[#表紙(表紙.jpg)]
屍の王
牧野 修
目 次
序 章
第一章 穢土にて
第二章 比良坂あたり
第三章 黄泉へ
付記(あとがきに代えて)
[#改ページ]
序 章
来た。
奴らが来た。
足音もない。声もない。まして息遣いが聞こえるわけでもない。それでも男にはわかった。奴らが来たのだ。
男は走っていた。
走っているつもりだった。だが靴底がべたべたとアスファルトを打つばかりで、一向に前に進まない。
心臓が激しく脈打っている。心臓という臓器が体内にあることをこれほど実感したことはない。
街は白一色だった。真昼だ。太陽がすべての影を駆逐するかのようにかんと照りつけている。
歩道車道の区別のない道路はさして広くはない。左右に並ぶのはシャッターの下りた倉庫ばかりだ。なんとか金属だとかなんとか化学だとか、赤黒く錆《さ》びついた会社名のプレートがなければ区別もつかない。
逃げなければならない。なんとしてもこの町を逃げ出さなければならない。そう思いいくら走っても周囲の景色に変わりはない。白く灼《や》けたシャッターが左右に壁のように連なるだけだ。
あれからどれほどの時間走り続けているだろうか。どれほどの距離を進んだのか。それとも進んでいないのか。
子供の頃戯れに蟻の片脚を潰《つぶ》したことを思い出す。右側の脚を二本潰された蟻は、必死になって逃れようとするのだが、右へ右へと弧を描き同じところを何度もぐるぐると回るばかりだった。
男はふと頭上を見上げる。
そこに巨大な、笑う子供の顔があるのではないかと。
雲ひとつない青空だ。陽光を遮るものは何もない。
暑かった。
触ると火傷《やけど》するであろう灼けたシャッター。ゆらりと熱波を放つアスファルトの路面。男は延々と続く長い長いオーブンの中を進む一片の肉塊だ。
ちりちりと皮膚が焦げる音さえ聞こえる。なのに手も脚も、指先は痺《しび》れるように冷たかった。
流れる汗が眼に入った。拭《ぬぐ》うとざらつく感触がある。乾いた汗が塩となってへばりついているのだ。Tシャツが汗を吸って重い。灰色のスラックスがからまり、脚を掴《つか》まれているかのように動きにくかった。合成皮革の靴の底に溜《た》まった汗が、嫌らしい音をたてている。
いずれはこの汗もすべて乾ききるだろう。その時には上昇する体温が男を中から蒸し焼きにするに違いない。
最後の全力疾走は高校の体育の授業だ。それからずっと、走る、などということとは縁のない生活をしていた。中年の域に近づいた肉体は、もうすっかり走り続けることを拒絶していた。
脇で曲げた両腕が下に垂れていく。
到底走っているとはいえない。靴底を路面から引き剥《は》がす力もないのだ。それでも脚を動かしている。
恐怖が、とにかく前へ進めと男に命じている。
立ち止まってはならない。立ち止まってしまったら、その場で倒れ込んでしまうだろう。そして二度と……。
来た。
奴らがすぐ後ろにいる。
臭いがする。
腐肉の臭いが。
音がする。
ぴち、ぴち、と体液を垂らす音が。
そして声がした。
男は唇が裂けるほど大口を広げ、長々と悲鳴をあげた。
[#改ページ]
第一章 穢土にて
1
天国でしょ。
草薙良輔《くさなぎりようすけ》は初対面の人によくそう聞かれる。その前に「男にとっちゃあ」という台詞《せりふ》がつくことが多い。それに対して良輔は地獄ですと拗《す》ねたような顔で答える。三十路も半ばを過ぎた男とは思えぬ態度だ。そのことは自分自身がよく知っている。それでも地獄ですと答えるしかない。良輔はそう思っている。
今も、地獄だ。
痛いと良輔が言うと、女はええっ、と心外そうな声を出した。開いた己れの腿《もも》の間から、女の顔が見える。色が白い以外にこれといった特徴のない顔だ。
良輔は全裸だ。仰向《あおむ》けでベッドに横になっている。ピンクの壁紙の狭い部屋。中にはダブルベッドとサイドテーブルとティッシュとコンドームしかない。
良輔は蛙のように大きく脚を開き、くの字に曲がったそれを女の肩に乗せていた。
女の左手は彼の中途半端に勃起《ぼつき》した陰茎を握っている。その右手はローションでぬるぬるする尻《しり》の辺りで動いていた。その中指が良輔の肛門《こうもん》の中にある。
躰《からだ》の中に何かを挿入することはとてつもなく不安なことだ。これを快感に変えたいなら、よほど相互に信頼関係があるか、あるいは気持ちよくなりたいという切実な欲求がなければ無理だ。誰某《たれがし》とこういう状況でセックスをやりたいと思うとき、男は『やりたい』が目的であり、女は『誰某とこういう状況で』が目的だ。この違いはきっと躰の中に異物を入れるか入れないかの違いによるものだ。
というようなことを良輔は考えていた。こんなことを考えながら欲情できるはずもないのだが。
「駄目?」
咎《とが》めるように女が聞いた。どこかに穴が開いたかのように萎《な》えていく。駄目だと答えたも同然だった。
御免と謝る。両脚を開き肛門を丸見えにした状態でだ。
女は溜息《ためいき》をついた。
「いいんだけどさ。前立腺《ぜんりつせん》マッサージって、駄目な人は駄目だから。でもね、駄目だったって書かれちゃうと……やっぱりちょっとね」
諦《あきら》めたのか、手は良輔から離れベッドについている。膝《ひざ》の間から見える疲れた女の顔を見ながら、良輔は作り笑いを浮かべた。
「心配ないよ。ヨイショしとくから」
嘘ではなかった。来月発売の風俗情報誌には『前立腺の刺激が肛門からムスコへビシビシ伝わる。あっと言う間に愚息は大爆発!』などという良輔のレポートが掲載されるだろう。
小馬鹿にしたような電子音が鳴った。
「あっ、時間きちゃった」
女はベッドを降りて、ベッドサイドのアラームを止めた。これで良輔にとっても女にとっても仕事は終わった。残業を終えたサラリーマン同士のように、二人は肩を並べてシャワールームに向かった。そこでも女に変なことを書かないでねと何度も念を押され、良輔は店を出た。いかがわしい店を詰め込んだ雑居ビルの一階だ。
自動ドアが開く。
冷気とともに追い出された良輔を、生暖かい湿った空気が包み込んだ。息苦しいほどの湿気だった。暦の上では初夏だが、この言葉からイメージするだろう爽《さわ》やかさなど微塵《みじん》もなかった。
新鮮な空気を求め、金魚のように上を見る。月も見えない曇天だ。
街の喧噪《けんそう》が餌に集まる鯉のように押し寄せてきた。
いかがわしさを滴らせて声を張り上げるピンサロの呼び込み。コンビニの袋を持って走る黒いチョッキ姿のバーテン。弛緩《しかん》した顔で煙草を手に歩くピンヒールの中年女。じゃれ合う犬のようにもつれ歩く酔漢たち。
点滅する原色のネオンがジジジと鳴いた。
溶け合うほどに酔った二人の若いサラリーマンがよろよろと近寄ってきた。
ったくんだからやってないんだって言ってんじゃん馬鹿だよなったくほんとにやってるんだぜだっせいマヌケだよなほんとほんと死ねばいいんだよ死ねばほんとほんと。
会話ともつかぬ声が横を通り過ぎていく。その声とともに酒臭い息が良輔の顔をなぶっていった。
胸が悪かった。
何もかも燃やしてやりたいと思ったが、この湿気ではぼやにもならないと溜息をつく。
死ね死ね。
後ろから大声で怒鳴る声がする。
そうだ。どうして死なないんだ。
良輔は自問した。
死んで当然じゃないか、俺っていう人間は。
当然っすよね。
答えるようにどこからか声がする。
続けて女たちの笑い声。
街が、良輔を嘲笑《あざわら》っているような気がした。
後ろからぐいと腕を掴《つか》まれた。
思わず険しい顔で振り向いた。反射的に右|拳《こぶし》を固めている。
「良輔」
言われて固めた拳をゆっくりと開いた。
丸顔の小男がにこにこと笑っている。どことなく狸を思わせる風貌《ふうぼう》だ。
「泉さん、こんなところで……」
「いつも参考にさせてもらってるぞ、おまえさんのルポ」
「知ってたんですか」
泉から眼を逸《そ》らせる。
「秘密だったか? 俺の周りじゃあ知らない人間はいないがね」
「そう……でしょうね」
良輔は暗い顔で俯《うつむ》いた。泉の、泥沼に落としたコッペパンのような靴が見える。
「話がある。ついてこいよ」
断る間もなく先にとっとと歩き出した。短く刈り上げた銀色の後頭部を見ながら、良輔も仕方なくそれに続く。ネオンと点滅看板と饐《す》えたような闇でつくられた街を、二人の男は急ぎ進む。行き先はわかっていた。三年前までは二人して毎日のように通った店だ。
良輔はエッセイストだった。誰もが知っているというわけではないが、本好きなら名まえぐらいは知っている。週刊誌や月刊誌に連載を持ち、著書は両手指を超えていた。軽妙でありユーモアがある。ちょっとばかりの発見と蘊蓄《うんちく》もある。無害無実と陰口を叩《たた》く者もいたが、彼のエッセイは幅広いファンを得ていた。
泉守道《いずみもりみち》は彼がデビュー当時から懇意にしている編集者だった。にこやかな顔と態度にもかかわらず、泉は『鬼の』と称される編集者だ。良輔にしても当初は何度も原稿を返され、一番苦手な編集者だった。だが、良輔のエッセイのスタイルを完成させたのは、この泉だといってもいい。良輔もそのことをよくわかっている。だからこそ十一歳年上の泉を兄のように慕い、敬愛していた。
しかしここ数ヶ月まったく連絡をとっていなかった。引っ越ししてから連絡先も教えていない。もう二度と会うことはないだろうと良輔は思っていた。まして二人してこのカウンターバーに来る時があるなど、夢にも考えはしなかった。
小さな店だ。初めてこの店に連れてこられたときと、何一つ変わりがない。程よく仄暗《ほのぐら》く、程よく静かな店内。そして磨き上げた木製のカウンターの向こうにいる蝶ネクタイのバーテンまで人形のように変化がない。英国の執事を思わせる痩《や》せた老人だ。いっとき息子が店を継ぐとかで一騒動あったらしい。だがいつの間にかバーテン見習いをしていた息子の姿は消えた。四十周年のささやかなパーティーには、良輔も泉とともに参加した。動ける間は店を続ける。老バーテンが涙ぐみながらそう語った。それまでも、それからも、何も変わっていない。変わるのはここを訪れる客の方だ。
「久々に仕事しないか」
勝手に国産ウイスキーの水割りを二つ注文してから、泉は唐突に言った。
「仕事ですか」
「なんの話だと思った」
「説教かなって」
「確かに説教して欲しそうな顔してるなあ」
しげしげと良輔の顔を見た。良輔はカウンターの奥に並ぶグラスを眺めている。高いスツールに尻《しり》を引っかけ、脚を子供のようにぶらぶらさせていた。
「仕事が終わったらげっぷが出るほど説教してやるよ」
「……仕事は」
「小説を書いてみないか」
意外な依頼だった。以前泉に、何度か小説を書かないかと勧められたことをその時思い出した。
「三年間の沈黙を破って、てやつさ」
良輔は黙って、運ばれてきた水割りを一気に飲み干した。
「緩慢な自殺か? おまえみたいな酒豪じゃあ死ぬまでに金が尽きるぞ。まあいいだろう。締め切りは半年後。それまで生きててくれれば充分だ」
「待ってください。まだ引き受けちゃいませんよ」
「企画会議に掛けるから、先にプロットくれよ。それは……一週間後」
「泉さん、だから僕は」
「じゃあその前に匿名コラムで練習だ」
「練習? 何の話ですか」
「リハビリだよ。リハビリの最中を客に見せたくないだろう。プロとしては成果だけ見て欲しいだろう。だから匿名のコラムで練習だ」
「泉さん、僕はもうエッセイストなんかじゃないんですよ」
「肩書きに原稿を頼むんじゃない。おまえに頼んでるんだ。コラムのテーマは酒。前やってたあの月刊誌に掲載する。枚数は四百字詰め五枚。締め切りは十日後。前言は取り消す。プロットはそれからでいい」
「もうそんなものを書く気はありません」
力の抜けた声でそう言うと、空けたグラスを指さしてロックでと告げる。
「書けよ。命令だ」
どうしてあんたに命令なんかと泉の顔を見る。泉は相変わらず人の良さそうな顔で笑っていた。垂れた小さな眼は、本気でこの会話を楽しんでいるようだった。
「書けませんよ、僕には」
「書くよ、おまえは。本当に書きたくない奴は何も書かなくなる。いいか、なにも、だ。エロ記事どころか振込用紙に名まえを書くのも嫌になるんだ。ペンネームを使って風俗誌にルポを書いてるおまえは何も諦《あきら》めちゃいない。だから書け。テーマは酒。枚数は五枚。締め切りは十日後。それまでは死ぬな。じゃあな」
カウンターの上に札を一枚置く。そして幼児のようにもたもたとスツールから降り、マスターに挨拶《あいさつ》ひとつして出ていった。
扉が閉じるのを待ち、正面を向き、溜息《ためいき》をつき、吐いた息の分だけウイスキーを流し込む。
良輔はアルコールに異常に強かった。今まで一度も酩酊《めいてい》というものを経験したことがない。それどころか、酔うということがどういうことなのか理解できなかった。学生時代はそれが自慢で、友人たちと何度も飲み比べをした。当然負けたことなどない。
酔えぬことが辛《つら》いことであると実感したのは三年前だ。買い込んだウイスキーやジンや焼酎《しようちゆう》を次々に空けた。なのに結局腹がだぶだぶになっただけだ。水を飲むのと大差ない。酔った感覚がまったくないわけではない。しかしアルコールは良輔に、現実から逃れるだけの力を与えることはなかった。幸か不幸か良輔が酒に溺《おぼ》れることなく今日まで生き延びているのはそのせいだった。
おまえは何も諦めちゃいない。
泉の台詞《せりふ》を思い出す。
声に出さず、舌と唇を動かした。
おまえは何も諦めちゃいない。
良輔は自らに問いただす。
風俗ライターになるとき、どうしてペンネームを使った。本名の草薙良輔を何故使わなかった。いつかまたエッセイスト草薙良輔に戻ることを考えていたからじゃないのか。
そうじゃないという千の理由を思いつく。しかしいくら考えつくからといって、それを自身が信じられるかどうかは別の話だ。
堕《お》ちるところまで堕ちるんだという思いで風俗ライターを始めた。それが本当の風俗ライターや風俗業界そのものを愚弄《ぐろう》する態度だということにさえ気づいていなかった。最近までは。
そんな余裕がなかった、とも言えるだろう。だが自虐と快楽は結びついている。堕ちていく境遇を楽しんでいたのかもしれない。
あなたは楽しんでいるのよ。
良輔の妻だった女が、惚《ほう》けた顔で書斎に閉じこもっていた彼に言った言葉を思い出す。ついでにその後妻を殴ったことも、その時の感触も。
しかし、だからどうすればいいというのだ。確かに自虐を楽しんでいたかもしれない。楽しんでいたのだろう。でも、どうしようもなかったじゃないか。どうしろというんだ。
「死ねば」
ぎょっとして隣を見た。
つまらなそうな顔でグラスを手にした女が、横の男を見ていた。男が、そんな言い方はないだろう、とさして怒っているようでもなく答える。
女と眼が合った。笑っていた。
曖昧《あいまい》な会釈をして良輔は正面を向いた。
ただの痴話喧嘩《ちわげんか》だ。
疲れているんだ。そう疲れている。あの日から一度として心が休まったことなどないのだから。
釣りはいらないと小声で呟《つぶや》く。釣りはいらないもなにもない。泉のおごりだ。自分の台詞に苦笑しながら立ち上がった。
家に帰ろう。帰って原稿をあげるんだ。今取材したばかりのヨシミ嬢の記事を。オヤジが喜ぶ風俗ルポを。
2
うるさいほどに蝉が鳴いていた。
良輔は原稿を書き上げファックスで出版社に送ったところだった。原稿用紙で二十枚足らずの、最近見た映画の話だ。B級のホラー映画だった。聞いたこともない映画祭のシナリオ賞を受賞していた。映画館で起こったありがちな二三の出来事に始まり、『聞いたことのない映画祭』の話を諧謔味《かいぎやくみ》のある文章で語った。特別良いできでもないが悪くもないエッセイ。
毎回優れたものを書こうと思っても無理だ。
断りきれぬ紹介で、何度かエッセイスト志願という若者に話をすることがあった。そんなときに最初に言う決まり文句がこれだ。
プロがプロである条件はね、平均点の作品を必ずつくること。それ以下を書けば失格だ。もちろんそれ以上ができるならそれに越したことはない。でもね、力作というのは読む方にしても心構えがいる。毎日毎日力作を読みたいと思うかい。それはなんだか、汗を垂らして睨《にら》みつけてるオヤジから話を聞くみたいで嫌だろう。力作はたまでいいのさ。ただし平均以下は決して書いては駄目。それを一回でもすれば作家として失格なんだ。あっ、これは僕が力作を書いていない言い訳じゃないよ。
多少は言い訳かもしれない。
説明しながら良輔はいつもそう思う。だが言い訳にしろ、事実は事実だ。
良輔には読者の求めているものを書いている自信があった。
ノックの音がした。
「お父さん、入ってもいい」
その声を聞いただけで良輔に笑みが浮かんだ。
応《こた》える前に扉が開いて、短いジャンパースカートをはいた少女が入ってきた。七つになる娘の奈美子《なみこ》だ。いつもそうするように、少女は壁という壁を埋めつくす書物の山を見回す。
「地震がきたらどうするの」
咎《とが》める口調だが眼が笑っている。母親の真似をしているのだ。あの大震災以降、妻の美沙《みさ》がたびたびそう言うのを覚えたのだ。
「わざわざそんなことを忠告しに来たのかい」
「買い物に行こうよ」
「何を」
「ええと、牛乳とゴミ袋」
「それは買い物じゃなくてお使いを頼まれたんじゃないのかい」
「正解!」
言うと奈美子はけらけらと笑った。子供特有のこの笑い声が、良輔には愛らしくてたまらなかった。ひとりで外に出ていても、子供の笑い声が聞こえるとついそっちを見てしまう。そしてたいがいそこにいる子供を見て思うのだ。
奈美子の方がずっと可愛い。
親馬鹿の見本だなと自分でも思う。
「いいよ。お使いについていってあげましょう」
もったいぶって良輔が言う。
「やたっ!」
奈美子は座る良輔の腕をとった。その指の感触に、さらに彼の顔はぐしゃぐしゃに崩れる。
腕を引かれるがままに書斎を出た。
大きな飼い犬のように、娘に引きずられて廊下を歩く。
「お仕事の邪魔しちゃ駄目よ」
奥のキッチンから美沙の声がした。
「いや、仕事は終わったところなんだ」
またあ、お父さんは、と美沙の声に苦笑が混じったのを聞くと、良輔は慌てて本当に終わったところなんだと念を押した。
「お父さん、早く」
片手に母親の大きなガマグチ、もう片手で良輔の腕を掴《つか》み、奈美子は彼を玄関に引っ張っていった。
玄関を出てわずかばかりの庭を抜け、通りへ出る。振り返って我が家を見た。
都心まで多少時間がかかるとはいえ、親子三人で過ごすには贅沢《ぜいたく》過ぎるほどの一軒家だ。ローンが残っているが、生活を脅かすほどのものでもない。
子供の頃から『奥様は魔女』のダーリンが住んでいる家に住むのが夢だった。広いキッチンとダイニング。キッチンにはオーブンがあって、大きな肉の塊に何度もソースをかけながら焼いている。そして芝刈り機で青々とした芝生を整える。
アメリカのアッパーミドルたちがヨーロッパの『良い趣味』を真似て造った広い芝生と垣根のある邸宅。
高校生まで公団住宅の狭い部屋の中で過ごした良輔には、それが最大の憧《あこが》れだった。
もちろんそれそのままの邸宅ができたわけではない。それをかなり縮小して造ったような家だった。日本の住宅事情ではこれが精一杯なのだ。しかし良輔は満足していた。
美しく賢明な妻と憧れの家。そして神が与え賜うた最大の恩寵《おんちよう》、奈美子。天使と比べても見劣りのないであろう愛らしい娘。
どちらかと言えばシャイな人間である良輔が、娘のこととなればなんら照れることなく誉め賛《たた》えることができた。それどころか、聞きたくないと逃げ回る人間にでも、押さえつけて無理やり話したいぐらいだった。
幸せだった。
馬鹿だなと自嘲《じちよう》する気も失せるほどに幸せだった。
この辺りには真新しい一戸建ての住宅が並ぶ。高級住宅街というわけではないが、比較的裕福な家庭が多い。どの家も単なる建て売りではない。だが完全な注文建築でもない。いくつかの選択肢の中から選んで自分なりの家を造る半注文住宅だ。だからそれぞれに個性を感じさせはするが、やはり全体の印象は似通っている。二階建ての洋風の住居と芝生のある広い庭。同じような一戸建てが並んだ無個性さを、この街に感じるものもいるだろう。だが良輔にはそれも街全体の雰囲気が美しく統一されているように見える。
街を散策するたびに、良輔は街の住民みんなが幸せな家庭を築いているのだと思った。
夏の陽射しはきつい。
熱射病だの日射病だのといった言葉が頭に浮かび、手をつなぐ娘を見る。
リボンのついた麦わら帽子を撫《な》でて言った。
「暑くないかい」
庭先の淡い紅の花弁に気をとられながらも、奈美子はうんと頷《うなず》いた。
「これなんていう花」
「酔芙蓉」
「スイフヨウ」
舌足らずのその口調に、思わず抱き締めたくなる。
おまえ、ちょっと危ないぞ、と友人たちに言われるのももっともな話だ。
「芙蓉っていう花の仲間なんだ。朝は真っ白な花だったんだよ。もっとしたらもっともっと赤くなってくる」
「色が変わるの?」
「一日の間にね」
奈美子は足を止め、垣根に近づくと鼻先がくっつくほど花に顔を寄せた。
良輔はもともと草花に興味はない。娘に尋ねられたときのことを考えて調べ始めたのだ。その成果はエッセイにも現れる。娘のおかげで知識の幅が広がった、と話は必ずそこに行き着く。
住宅街を抜け駅に近づくと商店街が見えてくる。喫茶店にパン屋、ブティック、デリカテッセンの店。どれもこれもこぎれいな、いまどきの店ばかりだ。
少し歩くとスーパーマーケットがある。輸入食材なども豊富に揃っている、広いスーパーだ。
プラスチックのカゴを手にすると、奈美子が銀のカートを押して近づいてきた。
「牛乳とゴミ袋を買うだけだ。そんなのはいらないよ」
良輔が言うと、その顔を見上げて奈美子は笑った。
「またまたあ」
このスーパーに来て、最初の目的どおりの品物だけを買って帰ったことは一度もない。珍しい香辛料や刺身、安売りしていた練り歯磨きなど、良輔は目についたものをついつい買ってしまう。奈美子はそれがわかっていて、カートを持ってきたのだ。
帰れば美沙に、男の人はどうしてこうなんでしょう、と叱られるだろう。いつものように。それがまた良輔にとっては楽しいことなのだ。
奈美子と一緒にカートを押しながら店内をぶらぶら回る。
魚屋で呼び止められた。どうやら顔を覚えられているようで、アジの刺身を勧められた。からかうつもりで話を聞いているうち、そのまま帰りづらくなってきた。
結局買うことにする。
財布を、と奈美子に呼びかけながら横に置いたカートを見た。
そこに奈美子の姿はなかった。
眼を離したのはほんの瞬間だった。ついさっきまでそこにいたのだ。
アジを断り、カートを押して奈美子を捜す。あまり離れてはいないはずだ。親の言うことを聞き分けられるようになってから、良輔から勝手に離れることは一度としてなかった。何か見たいものがあれば、必ず良輔に許可を得る。勝手に店内をうろちょろするような子供ではない。
店内をゆっくりと一周した頃には、手や額に冷や汗が滲《にじ》んでいた。光に溢《あふ》れた店内が、奇怪な迷路のように思える。
動転していた。周りで見ている者も何事かと思うほどに動転していた。
二周目を回り三周目にかかったとき、店員を捕まえて迷子の店内放送をするように頼んだ。頼んでいる内に迷子だという事実に気づき、眼に涙が滲んだ。情けないと思いつつもどうしようもなかった。実際に店内放送がされるのを確認してから外に出た。
刺すような午後の陽射しに眩暈《めまい》がした。
シリンダーから押し出されるように汗が噴き出る。
落ち着け落ち着けと自らに何度も言い聞かせた。落ち着くには煙草が必要とポケットを探ったが、煙草を持ってきてはいなかった。煙草の自動販売機を探す。いざ買おうとすると指が汗で滑り、硬貨を何度も地面に落とした。ごとりと落ちてきた煙草を手にしてから、ライターがないことに気づいた。そしてこんなことをしている場合ではないことにも。だがこれら一連の行為が滑稽《こつけい》であることに気づく余裕などない。
ふと思いついて駐車場へと向かった。
品揃えが豊富なこのスーパーには近隣の地区からも大勢客が訪れる。それを受け入れるための広い青空駐車場があるのだ。
車の間を何度も彷徨《さまよ》った。水を求める熱病患者のようだった。大声で娘の名を呼んだ。怪訝《けげん》そうに、あるいは嘲笑《ちようしよう》を浮かべながら良輔を見る者たちの姿が、彼には見えない。
駐車場を回りながら、合間にスーパーに入り娘が見つかったかどうかを尋ねた。何度も何度もそれを繰り返した。最後には店員にも嫌がられ、適当にあしらわれるようになってきた。
いなくなってから三時間近くが経っていた。ようやく家に電話することを思いついた。帰っていてくれと願いながら番号を押す。
帰ってはいなかった。良輔の動揺はたちまち美沙に伝染した。不安はさらに増した。電話を切ってからすぐに警察に通報した。良輔にとっては永劫《えいごう》に等しい三時間だったが、警察はそうは考えなかった。もう少し待ってみてはという警官に、良輔は奈美子がいかに礼儀正しく言いつけを守り、決してひとりでどこかへいく子供ではないことを力説した。
日が暮れ、良輔は家に帰ることにした。スーパーでは露骨に嫌な顔をされるまで、娘が現れたら連絡をくれと何度も繰り返してきた。
途中で娘と出会いはしないかと周囲を見回し、今この時家に帰っているのではないかと駆け出したりもした。
街は血の色に染まっていた。
何もかもが不吉な前兆のように思えた。
垣根越しに見える酔芙蓉は赤くしぼみ項垂《うなだ》れていた。
家に帰ると美沙が電話を前に、居間の床に座り込んでいた。卓上のアドレス帳が床に投げ出してある。奈美子の友人たちをはじめ、娘が立ち寄りそうなところすべてに連絡していったのだ。
良輔はもう一度警察に通報し、捜索願いを出した。
僅《わず》かな希望は時とともに失せていく。美沙と幾度か口論し、眠れぬ夜を過ごした。これがすべて後になれば笑い話になるのだ、と何度も良輔は自身に言い聞かせた。だが結局笑い話にはならなかった。
夜明けの訪問にもしやとインターホンに飛びつくと、刑事だった。娘が発見された、と刑事は言った。だから今すぐ一緒に署まで来て欲しいと。
事実を知らされ、美沙は昏倒《こんとう》した。まるでドラマみたいだと奇妙に冷静に思った辺りから、良輔の記憶は曖昧《あいまい》になる。
警察署の場所は知っていた。が、駐車違反と免許証の更新で何度か訪れた本館とは中庭を挟んで反対側にあるその建物には入ったことがなかった。
蝉が耳鳴りのように鳴いている。狂え狂え狂えと鳴いている。
扉が勝手に開いたような気がしたがもちろん刑事が開けたのだろう。消毒薬の臭いが鼻を突いた。それを追いかけるように線香のにおいがする。胃の腑《ふ》を突き上げるような吐き気を感じた。慌てて掌《てのひら》で口を押さえる。かな臭いにおいがしたのは何故か鍵束《かぎたば》をその手で握り締めていたからだ。
扉を閉めると蝉の声は聞こえなくなった。その代わりに換気扇の音がごうごうと聞こえる。
正面に線香があげられている。その横に小さなテーブルがあった。上にジーンズのジャンパースカート、リボンのついた麦わら帽子、白い小さなソックス、下着、イラストの猫がバックプリントされたTシャツ、そして美沙のガマグチが置かれてあった。
入ってすぐのところに金属パイプのベッドが置かれてある。上にはグレーのビニールがかけてあった。ビニールシートにはわずかな膨らみがある。枕を二つ並べたほどの小さな膨らみ。
ベッドの左側に木製の簡素な棺桶《かんおけ》があった。小さなそれはまるで棺桶のミニチュアのようだった。
あっ、棺桶だ。
そう思ったときに頭が吹き飛んだような衝撃を良輔は感じていた。同時に躰《からだ》中の血が足元から流れ出ていくような気がした。
暑く、そして冷たかった。
景色が流れた。
獣の叫び声が聞こえた。
次に気づいたときには病院のベッドに横たわり点滴を受けていた。気づくと同時に点滴の針を毟《むし》りとり暴れ出したのだがそれもまた記憶の外だ。
霊安室と病院とで二度暴れた良輔は、精神科の病棟に移され拘束服を着せられて一晩を過ごした。エチゾラムを牛並みに投与され、睡眠と覚醒《かくせい》を繰り返した挙げ句、翌日の夜には何が起こったのかを理解できるようになった。
後で聞いた話だが、霊安室では奇声とともに遺体に飛びつき、ビニールシートごと抱き上げると外に逃げ出そうとしたらしい。病院に連れていくなどと口走る良輔は、たちまちのうちに刑事たちに取り押さえられた。その時の痣《あざ》が良輔の躰中に残っていた。
通夜と葬式を通して娘の亡骸《なきがら》を見ることはなかった。見ることが親の責務だと思いながら、その勇気がなかった。
娘に何が起こったのかを知らされたのは随分後、おせっかいな編集者からだった。
奈美子はスーパーからさして離れていないコンクリート製のゴミ捨て場の中から発見された。全裸だった。衣服などはビニール袋に入れられてその横に捨てられていた。
奈美子の全身に火傷《やけど》の痕《あと》があった。頭髪は焼け焦げ、頭皮とともに毟りとられていた。胸も腹も刻印のように丸く焼け、肉が引き千切られている。両掌も両足の甲も肉が穿《うが》たれ、断面は黒く炭となっていた。そして陰部もまた同様に焼かれ、肉を毟りとられていた。
検死の結果は熱したペンチのようなもので肉を引き千切ったのではないかということだった。
知らなかったんですか、と尋ねる編集者を、良輔は殴った。その若い編集者にとっては理不尽としか思えなかっただろう。
事件後、良輔はほとんど書斎から出ることがなくなった。仕事をするわけでもなく、ただ人形のように椅子に座り続けている。
パジャマ姿で一日考えることは「もしも」だ。
もしもあの時買い物に行かなければ。もしも魚屋の前を通らなければ。もしも魚屋に呼び止められなければ。もしも魚屋と話をしなければ。もしも話しながらも娘から眼を離さなければ。
ただひたすらあの日のことを反芻《はんすう》し、自らを責め苛《さいな》むだけの日々。
しばらくすると酒を飲むようになった。酒を飲みながらビデオを見る。生まれたときから七歳の誕生日まで、棚ひとつを占めている娘のビデオだ。見ていると何もかもが夢の中の出来事のような気がした。生まれたときから今まで、すべてが夢のように現実感を失っていた。
美沙は決して良輔を責めようとはしなかった。何故奈美子から眼を離したのだ、という台詞《せりふ》を彼女から聞くことはなかった。それどころか良輔を立ち直らせるためにいろいろと腐心した。それが責められるよりも辛《つら》かった。
美沙が仕事を始めると聞いたとき、良輔は激怒した。身勝手と言えばこれほど身勝手なことはない。己れは半年以上働いていないのだ。家のローンもあり、そろそろ貯蓄が底を突こうとしていた。良輔が仕事をしない以上、誰かが働かなくてはならないのだ。
しかし契約社員として出版社の仕事を始めると言った美沙を良輔は怒鳴りつけた。
良輔は美沙を怒らせたかったのだ。
仕事を辞めろと何度も言い募り、最後には働かぬ俺に対する嫌がらせかと怒鳴り散らす。それを困った顔で聞く美沙に、そうやって無言で俺を責めるのだとまた怒る。
ある日、いつものように書斎に閉じこもり良輔はビデオを見ていた。そこに食事ができたと美沙が言いに来た。いつものように良輔は彼女にからんだ。
どうしておまえは娘があんな目にあったのに食事の支度なんかしてられるんだ。どうしておまえは夕食を食べようなどという気になれるんだ。
そして美沙は、思い詰めた顔で良輔を正面から見据えて言った。
あなたは楽しんでいるのよ、そうやって自分を責めることで。
美沙が初めて言った、良輔への非難だった。
それを聞いて良輔は反射的に殴っていた。
美沙は壁まで跳ばされ、書籍の山が雪崩《なだれ》を起こして彼女の躰に降りかかった。
それから二ヶ月後には離婚が成立していた。
良輔は慰謝料として家をそのまま妻に譲った。その頃には貯金も尽き、良輔はほとんど無一文になっていた。生活のことなど何も考えていなかった。
美沙はそのことを知りながら、家を譲り受けた。断れば家を売り払い、その現金を持って押しかけてくるであろう良輔の性格をよく知っていたからだ。
預かっておくから。
名義変更の手続きで久し振りに良輔と会った美沙はそう言った。
が、良輔は美沙のその台詞を聞いてもいなかった。
そして、良輔はこのアパートに引っ越してきた。
あれから三年経った。変質者の犯行では、と始まった捜査に、未《いま》だなんの進展もない。
良輔はワープロを前に、祈るような姿勢で座っていた。六畳のひと部屋。炊事場とトイレは共同。風呂《ふろ》は近所の銭湯。こんな部屋でも都心からさして離れていない立地から、法外とも思えるほどの家賃を取る。風俗ライターで稼ぐ金はしれていた。取材先からあまり離れないようにと借りたのだが、かなり無理をしていた。
部屋には何もない。六畳一間のこの部屋が広く見えるほどだ。
タオルケットが一枚、畳んで部屋の隅に置かれてある。寝るときにはそれを躰に巻きつけるだけだ。冬の間は押し入れの中の蒲団《ふとん》を使っていた。財産と言えるものはワープロとその蒲団だけだった。
良輔に、哀しい過去を克服し再出発するつもりなどまったくない。ただ自らを責め苛み、後悔するだけの日々を過ごしていた。この三年の間ずっと。
たまに妻から電話がかかってくることがあった。
――菊理《くくり》です。
と初めて旧姓で名乗られたときには、誰かわからなかった。十年連れ添った妻の声を忘れるのかと言う美沙に、忘れたいことほど忘れられないと訴えた。何も変わっていなかった。良輔は未だに美沙に甘えていた。そのことを自分自身よく知っていた。だからこそ離婚して以降も何かと良輔を気遣う美沙のことが理解できなかった。
こんな嫌な男なのに。
電話をかけてくれば必ず健康状態を聞き、今の生活態度を尋ねた。頼めば金を貸してもくれるだろうが、さすがの良輔もそこまではする気がなかった。しかし電話のたびにぐちぐちと己れの傷をわざと突つくような話を繰り返した。慰めてもらうために。
そう、確かに良輔は『それを楽しんでいる』のだ。
ワープロの液晶モニターが眼の前にある。ワープロは直接床に置かれてある。この部屋にはテーブルさえないのだ。
背を丸め、良輔は画面をじっと見ていた。
性感マッサージ『アフロディテ』のヨシミ嬢に関する文章は、すでに完成していた。泉と別れて家に戻り、三時間ほどで書き上げた。そのほとんどがでたらめだ。何のために突撃ルポを行っているのかわからない。
良輔のこの業界での評判は最悪だった。
何しろ最低の人間であることを標榜《ひようぼう》するために風俗ライターを続けているのだ。風俗を見下している男に取材されて喜ぶ風俗関係者はいない。最低の生活だと思われて嬉《うれ》しい同業者もいない。彼の評判が悪いのは当然と言えるだろう。
良輔を使ってくれている唯一の出版社に感謝すべきだろうが、彼はそのポルノ専門の出版社とそこで働く編集者をも見下していた。
たまに良輔は自問する。
このままでいいのだろうか。
この問いに、良輔は即座に二つの答えを思いつく。
このままでいい。このまま最低の人間としてのたれ死ねばいいのだ。
死んだ娘のためにももう一度やり直すべきだ。彼女が愛した父親の姿を取り戻すんだ。
今もモニター画面を眺めながら同じ問いかけをし、同じ二つの答えを思いつく。
そして泉の言っていた言葉を思い出した。
――おまえは何も諦《あきら》めていない。
酒に関するエッセイか。
溜息《ためいき》と一緒に呟《つぶや》き、良輔はキーボードに指を置いた。
原稿用紙五枚のエッセイ。
以前であれば一時間もかからずに書き上げただろう。テーマも難しいものではない。おそらく久し振りにエッセイを書く良輔のことを考えて泉が選んだのだろう。
書いてみようと思った。
泉に送るかどうかは後で考えればいい。とにかく書いてみよう。
そう決意したのは不安だったからだ。三年の空白でエッセイというものを書けなくなっていないだろうかと不安だったのだ。もし簡単に書けるのなら、おそらく良輔は安心して風俗ライターに戻るだろう。結局は帰る道を残してこその自堕落な生き方だったのだ。いつだってもとの暮らしに戻れるという保証がある限り、今の暮らしをやめようとはしない。堕ちた堕ちた、最低だと自嘲《じちよう》する暮らしは、いつでもやり直せると考えていたからだ。
しかし前のようにエッセイが書けないのなら。帰る道がいつの間にか閉ざされていたのなら。
まずタイトルを考えた。いつもタイトルから始まる。タイトルが決まればすべてが決まったも同然なのだ。
じっとモニター画面を見る。酒、酒、酒、酒と何度もテーマを頭の中で繰り返す。
何も出てこなかった。空っぽの箱を振るようなものだ。音さえしない。
煙草に火を点《つ》けた。一本目が灰に変わり二本目が灰に変わり三本目。
何も浮かばない。
冷蔵庫を開け冷えた麦茶を取り出し飲み干すとまた煙草を咥《くわ》える。蒸し暑い夜だった。この部屋にはクーラーどころか扇風機さえない。蒸された海老のように良輔は茹《う》だっていた。
そろそろ煙草が切れるな、と言い訳のように呟いて近所の自動販売機に出かけた。
真夜中だ。この辺りは昼間からあまり人通りの多い方ではない。夕方過ぎて人が絶えると、まるで廃墟《はいきよ》のようだ。アパートを出ると焦げ臭いにおいがする。駅の近くの全焼した焼き肉屋がそのまま残されているからだ。アパートからは結構離れているし、火事のあったのは二ヶ月も前のことだが、まだこの辺りでも建材の焼けた刺激臭がする。
まばらにしかない街灯が、痴漢にご用心と書かれた看板を薄ぼんやり照らしていた。女の後ろ姿が描かれてある。稚拙な落書きのような絵だ。ミニのワンピースを着た女は、人間にはできない角度まで後ろを振り向いて怯《おび》えた顔を見せている。尻《しり》と胸を馬鹿馬鹿しいほど強調してある。ひどく猥褻《わいせつ》で、グロテスクだ。
看板の横にあるつぶれた散髪屋の前に煙草の自動販売機がある。痙攣《けいれん》しているかのように明かりが点滅しているが、故障しているのは照明だけだ。硬貨を入れてボタンを押せば煙草が落ちてくる。
買って帰り一服吸って麦茶を飲む。
麦茶煙草麦茶煙草を繰り返して、それでも書けなかった。
諦め、書いたばかりの風俗ルポを紙に打ち出す。いつになく何度も見直してからファックスで出版社に送った。
開け放した窓から心地好い風が吹き込んでくる。
いつの間にか朝になっていたのだ。
不思議だった。
以前はエッセイなど一日三十枚から四十枚、あっさりと仕上げていたのだ。考える前に手が動いていた。平均点の作品を量産できる。それがプロであると自負していた。
それが書けない。
昼過ぎまで寝て、翌日も試みてみた。
食事以外はワープロの前にしがみついていた。吸いすぎた煙草に気分が悪くなってくる。うがいをして茶色の痰《たん》を吐き、またモニターの前に座る。正座し、あぐらをかき、横座りをし、ついには横になってモニターを見る。昨夜ほど気温も湿度も高くない。初夏に相応《ふさわ》しい夜だった。心地好いといってもいい夜だ。
それでも、書けなかった。
三日目にはさすがに焦ってきた。
三年間動かさなかった脳の一部が錆《さ》びついているかのようだった。それでも真夜中に最初の一枚を書き始めることができた。タイトルはまだ考えていなかった。とにかく酒に関して思いついたことを書いてみようと考えたのだ。書き始めてすぐにわかった。
面白くないのだ。
酒、などという一般的なテーマなら普段からいくつかのアイデアを持っている。手持ちのエピソードだっていくらでもある。ところがそれを書いてみてもまったく面白くないのだ。かつては面白いと思い、中には人から聞いたとき、良輔自身が大笑いしたような話でも、モニター画面にテキストとして映し出されると、欠片《かけら》も面白くないのだ。単なる言葉の羅列にさえ思える。
持っていた宝石が全部ただの石ころに変わっていたような気分だった。
書いているうちに、どうして俺はまたエッセイなんかを書いているのだ、という気分になる。いったい何のために書いているのだ、と。
食うためだ、いや、俺が立ち直るためだ、娘に慕われる父親に相応しい人間になるためだ。
そんなことを考えていると、酒をテーマにしていたはずなのに『死とは』とか『生きるとは』とかいった青臭い命題が頭に浮かぶ。
そうしてでき上がった一枚目は、軽妙でユーモアがある、などという文章とは程遠いものだった。
以前の自分とは違う。何もかも違うのだ。
今手元に置いていないが、もしかつて書いたエッセイを読んでもつまらないと感じるのではないだろうか。
軽妙なエッセイを書く俺は死んだんだ。三年前に。
そう思い、良輔は畳に寝転がった。
電話のベルが鳴った。
間違い電話以外でここに電話をかけてくるものは美沙か編集者だ。
美沙ならいいなと思いながら良輔は受話器を手にした。
「おう、良輔」
泉だった。
「書いてるか」
一瞬返事に詰まった。
「書けないんだろう。そうだと思ったよ。おまえの持ち味は一種の軽薄さだからな。あんなことがあって同じような味を出せるわけがないんだ」
遠慮なく泉はものを言う。
「じゃあ、どうしてエッセイなんか書かせようと思ったんだ」
怒ったように良輔が問う。
「書かせなきゃ書けないことがわからないだろう、おまえという人間は」
泉はわかりきったことだと言いたげだった。
確かにそのとおりだ。書かないまま、書けば書けると思っていたに違いない。
「さて、これで新しい仕事に手を出す踏ん切りがついただろう」
「新しい仕事?」
「とぼけてるのか。小説だよ、小説。書いてみろよ。何を書いたっていいんだ。どろどろの愛憎劇でもいいし、ポルノでもかまわない。ミステリーでもSFでもホラーでも、何なら純文学でもいい。とにかく書け」
「そんなことを言われても」
「言われても、なんだ」
「書けないものは書けない」
良輔は情けない声を出した。
「書けないとわかるのも書いてから。書けるとわかるのも書いてからだ。おまえが書けないのは以前のような軽妙なエッセイだけだ。それだけは書けなくなった。おまえが書けるものがそれだけなら、もう終わりだ。しかしそうじゃない。少なくとも俺はそうじゃないと思っている。昔書いていたエッセイのようなもの以外なら、おまえは書ける。今だから書けるんだ。とにかくプロットを考えろ。前にも言ったが企画会議に出す。どんなプロットでも会議を通してみせる。だからとにかく考えろ。考えて書け」
