矢作俊彦
リンゴォ・キッドの休日
目 次
リンゴォ・キッドの休日
陽のあたる大通り
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リンゴォ・キッドの休日
警官にさようならを言う方法は
未《いま》だに発見されていない
――レイモンド・チャンドラー
1
私はベッドにねそべり、部屋の中をながめていた。ときおり、自分がどこにいるのかさえ、忘れてしまいそうだった。
コーヒーの罐《かん》は空っぽになっていたし、シャワーはバルブが壊れ、水一滴出ようとしない。おまけに、今日は新聞も来ていない。だから、部屋をながめているのだった。
腕を枕《まくら》にすると、海岸通りを駈《か》け抜けていった風が、税関の尖塔《せんとう》にまっぷたつにされる鋭い悲鳴に、じっと耳をすました。大桟橋《おおさんばし》の方から、家族連れのにぎわいが漂ってくる。雀《すずめ》が、日本大通りの銀杏《いちよう》の新芽をついばんでいた。四月ともなれば、あのいかつい銀杏だって花をつける。外は上天気なのだ。風にしても、すでに冷たいということはあるまい。
私は、ベッドに上体をおこした。せめて顔だけでも洗うため、汚れた食器の夢の島と化している流し台を、何とかしなければならない。
日曜と重なった六週間ぶりの非番だった。そして、それが終ろうとしている。ベッドの下につくねて置いた革トランクが喚《わめ》きはじめたのだ。私はコードを引っぱり、トランクに閉じ込めておいた電話器をたぐり出した。
「神奈川県警|二村《ふたむら》刑事のお宅ですね」
そ奴《いつ》は言った。舌先でとろりと溶かしたチョコレートみたいな女の声だった。しかし、警官には違いない。警官は揃《そろ》って、どこの地図にも載っていない方言をはなすのだ。
「こちらは横須賀《よこすか》署です。お待ち下さい、署長がお出になります」
受話器の中で電気が舌打ちをはじめた。
私は煙草を点《つ》け、カーテンをめくった。陽《ひ》が踊りこみ、床一面が白く光った。寝床を出来たてのホット・ケーキのような彩《いろど》りで飾った。来月になったら、ベルの音を自由に消してしまえる新型電話器を申し込もう。
「やあ、私だ。岡崎だ」
喉の病気を思わせる嗄《しやが》れ声が受話口から飛び出してくるのと、私が送話口へピースの烟《けむり》を吹きこむのと、まったく同時だった。
「聞こえたぞ、二村。あくびか、それとも溜息《ためいき》かね。本庁の刑事は嘆息なんぞしても懲戒にならんらしいな」
「非番ですよ」私は言った。
「そうらしい。だから電話した」
「日曜です」
「小峰一課長もそう言っとった。彼と賭《かけ》をしたんだ。私は、君が起きとる方に賭けた。彼は部下をよく把握《はあく》しとらん」
「今月に入ってから、県下には本部長指揮の捜査本部がひとつもない。何カ月ぶりのことか、数えるには指が足らないってくらいだ」
「今日、|うち《ヽヽ》の管内にひとつ出来たぜ」
「そうですか。ぼくは非番です」
「拳銃がらみだったんでな。そりゃあもう……」
「今日のウラ番は滑川《なめかわ》班だ」
「安心しろ二村《ふたむら》。近いうち、警察庁《サツチヨウ》で大きな人事異動があるらしい。久しぶり、総天然色シネマスコープの事件だったんでな、ここぞとばかり、キャリアの皆さんはりきっとる。何せ、今度|御下野《ごげや》くだすった中川県警本部長閣下は凄腕《すごうで》だそうだからな。例の、企業連続爆破事件で横文字のインタヴュウまで受けとる。写真うつりもすこぶるつきだ」
唾《つば》を吐く鋭い音が伝わってきた。煙草をそこらへ吹き捨てたのかもしれない。軽犯罪のひとつふたつは気に止めない、近頃《ちかごろ》にない、おおらかな警察官なのだ。
「巨人のな、開幕戦の切符があるんだ」岡崎署長は声を窃《ひそ》めた。「バック・ネット裏だぜ」
「どうかしたんですか?」
「どうもしやせんよ。買ったんだ。捜査本部が出来ちゃあ野球見物とも行かん」
「ぼくに下さるんですか?」
「買えとも言えまい。それで、その、もひとつな。個人的な頼みなんだが――実は娘のことなんだ。佐知子だ。名前くらい覚えてるだろうが」
「大船《おおふな》の警察学校にいた頃、お宅へ夕食に呼ばれたことがあります。そのときの石炭みたいなコロッケの味しか覚えていません」
「まだ中学一年だったじゃないか。もう一通り何でも出来る。来年は大学だぜ。それで――君の出たところへ行きたがってな」
「たいした学校じゃありません。自信を持てるのは駐車場と野球部のマスコットくらいだ。野球をやるんですか」
「いいかげんにしてくれ!」嗄れ声が羽の欠けたベンチレータァみたいな渋《だ》み声に変わり、受話器が破裂した。思わずなでてみたが、罅《ひびわ》れてはいなかった。
「親馬鹿が恥さらしとるんだ。君の知恵を借りたい。儂《わし》ぁ大学受験ちゅうもんを知らん。女房もおらん。なぜ判《わか》ってくれんのだ」
私は判ったと答えた。彼のような警官にしてみれば、娘の名を間違わず言えただけで、充分な家庭サーヴィスなのだ。受験の相談? そんなことで現職の、それも本部捜査一課の刑事を呼びたてたりなどしない。「コーヒーが飲めるなら、横須賀もたまにはいいですね」
彼は、おあつらえの店がある、と言った。
「小峰君には話してあるからな」
「水上《みなかみ》刑事部長にも、最近の教育について、一節《ひとふし》聞かせておいた方がよかありませんか? そちらに本部が出来た矢先だ」
「私事《わたくしごと》だぜ。これでも警視正だ」
「ぼくは巡査部長です」
「今からでも遅くない、三級職試験をとれよ。ひまがあれば欠かさず勉強に充《あ》てることだ」
彼は、署長止りで終えたくなかったらな、と付け加え、ちいさく笑って電話を切った。
私は、彼よりずっと大きな声で笑い返してしまったことを思い、後悔した。それから髭を剃《そ》るため、湯沸器のバルブに本腰を入れて取り組むことになった。
2
私のアパートの非常階段は、一階の部分が撥《は》ねあげ式の鉄梯子《てつばしご》になっていて、金髪の子供がそれにぶら下がり、シーソーをして遊んでいた。人通りはなかった。重りのついた古めかしい鉄梯子のきしむ音以外は、静かなものだった。官庁街とスラム街、銀行街と中華街に囲まれたエアポケットの一角だ。観光客の足も、ここまでは犯さない。
尾行されているのは、すぐに気付いた。
大きな図体《ずうたい》を申し訳なさそうにすくめた、丸顔の男だった。終戦直後に闇屋をやりたかったんだが生まれてくるのが遅すぎたんだよ、と言わんばかりの身形《みなり》をしていた。コーデュロイのハンチングを被って、大袈裟《おおげさ》な庇《ひさし》に翳《かげ》った眸《ひとみ》だけは鋭く、落ちついている。横須賀線に乗り込むまで、その視線は、私の首筋にへばりつきっぱなしだった。そればかりではない。肩から無細工な鞄を吊《つる》していて、めだつことこの上なかった。大きな鞄をかかえた尾行者など、見たことがない。
半分以上、興味が湧《わ》いた。私は、しばらく尾行者を抛《ほつ》たらかすことにして、列車の振動に躰《からだ》をまかせ、駅で買った日刊スポーツを読みはじめた。
国鉄横須賀駅は、そこから単線化するせいもあって、全体、観光地の終着駅のようにくたびれていた。丘を抉《えぐ》ったプラットホームがそのまま駅舎につながり、改札の朽ちた傘《かさ》屋根をくぐると、唐突に港の真中に放り出されてしまった。人が港と聞くと次いで想《おも》うあらゆるもの、情緒をくすぐるあらゆるものを切り捨てた、コンクリと鋼鉄と油色の海が、陽《ひ》ざかりの下から押し寄せてくるのだ。
遠いちっぽけな星条旗だけが色彩だった。湾の向うを軍艦色の岸壁が仕切っていて、そこで行進をくりかえしている一団の白い制服が目にしみた。風は、もう吹いていなかった。
私はコンコースの前に並んだタクシーに乗り込んだ。ハンチングの大男は形式どおりに慎重だった。一台置いた後の車を択《えら》び、中央車線斜め後方をついてくる。
国道十六号線を港沿いにしばらく走る。長い長い金網がつらなり、やがてそれがふいに途切れると、コンクリの台座に植えこまれた白い巨《おお》きな碇を表札代りに仕立てて、米海軍横須賀基地の正面ゲートが盤広《ばんびろ》な口を開ける。その前を山側へ右折して、京浜急行横須賀中央駅にぶつかるまでの僅《わず》か五百メートルが、この街のメイン・ストリートだった。見なれた地方都市の見なれたショウ・ウィンドゥが、見なれた人込みに取り巻かれ、ここではコカ・コーラの自動販売機さえ、昔|馴染《なじ》みに思えてならない。
中央駅前の三叉《さんさ》ロータリーより少し手前に、めじるしの銀行が建っていた。私はタクシーを捨てた。県警横須賀署の方向へ路地を折れ、歩いて行った。
約束のコーヒー屋は、板張りのステップで道を不法占拠していた。店内の床も、油をよくひきこませた板張りだった。爪先立《つまさきだ》ちで歩いても哀《かな》しい音がする。カウンターの中では、タータン・チェックのしゃれた膝掛《ひざか》けをした老人が、私の足音にむつかしい表情を泛《うか》べた。たしかにコーヒーがうまくなければ客が寄りつきそうになかった。
太い素木《しらき》の柱に隠れ、岡崎署長は肱掛《ひじかけ》椅子にくつろいで、煙草をふかしている。
「いいんですか、こんな署に近いところで」
私は向いに腰をおろした。「何かあるんでしょう?」
「ふん」彼は喉をからげた。
「ここにゃあ、警官は入ってこんよ。親爺《おやじ》がオマワリを嫌っとるんだ」
「コーヒーだな!?」
カウンターからぶっきらぼうな声がかかり、署長は私に代って掌《てのひら》でそれに応《こた》えた。
「アメリカン・コーヒーなんて言わんでくれよ。追っ払われるからな。イタリア式なんだ」
「約束が違うな」
「前にゃあ張り紙が出ていた。『暴力団、警察関係者は御来店をお断りいたします』ってな。警友会が市長に泣きついて止《や》めさせたんだが」
「別件の誤認逮捕でもやらかしたんでしょう」
「儂《わし》の友人だよ。同期で横浜市警に入ったんだ。昭和二十九年の合併までは一緒だった」
「合併?」
「そうよ、昭和二十九年の警察法改正だ。それまでは、二村《ふたむら》。たとえば県でいうなら、国警の国家地方警察神奈川管区本部と、いわゆる自治警の神奈川県警察隊、それに政令指定都市の横浜市警、三つに分かれてやっとった。
結局赤狩りなんだな。赤狩りのためにゃ中央集権にするのが一等いい。で、二十九年の警察一体化だ。――今のようになった」
「じゃ、彼も市警にいたんですか」
「ああ、儂ら市警二十三年組は、民主警察の急先鋒《きゆうせんぽう》だったからな」
岡崎署長は、赭《あか》ら顔をむきたてのゆでたまごのように傾《かし》げ、五本の指で顎《あご》を掴《つか》んだ。たくさんの肉の襞《ひだ》が出来て、首が見えなくなってしまった。目がにやりと笑った。「そのころでさえ、国警の中にゃ特高の生き残りがごろごろしててな。二十九年の改正じゃ、マッカーサーに追放されてた奴まで、戻ってきやがった。あの親爺は、特高とは一緒にやれないって警察を辞めちまったんだ」
「三十年も前の話じゃないですか」
「今だって大差ないだろうが、二村。公安部を見ろよ、公安部を。今度の中川本部長なんて|ひょうろくだま《ヽヽヽヽヽヽヽ》さ。あれだって警視庁公安部のおさがりだ。
人事権は国が統括しとるんだ。公安がいい目を見るに決っとる。日本にゃ、まともなスパイ組織なんて他にないしな」
私は黙っていた。
現場に六年もいれば、かつての国警と自治警の決定的な資金力の差が、いまだに公安部と刑事部の間に残されていることに、厭でも気付かされる。そして、三級職試験をとったかどうか。つまり、地方公務員としていつまでも県警の中で靴底の減り具合を自負して終るか、それとも三級職をとり、いっぱしの国家公務員として端《はな》から警察庁に勤め、警部補をふりだしに時速三百キロのスピードでバッジの星を増やすのか――そうした現場の警官と、いわゆるキャリア組警官との差。
しかし、そっちの対立は、対立とも呼べないような代物《しろもの》なのだ。全国二十万の警察官のうち、警察庁から出向しているキャリア組は五百人に満たないのだし、その五百人が各都道府県の警察本部長以下、警備部長、公安部長、刑事部長など、すこぶるつきの椅子を占めているのだから。
むしろ刑事部の現場が、公安警備部を見上げたとき、連中が五百人のキャリアとたいそう仲睦《なかむつま》じく見え、事実そのとおりだということの方が大きいだろう。
若いキャリアは、たいてい大都市の警備公安畑を回されて行くし、捜査課の刑事には昇任試験の勉強をするゆとりさえない。
キャリアの五百人が、六千円の覚醒剤《シヤブ》代を稼《かせ》ぐために喫茶店のキャッシャーにたて籠《こも》った男を追う警官と、百六十億円の国家転覆資金を得るために旅客機の操縦席にたて籠った男を追う警官と、どちらを大切に扱うか、考えるまでもないことだ。
警官になったら誰でも、エド・マクベインの熱烈なファンでもない限り、捜査一課の刑事に憧《あこが》れたりはしないのだ。
コーヒーがやってきた。警官嫌いの老人はそれを卓子に叩きつけて、署長を睨みすえた。岡崎署長が肩をすくめ、老人は戻って行った。
「戦後派なんだな。特高がどんなもんか、よく知らんのだろう」
「ペリー・コモが子守|唄《うた》でしたからね。近くに交番があったけれど『オイ! コラ』とは言われなかったな。キャッチ・ボールをして遊んでくれましたよ。――用があるんでしょう。人に言えない用なんですね。公安部の悪口なら大船のころにもうかがいました」
岡崎署長は、老獪《ろうかい》な目付きを投げ、三分もかからずに数えきれるほどの頭髪をそっと撫《な》であげた。上体が揺れた。頷《うなず》いているのだ。
「小峰君とは相談してある」彼は嗄《しやが》れ声を枯らして言った。「安心して引き受けてくれ」
「聞く前から及び腰にさせたいんですか」
「難しい頼みじゃない」
「やっぱり帰った方がよさそうだな」
「大船を四年やった。教え子も沢山いる。なぜ君に頼むのか判《わか》るかね」
「さあ。なぜですか」
「教えてもらいたいと思って訊《き》いたんだ。さっぱりわけが判らん」
浅く掛け直し、頭をふってみせた。空気の抜けかけたゴムボールみたいな全身で、たっぷり椅子を埋めつくすと、懐から事務封筒を出した。あわてて裏返したが、東京高等検察庁の七文字が目を掠《かす》めた。
「まず、こいつを見てくれ」
封筒から私の手許《てもと》へ三枚の写真が滑ってきた。
「拳銃《ハジキ》がらみの事件があったと言ったっけな。殺《や》られたのは男と女、二人なんだ。別々の場所で死んだんだが、彼らを殺した拳銃は同じものだった」
印画紙の裏には、細かい字でメモが書き込んであった。表には、男と女、それにウィンチで吊されたカブト虫型のフォルクス・ワーゲンがそれぞれ写されて、二人と一台は確実に屍体だった。
男は、顔が半分以上なかった。水びたしで車の運転席に寝そべりかえり、辺りを血に染めていた。胸に大きなH≠入れたアワードマン・カーディガンを着て、下はコットン・パンツに白いテニス・シューズという、十年前の『メンズ・クラブ』さながらの屍衣だった。今どきGパンの代りにコットン・パンツを択《えら》ぶ心掛けが気に入ったが、少ししか残っていない顔と、傍《かたわ》らに転がった拳銃が写真を台無しにしていた。
女の方は、顔の大写しだった。それほど若くはなかった。顔立ちは整理が行き届き、少し上むき加減の鼻は若木のようにまっすぐだった。両親が丹精こめて育てた若木だったのだろう。肌《はだ》には少し化粧やつれの気配が見えたが、尖《とが》り気味の顎や滑らかな頬、細くきびしい首筋、母親というより父親の努力があちこちからのぞけている。つまり最高の温室で育てた花と、その温室を建てた財力というやつだ。
円い挑戦《ちようせん》的な目をしていた。そこにはもう煌《ひか》りがなく、鑑識のストロボを皮相に反射するだけだった。恐怖も苦痛もなかった。不思議なことに死の直前の表情を、何ひとつ凍らせていなかった。
「男の方の身許は判っていない。パスポートを持っていたが、どうもイカサマ臭いんだ」
目を挙げると、岡崎署長が大儀そうに眼鏡をかけ、メモを読み出すところだった。「女は清水裕子《しみずゆうこ》、本町のベイ・シティ・クォート≠チてクラブに勤めていた。
本町と言ったってドブ板通りじゃないぜ。高級将校が婦人同伴でも行けるようなクラブだ」
「米軍専用なんですね」
「そういうわけでもないがね、日本人は海上自衛隊の幕僚クラスがせいぜいだろう。
履歴書はでたらめで役には立たない。名前もあてんならん。ただ支配人に、東京オリンピックのときゃあ高校一年で、アベベの走るとこを見たさに一人で新幹線に乗った、と洩《も》らしたことがあるそうだ。こ奴《いつ》を信じれば、生まれは多分関西、今年二十八になる」
私は乗り出し、もう一度写真を手にした。
「どうみても三十はいってる。年齢どおり老《ふ》けてく顔立ちなんですがね」
「ま、そういうこともあるさ。儂もちぐはぐな感じはしたがね。――こういうのは好きんなれん屍体だな」
署長は女の写真を自分の方へ向け直し、眦《まなじり》をゆがめた。警官だって美しい屍体には心を動かされるのだ。「この娘《こ》は心臓を一発で殺られている。現場は彼女の家だ。ここからさらに南に入った高台にある。昔、将官用に建てた洋館に一人で住んでた。大きな食堂ホールの他に、三部屋もあるんだぜ。裕子は、四年前、これを土地ごと買っとる」
「クラブの給料はどのくらいあるんですか」
私はすでに休日を諦《あきら》めていた。手帖を出し、メモをとりはじめた。
「それも写真の裏に書いてあるんだが――危《ヤバ》い商売じゃないんでな、二十五万前後という話だ」
「特定の男は?」
「おい二村! 記者会見をやっとるんじゃないんだ」彼はむくれて空のコーヒー茶碗《ぢやわん》を啜《すす》った。躰が感情の移り変りに沿って脹《ふく》らんだり縮んだりしていた。空気ポンプの代りをしているのは何なのだろう、と私は思った。
「足を使え。足を」
「非番の日は義足にすげ替えてあるんです」
「裕子の屍体発見が一一〇番に入ったのは、今日の朝七時四分。英語でまくしたてると、すぐに電話は切られた。毛唐の英語だ。
移動が十七分には現場についとるんだが、通報者はもう居なくなっていた。
この英語の主なんだが、完全にアメ公だそうだ。テープを聞いた外事課の兄《にい》ちゃんがボストン訛《なま》りですな≠セとよ、鼻高々でそう言ってやがった」
「|IVY《アイヴイ》に縁が多いですね」
「何だ、そりゃあ」
「男の屍体が着ていた服がそうだし、カーディガンのH≠ヘハーヴァードのHだ。ハーヴァード大学はボストンにあるんです」
「アメリカの六大学か? 服のことかね」
「連中、あんまり野球はやらないようですがね。日本語じゃ服のことを言うんですよ」
「君の身形《みなり》がそうか」
「警察へ入ってから背広が買えないもんでね。別に凝ってるわけじゃない」私は、黒いニットのネクタイをひっぱった。
岡崎署長は口腔《こうこう》で唸《うな》った。それから荒縄《あらなわ》にしか見えない自分のネクタイを、しばらく弄《もてあそ》んでいた。
店主が盆を持ってきた。デミタス・カップを二つ、私たちの前にならべ、空の茶碗を片付けて行った。置かれたカップの中は、どんみりと黒いカプチーノだった。
「儂らへのサーヴィスだと思うかね」署長が顔を近付け、声をひそめた。「とんでもない。早く帰れって催促だぜ。潰瘍《かいよう》があるのを知ってやってるんだ」
「だって、ぼくたちしか客は居ませんよ」
「ふん。独りが好きなんだ。一人でコーヒーを飲んで音楽を聞くんだ。モーツァルトだぜ! もう、つき合って二十八年になるが、いっこう好きんなれん」
コーヒーを押し退《の》けると、彼の体躯《たいく》はまた脹らんだ。椅子の両肱《りようひじ》が今にも折れてしまいそうだった。脂《あぶら》のつきすぎが無器用にさせた指を駆って、封筒から四枚の写真をひねくり出し、タロゥ占い師よろしく卓子に並べた。封筒には、もう数枚残っているようだったが、かまわず二つ折りにしてポケットへ押しこんでしまった。写真は全部で七枚になった。
「一一〇番があったのは、裕子の家からだったんだ。回路開放とかで、最近はすぐ逆探知できる。部屋は荒されとった。物奪《ものと》りの荒し方じゃない。――部屋の写真は後でみてくれ」
伸ばした私の手を制し、岡崎署長は腕時計をのぞいた。画鋲《がびよう》でも踏んだみたいな皺《しわ》が、眉間《みけん》を割った。県警本部長指揮の捜査本部が彼を待っているのだ。
私は二枚の条痕《じようこん》写真を取りあげた。同じ拳銃から発射されたもので、男と女を殺した二つの鉛弾だとメモしてあった。
「男の屍体はワーゲンの中にあったんでしょう? その車は海から揚がった。それが今朝の三時半ころで、死んだのもそのころだ」
彼はまた時計を盗み見た。眉を吊り上げ、私に話の続きを促した。
「女の死亡推定時刻は午前二時|頃《ごろ》ってなってます。拳銃は男が持ってった。先刻から、ぼくは本当の用件をまだ聞かされていない。女が殺されて、殺した男は、車を少しとばして、港でロマンチックな気分になって、自殺してしまった。そんな事件で……」
「自殺!?」岡崎署長の小鼻が丸く脹らんだ。躰もむくむく脹れ上がり、顔を迫《せ》り出してきた。
「非番の日は目も義眼に入れかえるのか。よっく見ろ! 二村」
「静かにしやがれ。ここは取調べ室じゃないぞ」あらぬ方角から、店主がやり返した。有線放送のヴォリュームをあげた。店は、モーツァルト氏の愛した四つの音であふれた。
「今、自殺と言ったな?」署長は急に気弱になり、声と肩を一緒におとした。
「いいか、二村。ワーゲンが揚がった海は米軍の軍港だ。楠《くす》ヶ浦《うら》って言ってな、横須賀本港に臨んだ突堤の先っぽだぜ。鋼鉄床を圧縮空気で上下出来るようになった、潜水艦用のエプロンがついている。
今朝三時頃、ヤンキーどもが掃海艇でその周りを浚《さら》った。週一回の定期検査だ。三時半ころ、車がひっかかった。さすがは軍隊だ、ものの二十分で揚がったそうだよ」
「米軍キャンプの中で自殺した男を知ってますよ。書きおきにはいちばんひろびろしたところで死にます≠チてあってね、そこが基地だなんて知らなかったんだ」
「ここの港は横浜あたりのベースと違ってな、四分の一くらいは戦時中なんだぜ。
ゲートの係官は、ワーゲンが午前二時ころ通門したのをチェックしとる。この男が一人で運転していた。教えてくれたのはそれだけだった。こ奴《いつ》が誰で、なぜ通門させたのかは知らぬ存ぜぬだ。
とにかく、奴は二時から、浚い船が突堤をうろつきはじめた三時までの間に死んだんだ。車の中からは拳銃が出てきた」
「この弾、コンマ三八くらいですね。もっと小粒かな」
「アメリカ式ならそのくらいだろうがね。こいつはロシアの拳銃《ハジキ》なんだ。使える弾丸がおいそれと手に入らないんで、東欧でさえあまり出回ってない。トカレフ≠「かつい拳銃だ。七・六二ミリのくせに図体《ずうたい》は軍用コルトより巨《おお》きい。日本で押収されたのは、十五、六年ぶりだそうだ」
私は肩をすぼめ、歯の間から音をだした。しかし、モーツァルト氏の四つの音と岡崎署長の絶妙のハーモニイには勝てそうになかった。
「頭を『左|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》部からの接着射撃により劇裂損壊。貫通後、弾丸は乗用車天井右モール部より検出』」彼は、写真を裏返し、そこに書かれた文字を読みあげ、もう一度表返して言った。
「ま、左利《ひだりき》きの男なら自殺に見えるわな。たまたま左利きなら、だ。――しかし、鉄製のエプロンの上には、車を急停車させた跡がはっきり残ってたんだぜ。エンジン・キーは切れていたし、ハンド・ブレーキは半がかりになっていた。
死んでからどうやって車を出すんだ」
「そのエプロンですがね、圧縮空気で上下出来るんでしょう」
「安っぽいぞ、二村。そう簡単に笑うもんじゃない。
車が下り坂を転げた。そう言いたいんだろう。――ああ、エプロンは下に向いとったよ。ワーゲンは尻にエンジンを積んどる。だから坂を転げただけでも、岸壁にストンと落ちるこたあない。たしかに、そのとおりだ。しかしな、車が沈んでたのは突堤の先端から二十メートルも沖合なんだぜ。本港の底流は逆さに向ってる。二十メートルあの車がぶっとぶにゃあ、最終速度が時速で九十キロはなくちゃならないそうだ。それだけじゃない」
岡崎署長は指を立て、くるくる円を描いてみせた。回転を止めると、私の手許から一枚を択んだ。男の屍体を写したものだった。サン・ルーフが開くタイプのワーゲンだったのだろう。運転席が真上から見渡されていた。国内仕様の右ハンドル車だ。自動拳銃らしい平たいものは、運転席のシートと右ドアの間にのぞけ、そこだけがまともに光っていた。
「どうだ」署長は言った。安っぽく、簡単に笑った。「拳銃は右だ。こんなところに挟《はさ》まっている。射《う》ったのは左からだ。海に転げ落ちたショックなんぞで、屍体を飛び越せるもんかね。拳銃《ハジキ》はピンポン玉じゃないんだ」
指が次にひっぱたいたのは、四ツ切の、他の六枚より大きな写真だった。一ページ目を見開きにしたパスポートと四種類の紙片がほぼ実物大に焼いてあった。
パスポートの顔は、すぐに、カーディガンを着た屍体が無くしてしまった顔だと見当がついた。
二十《はたち》を越えたばかりかもしれない。全体、清潔な雰囲気《ふんいき》に取りまかれ、造作のひとつひとつがこぢんまりまとまった青年だった。表記では二十五歳になっていた。
「男の所持品だ」署長が付け加えた。
「他には邦貨で二万七千円とフランスの小銭。日航が機内で配る紙マッチ。それにゴロワーズって煙草。これが好きだったらしい。無通関のやつを二つ余分に持っとった」
「目に滲《しみ》るためにあるような煙草だ。パリから来たんですね。バルガス、フェリーノ・バルガスか。フィリピン国籍だ。日本人じゃないのか」
「三日前に羽田に着いてる。旅券は偽造だ。写真を見てみろ。色が黒いだろうが? ところが実物の屍体の方は、日本人にしても|なまっちろい《ヽヽヽヽヽヽ》方だった。ドーランでも塗って写したんだな。日本人だよ。首を賭《か》けたっていい。
横に並べてあるバルガス名義の国際自動車免許、そいつが、これまた刑事部でも判《わか》るような真赤なニセ物ときている。だから、その下のレンタカーの契約書、そいつも役に立たん。契約|車輛《しやりよう》は例のワーゲンだ。後の二つだろうな、おもしろいのは」
「電話番号ですね」
パスポートのわきに四枚並べた右下の紙片だ。日付けつきの手帖からやぶいた一ページに 434・4025 とボールペンで書き込まれていた。
「その紙きれがだね。印刷されとる日付けが六月二十三日の月曜になってるだろう。六月二十三日が月曜だったのは昭和四十四年、一九六九年だ。その前になると二十年も昔のことんなっちまう。去年もそうだったが、紙の古さや、折りめの具合からみて、そのころが妥当だってことだ」
「この番号の方はどうなんです」
「局番三|桁《けた》地区のめぼしいところは殆《ほとん》ど当らせた。それらしいのが東京にあったが、使用廃止になっとる。機械がそう言ったよ。機械は尋問室に呼べん」
四つならべた最後のひとつは、回数券のようだった。長い紙きれが蛇腹《じやばら》になって写っていた。中央高速道路、東京――大月間のチケットだ。
「ワーゲンの走行距離は、どのくらいだったんですか」私は訊《たず》ねた。
「高速の回数券だろ? いや、そいつは昨日今日のじゃないよ。これも一九六九年の発行だ。期限はとうに切れてる。だいたいが二輪の回数券で、残ってるのが七枚。つまり、東京――大月間を単車で二往復は使っちまっている」
「パリから来たんだ。所持品が少なすぎますね。そのくせ奇妙なものを持ってる」
「我々の手許には、とにかくこれしかない。もちろん、これっぱかりとは思わん」
モーツァルトが終り、電話が鳴り出した。署長が時計に一瞥《いちべつ》をくれて舌打ちをした。
店主は電話の方も見ず、負けじと大きく舌を打った。
「帰れってよ。|若いの《ヽヽヽ》にゃあ言葉遣いってもんを教えとけ」店主が、しぶしぶ取った受話器を叩きつけて、がなった。
「中川本部長閣下の御入来だ。――こいつは、さしあたり必要あるまい」
彼は二枚の条痕写真をしまいこみ、うつむいた弾みで残りわずかな髪の毛が落ちやしなかったかと、額を撫《な》であげた。立っても、背丈はたいして変らなかった。
「地取りに出た連中もいったん帰ってくるころだ」
「本部では、どこらあたりを黙ってりゃあいいんですか?」
「何を話したってかまわん! 捜査一係で判ってることを全部伝えただけだ。君は本部へ来んでいい」
岡崎署長は乱暴に坐り直した。躰《からだ》がめいっぱい脹れあがった。出来の悪い教え子にコーヒーを奢《おご》ってしまったことに、やっと勘付きはじめたのだ。
「君は一人でやるんだ」卓子を掌《てのひら》ではたいた。
「非番の朝に署長訓辞ですか。趣味に合わないな。第一、警職法に違反している」
「趣味で警職法を読んだってェのか!?」
「匿名《とくめい》捜査なら公安部の仕事だ。米軍|対手《あいて》となったらなおさらのことでしょう」
「公安の洟《はな》タレなんぞ誰が信じる! 奴らは情報を集め、整理して、コピーをとり、電算機にぶち込むんだ。奴らは理想的な犯人を作る。理想的な犯人像と理想的な犯罪像をな。感傷的な仕事だよ。芸術だ。警官の仕事じゃない」
「署長の言い回しの方が、ずっと警官らしくない。いったい、ぼくに何をしろって言うんです。さっぱり判らない」
「女を一人捜して欲しい。裕子の家の隣りに住んでいた女だ。由《より》って名だ。高城《たかぎ》由、裕子とは長いこと親しくしていた。今朝の午前二時ころ、つまり、裕子の死んだ頃だな、家の近くを駈《か》け去って行くところを見た者がいる。昼になっても帰っていない。捜査本部より早くみつけ出して欲しいんだ」
「本庁から刑事が来ているはずですよ。この事件の専従班としてね。半分はぼくと大差ないが、残りの半分は、ぼくより沢山給料をとってる」
「二村。いいか、この事件《ヤマ》は公安事件の扱いなんだ。本庁から来てるのは、公安の連中だ。それも、今朝の八時に決定が出た。本部長から直接の電話だぞ。男の屍体が出てから四時間、女の屍体発見からはたったの一時間だ。いくらなんでも早すぎるとは思わないか。
ロシア製の拳銃に偽造のパスポートだ。過激派の線なのかもしれない。しかし、そうでないかもしれん。彼らは口を噤《つぐ》んどる。一応バルガスって名の男は外人だからな、外事課が出るってなら話は判る。しかし、扱いは公安一課なんだ。中川は焦《あせ》ってる。変じゃないか。
こないだも、港に入ったアメリカ空母の水兵が四人、観音崎の方で溺《おぼ》れ死んだ。麻薬《ヤク》のルートがからんでいたのは確かなんだ。しかし、連中の死因も判明せんうちに、たち消えになった。|うち《ヽヽ》の管内で起った事件なのに、儂《わし》にゃ、どこも何の報告もしてこようとせんのだ。厚生省のGメンが儂に照会してくる始末だ。
だが、今度は日本人が死んでるんだぞ。犯人をパクるのは刑事部の仕事だ。彼らは、そんなことには興味を持っとらん。現に自殺説で片付けようとしている。初動捜査も満足に終っていないのに、今さっき、おまえが挙げたのと同じ理由で、犯人の自殺で幕にする腹づもりが丸見えだ。
政治がらみで一面トップへ出ないような事件は迷宮《オクラ》にしちまうんだ。刑事部に嗅《か》がれちゃまずいもんには、蓋《ふた》をしちまう。
三億円の犯人《ホシ》がなぜ挙がらんかった? 刑事部がアホだからじゃないぞ。奴らがかきまわしたんだ。学生狩りに利用出来る部分だけとって、あとは蓋をしちまった。企業連続爆破事件のことを思い出してみろ。警視庁刑事部は四カ月も前に犯人を掴《つか》んでいた。それなのに誤情報を流し、我々のモンタージュ写真を揉《も》み消してまで、犯人を一人占めしやがったのあ、公安じゃないか。
二村。由って女は、何かを知っているんだ。その女を連中に握られてみろ、どうなるか目に見えている。儂は事実が聞きたいんだよ、事実が。連中より先にな」
有線放送は再びモーツァルトを流しはじめた。唯一《ゆいいつ》題名を知っている交響曲四十番だった。署長は妙な小節を効かせて唸《うな》っている。モーツァルトと浪曲語りではとり合せが悪すぎた。
私は、パスポートをうつした写真をかざし、バルガス君と向いあった。
彼は、はにかむような口許《くちもと》で笑いかけてきた。光も充分にあたっている。前庇《まえびさし》をふんわりあげたケネディ・カットの髪が、流行遅れと思わせないほどによく似合う、どこかに少年時代が蟠《わだかま》った顔付き。グレイ・フラノのしっかりしたスーツを、ボタン二つがけで着ている。多分、いつだって風呂からあがったばかりの印象を人に与えずにはおかなかったのだろう。しかし、どこかがひとつ崩れていた。
昏《くら》すぎる。翳《かげ》っているのは目だ。バルガス君の目が見ているのはひどく遠いあやふやな何かで、それは何も見ていないと言ってもいいくらい彼方《かなた》のものだった。
こんな目は昔見たことがある。そ奴《いつ》は、神宮球場、優勝決定戦の九回裏を、ノーヒット・ノーランで迎えた投手だった。ツー・アウト、ワン・ツーから投げた自慢のシンカーを叩かれた。球は左翼スタンドへライナーで吸いこまれていった。
私はキャッチャー・マスクをはずし、彼の顔をのぞいた。そのときの目だ。
「バック・ネット裏の切符の件、あれは本気ですか」私は言った。
「ここに持っているぜ」
私は、卓子にとり残された五枚の写真を束ね、ポケットへ押しこんだ。
岡崎署長が、仕立ておろしのドレス・シャツのカラーみたいな笑みをこぼした。ジャイアンツと新聞社のマークが両はしに入ったチケット・シートを振り出し、卓上を私へ滑らせてきた。
「裕子の家の隣は貸家式アパートなんだ。由《より》って娘は、そこの二階に住んでいた。二階の角部屋だ。窓から裕子の家が見渡せる。
裕子とつきあいがあったのは、この娘一人らしい。四年もいたのに、クラブのホステス連中とは何ひとつ交渉がなかった。
由ってのはドブ板の女だからな、一日二日部屋に帰らんでも別に珍しかないんだが、午前二時なんて掻入《かきい》れどきに、住宅地を走ってたって言うんだぜ。ああいう|て《ヽ》の女は、あんまり走ったりゃせんもんだろうが。それに時間も符合している」
彼はレシートをひっ掴んで立ち上がった。また素直な笑いを顔一杯にひろげた。
「本部の動きは、二時間がとこ遅らせられるだろう。ヤマトが頼りんなる。知っとるかね」
「ドブ板横丁の情報屋でしょう」
「そういう言いかたをすると傷つくぜ。最近じゃ上町《うわまち》にも出入りしてるんだ。あと小一時間もすると瀧本寺に現れる。情報屋《ハト》のくせに鳩《はと》が好きなんだ」署長は私の方へかがみ込んで、紙きれに数字をいくつか並べた。
「防犯課長の直通番号だ。彼が少年係だったころ、バルガスって男を見かけた覚えがあるって言うんでね。儂が押えた。今、資料をあたらせている。叩きあげの信用できる警官だ。儂への連絡は、この番号を通してくれ。
危《ヤバ》いことになったら、この岡崎が中川の前で腹を切る。安心してやってくれ」
「腹を斬《き》るなら、その前に捜査費をくれませんか」
「忘れるところだった」彼は懐をさぐり、財布を出して一万円札を二枚抜いた。しばらく戸惑い、もう一枚加えると、二つ折りにして私に手渡した。
刑事部の捜査費にしては大きかった。
ひとつの事件に同額の費用を七人で分けてあてることもある。
「公安に頼まなかったわけだ。連中じゃこの金を大金だとは思いませんからね」
「署長経費だぜ。領収書を持ってこいよ」
岡崎署長はコーヒーのレシートを押しつけ、ほんの一瞬、荒縄《あらなわ》みたいな自分のネクタイと私のニット・タイを見較《みくら》べて出て行った。出がけに店主へ、「邪魔したな」と声をかけたが、老人は第一楽章のフィニッシュに聞きいり、それどころではなかった。
第一楽章が終るのを待ち、私は勘定を払った。釣《つり》を待つあいだ、老人は私を斧《おの》のような目線で立て割りにした。
「領収書はどうするね」
「ポケットが紙きれで一杯なんだ」
「いい刑事《でか》にゃなれねェな。本当は、ドリップ式のアメリカン・コーヒーだって作れるんだ」
私は店を出た。
3
うららかな陽《ひ》よりに、昔がぷんと匂うような通りだった。しもたや造りの家が連なり、それぞれ代書屋とか千代紙細工、表札屋、およそ生産的でない商いを営んでいる。間口は一様に狭く、きれぎれに柾《まさき》の生垣をあしらい、小さな英文の看板だけが、三十年前|大《おお》周章《あわて》で付け加えられたことを物語っていた。
その中に一軒、真新しい硝子《ガラス》張りのスナックが目立った。紫がかった反射硝子を路《みち》に向け、中は見透せない。
私は、その店へ手を挙げ、おいでおいでをしてやった。
煙草を振り出して、何本かのマッチを背広の打ち合せに隠しながら無駄にしていると、コーデュロイのハンチングを被った男がスナックから出てきた。一目見ほどに大きくはなかった。
「ディック・トレーシーだな」彼は言った。「尾行されるのがあたりまえと覚悟しているんだ」
私の口先でじれていた煙草に、風防ライターの炎を差し出してくれた。チェシャ・キャットのようなすばらしい笑いが、ハンチングから喰《は》み出た。その猫はお伽《はなし》の中で、哲学的な笑いだけを空間へ残し、他の部分を宙へかき消すことが出来るのだ。彼もまた、躰《からだ》全体を笑いの後ろへ隠してしまえそうだった。しかし、それで鋭かった眸《ひとみ》も御破算になった。
「俺は有元《ありもと》って言うんだ。週刊タイムス≠フ者だ」
彼は名刺を出した。月桂樹《げつけいじゆ》に囲まれた東洋タイムス新聞社≠フ社章が、|〆《しめ》て七百万部の発行部数を、片隅で自慢している名刺だった。
「新聞系の週刊誌にしちゃあ変った取材をするね」
「うちの社主と警察庁の長官とは大学が同期だったんだ。学生時代、長官に恋人を寝奪《ねと》られてね、そんなわけで警官を尾《つ》けさせるのさ」
私は、名刺のへりをつまんで、彼につきかえした。
「百回以上酒を奢《おご》らないと、刑事の名刺は貰《もら》えないんだぜ」私は歩き出した。
有元が、私が出てきたコーヒー屋の前へ小走りに戻り、針坊主ほどの丸い箱を、菱格子《ひしごうし》にはまった色硝子からひきはがす。
数歩で私に追いつき、横を歩きながらレザー製の大きな肩掛け鞄を開く。中にはスリー・バンドのラジオ・カセットと二眼レフが入っていた。
「こけ脅《おど》しさ」覗《のぞ》きこんだ私の目に、したり顔で答えた。「女性週刊誌の奴から借りてきたんだ。モーツァルトが雨ん中で奏《や》ってるのしか聞けなかった。馴《な》れねェ真似《まね》はするもんじゃないな」
吸盤付きの盗聴発信器を、バッグへしまう。
「新聞屋さんが何の用だい?」
「言ったろう。社主が警察を嫌っているんだ。それに、日刊の連中と一緒にされちゃ迷惑だな。俺は週刊タイムスの方だぜ」
「ぼくは他人の恋人を横奪りしたことなんてないぜ。有名になれるようなことはしないんだ。政治家はおろか町会長にだって水一杯奢られていない」
「よく知ってるよ」彼は溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「いい面《ツラ》だぜ、公安講習を蹴とばした警官なんて、めったにお目にかかれないからな」
「今日は、ナツメロ大会だな」
「空とぼけるなよ、二村さん。そんな古い話じゃないだろう。俺は警視庁のことしか知らんが、県警だって大差ないはずだ。
東京の九十四の所轄署《しよかつしよ》じゃあ年一回、二人ずつ、『公安講習を受けんかね?』って囁《ささや》かれる奴が出る。六十人に一人の栄光だぜ。講習に出ても、はれて公安捜査官になれるのは五十人。二百四十人に一人っきりだ。このチャンスを手前からふった刑事《でか》さんが、岡崎五郎警視正と二人でこそこそすりゃあ、もう充分にスキャンダルじゃないか」
「最近じゃタイムスまで衝撃の告白≠載せるようになったのかい?」
「日刊紙とは違うんだ。生れはいいんだが、少々育ちが悪い」
彼は、スプリング・コートの前を開いた。ステッチのことごとくがほつれ、紙ヤスリをかけたみたいなコートだった。背広のトラウザースは膝《ひざ》が重くたわみ、ワイシャツの襟《えり》が何日家に帰っていないかを正確に伝えるバロメーターだ。
「週刊は、東洋タイムスと全然違う。入社試験も違うし、ビルもエレヴェータの速度も違う。本社のエレヴェータが十一階につくころ、こっちはやっと四階ってな具合だ。もっとも、こっちのビルは四階までしかないんだがね。第一、総務課のねェちゃんたちの見る目が全然違う」
「仲間うちだとでも言うのかい? 煙草を一本やろうか」
「すまない、少し混乱していたんだ」彼は肩の鞄をかけ直し、あやまった。拍子に、背広の襟が宿場女郎みたいにすっぽり抜けてしまったが、気にも止めない様子で歩き続けた。
「給料が安いことを自慢したかったんじゃないんだ。俺は岡崎署長とは違うからな」
「うまいことを言うね」
「彼は確かに硬骨漢だがな、キャリアじゃねェ。三級職を取らなかったんじゃない。頭が悪くて取れなかったのさ。横須賀警察署長は、県警内部からの叩きあげにとっちゃあ最高の名誉職に違いない。川崎署と並んで県内の一、二を争ってる。本庁の部長クラスの発言権があるんだし、県警署長会の会長をやれらあ。だけどよ、二村さん、そこまでのものはそこまでだ」
彼は左掌《ひだりて》を拳《こぶし》で叩いた。本当に力を入れてしまい、痛みにそっと眉をひそめた。
「言いたいことを、はっきり言えよ。どうせ社会部あたりからの聞きかじりだろう」
「聞きかじりの事実だって、千も集めりゃ真実になるぜ。
俺が言うのは、岡崎にはこれ以上がないってことさ。硬骨漢とか頑固《がんこ》な潔癖さは虫が好かねェ。胡散《うさん》臭いぜ。裏には必ず、そうしてなきゃならない理由ってのがある。あんたの理由は何だい」
「今日は非番だからな。警察手帖なしでも人が殴れるってとこを見せようか」
私たちは裏道をつきぬけ、国道十六号線の横断信号に立ち止っていた。信号が青に変った。二人とも動かなかった。
有元は、例のチェシャ猫を真似てまた笑った。
「何かの公安事件がこの街であったときだよな。中川が県警に来る前のことで、署長指揮の捜査本部が横須賀に出来た。その打ち上げパーティでさ、岡崎署長が本庁の公安一課長を殴打《おうだ》したって事件。もちろん隠しゃしねェよな」
「知っているよ。長嶋だって負けがこめば審判を殴るさ」
「殴るには二つ以上の理由がいるぜ。義憤だけで人が殴れるのは月光仮面ぐれえだ」
「殴ってみせた方がよさそうだな」
「俺ぁ差し歯なんだ。銭がかかってる」
「そんなに大切なら財布にでもしまっとけ」
彼は本当に財布をとり出した。「その前にこれを見てくれよ」
財布から手札判の写真が出てきた。また写真だ。バルガス君のパスポートの顔の部分だけ、サイズを変えて焼いたものだった。
「早技だろう。不思議じゃないかい?」有元は言った。「女の屍体が七時に出てきて、定例新聞発表は結局十時までのびちまったんだ。手に入れるのが早すぎるとは思わないか」
「日刊紙の方から貰ったんだろう」
「奴らが、出版部においそれとくれるもんか。俺は十一時っからあんたのアパートを張ってた。記者会見の内容は、今電話で訊《き》いたばかりさ。写真どころか、パスポートを持ってたことさえ伏せられてる。国籍姓名すべて不詳だ」
「じゃ塀《へい》をよじのぼったんだろう」
「週刊誌は、今日起こったニュースは扱わねェんだぜ。ニュース・ヴァリュウに関する価値観も新聞とは全然違う。なぜ不思議がらないんだ」
有元は苛立《いらだ》った目付きで私を見た。また笑おうとしたが今度は失敗だった。そこで、もう一枚、切り札のエースをくりだすみたいな様子で新しい写真を翳《かざ》した。「こんなのも持ってるんだぜ」
「男が死んでる」私はそれを見ながら言った。「三十代後半だな。場所は日本じゃないようだ」
「演技派だよ。たいしたもんだ。耳朶《みみたぶ》も動かせるんだろう!」
「男と女の区別くらい出来るさ。それにここに写ってる石畳は日本のじゃない。七、八年前の学生運動で、こんな舗装は学生に投げつくされたか、公団の手でアスファルトに替えられたかしている」
見たことのない写真だった。血の海になった石畳に、その男は全身を反り返し、顔に生命の最期《さいご》の名残りを深い苦悶《くもん》の形で刻みつけていた。腹には数カ所の弾痕《だんこん》が口を開き、ドレス・シャツの焦《こ》げ方から相当近くでぶっ放したことが歴然としている。射《う》たれたのは下腹だ。何分かは生きて、その間に人が一生かかって味わうべき刺激を、いっぺんに満喫したのに違いない。人間もこれだけ恨まれれば一流だ。ドレス・シャツの傷痕《きずあと》には、御丁寧に踏んづけた靴趾《くつあと》まで残っていた。
どこかで見かけた顔だった。どこかで何かの印象を受けた覚えがある。名は知らないのだが、TVにちょくちょく出てきて二、三言|喋《しやべ》る脇役《わきやく》俳優ほどには、記憶に親しい顔だ。
私は、写真を返した。「ランバンのポケット・チーフをしているぜ。エルメスのネクタイ。時計もすごいぞ、パテック・フィリップだ」
「本当に見たことがないのか」
「どうだろうな。屍体には知り合いが多くてね」
「他に条痕写真もあるんだぜ。三つひと揃《そろ》いになった奴だ。どこから手に入れたと思う?」
「高検だろう」私はあてずっぽうを言った。「君たちは検察でどんな手品を使ったんだ」
「|君たち《ヽヽヽ》って言ったぜ二村さん」彼は嬉《うれ》しそうに猫の笑いを取り戻し、写真をひっこめた。
私は唇を咬《か》んだ。咬むのが遅すぎた。信号が、四巡めの青を光らせた。私は国道を渡り、真直《まつす》ぐ歩いて行った。どんづきは三笠《みかさ》公園の入口だった。屍体の待っていない公園へ足を踏み入れるのは、久しぶりのことだった。
「中川本部長が警視庁公安部から栄転してすぐ、県警の記者|倶楽部《クラブ》に盗聴器が仕掛けられたって、もっぱらの噂だぜ」
有元は、私の後をジグザグ歩きながら呟《つぶや》いていた。「中川は公安時代、とくにスタンド・プレイの好きな奴だった。岡崎署長みたいなタイプを、全く信用していねェ。可能性の問題だぜ。可能性なら、盗聴器は岡崎の署長室の方がずっと似合ってる」
私は、今朝の電話を思い出した。『螢雪《けいせつ》時代≠持ってこい。代りに野球の切符をやる』たしかに芝居がかったお誘いを受けてきたのだった。
私は立ち止った。
公園のはるかに戦艦三笠が復元された勇姿を横たえていたが、その煙筒やマストが、ここをまるで町工場の運動場のように見せていた。海が近いはずなのに、植え込みや芝生やベンチ、公園全部がそんなことを忘れていた。
有元が、私の前へ回ってきた。「盗聴器のことさ。その盗聴器からあんたらの今日の行動が俺の耳へ伝わっていたとしたら、どうする?」
「もう、そんな手にはのらないぜ」
「俺を警戒してくれるだけで充分なんだ」
「君は、清水裕子とフェリーノ・バルガスを警察がどうにかしたとでも言うのか」
有元は、きょとんとした目を私に向けてきた。
「フェリーノ・バルガス!? それが基地の中で死んだ男の名前か」
「知り合いかい」
「知っているよ」
突然、彼は笑い出した。チェシャ猫ではない。肩をふるわせ、いかにも人間くさく笑った。
「俺が学生だった頃《ころ》だ。まだ痩せていた裕次郎が映画で演《や》った名前だ。麻薬団が足の太い少女を殺して、その罪を裕次郎に着せた。彼は殺人罪を被って国外へ逃げ出す。十数年の月日が流れて、大人になった彼はそ奴《いつ》らに復讎《ふくしゆう》するため、亡命の地から船に乗るんだ。フェリーノ・バルガスって偽名のパスポートを持ってな」
「そして浅丘ルリ子に出合うんだろう。観《み》た覚えがあるよ」
「冗談の好きな男だったんだな」
「冗談じゃなかったのかもしれないぜ」
陽が心もち首を傾け、発《た》ちはじめた風は廃油の香りを拾ってきた。私は、国道へ向って往路を戻り出した。
「邪慳《じやけん》にするなよ」有元が追ってきた。
「俺とあんたは、多分同じことをしているんだぜ。俺がなぜあんたと居ると思うんだ」
「ぼくが好きなんだろう。ぼくは君が嫌いだ」
「何を握ってるのか興味が湧《わ》かねェのか」
「君は何でも知ってる。犯人が誰かも知ってる。拳銃と手錠を貸すからそ奴《いつ》を捕えてきてくれ」
私は足を休めずに手帖を出し、バルガス君の手帖のきれはしからうつした電話番号をたしかめた。
「君は、もうひとつ知っているな」私は言った。「四三四の四〇二五。電話だ」
有元は、はっと身構えると、スプリング・コートからメモ帖を引摺《ひきず》り出し、必死に書きとめた。
「どこの番号か調べがつくまで、ぼくの前に現れるな。でないと、君のところの新聞紙と同じように扱ってやるぞ」私は両手で空気を丸め、次にそれを広げてみせた。「カセット・テープをくれ」
「本当に何も入っちゃいないぜ」
「入ってなくていいんだ。モーツァルトが聞きたいんだよ。雨の中でね」
彼はおどおどした仕草で鞄をかきまわした。大分手間どって、右手が小さな緑色の紙束とカセット・テープを咥《くわ》えて出てきた。
「使えよ。四社共通のタクシー券だ」
「後で、ぼくがどこをどう走ったか調べる気だな」
「無駄な時間を使ってほしくねェんだ。――子供はいるかい?」
「独りだ。アパートも一部屋しかない。女気がないんで、シャワーまでぼくに辛《つら》くあたっている」
「女房が入院してるんだ。出産予定日を過ぎて、いつ産れるか判《わか》らねェ」彼は耳朶を赧《あか》くした。
「あんたに早く片付けてもらいたいのさ」
「下手な泣きおとしだな」
「格好をつけるなよ。それが嫌いだって言うんだ」
「君に嫌われたいのさ」
私はカセット・テープをひったくり、足早にそこを去った。公園の入口まで戻って、肩越しに覗くと、有元は植え込みの陰の電話スタンドに凭《もた》れてダイアルを回していた。
私は走り出し、一番はじめに通りかかったタクシーに飛び乗った。
4
メイン・ストリートを通り、横須賀中央駅前の三叉《さんさ》ロータリーまで戻った。駅ビルの下に、アクリル板で仕切った電話コーナーを見つけ、羽田を呼んだ。バルガス君がワーゲンを借りた店だった。
担当の係員はすでに捜査本部からの電話を受けていて、日本の警察はいったいいくつあるんだ、と文句を並べる。捜査一係と本庁外事課からも照会があったのだ。
羽田に降り立ったバルガス君は、屍衣と同じカーディガン姿で、学生が使うような小さなバッグの他には、旅行者らしい荷物をひとつとして持っていなかった。
淀《よど》みのない日本語を喋《しやべ》ったそうだ。
係員は、訊《き》かないうちに理路整然とそれだけ教えてくれた。
「お役に立ちますかい?」
「立たないな」
「|あっし《ヽヽヽ》がね、ものの役に立たねェってこと、通報しといて下さいな! 日本中の警察ってェ警察にね」
「NHKのニュースで流してやるよ」
電話は向うから切れた。
駅の売店でサンドウィッチと横須賀の市街地図を買ってロータリーを横切り、瀧本寺へ向って歩いた。駅前を埋めつくした新興ビル群を小馬鹿《こばか》にするように、小高い丘が峙《そばだ》ち、寺はその天辺《てつぺん》にある。私は地図をたしかめ、石段を上った。
歩きながらパスポートの写っている大きな写真をとり出した。バルガス君の顔と、中央高速の回数券の部分だけを指で切り抜き、後はちぎって捨てた。どうせ、パスポートそのものが偽造なのだ。どこが幾らで造ったのか査《しら》べるのは、公安外事課の仕事だった。
宙吊《ちゆうづ》りのワーゲンも得るところのない写真だった。細かくして風にまかせた。
斜面に港を臨む基地の間をのぼりつめ、寺の裏手から境内へ出た。しみったれた参道には、栄養不良気味の鳩《はと》がいやというほど徘徊《はいかい》していた。しかし、私の目指すハトはまだ来ていない。
街から直線で百五十メートルとはなれていないはずなのだが、ここだけはぽっかり浮きあがったふうで、鳩の鳴き声と遠い汽笛しか聞えてこなかった。
私は、雨戸を締めきったちいさな茶店の前に、ベンチと牛乳の自動販売機をみつけた。ベンチに坐り、ボール紙のようなパンにセロハンみたいなハムを挟《はさ》んだサンドウィッチを、牛乳で胃袋へ押し込む。
ベンチの上に写真を並べてみる。裕子の大写しと彼女の居間に転げた彼女の屍体、頭のあるバルガス君と頭のないバルガス君、それに中央高速道路の回数券だ。
私はまず、ワーゲンの運転席に横臥《おうが》する頭のないバルガス君と挨拶を交すことにした。アワードマン・カーディガンには国産メーカァのラベルがあったと、裏のメモは伝えている。IVY洋品で一時名を馳《は》せたメーカァだ。
私はこ奴《いつ》を覚えていた。七、八年前、たいそう流行したものだった。胸のHが本物のハーヴァードのイニシャル・ロゴと少し違っているのだ。そこが不評をかって、とうに製造は中止されている。
清々《すがすが》しい屍衣だが、フロント・グラスにこびりついた血のシェードが画面を昏《くら》くしていた。右のドア硝子《ガラス》は砕け、ふちをぎざぎざにした扇形の硝子片が、サッシュの四隅《よすみ》にへたばっているだけだった。
バルガス君の屍体は腰を運転席へ乗せ、左腕を枕《まくら》に、助手台へ横臥していた。左から銃口を|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》へ押しつけて射《う》ったのだ。それは間違いない。弾みで右へ吹っ飛び、肩か頭で右ドアの硝子を割り、ドアにはじき返されて左へ上体を崩した。それも間違いない。大きな口径の自動拳銃を片手で射ったりしたら生れたての兎と同じだ。バルガス君の左手は、射撃の反動で上体より先に左へ踊り、元は頭だったものがその上へ倒れて枕になった。
すると、署長が言ったとおり、拳銃には羽が生えていたことになる。
私は、運転席シートと右のドアとの間に挟まったトカレフを見ていた。ブリタニカ百科事典より四角く、いかめしく、重そうだった。車が塚原《つかはら》跳びでもしない限り、そんなところまでとんできそうもなかった。
それだけだった。私は写真を二つにちぎり火を点《つ》けた。
裕子の部屋は、まるで化粧品のCF撮影を終えたスタジオのようだった。そうしたフィルムの企画者が好んで集めるような、洋服、下着、化粧品、家具、何でもが一通り絨毯《じゆうたん》の上にちりばめられ、そのひとつひとつに、女ならこれ以上傷つくことはあるまいと言うような乱暴が加えられていた。
採光のよい広い居間だった。裕子の屍体は、そうした小道具の中央に置かれたアール・デコ風のソファの上に、仰向けに安置されていた。痩せぎすだが、膝《ひざ》小僧が目立たないきれいな脚を、まっすぐ伸ばしていた。幾何学模様がプリントされた外出着にも、紊《みだ》れた様子はなかった。メモによれば、ソファの背から弾丸が検出されている。立ち上がりざまを、正面から射たれたようだ。この寝姿は、犯人か発見者の手で演出されたものだった。
『クラブベイ・シティ・クォート≠フ支配人は、今早朝午前一時半|頃《ごろ》、彼女がこの服装で店を出た、と証言』私は、書き写し、いさぎよくマッチを擦り、ついでに煙草にも火を灯《とも》した。
地図を出した。ベイ・シティ・クォート≠ヘよほど高名な店らしく、本町三丁目の外れにちゃんと表示されてあった。そこから国道十六号線を港沿いに三キロほど南下する。京浜安浦駅の手前から、西へ五百メートルほど入った高台に裕子の家の所番地がみつかる。タクシーで十分とかからない。バルガス君はゲートを二時に通り米軍キャンプへ入っている。午前一時四十五分から二時まで、二時から三時少し前まで、二人はそれぞれに死んだ。
やっかいな写真が残っていた。一九六九年発行の中央高速の回数券だ。五分も見ていただろうか、結局私はそれを胸のポケット・チーフの中へ潜り込ませた。
後は、二人の顔写真だ。写真二枚なら、軽くポケットへ収まる。背広の型崩れを心配しながらでは、満足に調査することも出来なかったろう。
「女にふられたね、あんちゃん」
声が降って来た。「写真燃すなんざ、未練だよ」
背高のっぽの老人が立っていた。指先で回しはじめたカンカン帽と、つなぎの作業衣の胸に入れられた "BOOTBLACK-YAMATO" の赤いステンシル文字が、かろうじて彼をルンペンから区別していた。
「君を待っていたんだ、ヤマト」
「みんな俺を待ってらぁね。俺が居にゃあ横須賀中の靴にカビがはえちまう。けど靴磨きは夜、指定のキャバレーじゃないと困らぁね。契約もあるし、何せスケジュールで動いてるもんねェ」
