[#表紙(表紙.jpg)]
スイート・リトル・ベイビー
牧野 修
目 次
プロローグ
1、受胎告知
2、母子像
3、コドモノクニ
エピローグ
あとがき
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プロローグ
お父さん、お父さん。
お父さんなら私のことを信じてくださいますよね。
あの人たちは初めから何一つ私の言葉を信じてくれないんですから。
いいえ、暴力を振るったりはしませんけど、でもね、お父さん。あの人たちは私の言うことを聞く気もないんです。ニヤニヤ笑ったり、うんざりした顔をしたり……。
お父さんなら私の話を信じてくださいますよね。
あれはね、天使だったんです。そう、そうとしか考えられません。あれはみんなとても可愛《かわい》かった。私が集めてたミッフィーちゃんよりもずっとずっと可愛らしかった。ああ、そんなものと比べるのも馬鹿らしいくらい。ほんとにほんとに可愛かったんです。黒の巻き毛が細くて、すごく細くて柔らかくて、キラキラと光るんですよ。目なんかこおんな愛らしい目で私を見るんです。もうそれだけで胸がね、きゅうんと痛くなって、抱き締めたらぷくぷくと柔らかくて、唇がね、本当にもうお菓子のように繊細で甘くて、あれはもう本当に……。
あの子たちのためなら何でもしてあげようと思いました。
それが突然乾いちゃったの。本当に急に。だからびっくりして、死ぬほどびっくりして、かわいそうで、私も死ぬかと思うほど心配して、そうしたらあれになったの。裏切ったのよ。私は……だから私は……。
とても後悔しているわ。ごめんなさい、お父さん。ほんとに私のこと心配しているのが家族しかいないことに、今になってようやく気づくなんて。あの頃は家族のことなんか考えたことがなかった。馬鹿だったわ。本当に馬鹿だった。どうしてあんな気持ちになっていたのか私にはわからないの。……そう、きっとあいつらのせいなのよ。きっとあいつらのせいよ、全部、あいつらの。
縦に引き伸ばされたスクールゾーンの文字だけが街灯に白く輝いている。
男はゆったりとしたリズムで走っていた。真新しいスニーカーの、舗装道路を蹴《け》る音が単調に響く。
右に小学校の運動場を囲むブロック塀。左には鋳型《いがた》で抜いたように同じ佇《たたず》まいを見せる一戸建ての住宅が並ぶ。
春先とはいえ深夜は冷え込む。だが男は首に巻いたタオルで顔の汗をぬぐった。灰色のスウェットスーツは背中に黒く汗染みが出来ている。
頭からすっぽりとフードをかぶっていた。腰には布製のウエストポーチ。ジョギングをするには少々大きいようにも見える。が、それだけでこの男を不審に思う者もいないだろう。この辺りは住宅街だ。早朝にジョギングする者は多い。数は少ないが夜に走る者だっていないわけではない。
ブロック塀に接して金属性のコンテナが置かれてあった。学校で出るゴミを入れるためのコンテナだ。
男はその前で立ち止まった。足踏みを続けている。そして周囲を見回し、塀を見上げた。脚が止まった。
大きく深呼吸をする。
コンテナに手をかけ、よじ登った。そこからさらに塀へと登る。
あまり運動が得意ではなさそうだった。よろよろと、男は酔った猿のように塀を乗り越えた。
月は厚い雲に隠れている。闇《やみ》は這《は》うように校庭を覆っていた。男もまたその闇の中にあった。
塀にもたれうずくまる男の息が荒い。
子供たちの喧噪《けんそう》はとうに失せているが、その残滓《ざんし》が残り香のように漂っている。それを避けるように、男は掌で鼻と口を覆った。息が指の間から漏れた。
そして走り出した。
運動場を小走りに横切っていく。
背を丸めたその姿が、移動する地面の瘤《こぶ》のようだ。
目的の場所は予《あらかじ》め決まっていたようだ。
男はまっすぐそこへと向かう。
小屋があった。フェンスで四方を覆われた小屋。今月の世話係の名が書かれたボール紙が吊《つ》られてある。中でむくむくと白い小さな生き物が動いていた。
ウサギだ。
男はポーチからペンチを取り出した。
フェンスの隅をペンチで断ち切っていく。
気配を感じたウサギたちが騒ぎ始めた。
切り取ったフェンスを捲《めく》り上げ、男は蚊帳《かや》でもくぐるように中に入っていく。切った針金の先端がスウェットスーツに引っかかった。それをはずす男の指先が震えている。
ウサギたちは興奮し、男から逃れようと飛び跳ねていた。隅に固まりフェンスに鼻面をぶつける。幾度も、幾度も。がしゃがしゃと金網が音をたてる。そのたびに男はびくびくと周囲を見回した。見回しながらウサギたちに近づいていく。そして腰を降ろし、腕を伸ばして一羽のウサギを捕らえた。首筋を持たれたそのウサギは、観念したかのようにだらりと脚を垂らしていた。
そのウサギを仰向けにそっと置くと、足で腹を押さえた。ウサギが狂ったように暴れ出した。が、へしゃげた腹が敷物のようになるまで腹を踏まれている。ウサギは逃れようもなく、捕らえられた魚のように脚をばたつかせるばかりだ。
男はポーチからスチールのハンマーを取り出した。
振り上げ、振り降ろす。
前歯を剥《む》き出しきいきいと悲鳴を上げるその口吻《こうふん》に、銀色の重い塊が叩《たた》きつけられた。
鈍い音がして、あっけなくウサギの顔は陥没した。
二度、三度。
男はハンマーを打ち降ろした。
男の額に汗が滲《にじ》んだ。
最後にウサギはびくりと脚を震わせ、動かなくなった。
肉と血と毛の混ざった〈顔〉に、冗談のように長く白い耳がついている。
すべてのウサギが一斉にフェンスへと突進した。顔が血塗《ちまみ》れになっているウサギもいる。それでも金網に身体をぶつけ続けている。
その騒ぎを知らぬ顔で、男は肉塊となったウサギの顔を見ていた。肩が震えているのは笑っているのか泣いているのか。
やがて男はほっと息を吐く。肩が大きく上下した。それに合わせて吹き出してきた汗を袖《そで》で拭《ぬぐ》った。
そして、次のウサギに取りかかった。死んだウサギに並べて寝かせ、その顔を叩き潰《つぶ》す。そして次のウサギ。さらに次のウサギ。
次第に男の手つきは機械的な「作業」へと変わっていった。
途中で男は時計を見た。
よし、とひとり頷《うなず》く。「作業」はこれで終わったらしい。
ウサギはまだ三羽生き残っていた。
顔を潰されたウサギがずらりと横にならんでいる。フォークダンスでもしているようにも見えた。
ウエストポーチから弁当箱のようなものを取り出す。スイッチを押すと箱は大口を開いた。そこからレンズがのぞいている。
ポラロイドカメラだ。
男はシャッターを押した。閃光《せんこう》が一瞬小屋の中を白く照らし出した。
舌のように写真が飛び出してくるのを最後まで待たず、男は小屋から抜け出る。そして校舎裏の通用門へと走った。引き抜いた写真をカメラごとウエストポーチに叩き込み、必死になって。まるで狐に追われるウサギのように。
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1、受胎告知
おまえもわかっているだろうが、わたしたちは、もう子どもをやしなってゆけない。目のまえで、子どもたちがうえ死にするのをみてはいられないから、あした子どもたちを森の中にすてに行こうときめたよ。これなら、なんでもなくできるだろう。
[#地付き]『おやゆび小僧』シャルル・ペロー 江口清訳
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――あの、お母さんのことで相談が……。
そう言ったきり少年は受話器の向こうで黙り込んだ。
丸山|秋生《あきみ》は先を促した。
――どんな相談かな。
長い沈黙。秋生は辛抱強く待った。やがて少年は小さな声で囁《ささ》やくように言った。
――あの、ぼくのお母さんは結構美人なんです。
――君はいくつかな? 中学生?
苛立《いらだ》ちを感じさせないように秋生は問いかけた。
――中二です。
後ろで微《かす》かな笑い声が聞こえる。
――じゃあお母さんはいくつ?
――三十二歳です。でもすごく若く見えるんです。二十歳ぐらいに。
――それで、君の悩みは何かな?
――お母さんが……触るんです。
――どこを?
――あの……ぼくのあそこを。
こもった笑い声。それも複数の笑い声が波のように聞こえる。
――ぼくが勉強していると、お母さんが後ろからやってきて、頑張ってる? とか聞いて、それで触るんです。
――偶然あたるってことじゃあないのね。
――はい。あの……それだけじゃあないんです。勉強に集中できるようにしてあげるって言って、あの、ぼくのズボンのチャックを降ろして。
最初の声を聞いたときからわかっていた。悪戯《いたずら》電話だ。秋生が電話相談を始めて十年あまり。これぐらいの嘘《うそ》は見極めがつく。子供の虐待相談と聞いて、近親姦《きんしんかん》、あるいは性的な嫌がらせを思いつくぐらいの年齢。多分高校生だろう。児童虐待ホットラインと名づけられたここに電話をかけてくる者の大半は親だ。虐待している本人であることもあるし、父親の虐待を止めようと連絡してくる母親のこともある。そうでないなら虐待を見かねた周囲の第三者だ。子供から電話があることは、まずない。しかも日本では母親の息子に対する性的虐待はほとんど報告されていない。1980年代、親の子に対する性的虐待がマスコミの話題となったときがあった。そのとき、欧米では父親が娘に対して行うが、日本では母親が行う。と、もっともらしい説が流された。が、それはまったく根も葉もない噂《うわさ》でしかなかった。そのような実証例はほとんどなかったのだ。当時の子供に対する性的虐待は近親姦という背徳的イメージでのみ捉《とら》えられていた。もっとはっきりと言うのなら、それはポルノグラフィーだった。強者である父親が娘を暴行するという図式を、母と息子という関係に置き換えることで、虐待ではなく合意というイメージが成立する。こうすることで子供への暴力という陰惨な要素は消え、通俗的な(であるが故に安全な)ポルノグラフィーが出来上がるわけだ。
当時まだ電話相談を始めて間のない頃だった。秋生自身も何度か母親から関係を迫られたという少年の相談を受けた。何度目かのとき、相談者が突然笑い出した。それでようやく悪戯であることに気がついた。母子相姦の実例がほとんどなく、その多くがこのような悪戯によって広まった噂であることを知ったのはその後だった。それからは「おばさん」をからかってやろうとかけてくるそれらしい電話があると、すぐに怒鳴り散らしたものだ。
今は、とにかく最後まで話を聞く。悪戯電話は、ある意味では子供たちの発する危険信号でもあるのだ。それに万にひとつ、悪戯でない可能性もある。そう考えると無下《むげ》に怒鳴りつけるわけにもいかない。
長々と続いたポルノグラフィーがようやく終わろうとしていた。
――じゃあ、住所を言って。
――えっ。
本当に驚いたのだろう。幼さを強調していた口調が失せた。
――匿名で相談できるんでしょ。
――ええ、もちろんよ。でも君の場合は随分深刻みたいなようだから、直接お母さんに会って話したいの。
――それは困ります。
――どうして。
何も言わず、電話はいきなり切れた。
やりすぎたかもしれない。たとえ悪戯であると確信していたにしろ。
……もし真剣な相談なら、再び電話がかかってくるだろう。
秋生は自分にそう言い聞かせた。
壁に掛けられた時計を見る。金属部品メーカーの名が文字盤に刻印された趣味の悪い掛時計だ。
五時三十五分。電話相談の受付は午後五時までだ。今の少年がぎりぎりの時間にかけてきた最後の相談者になる、はずだった。
電話が鳴った。
隣に座る、元看護婦長だった相談員が首を横に振った。
もうとらなくてもいい、という意味だ。
一瞬迷い、それから秋生は受話器を手にした。
暗く沈んだ声が何事か囁いた。女性であるということはわかるが、何を言っているのかわからない。すすり泣きのようにも聞こえる。
「児童虐待ホットラインです」
秋生がそう告げると、声は多少大きくなった。それでもとぎれとぎれにしか聞こえない。
……丸山さんが……出来れば私……
その声に聞き覚えがあった。
「斎藤さんでしょ。私です。丸山です」
秋生がそう言うと、安堵《あんど》の吐息が聞こえた。それは声よりもずいぶんと大きかった。
斎藤則子。かつて秋生が児童虐待の相談を受けたことのある女性だ。
「どうしたの」
さして歳《とし》の離れていない斎藤に、秋生は子供に対するような優しい口調で尋ねた。以前と同じように。
「あの……大変なんです。……いえ、あの。大変なような気がするんです」
「和馬くんのこと?」
秋生は彼女の息子の、一点を見つめながら何も見ていない目を思い出していた。凍りついた凝視――被虐待児の特徴のひとつだ。
「いえ、いや、……それもあるんですけど……」
沈黙が続く。相談者の沈黙には慣れっこになっている秋生は、先を促すことなく待った。
「……幸彦のことなんです」
則子はようやくそう言った。幸彦は彼女の夫の名だ。
「旦那《だんな》さんがどうかしたの」
「様子がおかしいんです」
「具体的に話してくれるかな」
「具体的に……ですか。帰ってくる時間が遅かったり、朝になって帰ってきたりするんで。私も調べたりしたんですけど」
「ちょっと待って。それって児童虐待の相談じゃあないの?」
「……かもしれないけど、違うかもしれない」
秋生は再び壁の時計を見た。
「悪いけど、後で自宅の方にかけてもらえるかなあ。これから戻るから……そうね、八時すぎには絶対家にいるわ」
「あ、あの、住所とか電話番号とか変わっていないんですか」
「ええ、あのときのままよ」
「そうだったんですか。住所が変わったと思ってこっちにかけてきたんです。すみませんでした。それなら自宅の方にかけさせてもらいます。ええと……はい」
ひとりで返事をして、中途半端なまま電話は切れた。どこかピントのずれたその話し方は七年前と変わりなかった。
高い頬骨《ほおぼね》。尖《とが》った顎《あご》。険のある鋭い目。そんなきつい容貌《ようぼう》を裏切るような、どこかおどおどした態度。秋生は七年前の斎藤則子を思い出す。
そのときも今日と同じ、五時を回ってからの電話だった。要領の得ない話であったが、それでも息子を傷つけていること、そのことについて悩んでいることは理解出来た。話は一時間を越えても終わらなかった。
電話相談の第一の仕事は相手の話を聞くことだ。悩みを聞くことだけでも、相談者のストレスを解消する役に立つ。則子も、話したおかげで少しは気が楽になったと言って電話を切った。
が、その翌日。電話相談開始とともに則子から電話があった。とったのは別の相談員だった。則子は、昨日六時前に電話をした者だが、そのときの相談員に代わって欲しい、と繰り返した。前日に五時を過ぎてから相談を受けたのは秋生しかいなかった。電話を代わると、悲壮な、しかも明らかに動揺している声で則子は言った。
――叱《しか》ったら泣き止まないんです。
どのように叱ったのかを秋生は尋ねた。話は昨夜の夜泣きのことから始まった。長くなりそうだった。焦りを押さえ、秋生は話をじっと聞いていた。頭の中には最悪の状況が浮かんでいた。彼女の息子は生後五カ月の男子だと聞いていた。それは生まれて半年も経たない、指先で押し潰《つぶ》せそうな小さく弱々しい生き物なのだ。殴られ、あるいは蹴《け》られて、ベビーベッドにぐったりと横たわり、蒼褪《あおざ》めた顔で泣き叫ぶ乳児の顔。秋生の頭の中にリアルな映像が浮かんだ。骨折、内臓破裂、脳挫傷《のうざしよう》。恐ろしげな単語を次から次へと思いついていく。
則子の説明はたどたどしく、わかりにくい。何度も昨夜の夜泣きの話に戻り、その合間には帰りの遅い夫への愚痴や、冷たい実家への悪口が続く。
三十分後に、ようやく頬を平手で叩《たた》いただけだとわかった。頬が赤くなっただけで、泣き声にも元気があるという。少なくとも生死に関わるような事態になっているわけではなさそうだった。それでも小児科医にいくことを勧めると、則子は気のない返事をして電話を切った。
その後も何度か電話があった。電話のたびに息子への虐待はひどくなってきた。通常、電話相談員が相談者と直接会って相談を受けたりはしない。必要以上に相談者に関わらず、相談者自身の力で問題を解決に導くのが相談員の務めだからだ。そのために虐待の程度を知り、緊急かどうかを判断し、場合によっては専門の関係機関を紹介する。結局秋生は彼女を虐待者の自助グループに紹介した。民間のボランティアによって運営されるそれは虐待者の集まりである。似たような体験を持つもの同士がその体験を語り合い、虐待について考え、それを防止する。
則子のようなタイプが自分から自助グループに連絡を取ることは少ない。秋生は同時に自助グループのスタッフに連絡を取り、則子にはたらきかけてくれるよう話をした。結果則子は自助グループに参加し、その効果も上がってきているという話をスタッフの報告で聞いた。
ある日秋生がその自助グループを視察にいったときのことだ。丸山さんですか、と近づいてきた女性がいた。則子だった。お話ししたいことがいっぱいあるんです。則子は最初にかかってきた電話と同様、悲壮な声で訴えた。秋生は断りきれず、自宅の連絡先を教えた。それから何度か個人的にも相談を受けた。最後の電話では明るい声で幼稚園に通う息子のことを話していた。それから長い間連絡を取っていなかった。
児童虐待の再発率は高い。三十パーセントを越える。ちょっとしたつまずきから、再び虐待が始まるのだ。則子の電話からは、どうやら夫の浮気か何かの相談のように思えたが、もしそれがそうであったとしても、そこから虐待につながらないとも限らない。
叱ったら泣き止まないんです。
則子のその声を再び聞きたいとは思わなかった。
後ろから「お先に失礼します」の声がかかった。よほどぼんやりしていたのであろう。いつの間にか今日の当番であった二人が帰り支度を済ませていた。
その背中にお疲れさまと声を掛ける。
スチールの扉がゆっくりと閉まった。がらんとした部屋に秋生ひとりが残された。狭い部屋だ。事務所自体は広い。子供の虐待防止協会の事務所として使われているからだ。パーティションで囲まれた電話相談のブースだけ、独立した六畳ほどの空間になっているのだ。簡素な折り畳み式のテーブルに載せられているのは二台の電話機だけ。この二台の電話に、午前十一時から午後五時まで三人で応対する。
秋生はテーブルの上を片づけ、椅子《いす》に掛けてあったコートを羽織った。
樹脂製の屏風《びようぶ》越しに、パソコンのキイを押す音が聞こえる。
お先に失礼します。
秋生はパーティション越しに声を掛けて部屋を出た。
六時を回っていた。
重いスチールの扉を開く。
玄関|脇《わき》のスイッチを押して明かりをつける。蛍光灯は二、三度迷っているかのようにまたたいてからしぶしぶ点《つ》いた。
玄関から室内のすべてを見渡せる。入って正面の北向きのサッシ窓。右をのぞき込めばままごとのような小さな台所。左の扉はドールハウスと見間違いそうなユニットバスの扉。その奥にある押し入れの中には蒲団《ふとん》が一組。
このワンルームマンションが秋生の城だ。夫と別れてから三度引っ越した。引っ越しのたびに荷物が減っていく。この部屋には家具と言えるものがほとんどなかった。
台所に白いビニール袋を置く。近くの商店街で買い込んだ惣菜《そうざい》だ。やかんに水を満たしコンロにかけた。冷蔵庫から茶碗《ちやわん》に盛ったご飯を出し、ラップを掛けて玩具《おもちや》のような小さな電子レンジに入れる。
がさごそと音をたてて袋から中身を出した。煮魚とおでん、それに中華サラダ。
料理は好きだ。なのに電話相談の日は夕食を買い食いですませる。そう決めているのだ。
電話相談を始めた頃のことだ。疲れきって帰る途中、惣菜屋の陳列棚に並ぶおかずが無性においしそうに見えて買って帰り、それからのことだ。
子供の虐待防止協会は十一年前に発足した。最初は児童虐待を考える個人的な集まりだった。それに先鋭的なフェミニストとしても有名だった大学教授がコーディネーターとして参加した。冠にその教授の名が付くと、スポンサーが現れ、市がバックアップする具体的な組織へと成長した。児童虐待ホットラインは、協会発足と同時にスタートした。児童虐待に関する電話相談は初めから協会のプランの中に組み込まれていたのだ。地方局が協力してくれることで、広く告知することができた。反響にはめざましいものがあった。秋生もそのテレビCMを見て、ボランティアを申し出た。本職は保健婦だ。隔週で土日、相談員として協会に通っている。保健所は本来土日が休みだ。しかし家庭訪問に土日を使うことは多いし、ボランティア団体から健康指導や老人介護の指導などで呼ばれると出かけなければならない。保健婦はエリート銀行員並の激務なのだ。給与では比較にもならないが。
秋生のボランティアは上司から公認されていた。隔週ではあってもそんなことができるのは、市が児童虐待に対して積極的に取り組んでいるからだ。秋生の住むこの街は、虐待防止に関して国内では先進的な街だった。
電子レンジがせわしない電子音でご飯を温め終わったことを告げた。茶碗を出し、煮魚を皿に載せて、レンジに入れる。
汽笛のような音をたててやかんが湯の沸いたことを知らせていた。
焙《ほう》じ茶を煎《い》れる。湯呑《ゆの》みに注いで立ったまま一口飲む。火傷《やけど》するほど熱い茶が喉《のど》を通っていく。ちりちりした感触が胃に流れ込むのがわかった。
死ぬときは直腸|癌《がん》か胃癌。
熱い茶が好きな秋生にそう言ったのは矢野和典だ。だからやめた方がいい。睨《にら》みつけた秋生に矢野はそう続けた。まだ婚約中のことだった。秋生は看護学校生で二十歳だった。矢野とは一廻《ひとまわ》り離れていた。彼は総合病院に勤める内科医だった。卒業間近の看護実習で知り合ったのだ。
絶対|騙《だま》されているわよ。
様々な例を挙げて医者という職業に就く者の不実を訴えたのは同期の生徒や先輩看護婦ばかりではなかった。彼女の両親も同じようなことを言って結婚に反対した。医者の悪口を秋生はあらゆる人から聞かされた。医者というものが女性に対して最悪の人種である、というのは誰もが知っている事実なのだ。秋生がそう信じるまでそれは繰り返された。が、恋する乙女はそれに対してこうつけ加える。でも矢野さんだけは別。結婚と同時に医者への罵倒《ばとう》はすべて祝福の言葉へと変わった。新婚生活は幸福そのものだった。この部屋が五つは入る大きなマンションに住み、仕事の関係で会える時間こそ少なかったが、夫は彼女が申し訳なくなるほど優しかった。すぐに子供が出来た。男の子だった。矢野は次男だったが、長男はまだ結婚しておらず、両家にとっての初孫だった。誰もが彼の誕生を心から祝った。
あんなことがなければ、今ごろ広い居間のソファーで、小学生の息子に絵本でも読んで聞かせていただろう。
秋生は温まったご飯とおかずを食卓に並べ終えた。
手を合わせ、いただきますと口にして食べる。電子レンジで加熱しすぎたせいか、煮魚がぱさぱさだった。
電話が鳴った。
箸《はし》を置き、お茶で煮魚を流し込んで受話器を持つ。ほとんどの物が座ったままで手にできる。
「夜分恐れ入ります。丸山さんのお宅でしょうか」
低い男の声だった。意外だった。夕方電話のあった則子からだと思ったからだ。
「私が丸山ですけど」
様子をうかがうような声で秋生は言った。
「児相の奥村です」
児相――児童相談所は、文字どおり十八歳未満の児童に関するあらゆる相談を受けるところだ。行政の専門機関である児相には、相談への援助活動のために専門のスタッフが配置されていた。奥村はその児童相談所の所長だった。
「丸山さんが心配されていたんで、とにかく結果だけお教えしようと思って」
「理奈ちゃんのことですか」
チョーカーのように青黒い痣《あざ》を首の回りにつけた、痩《や》せた少女の姿が脳裏に浮かんだ。
「ええ、やはり親権者の同意は得られませんでした」
「では一時保護の形で――」
「児相の手で親から無理に引き離すのは避けたいんですよ」
「それはわかります。ですが今回は急を要するんです。今、この時間に理奈ちゃんがどうなっているかわからないんですよ。子供ひとりの命がかかっているんですよ」
脅すように言うのは半分演技だ。児童虐待と長年関わっていれば、児相の立場も充分理解している。
「親権喪失宣告の申し立てを行うつもりです」
奥村は諭すようにゆっくりとそう言った。
「奥村所長が申し立てるんですか」
「理奈ちゃんの伯父《おじ》が名乗りを上げてくれているんですよ」
「伯父さんが……」
彼女に協力的な叔父がいることを、秋生は知らなかった。
「決定後の理奈ちゃんの後見人にもなってくれるそうです」
「親権代行者は」
「弁護士の金城さんです」
テディベアとひそかに呼んでいる、小太りの中年男性の姿を思い浮かべ、彼女は自然と笑みが浮かんだ。
「あの人は熱心な人だから……。でも、家裁からの決定を待っていたらいつになるかわからないでしょう。何度も言うようですが今回は緊急を要する事例なんですよ」
「保全処分を申し立てました」
奥村は即座に答えた。
「保全処分のひとつに、審判前の親権一時停止があるんです。つまり保全処分決定が出た時点で理奈ちゃんを保護できるわけです。申し立て側の審問はもう終わっています。そのときの感触では、多分相手側の審問なしで保全処分が決定されるでしょうね」
「良かった」
秋生は心から安堵《あんど》した。もちろんこの先がもっとたいへんであることは承知している。が、今この瞬間に理奈が死んでいるのでは、と思い煩う必要はなくなるのだ。とりあえずの決着。とりあえずの段落。その多くが人々の善意によって導かれる、この『とりあえず』の充足があるからこそ、秋生は児童虐待という、結論のなかなか出ない重い課題と取り組んでいられるのだ。
「家裁で決定が出たら、すぐにウチで預かることになっています。ですが……」
相談以外の場での嫌な沈黙は、自分から破ることにしている。
「ですが、何ですか」
「問題は当日、どうやって理奈ちゃんを家から児相まで連れてくるかです。下手に連れ出すと誘拐扱いされてよけいに話がこじれることになる」
躊躇《ちゆうちよ》しなかったわけではない。そこまで関わる必要はないのだ。そう思っていながら口をついて出てきた言葉はまったく別物だった。
「私が連れてきましょう」
「丸山さんが、ですか」
当惑する、というより呆《あき》れたように奥村は言った。
「理奈ちゃんは私になついています。彼女、昼過ぎに近くの神社までひとりで遊びにいくんですよ。私もよくそこで一緒に遊びました。そのときに彼女に話をして、連れていきます」
「丸山さん……」
奥村は受話器の向こうで溜《た》め息《いき》をついた。
「何ですか」
「あまりムチャはしないでください。あなたひとりが動いて事件がすべて解決するわけじゃあないんだ。気負えば気負うだけ、うまくいかなかったときにその反動もきついですよ」
「私はこの仕事を十年近く続けているんですよ。そんなことは充分すぎるほど知っています。でもね、自分にできることをしなかったことで後悔をするのは、怖いんです」
正直な気持ちだった。
彼女のためではなく自分のためにする。
それがある意味で利己的な行為であることを秋生は充分わかっていた。
「……わかりました。丸山さんからそういう申し出があったことは考慮に入れておきましょう。明日弁護士と会うことになっています。そのときに相談して決めることにします」
「理奈ちゃんのことをよろしくお願いします」
秋生は受話器を耳に当て、壁に向かって小さく頭を下げた。
「わかりました。何か決まったらすぐに連絡をいれますよ。それじゃあ、おやすみなさい」
おやすみなさい、そう言って秋生は受話器を置いた。
岸田理奈は五歳だ。父親の茂は失職中。母親の裕子はスーパーのパートをしている。秋生が最後に理奈と会ったとき、彼女は肩から胸にかけてギブスで固められ、病室の堅いベッドで眠っていた。
一月あまり前のことだ。それ以来理奈とは一度も会っていない。
なぜ人は子供を、最も弱い立場にあり、何の抵抗も出来ない幼児を虐待しなければならないのか[#「しなければならないのか」に傍点]。
秋生はいつもそれを考える。
なぜ幼児を虐待するのか、ではない。それなら秋生は充分すぎるほど理解している。普通の主婦が、どのように虐待に追い込まれるか、秋生自身がそれを経験しているのだ。幼児虐待は鬼のような親がすることではない。子供を持つ親なら、誰にでも起こり得ることなのだ。
だからこそ秋生は考える。
なぜ人は幼児を虐待しなければならない存在なのか。なぜ人はこのような残虐な行為を為し得るのか。なぜそれを許すような心を、人は持って生まれなければならないのか。
気づけば夕食はすっかり冷えている。もう一度温めなおす気にもならず、秋生はそれを口に運んだ。すでに食欲は失せてしまっていた。
保健所に則子からの手紙が届いたのは電話があってから二日後のことだった。どうして自宅に送らないのか、と秋生は思う。保健所に送ったからと言って不都合はないが、普通私信は自宅へ送るものだろう。なぜ、と尋ねれば、則子はその理由を述べるに違いない。いつものようにどこかズレた理由を。
秋生はいつもいく喫茶店で昼食をとった。後はランチについているデミタスコーヒーが出てくるのを待つだけだ。
純喫茶と看板にある古く薄汚れた喫茶店だ。この辺りは中小企業の営業所や工場が多い。昼休みになると、そこからどっと人が吐き出されてくる。この喫茶店は昼のサービスメニューもA、B二種類のランチがあるだけ。その内容もコンビニで手に入れられるものと大差ない。それでもここを秋生が利用する理由は三つ。彼女が勤める保健所から近いこと。店が広く、空《す》いていること。そしてコーヒーがとびきり熱いこと。
しかし今日に限って二番目の理由は関係なかった。混んでいるのだ。秋生は四人掛けのテーブルに腰掛けている。残り三つの椅子《いす》では、制服姿のOLが一斉に化粧を直し始めていた。秋生はセカンドバッグから則子の手紙を取り出した。左下の隅に淡彩のアジサイが描かれた便箋《びんせん》を開く。几帳面《きちようめん》な則子の文字がびっしりと紙を覆い尽くしていた。
手紙なら電話よりも自分の意志を伝えやすい。則子はそう考えたのかもしれないが、手紙に書かれた文章は、彼女の話し言葉以上にわかりにくかった。昔文学少女だった彼女のひねりすぎた文章は、一読しただけでは意味がくみ取れなかった。
則子は決して頭が悪いわけではない。四年制の大学を卒業し、その時には総代をつとめてもいるのだ。が、特に感情的になったりパニックに陥ったりしたとき、彼女は極端に他人とずれた言動をとる。最も他人を必要とするときに、己れの気持ちを伝えられないのだ。
秋生は二度読み返した。
とにかく間違いないのが、夫の幸彦の様子がおかしくなったことだ。
設計事務所を経営する幸彦は、今までも帰る時間は遅く、外泊することもあった。が、そのようなときにも連絡だけは欠かさずしていた。それがふっつりと途絶えた。則子に対してもどこかよそよそしく冷淡になった。それどころか無条件に優しかった息子に対しても冷たい。
それらで思いつくことと言えばただ一つ。幸彦の浮気だ。則子も初めはそれを疑ったらしい。だがそれを夫に問いただすことは出来なかった。彼女には幸彦に対する引け目があったからだ。
かつて則子が一人息子を虐待していると知ったとき、初めこそ幸彦は逆上した。が、すぐに虐待に気づかなかった己れの非を認め、則子のカウンセリングに積極的に力を貸してくれるようになった。そのために以前よりも家族思いにもなった。則子にはそんな夫に対する気兼ねがあったのだ。それに、ようやくまともになった家族に波風をたてたくない気持ちもあったかもしれない。とにかく彼女は幸彦に疑問を尋ねることが出来なかった。だが不安はつのる。悩みあぐねた則子は、民間の探偵に依頼した。
おかしなところで大胆だ。
秋生はそう思う。探偵を雇うという発想を、秋生なら思いつかない。
イエローページで調査会社を探し連絡した。成果はすぐに上がった。調査会社は幸彦が仕事に使うという理由でマンションを借りていた事実を突き止めたのだ。それを聞いた瞬間『自殺するに至る己れの姿がはっきりと眼の前に浮かぶほどにリアルな映像で浮かんだので気分が悪く』なった則子だったが、調査員の続けての報告は彼女の予想を裏切るものだった。調査員ははっきりと、そのマンションに女が出入りしている様子はないと言ったのだ。仕事に使っている、という話を疑うものは、何もなかったと。
だが、気掛かりなことがなくもない、と調査員は話を続けた。
幸彦はそのマンションへ行く前に必ずコンビニへ寄るという。そのとき彼は、ひとりで食べるにはあまりにも大量の菓子パンやオニギリのたぐいを購入しているのだ。パーティーでもあるのかと思って張り込んでいたが、誰もその部屋を訪れることなく、幸彦はマンションを出てきたという。
どう考えたらよいのかわからない話だ。報告書にはどうやって調べたのか、幸彦が買った商品の品目が逐一記されていた。よほどの大食漢でも一日で食べきれる量ではなかった。
則子は優秀な調査会社を選ぶことが出来たのだろう。四日間でここまで調べ上げたのだから。そしてそれに見合うだけの金額を請求された。調査を継続しますか、と調査員は聞いてきた。料金は一日の基本料金プラス必要経費に、調査にかかった日数を掛けて計算される。則子の貯金は四日の調査で使い切っていた。これ以上調査会社に頼むのは無理だった。後は自分で何とかしようと思った。翌日から幸彦の部屋を彼女は毎日調べるようになった。そしてある日、マンションの鍵《かぎ》をテーブルの引き出しから見つけ出した。すぐに則子は合い鍵を作った。そして夫が事務所にいることを確認してから、ひとりマンションを訪れた。
その後のことはこのように書かれてある。
――心臓がドキドキしていたのは扉を開けるときまででした。扉を開けると薄暗く、私は電灯をつけました。カーテンが閉まっていたからです。明るくなった部屋の緑の絨毯《じゆうたん》やブルーグレーのカーテンは安物で、家にあるのとは大違いでした。彼の趣味というよりは、適当に買ってきたか、あるいは初めからマンションについていたものだと思います。もともと家具だのインテリアのことには設計事務所の社長をしているのにもかかわらず無頓着《むとんちやく》なところがありますから、きっと自分で適当に買ってきたのだと思います。中に入ると探偵さんの報告にあったとおり、食べかけの菓子パンやスナック菓子がありました。それから派手な色の玩具《おもちや》が散らばっていました。女を養っているのならとてもおかしな女でしょう。
嫌な気分がしたのはこんなことをしているからかとも思いましたが、どうやらそうではなく、誰かが今の今までここにいたような気配がしたからでした。人の気配というものは不思議なもので、後ろから見つめられているとどういうわけか見つめられていることが分かったりするものです。私がOLをやっているときにも幸彦さんの視線を何度も感じたものでしたから、そのような不思議な気配とでもいうものに私はとても敏感なのかもしれません。笑い声がしたのです。それはふうふうとかほうほうとか、甲高い声だったのできっと子供の笑い声だと思うのですが、確かに私は間違いなく笑う声(それも母親に隠れて悪巧みをするときの子供のような笑い声)を聞いたのですから、幻聴だとか空耳だとかいうものとはどうしても違うように思われます。気配も感じていましたから。それはどうやら押し入れとか天井裏とか、そういったところでじっと息を潜めて私の様子をうかがっている何かの気配だったように記憶しております。私は気分が悪くなってきました。鳥肌が立ちました。風が吹いていました。ビルの看板が落ちてきたあの強風の日でしたからびゅうびゅうとサッシ窓が吹く風にガタガタと音をたてて、それでどこからかほうほうだとかふうふうだとかいった笑い声が聞こえてくるので、私は頭の中がぐうるぐうる回るようで、以前駅前のダイエーの食品売り場の冷凍食品の棚の前で貧血で倒れ込んだときのようにひどい眩暈《めまい》がし始める時のようでした。あの時は救急車がきて大騒ぎになったのですが、今回はそんな騒ぎを起こすわけには絶対にいかなかったので、恐ろしくなって怖くなって走って私はマンションの部屋の外に出て、エレベーターを待っている間に鍵を閉め忘れたのを思い出しました。それでも閉めに戻るのが恐ろしかったのですが、何とか勇気を出して私は鍵をきちんと閉めて頭がぐうるぐうると回るのに、それを堪えて何とか家に帰りつくためにタクシーに乗ったときにはよほど顔色が悪かったのでしょうね。運転手が吐きはしないかと心配して何度も気持ちが悪かったら言ってくださいと繰り返していたのを思い出します。
浮気ではない。
則子はそう直観したらしい。だが、探偵に依頼したり、勝手に部屋に入ったことなどが枷《かせ》となって、いまさら夫に問いただすことも出来なくなってしまった。
いったい何をどうすればよいのか、私はすっかりわからなくなってしまいました。手紙はそう結ばれていたが、どうすればいいのかわからないのは秋生も同じだ。これだけの話では何とも言えない。則子はそう思っていないが、夫が浮気している可能性も否定できない。四日の調査期間の間にたまたま女が訪れなかっただけのことかもしれないのだ。
秋生は手紙を封筒ごとバッグに詰め込みながらそう思った。いつの間にか相席の三人は消えていた。知らぬ間に運ばれていたコーヒーに口をつける。まだ充分熱い。
浮気の可能性は否定できないが、秋生はそれと別の考えを持っていた。
則子がかなり精神的にまいっているのは確かだ。夫の部屋を毎日のように調べている。合い鍵を作ってマンションに乗り込む。彼女は本来気が弱く消極的な女性だ。よほど精神的に追い詰められていない限りこのようなことは出来ないだろう。しかもそのマンションで幻聴を聞いている。本人は幻聴や空耳などではないと書いているが、幻聴は空耳とは異なる。秋生は以前アルコール依存症の患者から話を聞いたことがあるが、幻聴は本当の音と区別がつかないものらしい。つまり幻聴は、当人にはそうだと自覚できないものなのだ。
対人関係に神経質で、ちょっとしたことで思い悩む則子のことだ。始まりは幸彦の些細《ささい》な態度の変化を誤解した則子にあったのだろう。そしてそういう則子の心理の変化が、今度は本当に幸彦の態度の変化となって現れる。玩具とお菓子のあるマンションは、おそらく幸彦が息抜きに使っているのではないか。ストレス解消のために玩具で遊び菓子を頬張《ほおば》る男。ない話ではない。それはそれで浮気よりも問題なのだが。
それらの推測は別にしても、秋生は一度則子に会って話し合うべきだと考えていた。則子が危うい精神状態にあることは間違いない。それが再び虐待の引き金となりかねないのだ。
今夜にでも電話を入れようと思い、秋生は熱いコーヒーを一気に飲み干した。
レシートを掴《つか》み立ち上がろうとしたときだった。
声を掛けられた。
「丸山さんですね」
前を見ると初老の男が立っていた。白髪が混じり灰色に見える髪を七三に分けている。左のつむじのあたりが齧《かじ》られたようにへこんでいるのは寝癖だろう。
「はい、そうですが」
秋生が答えると、男は笑みを浮かべて、ここに座ってもいいですか、と前の席を指さした。笑い皺《じわ》で縁取られた大きな目が老いた栗鼠《りす》のようだ。つい笑みを返してしまいそうな人なつこい表情に、思わず、どうぞと答えてしまった。答えてからややこしい相手かもしれないと思ったが、今さら断れない。
男は、保健所で尋ねるとここにいると聞いたもので、と言いながらゆっくりと椅子に座った。
秋生も上げかけた腰を降ろす。
「私はこういうものなんですが」
男は名刺を出した。黄ばんだその名刺には辻村貢《つじむらみつぐ》と書かれてあった。肩書きは誰でも知っている国立大学の教授だ。
秋生は改めて男を見る。
清潔ではあるが草臥《くたび》れた背広は型が崩れ、何度もアイロンをかけたのかズボンの折り目が色褪《いろあ》せていた。地味なネクタイは先が折れて上を向いている。いかにも研究一筋に生きてきた象牙《ぞうげ》の塔の住人、という感じだ。
「それで、何か私に」
「じつは斎藤君のことでちょっとお聞きしたいことがありまして」
「斎藤君?」
「斎藤幸彦君です。私の教え子なんですが」
則子の夫の名前が出てくるとは思わなかった。
「幸彦さんが何か」
「やはりご存じだったんですね」
辻村は嬉《うれ》しそうに言った。ウエイトレスが水とおしぼりを持ってくる。辻村はすぐ出るからと注文を断った。
「彼の様子が最近おかしいので、心配になって本人に聞いてみたんですが、どうもはっきりしたことを言わない。で、まあ以前例のことであの夫婦が悩んでいたときに私も相談に乗っていましてね、それであなたの名前をお聞きしていたもので、もしやと思って。いやあ、頼まれてもいないのにおせっかいだとは思ったんですが、これも恩返しというか。彼には私的なことで以前世話になっていましてね。私としては父親のような気持ちでそれまで相談に乗ったりしていたのですが、これじゃあ、どっちが恩師だかわからないですな」
男は照れくさそうに言うと、急に真剣な顔になって身を乗り出した。
「あの……」
囁《ささや》くように男が言う。
「また虐待が始まったんですか」
「奥さんには、則子さんには話をされていないんですか」