それだけ言うと一方的に電話は切れた。
ムチャ言うなよ、とこぼしながらも再びワープロの前に腰を降ろした。良輔を操縦することに関してなら、泉は妻であった美沙よりも上手《うま》かった。
モニター画面を見る。そしてキーボードに指を置いた。
と、とたんに思いついた。
偽の自伝だ。
そうだ、偽の自伝。草薙良輔の出生から今日までの歩みを、すべて虚構に仕立て上げる。そうあったかもしれない俺の記録。
素晴らしいアイデアのように思えた。
当然主人公は草薙良輔だ。
彼は幼くして両親を亡くしているんだ。だから祖母に育てられた。両親の記憶はほとんどない。祖母から聞かされたことがすべてだ。
ところが、ある日、ふとしたことから両親の死に疑問を抱く。
よし、これならなんとかなるかもしれないな。
良輔はワープロで、その偽の自伝を書きとめ始めた。
何故俺は両親の死を疑問に思ったか。それは幼い頃を思い出そうとすると、必ず頭に浮かんでくる情景があったからだ。それはとびきり奇妙なものがいい。
その謎を解くために、良輔は養老院に預けてあった祖母に会いに行く。しかしすっかり惚《ぼ》けてしまった祖母は、意味のわからないことをしきりに繰り返すばかりだった。
彼は何十年かぶりに故郷に帰ることにする。
いいぞ。話はここから始まるんだ。彼が故郷へと向かう道中で様々な出来事が起こるんだ。そして出生にまつわる秘密が、徐々に暴かれていく。
これは偽の自伝だ。ほとんどが、いや、今のところはすべて創作である。良輔の両親は健在だし、祖母は母方も父方ももういない。
そうだ、と良輔は声をあげた。
どうせ創作なのだ。この小説の中では十五歳になった娘を登場させよう。
その思いつきに、良輔は興奮した。虚構の中で娘を蘇《よみがえ》らす。それで作家デビューできるなら、二重に娘の供養になるのではないか。娘のために俺ができるたった一つのこと。
あっと言う間にプロットは仕上がった。
最後の一行を打ち終わったときだ。
唐突に『屍《かばね》の王』という言葉を思いついた。何故かはわからない。頭の中の鳥籠《とりかご》に小鳥が飛び込んでくるように、いきなり思いついたのだ。
屍の王、屍の王、屍の王、屍の王、屍の王。何度も頭の中でこの言葉を繰り返す。
そして決めた。
偽の自伝のタイトルだ。
良輔はモニターに大きく『屍の王』と記した。
それがどう内容とつながってくるのか、良輔は考えついてはいなかった。しかしこの小説にはこのタイトル以外考えられなかった。
――屍の王。
良輔は口に出して呟《つぶや》いてみた。
良いものができる予感がしていた。
3
屍の王
みし
みし
みし
音が聞こえる。
単調に、何度も何度も繰り返すその音。
家が軋《きし》むようなその音。
頭蓋《ずがい》を押し潰《つぶ》すようなその音。
不安で堪《たま》らない嫌で堪らない苦しくて堪らない。
その音をとめるまで、ずっと、ずっと、ずっと不安で堪らない嫌で堪らない苦しくて堪らない。
紐だ。
紐が見える。
赤い紐だ。
花の赤、虫の赤、空の赤、街の赤、そして血の赤。
その紐の一方の端は壁のフックに掛かっている。
紐が揺れている。
ゆっくりと左右に、催眠術師の揺らす振り子の銀の鎖のように、ゆっくりと左右に。
みし
みし
みし
ああ、そうか、これはこの音は不安で堪らない嫌で堪らない苦しくて堪らないこの音は――。
みしみしと音をたて左右にゆっくりと揺れる赤い紐のさらに下。
項垂《うなだ》れた顔がそこにあった。
女の顔だ。
長い髪がだらりと垂れて、顔の大半を覆っている。
見降ろす顔の、その眼が大きく見開かれている。
目蓋《まぶた》が裂けそうに大きく見開かれている。
はみ出しそうな眼球は血走り、その瞳は天上を見上げほとんど目蓋の中に消えている。鳥か、天使か、いずれにしろ彼女の視線の果てにあった何かは呪われているだろう。
笑うように青黒い唇がうっすらと開いている。その隙間から顎《あご》までだらりと垂れ下がっているのは、舌だ。
真っ黒なそれは芋虫のように膨れ上がり、奇怪な生き物の陰茎のようだ。
美しい女だったかもしれないと思わせるのは、彼女の輪郭と肌だ。そして黒く長い髪。
しかし醜く歪《ゆが》んだ表情はそのすべてを裏切る。この世の一切合切を燃やし壊し砕き咀嚼《そしやく》し飲み干してしまうほどの恨みが滴るその表情が。
森羅万象すべての物事を呪い、彼女は死んでいったに違いない。
死んだ――。
そうだ。明らかにこの女は死んでいる。
死んでいる死んでいる死んでいる死んでいる死んでいる。
死んだ女がゆっくりと赤い紐に吊《つ》られ右に左にみしみしみしとゆっくりゆっくり死んだ女が死んだ女が死んだ死んだ死んだ……。
冷や汗脂汗にまみれて私は夢から覚めた。
ここしばらく同じ夢を見ている。毎晩毎晩続けて見ている。
首を吊って死んでいる女の夢を。
あれほど鮮明に夢の中で「見て」いるにもかかわらず、目覚めれば女の顔の印象は曖昧《あいまい》だった。若いのか歳をとっているのか、それすらも見当がつかない。
しかしいずれにしてもこれが悪夢であることに変わりはない。目覚めてしばらくは食欲も失せている。死臭を嗅《か》いだような気がするからだ。それが夢から覚めても鼻の奥|口腔《こうこう》の中に脂のようにへばりついているような気がするからだ。
夢を見始めたのがいつ頃からか、私ははっきりと覚えている。
あの編集者から電話があった夜からだ。
あまり聞いたことのない出版社から自伝の執筆を依頼された。普通自伝と言えば功成し遂げた人間が書くものだ。エッセイストとして名は通ってはいるが、それにしても偉人だとか天才だとかとは縁遠い、しかも凡庸な過去しか持たぬ人間に何故自伝を依頼するのか。
その疑問は私もその場で編集者に問いただした。
一人の人間の歴史は、それが凡庸であるからこそ意味を持つのですよ。
編集者はわけのわからない理屈をだらだらと喋《しやべ》ると、最後につけ加えた。
きっと面白いものになりますよ。
どうしてそんなことが言えるのか。この編集者は私の過去を知っているのだろうか。
そう思いながらも私がこの仕事を引き受けたのは、毎夜のように見る夢に原因がある。
夢の中で見る情景には覚えがあった。
幼い頃にそれを見たのだ。いや、見たような気がするのだ。あまりにも恐ろしい記憶は、記憶の中から消されてしまう、というような話を聞いたことがある。
幼いときに私は首吊り死体を見たのだ。そしてあまりの恐怖に、その記憶は封印されていた。今の今まで。それが『自伝』というキーワードを得て、頭の中に復活した。
もしそうであるとするのなら、幼い私が見たものとは何なのだ。何があって私は首吊り死体を見たのか。
突拍子もない自伝の依頼などというものに私が応じたのは、その疑問を自伝の中で解いていけるのではないかと考えたからだ。
失われた記憶を求めて取材を始めるまでを一気に書きあげ、良輔はモニター画面から顔を上げた。伸びをすると、腰がみしみしと音をたてた。
執筆のために文机《ふづくえ》を買った方がいいかもしれないな。
痛む腰をさすりながら良輔は思った。
これほどに集中して文章を書いたのは久し振りだった。いや、もしかしたらエッセイストとしてデビューして以来一度もこのように熱中して文章を書いたことはないかもしれない。
すでに書き上げた原稿は五十枚。書き始めてから七時間休みなく書き続けていた。
昨夜十二時近くにタイトルを書いた。
それから今までずっとキイを押す手は止まっていない。冒頭の夢のシーンを書き始めたらあっと言う間にここまできてしまった。いくらでもストーリーが浮かんでくるのだ。キイを押すのがもどかしいほどだった。
書き上げたところまでをプリントアウトする。見直しをするためだ。モニター画面ですればいいようなものだが、校正や見直しをするときは紙に書かれたものでないとできない。モニターからだと微妙なところに違和感が生じて、全体の印象を上手《うま》く把握できないのだ。
ワープロやコンピュータを使えば紙の節約になるという。情報のすべてがフロッピーをはじめとする記憶媒体に記録できるからだ。だからコンピュータを使えば森林資源の節約に通じ、地球の環境保護に役立つのだと。
しかし良輔に関しては少しも資源の節約にはなっていなかった。見直すたびに何度も紙に打ち出すのだ。原稿用紙に万年筆で書いた方がまだましかもしれない。
良輔が一度印刷した紙の裏にもう一度印刷したりしたのは、しかし環境保護とは何の関係もない経費節約のためだ。しかし裏面に文字がびっしりと書かれていると、紙全体が真っ黒になってしまい読みにくい。結局すぐに諦《あきら》めて、読みたくなるたびに原稿を新しい紙に打ち出していた。
古いタイプのワープロは、機織り機のように大きな音をたてて紙を一枚ずつ吐き出している。
良輔は煙草を吸いながら印字が終わるのを待っていた。その合間にも小説の続きを思いつき、メモ用紙に書きとめていった。
やがて原稿の印刷を終えてワープロは静かになった。大仕事を終えて一息ついているようにも見える。
原稿の束を手にした。
右端をクリップでとめてから読み始める。
良いできだと自分でも思う。
書きかけた『軽妙なエッセイ』とは大違いだった。
一見ホラー小説のような導入になった。しかし良輔はこれをホラー小説にする気はなかった。多少ミステリアスな雰囲気はあるだろうが、そのようなジャンル分けのできない小説にするつもりだった。
読み終えた原稿を、もう一度丁寧に読み返しながら赤字で訂正を入れていく。原稿すべてに赤字を入れると、次はそれをワープロに入力していった。
ひと仕事終えて、今書いたばかりのメモを片手にその内容を入力しようとした。
赤字を入れた原稿が急に気になった。ワープロに入力してしまったのだから、もうこれはゴミ同然だ。細かく切ってメモ帳代わりに使おうかとも思った。読みもせずに積み上げられた古新聞が随分とたまっているのを思い出した。
古新聞を取り出し、その上に原稿を重ねて縛る。
アパートのゴミの日は週二回と決まっていたが、新聞や雑誌などは回収業者が街を回っていて、ゴミの日以外でも持っていってくれる。
良輔はまとめた紙を持ち、みしみしと音をたて階段を駆け降りた。木造二階建てのこのアパートに、もちろんエレベーターなどない。
アパートの正面のゴミ置き場近くに、それを置いた。
走って部屋に戻る。早く続きが書きたくなったからだ。
息を切らせ、ワープロの前に腰を降ろすと、すぐに執筆に取りかかった。
書き出すとまた止まらなくなった。
順調といえばこれほど順調なこともない。まるで誰かに書かされているかのように次々と話は進んでいく。あまりに進みすぎて気味が悪いほどだ。煙草を吸う暇もなくひたすらキイを押し続ける。
最初に書いたプロットは泉に送ってある。その返事もまだ聞いてはいなかった。書くほどにその速度が上がっていく。プロットの返事を聞く前に完成しそうな勢いだった。
最初に送ったプロットからは随分かけ離れたものになりつつあった。だがそれでもいいと良輔は考えていた。とにかくこの小説を書き上げてしまいたかった。
電話が鳴った。
しばらくベルの音を聞きながら指を動かしていた。だが鳴りやまない。早く出るんだと強制するかのようなその音に苛立《いらだ》つ。
舌打ちしてキイから指を離した。受話器を手にする。
良輔がもしもしと声を掛けると、喉《のど》を鳴らして息を吸う音が聞こえた。
そしてそれは言った。
「いいねえ、これ」
低い声だ。掠《かす》れた低い声。年齢も男女の区別もつかない。聞くと鳥肌が立った。がさがさとした水分のないその声は、とてつもなく不快だ。
答えることもできず、良輔は受話器を耳に押し当てて黙っていた。
「悪いけど、才能がないと思ってたんだ。いやあ、本当に悪いことをしたね。なかなか才能があるじゃない」
「……誰だ」
「うん、そうだな。誰とも言い難いなあ。まだ生まれてもいないから」
良輔は受話器を置こうとした。耳から離した受話器から、声が漏れた。
「頼むよ。早く『屍の王』の続き、読ませてくれよ」
屍の王、という単語に、再び受話器を耳に当てる。
「何のことだ」
「何のことだ、って当然あんたの小説のことだよ」
「おまえ……誰なんだ」
「だからまだ誰でもないって言ってるだろう。人の話はしっかり聞いてくれよな」
「どうして俺の小説のことを知っている」
「どうしてねえ……。まあいろいろあってね、それで知ってるんだけどね」
「説明になっていない」
「説明する気がないからなあ」
「もう切るぞ」
声を荒らげた。
「どうして。あんたの小説の読者第一号なんだぞ。それをそんないい加減なあしらいをして良いと思っているのかい。でもまあいいや。許しましょう。小説のできがいいから。あの最初の夢のシーンはいいよね。あの調子でどんどん書けたらいいんだけどね。それにしても主人公である草薙良輔のキャラクターがもう少し――」
良輔は受話器を叩《たた》きつけた。
小説を書いていたときの高揚感がすっかり失せていた。
畳にごろりと横になった。脂《やに》と埃《ほこり》で薄汚れた天井を眺める。
どうして俺が小説を書いていることを知っているんだ。しかも『屍の王』というタイトルだけではなく、その内容まで。
それを知っているのは良輔以外にはいないはずだ。泉にしたところでタイトルとあらすじは知っていても、夢のシーンから始まることまでは知らない。
考えられることはただひとつだ。
良輔が捨てた原稿を拾ったのだ。
しかしただ拾って読んだだけでは、ここに電話してくることはできない。もしかしたらあの古新聞に挟まって、電話番号を記した何かが入っていたのかもしれない。何かの領収書か、案内状か、そんなものが。しかし電話番号だけ知っているわけでもなさそうだった。
――悪いけど、才能がないと思ってたんだ。
声はそう言った。少なくともエッセイスト草薙良輔のことを知っているのだ。しかしだからといって個々の電話番号がわかるというものではない。引っ越したことは泉以外の編集者には教えていないからだ。
悪戯《いたずら》、か。
しかし何のために。
良輔は躰《からだ》を起こし、モニターを見た。
何であろうと関係ない。身に危険が及ぶようなことになるのならその時に対処すればいい。
とにかく今は……。
良輔は再びキイを叩き始めた。
4
泉から電話があった。
良輔は進行具合を興奮した口振りで語った。
「それなら」と泉は言った。「取材をやろう、取材」
良輔はエッセイのために一度も取材をしたことがなかった。もともと旅行嫌いの人嫌いだ。取材旅行だの誰かから話を聞き出すなどということは極力避けてきた。対談の話さえ断ってきたのだ。風俗ライターという仕事を選んだのは、それが嫌だったからだ。懲罰として自らを責めるために選んだのだ。そのせいか未《いま》だに取材というものに慣れない。
「養老院ってどんなところかわかってるか」
「知りませんけど、本で調べようと……」
養老院に預けた祖母に面会するシーンがある。それを今から書くところだ、と言ったとたんだった。
「駄目だ、駄目だ。実際に見て、話を聞いてくる。想像力には限界がある。実際に体験したことにフィクションを重ねるんだよ」
「でも、養老院なんてどこにあるかも知らないし……」
渋る良輔に、泉はすべてセッティングするから任せておけと大声で言って電話は切れた。
日取りはすぐに決定した。
暑い日だった。
良輔はだらだらと続く長い坂を登っていた。小高い丘の先にあるのが明星《めいせい》慈愛院だ。
老人医療専門の病院と老人ホームが一緒になっているらしい。
姥捨山《うばすてやま》だ。
笑いながら泉はそう言っていたが、街路樹の並ぶ広い道を登った先にあるのは、煉瓦《れんが》造りの瀟洒《しようしや》な建物だった。
良輔は腰を曲げ、膝《ひざ》に手を当て、しばらくその建物を眺めていた。来る前に着替えたばかりの綿のシャツがぐっしょりと濡《ぬ》れていた。
たかだか緩い坂道を登っただけで息が荒くなっていた。犬のように口を開いて呼吸する。
コンクリートの高い塀に鉄柵《てつさく》の門が開かれていた。そこを抜ければ広々とした芝生に敷石が敷かれた道が玄関まで続いている。
庭では看護師に車椅子を押されて散歩する者や、芝生に寝転がって本を読んでいる者もいる。一見大学のキャンパスを思わせるが、そこにいる者たちは誰もが七十歳を過ぎた老人たちだ。
自動ドアをくぐると玄関ロビーだ。
老人向けなのかあまり冷房はきいておらず、火照った躰が太陽から受け取った熱を発散している。自分がストーブにでもなったような気がした。
受付で看護師の川添《かわぞえ》さんを呼んで欲しいと伝える。白い制服を着た中年の女性は、笑みを浮かべてしばらくロビーでお待ちくださいと言った。
二階まで吹き抜けになった広いロビーの中央に噴水があった。その噴水を囲む形でソファーが並べられてある。
良輔はそこに腰を降ろした。
ビニール製の黒いリュックを背中から降ろし、メモ帳とカセットレコーダーがあるのを確認する。この日のために揃えた新品だ。
隣に誰かが座った。見ると小さな老人が前屈《まえかが》みになってちょこんとソファーに腰を降ろしている。良輔の肩の辺りに頭があった。縦縞《たてじま》のカッターシャツにチョッキ、頭にはベレー帽をかぶっている。若いときは洒落者《しやれもの》でならしたのかもしれない。
「死ぬのは嫌だな」
老人が呟《つぶや》いた。独り言だと思った。すると老人は皺《しわ》に埋もれた真っ黒な眼で良輔を見た。
「若いときはな、歳をとったら死ぬのが怖くなくなると思っちょった。あんたもそう思っとるだろ。ちゃはあ」
老人は奇妙な音をたてて、息をついた。
「ところがだ、歳をとるだろ。そうするとな、とにかく躰のあちこちにガタがくるんだな。それが辛《つら》い。朝起きるときとかな、爽快《そうかい》な朝なんてもんがな、あったのを忘れるほど腰やら腕やら頭やらが痛い」
老人は細い腕をゆっくりとさすった。何故かそれが自慰をしているかのように見えた。
「これはもう、堪《たま》らんくらいに痛い。躰が辛い。躰がクルシミブクロになったようなもんだな。つまりはな、そんなふうに思うのはまだ生きておるということだ。生きている躰が死体に向かってどんどん変わっていきよる、つまりは生き腐れの辛さみたいなもんじゃ。これが怖い。今くるか、それとも明日か。一年先か二年先か。まあ、なんというか覚悟はできんな。気がついたら死刑囚になっちょったというようなもんさね。でもなあ、不思議なもんだな。だんだんと頭がおかしゅうなってくるとな、朝起きたときに思うことがある。ありゃ、わしは生きちょったか死んじょったか、てな。そこいら辺りが、ちょいと区別がつかんようになっちょることがあるんじゃて。だからな、もしかしたら、あんた死人と話しとるのかもしれんよ。それも死ぬのを嫌がる死人と」
皺と区別のつかない薄い唇を歪《ゆが》めて、老人はにやりと笑った。
「草薙さんですか」
言われて良輔ははっと顔を上げた。
白衣を着た男が立っていた。背が高い。百九十近くあるだろう。胸も厚く肩幅も広い。短く刈り込んだ頭といい、アマチュアレスリングのコーチのようだ。
「はい。ええと、あなたが――」
「川添です。じゃあ、早速行きましょうか」
良輔は立ち上がってリュックを背負った。その時横を見るとさっきの老人はいなくなっていた。辺りを見回すがあの特徴のある姿はどこにもない。
「どうかしましたか」
「いや、今ここでちっちゃなお爺《じい》ちゃんと話をしてたんですよ。どこかへ行っちゃったみたいで」
「歳をとると人間身勝手で我が儘になるものですよ。勝手に話をして勝手にどこかに行ってしまう」
川添は笑顔を浮かべた。爽《さわ》やかとしか言いようのない笑顔だった。
川添は早足で歩き始めた。
良輔より頭ひとつは大きい川添に、時折小走りになりながらついていく。
「きれいでしょ、ここ」
川添は正面を見たまま言った。
「意外だったんじゃないですか」
「意外?」
「泉先輩のことだから、ここが姥捨山だとかなんとか言ってたんでしょう。いや、わかりますよ。ここの老人ホームに入るのに、かなりの金が必要なの、ご存じでしょ」
「ああ、そうですね。私なんかまず入れそうにない」
「それだけの金を使わせるには、それだけの魅力が必要ですよね。だからあのロビーと中庭が必要になる。あそこから応接室に通してパンフレットとか見せて……つまりは看板ですよ」
「それじゃあ、実情は異なるということですか」
「なんて言うかなあ、ここは設備も整ってるし、専門家も揃えているから、金を取るだけのことはしていますよ。ここに親御さんを連れてこられる方は何の不満もないでしょうね。でも、結局ここは老人ホームなんですよ。なんて言うかな。死を待つ場所なんです。余生を楽しく生きる、なんて言うけど、やっぱり僕のような若い者からみたらどこか日常とは異なる場所ですね」
良輔は驚いた。外見とは異なり、かなり内省的な男らしい。
「そんなことを僕に話してもいいんですか。小説のための取材だということは泉さんから聞いているんでしょ」
「もちろん、でも僕が実名で出てくるわけじゃないでしょ。それに今言ったみたいに、ここは設備や人員を見てもらえればどこに出しても恥ずかしくないホームですよ。ぼくが言っていることは、どこのホームにいったって感じることですからね」
白く清潔な廊下を延々と歩いている。角をいくつか曲がり、階段を昇り、いくつかあるらしい中庭を通る回廊を過ぎるうち、自分が何処にいるのかだんだんわからなくなってきた。
途中で地下の通路を抜け、上がったところに大きなスチールの扉があった。扉の横に小さな長方形のパネルが取りつけてある。川添は首から下げたIDカードをそれに当てた。
音をたてて鍵《かぎ》が開く。
「どうぞ」
扉を開いて良輔に入れと促す。
「どうして鍵なんか」
「何となく刑務所とか精神病院の閉鎖病棟とかを連想したでしょ。違うんですよ。徘徊《はいかい》老人がいますからね。勝手にホームから出ていかれても困るわけです。きれいごとじゃあ済まない一面、ってところですか。ああ、惚《ぼ》けていない人は僕とおんなじIDカードを持たせてあります。外出は自由にできます。門限はありますけどね」
入ったすぐ横に受付があった。中にいる警備員に川添がカードを見せる。
そこからまた廊下を進み、娯楽室と書かれた部屋に出た。
「ここで面会したりもできます」
『娯楽室』という言葉から思い浮かべる安っぽいところはどこにもない。
広い室内にはビリヤードや卓球台が置かれ、モグラ叩《たた》きのようなゲームもある。囲碁将棋の類《たぐい》を遊べる畳敷きの部屋まであり、奥には立派なバーカウンターがあった。
一面がガラス張りになっていて、そこから広い中庭を見降ろせる。
川添はベンチに腰を降ろしゲームに興じる老人たちに声を掛けながら奥へと進んだ。
「このバーで何か飲んでいてください。僕はちょっと個室の方の準備を整えてきますから」
川添はさらに奥へと通じる廊下に消えた。
良輔はスツールに腰を降ろした。
今から仕事ではアルコールを口にするわけにもいかない。コーラを頼むと、かなりの高齢と思えるバーテンがすぐに氷の入ったグラスと瓶のコーラを持ってきた。
「失礼ですけど、かなりのお歳のようですが」
「八十三です」
耳に補聴器が差し込まれている。
「ここに入院しているもんなんですがね、希望すればこうやって働かせてもらえるんですよ」
老人は嬉《うれ》しそうにそう言った。
「やっぱり何ですよ。男は仕事離れちゃあ駄目ですね。一気に惚けちゃう。こうやって客商売させてもらって、それで給金ももらえるんですよ。有り難いことだよ」
グラスを磨きながら老バーテンは言った。
おそらくもともとこういう仕事をしていたのだろう。行きつけのあのカウンターバーのマスターのように。
「可愛そうに、良ちゃん」
言われて良輔は振り返った。
上品な顔の老婆が立っていた。背中の半ばまで伸ばした長い髪はすっかり真っ白になっている。若い頃はさぞ、と皆から言われるであろう気品のある顔立ちだ。それゆえに老いることの無残さを感じさせる。着ているのは小さな熊のイラストのパジャマ。木綿のそれは何度も洗濯したのか色褪《いろあ》せている。腰から下が不自然に膨れているのはおむつを当てているからだろうか。手に持った金属のスタンドには透明のボトルが下げられ、そこから伸びたチューブがパジャマの袖《そで》へと消えていた。
「僕、のことですか」
良輔は己れを指さした。
「そうよ、良ちゃん。当たり前じゃないの。よく来てくれたわね」
「はあ、あの」
まったく見覚えのない顔だった。
「私の孫の中ではあなたが一番できがよかったものね」
老婆はにこやかに笑っている。
「あの……」
言葉に詰まった。誰かと勘違いしているのだろう。惚けているのかもしれない。しかし人違いであることをどう告げればいいのか思いつかない。できることならこの可愛らしい老婆を傷つけたくはない、と良輔は思っていた。
「でもねえ」
老婆は悲しそうに顔を伏せた。
「でもねえ、良ちゃん。あんなことがあったから可愛そうだよ」
「あんなこと……」
「誰だって落ち込むわよ。あなたじゃなくても。でもね、大丈夫。あなたは生まれてもいないんだから、きっとあの子のところにたどり着くわよ」
細く小さな手を良輔の肩に回す。
「やるべきことはやる子だったもの。きっと無事にやり遂げることができるわよ」
「何のことでしょうか」
やはり惚けているのだろうか。
「そうね、わからないわよね。人間っていうものは知っていることより知らないことの方が多いの。でもほとんどの人が知ってることばかりだと思ってるわ。だって知らないことっていうのは、知らないことさえ知らないことが多いから。私にしても本当に自分でも呆《あき》れるほど長く生きてきたけどね。それでも知らないことでいっぱいよ。それに比べたら、あなたなんてろくに生きてもいないんだから、そりゃあ世の中わからないことだらけでしょうね。でもね、あなたならきっとできるわ。まず人の言いつけはよく守ること。それが大事よ。そうすればあそこで奈美子ちゃんにも会えるわよ」
良輔の顔が強《こわ》ばる。
まさか娘の名まえが出てくるとは思ってもみなかった。
「どうして娘の名まえを知っているんだ」
良輔は一音ずつ区切りながらゆっくりと尋ねた。
老婆が不思議そうな顔をする。
「曾孫《ひまご》の名まえぐらい覚えているわよ。いくら歳をとったからってそこまでは惚けちゃあいませんよ」
「そうじゃない。奈美子はあなたの曾孫なんかじゃないんだ。なのにどうして」
「どうして、どうして。あなたは昔からそうだったわね。頭のいい子ってのはそういうものなのかもしれないわね。つまりあなたはそういうふうにできているのよ。だから小説なんかを書く気になるのよね」
「あんたは誰だ。何者だ。俺の何を知ってる。何をするつもりだ」
スツールから降り、良輔は老婆の衿《えり》を掴《つか》んだ。
老婆は哀れむような顔で後退《あとじさ》った。
「可愛そうな良ちゃん」
独り言のように言った。その眼に涙さえ浮かべて。
衿から手が離れる。と、後ろから急に肩を掴まれた。
「どうかしましたか」
川添だった。
「この人は……この人は誰なんだ」
「篠沢《しのざわ》さんです。昔は深窓の令嬢と呼ばれたお嬢様ですよ」
「嫌ですわ」
老婆は恥ずかしそうに微笑んだ。
川添が良輔の耳に顔を近づける。
「彼女はちょっと惚けてるんですよ。だからおかしなことを言ったかもしれないけれど、気にしないでください」
小声で囁《ささや》く。肩を掴んだ手に力がこもった。後ろに引き戻される。
指が肩に食い込むほどの力だった。
「このお婆さんは僕のことを知ってるんだ。僕の娘の名も。どうして――」
「偶然ですよ。ねえ、篠沢さん」
老婆はただ笑っているだけだ。
「部屋の方にいきましょう」
川添は再び良輔の耳もとに囁いた。
「ここでトラブルを起こさないでくださいよ。院長の許可をもらってるわけじゃないんだから」
そして顔を離すと、わざとらしく大きな声で言った。
「二人に取材を頼んでいるんですよ。ひとりは家具の輸入業者の社長さんだった人。もうひとりは芸術家ですよ。日本画の大家で――」
川添は良輔の肩を掴んだまま、押しやるように廊下へと連れていった。
良輔にしても川添に迷惑を掛けるつもりはなかった。帰りに改めて話を聞こうと考え、首をひねって後ろを見た。
老婆は相変わらずにこにこと楽しそうに笑っていた。
上の空で取材を終えた。その帰り、娯楽室にいた篠沢という人に会わせてくれと頼むと、川添は言った。
「もう帰りましたよ」
「帰ったって……ここに住んでいるんじゃないんですか」
「入院患者ですよ。今日が退院だったんです」
良輔が再びあの老婆に出会うことはなかった。
5
背広を腕に引っかけ、汗を拭きながら男たちが歩いている。立ち止まり、恨めしそうに空を見上げている者もいる。
まだ梅雨入りもしていないというのに、今年は異様に暑い。背広姿を制服とするサラリーマンたちにとっては苦痛以外の何物でもないだろう。
Tシャツに綿のスラックスをはいた良輔ですら、全身が汗で濡《ぬ》れていた。熱されたアスファルトとコンクリートが下から、太陽が上から、むらなく人間を焼いている。
銭湯で汗を流して洗濯したての服に着替えてきたが、無駄だった。
良輔はファックスで送られてきた地図を見ながら汗を拭《ぬぐ》った。そのファックス紙も指があたったところが濡れて、薄く透けて見える。
銀行とマクドナルドに挟まれた狭い路地へと折れた。
路地を抜けると、人通りが少ないせいだろうか。大通りから一筋離れただけなのにどこかうらぶれた感じがする。じりじりと太陽に焦がされ、水分が失せたのだろうか。通りは埃《ほこり》っぽく、荒《すさ》んでいる。街のそこかしこに乾いた憎悪が佇《たたず》んでいるようだ。
繊維関係の倉庫が並ぶ道を歩くと、すぐにその目当てのビルが見つかった。七階建ての雑居ビルだ。古いビルなのだろう。コンクリートのあちこちにひびが入っていた。
ガラス扉を開いて中に入った。
エレベーター横に店舗名を記した乳白色のアクリルが張りつけてある。
『西崎事務所』『U・G・I』『株式会社ファームステイ』『サイゴン社』『八幡研究社』
名まえだけでは何をしているのか想像もつかない。
良輔が今から訪れる『フリークアウト』にしても、その名からSMクラブであることを推測できる人間はいないだろう。
エレベーターで七階へ向かう。最上階はワンフロアすべてが『フリークアウト』だ。
エレベーターを降りるとすぐに箱のような小さな部屋に出る。寒いくらいの冷房に、汗がたちまち引いていく。正面に扉があった。『フリークアウト』と書かれた金属の表札が掲げられてあった。扉の横にインターホンがある。良輔はボタンを押して取材であることを告げた。アポイントメントはとってある。早希《さき》嬢というSMの女王が良輔の相手をしてくれるはずだった。
ドアが開いた。自動錠になっているらしく、中には誰もいなかった。
良輔の部屋ほどはあるスペースに、長くゆったりとしたソファーが置かれてある。おそらくそれ一脚だけで良輔の半年分の収入以上の値段がするだろう。その前には大きなモニターがあった。
良輔はソファーに腰を沈めた。
濡れたシャツと肌に貼りついたトランクスが不快だ。汗が冷え、躰《からだ》が小刻みに震えだした。エアコンのコントローラーがないかと探したが見あたらない。
真正面のモニターに映っているのは男女のペア、のようだ。はっきりとはわからない。二人とも頭から爪先まで、スピードスケートの選手のようにポリウレタンの生地で包まれているからだ。場所はどこかのホテルの一室だろうか。二人はレスリングの真似事をしている。男は蛍光ピンク、女は真紅。顔も布で包まれたのっぺらぼうだ。音楽はなく、二人の荒い息遣いだけが聞こえている。時折女が嬌声《きようせい》をあげた。
「草薙良輔さんですね」
突然名まえを呼ばれて驚いた。
周りを見回すが誰もいない。
「右の扉を開けて廊下を進んでください。十二号室が草薙さんのお部屋です」
声は天井近くに取りつけられたスピーカーから聞こえていた。
「俺、確かペンネームで取材を申し込んでいたはずなんですけど」
スピーカーに向かって良輔は言った。
「ここは会員制クラブです。たとえ取材であっても登録には本名でしていただいております」
編集で本名を教えたということか。登録ということは住所や電話番号も教えているかもしれない。あまり気持ちの良いことではなかった。しかし良輔が編集長に文句をいうことはないだろう。仕事をもらえるだけでも有り難いのだから。
入ってきた方と反対側の扉が開いた。やはり自動錠だった。狭い廊下に出た。天井がアーチ型になっている。照明は抑えられていた。薄暗いそこに、舞う天使たちの細密画が描かれてあった。ミニチュアの教会のようだと良輔は思った。
左に偶数、右に奇数の部屋がある。
良輔は廊下を進んだ。
十二号室は突き当たりに近い部屋だった。
ノックをする。
どうぞ、と普通の返事が返ってきたので、良輔は少しほっとする。早く入らないか豚! などと怒鳴られたらどうしようかと思っていたのだ。
扉を開けて中に入った。
驚くほど広い部屋だった。
まさか本物ではないだろうが壁も床もテーブルもすべてが大理石だった。間接照明を多用して、美術館のような静かな明るさを保っている。
部屋の中央に木製の十字架が立っていた。それにもたれるようにして女が立っている。
ラテックス製のぴかぴか光る黒のワンピースを着ていた。|ポリ塩化ビニール《PVC》のコルセットは、ベルトと紐《ひも》でウエストを四十センチほどに締めあげている。脚を一本にまとめようとするかのように、足首まである長いスカートはタイトだ。黒のブーツもPVC製で、針のように尖《とが》った踵《かかと》が床に突き立っていた。
「あっ……、早希さんですか」
「早く閉めて!」
叱責《しつせき》するように言われて、良輔は慌てて扉を閉めた。
「小鬼たちが入ってくるから」
早希はそう言うと、笑った。
メイクなのだろうか。蒼褪《あおざ》めた顔で早希は言った。鼻と耳とこめかみと唇に、少なくとも十個以上のピアスが光っていた。頭の両脇で縛った髪の先は乱れ尖り、混乱した標識のようにあちこちを指している。
「さあ、服を脱いで、全部」
「えっ……」
早希は何も言わず、良輔の眼を見つめている。
「脱ぐんですか」
早希は肩を竦《すく》めた。
靴を脱ぎ、木綿の靴下を脱ぎ、皮膚を剥《は》がすように濡れたTシャツを脱ぐ。早希を盗み見ると、下らないテレビ番組でも見ているかのように良輔を眺めている。スラックスを脱いだ。トランクス一枚でだらしない小学生のように直立する。
早希は黙って良輔を見ている。
「これも、ですよね」
媚《こ》びるように言うと、最後の一枚を脱いだ。縮こまったペニスは、一見すると陰嚢《いんのう》と区別がつかない。
「これに」
早希はプラスチックのケースを蹴《け》った。床を滑ったそれは良輔の足元で止まった。脱ぎ捨ててあったものを丸めて中に投げ入れる。
「鬼を見るの」
はあ? と良輔は阿呆《あほう》のような声をあげた。
「小さな鬼。バービーほどの大きさの。最近じゃあどこでも見るわ。この部屋にはできるだけ入れないようにしているけど」
「あの……、早希さんですよね。SMの女王の」
「昔からそうだった」
早希は良輔の眼をじっと見ながら話を続ける。
「霊感が強かったの。最初は生きてる人間だと思った。でも首のない人間なんていないものね。いろいろ見たけど、私は自殺者の霊が一番苦手。しつこいから」
十字架の後ろから犬の尾のような短い鞭《むち》を出してきた。
「これは乗馬用の鞭」
躰の前でびゅんと音をたてて振る。
「鋼線に革を巻いてつくったもの。昔は鯨骨で芯《しん》をつくったりもしたらしいけど。――これでも充分苦痛を味わうことができる。家畜用の鞭を奴隷たちに使うのは伝統よ。黒人奴隷たちは牛追鞭で打たれた。皮どころか肉まで裂けるそうよ」
「僕はまったくのSM初心者でして――」
焦るあまり声がオクターブ上がってしまっていた。
「シャムボクを知ってる?」
良輔は壊れた扇風機のように首を左右に振った。
「サイのペニスから作った鞭でね、骨まで砕くそうよ」
早希は良輔をじっと見ながら、赤く長い舌を突き出した。粘液に包まれた舌の中央に、銀の真珠よろしくピアスがされている。
人さし指と中指をピンと伸ばして顔の前に持ってきた。その指を蛇のように舐《な》める。唾液《だえき》が指先から舌まで糸を引いた。
てらてらと光るその指先を、股間《こかん》に押しつける。ぎゅうとラテックスが鳴り、腿《もも》と陰部の形を顕《あらわ》にした。
「こっちに来て」
早希は手招きした。
ぎくしゃくと良輔は前に進んだ。全裸で、寒さに震えながら。
十字架の前に立つ。
突然|剥《む》き出しの尻《しり》に鞭が振られた。刺されたような痛みの不意打ちに声を漏《も》らす。
間髪入れず鞭の柄で背中を押された。よろよろと前に進む。
レントゲン撮影でもするように、良輔は十字架にぺたりと胸と腹をつけた。
「苦痛と快楽は同じ」
早希は奇術師のように黒いベルベットのリボンを取り出した。
「快楽と苦痛は同じ」
そのリボンで良輔に目隠しをする。
「僕は取材に来ただけで、もともとこの手の趣味はないんですよ」
音のする方を見て媚びる笑みを浮かべながら良輔は言った。
「だから――」
鞭が尻に当たる小気味よい音がした。痛みは熱を呼び、徐々に疼痛《とうつう》に変わる。
「苦痛は死へと至る道なのだけれど」
早希が良輔の腕をとった。地面と水平にまで持ち上げると手枷《てかせ》をはめる。
「だからこそ生を感じさせるの。そして生きているからこそ死を感じる」
ゆっくりと早希は反対側に回っていく。彼女が動くたびにラテックスが虫のように鳴いた。その音が湿気を帯びていくのは、彼女が汗ばんできたからか。
反対の手首にも枷がはめられる。
「苦痛は快楽。死へと続く快楽。嘘だと思うなら死者の声を聞けばいいわ。みんな嫉妬《しつと》してるわ。死へ至る快楽を貪《むさぼ》れる生者を。だからね、みんなここに来たがっている。幾度も幾度も死ぬために。ここに来さえすれば死を味わえるの。死ぬために、みんなは生きたがっているのよ」
風を切る音。背中に走る痛み。
耳元で囁《ささや》く声がした。
「あなたは楽しんでいるのよ」
「何だって!」
思わず良輔は大声をあげた。
間違いない。今のは妻の声だ。
「美沙! そこにいるのか」
「死者たちはこの世界へと向かっている。草薙よ、おまえがあの岩を取り去るのだ」
「何を言っている。美沙がいるんだろ。美沙、返事をしてくれ」
けらけらけら、と子供の笑い声が聞こえた。心から楽しそうな子供の笑い声が。
まさか……。
良輔は、奈美子、と口の中で呟《つぶや》いた。それから手枷をはずそうと必死になってもがく。だが鉄の枷は手首をしっかりと押さえ、良輔の力ではどうにもならなかった。ただ鎖だけがじゃらじゃらと鳴る。
「頼む。目隠しをとってくれ。そこに誰がいるんだ。そこには――」
「これなんていう花」
一瞬、あの夏の情景が閃光《せんこう》のように浮かんで消えた。
「なみこおおおお!」
叫びながら良輔は身をよじった。
「これは酔芙蓉《すいふよう》よ」
今度は早希の声だった。笑いを含みからかうようなその声。
そして背中に鞭。また鞭。また鞭。
幾度も幾度も繰り返し良輔は背中を鞭打たれた。際限なくいつまでもいつまでも。
けらけらけらと笑うのも早希だ。
早希の哄笑《こうしよう》を聞きながら、良輔は意識を失った。
[#改ページ]
第二章 比良坂あたり
1
胃の底に堅く縮こまった何かがずっしりと重い。昨夜寝る前に食べたインスタントラーメンが、そこでそのままとぐろを巻いているような気がする。
己れでさえ不快になるような臭いおくびを漏《も》らして、泉守道は顔をしかめた。
隣でキーボードを操作していた若い女の編集者が、露骨に顔を背け手で鼻を押さえた。
「ちょっと出かけてくる。三十分ほどしたら戻るから」
女は無言で頷《うなず》いた。
編集室を出るまでに企画会議と新刊の装丁と女流推理作家の誕生日に関する質問を受けて適当に答える。
扉を開けて出ると総務の女子社員がいきなり経費のことで文句をつけてきた。わかった、わかったと何がわかったのかわからぬ台詞《せりふ》を口にしながらエレベーターに乗り込んだ。
狭い箱の中は見知らぬ女たちで一杯だった。まるでこの出版社の中で男が泉一人だけになったような気がする。
そう言えば他の会社に比べてもウチは圧倒的に女が多いよな。
ファラオのミイラのように腕を胸の前で交差させて泉は考える。以前痴漢と間違えられ睨《にら》まれて以来、混んだエレベーターの中ではこの姿勢だ。脂ぎった丸い顔に小さな眼、しかも腹が突き出た小男は生きているだけでセクハラ。面と向かってそう言われたことがあった。言った女はヘラヘラと笑っていた。泉もむっとするだけで反論はしない。まともに反論することがまた笑いの対象となるからだ。
そういう言葉を平気で言える神経と、それを許す社会に、泉は薄気味の悪いものを感じる。壁の小さな隙間に指を差し入れ、ぬるりとした何かに触れてしまったような感触。しかも慌てて引き抜いた指の先に悪臭を放つ黒い粘液が付着していたような気分。
知らぬ間に少しずつこの世のあれこれが乾いた糞《くそ》と代わっていっているんだ。
エレベーターが一階に着き、泉は女たちとともに箱から吐き出された。
――顔色悪いですよ。
初老の警備員が心配そうな顔で泉を見ていた。
その顔の真剣さに、思わず泉は胃の辺りを押さえた。
「そんなに悪いかな?」
警備員は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて頷いた。
ますます泉は気分が悪くなった。
「脅かさないでくれよ」
軽く言った泉に、病院へ行った方がいいですよ、と重い答えが返ってきた。
警備員に片手を振って玄関ロビーから出る。街は湿気た雑巾《ぞうきん》のようなにおいがした。むっと温気《うんき》が押し寄せる。音をたてて汗が噴き出した。
雲は低く暗い。
いっそ降り出せばいいのだが、雨は降らない。風もない。
鬱陶《うつとう》しくのしかかる雲の腹を睨んでから、泉は自社ビルの前の道路を小走りに渡った。
通りを挟んで向かいにある喫茶店に入る。頭が痺《しび》れるほどの冷気に、たちまち汗が引いていった。
四人掛けの椅子にぽつりと一人で座っていた男が手を上げる。長身の男だが特に手足が細く長い。白いカッターシャツに薄いグレーのスラックス。色白の蜘蛛《くも》といった感じだ。
