[#表紙(表紙.jpg)]
ファントム・ケーブル
牧野 修
目 次
ファントム・ケーブル
ドキュメント・ロード
ファイヤーマン
怪物癖
スキンダンスの階梯
幻影錠
ヨブ式
死せるイサクを糧として
ファントム・ケーブル
[#改ページ]
ファントム・ケーブル
1
まるで大きなゴミ箱だ。部屋の床が見えない。そこに置かれてあるのは様々な雑誌にコンビニのビニール袋、スナック菓子の袋にCDケース。がらくたが詰まった段ボール箱。いつのものとも知れぬカレンダーと、これまたいつのものとも知れぬミカンの皮。
しかし何よりも目立つのはそこかしこに貼られた付箋紙だ。上へ上へと鱗のように貼られたところもあり、下の方の付箋紙は黄色く変色していた。
壁面を埋め尽くすようなそれには、書いた本人にしかわからない、いや、書いた本人すらわからないであろうことが書かれてある。
――なぜ見えますか。マヨネーズ、キャップ付き。
――55から73まで。しないことも含める。
――ぎらぎら。←これ大事。
――ツクダに連絡。学校のこと?
――臭いがしないことを。だいたい五〇〇〇円ぐらい。しても無駄かも。
人が住んでいるとは思いにくい部屋だが、住人はいる。吉住《よしずみ》だ。古びたジャージの上下を着た彼はまだ二十代半ばなのだが、老人のような顔をしている。子供の時から老け顔で、小学校でも中学校でも彼の渾名《あだな》はジジイだった。
吉住はそこを台所と呼んでいるが、比較的しっかりした段ボール箱の上にコンロが置かれているだけだ。その横に洗面所があるので、確かに調理に使うことができるだろう。コンロには今|鍋《なべ》が置かれてある。鍋には湯が沸騰しており、吉住は袋から出したインスタン麺《めん》を入れた。
煮立ったそれを、吉住はぼんやりと眺めている。ぽっかりと開いた口が、魂が抜け出ていった後の穴のようだ。そうしているときの吉住は、見るからに心ここにあらずという様子だった。彼は頻繁にこうなる。これもまたジジイと呼ばれる原因のひとつだった。本人も後でその時のことをまったく覚えていない。これがあるから怖くて免許がとれないんだよな。友人に「空白の時間」のことを尋ねられると、彼は頭を掻《か》きながらそう答えるのだった。
何をしているのか思い出したのか、吉住は驚いたような顔をして鍋を見下ろした。そして火を止め鍋を洗面所に持ってきて――中身を全部そこにぶちまけてしまった。
自分が何をしているのかすぐに気がつき、咄嗟《とつさ》にそれを手ですくおうとする。
吉住は小さく悲鳴を上げ麺を放した。
蛇口を開いて指先に水をかける。
「なんでこんなことするかなあ」
ひとり言いながらタオルで手を拭《ふ》く。
指先が赤くなっていた。赤くなった指先にふうふうと息を吹きかける。
電子音が峠の我が家を奏でた。
携帯電話の呼び出し音だ。
点滅する光を頼りにゴミの山を崩し、下から電話を取りだす。絡みついてきたティッシュを取って捨て、耳に当てた。
「もしもし」
吉住が言う。返事はなかった。混線でもしているのか、受話器をがりがりと爪で掻いているかのようなノイズが激しい。その雑音の向こうで荒い息づかいが聞こえた。
相手を女と間違えた猥褻《わいせつ》電話。そう思った吉住は思いきり低い声で言った。
「俺になにかようか」
「……したよな」
掠《かす》れたその声は男女の区別さえつかない。もしかしたら幼い子供かもしれないと思わせる拙《つたな》さを感じる。
「おい、くだらん悪戯《いたずら》をすんなよな」
少し苛立《いらだ》ちながら吉住は言った。
と、電話から、今度はさっきよりはっきりと声が聞こえた。
「殺したよな」
それはそう言った。
吉住の顔が強張《こわば》った。
「……何言ってるんだ」
「あんた、殺したよな」
「だから、それどういうこと」
「ヒトゴロシ」
騒ぎ立てているわけではない。
表情を感じさせない淡々とした声で、それはまた言う。
「ヒトゴロシ」
「おまえ、誰だ」
吉住がそう言った時には電話は切れていた。
即座に着信履歴を見た。
きっと非表示だろうと思っていたのだが、そこには番号が記されていた。
その番号へとダイヤルする。
いきなり明瞭《めいりよう》な音声がこう告げた。
「お掛けになった電話番号は現在使われておりません。もう一度お掛け直し下さい」
一度切ってリダイヤルする。結果は同じだった。着信履歴を確認する。間違ってはいない。
そこから何か見つけだせるのだと思っているかのように、吉住はじっと携帯電話を見つめていた。
火傷《やけど》した指先がひりひりと痛んだ。
2
頭の中が白い粘液で満たされている。佃はそう思いながら頭を傾ける。ちゃぷりと音がした。したような気がした。
眠いのだ。
とにかくひたすら眠いのだ。
しばらくは棚に並んだビデオのタイトルを眺めていた。店長お薦めの品が並んだ棚だ。店長は女性客には恋愛映画を、男性客にはアクション映画を薦める。従って棚に並んでいるのは恋愛映画とアクション映画の新作だ。そのどちらにも佃は関心がない。いや、もともと映画に興味がないのだ。
瞼《まぶた》がゆっくりと閉じる。
眠気の粘液が耳から溢《あふ》れそうだ。
抵抗しようとする気がふっと失《う》せる。
どうせ客なんかこないんだから、ここで眠って何が悪い。
佃がそう思っても仕方ないほど店は暇だった。彼がバイトする小さなビデオ屋は瀕死の状態だったのだ。近くにレンタルビデオの大手チェーン店が出来てから、客は減る一方だった。店長はそれなりに工夫を重ねたが、効果はなかった。最終的に大手チェーン店ではあまり扱っていないアダルトビデオの品揃えを増やした。確かに客の数が増えた。が、それは一時のことだった。すぐに子連れの客や女性客が来なくなった。結果的に客の数は前よりも減ることとなった。客筋は変わり店の雰囲気が変わった。
店じまい寸前だったのだ。
店が潰れてしまえばまた職探しを始めなければならない。
それは困ると思いながらも、佃はぐっすりと眠っていた。
夢を見ていた。
高校生の頃の夢だ。
巨大な獣のような夜の校舎。
悪夢だった。
「……ないの」
顔を上げると客が見下ろしていた。
涎《よだれ》を拭《ぬぐ》い、佃は言う。
「なんでしょうか」
「だからさあ」
痩《や》せたその男は怠《だる》そうな口調で説明する。
「女を殴ってるビデオないかって聞いてるんだよ」
「レイプものとか、そういうことでしょうか」
「本気でな。本気で腹を思いっきり殴ってるのがいいんだよ。女が苦痛に顔を歪めてゲロ吐いてるようなのが」
「そこまでマニアックなのはちょっと」
「あるって聞いたんだけどな」
「どこでですか」
佃の質問は無視して男は話す。
「ここにさあ、スナッフビデオがあるって聞いてるんだよね。殴って殴って殴って殺しちゃうビデオ」
「ありません」
佃ははっきりと断った。時々こういう人間がやってくるが、そういうときは高圧的に出た方が良いというのが、長年ビデオ屋で勤めた佃の結論だ。
「そうかなあ。あるんじゃないの、人殺しのビデオ」
「ありません」
「聞いたんだよな。ここにあるってさあ。ほんとうは置いてんじゃないの」
「しつこいなあ。ないと言ったらないんだ。さあ、とっとと出てってくれ」
「なんかヘンだなあ。人殺しのビデオがあるって聞いたんだよ。ここにね」
舌打ちして佃はカウンターから出てきた。
いざとなれば警察を呼ぶつもりだった。
「さあ、出てってくれ」
男の背中を小突く。
「えっ、えっ、ヘンだなあ。ほんとだよ。ほんとに聞いたんだ。ここで人殺しのビデオを売ってるって。人殺しだよ。人殺しのビデオ」
店の外に連れ出すまで、男はずっと同じことを繰り返し呟《つぶや》き続けていた。
「向こうへ行け」
佃は男の背中を強く押した。
二三歩たたらを踏んで、男は振り向き、叫んだ。
「人殺し、ヒトゴロシだぞ!」
痩せたその男は裂けるほど口を開いている。血のように真っ赤な口腔《こうこう》がはっきりと見えた。佃にはそれが人ではない不吉な何かのように思えた。
「おまえ……」
「ヒトゴロシ」
そう言って、男は後退《あとず》った。
その時すでに男の身体は車道にまで出ていた。
そこからさらに後退る。
一歩、二歩、三歩。
次の瞬間、男の姿が消えた。
車だった。
黒塗りの車が猛スピードで突っ込んできたのだ。その時佃には、その車が闇の色をした巨大な獣に見えた。車種さえ判別のつかぬ一瞬のことにもかかわらず、忌まわしい獣の腐った荒い息や憎悪に光る瞳《ひとみ》を、佃はリアルに感じた。濡《ぬ》れた鼻面で押された気がして、佃は仰《の》け反った。
悲鳴が聞こえた。
車は暴走を続けていた。
男を撥《は》ね飛ばし、ブレーキを掛けることすらなく走り続け、さらに二人の人間を撥ね飛ばしてから走り去っていった。
店の前には人通りが多い。
倒れた男の周りを野次馬が取り囲んだ。
救急車を、という声が聞こえた。
佃はそそくさと店に戻った。
かかわりたくなかった。
彼の陣地であるカウンターの中へと入る。
と、電話が鳴った。
びくりと佃の肩が跳ねる。
電話だよ、電話。
電話のベルに驚いたことをひとり照れ、そんなことを呟きながら受話器を取った。
「はい、ビデオ桃太郎です」
何百回となく繰り返してきた台詞《せりふ》を言う。これで再び何事もない、いつもと変わらぬ日常に戻るはずだった。
受話器の奥からは低く高く雑音が流れてくるだけだ。
「もしもし」
佃は呼び掛けた。
厭《いや》な感触があった。
深い穴に手を突っ込んだら、ぬるぬると蠢《うごめ》く何かに触れたかのような。
「……あんた、殺したよな」
男とも女ともつかない声が、ノイズの向こうから聞こえた。
「はあ?」
「人を殺したよな」
「何を言ってんの」
「ヒトゴロシ」
「おいっ、おまえ――」
「ヒトゴロシ」
再びそう言うと電話は切れた。
もう眠気など欠片《かけら》も残っていなかった。
3
背広姿のその男は、強張った笑みを浮かべて店に入ってきた。シティーホテルのロビーにある喫茶店だ。久保田《くぼた》は立ち上がり少し頭を下げた。店内には彼しかいない。
男も小さく会釈して久保田の前に腰を下ろした。
「妹がお世話になってます」
久保田はそう言いながら男を睨《にら》んだ。坊主頭に薄い眉《まゆ》。細く吊《つ》り上がった目は三白眼。頬から唇にかけて裂いたような傷跡がある。子供なら泣き出すような凶悪な顔だった。
男は久保田を睨み返そうとして、すぐに目を伏せた。
大丈夫だ。
久保田は取引が上手くいくことを確信していた。
やってきたウエイターにコーヒーを注文すると、男が言った。
「お兄さんですか」
「まあ、あんまり兄だと言えるようなことはしていないけどね」
「で、どのようなご用件でしょうか」
「どのようなご用件って、もちろん杏子《きようこ》のことに決まってるでしょ」
久保田は下から覗《のぞ》き込むように男の顔を見る。
「あんたに手酷《てひど》く裏切られてからさあ、杏子がね、あの気の強い女がさあ、子供みたいに泣いてるわけだ。毎日毎晩そうやって泣かれてごらんなさいよ。実の兄でなくったって、何か力になってやろうと思うわな。可哀相な妹でね。両親を早くに亡くして……。俺が育ててきた、と言いたいところだけど、俺は俺で恥ずかしながらいろいろあってね。まあ、こんな時ぐらいしか妹孝行はできないだろうと思ったわけだ」
「何が言いたいわけですか」
「あんたも妹と付き合ってたことは認めますわなあ」
渋い顔で男は頷《うなず》いた。
「話は杏子からいろいろと聞きましたよ。あんたのしたことをね、身体を弄《もてあそ》んだ、っていうんじゃないですかねえ」
「付き合っていて、別れた。それは大人の関係でしょう。そんなことお互いの責任で」
「二度だ」
久保田は二本指を立てた。
「二度、子供を無理矢理|堕胎《おろ》させた」
「無理矢理って――」
「あのなあ、有無を言わせずあんたの知り合いの医者に連れて行って、堕胎させたんだよ。それを無理矢理って言うんだよ」
声を荒立ててはいない。
しかし怒りを堪《こら》えていることは相手にも伝わる。
「あのなあ、あのおかげで妹は子供を産めない身体になったんだよ」
「しかしねえ、杏子さんにも電話で何度も言ったようにこれは大人の付き合いだったんだからですね――」
久保田はいきなりテーブルを叩いた。両の拳《こぶし》で手加減無しだ。華奢《きやしや》なテーブルが壊れるのではないかと思えるほどの音がした。コップが倒れ水がこぼれる。
体面を保つことすらできないほどに男は怯《おび》えていた。
「大人大人というのなら、大人の対応をしたらどうだ。妹の連絡に応じないで逃げ回るばっかりじゃないか」
「じゃあ、どうしろと言うんですか」
今にも泣き出しそうな声で男は言った。
「だから言ってるだろう。誠意を持った対応をしろと」
「脅迫……ですか」
それを聞き、久保田は気落ちしたかのように溜息《ためいき》をつく。
「まったく、あんたみたいな人間を信じた妹が可哀相だよ。あのなあ、杏子は最初あんたのことを俺に話さなかったんだ。しかしなあ、毎晩泣いているわ、体調崩してどんどん痩《や》せていくわ、いくら俺でも何かあると思うわな。それで俺がしつこく聞き出して、ようやくおまえの名を聞きだしたわけだ。俺に話したら、おまえに迷惑が掛かると、杏子は案じたわけだよ。あれだけあんたに酷い目にあっててさあ。ほんと、不憫《ふびん》だよ」
タイミングを計ったかのようにコーヒーを持ってきたウエイターが、こぼれた水を拭《ふ》いて帰った。その間黙ってその様子を見ていた久保田が、戻っていくウエイターを目で追いながら言った。
「あんたも人間なら、すべきことがあるだろう」
「……謝れと」
「当然だ! きちんと謝って、それから杏子と結婚してくれればそれで何も言わない」
「結婚……」
「そのはずだっただろ」
「結婚するなんて一度も――」
「まだ言い訳するか」
噛《か》みつかんばかりに顔を近づけた。狂犬を思わせる表情で男を睨む。
「……あのですね、杏子さんにも言いましたけど」
男の声が震えている。
「わたしには付き合っている人がいまして」
「わかってるよ。杏子が涙ながらに教えてくれた。でもさあ、あんたが誰と付き合っていようと関係ないわけだよ。要するにあんたがそっちと別れればいいわけだから」
男が俯《うつむ》き黙り込む。
身体が小刻みに震えていた。
久保田はじっと男を睨んでいる。男の胃に穴が開くのに充分なほどの時間をおいて、久保田は言った。
「妹のことを考えてやってくれ。頼む」
言って深く頭を下げた。
「決心したらここに連絡をくれ」
立ち上がり、政治結社らしき名が入った名刺を渡す。
「じゃあ、あんたを信じているからな」
男の肩を叩いて、久保田は喫茶店を出た。
今までの経験から、まず間違いなく仕事に成功したことを確信していた。あの男は数日後に「金で解決できるなら」と自分から申し出てくるはずだ。
杏子は彼の妹でも何でもない。男への復讐を依頼しに、彼の勤める事務所にやってきたただの客だ。久保田は一人っ子で兄弟などいない。ついでに言うなら、名刺に書かれた政治結社の名もでたらめだ。
彼の職業は「便利屋」と呼ばれている。
新聞広告で求人を知りその事務所を訪れたとき、久保田は便利屋をもっと牧歌的な職業だと思っていた。いなくなったペットを捜したり、下水を掃除したり。
しかし現実は、今日の仕事のような、非合法すれすれのことばかりだった。どう見ても堅気には見えない容姿に久保田は劣等感を持っていたのだが、この仕事に関しては大いに役立っていた。
ポケットから携帯電話を取り出して見る。小さな液晶画面が、着信があったことを示していた。まったく気がつかなかったが、電話が掛かってきていたようだ。着信履歴を確認する。その番号を見て、久保田は首を傾げた。それは彼の自宅の電話番号だったからだ。久保田は一人暮らしだ。彼がここにいる以上、自宅に誰かがいるはずはない。自宅から電話が掛かってくることなどあり得ないのだ。
泥棒か。
久保田は帰社が遅れると事務所に連絡してから、彼の家へと急いだ。泥棒が彼の携帯電話に連絡をいれるはずなどない。そんなことぐらいはわかっているのだが、何か不吉なものを感じていた。よからぬことが進行している気配とでもいうようなものだ。
彼の住んでいるマンションまで電車で二十分。その間にも不安だけが増していく。苛々しながら駅を出ると、足早にマンションに向かった。
エントランスを抜け、三階の部屋まで階段を駆け上る。久保田は滅多にエレベーターを使わなかった。
鍵を開け、一瞬|躊躇《ちゆうちよ》してからゆっくりと扉を開いた。ワンルームの彼の部屋は南向きに大きな窓がある。そこから射し込む光が部屋の中を柔らかく照らしていた。
後ろ手にそっと扉を閉める。鍵は掛けない。玄関で靴を脱ぎ、まるで自分が泥棒になったかのように慎重に部屋へと上がった。
隠れる場所などほとんどない。
トイレと風呂を見たらそれで終わりだ。
部屋を見回す。
誰かが侵入した痕跡《こんせき》はない。
ほっと息を吐いたとき、電話のベルが鳴った。
声にならない声を上げる。
「びっくりさせんなよ」
独り言を言いながら受話器を取った。
酷《ひど》い雑音が耳に痛いほどだ。
「もしもし」
大声でそう言うと、雑音の向こう側から、はっきりと声が聞こえた。
「ヒトゴロシ」と。
「誰だ!」
恫喝《どうかつ》するときの声を出す。
誰もが怯えるその声も、その相手には応えていないようだった。
「ヒトゴロシ」
相手はまたそう言って電話を切った。
ナンバーディスプレイには今掛かってきた相手の電話番号が残されている。
職業柄、悪戯《いたずら》電話への対処方法はいくつも知っている。
今は躊|躇《ためら》わず、久保田はそこに電話した。
すぐに繋《つな》がった。
おい、と怒鳴ってから、相手が生身の人間でないことに気がついた。それはこう繰り返していた。
「この番号は現在使われておりません」
4
夜の校舎はまるで蹲《うずくま》る巨人のようだった。
陽が落ちてそれほど間がない。にもかかわらず人通りは絶えていた。
古くからある住宅街だ。この時間子供たちは家に帰り、主婦は食事の用意で忙しい。彼ら三人にしてもこの時間人通りが絶えることは知っていた。何しろ彼らの実家もここからさほど離れていないのだ。
運動場を囲むコンクリートのブロック塀を前に、久保田が吉住に言う。
「大丈夫だろうな」
吉住は無線機を持って頷《うなず》いた。
「ばっちしだよ」
「ほんと、ガードマンとかいないんだろうな」
「いないよ」
嬉しそうに吉住は答える。
「機械警備だけだよ。宿直とかもいない。それも確認してる」
「もう行こうよ」
佃が久保田の前に鍵をぶらぶらさせた。
「でも、部活やってて非常口の鍵を持ってる人間って数が知れてるわけだろ。おまえ、後で疑われないか」
尋ねたのはやはり久保田だ。
「だから、非常口から入ったかどうかなんてわかんないよ。とにかく現行犯で捕まんなかったら、絶対大丈夫だって」
ニヤニヤ笑いながら佃は言った。
「それよりここでもめてる方がヤバイって」
佃が先頭に立って非常口へと向かう。
すべての立案者がこの佃だった。
始まりは学校の屋上での下らない雑談だった。
「ほんと、何でも売れるんだって」
煙草を吸いながら佃がそう言った。
「靴下とかさあ、体操服とか、制服とかさあ、とにかく女子の身につけてたものなら何でも売れるんだってば」
「嘘だろ」
久保田が言う。
「いくらなんでもそんなもんに金を出す人間はいないって」
「変態は奥が深い」
ぼそっと呟いたのは吉住だ。手に持っているのは一見ラジオのように見えるがそうではない。小型の無線機だ。
「女子高校生ものって高値で売れるって聞いてるぞ」
「そうそう。これに買い取り値が書いてある」
佃がモノクロでコピーした表を出してきた。久保田と吉住が頭をこすりつけるようにしてそれを覗き込んだ。
「すげえ。こんな値段で買い取って、商売になるのかよ」
久保田がはしゃぐ。
「それじゃあ、この学校なんてお宝だらけじゃん」
「そうそう、それそれ」
佃がコピー紙を取り上げ、二人の目の前でひらひらさせる。
「お宝取り放題」
「しかしそれって」
不安そうな顔の久保田の肩を佃がぽんと叩いた。
「そう、泥棒」
「いくらなんでもそれは――」
「いけるかもね」
そう言ったのは吉住だ。
「この学校の警備システムってさあ、割とみえみえだし、もし見つかっても外から泥棒に入ったわけじゃないから、在校生だったら忘れ物を取りに来たとかなんとか、言いようもあるしさ」
「おまえら、本気?」
久保田は二人の顔を交互に見た。
二人は双子のように同じ笑いを浮かべて久保田を見ていた。もう逃げられない、と久保田は覚《さと》った。
それから三人は計画を練った。
公立の共学校は警備が甘いこと。警報機任せの警備は、無線を盗聴すれば警備員が駆けつける前に逃げることができること。深夜や早朝よりも夕方の方が注意をひかず、また見つかったときにも言い訳のできる時間帯であること。
公然と盗聴が趣味だと言っている吉住は、そのような知識の宝庫だった。
そして実行の時が来たのだ。
非常口の鍵を開けて中に入る。
運動場を横切って校舎に入ると、上履きに履き替えた。下手に土足だと、誰かに見つかったとき言い訳が難しい。
校内に非常灯以外の灯りはない。窓から入ってくる外の光が頼りだった。
「先生がいるとしたら校長室、職員室、それから事務室かな」
ぼそぼそと言いながら、佃はどんどん進んでいく。木造の古い校舎は、歩くとみしみしと音を立てた。
階段を上がっていく。
「二階にはほとんどセンサーがないはずだよ」
誰に言うとなく吉住が呟いた。
薄暗い中をほとんど手探りで進んでいく。
「鍵の開いてる教室を探せ」
佃が言った。
「絶対鍵掛け忘れてるとこがあるから」
三人が手分けして不用心な教室を探した。佃の言ったとおり、鍵の開いた教室がちらほらある。
吉住はその一つに入ってロッカーを探った。女子のロッカーから手当たり次第に中身を出してリュックに詰める。
こりゃ、大騒ぎになるなあ。
詰め込みながら吉住は思った。少なくとも洒落《しやれ》じゃあすみそうにない。
その時だった。
悲鳴が聞こえた。
吉住は慌てて教室から飛び出た。
廊下の向こうから誰かが走ってくる。
女だ。短いスカートのシルエットが見えた。
「捕まえろ!」
そう怒鳴っているのは佃だ。
たまたま来ていた女生徒と鉢合わせしたのだろう。
捕まえろと言われて、吉住も反射的に走り出した。
挟み撃ちだ。
少女は立ち止まった。
左右を見回す。
二人の正体がわからず、怯《おび》えているようだった。
「どうした」
そこに久保田が後ろからやってきた。
まるで冗談みたいな話だ。
少女は久保田の顔に驚いたのだ。
廊下の窓に飛びついた。偶然そこにも鍵が掛かっていなかった。
窓が開いた。
あっと言う間だった。
少女はそこから飛び出した。
窓から下を覗いたが、校庭は真っ暗で何も見えない。
「逃げよう」
久保田が言った。
「でもまだ」
と渋る佃の手を吉住が引いた。
「逃げよう。通報された」
吉住の受信機はずっと警備会社の無線を傍受していた。そこに彼らの学校に侵入者があったことを告げるメッセージが流れていた。
悲鳴を聞かれたのかもしれない。
無線では一一〇番済みと言っていた。
警察にまで連絡がいっているのだ。
三人は全速力で階下におり、校庭を横切って非常口から出た。
「西側の校門近くで外周検索してる」
吉住が言った。
「何だよ、そりゃ」
「そっちに警備員がいるんだよ。何でもいいから早く学校を離れよう」
外周検索とは、現場の鍵を持っている警備員が到着するまでに、近くにいた警備員が周辺を捜索することを言う。つまり校舎内には教師もいなかったわけだ。
三人はそれぞれに夜の街に散開した。
彼らは逃げるのに必死だった。二階から飛び降りた少女のことは、ちょっとの間だけ彼らの頭から消えていた。
5
住人が引っ越していった後ではないかと思えるほど、その部屋には何もない。それが佃の部屋だ。
小さなマンションの一室にはテレビすらなかった。あるのは亀の入った大きめの水槽だけ。亀はビデオテープほどの大きなイシガメだ。
それがだらりと首を伸ばして動かない。
死んでいるのだ。
かめすけ、それがこの亀の名前だ。何年も佃と一緒に暮らしてきた亀だった。昼前に佃が起きた時、それはもう死んでいた。死んだ亀を見てから今まで、ずっと溜息ばかりをついていた。亀を友人などと言えばおかしく思われるだろうが、それでもこの亀相手に愚痴をこぼしたり、悩みを話したりしてきたのは事実だ。少なくともこの亀ほど長くつきあえた人間の相手はいない。
ペット用の葬儀を出してやる余裕などないが、どこかに埋めてきてやろう。佃はそう思っていた。
何十回目かの溜息をつきながら、佃は床に新聞を拡げた。昨日の新聞だ。ほとんどテレビ番組欄しか見ることがないので、そろそろとるのを止めようかと思っていた。が、こんなことには役に立つ。佃はこの新聞に亀を包んで、近くの神社に埋めに行くつもりだった。
ぼんやりと新聞を眺める。
見るとはなくいつの間にか見出しを読んでいる。
謎の通り魔事件。
三面記事の小さな記事だ。そこに目がとまった。記事を読んでみる。すぐにわかった。それは彼の勤めるビデオ屋のすぐ傍で起こった事件だ。
全身打撲で死傷者三人。
間違いない。日付も時間も同じだ。あの時の轢《ひ》き逃げ事件のことだ。あれからすぐに救急車やパトカーが来て大騒ぎになった。
が、どこを読んでもあの車のことが書かれていない。真っ黒な獣のような車のことが。轢き逃げとすら書かれていない。三人は全身打撲で、一人の男性が死んだ。後の二人は重傷。まるで車にでも撥《は》ね飛ばされたかのような傷、とまで書かれ、しかし撥ねられたとはどこにも書かれていないのだ。
事故の目撃者の証言はこうだ。
三人は次々にはじき飛ばされたように倒れた。犯人の姿は見ていない。
車のくの字も出てこない。
あそこに目撃者はたくさんいたはずだ。事件後すぐに集まった野次馬だけでも十人以上いた。目撃者が多かったからこそ、現場のすぐ傍にあるビデオ屋まで聞き込みに来なかったのだろう。
あれほどの人数がいながら、誰もあの黒塗りの車を見ていなかったのだろうか。
考えられない。
撥ねられた人間を見て、撥ねた車を見ていないなどということがあり得るのだろうか。確かに車は猛スピードで道路を駆け抜けていったが、道は直線で長い。佃はそれが道の向こうへと消えていくまで眺めていた。一瞬に消えた、というわけではないのだ。だから誰の目にもとまらなかった、などということも考えられない。
それなのに、あの黒い車を見た人間は一人もいなかった。
奇妙としか言いようがない。
もしかしたら、目撃した人間が誰もそれを警察に報告しなかったのだろうか。
佃がそうであるように。
そうであるとしか考えられない。いや、佃はそう考えることにしようと思った。
が、頭の中では連続して起こった幾つかのことが繋がっていく。
ヒトゴロシとしつこく何度も口走る男。
その男が車に撥ね飛ばされた(あの男が死んだのかどうかは新聞記事からはわからないが、佃はそうなのだと頭から思い込んでいた)。
忌まわしい黒塗りの車。その車を目撃したのは佃だけ。
そして電話が掛かってきた。
ヒトゴロシ、と。
仕上げが亀だ。かめすけが死んだ。
その悪しき連鎖が頭の中に完成する。鎖の端は次の何かを求めてぶらぶらと揺れている。
新聞紙をばんと叩く。叩いて立ち上がる。
関係ない。
そう口に出してみた。
どれも関係ない。偶然の連なりだ。
不吉な予兆とヒトゴロシと呼び掛ける何者か。それらはすべて無関係だ。関係づけて考えることは不健康だ。
不健康だ不健康だと己に言い聞かせるのだが、どうしても彼はこう思ってしまう。
不吉で忌まわしい一本の道を走っているのだと。
かめすけだ。
佃は口に出してそう言った。
かめすけが死んだ。
だからだ。俺が思っている以上にそれがショックだったんだ。不吉なことばかりを考えるほどに。どこかで聞いたことがある。ペットの死は飼い主に大きなストレスを与えるという話を。ナントカ症候群とかいう人だ。それだ。きっとそのせいだ。
ビデオ屋のバイトに出掛けるまで、まだ間がある。その間、ここでじっとしているのもよくないかもしれない。何もしていないとよけいなことを考えすぎる。そうだ、今からかめすけを埋めにいこう。近所の神社に埋めてやるんだ。
まず割り箸《ばし》を組み合わせて十字架を作った。神社に十字架もおかしいか、とも思ったが、それ以外どのような墓標を立てれば良いのかわからなかった。
それから水槽へと行き、亀を掴《つか》んだ。
滴《しずく》がぽたぽたと絨毯《じゆうたん》に落ちる。
絨毯に黒くシミができる。そのシミがもぞもぞと動いた。えっ、と思いよく見る。
それは小さなゴマ粒のようなゴキブリだった。
手に持った亀を見直す。
だらりと垂れた首と甲羅の隙間にびっしりと黒い虫が集《たか》っていた。
細い悲鳴を上げて、佃は亀を新聞紙の上に落とした。
おそるおそる首と甲羅の間を見る。そこに小さな隙間が開いていた。その肉の亀裂《きれつ》から次から次に小さなゴキブリが這《は》い出てくる。死んでから食い荒らされたのなら仕方ないが、もしかしたら生きているうちから喰《く》われていたのではないか。
そう思うと吐き気がした。
台所へ行き殺虫剤を持ってくると、空になるまで亀の死骸に吹きかけた。
虫がおおかた死んだのを見て、新聞紙で包んだ。それをコンビニの白い袋に押し込み口を縛る。そしてゴミ箱に投げ入れた。
死んだ亀を新聞紙でくるんだときには、もうそれを死んだペットとは思えなくなっていた。ただの死骸。不潔で腐臭を放つ汚らしい腐肉。
佃にしても、我ながら薄情だとは思うのだけれど、生理的にそう感じてしまうのだ。
洗面所で石鹸《せつけん》を使い手をしっかり洗う。洗い終わって手を拭いていると携帯電話の呼び出し音が鳴った。
靴箱の上に置いてあった携帯電話を手にして耳に当てた。
不快な雑音が波のように押し寄せた。
一瞬耳から離し、大声で言った。
「もしもし」
すぐに聞き覚えのある声が返ってきた。
「おまえはヒトゴロシだ」
腹が立った。
さっきまで感じていたかすかな怯えが怒りに転化した。
「おまえ、誰だ!」
怒鳴る。
「ヒトゴロシだろ。なっ、ヒトゴロシ」
「いい加減にしろよ、ボケが。殺すぞ、こらぁ!」
「どうだ、亀みたいにして欲しいか」
「…………」
「聞いてるんだよ。亀みたいにして欲しいか」
「何のことだ」
「亀の話さ。わからないか」
それが鼻で笑う。
「ふざけんな、ボケっ! おまえ、なんで俺の亀が死んだことを知っているんだ」
「さあな、どうしてだろうか」
「……まさか、おまえ」
「まさか、どうした」
からかう口調に変わりはない。
「おまえが亀を殺したのか」
押し殺した声で佃は言った。
言い終わると噛《か》みしめた歯がきりきりと鳴った。
それは楽しそうに言った。
「殺したのはおまえさ、ヒトゴロシ」
「おまえ、誰なんだ!」
携帯電話を握りしめ、佃は叫んでいた。
その時にはもう切れていた。
すぐに着信履歴を確認した。相手の電話番号が出てきた。すぐにその番号へと掛ける。
すぐに相手は出た。
が、それはテープの声で「この番号は現在使われておりません」と告げた。
そんな馬鹿なことはない。
そう思い、佃は再び着信履歴を呼び出した。そして掛け直す。しかし結果は同じだった。テープの声にお掛け直し下さいと言われるだけだ。
着信履歴の日時を確認する。やはりさっき掛かってきた電話だ。間違いない。その番号を使ってそのままダイヤルした。打ち直したわけではない。だから間違えるはずがないのだ。間違えていないとするなら、さっきの電話をどうやって掛けてきたのかがわからない。いったい、どうすれば「現在使われていない」電話で掛けることができるのだろうか。
それがどこかの世界に通じているかのように、佃はじっと携帯電話を見つめていた。
6
息を切らしながら吉住は階段を駆け上る。四階までしかない小さなマンションにはエレベーターもない。
一番上まで駆け上って、奥の部屋から順に扉の郵便受けにチラシを突っ込んでいく。それほど部屋数があるわけでもない。すぐに終わり、階下へと向かう。一階まですべての部屋の郵便受けにチラシを入れ、吉住はマンションを出てきた。
これで今日の仕事も終わりだ。
二つ折りにしたチラシを開いた。扇情的にしようとするあまり、下品で馬鹿馬鹿しくなってしまったタイトルがそこにずらりと並んでいる。裏ビデオのタイトルだ。見るからにいかがわしいこのチラシを配達区域の郵便受けに入れていく。それが吉住の仕事だ。
近所の公園へ行き、ベンチに腰を下ろした。途中で買った缶コーヒーを音を立てて飲み干す。
公園にいるのは就学前の小さな子供たちとその母親。あるいは犬を散歩に連れてきた老人。平日の昼下がり。長閑《のどか》と言えばこれ以上ないほど長閑な情景だった。
吉住は煙草を取り出し、火を点けた。
この仕事をはじめて、もう一年が過ぎようとしていた。
チラシ配りはほぼ完全歩合制だ。交通費も含めた「保証金」が一月分で千円。何もしなければ、もらえるのはそれだけだ。配達した区域からビデオの注文があると、その売り上げの三〇パーセントが彼の取り分となる。
スポーツ新聞の三行広告でこの仕事を知った。PR要員募集というその求人広告には、かなり魅力的な日給が記されていた。
早速出向いたマンションの一室にある事務所で、吉住は彼とさして年齢の変わらないであろう男から、仕事の内容を聞いた。完全歩合制であることはその時知った。記載されていた日給は、上手くできれば、という金額だ。「上手くいけば」、その男によると「月に四〇万は堅い」ということだった。それをすべて信じたわけではなかったが、翌日から吉住はそこで働くこととなった。
初日、配達区域をピンクのマーカーで塗りつぶした地図のコピーを手渡された。そこにある全部のマンションやアパートを回るように言われ、千枚のチラシを渡された。それをデイバックに入れて背負う。ずっしりと重い。恐らく十キロは下らないだろう。
