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アロマパラノイド 偏執の芳香
牧野 修
目 次
1982年 4月 パリ
第一章 伽《きや》 羅《ら》
1911年 6月 デリー
第二章 真那蛮《まなばん》
1978年 3月 パリ
第三章 佐曽羅《さそら》
1980年 4月 ニューデリー
第四章 羅《ら》 国《こく》
1980年 4月 ガンダルヴァ
第五章 寸門多羅《すもたら》
1980年 4月 ガンダルヴァ
第六章 真那賀《まなか》
エピローグ
文庫版あとがき
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[#地付き]1982年 4月 パリ
「キャロ、あなた最近変わったわ」
女は良く手入れされた金の巻き毛を掻《か》き上げて言った。
長椅子《ながいす》に腰掛け、身体《からだ》を九十度ひねって男を見る彼女について、何か述べるなら一言、美しいと言う以外ない。
彼女は身体の断片を、すべて美の基準に照らし合わせ、一つ一つ丁寧につくられた人形のようだ。幾何学的に最も正しく最も美しいプロポーションを彼女は持っていた。そしてそれを最も有効に生かせる場所で彼女は働いていた。
モデルだ。しかもトップクラスの。
デスクに座り書類を整理していた男が、その手を休め、女を見た。
キャロと呼ばれてはいるが日本人だ。本名は笈野宿禰《おいのすくね》。
日本人離れした、と言われる彫りの深い顔も、この地では東洋人以外の何物でもない。
二十四で初めてパリを訪れてから十四年、彼はここに来るたびに異邦人であることを思い知らされた。
「君の顔は何の無駄もなく、一片の不足もない。眼も、鼻も、唇も、すべてが美しさの表現としてある。だから」笈野は椅子から立ち上がった。長身だ。ハイヒールを履いている女よりもさらに高いだろう。「だから僕は、君の顔が歪《ゆが》むのが好きだ、マチルダ」
笈野は腰をかがめ、両手で彼女、マチルダの小さな顔を挟んだ。
「眼よ」
そう言うとマチルダは、笈野の手を振り払った。
「眼が違う。あなたの眼は人を見下している。……いいえ、ただ見下しているんじゃないわ。それなら以前からそうだった。『おまえたち馬鹿とつきあうのは疲れる』。あなたの身体から溢《あふ》れる自信が、言わずともそう語っていた」
「自信過剰の嫌味な男と、どうして君は親しくなろうなんて思ったんだい」
「わたしのいる世界に、自信過剰でない人などいないわ。そしてあなたは、その自信に相応《ふさわ》しいだけの才能を持っていた」
「お誉めにあずかって光栄です」
笈野は慇懃《いんぎん》に日本式のお辞儀をした。
「でも、今のあなたは違う」
マチルダは笈野を見据えた。
ショーケースにしまい込まれていないのが不思議なほど見事な、エメラルド色の瞳《ひとみ》だった。
「あなたの眼は……、そう、まるで映画を観ているよう。古臭い犯罪映画を退屈そうに眺めているだけ。そこに本物の血の通った人間がいるなんて想像もしていない。そこにいるのはシミのついたスクリーンの上を動き回る影。……わたしを見る時だってそうだわ」
笈野は再びマチルダに背を向け、デスクに戻った。コントロールボタンを押したのだろう。厚いカーテンがするすると開いた。
笈野は窓に顔を近づけた。
笈野の自宅の二階。窓の外には夜の街が広がる。間接照明でつくられた光と影が、街全体を幻想的に見せていた。そこにあるどの建造物も、高名な建築家の手によってつくられたものばかりだ。ここはパリ十六区の南部にある高級住宅街。異国の人間がそう簡単に家を持てる場所ではない。
「ここに住むのが夢だった。そのためには何でもしようと思った。その時からだよ。髪を伸ばし始めたのは。神秘的な東洋人らしさを演出するために。それまではパリの人間になりたかった」男は小さく喉《のど》の奥で笑った。「まるで社交界でデビューするつもりでいる猿だね。で、遅ればせながら気がついたんだ。君たちのアジア人への偏見――君が望むのなら、それをオリエンタリズムと呼んでもいいけど――を利用すればいいんだってね。ああ、本当にいろいろなことをしてきたよ。君が顔をしかめるようなこともね」
笈野は振り返った。彼の肩まで伸びた漆黒の髪が、柔らかに揺れる。
「でも、今では後悔しているんだ。手を汚してきたことをじゃないよ。そんな夢を持ったことをだ」
ポケットの中から小さなガラス瓶を出してきた。香水の噴霧器だ。
ソファーに腰掛けるマチルダに近づくと、いきなり鼻先でそれをスプレーした。
彼女は顔を背けて言った。
「何するの!」
慌てて顔を拭《ぬぐ》う。瞬時東洋の香のようなにおいがして、消えた。とたんに彼女の心臓は大きく脈打った。
「……何をしたの」
今度は不安げな声で、彼女はもう一度尋ねた。
「すべてが、においでわかる。たとえば君がここに来る前に誰と会っていたか。……黒人の男だ。僕よりも年上。何度か僕も会ったことのある人物だね。そうか! わかった。ミゲル・サヴォワ、君のエージェントだ。自分の子供の病院代もケチる男だ。あんな男と会食するから、焼きすぎた鴨のフィレ肉なんか食べなきゃならなくなるんだ。しかも、デザートは少し甘すぎた」
「どうして、そんなことが……」
「においさ。君のにおいが僕に教えてくれるんだ」
「……確かにあなたの人並外れた嗅覚《きゆうかく》のことなら知ってるわ。でも……」
「僕はこの嗅覚で、パリで最も有名な調香師になった。そして独立し、香料デザイナーになった。おかげで富と名声が手に入った。においは僕に様々なものを与えてくれた。そしてまた、新しい世界を僕に見せてくれたんだ」
「いったい、何の話をしてるの。……ねえ、ここを出ましょう、キャロ。何か嫌な感じがするの。何か悪いことが起きそうな気がするのよ。お願いキャロ、早くここを――」
「君はドキドキしている」
笈野はマチルダの前にひざまずいた。その胸の下に掌《てのひら》を当てる。
「心臓が、君のこの胸の中で暴れている。君は不安だ。なのにどうして不安なのかわからない。だからよけい、怖くて仕方ない」
笈野はマチルダの膝《ひざ》に手を置いた。
「僕には君の恐怖がにおうんだ、マチルダ。だからわかる。君は怯《おび》えている。嵐《あらし》の夜の小鳥よりもね。どうしてそんなに怯えているんだろう。それも突然」
「……わからないわ」
笈野はマチルダに顔を近づけた。そして彼女の喉に鼻先で触れる。
「それはね、君が、においを嗅《か》いだからさ」
笈野は囁《ささや》いた。
「僕のつくった香料のね。まだ開発中だから、沢山かけなければならなかったけど、面白いだろ。ヒトの感情は、におい一つで簡単に左右される。僕の思うがままにね」
「嘘《うそ》よ。そんなこと嘘よ」
笈野から逃れようと、マチルダはソファーに腕を突き、背もたれに沿って身体を浮かせた。
が、笈野が両肩を押さえた。強い力だった。肩に指が食い込んだ。
マチルダは再びソファーに腰を降ろした。
「僕は君に嘘をついたことなんかない。そうだろ、マチルダ」
「痛いわ、キャロ」
マチルダの抗議を笈野は無視した。
「さっき君に吹きかけたのは、ヒトに不安と恐怖を与える香料さ。だから君は怯えている。実体のない恐怖にね」
恐怖はマチルダの心を鷲《わし》のようにしっかりと捕らえて離さなかった。しかもその力は、時が経つごとに強くなっていくようだ。
彼女は子供のように震えていた。
「でも、でもどうしてそんなことを……」
「言っただろ。僕は君の顔が歪むのが好きなんだ。恐怖にね」
笈野は右手をマチルダの前に出した。いつの間にかそこにはナイフが握られていた。
大きなナイフだった。ステンレスの刃がぎらぎらと凶暴に輝いていた。
「何を……する気」
答えず笈野はナイフを彼女の頬《ほお》に当てた。
「お願い、止めて」
彼女の中で恐怖は無限に増殖し続けていた。彼女の心は膨らませすぎた風船のようにはちきれそうだった。
笈野は声を出さずに笑った。
マチルダは、今まさに落下しつつある旅客機に乗っているような気分だった。跳ねる心臓が喉元までせり上がってきている。堪《こら》えきれず、マチルダは悲鳴をあげようとした。
とたんに笈野の大きな掌が口を押さえた。
マチルダは呻《うめ》いた。息が苦しかった。無理に呼吸しようとしていると、視野が暗く狭《せば》まってきた。涙が流れた。涙が流れて止まらなくなった。流れるマスカラが、鼻梁《びりよう》に黒の線を引いた。
捕らえられたウサギのように、彼女はもがいていた。
笈野はマチルダにのしかかり、ナイフを持っていない方の手で、彼女の頬を平手で殴った。往復二回、容赦はなかった。マチルダの口の中が切れた。
痛みはあまり感じていなかった。が、殴られた衝撃で、マチルダの頭の中は真っ白になっていた。今どこで、何をしているのか。何もわからない。わからないことさえ理解できない。恐怖心が失《う》せていた。それだけではない。頭の中に詰まっていたはずの物事がすべて失せてしまっていた。
初めて見るような顔で、マチルダは笈野を見上げた。
「君は神を信じるかい」
笈野が優しく言った。
何を聞かれているのかさえ、マチルダには理解出来なかった。
「すぐに信じるようになるよ。みんなそうだった。五人が五人ともね。いいかい、マチルダ。僕には君がにおいの塊に見える。いや、世界がそう見えるんだ。そう、君の言ったことは正しい。君たちの住む世界は、モノクロの退屈な犯罪映画さ。でも、僕が見る、いや、嗅いでいる世界はそうじゃない。生きた、真実の世界だ。君の直感どおりさ。僕は変わった。でも性格が変わったりしたわけじゃない。僕は生まれ変わったのさ……神にね。わかるかい、マチルダ」
こくり、とマチルダは少女のようにうなずいた。
「さあ、誰が神か言ってごらん」
とろけるほどに優しく、笈野はそう言った。マチルダは俯《うつむ》き、何故《なぜ》か恥じらうように笈野を指さした。
「声に出して言うんだ」
マチルダはしばらく考え込んでいた。そしてようやく思い出したその名前を、小さな声で言った。
「キャロ」
「良《い》い子だ」
笈野は彼女の頭を撫《な》でた。
マチルダはわけもわからず嬉《うれ》しかった。
笈野が首を傾げた。
鼻孔をひくひくさせる。
「血だ。血の臭いがする。マチルダ、口の中を切ったんだね」