「斎藤君とは長いつきあいなんですが、彼女とは面識がないんですよ。なのにいきなり訪れて、虐待をしているかとは聞けませんからね」
「そうですね。……虐待が始まったわけではないんです。でも――」
「でも?」
「幸彦さんは何かおっしゃっていませんでしたか」
「虐待に関して彼は何も。家族に対して愛情が失せた、というようなことは言ってました。何を馬鹿なことを言ってるんだと諭したんですがね。よほどの心配事があるのか、顔色も悪いし、人の話をあまり聞いていないしね。それでまあ、おせっかいとは思ったんですが何があったのか気になって」
「そうですか。幸彦さんに問題があると、それは則子さんにも影響を与えますからね。また再発しないとは限らない。そういう意味では危険な兆候なんですが」
「則子さんがまた虐待を始めたというわけではないんですね」
辻村は様子をうかがうように秋生の目を見た。
「そうではありません。ちょうど私も則子さんから相談を受けていまして、初めは幸彦さんが浮気でもしているのではないかと思ったようなんですが」
辻村は吹き出した。
「彼に限ってそんなことはありません。心配することはないと奥さんに伝えておいてください」
「ええ、彼女も今はそうではないと考えているようです。それでも様子がおかしいので、どうしようかと相談を」
ふう、と辻村は深刻な顔で息をついた。
「それじゃあ、何もわからんわけか。困ったな……」
「もし幸彦さんのことで何かわかりましたらこちらまで連絡をいただけませんか」
秋生はバッグから名刺を取り出した。
「これは私のデスクに直通の電話番号です。外出していることが多いんですが、そのときは受けた者に伝言しておいてください。折り返し連絡させてもらいますから。それで、辻村さんに連絡するときはこちらでよろしいんですね」
テーブルに置いたままの辻村の名刺を指さした。
「いえ、ああ、それは学校の連絡先なので、学校へ私事の連絡はあれなんで……、そうですね、ここに」
辻村は名刺を手にすると、その裏に電話番号を書き込んだ。
「自宅の電話番号です。私も何かわかりましたらすぐに連絡させていただきますよ。それが虐待防止の役に立てば嬉しいんですが」
「もちろん、役に立ちます」
秋生はこれで話は終わったというように、名刺をバッグに入れた。
「それじゃあ、お忙しいところ、すみませんでした」
辻村が会釈し、立ち上がった。
「あっ、辻村さん」
秋生が言うと、何に驚いたのか辻村はびくりとして彼女を見た。
「どうして私の顔がわかったんですか」
ああ、と辻村は笑い、これですよ、と秋生の胸を指さした。見てみると、そこに名札をつけたままだった。
じゃあ、と辻村は再び会釈し、出ていった。
秋生は時計を見た。昼休みは終わろうとしていた。
子供たちの歓声が聞こえる。いかにも悪童といった風情の男の子たちが鳥居をくぐって走ってきた。まるでじゃれあう子犬だ。手水舎《ちようずや》で先頭の少年が立ち止まり、水をはね上げる。ひときわ大きく悲鳴のように叫ぶ子供たち。
秋生は参道を離れ樹の幹にもたれていた。
その前をどたどたと少年たちが駆け抜ける。咎《とが》める者もいない平日の午後。
秋生は理奈が遊びに来るのを待っていた。待ち合わせしているわけではない。秋生が頻繁《ひんぱん》に裕子の家を訪問していた頃、理奈は幼稚園の帰り、毎日のようにこの神社に遊びに来ていたのだ。担当地区を回るとき、時間がある限り秋生はここへ来て理奈と遊んだ。それが、一年ほど前から会えない日が続くようになった。理奈があまり神社に来なくなったのだ。父親にみっともないから出ていくなと言われているらしい。いつも同じ異臭のする服。そしてあちこち身体中を色を変えながら移動する痣《あざ》。彼女をみっともなくさせているのは両親だ。だが理奈がそんな理屈を父親に言うわけもない。言いつけにしたがって、彼女はあまり外に遊びに出なくなった。
理奈が病院に運ばれた一月前から、秋生は一度も彼女に会っていない。だからここで待っていれば理奈に会える、という保証は何もない。
今日で四日、この神社で時間を潰《つぶ》していた。
時計を見ると、そろそろ次の家庭訪問に向かわなければならない時間だった。
安請け合いした罰かな。
秋生は空を見上げた。
晴天だ。梢《こずえ》から漏れる陽射しが暖かい。枝を静かに揺らす風が心地好かった。
団扇《うちわ》を慌ただしく打ち鳴らすような音がした。
ふと横を見ると、一羽の鳩がよろよろと歩いていた。翼のつけねと首の両脇から糸が長々と垂れている。太いたこ糸だ。五十センチほどあるそれを引きずりながら、鳩は律儀な衛兵のように首を左右に振っていた。初めは身体に絡みついているのかと思ったその糸は、釣り針のようなもので鳩に直接引っかけてあった。誰かの悪戯《いたずら》だろうか。この境内は子供たちの遊び場だ。どこかの乱暴な男の子たちの仕業かもしれない。もしかしたら犯人はさっき走っていった子供たちかもしれない。いや、子供だとは限らない。この世には小動物を遊びで殺す大人なんていくらでもいるのだ。いずれにしろどこかの誰かがこれをやった。何かのためではなく、ただやりたいから。
突然、鳩が飛び立った。
そこに少女が立っていた。
「アーちゃん」
少女は秋生を指さして言った。
「理奈ちゃん」
秋生は笑顔を浮かべ駆け寄ると、理奈の前でかがみ込んだ。
二年前、理奈はまだまともに喋《しやべ》ることが出来なかった。関心のあるものを指さして、ああ、ああ、と言うだけだった。その頃秋生のことを『あっちゃ』と呼んでいた。今秋生のことをアーちゃんと呼ぶのはその名残《なごり》だ。
秋生は理奈の肩に手を乗せた。まだ五歳児の標準には満たないが、その頃と比べれば随分と大きくなった。
理奈は嬉しがるわけでもなく、ぼんやりと秋生を見ていた。その表情の乏しさに、秋生は二年前の理奈を思い出していた。会わなかった数週間で、明らかに状態が悪化していた。長く垂らしただけの髪の頭頂部近く、地肌が見えている。赤黒く変色したそれは、間違いなく頭髪を毟《むし》りとった痕《あと》だ。右眼の目尻《めじり》からこめかみのあたりが紫に腫《は》れている。
「アーちゃん」
理奈は再び言うと小さな両手を閉じ、それから開き、そして何度か拍手した。
虐待されていた二年前、秋生の前で理奈はしきりにこの動作を繰り返した。何か失敗をしたときや、おなかが空いたときにそれを見せる。それが『むすんでひらいて』であることはすぐにわかったが、なんのためにそれをするのか分からなかった。一緒に遊んで欲しいのではないようだった。
母親の前で理奈がジュースの入ったコップを倒したとき、初めてその意味が理解できた。
母親は口汚く理奈を罵《ののし》った。すると理奈は『むすんでひらいて』を始めた。母親は鼻で笑いながら言った。
――いくら芸をしたって駄目だよ。
次の瞬間、平手で理奈を叩《たた》いていた。止める間もなかった。
児童虐待は家族の病だ。鬼のような親がかわいそうな子供を苛《いじ》める、というような単純な図式では理解できないし、解決もできない。頭では理解できているそれらの知識を吹き飛ばすほどの怒りが込み上げた。衝動的に立ち上がり、母親を殴りそうになっていた。
『むすんでひらいて』は何かをお願いするための芸だったのだ。
――お願い、助けて。
――お願い、食べ物を頂戴《ちようだい》。
そう訴えるために、理奈は犬のように芸をしていた。
「……わかったわ」
言って秋生は理奈を抱き締めた。涙も出なかった。怒りよりも哀しみよりも、徒労感が強かった。何もかもが二年前に逆戻りしていた。その間に続けてきた努力は無駄になったのだ。
秋生はただ強く、少女の薄い身体を抱き締めていた。髪や首筋から饐《す》えた臭いがした。不快ではなかった。それは生きている証しだ。理奈は生きている。それがどれだけ辛いものであろうと、彼女は生きている。一度死のうとした秋生にはそれがどれだけ大事なことかがわかる。
秋生はなけなしの気力をかき集めた。
何もかも初めからやり直すのだ。
「理奈ちゃん、アーちゃんと一緒に旅行しようか」
「りょこう」
秋生は理奈から離れると、バッグを開き携帯電話を取り出した。
「お母さんにもお父さんにも、おばちゃんから連絡しておくから大丈夫よ」
「だいじょうぶ」
理奈は秋生の言葉を繰り返すだけだ。
「ちょっと待ってね。お父さんのところに連絡を入れるようにするから」
秋生がそう言うと、理奈は携帯電話を持っている方の腕を引いた。見ると怯《おび》えた顔で腕にしがみついている。
「駄目。言っちゃ駄目」
棒読みのような言い方だ。しかし手は、爪《つめ》が食い込むほどにきつく秋生の腕を握っていた。
「理奈ちゃんは心配しなくていいのよ。お父さんはあなたのことを叱《しか》ったりできない。もし腹が立っても、理奈ちゃんが帰ってくる頃にはもう怒っていないわ。本当よ。だから、ね」
秋生は理奈に腕を掴《つか》まれたまま、弁護士の金城に電話を入れた。理奈を保護したことを伝えるためだ。保護し、その後に弁護士から両親に連絡する。そういう手筈《てはず》だった。
「さあ、行こうか」
秋生は携帯電話をバッグになおし、理奈の手を握った。
「アーちゃん、お腹すいた」
理奈はそう言い、また『むすんでひらいて』を始めた。秋生は理奈の両手首を握ってそれをやめさせた。
理奈はそれをどうとったのか、何度も何度も秋生にむかってお辞儀を繰り返した。
理奈の母親、裕子に会ったのは三歳半の集団健診だった。
保健所では定期的に乳幼児の健康診断を行う。地域によって異なるが、秋生の勤める保健所では三カ月、十カ月、一歳半、三歳半の四回実施されている。
三歳半の健診のとき、最後の個別相談で秋生は裕子と出会った。彼女の娘は明らかに発育が遅れていた。身長も体重も平均を遥《はる》かに下回り、掴まり立ちがやっとの状態だった。裕子はそれをあまり気にしている様子がなく、おむつがとれぬことで、しきりに愚痴をこぼしていた。何よりも気掛かりだったのは二の腕と太股《ふともも》に内出血の痕《あと》があること。裕子に尋ねると、よく転ぶからだと答えた。
気掛かりな子供を見つけた場合、保健所にはいくつかのとるべき手段がある。保健所での二次健診や専門機関への精密検査の依頼などがそれだ。しかし児童虐待の場合、往々にして両親が各機関からの呼び出しに応じないことが多い。裕子の子供への無関心さを思うと、彼女から積極的に行動することは期待できなかった。
結局秋生は理奈の家を訪問することにした。
事前に電話を入れると、保険の勧誘と間違えられた。保健所であることを何度も告げ、発育の不良が気になったものでとつけ加えた。何のために来るのか、と金は必要ないのか、ということを執拗《しつよう》に尋ね、ようやく訪問が許された。
裕子の家は埃《ほこり》っぽい路地の奥まった行き止まりにあった。表札はないが住所番地と照らし合わせると間違いなくその家だった。四軒並んだ長屋の一番端の古びた二階屋だ。漆喰《しつくい》の剥《は》がれた壁から木材が顔を出していた。
呼び鈴もインターホンもなく、秋生は少し迷ってから引き戸を少し開いた。鍵《かぎ》はかかっていなかった。すみません、と声を掛け中に入った。
臭いがした。不快な臭いだ。古い家特有の黴《かび》臭さに、嫌な苦みが混ざっている。
玄関から居間と台所が見通せる。居間には炬燵《こたつ》が置かれてあり、その周囲に様々なものが置かれてあった。その大半がゴミにしか見えなかった。
台所の板の間に、理奈がぺたりと座り込んでいた。どう見ても一歳か一歳半にしか見えない。理奈はガラスのような目で秋生を見ていた。眺めていたと言ってもいいかもしれない。
お母さんは、と声を掛けると、玄関|脇《わき》の階段がみしみしと音をたてた。裕子が二階から降りてきたのだ。眠っていたのだろう。髪が乱れ、目がはれぼったい。
「誰?」
喉《のど》に絡んだ声で裕子は言った。理奈が目に見えて緊張する。
「先ほど電話した丸山ですけど」
秋生が言うと裕子は首を指先で掻《か》きながら手招きした。
失礼します。言いながら秋生は靴を脱いで中に入った。玄関から居間に脚を踏み入れるのに迷った。畳が見えないのだ。干からびたミカンの皮とレディースコミックの隙間《すきま》を爪先《つまさき》でかき分けるようにして一歩目を降ろした。ストッキングを通して畳の湿気が足の裏に染みた。それから覚悟を決め、炬燵の前の一角を自ら整理して腰を降ろした。正座だ。炬燵の中に足を入れる勇気はなかった。
秋生の迷いなど知らぬ顔で、裕子は散乱した紙袋やスナック菓子やカップ麺《めん》の容器を足先で押しのけ、炬燵に潜り込んだ。周囲にあるものが尻《しり》の周りで波紋のように盛り上がっていた。
――相談することなんかないけどね。
リモコンでテレビをつけると、裕子はそれに見入った。
秋生は理奈を見ていた。その手に握られている、黒く変色したホウレンソウを。それがおやつなのか玩具《おもちや》なのか、いずれにしても子供に与えるものではなかった。
保護の怠慢や拒否。これをネグレクトという。児童虐待のひとつだ。捨て子などもこれに当たる。腿《もも》や二の腕の内出血がなかったとしても、ここで児童虐待が行われているのに間違いはない。しかし、だからといって、虐待をしていますねと問い詰めても、それは更なる虐待を招くだけだ。
秋生は発育の遅れが気掛かりで育児指導にきたのだと、電話でした話を繰り返した。裕子から何らかの反応を得るのは難しかった。つけっぱなしのテレビ以上に秋生の話に関心を持とうとはしなかった。ただ相談することなどない、と繰り返すばかりだ。
話をしていると理奈が裕子を迂回《うかい》するようにして秋生に近づいてきた。壁に掴まり、酔っ払っているかのような千鳥足は、三歳児とは思えない。理奈は秋生の隣に腰を降ろした。饐《す》えたような臭いがした。糞尿《ふんによう》の臭いも混ざっている。秋生の表情の変化に気づいたのか、裕子が口を開いた。
――風邪を引いて風呂《ふろ》に入ってないんだ。
名前を呼んでべたつく頭を撫《な》でると、理奈は秋生の腕にしがみついてきた。鼻水と涎《よだれ》で唇の周りがてらてらと光っていた。
今後も育児指導に訪問することを納得させるだけで、その日は終わった。
それから週に一、二回、秋生は担当地区を廻《まわ》るごとに理奈の家を訪問した。そのうちに裕子が子育ての愚痴をこぼすようになってきた。彼女には相談相手がいなかったのだろう。いったん口を開き出すと、秋生が十年来の友人であるかのように様々なことを話すようになった。
裕子は夫の茂と結婚寸前まで別の男とつきあっていた。いわゆる「二股《ふたまた》を掛けていた」わけだ。そのことを茂は知っていた。だから結婚してすぐ生まれた理奈を、その男の子供だと疑った。茂は子育てに一切手を貸さず、子供を無視するようになった。理奈のことで喧嘩《けんか》が絶えなかった。この子さえいなければ、といつしか裕子は思うようになった。
そして、まともな子育てを放棄したのだ。
――やる気がないのよ。
不貞腐《ふてくさ》れたように裕子は言った。ただでさえ子供を育てるのって疲れるんだから、やってられないわよ、と。
愚痴に頷《うなず》き、励まし、指導するところは指導する。時には家事を手伝いもした。裕子が忙しいときには理奈を預かり、近所の神社で遊ばせてやった。幼稚園に入園するときには園長に事情を話しにいった。
虐待は止まなかった。秋生の努力で、少しずつ、少しずつ状況は改善されていたのだが、あまりにもその歩みは遅かった。
児童虐待は家族全体の問題だ。だから裕子に夫と話し合うよう勧めていた。が、それに対する裕子の態度は曖昧《あいまい》だった。何なら話し合いに加わると言った秋生の申し出もすぐに断られた。秋生は茂と一度も会ったことがなかった。裕子が会わせたがらないからだ。その理由は嫉妬《しつと》のように思えた。結婚してから浮気が絶えないという話は聞いていた。あんたみたいな人が好みだから。何かの会話の途中で裕子の言った言葉を秋生は覚えていた。
その茂が暴力事件で逮捕された。些細《ささい》なことから喧嘩《けんか》になって相手に重傷を負わせたのだという。懲役刑が下り、茂は服役することになった。その影響が虐待へと及ぶのではないかと秋生は心配した。しかしそれは杞憂《きゆう》に終わった。それどころか、茂がいなくなってから、事態は急激に進展した。裕子が理奈に手を出すことがなくなった。理奈も幼稚園で普通の子供とそれほど変わらぬように生活できるようになってきた。遊び友達が出来たという話も聞いた。後ひと息、というところだった。
半年前だ。茂が出所してきた。初めは裕子も喜んでいた。だが事件が原因で職を失っていた茂は、子供への疑惑を再び口にするようになった。どうやら裕子に暴力をふるうこともあるらしい。そして再び、裕子は理奈に乱暴するようになった。以前のようにつねる程度のことではない。蒲団《ふとん》叩きで腹や頭を打つ。ベランダに裸で放置する。水風呂につけて蓋《ふた》をする。保健婦ひとりの力ではどうしようもないところまできていた。児相に連絡を入れていたが、今まで児相が具体的に動き出すことはなかった。秋生にしても、このケースは保健婦の権限内で解決できると考えていたのだ。が、今や事態は緊急を要した。児童福祉士、弁護士、心理職員などの専門職を集めてケース会議が開かれた。児童虐待に詳しい弁護士として金城に紹介されたのもこのときだった。
そして児相から秋生に連絡のあったのが一月あまり前のことだ。理奈が救急病院に運ばれたのだという。秋生は病院に駆けつけた。右腕と肋骨《ろつこつ》を骨折していた。レントゲンには骨折の治った箇所が何カ所もあり、腹や陰部に丸い火傷《やけど》の痕《あと》がいくつも残されていた。明らかに火の点《つ》いた煙草を押しつけた痕だ。
担当医師から児相に報告があり、児相が秋生に連絡を入れたのは、入院した翌日のことだった。
病室は酒臭かった。ベッドの横の椅子《いす》でうたた寝をしていた裕子に、秋生は何を話す間もなく追い返された。
奥村によれば、ひとまず緊急保護のために強制的に入院させているという話だった。だがそれも三日後には両親が連れ去るようにして退院させてしまった。
そして結局は弁護士も交えて、最終的な処置をとることが決定した。
親権喪失宣告である。
家裁がこれを決定すれば、両親は保護者としてのあらゆる権利を失うことになる。子供の命がかかっているからこその最終的な判断なのだ。
秋生は裕子のことを考えていた。少しずつ母親としての自覚を取り戻し、理奈が笑い掛けてくれたと喜んでいた裕子のことを。そこに最初に出会ったときの自堕落な面影はなかった。その彼女から子供を奪い取ることが決定しようとしている。たとえ彼女の行為が原因だとしても。それが二年近く続けてきた秋生の努力の結果だった。
相談窓口でぼんやりと考え込んでいた秋生の前に、報告書の束が置かれた。秋生が顔を上げると、デスクの前に係長の中沢が立っていた。秋生は顔を見上げた。皺《しわ》がレースのように縁取った目と目の間に、くっきりと縦の亀裂が出来ている。
「どうしてあなたはいつもこうなの」
呆《あき》れたように中沢は言った。
「何か不備でもありましたか」
なかったはずだが、という顔で中沢を見る。秋生がこの保健所に転勤するのに二カ月遅れて中沢は転勤してきた。それから五年のつきあいだ。係長が眉間《みけん》に皺をよせたぐらいでは動じない。
「誤字ひとつないわ」
「それなら……」
「ミスをしないようにすることと、ミスを絶対に許さないのとは別ものよ」
「また小言ですか」
多少うんざりしていることは事実だが怒っているわけではない。それを知って中沢も忠告よと返す。
「完璧《かんぺき》主義っていうと聞こえがいいけど、何もかも自分でしようとして最後には周りに迷惑をかけるのがこの手の人間だわね」
「迷惑をかけたことはありません」
「誰にも迷惑をかけようとしないことも完璧主義者の条件。だからひとりですべてをやろうとする。その結果は、バン!」
中沢はこめかみの辺りで両手をぱっと開いた。
秋生をじっと見降ろす。秋生も中沢を見つめる。
「性分よねえ、これは」
中沢は吐息とともに吐き出し、話を続けた。
「昔からそうだったものね。でもね、考えてもみてよ。この保健所に保健婦は八人。障害者、高齢者、乳幼児に妊産婦。保健婦が対象とする人間だけでもこの区内にどれだけいると思う。それをすべて完璧に管理することなんてできっこない。保健婦という職業にも、あなたに出来ることにも、限界ってものがあるのよ」
「すべてとは思っていません。でもせめて私に出来る範囲だけでも――」
「すべて、が悪いんじゃあないわ。八人ですべてをやらなければならないのは事実ですからね。私が問題にしているのは、あなたが完璧にしなければならないと思っていること。私たちが相手にしているのは人間よ。商品管理をしてるんじゃあない。人間関係に完璧なんてやりかたがあるかしら。そんなことはどだい無理な話なのよ。どこかで曖昧にだらしなくしておくこと、それが一番大切なの。わかっているとは思うけど、仕事に対してだらしなくとか曖昧とか言っているんじゃないわよ。仕事はしっかりやってもらわなければならない。でもね、すべてがきちんきちんと解決つくわけがないの。だからその結果に対して一つ一つ折り合いをつけていかなきゃならない。わたしたちの仕事ってやつはそういうものなのよ」
中沢は眉間を揉《も》んだ。そこに刻まれた縦皺を押し消そうとするように。
「彼女を児相まで連れ出したのはやりすぎじゃないかしら」
報告書の表紙を人差指でこつこつと叩いた。
「理奈ちゃんの話ですか」
「私には、少なくとも保健婦の仕事からは逸脱していると思える。どちらにしろあなたは理奈ちゃんの面倒を一生見ることは出来ないのよ。それとも理奈ちゃんを養子にでももらうつもり」
「子供を育てるつもりはありません」
真剣な顔で秋生は言った。自分でも意外なほどの大声だった。中沢の奇異な顔に気づき、秋生は慌てて言い直した。
「そんなことが出来ないことはわかっていますし、そこまでするつもりもありません。ですが――」
中沢が言葉を継いだ。
「私の出来る範囲でやれることはやる、でしょ……」
大きな溜《た》め息《いき》。
中沢は結核の予防に東奔西走していた時代から保健婦を続けている。勤続三十年のベテランだ。彼女がここに来てから研修が一挙に倍増した。ここ最近では、高齢化社会に備えての老人介護の問題に絡む研修が多い。最新のフェミニズム事情から老人介護、さらには政治経済の話題に週刊誌の芸能ネタまで、彼女の知識欲は果てることがない。
そんな中沢自身が完璧主義であることは、その仕事振りを見ていればよくわかる。だからこそ自戒の意味を込め、ことあるごとに秋生に説教するのだ。何しろ中沢の座右の銘は『だらしなく』なのだ。
「で、結局理奈ちゃんは児相の一時保護所に預けられたのね」
「ええ、家裁が最終的な審判を下すのは数カ月後になるでしょうから」
「でも一時保護所で預かることが出来るのは、長くても三週間よ。それからは施設に入ることになるの?」
「準備が整い次第、裕子の兄夫婦が引き取るという約束をしています」
裕子とは絶縁状態であった兄は、理奈の虐待を聞きつけて児相にやってきた。彼は事情を聞き、親権喪失宣告の申立人になった。そして理奈の後見人になることも約束したのだ。
「でも、心配なわけでしょ」
ええ、と秋生は頷《うなず》いた。
秋生は裕子の兄という人物に一度も会ったことがなかった。だから不安だった。新しい家庭で、再び虐待が始まらないかと。
被虐待児童はもともと扱いにくい性格の子供が多い。それが虐待の引き金となるからだ。しかも虐待されることで、さらに扱いにくさは増す。彼、あるいは彼女らは決して『愛情に飢えたかわいそうな子供』などというものではない。単なる同情で彼女を引き取っても、戸惑うだけだろう。兄夫婦にしても、その難しさは弁護士や児相の担当者によって聞かされてはいるだろう。しかし現実の難しさは経験しなければわからない。
後見人の問題ばかりではない。不安になる材料を探せば、まだいくらでもあった。しかし少なくとも理奈を両親の虐待から引き離すことは出来たのだ。ひとつの決着を得ることは出来た。普段であれば、この今ひとときの解決にとりあえずの満足を得ていただろう。それが、保健婦や電話相談員を続けていく彼女の糧となっているのだから。しかし今回は、どこか落ち着かない。
「係長、親権喪失宣告をとったのは正しかったんでしょうか」
秋生の問いに答えず、中沢は報告書を手にとった。
強硬な手段はとりたくない。それはこの事件に関わったすべての者が考えていたことだ。
初め、児相は保護者の同意を得て施設入院させることを勧めた。法的にはこのとき保護者の同意を得る必要はない。が、児相が保護者の同意なしに子供を引き取ることはまずない。児相は子供と保護者を引き離した後、その両親に対してもケアを行わなければならない。むやみに保護者との関係を悪化させてはならないのだ。
だが、やはり保護者の同意を得ることは出来なかった。そして状況は緊急を要していた。エスカレートする虐待が死を招くことは、決してまれではない。たとえ命を失うことがなくても、一生を台無しにするような怪我《けが》を負う場合もある。秋生自身も判断の遅れから、一度手痛い思いをしていた。もう二度とそのようなことを経験したくはなかった。
結局はこのような形で親子を引き離すしか方法はなかったのだ。
秋生は己れに言い聞かせる。
もう家裁の手に委ねたのだからと。
中沢がぱらぱらと報告書を捲《めく》りながら言ったことも同じだった。
「ことの正否は結果からしかわからない。なのに結果なんかいつまで待っても出てこない。誰かの一生に関わる問題の正否は、その一生が終わるまではわからないのよ。それなら、とりあえず理奈ちゃんを無事に確保できたことを成功と見るべきね。後は家裁調査官と児相の担当者に任せればいい。保健婦の出来ることなどたかがしれてるのよ」
保健婦は集団健診や家庭訪問によって地域内のすべての乳幼児を観察できる立場にある。児童虐待は家庭という密室の中で行われる。それを早期に発見できる数少ない立場に保健婦はあるわけだ。だが発見してから以降は、児相や福祉事務所、場合によっては警察や家庭裁判所の手に委ねられる。早期発見こそが保健婦の仕事だといってもいいだろう。それは秋生自身もよく知っていることだ。
「釈迦《しやか》に説法、かもね。でもね――」
話を続けようとした中沢が後ろを振り向いた。秋生の視線に気づいたからだ。
中沢の後ろに女が立っていた。切れ長の目が秋生を睨《にら》んでいるようにも見える。
中沢が、続きはまた今度、と手を上げて去っていった。
「来ちゃいました」
女はその怒ったような顔と正反対の甘えるような口調で言った。
「斎藤さん」
丸山はちらりと腕時計を見る。もうすぐ昼休みだった。則子は何度もまばたきして、秋生が話を続けるのを待っていた。
「何かあれから変化があった?」
秋生は聞いてから、しくじったかなと思った。この言い方では、変化がなければ来るな、とも聞こえる。そして則子はそう考えるであろう性格だった。
「ここに来ちゃまずかったですか」
かえって明るい顔で則子は言う。秋生は精一杯の笑みを浮かべた。
「そんなことはないわよ。相談窓口は市民全員に開かれていますから」
則子は弱々しく笑った。少なくとも冗談だと理解は出来たようだ。
「もう少ししたら昼休みなの。斎藤さんも窓口で喋《しやべ》るより外で話をした方がいいでしょ」
則子は子供のようにこくりとうなずいた。
「このビルを出たところに喫茶店があるの。私がいつも利用しているとこなんだけど」
秋生はメモをちぎって簡単な地図を書いた。地図を書くほどの距離はないのだが、こういう親切さに則子が安心することを秋生は知っていた。
「ここなの。すぐわかるわ。十分ほどしたら行くから、待っててくれるかな」
「はい、それじゃあ、先に行っていますから」
本当に来てくれるんですね、と念を押すように秋生を見つめてから、則子は背を向け出ていった。
「へんな男がいるんです」
秋生が席に着くと同時に則子は話しだした。
どこに、いつ、どうして、と矢継ぎ早に質問したくなる気持ちを押さえて秋生は言った。
「何があったの」
則子が答えようとしたときにウエイトレスが注文を聞きに来た。則子は開いた口にオレンジジュースを流し込んだ。
秋生が昼のランチを注文し、ウエイトレスが去っていくと、則子は身を乗り出して小声で言った。
「今時探しても見つからないような古臭い店ですね」
秋生は苦笑しながら答えた。
「でもランチの味はまあまあいけるわよ。斎藤さんはお昼、済ましてきたの」
則子の前にはオレンジジュースしか置かれていなかった。
「あまりお腹はすいていないから。……でも、ここで食べておいた方がいいでしょうか」
「これから何か用事があるの」
「いえ、何も」
「それなら今食べなくても、あとで食事する時間はいくらでもあるわけね」
七年前と何も変わっていなかった。すべてを秋生に委ねている。完全に委ねているわけではない。彼女が望む答え以外の解答をすると、則子はいつまでも悩んでいるのだ。
「そうね。お腹が空いていないのにここで食べることもないわね」
秋生の答えを則子は気に入ったようだ。
「それで、何があったの」
秋生は問いを繰り返した。
「私の家、覚えています? 二階建ての小さな家だし、古い家だからもう随分手狭になっちゃったんですけど、家の前に県道があるでしょ。二車線の道路で、トラックがよく通るから埃《ほこり》っぽくて、洗濯物が汚れてたいへんなの」
「それで」
「ああ、ごめんなさい。よけいなことばっかり喋ってて。それでね、二階のベランダから県道が見えるの。県道を挟んで向こうにコンビニがあってね、それで初めてそれに気がついたのは洗濯物を干していて、そのコンビニを何げなく見たら、コンビニのウインドウ越しに男がこっちを見ていたの」
「いつのこと」
「一週間ほど前です」
則子からの手紙が届いた頃だ。
「それから何度もその男を見たのね」
「そう、いつもコンビニからこっちをのぞいてたんです」
「ベランダの斎藤さんを見てたの?」
「いいえ、あの、家の玄関の辺りを。それでね、幸彦が家から出て行くと、コンビニから出てきて、後をつけるんです」
「毎日?」
「ええと、二回。今まで二回です」
「どんな男だった」
「上から見ているから、そのときはあんまり顔とかわからなかったんです」
「そのときは、って言うことは、その後でも目撃したのね」
「目撃したっていうか、襲われたんです」
意味なく照れくさそうに笑うと、只事《ただごと》でない台詞《せりふ》を言った。
「詳しく話してくれるかな」
「近くの商店街に買い物に行ったんです。トイレットペーパーとティッシュを安売りしてる薬局のチラシが入ってて、それを買いに行こうと思って。それでついでに惣菜屋で自分の昼御飯の唐揚げを買って帰る途中に、こう」
則子は自分の二の腕を反対の手で掴《つか》んだ。
「掴まれちゃって、それでそっちを見たら男がいたんです。何だか汚いお爺《じい》ちゃんって感じの人で、それでぴんときたんです。この男が幸彦の後をつけてた男だって。そしたらその男、怖い顔して、旦那《だんな》に気をつけなさい。でないと、何もかも失うことになる、って。私怖くて怖くて」
そのときのことを思い出したのか、則子は震えていた。本当に恐ろしく感じているのだろうが、秋生にはそれ以上に演技が見えた。秋生の関心を惹《ひ》こうという演技だ。これだけ恐ろしい目にあった私を助けて、という声が聞こえる。
「それで腕を振り切って逃げたんです。そのときティッシュとかトイレットペーパーとか持ってたんですけど、それを振り回して必死になって逃げたんです。後ろからその男が話を聞いてくれとか何とか言ってたけど、もちろんそんなものを聞く気はなかったから、本当に必死になって走って逃げたんです。家に帰って鍵を閉めてカーテンを閉めて、その日は幸彦が帰ってくるまでずっとそうしてたんですよ。なのに帰ってきた幸彦に説明したら、あっそう、ですって。それで怒ってしつこく何度もそのときのことを言ってたら、面倒臭そうに、警察にでも連絡したら、って」
もしかしたら、と秋生は思う。
その『汚いお爺ちゃん』は秋生に会いにきた大学教授、辻村ではないか、と。
辻村は則子に面識がないと言っていた。何か幸彦に関してわかったことがあってそれを則子に伝えようとしたのかもしれない。が、それにしてはいささか乱暴すぎる。話したいことがあるのなら電話をすればいいのだし、直接会わなければならないにしても、電話で都合を聞いて待ち合わすなりなんなりすればいい。買い物の途中で、ということは、後でもつけていたのだろう。そんなことをしていきなり話を聞けと言っても無茶な話だ。
秋生は辻村の人の良さそうな笑顔を思い浮かべた。どう考えてもそのような非常識な行動をする人間には思えなかった。
汚いお爺ちゃん、だけで辻村のことを思い出したのも失礼な話だ、と自身の思い付きに失笑する。
「おかしいですか」
則子は下から覗《のぞ》き込むように秋生の顔を見た。真剣な顔だ。
「ごめんなさい。ちょっと違うことを思い出しちゃって。大丈夫。ちゃんと話を聞いてるわよ。それは、いつの話なの」
「昨日です」
「もっと詳しくその男の人相とか教えてもらえる?」
「ええと、白髪でした。服とか、背広だったんですけど、古くて、何だかよれよれしてて」
辻村と似ている。もちろん断定できるほどの情報ではないのだが。
「誰か心当たりがあるんですか」
辻村のことを告げようかとも思った。が、彼であるのなら何か考えがあってそのようなことをしているのだろう。それなら先に辻村に確認をとるべきだ。
「……ちょっと聞いてみるわ。もし私の知っている人に関係のあることなら連絡先もわかっているし」
「よろしくお願いします」
則子は頭を深々と下げた。
「それで、幸彦さんはその後どうなの」
「酷《ひど》くなってます。どんどん酷く。私と話をすることはまったくといってありません。私が怒って夕食の支度をしていなくても文句も言わないんです。それに、あんなに可愛《かわい》がっていた和馬を、最近ではほとんど無視しています」
「暴力を振るうことは」
「暴力を振るうだけの関心もないみたいなんです」
「和馬君はどうなの」
「寂しそうで……。お父さんは仕事で忙しいからって言い聞かせてはいるんですけど、それももう限界です」
「あなたは?」
えっ、と則子は聞き返した。
「あなたは和馬君に――」
「ああ、前みたいなことは今のところありません。幸彦の態度がおかしくなって、前よりも仲が良くなったかもしれません。おかしな言い方ですけど、共通の話題が出来たっていうか」
夫に頼ることが出来ないので息子に頼り始めた。則子の性格からいうとそうなっているのかもしれない。決して健康的な関係ではないが、今のところ仕方がないと考えるべきだろうか。
「幸彦さんがそうなったきっかけに思い当たることがないかしら」
則子は首を横に振った。
「よく思い出してみて。そうなり始めた頃に幸彦さんに何かなかった?」
則子は飲み干したオレンジジュースのコップをしばらく見つめていた。
「あの、きっかけとかそういうのとは違うと思うんですけど……」
「何でもいいから思いついたことを言ってみて」
「夕食を食べながら、可愛いんだよな、って」
「どういうこと」
「独り言みたいだったんですけど、私もどういうことか聞いたんです」
幸彦も聞いて欲しかったのかもしれない。嬉《うれ》しそうな顔で、内緒と言った。それから、則子が教えて、とねだるのを待っていたかのようにいいものを見つけたんだ、とつけ加えた。
「いいもの?」
「ええ、いつかおまえにも見せてやる。絶対気に入るからって」
「それで見せてもらったの」
「いいえ、その話は結局そのときだけで、私も今まで忘れていました。でも考えてみたらそれからしばらくして幸彦さんの様子がおかしくなってきたんです」
「可愛いんだよな、か」
「ペットか何かだと思ってたんですけど……。あっ」
驚くほど大きな声を上げた。
「どうしたの」
「あのマンションでペットを飼ってるんじゃないですか。私に内緒で」
「ペットねえ……。それを内緒にする意味があるかしら。それにいくらペットが可愛らしかったとしても、妻子をほったらかしにしておくほどのものじゃないでしょ」
「そうですか。……そうですよね。あのときいつか見せてくれるって言ってたんですから、もしそんなことをしていたら教えてくれますよね」
ランチが運ばれてきた。秋生は、御免ね、この時間に食べとかないと時間がないの、と断ってから割り箸《ばし》を手にした。会話はそこで途切れた。ストローを弄《もてあそ》ぶ則子に、秋生は時折いくつかの質問をした。素っ気ない答えばかりが返ってきた。可愛いんだよな、と言った夫のことを考えているのだろう。
皿が空になり、その皿をウエイトレスが運んでいく。と、口の中でぶつぶつと何事か呟《つぶや》いていた則子が急に立ち上がった。
「それじゃあ、私帰ります」
「もう少し待ってよ。コーヒーがついてるの」
我ながらいじましい理由だと秋生は思った。
「いえ、あの、急に気になって。今からもう一度あのマンションに行こうかなって」
「……それなら私も行くわ」
則子の顔が急に明るくなった。
「ほんとですか」
「ひとりでそんなことをやらせるよりは、まだ私が付き添った方がましでしょ。でも、今からは無理。もうすぐ昼休みが終わるし、それから会議があるの。だから、そうねえ。来週の木曜日、一時すぎにまた相談窓口に来てくれる」
「わかりました。そうします。でも……どちらにしてももう戻ります。お腹空かして帰ってくる和馬に、早めに晩ご飯の支度をしたいから。いつもまだかまだかって急《せ》かされるんですよ」
「……そう、それじゃあここで」
ありがとうございましたと、再び深く頭を下げ、則子は出ていった。ほとんど同時にコーヒーが運ばれてきた。
と、則子が座っていた席に男が座った。あまり当たり前のように座ったので、ウエイトレスが注文を聞く。男はコーラと答えて秋生を見ると、にっこりと笑った。
気味が悪くなった秋生がレシートを手に立ち上がろうとすると男は言った。
「丸山秋生さんですよね」
「ええ、そうですけど」
見覚えのない男だった。二十代の半ばほどか。整った顔をしている。好青年といってもいいだろうか。しかし笑みの形を保つ薄い唇が、どこか歪《いびつ》な印象を与える。その歪さも人によっては好ましく思うかもしれない。自信ともなんともつかぬ力強さをそこから感じるからだ。
「保健所の窓口でこちらにいるって聞いたもんですから」
この場所を教えないようにみんなに言っておこう。でなければコーヒー一杯落ち着いて飲むことが出来ない。それから――。
秋生は胸ポケットにつけたままの名札を取り、ポケットの中に入れた。
「どちら様でしょうか」
「岸田茂です」
一瞬どこかで聞いた名前だと思った。すぐに思い出した。
「理奈ちゃんのお父さん」
「そうです。いつも妻がお世話になっています」
妻をあらぬ疑惑で責め、暴力事件を起こし、娘が虐待されるのも黙って見ていた男。そんな印象は欠片《かけら》もない。
「弁護士の方から話はいっていますよね」
「ええ、本当に残念な結果になってしまいました」
「わたしたちもできることならこのような処置はとりたくなかったんですが」
「本当に残念ですよ。裕子が友達が出来たとか何とか言っているときに注意しておいたんですけどね」
「注意、ですか」
「そう。友達だなんて言って取り入って、何を考えてるかわからないぞ、ってね」
話がおかしな方向に進んできた。急に相手が男であることを意識する。まだこの季節には早いかと思えるTシャツにジーンズ姿だった。逞《たくま》しい身体をしている。白い綿のシャツが筋肉の形を顕《あらわ》にしていた。だが決して汗臭さを感じさせる肉体ではない。ジムで鍛えたような清潔な身体だ。
「どういう意味でしょうか」
「そのままの意味ですよ。結局裕子は騙《だま》されて子供を取り上げられちゃった」
「それは誤解です。私たちは騙そうなんて思っていません」
「遊びに出た子供を誘拐するのが、騙してないと言えるのかなあ」
茂は運ばれてきたコーラを一息で飲み干した。それから喉《のど》が裂けるような大きなおくびをする。
「ねえ、丸山さん。あんたは酷《ひど》いことをしたよね。親から大事な子供を取り上げたんだから。もういいでしょう。あんたもこれで気がすんだでしょ。子供を返してくれないかな」
「それは私の一存で出来ることではありません。それに、いきなりこんな処置に出たわけではない。これまでにも何度も連絡しようとしたし、入院という事態に至ったのは――」
「俺《おれ》たち夫婦が悪いっていいたいわけ」
茂は身体を前に乗り出した。秋生が思わず身を引く。
あくまで優しく、茂は言った。
「ねえ、丸山さん。娘は親の物だ。親が何をしようと勝手だよね。あれは躾《しつ》けですよ。俺たちは厳しく理奈を育ててるんだから。あんただってご両親に躾けてもらったでしょ」
「子供は親の所有物ではありません。それに暴力は躾けではありません」
秋生は茂を睨んだ。
「俺は強気の女が好きなんだ。強気の女に突っ込むのがね」
男の身体から、暴力の気配が滲《にじ》んだ。相変わらず笑みを浮かべているのが薄気味悪い。
秋生はコーヒーカップを手にした。いざとなれば中身を茂の顔にぶちまけるつもりだった。運ばれてきたばかりの熱いコーヒーだ。水脹《みずぶく》れが出来るほどの火傷《やけど》になるのは、秋生もその手で実証済みだ。
