふうに情けなかった。
しかし、待てよ、──彼が持っていた、あのビートルは一三〇〇だったのではあるまいか。
少し不安になった。箱根ターンパイクの料金所の先、最初の左カーヴで必ず息も絶え絶え、よたついたあのエンジンは?
これは?──彼はグローヴボックスを開け、真新しい、まだページを開けたこともないマニュアルを出した。──これは、間違いなく一六〇〇だ。
そう、こんなものだったのかもしれないな。彼は独りうなずいた。バラバラいう音が、どこかしら耳に懐かしい気もしてきた。
エンジンを切ると、自然、ため息が湧いて出た。エンジンでなく、何か別のもの、たとえば人の寝息とか、秋の虫の音が、ふいにやんでしまったような寂しさを感じたのだ。
彼はドアを閉め、またエンジンをかけた。ギアを入れ、まっすぐバックした。ビートルは、大きくバウンドした。しゃっくりでもするみたいな音をたてた。
決して、車のせいではなかった。駐車場の舗装はいいかげんなもので、ただアスファルトを打っただけ、あちこちに穴が開いていた。
地上げ屋が処置に困った土地を、寝かせているよりはと駐車場にしたのだ。それまで、ここには老夫婦が二人でやっている豆腐屋が建っていた。裏手は、小さな印刷所だった。ある朝、通りかかると、そのすべてがきれいさっぱり撤去され、向こうの通りに面している公園を見ることができた。
彼を驚かせたのは、しかし、その空き地の真ん中に取り残されたポンプ井戸だった。そんなものが東京のど真ん中で使われているとは、思ってもみなかったのだ。それに較べたら、当時、一夜にして空き地ができることなど珍しくもなんともなかった。
「金の切れ目が、縁の切れ目か」と、彼は思わず呟いた。手垢まみれのその言い草に、自分でびっくりしてあたりを見回した。
気をとり直し、ギアを前進に入れ、ブレーキを離し、クラッチを繋いだ。また弾んだ。ハンドルは重かった。舗装の穴に前輪がひっかかり、内股の女の子に背負われているような気分だった。振動が、直接尻にきた。
通りに出る直前で止め、そこから来た道をバックで戻った。もうだいぶ、ビートルに慣れていた。結局、こんなものだったのだ。きっと、何も変わってはいないのだ。
白ペンキで仕切られたスペースの前まで引き返すと、そこへは戻さずエンジンを止めた。
間に合わすのが大変だったと、彼女が言ったことをふいに思い出した。
今日に間に合うよう、納車を急がせたのだそうだ。どう考えても、これだったら以前持っていたプジョーのハッチバックの方が役に立つ。ことにこんな日だからこそ。
彼は首をひねり、マンションに戻った。
エレヴェータを下り、四階の廊下を部屋へ歩いていくと、ドアが開き、彼女が出てきた。
「何してたのよ」
彼女は抱えてきた段ボール箱をそこに置き、冷やかな声で言った。
「荷物、乗りきらないぞ。何だって、前ので来なかったんだ」
「せっかく、買ったんだもん」と、彼女は言い、不思議そうに彼を覗き込んだ。
「だっておまえ、荷物を運ぶんだぜ。ディーラーを無理やり急かせて、あんな車にあわてて替える必要が、どこにあるんだよ」
「あんな車って何よ!」
彼女が甲高い声をあげた。目の隅に、唇の端に、涙の兆しが見て取れた。
「いや、あんなって、つまり荷物が乗らないって、ただそれだけの意味だよ」彼は、いささかうんざりして、声の調子を落とした。
「ともかく、このままだと一回で運べないぞ」
「だったら、何回でも運ぶからいいもん」
彼女は段ボール箱を抱えなおし、彼を押し退けるようにして歩きだした。
彼は、部屋に戻り、玄関に置かれたスーツケースと化粧ポーチ、それに帽子の箱をふたつ、いっぺんに持って後を追った。
意外なことに、彼女はエレヴェータのドアを開けて、彼が来るのを待っていた。
乗り込むと同時にドアが閉まった。
一階に下りるまで、こっちに目も向けず、段ボール箱を抱えたまま、真正面を睨んで、息を殺していた。頬が真っ赤に火照っていた。血の気が多いっていうのは、この年代では、掛け値なし言葉どおりの意味なんだな。彼は、その横顔を見ながら思った。
黒いニットのボディースーツの胸が、埃で真っ白になっていた。腰を隠したラメ入りのバンダナのようにしか見えない巻きスカートも、ゴミがいっぱいたかっていた。
以前、それを着てめかしこんできたとき、
「レッスンをさぼって逃げてきた踊り子みたいだな」と、彼は言い、彼女の不興をかった。
「いやあね。だから、オヤジはやなんだ!」彼女は吐き捨てるように言った。
「|踊り子《ヽヽヽ》なんて、いったいどこの国の言葉よ。あああ、こんなのと付き合っているから、恋人どころか友達もなくしちゃうんだな、あたし」
大げさに嘆いてみせたわけは、初手からわかっていた。ゴルティエのタッグが、襟首の外側に昂然とひるがえっていたのだ。それが狙いのデザインなのだとは知っていたが、──正札を下げて歩いてるようなものじゃあないか! 彼は、いかがわしいものを感じ、とぼけつづけた。
「ストリッパーって言うなら通じるか?」と、いった具合に。
以来、彼女がそれを着ているところを見たことはない。
なぜ、汚れ仕事をしようという日、よりにもよって?
彼は首を傾げた。
いきなりエレヴェータのドアが開き、彼は思わず前のめりになってホールへ飛び出した。
「ほら、気をつけて」と彼女が言った。
「あなた、こういうとき、いつもそそっかしいんだから」
「こういうときって、どんなときだ?」
「引っ越しでも何でも、何かあると、すぐはりきっちゃうでしょう。葬式でも、運動会みたいにはりきっちゃうじゃない」
言って先に立ち、駐車場の出口へ歩きだした。
葬式だって? 彼はしばらくぼうっとして、その痩せてしなやかな後ろ姿を見送った。
駐車場はますます光に満ちていた。彼女はその中に溶け込んでしまった。だから、
「何、これ。ちょっと、ひどいじゃない!」と、声をあららげたとき、彼には彼女の顔が見えていなかった。
「あなた、これに何か恨みでもあるの」
「何を怒ってるんだよ」
「何って、見れば判るじゃない」
「判らないから、聞いてるんだ。変な奴だな」
「変ですって」
彼女は、段ボール箱を助手席に勢いよく放り込んだ。大きな音がして、中身が床に転げ出た。それでも、一向、ひるむ様子はなかった。
「鍵がかかってないのは、しょうがないわ」と、彼女は言った。
「おトイレだって、鍵をかけ忘れるような人なんだもの」
一年も二年も一緒に暮らしていたら、そんなことは普通だよと言いかけて、彼は言葉を飲んだ。ずっと以前から、彼女がそのことを、まるで宗教上の禁忌のように憎んでいたのを思い出したのだ。
「でも、ドアまで開けっ放しで、道に放り出してくるってのは、どういうことよ」
「何だ、本気でそんなこと怒ってるのか」
「本気も何も、あたしは聞いてるのよ」
「引っ越しの最中、いちいちトラックのドア、閉めたかどうか気にする運送屋がいるかよ」
「これがトラックに見えるの!」
「静かにしろよ。日曜だぞ。見物人、集める気か」
彼女は口を閉ざした。ゆっくり頭上に目を遊ばせた。いくつもの窓が、ここを見下ろしていた。もちろん、その窓に、まだ人けはない。
少しは大人になったんだ。彼は思った。感心したはずなのに、苦い薬でも飲み込むみたいな気分だった。あとになって、彼女が、
「何よ、いまさら、回りのことなんか気にしちゃって。だから、オヤジは嫌なんだ」と、負け惜しみを言うと、ついほっとしてしまうほど。
彼は、助手席の段ボールを外へ出し、床に散った中身を戻した。それは、ほとんどが手紙と葉書だった。クレジット会社から来たダイレクトメールや、一昨年の電話代の利用明細まで残してあった。中には、もちろん旅先から彼が出した葉書も混ざっていた。国内から、海外から、そして東京郊外の、彼の自宅から。
段ボールと旅行鞄を積み重ね、後部シートとその足許に荷物を詰め込んだ。
「あと、どのくらいあるんだ」
「段ボールがひとつ」
「それだけか?」
「あと、ガーメントケースがふたつ。それに、ほら、ヴィトンの大きい方」
「本当にそれだけ?」と、彼は彼女の大きな目を覗き込んだ。
長く濃い睫毛が、ロールブラインドのようにそこを閉ざした。鼻から、かすかな笑い声がこぼれた。
「本当よ」
「ヴィトンがぺしゃんこになってもかまわない?」
「いや!」急に声が大きくなった。
「段ボールは宅急便に任せればいいじゃないか。同じことだろう」
「いや! 自分で運ぶのよ」
「なんで? 段ボールとトランクを宅急便で送れば、いっぺんに運べるんだぞ」
彼女は返事をせずに歩きだした。何度か声をかけたが振り向きもしなかった。
エレヴェータのなかでも、まったく口を開かなかった。かといって、怒っている様子でもなかった。
部屋まで行くと、まっすぐ居間に入った。
居間には、まだ段ボール箱が五つ六つ、山積みにされていた。備え付けのワードローブの中には、梱包し忘れた彼のスーツが一着、所在なさそうにぶら下がっていた。
彼女の服は、ガーメントケースに入って、段ボールの山の上にあった。二つのケースは両方ともぱんぱんに膨れ上がり、それでも足りずに、洗濯屋から返されたままの衣服が何点か、その上に重ねられていた。
「この段ボールは、ゴミか?」
彼女は応えなかった。口許がかすかに笑っていたので、おおよそ答えは予想できた。
「何で、自分で運ぶのにこだわるんだ」
「別に、意味なんかないよ」
「それなら、──」と、言いかけると、
「子供だからじゃない、あたしが」
彼女は、冷え冷えした声で言った。
「だから、あんな車、買うんじゃない」
「俺は、そんなことは言ってないぞ」
「言ったわよ。言ったことまで忘れちゃうんだね。独り言いってるみたいなもんなんだよね。あたしと飲んでるときって」
「いつ、そんなこと言った」
「先月。車買い替えるって言ったとき。≪ミュール≫で飲んだ日よ」
「それで?」
「ガキじゃあるまいし、あんな車やめとけって」
彼女は、ガーメントケースを二つ取ると、くるっと玄関に向き直り、すっかり空っぽになった居間を横切って行った。
静かに埃が舞い上がり、窓からの光で金色に輝いた。