ヤマトは真黒い歯を見せた。
私は五千円札を出し、爪の先で弾いた。
「由《より》って女を知ってるね。高城《たかぎ》由だ」
彼は、肩から革バンドで吊《つる》した靴磨き用の木箱を地べたへ降し、その上へ、私に面と向かって腰かけた。
「惚《ほ》れたんかいね、由に。恥ずかしがらんでいいて、惚れておかしくない女だもんよ」
「昨日からアパートへ帰っていないんだ」
「隣りの家がドンドンパチパチじゃあ、利口な女ならどこかへしけこむね。その分|稼《かせ》ぎもあるもんね――あんちゃん、警察かい?」
「いや」私は言葉を捜した。「彼女に、米国のある機関から育成援助金が入る」
「探偵か」彼の目が、したたかに窄《すぼ》まった。
「困ったぁねェ。身許《みもと》のしっかりしとらん人たぁ仕事をせんようしとるんだもんね」
「ぼくの父親は戦艦大和の砲術長だったんだ。君は大和|轟沈《ごうちん》のときの生き残りだって聞いたぜ。だからヤマトって仇名《あだな》がある。戦友の息子が信用出来ないのかい?」
「尻っぺたの青い冗談を言うね」
ヤマトはカンカン帽をあみだに被り、足の間の地面に微笑《ほほえ》みかけた。「親父さんじゃなく、あんちゃんを信用しようじゃんけ。絶対沈まねェはずの船ェ沈んでから、海軍は信用しとらんもんね。
由ちゃんだね。――京浜|汐入《しおいり》の駅ぃ知ってなさるか。あすこのガード、ドブ板へ潜ってすぐんとこ、緑ヶ丘に上がってくんだ。そうすっとコテッジ・ウェスト・ウィンドゥ≠チて連れ込みがある。なぁにがコテッジなもんかね」
「他に心当りは?」
「あんちゃん!」眉を縦に波打たせ、語気が急に殺気だった。「俺がそこだって言ったら、そいつぁそこに居らぁ。早く行くこった」
すると、眉に小さな横線の刺青《いれずみ》がのぞけた。私は、それを見逃さなかった。
「もうひとつ頼む。今朝死んだ女のことだ。由の友人関係も査《しら》べておかないといけないんだ」
「ありゃ、判《わか》らんもんねェ」
ヤマトは、木柵《もくさく》が並べられた境内の外れへ歩いていった。崖っぷちに立ち、房総半島の淡い影を浮かした水平線と、足下に蹲《うずくま》る煮しめたように暗い軒並とを、かわるがわる見ていた。
「裕子ね」と、彼は言った。顎《あご》の付根がぐずついた。「あの娘《こ》ぁ軍人《ネーヴイ》と付き合うってのがどんなことか、とうとう判らんかったんだね。間違いの多い娘《こ》さぁね。外人《ジンガイ》とは付き合い馴《な》れちゃあいるようだった。けど、ここに居るのは軍人だぁね。七十年このかた、この街の女ぁ軍人と付き合い馴れて来た。途中で相手の肌《はだ》の色が変ったってだけのことよ。
女ぁたいてい、街の色にすぐ染っちまうだろうが、あんちゃん。裕子って娘《こ》は何んも変らんかったんだもんね。四年前そのまんまだ。判んねェもんにゃ、近付かんのが俺のやり方だぁ。近寄らにゃ、結局ネタはねェ。孫引きを売ったりせんもんね」
ヤマトはふいに押し黙り、私の掌《てのひら》を握った。彼の右手には小指がなかった。握手が終ると、私がつまんでいた五千円札はどこかへ消えていた。「次からぁ値引きするよ」
私は礼を述べ、参道を駈《か》け下った。鳩が一斉《いつせい》に飛び発《た》ち、羽音の横断幕をつくった。
「あんちゃん!」ヤマトが呼び止めてきた。「あんたぁ――うん。本当に調査屋かね。警官《マツポ》にゃあ、見えんもんね」
5
三浦山塊に連なる大地が小刻みな上下を描き、その谷を縫って通りが錯綜《さくそう》し、通り同士を幾つものトンネルが結びつけ、この街を造りあげていた。
横須賀《スカ》と呼ばれるのは、そのうち海に面したほんの僅《わず》かな部分だった。
タクシーは緑ヶ丘を山側から迂回《うかい》し、自転車が似合うひなびた商店街を抜け、汐入駅前へ出た。港町を通る郊外電車の、ありふれた高架駅を車窓にやりすごし、国道十六号線へ突きあたる辺りで、私は車を降りた。
裕子が勤めていたベイ・シティ・クォート≠ヘ、その角にあった。前庭代りの盤広《ばんびろ》なモーター・プールが椹《さわら》の生垣《いけがき》に囲われながら国道に間口をひらき、その中央を赤いゴム・ランナーが真二つにしている。長い本式の天幕庇《マーキー》を迫《せ》り出させてたたずむ本館は、白亜の六面体だった。背も高すぎず、これという飾りもないことが、風格を示していた。すぐ背後の空を汐入の高架駅が遮《さえぎ》り、ドブ板通りのネオン・サインがこうるさく這《は》いずるのも垣間《かいま》見えているのだが、そんな背後には洟《はな》もひっかけない様子だった。鼻筋、首筋、背筋ともにきりりと徹《とお》った清水裕子は、自分をよくわきまえた女だったのに違いない。
私は、クラブの通用口に埋め込まれたインターフォンを押した。まだ、誰も来ていないようだった。本館のぐるりを回ってみたが人気はない。
モーター・プールを横切り、私はヤマトに教えられたホテルをめざすことにした。本当に氾《ひろ》い駐車場だ。水をはっていないオリンピック・プールの底を歩いているみたいな気さえする。
国道へ出る寸前だった。平たく大きな乗用車が汐入駅の方から廻《まわ》り込んでくると、車体を津波のようにきしませ、舗道に乗りあげて私の行手を蓋《ふさ》いだ。にぶぎん色のトランザムだった。白線入りのミシュラン・タイヤでランナーを踏みしだき、エンジンをふかして私を威嚇《いかく》する。
たかが自動車に猛獣の真似《まね》をされて面白いわけがない。私は知らんぷりをきめこんで歩き続けた。車の傍《かたわ》らをすりぬけると、運転席のドアが開いた。
「よう、お兄さん」柔和な声が私をとめる。
「すまないが、ちょっとばかしお時間をもらえませんかね」
男はすでに降り立ち、車の屋根越しに私を見ていた。濃紺のダブル前のスーツを着ている。驚いたことに、この服はタキシード・クロスで作ってあるようだった。襟《えり》のボタン穴の周囲には、半円型の、バッジを外した趾《あと》がくっきり残されていた。
それだけで充分だった。何とか商店街役員の老舗《しにせ》の若旦那《わかだんな》といった風貌《ふうぼう》も、私の職業にとっては|ふろく《ヽヽヽ》のようなものだった。唇のはしにある傷痕《きずあと》は、髭剃りの失敗などではない。角刈りにした頭髪が一カ所みじかく途切れているのも、生まれつきの禿《はげ》などではなかった。
「急いでいるんだ」私は言った。
「お手間はとらせませんがね」
「人を待たせている。若い女性だよ」
「まだ陽《ひ》がおちるにゃ、間がありますぜ」
「ベッドしか置いてない部屋で待っているんだ。窓にはカーテンがあるし、電灯にはスイッチってものがある」
男は一文字にした口を鋭く歪《ゆが》めた。うまい笑いかただった。本気で笑っているわけではないことが、誰にでもよく判《わか》る。「そいつは楽しみだ。車でお送りしましょうや。タクシーの運転手と下世話な話をなさると思って下さりゃあいい」
背は私よりずっと低い。脚もはるかに短い。しかし、肩幅と腕っぷしは段違いだ。道路に出るためには、生垣を飛び越えるか、車をひとまわりするかだが、生垣は私の胸より高いし、車は大きすぎた。私はあたりをもう一度見廻してから頷《うなず》き、助手席に乗り込んだ。
ベイ・シティ・クォート≠フ真裏は東洋の神秘とかを、ペンキとネオン管で塗りかためた町だった。芸術家がキャンバスを相手にするだけで満足しており、看板|描《か》きがまだ充分に文化的な作業だった時代の産物なのだ。
ペンキ屋は、アメリカ水兵の空想力を背一杯代弁して腕をふるっていた。そうした華々しい努力が『ドブ板』と呼ばれながら、両脇を緑ヶ丘の崖と国道に面したビルとに隔離され、細長くよこたわっている。向う端のはずれは、横須賀中央のメイン・ストリートにまで達しているはずだった。
にぶぎん色のトランザムは、時速十キロでその中にさまよいこんだ。窓を開けると腐った玉子と安物のヘア・トニックが匂った。
「ごみためだぜ。ごみための中を走ってるんだ」
ハンドルをつまんだ三本の指で軽々と車を操りながら、男は呟《つぶや》いた。
「この街ぜんぶが、東京湾のごみためなんだ」
「日本海と東支那海《ひがししなかい》のだろう」
「そうじゃねェよ、兄さん。アメ公が問題じゃないんだ」私は顎《あご》をなでつけ、自分の牧場を見晴るかすカウ・ボーイの親分を気取って、街をねめまわした。そこここの角に一山いくらの男とか女とかが立っていて、彼の視線に、それぞれ一揖《いちゆう》を返してくる。
「観光バスに乗った覚えはないぜ」私は言った。
「そうだな。時間がないんだった。実際、あんたぁいい男っぷりだ」
男は何度か首をたてにして、車を路地へつっこんだ。緑ヶ丘に這いのぼる石段に遮られ、路地はすぐ行止る。トランザムは、道にぴったり栓《せん》をする格好で停った。時間が早いのかそれとも潰《つぶ》れたかで扉を閉じたバァと、万国旗を乾《ほ》した物干台に、左と右を覆《おお》われている。
「四十|面《づら》をさげて生まれた土地にしがみついてるなんざ、不衛生もいいところだな」
男はエンジンを切り、コンソール・ボックスの上蓋《うわぶた》を開けて煙草を出した。ごついシガレット・ケースだった。それを取りあげると、底にころげた狩猟ナイフが見えた。角柄《つのえ》にラブレスの刻印入りのやつだ。コンソールの蓋をあけたまま、けれん味たっぷりの風情《ふぜい》で煙草をくわえる。
私は荒く息を吐いた。鼻を鳴らしたように聞こえたかもしれない。「君は四十何年この街に住んでいる。いい顔だ。どこの組も仕切りきれないでいたドブ板でいい顔なんだ。乳母車よりは値のはる車を持っているし、もう一台キャディラックも持ってるのかもしれない。菱型《ひしがた》の金バッジはたしかに持ってる。――そう言いたいんだね」
「とんがらねェでくれないか。誰かにちょいと零《こぼ》してみたかっただけなんだ」
「それだけのために尾《つ》けたのか。ヤマトのところから尾けてきたんだろう」
「察しがいいね。ヤマトとは|わけ知り《ヽヽヽヽ》かい?」
「今日がはじめてだよ。靴を磨いてもらおうと思ったんだ。君たちのように、テカテカ光ったイタリー製の靴を一枚看板にしてるわけじゃないが、たまによく光る靴で歩いてみたいからね」
「しゃれた口を叩くじゃないか」
「靴磨きに靴を磨かせて、まずいことでもあるのか」
「ヤマトが商《や》ってるのは、それっぱかりじゃねェだろう。それくらい、誰でも知ってる。警察も知ってるし、俺たちも知ってる。普通|情報屋《ハト》ってのは、組関係や筋者に隠れて陰で鳴くんだが、ヤマトは特別なんだ。表通りで堂々とやってる。みんな知っちゃあいるが、誰もやめさせられない。なぜだかわかるかい」
「ヤマトには米軍がついてるって噂なら知っているよ。米軍が公式見解を出せないような場合は、ヤマトを通じて非公式コミュニケが流されるんだ」
「たしかにそれもある。信頼できる消息筋によれば≠チて奴だ。基地のあるとこにゃあ、そんな奴、一人や二人は必ずいる」
「まだ他にあるのか」
男は、たっぷり意味をもたせて嘲《わら》った。私の受け答えが、よほど気に入ったようだった。
「奴は並の鳩《はと》じゃねェよ。気がむかなきゃ奴は鳴かないんだ。たとえ、どんな金看板が鳴かそうとしても、だ。桜田門だろうと、ワシントンだろうと、鳴かないとなったら奴は金輪際鳴かない。この街の名物なんだ」
「そいつはすまなかったな! こんど会うときは、フロック・コートを着て行くよ」
私は左手を拳《こぶし》にして、コンソール・ボックスの蓋をいきおいよく締めた。「観光案内は沢山だと言ったはずだぜ」
「呶鳴《どな》るなよ、兄さん! 俺は大きな声が嫌《きれ》ェなんだ」
「嫌いなことがあるなら、もっと言ってくれ。全部そのとおりしてやる。
車の両脇は壁で、ドアも開かない。おまけにコンソールの中にはエスキモーが白熊《しろくま》と格闘するとき使うナイフが入っている。ぼくは臆病《おくびよう》なんだ。呶鳴るくらいしか能がない」
彼は目をまるくして私に瞠《みは》った。口許《くちもと》にたらした煙草に火を点《つ》けるのさえ忘れたままだった。周章《あわて》て握った両方の拳固《げんこ》がゆっくりとほぐれて行く。
「判らん人だな。瀧本寺で見かけたときゃあ、同じ筋者に見えた。車に乗って来たときゃあ、ただの無鉄砲な遊び人てェとこだった。――いったい何なんだ」
「こっちこそ名前を聞きたいな。出来れば、短い名だと助かる。|しかし《ヽヽヽ》とか、|実は《ヽヽ》とか、|ところで《ヽヽヽヽ》とか付かない名だ」
「何も付けなきゃ、中沢ってのが名前だ。そこらで訊《き》きこみゃ判っちまうから教えとくが……」
「知っているよ。関東新生会の理事をやってる。小さな組をここらに持ってるきりなのに、最近神戸淡口組の若頭なんかと五分の盃《さかずき》で兄弟になったりして、すごく羽振りがいいんだ。しかし、神戸にひっつきすぎてるって声もある。新生会じゃ難しい立場だ。
四課《マルボー》が作ったあんたのファイルはもっと厚ぼったかったぜ」
私はうんざりしていた。自分の言い草がそうさせたのだった。
中沢は、しかし一瞬鼻白み、身をひいた。それから手の甲で額をはたき、点《つ》けぬままに皺《しわ》んだ煙草を唇からもぎとって捨てた。
私が煙草をくゆらす番のようだった。しかし、中沢がすばやい身のこなしでライターをつけてくれようとしたために、それも出来なくなってしまった。しばらくは気まずい時間が流れた。
バック・ミラーが切り抜いた路地の間口を、酒屋の自転車が大きすぎる荷を鳴らしながら横切って行った。
「とんだ間抜けだ」ハンドルにしなだれた両手をほどき、彼はパワー・ウィンドゥのスウィッチをいっぺんに入れた。静かな空気が、しょげかえった声を乗せて流れこんでくる。
「そうは思わないかい。俺ぁとんだ間抜けだ」
「気にしなくていい。うまいこと警官らしくふるまえないんだ」
「不法逮捕監禁てとこかな。そんなとこだろう? 脅迫もつくな。――取引の条件を言ってくれ!」
「畑が違うよ!」私は呶鳴った。
「畑が違う。とくに今日はフェアにやりたいんだ。警察手帖も金バッジもなしだ」
中沢は下唇をつき出して顎の真中に梅干のような瘤《こぶ》をつくり、その表情を何度か頷かせた。
「畏《おそ》れいったね。よく判らんが、とにかく畏れいった。しおたれんのは、よそう」
「先刻から理由を考えていたんだ。あんたみたいな人が一人で乗り出してくるには、それなりの理由があるんだろう」
「ヤマトに聞きてェことがあったんだ。一人で行かねェと、奴《やつこ》さん機嫌《きげん》が悪くなる。ところが何も話しちゃくれない。で、ちょっとばかり見張っていた。奴が今度《こんだ》のことで、警察《サツ》と取り引きするとは、これっぱかりも思っちゃいなかったからな」
「それで、ぼくを尾けたんだな。何が知りたかったんだ」
「後の祭さ。こうも早々と、お嬢さんの身許が割れちゃあな。こちとらいくら早耳だって、警察《サツ》と較《くら》べりゃ所詮《しよせん》は中小企業だ」
「お嬢さんね」私は念を押した。彼が首をたてに振るのを待ち、少しのあいだ考えてから続けた。「|あれ《ヽヽ》を、あんたがお嬢さんて呼ぶのか」
「淡口の先代は、やっぱりあれだけの人だからな。いくら新生会の身内だからって、その一粒種を呼び捨てには出来ねェ。――そうだろ、あんたらがどう考えていようが、そりゃあ、そういうもんだ」
「はっきり言ったらどうだい」
「はっきり言っているよ。俺がヤマトに――いいかい、あの面倒くせェヤマトにだぜ――わざわざ会いに行ったのを見たって判るだろうが。第一、お嬢さんは先代が亡くなる何年も前に家出した身だ。淡口組の先代だってああいう人だ、お嬢さんのことはきれいに諦《あきら》めていた。
たしかに、淡口組は跡目のことで未《いま》だにがたついてはいるがよ、今さらお嬢さんをひっぱり出そうとは誰も考えちゃいない。俺たち新生会にしたところで、お嬢さんをどうのこうのして、どんな得があるって言うんだ」
「あんたはヤマトを見張ってた。自分でそう言ったんだぜ」
「あんたらと同じだよ。神戸の連中があんたらと同じ考えを持たないとは限らないだろうが」
「淡口組じゃ、そう考えているのか」
「こっちが訊きたいよ。お嬢さんの消息を神戸が知っていたか知らんでいたか俺なんぞに判るわきゃねェだろう」
「しかし、ここでこうしていることを、新生会は知ってたんだな。淡口組二代目、狩野《かのう》喜一《きいち》の一人娘だ、高い盃代になったろうな」
「つい先月だよ。つい先月、それもほんの偶然だった。俺が先月面倒みてやった歌い手がいてな、ステージがはねてからそ奴《いつ》と飲みに行ったんだ。二人で歩いているところを、車が通りかかった。毛唐の運転しているオープン・カーだ。春だってのに、いきがって幌をはずしてよ、ひどく目立つ。目立つうえに、中が丸見えになっちまったんだ。
で、そ奴《いつ》が裕子さんに間違いないって言いやがる。淡口組がまだ興行をやってたころ、関西巡業で何度か会ったことがあるってな。御存知《ごぞんじ》のとおり狩野の親父さんが興行から手をひいて六、七年になるから、奴が見かけたのは小娘のころだ。そんなはずはねェって釘《くぎ》はさしといたんだがよ」
「彼女はいつからこの街にいたんだ」
「先月だって言ったろう。見かけたのはそれが最初だ。少しは調べて、あてに出来る奴らに気にかけとくよう言ってはおいた」
「そ奴《いつ》らが気にしすぎたのか」
「いいかげんにしてくれよ、刑事さん。俺はこのことを組内でだって喋《しやべ》っちゃいない。任せた若い者にも、あの娘が狩野の裕子さんだなんて言っちゃいねェ」
中沢はひといきつき、私の顔をじっと見て、眦《まなじり》を下げた。手を伸ばし、キーを回すと、エンジンは一発で点火した。「ひやひやしていたよ。この一カ月はよ、ひやひやしどおしだった。時限爆弾をかかえていたようなもんだったぜ」
「爆発したんだね。ついに」
「まあそう言うことになる。仰《おお》せのとおり、俺は今難しい立場だからな」
「ぼくを神戸の人間だと思ったのか。連中が乗り出すには、少し時間が早すぎやしないか」
彼は黙って、口先をゆがめた。微笑と言うには昏《くら》すぎた。子供がすねているような手つきでフロア・シフトをかちゃかちゃ動かし、車をバックさせはじめた。
「広域暴力団って称《よ》んだのは、あんたらだぜ。神戸にしろ俺らにしろ、人間が多くなりすぎりゃわけのわからんこともおきる。警察だって同じだろ」
「パーキンソンの法則か」
「何だい。ヘソのでっぱる病気のことかい?」
「手が出っぱるんだ。左手と右手が別のことをはじめるのさ」
「やっぱり病気の名か」
トランザムは通りへ出た。中沢は、積み上げたポリ・バケツを蹴散らして、車体を切り返し、まだ開いていない軽食堂に迫《せ》って止めた。
「署へ行くかね」
「忘れちまったのか。ぼくは女性を待たせてあるんだ」
彼は、それとなく笑って、背中をシートに凭《もた》れかけた。車が揺れた。
「刑事さんよ、ひとつ頼んでいいかね――出来たら、今朝ベースの中で死んでたって奴の顔をおがみたいんだ」
「君らの組は、パリにまで出張っているのか」
「パリ? 何の話だ」
「狩野喜一が死んだのはいつだったかな」
「ありゃあ、昭和の四十七年かな。そうだな多分四十七年だ。もう四年になる」
「裕子が家出したのはそのころか」
「いや、もっと前だ。四十五年の後先だろう。家出の方は人伝《ひとづ》てに聞いただけだ。先代はすっかりあきらめて、跡目のことだけ筋を通して亡くなったんだ。前から心臓が悪くて――ま、大往生だったが。あれじゃあ心残りが多すぎたよな」
私は車を降りた。燃えさしの陽が低い軒の上に残ってはいたが、それももう頼りないほど僅《わず》かだった。気紛《きまぐ》れに灯《ひ》がはいりはじめた、時代もののネオンが、地虫のように唸《うな》っていた。
私はドアを締め、窓にかがみこんで車内の中沢を見た。彼は、フロント・グラスに映る自分をみつめ、私の方へは振り向こうともしなかった。
「お嬢さんにも……」彼は言い淀《よど》んだ。「いや、その辺は、あんたらの方が詳しいよな」
「どの辺だい」
「家出さ。だから、あんたらが出てきたんだろう。そういうことなら俺も少しゃあ安心だ。
あんたに謝らなくちゃいけねェな」
「何をだ?」
「そこいらの警官といっしょだと思ってたからよ」
「いいじゃないか。同じだぜ」
「そんなことぁねェ。その、何んて言うのか、さすがは公安の刑事《でか》さんだ。俺たちが相手させてもらってる刑事《でか》さんとは、大分違ってたぜ」
「公安?」おもわずくりかえすより早く、トランザムは後輪をきしませていきおいよく発進した。
私は、狭いドブ板通りを|とおせんぼ《ヽヽヽヽヽ》しながら去って行くにぶぎん色のテール・エンドを、ずっと見送っていた。視界からそれが消えても、しばらくは立ちつくしていた。突然、近所のバァでジューク・ボックスが悲鳴をあげた。下ごしらえを終えたバァの女が、店の入口に置いた丸椅子から、私を漫然と瞶《みつ》めている。私は踵《きびす》を返し、歩き出した。
6
高架線の少し手前で、また腐った玉子とヘア・トニックが匂った。小さなロータリィがあり、私はコテッジ・ウェスト・ウィンドゥ≠フ案内板をみつけた。セーラー姿のミッキー・マウスが半裸のミニーといちゃつき、それでも抜目なく一本の坂道を指差していた。私は彼の指示に従った。
坂は、石段を交え、次第に細く急にくねって行く。やがて、岩陰からひとかたまりの建物が見えてくる。白と緑にペンキで塗りわけた板塀《いたべい》には、『英語しか喋《しやべ》れないお子さんも歓迎! 夜間施設完備』と書きだしてある。みばえは崖下のバァと変らないが、この建物は幼稚園だ。ウェスト・ウィンドゥ≠ヘ、その裏手にある三階建てのビルだった。歯抜け婆《ばば》ぁみたいなフランス窓と、Wが二つも足りないネオン・サインが自慢らしい。朱《あか》みを含んだ春の陽《ひ》にさらされて、その自慢もたいそう薄っぺらに見える。
私は、真鍮《しんちゆう》のドア・ノブを引き、ロビーに入った。
帳場のカウンターに凭《もた》れ小肥《こぶと》りの中国人が英字新聞を読んでいた。小さなブラック・ライトに染められて、新聞は真紫色だった。ずり下げた老眼鏡も、真紫色に光っている。私が近づくと、口の中から真紫色の笑いをとり出してみせた。
「部屋ないよ。今日、駆逐艦《D・D》入るね。部屋ないよ」
「女の子が待ってるんだ」
「女の子? 名前ある女の子」
「由《より》って名だ」
中国人は口を窄《すぼ》めて息をはき、考えているようなふりをした。
「一人泊る、二人泊る、値段変るよ」
私が金を握らせ、彼は部屋番号を言った。
エレヴェータなどなかった。リノリュームの廊下は殺虫剤の匂いがたちこめ、階段は昏《くら》かった。私は三階へ上がり、E号室をノックした。軽く叩いたのだがドアは扉枠ごと揺れた。
「|ちょっと待ってェ《ジヤスト・モメン》」答えがあった。
「|もう《ヒア》、|いいよお《クモン》」たいして待たせず、舌たらずの声が洩《も》れてきた。真夏に出された冷たいオシボリのような肌《はだ》ざわりの、ひくいかすれ声だった。
私はドアを開けた。錠は降りていなかった。
正面のダブル・ベッドに、まだ若い痩せぎすの女が腰かけていた。米兵の相手をするには、線が細すぎるようだった。こういう女が画家にインスピレーションを与えるのかもしれない。算盤《そろばん》勘定をおぼえたマリー・ローランサン、というところだ。
彼女はサテンの肌着の上へトレンチ・コートを羽織り、打ち合せを裏からおさえていた。足許《あしもと》に水を張った洗面器があって、その周りはびしょ濡《ぬ》れだった。はだかの足も、したたか濡れてひかっている。
洗面器にかがんで彼女が、「ハーイ」と手を振った。再び、足を水につっこんだ。水面に私が映ったのだろうか。
「誰の紹介? 知らない人、困るんだよな」
「由《より》さんでしょう。足が痛いのかい」
「そう。でもさん≠ェつくことは|めった《ヽヽヽ》無い。それから――二ついっぺんに訊《き》かないでね。答えるのがやっかいだから」
私は部屋を見回した。ベッドの他にはコーナァ・テーブルと電気スタンドだけだった。それ以上は入りそうもなかった。漆喰《しつくい》の壁に植った豆電球から罅《ひび》が走っていた。
私はバス・ルームを開けた。正確にはバス・ルームと呼べる代物《しろもの》ではなかった。流し台の上に鏡があって私の顔が映っていた。汚れがひどく、映るのが不思議なくらいだった。"LOVE A COP TODAY" 赤のマジックで殴り書きしてあった。『おまわりにも愛を』イッピーのスローガンだ。由が書いたものなら有難いのだが、上に積った埃が、そんなことはないさ、と教えてくれた。
「なにさァ、急に入ってきて。変なことしないでよお。まるで警官《カツプ》じゃんか」
やはり、彼女が書いたのではない。
「裕子のことを聞きに来たんだよ」
「名前、言いなよ。入ってきて、人にもの訊くのに自分の名前もいわないでさ。そんなの警官《カツプ》くらいだもん」
人は皆、その制服どおりの者になる。ナポレオンはうまいことを言った。きっと、低すぎる背に似合う軍服がなかったために、こんなことも言えたのだろう。
「すまなかった。ぼくは二村《ふたむら》だ。二村|永爾《えいじ》。警官だが今日はフリー・ランスなんだ」
「フリーなの」由の黒眸《くろめ》がくるりとまわった。「興信所の人間てのは、もう先《せん》つきあったことあるけど、それとは違うんだね」
「裕子の事件を査《しら》べてる。清水裕子だよ、知っているね」
彼女は目を伏せた。足の親指が洗面器の中で小さな水音をつくった。
「お姉ちゃん射殺《ヒツト》した奴つかまえられる?」
「射殺? 君は、彼女が死ぬとこを見たのか」
「うふう。あんたヤマトの紹介?」
私は溜息《ためいき》を吐《つ》いた。乗っていた灰皿を手へ持ちかえ、コーナァ・テーブルに腰掛けた。
「ヤマトが、ここに来たんだね」
「朝早ぁく。あたし探しに来て、いろんなこと聞いて、それからお姉ちゃんとあの男の子のこと教えてくれた」
「何時ころのことだ」
「十時かな。お昼になってたかな――ね、あんたヒットした奴つかまえられる」
「ヘルニアの男に軍艦を持ち上げろっていうようなもんだな」
「そうね。きっと駄目だね。――煙草、吸う?」
彼女は枕許《まくらもと》へ反りかえった。コートが割れて、あたたかそうな太腿《ふともも》がのぞけた。――スリップの他には何も着けていないようだった。枕の下から煙草を取ると、それを私に押しつけ、立ち上がった。背を向けて、コートの袖《そで》を通しはじめる。
「ネクタイしてる人の前だとてれちゃうよ。変なの」下着姿ではなく、服を着ようとするのを、恥ずかしがっていた。
私は、掌《てのひら》の煙草を見直した。青い袋にオリュムポス神の兜《かぶと》をあしらったゴロワーズだった。一本抜いて火を点《つ》けた。乾《ほ》し草をいぶるような香りが、口の中に氾《ひろが》った。
「煙草吸うのね」
嬉《うれ》しそうに笑い、彼女は洗面器を持ってバス・ルームへ歩いて行った。水を流す音が聞こえ、手ぶらで戻ってきてベッドに坐り直すと、ベッド・カバァで足を拭《ふ》きはじめた。小指の甲に、血豆のような朱いにじみが出来ていた。ペディキュアは枯れた真珠色だった。
「フリーの警官か。探偵みたいなのかな。ね、あんたリュウ・アーチャーって知ってる?」
「メロ・ドラマに出てくる探偵だろ」
「うん。いっぱしの男のふりしてさ、煙草吸わないんだ。
煙草嫌いな男が、煙草吸う男に、くさいとか目が痛くなるとか言うでしょ。でも煙草、絶対吸わない男って、もっとくさくてもっと迷惑。『私は煙草を吸いません』てひとこと言うと、隣に坐ってるだけで誰か傷つく。無神経野郎《ラツト・フインク》」
由はベッドへ腰をもぐらせ、両膝《りようひざ》をくっつけ、内股《うちまた》の脚を末広がりにした。華奢《きやしや》な足首だった。肩下まで伸びたおかっぱ頭をひとふりすると、同じくらい華奢な首筋が見えた。弱々しく、白い砂糖菓子のようだった。その白さには幽《かす》かな煌《かがや》きが残っていて、よけいに壊れやすい何かを感じさせた。
おかっぱの前髪をかきわけるように、円い眸差《まなざし》が大きく、くるくると動いた。
「何を見ているの。あたし、犯人じゃないよ」
「綱渡りの綱を見てたんだ。どうもち出したら喋ってくれるか考えていたんだよ」
「KISS ME KID! I'M SWEET!」尖《とが》った唇が、突然言った。
「キスしてよ。そしたら教えたげる」
私は由の顔をひきよせ、丸くした唇に接吻した。宣伝どおり、彼女の唇は甘かった。
「すると思わなかった」
「はじめからそうしたかったんだ。勤務中だからね、我慢していた」
「自分に嘘ついて、|いくら《ヽヽヽ》んなるの?」
「三万円と野球の切符だ。実費込みだぜ」
「あたしの嘘よか安いんだね」
「裕子の家に男が来たよな。カーディガンを着た男だ。教える約束だよ」
「うん。来たのは知ってる。お姉ちゃんに聞いたもの。でも知ってるだけ、会ってない」
「そいつは、いつやって来たんだ」
「昨日のいつか。前の晩は夜遅くまで、お姉ちゃん家《ち》でお酒飲んでたの。おとといは、お姉ちゃん、お店休みだった。で、昨日、昼ころ目ぇ醒《さ》めたら、もうお姉ちゃん家《ち》の前に車が駐ってたんだ」
彼女は私の指からゴロワーズを奪い、上手に吸いこんだ。この煙草を、目をこすらずに吸える女を、私ははじめてみつけた。
「この煙草は誰から貰《もら》ったんだ」
「買ったの。お姉ちゃんいつも吸ってたから、あたしも好きんなっちゃった」
「昨日の男がくれたんじゃないのか? ノン・タックスだぜ」
「いやだな。ここ横須賀よ。それに、あたしIDカード持ってるもん。主計課のネーヴィが気前よがってくれたんだ」由はちいさな白い歯を見せた。
「じゃ昨日は、裕子さんにしか会わなかったんだね」
「そう。目が醒《さ》めてすぐだったな。お姉ちゃんが、洋服と化粧品持ってやってきた。お店、休みたいんだけど、人足らないから代ってくれって。昨夜は将校クラブのパーティがあったの。
あたし、あんなとこ高級だし、ボロ出しちゃう。第一、男にお酒|注《つ》いでやるような仕事《ハオ》してないもん。――断ったのよ。
そしたらお姉ちゃん、すっごくブルゥんなって、あたしに頼むんだ。泣きそうな顔でさ、昔の男が来てるって。六年ぶりだって。――六年ぶりだよ」
彼女は両手を後ろへついて、胸をそらせた。大きく息を吸いこんでみせたが、トレンチ・コートがざわついただけだった。それで、胸を誇示するのは諦《あきら》めてしまった。
「お姉ちゃんの知り合い、この街じゃあたしだけだもん」
「引き受けたんだね」
「パーティでお酒飲むだけだって。――それ約束して、あたしベイ・シティ・クォート流美容術のお勉強はじめたの。お姉ちゃんの、本物のカクテル・ドレス着てね」
「そのあいだ、彼女は何をしてたのかな」
「知ぃらない。食べものやお酒、いったん買いに出てって、その後は知らない。――あ、そうだ。そん時、男の子寝てるって言ってたなぁ。明け方ごろ来て、うんと疲れてて、バタン・ギューで、まだキッスさえしてないって。変んなの。ね、六年ぶりなのに、キッスもしてなくて、まだグゥすか眠ってるなんてね。
それからね、四時ころんなって、お姉ちゃん、またやって来た。御指名がかかってて、それに、おととい休んでるし――自分でないと、どうしても駄目んなったからって、ことわりに来たの」
「六年ぶりに会ったんだろう。どうにかならなかったのかい」
「あたしも、そう言ったよ。そしたらね。今まで、昨日来た男の子のことハウンダッグだと思ってたって。そのツケが回って来たんだって」
「ハウンド・ドッグ? 卑怯者《ひきようもの》ってことかい」
「裏切者。日本語よ。お姉ちゃん、ちゃんとした日本語喋るの。何んてったらいいのかな、つまりY'KNOW? なぁんてやらない人だったな。
そいでね、二度目に、あたしの部屋へ来たときは、諦めきってた。百倍も疲れて、すごくブルゥだった。
あたしに言うの。今日は一日中家ん中にいて、お姉ちゃん家《ち》を見ててくれって。あたしのアパート二階の角部屋。窓からお姉ちゃん家《ち》見渡せるの」
「男を見張ってろってことかな。喧嘩《けんか》でもしたのか」
「二ついっぺんに訊かないでって言ったじゃない」彼女は口のなかで歯をならした。
「風が吹いただけで、どっか行っちゃうような男だったのかもね。喧嘩なんかしてなかった。普通よ。お姉ちゃんいつも普通」
「死ぬまではずっと普通だったんだな」
「非道《ひど》ぉいことを言うのね」
「射殺されるなんてのは普通じゃないぜ」
由は何も言わず、じっと坐っていた。長い数秒がたった。また口のなかで歯がかちっと鳴った。ガムが噛《か》みたいのに、そのガムが口のなかにないといった具合だった。
「普通じゃないね」彼女はやっと口を開いた。「あたしも普通じゃない。あんた、お姉ちゃん死んじゃったのに、あたしがこんなとこで|のほほん《ヽヽヽヽ》としてること、不思議なんでしょう」
「ぼくが悪かった。何か隠してるような気がしたんだ」
「昨日のこと思い出すの厭だったの。お姉ちゃん、昨日、とっても変だった。いつもみたいにかっこよくなかった。あんなお姉ちゃんあまり思い出したくない」
「いつもは、かっこよかったのか」
「男の子一度だけ見たよ。何んか知らないけど子供みたいな形《なり》して、お姉ちゃんが出かけるとき、玄関でじゃれてた。二人で肩つついて、じいっと見つめあったりして、あんなこと一度だってなかった。家があるのに、男を家へあげるなんてしなかった」
「彼女はワーゲンで送られてったのかい?」
「いつもの通りタクシー呼んだみたい。タクシーが来て、お姉ちゃん窓のあたしに気がついて、まるで応援合戦のチア・ガールみたいに手ェ振って出てった。
七時になってたかなあ。庭側のね、サン・ルームに灯《あか》りがついてて、そしたら十分しないで電話が鳴ったの。電話、サン・ルームにあるの。しばらくすると男が呶鳴《どな》り出した。一人で電話と大喧嘩。英語でね。日本人の英語よ。サノバビッチとかガッデムとか一杯使ってたけど、学生が使うみたいな難しい単語が多くて、意味わかんなかった。
それが止《や》むと、部屋ん中で、どしんばたんて音がしはじめた。一時間くらい続いたな。それから静かんなった。ずうっと静か。
でね、夜中の二時すこしまえ、深夜映画の、ほら最後にインディアンが沢山死ぬ頃《ころ》、タクシーが止ったの。お姉ちゃんが降りた。あたし、七時のどしんばたんのこと教えとこうと思って、急いで服着て外へ出た」
「そこで銃声を聞いたんだね」
「あたし、すくんじゃって、お姉ちゃん家《ち》の門のとこ立ったまま、動けなくなっちゃった。家からあいつ飛び出してきて、ワーゲン乗って走らせてった。真昏《まつくら》で、頭ん中も真昏《まつくら》。で、あたし走ったみたい。考えなくなっちゃって。あたしすぐ考えなくなっちゃう。考えはじめたとき、もうタクシーん中だったの。で、ここへ来た」
「それから、今まで外へ出ないでいたのか」
由は大きく頷《うなず》いた。よほどそうするのが気に入ったらしく、首が坐っていない赤ん坊のように何度も繰返した。
「走ったから?」
「何?」
「いや、その足さ」
「うん、あんまり走らないもの。土踏まずが痛いの」
「沢山走ったんだね」
私は立ち上がり、ベッドの足許を回って行ってフランス窓をいっぱいにあけた。
「おどろきぃ! その窓あくのね」
たしかに忘れられた窓だった。カーテンは同じうねり型で色褪《いろあ》せ、罅《ひびわ》れた窓枠からは、こそげおちたペンキがいくつも舞い落ちて行く。鳥の糞《ふん》のように固まった埃が、その後を追いかけた。部屋に圧縮されていた煙草の烟《けむり》が、ジェット気流よろしく噴き出して行った。
海は真青に見えた。山側に沈もうとしている陽のせいか、それとも私の立っている高さのせいかは判《わか》らなかったが、海が青く見えるからと言ってさほど驚いてはいられない。
「横須賀、嫌いだって言ってたなぁ」背後で声がした。
「でもまるまる四年も住んでてさ。――お姉ちゃんとあたし、おんなじ日に引っ越してきたんだ。あたしの引っ越し、だから手伝ってくれた。だってお姉ちゃんの荷物、トランク四つに本がダンボール二箱きりだったんだもの」
「本をよく読む人だったのかい」
「うん、ローザ・デューセンバーグに髪結いの亭主。一番大切にしてたのが、ロシアの何んとか言う詩人の本」
「ローザ・ルクセンブルグにカミュか。詩人は誰だ」
「よく覚えてない。表紙に機関銃と黒い星が描《か》いてあるの。詩の本に鉄砲《ガン》なんて変よね」
「そうでもないさ。ブローニングって詩人もいるよ。拳銃と同じ名だぜ」
「ブラウニングね。FNブラウニング。ねェ、あんたシャロット・コルデーって知ってる?」
「それも、君のお姉ちゃんのお気に入りか」
「うん。お風呂にね、その人の絵、焼きこんだパブ・ミラー掛けてあんの。油絵もあったよ」
「ペーパー・ナイフで男を殺したフランスの娘さ。めくるべき手紙が、彼女にはやって来なかったんだな。――裕子のところに手紙は来なかったのかい」
「殆《ほとん》どね。銀行の通知とか、ダイレクト・メールとか――そうだ。一度だけ、エア・メール来てた。去年の暮ね。その日、一日お姉ちゃん機嫌《きげん》よくて、ランソンを奢《おご》ってくれたもん。あの油絵ってのもフランス製、そん時、一緒に送られてきたの」
「手紙の内容は知らないんだね」
「うん。ぜぇんぜん」
私は、胸の中にたまった空気を、窓から外へ吐き出した。
「彼女は、どこから来たんだろう」
「判んない。でも港のある街。お姉ちゃん波止場《ドツク》行くのなんか好きだったもの。子供のころから好きだったってさ」
「君は嫌いか」
由は首を横にした。細いしなやかな指で頬を支えると、ピアノを愛撫《あいぶ》する調律師のようにそこを叩いた。「でもね。この街のドック、お客間に土足であがりこんできたみたいなんだもの。てェんで無神経《ラツト・フインク》。お姉ちゃん、その違い気づかなかったんだね」
すすけた壁にブザーが鳴り、豆ランプが灯《とも》った。
由はベッドから跳ねあがった。
「時間だ。ね、続きを買ってくんない? あたし、アパート帰りたくない」
私はホテルの部屋代ではなく、彼女の時間を買うことにした。
五分遅れて、由は花紺青《はなこんじよう》のストッキングと銀ラメのハイ・ヒールをコートから形よくのぞかせ、廊下に出てきた。ズック布を鞁《かわ》ひもで縁取った半円形の手提げ鞄を、大切そうにかかえていた。
私たちは、ドブ板通りを迂回《うかい》するため、暮色に沈みはじめた坂を上っていった。通りには、由の手配写真を持った本庁の連中がうろつき出している時刻だ。
「あの男の子のことは、ときどき話してくれてたんだ。六年前外国行っちゃった男。きっと同じ男ね」彼女は私の前を歩き、ひとこと言うたびにせわしなく振り返った。
「どんな男だって言ってた」
「なぁんにも。ただそれだけ。お姉ちゃんの話、ぽつんぽつんなんだもの」
「六年も待ち続けてたなんて言わないだろうな」
「言わない。言わない」由の口許からひそかな笑いが零《こぼ》れた。「でも半分くらい待ってた。半分待ってたら充分だと思う」
「残りの半分を君は知っているんだろう」
「昨日のやつね。この街の|こ《ヽ》だって。この街で会って、東京で一緒に住んでたって。でも、すこしのあいだね」
「東京のどこに住んでたんだ」
「あの男、どこか行っちゃったから、この街へ来たんだね」莫迦《ばか》ではなかった。私を無視すると、由は続けた。「代りに、この街に四年もいたのね」
「六年前か。昭和四十五年かそれより前だ。そのころ二人は一緒に暮していた。男は外国に行っちまった。――男が消えてから彼女が横須賀へ来るまで二年もあるぜ」
「どっちを択《えら》ぶか考えてたのよ」
「何をだ。まだ他に男が居たのかい」
「自分か、この街か。判んない?」
「判らないな。前は何をしていたか知らなくちゃいけない。あんな商売をはじめる前さ」
「あんな商売、はじめたがってたんだよ!」
哨戒《しようかい》用ジェット・ヘリが、空を破裂させて行った。見上げた空に赤い認識ランプが光り、夜になっているのが判った。
「あんたって、本当にIVYだね。細っこいニットのタイに、ワイシャツはボタン・ダウンだ。太いベルトなんかしちゃってさ。はやらないよ」
言うだけ言うと、彼女は私に背を向け足早になった。「|いけすかねェ奴《ユウ・ナステイ・ユウ》!」
私は彼女の肩口に手を伸ばした。触れただけだったが、彼女の上体は崩れてきた。抱き止めてやらなければ、坂を転げていただろう。「興信所のこと言ったでしょ。仕事《ハオ》じゃないんだ。昔、普通の大学生とつきあった」
彼女は、私の腕の中から出ようとしなかった。胸のあたりに、熱いものが滲《し》みついてきた。
「その頃、あたし、この商売《ハオ》はアルバイト。クラブで唄《うた》ってた。ショットガン・ヨリ、変な名前だけど、星条旗新聞に載ったこともあるのよ。ちょっと|女々しい奴《ハング・アツプ》だったけど、大学生、毎晩来て三曲ずつ六千円もリクエスト・チップ払うの。悪くなっちゃって、あたし商売抜きでつきあっちゃった。それがいけなかったのね。それから、ずっとお金取りそびれっぱなし。そのうちなんか|トチ狂い《ヒツト》して、奴、あたしと結婚するって決めちゃった。勝手にヒットして、勝手にマリッジ決めて、勝手に親に話したのね。興信所があたしのこと査べた。――あ奴《いつ》、あたしのこと書いた紙つきつけて、あたしを責めた。めちゃくちゃに言われてさ、それっきりだもの。あたし、別に結婚して欲しくも、愛して欲しくもなかったのに」
「そ奴《いつ》がIVYだったのか」
「上から下までね。ビシッと決めてたわ」
彼女は私から離れ、洟《はな》をすすりあげた。
「IVYスタイルって、アメリカの優等生《ボツクス》が、自分と他人、区別するために考えたんじゃない? ジョンがそんなようなこと言ってたよ。あいつもそうだもん」
「ジョンて誰だ。まさかジョン・スミスなんて名じゃないだろうな」
彼女はおかしそうに笑い声をたて、おかっぱ頭をふった。「アメリカの山田太郎ね。そんな顔してる。でも、ジョン・ライアルって名前。お姉ちゃんのステディだったの」
「やっと喋《しやべ》ったね」
「なぁんだ。そんなこと知りたかったの。だって、こっちへ来てからの相手だよ。あそこの店、勤めてからの男」
「金かい」
「ううん、全然よ」
「彼女は、男から金をとってなかったのか」
「そしたら、家《うち》ん中あげないわけいかないじゃない。あんな威張ってらんない」
「家具にしても何にしても、殆どこっちへ来てから買い揃《そろ》えたんだろう」
「うん。不思議ね。でも、ジョンじゃないよ。お姉ちゃん気があってやってたみたい。あの男が来たのに、まだジョンに義理立てていたもの。昨日のパーティね、お姉ちゃん指名したのそいつ」
「ボストンの出身だな」
「うん。ネイヴィの情報将校。背ちいさいけど大物《ビツグ・マン》だって」
「情報将校ってNISかい。麻薬狩りをやっているところか」
「そんなことしてるって言ってた。でも、よくは知らないの。会いたい?」
私が頷《うなず》くと、由はぱっと微笑《ほほえ》んだ。
「今日、休日《ハリデイ》だからベイ・シティ・クォート=Aバァをちょびっとしか開けてない。あいつ人のいないバァで一人で飲むの。視姦症《ヴアイヤー》のくせしてキザなのぉ。知ってるもん、あたし」
「ヤマトより詳しいんだね」
「そうね。昨日のことだってヤマトにはちゃんと喋ってないしさ。落ち目よ。――だってさ、ヤマトはお姉ちゃんに惚《ほ》れてたんだもん。とんだ岡惚《フリーク》。あいつ、惚れた女のまわり、絶対かぎまわらないんだ」
彼女は、するりと私の傍《かたわ》らを抜け、先に立って坂を歩きはじめた。
「由、なんで歌をやめちまったんだ」
「あたしの舌、変ってる。スウィングしないの」
彼女は肩越しに振りかえり、舌を出した。短く、横幅がありすぎた。「でも、もっと素敵《フアンキー》なことなら出来るのよ。今の方がずうっとショット・ガン。試してみようよ」
7
私たちは、いくつもの坂を上り下りした結果、つまるところドブ板通りへ戻ってしまった。この丘の坂はどれもこれも、這《は》いまわるばかりで丘の向うへ越える気力がないのだった。空地が多く街灯も少ない。人が住んでいるのか、それとも空家なのか、さっぱり判《わか》らない家がやたら目につく。登りきったと思ったばかりなのに、ドブ板通りの灯《あか》りが真前に見えたりする。私は、由《より》を抱きかかえるようにして国道まで歩いた。まきつけた腕で彼女の顔をつつみ、せいぜい恋人を気取ってみたが、気やすめにすぎなかった。本部の捜査員にみかけられればひとたまりもなかったろう。
さいわい、ドブ板通りは、長い南洋のドサ回りから帰った駆逐艦の水兵がくり出し、殺気立っていた。
『WELCOME D-D404!』キング・コングが笑いかける。
『NO HERE COMMY!』ジェーン・マンスフィールドふうのブロンド美人が、埃だらけのウィンドゥの中で流し目をくれている。
トリスの瓶《びん》をかかえた水兵が、トラシュ罐《かん》を故郷の母親と勘違いして抱きよせ、泪《なみだ》ぐんでいた。小柄《こがら》な日本娘と肩を組んだ水兵は、だれかれなくこの女は、俺のことをニミッツ提督だと思ってやがる!≠サう叫んで上機嫌《じようきげん》だ。そう言う本人もまた、彼女をキョウト・ゲイシャか、マダム・トリオと勘違いしている様子だった。
六大学、首都リーグ、それに東都野球の優勝決定戦がいっぺんに終った神宮前みたいな騒ぎの中を、私たちは抜き手をきって泳ぎ渡り、国道でタクシーを拾った。
横須賀グランド・ヒル≠アの街で、唯一《ゆいいつ》いかがわしい泊りかたを許さないホテルと言うわけだ。何がいかがわしい泊りかただと言うのだろう。
「変な格好はいやぁよ」由が隣りで言った。
運転手は、バック・ミラーの中で不思議そうに笑った。
国鉄横須賀駅の近くまで国道を走り、山側にのぼる。バァも住宅もない丘だ。その中腹を切り拓《ひら》き、ホテルは正面の海に聳《そび》える造船用クレーンと背較《せいくら》べをしていた。
メイン・ロビーにアーケードをつくった薬屋の前で、由は立ち止った。しばらくショウ・ケースをみつめていた。しきりにバッグを揺すり、値踏みするような目をして私を見上げた。
「ねェ、口紅買ってくんない。昨日、口紅持たずに出ちゃったんだ」
私は金を渡し、先にフロントへ行って部屋をとった。私の名を使い、住所はでたらめを書いた。
むき出しの口紅を弄《いじ》りながら来た由に、どこへも行くなと囁《ささや》き、彼女をベル・ボーイに押しつけることにした。「警察が君を捜している」
「どの警察」
「どの!?」私は言い淀《よど》んだ。「公安が来たのか」
「コウワン? 港湾委員会も警察? S・PとかCIDとか、フリーもいてさ。大変だね」
私は溜息《ためいき》を吐《つ》いた。心臓が壊れそうなばかでかい溜息だった。
「お客様、お話しでしたらお部屋でお願い出来ませんでしょうか」
ニキビ面《づら》のベル・ボーイがエレヴェータの安全止めを鍵を持った手で押え、渋面を向けてきた。
「部屋をここまで運んでくれないか」
「ベッドだけならなんとかなりますがね」彼はヘラヘラ笑って肩をすくめると、安全止めに寄りかかった。自分の返答に充分満足しているようだった。
「IDカードを貸してくれないか」私は由に向き直った。
「持ってないかもしれない」
彼女は、ポケットを裏返しにしはじめた。コートのダブル・ポケットから手をつっこみ、スカートまでさぐっているようだった。やがて、手が名刺くらいのカードを持って姿をあらわした。
私は由の肩を叩き、そのカードを受けとった。
「部屋から出ないでくれよ」
「帰ってこないと商売しちゃう」
由は厚い絨毯《じゆうたん》をみつめ、唇をとがらせた。「あたし苦手だもん。こういうとこ」
私はロビーを横切って行った。後ろで「|あばよ、ちばよ、さよならよぉだ《アウトオブ・サイト・サテライト》」と言う声が聞こえたが、それもすぐエレヴェータの唸《うな》りにかき消されてしまった。
ホテルのとっつきに、半円の硝子《ガラス》仕切りに囲われた公衆電話が並んでいる。中に入り、東洋タイムスの横須賀通信局を呼び出す。週刊誌の有元が今朝来なかっただろうか? 私は訊《たず》ねた。
「今ここに居ますよ」
私が電話を切るより早く、有元の大声が飛び出してくる。「でかい口をきくなよ。いいか、二村さん! 俺にもうでかい口をきくな」
記者は電話口で叫ぶのが好きだ。そうしないと、すぐに対手《あいて》が切ってしまうのではないかと、いつも脅《おび》えている。
私は迷わず電話を切った。歩き出す。|あて《ヽヽ》はあまりなかった。とにかく車を拾い、走り出してから図書館を思いついた。
市立図書館が上町の奥まったところにあった。横須賀中央駅からさらに入った所だ。閉館まぎわで、館内はがらんとしていた。三月に受験が一段落したばかりだったからかもしれない。
私は昭和四十四年十、十一月と、四十七年九月分の新聞縮刷版を借り受けた。新聞は何でもかまわないとことわると、東洋タイムスが出てきた。
巨人軍《ジヤイアンツ》は、実によく勝っていた。四十七年の九月には、マウンドの村山が男泣きに泣いている写真があった。しかしスポーツ欄ばかり読んでいたわけではない。
社会面に、私は淡口組先代、狩野喜一の訃報《ふほう》をみつけた。九月の二十一日だった。すでに妻はなく、喪主は三代目を継いでいる幹部の名になっていた。狩野裕子の名はどこにもなかった。喜一は入院して十カ月。心臓を患《わずら》っていたのだ。
私は九月分を閉じ、四十四年の二冊をいっぺんにひろげた。七年前の十、十一月は火炎瓶のバーゲン・セールだった。十一月はとくにひどい。当時首相だった佐藤栄作の訪米に前後して、大学や自衛隊や領事館、ひと月のうち約半分は、どこかで手製爆弾か火炎瓶が破裂していた。その年に登場した赤軍派が、東京戦争を叫んでいたころのことだ。しかし、その運動も一月十九日の東大安田講堂のバリケード解除以来、下り坂だったことはいなめない。記事も写真も、それに見出しにしても、前年ほどの華やかさを失っている。
十一月五日の紙面には、赤軍派の大量逮捕の模様がつつましく載せられてあった。大菩薩峠《だいぼさつとうげ》で軍事訓練中だった赤軍派五十三人が、寝こみを襲われて一挙につかまったのだ。東京戦争とまで広言していた彼らが大した武器の準備もなく、あっさりつかまってしまったことに、書き手はがっかりしている様子だった。警察の談話も拍子抜けしていた。登山ナイフや火炎瓶で、軍事訓練と言うのでは、やっている本人たちも頼りなかったのに違いない。
私は、フェリーノ・バルガス君の形見をとり出して、卓上に置いた。昭和四十四年十一月二日発行の中央高速道の回数券だ。東京――大月間、まだ七枚残っている。六年も国外に居て、その間高速道路が値上がりしないとでも思っていたのだろうか。コレクターにしては熱心でなさすぎる。すでに二往復も使われているのだ。
私は三冊の縮刷版をカウンターに返した。
地誌≠フ棚《たな》に全都道府県が揃《そろ》っているわけではない。しかし、山梨県の案内誌はあった。それを卓子に持って帰り、折りこみの観光地図をひろげた。
林道やハイキング・コースが丹念に描かれてあった。ポイントごとに四季の様子が紹介され、どこにでもあるありふれた花や果実や風景が、アルタミラの洞窟から発掘されたスキャンティくらい物珍し気にかいてあった。裏面は詳細な道路地図になっていた。凍結降雪の情況、勾配《こうばい》による通行可能車種まで解説してある。こちらの方は役に立った。大月近辺と言われても、私は富士五湖以外足をむけたことがない。地図で見ているぶんには、この国も意外とひろいのだ。
私は本を棚に戻し、図書館を出た。
すっかり夜になっていたが、その夜には少しも刺激的なところがなかった。さしあたりすべきことが、もう見当らないせいもあった。冷たい風と温かい風が、一拍ずつ交互に吹いていた。温かい風は気持のよいものではなく、自動車の後輪が路傍からまきとばしてくるらしかった。
私は赤電話をさがし、岡崎署長に教えられた防犯課の番号を回した。
実直な防犯課長は、まだ資料の山ととっくみあいをしているようだった。伝言がおいてあったのか、何も言わぬうち、署長につながった。
「どうした」例の嗄《しやが》れ声が、呟払《せきばら》いと一緒に出てきた。「今、会議が終ったところなんだぞ」
「気にしないで下さい。存在を主張しただけだ。赤ん坊が泣くのと同じですよ」
「|あれ《ヽヽ》は見つかったか」
「そのことでお会いしたいんです」
「夜半だな。夜半になっちまう」
「週刊誌の記者につかまりましたよ。ぼくより沢山写真を持っている男だった」
「一時間は待ってくれ。一時間半後にさっきの場所だ」
「そのあいだに、清水裕子の家をあたってみたいんです。様子はどうですか」
「よしてくれ! そんなことは頼んどらん」
電話口で何かが動き、椅子がきしんだ。署長の声が急にくぐもり、小さくなった。
「いいか、二村。初日の現場がどんな具合か、おまえが一番よく知ってるだろう。地取りで動いてる警官の中には、おまえを知っている奴もいるんだ。熱でもあるのか」
私は判ったと答えた。何が判ったのか、お互いにまるで判っていなかったが、署長はあわただしく電話を切った。
私はゆるい坂道を、街灯《まちあか》りめざして下って行った。
横須賀中央の駅ビルへ入り、素透しの黒縁眼鏡を買った。ラベルをはがし、その場でかけてみると、鏡の中の顔は別人のようだった。しかし、本当にそうだったわけではない。どうしたところで私は私にしか見えなかった。クリスマス・イヴにサンタ・クロースを装い、ひとりぼっちで納得している父親の役どころだった。
「神経痛の宇宙飛行士だな」私は言った。「映画の中で、はじめて眼鏡をかけた奴が言うんだ」
店員は何も答えず、さみしそうに笑って首をふるばかりだった。
8
十分後、いやったらしい眼鏡をした私は、きりたった崖の上に立っていた。
足下には京浜急行安浦駅のあかりが蹲《うずくま》り、水銀灯にてらされた国道十六号線は、線路と対《つい》の白い帯のように見えた。遠い夜の底が、静かにひかっていた。基地の海ではなく、たぶんそこらあたりは古くからの漁港なのだろう。
海岸線ちかくと思える一本の通りに、紅《あか》いあでやかな灯《ひ》が蝟集《いしゆう》しているのは、自衛隊員のために県警が目を瞑《つむ》っているおおっぴらな売春|窟《くつ》だ。
崖っぷちには大きなビルが二つ建ち、スクラムを組んで市民にそうした崖下を見せまいとしていた。地検と地裁の分庁舎だ。たいそう場違いなうえに、強くノックしたら崖下の曖昧宿《あいまいやど》の中に落っこちてしまいそうな具合だった。
そのすぐ筋向いから、あまり高級とは名付けがたい住宅地がはじまっている。高級と呼べないのは、きつすぎるアップ・ダウンのせいだ。家々はそれなりに立派で、庭もひろくとられ、手入れがゆきとどいていた。犬を飼っている家もある。猫はもっと多いかもしれない。そして、その両方とも警官よりは大切に扱われているのだ。
分の悪い賭《かけ》だった。
私は裁判所前からのびる一本の路地をのぞきこんだ。三ブロックほど奥に、清水裕子と名のっていた女の家があるはずだった。張りこみの気配も、それらしい車も見えなかった。鞄を持った二人一組の男も歩いていない。日曜日だ。どの家でも、食卓とTVの時間がはじまっている。通りには誰もいない。しかし、警官は別だ。初日の殺人現場に警官がいないはずはない。
私の味方は素透しの眼鏡と、さほど明るくない街灯だけだった。分の悪い賭だ。
裕子の家をながめて、どうなると言うのだろう。誰かが待ちうけていて、熱いお茶をふるまってくれるわけではない。玄関先にたまたま落ちていたヘア・ピンから、真犯人が割れるとでも言うのだろうか。ベーカァ・ストリートではしばしばそうした奇蹟《きせき》も行われたらしい。人がまだ奇蹟を信じていた、百年も昔の話だ。
裁判所を背にして、私は歩き出した。
とりとめのない住宅地だった。ありふれた家が、それぞれひとつずつ自慢すべきものを自慢して建っている。一軒は枝ぶりのいい伊吹木《いぶき》、一軒は凝った大谷石《おおやいし》の門構え、もう一軒はいすゞ一一七クーペを収めた車寄せ、と言った調子だ。
私の行く前方で、そうした一軒の玄関が開き、明りが路《みち》を横切った。別れを告げる短い言葉がもれてくる。二人連れの男が光の中へ出てきた。のっぽとちびのコンビだった。背の低い片割れはだいぶ年をくっていて、頭にベレー帽を乗せ、しわくちゃのレイン・コートが雑巾《ぞうきん》にしか見えなかった。背の高い方はまだ若く、それでも気まぐれ程度には身形《みなり》に手間をかけているようだ。しかし、二人ともたしかに刑事だった。