最初の一週間、吉住は毎日事務所へ行き、一日八百枚程度のチラシを配った。重い荷物を背負って長距離を歩き回らねばならない。かなりの重労働だ。
配達区域から注文があれば翌日にその三〇パーセントが支払われる。が、初日からそう簡単に売り上げは出ない。最初に売り上げがあったのが五日後。それも一件分だけだった。
それでも毎日やっていれば少しずつコツがわかってくる。
例えば配る時間帯だ。最初は夜中。それから早朝を狙った。が、一番効果的なのは昼間だった。昼間のうちに配っておけば、仕事から帰った男が夕飯後などのくつろいでいる時間にチラシを見ることになるのだろう。早朝や深夜では、チラシを手にするのが出勤前。確かに裏ビデオを見ようなどという気にはならないだろう。そのままゴミ箱行きになる可能性が高い。
一階エントランスにある、全室分の郵便受けに配ってもあまり効果がないこともわかった。各部屋の扉の郵便受けに配ると、注文の率がぐんとはねあがるのだ。
一人暮らしが多そうなワンルームマンションやアパートの方が率が良いのは言うまでもないだろう。
管理人が常駐しているマンションは避けなければならない。捕まったら犯罪者扱いだからだ。何度も管理人に捕まって説教された。警察を呼ばれたことはまだないが、配っているものがものだけに、警察|沙汰《ざた》は避けたい。そうなると、自然と管理人がいるところは避けるようになる。
こうやって一日に働く時間は四時間ほどだ。それで八百枚から千枚を配り終える。
勤労意欲などというものとは無縁な男だったのだが、この仕事だけはかなりの肉体労働であるにもかかわらず続いていた。何かが合っていたのだろう。たいていの仕事は一月と保たずに辞めているのだから。
辞める気になればいつでも辞められる、ということも、長続きしている原因かもしれない。三日以上事務所に連絡をしないと辞めたことにされるのだ。ようするに、厭になったらその日から行かなくてもいい。その気楽さが、逆にこの仕事を続かせている原因かもしれない。
青空を見上げ大きく伸びをする。
それから小便小便小便と歌うように繰り返しながら、公衆便所へと向かった。
いつも利用しているいつもの公衆便所だ。
便器に向かって派手な音を立て小便をする。
ふと前の壁を見た。
真っ赤な字が目に飛び込んできた。
みつけたよ。
幼児が書いたようなへたくそな字でそう書かれてあった。厭な感じがした。子供が書くには位置が高い。書いたのは大人だ。大人がわざわざ赤いペンを使ってここに「みつけたよ」と書いたのだ。
何となく首筋が薄ら寒く後ろを振り返った。誰がいるわけでも何があるわけでもない。
吉住はぶるぶると犬のように身体を震わせてから、便所を出た。
今日はもうこれから自由時間だ。いつもより少しだけ家を早く出た。その分早く終わったのだ。
時計を見てから、何をしようかと周りを見る。
と、公園に誰もいないのに気がついた。吉住が便所へ行く前はかなりの人数が公園にいたはずだ。それが一人もいない。
偶然だ。
そう思うのだが、わざわざそう思っていること自体が、彼の思いを裏切っている。
そのこと自体が異常というわけではないが、不気味だった。
もう一度ベンチに戻る。
腰を下ろそうと背もたれを見た。
そこに赤い文字で「みつけたよ」と書かれてあった。さっきまでそんな文字があったかどうか思い出そうとするがわからない。
公園に居座る気は失《う》せ、出口に向かう。
途中滑り台にも同じ落書きがあるのをみつけた。コンクリートの動物にも書かれてあった。街灯の柱にも書かれてあった。気がつけば公園のそこかしこに赤い文字で「みつけたよ」と書かれているのだった。
公園の中だけではなかった。
電柱にも、ゴミ箱にも、家の壁にも、高架下の柱にも、「みつけたよ」の文字があった。
赤い文字に追われるように、吉住は家へと走った。
派手なベルの音がしてその脚が止まった。
自分の携帯電話だ。
それはわかっているのだが、心臓がとくりと跳ねた。
「はいはーい」
わざと明るい声を出す。
「ひ……よなあ」
豪雨の中で喋《しやべ》っているかのように雑音が酷《ひど》く聞き取りにくい。
「えっ?」
吉住が聞き返した。
しばらく雑音ばかり続く。
もしもし、と吉住がまた言った、それにかぶって声がした。
「ヒトゴロシ」
その声に聞き覚えがあった。
前に彼の家に電話を掛けてきた、あの声だ。特徴的であるのだが、ではその特徴を説明しろと言われてもできない。男女や年齢すら特定できない声だ。
「おまえ、誰だ」
「ひどいよなあ」
吉住には答えずそれは繰り返した。
「ヒトゴロシ。なあ、そうだろう、ヒトゴロシ。そうなんだよな、ヒトゴロシ」
頭にかっと血が上った。
「うるさい!」
大声で怒鳴りつけた。横を通っていた主婦がびくりと飛び上がる。
「誰だっつってるだろが、こら。何とか言えよ、ぼけっ! こらあ、たこすけよ!」
喉《のど》が切れるほど大声で捲《まく》したてる。
電話はすでに切れていた。
急激に激昂《げつこう》した反動で寒気がした。冷たくなった指先が震えている。
着信の履歴を見た。番号は表示されている。吉住はそこにダイヤルしてみる。やはり「この番号は現在使われておりません」とテープの声が流れた。
潰《つぶ》してしまうほどに力を込めて携帯電話を握りしめる。
と、またベルが鳴った。
ひゅっ、と音を立てて息を呑《の》む。その己の怯懦《きようだ》に腹立ち舌打ちし、吉住は電話を耳に当てた。
「いい加減にしろ!」
いきなり怒鳴りつける。
「なんだよ、おまえよお」
そこから聞こえるのはあの声ではなかった。咄嗟《とつさ》に吉住は見えるはずもないのに頭を下げた。
「あっ、すみません。間違えたんすよ」
「吉住」
「えっ」
「吉住だろ」
「ああ、はい、そうですけど」
「ったく、おまえらしいよ」
「あの、誰っすか」
「俺だよ。佃だよ」
「あっ、ああ、なんだよ」
「……本当に俺のこと思いだしたのか?」
「当たり前だろ。すんごい久し振りだよな」
「六年ぶり」
「そんなになる」
「なるな。卒業して久保田と一緒に一度カラオケしただろ。あれ以来だよ」
「ふんとふんと、久し振り。なにしてんの」
「ん、まあ、いろいろとな」
「で、なに。久し振りに遊ぼうって相談? のったのった。俺はいつでもいいよ。今から行くか」
「……うん、まあ一緒に遊びたいってのもあるんだけどな……」
「あるんだけど、なんだよ」
「おまえ、さっき怒鳴ったよな」
声に出さず吉住は頷《うなず》いたのだが、それが見えたかのように佃は話を続ける。
「あれって、誰と間違えた。っつうか、もしかして、おまえんとこにもヘンな電話が掛かってきてないか」
「ヘンな電話。それってあれのことか、ヒトゴロシって」
「そうだよ。それ」
「今掛かってきたとこだよ。佃んとこにも掛かってきてるのか」
「ああ、何度かあった」
吉住は声を潜めた。
「っていうことはやっぱり」
「そうだよ。あの時のことを知っている人間だ」
「でもどうして。なんで今更。もう八年は経ってるぞ」
「何でかなんてわかんねぇよ。でも、ほら、よくあるじゃん。あいつの兄弟とか親とかがずっと調べていてさあ、ようやく証拠を掴《つか》んだとか」
「よくねえよ、そんなこと」
「いや、だからほら、二時間ドラマとか」
吉住は笑った。だが佃は笑わない。冗談ではなかったのかもしれない。
沈黙に堪えられず、吉住が言った。
「で、どうするよ」
「久保田のとこの連絡先知ってる?」
「引っ越したんだよな」
「そう。引っ越し前の住所なら知ってんだけどな」
「電話は」
「それも知らない」
「ケータイも」
「うん」
「向こうは知ってるんだから、もしなんかあったら連絡してくるって」
「もしなんかあったらな」
暗い声で佃が言った。
「なんか厭な言い方するねえ」
「正直言ってさあ、なんか厭な感じしねえか」
電話の向こうで佃が怯えているのが見えるようだ。
「まっ、とにかく一度会おうか」
できるだけ気軽な調子で吉住は誘った。
「そうだな、あそこ覚えているか」
佃は高校時代通った喫茶店の名を言った。
「あそこ、まだやってんの」
「やってるよ。必ず来いよ。忘れるなよ」
「わかってるよ」
「おまえはすぐ忘れるからな」
「忘れてたらケータイに電話くれたらいいじゃん」
「もう忘れる気でいやがる」
「そういうわけじゃないけど」
それからしばらく、懐かしい高校時代の話をした。が、何を話しても追い込まれているかのように「あの時」のことにたどり着く。そのうちだんだん話すことがなくなってきて沈黙が続き、気まずい雰囲気のまま吉住は電話を切った。
溜息《ためいき》ひとつついて、内ポケットからメモ帳を取り出す。物忘れの激しい吉住の愛用品だ。そこにしっかりと待ち合わせの日時と場所を書いた。書き終え何気なくページを捲《めく》る。
そして吉住はそれをみつけた。
奇怪な虫を掴んでしまったかのように、吉住は悲鳴を上げてメモ帳を取り落とした。それを拾う気がしない。
メモ帳の端には小さな赤い文字でこう書かれてあったのだ。
みつけたよ。
7
久保田は慎重な人間だった。慎重で臆病《おくびよう》な人間だ。が、外見がそれを裏切っていた。人を殺してきたところだ、と言われれば誰でも信用するだろう。刺青《いれずみ》を入れていないと言って驚かれたこともある。点滴の痕を見せて目を逸《そ》らされたこともある。高校時代は喧嘩《けんか》を売られたり、あるいは勝手に「兄貴」扱いされたりした。周りのものには笑い話であり、佃や吉住はよく彼をからかった。
が、そのどれもが久保田にとっては不快な経験であり、中身どおりの人間として扱ってほしいとそれだけを思ってきた。
しかしその容姿を積極的に利用することで、彼はようやく彼自身の居場所をみつけたような気がしていた。結局彼の選んだのは、外見に相応しい中身をつくることだった。
今日の彼の仕事は「ビデオを数十本借りたまま返そうとしない男」を少しばかり脅すことだ。いろいろなレンタルビデオ店で借りては逃げ回っている悪質な常習犯。久保田はそう聞かされていた。
古い町だった。
バブルの時代でさえ開発などと無縁に過ごしただろう小さな町。
乾いた風が吹く。
風は埃《ほこり》の臭いがした。
小さな地図を片手に久保田は歩いた。前から来た中年の女性が、慌てて脇に逃れた。見回せば狭い路地のそこかしこに木造のアパートがある。道路側の窓からつき出した棒に洗濯物が引っかけてあった。路上にも紐《ひも》を張り、洗濯物が吊《つ》ってある。
それらは何十年も前からそこにあるように、埃っぽい風にはためいていた。そこに生活感はなく、廃墟《はいきよ》を思わせた。
廃屋のような木造アパートの前で立ち止まった。
安土荘。
くすんだモルタルの壁に、その看板が掛けられてあった。
玄関先に各部屋番号が記された下駄《げた》箱があった。そこで靴を脱ぎ、久保田は脂《やに》の色をした廊下に上がった。何かを塗ってあるのではないかと思うほど、床に靴下の裏がべたべたと貼り付く。
力を入れると、床板が根こそぎ腐っているかのように足が沈んだ。
陰気な音が響く。
うんざりするような安アパートだった。
窓がなく、裸電球だけの薄暗い廊下を進み、踏み抜くのではないかとそろそろと階段を上がった。
二階の奥がその男の部屋のはずだ。
廊下を奥へと進むにつれて気が重くなった。叱られるとわかっていて職員室に向かうような気分だった。
逃げよう。
不意に思いついた。
そうだ、逃げなければ。
頭の中で警告が続く。
足が止まった。
正確に言うなら足が竦《すく》んだ。
膝《ひざ》から力が抜けていく。
久保田は大きく深呼吸をした。が、吸った空気の中になにか薄気味の悪い成分が含まれていたような気がし、落ち着くどころか気分が悪くなった。
何故ここまで厭な気分になっているのかが、自分でもわからない。
行くんだ。
久保田は小さく呟いた。
この仕事をはじめた頃、交渉の場所に行くのが怖くて、前に進めなくなったことが何度かあった。しかし人を脅すことを何度も繰り返していると、そういうことにも慣れる。暴力団相手にも堂々と渡り合えるようになっていた。
最近ではこんなことはもうなかった。もうないはずだった。
だが足は止まったままで進まない。
子供の頃に戻ったような気分だった。闇の中に潜む理不尽な何かに怯えて前に進めなくなる臆病な子供。
行くんだ。
もう一度呟き、足を前に出した。
彼の気分を示しているかのように、ねっとりと床が足にへばりつく。
厭な笑い声に似て床が鳴る。
駄目だ。行くな。
頭の中ではずっと警鐘が鳴り響いていた。
駄目だ、行くな。
酷い目に遭うぞ。
悪い風邪でもひいたように、背筋がゾクゾクとした。
ただこの陰気な町と陰気なアパートに影響されているだけだ。
久保田は自らに言い聞かせた。
言い聞かせながら、ようやく部屋の前までやって来た。
扉の前でしばらく佇《たたず》んでいた。
息を吐き、腕を回し、ぱんっ、と頬を叩く。
扉をノックした。
返事はない。
にもかかわらず、久保田はその向こうに何かが潜んでいることを確信していた。
唾《つば》を呑む。
そして再び頬を叩いた。
ぴしゃり、と大きな音が響く。
もう一度、久保田はノックした。
ノックしようとした。
扉が内側に開いた。
拳《こぶし》が空を切る。
扉の向こうにあるのは闇だ。汚泥のような闇が、闇だけがそこにある。
拳は闇へと沈んだ。
その手首を掴むものがある。
ひぃ。
これ以上もないほど情けない声を上げた。
その時我慢できないほどの尿意を感じていることに気づいた。
腕を引かれる。
凄《すさ》まじい力だった。
否応《いやおう》もなく久保田は部屋の中に引き入れられた。大人たちの綱引きに一人参加した子供のように無力だった。
扉が閉じた。
久保田がいた痕跡《こんせき》はもうどこにもない。
8
道路に面した大きな窓から、目映《まばゆ》いほどの陽光が射し込んでくる。高校時代、佃たちはこの席から遠く離れ、L字型になった店の奥に座った。教師の目を逃れて煙草を吸うためだ。
今は誰の目を気にすることもない。
昼間の陽光を一番浴びる席に、佃と吉住は陣取っていた。二人とも病人のように顔色が悪い。日向ぼっこへと屋上に出てきた重症患者のようだ。
佃は煙草を咥《くわ》え、深く吸うと、溜息とともに紫煙を吐いた。
「どう思う」
コーヒーを意味なく何度も何度もスプーンで掻《か》き回しながら吉住は佃に尋ねる。
「わかんねえよ」
佃は煙草を乱暴に灰皿で揉《も》み消した。
慌てて次の煙草に火を点ける。
「何にもわかんねえ」
吐き捨てるように言った。
「誰かが嫌がらせをしているんだ。それは間違いない」
「そうか?」
「えっ」
吉住がコーヒーから顔を上げた。
佃の顔を見る。佃は目を細め、窓の外を見ていた。
「吉住さあ、ほんとに誰かが嫌がらせをしてるって、そう思ってるのか」
「だって、それ以外考えられないだろが。実際誰かが悪戯電話を繰り返し掛けてきてるわけじゃん。これが誰かの嫌がらせじゃなくて何なんだよ」
痩《や》せこけさらに老人じみた顔になった吉住はそう言って唇を尖《とが》らせた。
「そうだよな。確かに普通に考えたら誰かの嫌がらせなんだけどな。しかしよ、吉住にしても、それは違うって思ってるんじゃないのか」
「何が言いたいわけ」
佃はビデオ屋でのことを説明した。ヒトゴロシと叫んでいた男。彼を撥《は》ね飛ばした異様な車。そして亀の死。
「確かに俺は黒塗りの車を見たんだよ。しかしそれは誰も目撃していなかった」
「あるいは、見たけど佃みたいにかかわり合いになりたくなくって話さなかったか、だ」
「しかしなあ、大勢いたんだよ、人が。で、目撃したことを話してるんだ。かかわり合うのが面倒とか何とか言わずに、進んで話してる人間がいるわけだ。なのに、車だけを見ていないんだよ。おかしいだろ」
うむ、と呻《うめ》いて吉住はコーヒーを一口飲んだ。
「吉住はどうなんだよ。悪戯電話だけだったか。他にもおかしいことがあっただろう。はっきり理由の判ることばかりだったか」
掴みかかりそうな勢いで佃が言った。
吉住はメモ帳に書かれていた文字のことを説明した。
「しかしあれにしても、誰かの悪戯と考えたらそう考えられるしなあ」
「その直前までそんな文字はなかったんだろう」
吉住は頷いた。
「でもさ、俺|物凄《ものすご》く記憶力が悪いから」
またスプーンで掻き混ぜだした。
「正直言ってさあ」
佃は陽光にすがるようにガラス窓にもたれた。
「ほんと、俺怖いんだよ」
「だから、それが相手の望みだよ。んなの、思う壺《つぼ》って奴だって」
「あのさあ、俺調べたんだよ。昼間は暇だからね」
「何をさ」
「おまえ、嫌がらせの電話を、あの女の身内とか元恋人とかがやってると思うか」
「そりゃそうだろう」
「ところが、違うんだよ」
「違うって」
「まず俺は、あの事件のことを調べたんだ。そんな大昔のことじゃない。たかだか八年前のことだ。探すのはそんなに難しくない」
佃は煙草を揉み消し、また火を点ける。すでに灰皿が吸い殻の山で埋もれていた。
「なあ、吉住。あの時何があったか覚えてるか。俺たちが学校を逃げ出してからのこと」
「いくら俺でもそれは忘れられないぞ」
「じゃ、言ってみ」
「大騒ぎになった。二階から飛び降りたあの女、花壇の金属の柵《さく》に喉《のど》をぶっさして……んで、死んだ。翌朝のニュースでびっくりさ。まさか死ぬなんて思ってなかったからな」
「あの女の名前を覚えてるか」
「雨宮《あまみや》だ。ええと、雨宮|美由紀《みゆき》。新聞で初めて知った名前だけど、同級生だったのが驚きだよな。地味な女さ」
「そうだよな。俺も覚えていた。その名前も、翌日の報道もな」
「ほんと、学校じゃあすごい騒ぎになってたからな。忘れ物を取りに来ていたあの女が、たまたま学校に潜り込んでいた泥棒と鉢合わせして、突き落とされたのでは、みたいなことだっただろう。校内の人間は疑われていなかったからほっとしたことはしたんだけどな」
「さっきも言ったが八年前のことだ。それほど昔のことじゃない。しかもあんな事件だったんだ。俺たちは特にはっきり覚えている、はずだよな」
「ああ。なあ、佃。何が言いたいんだよ」
「俺は図書館とか新聞社とかで調べたんだ。今はネットとかでもいろいろ調べられる。で、わかったんだ。あんな事件はなかった」
「はあ?」
「だよな。俺も『はあ?』な気分だったさ。でも間違いない。俺の記憶している日が間違っているかと思って、俺たちの在学中のすべての日にちを検索してみた。でもないんだよ、そんな事件は。少なくとも報道はされていない。テレビはわからなかったが、新聞にそんな記事は掲載されていなかった」
「俺んとこは読売新聞だ」
「うちは朝日さ。どちらにもない。他にも五社ほど調べたが、どこにもない」
「そんな馬鹿な。信じられないな」
「もっと信じられないことを教えてやろう」
「まだあるのか」
「雨宮美由紀って卒業アルバムに載ってるんだ」
「えっ、あれは高二の時だよな。じゃあ、なんか黒枠とかで囲んで――」
「アルバム見てみろよ。三年生の時の集合写真で一緒になって笑ってるよ」
「嘘だろ」
「調べたらすぐにわかる。俺も信じられなかった。だからアルバムに書いてあった電話番号に連絡してみたんだ」
「どうだった」
吉住がごくりと唾を呑んだ。
「本人が出てきたよ」
「からかってるのか」
薄笑いを浮かべて吉住は言った。
「何のために」
また灰皿に揉み消す。山が崩れて、テーブルに吸い殻がばらまかれた。
「雨宮美由紀本人が電話口に出てきて、何のよう、って聞かれたときには心臓が止まりそうになったぞ」
「……どういうことだ」
「わからんね。わかっているのは、俺たちは人を殺していないということだけだ」
「もしだ、信じられないけど、それでももし、あの時なにもなかったのなら、よけいにわからないじゃないか。いったいヒトゴロシなどと言って電話を掛けてくるのは誰なんだ」
佃は答えず、色の悪いひび割れた唇に新しい煙草を咥えた。
「で、久保田は」
吉住は話を変えた。
「久保田の居場所はわかったのか」
「わかった」
「連絡してみたか」
「した」
佃は窓の外を見て煙を吹きかけた。
「もったいをつけるな。奴はなんて言っていた」
「連絡したが、連絡できなかった。何度も電話をしたけど、誰も出なかった」
「また引っ越したんじゃないのか」
「かもしれんな。これだ」
小さなメモ用紙を佃はポケットから出してきた。そこに住所と電話番号が書かれてあった。
「なあ、今から見にいってみないか」
佃が言った。
「今からか」
「ああ、一緒にな」
その時だった。
がつっ、と大きな音がして何かが窓にぶつかった。
窓には血の痕があった。
下を見ると、路上に雀よりも少し大きな鳥が落ちていた。その嘴《くちばし》が折れている。
「なんだ、こりゃ」
吉住が言った。
「あっ」
佃が悲鳴のような声を漏らす。
喫茶店はT字路の行き止まりにあった。店の前に道がまっすぐ伸びている。その先に大きなナナカマドの樹があった。真っ赤な実をつけたその木の枝に、実に負けじと無数の鳥が留まっていた。
そこからまた一羽。
まっすぐ窓をめがけて鳥が飛んできた。
肉を叩きつけたような音がした。
鳥は異様な角度に首を曲げて路上に落ちた。
そして鳥の群が一斉に飛び立った。
まるで強風に流される煙のようだ。
その鳥の群が一羽残らず窓を目指している。
誰かの悲鳴が聞こえた。
窓に、押し寄せる波のように鳥たちが激突した。
ガラスが水|飛沫《しぶき》のように破片を飛ばして割れた。
何百という鳥たちが喫茶店の中に流れ込んできた。
吉住は咄嗟にテーブルの下に隠れていた。
抜け落ちた羽根が舞う。
佃が立ち上がるのがわかった。
「来た」
佃が言った。
「わかったよ!」
誰かに佃は怒鳴っていた。吉住から見えるのは佃の脚だけだ。
「今行く。待ってろ」
佃は割れた窓を跨《また》いで店の外に出ていった。
群れ飛ぶ鳥たちの向こうに、吉住は見た。
黒塗りの車に乗り込む佃を。
9
あの鳥が連雀《レンジヤク》という名だということを、吉住は翌日の新聞で知った。熟れたナナカマドの実を食べて酔った連雀が集団自殺のようなことをしたらしい。専門家の話によれば連雀は頭の良い鳥で、陽光を反射し光る窓をめがけて飛ぶ、ゲームのようなことをしていたのではないか、ということだった。
どのような解釈であろうと、それを読んで吉住が最初に思ったことは、あれは現実だったらしい、ということだった。
何もかもが悪夢だったのではないかと思っていたからだ。
佃は消えてしまった。自宅にも携帯電話にも連絡してみたが、自宅はいくら呼び出しても誰も出ず、携帯電話は「この番号は現在使われておりません」と繰り返すだけだった。
吉住はバイト先にも行って、店長らしき年輩の男に尋ねてみた。が、ずっと無断欠勤だと不機嫌そうに告げられ、あげく説教を聞かされそうになって逃げ帰った。
晴天の空を吉住は見上げる。その手に、一枚の紙切れを手にしていた。そこに書かれた住所を頼りに、彼はここまで来たのだった。
番地の書かれたプレートをみつけ、吉住はまたメモを見る。
煙草臭いこの紙が佃の遺書になった。吉住はそう思い、久保田の家まで来たのだった。
「ここだな」
真新しいマンションを見上げて呟いた。
オートロックの扉を前に、インターホンの脇にあるキイで久保田の部屋番号を押す。
呼び出し音は聞こえているが、何の反応もなかった。
オートロックのマンションに入る方法は幾通りかある。吉住はそれを、チラシ配りの先輩に教えてもらった。
扉の前でどうやって入ろうかと思案していたら、マンションの住人がやってきた。何の疑いもなくオートロック解除の暗証番号を押して中に入る。それとなく覗き見して、番号を頭の中で繰り返し唱える。
住人が消えるのを待ってから暗証番号を押し、中に入った。
エントランス部分から吉住の住んでいるマンションとは大違いだった。常駐する管理人こそいないが、広いそこには塵《ちり》ひとつ落ちていない。定時に毎日掃除されているのだろう。飾り棚には生け花が飾られている。
ワンルームマンションとしては、かなり高級な方だ。久保田は稼ぎがよかったのだろうなあ、と思いながらエレベーターに乗り込んだ。過去形で考えていることに、吉住自身気がついていなかった。
久保田の部屋は最上階だ。
チン、と馬鹿にしたような音を立てて扉が開いた。
白い扉の前に立つ。表札はない。間違いなくここが久保田の家なのかどうか、吉住には確信はない。ただ佃の調べた住所まで来ただけだ。
高校生の時に常連だった喫茶店で佃に会ってから、ここにこうしてやってくるまで。それがずっと長い長い悪夢であるような気がしていた。
扉横のインターホンを押した。
やはり返事はない。返事はないのだが、何故か部屋の中で誰かがチャイムの鳴るのを聞いているような気がした。
蹲《うずくま》りじっと耳を澄ませている誰かの姿を思い浮かべると、何故か鳥肌が立った。
尻《しり》のポケットから携帯番号を出す。
一度電話したのだが、やはり「この番号は現在使われておりません」と言われたのだった。
メモ用紙を見ながら、吉住は再びダイヤルした。
呼び出し音が部屋の中で鳴っているのが聞こえた。
繋《つな》がっている。電話は確かに繋がっているのだ。
そしてがちゃりと受話器を取る音がした。
「もしもし」
勢い込んで吉住は言う。
が、そこから聞こえてきたのは変わらぬテープの声だった。
番号を調べろだの掛け直せだのと指示をする携帯電話を手にしたまま、吉住は扉のノブを掴《つか》んだ。
予感がしていた。
いや、予感というようなものではない。確信だ。
誰かが中で待っているという確信。
ノブを回した。抵抗はない。
鍵《かぎ》は掛かっていなかった。
扉を開いた。その時、まだ電話を耳に当てていた。
この番号は現在使われておりません。
機械的にその台詞《せりふ》が繰り返されている。
中に入り、扉を閉めた。
吉住の部屋よりもずいぶんと広い。そして何より、綺麗《きれい》に整理され掃除が行き届いている。よけいな荷物など何一つ置かれていない。センスの良い家具がわずかにあるだけだ。
突き当たりに広い窓があった。
分厚いカーテンがそれを閉ざしていた。
カーテンの隙間から洩《も》れるわずかな光で、仄暗《ほのぐら》い部屋の中が見える。
カーテンを背に、誰かが座っていた。逆光でシルエットしか見えない。
膝を抱えて床に座る姿は叱られた子供のように弱々しい。だが、それにしては大きすぎる。決して子供の体格ではない。
「久保田」
吉住は強面《こわもて》のするその顔を思い浮かべながら声を掛けた。
返事はない。
墨を塗ったかのように真っ黒な顔からは、表情を読みとれない。
にもかかわらず、それが自分を見たのがわかった。
「俺だよ、吉住だよ。わかるか」
影は左右にゆっくりと揺れた。まるで水草のようだ。
「ダンテの神曲を知っているか」
影は久保田の声でそう言った。
「はあ?」
吉住には何を言っているのか見当もつかなかった。
「なんだよそれ」
玄関に立ち竦《すく》んだまま、吉住は言った。
そこから先に進むには靴を脱がなければならない。しかし彼はどうしても靴を脱ぐことができない。靴を脱いでしまうと、逃げられないような気がしたからだ。
つまり彼は酷く怯えているのだった。
「誰の新曲だって?」
尋ねる声が、自分でも滑稽《こつけい》なほど震えていた。
影が話を続ける。
「ダンテは地獄から浄罪界を経て天堂界へと旅を続けるのだけれども、地獄界では恐ろしい怪物に悪魔や罪人、そして罪人に行われる凄まじい拷問の数々が精緻に描かれている」
「おまえ、何言ってんの。おかしいよ。おまえ、おかしいよ」
おかしいのは俺かもしれない。
どこか他人事《ひとごと》のように吉住はそんなことを考えていた。
「聞くんだ」
影が大きく揺れた。
その姿が出来の悪い写真のようにぶれて見える。
「ところが、だ。ダンテが天堂界に行くと、そこはただただ光り輝く世界でしかない。地獄が何故地獄なのかは良くわかるのだよ。それは懲罰のために生まれた世界なのだからね。しかし天堂界が救済の果てに神が与えた世界とはどうしても思えない。何故安物の電球のように輝くことが、精神の浄化と救済に繋がるのだね。西洋だけではない。たとえば仏教にしても似たようなものだ。八つの重なり合う地獄の様子は詳細に語られる。その罪人に与えられる責め苦の多彩さは、それを考案した僧侶たちの知恵と想像力の結集したものだ。しかしこれに対して天界には幾種類もの神々がいるだけだ。そしてその果てにあるのは無という平安だ。それが真実であるにしろ、真実を語る言葉がない。これはどうしてだと思う」
「わからないよ、そんなこと」
吉住の声は悲しそうだった。迷子になった子供のように。
「では教えてやろう。人の想像力は恐怖しか思い描けないんだ。恐怖こそが想像力の正体だ。不安が生み出す恐怖の世界。罪を犯し病に臥《ふ》し人を憎み人に憎まれ、殺し犯し喰らい、最も惨めな生を得て最も恐ろしい死に方をする人生。それを思い描かんがために人の想像力は生まれた。だからおまえたちはしくじった」
「何を言ってるんだよ。俺にはわかんないよ。おまえ、本当に久保田なのかよ」
「おまえたちはわたしと賭《かけ》をした。そしておまえたちは語った。夢の中で妄想の中で語り続けた。語り続けている間がおまえの生だ。それは約束どおりだ。思い出せ」
影がふらふらと揺れる。
「さあ、思い出すんだ。おまえたちの紡いだ糸がどのようなものか。おまえたちの織った布はどのようなものか」
ああそうだ。
吉住はそれを思い出す。
彼自身の語った物語を。
生きるために、生き続けるために。
最初に語ったのは旅の物語だ。
車に乗って旅を続ける物語。
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ドキュメント・ロード
べったりと隙間なく灰色の塗料で塗られたような空だ。雨が降ろうとしているのだろうか。異様なほど外は蒸し暑い。が、エアコンの風は運転するヨシアキの膝を冷やし続けていた。冷たさを通り越して痛いほどだ。それでも残りの三人から不平の声があがらないところをみると、これでちょうどなのだろう。
寒いぐらいは我慢しよう。元々我慢強いのだし。しかし問題は音だ。
時折通る長距離トラックを除けば車をほとんど見ない田舎の県道を見つめながらヨシアキは思う。
豚が餌を食べているような下品な咀嚼《そしやく》音が聞こえていた。ずっとずっと繰り返し誰かが舌打ちをし続けているかのようだ。
花梨《かりん》がガムを噛《か》んでいる、その音だ。
東京を発ってから三時間以上、ずっとヨシアキが運転を続けている。その間花梨は後部座席でガムを噛み続けている。いくつガムを持っているのか、飽きることなくガムを噛み続けている。ヨシアキは苛々《いらいら》する。何故かその音にだけ神経が集中する。まるで頭の中で誰かが脳を噛みしめてでもいるみたいだ。止めてくれ。頭の中を掻《か》きむしりたくなる。頼むから止めてくれ止めろ止めるんだ。
ずっとそう思い続けているのだけれど、たかがアシスタントの分際で女優に文句を言うわけにもいかずヨシアキは我慢する。とにかく我慢する。ずっとずっと我慢する我慢し続ける。
そして花梨はガムを噛んでいる。
「ヨシアキよぉ」
助手席から呼び掛けられる。
「なんすか、監督」
「腹減った」
「どうします。ファミレスかなんか探します?」
「うん、なんでもいいよ。飯が食えたら」
「私、和食、いや」
言葉の端々にじゅう、とガムを噛むいやらしい音が入る。それにいらつきながらも笑顔を浮かべてヨシアキは言う。
「了解。んで、ウララさんはリクエストあります?」
「なんでもいいよ。ヨシアキくん決めて」
弱々しい声が返ってくる。
女優という言葉とはほど遠い地味な女だ。
ああ、なんでこんな鬱陶《うつとう》しい二人に仕事を頼むんだろう。他にいくらだってAV女優はいるじゃないか。
ヨシアキは考える。口に出しはしないが。
確かに金の問題はあるだろう。ロケにも監督とヨシアキしかスタッフはついていない。この企画は、そんな貧乏臭さを逆手にとったキワモノ企画なのだ。
しかし、それにしても、もう少し明るくやる気のある女優を選んだらどうだろう。
ヨシアキはずっとそう思っている。口には出さないが。
これが監督の狙いであることは何度も聞かされた。
――ちょっとイヤーな雰囲気になってもらいたいわけよ。
頭頂部から顎《あご》の先まで妙に細長い顔の監督は、更に顔を長く見せる顎鬚《あごひげ》を撫《な》でながらそう言った。
――この人選だから、イヤーな感じになると思うんだよね、現場。人数少ないからよけいに。で、それは絶対画面に表れるからさあ、みんなも見てて、やだねぇ、この女、とか思うわけよ。それが結局さあ、サドっぽい気分を煽《あお》るわけだよね。つまりさあ、最終的には金持ち令嬢がレイプされる、とかいうのと同じ気持ちよさでさ、イヤな女が酷《ひど》い目に遭うのって二重に気持ちよいわけよ。
だから、誰が見ても厭《いや》な二人組を抜擢《ばつてき》したのだと、監督は何度もヨシアキに説明した。
嘘ではないだろう。今回の企画は一種のドキュメンタリー仕立てだ。二人の女優を旅に出し、その先々で出会った男をナンパし、セックスして、撮影する。その現場にはヨシアキも監督も参加しない。手持ちの家庭用ビデオで撮影させるのだ。相手の同意は後で得る予定になっていた。
――きっと酷い目に遭うよ。
監督は楽しそうにそう言った。
――この二人は人を厭な気分にさせる名人だからね、絶対素人を怒らせるね。まあ、そういうシチュエーションをこっちも作るわけだけどさ。
なるほどなるほど。
監督の前でヨシアキは大きく頷《うなず》いたものだ。
だがそれにしても、とヨシアキは頭の中で愚痴を続ける。
そんな「厭な気分にさせる名人」の世話をずっとみる立場になってみろよ。いい加減うんざりだ。しかも監督はこの二人を三日間拘束する契約をしている。
三日!