どこかで、何かが唸っていた。かすかだが止むことなく、喉鳴りをあげていた。
その音は台所から聞こえていた。
台所には、何もなかった。昨日、引っ越し屋が大きな荷物を彼の自宅へ運び去ったあと、ゴミはふたりで片付け、夜中にそっと棄てにいった。
水道とガスはもう止まっていた。電気と電話も、今日から止まるはずだった。
何ということはない、それは、壁の中に半分埋まった冷蔵庫だった。部屋に備えつけられたものだったので、電源を切る方法が判らず、中身を空にして掃除を終えた後になっても、まだ動きつづけていたのだ。
彼はドアを開けた。電気に照らされた庫内は、やたらと広かった。そこに、小さな赤いチョコレートの箱が残されていた。
昨日、冷蔵庫をきれいにしたのは彼だった。だから、これは今日になって入れられたものに違いなかった。
彼は箱を手に取った。チョコレートは食べかけで、もう一粒しか残っていなかった。それを手に取り、箱を握りつぶすと、下の段に銀紙がちらかっていることに気がついた。
その全部を拾い集め、居間に戻った。ゴミ入れになっている段ボール箱を見つけ、それを捨てた。驚いたことに、ゴミ入れになっている段ボール箱は、ひとつしかなかった。
彼はチョコレートの銀紙を剥きながら、ベランダに出た。そこからは、駐車場を見下ろすことができた。
彼女は、車のトランクと格闘していた。荷物を全部出し、また入れているところだった。ここから見ると、トランクを開いたワーゲン・ビートルは、背中の鎧を広げ、飛びたとうと身がまえる甲虫そのままだった。
彼はチョコレートを口に放り込み、銀紙を手のなかでゆっくり丸めた。
あの車が、新品だというのが、なんとも奇妙だった。最初、ブラジル製だとばかり思っていたが、それはメキシコで造られたものだった。
「ブラジル製のワーゲンだなんて、いつの話?」と、彼女は彼を鼻で笑った。
「江戸時代じゃないんですからね」
いつも、そんな調子だった。彼女は、常に勝ち負けを競うような態度をとった。何かにつけ、──たとえ、そこが夜中の寝室であっても。
いったい、あれはなぜだったのだろう。
決して、挑戦的な性格ではないのに。服にしても、車にしても、人と何かを競おうというようなものは、嫌いだったはずなのに。
もの音に驚き、彼女は、いきなり振りむいた。知らぬうち、丸めたチョコレートの銀紙を、下へ投げ捨てていたのだ。
まったく、あいつの言うとおり、俺はたいした性格をしている。
彼は苦笑した。
彼女がこっちを睨んだ。何も言わなかったが、永いあいだ、睨みつづけた。彼をか、それとも部屋をか、よく判らなかった。いったい、目が合ったのか、合わなかったのか、それも判らなかった。
彼は踵《きびす》を返し、すっかり埃の匂いになじんでしまった部屋を後にした。
気休めにいくつかの荷物を持ち、駐車場に下りていくと、彼女はもうすっかり諦めてしまったように、前のバンパーに腰掛け、煙草をふかしていた。
その姿を見たとたん、何か漠然とした懐かしさが彼を包んだ。自分の卒業写真を、引っ越しの最中に見つけてしまったような、気だるい感覚が。
「いいわ、二度に分けて運ぶから」と、機先を制して言った。
「夜中になるぞ」
「かまわないわよ」
「夜中でも、終わらないかもしれない」
「終わるわ。そんなことないわよ」
「君の実家が静岡にあるってことを忘れてるんじゃないだろうな。今日は日曜なんだぜ」
「冬だもん」
「紅葉の季節だ。箱根と丹沢に行く奴がたんといる」
「それにしたって、たいしたことはないわ」
「この車で、御殿場まで坂を登るのにいったいどのくらい出せると思うんだ」
「あたしを行かせたくないんなら、そう言えば?」
彼女が言ったので、思わず彼は口を噤んだ。
「その服、けっこう似合うな」
「話題を変えるなよ。オヤジ」
しかし、今度はひるまなかった。
「上から見たとき、そう思った。本気だぜ」と、彼は言った。
「黄色い車によく似合う」
「この服のこと、なんて言ったか覚えてる」
「ちびくろ・さんぼ」彼は言った。
「覚えてたんだ?」彼女の声は、どこか嬉しそうだった。
「あたりまえだ。白人みたいに相手の目を見つめないからって、独り言をいってるわけじゃない」
「ほんとに、似合う?」
「ああ、悪くない。痩せてて、それでも体にバネがきいてる女じゃないと似合わない」
彼女は立ち上がり、その場でくるりと回った。
「素直じゃ|ねえ《ヽヽ》んだから」と、口を歪めて言ってみせた。
「素直なんだよ」と、彼は言った。
「だからさ」
「だからなによ?」彼女は、ドアを開け、助手席に座った。
「何で、そこには乗せないんだ」
「何がよ?」
「助手席にも荷物を乗せればいい」
「そんなことより、応えてよ。──素直だから、何なのよ?」
「だから、こうしてるってだけさ。こうして、こうなったってだけだよ」
「よく判らない」
「なぜ、助手席に乗せないんだ?」
「いいのよ、ここは」
「誰か、乗せてくのか」
「そうかもね。だったらどうする?」
彼女は首をすくめてくすくす笑った。
長いつややかな黒髪が、肩のあたりでさらさらと砂糖のような音をたてた。
「どうするって、何が」と、彼は訊いた。
「親に会わせたい人がいるの」
「ふうん」
「びっくりした」
「いや」と、彼は言った。数歩、前へ進んだ。
彼女が先刻まで座っていたフロント・バンパーが、膝のすぐそばで光っていた。
彼は、そこに腰を下ろした。まるで、何年も前から、約束されていた行動のように。
「あれは十九だったっけ」と、彼は尋ねた。
「大学入った年だもん。まだ十八だよ」
「そいつは、──とんでもない」
「そうよ、とんでもない奴!」
彼女は言って首を振った。髪が音をたてたが、今度は笑わなかった。
「あ」と彼女が声をあげた。
「さては、その倫理観のために、あたしの就職に協力しなかったんだな」
「何だ、それ」
「だって、就職できなかったら家に帰らなくちゃならないって、ずっと前から言ってたじゃない。それなのにさ」
彼女は軽口を叩くように非難した。
彼は口を引き結び、立ち上がった。
「さあ、どうだったんだろう」
「そうだったんじゃないよね」と、今度は同意を求めた。
「俺が紹介できるような勤めなんて、くだらないよ。こんな時期に卒業するんだもの。そっちが悪い。あと二、三年、ダブってりゃよかったんだ」
「だめだめ。教授がスケベだから、あと一年でもいようもんなら、自分に惚れてるって思い込んで、何しはじめるか判らない」
彼女は笑いだそうとして、ふいにそれを止めた。
彼の頬に、笑いがこびりついた。そのまま固まった。
ふたりは別々に、公園の方を眺め、しばらくのあいだ黙った。
「ねえ、この服、──」と言いかけたのと、「さっきの話だけど」と言いだしたのと、まったく同時だった。
「俺が先だ」と、彼は言った。
「なんで、助手席は空にしとくんだ?」
「これから、積むとこだっただけよ」
彼女は言い、助手席から腰を上げた。
荷物をそこへ押し込んだ。すると、これまで部屋から下ろしてきたものはすべて、車に乗せることができた。
「まだ、部屋に残ってるぞ」と、彼は言った。
「服は、全部持ってきたでしょう?」
「段ボール箱が五つくらい。──あれはどうするんだ」
「捨ててくれればいいわ」
「何か、穏やかじゃないな」
彼女は、また黙り、ドアを閉めた。
「穏やかなわけないじゃん」と、呟いた。
「怒ってるのか」
「怒ってるわよ」と、彼女は言った。
一歩、こっちへ近づこうとして、それを止めた。両手の持って行き場をなくして、それをばたばたさせた。
「あたしだって東京で就職したかったんだもの。そんなの、決まってるじゃない。こんなことなら、教職をとっときゃよかった」
「おまえにそんなもの勤まるわけないさ」
「勤まるよ!」
鋭い声が飛んだ。彼はびっくりして、彼女を見た。彼女も、その声にびっくりしているみたいだった。
「勤まらなくたって、就職しちゃえばこっちのものよ」と、あわてて言いなおした。
「ねえ、本当にこれ、似合う?」
「ああ。けっこう似合う。初めて見たときは、ちょっとびっくりしたんだな、きっと」
「何に」
「さあ、──君が、そういう服を着ると思わなかった。洋服に対して、アグレッシヴな気分になるもんだとは思わなかったんだ」
「変なの」
「変じゃない。変だと言ったら、よっぽどこっちのほうが変だ」と、彼は言った。
「何が?」
「この車だよ」
彼は言い、彼女のすぐ隣まで歩いていった。
近づくと、彼女はなぜか、肩をいからせ、半歩あとじさった。二の腕が緊張して強張るのが判った。
「どうしたんだ?」
「寒いの」
「部屋へ戻ろう」
「もう、戻らない」
彼は、聞き返そうとして、彼女の方に顔を近づけた。
彼女はまたあとじさった。髪の毛がさらさらと音をたてた。
どこかで甲高くクラクションが鳴った。すると、遠くからパトカーのサイレンが近づいてきて、別の方角へ去っていった。
公園からは、子供の声が聞こえはじめた。
もう太陽は頭上にあった。
「この車のどこが変なのよ」
「車がじゃない」彼は言った。
「これを君が買うことがさ。次は、ルノーの少し大きいのを買うって言ってたじゃないか。ずっと、そう決めてたろう」
「ルノーは、あなたの影響」
「じゃ、その前のBMは? 赤のBMだって言ってたぞ。違うか」
「ずっと前じゃない」
彼は頷いた。
「会ったばっかりのころだ」
「いいじゃない、別にどうだって」
「ああ、別にどうだっていい」彼は言って、また彼女の方に近づいた。今度は、相手を明らかに試そうとして。
彼女は、それを避けた。大きく開いたままになっている、トランクルームの向こう側まで行ってしまった。
「でも、家に帰る代わり、お父さんが買ってくれるっていうんだ。君が、前の車よりうんと安いものをねだるなんて、やっぱりちょっと変だ」
「心境の変化よ。もう行くわ」
「おいおい、なんだよ急に。どこかで、飯でも食って、──」
「そっちの方がずっと変じゃん。これで、ふたりでご飯食べて、それでどうするのよ」
「どうするってことはないけど、せっかく、──」