「ここだよ、ここ」
「大声あげなくてもわかるよ」
言いながら泉は席に着いた。
ウエイターが運んできたおしぼりで入念に顔を拭《ふ》きながらホットミルクを注文する。
「いまどき、ここまでオヤジであることに無自覚な人間も珍しいな」
珍獣を見る目で男は泉を見ていた。
「嫌いだ」
「何が」
「そのオヤジって言葉」
「ああ、そうですか。それにしてもさあ、何でおまえは他の人間だと愛想がいいのに、俺にはそんな不機嫌そうな顔をするわけ」
「不機嫌だから」
「おまえさあ、高校で初めて会ったときにさあ、俺の前につかつかとやってきて、しかも指さして、おまえが嫌いだって言っただろ」
「言った」
「なんか俺、愛の告白でもされたのかと思ってドキドキしたよ」
「そうなのか」
「何が」
「その気があるのか」
「……真面目とか朴訥《ぼくとつ》とか単純とかいう前にさ、おまえって馬鹿だな、やっぱり」
「俺がどうしておまえを殴らないか知ってるか」
「友情」
「殴るのもイヤなほど嫌いだから」
「そんなに嫌なら夜中に電話掛けてきて、手を貸してくれなんて言うなよな」
「おまえには貸しがある」
「俺は何にも借りてないぞ」
「おまえを作家にしてやったのは誰だ」
男は溜息《ためいき》をついた。
「よくいるんだよ、こういう編集者。たいていもう編集者としてダメになってからこういうこと言い出すんだよな。酒飲みながら」
「事実だろ。大学出てどこにも就職できず――」
「就職せず、だ」
「……ぶらぶらしてたおまえが、俺んとこに原稿持ってきてこんなの書いたんだけど本にしてくれないかって頭下げたのを忘れたか」
「馬鹿野郎、駆け出しの編集者にこの番場真莉緒《ばんばまりお》の処女作を渡してやったんじゃないか。礼を言って欲しいのはこっちだ」
「で、調べてくれたのか」
「調べましたよ、締め切りに追われて忙しいのに二晩掛けて。接続料金だけでもおまえが払えよな」
「接続料金?」
「おまえって奴は」
「何だ」
「フロッピー入稿が当たり前のこの時代に、コンピュータもインターネットも使えない編集者なんていないぞ」
「それはおまえの周囲だけの現象だ。俺の周りじゃあ手書き原稿が当たり前だ」
「知ってるよ。だからもう二度とおまえのところでは書かない」
「初版倒れのホラー作家にもう二度と書いて欲しくないのはこちらの方だ。もういいから、ブツを出せ」
「何がブツを出せだ。同じタイトルの小説を検索するぐらいのこと、己れでしろよな」
言いながら真莉緒はリュックからレポート用紙を一枚出した。
「ほら」
テーブルの上に置こうとしたのを、泉は奪い取った。
「あのなあ、貧乏人の大家族が肉の少ないすき焼き食ってるんじゃないんだからなあ。ひったくる必要はないだろうが」
真莉緒の台詞はもう耳に届いていないようだった。
泉はレポート用紙をじっと見つめている。
「このVTRってのは何だ」
「ヤバイ系のホームページを検索できるところがあってさ、そこで見つけたスナッフ映画」
「スナッフ映画?」
「本物の人殺しを撮影した映画だよ」
「そんなものがあるのか」
「あるわけないだろ。マフィアがかかわってとか暴力団がどうのこうのとか、いろいろとそれっぽい話は聞くけど実物なんかない。つまり噂。一種の都市伝説だな」
「じゃあ、このビデオは何なんだ」
「ガセだろ。でもお金は送っておいたけどな」
「悪趣味な奴だ」
「おまえみたいな無趣味よりはましだ」
「出版物では四件か」
「屍の王なんて有りがちなタイトルだと思ったんだが、それほどもなかった。それにしてもどうしてそのタイトルの小説があったかどうかなんて調べなきゃならないんだ。著作権の問題か」
「いま原稿を預かっている。草薙良輔の小説だ」
「未発表のものか」
「もちろんそうだ」
「ヒットしそうだな」
泉は意外そうな顔をした。
「そう思うか」
「ああ、間違いないだろうな。人気のあるエッセイストだったし。で、それのタイトルが屍の王か」
「そうだ。そのタイトルを聞いた時、どこかでそんなタイトルの小説があったような気がした。いったん気になると頭から離れない。自分でも調べたが、こんなことはおまえに頼んだ方が手っ取り早いと思った」
「勝手にそんなこと思うなよな」
「実際手っ取り早かった」
「嫌なやつだ」
真莉緒はエスプレッソを一気に飲み干した。小さなカップは彼の大きな掌の中にすっぽりと隠れていた。
「それにしても、おまえにしては珍しいな。そんなキワモノに手を出すなんて」
「キワモノ? まあ、確かに初めての小説だが」
「あんな事件だったしな。まあ、おまえも売れるモノをつくりたくなったわけだ。やっぱり編集者として行き詰まったか」
「良い小説だ。面白いものになる。だからだ」
「見せろよ、それ」
「屍の王か」
「これだけのことをしてやったんだ。見せても罰は当たらない」
「……盗作するつもりか」
「馬鹿言うな」
「もしちょっとでも盗んだら滝壺《たきつぼ》に突き落としてやる」
「東京で滝壺を探す方が難しいだろう。――送ってくれよ。俺のところに」
「読んだら感想聞かせろ」
「わかった。参考にしてくれ」
「馬鹿はどういう風に読むか知りたいだけだ」
「……おまえさあ、口臭いよ」
「何だいきなり」
「イーってしてみろ」
真莉緒は歯を剥《む》き出しにして言った。
泉は素直に『イー』をする。
「やっぱり、歯が伸びてるよ」
「俺は鼠か」
「狸だろう。鼠ならヌートリアってとこだな。歯が伸びてるように見えるって言ってるんだ。歯茎が後退してるんだよ。シソーノーロー、わかる? シソーノーロー。それで口が臭いんだ。早く病院に行けよ。でないと二三年したら総入れ歯だ」
「さっき守衛にも病院に行けと言われた」
「今おまえに病院行きを勧めるのが流行《はや》ってるんだ」
「いろいろとためになる情報を有り難う」
結局運ばれてきたミルクには口もつけず泉は喫茶店を出た。胃の中に何かをいれるのが気持ち悪かった。
みんなに脅されたからだ。
その時泉はそう思っていた。
2
留守番電話の再生ボタンを押すといきなり怒声が聞こえた。
風俗情報誌の編集長からだ。SMクラブから苦情の電話があり、今後一切出入り禁止、広告も載せないと言われたらしい。
手首に残った赤い擦り傷を撫《な》でながら、良輔はそれを聞いていた。
目覚めれば病院で朝を迎えていた。全裸だった。隣の空きベッドに山となって置かれてあった服を身につけ、払いを済ませるとすぐに病院を出た。
SMクラブでプレイの最中に気絶して病院に運ばれる。
最低の人間に相応《ふさわ》しい最低の体験だった。
朝の陽光が昨夜の出来事をどんどん夢へと変えていった。
自宅に着く頃には、あの部屋で聞いたことがすべて幻聴であると自分自身信じ込んでいた。
何故あんな幻聴を聞いたのか。
そう思いながら留守録を再生したのだった。そして編集者の怒りのメッセージが聞こえてきた。SMクラブで全裸のまま気を失ったことだけは夢でも幻でもなかったようだ。
編集者の小言が途中で途切れた。
録音時間を過ぎたのだ。
電話があったのは昨夜の午後十時五分だとデジタル音声が告げる。
そしていきなり歌が始まった。
――しゃあぼんだあま とおんだあ やあねまあで とおんだあ やあねまあで とんでえ こおわれて きいえたあ
男が女の声を出しているようにも、女が男の声を真似ているようにも聞こえる。決して棒読みではないのに、歌に表情がない。まるで意味を理解せずに歌っているようだ。音としてしか耳にはいってこない。
歌は続く。
――かあぜ かあぜ ふうくうなあ しゃあぼんだあまあとおばあそお
音程だけは機械のように正確だ。その曲に聞き覚えがあり、それでようやく何を歌っているのかがわかった。
シャボン玉 飛んだ
屋根まで 飛んだ
屋根まで 飛んで
壊れて消えた
風 風 吹くな
シャボン玉 飛ばそ
童謡だ。何という題なのかも忘れた、小学校のときに覚えた童謡だ。
夏の夕暮れ、家の庭でシャボン玉を飛ばしながら奈美子が歌っていた。
不意にそのときのことを思い出した。
それだけで涙がじわりと滲《にじ》んでくる。我ながら情けないと思ってはいるのだがどうしようもない。
歌は終わっていた。
終わってからテープノイズがしばらく続いた。
そして犬のような荒い息が聞こえた。その後ろで何か喋《しやべ》っているようにも聞こえる。甲高い声だ。それが少しずつ喉《のど》を患った女の笑い声に変わっていく。嘲《あざ》けるようなそれは、やがて腹を抱えて笑うのが見えるような哄笑《こうしよう》となり、唐突に終わった。
午前三時に入ったメッセージだ。
その時突然電話のベルが鳴って、良輔は死ぬかと思うほど驚いた。
息を整えてから受話器を取る。
「なかなかいいじゃない」
嫌な声だ。ガラスを掻《か》く音のように生理的な嫌悪を感じる声だ。
「これからどうなるのかなって思わせるもん。特にあそこがいいよね。養老院のシーン。見知らぬ老婆がさ、祖母だって名乗るとこ」
「下司《げす》な真似はやめろよ」
「下司……。読者に向かってそれはないだろう」
「人の家のゴミを漁るのは下司だろう。そんな奴、俺の読者でも何でもない」
「えらく御立腹じゃない。何かあったのか」
「おまえに話すようなことは何もない」
「いや、何もあんたの話を聞きたいわけじゃないんだ。ただ話を聞いて欲しいだけさ。あんたには良い話を書いて欲しいからね」
「余計なお世話だ!」
怒鳴り、受話器を叩《たた》きつけた。
と、とたんにベルが鳴った。
良輔は受話器をひったくって怒鳴った。
「いい加減にしろ!」
受話器の底から囁《ささや》き声が聞こえる。
甲高い声だ。笑いを含んでいる。
留守録に吹き込まれていた声と同じだ。
耳を澄ませて、何を言っているのか聞き取ろうとする。とぎれとぎれに聞こえる音がやがて互いにつながり、ひとつの単語から文章へと変わっていく。
ようやくそれが何を囁いているのかがわかり、良輔は力なく受話器を置いた。
その声は何度も繰り返しこう言っていた。
――地震があったらどうするの。
奈美子の声だった。
電話を拝むように頭《こうべ》を垂れ、良輔は啜《すす》り泣いていた。
何故だ。
何故俺にこんな嫌がらせをする。こんなことをして何の得があるというのだ。いったい誰がこんなことをしている。俺に恨みでもあるのか。俺のことを恨む誰かがこんな手の込んだ悪戯《いたずら》をしているのか。
三度目の電話のベルが鳴った。
良輔は鼻を啜り、面倒臭そうに受話器を手にした。
「よう、良輔」
泉だった。いつもの笑顔が見えるその声に、部屋の中が少し明るくなったような気がした。
「泉さんか……」
「なんだ、どうした。泣きそうな声を出して」
「おかしな電話がかかってきて、気が塞《ふさ》いでたんですよ」
「悪戯電話か」
「まあ、そんなものです」
「この世はろくでもない馬鹿で一杯だからな。街は生き腐れしているんだ。きっとな」
「それに毎晩嫌な夢を見るんですよ」
「嫌な夢?」
「女の首吊《くびつ》り死体の夢」
「それじゃあ、まるでおまえの小説だ。ちょっと入れ込みすぎじゃないか」
「おかげで原稿は進んでますよ」
「だろうな。取材して良かっただろう」
「そうですね」
あの祖母だと名乗った老婆のことを考えながらそう答えた。
「ところでおまえ、伊佐名鬼一郎って作家を知ってるか」
「いさな・きいちろう、ですか」
「昭和二年に猟奇世界という雑誌でデビューしている。『腐国を孕《はら》む』という探偵小説だ。それから五年の間に三冊の本を出した」
「寡作ですね」
「短編は幾つも書いていたらしいがね、まとまった本にはならなかった。それでだ、この男が最後に書いた長編小説のタイトルが『屍の王』なんだ」
「へえ、本当ですか」
「知らなかったのか」
「ええ、全然」
「そうか。そうだろうなあ。どこかで聞いたこともないか」
「覚えがありませんね」
「まだ現物は手に入れていないから詳しいことはわからないが、これが失われた己れの過去を求めて旅をする話らしい」
「なんだか……」
「そうだろ。なんだか、な話だろう。この『屍の王』は上下巻出版されるはずだったが、上巻しか出ていない」
「よほど売れなかったんですか」
「死んだんだ」
「えっ」
「著者の伊佐名鬼一郎が娘と妻の首を鉈《なた》で叩き斬ってから自殺した。無理心中だ。自分の額に鉈を打ちつけて死んだそうだ」
「どういうことです」
「さあな。まさしく猟奇世界だ。そんなことで下巻は発刊されなかった。『屍の王』は未完の小説だ。まあ、これを知ったところでなんてことはないんだが、ちょっと教えておこうかなと思ってね」
「読んでみたいですね」
「俺もそう思って、知り合いの古書店に問い合わせるつもりだ。手に入ったら持っていくよ」
お願いします、と電話を切り、少し躊躇《ちゆうちよ》してから電話線のジャックを引き抜いた。
しばらく寝るつもりだった。
病院で充分眠っていたはずなのに、猛烈に眠かった。
逃避だな、と思いながらも良輔は湿った畳にごろりと横になった。
悪い夢を見ないようにと願いながら。
3
洞窟《どうくつ》のような部屋だ。
岩肌を模してつくった壁は、昼の光で見れば安っぽいコンクリート製なのだろうが、薄暗いここでは数十億年の歳月さえ感じさせるほどにリアルだ。
――変わった店だね。
良輔の台詞《せりふ》に笑顔で応え、女はベッドに横たわった。
何も身につけていない。
薄闇の中、ぼっと光るほどに肌が白い。
こんな綺麗《きれい》な子だと思わなかったよなどと下らない世辞を言いながら良輔は女にのしかかっていった。
良輔も全裸だ。
躰《からだ》の下で乳房がへしゃげた。
ひんやりとした皮膚がぺたりと吸いついてくるのが心地好い。
好きだの可愛いだのと戯《ざ》れ言《ごと》を荒い息とともに吐き出しながら良輔は女を触り掴《つか》み揉《も》みしだき噛《か》み舐《な》めしゃぶり吸う。
やがて痙攣《けいれん》でも起こしたように硬直したペニスを女は器用に擦《こす》り上げながらそこに導いていった。
熱く濡《ぬ》れた内へするりと滑り込み締めつけられれば堪《たま》らず良輔の腰が動き出した。
良輔は女の顔を見ていた。
眉間《みけん》に皺《しわ》寄せ薄く開いた眼が切なげに良輔を見ている。すぼめた赤い唇から吐息とともに桃色の舌先がちらちらとのぞく。
良輔の動きが激しくなる。それに合わせて女が腰をゆする。
嵐の船上で見つめ合っているかのように上下に動く女の顔。汗でへばりついた前髪を良輔は掻《か》き上げた。どう見ても苦痛に歪《ゆが》む顔だ。痛みを堪え迫る死期に怯《おび》える顔だ。
性的な恍惚《こうこつ》を小さな死だと述べたフランスの無神論者がぽかりと頭に浮かび霧消した。
良輔にも〈小さな死〉が訪れようとしていた。
そのときだった。
良輔の背中に爪を立てながら、死ぬ死ぬと女は口走った。
冷水を浴びせられたように良輔は急に醒《さ》めていく。
演技だ、演技。
これは演技だ。
そのときに死ぬ死ぬなどと言う女をエロ小説以外で見たことがない。これは演技だ。古臭い陳腐な演技だ。
馬鹿馬鹿しくなって離れようとした良輔を、背中にまわされた女の両腕がぐいと締めつける。
下から狂ったように腰を打ちつけてきた。
下弦の三日月に細く開いた目蓋《まぶた》から、真っ白な眼球がのぞいていた。犬のように息が荒い。
その息に合わせ、唇の端から泡が噴き出し始めた。やがてだらだらと吹きこぼれる唾液《だえき》は頬から首筋を伝う。
何だ何だ演技じゃないのかこれは演技じゃないのか。
恐ろしくなって離れようとする良輔の腰に、女の脚が蔦《つた》のように絡まった。
ぐるりと女が躰を横に回転させた。
上下が入れ替わる。
女の両腕が良輔の肩を押さえつけた。まるで金縛りにでもあったように良輔は動けない。
女が野太い声で「死ぬ!」と吠《ほ》えた。
動きが止まった。
ぐったりと良輔の躰にのしかかってくる。
うるさいほどの静寂。
そして――。
「ほうら、死んだ」
鳥肌たつほどに不快な声がした。
良輔は横を見た。
部屋の隅で黒々とした影が直立している。
その影が喋《しやべ》っていた。
「おまえが殺したんだ」
影が笑っているのが良輔にはわかった。
「おまえがその女を殺したんだ」
「違う、俺は何も……」
「おまえが殺したんだその償いはしなければならないその女を取り返してこなければ彼の地まで出向いて女を取り戻してこなければそれがおまえの償いだしそれがおまえの宿命なのだからだから早く――」
声は息継ぐことなくひたすら続く。
良輔は部屋の隅の影を見つめていた。
腐臭が鼻を刺した。
見てはならない、と良輔は思った。
そうだ、見てはならない。
女の顔を。死んだ女の顔を。
視界の端に青黒い肉の塊が微《かす》かに見える。
女の顔を見てはならない。そう思うたびに眼は正面にあるであろうそれへと引き寄せられていく。
良輔は眼を閉じた。
目蓋が引きつるほど堅く堅く眼を閉じた。
腐臭が濃い。
腐った肉汁を鼻孔や舌になすりつけられているような気がする。
吐き気がした。
涙がじわりと滲《にじ》む。
眉間がずきずきと痛んだ。
脂の汗が顔や掌《て》や背中を湿らせる。
「滑稽《こつけい》じゃないか、眼を閉じているのは。見たくないものを見ずに済むかもしれないが、見たいものまで見えやしない。しかも見たいか見たくないかは見ないと判断できない」
声がくすくすと笑った。
蛆《うじ》のたかった死体のような笑い声。まるで、俺の眼の前にいるこの女の――。
良輔は目を開いた。
女の裂けた唇の端がめくれ、腐った歯茎が見えている。歪んで開いた口腔《こうこう》から灰色のぽってりとした舌がだらりと伸びていた。眼球はスプーンで抉《えぐ》りとったように失せ、赤く黒くぽっかりと眼窩《がんか》が広がるだけだ。半ばまで千切れた耳は奇形の羽のよう。その耳からだらだらとタールのような液が流れる。潰《つぶ》れた鼻孔からも流れる。口腔からも流れる。
その頭がぐいと後ろに持ち上がった。それにつられるように首が、胸が、良輔から離れて持ち上がっていく。
女はブリッジでもするように胸を反らせ、それから腰が、脚が離れていった。
女の首に赤い紐《ひも》がかかっている。その紐で女は上に引き上げられているのだ。紐の端は闇に溶けて見えない。
女の躰がゆっくりと楕円《だえん》を描いて揺れている。伸びた爪先が良輔の躰をなぞった。
みし
みし
みし
赤い紐がどこかで擦れて音を立てている。堪らなく嫌な音だ。
そうだ、ここは、これは、この音は……。
良輔は大きく口を開き、叫んだ。
「許してくれ!」
眼を開けば煤《すす》けた天井が見えた。
このままオーブンに投げ込めば良い焼き色がつきそうなほど全身脂汗に包まれている。
夢だ。
最後に感じた激しい罪悪感も夢であってこそのものだ。
そう、これは夢だ。
わざと呟《つぶや》くが躰の震えが止まらない。心臓の高鳴りが止まらない。
昼過ぎの太陽が脅すように良輔を照りつけていた。
午睡にもっとも相応《ふさわ》しくない部屋と季節だ。
そう思いながら良輔は半身を起こした。
ノックの音がした。
思わずひいと声をあげ、一人照れ笑いを浮かべた。
大丈夫ですか。
悲鳴が聞こえたのだろう。隣に住む女の声だ。
大丈夫です、何でもありません、とできる限り冷静な声で答える。
そうだ、大丈夫だ。すべてはただの夢だ。
そう、夢だ。
陽光に炙《あぶ》られ蒸し上がった部屋を出て、しんとした廊下に出る。軋《きし》む木の廊下を歩き突き当たりに。共同の洗面所で頭から水を浴びる。その水が錆《さび》臭く生暖かい。
まさか血、と顔を上げると、白く曇った鏡に己れの顔が映っていた。薄暗い廊下でもわかるほど眼の下にくっきり隈《くま》が浮き上がっていた。
汗臭いタオルで髪から顔までごしごしと拭《ふ》く。
そのタオルを首に掛け後ろを向くと女が立っていた。隣の女だ。二十代前半か十代かもしれない。大きな眼がいつも驚いているように見える。何をしているのかわからないが、平日の昼間から部屋にいるのだ。会社勤めではないだろう。
「大丈夫ですか」
女が心配そうに言った。
「ええ、有り難う。何でもないんですよ。ただ――」
「お仕事大変なんですね」
「僕の仕事、知ってるんですか」
「もちろん、草薙先生でしょ」
「……センセイ、ね」
「ご本、持ってます。ファンなんですよ」
「有り難う」
礼は言ったが、すでに死んでしまった誰かの話でも聞いているようだった。
「これからも頑張ってくださいね。新作楽しみに待ってます」
小さく礼をして女は部屋に戻っていった。
フェイクファーでもこもこしたサンダルの音が遠ざかっていく。
新作楽しみにしています、か。新しいエッセイ集のことを言っているのだろう。まさか小説を書いているとは思っていないだろう。それにしても、こんなところにかつての俺のファンがいたとはな。
ポケットの中を探って腕時計を取り出す。
舌打ちしてから慌てて部屋に戻って服を着替えた。約束の時間まであまり間がなかった。アパートを飛び出し駅へと向かう。タイミング良くホームに入ってきた列車に乗り込む。乗ってしまえば目的地まで三十分ほど。ぎりぎりで約束の時間に遅れずにすみそうだった。行き先は良輔の出身校だ。彼の入学当時はBクラスの私立大学だったが、今はかなりの競争率を誇る有名校になっていた。
良輔の『屍の王』の中で、主人公である『草薙良輔』が学生の頃の記録を調べるシーンがある。いくら調べても、彼がその学校に在籍していたという証拠が何もない。そんな場面を描写していて、ふと気になった。
俺の記録はあるだろうな。
すぐに大学に連絡した。当時の名簿を保管していることを確認し、草薙良輔の名まえを検索してもらった。少々の間があって、その事務員は答えた。
「そんな名まえはありませんね」
「そんなはずがない。私はそこに通っていたんだ」
「在学中の学生番号はわかりますか」
「覚えていないよ。一九八八年度国文科卒業の草薙良輔だ。ゼミは安川教授のゼミをとっていた」
「卒業年月日に間違いはありませんか」
「間違いない。悪いがもう一度調べてもらえるか」
「それはかまいませんが」
すべてコンピュータに登録しているのだろう。キイを押すかたかたという音がしばらく聞こえていた。
「……ありませんね。一九八八年卒の中に草薙良輔の名まえはありません」
「馬鹿な。登録漏れじゃないのか」
「有り得ません。登録時に卒業者数と照らし合わせて確認しています。記入漏れがあればすぐにわかります」
「それでも……」
「卒業者名簿はお持ちですか」
「いいや。確か卒業後に購入するようになっていたやつだな」
「そうです」
「それを送ってもらえないか」
「残念ですが卒業生以外の方にお譲りすることはできません」
「だから何度も言っているだろう。私はそこの卒業生だ」
「と言われましても」
「じゃあ、そっちに行く。閲覧だけならいいだろう」
「それもちょっと……」
「メモも取らない。ただ私の名まえを探すだけだ」
結局良輔は半ば無理やり卒業者名簿を見せてもらうように約束を取りつけた。昨日のことだ。
列車が駅に着いた。
学生街、というほどでもないが、大学に近づけばさすがに学生の数が増える。どれが学生か区別がつくわけではないが、こんな郊外に似つかわしくないようないまどきの若者が群れている。
正門をくぐり、まっすぐ学生課に向かった。
まったく、とは言わないが、ほとんど昔のままだ。そのどれもに見覚えがある。迷わず学生課にたどり着くと、カウンター越しに昨日電話した草薙だがと告げた。
痩《や》せた顔色の悪い男が、あ、ああああ、と低い声で言いながら近づいてきた。
「昨日の方ですね」
言いながらカウンターの向こうで椅子に腰を降ろした。
「草薙良輔です」
良輔は名刺を渡した。
「あの事件のエッセイストと同姓同名ですか」
娘の事件のことを覚えているのだろう。いろいろと尋ねられるのは面倒だった。
曖昧《あいまい》に頷《うなず》くとすぐ用件に入る。
「あれから考えたんですが、もしかしたら卒業年度を間違って覚えているのかもしれませんね。悪いけど、前後一年分の検索をしてもらえませんか」
「何年卒業でしたっけ」
男は陰気な声でそう尋ねた。
「一九八八年です」
「ちょっと待ってください」
モニターをちらちら見ながら男はキーボードを操作する。骸骨《がいこつ》だの死神だのと学生から呼ばれているであろう痩せた顔色の悪い男だ。
「――ありませんね」
「嘘だ。そんなことは有り得ない」
「嘘だと言われても……」
男は恨めしげな眼で良輔を見上げた。
「だから何度も言っているように、俺はこの学校を卒業している。そうだ。安川教授を呼んでくれ。あの人なら俺のことを――」
「いませんよ、安川教授」
「いない?」
「躰《からだ》を壊されて退職されました」
「退職……」
――死んだよ。
痩せた男の後ろで書類を眺めていた中年の男が言った。
「ああ、そう言えば去年通知がありましたね」
痩せた男が何が可笑《おか》しいのか笑いながら言った。
「死んだ……」
俺の過去が煙草の煙のように消えていく。
良輔はそう思った。
急がなければ何もかも消え去ってしまう。
何の根拠もなくそう思うと、気が急《せ》いて仕方がない。
「卒業名簿は、どうしますか」
男が聞いた。
「そう、それだ。見せてもらえる約束だったろ」
男は何も言わず、一冊の分厚い名簿を取り出した。
「そこにもないですよ」
男はうっすらと笑って言った。
その顔を良輔は見ていない。
むしゃぶりつくように名簿に飛びかかり、頁を開いていく。
一九八八年度文学部国文科の卒業生を順に見ていく。知った名まえが幾つもある。同期生たちだ。だが、良輔の名はなかった。
親しかった友人の住所と電話番号を控えようとすると、男が止めた。メモやコピーは駄目だという。仕方なく電話番号を暗記した。学生課を離れてすぐに手帳に書き込む。
駅に向かいながら、良輔は次第に不安になってきた。
俺は本当にこの大学を出たのだろうか。
昨日のことのように、とは言わないが、それでも大学で送った四年間は克明に覚えている。軽音楽部で友人のロックバンドのために詞を書いていたことや、第二外国語の授業をさぼって友人とナンパに出かけたこと。酒を飲み比べて救急車で運ばれた友人。スキーツアーに参加し初日に骨折したあいつの顔。卒論の質問に訪れた安川教授宅の意外な安普請。
列車の中でもずっと考えていた。大学で起こった幾つもの出来事を思い出そうとしていた。そのどれもがリアルに思い出せた。駅に着き改札を出ると、陽はすでにビルの合間に隠れようとしていた。
西日差す駅前のコンビニの脇で、脂で固めたボロ布のような男が段ボールを集めている。その横を通ると、男が負けるなよと声を掛けてきた。
よほど深刻な顔をしていたのだろう。
苦笑いを浮かべ商店街を歩いた。去年アーケードを作り直すかどうかでもめて、結局そのままになっている。金がなかったのだ。町会長が横領しているという噂もあった。ひどい雨漏りがする。それでも平日の午後はそれなりに賑《にぎ》わっていた。
商店街を抜け狭い路地を右に折れる。急に人の姿が途絶えた。街灯が少なく、薄暗い。いつものように良輔は廃墟《はいきよ》という言葉を思い浮かべた。駅前をうろつく人たちはいったいどこから来てどこに帰るのかと疑問に思う。
どの家も扉を閉ざし、窓にはカーテンが引かれてある。そこから漏れる明かりさえ寂しく暗い。まだ夕方だというのに、明かりをすっかり消している家も多い。
歯が抜けたようにぽっかり開いた空間に黒々とうずくまるのは、焼け落ちた焼き肉屋の廃材だ。その回収さえまだされていないのは、新しい持ち主が逃げたからだと言われていた。何故逃げなければならなかったのか、噂は幾通りもの理由を伝えていた。焼け死んだ太った店主の幽霊が邪魔をしているから、などという噂まで流れていた。
新建材の焦げた、胸の悪くなる臭いが鼻を刺す。それが吝嗇《りんしよく》だと噂だった主人の妄執のように思え、良輔は薄気味が悪くなった。
自然と脚が早くなった。
壊れた自動販売機の明かりが、不規則に明滅している。
錆《さ》びた看板のグロテスクで猥褻《わいせつ》な女が、その光に合わせて表情を変えた。痴漢にご用心の文字は掠《かす》れ、消えかけていた。
こんなものが防犯の役目を果たすのか。
いつもそう思いながら家に向かう。
良輔のアパートが見えてきた。木造二階建て。築何十年経っているのか、知らないものが見れば人が住んでいるとは思えないようなボロアパートだった。
ガラス戸を開くと、饐《す》えた湿気が良輔を迎えた。
玄関先で靴を脱ぎ、靴箱から草薙の名まえが書かれたビニールのスリッパを取り出した。脱いだスニーカーを手に持ちスリッパに履き替えると、二階へと昇っていく。
声高に争う男女の声が聞こえた。階下に住む若い夫婦だ。駅前のパチンコ屋で、良輔は男が働いているのを見たことがあった。ほとんど毎晩のように喧嘩《けんか》し、その後女の媚《こ》びたような呻《うめ》き声がアパート中に響く。最後に女が壊れる壊れると絶叫するので、アパートの住人は夫婦のことを≪壊れ物≫と呼んでいた。
階段で坊主頭の若い男とすれ違った。はっきりシンナーの臭いがする。いわゆるフリーターなのだろう。何の仕事をしているのか、あるいはしていないのか、男はこのアパートに一人で暮らしていた。
男は良輔が横を通ったことにさえ気がついていないようだった。
部屋に戻ると、人が住める場所とは思えないほどの熱気が良輔を迎えた。窓を開け放したが、西日が無遠慮な光を増しただけだ。風もない。
部屋はどこもかしこも赤く染まっていた。
畳にぺたりと腰を降ろすと、血溜《ちだ》まりの中で座っているような気がした。
これは現実だ。
紛れもない現実だ。
この蒸し暑さ。己れの臭い。畳にへばりつく足の裏の感触。流れる汗。
その汗を拭《ぬぐ》おうともせず、良輔は考えていた。
だが、二十歳のときの俺は、十代の頃の俺は、もっと幼い頃の俺は、俺の記憶の中に存在するそれらは現実なのか。もしそうでないのなら、いまここにこうして座っている俺は、誰だ。
良輔は受話器を手にした。
良輔の過去を間違いなく覚えている人物――実家の両親に電話するつもりだった。
連絡をとらなくなって十年近い。ここ数年は年賀状も暑中見舞いも出していなかった。
呼び出し音がなる。
一回、二回、三回……十回まで待って受話器を置いた。
夫婦揃って外出しているのだろうか。
明日また電話しよう。
そう思いながらも、良輔は両親が決して電話に出ないであろうことを予感していた。
4
マンションの郵便受けからだらしなく新聞があふれていた。
「腹一杯って顔だな」
一人軽口をたたきながら番場真莉緒は暗証ボタンを押した。オートロックの扉が開きエントランスホールに入る。
エレベーター横に並んだ郵便受けの鍵《かぎ》を開け中を見た。いつもの倍ほど中身が詰まっていた。
真莉緒が家を留守にしていたのは一晩だけだ。新聞だけではこうはならない。
ぐしゃぐしゃになった二日分の朝刊と夕刊を掻《か》き出す。一緒に茶封筒と小包がひとつ出てきた。
茶封筒は泉からのものだった。入っているのは『屍の王』の原稿だろう。小包の差出人はキクニエンターテインメント。この中身も『屍の王』。いかがわしいホームページで購入したビデオだ。
真莉緒はそれらを抱えてエレベーターに乗り込み最上階へ上がる。扉は前面がガラスになっていて、外が見える。エレベーター内での悪戯《いたずら》や犯罪を防ぐためらしいのだが、真莉緒はこの窓が苦手だった。
上から下へと断続的に流れる各フロアに、ひょいと異形のものが顔を出しそうで恐ろしいのだ。外でエレベーターを待っているときも同じことを思う。扉の中にいる恐ろしい何かを見てしまったら、と。
とうに真夜中を過ぎている。中庭を見降ろす回廊を通って部屋に戻るまで誰とも出会わなかった。
扉を開け、廊下の電灯を点《つ》ける。それからありったけの電灯を点けながら進み、居間に入った。
まるで倉庫だ。
一人住まいには広すぎる3LDKに本とビデオがみっちりと詰まっている。その隙間を埋めているのは奇怪な人形たちだ。皮のエプロンに皮のマスクをつけた大男。黒のレザースーツに包まれた男は禿頭《とくとう》に無数の釘《くぎ》を打ち込まれている。蜂のような模様のシャツを着、焼け爛《ただ》れた顔を持った男は長い金属の爪を振り上げていた。そして人の首をあっさりと断ち斬りそうな大包丁を手にしている白いゴムマスクの男。さらに顔の半面を蜂に覆われた異人。
三十センチほどの精巧な人形たちがところ狭しと並べられていた。
番場真莉緒はホラー作家である前に熱烈なホラーファンだった。未《いま》だに独身なのはホラー好きの道楽が過ぎるからだ。ホラーに関するコンベンションや映画祭があればどこであろうと、国内に留《とど》まらず海外まで出かけていく。ほとんど自宅にいる暇がない。原稿のほとんどが旅先で、あるいは移動中にワープロで書かれ、出版社に郵送される。
今も北陸で行われた映画祭から帰ったところなのだ。
脇に挟んだ新聞の束をそのままフローリングの床に落とす。それから医者が往診用に持つような愛用の革の鞄《かばん》をテーブルに置いた。小さな、愛らしいといってもいいようなイタリア製の丸テーブルだ。テーブルの上にサインがしてあった。ダリオ・アルジェントと読める。ローマのプロフォンド・ロッソという店で購入し、船荷で日本に送ったものだ。つまりは、こんなことにばかり金をつぎ込んでいるわけだ。
テーブルの上にこれまた可愛らしいピンクの留守番電話が置かれてあった。昔の恋人が連絡をつけるために無理やり置いていったものだ。今なら携帯電話かポケベルを渡すところだろう。つまりそのような昔から、親しく女性とつきあったことがないということだ。
留守録のボタンが明滅していた。
編集者から二件と作家仲間から四件、そして最後に入っていたのがそれだった。
最初真莉緒はそれをお経か何かと思った。音程のある『歌』にもかかわらずそう思ったのは、あまりにも無機質な声だったからだ。
感情というものが皆無だった。
とはいえ真莉緒はすぐにその曲が『シャボン玉』だと気づいた。
また悪戯かよ。
真莉緒は舌打ちした。
真莉緒は臆病《おくびよう》だ。暗闇が極端に怖い。怪奇実話の類《たぐい》も大嫌いだった。誰かが話し始めると本気になって怒った。ホラー作家のくせに。友人たちがそう言うと、ホラー作家だからだ、と答えた。
闇を恐れる人間だからこそ、闇の恐ろしさを描ける。それが真莉緒の持論だった。
というような理屈とは無関係に、友人たちは面白がって真莉緒を驚かそうと悪戯を仕掛けてくる。だから……。
いつもの友人の悪戯だ。
そう思いながらも腕に鳥肌が立っていた。
オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。
子供を守ってくれるおまじないだ。祖母にそう教わった呪句《じゆく》を呟《つぶや》く。もう子供とは到底呼べない年齢であったが、これを口にすると多少は恐怖が去っていくのだった。
呪句を鼻歌のように口ずさみながら、真莉緒は茶封筒を乱暴に破ると原稿を取り出した。やはり『屍の王』の原稿だった。長編にしては枚数が少ない。最後のノンブルが百十三。泉はこれで本を出すと言っていたから短編ということはないだろう。
ぱらぱらとめくってからテーブルの上に投げ出すと、次は小包に取りかかった。テープと紙でがんじがらめにされたそれを、ばりばりと開いていく。まるでクリスマスプレゼントをもらった子供だ。
ビデオテープがひとつ。それ以外には何も入っていなかった。
ビデオ、LD、DVD、CD、VCD、どんなメディアでも再生できる自慢のデッキにテープを入れる。
椅子に腰掛け、リモコンを探し出して再生のボタンを押した。
砂嵐が映ったのを確認してから、原稿を手にした。
いきなりモニター画面に映し出されたのは手だ。乾きひび割れた皮膚は、薄く骨を包んでいる。まるで木乃伊《ミイラ》の手。その手の持ち主が生きているとは思いづらい。死者の手の、干し魚そっくりのその指が摘《つま》んでいるのは一枚の写真だ。
人の顔が映っているようだがはっきりとは見えない。ただその眼だけが輝いてでもいるように白く、針で突いたような小さな瞳《ひとみ》まではっきりと見えていた。
画面はモノクロームと見間違うほどに色がない。屋外なのだろう。写真が時折ゆらゆら揺れる。
それだけのことを、真莉緒は原稿から眼を上げた一瞬の間に感じとった。
次の瞬間には画面が変わっていた。
どこか郊外を車で走っているのだろう。景色が流れていく。コマ落としだ。高速道路を過ぎ、山沿いの田舎道までを一瞬に通り過ぎていく。トンネルをくぐったとたんに画面が変わった。
コンクリートで囲まれた部屋だ。壁も床も汗をかき黒く濡《ぬ》れている。からからからと音をたてているのは換気扇か。
十六ミリフィルムをビデオに落としたのか、粒子の粗いざらついた画面だ。しかも終始細かく揺れている。手持ちカメラなのだろう。撮影しているのは素人か。
長く見ていると酔いそうで、真莉緒は原稿に眼を戻した。ちょっと毛色は変わっているが、払った金に見合うだけの内容は期待できそうになかった。
――見るのか。
声がした。不快な声だ。生理的に受け入れられない声。
――そうか、見るのか。
声に誘われ、再び画面を見る。
いつの間にか女が連れてこられていた。何も身につけていない若い女だ。痩《や》せている。胸が薄く、尻《しり》に肉がない。まるで少年のように見える。人形のように前に投げ出した脚が大きく開かれていた。もともとなかったのか剃《そ》られたのか、股間《こかん》の肉の亀裂《きれつ》が何に妨げられることもなく見える。
女が現れたことで、この部屋の天井が異様に低いことがわかった。女は壁にもたれ床に腰を降ろしていた。その頭から数十センチのところに天井がある。
部屋ではないのかもしれない。通路か、何か倉庫のようなものかもしれない。
女はゲットーの捕虜のように髪を短くでたらめに切られていた。眼と口を大きく開き、驚いたまま凍りついたような表情をしている。が、その瞳は虚《うつ》ろだ。怯《おび》えも安堵《あんど》も、感情と呼べるものは何もそこにない。ただ顔だけに驚愕《きようがく》をへばりつかせている。
カメラは寄りもせず引きもせず、ずっと部屋の中を正面から映していた。
四つに折った毛布が部屋の隅に置かれてあった。その中央がむくりと持ち上がる。一枚の布の上で跳ねる銀の球の奇術のようだった。
毛布が四方に垂れる。さらに中央が盛り上がった。
そこに浮かび上がったシルエットは、うずくまる人体のものだ。
おいおい、場末の演芸場じゃあないんだぜ。
呟き、真莉緒は原稿に眼を戻した。
呻《うめ》き声が聞こえた。
歓喜と苦痛の呻きだった。
再び画面を見ると床が血に塗《まみ》れていた。黒々と穴が開いたような血溜《ちだ》まりができている。
震えるように毛布を左右に揺すると、這《は》いつくばったそれは、すすとカメラの方へと近づいて画面から消えた。
女が笑っていた。笑っているように見えた。唇の両端から耳まで、口が半月に切り裂かれているのだ。ずらりと並んだ小さな歯がのぞいていた。女は舌を長く伸ばしていた。その舌先に釣り針が引っかけられ、テグスで引っ張られているのだ。テグスの先は縦に裂けた喉《のど》に安全ピンで留められていた。
眼だけは驚いたように開いたままだ。
無残な笑顔を浮かべ舌を伸ばした女は、まだ生きていた。見開いた眼から涙が流れている。微《かす》かだが呻き声も聞こえている。
なかなか良いできだ。
見慣れた『残虐描写』にそう評価を下すと、真莉緒は原稿に眼を通し始めた。それからは読むことに熱中していた。読み終わり原稿の束をテーブルに置くと、もうテープは自動的に巻き戻しを始めていた。
やはり原稿は途中までだった。それが真莉緒には不思議だった。
ここまでしか入手できなかったのか。
それとも全部を俺に見せられないわけでもあるのか。まさか今草薙良輔が書いている最中というのではないだろう。そんなことは有り得ない。いや、全くない話でもないか。獄中手記などというものが存在するのだから、何らかの伝手《つて》でもあればできないこともない。それにしても、どうして良心的出版なんぞを心から信じている堅物の泉が、殺人犯の書く小説などを出版しようと思い立ったのか。確かに売れるかもしれないが、そうであるからこそ泉の性格なら出版を見合わせるような話ではないのか。
それならどうして……。
直接泉に聞いてみよう。真莉緒はすぐにそう思った。
思いついた疑問はその場で回答を得る。真莉緒はそれを信条と言っていたが、単に我慢ができない我《わ》が儘《まま》な性格だというだけのことだ。
眼球に突き立った短針と長針が時刻を知らせる悪趣味な掛時計を見た。
午前一時半。
まあ、あいつのところならいいか。
真莉緒はテーブルの上の電話に手を伸ばそうとした。泉の自宅に電話するつもりだった。
――やめとけよ。
銀紙を奥歯で噛《か》んでしまったような不快感を感じた。その声のせいだった。まだビデオが終わっていなかったのか、とモニターを見る。
何も映っていなかった。
視界の端で何かが動いた。
部屋の隅の方だ。
地を這う何かがそこにうずくまっている。
肌が粟立《あわだ》った。
駄目だ駄目だ見ちゃ駄目だ。
躰《からだ》が動かない。首が動かない。頭が動かない。なのに眼だけが吸い寄せられるように声のした方へと向く。
そして見た。
異形の人形に覆われた部屋の隅。そこに毛布をかぶってうずくまっているものの姿を。
――余計なことをするのはやめとけよ、な。
毛布の下から声がした。
真莉緒は椅子に腰掛け、固めた拳《こぶし》を両膝《りようひざ》に置き、まるで写真館で記念写真でも撮っているような姿勢のまま強《こわ》ばっていた。
ぎゅうと喉が狭まり息苦しくなった。
――余計なことをしなければ長生きできる。いわゆる人生訓ってやつだよね。
歯を軋《きし》ませるような声でそれは笑った。
――でなきゃあ……。
毛布をかぶりうずくまったそれが、さわさわと真莉緒の方へと這ってきた。
真莉緒はただ顎《あご》を締め、それを見つめていた。
小便だけは漏らしたくない。
それが真莉緒の、ただひとつの願いだった。
真莉緒の足元でそれは言った。
――おまえが『屍の王』を書いてもいいんだよ。おまえが望むのならね。そうすればおまえもホラー史に名まえを残す作家になれる、かもしれない。
真莉緒は小指一本動かすことができなかった。
毛布の端が持ち上がった。
中から何かが出てくるのだ。
考えただけで真莉緒は気を失いそうになった。
やめろ。そこから出てくるな。
俺は何もしない。だから頼む。そこから出てこないでくれ。
そう叫びたかった。が、舌が動かない。口腔《こうこう》の奥で舌が一足先に気を失っているようだ。
毛布の端がめくれた。
桃色の鱗《うろこ》?