笈野は親指と人差し指でマチルダの頬を掴《つか》んだ。
「乱暴なことをして悪かったね。さあ、口を開いてごらん」
言われるがままに彼女は唇を開いた。
その隙間《すきま》に、笈野は鼻先を押し込んだ。マチルダの唇がさらに大きく開かれる。
深く、大きく、笈野は鼻から息を吸った。まるでコカインでも吸うように、彼はマチルダの血の臭いを嗅いでいた。
押し寄せる高揚感が瞳孔《どうこう》を開かせた。一息ごとに流れ込む快楽に、笈野は身震いした。
そして突然、顔をマチルダから引き剥《は》がすようにして笈野は立ち上がった。鼻が唾液《だえき》でてらてらと光っていた。
笈野はマチルダに手を差し出した。
「おいで、マチルダ」
彼女は笈野の手に手を重ね、長椅子《ながいす》から起き上がった。
「さあ、一緒にバスルームへ行こう。ここでは部屋を汚してしまうからね」
笈野はナイフを持った手でマチルダの背中を押した。
彼女は酔ったような足取りで、バスルームへと向かっていった。
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第一章 伽《きや》 羅《ら》
1
八辻由紀子《やつじゆきこ》は煙草を吸わなかった。離婚したときに煙草をやめたのだ。結婚していた相手が愛煙家だった。その影響で同じ煙草を吸っていた。その男のことを思い出すのが嫌で禁煙を決意した。二年前のことだ。
その決意をくつがえさんと、小来栖久子《おぐるすひさこ》はさもおいしそうに煙草を吸っている。
彼女が勤める出版社のすぐそばの喫茶店でのことだ。
「それがこの雑誌なんだけどね」
久子は書類ケースの中から雑誌を取り出し、由紀子に渡した。
月刊誌だ。ぱらぱらとページをめくる。
『バッド・テイスト・メディア』という特集を組んで、怪奇漫画、B級邦画、SM官能小説、ワイドショー番組等を、〈知的〉に〈おしゃれ〉に紹介していた。編集人のところに久子の名前があった。
「ほら、子供の頃ね、石を持ち上げてさ、湿った土の上で見たこともないようなグロテスクな虫が右往左往するのを見てたことない?」
「……ああ、男の子がよくやってたな」
「あれよ、あれ。グランギニョールっていうか、夜店の見世物っていうか。不幸な奴《やつ》、醜い奴、おかしな奴を見て楽しむ気持ちね」
「それって人間の最低の欲望じゃないの?」
「あたり」
久子は紛《まが》い物の龍のように口から煙を吐き出した。
「その最低の欲望は誰にだってあるものでしょ。だからそれを充《み》たすメディアがあるわけじゃない。俗悪な女性週刊誌とかね。そうだ、八辻だって、自分じゃあ買わないけど、病院の待合室なんかで結構一所懸命にそんな週刊誌を読んでない?」
「……確かにね」
「でしょ。そんな人がこの雑誌の対象読者であるわけよ。〈病院の待合室〉的な言い訳をつくってあげれば、そんな人たちが八辻の言う最低の欲望を充たせるわけよ」
「売れる? そんな雑誌」
「そんな雑誌とは失礼ね」
久子は由紀子を睨《にら》みつけてから笑った。
魅力的な笑顔だ。少女のようなと形容してもいいだろう。何をされても許してしまえる愛らしさが久子にはあった。だから、せめてこの服装だけでも何とかすれば、と由紀子は彼女に会う度に思う。
生真面目《きまじめ》な白い綿のシャツにグレーのトレーナー、そしてジーンズ。全部まとめて五千円でお釣りがくる。彼女が服を選ぶ条件は丈夫で着やすいこと。清潔であるということだけが、わずかに女らしさを表しているというところか。
これは作業服で、ファッションじゃないんだから。
四十に近づいて女捨てちゃったね、などという同僚のからかいに、久子は決まってそう答えた。
由紀子は彼女の逞《たくま》しさにはいつも感心させられていたし、同性として彼女に学ぶべき点も多々あるとは思っていたが、少なくとも服装のセンスだけは真似る気にはならなかった。
「そんな雑誌であることは間違いないけどね。でも八辻の『オタクの誕生』なんていう、どちらかと言えば地味な本が売れたのだって、そんな読者が買ったからよ」
「私は別にそんな欲望を充たしてあげる気持ちで書いたんじゃないです」
「それはわかってるわよ。ノンフィクションライターとして誠実に、しかもどちらかといえばオタクと呼ばれる人たちにシンパシーさえ持って書き上げた本だってことは私が一番よく知っているわ。で、だからこそ、安心して読者は買えたのよ。読者にとってはね、真面目なノンフィクションっていうのが、〈病院の待合室〉になったわけよ」
久子はあくまで辛辣《しんらつ》だった。
『オタクの誕生』は由紀子がノンフィクションライターとして初めて出版した本だ。その時彼女の担当をした編集者が久子だった。久子とはそれ以来の友人だった。
まだ由紀子が学生の頃だ。新人類と呼ばれる若者たちが脚光を浴び始めた。由紀子は彼らよりは若干年下だった。が、同世代としての共感はあった。しかし、何か釈然としないものを感じていた。それが何なのかは彼女にもわからなかった。どことなく彼らは安全なところにいる、という感覚があった。
そしてそれと同時期に、一昔前ならマニアと呼ばれていたであろう人たちがいることに気がついた。それらと新人類と呼ばれている人々との差は、わずかであるような気が由紀子にはした。
同じものの裏表ではないかと。
表が新人類であるのなら、彼女はその裏の部分にひかれて取材を始めた。昔からそうだ。表よりも裏、光よりも影にひかれる。においを感じるのだ。自分と同質のにおい。今あるシステム、体制と呼ばれる何かから排除された存在のにおいを。
取材の中で、その人たちが「オタク」と、その容姿や態度に対して侮蔑《ぶべつ》的な意味を込めて呼ばれていることを知った。名づけたのは新人類と呼ばれていた人たちだった。
社会学のゼミをとっていた彼女は、そのオタクを卒業論文のテーマとした。
大学を卒業し、とある出版社に入社した由紀子は、会社の先輩である久子に強引に勧められ、それを一冊の本にまとめた。それが『オタクの誕生』だ。その時ちょうど、オタクという言葉が、ある幼児殺人事件をきっかけにマスコミによって頻繁に取り上げられるようになった。そのためもあってか、『オタクの誕生』はそこそこの売れ行きを見せたのだった。
結果的に由紀子はその出版社を円満退社することとなった。
それから十年の間に十五冊の本を出版したが、初めに出版されたものだけに、この本には愛着があった。
「不服そうね」
久子は由紀子の顔をちらりと見てから、また新しい煙草に火を点《つ》けた。
「書く人と読む人の思惑は別。それは仕方ないわね。私の知り合いに、宗教画に欲情しちゃう男がいるけど、そんなものよ」
「で、この雑誌で私は何を書けばいいの」
「アンソリットよ」
「えっ?」
「この雑誌のタイトル。アンソリットっていうの」
由紀子はテーブルに置かれたままの雑誌を見た。確かにそこには英文で『アンソリット』と印刷されてあった。
「〈突飛なるもの〉っていう意味。〈|異様な《ビザール》〉とほぼ同義語ね。それで八辻には取材に行って欲しいんだな」
「だから何の取材?」
由紀子はあまり気乗りしていない顔でそう尋ねた。
「コンタクティー」
「コンタクティー?」
久子は笑顔で頷《うなず》いた。
「UFOと出会って、宇宙人と連絡を取ってる人のこと」
「宇宙人と……」
「いたっていい人ばかりよ」
「そんな問題じゃないでしょ」
「直接コンタクティーと知り合いはなかったんだけど、仲介をしてくれる人がいてね、コンタクティーのコンタクティーね。瀬能邦生《せのうくにお》って人なんだけど、その人から三人のコンタクティーを紹介してもらったんだ」
久子はちらりと腕時計を見た。
「そろそろ行きましょうか」
ダウンジャケットを掴《つか》み、伝票を持って立ち上がる。
「えっ、どこへ?」
「取材に決まってるじゃないの」
「ええ、今からなの? そんな……まだ仕事を引き受けるとも言ってないのに」
「引き受けなさい。この雑誌じゃあメインのライターとして活躍してもらうつもりなんだから」
「でも――」
由紀子を背に、久子はさっさとレジに向かった。由紀子は慌ててコートとスカーフを手にして後を追う。
とっくに支払いを済ませた久子は店の外で待っていた。
「今年は年賀状を出せなかったね」
店の前でようやく追いついた由紀子が口を開こうとする前に、久子はそう言った。
「えっ……、ああ、母のこと」
「脳溢血《のういつけつ》だったんだって?」
「苦しまなかったのがせめてもの幸いよ」
言いながらコートを羽織る。
「いくつだっけ、お母さん」
「六十歳」
「まだ若いのにね」
「前日まで元気だったんですって。きちんと授業を終えて、家に帰って、それから倒れたらしいの」
由紀子の母は故郷で中学校の教師をしていた。夫を病気で亡くし、女手一つで由紀子を育てたのだ。
こんなことまで似なくていいのにね。
由紀子が五歳の息子を連れて離婚したことを報告すると、しみじみと母親はそう言った。
それが二月《ふたつき》前、教師仲間から由紀子に電話があった。母の死の知らせだった。炬燵《こたつ》に入ったまま、眠るように死んでいたという。あまりにも急だった。由紀子は予想もしていなかった。死んだ前日に電話で話しているのだ。その電話で由紀子は、正月に実家に帰らない言い訳をしていた。
取り返しのつかないことをしたという思いがあった。
「大変だったでしょ」
「財産があるわけじゃなし、お葬式が済んだら後は簡単なものだったわ」
「とはいってもねえ。ほら、年末だったし、いろいろと――」
言いながら久子はタクシーを停めた。
「さあ、乗って」
言われるままに由紀子はタクシーに乗り込んだ。ドアが閉まったとき、由紀子は久子の術中にはまったことを知った。
いつものことだと半ば諦《あきら》めながら由紀子は尋ねた。
「……それで誰なの、その瀬能っていう人は」
「超常現象研究家よ」
「それを職業にしてるの?」
「職業は別。研究家の方は趣味みたいなものね。でもただの趣味じゃないわよ。コンピューターとか入れてやってるらしいから」
コンピューターを使っているという理由だけで、その研究が本格的だとは、由紀子には思えなかった。
「それで、今からどこに行くの?」
「瀬能さんの事務所。そこにコンタクティーの皆様にお集まりいただいているわけ。はい、これが資料」