「せっかく、最後の機会だから? それなら、一昨日、部屋で食べたじゃない。明日から台所が使えなくなるからって」
「ああ」彼は、白旗をあげるように手を翳《かざ》した。それが合図だった。
彼女は、トランクに入れたヴィトンの大きなボストンバッグをぐいぐい乱暴に押しつぶし、「えいっ」とかけ声をかけて、ボンネットを閉めた。
「やっぱり、独り言だったんだ」と彼女は言った。
「何度も、何度も言ったのに、忘れてるんだもの。この車で、学生のころどんなところに行ったか。どんなことしたか。あなたが、それでどんなだったか。あたし、よく覚えてるよ。全部。すごくよく」
彼は、首をかしげ、何か言いかけ、結局そのまま立ちつくした。
「でも、ほら、そんなのは何をしたって、あたしが手に入れられるものじゃないじゃない。車なら買えるでしょ。たぶん、どうってことはないんだろうけど、試してみるぐらいはいいじゃない」
彼女は、もう運転席に座っていた。
エンジンが高鳴った。妙に凜とした音だった。それが冬の空気を二つに割った。
黄色いワーゲンが駐車場をのろのろと出て、大通りの車の流れに飲み込まれてしまうまで、彼は黙って立っていた。
それからマンションに引き返し、エレヴェータに乗った。
部屋に戻ると、今しがた去っていったものが、彼女だけではなかったことにやっと気がついた。
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バンドワゴン
彼らが、なぜ自分のことを雷蔵と呼ぶのか、いったいそのライゾーとは誰なのかを知ったら、きっと不平の声を上げたろう。それなら、裕ちゃんと呼んでくれと主張したかもしれない。むろん、石原裕次郎の裕だ。しかし、その裕次郎にしても、決してスクリーンで見たわけではなかった。
彼は先月、十歳になったばかり、日本映画といえば怪獣ものか動物もの、たまに学校の課外授業で連れていかれる文部省推薦の辛気臭いドラマ(父親のいない貧乏な兄妹が三分に一回、ひしと抱き合いながら暮らしていくあれだ)程度しか知らなかった。
その仇名で呼んだのは、どうやら礼子が最初だったようだ。
「何で、ぼくのことライゾーなんて言うのさ」と、尋ねたときも、彼女が、
「ニヒルだからよ」と、真っ先に、なぜか嬉しそうに応えた。
「子供のくせに、妙にセクシーに笑うじゃない」
「ニヒルって何?」と、彼は訊いた。セクシーについては慎重に回避しながら。
「どっちにしろ、このお姉ちゃんはおまえの笑顔にぐっとくるって言ってるんだ」
礼子に代わって、良平が説明した。
すると健二が、
「子供に下らないことを言うな」と、怒って、そのときもライゾーとは何か判らぬまま話はおしまいになった。
彼ら三人は、三島ガレージの駐車場で、いつもごろごろしていた。そこは、最近まで、米軍の自動車修理ばかり専門にしてきたガレージで、雷蔵の家から海に下っていく坂道が、広大な米軍住宅をぐるりと巡っていく市電通りにでくわす角にあった。駐車場には、ぴんと尾びれを張った巨大なアメ車や、小さなヨーロッパのオープンカーが所狭しと止まっていて、学校の行き帰り通りかかるたび、雷蔵の足を止めさせた。たとえ夕刻でも、その一角だけは華やいで明るかった。そこだけ、別の照明が当たっているみたいだった。彼は、ときに息をのみ、ときにため息をついて、サンダーバードの真っ赤な革シートやヒーリー・マークIIの居丈高なラジエターグリルに見入った。
一年ほど前から、そこにベンツの姿を見るようになった。結婚式のとき配られる甘くないお菓子みたいな形のその車が、雷蔵は好きではなかった。フェンダーを失ったフォルクスワーゲンが置かれていることもあった。さすがに国産車はなかったが、外人客はめっきり少なくなった。
近頃は、日本人もいい車に乗るんだ、と、三島の親爺は言い、機関銃の照星のようなベンツのマスコットを指ではじいた。
「だけど、ベンツは好きじゃないって言ってたじゃない」と、聞き返すと、
「好き嫌いといい悪いは別もんよ」と、親爺は笑って応えた。
「東京でオリンピックやるご時世だからな、世の中様変わりも仕方あんめえよ」
どっちにしろ、そのころから駐車場は特別な光の差す場所ではなくなってしまった。
雷蔵が彼らに会ったのは、(そして雷蔵と呼ばれるようになったのは)ちょうどそのころのことだった。
ある日、市電を下りるとすぐにその音が聞こえた。エレキギターを知らないわけではなかった。楽器屋で見たこともあった。しかし、実際、演奏されているのに行き合ったのはこれが初めてだった。しかも、こんな往来で。
それは、三島ガレージの駐車場から聞こえていた。駐車場には、見かけない形のバスが止まっていて、何本かの電気のコードがその車内に引き込まれていた。こんな小さなバスを見たことはなかった。バスなのに後ろには窓がなかった。横っ腹に観音開きのドアがあって、大きく開け放されていた。
車内にはスピーカーが見えた。スピーカーの上に真空管が剥き出しになったアンプが置かれ、それがちかちか光っていた。
ギターを弾いているのは、いかつい顔をした背の高い男だった。運転席のドアステップのところに目のきつい女が座って、ギターに合わせて歌っていた。大きくぽっちゃりした唇が真っ赤に塗られていた。ときおり、高く澄んだ声がギターの轟音を割って聞こえた。車内にはもう一人いるみたいだった。雷蔵がいるところからは、スネアドラムの一部とシンバルと、それを叩く手しか見えなかった。
だいぶたって、ビートルズのナンバーだということに気づいた。きっと、『オール・マイ・ラヴィング』だ。そのつもりで聞けば、そう聞こえないこともない。
「おい、もっと静かにやれ」
三島の親爺が、シャッターの中から顔だけ突き出し、大声で怒鳴った。
ギターが止んだ。女だけが歌いつづけていた。やっぱり、『オール・マイ・ラヴィング』だった。
ギターが再開したとき、スピーカーの音量はずいぶん小さくなっていた。ピックが弦をこする音が耳障りなほどに。
翌日も、そのまた翌日も、彼らはそのバスの中でバンドの練習をしていた。
何日目か判らない。雷蔵が学校から帰ってきたとき、バスには誰もいなかった。しかし、ドアは開いていた。ドアだけではない。フロントグラスも開いていたのだ。
彼は駐車場の中に入っていった。
真ん中で二つに分かれたフロントグラスは、二つとも、前に向かってはね上げてあった。どうしてこんな必要があるのだろう。ジープのフロントグラスが前に倒れるのは、戦争で使われるからだ。しかし、このバスは?
だいたい、このバスはどこにエンジンが乗っているのだろう。何しろボンネットがない。それどころか、ハンドルのすぐ前でボディはすとんと終わっている。
そのとき、はじめてその鼻先に、フォルクスワーゲンのマークがでかでかと刻まれているのに気づいた。
「ワーゲンのデリ・バンってえんだ。そのタイプは珍しいんだ」
三島の親爺が後ろに立っていた。犬を散歩に連れていくみたいな格好で、ジャッキを引き連れていた。
「この窓は何なの?」
「おう。それが、サファリウィンドーってんだ。ヨーロッパの奴らにとっちゃ、アフリカで使うものは何でもサファリよ。暑いところで風をいっぱい入れようって魂胆さ」
「これ、バスなの?」
「いや、トラックの一種だな。バスみたいのもあるし、救急車に使うのもある。いろいろあるんだよ」三島の親爺は言い、
「これはよ、おめえ、中身はほとんどワーゲンのかぶと虫なんだぜ」と、家族の秘密を打ち明けるかのように小声で付け加えた。
「じゃあ、一二〇〇なの? こんなでかいのに」
「お、詳しいな」と、言い、ジャッキの把手を、本物の犬の引き綱よろしくがちゃがちゃ鳴らした。
「しかしよ。それを言うなら、一一九二って言わなきゃいけねえよ」
「勝手に売らねえでくれよ」と、声がした。
振り向くと、アメリカの将校みたいなサングラスをした男が近づいてくる。
いつもドラムを叩いている男だ。ギターの男より少し背が低く、体も華奢だった。
彼のさらに後ろから、ギターの男と女が、市電通りの角を折れてくるところだった。
「売られたくねえんなら、残りの金をとっとと払え」と親爺が言った。
「夏まででいいって話だったぜ」と、ドラムの男は言い返して、今度は雷蔵に屈み込み、
「こんなのと取引すると、碌な目にあわねえぞ。このカマボコ兵舎をいったいいくらで売りつけたと思う」
「埒もねえことを言うんじゃねえよ。この子んちのご隠居にゃ、そりゃ世話になってんだから」
「じゃあ、その祖父さんに言いつけるぞ。車、人質にとりやがって」と、声を荒らげたが、結局、二人ともげらげら笑いあって終わった。
親爺が鋼鉄でできた犬を引っ張って行ってしまうと、サングラスの男は、
「全額払いおえるまで、車をここから出さないって言いやがるんだ。だから、ここで練習しなきゃならない」と、ぼやいてみせた。それが良平だった。彼は後から来た二人を、リードギターの健二とヴォーカルの礼子だと紹介した。
「この坊ちゃんはご隠居のお孫さんだ」
「どこのご隠居よ?」
「水戸に決まってるだろう。日本で三番目に偉いんだ」
「一番は誰なのよ?」
「マッカーサーに決まってるさ。──なあ、坊主。あの越後屋の悪行非道を水戸のご隠居のお耳にいれてくれ」
「走って逃げればいいじゃない」
「バッテリーを外されてるんだ」
良平は、説明したが、それが本当かどうか怪しいものだった。事実、車の中には何本もコードが引かれ、電気をガレージから取っていたが、それについて三島の親爺は文句ひとつ言うわけではなかった。だいたい、こんな上手くもないバンドの練習を、他のどこでこれほど自由にやれるというのだろう。
「買ったはいいが、すぐに置くところがなくってな」という健二の説明のほうが説得力があった。
「それでも、月々金は払ってるんだぜ」
「これは、誰の車なの」
「俺たちのだよ」と、こともなげに健二が言った。|たち《ヽヽ》というのが、なぜかとても羨ましかった。
「練習場を借りるほうが先なのに、こんなもの、買っちゃったのよ」と、礼子が言った。