いや、爪だ。
淡いピンクのマニキュアをした小さな爪が見えた。
長虫のようにゆらゆら揺れながら現れたそれは、細くしなやかな女の指だ。
それが一本、また一本と毛布から這い出てくる。
やがて四本揃ったそれが、ぐいと鉤《かぎ》のように曲がった。
爪先が床を掻《か》く。
フローリングの床が、きりと鳴った。
ずるりと手が現れる。
磁器のように白く滑らかな肌。
見てはならないと思えば思うほど、目蓋《まぶた》は凍りつき瞬きさえできない。
乾いた眼球がちくちく痛む。
毛布がふわりと持ち上がった。
腐臭が吐息のように真莉緒に吹きかけられた。
めくれ上がった毛布の中、凝った闇に白く浮かんだ顔を見たような気がした。
真莉緒の頭の中で何かが弾《はじ》けた。
バネでも仕掛けてあったように、彼はひょいと椅子から飛び上がった。
何も見ていない。
何も考えていない。
躰だけが機械人形のように動いている。
そのまま、真莉緒は床を埋める人形を蹴倒《けたお》し廊下を走り扉に体当たりし、マンションの部屋から飛び出した。
仄暗《ほのぐら》い廊下で一瞬立ち止まる。
中庭を囲む回廊だ。真莉緒の部屋から中庭を挟んでちょうど真向かいにエレベーターがあった。
真莉緒がその部屋を選んだのだ。人の出入りがうるさいだろうと、できるだけエレベーターから離れた部屋を。
真莉緒は走った。
エレベーターめがけ短距離選手《スプリンター》並みの速さで走っていた。
恐怖が彼を走らせていた。
息をするのも忘れ、全力で走る。走り続ける。
エレベーターにたどり着き、ボタンに飛びつく。
拳で押した。
立ち止まると躰から力が流れ落ちていった。膝ががくがくと震える。
音をたて息を吸い、そして吐いた。
息をしていないことに気がついたのだ。
肺が狂ったように呼吸を開始した。
急激な運動に、心臓が捕らえられた魚のように暴れている。
頭皮に汗が噴き出した。ぬるい汗は首筋を伝い背中に、額を伝い頬へと流れる。
真莉緒は蒼褪《あおざ》めた顔で後ろを振り向いた。
回廊には誰もいない。正面に見える彼の部屋の扉も閉じたままだ。
大丈夫。誰も来てはいない。大丈夫。
言い聞かせながら前を向く。
裸足《はだし》だった。
右手に革靴を掴《つか》んでいる。とっさにそんなことをしていた自分に驚いた。
前後を注意深く見回しながら靴を履く。
エレベーターは苛々《いらいら》するほどゆっくりと最上階に向かってきていた。
真莉緒はボタンを連打しながら扉が開くのを待った。
まだかまだかまだかまだかまだか……。
落ち着きなくボタンを押す音だけがかちゃかちゃと廊下に響く。
ようやくエレベーターが来た。
ガラス越しに中が見えた。
真莉緒はその場を動くことができなくなった。
ただじっとエレベーターの中にいるそれを見つめていた。
くす、と笑うような音をたて、扉が開いた。
そこに女がいた。
裂けた唇を大きく開き、血泡を吹きこぼれさせながら女は笑っていた。そのたびに裂けた喉《のど》から笛のような音が漏れた。
長く伸ばされた舌が顎を舐《な》めている。にもかかわらず、女はエレベーターガールの声を真似、はっきりとこう言った。
「地階へ参ります」
絶叫し、真莉緒は宙を駆ける勢いで走り出した。
5
新幹線を降り、良輔は地下鉄に乗り換えた。十年ぶりの大阪はずいぶん様子が変わっていた。地下鉄を降り、地下街を通って私鉄に乗り換える。
実家は刃物の生産地として有名な街にあった。
数百年前には国際都市だったらしいが、そんな面影はまったくない。
良輔は大阪もこの街も嫌いだった。街は薄汚れ埃《ほこり》っぽく、人はにたにた笑いながら土足でどこまでもやって来る。何もかもが嫌で、良輔は東京の大学に逃れた。それからろくに実家に帰ってこなかった。
やから、だの、ちゃうか、だのという関西弁が耳に入ってくると、懐かしさより嫌悪感が先にたった。その粘液質の無遠慮さに押され身が縮まる気がする。
駅に到着した。
良輔は悪意を感じる。
大声で会話する品のない中年の女たちに。獣のように走り回る薄汚い子供たちに。臭い息と整髪料の臭いを撒《ま》き散らしながら汗ばんだ肌をくっつけてくる男たちの無神経さに。
悪意に囲まれ良輔は改札を出た。
湿気た風が病んだ犬のようにまとわりついてくる。腕を絡め、なあ、そうだろ、と同意を求める酔った男のような街。
良輔はそれを土俗的だと感じる。
暗く重い血縁のしがらみは、山深い山村にのみ残されているのではない。すべての郊外が世間というタールに浸かった閉塞《へいそく》的な環境にあるんだ。
そんなことを考えながら良輔は寂れた商店街を歩いていた。
父兄参観日の帰りにコロッケを買ってもらった肉屋がある。学校帰りに悪友たちと寄った喫茶店がある。店先のスイカを盗んでこっぴどく叱られた八百屋がある。
間違いなく良輔が十七歳までを過ごした『あの街』だ。自転車屋、クリーニング店、理髪店。そのどれもに見覚えがある。
が、何もかもがあの時のまま、というわけではない。最後に帰省してから十年以上もの歳月が経っているのだ。変化がないわけがない。つぶれた店もあれば新しい店もある。そうでないところも改装され改築されている。様変わりしているといってもいい。しかし数十年ぶりに会う親戚《しんせき》のように、それはただ老いただけで、その下にあの時の顔が透けて見えるのだ。
良輔はこの街にやってきたことが馬鹿らしくなってきた。ここに来るまでいささか不安であったことも、腹立たしかった。
俺がここで住んでいたことは、確かめるまでもない事実だ。これが偽りの記憶などであるわけがないのだ。
商店街を一本脇に逸《そ》れ、下町然とした街並みを歩く。
ホームレスがベンチで寝そべる、ゴミと犬の糞《ふん》だらけの公園を抜けると、巨大な石碑が規則的に並べられているのが見えてきた。
古い公団住宅だ。
日本で最初につくられた公団住宅だ、と良輔は父親に聞かされたことがあった。
全部で何棟あっただろうか。
F・12棟。そこに良輔の両親が住んでいる、はずだった。
犬に散歩をさせる老人や立ち話をする主婦たちに不審げな顔で睨《にら》まれながら、良輔はF・12棟を探した。同じ形のコンクリートの箱の間を番号だけを頼りに歩いていると、遊園地の迷路に入ったような気がした。蒸し暑かった。湿った空気が喉につかえ息がしづらいほどだ。
それでもようやく見つけ出し、中に入る。落書きだらけのエレベーターに乗り、五階へ向かった。換気扇が壊れそうな音をたてて回り始めた。壁は鍵《かぎ》か何かで擦《こす》ったのだろう。傷だらけだ。ただ猥褻《わいせつ》なだけの落書きもあちこちにある。なすりつけたチューインガムが死んだ軟体動物のようにへばりついている。
流れる汗をハンカチで拭《ぬぐ》いながら良輔は思った。
どこか荒《すさ》んだ印象がある。
築後四十年近く経っているのだ。古びるのは当たり前なのだが、それ以上に荒廃したものを感じさせる。不漁続きの漁村。晴天ばかりが続く農家。諦《あきら》めることに慣れ錆《さ》びついた心の奥でじくじくと粘液を垂らす嫉妬《しつと》や妬《ねた》み。
閉鎖的な田舎が持つ不快なものを凝縮した何かがここで育っている。何十年もかけて。
扉がガタガタと騒々しい音をたてて開いた。
廊下に出ると、どこからか大声で子供を叱る母親の声が聞こえ驚かされた。
五〇六号室が目的の部屋だった。
廊下を挟み右が奇数、左が偶数室だ。
リノリュウムの床が靴底にへばり付き、歩くたびにばりばりと音をたてる。
五〇二、五〇四、と通り五〇六号室の前に来た。
表札を見る。
西垣聡、房子、守と書かれてあった。
まったく知らない名まえだ。
部屋番号を確認する。間違いない。五〇六号室だ。
良輔は手にしたバッグから手帳を取り出した。住所を調べる。両親の名まえとともに、そこにはF・12、五〇六号室と書かれてあった。
少し迷ってから、良輔はインターホンを押した。
はい、と女性の甲高い声がした。母親の声ではなかった。
「あの、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
良輔がそう言うと、声は急にぞんざいになった。
「何ですのん」
「あの、この部屋に昔草薙というものが住んでいませんでしたか」
「草薙……。あんた誰」
良輔は返事をためらった。
「あのなあ、あんたがどこの誰か知らんけど、ここに草薙なんてものはいてへん」
「あの、失礼ですがここには昔からお住まいですか」
「団地ができた頃から住んでるけどな、そんな名まえは聞いたこともないわ」
「でも、あの、それじゃあこの近所に草薙というものは住んでいませんでしょうか」
返事はなかった。インターホンを切ったのだろう。良輔にはもう一度インターホンのボタンを押す勇気はなかった。
エレベーターの前まできて、もう一度手帳を調べる。何度見てもF・12棟の五〇六号室であることに違いはない。この住所に何度も葉書を出したし、小包を送ったこともある。それに確かめるまでもなく、良輔はその住所を記憶していた。高校まで過ごした家の住所なのだ。
引っ越したのだろうか。
しかしそれなら電話か葉書か、何らかの連絡があるだろう。いくら連絡を怠っていたとはいえ実の息子なのだ。
良輔が最後に母親と喋《しやべ》ったのはほぼ十年前、電話でだ。年賀状ぐらい出せと小言を言われた。それから引っ越ししたのだろうか。
良輔は公団住宅を離れ、電話ボックスに入った。実家に電話するためだ。
番号は指が覚えていた。
電話はつながった。しかし誰も出ない。ということはさっきの部屋にかかっているのではないのだろうか。あの部屋を離れてからそれほど時間は経っていない。あれからすぐに外出でもしていない限り、あの女がいるはずだ。
しつこく呼び出し音を鳴らし、受話器をおいた。
どうすればいいのかわからなかった。
何か途方もない企みに巻き込まれているような気がした。
ノックの音がする。
振り向くと迷惑顔でサラリーマンが扉を叩《たた》いていた。
すみませんと口の中で呟《つぶや》いて、良輔は電話ボックスを出た。
ふらふらと歩き、歩道脇に並べられたブロックに腰を降ろした。
暑かった。
蒸《む》し風呂《ぶろ》に入っているのと大差ない。熱したゼリーに頭まで浸かっているような気分だった。際限なく汗が流れた。頭の中身まで汗と一緒に流れ出ているような気がした。
コンクリートの路面を見つめる良輔の眼が白く濁っている。後五分もこの場で佇《たたず》んでいたら、暑気あたりで倒れていたかもしれない。そうならなかったのは、不意に思い出したからだ。まるで電球が輝き新しいアイデアの到来を告げる漫画のように、白濁した思考のなかでそれは光を放った。
来るときに通ってきた商店街に、小学校の同級生が住んでいたはずだ。
理髪店だ。
何度かそこで散髪してもらったこともある。まだ小さな頃だ。散髪を始める前に、飴《あめ》をもらったのを覚えている。
名まえは確か…………毛利《もうり》。
良輔はその理髪店へと急いだ。
店は覚えていた場所にあった。ただし外装も内装もすっかり変わっていた。かつては毛利理容室とかかれてあった看板がネオンサインになり、そこにはサロン・ド・モウリと書かれてあった。
ガラス扉を開き中に入る。
ひとの良さそうな中年の夫婦が、いらっしゃいませと迎え出た。
小さく会釈して、良輔は言った。
「あの、毛利君は、毛利|孝雄《たかお》くんはおられますか」
「僕ですけど」
えらの張った筋肉質の男が、小さな眼をぱちぱちさせながらそう言った。
まったく知らない顔だった。
良輔の知っている毛利は、丸顔の痩《や》せた小男だった。高校を卒業するまでは。
それから極端に容姿が変わったのかもしれない。
有り得ない、と思いつつも良輔は尋ねようとした。
僕のことを覚えていますか。
「あの……」
だがそう言ったきり言葉が続かない。
「どうしました」
蒼褪《あおざ》めた顔で口ごもる良輔を、男は心配そうな顔で見た。
「すみません。……おかしなことを聞くようですが、小学校の同級生に草薙という男がいましたか」
「草薙……さあ、知らんなあ」
おまえ、覚えとるか、と後ろにいた太った女に言った。さあ、知らんわ、と女は答える。
「女房は幼馴染《おさななじ》みですねん」
男は再び良輔を見た。
「昔はむちゃくちゃ可愛らしかってんけどね。それが今はこれや」
ほっといて、と女は後ろから男の肩を叩いた。愛想笑いを浮かべる気力もない良輔は、にこりともせず話を続けた。
「草薙良輔という名まえなんですけど」
「草薙良輔ねえ。聞いたことないなあ」
「小学校は中央第二小学校ですか」
「僕の出身校のこと?」
「ええ」
「そうやけど、それがどないしたんですか」
「一九七八年の卒業ですか」
「そうですよ。よう知ってるなあ」
見知らぬ男は気味悪そうにそう言った。
「はい、いや……あの、私は小説を書いておりまして、この辺りの取材をしているんです。ええと小説の舞台は今から二十年ぐらい前を想定していまして、できるだけ詳しく調べているんですよ」
「僕のことも?」
「いや、特にあなたのことだけを調べているんじゃなくて、中央第二小学校の一九七八年卒業者をちょっと……」
良輔はしどろもどろになりながら嘘を並べた。
それを信用したのかどうか、男は一応納得したようだった。
良輔は礼を言うのも忘れてその場を離れた。
混乱していた。
疑うこともなく存在していた『世界』が雲母のように薄く剥《は》がれ落ちていく。
ひとひら、
またひとひら――。
街並みには見覚えがあった。改札から出たときの街の風景も街のにおいも駅も駅前の店も商店街も、すべてを覚えていた。それらは記憶のままだった。それなのに、実家があった場所には他人が住み、小学校の同級生は見知らぬ人物に替わってしまっている。
俺の記憶はすべて幻でしかないのか。
もしそうなら――。
もしそうであるのなら。
俺は……誰だ。
6
泉は溜息《ためいき》をついた。
テーブルの上に載っているのは今日の昼定食「焼き魚定食」だった。
ここ数日酒と味噌《みそ》汁以外にろくなものを口にしていない。食べることができないのだ。
医者に行くべきだろうなあ。
そう思うとまた溜息が漏れる。
そんな暇はなかった。
書き下ろしアンソロジーを一冊。書き下ろし長編を二冊。雑誌掲載されていた長編を一冊。各社に散らばっている短編を集めた傑作選を一冊。それだけを今月中に出版することになっている。すべて泉の手によってだ。それ以外にもどうでもいいような雑事を任されている。猫の手も借りたいと言いたいところだが、あいにく泉は描が嫌いだった。そしてたとえ有能な猫が何匹か協力してくれたところで、医者にかかっている暇はなかった。まして入院にでもなったら。
入院。
己れで考えて己れでぞっとした。今まで一度として入院などしたことがない。医者に行ったことさえ数えるほどなのだ。
医者が嫌いだった。もっと正直に言うのなら怖かった。
数少ない親友と呼べる作家を半年前に失っていた。肺癌だった。
身寄りのないその作家に、泉はできる限り付き添っていた。
一片のひたすら増殖するだけの醜悪な肉塊が彼に与える苦痛は、泉の考える以上に凄《すさ》まじいものだった。
かつては柔道で県大会に出場した屈強な男が、触れば折れるほどに細くなった腕をベッドにばたばたと打ちつける。抗癌剤の副作用でまばらになった髪の毛をかきむしり、噛《か》み合わせた歯をキリキリと鳴らす。
やくざに腹を刺され、ドスを刺したまま自分の脚で病院まで行った豪放な男が涙を浮かべ助けてくれと言った。それが無理なら殺してくれと子供のように駄々をこねた。
親友の眼から見ても、それは醜悪だった。
死と、死に至る苦痛が人にもたらす仕打ちは、生の尊厳などというものからは遠く隔たったものだった。
無残だった。
彼が生きている間に成したことが意味を失うほどに。
入院というものから泉が思い出すのは、その時の友人の姿だ。骸骨《がいこつ》のように痩せ細り、腐臭を放ち、生きていることを示すものは死を恐れ苦悶《くもん》する醜態のみ。
ここ数日の躰《からだ》の不調が、どうやらただならぬものであることは泉自身も気づいていた。が、それの正体を知るのは恐ろしかった。
そんな暇はない。
決まり文句で己れをごまかしながら今までやってきた。それも限界かもしれないと思い、また溜息をつく。
夜は飲み屋になる日本料理屋の二階だ。値段のわりには旨《うま》いと評判で、昼時には行列ができるほどだった。泉は時間を少しずらしてきたので並ばずにはすんだが、それでも相席だった。前にはワイシャツの袖《そで》をめくった若い男が二人、「がつがつ」としか表現しようのない食べ方で親子丼を喉《のど》に流し込んでいる。
もうすっかり冷めたであろう焼き魚定食と若い男たちを見比べながら、泉は思う。
結局これが生きているということだ。
食らい、眠り、排泄《はいせつ》する。
快楽と呼ぶのもためらわれるわずかばかりの楽しみ。肉体に支配されて行動している時間の小さな幸福。
食欲が失《う》せるということは直截《ちよくせつ》に死をイメージさせる。
泉は碗《わん》に盛られた米を箸《はし》で摘《つま》み、口に投げ入れた。それだけで胸が悪くなってきた。
食べ物も食べる人間も見る気がせず、泉は視線を逸《そ》らせた。
厨房《ちゆうぼう》の壁に向かい、背を見せて女がしゃがんでいる。細かい花柄のワンピースは藤色。その長い裾《すそ》が床に垂れ、擦れて汚れていた。女にそんなことを気にしている様子はない。背を丸め、両手に何かを抱え持った女は、それを一心に食べている。頭が微妙に上下し、そのたびに長く黒い髪が揺れる。混雑した店の喧噪《けんそう》の中、泉には女の咀嚼《そしやく》する嫌らしい音が聞こえた。
噛み、千切り、啜《すす》り、舌でこね、呑み込む。
まるで眼の前で食べているかのようにはっきりとそれが聞き分けられる。
泉はますます気分が悪くなってきた。
眼を離し、そして知る。
誰もその女に気がついていないのだ。
客はみな眼の前の食事をたいらげることだけに専念している。仲居たちは陶器の置物であるかのようにそれを無視している。
気がつかないのか。それとも気がついて無視しているのか。
その女を見ているのは泉一人だった。みんながみんな、申し合わせたようにきれいに無視しているとは思いづらい。
そうであるなら、何故みんなは気がつかないのだ。
それともあれは、私にしか見えないのか。
泉がそう思ったとき、女が後ろを振り向いた。
己れの肩越しに泉を見つめている、ように見える。
はっきりと見ているにもかかわらず、女がどんな表情をしているのか、どんな容貌《ようぼう》をしているのかがわからない。まるで夢の中で出会った人物のように印象が曖昧《あいまい》だ。
しかしただひとつ、濡《ぬ》れた唇から顎《あご》へと伝い床へと滴るものが、真紅であることだけはわかった。
何を食べているのだ、と考える泉に答えようとするかのように女が口を開いた。
それはぽっかりと開いた虚《うつ》ろな穴だった。
重く粘るような闇が、闇だけがそこに湛《たた》えられていた。
そして女は声をあげた。
細く長く、悲鳴とも哄笑《こうしよう》ともつかぬ声を、躰を激しく震わせながら。
泉は女から眼を引き剥《は》がした。
誰ひとりとして女を見ているものはいなかった。誰もが無心に皿の上のモノを口腔《こうこう》に運び続けていた。
泉は立ち上がった。
軽い眩暈《めまい》によろめきながら、レジに向かう。
冷たい汗が躰を濡らしていた。
悲鳴をあげることも走り出すこともなくレジまでたどり着けたことに感謝した。
勘定を済ませ外に出ると、暴力に似た激しい陽光が泉を刺した。
その明白にリアルな肉体への刺激が、泉に現実の確かさを与えた。そのおかげで、あれが何なのかは別にして、現実にそこにあった何かであることを確信できた。
幻でもなければ超現実的な何かでもない。
あれはそこにあったのだ。
そう思うだけで恐怖はいささか薄れた。そして嫌なものを見たという感触だけが残された。凄惨《せいさん》な事故を目撃してしまったかのようなその感触は、会社に戻っても消えなかった。
仕事に追われ尻《しり》を叩《たた》かれ、退社前にはこの体験を同僚に奇妙な話として話せるようになった。その頃には嫌な感触も胃の不快感と区別がつかなくなっていた。
会社を出てJRに乗る。
人気ミステリー作家の事務所に向かうのだ。著者校ができあがっているはずだった。まだまだ仕事は泉を手放してはくれない。
途中で二度乗り継ぎ、駅を降りて歩く。
蒸し暑い夜だった。だらだらと流れる汗に、ハンカチはたちまちびしょびしょになった。
メタリックな外装のそのマンションは、漫画家やデザイナーの事務所が多く入っていた。ある程度以上の稼ぎがなければ住めない高級マンションだ。
俺には外からインターホンを押すぐらいが関の山だな。
汗を拭《ふ》きながら泉は部屋番号を押す。
出てきたマネージャーに会社名と名まえを告げた。悪いが後二時間後によってくれと言われる。では二時間後にと念を押し、泉は近所の喫茶店に入った。何の取り柄もない喫茶店だが、BGMが流れていないことと深夜まで開いていることで、多くの編集者がここを利用していた。
椅子に腰掛け、おしぼりで首筋から胸まで拭くと、冷たい水を飲み干した。水は異臭がしたが、気にならなかった。とにかく喉が渇いていた。
分厚い革の鞄《かばん》から本を取り出す。
持ってきたホットミルクを少し啜《すす》ってから、泉はその本を読み始めた。
タイトルは『屍の王』。
良輔の書いたものではもちろんない。伊佐名鬼一郎が昭和七年に書いた『屍の王』だ。知り合いの古書店が探し出してきたものだ。珍しくはあるが不人気なのでそれほどの高値ではなかった。泉はすぐにそれを入手した。
ひどく陰鬱《いんうつ》な導入だった。主人公の男は私生児として生まれる。それもどうやら姉と弟の間にできた不浄の子であるようににおわせている。その主人公を次々と不幸な出来事が襲う。しつこいぐらい延々とその描写が続く。主人公は悲惨な人生と折り合いをつけながら、姑息《こそく》に生き続ける。決して善人ではないが、悪人になるほどの覚悟もない。ただただ不条理な悪運に翻弄《ほんろう》されながら毎日を送っていく。
不幸の演出が上手《うま》く、馬鹿馬鹿しくなる寸前で止めてある。しかもそれに対する主人公の対応が苛々《いらいら》するほど〈普通〉なのだ。卑怯《ひきよう》でみじめったらしく、見事なほど可愛い気がない。読むのが嫌になるタイプの話なのだが、どこか自虐的な楽しみに引かれて読み進んでしまう。
まったくカタルシスというものがなく前編の半分まできた。
泉は腕時計を見た。
あれから二時間が経とうとしていた。
喫茶店を出てマンションに向かう。インターホンで来訪を告げると、上がってきてくれと言われた。
エレベーターで五階に上がる。中庭を囲む回廊を歩いていると、扉が開きマネージャーが封筒を持って出てきた。礼を言って著者校を受け取り、エレベーターに向かう。その時ようやく、泉はこのマンションに番場真莉緒が住んでいることを思い出した。あれから一度も連絡をとっていなかった。良輔の原稿を渡してある。読み終わればああ見えて律儀な男だからすぐに返事をくれるだろうと思っていた。それが何の連絡もない。
ちょうど真莉緒に調べてもらった伊佐名鬼一郎の『屍の王』を持っている。これを土産に真莉緒の部屋によってみよう。
泉はそう思った。時計を見るとすでに十一時を回っていた。真莉緒ならちょうど仕事の真っ最中だろう。
エレベーターが降りてきていた。
この階を通りすぎる前に停めようと泉は小走りに扉に近づいた。
間に合わなかった。
ボタンは押したのだが、エレベーターはこの階を通過していく。
ガラス張りの扉から中が見えた。
真莉緒。
思わず泉は口に出して呟《つぶや》いていた。
真莉緒が中にいた。蒼褪《あおざ》めた顔で夢でも見ているようにぼおっと立っていた。
あっ、と思ったその次の瞬間。
エレベーターの天板の上、ぴんと張った太いワイヤーのあるそこに、何かが腹這いになっているのが見えた。
暗い上に一瞬のことだ。見間違いだろう。
そう思いながらも胸騒ぎを感じた。何故かひどく不安だった。
とにかく真莉緒が乗っていたのは確かだ。
泉は非常口の表示がある重いスチールの扉を開いた。
一度深呼吸し、それから泉は階下へと走った。
7
真莉緒の部屋はがらんとしている。
あの日の翌朝、人形はすべて捨てた。
ホラー映画のスターたちはビニール袋に入れて燃えないゴミとして回収された。
捨てたのは人形だけではない。書籍もビデオもLDもDVDも、その他ホラーに関するものはすべて捨てた。業者に引き取ってもらえばそれなりに高価なものもあったが、そんなことを考えもしなかった。
一時も早くそれら〈不気味なもの〉を眼の前から片づけたかった。
何もない棚だけが残されている。
夜逃げした会社のオフィス、と言った感じだ。やたら大きなオーディオセットだけが、主人然としてどっしりと腰を降ろしている。
その前に真莉緒は膝《ひざ》を抱えて座っていた。まるで運動嫌いの小学生が駆けっこの順番でも待っているようだ。
居間のテーブルの上にビデオテープが一本置いてある。白いケースに手書きのタイトルが貼られていた。
『屍の王』。
あの時のビデオテープだ。
あの日、真莉緒は絶叫とともに非常階段を駆け降り、いつも編集者と待ち合わせする喫茶店に逃れた。夜中にもかかわらずたくさんの人がそこにいた。知り合いの編集者はいなかったが、コーヒーの香りが真莉緒の気持ちをいくらか落ち着かせた。いつものようにコーヒーを頼み、運ばれてきたそれを口にする。かちゃかちゃとカップが滑稽《こつけい》なほど大きな音をたてた。震えが止まらなかった。オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカと口の中で呟き続けていた。
午前二時までここでねばり、それから近くのコンビニエンスストアに向かった。真莉緒はそこで片端から雑誌を立ち読みしていった。「クラッシイ」を読み終え、「エッグ」に手を出しかけたときにようやく夜が明けた。
真莉緒は決意し、部屋に戻った。
鍵《かぎ》も閉めていなかった。
恐る恐る扉を開き、玄関にあったスニーカーを隙間に挟み込んだ。扉が閉まらないようにするためだ。
俺が中に入る。
すると背後で扉がばたりと閉まる。
これは定石だからな。
ホラー映画の中で死んでいった脇役たちの轍《てつ》を踏まぬよう、真莉緒は用心しながら中に入った。
靴も脱いでいない。
土足で廊下を進んでいく。
オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。大丈夫大丈夫何もない何もない。
祖母の呪句《じゆく》のおかげか、毛布をかぶった何かや喉《のど》を裂かれた女はいなかった。
ビデオ観賞の途中でいきなり家を飛び出た痕跡《こんせき》があるだけだ。
すぐにホラーに関するすべての物を捨てた。勤勉な蟻のようにビニール袋を担いでダストシュートまでを往復した。整理に丸一日かかった。
そして夜がきた。
闇が恐ろしかった。
自ら何度となく書いてきた闇への恐怖を己れで経験していた。
すべての影に釘《くぎ》を打ち込みたい。すべての闇をアルコールで拭いてまわりたい。
壁を背に膝を抱えながら真莉緒はそう思った。
窓を閉めカーテンを引き眼を閉じる。ところがそうすることが新しい闇を生む。空っぽの古い大きな本棚の下に影が潜む。定規で引いたような影は、しかし近づけば床に滲《にじ》み出ているではないか。
掌《て》の下の影に気づけば次に足の裏の影に気づき、闇は決して部屋の中から消えようとはしない。その液状の穴はきっと虚空へとつながっている。どことも知らぬ死の世界へとつながっている。そうだそうだそうに決まっている。オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ。
呪句を唱えながらも、昨夜から一睡もしていない真莉緒は、いつの間にか座ったまま眠りに就いていた。
熱気で眼を覚ます。
朝だ。
少しばかり気分が落ち着く。
この頃になってようやく真莉緒は、あの夜の出来事に対して合理的解釈を加えようという気になってきた。結局のところ幻覚幻影の類《たぐい》であろうということで落ち着く。昼を過ぎれば腹もすき、近所の洋食屋でカレーライスを食べた。知人や編集者から電話がかかってくる。そうこうしている内に、恐怖のあまり捨てたあれやこれやが惜しくなってきた。馬鹿なことをしたなと思いながらふと居間のテーブルを見ると、そこにビデオテープが一本あった。
真莉緒は声をあげそうになり口を押さえた。
それには『屍の王』とかかれたラベルが貼られてあった。真っ先にデッキから取り出して捨てたのをはっきりと覚えている。
「チェンジリングのボールだよ!」
わけのわからぬことを叫びながら、真莉緒は仕事部屋にいって鋏《はさみ》とドライバーを持ってきた。カセットを解体し、取り出したテープを細かく切り裂く。それをすべてビニール袋に詰めて、わざわざ列車を乗り継ぎ遠出して、どぶ川に捨てた。
帰って居間に行くと、テーブルの上にカセットがあった。白いケースに入りどこも破損していない。
今度は悲鳴をあげなかった。
真莉緒自身、こうなることが初めからわかっていたのかもしれない。
丁寧に何度か同じことを繰り返した。
そして、諦《あきら》めた。
とにかく良い子にしていればいいのだ。
真莉緒はそう思った。
祖母がお化けは良い子を襲わないと言っていたからだ。
真莉緒は良い子でいた。何もせずただ部屋の中にこもっていた。「余計なことをするのはやめとけよ」あの声はそう言った。余計なことをする気など真莉緒にはなかった。草薙良輔のことを泉に教える必要なんかない。そんなことをしても何の得にもならないのだから。
しませんよ、何もしませんよ。
呪句の代わりに、真莉緒はそう独り言を言うようになった。あのビデオに対して話しかけているつもりだった。
それから何も起こっていない。
しかしビデオは相変わらず部屋の中にあった。居間のテーブルから真莉緒を見張っているかのようだ。
そのビデオに向かって真莉緒は呟《つぶや》く。
何もしませんよ。私は悪いことは何もしていませんよ。
夜が怖かった。闇が恐ろしかった。
眠れぬ夜を震えて過ごし、明け方に少し眠る。陽のある内にコンビニで食料を買い込み、それを食べて一日を部屋の中で過ごす。それだけの日々がもう十日近く経っていた。
これは神経症なのではないか。闇や夜を、子供でもないのにここまで怯《おび》えるのはおかしい。一種の不安神経症というやつじゃあないのか。
真莉緒はそう思い、幾度か医者に行こうと決心した。しかし未《いま》だ医者には行っていない。気が狂っていると診断されるのが怖かった。そんなことは有り得ないと思いながらも、いつか見た映画のようにそのまま入院が決定し二度と外に出られなくなるのではないかと考えてしまう。
余計なことをするな。
あのおぞましい声はそう言った。
そうだ。余計なことさえしなければ奴らが襲ってくることはない。
奴ら?
そう奴らだ。俺には馴染《なじ》みの奴らだ。死と恐怖を与えるためにやってきた奴らだ。闇に棲《す》む異形の奴らだ。それを知ってしまった以上、俺にはもうホラー小説は書けないだろうな。本当の恐怖を知ってしまった人間は、それを小説に書きはしない。書く気も起こらない。
もう何日、この広いだけの部屋で膝《ひざ》を抱えて過ごしているのだろう。これから俺はどうなってしまうのだろう。
そう思うと恐怖とは別種の不安が頭をもたげてくる。
このままでは駄目になってしまう。何かすべきなのではないか。それでなければ俺は……。
そこまで考えて、ふとテーブルの上のビデオテープに眼がいった。
俺は良い子でいたよ。悪いことは何もしていないよ。悪いことなんか何もしていないよ。
口に出してそう言う。テープを見れば反射的に口をつく。
そう、悪いことなど何にもしていない。ただ泉に連絡をしようとしただけだ。それなのに何でこのような目にあわなければならないのか。
少しだけ、ほんの少しだけ怒りを覚える。
怒りは恐怖に対抗するもっとも有効な手段だ。
恐怖がいくらか和らぎ、わずかな怒りが不安を後押しする。
このままでは俺は野垂れ死にだ。職も失い、一生あのテープに怯えて暮らすことになる。
それが嫌なら……。
真莉緒は何度か深呼吸をしてから立ち上がった。
立ち上がり仕事部屋に向かう。
途中ちらりと居間のテーブルを見、つい悪いことはしていないと言いそうになって堪《こら》える。
久し振りに仕事部屋に戻った。
古書のにおいがわずかに残っていた。
戦場に向かう勇敢な兵士。
典型的なヒーロー像を頭に描き、胸を張って椅子に腰を降ろした。
モニターを睨《にら》みつける。
――書くぞ。
言ってからコンピュータを立ちあげ、ワープロの画面にした。
しばらくはかたかたとキイを打ち鳴らす音だけが聞こえていた。書き終えてプリントアウトする。
A4の紙が吐き出された。
真莉緒はそれを手にした。
読み返そうと活字を追う。
ぽつりと紙の上に落ちたそれが、赤い花弁のように四方に広がった。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
赤く染まっていく紙が震えている。
見てはならぬモノを見てしまうのがホラーの登場人物の掟《おきて》だ。例外はない。
「……例外はない。そうさ、例外はない。この話の主人公が俺でない限り、いや、ホラーなら主人公さえ安心はできない。ラストシーンで主人公が息絶える話ならいくらでもある。さて、ここはラストシーンなのでしょうか」
真莉緒は笑った。
悪い冗談につきあって浮かべる苦笑いだ。
そして天井を見上げた。
四肢を広げ天井にぺたりと貼りついているのは裸の女だ。
髪が墨汁の雫《しずく》のように垂れ下がっている。
女が首をひねった。
まっすぐ真莉緒を見降ろす。
裂けた傷口がさらに開き、肉片の混ざった血の塊がぼたぼたと落ちてきた。
耳まで裂けた口。
長く伸ばした舌。
女は笑っていた。
笑うとさらに大量の血が真莉緒の手を濡《ぬ》らした。
馬鹿だなあ、おまえ。
嫌な声がした。
あの声が。
ここで悲鳴をあげるんだ。
|絶叫の女王《スクリーミング・クイーン》みたいな派手な悲鳴を。でも声が出ないんだ。どうしてだろうなあ。どうしても声が出ない。仕方がないなあ。ここはアフレコで効果さんに悲鳴を入れてもらおう。例のナンシー・アレンの悲鳴がいいなあ。ちょっと哀しくてさ。さあて、逃げよう逃げよう。ここでぐずぐずして殺されたら観客に野次を飛ばされるぞ。だいたいホラーにはぐずぐずして死んでいく奴が多いからな。焦《じ》らすのもテクニックだけど、あんまりぐずだとサスペンスにもならない。俺は素早く玄関へと向かうとしよう。立ち上がった。廊下を走る。扉を開く。ここが第二の関門だな。この辺りでショッカーを一発入れておくのが定石だからな。どきどき。よし、無事に通り抜けた。次は廊下からエレベーターか。どこまで逃げたらシーンが変わるのかなあ。早くシーンが変わればいいのになあ。
8
泉は階段を駆け降りていた。
息切れがしていた。
走ることが自慢だった。速いのではない。いつまでも走っていられる。高校も大学も陸上部だった。当然長距離選手だったが、優秀な部員ではなかった。しかし持続力では誰にも負けなかった。不惑をとうに過ぎた今でも走ることなら誰にも負けない、つもりだった。
それが、たかだか階段を駆け降りるだけですぐに息が苦しくなってきた。足がもつれる。胸が悪い。
病院に行こう。
そうだ、病院に行こう。
しばらく休みをとって病院に行こう。
良輔の原稿を本にしたらすぐに病院に行こう。
一階にたどり着いた。
泉は膝に手を当て、頭《こうべ》を垂れていた。
眩暈《めまい》がした。
壁に手をつきながら廊下を進んだ。
中庭の花壇から濃厚に緑のにおいがした。夏の夜のにおいだ。湿気と腐植土と青臭い夏草のにおい。
ひどく蒸し暑い夜だということを思い出す。汗が流れている。服を着たままシャワーを浴びたようだった。
エレベーターの前に来た。
どうやら間に合ったようだった。
扉が開いた。
からっぽだ。
誰も乗っていない。
途中で降りたのか。
それならどうして一階まで降りてきた。
考えながら泉は中に入った。
それを待っていたかのように扉が閉まる。
慌てて手を伸ばし、それをとめた。
扉が再び開いた。
俺は何を怯《おび》えているんだ。
疑問に感じながらも、泉は外に出た。扉は手で押さえたままだ。
再び中を覗《のぞ》き込む。
何もない。
上を見た。
天板がたゆんでいる。
妊婦の腹のようにアクリルの板が膨らんでいる。
何かがそこにあるのだ。
不意に天板が裂けた。
亀裂《きれつ》から滴るのは血だ。
大量の血だ。
瞬く間に血溜《ちだ》まりができる。
溢《あふ》れた血が床の隙間から地下へと流れ込んでいく。
裂け目が見る間に広がり、天板は破片となって千切れ落ちた。
そして、濡れ雑巾《ぞうきん》を叩《たた》きつけるような音とともに赤い塊が幾つも落ちてきた。
ひとつがエレベーターの隅に転がって止まった。
血塗《ちまみ》れのそれは真莉緒だった。
真莉緒の首だった。
きょとんとした顔をしていた。突然見知らぬ人から親しく話しかけられたような顔。
特徴のある細長い腕と脚は、くの字を描きばらばらに散らばっていた。
く
く
く
く
手足が笑っていた。
胴体《トルソ》は笑みも浮かべず中央に横たわっている。
頭も四肢も断ち斬られたそれは、奇妙なほど小さい。
死んだ蜘蛛《くも》って小さく見えるもんな。
ぼんやりとそんなことを考えている泉は、濁った眼で真莉緒の躰《からだ》を眺めていた。
いつのまに手を離していたのか、扉が閉じた。
自分の薄汚れた革靴に血《ち》飛沫《しぶき》がとんでいるのを見た。
とたんに胃がねじられるように痛んだ。
閉じた扉に手をつく。
胃の底から喉《のど》へとこみ上げてくるものがある。
我慢できなかった。
ぎゅっと胃が縮んだ。
慌てて口を手で押さえる。
その指の隙間から、ウスターソースのようなどす黒いものが勢い良く噴き出した。
腐臭がした。
腐った肉塊の凄《すさ》まじい臭いだ。
泉は扉から手を離した。
堪《こら》えきれぬ嘔吐《おうと》感に、躰を海老のように折る。
痙攣《けいれん》を起こしたように胃は何度も収縮した。喉の中をこそげるようにしてそれが噴き出てくる。
タールに似たそれが床に溜まっていった。中に白く米粒のようなものが混ざっている。
それは黒い粘液の中で半透明の躰を伸び縮みさせていた。
蛆《うじ》だ。
激しい胃の痛みに顔をしかめ眼を閉じた泉は、それに気づかぬままエントランスホールの隅にある公衆電話に向かっていった。
9
良輔の眼の前に電話が置いてある。その周囲にはメモや古い年賀状や手帳が散乱していた。
草薙良輔という人間の過去を知るためにあらゆることをした。しかし、やればやるほど己れを追い込む結果になった。
小学校、中学校、高校、大学、大学を卒業してからしばらく働いていた広告会社。覚えている限りの昔の友人知人。良輔はそのすべてに連絡をとった。そしてわかったことは、彼の記憶していた過去がすべて幻影であるということだった。
老婆のように畳に尻《しり》を落として座り込み、良輔は頭を抱えていた。
息苦しいほどの暑さと湿気だったが、それすら良輔は感じていなかった。
流れる汗が冷たかった。
この部屋に座り頭を抱えているこの男は誰なんだ。
良輔は自問する。
電話のベルが鳴っていた。
良輔には随分遠くで鳴っているように聞こえる。とても手の届きそうにない遠くの電話の音。
もちろん、そうではない。
鳴っているのは眼の前の電話だ。
そのことに気がついても、良輔は受話器を取ろうとはしなかった。
しばらくすれば切れるだろう。良輔はそう思っていた。が、ベルはなかなか鳴りやまない。
電話のベルというものはどこか脅迫的なところがある。早く出ろ、早く出ろと怒鳴っているように聞こえる。
うんざりした顔で、良輔はしばらく電話を見つめていた。
ベルは永遠に鳴り続けるのではないかと思えた。
のろのろと腕を伸ばし、受話器を取る。取ってすぐ切るつもりだった。その声を聞くまでは。
「菊理です」
別れた妻の美沙だった。
涙が出るほど嬉《うれ》しかった。
そうだ。俺には美沙がいた。
その思いに良輔は感動すらしていた。
「美沙」
虚勢を張るつもりなど欠片《かけら》もないすがるような声が出た。
「また、何かあったんですか」
苦笑まじりに美沙が言った。その声に再び安堵《あんど》する。
「俺は誰だ」
「草薙良輔、センセイってつければいいかしら」
「冗談じゃないんだ。俺は、俺の過去は……ああ、何がなんだかわからないんだよ」
母親に訴える子供だ。
「あなたのわからないことなら私もわからないわよ」
「そうでもないと思う」
そう、そうではない。
美沙との生活は虚構ではない。
それは俺のたった一つの残された過去かもしれないのだ。
「ちょっと長い話になるけど聞いてくれるか」
受話器の向こうで頷《うなず》く美沙が見えたような気がした。良輔は説明を始めた。
大学に出かけた話から今までのことをすべて話した。できる限り落ち着いて順序だてて説明した。単に病的な幻覚であると思われたくなかった。
美沙は途中で口を挟まなかった。相槌《あいづち》をうち、時折先を促しただけだった。
長い説明を終えて、良輔は聞いた。
「俺は気が狂ったんだろうか」
「それも仮説のひとつね。そうじゃないとは言えない」
良輔に反論の間を与えず、美沙は説明を続けた。
「でも仮説を立てる前に、間違いのない事実だけを確認しましょうよ」
美沙の真剣な声を、良輔は頼もしいと思った。
「結婚する前から、私は何度かあなたのご両親に大阪で会ってるわ。だからそこにご両親が住んでいたことは間違いない。……ねえ、ご両親があなたに連絡をせずにどこかへ引っ越した、ってことはあるかしら」
「有り得るね。こっち来てから、ろくに実家に連絡を入れていなかったから。盆正月にも帰省してないしね。親は、特に父親は怒ってたみたいだね。親父、すぐ拗《す》ねるんだよ。子供みたいにね。連絡せずに引っ越ししておいて、驚いたか、連絡してこないおまえが悪いんだ、なんていうようなことをしかねない人なんだ。でもね、あの部屋にいた女はずっと前からあの部屋に住んでいたと言ってたんだ。部屋番号も何度も確認したし、第一、高校まで住んでた家なんだから、間違えるわけないよ」
美沙は何も言わない。良輔がその沈黙を否定と取りかけた時、彼女は言った。
「あっ、あなたの言うことは信じてる。あなたはそんな間違いをする人じゃないし、故意に嘘をつく人間でもないわ。だから私は……そうね、あなたは欺かれているのかもしれない」
「誰に」
良輔は驚いてそう言った。
「あなた自身に。――ふざけてるんじゃないわよ。こんな話を聞いことないかな。覚えていたくないほどの過去、思い出すことが苦痛でしかないような記憶は、時には消され、新たに捏造《ねつぞう》される」
「どういうこと」
「そのようなメカニズムが人間にはあるの。例えば二十年前に目撃した殺人を急に思い出した女性がいる。彼女は二十年間そのことをまったく忘れていた」
「どうして」
「加害者が彼女の父親で、被害者が彼女の友人だったからよ。精神的外傷――トラウマが原因なの。傷つけられた心が、そんなことはなかったことにしてしまった。子供が直視するにはあまりにも酷な記憶ですものね。性的な虐待にあった人の中にもその記憶を失くしていたり、虚構の記憶を覚えていたりする場合があるのよ」
俺の過去に、エッセイストとしてデビューする前の俺に何かがあったのか。
あらゆる記憶を造り変えなければならないような何かが。
良輔が黙り込んで考えていると、美沙は言った。
「あなたは大阪でのことをほとんど私に話していないのよ。あなたがどこの大学を出たかさえ私は知らない。ご両親に会ったのだって、私が挨拶《あいさつ》したいからとしつこいほど言ったから、ようやく会わせてくれたの。そこで何かがあったと考えてもおかしくないと思わない?」
良輔は受話器を持って子供のように頷いた。
そうかもしれない、と。
大阪を毛嫌いしていた。嫌な思い出ばかりしかないように思っていた。しかし具体的に何があったかというと思い出せない。それは消したかった過去だったからなのか。そのために過去は消えてしまったのか。これを願いがかなったと言うべきなのか。
「……それで、そうだとするならどうするべきなんだろう」
「どうしたい?」
「どうしたいって、もちろん……」
「思い出したい? 決して思い出したくなかったような過去を思い出したい? それを忘れている方が幸せかもしれないのよ」
「でも……もう無理だよ。己れの過去がすべて俺の造り出した幻だと知ってしまったんだ。このままでは頭がどうにかなってしまいそうだ。いや、どうにかなってるわけか」
良輔は笑った。
「あのね、もし本当に真実を知りたいのなら、やはり精神科に行くべきだと思うな」
「それじゃあ、やっぱり俺は――」
「心配することはないわよ。最近では漠然とした不安やストレスの相談に精神科を訪れる人も多い。トラウマによる記憶障害は心の病よ。専門医にかかるのは当然のことだわ」
「精神科か……」
「知っている医者がいるの。心因性健忘の専門家よ。良かったら紹介するわ」
「どうして君がそんな医者のことを知ってるんだ」
「取材したの」
「そんな仕事をしてるのか」
「いろいろとね」
「それで詳しかったのか」
そして、良輔はその時頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「その医者が新しい恋人なのかい」
嫌な気分になることがわかっていてこんなことを言う。それを聞かずにはいられない己れの浅ましさにもうんざりする。
「莫迦《ばか》ね」
美沙の笑顔が頭に浮かぶ。
――莫迦ね。
その台詞《せりふ》が聞きたさにこんな質問をしてしまうのだ。
「私はもう新しい恋人なんかつくれないわ」
安堵している自分が情けないのだが、それ以上に嬉しくなっている。その嬉しさを隠せない。
「良かった」
良輔が言うと、美沙は再び莫迦ねと言った。
「それで、例の小説はどうなってるの?」
「小説の話なんかしたっけ」
「したわよ。それも忘れたの? 私あなたが小説を書いてるってことが嬉しくて、それで今日も電話したのよ。頑張れって言おうと思って。どう、進んでる」
「ここ何日かは駄目。それどころじゃなくって」
「駄目じゃないの。それはあなたにとってきっと重要な仕事になるわ。他のことを忘れても、これだけは忘れちゃ駄目」
「わかった。美沙と話してて書く気が出てきたよ。有り難う」
「じゃあ、頑張ってね」
「ああ、電話を」
「電話?」
「医者の電話番号」
「行く気なの」
「行くかもしれないから」
「わかった」
美沙は病院の名と電話番号を告げた。
電話が切れた。
いつもそうであるように、美沙の声を聞いていると良輔は落ち着く。電話を終えるのは名残り惜しかったのだが、今から小説を書くんだという意気込みを見せたくて自分から切った。小説を書きたいという気が起こったのは嘘ではない。
久し振りに良輔はワープロの電源を入れた。
再び電話が鳴った。
美沙だと思い、良輔は慌てて受話器を取った。
後悔した。
「最近どうしたんだよ」
堪《たま》らなく不快な、あの声だった。
「全然書いてないみたいじゃないか。大学まで出かけるところから進んでないだろ」
「どうやって読んだんだ」
「何の話だい」
「どうやって読んだか聞いてるんだよ」
「話が見えないなあ」
「原稿だよ。シュレッダーを買ったんだ。原稿は全部こま切れにして捨ててる。しかもゴミ収集車が来る時間に合わせて捨てに行ってるんだ。おまえに原稿を見られないようにな」
「いつ捨てた原稿を拾ってるって言った」
「いつ……」
「おまえが勝手に想像しただけだろう。俺はおまえの小説をゴミ箱から拾ったりはしていない」
「嘘だ」
「嘘じゃない。だから、おまえがどんな原稿の捨て方をしても、俺はしっかりおまえの原稿を読んでるだろう。それが俺の無実の証《あか》しさ」
「何が無実の証しだ。何とかしたに違いない」
「ああ、何とかしたさ。でもそんなことはどうでもいいだろう。それより、どうして続きを書かない」
「いろいろとあったんだ」
「わかるよ。そりゃあ、いろいろあるだろうさ。でもいろいろあったって原稿を書けるだろう。いろいろあった方が書けるかもしれないよな。どっちにしても書くつもりだったんだろう」
「……ああ」