三時間で充分二人の女優の名人ぶりを堪能《たんのう》したぞ。
そんなことを思いつつも目は県道に沿って流れていく建物を見ている。
『エロスの殿堂、大人のおもちゃと世界の下着』
『紳士靴のカナタ』
『ビデオ・本・ハム通信の店』
『スナック 夢見亭』
『インポテンス びんびん堂薬店』
まったく、とヨシアキは思う。
まったくなんてくだらないものばかりなんだろうか。県道沿いにはくだらないものしか並べてはならない、というような条例があるのだろうか。そこにはくだらないものだけが並んでいる。ただただくだらないものだけが並んでいる。きっとこの世から今すぐ消えたとしても誰も気がつかないであろうくだらない店ばかりがずらりとそこに並んでいる。
ヨシアキは脳内でずっと毒突いていた。あくまで脳内での話だ。口には出さない。
ヨシアキはこの仕事を続けている間にどんどん無口になっていく。そして口から出てこなかった言葉が頭の中であふれかえる。
ファミリーレストランは見つからなかった。
「あれ、どうっすか」
「どれどれ」
シートを倒して眠りかけていた監督が身体を起こして左右を見る。
「あれですよ」
指差した。
『お食事処 きんちゃん』と書かれた看板が立っていた。
「おお、いいねえ」
監督は楽しそうだ。
「花梨、和食、いや」
つまらなそうな顔で花梨が言う。
「花梨よぉ、あんな店は、和洋中なんでもあるんだってば」
「和食イヤ」
同じ台詞《せりふ》を繰り返す花梨を無視して、四人の乗ったバンは『お食事処 きんちゃん』の横の広い空き地に停車した。
ドアを開けると生温《なまぬる》い空気が流れ込んできた。べたべたとまとわりつくような湿気を含む大気は鬱陶しさを更に増す。
「あっ」
ぞろぞろと四人が車から降りると、ウララが頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「なんだよ、ウララ。びっくりするじゃねぇかよ」
「えっ……ああ、そうですね」
声はだんだん小さくなる。
「だからなんなのよ」
監督に促され、俯《うつむ》き乾いた砂をじっと眺めながらウララは言った。
「いますよ、あそこ」
「だから、なにが」
ヨシアキにはウララが何を見ているのかの見当はついていた。監督にしても同じことだ。わかっていながら、監督は問いただす。
「何がいるんだよ、ウララ」
「あの食堂。たくさんいますよ」
「だからさあ」
にやにやと笑いながら監督がウララの頭を両手で挟む。長身の監督と小柄なウララは、そうやっていると飼い主と犬のように見えた。
「何がいるわけよ」
「お婆さんが二人。玄関の両脇に、ほら、阿吽《あうん》の仁王像みたいに立ってます。お婆さんが仁王っていうのもおかしいか」
また声が小さくなっていく。
霊感少女。
ヨシアキは頭の中で呟《つぶや》く。
同級生の注目を集めるにはそれしか方法がなかった駄目女。霊が見えると言えばみんなが関心を持ってくれた。だから霊が見えると言い続けて、結局飽きられて、それでもあそこに霊がこっちに霊がこれは心霊写真などと言い続けて結局気味悪がられながらも何人かの信者を引き連れて……。
霊感少女と思いついただけでそんなイメージが山ほど溢《あふ》れヨシアキの頭の中を占拠する。ウララの人生すべてを見切ったような気がしていた。
「ヨッシー、私、和食、イヤ」
花梨がヨシアキに話を振った。
「もしかしたら和食以外のもあるかもしれませんから」
ヨシアキは揉《も》み手をする。いや、実際に揉み手などしていないのだが、そのように見える。だいたいそこまでへりくだる必要などないのだが、それがこの男の性分なのだ。しかもへりくだりながらも、頭の中は悪口雑言ではち切れそうになっている。
「大丈夫だって」
ヨシアキとは対照的に、根拠などなくとも自信だけは持っている監督がそう言った。
「絶対和食以外のものがあるって」
言いながら花梨の手を引いてのれんをくぐった。続いて左右をちらちらと見ながらウララが、最後にヨシアキが入った。
暗い。
そこそこ広い店内にある照明は蛍光灯が二灯。そのどちらも端の方が煤《すす》け、時折すうっと光が薄れて消えそうになる。
見回してもエアコンの類がない。外の蒸し暑さはそのまま中に運び込まれている。しかも、ちょっと古びた酢の臭いがした。
「いらっしゃい」
中途半端な長さのスカート以外に性別を判断する方法がない中年の女性が、気のない台詞を言った。じょぼじょぼと大きなヤカンから湯飲みにお茶を注ぎ、トレイに載せてテーブルに持ってくる。
「なにしましょう」
そういう顔はまったくの無表情だ。
少し泡立った薄い茶を、テーブルの上に四つ置く。一人ずつ、その前に置いていく手間さえ苦痛なのだろう。
四人掛けのテーブルは四つ。
それらがすべて客で満たされることがあるのだろうか。
とにかく今は、奥のテーブルに若い男が二人座っていた。
平日の昼間に県道沿いの食堂で漫画を読みながら食事をしている若い男。
ヨシアキはまたもや頭の中でその生涯を値踏みする。貧相で貧乏でバカです、と看板を立てているような若い男たちの、下らない安っぽい今すぐここで消えても誰にもわからないであろう人生。
「いいなあ」
監督が呟いた。
その目が暗い食堂の奥で影のように黒々と固まっている男たちを見ていた。
「早速どうよ、花梨よぉ」
「ええー」
面倒くさそうに声をあげて、花梨もそのテーブルの男を見た。
「いいけどぉ」
いいのかよ、とヨシアキが心の中で突っ込む。
「でもご飯を食べてから」
「よっしゃよっしゃ」
と満足そうに言うと、監督は勝手に四人分の食事を注文し始めた。
ここには和食しかなかった。
田舎芝居だ。
ヨシアキはそう思いおくびを漏らす。
食事を終えてすぐ、監督の指示でヨシアキはウララを罵《ののし》り始めた。迫真の演技だと後で監督に誉められたが、単に本気で罵ったに過ぎない。
ウララがしくしくと泣き始めた。
今度は監督が花梨にバカだの愚図《ぐず》だのと文句を言う。まるで子供の挑発だが、それに乗せられ花梨が怒りを表明する。語彙《ごい》が貧弱なので、怒っているということが態度からしか理解できない。
最後に監督が勝手にしろと怒鳴りつけて外に出ていった。ヨシアキも二人を残して出ていく。もちろんハンディカメラを渡すのを忘れてはいない。
要するに花梨とウララはここまで一緒に来た男と喧嘩別れして、店に残された、という設定だ。
このままあの二人の男たちに接近して、ビデオに映像を収めればそれで終了だ。後は使えるかどうかを監督が判断し、編集を加える。そして次の撮影だ。とにかく企画は始まったばかりだった。
「どうしましょう」
ヨシアキが尋ねた。
「何が」
「何処で待機してましょう」
「何処でって?」
何も考えていないんだ、この男は。
愛想《あいそ》笑いを浮かべながらヨシアキはそう思う。
いつもいつもそうだ。
大事な部分は人任せ。何があっても大丈夫しか言ったことがない。そのおかげでこっちはどれだけ迷惑を被っているか。
ヨシアキは笑顔を補強しつつ説明を始めた。
「ほら、あそこに軽自動車が停まってるじゃないですか。あれってきっとあの二人組が――店の中にいた若い男の二人組ですよ――が乗ってきた車ですよ」
「で?」
「もしナンパが成功して四人が出てきたらどうするんですか。ここに停めていたら僕たちの存在がばればれでしょ?」
「どうして」
「ですから」
うんざりとしていることを感じさせないように、ヨシアキの笑みは更に大きくなった。
「こんなところへ食事にくるのに歩いてくる人間はいないでしょ。花梨たちにしても我々の車に乗せてもらってとかなんとか言っているはずですよ。で、店を出たらバンがある。そんなところで何をしている、てなもんですよ。しかもですよ、そこから四人が車で移動する、なんてことになったらですよ、跡をつけなきゃならないじゃないですか。この駐車場にあった車が後ろをつけてきたら、こんな人通りの少ない道じゃあ絶対不審に思われますって」
「おまえって、けっこうおしゃべりな」
監督が呆《あき》れたような顔で言った。
「……はあ」
ヨシアキは言葉を失う。
「わかった!」
無意味に元気良く監督は言った。
「とにかく駐車場から離れればいいわけだ」
「奴らが出てきてどっちに向かうかはわかりませんけど、ちょっと離れたところに停めて待っていましょうよ」
「よし、出発!」
ヨシアキはバンを動かし、駐車場から百メートルほど離れた道の外れに停めた。
車の通りは極端に少ない。駐車場を出てくる車を見逃すことはまずないだろう。
「まあいざとなれば」
監督は背もたれを床と水平にし、しっかりと眠る体勢に入りながら言った。
「ケータイに電話掛けてくるから大丈夫よ」
「でも、犯罪とかに巻き込まれたりしたらどうするんですか」
「レイプされたり? 願ったり叶《かな》ったりじゃん」
「でも女優に怪我とかさせたら、いくらなんでも駄目でしょう」
「大丈夫だって。彼女たちもプロなんだからさあ、やりたい男の扱いには慣れてるよ」
普通に「やりたい男」ならいいんだけれど、と監督に説明している内に不安が増してきた。しかしこれ以上言っても無駄であるばかりか、監督の怒りを買う可能性もある。
いくら正しい主張をしていても、監督に叱られる意見は駄目意見だ。
ヨシアキは不安を押し殺し口を閉ざした。
エンジンを止め、遠くに見える『お食事処 きんちゃん』の看板を眺めている。
すぐに監督の寝息が聞こえてきた。
それからどれだけ、閑散とした風景を眺め続けていただろうか。
曇り空に騙《だま》され時間の感覚がなくなっていた。
時計を見ると午後五時を回っていた。
二人と別れてから二時間弱経っている。
「監督」
ヨシアキはぐっすりと眠っている監督の身体を揺すった。
「おっ、なになに」
安物のドラマのように監督は目を擦《こす》り涎《よだれ》を拭《ぬぐ》った。
「もう五時っすよ」
「午前? 午後?」
「午後です」
「どうなった」
「出てこないんですよ」
ん? と言いながら監督は身体を起こした。
「あれっ、移動してないの?」
「店から出てきてません」
「ずっと?」
「ずっと」
「話が合ってるんだね」
「そうでしょうか」
「だって二時間話してるんだぜ。あの二人と。そりゃあ、すっごく気があってるんだってば」
「そうかなあ」
「車は」
「動いてません」
「人影は」
「全然」
「じゃ、仲良くやってるって。ビールとか注文してさあ。あっ、ビール飲みてぇ」
「自販機とかないですよ」
「なかった?」
「ありませんでした」
監督はこの世の終わりのような深い溜息《ためいき》をついた。
「じゃ、寝る」
また横になる。
「いいんですか」
「何が」
「彼女たちです」
「大丈夫大丈夫。動くのを待とう」
目を閉じて横を向く。
仕方なく、ヨシアキも待つことにした。
しかし六時を過ぎた時点で監督を起こす。
「おかしいですって。いくらなんでもヘンですよ」
寝ぼけた顔で監督が言う。
「んじゃ、ちょっとケータイ呼んでみ」
「はい」
ヨシアキはポケットから携帯電話を取り出した。登録されている花梨の電話番号にかける。
つながった。呼び出し音が聞こえる。
が、花梨は出ない。
しつこく呼び出していると、留守番電話サービスにつながった。
舌打ちひとつして今度はウララの携帯電話にかける。
これもまったく同じだ。
「つながりません」
「あっそう」
心配している様子はまったくない。
「行ってみましょうよ」
「何処に」
「あの店にです」
少しだけ考えて監督は言った。
「んー、そうすっか」
ヨシアキは即座にバンを走らせた。
文字通りあっと言う間に駐車場に戻る。
監督をせっつき車から降りると店の中へ。
いらっしゃいませ、とやる気のない中年女の声で迎えられた。
誰もいない。
客は一人もいないのだ。
ぬるいお茶を持ってきた女に尋ねる。
「さっきまでいた女の子どこ行ったか知ってる?」
ヨシアキの顔を、女はぼんやりと見ている。眺めていると言うべきか。
「ほら、俺たちと一緒に来てた女」
ヨシアキは二人の容姿を説明する。説明しながらおかしいとは思っている。彼はずっとこの店を見張っていた。その間一人の出入りもなかった。この暇な店に、たまに来た客を、それもほんの数時間前には確実にここにいた客を忘れるはずがないのだ。
「じゃあさ、あの奥にいた客は」
女がイヤそうな顔をする。
「覚えてないの? ほら、男二人があそこのテーブルに座ってただろ」
「いないよ」
やけにはっきりと女は言った。
「俺たちがここに来たことは覚えてるよな」
女は首を傾げる。
「あのなあ、二時間ぐらい前の話なんだよ」
女はじっとヨシアキを見ている。
その目は穴だ。空洞だ。
「監督」
ヨシアキは監督に救いを求めた。
「もいっぺん、掛けてみ」
「はっ?」
「だからケータイさ」
「あっ、はい、そりゃ掛けますけど」
携帯電話を取り出し、花梨に掛ける。
やはり誰も出ない。
が……。
かすかにアニメの主題歌が聞こえている。聞こえるか聞こえないかのわずかな音だ。それに聞き覚えがなければ、雑音に紛れてわからなかったかもしれない。だがヨシアキはそれを知っていた。
花梨の着メロだ。
「監督」
気づいているだろうか、と呼び掛けたが、わかっているのかわかっていないのか、その茫洋《ぼうよう》とした表情からは読みとれない。
「監督、出ましょう」
「えっ、いいけどさ。なんか飲みたいなあ」
「自販機探しますから」
「あっ、そう」
引きずるように監督を連れて店を出る。携帯電話はずっと耳に当てたままだ。呼び出し音が終わり留守電サービスに変わると告げた。いったん切る。それからまた花梨に電話する。
聞こえていた。
風に乗ってわずかではあるが安っぽい電子音が聞こえている。
「監督、聞こえますか」
「何が」
「ほら、花梨のケータイの着メロ」
「ん?」
じっと耳を傾ける。
その長い顔が緩む。
笑っているのだ。
「ほう、聞こえる。いいねえ」
何を考えているんだ、と頭の中で文句を言いながらもヨシアキは指差す。
「店の裏の方から聞こえます。行ってみましょう」
駐車場を不慣れな泥棒のような慎重さで、ゆっくりと店の裏へと回っていく。
電子音はますますはっきりと聞こえてくる。
「面白くなってきたなあ、ヨシアキ君」
しっ、と指を唇に当て、ヨシアキは足を進める。店の壁に身体を寄せて、角から裏を覗き込んだ。
何もない。
コンクリートで舗装された敷地があるだけだ。その向こうは田園が広がっている。
壁に裏口があった。
もし表から見つからないように連れ出すのなら、裏口から田圃へと抜ければいいわけだ。
音楽は更にはっきりと聞こえている。
裏口のすぐ横に大きなポリバケツが置いてあった。どうやら音はそこから聞こえている。
「監督」
ヨシアキが言うと、監督は親指と人差し指で丸をつくった。
「ばっちりばっちり」
嬉《うれ》しそうだ。
「いけ!」
ヨシアキに言う。
ポリバケツの中からは、黒いゴミ袋が頭をのぞかせていた。それを開けてみろ、と言っているのだ。
ヨシアキは深呼吸ひとつして、ポリバケツに近づいた。間違いない。着メロはその中から聞こえている。
開けろ。
監督は手でそう示した。
ヨシアキはビニール袋に指を食い込ませた。
びりびりと破る。
警告するように音楽が大きくなり、ヨシアキは一瞬動きを止める。
厭《いや》な臭いがした。
生臭い。苦いような腐臭もする。
昔商店街でバイトをしていたとき、捌いた内臓を捨てる魚屋のバケツがこんな臭いだった。
大きく破る。
中が見えた。
ヨシアキは小さく悲鳴をもらした。
その中には何物ともしれぬ臓物がみっちりと詰まっていた。
監督の顔を見る。
早くしろ。
監督は無言でそう急《せ》かす。
ヨシアキはバケツを倒した。中からビニール袋を引きずり出し、大きく裂く。
腹を裂いたかのように臓物が流れ出てきた。
そこに携帯電話があった。
その隣には花梨に渡したハンディカメラまである。
ヨシアキは血塗《ちまみ》れのそれを手にした。
顔を上げると監督の姿がない。
停めてあるバンへと走っていく、その後ろ姿が見えた。
ああっ、と声をあげてヨシアキもその後を追った。背後で扉の開く音がした。
振り向くとあの表情のない中年女がそこにいた。
「こらあ!」
驚くほど野太い声で女が言った。
ヨシアキは走った。
脱兎《だつと》とはまさにこの勢いであろうと思わせる走りだ。
バンに飛び込んだ。
助手席の監督に携帯電話とビデオカメラを投げ渡す。
キイを差し込んだ。
と、同時に横で、ばんっ、と大きな音がした。
見ると、あの女がそこにいた。
サイドガラスを割る勢いで女は拳を叩きつけていた。
「頑張れ」
気の抜けた声で言ったのは監督だ。
ヨシアキが持って帰ってきた血塗れのビデオカメラを彼に向けている。
どうやら撮影しているようだ。
まるでホラー映画のようにヨシアキは何度も何度もエンジンを掛けようとして失敗した。きゅるきゅると苦しげな音が何度も何度も聞こえた。
その間にも女はガラスを叩き続けている。
表情はない。
唇を半開きにして、無言だ。
その唇からつうと一筋涎が垂れた。
ようやくエンジンが掛かり、バンは急発進した。女が倒れたように見えたが、そこまでだ。バックミラーで確認する気にもなれなかった。
「大成功」
監督が嬉しそうに言った。
――もう駄目です。
掠《かす》れ声でそう言うウララの顔が液晶のモニターいっぱいに映っている。
ゴミ袋から救い出したビデオカメラに映っていた映像だ。
その前はヨシアキが映っていた。
必死になってバンを動かそうとするヨシアキの姿を見て、監督は大笑いしていた。それから唐突に画面がウララの顔に変わった。その前に何かが録画されていたようなのだが、その上に重ねて、監督が慌てるヨシアキを録画してしまったのだ。
それがわかったからといって監督が悪びれるわけもないのだが。
食堂からたっぷり二十分掛けて逃げ続けた。
で、路肩にバンを停めてのビデオ鑑賞だ。
――来たときからたくさん見えたんですよ。それもね、大人とか子供とか、女とか男とか、そうだなあ、やっぱり女とか子供が多かったですけど、とにかくたくさん見たんですよ。
ウララの声は震えている。
「ブレア・ウイッチだよな」
監督が笑った。
「お母さん、御免なさい、だったっけな」
同意を求められた。
「映画、見てませんから」
この期に及んでまだはしゃいでいる監督の態度に、さすがのヨシアキも呆《あき》れた。多少はそれが顔に表れたかもしれないが、そこまで気にしている余裕はヨシアキにもなかった。
――だから私、逃げようって言ったんですよぉ。でも花梨ちゃんはイヤだっていうから、逃げられなかったんです。でもね、たくさんいるんですよぉ、霊体が。ようするに、ほら、自縛霊ってことですよね。墓場とか戦場とか、大きな事故のあったところとか、そんなじゃないのに、こんなたくさん霊がいるはずないです。だからここではきっと大きな事故とかそれから。
「顔をどけろよ」
監督が鬱陶《うつとう》しそうに言った。
「アップばかりだと飽きる」
――だからきっとね、犠牲者とかじゃないかと思うんですよぉ。あの霊たちは。花梨ちゃん大丈夫かなあ。
しくしくと泣き出した。
画面いっぱいに泣き顔が映る。
退けよ。
ヨシアキもそう思う。顔が邪魔でそれ以外の情報が何もない。そこがどこなのか、この映像からではさっぱりわからないのだ。かといってウララの話の内容では、そこで何が行われているのかという肝心なことが何もわからない。
苛々《いらいら》して指先でビデオカメラをこつこつと叩くと「うるさいよ」と監督に即座に言われた。
――それにしてもあれはなんなんでしょう。よくわからないよぉ。もんじゃみたいよね。大きなもんじゃ。
大きく画像がぶれ、幾度もノイズが走った。
どうやらカメラを落としたようだ。
床が縦に映っていた。
フローリングと呼ぶにはあまりにも薄汚れた木製の床だ。
そこに血が流れている。
細く指を這《は》わせるように、血が流れる。
声がした。
金属質の耳障りな声だ。
何を言っているのか良く聞こえない。
増幅させた昆虫の鳴き声にも聞こえる。
やめてください。
その声はウララだった。
なんでもしますから。
泥に腕を突っ込んだような粘る音がした。
ひいっ、とウララの悲鳴。
画面を突然白くぬらぬらしたものが横切っていった。
そして何かを咀嚼《そしやく》する音。
いや、それはガムを噛む音だ。
そして映像が途絶えた。
「魅力的だな」
監督が言った。
「謎がいっぱいだ。終わるタイミングも絶妙だしな。CMの後に衝撃の事実が明かされる、ってやつだな」
「監督」
さすがに咎《とが》めるような口調でヨシアキは言った。
「今のを見てたら、どう考えてもウララは無事じゃなさそうですよ。もう我々の手にはおえません。警察に連絡しましょうよ」
「バカじゃないの」
監督は吐き捨てるように言った。
「このネタ、むちゃおいしいじゃん。これ逃してどうすんの」
「でもですよ、どう考えても」
「どう考えたのさ。この時点で警察に何を言うつもりだよ」
「花梨とウララが行方不明になって」
「あのな、ほんの数時間前の話だよ。成人女性がいなくなって数時間。これは行方不明とは言わないんだよ、普通」
「でも……そうだ。あのゴミ袋。あれには内臓が入っていたでしょ」
「人のだと思ってるのか」
「えっ」
「あれが人のだって証拠は」
「それは警察が――」
「だから警察になんて言うの。食堂のゴミ箱に内臓がありましたってか。それが人間のものだって思う方がおかしいでしょ」
「じゃあ、ケータイはどうなんですか。それにこのビデオ」
「ビデオも何か事件が判明した後でなら役に立つかもな。しかしなあ、今これが警察の動く証拠になると思ったら大間違いだぞ。こんなの持っていってもイタズラだと思われるに決まってるじゃん。それこそブレア・ウイッチ・プロジェクトとか観た警官だってみ。最初から嘘だと思われるに決まってるぞ」
気分だけで動いていると思っていた監督のやけに理屈っぽい説明に、ヨシアキはそれ以上話すことが出来なくなった。
「っつーわけで、またもや潜入取材といきましょうか」
「へっ?」
「へ? じゃないでしょ。ヨシアキ君が表舞台に立つチャンス」
「表舞台に立ちたくないっす」
「立て」
「イヤですってば」
「立つんだ」
ヨシアキは大きく溜息をついた。
『お食事処 きんちゃん』の手前百メートルで再びバンを停めた。
「じゃ、よろしくね」
監督が掌《てのひら》をひらひらさせた。
ヨシアキは片手にカメラを持って食堂へと向かう。
日は暮れようとしていた。
駐車場へと入る。夕日でなにもかもが真っ赤に染まっている。
裏口に回ると、ゴミ袋は片づけられていた。
意を決し、ヨシアキは裏口のノブに手を掛けた。
扉を開く。
生白い何かが中から鞭《むち》のように飛び出てヨシアキの手首に巻き付いた。
悲鳴を上げる間もなかった。
ヨシアキは中に引き入れられた。
そこには血と臓物が砂利のように敷き詰められていた。
ヨシアキは血溜《ちだ》まりに突っ伏した。
胃にもたれる血臭に腐臭やら糞便《ふんべん》臭やらが加わり、息を吸うだけで汚物が身体の中に流れ込んでくるような気がする。
堪えきれず、ヨシアキはその場に嘔吐《おうと》した。
――安いよなあ。
声がした。
――ほんと、安いよなあ。
別の声だ。
ヨシアキは血に混ざった吐瀉物《としやぶつ》をじっと見ていた。
――ヨシアキ君。
呼ばれて横を見る。
そこにウララが横たわっていた。
その両目は眼窩《がんか》から長い尾を伸ばして這い出てきている。
口から泡状の血が流れ出ていた。
どう見ても生きているとは思えなかった。
何よりウララには腰から下がない。
断面から脊髄《せきずい》の端がだらしなく垂れていた。
――ヨシアキ君。
声がする。それは確かにウララの声ではあるのだけど、死んだウララは口を開きはしない。
――霊ってのはね、見えない人には見えないよ。だからヨシアキ君。
その後は水の中につけたかのようにごぼごぼと声が弾けて聞こえなかった。
「なんなんだよ」
ヨシアキはよろよろと立ち上がった。
「こりゃ、なんなんだよ。なあ、誰か答えてくれよ」
まだ手にビデオカメラを持っていることに気がついた。
「クソ!」
罵《ののし》り、それを床に叩きつけた。
びしゃりと血飛沫があがった。
「いらっしゃい」
感情のない声がした。
振り向くと店にいた女がそこに立っていた。全裸だ。肥満し弛緩《しかん》した身体は真っ白で、魚の白子を思わせる。
その股間《こかん》から、白いぶよぶよとしたソーセージのようなものがつきだしている。死んだ蛇を思わせるそれは、触手のようにうねっていた。
「やすいよぉふぅぐだんああ」
女は、いや、既に人とも呼べないようなそれは意味不明の言葉を呟《つぶや》きながらヨシアキに近づいてきた。
声にならない悲鳴を上げ、ヨシアキは後退る。
「だなぁあ、いきますかあぁ」
何かがヨシアキの足を掴んだ。
コメディアンのように、まっすぐ後ろに倒れる。
したたか後頭部を打った。
身体を起こすと、〈女〉が上にのしかかってきた。
「やめろっ!」
〈女〉の肩に手をあてた。
指がずぶずぶと肉の中に食い込んでいく。慌てて引き剥がそうとするが今度は離れない。
どこか笑い声にも似た悲鳴をヨシアキは上げた。
仰向けにまた倒される。
あっと言う間にズボンが脱がされていた。
ブリーフも剥ぎ取られている。
「なにしましょう」
言いながら〈女〉は、ヨシアキの足首を持ち上げた。自分の両膝《りようひざ》で頭を挟む。
下半身裸になったヨシアキはエビのように畳まれていた。上から〈女〉の巨体がのしかかっているので、尻《しり》を露《あら》わにしたその姿勢から逃れることが出来ない。
「そうれ」
無表情でそう言うと、〈女〉は腰をヨシアキの尻にぶつけてきた。
ぬるり、とした感触があって、肛門《こうもん》から白い触手が入ってきた。
「やめろ! 頼むよぉ。やめてくれよぅ」
泣いていた。
が、〈女〉はヨシアキの懇願の意味を理解しているとは思えなかった。
無表情に腰を揺する。
腸がぎゅうと引っ張られてひきつる。
あまりの不快さにまた嘔吐しそうになった。
「なんだよぉ。いったいなんなんだよぉ」
頭の中を咀嚼《そしやく》されているような音が聞こえた。そうだそうだ、この音は。
失いそうになる意識が、その音のあまりの不快さに呼び戻される。
「ヨッシー、いい顔してるじゃん」
花梨がそこに立っていた。
にやにや笑いながらガムを噛んでいる。
その首が折れている。
曲がり青黒く膨れあがった首の上で、花梨はガムを噛み続けていた。噛みながら言う。
「あたしさあ、何でかやってる最中に男の腹を蹴《け》りたくなるんだよね。凄《すご》くむかつくんだよ。どうしてかなあ。腹を蹴ったら気持ちいいだろうな、とか思ってんだ。どうしてだと思う」
何を言っているのかヨシアキには理解できない。ただひたすらガムを噛む音だけが頭の中に聞こえている。
「おちゃでぇすか」
言いながら〈女〉はますます激しく腰を振る。
腹の奥を爪で掻きむしられるような激痛がした。
声にもならぬ悲鳴を上げる。
尻からだらだらと熱いものが流れ出てくる。
裂けた裂けたなんか裂けた。
涙を流し唇を噛みしめて痛みに耐える。
が、耐え切れるものではない。
ひぃいい、と声が漏れる。
「いいよぉ。その声待ってたんだよ」
見ると監督が真上から撮っていた。楽しそうにレンズをヨシアキの顔に近づける。
「なんだよぉ。おまえたち、なんなんだよお」
「死んだ人間さ。見りゃわかるだろ」
監督は頭が半分欠けて、中から白く脳髄がのぞいていた。
「おまえももうすぐこっちにくるんだけどね」
ひぃぃ、とヨシアキはまた弱々しく泣いた。
「いやあ、これでいいドキュメントにようやくなるかな」
どういうことですか、監督。
涙の浮かぶ目でヨシアキはそう訴えた。
「死ぬときにね、死んでゆくやつに、その生涯を見せてやるわけよ。ほら、走馬燈のように、ってやつさ」
監督が笑った。花梨が笑った。ウララが笑った。〈女〉までが空気が漏れるような音をたてて笑っている。
「そのためにこっちの世界でおまえの一生をドキュメントで撮ってたわけよ、俺たち。ずーっとさあ、おまえが生まれてからここまでずうーっとな。でもさあ、おまえの人生安過ぎ。編集したら使うところないぐらいだよ。だからちょっと最期に盛り上がりが欲しいって思ってさ」
めりこみそうなほど縮んでしまったペニスと、その下に硬くクルミのようになっている陰嚢《いんのう》を、〈女〉が弄《もてあそ》びだした。
「結構この辺がおまえの人生においてクライマックスな感じするだろ、おまえも」
ヨシアキは子供のように泣きじゃくっていた。
「さて、そろそろいってみようか」
〈女〉が触手を引き抜き、ヨシアキから離れた。
上半身しかないウララが、はみ出した眼球を眼窩《がんか》に押し込めてから言った。
――霊界とかのこと、バカにしちゃだめだよ。
「さっ、どうしたよ、ヨシアキ。今の内に逃げないでどうするんだよ」
泣きながら、ヨシアキは立ち上がった。尻の間に何かを挟んでいるようだ。わずかに身体を動かすだけで腹の中が疼《うず》く。
「ヨッシー、走って」
ガムを噛みながら花梨が言った。
――走って、ヨシアキ君。
ウララの声だ。
「走るんだよ、ヨシアキ」
監督が言う。
入ってきた扉はすぐそこにあった。
よろよろと、ヨシアキは足を進める。
人魚姫が味わったかのような苦痛が一歩毎に生じた。
ようやくノブに手が掛かる。
その肩に手が乗った。
ひぃ、と情けない声をあげヨシアキが振り向く。
監督が楽しそうに笑っていた。
「ほらこれ。後は自分で撮ってくれ。いい絵頼むよ」
ビデオカメラを渡された。
ヨシアキはそれを受け取る。
「ありがとうございました」
〈女〉が抑揚のない声で言った。
扉が開いた。
そこに闇が広がっていた。
生暖かい闇だけがそこにあった。
ヨシアキは走った。
走っているつもりだった。
だがすぐに、自分が走っているのか横たわっているのか、そんなことすらわからなくなってきた。
ただ不快な、生暖かい闇の中にぶらりと吊されているような感覚だけがあった。
そして手の中にビデオカメラがあった。
そうだ、カメラだ。
自分に向かってカメラを向ける。
何か気の利いたことを言わなければ。
ヨシアキはそう思った。
だが頭の中には何一つ言葉が出てこなかった。
いや、ただひとつだけ浮かんだ言葉があった。それがエンディングに相応しい言葉かどうか、彼には判断できなかった。監督がいればなあ、とヨシアキは真剣に思った。
が、監督はここにはいなかった。
仕方なくヨシアキはさっきから頭の中でグルグル回っている言葉を口にした。
「糞《くそ》みたいな人生」
そしてずいぶん苦労して、そこにあるはずのレンズに向かって、笑みを浮かべた。
誰にも好かれるはずの満面の笑みを。
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ファイヤーマン
サヤカ
1
虫のようなものかもしれないね。
サヤカは。
ごそごそ這《は》ってたりしたら気になるし、ようするに目障りってことなのかな。やっぱりみんなは叩き潰《つぶ》してみたくなるのかもしれない。叩き潰すときっとすっきりするのだろうな。どっちにしたって虫にはなりたくないのだけれども。あっ、でももしかしたら虫になるのもいいかも。少なくとも人のままこのまま生きてるより。
すごく絶望に似ているのだと思う。私の朝は。とてもいやなことの始まりを、それが何かわからないうちから感じている。布団のぬくもりとか、朝日とか、そんなものが私を出迎えに来ているのだけれど、そんなものがみんなその皮の下に米粒みたいにびっしり赤黒いニキビみたいなものをつくっているのだと思う。皮はパイ生地みたいにぱさぱさして壊れやすく、それが壊れたらその下のニキビがイヤな感触で潰れるんだよ、きっと。
朝だ。
布団から本当は出たくない。頭がふらふらするし、手足がなんだか冷えている。膝《ひざ》を抱えて目をつむって、朝じゃない振りをしていたらお母さんが起こしにきた。
言おうかと思う。
最近では毎朝言おうかと思う。
学校なんか行きたくないんだ。
行くのはとても怖いんだ。
「おはよう」
ちょっとだけ不機嫌な声で私はそう言った。
それが精一杯。
ごそごそと着替えてごそごそと食事してごそごそと出ていく。やっぱり私も虫なのか。虫なら虫で、あの機械みたいな虫はきっと何も考えていないだろうから、何も考えずに毎日が過ごせればいいのに。いっそのこと虫になってがさごそ這い回って誰かに潰されるのがいい。
潰されたい。
たとえば今、目の前をすごいスピードで走っている車に飛び込めば、それで潰れてしまえるのに。しくじった粘土細工みたいに、アスファルトにへばりついて終わりなのに。
終わり。
私はその言葉に憧《あこが》れている。
終わりが来ないかな。
何もかも終わらないかな。
突然の心臓の発作とか何かで、ここでのたうち回りながら死ぬんだ。そんな終わり。代わりに世界が終わってもいい。どっちでもいい。私には変わりないのだから。
サンタさんに頼んでみてもいいよね。終わりくださいって。
死にたいけど死ねない。
どうしてだろう。なんだか悪いような気がするからかもね。お父さんもお母さんも私が何を考えているかなんて知らないしもしかしたら知りたくないかもしれないから、だから私はとても楽しそうに、とまではいかないのだけれど、それでも一生懸命生きているような、ちょっと明るめの人生を送っているように見せておかなければっていつも努力しているのだし。だって可哀想だもの。ああ、嘘だ嘘だ。可哀想なのはお父さんでもお母さんでもない。私が可哀想なのだ。ん? そうかな。本当に私は可哀想なのだろうか。むむむむ、可哀想かもしれない。可哀想かもしれないけれど、それよりも惨めだ。そうか。可哀想であることが惨めなのか。
人だから惨めだ。
人でなければ良かったのに。
歩道橋を渡る。
ここから落ちれば、それで終わるはず。終わらせろ終わらせろ。そう思うのだけれど思うだけ。そんなことすらできないことがやっぱり惨めだ。うんうん、やったことはあるよ。一度マンションのベランダに出て柵《さく》を越えてみた。
怖かった。ものすごく怖かった。だからもう一度ベランダに戻って泣いた。
歩道橋を渡りきればすぐに学校だ。伝統ある私立の中学校。
学校はすぐそこにある。
学校がある。
そこにある。
うんざりだ。
黒い集団。喪服に似てるけどもっと肉臭い服。肉臭いスニーカー。肉臭いみんなの影。
おはよう、とか、うっす、とか、ようっ、とか。もちろん無言も。
校庭からちょっと上を見る。
屋上から誰かが植木鉢を私の頭の上に落としてくれるかもしれないから。そんな奇特な人間が現れたりするかもしれないでしょう。
上履きに履き替えて廊下を歩く。木の廊下だ。一階の廊下は砂の粒を足の裏で感じる。
ざらざらざらざら。
不快だよ。それはなんだかとても不快だよ。錆《さ》びた小さな頭を踏みつけているような不快な。
階段を上る。木の階段だ。手すりも木で、それは近所の商店街の角にある地蔵の頭みたいにつるつるしている。みんなの手垢《てあか》で磨いたんだ。汚れて剥《は》がれた皮膚や指先の脂や、もしかしたら血とか反吐《へど》とかそんなものでテカテカ光っている手すりを指先でトコトコ触りながら三階まで行く。
私はB組でその扉を前にして息を整える。あまり長い間ここでじっとしていたら目立ってしまうから、そんなに長い間じっとしているわけにはいかないのだけれど、それでも私はここで息を整える。何か叫びそうになってしっかり手を握る。指が白くなっているんだよ、きっと。でもそれを誰にも見せてはいけない。
さあ、開こう。
もう限界だ。
きっと硫酸の入った大きな壺《つぼ》に飛び込めと言われたらこんな感じだろうな。
がらがらと引く。
壁が裂ける。
向こう側が見える。
ちょっとだけ視線が私の近くに集まったり離れたり。砂粒を掛けられているみたい。みんなが少しずつ手に持った砂粒を私に掛けている。
お願いだから見ないで欲しい。
この願いは叶《かな》えられることが多くて、みんなが私から興味を失うまでの時間は短い。
何でもない顔で机の前にいく。
見ると机の上にはいつものように兎にあげる野菜くずが乗せてあった。
どうして抗議しないのだろう。もちろんそれにはワケがある。抗議したことだってあった。でも抗議したらそれはたちまち抗議ショウになる。ショウを見せるのが癪《しやく》だから、何も感じない振りをする。何も見えていない振りをする。そうだよね。わかっている。
「サヤカ!」
その声にびくりとする。びくびくすることなんかないんだ。でも私はその声の主の方を見ない。見なくてもそれがショウコだということがわかっている。ショウコは虫いじりが好きなのだ。好きというのは少し違うかも。彼女もそれを嫌がっているのかも。私にはわからない。私にわかるのはサヤカのことだけ。
サヤカサヤカサヤカ。
ショウコが呼んでいる。ショウコたちが呼んでいる。彼女たちは仲良し。でもそれなら私だって仲良し。みんなは私をショウコの仲間だと思っているはず。ショウコはこんな遊び方をするしサヤカはそれを受け入れる。
サヤカはいつものように無視をする。無視をしようとしてみる。
無駄だ。
無駄だってこともわかっている。
相手になるまで、何か反応があるまでショウコたちはいろんなことをするのだから。
ああ、またあの子だ。ミユキだよね、確か名前は。目立たないようにじっと見ているあの目。何であの目が嫌いかというとあれは同情の目だからだ。哀れみの目だからだ。あの目で見られるととたんに可哀想な子に成り果てる。ミユキが可哀想な子を創り出す。
私は、サヤカは、きっとショウコのことは嫌いじゃないはず。好きでもないけど。嫌ったり憎んだりはしていない。憎むならミユキだ。
授業がある。
先生が来る。
先生が出ていく。
その間に背中に唾《つば》を吐きかけられていた。
授業がある。
先生が来る先生が出ていく。
その間にコンパスで突かれていた。
もちろん私に痛みなどないけれど心は痛む。とても寒い日にひび割れた指先みたいに痛んでいる。そのひび割れには泥が詰まっていたりする。血が滲《にじ》む。
昼休みが始まるとサヤカは廊下に呼び出される。
汚いとか臭いとか言われて突つかれてぐるぐる回されて腹を蹴られて髪の毛を引っ張られて教室に戻る。机の上とか椅子の上とかにマーガリンが塗られてある。本当にショウコたちもいろんなことを考えつくものだ。
弁当箱を開くと真っ白だ。チョークの粉が乗せてあるから。食べずにすませたいよね。死んでたら食べずにすむよね。でも私は生きている。生きているからお腹が空く。
弁当の上に乗った白い粉をごみ箱に捨てて、それから上の汚れたところを箸《はし》ではらはらこそげ落として、それで弁当を食べるのだよね。
くすくす笑う声。
あからさまに笑う声。
豚だ豚だと大声で。みんなで。
授業が始まる先生が来る先生が出ていく。何かされているだろうけど私はもう見ない感じない。ただシャーペンの芯《しん》をきちきちきちきち出しては折り出しては折り繰り返し繰り返しきちきちきちきち。
帰ろう。もう帰ろう。
一日はもうすぐ終わる。
2
晩御飯を食べる。
もう、本当に嘘のようにすごい量を食べる。胃に穴が空いているように食べる。豚の生姜《しようが》焼きとご飯ときざんだキャベツと揚げの入った味噌汁とご飯とごぼうのキンピラと、それだけ食べる。まだ足りない。冷蔵庫をあさってプリンを食べる。よく食べるなあと笑いながらお父さんが言う。ほんとうに育ち盛りでとかなんとかお母さんが言う。それから部屋に戻ってポッキーとかコアラのマーチとかを食べる。
私は我慢している。
吐きたくなるのを。
両親が風呂《ふろ》に入ったり食器の後片付けとかしている間に、トイレに飛び込んで指を喉に突き入れる。
何もかも出てくる。
恥ずかしくなるぐらいすごい勢いだ。
目には涙が滲むけど、そのときだけは気分が少し楽になる。そのときだけは。
それから私もお風呂に入る。
どうやったら死ねるんだろうといろんな方法を考えながら浴槽に浸かっていると、時々泣いてしまうときがある。
その夜もそうだった。
声を出さないでずっとしくしく泣いている。膿《うみ》みたいに涙は後から後から出てくる。浴槽の中で私は何度も顔を拭う。湯がぬるくなるまでずっとそうしている。
そして右を見たらそこに立っていた。
消防士だ。
消防士だと思う。あの、なんて言うのか、火事を消すときに着るユニフォームを着ていたから。でも確かあれは銀色だったはずだ。それが、その消防士の着ている服は真っ赤だった。真っ赤でピカピカ光っていた。エナメル? エナメルの赤い消防服を着た消防士。
――じゃあ、君は、無罪。
消防士は言った。
どういうことかと私が尋ねる前に消防士は話を続ける。
――アブラムシという虫がいるんだ。ゴキブリとは違う。小さな小さな緑色の虫だ。こいつはケツから甘い汁を出してね。それで蟻を養うんだ。いや、逆か。甘い汁で蟻に養ってもらう。こいつは草木を食い荒らす害虫でね、園芸家はこいつを見つけたら速攻で殺虫剤を使って殺すんだ。でもな、こいつらが枝や葉の裏にびっしりとくっついてるのを見たら、それが益虫であろうと害虫であろうと関係なく殺したくなるんだ。わかるだろう。
消防士は腰をかがめ、私に顔を近づけて笑った。きれいな顔をしていた。澄んだ水みたいになんにもなくて、とてもきれいだ。
――結局薄汚いのは群れることだ。群れると生理的に薄汚い何かになってしまう。そういうことさ。だから君は無罪。私は君の味方だよ。君を救うためにここに現れた。それは君にもわかっているよね。
私はうなずいた。どうしてか彼のことが理解できたような気がしたからだ。
――じゃあ、これを渡しておこう。
消防士は銀の小さなライターを私に渡した。
――もし君が私を必要になったら、このライターで火を点けるんだ。わかるね。そのときには私がすぐに駆けつける。必ずね。
消防士はすっと立ちあがった。大きな男だった。彼は私を見つめておかしな敬礼をした。
私も真似をして見せた。
消防士はにこりと笑って、お風呂から出ていった。
手を見たら、ライターがなくなっていた。夢かなと思った。でも夢にしてはあまりにもはっきりしていた。お風呂から出て、なんだか少しだけ気が楽になっていることに気がついた。何がどう楽なのかはわからないのだけれど。
それで部屋に戻ってパジャマを着て人間椅子を聞きながら日記をつけていたら机の上に銀のライターがあった。何の飾りもない素っ気無いライターだけれどもずっしりと重い。頼りになるような重量だったので嬉しかった。眠るまでの間は少しだけ、本当に少しだけ楽になっていた。朝さえこなければと思いながら、私は眠った。でも朝はくるのだけどね。
翌朝私はライターをカバンの中に詰め込んで学校に行った。学校に行ってからポケットに入れた。時々それを握るとちょっとだけほっとできた。
それが悪かったのだろうか。
昼間に呼び出されていた。
体育館の横の倉庫だ。ショウコはわざわざ丸めたマットを出してこさせて、それに腰かけてニヤニヤ笑っていた。そうだね。これは冗談なんだろうね。きっとそうだよね。冗談なんだ。彼女たちにとっては。
私はぎゅっとライターを握り締めた。
両手首をつかまれる。
両足首をつかまれる。
スカートをまくりあげられた。ブラウスを破かれる。下着がはぎとられる。
踊ってよ。
ショウコが言った。
仲間たちが拍手する。
パラパラがいい。
ショウコが言うとみんなが笑う。
群れる虫は群れるから薄汚い。
そうかもしれない。消防士の言ったことは正しかった。それならこのライターだって正しいはずだ。
そこからあまりはっきりとは覚えていない。気がつけば公園にいた。家の近くの公園なのだけど、どうしてだかそこからミナヨの家が近いことにそのとき気がついた。そのときまで気がついたことがなかった。不思議だな。
私の手の中にライターがあった。
夜だった。
夜は少しだけ優しい。何かを許してもらっているような気にさせてくれる。
私はミナヨの家に行くことにした。ミナヨは下着をはぎとった。私ははっきりそれを見ていた。見ていたような気がする。毛が生えている部分は見たくなかった。そんなことは関係ないや。
私はミナヨの家の前にいた。
そしてライターを点けた。
炎が小人のように踊る。
――やあ。
消防士が笑っていた。
――この子が許せないわけだ。
消防士は二階を見上げて言った。
許せないわけでもないし、憎んでもいない。でも……。
――厭《いや》なんだ。不快なんだ。じゃあ、こうしようか。ちょっと、貸して。
消防士はライターを手にした。火は点《とも》ったままだ。
彼が息を吸う。唇をすぼめてひゅうううううと音を立てて息を吸う。
その胸がふくらむ。どんどんふくらむ。風船みたいにいくらでもふくらんでいく。御伽噺《おとぎばなし》の蛙みたいにふくれあがって、赤い消防服が弾けそうに真ん丸くなるぐらいふくらんだ。
そして腕を前にまっすぐ伸ばした。
その手にライターを持っている。
息を吐いた。
しゅっ、とガス栓を開いたような音がした。
爆発、そして真っ赤。
まっかっか。
赤く太い炎の柱がびゅうううとミナヨの家にぶつかる。
ばりばりばりばりと音を立てているのは燃えているミナヨの家。
消防士の姿はいつのまにか消えていた。
私はライターを手にして、しばらく炎を見ていた。
きれいだった。
本当にそれはきれいだった。
3
ミナヨが学校を休んでいる。
火事だった火事らしいと噂が広まるのにそれほど時間はかからなかった。両親も本人も姉妹も逃げ遅れて焼け死んだのは火のまわりがあまりにも早かったから、などという噂が耳に入ってきたのはあの日から三日もしてからだ。
放火の話は初めからあった。それが恨みだとか復讐だとか言われるようになったのはユミの家が全焼してからだ。
その夜私はお風呂に入っていた。学校での変わらぬサヤカの扱いと変わらぬサヤカの態度私の態度。私はつらくない。そう思っていた。なんだかかちこちに凍ったようなところが出来て、それはちょっと痛いけどそれだけで、前よりも多少はすこし良くなっていた。なっていたような気がしていた。ところがそうではなかったようで、私は何かを我慢していたのだろう。
ミナヨに対して罪の意識はない。けれど正しいことをしたという意識もない。私は結局ショウコと同じことをしているのだろう。生き延びるために。違うか。生きていることを知ってもらうために。でも、誰に。
で、その夜私はお風呂に入っていたのだ。それからお風呂を出たのだと思う。あまりはっきりとは覚えていない。気がついたら、あまり普段は着ないようなトレーナーとジーンズでユミの家に来ていたからだ。手にはライターを持っていた。
ユミはあのとき笑っていた。笑いながら棒で突ついていた。胸とか脚の間とか。
あれ、そんなことは覚えていなかったのに。それとも覚えていたのだろうか。
消防士はピカピカの服で私の前に現れ、あっという間に炎で家を包んでくれた。真っ赤なラッピング。嬉しいプレゼント。私はミナヨにもそうだったけれど、ユミにも悪いことをされたと思っていない。だから恨みもない。だから復讐するというような気持ちもないし、ざまあみろという喜びもない。
でも炎はきれいだ。
これだけはいつまでも見ていたい。
でも消防車が来たり、野次馬が来たりする前にはここから立ち去らなければならないのがつらい。私が火を点けたのではないけれど、それでも共犯か何かにされてしまうだろう。そんなことはイヤだ。だから私は逃げる。ちょっとだけ炎を鑑賞して、そして逃げる。本当はミナヨのとき、少し離れたところから見ていたのだけれど、なんだかそこら中の写真を撮ってる人がいて、前に、こうやって野次馬の写真を撮っておいて、その中にまぎれて火事を見物している放火犯を捕まえるのだと何かで読んだか聞いたかしたことがあった。
それじゃないの、とか思うと怖くなって逃げた。それに、どっちにしてもこの辺りは家から離れていないのだし、知り合いにあうことだって考ええられるし、同級生だっていっぱい住んでいるのだから、やっぱりぐずぐずしていてはいけないのだろう。
家に帰ると、両親が心配した顔で待っていた。怒られるかと思ったら、怒られることはなかった。もしかしたらあの赤い消防士に今も守られているのかなと思うとちょっと嬉しかった。夜もすぐに眠ることができた。
それでも朝は来たのだけれど、いつもほどはイヤではなく、これもきっとあの消防士のおかげかもしれないと、私はライターを手にして学校へ行ったのだった。
そうしたら復讐の話が出ていた。
ミナヨもユミもショウコのグループだ。それが二人とも火事で焼け死んだ。放火らしい。そうなると、その犯人捜しが学校で始まるのは当然のことかもしれない。
ショウコは何人かの子を相手にしていた。
その何人かの子が、何度も呼び出されることになった。サヤカだってそうだ。
でも泣いてもわめいても、鼻汁や涎《よだれ》でぐちゃぐちゃになっても、いろんなところから血を流しても、それでも何もしていないと言い続けた。そうだよ。だってサヤカは何もしていない。したのはあの赤い消防士なのだから。
ミユキは見ていた。
帰ってきたらじっと見ていた。
どう見たって酷い格好になっているのを、じっと、こそこそと、覗《のぞ》き見て溜息《ためいき》ついて勝手に同情していた。もしかしたら少しは恐れているのかもしれない。
憎んでいた。
ミユキのことだけは本当に憎んでいた。
だから彼女が何とかするべきじゃないかな、と私に言ってきたとき決意した。
彼女を燃やしてしまおうと。
どうしてそれを今まで思いつかなかったのだろう。脅かして脅かして、そして最後に酷《ひど》い目にあわせてやろう。そうされるだけのことをあなたはしたのだから。
それには順番がある。
まずはショウコたちからだ。
彼女らの罪は群れたこと。
でもミユキの罪はもっと酷い。
彼女は視線で人を豚よりも最低の怪物に創り上げるのだ。
そうだ。
ミユキは最後にしよう。
ゆっくり、ゆっくり、ミユキを苦しめることを考えていたら、まだ学校は終わっていないのに愉《たの》しくなってきた。こんなことにも赤い消防士の力が及んでいるのかもしれない。
私はそっと笑った。
授業が終わるベルが鳴った。
ミユキ
1
ひどいよね。ひどいよね。だってみんなでよってたかってサヤカ様のことを虐《いじ》めるのだものね。あれ、虐めるって字はいいなあ、凄《すご》くいいなあ。虐められてる感じがすごくするものなあ。虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐虐ああ、うっとりだ。
サヤカ様は孤高の人だ。いつも一人でいるし誰も彼女を理解できない。理解できるのは私だけだ。そう、私だけ。私はサヤカ様の崇拝者。彼女のたった一人の理解者。彼女のお腹の中には綺麗《きれい》なものがいっぱい詰まっている。アンティーク・ドールにミニチュアのグランドピアノ、紫の百合《ゆり》、フェイクの毛皮、サーティーワンのミントチョコ、斑猫《はんみよう》、紫の痣《あざ》、珊瑚《さんご》蛇。どれも外に出てくることが出来なくてお腹の中でウオウサオウ。
私は見ている。彼女を見ている。解剖される蛙のようにMに脚を開かれて棒で突つかれてるのを。男子のたくさん見ている前でアマリリスを全裸で歌わされたり、馬鹿男子の一人がそれにオシッコかけたり。
泣いたり喚いたりするサヤカ様はそれでも美しい。たとえばマリンブルーのインクはどんな容器に満たしてもマリンブルーであるようにね。サヤカ様が今どのような容器に入っていたって、その本質がサヤカ様であることに変わりない。そしてサヤカ様の本質は絶対的に美しい。そのことにどうしてショウコたちは気がつかないのだろう。
勿論《もちろん》頭が悪いからだ。馬鹿だからだ。だから奴らは醜い。醜い奴らが何をしようとそれでサヤカ様の本質が穢《けが》れることはない絶対にない。
わかんないんだ。そんなこともわかんないんだ。頭が悪いから馬鹿だから醜いから。
いずれ時が来る。それを私だけが知っている。彼女のお腹の中で綺麗なものに包まれて降誕を待っている天使の姿が私には見える。それは熾天使《セラフイム》か智天使《ケルビム》か座天使《トロネス》か、いや、彼女ならもしかしたらガブリエルやラファエルやミカエルを降臨させるかも。でもサヤカ様に似合っているのはセラフィムかもね。なんとなくそんな気もする。いずれにしろどの天使が降臨したって、それは清浄な息のひと吹きで悪い奴らを皆殺しにしてくれる。それがあいつたちにはわからないんだ理解出来ないんだ。頭が悪いから馬鹿だから醜いから。
ショウコ、ミナヨ、ユミ、ユウ、セイコ。あいつらは真っ先に殺されるんだ。それもきっとすごく残酷な方法で。たとえば手足を打ち砕いて車輪に括《くく》り付けたり、両足を開いてさかさまにハリツケにされて、脚の間から鋸引《のこぎりび》きとか。違う違う。これは天使の刑罰なんだから、そんなありきたりのニンゲンの処罰なんかじゃないんだ。やっぱり天罰なんだもんね。内臓がゆっくりと焼けて爛《ただ》れてぐずぐずになって穴という穴から流れ出てくるとか。あっ、爛れるっていい。爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛爛はあ、気持ち良い。そうだそうだ、奴らが頭の悪い醜い馬鹿な奴らがどうやって天使に惨殺されるかだ。躰に虫の卵をうえつけられて、それが順番に孵《かえ》って、内臓を食い荒らし引き千切り筋肉をもりもりと食べながら皮膚の下に入り込み、そこをもぞもぞ動き回るんだ。それから脊髄《せきずい》に進入して動けなくなって、寝たきりだけども痛みと痒《かゆ》みに眠ることも出来ずに狂うことも出来ずにずっとずっと苦しむんだけど死ぬのは八十歳とかね。そうなったら私はビデオカメラで撮っとくんだけどね。奴らの苦しむ様子を。それをでかい液晶の画面で私とサヤカ様と天使と三人で甘いドーナッツをつまんで指をべたべたにしながら大笑いして観るんだ。観るのに八十年かかったら厭だから早送りでね。
油と砂糖でべたつく指は、時々天使に舐めてもらうの。私はサヤカ様の指を舐めてきれいにしてあげる。
最高だな。
さて、今日はマリリン・マンソン聞いてから寝よっと。
より良い悪夢を。
2
大爆笑。
ミナヨが焼け死んだよ。
火事で家が全焼。一家丸焦げ。ミナヨは日焼けサロンに行く必要がなくなりましたとさ。今度は地獄で焼かれる番。
天罰だ。
天罰?