「バンドって、こういう車で町から町へ仕事していくんだよね」と、雷蔵は言った。
「そうさ。ガキのくせにわかってるじゃねえか」良平が嬉しそうに応じた。
「町から町へも何も、まだどこにも仕事がないじゃないの」
「来月、シーサイド・クラブに出るんだよ」と、良平はなおも礼子を無視した。
「オーディションに受かればな」健二が冷静につけ加えた。
「レコードは?」と雷蔵は訊いた。
「この子、あんたの弟じゃないの」
礼子に言われ、良平は笑った。
「俺のほうが渋いぜ」
「誇大妄想は似たようなもんよ」
「何言ってんだよ。鹿内孝だって、すぐそこのクラブで歌ってたんだ」
健二に促され、良平はしぶしぶドラムの前に座った。礼子はマイクを使わなかった。耳栓をして、自分の声を頭で聞こうとしているようだった。
ギターの音量はだいぶ絞ってあった。
彼は近くのMGのステップに座り、いつまでもぐずぐずしていたが、誰も彼に帰れとは言わなかった。それどころか、ときおり、
「どうだった?」と感想を聞かれたり、「ここが難しいんだ」と、相槌を求められた。健二は無口だったが、たぶんそれが性格なのだろう、鬱陶しく思っている様子はなかった。
放課後、三角ベースをやらない日は必ず、彼は駐車場で長い時間を過ごし、彼はそこでいつの間にか雷蔵になった。
六月、雨が降るようになっても、それは変わらなかった。狭く、内装も薄いデリ・バンの車内に、ときとして雨音は機銃掃射のようだったが、健二などは逆に、大きな音で演奏できると言って喜んだ。そんなときは、礼子もマイクを使って歌った。すると車内は、もう完全なコンサート会場だった。
ライヴ・コンサートといえばウィーン少年合唱団と美空ひばりしか知らなかった雷蔵に、それは驚くべき出来事だった。音が耳でなく腹に染みたのだ。
翌日から、彼は、教室で空を見上げ、雨が降ることを、より強く降りつづけることを祈るようになった。
強い雨が降ると、機材が濡れないよう、彼らは窓を閉め切った。もう夏が近かったので、十分もすると車内はものすごい暑さになった。嫌な臭いも立ち込めた。男たちは上半身裸で、タオルの鉢巻きをして、それでもなお、汗で演奏が中断するほどだった。
だが、雷蔵はなぜかそれが楽しくてならなかった。
良平はデリ・バンのことをカマボコ兵舎と呼んだが、雷蔵が小学校に上がったばかりのころ、その校庭の片隅にはそのカマボコ兵舎が建っていた。ドアも窓も板に塞がれ、中を覗くことさえできなかった。幽霊が出るという噂もあった。先生たちは口を酸っぱくして近寄らないように言った。
長いあいだ、接収していた米軍の置き土産だった。なぜ、いつまでも取り壊さなかったのか知らない。きっと費用をどこが出すかでもめていたのだろう。
ある日、その床下に野球ボールが飛び込んだ。ボールを探してもぐり込んでみると、兵舎はコンクリのブロックの上に乗っているだけ、しかも床は厚手のベニヤ板一枚だった。腐り、穴が開いた床から、難なく室内にもぐり込むことができた。
別に何があったわけではなかった。埃とゴミしかなかった。家具はほとんど残っていなかった。後になって、拳銃があったとか爆弾があったと言う者もいたが、そんなのは嘘だった。裸の女が写っている雑誌があったというのも、まったくの嘘だった。埃とゴミ、それも家の台所から出るような、──それしかなかったのだ。なのに、なぜだろう、教師に見つかるまでの短い期間、そこは彼らの楽園だった。
雨に降り込まれたデリ・バンの中は、たしかにあのカマボコ兵舎だった。しかも、ここには埃とゴミ以上のものが揃っていた。
そんな日はわざと傘を捨て、雨にうたれて家まで帰った。雨が下着まで染みて、デリ・バンの中で滝のように流れ出た汗と混じってしまうように。そして不思議なことに、それがまた心地よかった。
しかしその年は、七月に入ってすぐ、雨が遠のいてしまった。天気予報では梅雨はまだ明けていなかったが、それでも空は明るく、暑かった。
クラスには、市電のいちばん南の終点まで海水浴に出かけた気の早い友達まで現れた。
すると、連中は継ぎ接ぎだらけのキャンバスシートで、観音開きの中扉の前に庇を造り、その下にテーブルと椅子を置いて、デリ・バンをキャンプ場のバンガローのようにしてしまった。
「何かあったの?」と、彼は訊いた。
どこか、車が新しくなったような気がしたのだ。しかし、礼子はそうは取らずに、
「ちょっといいことがあったのよ」と、応えた。
「シーサイド・クラブのママさんと知り合いになったの」
「ママさん? あそこは兵隊がやってるんじゃないの」
「ばかね。兵隊がナイトクラブのジャーマネしてたんじゃ、客が寄りつかないでしょう」
「あそこは客も兵隊なんだぜ。コーネルがルタナンにいらっしゃいませとは言えねえよ」と、良平が言った。
「コーネルもルタナンも兵隊じゃないよ。将校だよ」
「口が減らないわね。この子、やっぱり、あんたの弟じゃないの」
礼子が言って、二人が雷蔵の頭上で笑った。彼が不思議そうに見守っていると、
「次の、オーディションに出られるんだ」いつもながら、健二があいだをはしょって要点だけ教えてくれた。
それでも、良平と礼子は、そのママさんといかにして知り合い、仲良くなり、ついにはオーディションへのブックに成功したか、武勇伝を聞かせたがった。おかしなことに、それは全部、ホテルのラウンジでアルバイトをしている健二が一人でしたことなのだ。
「男は何たって顔よ」礼子は珍しくはしゃいでいた。
「雷蔵も将来明るいわよ、きっと」
彼はそのときになって、デリ・バンの足許がすっきりきれいになっていることに気がついた。バンパーとタイヤホイールが真っ白になっていたのだ。ホイールにはひとつずつ、フォルクスワーゲンのマークが大きく入っていた。
「これ、塗りなおしたの?」と、彼は訊いた。
「まさか、洗っただけよ」
「テントもいいね」
「マーキーって呼んでちょうだい。試しに造ったの。お金が入ったら、ストライプの奴を買うのよ」
「ドイツで造った本物だぜ」
「そんなものがあるの?」
「ああ。あるよ」と、健二が答え、彼をびっくりさせた。健二が自分から喋ることは、これまでめったになかった。
「なんでもあるんだ」と言って、車の中に入っていき、ぶあつい電話帳のような本を持って出てきた。
それは、デリ・バンにとりつけるありとあらゆる部品のカタログだった。ドイツ語と英語で書かれていたが、簡単な図解や写真がついていた。
それによれば、デリ・バンはピックアップ・トラックにもなればオープンカーにもなるようだった。間口を広げてアイスクリームやビールの屋台にすることもできた。車内に応接セットを造ることも、寝室にすることもできた。テントをつけてそのまま、別荘にすることもできた。牽引の道具や貨車だけでも数十種類が用意されていた。
「いちばん凄いのはこれだよ」と、健二が広げたページには、外国の雑誌の切り抜きが一枚挟まれ、それには海辺の野外ステージが写っていた。
ステージには四人組のバンドが出ていた。彼らは細身のスーツを着てネクタイを締めているのに、砂浜では水着の女の子たちが熱狂していた。よく見ると、ステージはデリ・バンだった。ボディの側壁が天井と一緒に、ぐるりとめくれあがり、二本の支柱でそのまま大きな日除けになっていた。
むろん床は隅から隅まで剥き出しで、その隅に大きなスピーカーが置かれている。自動車の原型をとどめているのは四つのタイヤと運転席だけだった。
「ビートルズだぜ」と、健二が呟いた。
「宣伝に出たの」
「ちがうよ。何かのポスターだ。その撮影のために、こんな車をつくらせたんだってさ」
彼は言った。
「金さえ払えばなんでもできるんだ」
「日本じゃ無理だよ」と、良平がからかうみたいに言うと、健二は音を立ててカタログを閉じ、車内に入っていった。
「その、お金よ。問題は」と、礼子が言った。
「女はいいよ。いざとなったら、金を卵で産む」
「お生憎さま。あたしはそんなもの生まないよ」
「どうだかなあ。そのうち、頼まれなくても産んじゃうんじゃないの。二十五過ぎると変わるって言うよ、女は」
「やめろよ。子供の前で」
車の中から健二の声がして、二人は黙った。
そのとき、ほんの一瞬、彼は健二を憎んだ。
しかし、テントがあったのは、その日一日だけだった。翌日になると、車は元に戻されていた。隣に、大きなアメ車が運び込まれたのだ。それは、黒塗りのキャディラックだった。マッコウ鯨のようなフロントグリルに、無残な一撃をくらっていた。
彼らは、中扉を自由に開け閉めもできなくなったと言ってぼやいた。
「だけど、じきにオーディションだからな」と、たまたま一人でいた良平は言った。
駐車場の端で、大きな声がした。
ニッカーボッカーを穿いた中年男が三島の親爺を呼んだのだ。
親爺はガレージから出てくると、タオルで手を拭き、男と握手した。男は青図を宙で開き、親爺に翳してみせた。ふたりはそれを手近な車のボンネットに広げなおして、額を寄せ、なにやら話しはじめた。
「一人なの?」と、雷蔵は訊いた。
「ああ」良平は曖昧に頷いた。
「約束は三時だったんだけどな」
腕時計をのぞきこんだ。「礼子はじき来るだろう。あいつは仕事じゃないから」
「学生なの?」
「うん。でも、首になりかけてる。──いや、もう首かもな」言って、笑った。
しかし、その日、彼がいるうちに二人は現れなかった。
翌日、車はドアが閉ざされ誰もいなかった。
オーディションはその週末だった。他で練習しているのだろうか。雷蔵はステップに上って車内を窺ったが、いや、楽器も機材も、みんなそこに置かれたままだった。
その次の日、市電通りで健二と礼子に行き合った。健二は笑って声をかけたが、奇妙なことにその日に限って、礼子のほうが困ったように目をそらせた。
「練習しないの?」と、彼は尋ねた。
礼子が持っていた買い物袋を胸に持ち直した。それが質問への返事だとでも言うように大きな音がした。見ると買い物袋には大きな白菜が入っていた。
「近所から苦情が出たんだ。赤ん坊が産まれたんだって」と、健二が応えた。