「書けよ。これは良い小説だ。並の作品じゃない。傑作だよ。だから俺はこれを読みたいんだ」
「そんなこと知ったことか」
「おまえだってそう思っているだろう。これは傑作だって」
「それは……」
「それなら一人称はちょっと問題有りってことにも気がついてるだろう」
「えっ……」
そのとおりだった。主人公の視点だけで書き進むと、個人の妄想の話ですべてが終わってしまうような気がしていた。
「他の視点がないと物語が一元的になっちまうよな。どうだい、面倒だとは思うけど、三人称で書いてみたら」
「三人称か……」
「かかわってくる人間の視点も必要だって、おまえも思ってただろう」
「そんなことはおまえに――」
「頑張って良いのを書いてくれよ。そうだ、いい事を教えてやるよ」
「何だ」
「来週、火曜日の午後十時に東進《とうしん》小学校跡に来いよ。いいものを見せてやるから」
「いいものって――」
電話が切れた。
東進小学校はこの町内にあった学校だ。この辺りの子供の人口が極端に減ったので、隣町の小学校と合併することになった。今は取り壊し工事の真っ最中のはずだ。
そこでこの電話の主に会えるのなら行ってもいい。すべての謎の鍵《かぎ》を握っている人物かもしれないのだ。
そう思いながら、良輔は保存していた原稿をワープロに呼び出していた。
人称を変更するつもりだった。
10
寂しい葬式だ。
泉は噴き出す汗を拭《ぬぐ》いながらそう思った。
参列者が少ないわけではない。多い方だろう。出版社関係の人間が圧倒的に多い。彼らは談笑し、久し振りに出会った知人と楽しげに話し合っている。
普通あのような悲惨な事件で亡くなった人間の葬儀であるのなら、号泣する家族の姿があったりするものだ。が、そのような姿はない。目頭を押さえるものさえいない。
俺、親戚《しんせき》中の厄介者だから。
笑いながら言った真莉緒を泉は思い出した。何故厄介者なのか、その理由を聞いてはいない。家族のことなど滅多に語らない男だった。泉が知っているのも、両親を早くに亡くし、叔父夫婦に育てられていたということぐらいだ。
不死身の殺人鬼や人を喰《く》う化け物にばらばらの死体。そんな小説ばかりを喜々として書いていた真莉緒が親類縁者に変人扱いされていたであろうということは想像に難くないが。
葬儀屋が段取りどおりに黙々と葬儀を進めていく。喪主になったのは真莉緒の従兄《いとこ》、彼が高校まで世話になっていた叔父夫婦の長男だ。参列者に挨拶《あいさつ》し、業者に指示を下し、従兄は忙しく立ち振る舞っている。それは楽しそうにさえ見えた。
茹《う》だるような天気だった。
陽射しは刺すほどに強烈だ。風はない。午前中にひと雨降った。それは冷気ではなく温気《うんき》を呼んだ。湿度は呆《あき》れるほど高く、日陰に入ったところで流れる汗の量に変わりはない。
黒衣の流れに身を委《ゆだ》ねながら、泉は何度も汗を拭う。これ一着しかない礼服は秋冬物だ。衝動的に脱ぎ捨てたくなる。一杯のビールに風呂《ふろ》と引き換えなら、親でも裏切るだろう。
出棺前の最後のお別れのときだった。泉は手にした本をそっと花の中に埋めた。
『屍の王』だ。
すでに読み終わっていた。
凄《すご》い小説だ。泉はそう思っていた。ただし完成していればの話だ。だが未完の傑作と呼ばれるものが往々にしてそうであるように、未完であることを宿命づけられているような小説だった。
これは生きながら死者の国を訪ねる男の話だ。
悲惨な人生を送るために生まれてきたような主人公が、ひたすら不運に翻弄《ほんろう》されるだけの話が延々と続く。その主人公が中盤を過ぎる辺りで、当時貧民街と呼ばれていたようなスラムにたどり着く。この辺りから物語が動き始める。
そこで主人公は奇妙な人々と知り合っていく。堕胎専門の無免許医である少女。女物ブーツのコレクションを持つ車椅子に乗った老|剥製師《はくせいし》。いつも美貌《びぼう》の女性を二人従えている元葬儀社社長。特殊な趣味を持つ者だけを相手にする双子の売春婦。
ここで幾つものエピソードを重ねて、彼らの間に不思議な友情が芽生えていく過程が描かれる。泣かせるエピソードやユーモラスな逸話を交えることで、それまでの救いようのない陰鬱《いんうつ》さが薄められる。これはおそらく計算されていることだろうが、その落差の大きさから、読む者の感情の振幅も大きくなる。その結果、ここで多くの読者は情けない主人公に感情移入させられることになるだろう。
ところが、ある日この平和な日々が唐突に終焉《しゆうえん》を迎える。しかも予想もしなかった出来事で。
ある朝突然、主人公の住む街を奇怪な化け物たちが襲うのだ。家は破壊され、登場人物たちはあっさりと殺されていく。それまで執拗《しつよう》なまでのリアリズムで描かれた世界に現れる怪物たち。それを自然現象による天災の比喩《ひゆ》と考えることもできるだろう。しかし著者はそれまでネチネチと描いてきた細密でリアルな描写のままグロテスクな怪物とそれに食い殺される人々や破壊される街を描いていく。現世と地獄とは同一のリアルな筆致で描かれることでその差が曖昧《あいまい》になる。ここに『天災の比喩』などという小賢しい分析の入り込む余地はない。
仲間を見捨てて逃げ出した主人公は、片足を失うが命は助かる。だがどこへ逃げても怪物たちに命を狙われることになる。どうやらそれは彼の出生の秘密と関係があるようなのだ。
やがて怪物たちが死者の国からやって来ることを知った主人公は、怪物に追われるままに死の国へと向かう。
これで上巻は終わる。
今のところ何の救いもない物語だ。そして下巻が書かれることは永遠に、ない。
偏執狂的とも思えるリアルな細密描写によって描かれる怪物登場のシーンと、死者の国に至るまでの道行きの異様さは説明不可能なものがある。一つ一つは具体的でありふれた事物であるのに、それが集まるとまったく別の異様なものが姿を現す騙《だま》し絵のようだ。さすがに読んだ者がみんな発狂するなどということはないだろうが、しかしこれを書いた著者が精神に変調をきたしたとしてもおかしくない迫力はある。しかもそれらの描写は、冷徹とも言えるほど細部まで計算されたものだ。怪物登場が、唐突でありながら物語的な必然を感じさせるのもそのせいだ。
真莉緒に読ませてやりたい。
本を閉じたとき泉が考えたのがそのことだった。泉は真莉緒がホラーマニアのための作家であることを惜しいと感じていた。そんなことを口に出せば真莉緒が激怒するであろうこともわかっていた。
俺はホラーが好きなんだ。それだけだ。だからホラーを書く。文学などという不純なモノは必要ないんだ。
細長い腕を外人のように振り回しながら力説する様子が眼に浮かぶ。
『屍の王』を読ませたら、真莉緒の眼に貼りついた硬い鱗《うろこ》を剥《は》がすことができるんじゃないか、と泉は思っていた。たとえそれが真莉緒の望んだことでなかったとしても。
霊柩車《れいきゆうしや》と送迎バスが、焼き場に向かう人を詰め込んでいる。
真莉緒のことを想いながら最後まで見送ろうとしている人間の数は少なかった。ばらばらと帰路につく参列者から、泉はぽつんと残されていた。
「たしか」
声を掛けられ泉は振り向いた。
痩《や》せた男がすぐ側に立っていた。真莉緒の従兄だった。
「泉守道さんですよね」
泉は頷《うなず》く。
「これを」
男は一枚のフロッピーを差し出した。
黒い一枚の正方形の板が、泉には何故か不吉なもののように思えた。
まるで黒衣の悪霊のように。
「これを受け取っていただけますか」
「何でしょうか、これは」
押しつけられたフロッピーを手にする。
びくりとそれが虫の腹のように動いたような気がし、泉は一瞬それを落としそうになった。
不思議そうな顔でそれを見ていた男が言った。
「従弟《いとこ》の部屋でコンピュータがつけっぱなしになってましてね。それでそこに文章が残っていました。一種の遺書でしょうかね。それに宛先が書いてありまして、それが」
「私の住所だった」
「泉守道さんへの私信です。警察が何かの参考にとフロッピーにコピーしておいたらしいです。で、まあ、今日葬儀に来られるだろうと思いまして。どうせなら直接お渡ししようかと」
「でも……」
「従弟とは、私が大学に入ってからほとんど会っていませんでした。はっきりいって悲しさより、こんな死に方をしたことに対して憤りを感じます。私に、わざわざこんなものをあなたに渡さなければならない義理はない。でも、どうしてかこれをあなたに渡しておくべきだと思った。どうしてでしょうね。あいつなら呪いだとでもいうのでしょうが……。あっ、失礼。そろそろ車に乗らなきゃならないんで」
男は一礼して霊柩車に乗り込んだ。
見送るものの少なさなど気にもせず、葬儀社の男が見送りの言葉を述べている。
泉はフロッピーをポケットにしまい込み、その場を離れた。
国道に出てタクシーを拾い、乗り込む。
凍えるほどの冷房が、しかし今は心地好かった。行き先を告げると、運転手は何も言わずに車を走らせた。
出版社に戻るつもりだった。仕事が山積みになって泉を待っている。
「それにしてもあれですよねえ」
甲高い声で運転手が話を始めた。子供の声を真似ているような奇妙な声だ。
「それは読まない方がいいんじゃないですか」
「えっ、何のことです」
「だからさあ、俺なら捨てるなあ」
「だからそれは何のことです」
「ほら、さっきのフロッピー」
「えっ……」
どこかで見ていたのだろうか。しかし会話を聞き取れるところにこの運転手の姿はなかった。見ていただけなら、フロッピーの中身が『読むもの』であることを知っているはずがない。それともテキストが入っているであろうと考えて適当に言ったのであろうか。
しかしいずれにしろ何のために。
「どうしてフロッピーのことを」
「親切で言ってるんだから、勘違いしないで欲しいな。いいですか、お客さん。見てはならないものってのがこの世にはあるんですよ」
「どうしてフロッピーのことを知っているのかと聞いているんだ」
「とにかくそれは捨てた方がいい。持っていてもろくなことはありませんよ」
泉は前の座席に身を乗り出した。
「どうしたんですか」
運転手は正面と泉の顔を交互に見ながら言った。その声は低く、普通の男の声だ。
「どうしてフロッピーのことを知っている」
泉は運転手を睨《にら》みつけた。
「フロッピー? 何ですかそれは」
「記憶媒体だ。つまりコンピュータに……」
説明しながら泉は馬鹿らしくなってきた。
「今おまえが言っただろう。フロッピーを捨てろって」
耳元でがなり立てた。運転手が怯《おび》えているのが泉にもわかる。
「お客さん、大丈夫ですか。……あの、しっかりしてくださいよ」
「言ったじゃないか、フロッピーを捨てろって、あんたが……」
泉の声が徐々に小さくなる。
「私はフロッピーってものが何なのかも知りませんよ。第一、乗ってきたお客さんに私がそんなことを言うわけがないじゃないですか。知り合いでもないのに」
そのとおりだ。
入ってきた客にいきなりフロッピーを捨てろと言う運転手はいない。
「……ああ、悪い。最近少し躰《からだ》の調子が悪いんだ。悪かった。本当に……悪かった」
泉は座席に深く座り直した。
躰の調子が悪い。だからだ。
幻聴なんてものを聞いたのは。
また胃が絞られるように痛んだ。
おくびが漏れる。
酷《ひど》い臭いだ。
運転手が堪《たま》らず窓を開いた。
医者に行こう。
そうだ、迷わず、今から。いや、今からは無理だ。待ち合わせがある。明日も駄目か。それなら今週末には、そうだ今週末には医者に行こう。絶対に医者に行こう。
11
ラッシュ時は終わっていたが、それでもこんなに朝早く列車に乗るのは久し振りだった。
サラリーマンとOLの昼の顔を、これほど大量に見たのは何年ぶりだろうか。暑さのせいだろう。みな殺気だっている。脚を踏まれ、肩を小突かれ、背中を押され、静かな怒気が尖《とが》った爪で良輔を突く。
こいつらはわかっているのか。
背中を押されるようにして改札を出た良輔は思う。
こいつらは自分が誰なのかわかっているのか。幻想ではなく確かな事実として己れの来歴を語れるのか。記憶というものが曖昧《あいまい》な、しかも日々姿を変えていくあやふやな情報の蓄積にしか過ぎないことを知っているのか。
――おまえだけだよ。
良輔をかすめて足早に過ぎ去っていく灰色の背広の中年がそう言う。
――この道を踏み外したおまえだけだよ。
黒いブリーフケースを抱えたサラリーマンがそう言う。
――過去と未来は道の上にあるのよ。道そのものが過去と未来だと言ってもいいわね。
事務服の若い女がそう言う。
――記憶はおまえが作ったんじゃない。既成の記憶の上をおまえが歩いていたんだ。
前を横切るスクーターに乗ったピザ屋のバイトがそう言う。
――その道を踏み外せば記憶も失せる。おまえは道を踏み外したんだ。
点滅する信号がそう言う。
――定められた道を歩けなかったおまえが馬鹿なんだ。
みんなが声を揃えてそう言う。そして笑う。声を揃えて笑う。何百人の嘲笑《ちようしよう》。
みんなが良輔を指さす。指さして大口開き笑っているそれは男女子供猫信号横断歩道ビル風空雲太陽。
嘘だ嘘だこれこそ妄想だ。
良輔は信号を渡りながら首を振った。
笑い声は一瞬にして街の喧噪《けんそう》に変わった。
取り澄ました顔のビルが建ち並ぶオフィス街で、良輔は冷たい汗をかいている。来るんじゃなかったと後悔していた。あの時に嫌な予感はしていた。美沙から教えてもらった医者に電話したあの時から。
待ち構えていたように呼出音なしで電話がつながった。アニメの≪美少女≫のような声で受付は病院の名を告げた。診てもらいたいのだと言うと、女は保険が利かないこと、予約が必要なこと、それに診察可能な日にちと時間などをエレベーターガールが各階の説明をするように述べた。そして間を置かずいつ来院なされますかと聞いてきた。まだ診察を受ける決心がついていなかった良輔はまた後でとか何とか言おうとした。しかし良輔が口を開く前に、相手は勝手に日時を告げ、これでよろしゅうございますね、と有無を言わせぬ口調で言った。はい、と良輔は答えた。電話を切ってから、騙《だま》されたような嫌な気分になっていた。それでも良輔は己れの気の弱さに悪態つくだけで、こうして今その精神科の医院へと向かっている。
記憶というものは曖昧であやふやな情報の蓄積にしか過ぎない。そのことを良輔は知識として理解していた。とはいうものの、知識と、それをリアルに体験することの間には大きな隔たりがある。
私は誰なのか。
こんな根元的な疑問に襲われて、平静でいられる人間はいない。
こいつらは知っているのか。己れが本当は誰なのか。
同じ問いを繰り返しながら、良輔は整然とした街の中を歩き続ける。
巨大な銀行と保険会社の間を抜けると、そのビルの看板が見えた。
肩を狭めて建っているような小さなビルだった。できて間がないのか外装も内装も真新しい。
ロビーに入ると凍えるほどの冷気が良輔を包んだ。肌に貼りついた汗だらけのTシャツがたちまち体温を奪っていく。
すぐに躰が震え始めた。
案内板で階を確かめエレベーターに乗る。躰を両腕で抱え、歯を打ち鳴らしながら医院のある階に着いた。
すりガラスの窓に医院の名まえが素っ気ない書体で書かれてあった。
扉を開く。
広い待合室は病院というよりは銀行のそれに近かった。
受付で名まえを告げ、機能的なデザインのソファーに腰を降ろす。正面に観葉植物が置かれてあった。その向こうに、極端に痩《や》せた少女と母親であろう女性が座っている。女が良輔を見た。良輔と眼が合うと、慌てて顔を伏せる。
濡《ぬ》れた躰を抱いて震えている良輔は、まるで身投げに失敗した男のようだ。
良輔は奥歯に力を入れた。ガチガチと音をたてないようにだ。
母娘はすぐに呼ばれて診察室に向かった。
待合室はロビーほど極端に寒くはなかった。少しずつ躰は寒さに慣れてきたが、冷たく濡れた服が不快であることに変わりはなかった。
母娘が帰ってこない間に、良輔は呼ばれて診察室に入った。
まるでどこかの会議室か何かのようだ。
中央に大きなテーブル。部屋の隅には黒板が置かれてある。
座ってください。
良輔に椅子を勧めたのは地味なスーツを着た若い女だった。
歯並びが悪いのか、少し唇を尖らしている。大きなぎょろりとした眼や小さな鼻と合わさって、女はある種の魚に似ていた。
テーブルを挟んで良輔は女の正面に腰掛けた。女の背後の壁には広い一枚の鏡がある。
女は、どうしましたと紋切り型の台詞《せりふ》を言った。この女がこの病院の医師なのだろう。それが癖なのかしきりに上唇を舐《な》めていた。
良輔は今小説を書いていること、そしてその取材をしていく過程で己れの記憶がすべて幻であることに気がついたことなどを話した。娘のことや不快な声の話はしていない。
女医は大学ノートにメモを取りながら、時折質問をする。
――その時あなたはどう思われましたか。
――どうすれば良いと感じましたか。
――不快なことといってどのようなことを思いつきますか。
喋《しやべ》っているうち、次第に良輔は馬鹿馬鹿しくなってきた。このようなことで何かが解決するとは思えなかった。
良輔の話が終わると、女医は黒板にいま聞いた話に出てきた人物をすべて書き並べ、その間に関係を示す線を引いていった。
これでいいでしょうかと女医に聞かれ。良輔は曖昧に返事をした。
――ではこれを見てください。
女医が短く切った爪で指したのは、テーブルの上に置かれた小さな硝子玉だった。黒いゴムの台座に載せられている。
女医は部屋の隅に行き電灯を消した。窓のない診察室は、足元を照らす間接照明だけになった。
薄暗い部屋の中で硝子玉だけが輝いている。台座の下に明かりが隠されているのだろう。それは呼吸するようにちろちろと明滅していた。
――じっとそれを見ていてください。
言われるまでもなく良輔は硝子玉を見つめていた。
見えるものはその明かりだけ。硝子玉を凝視していると、それ以外のものが闇に溶け消え去ってしまう。
――何が見えますか。
どこか遠くで声が聞こえる。
――何が見えていますか。教えてください。
明かりが、と良輔は答える。
――何を感じますか。
そう聞かれて良輔はテーブルの下に何かの気配を感じた。
テーブルの下に、と良輔が言うのにかぶせて女医は言った。
――何かがいるんですね。
良輔は頷《うなず》いた。
――それは何でしょう。
それは……。
答えようとする良輔の膝《ひざ》を割って、何かが良輔の股間《こかん》に押し当てられた。
思わず声が出る。
――驚くことはありません。
女医はそう言うが、良輔は腰を引いてそれから逃れようとした。しかし、泥濘《でいねい》に浸されたかのように躰《からだ》が自由に動かない。動かそうとする気持ちが躰に伝わるのに微妙な時間の差がある。
良輔は硝子玉から眼を離し、股《また》の間にいるそれを見ようとした。しかし今まで光を見つめていた眼には、そこに闇よりも濃く黒々とした影が見えるだけだった。
荒い息が股の間から聞こえた。
熱く湿った吐息を感じる。
少しずつ、少しずつ眼が闇に慣れてきた。
股の間にあるのは頭だ。誰かが良輔の股間に顔を埋《うず》めているのだ。
「何故恐れているのでしょう」
その声に顔を上げる。
テーブルの上の硝子玉が消えていた。
その代わりそこに、女医が脚を良輔の方に投げ出し座っていた。黒いパンプスの靴底が良輔の眼の前にある。
「恐れるって?」
良輔は聞き返した。
「恐れる必要などないのに、どうしてあなたはそれを恐れるのですか」
女医の顔が白く闇の中に浮かんでいた。それだけがくっきりと良輔に見える。
さっきよりもその眼が大きく丸い。鼻もさらに低くなり、ほとんどなくなっている。鼻孔が正面から見えた。薄い唇は頬の半ばまで裂けている。
そうか、と良輔は思った。これは催眠療法なのだ。光る硝子玉を見ることで、俺は催眠状態に陥っているのだ。
そう思うと、無駄に躰を動かそうとするのをやめた。力を抜き、じっと変貌《へんぼう》する女医の顔を見る。
「あなたは見知らぬ未来に怯《おび》えている」
女医は尻《しり》を左右に揺すって良輔に近づいてきた。
干し魚のような生臭い臭いがする。
女の脚が良輔の胴を挟んだ。
「でもね、未来に何があるかはあなたも知っている。それは死です。我々の間違いのない未来。それが死です」
女医の眼に目蓋《まぶた》がない。表情のない眼球がじっと良輔を見ている。
「後ろを振り返っても何もありません。そこにはもともと何もないんですよ」
唇のない大きな口が開くと、細かな鋭く尖《とが》った歯がずらりと並んでいるのが見える。
「ない後ろを見ても仕方がありませんよ。あなたはただ前を見て進み続ければいい。何も迷うことはない。何も恐れることはない。ただ前を見て進み続ければいいのです」
――そうよ。
良輔の股の間から声がした。
思わずそこを見降ろす。
それが顔を上げた。
長い黒髪が顔の半分を覆っていた。
青黒く膨れ上がった顔は、嘲《あざけ》るように灰色の舌を長く伸ばしていた。
顔を逸《そ》らしたいのに眼が離れない。
恨みがましい白濁した眼が良輔を見上げた。
ひい、と呑《の》んだ息が喉《のど》でつかえる。
慌てて立ち上がろうとした良輔に、女医の脚が烏賊《いか》の触手のように伸びた。
良輔の首に胸に胴にそれが絡みつく。
凄《すさ》まじい力で締めつけられた。
みしりと肋骨《ろつこつ》が鳴る。
幾重にも白く柔らかな女の脚が巻きつき、その指先が鼻や口に押し入ってきた。
息もできず身動きもとれず、かっと熱くなった頭の中に女医の声が響いた。
――あなたのすべきことをなさい。
まず肌がそれを知った。
照りつける太陽の痛いような陽射し。
夏の初めの心地好い風。
眼を開けば良輔は閑静な住宅街にいた。
ああ、これはここは……。
「これなんていう花」
短いジャンパースカートをはいた少女が垣根の向こうの赤い花を見ながら言った。
「奈美子……」
良輔は呟《つぶや》いた。
「酔芙蓉《すいふよう》よ」
後ろから声がした。
美沙の声だ。
「スイフヨウ」
奈美子が舌足らずの口調で言った。
良輔は恐る恐る手を伸ばし、少女のリボンがついた麦わら帽子を撫《な》でた。
「これでいいのよ」
美沙が言った。
後ろを振り返ることなく良輔は頷いた。
「これでいいんだね」
「見えないものを無理に見る必要はないわ。見えるものがこんなに素晴らしいんですものね。それだけを見ていればいい。事実なんて見るべき価値のないものかもしれない」
「そうだ。本当にそうだ」
「記憶の方こそが真実よ。だからあなたは」
「するべきことをすればいい」
「そうよ」
美沙はくすくすと笑った。
「暑くないかい」
淡い紅の花弁を見つめる奈美子に、良輔は声を掛ける。
少女はうんと頷いた。
「酔芙蓉はね、芙蓉っていう花の仲間なんだ。朝は真っ白な花だったんだよ。もっとしたらもっともっと赤くなってくる」
少女は驚いた顔で振り向いた。
「色が変わるの?」
「一日の間にね」
良輔は微笑んだ。
笑みを浮かべたまま泣いていた。
「これで良かったんだ」
そう、これで良かったのよ、と言われて良輔は己れが白々と輝く蛍光灯の下にいることを知った。
濡《ぬ》れたTシャツが冷たい。
テーブルを挟み、女医が座っていた。
入ってきたときと何一つ変わっていなかった。
良輔は慌てて涙を拭《ぬぐ》った。
「今日はこれぐらいにしておきましょう」
そう言われ、良輔は頭を下げて診察室を出た。躰の中がからっぽになったような気がしていた。受付で思った以上に高額の診察料を支払いビルを出る。しかし惜しいとは思わなかった。有り金すべてを払ったとしても同じだろう。日常的なものごとを感じとる力が失せていた。躰《からだ》はただ機械的に良輔をビルの外に追い出していた。
容赦のない暑さに、かん、と殴られたような気がした。それでようやく我に返った。
不思議なことに、押し潰《つぶ》されるかと思ったあの重苦しい不安感が消えていた。事態は何一つ変わっていないにもかかわらずだ。そうなるととたんに腹が減っていることに気がついた。
ちょうど昼食時だった。この辺りはオフィス街だ。どこの店に行っても行列ができている。
良輔は家の近くまで戻ることにした。駅を出ると、行きつけの定食屋で食事を済ませた。久し振りに飯が旨かった。満腹になって店を出る。
途中銭湯によった。汗を流すと本当に何の不安もないように思えてきた。さっぱりとしたその気分のままで部屋に戻る。
扉を閉めるのももどかしくワープロに向かい仕事を始めた。何故か高揚感があった。まるで何事か重要な仕事をやり終えたような気分だった。その気持ちをそのままに仕事が進む。
これは逃避だな。
頭の片隅ではそう思っている。何事も解決していない。なのにそれをすべて穴の中に投げ入れて、仕事をしている。
――するべきことをすればいい。
白日夢の中で美沙の言った言葉を思い出した。そうだそうだとひとり頷《うなず》く。
するべきことをすればいいのだ。
つまりこの『屍の王』を仕上げればいいのだ。そのことに全力を注げばいいのだ。
頭の中に次から次に言葉が浮かぶ。それを文字に移し変えていくのがもどかしい。気がつけば日は暮れていた。すっかり忘れていた夕食をコンビニエンスストアで買った調理パンですませ、また仕事を始める。
一息ついて、きれた煙草を買いに出たときには午後九時半だった。
今日が約束の火曜日であることは知っていた。
――来週、火曜日の午後十時に東進小学校跡に来いよ。
電話の声は良輔にそう言った。東進小学校は良輔のアパートからそれほど離れてはいない。歩いて十分ほどの距離だ。
気にはなっていた。が、行く気はなかった。正直怖くもあった。恐れるべきものが何もなかったにしろ、騙《だま》されるのもしゃくだとも思っていた。
それが、煙草を手にしてから何となく脚が東進小学校の方へと向いていた。
散歩がてらに行くだけ行ってみよう。中に入るわけではない。外からちょっと覗《のぞ》くだけだ。
言い訳しながらもそう思ったのは、病院を出てから続いている高揚感のせいだろうか。
良輔は買ったばかりの煙草を咥《くわ》え、星のない夜空を見上げながらぶらぶらと歩いた。
白い蛇腹のゲートが、かつて校門のあった場所に取りつけられてある。高さは二メートルあまり。
ゲートの隙間から中を覗き見る。
壁を剥《は》がされた校舎を背景に、古代の恐竜じみた巨大な工作機械が眠っていた。
山をなした廃材と、深く抉《えぐ》られた地面。
夜の廃校は荒涼とした異世界のようだった。その異世界に人の姿はない。
中で待てと言うことだろうか。
良輔は腕時計を見た。
十時に五分ほど間があった。
周囲を見回す。
街灯に照らされたアスファルトの路面が底無しの沼のようだ。その沼底に引きずり込まれたのか誰ひとり通るものの姿はない。
良輔は二三回屈伸を繰り返した。
日頃の運動不足のせいか、膝《ひざ》がぽきぽきと音をたてた。街に響き渡るほどの大きな音に思えた。慌てて周囲を見回し、それからゲートを見上げる。
いったん深くしゃがみ込んでからジャンプした。手をゲートに掛け、駆け上がろうと脚をばたばたさせる。
そこまでだった。
蝉のように良輔はしばらくゲートにへばりついていた。
すぐに諦《あきら》め、ゲートから手を離した。
再び周囲を見回す。
グラウンドを囲むブロック塀の前に、ポストがあった。これの上になら乗れそうだった。良輔はいったんポストに這《は》い上がり、そこから塀を乗り越えた。
塀から飛び降りたら、膝がじんと痛んだ。
しゃがみ込むと埃《ほこり》のにおいがした。
とたんに汗が噴き出してきた。
今年初めての熱帯夜だった。
まだ梅雨明けの宣言はされていないが、空梅雨だったことに間違いはない。雨は熱気を増すためにだけしょぼしょぼと降っただけだった。そしてそのまま夏を迎えようとしている。
暑い。とにかく暑い。
巨人たちに熱く湿った躰で囲まれているような気分だ。
Tシャツを捲《まく》り上げて顔を拭う。
時計を見る。緑に光るデジタル数字が十時ちょうどを示していた。
やはり単なる悪戯《いたずら》だったのだろうか。
流れる汗にうんざりしながら良輔は思った。
ゆっくりと立ち上がる。
一仕事終えた気分になっていた。
ほっとついた息が夜の中に消える。
急に闇が摺《す》り寄ってきたような気がした。
昏《くら》い。
明かりがないわけではない。
街灯が校庭を照らしている。本を読むのには辛いが、歩くのに不便なほどではない。
まったくの闇など、都会では有り得ないのだ。しかし、だからこそ闇は我々にその存在を意識させる。
夜が身を摺り寄せてくるのを肌が感じる。
湿った闇が毛穴から染み込んでくる。
引き抜かれた樹木の下に、掘り返された穴の底に、積み上げた瓦礫《がれき》の陰に、そこかしこに闇の眷属《けんぞく》がはべっている。
懐中電灯でも持ってくればよかった。
そう思った良輔の背後から声がした。
――こっちだよ。
びくりと後ろを振り返る。
誰もいない。
そこに佇《たたず》んでいるのは闇だけだ。
見上げれば解体されいく校舎があった。
壁を剥がされたそれは、スライスされた玩具《おもちや》の家のようだ。校庭側の教室は中がすべて見通せる。それは巨大な蜂の巣の断面のようだった。巣の中に潜むものが何なのかは、闇に埋もれてよくわからない。
――来いよ。
再び声がした。
剥がされた壁の向こう側から聞こえる。
あの電話の声だった。
夜の廃校で聞きたい類《たぐい》の声ではない。
神経に触れるような不快なその声も、しかし良輔は何度も聞く内に慣れてきていた。
「どこだ」
呼びかければ廊下の奥からこっちだと声が返る。
良輔はかつての正門から廊下へと向かった。進めば闇は粘るほどに濃い。良輔の姿がその闇に呑《の》まれた。
――そうだよ。こっちだよ。
声が聞こえる。その声に誘われるままに良輔は進んでいった。
脚を踏み出せば板張りの床がみしと鳴る。
それが後ろから何かがつけてくる音のように聞こえ、自然と良輔の脚は早まった。
その脚と脚の間を何かがするりと抜けていくのを感じた。
ただの風だ。
明らかに風の感触ではなかったのだが、良輔はそう思うことにする。怖《お》じ気づいて引き返すことだけはしたくなかった。そんなことになれば、一生闇に怯《おび》えていなければならない。良輔はそう思っていた。
――こっちだ。
声のする方を見れば階段があった。
一段一段爪先で探りながら昇っていく。手摺《てすり》は砂埃でざらざらだった。段を数えているのは怖さを紛らわすため。十五段で踊り場に出て、そこから十三段で二階に着いた。
逃げ水のような声に導かれ廊下を進む。
重そうな木製の扉が大きく開かれていた。講堂か何かなのだろう。
良輔は中に入った。
壁の一面が剥がされている。
差し込む光で廊下よりはかなり明るい。
が、光は途中から勢いを失い、反対側の壁は黒々とした闇の中だ。
前へと進む。
足を運ぶごとに埃が舞う。
一方の壁がないにもかかわらず、酷《ひど》く蒸し暑かった。
良輔は立ち止まり、声を張り上げた。
「ここにいるのか!」
じゃら。
音がした。
講堂の奥、流し込んだような漆黒の闇から音は聞こえる。
じゃら。
じゃら。
じゃら。
鎖だ。
太い鎖を鳴らす音だ。
「誰だ!」
怒鳴る声が闇の中に消えた。
返事はない。
良輔はそれに近づいていった。
心の一部がすりきれてしまっているようだ。
ただ暑い。
流れる汗の不快さだけが良輔の心を占めていた。
シャツの中を垂れる汗に苛立《いらだ》つ。
じゃらじゃらとうるさい鎖の音に苛立つ。
何故だ。何故俺はこんなことをしている。汗をだらだらと流しながら潰《つぶ》れた小学校の講堂を歩いていなければならないのは何故だ。そこに何がある。何があると思っている。
じゃっ、と一際大きく鎖が鳴った。
鎖に繋がれたそれが、鎖を強く引いたのだ。
じゃっ、じゃっ、じゃっ。
繰り返し音が聞こえる。
良輔は闇の中に幻視する。
壁に杭が埋め込まれている。杭には鎖が繋《つな》がれている。音がするたびに鎖はぴんと張り、壁から少し抜ける。砕けた壁が砂となってさらさらと床に落ちる。
鎖の音に混じって、真正面から荒い息が聞こえた。
「そこにいるのか」
良輔は問いかけた。
「嬉《うれ》しいよ」
闇の底から声がした。
今となっては聞き慣れた、ざらつくその声。
「やっぱり約束どおりに来てくれたんだな」
重く湿った大気に腐臭が混ざっている。糞尿《ふんによう》の臭いよりもずっと強烈な悪臭だ。
良輔はさらに前に出てそれの顔を見ようと思った。
「約束を守るいい男だよ、あんたは」
それが言う。
良輔は一歩前に出た。
目を凝らすが何も見えない。
「おまえは、何者なんだ」
「前に言わなかったか。まだ何者でもないんだ」
喉《のど》の奥で締めたような笑い声が聞こえた。
それに追従するように、あちこちから甲高い笑い声が聞こえた。
腐臭がさらに濃くなる。
まるで死んだ鼠に鼻先を突きつけてでもいるようだった。
「あんたに手渡すものがあるんだ。もう少し前に来てくれ」
「おまえがこっちに来ればいいだろう」
精一杯虚勢を張って良輔は言った。
「俺はシャイなんだよ。なあ、こっちに来いって」
また笑い声が聞こえた。
声の言った台詞《せりふ》がおかしくてたまらなく身悶《みもだ》えするような笑い声だ。
同時に何かが床を這《は》い回る音がした。
カサカサと木の床をこすりながら良輔の足元を這いずり回るものがある。
猫ほどの大きさのそれが良輔の脚をこすった。硬い爪が脛《すね》を掻《か》く。
良輔は身動きできなかった。
「ほら、これだ」
それがそう言うと、闇の中からぬうと腕が突き出てきた。
白く細い女の腕だ。
蒼白《そうはく》とも言えるその白い腕は、まるで闇から生えてでもいるように見えた。
その長い指が一枚の紙片を摘《つま》んでいた。じっと見ていると紙の白さだけが闇に浮かんで見える。
「受け取れよ」
声が言った。
良輔はその紙をそっと受け取った。白い腕が闇の中に消える。
良輔はその紙片を顔に近づけた。
何か記号らしきものが書いてあるのだが、それが何かまではわからない。
「これは……」
「地図さ。あんたが行かなければならない場所を示した地図だよ」
「俺が、行かなければならない場所……」
「あんたの本当の郷里さ。失われた記憶の中の郷里。小説の中でそこを訪ねることになっていただろう」
「……何故そんなことを知っている」
「驚くようなことじゃないだろう。『屍の王』を真面目に読んでいたら、最後はそこに行き着くことぐらい予想できる。そうじゃないか」
「確かにそうだが……」
「最後に主人公が行くべき場所。それがその地図に示されている」
「そこをモデルにして小説を書けということか」
「モデル? ある意味じゃあそうだな」
「どういうことだ」
「さっき言っただろう。そこはあんたの本当の郷里だよ。あんた、それを探していたんだろう」
「どうしておまえがそんなことを知っているんだ。俺の本当の郷里だなんて」
「さあ、何でだろうな。いまそれを詮索《せんさく》する必要はない。そんなことはいずれわかることだ。ラストシーンだけ先に読む奴は少ない。楽しみが減るからな」
「これは小説じゃない」
「さあ、どうだろう。とにかく、おまえに渡すものは渡した。もう帰ってもいいぞ」
良輔はじっと闇を見据えていた。
「どうした」
嘲《あざけ》るように声は言う。
帰るべきだ。
頭の中ではそう思っていた。
この世には知らなくても良いことがある。いや、知ってはならないことがあるのだ。
だが……良輔は一歩前に出た。
腐臭は我慢できないほど酷い。
しかし、さらにもう一歩。
闇が割れ、白い顔が現れた。
項垂《うなだ》れた女の、腐敗した顔だ。
蕩《とろ》け落ちそうな眼球。崩れ、大きな穴が開いているだけの鼻。笑うように開いた唇から、黒く腫《は》れ上がった舌が逃れ出ようとしている。
その女の顔がゆっくりと左右に揺れていた。揺れるたびに音がする。
みし
みし
みし
これは、これは夢の中に繰り返し現れるあの女だ。小説の中でも夢のシーンとして描いたあの女だ。この世のすべてに絶望し、あらゆるものを恨んで死んだあの女だ。
場違いな笑顔が良輔の顔に浮かんだ。
悲鳴が喉につかえていた。
――帰れ。
声がした。
悲鳴をあげることはなかった。ただ走っていた。気がつけばひたすら走り続けていた。
焼け落ちた焼き肉屋や点滅する古い自動販売機や痴漢防止の看板の横を抜けて部屋に戻る。
扉を開けるまで意識を保っていた。気がつけば朝だった。
良輔は陽に灼《や》けた畳にうつ伏せになって眠っていた。
起き上がり、汗でずぶ濡《ぬ》れになった服をすべて脱ぐ。置いてあったタオルで躰《からだ》を拭《ぬぐ》った。
煙草を買いに出てからのことは夢だったのか。
一瞬そう思った。あれは全部リアルな夢だったのだ、と。
が、脱ぎ捨てたジーンズのポケットに真新しい煙草が入っていたのを思い出した。昨日の晩煙草は吸い殻まで吸い尽くした。煙草を買いに出たのは事実だ。
そして一枚の紙を渡されたことも。
畳に落ちていたその小さな紙片を拾い上げる。
ノートの切れ端のようだった。そこに書かれてあるのは地図だ。あまり丁寧な地図ではない。慌てて書いた走り書きのようだ。
ただの悪戯《いたずら》だ。
下らん。
わざわざ口に出してそう言ったが、紙片は捨てることなく財布の中に折り畳んで仕舞われた。
いずれそこに行くのだろうか。
良輔は全裸のまま畳に腰を降ろし、煙草に火を点《つ》けた。
早朝にもかかわらず、耐えられぬほどに暑かった。
12
泉は深く溜息《ためいき》をついた。
躰の節々が固まったようになって痛む。躰を動かすのにかなりの努力が必要だ。筋肉に砂が混ざっている気がする。
風邪でもひいたのだろうか。
たかだか机に伏せって寝ただけで、これほど調子が悪くなるとは思っても見なかった。
時計を見ると午前五時だ。
三時間ほど寝込んでいたことになる。
テーブルの上に置かれた原稿がじとりと濡れていた。
泉の寝汗だ。
原稿の上に両腕を乗せてうたた寝をしていた。
原稿は真っ赤だ。泉が朱を入れたからだ。
下らない小説だ。
読みながらそう思っていた。まだ半分ほどしか読んでいないが、後半を読む気がしなかった。だからこそ寝入ってしまったのだ。
これだけ訂正を入れたら、俺が書いているのと変わらないな。
苦笑し、立ち上がる。
蒸《む》し風呂《ぶろ》のように暑かった。熱気に粘るような嫌な臭いが混ざっている。
クーラーをつけていたはずなのだがいつの間にか切れていた。勝手に切れるはずがない。おそらくタイマーでもかけていたのだろう。泉にはその記憶がまったくなかったのだが。
締め切っていたカーテンを開き、窓を開けた。
換気のためと思ったのだが、風はない。
二階から家の東側にある池を見る。緑にどんよりと澱《よど》んだ池だが、魚はいるらしい。夏休みになると近所の子供たちが釣竿《つりざお》を持って集まってくる。だがさすがにこの時間には誰もいない。
泉は窓を閉めた。
クーラーのスイッチを入れる。買って五年になるクーラーは、己れの冷気に身震いしてから風を吹き出し始めた。まるでこれが扇風機であるかのように、冷風の前に躰を置いてシャツの衿《えり》をはたはたとさせる。
それからちらりと机の引き出しを見た。そして顔をしかめる。何か禍禍しいものでも見たかのように。
引き出しから視線を引き剥《は》がすと、泉はキッチンに向かった。朝食を作るためだ。
独身ではない。妻と二人の子供がいる。別居しているのだ。おそらく二度と一緒に暮らすことにはならないだろう。一年前のことだ。つまらないことから喧嘩《けんか》になった。泉は手を出した。出ていけと怒鳴った。そして本当に出ていってしまった。
喧嘩の最初の原因は忘れてしまっていた。良心的出版なんて時代遅れだと言われたことは覚えている。だから、殴った。
夫婦仲が特別良かったわけではないし、悪かったわけでもない。相手にそのような感情を持つ以前に、互いが関心を失っていた。冷めた関係、といっても結婚して二十年以上経てばどこの夫婦でもそうだと思っていた。だから離婚するなどと考えたことはなかった。しかし妻はそうではなかったようだ。
後悔はしている。でも心のどこかでこれで良かったのだとも思っていた。
慰謝料と月々の養育費。それが決定すれば正式に離婚することになるだろう。長女はすでに嫁いでいる。長男は二十歳だ。いまさら親の離婚で傷つく歳でもないだろう。妻はピアノを教えている。それで自立できるだけの定期的な収入も得ている。離婚はそれぞれにとってあまり大きな影響を与えないはずだ。
離婚調停を進めるうち、彼女が泉を半ば憎悪していたことを知った。泉は驚いた。それほどまでに憎んでいたのなら、離婚は必然だとも思った。そして離婚が必然だ、などとすんなり考えられる己れもまた、どこかでこうなることを望んでいたのかもしれない。
胃がキリキリと痛んだ。
何か口に入れたら治まるかもしれないと思った。以前胃の調子が悪くなったことがあった。その時は空腹になると痛み、消化の良い物を少し口にすると楽になった。
台所に入り、ジャーから飯をつぐ。炊いて三日目の米は黄色く、独特の臭気があった。これに茶をかけ漬物で食べるつもりだった。いつもどおりの朝食だ。
ポットから湯を注ぎ茶を入れる。冷蔵庫からキュウリの浅漬けを出してから、茶碗に軽く盛った飯に茶をかけた。
それを持ってテーブルに運ぶ。
一人住まいにはあまりにも広い家だった。
五年前にローンで購入した。ここから勤め先の出版社まで三時間近くかかる。だからこそ泉の稼ぎでも買うことができたのだ。泉の稼ぎで、と言ってしまえば別居中の妻が怒るだろう。彼女のピアノ教師としての収入も大きかった。離婚後の最大の不安はここのローンを支払い続けていくことだ。だが泉は、いざとなれば広すぎるこの家を売り払うつもりだった。妻に支払う金額によってはそれもそう遠い未来の話ではない。
お茶漬けを啜《すす》り、漬物を音をたてて齧《かじ》る。
食欲というものからここ数日無縁だった。腹が減る、ということ無しに食事をすることが耐えきれぬほどに苦痛であることを知った。
半分以上残った碗を流しに置いて、再び仕事部屋に戻る。
クーラーがこれでもかというぐらいに効いていた。息が白くなるのではないかと思えるほどだ。だが泉はクーラーを停めない。その過剰な冷たさが心地好かった。
机を前に椅子に座る。どうしても視線が引き出しへと向かう。
その中には封筒が入っていた。
内容は真莉緒の遺書、フロッピーに記録されていた文章だ。
泉はコンピュータを持っていない。会社で若い社員に頼んで自宅で打ち出してもらった。頼んだのが金曜日。しっかり土日の休みを取るその若い男は、打ち出したそれを郵送してきた。昨日の朝、それが郵便受けに入っていたのだ。
開封することなく、その封筒は引き出しの中に仕舞われている。中身を読んではいない。
タクシー運転手に読まない方がいいと忠告された。泉はそれが幻聴であると信じていた。信じていながらも開封していない。幻聴であったにしても、それは己れの内なる声だと泉は思っていた。それを読んではならないと、泉の中の何かが警告し続けているのだ。
不吉な予感。
一言で言うのならまさしくそれだ。
『不吉』も『予感』も、普段の泉が毛嫌いする言葉だった。霊感だの第六感だのといったものを泉は嫌悪していた。占いなどを何かの判断材料にしようなどという人間は信用できなかった。
だが泉がいま感じている感覚こそが、まさに不吉な予感そのものだった。
疲れているのだ。
泉はそう思う。
躰《からだ》が弱ると、そのようなものを判断の材料にする。病気なのだ。だから『不吉な予感』などというものに怯《おび》えなければならない。
頭の中でいろいろと理屈を捏《こ》ねはするが、引き出しを開こうとはしなかった。
泉は赤鉛筆を手にした。
仕事の続きに取りかかるつもりだった。
原稿用紙の上に蠅がとまっていた。
ぽってりと太った腹の大きな蠅だ。
前脚をしきりにこすり合わせている。それはよく言われるように、謝っていたり礼を言っていたりするようには見えなかった。
肘《ひじ》をつき、刺《とげ》だらけの手を摺《す》り合わせながら笑っている。
泉にはそう見える。
蠅は彼が巨大なごちそうであるかのように、舌舐《したな》めずりしながらじっと泉を見つめている。
そう言えば最近家の中でよく蠅を見る。それも縞模様のある太った蠅だ。
手近な雑誌を丸めて、泉はそれを叩《たた》いた。
ゆっくりと雑誌を上げ、潰《つぶ》れた蠅をティッシュで拭《ぬぐ》い取る。原稿に茶色い体液がシミとなって残った。
耳元で羽音がした。
死んだはずの蠅が生き返った。一瞬馬鹿げた妄想が頭を占めた。
頭の上を手で払う。
文字どおり五月蠅《うるさ》い。
昔は魚屋の店先などで蠅捕りリボンなどという薄汚い褐色のテープを見たものだが、最近では滅多に見ない。街中で蠅自体を見ることが少ない。
ところがここ何日か、部屋の中でも外でも、泉はやたらと蠅を見た。
街が立ち腐れしているんだ。
そのたびに泉はそう思った。
癇《かん》に障る音は執拗《しつよう》に泉にまとわりついていた。
校正の続きをする気はしなかった。
真莉緒の遺書を読んでみるか。
ふと、そう思った。
引き出しを開く。
どこにでもある茶封筒が出てきた。
封を破る。
どこにでもあるA4の紙が出てきた。
そうだ。封筒も紙も、どこにでもある代物だ。特別な何か、不吉な前兆を感じさせる何かなどここにはない。
泉は四つに折り畳まれた紙を広げた。
親愛なる泉守道殿。
この手紙を君に手渡したのが僕でないのなら、きっと僕は死んでいる。どんなふうに死んでいるのかは想像できないが、きっと僕の好きな映画のような死に方をしているだろう。僕から手渡されたとしても、これを君が読んだ後で僕は死ぬかもしれない。
――そりゃあ死ぬだろう、人間いつかはな。
君がそう言うときの唇をひん曲げた偉そうな顔が見えるよ。
いいかい、泉。
この手紙は冗談じゃない。
僕は死ぬ危険を冒してこの手紙を書いているんだ。下らない遊びや冗談ではない。
今からここに書くことをもし君が知っているのなら、確かに僕は馬鹿なことをしていることになる。そしてそれは君が知っていて当然のことなのだ。僕が馬鹿なことをしている可能性は高い。
だが僕にはきっと君がこのことを知らないだろうという確信もある。
結局奴のしたことは、襖《ふすま》の前に立ちふさがってここには誰もいませんと言うようなものだ。
君がこの事実を知っているのなら、どうして僕が君にこの話をすることを阻止しなければならないんだ。
だから僕は、これから君がこれを知らないものとして話を進める。いいね。
君が言う≪草薙良輔≫が、君が担当していて、娘が誘拐され殺されたあのエッセイスト≪草薙良輔≫なら、彼は今刑務所にいる。
二年前のことだ。
草薙は口論から女房を殺している。殴ってからぐったりした彼女の首を絞め、しかも自殺に見せかけようと紐《ひも》で首を吊《つ》ったらしい。
娘を殺されてから精神的にまいっていたというが、それでも残忍な手口だ(その時の新聞を同封しておく)。
本人が罪を認めているので判決はその翌年にはついた。
君は獄中の草薙に原稿を書かせているのか。
僕のところに送られてきた原稿はたった百枚。これはつまりまだ原稿がすべてできていないということだ。そうだろう? 僕に完成した原稿を小分けにして見せることに意味はない。
ということは君が獄中の草薙に原稿を書かせていることになる。
だが、そうではないだろう。
君は僕に一度もそんな話はしなかったし、獄中の殺人犯に小説を書かせるようなやり方は、泉守道のやり方ではない。
獄中の草薙が書いたのでないなら、『屍の王』の著者は、君が原稿を依頼した相手は誰なんだ。
この文章を読んで、君が馬鹿馬鹿しいと思ってくれたのなら有り難い。そして僕に、実はこうだったんだと説明してくれるのなら、これほど嬉《うれ》しいことはない。
そうなることを期待しているよ。
[#地付き]番場真莉緒 拝
文章はそこで終わっていた。
同封しますという新聞の切り抜きは入っていない。当然だ。真莉緒はこれを泉に渡す前に殺された。
泉は汗を拭った。
読み始めたとたんに酷《ひど》い耳鳴りが始まった。
それに合わせるように蠅がうるさく頭上を飛んでいる。
一匹ではない。二匹、三匹とその数が増えていく。
泉は思い出していた。
そうだ。忘れるはずがない。
草薙は服役中だ。
泉はそれを新聞で知った。
娘を亡くしてから仕事をしていない草薙に、泉はいつか小説を書かせてやろうと思っていた。その時期を待っていた。そしてその時期が二度と訪れないであろうことをその時知ったのだ。