いやん、これってもしかしたらそうなのかしらbyピンクレディーって誰も知らないと思うけどね。ああああ、安物のぺらぺらしたミニドレスを着て腰を振る中途半端に太った二人の女の子って素敵。凄く悪趣味なセクサロイド。ああなるとある種の変態かも。変態の為に造られた六〇年代風味のセクサロイド。きゃあっ、素敵。昔の日本人ってあんな体型を許したんだ。ミナヨもあの時代ならアイドルになれたかもよ。でも残念ながら今ごろはこんがり焼かれて地獄の宴のメインディッシュになってるかな。それでもあの阿呆《あほ》女にしてみれば上出来だけども。
あれ、何の話だっけそうそうこれって天罰。
もしかしたらサヤカ様は天使を降臨させておしまいになられたのかしら。
見れなかったよ。
まあいいや。きっと天国ではどこかでモニターチェックかなにかしてて、後で私とサヤカ様には見せてくれるだろうから。
焼け死ぬってどんなだろう。ちょっと火傷《やけど》しても痛いよね。ちりちりと跡がいつまでも。煙草の火を押しつけたことはある。あれやるとすっとするんだもん。押さえつけるまでがいいのよ。痛みを予感してるあのときが。ぎりぎりぎりって弓を引き絞る緊張感があるんだよね。あんまり緊張して胃がぎゅうって縮んで吐きそうになることもあるけれど、その辺りぎりぎりで緊張してて、じわりと熱さを感じてからぎゅうううって押しつけたときの弾けたみたいな痛みが大好き。ほっと息が抜ける感じ。それに皮の焦げるにほひ[#「にほひ」に傍点]。あれも好き。爪や髪の毛が焦げるのと似てるけどちょっと違うのは、もしかしたらあの緊張が痛みとともにぽこりと抜けていく気持ち良さと関係があるかもしれない。そんなときに同時に嗅ぐからこそ、良いにほひ[#「にほひ」に傍点]だと思えるのかも。煙草の煙の臭いも一緒にしてるんだけど、あれも普段は好きじゃない臭いで、特に隣で吸われたら殺してやりたくなるほど厭な臭いなんだけど、それがあの時だけは心地よい。
ということはまさかミナヨも気持ち良く焼け死んでいったってことかな。脳内麻薬出っぱなしで。それだと悔しいけど。そんなことはないだろうな。何しろ神の計画だし。
おそらく神によって脳内の快楽物質がだらしなく漏れ出さないように栓をされてたに違いない。だから痛みは痛み、恐怖は恐怖、苦痛は苦痛として純粋に感じてただろうね、息の根が止まるまで。
見たかったなあ。どんなだっただろうか。
自分が焼けるにおいを嗅ぎながら、熱湯浴びせられたような苦痛に身悶《みもだ》えし、暴れ……両手をぐるぐる馬鹿ピッチャーみたいに振りまわして、助けてとか怖いとか痛いとか、それにもしかしたらお母さんとかヒロくんとか、あっ、ヒロくんとは別れたんだっけ……まあいいや、そんなことどうでも。とにかく何か叫びながら、その口とか鼻からも炎が噴き出して、出来そこないの中国の獅子舞《ししまい》みたいになって、火を消そうとそこら中転げまわって、それでよけいに回りに火をばら撒《ま》く頭の悪さ。脚もばたばたさせて、もう関節が砕けるほどあっちにこっちに脚をばたばたさせて。
そういえば昔父さんが猫を轢《ひ》いたときには興奮したな。父さんは出てくるなといったけど、勿論私は外に出て、そいつを見た。
黒猫だった。
黒猫だったけどそのときは赤黒猫だ。
内臓はちょっとイタリアンで、そしてなによりもでたらめに痙攣《けいれん》して震える脚がかっこよかった。しばらく私はあれの真似をしようとして脚ががくがくに疲れたものだ。ずっと昔の話なんだけど。
そうそう。ミナヨは絶対にあの猫みたいに脚をがしゃがしゃ動かして、ちょうど変形する物体Xみたいな、そういえばあれも火炎放射器でやられてたな、ぐわあああ、とか叫びながら。ミナヨもそれぐらいの芸を断末魔には見せてくれたのだろうか。最後には私たちがそれを見物するんだから、多少の芸は見せてもらいたいもんだ。
芸といえばせっかくの葬儀だったのだから、そこでインド歌謡でも流して親族一同でミュージカルを始めてもらえたらよかったのに。
湿っぽいだけの薄ら暗い葬式。とはいうものの、私だって涙は流したけどもね。どこで誰が見てるかわからないし、同級生だっていっぱいいたし、あまり目立たないように生きるのは生活の知恵だからね。だからそれほど派手にならないように俯《うつむ》いて鼻すすってハンカチで目を押さえてきました。
黒焦げのミナヨが突然立ちあがって斎場騒然っとかにはならなくて、私は家にこうして帰ってきた。
そうだ。
帰り道で前を歩いているユウを見つけた。ユウはショウコのグループの一人だ。つまりは天使のターゲットの一人。彼女に声を掛けたのはちょっとばかり可哀想だと思ったからかもしれない。彼女はただ気が弱いだけだ。怖いからショウコたちと一緒にいる。いつもあまり楽しそうじゃない。それでもショウコから離れないし離れる気もなさそうだ。それだけならやっぱり気弱な馬鹿なのだけれど、それでもやっぱり声を掛けたのは、ユウには私と同じような血が流れているかもしれないと思ったからだ。だって彼女がサヤカを見る目はちょっと尊敬入ってる。もしかしたら彼女も心の中でサヤカ様と呼んでるかもしれない。そんなことを思ったことがあるからだ。
それで声を掛けた。私が名前を呼ぶと兎みたいにびくりとしていた。そういえば小学校のとき兎の飼育係をしていたことがあるのだけれど、あれはすぐ死ぬ。ちょっとしたストレスで死んじゃう。別に変質者の手を借りなくてもね。それに草食なのだけれど、子育てをしているママ兎を驚かすと、ママは小さな毛も生えていないもぞもぞ動くピンクの塊を食べちゃう。私は見たんだ。というか、私がママ兎を驚かしたんだけど。
ああ、兎、兎。
何見て跳ねる。
ってわけで、ユウはびくりと跳ねた。それから私を見ると厭そうな顔をした。私はショウコが嫌いだしその仲間も嫌いだけど、やっぱりこいつも嫌いだと思った。でも、それでもちょっとだけは可哀想かも、と思っていた。だから話をした。天使のことをいきなり話すようなことはしない。それがどういうことかわかっているからだ。
話はユウのことをちょっぴり。それからちょっとだけサヤカ様のことを言った。あんまり彼女にかかわってると大変なことになるんじゃないかって。ユウはすごく曖昧《あいまい》な返事をしてさっさと私から離れていった。
まあいいさ。私に彼女を助けなければならない義理はないのだから。でももしかしたら彼女は私の仲間かもしれないとは今でも思っている。だからいざとなれば協力はしてもらえるかな、とか。何の協力だかはわからないけど。
3
ユミが焼け死んだときはかなりの騒ぎになった。いくら頭が悪くても、ショウコのグループから二人目の焼死体が誕生したんだからその因果関係ってやつに気がついてもおかしくはない。
みんなだって噂していた。私だって噂した。いろいろと情報を流した。全部嘘だけど。すぐに次は誰かって話になった。ドラマでもマンガでも小説でもゲームでも、やっぱりボスは最後に殺される。そう考えると次はユウかセイコだ。
サヤカ様が尋問から帰ってきたときは壮絶だった。いつもは顔に傷をつけるのは彼女らなりに気を使ってしないのだけれど、今日は右眼が腫れ上がっていた。紫にぼっこりふくらんで白目を剥《む》いていた。で、唇が切れていた。赤く赤く血が流れただろうけれども、今はその痕跡が唇の皺《しわ》に埋まって黒くなっているだけだ。でも血は流れたんだよねサヤカ様。
つまりこれはこういうことだ。
奴らは怯えている奴らは恐れている奴らは焦っている。
楽しくて鼻歌を歌うなんて安物のドラマの中だけだろうと思っていたのだけれど、本当にあまりにも楽しいと鼻歌が出て来るんだということがようやく十五歳になってわかった。
それから五日後。
セイコの家が燃えた。大笑いだ。またもや一家全滅。マンションの一室が丸ごと燃えていたらしい。最近のマンションはよく出来ていて、防火対策の為に延焼しないように出来ているらしい。密閉性も高いから酸素不足で炎は大きくならず、ぶすぶすと有毒の煙が吹き上げてみんなは見事にその煙で前後不覚。死んじゃってからも毒煙で燻《いぶ》されていたわけ。ニュースでそんなことを言っていた。毒煙とは言ってなかったけど。
というわけで、セイコの部屋だけが見事に蒸し焼きになったらしい。バナナの葉で包んで上から焼けた石を乗っけたようなものだね。
燻蒸《くんじよう》して即身仏みたいになったセイコ(そのときには名前どおり聖なる子供になっているわけだよね)を見てみたかったのだけれど、さすがにそれは無理だった。だけどストレッチャーで運ばれるセイコは上に毛布が掛けてあったのだけれど、それはおかしな形に歪《ゆが》んでて、まるでちっちゃい子がくちゃくちゃと丸めた針金みたいなのが中に入ってるんじゃないかと思うような毛布の形だった。
そうそう。
私は見に行っていたのだ。
次はセイコの番だと思って、夜中にこっそりと家を抜け出してね。だって私が監督なら次はセイコの番だもん。問題は次をどうするかだけどね。
ちょっとタイミングが悪くて、私が行ったときにはもう家は焼けて野次馬が集まっていた。まあ、私だって野次馬なんだけど、たった一人真実を知っている野次馬。
そうだ。私は真実を知っている。実はこのときまでちょっとだけ(神様許して。本当にちょっとだけなんです)サヤカ様のことを疑っておりました。もしかしたら天使なんかいないんじゃないかって。ところがだ、見たんだな。私ははっきりと見た。サヤカ様が野次馬を後にその場を立ち去るのを。
実はそのとき、サヤカ様も私を見たのだ。
そのときサヤカ様は私に微笑んでくださった。その笑みの美しいこと。片目にはガーゼがバンソウコウで貼ってあったけど、唇もまだ少し歪んでいたけれど、それでもサヤカ様は私を見て微笑んでくださったのだ。ああ、その美しくも神々しい笑顔。
私は感激してしまった。
もう確信。
私はいずれ天国でサヤカ様と、それから天使と一緒にビデオを見るんだ。奴らの焼き殺されるビデオを。もうそれは間違いない事実だ。天の啓示だ。
今日は最高の日だ。
火事も見れたし、セイコの死体も見れたし(上から毛布が掛けてあったけど)、サヤカ様には微笑んでいただけたし。
4
順調だった。
順調なはずだった
放課後だ。
私の靴箱の中に手紙が入っていた。それには茶色い絵の具で(捨ててから思ったのだけど、やっぱりあれは血なんだろうなあ。もっとイヤな物かとも思ったけど、それにしては臭いがしなかったし)文字が書かれてあった。
――ショウコ焼ける。ユウも焼ける。その次がおまえ。
どうして私が。それは変ですよ。おかしいですよ。だって私は唯一のサヤカ様の理解者なのだ。彼女のことを真に理解しているのは私だけ。そんな私をサヤカ様が焼き殺すなんて……。
焼き殺す?
殺される?
死にたくはなかった。私はまだまだ死にたくはなかった。
その翌日、ユウが死んだ。これは今までで一番すごかった。ユウの家は中華料理屋で、一階が店で二階が自宅だ。で、その一階でプロパンが爆発した。裏口を出たところにタンクがあったのだけれど、二階のユウの部屋はその真上にあった。それから厨房《ちゆうぼう》が燃えた。両親の死体は発見されたけど、ばらばらになったユウの死体は見つかりさえしなかったらしい。
日曜日だった。私はその話を友人から電話で聞いた。そしてすぐにサヤカ様の家に向かった。マンションの五階にサヤカ様はいる。私はチャイムを押して遊びに来たと嘘をついた。私は地味で目立たない大人しい子だ。そういう風に見えるし見えるようにしている。サヤカ様のご両親は私を快く迎えてくれた。
サヤカ様は驚いていた。私がサヤカ様に直接話しかけたのはこれが最初かもしれないから無理はない。
どうしてなの。
私は単刀直入に尋ねたのだ。それが一番良い方法だと思ったから。
サヤカさんがやったんでしょ、あの放火。いいの。私はあなたの理解者よ。言いにくいなら言わなくてもいいわ。でも教えて。どうして私まで焼き殺されなきゃならないの。などと訴えていたら涙が出てきた。私は土下座してお願いした。ところが彼女はぽかんと私を見ているだけだった。様子がおかしかった。怯えているのかもしれないと思ったのは帰り道でだ。もしかしたら、サヤカ様は何もご存じないのかもしれない。神様がサヤカ様の願いをきいて、そしてお怒りになられたのかも。しかしそれでもおかしい。それじゃあ、どうして私が狙われるの?
で、考えた。もしかしたら、これってショウコの仕業かも、って。
ありえる。充分考えられる。きっとショウコは私がサヤカ様の理解者だということに気づいたんだ。いや、そこまで気づいてなくても、私がサヤカ様の味方だと思ってるんだ。そして私ならおとせると思ったんだ。サヤカ様が何の為にこんなことをしているのか。私なら白状するとそうだそうだそうに決まっている、ってちょっと前まで思っていたのだけど、どうやらそうでもないらしい。
ショウコが焼かれた。家は全焼だ。ショウコはまだ生きている。でも死んだほうがましだと、親戚《しんせき》が喋《しやべ》っているのを聞いた。葬式の席でそんなことをいう馬鹿が親戚にいるくらいだから、ショウコも可哀想だなどと同情してしまうのは、やっぱり明日は我が身とか思ってるからだろうか。とにかく私は病院へ行った。お見舞いに。本当は真実を聞きに。でもそれどころではないようだった。ショウコは集中治療室にいて、その部屋には簡単には入れそうにはなかった。なんだけど、しばらく見舞い客としてそこらへんをうろちょろして、隙を見つけて入ろうとしたら入れた。
ついてる。
包帯で巻かれてショウコは芋虫のようになっていた。そこら中に金具やチューブやコードがつながれ、ビニールの天幕で覆われていた。再生を待つ研究室の中のミイラだ。ちょっとだけ見える瞼《まぶた》が赤く爛《ただ》れている。
ショウコ、ショウコって私は名前を呼んだ。大声を出せないから大きな声で囁《ささや》く。やれば出来るもんだ。何度も呼んでたら、片目が開いた。焦点がゆっくりと私に合う。私はあの紙切れをビニール越しにショウコに見せた。
ショウコの焼けて歪んだ唇がゆっくりと開いた。何かを言おうとしてるんだ。私はビニールを押して、その顔に耳を近づけた。そしたら彼女が言った。
「わたしも おまえが きらい だよ」
えっ、って言いながらショウコの顔を見たら、焼けた唇で笑ってた。
えっ、どういうこと。やっぱりショウコが私を騙してたってこと? でも、それじゃあ、どうしてショウコがこんなことになるの。それに今ショウコは「わたしも」って言った。誰か私のことを嫌いな人がいるってこと?
それって、誰。
カチカチと音がした。
ベッドの下からその音は聞こえてきた。病院は、特にこの部屋は静かだ。だからその音はすごく耳障りだ。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
私はベッドの下を覗いた。
スニーカーの爪先が見えた。
私はベッドからあとずさった。
「あなたが嫌い」
それが言った。
「一番嫌い」
下から出てきた。ユニクロのトレーナーとパンツ。その子はシャーペンをずっとノックし続けている。
カチカチカチカチカチカチカチカチ。
ぽとりと黒い芯《しん》が床に落ちた。
「ユウ、あなた」
死んだはずだ。
「出かけてたの。私だけあの時間に」
「で、それで――」
「ここで待ってたの。教えてくれたわ。彼が」
ユウが私の後ろを指差した。
そこには誰もいない。
「誰も……いないわ」
ユウが楽しそうに笑った。
「そりゃそうよ。今から呼ぶんだもん」
ポケットを探った。そこから取り出してきたのは銀色のライターだ。
「来て」
言いながら蓋《ふた》を開き火を点《つ》けた。
確かここは火気厳禁のはずだ。ショウコに被せてあるビニールの中には濃い酸素が含まれていて、それで酸素は何もかもすごい勢いで燃やすのだ。だから――。
「駄目よ、ユウ。ここで火を点けちゃ」
「いいのよ。私は彼に許可をもらってあるから」
「彼って」
「あれ? あなたには見えないの? ほら、あなたの横にいる」
私は右を見る。それから左を。誰もいない。私は首を横に振った。
「誰もいないわ」
「やっぱり、見えないんだ」
ユウがまた笑った。
「おまえみたいなイヤな女には見えないんだ。でも私にははっきり見える。赤いエナメルの防護服を着てるの。すごくきれい。でね、それよりももっときれいなのは彼の炎」
「あなたね。あなたが放火した」
「放火? 私はそんなことをしていない。火を放ったのは彼よ。そうでしょ。うん。そうだよね。わかってる」
見えない誰かとの会話をさえぎって私は言った。
「お願い。お願いだから火を消して」
「駄目よ。これがないと彼がここにいられないから」
そう言うとユウは誰かの肩に持たれかかるように首を曲げた。
んふ、っと笑う。
「ねえ、聞いて。私が何をしたっていうの」
「気づいていないのが罪。だから」
そのとき私はユウの隣に真っ赤な何かが現れたのを見たのだが、その次の瞬間には白く白く白く何もかもが白く灰に……。
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怪物癖
手を組み顔の前にある二本の親指の爪をかりかりと噛《か》む。
また高木が、と噂する声が聞こえてはいるのだがそれだけだ。そう、それだけのことだ。気にすることはない。言葉そのものは意味をなさず私の中を通り過ぎていくのだから。小さな細い虫のようなその言葉は、耳から入りミチミチと私の肉を齧《かじ》りながら掘り進み、どこかへと抜けていくのだ。道筋に残した小さな糞が私の頭の中を汚す。その糞が少しずつ溜《た》まりかさぶたのようになり鬱陶しい。
体育教師が失踪《しつそう》した。
みんなは――おそらく教師たちも――私が、高木智子が殺したのだと思っている。そこまで思っていないにしても失踪の原因が私にあると思っているのは間違いない。疑問に思っているのなら言えばいいのにと思うのだが、誰も私にそのことを尋ねようとはしない。みんな黙っている。口を噤《つぐ》んでいる。私を盗み見ては眼を逸《そ》らす。証拠など何もないただの噂だからか。いや、そうではない。みんな私を恐れているのだ。怪物か何かのように。
たとえ黙っていても身体からみんなの言葉が流れ出てくる。
見て見ぬ振りをしながら私の横を誰かが通ると、ナメクジの通った痕のように銀に光る粘液が残されている。教室の中はみんなの唾液《だえき》じみた液状の言葉が満ちている。私にはそれが判る。それが読める。知りたくもないのだけれど。
あの体育教師にしたところでそうだ。
ちょっとしたことでヒステリックに怒りだしたのも、わざわざみんなの見ている前で私の頬を殴ったのも、鼻血を流して倒れた私を罵倒《ばとう》し続けたのも、恐れていたからだ。そうでありながら怯えていない素振りをみんなに見せたかったからだ。
ほら見ろ、オレはこんな女子生徒なんか恐れていないぞ。
私を殴った教師の垂らす粘液は、私にそう語りかけていた。
小さな頃から何か変だと思っていた。
私か世界か、そのいずれかが。
そして両親が、おかしいのはおまえであるという態度をとるのなら、幼い私にはそれが正しいと思う以外に選択の余地などなかった。
ずっと苛められてきた。同年齢のものにもそうでないものにも。大人にも好かれることはなかったし、両親にしたところで私を愛してはくれなかった。
そうさせるものが私にあるのだ。
私はそう思ってきたし今もそう思っている。
確かに私はおかしいのだ。
しかし私がおかしいことを理由に、私以外のすべてがまともだという結論を出せるわけではない。そんな単純な理屈に気がついたのは一年前。
つまり高校一年の夏だ。
この世のありとあらゆるものがへんちくりんなんだ歪《ゆが》んでるんだおかしいんだ。
それがその時私の知った真理だ。
蝉が機械のように休みなく鳴いている昼休みの校庭で、私は運動場に面した廊下に腰を降ろしてセリーヌを読んでいた。そうしたら、効きすぎたワサビのように鼻の奥につーんと真理が訪れた。
ああそうなのか、と私は得心した。
少し私は楽になった。
そして受け入れた真理が、現実世界をも律する法であることを知ったとき、私は解放された。
その時から私はみんなに恐れられるようになった。
不気味だからブッキー、などという自らその言葉の使用者の頭の悪さを認めるような渾名《あだな》を聞かされたのはこの頃だ。
昔私は、私を含むすべての世界が消えてしまえばいいと思っていた。今は違う。消えるのなら私一人で充分だ。何故ならそうすれば私の世界も同時にすべて消え失せるから。そうなのだ。ここはこの世は私の世界。歪んだ私の歪んだ世界。とてもとても気持ち良い私の歪んだ世界。私だけがその正体を知っているのだ。眩暈《めまい》がするほど俗で、吐き気がするほど下らない日常は、ゴムのように厚く薄く固く柔らかい一枚の皮膜だ。そして私はその下に何が秘められているのか知っている。もうそれで充分だ。
だってそれは私の尖《とが》った爪でぷつりと突けばたやすく裂け、穴開き、私の世界が顔をのぞかせるのだから。それ以上の何を必要とするのだろう。
玩具《おもちや》の猿のようにキイキイと喧《かまびす》しいあの女たちを級友と呼ぶのは難しい。
笑っている。
けたけた。
けたけた。
彼女たちは笑っている。
けたけた。
けたけた。
あの頭を割ったら太った蛾が数匹飛び出てそれで終わり。後は乾いた反吐《へど》のようなものがへばりついているだけだろう。私には彼女たちが理解できない。彼女たちに私が理解できないように。理解はできないが決して嫌っているわけではない。嫌うためにはもう少し彼女たちのことを理解する必要があるだろうし、私にはそんな努力をするつもりなどない。
男たちはそれにも増して下らない意味がない。私にはそれぞれの区別さえつかない。それでも臭いで教師か同級生かぐらいの区別はつく。獣臭いのが同級生で腐臭がするのが教師だ。彼らは波だ。私の前に現れ消えるたびに彼らは生まれ死ぬ。強靭《きようじん》な日常の皮膜は私の世界のあれやこれやが蠢《うごめ》き打ち震えることによって波状に振動している。その波の一つ一つが彼らなのだ。
立ち上がった波の中で、薄く薄く伸びた日常の皮膜の下、胎児のように蠢いている私の世界のものどもが見えることがある。それだけで私はドキドキする。小さな快楽が発芽するように胸の下で生まれる。息が荒くなる。頬が紅潮する。
だから、
だから勘違いする者だっているのだということぐらいは私だってわかっている。
斜め前の席で首をねじって後ろの何かを見る振りをしながら私を盗み見ている彼がそれだ。
授業が始まった。
授業が終わった。
授業が始まった。
授業が終わった。
繰り返せば一日が終わる。
鞄《かばん》の中に教科書を詰め込んで、私はさっさと帰路についた。
高木と呼びかけられたことには気づいていたのだが、だからといって立ち止まるつもりはなかった。無視することで相手を傷つけられると考えている人間は、無視されることを恐れている、とても。その男にしてもそうだった。
私の前に小走りできた彼は不安そうな顔で私を見ていた。あの時教室で私を見ていたように。
故意に無視していたのではないと思わせるために、今気づいたという演技をするほど私は器用ではない。
それでも足は止めた。
「高木」
彼は私に笑いかけた。笑みが卑しい。相手のことばかり考えているからだ。
「なに?」
私は返事をする。
それだけのことで彼は褒美をもらった犬の顔になった。
「俺、おかしいと思うんだよね」
真剣な顔で彼は言った。
私は返事をせずに歩き出す。
並んで彼が歩き出す。
何か目的があるときの男はみんな野良犬に似る。
「あのさあ、ほら、みんな高木のこと無視してるでしょ」
私は歩き続ける。
「おかしいよね。あれはおかしいよ。苛めだよな。俺はあれは間違いなく苛めだと思うね。知ってるかなあ、高木。みんな、去年からの連続|失踪《しつそう》事件の犯人が高木だと思ってるんだぜ。酷《ひど》いよなあ」
途中で話を止めないのは、返事がもらえないと困るからだ。無視されているのに気づくのが怖いから、彼はただひたすら喋《しやべ》り続ける。
「何の証拠もないんだ。いや、証拠があったって、俺は高木を信じるね。そんなこと高木にできるわけないじゃん。普通に考えてみたらわかるよね。高木みたいにちっちゃな女の子がさ、あのマッチョな岬をどうやって殺す……」
言ってしまってから私の様子を窺《うかが》う。変化がないのを見ると何かを隠蔽《いんぺい》するように早口で話し始める。
「他の四人にしたってそうさ。そんなことが高木にできるわけないってことが何でみんなわからないのか不思議だね。第一さあ、警察|沙汰《ざた》になってるんだから、日本の警察は優秀なんだからさあ、もしだよ、もし高木が犯人だったりしたらすぐに目をつけられるよな。そんなこともわからないんだから馬鹿だよな、あいつら」
相槌《あいづち》を露骨に求められる。
ここで私の共感を得られると思ったのだろう。彼なりの決め台詞なのだ。しばらく間が空く。耐え切れず彼が口を開く。
「高木さあ、頭いいよな。学年でもトップの方だしさ。凄いよな。それに……」
言葉に詰まる。詰まった振りをする。聞いて欲しい尋ねて欲しい先を促して欲しい、と汗のようにだらだら言葉が流れ落ちる。
見苦しいので私は先を促す。
「それに?」
「それに、きれいだよな」
よくそう言われると彼に告げたら驚くだろうか傲慢《ごうまん》だと思うだろうか。どうでもいいが、私が口を開くことはない。
「ホント、きれいだよ。みんなわかんないのかな。高垣なんか高木のこといつもブスブスって言ってるんだぜ」
私だけがあなたの真の姿を知っています。私があなたの美しさを発見したのです。
彼はそう言いたいらしい。
でも、私に近づこうなどと思う人間は、おおよそ私の容姿を話題にする。他に何も知らないのだから当然のことなのだが。つまり彼らが私に関して理解し得るのは私の肉体だけだ、ということだ。彼らには見えるものしか見えない。私にしたって彼らに関して理解できることといえば、その肉体しかない。しかし私は見えない彼らの身体をも見ている。私は真理を知っている。
そろそろ私の家が近づいてきた。
「家までついてくるつもり?」
そう言うと、彼は少しだけ傷ついた顔を見せた。
その時だった。
波が来た。
大きな波だ。
彼の身体が数倍に膨れあがって見えた。
伸び切った皮膜が中のものを見せる。
一瞬だった。
すぐに彼はもとの彼に戻った。
それなのに私は身体が熱く火照っているのを感じていた。
指先が甘く痺《しび》れている。
「いいよ、おいでよ」
私はやっとの思いでそう言った。
いろいろなものが噴き出てきそうになったのだろうか。彼は慌てて喋り出した。
「え、いいの? そんなことしていいの? 俺はそのつまり一緒についてっていいのかな。ホントに? 家の人はいるんでしょ。お邪魔じゃないかな」
「いない」
「えっ、ええ。本当? それじゃあ、余計悪いんじゃないの。構わないの」
いいの? いいの? と言いながら彼は私の家までついてきた。
閑静な住宅街と不動産屋の広告に書かれそうなこの辺りは、私の両親の趣味だ。ついでに私が通う高校も両親の趣味だ。
日暮れには少しだけ間がある。
誰もいない、誰も通らない。
この時間はいつもぽっかりと空白が拡がる。まるで一瞬だけ世界が滅びたかのように。
一戸建てのその家も当然私の両親の趣味であり、そして夢でもあったらしい。こんなものを夢として描くことが私には理解できない。が、理解できなくてもそれを使うことぐらいはできる。
私は鞄から鍵を出して扉を開いた。
中に入ると薄暗くひんやりとしている。
そして少しだけにおいがする。
どこかで嗅《か》いだ覚えのある植物のにおい。悪臭と芳香の混濁した官能的なにおい。それを嗅ぐだけで私はちょっと幸福な気分になれる。
お邪魔しまーす。
彼はおどけて見せた。
早く早く。
私は急いでいた。
靴を脱ぎ捨て家にあがると、まっすぐリビングに向かう。
彼はのこのこと後ろからついてきた。
良い子だ良い子だ。
私は思う。
今この時なら多少は彼のことも可愛いと思える。
「こっちに来て」
言うがままに彼もリビングに入ってきた。
三人で暮らすには不必要な広さのリビングだ。
そして私は床に這い蹲《つくば》った。
「何? どうしたの?」
ちょっとだけ何かを期待している。その何かは彼自身もわからない。なのにとても愉しいモノだと思っているのだろう。好奇心が彼の身体を少しだけ膨らませている。怒った猫のように。
床板を外した。
「そこに何があるの」
私は答えぬまま、更に下にある引き戸を開ける。
黒々とした穴が、そこに開いていた。
この家の真下に防空|壕《ごう》があることがわかったのは、父親が趣味で古地図を集めていたからだ。比較的新しい地図に、ここにある防空壕のことが記されていた。
父親は子供のような人間だった。だから私は子供心を持った大人というものがどれだけグロテスクなものかを知っている。
とにかく父は建売のオプションでつけられた床下収納庫を取り外し、そこから下へと向かって土を掘ったのだ。己れが愉しいと思っていることはみんなも愉しいのだと疑いもなく考える人間だった。迷惑などということは、その言葉自体知らないのではないかと思えた。
さして深く穴を掘る前に、父親は防空壕を捜し当てた。かつて床下収納庫であったそこは、防空壕へと至る入り口となった。父はよほどそれが気にいったのか、家にいる時間の大半を防空壕で過ごした。父は愉しみに対して歯止めのきかない人間だった。そのことに関してなら、私も如実に父の血を引いているのだが。
私は防空壕へと向かう梯子を一段ずつ降り始めた。文句も言わず彼は後からついてきた。
においはますます濃厚になっていく。
おやつの時間が近づいた子供のように私はニコニコしていた。
壁の古風なスイッチをぱちんと入れると、低い天井から吊り下がった電球が輝いた。
「すげえ。ここ……いったいなに」
掘った地盤を廃材で補強してある。その上から父が新たに打ちつけた板が奇妙に生白い。隙間から濡《ぬ》れた岩盤がのぞく様は、幾重にも包帯で巻かれたミイラのようだ。
「行こう」
私は彼の手を引いた。
掌《てのひら》がうっすらと汗ばんでいた。
狭い。
部屋というよりは廊下に近い。
だが奥行きはそこそこある。
屈めた腰が痛む頃には端に行き着いた。
そこに扉がある。
「まだ、奥があるの?」
彼の声に不安が混ざった。
「君、名前なんだった」
振り返って私が尋ねる。
「ええっ、俺はイシカワだよ。イシカワタモツ。本当に知らないの?」
答えず私は扉の方を向いた。
鉄で縁取りされた木製の扉は、古びてはいるが頑丈なものだ。
閂《かんぬき》を外し、私は少し歪んだ重い扉をぎしぎしと開いた。
その向こうは私の世界。
彼がそれを見た。
声をあげることさえできないようだった。
職員室に呼び出されるなどということは、生まれて初めてのことだった。クラス担任の前に立つと、教師たちの視線が音をたてて集まってきた。さりげない素振りでプリントの束をとんとんと机の上で叩き、担任は私の方を振り向いた。
厚い紙の束を置く。
溜息をつく。
私を見る。
どれにも重々しい間がある。
その演技に相応しい重々しい話をするのだろう。
「高木くん」
やはり重々しい声に笑いそうになる。笑ったかもしれない。担任の顔が青褪《あおざ》めた。腹が立ったのか怯えたのか。
「石川くんを知ってるか」
私は首を横に振る。
「石川保。二年のD組だ。知ってるだろう。背がこんくらいで、鼻がちょっと、こう、ぺしゃんと……」
担任が私を見ている。私も担任を見ている。
担任が唾《つば》を呑《の》んだ。
苦しそうに。
「いなくなった」
呟くようにそう言った。
「昨日学校を出てからの消息がない。家に戻っていないんだよ」
疲れているようだった。
昨夜からイシカワを探していたのかもしれない。家族と一緒になって。一所懸命に。もしかしたら、多少は迷惑がっていたのかもしれないけれど。だからといって迷惑だとわかるほど不快感を表に出せる人間ではないだろう。いずれにしろ必死になっていなくなった生徒を一晩中探していたのだ。
彼は幾つなのだろうか。私の父よりは若いだろう。それなのにずっと年寄りに見える。どうしてあんな哀しそうな眼をしているのだろう。まるで殺されるのを知っている家畜のような眼。愉しいことを何も知らない眼。愉悦も快楽も金輪際知ることもなく死んでいくことを知っている眼。諦めた眼。
――このことは警察には言っていないんだがな。石川はな、友達に言ってたんだ。おまえに会いにいくって。
知っている。
賭をしたのだそうだ。私を抱けるかどうか。あの怪物を抱く勇気があるかって。
俺がいなくなったらおまえのせいだってバレバレなんだぞ。
イシカワくんは賭の事実を告白した後私にそう言った。
波が来るのよ。
私はそう答えた。
とても大きな波が来るから、だからどうでもいいの。
彼にそれは理解できなかった。
だから最後まで怯えていた。
皮がはじけるまで。
担任がひときわ大きな溜息をついた。
「まあ、とにかく、高木のとこのご両親と一緒に話し合ってみよう。なっ、そうしよう。今晩はお父さんかお母さんは家にいるのか」
「二人とも、いつもいます」
「そうか。まあ、後で先生からも電話しとくよ」
「電話、壊れてるんです」
「電話が、か」
「はい」
「……そうか。それじゃあ高木から伝えておいてくれ。八時頃に伺いますってな」
本当に八時にやってきた。
律儀で真面目な担任教師。
哀しい眼をした中年の男。
「ご両親は?」
リビングの椅子に腰をおろして担任はそう言った。
煎茶《せんちや》を入れて彼の前に置く。
「下です」
ふうふうと湯呑みを吹きながら、彼は尋ねた。
「下って、地下室があるのか」
音をたててお茶を飲んだ。
ええ、と私は答えた。
「父が自分で掘ったんです」
「自分で?」
「趣味で」
「趣味で?」
「下に防空壕があることがわかったんです。それで、面白がってそこまで自分で掘るって」
「ああ、防空壕ね。なるほど」
それだけで納得できるはずもないのだけれど、彼は頷《うなず》いてその話は終わった。
私はいつものように床にひざまずいた。彼は何も言わない。黙って私を見ている。きっとあの哀しい眼で。何もかも諦めた顔で。
床板を外し引き戸を開く。
噴き上がるにおいにくらくらする。
「二人が待ってますから」
言って私は地下へと降りていく。
「おい、高木。先生も行くのか。なあ、おい。お邪魔じゃないか」
不安な声。
可哀想な声。
哀れな声。
明かりを点ける。
「気をつけて下さいね。天井が低いですから」
「ああ、なんか、凄いとこだな。こんなところにご両親がおられるのか」
私は扉まで先生を案内していく。案内というほどの道程ではないのだけれど。
扉の前に立ち私は聞いた。
「先生、名前はなんでしたっけ」
「俺のことか?」
私は頷く。
「おいおい、担任の名前ぐらい知っておけよ。シンゴだよ」
「姓は」
「おいおい、大丈夫か。クラハマだよ。クラハマシンゴ」
クラハマ先生。
クラハマ先生。
頭の中で何度か言っているうちに本当に呟いていた。呟きながら扉を開いた。
むっとするほどのあのにおいに、私は眩暈《めまい》がしそうだった。排泄物《はいせつぶつ》のにおいに似ているといえば似ている。でもそこから感じる長閑《のどか》な感じは微塵《みじん》もなく、切迫した緊張感がある。しかもそんなにおいにもかかわらず、いや、そんなにおいだからこそ、とてつもなく官能的だ。頭の芯を締めつけるようにダイレクトに、においは私の中に入ってくる。
「ここに? ご両親が?」
薄暗い中をクラハマ先生が眼を細めて見つめる。
「あの、担任のクラハマですけど……」
呼びかける声がだんだん小さくなっていった。
ちょっとずつ眼が慣れてきたのだろう。
「あれは……なんだ」
闇の中でそれらが蠢《うご》いていた。
にちにちと、泥をこねまわすような音がする。
おお
おお
切ない呻《うめ》き声が聞こえる。
それらは一斉に私の方へと這《は》ってきた。
指や脚や鰭《ひれ》や触手やその他判別もつかない器官を使い、一塊になって這ってきた。
「あれがタカハシくん」
私は病んだ腎臓《じんぞう》のようなものを指差した。
「あれがケイコちゃん」
腫瘍《しゆよう》に覆われた奇形のたこのようなものを指差した。
「あれがミサキ先生」
腐ったうどん玉のようなものを指差した。その中央から粘液に包まれた体育教師の顔が現れたとき、クラハマ先生はひいと息を呑んだ。
「紹介します」
私はクラハマ先生の手首を掴んだ。
「これが私の父です」
それは四肢のない巨大な蛙そっくりだ。
長い真っ黒の舌を伸ばして、父は身体を横に倒して仰向けになった。青白い柔らかな腹を私に向ける。
「ああ、そう。して欲しかったの」
私はひんやりとした父の腹に掌を当てる。
ゆっくりとさすると、父は満足げにげえと鳴いた。
手を離し指を突き立てる。
期待に腹が膨らむ。
ほとんど抵抗なく指先が皮を裂き中に入り込んだ。ぐえぇ、と喜悦の声が洩《も》れる。熱い臓物に私の指が包まれた。それが二度と離すまいと私の指に絡みつくのが愛おしい。
クラハマ先生が悲鳴を上げた。
悲鳴を上げて逃げ出そうとした。
私は彼の手を離さない。
引かれるままに彼の方を向く。
「なんだ! これはなんだ!」
「私の世界」
人差し指の爪で彼の手の甲を掻《か》いた。
手を離した。
彼は勢い余って後ろに尻餅《しりもち》をついた。
「右手を見て」
言われるがままに彼は右手を見た。
「ひりひりするでしょ。私に掴まれていたところ。そこから私の世界が現れる。クラハマ先生は私の世界のクラハマ先生になるの」
歪んだいびつな狂った私の世界。
とてもとても気持ちの良い私の世界。
彼が見つめる右手が蝶《ちよう》の腹のようにびくびくと脈打っている。脈打つたびに皮膚が蕩け、蕩けた皮膚がくっついて指がみんなくっついて一塊の尖った何かに変わっていく。
クラハマ先生が慌てて腕を振る。
指先に汚物のついた子供のように真剣に。
そうだそうだいつも真剣なクラハマ先生。気が弱く生徒の顔さえまともに見られないクラハマ先生。諦めていたあなたの愉しみを想像もしなかったあなたの喜びを、私が与えてあげる。
一振りするたびに、腕は押し潰《つぶ》されたように扁平になっていく。背広の袖一杯になったそれが、生地を裂きぷるんと外に飛び出した。
それは鰭《ひれ》だ。
海亀の鰭に似ているがそれよりも柔らかくしなやかだ。
それが私の世界のクラハマ先生の腕。
左腕がそれに続く。
ざらざらした灰色の肌の鰭。
それをばたばたさせて先生は後退《あとずさ》っていく。脚を前後に動かして後ろへ後ろへ。
出鱈目《でたらめ》に振り回す鰭が、ぴし、ぴし、と床を打つ。
私はゆっくりと先生を追う。
ばたつく脚を、足首を掴んだ。
爪で突く。
そして離した。
骨を抜き取ったようなものだ。