久子はファイルホルダーを手渡した。
「これを着くまでに読んでおけということですか」
久子は笑顔でうなずいた。
タクシーがオフィス街で停まるまで十分あまり。その間に由紀子は資料を読み切った。いつも取材前には入念な下調べをしている由紀子としては不本意だったが、久子から回される仕事はまず断りきれない。由紀子は強引な人間に弱かったし、久子は長いつきあいでそのことをよく知っていた。それに久子から回してもらう仕事でここしばらくの間食いつないでいることも事実だ。七歳の子供を一人かかえて暮らしている彼女は、本来仕事の選《え》り好みなどしていられなかった。
「このビルよ」
久子の指さしたのは近代的なデザインの、真新しいテナントビルだった。
「ここの最上階、十四階に瀬能さんの事務所があるの」
ハイハイとうなずきながら、由紀子は久子に従ってビルに入った。
ビルの規模のわりにはエレベーターの数が少ないからだろうか。昼休みでもないのにエレベーターの中は満員だった。それが少しずつ減っていき、最上階まで乗っていたのは由紀子たちだけだった。それもそのはずで、この大きなビルの最上階には、瀬能の事務所しか入っていなかった。
事務所の扉には『瀬能経済研究所』と書かれてあった。
別の意味で、よけいいかがわしいわね。
由紀子はうんざりしながら、久子に続いて扉をくぐった。
広いオフィスだった。ワンフロアを瀬能の事務所が占めているのだ。どのテーブルにもモニターが置かれ、まるで電子機器のショールームのようだった。働いている人間は見える限り、皆二十代の若い人たちばかりだ。
その中の一人が、由紀子たちを応接室に案内した。
待たせる間もなく瀬能は現れた。
かなりの長身だ。由紀子よりも頭一つ大きいだろう。上質のかっちりしたスーツを着こなしている。若く見えるが、五十歳を超えているのだと久子に聞いていた。ロマンス小説の現実ばなれした王子様役がつとまるだろう美男子だ。だが最近はこの手の〈濃い〉顔は敬遠されるらしいが。
由紀子たちは立ち上がり、型どおりに名刺交換を済ませ、ソファーに腰掛けた。
「近代的な事務所なんで驚かれたんじゃないですか」
椅子《いす》に座るなり、瀬能は言った。
「ええ、広い事務所ですね」
「そういう意味じゃなくて、フランケンシュタイン博士の研究所のようなものを想像されていたんじゃないですか。何しろ超常現象研究家ですから」
瀬能は笑いながらそう言った。
「えっ、まさか」
「そうかしら。私は初めここに来るとき、占いの館《やかた》みたいなのを想像してたけど。だって超常現象研究家なんて名乗ってるんですもんね。これはかなりいかがわしい肩書きよ」
そうでしょ、と言うように久子は瀬能の顔を見る。
瀬能は微笑を浮かべて久子の台詞《せりふ》を聞いていた。怒っている様子はない。
こんな台詞を言っても、いや、言えば言うほど相手に愛されるのが久子だ。
私には出来そうもない芸当だわ。と、由紀子は思う。大きな眼、高い鼻、大きな口、と派手な顔つきの由紀子は、普通にしていてもきつい感じに見られる。しかも表情をあまり顔に出さない方だから、幼い頃からよく母親に、笑顔を忘れては駄目だと口うるさく言われたものだった。
私がこんな台詞を言ったらたちまち大喧嘩《おおげんか》ね。
いかがわしいを連発する久子を見ながら由紀子はそんなことを考えていた。
「小来栖さんにはかなわないな。でも本当に誰でも〈超常現象〉という言葉を聞いて思い浮かべることは同じですよ。あまり常識的な人物を思い浮かべはしない。それは私にとっても見慣れた反応で、今さら傷ついたりはしませんから安心してください。そんなことで傷ついているようじゃあ、とっくに小来栖さんにいびり殺されていますよ。さて、ええと……だいたいの話は小来栖さんから聞いておられますか」
「いえ、まだ何も、コンタクティーとは宇宙人と会った人だという程度しか。ついさっき資料をもらったばかりで」
由紀子が咎《とが》めるような目つきで久子の顔を睨《にら》み、久子はそれを無視した。
「小島さんたち――今日取材していただくコンタクティーの方々ですが――がおいでになるまでまだ少し時間がありますから、私の方からまずコンタクティーとは何かという話をしておきましょうか」
「お願いします」
由紀子は頭を下げた。
「さっき資料で見ましたけれど、世界中でかなりの数のコンタクティーがいるとか」
「そうですね。異星人と出会った人。スピルバーグの映画で有名になりましたが、第三種接近遭遇をした人ですね。その中で、出会ってから以降も宇宙人と連絡を取り合っている人たちのことをコンタクティーと呼びます。連絡の方法はたいていの場合テレパシーですね。他にもいろいろとあるようですが主な通信手段はこれです」
言ってから、瀬能はじっと由紀子の顔を見た。どういう顔をして聞いたらいいのか、由紀子にはわからなかった。とりあえず真剣な顔でうなずいた。
「と、まあ、やはりあなたの考えておられたようないかがわしい話になるわけですが」
あなたの気持ちも良くわかるが、という表情だった。
「いきなりこれを信じろと言っても無理でしょうね。私だって異星人が云々《うんぬん》という話をまるっきり信じているわけじゃない。ただ私の場合は、そこで何かが起こり、それを目撃した人がいる、ということは事実だと思っています。嘘《うそ》をついているとも思わないし、単なる幻覚といったもので片づける気もない。だからこそ超常現象研究家と名乗っているわけですが。
基本的に私は主観の中にも真実があると考えています。それを客観的に証明できなくてもね。彼らが見、そして会話を交していると思っているのなら、それは確かに見て交信しているのです。
今からコンタクティーの方々を紹介するわけですが、決して危ない人たちじゃない。真面目《まじめ》に話を聞いてくれるのなら、彼らは大喜びしますよ」
瀬能という人物は、その肩書きから感じさせる特異なイメージとはかけ離れた人物だった。どちらかといえば成功した実業家といった雰囲気だ。超常現象を語るときも狂信的な様子は全くなく、子供がお気に入りの宝物について話す調子、つまりはたいていの男が、熱中している趣味について語る口調と同じだ(ただしいささか屈折はしているが)。
結局由紀子は瀬能からコンタクティーの予備知識をたっぷりと仕入れ、基本的な資料をコピーしたファイルまで貰《もら》った。
「これを」
瀬能は書棚から一冊本を抜くと、由紀子の前に置いた。
「何かの参考になるでしょう。いつ返してくださっても結構ですから」
「お借りしてよろしいんですか」
「本当なら差し上げたいんですが、これは限定本で、また手に入れるのが難しいものですから」
由紀子はそのハードカバーの本を手にした。真っ黒の表紙の中央に、両手で眼を押さえた男のモノクロのイラスト。そしてその上に赤く『レビアタンの顎《あぎと》』の文字が刷られてあった。
「精神世界に興味のある人たちの間で最近評判になっている本です。今日来られるコンタクティーの方々も読んでいますよ」
「コンタクティー必読の書というわけですか」
「そうですね、これが――ああ、来られました」
三人の男が応接室に入ってきた。
痩《や》せた顔色の悪い初老の男が小島光治、髪を後ろで束ねた若い男が進藤《しんどう》哲男、腹の突き出た小太りの中年男が高橋|忠男《ただお》。それぞれがそれぞれの名刺を出し、席に着いた。
「小島さんは全日本宇宙会議代表で、確か、異星人から金属片を譲り受け、それをお持ちでしたよね」
「持って来いって言われなかったから持ってきてないよ」色の悪い唇を小島は突き出した。「瀬能さんの頼みだから来たけどね、取材関係はたいてい断ってるんだよ」
「そちらの進藤さんはユング派の心理学にお詳しくて、新しい神としてのUFOを研究されています」
「詳しくなんかないですよ」
進藤は恥ずかしそうに頭を掻《か》いた。
「それから高橋さんはアダムスキー派の論者で、プレアデスからの連絡を受けておられます」
「八辻さんですか。変わった名字ですな」
高橋は好色そうな笑みを浮かべた。
「ええ、私も同じ名字の人には会ったことがないんです」
答えながら、由紀子は笑みを浮かべようとした。冷笑に見えなければいいがと思いながら。
2
ラッシュ時にはまだわずかに早く、車内は空《す》いていた。由紀子は列車に揺られ、車窓の景色をぼんやりと見ていた。
疲れていた。
コンタクティーたちは瀬能の言うように、由紀子が真剣に話を聞くと自ら進んで話をしてくれた。一番厄介な人物かなと思えた小島などは、その饒舌《じようぜつ》さに辟易《へきえき》させられるほどだった。しかもその内容は、常識では考えられないような奇怪な話ばかりだ。中では進藤の言う『神としてのUFO』の話だけはいくらかうなずけるところがあったが、それにしても一種の信仰告白を聞いているようで、彼女のようにいたって唯物論的な人間には分かりにくい話だった。一番困ったのは高橋で、会談の間中、舐《な》めるように由紀子を見まわし、取材が終わってからもしつこく夕食に誘った。
すっかり陽が暮れていた。闇《やみ》を映し、窓は暗い。溜《た》め息を一つついて、窓に顔を近づけ外を見る。線路沿いにビニールハウスが蜿蜒《えんえん》と並んでいる。
列車がトンネルに入った。トンネルは二層構造になっており、上を列車が、下を車が走っている。列車を乗り継ぎ二時間あまり。ここを過ぎれば由紀子の住む街までわずかの距離だ。
いつの間にかトンネルを抜け、列車は駅に着いた。二階建ての駅ビルは広く、飲食店が軒を連ねている。ここに至るまでは、無人駅同然のもの寂しい駅が続く。そのためか由紀子は引っ越した当時、都心に逆戻りしたのかと錯覚することが何度もあった。新しい街だ。大規模な宅地造成を行うことで唐突に生まれた街。この街に由紀子のマンションがあった。
山間《やまあい》を埋める闇に押し潰《つぶ》されぬよう、駅は白々しいほどに明るい。人工的な蛍光灯の明かりが眩《まぶ》しいほどだ。
由紀子は人の流れに身を任せながら改札へと向かった。改札をくぐれば、駅前の不必要なほどに広い通りにすぐに出る。
由紀子は一人の男に目をとめた。後ろ姿の束ねた髪に見覚えがある。誰だろう、と考える内に男は角を曲がって路地裏に消えていった。
しばらく考え、由紀子は一人苦笑した。