知った顔でないことが私を勇気づけた。ポケットに手をつっこみ、たまの日曜にパチンコですってしまったサラリーマンを真似《まね》て歩きつづける。すれちがいざま、若い方の刑事が私の横顔を盗み視《み》たが、ただのつまらない癖にすぎなかったのだろう。
彼らの足音はそのまま背後に消えて行く。振りかえる。姿はもう見えない。私は足を迅《はや》めた。
裕子の家は、この辺には珍しい完全な洋館だった。
張り出し窓のある西海岸風の角部屋を玄関脇に設《しつら》え、こぢんまりとしたポーチが広い扉枠と薄緑色の外壁をまとまりのあるものにしていた。ポーチの下には、何も植えてない陶焼きの植木|鉢《ばち》と小さな籐《とう》の丸椅子が置いてあった。これで、庭先に白塗りの木製ベンチを置き、樫《かし》の太い一枝にブランコが下がっていれば、もっとお約束通りの雰囲気《ふんいき》が演出できたかもしれない。しかし、庭は一面伸びほうだいの芝生に覆《おお》われ、樫の木はその中央に漠然《ばくぜん》と突立っているだけだった。
隣りのアパートがすぐ手の届くあたりまで迫《せ》り出してきていた。二階の一番道側の窓が由《より》の部屋だ。なるほど裕子の家とは、子供が糸電話をはって遊ぶのにちょうどいいくらいしか離れていない。他の部屋の窓は、樫がうまく目隠ししている。ブランコがなくとも、でくのぼうではないのだ。
その庭から玄関ポーチへ抜ける垣根では、白い木蓮《もくれん》が満開だった。すぐそばで麻薬煙草を吸われたとしても、気付かなかったろう。硝煙も屍臭《ししゆう》も、この香りにはお手挙げだ。
私はペンキで塗られたおさだまりの木柵《もくさく》に沿い、歩きだした。いつまでも立ち止っているわけにはいかなかった。
こうした洋館が見たければ、横浜の山手へ行けばいい。そこでは、たいていの庭に寸足らずの樫が植えられ、木柵に匂いの強い花が咲き乱れている。たいてい年寄りの夫婦が住んでいて、そのくせ素裸の|ちび《ヽヽ》が、外国語の悲鳴をあげて駆けずりまわったりしている。昼になると、パンを焼く香りが漂う。遠いチャペルの鐘が鳴る。物欲し気な恋人たちの、物欲し気な視線と物欲し気な吐息。こうした風景を使って商売をする人間も沢山いる。恋愛映画とかグラビア雑誌とか女たらし、幻滅を売っている連中だ。ただの風景だからこそ商売になる。だが、この横須賀では、こうした家の持つ意味は、さらに変ってくるのだ。横浜では風景であったものが、この街では売春宿だ。
バルガス君の恋人はどうなのだろう。彼女は、あの家を使って男相手に商売をしていたわけではない。
私は大いに気に入らなかった。木蓮の匂いが、いつまでも尾行してきた。
一ブロック先まで歩き、辻《つじ》を折れた。上町の商店街の方へ抜ける下り坂だった。急な坂の途中に、電話ボックスが危っかしい垂直を主張していた。
私はその中へ入った。手帳に書きとめた清水裕子の電話番号は5≠ナ終っている。私はその下一|桁《けた》を4≠ニ6≠ノ変えてダイアルを回した。4≠ヘ出なかった。6≠ヘ遠すぎた。
7≠ナ、老婆のしわがれ声が出てきた。「はい、吉井でございます」
「新聞社の者ですが」
「まあ、あのこと? ほら清水さんの……」
「吉井さんは、清水さんの御近所ですね」
「あのう……番地が違うでございましょう。清水さんのお宅の斜め裏に当るんでございます。通りも、ひとつ隔てとりますし」
しかし、耳よりな話なら幾らもある。彼女は、そう思われたくてたまらない様子だった。私は訪問の許可を得て電話を切った。
玄関先で、はじめに私を迎えたのは丸々と太ったペルシャ猫だった。笑いはしなかったが、どことなく有元に似ていた。待ってくれと言う老婆の声が奥の間から飛んできて、猫に簡単な芸をひとつ教えこめるくらいの時間は充分に待たされた。
やがて痩せた老婆が藤色《ふじいろ》のお召を着て出てきた。座布団《ざぶとん》とお茶を両手にしていた。時間は、この簡単なよそいきのために費されたらしい。手入れのいい半白の髪を、あわてて染めようとしなかっただけでもみつけものだった。
私にお茶と座布団を勧め、自分は板敷きの玄関先にぺたんと坐り込む。そうするのが、すっかり馴染《なじ》んでいるようだ。両手をきちんと膝《ひざ》に乗せ皺《しわ》の中から笑いを投げかけ、娘夫婦が孫を連れて遊びに行っているため、家へ上げるわけにはいかないと謝った。「妾《あたし》ひとりなもんですんで」
はじめは何を言われているのか判《わか》らなかった。少しして、彼女も女だったことを思い出した。
「その方がいいんです。ぼくも今日は名刺をきらしている」
「失礼ですが、どちらの週刊誌の方でしょうかしらね」
私はフリーの記者だと名乗った。いろいろな本と契約している。「警察はもう来たんですか?」
「いえねェ。そのことで、さっきもお隣の奥さんと話しておったんですのよ」
彼女は掌《てのひら》で私をあおいだ。急に声をひそめた。「殺人だってことでございましょう。それもピストルだなんて。それなのに警察は何をしているのか、昼前、少しあわただしかったくらいで、後は全然なんですのよ。いくら亡くなられた方が|ああ《ヽヽ》だって言っても、もう少し真剣にやってほしいもんだってねェ」
「刑事の聞きこみは、まだ続いてるはずですよ」
「いいえェ、とんでもない。二、三人の刑事さんが、ちょっと来てそれきり。あれじゃ新聞の勧誘の方が熱心だって――ま、犯人が自殺しちまったんだから、あれでいいんでしょうがね」
「自殺というのは、どなたから聞かれたんです」
「清水さんのお隣の奥様。刑事さんたちが、そんなわけで安心するようにって、おっしゃって行かれたそうです。だって普通は現場にお巡りさんが残られて、いろいろするんでしょう。それが、清水さんのお宅、あの通り抛《ほう》りっぱなしで。
あれじゃいくらああいう御商売の方だからって、少しあんまりじゃないですか」
「清水さんは、そうした女じゃなかったって話ですよ」
「いえ、勿論《もちろん》ね、あの家で|どうとか《ヽヽヽヽ》ってことじゃございませんよ。――こんな街ですから、それはこちらとしても気になりますことでしょ。さいですわよ。ここで|どうこう《ヽヽヽヽ》なすってたってわけじゃ、勿論ございません。
でも、何でしょう。外国人相手の酒場にお勤めなさってたんでしょ」
「お詳しいんですね」
老婆は口を止め、膝に重ねた手をじっと見下した。口許《くちもと》で皺が波打つと、入歯が鳴った。
「清水さんの家を世話した不動産屋さんと、宅がこの家を買いましたとこと、同じお店でしたもんでね。御近所からも頼まれましたし」
救世軍の隊長のような勝ち誇った笑いが顔一面にひろがった。
「ベトナムの戦争が終って、やっと安心して歩けるようになったてェのにねェ」
「その不動産屋に清水さんのことを問い合わされたんですね」
「清水さんが、ここへ越して来られる前の年でしたかしら、あの隣りに、ほらアパートがございますでしょう。あれが建ったんですのよ。
二十年くらい前は、清水さんのお宅のような、『ハウス』って言うんですか、あれが何軒もあったんですの。新しく、きちんとした方が越してこられるたんび、こうして一軒ずつ普通のお宅に建て変りましてねェ。それでもまだ四、五軒は残ってましたでしょうかしら。そのうちの庭続きの二軒が、アパートになっちまって。そりゃあ仕方ありゃしませんよ。土地を持ってる人間が結局は強いんだから」
「アパートが建って、何かまずいことでも起きたんですか」
「そういうわけではないけど。
そのときも、あの不動産屋さんとは、妾《あたし》たち町会と固いお約束したんですのよ。なのにねェ。ああした方たちにお部屋を貸してしまわれるし」
由《より》のことを言っているのだった。他にも、夜半に車のエンジンを空ぶかしさせる学生や、米軍基地で働いている労働者が住んでいるという話だ。老婆は、本町の下士官クラブの駐車場で、その労働者がトラシュ罐《かん》を磨いているのを見かけたことがある。
「あの人たちに較《くら》べますりゃあ、清水さんはちゃんとした方でしたからねェ。それだけに警察のやりかたがせつのうございますわ」
老婆はにこやかだった。突然の話相手をよろこんでいるようだった。茶が冷えてしまったから淹《い》れかえてこよう、と言った。私はその心配はないと答えた。廊下の奥はくらく、玄関には饐《す》えた匂いがたちこめていた。
「清水さんが越してこられたとき、またその不動産屋へ問い合わされたんですね」
「ええ。そのときも御近所の皆さんが心配なすって。先《せん》のアパートのこともございましたでしょ。学校行ってなさるお子さんも多ございますしねェ」
「で、不動産屋から何か」
「たしかな方だというお話。そう言われてしまえばねェ。こちらも何ですしねェ。
少し変った方でしたけれど。身もちのいい、おとなしい方でしたわよ、清水さんは。その辺はちゃんと書いてさしあげて下さいね。――色ものの雑誌じゃ、ございませんわよね。男と女のこといろいろに書くような」
「いいえ、そんなことはありません」
「さいでしょうね。一目うかがえば判るんですよ。色ものの雑誌の人でしたら、お話ししたりゃしやしません」
「しかし、変った人だったんですね」
「変った?――ええ、そうねェ。
これは出入りの洗濯屋さんから聞いたことですけれど。清水さん、小さな下着以外はみぃんなクリーニングに出しちまうんですって。ハンカチからパジャマまで。部屋ばきの靴下とかねェ。あの家にはアイロンてものがないんじゃないかってねェ。
ま、そんなことは人の好き好きですし」
老婆は喉をからげて笑った。どこからか太った猫がもどってきて彼女の膝にひょいと乗った。この猫も笑いが好きなのだろうか。「お洗濯だけじゃなく、お掃除だってなすってるとこ、あまりお見かけしませんでしたね。天気のいい日なんぞはねェ、あなた。庭にマットを敷かれて、ねころんでご本なぞお読みになってるんですよ。
ねころんでって言っても、外聞の悪いお姿でいらっしゃるわけじゃありませんのよ。ちゃんとなすってたし、下着だってお嬢さんがするような白のものばかりの御様子でしたねェ。目が会えば御挨拶だってちゃんとなされたし――ねェ」
私にではなく、膝にしなだれた猫にあいづちを求めているようだった。私はバルガス君の写真を出した。彼だけではなく、老婆の知るかぎりただの一度も男はやってこなかったという。不動産屋の電話と住所を訊《き》き、私は立ちあがった。
玄関ホールの隅に電話台と便所のドアがある、考えようによってはおかしいが少しもおかしくない、この国ではありきたりの家だった。電話には格子《こうし》模様の布カヴァーがかぶせられ、台の下に電話帳が重ねられている。そのうちの一冊は、米軍関係のインフォーメイションを兼ねた英語版の電話帳だった。誰が使っているのだろうか。あんな電話帳を使う人間は、この街では一種類しか考えられない。そして、そうした男が、この家にいるのなら、その理由も一つきりだ。
私の視線の行方に気付くと、老婆の顔が一瞬くぐもった。
目許《めもと》に若かったころの派手っぽい美しさが、まだ枯れきらずに残っていた。娘はもっと美しいのかもしれない。孫も充分に愛らしい顔だちなのだろう。きっと、あの英語版の電話帳を使う目の色の異った娘婿《むすめむこ》だけが、彼女の悩みの種なのだ。
私は礼を述べおもてへ出た。
老婆は石仏のように全身をまるめ、玄関先にへたばりついたままだった。ここはもうちゃんとした住宅地なのだから、と念を押す。ひとつくらい皮肉を残してきてもよかったかもしれない。
9
大戦が終って五、六年たつまで、横須賀線に東逗子《ひがしずし》≠ネどという駅はなかった。相模湾《さがみわん》がわの逗子駅から東京湾に面した田浦駅までの間は、かつては農地と山林ばかりだった。線路ぞいの県道も、たまに葉山をめざす米軍のジープが女の子を乗せて砂埃をあげてゆくくらいだったらしい。
やがて、東京の経済がなにがなんでも近郊に住宅地を必要としはじめ、そのうち葉山≠ニか湘南《しようなん》≠フ名がつきさえすれば、たとえ肥溜《こえだ》めでも避暑地や高級住宅地として売れる時代がやってきた。斜面と言う斜面は雛壇《ひなだん》の宅地が切り拓《ひら》かれ、西むきだろうと東むきだろうと海が見えると言うことになっている。
もちろん、東逗子駅から逗子の海をながめる場所へ出るためには、歩いて一時間は必要だろう。それでも毎年何千人もの見栄《みえ》っぱりが、海の見えるマイ・ホーム≠求めて東京から越してくるのだ。
駅前広場はちんまりとしていて、郊外と片田舎がいりまじった奇妙な光景だった。火の見櫓《みやぐら》とこぎれいなマンションが並び、スーパー・マーケットがあると思えば、隣りには屋根に風見を錆《さび》つかせたよろず屋がのれんをたらしているといった具合だ。
老婆から聞いた不動産屋はプレハブの二階建てだった。駅前のかなりいい場所に間口をひらき、プレハブと言ってもそれなりゆったりした造りのようだ。ノックをしても家中が揺れるということはなかった。店には灯《ひ》がおちていた。二階の窓は明るい。二階が自宅になっているのだ。私は裏へまわり、インターフォンを鳴らした。いさぎよく警官だと伝えた。半合法の嘘っぱちを商売している連中に、下手なことは言えない。
裏からせまい三和土《たたき》を抜け、事務所へ通された。
「警察の方なら先ほど見えて、もうお調べんなってきましたよ」
私にソファを勧め、丸椅子をひきよせながら、店主は怪訝《けげん》な顔で言った。
「捜査本部の者ですね」
「そうですよ。あの件でしょう。あたしゃあね、刑事さん。さっきで、もう充分協力させていただけたって思ってたんですがねェ」
「ぼくは県警本部から来たんです。今度の事件とは直接関係ない」
「て、言うってェと、麻薬か何かで?」
「そう思われる理由でもあるんですか」
「冗談は止《よ》しましょうや刑事さん」
彼はたるんだ腰をひらいて椅子に跨《また》がると、腕を組んだ。禿《はげ》あがった丸い頭と煮豆みたいにだらしない小さな目で、私をなんとか威圧しようとしてきた。てかてかの頭には天井のサークラインが天使の光輪のように映っていた。パジャマ姿にサンダルをひっかけた、禿の天使だ。
「TVのニュースで見ましたがね。あれは何ですかい」
「TVは見ないんです。受信料を払わないでいたら、NHKがインチキのニュースを流してよこすもんでね」
「あたしだってニュースを丸ごと信じてるわけじゃありませんがね。何たって、そりゃあ常識だ。
でも、犯人は自殺したそうじゃありませんか。あとは清水さんの身許《みもと》をたしかめるだけだって。死んじまったもんを今さら麻薬だのなんだのって……」
「ぼくは麻薬だなんて言ってない。あんたが言いだしたんですよ」
彼は息をおおきく吐いた。頭をかしげたので、光の輪はどこかへ行ってしまった。
「ああいう異人さんとつきあってる女は、そっちの方でとかくの噂があるんですわ。死んだ上に麻薬と来ちゃあ家を建て直しても、ちょいと、そいつぁ殺生《せつしよう》ってぇもんだ。
しかし、あの人は保証しますよ。あれだけ身ぎれいな女は、この時節、聖心女学院にだっていないね。麻薬だなんてとんでもない」
「あの家を登記したときの、彼女の名前は?」
「あたしは清水さんってうかがってますよ。二千と何百万か即金でしたがね。名義は男の人だ。あの人じゃない」
「金はその男が出したんですか」
「いいえ、二人でおみえんなって。男の人は名を貸すだけって風だった。家やなんか、全部清水さんが択《えら》んだんですから。――昔のことですがね。あんな人が二千万ぽんと積んだんで覚えてるんですわ。しかし、こんなことは、さっき来た刑事さんにもおしらせしましたがね」
「所属が違うんですよ。いろいろ手続きを踏むより、自分で訊《き》いて回った方が早い。二度手間でもね」
「税金も役に立ってるってェわけだ」彼は口をゆがめた。卓子の煙草セットから一本むしりとり、その口へ押し込む。ライターを何十回も鳴らして、火を点《つ》けた。
私はバルガス君の写真を卓子に乗せ、彼の方へ滑らせた。
「こ奴《いつ》じゃありませんか」
「ほう。先刻と違うことも訊かれるんですな」顎《あご》をパジャマの中へうずめ、写真をながめていた。煙草をひとふかし。写真に手をふれようとはしない。
「違いますね。全然違う。
名は室武宣治《むろたけせんじ》、印鑑証明は神戸生田区の区長が出してましたな。もっと年の男ですよ。五十がらみのね。売買の写しをあげましょうか」
私は首を横にふり、写真をひっこめた。「背の高い浅黒い男じゃありませんか」
「そうですな。目のぎょろりとしたね。むさいのむさくないのって、なんか穢《きたな》らしい男だったな。背は高いんだが貧弱に見えてね。変てこな節をつけて喋《しやべ》るんだ」
「清水裕子とはどんな関係なんです」
「あいにくここは交番じゃないんでねェ。――知りませんねェ」
「一緒にここに現れたんでしょう。支払いも登記も、その男が世話した。――その男が、お宅の店を択んだわけだ」
「択んだっても、足で探したらしいですわ。清水さんの御要望が、はなにあって、――そうだ、室武って男は清水さんのことを『お嬢さん』って呼んでたな。ときどき、口がすべったみたいにしてね。そんなとこですわ。
今の写真の男が犯人ですか」
「ニュースによればね。――室武って男なんですが、住所は判《わか》りますか」
「清水さんの、あの家ですよ。そう言うことになってる。住んじゃいなかったけどね。その前は神戸」
「他に特徴になるような――たとえば右の小指を詰めていたとか」
「そこまではねェ。ここは何せ交番じゃありませんからね。しかしヤクザ者って感じじゃなかった。――ねェ、殺人で土地の値がどのくらい下がるか知ってますかい」
「お手間をかけましたね」私は腰をあげた。
「さっきは話さなかったんですがね」彼は椅子の上で腰を半回転させて私を見上げた。目がてれくさそうに笑っていた。今度は頭のてっぺんにまんまるく光の輪が映った。
「話しとかないと寝醒《ねざ》めが悪くなりそうだ。別に隠したわけじゃないんですよ。それほどのことじゃないし。去年の暮でしたか。おしせまったころだったな。清水さんがお一人でみえられてね。今の家を売って、葉山あたりに買い替えたいっておっしゃるんですわ。手頃《てごろ》なのを春までにさがしてくれってね」
「また洋館ですか」
「いや、|あたり《ヽヽヽ》としては別荘風の建物がおのぞみのようだったな。逗子から秋谷《あきや》にかけての海っぺりでね。足の便は気にしなくていいけど、大きなガレージがあること。これが条件だった。高台で大きなガレージがあるなんて、なかなかみつからなくてね。住宅地みたいなところは絶対厭っていうんだ」
「ガレージ?」
「ええ、車寄せじゃなくてね。車庫。モーター・ボートも一緒に置いとけるようなでかい奴ね。あのへんにはときどきあるんですよ」
「高いんでしょうね」
「現金で一千万乗せるって言うんだ。あの人の頼みだ。あたしもしゃかりきでね。でも、みつからなかったなあ――とうとう。
それだけですよ。これきりでさ」
「多分、麻薬じゃありませんよ。ぼくが査《しら》べているのは」私は彼の肩をそっと叩いた。
「そうでしょうとも。あの人が麻薬なんてことはない。
よりにもよって殺人だなんて。それだけで、どれほど土地の値がおちると思ってるんです」
10
約束の一時間半は、殆《ほとん》どなくなりかかっていた。私は駅前の公衆電話から防犯課を呼び出し、岡崎署長にあと一時間もらうことにした。その方が自分も助かる、めずらしく気弱な声で署長はそう応《こた》えた。
ロータリーに立った交通安全標語からも灯《ひ》がおとされ、駅前広場をてらしているのは改札のあかりだけだった。タクシーもいない。県道まで歩いて出ると、逗子の方角からバスが走ってきた。停留所は目の前だ。手をふりながらそこへ走り、私はバスに乗った。
横須賀線に沿って、三浦半島を斜《はすか》いに横切る路線バスだった。町をはなれるとすぐ、土と草の匂いがすずしく香りはじめる。
山間《やまあい》に入る上り坂だ。急に道はばがひろくなり、近代的に整備された四車線に変った。右旋回でアプローチをかけて来た逗葉《ずよう》バイパスが、そこで県道と合流しているのだった。一面オレンジ色のナトリュウム灯に飾られ、グリーン・ベルトに囲われた路肩がさらに崖を抉《えぐ》って駐車区域をつくっていた。
そこに、二、三十台の単車がたむろしているのが見えた。レース仕様の国産GTや、黒塗りの三菱ジープもいる。そのまわりをメリー・ゴウランドのように旋《まわ》っている単車もある。思い思いのエグゾースト・ノイズで吼《ほ》えあい、たちこめた排煙の中で、ヘッド・ライトの閃《ひらめ》きがツウィストを踊っている。オレンジ色の視野の中で、磨きこんだステンレスのフェンダーやバルブの類《たぐ》いがときおりフラッシュする。爆音。それに、燃えきれなかったガスの匂い。
次の停留所の名を運転手が連呼した。私は降車のベルを鳴らした。
バスが排気ダクトから油くさい熱風をふきちらして去った。空気がしんと冴《さ》えわたる。夜はつめたく、かわいていた。私は、光の綿菓子のように見えている単車の群れをめざして、坂を下って行った。
爆音の一番外側までたどりつくと、髑髏《どくろ》を染めぬいた上にスカル&ボウンズ≠ニ浮かした旗が見えた。それがチームの名称なのだろう。何台かのタンクに、同じ名のステッカーが貼《は》りつけてある。
立っている私を最初に見咎《みとが》めたのは、ホンダの三五〇に乗った少年だった。
「何んか用かい? おっさん」まだ声が甲高く、フルフェイスのヘルメットで両頬のニキビ畑を隠している。「何んか用かよ!」
「頭《ヘツド》に会いたいんだ」
「ヘッドは用がねェってさ。おっさんには用がねェよ」
「白タクなら駅前だぜ」七五tのダックスにちょんと坐ったちぢれっ毛の少年が、隣りで七五tぶんの声をはりあげた。「それとも保険の勧誘かい」
まわりがどっと湧《わ》く。
「君らのヘッドはいくつなんだ」
「区役所だよ。区役所で訊《き》くんだな」
「久里浜じゃなくてか? 久里浜、長瀬の三丁目だ」
ホンダの少年の目が吊《つ》りあがった。「おっさん何んだい!!」
「何でもない。君らのヘッドは幾つくらいか訊いている。二十五より前か後か?」
ホンダ三五〇tとダックスのむこうから、黒人女の尻みたいなリア・フェンダーを、つんと突き出させていたカワサキの二輪が、向きをこっちへ変えた。それに合わせて、そばの四、五台もヘッド・ライトを私にむける。何条かの光が、たばになって押しよせてきた。カーネギー・ホールの幕前、司会者登場という格好だ。
「つっぱるじゃんか」ホンダがエンジンをいななかせる。
「二十六、七だろう」右横で声がする。「ヘッドは二十六、七だ。それが何かしたか?」
右手の単車は、エンジンの気筒を真横にふくらませたBMWだった。乗っている男も一〇〇〇tに相応《ふさわ》しい。声も一〇〇〇tだ。百八十は軽く超えているだろうか。何より肩が広く、蟹《かに》のように盛りあがっている。こ奴《いつ》が頭か、それとも副団長クラスだろう。
「友達《ダチンコ》かい」
「用があるんだ」
「ジープに乗ってる。会いたきゃ行くといいや。救急車は呼んでやらねェぜ」
「霊柩車《れいきゆうしや》だろ」誰かがまぜかえす。
「二十六、七か。じゃあ君らのヘッドも|おっさん《ヽヽヽヽ》だな」
「何をッ!」ホンダが力んだ。
「ま、おっさんだな」と、一〇〇〇t。
二、三人が笑い、すべてが排気音の渦《うず》にのみこまれて行った。私は単車の海をジープまで泳ぎ、フェンダーに足をかけた。助手席に居た娘が蓖麻子油《ヒマシゆ》でもながめるような目で私を見た。フレンチ・スリーヴのブラウスを着て、筋ばった両肩をまるだしにしている。ジープは真黒だった。金色のモールでボディ全体を縁取り、ボンネットには金色の髑髏、横腹には金色のステンシル文字でスカル&ボウンズ≠フ名が描いてある。
風防を前に倒し、髪をリーゼントにかためた男が、その上にワーク・ブーツの足を投げ出していた。リーゼントにこってり使ったポマードは、コンクリより固そうな本物だった。口髭をはやし、濃いサングラスの奥から鋭い目を億劫《おつくう》そうに回してきた。
「威勢がいいな。本当だぜ。威勢がいい」少しどもった。神経質に口を動かす。口髭がそのたびに痙攣《けいれん》する。
「ぼくたちのことを『おっさん』だと言ってる」
「それを言いつけに来たのか。ガキから見りゃ、成熟した男はみんなおっさんだ」
「ぼくは面白くない。君の方が老《ふ》けて見える」
「眼鏡だよ。眼鏡にネクタイをしてガキに気に入られようって言うのか」
「忘れていた」私はかけたままにしていた眼鏡をはずし、近くの叢《くさむら》に放り捨てた。
男は喉をならした。鶏のような声を絞りあげ、それが爆笑に変った。シートにそっくりかえって笑い転げた。「後で拾いに行こうってんじゃないだろうな」
煙草を吸っていた助手席の娘をはらいのけ、私にシートをあけてくれた。眸《め》のきつい、鼻のとがった娘は、男と私を順番にねめつけてジープを降りた。長いポニーテールを鞭《むち》のようにひるがえし、丸出しの両肩をふりながら仲間の方へ去って行った。男がまた喉で笑い、シートを叩いた。
私は助手台へのぼった。
「スカル・アンド・ボウンズへようこそ――俺は司城《つかさき》って言うんだ」
「ぼくは二村だ。県警で刑事をしている」
「おい、ちょっと待ってくれよ」
「いや、今日のところはフリーだ。救急車に乗りたくて来たんじゃない」
司城は喉を絞りあげて再び笑った。少し病的だった。喉ではなく心の病いだ。アドレナリンを大量に分泌《ぶんぴつ》しながらでなくては笑えないような笑いだった。頬がこけ、顔色がきわめて悪く、一言|喋《しやべ》るたびに口許《くちもと》がおちつかなかった。上下の顎《あご》ですりつぶしたような声をしていた。
「そんなに軽くフリーになれんのかい」
「髪をのばしたからフリーだってもんじゃない。公安部には髪の長いオーヴァー・オールの刑事もいるぜ」
「で、俺に何の用だ」
「君は、昔からこの辺か?」
「ああ、ずっとな。逗子だ。逗子、横須賀、それに長瀬の三丁目だ」また声をたてて笑った。
「四、五年前は単車《ワツパ》だったんだろう」
「ああ、成長のない人間だからな。二輪《ワツパ》から四輪《ヨツワ》に変っただけさ。いつのまにか、こうした連中がぞろぞろついてきやがるようになっちまった」
「不本意だとでも言うのかい」
「不本意じゃないって思ってるのか」
「どうかな。ぼくに判《わか》るはずがない。学級委員にすらなれたためしがないんだ」
司城《つかさき》は、大声でもう一度笑った。
私はポケットからバルガス君の写真を出して彼に渡した。
「よく見えねェな。それにうるさい」
彼はエンジンをいれた。ドアからつきだした足で単車を散らしながら、車を出した。ジープはオレンジ色の街路灯にくくられたサーヴィス・エリアを抜け出し、しばらく坂を上って、バス停近くの水銀灯の下で停った。急にあたりが静まりかえった。ジープの野太いアイドリング音も、虫の音のようにさわやかに聞こえる。
司城はごつい皮ジャンパーの前を開け、爪楊子《つまようじ》のように細長い煙草をとりだした。ジャンパーの裏地は鮮かな真紅のサテン、煙草は、それとアンサンブルになった紅《あか》いモアの二十本入りパッケージだった。
「その顔を覚えてないか」私は訊《たず》ねた。
「うん、多分知った顔だ。横須賀の奴だろう?」
「そうだ。名前を知りたいんだ」
「残念ながら名前も住所もからきしだな。覚えてないんじゃねェ、知らないんだ。
こいつ、俺より二つ三つ年下のはずだ。えっ? そうだろう」
「そのくらいかもしれない」
「七、八年前のことになるかな。二、三台つるんで走るとカミナリ族なんて言われた頃《ころ》さ。七、八年前だ。あの呼び名のほうがよかったがな。
そのころ、よく見た面《つら》だ。腕《テク》もよかった。しかし名前は知らねェ。行く先、行く先でよく会ったってだけなんだ。二、三回なら一緒に飲んだこともあったな」
「女のことを知らないか」
「こいつは横須賀の上町にあったガス・スタンドに勤めてたんだ。それがある日ふいにいなくなってね、そのとき女が出来たって噂だった。しかし、そういうときに発《た》つ噂はたいてい女だ」
「ガソリン・スタンドは上町のどのあたりだい」
「本当《モノホン》の刑事《でか》かよ。俺は|あった《ヽヽヽ》って言ったぜ。――そのスタンドが潰《つぶ》れたのはオイル・ショックの前だ」
「それだけか?」
「すまねェな」
「テクニックがどうとか言っていたな。運転は上手だったのか」
「道路じゃどうってことなかったな。アスファルトの上じゃあな。奴が持ってたのはホンダのダート・トライアルだったんだ。荒地じゃかなう奴はいなかったぜ。三浦の山の中なんかへ入って行っちまうんだ。岩場とか沢とかな」
「レースへ出たりはしていないんだろう」
「ああ、知ってる限り、そんなことはなかった。
変な野郎でな、ヤクルトのファンだった。売れない方のヤクルトだ。プロ野球だぜ。当時はアトムズって言ってた。あそこのウィンド・ブレーカァなんぞ大事にしていやがった」
私は思わず溜息《ためいき》をついた。
「すまねェな。役に立たなくて。
覚えてるのが不思議なくらい前のことだ」
「何故《なぜ》覚えていた?」
「どことなくな。変な野郎で――いや、これも役には立たない」
「役に立とうと思って話をしているわけじゃないだろう」
司城《つかさき》は喉をならし、笑いながら言った。「左利《ひだりき》きだったんだよ。そんな気がする。単車のグリップを左右逆さにしていた。クラッチとブレーキのレバーもな。ホンダって言ってもホンダに見えないほどいじってあった」
「機械いじりが好きだったのか」
「そうだろう。多分、そんなところだ」司城は二本目の煙草に火をつけた。煙草をはさんだ指で、サングラスを押しあげ、首を皮ジャンパーの中へうなだれた。異様に光る目が私を見つめた。
「奴がどうしたんだ?」
「六年前、女と別れて国外へ出た。三日前になって奴はパリから帰ってきた。女に会いにだよ」
「すごいぞ」
「女には昨日会った。そして、死んだんだ」
「それ以上聞きたくねェな。そんなところだと思った」
皮ジャンパーに表情をうずめ、何度か喉をふるわせていた。サングラスを外し、もう一度写真を水銀灯の白色光にさらした。
「こ奴《いつ》だと思うぜ。間違やしねェ」
返してよこした写真をポケットへ片付け、私はジープを降りた。
「あんた、この辺か」
「ああ、横浜だ」
「変ったよなぁ、ここらも。俺たちがカミナリ族って呼ばれてたころとよ。――そ奴《いつ》も、六年ぶりで帰って来たんなら、リップ・ヴァン・ウィンクルだったろうな」
「カミナリ族って呼ばれてたのは、君らだ。ぼくじゃない」
低い笑い声がした。
「奴のこと変だって言ったよな」車を出そうともせず、司城はどもりがちな声で言った。独り言のようにも聞こえた。
「別に変じゃなかった。奴はウィントン・ケリーのウィスパー・ノット≠全部口笛で奏《や》れた。聞かせられたこともある。しかしな、俺だってマイ・フェイバリット・シングズ≠口先だけで、一カ所も間違わずに真似《まね》できたんだぜ。ビレッジ・バンガード≠フコルトレーンだ。判るか?」
「ああ。それで覚えていたのか」
「別にそうじゃねェ。そのくらいのことなら、当時は、やる奴ぁ沢山いたからな」
「今でも奏《や》れるのか」
「本当《モノホン》の刑事《でか》かよ。|あの頃は《ヽヽヽヽ》って言ったはずだぜ」
口髭がひくついた。運転席にそりかえり、しゃくりあげながら笑い出した。とどまるところを知らないようだった。
坂下をバスのヘッド・ライトが照らしだした。巨体をゆすって、こっちへ上ってくる。私は、まだ身をよじって笑っている司城を残し、バス停へ走った。
やってきたバスへ乗り込み小銭をさがしていると、ジープが後尾をUターンして行くのが見えた。司城が何度かクラクションを鳴らした。頭の後ろで手を振り、クラクションは私に鳴らされているのだ。繊細な三連音のビート・フォーンだった。
しかし、ジョン・コルトレーンには少しも似ていなかった。
11
署長が指示した先刻のコーヒー屋は、すでに看板を中へひっこめ、菱格子《ひしごうし》の窓には鎧戸《よろいど》が降りていた。入口の札も『準備中』を出してある。膝掛《ひざかけ》をした老人は、あいかわらずカウンターの中だった。別に文句を言われたわけではない。ただ、メドゥサのような目で私を睨《ね》めすえただけだ。
昼と同じ椅子に坐り、所在無気な顔でコーヒーを啜《すす》っている署長の前まで行き、私は、腰をおろした。そことカウンターの中をのぞいて、明りは全部消されている。
「アメリカン・コーヒーをひとつ」努めて丁寧に、カウンターの老人へ声をかけた。
「そんなもんは出来ないよ!」
「普通の奴でいい。すまんが、それをひとつ」
私より早く、岡崎署長が返答をさらった。両手を卓子に乗せて、背を丸くしてみせた。昼に会ったときより、だいぶ全体が縮んで見えた。「無駄な諍《いさか》いはつくらんでくれよ。二村」
コーヒーがやってくるまで、私たちは無言だった。ほどなく、臍曲《へそまが》りの老人がコーヒーを持ってきた。レシートをぴしゃんと置いて行った。
「どうだ? 由《より》はみつかったのか」
老人がカウンターの中へ戻るのを確かめると、岡崎署長は口を開いた。「いったい、どこへ隠してきたんだ」
「その前にお聞きしたいことがあります。トカレフのことですよ。あの拳銃は、もう一人殺しているんですね?」
「週刊誌の記者が言ったのか」
「そうは言いません。写真を見せられただけだ。三十代後半の男が死んでいる写真でした。三枚一組の条痕《じようこん》写真も持っているという話だった」
腕を組んで、彼は唸《うな》った。さかんに上唇《うわくちびる》を咬《か》んでいた。眦《まなじり》をゆがめ、かったるそうに腕をほどくと、懐から写真を出す。「これだろう? 二村」
腹に穴をあけた男が、石畳の上に死に続けていた。おそろしい苦痛を泛《うか》べた顔を、血とエルメスのネクタイが飾っている。有元が自慢した写真と同じものだった。
「どこの記者だ」
「東洋の、週刊タイムスの奴です」
「騙《だま》したわけじゃなかったんだ、二村。本当だぜ」
「すごい恨まれようですね。呪い殺されたって感じだ。至近距離から、それも腹ばかり狙っている。誰なんですか」
「須田と言ってな。公安の出向刑事だ。
須田隆史。十年くらい前から昭和四十五、六年にかけて、警視庁公安部の一線におった男だ。知っとるだろう? 大学って言う大学が千早城だった頃《ころ》のことだ。道路はこぞって、平泉か関ヶ原って具合だった。日本のどこかで、何分に一人は、警官か学生が怪我《けが》をしとった。
そのころ、当時のブント系全学連を一貫して担当していたんだ」
「四十五、六年までって言うと、例の赤軍派の大菩薩《だいぼさつ》事件も手がけたわけですね」
「ああ、大菩薩峠で軍事訓練をしとった事件な。――あれは四十五年だったかね?」
「四十四年の十一月です。ぼくはまだ学生で、オマワリが嫌いでした」
「今は好きみたいな口ぶりだな」
私は答えなかった。
岡崎署長は、出かかった笑いを飲みこみ、もうひとつ唸った。
「ありゃあ警視庁と大阪府警、千葉、茨城、それに|うち《ヽヽ》の合同捜査だった。赤軍が山にこもってるって情報が入ってな。情報を入れたなぁ、無論須田だ。それだけじゃない。
大菩薩逮捕活動の五日前、合同会議だったよ。それぞれの県警で逮捕時機と方法について意見が割れてな。四分五裂になりよった。それぞれ、思惑が絡《から》んでいてな。
そこで須田が立ったんだ。もう、どんな内容だったか忘れちまったが、とにかく新事実とかを披瀝《ひれき》しおった。そのせいで警視庁公安部の行動方針に意見が傾いたんだぜ。おもてむき、指揮は地元の塩山《えんざん》署長がとった。だが、結局須田の一人舞台だった」
「しかし、ブント系を専門にしていた男なんでしょう」
「只今《ただいま》入りました最新情報によれば、なんて顔をしてな。各県警が手前の意見を出し疲れる頃合、みはからっとったんだ。そんな奴だったよ。儂《わし》が言うのは|やりくち《ヽヽヽヽ》のことだ、二村。
安田講堂が落ちて、たしかあの年の四・二八にも失敗して、全共闘は下り坂になってたからな。ハネてた学生は、赤軍に期待してるとこがあった。それが五十何人、ころりとつかまって、挙句に出てきたのがナイフと火炎|瓶《びん》、それにうどん粉みたいな火薬じゃあな。右のカウンター・クロスってところだろうが。
須田が二階級特進したからって、儂は驚きゃせんかったね。斬《き》れる男だった。好きんなれん!」
私は、むくむく脹《ふく》れあがっていく署長の体を見ていた。赭《あか》ら顔がますますひかり、脂《あぶら》ぎった手が少しふるえているようだった。遠くで硬い音がした。年寄りの店主が、椅子を卓子にあげ、床にモップをかけはじめたのだ。
「須田が射《う》たれたのは、やはりパリですか」
署長は頷《うなず》いた。「この数年、赤軍の国外流出がおもてだってな。フランスの保安警察からも要請があったらしい。顔ぶれは当時の赤軍派とは違うんだが、須田が択《えら》ばれた。外務省へ出向して、一等書記官かな――そんな官名で駐仏大使館へ行ったわけだ。これが去年の暮、おしつまったころのことだったわな」
彼は口を歪《ゆが》め、端から歯疼を訴えるような音をたてて息を吸った。「先月、ちょうど十日ほど前に、奴は病死した」
「うまい冗談じゃありませんね。鉛毒症だとでも言うんですか」
「いや。心臓の病気さね。死んだあとで、罹《かか》った病気だ。
フランスの秘密警察制度はしっかりしとる。家族が着いたときには、もう骨になっていたそうだがな、あっちで火葬にするにゃ、いろいろ面倒な手続きがいるんだ。何処かに頼まれにゃあ、わざわざそうはすまい。何処が、何んで、病死ってことにしたかったのかは判《わか》らん。警察庁内部でも知っとる者は殆《ほとん》どおらん」
「しかし、条痕写真があるんでしょう。どこから手に入れたんです」
「写真は、ひょんなことから手に入ったんだ。全く偶然だった。
いいか、二村。もうひとつ教えておいてやる。須田って男は、中川本部長が警視庁公安部時代、長いこと直属の部下だったんだ」
「それが何だって言うんですか。驚いてみせましょうか。ぼくに何を査《しら》べさせたいのか、いまだにはっきりしていない」
「事件の全貌《ぜんぼう》だよ。バルガスを誰が殺したのか知りたいのだ。
二村、儂が今、どんな立場におると思う?――男の身許《みもと》も女の身許もまだはっきりしとらん。女は、元過激派だったらしい。本庁から来た公安の連中は、そんな感じの|さぐり《ヽヽヽ》を入れとった。ことによると、連中はもう女の身許をつかんどるのかもしれん。儂は聾|桟敷《さじき》だ。ここの署長はこの儂なんだぞ!
公安の刑事が殺され、同じ拳銃《ハジキ》で女が殺され、殺した男はキャンプの中で殺されてしまった」
「自殺だって発表を聞きましたよ」
「その断定が、早すぎるんじゃないかと言っとるんだ」
「車の沈んでいた位置なんですがね。それは、うかがったときから問題にしてなかったんです。ワーゲンて言う車は、下腹に防水用の一枚鋼板が張ってある。二十分くらいは、軽く泛《う》いている」
「知っておるよ。車が半ブレーキのまま坂をころげて、海へおちた。海に泛んで、沖へ流された。突堤を二十何メートル離れてから沈んだって言うんだな。知らいでか、さっきの会議で科研からのレポートを読まされたばかりだ。しかし右側にころがっていた拳銃の説明はまだだ。どうやってキャンプに入ったのかも判っとらん。米軍は何かをかくしている」
「バルガス君が謀殺されたなんて、考えているんじゃないでしょうね」
「儂は何も考えとらん。
誰かが事実を隠しとる。隠してるのは米軍なんかじゃない。儂は事実が知りたい!」
椅子は、もう全部、卓子の上で逆立ちしていた。床は、私たちの周囲をまるく残してすっかり磨きあがり、急にひろくなったような感じだった。店の中央には、モップの柄《え》をつっかえ棒にする形で老人がだらしなく立っていた。
「おい岡崎」彼が叫んだ。歯のあいだから舌を鳴らした。「俺の店で呶鳴《どな》るな! 店はもう終っているんだ」
老人は、音をたててカウンター裏の木戸を開け、その中へひっこんで行った。
「本気じゃないんだ」署長が、その後ろ姿を見送りながら呟《つぶや》いた。
「コーヒーさえ淹《い》れなければ、いい奴なんだがな」
「防犯課長の線から、バルガス君の身許は割り出せなかったんですか?」
「まだだ。書類がまだみつからんらしい。知りたいなら直接聞いてくれてかまわんよ。儂からそう言っておく。
由《より》の方はどうだったんだ」
「彼女には会いました。署長が欲しがっているような事実はひとつも出なかった。銃声を聞いて、あわてて逃げ出したんだそうです。坂を走ってね」
「変だな。一昨日の夜中、つまり昨日の午前三時すぎだ。裕子の家の前で、あのワーゲンを見たって証言がとれてるんだ。それから次の夜中まで、あの小僧は丸一日あの家にいたんだぜ」
「全部信じているわけじゃありません。しかし、疑う理由もない」
「とにかく、会わせてくれ。儂は、今夜東京へ行かなくちゃならん」
「明日じゃいけませんか」
「なぜ明日なんだ」
「出しおしみしているんです。それに、捜査本部が自殺のつもりでいるなら、ぼくももう少し自由に動ける」
彼は腕を伸ばした。腕時計はなかなかシャツの中から出てこようとしなかった。時間を読み、私の顔を見た。また唸った。「君が何を考えているのか判らん」
「署長の考えていないことですよ」
「君の成績は上から六番目だったのにな」残念そうに首をふり、立ちあがった。
「今夜はお宅にいらっしゃらないんでしょう」
「ああ、東京に用が出来てな。――明日朝、家の方へ電話してくれ。くれぐれも目立つ真似《まね》はせんでくれよ。
先刻も、うちの四係に新生会系の、この辺りの金筋がさぐりを入れてきたってェ話だ。どうも、公安がそ奴《いつ》をほじくりに行ったらしいんだな。それに、捜査本部も、まだ解散したわけじゃない」
遠くで空気が震えた。それが、せまい店内に伝わり、私の肚《はら》のあたりで響いた。何度か、同じことが繰返された。
「汽笛が聞こえましたね」
「そうみたいだな」
「駆逐艦の汽笛だ」
「それが、どうかしたか」
「長い音が三つ。変ですね。長音三声と言うんですよ。死者を弔う汽笛だ」
署長は、気味悪そうな目で私を見下した。
12
横須賀基地の正面ゲートには、真白い大きな碇がふんぞりかえっている。どことなく滑稽《こつけい》と思えるほど、白く大きい。世界中の米海軍基地に、同じものが据《す》えつけてあるのかもしれない。ここだけかもしれない。どちらにしろ、芝生に植えつけられた白い碇は、アメリカ海軍の意匠にぴったりだった。
似たような碇を映画のタイトル・バックで何度も見た覚えがある。女子供には弱いが、ほうれんそうを食べるとにわかに強くなる男を描いた漫画映画だ。
ゲートは真昼のように明るかった。そこから、棕櫚《しゆろ》の植わったグリーン・ベルトを従え、幅広いメイン・ストリートが丘にむかってのびている。左手の奥が軍港だ。
今朝の二時、バルガス君はこのゲートをくぐったのだ。どうやって入ったのだろう。チェックは意外にきびしいようだった。服の上から体をさわることも、めずらしくはない。敬礼ひとつで入って行くのは、軍ナンバーの自動車だけだ。
私は由《より》から借りたIDカードを手に、その門へ近付いて行った。
正面ゲートの左隣りには、跳ねあげ式の出入り口があり、そこにも兵隊が立っていた。鉄のアーチに『S・Pパトロール隊横須賀本部』と書いてある。赤い回転灯をつけたフォードのワゴンが横ざまに停められ、運転席では二人の男がチェッカーをしている。
その二つのゲートに挟《はさ》まれ、横須賀警察署の交番がぽつんと建っていた。入学式で親を見失った小学一年生みたいな有様だ。
私は、交番の告知板にあゆみより、手配写真を瞶《みつ》めた。傍《かたわ》らに建つ制服の巡査を無視したのが、間違いのはじまりだった。
「心あたりでも、あるかね」彼は訊《き》いてきた。
私の目は、気付かぬうちに彼の襟元《えりもと》へ走って行った。これが二度目の失敗。銀板に金線一本、星ひとつのバッジ――彼は平巡査だった。
「何か用かね」巡査は口調をかえた。
「弟がいたんだ。出来の悪い弟でね。六年前に家出した。もしや、と思ってね」
私は、ぞんざいな口をきいた。第三の失敗。どこをどう見ても、相手は私より年上だった。
「知らないかい?」私は、開き直ることにした。
「ドブ板で遊んでたことがあるらしい。おまわりさんは、管轄《かんかつ》の住民にくわしいんだろう」
「あんたらぁ知らんだろうが、交番て言っても、派出所と駐在所は違うんだ」
言って、彼は誇らし気に耳のイアーホーンを引っこぬいて見せた。一一〇番指令の無線イアーホーンだ。彼の体と交番には、大小あわせて六種類四系統の近代的連絡器がとりそろえてある。それが自慢のようだった。私に言わせれば、あの白い大きな碇と同じく、漫画の意匠だ。
「ドブ板なんてところは、S・Pがやってるしな」
「日本人だって住んでいるだろう」
「ちょいとな」彼はせせら笑った。「それでも、アパート・ローラァ作戦のときは、公安情報をかきあつめたな。あんたの弟は過激派の口かね。中へ入ってくれ。それだったら写真がある」
フェリーノ・バルガス君は、告知板に居なかった。六年前のことだ。それがあたりまえだろう。派出所へ置くような手配リストも、当てになるとは言えない。
「過激派だよ。ぼくも過激なタチだ」
「名前は!?」もう、完全な尋問口調だった。
「塩見、塩見孝也」今日の私はどうかしていた。
「どこに住んでいるかね」
「東京の小菅《こすげ》さ」
彼は手帖をひらきペンを握ると、はっとした顔を挙げた。
「貴様! 俺をおちょくったなぁ」こちらへ、一歩踏み出した。
そのとき、耳許《みみもと》に垂れたイアーホーンが、ひとりでに喋《しやべ》り出した。『緊急!! マル走三十数台、十六号線長浦町あたりを通過。現在4のFを南下中……』彼はその場に凍りつき、肩をわななかせた。バッジを撫《な》でつけ、交番に駆け込んでいった。
私はキャンプの高い金網に沿って歩きはじめた。そこら中に、それぞれが勝手に択《えら》んだ警察≠ェ転がっていた。中には私の知らない警察≠烽る。しかし、転がっているぶんには、私の知ったことではない。タチが悪いのは、いずれ誰かがそれを拾わねばならないと言うことだった。
S・Pの兵隊が二人、むこうからやってきた。巡察の帰りなのだろう。彼らは、泥酔《でいすい》しているくせにビール瓶《びん》だけは手離そうとしない巨《おお》きな黒人を、両脇から抱えて引き摺《ず》っていた。
「LOVE A COP TODAY」
すれちがいざま、酔っ払いの黒人が私に笑いかけた。なるほど、こうして使う言葉なのだ。
ドブ板の方角から風が幽《かす》かなざわめきをひろってきた。えたいの知れない音楽が、国道を渡ってくる。路面がわずかに靄《もや》いでいた。私は、その上を横切り、国道に面した東洋タイムス横須賀通信局のドアを開けた。
入ってすぐが背の高いカウンターになっていた。奥にベニヤ張りのついたてがあり、その陰から有元の顔がこっちを覗《のぞ》いた。
「話したいことがあったんだ。夕食をどうだい」彼は、上着をひっつかんで立ちあがった。
「警官みたいな口をきくね」
「警官も食事で釣るのか?」
「番茶が一杯だよ」
鞄を肩にかけ、ハンチングを被って出て来た。カウンターのところへ来ると、私の耳のそばで「ここはまずいんだ」と、さりげなく囁《ささや》いた。
「どうも、お邪魔しました」奥のついたての方へ声をかける。
私は、押し出されるようにして、外へ出た。
「日刊の連中には、遠慮があってな」支局の軒先で、彼は立ち止り、靴に踵《かかと》を入れた。靴ひもを結びなおし、先に立って歩きだした。ドブ板通りをめざしているようだった。
13
外人バァの明りと喧噪《けんそう》のはじまる一歩手前だ。それでもドブ板通りには違いない。
汐入《しおいり》とはちょうど反対側の通りのとっつき、崖に掘り抜かれた防空|壕《ごう》に奥行の三分の二を埋めたひっこみ思案なレストランが建っている。入り口に船の舵輪をぶらさげ、カンテラがドアを照らしていた。
私たちは、奥のブースに席をとった。
「兵隊は来ないんだ。こないだの戦争が終って、頭のいい奴が、いつ入るか判《わか》らない船を待っているより、日本人の常連をつかむ方が利口だって考えついたんだ」有元が言った。さかんに薄暗い店内を見回していた。舫綱《もやいづな》が、奇妙に入り組んで天井を這《は》いめぐらしてある。「昔は船が入ったからって、日曜に灯《ひ》をいれるなんてことはなかったそうだぜ」
中年の化粧の厚い女が、水を運んできた。
私は、メニューの中から、カリフラワーのグラタンを択《えら》んだ。
「それは時間がかかりますけど」
「じゃあハッシュド・ライスにホームメイド・ソーセージ」
「それを二つだ。ビールも二本」
女の目は、よくのぞきこんで見ると、澄んだブルーだった。鼻も不自然に高い。私の無遠慮な視線に気付き、ブルーの目が|※[#「目+旬」]《めくばせ》を返してきた。私は気分が悪くなった。「ぼくはジン・トニックにしてくれ」
「飯ツブの前にジンか!?――俺も同じだ。ジン・トニックふたつ」
正確な日本語でオーダァを復唱する。ハッシュド・ライスはスペイン風だ、と念をいれ、女はカウンターへ戻って行った。
「支局の人間が来るんじゃないのか? この店は連中に聞いたんだろう」
「日曜に働いてる新聞記者がどれだけいると思ってるんだ。奴らは、女房がガキを産むときにだって、有給をとる。で、産科の医者の評判を取材して歩くんだ」
「おめでたってのは本当だったのか?」
「さっきだって、半分は病院からの電話を待ってたんだぜ。|いき《ヽヽ》んでるって話だ。医者の奴切る気かもしれねェ。人の女の腹を、何だと思ってやがるんだろう」
「医者が切るなら、自分で切るより痛かないな」
「岡崎が切るのか」
彼は、鋭い目で私をじっと見た。私は黙っていた。酒がやってきた。
「判らない。その前に、君のスポンサーのことを知りたい」
「やっと気にしてくれたな。あんたの感想から先に教えてくれよ。それからじゃねェと、何も言えんな」
「何の感想だ」
「この計画のだ。俺はどうも、利用されかかってるふしがある」ひとごとのように言うと、トニック・ウォータァを注《つ》ぎたした。
私のグラスは空になっていた。二杯目を注文するより早く、先刻の女がやってきた。五杯分入っているからとことわって、底に指三本分ほど残ったジンの瓶《びん》を置いて行った。無愛想だが、おしつけがましい様子はなかった。
「計画って何だ? 事件じゃないのか」
「計画と事件とあるんだ。別の話だぜ。
まず計画の方だ。話は法務省筋から入ってきた。誰がどんな風に持ちこんだ話かは、勘弁してくれ。――あんた、久我原検事を知ってるだろ。学習院を出て、三十過ぎてから司法試験をとったってェ変り種さ。元華族でよ、高検の仲間内からぁ宮様≠ネんて呼ばれて、おちょくられている」
「聞いたことがあるな。親族一同からも胡散《うさん》くさがられて、父親に至ってはイヌ呼ばわりするんだそうだ。警官になっていたら、何て呼ぶんだろう」
「気にするなよ」
「気になんかしていないぜ。君ほど傷つきやすくはない」
「久我原検事の話だったよな。――その検事が、年末から今年にかけて、横浜選出の代議士と岡崎五郎警視正閣下と三人、談合の御席を持たれたんだと」
「誰から聞いたんだ? そんなこと」
「勘弁してくれって言っといたぜ。二村さん」
有元は、一枚の紙片を卓子に開いた。書類|綴《とじ》の表紙をコピーしたものだった。はじめは、中身のコピーも一緒だったのだろう。隅に、ホッチキスをひきちぎった跡が残っている。『警察二分化に関する試案/一九七六年一月/警察法改正問題研究会』和文タイプで打たれた文字が読める。
「審議会でも委員会でもない。研究会だってところに注意してくれよ。もっとも、実体がねェことに変りはないが」
目が私の感想を求めてひかった。腐りかかった切花の花弁みたいに、両手をだらりとひろげてみせた。
「こっちは、ネタをみんな明かそうってんだぜ」
「公安部を分けちまう計画だな」
「判ったよ。これで判った。あんた何にも知らされてなかったな」
私は答えず、ひとりで酒をつくった。食事が運ばれてきた。色だけで少しも香らないサフランと、タバスコの味で、スペイン風と言うわけだ。どこがスペインなのだろう。ソーセージは本物の腸につめてあったが、これだって肉のすり身が無細工だった。ヘミングウェイに食べさせたら、何千語も費して怒るところだ。
有元は、一口味をたしかめると、話をつづけた。
「試案の中身は、さほどめずらしい意見じゃない。つまり、公安部をアメリカのFBI方式に外へ出しちまおうっていうんだ。刑事部畑や自治警OBのあいだには、そんな発想、昔からくすぶっていた。稚拙なところもある。
このあいだの企業連続爆破事件な、あれで警視庁の公安が、刑事部のこしらえたモンタージュ写真を握りつぶして、犯人を泳がせたろう。挙句に逮捕しちまってから、刑事部に通告する始末だった。犯人は、当のモンタージュと同じ顔をしていた。四カ月まえに、一度は刑事部の捜査線に泛《うか》んだ奴だったんだ。そのときも、公安サイドからバツ印をつけてきたっておまけつきさ。ああしたスタンド・プレーをされる度に、この手の意見が出てくる。
しかし、今回違うのは、こんな文書が高検を介して、代議士、法務関係にまでくり込んでるところさ。二村さん、一部かもしれないが、心配している奴らがいる。そ奴《いつ》らの心配は、岡崎署長の浪花節《なにわぶし》と違って、全くアクチュアルなもんだ」
「組織の基本的な成り立ちが違うからね。考えかたも違ってくる。鼠もいれば猫もいる。鈴をつけたがるのは、君たちジャーナリストだ」
「警察となれば話も違うぜ。一九七〇年以降、公安部の活躍は凄《すご》い、囮《おとり》とか、潜入とか、法解釈とかさ。あんたらとは別だ。角のたたない言葉を使えば、『保安警察』が、あんたらの言う市民の警察の名に隠れてるんだ。その名前、利用してるって言ったっていい」
「何か勘違いしてるんじゃないか? ぼくだって警官だぞ」
「知ってるよ。俺は、連中が考えてることを説明してるだけだ。簡単に言うなら、連中はウォーターゲートを心配してる。ウォーターゲート事件を起したときのCIAみたいに、公安が突走るのをね。そのためにゃあ、刑事警察と指揮系統を分離しといた方がいい。たいていの先進国はそうしているんだ。海の向うのCIAが大失敗のお手本をみせてくれたばかりだしな」
「君の考えは、飛躍が大きすぎる。FBIとCIAをいっしょくたにしているぜ」
「考えているのは、俺じゃない。俺は、どっちかって言えば公安警備のファンさ。刑事部にゃ、どうしようもなく頭の悪い奴がごろごろしている。権力を笠《かさ》にきた小役人が多い。そこに行くと、公安はインテリだからな。権力にも冷静だ」
「日本には、公安調査庁ってものもある」
「やっぱり、あんたも刑事部なんだな、二村さん。頭がよくないぜ」
「野球ばかりしていたからね」
「CIAが、今、アメリカ議会で云々《うんぬん》されているのは、奴らが多国籍企業と結びつきすぎたからだぜ。国家そのものの利益と対立しはじめたからだ。――日本にもビッグ・ビジネスはある。日本の資本主義も成熟した。国家と資本の求めるものが対立するほどにな。警視庁公安部と、財界、韓国との癒着《ゆちやく》は大抵のもんじゃねェ」
私は二杯目を空にした。「ぼくは事件を追ってる」
「こう言うのか? 人間は習慣の奴隷であるってな」
「被害者《ガイシヤ》の一人は公安出の一等書記官だ。この事件を洗いつくすと、君か、岡崎署長たちか、それとも他の誰かの計画に役立つのかもしれない。しかし、ぼくに言わせれば、屍体が三つあるってことに変りないんだ。
計画の話ばかりなら、ぼくは帰る。酒は一人か大勢で飲むことにしてるからね」
私は三杯目のグラスを干した。もう一杯つくった。まだジンは残っている。瓶を、有元の方へすべらせてやった。
彼は、瓶の栓《せん》に指を乗せ、長いあいだ戸惑っていた。しばらくすると、チェシャ猫の笑いが顔全体を覆《おお》った。栓をあけ、グラスに注いだ。
「判ったよ!」有元は、ポケットを裏返さんばかりの勢いで、数枚のレポート用紙をとり出した。一枚を択び、私に差し出す。「これが俺の作ったメモだ」
「バルガス君の身許《みもと》も、君には判ってるのかい」
「いや、あっちはさっぱりだ。女の方だけは、今朝から知ってた。もちろん、俺が調べたわけじゃねェ」
有元のメモは箇条書になっていた。最初が昭和四十二年、おしまいが昨日の箇条書だ。