「甘く見るなよ」
低く、まるで恋人にでも囁《ささや》くように茂は言った。
「あんたは俺たちから子供を盗んだ。それなりの覚悟はしてもらわなくちゃね」
丸山さん、と呼ぶ声がした。
見ると茂の後ろに中沢が立っていた。
「係長……」
茂が振り向く。
背筋を伸ばしたいつもの歩き方で、中沢はまっすぐ秋生の前に来た。
「探したんですよ。北川さんが窓口で待ってます。あなたに話があるって」
それだけ言うと初めて気づいたかのように茂を見降ろした。
「この方が理奈ちゃんのお父さんです」
秋生が紹介すると、茂は軽く頭を下げた。
「はじめまして。係長の中沢です。丸山に何か」
茂は、いえ、と言いながら立ち上がった。暴力の気配は影もない。小銭をテーブルの上に置いた。
「それじゃあ、よろしくお願いしますよ、丸山さん」
微笑《ほほえ》みかけて茂は去っていった。その後に中沢が腰を降ろす。秋生が立ち上がろうとすると、手でそれを止めた。
「コーヒー」
「えっ、あっ、はい」
右手にまだコーヒーカップを持っていることに気がついた。その手が細かく震えている。こぼれた雫《しずく》が皿に茶色く溜《た》まっていた。自分ではしっかりしているつもりだったが、身体がそれを裏切っていた。茂はそれに気づいていただろう。気づいて笑っていただろう。そう考えると改めて腹が立ってきた。
「せめてそれだけでも飲んでいったら」
「でも北川さんが」
「嘘《うそ》に決まってるじゃない」
「それじゃあ……」
「理奈ちゃんのお父さんにあなたがここにいるって教えたって、久保さんから聞いたの。だからすぐに来たのよ。裁判|沙汰《ざた》になった事件の父親が来たなら、何か文句を言いに来たに違いないと思ってね。いずれにしろ何かトラブルだったんでしょ」
「脅されました」
コーヒーを一口飲む。喉がカラカラだったことを知り、そのまま飲み干した。
はあ、と息をついて話を続ける。
「娘を返せって。我々が騙して誘拐したって」
「あなたが理奈ちゃんを児相に連れていったことを知ってたの?」
「それは知らないと思います。でも、私がずっと理奈ちゃんと関わっていたことは知っていますから」
「弁護士や家裁調査官に話をするより、女を脅す方が簡単だと考えたのね」
「あんなお父さんだとは思いませんでした」
「虐待される娘を放置しておいた父親が紳士だとでも思ったの」
「そうじゃあないですけど……」
「でも、ちょっと奇妙ではあるわね」
「何がですか」
「放置するタイプの父親なら、親権が剥奪《はくだつ》されたことをかえって喜ぶはずよ。厄介払いが出来たって。まあ、人に何かを強制されると反射的に腹が立つ人間もいるけど」
「私は……ちょっとだけ安心したんですよ。ちょっとだけですけど」
「安心って?」
「まったく娘に無関心な父親じゃあなかったから。娘が奪われるのに、少なくとも怒りは感じたんだから。シンデレラの話にまったく父親が出てこないでしょ。あれを昔から不思議に思ってたんです。どうして娘が苛《いじ》められているのに助けてあげないのかって」
「あなたは……ロマンチストね」
中沢は複雑な表情でそう言った。
「理奈ちゃんにいずれ王子様が現れてハッピーエンド、と思ってるわけじゃあないですけど」
「問題は王子様が現れてからよ。私たちのところに相談に来る母親たちは、みんな王子様と出会ってからトラブルを起こしているのよ。めでたしめでたしの後に始まるのが本物の生活よ。さあ、そろそろ行きましょう。昼休みももう終わりだわ。午後から会議だったでしょ」
立ち上がった中沢に、秋生はありがとうございましたと頭を下げた。背中を向けたまま、わかったと片手を上げると、そのまま中沢は外に出ていった。
秋生はレシートを掴み、慌てて後を追った。
いまだに震えが止まっていなかった。
ちょっと笑顔で働いていただけで再婚の噂《うわさ》を流されちゃあ堪《たま》らないわ。中沢はそうこぼすのだが、そのときにも笑みは絶えない。それがまた噂を呼び、相手は年下の男だの資産家だのと喧《やかま》しい。どれもさしたる根拠はない。ただの噂だ。
しかし職員たちがそう勘ぐるのも無理はない。決して愛想のいい人間とは言えなかった中沢が、ここ数日いつも笑顔を浮かべている。秋生を茂から救った、あの翌日から急にだ。しかも最近は終業時間とともに帰り支度を始める。最後のひとりが帰るまでずっと残って仕事をしていた中沢が、である。何かあるのではないかと思う方が普通だろう。
そのうち不注意からくる細かなミスが目立ち始めた。そして昨日のことだ。午後からの会議に中沢が現れなかった。会議終了間際、外出先から電話連絡があった。会議のことをまったく忘れていたのだという。かつての中沢では考えられないようなミスだった。しかし秋生が何より驚いたのは、中沢がそのミスをあまり気にしていないように見えるところだった。
今日は月二回ある健康相談の日だ。午前九時半開始のこれのために、職員は早朝から準備に忙しい。秋生は、いまだ到着しない医師のところに電話をかけていた。職員の誰もが慌ただしく走り回っている。秋生の隣でぼんやりと床を眺めている中沢をのぞいては。
秋生は再婚の噂をあまり信じていなかった。恋人が出来たぐらいで、中沢がここまで仕事をおろそかにするとは思えない。心奪われそうな私的な出来事が起こったら、かえって今まで以上に仕事に熱中しようとするのが中沢という人間だと思っていた。同僚にそう話すと、鼻で笑われた。その同僚は、恋愛は人を変えるのよとしかつめらしい顔で言った。中沢に限ってそんなことはない。秋生はそう思っていたのだが、周りの慌ただしさなど眼中になく床を見て思いだし笑いをしている中沢の顔を見ていると、同僚の話が正しいような気もしてくる。
何かひとつ行事の入った日がいつもそうであるように、あっと言う間に半日が過ぎた。今日は昼食抜きになるかもしれないと会議室で次の訪問先の資料を見ていると、名前を呼ばれた。相談窓口に訪ねてきた人がいるという。それで初めて則子との約束を思い出した。慌てて窓口に行ってみると、則子は微《かす》かに笑みを浮かべて秋生に会釈した。
忘れられたんじゃないかと思いました、と半分冗談で探りを入れる則子に、忘れるわけがないと嘘をついた。
外出を告げて外に出ると、雲が黒い腹を引きずるように空を流れていく。秋生が空を見上げていると、則子がすまなさそうに、天気予報では午後から晴れると言ってたんですけど、と呟いた。
無彩色の街だ。昔からこの辺りは紙の問屋が多かった。そのためか印刷屋、写植屋などが軒を連ねる。近頃ではコンピュータの出力センターも見かけるが、街の雰囲気は昔からあまり変わらない。色のない、埃《ほこり》のにおいがする街だ。
街中を歩いていると、秋生はいつも昔のニュースフィルムを思い出す。高度成長期を迎える直前のモノクロの風景。人々の些細《ささい》な欲望や希望や活気までもが黴《かび》臭いにおいの中に埋もれ過去のものと化した映像。
曇天の薄闇《うすやみ》に、JRの駅がくすんで見えた。湿った大気にわずかばかりの糞尿《ふんによう》の臭いが混ざっている。
駅から幸彦が借りているというマンションまで十分足らずだった。
駅から出ると嘘のように良い天気だ。良かった。眩《まぶ》しそうに目を細め、則子が言った。それから秋生の手を引くように後ろ手で手招きし、早く早くと小走りにマンションへと向かった。
パチンコ屋とカラオケに占領されつつある表通りを裏道に折れると、急に太陽が陰ったかのように薄暗くなる。
バブルがまたいで通っていったのか、木造モルタルのアパートが多い。
煉瓦《れんが》に似せて造られた悪趣味な外壁のそのマンションは、かなり古いもののようだった。しかしこの辺りではまだましな部類だった。少なくともマンションと呼べる程度には。今時かえって珍しい、オートロックでない玄関から建物に入る。ボタンを押すとエレベーターがしゅるしゅると音をたてて降りてきた。小さな箱の中は、乾いた汗のようなにおいが微かにした。則子は身体を堅くしてうつむいている。その緊張が秋生に伝わってくる。二人とも黙ったまま、四階に着いた。
扉が開く。リノリウムの床はそこかしこが剥《は》がれ、正体不明の黒いシミがあちこちにこびりついていた。目当ての部屋は四〇四号室。表札には何も書かれていなかった。
合い鍵を取り出すと、則子は後ろを振り向いた。共犯者を見る目だった。少しばかり秋生はついてきたことを後悔した。見ず知らずの人の家というわけではないが、忍び入ることに変わりはない。
「あの……、開けてもらえませんか」
鍵を持った手を秋生に差し出した。
「怖いんです」
目を逸《そ》らし、鍵を握った拳《こぶし》を前に出したままだ。仕方なく秋生はそれを受け取った。鍵は冷たい汗で濡《ぬ》れていた。
大きく息を吸い、溜《た》め息《いき》のように吐き出してから鍵穴に鍵を差し入れた。鍵を回すとき少し抵抗があった。合い鍵の出来が悪かったのだろうが、秋生には中に入るのをやめろと警告しているように思えた。
重いスチールの扉を引くと、陰気な音をたてた。
扉を半ばまで開いて身体が強《こわ》ばる。
往来を走る車の音を背景に、音楽が聞こえたのだ。古臭いテレビゲームで使われていたような電子音だ。聞き覚えのある曲だった。昔家族三人でディズニーランドに行ったとき、キャラクター人形がついた歯固めを買った。それの小さなボタンを押すと、この曲が流れた。確か曲名は『イッツ・ア・スモールワールド』。小さな人形たちがこの曲に合わせて踊るアトラクションがあった。
誰かいるのか。
秋生は中を覗《のぞ》き込んだ。
二DKのこの古いマンションの部屋が、幸彦の小遣いで借りられる限界だったのだろうか。
玄関を入ってすぐがキッチン。その向こうに六畳ほどの部屋が二つつながっている。行き止まりは大きな窓だ。カーテンが閉まっていたが、昼の陽光はゆるゆると部屋を照らしていた。
誰もいない。隠れるような場所もなさそうだ。
陽気なその曲が、帰れと告げているかのように聞こえている。後ろ脚で立ち上がり牙《きば》を剥《む》き出してきいきいと泣き叫ぶネズミの威嚇する姿。秋生は曲を奏でる甲高い電子音からそんな映像を思い描いた。
中に入りたくなかった。
暗く狭い穴に入り込むような、生理的な不快感があった。
出来るならこのまま扉を閉めて引き返したかった。
則子の怯えが伝染《うつ》っているのだ。そう思い、ことさらに軽い調子で言った。
「目覚ましかしら」
声が震えていた。まずいなと思って則子を見ると、顔に血の気がなかった。身体が小刻みに震えている。
音が止まった。
「狭い部屋ね。ワンルームに住んでいる私に、あまり人のことは言えないけど」
どうでもいいことを喋《しやべ》りながらパンプスを脱ぐ。それが裸同然の無防備な姿になるような気がして嫌だった。則子も同じ思いなのか玄関で立ち竦《すく》んでいる。
さあ、と則子を促しながらキッチンに入る。塩化ビニールの床はねっとりと冷たい。
まるで私設の保育園の遊戯室の中のようだった。そこら中に毒々しい原色の玩具《おもちや》とスナックの残骸《ざんがい》が散らばっている。
においがした。甘ったるい、鼻の奥に引っかかるような異臭だ。基本的に嫌なにおいなのだが、どこか心地好くもある。何で読んだのか、薄めた大便の臭いを芳香と感じる、というエピソードを思い浮かべた。
台所の隅に砂箱が置いてあった。敷き詰められた砂の上には南天の実に似た黒い糞《ふん》が、ぽろぽろと落ちていた。やはりペットを飼っていたのか。そう思い則子を見た。まだ玄関に棒立ちのままだ。情けなさそうな顔をしていた。親とはぐれた子供の顔だ。
「これ、前来たときもあったの?」
言いながら手招きした。決心がついたのか、則子は靴を脱いで中に入ってきた。
砂箱を見て首をひねる。
「さあ、なかったと思うんですけど、前のときは、今よりもっと、その興奮してたんで、あまりよく覚えていないんですけど……」
秋生は砂箱に近づいた。どうやら異臭はこの砂箱からするようだ。
「変なにおいね」
秋生が言う。則子は無言でうなずいた。快とも不快ともつかぬにおいだ。強いて言うならどこか懐かしい。
においに集中していると、突然|眩暈《めまい》に似た感覚に襲われた。動悸《どうき》が早まっているのがわかる。心臓がきゅっと縮まるように感じるが、不思議なことにこれも不快ではない。ただ故のない不安感だけが増していく。
則子も同じ感覚に襲われたのか、砂箱から離れると秋生の腕を掴《つか》んだ。
「何だか嫌な感じがするね」
しがみつく則子を見て、言った。
秋生が怖いと言わないのは、そう口に出すと恐怖が倍増しそうだからだ。出来るならこのまま部屋を出たかった。それでも先頭に立って次の部屋に向かっていったのは、頼られてしまうと、頼りがいのある人物を演じてしまう性格からだ。
不意に首筋の辺りがひんやりとしたように感じた。冷たい舌で舐《な》められたかのように。
ひい、と思わず声が出る。
たちまち鳥肌が立った。
則子と顔を見合わせた。彼女も同じ感触を味わったようだ。
「誰かが」
見ている、と言いたいのを呑《の》み込んで、秋生は周囲を見回した。
「前もこうだったんです」
震える声で則子は言った。
「前もこんな感じがして……」
則子は抱き締めた秋生の腕に胸を押しつけている。まるで恋人とおばけ屋敷に来た少女だ。
「落ち着いてね」
則子に、というよりは自分に言い聞かせる。震えているのは則子だけではないのだ。
床に転がった玩具を見回した。ディズニーのキャラクターの入った玩具を探す。
すぐに見つかった。秋生はプラスチック製の携帯電話を拾い上げた。本物ではない。ミッキーマウスが印刷された単なる玩具だ。秋生はそれの赤いボタンを押した。部屋に入ったときに聞こえていた曲が流れてきた。
「やっぱり」
秋生が言う。
「さっきの曲はきっとこれね」
ひとつの怪異が解決したかのような顔で次の部屋に進もうとする秋生を、則子は引き止めた。
「誰が……鳴らしたの」
「接触がおかしいとよくあるわよ。経験ない? 子供の玩具って音が鳴る物がよくあるでしょ。それがひとりでに鳴り出してびっくりすること、よくあるのよ。これもそうよ」
自分でも信じられない話がすらすらと口から出てくる。
と、則子が人差指を唇に当てた。
それに合わせたかのように曲が止まる。
車の音も途絶えていた。
静寂が重いほどにのしかかってくる。
我慢できず、秋生はどうしたの、と問いかけた。
「音がしたの」
今にも泣き出しそうだった。しかしこの則子の動揺が、今は秋生の支えとなっていた。則子が怯えれば怯えるほど、秋生はしっかりしなければと思う。則子がいなければ、秋生はさっさとマンションを飛び出していただろう。
「何の音がしたの」
則子は答えない。が、秋生が次の部屋に行こうとすると、ぼそりと呟《つぶや》いた。
「……笑い声」
「私には聞こえなかったわ」
わざとらしい素っ気のなさで秋生は言った。引き止める則子を引きずるように奥へと進む。閉め切ってあったカーテンを開いた。白々しいほどの明るさが部屋に満ちる。初夏とも言える陽気に、部屋の中は暑いほどだ。
なのに寒気がする。風邪のひきはじめのような悪寒があった。
濡《ぬ》れたシャツを着ているような、不快な冷気に包まれている。
則子の胸に押しつけられた腕から、彼女の鼓動を感じた。それ以上に自らの鼓動を感じる。
彼女が何を怯えているのか、秋生は知っていた。
視線だ。刺すような視線を感じているのだ。今秋生がそうであるように。
どこかで誰かが見ている。
ゆっくりと部屋の中を見回した。狭い部屋だ。家具は何もない。あるのはただ玩具ばかりだ。
押し入れで目が止まった。
襖《ふすま》がわずかばかり開いているように見えたからだ。
しかし今襖は堅く閉じている。錯覚だったのだろう。そう思おうとしたが、目は押し入れから離れない。身体も動かない。
目を離せばそこから何かが飛び出してきそうな気がした。
じっと押し入れを見つめ、それに近づいた。
さして距離があるわけでもない。三歩歩けば押し入れの前だ。
開けてはならないのだ。
心の内で響くその声はことのほか大きかった。背中に貼《は》りついた怯えが、濡れた触手を首筋へと伸ばす。
開けてはならない。それを決して開けてはならない。
思いながら手は押し入れへと伸びた。
恐怖が延髄の辺りを中心に放射状にちりちりと広がっていく。
ドッ
ドッ
ドッ
脈打つ心臓が警告のドラムと化して逃走を促す。
汗ばむ指先を襖にかけた。
逃げろ、と全身が告げていた。
開けるな。
開けるな。
開けるな。
金縛りにあったように身体が動かない。
先端恐怖症の患者はただ尖ったものを恐れるのではない。尖《とが》ったものを我が身に突き刺したい欲望に怯えるのだ。
指先に力がこもった。
そして、一気に襖を開いた。
一瞬のことだった。
指があった。
ぷっくりと太った、柔らかそうな幼児の小さな小さな指。
天井の合板にあるわずかな隙間、その暗い亀裂から、小さな指が二本突き出ていた。
次の瞬間、それはすっと天井裏の闇《やみ》の中に消えた。消えた後では、見たことが信じられないようなわずかな時間だった。
そして声がした。
笑い声だった。
ただひたすら楽しくて楽しくて仕方ない幼児の可愛らしい笑い声。
小さな声だったが、秋生はそれをはっきりと聞いた。
意識が明滅するのを感じた。
たしかに悲鳴を上げていたはずだが記憶はない。気がつけばマンションを飛び出て走っていた。則子のことなど考える余裕はなかった。
裸足《はだし》であることを知ったのは駅の券売機の前だ。気づいてからも、どうすればいいのか思いつかなかった。頭の芯《しん》がくさびでも打ち込まれているかのように痛んだ。時折心臓がことん、と空回りする。
恐ろしかった。恐ろしさに強ばった身体を溶かすのに、春の陽射しは無力だった。手足は凍《こご》え、感覚を失っているようだった。
髪を乱し蒼褪《あおざ》めた顔で、しかも裸足だったが、駅前の商店街で靴を買ったとき恥ずかしさは微塵《みじん》も感じなかった。ただ恐怖だけが溶けぬ氷のように胸の中に居すわっていた。
何よりも恐ろしかったのは、あの笑い声だった。今はいない息子に何度か感じたあの感覚。抱き締めても抱き締めても至らぬ想いに、切なくなるほどのいとおしさ。それと同じものを、あの笑い声に感じたのだ。それは圧倒的とも思える『力』だった。すべてを捨てて愛し、守らねばならないという想いを駆り立てる『力』。その力にこそ、秋生は怯えたのだった。
昼休みが終わって戻ってきた秋生に、同僚の誰もが早退をすすめた。血の気の引いた顔。おとなしいグレーのスーツにどう考えてもそぐわない原色のスニーカー。それに何より身体の震えが止まらないのだ。
家庭訪問すれば様々なことがある。育児相談に行った先で全身に入れ墨をした半裸の父親に出迎えられる。薬物中毒の母親が包丁を振り回す。留守宅を守る居候に強姦《ごうかん》されかかったこともあった。
十年も勤めればそれなりの修羅場《しゆらば》をくぐってきている。その秋生が椅子に腰を降ろしたまま放心しているのだ。どれだけ鈍感なものであっても、家に帰ることをすすめるだろう。
しかし秋生は仕事を続けた。家に帰ってひとりになる方が怖かったのだ。ルーチンの仕事をこなしているうちに、いくらかは平常心が戻ってきた。真っ先にしたのは則子の自宅に電話をかけることだった。
不在だった。
不安ではあったが、警察に届けようという気はなかった。何をどう話していいのか見当がつかなかったからだ。もし筋道立てて話をしたところで、警察は動かないだろう。何しろ秋生自身、何があったのか理解できていなかったのだから。
入ったときに曲がかかっていたのは玩具の接触不良。砂箱は何かのペットのもの。あの場にいなかったのは、幸彦が会社に連れていったか、死んでしまったから。ずっと感じていた恐怖は、則子の怯えが伝染《うつ》っていたから。押し入れの中の指は、恐怖の見させた幻覚。
秋生は必死になって自分を納得させる話を考えた。何度もそれを頭の中で繰り返し、いくらかは落ち着いた。だが恐怖が完全に消えたわけではなかった。終業時間と同時に帰ろうとする中沢を飲みに誘ったのは、まだひとりになるのが怖かったからだ。
中沢は一瞬迷惑な顔をしたが、それでも誘いには応じた。
職場から一駅ほど離れたところに、こぢんまりした商店街がある。そこに全国にチェーン店のある居酒屋があった。以前何度か忘年会で使ったその店に二人は入った。少々時間が早いせいか、店内は空いていた。四人掛けの椅子に向かい合って腰を降ろす。注文をしてから、中沢はあまり喋ろうとはしなかった。
最近の仕事の段取りなどを秋生が説明していたときだった。
唐突に中沢が聞いてきた。
「天使っていると思う?」
質問の真意がわからず、秋生はどういうことかと聞き返した。
「だから、あなたが天使の存在を信じるかって聞いているの」
「それはどういう意味ですか。比喩《ひゆ》としての天使のことを言っているんですか」
中沢は仕事中も終始浮かべたままの笑顔で言った。
「昔ね、今から二十年近く前になるけど、私の家の隣にフランス料理の店があった。フランスの田舎の家庭料理を食べさせる小さな店。経営者はフランス人の男性で、日本人の綺麗《きれい》な奥さんと二人でその店を切り盛りしていたの。そこの子供がね、女の子なんだけど、ものすごく可愛いのよ。二歳か三歳でしょうね、金髪で青い目で。それはもう信じられないくらい可愛くて、最初見たとき涙が出そうなほど可愛らしかった。ああいうのを天使のような子供っていうんだと思ってたわ。でもね……」
中沢は秘密めかして秋生に顔を近づける。
「でも違うってことがわかったの。確かにあの子は天使のようだった。けどわかった。あれは天使のようだったけれど天使じゃあない」
「何だか本当の天使を見たみたいですね」
笑いながら秋生が言うと、中沢は真剣な顔で答えた。
「いるかもしれない。少なくとも私はそう思ってる」
会話らしい会話をしたのはそれが最後だった。気まずい沈黙を箸《はし》を動かすことでごまかしたため、食事はあっと言う間に終わった。二人は店を出るとすぐに別れ、それぞれに帰路についた。恐怖は風邪の気配のように身体の中に居残っていた。熱と頭痛と悪寒となっていつ飛び出してやろうかと、それはじっと待っているのだ。電車を乗り継ぎ家に近づくと、ますます闇は色を濃くする。木造の一戸建てが並ぶ古い街並みだ。街灯だけがぽつぽつと寂しそうに並んでいる以外、明かりはほとんどない。『ひったくり、痴漢に注意』と書かれた看板が赤く錆《さ》びついていた。それが飛び散った血のように見える。
少しずつ脚が早まっていく。自分の荒い息遣いが人のもののように聞こえた。
マンションの明かりが見える頃には走り出していた。走りながら鍵を取り出し、鉄の非常階段を音を響かせながら駆け昇る。
部屋は三階だ。息を切らしてようやく扉のまえにたどり着いた。がちゃがちゃと鍵束を鳴らして扉を開く。中に入って扉を閉めると即座に鍵をかけた。
廊下の明かりをつけてほっと息をつく。
秋生はすぐに則子の家に電話をかけた。則子はすぐに電話に出た。幸彦がすぐ横にいるらしく、彼女は曖昧《あいまい》な返事を返すだけだった。それでも無事を確認できたことに秋生は安堵《あんど》した。駅前の一杯飲み屋を兼ねた酒屋で缶ビールを買っていた。さして酒に強くない秋生は、それでほろ酔いを泥酔に変えてようやく眠りに就いた。
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2、母子像
寝ずに泣く子は 貝殻《きやんから》船に乗せて
沖に流して 鱶《ふか》の餌《えさ》ど
[#地付き]熊本の子守唄
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すべてがうまくいくような気がする、何かが始まろうとする。そんな春先の午後に、追い込まれた人間は自殺する。世界に拒絶されたような気がするからだ。秋生がそうだった。
大輝が誕生したのは結婚して一年目だった。秋生にとって初めての子育ては戸惑うことばかりだった。授乳もおむつ換えも、どうやって風呂《ふろ》に入れればいいのか、どうやってあやせばいいのか、どうやって寝かせればいいのか。何もかもが不安の種となった。しかも大輝は手のかかる子供だった。乳を飲まない。飲んだかと思うとすぐ吐く。なかなか眠らず、抱いていなければ寝ない。二時間も三時間も抱き続けて、ようやく寝入り、横にするとまた目が覚める。そして起きている間は泣き続けている。
秋生は己れにとって理想的な自分をいつも演じ続けていた。物心ついたときから良い娘であり、良い子供であり、良い生徒であろうとした。頭も良く要領のいい彼女はすべてをそつなくこなすことが出来た。彼女はずっと理想的な己れであり続けたのだ。看護学校を優秀な成績で卒業した。夫の要望どおり、看護婦になることをあきらめた。結婚してからも良い妻であり、良い嫁であろうと努めた。
子育ては秋生ひとりの仕事だった。義父母とは別居で、実家に頼るつもりはなかった。乳をやり、おむつを取り換え、洗濯し、抱き上げ、あやし、寝かしつけ、起きれば乳をやる。その合間に買い物に行き、部屋を片づけ、料理を作る。毎日がその連続だ。良い母親である彼女はそれを完璧《かんぺき》にこなし、良い妻であるために掃除も食事も手を抜かなかった。ようやく寝かしつけた頃やってきて、大輝を起こしあやそうとする義父母にも笑みを絶やさなかった。何しろ彼女は良い嫁なのだから。そしてたまに実家から電話があると、彼女は両親に己れの素晴らしい新婚生活を語った。秋生の睡眠と食事の時間ばかりが削られていった。子育てとはこのようなものだと彼女は思っていた。誰もがこれをやっているのだ。己れにできないはずがないと。彼女は努力家であり我慢強かった。彼女の持つすべての美徳が、彼女を終末へと向けて追い込んでいった。
五カ月を過ぎた頃だった。
春先の穏やかな午後。
秋生は息子を抱きかかえあやしていた。『おかあさんといっしょ』で覚えた唄を大声で歌っている。そうしていないと眠ってしまいそうだった。昨夜はぐずって眠らない大輝を徹夜であやしていた。眠るかと思えば、肺を搾《しぼ》るように激しく泣く。そして延々と泣き続けたあげく、いつの間にか寝息をたてている。ところがそのまま横にすると再び泣き始める。その繰り返しだった。
深夜、眠っていると思った夫が、秋生に背を向け枕《まくら》で耳をふさいだ。すみませんと頭を下げ、秋生は寝室を出た。ベランダに出てあやし続ける。明け方ようやく眠ったのだが、それもベッドに横にして三十分と経たぬ内に起きて泣き出した。
大輝を負《おぶ》い朝食を作る。夫がそれを食べている間、洗濯をした。泣き続ける大輝が食事の邪魔になるであろうと思ったからだ。さすがに笑顔で見送りとはいかないが、それでも疲れを隠して夫を送り出した。
大輝は泣き続けていた。乳をやってもおむつを換えても泣き止まなかった。キッチンに汚れた食器が置いたままになっていた。いつもの秋生では考えられないことだった。疲れていた。気力の代わりに野菜くずでも詰め込まれているかのようだった。心底疲れ果てていたが、それでも身体を自動機械のように上下に揺らし、唄を歌い続けていた。
人は、子供の成長が楽しみだから子育ての苦労も忘れることが出来る、という。が子育てに疲れ、息詰まり、追い詰められた者にとって、成長という報酬はあまりにも遠い未来の話に思える。今、この瞬間に押し潰《つぶ》されてしまいそうなのだ。今と大差ないであろう明日より先のことを考える余裕などなくしている。
顔を真っ赤にし、ひときわ大きく泣くと、大輝は身をよじりのけぞった。両腕は痺《しび》れ、二の腕が針を刺したようにちくちくと痛んでいた。肩が抜けそうだった。
我慢できなかった。
叩《たた》きつけるように大輝をベビーベッドに置いた。こんなにしているのになぜ泣き止まないのかと思った。初めて我が子に対して腹が立った。いや、本当はその前から腹が立っていたのだ。だが良き母親像に縛られ、腹が立っていることを否定し続けていた。それも限界だった。
「ずっと泣いてなさい」
怒鳴りつけ、息子をそのままにベッドを離れた。泣き声から逃れ、トイレに駆け込みドアを閉めた。それでも泣き声は聞こえる。便器に座り込み両手で耳を塞《ふさ》いだ。それから何度も水を流した。泣き声は聞こえていた。大声で唄を歌った。途中でそれが子供をあやしていた曲と同じだったことに気がついた。ひどく惨めな気持ちになった。涙が流れた。同時にこんな気持ちにさせた大輝に対し腹がたって仕方なかった。堅く縮まった胃の底に、黒く憎悪がたまっていく。
秋生は乱暴にドアを開き、ベビーベッドへと向かった。大輝は両手を握り締め、顔を歪《ゆが》めて泣き叫んでいた。その声が秋生には聞こえていなかった。
なんて子だ。
秋生は思った。その瞬間、大輝が醜く騒々しい獣に見えた。
ベビーベッドは東向きの大きな窓がある子供部屋におかれていた。この家で最も心地好く過ごせる場所だった。カーテンが開け放たれ、誰をもまどろみに誘う春先の陽光が降り注いでいた。
この辺りは昔からの住宅街だ。この時間なら、夫と子供を送り出し、家に残された主婦が家事にいそしんでいる頃だろう。外を出歩く者の姿もない。
静かだった。
私ひとりだ。私ひとりがトイレに閉じこもり下らない子供の唄を大声で歌っていたのだ。歌いながら泣いていたのだ。
身体が冷えていく。血の代わりに心臓が冷水を送り込んでいる。指先がかじかむほどに冷たい。
終わったのだ。これで何もかも終わったのだ。そう思いながら凍える手を大輝の顔に乗せた。その小さな顔は燃えるように熱かった。掌でぐにゃりと鼻と唇が潰《つぶ》れる。
奇妙な冷静さで、秋生はそれから後の段取りを順を追って考えていた。
ここが終わったら、まず洗面所へ行き夫の剃刀《かみそり》を取り出す。それから浴槽に三七度に設定した湯を張る。ただ手首を裂いただけでは血が固まって止まってしまう。そうしないためには温かい湯に傷口を浸しておけばよい。どこかでそう聞いていたからだ。
大丈夫よ。お母さんもついていくから。
掌の下で子供がもがいていた。
秋生が運命というものを信じるようになったのは、このとき電話の音が聞こえたからだ。泣き喚く息子の声さえ聞こえなくなっていたのに、居間で鳴るベルの音が直接脳に突き立つようにはっきりと聞こえた。それの意味することがゆるゆると秋生の頭の中に浮かんでくる。
電話だわ。
秋生はひとりそう呟《つぶや》き、大輝の顔から手を放した。身体から少し離れたところで自分自身を見ているような非現実感があった。歩いているという意識がなく、滑るように居間へと向かっている己れを感じる。
受話器を手にした。
――保健所の者ですが。
はあ、と秋生は気のない返事をした。
――以前お話ししていたと思いますが、五カ月の検診に家庭訪問していまして、今からそちらの方にお伺いしてもよろしいでしょうか。
『保健所』『検診』『五カ月』『伺う』。それぞれの単語がばらばらに秋生の頭の中でしばらくさまよっていた。断片が意味を成す組み合わせを見つけるのにしばらく時間がかかった。その意味がおぼろげに理解できたとき秋生が考えたのは、来客までに台所を片づけなければということだった。
ドアホンがなったとき、大輝はすやすやと眠っていた。台所は片づけ終わっていた。スチールの扉を開いて保健婦を招き入れる。笑顔さえ浮かべていた。保健婦と聞いて、秋生は何となく「おばさん」をイメージしていたが、やってきた女は秋生と歳《とし》が変わらないように見えた。女の屈託のない笑顔に、秋生は意地悪な気分になった。この世に絶望というものが存在することを教えてやりたくなった。世間話をしながらベビーベッドへ向かう女に、秋生は今この子を殺そうとしていたところだと告げた。殺すという言葉は、その女よりも秋生自身に響いた。
ソウダ、今私ハ大輝ヲ殺ソウトシタンダ。
えっ、と聞き返す女の顔を見た。きょとんとした顔で女は秋生を見ていた。
今殺すところだったの。
再び口を開くと言葉が洪水のように吹き出してきた。
もう嫌だったの。何もかも嫌よ。どうしていつまでこの子は泣いているの。何で嫌がらせみたいにいつもいつも泣き喚いているの。もううんざりよ。こんなにいいお母さんなのに。こんなに一所懸命しているのに。和典も和典よ。手伝ってくれとは言わないから、もう少し大輝のことを考えてよ。どうして何もわかってくれないの。私が大変なことにどうして気づかないの。あの日だってそうよ。四十度の熱が出ていたのよ。和典は医者なのよ。なのにどうして休日診療所へ行けって言うの。どうせ風邪か突発だ、心配ないって言われて、それで私が安心するとでも思ったの。解熱剤のある場所を教えてもらったって怖くて使えないわよ。結局風邪だったけど、熱が下がるまで和典は来なかった。どれだけ私が不安だったかわかるかしら。
誰に話しているのかだんだんわからなくなってきた。とにかく訴えたかった。辛かったのだ。疲れていたのだ。何もかも放り投げて逃げ出したかったのだ。
喚いていた。叫んでいた。泣いていた。気がつけば拳《こぶし》で女を叩いていた。困った顔で、それでも避けることなく女は拳を胸で受けていた。
疲れ、怒鳴る気力さえも失せ、放心した秋生に女は言った。
――病院へ行きましょう。
今度は秋生が聞き返す番だった。
――私を病院へ連れていくの。
まさか、と女は微笑《ほほえ》んだ。息子さんを連れていくんです。気づかなかったんですか。ひどい熱ですよ。
昨夜から機嫌が悪かったのはそのせいだったのだ。熱が出たのは今朝方からだろう。そのときにはすでに秋生は泣き声に押し潰されようとしていた。
母親失格ですね、と秋生が言うと、女は合格した人を見たことがありませんと答えた。
女は近所の小児科までついてきてくれた。そして診察が終わるのを待って、家まで送ってきた。それから秋生は生まれて初めて、悩みを他人に相談した。悩みごとを相談するのは己れが弱い証拠だと思っていた。悩みの相談と称して延々と愚痴をこぼす友人を馬鹿にしていた。辛く苦しいことを誰かに聞いてもらうだけでこんなに楽になるのだということを知らなかった。
いつでも連絡してください。その保健婦は言った。そのとき秋生は本当に救われた気持ちになった。
保健婦の忠告はただひとつ。何とかなるから手を抜きなさい。秋生はその日から、料理も掃除もさぼるようになった。良き妻であることをあきらめたのだ。彼女の性格が変わったわけではない。私の悩みに気づかないのなら、部屋が少しぐらい汚れていても気づかないだろう。出前が多少増えてもわからないだろう。秋生はそう思っていた。それは子育ての苦労を理解しない夫へのささやかな復讐《ふくしゆう》だった。そして和典がそれに文句を言わなかったのは、いくらかは秋生の苦しみにも気づいていたからだろう。誰かの忠告による劇的な改心などありはしないし、性格などそう簡単に変わりはしないのだ。秋生は完璧主義者である己れを保ちながら、積極的に手を抜いていった。和典は夫ではなく「子育ての敵」だった。そして秋生は、大輝を守るため「子育ての敵」に懲罰を下す良い母親になったのだ。児童虐待という問題に本格的に取り組みだしてから、秋生はいつも思う。
何故人は幼児を虐待するような心を持っているのか。どうして人はそのような残虐な行為を為せるのか。
子供は可愛い。
それは自分の子供を産んでよくわかった。抵抗できないほどの愛らしさを子供は、特に乳幼児は持っている。
ところが何かをきっかけとして、それは憎悪に転換する。泣きわめく幼児を殺したいほど憎む母親。このグロテスクな関係をもたらす心はどこから来るのだろうか。
なぜ人は何の抵抗も出来ない幼児を虐待しなければならないのか[#「しなければならないのか」に傍点]。
繰り返し自らにそう問いかける。
答えのない問いだろう。
秋生は漠然とそう思っていた。
まさかこの問いに具体的な解答が得られるとは思っていなかった。
「酷《ひど》い話なんですが」
秋生が席に着くなり、金城はそう話し始めた。開け放った窓へ咥《くわ》え煙草の紫煙がゆらゆらと流れていく。灰皿の上にはハイライトの吸い殻が山盛りになっていた。
まん丸の顔に丸い鼻。まん丸の大きな目の上にある垂れ下がった濃い眉毛《まゆげ》。どこか滑稽《こつけい》な印象を与える金城を見ると、秋生はいつもテディベアを思い浮かべてしまう。そのテディベアの顔が真剣だ。いつもの笑みも消えていた。
コロコロと太ったこの男は弁護士会の少年委員会に所属していた。児童虐待の問題には昔から取り組んでいる。四十六歳、弁護士として脂の乗り切った時期と言えるだろうか。精力的というより何かのどかな感じにさせる風貌《ふうぼう》は、児童虐待という重く暗い問題を抱えた者にとってはちょっとした救いなのである。しかし本人にもそれが救いになるというわけではなさそうだ。胃を壊して二度病院に運ばれていた。まさに激務としかいいようのない仕事をこなしながら、そうは見えない外見で損をしていた。もちろん秋生は金城が外見どおりの楽天家とは思っていない。
金城から電話があったのは昨日のことだ。頼めるのはあなたしかいない。そんな台詞《せりふ》にのせられて、秋生は金城の事務所にやってきた。さして広くもない事務所の中に、金城を入れて四人の背広姿の男がいる。いずれも書類と資料の山で囲まれたわずかな隙間《すきま》でキイを叩《たた》いていた。灰色の実用本意の棚に並べられたファイルで、壁という壁が埋め尽くされている。
別室へ、と言いたいのですが、別室がないんですよ。ご覧のとおり狭い事務所でしてね。
資料室と見間違いそうなこの事務所に通された客は、そう言われて頷《うなず》かざるを得ない。一般の民事事件とは違い、福祉に取り組む弁護士は文字どおりの清貧を強いられる。熊の縫いぐるみを思わせる容姿からは想像もつかないが、強い意志と使命感が金城をこの仕事に取り組ませているのだ。
「一週間まえに児相から連絡がありましてね」
金城は一冊のファイルを取り出しながら話を始めた。
半年ほど前、児童相談所に匿名の電話がかかってきた。
子供が虐待されているようなんですが。そのような相談はこちらの方にすればよろしいんでしょうか。
おとなしそうな女性の声だった。人様の家のことに口出しするのも何かと思ったのですが、と女は何度も繰り返した。
――保護者のない児童又は保護者に監護させることが不適当であると認める児童を発見した者は、これを福祉事務所又は児童相談所に通告しなければならない。
児童福祉法二十五条にそう書かれてある。虐待に気づいた者は誰であれ公的機関への通告義務があるのである。が、これは義務ではあるが罰則はない。また、このような通告義務があることを知る者も少ない。つまりこの規定があまり有効に働いているとはいえないのだ。
このような近隣からの通報があるのは、よほど見るに見かねてのことで、かなり深刻なケースであることが多い。
その家にはお化けが出るって噂《うわさ》があったんです。
女はそう話し始めた。
夜になると二階の窓から蒼褪《あおざ》めた幼児の顔がのぞく。それは町内でも有名な話だった。有名ではあったがあくまで噂は噂だ。本気で信じているものは少なかった。
新しい街だった。
古くからあった家はほとんどがバブルの時代に取り壊された。代わりに同じような三階建ての一戸建てが並んだ。近くに進学校として有名な小学校があり、売り出したときは飛ぶように売れた。ある程度生活に余裕がないと購入できない金額だった。そこに住むことに多少なりとも自負を持つ、そういう地域だった。いや、そういう地域として造り上げた土地だった。
街の新しさとも関係して、近隣のつきあいは薄かった。中でも問題のその家は特に近所と関係を持とうとはしなかった。輸入業者の社長であるという家の主人は滅多に家に帰ってこなかったし、二十代前半であろう若い妻は、ほとんどの買い物を宅配ですまし、外出はまったくといっていいほどしなかった。
その家には小学五年生の息子がひとりいた。サッカー好きのいつも真っ黒に日焼けした男の子だった。通報者の息子が、その家の少年と同級生だった。そして息子からその話を聞いたのだ。
あそこの家で化け物を飼ってるんだ。
夕食時に息子がそう話し始めたとき、女は子供特有の夢物語だろうと思っていた。
その日、その少年の家に遊びにいったのだという。母親は留守だった。
うちと違って家の中はきれいにしていたよ。息子は笑いながらそう言った。
そのきれいな家の二階に小さな部屋がある。少年は襖《ふすま》の前に立って手招きした。
オレんち、化け物を飼ってるんだ。
少年はそう言った。
その部屋開けてみなよ。
嫌だった。開けたくなかった。しかし怯《おび》えていると覚られるのも嫌だった。騙《だま》そうとしているんだ。きっとそうだ。そう言い聞かせながら襖を開いた。
酷い臭いがした。下水の臭いだ、と思った。電灯は点《つ》けられていなかった。薄暗い部屋の畳の上にそれは座っていた。がりがりに痩《や》せたそれは、上体を九十度ねじり、棒切れのような細い両腕を歪《いびつ》な形によじって、天井を見上げていた。小さな小さな身体だった。
気配に気づいたのか、それはぎくしゃくと頭を動かしてこちらを向いた。吊《つ》り上がった目が恨めしそうに見つめていた。
そしてひびだらけの小さな唇を開き、それはキイイと叫んだ。
慌てて襖を閉めた。
弟なんだ。でも化け物だったんで、ここに入れられてるんだ。いつもこれで突《つつ》いて遊んでやってるんだぜ。
そう言って少年は塩化ビニールのパイプを持ってきた。
やってみる?