進藤さんだ。さっき会ったばかりの人のことをもう忘れている。これは老化現象かもしれないな。それに、それなら人違いかもしれない。彼はこれから仕事に戻るとタクシーに乗ったのを見ていたから。こんなところで列車に乗っているはずがないのだ。確か彼は大手の化粧品会社に勤めていたはずだ。それなら本社ビルは瀬能のオフィスから車で十五分ほどのところにある。進藤が会社に戻ったのなら、由紀子と同じ車両に乗っているはずがない。
駅前の大手スーパーで夕食の買い物をし、薬局で安売りしていたトイレットペーパーを抱えてカゴ付きの自転車にまたがる。
由紀子の住むマンションまで十五分。急げば十分の距離だ。
マンション群は街全体に広がっている。その広大な敷地に三千世帯の家族が住んでいるのだ。
十分で帰るべく、由紀子はペダルに力を込めた。汗ばむほどに自転車を漕《こ》ぎ家へと急ぐうち、由紀子は進藤のことなどすっかり忘れてしまっていた。
落ち葉の始末をする手間を省くためだろう。敷地内の街路樹はすべて葉を落とし枝を打ち払い、異形の生物の循環器模型のように裸の姿を冷たい風にさらしている。
町の条例でマンションはベージュを主体とした色で統一されていた。第二マンションの区画に入ってきた。壁にA棟の表示が見える。
A―33と書かれたマンションの自転車置き場に、由紀子は自転車を突っ込んだ。オートロック式の扉を抜け、一階のこぢんまりしたエントランスホールに入る。そこで郵便受けを確認した。ちらしの類《たぐい》が山ほど入っている。取り出し、そのままエレベーターの脇《わき》にあるごみ箱に捨てた。
「こんにちは」
後ろから声をかけられた。振り返ると痩せた小さな女がにこにこと笑いかけていた。
由紀子の部屋の隣に住んでいる主婦だ。福田という名字しか知らない。由紀子と同年齢ぐらいだろう。夫は銀行勤めだと聞いていた。母親似の痩せて顔色の悪い小学生の娘が一人いる。
「ああ、どうも」
由紀子は間の抜けた返事をして会釈をした。
「今日もお仕事ですか」
「ええ、ちょっと取材に」
「うらやましいわ」
「えっ、何がですか」
「だって、そんな仕事を持ってらして、外でばりばり働いてられるんでしょ。私なんか部屋と商店街の往復ばっかり。いい加減うんざりするわよ」
「仕事をしていても同じことですよ。同じことの繰り返し」
「あら、そうかしら。でも、うらやましいわよ、私みたいな普通の主婦にとっちゃあ」
うらやましがっている、というより、普通の主婦であるということを誇っているように、由紀子には聞こえた。
「どうやって入れるのか知らないけど、郵便受けに必ずちらしが入ってますね」
由紀子は話題を変えた。
「そうなのよ。ほら、裏ビデオがどうしたっていういかがわしいのが多いでしょ」
福田は顔をしかめた。
「子供には見せられませんね」
「私、何度も管理会社に言ってやったのよ。でも、駄目。誰かと一緒に入ってくるのは監視でもしてない限り止められないからって。それなら監視してりゃいいのよねえ。そういえば七階の井上さんが――」
管理会社と町会長と規則に反して犬を飼っている七階の井上家の悪口と、亭主と姑《しゆうとめ》の愚痴をたっぷりと聞かされてから、由紀子はようやく解放された。仕事以上に疲れてしまっていた。
部屋に戻り、鍵《かぎ》を開ける。すると、玄関先で待っていた息子の毅《つよし》がぺこりと頭を下げた。今年で七歳、小学校に入学したところだ。
「お帰りなさい」
「何を企《たくら》んでるの」
由紀子は靴を脱ぎながら言った。眼が笑っていた。
「ええっ、何も企んでないよ」
とぼけながら毅も笑っている。
「正直に言ってごらん」
由紀子は毅のぷっくりした頬《ほお》を優しくひねった。
「痛いよ、お母さん」
毅は唇をとがらせた。小学校に入る前あたりから、毅は頬をつねられることを嫌がるようになった。子供扱いするな、ということだろうか。
前髪が揺れて、額の傷が見えた。生え際から眉毛《まゆげ》を断って、もう少しで眼に届く。その傷を見る度に、由紀子の胸は何者かに掴《つか》まれたかのように痛んだ。
「じゃあ、何を企んでるのか言いなさい」
頬から手を離して由紀子が尋ねる。
「新しいソフトが出るんだ」
入学祝いに買ったテレビゲームのソフトのことだ。
「やっぱり」
「同じ日に二本、別の会社から発売するの。それで大橋くんと――」
「大橋くんって?」
「ぼくより背が高いけど、痩せてるんだ」
「新しいお友達?」
「すごくゲームがうまいんだよ」
「それで、その大橋くんと?」
「うん、大橋くんとぼくでその二本のソフトを買って、交換しようって約束したんだ。だから、お願い」
毅は両手を合わせて頭を下げた。
人に頼られるということはなんと楽しいことなのだろう。由紀子は大人の仕草を真似る毅を見て思う。毅は全面的に由紀子を信頼し、頼る。由紀子なしでは生きられないだろう。
甘える女が男に好かれるのも判るような気がする。
由紀子がぼんやりと考えていると、毅は彼女の袖《そで》を引っ張った。
「ねえ、駄目?」
由紀子は毅が可愛《かわい》らしくて仕方なかった。甘やかしては駄目だと思いながらも、ねだられればなんでも買ってしまう。にもかかわらず毅は聞き分けの良い子に育った。今も駄目だと言えばそれ以上に駄々をこねることはないだろう。そのような性格だからこそ、由紀子が甘やかしてしまうとも言えるのだが。
新しい友達と約束して、後に引けなくなってしまったのだろう。そう考え、由紀子は頷《うなず》いた。
「判ったわ」
「やりっ!」
毅は飛び上がって喜んだ。
「すぐ夕食の支度するから、おとなしく待ってなさい」
「はい! ああ、ぼくも手伝おうか」
「今日はいいわ。カレーの用意がしてあるから、後はサラダをつくるだけ」
キッチンに立って、由紀子はてきぱきと夕食の支度を始めた。
ちらりと後ろを見ると、毅はおとなしく本を読んでいた。
小さな和箪笥《わだんす》に、小さな机とベッド。家具らしい家具といえばそれだけだ。2DKの部屋にそれほどの家具も置けないだろうが、それでもかなり慎ましやかな部屋だといえるだろう。しかもきれいに整頓《せいとん》されているから、いっそ殺風景にさえ見える。
ごちゃごちゃしてややこしいのは人間関係だけで充分。
それが由紀子の信条だった。
だが子供が生まれた時、その信条を自ら進んで曲げなければならないと思っていた。子供は部屋を散らかすのが仕事だ。しかし毅は物心ついた頃から整理好きで、一部屋を勉強部屋として与えているが、そこもここと大差なく片づいている。
毅は本当に手のかからない子だった。だが、と由紀子は一人考えるときがある。
整理好きで聞き分けの良い子なんているんだろうか。あれは由紀子に手を掛けさせまいと気遣っているからではないか。一人の男として由紀子をかばっているのではないか。
二年前、浮気を咎《とが》めた由紀子に、別れた夫、佐久間《さくま》は殴りかかってきた。それをかばった毅は突き飛ばされ、飾り棚の硝子《ガラス》に額をぶつけた。硝子は割れ、毅の額から目蓋《まぶた》にかけてぱっくりと傷口が開いた。流れる血にたちまち鬼のように真っ赤な顔になった毅を抱いて、由紀子は外に飛び出した。
あの時も毅は、歩けるからと由紀子の手を借りまいとした。まだ五歳の子供が、だ。
結局はそれが離婚の直接の原因となったのだが、その頃から毅は男として由紀子を守護しようとしているように見えるのだ。
支度を終え、毅と一緒に夕食を食べ、後かたづけをしてから毅を寝かしつける。そのすべてが由紀子にとって幸福そのものだった。
毅の寝顔をしばらく眺めてから、由紀子は執筆に取りかかった。
ベッドが置かれた部屋の隅に、押し込むように置かれた小さな机。それが由紀子の書斎だった。辞書以外、本は何も置かれていない。出来る限り図書館を利用し、やむを得ず買った本も、その仕事が終わればすぐ古本屋へ売ってしまう。ごちゃごちゃしてややこしいのは人間関係だけで充分という由紀子の信条は、ここにも生かされていた。
パソコンを起《た》ち上げ、エディター画面にする。少し考えてから、タイトルを打ち込んだ。
『降臨を待望する人々』
イヤホンをつけ、テープレコーダーを走らせる。
瀬能の声が聞こえた。その時電話のベルが鳴った。狭い家だ。毅が起きないように、夜間は音を絞り込んでいる。それでも由紀子はびくりとした。母の死を知らせてきたのもこのぐらいの時間の電話だった。
それ以来夜間の電話のベルを聞いただけで不安になる。
由紀子は素早く受話器を取った。
久子だった。
『今日はお疲れさま』
「ほんとに疲れさせてもらったわ」
『怒らないでよ。私だって仕事なんだから。それより、八辻、絶対瀬能さんは八辻のことを気に入ってるわよ』
「何よ、いきなり」
『間違いないわよ。私には男を見る目があるんだから。それに、そうじゃなきゃ本を貸してくれるわけがないじゃない。どう考えてもあれは、今度返してくれる時に会ってねってことじゃない。あのぐらいの年齢の男にとっては、もう露骨なぐらいのナンパよ』
「男はもう結構。久子もそうじゃなかったの?」
『男は結構だけど恋愛は必要ね』
「ひどい矛盾」
『恋愛は矛盾しているものよ』
「どちらにしても、男にはうんざり」
『でも、素敵な人だったって思ってるでしょ』
「まあね」
『ほら、ご覧』
「何だか口調がさ、近所の世話やきおばさんみたいになってるわよ」
『だって、近所の世話やきおばさんだもん。……でも、気をつけた方がいいわよ、あの人には』
「どうして」
『だって……女にはだらしないって噂《うわさ》だから』
他愛もない話をした後、スケジュールの念を押して久子は電話を切った。
賑《にぎ》やかな久子の声が消えてみれば、今が夜であり、この部屋に一人いる自分をひしひしと感じる。毅がいなければ寂しさに潰《つぶ》されそうになっただろう。
さて、とわざと声に出して言ってから、由紀子は鞄《かばん》の中の資料とメモを出した。
そこに本があった。瀬能から借りた本だ。
由紀子はそれを手にして開く。
確かに、これは露骨なナンパかもしれない。そうだとすると、少し困ったことになる。が、嫌なら郵送すればすむことだ。困ったことになる、と考えるのは困ったことになりたいからなのか。自問しながら由紀子は冒頭の部分を読み始めた。
レビアタンの顎《あぎと》
[#地付き]笈野 宿禰
キャロ、君の将来の希望は?