忘れるはずがないのだ。
それだけではない。
泉は担当していたときの草薙の顔を思い出していた。その顔は、今会っている草薙とはまったく別の顔だった。どこにも似ているところなどない。一目見ればすぐにわかることだ。
そんなことに気がつかないはずはない。
それなのに……。
どうしてだ。
どうしてなんだ。
泉は椅子から立ち上がった。
指にへばりついたその紙を、腕を振ってふるい落とす。
指の痕《あと》が薄汚いシミになっていた。が、泉はそんなことにかまっていられる状態ではなかった。
酷い眩暈《めまい》がした。
耳鳴りはますます酷くなる。
気分が悪い。
壁に手をつきながらよろよろとトイレに向かう。
間に合わなかった。
胃が握り潰されたようだ。
フローリングの廊下にしたたか吐く。真っ黒な粘液だ。
酷い臭いが部屋中に広がった。腐臭だ。腐った肉の臭いだ。
泉は再び汗を拭った。
べとりと手の甲についたそれは、しかし汗ではなかった。
赤黒い血膿《けつのう》だ。
泉は悲鳴をあげた。悲鳴をあげようとした。しかし声が出ない。何かが喉《のど》につかえている。
泉はそれを吐き出した。
タール状の嘔吐物《おうとぶつ》の中にそれはぼとりと落ちた。
舌だった。
舌と十数本の歯だ。
脚から力が抜けていく。
膝《ひざ》をつくとそこから肉を裂いて骨が突き出た。
そのまま前へと倒れる。
支えたはずの腕がおかしな方向に曲がった。
粘る音とともに肩から腕が外れた。
関節が外れたのではない。腕が肉を千切り肩から抜けたのだ。
まともに額を床で打つ。
痛みはない。痛みはないが、嫌な音がした。
動く方の手でそこを探る。
ぬるぬるした頭をまさぐると、髪の毛がごっそりと抜けた。
そしてそこに指が入る。
頭に穴が開いていた。
泉は、指で己れの脳を触っているのだ。
ちょっと倒れただけで、頭蓋《ずがい》が砕けていたのだ。
わん、という羽音とともに何百という蠅が舞った。黒い霊魂のように、塊となって蠅が飛んでいる。
耳鳴りが止んだ。
泉は笑った。
舌も歯もない口からごぼごぼと汚水じみた泡を噴き出しながら笑った。
うるさい耳鳴りだと思ったら、あれは俺の頭の中の蠅だったんだ。
立ち腐れしてたのは街じゃない。
俺だ。
涙が出ていた。
赤黒い涙と一緒に眼球が流れ出てきた。
神経繊維の尾を引きずってのたりと床に落ちる。その眼窩《がんか》からも大量の蠅が飛び立った。
泉は思い出した。
すべてを。
あの夜、今となっては誰なのかわからない自称草薙良輔と出会ったあの夜のことすべてを。
あの日泉はいつになく酔いつぶれていた。普段は正体がなくなるほど飲んだりしない。そういう酒の飲み方は馬鹿のすることだと思っていた。だがその日は馬鹿になって飲み屋のはしごをしていた。むしゃくしゃしていた。書籍部の部長から、売れない本ばかりつくっている言い訳に良書だの何だというのはやめろと怒鳴られたのだ。言い訳だったかもしれない。そう思う己れがあったからこそ余計に腹の虫が収まらなかった。その場で黙っていた己れの処世にも腹が立った。
何がきっかけだったかまでは思い出せないが、喧嘩《けんか》になった。売った喧嘩であることは間違いない。相手は若いサラリーマンだった。五六人いた男たちもまた酔っていた。最初の一発こそ決めることができたが、そこまでだった。
横たわり頭を抱える泉を、男たちは蹴《け》り続けた。中の一人が近くの工事現場から鉄パイプを拾ってきた。
すいか割りの要領で目をつむりぐるぐる回ると、パイプを振りかぶって泉に近づいた。
他の男たちが泉を押さえつけ、前だの後ろだのとはやしたてた。
鉄パイプが振り降ろされた。
それが泉の頭に当たったのは偶然だろう。
砕けた頭から白い脳漿《のうしよう》が飛び出したのを見て、男たちは走り去ってしまった。
泉は濡《ぬ》れた路面を見ていた。
コンクリートを黒く濡らしているのは己れの血だった。
躰《からだ》が動かなかった。
医者に行こう。
泉は思った。
医者に行かなければ。
そうじゃないと……。
――死んでしまうぞ。
耳元で囁《ささや》く声を聞いた。
生理的に不快な声だった。
死を目前に絶対に耳にしたくない声だった。死を前にし最も恐れ忌避すべきもの。つまりそれは≪死≫そのものだ。
それは≪死≫の声だった。
――もうちょっと長生きしたいよな。
声の主を見ようと泉は眼球を動かした。
声の主は何処にもいない。
死臭を嗅《か》ぎつけた闇が迫る。視界が狭まり、薄暗くなってきた。
――取り引きしよう。俺があんたの死を延長させよう。だからあんたは俺の頼みを聞いてくれ。
返事をするだけの力は残されていなかった。
だが声は勝手に話を進めた。
――そうか。引き受けてくれるか。俺の頼みは簡単だ。草薙良輔に小説を書かせてくれればいいんだ。草薙良輔、知ってるだろう。ほら、あそこにいる。
視界がかすみ、見えなくなりつつあった眼が、しかし路地の向こうを歩く男の姿を一瞬だけ留めた。
その時はまだ草薙良輔が獄中であることを知っていたし、通った男が草薙でないことも知っていた。
なのに泉はそれが草薙良輔だと得心していた。
――よし、あんたはいい編集者だ。草薙にいい小説を書かせてやってくれ。頼むよ。
肩をぽんと叩《たた》かれた。
そこで意識が途切れた。
すぐに気がついた。
泉は夜の街を歩いていた。
長い間考え事をしていたのだと思った。
すぐ眼の前にあの男がいた。
草薙良輔が。
泉は走りよって腕を掴《つか》んだ。
良輔。
声を掛ける。
その時にはその男が草薙良輔であることを信じていた。その男以外に草薙良輔という人間は存在しないのだと。
そして今またあの声を聞いている。
――残念だよ。もう少し頑張って欲しかったんだがな。
残された眼で四方を見る。
誰もいない。
代わりにビーチボールのように膨らんだ己れの腹が見えた。それは今も膨らみ続け――弾《はじ》けた。
血と腐った臓腑《ぞうふ》とどす黒い肉片が花火のように四方に散った。
無数の蠅が喚声をあげる。
声は話を続けていた。
――仕方がないなあ。残りは誰か別のものにやらせることにするさ。もう小説は完成間近だからな。君のような名編集者がいなくても何とかやっていけると思うよ。心配するな。『屍の王』は見事な本に仕上げてやるよ。
その声に応《こた》える者はもう誰もいない。
13
何やら空に魂胆でもあるのか雨は降らず、厚く雨雲が空を覆ったまま夜を迎えた。
赤ん坊そっくりの泣き声で猫が鳴いている。
夜明けが近い。
が、夜はまだぐずぐずと居すわっていた。
もう少し、もう少し待ってくれ。
良輔には夜の声が聞こえるようだった。
蒸す。ひたすら蒸す夏の夜。張りつけたような汗が不快だった。生まれたときの赤子はこんな気分が嫌さにあんなに泣き叫ぶのかと下らぬ妄想を浮かべながら、良輔は窓の外を見た。
道路を挟んでマンションが見える。標本箱のように等間隔に四角く生活が切り取られていた。取り込むのを忘れた洗濯物が首吊《くびつ》りのようにだらりと物干しに並ぶ。それがそよぎもしない。ここ数日そうであるように風はない。街が寝汗でもかいているように、大気は湿り生暖かかった。
マンションに、一軒だけ明かりが灯《とも》っていた。ピンクのカーテン越しに明かりが漏れている。今から出勤なのだろうか。時折カーテンの奥で動く影が見える。
良輔は深呼吸でもするように深く煙草を吸い、吐く。それから畳に座り込み、ワープロの画面を見た。書き始めてから三ヶ月あまり。『屍の王』はもうすぐ完成する。良輔はこの一週間ほど、憑《つ》かれたように原稿を書き続けていた。
声の主から渡された地図は小さく畳んで札入れの中に入れてあった。小説中の主人公は、すでに真実の故郷となる土地を訪れていた。その描写も半ばを過ぎている。
あれからも電話は頻繁にかかってきた。ひとは何にでも、いずれは慣れるものだ。肌が粟立《あわだ》つほど嫌だった声と、良輔は長話をするようになっていた。話はすべて良輔の小説『屍の王』に関することだ。
声は良輔の才能を誉め、歴史に残るであろう小説として『屍の王』を賛《たた》えた。時に声は『屍の王』の欠点をあげ、構成や文体や表現に不満を訴えた。叱りつけることさえあった。そして最後には、こうすれば完璧《かんぺき》になるはずなのに、と某《なにがし》かのヒントを与えた。
声は名編集者だった。
声の助言により『屍の王』がより良い小説へと変わっていくのは、良輔自身が一番良くわかっていた。
行き詰まったときなど、声からの連絡を待つようにさえなった。
泉からの連絡が途絶えていた。十日あまりまったく連絡がない。それがあまり気にならなかったのは、声との会話があったからだ。
いま書いたばかりの部分を読み直し、良輔は煙草を灰皿に押しつけた。山となった吸い殻が崩れ落ちた。
灰で汚れた指をズボンになすりつけ、キーボードに置く。すぐに汗ばんだ指でキイを叩き始めた。
電話のベルが鳴った。
すぐに受話器を取る。
「いま書いてるよ」
例の声だと思って良輔は言った。
「それは良かった」
答えたのはあの声ではなかった。
「泉さん」
「久し振りだな」
声が遠い。沼の底で呟《つぶや》いてでもいるようだ。いまどき国際電話でももっと明瞭《めいりよう》に聞こえる。しかも強く弱く始終ぶんぶんと雑音が混ざっていた。
「泉さんですよね」
返事が聞こえない。
「すみません。聞こえにくいんですけど。……あの、雑音が酷《ひど》くて聞こえにくいんですが」
「…………悪い。……調子が……」
「ご無沙汰《ぶさた》してます。最近どうしてたんですか。全然連絡がないし、心配してたんですよ」
「ありがとう…………心配してくれるのはおまえだけだ」
「なに言ってるんですか」
良輔は笑った。その笑い声が受話器の奥に沈んでいくように思える。なぜか受話器の向こうで深く暗い闇が待ち構えているような気がした。
「……それより、原稿の方は…………」
「進んでます。もうすぐ完成します」
「最後…………あるだろう。本当の故郷にたどり着くところが」
「ええ? ああ、今それを書いているところですよ」
「どうかなあ…………あるから、また……」
「何ですって」
「取材だよ、取材」
「取材、何を」
「真実の故郷だ。心当たりが……おまえは知ってるんだろう…………直観だよ。これだっていう場所があるんだろう」
「えっ? はあ、まあ、あるといえば」
「……から連絡があったのならそれに素直に従って…………」
蠅の羽音のような音が大きく被《かぶ》さって声が聞こえない。
「…………さようなら」
それだけがはっきりと聞こえた。
さようなら。
あまり泉の言いそうにないような台詞《せりふ》だった。
電話は切れていた。
良輔は煙草に火を点《つ》けた。
立ち上がり窓にもたれる。
取材しろ、か。
煙を夜の街へと吹きかけた。
正面のマンションで電灯のついているのはやはり一軒だけ。ピンクのカーテンが掛かった部屋だけだ。カーテン越しに見える人影の、長い髪が揺れている。そのシルエットからも影の主は女のようだった。
ここに越してきて随分と経つが、その部屋に誰が住んでいるのかなど考えたこともなかった。
影は何かを探してでもいるように部屋の中を右へ左へと動き回っていた。良輔は見るとはなしにそれを眼で追っていた。
女の姿が奥に消え、そして叩《たた》きつけられでもしたように再び窓の前に現れた。
その背がゆっくりと伸びていく。
いや、背が伸びているのではない。少しずつ女の躰《からだ》が宙に浮かんでいるのだ。
女が、宙に、浮かぶ。
錯覚だ。
影が見せる幻だ。
そんなことは有り得ない。
そう、有り得ない。
女の頭が窓から上へと消えて見えなくなった。その両腕はだらりと垂れ下がっている。その躰がわずかに左右に揺れている。
女は浮かんでいるのではない。
吊るされているのだ。
みし
みし
みし
良輔にはその音が聞こえる。
その姿が見える。
切羽詰まった声がした。
――助けて!
本当の声なのか頭の中の声なのか、最初良輔には区別がつかなかった。
「開けて! お願い!」
扉を激しくノックする音。
木造のそれがたわむほど力一杯叩いている。
間違いなく現実の音だ。
「ちょっと待って」
言いながら良輔はドアを開けた。
飛び込んできた女が背中で扉を閉める。
隣の若い女だった。
「早く、早く鍵《かぎ》を」
女に言われ良輔はあまり頼りになりそうもない鍵を閉めた。
どん、と扉を蹴《け》る音がした。
「開けろよおおおお」
歌うようなそれは男の声だ。
良輔は女を見た。女が必死の形相で首を横に振る。
「開けろよう。わかってんだぜええ。おおい、ブスううう。早く開けろって」
また扉が蹴られた。
頑丈とは言えない扉は今にも壊れそうだ。
「誰だ」
良輔は精一杯|強面《こわもて》の声を出した。
「あらあ、おっさん、いたのか」
酔ったような上機嫌だ。舌がまともに動いていない。呂律《ろれつ》が回らない、というやつだ。
「わかった。おっさん、そのデカ乳に恩売って、後でやらせてもらおうってことか。それなら俺を中に入れろよ。一緒にやろうぜ。その淫乱《いんらん》ブタなら喜んで相手にしてくれるぞ」
「お嬢さんはあまり喜んでいないみたいだぞ」
「ふざけてんのか、おっさん」
急に不機嫌な声になった。
「ぶっ殺すぞ!」
アパート中に響く大声で怒鳴る。
その声に聞き覚えがあった。このアパートに住む坊主頭の青年だ。前にも何度か、今と同じようにぶっ殺すぞと怒鳴っていた。言うがままに殺していたらたちまち連続殺人犯になっているだろう。もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
「警察に電話するぞ」
「んなもん、怖くねえんだよ」
「そうか、じゃあ電話する」
ぶっ殺す!
まじぶっ殺す!
怒鳴りながら扉を狂ったように蹴り始めた。
良輔は両手で扉を押さえながら女に言った。
「警察に電話して。一一〇番を」
外にも聞こえるように言ったつもりだった。それが功を奏したのか、扉を蹴る音が聞こえなくなった。
廊下を足音が去っていく。
しばらく待ってから扉を開いた。
坊主頭が階下へと降りていくところだった。
良輔は扉を閉め、念のために鍵をかけた。
振り返ると女が蒼褪《あおざ》めた顔で受話器を握り締めていた。
「警察に電話した?」
女は首を横に振った。
「良かった。警察が来ると面倒だからね」
よほど恐ろしかったのか、女は受話器を握り締めたまま離さない。
良輔は女に近づき、受話器を手から離して置かせた。指先が凍えるように冷たかった。
「御免なさい」
畳に横座りした女が頭を下げた。
いつも驚いているように見える大きな眼が、今は本当に驚愕《きようがく》のために見開かれたままだ。
良輔は黙ってお茶を入れ、畳の上に直接茶碗を置いた。
女の前にあぐらをかく。
「悪いね。来客なんて滅多にないもんだから」
良輔が笑うと女もつられて微笑んだ。
「あいつ、前から会うたびにやらせろやらせろって……」
シナリオにそう書いてあったかのように、女は眼を伏せた。
「シンナーやってるみたいだし、危ないよ、あの男」
「今日も廊下ですれ違っただけなのにやらせろって……。あんまりしつこいから肩を押したんです。ほんのちょっとなんですよ。そうしたらいきなり」
いきなり女がもたれかかってきた。
木偶《でく》のように良輔は背筋を伸ばしてあぐらをかいたままだ。
女は良輔の背中に腕をまわした。
ぐにゃりと潰《つぶ》れる乳房を、良輔は薄いTシャツ越しに感じた。女は下着をつけていないようだった。
坊主頭の言った品のない単語が良輔の頭の中で点滅している。
シンプルな白のシャツブラウスに紺のタイトミニ。ダークブラウンのストッキングはこの季節に暑いだろうに、と愚にもつかぬことを考える。
仕事でげっぷが出るほど若い女を抱いてきたはずなのに、心臓が滑稽《こつけい》なほど脈打っていた。
どうしたの、と聞かずともいいような台詞《せりふ》が勝手に口をつく。
「私、AVに出てるんです。あいつそれを知っててしつこく言い寄ってくるんです」
女はそう言うと顔を上げた。
見降ろせばすぐそこに良輔を見つめる大きな眼があった。
「センセイ、軽蔑《けいべつ》する?」
「まさか」
良輔は即答した。
「知ってた?」
女は自分が出演していたビデオのタイトルを幾つかあげた。
「結構有名なんだけど」
「悪いけど見たことがないよ」
「そこで私|凄《すご》いことしてるの。ほんとに凄いこと」
女がじっと見ているので良輔も眼を逸《そ》らせない。ああ、そう。とだらしのない返事をしていると、もそりと男根が頭をもたげてきた。
「だからって相手かまわずするわけじゃないのよ。誰があんな馬鹿にしてやるもんですか」
良輔は黙っている。ただ黙って喋《しやべ》り続ける女を見ている。
「でも、センセイなら、ね」
徹夜明けで敏感になったそこに女の手が伸びた。指先がその形をなぞる。ジーンズの下で浅ましいほどにそれは強ばっていく。
「したい?」
頷《うなず》くこともできない良輔を見て女は笑む。
股間《こかん》をまさぐりながら躰《からだ》を預けてきた。押されるままに良輔は畳に横たわる。
その肩を両手で押さえつけながら女は躰を起こし良輔に跨《またが》る。
それから長い髪をかき上げ、汗に濡《ぬ》れた彼のTシャツを剥《は》がした。脚をばたつかせ良輔はズボンとトランクスを脱ぎ捨てる。
女はダンサーのように、良輔に腰を押しつけながら回転させた。スカートが捲《まく》れ上がり、肉付きのいい太股《ふともも》が顕《あらわ》になる。
良輔の頭から、向かいのマンションで首吊《くびつ》りをしている女の影のことなどとうに消えていた。
女は躰のどこかを必ず良輔に触れたまま、器用に服を脱いでいく。
良輔はされるがままだった。
女の腕や唇や眼や足や腿《もも》や舌や指先に指図されるまま、うつ伏せになり尻《しり》を上げ、仰向《あおむ》けになり脚を開き、横になり立ち上がり後ろを向き膝《ひざ》をつき躰を折り曲げ、そして喘《あえ》いだ。
恐怖の名残りなのか、女の躰はどこもかしこも冷たく、良輔は何度も交尾する蛇を思い浮かべたのだが、その妄想すら滴る液状の快楽に浸され変質し彼を欲情に駆り立てる。
夜明けを間際にしながら一向に昇らぬ陽を気にすることもなく、二人は溶けるほどに互いの躰を擦り合わせた。永劫《えいごう》を約束されたように終わりなく幾度も果てる良輔は、そのたびに意味もなく御免と謝った。その言葉が二人の体液に溶けて混ざれば再びことが始まった。
涙や唾液《だえき》や精液や汗やその他様々な体液が畳を腐らせるほど流れ、疲れ果てた良輔は女の尻を指先で撫《な》でながら言った。
「そう言えば……」
そこで良輔は己れのものが熱い熱い口腔《こうこう》の中に収まっている心地好さにしばらく身をゆだねた。
「そう言えば、何?」
仰向けに横たわる良輔に背を向け、腰に跨った女が聞く。いつの間にか良輔のものは女の中に収まっていた。
「まだ名まえを聞いていなかった」
良輔が尋ねた。
揺《ゆ》り籠《かご》のように腰を前後に揺すりながら女が笑った。
大声で笑った。
身悶《みもだ》えし、躰を波打たせて笑った。
「何がおかしい」
鼻白んで良輔が言った。
笑いの発作を抑えて、女は言った。
「……名まえが知りたい?」
「別に知らなくてもいいけど」
「美沙」
女が再び腰を揺らし始めた。
後ろから見た尻は、今まで以上に大きく見える。
「美沙? 偶然だな。俺の前の女房が同じ名まえだ」
「偶然じゃないのよ」
「えっ、どういうことだ」
「私は菊理美沙。あなたの奥さんよ」
「……冗談、だろう」
「冗談じゃないわ」
女の黒く長い髪が流れる水のようだ。左右に揺れながら黒い飛沫《しぶき》を飛ばしている。
黒髪と対照的に肌は薄く血管が透けるほどに白い。
まるで骨のように。
「それは……どういうことだ」
「こういうことよ」
女が振り向いた。
だらりと垂れた黒髪が顔にかかった。
ぽたぽたと良輔の腹の上に白い豆のようなものが落ちる。それは躰を蠢《うごめ》かしながら畳の上へと逃れていった。
女は笑っていた。笑う唇を割り、青黒い舌を伝って下に落ちてくるのは蛆《うじ》だ。
見開かれた大きな眼が良輔を見降ろしていた。そこから涙のようにだらだらと黒い腐汁が滴る。
その首には赤い紐《ひも》が巻かれてあった。
押し潰されたような悲鳴をあげ、良輔は上体を起こした。
女の躰を突き飛ばそうと両腕を伸ばす。
汚泥に手を突っ込んだような感触があった。腕は何の抵抗もなく女の脇腹に突き刺さっていた。
裂けた皮膚から肉片が垂れ下がる。トウモロコシに似た黄色い脂肪が流れ落ちた。
次の瞬間、凄《すさ》まじい腐臭とともに内臓が噴き出してきた。
でたらめに両腕を振り回し、良輔は立ち上がった。
撥《は》ね飛ばされた女がぐしゃりと畳に横たわる。それはもうただの腐った肉塊だ。
畳の上を蛆たちが右往左往している。
全裸のまま良輔は部屋を飛び出た。
走ると半ば勃起《ぼつき》したままのそれが上下に揺れた。
階段を転がるように駆け降りる。
早朝に一戦始めたのだろうか。
≪壊れ物≫の夫婦が絶叫している。
コワレル!
コワレル!
コワレル!
コワレル!
その声を背に、良輔はアパートを飛び出した。
何一つ身につけていない。
素足がアスファルトを蹴《け》る。
滑稽《こつけい》だとも恥ずかしいとも思っていない。ひたすら前に進むことだけが、あれから逃げ出すことだけが良輔の頭の中にあった。
それも焼け落ちた焼き肉屋の跡地に来るまでが限界だった。
その場にしゃがみ込む。
足の裏がじんじんと痛む。見ると何で傷つけたのか赤く血が滲《にじ》んでいた。
躰を前に倒していると気分が悪くなった。
開いた膝の間にしたたか吐く。
陰毛に飛沫がかかる。
それでも嘔吐《おうと》感は止まない。
何度も何度も路面に吐き、その度にひいひいと情けない声が漏れた。
吐くものもなくなれば少しは気が落ち着いてきた。
良輔は涙が滲んだ眼でアパートの方角を見た。
誰もいない。
誰も来ない。
ほおと息をつくと、焼けた建材の臭いが濃厚にした。
焼け跡に眼を凝らせば、黒い鱗《うろこ》を張りつけたような焦げた材木がごろごろと転がっている。そのさらに奥は夜の闇よりも暗い。
足音が聞こえてきた。
ハイヒールの踵《かかと》が路面を打つ音だ。
良輔は迷わず焼け跡の闇の中に飛び込んだ。
しゃがみ込み廃材の隙間から道を覗《のぞ》く。
女が近づいてきた。赤いミニのワンピースを着た女だ。
美沙と名乗った女ではなさそうだった。
髪が短い。
女はどこかバランスを欠いている。
胸と尻が異様に大きい。ピンナップガールの悪しきパロディのような女だった。
バランスを欠いて見えるのはそれだけが原因ではない。
女が近づき、良輔はそれを知った。
女はまっすぐ道を進んでくる。顔は確かに正面を向いている。しかし腰から下は真後ろを向いているのだ。
一抱えもある巨大な尻《しり》が、腹の下にある。腰から下だけ見れば後退《あとじさ》ってきているのだ。
まるで鳥のように関節が逆に曲がっているように見える。
良輔はその女を知っていた。正確に言うならその女が描かれた絵を知っていた。
自動販売機の側にある看板だ。痴漢にご用心と書かれた古ぼけたあの看板。あの看板の絵そのままの女が歩いてくる。
良輔は廃材に躰《からだ》を押しつけ身を伏せた。裸の腹や胸や股間《こかん》に釘《くぎ》や砕けた材木が当たった。その痛みより、震える躰がかたかたと焦げた鉄板を鳴らすのが気になった。
音が気づかれるのではと躰に力を入れると、それはさらに大きくなった。
胸をはね上がる勢いで心臓が脈打ち始めた。
足音が近づいてくる。
少しずつ、少しずつ。
心臓の鼓動が早まるにつれ息が荒くなる。
その音を聞かれそうでまた心臓が激しく脈打つ。
良輔は息を止めた。
だが無駄だった。
足音は良輔の眼の前で止まった。
息を殺し全身に力を込め、良輔は待つ。
見たかった。
眼の前にあるであろうそれを見たかった。
「さあて」
声は驚くほど間近でした。
堪《こら》える息の限界だった。
水面にたどり着いた海女のように息を吐きながら顔を上げる。
吐息はそのまま悲鳴に変わった。
女の顔が真正面にあった。
右頬から顎《あご》にかけて赤茶けた痣《あざ》のようなものがある。それは錆《さび》だ。あの灼《や》けたトタンについていた赤錆だ。
看板の女が言った。
「そろそろ行きましょうか」
叫ぶままに開いた口を誰かの手に押さえられた。
震える肩を押さえつけられる。
首をねじってその手を見た。
白く細い女の手だった。
後頭部の髪を鷲掴《わしづか》みにされる。
腰に腕が回された。
両の足首を掴むものがいる。
看板の女が手を振った。
サ・ヨ・ナ・ラ
めくれ上がった分厚い唇がそう言った。
良輔にまとわりつく幾本もの腕が、彼の躰を引いた。抵抗など考えつかぬほどの凄まじい力だった。
良輔の呻《うめ》く声が、白く冷たい掌《て》の中にこもる。
ずる、ずる、と良輔の躰は闇へ、闇の奥のさらに深い闇の中へと引きずり込まれていった。
ようやく長い夜が明けようとしていた。
[#改ページ]
第三章 黄泉へ
1
揺れている。
躰が揺れている。
前後に、左右に。
躰が揺れている。
がたつた
がたつた
がたつた
がたつた
眠い。
眠いのに眠れない。
酷《ひど》く息苦しい。
がたつた
がたつた
がたつた
蒸し暑い。だくだくと流れる汗が微睡《まどろ》みの心地好さを押しやろうとしている。
眠ろう。もう一度眠ろう。
声が聞こえた。
遠く遠く、遥《はる》か遠くから聞こえる声はこう言っていた。
――くさなぎいいいりょおおうすけええ。
水中で聞こえる音のようにそれはこもり歪《ひず》んでいる。
――聞こえるううう?
声が少し近づいてきた。
ああ、聞いているよ。
頼むからもう少し眠らせておくれ。
――駄目よおお。眠っちゃ駄目ええええ。
どうしてだ。俺は眠いんだ。
「眠ったら消えちゃうよ」
すぐ耳元で声がした。
良輔は眼を開こうとして、すでに眼を開いていることを知った。
闇だ。
暗黒がそこを満たしていた。
眼の前に翳《かざ》した掌さえ見えない。
良輔は膝《ひざ》を抱え座っていた。手で探れば周囲は壁に囲まれている。ここはしゃがむ良輔がぴったりと収まるだけの小さな箱だ。
しかも良輔は裸だった。布一枚身につけていない。
「俺は……ここはいったい」
問いかけると同時にそれを思い出していた。
美沙と名乗る腐爛《ふらん》した女に追われ家を出てきたことを。
焼け落ちた廃墟《はいきよ》に身を伏せ震えていたことを。
そして看板の女が近づき、言ったことを。
――そろそろ行きましょうか。
闇の中に俺は引きずり込まれた。
そして……。
「ここは、どこだ」
「私の言うことを聞いて」
声はすぐそばで聞こえるのだが、手で探っても何もない。
「あなたは捕らえられている。でも待てば逃げ出すチャンスはあるわ。だから待って。私がなんとかしてあげる。私だけはあなたの味方よ。それを信じて。決して私を裏切らないで」
がたつた
がたつた
がたつた
聞こえるのは列車の音だ。
俺は箱に詰められ、列車でどこかに連れていかれようとしている。
暑く狭い箱の中で、良輔はしばらく息苦しさと戦っていた。溜《た》まった汗に尻が浸かっている。膝の前で組んだ指がぬるぬるとすべる。
どこかに空気穴が開いているのだろうか。
不安に思うと息苦しさは増した。
このまま狭い箱に閉じ込められたまま窒息するのではないか。空気が汚れているのがわかる。この中に酸素は含まれているのか。新鮮な空気が欲しい。新鮮な空気が欲しい。新鮮な空気が欲しい。シンセンナクウキガホシイ……。
――ヨメハマ、ヨメハマ。
アナウンスが聞こえた。覚えのない地名だった。が、どこかで聞いた地名のようにも思える。頭の中に甘く重い霧がたちこめていた。まともに物事を考えることができない。
列車は速度を緩め、そして停まった。
急に周囲が騒がしくなってきた。
そっちを持て。
馬鹿、揺らすんじゃない。
おい、そっちに回ってくれ。
男たちの荒々しい怒声が聞こえる。
よっこらしょ、の掛け声とともに箱が大きく揺れた。良輔は額を思い切り壁にぶつけた。
両手を突っ張って躰《からだ》を支える。
箱は持ち上げられ、どこかへ運ばれていく。
不規則に箱が揺れた。もともと暑さと息苦しさで意識が朦朧《もうろう》としていた。
揺れがそれに拍車を掛ける。
箱を担いでいるであろう男たちの声が途切れ途切れに羽音のように聞こえる。
これはあの……少しは気が……要するに扉を開いて……死んでるんだからいまさら……帰りたいねえ……ああ、帰りたい……。
暑さが失せ、痛みが失せ、真っ暗な闇の中に低い羽音だけが聞こえている。それもやがては消えていく。
そして気がつけば筵《むしろ》の上に寝かされていた。
小さな木造の小屋だ。普段は何に使われているのか、がらんとしている。筵は土間の上に直接敷かれ、湿気を含んだ土の冷たさが心地好かった。
天井には裸電球がひとつ灯《とも》っている。どこにも窓はない。今が昼なのか夜なのかもわからなかった。
良輔は全裸で胎児のように躰を丸めていた。ずっとその姿勢で寝ていたのだろうか。脚を伸ばすと膝が痛む。躰を伸ばすと腰が痛む。伸びをすると関節という関節がぎしぎしと軋《きし》んだ。
腕や脚を擦《こす》りながらゆっくりと立ち上がった。が、立ち眩《くら》みを起こしてその場にへなへなと座り込む。
蝉の声が聞こえる。
なら、昼間なのか。
土間に敷かれた筵は四枚。
すぐそばに服が畳んで置いてあった。
Tシャツとズボン、そしてトランクスと靴下に合成皮革の靴。どれも良輔の物だった。あの夜に着ていた服だ。ズボンのポケットには財布が入ったままだった。
良輔はのろのろとそれらを身につけた。躰が怠《だる》く重い。腹に石を詰め込まれた狼の心境だ。
ようやく服を着終わると座り込んで周囲を見回した。
壁に打ちつけた釘《くぎ》に荒縄とのこぎりが引っかけてある。その横に一枚のポスターが貼ってあった。
その下まで這《は》っていく。
どうやら芝居のポスターのようだった。真っ白に顔を塗った男女の顔が、派手な品のないイラストで描かれてある。右端に赤い大きな文字で『千引岩死返道行』と書かれてある。千引《ちびき》の岩、生くるも死するも道の上下《うえした》とルビが振ってあった。田舎歌舞伎なのだろうか。場所は夜坂神社境内とあった。「やさか神社」と読むのだろうが、京都の八坂神社と紛らわしいこの名を、良輔はどこかで見た覚えがあった。
すぐに思い出した。
ポケットから財布を取り出す。中から小さく折り畳まれた紙片を出してきた。ノートの切れ端のようなそれを広げる。
あの声の主から渡された地図だ。そのほぼ中央に夜坂神社の名があった。
偶然、だとは思えない。これはつまり、ここが良輔の真実の故郷ということを意味しているのだろうか。それとも、ここまでがすべて仕組まれたたちの悪い悪戯《いたずら》なのだろうか。何よりも昨夜の出来事は何だったのだろう。考えていると不安は増し、かといってすべき何事も思い浮かばず、とりあえず立ち上がり円を描いてうろうろと歩き回った挙げ句、トタンで補強された戸板へと向かった。出入口はそこしかなさそうだ。横に引くがびくとも動かない。押しても引いても、一見すぐにでも壊れそうなこの戸板が貼りついたように音さえ立てない。
少しさがって肩からぶつかってみたが、思い切りが足らずただ肩を痛めただけだった。
拳《こぶし》を振り上げ戸板を叩《たた》く。何度も何度も叩きながら助けを呼んだ。
開けてくれ! 助けてくれ!
繰り返し叫ぶが返答はない。叩き叫んでいる間に興奮してくる。痛みを忘れ戸板を叩き続ける。喉《のど》が裂けるほど助けを呼び続ける。そしてやがて拳が赤く剥《む》け、声が掠《かす》れまともに出なくなり、ようやく良輔は諦《あきら》めた。
戸にもたれ息をつく。
ふらふらともといた場所に戻り、不貞腐《ふてくさ》れて筵にあぐらをかいた。
と、がたりと戸が音をたてた。
壁が裂ける。
闇を割って入った光に良輔は手を翳《かざ》した。
「草薙良輔さんだね」
ゆっくりと眼を開いた。
光を背に幾つもの影が並んでいた。先頭の影が小屋に入ってくる。背広姿の初老の男だった。役場の古参職員、というところだ。顔も眼も口も鼻も、何もかも角ばっていた。刈り上げた髪は灰色。陽に灼《や》けた顔は樹皮のようだった。
「あんた誰だ」
良輔が立ち上がると、後ろに控えていた三人の男が前に出てきた。どれもこれも若い男だ。半袖のTシャツが筋肉の形を顕《あらわ》にしている。
「俺をどうしようと――」
良輔がさらに前に出ると、男たちも初老の男の前に出た。
たちまち剣呑《けんのん》な雰囲気になる。
「草薙良輔さんだね」
初老の男が再び言った。
「そうだ」
むっとした顔で良輔が言うと、後ろの男たちが失笑した。何を偉そうにとか、頭がおかしいくせにとか呟《つぶや》くのが聞こえた。
「どういうことなんだ。俺をこんなところに連れてきて」
「連れてきた……。まったく困った人だ」
初老の男が苦り切った顔をした。
「泉さんの紹介でなければ警察に引き渡すんだが」
「泉さんの……。泉守道のことか」
「そう、泉さんがどうかよろしく頼むと頭を下げるから儂《わし》も快く引き受けた。今は後悔しとるがね」
「俺は……俺はどうしてここに」
「本当に何も覚えていないのかね」
良輔が頷《うなず》くと初老の男は心底|呆《あき》れたという顔を見せた。
「ここは嫁浜町。儂はこの町の町長をしとる大牟田清造《おおむたせいぞう》。あんたは知りもせん町に取材にきたのかね」
「取材……ですか。あのすみませんが最初から説明していただけませんか」
町長は首筋を掻《か》きながら、溜息《ためいき》一つついて良輔の前に座り込んだ。もう仕事に戻っていいぞと後ろの男たちに声を掛ける。男たちは良輔を睨《にら》みつけながら帰っていった。
座れ、と良輔を手招きする。
良輔はその場に腰を降ろした。
「さて、何から話したらいいか」
町長はしきりに首の後ろを掻きながら話し始めた。
泉はこの町の有力者の長男だという。大牟田家はその分家筋に当たるらしい。その泉から、知り合いの作家に町の取材をさせてやってくれないかと頼まれた。それもわざわざこの町までやってきてのことだった。断る理由もない。町長は取材に全面的に協力することを約束した。
近々来るとは聞いていたが、詳しい日時を知っていたわけではない。それが昨夜、嫁浜駅の駅長に呼び出された。草薙良輔と名乗る男が駅で暴れているというのだ。到着の日にちはいずれ知らされることになっていたが、もしもを考えて町長は駅長に草薙という男が来たら連絡をくれと言ってあった。そのもしもの事があったというわけだ。
食べかけの夕飯をおいて、晩酌で顔を煉瓦《れんが》色に染めた町長は駅に向かった。駅に行くと良輔は駅長室に寝かされていた。
町長は駅長から話を聞いた。
良輔は列車の中で眠っていた。悪夢を見ているのか酷《ひど》くうなされていたらしい。それが駅に着いたとたんに服を脱ぎ捨て暴れ出したのだという。俺は作家の草薙良輔だ。娘を出せ、と怒鳴りながら。
駅員の手で列車から摘《つま》み出された草薙は、そこでも壁を蹴《け》り怒声をあげ、駅員に殴りかかっていった。
町長は町内の青年会に連絡をとって、起きようとしない良輔をここまで運んできた。
「泉さんにも電話したんだがね、これがどこにいったのか何度呼んでも出ないんだ。まったく厄介な仕事を増やしてくれたよ。……で、あんたなんかの病気かね」
良輔は首を横に振った。
「それじゃあ酒でも飲んでたのか。それともおかしな薬でも――」
「薬なんか服《の》まない。洒も飲んでいなかった。最近仕事で疲れていて……それでだと思います。申し訳ありません」
良輔は頭を深々と下げた。もしあんたの言うことが事実なら、と頭の中でつけ加えてから。
「泉さんから聞いていなかったら、あんた今ごろ駐在の手に渡されて檻《おり》の中だ」
「誠に申し訳ありません」
良輔はもう一度頭を下げた。そして思いついたことを尋ねた。
「どうしてこの小屋に鍵《かぎ》をかけたんですか」
「あのなあ、考えてもみろ。あんたは裸で暴れていたんだぞ。そんな人間を鍵もかけずに放置しておけるかね。縄で縛られていないだけでも感謝して欲しいもんだな」
「……それで、あの、取材の方はさせてもらえるんですか」
小説のため、などではない。小説ならもうほとんど完成している。最終章のために取材をするつもりはなかった。それとは別に、この町のことが知りたかった。今己れに何が起こっているのかを知るのに、この町が重要な意味を持っているような気がした。だから取材をしたかった。
「ああ、仕方ないさ。今祭りの準備で忙しいんだがね。泉さんの紹介だ。あんたがどんな人間だろうといったん引き受けたんだ。勝手に断ることはできないからな」
泉が取材の段取りをつけていた。
それも信じられないことだった。良輔はそんな話を何も聞いていない。俺に告げず泉がそんなことを決めてしまうだろうか。確かに最後の電話で泉は取材をほのめかしていたが……。
そこまで考えて良輔はその言葉のおかしさに気がついた。
最後の電話。
何故そんなことを思ったのだろうか。泉がいなくなるわけでもない。それに俺が消えるわけでも……。
「ここでしばらく待っていてもらおうか。あんたの相手をしてもらうように頼んである人間がいる。昨晩の話を聞いてやめたいと言うかと思ったが、それでもかまわんらしい」
町長は舌打ちして出ていった。戸板を力一杯閉めていく。
よほど良輔の世話をしたくないらしい。町長の話が真実ならそれももっともなことだ。そうは思っても、嫌なら世話などしてもらわなくてもいい、ぐらいのことは言いたくなる。
第一良輔は町長の話を素直には信じられないのだ。何しろ自分が列車に乗った記憶がない。
あの夜から、気がつけば箱に詰められていた。次に気がつけばここにいた。そのどれもが妄想なのだ、とは思い難い。
病気なのか。
そうも思う。
脳のどこかに障害がある。だから記憶が狂う。消えた過去も、奇怪な出来事の数々も、すべてが脳の障害から起こるのなら。
俺は病気なのか。
再び自問する。
それが最も合理的な説明であることは認める。が、だからそれが正しい回答だ、とは思えない。
違う。
病気なんかじゃない。
躰《からだ》のどこかがそれを否定していた。絶対に違う。病なのではない。経験したことはすべてが真実だ。俺のこの頭に残された記憶はすべて真実なのだ。
何故そのように確信できるのか、良輔にはわからない。そのように確信することこそが病の証拠である。そうも思う。
堂々|廻《めぐ》りの考えは町長の声で中断された。戸板が開いたのにも気づいていなかった。
「この子があんたを案内してくれる」
町長は長い髪の少女の肩を抱いていた。
「儂の姪《めい》だ。作家が取材に来ると聞いて、案内を買って出た。昨夜の話をして止めるように言ったんだが」
町長は少女の顔を覗《のぞ》き見るようにして言った。
「本当にいいのか。こいつは……頭がおかしいのかもしれんのだぞ」
あんまりな台詞《せりふ》だとは思ったが、良輔は黙っていた。昨夜の良輔の行動が町長の話どおりなら、良輔自身でさえ幼い少女を案内につけることを躊躇《ちゆうちよ》しただろうから。
少女は微笑み、頷いた。ラベンダー色のワンピースが涼しげだった。頭にかぶった大きな麦わら帽子と、素足にはいたゴムサンダルが少女をより幼く見せている。
「よろしくお願いします」
少女は良輔にぺこりと頭を下げた。
良輔はそんな少女を見て、懐かしいような哀しいような気分になった。
「いいか」
町長が良輔を睨んだ。
「泉さんへの義理でこの子にあんたを案内させるが、もうこれ以上迷惑を掛けてくれるな。それから」
町長は少女を見た。表情がたちまち柔らかく崩れる。
「何かあったら我慢せずにすぐ儂《わし》のところに来なさい」
「大丈夫よ」
少女はふざけて胸を張った。
汚れなき天使のような、とその顔を見て良輔は思った。まったく陳腐な表現だ、と文筆業の頭でそう思う。だが事実とは往々にして陳腐なものだ。汚れなき天使としか言いようのない少女がこの世にはいるのだ。例えば俺の娘のように。
そこまで考え、良輔はまじまじと少女を見つめた。
少女は奈美子に似ていた。大きくなったらこのような少女になるであろうと良輔が思う、その姿そのままだった。
じっと少女を見つめる良輔を、うさん臭そうに町長は睨みつけた。
「わかったな。決して面倒は起こすな」
言い捨て小屋を出て行く。
「どうも町長には迷惑を掛けてしまったみたいで」
良輔は頭を掻きながら立ち上がった。
「裸で暴れたんですってね、小父さん」
少女は楽しそうに笑った。
「らしいね」
「覚えてないの」
「何にも。怖くないかい」
「何が」
「そんな男と一緒にいて」
「怖くないわ。私は何も怖くない」
「強いんだね。何も怖いものはないのかい」
少女はしばらく考えてから言った。
「ひとつだけ怖いものがある」
「何だい」
「内緒」
聡明な少女だ。
俺の娘のように。
美しい少女だ。
俺の娘のように。
清い少女だ。
俺の娘のように。
不意に涙が滲《にじ》む。
が、これは事実なのだろうか。
俺には娘がいたということは。その娘が誘拐され、殺されたという記憶は。俺は本当にエッセイストだったんだろうか。俺は本当に……。
濡《ぬ》れた砂糖菓子のように躰の中の何かが崩れていた。そこにぽっかりと広がった闇を見つめればきりがない。虚無は白蟻のように良輔を侵食していく。
それをかろうじて食い止めているもの。虚無の淵《ふち》で良輔を支えているもの。それは『屍の王』だった。これを完成させることが、己れが生きてここにいることの証《あか》しのように思えていた。それを書き上げることで、草薙良輔というものが完成するのだと。
「どうしたの、小父さん」
気がつけば少女が俯《うつむ》く良輔の顔を覗き込んでいた。
「……良輔だ。僕は草薙良輔」
「良輔さん、これでいい?」
「君の名は」
「ナミ」
「奈美!」
思わず大声をあげた。
その声に驚き、少女が身を引く。
「すまん。ちょっとびっくりしたんだ。それはどんな字を書くの」
「奈良の奈に美しい……どうしたの。大丈夫? 顔色が悪いわ」
「……心配ない。ちょっと驚いただけだよ」
「何に」
「内緒」
少女は笑った。
「ウソウソ。小説の中に出てくる少女がいるんだ。その名が奈美なんで驚いたんだよ」
実際は奈美子という名だ。
死んだ奈美子を小説の中で蘇《よみがえ》らせる。そのために奈美子という登場人物をつくった。小説の中では娘は成長し、十六歳の少女になっている。本当の故郷を目指し最後に向かう町で、主人公はその娘と出会う。その出会いのシーンも、もう書いていた。
主人公である草薙良輔は取材の案内を買って出た少女と出会い、それが娘であることを知る。その時の少女はラベンダー色のワンピースを着て麦わら帽子をかぶり、ゴム草履を履いている。
そうだ。
まるで俺の小説と同じ。
まさか……これは俺の小説の中なのか。
馬鹿馬鹿しい妄想を頭をひと振りして消し去った。
「また何か考えてたの」
「えっ……」
「話しかけても知らん顔してるから」
「……すまん」
良輔は少女に頭を下げた。
「そういうところがいかにも小説家って感じね」
「小説家、ね」
「ねえ、どうしてここに取材に来たの」
どうして俺はここに来たのか。
それは良輔自身が知りたいことだった。
黙っている良輔を見て奈美は言った。
「ここには何もないの。ほんっとに何にもないの。どこにでもあるただの田舎町」
「それはどうだろう。君はここをただの田舎町だと思い込んでいるかもしれないけど、本当はそうじゃないかもしれない。そこの中にいる者には、そこが他とどう違うかがわからないもんなんだ」
「でも……どこが他の町と違うところなの」
納得できない顔で少女は言った。
「いずれわかるよ」
そうだ、いずれ俺にもわかるだろう。ここが他の町とどう違うのかが。
「そうだ、祭りがあるんだよね」
「うん」
「明日からだっけ」
「そう、明日と明後日。でもただの夏祭りよ。変わったところなんか何もないわ」
「君が知らないだけかもしれないよ」
「かなあ……。あっ、私がその小説に出るんでしょ」
「君じゃないけど、同じ名まえの少女がね」
「その子はどんな子なの」
「主人公の娘さ。とてもいい女の子なんだ。素直で、優しくて、賢くて」
「えへへへ」
芝居がかった仕草で奈美は頭を掻《か》いて照れてみせた。
「君のことじゃないんだよ」
良輔がからかうと、奈美は唇を尖《とが》らせてみせた。
「わかってますよ。……でも、やっぱりヘンな女だったら嫌じゃないですか」
「そんなわけがないよ。そんなわけが」
ヘンな女であるわけがないのだ。
だって奈美は……君は僕の娘なのだからね。
2
蝉が鳴いている。
狂っているように。
真昼の太陽が眩《まぶ》しかった。
陽射しは肌がひりひりするほどきつかった。しかし空気は乾燥し、その暑さもさほど不快ではなかった。木陰にはいると風が心地好いほどだ。
これが都会の夏とは違うところだ、と良輔は境内を歩きながら思う。あの炙《あぶ》られるような町の熱気を思い起こしながら。
蝉が鳴いている。
あまりにもうるさく鳴いているので耳鳴りと勘違いするほどだった。
小屋は夜坂神社の境内に、祭りのためだけに作られたものだった。小屋の隣には朱塗りの丸太を組み合わせて舞台が作られていた。良輔が寝かされていた小屋は明日、芝居の楽屋として使われる。
小屋を出ると、奈美は良輔にそう説明した。
「中にポスターが貼ってあった。千引きの岩がどうのこうのっていう。あれを演《や》るのかい」
「ええ、そうだと思うわ」
そう言った奈美の顔が曇った。
「どうしたの」
「ちょっと、怖くなったの」
「何を」
「わからない。そんなことより、早くここを出ましょう」
奈美に手を引かれた。
爆発するように記憶が蘇る。あの夏の日の記憶が。
奈美子に手を引かれ家を出る良輔。
それを見送る美沙。
夏の昼下がり。
同じ幸福そうな顔を並べる庭付き一戸建て。
庭先の赤い花。
――これなんていう花。
――酔芙蓉。
――スイフヨウ。
舌足らずなその口調。
照りつける太陽。
娘のかぶった麦わら帽子。
奈美と奈美子が一瞬重なって見えた。
麦わら帽子をかぶった奈美の頭を撫《な》でようとして、慌てて腕を引っ込める。
病気だ病気だこれでは病気だ。
祭囃子《まつりばやし》が聞こえていた。
てけてんつんて
とことんとんと
見れば社務所の近くに小さな台が組まれ、四つの大太鼓が並べられていた。
その前に年齢もばらばらの少年たちが正座していた。リズムは早い。桴《ばち》がせわしなく往復している。少年たちは普段着だ。Tシャツとだぶだぶの綿パン。上半身裸にカーキ色の作業ズボン。
ぴたりと桴が止まる。
代わって蝉の声が、のし上がるように場を占めた。
少年たちの背後で太鼓腹の男がもの憂げにそれを見ている。台の上にはもうひとり、午睡の真っ最中の少年がいた。黄色いタオルで顔を覆っている。おそらく中では最も年長、高校三年生ぐらいであろうか。
「あの子は何をするの」
「踊るのよ」
奈美が答えるのと同時に、少年たちがそうれえ、と掛け声をかけた。
そうれえと言いながら躰《からだ》をぐいと後ろに反らせる。反りきった躰が一瞬止まる。
そして弾《はじ》けた。
矢を射るのに似ている。
どっ、と太鼓が鳴り、再びお囃子が始まった。
てけてんつんて
とことんとんと
てけてんつんて
とことんとんと
鉦《かね》がそれに合わせてちりちんちりちんと鳴らされる。
さっきは気づかなかったが、鉦を鳴らしているのは太鼓腹の男だ。男は小さな鉦を摺《す》り合わせながら少年たちに指示を出していた。
「不思議だね」
汗を垂らしながら一心に太鼓を叩《たた》く少年たちを見ながら良輔は言った。
「聞いたことのない祭囃子なのに、どうしてか懐かしい」
「聞いたことがあるのかもしれませんよ」
奈美は先に行こうと手を引きながら言った。
「どういう意味だい」
「だって祭囃子なんてどこでも同じようなものだもん」
そうかなあ、と呟《つぶや》きながら手を引かれるままに後をついていく。
懐かしく思うのは聞いたことがあるから。ここが良輔の本当の故郷だから。
そんなことが有り得るのだろうか。一度も来たことのない町が己れの故郷だということが。あるかもしれない。はっきりと覚えている過去がことごとく否定されたのだから。
だが……。
見えるものだけが真実。いまある記憶が正しい。
美沙が良輔にそう言ったのは果たして現実だったのか夢だったのか。夏の陽射しに照らされ境内を歩いていると、良輔はそんなことなどどうでもいいような気になってきた。
ここに奈美がいる。それさえ失わなければ。
失わない?