そう言われ、思わず首を横に振った。
それは確かに薄汚れ歪な身体をしていたが、人間だった。人間の赤ん坊だった。
怖かったから帰ってきた。
そう言った息子の感覚の正常さに、女はほっとした。話から想像できるのは、先天性の身体障害者をずっと部屋に閉じ込めているということだ。
座敷牢。
時代劇にでも出てきそうな言葉を思い出す。
そう言えば、と女は思った。四年ほど前その家の妻は確かに妊娠していた。腹が鞠《まり》のように膨れているのを見たのだ。臨月であろうと思われた。しばらくすると、腹は小さくなっていた。生まれてすぐにどこかに預けたか、あるいは施設にでも預けたのか、いずれにしろそんなことを尋ねるほどに親しくはなかった。
しかしあのときの子供だとするともう四歳だ。息子の言うような幼児ではない。
だが、あの家族が引っ越してきてから、何度も赤ん坊の激しい泣き声を聞いたのも事実だった。
息子の話を信じるのなら、その和室の窓が例の幽霊が見えるという噂の窓だ。そこはいつもカーテンが閉められていた。今ではビニールのシートが貼《は》られてある。噂を気にしての処置だろうと考えていたが……。
女は迷いに迷って夫に相談した。夫はそれを一笑に付した。いまどきそんな馬鹿なことをする人間はいない。それが夫の意見だった。それでこの話は終わりにしようと思った。思いはしたが気になって仕方がなかった。夢を見るようになった。泣きながら助けを求める子供の夢だ。
結局女は児童相談所に連絡を入れた。その時点では、その女でさえ半信半疑だった。
だが実は、児相では同様の通報をいくつか受けていた。そして独自に調査を進めていたのだ。
問題の家の父親の名は西垣宏忠。四十二歳。貴金属を中心とした輸入業者だ。母親は淳子。二十四歳。小学五年生の息子は忠男。宏忠は再婚で、忠男は前妻との間に出来た子供だった。そして結婚してからすぐ、子供がひとり生まれている。進、四歳である。出産のときの届けは出ているが、少なくとも近くの幼稚園に入園はしていない。近所の人に聞いても、進の姿を見たものはいない。
監禁されている可能性は高い。
だがそれでも児相には動きようがなかった。
児童虐待には二種類ある。虐待者に虐待であるという自覚のある場合とない場合だ。自覚があれば話は簡単だ。虐待する本人が悩んでいるのだから、児相としては問題解決のために手を差し伸べればいい。しかし自覚がなければ、ことは家庭という密室の中で行われる。なかなかそこに公的な機関が介入することは難しい。
特に日本では欧米に比べ親権が非常に強い。昔ほど親権が絶対視されることはなくなったが、それでも親と子で利害が対立すると、法は親に味方する場合が多い。
児童相談所は保護者のケアもしなければならないことも含めて、様々な枷《かせ》に縛られている。「虐待の可能性がある」だけでは積極的には動けなかった。
明確な虐待の証拠をつかんだのは十日前のことだ。区内の総合病院から児相に電話が入った。小児科の伊沢という男からだった。緊急入院した患者がどうやら被虐待児らしい、ということだった。救急車で運ばれてきたというその子供の名は西垣進。問題の子供だった。
付き添ってきた母親の話によれば、最近食欲がなく、夜になって急に四十度を越える熱が出、痙攣《けいれん》をし始めたと言うことだった。
しかし、ベッドに乗せられたその子供は、発熱や熱性痙攣と言ったもので語れるような状態ではなかった。
まず異臭がした。糞尿《ふんによう》の臭いだ。臭いの原因は見ればわかった。脚や尻《しり》の周り、頭髪にも乾いた糞がこびりついているのだ。四歳と聞いていたが、一歳にも満たないように見える。垢《あか》まみれで、乾き、ひび割れた皮膚。関節だけが目立つ細い四肢が奇妙にねじ曲がり強《こわ》ばっているのは、痙攣のせいだけではなさそうだった。
まるで地獄絵図の亡霊だ。
当直であった伊沢は、しばらく何をすべきかわからなかったという。
とにかく解熱剤を投与し、全身の汚れを落とす。母親から話を聞くが要領を得ない。児童虐待という言葉は知っていたが、経験のない伊沢には何から手をつけていいのかわからなかった。
緊急入院の処置を行うことにさえ不服そうだった母親の西垣淳子は、化粧こそしていなかったが高価そうなワンピースを上品に着こなしたおっとりとした女性だ。子供が危篤状態であるとは思えないほど落ち着いている。病院に見舞いにきたどこかのお嬢様といった風情だった。
栄養不良、四肢機能障害、低身長・低体重といった成長障害。骨折がないのは、積極的に暴力をふるうことだけはなかったからか。いずれにしろまともに養育されているはずがない。
伊沢はまず警察に連絡した。傷害事件であると考えたからだ。110番通報し事情を説明すると、その警官は、死んで始めて事件になるのだと言いたげな態度をとった。あまりのことに憤慨し電話を切った。そしてその手で児相に電話を入れてきた。
児相の担当者は早速会議を開くべく、関係機関に連絡を入れた。金城のところにも連絡があり、保健所にも連絡はいっていたはずだ。
「確か中沢係長のところにも連絡がいっているはずだよ」
何も事情を知らなかった秋生に、金城は不思議そうな顔でいった。喋《しやべ》る口の端から煙がもくもくと吹き上がる。ここまで話すのにハイライトを一箱費やしていた。
「係長からは何も聞いていません。でも西垣進の名前には覚えがあります。半年近く前になりますけど、児相から問い合わせがあったんですよ。保健所に西垣進の資料はないかって」
その電話を受けたのは秋生だ。
この地域では子供が生まれると、産院から保健所に届け出るための葉書を渡される。必要な事項に記入して投函すればそれで保健所に登録され、以後予防接種や健康診断などの通知を送るようになっている。一種の行政サービスだ。だが進の両親はこの届け出をしなかったようなのだ。保健所では西垣進という子供が存在しないのと同じだった。
「保健所に届け出をしてなかったんだってね」
「ええ。そんなことは今までなかったんで、はっきりと覚えています。でも、その電話のときには虐待の事実確認をしていると言っただけで、児相から詳しいことは教えてもらえなかったんです」
秋生は書類の山の隙間から金城を見た。
「それで、私に何をさせようというんですか」
「そんな怖い顔をしないでくれよ。僕は気が弱いんだから」
「空手の有段者が何を言ってるんですか」
「段なんか持ってないよ」
照れくさそうに頭を掻《か》く。
少年の頃空手を習っていたという話を、秋生は本人から聞いたことがあった。
「そうやって気弱そうに見せるのも作戦のひとつでしょ」
「君にはまいるなあ。いやあ、初めは中沢係長から話をしてもらおうとも思ったんだけどね。この間のことでかなりオカンムリなようだから……。君に話をしていないのも、よけいなことをさせないようにってことかもしれないなあ」
「早く話をしてくださいよ。私もいまさら知らん顔は出来ないんだから」
「だろうなあ……」
下がった眉をもっと下げて、金城は困惑した顔をした。まるでべそでもかいているように見える。
「仕方ない。じゃあ、お頼み申し上げましょう」
「最初からその気だったんでしょ」
「えっ、ええ、まあそうなんだが……。とにかく早い話、進くんの両親と話をつけたいわけだ。ところがこの二人はろくに病院に見舞いにも来ないし、電話をかけてもすぐ切られる。訪問しても居留守を使われる。連絡のとりようがないんだ」
「で、私ならなんとかなると」
「頼む」
金城は手を合わせ頭を下げた。
「神社じゃないんですから、手を合わせてもご利益はありません」
「そう言わずに」
「まったく人を何だと思ってるんですか」
「突撃保健婦」
「何ですか、それは」
「児相の所長が君のことをそう呼んでたんだ」
「また人のせいにして。金城さんでしょ、そんなこと言い触らしているのは」
「やっぱりわかるか」
金城と喋っているといつの間にかこんな漫才のような会話になってしまう。これも金城の人柄によるものだろうか。無理な頼みもついつい笑って引き受けてしまう。
「わかりました」
「えっ」
頼んだ本人が驚いていた。
「引き受けてくれるんですか」
「何とかしましょう」
大袈裟《おおげさ》に胸を叩《たた》いて、秋生はそう言った。
まったく考えがないわけでもなかった。
「話は変わるけど、中沢女史は最近どうなの」
「どうって?」
中沢と金城は、中沢がこの地区に配属される以前からの知り合いだった。自宅も同じ町内にある。金城の方が後から引っ越してきたのだ。
「いやあ、こないだ児童福祉の展望っていう講演があってね、僕は参加することになってたんだけど、中沢女史も呼ばれてたんだ、講師として。ところが……」
「来なかった」
「やっぱり、最近何かあるの」
秋生は言いづらそうに話を始めた。
「この間も会議をすっぽかして……。忘れてたんですって」
「らしくないなあ」
金城は不思議そうに言った。
「でしょう」
「最近ずっとそうなの?」
「二週間ぐらい前から、仕事に身が入らないみたいで。みんなは恋人が出来たんじゃないかって言ってたんですけど……どうも違うような気がするんですよね」
「恋人ねえ」
金城は意味なく目の前のファイルをぱらぱらと捲《めく》った。
「実はね、その講演のときに、来るのが遅いから自宅の方に電話したんだ。そうしたら『ごめんなさい、いけなくなったんです』。それだけだ。それだけで切られちゃった。あの責任感の塊のような中沢がだよ。今度久し振りに彼女の家に行ってみようかなと思ってるんだ。というのはね、その時、後ろから声がしたんだ」
「声って、まさか」
「男の声じゃない。それならわかりやすいんだけど、そうじゃないんだ」
金城は怪談でも言うように声を潜め恐ろしげに言った。
「笑い声だよ。楽しそうな子供の笑い声が聞こえたんだ」
金城の事務所から保健所までは歩いて七、八分。JRの駅から駅の、ちょうど半ばにある。従ってJRを利用するよりも歩いていった方が早いのだ。
秋生も国道に沿って保健所へと向かって歩いていた。
街が白っぽく煙っている。舞い上がる埃《ほこり》のせいだ。春の空気は乾燥し、肌をひりひりさせる。
街全体が苛々《いらいら》している。
秋生はそう感じていた。
この街には異様に緑が少ない。公園も少ないし街路樹もまばらだ。この街を無彩色の街だと感じるのはそのせいだろうか。
潤いのない、ぱさぱさに乾いた街。
四年もの間、子供を一室に閉じ込める親のいる街。子供を殴り、髪を毟《むし》り、犬のように芸をさせる親のいる街。そして最近ではこの近辺の小学校で小動物を殺す事件が多発している。どれも顔を叩《たた》き潰《つぶ》すという残虐な方法で殺されていたらしい。
ウサギやハムスターの顔を潰して殺す人間のいる街。
街がそうさせているのか。
秋生はそう思った。
そしてすぐに打ち消す。
私は昔、広い公園や街路樹で緑の溢《あふ》れる街にいた。そして、子供を殺したのだ。だから……。だから街のせいではない。では何のせいなのだ。何故人は――。
いつもの疑問が秋生の頭の中を占めた。それが途切れたのは、斎藤則子のことを、そして一緒に行ったあのマンションのことを思い出したからだ。
もしかしたら幸彦は、外でつくった子供をあそこで育てているのではないだろうか。隠し子が、あの部屋にいたのではないか。そして見知らぬ人間が入ってきたので、慌てて天井裏に隠れた。
そうではない。そんなことは有り得ないのだ。
秋生はそう否定する。
私は指を見た。あの丸く太った愛らしい小さな指。あれは明らかに乳児のものだ。生後八カ月か九カ月。どう見ても一歳までの乳児の指だ。そんな乳児に、扉が開くと同時に天井裏に隠れるなどという芸当の出来るはずがない。
――楽しそうな子供の笑い声が聞こえたんだ。
金城の言葉を思い出す。
中沢と幸彦はなにか関係でもあるのだろうか。しかしこの二人に接点らしきものはなにも見つからない。
後ろから肩を叩かれた。
すっかり考え込んでいた秋生は、飛び上がるほど驚いた。
「何ですか」
険しい顔で振り向くと、そこには人の良さそうな初老の男が立っていた。
辻村貢。幸彦の恩師だという大学教授だ。
「いや、脅かすつもりはなかったんです。どうもすみません。今保健所の方に伺おうと思っていたところなんですよ」
相変わらず寝癖なのか、側頭部が欠けたようにへこんでいる。
「私に用事ですか」
「ええ、ちょっとお話ししたいことがあって」
秋生は則子の件で辻村に連絡をとらなければならなかったことを思い出した。
「それならちょうど良かった。私も辻村さんに聞きたいことがあったんです」
「そうですか。それじゃあ――」
辻村が周囲を見回した。話をするのに喫茶店か何かを探しているのだ。この近くには紙問屋の倉庫ぐらいしかない。そのことを知っている秋生は、この前の喫茶店に行きましょう、と先に歩き始めた。
歩道のあちこちで、大きな紙の束を積んだフォークリフトが動き回っている。その排気ガスと国道から舞い上がる埃に、たびたび辻村は咳《せ》き込んだ。五年前、秋生も外に出れば口をハンカチで押さえて歩いていた。今ではすっかり平気になってしまった。何だっていつかは慣れる。秋生はそう思ってからつけ加えた。
罪の意識以外は。
一番忙しい昼時でさえ空いているいつもの喫茶店は、ひとりの客もいなかった。
秋生はコーヒーを注文し、辻村が同じものを、とウエイトレスに言った。バイトらしきウエイトレスは、絶対に笑ってやるものかと決意したかのような顔で厨房《ちゆうぼう》の方へと消えた。
「早速なんですが」
秋生はにこやかに笑う辻村を見据えて話を始めた。
「則子さんと、斎藤則子と会ったんですか」
辻村は苦笑いを浮かべた。
「いやあ、まいりましたよ。偶然道で出会いましてね。この際だから話をしておこうと声を掛けたら、いきなり悲鳴を上げて逃げられたんですよ。ちょっとは追いかけたんですが、途中でやめました。痴漢か何かと間違えられても困りますから。何しろ斎藤さんは買い物を投げ出して逃げていましたから」
「でも、突然腕を掴《つか》んだら悲鳴ぐらい上げますよ。悲鳴を上げないにしても、腕を振り切って逃げるくらいのことはするでしょう」
辻村は驚いているようだった。
「腕を掴んでなんかいませんよ。今日と同じだ。後ろから呼びかけても返事をしなかったので、肩を叩いただけです」
「えっ、私を呼んでたんですか」
「ええ、何回も」
考え事をしていて気がつかなかったのだ。則子もそうだったのだろうか。そして肩を叩かれて驚いた。今日の秋生と同じように。
肩を叩かれたのを、腕を掴まれたと間違って記憶してしまうことも、則子ならありそうな話だ。相手の態度を誤解曲解し、過剰に反応する。則子が対人関係に悩む原因のひとつだ。最初の誤解が次の曲解を生む。脅かされた、と辻村に思い、その怯えが、腕を掴まれた、という誤った記憶をつくる。一種の被害妄想、と言えば言いすぎだろうが、それでもそんなときの則子が神経症的であることは事実だ。
だが秋生には全面的に辻村を信用する気にもなれなかった。
「でも、何度か幸彦さんの後をつけませんでしたか」
「ええ、確かに」
辻村はあっさりとそう答えた。
「出社時と退社後に後をつけました。あの……斎藤さんから聞いたんですか」
秋生は頷く。
「それで私のことを話したんですね」
「いいえ、話を聞いて辻村さんかなとは思いましたが、確信がなかったので話はしていません」
辻村はほっとしたような顔で言った。
「あなたはたいへん理性的な方のようだ」
「理性的かどうかは知りませんが、いい加減な話はしたくありませんから。……それで何か見つけましたか」
「何がですか」
「尾行して何か発見はあったんですか」
「知ってるんですね」
「どういうことです」
「彼がマンションを借りているということを知ってるんですね」
「則子さんが知っていました」
「彼女は部屋の中を見たんですか」
辻村が身を乗り出して尋ねた。それが何か重大な秘密でもあるかのように。
秋生は即答できなかった。黙る秋生を見て、辻村は言った。
「見たんですね、あれを」
「あれ……」
その沈黙をどう取ったのか、辻村は話を続けた。
「わかりました。すべてお話ししましょう。嘘《うそ》はあまり得意じゃないんだ。どうせすぐにばれることですからね。それに、本当のことを言わずにあなたを説得することなんて出来なかったでしょうから」
「何の話です」
怪訝《けげん》な顔の秋生に、辻村は微笑《ほほえ》みかけた。
「私は斎藤幸彦の恩師なんかじゃあない」
「何ですって」
人の良さそうなその笑みが、急に不気味なものに見えてきた。
「どういうことです。何のためにそんな嘘を。則子さんに聞けばすぐにばれるようなそんな――」
「本当はあのとき限りの嘘のはずだったんです。私はあなたから斎藤さんが虐待を行っていたという事実を確認したかっただけなんですから」
まんまと騙され、個人情報を漏洩《ろうえい》してしまったということか。
秋生は頭がかっと熱くなるのを感じた。
「どうしてそんなことをしたんですか」
辻村を睨《にら》みつけた。
「私があの大学の教授であったということは事実です。名刺だって本物です。しかし、今は違う。大学は辞めさせられましたから。何もかもお話ししましょう。あなたならわかっていただけるかもしれない」
辻村の長い話が始まった。
郊外に邸宅を持ち、美しく優しい娘と二人で暮らす大学教授。それが十一年前の辻村だった。母親を早くに亡くした娘の美也子は、何かと辻村の世話を焼いた。辻村が娘を育てたというよりは、美也子が辻村の面倒を見ていた、と言った方が正しいだろう。そのせいで美也子の婚期が遅れることだけが辻村の悩みだった。なんと幸福な悩みだっただろう。辻村は今になってそう思う。
美也子の態度がおかしくなったのは十一年前のことだ。絶対私の部屋に入らないで欲しい。急に真剣な顔でそう宣言したのがすべての始まりだった。それから辻村に対してよそよそしい態度をとるようになった。会話が瞬く間に減っていった。辻村に怒っているとか、嫌がっているというわけでもない。怒りや嫌悪といった感情すら示さないのだ。辻村に対し、道ですれ違う人ほどの関心しか持っていないように見える。
そしてそんな態度をとっているにもかかわらず、美也子はいつも微笑を浮かべていた。
身体の具合でも悪いのかと尋ねる辻村に、美也子はいいえと素っ気なく答えるだけだった。
やがて辻村は、家が薄汚れているのに気がついた。もともとそのようなことに無頓着《むとんちやく》な辻村が気づくぐらいだ。家具や床には埃が積もり、歩くとそれがふわふわと舞った。洗面所には洗濯物が山積みになり、風呂場《ふろば》には黒く黴《かび》が生えていた。そういえば美也子が家事をする姿を長い間見ていなかった。それでもそのときはまだ、夕食を一緒に食べていた。が、夕食時に今日あったことを美也子から聞く辻村の楽しみは失せた。美也子はただ黙々と食事を済ませると、すぐに自室にこもるようになっていた。
そうするうちに、夕食にピザだの寿司だのが続くようになってきた。辻村が大学から戻ると、ダイニングのテーブルの上にそれがぽつんと載っているのだ。美也子は一日の大半を自室で過ごしていた。滅多に辻村と顔を合わせることもなくなった。
すっかり冷えたピザを食べながら辻村は考えた。
いつかこのような日が来ると思っていた。恋人が出来たのか、就職のことで思うことがあるのか、いずれにしろ父親と一緒に暮らす生活に嫌気がさしたのだ。当然のことだろう。食事から掃除洗濯まで、何もかも美也子にゆだね甘えていたのだから。美也子は妻ではない。娘なのだ。いつまでも拘束していられるわけがないのだ。
ひとり反省した辻村はその日から自分の分だけでも掃除や洗濯をするようになり、夕食は出来る限り外食ですませるようにした。
以前ならその父の変化に、何らかの反応があっただろうが、美也子はそんな父に何も言おうとはしなかった。夕食は店屋物さえ用意されることがなくなり、辻村は一人暮らしと変わらぬ生活を送ることになった。
何かが違うと辻村は思った。単に恋人が出来たり、独立しようと悩んでいるだけとは思えなかった。
あまりにも変化は急激だったし、その変わりようは極端に過ぎた。まるで別人になったようなのだ。
辻村はただ戸惑うばかりで、どうすればいいのか見当もつかなかった。
何もわからぬ間に一月経ち二月経った。
そして美也子は家を出た。唐突だった。置き手紙も何もなかった。
あの日以来初めて、辻村は娘の部屋に入った。
きれいに整理された部屋には、しかし異様な臭気が残されていた。最初不快に感じたそれは、どういうわけか辻村を切ない気分にさせた。恋愛にも似たいとおしさをかりたてるにおい。快とも不快ともつかない未経験のにおいだった。
辻村は部屋の中を調べた。あれだけ好きだったポップスのCDも、読書家だった美也子の本棚三つ分の書物も、すべてそこに残されてあった。衣類もほとんどが箪笥《たんす》に入ったままだ。大半の生活用品が残されたままのようだった。テーブルの上にプラスチックの大きな消防車の玩具《おもちや》がひとつ置いてある。そしてこれだけは片づけ忘れたのか、ごみ箱の中に大量の菓子類の包み紙が詰め込まれてあった。
辻村はすぐに警察に捜索願いを出した。成人の家出|失踪《しつそう》はあまり真剣に取り扱ってもらえない。一応はコンピュータに登録するが、発見の確率は十パーセントほどだという。しかもこの数字は捜索によって得られたものではない。多くは行方不明者が何らかの事件を起こしたか、事件に巻き込まれたか、あるいは変死体として警察に届けられたことで発見されるのである。
美也子の場合も例外ではなかった。
当時辻村は週に四日、大学で講義を受け持っていた。その日は講義はなく、辻村は家で遅めの朝食を食べていた。
一杯のミルクとバターを薄く塗ったトースト、それにチーズが一切れ。
その年は年明けから寒さが厳しく、幾度も降る雪に都心の交通は乱れに乱れていた。前日の晩も冷え込み、家の庭には薄く雪が積もっている。
テレビでは東北の豪雪の被害を伝えるニュースをやっていた。
がらんとした部屋でトーストを齧《かじ》り、味気ない食事を終える。昼からは何の予定もなかった。起きたときから石油ストーブを焚《た》いているのだが、いつまでも部屋は暖まらない。
電話のベルが鳴った。
久しくその音を聞いていなかったので、辻村はいささか驚いた。
ティッシュで口の周りのミルクを拭《ぬぐ》い、受話器を取る。
取ったその腕の肌が粟立《あわだ》った。なぜか死んだネズミを掴《つか》んだような気がしたのだ。
そのときから辻村は嫌な予感というものを信じるようになった。
警察からだった。
辻村美也子さんをご存じですね。そう言われ、娘ですと答えた。
娘が見つかったのだ。そう思ったが、歓びよりも不安の方が大きかった。
不安は的中した。
その男はこう続けた。
昨夜辻村美也子さんが殺人の容疑で現行犯逮捕されました。
サツジンヨウギ。
辻村にとってそれは火星人襲来と大差ない荒唐|無稽《むけい》な出来事のように思えた。
すっとなにかが身体から流れ落ちていった。現実感が希薄になり、夢の中にいるようだった。感情は熱波を浴びたように蒸発して失せた。行かなければならない、という意志だけが辻村の身体を動かしていた。家を出るとき、汚れた食器を洗っておくのを忘れたことに気がついた。ミルクの入ったコップは長い間おいておくと汚れが落ちにくくなる。そんなことを考えていたのは、やはりどこかが狂っていたのかもしれない。辻村の頭の中は、チューニングの合わないラジオのように、下らなく脈絡のない雑音で一杯だった。
その状態のまま、辻村は自家用車で北関東の見知らぬ町へと向かった。降雪のために混雑する道路を、地図を調べ、空いた道を選んでいく。その冷静さに、自分でも首を傾《かし》げた。
警察署に行くと、すぐに取り調べが始まった。家出前後の状況と、その後連絡はなかったのかということを何度か聞かれた。そしてようやく、美也子が三人の幼児を殺害した容疑で逮捕されたのだと聞かされた。一度として取り乱すことなく、辻村は話を聞いていた。
その日はそれだけで帰り、辻村はすぐに知り合いの弁護士に連絡をとった。民事の専門家だった友人は、彼に刑事事件の弁護士を紹介した。
その弁護士の力を借りて、二日後には面会の許可が下りた。
狭い接見室に通され、パイプ椅子に腰を降ろした。しばらくすると美也子が警察官に連れられやってきた。頬《ほお》が痩《こ》け、心身ともに疲労しきっている様子だった。
目の下に描いたようにくっきりと隈《くま》が浮かんでいる。
ここ数日の病的な無感動にひびが入った。
涙がぽろぽろとこぼれ、堪《こら》えても嗚咽《おえつ》が漏れた。
美也子は辻村の顔を見ると力なく笑みを浮かべ、天使と出会った話を始めた。これ以上もなく愛らしい天使と出会って家を出たのだと。
意味がわからなかった。こんなことになって錯乱しているのだと思った。
事件に関係のある話はやめなさいと、途中で警察官に止められた。天使に裏切られたのだと美也子がいくらか激昂《げつこう》しながら話し始めたときだった。美也子は話をやめなかった。そしてあいつらのせいだと繰り返しながら接見室から連れ出されていった。あっと言う間に面会は終わった。美也子がいなくなった後、一人残された辻村は、心配するな、必ずここから出してやるから、とひとり呟《つぶや》いた。
その日、弁護士から事件の顛末《てんまつ》を詳しく聞いた。
美也子はこの町で安アパートを借りて暮らしていた。廃屋と見間違いそうな木造の三階建てだ。スナックのアルバイトをして生活費を稼いでいたらしい。その金の大半を玩具と菓子に費やしていた。
夕暮れだった。陽は半ばその姿を家々の間に沈ませていた。そのアパートの玄関の前で美也子が立っているのを、隣に住む大学生が見つけた。右手に血塗《ちまみ》れの果物ナイフを持ち、グレーのトレーナーが血《ち》飛沫《しぶき》で赤黒く染まっていたという。
美也子は左右の廊下を、何かを探しているかのように見回していた。
驚いた大学生はすぐに部屋に戻り、警察に連絡した。警察官がやって来るまで、美也子はそこに立ったままだった。
やってきた警官に、美也子は「逃げられてしまった」と呟いた。
部屋の中に入ると、むせるほどの血臭がした。どこもかしこも血塗れだった。食器があちこちに散乱し、ブラウン管の割れたテレビが倒れていた。踏み潰《つぶ》した玩具とスナック菓子に埋もれ、首を切られた幼児の死体が三体、無造作に転がっていた。
美也子はその場で逮捕された。
弁護士は精神科医による簡易鑑定の申し立てを行った。犯行時に被疑者は妄想にかられ心神喪失の状態であったとして、不起訴処分に持ち込もうとしたのだ。が、それは認められず、一週間後には正式に起訴された。
逮捕から一月後に第一回の公判が行われた。そこでも弁護士は精神鑑定の申し立てをした。これは認められ、裁判所は精神分裂病の権威という医学博士に鑑定を依頼した。だがその鑑定結果を聞く前に、美也子は死んだ。
子宮|癌《がん》だった。本人にほとんど自覚がなく、容体が急変してから医者に運ばれた。すでに身体中に転移していた。
逮捕から半年が過ぎようとしていた。
この事件はマスコミによってセンセーショナルに報道された。
大学教授の娘が幼児を惨殺。家出してスナックでバイト。殺されていたのは生後八カ月から九カ月の幼児。新聞もテレビも週刊誌も、その幼児が美也子の子供であると断言するような報道をした。美也子の私生活に関しても、あることないことが書きたてられた。彼女が売春をしていたという『疑惑』までがまことしやかに語られた。作家や評論家たちの無責任な、推理と称するフィクションによって、堕胎しそこね私生児を産み、困り果てたあげく殺してしまっただらしのない女のストーリーが出来上がっていった。二、三の週刊誌は、ありもしない辻村の愛人の話までもでっち上げた。
大学というところはスキャンダルを極端に嫌うところだ。美也子の報道がされた時点で、辻村は職を失った。
「何度か死のうと思いましたが、死ねませんでした」
長い話を、辻村はそう言って終えた。話すことで十数年分の疲労が蘇《よみがえ》ってきたような顔だった。疲弊しきった、老いた男がそこにいた。
テーブルの上には一冊のファイルが置かれてあった。週刊誌や新聞のキリヌキだ。どれも茶色く変色している。『ホステス、幼児を惨殺』と毒々しい見出しが躍る。
「死ぬことは恐ろしくはなかった。というより、事件のあった日から、私は死んでいるのも同然だった。それでも私は死ねなかった。知りたかったんですよ、何があったのか。娘は本当に精神を病んでいたのか。幼児たちは本当に美也子の子供だったのか。そして本当に娘がその子供たちを殺したのか。それを知りたいがために、死ぬ日を先延ばししてきた。そしてそれを知ってからは……」
辻村はもともと人好きのする好々爺《こうこうや》だ。秋生の第一印象もそうだった。人の良さそうな笑みには、そんな過去を感じさせるものはなにもない。
だが話し終えた辻村を見て秋生の頭にひとつの単語が浮かんだ。
復讐《ふくしゆう》。
辻村は復讐のために生きている。
なぜか秋生は今の辻村にそう感じていた。
「このノートを見てもらえますか」
辻村は古びた黒い鞄《かばん》から一冊のノートを出してきた。サンリオのキャラクターが描かれた、女子高校生の持つような可愛らしいノートだ。黴《かび》の生えた黒革の鞄から取り出すのに、最も似つかわしくないものだろう。
秋生はそれを手にした。
「弁護士から返してもらった美也子の遺品です。日記なんですよ。ちょっと読んでみてもらえますか」
秋生はページを開いた。
――私は天使と出会った。
日記はそう始まっていた。
――今私は天使と暮らしている。このようなことが現実に起こるなんて考えても見なかった。
秋生はさらにページを捲《めく》った。
――天使の数は三人に増えた。まさか天使があんなことするなんて……。最初見たときは少し驚いたけど、でも見ているととても可愛い。グロテスクなところは少しもなく、戯れる天使たち、って感じだ。
でももう家にはいられない。お父さんに見つからないようにこの子たちを育てるのはもう無理だ。
だから家を出ようと思う。この子たちと一緒に暮らしたい!
最近幸福っていうのが、本当によく理解できる。
これがそうなんだ。
――不安だった。
一度だって家を出て暮らしたことなんかなかったんだから。
でも大丈夫だ。私には天使がついている。
守護天使って言うんだっけ。
この子たちが私を守ってくれる。
トランクの中にこの子たちを入れていくのは、とてもかわいそうで泣いてしまった。
でもしっかりしなくちゃ。
これから私の新しい生活が始まるんだ。
――天使がまた生まれた。これで四人目。
天使はどの天使だってすごく可愛らしいけれど、生まれたばかりの天使は特別だ。
小さな小さな手がわさわさと何かを掴もうと動いているのを見ているだけで一日が終わってしまう。
――こんなに楽しいなら、もっと早く家を出ていればよかったと後悔。
スナックのバイトは初めてで、疲れるけれど、この子たちのために頑張ろう。
天使たちも応援してくれている。
――天使はみんなで六人。ヒューイ・デューイ・ルーイ・モーティ・フェルディ・ミニー。次に生まれたらなんと名づけようか。ポカホンタスっていうのもあんまりだし。
とにかくみんなやんちゃで賑《にぎ》やかだ。家にいると休む暇がない。でもこの子たちの面倒を見ることはこの上もなく楽しい。楽しくて仕方がない。
今日も店の客とトラブルがあったけど、この子たちを見ていたら嫌な気分は吹き飛んでしまった。
生きる意欲、ってこういうことで生まれるんだ。今までただぼんやりと生きてきたことを反省する。
さすがは守護天使。私の生き方も良い方へ良い方へと導かれているような気がする。
――ヒューイが病気になった。
初めてのことだ。
どうすればいいんだろう。
他の天使たちも心配そうに見ている。
荒く息をしながら小さくけいれんをしているヒューイを見ていると、涙が出て仕方がない。
でも私がしっかりしなくちゃ。
――熱はない。でも皮膚ががさがさしてきた。脱水症状なのだろうか。幼児用のイオン飲料を大量に買ってきた。哺乳瓶《ほにゆうびん》であげると小さな唇に力を入れて一生懸命吸う。
あまりの可愛らしさにまた涙が出てくる。
医者に連れていくべきなのだろうか。
でも天使をどこの医者に連れていけばいいのかわからない。天使科なんてないんだから。
小児科?
内科?
どこに連れていっても、実験動物みたいに扱われないかと思うと実行できない。
――信じられない。
まさかこんなことになるなんて思ってなかった。
最初は死んでいるのかと思って息が止まった。私もそのとき一緒に死んでしまいそうだった。
でも違った。
死んではいない。痩《や》せて、そこだけ飛び出た胸が上下に動いていた。
あれれ、と思うとそれはうつ伏せになって這《は》い出した。乾燥してひび割れた褐色の細い細い腕を動かして、それはごそごそと壁を這い、開いた窓から外に出ていった。
なに?
これはいったいどういうことなの?
――私はだまされていたのだ。
天使の正体はあれだったのだ。
信じられなかった。仮面をかぶっていたんだ。私に育てさせるために。
こんな欺瞞《ぎまん》は許せない。
私は決意した。
日記はそこで終わっていた。
美也子は『天使』と出会い、それを育てるために家出したのだ。その天使は、数カ月の間にどんどん子供を生み、増殖していった。美也子はその世話をずっと続けていたが、そのうちのひとりが奇怪なものに変貌《へんぼう》し、逃げた。そしてそれにおぞましいものを感じた美也子は、天使たちを始末する。
信じられない話だ。
警察官や弁護士でなくても、美也子が正気を失っていると考えるだろう。
秋生はノートをテーブルに伏せた。
「どう思いますか」
試験の結果を聞く生徒の顔で、辻村は秋生を見た。
答えようがなかった。
たとえようもなく可愛らしい天使、とは何なのか。
天使を信じる?
中沢の言葉だ。彼女の変貌《へんぼう》は美也子のそれとそっくりだ。
そして幸彦。
可愛いんだなあ、とひとり呟《つぶや》いたという彼のマンションには『快とも不快ともつかない未経験のにおい』のする糞があった。
十一年前の事件と、今秋生がかかわっている二人の人物との間に共通点は多い。
いったいなにが起こっているのか。
「辻村さんはさっき、すべてを知るまでは死ねないとおっしゃっていましたよね」
辻村は無言で頷《うなず》いた。
「そしてその後、それを知ってからは、とおっしゃった。なにが娘さんに起こったのかわかったんですね」
冷めてしまったコーヒーをちびちびと飲むと、辻村は言った。
「乳幼児は無力だ、とよく言いますよね。ですがそれは間違いです。確かにそれは自ら動くことも食べ物を手に入れることも出来ない。そういう意味では無力だとも言える。しかしですよ、例えばサンゴの仲間はいったん岩に固着したら二度と動けない。ですがそれを無力とは言わない。寄生植物は自ら養分をつくることが出来ない。だがこれもやはり無力とは言わない。まったく無力であるものは生き延びることが出来ません。これは自然界の摂理です」
突然講義を始めた辻村を、秋生はしばらくあっけにとられて見つめていた。
「乳幼児にしてもそうです。もちろんそれは母親の助力がなければ生きることが出来ない。だからこそ、乳児は己れの世話をする者を、ある意味『支配』するための様々な手段を持っているし、手に入れた環境を維持するための力も持っている。乳幼児は決して無力ではないのです」
「ちょっと待ってください。いったい何の話ですか」
秋生は慌てて話に割って入った。
「娘に何があったのか、という話です。キイとなるのは『可愛らしさ』です」
辻村は残ったコーヒーを飲み干した。
「『可愛い』という感情は、保護と養育への衝動の現れです。『可愛い』から可愛がりたくなる。『可愛がる』とは、つまり手元に置いて世話をすることです。乳幼児というのはこの『可愛い』という感情を引き出させる仕組みを持っている。可愛くあることで、親を『支配』するわけです。この可愛さを誘発する仕組みを、我々は幼児図式と呼びます」
「我々?」
「ああ、私は動物学が専門なんです。大学では動物行動学の講義をしていました。ええと、それでですね、幼児に特有のもの。大きな頭に広い額、その額の下の小さな目、そして全体のフォルムは丸みを帯び、短い手足でバランスを欠いたちょこまかした動作をする。これらはすべての子育てを必要とする動物の子供に共通します。この可愛らしさを誘発するための仕組み、これが幼児図式なのです。そうだ、あなたもベイビイネスという言葉なら知っているんじゃないですか」
秋生は頷いた。
人は丸く柔らかな曲線の中に小さな点がある単純な図形から、子供らしさ、つまりは可愛らしさを感じとる。可愛らしい、といわれるキャラクター商品を見れば、それがどのような図形かわかるだろう。この形態をベイビイネスという。児童心理学の用語だ。秋生は保健看護専門学校の授業でこの言葉を聞いた。
「形だけではありません。他にもにおいや泣き声、仕草などで乳児は『私を可愛がりなさい』とサインを送るわけです。それができない子供は死にます。例えば七面鳥の場合鳴き声が幼児図式にあたります。だから鳴かない雛《ひな》は即座に死ぬ」
「即座に?」
「母親に殺されるのです」
母親に……殺される。
秋生は口の中でその言葉を繰り返した。
「反対に耳の聞こえない母親は、卵を抱きはするが、雛が孵《かえ》ったとたんに殺していきます」
ようやく殻を破って生まれてきた雛鳥たちを突き殺す母鳥。
生々しいイメージに秋生は鳥肌が立った。
いつもは口をつけない冷めたコーヒーを一口飲んだ。
私は耳の聞こえない母鳥なのだろうか。
私は耳の聞こえない母鳥なのだろうか。
私は耳の聞こえない母鳥なのだろうか。
私は耳の聞こえない母鳥なのだろうか。
途切れることなく頭の中でぐるぐると同じ言葉が繰り返された。
遠くで辻村がなにか言っている。
「……ますか?」
なにかを聞いているようだ。
「なんと言いましたか」
秋生が聞き返した。
「丸山さんはお子さんがおられますか」
いいえ、と秋生は答えた。独身だと。
「そうですか。……あの、失礼ですが、子供を産んだ経験は」
初めて会ったときと変わらぬ人の良さそうな顔で辻村は言った。
本当に失礼なことを聞くと腹は立ったが、嘘《うそ》をつくつもりはなかった。
「前の夫との間に子供がいました。離婚したんです」
「そのお子さんを愛してらっしゃいますか」
秋生は口をつぐみ、辻村を睨《にら》んだ。辻村は真剣な顔だ。
「……亡くしました」
秋生は答えた。
私は耳の聞こえない母鳥なんだろうか。
先ほどの問いが蘇《よみがえ》る。
「もしかして、もしかしてですよ。これは重要なことだからお聞きするんですが」
辻村は秋生をじっと見つめ、言った。
「あなたには幼児虐待の経験があるのでは」
さらに辻村は顔を近づけた。
「虐待して、その結果子供を亡くしたのでは」
一瞬秋生は絶句した。
気がつけばコップの水を辻村に浴びせていた。
そのまま席を立つと、秋生は出ていこうとした。
「待ってください」
辻村は呼び止めた。
「あなたを怒らせるつもりはないんだ。この事件の核心がそこにあるんです。お願いだ。則子さんのためにも話を聞いてください」
秋生は無視してレジにいく。財布から適当な紙幣を掴《つか》み出し、無愛想なウエイトレスに渡すと、釣りも受け取らずに店を出た。
辻村は追ってきた。
秋生が立ち止まり、振り返った。
「今後二度と則子さんにつきまとうようなことがあったら、私が警察に連絡します」
言い捨ててから足早に去っていった。
後ろで辻村が叫んでいた。
「則子さんなら出来る。しかしひとりでは難しい。どうかあなたが彼女に協力してあげてください。あなたもそれが出来るはずだ」
いつまでも叫び続けるその声がだんだんと小さくなっていく。が、初めからその声は聞こえていない。秋生の頭の中を占めているのはあの朝の情景。あの心地好い晴天の朝。起きたとたんに良い事が起こりそうな予感がしたあの朝のこと。
一週間続けて雨ばかりの日が続いていた。家の中にあるものが何もかも水を含み重い。淀《よど》んだ湿気のにおいが部屋の中に溢《あふ》れていた。
幼児は汗かきだ。汗腺《かんせん》の数が成人と同じなのに、表面積が少ないからだ。大輝も服が重くなるほどの汗をすぐにかく。特に寝汗がひどい。夜中に何度も服を着替えさせた。でないとシーツまでびっしょりと濡《ぬ》れてしまうからだ。その結果洗濯物が増える。梅雨どき、ただでさえ憂鬱《ゆううつ》なのに、乾かない洗濯物が大量にあるとさらに憂鬱さは増す。
その日は早朝から照りつける太陽が肌に痛いほどだった。
夫を送り出してから洗濯物をベランダに干す。
秋生は洗濯が好きだった。食事の後片づけや掃除も好きだ。やったことが結果となってはっきりとわかることが好きなのだ。
乾燥した風が脱水した洗濯物の間を抜けていく。洗剤のにおいが心地良い。ひらひらと舞う大輝の小さな服が可愛《かわい》らしく、つい笑みが浮かんだ。まるでままごとでもしているような気分になる。
白いシャツを大きく振った。ぱっ、と音がする。その音が小気味良い。飛ぶ飛沫が顔にかかるのが気持ち良い。洗濯物の間を抜けた風が爽《さわ》やかに冷たい。
何もかもが良い一日であることを象徴していた。
ベランダに通じるサッシが開いたままであることなど忘れていた。
遠くでサイレンの音が聞こえた。
あっ、救急車だ。秋生はのんびりとそう考えていた。
洗濯物のカゴに手をやった。もう残りは少なかった。
大輝と眼が合った。ベランダの隅で四つん這《ば》いになって秋生を見ていた。
いつの間にかベランダに這い出ていたのだ。
駄目ですよ。危ないから家に入ってなさい。
そう言いながら大輝に近づいた。
今思えば這うほどの鈍《のろ》さでゆっくりと。
不幸な事故が己れに起こる、などということが考えられないような心地好い朝だった。
ベランダの柵《さく》は、鋼鉄の細い棒が並んでいるだけのシンプルなものだ。棒と棒の間隔は狭かった。一見して大輝が潜り抜けることは出来ないだろうと思わせる狭さだった。
秋生はあっと声を挙げた。
大輝が掴《つか》み、その間に頭を入れたからだ。すっぽりと肩までベランダの外に出た。
秋生は走った。いや、走るほどの距離もない。そこまで跳んだのだ。
肩から胸、胸から腰まで、大輝の躰《からだ》は何の抵抗もなく柵を抜けていった。
足首に手を伸ばした。指先は確かに踵《かかと》に触れた。そのときには大輝の半身が柵の外に出ていた。
小さなぷくぷくと太った足先がはね上がり、上下逆さまになった。
そして、消えた。
勢い余って柵に肩から突っ込んだ。そのまま床に両手をつき、下を覗《のぞ》き込んだ。
叫んでいた。獣のような声だった。朝の閑静な住宅街に、その声は響き渡った。そしてその絶叫の中でも、砂袋を叩《たた》きつけるような鈍い音を聞いていた。
秋生の部屋はマンションの八階にあった。ベランダの真下は植え込みがあった。植え込みを囲む煉瓦塀《れんがべい》が欠けていた。
大輝の身体はコンクリートの路面に横たわっていた。関節のないところから脚が曲がっていた。
湧《わ》き水のように、地面に赤が広がっていく。
秋生は走った。部屋を出て廊下に、そして階段を使って一階へ。覚えているのはそこまでだ。
即死だった。
このような事故の場合、一般の医師が書いた死亡診断書は公式には認められず、警察に変死の届け出を出すことになっている。大輝の遺体は警察に回され検死が行われた。検死が滞りなく終わってから通夜が、そして葬式が行われた。そのすべてにわたって采配を振るったのは秋生だった。和典は何の役にも立たなかった。取り乱し、号泣し、あげくの果てに寝込んでしまった。
秋生は脳髄が凍りついてしまったように感情や感覚が失せていた。機械のように、ただ慌ただしいだけの数日をこなしていった。機械そのものであったのかもしれない。そのことに己れで改めて気がついたのは、葬儀を終えた翌日、寝込んでしまった夫に昼食を作っていたときだった。冷や麦に入れるネギを刻んでいるとき、爪《つめ》と一緒に指先を少し切り落とした。そのことに秋生はしばらく気がつかなかった。刻んだネギが赤く染まるのを見て、どうしたのかと首を傾《かし》げた。指を見るまで傷があることを知らなかった。滲《にじ》み滴る血をしばらく見て、そうだったのかと思った。そして薄く笑った。何がおかしいのか自分でもわからなかった。
それから浴槽に湯を張った。服を脱ぎ、全裸になると夫の剃刀《かみそり》を手にした。和典は理髪店で使うような本格的な剃刀を使っていた。それを持って浴槽に入る。
手首を裂いた。痛みはなかった。
吹き出す血が浴槽を満たしていく。
あまりにも遅い昼食に、秋生の様子を見にきた和典がそれを発見した。
一日で済んだ入院から帰った秋生を、和典は責めた。
葬儀のときに笑っていた。和典はそう言った。
笑ったかもしれませんね。秋生はそう答えた。
無責任。狂言自殺。自分のことしか考えていない。薄気味が悪い。恐ろしい女。もともと身分違い。そして最後に言ったのは人殺し。
言っているうちに興奮したのだろう。最後には唇を歪《ゆが》め秋生を罵《ののし》っていた。翌日には和典の両親からも責められた。
大輝を殺したのはおまえだ。
三人が口をそろえてそう言った。
三カ月後に離婚が成立した。
ほぼ一月。秋生はただ生きているだけの日々を過ごした。髪がほとんどなくなってしまったのは自分で引き抜いたからだ。爪が割れたのは壁を掻《か》き毟《むし》ったからだ。
秋生をいつまでも苦しめているのは、罪の意識だった。
ベランダに出た大輝を見たとき、すぐとめなかったのは何故か。大輝がベランダから身を乗り出したとき、一瞬手を伸ばすのを躊躇《ちゆうちよ》しなかっただろうか。そして落下した息子を見たとき、ほっとしなかっただろうか。ようやく子育ての労苦から逃れられると胸を撫《な》で下ろしはしなかっただろうか。あれは故意の殺人ではなかったのか。私は息子を殺したのではないか。私に殺意があったのではないか。
おまえが殺した。
和典の声が、彼の両親の声が、何をしていても聞こえてくる。
何度も死のうと思ったが、実行したのはあのとき、一度だけだ。
死ぬことは許されないのではないか。生きることの苦しみをこそ、味わい続けなければならないのではないか。
秋生はそう考えていた。
苦痛を得るためだけの無為な生活が続いた。それを終わらせたのは、罪を償わずに死ぬことは出来ないという結論を得たからだ。
秋生は死ぬために生きることを決意した。死を意識し、罪の意識に責め苛《さいな》まれながらも、最善の生き方を選んでしまう。まさしく彼女の性分だった。
秋生はバイトをしながら、保健婦養成所に通った。保健婦の国家試験を受けるためだ。
大輝をその手で本当に殺そうとしたとき、彼女を救ったのはひとりの保健婦だった。名前も忘れてしまったが、そのときの保健婦には感謝していた。たとえその後ですべてが無駄に終わったにしても。
今度は私が救う側に回ろう。ひとりでも多くの母と子を救うことが償いへと通じるのではないか。
秋生はそう考えて保健婦の道を目指した。
十年以上経った今でも罪の意識は秋生を苦しめている。悪夢にうなされ目覚める日も少なくない。晴天の日のベランダを生々しく思い出す。今のように。
落ちていく大輝。
彼は悲鳴をあげたのだろうか。
助けてと訴えたのだろうか。
しかし私には何も聞こえなかった。
やはり、と秋生は思う。やはり私は耳の聞こえない母鳥なのだろうか、と。
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3、コドモノクニ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか
[#地付き]『ドグラ・マグラ』巻頭歌 夢野久作
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かつては木造の長屋が並ぶごちゃごちゃした町だったらしい。
昔の話だ。
秋生の管轄の中で、この町が最も美しい。大通りから一本裏に逸《そ》れているので、交通量も少ない。街路樹が青々と茂り、近くにある大きな公園には、ひとつのゴミも落ちていない。そして庭のある真新しい住居。
このすぐそばにある小学校でウサギが顔を潰《つぶ》されて殺された。
しかし、ここでそんな事件があったなどとは誰も思わないだろう。
静かな昼下がり。雲ひとつない空。吹くのは午睡にこそ相応《ふさわ》しい春の風。
秋生は不安だった。