九年前、清水裕子こと狩野《かのう》裕子は、京都学院大のストライキで検挙されている。昭和四十二年の十月だ。これが一回目の逮捕歴だった。
翌昭和四十三年春に、彼女は神戸の実家から家出した。その年いっぱいを、ブント系活動家として、東京にすごした。バルガス君が、ガソリン・スタンドをふいに辞めたころだ。そんなとき、たいがい女の噂がたつそうだ。そして二人は、東京で暮していた。
七年前、昭和四十四年。一月十九日の東大安田講堂の攻防に前後して、裕子はまた逮捕されている。明治大学の校舎屋上から、下にいた誰かに火炎瓶を投げたのだ。
二月末、彼女は親元へ戻った。不起訴か保釈かは判らない。
六月ころ、また東京に家出してくる。活動家二年生の往復パターンだ。
バルガス君が持っていた、電話番号の書きとめてある手帖のきれはしには、六月二十三日月曜日の日付があった。そして、この年のその日も、月曜日なのだ。
六月ころ、裕子は神戸の実家を家出。
ここから、有元のメモには短い空白がある。次に、彼女の名が出てくるのは、あくる年、昭和四十五年の一月だ。その月の二十日から月末にかけて、裕子は神戸に『つれ戻された』。
「これはどういう意味だろう」私は、訊《たず》ねた。「警察がつれ戻したのか」
「彼女が淡口組二代目の一人娘だったことは知っているだろう。狩野喜一だ。奴には組織力がある。東京近郊のプロの情報屋が総動員されたってよ」
「情報屋か。――そして、つれ戻されたんだ」
昭和四十五年。今から六年前だ。砦のような淡口組本部で、それでも裕子は半年おとなしくしていた。お目付役がいたのだろう。頬に傷がある兄さんかもしれない。夏近くなって、裕子はみたび家出を敢行した。そして同じ年、バルガス君も出て行った。家からではない、この国からだ。
「なあ、二村さんよ。赤軍派が登場したのはいつだったかな」
「昭和四十四年の七月だ。七月の六日、ぼくの誕生日だ」
「ふん」彼は鼻をならした。「カニ座か。オマワリにゃ向いていないな」
「礼を言うよ」私は、レポート用紙を丸め、火を点《つ》けて、銅細工の灰皿へ捨てた。グラスに一度口を漬《つ》け、酒を足した。酔いがやっと肩に滲《し》みてきた。疲れが這いのぼり、首筋を充血させた。
「いいのかよォ? メモを燃しちまって。あんた、ちゃんと読んだんだろうな」
「読んだよ。君の話も聞いた。
メモにはなかったが、最後に家出した二年後。四十七年だ。狩野喜一が死んだ。病死だ。裕子は、その年、この横須賀に家を買っている」
「どういうことだ。俺は事件そのものを、あんまり深くさぐってねェんだ」
「二年間、裕子はどこに居た? 狩野喜一に裕子以外子供はなかったんだぜ。女婿をとらなきゃ大変だ。現に、今も趾目《あとめ》のことで、淡口組はガタついている」
「誰かが隠してたんだな。全国一の広域暴力団のネット・ワークにはりあえる組織がな。そんなのはひとつしかねェや」
「そう思いたいんだろう。ぼくはそう思わない」
彼は、口のはしを引き締め私を睨んだ。わざとらしい手間をかけ、例のお伽《とぎ》の猫を真似《まね》て会心の笑いをつくった。「警視庁|汐留《しおどめ》分室ってのがある。新橋の裏通りのちっぽけなビルだ。四十三年から四十四年にかけて、ここには警視庁公安部の匿名《とくめい》捜査本部が置かれてたんだぜ。
あんた、俺を追っぱらうつもりで、あの電話番号教えたんだろうが、まずいことしたよな。ありゃあ、そこの番号だった。
友人《ダチ》のライターが覚えていたよ。当時、そいつを探りあててから、一年間も尾行がついた。忘れたくても、忘れらんねェそうだ。警察をなめてかかるなって、忠告してくれたぜ」
「その通りだ。ぼくをなめていたのか?」
「そのライターが探ってすぐ、電話は廃止になった。――須田一等書記官はそのころ丁度、警視庁公安の第一線だったよな。パリで死んだ奴だ。須田のことくらい聞いてるんだろう?」
彼も、岡崎署長も、ひとつことを見ろと勧めているのだった。私の手許にある、いくつかの材料も、それを示している。四十四年六月、裕子は東京へ再度家出した。六月、バルガス君は匿名捜査本部の直通番号を手帖に書きとめた。次の月に、赤軍派が結成された。そして、十一月だ。
私はポケット・チーフを引きぬき、それを振った。中央高速東京――大月間の回数券を写したきれはしが、ふわりと落ちてきた。
有元の手がいち早くとりあげ、天井のカンテラに翳《かざ》した。やがて充血した目が私を見た。
私は手帖をひらいた。「十一月の五日を覚えてるか。四十四年だ」
「赤軍が大菩薩峠でパクられた日だろう。五十何人いっぺんだった。あれが、あの時代の終りだった。そして、あれは俺の時代だったんだ」
「泣くなよ。泣くんなら、催涙弾が到着してからにしてくれ。――それより、そいつの発行日を見ろ。十一月の二日だ。赤軍が山に入ったのは三日だった。その回数券は二往復使われている。多分五日までの間に使われたんだ。
警察は塩山《えんざん》から山へ入った。大月から入る道もあるんだ。葛野《かずの》川沿いに北へ行く県道で姥子山《うばこやま》の東を回る。途中、大峠―大菩薩って行く林道がある。小金沢林道と言ってね、凍結は十二月がはじまるまで心配ない。人目を忍んで行くには手頃《てごろ》だぜ。二輪の回数券だろう。二輪でもモトクロッサーなら登れる」
「須田とバルガスは間違いなくひっついていたんだな」
「ぼくは、まだ何も言っていない」
「赤軍は三日から山にこもってたんだろう。警視庁は前の日からその情報を握ってたって聞いてるぜ。スパイがいたんだ。
赤軍は、あっさりつかまった。新聞発表もあっさりしていた。奴らは、学園闘争とか員数にたよる方法に、最初に見切りをつけた党派だったんだぜ。大菩薩峠にこもったのは、軍事訓練だ。東京を内戦状態におとしいれるって宣言してた」有元の声はすっかりねぼけていた。酒によわいのだろうか、二杯目の氷は、グラスの酒を水に変えてしまっている。
「つかまったとき、大した武器も持ってなかった。ライフルとか手榴弾《てりゆうだん》とか、何もなかったんだ。奴らは、闘争って言わず、戦争って言ってた。仮にも内戦を企てた連中が、あっさりつかまりすぎた。今から考えてみりゃ、新聞発表だって、あっさりしすぎている」
「君が考えるべきことだぜ、有元。
君が笑い上戸になる前に出よう。猫は嫌いなんだ」
彼は何のことか判《わか》らず、呆《ほう》けて立ちあがった。外へ出てからも、ますます呆けた顔をするばかりだった。私が強引に勘定をもったからだ。彼は雑誌記者なので、警官が飲み代を払うところを、見たことがないのだ。
「バルガスは、公安のSだったんだ」有元は言った。足許がふらつき目は真赤だった。
「大菩薩でつかまったのは五十三人だ。五十四人目がいたって言うのか」
「彼は二度往復している。ライフルや爆薬をこっそり捨てて、退路を断つくらい一人でだって出来る。五日の朝までにな」
「酔っているんだな」
「バルガスが須田を殺したんだ」
「しかし、何故《なぜ》六年もブランクが要る」
「そして裕子を殺した。その後だぜ。その後、バルガスが死んで喜ぶのは誰だと思う?」
私は黙っていた。ひんやりとした夜気の底に立っているのを感じていた。港から来る風が捻《ね》じよせたのか、原色のネオンが崖下に蝟集《いしゆう》しているのを見ていた。遠くで黒人が昔のジャズを口遊《くちずさ》んでいた。女たちが笑った。
「よッく聞け! 二村」有元が突然|呶鳴《どな》った。
「この話は変だった。俺になんぞ、ネタをくれるわきゃあない人間が持ち込んできたんだ。そ奴《いつ》らは、俺とあんたを使って、何かを暴露しようとしている。岡崎みてェな三級職コンプレックスも駒《こま》のひとつだ。連中の目的は、公安部にゆさぶりをかけることなんだ。
金大中事件を覚えているだろう。彼が、東京からソウルへ密輸されたとき、旧軍内務班出身の警備公安の大物が力を貸したって話だ。裏には韓国政府とひっついた日本の財閥もいた。話だけでニュースにはならない。これからも、なりゃしねェ。
今度の一件はニュースになりやすいってわけさ。手頃な大きさだ。何せ、奴らは、ゆさぶりをかけるだけでいいんだから。
そのための暴露だ。何を曝《あば》かせたい!?」
「あの二人に須田が何かをした。それがバルガス君の口から漏れるのを恐れ、彼を謀殺した。そう言いたいんだな」
私は口を開いた。鉛のように重い口だった。「それじゃあ、何故、拳銃を右へ放り捨てて行った? 何故、米軍基地なんかで殺したんだ。首吊《くびつ》り自殺にみせかけた扼殺《やくさつ》屍体に、ナイフを突ったてて行くようなものじゃないか。公安なら、そんな馬鹿はしない」
「自分から言ったんだぜ。公安が殺《や》ったならってな」有元は、よろよろ私の方へ歩いてきた。
「何で通信局へ電話した? 二村さんよォ。俺の身許を確認したんじゃねェか。俺が公安の匿名捜査官だった場合……」
自然に私の拳《こぶし》が飛んで行き、有元の顔に左ストレートが命中した。彼は何歩か退《の》けぞり、トラシュ罐《かん》を鳴らして尻餅《しりもち》をついた。
「言っといたはずだぜ。ぼくは警官だってな」
有元は半身をおこし、赤い唾《つば》を吐いた。小さなかけらが道路に鳴った。本当に差し歯だったのだ。
「これはやつ当りだぞ。二村」
彼は立ちあがった。電柱にすがった。そして、胃の中のものを吐きはじめた。
私はドブ板通りに向かって歩き出した。
14
街は、紫色の闇の中に淀《よど》んでいた。
煙草の烟《けむり》のようでもあったし、自動車の排気ガス、機銃掃射の名残りのようでもあった。ただ――多分、それが紫色の正体なのだろうが――海からやって来た靄《もや》にだけは見えなかった。
喉から胃、血管、汗腺《かんせん》、人間の躰《からだ》をひととおり駆け抜けてきたアルコールが、辺りに臭気を漂わせていた。人の波は、すでになかった。
長い南洋航路で溜《た》めに溜めてきた夢を果すため、もうそれぞれのベッドを決めてしまったのだろう。路《みち》ばたに、悪酔いの頭を抱えこんでいる連中は、ドルがないのか、それともホモセクシュアルなのかもしれない。ネオンの陰からもれてくる嬌声《きようせい》の主も、電柱の下にしか店を張れずに、今も売れ残っている女たちも、みんな四十以上の巨塊ばかりだ。通りの中ほどに駐ったS・Pのパトロール・カーも、たいそう手持ちぶさたな様子で、憲兵は観音開きにしたドアから足を垂らし、ハンバーガァと格闘中だった。
汐入駅の方へ歩くと、それでもC<Tインの店には、にぎわいがあった。グラス百五十円の赤玉ポートワインを燃料にして、夜っぴて踊り続ける黒人たちだろう。日本人の歓声もまじっている。もとより、駆逐艦一杯分の男たちで満席になるような街ではない。
先刻の三叉路《さんさろ》まで来ると、まだ若い赤毛の水兵が、ミッキー・マウスからミニーを横奪《よこど》りしようと、裸の肩に手を回し、さかんに口説いていた。
そのとなりにしゃがんだ、五十がらみの女は、地面にめりこむほど酔っぱらった兵隊を抱いて、ダンピングの最中だった。
「七十五ドルでどうさ?」
「|母ちゃん《マム》、帰りたいよ」
「だからさ。その母ちゃんがドライヴしてやろうって言ってるんじゃないか」
「二十五ドルしかねェよ。母ちゃん」
「ばかにおしでないよ。ね、五十出しなったらさ」
「母ちゃん」
「OK! ベイビイ。フィール・ソウ・グーッド。ムムムムム」
「俺の母ちゃんを馬鹿にするな!」
彼はふいに立ちあがった。女が、うしろに吹っとぶ。太りすぎていて、なかなか立ち上がれない。
「俺は|お袋と寝るような野郎《マザー・フアツカー》≠カゃねェ」
彼は、基地へ向かって歩き出した。本当に、地面にめりこみそうな足どりだった。その背に、女の罵声《ばせい》がとんだ。
ライトが、ふいに彼を照らしあげた。よろけたそ奴《いつ》をみごとに躱《かわ》し、一本の路地から大型のオートバイが飛び出してくる。
水平対向のエンジン。鋭い排気音。BMWの一〇〇〇tだ。跨《また》がる男は、フルフェイスのヘルメットを被り、顔は見えない。しかし、その側頭に、金の髑髏《スカル》と骨《ボウンズ》。ぶあつい肩。高い背。
後ろにしがみついている女は、長いポニーテールを風になびかせ、大きくとられたブラウスの衿《えり》ぐりが、いかにも寒そうだ。司城《つかさき》のジープに乗っていた、眸《め》のきつい娘に違いない。男は、あのときの一〇〇〇t野郎だ。
私は、その後を追った。走る必要はなかった。
三叉路を、汐入方向にターンして、二人乗りのオートバイは、一ブロックほど先で停まった。
シャッターの降りた、モルタル二階屋の前だった。間口を一杯に覆《おお》ったシャッターに中沢総業≠フ文字が読めた。その上に、小さく、関東新生会の代紋が印され、不動産と植木のリースを商いにする、正業の徒だという断りも入れてある。
一〇〇〇t野郎は、シャッターの脇に取りつけられたインターフォンにすがった。
建物の脇から、灯《ひ》が零《こぼ》れた。隣に軒をせり出させた外人バァとの間に、狭い路地がある。路地というよりは、幅一メートルほどの隙間《すきま》だ。今まで、その入口を塞《ふさ》いでいた背の高い鉄柵《てつさく》が、道路側に押し開かれた。
一〇〇〇t野郎とポニーテールの娘は、迷わず、その中に飛び込んだ。鉄柵が隙間をとざした。錠の落ちる音がした。
私は、鉄柵へ近づいて行った。
路地は、二軒の建物の間を通り、緑ヶ丘の崖に突きあたっていた。二軒とも、裏の崖に背をひっつけて建っているため、回りこむ手はききそうにない。鉄柵は高く、よじのぼるには人の目がありすぎる。蝶番《ちようつがい》に細いエナメル線がからみ、それが土面まで伸びているのも、気になった。
路地の奥で中沢総業の勝手口が開き、人影がその中に消えた。手前に、窓が明らむ。
バァ側の壁面に出入口はない。トイレのものらしい、空気抜きの小窓が路地に面しているだけだ。見あげたバァのイルミネーションはハッピー・ウィドゥ=\―ウィンドゥならいいのだが。
私は、その中へ入った。
土埃が重たくしたカーテンを潜《くぐ》ると、ワン・フロアの狭い店内だった。つきあたりにカウンターがあり、そこまで行く通路の両脇にブースが並んでいる。おきまりの角燈《ランタン》、おきまりの銀モール、おきまりのピンナップ風油絵。今どき片田舎のストリップ小屋だってやらないような、原色の照明が、そ奴《いつ》らを瞬《またた》かせていた。
年をとった、脂《あぶら》だらけの女たちが、カウンターの処《ところ》から、いっせいに私を振り返った。
ブースのひとつでは、少し若い女が黒人と抱きあっていて、私を見咎《みとが》めると、うちわみたいな付け睫《まつげ》をぱたんと開閉させてみせた。その女も、僅《わず》かにましだというだけで、普通なら若いなんて言葉は使えなかったろう。
客は、その黒人だけ、カウンターに残っている女は四人だった。蝶ネクタイをした老人が、カウンターの中に一人。
「何にしますね?」彼が、頭を下げた。
四人の女は、私の両脇に集り、こんなとき、こんな日本人客に、何と言ったらいいのか考えながらも、手だけは、私の肩や肱《ひじ》にいち早くからませてきた。
「バーボン。それに、この人たちに好きな飲みものを」
歓声が湧《わ》いた。めいめいが、何やら得体の知れないカクテルの名を叫びあった。クールボワジェ≠ネんて言い出す女もいた。
私は、カウンターの上に一万円札を乗せた。
「これが最後の一枚なんだ」
一番近くにいた、目尻に大きなホクロのある女が溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「なくすまで飲んでいいぜ」また歓声が湧いた。
蝶ネクタイのバーテンが、養老院の炊事当番みたいな手つきで、酒をつくりはじめた。
バーボンは焼酎《しようちゆう》で割ってあった。女たちに配られたカクテルは、多分、色をつけただけのスプライトだろう。
「ユウ、景気がいいじゃん?」
ホクロの女がしなだれかかってきた。
「D・Dが入ったんじゃなかったのか」
「ふん」女が鼻を鳴らした。空気が荒々しく動いた。「給金《ペイ》はハーフ・ダウンね。半分、本国《ステイツ》の口座に回すふうに、システムが変ったんだってさ」
「だから、酒はPXで|き《ヽ》めて来んのよ」右隣の女が言った。
「酒はあっちで、こっちじゃ|あれ《ヽヽ》専門」今度はその向う側の女。「同じもの、もう一杯」
「黒ばっかりだよ、残ってんのは。あたしゃね、ユウ。こう見えても、黒とは寝ないもの」
「向うにだって、趣味ってものがあるぜ」
「きついこと、言うじゃんよ。残りもんで悪いけどさ、この時間は、ミイたちぐらいね」
「ベイ・シティ・クォート≠ヘどうなんだ? あそこの女は」
ホクロのある女が、鼻をくしゃくしゃにして、私を睨んだ。「あそこは、別よォ。ウィズアウト・インターコースね。オフィサー連のいい女《コ》はいても、ノー・フリー・ラブさ。第一、黒なんて、バンド・マン以外入れもしない――あそこのレディはね、ユウ、頭《トツプ》で英語覚えた娘ね」
「こっちゃぁ、尻《ヒツプ》で覚えたんだから」左隣の女が、身を乗り出した。西瓜《すいか》みたいな胸が、カウンターの上に弾んだ。「資本のかけかたがちがうよ」
「上町から、流れてきた女たちなんだね」
「ノー、ノー、ノー。――ここらにゃ、上町から来たのもいりゃ、通り向うの日本人バァから来たの、東京や横浜《ハマ》から来たのもいるわよ」
「あたしゃ立川だよ」ホクロが、そう言って頷《うなず》いた。
「けどね、ユウ。ベイ・シティ・クォート≠フレディは、どれとも違ってるね。どっから流れてきたんでもないのさ」
「どこが違うんだ」
「頭《トツプ》で金を稼《かせ》ぐんだよ、あそこの娘は。タイピスト、デパート・ガール――ジャーディン・マセスン商会に勤めてたって女までいるんだからね」
「高くつくよ。ああいうのはさ」
右隣が、腹を指でつつき、けたたましく笑い出した。
私は、黙って席を立った。トイレの位置は、入ったときから目をつけていた。ドアを開けてすぐが洗面所、ドアをもうひとつあけると、洋式便器が据《す》えてある。ハッピー・ウィンドゥ≠ヘ、その個室の換気口代りだった。
二枚のドアに鍵をかけ、私は便器の蓋《ふた》の上に上った。小さな窓だった。硝子戸《ガラスど》をはずして、やっと、肩をくぐらすことが出来た。
下に、中沢総業の路地が見えた。一〇〇〇t野郎とポニーテールが入って行った部屋には、まだ明りが灯《とも》っている。
私は、いったん顔をひっこめ、陶製の水槽《すいそう》に足をかけて、下半身から先に窓枠《まどわく》を抜けた。高さは一メートル四、五十、足場らしいものはない。肱で躰を支え、ゆっくりと地面にずり降りた。下は、ぬかるんだ土だった。音もなく、私は、中沢総業の壁にへばりついた。
勝手口のドアを通り越し、アルミ・サッシの窓枠ににじり寄る。ブラインドの隙から、仄暗《ほのぐら》い室内がのぞけた。広い板の間に、熊の毛皮が敷いてあった。鎧櫃《よろいびつ》が部屋の隅に置かれ、日本刀と、菊水に関≠フ字を浮かした関東新生会の代紋を彫りこんだ石板が、その上に飾られていた。それを背に、事務机がひとつ、床にへたばった熊を取り囲むようにして、これも毛皮張りの応接セット、薄切り大理石で覆った向う側の壁には二階へ上がる階段、運送店の荷受けカウンターみたいな間仕切りがあり、その向うは暗闇だ。多分、玄関先から続く三和土《たたき》になっているのだろう。間仕切りの下には、スリッパが沢山重ねてある。
中沢は、こっちに顔を向け、肱掛椅子に腰かけていた。硝子テーブルの上に、フルフェイスのヘルメットが置かれ、GIカットとポニーテールの頭が、ソファの背に並んで見えた。
中沢が手にしているのは、朝日新聞の夕刊だった。高級クラブの女給|惨殺《ざんさつ》、犯人は自殺?′ワ段抜きの見出しが、ここからでも読める。アメリカ・ザリガニほどの言葉数で喩《たと》えれば、彼女の生業が女給≠セったことに変りない。
困ったことが、ひとつだけあった。声はおろか、室内の気配すら伝わってこないのだ。窓硝子は金網入りの防散タイプだし、窓枠は二重アルミときている。
私は、ドア框《がまち》の方へ、後退《あとずさ》りした。
上空に擦過音がした。見上げるより早く、何かが空から降ってくる。地べたに一転、そ奴《いつ》は弾《は》じけたように立ちあがる。人間だ。
「ヤロウッ! 何してやがる」人影が叫ぶ。
泥だらけの素足が、宙を蹴る。スウェイ・バックでそれをよけ、私は後方に跳んだ。
奴は、作業ズボンに黒いポロシャツ、手に青銅の花瓶《かびん》を握っていた。右肩をおとし、身構える。花瓶の細長い首をグリップに見たて、瘤《こぶ》のついた丸い底を、鉄棍棒《てつこんぼう》よろしく使おうという気のようだ。
ブロックとモルタルの覆い立つ両翼まで、両腕を伸ばせば届いてしまうほどの距離しかない。背にした崖までは二メートル、彼の出方を待つよりなさそうだった。
案の定、左足を前に間合いを詰めてくる。
対手《あいて》の息遣いがじかに伝わった。花瓶が空を斬《き》った。私は、左へ上体をひねり、奴の懐を狙った。
二階の窓を背に、腰をかがめたのが失敗だった。
鳩《はと》が羽撃《はばた》くような音が背後に聞こえ、頸筋《くびすじ》が痺《しび》れた。朱《あか》く熱いものが、肩から頭の芯《しん》へ、急速に氾《ひろ》がった。
二階にいた新手《あらて》が、飛び降りてきたのだった。
目の前が、真昏《まつくら》になる。膝《ひざ》が崩れる。後は判《わか》らない。再び、視界が戻ったとき、私は路地に尻をついており、アロハ・シャツに茶色のカーディガンをひっかけた男が、私を見下して立っていた。先に降ってきた男は、そ奴《いつ》の向う側で、ニヤニヤ笑ってこっちを窺《うかが》っている。
しかし、私の目が見ていたのは、そんなものではなかった。私が見ているのは、立っている男が握っている、二十二口径の自動拳銃だけだった。
「なめちゃいけねェな」奴は口をねじまげて言った。「どこの鉄砲玉か知らねェけどよ、鉄砲の弾丸《たま》なら、関東にだってあるんだぜ」
目が坐っていた。鼻翼の脇に、深い、黒々とした傷痕《きずあと》があり、口を開くと、それが歪《ゆが》んだ。ただ開かれているわけではない。奴の口は笑っているのだった。拳銃はコルト・ガヴァメント、基地の町のヤクザが、伝統的に扱い慣れているものだ。
「中沢に、聞くんだな。俺は西から来たんじゃない」
「ま、中へ入れや。それとも、真直《まつす》ぐドラム罐《かん》の中へ行くのが、お望みかい」
奴の後ろに、光が流れ出た。中沢総業の勝手口が、内から開けられたのだ。
中沢が、ひょいと顔をのぞかせ、あわててドアを締める。チェーン・ロックが外れる。再びドアが開き、ずんぐりした躰《からだ》を躍り出してくる。
「ドラム罐行きは手前だよォッ!」
彼は、拳銃を構えた男の衿《えり》がみをひっつかみ、後ろへ引きたおした。脇腹を思うざま蹴りこむ。男は、されるまま、顔を両腕で守って、うめくだけだ。
「オモチャ片手に気取ったこと言うにゃ、年季ってもんが要るんだ」
「だって、組長《オヤジ》さん」
中沢は、その口の端を、サンダルで蹴った。「そんな、つまらねェもん、とっとと片付けろ」
「こ奴《いつ》、こんな処で中を窺ってたんですぜ。素人《カタギ》の世界だって、不法侵入って奴だ」
また蹴った。歯が真赤に染り、口の中に溜った血が男をだまらすまで、蹴り続けた。
私は、起きあがり、拍手をした。「いい芝居だった。カーテン・コールはもういいから、幕にしてくれ」
中沢は、私の方に顔を向け、相好《そうごう》を崩した。顔を振り向けてから笑うまで、鼻白んだのは千分の一秒もなかった、しかし、鼻白んだことには変りない。ぞっとするような冷たい灯が、目の底にともった。
その灯を、もみ消し、例の老舗《しにせ》の若旦那《わかだんな》みたいな人当りのいい笑いを取り戻すと、彼は言った。
「|ハンチク《ヽヽヽヽ》が、つまらないことをしちまって」
「忍びこんだのは、ぼくなんだ。サンタクロースのアルバイトをしている」
「この家には、煙突なんて、ありませんぜ。――どっから、入ったんだい?」
「鉄柵の上端についてる感知器だろう。あんなものをあてにしているとロクなことはない。コードが外に見えている」
彼は、隣のバァの、硝子戸をはずした窓を見上げ、ひとりで頷いた。「明日にも言って、頑丈《がんじよう》な桟《さん》を入れさせねェとな」
後ろをむき直り、まだうずくまっている子分を蹴飛ばした。
「客人に詫《わ》びるんだ。――二階から降りるときは、俺に言え。何のために階段がついてると思いやがる」
二人は、私に膝をついて謝り、ベッドに向かう恋人たちのようにからまり合って、ドアの中に消えた。
「荒い扱いだな。組合があったらストを起こすぜ」
「悪気はねェんだ。若いから、血が余ってやがる。それに、ここのところ、ちょうどぴりぴりしていたもんでね。――わけの知れねェ麻薬《クスリ》が、街に流れこんでる。あんたも知ってのとおりな」
「君たちの流通とは違うって意味だね」
「俺たちゃあ、正業だぜ。そんなものは扱わないさ」
「西の方から、流れてるのか」
「こっちが聞きたいくらいだ。それより、何だって、玄関をノックしてくれなかったんだね」
「居ると判っているとき、居ないふりをされるほど厭なことはない」
「余計な気遣いですよ。――ま、おあがんなさい」
彼は油断なく、私の利《き》き腕を捕捉《ほそく》できる位置に並び、家へ召じ入れた。
15
部屋は先刻と変りなかった。ただ、二人の客が消えていただけだった。卓上に、フルフェイスのヘルメットもなかった。
私をソファに坐らせ、中沢はその正面の肱掛《ひじかけ》椅子に腰をおろした。
「捜査令状を持っているか、訊《き》かないんだね」
私は、煙草を取り出して咥《くわ》えた。
中沢が、その先っぽに、ライターの青い炎を、0・2秒で灯《とも》してみせた。アラン・ラッドより、いくぶん迅《はや》かった。
「あんたには、借りがある。また借りを作っちまったな。――正面からノックしてくれりゃよかったんだ」
私は部屋を見回した。荷受けカウンターの向うは、灯《ひ》を落とされた広い三和土《たたき》だ。丸に中≠フ字のマークを透かせた、すり硝子《ガラス》の引き戸の裏には、シャッターがぴったり降りている。一〇〇〇tとポニーテールが外へ出た様子はない。
「それじゃあ、その借財を返してくれないか」
私は、首筋を手で揉《も》んだ。目の真後ろに、疼痛《とうつう》が走った。「さっきまで、ここに坐っていた男と女だ。司城《つかさき》ってカミナリ族の子分だせ」
「カミナリ族? ずいぶん古いな。――あいにくだった。奴らはちょうど帰っちまって」
「おもてにBMWがまだ駐っている。この家の前で待ち伏せて、奴を締めあげることも出来たんだ。しかし、そうすると、この世界じゃ、あんたの顔に泥を塗ったことになるんだろう」
「そうなるかな」
彼は、卓上の喫煙セットから一本とりあげ、火を点《つ》けると、大量の煙をはき出した。
「こう見えても、けっこう古い世界だからな」
「もう一つある。さっき、ぼくはコルトの・二二をつきつけられた」
「おもちゃだよ。子供の、おもちゃだ。あ奴《いつ》は、あれで、なかなかの子煩悩《こぼんのう》なんだ」
「・二二のコルト・ガヴァメントなんて、モデル・ガンじゃあ売っちゃいないぜ。――それに、金属のおもちゃは、黄色く塗って銃口を塞《ふさ》がなくちゃいけない」
「あんたらしくないな、まるで、そこらの刑事《でか》さんみたいな言い草じゃねェか」
「そこらの刑事《でか》なのさ。――しかし、今言ったのは忘れてもいいことばかりだ。ぼくも、おもちゃなんかに嚇《おど》されたなんて、人に知られたくない。
どうだい?」
彼は腕を組み、しばらく、眸《め》を卓上に投げつけていた。それから、煙草を灰皿に押し潰《つぶ》し、髪の毛を抉《えぐ》った細長い禿《はげ》を、指でひたひたと撫《な》でつけた。
「おい!」首を階上へひねり、叫んだ。「雄一。純子《すみこ》を連れて降りて来いや」
階下に耳をそばだてていたのか、一〇〇〇tとポニーテールは、すぐに階段を下って来た。
私は、ソファを二人に空け渡し、事務机に立って行き、その縁《へり》に腰を凭《もた》れかけた。
肱掛椅子の中沢が、面白くなさそうに、私をねめあげた。
「坐ったらどうだ。椅子は足りてるぜ」
「この方がいいんだ。全員が見渡せる」
「この人ですよ。今、話していた人」雄一と称《よ》ばれた一〇〇〇t野郎が、顎《あご》でしゃくった。
「司城さんのとこ、例の件、探りに来たってェの」
「ああ」
中沢が、気もなさそうに頷《うなず》く。
「昨日、バルガス君にあったな?」私は訊《たず》ねた。「昔の知り合いがやってきたろう」
一〇〇〇tは、中沢の顔をそっと窺《うかが》った。
「いいんだ。話してさしあげろ」
「一昨日、こ奴《いつ》と二人で、本町のハンバーガァ屋にいるとこ、あのガキが入って来たんだ。古くっからある店でよ、俺が司城さんと|つるみ《ヽヽヽ》はじめた頃《ころ》から、出入りしてた店なんだ。午後の十一時すぎだった」
「清水裕子を探していたのか?」
「ああ。写真を見せられてな、ベイ・シティ・クォート≠フモーター・プールで写した、あの女の写真だった。見たこともねえって答えたんだ」
また、中沢の視線を盗んだ。
煩《うる》さげに、その目を睨み返し、中沢は落ちついた声で喋《しやべ》りはじめた。「言ったじゃねェか。信用出来る野郎に、気にするよう言いつけといたってな。若いのには、若いの――それに、この雄一はこれでも素っかたぎでな、性格もいい。うちの若いのじゃ、血の気もありすぎるし、新生会総家とのからみもある」
「司城とは関係ないのか」
「司城は、知っちゃいないさ。――おっと、少しでもこの雄一のことを思うんなら、奴には、俺とこいつのことを黙っていてくれよ。ありゃあ、骨っぽいところのある野郎でな、俺は好きなんだが、向うで俺が嫌いだそうだ」
中沢は、喉で乾いた笑い声をたてた。
私は、きちんと膝《ひざ》をそろえ、その上に乗せたヘルメットの髑髏《どくろ》を手の腹で磨いている一〇〇〇tに向き直った。
「すると、彼は、裕子の居所をそれまで知らなかったんだな」
「ああ。住所が変っちまったとか言ってたぜ」
「変じゃないか。バルガス君は、去年、あの女にエア・メールを送っているんだ」
「そんなこと知らねェよ。とにかく、血まなこで探していやがった」
隣に坐ったポニーテールに同意を求めて、彼は目線を巡らせた。彼女は、大きく、こっくりをして応《こた》えた。
「君は、彼女の居所を教えなかったんだろう」
「もちろんさ。――そうしたら、今度はヤマトのことを訊くんだ。どこに行ったら会えるかってね」
「ヤマトとつきあいがあったのか」
「俺はな。俺は顔くらい知っているよ。けど、あ奴《いつ》がこの街にいたころは、俺も司城さんも、あ奴《いつ》も、みんなガキだったろう。――知らなかったはずだぜ。それに、奴はヤマトとは言わなかったしな。――背がひょろっ高くて、薄汚い靴磨きって、そんなふうに言っていた。
どっちにしろ、俺が言わなくたって――本当だぜ、俺は女のことは、これっぱかりも言わなかった。しかし、あ奴《いつ》はいずれ、あの女、見つけたと思う。奴は、裕子って娘が、ベイ・シティ・クォート≠ナ働いてることは識《し》っていたんだ」
「ヤマトのことを吹きこんだのはあんたか」
私は、事務机から立ちあがった。
「ずいぶん無理をきいてさしあげたはずだぜ。刑事さん」中沢が、肩ですごんだ。たいした気魄《きはく》だった。
「理由は二つある。ひとつは、あんたが気にいったからだ。もうひとつは、この一件と俺が関係のねェことを知ってもらいたかったからでね。――誰にでも聞いてみろや。俺は、一昨日、この雄一から報《し》らせを受けて、うちの若い者に、そのお嬢さんを探しに来たって野郎を追わせたよ。東京ナンバーのワーゲンに乗っているって話だった。しかし、見つけたときは、結局、お嬢さんの家の前だ。それから昼すぎまで、交代で家を見張らせた。昨日の午後んなると、お嬢さんは、新婚気取りでスーパー・マーケットにお買物って報告があった。それで安心させられて、張り番を引きあげたって寸法だ。その後のことは、知っちゃあいないね。俺は、お嬢さんと口をきいたこともねェんだぜ。こんだのことじゃ、口ひとつ差しはさんじゃいねェ」
「なんで、そこまで、気にかけたんだ。そんなフェミニストには見えないぜ」
「あんたらぁ、スガ目で見るんだよ。それだけさ。――俺らにも、情ってものはある。淡口組の先代は男だった。そのお嬢さんが俺の縄張《シマ》内に住んでいる。万一のことがあったら、俺の侠《オトコ》はどうなるんだね」
「殺気だってたんだよ」一〇〇〇tが突然言った。「ベイ・シティ・クォート≠ヘどんな店だって言いやがるから、そりゃあ、この辺の店だ、高級って名がついても、変らねェとこは変らないって、俺は答えた」
「殴ったのよ」ポニーテールが、はじめて口を開いた。甲高いが、透明な声だった。きつい眸が私を、正面から捉《とら》えている。痩せた肩が、薄切りのババロアみたいに慄《ふる》えた。よく見ると、目の縁《ふち》はじっとり濡《ぬ》れていた。
「この人を殴ったのよ。どうせ、店に出てるような女だから、そんなムキになるなってこの人が言ったら、いきなり殴ったのよ。――ここらの女と一緒にするなってさ。あの娘は、ここらの女じゃないって。とくに、毛唐となんか寝るような女じゃないってさぁ。
そんな話、聞いたこともないわ。何年も、抛《ほ》ったらかしで、しかも、ドブ板なんかでさ。聞いたことないわよ」
「|ぶっとんでるの《ヽヽヽヽヽヽヽ》は確かだったよ」一〇〇〇tのごつい手が、ポニーテール嬢の肩を、やさしく抱いた。「こ奴《いつ》が、怒るのも無理はねェんだ。中沢さんが心配したのもさ。――判《わか》ってやれよ、刑事さん」
「名前を知っているんだろう。――フェリーノ・バルガスってのは、いったい誰だったんだ」
「知らねェよ」やけに、あっさり答えた。
「司城さんも知らねェって言っていた。俺じゃぁ、なおさらさ。街でうろうろしてて、ときどき話があっちまう仲間っているだろう。そ奴《いつ》をよく知ってる男の女《スケ》がいてさ、その女と出来ちゃった奴がまたいてさ、その出来ちゃった奴となら友達《ダチ》だとかさ――そういう知りあいってあるじゃないか。
奴が、一昨日の夜中に、ハンバーガァ屋へ入ってきたときも、すぐには思い出せなかったくらいさ」
私は、今日、何十ぺんめかの溜息《ためいき》を吐《つ》いた。出来るなら、アルコールの入った飲みものが御所望だった。しかし、ヤクザの家で奢《おご》られる一杯ほど、高い酒はない。
私は無言で立ちあがり、ドアに向かった。中沢がついてくる。鉄柵《てつさく》を開くためだ。またトイレの窓から立ち去るのでは、ヤクザの筋目でなくとも、礼義を知らなすぎる。
中沢は、鉄柵を鍵で開け、通りまで見送ってきた。
「何で神戸に、裕子のことを報らせなかったんだ」
私はBMWのオートバイを漠然《ばくぜん》と眺《なが》めながら、背後に尋ねた。
「盃代《さかずきだい》に使っているとお考えかね」
「神戸との盃は去年のはじめだったはずだぜ。時間がありすぎる」
彼は、両手でベルトの脇をつかみ、うつむいて喉をならした。「先月から、今の雄一も入れて三人ほどに、あの娘を看《み》させといたんだ。するってェと、変なことが知れた。ヤマトが、お嬢さんの世話やいてるってな。――酔っぱらったのを、家まで送り届けたり、一度なんざ、わざわざ鎌倉まで行って喫茶店でデートよォ」
「また、ヤマトか」私はBMWのリア・フェンダーに寄りかかった。「あんな男が、あんたの口にガム・テープを貼《は》れるのか」
「|あっち《ヽヽヽ》関係の刑事《でか》さんのくせに、意外と知らねェんだな。並の情報屋《ハト》じゃねェって、お教えしたはずですぜ」
「ヤマトには、妙な刺青《いれずみ》がある。ぼくは、あれと同じ刺青をしてた男を知ってる」
「俺も知ってるよ」
彼は腕組みをして、私を見据《みす》えた。下唇を突き出させ、何か考えているようだった。やがて、目がゆっくり笑いはじめた。
「なぁ。刑事さんよ。あんた、野田機関てのを知っているかね。――元海軍参本の野田中佐ってのを、終戦後、G2のウィロビーが雇い上げてな、横須賀《スカ》に事務所を出させた。表向き、進駐軍のために東京湾の海路図を作らせるってのが、その事務所の仕事だったが、野田ってのは、戦時中、対ソ専門で鳴らした情報佐官さ。オホーツクの神様って言われてな。――何をしていたか、判ったもんじゃねェ。
その組織に出入りしていた桜に碇≠ェ一人いたのさ。朝鮮戦争がはじまるころ、そ奴《いつ》は西の方へ流れていっちまった。――これは、週刊誌で読んだ話だ。それ以上のことは、俺も知らねェな」
「ヤマトには、どこへ行きゃあ会える?」
「今の時間ならベイ・シティ・クォート≠セ。奴は、あそこで仕事を締めるんだ」
「仕事?」
「靴磨きさ」中沢は、切れ込みのある口の端で、妙に晴れやかに笑った。
「あ奴《いつ》の商売が何だと思ってるね」
隣のバァで、扉が軋《きし》んだ。ホクロの女が、幾らか若い女と二人、両脇から黒人を支えて、ハッピー・ウィドゥ≠出てきた。
「ああら、ユウじゃない」
ホクロが、私に笑いかけた。
「生きてたの、そりゃあハッピーねェ」
16
絹織《シヤンタン》ではりつめた電話室だった。電話器は真鍮《しんちゆう》とマホガニーで作られていて、十円玉を入れるのさえ気がひけるほどだ。
私は、横須賀署防犯課のダイアルを回した。すぐさま、年寄りじみた声が出て、防犯課長を名乗った。私の連絡をわざわざ待っていてくれたのだ。ベイ・シティ・クォート≠ノ居ると告げると、帰り途《みち》なので報告書を届けると言う。私は、そっと受話器を置き、電話室を出た。
クラークへ煙草を買いに寄った。魔法のミニ・スカートをはいた女の子が、ガーターから燐寸《マツチ》を出して煙草に添えてくれる。平日には、もう少し多くの女の子たちが居て、それが品のいいベイ・シティ・クォート≠ナの一番色っぽいサーヴィスなのだろう。ホステスとは、また別だ。『本物のカクテル・ドレス』を着て、『ベイ・シティ・クォート流美容術』を施したホステスは、煙草を買っただけで、スカートの中など見せてくれはしない。日曜に出てくるわけもない。
そっちから客を択《えら》べる店なのだ。どんな方が発行なさったものかは知らないが、由《より》のIDカードがなかったら、入ることさえ出来なかったに違いない。
私は、回廊を抜け、バァへ入る樫《かし》のドアを開けた。右手のダンス・フロアは、ずっしりとしたカーテンに仕切られ、ビロードを巻いた鎖が張り巡らせてある。回廊からフロアへ直接入るドアも、ぴったり閉ざされ、カーテンがおちていた。灯《あか》りが入っているのは、くろぐろと磨きこまれたバァ・カウンターだけで、そこもがらんとしている。閉店が近い。ジョン・ライアル氏がそれほど趣味にこだわらない人間ならいいのだが、と私は思った。彼は、開いたばかりのバァで飲むのが好きなのだ。
カウンターでは、痩せた平服のアメリカ人が一人、ギムレットを飲んでいた。若いくせに、痛々しいほどの白髪《はくはつ》だった。もとでのかかったディナー・ジャケットを着て、空中に何かをさがすような眼差《まなざし》を投げている。バーレスクのハムレットだ。
私は、彼のひとつおいた隣りへ腰をかけ、ジョン・ライアル情報将校殿だろうか、と訊《たず》ねた。
「カリフォルニアから来たんだ。民間人だよ」彼は頬を撫でながら答えた。そこには細かな傷跡があった。
一言|詫《わ》びて、私はウイスキーを注文した。
黒人のフロア・マネージャーが入ってきた。私と隣りの男を見較《みくら》べ、私の方へ来客を告げる。
クラークへ出て行くと、初老の男が、全くバツの悪い様子でたたずんでいた。
彼は、姓名と階級を名乗り、二つ折りに畳んだ大判の封筒を差し出した。「報告です。何せ記録が残っておりませんで。記憶をたよりに書かざるを得ませんでした」
ゴマシオの髪はヤニに汚れ、声と競い合うように|むさい《ヽヽヽ》服をつけ、ポケットがパラシュートでも丸めこんだように脹《ふく》らんでいた。彼は、その中からちり紙をみつけ出し、洟《はな》をかんだ。
「所謂《いわゆる》不良でしたが、気のちいさい人好きのする若者でした」
踵《かかと》をかちっと鳴らし、彼は出て行った。制服でないと似合わない男なのだ。後ろ姿にだけは毅然《きぜん》としたものが感じられる。私は、満員電車の中で、年寄りから席を譲られたような気分になった。
彼は敬礼をして行ったのだ。
防犯課長の姿がカーテンの影に消えてしまうと、私は背後のクラークに立っていた黒人のフロア・マネージャーにむかって尋ねた。
「ライアル氏は遅すぎるね」
「お待ちなんですか。ライアルさんは、今日はお見えになりませんよ」
「どこかへ行っちまったのか」
「座間のキャンプです。昨日|発《た》たれて、一週間は帰ってこないそうですよ」
「昨日?」
「そうですよ。会議でね。何の会議か知りませんがね。何せ、NISだ。一応は秘密任務ですから」
黒人は奇妙な笑いかたをした。青白い歯と、同じく白いタキシードが好|一対《いつつい》だった。足が長く、タキシードが、ウェット・スーツのように体に馴染《なじ》んでいた。この着熟《きこな》しを日本の俳優が見たら、ずいぶんとがっかりするだろう。そう言えば、もう一人のフェリーノ・バルガスを演じた俳優も、あの映画の冒頭で白いタキシードを着ていた。ラスト・シーン、またも彼は、白いタキシード姿で浅丘ルリ子と踊る。エンド・マークに音楽がかぶる。
私は、ハッピー・エンドを獲得出来なかった本物のバルガス君の、IVYカーディガンを想《おも》った。
バァへ戻り、酒を空け、もうひとつ頼んだ。白髪のアメリカ人は、ギムレットの空グラスをふたつ残し、チップを拇指《おやゆび》で弾《はじ》いて出て行った。バァは私一人になった。防犯課長から受け取った封筒をひらいた。
目新しいことはひとつとして書いてなかった。書面に登場する彼は、警察をてこずらせるほどには不良な、ただの危っかしいオートバイ好きの少年だった。
昭和四十三年、彼の姿は、一年ほどこの街から消えていた。一年目、裕子が一度神戸へ連れ戻されたのと時を同じくして、彼もこの街へ戻ってきた。昭和四十四年の春ころだ。その時、彼は補導されたはずだと言う。『遺憾|乍《なが》ら当該記録は紛失しております。当記録のみが、保管|綴《つづり》から消失している関係上、厳重なる調査が必要と思われます』
それがどうしたと言うのだろう。もし誰かが、作為的に書類を抹殺《まつさつ》したのなら、厳重な調査をしてもらおうではないか。しかしどちらにしろ、今のところ『姓名住所等は失念』なのだ。彼がバルガス君だったとしても、それは七年前のあやふやな記録の一ページにすぎない。そしてその記憶によれば、補導された理由は、ガソリン・スタンドからガソリンを失敬しようとしていただけのことなのだ。
私は便箋《びんせん》を細かく千切り、少しずつ灰皿の火にくべていった。最後の一山が燃えつきるころ、ヤマトが木箱を下げてバァへ入ってきた。カンカン帽は変らなかったが、おそろしく派手な赤い縦縞《たてじま》のジャケットに着替えている。
「靴が汚れているよ、あんちゃん」
高い上背を私に折り曲げ、木箱を下へ降した。「船が入ったってェのに、何てェ景気だい」
「会いたかったんだぜ。ヤマト」
「情報《ネタ》がいるんかいね? なら、靴磨きの方はサーヴィスだもんね」
「昔話も売ってくれるかい。六年前の話だぜ」
ヤマトは、私の足許《あしもと》にしゃがみ、木箱の横を開いた。裏蓋《うらぶた》を半分に折り返すと、そこが靴台になっていた。私が靴を乗せ、彼はその足の位置を正してクリームを塗りはじめた。
私はヤマトの眉毛の中から刺青《いれずみ》をみつけようと目をこらした。
「その頃《ころ》、女を探したことがあったろう」
「古い話だな。第一、人を探すのも俺の仕事のうちだぁ。忘れちまったね」
「その刺青や小指の話と同じようにか」
「ああ、忘れたもんねェ」
「静岡のヤクザ者が、よく眉に墨をいれる。しかし、君のみたいに細長くはない。淡口組の先代がやってたよな、ヤマト。狩野喜一だ。君と同じ刺青をさ」
沈黙。ヤマトは、ブラシを動かし続けた。やがて、右の靴を仕上げた。磨き布をパンと鳴らし、私の足を乗せかえた。
「君のアクセントはどこのものだい? 室武さん」
「神戸さぁね」彼は言った。大きな溜息《ためいき》が背をたわめ、"BOOTBLACK-YAMATO" の商標がそこで震えた。
「このヤマトさんが、あんたの正体知らんと思ってるんかいね? あんちゃん」
「刑事が来たのか」
「うんにゃ、来やせんよ。室武なんてェ男は、もう先《せん》に死んどるもんね。警官《マツポ》にゃ、由ちゃんのことも話さんかった」
「何故《なぜ》ぼくに話した」
「今日んとこは、由ちゃんにゃあ子守りがいるからねェ。あの娘は、気に病んでたァ。あんちゃんならなんとか出来なさると読んだんだな。――あの娘は、いい男の言うことしか信じねェ」
「犯人を挙げさせたくないようだね」
「犯人? 今犯人て言ったね、あんちゃん。誰が何の犯人だってェの? こいつがこれの犯人だって決めなさるのは、あんたらの勝手な言い草ってもんと違うんかいね。
そんな与太で、ひっかき回されんのぁ、かなわんもんねェ」
「君をか、狩野をか、それとも狩野の一人娘をかい?」
「みんなをさね」
「フェリーノ・バルガスって男が、昨日、君を尋ねてこなかったかい。それくらい教えてくれよ」
「俺は、人からものを聞かれるばっかしだもんね。こっちから訊《き》くこたぁない。たとえば、あんちゃんが何しようとしてんのかぁなんてェこと、俺はいっぺんだって聞きゃせん。
ここんところだきゃあ、忘れねェでもらいたいんでな」
彼は手を休め、私をねめあげた。息を大きく吐き出し、頭を振った。「来んかったよ。来てたら、なんぼ良かったかなぁ」
「郵便局だな?――そうじゃないのか。去年の暮、バルガスは、局留めで裕子あてにエア・メールを送った。仲介は、あんたがしたんだろう。多分、彼は、局員から、あんたの人相を聞いて探していたんだ」
「私書箱だよ、あんちゃん」
「私書箱?――六年間、あんたは伝書|鳩《ばと》までしてやってたのか」
「四年前だぁね。裕子ちゃんが、私書箱を持ったなぁ。いや、もっと前かもしんねェ。俺が会ったころぁもう持っとったァ。何のために、そんなもん持ってなさるんか、よう教えてくれんかった。四年前から、俺に、あの郵便局に金ェ払うよう頼みなさった。週に三度は、開けてみるようにってなぁ。ちょくちょく開けてみねェと、私書箱っちゅうのは取り消しんなっちまう」
「月に何度ぐらい、手紙は来ていたんだ」
「いっぺんもだもんねェ。――なぁ、あんちゃん、四年間、いっぺんもだ」
私はグラスを空けた。溜息を吐《つ》くたびに一杯ずつ空にする決心だった。
「四年間――うつろう日を待ち、うつろう夜を待ち≠ゥ」
「いんやぁ」ヤマトは、私を見上げ、ヤニ色の笑いを口許に零《こぼ》した。「裕子ちゃんが、私書箱のことを覚えとったなぁ、はじめの一年くれェだったなぁ。二年目ェなると、俺ぁ廃棄にするかって聞いたくれェだ。あの娘は、そのことォ忘れてなさった。年二千円かそこら――とにかく、たいした金じゃねェ。このまんまにしとこうって、そう言いなさる。今度、あたしがすっかり忘れてたら、何んも言わんと、黙って私書箱ォ取り消してくれってなぁ」
私は、ロマンティストの靴磨きが、私の靴をてかてかにして行く様を見下し、溜息を吐き、新しい酒を注文した。
「名義は、裕子ちゃんだったなァ。住所は、大昔、住んでなすった所。――四年、空っけつが続いてよ、去年の暮だぁ、俺が開けに行ったらよぉ、局からのメッセージが入っとった。何だろうォ思って、局員のところへ聞きに行ったら、国際電話が入ったァっちゅう話さね。何でも、パリから、その私書箱が、今でも裕子ちゃんの名で残ってるかどうかってェな問い合わせがあったんだ。
郵便局が俺んこと覚えていたとしたら、そんときのせいだろうて。四年間空っけつが続いたもんだもんね。局としても尋常にゃ思えんかったろうて」
「手紙を読んだね、ヤマト」
「そんなことォするような顔ォしとるかねェ、あんちゃん」
「君は、彼女の目付けだったはずだぜ。四年目にはじめて来た手紙だ。誰から来た手紙か、そのくらいは覚えているだろう」
「フェリーノ・バルガス。――妙な名前だったしねェ。それに、ま、近くに湯気吐いてる薬罐《やかん》があったってェんでね。――しかし、なんだなぁ、書き出し見たってだけで、すぐ、封しなおしちまったもんね。金がないうえに、国籍もなくってェ、どうにも帰れんかった――そんなような、くりごとが書いてあった。ラヴ・レターってェな代物《しろもの》だァ。俺にゃぁ、よう読めんかった。こんなことォなるくれェなら、ちゃんと読んどくんだったなぁ。――何んごとも、中途半端ァよくねェもんな」
「あの家はどうだ。裕子が住んでいた家だ。あれは君が買ってやったんだろう」
「あの家は、俺が狩野の親爺《おやじ》から預かってた金で買ったんだぁ」
「先代は、娘を捜してなかったのか」
「一回目は捜したよ。俺も捜した。
けどもねェ。昭和四十五年の夏だったっけなぁ。あんときゃぁ、組長《オヤツ》さんもあきらめたんだろうて。第一、あんときの裕子ちゃんは、ちぃと変になってたぁ。最後にみつけたときゃ、もっそり黙りこんじまって飯も満足に食わねェほどだ。狩野の親爺としては、それが、自分が無理押しした趾取《あとと》りのせいじゃあねェかって、気に病んだってェわけだ。あれ以上、代紋《カンバン》のことで、娘ェわずらわすこたぁ出来んかったろうよ」
「それから家を買うまで、二年間どこに居たんだ」
「あっちこっちねェ。組長《オヤツ》さん、俺あてに金送ってやったもんね。その金で、狩野の縁筋の縄張《なわばり》じゃねェとこ、あっちこっちしてた。
裕子ちゃんは、外国行きたがってねェ。どうしても、外務省がパスポートくれねェで、結局は|だめ《ヽヽ》ェだったが。何度も裁判所へ足ぃ運んでなすった」
「外国へは、恋人に会いにか」
「恋人に会おうってかい!? さぁねェ。何でも、調べたいことがあるってェ話だったぁ。恋人ってェ様子にゃ見えんかったもんねェ」彼はちらりと、私を見上げた。
顔のどこかに、淋しそうな笑いがあった。どこにあるのか、私には判《わか》らなかった。
「じゃ、須田って名も聞いてないな」
「知んねェなぁ。月々の金ェ届けるっくれェしか会ってねェからねェ。
狩野の親爺は、毎月のもん以外にも、三千万の金ェ俺に預けて、こう言ったもんさね。長かねェ命だ。もしもんときゃあ、この金を娘に頼むってよォ」
「その金で、家を買ってやったんだな」
「ああ、そうともよォ」
「家を買ったときには、もう何か調べに外国へ行こうなんて気はなくなってたのか」
「そうと違うんかいねェ。いくら左翼《ヒダリ》の前科《マエ》持ちだぁ言うても、六年もありゃパスポートぐらい出るもんね」
「狩野に信用されてたんだな、ヤマト。いったい何があったんだ」
「いくら、地獄耳のヤマトさんだって言ってもよ、知らねェことのひとつふたつはあるもんだねェ。あんちゃん」
彼は道具をしまい、立ちあがった。カウンターに右手をのせ、その小指にあたる部分をじっと見つめた。「あの娘《こ》ォ見るとよ、あの娘のおっ母さん思い出してなんなかったねェ。死んだなぁ、もう十何年前の話だが」
視線のおちている所に、小指はなかった。しかしヤマトは、その小指が今ある場所がどこか知ってでもいるかのように、じっと見続けていた。
「間違いの多い娘《こ》だったねェ。間違いをそのまんま肚《はら》ん中ぁ溜《た》めて生きている女だった。何んから何んまで、あの娘のおっ母さん、そっくりだったもんねェ。――昔の話だよ、あんちゃん。俺にも、見るような夢がまだあったころの――昔の話だぁね」
靴は両方ともぴかぴかだった。私は一万円札を差し出した。
ヤマトの口のはたが、ちいさく嗤《わら》った。
「釣銭《つりせん》がねェよ、あんちゃん。俺ぁ靴しか磨かんかったぜ」
ヤマトを見送りがてら、私もベイ・シティ・クォート≠出ることにした。バーテンダーが入口まで付いてきて、私たちの背でシャッターを降した。
だだっぴろいモーター・プールを仄明《ほのあか》るくしていた天幕庇《マーキー》の灯りが、いっせいに落とされた。すると、片隅のちいさな燈火《とうか》が、急に目立った。ぽつんと駐った金色のベンツの車内灯だった。ドアがあけ放され、先刻の黒人が半身を運転席に乗せている。
私はヤマトと別れ、ベンツの方へ近付いて行った。
黒人は、ハワイの風物誌をひととおりプリントした、へんてこなジャケツに着替えていた。私の足音を聞きとめ、車内灯に翳《かざ》して読んでいたカードをダッシュボードにしまいこむ。素早い身のこなしで上体を起こす。上着の右肩に椰子《やし》の木がさわぎ、左右のポケットの上ではハワイ娘がフラ・ダンスを踊った。
彼は、ニッと白い歯をむきだした。
「ライアル大尉のお友達でしたね。|自衛隊の方《JAネイヴイ》?」
「|まあな《メイビイ》」
黒人の爪先《つまさき》がじりっと一歩、こちらへ忍び寄る。白い粒よりの歯が、ますます大きく笑う。ぶらぶらさせた両手は、獲物《えもの》を見定める鱧《ハモ》のように、ぬけめなく働いていた。「何か御用でしょうかね?」
「ライアル氏とは親しいようだな」
「親しいと言われりゃあね。そうかもしれない」
「少し聞きたいことがあるんだ」
私の上手《うま》くない英語が、細かいニュアンスを伝え間違ったのだろうか。黒人の目が窄《すぼ》まり、虹彩《こうさい》に昏《くら》い火が点《とも》った。上着がざわめき、ハワイが揺れる。サーファーが、袖口《そでぐち》の方から押し寄せた波の上から、落ちそうになる。するどいもう一歩を、爪先が決めた。
「あんちゃん! ナイフだ」国道の方から、ヤマトの声。
黒人の手の中で、何かがぱしっと爆《はじ》けた。光が宙を切る。全身をバネに、うしろへ反りかえる。私が立っていたあたりの空気が、音をたてて閃《ひら》めく。
黒人は前かがみに身構え、ぴたりと静止した。右手に四・五インチの飛出しナイフがひかっている。
私は踏みこみ、思いきり上体を沈めた。頭上を、金切音がかすめる。肘《ひじ》をつき、体を倒し、両足をぶん回す。黒人のむこう脛《ずね》をとらえた。彼はバランスを崩した。私はのびあがり、彼の脇腹を蹴りあげる。一回、二回、三回目までもちこたえ、ナイフを持った手をめちゃくちゃに突き出してくる。四度目の蹴りはツボに決った。
黒人は倒れた。私は起きあがった。靴底で、ナイフを右手ごと踏みつぶした。間を入れず、もう一方の足で払うと、ナイフは車の下を潜《くぐ》ってどこかへ飛んで行った。
黒人の背中で、赤いハイビスカスの花が烈《はげ》しく動いていた。荒い呼吸をアスファルトがはねかえしてくる。
私は、服のよごれをはらった。どこも斬《き》られていないようだった。のびている黒人を押し退《の》け、ベンツの運転席に頭を入れ、ダッシュボードから彼が見ていたカードを探し出した。カードではなかった。葉書くらいの大きさの厚紙にセロハンを貼《は》り合わせ、二枚の紙の間には白い粉がびっしりつまっている。
「なるほど、NISとはお友達なわけだ。――ヘロインか?」
「俺は民間人だぞ。忘れるな、俺は民間人だからな」
国道に面した生垣のむこうに、ヤマトが見えた。私は手を振って礼を言った。木箱を下に降し、両手を腰にあてて立ち、遠すぎてよく見えないが笑っているようだった。
「民間人なら、日本の警察だな」
私は、黒人を起こし、アスファルトの上にむりやり正座を組ませた。彼は両手をひろげ、マリア様に悪口を言っていた。
「聞きたいことがあるんだ。ことによったら、こいつのことは忘れてしまうかも知れないぜ」私は厚紙の袋をふった。「ヘロか?」
「|LSD《タヴ》だ。きれいなもんだぜ」
「そのビジネスのおかげで、NISに詳しいんだろう。さっきNISの会議がどうしたとか言ってたな」
「内容なんて知らねェよ。ライアルがそう言ってただけだ。奴から情報は引きずり出してたが、別に金を払ってるわけじゃねェ」
「昨日、座間へ発《た》ったそうじゃないか。じゃあ昨夜のパーティで裕子を指名したのは誰だ。指名を受けて、パーティに出させたろう。そういう手配はフロア・マネージャーの仕事のはずだぜ」
「一度、指名して、それからまた電話があったんだ。夜の七時だったな、会議があるんで、来れなくなったってな。しかし、前の日も休んだし、あの娘は売れっ子だから……」
「おまえは口を噤《つぐ》んでたんだ。裕子を店に出そうってな。ライアルは、そうとは知らず、電話で裕子にエクスキューズを入れようとした」
「何があったんだ!? 俺は何も知らんぞ。あの娘《ドール》とはロクに口をきいたことがねェ。有色人種《カラード》なのに、俺を馬鹿にしてよ」
「ライアルは、昨日行ったきりか」