「すき焼きなのよ」と、いきなり礼子が言った。
「車で食べるの。一緒にどう」
「うん」と、即答を渋ったが、家の外で夕食を食べる言い訳など、思いつくはずもなかった。
「きっと、駄目って言われるよ」
「そう、残念ね」
別れも言わず、ふいに礼子が歩きだした。それを健二が追った。
なんだかとても自然な調子で、彼はそこに取り残された。
三島ガレージの方に角を曲がると、ちょうど良平がこっちへやって来るところだった。サングラスを鼻までずりさげ、ポケットに両手を入れ、肩を丸めていた。まるで真冬の道路を歩いているみたいな様子だった。
「練習しなくていいの」彼は訊いた。
「俺たちぐらいになると、イメージを養うだけで充分なんだ」
「イメージってどうやるのさ」
「頭の中で、チッチッチッチッと組み立てていくんだよ」
どういうわけか、良平は雷蔵と並んで、今来た道を引き返しはじめた。駐車場の脇を通り、坂を上りだした。もう少しで彼の家が見えるところまで一緒に歩いた。
「六年、この坂を上り下りすりゃ、足腰は強くなるな」と、突然口にした。
「十二年だよ。高校まで行けば」と雷蔵は言った。
「ご老公の孫が、大学は行かないのか」
「下宿するんだ」
「なるほど。十二年か」と、良平が言った。
足許の国道から、市電の音がかすかに聞こえてきた。
「足腰を鍛えろよ。円月殺法は足腰だ」
それじゃな、という声が聞こえると、もう背中を見せていた。小走りに、坂を下りはじめた。あっという間に、その姿は見えなくなった。雷蔵もつられて、そこから家までつい全力で走った。
翌日、学校から帰ってくると、通りの曲がり角にトラックが止まっていた。ゲートルを巻いた地下足袋の職人が何人か、三島ガレージの回りを行き来していた。
駐車場の車は半分に減っていた。
デリ・バンの姿も、もう見えなかった。
雷蔵は駐車場の真ん中まで行き、デリ・バンが止まっていた地べたにタイヤの跡を見つけた。それは深く、長く、すごい力強さで轍を遺していた。
彼は驚いてため息をついた。
「ばかやろうが、踏み倒されちまったよ」
後ろで、三島の親爺が言った。しかし、顔は笑っていた。
「あれ、走ったんだね」彼は言った。
「あたりまえだ。俺が走らねえようなもん売るかよ」と、怒鳴ったが、まだ顔は笑っていた。
雷蔵はため息をついた。むろん、そんなことを疑ったわけではなかった。ただ、あの三人の車が、走ってどこかへ移動していったという事実に、心の底から驚いていたのだ。
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大きなミニと小さな夜
ゴロウは緑の日除けの下に並べられた籐椅子のひとつに浅く座り、脚を思いっきり伸ばし、たった今その本に気がついたというふうに口を尖らせた。
目の前に置かれた本の表紙はアフリカ象、どうやら写真集だ。ページを開くと、象、象、象、死んでいる象の写真が生きている象の写真よりはるかに多い。その半分が干からびた肉、剥き出しの骨、生命を維持していた水分は一滴残らず大地に吸い取られ、死骸というより残骸だ。
ゴロウがふうと息を吐く。
閉じると表紙に英文のタイトルが読める。≪THE END OF THE GAME≫。それを彼女の方へ滑らせて、
「ヴェトナム反戦なんて、笑えるね」
挑発するようにゴロウが言う。
「だいたい何にしても反戦なんてさ」
相手の顔を下からすくうように見る。
圭子は、肩を揺すってそれをやり過ごす。
「何か言いたいことある?」
「何も」と言って、彼女は歩いてきたボーイに手招きをして、
「白ワインをグラスでちょうだい」
「俺はビール」と、ゴロウ。
「何なのさ? すごいね、この本」
「お友達から。形見分けよ」
圭子は本を取り上げ、自分の隣の椅子に置く。
「形見分けとは、また古風な。まさか戦争へ行くってんでもあるまいし」
圭子は答えない。口をつぐんで、道路でテラテラ踊る七月頭の陽光に目を細める。ゴロウはちょうど目の前、赤信号で止まった黄色いトヨタS800とそれに乗る背の高い女に目を細める。二人とも同じ方向に脚を投げ出し、顎を上げている。
その車のラジオが今年の夏休みについて語っている。軽井沢、八ヶ岳方向の特急指定席はもういっぱい、箱根の旅館は逆にまだまだ余裕があるみたい。皆さん景気がいいのかしら、それとも悪いのかしら。そう、何といっても、すごいのは、ハワイよ。今年の夏は、何と一万人近くの人が出かける見込み、やっぱり景気がすこぶるいいのね。
大学生は、みんな学校のバリケードに立てこもっていると思ったのに、やるときはやるわけ? などなどなど。
圭子の眉がつり上がる。細くした目でそっちを睨む。
飲み物が来る。それまでは二人とも、黙って脚を伸ばしている。
若いボーイがうっとうしい長髪をかきあげかきあげ、グラスを置き、レシートのホルダーをテーブルの縁のフックにひっかける。
「ブルジ|ュ《ヽ》アの放送なんて、みんなあの調子さ」
ビールのグラスを差し上げてゴロウが言う。
「ブルジョアのメディア」彼女が優しく、しかし刺のある声で言い返す。それから、まだぐずぐずしていたボーイに、
「ねえ、食事はできる?」
するとボーイはすっとぼけた態度で、
「あの。上智大の人でしょう」
「違うわ。なぜそんなこと聞くの」
「いえ──」ボーイは口ごもり、今度は思いきり声を潜めて、
「先月、日比谷の野音で見かけたような気がして」
「へえ、人気者じゃない」と、ゴロウ。
圭子はとたんに不機嫌になって、
「ねえ、何か食べられなくって?」
「|うち《ヽヽ》はナポリタンが評判で」ボーイが答える。
「ほうれん草のカレーなんかどうですか。日本ではうちだけです。それに、──」
「結局、何だって旨いんだろう」ゴロウが言った。
「もちろんです」
「アルバイトじゃなかったの? 駄目だよ搾取階級にそんなにヅケとっちゃ」
「パンケーキをお願いするわ」圭子は、すこし慌てた口調で言った。
「すいません、ないですよ、そんなの」
「あら。ここに書いてあるわよ。リンゴソース添えって」
「ああ、ホットケーキのことですね」言って、ボーイはレシートのホルダーをまた取り上げ、そそくさと奥へ引っ込んだ。
「|うち《ヽヽ》って言い方、いやあね」と言うと、もうそんな話題には興味がない。圭子は背を反らし、別の方角を凝っと見つめる。
自然、ゴロウもそっちへ目を投げる。
そこには並木通りに面した大きなガラス戸がある。その向こうを今、六本木交差点を越えて東京タワーの方へ行く都電が通りすぎる。石畳が重く湿った音をたてる。ガラス戸が揺れたような気がする。
しかし、圭子が見ているのは外ではない。そのガラス戸の手前に座る白人の老婆だ。アメリカ人にしては顔だちが洗練されている。ユダヤ人かもしれない。きっとそうだ。
彼女は、卓子席の椅子を取り払い、そこに自前の車椅子ごと入り込んでいる。たぶん、痛風だろう。この界隈では別に珍しくはない。車椅子も、痛風も、一人でレストランに陣取る健啖家の老婆も。
珍しいのは、彼女が黒人男を連れているという点だ。
男は三十代の半ば、ジーンズの腰に大きく頑丈な鍵束、裾をだらしなく出したアンティークのアロハシャツ、髪にはストレートパーマをかけている。あれは、きっと、アメリカの黒人ではない。
「何見てるんだよ?」と、ゴロウに聞かれ、そう答えた圭子は、推理の理由をこんなふうに説明する。
「肌の黒が青っぽいのよ。そこがいちばんの違いね」
「さすが、大学生になると詳しいもんだね」と、彼は言う。
「それとも、反米闘争のたまものかい」
「今日はつっかかるのね」
「別に。つっかかったりしやしないよ」
彼女はおかしそうに笑い声をたてる。グラスを捧げ、ガラス戸からの陽光に透かしてみる。
「あのアロハシャツを見ろよ。ハワイの専門店でしか売っていない本物だ」と、ゴロウが囁く。
「何か、日本の模様みたいに見えるわ」
「日本の模様なんだよ。明治時代の風呂敷でできてるんだ」
圭子がそれに目を細めると、紫の地に浮き上がった模様が相撲の四十八手を描いたもので、そのひとつひとつに勘亭流の筆文字が書き込まれているのが判る。
「あれひとつで何万円かするんだぜ」
「何万円? 私のバイト料、一月分じゃない」
「もっとするかもしれない」と、ゴロウ。
「なぜ、アロハシャツに詳しいのよ」
「敵のことは隅々まで知らないとね。反帝反米さ」
「反帝反スタ」と、圭子が言いなおす。
「ブルックスブラザースとフォード・|ム《ヽ》スタングのことなんか、いくら知ってても何の役にも立たないわよ」
「フォード・マスタング」と、今度はゴロウ。
「でも、マスタングなんか趣味じゃないよ。車はイギリスだ」
「帝国主義も植民地主義も、なんていっても本場はイギリスよ」
「やっと意見があった」
その声が、その顔が、あまりに無邪気に嬉しそうなので、圭子は声をたてて笑いだす。
「あなた、ちょっと酔ったんじゃない。気をつけなさい。最近のお巡りは、その程度のことでも持ってくから」
「持ってくって?」
「勾引留置。別件逮捕」彼女はなぜかその言葉を嬉しそうに口にする。
「で、アロハシャツがどうしたの?」
「アロハシャツっていうのは、ハワイへ移民した明治の日本人が、浴衣や和服、風呂敷の生地なんかで、見よう見まね、西洋のシャツを自分のために拵《こしら》えたのが始まりなんだぜ。つまり、労働者の晴れ着ってわけさ」
「あら、すごい」と、圭子が言う。言ったきり、次の言葉をふいに止め、また例の席をぼうっと見つめる。
車椅子の老婆は、大皿に山と盛られたフライド・ポテトとそれを覆うように乗ったビーフステーキを黙々と食べていた。
肉は、これだけ離れていてもレアだと判った。さらさらと透明な血が切り口から沸いて、ポテトを赤く濡らしていた。老婆は上手くそれをかみ切れないままシュルシュルと音をたてて空気と一緒に飲み込んでいるのだった。
赤ワインの大きなグラスの縁が、ワインなのか肉の血か、汚れているのが不快に見て取れた。
老婆がむせた。黒人が立ち上がり彼女の背中を優しくなで上げた。まるでベッドでそうするかのようにリズムをつけ掌全体に気持ちを込めて撫でていた。