こんな刻《とき》が。
こんな場所が。
大きな家が広い私道を挟んで並んでいる。そう広い地域ではないから、庭付き一戸建ての家の数はしれていた。どの家も高いブロック塀で囲まれている。これら塀で囲まれた邸宅は、なにから身を守ろうとしているのだろうか。
秋生はその通りを抜け、表通りに面した角にあるゴミ収集場所で待っていた。
西垣淳子がやって来るのを。
まだ陽が昇る前からここにいた。ここに清掃車がくるのは午前十一時。
後三十分ほどだ。
早朝、秋生がここに来たときにはまだひとつのゴミもなかった。今はコンクリートで三方を囲まれたそこは、透明なビニール袋で一杯だ。
見逃したのだろうか。
それとも淳子は今日ゴミを持ってこないのか。
この地区のゴミの収集日は週二回。西垣の家族が三人だとしても、普通なら毎回ゴミを出すだろう。秋生はそう考えてここで待っているのだが……。
不安は時が経つにつれて増す。
金城にもらった写真で顔を確認しただけなのだ。見逃している可能性もないとは言えない。
ポケットベルが鳴った。金城から、連絡が欲しいという内容だった。だがこの場所を離れるわけにはいかない。朝からトイレも我慢してここに立っているのだ。
警察官が職務質問をしに来たときも、ここを離れなかった。
住民の誰かが呼んだのだろう。ゴミ捨て場で朝からずっと立っている女。確かにこれ以上の不審な人物はいない。
秋生は事情を説明して引き取ってもらった。
とにかく今ここを離れるわけにはいかない。
秋生は清掃車が去ってから連絡するつもりで放っておいた。
清掃車がくる直前だった。
若い女がゴミの袋を持ってやってきた。今からどこかに出かけるのか、きっちりと化粧をし、藤色のスーツを着ている。
まだ十代で通りそうな幼い顔立ちのその女。
間違いなく淳子だ。
秋生は駆け寄って声を掛けた。
「あの、西垣淳子さんですね」
「ええ、そうですが」
淳子は優しい笑みを浮かべた。ゴミの横で待ち構えていた見知らぬ女に対する態度とは思えない。
「保健所の者なのですが、進くんのことでお話がありまして」
淳子は笑顔をそのままに、小さく会釈するとその場を去ろうとした。
「進くんのことでお話を伺いたいんですが」
淳子は秋生を無視して歩き続ける。
秋生はその横に並んだ。
「ちょっとだけでいいんです。ちょっとだけ話を聞かせていただけたら」
周りから見たらしつこい勧誘のように見えるだろうか。そう思いながらも秋生は淳子についていった。
門扉の前で淳子は立ち止まった。
西垣と書かれた大理石の表札が掲げてある。
淳子は扉を開いた。
「なにもお話することはありません」
最後にそう言うと、淳子は家の中に入っていった。絵画のような笑みを浮かべたまま。
秋生はしばらく扉の前に佇《たたず》んでいた。
秋生にしたところで、最初からなにもかも上手《うま》くいくとは思っていなかった。しかしここまで完全に拒絶されるとも思っていなかった。
一回目の訪問は何の成果も得られることなく終わった。
しかし、次がある。また次が。
そう思いながら秋生は化け物の出ると言われていた窓を見上げた。べったりと青いビニールシートが貼《は》られていた。安っぽくけばけばしいその青と、淳子の笑みは同じだと秋生は思った。どちらもすべてを拒絶するためにあるのだ、と。
塀で囲まれた邸宅の間を抜け、表通りに出てから公衆電話を探した。
金城の携帯電話に連絡を入れる。
「はい金城です」
声が沈んでいた。金城にしては珍しいことだった。
「丸山です」
「ああ、君か」
「あの、失敗です。なにも話は出来ませんでした。でも――」
「いいんだ」
金城が話を遮った。
「もういいんだよ、丸山くん」
「それはどういうことでしょう」
「今病院にいるんだけど、ついさっき、進くんが息を引き取った」
「それ……」
言葉を失った。
「両親を殺人で告訴することに決めた。だからもう丸山くんの仕事はない。後は警察に任せるんだ」
声が沈んでいるのは、悲しんでいるからではなかった。怒っているからだ。あの温厚な金城が腹の底から怒りを感じているからだ。
しかし、と秋生は思う。
その怒りを進の両親に向けて済むような事件だったのか、と。
秋生は言った。
「それは見せしめですか。それとも報復」
「違うね」
金城は即答した。
「どちらでもない。僕は弁護士だ。両親が絶対的な悪だとは思っていない。弁護士という職業はそれほど簡単に善悪の判断をしないものだ。それに僕は、児童虐待というものがどんなものかも理解している。なにがあの夫婦をそこまで追い込んだか。問題にすべきなのはそこだろう。しかし進くんは死んだんだ。生まれてから一度も外に出ることなく、四年間、ただ暗い部屋の中で放置されて。それがあの少年の人生だったんだよ。あの夫婦はその罪を償わねばならない。進くんのためにも、あの夫婦自身のためにも。僕が告訴したのはあの夫婦だけではない。二人にそれをさせた何かを告訴したんだ。それを明らかにすることが僕の職務だからね」
ほとんどの幼児虐待は、虐待者も被虐待者も哀れで惨めだ。金城にしてもそれをよく知っている。だから彼の怒りはどこに向かうことも出来ない。
何故こんなことが起こるのか、ということに対する漠とした怒り。そしてそれを食い止めることの出来なかった己れへの怒り。
金城が今感じているであろう怒りが、秋生はよく理解できた。それは秋生の持つ怒りと同質のものだからだ。
「君には申し訳ないことをしたね。貴重な時間を無駄に使わせてしまった。僕にしてもまさかこんな結果になるとは思っていなかったんだ」
「今からどうされるんですか」
「両親に連絡をとろうと思ったんだが、弁護士の金城ですと言ったら切られた。今度かけたら話し中だ。電話のジャックを引き抜いたんだろう。それから何度かけても話し中だった。伊沢医師が変死として警察に届け出をしたはずだ。もうすぐ警察が遺体を引き取りにくる。事情を説明してから僕は西垣の家に向かう。このことを報告しにね」
「私、すぐそばにいますから私から伝えておきましょうか」
「いや、僕が伝えたいんだ」
「それなら私、ここで待っています。一緒に行きましょう」
「もういいんだよ、丸山くん」
「良くないですよ」
「まったく……性分だね」
金城は中沢と同じことを言った。
「でも、今からそこに行くまで、二、三時間はかかると思うよ」
「一度保健所に寄ってから、また来ます」
「……わかった。じゃあ、後で会おう。そうだ、一段落ついたら飲みに行こうか。また僕がおごるから」
「またって、一度もおごってもらったことないじゃあないですか」
「そうだったっけ」
金城は力なく笑った。
電話を切り、秋生はこの美しい街を離れた。
眼下に広がるのは廃墟《はいきよ》。そう思わせるのはひび割れたコンクリートの荒廃した屋上だけが延々と続いて見えるからだ。
モノトーンの町が車窓を流れていく。
さして背の高くないビルが並んでいる。その屋上に人の姿はない。もともと人が入ることを考慮されていないそこには、赤錆《あかさ》びた貯水タンクがあるだけだ。コンクリートのひびに生えた惨めな雑草が、よけい侘《わ》びしさを増す。
屋上に上がる扉に、たいていの建物は施錠してある。自殺を防止するためだ。それでも年間、この付近で何人かの飛び降り自殺がある。
今は自殺志望者さえいないようだ。
列車は買い物帰りの主婦と、ブリーフケースを持ったサラリーマンで混みあっていた。
三方から押され、前に座る若い主婦に倒れ込むようになりながら、秋生は吊革《つりかわ》にしがみついていた。
インクのシミのような鴉《からす》が飛ぶ以外、命というものを感じさせない町を見降ろしながら秋生は思う。
無力だった。
あまりにも私は無力だった。
そして一度も出会うことのなかった進のことを考えた。
誰かを愛することもなく、誰かに愛されることもなく、小さな箱の中で四年の生涯を終えた進のことを。
何という人生なんだろう。
人生とさえも呼べない四年間の生。彼の過ごした四年という時間は何だったんだろう。
確かに今回は秋生が事件を知ったタイミングが悪かった。そのときすでに彼女には、何をする時間も残されていなかったのだから。児童相談所が仕事を怠っていたわけではない。弁護士の金城も精一杯のことをした。秋生も残された時間の中で必死になってやった。それでもすべてが無駄になったのだ。
私は本当に失敗しなかったのだろうか。そう思う秋生が考えるのは、最初に児相から連絡のあった時点ならなんとかなったかもしれない、ということだ。半年前に何らかの行動を起こしていれば。児相の担当者から詳しい事情を聞き出していれば。そうすれば……。
そのとき私は何もしなかった。そして動き始めたときには遅かったのだ。
反省しようが思い悩もうが苦しもうが、それは進くんの役には立たない。
私には彼を救うことが出来なかったのだ。
それが、それだけが確かな結果だ。
秋生には同じような無力感に襲われたことが、過去に一度、あった。
保健婦を始めて半年。そろそろ仕事に慣れた頃だった。保健所で行われる三カ月検診で気掛かりな母子を見かけた。生後三カ月になれば、身体が丸みを帯び赤ん坊らしい体型になる。ところがその乳児は痩《や》せ、身長も平均をかなり下回っていた。首もすわっていない。うつむけに寝かせると、ぐったりとへばりついてそのままだ。本来なら手を貸せば寝返りの出来る月齢である。この頃であれば表情も豊かになり、快、不快もはっきりとするのだが、強《こわ》ばったような無表情だ。
秋生は言葉を選びながら、発育が多少後れていると告げた。たいがいの母親は、乳児が平均値よりわずかでも下回っているだけで、この世の終わりのように心配する。ところがその母親は、そのことにさして関心がないようだった。そうですか、とあっさり聞き流す。
秋生はその乳児の足の裏に、小さな丸い褐色の痣《あざ》のようなものがいくつもあるのに気づいた。良く見ると、どうやら火傷《やけど》の痕《あと》のようである。母親に尋ねると、灰皿を踏んだのだと答えた。寝返りも出来ない乳児が灰皿を踏むことなど考えられなかった。
それが児童虐待と呼ばれるものであろうことは推測できた。しかしどのように処置すればいいのかがわからない。福祉事務所に相談にいき、児童相談所に連絡を入れた。
秋生自身は何度か家庭訪問をしたのだが、すべて玄関で追い払われた。
それで手詰まりになってしまった。
保健婦の仕事は忙しい。そのことだけにかかわってもいられない。時々連絡を入れるようにはしていたが、それ以上には秋生も行動しなかった。行動する術《すべ》を思いつかなかったというのが正しいだろう。
検診から三カ月後のことだ。
秋生は新聞でその母子のことを知った。
虐待の末に、あの母親は子供を殺してしまったのだ。
夜泣きする子供を殴り、あげくの果てにベランダに連れ出し、翌日の昼過ぎまで放置した。
真夏の午後。
赤ん坊は炎天下に五時間さらされ、死んだ。
秋生は後悔した。
悔やんでも悔やみきれなかった。
助ける手だてがあったはずだ。虐待の事実には気づいていたのだ。
その時の秋生に出来ることはすべてやっていただろう。まだ新米の、経験の浅い保健婦だったのだ。いや、児童虐待という問題は表面化してから日が浅い。経験豊富な保健婦でも、それにどう対処するかを知っているものは少なかった。誰も秋生を責めることは出来ないだろう。
しかし秋生は己れを許すことは出来なかった。子供の虐待防止協会に参加したのは、それからすぐのことだった。
もう二度とあのような思いはしたくない。秋生はそう思い児童虐待に懸命に取り組んでいった。
やれる限りのことはすべてやっておこう。
そのときからこれが秋生の信条となった。
だが、児童虐待の現実はあまりにも重い。
秋生一人に出来ることは当然限界がある。
だから今回のようなことになると、秋生は繰り返し自問してしまう。
本当にやれることをすべてやったのか。
そしてそれに対する解答も決まっている。
否、だ。
積んでも積んでも崩される河原の石。
その徒労感に何度も押し潰されそうになったことがある。今回のように。
列車が大きく揺れた。
後ろから強く押され、額が正面の窓《まど》硝子《ガラス》につきそうになる。
視線を感じた。
下を見ると、前に座った主婦が膝《ひざ》に幼児を乗せている。その幼児が秋生を見上げていた。
一歳を過ぎたところだろうか。じっと秋生を見上げて目を離さない。子供特有のひたむきな視線に、秋生は反射的に微笑《ほほえ》んでいた。
子供は相変わらず不審そうな顔で秋生を見つめ続けている。微笑の奥にある何かを見られているような気がする。
秋生は子供があまり好きではなかった。
一度同僚にそのようなことをこぼしたことがある。児童虐待に積極的に取り組む秋生の口からそんなことを聞いたのが不思議だったのだろう。彼女から異常者を見るような目で見られた。それから二度とそのことを人前で口にしていない。
そのとき秋生はその同僚に慌てて言い訳した。
好きではないが嫌いでもない。
苦手なのだ。どう扱っていいのかわからなくなるのだ、と。
昔からそうだった。大輝に対しても……。
やはり私は耳の聞こえない母鳥なのか。
そう思い子供から目を逸らした。それでもちくちくと突《つつ》いてでもいるような視線の感触は消えない。
それに気をとられ、彼女を見つめるもうひとつの目があることに気づいていなかった。
保健所のある駅が近づいてきた。
この駅で降りる人間は多い。特に集金|鞄《かばん》を持った中年男性が多いのは、今日が月末だからだ。
扉が開き、人の群れが吹き出した。その流れに乗って、秋生は改札を出る。
いつもの埃《ほこり》臭い町が秋生を迎えてくれた。
改札を出たとたん、人の群れはそれぞれの場所へと散っていく。秋生も保健所へと向かおうとした。
何かが脇腹《わきばら》にあたった。
男が横に並んでいた。横にぴったりと着いて一緒に歩いている。若い男だ。秋生にはそれが誰なのかすぐには思い出せなかった。
「丸山さん」
そう言うと男は薄く笑った。その薄い唇は、笑みの形で固まっているようだった。その表情で思い出した。
「岸田さん」
理奈の父親、岸田茂だった。
喫茶店で脅された記憶が蘇《よみがえ》る。それだけで身体が強《こわ》ばった。
脇腹に突きつけられているものを見た。
ナイフだ。
幅の広いカスタム・メイドのナイフが、その先端を秋生のスーツに沈めている。ステンレスの刃がぎらぎらと輝いていた。
何げなく垂らした反対の腕で挟むようにナイフを隠している。隠してはいるが、正面から見ればナイフを突きつけていることはすぐにわかるだろう。
しかし誰ひとりとしてこの二人に注目しているものはいなかった。
「意外だろう。誰も俺《おれ》たちのことを見ちゃいない。こんなことをしているのにね」
白いTシャツにジーンズ。かっちりとした筋肉をつけた茂は、まるでカウボーイのようだ。
「そこにあるのが俺の車。乗ってよ。一緒にドライブしたいんだ。すぐそこまででいいからさあ」
茂はナイフをさらに押しつけてきた。
巽《たつみ》紙業と書かれたバンが、駅前の路肩に停めてあった。
冷静にならなければと思っていた。少なくとも冷静であるように見せなければならないと。
しかし身体が裏切っていた。
脚が竦《すく》んだ。思うように歩けない。
茂が腕を掴《つか》んだ。
運転席の方へ連れていく。
扉を開くと、秋生を中に押し込んだ。
「面倒だとは思うんだけど、そこから助手席に移ってくれるかな」
ナイフが露骨に押しつけられる。
長めのスカートは少しタイトで、秋生は苦労しながらシフトを跨《また》いで、助手席に移った。
茂は秋生の脇を鷲《わし》掴みにしながら、運転席に座る。
ナイフを突きつけたまま、ギアを変えアクセルを踏んだ。
「逃げようとしちゃあ駄目だよ」
幼い子供にいうように茂は言った。
「どうするつもりなの」
尋ねる声が震えていた。
「あれ、怯《おび》えてるんだ。まいったなあ。小便垂れないでね。車を汚したくないから」
茂はニヤニヤと笑った。
「あなたの車じゃないでしょ」
「怖がっていても冷静。さすがだね。そうだよ。ちょっとそこでいただいてきたんだ。どうせならもっと良い車で迎えに来て欲しかったのかい」
「私をどうするつもりなの」
「わたしをどうするつもりなの、か。いい声だなあ。怯えてる声だ。丸山さんの怯えている声、好きだなあ。カセット用意しといて良かった」
「カセット?」
「丸山さんを退屈させちゃあ悪いと思ってね、いろいろと用意してあるんだ」
「……前に言ったでしょ。私には理奈ちゃんを今更どうする権利もないのよ」
「理奈か。あれはもう諦《あきら》めたよ。惜しいことをしたとは思うけどね」
「諦めた……」
理奈を取り戻したくて私を脅しているのではないのか。
秋生は混乱した。
「腹が立ったんだよ。俺は俺の思うとおりにやりたいんだ。邪魔をされるのが一番頭に来る」
中沢の言ったように、『人に何かを強制されると反射的に腹が立つ人間』なのだろうか。
車は馴染《なじ》みの町の裏道を選んで走る。一方通行と右折左折禁止の表示に誘導されるように車は進んでいった。
防音や防塵《ぼうじん》のための白いシートで包まれたビルの前に来ていた。その周囲を黄色と黒の派手な縞《しま》模様のフェンスが囲んでいる。
「もう着いちゃった。ドライブももっと楽しみたかったんだけどね。でも今からドライブよりもっと楽しいことするから、許してね」
保健所からそれほど離れていない。秋生も何度かこの前を通ったことがあった。取り壊しの途中で放置されたままのビルだ。この辺りでは珍しくない。
フェンスが一部分だけ開いていた。車はそこに頭を突っ込んだ。シートを押し開き、さらに中へ。予《あらかじ》めその部分だけ出入り口となるように細工してあったのだろう。シートを越えれば急な坂道になっている。地下の駐車場へと続いているのだ。
がらんとした駐車場に着くと、茂は車を停めた。地上に続く道から漏れる光だけがここを照らしている。
薄闇《うすやみ》に目が慣れるのに、少々時間がかかった。
あまり広くはない。二十台も入れば一杯になるだろう。茂が窓を開くと、じっとりと湿った冷たい大気が流れ込んできた。
「ちょっと待っててね」
言いながら茂は秋生の腹を殴った。あまりにも無造作だった。釣り上げた魚の頭を叩《たた》くのと変わりなかった。
秋生は痛みのあまり声も出なかった。人に殴られるというような経験は初めてのことだった。
思わず腰を折って痛みを堪《こら》える秋生の口に、ボロキレが突っ込まれた。カーワックスの臭いがした。息が詰まった。
「腹殴ったから多少気分が悪いかもしれないけど、この状態で吐いたら窒息死するから注意してね」
舌で布を押し出そうとする上から、茂はハンカチのようなもので縛った。
「誘拐とかさ、拉致《らち》とかの事件でさ、いくらでも逃げる暇があるのにどうして逃げないんだろう、って疑問に思ったこと、ない? でもね、逃げられないんだな。人間って怯えると、まともなことが考えられなくなるんだ。経験上これは言えるんだけど、ある程度こっちが気をつけてさえいたら、まず逃げられることはないね。さあ、出来上がり」
茂は秋生側のドアを開くと、車外に蹴《け》り出した。
秋生は剥《む》き出しのコンクリートの上に転がった。
すぐに立ち上がり逃げようとした。その足を、車から出てきた茂に払われる。
うつ伏せに倒れる秋生の頭に、茂の足が乗せられた。
頬《ほお》がざらざらとした床に押しつけられた。
黴《かび》と埃の臭いがした。
「ねっ、逃げられないでしょ」
煙草でも揉《も》み消すように、茂は踵《かかと》で二、三度秋生の頭を床に押さえつけた。
「さあ、起きようか」
髪を掴んで秋生を立ち上がらせる。たとえ荷物でもそうはしないだろう乱暴な扱いだ。
「前にもこんなことをしたのかって聞きたいんでしょ。やりましたよ。女とするにはこれが一番だね。そんなことに金や気を遣う男の気がしれないよ。さあ、おいで」
固めた拳《こぶし》を、秋生の腹に叩きつけた。
思わず前に屈《かが》む。その腹を肩に乗せると、茂は砂袋のように秋生を担ぎ上げた。
「なかなかいいところでしょう。ここに招待するのはあんたで四人目かな」
茂は楽々と秋生を部屋の隅へと運ぶ。殴られるのが恐ろしく、秋生はじっとしていた。
床にテーブルが置いてあった。四本の脚を上に突き立て、裏表を逆にして置かれてある。かなり大きく、頑丈な木製のテーブルだ。
逆さまになった天板には、分厚いマットレスが敷いてあった。そして四方の脚には手枷《てかせ》のついた鎖が縛られてある。
秋生はそのマットレスの上に投げ出された。
仰向けに倒れた身体に茂は素早く跨《またが》った。茂の堅く大きな尻《しり》の下で、秋生の乳房がへしゃげた。
あがく秋生の左右の頬を平手で殴る。
二度、肉を叩く音が駐車場に響いた。音だけが大きく、腹を殴られたときほどの痛みはない。
それでも秋生はくぐもった悲鳴をあげた。
気がつけば両腕を万歳の形に広げて手枷をはめられている。
笑みを浮かべながら茂は立ち上がった。
「あれ、もう暴れないの。残念だな」
秋生に背を向け、今度は足元の方へと回る。
揃《そろ》え曲げた脚をしばらく眺めていた。
それからおもむろに左の足首を掴む。
ぐいと引っ張り脚を伸ばすと、枷をはめた。
それから右の足首を握る。
秋生の抵抗などものともせず、茂は一気に股《また》を広げた。
タイト気味のスカートが捲《めく》れ上がり、ベージュのナイロン越しに白い下着が剥き出しになった。
それを見ながら、右足首にゆっくりと枷をはめる。
秋生は大の字になって、標本のように固定された。
一連の作業が終わると、茂は秋生から離れた。
少しの沈黙が秋生を恐怖させた。
闇《やみ》がその恐怖を膨れ上がらせる。
無駄とわかっていながら両手両脚を動かして暴れた。
鎖ががしゃがしゃと音をたてる。
それだけだった。
やがてガソリンの臭いとともに、エンジン音が聞こえた。
何が起こるのかと秋生は身体を堅くした。
「このへんは町工場が多いでしょ」
足元の方から茂の声が聞こえた。
「だからこういう音は自然なんだよね。田舎でカエルが鳴いてるみたいなもんでさ。さてと、スイッチ・オン」
白い光が秋生を包んだ。
眩《まぶ》しさに顔を背け、眼を閉じる。
「ほんと、いい顔するなあ」
秋生はゆっくりと正面を見た。
二灯の照明が秋生を照らしていた。毛穴までさらけ出すような明るい白の光だ。
眩しさに目が慣れてきた頃、黒く影となって照明の間に立つ茂が見えた。何かを操作している。三脚の上に載せた何かだ。
「眉間《みけん》の皺《しわ》が似合う女だよね。そんなこと言われたことない?」
ビデオカメラだ。茂はビデオを撮影しているのだ。
準備が整ったのだろうか。茂は秋生に近づくと、カメラの方を向いて小さく手を振った。
それから再び秋生の胸に跨ると、ブラウスの衿に何かを取りつけた。
「カメラのマイクじゃ、いい音が録《と》れないんだよ。あんたの怯えた荒い息の音とかさ」
言いながら茂は猿轡《さるぐつわ》をほどいて口の中から布を取り出した。
悲鳴をあげようとした瞬間、拳で耳の下を殴られた。
眩暈《めまい》がした。
痛みに涙が滲《にじ》んだ。
「ようこそ、丸山さん」
唾液《だえき》でぐっしょりと濡《ぬ》れた布切れを投げ捨て、茂は言った。
秋生は唾《つば》を吐きかけた。茂はそれを拭《ぬぐ》おうとしない。鼻筋から唇へと、ゆっくりそれが流れていく。茂は貼りついた笑顔のままじっと秋生を見ていた。
先に沈黙に耐えられなくなったのは秋生だった。
「すぐに私が帰ってこないことに気がつくわ。そして警察に連絡する。私が車に連れ込まれるのも大勢の人が見ている。ここに車をいれるのだって誰か見ている人がいるはずよ」
「ああ、いたよ」
茂は平然と言った。
「でもね、俺は捕まる気がしないんだ。今まで一度も失敗していないしね。ああ、こないだの喧嘩《けんか》は失敗だな。少し楽しみすぎた。でもあれだけだ。今まで生きてきてたった一度の失敗があれだよ。もうないね。もう失敗はない。それに助けがくるにしたって、随分先の話さ。それまではたっぷり時間がある。さて、これから何をして遊ぼうか。もう子供と遊ぶのには飽きちゃったんだ。やっぱり大人の女の方がいいよね」
「子供と遊ぶ……」
「理奈だよ。俺はいつも理奈と遊んでやっていた。生まれたときからずっと。でも、あいつは小さすぎてさ、注意してないと死んじゃうだろ。結構面倒臭いんだよね」
「あなたが……理奈ちゃんを虐待していた………」
「丸山さんはいい人だよね。裕子を信用して、あの淫売《いんばい》が理奈を折檻《せつかん》してるって思ってたんだよな。あの馬鹿は俺の言いなりなんだよ。殴られたり縛られたりするのが大好きな淫乱女でさ。それでも俺の女房だから気は遣ってるんだよ。顔とか脚とか、夏なら腕とかに傷をつけないようにね」
茂が服役していたわずかな時間に、理奈はどんどん良くなっていった。そして茂が帰ってくると同時に虐待が始まった。そのことだけでは、茂が虐待していることを意味してはいない。児童虐待は家族の病だ。父親が虐待に加わっていなくても、父母の関係そのものが虐待を誘発する。が、そんな家族の関係性にこだわり、児相の担当者も弁護士も、そして秋生も、茂が直接の虐待者であるという単純な事実を見逃していた。いや、まったく見逃していたわけではない。その可能性も考えてはいた。だがそれらしい様子はどこにも見当たらなかったのだ。
「ほんとにありがたい話だよね。まんまと騙《だま》されてくれたんだから。でも驚いたのは裕子の芝居が上手《うま》かったこと。役者になりたかったって言ってたけどさ、大した演技力だよ。阿呆《あほう》で淫乱で変態だけどさ。あっ、あの馬鹿あんたに感心してたよ。熱心だって。いいよねえ。ボランティア精神っていうのかな。無償の行為ってのに人は感動するからね。俺も感動したよ。あんたの勘違いにね。笑ったぜまったく」
茂と裕子は、二人で秋生を笑い者にしていたのか。理奈ちゃんを救うために必死になっていた秋生を。
それなら、理奈が笑い掛けてくれたと喜んでいた、裕子のあの笑顔も嘘だったのだろうか。それは秋生に到底信じられないことだった。茂はともかく、裕子のあの態度が演技であるとするなら、本当に大した役者だ。それだけの演技力が裕子にあるとは思えない。
「あのままずっと笑わせていてほしかったなあ。残念、あんたはちょっとやりすぎた。娘を連れてっちゃうのは、いただけないな。あれは俺のものなんだぜ。楽しみにしてたんだ。もう少し待ったら使ってみようってさ」
「使う……」
「そうさ。あれだって女だからな。もう少ししたらオレのこいつを」
茂は股間《こかん》をおどけた仕草でぽんと叩いた。
「使えるようになったはずさ」
秋生の頭にかっと血が上った。自分が今どんな状況に置かれているかなど、考えてもいなかった。
秋生は叫んだ。
「鬼! あんたは人じゃない。鬼よ!」
「いいねえ。思ったとおり丸山さんの怒った顔はいいよ。そうでなくちゃ。怯えてばかりじゃあちょっと物足りないんだなあ」
茂は罵《ののし》り続ける秋生を見ながら、掌で自らの股間をさすった。
「もっと叱《しか》ってくれよ。気の強い女が好きだって言っただろ。本当なんだよ。あんたの怒ってる顔はいいよ。真剣でさ。毅然としててさ。ところが、それが今から泣きわめくんだ。顔をぼこぼこに腫《は》らしてさあ、鼻から血をだらだら流してさあ。命|乞《ご》いして、何でもしますって、血を流しながら……。いいなあ。ほんとにいいなあ」
ぴっちりとしたジーンズの中で、異世界の生物のように茂のペニスがむくむくと膨らんでいく。
ようやく秋生はそのことに気がついて、口を閉ざした。
「弱いものをいたぶるってのは、スゲエ楽しいんだ。わかるだろ、あんたにだってそれがどんなに楽しいか」
「……あなたが犯人ね」
秋生の声は掠《かす》れていた。
「学校のウサギを遊び半分に殺しているのは、あなたなのね」
「ウサギ? ああ、殺したことあるよ。必死になって逃げようとするんだ、奴《やつ》ら。オレの手から逃れようとしてさ。でも駄目だ。そんなことは出来ない。オレが耳を掴んでいるからね。そしてこうだ」
茂は手にした何かを壁に叩きつける動作をした。
「一撃だよ。簡単なもんさ。理奈のときと違って遠慮する必要がないからね。でも、あっさりしすぎて手応えがないよね。それに後で喰《く》うわけでもないし。それが女だと後で喰えるだろ。楽しいねえ。本当に楽しいねえ」
茂はジーンズのチャックを降ろした。
指を突っ込んで一物を引きずり出す。
飛び出たそれがゆらゆらと上下に揺れた。まるでそこから黒い蛇でも取り出したようだった。
「しゃぶってよ、丸山さん。気持ちよくしてくれたら痛くしないからさあ」
腰を前に出し、半ば勃起《ぼつき》したそれを茂は秋生の顔に近づけた。同時にナイフの刃先を秋生の喉《のど》に当てる。
秋生は唇を堅く閉じた。
握り締めたそれをねじ込んでくる。
乾いた小便の臭いがした。
冷たい痛みを首筋に感じた。痛みよりも恐ろしさが先にあった。しかし、それでも秋生は唇を開こうとはしなかった。
堅いゴムのような感触が唇をこじ開ける。閉じた歯に、それがあたった。
「いいなあ、その嫌そうな顔。ますます好きになっちゃうなあ」
茂は掴んだペニスの先端を唇の亀裂に沿わせて二、三度往復させてから、それを頬にこすりつけた。
濡れたそれがぬるぬると頬を滑る。
「有り難いよねえ。ここで妥協されたらつまらないもんね」
茂が腰を引いた。
激しく屹立《きつりつ》したそれが秋生の顔から離れた。
茂は秋生を見降ろし、拳《こぶし》を固めた。
「やっぱりさあ、暴力に限るね。女を説得するのには」
拳骨《げんこつ》で秋生の目の上を殴った。
ごちっと骨のぶつかる音がした。
一瞬視界が暗くなって、光の点が飛んだ。
「なあ、どんな感じがする。痛いだろ。そうだろ。なあ、そうだろ」
茂は秋生の頭を両手で挟んで左右に揺すった。
「そうよ。そうよ! 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い――」
最後は悲鳴になった。
今度は平手が頬を打った。
「もう結構」
首筋に当てていたナイフを手にする。
「俺さあ、痛みってのがよくわからないんだ」
ナイフの刃を反対側の掌に当てると、引いた。湧《わ》き水のように、血が流れてきた。
「ほらね」
赤いその手で、秋生の顔を撫《な》でた。何度も何度も執拗《しつよう》に。たちまち秋生の顔は赤く染まった。
「今あんたの顔についてるのは俺の血。で、今から流れるのは丸山さんの血」
茂はナイフを秋生の頭の横に置くと、ゆっくりと腕をあげた。
それから左の頬を平手で殴る。
血の味が口腔《こうこう》に溢《あふ》れた。
次は右頬。そして左。休むことなく、しかし怯《おび》えさすには充分の間を置いて、右、左、右、左と頬を平手打ちする。
脈打つペニスを、血塗《ちまみ》れの左手でしごき始めた。
「いつでもいいから、俺のをしゃぶりたくなったら言ってよ。それまで続けるからね」
緊張感のない声でそう言いながら、殴るのをやめない。
秋生は自分が苦痛に強い、などと過信していたわけではない。しかし暴力では心を変えることは出来ないと思っていた。
秋生は苦痛というもの、暴力というものの力を知らなかったのだ。
頭の中で考えられる激痛というものとは、質も量も異なった。耐える、などということは出来なかった。悲鳴を上げていた。泣いていた。鼻水が流れた。涎《よだれ》が流れた。
そして何より、気力が流れていった。意志が流れていった。人格というものが水に浸した角砂糖のようにぐずぐずと崩れていった。
「……します」
秋生は囁《ささや》くような声で言った。
茂は容赦なく右頬を殴った。
「聞こえないな。何だって」
「します」
左頬を殴った。
「もっと大きな声で」
「します!」
「何をする」
「……舐《な》めます」
右頬を殴った。
「だから何を」
「それを」
左頬を殴った。
「それって何」
「ペニス」
「お上品だね」
茂は笑った。笑いながら顔を殴った。
「それじゃあ駄目だ」
茂は猥褻《わいせつ》な言葉を何度も秋生に復唱させた。言わなければ殴った。声が小さければ殴った。その間も屹立したペニスをしごき続けていた。
秋生は茂の命じるがままに猥褻な言葉を絶叫した。
言わなきゃ。心の底から、相手に伝わるように言わなきゃ。この人のためにはっきりと言わなきゃ。言えばいい。口にすればいい。そうだ。私はそれがしたいんだ。だから言う。大声で言う。私はそれがしたい。したくて堪《たま》らない。
秋生は泣きながら舐めさせてくれと懇願していた。
「いいなあ。すごくいい。丸山くんったら、サイコーだね」
秋生の顔に生暖かい粘液が降りかかった。「……でも舐めさせてやんない」
言いながら茂は立ち上がって、秋生から離れた。
ジーンズの中に萎《な》え始めた血だらけのペニスをしまい込む。
「ねえ、痛いってのはどんな気持ち」
茂は本当に不思議そうに秋生を見た。
「さっきも言ったと思うけど、俺はちっとも痛くないんだ。いや、痛いんだろうなあ。痛いような気はするんだ。でもね、あんたらが何でも言うこときくようになるだろ。それが不思議なんだ。そんなに痛いかい」
質問に答えるだけの力は、秋生に残されていない。
ただ許しを乞う目で茂を見ているだけだ。
「サイコパスって知ってる? 日本語にすると精神病質者、最近では人格障害者っていうのが正しいのかな。サイコパスのチェックリストっていうのがあるんだけどね。それによるとサイコパスの特徴は自己中心的、嘘《うそ》つき、冷淡、無責任、退屈しやすく、いつも刺激を求めている、衝動的で抑制が出来ない。最初これを見たときさあ、俺のことを言ってるのかと思ったよ。まんま、これ俺だもん」
茂は秋生の顔を撫でた。撫でながら話を続けていた。血と精液が混ざり合い、秋生の顔を覆った。
「それにサイコパスの一番重要な特徴はね、後悔しないってこと。決して罪の意識や良心の呵責《かしやく》なんてものに惑わされない。最高だろ。俺ってさ、全然悪いことしてるって気がないんだよ。法律に反しているかどうかは知ってるよ。だから捕まらないようにやってるんだ。いろいろと工夫をしてね。でもそれは知識で、善悪を知るってのとは違うよね。善悪ってやつが俺にはイマイチぴんとこないんだよな。でさ、こういう特徴って、全部肉体的な障害からきてるって言われてるんだよね。障害っていう言葉はちょっと嫌だな。これは個性だからね。そういう人間なんだ。民族性とかさ、そういうもんと同じさ。それで、なんの話だっけ。そうそう、こういう性格は肉体的なもので決定される。それも生まれてからの障害じゃなくて、先天的なもの。つまりは生まれつきだったりするんだな。遺伝子で何割かは決定されてるってわけ。詳しく教えて上げようか」
秋生の耳に、茂の声は音として届いてはいるが何の意味も成してはいなかった。だが秋生がそれを聞いているかいないかなどということに、茂は興味がないようだった。
秋生の耳を引っ張り、鼻孔に指を突っ込み、唇をめくり、目蓋《まぶた》をつまみ、その顔を玩具《おもちや》にしながら得意げに話を続ける。
「神経伝達物質って知ってるかなあ。脳の働きをコントロールする化学物質でね。感情だの意識だのってのは、こいつによって支配されてるわけさ。そのひとつにセラトニンっていうのがあってね、脳の中の働きを抑える物質なんだ。攻撃性や衝動的な行動、それに痛みに対する鋭敏さなんかも抑制する。つまりこいつがあんまり出てこない奴は攻撃的で衝動的で痛みを感じないってことさ。ねっ、俺のことでしょ。このセラトニンの量は八割が遺伝で決まるらしいよ。つまり俺は生まれつき暴力的で痛みに鈍感ってわけ。それで、これだけならただの粗暴な奴だよね。サイコパスにはもうひとつ脳に特徴があるんだ。人が悪いとされていることをするだろう。そうしたら、ああ、俺はなんてことをしたんだ、って悩んだり苦しんだりして、それでこんなに苦しむんなら悪いことをやめておこうとか学習するらしい。ところがサイコパスは感情を司《つかさど》る脳と学習を司る脳の連絡が悪いんだ。だから俺の場合、悪いことをして罰を受けた。だから今度は見つからないようにしようって学習するのさ。悪いことと苦しみが結びついていないからね。これって理性的ってことじゃない? でしょ」
返事はない。
「あれ、答えてくれないの。わかった。びっくりしてんでしょ。意外に俺が賢いんで。俺のこと、馬鹿だと思ってたんじゃないの。暴力を振るうような人間は馬鹿だって。偏見はいけないなあ、丸山さん。サイコパスってさあ、IQが高いのも特徴なんだよ。だから俺は何だって知ってる。例えば丸山さんが昔結婚してたってこと。でも今は離婚して独り者だってこと。前の旦那《だんな》との間に息子がひとりいたってこと」
茂は秋生の顔に覆い被《かぶ》さるように顔を近づけた。
「そしてその子供を」
長く舌を伸ばして唇を舐《な》める。
それから秋生の耳朶《じだ》を噛《か》み、耳元で囁《ささや》いた。
「あんたは殺した」
秋生の瞳に驚愕《きようがく》と怒りと恐怖が交互に浮かんでは消えた。
茂はけらけらと笑った。
「やっぱりそうだ。初めて見たときからそう思ったんだ。あんたは仲間だ。俺のお仲間だよ。壊れてるんだ。どこかがごっそりと抜けてるんだ」
それまでぎりぎり意識を保っていた何かが、秋生の中でぷつりと音をたてて切れた。
視界が狭まっていく。
闇が情景を支配していく。
最後に秋生が聞いたのは、茂の狂ったような哄笑《こうしよう》だった。
初めに痛みがあった。
顔全体が熱を持ってずきずき痛む。心臓の鼓動に合わせて膨らんだり萎《しぼ》んだりしているように感じる。
目が開かなかった。開いてもわずかな隙間《すきま》からはほとんど何も見えない。見えるのは闇だけだ。
声が聞こえた。
男の声だ。
夢見るように焦点の定まらぬその声が、途切れることなく耳の中に入り込んでくる。まるで蠅の羽音のように。
――れてきたときはまだ笑ってた。可愛《かわい》らしい笑顔だと思ったよ。でも低能だ。何も出来ない馬鹿女さ。クズがクズと結ばれクズを生む。このクズの連鎖を断ち斬るのが俺の使命だとそのとき思いついた。だから背中を押した。あまり力を入れなかったのに、そいつは大袈裟《おおげさ》に古臭いまんがみたいに腕振り回してバランス崩して床目がけてダダダダダダダダダダ! 懐中電灯で照らしたら死んだ蜘蛛《くも》みたいな格好で這《は》いつくばってたから、ありゃ、もういっちまったのかなと思ったんだけど、びくびく変な格好に肩と腕を動かしてたから安心した。だってクズにはクズに相応《ふさわ》しい死に方があるじゃない。それは階段落ちてそれまでっていうようなあっさりしたやつじゃないはずだよ。で、俺は下に降りてってそいつを抱き上げた。俺、黴《かび》の臭いが好きなんだ。どうしてだろう。湿っぽいのが好きだよ。落ち着くんだ。よくわからないね。で、その部屋も黴臭かった。嬉《うれ》しかったよ。楽しかったよ。何しろ使命感で動いているんだから、神様もきっと俺のことを考えてこの部屋を用意してくれたんだなあと思ったんだ。それで、それで女を抱き上げた。抱き上げて衿んとこ、こうやって掴んで顔を殴ったら、面白いくらい後ろに吹き飛んだよ、その馬鹿。それでね、俺はそいつを仰向けに寝かせてね、そいつの膝《ひざ》を押し曲げて頭を両膝で挟み込むほど曲げて、持ち上がった白くてデカイ尻《しり》を見てたら、薄茶色の肛門が赤ん坊の唇みたいに動いてるのが見えたよ。何か言いたそうだった。ミルクが欲しいとかなんとか。だから俺はそこに舌を入れたり噛んだり舐めたり吸ったりにおいを嗅《か》いだりした。その後指を突っ込んで一本突っ込んで二本突っ込んで三本突っ込んで思いっ切り開いたらすごく開くから面白くなって最後にナイフを突っ込んだんだ。血と糞《くそ》が吹き出して、俺の顔にかかったんだけど、悲鳴があんまり大きいんでうんざりしてクズの顔を何回も踏んだんだ安全靴で何回も何回も人だとわからなくなるまで。それがつまり――
「何を……言ってるの」
秋生は腫《は》れ上がった唇をこじ開けるようにしてそう言った。
胸に重みを感じていた。茂が秋生の上に座っているのだ。
「おはよう、丸山さん。ようやく起きたんだね。心配したよ。小便|洩《も》らして気絶したから、まさか死んだんじゃないだろうなって、ね。……生きてて良かった」
茂は心の底から心配していたような口調でそう言った。
「あなたは……」
「忘れたのかい。嫌だなあ。俺だよ。茂だよ。君の仲間さ」
「あなたも……耳が聞こえないの」
「聞こえるよ。悲鳴とか骨が折れたり砕けたりする音とか内臓がびちびちと吹き出してくる音とか。丸山さんは聞こえないの。鼓膜が破けちゃったかな。耳は外しておいたつもりなんだけど。それじゃあ、俺の告白も聞こえなかったんだ」
「告白……」
「二人目の殺人の話」
「聞こえてたわ。途中からだったけど。違う、私の聞こえないのは――」
「そんなことはどうでもいいよ。俺の声さえ聞こえたらね。さあ、続きをしようか。まだ夜明けまで間がある」
エンジンの音が聞こえた。
開かない目蓋が桃色に輝いた。
茂が照明をつけたのだろう。
唇に何かを押し当てられた。柔らかなそれが茂の唇だとわかったのは、舌を差し入れてきたからだ。
秋生にはそれを拒む力がなかった。
押し入ってきた舌はぬるぬるした奇怪な生き物のように秋生の口腔を這い回り、大量の唾液が彼女の中に流れ込んできた。
唇が離れる。
いきなり拳で顔を殴られた。
ぐらりと頭が揺れ、それで恐怖が蘇《よみがえ》ってきた。
悲鳴を上げる前に唇を掌で塞《ふさ》がれた。
「丸山さんは本当に綺麗《きれい》だよ。顔が血塗れでボールみたいに腫れ上がってるけど、それでも綺麗だ。だからきっと手や脚を切り落としても綺麗だよ。あそこを切り取っても綺麗だよ。肛門《こうもん》にナイフが突っ込んであっても綺麗だよ。死体になったって綺麗だよ。だから何回も出来る。死んだ後まで何回も何回も何回も何回も」
茂が乳房を掴んだ。愛撫《あいぶ》などというものからはかけ離れている。引き千切らんばかりの力で指先を食い込ませている。千の針で貫かれたような痛みに、呼吸が出来なくなった。茂を身体の上に乗せたまま、背が弓反りになって硬直する。
――そこで何をしてる!
誰かが怒鳴った。
茂ではない。それ以外の誰かだ。
乳房から手が離れた。
秋生の身体から力が抜ける。
茂が身体の上から跳び退《の》くのがわかった。
足音が聞こえた。いくつもの足音だった。
待て! 逃げたぞ!
男たちの怒声が聞こえる。
誰かが秋生の手首を持った。
――もう大丈夫だ。
耳元で声がした。
何が大丈夫なのかわからぬ秋生は、ただ「大丈夫」と言葉を繰り返しただけだった。
救急車を、と叫ぶ声がした。
鍵《かぎ》を探せと誰かが言う。
やがて手枷足枷《てかせあしかせ》を外された秋生は、誘拐されてから十七時間目にようやく解放された。
救急車で病院に運ばれ、全治一カ月の診断が下された。
秋生を救ったのは金城だった。
病院から西垣の家にたどり着いた金城は、秋生がいないことを不審に思った。電話から四時間は経っていた。思ったより病院で手間取ったのだ。
金城は秋生の性格をよく知っている。二、三時間後に行くからと言えば、二時間後にはその場所で待っているのが秋生だ。几帳面《きちようめん》で律儀。それを知っているから急いで西垣の家に向かったのだ。
しばらく金城は西垣の家の前で待っていた。が、いつになっても秋生は現れない。結局ひとりで淳子と話をすることにした。息子の死を告げると、さすがに淳子は金城を家の中に迎え入れた。
話は三十分ほどで終わった。何も話そうとはしない淳子に、金城が一方的に喋《しやべ》っただけだった。
西垣宅を出て、金城はすぐに保健所に電話を入れた。
秋生は保健所に戻っていなかった。
何か急用でも出来たのだろうか。
初めは金城もそう思っていた。
事務所に戻って仕事を続ける。嫌な予感がしていた。秋生の身に何かが起こった。そんな気がしてならなかった。
午後五時にもう一度保健所に連絡を入れた。戻ってはいなかった。こんなこと一度もなかったんですけど、と若い保健婦は不安そうに言った。金城は秋生の自宅に電話した。留守だった。ポケットベルにメッセージを入れ、連絡を待った。
午後十時半。金城は再び秋生の自宅に電話した。しつこく呼び出し続けたが、出なかった。
何かがあったのだ、と金城は確信した。
では何が。
金城はすぐに岸田茂との一件を思い出した。理奈の父親から秋生が脅されたことを、中沢から聞いていたのだ。
金城は岸田家に電話した。誰も出なかった。
日付が変わってから、また秋生の自宅に電話した。誰も出ない。続けて岸田家に電話した。誰も出なかった。
そのまま寝る気がしなかった。
午前一時を回り、秋生の不在を確認してから、再び岸田家に電話した。
裕子が出た。
名前を告げると、露骨に迷惑そうな声で「何か」と言った。茂に代わるように伝えると、いないと答える。何処《どこ》にいるかと尋ねても知らないとしか言わない。
金城は口調を変えた。
裕子のようなタイプには、強圧的な態度で挑む方が効果的だと思ったからだ。
金城はでたらめも事実も推測も入り混ぜて裕子を脅した。
秋生が行方不明であること。これに茂が関わっていることは間違いないこと。誘拐は犯罪の中でも重罪であること。捜査に協力しなければ同じ罪に問われること。
急におろおろしだした裕子は、今までカラオケに友達と行っていたからよくわからないのだと弁解し始めた。涙声になって、どこに行ったかは本当に知らないのだと繰り返した。
金城は諦《あきら》めなかった。
この時間に行きそうな場所ぐらい見当つくだろう。何年夫婦をやってるんだ。
金城が怒鳴ると、裕子は以前一緒に行ったことのある廃ビルの話をした。
夜中に突然連れ出されて――。
そう言って裕子は黙り込んだ。
連れ出されて? と金城が促すと、やっちゃったのよ、と不貞腐《ふてくさ》れたように言った。それから何度かその廃ビルで裕子は茂と「やった」と答えた。
場所を聞くと、秋生の勤める保健所からそう離れてはいない。
それだ!
金城はそう思った。
礼を言って電話を切る。受話器を置く間も惜しんで管轄の警察署に電話を入れた。タイミングよく、知り合いの刑事が出た。事情を説明し、パトロール中の警官を向かわせるように頼んだ。それからすぐに車に乗り、自らもその廃ビルへと向かった。いざとなれば金城は自ら茂を取り押さえるつもりだった。腕っぷしには自信があった。少年の頃|琉球《りゆうきゆう》空手を習っていた。実力はあったが段は持っていない。有段者は喧嘩《けんか》のとき凶器を持っているとみなされる。そう聞いていたから、わざと段をとらなかったのだ。つまりはそういう少年時代を過ごしたのである。何度か警察の世話にもなった。喧嘩で負けたことがない。しかし……。
ハンドルを握る手を見る。
丸々とした指に空手だこはもうない。
出来れば、と金城は思った。
出来れば、先に警官が到着していて欲しい、と。
警察の対応は素早かった。
すぐに警邏《けいら》中の警官がビルの地下駐車場の明かりを発見、応援を要請した。金城が現場に到着したとき、もう秋生は救急車で運ばれた後だった。
この金城の活躍を秋生が聞いたのも、退院してからのことだった。
入院していたのは十五日間。その間秋生は外科医と精神科医の診察を受けていた。主に顔に集中していた外科的な傷より、心に受けた傷の方が酷《ひど》かった。
入院して三日間、秋生は廃人同然だった。すべてのことから興味を失っていた。生きることからも、死ぬことからも。
顔中を包帯で包《くる》まれ、身動きひとつしない秋生に、駆けつけてきた老いた両親は声を上げて泣いた。しかし秋生自身はその間に誰が見舞いにきたのかも覚えていない。ただ病院の天井を眺めていたことを記憶しているだけだ。
感情が失せてしまった秋生を、しかし夜毎形のない悪夢が襲った。
秋生はこの世の終わりのような悲鳴をあげ、そのたびに何度も目覚めた。
四日目の朝のことだ。
目覚めると、目の前に金城がいた。それが金城であることに秋生は気づかなかった。金城は微笑み、秋生は意味なく微笑み返した。金城は立ち上がり、病室のカーテンを開けた。その時何か言ったのだが、秋生には聞こえなかった。朝日が窓から差し込んだ。秋生の顔をそれが照らした。晴天だった。清々《すがすが》しい光だった。何か良い事がありそうな、そんな気がした。
突然、ベランダで微笑む幼児の顔を思い出した。
大輝だ。
秋生は呟いた。
大輝の濡れた桃色の唇が開き、閉じた。
えっ、と秋生は頭の中の大輝に問い返した。そして、聞いた。
耳の聞こえない母鳥だよ。
囁くそれはおぞましい何かの声だ。
何か?