大学の友人たちにこう尋ねられたとき、私はたいていこう答えていた。
「ナップさ」
NAPとはパリ十六区南部にある、ヌイイ地区、オートゥイユ地区、パッシー地区の頭文字をとったもので、これら高級住宅地に住む者とその生活を指したものだ。しかし、これはどちらかといえば上流階級を揶揄《やゆ》する言葉である。自らナップになりたい、などというものはまずいない。
このようなことを薄笑いを浮かべながら言う私に、尋ねた者はたいてい不審な表情を浮かべる。
すると私は、すかさずこう付け加える。
「貧乏人に悪口を言われたいのさ。悪口を言うよりもね」
世間を斜《しや》に見ることで大人ぶっている青年、それが私だった。
当時私はまだ二十歳そこそこで、日本人でありながら、自らキャロと名乗っていた。今考えれば恥ずかしいことであるが、あの当時私はどんな恥ずかしいことでも出来た。そして自らの才能にうぬぼれ、その才能を使えばどんなことでもできるのだと考えていた。
私は日本の小さなメッキ工場の次男として生まれた。計画倒産に巻き込まれ、父の工場はあっけなくつぶれた。私が三歳の時のことだった。私は父が四十の時生まれた子供だった。生活は急激に苦しくなった。
言い訳するわけではないが、私の『成り上がりたい』という、人が赤面するほどあからさまな思いは、その時の経験が大きく影響しているはずだ。
その時から二十八歳の誕生日にパリで香料デザイナーとして事務所を構えるまで、私が手段を選ばずにのしあがっていく過程を描けば、そのまま一編の悪漢小説《ピカレスク・ロマン》が仕上がるだろう。ただしその小説は単なる悪漢小説にはならない。
あの事件が起こったからだ。
その頃私が抱えていた仕事は、十二区にできる新しいインテリジェントビルの、香りによる空調システムの開発である。ニオイにより工場やオフィスの作業効率を上げる試みは過去に幾つも例があった。
そのビルは建物全体のイメージを一つに統一しようと考えていた。インテリア、照明、音楽、そしてニオイまでも。
そのイメージとは〈叡智《えいち》〉である。
久しぶりの休日だった。私は目的もなくトルソー公園を散策していた。それでも頭の中から、この大きなプロジェクトのことが離れることはなかった。
私は文明の発達と香りの関係を、ビルの一階から最上階に至るまでの道程に象徴しようと構想を練っていた。
太古において、ニオイは宗教的意味合いが濃い。当時の代表的な香料である乳香《にゆうこう》や没薬《もつやく》は、宗教的儀式にのみ使われるものだ。神の国と人の世を香りが繋《つな》いでいたのだ。
だからこそやがて芳香は神の手から、神にも等しい権力者のものとなる。ローマ時代以降の豪奢《ごうしや》な香りの世界がそれだ。ネロが宴を開くとその芳香が四キロ四方を満たしたという。
香りはやがて一人の独裁者のものだけではなくなる。
中世において香水はかなりポピュラーなものだった。が、それでも、香料は宝石と同様の貴重品であり、あくまで上流階級のものだった。それが庶民のものとなるのは十九世紀末、香水の生産が手工業から工業生産へと変化するのを待たねばならなかった。
それと関係して、私が最も重要視したのが十八世紀末に誕生した公衆衛生学である。
衛生という概念が、都市から悪臭を排除し始めたのだ。
パリ北部にあった汚物処理場モンフォーコンは、都市から排除された全ての悪臭の集まる場所だった。そのあまりの凄《すさ》まじさにモンフォーコンは観光名所となるほどだった。
これはそれまでのニオイの在《あ》り方と決定的に異なっていた。
神の手から神に等しい権力者のものへ、さらに人類全体のものへと、ニオイの権威は失墜してきた。人はニオイをその支配下においたとも言えるだろう。
しかし、中世のヨーロッパで香水が発達したのは、体臭を消すためではなく、体臭を変えるためだった。つまりその時点ではまだ、悪臭と芳香は混沌《こんとん》と混じり合い、〈ニオイ〉というものを人類が完全に管理するにはいたらなかったのだ。
そして十八世紀末、悪臭を排除することで人はニオイを完璧《かんぺき》に管理しようとし始める。それはイギリスで産業革命の起こった頃でもあった。
近代化が衛生学を生み、悪臭を排除し始めたと考えるのは間違いだろう。人類は悪臭を排除し、ニオイを統治することで近代化を得たのだ。悪臭からの決別が人の文明を躍進的に進歩させた。
私はこのようにニオイと文化の変遷を分析していた。そしてそこから未来のニオイを考えようとしていた。
それは新しいインテリジェントビルの最上階であるイベントホールを飾るニオイとなるはずだった。
二十世紀末、人は無臭化に向かう。ニオイを全て排除した上で、人工的に香りをつけるのである。ニオイという野性の知覚を、ロボット化していくこの傾向は、更に今後推し進められることだろうと私は考えた。
では、やがて訪れるニオイの新しい局面とは何だろう。それを私は〈新しい野蛮〉と名づけた。人が次代のニオイを手に入れるときは、近代というものが崩壊するときだろうと予測したからだ。
そこまでは考えていたが、それが具体的に何を意味するのか、私には何もイメージは出来ていなかった。
私は行き詰まっていたのだ。
ベンチに腰掛け、私はちぎったパンを鳩に与えていた。
冬である。冷えた大気はあまり匂《にお》いを感じさせない。それでも私には冬の匂いが感じられた。乾いた土と枯れ葉。そして夏ほどではないにしろ、いつも公園の匂いの中心となっている|樹々の香り《ウツデイ・ノート》。
私はふと、大気の中に奇妙な匂いが混じっていることに気づいた。通常の人間であれば感じないであろう僅《わず》かな匂いだった。だが私には、かつて天才調香師と呼ばれていた私にはその香りの正体がすぐに判った。
日本人であるなら幽玄とでも表現するであろう|神秘的な匂い《オリエンタル・ノート》。日本の香料、沈香《じんこう》のなかでも最高級品である伽羅《きやら》の匂いだった。私がキャロを名乗っていたのも、伽羅のもじりだった。その香料の匂いを、私は〈エロティックな熱帯〉と名づけていた。
それがどうしてこんなところで、と思った瞬間、匂いは瞬時に暴力的なまでにその濃度を増した。
急に心臓が激しく脈打ち始めた。腹の底で熱が生まれ、それが血管という血管を膨張させていくのがわかった。
視界が狭まり、下手なカメラマンが撮影しているかのようにぐらついた。
私は眼を閉じた。
視界を閉ざすと、暗黒の中にニオイの世界が広がった。その時私の意識はその闇《やみ》の中に転げ落ちていった。
闇の底に何かがあった。
私は暗闇の中でそのニオイを嗅《か》いだ。それは黄金の果実の香りだった。異なった世界のアダムとイブが食べるはずの知恵の果実の香りだった。それに手を出すことは、今ある世界を失うことだと私は直観していた。それは私が人ではない何か別のものになることを意味していた。恐ろしかった。恐ろしくはあったが、私にとってそれは耐えられぬほど強烈な誘惑だった。私は手を伸ばし、それをもぎとり、口に入れた。
叡智の香りがした。
私は知った。私の考えが正しかったことを。
始原のニオイを排除し、管理し、人工のニオイへと変えていくことで、人類は文明を飛躍的に進歩させたのだ。そしてそれはやがて終末を迎える。
そして私は……。
最初の衝撃が去っていってから、私はゆっくりと眼を開いた。
そこに別世界があった。
眼で見る限り、それは以前と何ら変わらない風景だった。だが私の鼻が、今までとまったく異なる世界をそこに現出させていたのだ。
すぐそばにヒトがいた。
アンドロステノールを中心としたニオイの集合体として、私はそれを知覚していた。
それがヒトであることに、私は感動さえ覚えていた。ヒトはヒトとして、すべてがそうであるようにヒトだった。モノとコトが、ニオイの世界では明確に分けられていた。それはリアルなヒトだった。全くの現実《リアル》というものを私は感じた。
私はそのヒトに近づいた。
肩に手をかける。
私はもっとそばでヒトを観察したかったのだ。
その躰《からだ》を引き寄せ、鼻を近づける。
ヒトは大声をあげた。
見回さずとも、周囲に別のヒトがいないことを私の嗅覚《きゆうかく》は感じとっていたが、それでもその口を押さえた。
アドレナリンをはじめ、ヒトの恐怖物質が濃厚に匂った。それは私を更に興奮させた。もがくヒトを押さえる私の手が、その喉《のど》を引っ掻《か》いた。
血がにじんだ。赤い滴が宝石のように輝いた。
血の匂いがした。
それは驚くほど熱く、身悶《みもだ》えするほどなまめかしかった。私の下腹のあたりに棲《す》む何かが頭をもたげ、背骨を伝って凄まじい勢いで頭の中に入り込んできた。それは快楽であり、力だった。
血管の中に激流のような力の波が送り込まれてくるのを感じる。
もっと力を。もっと、もっと……。
私は歓喜の叫びをあげた。そしてポケットから爪《つめ》やすりを取り出した。それをヒトの喉に突きたてる。
溢《あふ》れる血の芳香が、私の鼻孔を満たした。
それが私の初めての殺人だった。
由紀子は本を閉じた。
これが本当に精神世界に興味のある人たちの間で読まれている本なのだろうか。これではまるでホラー小説だ。
あとがきも解説もない。奥付《おくづけ》にはナンバリングがされていた。そういえば瀬能は限定本だと言っていた。
由紀子は肌寒さを覚えた。鳥肌が立っている。
怖い、というより不安感があった。嫌な予感と言ってもいい。
たとえば目覚めると同時に、胸の奥にしこりのように居すわっている重苦しい不安感。何事も具体的な事実を思い出せぬままに、それでも良からぬ物事の気配がすべてを支配しているあの感触。
電話のベルが突然鳴って、由紀子は椅子《いす》から飛び上がった。
獲物を捕らえる猫のように素早く受話器を手にする。
雑音が聞こえた。それと微《かす》かな雨の音。
「もしもし」
呼びかけると、遠くの方で喋《しやべ》っているような弱々しい声が聞こえた。
「……こちゃん……気をつけなさい……」
由紀子は受話器を落とした。それは畳の上に敷いた絨毯《じゆうたん》の上に転がり、鈍い音がした。
聞き間違えようがない。
その声は二カ月前、実家で息を引き取った由紀子の母の声だった。
3
部屋の照明はすべて消してある。
モニターの明かりが、ビニールテープを幾重にも巻きつけた男の顔を、まだらに照らしていた。ビニールテープは、男の左の耳に携帯電話を縛りつけるためのものだ。短いアンテナが触角のように飛び出していた。