己れの考えの奇妙さに、良輔は混乱する。
彼女は俺の娘ではない。
だが……その混乱も隣で歩く少女の姿をみるとどうでも良くなる。困惑は夏の陽射しと蝉の声に溶かされ攪拌《かくはん》され、妄想と現実はその境界を失っていく。
すべてが『屍の王』を完成させるためにある。
なぜかそう考えると得心した。
二人は祭囃子に追われるように鳥居をくぐる。
どうでもいいようなことが頭に浮かんだ。いったん形になると消えない。それが何か重要な意味を持っているような気もする。
――手水舎《てみずや》がなかった。
良輔は思いついたそのことを、小声で呟いた。
「何か言った?」
「いや……手水舎がなかったんで、おかしいなと思って」
「てみずや……」
「ちょうずや、とも言うんだけど、ほら、神社の鳥居をくぐったら最初にあるでしょ。水が流れててそれを柄杓で掬《すく》って手を洗うところ」
「ああ、あるある」
「あれがこの神社にはない」
二人は振り返った。鳥居の向こうに拝殿が見える。祭りのために作られているものを除けば、境内にあるのは他には社務所ぐらいだ。小さな神社ではある。が数名の神職もおり氏子もいるであろう神社にしては、あまりにも簡素だ。
「そう言えばそうね」
「ほら、どこにでもあるはずの神社にも謎がひとつあった」
「ほんとですね」
奈美は感心した顔をする。
その素直さに良輔は胸が締めつけられるようないとおしさを感じた。
角の欠けた石段を降りる。
境内を歩いたときの、都会の夏とは違うという感想を、良輔は撤回したくなった。
神社の前の道路をせわしなく車が行き交っている。排気ガスと舞い上がる土埃《つちぼこり》。良輔の住む街と大差なかった。
そうなると、とたんに暑さを不快に感じる。蝉が相変わらずうるさい。
「でもやっぱり――」
先を行っていた奈美が後ろを振り返った。
「どこにでもある町でしょ」
例外なく郊外というものがそうであるように、この町並みもどこか疲れて見える。
疲弊し荒廃した町。
それを見ていると、今度はどうしてここを空気がおいしく感じるほどの田舎だと思っていたのかが不思議に思える。列車で移動し、外に出れば神社の境内だった。それだけで田舎だと、遠くまでやってきたのだと感じたのだろうか。
そう言えば、と良輔は思った。
ここが都内なのか、そうでないとするのなら何県であるのか、そんなことすら聞いていなかった。今更そのようなことを尋ねると不審がられるだろうな、と思うと奈美に聞くのも躊躇《ちゆうちよ》する。何しろ良輔は自分の意志でこの町にやってきたことになっているのだから。
それでも浮かんだ疑問は早々には消えない。結局はその疑問を口にすることにした。
「ところで……おかしなことを聞くようだけど、ここは何県なの」
確かに聞こえたはずだ。なのに奈美は答えようとしなかった。聞こえない振りをして前を歩いていく。
ああそうか、これは聞いてはいけない質問だったのだ。
良輔は素直にそう思った。
これ以上追及すると奈美を失ってしまうような気がした。どうしてそれを聞いてはいけないのかわからなかったが、とにかく今それを奈美に聞くのは止めようと思った。
そう決心したのを知っているように奈美は笑みを浮かべて振り返った。
「これからどこに行きましょうか、良輔さん」
「どこ……そうだなあ」
良輔はポケットから地図を取り出した。あの声の主から渡された地図だ。
ここからさして離れていないところに、赤く印を付けた場所があった。
「ここ、わかる?」
良輔は地図を見せた。
「ああ、幽霊船ね」
「幽霊船?」
「そう、そう呼んでるんです。作りかけのままのビル。ずっと前からあるんですよ。お化けが出るって話がある、この町の心霊スポットです」
「心霊スポットね」
「まさか、行く気なんですか」
「駄目かい」
「嫌ですよ、そんなところ」
「前まででいいから。その幽霊船の前まで」
良輔は頭を下げた。
「仕方ないなあ。前までですよ。絶対に中には入りませんからね」
念を押して、奈美は歩き出した。
大通りを渡りだらだら坂を下る。電器屋。小鳥屋。帽子屋。印刷所。建ち並ぶ店のどれもが古ぼけた灰色だ。祭りのポスターがあちこちに貼ってあった。二色刷であるその赤だけがこの町で色彩と呼べるものだった。
見るべき何もない町だった。
歩くうちに、しかしこの町のひとつの特徴を良輔は思いついた。
コンビニエンスストアがない。
いまどき日本の町で、コンビニエンスストアのないところを探す方が難しいだろう。どんなに辺鄙《へんぴ》なところでも、辺鄙なところであればあるほど、どこかであの異様なほどぎらぎらした蛍光灯の明かりを見ることができる。
しかしこの町には今のところ一軒も見つけていない。
「この町にコンビニはないのかな」
「えっ、コンビニですか。あったと思うけど」
「覚えてない?」
「確か潰《つぶ》れちゃったんじゃないかな。町の人間は夜が早いし、昔ながらの人間が多いから」
そう、と頷《うなず》きはしたが納得はできなかった。夜が早く昔ながらの人間が多いところにコンビニエンスストアができて、町が変わっていくのだ。その逆ではない。だからコンビニエンスストアは何処にでもできる。つまり、それがここにないということは、それをこの町に入れないようにしているからだと言える。
それは誰が、何のため。
冗談ではなく、この町には多くの謎がありそうだった。しかしそれも当然のことだ。もし本当にこの町がどこにでもある見るべき何物もない町なら、泉が取材場所にここを選ぶ必要がない。もし泉がそんなことをしていなかったとしても同じだ。良輔は何かに導かれてこの町に来ている。彼をここに連れてこなければならない理由がこの町にはあるはずなのだ。泉がかかわっていようといまいと、この町に≪何か≫がなければならない。
「あれがそうだけど」
すでに怯《おび》えた顔で奈美は言った。
指さした先にあるのは、なるほど幽霊船だった。
考えていたほど大きな建物ではなかった。
五階建てのそれは舳先《へさき》を下に地面につきたった船そのものだ。建物は緩やかな曲線でつくられた三角柱だった。道路に面しているのが舟底だ。最上階は船尾を模して先端が尖《とが》っている。両脇にビルがあり実際は不可能だが、真横から見たら地面から巨大な包丁の刃が突き出ているように見えるかもしれない。
窓は正面からはひとつも見えなかった。出入口らしいところもよくわからない。建物というより何かのモニュメントのようだ。
「これは、いったい何のためのビルなんだい」
誰もが思うであろう疑問だろう。
奈美は首を傾げた。
「さあ……。昔からあるんです。私が生まれる前から。神社より歴史が古いっていう噂まであります。だからこれはこんなものっていうか、オブジェみたいなものとして考えてました」
「中に入れるの」
「入り口はこっちです」
舟底の右端にマンホールほどの同心円の模様がある。よく見ればそれにはノブがあり、ノブは太い鎖で結ばれてあった。
「これが、扉」
「ええ、だと思います。誰かが入ったところを見たことないけど」
良輔はしゃがみこんでその同心円の模様をよく見た。円の周辺に境目がない。どう見てもただの絵だ。目玉のようなその絵に、金属性のノブがつけられている。鎖などなくても、これが開くとは思えなかった。もし開いたとしてもこれほど使えない入り口はない。大型犬ならちょうどかもしれないが、人間ならしゃがみ込んで頭から潜り込まなければならない。
「本当にこれが扉なの」
良輔はノブに絡まった鎖を手で弄《もてあそ》びながら言った。
「だと思います。他に出入口らしいものがないから」
「でも、これ、どう見てもただの絵だよね」
「そうですよね……」
困った顔で奈美は口ごもった。
「いや、君が嘘をついてるとか、そういうんじゃないんだよ。不思議だなあと思って」
良輔は慌ててそういうと、付け足した。
「ねっ、やっぱりこの町は謎だらけじゃないか」
「気がつかなかったなあ」
「これじゃあ、中に入れないね」
「駄目ですよ、入っちゃ。やっぱりそんなこと考えてたんだ」
「君と一緒に入るわけじゃないよ。入るにしてもひとりさ」
「ひとりでも、やっぱり勝手に入るのはやめた方がいいんじゃないですか。一応ひとの持ち物だし」
「町長に怒られる」
「ええ、そうですよ」
「まあ、どっちにしても入ることはできないわけだ」
奈美は元気よく頷いて、言った。
「次はどこに案内しましょう」
「ええと、それじゃあこの近くに旅館はあるのかな。今晩泊まるところを決めてないんだ」
「それなら、もう叔父さんが――町長が予約してあるらしいです」
「そこまで案内してもらえるかな」
「もちろんです。あのちょっとここから遠いですけど、町外れにあるんで」
「途中で買い物はできるかな。その……下着の替えも何も持ってないんだ」
「裸でこの町に来たから」
「裸で来たわけじゃないさ」
良輔が焦って言うと、奈美は声を出して笑った。
「案外、人が悪いんだなあ」
「そんなことないですよ。ええと、雑貨を揃えるなら、ちょうど商店街を通って行きますから、そこで買えますよ。でもこんな町だから、良輔さんの気に入るものがあるかどうか」
「見てのとおりだ。大した趣味を持ってるわけじゃないよ」
「そうですね」
言うと奈美はまた笑った。
笑顔の奈美に案内されて、良輔は寂れた商店街にやってきた。
人通りがない。商店街らしい活気がどこにもないのだ。閑散とした印象があるのは、シャッターを閉ざした店が多いことが原因かもしれない。それともうひとつ、子供の姿がないことだ。商店街ならどこでも母親に連れられた幼い子供の姿を見るものだ。子供たちが泣き、笑い、燥《はしや》ぎ回り走り回り母親に叱られ泣き出す。そんな情景が商店街の活気のひとつをつくっている。だがこの商店街ではひとの姿が少ないだけでなく子供を一人も見ない。
まるで図書館にでも来たように、気詰まりするほど静かなのだ。
それでも良輔は新しい下着や靴下を手に入れ、ついでに埃《ほこり》をかぶった象の人形が置かれた薬局で、トラベルセットと称して売っていた洗面用具一式を買った。人形と同様、それも埃をかぶっていた。
商店街を抜けるとますます町はうら淋しくなっていく。
木造の民家も商店らしき家も、その大半が扉を閉ざしていた。誰に出会うこともない。まるで廃墟《はいきよ》のようだと良輔は思った。
「あれです」
奈美が指さす先にあるのは、どこにでもあるようなビジネスホテルだった。
何故か旅館に行くものだと思っていた良輔は拍子抜けがした。田舎に来た、という思いがよほど強いのだろう。
そのホテルは簡素な、というよりはなんの造作もしていない四角いコンクリートの箱だった。ホテルのその先には、もう店などない。広い舗装道路の左右に並んでいるのは、工場か工場の倉庫。しかもそのことごとくが平日だというのにシャッターを下ろしている。
蜩《ひぐらし》が鳴いていた。
日は西に傾き、東からざわざわと闇が伸《の》してくる。
「ここから、ひとりで帰れる?」
良輔が言うと、怒ったように奈美はもちろんと答えた。
「それじゃあ、僕はもうチェックインするよ。明日は……十一時頃に迎えに来てくれるかな」
「わかりました」
「有り難う。今日はおかげでいろいろと取材ができたよ」
「あんなことで良かったんですか」
「大助かりだ。また明日も頼みます」
それじゃあ、と良輔が手を振ると、奈美はぺこりとお辞儀してもと来た道を帰っていった。
とってつけたようなガラスの回転扉を押して良輔は中に入った。
ロビーはしんと静まり返っていた。
奇妙に薄暗いのは照明のせいだろうか。
こちらに背を向け置かれたソファーに、長い髪の女が座っていた。
格式などとは無縁な、カウンターだけのフロントがあった。そこには誰もいない。
カウンターの前に立って、奥を覗《のぞ》き込んだ。誰かがいる気配がある。
カウンターの上を見たが呼び鈴はない。
すみません、と良輔は声を掛けた。
奥から出てきたのは痩《や》せた貧相な男だった。お仕着せのホテルの制服がこれほど似合わない人間もいないだろう。失敗続きの詐欺師のようなその男が、陰気な笑みを浮かべて言った。
「いらっしゃいませ」
「草薙で予約が入っていると思うんだが」
「草薙……草薙良輔様ですね。ええ、本日ご一泊のご予定ですね」
一泊させれば充分と町長が考えたのだろうか。
良輔は曖昧《あいまい》に頷いた。
「それではご住所とお名まえをこちらの方に」
男はペンを差し出した。
良輔が記帳していると、男は鍵《かぎ》をカウンターの上に置いた。透明な太いアクリル棒に鍵がつけられている。アクリル棒にはホテルの名まえが書かれてあった。持つとずっしりと重い。カードキーに慣れた良輔に、その鍵は懐かしくさえ思えた。外見どおりに古いホテルのようだ。
「四二五号室です。それからお客様に小包が届いております」
男はかがみ込みカウンターの向こうに姿を消すと、重そうな荷物を取り出してきた。ブリーフケースをそのまま包装したような形と大きさだった。
送り主は泉守道。中身が何かは書いていない。ただワレモノとあるだけだ。
「それからメッセージが届いております」
男はメッセージカードを出してきた。
それもまた泉からのものだった。
『しばらくその町に滞在して取材をしてみればいい。できるならそこで原稿を完成させてくれ』
良輔にはその重い荷物の中身が何かわかった。
ワープロか、あるいはノートパソコンだ。どこの機種かはわからない。普段使いなれているワープロと同じならいいのだが、と良輔は思った。が、機械音痴の泉が送ったものだ。期待はできない。
「それではごゆっくりどうぞ」
気のない男の台詞《せりふ》に送られ、良輔は小包を持ってエレベーターに向かった。
前に立つと扉が開いた。
ふと、異臭を感じた。
停電の後で冷蔵庫の扉を開いたような饐《す》えた臭いだ。
あっ、と思った良輔の横を、黒い影が通り過ぎていった。通り過ぎたような気がした。
振り返るが誰もいない。
錯覚にしては生々しかった。
幽霊ホテル。
良輔の頭にそんな言葉が浮かんだ。良輔は霊感だとか心霊現象などというものを信用していなかったが、周りには自称『霊感体質』の人間が一杯いた。
美沙がそうだった。
この部屋は嫌だと、せっかくとった旅館の部屋を交換してもらったことがあった。
霊がいるとかいないだとか、あそこは危ないだの疲れるだのといったことは始終聞かされた。
おそらく美沙ならこのホテルに泊まらないだろうな。
エレベーターに乗り込み四階のボタンを押す。左右に大きく揺れながら小さな箱は上昇していった。天井の板が外れているのか、かたかた音をたてている。それが天井の上にいる何かの足音を連想させたのは、このホテルの雰囲気のせいだろう。良輔はそう自らに言い聞かせる。
扉が開いた。
狭い通路に出る。敷き詰められた絨毯《じゆうたん》は毛羽立ち、悪性の皮膚病のようにはげてしまっている。あちこちにある黒々としたシミが痣《あざ》のようだ。それでもこの絨毯はもともと良いものだったのか、良輔の足音をまったく消してしまう。
音もなく良輔は四二五号室の前に来た。
どこにでもあるようなシングルの部屋だ。ここに個性などない。ただ思ったよりも古く、狭かった。
ほとんどベッドだけがその部屋を占めていた。そのベッドもベッドカバーも黄ばんでいる。カバーには茶色のシミまでが点々とあった。ベッドサイドのテーブルはまるで小学校の机だ。傷と落書きと煙草の焼け焦げで埋まっている。小さな冷蔵庫はくすんだ灰色をしていたが、それは明らかに手垢《てあか》や脂《やに》で汚れた色だった。もともとは白だったのだろう。
その冷蔵庫がぶるぶると体を震わせると、念仏じみたノイズが聞こえてきた。
良輔はベッドに腰を降ろし、靴を脱いだ。
上体を倒しベッドに寝転がる。
伸びをして天井を見るとそこにも飛沫《ひまつ》に似たシミが広がっていた。
ごろりと壁に向かって横になると、壁紙がめくれていた。
さすがに良輔も部屋を替えてもらおうかと考えた。
フロントに連絡するか、と文机《ふづくえ》の上にある電話を見る。と、それに気づいたようにベルが鳴った。
飛び起きて受話器を取る。
「……からお電話です」
はあ? と聞き返したときにはその声が聞こえてきた。
「絶対に食べちゃ…………」
雑音に声が途絶えた。
良輔が何か言おうとする。とたんにまた声が聞こえた。
「の町は…………だから何も食べちゃ駄目。それは……ヨモ……私を信じて。お願い……だけがあなたの味方なの」
電話は唐突に切れた。
切羽詰まった声だった。その声に良輔は聞き覚えがあった。奈美の声だ。確信できるわけではないが、おそらくそうだ。いま考えてみると、それはこの町に運ばれてきた箱の中で聞いた声にも似ていた。「決して私を裏切らないで」と言ったあの声だ。
何も食べちゃ駄目。
どういう意味だろうか。毒でも入っていると言うことだろうか。あれこれ考えていると腹の虫が派手な音を立てた。今の電話がかえって刺激になったようだ。
良輔は昨夜から何も食べていないことを思い出した。
何も食べちゃ駄目。
思い詰めたようなその声が耳に残っている。それが奈美の声なら、私を信じて、と言ったのが奈美なら、良輔は無条件にその言葉を信じただろう。
確信を持てないまま、それでも良輔はバスルームに入った。空きっ腹が異議を唱えていたが無視した。
トイレも一緒になったユニットバスが狭いのは仕方ない。しかしここはあまりにも汚らしかった。水垢だろうか。浴槽には年輪のように黒い輪が幾重にも層を成している。四隅が黒々としているのは黴《かび》だろうか。
浴槽の栓の辺りに数本の長い髪の毛が付着していた。
入るのを止めようとも思ったが、もう裸になってしまっている。またこのまま服を着直すのも馬鹿馬鹿しい。良輔はシャワーを持って、浴槽を洗い始めた。長い髪は水草のようにゆらゆら揺れるだけで流れていかない。それをティッシュで掴《つか》み取りゴミ箱に捨てる。
浴槽の汚れを落とし、さてと半透明のカーテンを引くと、そこに青黒い粘液がついていた。それもまたティッシュで拭《ぬぐ》い取る。
神経質だとは言えない良輔だが、それでもこれは不潔すぎる。浴室を自分で掃除しなければならないホテルなど聞いたこともない。
だが、とにかくそこにあるコックをひねるだけで、温かい湯が汗を押し流していってくれるのだ。取り敢えず不満は後にまわし、何もかも我慢してシャワーを浴びた。これで湯が出なければそのままフロントに怒鳴り込んでいただろうが、幸いそうはならなかった。
汗を流せば多少は気も収まる。
下を見るとまた栓のところに髪の毛が絡まっていた。どこかにへばりついていたのが流れてきたのだろうか。
栓を抜き、浴槽を出る。見るとひと房の長い髪はぐるぐると回転しながらも、下水に流れるのにはあくまで抵抗しているようだった。
乾いたタオルで躰《からだ》を拭《ふ》く。
買ったばかりのトランクスをはき、さっぱりとした気分でベッドに戻った。
壁紙が、風呂《ふろ》の湿気でさらにひどく剥《は》がれてきていた。だらりと垂れたそれは裂いた皮膚のようだ。
剥がれた壁紙の向こうに文字が書かれてあった。
『くびりころさむ』
縊り殺さむ。
あまり気持ちのいい言葉ではない。
良輔は融けた糊《のり》でぬるぬるすべる壁紙を、さらに大きくめくった。一連の文章が現れてくる。
黒く、ナイフで傷つけたような特徴のある文字でそこにはこう書かれていた。
『いましのくにのひとくさ、ひとひにちかしらくびりころさむ』
どういう漢字を当てはめればいいのかと考えていると、再び腹が情けない音を立てた。
やはり何も食べずには眠れそうにもない。
奈美を裏切るような気分がないでもないが、空腹には勝てなかった。
夜食を頼めないかとフロントに電話する。が、誰も出なかった。空腹だと気が短くなる。良輔は受話器を叩《たた》きつけ、真新しいTシャツとスラックスを身につけて部屋を出た。
入れ換わりに、隣の部屋に誰かが入った。
一瞬のことだった。
その躰が闇でできているかのように真っ黒に見えた。
錯覚だ。
そうは思うが、幽霊ホテルという言葉がまた頭に浮かんだ。
揺れるエレベーターで一階に降りる。
フロントには陰気な男が何をするでもなく立っていた。良輔は何故電話に出ないと怒鳴りつけた。男は頭を下げながらも、フロントの番号は2番ですがお間違えになったのでは、と弁明した。そう言われるとはっきりとは覚えていない。だがそのまま引き下がる気もなく汚い部屋のことを抗議する。男はひたすら頭を下げるだけだ。しかし部屋を替えてくれと言うと、満室であるの一点張りだ。慇懃《いんぎん》無礼を絵に描いたような対応だった。今から他のホテルを探すのも面倒だ。次第に交渉することも面倒になり、結局|諦《あきら》める。
男に鍵《かぎ》を預け広くもないロビーを見ると、ソファーにまだ女が座っていた。来たときに見たままの姿勢だ。頭の角度まで同じような気がする。もしかしたら人形なのかもしれないと思えるほどだ。
急に良輔は思いついた。
浴室の髪の毛はあの女のものではないか。あの女が俺の部屋に泊まっていたのではないか。
そう思うと気味が悪い。
あれはどんな女なのか、それとも本当は人形なのか。
しかし、それを確かめる気は良輔にない。
だって、わざわざ前に回って顔を覗《のぞ》き込むなんて失礼じゃないか。
それが嘘であることは真っ先に良輔自身が気づく。
そうだ。怖いんだ。あの女の顔を見るのが俺は恐ろしい。
もし、もしそれが、あの女だったら。幾度も幾度も俺の前に現れるあの腐爛《ふらん》した女だったら。
腹がけたたましい音をたてた。
とにかく何かを腹に収めてからだ。何をするにしても空腹だと気力が萎える。だから今は……。
良輔はホテルを出た。
3
ジジジと音がする。
夜の蝉か。
その音を背にホテルを離れる。
闇が流れ込むのを怯《おび》えてでもいるのだろうか。家いえは窓を閉ざしカーテンを引いている。
夜だ。が、真夜中と言うにはまだ間がある。なのに闇は眼を塞《ふさ》ぎ脚を払うほどに濃い。街灯はあるのだが、それは街灯自身を護《まも》るために明かりを灯《とも》しているように心細い。
誰ひとり通らない夜の道は、何故か昼間よりも人の気配を感じさせた。誰かに見つめられているような気がするのだ。眠り方を忘れた男たちが彷徨《さまよ》っているのか。ひとりではない。複数の誰かだ。その視線を痛いほどに感じる。
つい脚が早くなっていった。
無人の町に良輔の足音だけが響く。
相変わらずの熱気に、たちまちTシャツが濡《ぬ》れて貼りつく。
街灯が頼りなく路面を照らしていた。コンビニエンスストアがない町なのだ。開いている店などありそうにない。
良輔はいつの間にか走り出していた。
商店街のアーケードには、まだ明かりが灯っていた。無人島に漂流して人家を見つけたような気分だった。
光の中に脚を踏み入れると、息をついた。思ったほども明るいわけではなかった。どちらかと言えば薄暗い。それでもここに来るまでの、覆い被《かぶ》さるような闇の気配は消えている。思ったとおりどの店も扉を閉ざしていた。諦めて帰ろうと思ったときだった。ちょっと待て、とでも言うように赤提灯《あかちようちん》の明かりが見えた。夜の虫のように良輔はそれに吸い寄せられる。
建て付けの悪い引き戸を開くと、カウンターの客が一斉に良輔を見た。客は五人。日焼けした逞《たくま》しい男ばかりだった。カウンターの席は良輔を待ち構えていたかのように一脚空いている。良輔は男たちを無視して椅子に腰を降ろした。肩からタオルを掛けた禿頭《とくとう》の中年男が、カウンターの向こうで忙しそうに働いている。おしながきらしきものは何処にもない。
「何か食べたいんだけどなあ」
気づいているのかいないのか、店の男は鉄板で野菜を焼くのに専念していた。もう一度呼びかけようとしたら、男は睨《にら》むような眼で良輔を見て言った。
「焼きオニギリの定食があるけど」
「あっ、それでいいよ」
「飲み物は」
別に欲しくはなかったが、ビールを頼む。
男が再び料理に専念し始めると、男たちもまた箸《はし》を動かし、杯をあおり始めた。
手持ちぶさたに煙草に火を点《つ》ける。ところがどこを探しても灰皿がない。隣の男がわざとらしく咳《せ》き込んだ。見れば煙草を吸っているものが誰もいない。禁煙なのか。
禁煙の飲み屋など聞いたことがなかったが、良輔は小さく頭を上げてから、いったん表に出て煙草を踏み消した。
中に入るとまた会話が途絶えた。カウンターの上にビールがあった。喉《のど》が渇いていた。アルコールに強い良輔にとって、ビールは水代わりだ。それを一気に飲み干す。おお、と周囲から声があがり、拍手が聞こえた。コップを置いて泡を拭《ぬぐ》い周囲を見る。男たちが笑みを浮かべて拍手していた。良輔は、はあ、と気の抜けた声で声援に応《こた》えた。一気に場が和やかになったかと思うと、男たちが大声で話し始めた。焼きオニギリと新香、それに味噌《みそ》汁が次々とカウンターの上に載せられていった。持ってくる男もニヤニヤと笑っている。食べ物を前にして、腹がまた音を立てた。オニギリを掴《つか》んでぱくついた。それを男たちが嬉《うれ》しそうに見ていた。
歓談する男たちの言葉に何度も「へぐい」という単語が出てくる。誰かがそう言うと、視線が良輔に集まり、どっと笑い声があがる。不可解ではあったが、気まずい雰囲気のまま食事するよりはずっとましだった。それに何より良輔は腹を減らしていた。瞬く間にオニギリを新香で食べ、味噌汁を飲み干した。具を箸で攫《さら》って椀《わん》を置く。煙草を取り出そうとして、先ほどのことを思い出した。
「おあいそ」
その言葉を勘違いしたのかと思うほど満面の笑みを浮かべ、禿頭の男が値段を言う。思った以上に安いそれを支払い、良輔は店を出た。
夜道をホテルへと戻る。
来たときは単純な道だと思っていたのに、どういうわけか良輔は道に迷っていた。ほとんど一本道の単調な道のはずだったのだ。
あそこの角を曲がったときに間違えたのかとそこまで戻って曲がり直す。ところがまったく見知らぬ道に出て、また戻る。戻ったはずが再び違う場所に出ている。それを繰り返しているうちに商店街に戻ることもできなくなってしまった。
見知らぬ町で夜中道に迷うほど心細いものはない。
延々と町の中をうろついていると、あの神社の前の道路に出てきた。闇より黒くうずくまる神社の境内は深い森のようだ。良輔はここから奈美に今日案内されたままに進んでみることにした。
神社から、あの幽霊船へと向かう。あっさりと見つかった。ここから商店街への道なら良輔もはっきりと覚えている。遠回りして結局は正解だったなと思いながら先を急いだ。
急ごうとした。
じゃら。
と音がした。
鎖の音だ。
じゃら。
じゃら。
じゃら。
繰り返し後ろから音が聞こえる。
良輔は立ち止まり振り返った。
そこに幽霊船がある。舟底を模したその建物の端に、あの同心円を描いた絵があった。確かに昼間それは単なる絵だったのだ。だが今それは内側から押され、開こうとしていた。
が、取っ手に掛けられた鎖が邪魔をして開くことができない。
じゃら。
再び鎖が鳴った。
壁と扉の間にわずかな隙間が開いている。
そこから指が伸びてきた。
四匹の真っ白な蛇のように、それは丸い扉から這《は》い出してくる。
じゃら。
また鎖が鳴った。
それが何にしろ、出てくるのを待つつもりはなかった。
良輔は前を見て、走り出した。
後ろから笑い声が聞こえるような気がした。
足がもつれ、なかなか前に進まない。
すぐに商店街が見えてきた。
明かりを見て、振り返る余裕ができた。
後ろを見る。
誰もいない。
良輔は足早に商店街を進んだ。どの店も扉を閉ざしている。あの赤提灯の店が何処にもなかった。店仕舞いしたのだろうか。扉を閉ざした商店街の店はどれも同じ貌《かお》をしていた。提灯を仕舞ってしまえば、それを通り過ぎていたとしても気がつかないだろう。
商店街を抜ければまた闇が良輔を包む。良輔は再び走り出した。今度は迷うことなくホテルにたどり着いた。回転扉を壊さん勢いで押し入る。
フロントには誰もいない。
息切らせて誰かいないのかと呼び続ける。
声が嗄《か》れる頃に、ようやく陰気な顔の男がやってきた。眠っていたのか、と怒鳴りつけると、滅相もありません、と男は驚いてみせた。肩で息をつきながら、良輔はしばらく男を睨みつけていた。男は見つめられていると勘違いでもしているように、うっすら笑みを浮かべて良輔を見ながら鍵《かぎ》を差し出した。
それを受け取り、ちらりとロビーを見る。あの女の姿はなかった。
良輔は少しだけほっとする。
エレベーターに乗り部屋へ。
ベッドに腰を降ろし、靴を脱ぎ捨てる。
裏を向いてハの字に転がっていたスリッパを爪先で引っかけて履いた。それから床に置いたままの小包を解く。
ワープロは良輔が家で使っているかなり旧式のものとまったく同じだった。
機械音痴の泉にわざわざ説明した記憶はない。が、もしかしたら何の気なしに良輔がそんなことを言ったかもしれない。言ったなら泉がそれを覚えていておかしくない。泉は担当した作家のどんなわずかな情報でも頭の中に叩《たた》き込んでおく癖があった。編集者の業のようなものを感じ、驚いた覚えがある。
ワープロを文机《ふづくえ》に置いた。電源を繋《つな》ぎ、スイッチを入れる。液晶画面が明るくなると、良輔は指をキイに置いた。
小説の続きを書くつもりだった。今までに体験した奇怪な出来事を、その雰囲気を覚えている間に文章に定着しておきたかった。
ここ数ヶ月の間に起こったことは、どれもこれも常識では判断がつかないことばかりだった。一番もっともな解釈は、己れが正気を失っていると考えることだ。だから医者に行った。美沙の勧める精神科の女医に。
夢ともなんともつかぬ≪治療≫の中で、あの女医は言った。
――あなたのすべきことをなさい。
この台詞《せりふ》で良輔は救われた。いや、この台詞が彼に与えた幻影に救われた。
妻と娘の幻影に。
俺は俺のすべきことをすればいい。
たとえ俺が狂っていたとしても――。
小説を、『屍の王』を書いている間だけ、良輔は平安を感じることができた。良輔という存在をリアルに証明するには『屍の王』を完成させることしかないのだ。良輔はそう信じていた。
ジジジと音がする。
夜の蝉、か。
蝉の姿が見えるはずもないが、良輔はカーテンを開いて窓の外を見た。
夜の蝉ではなさそうだった。
道路を挟んで向かい側。道路沿いにうずくまっている影がある。小さな黒い影だ。子供のように見える。
その手もとで赤い火花が飛び散る。するとジジジと音が鳴る。
どうやら溶接をしているようだ。
影から花火のように火の粉が噴き出していた。
真夜中に子供がひとり、道で溶接をしている図はかなり異様だ。何のために何故どうしてと疑問なら山ほど浮かぶ。しかし良輔はそれ以上|詮索《せんさく》するつもりはなかった。明日になって確認すればいい。それよりも『屍の王』を書き上げることだ。
良輔はカーテンを閉めて机の前に戻った。シャツもトランクスも汗で濡《ぬ》れていた。まるで頭から水でもかぶったようだった。熱帯夜の町を走り続けてここにたどり着いたのだ。不快ではある。気にならないわけがない。しかし良輔は原稿を書いてから風呂《ふろ》に入るつもりだった。
キイに指を置く。
書きかけの原稿が何処まで進んでいるか正確に文章を覚えてはいなかった。大体の記憶で続きを書いていく。ところが書き進むうち、この町に来る前後のことを書き加えたくなってきた。覚え書きのようにそれを記していると、そこから文章が始まっていく。始まった文章に枝葉がつき、結局は最終章の初めから書き直し始めた。
『屍の王』を書くときがいつもそうであるように、どんどん勝手に文章が進んでいく。そうなるとただ書くことだけに、物語を進めていくことだけにしか頭が働かなくなる。指はキイの上を弾み、モニターに文字が映し出されるわずかな間がもどかしい。次第に己れが何処にいて何をしているのかがわからなくなってくる。
ここにあるのは今生まれつつある小説だけだ。
最後の文章を変換した。
最終章を書き終えたのだ。
だが何かおさまりが悪かった。
これでこの小説を終わらせることはできない。この後にエピローグの形で何かの話を挿入したかった。だがそれが何なのかはわからない。そのわからない何かがこの物語には足りなかった。
汗で濡れたシャツもトランクスも、いつの間にか乾いていた。
最後の何かに手が届きそうで届かない。もどかしさに立ち上がり意味もなくカーテンを開くと、拍手の音がした。
周囲を見回した。誰かがいるはずもない。
拍手の音はまだ聞こえていた。
それは隣の部屋から聞こえているようだった。これだけの安ホテルなのだ。隣の音が聞こえてきても不思議ではない。
剥《は》がれた壁紙の方から音は聞こえてくるようだった。見ると壁紙を剥がしたところから光が漏れている。近づくとそこに小さな亀裂《きれつ》があった。
良輔はベッドに乗り、正座してその亀裂を覗《のぞ》き込んだ。いくらボロホテルとはいえ、まさか隣が本当に見えるとは思っていなかった。
中は薄暗い。
壁を挟んで向こうの部屋は配置が左右逆になっているようだ。
壁際のベッドに腰を降ろしている影がある。小さな影だ。子供のようだ。
良輔に背を向けて座るその影の向こうから、明かりが漏れている。良輔の部屋と鏡像の関係にあるのなら、そこにあるのはテレビだ。
その小さな影はテレビを見ている。
拍手の音がした。
影の肩と腕が揺れる。
そして小さな影がベッドの上で揺れた。踊っているようにも見える。
拍手をし、ベッドで踊る。
いかにも燥《はしや》いでいるような様子だが、音は拍手以外何も聞こえない。
子供であるとするのなら、子供ひとりでホテルに泊まりに来たのだろうか。もしかしたら子供だけを残して親はどこかに出かけているのかもしれない。
この真夜中に、あの何もない町に。
奇妙ではあるが有り得ないことではない。非常識で無責任な親は何処にでもいる。
影はいかにも楽しそうに拍手する。
何の番組を見ているのだろうか。
そう思い良輔は振り返ってテレビをつけた。灰色のブラウン管はブーンと唸り声をあげてからゆっくりと明るくなった。
が、どのチャンネルに替えても何もやっていない。砂嵐とノイズ以外何もないのだ。
ではあの影は何を見ているのだろうか。
良輔はまた壁のひび割れを覗き込んだ。
子供の姿がなかった。
ただテレビだけがちらちらとざらつく明かりを映し出していた。それをじっと見ているとだんだん馬鹿らしくなってきた。
子供がひとりで留守番していた。そして何も映っていないブラウン管を見て遊んでいた。子供のすることなど大体が意味などないのだ。そしてその遊びに飽きて何処かへ、きっと風呂にでも行ったのだ。
所詮はそれだけのことだ。それを大のおとながじっと覗き見ていなければならない理由などない。
良輔はベッドに横になった。
『屍の王』に何が不足しているのか。手が届きそうだったそれは消え去っていた。いまさら思いつきそうにもない。
明日は十一時に奈美が迎えに来る。このまま下らない妄想に神経を尖《とが》らせながら朝を迎えるつもりはなかった。
シャツとスラックスを脱ぎ捨て、良輔は蒲団《ふとん》にもぐり込んだ。しばらく眼を閉じてじっとしていたが、一向に眠くならない。『屍の王』のラストに何をつけ加えるべきか。寝ようとしたとたん、それが気になって仕方がない。眠ろうとすればするほど、そのことが頭の中から離れなかった。『屍の王』は一応ラストを迎えている。そこで終わらせても小説としておかしくはない。おかしくないだけではない。良輔自身が興奮するほど良いできなのだ。だがそれでも何かが足りない。一向に形にならないそれが、もやもやと頭の中で回転している。
良輔はしばらくベッドの上でもぞもぞと躰《からだ》を動かしていた。
そして、良輔は起き上がった。
服を着る。それから非常灯として備えつけてある懐中電灯を手にした。
ホテルを再び出て、幽霊船に向かうつもりだった。足りない何かがそこにあるのだと確信していた。何故か気分が高揚していた。怖さは少しも感じていなかった。行かなければならないという義務感のようなものさえ感じていた。
部屋を出てエレベーターで一階に降りる。
カウンターには誰もいなかった。
呼んでみたが誰も出てこない。出てくるまで怒鳴り続ける気もなく、良輔は鍵《かぎ》をポケットに突っ込んでホテルを出た。
気がつけば幽霊船の前だった。
同心円の描かれた丸い扉は、大きく開いていた。太い鎖がその下でとぐろを巻いていた。
やっぱり、と良輔は思った。
何がやっぱりなのかはわかっていなかった。
良輔は四つん這《ば》いになって扉から中へと入った。
中は真っ暗だった。
開いた扉から漏れるわずかな光だけが床を照らしていた。
良輔は立ち上がり、懐中電灯を点《つ》けた。
廊下だった。
四方がコンクリートでできている。
埃《ほこり》と黴《かび》のにおいがした。
外に比べれば随分と涼しい。
廊下の奥へと光を向ければ、突き当たりに階段があった。その階段は途中で天井につきあたり、二階には昇れない。まったく無用の階段だった。
廊下の右側に木製の扉が四つ、等間隔に並んでいた。
懐中電灯でそれを順に照らしていく。
一番手前の扉に手を掛け、それを開いた。
小さな部屋だった。部屋というよりも物置のようだ。
床に汚泥が溜《た》まっている。黒々としたその中で、何かがぴしゃりと水音を立てた。
懐中電灯で照らしたが何も見えない。
良輔は扉を閉じて、次の扉を開いた。
今度は広い部屋だ。良輔のアパートの何倍もある。
周囲を見回した。
懐中電灯が光の目玉を壁に映す。ただのコンクリートの箱だ。何もない。
部屋の中央に光が当たった。
そこに花束が置かれてあった。近づくとチョコレートやクッキーが小さな山になっていた。事故があった道路の脇に置かれてある、あれのようだった。
それ以外見るべきものはない。
良輔は部屋を出た。
隣の部屋の扉が開いていた。
さっきまで確かに閉じていたはずだ。
それが大きく開かれている。
音が聞こえた。
みし
みし
みし
何度も何度も聞いた音だった。
赤い紐《ひも》が擦れる音。
その部屋に何があるのかは見ずともわかった。もう一度あれを見る気はない。
良輔は背を向け、入り口に向かった。
埃だらけの床に手をつき膝《ひざ》をつき、扉を押した。
じゃっ、と音がした。
扉は開かない。
外から鎖で封じられているのだ。
良輔は何度も扉を押した。
が、隙間はわずかしか開かない。指一本が通るほどの。
ぺたり、と後ろから音がする。
濡《ぬ》れた足を床に降ろす音。
ぺたり、ぺたり、ぺたり。
足音はゆっくりだがまっすぐ良輔の方へと向かってきていた。
良輔は扉を叩《たた》いた。叩きながら助けを呼んだ。
凄《すさ》まじい腐臭がした。
良輔の首筋に何かが落ちてきた。
手でそれを払いのける。
小さな白いそれが良輔の眼の前で躰をくねらせている。
蛆《うじ》だ。
悲鳴を漏らし、良輔は扉のわずかな隙間に指をこじ入れた。
開けてくれ!