老婆はナプキンに肉の断片を吐きだすと、気を取り直し、新しい一切れを切り取った。それを口に運び、ゆっくり咀嚼した。
大きく豊かな唇をしていた。目も大きく、猛禽類のように光っていた。顔は小さいのだが、そこにいることを十二分に主張して、百八十センチを軽く越える黒人をさえ、威圧して見えた。体は車椅子の上で、一昨日の切り花のようにしおたれ折れ曲がっているにもかかわらず。
「ねえ」と、彼女が言った。目は、完全にその老婆の上に凍りついている。
「あなた、車で来てる?」
「ああ。もちろん」彼は言った。
「江ノ島行くのに、どうしてさ? まさか、ロマンスカーだなんて言いだしゃしないだろうね」
「ごめんなさい。行けないのよ、それ」
「え! それはないよ」
圭子がゴロウにやっとの思いで顔を向ける。
そこに、への字になった唇と眉、ムッと脹れた頬を見いだし、彼女はまたも笑いだす。手の中のグラスで、白ワインが揺れる。七月の朝の陽がきらきらとテーブルに零《こぼ》れる。
「だから、ごめんなさいって、──」
「ごめんで済めば、警察はいらないよ」
「警察なんか、どんなときでもいらないわ」
「ちぇ。これだからまいるよ。左翼にはさ。口が減らないんだから」
彼女は鼻でくすくす笑う。すると、ゴロウの喉は坂道のオート三輪みたいにノッキングを起こし、やがて黙ってしまう。
「海なんかで、遊んでられないのよ。判るでしょう?」
「何にも判らないけどさ」
ゴロウは反撃に出る。
「車で来てたらどうするんだ?」
「ちょっと運んでもらいたいものがあるのよ」彼女はいきなり真顔になる。すると、耳のすぐ下に、産毛が金色にけぶって見える。
目は陽を吸ってハシバミ色に光っている。きりっとした大きな唇が、真一文字に引かれるが、なのにそれはまだ笑いの形をしている。
いくらもなく、パンケーキがやってくる。リンゴソースとは名ばかり、ただのジャムが皿の隅にちょっと乗っているだけ。
「これなら、メープルシロップの方がいいわ」
「ないんですよ」と、例のボーイ。
「蜂蜜でもよくってよ」
「すいません、ないんです」
ボーイがいなくなると、彼女の唇が初めて歪む。
「六本木でこんな気取った造りで、──呆れるわ」
「日本なんて、こんなもんだよ。ハワイみたいな田舎にも負けちゃうんだ」
「あら、あなたハワイに行ったことがあるの?」
「一回ね。親父は仕事で一年一回、行くんだよ」
「それで、アロハなんかよく知ってるのね」
「ワイキキにアンティーク専門のショップがあるんだぜ」
「アンティークって何よ?」
「古着だよ。一着、数万円なんてのがある。ただの古着じゃない、骨董品だ」
「あなたの軽自動車と同じね」
「おい!」ゴロウのよく陽に灼けた額を深い皺が真っ二つにする。
「何度言ったら、判るんだ。あれはクーパーだよ」声が高い。店の中で振り向かなかったのは、あの車椅子の老婆だけだ。
「あれはブルーバードと同じ大きさのエンジンが乗ってるんだ。中だって、サニーなんかよりずっと広い。モンテカルロで何回勝ってると思うんだよ」
「なら、そんなにむきになることはないんじゃなくって」圭子はくすくす笑いだす。
ゴロウの顔が、ぱっと赤らむ。
「いい加減にしてくれよ。あんまりおちょくると、痛い目にあうぜ」
圭子の手が、ビールのグラスをテーブルの上で握る彼の手に、そっと触れる。ゴロウはいきなり喋るのを止める。
「ねえ、その素敵な車で運んで欲しいものがあるの」
「トラックじゃないんだよ」
「モンテカルロを走る車なんでしょう。知ってるわ。ごめんなさい。あなた、すぐむきになるから、──」
ゴロウはまた黙る。ビールを飲もうとするが、もうグラスは空だ。
その手を、彼女の白い長い指が、またそっと撫でる。今度はそこを握りしめる。存外、力がある。
ガラス戸が揺れて、都電が通りすぎる。
「何をどこまで運ぶんだよ」と、彼はやっと声を出す。
「うちの大学の寮から、蒲田の先まで」
ゴロウは所在なく、しかし一応こう付け加える。「火炎瓶なんか嫌だよ。あれ、臭いが凄くつくんだもの」
「まさか。本を運ぶだけよ」
「小説?」
「まあね」
「プロレタリア文学?」
彼女はそれがよほど面白かったらしく、喉を詰まらせるようにして笑う。今日は、本当によく笑う。
「何か、いいことでもあったの?」と、聞くと、それには答えず、
「まさか」と驚いてみせ、冗談めかして、
「トロツキストは芸術を革命に奉仕させたりしないのよ。奉仕させるとしたら、女性にだけ」などと言う。
「だけど、今日の午後は、江ノ島に行くはずだったんだぜ。夜は鎌倉でローストビーフを食べようと思ってさ」
「まあ。どうしたの、あんな高いもの」
「臨時収入」と、彼は言う。
「それとも、左翼はローストビーフを食べないのかい」
彼女は、まったく手をつけていないパンケーキに、そのとき初めて目を落とす。
そして、えいやっと言わんばかりの仕種で、ナイフをそれに突き立てる。しかし切るだけ、口には運ばない。
「私が栄養をつけるのは、回り回って、とてもいいことだと思うわ。皆のためだもの」
「それって、すごく|らしい《ヽヽヽ》や」彼は言う。
今度こそ、二人で笑う。
それを止めたのは、椅子を後ろに引く甲高い嫌な音だ。
二人して顔を向けると、黒人が席を立つところだった。
脂がべっとりついた鼻が、老婆の顔の中央で鈍く光っていた。腕や手の甲で、金色の産毛がさわさわと揺れていた。
黒人が、それを卵色のハンカチで拭き取った。席には戻らず、彼はそこに立って彼女の背中を摩《さす》りはじめた。
二人は喋るのをやめ、見守った。
やっと、老婆は息をつき、たぶん喉に絡んでいたのだろう、最後の肉片を、空気と一緒に飲み込んだ。彼女は、ずっと背中を摩っている黒人の肘に手を回し、自分の方へ引き寄せた。
黒人は立ったまま窮屈に屈み込み、老婆に求められるまま、唇に唇を触れた。キスというより、そこに残った肉汁を拭き取ったみたいに見えた。
と、老婆が、短く鋭く黒人に何やら命じる。
黒人はしゅんとなって、さも残念そうに背中から離れ、席に戻る。
老婆がにっこり笑って、大皿を彼の方に押して寄越す。それには、まだたっぷり、赤く濡れたフライド・ポテトが残っている。
黒人は、それを指で鷲掴みにしては口へと運び、もう泡を失ってずいぶんと経過したビールを飲みはじめる。
その様に、えらく満足そうに笑い、頷き、老婆はコンパクトを出して口紅を塗りはじめる。
結局、圭子もゴロウも、黒人が老婆の車椅子を押して、店を出ていってしまうまで、いや、それが道路を渡り、向こう側の歩道を通って完全に視界から消えてしまうまで、口をぴったり閉ざしていた。
「ああ」言葉にならない声を、ゴロウは最初に洩らす。
「なんだよ、今のは」
「有名人かもしれないわよ。何しろ六本木のことだから」
「有名な魔法使いかい? それとも、左翼を見張ってるCIAなんじゃない」
「バカ言ってるわ」と、圭子は言い、レシートに手を伸ばすと同時にすっと立ち上がる。
よく引き締まって上向いた尻が目の前にある。その尻もすらりと伸びた足も、少しよれたジーンズにすっかり包まれている。
彼女がミニスカートを穿かなくなって、これで半年以上たつ。あれは、今年の正月だった。彼らは、泊まりがけで山中湖に行き、日の出を見た。クーパーは高速道路でも、須走《すばしり》のつづら折りでも、実に快調だった。そう、クーパーがそれらしく振る舞うことも正月以来七カ月、絶えてない。
七カ月は、十八歳の彼にとっては永遠と同じだ。
「さあ」と、促されて、彼ははじめて立ち上がる。
彼女は黙ってレジに向かう。
彼はその脇でしばらくぐずぐずするが、そのまま外へ出る。
防衛庁の方へ少し歩くと、灰色の蒲鉾形のバスが、正面ゲートを塞いでいるのが見える。
ゴロウのミニ・クーパーSは、その手前の露地をちょっと入ったところに止まっている。
ラーメン屋の真っ黄色な看板が、ミニのすぐ後ろに出され、明かりが灯っている。彼は、それが侮辱の四文字言葉を吐きかけたとでもいうように睨み返す。睨むだけでは飽き足らず、一発蹴りをいれる。
彼女が来る前に、慌てて車を看板から引き離す。しかし、そこは薬屋で、ビニール製のカエルの人形がたっている。彼のクーパーとまったく同じ色のカエル。
ちきしょうめ。日本なんて、いつもこんなものだ。クーパーとスバルの区別をつかなくしようと、町中が手ぐすねひいて待っている。
彼は悲しそうに眉をひそめ、車から降りて圭子を待つ。
向こうから彼女がやってくる。ニコルのTシャツ、よれたジーンズ。
ゴロウは、絹が少し織り込まれた夏物のブルーブレザーの皺を気にして、肘だ、袖だ、打合せだと、やたらとあちこち払ってから、上着のボタンをかけ、彼女のためにドアを開ける。
恋だの愛だのじゃあるまいし。
ゴロウはちょっと自分に自分で呆れ、しかしその理由がさっぱり判らぬまま、圭子の様子を近くに見つめ、遠くに感じる。
「それで、どこまでお連れしましょう」と、彼は言う。
「ああ、本を運ぶんだったね。まさか、図書館からかっぱらうんじゃないだろうな」
「何でそんなこと言うの?」と、聞き返した声は意外なほど硬く大きい。
「何でって、だって学校の連中はみんな追い出しちゃったんだろう」
「だから、逆に、そんなことするわけないじゃない」彼女は、怒鳴った。悲鳴に近かった。
車に飛び込み、自分でドアを閉めた。
「御免なさい」と、言ったのは、もうクーパーが皇居の濠沿いの道を左回りに走りだしてからだった。
「友達の本なのよ」
「大切なものなんだろう」
その答えは、実に曖昧、
「きっとそうね」などと、彼女は自信なさそうに言う。膝の上で、さっきのあの本をきつく握りしめる。象の死骸であふれた本を。
「蒲田の先っていったいどこ」
「羽田の近くよ」
「やめてくれよ。まさか、あの橋じゃないだろうね」
「あの橋って?」
「ほら、空港で学生が死んだ、──」
「まさか」彼女は笑う。声は、しかしまったく笑っていない。
「彼女の親の家があるの。彼女が自殺しちゃったんだけど、家の人は誰も本を取りにこないのよ」