「いや、行ったきりじゃねェ。今朝早くにキャンプのヘリ・ポートで見たぜ。座間へヘリでトンボ返りするところだった。例の事件でよ。あのガキがベースで死んだろう?」
私はLSDの袋を左に持ちかえ、ポケットからバルガス君の写真を出した。黒人の目にとまるところまで持って行き、燐寸《マツチ》を点けて写真を照らした。「会ったことがあるな。こ奴《いつ》だよ。カーディガンを着てたはずだ」
黒人は頭をふり歯をならした。またマリア様を罵倒《ばとう》する。
「知らねェよ。マリア様に誓って知らねェ」
「今、彼女の悪口をたれたばっかりじゃないか。――こ奴《いつ》だよ。知らんはずはない。シンジケートの殺し屋が、この街でおまえ以外の誰を頼るんだ!」
「|殺し屋《ヒツト・マン》?」彼の顎《あご》がぶるぶる震えた。「知らなかったんだ。ガキだしよ。それに、俺はL・Aとは関係ねェよ。南方から馴染《なじ》みのマリーンが運んでくるブツを小口で商売してるだけだぜ」
「来たんだな」
「ああ、店へ来たよ。うちの店の前で撮ったユウコの写真を持って尋ねてきた。百ドルだぜ。教えねェって手はねェ。おととい、店を締めようってときんなって、やってきやがった。もちろん拳銃《ガン》なんか持ってるたぁ知っちゃあいなかったんだ。シンジケートの|殺し屋《ヒツト・マン》だなんてよォ」
「こ奴《いつ》が死んで、何故《なぜ》ライアルが帰ってきたんだ」
「CIDに呼ばれたんだと。麻薬のことで、CIDもナーバスになってるんだ。おねんねの最中CIDに呼ばれて、夜明け前にいったん帰ってきたんだ」
「朝、おまえが会ったのは何時ころだった?」
「九時かそこらだ。いそいそ、ヘリに乗って飛んでっちまった。蒼《あお》い顔でよ、なぁに蒼い顔は早起きのせいじゃねェ。いるんだよ、座間にも。口紅をつけた少尉がね」
夜明け前から朝九時まで。時間は充分にある。前夜七時の電話でバルガス君に呶鳴《どな》られたのを、気にしていたのかもしれない。彼が、ボストン訛《なま》りで一一〇番したことに間違いはないだろう。
「あんちゃん」
遠い声に振り返ると、ヤマトはまだ同じ所に立ち、さかんに国道の一角を指さしている。はずれの方から五、六人のアメリカ人が白黒とりあわせて歩いてくる。大分酔いの回った足取りだ。
気をとられすぎていた。
熱い衝撃が下腹に破裂した。黒人が、立ち上がりざまの頭突きをくれたのだ。私は後ろへふっ飛んだ。背中が固いものを感じ、肱《ひじ》が痛みを知った。
黒人が私の上へ覆《おお》いかぶさってくる。黒い右拳《みぎこぶし》がひかれる。何人かの足音が、アスファルトを伝ってくる。一発、顎へ入った。頭がじんとしびれた。アスファルトの足音が早く、大きくなる。
私は手を動かし、厚紙の袋を足音の方へ抛《ほう》り投げた。
「|LSD《ウインドウペインズ》だぞ!!」
何人かの足音が乱れた。遠くで歓声が湧《わ》く。私を押えていた黒人の手がゆるんだ。私は、彼を跳ねとばし、起きあがる。後ろも見ずに国道へ走る。しばらくしてふり返ると、白いカードみたいな袋を奪いあう五、六人が、天幕庇《マーキー》の下でもつれていた。黒人の支配人がその中へ飛び込んで行く姿がちらりと見えた。歓声が、ひときわ大きく変った。
国道ではヤマトが、明りのついたタクシーの扉に凭《もた》れて、待っていた。私のために停めておいたようだ。私はそのタクシーに飛び乗った。
「さっきの万札で、この場ぁまぁるく収めてェとは、思わんかいね。あんちゃん」ヤマトが手を差しのべてくる。
「どう丸く収まるんだ」
「あんちゃんは、ここに居なかった。――あの騒ぎにS・Pが乗り出してくるかも知れんもんねェ。日本人は一人もおらんかったって話にしたかぁねェかね」
「プロだな、ヤマト。さすがだよ」
「なあに、この世の男にゃあ、プロと莫迦《ばか》の二種類しかおらんってねェ」
私は、ヤマトの掌《てのひら》に、一万円札を乗せた。
「プロも馬鹿のうちじゃないか?」
タクシーが走り出すと、ヤマトは木箱をかつぎ直し、ベイ・シティ・クォート≠フモーター・プールへ、ゆっくり入って行った。
17
横須賀グランド・ヒルにタクシーを乗りつけ、私はフロントから由《より》を呼んだ。ついでに、外線電話をとり、中沢の事務所にかけて、ベイ・シティ・クォート≠フマネージャーが、麻薬を扱っていると教えてやった。こっちの名は、言わなかった。
それから、誰も居ないロビーへ行き、ソファに埋もれる。私の体は、砂鉄で出来ているようだった。殴られた顎《あご》と下腹は、熔《と》けた鉛だ。しかしどうしても、由とベッドの待っている部屋へ行く気にはなれない。象を持ちあげる決意で煙草をくわえ、火を点《つ》けた。今の電話が、どんな結果をひきおこすか、それさえ、考えるのが面倒なくらいだった。
私は、バルガス君を想《おも》っていた。
オートバイが好きだったバルガス君。スワローズのファンで、ウィスパー・ノットを口笛で吹けたバルガス君。ロシア製の拳銃を持ち、いかさまハーヴァードのカーディガンを来て帰って来たバルガス君。
煙草や服を変えなかったからと言って、六年間、変るものは変ってしまうのだ。人は寝てばかりいられない。
六年して、彼は私書箱に手紙を出した。そのころ、須田もパリへやってきた。何故《なぜ》、それほどの月日が必要だったのだろう。彼一人が、どこかで、冬の熊《くま》のように眠り続けていたとでもいうのだろうか。
由は遅かった。私には予感があった。エレヴェータに乗り、部屋へむかうことにした。ノックをして、ノブを回すと、ドアは軽く開いた。
これが流行のベッド・カヴァーだと言われたら、そうか、と思ってしまったろう。しかしベッドの上に敷きつめてあるのは、本物の一万円札だった。少なくみても、三百万はある。
由は、絨毯《じゆうたん》の上にあぐらをかいて坐っている。短いスカートが腰までたくしあがり、花紺青《はなこんじよう》のストッキングに包まれた脚がまる見えだ。不思議そうな眸《め》で、私をすくいあげる。
私は部屋を横切り、窓ぎわの椅子に坐った。ガラスの小卓には、例のズック鞄が、口をあけていた。そ奴《いつ》を膝《ひざ》に乗せ、小卓を足乗せ代りにする。
「何で気づかなかったんだ」私は言った。「口紅を欲しがったとき、気がつくべきだったな。女の子が鞄を持ってるんだ。口紅を忘れるはずがない」
「ねェ、お部屋で御飯たべちゃったよ」
「そんなこと、言わなくていい」
「このお金、どうしようか考えてたの。待たせてごめんね」
ベッド・サイドの電話が鳴った。私は、とりあわず、鞄をひっくりかえした。一通の書類と、写真が三枚、膝の上に降ってきた。電話は、まだ鳴り続けている。私は、仕方なく受話器をとった。
「おっと、尾《つ》けたなんて思わんでくれよ。二村さん」有元の声だ。
「俺もこのホテルなんだ。女なしで泊まるなら、ここしかねェ。そう踏んでね、試してみたんだ。本名で泊ったのは危《ヤバ》かったな」
私は電話を叩き切り、大急ぎで、ベッドに散りしいた札を鞄へつめこんだ。やはり、三百万円はある。全部バリバリの新券だった。一万円札を片付けおわると、由にコートを着せ、私たちは部屋を出た。廊下をはずれまで歩き、階段を使って地下の駐車場へ出た。半地下の出入口が道路に面し、ホテルのファサードより一段低くなっている。駐車係のボーイにチップをはずむ。誰にも気がつかれずに外へ出られた。
風が真向いから吹いていた。海へむかって歩いているのだ。駆逐艦特有の一本気な汽笛を、風が拾ってくる。坂を下りきり、国道を渡ってさらに行く。夜気の奥底に、天鵝絨《ビロード》のような海がひかった。すぐ岸壁に行きあたる。そっけない鉄柵《てつさく》に桜をあしらった、さみしい岸壁だ。私は、太い鉄柵に腰をひっかけ、鞄の底にあった写真と書類をとり出した。
一枚はベイ・シティ・クォート≠フ入口で写した裕子の写真だった。黒人のフロア・マネージャーが見せられたものだろう。もう一枚では、裕子と平服のアメリカ人が、熱っぽく腕を組んでいる。カレッジの人気者と言った金髪の万年青年だ。
三枚目には、中央から上はしにかけて、奇妙な裂け目があった。写っているのは、同じ金髪の男だ。軍服を着て口許《くちもと》をほころばせ、片隅に裕子への歯の泛《う》くような献辞が添えてある。サインは『君の奴隷、ジョン・ライアル』。
「この切れ目は何んだ?」
由は、長い沈黙に馴《な》れてしまったようすで、しばらくもじもじしていた。「お姉ちゃん家《ち》の壁にね、入ってすぐのとこ、包丁で突き刺してあった。あたし、ひっさばいて持ってきたの」
「七時の電話のあとで、部屋中を荒しまわっていたって言ったね。この写真をさがしてたんだな」
「うん、そうだと思う。でも、包丁突きたてるなんて、ひどいよ」
私は、IDカードをポケットから探り出し、由に返した。
「昨日君はこ奴《いつ》に使ったね。何故《なぜ》、ぼくに嘘をついた」
「嘘なんかつかないもん。少しはしょっただけよ。
あたし、あの男の子飛び出してきて、ワーゲンが行っちゃうと、お姉ちゃん家《ち》に入った。入口んとこでその写真|め《ヽ》っけて、でも怖くて中へは入れなかった。
で、タクシーの中。次に気がついたときはね。――タクシーがゲートの信号で停ると、あのワーゲンが検問にひっかかってて、ダニーと言いあらそってたの」
「それで、タクシーを降りたんだ」
「ううん。ゲートのダニーはあたしの|お客《レインボウ》だもん。むこうから気付いて、あたしに声かけた。行ってみると、あの男の子がジョンに会わせろって頼んでるの。
あたし、かわいそうになっちゃったんだ。何でかな? よく判《わか》んないや」
「ダニーに頼んでやったんだね」
「うん。百ドルでO・K。で、ワーゲン入ってって、あたし何となく心配《ロウ》。だから、歩いて後ついてったの。
将校ハウスの前まで行くと、ワーゲンが駐ってて、あの男の子、中にいた。どのくらいかなぁ。――三十分くらいかなぁ。車じっとしてた。ジョン、家にいなかったのね。そしたら『ユダの馬鹿』って叫び声がした」
「|スダ《ヽヽ》じゃないのか」
「そうかもしれない。あッ、そうか。あたし、今まで、バイブルの悪者だとばっか思ってた。だって、車走り出すのほとんど一緒だったもん。すぐB‐6の突堤へ走って行っちゃったの。あたし、歩いてって、二十分くらいかかって、突堤の先っぽでワーゲン見つけたよ。近寄ったら、左っかわのドア、ひとりでに開いちゃって」
彼女は口を噤《つぐ》んだ。何かに耐えているようだった。「あたし――ほんとよ。そのときは、もう」
「いいんだ。彼は自分で死んだんだよ。拳銃はどこにあった。君が弄《いじ》ったんだろう」
「うん。だって、拳銃《パチンコ》がコロンて出てきちゃったんだもん。あたし、目ェつむって、拳銃《パチンコ》ほっぽり込んで、ドア締めたの。バタンって音したとたん、車が勝手に動きだしちゃったの。海に」
「ハンド・ブレーキが甘かったんだよ。君のせいじゃない。鞄はどうしたんだい?」
「そのとき、車が海に落ちちゃって、その鞄に気付いたの。ドアから転げたときは、判んなかった。
お金ほしかったんじゃないもん。本当。怖かっただけ。みんな、あたしのせいみたいな気がしてさ。――ゲート、入れてあげたの、あたしだし。
でも、あの男の子、この街の子でしょ。気持、なんとな|し《ヽ》判った。だって、ジョン、お姉ちゃんにとってのただのボーイ・フレンドでも、あの男の子には、やっぱ『占領軍様《パワー・ホワイト》』だもん」
「ボーイ・フレンドか。――たしかにそうだね」
私は、由の腕を軽く掴《つか》んだ。彼女の背後には、コンクリートを根の所だけ抉《く》りぬいて、灌木《かんぼく》が並んでいた。その一本の影に黒くうごくものがあった。「出てこいよ。夜桜見物にしちゃあ季節はずれだぜ」
影から、馴染《なじ》みになったチェシャ笑いが現れ、その笑いのむこうから有元が出てくる。笑いが歪《ゆが》んでいるのは、私のパンチのせいだ。唇が青黒くはれている。
「ガキが生れてね」彼は言った。「それを伝えたくてさ。立ち聞きなんかするつもりはなかったんだ。あんな風に逃げられりゃ、追っかけたくもなる」
「子供が生れたのォ」由がはしゃいだ。「男の子? 女の子?」
「男だ、すごくでかいぜ。四千二百だ」
彼は私に寄ってくると、三枚の写真を取りあげた。ライターを点《つ》けて、相撲番付の下の方を読むような目付きでながめていた。
「そういうわけだ。君以外にもがっかりした奴がいたろうな」
私は手に残された書類をひらいた。英文の書面だ。大部分の固有名詞は数字とアルファベットを組んだ暗号になっている。いくつか、知っている暗号名もある。フィリピンの回教徒ゲリラが、アラブの日本赤軍にフェリーノ・バルガス同志を紹介したものらしい。
「破けてるのをのぞいて、後の二枚は須田がバルガスに渡したもんじゃねェのか」写真を私におしもどし、有元は書類をひったくった。またライターを灯《とも》して見る。
「こいつもだ」彼は言った。
「こうして、いつか役に立てるため、バルガスを国外へ飛ばしたんだ。バルガスがSになったのは、須田の脅迫だろう。公安がよくつかう手だよな。言うことを聞かなきゃぁ、裕子のことを淡口組に通報しちまうってわけだ。使い潰《つぶ》すと、今度は、男はパリへ、女は神戸へ島流しってわけさ。――なぁ、二村さん。ここに、裕子と毛唐の熱い写真、それに書類がある。これを使ってどんな話がつくれる?」
私は足許に置いたバッグを見下ろした。三百万の札束でふくらんでいる。写真、書類、それに新品の札だ。
「こいつを使って、須田が何をささやいた? どんな話だって作れる。須田は、バルガスと裕子の気持のいきちがいの間に立って、お互いうまく操ってたんだろう。
しかしバルガスは、それでなくとも、警官と付き合うのにウンザリしてたんだ。なんせ六年だぜ。俺なんか、丸一日だけで沢山だってェのに」
「そいつは何とも言えないな。しかし、須田の計算の中にバルガス君の六年が入っていなかったことはたしかだ。二二〇〇日だぜ。ぼくらの計算にも入っていない」
「その二二〇〇日をつくったきっかけは誰だって言ってるんだよォ!!」
「バルガス君には、裏切りってものが、どんなものかよく判っていなかった」
「女には判ってたはずだぜ。あの女には」
「知らないよ。これだけ歩き回って、何ひとつ判らない。かつて彼女はバルガス君を裏切り者だと思っていた。そのくせ、外国へ会いに行こうとした。六年も待ってた。少なくとも|半分は《ヽヽヽ》彼に忠実だった。シャロット・コルデーの絵を風呂に飾り、モータァ・ボートと一緒に住めるような家を用意した。そのくせ、あの夜、店には出勤したんだ。――ぼくには判らない」
「須田が彼女と『党』に、バルガスのスパイ行為を教えて、追っぱらったんじゃねェのか」
「そうかもしれない。ぼくには判らない。今日は警官らしいことを、ひとつもしていないんだ」
「あの頃《ころ》の学生運動には、気分で加わってるのも大勢いたよな、二村さん。ニグロ対手《あいて》に喧嘩《ゴロ》まいたり、バイクぶっとばしたりする気分さ。
そんな奴をスパイに仕立てた。こうして、まだまだ利用する気だった。六年もたってな」
有元は、暗号書類をふりまわして呶鳴《どな》った。「これでも、何とも感じねェって言うのかよ!! えッ、二村さんよ」
「頭のいい警官だね。中には、そういう警官もいるさ」
「お姉ちゃん、なんでそんな昔、呼ばなきゃなんなかったの」
由が言った。泪《なみだ》にかれた声だった。闇にまぎれ、顔はよく見えない。有元がハンカチを出し、彼女に渡す。意外に白いハンカチだ。
私は歩いて行き、有元から書類をもぎりとった。
「揉《も》み消す気なんだな! 二村」彼は海へ唾《つば》を吐いた。
「なぜ、バルガス君は今ごろになって須田を殺した? 岡崎署長たちが、あれほどバルガス君に執心したんだ。彼が殺したことは、ほぼ確実だろう。しかし、何故だ。
バルガス君は、ある不信を持って帰ってきた。不信を持つなら、それまでは信頼していたわけだ。――何故だ。
彼が国を出て、裕子に連絡をとるまで六年間あった。
昨夜写真を探し、包丁で串刺《くしざ》しにしてから裕子が帰るまで六時間だ。六年と六時間、一人で、いったいどんな気でいたんだ」
「そこが、気分かも知れんぜ。単車に乗ったり、左翼をやったり、女に惚《ほ》れたり、な。こんどは復讐《ふくしゆう》の気分だ。パリの支局へ電話してみたんだ。去年の暮ごろ、あっちのシネマ・テークじゃ裕次郎―ルリ子ものの特集があったそうだ。若いのの間で、評判になってたってよ」
「思いつきはそうかもしれない。思いつきならいくらでもある。
しかし、六年間も、彼らはどうやってお互いを忘れずに来たんだ。
愛していたのかもしれないし、憎んでいたのかもしれない。片方は国籍もなく外国に居た。片方はあてもないのに、この街だ。裏切ったと思ってたのかもしれない。裏切られたと思っていたのかもしれない。
そんなことは、ぼくらには判らない。これからだって判らないだろう。
バルガス君が生きていたなら、ぼくの仕事は千倍も辛《つら》いものになっていただろうな。しかし、ぼくは彼に手錠をはめた。そして、君が記事に出来るような記者会見をした。その結果、公安部がどうなろうと、警察がどうなろうと、ぼくの知ったことじゃない」
私は三枚の写真を書類に重ね、さらにポケットから出したバルガス君と裕子の写真を加えて、細かくちぎった。岸壁に身を乗り出して、そのくずを海へ捨てた。モーツァルトが入ったカセット・テープも一緒に投げ込んだ。水音が足下の闇に連続した。
「感傷的なんだな、二村さん。あの頃は何をしていたんだい」
「神宮球場の、幻のスラッガーを知らないのか」
「六大学か。聞いたことねェな」
「二シーズンで、あたり損ねの内野安打が一本きりさ。ぼくがキャッチでないと、投げられない相棒がいたんだ。それでなければ、スタメンはおろか、野球部にだって入れなかった」
「俺は、帰るぜ」
有元は、昏《くら》い表情をふりきるようにして、顔を動かした。「長い旅だったろうよ。拳銃《ハジキ》を持って、弾丸が三発。――なんだ。裕次郎ってェより、リンゴォ・キッドの仇討《あだうち》じゃねェか」
彼は、私と反対側の闇にむかって尋ね、鼻をならした。「病院へ行ってやんなくちゃなんねェ」
まるで、手で宙をひっかくような挨拶を送ってよこし、国道へ大股《おおまた》に歩き去った。うしろ姿は、すぐ見えなくなる。
「君は、明日まであのホテルにいろよ」
私は由に向き直った。「明日になったら、横須賀署の岡崎署長に電話するんだ。話すのは、夕方ぼくに話してくれた奴と同じでいい。鞄なんか、はじめからなかった。判るね」
「今夜も、あたし一人」
彼女は有元のハンカチで洟《はな》をすすった。
「洗って返すね」ハンカチに謝った。「ね、今夜も一人?」
「今夜だけさ」
私は足許の鞄をあけ、中の札を鷲掴《わしづか》みにして、由のポケットというポケットに捻《ね》じ込んだ。トレンチ・コートのポケットにはけっこう入り手があった。
「バルガス君が稼《かせ》いだ金だ。使い方は知っているね」
「うん。――七十五日ぶん、買いっきり?」
「七十五日分?」
「そうよ。勘定したんだもん。こんだけあったら、あたしが何回買えるかって」
「そう思ってくれてもいい」
私は、鞄を海に投げ捨てた。ふと、ポケット・チーフの間にしまっておいた中央高速の回数券の写真を憶《おも》いだした。切らぬまま、それも黒い水面に滑らせた。風に乗り、やがて闇にまぎれて行く。
私は駅の方へ歩きだした。横浜行の終電車が残っている。
「二村さん」由が、私の名を呼んだ。
「意外にIVYじゃないのね」
振りむいた私に、彼女はウィンクをした。
横浜へ帰った翌日、私は神宮へ開幕戦を観《み》に行った。ジャイアンツはヤクルトに負けてしまった。開幕第一戦はいつもこうなのだ。二週間がたち、私は県警公安部長に呼びつけられた。中川本部長も居合わせていて、岡崎署長が依願退職したことを教えてくれた。講習抜きで公安部へ来ないかね? 私は断った。
その後も、私は日に十人の割で人と会う生活を止《や》めていないが、あのときほどへたくそなウィンクには、まだお目にかかっていない。
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陽のあたる大通り
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海岸沿いの舗装道路を、幌をつけたロールス・ロイスの無蓋車《フエートン》が近付いてくるところだった。
私は、オーク材をテーブル・クロスみたいに薄っぺたくして貼《は》りつめたバァ・カウンターに、燐寸棒《マツチぼう》の櫓《やぐら》を組みあげながら、それを眺《なが》めていた。ロールス・ロイスという自動車について言えることは、ひとつしかない。つまり、誰がどこから見たって、そ奴《いつ》がロールス・ロイスでしかないということなのだ。
私は、汐風が女郎|蜘蛛《ぐも》の巣みたいな白い網で曇らせた、窓《まど》硝子《ガラス》越しにそれを見ていた。氾《ひろ》がる海が、青い|燿《かがや》きで私の目をちらつかせた。逗子《ずし》の湾を臨んで居並ぶリゾート・ホテルが、気ままな看板や植え込みでその姿を見え隠れさせていた。しかし、はるかの海っぺたを走ってくるそ奴《いつ》は、ロールス・ロイス以外の何ものでもなかった。
「もう一箱、燐寸をもらえないか」私は、バーテンに声をかけた。
時は十月、ジャマイカ航路のパンフレット写真みたいに晴れわたった少し寒すぎるくらいの水曜日、それもまだ昼間と来ている。小さな入江に張り出した、このレストランのコーナァ・バァで、季節はずれの一杯を楽しんでいるのは私一人だった。
「石油でも掘ろうって言うんですかい」
バーテンは、カウンターの櫓を睨みすえた。「それ以上は高かなりませんや」
私は、黙って彼を見つめた。
バーテンの口がへの字に曲がり、籠《かご》から出した店の化粧燐寸を滑らせてきた。
「あとで箱に詰め直すのぁ、結局はあたしなんだ」
私は肩をすくめ、指で櫓をはじいた。崩れた燐寸棒をひとところに掻《か》きあつめ、バーテンがよこした新しい箱を、籠の方へ投げかえした。
「何も、そんな意味で言ったんじゃないんですがね」彼は卑屈な声をだし、カウンターを磨きはじめた。
ロールス・ロイスはもう見えなかった。私はそれから十五分、晴ればれと青い海原を眺め、何もしないでいた。
その女がセイブル・ミンクの半コートを煌《ひか》らせてバァに現れたとき、私は思わず天井を見あげた。彼女を正面から捉《とら》える数百キロのライトが、どこかにあるような気がしたのだった。海岸通りのロールス・ロイスそっくりに、彼女は立っていた。立っている所は、レストランから海べりのバァへ下る階段の踊り場にすぎなかったが、彼女がそこを、女王陛下の観兵台のように見せていた。映画女優に、揃《そろ》って彼女のような才能があったなら、大道具のスタッフは一人残らず職を失う。
私は立ちあがった。
彼女は、ゆっくりと頷《うなず》き、こっちへ歩いてきた。
「浅井さんですね」私は一歩、近寄って訊《たず》ねた。「浅井|杳子《ようこ》さん?」
「それじゃ、あなたなのね」
あの笑顔だけは忘れられない。彼女は半コートを脱ぎ、部屋飾り以外まったく役に立ったことはないと思われる真鍮《しんちゆう》の帽子掛けにそれを吊《つる》した。毛皮の下は、インド・シルクの真白なスーツだった。一人分、これ以上は使えないと言うほど生地《きじ》を使った、ふっくらとした仕立てだったが、それが彼女の体の線を僅《わず》かでも邪魔しているとは思えなかった。
「モンティラードをワンショットね」浅井杳子が人差指をたて、バーテンに言った。
彼は踵《かかと》を鳴らし、敬礼でもしそうな勢いで注文を受け、酒蔵の方へ走った。たとえそこに、そんな銘の酒がなくとも、彼がフランコ将軍の墓をあばいてだって調達してくるだろうことは、間違いなさそうだった。
彼女は、しばらくその様子を見つめていたが、うなじに片手を添え、目のよくとおったやわらかな髪をひと振りすると、窓ぎわの椅子に腰を降した。顔を斜《はすか》いにして、私を見あげた。背にした海から光が落ち、静かに揺れた。
私はグラスを手に取って歩いて行き、正面の籐椅子に坐った。
「二村《ふたむら》と言います」私は言った。「二村永爾。神奈川県警の捜査課の者です」
「あら」浅井杳子の鼻の頭に、うっすらと皺《しわ》が寄った。「あら驚いたわ。おまわりさんなの」
「警官がお嫌いですか。あなたがそう言うなら、今すぐ辞職届けを書きます」
「そんなことないわ。ドーランを塗っていないおまわりさんに初めて会ったんですもの、本物のおまわりさんにね。驚いただけよ」
彼女は、それだけ真顔で言いきると、ふいに笑い出した。金庫から飛び出してきた新品の札束みたいな笑いだった。
魅《ひ》かれて、私も笑った。
「すてきな笑顔ね」彼女が言った。「おまわりさんにしておくには、惜しいわ」
「警官らしくやるのが下手なんですよ。警察手帖を出すと、いまだに東横線の定期券だと思われる。このあいだ、若葉町で言い寄って来たポン引きに、手錠をちゃらつかせてやったら、若いのに、|そういう《ヽヽヽヽ》趣味ですかい?≠チて馬鹿にされた。しかし、警察がぼくを択《えら》んだんじゃない。ぼくが試験を受けたんです。
笑顔は、あなたの方が数倍すてきだ。手の甲を口にあてて、窃《そ》っと笑ったりなさらないんですね――。あなたも、あんまり女優らしくない」
瞬間、肩がふるえ、彼女はふっと息を吐《つ》いた。辺りを白く、霜降らせてしまえるような溜息《ためいき》だった。
「かいかぶりよ、二村さん」霜がおりたのは彼女の瞳《ひとみ》の中だった。口の端《は》が、微笑を真似《まね》しようとして歪《ゆが》んだ。「私のは芝居だわ。あの顔も、この顔も――どれだってね」
酒がやってきた。彼女のモンティラード、それに私のジン・トニック、サーヴィスの順もおこたりない。再び最敬礼。踵をかちんと鳴らして、バーテンが去った。
浅井杳子は床屋のねじりん棒みたいな恰好《かつこう》をしたグラスのへりを、撫《な》でまわし、やがて、それを目の高さまで持ちあげた。飴色《あめいろ》の液体を透かした眸差《まなざし》が、私に笑いかけた。
「お仕事中もお飲みになるのね」
一口|呑《の》むと、彼女は、コアントロゥを効かせすぎた苺タルトのような声で言った。「お車でいらっしゃったんじゃなくって?」
「外に置いてある砂色の車です。でも、酔っぱらったら、パトカーを呼んで送らせる」
「運転手は用なしね」
「仕事中ですからね、これ一杯でやめにします。だから、仕事の話を早いとこして下さい」
浅井杳子は膝頭《ひざがしら》に眸《め》をおとし、脚を組みかえた。「お急ぎですの、二村さん」
「そうしないと間がもてそうにない。もう一杯飲んだら、あなたを口説きはじめる」
「遠慮のない方ね。もう一杯、飲んでほしいわ」
「あなたのためにワイシャツを替えてきたんですよ、杳子《ようこ》さん。髭も剃《そ》った。こう言うことは不馴《ふな》れなんです。
脅迫状の話をして下さい。その方が馴染《なじ》みやすいんでね」
「私ね、二村さん」そう言って、言い淀《よど》んだ。喉にひっかかったモンティラードの一|雫《しずく》を、改めて飲みこんだようだった。首の付け根がこくんと動き、そこで可愛《かわい》らしい音がした。ごめんなさい、と私に謝り、彼女はナプキンで口許《くちもと》を押さえた。
「私、マネージャーの吉居さんから、今日ここで、私の力になって下さる方と、お会いできるって聞かされて来ましたのよ。
――でも、その方は刑事さんだったわ。そして、お仕事でいらっしゃったって言っているの」
「そうですよ。ぼくは昨日、吉居から電話を貰《もら》った。学生のころ、あ奴《いつ》は早稲田のエースだった。ぼくから三振を七つも取った男なんです。卒業前に肩を壊して、それでも近鉄に入団したんだが、一軍では一度も投げずに終ってしまった。
昨日まで、あなたのマネージャーをしているなんて知らなかったんです。だから、あなたの映画は、全部二番館で切符を買って見ている」
「それはどうもありがとう。いっぺんに、三本も見て下さってるのね」
「そ奴《いつ》が、夜遅く電話をしてきて、あなたが困っているから、ここでこっそり会うようにって言う。――吉居だって、友達に不自由しているわけじゃない。ぼくが警官だから、ぼくに電話したんでしょう」
「プロへ行かなかったのね、あなたは」
「行けなかったんです。うちの野球部が、六大学球史来の不作だった年でね、ぼく以外、キャッチのなり手がいなかった。
警官はかたい仕事ですよ。地方公務員なんです。ぼくは、古い友人にたのまれて、今日ここへ刑事の仕事をしに来た。公務員の仕事でも司法警察官の仕事でもない」
私はグラスを空にして、バーテンに声をかけた。浅井杳子と私に、もう一杯ずつ。バーテンが、カウンターに頭をぶつけそうにした。少したってから、頷いたのだと気付いた。
「今日は非番なんです。フリーの警官ですよ。だから、あなたを口説く度胸がつくまで、何杯でも飲める」
「判《わか》ったわ。あなたから自尊心をはぎとれるものは、何もないってわけね――制服も、バッジも、お酒でもね」
「しかし、手帖も拳銃も持っていません。拳銃が要るような仕事ですか」
「それほど臆病《おくびよう》な方には見えませんわ」彼女は、小さなハンドバッグを取り上げ、席を立った。
「テラスへ行きません? 今日は変にあったかいわ」
私はカウンターに寄って、飲みものを受けとり、金色に光る真鍮|枠《わく》の硝子戸を足で開け、表へ出た。
海からの風が、素焼きの陶板を敷きつめたテラスの上に這《は》いまわって、低い鳴き声をあげていた。空気が澄みわたり、ひんやりと心地よかった。そのくせ陽《ひ》は強く、そこら中の景色にワックスをかけ、その輝きで、山や家々の輪郭、水平線のありかをぼやかしている。
手摺《てす》りによりかかって立った浅井杳子も、背後の海にまじってしまうほど光って見えた。
私は、その横に並んで立ち、彼女のグラスを手摺りの上へ、慎重に置いた。
「ゆすり屋を、表沙汰《おもてざた》にしないでとっちめるには、強面《こわもて》が一番なんですがね」
杳子が、驚いたような目をして、私をあおいだ。「ゆすり屋って、何のこと」
「脅迫状が来ているんでしょう。見せて下さい」
ハンドバッグの中から出てきた手紙は、二通とも同じ内容だった。消印は追浜《おつぱま》と厚木、書式は新聞活字の切り抜き、まったく感動のない事務的な調子で、|ある重要《ヽヽヽヽ》な資料を買って欲しい旨《むね》書かれている。似たような文面をどこかで見た記憶がある。警察調書だ。
「プロの手口ですね」私は言った。
グラスの酒を半分ほど飲み、手摺りの上に、杳子のグラスと並べて乗せ、手紙を返した。
「金額が書いていない。この文面じゃ、恐喝《きようかつ》は立件できないんです。ただ、後日、山田と名乗る男が電話してくると書いてあるだけだ。差出人の名は書いていない――プロか、ただのいやがらせか、どっちかでしかない」
「あれを見てちょうだい、二村さん」
彼女の指が差したのは、逗子の入江のちょうど対岸、小坪《こつぼ》の突《とつ》たりが海に落ちこむ、きりたった先端だった。這松《はいまつ》の覆《おお》った丘が、波に洗われている。その上には、木立ちに見え隠れして、ユークリッド幾何学に敢然と挑戦するようなデザインの洋館が峙《そばだ》っていた。
この夏、ハリウッドでセット撮影を終えて来たNKシネマの新作視《み》よ、塔は皇后のように紅《あか》い!≠フロケ・セットだ。白壁と一枚硝子の天窓、古風な鐘楼が奇妙にマッチして、そ奴《いつ》は、コロナ・ラ・コロナの空き箱を積みあげたように、丘の上で威張りくさっている。
二年ほど前、浅井杳子がはじめてそのスクリーンに登場したとき、NKシネマは九十五億の赤字を抱え、相模《さがみ》大野《おおの》の撮影所は銀行に、現場は労働組合に、ほとんど乗っ取られていた。それが今、撮影所を倍の広さにして買い戻したNKは、さらに二十億の製作費をはりこんだ正月大作で、全盛期の四分の一に目減りしている系列上映館を、一挙に再編成しようとしているのだ。契約を解き、TVや東映に身を寄せていた往年のNKスターも、続々と戻ってきている。ニュー・フェイス募集も、今年から再開された。
そのすべては、私の目の前に立っている、一人の女が稼《かせ》ぎ出したものなのだった。
日本海事宣興会の会長をしている沖山良平が、杳子にたいそうな肩入れをしていて、今度の映画にも相当出資しているという噂もあったが、それにしたところで、彼女にそれなりの力がなければかなわない噂だろう。黒幕と称《よ》ばれる男が、その肩書きに相応《ふさわ》しくない女に、金を張る謂《いわれ》はない。
今、杳子が指差している洋館のセットも、ニューヨークから呼び戻された渡辺武信が半年がかりで設計し、建設と土地使用料だけで一億近くをかけたという話だった。今週発行された大手週刊誌は、大なり小なり、その偉容を紹介していた。
「あそこでのロケのあいだ、私、茅《ち》ヶ崎《さき》のパシフィック・ホテルに泊っているのよ」
杳子が言った。指を降し、手摺《てす》りのグラスを、今までそこにあったとさえ気付かなかったというように見下すと、ゆっくり口へ運んだ。「吉居さんと、チーフ助監督の戸田君、それに運転手の榎木さんしかそのことは知らないわ。なのに、昨夜、私の部屋に電話が入ったの」
「いたずらじゃなかったわけだ」
「電話の男は山田って名乗ったわ。夜の十一時ころよ。今月一杯は体があかないから、お話もままならないって断ったの。それにこう言うお話は、事務所なり、吉居さんに電話して欲しいって。
そうでしょう、私だって右から左に出来るお金は限られているわ。
そうしたら、明日――つまり、今日なら、私の体があくはずだって向うが言うのよ。今日は撮影がないはずだって」
「今日は、休みなんですか」
「そんなことはないわ。でも、今日もう一度電話をするって、それだけ言って電話が切れると、すぐ、今度は吉居さんからかかってきたの――あのセットで事故があって、今日一日、撮影が流れそうだってね。昨夜の事故、御存知《ごぞんじ》かしら」
「あの建物から、スタッフの青年が一人、黒テンの毛皮を着て飛び降りたんでしょう。他に着ていたのは下着ひとつで、彼は即死だった。来る途中、ラジオで聞きましたよ。しかし、屍体の発見は昨夜十時ごろのはずだ」
「そうなのよ。なのに、あの山田って人は、電話でそれを知ってる口ぶりだったわ」
「あれは、自殺だったんじゃないんですか」
「事故らしいわ。今朝には、もう警察はひきあげてしまって、昼からは撮影も再開できるようよ。でも一時間もしないうちに、あの件で、今日の|ばらし《ヽヽヽ》が判っていたなんて、変だと思いませんこと?」
「内部の人間の仕業だとお思いなんですね」
「そんなこと、思いたくもないわ」
「ある重要な資料って何なんです?」
「判らないわ」
彼女は、また一口酒を飲み、私をものやわらかな眼差《まなざし》で掬《すく》いあげると、爪を咬《か》んだ。
「下手な芝居だな。あなたらしくない」
「本当に判らないのよ。心当りが多すぎて、判らないのかも知れないわね。――でも、私がお金を払いたくなるような心当りというと、まるで見当らないのよ」
「何もないなら、抛《ほう》っておけばいい。警察沙汰にしたってかまわないでしょう」
「私が、何か隠しているとお思いになって?」
「何も思ってはいません。しかし、ボディ・ガードがお望みなら、ぼくでは役不足だ」
「二村さん、私も、あなたが仰言《おつしや》るとおりだと思うわ。お金なんか、払う気はないのよ。
世間が私のことをどう考えているかは知らないけれど、映画女優がスター≠ニ呼ばれたのは、まだアメリカの自動車が巨《おお》きくて、電気冷蔵庫が文化の象徴だった時代のことよ。今じゃあ、お客はただTVのスウィッチを入れさえすれば、ヒロインのスカートの中がのぞけるわ。だから、私たちも余分に気取ったりはしないのよ」
「いい覚悟ですね。それを聞いて安心した」
「だからって、あたしたちにも守らなけりゃならないものがあるわ」
「何を守りたいか、話して下さい。ぼくを信用しないなら話は終りだ。ぼくとしては、もっとあなたと話していたい」
汐くさい風が、彼女の髪をぱっとひるがえして過《よぎ》った。両手を耳許にあて、肩をこごめると、浅井杳子は目を眩《まぶ》しそうに細めた。遠いところで、ちいさな水音がした。手摺りに乗せたモンティラードのグラスを、風が足下の海に抛り出したのだ。
「あなたの考えてもいないようなことよ」彼女は手摺りを濡《ぬ》らした酒の雫を、指でこねまわし、いくつかのアルファベットを書いては消した。言葉にはなっていなかった。SとUだけが何んとか読めた。
「私が守りたいのは、宣伝スチールの撮影みたいに、つまらない、下らないことよ。
――助けて下さらないの?」
目が大きく見ひらかれた。長い睫《まつげ》の下から、昏《くら》い光が私を見つめた。悲しげで、透きとおった眸だった。自信に満ちてはいたが、その自信も、肩に手をふれただけで、わっと泪《なみだ》にすりかわってしまうような類《たぐい》のものだった。
私は、その光が彼女の目から消えてなくなるのを待った。
「そんな目で見ないで下さい」先に視線をはずしたのは、私の方だった。「そんな目で見られたら、誰だって自分が疚《やま》しくなる。まるで、フェリス女学院の制服が似合ったころの吉永小百合だ」
「いい男ね」彼女の体から、ふいに生気が抜けた。首筋が一度たわみ、胸の中に高まっていた空気が、呼吸《いき》になり、尖《とが》った唇のあいだを通って吐き出された。
「二村さん、あなた本当にいい男だわ。ジン・トニックをもう一杯いかが。それで今日のことは全部忘れましょう」
「ぼくは、どっちでもいい」
陽がかげり、風が落ちた。空気が、いくらか暖かになった。私たちは、バァの中へ戻り、カウンターに並んで凭《もた》れ、酒を注文した。
「私、夏のお酒かと思っていたわ。それ」
二度目の乾杯をすませたあと、浅井杳子が私のグラスを見つめて言った。
「夏の酒ですよ。だから夏が恋しくなるたびに、こうして飲むんです」
「ここの海は、冬の方がいいわね。ここの夏って、恋しく想《おも》えるような代物《しろもの》じゃないわ」
「昔のことを知らないからでしょう。小坪で魚が買えた時代があったんです。セール・ボートとヨットとの区別がはっきりしていて、高校生が小遣いで買えるような艇は、決してヨットと呼ばれなかった。海岸通りにはほとんど車なんか走っていなかったし、たまに走って行くのは赤いMGか、大きなアメ車だった」
「そう? 狂った果実≠ヒ。真夜中のTVで観《み》たことがあるわ」
レストラン入口のキャッシャーに坐っていた年配の支配人が、階段を降りてきた。踊り場に立ち止まると、心の底からびっくりしたような顔をして、私と杳子をしばらく見較《みくら》べていた。それから、私の方へ慇懃《いんぎん》な表情を造り、表に客が来ていると告げた。
「あの砂色のブルーバードのお客様ですね」
彼は念を押した。
玄関先に拓《ひら》かれた駐車場へ出てみると、私のダットサン五一〇と真珠色のロールス・ロイスのあいだを割って、逗子警察署のパトロール・カーが停っていた。ボンネットに、まだ若いあばた面《づら》の警官がよりかかっており、ドアを開けたロールスの運転台からは、半身を乗り出した杳子のお抱え運転手が、彼の方をうかがっていた。半白の髪を上品になでつけた、おっとりした顔立ちの大男だった。私は、彼に見覚えがあった。十五、六年前、銀幕で、毎週のように殺されていたNKの役者だった。
若いパトカー巡査は、明らかに運転手の視線が気に入っていない様子だった。ショーファーは彼より上背もあり、赤いブレザーの制服姿ははるかに押し出しがある。
駐車場を横切ってきた私を見咎《みとが》め、巡査がポパイみたいに四角い顎《あご》をきっともたげ、あわてて背を正す。
ロールス・ロイスの方で、ドアの締まるぶ厚い音がした。
「逗子署の平田です」彼は言った。制帽が重そうだった。「二、三十分前、こっち方面の所轄《しよかつ》PCに、この車を探すよう本庁指令が入りました」
「トランクにターザンの屍体でも入れた奴がいるのか」
彼は口をだらしなく開き、呆《ほう》けた目で私を見あげた。自然、肩が斜に構えられ、どことなく崩れた感じがした。警官の制服が、不良高校生のガクランのように見えた。ここらあたりの暴走族あがりかもしれない。口許《くちもと》が皮相に笑いはじめ、今にもオッサン|とんでる《ヽヽヽヽ》じゃんかよォ≠ニ、肩をどやされそうな雰囲気《ふんいき》だった。
「本庁の二村刑事ですね」彼は、その雰囲気を、ただの雰囲気に踏み止め、かちかちの声を出した。
「小峰一課長あて、至急連絡をとられたいと――これは緊急指令だそうです。
無線をお使いになりますか」
「いや、電話をかける。なかに人を待たせているんだ」
若い巡査は一揖《いちゆう》すると、ロールス・ロイスの方にちらりとガンをつけ、パトカーに乗った。用もないのに、回転灯を回し、堤防沿いの道を海岸通りへ去って行った。
その赤い灯《ひ》が見えなくなると、私は杳子の自家用車を一巡りするように歩いて、レストランへ戻った。
皮張りのドライヴァーズ・シートではランプに押しこまれた大きな魔法使いみたいに身をちぢこめた運転手が、熱心に手を動かしていた。レースのハンカチを編んでいるのだった。私の視線を感じたのか、助手席の紙袋に編棒とレースを周章《あわて》て抛り込み、ハンドルに新聞を広げて読むふりをしはじめた。
この自動車も、巨きな運転手も、レース編みも、みんな浅井杳子の芝居なのだろうか? 私は思った。
2
「もうお酔いになったの? 二村さん」バァへ戻った私に、杳子は新しいグラスを手渡して言った。「パトカーをお呼びになったんですってね」
私はバーテンを睨みつけた。彼は大急ぎで目をそらし、潜《くぐ》り戸《ど》の向うへ消えてしまった。
「呼び出しがかかったんですよ。休日が終ったんです」
「そう。――私も失礼するわ。さっきも言ったけど、昼すぎから、三、四カット撮り直しがあるのよ」
「吉居は来ないんですね。昨夜の電話じゃあ、御一緒に来るような口振りだった」
「そうね。今朝、ホテルの方に電話があって、一時間くらい遅れるかもしれないって話だったわ。東京に用が出来たって――それにしても、遅すぎるけど」
「彼と連絡を取るには、どうすればいいんです?」
「彼とじゃなく、私とじゃあいかが? 二村さん。茅ヶ崎パシフィックの最上階を、ワン・フロア借り切っているのよ。ベッドが十九もあるわ。私一人じゃ、広すぎるとお思いになりません」
「ベッドが十八も余っているんですか」
「吉居さんがやったのよ。今どきもったいない話だわ。でも、とっても静かで、お風呂からでも波の音が聞こえるの」
「それは凄《すご》い。パトカーのサイレンが聞こえたら、きっとぼくですよ。縄《なわ》梯子《ばしご》を投げて下さい」
杳子の眉がつりあがった。アイス・ピックみたいな眸《め》が、私を見すくめる。からかったと思われたようだった。
「夜まで忘れないでいたらね」彼女は口を一文字にして結び、すごい勢いで毛皮の半コートを纏《まと》うと、バァを出て行った。一度も後を見返ったりしなかった。
私は、階段の横に細かいアルミ格子《ごうし》で設《しつ》らえた、電話ボックスに入り、横浜の県警本部を呼んだ。小峰一課長は、デスクの前でひとつしかない胃袋を長いこと痛めていたらしく、すぐさま受話器に出てきた。
「どうして、こっちに居ることが判《わか》ったんです」私は尋ねた。
「そんなことより仕事だ!」
「非番ですよ」
「君の行動予定表はでたらめだった。何故《なぜ》そんなところにいる?」
「どうして、こっちだと判ったんです」
「提出した予定表では、家でぶらぶらしとることになっている。市街から出るなら、携帯受令器を持って出るべきじゃないか。
――譴責《けんせき》処分ものだな! 二村」
彼の声には、退職間近になって、はじめて不正乗車をみつけた国鉄の改札掛り員みたいな響きがあった。
「判りました。何の用です」
「だから仕事だ――葉山の管内で、殺人《コロシ》があった。女だ。強姦《ごうかん》されている。捜査指揮は本部長がとる。そっちへ行ってくれ」
「今日は、仲根班のはずだ」
「野間の阿呆《あほう》が、足の骨折って寝込んでる。継続の一〇九号事件で、長野へ出張しているのが二人――手が足らんのだ。すぐに行け」
電話は、向うから切れた。
私は、カウンターに戻り、先刻浅井杳子が手渡してくれた酒をちびちび飲んだ。バーテンは戻ってこない。硝子戸《ガラスど》をまた足で開け、テラスへ出た。風は完全に熄《や》んでいた。夜明け前、沖へ出た釣り船が、釣客のねぼけ顔を乗せて、足下の入江へ戻ってくるところだった。
焼玉エンジンが寝不足の頭に響いた。
居所の知れない刑事を、緊急指令のパトカーに探させるのは比較的よくあることだが、それには、それなり、御大層な理由が要るだろう。匿名《とくめい》捜査中の警官が連絡不通になったとか、部長刑事が捜査費全額を持ったまま行途をくらましたとかだ。
何故《なぜ》、私だったのだろう? 御指名を受けるほどのスラッガーではない。代打はいくらも立つはずなのだ。遠投八十八メートル、五十メートル走七秒三、盗塁刺殺率三割六分――県警捜査一課は、それほど人手に不自由しているのだろうか。いや、そんなことはない。むしろ、人件費を使いすぎると、革新知事につつかれているくらいだ。
しかも、先刻のPC巡査はこっち方面の≠ニ断りを入れて行った。私が今日、逗子に来ていることが何故わかったのだろう。警察の情報機能がそれほど強力なら、ますます、火急かつ速やかに℃рフ非力など召喚したりはしまい。
私は、空になったグラスを、先程、浅井杳子が雫《こぼ》して行った、酒の丸いシミにぴったり合せて置いた。
いっそのこと、深鍋《ふかなべ》の底のキャラメル・ソースみたいになるまで飲んで、酒酔い運転で捜査本部に馳《は》せ参じようか。
湾のむこう側、弓なりに海を巡る道路に、鎌倉方向へ走って行くロールス・ロイスが見えた。真白い幌が目に滲《し》みるようだった。やがて、それは速度をあげ、あの位相幾何学の教科書を思わせる洋館の聳《そび》える丘に、溶け込んで行った。
3
その年の葉山警察署長は、草薙向次郎《くさなぎこうじろう》と言う名前で、川崎署の保安係から上がってきた警視だった。叩きあげの警官だが、骨っぽいタイプとは言えなかった。
私が挨拶を入れに寄ったとき、彼は二つのことに腹をたてていた。ひとつは、地≠熈鑑≠烽キでに取れ、簡単にこの事件の犯人が割れてしまったこと。もうひとつは、捜査本部が署長指揮ではなく、本部長に取られたことだった。本部長指揮と言っても、結局は署長がとる、現に中川県警本部長殿は、姿を現していない。
事件はティーン・エイジャーの煽情《せんじよう》的な情痴殺人、殺されたのは高名な日本画家の一人娘、逮捕も時間の問題と来ている。何故《なぜ》、本部長指揮に決ったかは、草薙署長でなくとも容易《たやす》く知れた。犯人がスピード逮捕される。そこへ中川本部長が御登場、新聞記者に見得をきる。すると、警察庁の点数加算機が、かしゃかしゃと鳴るという寸法だ。
だから署長が、本庁からやってきた付録の刑事を、ミグで羽田空港へ強硬着陸した中国兵でも見るような目で睨みすえたとしても、恨みがましく思う謂《いわれ》は私になかった。
三十分後、私は横須賀のドブ板横丁にいた。年配の刑事が一人、一緒だった。事件が起るたび、蜜柑箱《みかんばこ》十杯分の調書をひっくりかえし、紙きれと格闘をはじめ、過去帳の中から類似の手口を探すのに一生を捧《ささ》げてしまうような警察官だった。どんな極悪人でも、カツ丼を一杯、煙草を一本|奢《おご》りさえすれば良心のカケラくらい引き出せると信じていて、そのくせ、自分の金では、電車、バス、映画館にさえ入ったことがないのだ。
私たちは、ドブ板横丁のほぼ中ほどにある、米兵相手の注文下着商の店に場所を借り、筋向いのバァを、硝子戸《ガラスど》越しに見張っていた。
「あんた、どう思いますね」丸椅子に、跨火鉢《またひばち》のような格好で腰かけ、下着屋の女房が入れてくれた茶をすすりながら、相棒がたずねてくる。
「今度の事件ですわ。若いもんは――やっぱ赤線のなくなったが、問題なんかねェ。だから、女とのやりかたってもん、知らんのかねェ」
私は黙っていた。
「自分の恋人《イロ》をね、ダチに姦《や》らせて、挙句に五寸五分もあるナイフでぶすりだ。どう言う料簡《りようけん》なんだろうねェ、あんた。――十七のガキですよ」
「殺された女は?」
「まだ十八。東京の女子大に通ってて、蝶《ちよう》よ花よでねェ。なにも、あんな男とつきあうこともあんめェになぁ」
「被害者《ガイシヤ》の家は、鎌倉なんですね」
「ああ、でけェ家でね。長谷《はせ》のいいとこに、古くっから住んでる。父親が年とってからの一人娘で、その親父ってのが、芸術院賞の久保田雪山と来る」
「自首して出た友達は、共犯なんですか」
「いや、強姦《ツツコミ》をやったってだけらしいですな。犯人《ホシ》の――大野|皓一《こういち》。あ奴《いつ》の遊び仲間で、昨夜十時すぎ、ほれ、そこのバァに居るところ、電話で呼ばれて。そんときゃ、大野と久保田の娘は二人で逗子のなぎさホテル≠ノいましてね。バァですよ。部屋じゃねェんだ。そっから電話をかけてきた。で、まぁ、車に乗って長者ヶ崎の県営駐車場へ飛んで行った。あそこの突《とつ》たりに、今は土地会社が管理してる、海にはり出た雑木林があるでしょうが――あそこで大野と二人して、被害者《ガイシヤ》を輪姦《マワ》した。やること済すと、そ奴《いつ》はなんか居づらくなったんで、女と大野を残して、先に横須賀《スカ》へ帰っちまったってわけだ。
今朝んなって、大野から女を殺《ばら》しちまったってェ電話をもらって、恐《こわ》くなりゃあがったんだな、こ奴《いつ》が。で、横須賀署へ、勤め先のドライヴ・インの親爺《おやじ》に連れられて、自首して出たってェ――ま、そんなとこですわ。
殺人《コロシ》にゃ、噛《か》んじゃいないねェ。帰った後んなって、大野が刺したってところでしょうな」
「大野皓一も、勤めはそのドライヴ・インだったんですか?」
「先月まではね。先月の終りにゃ、そこを辞めて――ほら、小坪に今、映画が来てるでしょうが、何とか言ったな、はやりの女優の」
「浅井杳子」
「そうだ。その女の映画の撮影で――ろくでもねェ、波乗り板に乗れるガキを何人も集めやがってね。そこに日銭で雇われてたらしいですわ」
「エキストラですか」
「そんなようなもんですわ。かなりいい金をとってたってことです。日、一万五千かそこら。で、映画セットの見学に来た小娘ひっかけちゃ、夜遊びして歩いていた。被害者《ガイシヤ》の――何てったか――久保田直子。あの女も、それでこましたんだと」
水兵らしい若い栗毛《くりげ》の男が、硝子戸をぶきっちょに開いて、店へ入ってきた。
奥の仕事机の前で、店主に何やら注文をくれはじめる。金糸の竜を、あそこにもぐり込むよう縫いとった、スリー・イン・ワンの下着が望みだ。あそこ? ほら、|あそこ《ヽヽヽ》のことだよ。そいつは、ビューティフルだ。白地なら三十五ドル、黒地なら四十二ドル、あたしは黒地をお勧めしますがね。|あの娘《ドール》は黒が似合うんだ。円払いなら二割引きでさ。いや、ドルしかない。
年寄りの刑事はすっかり退屈した様子で、脇のダンボール箱に入れられた商品を、あれこれ抓《つま》み上げては、しげしげ眺《なが》めていた。世の中には三本足の女性がいるとしか思えないようなパンティとか、肩の紐《ひも》を引くと、ブラ・パットのてっぺんに丸く銃眼が開くように工夫されたブラジャーなどが、出てくる。そのどれもに、金糸銀糸の縫いとりがしてある。真紫色の新幹線が描かれたスリップなど、誰が着たいと思うのだろう。
正午、少しすぎ。硝子戸の外の景色は、まだ眠っている。
「あのバァに勤めてるって女は、大野の何なんです」
「姉貴だって言っとりますがね――判《わか》らんですな、何せ横須賀だァ。愛人《オンナ》かもしれんし、ことによっちゃ、母親かもしれん」
「犯行時からの足どりは、大野皓一のオートバイが乗り捨ててあった、例の衣笠《きぬがさ》駅前でぷっつりなんですね」
「ああ――いずれ戻ってくるさね。バイクはない、金はないじゃ、|逃げよう《ヽヽヽヽ》もないでしょうが。あんた。
こういう事件は楽なもんだ。最近は、殺人《コロシ》の検挙率がガタッと落ちこんじまってね。三件に一件はオクラだ。流しの犯行ってのが、めっぽう増えちまったからなんですがね。
あんたら若い衆は知らんでしょうが、昔ゃあ、あんた、殺人て言や、たいてい被害者と犯人のあいだに、なんらかの交渉ってもんがあったんだがなぁ」
私は、彼にあんた≠ニ呼ばれるたびに、不快になった。ヤクザに旦那《だんな》≠ニ呼びかけられるのと、同じような気分だった。
注文をおえた水兵が、硝子戸を閉め忘れて行ったのをいいことに、私は立って行き、外へ出た。
太陽は充分高いのに、陽差《ひざ》しは感じなかった。
西を、緑ヶ丘のきり立った崖《がけ》に、東を、国道十六号線に間口を並べたビルの背に、それぞれサンドウィッチされ、低くうずくまるしか能がない路地だ。まだ、ジーン・ハーロウが肉体美の典型だったころ、美術家修業をしたと思われる看板|描《か》きの手によって描かれた女たちが、あちこちの壁で流し目をくれ、そうした色っぽい眼差《まなざし》や、卑猥《ひわい》な舌なめずりが、古びたホルマリン標本のように、路上でしなびている。その上は、ネオン管の行列。まるで旺文社のカラー版単語暗記カード≠誰かがぶちまけてしまったようなありさまだ。埃に隠れ、いくつかの文字は抜け落ち、ここで単語を覚えた奴はスペリングのテストで苦労するに違いない。
私は張り番をおおせつかったバァの裏手へ回った。スリップ一枚の上にオーヴァーをひっかけた、厚化粧の老婆が、軒先の椅子に坐って足の爪を切っていた。
学校にあがるには、まだ間のある子供たちが一群になって、その横を走り抜けて行く。先頭を、逃げるようにして走る少女は、下半身まるはだかだ。|やっちまえ《ドウハア》≠ソぢれっ毛の少年が、腕をぶんぶん回し、舌足らずの英語で叫ぶ。|やっちまえ《ドウハア》。|やっちまえ《ドウハア》
のどかだった。私は十年前のこの横丁を知っている。たとえ真昼だと言っても、これほど穏かではなかった。船へ帰りそびれた黒人兵が、ゴミ箱の上で、拳銃を択《えら》ぶか懲罰房を択ぶか考えあぐね、そこここに駐った車の中ではサングラスの飛行機乗りが、バック・ミラーを覗《のぞ》きながら衿首《えりくび》や頬の口紅を拭《ぬぐ》っていた。入港した船の、ステディに会いに行くのか、ネッカチーフを頭にまいた年増女《としまおんな》が、目の青い小さな子供の洟《はな》をかませ、ネクタイを直してやり、最後のチェックに余念がなかった。夜ほどではないにしろ、歌声と怒声があり、匂うのは、白人特有の腐ったシュークリームのような体臭、饐《す》えたアルコール、DDT。今、路地には魚を焼く香ばしい匂いが漂っている。
静かだ。
「平和なもんだね」私は、爪を切っていた女に声をかけた。
「アメちゃんはもう駄目よ。シロが、クロみたいにトリスをけちけち舐《な》めはじめるようじゃ終りだね」
「船が入った日は別だろう」
「Cの店はね。Aサインは日本人の客が入ってるでしょうが、気がねすんだよ! あんた。アメちゃんが日本人にさ」
「上町《うわまち》はどうなんだ」
「同じようなもんよ。ユウ、煙草持ってる?」
私が一本振り出してやると、彼女は豪華な食後のためにとっておいたトルコ煙草のように、慎重に煙を吸いこんだ。
遠くで私を呼ぶ声がした。年寄りの所轄《しよかつ》刑事だった。下着屋の軒先に立ち、私に手招きをしている。
「逮捕したそうですわ」近寄って行った私に、ヤニ臭い小声をふきかけてくる。「津久井浜の海岸線のね、国道をほっつき歩いてたそうだ。移動の連中が職質をかけましてね、おとなしくパクられたってェ話です。おっつけ、署に着く時分だ。――言ったでしょうが、楽な事件《ヤマ》だって」
私たちは、車に乗り、逗葉《ずよう》バイパスを抜けて、署に戻った。
4
本部に着いたとき、大野皓一の自供は八割がたはかどっていた。
警邏《けいら》巡査が二人、早手|廻《まわ》しに記者会見用の長椅子を運び込んでくる。本部では、尋問方針と起訴を固めるための、最後の会議が開かれていたが、私の坐る椅子が見あたらない。扉の近くに坐っていた、仲根班の部長刑事が居なくていいよ≠ニいうふうに、手を振る。黒板に向かっていた草薙署長が、わざとらしく咳払《せきばら》いをくれてよこす。
私は、ちょっと首を動かして会議室を離れ、廊下を歩き出した。
組立て式の金属椅子を両脇に手挟《たばさ》んだ古顔の警官が、若手の刑事と立ち話をしていた。中川県警本部長は、警察庁の人事あたりに、金張りの椅子を用意させてるらしいってよ!