脚がのたりと床に伸び動かなくなる。
右も、左も。
二本の太い肉の棒がゆらゆらと床を撫《な》でる。
靴が脱げた。
中に白い木綿の靴下を詰めたままの靴が、おどけたように左右に飛ぶ。
脚もまた鰭へと変化していた。
右脚が、左脚が。
それぞれの鰭がズボンを裂いて現れる。
新しく生まれた四肢を、彼はまだ上手く操ることができない。
裏返された亀のように手脚をばたつかせるだけだ。
泣いていた。
彼はしくしく泣いていた。
なんて可愛らしい。
私は微笑む。
微笑みながら彼の胸を踏んだ。
汚泥を打ったような音がして、皮膚を突き破り肋骨《ろつこつ》が左右に開いた。
彼の肺が丸見えだ。
私は彼の腹の上に跨《またが》り腰をおろす。
裂けた胸の中央、心臓が見え隠れしながら脈打っていた。
そこに手を伸ばした。
「やめろ」
弱々しく彼はそう言った。
「やめてくれ。お願いだから」
ずるりと彼の身体に手が入る。
熱い。
熱湯のように。
私は指を開く。
いやらしい音がした。
ああ、と彼は吐息を洩らした。
私も一緒に息をつく。
彼の哀しい眼が戸惑っている。
予期していた感覚とはあまりにも違うものが彼を襲っているから。
それと同じものを私は感じている。
そうでしょと眼で問えば、彼は恥じるように眼を閉じた。
微《かす》かに開いた唇から荒く息が洩れている。
私は両手を胸の中に差し込む。
じん、と私の背骨を痺《しび》れるような何かが這い上がり這い降りる。
彼が唇を噛んでいる。
声が洩れないように。
両手で胸の中を捏ねる。臓腑《ぞうふ》を撫でる。粘るそれを掴み、さする。
瞼《まぶた》を薄く開き私を見る彼。
私は手を引き抜いた。
体液でベタベタの手で、彼の頬を撫でる。
やめて、と溜息混じりに言う声が途切れる。頼むからやめて、と。
唇の周辺の皮膚が、ひくひく痙攣《けいれん》していた。
やめて……。
眼を固く閉じクラハマ先生が言った。
両手で頬から唇へと撫でていく。
砂の城でもつくるように、唇を中心に顔が盛り上がっていく。
鰭がばたばたと床を打った。
いつの間にか周りに集まっていたタカハシくんやケイコちゃんやミサキ先生やイシカワくんが、もの欲しげに私たちを見ていた。
その触手が指が鰭が、クラハマ先生の身体におずおずと触れる。おこぼれに与《あず》かれるかとでもいうように。
彼の口は円錐《えんすい》に盛り上がり、先端で窄《すぼ》めた唇が開いたり閉じたりしていた。
太い肉の筒となったそれは、もう口ではなく口吻《こうふん》だ。
血に塗れたそれを掴み、こすれば、肛門そっくりの先端から赤紫の細長い触手が現れた。舌なのだろうか。蚯蚓《みみず》そっくりのそれがのたうちまわる。
私は顔面に突き出た口吻を咥えた。
クラハマ先生は眼を見開いた。
期待と不安が明滅し、瞳が瞼《まぶた》の裏に消えた。
私の舌先がすぼまった蕾《つぼみ》を捉えた。
細く長い舌が、私の舌を押し返そうとする。しかしそれは私の舌に絡み付き歯の裏をねぶり一向に目的を果たせない。
私は尖らせた舌を先端に差し入れた。
わずかな抵抗が舌を追い出そうとするが、私はざらざらした熱い口腔を感じながら舌を突き入れていく。
唇で口吻を捉え、私は頭を前後に振った。
私の頭がどろどろに溶けていく。
頭を振るたびに攪拌《かくはん》されたそれがのったりと波打つ。
しがみつくように口吻を握り締めてこすり上げた。
私の脚の間で何かが固く膨れあがっている。
腹だ。
彼の腹が膨れていく。
知らぬうちに私はそれに押し当てた腰を揺すっていた。
淫《みだ》らに腰を動かしている私。
そう思うと心臓が出鱈目に脈打ちだした。息が苦しい。手や足の先が重く痺れる。
クラハマ先生も腹を突き上げ私に押し当ててきた。
下腹が重く、だるい。
もう駄目だ。
私は口吻から顔を離した。
ぐううう、と彼が不明瞭な声を上げた。
それでもそれが歓喜の声だということはわかった。
私は激しく息を吸う。
それと同時だった。
鈍い破裂音がした。
浮かせた私の脚の間に熱い泥のようなものが叩きつけられた。
びしゃびしゃと血や肉片や臓物やその他わけのわからぬものの破片が撒《ま》き散らされた。
タカハシ、ミサキ先生、イシカワ、父や母や私の世界の彼ら彼女らみんなが歓声を上げた。
濃厚なあのにおい。
部屋を満たすにおいは、暖かいゼリーのように濃く、鼻や口からずるずると私の中に侵入する。私は堪《こら》え切れず、散らばったそれを身体になすり、舐《な》め、食べた。
私は身体をねじって後ろを向いた。
肉の空洞がそこにある。
クラハマ先生の腹が破裂したのだった。
露出した背骨が左右に蠢いていた。
私は立ち上がった。立ち上がろうとした。
脚に力が入らない。
私の世界のあのものどものように、私は這《は》い、転がり、クラハマ先生の足元にまで行った。ぽっかりと開いた腹に頭を突っ込む。そこかしこにこびりついている肉片を血を臓物の欠片を、こそげ取るようにして舐める。あのにおいあの味あの感触が鼻孔や舌や喉《のど》を通して私の中に入ってくる。熱病に冒されているのだ。細胞の一つ一つが熱をもちゆるりずるりと肉が蕩《とろ》けていく崩れていく流れていく。熱く重くだるく何もかもが流されていくのを感じているのだからやがて私はずるずるとあの世界へと染み込み滴り消えて失せてなくなって……。
少し度が過ぎたようだ。
私はしばらくの間気を失っていた。
ゆっくりと起き上がる。
血と肉汁と乾いた体液で服がごわごわした。少しふらつくが歩けないほどでもない。
扉は開いたままだった。
宴《うたげ》の痕跡はそこかしこに残っていたが、あの私の友人たちは誰も残っていなかった。クラハマ先生もだ。結局彼が最終的にどのような姿になったのかまだ見ていない。
腕時計を持たないので時間がわからない。
私は壁に手をつきながら梯子《はしご》のある方へと歩いて行った。
梯子を登る途中で玄関のベルが聞こえた。
あのにおいが鼻孔の奥にこびりついていた。
それを意識するだけで再び心臓の鼓動が高鳴った。
ベルが鳴っている。
自分がどんな格好をしているのかは知っていた。腐った遺骸の詰まった樽《たる》の中に閉じ込められていた女。あるいはたった一人で大量|殺戮《さつりく》をやり遂げた女。
リビングに上がり、私は玄関へと向かった。
ベルが鳴っている。
私は知っている。
波が近づいている。
それも今までにない大きな波だ。
私は世界とともに滅びるのをやめた。
私は私の世界とともに生きることを選んだ。
ベルが鳴っている。
玄関に立ち、私は扉を開いた。
眩《まぶ》しさに眼を細めた。
思ったよりもずっと長く気を失っていたようだ。
いつの間にか夜が明けていた。
背広姿の男が二人立っている。
二人とも私を見ている。
驚きを隠すことなく、じっと見ている。
かなり長い間、彼らはただ私を見ていた。
それから、ようやく思い出したように右側の男が口を開く。
警察だと言った。
ドラマのように手帳を見せたりはしなかった。
ああそうですかと言いながら、私は二人の間を抜けて外に出た。閑静な住宅街に。
ちょっと待てと腕を掴まれ、私はその場にしゃがみこんだ。
どうした、何があったんだ。
二人が交互に話しかけてくる。
その下に私の世界が透けて見える。
波だ。
小さな波。
次に来る巨大な波を先導してきた波動の一部。それが彼らの姿を膨らませている。
もうすぐだ。
すぐに来る。
彼らを見上げた。
皮膚は元に戻っている。
小さな波は去った。
その後ろから、
波が、
来た。
地面が何かを呑んだかのように大きく膨れ上がった。
伸び切った皮膜の下に、はっきりと私の世界が見えた。
爪でそれに傷をつける。
薄い薄い皮膜が裂けた。
世界がつるりと反転した。
私の世界が降臨する。
最初に二人の警官がはじけた。
泥を詰めた風船のように、ぱちんと。
中から飛び出したのは二匹の魚だ。
ただし腰から下は人間だ。
異様に長いペニスをひきずりながら、彼らはどこかへと走り去っていく。
遠くで悲鳴が聞こえる。
ごぼごぼと熱湯のように地面が沸き立った。粘る褐色の泡が膨れはじける。
街の表皮がずるりと剥《む》けて、真の姿が現れていく。
においがした。
あのにおいだ。
微かなそれが、やがてこの世を満たすのを私は知っている。
やがて私は、私の世界へと足を踏み出していった。
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スキンダンスの階梯
階梯1
おしぼり屋に渡す金をちょっとの間借りたつもりが、おしぼり屋の主人が一本ママに催促の電話を入れていたばかりに、即座にばれた。おはようございますと疲れた薄笑いで訪れた店にはママといかにものチンピラが立っていて、たちまち殴られ蹴られて裏路地に放り出されたらそいつがいた。
「いい月だ」
場末のマジシャンのように大仰な手つきで男は空を指差した。まだ満月ではないが、それでも確かに珍しいほどの綺麗な大きい月がそこにあった。だからといって、それが何かの慰めになるわけでもない。
「楠山忠雄《くすやまただお》さんですよね」
少しずつ寸法の狂った背広を着たその長身の男は、にこやかに笑いながら手を差し出した。フルネームで呼ばれたことなど生まれて初めてではないか、と楠山は思った。楠山の『くす』からとったはずの渾名はすぐにクズに変わり、長年そう呼ばれてみれば名実ともにクズと成り果てたわけだが、さして不本意だというわけでもない。他の誰よりも楠山自身が自らをクズと思っていたからだ。
男が差し出した腕にすがるようにして立ち上がる。
これでバーテンを始めてから四軒目の店を追い出されたことになる。運が悪かった、というわけではない。いずれも自業自得だ。バーテンとはいってもカクテルひとつ満足につくれるわけでもなく、毎回味が変わるマティーニとオリジナルと称した色だけ鮮やかなアルコールを、乾物屋が勧める通りのおつまみと一緒に出すだけでは、何をせずともいずれは店を追い出されていたに違いない。
「俺に何のよう」
訝《いぶか》しい目で男を見上げた。
「連絡いただいてましたよね」
男は手品師の手つきで名刺を一枚、人差し指と中指に挟んで差し出した。
受け取り、のろのろと声に出して読む。
「まきうえ……こう」
「まきがみ、です。巻上|宏忠《ひろただ》。よろしくお願いします」
両手で楠山の手を挟み込み、握手する。
肩書きには大手の薬品会社の人事部部長代理と書かれてあった。
「参加していただけますよね」
「参加……何のことよ」
「被験者ですよ。石浜君の話ではあらゆる条件に適っているとお墨付きだったのですが」
笑みを崩さず巻上は言った。
「石浜」
クルミ大の脳みそ、と常連客にからかわれた頭をフル回転してその名を思い出そうとした。
努力の甲斐《かい》あって成功する。
「石浜君ってのは、そうそう、店によく来ていたよな。そうそう、いろいろ話をしたよ」
結構いい奴だった、というのが楠山が石浜という男から受けた印象だった。
「それで、これに答えてくださった」
巻上は一枚の書類をクズの目の前でひらひらさせて見せた。
「ちょっと、見せてよ」
手を伸ばすと、ひょいと避《よ》けられた。
「ほら、これ」
楠山の目の前に書類を拡げた。
ボランティア登録書と書かれてある。確かに見覚えがあった。石浜という男がそれを見ながら質問をし、楠山がそれに答えた。家族構成や趣味や休日の過ごし方、それに今の健康状態に関する簡単な質問(医者の初診受付で書かされるようなものだ)。最後に連絡先と名前を書き、三文判を押した。見ているうちに石浜という若い男のことも思い出す。薬科大の学生だと言っていた。ちょっと躰をはってアルバイトする気があるなら、とアンケートに答えたのだ。
「今日迎えにくることになっていたはずですよ。それでご自宅まで伺ったんですがおられなかったので、こちらまで来させていただきました。休暇は取っていただけたんですよね」
一週間は拘束するからなんとかと言っていたのを思い出す。今言われるまですっかり忘れていた。
「そうそう、休暇は、取りましたよ。言われてましたからね」
愛想笑いを浮かべる。運が良かったとつくづく思う。
「それじゃあ、行きましょうか」
「えと、帰って荷物とか――」
「何も必要ありませんよ。不自由なく宿泊できる設備が整っています。私物は禁止になっているので、もし何かを持ってきても預からせてもらうことになるだけですよ」
「あっ、はい。そうすか。それなら」
巻上の後を捨てられた犬のようにひょこひょことついていく。そして九人乗りの大きなバンに乗せられ連れられていった。
階梯2
それが病院なのかどうなのか。それもわからぬまま、楠山は古びたビルの裏口から中へと通された。
しばらく待つようにと言われた部屋は、真ん中に長テーブルの置かれた広い部屋だった。そこで堅い椅子に腰を下ろし、置いてあった雑誌をぱらぱらめくっているとすぐに巻上が入ってきた。白衣を着ている。それもまた微妙にサイズが大きい。
「あっ、巻上さん」
と雑誌を置いて立ち上がった。
「巻上さんは医者なんすか」
「臨床医じゃないんですがね。さて、今回の臨床治験の説明を始めましょうか」
「りんしょうちけん?」
「新薬の実験のことですよ」
ファイルをめくりながら巻上は言う。
「今回試用するのは貼り薬、MB−02です」
巻上は三センチ四方の真っ白い膏薬《こうやく》を取り出し、芝居掛かった仕草でふらふらと揺らした。その袖《そで》が微妙に短い。
「我が社が独自に開発したもので、今のところ身体に害のあるような副作用その他は認められていないので安心してください」
「何に使う薬ですか」
少なからず緊張している。そのせいでうっすらと笑っているのは楠山の癖だ。緊張したり怯えたりすると、意味もなくだらしのない笑みが浮かぶ。
「今のところこれが何に使用する薬かをボランティアの方に教えるわけにはいきません。偽薬効果をなくすための処置です」
偽薬効果が何なのか知らなかったのだが、判った顔で頷く。
「それで、そのボランティアってのは、俺だけですか」
「他にも何人か協力していただいていますが、互いに連絡を取らないようになっています。これもまた純粋に薬の効き目を知るために必要なことなんですよ」
ふむふむと、やはりわかったような顔で頷く。
「じゃあ、こちらに来ていただけますか」
部屋を出て、明るい真っ白な廊下を歩く。誰とも出会わない。病院にしても静か過ぎる。廊下の片側に扉が並んでいる。それぞれに番号の記されたプレートが貼られてあった。
「ここです」
巻上が七号と書かれた扉を開いた。
六畳ほどの小さな部屋にベッドが置かれてあるだけだ。
巻上は中に入り、説明を始めた。
「こっちがトイレ。風呂は許可のあるときだけしか入れません。あそこにスピーカーがあります。呼ばれたら先ほどの部屋で待機してください。これが」
ベッドの枕元に紙が貼られてあり、そこにNO・7と数字が書かれ、何処で撮影したのか楠山の顔写真が貼られてあった。
「あなたの番号です。呼び出しは基本的に番号ですので、この番号は覚えていてくださいね。それで、今から検診をしますので、これに着替えて待機していてください」
ベッドの上の青いパジャマを指差し、巻上は部屋から出ていった。ききすぎるほど糊がきいたパジャマを着込みながら、楠山はこの部屋に窓がないことに気がついた。
階梯3
体温と血圧を測り、心電図を撮ってから血液を採取。医者の問診の後、アルコールで消毒した上腕部に小さな膏薬を貼る。
「パッチテストですよ」
よほど楠山が不安そうな顔をしていたのだろう。膏薬をテープで押さえていた中年のきつい顔をした看護婦がそう言った。
「二十四時間はそのままにしていてください。それで試薬に対しての反応を検査しますから」
少しひりひりする腕を押さえて、楠山は尋ねた。
「これで、その薬に弱いとかなんとかで、被験者として駄目になったりしますか。その、適合しないとかなんとかで」
「ボランティアです」
「えっ?」
「被験者ではなくボランティア。非適合と認められたらもちろんこれ以上は続けません」
「それでもあの、バイト料というか――」
「謝礼ね。出ますよ。ご心配なく。ただしここまでで終わったら少ないですけどね」
楠山はその額を聞き、非適合にならないことを祈った。
その日はもう一度採血があっただけで検査は終わった。消灯時間である午後九時ぎりぎりまで、最初に連れてこられたソファのある広い部屋で雑誌を読む。興味のある記事などなかったのだが、他にすることもない。看護婦がやってきて電灯を消され、ようやく部屋に戻った。ここもまたすぐに電灯を消される。ベッドに潜り込み眠ろうとするのだが眠れない。不眠などとは縁のない性格の楠山だが、さすがに緊張しているのだろう。
落ち着きのない子供のように布団の中で暴れ回る。煙草が無性に吸いたかった。禁煙を命じられていた。一週間は煙草が吸えないことになるが、我慢できる自信はなかった。いよいよ我慢できなくなったら、ナースステーションにでも行って盗んでこようと考える。考えたらすぐに実行したくなった。
そっと部屋を出る。
廊下は薄暗く、楠山は、小さな頃夜中に小学校へ忍び込んだときのことを思い出した。忘れ物を取りに入ったのだ。その時はすぐに守衛に見つかった。見つかるまでの数分間、ずっと誰かの視線を感じていた。鳥肌が立ち、ちりちりと痛むほどの冷気が首筋を走った。守衛に懐中電灯の明かりを向けられたときには失禁しそうになった。
恐ろしかった。
それ以来、よく暗く長い廊下を夢に見るようになった。
楠山は自他共に認める臆病《おくびよう》者だった。
そしてこの病院の廊下は、まさしく『暗く長い廊下』だった。
スリッパの中で指先に力を込める。足音が気になって仕方がないのだ。
声がした。
小声で諍《いさか》う声。
扉の向こうから聞こえる。
三番のプレートが掲げられていた。
スチールの扉にそっと耳を押しつけた。
凍るほどの冷たさとともに耳に囁《ささや》き声が流れ込んでくる。
……すぐだから……向こうに行け……月はすぐ……離れろ……。
とぎれとぎれに聞こえる声は一つ。それに応えるように粘着質の呻《うめ》き声がする。口の中に何か押し込まれているような呻きだ。
それから生肉を平手で叩くような音がした。そして押し潰《つぶ》したような悲鳴。
楠山は直ちに己れの部屋に走り帰り、巣穴に飛び込む野ネズミのようにベッドに潜り込んだ。
階梯4
朝七時に起こされる。
うとうととしかけたところだった。
「よく眠れましたか」
気遣ってくれているというより、何かを咎《とが》めているような口調で看護婦は言った。
曖昧《あいまい》に頷きながら楠山は上体を起こした。
「駄目ですよ」
看護婦に言われたが何のことか判らない。ぽかんとしていると腕を掴まれた。
「掻いちゃ駄目です。かゆいんですか」
「あっ、はい、そうですね」
無意識に膏薬を貼ったところを掻いていたのだ。
「じゃあ、自覚症状表にそのことを書いておいてください。さあ、採血します」
針が腕に突き刺さる。
わずかばかりの血が吸い上げられ、その場でプラスティックの試験管に納められた。手際はよいが、楠山を気遣っている様子は微塵《みじん》もない。物に接する態度だ。だからといってそれを楠山が気にすることはなかった。彼にとって人として扱われるということは結局馬鹿にされることでしかなく、それなら物として扱われる方がずっとましだった。
それから昼食まで、楠山は部屋で一人うたた寝を続けていた。昼食はいつも食べるコンビニ弁当よりも旨《うま》かった。楠山は漠然と病人食のような不味《まず》い食事であろうと考えていたので、それだけでずいぶんと得をしたような気分になった。
睡眠を取り腹が膨れれば、昨夜あれだけ怯えたことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
夢だ夢に違いない。
一人得心すればもうすっかりそのことを忘れてしまった。
昼食を終えるとまた検査だ。
指定された検査室へ行き、血圧と体温、更に検尿をすませ、部屋に戻る。それからまたしばらく眠った。
起きたのは夕食時で、食べ終わるのを見計らっていたかのように白衣の巻上が入ってきた。きつい目の看護婦を従えている。看護婦は金属トレイの載った手押し車を押して入ってきた。
「パッチテスト、見てみましょうか」
巻上は言いながら袖をまくり上げ、ばりばりと膏薬を剥《は》がした。赤黒くでこぼこに腫《は》れ、じくじくと濡《ぬ》れていた。
「プラスですね。おそらく四か五」
剥がした膏薬を、後ろの看護婦に手渡す。手品師を思わせるいつもの大仰な仕草だ。
「で、どうなんすか。合格っすか」
楠山が急《せ》いてそう尋ねた。
面白い冗談でも聞いたかのように巻上は吹き出した。
「なんですか。何を笑ってるんですか」
さすがにむっとして楠山が言う。
「ああ、これは失敬失敬。そうですよ。合格です。陽性だね。ずいぶんと反応が鮮やかだし、久しぶりに高得点で合格というところかな」
そう言うとまた声をあげて笑った。
「いや、すみません。申し訳ない。ボランティアの方がみんなあなたのように積極的に協力してくれたら嬉しいんですけどね」
「あのですね、三号室にもボランティアがいるんですか」
巻上の顔から笑いが消える。仮面を脱いだかのような豹変《ひようへん》ぶりだ。
わざと抑えた声で楠山に尋ねる。
「どうしてそんなことを」
「いや、つまりその、俺以外のボランティアもいるんですよね」
「いますよ、もちろん」
「この階の部屋にもいるんですか」
「います」
「あのですね、一度も会ったことがないんですよ。他のボランティアってのにね」
「会ってはならないんですよ。説明しませんでしたか」
「説明は聞きましたけど。あのですね、俺はまあ、自由に歩き回れるじゃないですか。他のみんなもそうなら、どこかで会ったりするじゃないですか、っていうか、それが普通でしょう」
「みんながあなたと同じような条件でここにいるボランティアであるとは限りませんよ。実はこのフロアで外出を許可されているのはあなただけなんです」
「じゃあ、三号室にも人がいたわけですか」
「いました」
「いましたって……」
「今朝部屋を移動しました」
「どうして」
巻上は怪訝《けげん》な顔で楠山に近づいた。
「何故そんなことを知りたがるんでしょうね、あなたは」
「はあ、それは、それ、あの」
接吻《せつぷん》を迫るほどに、巻上の顔が近づいた。
甘ったるいような生臭い息が楠山の鼻にかかる。熟した南国の果実を思わせた。
「臨床治験の都合がありましてね。すべての情報をあなたに知らせることは出来ません」
巻上は楠山を一瞬睨んでからベッドから離れた。そして、それ以上の質問を拒絶するようにぽんと手を叩く。
「さあてと、風間くん、貌床の準備始めますから」
看護婦がトレイに載せた大きな金属の缶の蓋《ふた》を開いた。
巻上が手を差し出すと、ゴム手袋を装着させる。細い指に飴色《あめいろ》のゴムが貼り付いた。
ぎゅうぎゅうと音を立てて指を動かした巻上は、その指をおもむろに缶に突き入れる。
中から緑掛かった泥のようなものを掬《すく》い上げてきた。
「なんすか、それ」
「静かに」
看護婦はそう言うと、枕元に回ってパジャマの上着を脱がせた。
「はい、俯《うつぶ》せにして横になってください。そうそう、そこで動かないで。ちょっと暖かいですよ」
巻上が泥を背中に塗った。生暖かく、小石でも混ざっているのか、時折何かが皮膚を掻く。
「今からMB−02を貼ります。動かないでください」
言いながら巻上は、泥を塗った上から白い膏薬を貼った。パッチテストと違い、弁当箱ほどの大きさだ。看護婦がすぐに上からテープでとめる。
「貌床完了です。今日は入浴できませんよ。それから勝手に剥がしたりしないように。ああ、そうだ。パッチテストで痒《かゆ》みがあったとか」
「ええ、ちょっとですけど」
「掻かないでくださいね。堪えきれないときは呼んでください。処置をしますから」
「処置っすか」
「はい、じゃあ、これで」
部屋から出ていく二人を見ながら、他に尋ねることがいっぱいあったような気がしていた。具体的な質問が思い浮かんだわけではなかったのだが。
膏薬を貼った辺りが熱を持ち始めていた。
その部分を庇《かば》うように、身体をくの字に歪め横を向いて目を閉じた。
消灯までには眠りに就いていた。
階梯5
声がした。
「順調だね」
「ああ、順調だ。これほど順調だとかえって気持ちが悪い」
「本当だ」
くすくすくす。
「しっかり根付いてるみたいだね」
「検査の結果も良好だしね」
「これで階梯《かいてい》は」
「五だね。成長著しい」
「間違いなく戴冠《たいかん》の夜には間に合うね」
「間に合う間に合う」
「あっ、動いた」
「ほんとだ。動いた動いた」
くすくすくす。
くすくすくす。
「こいつなら耐えるよね」
「ああ、きっと耐えるよ。大雑把だしね。頭悪いし」
くすくす。
「よく眠ってるよね」
「何にも知らないでね」
「薬、あまり使いすぎると貌床に影響がないかな」
「それは大丈夫。今までにも何回か使ってるし」
「楽しみだね」
「うん、楽しみだ」
目覚めた。
いつもの看護婦が見下ろしている。
「あっ、朝食っすか」
看護婦が鼻で笑った。
「あなたが呼んだのよ。痒かったんでしょ」
「えっ、あっ、そういえば」
背中が猛烈に痒かった。
知らぬ間にナースコールをしていたのだろうか。
「俯せになってください」
その手に長い針の大きな注射器を持っていた。
楠山は言われるままに俯せになる。
パジャマをたくし上げると、膏薬の周囲に順に針を刺していく。薬液は少しずつ押し出された。
「これで大丈夫」
背中がじんと痺《しび》れ始めた。
その分痒みは薄れる。
「今の、なんですか」
俯せのまま楠山は尋ねた。
「痒み止めのステロイドですよ。心配することはありません」
「あの、夜の間に、誰かここに入ってきましたか」
「私が巡回に来ましたけど。どうかしましたか」
「枕元で誰か話をしていたような気がするんすけど」
「夢ね」
あっさりとそう答えられると、気にしているのが恥ずかしく思えた。
「じゃあ、あの、かいていってなんですか」
「かいてい……階梯ならハシゴのことだけど、今回の臨床治験では実験過程の段階をそう呼んでます。何処で聞いたの」
「はあ、あの、夢で」
「そう、夢で。それじゃあ、続きは夢で聞いてね」
それを文字通り受け取ったわけではないだろうが、眠気が泥のように覆い被さってきた。そのまま蕩《とろ》けるように眠りの底へと堕ちていく。
階梯6
背中が疼《うず》く。
痛みとも痒みともつかぬ不快な感触は、しかし曖昧で頼りない。
寝返りをしたら背中でぎゅうと音がした。
慌てて楠山は身体を起こした。起こそうとした。
身体が重い。
ずっしりと濡れた砂を詰め込まれたような気分だ。
これって副作用じゃないのか、と今更のことを思い、ナースコールのボタンを押した。
身体を起こしているのは辛い。仕方なく横になるとまたぎゅうと音がする。呻き声にも聞こえるそれが薄気味悪く、身体を横にする。胎児のように身体を丸め膝を抱えていると、堪《たま》らなく眠くなってきた。
今がいつなのかがわからない。
さっき食べたのは昼食だったのか夕食だったのか。さっきの検診は朝の検診だったのか真夜中の検診だったのか。窓のないこの部屋では、時間を判断することが不可能だ。そういえば時計も私物として取り上げられてしまった。
考えている自分が、やがて夢の中の自分と入れ替わり、狭い下水管の中をゆるりと流れる汚物のように、様々なことを想起し忘却し、時だけは確実に経っていく。
「大丈夫」
いつもの看護婦の声だ。
「痒みは治まったでしょ、そうでしょ」
確かに痒くはない。でもしかし、と訴えるべき言葉を探る指先は何物にも触れずただ空を掻《か》く。
「心配ないわ。上手くいっている。順調よ」
くすくすと笑っているのは誰だ。
夢の中の誰かなのか。
「順調だよ」
「ほんと、順調だ」
「三号が駄目になったから、まったくばっちりのタイミングだよ」
「ばっちりばっちり」
くすくすくす。
「好条件だよね、この男」
「これ以上のはないんじゃないの」
「でもまだ安心は出来ないよ。すべて知ったらどうなるか」
「とはいうものの、今までで一番の貌床なんじゃないの」
「だよね」
「だよだよ」
くすくすと笑っているのは誰だ。
「誰もいないわよ」
看護婦の声。
「ここにいるのは、あなたと私だけ。だから」
看護婦が背中を撫《な》でた。そっと、慈しむように優しく。
「じっと眠っていてちょうだい」
そうか。眠っていればいいのか。
崩れる意識の断片がそう得心する。
寝返りを打つと、またぎゅうと音がした。
ああ、ごめんごめん。
声を掛け、楠山は再び眠りに堕ちていく。
階梯7
やたら眠く、起きている時間よりも眠っている時間の方が長い。そのことに気がついてはいたが、その頃には考えること自体何もかもが白濁した汚水に沈んで取り出しようがない。
もともとがだらしのない男で、寝て暮らすことをこそ望んでいたのだから、多少はおかしいと思いつつも抗《あらが》うつもりがない。眠いから眠るのだと居直って惰眠を貪《むさぼ》っていた。
「さてと」
目の前でぽんと手を打ったのは巻上だ。
「そろそろ起きるようにしなければね。戴冠の夜は眠って過ごすわけにはいかないから」
「あのう、そろそろ一週間ですか」
「そうですよ」
「家に帰れますか」
こんな様子で家に帰れるのかと尋ねたのだが、巻上は質問に質問で答えた。
「家に帰りたいですか」
気を抜けばずぶずぶと泥水の中に沈み込みそうな意識を、楠山なりに懸命に押しとどめて考えた。
家に帰る→家賃がいる→食費がいる→金がいる→働かねばならない。
考えたあげく口に出たのは「帰った方がいいですか」という質問だった。
「帰る必要はありませんよ。あなたがそれを望むのならね」
よかった、と楠山は弛緩《しかん》した笑みを浮かべた。
階梯8
眠い。
ただひたすら、眠い。
覚醒もまた夢の中だ。
満月が近いのだと、どこかで感じ取る。
そうだ、満月が近いのだと。
階梯9――スキンダンス
夜だ。
皓皓《こうこう》と、それはもう皓皓と月が輝く。
夜の底をくりぬいたのかと見紛うほどの大きな丸い月。
「満月ですよ」
ストレッチャーに載せられ楠山は横になっている。目を見開き月光は眼球を射貫く。
横に立っているのは巻上だ。
「とうとうこの日が来ましたよ。あなたは本当に良い貌床だ」
「ほんとほんと」
くすくすと巻上の隣で笑っているのは、楠山に臨床治験のアルバイトを勧めた薬科大の学生、確か石浜と名乗った若い男だ。
「僕たちのために生まれてきたような人間ですよ」
石浜は満面に笑みを浮かべている。
「明日は戴冠式なんですよ。だから私たちマスクブリーダーは大忙しだ」
楠山が連れてこられた建物の中庭なのだろう。手入れの行き届いた芝生に、青いパジャマを着た男女が数人、寝そべっていた。
「そろそろスキンダンスが始まるよ」
嬉しそうに石浜が言った。
闇の中、濡れた月光に照らされて、パジャマ姿の男女がふらふらと起き上がった。
切なげに身体をねじる。
開いた手で身体を撫でる。揉む。さする。擦《こす》る。
ぐうう、と押し潰したような声が聞こえた。
ああ、と漏れる吐息は、身悶《みもだ》えするように身体を歪める男女のものだ。
耐え切れぬように、一人が破り捨てる勢いでパジャマを脱ぎ捨てた。続いてもう一人。更に一人。すぐに全員が全裸になった。全裸の男女が、痙攣《けいれん》するかのように全身を震わせ、手足をがくがくと揺すっている。
「見えるでしょ」
巻上が一人を指差した。
そこに顔があった。
全裸の男の胸と、そして尻に。
胸にあるのは端正な男の顔。尻にあるのは少女の顔。どちらも堅く目を閉じ、口をしっかりと結んでいる。その口から声が漏れる。
ぐうう。
それに応じて楠山の背中で声がした。
ぐうう。
「あれが仮面|嚢腫《のうしゆ》です。良性の腺腫《せんしゆ》、つまりは嚢胞状腺腫の一種なんですがね、ご覧の通り人の顔の形をしている。そうそう、人面瘡《じんめんそう》などと呼ばれもしているようですがね。我々はあれを育成しています。いわゆるマスクブリーダーです。ご存じですか」
「ご存じですか」
そう繰り返して笑ったのは石浜だ。
「知っているわけがないでしょ、巻上さん」
「そう、我々の存在は誰にも知られていない。我々の仲間以外にはね」
全裸の人間はその誰もが皮膚の一部に顔を持っていた。数は二つから四つ。性別も容貌も様々だったが、人面瘡という言葉から連想されるグロテスクなものではない。それなりに整った老若男女の顔だ。
人面を宿した者たちは、跳ね、倒れ、転がり、再び跳ね起き、壊れた自動人形のように踊り続けていた。
「不思議ですよね。仮面嚢腫の患者は――我々はそれを貌床と呼んでいますが――満月になるとああやって踊りだすんですよ。我々がスキンダンスと名付けたあの踊りをね。気持ちいいらしいですよ。ああしていると、堪らなく、ね」
巻上は楠山を見た。
楠山にはそれがどれだけ気持ちのよいものか想像できた。
今ある衝動に身を任せればいいのだ。
そうすれば……。
ぴょんと不自然な姿勢で飛び起きた楠山は、ストレッチャーから転げ落ちた。痛みは感じない。身体を歪め、震わせ、身体が命じるままに動き回る。
これ以上の快楽はなかった。
凝った身体を揉みほぐしてもらうのにも似ている。痒《かゆ》い部分を掻きむしるのにも似ている。しかしそれを数百数千倍にしてもまだ到達せぬほどの、経験したことのない快楽だった。
「あなたも始まりましたか。順調ですよ。本当に良好な貌床だ、あなたは」
「そろそろ収穫だね」
「ああ、風間くん、水槽を」
きつい目をした看護婦が、台車に乗せた大きな水槽を運んできた。
「もうそろそろ剥離《はくり》が始まるから準備して」
激しく身体を震わせていた女の、片方の乳房を覆っていた顔が、はらりと剥がれて落ちた。看護婦がそれを拾い水槽に入れる。
顔はひらひらと底へと落ちた。
それを契機に、顔は次から次へと剥がれ落ちていく。それを看護婦と、巻上や石浜まで一緒になって拾い集め水槽へと入れる。
身体からすべての顔が剥がれ落ちた者は、ぐったりと芝生に横たわっていた。
やがてすべての顔の収穫が終わった。
「はいはい」
巻上が大声を上げて手を叩いた。
「みなさん、もう部屋に戻ってください。今夜は入浴してからゆっくり休んでください」
全裸の男女は、蘇生《そせい》した屍《しかばね》のようにゆらりと立ち上がり、それぞれ建物の中へと戻っていく。顔が剥がれ落ちた後は、酷い火傷《やけど》の跡のように赤く爛《ただ》れ、黄色い体液が滲《にじ》んでいた。
彼らに続いて台車を押した看護婦が、その後ろから石浜が建物へと消えた。
「あなたも立てますか」
巻上に言われてようやく楠山は我に返った。起き上がろうとするのだが、腰に力が入らない。
「無理ですか。最初はそうみたいですね」
脇に手を回し楠山を支えると、軽々とストレッチャーに上げた。人間離れした膂力《りよりよく》だった。
「今回は特別に私が押していきましょう。貌床をあまり甘やかしては駄目なのですが」
笑顔で巻上はストレッチャーを押した。
扉を開き再び建物の中へと入っていく。
薄暗い廊下を、楠山は運ばれていく。
「あんたたちは、いったい誰だい。俺はいったい」
「何度も言いましたが、あなたは貌床となった。肉の仮面を作るための畑ですね」
「そんなもの、誰が使うんだよ」
「我々≪顔のない眼≫ですよ」
巻上はストレッチャーをとめると、掌を顔に当てた。指先が額から髪の中へと滑る。
舌打ちのような音がした。
そして巻上は、ばりばりと顔の皮膚を剥がした。
楠山は悲鳴にならない声を上げた。
濡れた表情筋が露出し、紅白の縞《しま》模様を描いている。血は一滴も流れていない。
額から顔の半ばまで皮を剥ぐと、すぐに何事もなかったかのように元へと戻した。
「我々はあなたたちの言うような人間ではない。化け物? 宇宙人? 今あなたの頭の中にそんな単語が浮かびましたか。まあ、何とでも呼んでくださって結構です。とにかく我々≪顔のない眼≫は、一つの顔で満足しない。飽きるんですよ、すぐに。で、人間を貌床にして顔を養殖しているんです。月に一度、満月の夜に顔は収穫され、明日、私たちの仲間が集まって顔の品評会をする。気取って戴冠式、などと呼んでいますがね。その場で顔は売買される。あなたの顔も高値で売れるでしょう。実に出来のいい顔でしたよ」
騙《だま》されたのだ。怒りはある。得体の知れない相手に対する怯えもある。が、それ以前に、今自分の身に降りかかっている出来事が楠山には理解できなかった。不安や怒りや、その他己れでもわからない感情の断片が浮かんでは消える。あげくに口をついて出たのは「そんな馬鹿な」の一言だった。
「馬鹿げている? なるほど、あなたにとって馬鹿げたことかもしれませんね。私たちの存在や、今のあなたのおかれている立場が。でもね、あなたは何も考える必要がないんですよ。考えない方がいいんだ。考えすぎると自分で自分を潰してしまう。三号みたいにね。あなたの生活は保障されていますよ。一生ここで暮らしていればいい。寝て起きて、それだけの生活だが、あなたのような人間は無為に一生を過ごすことこそ望みなんじゃないんですか」
かもしれない。そうかもしれない。
苦労なく寝て食べていられるなら、それで充分じゃないか。
薄ら笑いを浮かべ、楠山は目を閉じた。
ストレッチャーが再び動き始める。
薄暗い廊下をがたごとと運ばれているうちに、楠山はまたいつもの心地よい蜜《みつ》の闇の底へと沈み込んでいった。
深く、甘く。
[#改ページ]
幻影錠
[#この行2字下げ]わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。
[#地付き]――マタイによる福音書 第十六章
たとえば十人いるのならトップから七番目。下から数えれば四番目。
こういうのを普通に出来が悪い、と言えばいいのだろうか。特別悪いのなら、それはそれでその人間の特徴となるだろうし、居直りようもあるだろう。出来の悪さも才能とするのならとことん才能というものに見放された人間。堀切隆夫《ほりきりたかお》は己のことをそう思っていた。カギスクールに通うまでは。
堀切は大学を卒業して小さな薬品会社に営業として雇われたが、上司や同僚とそりが合わず二年で辞めた。それからしばらくはバイトで食いつないでいた。
ピッキングという言葉がマスコミに出る直前のことだった。やたら暇をもてあましたあげくに手に職をだのと自分をごまかして、少なくともその頃凝っていたパチンコよりはまだましじゃないかと彼はカギスクールに参加したのだった。カギスクールというのはようするにピッキングの技術を教える学校のことだ。そこで彼は思ってもみなかった自身の特技に気づいた。