再びそれは囁いた。
あんたは仲間だ。俺のお仲間だよ。壊れてるんだ。どこかがごっそりと抜けてるんだ。
その時秋生は唐突に自分の身に何が起こったかを思い出した。
唇を割ってねじ込まれるそれの感触が蘇る。
ベッドから跳ね起きた。
腕から針が抜け、点滴を吊ったスタンドが倒れた。
駆け寄る金城が秋生には見えない。
秋生が見ていたのは窓の外だ。
真っ青の空に浮かぶ白い雲。
陳腐な歌詞のようなその情景。
秋生は窓を開いた。
大輝が下で手を振っていた。振っているのが秋生には見えた。
窓枠に手を掛けた。
誰かが怒鳴っている声が聞こえた。
駄目なのよ。あの時こうするべきだったの。あの男がそれを思い出させてくれたの。だから……。
金城は後ろから秋生を羽交い締めにしていた。騒ぎを聞きつけ、飛び込んできた看護婦が鎮静剤をうつまで、秋生は窓枠から外に出ようと暴れ続けた。そのまま九階下の駐車場に身体を激突させなかったのは、偶然金城が見舞いに来ていたからだ。が、秋生がそのことを感謝するのは、翌朝になってからのことだった。その夜秋生は、死ねなかったことを悔いて泣いた。
五日目に刑事が取り調べにやってきた。知っていることはすべて話したが、所々記憶が途切れていた。茂が告白した二人目の殺人の話に関して何度も質問されたが、細部までは思い出せなかった。
茂に何をされたかを細かく伝えるのは辛かった。が、そのために刑事が婦人警官を連れてきていたのは、金城の配慮だった。
入院して一週間目。
我慢できなくて、と則子が見舞いにやってきた。見舞いに来るよりも見舞いに来て欲しそうな態度だった。秋生はいつものように則子に気遣うことができなかった。が、則子はそのことに気づかぬほど追い込まれているようだった。
夫の不可解な行動とあのマンションの話を彼女は繰り返し喋った。幸彦はすでに則子に対して積極的に何かを隠そうとする気はなくしているようだった。嘘はおざなりになり、調べるなら勝手にしろという態度のようだ。
則子が気にはなったが、今すぐ何かをできるものでもない。が、もう少し待って欲しいという秋生の言葉に、則子は聞く耳を持っていないようだった。
結果的に[#「結果的に」に傍点]相談をしてしまったことを詫《わ》び、則子は昏《くら》い顔で帰っていった。
十日目の夜に起こった出来事が現実なのか夢なのか。秋生には退院した後になっても区別がつかなかった。
後に茂があの場を逃げ出すことに成功し、未だに捕まっていないことを知った。だから現実だったのだろうか、とも思ったのだが……。
その夜、そのときまで見ていたのが夢であることに間違いはない。
小さなコンクリートの箱に入れられている夢だ。首だけ箱から出している。腰を屈《かが》め肩を狭めてちょうどの小さな箱だった。
周囲には何もない。灰色の霧が視界を曖昧《あいまい》にしているだけだ。
音は何も聞こえない。己れの息や鼓動さえも。
そして石の飛礫《つぶて》が飛んでくる。
まっすぐ秋生を目がけて。
それはたんなる小石に過ぎないのだが、秋生にはその石の一つ一つに込められた悪意が見える。憎悪を塗りたくって真っ黒になった石。
それがみんな秋生の顔に当たる。当たって落ちる。落ちたそれは黒い虫になって這《は》って逃げる。
身動きできない秋生は、夜店の標的のようにそれを受け止めているしかない。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
秋生はそう言い続けているのだが、その声も聞こえない。
それから急に場面が変わる。夢特有の、不可思議なのに平然とそれを認めている場面転換だ。
狭い暗い部屋の中に秋生は座っている。老婆のようにぺしゃりと腰を降ろしている。
畳は湿って黴《か》びた臭いがした。
クスクスと誰かが笑っている。
秋生は手でも洗っているかのように両手をこすり合わせていた。その手が生暖かく濡《ぬ》れている。
血だ。
鮮血を両手で弄《もてあそ》んでいるのだ。
何よりこの夢が恐ろしかったのは、楽しくて仕方ないことだった。血に塗れた手が嬉《うれ》しくてしようがないのだ。
そしてクスクス笑っているのが己れであることに気がつく。
秋生は恐ろしさに身をよじって絶叫する。
そして目が覚めた。
ベッドの脇《わき》に黒い影が佇《たたず》んでいた。
背後の窓から街灯が男の背を照らしている。
夜のにおいがした。
「怖くなんかないよ、丸山さん」
それは言った。男の声だった。
「あんたは俺の仲間なんだから、本当はちっとも怖くないはずさ」
茂だ。
そう思ったが、何故か恐ろしくはなかった。
「あんたには特別時間をかけた。仲間だからね。つまり、これは……友情さ。でもちょっと時間をかけ過ぎた。厄介なことになったから、俺はしばらく姿を消すよ。でも必ず帰ってくる。そうしたら、あの続きをしようよ。俺たちの友情を確認しようよ。あんたも友情の証しに見せておくれよ。あんたの死に顔を。苦痛に歪《ゆが》んだあんたの死に顔を」
ぺたぺたとナースシューズの特徴ある足音が聞こえた。
「じゃあ、また後で」
影は闇《やみ》に融けた。
入れ代わりに看護婦が入ってきた。
秋生の脇に体温計を挟むと、看護婦は言った。
「何か変わったことはありませんか」
「いいえ」
秋生は答えた。
「何もありませんでした」
退院前日のことだ。
見舞いに来た保健所の同僚から、中沢が無断欠勤していると聞かされた。
保健所に現れなくなって二日経つと言う。
自宅に電話連絡を入れても誰も出てこない。今日明日には誰かが家の方に見に行くことになっている。
同僚がそう言うと、秋生は即座にこう言った。
それなら私が見に行く。
同僚たちは驚いた。驚くと同時に、そのいかにも秋生らしい台詞《せりふ》に喜んでもいた。職場に復帰するのは不可能ではないかと噂《うわさ》されていたからだ。
翌日、腫《は》れも引かぬままに秋生は職場に戻った。退院の手続きを終えて、午後からの出勤となった。
やはり中沢は出てきていなかった。
今日は連絡をしたのかと尋ねると、誰もしていないと答える。秋生はすぐに中沢の家に電話をかけた。
誰も出なかった。
何かの懲罰のように、溜《た》まった仕事を丁寧に片づけていく。家庭訪問は出来る限り避けた。包帯は取れたが、腫れも残っている。青黒く痣《あざ》も残っている。折れた前歯もまだ治療中だ。事情を知らないものが見れば驚くだろう。そう思い、すませられるものは電話ですませた。それでも保健婦の仕事はデスクワークではない。座っていて片づけられる仕事は少ないのだ。結局は保健所にいるより外に出ている時間の方が長くなった。その間にはあの廃ビルの前も通った。思ったほどの動揺はなかった。茂のつくった『入り口』には、元どおりにフェンスがくくりつけてあった。
一日で片づく仕事の量ではなかった。この二日は中沢が出てきていない。中沢が不在であれば勤続年数からいって、秋生が係長代理を執り行うのが妥当だ。その秋生が十五日間入院していたのだ。もともと仕事量に比べれば人員が圧倒的に少ない保健所は、目が回るほどの忙しさだった。
それでも秋生は定刻になると、明日からの予定を組んでから外に出た。
中沢の自宅を訪れるつもりだった。
夕暮れから急に冷え込み、強い風が吹いていた。春の終わりを告げる風にしては、あまりにも冷たかった。
背を丸め、自らの胸を抱き締めながら秋生は先を急いだ。
舞い上がる埃《ほこり》に顔を背けながら、秋生は駅に着いた。風と風がぶつかり渦を巻き、券売機前にゴミが溜まっていた。ハンバーガーの空き箱と煙草の吸い殻とパチンコ屋のチラシとが、ぐるぐる回りながら悪辣《あくらつ》な相談をしている。
料金表で何度も値段を確かめ、秋生は切符を買った。
埃っぽい風を含んで列車はホームに入ってきた。先頭に立っていた秋生は、しかし座席に座ることが出来なかった。サラリーマンやOLで混みあっていた。が、ラッシュ時の殺気や終電近くの気怠《けだる》さがない。
秋生には車内が何かほのぼのとしているように感じられた。
闇はまだその本領を発揮してはいないからだ。
車窓から外を眺めながら秋生はそう思った。日が随分長くなった。町はまだまだ明るい。しかし、乾いた町は列車が進むごとに闇の中に沈んで行く。
途中で二度乗り換え、中沢が住む駅に列車が入ったときには、すっかり日が暮れていた。
かなりの人間がこの駅で降りた。この辺りは住宅街なのだ。ここから職場に通う人間は多い。
書き割りのように、駅前の商店街だけに活気のある町だった。一歩裏に入ると、廃墟《はいきよ》かと思えるほどに静かだ。
昼から夜へと変わる曖昧《あいまい》な時間。街灯もまだ明かりを灯していない。
闇は真夜中よりも深く見えた。
木造の家屋の玄関先に植木が並んだ古い街並みを抜け、狭い私道に折れる。
中沢の家はこの奥にある。
秋生は昔何度か中沢の家に遊びに行ったことがあった。その頃と近所の様子は変わりない。
中沢から、三年ほど前に改築したと聞いていた。そのローンを返すために嫌でも働かなきゃね。そう言って笑った中沢の顔を思い出す。
すぐに見つかった。
中沢と墨で書かれた表札がある。木造の二階建て。どこを改築したのかと思うほど外見は昔のままだ。築二十八年。六年前に病死した夫の残した、唯一の財産がこれだ。子供のいなかった中沢はここで一人暮らししていた。
郵便受けに新聞がねじ込まれている。やはり数日留守にしているのか。それとも玄関先にさえ出てこれない何かがあるのか。
秋生は玄関|脇《わき》のインターホンを押した。
中は静まり返っている。
入り口がサッシの引き戸に変わっていた。これがローンを組んだ改築の結果だろうか。
それを叩《たた》きながら、中沢を呼ぶ。
よほど声が大きかったのだろうか。
隣から痩《や》せた中年の女が出てきた。まんがのキャラクターが描かれたトレーナーに、膝《ひざ》の抜けた紺のジャージを着ている。
女は秋生を見て驚いた。無理もない。秋生も出来れば人に見せたくはない顔なのだ。
顔を背けるように秋生は会釈した。
「中沢さんなら留守みたいだよ。ここ何日か見ないから」
そう言うと、女は秋生に近づいてきた。
「あんたは?」
「中沢さんの職場の同僚です」
「ああ、あんたも保健婦さんか」
正体がわかってほっとしたのだろうか。女は笑みを浮かべた。
「で、その傷どうしたの」
無神経、というより、そういったことに気遣うという感覚が欠けた社会で暮らす者の、あっけらかんとした態度だった。
ちょっと事故で、と秋生が答えると「大変ねえ、あんたも」と女の話は始まった。
「あんた結婚してんの。あらそう。じゃあ中沢さんと一緒だ。女はたいへん。もうみんなそうよ。中沢さんもほんっと大変だよねえ。旦那《だんな》さん亡くして、もう……六年だっけねえ。女の一人暮らしは大変だよ。何回かさあ、スーパー筑紫《つくし》のみんなとカラオケ行くときに誘ったんだよ。ほら、あそこの店長独身だから。中沢さんにどうかなあと思ってさ。でも駄目だねえ。保健婦の仕事ってのは忙しいんだね。いつでも断られちゃって。女の独り身は良くないって思うんだけどねえ。何より、ほら、物騒だよ」
女は話し好きなのだろう。ひとりで話を続ける。
「でもさあ、何のかんの言っても、中沢さんも上手《うま》くやってたのかもしんないねえ。いや、四日ほど前だったかな。男の人が訪ねてきてたから。でも駄目だねえ。キャリアウーマンっていうのかね。ああいう学のある人ってのは何かと男と張り合っちゃうでしょ。あのときもどうやら喧嘩してたみたいだよ。ほら、見てのとおり壁がベニヤ一枚っきり、みたいな家だろう。お互いにさあ。だから声なんか丸聞こえ。男がさあ、それは間違ってるとかなんとか言ってるのを聞いたよ。何か、駆け落ちかなんかの相談だったんじゃないかなあと思ってんだけどねえ。だってその翌日から中沢さん見てないんだから。あらそう。中沢さん、仕事にも出てないの。じゃあ、決まりだわ」
「どんな人か見ましたか」
「それが残念なことに見てないの。惜しいことしちゃった」
隣の家から五歳ぐらいの女の子が出てきた。半袖のTシャツに赤いスカートを穿《は》いている。足に大きな大人用のサンダルを引っかけていた。
そのままちょこちょこと歩いてきて、女のトレーナーを掴《つか》んだ。
秋生の方をちらりと見てから、少女は、ご飯食べようよ、と女を引っ張る。
「こらあ、トレーナーが伸びちゃうだろ。わかったから。すぐに行くから」
少女はトレーナーを離さない。
「仕方ないねえ、ほんとに。じゃあ、話の途中で悪いけど」
女は少女の手をとった。
秋生は女に会釈すると、少女にバイバイと手を振った。少女が笑みを浮かべてバイバイと手を振る。
二人の姿が扉の奥に消えた。
静けさが来たときよりも重みを増した。
いったい誰が来ていたのだ。
中沢の家のサッシ戸をぼんやり眺めながら、秋生は考えた。
やはり中沢には恋人がいたのだろうか。だとしても仕事を休む必要はない。ましてや二人で逃げ出す必要もないだろう。
不倫……。
考えられなくもない。
金城が聞いたという子供の笑い声は、相手の男の子供。
では天使を信じるかと言った、あの台詞はどのような意味があるのだろうか。単なる比喩《ひゆ》なのか。まさか相手の男を天使に譬えたわけではあるまい。
考えながらサッシ戸にもたれた。
背中に押され、サッシ戸ががら、と隙間《すきま》をあけた。
鍵がかかっていないのだ。
秋生は周囲を見回した。誰もいない。
決断は早かった。
さっと戸を開き、中に入ると閉じる。
ぴしゃりとたてた音の余韻がしばらく秋生の耳に残っていた。
心臓の鼓動がうるさいほどに大きく聞こえた。
あんなことがあったのに、本当によくやるわよ。
自分自身、やっていることに対して驚きながらも感心していた。
中は真っ暗だった。何一つ見えない。
が、そのにおいはすぐにわかった。
甘ったるい、鼻の奥で絡まるにおいだ。快とも不快ともつかぬそのにおいを、秋生は懐かしいと感じる。そしておそらく同じにおいを、辻村は「恋愛に似たいとおしさをかりたてるにおい」だと言った。
幸彦と辻村の娘。それぞれの部屋に残されていたにおい。それと同じにおいが中沢の家からにおう。
天使を見た者たちが部屋に残したにおい。あるいは天使そのもののにおい。
そのようなものがあるはずがない。
秋生は自らの考えを否定した。
少し目が慣れてきた。
奥にある窓の隙間から、わずかばかりの光が漏れている。
床を爪先《つまさき》で探りながら前に進んだ。
何かにつまずいた。
それはカタカタと派手な音をたてた。
心臓が飛び出るほど大きく脈打った。一気に汗が吹き出る。
しゃがみ込んでそれをよく見た。
手で触ってみる。
木製の手押し車だ。押すと並んだひよこの人形が頭を下げて、餌《えさ》を突くような動作をする。
ここにも残されているのはまた玩具《おもちや》だった。
己れがいるところが広い土間であることがわかった。右横にまだ新しいキッチンがある。アルミの流し台が光っていた。
秋生の子供の頃はよくこんな構造の家があった。扉を開けると土間があり、そこに台所がある。昔の民家の構造をそのまま残して、戦後近代的にアレンジされた家だ。中沢もそれほど年寄りではないだろうから、この家は彼女か彼女の夫の趣味で建てられたものだろう。
高い段があってそこからが居間だ。
秋生は靴を脱いで部屋に上がった。足の踏み場がないほど散乱しているのは、やはり玩具だ。よほど慌てて出ていったのか、家の中はまったく整理されていなかった。鍵をかけ忘れているのも、そのせいなのだろう。
手探りで進むうち、秋生は何かに手を突っ込んだ。枯れ葉にでも触ったような感触がある。
よく見ると皿だった。料理皿の上に山盛りになっているのは煙草の吸い殻だ。中沢は煙草を吸わなかった。そのような悪癖とは縁のない女だった。
やはり誰か来客があったのだ。来ている間にこれだけの量を吸っていたとするのなら、かなりのヘビースモーカーだ。
手についたであろう灰を叩《はた》き落とし、それから思いついて吸い殻を一本ポケットに入れる。
電灯を点《つ》けたかったが、そんなことをすれば中に忍び入っていることを隣近所に告げて回っているようなものだ。
一階をゆっくりと見、触り、二階へと上がった。
玩具と菓子。
それが残されているもののすべてのようだった。
再び一階へ降る途中、階段に置かれていたものを見つけた。ビニールの袋に入ったそれは、どうやら紙おむつのようだった。
不倫相手の子供を育てていた。
常識的にはそれ以外のことは考えられないだろう。だが、どうしても秋生にはそれ以外の考えが浮かんでしまう。
幸彦の家で見た幼児の指。
あの部屋の天井裏にはなにかがいた。
あれと同じ何かがここにいた。そして幸彦が砂箱を用意していたように、中沢は紙おむつを使っていた。
あれと同じ何か。
玄関が開くと同時に天井裏に駆け上がることの出来る幼児。
妄想だ。
秋生は自らに言い聞かせた。
もう見るべき何もないであろう、と土間に降りる。戸を少し開いて周囲を見た。
誰もいない。
入ったときと同様、秋生は素早く外に出た。
ポケットの中を探った。
一本の吸い殻を取り出す。
白く斑《ふ》の入った茶色のフィルター。紙にはハイライトと書かれてあった。
失踪《しつそう》前に来た客はかなりのヘビースモーカーで、吸っていた煙草の銘柄はハイライト。
秋生には、これだけが中沢の失踪の原因を知る手掛かりだった。
中沢の家から帰宅し、秋生はすぐに警察に連絡した。
独身で子供もいない中沢は、両親も随分昔に亡くしている。姉がいたらしいが、十年も前に事故で亡くなっていた。彼女が消えて心配する親族は少ない。同僚であり友人でもある秋生が届けなければ、誰も警察に届け出る者はいないだろう。そう考えてのことだった。
秋生は警察官相手に事情を説明したが、犯罪との関わりが明らかにでもならない限り警察は動けませんと言われた。それでも自殺や事故死の可能性をほのめかし、パトロールの警官に見回ってもらうように頼み込んで、秋生は電話を切った。
十代の家出は行動範囲も狭く無計画なので、発見される確率は高い。興信所によっては十代の失踪者の八割を探し出してくるという。だが発見率は対象の年齢が上がるとともに低くなっていく。中年以降の行方不明は、本人が望んで出ていった場合が多く、しかもたいていは計画的だ。それなりの覚悟もしているだろう。犯罪との関連がなければ、まず見つからない。
娘の捜索依頼を出した辻村の気持ちが実感できた。
後はパトロールの警官が扉の開いていることに気づくことを願うだけだ。たとえそれに気づいたとしても、それが中沢の捜索につながるとも思えなかったが、それでも計画的な家出ではないことだけはわかってもらえるだろう。
窓を打つ雨の音が聞こえる。
中沢の家からの帰り道、しょぼしょぼと降り始めていた雨が、どうやら本降りになってきたようだった。
雨音を聞きながら、秋生は夕食の支度を始めた。
冷凍室からがちがちに凍ったオニギリを取り出す。茶碗一杯分を冷凍してあるのだ。大きなゴルフボールのようなそれを茶碗に入れ、解凍する。その間にタマネギやニンジンを刻んだ。
出来上がった野菜|炒《いた》めとご飯を卓袱台《ちやぶだい》に置き、熱い茶を一杯、湯飲みに注いだ。
手を合わせ、口の中でいただきますと言ってからふと金城のことを思い出す。
中沢のことを金城は知っているのだろうか。知っているのなら、彼のことだ。もう警察に連絡をするなり何なりの処置をしているに違いない。
手にとった箸《はし》を置き、秋生は金城の携帯電話の番号を押した。どうやら電源が切られているようだ。続けて金城の自宅に電話した。留守番電話がメッセージをどうぞと感情のない女の声で言った。今日何時になってもかまわないから至急連絡が欲しい、と告げて受話器を置く。
時計を見ると午後十時。
いったんは明日になってから連絡をとろうと思った。箸で茶碗の中に丸く固まっている飯をほぐす。だがすぐに止め、再び受話器を手にした。
金城の事務所の電話番号を押す。
呼び出し音が聞こえるか聞こえないかという間に、相手が出た。
「もしもし」
勢い込んだ声が聞こえる。
「あの、保健所の丸山ですけど」
「……丸山さん」
「毛利くん?」
「ええ、そうです」
沈んだ声で男は言った。
毛利は金城の手伝いをしている司法修習生だ。まだ若いが金城の話では優秀な男だということだった。秋生もよく知っている。何度か金城と三人で飲みに行ったこともある。僕がいないときはこいつに用件を伝えたらいい。何かのときに金城はそう言った。信用しているという口振りだった。
「金城さんはそこにいる?」
返事がない。
続く沈黙に秋生がもしもしと呼びかけるのと、毛利が話し始めるのとは同時だった。
「金城さん、亡くなったんです」
意味がわからなかった。時計を失くした、と言われているような気がした。
「それ、どういうこと」
「ついさっきのことです。自宅で発見されました」
「亡くなったって……」
「浴室で死んでいました。あの、今ちょっとごたごたしていまして、明日にでもこちらから連絡させていただきますので」
慌てて秋生は言った。
「今日中に連絡ください。何時でも、きっと朝まで起きていますから」
「わかりました。一段落ついたら連絡させてもらいます」
受話器を置いた。
いろいろなことが起こりすぎる。
食卓に並ぶ夕食を見ながら秋生は思った。食欲は失せた。それを見るのも嫌だった。
つくったばかりの野菜炒めと湯気を立てるご飯をごみ箱に捨てる。汚れた食器を乱暴に流しに置いて、秋生は電話の前に腰を降ろした。
金城が死んだ。
信じられない、というのが実感だった。金城ほど『死』などというものから程遠い男もなかった。
事故死なのだろうか。それとも強盗か何かの仕業。風邪もひかない、というのが自慢だったが、それでも病気か何かだったのだろうか。
まともに考えることが出来なかった。悲しみすら湧いてこない。ただ戸惑うばかりだ。
最後に金城と会ったのは見舞いに来てくれた一週間前のことだ。いつものように馬鹿な話をして別れた。そのときは仕事の話を一切しなかった。
岸田茂による暴行事件ではいろいろと世話になっていた。その礼もしていない。
秋生は立ち上がり、意味もなく狭い部屋をぐるぐると歩き回った。窓際で立ち止まり、外を見る。雨はますます激しく降り始めていた。闇を映す硝子《ガラス》に、尾を引く雫《しずく》が競い合うように駆けていく。
今日着ていたスーツが壁に掛けてあった。あすクリーニングに出そうと思う。思いながら、こんなときにおかしなことを思いつくものだと人ごとのように考えている。
ポケットを探り、ハンカチだの小銭だのを取り出した。指先が何かに当たった。取り出すと、それは中沢の家から持ってきた煙草の吸い殻だった。ティッシュで丁寧に包まれていた。
もし中沢が何らかの事件に巻き込まれているのなら、これは重要な証拠となるだろう。そして家に忍び込んで吸い殻を持ってきた秋生は、ただではすまない。
あの家で何か事件が起こったのだろうか。
隣人の言葉を信じるなら中沢の失踪《しつそう》前夜、四日前の晩に中沢宅を訪れた男がいる。
ハイライトを吸うヘビースモーカー。
秋生はそのねじれた短い吸い殻をもう一度よく見た。
丁寧に何度も灰皿に押しつけ火を消す映像が浮かぶ。ちびた吸い殻がさらに折れねじ曲がる。灰皿一杯の吸い殻の山、ハイライト、ヘビースモーカー。
秋生の知り合いの中でただ一人、それに該当する人物がいることを思い出した。
金城だ。
そういえば以前中沢の話が出たとき、金城は一度彼女の家を訪ねてみるつもりだ、と言っていた。
その夜中沢の家を訪れたのは金城だったのか。
そしてその翌日中沢は行方不明になり、金城はその後に死んだ。
隣の主婦に言わせるなら、これは間違いなく無理心中をし損ねたのよ、ということになるだろう。しかしたとえ中沢と金城が恋人同士だったとしても、心中する理由がない。
金城は独身だ。一度も結婚していない。何度か見合いもしたらしいが、どれも上手《うま》くいかなかった。噂《うわさ》では学生時代|手酷《てひど》い失恋をしてそれ以来女性不信になったという話だった。原因は何にしろ、金城は女性の気配のしない男だった。秋生と二人で飲みに行っても、彼女は誘われる気遣いなどまったくしていなかった。確かに金城が中沢とつきあっていたとしてもおかしくはない。昔からのつきあいだし、家も近所だ。それにもかかわらず、中沢の恋人の噂が出たときに金城の名前は出てこなかった。つまりは金城という男はそんな男だったということだ。
恋愛関係にあったにしてもなかったにしても、その夜に何が起こったのかを推測することは難しい。
どうして中沢は慌ただしく家を出なければならなかったのか。中沢が家を出たことと、金城の死とは関係があるのか。
金城の死が自殺か他殺か事故死か、それすらもわからない今、このような推測をすること自体まったくの無駄だろう。だが無駄だからしないというものではない。
秋生はあれこれと考えながら、毛利からの連絡を待った。
風呂《ふろ》にも入らず、電話の前で毛布一枚を引っかけて眠ろうとしたのが午前二時。眠れぬままに推測憶測妄想だけが延々と頭の中を巡り巡って午前四時。
ただでさえ暑くじめつく寝苦しい夜だった。雨音は徐々に静まっていくが、それにつれて湿度だけが上がっていく。
毛布を剥《は》ぎ取り足で蹴《け》り、湿ったパジャマを胸まで捲り上げ、あげくに大きく伸びをして起き上がったのが午前五時。
もうすぐ夜が明ける。
毛利から連絡があるにしてもそれからだろう。それまでたとえ一時間であろうと寝ておくべきだ。そうは思うが一向に眠気が差さない。
本来なら一番涼しいであろうこの時間に、窓を明けても風さえない。汗が脂が一枚皮となって身体にへばりついている。
風呂に入ろうと行水桶《ぎようずいおけ》ほどの浴槽に湯を張った。
膝《ひざ》を抱えて湯船につかる。
まったく何の前触れもなく、涙が流れ出た。
そして子供のようにしゃくり上げながら、秋生は声を上げて泣いた。
夜が明けるまで。
快晴だった。
雲のない青空を見るだけで、言いようのない不安感に襲われる。こんな日に二度も酷い経験をしたからだ。
顔を洗い歯を磨き、一応の身支度を整えてから、秋生は朝食の支度を始めた。支度といってもパンを焼いてココアをつくるだけだ。造作もない。
小さく切ったフランスパンにバターをたっぷりと塗って一口|齧《かじ》る。さすがに夕食抜きが堪《こた》えているらしく、旨《うま》い。砂糖を溶けきれぬほど入れた甘いココアをすする。
これもまた旨い。甘味が胃の中に染みる。
甘いココアとパン。これが朝食の定番だ。あまりコーヒーばかり飲んでいては身体に悪いのではないかと思いココアに変えた。ちょうどココアが健康に良いというような話がテレビなどで言われ出したときだった。今となってはそんな話を信じてもいないのだが、一度習慣になってしまうと変えづらい。ココアの甘みも、何となく一日のエネルギーになるような気がして気に入っていた。
良い天気。おいしい朝食。
秋生には、これらが懲罰のように思えた。人は所詮《しよせん》身体の奴隷である、と思い知らされているような気がした。
どれだけ高邁《こうまい》な思想を持っていても、腹は減る。肉体が人のすべてを定めるのだ。生まれつき身体がそうなっているのなら、そのようにしか行動できない。秋生は苦痛が、誇りや自尊心などというものを遥《はる》かに凌駕《りようが》するのを自ら経験した。そして恥知らずで良心を持たず暴力を楽しむような肉体を持って生まれてきた男を見た。
人の心とは身体に貼《は》られた一枚の膏薬《こうやく》のようなものに過ぎないのだろうか。
熱いココアを飲み干す。
喉《のど》から食道、胃へと向けて鈍い引きつるような痛みが降下していく。
テレビをつけっぱなしにしていた。時計代わりにいつも見ているニュース番組だ。弁護士と死の二文字が見えた。見えたような気がした。
リモコンを手にして音量を上げる。
――金城さんは三日前から事務所を訪れておらず、不審に思った同僚が金城さんの自宅を訪ねて発見したらしいんですが、場所は浴槽の中。死因は溺死《できし》だそうですよ。心臓でも悪かったんでしょうかねえ。金城さんは四十六歳。私もそろそろの年齢なんで人ごとじゃあありませんよ、ほんと。
中年のタレントがセットの壁に貼られた新聞の一部を指示棒で指しながら喋っていた。
溺死。
心臓が悪いなどとは聞いていなかった。
浴槽ですべって頭でも打ったのだろうか。
電話のベルに、秋生は椅子《いす》から飛び上がった。
手に持ったままだったトーストを落とす。バターのついた面が下だ。パンは卓袱台にぺたりと貼りついていた。
それを横目で見ながらティッシュを二、三枚取って、指についたバターを拭《ぬぐ》い受話器を取る。
毛利だった。
「遅くなってすみません」
「今、テレビでやってたわ」
「そうですか。どちらにしても三面の小さな囲み記事扱いでしょう。単なる事故死ですからね」
不貞腐《ふてくさ》れたように毛利は言った。
「詳しい話を聞かせてもらえる」
「もちろん。そのために電話したんです」
金城が四日前から事務所の方に来なくなった。連絡なしにだ。
自宅に連絡を入れても留守だった。携帯電話にも出ない。
毎日、事務所の誰かが自宅をのぞいていた。部屋に明かりが点《とも》っている。が、インターホンを押しても、大声で呼びかけても誰も出てこない。やがて郵便受けには郵便物と新聞があふれだした。
いくら考えても、金城が何もかもおいて急にどこかへ出ていく理由を思いつかない。そんな話は誰も聞いていなかった。それに急用でも出来たのなら電話一本でも事務所に連絡を入れるはずだ。金城がいい加減なことをする人間でないのは、事務所の誰もが知っていた。
事故なのか。
あるいは誰かに拉致《らち》された可能性も考えられる。事務所がいくつか抱えている事件の中には、恨みを買うような事件もあるのだ。過去には脅迫されたり放火されそうになったこともあった。
何にしろ、自らの意志で失踪したとは考えられない以上、家を確認しておくべきだとの話になった。電灯が点《つ》いたままであることが気掛かりだった。
毛利と彼の事務所の先輩が、錠前師とともに金城の自宅を訪れた。昨日の夜のことだ。
錠前師、あるいは鍵師と呼ばれるこの男は、どんな鍵でも開けると評判の男で、警察の依頼も引き受けているという。
――夜逃げとかさあ、家賃滞納とかさあ、そういうのが多いね、この仕事。
世間話をしながら、男はあっと言う間に鍵を開いた。
扉を開け中に入る。
ほとんどの部屋で電灯が点いている。
居間ではテレビがつけっぱなしだ。テーブルの上にはすっかり乾燥したトマトがへばりついた皿と、ウイスキーの入ったグラスが置かれてあった。
「入ってすぐに臭いがしたんで、先輩と顔を見合わせました。やっぱり、ってね」
「においってどんなにおい」
「どんなって、腐った沢庵《たくあん》みたいな臭いです。つまり、その死臭ってやつですよ」
天使のにおいではなかったわけだ。
「そう、御免、話の腰を折って。それでどうなったの」
臭いは部屋の一番奥からしていた。
そこに浴室があった。
吐き気を堪《こら》えて毛利は浴室の扉を開いた。浴槽の中に、金城はうつ伏せに倒れていた。全裸だった。溺死体《できしたい》の損傷は激しい。緑色のそれは浴槽一杯に膨れ上がっていた。
とうとう毛利は我慢できず、トイレに駆け込んで嘔吐《おうと》した。
「それですぐ警察に連絡を入れました。警察で事情を話して、いったん事務所に戻ったんですけど、戻ると同時に丸山さんから電話があったんですよ」
「御免ね、取り込んでいる最中に」
「いいえ、どうせ丸山さんには連絡するつもりだったんですから。いろいろと聞きたいこともあったし」
「聞きたいことって」
「金城さんから、最近何か変わったことがあったとか、聞いてませんか」
「変わったこと……。誰かに脅されてるとか、そんなこと?」
「ええ。他にも何か心配事があったとか、他に何でもいいんですけど」
「テレビでは事故死の可能性が高いって言ってたけど、毛利くんは違うと思ってるの」
「はっきり言って事故死ではないと思います。我々に隠していたら別ですけど、金城さんは心臓疾患などなかったし、急死するような持病もなかった。ちょうど一月前に事務所のみんなで健康診断をしたんですよ。金城さん、何にも引っかからなかったらしくて、その歳《とし》でその身体なら当分死なないと太鼓判を押されたって笑ってましたから……」
そのときの金城を思い出しでもしたのか、毛利は鼻をすすった。
「病死じゃなくても事故は? 浴槽で滑って頭を打ったりすることって良くあるんじゃないの」
「あるでしょうね。でもね、金城さんはうつ伏せで死んでたんですよ。前に倒れて打つところと言えば額ぐらいです。額って頭の中で一番堅いところだ。後頭部でも打っていたら気絶したとかも考えられるでしょうけど、前に倒れて気を失うなんてことがあるとは思えませんね。いずれ検死結果が出たら打撲の痕《あと》があるかないかわかるでしょうけど、十中八、九事故じゃあない」
「まさか誰かに殺されたって思ってるわけじゃあないでしょ」
「……そうですね。他殺は考えられない。どこもかしこも鍵はかかっていました。それは何度か金城さんの家に行ったものが確かめてます。どこか入れるところはないかって。でもそんなところはなかった。ああ、みんなは気がつかなかったんですが、家の裏と隣の家との間に三十センチ足らずの隙間《すきま》があるんです。それでそこに浴室の窓があった。これは開いてたらしいんです」
「それじゃあ、そこから」
「浴室の窓は、あの、なんて言うのかな。上にあげてつっかい棒で止めるやつ」
「突き上げ戸ね」
「ええ、それです。窓の隙間は二十センチほどですか。狭い隙間の奥ですから、男なら窓のある場所に行き着くことさえ難しいですよ。ましてやこの窓から入るのは女性でも無理でしょうね」
「そうね。でも……」
「でも、何でしょうか」
「でも、子供なら」
毛利は黙り込んだ。
「……可能性はないんじゃないですか。子供が入るにしてもあの隙間は小さすぎる」
小学生ぐらいの子供ならね、と秋生は口に出さず考えた。でも、もっと小さな子供なら。
秋生はその考えを自ら否定して、話を進めた。
「単に可能性の問題よ。それで」
「それで、まあ仮に小さな人間が入ったとしてもですよ、そんな小男に、あるいは女に金城さんを溺死させることはまず出来ない。金城さんは喧嘩《けんか》が強いんですよ。いつだったかな。金城さんがからんできた酔っぱらいを三人、あっと言う間に倒しちゃったのを、僕見たことがあるんです。何でも空手をやってたとかで。金城さん倒した後で照れくさそうに言ってましたよ」
また鼻声になってきた。
「亡くなって放置されていた場所の窓が開いていたら、近所の人にも臭いがしたでしょうね」
秋生は話題を変えた。
「家と家との隙間で、前に何度か猫が死んでたことがあったんですって。だから今度もそうだろうって話してたらしいんです。どこかで人でも死んでるんじゃないかと、冗談でいう人はいたらしいですが……。腐臭がしたぐらいじゃあ、まさか近所で人が死んでるとは思わないんでしょうね。まあそれでもあの状態ですから、我々が家に入らなくても、遅かれ早かれ警察に連絡がいっていたでしょうけどね」
「病死でも事故でも他殺でもない。それじゃあ毛利くんは、何があったと思ってるの」
秋生は話を元に戻した。
「わかりません。警察は事故死と考えてるみたいですね。でも僕はさっき言ったような理由で事故じゃあないと思ってる」
「自殺、だと思ってるの」
「考えられないこともないな、ぐらいには思ってます」
「でも、一人で溺れるなんてことが出来るかしら」
「これも検死解剖待ちですが、睡眠薬を大量に飲んで、何かで前向きに倒れるように細工しておく、とかね。方法はいくつか考えられます。でも、それでも不自然です。遺書もありませんしね。ですが自殺なんてことを考えるときはどこかがおかしくなっているときですから……」
「それで金城さんに変わったことがなかったかって聞いたのね」
「ええ、そうです。何かご存じないかと思って」
「中沢さんには連絡してみた?」
「いいえ、なんだか僕、あの人が苦手で。自殺したのでは、なんて言ったら怒られそうな気がして」
「怒られることはなかったわ。実は中沢さんも四日前から行方不明なの」
驚く毛利に、秋生は事情をかいつまんで説明した。天使|云々《うんぬん》といった話はもちろんしていない。
「……金城さんが死んだ日に中沢係長が失踪、ですか。警察が聞いたら喜びそうですね」
「いずれは調べに来るかもね。毛利くんは、その日金城さんが自宅に帰るまで何をしていたか知ってるの」
「仕事を終えて帰ってからのことですから、僕には全然。金城さんと中沢さんのつながりに気づいたら、その辺は警察が調べるでしょうね。あっ、そうだ。さっき言ったと思いますけど、金城さんは全裸で死んでいたんですよ。居間にはトマトのスライスと飲みかけのウイスキー。テレビもつけっぱなしだった。テレビを見ながらトマトをつまみに一杯やっていたわけです。その途中で、急に風呂で死のうなんて考える人間がいるとは思えない。だから自殺だとも思いにくいんですよ。綿のガウンが浴室の前に脱ぎ捨ててあったんですが、金城さん、風呂上がりはすっぽんぽんにガウンまとって一杯引っかけるんですよ。つまりね、状況だけ見れば金城さんは風呂上がりなんですよね。それがどうしてまた風呂に入らなきゃならなかったのか。それだけみても事故や病死、それに自殺も考えにくい。……丸山さん、いったい金城さんに何が起こったんだと思いますか」
秋生は答えなかった。途中から毛利の話を聞いていなかった。
「丸山さん……聞いてます?」
「あっ、はい、聞いてるわよ。御免、また後で電話するわね。急用を思い出したの。それじゃあ」
秋生は電話を切った。
テレビに見入っていたのだ。
新聞の切り抜きを前に、さっきのタレントが感想を述べていた。
彼の指している記事の見出しはこうだ。
『幼児|轢《ひ》き逃げ事件、容疑者逮捕される』
深夜の国道で生後七、八カ月の幼児が轢き逃げされる事件があったらしい。幼児の死体は国道脇の草むらに転がっていた。それが発見されたのは三日前の早朝だ。事故は前日の深夜に起こっていた。
国道に幼児を置き去りにした人物はまだ捕まっていなかったが、轢き逃げ犯が今日自首してきたらしいのだ。
事故のあった道路は、昨夜秋生が訪れた駅のすぐ近くの国道だ。
幼児が轢かれたのは四日前の晩。
金城が死に、中沢が失踪した、その日だ。
中沢と金城の自宅は同じ町内にある。
二つの家をつないだ線を、その国道は横断していた。
秋生の頭の中でひとつの映像が形を成そうとしていた。
それは恐ろしくグロテスクな映像だった。考えたくもない悪夢のような妄想だ。
深夜、金城の家。
金城は風呂上がり、全裸でテレビを見ている。酒を飲んでいた。ずいぶん酔っていたのかもしれない。
風呂で声がする。
子供の声だ。
小さな、幼児の笑い声。
不思議に思って金城が様子を見に行く。扉を開き、中に入る。すると……。
すると一斉に赤ん坊が襲いかかってくる。それは形だけは七、八カ月の幼児だが、その動きは素早い。力もある。倒され、浴槽に転がり込む。金城には戸惑いがある。幼児に対して暴力など振るえないからだ。だが幼児たちに躊躇はない。飛びかかり、殴り、髪を掴み、ついに金城は浴槽に沈む。ろくに抵抗も出来ないまま。
目的を果たした赤ん坊たちは、浴室のわずかな隙間から這い出る。まるで白い蜘蛛《くも》のように。
闇に乗じ、幼児の群れが深夜の街を這っている。闇から闇へと、猿のように移動する赤ん坊。誰かが見たとしても信じられない情景だろう。
深夜の国道を、幼児は列をなして走りすぎる。唯一危険な場所だったかもしれない。だがここを渡らなければ帰ることができないのだ。中沢の自宅まで。
そこに車が来る。
ヘッドライトに照らされる路面。
振り向く子供の笑顔。
急ブレーキ。
焦げるゴムの臭い。
走り去る赤ん坊たち。
常識では考えられない話。いや、常識以前の馬鹿馬鹿しい妄想そのものだ。
出勤の時間が迫っていた。
秋生は慌ただしく食器を片づけ、家を飛び出た。
保健所ではまさに忙殺されそうな仕事が秋生を待ちかまえていた。そして秋生はそれをこなしていく。目の前にある仕事を順に片づけていくこと。そのことにだけ秋生は集中した。他のことを考える余裕がないことに、彼女は感謝した。
狭い公園だった。
遊具も古く、数も少ない。それでもこの周辺で公園といえばここぐらいしかない。そのため朝から昼過ぎにかけては母子連れで一杯だった。
歓声を上げる子供と立ち話をする母親たちに占領されたような公園だが、それ以外の人間もここを利用する。
昼休みになればOLや近所の工場の工員たちが弁当やパンを持って集まってくる。少し時間が早ければ、水飲み場で洗濯する浮浪者の姿も見られる。
ベンチに腰を降ろし文庫本を見ている男も、そんな公園の点景のひとつだった。
昼休みの時間が終わろうとしていた。新入社員らしい真新しい制服を着たOLたちが、ベンチを立ち、スカートを叩《はた》いていた。
男は灰色のスウェットスーツにジョギングシューズ、首にスポーツタオルを掛けている。腰に下げた布製のウエストポーチはかなり大きめだ。
文庫本を手にしてはいるが、あまり読書に集中しているようでもなかった。たびたび本から顔を上げ、何げなく周りの様子をうかがっている。
その視線が一人の母親に向けられ、止まった。
若い母親だ。赤茶けた髪を三つ編みにしているから、よけい幼く見えた。まだ成人式を迎えていないかのようだ。
子供を胸に抱いていた。首も据わっていないような乳児だった。
子供はぐっすりと眠っているようだ。
ミキハウスのトレーナーにジーンズ姿のその女は、木陰で別の母親と喋っていた。
――そっちに行っちゃ駄目よ。
その母親が、走り逃げる子供を追って駆けていく。
一人残された女は、公園の中央に建てられた柱の上の時計を見る。そして子供の背中をぽんぽんと叩きながら歩き出した。
男がそれを目で追う。
公園の入り口付近に、自転車とベビーカーが雑然と並べられてある。その中から、女は一台のベビーカーを取り出し子供を乗せた。子供が手足をもぞもぞと動かしだした。目が覚めたのだ。
きつい陽射しを見上げ、幌《ほろ》を掛ける。
さっきの母親が、暴れる子供を後ろから抱えて戻ってきた。それにお先にと声を掛けて、女はベビーカーを押した。
公園から女が出るのを見計らって、男は立ち上がった。
女に続いて公園を出る。
公園を出て大通りを渡り、だらだらした坂を下ると商店街のアーケードが見えてくる。その入り口付近にスーパーマーケットがあった。商店街の歴史とともにある、古いスーパーだ。
そのスーパーへと、女はゆっくり歩いていった。時折子供へ何か話しかける。
夏の始まりの陽射しが気怠《けだる》い午後だった。何もかも真白く見せる陽光が、アーケードで途絶える。
狂った露出に、女は一瞬立ち止まった。ついでに取り出したハンカチで顎《あご》から首を拭《ぬぐ》う。そして幌を上げ、子供の顔を覗《のぞ》き込んで微笑《ほほえ》んだ。
スーパーの隣に駐輪場がある。スーパーの裏口に通じる単なる空き地なのだが、それでも駐輪場の看板が掛けてあった。隙間なく停められた自転車を、警備員の制服を着た老人が整理していた。
女はベビーカーをそこに停め、子供を抱き上げた。待ちかまえていたように警備員がやってきて、ベビーカーを隅にやる。
母子はスーパーに入っていった。