先刻の巡査が二人、また長椅子を運んでくる。ちくしょう、朝日のヤロウ。どんな椅子に坐ったって同じじゃねェか≠サの椅子にしても、もちろん黄ばんだビニール張りだ。
私は朽ちた簀子《すのこ》段を降り、取調室の引戸を開いた。頬のそげた刑事が、片隅の椅子に跨《また》がり、背凭《せもた》れに顎《あご》を乗せている。中央の机につっぷしている青年をじっと睨《ね》めつけていた目を、胡乱気《うろんげ》に巡らせてくる。
指をくるくる回して、張り番の交替を合図してやると、顔をぱっと赧《あか》らめ、立ちあがった。
「|オ《ヽ》ちたんだってね」私は框《かまち》に立ち、小声で訊《き》いた。
「ああ。泣きの仲根≠ノかかっちゃ、たまらねェよ。――なんたって、まだ小僧だ」
よろしく、と言って、彼はポケットから皺《しわ》んだ煙草をひきずり出し、取調室を出て行った。
私は、空いた椅子を机の傍《かたわ》らへ動かし、前任者と同じような格好で腰を降した。上着から煙草を出し、火を点《つ》ける。長い一分間が経《た》った。
やがて上体を起こした青年は、顔色がひどく悪く、神経質そうな目を真赤にして、瞼《まぶた》もはれぼったく下がっていた。どう見ても、まだ子供だった。青年と呼べるのは頑丈《がんじよう》そうな躰《からだ》だけだ。口許《くちもと》が女の子のようにやさしく、一昼夜三浦半島をさまよい歩いていたと言うのに、無精髭《ぶしようひげ》のまったく目立たないつるつるの肌《はだ》をしていた。
「しごかれたかい」私は目をはなさずに訊いた。
「いいや」大野皓一は、はにかんだような上目づかいで、私を見た。「あんたも刑事さん?」
「ああ、そうだよ」
彼は背をすっかり立て、両手を脚の間にだらんと垂らし、私のボタン・ダウンのシャツ・カラーをじろじろ瞶《みつ》めた。
「視《み》よ、塔は皇后のように紅《あか》い!≠ナエキストラをやってたんだってな」
「うん」彼は、まだ私の喉許《のどもと》、ネクタイの結び目あたりに眸《め》を落していた。顔を、不思議そうに曲げた。「そのレジメンタル、元町のポピー≠ナ買ったのかい」
「そうだよ。夏のボーナスで買った。――こっちの質問が先だぜ」
「春先からずっと、左側のショウ・ウィンドゥに飾ってあった奴でしょう」
「君は横浜か」
皓一は、急に眸を昏《くら》くした。ふいに下を向き、顔をあげなかった。「横須賀《スカ》で生れたんだ。ずっとそのままだよ。十五のとき、ポピー≠ノブレザーを買いに行ったら、十年早いだなんて、あそこの親爺《おやじ》、言いやがんの」
「金持だな」
「姉貴の店の売りあげをね――手掴《てづか》みにしたら、意外と手が大きかったんだ」
「汐入《しおいり》か」
「ドブ板って、ちゃんと言いなよ――刑事さんは、横浜《ハマ》?」
「中華街さ。少しはずれていたが、ハッピー・ストリートとかD<Aベニュとか、横文字の町がいっぱいあった。生れた家のすぐ斜め下が運河で、達磨船《だるません》が|くさや《ヽヽヽ》の匂《にお》いを漂わせていた。河の向う岸が元町通りの背中だ。あの町並も裏から見るとひどいもんだぜ」
「あの金は違うよ」
皓一は、私を眩《まぶ》しそうに窺《うかが》った。仰向けた顔が歪《ゆが》んでいる。よく見ると、口許をひきつらせるようにして笑っているのだった。「あの金は直子から盗《ギ》ったんじゃない」
「他のことは認めたんだな」
「ああ――けど、俺が持ってた金は、直子のもんじゃねェんだ」
私には、その金がどんなものか、見当もつかなかった。しかし、自供を取った後の捜査本部に、会議を開かせるほどの金額ではあったのだろう。
「どうして手に入れたか、訊かないんだね」
「あんまり興味がない。それより、あの映画の話がしたいんだ」
「映画とも関係があるんだな。――あの金は、大麻《ガンジヤ》を売って作ったんだ。大麻《ガンジヤ》は助監補《セカンド》の奴から貰《もら》ったんだよ」
「セカンド? 助監の下にいる奴のことか。――NKシネマの演出部の奴だな」
「そうだよ。――うん、何が聞きたいんか、判《わか》ってるんだ。昨日の夜、飛び降り自殺した奴だろ?――あ奴《いつ》だよ。長谷部さん。死んじゃったから話してるんだ。生きてりゃ、迷惑かかるもんね」
「彼と、マリワナを商売《バイ》してたのか」
「違うよ。あ奴《いつ》とポーカァをしてさ。ごっそり勝った。そしたら、銭ないからって、代りによこしたんだよ。紙巻で三十本分はあったかな。
カメラのフィルム入れるとこに詰めて、ハリウッドから持ってきたんだって。海外ロケ行くカメラ屋やTV屋はたいていそうしてるってさ。くるくるぱあなんだよな、あ奴《いつ》らってさ」
「長谷部が死んだのは、君が長者ヶ崎にいるころだったぜ」
「今朝、久里浜駅で新聞読んだ。俺のこと心配でね。――そしたら、新聞に載ってないんだ」
「締切に間に合わなかったんだよ。長谷部も、君の事件も」
「でさ、朝食屋でメシ食いながらTV見たんだ。俺の方が、ニュースでっかかったよ」
「ずいぶん危い橋を渡るじゃないか。昨夜は長谷部と会わなかったのかい」
「何でさ。そりゃあ毎日、会うに決ってんじゃない」
彼は私を睨みあげ、ふいに目をそらした。正直な人間だった。ことに耳朶《みみたぶ》は、おそろしく正直なようだ。見る間にそこが赧《あか》くほてった。
「昨夜、長谷部と何があったんだ!」
「何もないよ」彼は言い淀《よど》んだ。耳は、もう全体が赧かった。
「ただ、夜、電話しただけだよ」
「撮影が終ってからってことだな」
「ああ。――直子がね。友達がいるから、ダブル・デートにしようなんて言うんでさ、長谷部さんに声かけてみたって、それだけだ。そりゃあ、大麻《ガンジヤ》手に入りゃこしたことないしね。みんな売るか、吸うかして、俺のは空《カラ》になっちまってたし、直子の奴、ガンジヤないのか。ないのか≠チて催促するんだもの。でも、奴《やつこ》さん、仕事が残ってるからって断ったんだ。
本当にそれっきりだぜ」
「ガンジヤか。――茎なんか混ってない上物《じようもの》のことを言うんだろう」
「ああ」
彼は、私に真直《まつす》ぐ向き直り、唇で笑った。
「直子なんか、端《ハナ》っからそれが目当てだったんだ。えらく調子いい女だなとは思ってたんだけど、ハクい女でさ。――スタッフが女優と勘違いするほどだったんだ。映画の仕事ってのは、待ち時間ばっかだろう。見物に来てる女の子たちも、俺たちだと声かけやすいじゃんか」
「そんな女は大勢いたはずだぜ。あの娘《こ》に本気でいかれていたんだな」
彼は、止金が馬鹿になった中折れ銃みたいに、こくんと頷《うなず》いた。
「昨日もさ、お品のいいホテルで、お品よくおデートでさ。直子、茅ヶ崎の海っぺたのレストランで食事をしようって言う。友達の女の子が、そこでエレクトーンを弾いてるんだって。それが、今言ったダブル・デートの相手だよ。その娘《こ》の仕事が十一時で終るんだ。だから、男がもう一人要ると思ってさ、長谷部さんにはことわられちゃったじゃんか。で、俺の友達《ダチンコ》を横須賀《スカ》から呼んだんだ。
直子の奴、その電話、横で聞いてたらしくってさ、急につんとしちゃって、ああら! あんた横須賀なのって――俺、一発で頭《ぺてん》に血が上がってさ、あの――あの」
「あの湘南《しようなん》ガールが?」
彼は、頷いたときからそのままずっと俯《うつむ》かせていた顔を、私に上げて見せた。これ以上がないというような、寂し気な笑いがのぞけた。黒目が濡《ぬ》れて、光っていた。鼻のわきを、指で掻《か》き、個条書きでも読む調子で喋《しやべ》り出した。
「ああ、湘南ガールの|いいとこ《ヽヽヽヽ》姐《ねえ》ちゃんがさ。結局は、大麻《ガンジヤ》が目あてだったんだ。だって、そうでしょう。本気だったら、横須賀だって、ドブ板だって、どうでもいいもの。俺、男だからさ、パン助やってたってわけじゃないしさ。
自分で言い出したんだよ、あ奴《いつ》。大麻《ハツパ》が欲しくなきゃあ、あんたなんかとつきあうもんかって。あ奴《いつ》の親父って、有名人なんだってね。偉ェ絵描きなんだってさ。そんなことも言うんだ――あ奴《いつ》、はじめのデートんときから、俺が自動車《ヨツワ》持ってないこと、ブウたれてた。そのことも言った。
大声でいろんなことを言うんだ。ほら、どんな女でも――とくに|いい《ヽヽ》女がさ、大声で怒るのって、とってもたまらないじゃんか」
「自慢したかったんだな? その友達に。しかし、彼が長者ヶ崎に来たときは、もう、自慢できる女じゃなかったんだ」
「カッカしてたんだ。だから、――ね、そんなところだよ」
「例の、長谷部って助監補とは、つきあいがあったのかい」
「それほどでもないよ。何度か一緒に昼飯を食って――南加大に留学してた奴でさ、わりと|とんでる《ヽヽヽヽ》んだ。サーフィンにうるさくってね。それで、ときどき話が合って、一度、徹夜でファイヴ・スタッドのポーカァをした」
「自殺しそうな感じじゃなかったんだな」
「判んねェよ。ケラケラ笑ってる奴が、急に自殺したりするもの」
「それはそうだ。つまらないことを訊いたね」
「俺が自殺したらびっくりする?」
私は少し考えるふりをしてから答えた。「そうは見えない」
「しやしないよ」
大野皓一はすごくゆっくりしたモーションで立ち上がった。机に置いた私の煙草を手にとり、一本を抜いて、口にくわえた。
茅ヶ崎から、せいぜい逗子あたりまでの品のいい住宅地で育った少年たちが、自分を湘南の人間≠ニ称《よ》び、他の連中、とくに横須賀の同年代を区別したがるのは、かなり古くからの習慣だった。同じ不良仲間でも、横須賀の少年と寝た娘が、鎌倉の溜《たま》り場《ば》で相手にされなくなり、手ひどい村八分を食わされたりする。横須賀の、湾岸沿いに溜っている不良どもは、逆に、そうした湘南のよい子≠軟弱と決めつけ、あえて軽蔑《けいべつ》しようとする。そんな反目は、私の子供のころからあった。おそらく、もっと以前から、多分、横須賀に星条旗をつけた船が入ってきたころから続いてきたのだろう。
皓一は、机のへりに手を乗せ、気の抜けたコカ・コーラみたいな味気ない表情の真中に、火の点いていない煙草をぶら下げて立っていた。口許が満足そうに、にやりと笑った。
私はそこまで歩いて行き、左の拳《こぶし》を軽く引くと、腰の入った一撃をくり出した。彼の顎《あご》を拳に感じた。大きな音がして、彼は今まで坐っていた椅子を弾《はじ》き飛ばし、コンクリートの床にひっくり返った。
「和やかに話が出来たことには感謝する。嬉《うれ》しそうにぼくを見るのもいい。しかし、ぼくが警官だということを忘れんで欲しいな」
彼は、私を凝《じ》っと見あげ、椅子を立て直し、その上に坐った。唇も拭《ぬぐ》わずに、また笑った。それだけだった。水のない花瓶《かびん》に何日もさしてあったチューリップみたいにしなだれ、机の上に突っぷしてしまった。肩には力が見えない。すっかり疲労に支配されている様子だった。躰も、頭の中も、単純な疲労でいっぱいなのだ。
「今、他の刑事を呼んでやるよ。大麻のことをみんな喋るんだな。そうすれば寝かして貰える」
「サニー、マネー、ハニー、ファニー、か」顔をふせたまま、四拍子の呪文《じゆもん》でも唱えるような調子で、唸《うな》った。「サニー、マネー、ハニー、ファニー」
「何だい、それは」
「歌の文句だよ。全部、縁がないや」
「あの町が嫌いかい」
「そんなこたあないよ。――好きな方さ」
私は取調室の引戸を半開きにして、框を跨いで立ち、廊下に居た巡査に捜査本部へ人を呼びにやらせた。
所轄《しよかつ》の刑事が来て、私が部屋を出て行くまで、大野皓一は二度と口を開かなかった。私も黙っていた。訊きたいことはいくらもあったが、彼はもう、喋るべき今日一日分の言葉をエンプティにしていた。今は、ただひたすら眠たいだけの様子だった。
5
長者ヶ崎|強姦《ごうかん》殺人事件≠フ犯人取調べは、結局、夕刻再開と言うことに決った。麻薬捜査は他の課や厚生省とのからみがある。
記者会見の準備が終ると、出向部屋長の仲根警部が私を呼び、もう帰っていいと言った。
「非番に戻っていいんですね」私は念を押した。
「課長に、一応|訊《き》いてみろや」彼はボール・ペンで頭を掻《か》きながら言った。「自分にもよく判《わか》らんのだ。こっちへ来てから、小峰さんが君を回す旨《むね》、急に電話して来たんでな」
私は、刑事部屋から駐車場のダットサンまで、五十メートルを六秒フラットで走り抜け、エンジンをかけ、大急ぎで車を出した。後輪を派手に鳴らしたので、署の玄関先に待機していたパトカーの警官が、一瞬、私を追おうとしたくらいだった。
国鉄|逗子《ずし》駅の近くから、京浜急行逗子線に沿い、六浦《むつうら》へ抜けるまで、課長に電話をかけようかどうしようか迷っていた。道が細すぎ、そのくせ車の流れが結構あって、電話ボックスのそばに駐められそうにない。六浦から金沢八景の裏手まで出ると道幅が広がったが、そのときはもう、電話など頭になかった。
いくつかのことが気になりはじめた。宿酔のサラリー・マンが自分のベッドで目をさまし、女房にかくれて鏡をこっそり覗《のぞ》きこむときのような気分だった。どこかで何か、知らぬうちに大きな仕損じをしでかしてきたような気がしてならない。
私は横浜の市街地をやりすごし、第三京浜国道に車を乗り入れ、時速百四十キロで東京を目指した。
東京オリンピック時代の急造道路が寸断した、青山の入り組んだ旧《ふる》い街並の中から、中級の大きさのマンションを探し出すのは、容易《たやす》い仕事ではない。しかも、車でだ。路地はほとんど一方通行、右折禁止、左折禁止、やたら行き止りがあり、車はそこらに抛《ほう》り出せないと来ている。警視庁には、迷路《ラビリンス》クイズのマニアでも居るのだろうか。
私が、昨夜吉居に教わっておいた浅井杳子の事務所を、明治公園のかなり近くでみつけたとき、時刻はすでに三時をだいぶ回っており、左フェンダーには引っ掻き傷のおまけがついていた。石柱のある狭いコーナァを曲りそこねたのだ。
広い車寄せを道路側にとり、そのぶんだけ軒並からひっこんで建てられた、七階建ての洒落《しやれ》たマンションだった。道路に面した壁ぎわに植え込みが並べられ、車寄せを左右に割ったキャンバスの天幕庇《マーキー》の両サイドにも鉢植《はちう》えが置かれ、赤い実をつけている。六車線道路から少し入っただけなのに、車も人通りも、ほとんどない。
私は、車寄せの空いているところにダットサン五一〇を駐め、入り口にむかった。
何かが、視界の外れを過《よぎ》った。厭な予感がした。肉の潰《つぶ》れる音。変にくぐもった、大きな音だ。
車寄せに振り向いた。同時に走り出す。私の車の、一台置いた隣に駐められた黄色いワゴンが揺れている。ボンネットが妙に捻《ね》じくれ上がって見える。私は、その車に駆け寄った。
フロント・ノーズと植え込みの間のコンクリートは血で真赤に汚れていた。その中に臥《ふ》し、耳や口や目、体中の穴という穴からまだ血を流し続けているのは、真裸の男だった。
そむけている顔をもう一度覗きこむ。
これが私の友人だと、人に紹介するには、ためらわれる有様だった。しかし、間違いはない。かつてのエース、吉居慶四郎君を御紹介しよう。今、彼は躰《からだ》に何もつけず、下腹をよじってコンクリートに寝そべっている。右腕は今でも力強く引き締って見えるが、その筋肉も、すでに死にかけている。心臓は、ただ血を放出しているだけで、とっくに止っている。
私はあたりを見回した。人気はまるでない。コートを脱ぎ、屍体に被せ、私は立ち上がった。ちょうど真上にあたる七階の窓が開け放されている。たまご色のカーテンのはしくれが、ひるがえって見える。そこから落ち、ワゴンのボンネットに弾み、コンクリート床に転げたのだろう。
マンションのエレヴェータ・ホールには、受付けカウンターがあったが、守衛は不在だった。私は、隅の赤電話で、県警本部の小峰一課長を呼び出した。
仲根警部から放免してもらったのだが、これから昔の友人のところへ遊びに行ってもかまわないだろうか? 私は、最高から三番目ぐらいに闊達《かつたつ》な声を出した。猫撫《ねこな》で声に聞えたかもしれない。課長はかまわないと答えた。
「実は、もうそ奴《いつ》の家の前まで来ているんです」私は、電話を切った。
エレヴェータの脇《わき》に、鋳物《いもの》の案内板が掲げてある。吉居のオフィス浅井杳子事務所≠ヘ、六階だった。七階の記載はない。案内板そのものに七階がないのだ。
私はエレヴェータに乗った。
七階で降りると、すぐが小さなホールになっていて、水瓶《みずがめ》を頭に乗せた乙女の大理石像が、とっつきに置いてあった。水瓶の中には、ポインセチアの鉢がすっぽり収まり、枝葉を外へ出している。
窓はない。その代りに、ベニス細工を真似《まね》たシャンデリアが天井を飾り、あたりを秘密めかしていたが、その秘密もあまりお品のよろしい秘密とは言えなかった。
ドアはひとつ、七階に、部屋はそれひとつきりのようだった。ハンカチをそっと被せてノヴを回すと、簡単に開いた。玄関先には、男ものの靴が一足並べてある。私は、その横に靴を脱ぎ、中へ入った。
真青な絨毯《じゆうたん》を敷きつめた、三十畳ほどの広い居間がひらけた。つきあたり正面で、たまご色のカーテンがたなびいた。午後の光が開け放された窓辺を満たしている。手前の室内は、がっしりした家具類に翳《かげ》り、その中央で、エメラルド色の眸《め》がふたつ、凝《じ》っと私をにらんでいた。
揺り椅子ふうの弓脚がついた、大きな木彫りの馬だった。ただの馬ではない。首から上が、まだ固そうな乳房をした少女の上半身になっていて、その手にあたる部分は、斜め下に羽撃《はばた》かれた鷹《たか》の翼だ。
ゆっくりと揺れている。顔が仰向くたび、窓からの光を反射して、彼女の目が私に煌《ひか》るのだった。
私は部屋の中ほどに進み、尻尾《しつぽ》をつかんで、木馬を止めた。彼女の目にはエメラルド色の硝子玉《ガラスだま》が、嵌《は》められていた。覗きこんで見たが傷ひとつない。こんなところに、メッセージを残す死者などいるわけはないのだ。
私は部屋を見回した。似非《えせ》マホガニーの羽目板と本棚《ほんだな》で、妙に|ぶった《ヽヽヽ》書斎風にまとめあげられている。スコットランド人が、馬鹿のひとつ覚えみたいに自慢しているチェックの壁布といい、どう見たって、あの玄関ホールや浅井杳子に似つかわしい雰囲気《ふんいき》ではなかった。一隅《ひとすみ》に、|ぶっかき《ヽヽヽヽ》煉瓦《れんが》を積んだマントルピース、ぶ厚い樫《かし》の読書机を取り囲んで皮びきのスツールが五つ、凝った彫刻や紋様のある椅子が四種類――
壁に掛けられた杳子のスチールと、窓際《まどぎわ》の籐衝立《とうついたて》にひっかかったプリント模様のスカーフがなければ、まったく男の部屋だった。
衝立の真裏に、フランス格子をはめたドアがあった。私はそれを開いた。かなり広い寝室だった。セミダブルのベッドが一台。こちらは、スチール・パイプを使った近代的な家具が主調だ。窃《ひそ》かに、香水が匂った。
サイド・ボードの下に、スクラップ・ブックが重ねてあった。中身は、全部、浅井杳子を扱った新聞、雑誌の記事を切り抜いたものだった。
ワードローブの中に吊《つる》した、いかにも値の張りそうな服が三十着。一枚鏡の大きな鏡台には、マリー・クァントの化粧品が一揃《ひとそろ》い。
奥のバス・ルームには、ストッキングと、人前でスカートを脱ぐときのためにだけ作られたような下着が干してある。
杳子の部屋なのだ。ドアや抽斗《ひきだし》を開けるたび、流れ出てくる匂いに覚えがあった。寝室からバス・ルームの扉へ抜ける二|間《けん》ほどの廊下の両翼は、小さな流し場になっていて、壁は造りつけの食器棚、収納式の調理台だ。仕事から帰り、軽いものを食べ、ただ眠るだけが女優の生活なら――お寒いかぎりだが――これで充分すぎる調度だろう。真下には事務所があり、エレヴェータ・ホールを見る限り、このビルに七階はない。
TVがどこにも置いていないのは、彼女の聡明《そうめい》さの証拠と受けとってもいい。
私は居間に戻った。
チェックの壁布の上では、写真の杳子が笑いを凍りつかせていた。その下はマントルピースだ。矢尻のついた鉄枠《てつわく》の中にガス・バーナァが隠され、銅のシチュー鍋《なべ》がかけてある。私は、ためしに蓋《ふた》を開けた。埃が舞いあがった。鍋の底では、もうこれ以上、菌も繁殖できないというほど腐りきった食べ物の滓《かす》が、黒く乾いている。
私の足が、丸い出っ張りを踏んだ。鉄枠と絨毯の境い目あたりに、小さなふくらみがある。私は、飾りものの火掻き棒を取りあげ、絨毯の一部をひっぺがした。
出てきたのは、インク瓶《びん》のキャップくらいの大きさをした、丸い金属のケースだった。片面には小さな孔《あな》がいくつも開けられ、五十センチほどのビニール・コードを尻尾よろしく生やしていた。両面に掌《てのひら》を合わせ、半回転ひねってやると、ケースは二つに割れた。水銀電池が転げ出た。プリント配線板が見え、薄べったい高感度マイクロフォンが孔の裏側にへばりついていた。尻尾はアンテナの代りを果しているらしかった。それを元通りに組みこみ、ポケットへつっこんで、私はスツールに腰を降ろした。
窓の下に寝ている吉居のことを急に思い出し、下腹が重くなるのを感じた。スツールに、ずぶずぶ埋まってしまいそうだった。下腹のせいではない、羽毛のクッションが柔かすぎたのだ。私には、時間がなかった。
読書机の上にインターフォンが置いてある。六階へ連絡して人を呼び、吉居をもう少しましな寝台に寝かせてやるべきかもしれない。
インターフォンに手を伸ばしかけたとき、その横に積まれた、十数冊のシナリオの山が目に入った。
視《み》よ、塔は皇后のように紅《あか》い!<Aメリカ撮影用のシナリオだった。一番上の一冊が、ページをだらしなく開き、手でくせをつけられた跡がある。吉居が、ダイヴィングの直前まで読んでいたものだろう。
私は、それをとりあげた。見開きページの両側に、台詞《せりふ》が対訳形式で刷ってある。手にした一冊も含めて、手垢《てあか》どころか、つかいこんだ跡などどこにもない新品ばかりだ。多分、ストック用か、ハリウッドから使わぬまま持ち帰ったものなのだろう。ページを開けた痕跡《こんせき》はないのだが、紙質そのものが妙にしおたれていた。
開かれていたページには、ひっかき傷があった。爪か、ペンの尻で、何度かこすった跡のようだった。右ページの隅、英語版の片端が、三センチ四方ほどちぎられている。
私は、いささか馬鹿馬鹿しくなってきた。こんなものが、死者からのメッセージなのだろうか。思い出したことがあった。吉居慶四郎君は、服を着ていなかったのだ。
シナリオを、トラウザースの尻ポケットにつっこみ、窓へ立って行った。
窓際の、ペルシャ模様の織物が張られた安楽椅子と羽目板の壁の間に、そ奴《いつ》は落っこちていた。エルボゥ・パッチのついた杉綾《すぎあや》の上着、トラウザース、ドレス・シャツに靴下と下着だ。安楽椅子の背が高すぎ、目隠ししていたのだった。しかし、脱いだものを隠したというよりは、放《ほ》っぽりこんだ、という方が当っている。安楽椅子の足許《あしもと》には、ちぎれた上着のボタンが、転げていた。
私は、ボタンをそのままにして、椅子の後ろから、トラウザースと上着を取りあげ、ポケットを探った。どんなにゆったり仕立てた上着だって、一発で形を崩してしまえるような手帳と名刺入れ、ハンカチ、万年筆、鍵のたば、四万数千円入りの札挟《さつばさ》み、ヴィックス<Rフ・ドロップの小箱――煙草はやらなかったようだ。厚ぼったい名刺入れの中を、いちいち改めている時間はなかった。大きな手帳は、彼自身のスケジュールと電話のメモだった。十月、今日の日付けのページを探した。午後からは視よ、塔は皇后のように紅い!≠フ撮影立ち合い。午前のスケジュールはひとつだけだ。
十時三十分、二村、逗子、レストラン・アルカディア≠サの文字が、インクの違うボール・ペンで消され、横に十一時、※[#「○に電」]待ち≠ニ書き直してある。
死者からのメッセージは、その手帳にはさまれていた。木馬の目や、英文の台詞の行間なんかに、そんなものが転がっているわけはない。メッセージというくらいだ。手紙の格好をしているに決っている。
そ奴《いつ》は、私に宛《あ》てた小型の封書だった。切手は、まだ貼《は》っていないが、表には私のアパートの住所、名前、郵便番号までが書かれ、封筒の端に印刷された浅井杳子事務所≠フ所書きの下に、自筆で吉居慶四郎のサインがしてある。封は糊《のり》づけされ、ばってんで閉じられている。
私は、その手紙を自分のポケットに片付け、後のものを服に戻すと、元あった場所に抛り捨て、杳子の部屋を出た。
吉居は、私のコートを羽織っているのだ、死後硬直がはじまる前に、所轄《しよかつ》署へ電話しないと、面倒なことになる。
六階のオフィスの間取りは、七階とまったく同じだった。各階一室の形で造られたマンションのようだ。エレヴェータを降りてすぐのシャンデリアも、造りつけのものに違いない。六階のホールにも、同じ光が灯《とも》っていた。
ドアは違った。殺風景な鉄扉《てつぴ》に、浅井杳子事務所≠ニ彫ったプラスチックの表札がつけてある。大理石の像もない。リノリュウムの床は、むきだしだ。
ドアの中、三十畳の広い部屋も、フロア・マットを敷き、スチールの事務机を並べただけの、ありきたりのオフィスに仕上げてあった。杳子が寝室にしていた奥の間は、ここでは応接用に使っているらしく、いくぶんましな絨毯が敷かれ、ビニール・レザーの三点セットを手頃《てごろ》な調度品がとりまいている。壁一面で、春夏秋冬、室内屋外、あらゆる場所で写された彼女が、笑っていた。
私をそのソファに通した女事務員は、レンズの上半分に色がついた眼鏡をしていた。鼻がまんまるく、目も同じだった。少し首が短かすぎ、脚が筋肉質で、坐った私にかがみこむようにすると、チャージの瞬間を待っているラグビー選手みたいに見えた。
「で、吉居に何の御用でしょう」その姿勢で、彼女が言った。
「坐ってくれませんか」
「でも、今、お呼びしますわ。すぐですから」
「呼んでも、来ないですよ。窓の下で死んでる」
彼女の顔から、一瞬だけ表情が抜け落ちた。それから、私を睨み、笑い出した。
「学生時代のお友達って、おもしろいのね」
「冗談は日曜祭日にしか言わない。本当なんだ。――警察に電話するために上がってきた」
「飛び降り?」
また表情が殺《そ》げた。言いかけた言葉を飲みこみ、身をひるがえすと、部屋を出て行った。踵《かかと》の低いパンプスが、派手な音をたてる。
私は立ちあがり、その後を追った。
彼女は窓ぎわに立っていた。私に振りむき、もう一度窓の下を覗き、近くの椅子を引き寄せて坐った。えらく静かな調子だった。朝一番にオフィスの机に向かい、今日一日の仕事を頭の中で組みたてているようにしか見えなかった。後ろに髪をひっつめた、広い額の隅がぴくんと動いた。
「警察へはぼくがかけようか」
「そうしていただけると助かりますわ」姿勢を崩さずに応《こた》えた。
私は、手近のデスクに腰を乗せ、電話器をひきよせた。その隣には、インターフォンが据《す》えてある。浅井杳子の居間にあったのと同じものだ。
一一〇番が出た。私は名を名乗り、起ったことを、警察の手順に従って、手短かに伝えた。対手《あいて》は、何度も同じ質問をくどくど繰り返してくる。こうして、会話を長びかせるのだ。パトカーが到着するまで、電話を切らせないのが、理想だった。
「これが最後だぜ」私は言った。「ぼくは二村《ふたむら》だ。神奈川県警刑事部捜査一課の刑事で、死んだのはぼくの友達だ。――後は、今|採《と》ったテープとお喋《しやべ》りしてくれ」
私は電話を切り、小峰一課長のデスクの番号を回した。私の身許確認のために、警視庁の所轄は彼に連絡をすることになるだろう。話は簡単だった。吉居が七階から落ちてきたのは、課長に電話を入れたあとということにした。死んだ人間の衣裳《いしよう》のことまで、伝える必要はない。
彼は煩《うる》さそうにその報告を聞き流し、一番最後に声を張りあげた。
「やっかいを担《かつ》いで帰ってくるなよ。やっかいをな――判ってるな」
向うの受話器が、耳の中でガチャンと鳴った。
「君は、ここでどんな仕事をしているんだ」
私は電話を押しのけ、彼女の方に向き直った。
「デスクです」平坦《へいたん》な声が答える。「電話番みたいなもんですわ。吉居さんのサブがもう一人、彼はおとといから地方へ行っています」
「一日中ここにいるんだね。今のところ君一人」
「ええ、私だけ、九時半から五時半の勤務です。たいていは七時ごろまでになってしまうけど」
彼女は、背筋を正してきちんと坐っていた。溜息《ためいき》ひとつしなかった。声はどこまでも平べったく、窓から下を見おろしてこのかた、見るものも聞くものも、どれものっぺりとしか感じられない様子だった。
「吉居は、何時ごろ、ここに出てきたのかな」私は近くまで立って行き、煙草をすすめた。
「あたし、喫《す》わないんです」彼女は、下唇をとがらせて微笑《ほほえ》んだ。かわいらしい笑窪《えくぼ》が二つできた。短かい首と、ごつい脚線は、それで帳消しになった。
「吉居さんが来たのは、十一時ちょっとすぎてました。――あなた、刑事さんなのね」
「そうだよ。しかし、尋問してるんじゃない」
「判《わか》ってます。お友達なんでしょう。私、こんなとき、何て言ったらいいか」
「何にも言わない方がいいんだ。それより、話を続けよう」
「十一時に電話を受ける予定だって、おっしゃって――少し遅れたんです」
「電話は、かかった後だったんだね」
「ええ、ちょうど入れ違いで。山田って人から」
「どんな内容だった?」
「何んにも。またかけるからってことでしたわ。三十分すると、またかかってきて、吉居さんは、応接間で、それを受けられたんです。電話が終わると――だから十二時少し前ね。私を食事に誘って下すって、一時に人と待ち合わせがあるってことで、レストランから真直《まつす》ぐ出かけられたわ」
「帰ったのはいつだい」
「さぁ。二時ころだったかしら。過ぎてたかも判りません。顔を見せると、すぐに七階に上がられて――七階にも部屋があるんです」
「浅井さんの部屋だろう」
「秘密なんですよ。ファンの人がいたずらするから」
「住んでいたの」
「ええ――だけど、あの、長い間ロケに出たりするときは、私に鍵をあずけて行かれるんです」
「吉居は、よく行くのかい?」
彼女は私を軽く睨《ね》めつけた。つけ睫《まつげ》をしていることに、そのときはじめて気付いた。それを取ったら、どのくらい目が丸くなることだろう。
「それは、お仕事ですから。でも、それだけですわ。浅井さんがいらっしゃらないときお部屋に入るなんて、服を出先に届けたときだけ、一回きりでしたもの。考えてみれば、変だわ」
「一時間、何をしていたんだろうね」
「手紙をお書きになっていたんじゃありません? 七階へ行かれてすぐ、インターフォンで、封筒とレター・ペーパーを持ってくるように言いつかりましたもの。でも本当に変ですわ。あの部屋で、わざわざ手紙なんて」
「一人で、いられるね」
彼女は、微笑み、顔を斜《はすか》いにして頷《うなず》いた。
エレヴェータで一階のホールまで降り、天幕庇《マーキー》の下へ出て見ると、車寄せに迫《せ》った路肩に洗濯屋のトラックが駐り、|つなぎ《ヽヽヽ》姿の若い男と、警備会社の制服を着た守衛が、その近くに立って、話し合っていた。二人の目が、車寄せの黄色いワゴンと植え込みの隙間《すきま》を、おそるおそる窺《うかが》った。
「そのコートは、ぼくのだ」
私は鉢植《はちう》えの列を跨《また》ぎ、彼らのところまで歩いた。「勝手に洗濯へ出さないでくれ」
「頼まれたって、断りますよ。あんなの」|つなぎ《ヽヽヽ》の若い男が言った。胸に、クリーニング会社のマークが縫いとってある。
「じゃ、あんたかね。先に警察へ連絡したっていうのは」耳のやけに大きな中年のガードマンが私をのぞきこむ。ふいに声をおとし、背を正す。
「警察の方?」
「警視庁じゃありませんがね。別の用事で来ていた。――一一〇番したんですか」
「いや。原宿署に直接。番号を知ってたもんで。――この人が、今しがた、みつけましてね。あたしに知らせてくれたんですよ」
「ぼくが来たとき、守衛室にいなかったね」
「そんなこと言ったって、あなた」
彼は制帽をむしり取り、袖口《そでぐち》で額を拭《ぬぐ》った。耳が動いた。むきになりかけていた。
「地下で、給湯器の点検をしていたんだから。何んか、言いたいことがあるなら、管理会社に言って下さいな」
私は洗濯屋の青年におひきとりを願い、守衛をその場に残して、自分の車に乗った。ドアは開けたままにしておいた。
中年の守衛は、儀仗兵《ぎじようへい》のように肩をいからして、吉居の屍体の傍《かたわ》らに立っていた。ときどき、腐りかけのレヴァー・ペーストみたいにねっとりとした視線を、私へ飛ばしてくる。
私は、トラウザースのポケットからシナリオを出し、グローヴ・ボックスにしまった。彼に背を向け、手紙の封を切る。
小生のつまらない杞憂《きゆう》のため、せっかくの休日を台無しにさせて、申し訳ありません
よく揃《そろ》った右あがりの文字が、右下|隅《すみ》に事務所のヘッドを入れた真白い紙に並んでいた。
電話でもお伝えしたとおり、今回の件は、小生のボーンヘッド。この世界、どうにも一筋縄《ひとすじなわ》で行かないところがあり、ときおり、こっちもそれに巻きこまれてしまう。ただのイタズラと脅迫の区別もつかず、貴兄に無理な頼みごとをし、丸一日、こちらの都合でひきずりまわし、ひたすら恐懼《きようく》、お詫《わ》びする次第
脅迫はただのファンのいやがらせ≠セったと言い流してあった。
電話という件《くだり》は、もちろん昨夜もらったもののことではない。これから、かけるつもりでいた奴《やつ》だ。そして、もう二度とかけることのない、電話のことなのだった。
けっこう長い文面だった。共通の友人の消息や、私の電話と住所を、私の学校の野球部OBから聞いたことなどが、とりとめもなく続いていた。私には、妙に冗長だった。長すぎることが、気にかかった。『長すぎる手紙は信用するな』と言ったのは、誰だったろう。いつだって人は、他人の長話に厭な思いをさせられてきた。そのために、三分間で切れる電話を発明した奴もいる。発明したのは男だ。女ではあるまい。
吉居の手紙は便箋《びんせん》十一枚もあった。
別にお詫びのしるしと言うのではない。つまらないものですが、偶然入手したので、同封するまで。藤尾がいなくなった今も、貴兄が競馬とジェット・コースタァ以外の用で後楽園に通っておられれば、喜んでもらえるのだがと念じつつ
手紙は、そこで終っていた。私は、封筒の中を改めた。出てきたのは、日本シリーズ第二、第三、第四試合の指定券だった。後楽園、内野のS、かなり前の席だ。
私は、その切符を懐へしまい、封書をグローヴ・ボックスの中へ抛《ほう》り込んだ。
6
「しかし、何だって警察手帖を持ってこないんだ」
守衛室の黒電話で小峰課長と話し終えると、原宿署の一係刑事は、框《かまち》を跨《また》いで立っていた私を、不思議そうにうかがった。
「休日だからな」
「非番だって持って出るのが普通じゃないか」
「横浜じゃあ、手帖なんかなくても、電車に乗れる」
「本当か」彼は目を燿《かがや》かせた。
「県警はすごい羽振りなんだな」
「タクシーにも乗れるぜ。車のガスも入れられる。金さえ払えばいいんだ」
三十を越したくらいだろうか、将棋の駒《こま》みたいな形の頭を角刈りにして、口と眉を、いつもへの字に曲げている男だった。吊《つる》しの背広の上に、土建屋が着るようなナイロンのウインド・ブレイカーを着ていた。これでヘルメットをしたら、工事現場の監督にしか見えない。
私は、まだ厭な目つきで睨みつけている彼を守衛室に残し、マンションの玄関ホールを横切って行った。
吉居の屍体は、持ち去られた後だった。先刻、洗濯屋のトラックが駐っていたあたりに、パトカーが一台横付けにされ、車寄せは黄色と黒のまだらのロープで仕切られていた。ワゴンと植え込みに挟《はさ》まれたコンクリート床には、チョークで人型が描かれ、飛び散った血痕《けつこん》も、いちいち白い円で縁取ってあった。
ロープの所に立っていた制服の巡査が、私をみつけて、走ってくる。天幕庇《マーキー》の支柱の下につくねられていた血染めのコートを取りあげ、困ったような顔で、私に差し出す。
「ありがとう」
私は、それを受けとり、車に急いだ。事情聴取は、もう済んでいた。
「御友人だったそうですね」持ち場に戻った巡査が、ロープの前で不動の姿勢を私にみせびらかし、声をかけてきた。
私は、黙ったまま、五一〇のトランクを開いた。受けとったコートは、血と泥で、魚屋の粗桶《あらおけ》の中に漬《つ》けこんだみたいになっている。トランク・ルームをひっかきまわし、手頃《てごろ》なビニール袋を探し、コートを片付けた。
「大変ですね」
巡査が言った。
私は黙っていた。舌打ちする音が、かすかに聞こえた。
トランクを締め、ドア・ロックを外しているところへ、角刈りの刑事がやってきた。
「解剖の所見を知らせましょうか」いやに慇懃《いんぎん》な声を出す。言葉つきも先刻とは違う。
「他殺の線を捨ててないんだね」
「自殺に傾いてるんですよ。みんなはね。しかし、自分は違う。素裸んなって、乗び降りるなんて、考えられない」
私は、運転席に坐り、窓をいっぱいに開けてから、ドアを締めた。
彼は、自動車のルーフに寄りかかってきた。
「この歳になって、去年やっと刑事んなったもんでね。――警視庁は、偉いさんも多いことだしさ。自分のようなもんの意見、通らねェんだ」
「ぼくが言えば、余計ややっこしくなる」
「しかし、これで署へ帰りゃ、他殺って線は消えちまう。――ねェ、あんただってそうでしょうが。とことん調べてみたいだろう。友達が死んだってのにさ」
彼はウインド・ブレイカーの前をかきあわせ、車内の私を覗《のぞ》きこんだ。眉と口のへの字のバランスが崩れていた。目尻に笑いがのぞけた。スカンクが尻尾《しつぽ》を突っ立てながら、キング・コブラの様子を窺《うかが》うような笑いかただった。
「警視庁が四万人も警官を抱えている理由を知っているかい。世界一を何かで証明したくてたまらないんだ。県警の刑事に情報《ネタ》なんか流さない方がいいぜ。それが、あそこで成功する秘訣《ひけつ》だ」
彼は、顔の下と上に、いっそう鋭角なへ≠作り、車窓から離れた。肩を淋しそうに丸める。
「外勤を十一年もやったんだ」彼は溜息《ためいき》をついた。「やっと試験に受かったら、下着ドロとか痴漢ばかりでね。大きな事件《ヤマ》はみんな本庁の連中が持って行っちまう」
「東京には金板襟章《キンベタ》組が余っているからな」
「吉居さんは、洋服をめちゃめちゃに脱いでる。ベッドにマリリン・モンローが裸で待ってたってわけじゃあるまいし。脱いだってェより、脱がされたフシがある。椅子んところでボタンをみつけましてね。ボタンをはずさずに上着を脱ごうとしたんですよ。――自分は殺人《コロシ》だと思う」
私はとがらせた口から息を吐き出し、軽く頷《うなず》いた。「つまらないことを言ったね。剖検の結果を教えてくれよ。それまでに、吉居の囲《まわ》りをあたっておこう」
「どこへ連絡すればいい」
「こっちから電話をする。適当な名前でね」
彼は私に名刺を渡した。
私は右掌を耳の後ろで振り、車を出した。バックから切り返し、窓を巻きあげて見返ると、角刈りの刑事は車寄せで立ちんぼの巡査に呶鳴《どな》っているところだった。そうする理由が私には考えつかなかったが、十一年もやってきたのだ、どんなとき制服巡査が捜査員に呶鳴られなければならないか、充分体得出来ているのだろう。
私は首都高速道路に乗り入れ、上野毛《かみのげ》から第三京浜を使って横浜へ向かった。
本町通りに戻ると、すでに陽《ひ》は山手の丘の遥《はる》かはずれにあって、街並の輪郭を金色にしていた。元町裏の運河では、舫《もや》われた達磨船《だるません》の上に石油コンロが出され、夕食の準備が忙しい。鉢巻《はちまき》をした男が揃《そろ》いの鉢巻をした小さな子供を担《かつ》ぎあげ、船から船へ、因幡《いなば》の白兎よろしく跳ねて行く。その一歩ごと、トルコ・コーヒーみたいに淀《よど》んだ河面《かわも》が、重たく揺れる。|ピチパタ言うのに雨足じゃないぜ《ドンチユウ・ヒア・ア・ピチパタ》。|あ奴は君の軽い足どり《アンド・ザツト・ハリイ・ステツプ・イン・ユア・ビート》。さあ、|人生バラ色で行こうじゃないか《ライフ・キヤン・ビイ・ソー・スウイート》。|行くのは明るい表通りさ《オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート》
突然、私は大野皓一がどれも縁遠いと言っていたあの歌を、イントロから思い出した。
サニー、マネー、ハニー、ファニー≠オかし、いくら私の記憶にある歌詞を繰っても、その語呂《ごろ》合わせは出てこなかった。
運河の面《おもて》には、残りものの陽差しがあふれている。
|財布は空でも心はロックフェラー。そうすりゃ足許は金の土《イフ・アイ・ネバー・ハド・ア・セント・アイド・ビイ・アズ・リツチ・アズ・ロツクフエラーゴールド・ダスト・アツト・マイ・フイート》
私は、河むこうに連らなる山手の丘を眺《なが》めながら、運河沿いを走った。女学校の石造りの学舎、教会の鐘楼、洋館のバルコニー、そんなものが丘の緑に顔をのぞかせている。
私の読んだ週刊誌によれば、浅井杳子は、あの小高い丘の上で生れたのだった。母親は、元町で洋装店を経営している。なかなかの知名人だ。三十年近く前から、同じ場所で、同じレーベルの品を売り続けている。父親はない。
私は、中区役所へ車を走らせた。
五時きっかり。シャッターは半締りになっていて、戸籍係の係員に話をつけるまで、警察手帖常携の必要を、四回も教えられた。なかば灯《ひ》の落ちた受け付けカウンターの前で、長いこと待たされ、四人の男にかけあい、抄本を取ることが出来た。
夜がはじまりかけていた。車を、中華大門のすぐ脇にある加賀町警察署まで走らせ、口髭にサーベルの立ち番が似合いそうな、いかついA型庁舎の玄関先に無断で駐車させ、中華街へ歩いた。
市場通りの小さな店で、私は夕食をとった。排骨《パイコウ》とほうれん草の炒《いた》めもの、鮑《あわび》のスープと花巻を三つだ。食べ残った花巻のかけらに辛子|味噌《みそ》をしこたま塗って、それを肴《さかな》に食後のビールを飲んでいると、白い上っぱりを着た中国人の親爺《おやじ》がやってきた。
傍《かたわ》らに立ち、私の食卓を凝《じ》っと見おろして、首を何度か横に振る。
「判《わか》ったよ」私は手を休めて言った。「下衆《げす》な食いかたをして悪かった。咸蛋《カンタン》を一皿くれよ」
「咸蛋、やめろ。うまくない」彼は首を振り振り、店の外へ出て行った。
「いいの、手に入らない。日本人の市長、バカね。うまいもの、嫌い」
私はビールを飲みほし、吉居がくれた日本シリーズの切符と、かけることの出来なかった私への電話を思い出した。
そこで二本目と三本目のビールを諦《あきら》め、店を出た。陽は落ち、店々のネオンには灯《ひ》が入り、ラードの流れ出た中華街の路上を、原色でてかてかに光らせていた。
加賀町署へ車を置いたまま、私は本町通りの県警本部まで歩いて戻った。途中、店を出て行った白い上っぱりの中国人が、自転車に乗って帰ってくるのと行き合った。
「な、おまわりさん」
彼は、私の傍らに自転車を止めた。歯の浮くような制動音がした。
「あれ、何とかできないか。中国から来た食料品、水銀混ってる言って、荷、港でストップ。困ったことね――同じもの千年も食べてる、でも、中国の人死なない」
「何ともしょうがないな。水銀が入っていようと、ぼくなら食うんだが」
私は歩き出した。
「ピストル、何のため持ってる?」
彼は大声であびせかけ、急に笑った。大きな笑い声だったが、だれも振りむかなかった。
中華街から裏通りを抜け、刑事部と交通が入っている県警分庁舎まで、三分とかからなかった。戦争後物資が足りず、そのくせ建築業界は復興景気で、やたらと手抜き工事をしていた時代に建てられた、汚れたビルだった。記者クラブが入口近くを占領しているために、玄関先のきたならしさと言ったらそれこそドブ板通りも顔負けだ。新聞記者とちんぴらは、あたりかまわず唾《つば》を吐く。
私は小峰課長を探した。聞く相手によって行先は違ったが、留守なことだけは確かなようだった。がらんとしている刑事部屋へ行き、電話をひきよせて坐った。茅ヶ崎の電話帳でパシフィック・ホテル≠探し、フロントを呼び出す。
浅井杳子は、まだホテルに帰っていなかった。
おもしろ半分、同じ電話帳のレストランの項をあたった。昨夜、大野皓一が直子に誘われたレストランだ。そこでは、彼女の友達がエレクトーン演奏のアルバイトをしているのだった。茅ヶ崎の海っぺたに、生演奏をやっているようなレストランは二軒しかない。一軒目ははずれだった。二軒目がいい返事をくれた。支配人は事情をよく知っている様子で、彼女は今日休んでいると答えた。半分はこちらで休ませたようなものです。ええ、昨夜は、その亡くなられたお友達が来るというので、閉店後も三十分以上待ってましてね。ショックだったろうと思いますよ。なんせ、娘さんですからね。
「店ですか? 午前一時までです。演奏の方は、十一時でおしまいですが」
電話を切ると、一瞬、もうすることがないような気分に襲われた。しかし、そんなことは決してなかった。私の胸ポケットには、日本シリーズの切符が三枚も収まっている。
中区役所から貰《もら》ってきた住民票の写しを出し、机の上に置いた。中区山手町一五九番、イギリス館からワシン坂の方へ入って行く道筋だ。その丘は小湊の殺風景な貨物岸壁に面していて、所謂《いわゆる》山手の通りうちとは反対方向だが、最近では、むしろ幽静《ゆうせい》で、敷地を広々とった豪邸が多かった。世帯主は浅田|貞子《ていこ》、母親になっている。浅田|葉子《ようこ》≠ニいうのが、杳子の本名だった。
ドアが鵙《もず》みたいな鳴き声をあげ、知り合いの鑑識が入ってきた。私から一番遠い、反対隅の机に坐っていたデスク番の警部補のところへ行き、紙挟《かみばさ》みで束ねた書類を手渡した。それを指さしながら二言三言話しかけると、私の方へ片手をあげた。警部補に頭を下げ、並んだ机の間を縫い、ガニ股《また》をゆさゆさ操ってこっちへやってくる。
私と同期の男だった。星数も、私と同じだ。背が高く恰幅《かつぷく》もいい。背中がやたらぶあつく、手は山下|大輔《だいすけ》が使いこんだグローブみたいに迫力がある。要するに、彼は国体で名をあげた重量級の柔道選手だった。私には、何故《なぜ》彼が鑑識などに居るのか判らなかった。彼自身は、もっとよく判っていないに違いない。仕事といえば報告書の配達くらいで、指紋ひとつ採れるかどうか怪しいものだった。上からは柔道の練習ばかりさせられ、同僚からは柔道以外役に立たないものと決めつけられているのだ。
「何しているんだい。こんなところで」
彼は手を差し出した。私はそれを握った。しばらく触らないうちに、グローヴが万力になっていた。
「いつから、本物の警官になったんだ、二村」
「机に向かっているのが、そんなに珍しいかい。――そっちこそ、こんな時間に何だ」
彼は、後ろに向き直り、手近にあった移動式の黒板をさりげなく動かして、部屋の片端に坐っている警部補の視線を遮《さえぎ》った。
「逗子の怪死さ。ほら、NKシネマのロケ現場で、助監が墜《お》ちて死んだろ」
「助監補だぜ。チーフ、セカンド、サード、と三人いるんだ」
彼は、口をすぼめ、口笛と吐息のちょうど中間の音を出した。「詳しいんだな」
「あれは、所轄《しよかつ》の担当じゃないのか? こっちへ回されたんだな」
「裸で死んだろう。自殺する動機もないしね。マリファナ・パーティでも開いて、文字通りぶっ飛んだんじゃないかって勘ぐった警部補が、本部に一人いらっしゃったってわけさ」
彼は、黒板の裏を、親指でさした。「屍体は、市大へ持ってきて|ひら《ヽヽ》いた。こっちも、小坪くんだりまで足を運んでさ。ところが、報告書が出来る前に、何故か事故で|ちょん《ヽヽヽ》だ」
「目撃者でも出たのか」
「いいや」
彼は首をふり、机のはしに腰かけ、私に顔を近付けてきた。象に頬ずりされているような気分になった。
「どっかから横槍《よこやり》が入ったみたいだぜ。知事が革新になってから、変なことばかり起きる。――警官が十円でも金を多く使うと、それを労働者にぶつけたんじゃないかと思いやがるんだ。銭形平次みたいにさ」
「屍体の発見は十時ごろだったな」
「ああ。ロケ現場のガード・マンがみつけたんだ」
「そんな遅くに何をしていたんだろう」
「映画の奴らに、夜も昼もないよ。もっとも、昨夜は七時ごろ撮影が終ってね、それから演出スタッフだけで翌日の打ちあわせ。それも八時ごろで終り、その後は解散。主なスタッフは近くの旅館に泊ってるんだけどね、下《した》っ端《ぱ》はあのセットの中で飯場みたいな暮しをしていたのさ」
「そこで、ポット・パーティをやってたんじゃないかってわけか」
「しかしな、二村。後で判ったんだが、長谷部って奴の死亡推定時刻は、八時前から、半ごろまで、――八時まで会議をやってたんだから、彼の姿が見えなくなってから、裸で落っこちるまで、三十分とないのさ」
「その裸ってのがひっかかるんだがな」私は鉛筆の尻についた消しゴムで、鼻の頭を撫《な》でた。
「判ってるよ」彼は私の方へ手をひろげ、それをひらひらさせた。
「誰でも不思議がる。どっちかって言えば、寒い夜だったし、それに、丸裸に毛布ときちゃあな」
「剖検じゃ、何も出なかったのか」
「よく知らねェが、何んにもだろう。酒なら血管にアルコール、煙草ならニコチンが残る。しかし、大麻じゃ何んにも残らない。尿検査をやるにも、屍体はトイレに行かねェしな」
「他の薬は? たとえば体が熱くなったり、服を脱ぎたくなるような」
「なぁ、こりゃあ又聞きなんだがな、二村。最近になってアメリカから入ってきた麻薬とか毒薬ってのは、三十種類を超えるんだそうだ。それが、こっちにゃ、検出方法どころか薬そのもののデータァさえ揃《そろ》ってないんだと」
「検出する方法がないのか」
「特殊な機械や薬が要るらしいよ。薬科大学が一軒おっ建つくらいのな。簡単な方法があったら、俺が本にして警察に売りつける」
彼は机から腰をあげ、黒板を押しのけ、その黒板と同じぐらい広い肩を見せ、ドアに歩き出した。
「なぁ、浅田貞子ってのを知らないか」私は、その背に声をかけた。
「浅田貞子?」振り返って、顔を傾《かし》げる。傾ぐというよりは、肩の中に顎《あご》を埋《うず》めたという方が正しい。
「元町のラ・ババ浅田=Bあのオーナァだ」
「ああ、六十くらいの婆《ばあ》さんだろう。鵞鳥《がちよう》の羽のストールなんかして元町を歩いてるんだ。あれは沖山良平の|レコ《ヽヽ》だよ」彼は右手をつきだし、小指を立てて見せた。
「海事宣興会の沖山か」
「そうだ。あの女の息子には、沖山を名乗らせてる。――ほら、だから今話してた映画さ、息子はあれのプロデューサーだよ。沖山忠孝ってったかな。貞子はそのおっ母だってさ。――こいつは、昨日一課の連中から聞いた話なんだぜ、二村」
彼は意地悪く笑って一歩踏み出し、またくるりと振り返った。「しっかり|警官しろよ《ヽヽヽヽヽ》。つっぱってばかりいねェでさ」
「どういう意味だ。シャツに糊《のり》を効かす趣味はないぜ」
「課長だよ」彼のバズーカ砲みたいな指が、私を指した。
「小峰の親爺、逃げ腰だぜ。俺が今さっき入ってきたとき、奴《やつこ》さんドアの所から部屋ん中を覗《のぞ》いててな、――おまえを見つけたら、こそこそ行っちまったよ。何をしたんだ」
「何もしない。ぼくが巨人を応援しているのが気に入らないんだ」
「課長、アンチ・ジャイアンツか」
「野球が嫌いなんだ。野球があると、TVが女房と一人息子との家族|団欒《だんらん》を彼から奪っちまう」
「なるほど」
彼はまた私を指さし、何かを言いかけて口を噤《つぐ》むと、何も言わず肩をすくめ、刑事部屋を出て行った。
私は自分のロッカーへ行き、去年の暮に新しいのを買って以来、そこに抛《ほう》りっぱなしにしておいたトレンチ・コートを苦労して探し出した。ボタンが二つ足りず、衿足《えりあし》はすり切れていた。変な匂いがした。洗面所へ持って行き、口に含んだ水をあちこちに吹きかける。こうして、車の中にしばらく吊《つる》しておけば、コートを簾《スダレ》みたいに見せている皺《しわ》も少しはのびるだろう。
私は、そ奴《いつ》を手の先にぶら下げて、警察本部を出た。
7
元町通りの両肩には、買物客の車がびっしり駐り、まるで一個中隊の機動隊員がジュラルミンの楯《たて》でガードしているような有様だった。私は、谷戸坂《やとざか》の近くまで走り、運河っぷちにやっと隙間《すきま》をみつけた。そこに車を押しこみ、コンソール・ボックスから自分で勝手に造った駐車標を出し、日覆《ひおお》いを降ろして、フロント・グラスとの間にはさみこんだ。私の写真入りの身分証明をコピーにとり、横に公務執行中≠ニ書き足して厚紙に貼《は》りつけた代物《しろもの》だ。このアイディアは、上の連中にきわめて評判が悪かったが、書類の枚数を増やすばかりでこういう所にちっとも気を利《き》かさない連中が、たまに公職の謙虚≠説いたところでどうということはない。署内には、こっそり真似《まね》をする奴もいる。しかし、こんなことをしても、交通のお嬢さんがたが少しでもご機嫌《きげん》悪かったりすると、軽くレッカーでしょっぴかれてしまうのだった。
私は、元町通りに戻り、ラ・ババ浅田≠フ店先まで人の流れをかきわけて歩いた。六時半だった。皮肉なことに、車は減りはじめている。
ラ・ババ浅田≠ヘ固定客の多い、誂《あつら》え専門の洋装店だ。ショウ・ウィンドゥに品のいいツウィードの布地を巻きつけた人台が並べてあるだけで、飾りらしいものはそれきりだった。一枚|硝子《ガラス》の扉には、よく見ると、小ぶりな筆記体で、この店の洋服のラベルに描《か》かれているのと同じフランス語が刻んであった。意味は判《わか》らないが、店の名とは違う。店の名は、軒先の横木に凝った書体で彫り込まれている。それも、注意して見ないと気付かないほどだ。
四囲の棚《たな》に、ずらりと並んだ洋服生地、中央に置かれた硝子ケースの中では、この店特選のアクセサリーが輝き、その向う側は毛足の長い絨毯《じゆうたん》が敷かれ、応接セットが配置してある。壁も天井も、ニスでぴかぴかに目を浮かせた木製品が隠していない部分は、すべて漆喰《しつくい》に覆われていた。
応接セットには先客がいた。四十年配の背の高い女性だった。もう一人、銀髪の老婦人がその女客の肩に二種類のフラノ地をあてがっていて、私の方へ目をやると、少し待ってくれるよう、丁寧に声をかけてきた。
客は、ちょうど帰るところだった。白い化粧箱を抱え、私に会釈《えしやく》をして出て行く。身につけている品は、昼間の散歩道やデパートにはおおよそ相応《ふさわ》しくない、きらびやかなものばかりのくせに、化粧も髪型もたいそうひかえめな御婦人だった。眼《め》つきは、オールド・ミスの女教師みたいで、お茶にでもさそおうものなら、鉄拳《てつけん》がとびそうだ。それなのに、ものごしは艶《つや》っぽく、ストッキングのモデルを決めるオーディション会場にいるみたいな歩き方をする。いったい何をしている女性か、見当もつかない。もし亭主がいるなら、その亭主も、どんな女か旨《うま》く言えなかったろう。
しかし、彼女はこの店の客として、ひどくそぐわしく思えた。
「どんな御用件でございましょう」
先客の後ろ姿に見蕩《みと》れていた私に、銀髪の老婦人が言った。すばらしい銀髪だった。老人の白髪というよりは、生まれたときからのプラチナ・ブロンドのように見える。金縁の老眼鏡が、目許《めもと》にしっくりしていた。
「浅田さんですね」
「ええ、あたくしがそうですわ」
「二村と言います。県警で刑事をやってる者です。お時間をいただけますか」
「まあ」彼女は胸をおさえ、にっこり微笑《ほほえ》んだ。口許に、まだ苦労を知らなかったころの愛嬌《あいきよう》がのぞけた。六十はとっくに過ぎているだろう。
「それじゃあ、中川さんの部下の方ねェ」
「中川本部長を御存知《ごぞんじ》ですか」
「ええ、先日ミス・マリン・コンテスト≠ナ。――審査員を御一緒にやらせていただきましたのよ」
「秘密でやったんですよ。ぼくらに知られると、暴動が起きる」
彼女は気持ちよさそうに、喉で笑い声を転がし、私に、椅子を勧めた。奥のカーテンへ声をかけ、お茶を運ぶように言った。
「で、どんな御用件でございましょう?」
手を胸のあたりに組み、正面のソファに坐る。うれしそうに、身を乗り出してくる。本気でうれしがっているようだった。何によらず、自分が今まで経験したことのないものすべてに、ゴール前のラスト・スパートといった感じの好奇心を燃やす年寄りがいる。警官にとってこれほど面倒な人間はない。ちょっと聞きこみに寄っただけで、翌日から毎日、隣のポチが柿の木の下を掘りかえした、なんてことまで定時報告してくる。ひどいのになると二時間おきだ。そうした老婆からの電話で、本式のノイローゼになった同僚がいた。彼は、まだ病院に通っている。
腕に針坊主《はりぼうず》を巻きつけた若い娘が、盆を持って、カーテンの影からやってきた。卓子に紅茶のカップを置き、またカーテンの中へ下がった。
「どうぞ、さめないうちに」
手を差しのべ、すぐまた顎《あご》の下あたりに組み直す。
「吉居を御存知ですね」
「吉居さん?」彼女は、顔を斜めにして考えた。ずいぶん子供っぽい仕草に見えた。
「ああ、杳子さんをお世話下すってる方ね。お名前は存知あげてますわ」
「彼から、お嬢さんの件で頼まれごとをしました。――御心配には及びませんよ。警察とは関係ないんですから。友達として頼まれたんです」
「まぁ、おもしろそう」
彼女は組んだ両手をぐっと握りしめ、身を乗り出した。目尻の皺《しわ》はどうしようもないが、生き生きと若やいだ眸《め》が、眼鏡の裏側で色っぽくつややいだ。
私は、話をうちきり、帰りたくなった。
「それで、杳子さん、どおなさいましたの」
「どうもしません。彼女から頼まれたわけじゃない。――ただ、その頼みごとを昨夜受けてから、妙なことがいくつか起こったってだけです。杳子さんには直接関係ない」
「あら、ま、どんなことでしょう」
「その前に、少し、お聞きしたいんです。立ち入ったことですよ」
彼女の目から、光がおちた。眼鏡と蛍光灯の白濁した明りを利用して、眸を曇らせた。女一人で、三十年も店を張って来たのだ。天真|爛漫《らんまん》がすべてというわけはなかった。