叫ぶ良輔の指先を誰かが摘《つま》んだ。
冷たい手だった。
絶叫していた。喉《のど》が裂けるほどの大声で許しを乞《こ》うていた。
その声が歪《ゆが》んでいく。高くひずむそれは単調な電子音のように聞こえる。
電話だ。
これは俺の叫び声ではない。電話のベルだ。
そう気づいたとき、良輔はようやく目覚めた。額にじっとりと浮かんだ脂汗も拭《ぬぐ》わず、良輔は受話器を取った。聞こえたのはこの町に来てから何度も聞いたあの声だった。
「……逃したわ……が来る。……だから、だから明日が最後。これが本当に……その時私に…………だから決して裏切らないで」
「君は……奈美くんじゃないのか」
喉に絡む声で良輔は言った。
「君は奈美くんなんだろう。頼む、答えてくれ、君は――」
もうすでに電話は切れた後だった。
4
眠ることもできなかった。しかし部屋を出る気もなかった。良輔は天井を見つめながらただじっとしていた。窓の外に明かりが見え、温められた窓の熱がカーテンを越え部屋の温度を上昇させていく頃、ようやく良輔は眠りに就こうとしていた。
微睡《まどろ》みに落ちる良輔の心地好さを断ち斬るように電話が鳴った。
受話器を取ると間の抜けた音楽と録音のメッセージが聞こえてきた。モーニングコールだ。
時計を見ると午前十一時になろうとしていた。
良輔は慌てて服を着ると顔を水で濡らして部屋を飛び出した。
フロントで清算していると、奈美が横に並んだ。
「今起きたところでしょ」
「どうしてわかった」
「ごまかしのきかない顔してるから」
冗談を言う奈美の顔が、昨日とは違うことに良輔は気づいた。
「どうしたの。何かあったの」
「どうして……」
「なんだか浮かない顔をしてるから。体操服を忘れた子供みたいな」
「そんなことないわよ」
「体操服を忘れたことがないってこと?」
「違います」
奈美は唇を尖《とが》らせた。
「ところで昨日の晩、僕のところに電話をかけてきた?」
「……かけてません」
そういう顔がますます曇る。ごまかしのきかない顔をしているのは奈美の方だった。しかし良輔はそれ以上の質問をしなかった。
「それで、今日は祭りに連れていってくれるんだろう」
「ええ、早速神社にいきましょうか」
奈美は良輔の手を引いた。
ホテルを出て、道路を渡ったところで良輔は路面を見回した。昨夜溶接らしきことをしていた場所だ。だがそれらしい痕跡は何処にもない。第一溶接すべき何物もここにはない。あの影のいた辺りにあるのはプラスチックのごみ箱だ。プラスチックを溶接しようとする人間はいない。
「どうしたの」
「いや、何でも――」
ないと続ける前に、ごみ箱の横に落ちているものを見つけた。
死んだミミズかと思った。だが違った。それはネズミの尾だ。ネズミの尾と、わずかばかりの尻《しり》の肉。しかも肉の断面は黒く焦げていた。
さあ、早くいきましょうよ。
奈美に腕を引かれた。
良輔はネズミの尾から眼を引き剥《は》がした。
昨夜あそこで見た火花は、ネズミを焼き殺すためのものだったのだろうか。
何のためにそんなことを。
解けぬ疑問が恐ろしげな妄想に変わる前に、良輔は神社にたどり着いた。
石段は高さや長さが不規則で、しかも端が摩耗して丸くなっている。昨日はそんなことを感じなかった。まるで一晩で石段が古びてしまったかのようだった。
石段を昇りきり鳥居をくぐる。やはり手水舎《てみずや》がないのが奇妙だ。古い神社には本殿と鳥居と神宝を納める倉だけの単純なつくりのものもある。が、ここには社務所や拝殿があり、単に古い神社というわけでもなさそうだった。
「拝殿にいきましょう。宮司さんに町長から話はいってますから」
参道を歩いていると、件《くだん》の宮司がやってきた。かなりの高齢のようだ。足元がおぼつかない。その姿を見ると奈美が正面を見たまま良輔に囁《ささや》いた。
「宮司と別れたらあの楽屋で待ってて」
聞き返そうとする間もなく、奈美は宮司に手を振っておはようございますと大きな声をあげた。
「はいはい、おはようさん」
宮司は酸いものを食べたように顔の中央に皺《しわ》を寄せながら言った。
「奈美ちゃんご苦労さま。で、こちらがその作家センセイかね」
「はじめまして、草薙良輔です。今日はこちらの神社を案内していただけるそうで」
うんうんと宮司はひとりで頷《うなず》いた。
「まあ仕方ないわな、ひきうけたもんは」
「どういう意味でしょうか」
少しむっとして良輔は言った。正体の知れぬ男を案内するのが嫌ならそう言えばいい。どうしても案内が必要なわけではないのだから。
だがそれは良輔の勘違いのようだった。
「あんたの、センセイのことですよ。引き受けた仕事は面倒でもしなくちゃならない。ご苦労さまでございますと、まあそういうことです」
「ええ、確かにそうですが、別に小説を書くことが面倒なことはありませんよ」
「小説? ふんふん、そうだった、そうだった。センセイは小説を書き上げなきゃあならんのだねえ」
噛《か》み合わぬ会話をしながら、良輔は靴を脱ぎ拝殿に上がった。奥に神棚があり、それと対峙《たいじ》して中年の男女が正座していた。
「じゃあ、私はちょっと……」
奈美は拝殿に上がらず、良輔に言った。
「すぐに迎えに来ますからそれまで待っていてください」
良輔の返事を待たず、奈美は踵《きびす》を返して参道を戻っていった。
「ああ、まあまあそこに腰を降ろしや」
言うと宮司はその場で正座した。神棚ではなく参拝客の方を向いている。その横に、良輔も慣れぬ正座をした。
「ここの神さんは脂《あぶら》産霊命《むすびのみこと》と言うてね。うんうん、脂産霊命。道の神さんです。通れぬ道を通すようにする、境の神さんやな」
宮司の言葉には関西の訛《なま》りがあった。それがだんだんとひどくなっていく。
「知ってますかいな」
「恥ずかしながら存じません」
八百万《やおよろず》の神々のほとんどを知らないのだ。聞いていない名まえがあっても不思議ではない。
「はいはい、そうやろうね。珍しいここだけの神さんやからねえ。はい、どうも」
宮司が頭を下げた。
若い神官が入ってきたのだ。神官は宮司に深々と頭を下げ、神棚の前にいった。
手に桶《おけ》と柄杓《ひしやく》を持っている。
参拝客が頭を下げた。その前に立つと、神官は桶を畳に置き、そこから柄杓で何かを掬《すく》いとった。そしておもむろに畳の上に振り撒《ま》いた。それは黄色くどろりとした液で、畳の上にかけるようなものとは思えなかった。
「あれは何ですか」
「あれ、とは?」
「あの柄杓で畳に――」
「はいはい、脂やなあ。豚の脂を溶かしたやつや」
「あぶら、ですか」
「そう、脂。ふんふん、そうやね。あれは脂。言うたやろ、ここの神さんはアブラムスビノミコトやて」
撒かれた脂で畳がぎらぎらと輝いていた。その畳の縁から黒い針金のようなものがにゅうと突き出てきた。ゆらゆらとそれが左右に揺れている。
触角だ。それは黒く長い触角だ。
続けて頭が出てきた。小さな黒豆のような頭だ。そして長い首と、黒光りする刺《とげ》だらけの肢《あし》が出てきた。最後に扁平《へんぺい》な胴体が現れた。見たこともない虫だった。黒い蟷螂《かまきり》のようだが鎌はない。それに何よりもそれはあっけにとられるほど大きかった。長い触角を別にしても大人の掌より大きい。
それは畳の上に這《は》い出るとカサカサと耳障りな音をたてて、神棚の後ろへと這っていった。
神官も参拝客らしき男女も平然としている。そんなものがそこを通ったことなどまったく気にしていなかった。
「今のは」
今度は二匹の虫が畳から這い出て、神殿の後ろに消えた。
「あれは……」
「脂を食ってるからえらい憎々しげに太ってるやろ」
「あれは何なんですか」
「虫やないか。わからんか」
「だから何という虫なんですか」
「はあはあ、そういう意味かいな。そこまでは知らんな。あんたもおかしなことが気になる人やなあ。やっぱり作家ちゅうのは変わった人間が多い」
「……何故あんなところに脂を撒くんですか」
「脂を撒いて滑りを良うしてるんや」
「滑り?」
「ふんふん、どうもあんたいちいち聞き返す癖《へき》があるようやな」
「すみません」
良輔は頭を下げた。
立っていたときはそれほど身長に差がなかったが、座ると良輔から薄くなった宮司の頭頂部が見える。頭ひとつ縮んだように見えるのは、宮司が極端に背を丸めているからだ。
「いや、別に謝らいでもええねんけどな」
宮司は下から良輔を見上げた。皺の中に埋《うず》もれた畦《あぜ》のような眼を、眩《まぶ》しいものでも見たかのようにしばたたかせる。
「それで脂の話やな。脂は滑りを良うするために撒くんや。あんた、生きてる人間の世界と死んだ人間の世界の間に何があるか知ってるか」
「……さあ」
「岩があんねん。大きな大きな岩や。千引きの岩っちゅうねんけどな。それが生と死を分けとるわけや。アブラムスビノミコトっちゅう神さんはな、その岩にいつも脂を撒いとんねん。はいはい、何のためか聞きたいねやろ。それがつまりさっき言うたように滑りをようするためや。死者はいつか生者の国へいかなあかんやろ。その時にするりと岩の間を滑り抜けられるようにアブラムスビノミコトさんが脂を撒いてくれとるっちゅうわけや。この日本の国の神さんにはな、恨みを抱いて悔しゅうて此岸《しがん》に戻りとうて悪さ仕掛けるような怨霊《おんりよう》を祭ったものが多いんや。何でかわかるか。それはこの国では死者の国と生者の国の境が曖昧《あいまい》やからや。たかだか岩一個。昔から力の強い怨霊は此岸にちょっかいぐらいやったら出せたわけや。そやから神さんにしといて怒りを収めようっちゅう腹や。まあ、そやけどそんなことがいつまでも保つはずないわなあ。そやから死んだものも、いつかはするりと岩をくぐって此岸に渡れるようになってるねん。それを助けようっちゅうのがアブラムスビノミコトさんやな」
「あの、死者がいずれこの世に現れるなんてことが古事記とかに書かれてましたっけ」
まるで聖書の黙示録の世界だ。
「書かれてあるとか、いないとか、そんな話とちゃうねん。そうなってるだけの話や」
「そうなってるって?」
「ほらまた聞き返した」
酸っぱい顔の唇をさらに尖《とが》らせて宮司は言った。
「みんなここで待っとるわけや。もう一度生きてるもんの世界に行くのをな」
「それじゃあ、まるでここが死者の国みたいじゃないですか」
「まるで、やない。ここは死者の国やで」
冗談なのかと思った。だが神官は酸い顔でじっと良輔を見上げているだけだ。
「それは何かの比喩《ひゆ》なんですか」
「わからんやっちゃなあ。比喩やない。わしらは死んでるんや。……待てよ。ほうほう、そうかいな。そうやったんかいな。いやな、町長が変わった人や変わった人や言うてたけど、あれはつまりあれやな。おまえさん、生きとんねんな」
宮司は良輔を睨《にら》みつけた。
何と答えていいのかわからない。黙っていると、宮司は嗄《しやが》れた大声で言った。
「どうもこの男、生きとるぞ」
参拝客と若い神官が、一斉に良輔を見た。
良輔は立ち上がろうとしたが、長い間正座していたので足が痺《しび》れて自由に動かない。感覚を失ったその足の指先に鈍い痛みがあった。
足を前に出してみる。と、親指の先にさっきの黒い虫が食いついていた。近くで見るとその虫の顔は、焼け焦げた人の顔そっくりだった。その人間そっくりの白い歯がきりきりと指の肉を噛《か》み切ろうとしている。
わあ、と声をあげ、良輔は虫を払いのけた。慌てて立ち上がろうとするが脚がもつれて亀のように仰向けに倒れる。
「ほうら、見いや。虫が食いついとるわ。こりゃ、生きた人間や。生きとるから虫が食いよるねん」
生きてる。
生きてる。
生きてるんだ。
参拝客も神官も、そう呟きながら良輔の方へと近づいてきた。
足をばたつかせ必死になって逃げようとする良輔の腕を宮司が掴《つか》んだ。
「生きてるんやろ、なっ、そうやろ」
すがる眼で見る宮司を、良輔ははねのけようとした。振った腕が思ったよりも強い力で宮司の側頭部を打つ。腐った枝が折れるような音を立て、宮司の首が真横に曲がった。
「何をするねん」
ごぼごぼと口から黒い粘液を吹きこぼしながら宮司は言った。
手足をでたらめに動かし、半ば転がるように良輔は拝殿を逃れ出た。砂利道に尻餅《しりもち》ついて二三歩這ってから立ち上がり、一気に参道を駆ける。
鳥居をくぐったことは間違いない。
一瞬の暗転。
そして良輔は筵《むしろ》の敷かれた土間に座り込んでいた。
えっ、と声をあげ立ち上がる。
窓のない小さな木造の小屋だ。明かりは天井に灯《とも》った裸電球ひとつ。
ここは良輔が初めてこの町に運ばれてきたときに閉じ込められていた、あの楽屋だった。
壁に打ちつけた釘《くぎ》に引っかけてある荒縄とのこぎり。その横に貼られたポスターの『千引岩死返道行』という赤い文字。
蝉の声が聞こえてきた。
あの時からずっとここに閉じ込められていたのか。そう思うほど何もかもあの時のままだった。
いや、ただひとつ違うところがあった。
あの時この小屋には入り口がひとつ、トタンで補強した引き戸だけだった。
ところが今、それと反対の壁にも入り口があった。それには戸がなく、代わりに濃い紫の布がカーテンのように掛けられていた。
その布がはね上がり、男が入ってきた。
日本髪に白塗りの顔。赤く分厚い淫蕩《いんとう》な唇。肩から羽織った赤い襦袢《じゆばん》。それでも彼が男であることは間違いない。はだけた裾《すそ》から垂れた陰茎が見え隠れしている。
「あら、まだこんなところにいたのかえ」
男は裏声でそう言うと良輔に近づき、その二の腕を掴んだ。その力は間違いなく男のものだ。
「何をしてるんだい、早くおいでな」
有無を言わせず男は良輔を引っ張る。駄々っ子のように引きずられ、良輔は紫の布をくぐった。
どっ、と大きく太鼓が鳴った。鉦《かね》がそれに合わせてちりちんと鳴ると祭囃子《まつりばやし》が始まった。
てけてんつんて
とことんとんと
てけてんつんて
とことんとんと
「食事の用意ができましたよ」
妻の美沙が言った。
何処からか大勢の拍手が聞こえた。
俺はフローリングの床に座り込んでビデオを見ていた。ブラウン管の中では輝く陽光の下で娘の奈美子が笑っていた。薄暗い書斎の中で、そこだけが夏の香りを放っていた。
蝉の声。
そして遠くで祭囃子が聞こえる。
娘がブラウン管の中から呼びかけた。
――お父さん、こっち。
「食事の用意ができましたよ」
妻が同じ台詞《せりふ》を繰り返した。
「おまえ何を考えてるんだ」
俺は芝生の上を走り回る娘を見ながら言った。
「何をって」
困った声で妻は問う。
「娘が死んだんだ。それなのにおまえはいつもいつも食事のことばかり。食事の用意ができました。食事の用意ができました。……よくものを食おうという気になれるな」
「だって、何も食べなければ――」
「死んでしまう、か。ああ、死にたいよ。俺は死にたいよ。死んでしまいたいよ」
げらげらと笑う声がした。大勢の人間の笑い声だ。
それを無視し、俺は妻に絡み続けた。
「仕事を辞めろよ」
俺は振り返って妻の顔を見た。
妻は困惑した顔で俺を見ていた。
「なっ、仕事を辞めろよ。俺が食わしてやってるんだ。おまえが仕事なんかしなくてもいい金を稼いできてやるから」
妻は何も言わない。
黙って床を見つめている。
「俺がいつまでも働かないことへの嫌がらせか。ああ、そうか。そうやっておまえは俺を責めてるんだ。いつもそうだ。おまえって奴はいつもそうなんだよ」
再び笑い声。
「何とか言ってみろよ」
俺は立ち上がった。
美沙を睨みつける。
美沙は床を見てはいなかった。
思い詰めた顔で俺を見据えていた。
そして言った。
「あなたは楽しんでいるのよ」
おお、と感嘆の声があがった。
「そうやって私を怒らせようとして、惨めな自分を演出して、そうやってあなたは楽しんでいるのよ」
大拍手。
歓声。
指笛。
一際大きく鳴る祭囃子。
「うるさい!」
俺は拳《こぶし》で美沙の顔を殴った。
こみ上げた怒りが反射的にそうさせたのだ。
美沙はつくりつけの書棚まで飛ばされた。積み上げていた書籍が雪崩《なだれ》を起こして妻の躰《からだ》に降りかかった。
怒声とブーイング。
妻は鼻から血を流しながら俺を見ていた。
その眼は明らかに俺を哀れんでいた。
怒りに頭が痺れるほどだった。
首筋が冷たくなった。
血の気が顔から引いていく。
俺は美沙に飛びかかった。
その細い首に手をかけた。
それでも美沙はまだ哀れむ眼で俺を見ていた。
雑巾《ぞうきん》でも絞るように両腕に力を込める。
美沙の瞳《ひとみ》がくるりと裏返った。
開いた唇から逃れるように舌がはみ出した。
それでも俺は力を緩めなかった。
美沙の爪が俺の頬を掻《か》いた。痛みは感じなかった。だがますます腹が立った。
俺は美沙を殴った。美沙の顔を拳で何度も殴った。
祭囃子が激しくなる。
てけてんつんて
とことんとんと
より速く、より力強く。
てけてんつんて
とことんとんと
美沙はすでにぐったりとしていた。それでも俺は殴るのをやめなかった。執拗《しつよう》に殴り続けた。
尿の臭気に、俺は気づいた。
そして妻の躰から離れた。
死んでいるのは明らかだった。それでも俺の怒りは消えなかった。何故そこまでの怒りが湧《わ》き起こったのか、俺にもわからない。
崩れ落ちた書物の山の上に、赤いビニール紐《ひも》が落ちていた。何かを梱包《こんぽう》するために買ってきて、書棚の上に置いたまま忘れていたものだ。
俺はそれを妻の首に巻きつけた。
壁に頑丈なフックがある。家を建てるときに絵を掛けるためにつけてもらったものだ。百号のその絵は、しかし大きすぎ、結局フックは使われず、その前に新しい書棚を置いたのだ。
その書棚を倒す。
そしてフックに紐をかけると妻の躰を持ち上げた。紐が切れるかフックが折れるかするだろうと思っていたが、どちらも起こらなかった。
妻の骸《むくろ》は百号の絵の代わりに壁に飾られた。
ゆっくりと、妻の躰は左右に揺れていた。
みし
みし
みし
紐がフックに擦れ嫌な音がした。
項垂《うなだ》れた妻が、見開いた眼で俺を睨《にら》んでいる。
この俺を睨んでいる。
死んでいる。
この女は死んでいる。
ああ、そうか、そうだ、そうだったんだ。
俺は美沙を殺したんだ。
俺は美沙を。
だからか。
だからおまえは俺をここに案内したのか。
この死者の国に。
これは俺への復讐《ふくしゆう》なのか。
てけてんつんて
とことんとんと
てけてんつんて
とことんとんと
祭囃子《まつりばやし》の音はどんどん大きくなり、人々の拍手がそれにも増して大きく聞こえる。
どっ、と再び太鼓が鳴った。
丸太で組まれた舞台の上に良輔は座り込んでいた。
襦袢《じゆばん》の男が首に赤い紐を巻いて良輔を見ていた。
「うつくしき わがなせのみこと」
男は裏声で言った。
「いかように にげゆきとも よもつしこめをつかはして おはしめき」
客席から嵐のような拍手が起こった。
良輔はぼんやりと客席を眺めた。
中に知った顔が幾つかあった。
事業に失敗し一家心中した叔父の家族。金を盗んだと疑われ自殺した中学の同級生。みんな興奮した面持ちで拍手している。
「……本当にここは死者の国なのか」
うっすら笑みさえ浮かべ、感嘆したかのように呟《つぶや》く良輔の腕を引くものがある。
「誰だい」
のんびりした声で良輔は問うた。
舞台の袖《そで》から腕が伸びていた。
細い指が良輔の腕をしっかりと掴《つか》んでいる。
「お父さん、こっち」
腕を引かれ、良輔は楽屋に戻る。
奈美がいた。
奈美は真剣な顔で良輔を見つめていた。
「君は……」
喋《しやべ》ろうとする良輔を引っ張り、奈美は楽屋を出る。
舞台では襦袢の男が延々と台詞を喋っていた。どうやら生者に対する恨み辛《つら》みの台詞のようだった。舞台の前には驚くほど大勢の人間が座り込んで、男の長台詞を聞いていた。時折盛大な拍手が沸き起こる。歓声が聞こえる。
「早く」
言われ、良輔は奈美と並んで砂利道を走った。
参道を通り、無事に鳥居を越えた。
石段を走り降り、道路に出る。
「ここは、死者の国だ。そうなんだろう」
すでに息を切らせながら良輔は言った。
「そうよ」
奈美は事無げに答えた。
「だから手水舎《てみずや》がなかったの」
手水舎で手水を取るのは、一種の禊《みそ》ぎだ。穢《けが》れを流し、身を清浄にするために行う。死は穢れの最たるものだ。従って死者の国で禊ぎをするということは、汚穢《おわい》の中で身を清めることと同じになる。
「俺も死んでいるのか」
一番恐れている疑問を口にした。
「いいえ、死んではいないわ。でもよもつへぐいしたから」
「何だそれは」
「黄泉津戸喫《よもつへぐい》。死者の国の食べ物を食べてしまうこと……ここまで来れば大丈夫よ」
奈美は走るのをやめた。
「芝居の間はよほどのことがない限りあの人たちは境内を離れないから」
「助かった」
良輔は苦しい呼吸の中でそう言った。立ち止まると同時に、心臓が跳ねるように脈打ちだしていた。頭に血が上り、風船のように膨れ上がっているようだ。
「あの電話は」
良輔は震える膝《ひざ》を押さえ歩きながら言った。
「あの電話は君だったんだね」
「……そうです。あれは私からの忠告です。詳しく説明している暇はありませんが、私にはあのような形でしか良輔さんに連絡を取る方法がなかった。黄泉津戸喫のことはできるだけ早く良輔さんに伝えたかったからです。……黄泉津戸喫するともう生者の世界、現世に帰れなくなってしまうから」
「じゃあ、俺は」
「帰れると思います。帰ってから禊ぎをすればいい。イザナキノ命のように」
「それはイザナミ、イザナキのあのイザナキのことかい」
奈美は頷《うなず》いた。
「どうすればいいかは、戻ってから専門家に、どこかの神官さんにでも聞いてください」
「もうひとつ聞いておきたいことがあるんだ」
本当はそれをこそ真っ先に尋ねたかった。
「奈美、くん。君はさっき僕を舞台から引っ張るときに、お父さんって言ったよね」
奈美は頷いた。
「君はやはり」
「……そうです。私は死んだあなたの娘、奈美子です」
良輔は脚を止めた。
先に行きかけた奈美子が後ろを振り返る。
「死者に年齢はありません。だから私は、お父さんが望んだままの姿でここにいます」
「もう一度言ってもらえるか」
「何を、ですか」
「僕のことをお父さんと」
奈美子は俯《うつむ》き、小声でお父さんと言った。
良輔は奈美子を抱いた。抱き締めた。
何故か涙は出なかった。
抱き締めたその腕の中にある脆弱《ぜいじやく》なその躰《からだ》を、決して離すまいと思っていた。絶対に失ってはならないものを、いま再び腕の中に抱き締めているのだ。
「君も行こう」
良輔は奈美子の肩を掴んで言った。
「奈美子も一緒に現世に戻るんだ」
「私はお父さんとは違います。私は……もう死んでいます」
「でもできるんじゃあないのか。僕が帰れるように、奈美子も戻れるんだろう。奈美子が帰らないのなら、僕は現世に戻る意味がないんだ」
母親におねだりする子供と変わりなかった。そして奈美子の態度も甘い母親のそれと同じだった。
困った顔でしばらく考え込み、しょうがないわね、という眼で良輔を見た。
「できないことはありません。でも……」
「一緒に行こう!」
勢い込んで良輔は言った。肩を持つ手に知らず力がこもる。
「帰って、二人で暮らすんだ。新しく二人で生活を始めよう。なっ、帰ろう、僕と一緒に」
「……わかりました。でも、それには準備が必要です」
奈美子は良輔に背を向け、足早に歩き始めた。
5
奈美子は何も喋らず、良輔も何も聞こうとはしなかった。
灰色にくすんだ町を歩き、二人は幽霊船の前に来ていた。その丸い扉は開いたままだった。
「死者の国を出るための準備をしなければなりません」
扉の前に立ち、奈美子はそう言った。
「準備?」
「呪《じゆ》的な手続きのようなものだと考えてください。この世界にはこの世界の……しきたりがあるんです。だから、お父さんも約束をしてください」
「何でもするさ。奈美子を連れて帰れるのなら」
「私は今から船に入ります。必ず出てきますから決して中に入ってこないでください」
「ここで待っていればいいんだね」
「そうです。私を裏切らないでください」言って奈美子は幽霊船の中へと消えた。
良輔に奈美子を裏切るつもりなど毛ほどもない。奈美子に言われるのなら命を捧《ささ》げることも惜しくないのだ。
良輔は幽霊船の前で待っていた。容赦のない太陽に肌を焦がしながら、じっと娘の消えた扉を眺めている。
一時間経ち、二時間経った。
うるさいぐらいに蝉が鳴く。
暑さも、蝉の声も、良輔の苛立《いらだ》ちを募らせた。三時間を過ぎ、陽は西に傾き始めた。
不安だった。
娘は二度と出てこないのではないか。
黙ってこの建物の中に入れたのは間違いだったのではないか。もしかしたら、中で誰かに捕らわれ(死んだ美沙に捕まり!)出てくることができないのではないか。奈美子は助けを待っているのではないか。
一度そう考え始めると、妄想は膨らむ。娘を亡くしたときのことを思い出す。もしもあの時買い物にいかなければ。もしも魚屋の前を通らなければ。と幾つものもしもを重ねたあの陰鬱《いんうつ》たる日々が鮮明に蘇《よみがえ》る。
ちょっとしたしくじりで娘を一度亡くしている。失敗はもう二度としたくない。
そう考えると、もう己れを抑えることができなかった。
ちょっと様子を見に行くだけだ。無事を確認すればすぐに出てくる。
己れをごまかしながら、良輔は地面に膝をつき扉をくぐった。夢の中と違って、懐中電灯を持ってきていない。しかし今は真昼だ。開いた扉から漏れる光が、中を薄ぼんやりとであるが照らし出していた。
夢と同じだった。
入った所は狭い廊下だ。天井は高い。廊下の奥は闇に包まれはっきりとは見えない。湿気を含んでひんやりとする大気は、埃《ほこり》と黴《かび》の臭いがした。夢の中ではこの廊下の先に行き先のない階段があったはずだ。
良輔は廊下を奥へと、濃さを増す闇の中へと進んだ。夢で見たよりも遥かに廊下は長い。
最初の扉の前に来た。朽ちたような木製の扉だ。それを音もなく開く。暗くてよくはわからないが、夢の中で見た狭い部屋そのもののようだった。床に汚泥が溜《た》まっている。
扉を閉めて前を見た。
廊下の遥か向こう、扉が開き明かりが漏れていた。
良輔は片側の壁に手を触れながら進んでいった。そこから漏れるのは蛍を思わせる淡い緑の冷たい光だ。
中から音が聞こえた。
ジジジと蝉の鳴くような音。深夜のホテルの前から聞こえてきたあの音だ。
良輔はゆっくりと扉を開いた。
狭いその部屋は壁自体が緑に輝いていた。
だから良輔はそれをはっきりと見ることができた。
床に横たわっているのは奈美子だ。
奈美ではない。
七歳の奈美子だ。
良輔は叫んだ。
臓腑《ぞうふ》を絞り出すような悲痛な悲鳴だった。
鉛色の皮膚は所々腐り剥《は》がれ、赤い亀裂《きれつ》から蛆《うじ》がこぼれ落ちていた。その腹は鞠《まり》のように大きく膨らんでいる。
腐り果てた奈美子の屍体《したい》。
それに覆い被《かぶ》さるように八匹の獣がいた。猿に似ている。黒い鱗《うろこ》で覆われた猿だ。
一匹が振り向いた。
新生児そっくりの顔だった。違うのはナイフのような大きな牙《きば》を持っていること。その牙は真っ赤に燃えていた。
黒い猿が唇を捲《まく》り上げ歯噛《はが》みした。
灼《や》けた牙が合わさり、ジジジと音をたてた。火花が涎《よだれ》のように垂れる。
他の七匹も良輔を振り返った。
そして焼け焦げた奈美子の傷口が見えた。猿どもは灼けた牙で奈美子の躰を食い千切っていたのだった。たんぱく質の焦げる嫌な臭いが部屋に充満していた。
悲鳴に続けて良輔は嘔吐《おうと》した。
今朝から何も食べていない。黄色い胃液を吐いてなお、胃は幾度も握りつぶされてでもいるように収縮する。
獣たちが左右に避けた。
奈美子の亡骸《なきがら》が、その時躰を起こしたのだ。頭皮ごと髪の毛が滑り落ちていく。
右手がゆっくりと持ち上がった。
大振りのソーセージに似た指が良輔を差している。
唇が開いた。中で膨れ上がった灰色の舌が蠢《うごめ》く。
「吾《あ》に辱《はぢ》見せつ」
掠《かす》れた声で奈美子は言った。
半ば眼窩《がんか》からはみ出た眼球が、それぞれに良輔を睨《にら》みつけていた。
獣たちは一斉に蛇のような威嚇音をあげた。
奈美子が立ち上がる。
良輔は後退《あとじさ》った。
八匹の黒い猿が跳んだ。
良輔は部屋を出て扉を閉めた。
大きな音をたて、獣たちが扉にぶつかった。
扉が軋《きし》んだ。木片が弾《はじ》け飛ぶ。
次にぶつかられたら扉は吹き飛んでしまうだろう。
良輔は入り口の方を見た。
扉の開く音がしたからだ。汚泥の溜まった部屋の扉が開いていた。
真っ黒の影がそこから出てきた。ひとつではない。三つ、四つとその数が増していく。
「おったぞ」
先頭の影が言った。
「生きとるもんがここにおったぞ」
嗄《しやが》れたそれは宮司の声だった。
生きてるぞ。
生きてる。
生きてる。
口ぐちに影たちが呟く。
どん、と扉にぶつかる音がした。押さえる良輔の眼の前で扉が裂けた。その亀裂から濡《ぬ》れた鱗がびっしりと生えた長い腕が突き出てきた。灰色の鉤爪《かぎつめ》が良輔の胸を掻《か》く。シャツが裂け、赤く血が滲《にじ》んだ。
扉への道は影に塞《ふさ》がれている。
良輔は扉から手を離し、隣の部屋に飛び込んだ。
白光に包まれた。
眩しさに網膜が焼けてしまいそうだった。
堅く眼を閉じしゃがみ込む。
ちりちりと肌を灼く陽光を感じた。
ゆっくりと眼を開いた。
光で塗りつぶしたような景色。白く灼けたシャッター。居並ぶ倉庫と工場。広く真っ白な舗装道路。
昨夜泊まったホテルが眼の前にあった。
ホテルを過ぎれば白一色の町だった。
奈美はここが町の外れだと言っていた。
この道をまっすぐいけば町を出られる!
良輔は立ち上がり、ゆらゆらと陽炎《かげろう》のたつ道路を歩き出した。
蝉の鳴く声がうるさい。
頭の中につき刺さるようなその声を聞いているうち、己れが何をしてしまったのかを思い出した。
また失ってしまったのだ。
約束を守らなかったばかりに娘を。
涙が流れた。
情けなく哀しく悔しく、涙が流れた。
流れる涙は頬を伝う間に乾いていく。
暑かった。
しかし何処にも陽の光を避けられるところはない。
羽音とともに首筋に何かがぶつかった。
鋭い痛みを感じる。
手で払うと、それは白い路面に転がり透明な羽を振り回しながらジジと鳴いた。
拝殿で見た真っ黒の虫だった。
人間そっくりの小さな口が血に塗《まみ》れていた。首筋を押さえた手を見ると赤く染まっている。
嘲《あざけ》るように虫はシャーシャーと鳴きながら飛び立った。
耳鳴りと間違うほどに鳴き狂うこの声は蝉ではなかったのだ。のしかかるほどのこの蝉《せみ》時雨《しぐれ》は、異形の虫たちの声だったのだ。
後ろから風が吹いた。
熱風だった。
波のように腐臭が押し寄せてきた。
良輔は振り向いた。
そこに町の住人がいた。
道路一面に広がったそれは、腐肉の壁だった。
ぼろを身にまとい、おうおうと声をあげ、腐汁を滴らせながらそれらはゆっくりと良輔の方へと向かってきていた。
その頭上を黒雲のように埋めているのはあの虫たちだ。虚無の穴のごとく漆黒のあの怪虫どもが、空を埋めるほどの大群となって舞っている。
死者たちの先頭に立っているのは奈美子だ。
その指は矢のように良輔を差している。
奈美子を囲むように八匹の黒い猿がいた。
良輔は娘の骸《むくろ》から眼を引き剥がし、再び走り出した。
もはや後悔も何もない。良輔をつき動かしているのは恐怖だ。その足をひたすら前にやっているのは恐れだ。
ただただ恐ろしかった。狂わないのが不思議なほどだった。
それとも、もう狂っているのか。
良輔は走った。
ただひたすら白い町を走り続けた。
逃げおおせるはずもなかった。
やがて奴らが来た。
臭いがする。
腐肉の臭いが。
音がする。
ぴち、ぴち、と体液を垂らす音が。
そして声がした。
奴は生きとるぞ!
良輔は唇が裂けるほど大口を広げ、長々と悲鳴をあげた。
電話のベルが鳴った。
森の中で聞くそれよりも不自然だった。良輔の頭の中が攪拌《かくはん》された。日常と非日常がコーヒーとミルクのように回転しながら溶け合っていく。
すぐそばの公衆電話からだ。
待ってくれ、今出るから。
呟きながら良輔は電話ボックスに入った。道を向かってくる不快なものどもがちらりと視界に入った。
ああ、おまえたちもちょっと待っていてくれ。
薄笑いを浮かべて良輔は呟《つぶや》いた。
受話器を取った。
あの聞くに耐えない不快な声が言った。
「もうすぐだ。小説は終わる」
「おまえは――」
「屍の王。死者の国を統べるもの」
「美沙、ではないのか」
「美沙でもある。奈美子でもある。恨みをのんで死んでいったものすべてが俺だ」
「おまえが俺をここに送り込んだのか」
「おまえには小説を書いて欲しかった。『屍の王』をな。『屍の王』はこの世界、黄泉《よみ》への扉を開く鍵《かぎ》となる。完成した『屍の王』を読んだ者の心の内に扉は開く。我らはその扉から現世へと抜け出るのだ。生けるものたちの世界へな」
「……ひとつ聞いていいか」
「何なりと」
「おまえは俺に『屍の王』を書かせるために…………娘を殺したのか」
声は笑った。ひび割れたような声で哄笑《こうしよう》した。
「何がおかしい」
「俺は娘を殺さない。ただ娘を殺されたお前を造っただけだ」
「どういう意味だ」
「まだわからないのか。おまえは『屍の王』を書かせるがために私が造った人間だ。おまえもまた『屍の王』の作中人物なのだよ。本当の草薙良輔は服役中だ。妻殺しでね。第一草薙良輔などという人物はいない。それは妻を殺したあの男のペンネームなんだからね」
大学に草薙良輔という人物が在籍していなかったのは当然のことだった。それは架空の名まえだったのだ。
「私は現実の肉体を持った人間に『屍の王』を書かせようと試みたことが二度ある。一度は伊佐名鬼一郎という作家に書かせた。随分昔の話だ。そいつは妻と子供の頭を鉈《なた》で叩《たた》き割ってから自殺した。完成を目前にしてな。次が草薙良輔だ。行方不明になった娘を利用して細工した。こいつは妻の首を絞めて警察に捕まった。肉体を持った存在に『屍の王』を完成させるのは不可能だ。だから私は『草薙良輔』という架空の人物を造り上げた。失敗した草薙の経歴を利用してな。おまえは私によって造られた。泉守道と出会ったあの日に。それ以前におまえという人間は存在していなかった」
俺は屍の王によって造られた架空の存在。突然ある日現れた幻影。
お父さん、と後ろから呼びかける声が聞こえた。
振り向くんだ、と屍の王は言った。それで小説が完成するのだ、と。
「お父さん」
再び娘が呼んだ。
良輔はゆっくりと振り返った。
その指が「了」とキイを打っていた。
[#改ページ]
付記(あとがきに代えて)
草薙良輔という作家について二三つけ加えておくことがある。
私が彼と出会ったのはもう八年以上も前のことだ。ちょっとした文学賞の受賞パーティーの席だった。もちろん私はただの招待客だったし、彼もまたそうだった。彼の名まえは知っていた。この『屍の王』の中で草薙良輔は「誰もが知っているというわけではないが、本好きなら名まえぐらいは知っている」と紹介されているが、彼の知名度はそれほどでもなかった。私が彼の名を知っているのも、彼と親しいSF作家から話を聞いていたからだ。というわけで、その時はまだ彼の著作を読んではいなかった。
二言三言話しただけだと思う。その何が気に入ったのか、それからたびたび草薙から電話がかかるようになった。
その頃にはさすがに私も彼のいわゆる「ライトエッセイ」を数冊読んでいた。面白い。確かに面白いのだが「一時間半の暇潰《ひまつぶ》し」以上でも以下でもない。まさにライトなエッセイだった。
ところが彼自身は一昔前の哲学科専攻の学生のように思索に耽《ふけ》ることだけを趣味とした、どちらかと言えば暗い男だった。あのエッセイからは想像もつかないその人柄に驚きもしたが、それ以上に、このような性格でありながらあの軽みをエッセイに出せるのはまさしくプロであるなあ、と感心した。
彼が取り憑《つ》かれたように死に関する考察を始めたのは、四年前。娘を亡くしてからだ。当時彼は独身だったが、前妻との間に娘がいた。その娘が、草薙の眼が離れた瞬間に車道に飛び出し、車に撥ねられた。即死だった。
私は自殺を恐れた。この『屍の王』で語られているとおり良輔は典型的な親馬鹿で、娘を猫かわいがりしていたからだ。
彼に小説を書くように勧めた人物が本当にいたのかどうか、そこまではわからない。少なくとも泉守道という名の編集者は、彼の担当にはいなかった。それに泉守道者《よもつもりびと》とは黄泉の国、すなわち死者の国に通じる道の番人のことだ。ついでに言うのなら作品中の妻の姓である菊理《くくり》にしても、生者イザナキと死者イザナミの仲介をしたといわれる神、白山菊理姫《はくさんくくりひめ》からとったものだろう。はっきりとは覚えていないが、彼の離婚した前妻はもっと平凡な苗字だったと思う。
で、この『屍の王』である。
娘を亡くして以降、私は彼の家に頻繁に電話をかけた。前記したように自殺を恐れたからだ。
そして彼がライトエッセイを書けなくなったこと、今『屍の王』という小説を書こうとしていることを知った。この辺りの心境は『屍の王』に詳しく書かれてある。
私が恐れていたとおりのことが起こったのが二年前の夏だった。彼はアパートの一室で首を吊《つ》って死んでいた。葬儀の席で私は彼の母親から一冊のノートを手渡された。それは『屍の王』のための創作ノートだった。
草薙は遺書を残していた。それには『屍の王』を書き上げてくれと、私を名指しでこの創作ノートを渡すように書かれてあった。
私は彼の自殺を防げなかったことを悔いていた。だからこそ私は『屍の王』を完成させたのだ。
正直に言おう。そのノートの中で『屍の王』はほとんど完成していた。私は出来上がった蕎麦《そば》の上に海苔《のり》を散らばらせた程度のことしかしていない。
さて、最後にこの手の小説につきものの奇妙な体験の話をしよう。
『屍の王』の完成を間近にしていた頃。夕食を終え私は続きを書こうとモニターに向かっていた。そして電話が鳴った。受話器を取るとノイズが聞こえた。そしてそのノイズの底から途切れ途切れの声が聞こえてきた。
草薙良輔だと、彼は名乗った。
今君の家の前にいるから出てきてくれ。
彼はそう続けた。
私は心霊現象だの何だのといったものをまったく信じていない。人の冗談につき合うつもりで私は玄関を開けた。話のネタぐらいにはなるだろうと私は考えていた。
男が立っていた。草薙と同年齢で同じような体格だったが、まったくの別人だった。
「できそうか」
男は言った。
何の話かと私が尋ねると、『屍の王』のことだと男は答えた。私が『屍の王』を書いていることを知っている人物は限られている。私はその中からこの悪戯《いたずら》をしそうな友人を数人思い浮かべた。
「もうすぐあがるよ。楽しみにしてくれ」
「おまえは大丈夫か」
「何がだ」
「変わったことは起こっていないか。何か良くないことは」
私はつい笑ってしまった。
「死体と会話したり化け物みたいな虫に肉を引き千切られたりしていないかどうかを尋ねているのなら、そんなことは一度としてなかった。これからもないと思うよ。『屍の王』はフィクションだ。架空の物語だよ」
「だといいんだが」
男は薄く笑った。
「ひとつ聞いてもいいか」
「何でもどうぞ」
「俺はおまえの知っている草薙良輔か」
「いいや、残念ながら知らない顔だ」
「そうか」
男は俯《うつむ》いた。哀しげな顔は、演技とするならかなりのものだった。
「お父さん、もういいでしょ」
その少女は不意に現れた。
どうやったのか、少女は本当にいきなりそこに現れたのだ。これにはさすがに私も驚いた。
七つか八つか、いずれにしろ小学校の低学年だろう。男の腰の辺りをしっかりと握り締めていた。
「驚いたなあ。どうやったんだい」
私は素直に驚かされたことを認めた。
が、少女は首を傾げただけだった。
「じゃあ、もう行くよ」
男は小さく会釈した。
少女が手を振り、さよならと言った。
その小さな唇を割って何かが飛び出した。
蠅だ。
異臭がした。
腐った肉の臭いだった。
そして蠅を眼で追っている間に、二人の姿は消えていた。
後に友人たちに確かめたが、この奇怪な悪戯を仕掛けた人物を見つけ出すことはできなかった。
私はオカルトを信じるものではない。まして死後の世界だの地獄だのと言われても戸惑うだけだ。しかし最近胃の調子がおかしいのは事実だ。そしてまるで羽音のような耳鳴りがすることも。
繰り返すが私は宗教的な何事も信じてはいない。だがこの本を書き上げ、出版にまで漕《こ》ぎ着けたことが正しかったのかどうか、今迷っていることも事実なのである。
[#地付き]了
本書は一九九八年十二月にぶんか社より刊行された単行本の文庫化です。
角川ホラー文庫『屍の王』平成16年9月10日初版発行