ピンクのカーテン。大きなテディベアの縫いぐるみ。アールデコ風の照明器具に、絨毯に散らばった女性雑誌。
男の部屋ではなさそうだった。
部屋の持ち主は、男の後ろに天井を向いて横たわっている若い女だ。
会社から帰ってきたばかりなのだろうか。スーツ姿だ。そのタイトなスカートが裂け、破れたストッキングの脚がそこから投げ出されている。
両腕は、いもしない眼の前の誰かを抱きかかえるように前に突き出ていた。その指が苦悶《くもん》に宙を掴《つか》んだまま固まっている。
首の周囲にはチョーカーのように赤黒い痣《あざ》。眼球が飛び出るほどに眼が見開かれ、ぽっかりと開いた唇から、紫に膨れた舌がのぞいていた。
ほんの四時間前、彼女は近くのカラオケボックスで友人たちと騒いでいた。帰宅し、扉を開けた時だ。後ろから押された。振り向けば男が立っていた。
黒い手袋をして、右手に革の鞄《かばん》を、左手に携帯電話を持っていた。
男が後ろ手に扉を閉める。
声が出なかった。逃げることも出来なかった。
怯《おび》え、竦《すく》んだ女に、男は飛びかかってきた。瞬く間に女は猿轡《さるぐつわ》をかまされ、両手と両脚を縛られた。男はまるで熟練したカウボーイのように手際よく素早かった。
女を縛り終わると、男は鞄を探り、黒いビニールテープを取り出してきた。口で端をくわえ、片手でテープを伸ばす。そして耳に当てた小さな携帯電話ごと、頭にぐるぐる巻いていた。
巻き終わると、テープで引き攣《つ》れた唇を動かして言った。
「星に連れていってあげるよ」
言うと、男はその腕を彼女の喉に伸ばした。そのまま体重を腕にかけ、力一杯彼女の首を絞める。
そして女が息絶えたのは、今から三時間ほど前のことだ。
それからずっと、男はこの部屋にいる。しばらくは死んだ女の顔に見入っていた。それから、家から持ってきたビデオカセットをデッキに突っ込んだ。そして、床に座り膝《ひざ》を抱え、何かを祈るようにモニターを見つめ続けている。それが癖なのか、時折後ろで束ねた長い髪をしごいた。
モニターにアップで映し出されているのは若いAV女優だ。彼女は半ば唇を開き、彼方《かなた》を眺めている。音量は絞り込まれ、何も音は聞こえていない。
そのAV女優は五本の作品に出演していた。そのどれにも間の抜けた下品なタイトルがつけられていた。そのタイトルは彼女を愚弄《ぐろう》するものだと考え、男は決してそのタイトルを口にしなかった。
デビュー作がファースト、次作がセカンド。そして四作目、五作目が、フォース、フィフス。最も重要だと彼が考える三作目は、「シカバネの神様」と名づけられていた。彼にとってこの五本は神から得た啓示に等しいものだった。
今モニターに流れているのが、その「シカバネの神様」だった。
「シカバネの神様」は、チープなどと呼ぶのも馬鹿馬鹿しいような宇宙船の操縦席から始まる。銀紙とベニヤ板で造られたことを誇っているかのようなこの操縦席に、彼女はこれまた三流のキャバレーのショーガールのような銀のレオタードで現れ、ストリップ・ティーズよろしく服を脱いでいく。水族館のアシカショーに、フェリーニのサテリコンを連想できる人物なら、それがバーバレラの真似であることに気がつくかもしれない。
モニターの中で彼女は今、悪い宇宙人に犯されている。悪い宇宙人といっても、坊主頭の男が緑のドーランを全身に塗りたくっているだけのことなのだが。
そのドーランが剥《は》がれて彼女の顔をまだらに染めていた。
宇宙人の動きが激しくなった。歯車とぜんまいで動く玩具《おもちや》のように彼は腰を動かしている。
彼女は眉《まゆ》をひそめ、半眼から時折|瞳《ひとみ》が失《う》せる。顔についた緑のドーランが緑青《ろくしよう》のように見える。
食い入るように画面を見ながら男は呟《つぶや》いた。
そうだ。来るぞ。そろそろ来るぞ。
彼女は大きく口を開いた。先のとがった赤い舌が上顎《うわあご》を舐《な》める。荒く息を吐き、その一息ごとに彼女の身体《からだ》から失せていく何かが、男には見えた。
それは命だ。生きること、そのものだ。男の目には彼女から生が抜け出ていくのが見えた。そして彼女に訪れる死の姿まではっきりと。
男は早口の押し殺した声で呟き続けていた。
――ニオウぞ、ニオウぞ。死のニオイだ。死んでいくニオイだ。ああ、なんてことだ。あなたは私の前で死んでいくぞ。その顔に、ぼくは、ぼくは、滅びていく機械の神様だ。錆《さ》びついて死んでいく機械の神様だ。グリースと頭蓋骨《ずがいこつ》とバンドネオンと乾電池のニオイがするよ。どうして伝えよう。ぼくはあなたを愛している。あなたの死に逝く顔を愛している。あなたを崇拝している。あなたはシカバネの神様でぼくはひざまずいて、死んでいくそのニオイを嗅《か》いで、それがぼくの愛です。あなたの指先からニオウ死がぼくをひざまずかせる。どうかシカバネの神様、ぼくの願いはたった一つなのですから、あなたの死に逝く顔を、ぼくに見せてください。本当のあなたの死に逝く顔をぼくに見せてください。
男がこのAV女優を愛しているのは事実だ。初めて彼女のビデオを見た時、脳髄に電極を差し込まれたような衝撃があった。それは性的な衝動などというものではなく、宗教的な恍惚感《こうこつかん》に近いものだった。
何故《なぜ》彼女にここまでひかれるのか。それは男自身にもわからなかった。わけのわからぬまま、彼は憑《つ》かれたように彼女が出演するビデオを集めた。発売元にまで電話をかけ、集め損なったものはないか確認した。どんな業界にでもいる事情通と呼ばれている人にも確認した。そうやって五本のビデオを集め終わった頃だった。
彼はテレクラで知り合った女とホテルに行った。人を見下したような笑みを浮かべる暗い女だった。部屋に入るなりベッドに横たわり、鞄の中から取り出した本を読み始めた。裸になった彼が服を脱がせる間も、本を読み続けていた。男はその本を取り上げ、女にのしかかっていった。もともとそういう趣味のある女だったのかもしれない。男は女に、首を絞めてくれと求められた。彼は女にまたがり首を絞めた。そして見たのだ。あのAV女優の表情がそこに浮かぶのを。快楽と苦痛。恍惚と死が同居するその表情を。そこに男の望むものすべてがあった。
それは死に逝くものの表情だった。
死を受け入れたものの表情だった。
そして死によってたどり着く、神の国を暗示する表情だった。
気がつけば、すでに女はぐったりと、動かなくなっていた。それから四人の女の表情の中に彼女を見た。彼の後ろに横たわった女が、その四人目だ。
モニターの中では、悪い宇宙人が〈彼女〉の顔に長々と射精していた。
画面が変わった。
冒頭と同じ宇宙船の中で、彼女は携帯電話を持っている。それが宇宙船の通信装置であると言いたいのだろう。
彼女の唇が動く。音量は落としてあるから声は聞こえない。男の耳以外には。
ビニールテープでしっかりと耳に押し当て巻きつけてある携帯電話から流れるその声を聞きながら、男はしきりにうなずいていた。
――はい、そうです。いつでも連絡ください。わかっています。次はあの女でいいんですね。ええ、もちろんわかっていますよ。そこにあるんですね。すぐに……そうですね。すぐに取りかかります。
4
キーボードに指を置いて、由紀子はぼんやりとモニターを眺めていた。久子から預かった資料では心もとなく、由紀子は今日図書館で関連図書を検索した。そしてそのあまりの量に驚いた。UFO関係、あるいはコンタクティーの本がこれほどあるとは思っていなかったのだ。
半日かかって図書館にある本は読み切り、重要と思える物を数冊借りてきた。その時にとったメモがテーブルの上に並べられている。
コンタクティーが書いた本も多数あった。その大半は、我々の文明より遥《はる》かに進んだ異星の知性体から教えてもらった考え方が記されたものだ。それも科学的な知識ではなく、精神世界の重要さを教条的に述べてあるものがほとんどだった。由紀子の読んだ限り、それらは宗教書と区別がつかなかった。わずかな科学的記載も誤りが多く、科学的に宇宙人の存在を実証することは、今のところ不可能のように思えた。
そこまでを考え、由紀子は「不可能、不可能」と意味もなくキーボードに打ち込んでいた。不可能という文字が延々とモニターを埋めていく。
机の横の時計を見ると午前二時。
大きく伸びをして、いったん書いた原稿をハードディスクに保存した。
異臭がした。
何のにおいかわからなかったが、特徴のある、気になるにおいだった。どんなにおいとも似ていなかったが、それでもたとえるのなら線香のにおいに似ていた。においには敏感だった。特に子供の時はそうだった。はっきりと覚えているのは、小学校最後の夏休み。由紀子が庭に出た時のことだ。夏草と湿った土のにおいが由紀子を襲った。そう、まさに「襲った」のだ。顔面を殴られたかのような衝撃だった。熱く湿ったそれは夏そのもののにおいだった。成長していく植物や交尾する虫たちや餌《えさ》を捕る獣たちの生命そのものを頭の中に押し込まれたような気がした。由紀子はその場で昏倒《こんとう》していた。母親に発見され病院に運ばれた。そこで目覚めた由紀子は病と死のにおいに泣き出した。それからしばらく、由紀子はにおいに悩まされた。幼い由紀子にはそのどれもが説明不可能な体験だった。思春期の少女の鋭敏な感覚があのような体験をさせたのだろう、と今の由紀子は思う。父親不在の家庭で、中学進学の不安も重なって不安定な時期だった。今はその時ほどにおいに敏感ではない。いや、あらゆることに鈍感になっているのかもしれない。自戒の意味も込めて由紀子はそう思っていた。ところが今、まさにあの実家の庭で感じた衝撃と同じものを感じていた。まったく同じではない。あの時に感じたのは〈生〉そのものの力強さだった。だが今由紀子を襲ったのは、ずん、と胸の奥に重く沈むような感覚だった。そのにおいは由紀子の不安感を煽《あお》りたてた。
由紀子は理由もなく嫌な気分になった。病気になると青空までが忌々《いまいま》しく見える、あの感触だ。モニターに書いた文字が汚らしい虫になったように見えた。蛍光灯の明かりが弱々しく、その明るさが鬱陶《うつとう》しかった。
においの正体が特定できないまま、不快感は増していった。
窓を開けようと思った。窓はすぐ近くにある。椅子《いす》から立ち上がり窓の前まで行き、そこで立ち止まった。
渋いグリーンのカーテンが窓を覆っている。そのカーテンの隙間《すきま》が気になった。
カーテンを開くと、そこから何が見える?