「自殺か」と、彼は独りごちた。
「そいつは何とも、──」
それ以上、彼は何も言わなかった。何も言わないまま、九段を下った。
陽が高くなり、風が暑くなっていた。しかし、彼らは、窓を閉めないと、それ以上走れなかった。どこからともなく、マスタードのような刺激的な臭いが忍び込み、瞼の奥や鼻の芯を涙の気配で満たしたのだ。
「いいわ」と、彼女は言った。
「ホテルを取りなさいよ。本を届けたら、今夜はローストビーフを奢らせてあげる」
「そうこなくっちゃ」
強い日差しが正面から来て、ゴロウはサングラスをかけた。赤信号で止まった。
すると、さっきの車椅子を押していた黒人と本の中で死んでいた象を、不意に、しかもいっぺんに想って、彼はついおっかなびっくり彼女の方を窺った。
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サンダーボルト・ホテル
ジョン・アーチボールド三世の言うとおり、細心の注意をはらってブレーキを踏んだのだが、(飼猫を足であやすみたいに愛を込めてと、彼は言ったものだ)それでも借りてきた車はぐらりと揺れた。運転席に座っているのではなく、大きなタライの中のぬるま湯に浮かんでいるみたいだった。そのお湯が、何かの拍子にタプンと波立つ、まったくそんな具合だったのだ。
それは、カバが嗽《うがい》をするみたいにしてガソリンを消費する、V8、6・3リッター、三百三十馬力の自動車のすることとはとても思えず、つい苦笑を誘うほどだった。
十二年も前の車にしては、すばらしいコンディションだった。ボディにもシートにも傷ひとつなく、足も椅子も決してへたっていなかった。だから、ぬるま湯に漂うこの乗り心地は、もとからの特性なのだ。
取り替えたパーツは、全部純正、余分な手はいっさい加えていない。不二家のストロベリー・アイスクリームそっくりのピンク色の塗料以外は、隅から隅まで。──それが、アーチボールド三世の自慢だった。
「で、このピンクは何なの」と、礼子が尋ねたので、彼はサイドブレーキをかけ、煙草を探した。
「あれだよ。何とかいう映画」
「≪ペティコート作戦≫?」
「古いな?」彼は呆れて笑い、ドアレバーを引き上げた。分厚く大きなドアだった。それが音もなく、すっと開いた。
「飛び下りるもんじゃないの」と、彼女が言った。
たしかに幌は畳まれていたが、いったいどこをどうしたら、映画の主人公のようにこの車から飛び下りられるのか。彼は一瞬考えた。
停まりっぷりも、もちろん走りっぷりも、まるで、温泉の露天風呂に首までどっぷりつかっているみたいだった。おいそれと、飛び出せるものじゃない。
しかし、果してどんな映画のどんな主人公が、そんなことをしただろう。この手のクジラのようなアメ車から、ぱっと飛び下りる主人公といえば、マンガぐらい、映画でそれをするのは、どうしようもないコミックリリーフだけだったのではあるまいか。
「そうだ。思い出したよ」彼は突然言った。
「≪パームスプリングの週末≫だ」
それから車を降り、トランクを開けて、二人分の荷物を下ろした。
ホテルの方から、人が出てくる気配はなかった。何と言っても、ここからでは、その建物は街道筋の大型ドライヴインにしか見えなかったのだ。
「それってなあに?」と、礼子が言った。
車のテールに寄りかかり、そこに体重をかけた。すると、身長百六十ちょっと、ニューメキシコの風なら、ひと吹きで持っていかれそうな体だというのに、巨大な車はふわふわと揺れた。
「俺が中学生のころの映画だ。トロイ・ドナヒューって知ってる」
「金髪の子でしょう。ジーンズのお尻のポケットにいつも櫛を入れてるのね」
「なんで知ってるんだ」彼はびっくりして聞き返した。
「まだ十歳にもなってなかったろう」
「テレビの再放送よ。マイアミで船に住んでる探偵のドラマに出てたでしょう」
彼は頷き、荷物を全部、まとめて両手に持った。BBQリブとチリビーンズを宣伝する、巨大なコヨーテの看板を目指して歩きだした。それ以外、目指すものがなかった。そこに、≪サンダーボルト・カフェ&ホテル≫という真っ赤なネオンが光っている以外は、一面の闇だ。
店の明かりに照らされた州間道路が、わずか二十メートルほど、闇にぼんやり浮かび上がっている。地平線の位置は、闇の濃淡でなんとか判る。それは、みごとなほどの一直線で、目の隅から、もう一方の隅まで続いている。
「トロイ・ドナヒューが乗ってたのね」と、礼子が訊いた。際限なく広がる闇に怯えたのか、声がどこか震えていた。
そうじゃない、と、言いかけてやめた。
この巨大なピンクのサンダーバード・コンヴァーチブルは、『歌って踊って恋をする』主人公のものではなく、鼻持ちならない二枚目のプレイボーイ、ヒロインをつけまわすジェイムズ・コンラッドの愛車として登場するのだ。
若い好青年の乗り物は?──たしか彼はバスに乗ってパームスプリングを目指している。そのバスを、Tバードが追い越す。後席には、これまた巨きなピンク・パンサーのぬいぐるみが乗っている。
その扱われ方が、どうもピンとこなかった。今から十二年前、ちょうど東京オリンピックの年だ。そのころTバードと言えば、日本では正真正銘、二枚目の専有物だった。
「ねえ、これ、本当にホテルなの?」と、彼女が言って、入り口のガラス戸を見上げた。
「まちがいないよ、アーチーの地図どおりだ。だいたい、名前がここに書いてある」
アーチボールド三世といったって、コーヒーショップの親爺だ。父親が二世だったから俺は三世だというのが、いたって素っ気ないその名の由来、
『結局、親父も祖父さまも、新しい名を考えるほど教養がなかったってことさ』
名前のことが話題になるたび、彼は必ずそう言って、話を終わらせる。
「三世閣下は信用できないって言ってたのはあんたじゃない」礼子が言った。
「この手のことでは逆に信用できるんだ。車だって貸してくれたろう」
「なんで、あんたのトヨタじゃいけなかったの」
返事をせずに、彼はホテルのドアを開けた。
長いカウンターがあって、その内がバーとも厨房ともつかない造りになっていた。黒人の、これもバーテンダーだかコックだかよく判らない男が立っていた。カウンターに客はいなかった。窓辺に並んだ、列車の座席みたいなブースに、歳取った夫婦が一組腰かけ、肉を食べていた。
カウンターのいちばん手前に、古ぼけたレジスターが置かれ、そこに≪フロントデスク≫という看板が垂れ下がっていた。
「いっぱい食ったんじゃない?」と、礼子が囁いた。
「だとしても、今夜はここに泊まるしかないよ」
礼子はそれにため息で応じた。ここまでの道のりを思い出したのだろう。ラストーマスの町で窓明かりを見かけてからこっち、たっぷり一時間、灯と言えば対向車のヘッドライトだけだった。その、ラストーマスの窓明かりにしたって、昨日の新聞を売っているような雑貨屋のものだ。プールのついたモーテルまでとなると、引き返すのに三時間はかかる。
荷物を持って近づいていっても、黒人は動こうとしなかった。
レジスターの奥の壁には、四つずつ三段、都合十二のフックが打ちつけられ、そこに九つの鍵がぶらさがっていた。すぐ下には手垢だらけの分厚い宿帳もあった。
「飯かね? 泊まりかね?」と、黒人が訊いた。
「飯を食うのに、ありったけの鞄を車から下ろす奴がいるか」
「最近はここらもぶっそうだからな」
言ってにこりともせず、
「予約は?」
「入ってるよ。ここは、サンダーボルトアレイの≪サンダーボルト・ホテル≫だろう」
「もちろん」
大げさに頷くと、思ったよりずっと若いことに気づいた。口髭の中に愛嬌のある口が隠されていた。
「今、俺しかいないんだ」
「じゃあ、待とうか」
彼は腕時計を見た。もう八時を回っている。
「先に食うことにしよう。飯がまだなんだ」と、言って礼子に振り返った。
「そうね。お酒が飲みたいわ」
「運転免許を見せてくれ」と、黒人は礼子に言った。
「あんたは若いからな」
「あら、ありがとう」
「子供に酒を売ると、この州では大変なことになっちまうんだ」
彼女が顔を歪めて、黒人にパスポートを投げつけ、彼は腹を抱えて笑いだした。
「何番がいい?」黒人は落ちついた素振りで彼に訊いた。
「何番って? 酒のことか」
「ばか言っちゃいけねえ。酒に番号なんかついてるか。部屋だよ。どれでもいいぜ」
「七号室」と、礼子が言った。
「値段は?」と、彼。
「何の値段だ?」
「部屋代だよ」
「どれも同じさ。全室風呂とテレビつきがうちの自慢だよ。ベッドが違うくらいだ。七号室はキングサイズベッド」と、言って、礼子に向かってウインクした。
「ニューメキシコでは、子供にセックスの場を提供しても煩いこと言わないのね」
彼女が言い、黒人ははじめてにやりと笑った。
「部屋はみんな同じ方に向いてるのか」彼は尋ねた。
「何だって」
「値段が同じなら、誰だって、海に面した部屋に泊まる。それと同じさ」
「ここは平原の真ん中だよ」と、黒人。
「平原だって? 砂漠じゃないのか?」
「砂漠じゃないよ。本物の砂漠があるのはアリゾナだ」
「ともかく、ここはあれだろう。雷が名物だって聞いてきたんだがな」
「ああ、そのことか。あんたも、キャリフォルニアの人だな。本当に、あんたたちは変わってるよ。あんなものを見に、わざわざこんなところまで、出かけてくるなんてな」
「じゃあ、その普通の奴らは、それこそ他に何があって、わざわざこんなところへ来るんだよ?」
「保養さ」黒人はあっさり言って、自分で自分に大きく頷いた。
「ニューメキシコのパームスプリングって呼ばれてるんだぜ」
今度は礼子が笑いだした。
「どうでもいいけど、早く鍵をちょうだい。十一時間も走ってきたのよ」
「いや、それはまだだよ」彼は、手を目の前で横に振った。
「これから掃除をするんだ。言ったろう、今、俺しかいないって」
「じゃあ、掃除ができている部屋でいいわ」
「どこも、まだなんだ」
「OK、飯を先にしよう」
彼は言って、カウンターの方に歩いた。
「生ビールをくれ」