最初に与えられた課題は、簡単なデスク錠の開錠だった。彼はピックとテンションという金属の細い棒を使い、小さな板に取り付けてあった四つの錠をみるみるうちに開いていった。ほとんど講師の説明を受ける前にだ。講師も同期の生徒たちも驚嘆の声を上げた。全員の注目を浴びていた。気持ちが良かった。およそ誉められるという経験のなかった堀切は、その時からピッキングにのめり込んでいった。ディスクタンブラー錠、ピンタンブラー錠。一度こつを覚えると面白いように開いていく。講師が面白がって次から次に難易度の高い錠を課題に出した。堀切はそのどれも、講師の期待以上の速さで解錠した。ディンプルキーや内溝キーなどの、ピッキング用工具では解錠が困難な錠も、さして時間を掛けることなく開いていく。速度だけではない。その仕事のエレガントさでも、講師たちを感嘆させた。
ピッキングのテクニックのひとつにレーキングがある。ピックの先で錠の内部をごりごりとこすることで解錠する方法だ。錠の中に傷を付けるだけでなく、何度もレーキングすると純正の鍵も受け付けなくなる可能性がある。そのためプロの錠前技師ともなれば、あまりレーキングに頼ってはならない。が、実際は緊急時の作業であるピッキングを、そう何度も同じ錠に対して繰り返すことはない。従ってプロにしてもレーキングすることはある。他の方法よりも圧倒的に手早く出来るからだ。しかしレーキングがある意味雑な方法であるのは事実であり、錠を傷つけることなく「美しく」解錠する方法が存在することも事実だ。そして堀切はレーキングすることなくエレガントに、しかも素早く錠を開くことが出来た。
まさに天賦の才としか言いようがなかった。
カギスクールに入学して半年後、堀切は教える側にまわっていた。経営者に乞われて、カギスクールの講師を始めたのだ。
生徒にピッキングの方法を教えながら、彼は錠と鍵の研究に熱中していた。職人的なピッキング技術の向上にも余念はなかったが、それはやがて解錠のための工具開発へと発展していく。
錠を純正の鍵を使わずに開くには工具がいる。当たり前のことだ。
ピッキングはピックとテンションという工具を使った、解錠の代表的なテクニックだ。が、ピックとテンションは万能の工具ではない。シリンダー錠を解錠するための工具がピッキングツールである。つまりそれ以外の錠には通用しないわけだ。錠の種類が異なれば、解錠のために使う工具も変化するのである。たとえば車の扉を開くために用いる定規のようなものを見たことのある人も多いだろう。あれもまた車の扉の鍵に特化した工具のひとつだ。
ピッキングが世間に知られるようになったのは、その応用範囲が広かったからだ。一般的な家庭の玄関錠や自動車の鍵のほとんどがピッキングによって開く錠だった。しかしピッキングが悪用され、それがマスコミによって報道されることで、ピッキングで開かない、あるいは開きにくい錠が開発され使われるようになってきた。
錠も日々進化しているのだ。そして進化した錠に対し、新しい専用の工具が必要となる。堀切はそういった新しい工具の開発と製作にもその天才ぶりを発揮した。彼の開発した工具はプロの錠前屋の間でも評判になり、やがて彼は鍵屋の間でもちょっとした有名人になっていった。
堀切は錠というもののことを考えるのが好きだった。愛しているといっても良いだろう。一日の大半は錠と鍵のことを考えて暮らしていた。
彼にとって錠はミステリーだった。小説や映画以上にエキサイティングな謎そのもの。それが錠だった。
錠は開かれるためにつくられている。にもかかわらずそれは開かれてはならない。それは堀切にはミステリーの本質そのものに思えた。誰にもわからぬように周到に計画された謎。が、必ずその謎には論理的な解答があるのだ。
鍵の存在しない錠などない。新しい錠がつくられれば、それは必ず新しい鍵と対になっている。そうであるなら、純正の鍵以外の方法での解錠が必ず可能だ。堀切はそう自負していた。
どこかにまだ見ぬ経験したことのない新しい錠が生まれ、開かれるのを待っている。
堀切はそのことを考えるだけで心が浮き立つのだった。
だから彼はほとんど躊躇《ちゆうちよ》することなく、田中と名乗る男の申し出に応えたのだ。
細かな事項を書き込んでから、最後に名前の欄に堀切隆夫と記入した。
率の良いバイトですよ。
木彫りの仮面なのではないかと思えるほど、そう言った田中は無表情だった。残暑の厳しいこの時期にシンプルな背広を隙なく着込んで汗ひとつかいていない。寒暖を感じる能力が欠如しているに違いない。あるいは人でないかだ。堀切はそう思った。
「ハンコは三文判でも良いんですよね」
尋ねると「結構ですよ」と素っ気なく答えて、田中は黒革の鞄《かばん》から印肉を取り出した。
堀切が判を押すと、あっと言う間にテーブルの上の書類が片づけられた。
「では早速」
領収書を掴み田中は立ち上がった。かなり長身であることに改めて気づく。そう言えば胸板も厚い。だが一向に大きさ強さを感じさせないのは彼の雰囲気によるのだろう。その名字と同様、彼の容貌には特徴らしいものが何もない。その何もなさが、巨躯《きよく》すら否定してしまっている。もしかしたら彼が大声を上げて手を振っていても誰も気がつかないかもしれない。そのようにさえ思わせる男だった。
喫茶店を出て、路上に停められていた黒塗りの大きな車に乗り込む。
広い後部座席に、堀切は一人腰を下ろした。契約書にサインしたことを悔いてはいない。それでも運転する田中の後頭部を見ていると少々不安になる。
この男が提示し、契約書にも書かれていた金額は、堀切がカギスクール講師をして得られる給料の数年分に相当する。それをほんの数日で稼ぐことが出来るのだ。おそらく誰もが無下《むげ》には断らないだろう。が、あまりの高額報酬であるが故に、話を素直には信じられない。
堀切への依頼の内容は簡単なものだ。
錠を開いて欲しい。ただそれだけのことだ。ただし錠を開くまでは泊まりこみで作業を継続して欲しい。それが契約の条件だった。もし数分で解錠出来たなら、それで高額の報酬を得られるわけである。
車がトンネルに入った。
ミラーコーティングされた暗いウインドウの向こうを、オレンジの灯りが猛スピードで背後へ飛ばされていく。これでいくつトンネルをぬけただろうか。都心を離れ車はひたすら北へと走り続けていた。その時すでに一時間近く走っていた。後どれぐらい掛かるんですか。堀切が問うと、二時間ほどですねと田中は事も無げに答えた。
再びのトンネル。流れる灯りを見ているうち、堀切はいつしか眠り込んでいた。気がつけば周囲は薄闇に閉ざされている。驚き、どれほどの間眠っていたのかと田中に時間を尋ねた。二時間ほどだ、とやはり素っ気ない。あれから二時間なら、まだ夕暮れには間があるはずだ。堀切は窓に鼻をつけて外を見ようとしたのだが闇しか見えない。窓を開こうとしたのだが、どうやら後部座席からは開くことが出来ないようだ。田中に頼んで窓を開いてもらう。湿気をたっぷりと含んだ生暖かい風が吹き込んだ。左右から道へと倒れ込むように太い樹木が立ち並んでいる。車幅ぎりぎりの砂利道に、覆い被さるように茂る枝葉が陽をさえぎっているのだ。どこまで来たのかわからないが、ずいぶんと山奥に来たようだった。
やがて田中は車を路肩にあったわずかな空き地に停めた。
「後少しですが、ここから車は入れませんので」
そう言って外に出ると、後ろの扉を開く。いったいどこに連れて行かれるのかと不安になる。不安にはなるが、ここまで来て否《いや》も応もない。堀切は車から出て田中の後についた。
道を逸れ、さらに山奥へと入っていく。下生えに足を取られる獣道だ。すぐそこですと言われながら十分ほど歩いた。空は生い茂った葉に閉ざされたままだ。むせるような青草のにおいが、蒸気のようにたちこめている。
堀切はハンカチで額から流れる汗を拭った。
「まだですか」
いい加減うんざりして尋ねるのと、田中が立ち止まったのは同時だった。
「ここですよ」
獣道の行き止まり。そこに六畳ほどの空間があり、その向こうは崖《がけ》で行き止まりだ。
その崖へ向かってライトが照らされていた。その岩肌に注連縄《しめなわ》が掛けられてある。その向こうに扉があった。木製のそれには、金属製の装飾的な錠がついていた。
「これですか」
言いながら堀切は扉に近づいた。すでにその興味は錠にだけ向かっている。
「和錠ですね」
堀切がそう呟くと背後から声が返ってきた。
「さすがに良くご存じで」
振り返ると老人が座っていた。いつの間にそこに来たのか、丸椅子のような岩に腰を下ろして笑顔を見せていた。その背後に樹木のように田中が立っていた。
「開きますか」
老人が言った。
「開いてみせますよ」
おそらく今回の仕事の本当の依頼主なのだろう、程度に解釈したら、堀切はもうその老人への興味を失っていた。
無造作に注連縄を外す。かなり年代物で、朽ちかけていたのか途中であっさりと千切れてしまった。
後ろで歓喜の吐息がほうと漏れたのだが、堀切はもう錠に夢中だった。和錠、つまり古風な日本の錠前だ。それもからくり錠と呼ばれる種類の錠だ。錠はその鍵を持っていさえすれば簡単に開くものだ。いや、日常的に使うものであるのだから、簡単に開かなければならない。しかしからくり錠は使い易さを無視して造られた、まるでパズルのような錠なのだ。たとえ鍵を持っていたとしても、操作手順は複雑であり、鍵穴が複数あったり、装飾部分を押したり引いたりしなければならなかったり、鍵穴のないものまで存在した。
堀切は持ってきた大きな道具箱を開いた。ほとんどの鍵に対応できる彼独自の工具が入っているだけではなく、その箱には工具を造るための道具も揃っていた。古風な錠を扱うのだと聞いていたので、和錠への対応も考えていた。幾つかの和錠を手にし、何度かは解錠を試みたこともあった。それはおそらく江戸末期に造られた阿波《あわ》錠だと判断していた。
指を伸ばし、堀切はまるで舐《な》めるように錠に触れた。解錠が始まったのだ。慈しむように彼が錠に触れてからおよそ三〇分。八つもの工程をパズルのように経て、がしゃりと大きな音がした。いやいやするかのように揺れながら、閂《かんぬき》が抜けた。
ひいぃ、と感極まった声はあの老人のものか。
錠は開いた。
取っ手に手を掛け、堀切は扉をゆっくりと開いた。木製の扉は驚くほど滑らかに開いていく。黴《かび》と湿気のにおいが堀切の顔を襲う。どこか腐臭に似た苦みを鼻の奥で感じた。
鳥肌が立つ。
何故かはわからない。堀切は急に今自分のしていることを後悔していた。何か取り返しのつかぬことをしているような嫌な気分が生まれて消えない。
その向こうに闇があった。闇どもはそこに射しこんだ人工照明を逃れて慌ただしく逃げ去っていく。
だが堀切は感じていた。強い光が生むくっきりとした影の中に潜むものの気配を。
そこにあるのは洞窟だ。自然のものには思えない。くっきりと矩形《くけい》に切り開かれたその岩肌はつるりと光っている。溶け崩れた蝋《ろう》のようだが、触れればそれが堅い岩の一部であることがわかる。その洞窟のさらに五、六メートル奥。そこにまた扉があった。それは一枚板の岩で造られた扉だ。
堀切は後ろを向いた。田中が驚くほど近くで洞窟の中を覗き込んでいた。
「ぼくはその……」
ここで辞めて帰りたい、そう告げるつもりだった。その向こうに何があるのかわからないが、身体がそれ以上進むことを拒んでいた。
「ほら」
田中が長い腕を奥へと伸ばした。つられてその先を見る。扉がそこにある。そしてその扉には――。
「錠ですよ」
老人が言った。微笑むその顔はごちそうを前にした子供のようだ。
「それが本命だ。誰も見たことのない錠です。きっとあなたにしか開くことは出来ないでしょう。どうです。見てください」
抵抗できない誘惑だった。
堀切はゆっくりと洞窟の奥へと足を進める。恐ろしかった。脚が震えて止まらない。今にも腰が砕けてしまいそうだ。それでも前に進むのを止めることが出来ない。
それが見えていた。金属製のように見える。しかし鈍く金に輝くそれは、何故か生理的な不快感を感じさせた。
目の前にそれがあった。おそるおそる指を伸ばした。触れると食いつくかのように指先に吸いついた。微妙に生暖かい。金属とは思えぬ感触だ。
おそらくそうであろうと見当をつけ、金属の覆いを上げる。その下に鍵穴があった。
腐臭が濃くなった。気分が悪くなる。
「ぼくは……」
再び彼は後ろを見た。田中が洞窟の向こうで堀切を見ている。それ以上近づくつもりはないようだ。
「ぼくはもうこれ以上――」
「開けて欲しい」
堀切の足元に老人がいた。そこにもまた円筒の岩があり、背を曲げ腰を下ろしている。
「それが君との契約だよ」
老人は書類を目の前でひらひらさせた。
「さあ、続けるんだ」
堀切は言われるままに錠へと向かった。恐怖と好奇心が、彼の中でせめぎ合っていた。そしていざ作業に掛かれば、たちまち恐怖は失せていった。
「鍵も錠も紀元前四〇〇〇年頃にまで遡《さかのぼ》れる」
誰に聞かせるともなく老人が話し出した。
「いや、もっと古くから錠はあったのだよ。そう、たとえば注連縄。あれは呪的な錠だ。天手力男《アマノタジカラオ》神が天照大神《アマテラスオオミカミ》を天の岩戸から引き出すと、同時に布刀玉命《フトダマノミコト》が閉じた岩戸に注連縄を張る。これは錠だよ。神でさえ開くことの出来ない錠だ。ギリシャではホメロスの『イーリアス』に、神にすら開くことの出来ない錠の話が出てくる。錠と鍵は神も従わなければならない理なのだよ」
堀切は熱中していた。なんという錠なのだと興奮していた。まるで複雑に絡み合ったロープのような錠だ。そう、まさしくゴルディアスの結び目のように。これを剣で断ち切ることなく「美しく」開く。堀切はそのことに集中していた。工具は彼の望むままに姿を変え、どれもが彼の指先そのもののように動いた。
「この錠もまた、神ですら開くことの出来ぬ錠なのだよ。いや、神であるからこそ開くことが出来ない。そのように造られているのだ。契約によってね。扉の向こうにいるのは古《いにしえ》からこの星にいた神々だ」
背後からのその声はまるで呪文のようだ。その意味が彼にはもう汲み取れない。その指はすでに金属の工具そのものとなっていた。鈍く銀に輝く十本の指は、そのまま鍵と化していた。濃厚な腐臭が酸のように堀切の服を焼き、溶かし始めた。
「契約を破ることが出来るのは君たち人類だ。それが神々のルールだからね」
その時が近いのを堀切は感じていた。探索針となった彼の中指がそれを探り当てた。人差し指が愛撫《あいぶ》するようにそれを撫でた。解答が指先から彼の脳髄へと侵入してきた。彼は身震いした。解錠。頭の中にはそれしかなかった。またひとつ、指先が解錠へとつながった。半ば開いた唇から唾液《だえき》が垂れる。よく見ようと目を見開くと、頭が左右に小刻みに揺れた。
来る。来る。
堀切はその時を思い激しく勃起《ぼつき》した。
くる、くる、くる、くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる――。
沈黙が一瞬あった。
そして鍵が開いた。
堀切は震えが止まらなくなった。呻《うめ》き、ズボンの中にしたたか精を放つ。何もかもがぐずぐずと蕩《と》けていく。泡立つ肉の色をした粘液が足元に広がっていく。堀切は彼自身の狂騒的な甲高い笑い声を聞いていた。半ば崩れた脚が折れ、地に伏した。やがて胸が喉《のど》が顎《あご》が蕩け、声も失せた。
「ありがとう」
どこからか嘲《あざけ》るような声がした。が、それを聞くべき堀切の耳朶《じだ》は、肉色のスープの中にただ浮かんでいるだけだった。
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ヨブ式
「係長、臭いますよ」
出社早々、三沢が聞かされたのがその台詞《せりふ》だった。鼻をひくひくさせてそう言ったのは去年入社したばかりのOL。おはようございますの挨拶《あいさつ》もなしにいきなりだった。
だからといって三沢が腹を立てるわけでもなく、そう言えば臭うな、と鼻をひくつかせる。
「なんか食べ物入れてるんじゃないですか」
机の抽出《ひきだ》しを指さした。
給食嫌いの小学生じゃないんだから、と呟《つぶや》いてはみたがそこから臭うのは間違いない。腐敗臭だ。
三沢は合成皮革の通勤|鞄《かばん》を机の上に置き、抽出しに手をかけ、開いた。
新人OLが悲鳴を上げた。
三沢は低く呻《うめ》き、反射的に腹を押さえた。
酷《ひど》く熱いコーヒーを飲み干したように胃が痛んだ。
抽出しに入っていたのは腹を裂かれた鼠だった。
とうとう会社にまで来たか。三沢は思った。
社員たちが集まってきた。うわあ、だの、げえっ、だのと大袈裟《おおげさ》に言っている声が聞こえる。
これは噂となって広まるだろうな。それも悪い噂に決まっている。俺に関してあることないこと様々な話がつくられ広まっていくんだ。
新聞紙で死んだ鼠を掴《つか》みながら三沢は考えていた。ぐにゃりとしたその感触が、彼には誰かの悪意そのものに思えた。
社員一人の身に何が起ころうと一日は始まる。そして鼠の死骸《しがい》が抽出しに入っていた以外は、これといったこともなく三沢の一日が終わった。彼にとってはそれだけで充分だったのだが。
*
重苦しい厭《いや》な気分を背負い込んだまま三沢は帰路についた。今日だけのことではなかった。今月になってから三沢への嫌がらせが続いていた。
最初は車だった。会社に行こうと月極めの駐車場へ向かった。いつもの位置で鍵を取りだしキーレス・エントリーのスイッチを押す。ところが鍵が開かない。近くまで行って何度も小さなボタンを押したがダメだった。故障かと思ってドアの受光部を見ると黒く塗りつぶされている。誰かの悪戯《いたずら》だ。舌打ちして鍵穴に鍵を入れようとしたら鍵が入らない。どうしようもなくJAFを呼んだら、接着剤を詰められていますね、と事もなく言われた。その日は遅刻。まだローンを支払い終えていない車の修理費に、三沢にとっては法外な金額を請求された。
次はマンションの窓だ。
家に帰るとどうして早く帰ってこないのかと妻の諭子《さとこ》にいきなり怒鳴《どな》られた。
何があったと尋ねると、あんたって人はどうしていつもいつも大事なときに限っていないんですかわざとですか私が嫌いなんですかそれならそうで、といつまでも愚痴《ぐち》を聞かされそうになり、別に酒を飲んでいたわけでもない、残業で遅くなっただけのことだ、などと慌てて言い訳をしていると妻が泣き出した。待ってましたとばかりに五歳になる息子の義行《よしゆき》がお母さんを苛《いじ》めるなと殴りかかってくる。どうしたことかと改めて聞くと和室に行ってみろと言う。
襖《ふすま》を開けて中に入った。窓ガラスが割れている。畳には大きな石が二個、転がっていた。
諭子が夕食の汚れものを洗っていた時だ。和室でゴンと音がして、見に行った。別に何もない。空耳だとは思えないのだが、と考えながらもキッチンに引き返そうとした時だ。大きな音に驚かされ飛び上がり振り返ると、ガラスが割れていた。散乱したガラスの破片をスリッパでじゃりじゃり踏みつけて窓に近づき開く。恐る恐る下を見るが街灯に照らされた道路に人影はない。それでもそこかしこに出来た薄闇の中に何かが潜んでいるのではないかと、しばらく周囲を見回していた。疑えば闇の中で息を潜《ひそ》める何かの姿が見えるような気がする。いやいや、気がするだけだ誰もいなかったのだと窓を閉めようとした時だ。
風を切り諭子の頬を何かがかすめた。一拍遅れて彼女は小さな悲鳴を上げ、身体《からだ》を避けた。鈍い音をたて、握り拳ほどもある石が襖にぶつかり畳に落ちた。
反射的に窓を閉めようとした諭子は耳元で囁《ささや》いているかのようなその声を聞いた。
――おしい。
笑いを含んだ声だった。
叩き壊す勢いで窓を閉めた。どうしたのと和室に入ってこようとした義行を思わず叱責《しつせき》し抱きかかえて寝室に駆け込んだ。
それから息子と二人寝室にずっと隠れていたのだという。途中で思い付き三沢の携帯に電話したが出なかった、と三沢をなじって話は終わった。
携帯は持っていたのだが電源を切っていたのかもしれない。いずれにしろ妻からの連絡は三沢に届かなかった。
警察に電話したのかと聞くとそれはしていないと言った。結局三沢が警察に連絡したのだが、事が大袈裟になっただけのことだった。やってきた警察官に、まず犯人は見つからないだろうと言われては安心できるはずもない。
郵便受けに何かの――おそらく魚の――内臓が入れられていたのはそれから四日後のことだった。諭子は一緒に入っていた朝刊に包んでそのまま捨てた。
*
まず諭子に責められた。原因はあなたにあるに違いない。一言で言えばそういうことだ。それに女が関係しているのではないかと仄《ほの》めかされた。車の件でも鼠の件でも酷い目にあっているのは三沢自身だ。が、諭子が一番|怯《おび》えている『声』を彼が聞いたわけではない。ガラスが割れていたのは事実だが、何故割れたかは諭子から聞いただけだ。郵便受けの汚物にしても諭子が見つけて捨ててしまった。三沢はそれも見ていない。彼女の狂言だとは言わないが、子供と一緒になって怯えるような事態だとは、三沢には思えなかった。それよりもすべての元凶が彼にあると言いたげな諭子の態度が腹立たしかった。
会社での一件を、三沢は彼女に話さなかった。言ったところで新しい揉《も》め事の種をつくるだけだと思ったからだ。そんなことを考えただけでも胃がしくしくと痛む。
そしてその翌朝、三沢は血みどろの手でハンドルを握っていた。
車のドアの取っ手に剃刀《かみそり》の刃がつけられていたのだ。三沢はまともにそれを握って三本の指を一直線に切られた。ダッシュボードから絆創膏《ばんそうこう》を取り出して貼ったが、思ったよりも傷口は深く、ハンドルから血が垂れるほどだった。会社に着くと手をハンカチで押さえ洗面所に駆け込んだ。手を洗い新しい絆創膏を何枚も貼りつけた。幸い誰にも見られてはいなかった。とはいえベタベタと絆創膏を貼った手を見られずにすませることは出来なかったのだが。
それよりも問題は帰宅後だった。
その手はどうしたのかと聞かれたとき、三沢はちょっとね、と適当に答えた。ちょっとって何よ、とさらに尋ねる声にすでに苛立《いらだ》ちが混ざっていたので覚悟した。
切ったんだ。
そう答える。
何で、どうして、と諭子は質問を重ね、それに三沢が答えていく。答えれば答えるほど妻の怒りは高まっていく。怒らなくてもいいじゃないかと、それでも優しい口調をつくって言えば、あなたが心配だから言ってるんですと答えた。
「で、どうするつもりなの」
浮気を咎《とが》めでもするような口調でそう言われたとき、三沢は我慢出来ず大声で言った。
「どうしろと言うんだ。警察には言ってある。それ以上俺に何が出来る。第一そんなことを言って問い詰める前に、本当に心配なら傷の手当でもしたらどうだ」
言い放てば案《あん》の定《じよう》諭子は泣き出した。物音を聞きつけて息子が目を覚ましてくる。マンションの3LDKでは逃げ込む部屋もなく、三沢は家を飛び出した。かといって行くあてがあるわけではない。タクシーでも拾って近くのカプセルホテルにでも行くかと考えてから、財布も何も持ってきていないことに気がついた。
仕方なく歩いて十分もかからぬ公園のベンチに腰を降ろした。ここぞとばかりに蚊が集まってきた。
蒸し暑い夜だった。ぬるい風が不快さを増す。サンダル履《ば》きの足指の間を黒く小さい蟻が這《は》った。
重すぎるかのように頭を抱え肘《ひじ》を腿《もも》に載せ前屈みになり、蟻を目で追う。
着信音が鳴った。
携帯電話だ。
三沢はポケットからそれを取り出した。諭子からだと疑うこともなく、開口一番すまんと謝った。
少しの間沈黙があった。
それから男は言った[#「男は言った」に傍点]。
「鍵も掛けずに外に出たら危ないとは思わなかったのかい」
誰だと問い返す声が喉《のど》につかえた。
次の瞬間、携帯は切れていた。
三沢は走った。走りだした。
わずかな距離がゴムのように伸びている。
悪夢に似て脚が身体が重い。それでも走る。走り続ける。
エレベーターを待つ余裕もなく階段を駆け昇り、玄関のノブに手を掛けた。ひねり、おもいきり引くが扉は開かない。ノブにこすれて指が痛かった。
鍵は掛かっていた。
大きく息をついてからポケットを探る。鍵を見つけ出し扉を開くと諭子が息子を連れて立っていた。
「早く入りなさい」
厳格な教師の声でそう言われ、叱責された子供の態度で中に入る。
「鍵は閉まってたんだ」
誰に言うとなく呟く。
「あなたが閉めたんでしょ」
言い捨て二人は居間に戻っていった。
堰《せき》が開いたようにぬるい汗が吹き出した。
故ない恥辱に焦《こ》がれるように身体が熱い。
後ろ手で閉め、鍵を閉めようと扉を見ると小さな紙片がテープで貼ってあった。カレンダーの切れ端のようなその紙には小さくこう書かれてあった。
――鍵は閉めましょう。
見てはならぬものでも見たように三沢は紙を握り潰した。その手が震える。
奴は来ていた。
開いていた扉を閉めるために。
奴はこの部屋の鍵を持っている。持っていないにしろこの程度の鍵ならどうにでもできるのだ。
恐ろしかった。脚から力が抜け、その場にしゃがみこみそうになった。蒼白《そうはく》な顔に冷たく厭な汗が流れる。太刀打ちできない巨大な怪物と対峙《たいじ》したような気分だった。
怒りでも苛立ちでもなく、純粋に恐怖していた。
その夜初めてまともに諭子と話し合った。その結果、もしものことを考えてしばらくの間妻子を実家に預けることにした。諭子の実家からなら車で息子を幼稚園に通わせることも出来る。荷支度を整わせてその夜は床についた。眠ることなど出来なかったのだが。
*
車窓から灰色に煙《けぶ》る街並みを見ている。
右手の傷が痛む。その痛みに神経を集中する。ふと視線を感じ周囲を見回す。
あいつか。
あいつか。
あいつか。
疑えばどの顔も疑わしい。皮一枚下にタールのような悪意をへばりつかせているように見える。
諭子たちを実家に送ろうと早朝から家を出た。駐車場に行くと、遠くからでも落書きされているのがわかった。真っ赤なスプレーの文字で「頭つぶしたる!」だの「腹を裂くか(笑)」などと大きく書かれてある。その他にも太字のマジックでびっしりと文字が書き込まれてあった。まるで悪霊退散を願う耳なし芳一《ほういち》だ。
鍵も開かなかった。
ウインドウから中を見ると、運転席に大便が山を成していた。
車を諦め、列車で実家まで送った。実家の両親によろしくお願いしますと頭を下げてから会社へと向かう。今はその途中だ。警察には車を見に来いと怒鳴りつけてきた。帰宅してからも直接交番を訪れるつもりだ。
少し遅れて会社には着いたが、仕事にはならなかった。胃の痛みは慢性的になり、昼食が何も食べられなかった。にもかかわらず腹具合いがおかしくなり、血の混ざった便が出た。
それでも一日会社にいたのは、家に帰るのが恐ろしかったからだ。
家に帰ってそれを見たとき、何故か安堵したような気分になっていた。
やっぱりな。
薄ら笑いを浮かべて三沢はそう呟いた。
三沢のマンションはそれぞれの部屋が独立したポーチを持っている。そこに腹を裂かれた犬が横たわっていた。
このまま警察に行こうかと思い、しかし考え直した。ドアノブをひねるとあっさりと扉は開いた。
わかっていたこととはいえ、心臓がトクリと空回りした。掌《てのひら》に冷たい汗が滲《にじ》む。
三沢は昼休みに近所の金物屋で買った大きなカッターを鞄から取り出した。それがお守りでもあるかのようにしっかりと握り締めそっと中に入る。
土足で電灯もつけず部屋に上がり込んだ。和室、寝室、洋間、浴室と順に見ていくが誰もいない。明かりをつけ、和室の押入れを一気に開く。やはり誰もいない。クローゼットから靴箱まですべてを見て回ったが誰も隠れていない。
部屋を荒らした様子もまったくなかった。
まさかと思いながらキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。昨夜の残りが詰め込まれているだけだ。
ただ脅しのために鍵を開けておいただけか。
そう思うと、土足のままでいることが腹立たしく思え、乱暴に靴を脱ぎ捨てた。
ブン……
背後で音がして慌てて振り返る。カッターを持った手を構えた。
テレビだ。テレビの電源が勝手に入っている。すぐに画像が映った。駐車場の中にいる親子連れ。背後から撮《と》られているから顔までは見えない。しかしそれが誰であるかはすぐにわかった。
三沢たち一家だ。
それも今朝の様子だ。
「仕方ないな。JRで行こう。そう時間は掛からない」
「一緒に来てくれる?」
「もちろんだ」
「お父さん、旅行?」
「ちょっとの間お祖父《じい》ちゃんとお祖母《ばあ》ちゃんのところに行くだけだよ」
「幼稚園行かなくてもいいの」
「お祖父ちゃんのところから通うんだ。さあ、行くか」
「警察は?」
「後で連絡しておく」
駐車場から三人がたち去っていくまで、カメラはずっと追っていた。
次は列車の中だ。
青い顔でうなだれ席に腰を降ろしている三沢夫婦。一人で燥《はしや》いでいる義行。
それから実家の玄関が映った。
諭子の両親に頭を下げる三沢の後ろ姿が映り、不意に映像は終わった。
三沢はすぐにキッチン・カウンターの受話器を取り上げ実家に電話をしようとした。ところが電話番号が思い出せない。はっきりと覚えていたはずなのに、頭の中に穴が開いてでもいるように番号が浮かばない。考えれば考えるほど、焦れば焦るほど、幾つもの数字がからかうように浮かんでは消えるだけだ。胸に手を当てる。ゆっくりと深呼吸する。
さあ、思い出すんだ。覚えていたはずだ。最初の数は6……違う。3だ。3721……そうじゃないそうじゃないそうじゃない。……駄目だ思い出せない。そうだ! アドレス帳だ。どこかにアドレス帳があったぞ。
三沢は居間の中を掻き回す。壁の飾り棚から抽出しの中まで、手際の悪い空き巣のように行き当たりばったりに覗《のぞ》いていく。ところがどこにも見つからない。いつも持っているシステム手帳のことを思い出すまでには、ずいぶんと時間が掛かっていた。通勤鞄から手帳を取りだしアドレスを調べる。
実家の番号があった。
とりあえず安堵の溜息をついた。
二度ボタンをおし間違えてから実家につながった。相手が出ると同時に三沢は言った。
「諭子と代わってください」
「三沢さん?」
義母だった。
「はい、すぐに諭子と代わってください」
「それがねえ……いないのよ」
呑み込んだ息が詰まった。
声が出ない。
「買い物に出かけて、それでまだ戻ってきていないの」
「どういうことですか」
ようやく出た声は半ば怒鳴っていた。
「七時頃かしらねえ。牛乳がきれてるから、ほら、義行ちゃんが朝には必ず牛乳を飲むからって。近くのコンビニに行ったはずだからもう帰ってくるだろうと思ってたんだけど、いくらなんでも遅すぎるわよねえ」
時計を見ると八時を二十分ほど過ぎている。
「義行はそこにいるんでしょうね」
「義行ちゃんはお利口よ。一人で遊んでるわ」
「今からそちらに行きます。二十分ほどで着くと思います。それまで何があっても義行を外に連れ出さないでください。それから、もし諭子が戻ってきてもそこで私を待つように言ってください」
三沢の剣幕《けんまく》に気圧《けお》されたのか、不安そうに義母は尋ねた。
「何があったの」
「後で説明します」
フックを指で押して切ると、続けて警察に電話を掛ける。若い男の声が警察だと告げた。三沢は実家の住所を言って、妻が戻ってこないのだと訴えた。
「あのねえ、大人が一時間やそこら帰ってこないからって、そんなに心配することはないよ。一時間じゃ浮気も出来ないって」
かっと血が昇ったが、それは懸命に堪《こら》えてここ数日の出来事を説明する。自宅の住所を述べ、交番に何度か届けを出していることも告げた。
「はあ、なるほど。あんたの心配する気持ちはわかりますがね、それでもやっぱり大人のすることだから、もう少し待ってみたらどうですか」
多少は言葉遣いがまともになった。だが多少丁寧に言われたところで、腰を上げてもらわなければなんにもならない。
「聞いてたんですか。誰かは知らないが、家に勝手に侵入してきて、今朝の我々の様子を映したビデオを置いて、脅迫していっているんだ。せめてパトロールにでも――」
「はいはい、パトロールには出ます。ご実家の近所を探してみますから、どうか落ち着いて対処して――」
三沢は叩きつけるように電話を切った。それから投げ捨てた靴を拾って玄関へ向かう。そして死んだ犬につまずきそうになりながら外へ走り出た。
列車に乗り込み暗い窓を眺めているときにあることに気がついた。
ビデオだ。
どうしてビデオをあのタイミングでつけることが出来たのか。
ビデオに、時間が来たら自動的に再生する機能などない。コンセントにタイマーを仕掛けることは出来るが、それでは電源が入るだけで再生は出来ない。もし仮に三沢の知らないような他の方法があったとしても、三沢が帰宅する時間に合わせて、あれほど絶妙のタイミングで再生を始めることが出来るだろうか。それが出来るただ一つの方法。それはあの瞬間にリモコンで再生を開始することだ。
犯人はあの場にいた。
部屋は玄関から順に調べていった。キッチンが最後だったが、カウンターの向こうに居間があり、その向こうにベランダがある。ベランダ側のカーテンは閉じたままだった。ベランダからガラス越しにリモコンでビデオを操作したなら、あのタイミングでビデオをつけることなど簡単なことだ。
もしそうであるのなら、実家に電話を掛けようと四苦八苦している間に犯人は逃げ出したことになる。
すると……。
考え続けることで多少は落ち着きを取り戻した三沢は、一つの結論を得た。
手間取ったのはビデオが始まってから電話を掛け終えるまで四十分ほど。諭子が実家を出たのは今から二時間近く前だ。犯人がビデオをつけてからすぐに実家に向かったとしても、家から出る諭子を見つけることは不可能だ。実家からコンビニまで往復で十分、混んでいて手間取ったとしても二十分はかからないだろう。そうであるなら、諭子の帰りが遅いことと犯人とは無関係だ。
そうだ。無関係だ。
流れる夜の街を見ながら三沢は頷《うなず》く。
団欒《だんらん》を象徴しているとしか思えない家々の窓の明かりを見ているうち、しかし三沢の胃は端を摘まんで乱暴に引っ張られるかのように痛みだした。
もし、もし犯人が複数いたら。
一人が妻を見張り、一人がビデオを操作していたら。
大掛かり過ぎる。
三沢は己れの思い付きを打ち消そうとする。
なんのためにそんなことをする。俺一人を脅かすためにそれほどの大仕掛けをしなければならない理由がどこにある。
それは初めから三沢が考え続けていることだった。
誰が、なんのために。
人に恨まれるようなことはしていない。たとえ気づかぬような何かがあったとしても、ここまで執拗《しつよう》に嫌がらせをされる覚えはない。
*
結局何の結論も出ぬまま、痛む胃を抱えて三沢は実家へと走った。この辺りは古い街並みの続く下町だ。諭子の実家も築二十数年の木造の一軒家だった。街灯の明かりも侘《わび》しく見える。昨年アルミサッシに替えた実家の玄関が見えてきた。これもまたその時につけたインターホンを押す。
間の抜けたチャイムが何度か鳴った。
誰も出てこない。無意識に腹をさすりながら三沢はドアノブに手を掛けた。
鍵は開いている。
頭の中に浮かぼうとする様々なイヤな物事を無理やり見えないところに押し込めた。それでもじっとりと汗が滲む。心臓が出鱈目《でたらめ》に脈を打ちだした。
扉を開けた。
古い家屋の湿ったにおいがする。黴《かび》と埃《ほこり》とそして……三沢はそこに不吉な臭いを嗅《か》ぎとった。
薄暗い玄関に最初の一歩が踏み出せない。ゆっくりと息を吸った。力ばかり入り、肺に入る空気はわずかだ。吐けば息が震えている。糊《のり》付けされたように強ばった掌をぎくしゃく開き、ズボンに汗をなすりつけた。
何でもない。
何でもないはずだ。
必死でそう思い込むと、中に声を掛けた。
家のそこかしこで淀《よど》む闇に、声が力なく吸い込まれていく。
返事をしてくれ。
祈るように呟くのだが、聞こえるのは近くの公園で騒いでいる少年たちの声だけだ。
何でもない。
声に出してそう言い、さらに大きく、お邪魔しますと言ってみる。それをきっかけに玄関へと踏み出した。靴を脱ぎ、家に上がる。台所の横を通って居間へ行く。そこにだけ古ぼけた蛍光灯が点《とも》っていたからだ。
「三沢で……」
凍り付いたように立ち止まった。
義父はいつものように座椅子に座っていた。長年勤めた自動車部品のメーカーを退職してから、ほぼ一日、近所のスーパーへ出かけるとき以外はこの座椅子に座ってテレビを見ていた。しかし今彼はテレビを見ているわけではない。全裸で、しかも荷造り用の紐《ひも》で椅子に縛りつけられている。痣《あざ》だらけの顔が異様な角度にねじ曲がっていた。腫《は》れ上がった唇が笑顔の形に曲がり、飛び出した舌はふざけてでもいるように見えた。見開いた眼の見つめる先。そこに義母がいた。小さな小さな老女はうつぶせになり、痩《や》せた尻を大きく掲げていた。服はすべてはぎ取られてある。両手は後ろ手に縛られ、萎《しぼ》んだ身体には無数の切り傷があった。
陽に灼けて変色した畳には、二人分の血が黒く沼のように拡がっていた。
何か音がする何の音だ耳|障《ざわ》りだ消えちまえイヤな音だうるさい音だ何の音だこれはこれはこれは。
ユーモレスクが軽薄な電子音で演奏されている。
電話だ。
携帯電話の着信音だ。
三沢はようやく我に返った。呼吸をしていなかったことに気がつき、慌てて息を吸う。吐く息に自分でも情けなくなるほどのか細い悲鳴が混ざった。
そうだ、電話だ。
ポケットを探って携帯電話を取り出す。
耳に当てると男の荒い息が聞こえた。
「誰だ!」
三沢は涙混じりの大声で言った。
「今あんたの奥さんとやってるんだけどね」
ざらざらした声が笑っている。
「……何だって」
男の言っていることが理解できなかった。英語で喋《しやべ》りかけられたかのようにさえ思える。単語それぞれの意味はわかるのだが、それがどのようにつながっているのかがわからないのだ。
「やってるんだよ」
男は愉《たの》しそうに繰り返した。
「あれだよあれ。おまんこだよ。わかるだろ。ずぼずぼずぼって、音が聞こえるだろうが。あんただってこいつと毎晩やってたんだろ。ほら、奥さんのよがり声聞いてみる?」
ああ、ああ、と聞こえるその声は瀕死の病人の囁《ささや》きのようだ。
「さっきまで元気でひいひいよがってたんだけどね。いやあ、さすがにさっきやった婆さんよりはいい感じだよ。あんた、あんまり使ってなかったんじゃないの」
黙れ!