スーパーの斜め前にカメラ屋がある。男はそのショウケースを眺めていた。近くに安いDPE屋が何軒か出来た。昔ながらのカメラ屋は、それなりに対抗手段を考えたのだろうか。ウインドウの中に並べられているのは中古の高価なカメラばかりだ。店主は専門店化と言いたいところだろうが、カメラ同様店も古ぼけて見える。
男にしても中のカメラを見ているわけではなさそうだ。そこから、ショウケースのガラスに反射して、スーパーの入り口近くが見えるのだ。
二十分ほど経っただろうか。
女は子供を片手で抱き、大きな白いビニール袋を三つ、もう片手で下げてスーパーから出てきた。袋をベビーカーのカゴに詰め込み、入らない分はハンドル部分につけたフックに引っかけた。
それから赤ん坊になにやら話しかけてから、ベビーカーに乗せる。
何か買い忘れてでもいたのだろうか。女は再びスーパーに入っていった。
男がカメラ屋から離れた。
まっすぐ駐輪場に近づいていく。
緊張しぎこちない様子は、しかし誰にも気づかれない。
男は何げなさを装い、赤ん坊の乗ったベビーカーに手をかける。近づいてきた警備員が、自転車を退けて道をあけてくれた。
男は警備員に軽く会釈し、その場を立ち去った。
女が外に出てくるまでの、ほんの一、二分の間の出来事だった。
夏の気配が近づいていた。
日は長い。その長い日を使い切っても、仕事の終わりは見えてこなかった。適当な区切りを見つけて、秋生は帰る踏ん切りをつける。
使われていない会議室で喪服に着替えた。十年以上前につくったものだが、それほど体型が変わっていないようだったのでほっとした。
ほろ酔いのサラリーマンたちと列車に揺られ、秋生は斎場へと向かった。金城の通夜があるのだ。
受付に毛利が座っていた。
憔悴《しようすい》しきった顔で彼は秋生に頭を下げた。目蓋《まぶた》が腫《は》れ、目が赤く充血している。今まで泣くだけ泣いていたのだろう。将来が有望なこの若き弁護士の卵が、これほどに涙もろいとは思ってもみなかった。
喪主は八十になる金城の父親だった。その父親を中心に、用意された座敷では宴会が始まっていた。両親とも笑顔で話をしていた。その輪に加わらず、端の方で座っていた秋生を父親が手招きした。断るのも気詰まりで、秋生は失礼しますと、車座の一員となった。
「で、お嬢ちゃんはどちら様でしたか」
確かに八十になる男から見ればお嬢ちゃんかもしれない。己れでそう納得して丸山と申します、と答えた。ああ、あの看護婦の、と父親は大声で言った。いいえ、保健婦ですと訂正した秋生の声はあまりに小さく、続けて話し出した父親の声に掻《か》き消された。
「いつも息子はあなたのことを誉《ほ》めておりましたよ。優秀な看護婦さんだと」
今度は訂正もしなかった。
「いやあ、どうやら息子はあんたに惚《ほ》れとったみたいですなあ。ウチに電話があるときには必ずあなたの話が出る。美人で仕事ができて賢くて……。しかしあの馬鹿、誰に似たんだか女のことはからきし駄目でねえ。あなたにもそんな話は一言も言ってなかったんじゃあないかな」
初耳だった。それが表情でわかったのか、父親は一人|頷《うなず》いた。
「でしょうなあ。ほんとにあいつは馬鹿だ。こんな綺麗《きれい》なお嬢さんを口説きもしないで死にやがった。今度あなたの枕元《まくらもと》に立つかもしれませんよ」
「達ちゃんなら、化けて出ても好きの一言が言えないんじゃないですか」
中年の女がそういって笑った。
達生。それが金城の名だ。
話題はそれから金城の初恋の話に移った。そして集まったものたちはこぞって金城のおかしな失敗談だの、酒の席での暴れぶりだの、少年のときの武勇談だのを愉しげに語っていった。
父親は燥《はしや》いでいた。あの馬鹿が、と何度も悪態をついて酒をあおる。呵々《かか》と大笑いする。金城を一廻《ひとまわ》り小さくして白髪にしたような父親の太鼓腹が、そのたびにゆさゆさと揺れた。そうしていなければ、死にたくなるほどの哀しみに襲われるのであろう。それが秋生には痛いほどわかった。この場にいる誰もがそう考え、明るく宴会を続けているのだろう。
次第にいたたまれない気持ちになって、秋生は輪から抜け出した。
棺《ひつぎ》の中の金城にお別れをしようかと祭壇に近づいたが、そこで足が止まった。金城の死に顔を見る勇気がなかった。
じっと立ち竦《すく》んでいると毛利に声を掛けられた。誘われるままに斎場近くのファミリーレストランに入る。
いつものように秋生はコーヒーを頼んだ。
店内を暗く感じるのは、荼毘《だび》に付されるであろう金城のことを考えているからばかりではない。
このレストランでテーブルを囲んでいる者の大半が喪服を着ているからだ。
「びっくりしたでしょう、宴会が始まってて」
「そうね。でもみんな金城さんのことが好きで、本当に悲しんでいるのがわかるから……いい人ね、金城さんのお父さん」
「金城さんにそっくりでしょ。照れ屋で、楽天的で、明るくて、寂しがり屋で、見てると、あの金城さんがそこにいるような気がして。歳とって、昔はいろいろあったなあって話してるようで」
毛利の目が見る見る潤んできた。
「あれから何かわかった?」
秋生は話題を変えた。ここでするには不謹慎な話題だとは思ったけれど、目の前で男に泣かれるよりはましだった。
「検死結果が出ました。とはいっても詳しい結果が分かるのは一月ほど先になるらしいですけど」
「どうだった。事故だという証拠は出てきたの」
「脛《すね》に打撲の痕《あと》が。脛を打っても気絶はしません」
「痛いでしょうけどね」
「そう。もしかしたらそれで風呂に頭から突っ込んだかもしれない。でも、それなら起き上がればすむことです。それから、丸山さんの言ったこと、冗談じゃあなくなりそうなんです」
「私の言ったこと?」
「子供ですよ」
「子供……。ああ、子供なら忍び込めるっていう話のこと」
毛利は大きく頷いた。
「でもあれは君が不可能だって言ったじゃない」
「歯形があったんです。小さな小さな歯形が。まあ、事件と直接関係あるかどうかはわかりませんが……。これ聞かされたときは、なんだか腹が立ったんですよ。つい怪談じみたことを考えてしまう自分が、ふざけてるような気がしたんでしょうね。まあ、でも事実は事実です……。丸山さん、聞いてます」
「えっ、ああ、ああ。聞いてるわ」
「丸山さん、いつも僕の話をいい加減に聞いてるんだからなあ」
「そんなことないわよ」
言いながらも、今朝浮かんだ映像が頭をかすめる。
国道を這《は》う幼児たち。
「警察の見解は相変わらず事故死のようですね。絶対にそれはない。だからといって小さな子供が犯人と思ってるわけじゃあないですけど。そうだ、丸山さん。アカンボさんの話、ご存じですか」
「何、それ」
「最近|流行《はや》ってる下らない怪談話です。いわゆる都市伝説ってやつですかね。口裂け女とか人面犬とかと同じですよ。深夜パトロール中の警官が、道を白い物が横切るのを発見して後を追うんです。そうしたらどう見ても一歳足らずの赤ん坊が立って、ごみ箱の蓋《ふた》を開けて覗《のぞ》き込んでるんですって。それでそれが警官の方をくるりと向いて『何か用?』って言うらしいですよ。これがアカンボさん。他にもいくつかバリエーションはあるけど、大筋は似たようなものです。誰かが素早く動く白い物を発見して、追いかけると赤ん坊がいて何かひとこと言う。それだけのものなんですが、最近いろんなところでこの話を聞きますね」
「見た人がいるのかしら」
「アカンボさんをですか」
秋生は頷いた。
「友達の友達が見た、とか、母親の友人の子供が見た、とか、もっともらしい話が必ずくっついてますけど、間違いなくこれはデマ。根も葉もない噂《うわさ》ですよ。その友達の友達とやらに聞いても、また、実は私の友達の友達の、とか言い出すに決まってます」
「そうかしら」
「そうに決まってますよ。嫌だなあ。丸山さん、この手の話を信じるタイプなんですか」
「そういうわけじゃないんだけど」
根も葉もない噂。確かに噂とはそういうものだ。火のないところに煙が立つのがこの手の噂だ。口裂け女の噂の出所を探っても、本物の口裂け女に出会うことはない。人面犬にしても然《しか》り。アカンボさんというこの噂にしても、話の元になる目撃者がいるはずもない。
それが理性的な結論だ。
だが、秋生にはどうしてもそれが正しい結論だとは思えなかった。
秋生に沈黙が続いた。
毛利がそろそろ斎場に戻りますと言う。
私も、と秋生は熱いコーヒーを一気に飲み干した。
斎場に戻り、金城の両親に挨拶《あいさつ》をすると、秋生は電車のあるうちにと、帰路についた。
時期を失して昼も夜もろくに食事をしていなかった。通夜の席で勧められた巻き寿司を二、三個|抓《つま》んだ程度だ。家に戻ったところで買い置きも何もない。商店街のいつもの惣菜屋でおかずを買おうにも、商店街が開いてるはずもない。
仕方なく秋生はコンビニで弁当を買って帰った。
擦《す》り切れた雑巾《ぞうきん》並みに草臥《くたび》れていた。食べて風呂に入ってすぐ寝る。
そうするつもりだった。
弁当を平らげた頃にはもう目蓋が重くなり、いますぐにも眠りたいところだった。が、その場で横になりたい誘惑を振り切って風呂に入った。
失敗だった。
すっかり目が覚めてしまった。何か悪い薬でも飲んだかのように眠気が吹き飛んでしまっていた。
それでも蒲団を敷き、パジャマに着替えてみた。横になって明かりを消す。
無駄だった。
薄闇《うすやみ》の中でじっと蛍光灯を眺めている。そうなると、嫌でもよけいなことを考えてしまう。それが嫌さに身体も頭も酷使したのだが、何の役にも立たなかったようだ。
身体は疲れているのに、頭が冴《さ》えわたっていた。
枕元の目覚まし時計を掴《つか》んで、見る。
デジタルの数字が午前○時を示していた。
よいしょ、と声を掛けて身体を起こした。蛍光灯から下がっている紐《ひも》を引っ張る。いやいやをするように蛍光灯はまたたく。またたくがなかなか点《つ》かない。
不規則に点滅する光に苛立《いらだ》ちが増した。
蒲団をはねのけ、すっくと立ち上がる。
「電話しよう」
言って初めて決意した。
それに合わせたかのように明かりが灯った。
名案、というところだろうか。
秋生は名刺入れを探し出し、一枚の名刺を取り出した。黄ばんだ古い名刺だ。
大学教授の肩書きを持つその名前。
辻村貢。
天使の正体をあの男は知っているのだろうか。則子と中沢に何が起こっているのか知っているのか。そして金城に何が起こったのかを説明できるのか。
すべての鍵をあの男が握っている、かもしれない。
あのときは怒りに委せてそのまま帰ってしまった。しかし、話だけでも最後まで聞くべきではなかったのか。
秋生は受話器を手にした。
非常識な時間であることは承知している。だがそれ以前に非常識な態度をとったのは辻村だ。
眠れぬ苛立《いらだ》ちに委せて、秋生は名刺の裏に書かれた番号を押していく。
呼び出し音が鳴った。一回、二回、三回。眠っているのかもしれないと思いながら、それでも待った。十五回を越えたとき、この電話番号はでたらめなのか、と思った。途中から意地になった。意地になってベルを鳴らし続けた。受話器を外したまま寝てやろうかとも考えた。
しかしそれで大事な連絡が聞けなかったら馬鹿らしい。
悩みながら、それでも受話器を降ろそうとはしない。
まだまだ秋生は眠れそうになかった。
暗い部屋だ。
どこかから拾ってきたような電気スタンドが一灯。その他に明かりはない。
温気《うんき》に似て重くのしかかるその臭いが部屋を満たしている。朽ちた大樹が腐敗していく臭い。あるいは老臭。
狭い箱のような部屋だ。居すわった西陽がこの部屋で寝汗をかいている。
昼の熱気が深夜になってもこもっているのは、その男が帰宅してからずっと窓を閉め切っているからだ。
男は畳の上に正座していた。目の前には四つ折りにした毛布が敷かれてある。そしてその上には赤ん坊が寝かされていた。
静かに小さな寝息をたてている。
愛くるしい寝顔を、しかし男は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ睨《にら》みつけていた。
脂汗が一筋。
こめかみから頬《ほお》を伝い顎《あご》に雫《しずく》をつくった。
ぽたり。
落ちた雫が湿気た畳に黒々と痕《あと》をつけた。ジャージの上下はぐっしょりと汗を吸い闇の色と化していた。
ぽたり。
再び汗が滴る。
男はそれを拭《ぬぐ》おうともしない。おそらく汗をかいているという感覚さえ失せているのだろう。
できる。
男は小さくそう呟《つぶや》いた。
私にはできる。
連れて帰ってすぐに赤ん坊が泣き出した。慌てて抱き上げ、男は慣れぬ手つきであやした。それでも泣き止まない。
抱き上げなければよかった。あやさなければよかった。男は後悔していた。せっかく身につけた力が弱まってしまった、と。
泣きつかれ、ようやく眠ったのはついさっきのことだ。昼から今まで、ミルクもやっていない。おむつも換えていない。
どうせ殺すつもりなのだから。
いや、それは正しくない。男は『どうせ殺すつもり』だと自分自身に言い聞かせるために何もしなかったのだ。
さぞや空腹だろう。
さぞや不快だろう。
いたずらに苦痛を長引かせるよりも、早くそうすべきなのだ。
これは贄《にえ》なのだから。
そうだ、これは贄だ。
私に力を与えるための贄だ。
その力によって多くの人が救われる。
そう、私の娘も。だから――。
私にはできるのだ。
そうだ、私にはできる。今までやってきたことと大きな変わりはないのだ。
乳児の顔の横に、ポラロイド写真が五枚置かれてあった。どれも被写体は同じだ。顔を潰《つぶ》された小動物が、雑魚寝《ざこね》でもするように並べられている。
大丈夫だ。私にはできる。
男は写真を見ながら何度も呟いた。
電話が鳴った。
脅されたネズミのように、男は正座したまま飛び上がった。
思わず声を上げそうになった。
赤ん坊の顔を見る。
気にもならないのか、微笑を誘う寝顔のままぴくりとも動かない。
電話は鳴り止まなかった。
男はそれを無視した。無視することにした。
このままでは目覚めてしまう。
それまでに片をつけるんだ。
顔だ。
男はウエストポーチからハンマーを取り出した。
まず顔だ。顔を潰さなければならない。それから始めるんだ。そうすればできる。今までそうだったように。
さあ顔を潰すんだ。
男は大きく息を吸った。生暖かい空気が肺を満たす。
ゆっくりと息を吐いた。
私にはできる。
私にはできる。
私にはできる。
私にはできる。
呪《まじな》いのように繰り返しながら、男はハンマーを持った腕を振り上げた。
電話のベルは鳴り止まない。
酷《ひど》く疲れていた。
三週間ぶりに子供の虐待防止協会の事務所を訪れた。スタッフはみんな、もう少し休養をとってからの方がいいのではないですか、と秋生を諭した。しかし、秋生は聞かなかった。
だが、スタッフの言うことはもっともだったのだ。本気で相談に応《こた》えるには、特に児童虐待などという問題に応えるには、相談される方の心が安定していなければならない。考えるまでもない。当然のことなのだ。今にも壊れそうな心を忙しく動き回ることでなんとか均整をとっている人間に、人の相談を受ける余裕などあるはずもない。
わかっていた。それぐらいの道理がわからぬ女ではない。わかっていながら、秋生はここにやってきた。だから来たことを後悔はしていない。
しかし酷く疲れた。
虐待をしそうである。虐待をしているのではないか。虐待をしている。だから、どうすればいいのか。
そう問われるたびに、秋生はこう口をついて出そうになる。
――あなたは生まれつき耳の聞こえない母鳥なのかもしれませんね。
言ってもわからぬことだ。それだけ言って通じるわけがない。それでもついつい言いそうになる。それを堪えるだけで疲れてしまった。
それほど深刻な相談がなかったのがせめてもの救いだった。
頑張っている自分を自らに誇示したいがために、他人に迷惑をかけている。中沢ならそういうだろう。中沢は言わなくとも、秋生自身がそう言う。
またベルが鳴った。相談終了間際の電話だ。
秋生には予感があった。
受話器を取ると、「もう駄目です」と陰気な声がぽかりと浮き上がってきた。
則子だ。
彼女は再び繰り返した。
「丸山さん、もう駄目なんです」
「何が駄目なの」
多少言葉が刺々しい。何しろ疲れているのだ。それに、この電話番号に児童相談以外の電話をかけてくるなと言ってある。約束を守らなかったのだ。少々扱いを乱暴にされても仕方ないだろう。
秋生は己れに言い訳した。
そんな秋生の態度にも気づかないのだろう。
――見たの。とうとう見たの。昨日、二階で。
則子は震える声で一方的に話を始めた。
昨日の夜のことだった。
幸彦が大きな旅行用のトランクを引いて帰ってきた。そのまま、ただいまの一言もなく幸彦は二階へと向かおうとした。
――何、それは。
尋ねる則子の方を見ようともせず、幸彦は出張とだけ答えた。
嫌っているのでもない。いやがっているのでもない。信号が青に変わったから渡ったのだというような行為。青信号に感情込めて礼をいうものはいない。
幸彦はごとりごとりと階上へと昇っていく。何が入っているのかトランクはえらく重そうだ。
つい、足音を忍ばせて則子は彼の後をつけていった。
幸彦はトランクを押して書斎に消える。当たり前だ。そこが彼の部屋なのだから。最近は帰宅して食事することもない。風呂以外で自室を出ない。ベッドは新婚当初から別々だった。幸彦のベッドに潜り込む勇気は、則子にない。当然会話は皆無だ。
則子は閉じた扉に耳をつけた。何も聞こえなかった。それでも耳朶《じだ》を合板の扉にぴたりとつけて、じっと聞き入っていた。
どれくらいの時間そこで立っていただろう。
複数の笑い声が聞こえた。
心臓がどくりと跳ね上がった。
声を押し殺した笑い声は幸彦のものだ。
そしてもうひとつの笑い声。
それは幼児たちの、おかしくて楽しくてたまらないような笑い声だった。幸彦のマンションで聞いた声とまったく同じものだ。
思わず声を上げそうになった。半ば開いた口を掌で押さえる。無理やり堪えた悲鳴が喉《のど》の奥でごっ、と鳴った。
その音を聞かれたのではないかと、則子は扉を離れ足音のことも考えず落ちるように階段を駆け降りていった。
どうしてキッチンに逃げ込んだのかは則子にもわからない。とにかく気がつけば流しに背をもたれ食器棚をじっと眺めていた。
気がつけば日付が変わっていたというから、二、三時間そこでぼおっと立っていたのだろう。幸彦が降りてきた様子もなかったというが、それは定かではない。
則子はしばらく思案し、心を決めた。恐怖心よりも好奇心が優ったのではない。あまりの恐怖に彼女はそれを確かめずにはおられなかったのだ。
背中を誰かに押されてでもいるように、則子は再び階上へと昇っていく。
階段がたてる音がいつになく大きく聞こえた。
暗い廊下を明かりもつけず壁を伝って書斎に行く。
やはりいくつもの笑い声が聞こえた。
幸彦も、もう声を潜めてはいなかった。
扉がうっすらと開いていた。一筋光が漏れている。
見ろ。
幸彦にそう言われているような気がした。
見て確かめろと。
「今考えると、それは間違いじゃなかったような気がします」
「どうして」
「彼は私に見せるためにわざと扉を開けていたんです。見せて、私の反応を知るために」
「あなたの反応を知ってどうするの」
「場合によっては、自宅でそれを飼うつもりだったんじゃないかなって」
「それって?」
秋生にも想像はつく。しかしそれを自ら口にするつもりはなかった。それを口にしない限り、自分はまともでいられるのだと思っていた。だから、それを則子に言わせようとした。しかしその質問には答えず、則子は再び話の続きを始めた。
彼女は廊下の壁に頬をすりつけて、扉の隙間から片目で中を覗《のぞ》いた。
部屋の中央で幸彦はあぐらをかいていた。ここしばらく見たことのない上機嫌だ。
そして、彼の周りにそれがいた。
二人、いた。
それはどう見ても七、八カ月の乳幼児だった。どちらもお揃《そろ》いのTシャツにサロペット姿だった。
一人は腹這《はらば》いになって玩具《おもちや》の救急車を押し、一人は床にぺたりと尻《しり》をつけて、プラスチックのコップを齧《かじ》っていた。
救急車を押していた方が、急に奇声を張り上げた。声というより鳥の鳴き声のように聞こえた。それの意味がわかるのか、幸彦はそうだねえ、と蕩《とろ》けそうな笑みを浮かべた。
もう一人が突然コップを投げだし、立ち上がった。左右に身体を揺すりながら幸彦の背後に回る。そして彼の真後ろに立つと、ぴょんと飛び上がりその頭にしがみついた。
猿のような身のこなしだった。満足に立ち上がることもできない生後八カ月の子供に、こんなことができるはずがない。
幸彦は、後ろから恋人に目隠しされ、誰だと問われたかのようなだらしない笑顔を見せていた。
猿のように機敏に動く乳児。
アカンボさん。
やはりそれは存在したのだ。
単なる私の想像ではなかったのだ。
「それで」
秋生は先を急《せ》かした。
「それで……。私、恐ろしくて寝室に行って一人ベッドにもぐり込んで震えていました。あの、私がそのとき一番怖かったのは……、それが、可愛《かわい》らしく見えたことなんです。それも並大抵の可愛らしさじゃあなくて、本当にその子たちのためなら何でもやってあげたくなるぐらい、もう心から可愛く思えるんです。そのとき一瞬だけでしたけど、夫の気持ちが良くわかったんです。ああ、これなら家族よりこれの方を選ぶだろうなって」
家族の絆《きずな》を壊すほどに愛らしい、それが天使なのだ。中沢が失踪《しつそう》した原因。そしておそらく――金城を殺したものたち。
「今はどうなの」
「……怖いだけです」
「今、そこは自宅? 自宅からかけてるの?」
「ええ、ここにいるのは怖いんですけど、出てもどこに行けばいいのか」
「今、幸彦さんはその家にいる?」
「いいえ、朝までずっと起きていたら、夫は帰ってきたときと同じようにトランクを引きずって出ていきました。出張でしばらく戻らないからと言って。いつまで、とか聞いてません。多分あそこにいるんだと思うんです。あの部屋に、あれと一緒に。事務所の方に電話して尋ねればすぐわかるんですけど、でもそれもなんだか怖くて。あの、幸彦はもう帰ってこないんでしょうか」
「二階の書斎は見てみた?」
「見ました。もう何もいません。でも……」
「でも、どうしたの」
「においがしたんです。あのマンションで嗅《か》いだにおいと同じでした。へんなにおいです。嫌なんだけど、なんだか懐かしいようなにおい」
「和馬くんはどうしてるの」
「学校から帰ってきて、すぐに実家に預けました」
「実家に……。どうして」
「何か、起こるような気がして。私も一緒に実家に戻ろうかとも思ったんですけど。実家、ここから一時間ほどのところなんです。ですから、いざとなったらタクシーでも拾って行けばいいかと思って」
何か起こる、ではなく、何か起こす、だろう。
「幸彦さんのマンションに行くつもりなの?」
則子は答えなかった。
「わかったわ。今そこには斎藤さんしかいないのね」
「ええ」
「じゃあ、そこで待っていて。もう電話相談の時間は終わったから、今から私がそこに行くわ。それからどうするか二人で考えましょう」
どうもすみません。お世話ばかりかけちゃって、と則子はしつこいぐらい長々と礼を述べた。
受話器を置いて掛時計を見る。五時を回っていた。
「大丈夫?」
隣に座っていた元婦長が、心配そうに秋生を見ていた。
ええ、と秋生は頷《うなず》く。
「あまり深くかかわらない方が、相手にとってもあなたにとってもいいんじゃないのかしら」
則子のことを言っているのだ。
「特に今はあなた自身が大変なときなんだから」
「ありがとう。でも、もう引き返せないんですよね」
きっぱりと言うと、秋生は席を立った。
元婦長は苦笑を浮かべ、気をつけてね、と言った。
お先に失礼します、と声を掛けて事務所を出る。
扉の外で、にこやかな笑みを浮かべた白髪の男が立っていた。
辻村だった。
あなたは、と口を開いた秋生を制して、辻村は言った。
「本当に申し訳ない。こんなところまで来てしまって。いや、わかっています。この間は本当に失礼をしてしまいました。反省しています。あなたの気持ちも考えず、本当に悪いことをしたと思っています。ですが、あれは大事なことだったんですよ。ですから――」
「あれから斎藤さんに会いましたか」
秋生は辻村を睨《にら》みつけた。
慌てて辻村は首を振った。
「いいえ、あれから一度も会ってません。この間の様子では、多分斎藤さんは私が話をしても信じてくれないでしょう。それで、とにかくあなたにだけでもお話をと思って来てしまいました」
「私なら信じると思っているんですか」
「論理的な判断ができる方だと思っています」
「……昨夜電話をしました」
「私の家にですか」
「夜の十二時頃です。あなたはいなかった」
辻村の顔色が変わった。
「どこに行ってたんですか」
「……ちょっと昨日は私用で外泊を。あの、私に何か用でも」
「この間の話の続きを聞きたかったんです」
辻村はほっと息をついた。
「よかった。話を聞いていただけるんだ。それなら私の家に来てもらえませんか」
「あなたの、家ですか」
「資料があるんですよ、沢山。それを見てもらった方がいい。何もなくては信用しかねるような話なんで。それに、できるなら人に聞かれないところで話をした方がいいかと思いましてね」
秋生は再び辻村を睨んだ。
人の良さそうな顔。騙《だま》すより騙される人間の顔だ。だが彼は一度秋生に嘘《うそ》をついている。
幸彦の恩師だと名乗ったときにも、この人の良い笑顔に変わりはなかった。
「家はどこですか」
「保健所からすぐ近くなんですよ」
「あの保健所の筋向かいの喫茶店を覚えてますか」
「ええ、ちょっと古臭い感じの喫茶店ですね」
「今日は土曜日ですから、あの喫茶店にはまず人はいません。あそこで話を聞きます」
辻村は何事かしばらく考え込んでから、わかりましたと答えた。
「それじゃあ、いったん家に帰って必要な資料を揃えてから……そうですね、六時までには行けると思います」
「それじゃあ、六時に」
「必ず来てください。おそらく、あまり時間はないはずだ。斎藤さんにも、私にも」
何故、と聞き返す前に、辻村は非常階段を駆け降りていた。
エレベーターで一階に降り、事務所のある雑居ビルを出る。辺りを見回したが、辻村の姿はなかった。
道路脇の公衆電話から則子に電話する。
用事ができて行くのが遅れると伝えると、不安げな声で早く来てくださいねと何度も念を押した。
待ち合わせまでまだ時間がある。
秋生は喫茶店まで歩くことにした。
週末の夜。
世間とは無関係に、紙問屋も製版屋も中小の工場は、みな働いていた。だがさすがに国道を行き交う車の数は少ない。歩く人の数も減っている。これが日曜の夜ともなると、本当に空気が普段より澄んで見える。とはいってもドブ泥が、浮かぶゴミと沈殿物に分かれた程度の澄み様なのだが。
コンクリートとアスファルトが昼間のうちにたらふく喰《く》らい込んだ熱を、ここぞとばかりに吐き出していた。
熱かった。
ゆっくりと歩いているのだが、汗ばむ額や鼻を、秋生は何度もハンカチで押さえなければならなかった。
いつもの喫茶店に着いたときには、すっかり化粧が落ちていた。
案の定、中には誰もいない。
あくびを噛《か》み殺していたマスターにコーヒーを注文し、トイレで化粧を直した。出てくると、ちょうど辻村が息を切らして店の中に走り込んでくるところだった。
「すみません、お待たせしました」
いつもの草臥《くたび》れた背広に、ビニールの大きなリュックを背負っていた。ずっしりと重そうなそれを椅子に置き、辻村はその横に座った。
「急いで資料をかき集めてきました」
辻村は黒いリュックをぽんと叩《たた》いた。
カウンターの向こうにオレンジジュースと声を掛ける。
「で、早速ですが」
辻村は出てきたおしぼりで顔中を拭《ぬぐ》った。
「あなたは見たんですね」
何を言っているのか見当がつかず、秋生は首を傾《かし》げた。
「あれですよ、あれ。天使のような子供です」
「……私が見たのは指だけです。幼児の小さな指だけなんです」
ふんふんと頷きながら、辻村はコップの冷水を一気に飲み干した。
「わかりました。とにかくあれが存在することは知っておられるわけだ。では、結論から言いましょう。美也子の部屋で死んでいた幼児たちは、本当の意味での幼児ではありません。あれはあのような姿をした、人とは別種の生き物なのです」
確かに信じられない話だった。
「どういうことなんでしょうか」
「いまから説明します」
辻村はリュックから数冊のファイルを取り出してきた。開くと古紙のにおいがする。中には黄ばんだ新聞の切り抜きが貼《は》られてあった。ファイルにはナンバーが書かれてあったが、一番から揃っているわけではない。
「初めの方は娘のことを扱った切り抜きです。それは以前話をさせてもらっているので、今日は持ってきていません。ええと、まずこれです」
水禍、用水路に幼児の死体。それがその記事の見出しだ。
「結局その『幼児』の身元はわかりませんでした。身元不明の幼児の遺体に関する記事はこれ以降半年の間に三回続きます。警察は連続殺人の疑いを持ったようですが、何もわからずじまいです。それから、これ」
失踪マンション、と何やら怪談じみたタイトルだ。
「ひとつのマンションで、一月の間に五人の行方不明者が出た事件です。それから――そうですね、これ」
辻村が指さしたのは、父、娘と孫を撲殺、という扇情的なタイトルだ。小見出しには押し入れに二人の幼児の遺体、とある。
「父親が不義の子を産んだ娘を孫ごと撲殺した。それが警察の見解ですね。まだまだあります。ちょっと見てもらえますか」
秋生はファイルをぱらぱらと捲《めく》った。ほとんどが乳幼児絡みの記事だった。自殺、失踪、誘拐、幼児哀れなどの文字が続く。
「これらの事件は美也子が逮捕された前後、ほぼ一年の間に同じ市内で起こったことです。そのどれもに、あの≪天使≫が関係しているはずだ。私はそう思っています。そしてそのときと同じことが、今この街で起こっているのです」
失踪マンションは中沢のことを思い出させる。幼児の水難事故は国道で轢《ひ》かれたあの事件を、そして最後の事件は、辻村の事件と類似している。場合によってはこのような結末を迎えたかもしれないのだ。
「次にこちらのファイルです」
渡されたそれも、やはり乳幼児の事故や、幼児殺しを扱ったものだった。
「≪天使≫との関連を考慮して見直すと、ほぼ二年にわたって同様の事件が日本国内あらゆるところで起こっています。そして二年が過ぎると、急激に数が減る。それからこれです。時期は日本での事件とちょっとずれますが」
辻村が取り出してきたのは英文の雑誌からコピーしたグラフだった。
「これはアメリカの地方児童保護局がつくった統計です。ほぼ二年に渡って遺棄児童――捨て子ですね――の数が過去最高になっている。こちらは別の統計ですが、離婚率の上昇を示している。どちらも二年間の間だけ、不自然なほど上昇している。どちらの統計もサンディエゴでのものなんですが、これらと同時期、サンディエゴで幼児殺しも多発している。こちらは新聞の社説ですが、サンフランシスコで乳幼児の死亡事故が急増しているという話。しかもその身元がわからない。まあ、それを道徳の低下の問題として論じているのですが。他にもいろいろあります。ほとんどアメリカのものですが、ドイツの精神科医の報告もあります。とにかく、ほぼ世界中で、美也子の事件の前後四、五年に固まって同様の事件が起こっている」
一気にそこまで喋ると、辻村はファイルをテーブルの端に寄せた。
「反論は後にして、≪天使≫としか言いようのない幼児そっくりの生き物がいる。とりあえずはそう仮定してみてください。それは一種の擬態です。奴らはヒト社会の中に紛れて暮らす寄生種なのです。我々人類の天敵と言ってもいい」
次にリュックから出されてきたのは、一冊の大学ノートだった。それを開いてテーブルに置く。几帳面《きちようめん》な文字がびっしりと書かれてあった。
「昔ならこの程度の内容を喋《しやべ》るのにノートを見る必要なんかなかったんですがね。まったく歳《とし》をとったものだ。固有名詞や用語を思い出せなくて、恥ずかしい話ですよ。まあ、そんなことはどうでもいい。ええ、前に話しましたように、無力な生き物などは自然界に存在しません。現存している生物は、生き延びるための何らかの能力を持っているからこそ、今この世界に存在しているわけです。で、あの≪天使たち≫が、どうして一見無力に思える乳幼児の姿を持っているか、なんですが。私は前に、乳児は己れの世話をする者を『支配』するための様々な手段を持っているし、手に入れた環境を維持するための力も持っている、と言いました。それが幼児図式であると」
秋生はさっきのファイルを見るとはなしに捲《めく》りながら頷いた。
「奴らが持っている『生きるための力』もこれと基本的には同じ力です。幼児図式、つまり可愛らしくあることが[#「可愛らしくあることが」に傍点]、奴らの武器なんです。奴らは人の幼児ほどではないが、他の獣たちに比べれば圧倒的に無力です。ネズミやイタチのように人間社会の中で適応できる力など持ってはいない。だから可愛らしさで保護者を手に入れ支配するわけです。小さく丸みを帯びた身体。短い手足。大きな頭と広い額。ちょこちょこと動く危なっかしい動作。これら人類に可愛らしいと思わせるすべての要素が、奴らの武器となるわけです」
しかし、と秋生はファイルから顔を上げた。冷笑を浮かべていた。
「それだけでは何もかも捨てて≪天使≫の世話をやいたりはしないでしょう。いくら可愛らしいと言っても、それは所詮《しよせん》ペットの愛らしさにしか過ぎないんですから」
「そうですね。その通りです。ですから私は≪天使≫がフェロモンのようなある種の情報伝達物質を分泌していると考えています」
化学的な物質を分泌することで、他の個体に働きかける。このような情報伝達物質で有名なのは性フェロモンだろう。雌の分泌する性フェロモンは雄を発情させる力を持つ。
ホルモンが体内で分泌され脳を含む己れの器官に影響を与えるように、フェロモンは体外に放出され、他の個体に影響を与えるのである。
化学的な物質が人に多大な影響を与える事実は、人間の喜怒哀楽を化学物質によってコントロールすることが可能であることからも良くわかる。向精神薬、覚醒剤《かくせいざい》や幻覚剤、身近なところではアルコールが身体にもたらす劇的な影響を考えれば理解できるだろう。
「人類の場合、化学的な物質を知覚する器官は二つ、鼻と舌です。そのうち情報伝達物質を受容する器官は鼻です。≪天使≫はにおいによって人間をコントロールするのです」
快とも不快ともつかぬにおい。
幸彦の部屋に残っていたあの奇妙なにおいを秋生は思い出した。
「≪天使≫の分泌するにおいが与える効果も幼児図式と同じものです。いや、このにおいもまた幼児図式なのです。人に可愛らしいと思わせるにおい、つまり人間の保護欲をそそるにおいですね。これらの力によって、奴らは人を支配し、己れの保護者として仕立て上げます」
辻村は生徒に講義する大学教授の顔で秋生に言った。
「信じる信じないは別にしても、理解していただけましたか」
「理解はできます。……ですが、そんな生き物がいたら、あっと言う間に人類はそれに支配されてしまうんじゃないですか。そうでないにしても、大量の≪天使≫が発生するでしょう。その存在に我々が今まで気づいていないのはおかしいじゃないですか」
辻村は嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んだ。
「最近は――とはいっても私が現役の頃ですから十年以上前の話ですが――生徒の質が落ちる一方でね、丸山さんのような優秀な生徒が、少なくとも学生の三分の一でもいたらなあと思いますよ。その質問にお答えしましょう。先ほどは情報伝達物質を初めとして≪天使≫の幼児図式が絶対的な影響を人類に与えるかのように言いましたが、すべての人に、というわけではない。幼児図式が人類に与える影響は、それを受容する側によって個人差があるんです。例えば、男女の差だけをみても、それから受け取る影響に差があります。男は基本的に幼児図式に対する感受性が鈍いんですよ。だから、完璧に彼らに操られ、何もかも捨てて保護してくれる対象は、そう簡単には見つからないわけです。しかも人類の中には何パーセントかの確率で、赤ん坊の可愛らしさを感じ取れない、あるいは感じとる感覚が極端に鈍い人間がいます。以前お話ししたと思いますが、音を幼児図式とする七面鳥は耳が聞こえなければわが子を殺します。子供が『子供である』という徴《しるし》を失えば、それは己れの|縄張り《テリトリー》の中に入ってきた他者、つまりは敵となります。だから攻撃する。『可愛らしさ』とは攻撃欲を抑制する効果もあるのです。この幼児図式に対する感受性の欠如はおそらく生来的なもの、生まれつきです。遺伝子にそのように刻まれている。ライオンやハヌマンラングーンの中で子殺しが頻繁《ひんぱん》に行われていることはよく知られています。それは種を保存するための適応的行動として遺伝子の中に仕組まれているのです。動物の行動に無意味なことなど何もない。子殺しだって例外ではありません」
聞くうちに秋生は無性に腹立たしくなってきた。
「児童虐待は遺伝で定められていると言うのですか」
問い詰めるようにそう言うと、困った顔で辻村は頭を掻《か》いた。
「遺伝だけではないでしょうね。育ってきた環境や、その個人が経験した様々な出来事の心理的影響もあるでしょう。しかし耳の聞こえない七面鳥が雛《ひな》を殺すのは事実だ。器質的な要因で引き起こされる児童虐待があることは否定できません。耳の聞こえない七面鳥と同じく、何らかの肉体の欠陥が児童虐待を引き起こしているのです。心理的な問題だけが原因なのではない。器質的な欠陥に対して、遺伝という要素が大きな力を持っていて当然でしょう。専門家のあなたにこんなことを言うのも失礼とは思いますが、虐待者の中には徹底して子供に対して愛情が欠如した者がいませんか。しかも愛情が欠如しているだけでなく、暴力への抑制も欠如している。そして虐待することに対して何の罪悪感も持っていない。そんな実例をご存じありませんか」
岸田茂。
自らサイコパスと名乗ったこの男は、暴力に対して何の抑制もない。そして罪悪感も持たず後悔もしない。
黙り込んだ秋生に、辻村は、でしょう、と頷いた。
一人納得して話を続けようとする辻村を、だが秋生は止めた。
「ちょっと待ってください。その話はどこかおかしい。……そう、もし仮に一部の児童虐待者が遺伝によって決定されるとしますよね。そんな、己れの子供を殺す遺伝子を持った者がいるのなら、それらはやがて滅びるはずです。何しろその子孫を残せないのですから」
「あなたは本当に物事を論理的に考えられる人だ。それもその通りです。しかし現実には滅びていない。何故か。原因は≪天使≫です。≪天使≫の罠《わな》を、虐待者の遺伝子を持った者は避けることができるからです。≪天使≫は古くから我々人類の天敵であったに違いない。今生存する≪天使≫そのものでなくても、その祖先となる同じような習性を持った生物がいたに違いない。≪天使≫の罠を回避するために、虐待者の遺伝子は温存されたんです。虐待者の遺伝子を持っているからといって、必ずすべての子供を殺してしまうわけではありません。しかし≪天使≫に魅入られれば、間違いなく子孫を残せない。≪天使≫の保護者となれば、≪天使≫以外のすべてのものに対して興味を失う。たとえ実子がいたとしても、育てることをしなくなる。それどころか邪魔になれば排除する。つまり≪天使≫の罠に落ちた人類は絶対に子孫を残せないのです。もし≪天使≫が爆発的に繁殖したら、残される人類は虐待者の遺伝子を持った者だけになります。生き残った虐待者の中から人類は再び繁殖する。このことにより、虐待の遺伝子を持った人間が、人類のうち何パーセントかは必ず残されていくのです。児童虐待とは≪天使≫から種を守るために人類が身につけた手段なのですよ」
違う、そうではない。
秋生はそう言いたかった。茂の存在さえ知らなければ。
茂は辻村の言う『生まれついての虐待者』なのだろうか。
何故人は誰もが可愛らしいと思う幼児を虐待しなければならないのか[#「虐待しなければならないのか」に傍点]。
私が繰り返し問い続けてきた疑問に対する解答がこれなのか。子供を虐待することは予《あらかじ》め種を守るために人類に定められたものだという、これが私の疑問に対する解答なのか。
嘘だ。そんなことを信じることはできない。
でも……。
茂は言った。
あんたは仲間だ。俺《おれ》のお仲間だよ。
あの男は私の何を見たのだろう。
私は……やはり耳の聞こえない母鳥なのか。それをあの男は知っていたのだろうか。
何故、何故そんなことを。
君は葬儀のときに笑っていた。
かつての夫である和典の台詞《せりふ》だ。
私は笑っていたのだ。あのとき私は。
子供に対して愛情が欠如し、虐待することに対して何の罪悪感も持っていない人間。
耳の聞こえない母鳥。
「聞いていますか」
辻村の顔が目の前にあった。
「え、ええ」
コーヒーカップを弄《もてあそ》びながら秋生は言った。
「でも、でも信じられません。私にはあなたの話が信じられない。そんな生き物が今まで発見されずにいられるわけがない。第一、今まで何体もの≪天使≫の死体が犯罪に絡み検死されているわけでしょう。もし、別種の生き物であるのなら、それですぐに判明するはずです」
「予断ですよ。ヒト科の生物はヒトしかいないという予断。人は見たいものしか見ないんです。おそらく≪天使≫は同じヒト科の生物だ。ホルモン分泌のためにいくつかの体内器官が異なるだけ。もしかすると単に分泌量が異なるだけかもしれない。そうなればほとんど人類と変わらないでしょう。ヒト以外にヒト科の生物などいるはずがないと思っていたら、その違いを発見できるはずがない。まして検死するのは医師だ。生物学者じゃあない。それに≪天使≫は沢山人が住むところ、都会でしか繁殖しません。これがどこかの未開地に群生していたら、誰かが発見していたかもしれません。でも都会に人類以外のヒト科の生物がヒトと共存しているなんて誰も思わなかった」
「いまあなたのおっしゃっていることはすべて仮説ですよ。何にも実証されていない。そんなものはあなたの妄想と変わりない」
秋生は怒りを顕《あらわ》に言った。何故そんなに怒っているのか、己れでもわからなかった。
「その通りですね。ですがこの仮説は様々な事実と合致する。それに、あなたが見た指の持ち主、≪天使≫を私は見ているんですよ。私は娘の失踪前後の生活や、そこにファイルした数々の事件を探ることから、やつらの繁殖の軌跡を探った。その途中で一度だけですが≪天使≫の姿を見ている。≪天使≫としか呼べないような生物が存在することは事実なんですよ」
氷が溶けて薄くなったオレンジジュースを、辻村は口にした。
「キノコバエという生物がいます。名前どおりキノコを食餌《しよくじ》とするハエの仲間です。ああ、申し訳ない。急に話を変えてしまって。余談が多いって学生にも不評だったんですが……。でも最後まで、とにかく話をさせてください。
このキノコバエは繁殖に適したキノコを見つけるとそこに産卵する。卵から孵《かえ》った蛆《うじ》は、蛆の姿のまま生殖し、急速に増殖します。そして一本のキノコを食べ切ったら、羽を持った成虫となって次のキノコを探しに飛び立っていきます。≪天使≫の生活史、繁殖のための方法もこれとほとんど同じです。適当な保護者を見つけたら、その力を借りて≪天使≫たちは持てるエネルギーのすべてを繁殖に費やす。天使同士が性交することは美也子の日記にも記述がありました」