浅田|貞子《ていこ》は、受け皿ごとカップを取り、口へ運んだ。眉をひそめ、冷めちゃったわ、と口の中でつぶやいた。
「実のところね、歌村さん」
「二村です」
「そうね、ごめんなさい。――あたくし、杳子さんとは御一緒に住んだこともないんですのよ」
「最近になって、養女にもらわれたんですね」
「まぁ」彼女は紅茶のカップを置き、また手を組んで小さな歓声をあげた。こうした老婦人が、小さな喜びから大きな驚きまで、どんな場合にでも使いわける、品のいい歓声だった。王がホームランを打っても、彼女なら同じように手を組み、まぁ≠ニ言うのだろう。
「さすがは刑事さんねェ――でもたいしたことじゃございませんわ。週刊誌にものってますもの」
私は、少し驚いて聞きかえした。まぁ≠ヌころではなかった。「隠してらしたんじゃないんですか」
「いいえ、とんでもない。何で、そうお思いですの」
「山手のお宅の御住所には、住民登録しかなかった。調べてみると、三年前、戸籍が移っているんです。東京の、杳子さんが住んでるマンションにね。養子をもらったとき、よく使う手だ」
「忠孝がやりましたのよ。おかげで、あたくし、面倒な思いをさせられてますわ。――忠孝を御存知ね。沖山の子です。あたくしね、二村さん、何ひとつ隠しだてなんぞしちゃおりません。他人様《ひとさま》の御迷惑になるうちゃ別ですけれど、沖山の奥様も十年以上前に亡くなりましたし、あの人もあたくしも、何も隠しちゃいないんですのよ。
杳子さんのこともそうですわ。あたくし、本当にあの方をよく存知あげないんです」
「御家族なんでしょう」
「勘違いなさらないで下さいな。養女にいただいた以上は、あの方は、たしかにあたくしの娘です。あたくしは、杳子さんに悪い感情なんぞ持っちゃいません。ただ、よそさまに、あれこれお話できるほど、杳子さんを知りませんて、それだけのことですのよ。五回ほどしかお会いしたことがございませんの。あたくしも仕事がありますし、あの方もそう。これで、毎朝十時に店を開けるのは、年寄りにはどうしてどうして難儀なんですのよ、二村さん」
「失礼ですが――じゃあ、杳子さんを引きとられたのは、沖山忠孝氏なんですね」
彼女は軽く頷《うなず》いた。細く筋ばった首が、今にも折れてしまいそうだった。「あの子は、NKシネマの株をだいぶ持ってましてね――沖山は嫌うんですが、忠孝と来たら、昔からそう。映画とかステージが好きなのね。
十五、六年前のころでしょうかしら、ほら、映画の全盛時代でしてね。そのころは女優さんたちが大勢、あたくしどもの店を御利用下すっていて――そのころからですわ、忠孝が、ひどくあの世界に興味を持ちましたの。
三本ほど、映画の製作もいたしましてね。一本は、ほら『帰り来ぬ波止場』って、ギャングの恋物語。御存知?」
「観《み》たことがあります。ベネチアで審査員賞を獲《と》った映画だ。ポップ・コーンを食べながら、主人公が大桟橋《おおさんばし》で死ぬんですね」
「そうよ、あれも、あの子が手がけたんですの。――三年前でしたかしらね。忠孝が杳子さんを連れてきて、うちの籍に入れてくれって、そう申しましたのよ。よさそうな娘さんだし。おきれいでねェ。はきはきして、礼儀も正しいお嬢さんでしたわ。スターとして売り出すには、その方がいいってことですし、むこうの親御さんも同意なすってるし、沖山も、忠孝がそう言うなら好きにしろと言ってくれましたもんで、それで浅田の家に入れたんですのよ。その後のことは、みんな忠孝がしました」
「沖山良平氏も、杳子さんをバック・アップなさってるそうですね」
「さぁ、どうでしょう」彼女は、喉許《のどもと》で合掌させた指の先に、顎を乗せ、目を細めた。口の端《は》に二本、いかにも意思の強そうな縦皺がふかぶか刻みこまれた。
「ねェ、二村さん。沖山は、言われてるほどの人じゃなくってよ。咳《せき》をすると、時の総理が風邪をひくとか、電話ひとつで港の荷役がストップしてしまうとか、いろいろ言われますけど、あれは話を面白おかしく伝えたがる方たちの、言葉の遊びでござんすわよ」
彼女は一頻《ひとしき》り笑い、細めた目で、どこか空の遠くの方をうかがった。「そんなことありゃしません。でも、子供を想《おも》う気持ちなんて、あなた、誰だって変りなく持っているでございましょう。忠孝が売り出そうとしている新人女優さんを、あちこちでよく言ったり、忠孝が製作した映画を観て、お傍《そば》の人にほめたりは、沖山にするなってほうがずいぶんと無理じゃございませんこと?」
「本意でなくとも、沖山さんがそうなさったとたん、何とか会が一万枚、何んとか団体が二万枚、映画の切符を買ってしまう。その程度のことなんですね」
「ええ、その程度のことですわ」
彼女は、悪びれずに頷いた。「でも、そんなこと、杳子さんの才能に較《くら》べりゃあ、二村さん、瑣末《さまつ》なことじゃございません? あの方の人気は、本物ですわ」
「ぼくも、そう思います。――杳子さんの昔の姓をお聞かせ願えますか」
「木村――たしか木村っておっしゃったわ。――親として、これ以上お恥ずかしいことはないんですが、あたくし、本当にあの方をよく存知あげないの。もっと、お話がお入りようなら、忠孝に聞いて下さいません」
彼女は音もなく立ちあがった。帰れという合図のようだった。最初に彼女が示したたあいのない興味にくらべると、これはあっさりしすぎていた。ぴしゃっとした口調も気にかかった。彼女が言う通り人の空想力がふくらましたものにしろ、ともかく怪物≠ニか巨魁《きよかい》≠ニ称《よ》ばれている男の愛人なのだ。よく水際《みずぎわ》を心得ているに違いない。好奇心も、少女のような仕草も、そのボーダァ・ラインの前ではすべて色褪《いろあ》せてしまうのだろう。
沖山良平は、戦争前、ソ連でなくアメリカへ亡命したという見上げた心意気の共産主義者だった。戦争が終り、B17に乗って厚木に戻って来たとき、彼はもう共産主義者などではなかった。英語や新しいネクタイの結び方、ブリキ皿で食べるポーク&ビーンズ・スープの味がすっかり染《し》みついていた彼は、当時の第一生命ビルの中で、一番大声で喋《しやべ》れる日本人だったのだ。それから三十年して、沖山は片手に日本全国の船荷役、もう一方の手にユダヤ人の石油資本を乗せ、十五人の有能な秘書と、縦に積めば東京タワーを軽く覆いつくす札束に囲まれている。
私は、その高さを想い描いて身震いした。彼にとっては、映画産業など、日曜の縁側で猫の蚤《のみ》をとってやるくらいの道楽に見えて、不思議はない。まして、女優のスキャンダルなど、彼に結びつけて考える方が世間知らずというものかもしれない。
私は、冷めてしまった紅茶を一口飲み、浅田貞子に礼を言った。
「忠孝さんには、どこへ行けばお会いできるでしょう」
「夜、宅の方へ電話を下さいな。あの歳で、まだ独り者でね。山手の宅に同居しておりますのよ」
彼女は、店の名刺を組木細工の書類入れから出し、裏に自宅の電話番号を書いて渡してくれた。
「沖山ビル≠フ中に事務所を出してまして、昼はそこにおるようですわ」
彼女が背にしたカーテンの向う側で、電話が鳴り出した。遠くから階段を降りて来る足音が聞こえ、電話のベルが熄《や》んだ。少し間があった。
「お電話です」若い女の声が呼んだ。
私は立ち上がった。彼女は中腰のまま、私に手を差しのべた。
「おぼっちゃまから」と、カーテン裏の声。
貞子は明らかに当惑した顔で私を見上げ、ゆっくり微笑んだ。
「吉居さんが、どうかなすったんですの」
彼女は私の先手をとって言った。
「忠孝さんに、ぼくが会いたがっていたと伝えて下さいますか」
「ええ、ようございますとも」
そこで銀髪の老婦人は、先に立ってドアへ歩いた。私は帰るしかないようだった。
「吉居さんからのお頼みごとって――もしや、杳子さんに悪い噂か何か」彼女は、硝子戸を引いた。
「あの人に悪い噂など発《た》つはずがない」
「じゃ、妙なことが起こられたっておっしゃるのは?」
「大したことじゃありません」私は、ドアの把手《とつて》を彼女から引き受けて言った。
「吉居が死んだんです。事務所のビルから落っこちてね」
「まぁ」
浅田貞子は、胴に回した両腕で自分を抱きしめ、声をあげた。たまには、違うまあ≠叫ぶことだってあるのだ。
私はラ・ババ浅田≠出て、車へ歩いた。ワン・ブロックほど先の通りに、ポピー≠フ灯《ひ》がまだこぼれていた。大野皓一がネクタイを見た洋品店だった。そのネクタイは、今私の胸にぶら下がっている。
私が買うまでこ奴《いつ》が飾られていたショウ・ケースには、柔かそうな仕立てのトレンチ・コートがかちっと肩をいからせ、ライトをあびていた。私は車に吊《つる》して来たコートと、トランクへ入れた血染めのコートの両方を一ぺんに思い出した。背中が急に寒さを感じた。
8
雨が来るのかも知れない。
遠い水平線がくっきり見えた。妙に白っちゃけた空模様だった。丘へ登っている私の車のヘッド・ライトが、地面を捉《とら》えそこない、手が届くくらい低い雲を、金色に煌《ひか》らせていた。
車体が水平に戻ると、視野が急にひろがった。ヘッド・ライトが、今度は崖っぷちを掠《かす》め、眼下に延びる波打際《なみうちぎわ》に丸を二つ描いた。その向うの埋立地には、逗子マリーナのリゾート・マンションが、誰かがクリスマスの飾りつけをしてしまった墓石のように、窓を冷たく明らめ、びっしり建ち並んでいた。
一群れの雑木林を過ぎ、砂利道が切り通しを抜けた。海に迫《せ》った丘の突端を均《なら》し、草木を整理した赤土の台地だった。超近代的な洋館が中央にでんと構え、手前には白亜のアーチが鉄柵《てつさく》を従えてあった。
白色灯にほてった石肌《いしはだ》の洋館は、近くから見るとたいそう薄っぺらな印象で、遊園地に建てられたお伽《とぎ》の王城のように重みを感じさせなかった。使われている建材のせいかもしれない。何より、アーチ型の門柱の足まわりにだけ植えられた、芝やプラスチックの花が、それを洗濯屋に出しすぎた燕尾服《えんびふく》のように軽く見せているのだった。五センチも目をずらせば芝園はぷっつり途絶え、赤土が剥《む》き出しでほっくりかえされている。
組立て式の櫓《やぐら》や、クレーン、カメラ移動のレールがそこらに散らかり、キャンバス布を被せた資材が、無造作に積んである。遠景に海を臨んで並ぶ松の木立ちも、ずいぶん作為的だ。
そうした全部が、揃《そろ》って地面に馴染《なじ》まず、風の一吹きで足下の海原へ飛んで行ってしまいそうだった。
私は、台地の片端に建ったプレハブ二階屋の前に、車をつけた。四隅《よすみ》をワイヤーで支えた、急|拵《ごしら》えな掘っ立て小屋だった。
寄り添うようにして、車が何台か駐っている。
プレハブの小屋には、NKの看板に並んで沖山プロダクション≠ニ大きく書いた板きれも掲げられていた。視《み》よ、塔は皇后のように紅《あか》い!≠ヘ、NKシネマと沖山の個人プロとの共同製作なのだ。資本は四分六分、沖山一人が半分以上を背負っている。
丸太に裸電球をぶら下げただけの門灯の下に、モルタル板が敷いてあった。玄関ステップの代用なのだろう。足跡がべっとりついてはいるが、グローマンス・チャイニーズ劇場から土産に持ちかえったわけではあるまい。もちろん、浅井杳子のサインもない。私は、その上にニュー・フェイスの足跡を残し、やたらと立て付けの悪い引き戸を開けて、現場事務所に入った。ここへ辿《たど》りつくまで、丘下の私有地ニツキ立入リヲ禁ズ≠フ立札から一キロ、誰一人私を咎《とが》める者はなかった。
入って正面の壁際に、こっちへ尻を向け、男が一人立っている。鼻を壁にすりつけそうにして、危っかしい姿勢だった。
私は声をかけようとして踏み込んだ。
くるりと、その男が振り返る。焦茶《こげちや》のホンブルグ帽を被り、襟《えり》をぴんと立てたトレンチ・コート、両脚を少し開き気味にして腰を落とす。両手が羽ばたく。私の方へ突ん出したその先には、・四四のマグナム拳銃がしっかり握られていた。
身構えるより、私は呆《ほう》けた。入口に棒立ちになり、彼をみつめた。
彼は口許《くちもと》をにやっと笑わせ、体勢を崩した。指先から力を抜き、拳銃を半回転、銃口を上に向けて握り直す。サングラスに鈍い光が灯《とも》った。唇が上下に割れ、歯の間で何度か舌を打ち鳴らす。
「とっぽい兄ちゃんだぜ」
また銃口が私を向いた。本気だった。「いかしてるじゃねェか。俺《おれ》と白黒つける気かい」
私の右手は、知らぬ間にからっぽの懐へ飛びこんでいた。
彼は空いた方の手で、私の左後ろを指さし、笑い出した。引戸を入ってすぐ左脇の壁に、等身大の鏡が立ててあった。
彼は、その鏡と私を見くらべ、拳銃使いにしては無防備な大笑いで腹を折った。
私は下唇を咬《か》んだ。一杯くわされたのだった。ここは、映画のロケ・セットなのだ。
「誰ですかぁ。ブン屋さんなら、明日までコメントありませんよ」
広い板の間の奥から、場違いに穏やかな声が、私に訊《たず》ねた。
私は、まだ笑っている男に背をむけ、声の方に歩き出した。泥だらけの板敷きに、大きな卓子や肚《はら》をのぞかせた椅子がわがまま勝手に並び、その先では、大型の石油ストーヴが明々と燃えていた。声の主はストーヴの横に立ち、所在無げに私を窺《うかが》っている。丸顔に黒縁の眼鏡をした、背のひくい男だ。
「二村です。吉居の友人でね、神奈川県警で刑事をしている」
「吉居――あの吉居さん?」
私はストーヴから数歩退き、背を向けて立った。腕を組み、彼の眼鏡がオレンジ色の炎できらきら輝くのを、ただ凝《じ》っと見ていた。
「こまっちゃったな。今日は終りなんですよ」彼は大きな音をたてて、頭の毛をひっかいた。
「製作の連中は、みんな東京へ出払っちゃってるし。そういうのは、製作から聞いてもらうことんなってるんだなぁ。でも、連中は明日、県警本部に呼ばれてるって言ってたけど?」
「仕事で来たんじゃないんだ。――監督に会えないかな」
「駄目ですよ! とんでもない。――旅館で次のコンテを考えてるんだ。そんなところへ、あなたなんか連れてったら、このセットの最終シーンで人柱にされちまう」
「どんなシーンだ」
「S81/逗子の別荘、狂乱の大炎上」
「君は?」
「助監《チーフ》の戸田です」
「今頃《いまごろ》一人で何をしてるんだ」
彼は、部屋の向うはしにいる、ソフト帽を被った男へ、窃《そ》っと視線を走らせた。私に顔をかたむけ、嗄《しやが》れ声になって囁《ささや》く。「帰ってくれないんですよ。二時間は練習する」
男は、相変らず同じ場所に立ち、鏡を相手に拳銃を抜いていた。クイック・ドロゥの練習をしているようだ。驚くほどあざやかだった。コートがひるがえり、衣摺《きぬず》れの音が聞こえたときには、もう、彼の手の中に拳銃が現れ、撃鉄が起きている。息吐《いきつ》くひまもなく、ただそれだけを繰り返し、私たちの眸差《まなざし》など眼中にないようだった。
私は彼を思い出した。十年前、いつも波止場の夜気を背負い、NKシネマの主人公たちの前に立ち塞《ふさ》がった殺し屋だ。エンド・マーク五分前、口笛と汽笛が聞こえると、それが彼のファンファーレだった。
戸田は、さして厭そうでもなく、しかたないとでも言うように笑って肩をすくめた。
「あの人の出は、まだ三日もあるんですけどね。みんな、久しく本篇に出てないでしょ。落ちつかないんだろうな」
「また殺し屋を演《や》るのかい」
「いいえ」
彼は、悲し気に目を閉じ、眼鏡をとって目許を指先で拭《ぬぐ》った。何度も、首を力なく振るった。
「実直な弁護士でね。浅井さんが演《や》る女の別れた御主人ってのが遺《のこ》してった財産を、ここに届けにくるってだけなんです」
「彼が弁護士なら、警察はいらないな」
「仕方ないですよ。そういう映画なんだから。――エスタブリッシメントの権力抗争ん中でね、女主人公が揺《ふ》れてく、恋愛をタームにしてね」
「そういう奴が当るんだね。バラと銃口≠ヘ時代遅れなんだ」
「宣伝にお金をかけますからね。それに、評論家だって誉《ほ》めやすい。ドンパチよりはね。――沖山さんが、何たってついてるんだ。お金はあるけど、いつまで映画を、街のチンピラ相手の見世物にしとく気だ!≠ネんて平気でいう人なんです。持ち直したからって、もうバラと銃口≠フNKじゃありませんよ。女子供が一等お金を持ってますからね。で、文化ってのは、金ばなれの一番いい連中が主人公なんだ」
私たちは、二人してストーヴの熱に尻をあて、鏡の前のヒット・マンを眺《なが》めていた。彼は真剣だった。誰も喋《しやべ》ろうとしない十分間が流れた。コートの裾《すそ》がはためく音、撃鉄があがる冷たい音だけが、部屋に連続した。緊張した十分が終ると、男は拳銃をホルスターに収め、まるで本物を扱うような真剣さでホックを撃鉄に挟《はさ》み、固定させた。案外、本物かもしれなかった。明らかに金属製だし、銃口も黒々とひらいている。しかし、私にはどうでもいいことだった。
彼は、私の眸差を反対に掬《すく》いあげ、指を一本立てて口の中に舌を鳴らした。
「兄ちゃん、また会おうじゃないか。あんたが丸腰じゃねェときにな」
コートをばたつかせ、彼は身をひるがえした。鮮やかな消えっぷりだったが、引き戸がなかなか開かないのが御愛嬌《ごあいきよう》だった。彼は框《かまち》を蹴とばし、出て行った。
「お疲れさんでした!」
傍《かたわ》らで戸田が叫んだ。TV屋やブン屋から聞く同じ言葉とは違い、運動部員の力強い挨拶《あいさつ》のように熱がこもっていた。
私は黙っていた。夜の海で、ロマンチックな出来事に出会うのは、何も夏とばかり限ったわけじゃない。
遠い波の音を破り、点火音が高なった。私は、事務所前の車の列にまじって赤いロードスターが駐っていたのを思い出していた。軽やかなエンジン音が、丘を下って消えて行った。
「すごいんですよ」戸田の目は、少し異様なくらい燿《かがや》いていた。「いつガン・マン役が回って来てもいいようにってね。スポーツ選手みたいな躰《からだ》している。本気なんです――もっとも、心の底からってほどじゃありませんがね」
彼は、スケジュールがびっしり書き込まれている黒板のところまで行き、チョークで何かを書き込んだ。壁に吊《つ》り下がっていた、鞁《かわ》の肱《ひじ》あてつきのジャンパーを取り、それをトックリ・セータァの上へ着こんだ。下はシミだらけのGパンに踵《かかと》を踏み潰《つぶ》した運動靴という姿だった。よほど寝相が悪いのか、つむじのまわりで毛が逆だち、他の毛も――顎《あご》の無精髭まで含めて、あっちこっち気ままな方向をむいていた。
「沖山忠孝は、現場と折り合いが悪いようだね」私は、卓子の上にひっちらかった紙きれを整理している助監督に、声をかけた。
「そんなこたぁありませんよ。考え方が違うだけです。同じ映画を作ってるんだもの。――俺、いくつに見えます」
「風呂に入ってくれないと、判《わか》らない」
「毎日入っても、こうなんですよ。――今年で、三十四。昔からNKでね。沖山さんとの違い、判るわけなんです。でも、結局、そうした昔からの作り方が映画を|にっちもさっちも《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》にしちまったんですからね」
「スキャンダルを探りに来たんじゃないんだぜ。調書を採ろうってんでもない。今日は、糸の切れたヨーヨーだ」
「でも、何んかを査《しら》べに来たんでしょう」
「ああ。しかし、今のところはフリーの警官でね。ただの好奇心さ」
彼は私を振り返り、笑い出した。胸にかき集めた紙きれをくしゃくしゃに丸め、部屋の隅に抛《ほう》り投げる。私より年長とは、どうしても思えない笑顔だった。
「フリーの警官か。そ奴《いつ》はいいや。サブ・タイトルなら使える」
「ロハで使わせてやるよ。君の第一回監督作にね。――沖山忠孝のことを聞きたいんだ」
「あの人も、今頭を抱えてるんじゃないかな。えてして自信家ってのは、不測の事故に弱いからな。それが三回も続いちゃあ」
「三回? 昨日と今日と、他にもあったのか」
「スポーツ新聞を読まないんだな。二村さんは」
「ペナント・レースが終ると、もう読むところがない」
「芸能欄だってあるんですよ。――アメリカ・ロケで、製作スタッフが一人、ロス警察にパクられたんだ。ちょうど、芸能界のマリワナ事件と重なって、騒がれたんだけどな」
「ハリウッドでは、マリワナなんて煙草代りなんじゃないのか」
「コカインですよ。スノーティングって言ってね、鼻から啜《すす》りあげるんだ。何グラム以上とか持ってると、罪が重いんだそうでね、それが、奴の荷物から出てきたんです。
沖山さんがね、父親に国際電話して、見知りの上院議員かなんかに顔効かせて起訴はまぬがれたんだけど、ニュースは流れちゃった。沖山さんの父親ってのは、例の沖山良平なんです」
「そのスタッフはどうしているんだ」
「現地で馘《くび》ですよ。それから二、三日したら、ヴェガスの近くで自動車事故。死んじゃったって話だ。――ハリウッドの大部屋女優とねんごろになって、その女から教わったらしいんだな、コカイン。
向うだって仕事の口、少ないことにゃ変りない。蝗《いなご》みたいに集まってきましたからね、大部屋のそういうのが。そん中の一人。――どだいハリウッドへ行くなんてェの、はなからハッタリくさくてね。必要なかったんですよ。あれは宣伝部と沖山さんの博奕《ばくち》じゃねェかな。
アメリカ・ロケは要っても、わざわざハリウッドでセット組むなんて理由、ひとつもなかったんだ。その分お金をかけるべきところ、他にいくらだってあるんだから」
「君はハリウッド行きに反対だったんだね」
「そんなこたぁない。
ハリウッドは夢を獲《とら》える檻《おり》だった≠チてね。ジョン・ヒューストンが言ったんですよ」
戸田は、ダイアルの無い黒電話を取り、レバーをくるくる回して継《つな》いだ。相手が出ると、これから旅館へ帰ると告げ、明日の撮影スケジュールについて復唱した。明日は全部、浅井杳子が出ていないシーンに変更された様子だ。
「二階に誰かいるんだね」私は訊ねた。
「撮影部の若いのが、泊まりこんでるんですよ。それに警備会社から来た守衛が二人。――二村さん、車で来てんなら、下まで乗せてってくれませんか」
私は頷《うなず》き、戸締まりや火の気を点検している彼を残し、戸外へ出た。ツー・シータァの赤いロードスターはまだ置いてあった。拳銃使いが乗って行ったのは、どうやら、その隣に駐っていたセドリックのようだった。
プレハブ小屋の二階から、外階段を派手に踏み鳴らし、制服姿の守衛が降りてきた。
ボストン・バッグをぶら下げて出てきた戸田に、ちょこっと片手をあげて挨拶をし、そそり立つ洋館の裏側へ消えた。
「すごい建物だな」
私は、セットを見上げ、歩いてきた戸田に声をかけた。「スカーレット・オハラが宇宙船に乗って離陸しそうだ」
「ヒューストンに打電するんですか? 明日は明日の風が吹く≠チて。――当りそうにないな」
しかし、このセットには、政財界を背景にしたメロ・ドラマより、そっちの方がずっと似合いそうだった。
「中を見たいですか、二村さん」
戸田は、車のところまで来て、洋館をふりあおいだ。「取りはずしたり、解体したり、簡単に出来るようになってるんです。重い壁は電気で動く。――かつての京都東映城も顔負けですよ」
「長谷部君は、どこから飛び降りたんだろう」
「奴は、崖を踏みはずして落ちたんだ。下の海岸にね。事務所の小屋の裏手からです。プチ・トレアノン≠ゥらじゃない」
「プチ・トレアノン?」
「このセットの仇名《あだな》ですよ。マリー・アントワネットの別荘。浅井さんに似合いでしょう。――あそこから落ちたと思ってたんですか? ほんとに、捜査本部の人じゃないんだな」
「吉居の友達だよ。彼も裸で落ちたんだ。だから、長谷部君にも興味を持った」
彼は、ごしごし頭をかき、下の方から私の目を覗《のぞ》きこんだ。「二村さん。もうちょっと調べてみるべきでしたね。――長谷部君が裸だったってのは、新聞風の真実ですよ。事実じゃない」
「毛皮を着てたんだろう」
「そうね。あれもそう。――決して嘘じゃないけど、言葉が足りない。新聞が使うこけおどしだ。いいですか、毛皮は毛皮でも、あれは女ものじゃない。長谷部のなんです。裸に近かったけど、下にはちゃんとバミューダ・パンツを穿《は》いてた。長谷部はね、TVから来た奴なんですよ。ウエスト・コーストのあんちゃん気取りで、裸に毛皮で歩いたりするような男なんだ。下に花柄《はながら》のバミューダ一枚でね。奴にとっては、別に目新しい服装じゃない」
「裸足のビートニクって奴か。歌い手崩れかい」
「いや。TV局で海外取材をやってたんじゃないかな。L・Aに詳しいからって、沖山さんがアメリカ・ロケにひっぱったんだ。TV出の奴ってのは、自分の仕事、本気出したりしませんからね。ちゃらんぽらんのナァナァで、おじぎばっかり上手なんだ。マシなTV屋だっているだろうけど、そんなのは、金にならない本篇なんかやりゃあしません。
向うでコカインをやった奴。車で死んじゃった男ね。あれも沖山さんが連れてきたんです。英語がベラベラだって理由でね。TVの奴ですよ」
「長谷部が落ちたとき、君はここにいたのか」
「いいえ。昨夜は八時ころ監督と一緒に帰っちまって――昨日残ってたのは沖山さんくらいかな。主だったメンバーじゃあ」
「沖山は、TV関係に顔が効くんだな」
「コンプレックスじゃないんですか。映画は、本当に金がないですからね」
「しかし、彼も昔はNKシネマの社員だったんだろう」
「そう。でも、あの人は一本立ちのプロデューサーになりたかった。一緒に飲むと、その話ばかり聞かされるんだな。――日本映画のプロデューサーはサラリー・マンですからね。そうじゃなく、アメリカみたいに、自分で企画をたててね、会社に金出させて、一本ごとにスタッフを集めて、タイトルにでっかく自分の名前入れて、ちょうどMGMのマービン・タルバーグみたいなね。
だから、彼は会社をやめたんです。邦画五社がけっこういい時代だったから、とたんにホされちまって、アメリカで浪人してたようですよ。五、六年前、NKが傾きかけたころ、帰ってきてね、株買い漁《あさ》って――あとは、あのとおり」
戸田はうやうやしく両手をひろげ、プチ・トレアノン宮≠ノ額《ぬか》ずいて見せた。白色灯に照らされた壁面はどこまでも白く、特殊|硝子《ガラス》を入れたサン・ルーフ、青銅を使ったポーチの手摺《てす》り、にゅっと天を突く鐘楼の、スペイン瓦《がわら》を葺《ふ》いた屋根、そんなものが気味の悪い色彩で周囲を飾っていた。子供が目茶苦茶に重ねた積木が、偶然バランスを保って立っている、そんな格好でもあった。あまりタチのよくない夢を、形にしたようでもあった。これを無駄のきわみというなら、映画という奴がみんなそうなのだ。
「彼の憧《あこが》れだったのかも知れないな。ハリウッド撮影は」
戸田が、私の自動車の向う側で呟《つぶや》いた。「むこうでは、プロデューサーの権威ってのがすごいですからね。沖山さんも、でっかい椅子に坐って、ギャングだか映画人だか判らない連中や、女優かパン助か本人にも判ってない金髪にかこまれて上機嫌《じようきげん》でしたよ。むこうの撮影所が彼につけたセクレタリーなんか、本物のピストル持っててね。まるで王様か、スカー・フェイスって扱いだった」
「日本でも親父と一緒ならそうなんじゃないのか」
「沖山良平は映画が嫌いだって話だ。よくは知りませんけどね」
私は車に乗りこみ、助手席のドアを開けてやった。エンジンをかけ、煙草を咥《くわ》えて火を点《とも》した。戸田が乗ってきた。私はエンジンを鳴かさず、ゆっくり発進させた。
アーチ型の門のところに、守衛が立っていた。戸田が窓を開け、先刻と同じ運動部ふうの挨拶を送った。おかげで、左耳がじんと痺《しび》れたほどだった。
私は何をしに来たのだろう。誰に会いたくてやってきたのだろう。考えるほどのことはなかった。この映画の主役は、浅井杳子一人なのだ。主のいないプチ・トレアノン≠ネど、ジャル・パックの団体さんか仏文専攻の学生でもなければ、ありがたがるまい。ツヴァイクなら、この城を何と書いたろう。
「杳子さんは、ホテルへ帰ったのかな」
私は運転を続けながら言った。「それとも吉居の家か」
「沖山さんと食事に行きましたよ。撮影がはねてすぐだったから、八時前ころだな。――彼女には、撮影中、吉居さんのこと教えなかったんです。沖山さんが鉗口令《かんこうれい》をしいてね。彼が、終ってから伝えた。ショックだったようですよ。慰めているんでしょう。吉居さんをマネージャーに連れてきたのは彼なんだから、沖山さん自身も、ガクンと来てるんだろうけど」
「杳子さんが行った場所を知っているかい」
「ええ、予約をとらされましたからね。鎌倉山≠チて店です。鎌倉山にある鎌倉山=v
私は戸田に、大野皓一を知っているかと尋ねた。彼は殆《ほとん》ど覚えていない様子だった。エキストラのサーファーたちは、長谷部が世話をやいていたのだ。
「レストランの予約をとるなんてのもね。本当はこちとらの仕事じゃない」
彼はつけ加え、紐《ひも》で首に吊《つ》るした呼笛を、ジャンパーの懐からたぐり出し、胸の前でぶんぶん回した。彼らスタッフが抱えこんだ四つめのごたごたを、まだ報《し》らされていないようだった。
車は丘を下りきり、県道へ出た。バック・ミラーの闇に、プチ・トレアノン宮≠ェ一瞬浮きあがり、また見えなくなった。
私は、急に呼吸が楽になったような気分になり、大きな溜息《ためいき》をひとつもらした。
9
浅井杳子のまわりで起った出来事が、どれもこれも奇妙に思えるのは、彼女が住んでいる世界そのものがおかしいせいかもしれない。長谷部は裸で死んだが、本当の裸ではなかった。毛皮のコートは彼がいつも着ていた作業衣で、撮影現場の崖には柵《さく》というものがひとつとしてない。足場も悪い。ぐるりは海に向かってきりたった崖っぷちだ。
吉居はどうだろう。私が入ったとき、部屋ではまだ木馬がゆれていた。半人半馬の美女に情欲を感じたとでも言うのだろうか。そして大《おお》周章《あわて》で服を脱ぎ、あげくに彼女から肱鉄《ひじてつ》をくい、自分のセックス・アピールに悲観して飛び降りたのだろうか。合理的な説明だが、現実的ではない。それに、マントルピースの下から出てきた盗聴発信器。――多分、ビルの下辺りから、普通のスリー・バンド・ラジオで室内の声を聞ける奴だ。こ奴《いつ》の、説明が欠けている。
もう一人、ロサンジェルスでコカインをやり、ラスヴェガス近くの交通事故で死んだ男。
大野皓一と彼の恋人。ありがたいことに、彼だけは判《わか》りやすい。
最後に、ゆすり屋だ。彼は、昨日の夜半と今朝の夜明けの間に吉居と連絡をとり、午後一時、彼に会った。その後、吉居は私にあて、事件から手を引くよう手紙を書いた。ゆすり屋の山田君は、すでに報酬を得たのかもしれない。これからだったのかもしれない。
奇妙なのは、私にしても同じだった。夜半に友人から電話を貰《もら》い、こっちが会いたいと願っても、おいそれとはお会い出来ないお嬢さんと、昼から酒を楽しんだ。
いいところまで話がはずむと、非番だと言うのにパトカーに探され、捜査本部に呼び立てられた。PCに探させたと言っても、日本中に緊急指名手配したわけではない。探した人間は、私が湘南《しようなん》方面にいると知っていたのだ。
県警本部へ戻り、私から休日をとりあげた本人に会おうとすると、今度はお呼びじゃないと言う。課長は、私を月賦《げつぷ》の集金人みたいに扱った。
私が住んでいる世界も、また普通ではないのだろうか。
こうしてキャストを並べたクレジット・タイトルの頭には、どう考えても主役の名が欠けていた。
浅井杳子か、沖山忠孝か、それとも他の誰かか――私にはプロデューサーの才量があまりないようだった。
私のダットサン五一〇は、鎌倉山の丘陵地帯を、時速八十キロで斜《はすか》いに駆けのぼっていた。この辺まで来ると海はもう見えない。その代り、朽ちた松の切株やドブ川にかかるコンクリの橋、道ばたの石ころにいたるまで名前がつけられ、由来を書いた立札が建っている。このぶんで行くと、吸いこんだ空気にまで、近いうち名前がつくのかもしれない。この丘で由来を書いた看板がないのは、南西を侵しはじめた新興住宅地だけだ。そして、この丘に古くから住んでいる人間たちは、名所旧跡の看板がないと言う理由だけで、土地会社にそこを鎌倉山≠ニ呼ばせまいとしているのだった。
ヘッド・ライトに照らされて、二車線ほどのアスファルト道路が、くねくね上って行く。両側からトンネル状に枝をはり出した桜の老木のむこうに、家々の屋根はほとんど見えない。ときおり外灯に浮ぶのは、大きな門だけだ。あとは立札、石碑。藁葺《わらぶき》屋根の小屋が路肩にあり、地蔵尊かと思って覗《のぞ》くとバス停だったりする。
レストラン・鎌倉山、あと二百メートル≠フ、いやいや立てたような不親切な看板を梢《こずえ》の影に探し出したとき、前方に赤いランプが浮きあがって見えた。路肩に駐ったタクシーの尾灯だった。
後ろのまどから、小柄な男が身を乗り出し、私の車に大袈裟《おおげさ》な手招きをくれている。
私は、その横に車体を並べ、五一〇を停めた。
「すいませんねェ。道に迷っちまって」
鼻の潰《つぶ》れた、目の細い男だった。唇が外側にめくれ、たれ下がっているように見える。天然パーマの髪を、火事場から持ち出した化繊の絨毯《じゆうたん》みたいに刈りあげ、顔だけ見れば、どうしたって使い古しのボクサーだ。しかし、首も肩もひどく華奢《きやしや》な作りで、窓枠《まどわく》にかけた指などは、ちょっと力を籠《こ》めただけで関節が白く浮いてしまうほど細く骨ばっていた。一度見れば二度目はいらない風貌《ふうぼう》だった。しかし、私が彼と会うのは今夜で三度目になる。
助手席に体を寝かせ、窓をあけてやると、彼も私に気付いた。北欧の漁師が着るようなコートの、フードになった襟《えり》を頭からはずし、自分の顔を指して、俺、俺≠ニ叫ぶ。
「二村さんじゃないの。ちょうどいいとこで会いましたね」
「少しもよくない。寒くて、暗くて、おまけに今夜は月もない」
「人を化物みたいに言うなよ」
彼はいそいそと料金を支払い、タクシーを降りて私の車に乗り込んできた。義経八艘《よしつねはつそう》跳びみたいな早技だった。
「あんた鎌倉山≠チてレストラン知らない? 知ってんでしょ、土地っ子だもん」
「ぼくは横浜だ」
「道教えんの、おまわりさんのサーヴィスってもんじゃないの。頼むよ。そこまで乗せてってよ」
堀池という名の男だった。私が彼とはじめて会ったのは、もうずいぶん前のことで、そのころは週刊エレガンス≠フ記者をしていた。発行部数は業界一、品性は最下位の女性週刊誌だ。
先刻東京で出会った原宿署の刑事と同様、まだ二軍の代打要員だった私は、県警港北署の一係で当時管下をさわがせた連続パンティ泥棒《どろぼう》を二カ月追い回していた。ようやく逮捕にこぎつけたところへ堀池がやってきた。盗まれたパンティの中に、岸恵子さん御愛用のものが混っていたと言うのだった。ドアから蹴り出すと窓、窓から抛《ほう》り出すと通風口から、彼は何度も刑事部屋に入ってきた。盗品は彼女のものではなかった。彼女がまだフランスに住んでいたころの話だ。しかし、エレガンス≠ノは、私が見たこともない写真入りでその記事が載った。
いまだにエレガンス≠フ記者をしている。堀池は、名刺を出した。
「レストランまでたのむよ。その代り、いい人に会わせまっせ。約束する」
「浅井杳子だろう」私は言ってやった。
彼は細い目を一生懸命丸くしようとした。
「マネージャーが死んだ件で彼女のコメントをとるのか」
「|うち《ヽヽ》は、明日が校了だからさ。記者会見まで待ってらんないのよ。――だけど、二村さん?」
「実は、僕の方でも君に頼みたいことがある。交換条件でどうだい」
「市民の協力って奴だね」
「それを一人前注文したい」
「うれしいじゃありませんか。女性誌の記者が、いつから市民権持てるようになったんだろう」
私はライトを点《つ》け、車をゆっくり出した。「浅井杳子の悪口を聞かせて欲しいんだ」
「サインじゃだめかい?」
「悪口さ。――誹謗《ひぼう》中傷。――だから、君に頼むんだ」
「喋《しやべ》りたくないなあ。――誹謗中傷はオーソリチィですがね。こと、彼女のこととあっちゃ喋りたくねェや」
「あの娘《こ》に、なんかあるんだな」
「なんにもないよ。ただスター≠セってだけさ。TVタレントや歌屋なんかたぁ本質的に違う。昔の原節子みてェにさ、本物の映画スターなんだ。――なあ、二村さんよ。あんた、信じないかも判んねェが、俺もさ、映画ファンだ。俺の卒論はよジャン・リュック・ゴダールと渡哲也におけるアメリカ世界戦略と戦後暴力の南北問題≠チてんだ。日活を受けてすべっちまってよ、それでこの稼業《かぎよう》ってわけですよ。ガセもそれらしく書くけど、ガセ書かれても仕方ねェことしてる連中や、誰もが笑ってすませるようなガセしか書かねェ。TVのジャリタレや、歌い手なんざ、ありゃあマトモな人間とは言えねェしね。ゼニも貰《もら》うが、すすんでくれる奴からしか貰わねェよ」
「それで、浅井杳子の提燈《ちようちん》記事を書くのか」
「彼女からは何んも貰っちゃいない。菓子折りひとつ、サイン一枚な。――その俺が言うってんだ。少しは聞きなさいな。
あれは本物ですよ。キャデラックが似合って、ブラウン管が不釣合いな女よ。ミンクを着た写真はたんとあるけど、裸どころかGパンをはいた写真一枚ねェとくらあ。スクリーンの端っこに立ってるだけで客を呼べるんだ。本物のアップにも出来る。本篇のアップってのはさ、TVなんかたぁ違いますよ。天地二百倍んなっちゃうんですからね。
緋牡丹のお竜さんが、ドスを捨てちまってから、ついに日本映画にいなくなっちまったスター≠チて奴なんだよ」
「そんな話を聞くのなら、君を車に乗せたりしないぜ。エレガンス≠ノ百五十円投資する」
「百八十円ですよ。値上がりしましたんでね。――なぁ、二村さん。俺は、浅井杳子に関して提燈記事なんて書いちゃいねェって。どんな肩入れしててもさ、面白いスキャンダルがありゃ、それは書きますよ。仕事だもんね。だけど、あの娘にゃそれもないんだ」
私はことさら枝ぶりのいい桜の下に車を駐めた。水曜の、夜十時十五分。道路には車一台、走っていなかった。林の上を、ゆっくり過《よぎ》っていく風の音が、普通より大きく聞こえた。
「ここで、潔《いさぎよ》く車を降りてよ、男の心が判らねェ男の車にゃあ、頼まれたって乗りたかぁねェ≠チて呟《つぶや》いて、すたすた夜の闇に消えちまう。そうすっと、あんたは、あんなトップ屋にも真実《ジツ》ってもんがあったんだなぁって気付く。真赤なエンド・マーク――なあ、そういうもんだろ、二村さん。――だけど、それほどかっこよかねェんだよな、俺。
頼むよ、レストランまでお願い!」
堀池は目をきつく閉じ、私に手を合わせた。「時間がねェんだ」
「判った。悪口は自分でひねり出そう。質問に答えてくれ」
「早口で訊《き》いてちょうだいよォ」
「浅井杳子は、三年前、浅田の籍に入っている。それ以前のことを知りたいんだ。あの母親の口ぶりじゃ、まるで川で洗濯していたら桃がドンブラ流れてきましたって感じだったぜ」
「どっちの母親だい。吉祥寺《きちじようじ》? 横浜?」
「なるほど、実母は吉祥寺か。知っているんだね」
彼は開いた掌《てのひら》で、自分の顔を覆《おお》った。ぴしゃんと言う音がして、鼻の殆《ほとん》どない顔は、手の中にすっぽり隠れた。「あきれましたねェ。それぐらいのこと、一年以上前、|うち《ヽヽ》に独占手記がのっかったんですけどねェ」
「ぼくに、古本屋まわりをさせようてんじゃないだろうな」
「慌《あわ》て者がいたんだよ」
「そうでもないぜ。なかなか慎重だ。一度転籍して前を消してる。戸籍に操作が感じられるんだ」
「いや。本当の慌て者さ」
彼は助手席にうなだれ、煙草をくれないかと言った。私が一本ふり出してやると、カー・ライターで火を点《つ》け、足許《あしもと》に烟《けむり》を吹き出した。紫煙が崩れ、車内に流れる様子を、しばらく見つめていた。
「彼女が、どのくらいの女優か計れなかった男がいるんですよ。長ェこと日本映画からホされてた男でね、そのうち、金持ちの親父からまで見離されかけた。
沖山良平にとって、息子は忠孝一人ですからね、正妻の子はみんな娘さ。だからこそ沖山を名乗らせてる。いつまでもアメリカで、映画ゴロみたいなこと、していて欲しかなかったんかもしんねェな。
だけど息子は、磨けば光る玉をみつけた。磨かないうちから光っていたのかもしれませんよ。ま、それで、すぐNKで映画を撮らせたんだ。――沖山忠孝については、いろいろ言われますけどね。しかし、ひとつだけ信じてやってもいいところがあるんじゃねェかな。奴は父親の力と銭を、自分からあてにするようなこたぁしなかったてェとこよ。五社から|ホ《ヽ》されていたときも、アメリカでも、つぶれかけのNKにコミットしたときもね。良平を動かしゃあ、なんとでもなったんだ。けどよ、浅井杳子をみつけだした時まで、奴ぁそんなことはしなかった」
「浅井杳子の売り出しに、沖山良平を動かしたのか」
「それほどのこともありやせんがね。ま、息子はあの娘を連れて、親父のとこ、生れてはじめて頭ぁ下げに行ったって話よ。
でもなぁ。あの女優に限って、どこにも頭なんか下げる必要はなかったんじゃねェの。ことに、下手な小細工なんてさ」
「杳子の生れに何んかあるんだね」
「ああ」彼は口をぱっくり開け、烟と一緒に声を押し出した。烟の行方を目で追いかけた。
眉間《みけん》と頬に何本か細かい皺《しわ》が集り、どれが目かよく判らなくなった。
「知っていて書かないのか」私は鋭い声を出した。
ちりぢりの髪をへばりつけた彼の頭皮が、ぴくんと動いた。
「誰だって知ってる。業界じゃみんなですよ。でも、書かねェ。
あのなぁ、二村さん。そんなもん、彼女の光り具合からすりゃ屁《へ》でもないのよ。彼女を悪く思う人間も、そうじゃない人間も、その程度は彼女にとっちゃあ、ゴシップとも言えねェって判ってんだ」
「彼女はどこから来た」
「あの娘は日本人じゃないのさ。――梁と言うのが本名だ。お父っつぁんはいねェ。吉祥寺に住んでるおっ母は、今もその名ですよ。もっとも、表札は木村だがね」
「そんなことか」私は口笛みたいな音のする溜息《ためいき》をついた。
「そうよ。その程度のことですよ。今どき、こんなこたぁ、ゴシップにもならねェよ。無理してゴシップふうに扱や、差別排外主義の記者だってんで、袋叩きですしねェ」
「浅井杳子は、それを隠しているんだな」
「隠す? 別に隠しちゃおりませんですよ。そんなことが、あの娘の今の輝きにさ、カーテンをおとせると思いますかね」
私は数回空ぶかしをさせ、車を桜並木に戻した。道なりのゆるい左カーヴ、上り勾配《こうばい》を走って行く。
堀池は嬉《うれ》し気に顔をゆがめ、フロント・グラスにおでこをひっつけると、目をこらしながら言った。
「みんな知ってるのよ。実んとこね。ファンの中でだって知ってるのは知ってる。ファン・クラブに入ってる連中は、全員知ってるだろうよ。彼女、実母のことも、なんもかも隠そうとしねェんだもん。知られてるってこと、彼女も無論判ってる。――それだけさ」
「礼を言うぜ」
「お役に立てりゃあ、俺も満足。たまにゃ、市民権を持つのもいいもんね」
「いや、役には立たなかった」
隣で大きな舌打ちの音がした。
私は行手前方の桜の根元に矢印をみつけた。白いペンキを塗ったばかりの小さな看板が、夜に目立っていた。
「君は彼女が、明るい表通りでステップを踏んでいると言う。しかし、ぼくには彼女が危っかしい平均台を歩いているように思えてならない。――ぼくには判らない」
私は制動をかけ、矢印が指す狭い路地へ曲った。
10
閑静な住宅地の石垣のあいだを上って行く、車幅一杯の私道だった。それを上りつめると、左手の視界が開けた。右はただの小高い土手に変った。かなり急な丘の斜面を横這《よこば》いに走っているようだ。アスファルト舗装が途絶え、赤土のダートになった。
前方で右路肩の土手が大きく盛りあがり、道はその下を右へ回りこみながら車幅二台分ほど脹《ふく》らんでいる。そこだけには細かい砕石が敷かれ、トタン屋根を張った車寄せも見える。
私は、ロールス・ロイスが尻をはみ出させて駐ったその車寄せの手前でライトを消し、車を土手に寄せ、ブレーキをかけた。
二十メートルほど先に、左の斜面をはすかいに下って行く、ぼんぼりを配した石段がある。とっつきには、フィニッシュをウルトラCで決めた体操選手みたいな枝ぶりの梅が一本植えられ、足許《あしもと》に立ったローストビーフ鎌倉山≠フ看板灯に輝いていた。段差のせいで、丘下のレストランはまったく見渡せない。見えるのは斜面に整った築庭の一部だ。石段を彩《いろど》る松の並木と竹林、それに門柱代りの梅を入れ、松竹梅を意図したにしろ、押しつけがましさなどどこをとっても見当らない、見事な庭だった。
押しつけがましいのは、左手眼下にまばゆく氾《ひろ》がる大船市街の街明りだ。黒い地平線の端っこでは、赤と緑の光が交互に瞬《またた》いている。はるか東京湾から送ってよこす、マリンタワーのウィンクだろう。
「見なさいな。沖山さんもまだいらっしゃいますよ」
堀池がはしゃいで言い、咥《くわ》えていた煙草を窓の外へ投げ捨てた。足許から大きな肩掛鞄をとりあげる。
彼が眸差《まなざし》で示した車寄せには、ロールス・ロイスに隠れて、アストン・マーティンV8が平たい鼻を突き出している。他にもう一台、ライト・バンも駐ってはいたが、沖山良平の長男には、ビートルズが勲章をもらうまで爵位《しやくい》がある者しか買えなかった英国製のスポーツ・カーの方が似合いだろう。
私は、車寄せのさらに先、砂利道がやや上り加減でふっ消えている土手の片闇《かたやみ》に目を凝らした。
私が見ているのは、V8のスポーツ・カーではない。ロールスでもない。ただの白いスカイライン二〇〇〇GTだった。
無灯火の路面に馴《な》れた目が、やっと見つけた遠い車影だ。土手下に、ひっそり駐められている。店の駐車スペースには余裕がたっぷりあった。近くには、訪れるような家も見あたらない。第一、ここらあたりの家は、たいてい高い生垣の中に広い駐車空間を持っている。
スカイラインの中で、人影が動いたような気もした。
「そんじゃ、また。――二村さん。サインが欲しくなったら、電話してちょうだいな」
彼は、鞄を肩にひっかけ、ドア・ロックに手を伸ばした。
私は、鞄の肩紐《かたひも》をひっつかんだ。力を入れ、ひき寄せる。
「待てよ。まだ済んじゃいない」
腰を浮かせていた堀池はバランスを失い、助手席に倒れこんだ。コンソール・ボックスで背中を打った。私は肩を押さえ、耳許に囁《ささや》いた。
「今、出られると困るんだ」
「あんた。二村さん! 取材妨害ってわけじゃないよねェ」
「そんなことはしない。君を公務執行妨害で逮捕したくないだけさ」
「公務?」彼は背を正した。土壁の罅《ひびわ》れみたいな眸《め》が、私と鎌倉山≠フファサードを覗《のぞ》き較《くら》べた。「どういうこったい」
「沖山良平が先刻、狙撃されたのを知っているかい」私は凄《すご》みを出して、言った。
「さいわい、ミス・ファイアだったが、次に狙われているのが息子だ。沖山忠孝さ。スナイパーが大船方面からこの山に入ったって情報もある」
「そんじゃ、俺はどうすりゃいいのよ」
彼は、半分ほど信じかけているようだった。そこで、私は杳子の部屋からくすねてきた盗聴器をとり出し、コードを腕一杯にひっぱって話しかけた。
「移動十一号、移動十一号。ただ今、週刊エレガンス≠フ記者を保護しました。名前は堀池、釣堀《つりぼり》の堀、池袋の池。身元確認願います。以上」
山田君がもし聞いていたら、何と思ったろう。
「保護は保護でも、保護検束だろう。身許なんか、あんた知ってるでしょうが」
「しかし、これでエレガンス≠フデスクに連絡が行く。記事を取りそびれたときの言い訳がたつ」
「ちょっとォ。それじゃ、何? 俺に取材すんなってわけ」
「沖山と一緒のところはこまる。杳子が彼と別れて、車に乗っちまってからならかまわないがね」
私は、車寄せのロールス・ロイスを指差した。車内灯の下で俯《うつむ》き、運転手はせっせと手を動かしているようだった。
「手堅い狙撃屋どもでね。狙撃って言っても、下水管みたいにぶっとい散弾銃を使っているんだ。周囲は粉々、滓《かす》ひとつ残さない」
私は握った手を彼の目の前に持って行き、ぱっと開いて、歯の間からかすれた息を吹きつけてやった。
堀池は私をねめつけ、コートの襟《えり》とひとつながりになったフードを頭からすっぽり被ってしまった。腕を組み、シートに深々と坐り直した。
後方から、タクシーの灯《ひ》が近づいてきた。上向きのライトが、一瞬土手下のスカイラインを照らし上げる。やはり、白いスカGの中には人影があった。人影が二つ、急いでインスツルメントに伏せたのを、私は見逃さなかった。
タクシーが梅の老木をかすめ、砂利を鳴らして駐った。ドアが開き、若い女が降りた。タクシーの運転手に数言、言い残してレストラン本館へ石段を下って行く。
チェックのオーヴァーに、共布で作った、八ッ接《ハギ》のハンチングを被った娘だった。腕の針坊主《はりぼうず》は幅のある金のブレスレットに代っていたが、ラ・ババ浅田≠ナ私に紅茶を運んでくれた娘に違いない。沖山忠孝からの電話を取り継いだ若い女だ。
タクシーは、エンジン・ルームから白煙を地べたに流し、駐ったままでいた。何分とかからず、ハンチングを被った若い女が店を出てきた。運転手にお待ちどうさま≠ニ声をかけ、車に乗りこむ。車寄せで切りかえし、タクシーはやってきた路《みち》を戻りはじめた。
白いスカイラインが消えていることに、私ははじめて気付いた。レストランに注意を集めすぎていたのだ。無灯のまま、長いバックで土手の向うへ逃げ去ったのだろうか。しかし、逃げ出したと言うには、理由が少なすぎる。あのスカGが、レストランを見張っていたという理由もない。ただ私の気付かぬうちに、エンジン音を殺し、ライトもつけず、長すぎるバックで、しかも表通りとは反対の山側へこそこそいなくなったというだけだ。
ラ・ババ浅田≠フ女店員を乗せたタクシーは、勾配《こうばい》のてっぺんに消えた。静まりかえった闇が鎌倉山≠フ灯《あか》りを冷たくさせた。夜が深くなり、斜面の竹林に風が走った。
「いつまで待たせるんだよォ」
堀池がぼやいた。フードをとり、首の裏を平手で叩く。「張り込みどころか、パトカー一台ねェじゃないの」
「素人《しろうと》に見つかるようじゃ、張り込みとは言えないぜ」
私は、車のエンジンを入れた。
一分たった。梅の老木の下に、二人が上ってきた。浅井杳子は昼と同じミンクの下に白いインド・シルクのスカートをのぞかせて、まっすぐロールス・ロイスへ急いだ。
男は、銀縁の眼鏡をかけ、焼きたてのパン・ケーキみたいに血色のいい顔に手入れの行き届いた口髭《くちひげ》をはやしていた。まだ四十前のはずなのに、実際よりずっと年上に見えた。老《ふ》けているというより、同年代の男たちに較べ、十年分は余計に貫禄《かんろく》と雰囲気《ふんいき》が備わっているのだった。
沖山忠孝は、ロールスの傍《そば》まで杳子をエスコートして行き、ドアを開けてやった。思いついたように彼女の肩へ手を置き、何か語りかけた。彼女は、振りかえって顎《あご》をあげ、彼を見た。眸が遠い街の灯をのみこんだ。
軽く頷《うなず》く。微笑《ほほえ》みかける。
沖山は、新生児室の硝子《ガラス》越し、自分の息子とはじめて対面する親父みたいな複雑な笑いを口許にふくらませ、アストン・マーティンへ戻った。
「じゃあな、二村さんよ」
隣でドア・ロックがあがった。
私は、ハンド・ブレーキとギア・シフトをいっぺんに動かし、アクセルを踏み抜いた。ダットサンが後ろのめりになって飛び出す。
ドアに向いていた堀池の躰《からだ》が、シートの背凭《せもた》れに激突した。「なにすんだ! 止めろよォ。困んだよォ、俺!」
ハンドルへ伸ばしてきた手をはねのけ、私は速度をあげた。凄い勢いで、レストランの灯が遠退《とおの》いて行く。
ロールスはこっちへ尻を見せ、鎌倉山の縦貫道へ向かっていく。アストン・マーティンV8が、おっとりした足取りで私の後方をやってくる。何せ轍《わだち》が排水口みたいに刻まれた悪路だ。英国車は、母国の経済と同じようにおっとりする以外走りようがないのだろう。
「止めろよ。二村さんよォ。止めてくれよ」
「送ってほしくないのか。この辺じゃタクシーは呼べないぜ」
「騙《だま》したな。俺を騙しゃがったんだな!」
彼は叫んだ。ダッシュボードの縁《へり》にしがみつき、私をにらんだ。
「訴えるぞ。訴えちゃうからな」
「同じことを二度ずつ言うなよ。耳はふたつついているんだ」
土手を巡り、少し行った所が、小さな石地蔵の立つ広場になっている。私は、クラッチを切り、ハンド・ブレーキを引いた。埃を蹴りあげ、車体が回った。後輪と堀池が、まったく同時に同じような音色でギャッ≠ニ叫んだ。地面が反転した。
スピン・ターンの半回転から、エンジンを吹きあげ、往路を戻りはじめる。少し走ると、坂を上ってきた沖山のアストン・マーティンと行き合った。私は速度を殺した。
小高い土手の曲りぎわだった。路肩に育ちすぎた灌木《かんぼく》が、車線へ枝をたらしていた。アストン・マーティンはその手前まで来ると制動をかけ、ライトをパッシングさせた。強引に二台がすれ違えば、私の車を枝がひっかいてしまったろう。どこまでも、車に相応《ふさわ》しい運転をする男だった。
私は、クラクションを一発ひっぱたき、その横をゆっくりすり抜けた。
抜けざま、アストン・マーティンの車内を覗きこんだ。会釈《えしやく》をしたと思われたのか、沖山が挨拶を返してきた。私は、後部シートを流し見た。
そこには、角ばった紙包みのようなものが三つ四つ転がしてあった。紙包みなどではない。大判の本を何十冊か横積みにして、四束、紐で括《くく》ったものだった。装丁といい、表紙の様子といい、私にはそれが視《み》よ、塔は皇后のように紅《あか》い!≠フ英訳版シナリオに見えた。
「説明してちょうだいよ」
その場をやり過し、加速をとり戻すと、堀池が叫んだ。スピン・ターンをかけたとき頭を窓にぶつけたようだった。片手で、額をおさえている。目は怒りで充血し、驚いたことにその二つはまん丸かった。
「取材妨害じゃないの! どうしてくれるつもりさ」
「近道をしようと思ったが、道を知らなかったんだ」
「どこへ近道だよ。地獄か、それとも職安かい」
「鎌倉駅まで送ってやるよ。通り道だ」
「冗談じゃねェよ」
「じゃあ、ここで降りるか」
彼は、周囲にのんべんだらりと氾《ひろ》がる夜気を見まわした。もう一度叫んだ。
「冗談じゃねェよ」
それから車が鎌倉駅につくまで、堀池はフードをすっぽり被り、腕を組み、一言も口をきかなかった。
私は駅前広場の一般用車線に車を乗り入れ、手を伸ばし、助手席のドアを開けてやった。
「すまなかったね。――本気で言ってるんだぜ」私は、謝った。
「吉居は学生時代、六大学のピッチャーだったんだ。そのころの友人関係から話をきいたらどうだい?」
堀池は黙ったまま車を降り、トップに凭れて車内に顔だけ突っこんできた。「何で俺を降ろさなかったのよ」
「吉居は自殺したと思うか」
「そうじゃないの?」
「ぼくは、そう思っていない。今夜、彼女の回りを、これ以上刺激して欲しくなかったんだ」
「今の話さ、その野球の友達ってェの。心当りあるわけ? 二村さんよォ」
「もうひとつ、謝らなくちゃならないな」
私は躰を乗り出して、助手席のドアを閉じた。窓を半分ほど明け、ハンド・ブレーキをはずしてから言った。
「友達ってのはぼくなんだ」
私はダットサン五一〇を出した。バック・ミラーの中では、小柄な人影が長いこと喚《わめ》き散らしていた。若宮大路を走り海岸道路に出るまで、私の良心の少し下、つまり胃袋のあたりが痛んだ。
飯島トンネルを逗子湾に抜け出て、料金所で金を払い、湾岸を弓なりに走るバイパスへ入った。右手には、すぐそこまで満潮の海が来ている。左手には、ビーチ・パラソルを立てるための穴がいくつも孔《あ》けられた芝庭、秋風が運んだ砂しか入っていないプール、そんなものが背の低いリゾート・ホテル群を従えて並んでいた。
なぎさホテル≠焉Aそうした一軒だった。赤い瓦《かわら》屋根に望楼を突き立てた、別荘風の本館。広い芝庭とからっぽのプール。道路とは生垣で仕切られているだけで、直接乗り入れることの出来るドライヴ・ウェイをこっちに拓《ひら》いている。ここらで最古参の洋式ホテルだった。戦前は華族、戦後は進駐軍の将校、最近ではグラビア雑誌でしか世間を見たことのない、少々おつむの弱いお嬢さん方が普通の躰だと一生に一回きりしか作れない想《おも》い出とやらを作るために使っている。
私は、そのドライヴ・ウェイに車を乗り入れ、芝庭の木柵《もくさく》に頭をつけて駐めた。
僅《わず》かのあいだ私の相棒だった葉山警察署の刑事によれば、大野皓一は、昨夜ここで久保田直子と待ち合わせたのだ。ここからロケ現場の長谷部と横須賀の友人に電話を入れた。そのときはまだ、大野も直子も上品そうにふるまい、殺意も悪意も二人にはなかった。では、何故《なぜ》長者ヶ崎などで、友人と落ち合うことに決めたのだろうか。彼らは、その後、そろって茅ヶ崎へ行く予定になっていた。ここから長者ヶ崎まで単車で十分、茅ヶ崎とは反対方向だ。夜の外気が気持良い季節でもない。
しかしそれは、海に面したティ・ルームへ向かい、芝庭を横切りながら考えた、ほんの思いつきにすぎなかった。実のところそのときの私の興味の大半は、熱いコーヒーと辛子を盛りあげたホット・ドッグだった。さっき鎌倉を走りながら良心の痛みを感じていた部分は、空腹に恐しい呻《うめ》き声をあげていた。
私はポーチの下へ行き、ロビーから直接庭に抜けるドアを開けた。天井の高い無人のロビーには皮の肘掛《ひじかけ》椅子が人待ち顔で並べられ、柱がやたらと目についた。灯りが半分以上消されているために、その柱は余計にごつく太そうに見えた。ティ・ルームは締っていた。ギロチン台みたいな柱時計が十一点鐘を鳴らしている最中だった。十時半が、閉店時間なのだ。
背後のフロント・カウンターで、電灯のスイッチが派手な音をたてた。そこに、暖かな色の光が点《とも》った。黒っぽい背広を着た痩せぎすの老人が、カウンターの上に両手をつき、背を正し、首をほんのわずか傾かせて私を見つめた。
「何か、お訊《たず》ねでございましょうか」
喉許《のどもと》でしおたれている蝶《ちよう》ネクタイは、十年前のパーティから、ずっとつけっぱなしにしているカトレアのようだった。色も形も腐ったカトレアそのものだった。