「生は切れてるんだ。トラックが木曜にしか来ないんだよ」
「ビールなら何でもいい」
「ミラーは?」
「私も。それに、チリビーンズ」と、礼子が言った。
黒人はビールとグラスをふたつずつ置き、酒棚の向こうで鍋を火にかけた。
「あんたが掃除をするのか」
「いやオーナー夫婦さ」
「まさか、もう帰っちゃって、明日まで戻ってこないっていうんじゃないだろうな」
「どこへ帰るんだ。ここが彼らの家だよ。だいたい、さっきからそこにいる」
と、黒人が言うと、ブースで食事をしていた老婦人がにっこり笑って片手を上げた。
夫のほうは振り向きもせず、ポテトをがつがつとかっこんでいた。
「頭が痛くなってきた」
彼はビールをつぎ、グラス半分ほどいっぺんに飲んだ。
「さっき、俺しかいないと言わなかったか」
「ああ、言ったよ」黒人が応えた。
すると、食卓の老人がフォークを置いた。つなぎのジーパンの胸ポケットから出したハンカチで、大きな音をたてて洟をかんだ。
「俺たちは、九時半まで休みだ。だからここにはいない。判った?」
彼は片手を上げて頷いた。
「ねえ、もしかしたらここって私たちしか泊まってないのかしら」と、礼子が日本語で囁いた。
「おお」と、黒人が声を上げた。
「おい、日本語だろう。あんたら、日本人か。本物かい」
「何だと思ったのよ。さっきパスポートを見せたじゃない」
「そうだったのか。気がつかなかった」
それから、老夫婦の方に爪先立ち、
「ジャック。ねえ、ジャック。このお客は日本から来たんだぜ」
「えっ、何だって」
老人はいきなり腰を浮かせた。
「ロサンジェルスに住んでるんだけどね。学校に通ってるんだ」と、彼は言った。
「いや、こいつは驚いた。ついに日本の観光客がやってきたってわけだな」
ハンカチを胸ポケットに押し込め、彼は肉の皿を押しやり、立ち上がってきた。
「おい、婆さん。のんびり飯を食ってる場合じゃない。お客が来てるぞ」
「言われなくたって知ってますよ」老婆は言った。こっちに向いて笑顔で会釈したが、ナイフとフォークを休めようとはしなかった。
ジャックはハンカチを突っ込んだのと同じポケットから縁なし眼鏡を探し出し、それをかけて手を差し出した。
「わしは、ジャック・トレンヴィルだ。あれが、家内のテルマだよ」
彼は手を握りかえし、短く名乗り、礼子を紹介した。
「トレンヴィルなんて珍しい名前ですね」
「そんなことはない。メイフラワーの次かその次の船でやってきた由緒正しい名前だよ」
「ピンチョンもそうなんですって」と、礼子が言った。
「絶対に、アングロサクソンの名前じゃないと思ったんだけど」
「誰だね、そのおかしな名の男は」
「小説家よ。今、大学のゼミで読んでいるの。アメリカの最初の何家族かのひとつなんですってよ」
「うちもそうなんだ」と、ジャックは言った。
「ジョン・アーチボールドを知ってるでしょう」と、彼は尋ねた。
「彼から聞いてきたんだ」
「アーチーの知り合いか?」と、黒人が言って、こちらを見た。彼から真っ直ぐに見られたのは、これが初めてだった。
「ああ。それじゃあ、君がドラムか」彼が尋ねると、黒人が頷き、掌を上にして手を差し出した。彼はそれを軽く叩いた。
「婆さん。はやく、部屋を掃除してやれや」と、ジャックが言った。
老婆は、いまやっと紙ナプキンで口を拭っているところだった。肉もイモも、皿にはかけらも残っていなかった。
「七号室だよ」と、ドラムが言った。
夫人は嫌そうに立ち上がり、レジのすぐ脇にある合金のドアを潜って行った。
行くついでに、いくつか明かりをつけて行った。そのせいで食堂の隅々まで見渡せるようになった。
「思ったほど広くないわね」と、彼女が言った。
「パースが狂ってるんだ。ほら、カウンターに向かって台形になってる。アラン・ラッドと同じ仕掛けだよ」
「何よ、それ」
「これでカウンターに向かって店が上り坂になってりゃ完璧だ」
「だから何なのよ、それ」
「昔の西部劇スターだよ。タフガイなのに本当はチビだったんだ。だから、大男に見える仕掛けの中でしか演技しないのさ」
ドラムが鍋の火を止めた。それから流しの前で顔を上げ、二人に笑いかけた。
「じゃあ、あんたらも雷が目当てで来たのか。まったく碌でもないよ。あいつが宣伝して回るもんだから、キャリフォルニア中の物好きが集まってきちまうんだ」
「そんなに来るのか」
「まあ、来るったって、冬のハイシーズンほどじゃないよ。今の季節、ここらは暑すぎるからな」
「避寒地としては有名なのか」
「ニューメキシコのパームスプリングって言われてるんだ」と、ジャックが言い、鼻をぐずぐずさせた。
「ダン・チャリニが言ったんだ」
「誰だよ、それ」
「前の前のアルバカーキの市長さ」
ドラムが礼子の前にチリビーンズのボウルを置いた。
「あんたは食べないのか?」と、ドラムが彼に尋ねた。
「タコスはあるかい」
「冷凍でよければ」
彼はそれでいいと言ってビールを空けた。もう一本頼み、チップスの籠を引き寄せた。
すると、ジャックがカウンターの上に置いてあったガラス瓶に手を突っ込み、酢漬けの茹で卵を取り出してくれた。
「ビールにはこれだよ」
そのとき、ほんの一瞬、すべての灯が消えた。礼子が息をのみ、かすかな悲鳴を喉に殺した。
「そら、おいでなすった」と言って、ジャックが笑った。
「部屋からだとよく見えるんだが。まあ、窓のところに行ってご覧な」
礼子が走り寄った。
また電気が一斉に消えた。なのに、部屋は光に満たされていた。何が何だかよく判らなかった。電灯という電灯が一瞬、一斉に消えて、その代わり、窓が光ったのだ。
ドンッと地響きが来て、空が獣のように喉鳴りをたてた。
「見えたか?」と、彼は訊いた。
「ぽっと光っただけ」と、礼子。日本語で言った。
「どうだ、見るかね」何事もなかったようにビールをつぎながらジャックが尋ねた。
「タコスはちょっと待ってくれ」と、ドラムが大声を出した。
そのとき、巨大な鞭が振り下ろされた。屋根の上に、ビシッと。
天が裂け、何かが落ちてきた。音はだんだん低くなりながら、長いこと続いた。
「この最中に電子レンジ使うと、火を噴いちゃうんだ」と、ドラムが言って、天井を睨んだ。
「すごいわ」と、礼子が言った。
「こんなのってあるかしら。雷の真ん中にいるのよ」
「こんなんでよければ、好きなだけ楽しんでいけや」と、ジャックは言った。
「外へ出てもいいかしら」
「かまわんが、命は保証しないよ。金属は絶対いかん、とがったものも、ほれ、あの日本の箸ってえのもだ。時計もペンもみんな置いてくこと。靴は運動靴だけ。そのドアのところにゴムの合羽があるから、それを着ていくことだ」
二人は言われたとおりにして、ドアから外へ出た。
出たとたん、すぐ近くに、光が鞭のようにブンッと音をたてて撓《しな》り、振り下ろされた。それは大きなサボテンを粉々にして、すぐに消えた。音がすかさずやって来て、二人を飛び上がらせた。
ピンクのTバードがシルエットになって浮き上がった。それが震えもしなければ煙もたてないことが、とても不思議に思える光景だった。
光が走るたびに、サボテンと痩せた立木と、そして何本もの避雷針が浮かび上がった。
その避雷針を支えるワイヤーは、奇妙な幾何学模様を描いて、どこか軍の通信施設のように見えた。
やがて、遠い地平線を雷光が水平に走った。右から現れたそれは、左の視界の外へと消えた。ゴロゴロと地響きが聞こえ、それを轟音が追ってきた。
「見た?」と、礼子が言った。
「一周したわ。地球を一周したわ」
彼は黙って頷いた。
たしかに、部屋の窓なんか、どっちに向いていても関係ないわけだ。それは三百六十度、ぐるりを巡って走り回るのだった。
礼子が悲鳴を上げた。
予感がしたのかもしれない。悲鳴のほうが先だった。地面がめくれあがったように感じ、身体中が総毛立った。磁石で上へ吸い上げられたみたいだった。光に包まれ音に締めつけられたが、もうそれは大したことではなかった。
「今日はけっこう近いな」と、声がした。
テレパシーのように、それが耳の中で聞こえた。しかし、ジャックはすぐ後ろに立っていて、彼の肩をそっと叩いた。
「もう、中に入ったほうがいい。部屋の用意ができたよ」
「これが、毎晩なんですか」
「ああ、これがなければいい土地なんだが」
ジャックは頭を振り振り、ホテルの中に戻っていった。
「雷をなめちゃいかんよ。冗談じゃなく、死んだ者だって大勢いるんだから」
地平線を、また一筋の雷光が走り抜け、そこをカッと明らめた。
目がなれたせいか、ホテルの隅々がよく見えた。あちこちでタイルが剥げ、亀裂が入り、巨大なゴミ溜めのようになったプールと、腐って斜めになったホテルの看板。
すっかり枯れた棕櫚の植え込み。大型トレーラーのせいで大きく波うってしまった州間道路、まともに真っ直ぐ立っているものがひとつもない、道路標識。そして、その上でびりびりにやぶけた横断幕、
≪ニューメキシコのパームスプリング=サンダーボルト・ホテルにようこそ≫
「凄いわね」と、礼子が言った。
「アーチー閣下が言ってたけど、何だってこれを売り物にしないのかしら」
「まったくだ」と、彼は頷いた。
アーチボールド三世が見せてくれたニューメキシコ州政府観光局のパンフレットには『冬を温かく過ごすには最適』としか書かれていないのだ。
「冬に、日向ぼっこのために来たら、みんな怒りだすわよ」
「そうかな?」
「そうよ。これなら、サンセットストリップの売春モーテルの方が快適そうだもの」
「彼らには違うのかもしれないぜ」
「彼らって?」
彼はそれにはいっさい応えず、光のあとを追いかけてくる轟音に身構えた。それをやり過ごし、かすかに笑いながらこう言った。
「アラン・ラッドと、案外同じ仕掛けなのかもしれないぜ。このモーテルも、あの車もさ。でないと、こんなものと一緒には、人間、暮らしていけないよ」
地平線の上で、また、何より巨きな夜が光に切り裂かれた。
単行本 一九九七年九月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十六年十一月十日刊