まさか天使があんなことするなんて、と書かれてあった部分のことだろう。
「そして何らかの原因で保護者が保護者としての役割を果たせなくなったとき――死んだりした場合ですね――奴らは≪天使≫の姿を捨てて、成体となります。成体へと変化する数時間こそ痩《や》せたミイラのような身体になりますが、完全に成長し終わればほぼヒトと変わらぬ姿になります。美也子の所にいた≪天使≫が突然成体となったのは、そのとき美也子がすでに末期|癌《がん》に冒されていたからです。寄生種である≪天使≫は宿主の健康には敏感だ。近い将来宿主が死ぬことを予期して、やつは成体となったわけです」
秋生は彼の話から興味を失いつつあった。怒りはすでに収まっている。
辻村の声が頭の中をただ流れていった。
「r淘汰《とうた》とk淘汰という言葉がありましてね。多産で短命、早熟、つまりすべてを犠牲にしてでも生殖にエネルギーを費やす淘汰の方向性がr淘汰。それに適応した生物をr戦略家と呼びます。キノコバエも≪天使≫もr戦略家です。これに対するk戦略家は成熟に時間がかかり、生まれる子供の数は少ないが、ひとつの個体が長生きする。つまり子供一人に費やす保護者の投資が大きいわけです。我々人類がその最たるものでしょうね。子供を一人前にして社会へ送り出すのに、十年以上はかかる」
哀れな男だ。
秋生は辻村を眺めながらそう思っていた。
彼は娘の事件を受け入れることが出来なかったのだ。『人は見たいものしか見ないんです』。それは辻村自身の言葉だ。その通り、彼は見たいものだけを見ている。自らが組み立てた理論に逃れ、娘の殺人という現実から目を逸《そ》らせているのだ。
「環境が安定していると、環境が支えられる個体数ぎりぎりまで増殖してから、その数は安定する。無駄に数ばかり増やしても仕方ないような安定した環境で生きる生物はk戦略家となるわけです。逆に安定しない環境に適応したr戦略家は、子供一人に費やす投資が少ない。不安定な環境では、他のすべてを犠牲にしても、殖やせるときにどんどん繁殖する必要があるからです。例えば、今は豊富な食料を得ているが、それがいつ絶えるかもわからないような状況のとき、食料が絶えるまでにできる限り数多く繁殖しておかねば種を保存できない。キノコバエは食料に適したキノコを見つけるのが困難なので、一本のキノコがなくなるまでの間にどんどん増殖する。≪天使≫という寄生種もそう簡単に宿主を見つけることができない。だから適合した保護者を見つけると、そこで増え続ける。ともにr戦略をとるわけです。キノコバエが蛆のまま繁殖する幼児成熟《ネオテニー》を行うのは個体数を爆発的に増やすのに効率的だからです。≪天使≫は幼児図形を武器とすることで、キノコバエと同じr戦略家になったのかもしれません。単なる推測に過ぎませんが」
「単なる妄想、じゃないんですか」
秋生は腕時計を見た。話し始めて一時間近く経っていた。
後悔していた。辻村と話をしようとしたことが間違いなのだと思っていた。
不幸な事件が彼を妄想に追いやったのだ。信じられないほどの辛い現実から逃避するため、彼は妄想を育てた。それだけのことだ。
ヒトに良く似た新種の生物などいるわけがない。その生物に対抗するために、児童虐待が遺伝子の中に組み込まれているわけなどない。
聞くだけ無駄だったんだ。
「人と約束しているので、これで失礼します」
秋生はレシートを取って立ち上がろうとした。
「ちょっと待ってください」
辻村は秋生の肩を押さえた。
秋生がその手を振り払う。それでも再び腰を降ろしたのを見て、辻村は話を続けた。
「私は娘の事件を契機に≪天使≫の軌跡を追い続けてきた。人類のために……いや、そんなご大層なことじゃない。娘への復讐《ふくしゆう》のために奴らを根絶しようと考えたんです。奴らは繁殖期を終えると、すべての≪天使≫がほぼ同時に成体になる。幼児図式を捨て、その変わり己れで生きていけるだけの力と知恵を持つようになる。奴らは人語こそ解さないが、おそらく五、六歳前後の知能を持っているし、運動能力は人より遥《はる》かに優れている。人と変わりない姿を持った奴らは、その姿で都市の中に紛れ込みます。この十一年間奴らは≪天使≫の姿になろうとはしなかった。≪天使≫の引き起こす事件はその間にはまったくなかったんです。どうしてなのかはわからない。おそらくその存在を人に気づかれないよう、繁殖期から繁殖期までの期間が大きく開いているのでしょう。だからこそ蝉と同じく素数年の間隔を――」
「もう下らない講義は結構です。それじゃあ」
秋生は立ち上がった。
辻村は慌てて資料をリュックに詰め始めた。そうしながらも早口で説明を続ける。
「ちょっと待って。後少しだけ聞いてください。私は成体を探した。奴らは人の言葉を喋ることはできない。ちょうど酔った人間が意味のわからぬ言葉を呟《つぶや》く、あんな声を出すだけです。都市の中に紛れ込めば、路上生活者として暮らしていくことが可能だ。しかし、慣れれば人間と区別することは容易《たやす》いんですよ。だから私はいくつかの成体を見つけ、そして処置することができた」
「処置?」
辻村に背を向け、レジへと向かいかけていた秋生が振り返った。
「そうです。処置を、あっ――」
辻村が秋生の方を見た、そのときだった。持ち上げたリュックから片手が離れて、逆さまになった。中からファイルやノートが飛び出し、床に散らばった。
焦り、辻村は床にしゃがみ込んでそれらをかき集めた。
ノートの間から数枚の写真が落ちた。
ポラロイド写真だった。
秋生は見た。
趣味の悪い冗談のように、潰れた顔に白く長い耳をつけたウサギを。白い身体を血で赤黒く染めたモルモットを。
そして、眠っているのか死んでいるのか、毛布の上に横たわった幼児を。
「それは……」
写真に手を伸ばす秋生を押しのけるようにして、辻村は写真を拾い集めた。
「成体を処置することは難しいことではありません。人に似ているから多少の抵抗はあるが、それでもすぐに慣れる。しかし≪天使≫には幼児図形という武器がある。過去に一度、その機会があったにもかかわらず、私にはどうしてもそれを処置できなかった。だから練習したんですよ。ウサギやモルモットで。繰り返せばいずれは慣れることが出来るかもしれないと思って」
「子供の写真があったわ」
「これは贄《にえ》なんだ」
かき集めたそれらをリュックに投げ入れると、辻村は立ち上がった。
「私は≪天使≫の持つ幼児図形の力に勝てなかった。復讐を果たすためには、そのための力が必要だ。その力を得るための生け贄がウサギたちだった」
秋生はゆっくりと後退《あとずさ》った。
辻村はリュックを背負い、一歩彼女へと近づく。
「出来ると思った。私はできると思ったんだ。でも、できない。……やはり私にはできないんだよ」
辻村の目が潤んでいる。唇が小刻みに震えていた。
「私にはあなたや斎藤さんのような力はないんだ。私はそういうふうに生まれてはいなかった。頼む」
辻村は突然しゃがみ込み、額を床にすりつけた。
「≪天使≫は恐ろしい寄生種だ。今、奴らの繁殖期が始まっている。生まれた≪天使≫は残らず処置しなければならないんだ。あなたたちならそれができる。あなたが斎藤さんに協力しさえすれば」
「私に……子供を殺せと言っているの」
掠《かす》れた声で秋生はそう言った。
「子供ではない。≪天使≫だ。未知の生物だよ。頼む。お願いだ。私にはどうしてもできないんだよ」
涙声だった。
釘《くぎ》でも打っているように頭を床に叩きつけている。
圧《お》し潰《つぶ》されたのだ。
己れの造り上げた妄想に圧し潰されたのだ。
秋生は二、三歩後退り、それから踵《きびす》を返すと喫茶店を飛び出した。
私にはできないと泣き、叫ぶ声が、背後からいつまでも聞こえていた。
対向車のヘッドライトが目を刺した。
眩《まぶ》しさに目蓋《まぶた》を閉じ、開く。
目が慣れるまでの間、闇《やみ》が居すわる車内を見回した。
窓がわずかに開いている。
その隙間《すきま》から新たな闇が忍び込んできそうで、秋生は窓をしっかりと閉めた。
いつもより闇の色が濃いと思うのは錯覚だろうか。
喫茶店を飛び出て、すぐにタクシーを拾った。行き先は則子の家。乗り込む前に彼女には連絡しておいた。今から行くと告げると、則子は早く来てくださいと情けない声を上げた。
彼女が辻村と接しなかったのは賢明だった。電話を終えてから秋生は思った。
辻村が小動物を殺した犯人だった。秋生はあの写真を見るまで茂がやったのだと思っていた。しかし茂の殺したウサギの話は、別のウサギのことだったのだ。
ある種の人間にとって、ウサギ殺しは避けることの出来ない道なのか。
しかし、私はウサギを殺してはいない。
しなくてもいい弁解をし、秋生は苦笑した。辻村の話に乗せられている自分が、少し腹立たしかった。
それよりも、と秋生は思う。
茂がそうであったように、辻村も子供を殺している可能性がある。あの写真の幼児だ。あれは生きていたのだろうか、それとも死んでいたのだろうか。私にその判別はつかなかったが、今は殺されているのではないか。
則子の話は本当だったのだ。きっと辻村は、いきなり彼女の腕を掴《つか》んだのだ。そのとき黙って彼の話を聞いていたら、則子もウサギのように顔を潰されていたかもしれない。
彼こそが生まれながらの殺戮者《さつりくしや》なのだ。
茂の言葉が不意に蘇《よみがえ》る。
おまえは俺の仲間だ。
そしてすぐに秋生はそれを否定した。
嘘《うそ》だ。それは嘘だ。あの男が己れで言っていたではないか。嘘つきだと。あれは嘘だ。でたらめだ。ただ私を苦しめるために言ったいい加減なでまかせだ。
「この辺りですか」
運転手の声で我に返った。
慌てて周囲を見回してから答える。
「ええと、そこのファミリーレストランの角を左に。そうです。で、二つ目の信号の手前で。ええ、コンビニの前で結構です」
車から降り、タクシーは走り去っていった。
辻村が見張っていたというコンビニの前に、秋生は一人ぽつんと残された。全面のガラスからこぼれる清潔な明かりが、秋生をショウケースの中の生鮮食料のように見せていた。
道路を挟んで目の前のその家も、同じ光に照らされている。だが光は道路を横断する間に何かに侵されたのか、二階建ての住居を墓石のように見せていた。
秋生は左右を見渡した。週末の夜だ。郊外の住宅街に、通る車もない。
秋生は小走りに道路を渡った。
玄関の前に立ち、インターホンを押す。
何の返事もなかった。
しばらく待って再び押した。
やはり応答はない。窓から漏れる明かりもない。
気の弱い者ほど、追い込まれると暴挙を行う。
間違いない。則子は幸彦のマンションへ向かったのだ。
秋生はタクシーを帰してしまったことを後悔した。せめて家に誰かいることを確認してから帰せばよかった、と。だがそれも一瞬のことだった。
秋生はすぐにJRの駅へと向かった。さっきから一度も車の通らないこの県道でタクシーを待つより、今から電車に乗った方が早いと考えたからだ。
改札をくぐり階段を駆け上がる。ホームに電車が停車していた。発車のベルが鳴っている。閉まりかけたドアの隙間から、秋生は中に駆け込んだ。
座席に腰を降ろし、荒く息をつく。
空いていた。
斜め前に座った赤ら顔のサラリーマンが、何事かと秋生の顔を見ていた。
幸彦のマンションまでほんの十数分。
だが秋生には電車がいつまでものろのろと闇の中を走っているように思えた。
何かの呪《のろ》いでもかけられたのかと不安になった頃、電車はようやく目的の駅に着いた。
停車する前からドアの前に立ち、開くと同時にマラソン選手のように走り出した。
その勢いのままに改札を抜ける。
神経に障る電子音が駅前に並ぶパチンコ屋から聞こえてきた。
その表通りから、一筋裏に逸れる。
細い路地には、みっちりと闇が詰め込まれていた。表通りの喧噪《けんそう》が嘘のように静まり返っている。気難しい老人のような顔で、木造モルタルのアパートが建ち並んでいた。
幸彦のマンションはすぐに見つかった。
白くくすんだガラス戸を開く。エントランスホールと呼ぶのもはばかられる薄汚れたそこで、秋生はしばらく立ち止まっていた。
目の前にはエレベーターがある。そこに入るのが何となく恐ろしかった。
天井の蛍光灯が瞬いていた。
明滅のたびにチリチリと金属的な音が鳴る。
引き返すべきだ。
初めてここを訪れたときに感じた思いが蘇っていた。
あの時は指を見た。そして今度は――。
薄気味の悪い妄想を振り払い、秋生は白いアクリルのボタンを押した。
思いもかけぬほど大きな音がした。五階から四階、三階へとエレベーターが降りてくる。焦らすようにゆっくりとゆっくりと。
しゅるしゅると音をたてながら扉が開いた。
中に入り、四階のボタンを押す。
大きく揺れてから、秋生を乗せた小さな箱は上昇し始めた。
時折がたりと左右に揺れる。そのたびに箱は軋《きし》んだ。
ようようエレベーターは四階にたどり着いた。馬鹿馬鹿しいほど明瞭《めいりよう》なベル音とともに扉は開いた。
廊下に敷かれた塩化ビニールのタイルがひずみ、浮き上がっている。工事中の道路のようにでこぼこしたそこに、秋生は一歩踏み出した。
後ろで扉が閉まった。
もう引き返せない。
秋生はそう思った。
廊下は薄暗い。いくつか照明が切れているのだ。その薄闇の中に、秋生はそれを見た。
四〇四号室。
幸彦の部屋の前で、誰かがうずくまっているのを見て、秋生はぎょっとした。
女だ。
膝《ひざ》を抱え、頭を股《また》の間に埋めるようにしている。
誰なのか、秋生にはすぐわかった。
則子、と声を掛けながら近づく。
女は顔を上げた。
すがるように秋生を見つめる。その身体が細かく震えていた。
秋生は駆け寄り、隣にしゃがみ込んだ。
小さな肩に腕をかける。
――怖いの。
則子は言った。
その声もまた震えている。
部屋の扉がまるで誘《いざな》うかのようにうっすらと開いていた。
隙間から漏れる光をちらりと横目で見て、則子は話し始めた。
「我慢できなくて、それで私、ここに来ちゃったの。あそこにいるのも怖くて、でも外に出るのも怖くて。あまり怖かったから、何が怖いのか考えて、何が怖いのかわからないから怖いんだって思って、だから、私どうしてもここに来たくなって……それでここまで来たの。そしたら扉が開いてた。鍵は持ってきているし、どっちにしたって部屋に入るつもりでいたんだから、だから入ろうと思ったんだけど、やっぱり怖くて怖くて、どうしても中に入れなくて、ここに立ってたの。そうしたら中から声が聞こえてきた。なんだか男が怒鳴っていた。喧嘩《けんか》してるんだって思った。でも喧嘩にしては一人の怒鳴り声しか聞こえなかったのは、変だなあって思ってた。そしたら聞こえたの」
則子はのしかかるように秋生にしがみついてきた。不意のことで秋生は後ろに倒れそうになり床に手をついた。
埃《ほこり》だらけのリノリウムの床がざらりと滑った。
「悲鳴よ」
則子は秋生の耳元に圧し殺した声で囁《ささや》いた。
「男の人の悲鳴が聞こえた。それで、できない、できないって、何度も何度もできないって泣きながら言っていた。それで……それで終わり。それから何の物音も聞いていない。中を覗《のぞ》こうかと思ったけどそれも恐ろしくて……。どうすればいいの。これから私どうすればいいの」
秋生は立ち上がった。
手を伸ばし、則子を立ち上がらせる。
そして言った。
「終わらせるのよ」
則子に、そして秋生自身にそう言い聞かせていた。
ノブに手をかけ、秋生は扉を開いた。
則子は子供のように、後ろから秋生の腰を掴《つか》んでいた。掴む手が震えていた。
その震えが秋生にまで伝染《うつ》ってくる。
一目で見渡せる狭い部屋だ。
蛍光灯の明かりが隅々までも照らし出していた。
原色の玩具が安っぽい絨毯《じゆうたん》の上に散乱していた。そのいくつかは踏み潰されたのか粉々に砕けている。
あのにおいがした。
不快で心地好い、甘く沈んだにおい。
部屋の奥、閉じたカーテンの前に男は立っていた。
「……幸彦」
秋生の背後で則子が呟《つぶや》いた。
靴を脱ごうとした秋生は、そこに靴が二足あることに気がついた。ひとつは黒の、もうひとつは茶色の革靴。茶色の革靴は傷と埃に覆われたかなりの年代物だ。
「千客万来だな」
窓にもたれた男――幸彦が言った。
「ご無沙汰《ぶさた》しています」
パンプスを脱ぎ、秋生は中に入った。タイルが足の裏にぺたりとくっつく。
「丸山さんでしたよね。いつも則子がお世話になっています」
儀礼的に幸彦は会釈した。
カッターシャツにベージュのスラックス。袖を捲り上げた幸彦は、昼休みのサラリーマンのようだ。
「則子、何をしてるんだ。こっちにおいで」
手招きする幸彦の顔に表情はない。
則子は秋生の後ろから離れようとはしなかった。その指が痛いほどに秋生の腰に食い込んでいた。
今にも泣き出しそうな声で則子は言った。
「何をしてるの」
両手で前髪を掻《か》き上げながら幸彦は答えた。
「何も。……そうだな、くつろいでいる」
「何をしてたの」
則子が言い直す。
「君たちも邪魔をしに来たのかい」
問いには答えず、幸彦は言った。
「邪魔をする気はありません」
部屋に一歩入ったまま、秋生は動いていなかった。動くことができなかったのだ。脚を動かすと、その場で座り込んでしまいそうだった。
不可思議なあのにおいに混ざって、別のにおいがすることに気がついていた。生臭いようなそれは、血だ。血の臭いだ。
幸彦の立つ足元、畳の上に黒いシミが点々と残されている。
「知りたいだけです。何があったのか」
言いながら秋生は一歩踏み出した。それだけで心臓の鼓動が早まった。冷たい汗が掌に吹き出してきた。
恐ろしいのだ。
闇に怯《おび》える子供のように恐ろしいのだ。
そして恐ろしいから、このままでいるのが耐えられないほど恐ろしいから、秋生はさらに前に進む。
後ろで慌てて則子が靴を脱いだ。
引きずられるように秋生についてくる。
「本当かなあ」
幸彦が言った。
窓にもたれ、動こうとはしない。
「あいつも同じようなことを言ってたけど、結局は邪魔しようとした。大人は信用ならないよ」
「あいつ……」
秋生には玄関の茶色の靴に見覚えがあった。
いまさっき別れてきたばかりの男、辻村の靴だ。
「あいつは僕のためだと言っていた。親切なことだ。でもね、押しつけがましい親切ほど迷惑なものはない。いや、丸山さん、別にあなたのことを言ってるんじゃあないんですよ」
「あれは何処《どこ》にいるの」
則子が秋生の横に出てきた。
「あれはここにいるんでしょ」
「君も一緒に仲良くやれるんじゃないかと、そう思った。誰だってあの子たちのことは好きになると思ってたからね。でもそうじゃあなかった。君は怯えた。どうしてだろう。あの子たちはあんなに愛らしいのに。まるで天使みたいに」
「どこに隠したの」
「好きなように探せばいいよ」
言いながら幸彦は視線を右にやった。
そこに押し入れがあった。
「僕は何もしなかった。僕はただあの子たちを可愛《かわい》がっただけだ。それだけのことじゃないか。それなのにどうしてその邪魔をするんだ。君にしろ、あの男にしろ」
「辻村さんは何処」
秋生がそう言うと幸彦は首を傾《かし》げた。
「ここに来てたんですよね、辻村さん。元大学教授の」
秋生に≪天使≫を処置することを断られ、辻村は自らこのマンションに向かったのではないだろうか。もしそうなら秋生と別れてすぐのことだろう。
「ああ、あの男のことか。あの男は狂ってるよ。寄生種だの天敵だの。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
「何処にいるんです」
さあ、と幸彦は肩を竦《すく》めた。
靴を玄関先に置いたまま逃げ出した。
かつての秋生がそうしたように、辻村も恐怖のあまり逃げ出したのか。
秋生は真っ先にそう考えた。
が、それなら、この臭いはなんだ。
あの異臭と入り混じったこの血の臭いは。
則子の指が、秋生の腰から離れた。
秋生の横に並び、それから幸彦の前へと進んでいく。
彼女を動かしているのも恐怖なのだろうか。
「探していいのね」
言いながら押し入れの方を向いた。
そこに何があるのかを確かめなければ、おぞましい妄想に圧し潰される。そうならないためには、最も恐怖する対象をはっきりと確認しなければならない。
強《こわ》ばり、機械仕掛けの人形のように押し入れに近づく則子の気持ちが、秋生には手にとるように理解できた。
則子が襖《ふすま》の前に立った。
止めて!
秋生はそう叫びそうになった。
まるで悪夢だ。
それをすれば恐ろしいことが起こる。
そうわかっていながら止めることが出来ない。目を閉じることも出来ない。
じっと、そこで起こるであろう途轍《とてつ》もなく恐ろしいことを見続けていなければならない。
今ならまだ引き返せる。このまま何もなかった顔で引き返せる。いや、いますぐこの場を立ち去ればいいんだ。走って逃げればいいんだ。何も言わず、何も考えず。
逃げろ!
逃げろ!
警告の声が秋生の頭の中で響く。
だが秋生は動けなかった。
足裏が床にへばりついてしまったようだ。
身体は正面にいる幸彦に向いている。そして首は定規で計ったように九十度右を、そこに佇《たたず》む則子を向いている。
その手が襖に掛かった。
秋生の声帯から緊張に圧し潰された呻《うめ》き声が漏れる。
則子は襖を一気に開いた。
そこにいた。
辻村が。
押し入れの上の段、辻村は膝を抱えるようにしてそこに寝かされていた。
悲鳴の形そのままに開かれた口から、血泡に塗《まみ》れた長い舌が垂れていた。恐怖に見開かれた左目が虚空を睨《にら》んでいた。右の眼球は眼窩《がんか》から飛び出しだらしなく垂れ下がっていた。
頭頂部が陥没している。
そこに叩きつけられたであろう子供用の金属バットが、頭の横に置かれてあった。血に塗れた頭髪が寄生植物のようにへばりついている。
濃厚な血臭が、少し離れた秋生の鼻にまで届いた。
則子はじっとそれを見ていた。
感情が欠落したかのように、ただじっとそれを見つめていた。
秋生も、悲鳴など上げなかった。
その瞬間に感情が凍結されてしまったようだった。
動くものは何もなく、すべての音が途絶え、この部屋の中の何もかもが一枚の写真に封じ込まれたかのようだった。
静寂の均衡は突然破られた。
笑い声がした。
明るく楽しげな子供たちの笑い声だった。
この場にこれ以上似つかわしくないものはない。
そして獣の咆哮《ほうこう》が聞こえた。
則子が己れの髪を毟《むし》りとらん勢いで掴んでいた。その口が裂けんばかりに開かれている。
則子が悲鳴を上げているのだ。
「おいで、みんな」
幸彦が言った。
これ以上にないほどの優しい声だった。
押し入れの天板がガタガタと音をたてて開いた。
丸々とした小さな腕がそこから現れた。
板の縁を掴み、鉄棒から降りるようにぐるりと回転してそれは姿を現した。
四人いた。辻村なら四体いたと言うのだろうか。
楽しくて仕方ないような甲高い笑い声をあげながら、それらは硬直しかけている辻村の身体を踏み敷いて、押し入れからよたよたと降りてきた。
四人とも服はお揃い、熊のイラストが描かれたTシャツに水色の半ズボン姿だ。
「僕はね、その子たちを守るためならなんでもするつもりなんだ。どんなことだって、ね。それで、君たちはどうするつもりだい。そこの馬鹿な男と同じことを考えているのかい」
則子は頭を抱えしゃがみ込んでいた。
それを四人の≪天使≫たちが取り囲んでいる。四人は何事か彼女に話しかけ、甘えていた。甘える子猫の声に似ていた。
微笑《ほほえ》ましい光景だ。
秋生はそう思った。則子がどうして耳を塞《ふさ》ぎ震えているのか理解できなかった。
則子が何かをバッグから取り出そうとしていた。それが何なのか、秋生からは見えなかった。
則子が≪天使≫たちを跳ね退けるように立ち上がった。
≪天使≫たちはよろよろと後ろに下がった。
「やめろ!」
幸彦が叫んだ。
叫びながら則子に飛びかかっていった。
則子が手にしているのは出刃包丁だった。
柄を両手で握り、則子は足元にまつわりつく可愛らしい幼児たちを見降ろした。
秋生は見ていた。
絡み合う二人を。
そこから逃れて彼女に助けを求める≪天使≫たちを。
甘く、どこか懐かしい感じのするにおいが鼻をついた。
どくり、と心臓が空回りした。
頭の芯《しん》がかっと熱くなったかと思うと、何かがそこで爆発した。
光が視界を満たした。
それは現実の光とは違って、眩《まぶ》しくなくただひたすら心地好かった。
身体がふわりと浮き上がるような気がした。
ゆるり、と部屋が回転を始めた。
ぐうる。
ぐうる。
ぐうる。
ぐうる。
部屋はメリーゴーランドのようにゆっくりと回る。
音が聞こえた。
いや、単なる音ではない。それは音楽だ。胸が締めつけられるほどに切ない音楽だ。それは繰り返し繰り返し秋生に語りかけるメッセージだ。
守れ。
この子らを守るんだ。
血の臭いが以前にもまして濃厚にした。
誰かが悲鳴を上げている。それが男のものなのか女のものなのか私には区別がつかないけれど、それでもあれがとても耳障りなのはわかる。ああ、可愛い子たち。あなたたちに決して不快な思いはさせませんからね。必ずあなたたちを守ってみせますからね。
見上げる子供たちの顔を見た。
笑顔。たとえようもなく愛らしい≪天使≫の笑顔。
私はしゃがみ込み、丸く柔らかい頬《ほお》を両手で挟んだ。
笑う瞳が私を見ている。
あまりの愛らしさに、涙が流れた。
それは宗教的な恍惚感《こうこつかん》に似ていた。
光に満ちた光景に突然亀裂が入った。
わずかなその隙間から、汚泥が滲《にじ》み出てくる。昏《くら》く凝《こご》った血の色の泥濘《でいねい》。
私にはその汚泥の意味がわかる。
処置しなければ。
奴らを処置しなければ。
流れ落ちる惨めな泥の雫《しずく》が私に訴えていた。
亀裂から顔が見える。
それは横たわった屍《しかばね》だ。血走ったそのたった一つの眼が私を見ている。
処置するんだ。
蒼褪《あおざ》めた顔で屍が叫ぶと、それが汚泥となって流れ出てくるのだ。
辻村――なんて愚かで惨めな男。
そのための贄《にえ》なんだ。そのために私は十年の歳月を費やしてきたんだ。
だから、頼む。
押し入れの中で辻村は土下座した。
そのたびに砕けた頭蓋《ずがい》から脳漿《のうしよう》が飛び散った。神経繊維で眼窩とつながった眼球がぶらぶらと揺れる。
顔を潰されたウサギが、その横で大口を開いて笑っていた。
耳の聞こえない母鳥。
誰かの声が聞こえた。
誰かの……。いや、その声を忘れるはずがない。
なあ、あんたは俺《おれ》のお仲間だ。俺たちは耳の聞こえない鳥なんだ。
一緒に楽しもうぜ。
鳩が一斉に飛び立っていく。が、一羽だけ取り残されて砂利道に転がっていた。全身に絡まった釣り糸で身動きがとれないのだ。暴れるその鳩を、少女が抱き上げた。
その口がぱくぱくと金魚のように開く。
何だろう。
何と言っているのだろう。
髪を毟りとられ、顔中|痣《あざ》だらけの少女は鳩を抱き、私に向かって頭を下げた。
何度も繰り返し頭を下げた。
そいつの声も聞こえないだろう。そうさ、そのはずさ。おまえは俺の仲間なんだ。だからおまえは――。
あの夏のベランダが見えた。
大輝の身体はもうすでにベランダから半身乗り出している。
私は身を投げ出した。
伸ばした腕。
指先が小さな踵《かかと》に触れる。
ゆっくりと、ゆっくりと、大輝の身体がベランダから消えていく。
そのとき視点がぐるりとベランダの外へと回り込んだ。
宙空から、落ちていく大輝が見えた。
ベランダの柵《さく》越しに私自身の顔が見える。
私はうっすらと笑みを浮かべていた。
虚空に向かって腕を伸ばす私は、微笑《ほほえ》んでいた。
殺せ!
茂の声が聞こえた。
みんな殺してしまえ。
辻村が勢いを得て叫ぶ。
それは種の必然なのだ。
種を維持するためには処置しなければならない。
二人は声を揃《そろ》えた。
殺せ!
殺せ!
殺せ!
殺せ!
――助けて。
その声に下を見た。
そこに大輝がいた。
腐ったホウレンソウを握った理奈がいた。
糞尿《ふんによう》に塗《まみ》れた身体を歪《ゆが》めて呻《うめ》く進がいた。
ありとあらゆる虐待を受けた幼児たちがそこにいた。
――助けて。
彼らの彼女らの声が脳髄の奥で白く炸裂《さくれつ》した。
その声が聞こえた。
私にはその声が聞こえた。
聞こえたのだ。
[#改ページ]
エピローグ
変質者が男とその隠し子を惨殺した。
マスコミがこの事件につけた決着がそれだった。
あのマンションの部屋には辻村の死体とともに幸彦と三人の幼児の死体が転がっていた。
通報したのは秋生だった。
警察はすぐにやってきた。
秋生は以前から則子が辻村に付きまとわれていたこと。その辻村が秋生に接触してきたこと。そして喫茶店で話したときに見たポラロイド写真のことを説明した。
辻村の部屋からは赤ん坊が発見された。脱水症状を起こしていたが、病院に保護され無事だった。事件前日に姿を消し、捜索願いの出ていた子供だった。
犯行はすべて辻村の手で行われたことになった。
前々から則子と秋生に付きまとっていた辻村が、幸彦のマンションに二人が遊びに行ったときに襲いかかってきた。子供たちと幸彦を殺され、やむを得ず則子が辻村を金属バットで殴った。そう秋生は証言した。彼女は「可愛《かわい》らしさを武器とした新種の生物」のことなど警察に話しはしなかった。
則子はすべてを警察に報告した。その結果半年経った今も、彼女は精神科の閉鎖病棟に入れられている。
結局秋生の証言のみが真実とされた。
何人もの識者たちが様々な意見をマスコミに発表した。それでも最後まで決着がつかなかったのは子供たちのことだった。辻村がマンションまで運んできた、という説もあった。ちょうど子供が二、三人入るくらいの空のトランクがあったからだ。だが、捜索願いも出ていなければ、私の子供ではと問い合わせてくる者もいなかった。そして結局は幸彦の隠し子であったという結論に落ち着いた。
世間がこの事件にどのような評価を与えようと、秋生には関係のないことだった。
土曜の深夜。
無人の町を秋生は歩いていた。
中小の工場や事業所が灰色の素っ気ないシャッターを降ろしている。秋生はこの世の終わりに町を散策しているような気分になった。民間児童虐待ネットワークのボランティアを辞めて半年近く経っている。もう秋生にはそれを続ける必然性がなかった。
秋生は白いシートで覆われた廃ビルの前で立ち止まった。来月には取り壊しが始まるらしい。茂にとってもここを利用できる最後のチャンスだったわけだ。
フェンスの一部が開いていた。
あのときとまったく同じだ。
そう思うとどうしてか秋生は笑いそうになってしまった。
シートを暖簾《のれん》のようにはね上げ、中に入る。
しん、と静まった闇《やみ》と冷たく湿った大気が秋生を包んだ。
バッグから懐中電灯を取り出して中を照らす。
剥《む》き出しのコンクリートに光の目玉が現れた。
ゆっくりとカーブを描く坂道を、秋生は降りていく。その靴音がかつかつと響いた。
駐車場にたどり着く。
秋生は明かりで闇を薙《な》いだ。
「やっぱり来てくれたんだ」
闇の中から声が聞こえた。
声の方へと懐中電灯を向ける。
白いTシャツにジーンズの男が立っていた。何もかもあのときと同じだった。
明かりを茂の顔に向けた。
茂は眩《まぶ》しさに目を細める。
「大胆ね、私のところに直接電話をかけてくるなんて。私が警察に連絡したらどうしてたの」
「信じてたよ。仲間だからね」
秋生は笑った。
「私も信じてたわ。あなたがきっと来てくれるって」
「服は脱がなくってもいいよ。その方がいいんだ」
茂はポケットからステンレス製の手錠を取り出してきた。
「天国へ、連れてってやるよ」
「有り難う。でもどうせ天国へ行くのなら私は天使に案内してもらうわ。さあ、おいで、大輝たち」
秋生がそう言うと、甲高い笑い声がした。
幼児の声だ。母親と戯れる幸福な子供たちの笑い声。
それも一人ではない。
何十というくすくす笑いが駐車場の中に響いた。
闇に包まれた駐車場は、まるで小学校の休憩時間のような喧噪《けんそう》に包まれた。
「何なんだ……これは」
懐中電灯のつくる光の輪の中央で、茂は立ち竦《すく》んでいた。
「天使よ。言ったでしょ、今。そうか、あなたは耳の聞こえない鳥だったのね」
何かが茂の足首を掴《つか》んだ。
見降ろせばそこに愛らしい笑顔を浮かべて茂を見上げる幼児たちの姿があった。
蹴《け》りあげようとする足首に、脛《すね》に、ふくらはぎに、腿《もも》に、笑う天使たちがしがみついてくる。
毟《むし》りとろうと腰を折ると背中を駆け上がってきた。腕にしがみつく。首にぶら下がる。肩や脇腹に噛《か》みつくものがいた。
一歳にも満たない幼児たちの群れが、瞬く間に茂の身体を取り囲んで行く。
≪天使≫たちに埋もれた茂に、秋生はゆっくりと近づいた。
バッグから電気カミソリのようなものを取り出した。
「ちょっとそこを退《ど》いてね」
首筋にまとわりついていた≪天使≫を手で避《よ》けると、秋生はそれを当てた。
小さな閃光《せんこう》が走り、声もあげずに茂は床に倒れ込んだ。
スタンガンだ。八十万ボルトの電流が茂の身体に流れたのである。
≪天使≫たちの歓声が上がった。
「これをどうしましょう」
秋生は床に倒れ≪天使≫たちの玩具《おもちや》になっている茂を見降ろした。
闇の中から新たな声が聞こえた。
「このまま警察に連絡してもいいけど……でもそれじゃあねえ」
女の声だ。
「裁判にするに値しない男。そうでしょ、係長」
「保健所を辞めたのは随分昔の話だわ。係長はやめてよ」
「それじゃあ、中沢さん。……最初連絡してくれたときはびっくりしましたよ」
「あなたのことが新聞に載っていてね。きっと私と同じ体験をしていると思ったの」
「でもこの男も運が悪いわね。中沢さんと連絡がついた直後に連絡してくるなんて」
「だから言ったでしょ。≪天使≫たちの力を借りたら何だってできるって」
「本当にそうですねえ」
二人は横たわる茂を見降ろした。
「それで、どうしましょう」
「ロープを持ってきたの」
中沢がリュックの中からそれを取り出した。床にしゃがみ込み、茂の首に二度、巻きつける。
はい、とロープの一端を秋生に渡した。反対側のロープを手に巻きつけ、中沢は、オクターブ高い声で言った。
「さあ、みんな。綱引きよ。ロープを持って一緒に引っ張りましょう」
≪天使≫たちがそれぞれロープを手にする。
「いちにいさん、で一緒に引っ張るのよ。はい、一、二、三、はい!」
ロープがぴんと張った。
茂の上体が持ち上がる。
その眼が大きく開かれた。
ロープを解《ほど》こうと喉《のど》をかきむしった。
ばたつかせる脚が滑稽《こつけい》なステップを踏んでいた。
よいしょ。
よいしょ。
秋生と中沢の掛け声に合わせて、さらにロープに力がこもった。
苦悶《くもん》に開かれた口から悲鳴の変わりに長い舌が飛び出た。
顔が真っ赤に変わり、それから青黒く変色していく。
激しい痙攣《けいれん》が始まった。
その動きが唐突に止まる。
それでもロープを引く手は緩めなかった。
細身のジーンズの中でペニスが怒張していた。そこから黒いシミが広がっていく。失禁したのだ。
秋生の引く方へ、茂の身体がずるずると引き寄せられた。
中沢がロープを離す。
≪天使≫たちが尻餅《しりもち》をついて大笑いしていた。
「はい、終わり。秋生お母さんチームの勝ち!」
中沢が宣言した。
小さな手で≪天使≫たちが拍手した。
「これ、それに触っちゃ駄目ですよ。おしっこしてるから汚いわよ」
秋生は茂の遺体に触ろうとしていた≪天使≫を抱き上げた。
その脇腹をくすぐる。
こちょこちょ、と秋生が言うと、それは身をよじって笑い転げた。
むせるほどに濃厚な≪天使≫たちのにおいがする。
秋生はいとおしさにそれの身体を抱き締めた。その柔らかさにいとおしさはさらに募る。
――大輝。
その名を呼ぶと、数十の子どもたちがけらけらと笑って答えた。
二度とこの子を手放してはならない。
そう思い、秋生は大輝たちの頭を撫でた。その髪の感触に涙さえ出そうになった。
なんて可愛い子たちなの。
秋生のその思いに答えるかのように、子どもたちが一斉に笑い出した。
この世のものとは思えない愛らしい声で。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あとがき
この小説はフィクションであり、実在する団体人物などとはいっさい関係ありません。
というような話をこれからする。
無粋ではあるし、もし私の物語を楽しんでくれた後ならいささか興醒《きようざ》めかもしれない。
それでも書こうとしているのは、この小説で扱っている問題が、かなり深刻な、そして誤解を招きやすいものだからだ。私が書いた小説が新たな偏見を生むのは避けたい。だから私は小説内で書いたことに関する補足をしたいのだ。
もしあなたが物語は物語でしかなく、そこに記されていることはすべて物語に奉仕するために描かれている虚構である、ということを充分に理解しているのなら、ここから後はまったくの蛇足だ。読まないでほしい。
さて、まずは「先天的犯罪者説」。
つまりは生まれついての犯罪者がいるのか、という話から始めたい。
この説が半ばタブーとなっているのは、人類が今までこの説を元に大量|殺戮《さつりく》を行い人類浄化を試みたり、障害者への断種手術を行ったり、数限りない愚行を繰り返してきているからだ。
この件に関して私が参考文献としているのはアン・モア/デビッド・ジェセル共著 藤井留美訳の『犯罪に向かう脳―人を犯罪にかきたてるもの』(原書房)である。
この本はある種の犯罪者(攻撃性の強いサイコパス=精神病質者)が身体的な異常によって犯罪にかりたてられているのだと、最新の脳研究の成果や生理学的知識を用いて説明している。
私個人の感想を述べるなら、ある種の意見(大脳生理学的な考察)に関してはうなずけることもあるが、ある種の意見(犯罪統計による考察)には首をひねる部分もあった。だが、全体的には先に上げた危険性を忌避しながら、納得できる範囲内で論旨は進められる。
私はこの説を物語に沿って曲解した形で登場人物に説明させている。
しかしそれはあくまで物語内での論旨の進め方であり、しかも登場人物の主観の中でしか話させてはいない。その内容の中で事実と異なる部分は、作者による物語のための創作だと考え、もし出来ることならば原著にあたって自らこの説の正当性について考えてほしい。
もうひとつ、この小説の中で前説とも絡んで取り上げている話題がある。
それはこの物語の中核を成す児童虐待の問題である。
近年、ますます報告例が増え、大きな社会問題になっている感がある。
児童虐待など昔からあるではないか、と思われる人もあるかもしれない。例えば日本では人身売買が昭和初期に至るまで頻繁に行われていた。身売り奉仕などと呼ばれ売春を強要され『女工哀史』などで描かれる紡績を中心とした年季奉公には、八歳から十歳くらいの少女が貧しさのために奉公を強制された。
これらは子供の人権というものが確立される以前の問題で、当時の社会がそれを容認していたから引き起こされた虐待だ。
このように特定の文化、時代、制度が容認する虐待は≪社会病理としての虐待≫である。
今日、社会的な問題となっているのは≪家族病理としての虐待≫である。
≪家族病理としての虐待≫だからといって、そこに社会的要因がまったくないわけではない。
日本においてはもともと親権が強固である。女性差別の問題もある。住居問題や環境の問題も無関係ではない。親が薬物やアルコールの依存症であったりすることも、社会問題へと広げて考えることが出来るだろう。当然、貧困や無知が関わってもくる。
しかしそれらは、例えば貧農から身売りされる少女とはまったく別の問題だ。身売りを止めさせるには、まず社会構造そのものを変えなければならない。根本的解決を社会の是正へと委ねねばならないのだ。しかし、現代の児童虐待は「社会問題という要因も含む」が第一義ではない。ほとんどの病根が家族の問題であり、児童虐待とは家族の病なのだ。だからこそ家族が問題に取り組めば、問題は必ず解決する。
児童虐待は家族の問題だ。これは母と子の問題だと言っているのではない。その子の兄弟姉妹、父親や、たとえ同居していなくても祖父祖母、それらすべてを含んだ家族のありようが病原となる。
乳幼児の世話をしてみればわかることだが、それは幼子と対峙《たいじ》した人間の≪対人関係=他者との関係性をどのようにして持っているか≫をそのままに反映する。ただ泣き、ただ笑う乳幼児相手に、世話を試みるものは言い訳をし、愚痴をこぼし、高圧的に怒鳴り、おべっかを使い、いらぬ冗談を言い、沈黙を保ち、拗《す》ねて見せたりする。そうしてしまうのだ。コミュニケーションがとれそうでとれない一個の人格を相手にしたときの戸惑いがそのまま表現されてしまう。
乳幼児に対応する態度が先験的に自明である社会がかつてあった。あったらしい。(子供なんかほったらかしといたらいいんだよ。悪いことしたら叱《しか》って、よけりゃ誉《ほ》める。簡単なことだ)だが残念なことに今現役の親たちは、そんな社会があった、という知識があるだけだ。知識は知識にしか過ぎず、それが正しいのか間違っているのかは自分たちで判断しなければならない。祖父母の忠告も近所の親切も育児書の知識も、どれを採ってどれを捨てるかは自分たちの判断に任される。だからこそ、胸がせつなくなるほど愛らしいが、何を要求して何を喜んでいるのかさっぱり理解できないひとりの人間を目の前にして戸惑うのだ。結局それは、理解不能とも思えるひとりの人間と、一から関係を築いていかねばならない作業なのだ。
この途方もなく骨の折れる仕事を、母性というあやふやな何かに頼って母親ひとりに任せたら、しかもその母親が子育てのためにかえって世間から孤立した存在になっていたら。
児童虐待とは決して対岸の火事などではないのだということを理解してほしい。
センセーショナルで重度な例が取り沙汰されることが多い児童虐待だが、それだけではないのだ。普通の主婦が、ちょっとしたことから虐待へと向かってしまうのである。
もちろん重度なケースも重大な問題だが、そこに至るまでのいくつもの段階が存在するのである。それもまた同じ児童虐待、家族の病なのだ。そしてそれが病であるなら、必ず治療する方法が存在する。
児童虐待も例外ではない。
それは不治の病などではなく、必ず癒される病なのだ。
様々な専門機関と専門家がこの問題に真剣に取り組んでいる。難しい問題ではあるが、解決法が必ず導き出される。もちろんそれは家族全体が真剣に取り組んで初めて得られる解答だ。
当人たちに治す意志さえあれば、それを専門家がバックアップしてくれる。
医師、保健婦、教師、民生児童委員、弁護士、ケースワーカー。相談すべき場所も保健所の育児相談、児童相談所、福祉事務所の家庭児童相談室、そして最近では児童虐待専門の電話相談も多く設定されている。
もし、児童虐待に関する悩みがあるのなら、今すぐにでも関係機関に連絡し相談することを勧める。最後にもう一度言っておこう。
児童虐待は家族の病であり、それは必ず癒《いや》されるのである。
角川ホラー文庫『スイート・リトル・ベイビー』平成11年12月10日初版発行
平成12年12月20日4版発行