その疑問が頭に浮かぶと、突然恐ろしくなった。鳥肌がたち、由紀子は立ち上がったままじっとカーテンを見つめていた。
においはすでに感じなくなっていた。しかし一度起こった恐怖心は消えなかった。
窓を開けなくてもいいの。においはなくなったんだから。
自分にいい聞かせ、由紀子は初めからそれが目的だったかのようにキッチンに向かった。何か飲もう。そう考えると、とたんに喉《のど》が痛いほどに渇いていることに気づいた。買い置きの炭酸飲料があるはずだと冷蔵庫を開けると、ミルクしかなかった。紙パックを取り出してコップに注ぐ。由紀子は昔から冷たい牛乳が飲めなかった。飲むと腹を壊すのだ。ミルクの入ったコップを、彼女は電子レンジに入れ、温めるボタンを押す。
レンジの中に明かりが点《とも》り、かすかな作動音がしてミルクの入ったコップが回りだした。その間も、正体のない恐怖感が由紀子を捕らえて離さなかった。しきりに後ろを振り向きながら、由紀子は回転するコップを見ていた。
だから、どんっ、と天井で大きな音がした時には、心臓がぎゅっと縮み上がるほど驚いた。
階上には若い夫婦が住んでいたはずだ。友人でも呼んで遊んでいるのかもしれない。以前、あまりにもうるさいので抗議しに行ったことがあった。驚かされたこともあって、よけいに腹が立ってきた。
再び大きな音がした。今度は何かが破裂するような音だった。それに続いて、ずる、ずる、と何か濡《ぬ》れたものを引きずるような音がした。
由紀子は天井を見上げた。
何をしているんだろう。
部屋の隅でかたんと音がした。
キッチンにある、ベランダに通じる硝子戸《ガラスど》のカーテンが、風に曝《さら》されたように大きく揺れていた。それに当たって、一輪挿しが倒れたのだ。
どうして……。
由紀子は倒れた一輪挿しを起こそうともせずカーテンを見つめていた。窓は閉めて鍵《かぎ》をかけてあったはずだ。風など入るわけがない。
階上の夫婦に対する怒りは消え、再び恐怖心が蘇《よみがえ》る。
揺れるカーテンから、外がちらりと見えた。暗い窓の外に、オレンジの光点が見えた。ゆらゆらと動いたそれは、次の瞬間、爆発的なまでに輝きを増した。由紀子は腕で眼を覆った。固く眼を閉じているにもかかわらず、眩《まぶ》しさに眼が痛んだ。
そして……、そして由紀子はキッチンのパイプ椅子に腰掛けていた。
何が起こったのかわからなかった。
周りを見回すが、何も変わったところはない。電子レンジに入れたミルクのことを思いだし、由紀子はレンジを見た。すでにタイマーは切れていた。いつタイマーが切れたのだろうと思いながら、由紀子は扉を開いた。コップを手にすると冷たかった。
見るとミルクは薄く膜を張っていた。
私は気を失っていたのだろうか。
由紀子はレンジの中を覗《のぞ》き見た。何があるわけでもない。部屋を順に見て回り、押し入れやクローゼットまで開いてみた。
何も変わったところはなかった。
由紀子はもう一度椅子に腰掛け、冷たくなったミルクを口にした。
考えを整理しようとしていると、頭が痛んだ。こめかみから前頭部にかけて痺《しび》れたように痛む。由紀子は眼を閉じ、眉間《みけん》を何度も揉《も》んだ。
原稿を書いていて、疲れてミルクを飲みに来た。
そうだったような気もするが、何か重要なことがいくつも抜けているような気もする。あったことをはっきりと思いだそうとするのだが、ところどころ記憶が途絶えていた。虫食いのある書物を読んでいるような気分だ。どこか記憶が完全でない。完全でないことは何となくわかるのだが、どこがどう抜けているのかが思い出せない。確か眩しい光を見たような気がするのだが、その記憶もいつか見た夢のように曖昧《あいまい》だった。
由紀子は書斎に戻り、モニターを見た。
止めるのは不可能、という文章が羅列してある。そして最後にはそこだけ行を変え、もう遅い、と書かれてあった。
こんなことを書いたかしら。
考え始めるとまた激しくこめかみが痛んだ。
子供の泣き声がした。その声で不安も頭痛も何もかも吹き飛んだ。
毅だ。
由紀子は慌てて子供部屋に飛び込んだ。
電灯をつけると、毅はベッドの上で半身を起こして泣きじゃくっていた。夜泣きしたのは初めてのことだった。
「どうしたの」
由紀子はベッドに腰掛け、毅の肩を抱いた。
「誰かがいるよ」
毅はしゃっくりのように息を吸い込みながら言った。
「誰かがそこから覗いてたよ」
毅は子供部屋の扉を指さした。
「蜘蛛《くも》だよ。蜘蛛みたいな人」
毅は震えていた。由紀子はいっそう強くその小さな肩を抱き締めた。
「夢よ。怖い夢を見たのよ。心配することはないわ」
そう、心配することはない。由紀子は自らにも同じ台詞《せりふ》を言い聞かせた。
5
「わざわざ、ご丁寧に。申し訳ありませんね。郵送してくださってもよかったのに」
応接室にやってきた瀬能は本を手にすると丁寧に礼を言った。
「それだと、失礼かと思いまして」
どうぞ、と促され由紀子はソファーに腰を降ろした。瀬能も本を横において腰掛ける。
昼食をすませてから連絡を入れ、由紀子は瀬能の事務所にやってきていた。
「それから、これもお渡ししておこうと」
由紀子は発売されたばかりの雑誌『アンソリット』を手渡した。
「小来栖さんから直接送ってきているかもしれませんけど」
「何冊でも、いただけるものはいただきますよ」
雑誌をぱらぱらとめくりながら、瀬能はいたずらっぽく笑った。
「で、どうでした」
機嫌をうかがうように由紀子は尋ねた。
「あなたの記事ですか」
「ええ……」
「こんな言い方をプロのライターにするのは失礼かとも思いますが、良い出来だと思いますよ。でも」
「でも?」
「この雑誌でのコンタクティーの扱いは明らかに興味本位ですね」
そう言われても仕方ないだろう。何しろ特集タイトルは『壊れた人々』で、コンタクティー以外にはファナティックな新興宗教家や芸術家、電波系と称して、町で見かける奇妙な人々等が紹介されていたのだから。
「あなたの記事は別にして、このような扱われ方を『馬鹿にしている』と取るコンタクティーもいるかもしれませんね」
「すみません」
由紀子は頭を下げた。雑誌は久子のいったとおり、知的な色をつけた見世物小屋だった。それを感じとっていたからこそ、由紀子も頭を下げたのだ。
「八辻さんが謝る必要はありませんよ。謝らなければならないのは小来栖さんだ。事前に私に雑誌を見せなかったわけがわかりましたよ」
仕方ないなあ、という口調で瀬能は言った。本気で怒っているようではなかった。
「見せなかったんですか」
「適当にごまかされました。確信犯だな、彼女の場合。まあ、このような扱い方はまだ良心的な方かもしれませんが。……ところで、これから、どうされるおつもりですか」
ほら、きた。
由紀子は少し身構えながら尋ねた。
「何か?」
「いえ、もしよければ私の研究を見ていただけないかなと思って」
少しだけ意外な申し出だった。
「素人研究家の話は、なかなか誰も聞いてくれないんですよ。ですから、よろしければ私の研究の成果をみていただけたらと思いまして」
「ええ、私の方はかまいませんけれど……」
「決まった。それじゃあ」
瀬能はさっさと立ち上がり、オフィスの奥にある彼の部屋に由紀子を案内した。
壁はすべて書棚になっている。見渡す限りぎっしり、天井まで本ばかりが詰まっていた。ほとんどが横文字のタイトルだ。
悪い癖だとは思うのだが、由紀子は昔から人の書棚が気になった。顔を横にしなくても読める本を、眼でざっと追う。
『UFO軍事交戦録』『サイの戦場――超心理学論争全史』『CIA UFO公式資料集成』『プレアデス+ かく語りき』『機械の中の幽霊』『アウトゼア―アメリカ政府地球外生命秘密探査―』『超常現象と第三項』『なにかが空を飛んでいる』
らしい本がずらりと並ぶ。
「いろいろ本があるでしょ」
瀬能に言われて、由紀子は彼の顔に眼を戻した。
「読書家なんですね」
「私もオタク、ですか?」
「えっ」
「そういう御本をお書きになってたでしょ。確か『オタクの誕生』」
「随分昔に書いた本です」
「私もまあ、一種のオタクでしょうな」
瀬能はキーボードを操作しながら言った。テーブルの上にはコンピューターが一台置いてある。そのモニターの中で、無数の小さな記号が生き物のように動き回っていた。
「これが私の研究の成果の一つです」
「何ですの、これは」
「言語の進化シミュレーションです」
「言語の進化?」
「言葉は生き物と非常によく似ている。増殖し、変化し、生き延びるものもあれば滅びるものもある。平安時代に使われていた言葉が今もずっと使われているわけではない。だが日本語の構造そのものが消えてしまうわけではない。言葉は変化し、生き残っていくわけです。それをシミュレートしたのがこれですよ」
瀬能はキーボードを操作した。
「ですが言語は通常の生物とは違って、単独で増殖するわけではない。それが増殖するには当然人間を必要とします。ですから私は言語をウィルスのようなものとして考えました。ウィルスというのはよく生命と非生命の間に存在すると言われています。というのは、ウィルスというものは生物の基本条件、自己増殖が出来ないからです。ウィルスは他の生物の細胞を使わなければ増殖できません。言語も人がいなければ増殖不可能だ。言語とウィルスは非常によく似ているわけです。――これを見てください」
モニターの中では無数の記号群が右往左往していた。よく観察すると、記号たちはいくつかのグループに分かれ、ぶつかり合い、分裂し、姿を変化させ、消えていくのがわかった。
「この中の一つをよく見てください。どれも少しずつ違った形をしていますが、基本的には大きな円形と小さな矩形《くけい》の組み合わせになっています。この丸いのが人間、そして小さな矩形がその人間の使用する言語です。図形に変換してありますが、これはどちらもある種の小さなプログラムです。言語は異なる形の言語と出会うと、単純なプログラムの方が生き残るように設定してあります。画面の一部を拡大してみましょう」
キーボードを操作すると、モニターの中にもう一つ小さなモニター画面が出来た。そこでは拡大された記号が、細菌のように動いていた。面長《おもなが》の顔にとんがった三角帽子をかぶっているように見えた。そこに房のついた長方形の帽子をかぶった同じ面長の顔が近づいてきた。その二つは二度三度と接触すると、長方形の帽子は消え、代わりに三角の帽子が現れた。
「このように言語は単純な方が生き残ります。ところが」
三角帽子に面長の顔同士が互いに接触しあっていた。すると三角の帽子の頂点に膨らみができた。
「同一の言語が接触を続けると、その言語はどんどん複雑になっていくようにも設定してあります。しかも」
三角帽子をかぶった面長の顔へ向かって、針山のように刺《とげ》のある帽子をかぶったまん丸の顔が近づいてきた。これもまた何度か接触を繰り返す。そうすると面長の顔が帽子とともに消えてしまった。
「このように宿主《ホスト》である人間は、その寄生体である言語が複雑であるほど生き残る。つまりより複雑で高度な文化を持った人間が生き残るように設定してあります。言語や人間が周囲から影響を受ける指数|λ《ラムダ》を変化させることで、言語と人間の関わりとその進化、分布、繁殖がモニター上で様々に再現出来るわけです」
「これをすべて瀬能さんお一人でやられたんですか」
「ええ、基本的なプログラミングは私が考えました。ですが、大半はこの研究所のスタッフにやらせました」
瀬能は照れくさそうにそう言うと、慌ててつけ加えた。
「経済システムも言語同様生命現象と類似してるんですよ。だから進化論的経済学という言葉もあるぐらいで、生物としての経済システムは日本でも研究されているんです。で、私はここのスタッフとともに株価の変動を生命現象としてシミュレートして未来予測をするソフトを開発しました」
「そんなことが可能なんですか」
「地震予報よりは確実ですが、天気予報ほどの的中率はありません。非線型システムの予測としてはまあまあの出来ですね。ですが一部では評判になっていまして、おかげで私もこのような遊びができるわけです」
経済研究所の看板は伊達《だて》ではなかったわけだ。それがいかがわしいものでなくて、由紀子は何故《なぜ》かほっとした。