叫び、携帯を壁に叩きつけた。
壊れた破片が血だまりに飛ぶ。
きいん、と耳鳴りがしばらく続いた。
それが終わればすべての音が消えていた。
静かだ。
外の音ももう聞こえない。何も聞こえない。音なんてものはこの世にいっさいなかったみたいだ。ああ、静かだ。何も聞こえない……いや、声が聞こえる。子供の声だ。あれは……。
三沢は居間の奥の障子を見る。障子の向こうには便所と浴室がある。
――お父さん。
聞こえた。確かに義行の声だ。障子の向こうから聞こえる。
――お父さん。
ああそうだ。あれは義行の声だ。
三沢は居間に踏み出した。座椅子に座る義父と横たわる義母の間をすり抜けて奥の障子を開く。
微かに糞尿の臭いがする洗面所でごとりと音がした。洗濯機だ。
今時珍しい二槽の洗濯機。
三沢はその蓋《ふた》を押し上げた。
下から義行が見上げていた。
「お父さん」
三沢は義行を抱き上げ、抱き締めた。
震えているのは三沢の方だった。
*
早朝のニュースが始まったとたんに電話がかかってきた。普段あまりかかわり合いのない三沢の叔父《おじ》からだった。叔父は三沢の結婚の失敗をなじり、行方不明のままの諭子を犯人扱いした。そうではないのだと弁明しているうちに俺が悪いのだと泣き出していた。それから立て続けに叔父や叔母、従兄《いとこ》たちから電話があった。ほとんどが心ない同情と叱りつけるような励ましであり、何人かには罵倒された。その内容に初めの頃こそまともに反応していたが、しまいには見えない相手に向かってぺこぺこと頭を下げて謝った。それが終わるとマンション住民を代表して、と名乗る男から電話があった。慰めているかのような口調で、この様な事件を起こす人物にいられては資産価値が下がるから困るのだと丁寧に脅された。やはり三沢はすみませんと頭を下げた。それをかわきりに、匿名の電話が次から次にかかってきた。延々と諭子の不実を訴える女。普段の行いが悪いからそうなるのだと怒鳴っている男。宗教の勧誘。バカと一言叫んで切る子供。
すみませんすみませんすみません。
三沢は機械のように謝り続け、週刊誌からの取材が始まった時点で電話のコードを引き抜いた。どうしても涙がとまらず、息子を腕の中に抱きすくめしばらく泣いていた。義行は昨夜から一度として口を開いていない。感情らしい感情を現すこともない。人形のような息子を抱いて三沢は啜《すす》り泣いていた。
玄関のチャイムが鳴った。
三沢が扉を開けるといきなりフラッシュが焚《た》かれた。数人の男女が入り口に固まっていた。何事かと思う間もなく先頭にいた若い女がマイクを突きつけた。
今回の一家惨殺事件についてどう思われます。
女は微笑んだ。
三沢は慌てて扉を閉めた。鍵を掛け玄関から出来る限り離れた。居間の扉に背をつけ座り込む。
義行が不思議そうな顔で三沢を見下ろしていた。
三沢は震える肩を自分で抱いた。
扉の外に天井裏に床下に窓の外に、悪臭を放つ液体の何かが充満している。それは悪意だ。タールのように濃厚な悪意が家を包んでいる。三沢にはそれが見えるような気がした。ドブ泥の色をした腐汁の中に家が沈んでいる。少しでも気が緩めば、ずるずると病んだ舌のようなそれが隙間から家の中に入り込んでくるのだ。
息子に食事を与えることも忘れたまま、三沢は夕方まで床に座り続けていた。電灯もつけず毛羽立った絨毯《じゆうたん》を見つめていたら死ぬことを思いついた。名案だと思った。どうして今まで思いつかなかったのかが不思議だった。ベランダのカーテンの前に立っている息子を見た。こちらにおいでと手招きする。
ちょこちょこと義行は三沢に近づいた。
「怖かったか」
前に立つ息子に声を掛けて初めて気がついた。あれ以来一度も義行に話しかけていなかったのだ。
義行が小さく頷いた。
呻くような声が洩れたかと思うと、くしゃくしゃと顔が歪んだ。
涙が吹き出した。
大声を上げて義行は泣きだした。
あまりにも小さな薄い肩を三沢は抱いた。きつく抱き締めた。決して離してはならないものがそこにあった。
深夜、手荷物だけ持って二人は家を出た。
*
ビジネスホテルから一歩も出ることなく三日が過ぎた。警察に居場所を告げた以外は誰にも知らせはしなかった。
義行はあれからまた喋らなくなった。母親のことも幼稚園のことも尋ねはしない。一日テレビを見ていた。ニュースが始まるとチャンネルを替える。自ら何かをするとすればそれぐらいだ。食事でさえ三沢が勧めなければ食べなかった。
三日目の夕食を終えた時点で現金が尽きた。キャッシュカードを家に忘れてきたのだ。三沢は義行に決して部屋を出ないように言い聞かせてからホテルを出た。
暑い夜だ。
その年初めての熱帯夜だった。
ホテルの自動扉が開くと噛みつくように熱気が襲ってきた。たちまち汗が吹き出してきた。シャツの袖で額を拭う。三沢は白いワイシャツにズボン。会社から帰ってそのままの衣装だ。義行の下着だけは新しく買って着替えさせたが、三沢自身は着たきりだ。
一緒に着替えも取ってこよう。そう思いながらタクシーに乗った。
マンションの前まで着ける。
中に入り階段で一気に駆け上がった。
部屋の扉に出て行けと赤いペンキで大きく書かれてあった。扉を開けば中は温室のように温気《うんき》に溢《あふ》れていた。
箪笥《たんす》から着替えを引っ張り出して鞄に詰める。最後にキャッシュカードを入れて終わりだ。それだけで頭から水をかぶったようにびしょ濡れになった。服を全部脱いでゴミ箱に捨てる。タオルで身体を拭い顔を石鹸《せつけん》で洗った。洗面所の鏡を見ると、幽鬼のような己れの顔があった。頬が痩《こ》け、乾いた肌が青白い。眼の下の隈《くま》が痣《あざ》のようだ。眼や口の周りに皺《しわ》ができている。
変わり果てた己れの顔を見ているうちに、急に腹が立ってきた。
何で俺が……。
呟き、歯を噛《か》みしめた。
こめかみがすっと冷たくなる。
くそ!
怒鳴り、洗面所の鏡を叩いた。
濡れた拳がぺしりと情けない音をたてた。
悔しかった。
情けなかった。
苦しかった。
胸の奥で様々な感情が跳ね回っていた。
もう一度顔を洗う。何度も何度も洗い、タオルで皮が剥《む》けるほど拭った。それから新しい服を身につけたのだが、その時にはもう全身に汗をかいていた。
ふとキッチンに眼をやった。
缶ビールを冷やしていたことを思い出したのだ。事件以後アルコールは避けてきた。自分の性格の弱さから、一度アルコールに手を出したらそれに溺れてしまうのではないかと恐ろしかったのだ。
一杯ぐらい。
一杯ぐらい、いいじゃないか。
己れに言い訳をしながら三沢はキッチンに入った。
冷蔵庫を開くのに一瞬だけ躊躇した。ホテルで待っている義行の顔が浮かんだのだ。
だが手は取っ手に掛かっていた。
扉を開く。
中から清潔な白い光が洩れた。
そして三沢は絶叫の形に口を開いたまま強ばった。
そこに失踪した諭子がいた。義行が生まれてから太った太ったと気にしていた彼女の身体は、小さな箱の中にみっちりと押し込まれていた。おそらくそのままでは中に入らなかったのだろう。両腕が肩から切断されている。
胃に激痛が生じた。
火のついたような痛みに屈み込み、三沢はゼリーのような黒い塊を吐き出した。
血だった。
*
三沢に両親はいない。母親は幼い頃に亡くしていたし、父親は七年前、三沢の結婚を知らずに病院で亡くなった。
父と暮らしていたのは高校生までで、大学合格が決定すると上京し一人暮らしを始めた。卒業すると一人で就職も決め、それから家には戻らなかった。
三沢は実家が苦手だった。ベタベタした近所とのかかわりが疎《うと》ましかった。
その実家があった町に今戻ろうとしていた。
諭子が発見されてから三カ月が経っていた。犯人が見つかったのかどうか、三沢は知らない。警察から連絡があるわけでもなく、テレビも新聞も見なくなった彼には事件に関する情報が何も入ってこない。マスコミの攻勢も嫌がらせや悪戯も多少は収まった。しかしだからといってあのマンションに住み続ける気もなかった。仕事は辞めた。腫れ物に触るような同僚の態度に、否が応でもあの事件のことを思い出さされる。三沢にはそれが我慢できなかった。
何を変えようとも、今更何もなかったことに出来るわけではない。しかしそれでも、あの事件を思い出すような物事からは離れていたかった。
どうせ離れるのなら義行が小学校に上がる前にと考え、この時期にマンションを出た。不動産屋に売却を依頼してはいたが、しばらくは売れないだろうと言われていた。もう貯蓄は底をつきそうだった。
働き先は見つけてあった。実家の近くに出来た新しいパチンコ屋に、住み込みで働くことになっている。
何もかも忘れて心機一転、というわけにもいかない。事件の傷痕は深い。何も語ろうとはしない義行は、未だに夜中に突然怯えて泣き出すことがある。三沢は冷蔵庫を開けることが出来なくなった。この傷が一朝一夕《いつちよういつせき》に癒《いや》されることはないだろう。もしかしたら一生引きずることになるかもしれない。
それでも三沢が明日を見て前進しようと心に決めたのは義行がいるからだ。義行にだけはこれ以上悲惨な体験をさせるつもりはない。事件を忘れることは無理でも、せめてこれからは人並みの暮らしをさせてやりたい。
三沢はそれだけを考えていた。
ポケットの中の座席指定券を掴む。ひかり号に乗るのが最後の贅沢になるかもしれない。そう思いながら三沢はホームで新幹線を待っていた。
義行は缶ジュースを飲んでいる。一人息子でどちらかといえばわがままだった義行が、あれから何をねだることもない。それが、よほど喉が渇いていたのだろうか。駅に着くとジュースを飲んでもいいかと三沢に尋ねた。三沢が笑顔で小銭を渡すと、義行も笑顔を見せた。数カ月ぶりに見る笑顔だった。
喉を鳴らしジュースを飲む義行を見ていると、急に缶を口から離した。真面目な顔で三沢を見上げジュースを差し出す。
有り難う。でもいいよ。お父さんは喉が渇いていないから。
三沢がそう言うと、勢いよく残りを飲み干した。
列車が来た。
黄色い線より後ろに下がれとアナウンスがある。
芋虫のような鼻面が見えてきた。
空き缶をゴミ箱に捨ててきた義行が、横に並んで三沢の手を握った。三沢はそれを強く握り返した。
二人で駅に入ってくる新幹線を見ている。
と、三沢が後ろから小突かれた。
よろめき一、二歩前に出る。危ういところでホームから落ちるところだった。何をするんだ、と後ろを振り返った。
そして見た。
義行の真後ろに人がしゃがんでいた。
大便でもするかのごとく腰を落とし膝を広げている。灰色のズボンに細かい柄物のシャツを着た男だ。その頭にすっぽりと大きな布袋をかぶっていた。
その男がいきなり腕を伸ばした。異様に腕が長い。
その掌が義行の背中を押した。
車に撥《は》ねられでもしたように義行の身体が前に突き飛ばされる。
三沢は慌てて握った手を引いた。
その時義行は、すでにホームから転がり落ちそうになっていた。
列車がホームに入り込んできた。
ぐん、と腕を引かれ、三沢の手から引きちぎられるように義行の手が離れた。
三沢は腕を引かれるままに転倒し、二回三回と黄色いタイルの上を転がった。
横たわった三沢の眼の前を真っ白の壁が通りすぎていく。
義行の姿がない。
耳を突き刺すようなブレーキ音。
上も下もわからぬまま、ああ、と三沢は呻いた。
誰かの悲鳴が聞こえた。
あれはあの声は……。
俺の声だ。
底無しの沼に沈み込むように、三沢の意識は失《う》せていった。
*
赤は血の色だ。そして肉の色だ。
白は骨の色だ。そして皮膚の色だ。
赤と白が入り交じった世界が三沢の周りで渦巻いている。
時折その紅白の渦巻きから、ごぼりと顔が浮かび上がってくる。
血みどろのその顔は苦しそうに息をつき、皆一様に三沢の方を憎々しげに睨《にら》む。そして赤と白の世界に溶け込んで消えていく。
顔は繰り返し現れては消えていった。
あの老人の顔は……。
あの女の顔は……。
あの子供の顔は……。
何故だ。何故この人たちは私を憎んでいるんだ。憎まれるような何を私がしたんだ。
「したんだよ」
声が聞こえた。
腹の中で空腹の鼠が暴れだした。
ひきつるような激しい痛みに眼を開く。
白い天井と蛍光灯。
堅いベッド。
病院、か。
それにしては壁も天井も黒く黴が斑《まだら》の模様を描いている。蛍光灯は煤《すす》けているし、白い埃が深海に散る雪のようにゆっくりと舞っている。
「したんだよ、あんたは」
再び声がした。
声だけは夢ではなかったのか。
突っ張った首を動かして横を見る。
部屋の隅に置かれたパイプ椅子に、男が背を丸めて座っていた。貧相な小男だ。
男は顔を上げて三沢を見た。
鼠にそっくりだった。
「何をしたって?」
三沢は尋ねた。
「あんたが起ち上げたから、式が始まったんだな」
「式? 起ち上げた?」
「ヨブ式だよ」
「それは何だ」
「ヨブ式はヨブ式だ。他の何でもないさね。あんた知らないのか。知らないだろうな」
男はしきりに涎《よだれ》を啜りながら話す。唇の端が麻痺《まひ》しているのか、だらしなく開いたまま閉じない。そこから唾液が伝って男の薄汚れたワイシャツの衿《えり》を濡らしていた。
「ヨブってのは……あんた聖書を知ってるか」
「よくは知らない」
「ヨブ記ってのは聞いたことがあるだろう」
「聞いたことがあるような気もするが」
「よくは知らないか。まあそんなもんだな。とにかくだ。ヨブっていう男が出てくる。信心深い幸福な男だ。その信仰を試そうってんで、神様がヨブを不幸にする」
「不幸に……」
「そうだ。それも酷い不幸さ。家族も友人もいなくなり本人はとんでもない皮膚病で苦しむ」
男は尖《とが》った舌で上唇をしきりに舐《な》めた。
「神様がそれをするわけか」
「そうだよ」
「どうして」
「言っただろう。聞いてなかったのか。信仰を試すためだ」
「その男は信心深かったわけだろう」
「だから」
男は音をたてて唾を呑み込んだ。
「悪魔が言ったんだ。今は信心深いが不幸になったら神を呪うに違いないって」
「それは……それはおかしいじゃないか。何で神様が悪魔にそそのかされなきゃならないんだ。神様ってのは万能じゃなかったのか」
その話の理不尽さに、三沢は無性に腹が立った。痛みも忘れて男に訴える。
「万能の神に、ヨブの信心深さを疑う必要なんかないだろう」
「神なんかいない」
「はあ?」
「神はいない。いるとでも思っていたのか」
「聖書の話をしているんだろう」
「ヨブ式の話さ」
扉が開いた。
白衣の男女がそこに立っていた。二人ともゴム手袋に大きなマスクをしている。
医者と看護婦。そうとしか思えないが、二人の白衣にも手袋にもマスクにも乾いた血がこびりつき、地図のような模様を浮かべていた。
「今度はこいつか」
「またまた間抜けそうな顔だわね」
二人は笑った。
「ここは……病院ですか」
つい丁寧な口調で聞いてしまったのが腹立たしかった。
「そっち持って」
男が三沢を無視して言った。女が三沢の頭の方にまわる。
「行くぞ」
男が言うとベッドが動きだした。
ベッドではなくストレッチャーだったのだろうか。
部屋を出て廊下を走る。
そう、二人は走っていた。
廊下は暗く、血と糞尿《ふんによう》の臭いがした。
「何処《どこ》へ行くんだ」
三沢の質問はまた無視された。
三沢たちは驚くほどのスピードで廊下を駆け抜けていく。よろよろと歩く老婆や包帯だらけの子供が慌てて脇に避けた。
急に男が立ち止まった。
勢い余った三沢は転げ落ちそうになった。
身体を起こして前を見る。
正面に鉄の扉があった。赤錆びが鱗《うろこ》のように貼りついている。
男が腰を沈め顔を真っ赤にして扉を引いた。悲鳴を上げて軋《きし》みながら扉が開く。
「さて」
男はそう言うと三沢の両足首を掴んだ。
女が脇を抱える。三沢はベッドから抱え上げられた。
いち!
にい!
のう!
さん!
三沢は丸太のように扉の向こうに投げ捨てられた。激しく腰を打って咳《せ》き込む。その間に扉が閉じていく。
待ってくれ!
言いはするが身体が動かない。嘆《なげ》きの悲鳴を上げて扉が完全に閉まると闇がずっしりとのしかかってきた。明かりはない。明かりはないが眼を凝らせばわずかばかりに周囲が見える。
「式が起ち上がったんだ。諦めることだね」
声がした。低く掠《かす》れたその声は喉を病んでいるようだった。
「誰だ……」
じっと見ればうずたかく積もった土塊《つちくれ》のようにしゃがみこんだ人影が見える。
影は言った。
「君と同じだよ。式が起ち上がったんでここに連れてこられた」
「ここは何処なんだ」
「解《かい》の場所さ」
「わからんよ」
「私もわからないさ。式が起ち上がればやがてそれは解に行き着く。それだけのことなんだろう」
「さっきも聞いたが、ヨブ式とかなんとか。それはなんなんだ」
「悪意は集積する。集積された悪意のエネルギーは発動する場所を求める。ヨブ式の条件に当てはまったものがその力を一身に引き受けることとなる……。まあ、これは私の考えで、実際はどうなのかまではわからない。しかし君だってここに来るまでに感じたはずだよ。悪意の存在を。それは確かにそこにあった。決して言葉だけの形而上の存在じゃなかった。そうじゃないかい」
「……かもしれないが」
闇に少しずつ眼が慣れてきた。ここは暗く狭い廊下だ。床も壁も天井も廃材じみた板でつくられている。さっきから話をしている男は、壁に凭《もた》れてうずくまっていた。斜めに傾いだその姿がどこかしら歪《いびつ》だ。
「どうやったらここから出られるんだ」
「出られないさ。当然じゃないか。だが解はやがて出る。そうすれば終わる。それまでの辛抱だ」
三沢は痛む腰をさすりながら立ち上がった。とたんに胃が痛んだ。まるでそこで灼《や》けた鉄棒を持った小人が暴れてでもいるようだった。
「病気なんだ」
影は言った。
「そうだろう。だがな、どんな重病だったとしても死ぬことはない。解が出るまでは君は死なないんだ。そうだ、言っておくが間違っても死のうなんて考えない方がいい。もっと酷い目にあうぞ。私みたいにな」
男の影がぎこちなく揺れた。瞬間人とは思えぬその身体がちらりと見えた。
忌まわしいものでも見たように三沢は眼を逸《そ》らし、腰を屈めて廊下を歩き出した。
二、三歩も進めば激痛に膝が折れた。
屈み込むとごぼごぼと血を吐く。吐いた血だまりに顔をつけてうつ伏した。息苦しさにあがき、身体を横に転がす。仰向けになり天井を見上げるとそこにぽっかりと穴が開いていた。丸く切り取られた光が見える。そこから何人もの人間が三沢を見下ろしていた。知っている顔も知らない顔も、様々な顔があった。その中には死んだ両親の顔さえあった。彼ら彼女らは口々に呟いていた。
「まだ若そうなのにねえ」
「惨《みじ》めなものだ」
「仕方ないさ。自業自得ってやつ?」
「死ねりゃあ楽だろうが」
「業《ごう》だよ業」
「辛《つら》いだろう」
「きっと悲しいんだろうな」
「ばーか」
見下ろす人々の中に義行の顔が見えた。
酷いよ。
唇がそう動いた。
三沢の眼から涙が流れた。悲しいのか辛いのか惨めなのか、自分でもわからなかった。そこに綻《ほころ》びが出来たかのように、ただ涙が出てとまらなかった。
目尻からこぼれた涙がこめかみを伝う。
それを長く舌を伸ばして舐め取るものがいた。
最初の部屋にいた鼠そっくりの小男だ。祈るかのごとく床に這いつくばり、尖った長い舌で男は三沢の涙を舐めていた。こそげるように舐め終えると、男は満足そうに言った。
「涙は旨《うま》いねえ」
首をねじまげ三沢は男を見ようとした。と、男は彼から離れくるりと向きを変えた。それから四肢を床につけたまま、廊下の奥へと這っていく。その姿が闇の中に消える頃には、それが鼠に似た男だったのか人間に似た鼠だったのか、三沢には区別がつかなくなっていた。
[#改ページ]
死せるイサクを糧として
夏の終わり。
晴天だ。
開いた窓から乾いた風が吹き込むのが心地良い。そんな日曜の午後にすることもなく下らないバラエティ番組を眺めていると死にたくなるのだった。
息子のことを思い出すからだ。何故なのだろうか。わたしが息子を失ったのがそんな日だったというわけでもないのに。いや、失った、というのは嘘だ。正直に言うべきだろう。わたしは息子を殺した。そう、わたしは息子を殺した。だがそれは夏の終わりでも日曜の午後でもなかった。
それがどんな日だったのかはどうしても思い出せないのだけれど十二月のことであり、十二月は夏の終わりではなく冬だ。ずいぶん後で知ったのだけれど、曜日も日曜ではなく木曜日だったそうだ。会社は休みに入っていた。日付は三十一日。わたしはマンションの掃除を妻としていた。ようするに大掃除というやつだ。仕舞い込んだままの客布団を干しておこうということになった。収納ケースに収められたそれは押し入れの天袋に入れてあった。踏み台か何かを持ってくれば良かったのだが、ものぐさなわたしは開いた押し入れの棚に足を乗せ襖《ふすま》を掴み、天袋へと手を伸ばした。プラスチックの収納ケースを危なっかしい手つきで天袋から引きだしていく。半ば収納ケースが天袋から出たとき、バランスを崩した。両脚が棚から離れる。わたしは布団の詰まった収納ケースを抱えたまま、棚から跳んだ。
その感触をどう表現すればいいのだろうか。感じることなど出来るはずがないのに、今でもわたしはそれを感じている。感じ続けている。柔らかな布に包まれた枯れ枝を踏んだような、足裏のその感触。
その日わたしは生まれて一年に満たない息子を踏み殺したのだった。
わたしはケースを抱えて背後に倒れた。
何をしたのか知っていた。
見たからだ。
俯せだった。
顔が見る間に青ざめていく。口や鼻から血を噴き出していた。背中が奇妙にへしゃげているのを見たのは一瞬で、次の瞬間に誰かが息を吹き込んだかのように腹が膨れあがった。
死んでいる死んでいる。
そう思いながら息子を抱き上げた。
妻が悲鳴を上げた。わたしは黙れと言おうとしたのだが、喋ることが出来なかった。だから妻を殴った。それから部屋を出てエレベーターで一階に下りる。そこから歩いて五分も掛かる駐車場に行き、当時乗っていた軽自動車に乗った。首がぐにゃりと曲がる息子を抱えたまま、わたしは近所の外科医へと向かった。何故かいつもよりずっと安全運転だった。死んでいる死んでいると頭の中でずっと呟き続けていた。病院の窓口で「息子が」と告げようとしたら悲鳴を上げてしまった。白衣の誰かがきてわたしから息子を引き剥がした。
わたしはその場にぐにゃりとしゃがみ込んだ。警備員に抱えられてソファーに座らせられたこととか、妻が保険証を持ってやってきたのを怒鳴りつけたこととか、自分の中ではひとつながりに記憶している。だが後に妻が話したことによると、それらの記憶の幾つかは翌日や翌々日のもので、幾つかは実際になかったことだった。
わたしが両脚を落としたのは息子の死亡を確認したときだ。これは間違いないだろう。JRの記録にも残っているだろうし。
わたしは線路に脚を乗せ、鉄の車輪に膝から下を切断され線路脇を転がり、息子のいた病院に運ばれることになった。
それからあった細々《こまごま》したことを説明する気もないし、語ることも出来ない。あまり覚えていないのだ。
わたしは息子を踏み殺し、妻とは別れ、脚と職を失った。もう十年も前のことだ。
わたしは死ななかった。死にたい死にたいと思いながら死ななかった。生きていると死ななければならないことすら忘れてしまうことがある。しかし思い出すのだ。晴天の夏の終わりに。
*
イサクをご存じだろうか。アブラハムの息子。聖書創世記中の人物だ。
アブラハムが九十九歳、その妻が九十歳の時、神が突然アブラハムの前に現れて言った。男の子を授けようと。確かに二人には子供がいなかったのだが、それにしても無茶な話だ。いや、この程度の無茶はどうということはない。
翌年、神は約束通り、高齢の二人に男の子を授ける。ところがようやく産まれたこの子供イサクを、神は燔祭《はんさい》に捧げろと言う。燔祭とは生け贄《にえ》のことであり、これは『イサクの供犠』とか『アブラハムの試練』と呼ばれるエピソードだ。
アブラハムは神の命に従う。イサクを連れて神に指示されたモリヤの丘に登っていくのだ。その息子に燔祭に使う薪《たきぎ》を背負わせ。イサクは背負っているのが燔祭のための薪であることを知っている。だから尋ねる。燔祭の子羊はどこにいるのか、と。父アブラハムはこう答える。神みずから燔祭の子羊を用意してくださるだろう、と。
アブラハムは何を思ってそう答えたのだろう。聖書の記述は本当にあっさりとしたもので、もちろん心理描写などない。
神によって得た子供だから神によって失っても仕方ない。そのように思ったのだろうか。諦め諦念《ていねん》仕方ない。それが老いた父アブラハムの心境だったのだろうか。
結局イサクは生け贄にならない。
直前に神によって止められるのだ。アブラハムは丘の上で祭壇をつくり、並べた薪の上に縛ったイサクを置く。それから刃物をとってイサクに振り下ろそうとする。そのときに天使によって止められるのである。
こうしてアブラハムの神への忠誠心は証明される。その結果としてアブラハムの子孫は繁栄することとなる。モリヤの丘は、後にエルサレム神殿が建設される土地である。
刃物を振りかざす父を見てイサクはどう思ったのであろうか。それもまた聖書で語られることはない。
そして直前で止められたアブラハムはどう思ったのか。彼は殺すつもりだったのだ。彼自身の、おそらく老いてからできたがゆえに可愛くて仕方なかったであろう息子を。
わたしはこの逸話を聞いた夜、夢を見た。
わたしは老いたアブラハムだった。膝から下がないのは今のわたしと同じだ。車をつけた台に乗り、わたしは手に持った杖で地を掻く。幼い(おそらく四、五歳児だ)イサクはその身体と変わらぬほどの大きさの薪を背負ってよたよたと坂を登っている。わたしはめそめそと泣いている。神の言うがままに行動している己のふがいなさに。そしてもちろん息子を失うことの哀しさに。
聖書どおりに丘を登るとわたしは祭壇をつくり薪《たきぎ》を敷く。それから息子を縄で縛った。息子は泣き、叫び、四肢をでたらめに動かしてわたしから逃れようとした。
どうして、どうしてお父さん、やめてください、お父さん、やめてください、どうしてそんなことをするの、どうしてお父さん、ごめんなさい、ごめんなさい、もうしませんから、許してください、お父さんごめんなさいごめんなさい。
涙を流し、必死になって息子は哀願する。縛り終え、薪に寝かせたわたしは、目を閉じ耳を押さえる。それでも息子が見える声が聞こえる。
泣くな、とわたしは怒鳴る。息子の声に負けまいと喉も裂けよとわたしは怒鳴る。
泣くな、静かにしろ。
絶叫し、わたしは短剣を振り上げていた。
泣かないでくれ。そう叫びながらわたしは短剣を振り下ろした。切っ先は皮膚を切り肉を裂き、薄い胸を貫いてかつりと薪に突き立った。
わたしは悲鳴を上げていた。わたしは泣いていた。鼻水や涙や涎《よだれ》が汗に混ざってだらだらと流れ落ちた。身体が震えて止まらなかった。そして死んだ息子の横にいるそいつに気がついた。生まれたばかりの雛鳥《ひなどり》にそっくりだった。ただし成長した大型犬ほどもある巨大な雛鳥だ。
それは「へ」の字に曲がった肉色の翼を振り回しながら言った。
「ああ、ああ、やっちまったよ」
べっとりと濡れた金髪の巻き毛で縁取られた顔は人のものだ。
薄笑いを浮かべて言う。
「しゃれだったのにな、イサク」
それは、ぐったりした息子の肩を羽毛のない翼の先で小突いた。
「おまえは、誰だ」
「見りゃわかるだろうが、天使だよ」
「天使?」
「主のお言葉を伝えようと思ってな。ちょっとばかり遅かったみたいだけど」
「なんのことだ」
「考えてもみろよ。唯一にして絶対の神が、自分の息子を生け贄に捧げろ、なんて命令するか?」
「どういうことなんだ。わたしにはさっぱり」
わかっていた。その天使が何を言っているのか理解できていた。それでもそう尋ねるしかなかった。
天使は濡れた前髪を肉色をした棒のような翼の先で掻き上げながら言った。
「だからさあ、おまえを試したわけよ。いわゆる、試練? ま、ちょこっとお言葉を引用するわ」
ぽかりと口を開くと、瞳がくるりと裏返った。そして涎がだらだらとこぼれ落ちる開いたままの口から、朗々と神の言葉を告げる。
「おまえが神を恐れる者であることはよくわかった。おまえは自分の子さえ、私のために惜しまなかったのだからな。おまえの子孫は大いに増え、地上の民は全ておまえの子孫によって祝福を得るであろう。おまえが私の言葉に従ったからである。ま、ちょっとやりすぎたけどな」
最後に自身の声でそう付け加え、天使は消えた。
残されたのは息子の死体とわたし。
その息子が頭をもたげて、紫色の唇を開いて言った。
「ひどいよ、お父さん」
そしてわたしは目覚めた。いつもそこで目覚める。そう、わたしは毎晩のようにこの夢を見る。イサクの逸話を聞いた日の夜からだ。ところがわたしは、いつ、誰からこの話を聞いたのかが思い出せないのである。
目覚め、しばらくはただただ薄暗い天井を眺めながらうじうじとわたしは涙を流す。あまり朝に相応《ふさわ》しい行事とは思えないのだが、もし爽《さわ》やかな朝でも迎えたらその方が死にたくなるかもしれない。そうなのだ。わたしの自嘲も自虐も、結局はわたしの延命のためにある。己を懲罰する意志がある限り、わたしは生きる。それがわたしの生きる意味であり目的だからだ。わたしが息子を殺して手に入れたものがそれだ。わたしの生きる意味。己が生きていることの意味を知っている人間がこの世にどれだけの数いるだろうか。わたしがそのわずかな生きる意味を知る人間だ。
粘る汗と涙でべたべたした顔を洗う。毎朝の行事だ。薄く張った脂を一枚剥ぐような洗顔。洗面所には顔が届かないので、浴室で洗う。その不自由さのひとつひとつがわたしを生かし続ける理由となるのだ。
歯を磨いて黴だらけの風呂を這い出る。風呂だけでなく部屋の中全体がじっとりと濡れている。アルミ枠の窓を開くと、裏の空き地から青臭い湿気が流れ込んできた。どういうわけかその空き地はいつもじめじめと生暖かく、夏に生い茂った緑は秋から冬が近づいてもなかなか枯れることがない。ぬるい風はドブ泥の腐敗臭がした。この空き地は異様に水捌けが悪く、まるで沼のようになっているらしい。もしかしたらその沼の底に死体のひとつや二つ埋もれていそうだ。そんな苦い腐敗臭がいつもする。裏にこんな空き地がある築何十年だかの木造アパートがわたしの住処《すみか》だ。かろうじてトイレと風呂がついているだけの小さな箱。それでも月々家賃は必要なわけで、生きている以上わたしはその金を稼がなければならない。
「上履きに履き替えてください」だの「夜中は静かに」だのといった張り紙がそこら中に張られた廊下を、両腕で身体を支えて歩く。そうやって階段を下りることも出来るようになった。廊下も階段も、その上に脚を乗せると、女が呻くかのような音をたてる。
一階の玄関まで呻き声に送られて到着すると、靴箱の横に管理人の許可を得て置かせてもらっている車椅子に乗る。
わたしの一日が始まった。
*
「もしもし、小林さん。小林良和さんですよね、はじめまして、わたしはアルファ・モークシャ・コーポレートの藪内と申します」
わたしの手元にあるのは分厚いコピーの束だ。そこには名前と住所と電話番号が書かれてある。どうやらどこかの高校の卒業名簿らしい。
「このたび特別にあなただけにお教えしているんですけども、実は凄く安く海外旅行に行けるんですよ。ある会なんですけど、名前だけでも登録してしまえば……ええ、そうです。ええ、相川さんからのご紹介で、ええ、そうです。それで、これからお時間ありますか」
電話が切れた。
小林良和の上にボールペンで線を引く。
その下の斉藤貴一を指でなぞる。電話番号を見ながら、ボタンを押した。
「もしもし、斉藤さん。斉藤貴一さんですよね、はじめまして」
これがわたしの仕事だ。
このビルの一室で、全部で四人の男がテーブルを前に腰を下ろしている。テーブルの上にあるのはコピーの束と電話だけ。どこからするのか、ひどいアンモニア臭がするこの小さな部屋で(いわゆるシックハウスというやつなのだろうか)、四人の男がほとんど一日中電話を掛けているのだ。そしてアルファ・モークシャ・コーポレートの会員になるように勧誘する。いや、我々の仕事は勧誘ではなく、待ち合わせ場所まで彼を引っ張り出すことだ。それから何があるのか知らない。知りたくもない。
とにかく午前十時から午後四時まで、四人の男はひたすらコピーの束に書かれた電話番号に電話を掛け続ける。それでどれだけの数になるのかわからないが、コピーの束はどんどん消化されていく。途中で電話を切られたり、まったく脈がなさそうなら名前の上に線を引く。留守の場合は何も書き込まない。脈がありそうなら三角を記入。引き出すのに成功したら○を記す。そうして電話を掛ける。掛け続ける。
「もしもし、中川さんですか」
少しだけ間があった。受話器の向こうでかすかに呼吸の音がした。鼻で笑っているかのようにも聞こえる。
そしてうわずったような軽薄な声が聞こえた。
「よう、元気にしてたか」
返答に詰まった。
思わず「えっ」っと口走る。
「どうした。元気じゃなかったのか。まあ、それも仕方ないかもな。子供を殺したんだから」
こめかみを中心に頭皮がひんやりとした。頭の芯に氷を埋め込まれたようだ。
震える手から受話器が落ちそうになる。
それは晴天の夏の午後のことだった。
黴くさいビルの一室はカーテンを閉め切っており、暖かい陽光はどこにもなかった。そしてわたしは下らないバラエティ番組を見ているわけでもなかった。だからそのときかろうじて自死をとどまったのだろう。
「誰だ」
わたしは掠《かす》れた声で尋ねた。自分の声が自分の声のように聞こえない。
「おまえは誰なんだ」
繰り返した。
「天使さ」
それが楽しそうに答えた。