「食事に来たんだ」私は、フロントへ歩いた。
「あいすみません。季節がら、夜は人手がございませんで」
背骨と口調はしっかりしていた。とくに口振りには、総理大臣にだってつい敬語を使わせてしまうような威厳があった。
「食事が駄目なら、少し話をきかせてもらえませんか」
「失礼ですが、どなた様でございましょう」
「二村と言います。神奈川県警の者です」
私は仕方なしに名刺を出した。
彼は、それを灯りに翳《かざ》して読み、カウンターの上へ丁寧に置いた。
「昨夜の一件でございますか」
「ええ。――聞くことは昼に来た警官と同じですが、捜しているものは違うんです」
「大野皓一さん、たしかそういう名前でしたね」
「彼が、ここのティ・ルームに来たのは、何時ごろですか」
「七時半をすぎておりました。ちょうど、私が居合わせまして、お見受けしたんです。しかし、私、ティ・ラウンジの係ではございませんもので、それから一時間ほどのことしか存知《ぞんじ》あげません。――あいにく、係の者は帰ってしまって」
「見ていて、どうでした。電話をかけるとか、どこかに連絡をとるとか」
「いらしてすぐ、お部屋をお取りになりました。二階、海側のツウィン・ルームです。お風呂つきの部屋でして、前受け金をちょうだいいたしております」
「その部屋へは入らなかったんですね」
「はい、一度も。ティ・ルームにずっと。それからも、お部屋にはお入りになられませんでした」
「女の子と部屋へも行かず、ずっと話してたんですか。それから十時まで」
「いいえ。私がおります間は、女性などいらっしゃいませんでした。七時半から一時間ほどのことですが。男の方が、お二人御一緒でしたよ。おひと方は、たいそう痩せられた背のお高い方で、もうおひと方は恰幅《かつぷく》のおよろしい四十年配の方ですな。お二人とも身なりのよろしい方でしたよ」
私は礼を言った。車へ駆け出したい気分だった。
「二村さん」
フロントが呼びとめた。ふり返ると、私の名刺を手に持ち、口をしかつめらしくひん曲げ、細めた目で凝《じ》っとそれを見つめているところだ。視線を私に巡らせ、彼は声をたてずに笑った。窓の外を落雷が煌《ひか》らせ、口の両端から牙《きば》が剥《む》き出てこないのが不思議なくらいの、不気味な笑顔だった。
「およろしかったのは、身なりだけの御様子でした。お二人とも尋常の御職業の方とは、とうていお見受け出来ませんでしたな」
11
葉山警察署の刑事課の当直警官は、さいわいなことに私の顔を覚えていた。
「大野から余罪を吐き出させた方ですね」
彼はそう言い、間のびした笑いで顔をうずめた。今にも、敬礼しそうな様子だった。
「明日は本庁で尋問するそうです! 麻薬専従班の方でも興味を持ちましてねェ。まだまだ余罪が叩《たた》き出せるかもしれませんな」
私は気分が悪くなった。しかしそのおかげで、面倒ごとひとつなく大野皓一の供述書を読むことができた。
私は、刑事部屋のストーヴの前で、今日とった供述と参考調書にひととおり目を通した。読み終ったとき、私の手はじっとり汗ばんでいた。いくら捜査本部が邪魔にしたからと言って、自分からすすんでそうなることはなかったのだ。出来れば、拳銃を口に突っこみ、引金を引いてしまいたいくらいだった。
大野皓一に会えるだろうか。私は尋ねた。当直警官は簡単に頷《うなず》き、一も二もなく、留置所の鍵を取って歩き出した。
私は、終夜営業のスーパー・マーケットで買ってきた、冷えたコーヒーと辛子の入っていないホット・ドッグの紙包みを抱え、彼の後を追った。湿気た廊下はずれのドアを開くと、饐《す》えた空気がとび出してくる。葉山署の留置所は暗く、皓一以外に客はいない。当直警官が、夏場をすぎりゃあ静かなもんなんですがね、と言って説明した。
大野皓一の檻《おり》の前まで来ると、当直警官は手を背中に組み、私の斜め横に立った。心張棒を気取るつもりらしかった。私は彼を見つめ、無言でいた。少し時間がかかった。やがて、私と房内を交互に窺《うかが》い、空気を察した彼は、外へ出ていてもいいだろうか、と訊《き》いた。
私は本心にとられないよう注意して、残念そうに、一人でも何とか尋問できるだろうと答えた。
「ドアの外におりますので、呼んで下さい」
足音が去って行き、コンクリート打ちっぱなしの廊下のはずれで、鉄のドアが締った。
私は太い石の框《かまち》に寄りかかり、房内を覗《のぞ》きこんだ。鉄柵《てつさく》を爪で弾《はじ》いた。
「ぼくだよ。二村だ」
部屋の隅に寄せて設《しつ》らえたベッドが、幽《かす》かに動いた。薄っぺらな毛布がめくれ、皓一の子供っぽい目がのぞけた。私を見つけると、彼は跳ね起き、近付いてきた。
「眠れなくってさ。あんな眠かったのに――明日、三ツ沢でラグビーがあんだよ。それが気んなっちゃってさ」
私の横の壁に、そっくり同じ格好で寄りかかった。私たちは、同じ方向を見て立っていた。そこには、あまり変りばえのしないコンクリートの壁があるだけで、何分も黙って見ていられるような景色などどこにもなかった。私と大野皓一の間は、鉄柵に遮《さえぎ》られていた。
「長谷部は八時半に死んだんだぜ」
「また、その話かぁ。だったら供述書、読んでよ」
「今、目を通してきた。どんなゴロでも両手で受けろって、いい見本だぜ。今まで君の事件の事実関係さえ知らないでいたんだ」
私は、食べ物の入った紙袋を開いて見せた。食事より煙草が欲しいと彼は言った。たしかに食事の出来る雰囲気《ふんいき》ではなかった。本当に欲しかったのは、防臭剤と酒だろう。
紙袋を足許《あしもと》に置き、煙草を一本手渡してやった。火を点《つ》け、二呼吸つづけて喫《す》い、あたりを落ちつかなく見まわした。やがて、弱々しい笑いで歯をのぞかせ、彼はつぶやいた。
「灰皿なんて、あるわけないのにな」
「床へ捨てろよ。吸殻《すいがら》は持って帰る」
「事件のことも知らされずにさ。二村さん、何やってたんだ」
「張り込みさ。君の写真を渡されて、警察犬と同じだ。――時間がないんだ。答えろよ。君は七時半になぎさホテル≠ノ行った。あそこのマネージャーが証言している。おっつけ、男が二人やってきた。直子が来たのは九時半だったな。それからさらに三十分、十時近くまで、そ奴《いつ》ら二人の男は君と同席してたんだ」
「へェ? ああいうとこの人間て、客をよく見てんだなぁ」
「二時間半もいりゃ、誰だって覚える」
「あの二人はさ。知らねェ奴だよ。浅井杳子からサインを貰《もら》ってくれって頼まれたんだ。あそこではじめて会ったんだぜ」
「たしかに、君はそう説明した。捜査本部が何故《なぜ》そんなことを信じたか、ぼくは知らない。起訴を急ぎすぎたのかもしれない。しかし、ぼくは、彼らと違う。ぼくは信じないぜ」
彼は煙草の烟《けむり》を溜息《ためいき》にして吐いた。壁に凭《もた》れたまま、隣の私へ眸差《まなざし》を走らせてきた。私は、その視線をつかまえた。
「男たちが帰ったのは十時少し前だ。彼らに電話の呼び出しがあった。山田さんを電話口へ頼む≠チてな。ボーイが覚えていたよ。電話をとると、すぐに彼らは帰って行った」
「それがどうしたのさ」
彼は呶鳴《どな》った。「昼の刑事《でか》さんたちは、みんなそれでいいって言ったよ。直子は俺が殺《や》ったんだよ。そんでいいじゃない。奴らと俺と何の関係があんのさ!」
「ある女性がゆすられている。あの映画に関係のある女性だ。ゆすっている男の名は、山田って言うんだ」
大野皓一は、壁につけた背を、ゆっくり摺《ず》り下げて行った。腰を床に落とすと、腕を組み、膝《ひざ》をのばした。耳が動いた。
顔が私の方へひねられ、紙コップの中に張った薄氷みたいな、情ない緊張がのぞけた。針を落としただけでパチンと割れ、底が見えそうだった。
「長谷部は八時半に死んだ」私は、針を百本ぶんほど落としてやった。
「直子がやってきたのは九時半のはずだぜ。君は、直子に言われて、長谷部をダブル・デートに誘ったって言ったな。一時間も前に死んだ奴に、どうやって電話したんだ」
彼は、火のついた煙草を私に手渡した。私は、そ奴《いつ》を靴底《くつぞこ》でよく潰《つぶ》し、マッチ箱の中に片付けた。
「早く着きすぎちゃってさ。部屋とって、お茶飲んでたら、奴らが来たんだ」
「山田たち?」
「名前なんか言わねェよ。いっきなり、目の前へ坐ってさ。片方なんか、折れ芯《しん》鉛筆みたいにがりんがりんなのにさ、二人|揃《そろ》ってすげェ迫力なんだ。びっと三ツ揃い決めちゃって――値の張る服だったよ。体格のいい方の奴は、グラサンなんか伊達《だて》にかけてさ。肩をひょいって揺するだけで、俺にあれこれ指示するんだ。
本物《モノホン》の金筋だって、すぐ判《わか》ったんだ。余計なこと何もいわねェしね。とりたてて、凄《すご》んだってんでもないけど。――飲まれちゃってさ、俺。シネマスコープなんだもん、奴らと来たら」
「そ奴《いつ》らが、長谷部に電話させたんだ」
「うん。二人がさ、二人して、掛合い漫才みたいにポンポンポンって命令しやがって。俺、もう夢遊病だよ。恐《こわ》かったぜェ。
そんで、こう言うんだ。長谷部に|LSD《アシツド》を持ってこさせろってさ」
「君らは、|LSD《アシツド》も扱っていたのか」
「そんなことねェよ。俺、初耳だったもの。で、そう言ってやったのさ。|LSD《アシツド》なんて知らないって。そしたら、卓子の下で俺の膝をつねんだぜ。体のでっかい方がさ。ペンチみてェな指してやがんだよ。長谷部は知ってるはずだから、持ってこさせろって」
彼は溝《ドブ》からあがった犬みたいに身震いした。耳がまた動いた。
「痩せた方は、あれは剃刀《カミソリ》使いだぜ。俺が足つねられてるあいだ中、ニタニタ見てるんだ。剃刀使うの好きなのっているんだよね、ときどき。目つきが剃刀に似ちゃうんだ」
「日本の金看板に、そんなのは少ないぜ。映画の見すぎだ」
皓一は頬をむくれあげ、口を尖《とが》らせた。「仕方ねェじゃん。そんな奴だったんだもん。外国のギャングみたいなさ。喋《しやべ》ってるこたぁ弁護士みたいで、やることはヤー公って奴。――連中、俺にばっちり空気入れて電話させたんだよ。俺には脅《おど》し文句ひとつ言わずに、ただ長谷部さんに、横山初江ってェ女優とのことばらされたくなかったら|LSD《アシツド》持ってこいって、そう言って喝《かつ》あげしろって教えてさ。その女優、長谷部さんの愛人《ナオン》で、彼女を売り出すために奴《やつこ》さん会社の金しこたま使いこんでるんだって。学校の先公みたいに、何度もくりかえし言わせやがってさ、それから電話した」
「本物のギャングだな。映画を思い出したよ。君の生れたころにはやった映画だ」
「本当だったら」
皓一は甲高い声をはりあげた。コンクリートの通路を、その残響が行ったり来たりした。
「映画なんかじゃねェもの」
「嘘だとは言っていない。――長谷部は、脅しにかかったのか」
「うん。簡単にブルった。|LSD《アシツド》なんかないって言ったけど、女優の名前出したとたん、二時間で持って行くから待ってくれって、もう大変なもんさ。本当にLSDなんか持ってやがったんだなぁ」
「何時だ?」
「八時ちょいすぎ。電話させられたのはね。十時まで待ってくれって」
「二時間か。連中は、そのあいだどんな話をしていた」
「一言もさ。一言も口きかねェんだ。だから、シネマスコープの迫力もんって言ったじゃんか。――やっと口きいたのは、直子が来てからだよ。直子を追い返そうとしてさ、ひどいんだ」
彼は壁沿いに背中を摺りあげた。足はのばしたまま、腰を力点にして、すっかり立ってしまうまでそうし続けた。腕を組み、戦局を憂《うれ》うカスター将軍といったところだ。もちろん、彼が見ているのは西部の青空などではない。シミだらけの、湿った留置所の天井だった。
「ひどいんだぜ」彼は、天井に遠い目を向け、懐《なつか》しむような口振りで言った。
「俺のこと、ヤー公予備軍とか、ちんぴらとか言ってね。つきあうとロクなことねェから帰れって。あんたみたいな、ちゃんとしたお嬢さんが、こ奴《いつ》みたいなガキとつきあっちゃいけないなんて言うんだ。俺がドブ板の半端者《はんぱもの》だって言ったのも奴らなんだ。――直子の家のことまで、連中調べてたんだね」
「彼女はよく帰らなかったな」
「とんでもない。あ奴《いつ》の強情ってか――ヘソ曲りと来たら、もう一流だもの。鼻っぱしらってのかな。あたし、知らない人から帰れなんて命令される覚えなんかないわ≠チてさ。そんな調子。俺が抛《ほ》っといたら、ハンド・バッグでぶん殴ってたよ。恐いもの知らずさ。
ところが、十時ごろ連中が帰ると、今度は俺に腹たてはじめてさ。――あれや、これや、もう目茶苦茶。あとは、昼に言ったとおり。本当の話、連中が帰ってからは、あんとき言ったのと変んないぜ」
「何で、二時間も早くにホテルへ行ったんだ」
皓一は、また壁際《かべぎわ》に躰《からだ》を下げた。今度は足を丸め、自分を抱いて小さくなった。
「俺にも、うまく言えねェよ。全然言えない。あの女相手だと、何んかソワソワしちゃってさ。女、何人もこましたんだぜ、俺だってさ。なのに、直子には、何やっても押され気味じゃんか。頭《ぺてん》いかれたのかもしんないね」
「君は、直子と喧嘩《けんか》してから、横須賀へ電話をした。茅ヶ崎とは反対方向の人気のない駐車場で待ち合わせた。これでも、言ったことに変りがないって言うのか」
「恐くて黙ってただけだよ。あの二人がさ、恐かったんだ。それに|LSD《アシツド》となりゃ、法律じゃ本物《モノホン》の麻薬だし」
声が少し甲高くなっただけだ。力がなく、激しくもない。壁に凭れて坐っているだけで、今は耳さえ動かない。大野皓一は、長かった一日の付録で喋っているようなものだった。
「部屋とってあるって言ったら、あ奴《いつ》ぶったんだ。かっと来たってのは嘘だよ。その――一時間おきにさ、ぐっと来たり、殺したくなったり、ぐっと来たりさ。会ったときからかもしれないな。湘南のいいとこ姐《ねえ》ちゃん、鼻についてね。
部屋とったの、あれに俺、賭《か》けてたんだよなぁ」
「殺すか、惚《ほ》れるか、あんまり利口な賭けじゃないぜ」
「殺すか?――殴られるか、マジに惚れるかだよ。でもね、直子ったらぶっといて言うのさ。
あら、あなた近くに住んでんじゃなかったの。ま、たまには|こっち側《ヽヽヽヽ》で眠るのもいいだろうけど≠チてさ」
私は紙袋をとりあげ、皓一に別れを言った。彼は立ちあがり、私を見つめると、鉄柵をつかんで凭れかかった。
「あの二人のこと、言わなきゃ駄目?」
「好きにするさ。今のは、ぼくと君の話だ。捜査員として来たんじゃない」
彼は歯を見せて笑顔をつくった。おやすみと言ってベッドまで歩き、端っこに腰を降した。顔はまだ笑っていた。
「ビング・クロスビーで覚えりゃよかったな」私は、彼の頭のてっぺんに毛が数本立って、揺れているのを見つめていた。
「何のことさ」
「歌だよ。サニー、マネー、ハニー、ファニー≠奴《いつ》はそこのところは歌わない。歌詞が違うんだ」
私は当直警官を呼び、外へ出た。
廊下を歩きながら、浅井杳子の本名を知っているかと彼に尋ねた。
「浅田|なんとか《ヽヽヽヽ》じゃないんですか」
彼はわざわざ立ち止り、私に怪訝《けげん》な眸差で振り向いた。「もっとも、本当は韓国人だって話ですよ。本当か嘘かは知りませんがね」
どうやら、知らなかったのは私一人のようだった。
葉山警察署の軒先には、掲示板と並んでアクリルのカプセルに入った青電話が一本足で立っていた。私は蓋《ふた》をあけ、ありったけの十円玉を入れて東京を呼んだ。
原宿署勤務の、頭を角刈りにした刑事が、直接受話器をとった。まわりには誰もいない、彼は、不機嫌《ふきげん》そうに言った。
「もう帰ろうと思ってたんだ。かけてくるとは思わなかった」
「所見は出たのかい」
「ここにありますよ。――しかし、何てこともない。変ってるって言や、未消化の紙っきれがひとつね。これだけだ」
「紙きれ?」
「ああ。一辺三センチメートルほどの、三角状の粗製紙。――これが、どうかしましたかね」
「そっちの様子は、どうなんだ」
「事故ですよ、事故。同じように素裸の女がいたんじゃないかと、その女は、吉居さんが落ちるとこを見て逃げ出した。もちろん、服を着てね。まあ、この線がかたいですな」
「君は、まだ他殺か」
「自分にはもう自信がねェな。二村さんの方はどうですね」
私も判っていないと答え、自宅の電話を訊《き》いた。何か出てきたら、すぐに電話しよう。
「許して下さいよ。夜中は女房が煩《うるさ》いんだ。朝メシを作ってくれなくなる。朝一、署の方に頼みますわ」
私は電話を切った。車寄せのダットサンに戻り、運転席に坐ってエンジンを温めた。グローヴ・ボックスから、シナリオをひっぱり出す。
吉居が飛び降りる直前、くせをつけて行ったページを開く。角が欠けている。約三センチ。
まだ、ベトナム戦争が派手だったころ、ハッピー・ストリートの女が石川町の運河で溺《おぼ》れそうになった事件を私は思い出した。さいわい通りかかった男が救いあげ、生命《いのち》はとりとめたので、一時的な精神錯乱による投身自殺未遂でけりがついた。
私が、まだ学生のころの話だ。夜の中華街で、この女の話が一頻《ひとしき》りもてはやされていた。彼女はLSDにいかれて運河へ落ちたと言うのだ。戦地のステディから、その日、手紙が届いた。マイ・スウィート。マイ・ダーリン≠フ文面の尻に水滴を落した跡があった。彼女は、これはてっきり赤毛の白人青年が自分のことを想《おも》って流した泪《なみだ》に違いない、そう信じた。思わず接吻し、そ奴《いつ》を舐《な》めた。
それがスポイトで垂らしたLSDの水溶液だったと言うわけだ。この手はLペーパー≠ニ呼ばれ、アメリカと連絡があるロック音楽家の間ではいまだに重宝がられている。LSDは、たった十万分の一グラムで幻覚症状をひきおこすのだ。
私は、そのページを開いたまま、シナリオを顔に近づけ、舌の先端で触れてみた。ヘロインとは違うのだ。味など判るわけもない。眩暈《めまい》ひとつしない。
私は、そ奴《いつ》をグローヴ・ボックスに片付け、車を出した。両側に商店街の並ぶ、うらぶれた細道を走って行った。
変だと思ったのは、海岸べりに出てからだった。海が虹色に迫《せ》りあがって見えた。水銀灯の光は、空飛ぶ氷砂糖の大群だ。
車を駐《と》めろ!――そのとき、躰がぐにゃっとひしゃげた。物という物から、輪郭がずれ出した。すべてが細い、十重《とえ》二十重《はたえ》の光の繊維になり、それぞれが虹色の尾をひいていた。私の手には形がなかった。
車を駐めろ。私の足にも形がなかった。四つのタイアが私の足だ。まるで馬のようだ。いや、馬じゃない。これは暗示だぞ。私は声にして言った。しかし、耳には届かない。自分で暗示をかけたら終りだと聞いたことがある。さいわい、私は私が車に乗っていることを知っている。馬ではない。馬は停まらない。よし、それなら走ってみよう。
走るな、止れ。車なのだ。私は車に乗っていて、車にはブレーキがついている。ブレーキ? 止める道具だ。
止るのは人生の悪であり、前進こそ神の道だ≠烽、一人の私が言った。
ちきしょう、日曜学校なんか行くんじゃなかった≠ワた別の私が言った。
まっ黄色の馬が、百色のアクリル絵具をないまぜにしたようなアラベスクの中に見える。
暗示だぞ∴痰、私が囁《ささや》く。暗示にかかったら終りだ。自分が鳥だと想って窓から飛んだ奴がいる
いや、鳥じゃない。馬だ。違う、私は馬ではない。黄色い馬には羽があった。見るまに顔が女になり、形を失《な》くした。一瞬、私は理解した。しかし、その理解には実体がなく、かたちがなく、輪郭がなかった。私に見えるのは光の流れだけだった。E=MC2。とんでもない公式が頭に浮ぶ。光に音があったのだろうか。しかし、私が聞いているこの音は、光そのものだ。
すでに、世界からかたちは失われていた。私もかたちを失っていた。ただの光のピーナッツ・バターの中、光の素粒子に分解して飛んでいるだけだった。
厭な醒《さ》め方をした。夢から醒めた夢を見て、またその夢から醒める。そんな連綿からやっと解きはなたれた感じだった。頬は、煙草を千本吸った翌朝みたいに突っぱっていた。水銀灯やヘッド・ライトの明りは、まだ虹色の滓《かす》を纏《まと》って見えた。
私は方向のない自分の視線を、むりやり宇宙の彼方《かなた》から助手席の上へ呼び寄せた。そこに紙袋が乗っていた。熱海か下田あたりまで出張していた腕を、国道一号線沿いに巻き戻し、その紙袋へ派遣した。コーヒーの紙カップを出し、どう考えても鋼鉄に見えるプラスチックの蓋をあける。腕はカップを持ったまま、国道十六号を八王子の近くまで迂回《うかい》して口許《くちもと》に戻ってきた。
一息で飲んだ。コーヒーはコーヒーの味がした。しかし普段だったら、決してそんな味のしないコーヒーだった。あれほどの食欲が、腹からすっかり吹っ消えていた。
足は、二本とも比較的近くにあった。そ奴《いつ》を動かし、私は車を降りた。葉山マリーナが、すぐそこに見えた。私は青くなった。幻覚の中を一キロは走った計算になる。
車はフロント・バンパーを土手にめり込ませて駐っていた。釣船《つりぶね》の舫《もや》い場へ下って行く道と海岸道路の分岐点に、ブッシュのようになって盛られた土手だった。二メートル方向がはずれていたら海へ飛びこんでいたろう。羽の生えた人面の木馬でも、十月の海では溺れていたに違いない。
私は波打際へ、重い足を前後させて降り、潮水を顔へぶっかけた。
わずか十分たらずの時間だったのだ。それが、少なくとも一週間に思えた。私は、また潮水をかぶった。
十二時まであと五分だった。
12
昨日が今日になったと言うのに、私はあいかわらず、湘南《しようなん》海岸を車で走っていた。
汐風は強かった。遠い海に雲が低く、ものすごい速度で動いて行く。独り暮しの婆《ばあ》さんが、トランプに埋もれて狂い死にするには相応《ふさわ》しい夜だった。ドライヴにだけは似合わない夜だった。
私は、時速百二十で相模湾《さがみわん》のリムをすっ飛ばした。外海から助走をつけて来た風を横にくらい、すさまじい悲鳴があがった。茅ヶ崎の市境まで来たときは、車の左半面が汐風で真白になってしまったのではないかと思ったぐらいだ。
姫松とアスファルト道路が真直《まつす》ぐ延びる海岸線のはずれに、パシフィック・ホテル≠フ八角柱のビルが見えてくる。両翼には平坦《へいたん》な闇が氾《ひろ》がるばかりでその明るい建物を余計高くしている。
私は金色に光るネオンの看板を見つけ、速度を綽《ゆる》めた。ホテルまであと一キロというあたりだった。ネオンの先に、四本の鉄柱で中空に吊《つ》り上げられた巨《おお》きな硝子《ガラス》張りのゴンドラがあった。久保田直子の友達がエレクトーンのアルバイトをしているというレストランだった。高床式になった建物の下は駐車用にコンクリートが敷かれ、入線を区分する豆電球でクロスワード・パズルみたいに飾ってあった。
私は徐行して硝子張りのレストランを見上げた。客は、殆《ほとん》どなかった。それでなくとも目立つ男が、赤いブレザーを着て坐っているのだ。目につかないわけはなかった。
私はレストランの駐車場に車を乗り入れた。
浅井杳子の運転手は、ロールス・ロイスとレース編みの道具を失って、ひどく心細い様子だった。どことなく落ちつきがなく、靴が何かの拍子をとって動いていた。
「ぼくを覚えているかな」卓子の横まで行って声をかけた。
彼は、柄に似合わず柔和な眸差《まなざし》をあげ、もの静かに頷《うなず》いた。「二村さんですね」
私は無断で彼の正面に腰かけた。
「杳子さんを探している。下にロールス・ロイスが見当らなかったぜ」
彼は曖昧《あいまい》な笑いを浮べ、コーヒー・カップを口へ運んだ。カップの底には滓さえ残っていなかった。仕方なしに空気を啜《すす》った。大きな音がした。
ウェイトレスがやってきて、私の注文をとった。ビールの小瓶《こびん》がやってくる。私はそれをグラスに注《つ》ぎ、時間をかけて飲んだ。細胞のひとつひとつに、アルコールが滲《し》みて行くのを感じた。
彼は目線をはずし、黙っていた。私は、その目を凝《じ》っと見据《みす》え、やはり口をきかなかった。時間が目の前を通りすぎて行く靴音が聞こえそうだった。杳子のためには少し早すぎ、今の私には遅すぎる靴音だ。
「心配で言うんですよ。決して口軽ってんじゃないんだ」彼はやっと私を見た。十二時二十分。
赤いブレザーの襟《えり》を正し、椅子に坐り直した。コーヒーを飲もうと伸ばした手を途中でひっこめる。これ以上、空気は啜りたくなかったのだろう。
「浅井さんは、江ノ島へ行ってるんです。ヨット・ハーバーですよ。ホテルをひきはらうっておっしゃるんで、荷物を乗せて、ここまで来たら急にそう言われたんです」
「一人で行ったんだな。女にロールスが運転できるのか」
「英国人がトルク・コンバータァに妥協したのは、もうずいぶんむかし昔のことですよ」
彼は見下したように笑った。「でも、心配なのはそれもあってね。あれを一人で転がすなんて、はじめてなんだ。その上ここで一時まで待って、戻ってこなかったら江ノ島まで迎えに来てくれって、言い残してったもんで」
「出たのは何時だった」
「十二時。――少し前でしたよ」
私は勘定書をひっつかんで飛び出した。車へ戻り、エンジンが熱くなるのも待たず、百馬力を唸《うな》らせた。海岸道路を引き返す。レッド・ゾーンぎりぎりまで回転をあげた。
ゆるい湾岸が水平線に重なるあたりに、江ノ島が黒く横たわっていた。見えているだけに、距離は思うほど埋まらない。
エレガンス≠フ、少しもエレガンスではない堀池君を腕力で黙らせ、鎌倉山からロールス・ロイスを尾行するべきだったのかもしれない。山田は、まだ報酬を手に入れてはいないのだ。そして、彼が本当に欲しがっているものは金ではなく、浅井杳子が思ってもいないものなのだった。
姫松の密生した砂浜が終り、電鉄系の海の家が後方に吹っとび、私は滑川《なめりかわ》を渡った。小田急片瀬江ノ島駅前を右折する。
海を跨《また》ぐ砂州の上に造られた長い橋を渡り切り、割烹《かつぽう》旅館や土産物屋が立ち並ぶ観光バス用の駐車場へ入った。水銀灯の光があたり一面を冷たい森に変えている。後尾を大きく振って、左へ曲る。弾みでホイール・キャップが脱落し、コンクリ広場にからからと音をたてた。そんなものを惜しんではいられなかった。前から来た風がフロントに当り、エンジンと一緒になって喚《わめ》きたいだけ喚いた。
いくら走っても、人影ひとつ車一台見当たらない。突堤へ入る。夜間立入禁止の背高のっぽの鉄柵《てつさく》がヘッド・ライトに浮びあがった。中央の可動部が、ちょうど車幅一杯左右に開かれてある。
私は速度を殺した。ライトも消した。島の淵《ふち》に左旋回で広がっているヨット・ハーバーの中へ、エンジン音を忍ばせ、進んで行く。
陸揚げされたセール・ボートの列をやりすごす。走路と言っても、のっぺりした突堤を柵と鎖が仕切っているだけだ。白線とヨットの列。私は、道なりの無灯火運転を続けた。
道路が、私の背ほどの高さがある防波堤にぶつかった。その向うでは、海が白々崩れて見える。右へ曲れば海。左へ延びる防波堤と帆柱の並木に挟まれた道は、港内コントロール用の監視塔の下を回り、船置場を巡って元来たところへ戻っているはずだった。桟橋《さんばし》で待ち合わせたにしろ、ここいらで車は捨てなければなるまい。
私は防波堤を目前にして、しばらく迷った。停ってしまった車体を風が揺すって過《よぎ》る。
結局、私は車を降り、揚陸キャリアの影にひそみながら曲りっぱなまで歩いた。
顔をのぞかせると、監視塔寄りの路上に、車が駐っていた。白いスカイライン二〇〇〇GT、一台きりだ。ロング・ノーズに寄りかかって立つ人影が、煙草の火を豆粒大に光らせている。
ロールス・ロイスはまだなのだろうか。茅ヶ崎から片瀬江ノ島駅前まで、道は一本だ。擦れ違った記憶もない。浅井杳子はどこで道草を食っているのだろう。
私は、船底と赤鎖だらけのキャリアの間にもぐりこみ、人影に目を凝らした。背が高く、夜気にまぎれてしまうほど痩せた男だ。車の中から、もう一人出てきた。背はいくらか低いが、肩のある奴だった。痩せた方がそ奴《いつ》にライターの炎を近づけた。遠くて、顔立ちまではうかがえなかったが、私の頭の中で何かが音を立てた。厭な音だった。しかし、その音を確かめてみる必要はある。
方法をいくつか思い描いた。いずれにしろ人手がいる。私は車にとって返し、ギアをバックに入れ、走路を途中まで戻った。船置場の空いているところを使って切り返し、橋を渡り、片瀬江ノ島駅前まで走ってタクシー会社を探した。時間はなかった。こうしている間にも杳子が来てしまうかもしれない。
駅と橋ひとつ隔てた広場で、目指すギャレージを見つけた。海岸場のタクシーにはときおり、濃霧用のスポットをつけている奴がいる。TVの深夜放送を見ていた運転手と話をつけ、スポット・ライトつきを一台、時間借りでチャータァすることが出来た。
私はダットサンの後部席に吊しておいたコートをとり出し、それを羽織った。皺《しわ》は充分残っていた。おそろしい匂いもする。私のロッカーの匂いだ。しかし、海から来る風がその皺や匂いを帳消しにした。
ついでに、吉居の手紙や部屋からくすねてきたシナリオをポケットにつめかえ、運転手をせかせてヨット・ハーバーへ戻った。橋の袂《たもと》で、転がっている私のホイール・キャップを見かけたが、拾って行くゆとりはなかった。防波堤が近付くと、私はライトを消させ、運転席に身を乗り出した。
「儲《もう》けたくはないか」
「危い橋はごめんですよ、お客さん」
彼は、白いカヴァーを被せた制帽をひん曲げ、振り返った。まだ若い男だ。危い橋を渡ったことがない顔には見えない。「どんな話なんです」
「TVの続きを見たいんだろう」
「そりゃあね。どんなにつまんなくたって、途中まで観《み》ちまうとケツが気になるからね」
「このまま帰るだけだ。防波堤まで行ったら、君は四灯にスポットも照らして、左へ曲るんだ」
「向う側になにかあるんですかい」
「車が駐ってるだけさ」
「本当に、それだけでしょうね」
「嘘だったら、江ノ電のレールを藤沢まで逆立ちで歩いてやるよ。――君は、ライトをつけたまま、その車の横を通りすぎて、船置場の中を抜けて帰ってしまっていい。ぼくの車は、一時間しないでとりに行く。どうだい」
「そりゃ、もう金を貰《もら》っちまってんだから」
彼は小刻みに頷いた。「だけど、江ノ電の逆立ちは面白くねェや。本当にやっちまった奴がもういるんですよ。なんでも横浜の小学校の先生だそうでさぁ」
私はタクシーを降り、小走りになって、角に陸揚げされた船の下へ滑りこんだ。後ろに手を振って合図する。
タクシーは、私の横を通り抜け、防波堤につきあたって曲った。五つのランプがいっせいに点《とも》った。
都合のいいことに、痩せた方の男は、まだ車の横に立っていてくれた。杳子もまだ到着していない。路肩用スポットが彼を捉《とら》える。驚きの表情を腕で隠し、彼は顔をそむけた。
それだけで充分だった。
私は、タクシーが監視塔の下を回り、見えなくなってしまうのを待って歩き出した。堂々と走路の真中を近づいて行く。
「よう!」数歩残して、大声をかける。
「誰だ」
彼は私の近くの闇を透かし見た。「誰だ、そこに居るのは」
「味方だ」
「二村じゃねェか」
「シェークスピアの台詞《せりふ》だぜ。マクベスだ」
「来ちまったのか」肩をすくめ、こっそり舌打ちをした。
スカイライン二〇〇〇GTの傍《かたわ》らに立ち、こっちを見ているのは、机の下に何度も落っことした鉛筆のように痩せほそり、芯《しん》の弱そうな男だった。しかし、そんなのは見せかけにすぎない。芯には筋金が入っている。麻薬ギャングの金筋などではない。公安警察官の筋金入りだ。歳は私とそう違わないはずだが、その筋金が彼に年齢をサバ読ませていた。目については、大野皓一の見立てに狂いはなかった。剃刀を使うのが好きな奴は、目も剃刀に似てくる#゙はそう言ったのだ。
「山田って呼べばいいのか、芸の無い名前だね」
私は塚本恭郎巡査部長に尋ねた。
「脅迫現場を張り込み中とは言わせないぜ。こんな暗いところで、煙草を吸うなんてドジを踏む警官はいないはずだ」
「恐喝屋《きようかつや》じゃない。恐喝屋を逮捕してやった親切なおまわりさんが、今夜の役どころだ」
「事件を世間に公表するのも、もみ消すのも君の腹ひとつってわけか。架空の事件をな。――結局は恐喝に変りない」
「二村。おまえの言うのは判《わか》った」彼は両掌《りようて》を前に差しのべた。
「ぼくには何も判らない」
「大人の話をしようじゃないか」
「色っぽいところで育ったんだ。中華街の近くだった。十六のときから大人だよ」
次にくる手は判っていた。神奈川県警公安外事課で名前を売った男なら、誰でもそうするような手だ。県警本部長の名で号令をかけるのだった。
「吉居の手紙だぜ」
私は先手をとって、懐から封筒を出した。「君らに脅されたって書いてある」
「嘘だ。いくらなんだって、それは考えすぎだぞ」
彼はうろたえて、車の天井をひっぱたいた。
向う側のドアが開き、塚本の連れが降りてくる。車の上にのぞけた肩はいかにも頑丈《がんじよう》そうで、下半身は見えないが、極端に足の短いガニ股《また》が釣合《つりあ》いというところだ。真四角な顔に威圧的な鼻、目ときたら猛禽類《もうきんるい》が鏡にむかって獲物《えもの》をとる訓練をしているみたいだ。知合いではないが、保安部でその目を見かけたことがあった。
「何の騒ぎですか」彼は、ゆったりと声を出した。
「紹介しますよ。彼が今朝、話していた二村です。――こちらは、保安部の岩規警部補だ」
岩規は首をゆすり、会釈《えしやく》をしたつもりになった。「じゃあ、君が二村君か。君は、浅井杳子の何んなの」
「ファンですよ。ただのね」
「なぁ、二村。今の手紙、ちょっと見せてくれんか」塚本が手を伸ばした。
「手紙?」岩規は車越しに彼をうかがった。
「吉居がね、遺書をのこしたらしいんですよ。吉居ってのは、御存知《ごぞんじ》の通り彼の旧友らしくて」
「遺書? 君、あれは麻薬《ヤク》による事故じゃないか。明白ですよ」
「君らが舐《な》めさせたんだぜ」私は、高く翳《かざ》した封筒で汐風をあおいだ。
「彼がどうやってLSDの在所《ありか》に勘付いたかは知らない。だが、君らが吉居にあれを探させたのは事実だ。彼は、あれを一舐めして確かめてみる直前、この手紙にあらいざらいを書いたよ。浅井杳子と彼に、君らがどんなことをしたかってね。その後、彼は幻覚旅行に出発し、羽の生えた人面の木馬になっちまったんだ」
私は、二人の鼻先に封筒を一巡させ、内ポケットにしまった。
塚本が私に鋭い上目遣いを送ってよこした。だが、いくら剃刀だってゴリラが髭をあたった後では使いものにならなくなる。
「吉居がおまえの友人とは思わんかったのだ。今朝、浅井杳子の入っていったレストランにおまえがいたって聞いたときは、本当に驚いたよ。――しかし、こっちとしても引くわけには行かなかった。大がかりな麻薬密輸だし、沖山忠孝の動きを親父の良平が知らんでいるのか、それとも奴《やつこ》さん自身が黒幕なのかあの時点では掴《つか》めていなかったんだ。本当だぜ。だから小峰さんに頭をさげたのさ。小峰さんが、おまえを葉山署に廻《まわ》すとは、間が悪いよ。
――厚生省はこっちの捜査に勘付きやがって、やいのやいのと言ってきていたし」
「そのせいで功をあせったのか。警察庁と麻薬取締官事務所は、最近不仲だって言うからな。それで、時計の針を逆さ回しにするような捜査をしたんだ。
仲間に暴漢を装わせて、自分を二枚目に見せるなんて、今どきそこらのチンピラも使わない手だ。盗聴器も、ひとの逢《あ》い引きをおしゃかにしたのもみんなそのせいか」
「君! 二村君」今まで黙って睨んでいた保安部の岩規が、鋭い一喝をくれた。彼の熱い視線を私が無視し続けたのが、よほど腹に据《す》えかねたようだ。
「君はいいから、帰りたまえ。文句があるなら、後で文書にでもして出せばいい。何にしろ、君がしていることは重大な職務違反だぞ」
「ぼくは今、恐喝屋と話しているんですよ。警官と話しているんじゃない」
開けた口から声が出かかった。しかし、空気の出入りする妙な音にしかならなかった。岩規の顔が青く光りはじめた。雲の切れ間からのぞいた月のせいばかりではない。
彼は両手をぐっとあげた。その先には巨《おお》きな拳《こぶし》が握られている。それを口許《くちもと》にあてがい、スカイラインの後部に向かった。顎《あご》がぶるぶる震えていた。
リア・エンドを回って来ようとしたところで、幅広な肩を塚本がおさまえた。「岩規さん! おさえて。――たかが|ドロ警《ヽヽヽ》の言うことじゃありませんか」
「ドロ警?」岩規の顔から、表情がこそげ落ちた。公安が刑事部の警官にむかって使う、お馴染《なじ》みの四文字言葉にすぎなかったが、彼は、|ドロケイ《ヽヽヽヽ》ではなく、別の四文字言葉を聞かされたとでもいうように、しがみついている塚本をゆっくりと覗《のぞ》きこんだ。
「同じ警官じゃないかね」
岩規は長嘆息するみたいに言った。「自分も、君も彼も。――君は何を考えているんだ」
塚本が、岩規にかけていた手を離した。
「この場は私が収めます。岩規さんは車に乗って、橋を張っててください」やけにはっきりした語調で言う。命令に聞こえないよう注意はしていたが、どう聞いても命令だった。
「いつ浅井杳子が来るか判らんのですからね。沖山が一緒と言うこともある。何しろ、約束の時間を二十分も回っているんだ」
岩規のごつい躰《からだ》は酢を飲んだみたいにへたり、空気を抜いた。自分より階級も低く、歳も十以上下の警察官に一瞥《いちべつ》をくれ、彼はスカイラインに乗りこんだ。そこからは、林立したヨットのマスト越しに、江ノ島大橋をよく見渡すことが出来るのだ。
塚本が私の肱《ひじ》をつかみ、少し離れた防波堤の陰まで引っぱって行った。
「警部止りさ」彼は車を尖《とが》った顎で指し示した。
「そういう奴に限って、星数でものを推し測るんだ」
「君は違うって言うのか」
「星で来るなら、こっちは肩書きと将来性さ。あんな|でくのぼう《ヽヽヽヽヽ》ばっかりだから、警察《サツ》庁も、今度の事件を俺たちに回したんだ。LSDと来れば、マリファナなんかとわけが違う。れっきとした麻薬だ。あんなのには任せておけん」
「それはそうだな。保安部の連中なら、ゆすり屋を演《や》ったり、アレン・ダレスの真似《まね》をしたりはしない」
私は、ポケットから長い尻尾《しつぽ》のついた盗聴器をとり出し、塚本に手渡した。
「君が持っていたのか。心配していたんだよ」
彼は急いでそ奴《いつ》をしまいこみ、曖昧《あいまい》な微笑を浮べた。「警視庁に持ってかれたりしたら、ややこしくなる」
「何故《なぜ》、外事課がここにいるのか、説明して欲しいね」
「ヴェガスの近くで、例の映画のスタッフが死んだんだ。ハイウェイ・パトロールはただの交通事故としてかかったが、車の中から百グラムのLSDが出てきた。FBIが乗り出してな、ブレーキの油圧装置に仕掛を見つけた。擬装事故だったんだ。連中は、あの映画ロケ隊を使った大がかりなLSD密輸に目をつけた。しかし、そのときはもう、ロケ隊は日本へ帰ったあとさ。
NKの撮影所も沖山忠孝の家も県警管下だからな。FBIの連絡を受けた警察《サツ》庁は、俺たちに申し送ったって訳だ」
「麻薬事犯を外事にか? 保安がヘソを曲げるわけだ」
「警察《サツ》庁には県警警備部長と同期の奴がいてな、その幹部は保安なんかあてにしなかった。警備部へ話が行って、そこから外事へ回ってきた。うちが指揮をとって、保安と組むことになったんだ。それだけのことさ。岩規と三日一緒にいて驚いたよ。あ奴《いつ》は警察をお上《かみ》≠チて呼ぶんだぜ」
「その君が、ぼくなんかに、こんなに親しくお言葉をおかけ下さって、問題はないのか」
「おまえは変ってるよ。外事別館でも有名だ」
塚本はちょっと私から離れ、オーヴァーの打ちあわせで風をよけると、細野テーラー≠フラベルを見せながらダンヒル・エクスポートに火を点《つ》けた。烟《けむり》を吐き出し、私のよれよれになったコートの胸のあたりを指でつついた。
「はじめから、一課と組んでおけばよかったな」
「人の畑は荒らさない。子供のころ三浦の西瓜《すいか》畑を荒らしたくらいのものさ」
塚本は静かに私を笑った。風が前髪を吹きとばし、広い半球型の額をまる出しにさせた。私の視線に気づき、不機嫌《ふきげん》そうな顔になった。髪をあわてて元どおりに直した。「沖山良平のせがれな。沖山忠孝――あれが主犯格らしいことは掴んでいた。奴はアメリカに市民権がある。だから俺たちに声がかかった。理由はもう一つある」
「浅井杳子のことだろう」
彼は大きく頷《うなず》いた。長い前髪の下では、額が若禿《わかは》げ一歩手前まで、頭を侵略していた。
「あれは、外国人だったんだ。籍を変えたとき、ちょっとしたミスをしている。不実記載ひとつでも考えようによっちゃ、私文書偽造だ。国籍法を持ち出すことも出来た。
法はトランプと同じだからね」
「君は、いい手札をつくってたってわけだ。――浅井杳子に共犯事実があったのか」
「いいや、なにもない。あの娘は真白だ」
「判ったよ!」
私は彼の口から煙草をもぎとり、その火で自分の煙草を点けた。彼の煙草のほうは、防波堤のむこうに投げすててやった。塚本の眉間《みけん》に力が集まり、眉毛が一直線につながった。
「何が判ったんだ! 二村」
「杳子をゆすったのは陽動作戦だったんだろう。マリー・アントワネットをゆさぶりゃあ、宮廷中が本気になって大《おお》周章《あわて》する。おかしいとは思っていたんだ。喝アゲ屋は普通一対一の取りひきをする。それが、あっちこっちをつつきまわし、しかも本気で金を欲しがってる様子がない。――はじめっから、杳子をゆさぶって、吉居を動かす腹だったんだな。同時に沖山忠孝も動揺させる。そうだろ? 山田君」
「沖山忠孝には、良平って親父がいる。先刻言ったとおり、良平がどのくらい咬《か》んでいるのか判らなかった。実際には、まったくノー・タッチだったんだが、それにしても、こっちは麻薬《ブツ》をつかむまで動きようがない」
「吉居が運び屋だったわけじゃあるまい」
「それはどうか判らんぜ。どうやって、どのくらい運んだか、こっちはまだ掴めていないんだ。
沖山忠孝がヴェガスのシンジケートと|レツ《ヽヽ》を組んでるって話は、奴が日本に帰ってきたときからあった。芸能界には、ハリウッドやヴェガスのヤクザとつながってる奴が大勢いるんだ。何しろ、興行を握ってるからね。
沖山の頭には映画が先にあったんだ。そのために、麻薬を運びこんだ。そのへんの兼合いが、俺たちにはよく判らなかったもんで、だいぶまごついてしまった。あの映画のせいで、奴は金に追い詰められてたんだ。ばかな奴だよ。映画の金が足らないなら、親父に泣きつきゃどうにでもなったんだ。それを密輸で作ろうとしやがった。――俺たちは、まず沖山の手下《てか》に目をつけたのさ。ヴェガスで死んだスタッフは、沖山を裏切ったんだな。それで、向うの取引先が手を下したんだろう。コカインで警察に目をつけられていたし、死んだときは三越の特選品みたいなLSDをごっそり持っていた。あとは長谷部と吉居さ、その三人は沖山が雇ったんだ」
「吉居の容疑が薄そうなんで、長谷部に粉をかけたんだ。そうだろう。大野に接触した二人のゆすり屋のことを葉山署の本部が追究しなかったわけだ。
長谷部は、誘いに乗って、大野の言うとおり|LSD《アシツド》を持ってこようとしたが、その前に死んでしまった。殺されたんだ。殺したのは君らだぜ」
「おまえらしくないレトリックだな。二村。おまえの見こみどおり、あれが殺人なら、殺したのは沖山だよ。あのガキの殺人《コロシ》は、俺たちの与《あずか》り知らぬことだ」彼は地面に唾《つば》を吐き、尖《とが》った靴の先で踏み潰《つぶ》した。
「ガキには大野皓一って名前があるんだぜ。――たしかに、彼は抛《ほ》っといてもナイフをとったかもしれない。しかし、抛っておけば百分の一の確率で、彼は昨夜なぎさホテル≠フベッドにありつけたかもしれないんだ」
「俺の不手際《ふてぎわ》は認める。しかし、沖山良平の息子とカードをやるには、いかさまも必要だった。むこうは、閣僚と内務官僚ってジョーカァを握ってるんだ」
彼は、口の端を歪《ゆが》めて笑った。自分の仕事を悲しんでいるような笑いかただった。しかし、すぐれた警察官が、自分を嗤《わら》ったりはしない。もしそう見えたのなら、それは、彼がわざとそう見せかけたのだ。
私はコートの襟許《えりもと》に顔を半分つっこみ、一年間ロッカーに溜《たま》った、私自身の汗と努力と、そして無精の匂いを嗅《か》いだ。
「吉居にどう持ちかけたのかは知らない」私は疲れた声で言った。
「しかし、奴は密輸に咬んじゃいなかったはずだ。薄々感づいていたにしろ、それだけのことだ。でなかったら、LSDの隠し場所を自分の躰でたしかめるなんてことはしない。彼は彼なり、背一杯のやりかたで女王を護《まも》ろうとしたんだ。
マリワナすらやったことのないような奴が|LSD《アシツド》をたとえ一ミリグラムでも試そうものなら、どんな結果になるか、君には判っていたはずだぜ。
――みごとな使い捨てだな。吉居が潰れりゃ、今度は杳子か。杳子を直接いたぶって、沖山忠孝をいぶし出そうってわけだ。大野と長谷部の事件を、両方とも県警本部へひきあげさせたのも、そのためだ。沖山を長谷部怪死の重要参考人としてひっくくる。
いつもながらに公安のやりくちって奴だ。感心するよ。一番やわらかいところをみつけて、ナイフを突きたてるんだ」
「二村! 貴様、麻薬《ブツ》がどこにあるか知ってるな」
スカイラインのドアが開き、そこから岩規が降りてきた。歩きながら、監視塔のむこうに氾《ひろ》がる海を指さした。
「来たぞ。あの女の車だ」
水平線を二重に見せるような型で、遠い夜気の中に江ノ島大橋が横たわっている。二|条《すじ》のヘッド・ライトが、その上を近付いてくるところだった。
「君は、そ奴《いつ》をここで押さまえとけ」
岩規は、車と私たちの中間で立ちどまり、塚本に叫んだ。「そ奴《いつ》を逃がすな。自分は車で行く。別の場所で接触する」
「待ちなさい。岩規さん」
「待つことはない」私は、塚本の背に腕を回し、岩規の背後にある自動車へ歩きだした。
「君たちは、帰るんだ。ぼくを仲間はずれにしたのが間違いのもとさ」
「おい! 二村。何を考えていやがるんだ」
「さっき、君らにライトをあびせて行ったタクシーには、週刊エレガンス≠フ記者が乗っていた。カメラを回していたよ。赤外線フィルムが入っているって言っていた。奴は君らが喝《かつ》あげ屋だって知ってるんだ。ぼくは、吉居からの手紙を持っている。彼は、今もそこらでカメラを構えている」
塚本は、ずらっと並んだセール・ボートの影に、視線を走らせた。岩規はひとところに立ったまま、凍りついていた。
「ただで帰れとは言ってないぜ」
「麻薬の在所か?」
「ああ。|LSD《アシツド》は英語版のシナリオに滲《し》みこませてある。ページ全部が麻薬だよ。細かに切って食べるんだ。吉居の胃袋から紙きれが検出されている。今、相場はいくらぐらいだ?」
「一回分、純良品なら五千円ぐらいだろう。末端価格は天井知らずさ」
「一ページあたり二十として、一冊一千万のシナリオだ」私はコートからシナリオをひねり出し、塚本に抛《ほう》り投げた。「これが百冊はある」
塚本はページをぱらぱらめくり、歯のあいだで、鋭く息をならした。
「卸値で十億以上か。思ったより凄《すご》いな」
「急いだ方がいいぜ。つい三時間前までは、そ奴《いつ》がごっそり沖山忠孝の車に乗っていた」
私たちの後ろに突っ立っていた岩規警部補が、弾《はじ》けたように車へ走った。助手席に飛びこみ、ドアを締める。無線器に報告しているのかもしれない。
「礼は言わないぜ、二村。――君のしたことは職務違反にすぎない」
塚本は躰を車へ向け、顔だけで私を睨んだ。「何のためにしたんだ? 女か」
「日本シリーズの切符だよ。まだ、報酬にみあう仕事をしていない」
「一度|訊《き》こうと思ってたんだがな。今訊いてもいいか。――何だって警官になったんだ。二村」
「他に仕事がなかった。しかし、警官がみんな謀略を楽しんでるわけじゃない。ゴルフと安楽椅子で送る老後のためのウォーミング・アップでもない。君とは違う」
塚本が犬歯をのぞかせて笑った。人をすっかりくった笑いだった。車の中から岩規に急《せ》かされ、私の肩を一発どやしつけると、スカイラインへ走った。運転席のドアを開き、そこに立ち止って私を振り返った。
「覚えていろよ。二村!」
助手席の方を窃《そ》っと指さしながら彼は呶鳴《どな》った。
「どんな形にしろ、この件は文書にして出すからな」
「いいアイディアだ。ついでに一部、大宅《おおや》文庫に送ってくれ。自叙伝を書くとき役に立つ」
「忘れないぜ。二村」
彼は大声を出しきり、ふっと息を吐《つ》いた。それから私に肩をすくめて見せ、車に乗った。
スカイラインは、凄い勢いで走り出した。真直《まつす》ぐ行って監視塔の下を回り、マストの林の中へ隠れてしまった。あの癖のあるスカG・ノイズも、じきに聞こえなくなった。
一瞬、静寂があたりを包んだ。
私の背後にあったボートの舷側《げんそく》が明々と輝き、エンジン音が近づいてきた。
ロールス・ロイスの頭が、角から飛び出てくる。一旦《いつたん》、上向けたライトでこっちを照らし、私を盲にして闇の中に駐った。ライトが消え、ドアが開いた。
ハイヒールの音がやってくる。その音だけで、浅井杳子だと判《わか》った。私の目の前まで来て立ち止まった人影は、遠い水銀灯からの逆光にすっかり翳《かげ》っていたが、それでも彼女だとはっきり判った。そういう女なのだった。
身を切るような汐風が、甘い香りをさせた。
「二村さん?」杳子の影が、私にまた一歩寄った。眸《め》の在所《ありか》が輝きで判った。
「来てくれたのね」
「ホテルへ行ったら、窓を開けてくれなかった」
「手が早いのね」
「そうですよ。横浜では有名だ」
「それじゃあ、今すれ違った車がそうなのね。追い帰しちゃったの?」
「男が三人じゃ、つまらないですからね。――連中はもう来ません。二度と来ない」
「そうなの」
彼女は頷くと同時に、ちいさな息を足許へもらした。
よかったと叫んで、私に抱きついたり、ありがとうと言って私の胸にすがったりするようなことを、待ち望んでいたわけではなかった。そして、決してそうはならないことも判っていた。杳子は微笑《ほほえ》みもせず、私の眸を見つめていた。
「もうお帰りなさい」私は言った。
「あなたはどうなさるの」
「パトカーに送らせる」
「今夜は横浜にお部屋をとったのよ。ツウィンの部屋だわ」
「お家《うち》へお帰りなさい」
「あそこには帰りたくないの。いずれ、吉居さんのお葬式が終るまでは」
「頼みがあるんです。今夜中に家へ帰って、部屋に置いてあるシナリオを全部燃やして下さい。そうしないと面倒なことになる。もし、警察からシナリオのことを聞かれたら、ぼくが持って行ったと言えばいい」
「そうしなけりゃいけないのね」
私は頷き、横を向いて煙草に火を点けた。監視塔のはずれの海に、片瀬海岸から夜釣りに出た漕《こ》ぎ舟の灯《ひ》がいくつも揺れている。揺れているのは空だ。風が強くなった。
浅井杳子は毛皮の襟を耳許におさえ、両足をきっちり揃《そろ》えて立っていた。たいそうひっそりした様子で、波音も海上で方向を失《な》くした風も、彼女には意味がないようだった。
「私、あなたを探していたのよ。ずいぶん沢山の十円玉をつかったわ。目立たない公衆電話をみつけたり、道に迷ったり。一人で来るのは勇気が要ったわ」
「ぼくも探していた。しかし、あなたには沖山忠孝氏がいる」
杳子は軽く私を睨んだ。
「仕事のお友達に、個人的なことでうろたえている私を見せられるとでもお思い?」
「お金を持ってるはずですよ。どうやってつくったんです」
「とんでもない。あんな人たちにはサインだってしてやるもんですか」
「ラ・ババ浅田≠フ女店員が現金を届けたんじゃないですか。鎌倉山のレストランにね。沖山忠孝だって、こんな夜中に何百万もの金をつくるとなれば、あては限られる」
杳子の姿は、地面から発《た》ちのぼる一条の狼煙《のろし》に見えた。それがゆらりと揺らぐと、私に数歩近よって来た。あの目が私を凝《じ》っと見上げた。そこらの中の光を飲みこみ、いっぺんに弾きだす眸だ。
平手が横ざまに走り、私の頬ににぶい音をたてた。奥歯が痺《しび》れた。
「尾行していたのね。私があなたを探しているあいだ、ずっと近くにいらしたのね」彼女はドライ・フラワーみたいに乾いた声で言った。
「吉居さんがあんなことになってしまって、山田って男からは何度も連絡が入ってくるし――あのレストランにまで電話があったのよ。でも、私がどなたと一番にお会いしたかったか、あなたには判らないでしょうね。
沖山さんにだけは、お金が必要な理由を言えなかったわ。その人に、私はお金をつくってもらったのよ」
杳子は、そこで言葉を探しあぐね、私にくらいついていた眸差《まなざし》をはずした。声はやさしくなっていたが、そこに私が知っている彼女はいなかった。
粉々になってしまった自分を掻《か》き集めるみたいにして、杳子はゆっくりコートの打ち合せを重ね、肩を落とした。
「あなたが思っているような人じゃないのよ。本当の意味での私のプロデューサーだわ。私をつくった人よ」
私は少しのあいだ黙っていた。しばらくすると喉が熱くなり、波の音が煩《うるさ》くなったので黙るのをやめた。
「沖山忠孝には理由をまったく言わずに済ませたんですね? 恐喝屋の目当ては、あなたが彼を頼ることだったんですよ。――そうまでして何故《なぜ》ここへ来たんです」
「映画が完成するまで、ごたごたは厭だったの。それが理由のひとつ」
「もうひとつは」私は口ごもった。
「あなたに名前が三つあって、それを知られたくなかったからですか」
彼女は突然、笑い出した。チョコレートの銀紙を子供の指が破くようなたどたどしい笑い声が、杳子の喉をふるわせた。やがて笑い出したときと同じように、急に真顔になって私を見た。
「梁――そうね。何故そんなに回りくどい言いかたをされるの? 二村さん。
そんなこと、たいしたことじゃないわ。私は私よ。朝鮮戦争の後で生れた人間には、それほどの問題でもないわ。私、日本語しか喋《しやべ》れないのよ」
「それに、みんなも知っている。あなたも、吉祥寺のお母さんも隠していない」
「不思議ね。二村さん」
彼女は幽《かす》かに黒い海岸へ眸を投げた。「西と東と山ひとつしか離れていないのに――あっちの海はコンクリートみたいに強《こわ》いのよ。
私、横須賀のドブ板って街で生れたの。アメリカの船が入って来ると、屋根の上まで女と外人で溢《あふ》れてしまうのよ。赤ん坊はバブバブって泣く前にラブ・ユウ、ニード・ユウ≠チて覚えてしまうわ。
私は十八までそこで暮したの。あの五百メートルほどの通りうちでは、たったひとつを除いて、他の国籍はあってもなくても同じことだったわ」
私は、なるべく遠い音を聞こうとして、耳をすませた。舫《もや》いだ船の擦れあう音が、松葉杖の運動会みたいに騒いでいるだけだった。頭の芯《しん》が唸《うな》った。五つほどの言葉を考え、そのどれも結局は口にしなかった。
「それが、どうしたって言うんです」
「どうもしないわ。ただ煩《わずら》わしいだけよ。――調べようと思えば、誰かが調べてしまえることだわ。もう調べた人がいるかもしれない。
隠そうとしてるんでも、スキャンダルを怖《おそ》れているんでもないの。――そんなんじゃないわ。ただ煩わしいってだけよ。
私の中のあの街が煩わしいのね。
そして私、あの街を、たいして嫌いでもないのよ」
声を出さずに、そっと笑った。自分のハイヒールに笑いかけているのだった。ミンクが、ただ毛羽立っただけの毛布みたいに見えた。
私は躰《からだ》がふれるくらいまでに杳子に近づき、腕をとった。
「背をのばしなさい。あなたらしくない」
「ありがとう」
浅井杳子は、口を結んだまま溜息《ためいき》をもらし、それを合図にして肩へ力をとり戻した。まっすぐ私を見つめた。その眸には、光が帰っていた。ミンクがまた立派なミンクになり、朝のように輝いた。
「それだけのことよ」
彼女は両掌《りようて》を私の肩にかけ、背伸びをすると、口許に接吻した。短い接吻だったが、それで充分だった。彼女の唇は花氷みたいに冷たかった。
すぐに私から離れ急ぎ足で自動車に戻った。運転席のドアを開き、窓枠《まどわく》に躰を支えて立った。
「おやすみなさい、二村さん。――あたしが今夜、ベッドの中で、あなたのことを想《おも》い出すなんて思わないでね」
振りかえりもせず、杳子は言った。声は自信にあふれ、欠点のない美しさに満ちていた。
「みんなお芝居なんだから」
ロールス・ロイスが、長い長いリヴァースで道を退《さが》って行った。いつエンジンをかけたのか、いつブレーキをはずしたのかさえ判らなかった。ヘッド・ライトの灯が遠離《とおざか》り、あたりに闇が戻った。風と波の舞踏曲が返ってきた。
私は、その場で煙草を一本、灰にした。それからヨット・ハーバーの立入禁止の柵《さく》を元通りに直し、土産物屋の前の広場で、先刻急カーブをきったとき落としたホイール・キャップを拾い、江ノ島と片瀬海岸をつなぐ自動車専用橋のど真中を歩いて渡った。
正面の地平に延々と続く湘南の海岸道路は、端から端まで無数の水銀灯に飾られ、夜気の底を真二つに仕切る分水嶺《ぶんすいれい》だった。その左手はるかを、一台の自動車が去って行くところだ。車影はほとんど見えない。白色光の中、ヘッド・ライトの暖かな燿《かがや》きが移動しているだけだったが、私にはそれが浅井杳子の車だと判った。
誰がどんなとき、どこから見ても、それと知れる自動車だってあるのだ。たとえ太陽ではなく千キロワットの人工灯だろうと、光のあたる道を走るべき車だ。その道の先には、彼女に水をやり陽《ひ》をあてた男も、彼女を護《まも》ろうとした男も、もういない。レース編みの好きな運転手しか待っていない。
しかし、それがどうしたというのだ。
今、ヘッド・ライトと赤い尾灯は白色光の放列に紛れようとしていた。しかし、そこにあるのはどう見てもロールス・ロイスそのものだった。
私は突然、大野皓一が歌っていたジャズ・ナンバーを思い出した。だが鼻歌など口遊《くちずさ》む気分にはとてもなれなかった。コートの裾《すそ》を風に任せ、泥だらけのホイール・キャップを片手に歩いた。
雲は箒《ほうき》で掃いたようにきれいさっぱり吹き消され、台風を予感させる香ばしい空気が海上にはりつめていた。夜はどこまでも遠く、透きとおっていた。
しかし、彼女の唇ほど冷たくはなかった。