「ちょっとおまえに耳寄りな話を聞かせてやろうと思ってるんだが……」
天使はそう言って、電話番号を告げた。市外局番はない。近郊だろう。
「メモしたか」
「いや、その……」
「メモしろ。すぐにだ」
わたしは言われるままにコピー用紙の余白に番号をメモした。
「そこに電話したら真実を知ることが出来る。そんなことを知りたいかどうかは、また別の話だがな」
電話は切れた。
わたしは慌てて「中川」に掛けなおした。出てきたのは当然のことだが中川淳二という、とある私立高校の卒業生。それは天使と名乗った男とは別人だ。焦りながらもなんとかマニュアル通りの台詞を唱え、誘い出すのに失敗し、受話器を置いた。
そして安物の、しかも古くさいここの電話がリダイヤル出来るのは、ひとつ前の番号だけだということを知った。もう二度と「天使」に連絡することは出来なくなったのだ。
わたしはメモした番号をしばらく眺めていた。真実を知ることの出来る番号。天使の言ったその番号を押す。
すぐに年輩の女性の声がした。
「はい、生島研究所です」
あっ、と声を出したきり後が続かなかった。
「どちら様でしょうか」
尋ねられる。
「藪内守と申します」
「藪内さん……少々お待ちください」
キイを叩く音がした。
待たされたのは少しの間だ。
「なるほど。息子さんを亡くされた」
「……はあ、あ、はい」
「いつなら良いですか」
「いつ?」
「こちらは月、水、木の午前中なら空いております」
「あの――」
「好きな日を選んでください」
「じゃあ、来週の水曜日」
「結構ですよ。では午前十時十分に研究所の受付まできてください」
「あの、研究所の場所は」
「ファックスで地図をお送りします。ファックスナンバーをお教え願えますか」
「ファックスはないんですよ。だから――」
女は口頭で場所を説明した。このビルからそれほど離れてはいなかった。
「それじゃあ、お待ちしております」
電話が切れた。
受話器を置いたら、道順と電話番号を書いたメモだけが残された。何かが始まろうとしていた。それはわたしにとって良からぬことになるに違いない。そんな予感がする。そしてわたしは誘蛾灯に惹かれる虫のように、悪い予感へと惹かれていくのだった。それがつまり、わたしが生きているということなのだから。
*
煤けた町だ。
見るからに安っぽいマンションと正体不明の店舗が看板を掲げる雑居ビルが交互に並び、その隙間に真新しいコンビニが埋め込まれている。
一階に寂れた喫茶店が入っているマンションの隣に、「生島研究所」の看板があった。古びた、というより廃墟のような雑居ビルだ。一階の郵便受けに生島研究所と印刷されたプレートが入っていた。六階だ。
乾いた唾液の臭いがするエレベーターに乗って六階のボタンを押した。病気の犬のようにぶるぶる震えながら箱は上がっていく。最後に大きく身震いして、エレベーターは止まった。そのまま閉じこめられたのではないかと思うほど間を持たせ、扉が開いた。バリアフリーなどとは縁もゆかりもなさそうなこのビルで、車椅子でここまで来られたのが奇跡のようなものだった。
暗い廊下だ。窓がないうえに蛍光灯が煤けて瞬いている。そのたびに、じいじいと虫のような鳴き声を上げた。
ビニールタイルの床はべたべたと車椅子のタイヤにへばりつく。車輪を転がすたびに、じゃっ、じゃっと、咀嚼《そしやく》でもしているかのような音が廊下に響いた。
指定された部屋の扉には「生島研究所」と直接書かれてある。
ノックした。
どうぞ、という声はあの電話の声と同じだ。
扉を開いた。
消毒液の臭いがした。
正面にテーブルがある。
そしてその向こうに座ってこちらを見据えている初老の女性がいた。銀灰色の髪を長く肩まで伸ばしている。
「藪内守さんですね」
わたしは頷き、失礼しますと言いながら中に入った。背後で怪奇映画でしか聞けないような音をたてて扉が閉まった。
「どうぞどうぞ」
招かれ彼女の前にいくと、女は立ち上がってわたしの前にきた。
「たいへんでしたね」
と手を伸ばす。握手すると、その上からもう一方の手を重ねてわたしの手を包み込んだ。わたしが彼女の顔を見つめると、わかっていますよ、と言いたげに頷き、それからようやく手を離して椅子へと腰を下ろした。わたしは、どうも、と曖昧に頭を下げながらテーブルの前へと進んだ。
「煙草はお吸いになりますか」
女は尋ねた。
わたしは首を横に振る。二年前にやめたのだ。
「そうですか。良かった。ここは禁煙なんですよ」
わたしは周囲を見回した。壁も備品も何もかもがヤニ色をしている。
わたしがよほど不審そうにしていたのだろう。彼女は、前の持ち主がヘビースモーカーだったのだと説明した。わたしはそんな説明より聞きたいことがいっぱいあったのだが、何を聞きたいのかを整理することがどうしても出来なかった。女は煙草が人に与える実害をひとしきり解説した後、このビルの管理人が積極的にビルを台湾人に貸し出していることを非難し始めた。
蠅が飛んでいる。
それは彼女の頭上を旋回し、それから急上昇して消えた。次にわたしの肩にそれはとまった。
肩を動かして蠅を追い払う。
羽音はしばらく遠ざかったり近づいたりした。そして今度は女の肩にとまる。そこで落ち着いたのか、あの特徴的な仕草で前肢のゴミを払っていた。
「知っていますか」
はあ? とわたしは女の顔を見た。
「知っていますか」
女は繰り返した。
「あの、すみません、聞き逃しちゃって。なんのことですか」
「だから奴らのことを知っていますか、とお聞きしているわけなんですけど」
「奴ら……」
「息子さんを殺した奴らのことですよ」
真剣な顔で彼女はわたしを見つめていた。
「息子を殺したのはわたしです」
こうして口に出すと、胸の中を棘《とげ》だらけのウサギが跳ね回る。その痛みを確認するためにもう一度言う。
「わたしが息子を殺したんですよ」
「なるほど」
女は屈み、しばらく頭がテーブルの下に隠れていた。そしてそこから分厚いファイルを取り出してきた。音をたててテーブルに置く。
「これは最近のものですよ。いや、もちろん十年前の資料もありますが、それはもうデジタル化を進めてるんですよ」
女はファイルをめくる。
「これなんかがわかりやすい例ですね。ええと、二カ月前のことです。新聞に載ったからご存じかもしれませんね。犠牲になったのは吉田雅雄。六十三歳。車をバックさせて後ろで遊んでいた四歳の孫を轢いた。即死だったそうです。それから、これも新聞に載りました。地方紙なんですが。老いた母親を車椅子に乗せて散歩中、うっかり――ということになっていますが――手を坂道で離してしまい、ご母堂は坂の下のガードレールを飛び越えて崖から落ちてしまうわけです。一週間後に亡くなっていますね。七十二歳で、脚は悪かったがそれ以外は元気だったらしいですよ。ん、こっちは子供ですね。こういう方がわかりやすいでしょうか。いや、かえって難しいかもしれませんね。車に置き去りにして一時間。熱中症で死亡。ゼロ歳児ですから、親の不注意度は高いですよね。その分ちょっと理不尽さに欠けるかなあ」
「あの」
わたしはファイルされているすべての資料を彼女が報告し終える前に、話し掛けた。
「それはいったい、なんの話ですか」
「奴らの話ですよ」
「だから奴らって――」
「あなたの息子を殺した奴らのことですよ」
堂々巡りになりそうだった。わたしは質問を変えた。
「どうしてあなたはわたしの息子のことを知っているんですか」
「ファイルしてありますからね」
当然のように女が言った。
「あれは新聞にも載らなかった」
「それでも噂は流れますでしょ。そして噂が流れればわたしたちは調査を開始するわけです。そしてあなたに起こったことを正確に知ることができた」
「なんのためにそんなことを」
「真実を知るために。奴らの存在をつきとめるために」
「また奴らですか。なんなんですか、その奴らっていうのは」
さすがに少し苛立っていた。からかわれているのだろうか。目の前の女性には、そんな気配など欠片《かけら》もないのだが。
「何故イサクは燔祭《はんさい》の羊にされなければならなかったんでしょう」
言われ、わたしは彼女を見つめた。
老女と言うにはまだ若い。しかし長い髪は染めたかのようにすべて銀灰色だ。もしかしたら一夜にして白髪になったのかもしれない。そう思わせるような銀色の艶《つや》のない髪だった。
「わたしはあなたを知っている」
電撃のようにわたしはそれを思い出していた。どうして忘れていたのかわからないくらい、それは鮮明な記憶だった。
「あなたはわたしにイサクの話をした。あれは……いつだったか」
それは思い出せない。なんのときにそんな話を聞いたのかは思い出せない。だが彼女がわたしにイサクの話を聞かせている、その瞬間だけは今目の前で見ている映画のように頭に思い描ける。
「あなたは……あなたは誰だ」
「生島ですよ。この研究所の所長です」
「あなた、わたしに話をしましたよね。イサクの話だ。どうしてそんなことを」
「藪内さん。あなたは神を信じますか。神の存在を、という意味ですが」
「信じません。神などが存在するなら、どうしてわたしの息子の命を奪っていくのですか。まだ生まれて間もない、なんの罪もない子供を。それこそ神も仏もあったもんじゃない」
「神はイサクを贄にしろと命じた。なんの罪もない子供を」
女の頭がまたテーブルの下に消えた。今度彼女が持ち出したのは一冊の画集だった。付箋の入ったページをめくる。
「ほら、これはイサクの供犠をモチーフに描かれた絵です」
禿げた年寄りが、青年を背後からテーブルに押さえつけている。頭を押しつけられた青年は恐怖に口を大きく開き、苦悶に顔を歪めていた。
老人が持った小さな刃物は、青年の首を今にも裂きそうだ。その腕を掴んでいるのが白い翼を持った天使だ。
ということはこの老人がアブラハムであり、テーブルに頭を押しつけられている青年がイサクということになる。イサクはもっと幼い子供と思っていたのだが、そうではないようだ。
「イサクの供犠はたくさんの絵画でモチーフにされていますけども、これはカラバッジョの描いたイサクの供犠です。十七世紀の作品なんです。天使が途中で生け贄にするのを止めていますよね。ですが、そのイサクの顔をご覧なさい。実の父親に殺されそうになっている息子の顔を。仮令《たとえ》それが神の意志であったにしろ、彼がこのことを、父の手で殺され掛かったことを忘れると思いますか。それにアブラハムだ。神の勧めに従って子供を殺そうとした記憶が消せると思いますか。神が強制したことはそういうことなんですよ」
確かにそこに描かれたイサクの表情は惨たらしい。精密に描かれたそれは、生々しくイサクの怯え苦しむ様子を伝えている。その表情は、どう見たところで神によって定められた運命を積極的に受け入れているようには見えない。ただ、今まさに殺されようとしている男の顔だ。
「しかしそれとわたしの間にどんな関係があると言うんですか」
「神というものがどういう存在か、これでわかるでしょ。つまり、神は生け贄を求める。しかもそれは、最愛のものを神に捧げるという形でなければならない」
「……わたしが神へ捧げるために息子を殺したのだと」
「まさか」
女は大きく頭《かぶり》を振った。
「藪内さんは神を信じておられない。信じてもいないもののためにどうして生け贄を捧げなければならないんですか。そうじゃないですよ。わたしが言いたいのは、あなたの愛するものを供犠として奪い取ったのが神だということです」
「それでも……それでもよくわかりませんよ。だからどうだというんです。神が奪ったのだから、それは仕方のなかったことなのだと諦めろとでも」
「違います!」
女は不意に大声を上げて立ち上がった。
「その逆ですよ。わたしが考えているのは神への報復なのよ!」
女はわたしの前にやってきた。白い顔が酒でも飲んだかのように紅潮している。
「もう二十年以上も前のことになります。わたしには二歳になる娘がいました。夕方でした。娘は居間に布団を敷いて寝かしていました。当時、この時間になると愚図ったあげく眠るのが日課でした。居間のすぐ横にダイニングがありました。わたしは夕食の支度をしていました。ダイニングにはテーブルがあり、煮立っただし汁の入った土鍋がコンロの上に置かれていました。
目を離していたのはちょっとの間でした。
どーんと大きな音がして、悲鳴が聞こえました。台所から飛び出てみると、鍋がひっくり返り、床に横たわった娘に煮立った汁がかかっていました。大火傷です。翌日、早朝に娘は亡くなりました。わたしは自責の念に囚われました。何度も自殺しようとしました。たいていは夫に止められました。しかしその夫とも上手くいかなくなり、娘が死んで一年後には離婚しました。その頃からようやくわたしは考え、気づいたんですよ。娘の死の本当の原因を。だってそうでしょ。おかしいじゃないですか。娘は絶対にテーブルの上に手が届きません。鍋を倒そうにも娘の力ではどうすることもできないはずなんですよ。それに、娘は隣の部屋でぐっすりと眠っていたはずです。もし起きたとしたら美由紀は――ああ、わたしの娘の名前です――泣いてわたしを呼ぶんですよ。いつもそうでした。にもかかわらず、そのときはわたしを呼ぼうとしなかった。そして届くはずもないテーブルの上の鍋を倒した。おかしいでしょ。疑問に思って当然だ。そしてわたしは調査を始めたんですよ。何がわたしの娘を殺したのか、ってね。まずは最愛の人間を失った人をニュースなどで知ると、必ずその人を取材に出掛けるようにしました。聞き込み調査ですね。その途中でいろいろと知り合いも増えていきました。愛する者を失った者にしかわからないことがあるんですよ。あなたもそう思われますでしょ。で、まあ、そういうふうにして資料はどんどんたまっていきました。最愛の人を自らの手で殺してしまう経験者、というのは意外なほどたくさんいるんですよ。そしてとうとうそれらに共通することを発見したんです。それが奴らなんです。それを神と言い換えてもいいでしょうね。確かに人ではできかねることを奴らはする。神でないにしても超越的な何かです。奴らの目的は人から最愛の者を奪い取ること。しかも一見その人が自ら生け贄を捧げたかのように見せながらね」
そこまで一気に喋ると、女は荒く息をつきながら椅子に戻った。
可哀想に。
わたしはそう思った。彼女はまともじゃない。娘を失った悲しみが、彼女をこう変えてしまったのだ。もちろんわたしは人のことを哀れんでいられるような立場ではないのだけれども。
「もしかしたらまだわたしの言っていることを信じておられないかもしれませんね。これを最初に見ていただいた方が良かったかなあ。これなんですけどね、これは七年前にとある筋から入手した証拠品です」
女はビデオテープを取り出してきた。
「これが最初のテープではなくコピーなんで多少画質が悪いのですけど」
言いながら女は立ち上がり、部屋の隅に置かれたテレビのところに行った。テレビ台があり、その中にビデオデッキが置かれてあった。女は直接テレビとデッキのスイッチを入れ、手に持ったビデオテープを突っ込んだ。
最初断続的にサンドノイズが映った。
それから赤が滲《にじ》むぎらぎらした色彩の映像が映し出された。
カメラが横に置かれているのだろう。畳敷きの床が垂直になっている。
顔を少し傾けて見る。
画面の隅から煙のようなものが流れてきた。黒々としたそれは水に垂らした墨汁のようにも見える。どこか踊るかのようにゆらゆらと蠢くそれが、畳の上を這っていく。それがまるで、腕でも振って誰かを誘っているかのように見える。
と、その煙を追うように何かが視界に入ってきた。一歳にも満たない赤ん坊だ。赤ん坊はその影に誘われるようにして、画面を横切って力強く這っていく。
そして、踏まれた。
まるでスラップスティック・コメディのようだ。唐突に足は現れ赤ん坊を踏んだ。それからの悲鳴も怒声も、わたしには聞こえなかった。
*
彼女が一人でわたしを運んだのだろうか。目覚めればソファーに寝かされていた。手を貸そうとするのを断って、わたしは一人で車椅子に戻った。戻り、まず非礼を詫びた。聞きたいことは山ほどあった。
「それで、あの、あれは」
「おそらく映像に残されているのはこれが唯一じゃないでしょうか。あなたと同じように、あの赤ん坊を踏んだ父親も、列車で脚を轢《ひ》いたんですよ。そして車輪に巻き込まれて死にました。これも新聞報道されましたから覚えておいでかと。ビデオテープはその男性の妹が所持していたものです。薄気味悪いからと、ある霊媒師に預けられていました。それを引き取ってきたんですよ。出版社の名を騙《かた》ってね」
「あれは――」
「天使でしょうね。神が直接手を下すとも思えない。だからああいうものを天使と呼ぶのではないでしょうか」
「まさか」
「まさかじゃない。事実です。これが真実なんですよ、藪内さん。世界中で年間に何十、何百という〈愛する者をその手で失う〉というタイプの事故が起こっています。つまりそれだけの数の生け贄が神に捧げられているということなんです。イサクの逸話は旧約のものですが、しかし考えてみてくださいよ。新約で〈神の子〉イエスは、世界の罪を背負って十字架に架けられる。神は自身の子すら生け贄にするんですよ。新約でも旧約でも、神は変わらず贄を要求するんです。それが神の本質なんですよ」
「しかし……到底信じられないが、それでも、もし、もしあれが天使だったとしましょう。あんなものが神の命令でずっと子殺しを続けていると。で、もしそうであるのなら、わたしに何をしろと」
「復讐じゃないですか。我々は神に報復するんですよ。あの映像を見たでしょう。神があなたの息子をあの位置にまで連れて行った。でなければ、どうしてわざわざ子供がそんな場所に行きます? 偶然? 馬鹿馬鹿しい。偶然なんてあり得ないですよ。すべては神の仕業なんだから。奴らは生け贄を欲しがっているんですよ。いつもいつも、そう、今も。こんなことをそのままにしておくことができるんですか、あなたは」
「しかしですね、復讐なんてことができるわけないじゃないですか。相手はなにしろ……神なんでしょ」
ああ、わたしは何を言っているんだろう。神の存在などあり得ないではないか。
「神の存在はないのかもしれませんね」
わたしの頭の中を読みとったかのように女は言った。
「確かにあれが神であるかどうかは、わたしにもわからない」
「だってあなたが神だと」
「我々が神と呼んでいるのは、あの生き物だと、わたしはそう考えています。そうなんですよ。あれは生き物だ。わたしたちの常識からは大きく離れていますが、生き物なのですよ。その生き物は愛するものを失った悲しみや自責や苦しみや、そういった負の感情を必要とするのです。なんのために必要だと思いますか。愉しみ? 趣味? いいえ、そんな高尚なものではないのですよ。あれは単に生きるためにそれが必要なの。ね、わかりましたでしょ。生きるためになにかをしているということは、それは不死身の怪物なんかじゃない。まして全知全能の存在なんかでもない。それは退治することのできる生き物なんですよ。害虫と同じ。ねっ、そうでしょ」
微笑む女の唇の端に泡がたまっていた。
生きるために負の感情を必要とする生き物。それはまるでわたしのことを言っているようではないか。この女にしてもそうだ。復讐という負の感情を喰って生きている。
わたしは尋ねた。
「どんな方法があると思っているんですか。その復讐のために」
「簡単なことですよ。奴らに負の感情を喰わさないようにすればいい。そうすれば奴らは飢えて死ぬはずです」
「それは具体的にはどんなことを」
「愛する者を自ら手を下し殺してしまい、苦悶しながら生きる者。それがつまり奴らの餌です。だからわたしはその餌を奴らから取り上げた」
「だから、どうやって」
「わたしがそうだからわかるのですが、そういう人間は生死の境で生きています。いや、ある意味もう死んでいるんですね。だからわたしはその背中を押しただけ。そう難しいことではありませんよ。あなたの愛する人の死は、あなたの責任だと。そして責任をとる方法はひとつしかないのだと。そう改めて気づかせてあげればいいだけです。そうすればまず間違いなくその人間は死を選ぶんです。そういう人たちは、ただ切っ掛けを待っていただけなんですよ。わたしはその切っ掛けをつくるだけ」
「あんたは、その……自殺を勧めてきたのかい。そんな不幸な人たちに」
女は鼻で嘲笑った。
「あなたもわかっているはずでしょ。生きることと死と、どちらを選ぶのが楽か。わたしはただみんなに平安を与えてきただけ」
「それでわたしを」
「あなたは理想的な奴らの贄ですよ。だからわたしはあなたを自殺に追い込もうと考えて接近しました」
「わたしにイサクの逸話を話したときだ」
「そうです。でもあなたを自殺させることはできなかった。今まで一度として失敗をしたことはなかったのに。それでわたしは知りました。あなたは神に愛されているのだと。神の寵愛を受ける上質な食材なんだと。それでわたしは作戦を変えることにしました。あなたにわたしの仕事を継いで欲しい。この研究所にはあと五人、わたしの手伝いをしてもらっている人がいる。いずれもボランティアですよ。その人たちには告げてあります。あなたがわたしに代わってここの所長になるということを」
「ちょっと待ってくださいよ」
まさかそんな話になるとは思ってもみなかった。が、女はもうそれ以上話すことがなくなったのか、くるりと後ろを向いた。
「ねえ、そんなことはわたしには無理だ。できるわけがない」
わたしの声など聞こえないかのように、女は部屋の奥へと歩いていく。そこに広い窓があった。その窓を女は大きく開いた。そしてこちらを振り向き、窓枠に腰掛けた。
「すべての餌を消し去ってくださいね。お願いしますよ」
女は小さく会釈した。
わたしは何かを言おうとした。
言おうとしただけだ。実際には何もできなかった。
ダイバーが船から水にはいるときのように、女は座った姿勢のまま身体を後ろに倒した。頭が窓の外に消え、脚が垂直に上にあがった。
そして窓の向こうへと消えた。
わたしは何もできなかった。砂袋を地面に叩きつけるように大きな音が聞こえてから、わたしはようやく窓へと近づいた。車椅子に乗ったわたしには、窓枠から下を覗くのがかなり難しい仕事だった。そしてそこに、彼女を発見した。黒い靄《もや》のようなものが彼女にまとわりついていた。まるで母親の乳房を探す幼子のように。
わたしは小さな悲鳴を上げていた。そして必死になって部屋から飛び出した。競技用の車椅子でもこれほどの速度はでないのではないかと思えるほどの速さでわたしは廊下を駆けた。
*
夏が終わろうとしている。開いた窓から吹き込む風が心地よい。おそらく日曜日だし午後だし。一仕事を終えて研究所に戻ってきたわたしはついついテレビをつけてしまう。驚くほどに下らないバラエティ番組をやっていた。笑い声。笑い声。そして笑い声。
背後の窓は大きく開かれている。彼女が飛び降りたあの窓。そこまで行けば。その窓枠に腰を下ろし後ろに体重をかければ。それですべてが終わるのに。
わたしは拳を固く握りしめ、耐える。
死んだ息子のことを思い、そのときの感触を生々しく思い出し、しかしわたしは耐える。
そして今日も一人、耐えきれず死んでいった人のことを思う。
わたしは死んだ彼女の後を継いでこの研究所の所長になった。どうやらそれしかわたしにできることはなかったようで、つまりこれもまた運命と呼ぶべきなにかだったのかもしれない。
やってみればそれほど難しい仕事ではなかった。始めてから二年になるが、五人のボランティアという人間に会ったことは一度もない。だが彼ら(彼女らかもしれないが)はその仕事をしっかりとこなしている。
わたしのテーブルの抽出しにはファイルが入っている。ファイルはどんどん新しいものへと替わっていく。それを見て、わたしは新しい犠牲者を探る。そしてわたしがすることはひとつだ。
電話をすること。
電話をして、イサクの逸話を語ること。
それだけだ。それ以上のことをする必要はない。それだけで犠牲者たちは覚るのだ。自分がイサクを殺したことを糧として生きていることを。知ってしまえばそれは遅効性の毒に似て、じわじわとその人物を死へと追い込む。確実に死へ。
その情報をわたしは電話で知る。
死にましたよ。
受話器の向こうから聞こえるその声に感情はない。それをわたしに教えてくれるのも、やはりボランティアの一人なのだろうか。
わたしはといえば、イサクの夢をやはり毎晩のように見る。そこでわたしは毎夜雛鳥に似た天使に会う。わたしをなじるイサクと出会う。
だがわたしは死なない。わたしは選ばれた者だからだ。
誰に?
神に。
そう、わたしは神に選ばれたのだ。その使いとなるべく。彼女がそうであったように。
復讐?
そんなことは嘘だ方便だ。
いや待てよしかし。
まったくの嘘というわけでもない。わたしたちは復讐しているのかもしれない。最愛の人物を殺すことなどなく生きている者たちに[#「最愛の人物を殺すことなどなく生きている者たちに」に傍点]。そうだとも、これは妬みだそねみだ忌まわしい悪意そのものだ。
望みもしないのにアブラハムとなった者へ与えられる祝福。それは人を呪う力だ。強酸のような悪意そのものだ。
かつての所長が自殺したときにそうであったように、最愛の者を自らの手で亡き者にした人間は、死んだ直後、長い年月にため込んできた悪意を放出する。そうだよ。あの黒い靄がそうだったんだ。
悪意は増殖する。自殺者が出るたびに黒い靄も増え、それがまた新しい不幸を呼ぶ。
あの形を持った悪意こそ神だ。誰かの幸福を決して許さない悪意の神。そしてわたしは神の使い、天使だ。
あの女もこのことに気づいていたのだろうか。それとも本気で、神を餓死させるつもりで人を葬っていたのだろうか。
今となってはそれを確かめることはできない。しかし彼女がこの世への悪意を育てていたことは間違いないのだ。そしてわたしも。
一匹の蠅が飛んできた。
それはテーブルの上にとまって、じっとわたしを見ている。何故かわたしはその蠅が、かつての所長にまとわりついていた蠅に思える。そしてどういうわけか、この蠅がわたしに電話をかけてきたのだと信じている。
やがて、わたしが本気で死にたくなったときに、この蠅は誰かのところに電話を掛けてこう言うのではないだろうか。
「よう、元気にしてたか」
そして相手が返答に詰まっているとこう言うのだ。
「どうした。元気じゃなかったのか。まあ、それも仕方ないかもな。子供を殺したんだから」
子供を殺したかどうかは今のわたしにはわからないのだけれど。
「そうじゃないのかい、天使くん」
わたしは蠅に声を掛けた。
蠅はわたしを見上げながら、ゆるゆると両手をこすりあわせた。テレビからは下らないテレビ番組の笑い声が聞こえている。
夏の終わりだ。外は晴天だ。開いた窓から乾いた風が吹き込むのが心地良い。
蠅が、飛んだ。
[#改ページ]
ファントム・ケーブル
闇よりも濃く、影はぶよぶよと蠢いていた。
吉住はすべてを思い出していた。
「俺は……物語を」
「それを耳に当ててみろ」
影は携帯電話を指差した。
言われるままに、吉住はそれを耳に当てる。
「この番号は現在使われておりません」
相変わらずそこからはテープの声が聞こえていた。
「使われていない番号から、電話が掛かってくるんだ。何もない世界から。存在しない世界から。すべての電話が|幻影の《フアントム・》回線《ケーブル》によって存在しない世界へと繋《つな》がる。この意味はわかるか」
影の輪郭が曖昧になる。
焚き火から立ち昇る黒煙のように、それは大気の中に溶け込んでいく。
「電話の向こうには誰がいると思う。誰がおまえたちに連絡しようとしたと思う」
影はもうない。
部屋の中全体がうっすらと靄が掛かったように見えた。目を凝らせば凝らすほど細部は曖昧になる。
「で、ここにいるんだ」
背後から声がした。
真後ろだ。
驚き振り向くと、そこにあるのは闇。
目を見開き闇を凝視する。
闇の中に一枚の付箋《ふせん》があった。手に取り、見る。
そこにはこう書かれてあった。
みつけたよ。
「みつけたよ」
その男は楽しそうに笑いながらそう言った。
深夜の校舎だ。
吉住は教室の椅子の下で震えていた。
逃げ出す気力はもうなかった。
男は吉住の頭を片手で掴んだ。
みしり、と頭蓋が鳴った。
バスケット・ボールでも持っているように、男は無造作にそのまま吉住を引きずった。
脚をばたつかせ腕を振り回すが、男は風が吹くほども気にしていない。教室から連れ出され、廊下を引きずられ、階段をがたがたと降ろされる。
ああ、そうだそうだった。
吉住は自分がまだ高校生であることを思い出した。佃に久保田と一緒になって女生徒の私物を盗みに学校に忍び込んだのだ。そこで彼らが出会ったのは忘れ物をした少女などではなかった。
それは鉈《なた》のような大きなナイフを持った巨漢だった。
その男がもともと何を目的に学校に来たのかはわからない。いや、それが人であるのかどうかも疑わしい。
男は人間離れした膂力《りよりよく》で、あっさりと佃の脚を折った。久保田の肩を握りつぶした。
二人の悲鳴を背に、吉住は走った。生まれて初めてとも思えるほど真剣に走った。
男は遊んでいるようだった。
吉住が逃げる先々で男は待ち伏せていた。逃げているつもりが逃がされているのだった。逃げようがなくなり、教室に隠れた。隠れたつもりだった。荒く息を繰り返しているうちに気を失いそうになった。
が、気絶に逃れることさえ男は許さなかった。
みつけたよ。
そう言って男はやってきたのだ。
頭を掴まれたまま、吉住は一階の職員室にまで連れてこられた。
真っ先に彼を迎えたのは、彼らの担任であった教師の首だった。学校に居残っていたのだろう。胴体は律儀に彼の机に腰掛けていた。
佃も久保田も床に横たわっていた。その四肢がどれもあり得ない方向に曲がっていた。男は子供が虫を捕まえたように、手足をもいで逃げないようにしたのだった。
二人は全裸だった。久保田は生きているようには見えなかった。その股間から大量の血が流れて床に血溜まりができていた。そこにあったはずのものは切り取られ、彼の口の中に突っ込まれていた。
佃は目を見開いていた。虚ろな瞳はどこも見ていない。口から泡を吹いていた。
「何故こんな酷い目に遭うのだろう」
男は言いながら、血で煮染めたようなズボンを脱いだ。下着は身につけていない。深海魚のような奇怪な男根が垂れ下がる。
仰向けに横たわっていた佃の両腿を後ろから掴んだ。腿を上げると尻が持ち上がった。みるみる男の男根が膨れあがっていく。吉住の腕よりも太く長くなったそれを、佃の尻にあてがった。
吉住は目を逸らした。
絶望そのものの悲鳴が聞こえた。
「わたしは悪意だ」
荒い息を漏らしながら男は言った。
「わたしは邪《よこしま》な悪意そのものだ。おまえたちには解らない。悪意が悪意として存在することの苦しみを。苦痛に満ちたわたしというものを。わたしが何故生まれたと思う。わたしはおまえたちによって創られたのだ。おまえたちがわたしを創造したのだ。どうして人はそのようなものを生みだしてしまうのだろう。おまえにそれが解るか」
佃の悲鳴が途絶えた。
吉住はおそるおそる顔を上げた。
男は荒々しく腰を佃の尻に叩きつけていた。尻の下には新しい血溜まりができていた。そして男が腰を突き入れるたびに、佃の胸が膨らむ。中に跳ねまわる虫でもいるようだ。何度か突き入れられたとき、佃の口が開いた。あっさりと頬が裂け顎が外れる。
口腔からリンゴほどもある男の亀頭が突き出ていた。
「地獄ではない何かを、おまえは語れるのか」
真っ白な佃の尻から長大な男根を引き抜くと、男は紙を裂くように股を引き裂いた。臓物が湯気とともに噴き出してきた。
それが人間であったとは思えなくなった肉の断片を、男は投げ捨てた。
「おまえはどうだ。語れるのか、より良い未来を。わたしの生を断ち切る幸多き物語を」
吉住を睨んだ。
わけもわからず彼は頷いた。
「ならば」
老婆のように座り込んでいた吉住に、男が近づく。
吉住はズボンの中で勢い良く尿が迸《ほとばし》るのを感じた。
「おまえは語り続けろ。天国を幸福を善を。それが良き物語である限り、わたしはおまえを生かし続けよう」
はいはいはい、と首の骨が折れるほど上下に頭を振った。
峠の我が家が聞こえた。
吉住の携帯電話の着メロだ。
吉住はそれを耳に当てた。
「そしておまえは、地獄へと続く物語しか語れなかった。夜見る夢も昼見る幻も、そのすべてが地獄へと通じた」
闇の中で声だけが聞こえた。
吉住は自分が誰でどこにいるのかすらわからなくなっていた。闇の中に身体が溶け込んでいくようだった。
「これで終わりだ」
頭が大きな掌で包まれた。
あっと言う間もなく、頭蓋が砕け脳髄がばらまかれた。
どこからかまた電話が掛かっている。
がちゃりと音がして、受話器が上がった。それを掴んでいるのは影だ。闇よりも濃い漆黒の影だ。
影は言う。
この番号は現在使われておりません。
ええ、あれぇ、おかしいな。
幻影の回線の向こう側で、誰かが首をひねっていた。
影がひっそりと笑った。
[#地付き]了
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初出一覧
ファントム・ケーブル
書き下ろし
ドキュメント・ロード
『紅と蒼の恐怖』(祥伝社ノン・ノベル)
ファイヤーマン
「アスキーネットJ」2001年3月15日号〜3月29日号
怪物癖
『変化〈へんげ〉妖かしの宴2』(PHP文庫)
スキンダンスの階梯
異形コレクション『マスカレード』(光文社文庫)
幻影錠
「ラジオライフ」2002年10月号(三才ブックス)
ヨブ式
「小説NON」2000年9月号(祥伝社)
死せるイサクを糧として
「月刊 小説宝石」2002年11月号(祥伝社)
角川ホラー文庫『ファントム・ケーブル』平成15年3月10日初版発行