「趣味が高じて仕事にも役立ったというところですか。公私混同と言われれば言い返す言葉はありませんが……。ああ、そうだ。言語シミュレーションの話ばかりで、肝心の超常現象の話をするのを忘れていました」
「今のお話が超常現象と関係があるのですか?」
「もちろんですよ。でなければこんなソフトをつくったりはしません。私が興味のあるのはそれだけなんですから。それで――」
机上の電話が鳴った。
すぐに瀬能が取る。
「はい。ああ、ここにおられますよ。少々お待ちください」
瀬能は受話器を由紀子に渡した。
驚いた顔で瀬能を見ると、あなたに電話です、と彼は言った。ここにいることを誰が知ってただろう、と口の中で呟《つぶや》きながら由紀子は受話器を耳に当てた。波の音のようなノイズがひどかった。
「はい、電話代わりました。八辻です」
ノイズの奥から押し殺した男の声が聞こえた。
『……酷《ひど》いよ。あれじゃあ裏切りじゃあないか』
かすれた男の声だった。何のことかわからず由紀子が聞き返すと、電話はふつりと切れた。
ツー、ツー、という信号音を聞いていると、急に頭痛が始まった。頭の芯《しん》に釘《くぎ》を打ち込まれるような激しい痛みだった。
結局その日、由紀子は瀬能の話をそれ以上聞くこともなく、挨拶《あいさつ》もそこそこに事務所を出ることになった。
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[#地付き]1911年 6月 デリー
暑かった。
激しい陽射《ひざ》しが肌を焼く。夕暮れが近いとはとても思えない。
シカゴ生まれのナバル・エリエゼルにとって、インドはジュール・ヴェルヌの創造する異世界と大差なかった。しかし彼は冒険家でもないし、博学な科学者でもなく、ただジュネーヴ大学で言語学を学ぶ凡庸な学生にしか過ぎなかった。
「旦那《サーヒブ》、着きましたよ。ここからはもう眼と鼻の先だ。あの路地を抜ける手前の家がそうですよ」
痩《や》せたその男が指差す先。その路地裏に人影はなく、剥《は》げ落ちたぼろぼろの土壁が延延《えんえん》と続いているだけだ。
何故僕はこんなところにいるんだ。
露光の狂った写真のように白く陽炎《かげろう》揺らめく路地を眺めながら、ナバルは自問した。勿論《もちろん》答えは判っている。彼の尊敬する師、フェルディナン・ド・ソシュールに命じられたからだ。
事の起こりは、先月の初め、ナバルがソシュール教授に呼び出された時に始まった。この天才言語学者に師事するがために、ナバルは跡を継いで医者になれという父の反対を押しきり、スイスで金融業を営む叔父《おじ》を伝《つて》にジュネーヴ大学に入ったのだった。
ナバルはノックし、扉を開けた。古い本のにおいがした。それは知の体系そのもののにおいのように思えた。ソシュールは広い窓の前に立っていた。
陽は沈もうとしており、神話的ともいえる黄金の光が室内を満たしていた。彼の青く澄んだ瞳《ひとみ》は窓の外を眺めていた。ナバルはその瞳に、何故か沈痛な疲労の色を感じた。
ソシュールはふいに思いついたようにナバルの方に躰《からだ》を向けた。その唇に優しい笑みが浮かぶ。ナバルは唇の上の威厳ある豊かな髭《ひげ》に手を触れたい衝動にかられた。救世主の脚に接吻《せつぷん》することで脚萎《あしなえ》が癒《いや》されるように、その髭に触れることで真理を発見する知性を有することができる。それはナバルがソシュールを見た時にいつも抱く妄想だった。
彼がソシュールに抱く思いは崇拝に近いものだった。
「君に頼みがあるのだが」
ソシュールが言った。ざらざらとした苦しそうな声だった。喉《のど》を病んでから声の質がすっかり変わってしまっていた。
「は、はい。仰せのままに」
国王を前にした奴隷のようなナバルの台詞《せりふ》に、ソシュールは苦笑しながら話を続けた。
「インドに行って欲しいんだ」
たかだか資料収集の手伝いをする程度の頼み事だと思っていたナバルは、驚愕《きようがく》のあまりただ黙ってソシュールを見詰めていた。
ナバルはソシュールに気にいられていた。だがそれは彼がセシュエやバイイのように優秀であったからではなく、愚直なほど純朴で素直な彼の性格のおかげだった。だから学術的な目的でインドへ行けと言っているとは、悲しいことだがナバル自身にも思えなかった。
それでは何のために。
それからソシュールが彼に語ったことは、到底彼に予測し得ることではなかった。
ふと気づくと、ここまで案内してくれた男の姿は消えていた。ナバルの足元に彼の荷物が置かれたままだった。ナバルはそれを持ち、路地に入った。男の言ったとおり、路地を抜ける手前に目的の家があった。
粗末な木製の扉をノックしたが、返事はない。ナバルは何度かノックを繰り返してからそっと扉を開けた。扉に鍵《かぎ》はかかっていなかった。
「失礼します」
声を掛けながらナバルは中に入った。広い土間があった。窓から入る光が、浮かぶ埃《ほこり》を舞い散る雪のように見せていた。
微《かす》かなにおいがした。気品のある神秘的な香りだ。どこか、なまめかしさを感じるが、肉感的なものではない。高貴な、澄んだ香りだ。
部屋には鮮やかな色のサリーを着た四人の女たちが座っていた。全財産を宝石に替えて身につけているかのように飾り立て、厚化粧の顔は仮面のようで、皆一様に微笑を浮かべている。その額には黄色い染料で三日月が描かれていた。
「あ、私はソシュール教授の依頼で……」
ナバルが話し出すと同時に、奥の部屋からもう一人、赤いサリーを着た者が現れた。つややかな褐色の肌を持った若い女だった。彼女は白い木綿の布で包まれた乳児を抱えていた。乳児はカラシ油を混ぜたウコンの粉を全身に塗られ、真っ黄色だった。
微笑《ほほえ》みの形に固まったままのような赤い唇が開き、赤いサリーを着た者が話し始めた。
「私たちはソーマ。女でもないが、男でもない。獣でもないが人でもない。何者でもない私たちはソーマ。天空の美酒、神々の食糧。神を養うがために生まれた万物の糧」
英語だったが、ナバルが理解できたのは、この者たちが〈ソーマ〉という名である、ということだけだった。しかし、とりあえず、ソシュールの言うとおり、一人の乳児がここにいることを知って安心した。
彼がソシュールに頼まれたのは、この生まれて間もないであろう乳児に、ある質問をすることであった。確かにそれはソシュールを心から尊敬し、決して疑うことのないナバルにしか頼めない仕事だった。ナバル以外の誰であってもこんなことを頼めば、ソシュールの正気を疑うだろう。
「あの、そのお子さんに、その、聞きたいことがありまして」
さすがのナバルも、そう言ってから馬鹿馬鹿しい気持ちになってきた。しかし、〈ソーマ〉と名乗るものは笑いもせずにその赤ん坊をナバルに差し出して言った。
「彼は|黄金の胎児《ヒラニア・ガルバ》。終わりにして初めの、時でない時に生まれた。その名はプルシャ。語り得ぬ者の王。何でも尋ねるがいい」
乳児が腕の中で向きを変え、ナバルの方を見た。
奇妙な芳香が鼻をついた。においを発しているのは、彼女の両腕の中にすっぽりと収まっている乳児だ。どうやらこの家に満ちている香りの源は、この乳児だったようだ。
ナバルは恐る恐るそれを受け取った。彼がぎこちなく抱きかかえると、聡明《そうめい》そうな顔の赤ん坊が微笑んだ。馬鹿馬鹿しい思いを捨て切れず、それでも彼は尋ねた。
「ええ、プルシャ君。答えてくれるかな。つまり、人は真の自然をも語り得るのか[#「人は真の自然をも語り得るのか」に傍点]ってことなんだけれど」
それから後に起こったことをナバルは生涯忘れられなかった。
まずナバルの頭の中に〈意味〉の感触が広がっていった。それは思い出せぬ夢に似ていた。言いようのない感情を想起させる雰囲気だけが存在する。ナバルの脳は、懸命にその感触を言葉に変換していった。そして彼はこの一歳にも満たぬ赤ん坊からの答えを知った。
『真の自然を知覚し得るものは、語らぬものであり、語らぬものは語らぬことによって人でなくなる』
それがプルシャと呼ばれる乳児の答えだった。
「こんなところで何の会議が開かれているんですか。しかも|ヨーロッパ人《フアランギー》まで招いて」
後ろから声がした。英国式の、いわゆる『美しい英語』の発音がわざとらしい。
ナバルは後ろを振り返った。十人足らずの男たちが立っていた。皆同じ、股《また》からたくしあげる形の腰布《ドーテイー》にクルターと呼ばれる長袖《ながそで》のシャツを着ている。旅の商人といったところか。
「ようやく見つけましたよ」
先頭の若い男がそう言った。美貌《びぼう》の持ち主と言っていいだろう。男の鋭い鼻の下には、ぴんと跳ね上がった髭がたくわえられている。が、ソシュールの髭と違って、ナバルはそれに触れてみたいとは思わなかった。男の杏《あんず》型の大きな瞳に剣呑《けんのん》なものを感じたからだ。笑みの形に歪《ゆが》めた唇から覗《のぞ》く整った真っ白の歯に、邪悪なものを感じたからだ。
「おまえには礼を言わなければならないね」
男はナバルに会釈した。
「君に導いてもらわなければ、まだこの者たちを求めて旅を続けていたに違いないだろうから」
「え、僕は何も……」
「さて、その赤ん坊を渡してもらえますか」
男はナバルに手を差し出した。
「それはアスラ。君の国の言葉で言えば悪魔のようなものです。この世に害を為すだけの化物だ」
「化物はあなたたちタグの方」
赤いサリーの〈ソーマ〉が言った。
ナバルはその名を聞いたことがあった。確かカーリー女神を崇拝する暗殺集団だとか。しかし、彼らは皆十九世紀末にイギリス軍の手によって捕らえられ、処刑されているはずだ。
ナバルはプルシャを抱いたまま、〈ソーマ〉と〈タグ〉を交互に見た。
「ほう、我々が何者か知っていたのですか。それじゃあ、話が早い」
男は右手を上げて、何かを仲間たちに告げた。ヒンドゥー語であることは判ったが、ナバルにその意味は判らなかった。
それからの男たちの動きは素早かった。ナバルが彼らの手に短剣《ダガー》が握られていることに気づいたのは、四人の〈ソーマ〉たちが喉《のど》を掻《か》き切られてからだった。
「逃げて!」
最後の〈ソーマ〉が、叫ぶと同時にナバルを突き飛ばした。髭の男の持った短剣《ダガー》が彼のシャツを切り裂いた。突き飛ばされなければ確実に腹を裂いていただろう。
ナバルはプルシャをしっかりと抱え直し、家を走り出た。
本の虫だった彼の十数年ぶりの全力疾走だった。
プルシャを抱いている。それがだんだん重くなっていくのが不気味に思えた。
すぐに息が切れた。
それでもナバルは走り続けた。
足音と罵声《ばせい》がすぐ後ろで聞こえる。
彼は更に脚を速めた。いや、速めようと思った。しかし、悪夢の中で走ってでもいるかのように脚が重い。一歩毎にベタンベタンと音をたてて走るアヒルの姿が頭の中に浮かんだ。
沈む夕日を背に、黒い人影が見えた。
「助けてくれ!」
ナバルは叫んだ。叫びながら歩いた。こわばった脚が走ることを拒絶していた。
ようやく彼はその人影にたどりつき、足元にへなへなと座り込んだ。
「大丈夫ですか」
男は気取った英国式の発音でそう言った。
見上げると影になった顔の、ぴんと立った髭が見えた。ナバルの躰《からだ》から力が抜けた。それでも両手だけは、しっかりとプルシャを抱えていた。
残りの男たちが追いついてきた。
「慣れない土地で逃げるのは難しいですね」
男は黄色いハンカチのようなものを手にしていた。それがナバルの首にするすると巻きつけられた。
「あまり暴れないで下さい。その方が苦しまずにすむ」
男が布の両端を持つ手に力を込めた。
死ぬ、あるいは死んだ、と思ったその時、声がした。
『おまえたちはこの罪を百年の後に償うことになるだろう』
ナバルにはそう聞こえた。
あの赤いサリーの〈ソーマ〉だった。生きていたのだ。喉から噴水のように血を噴きだしながら、ナバルに、ナバルの腕に抱かれた乳児に近づこうと、〈ソーマ〉は脚を進めていた。
首にかかる力が緩んだ。その隙《すき》にナバルが逃げようとした瞬間だった。
腕の中のプルシャが激しく輝いた。ナバルはそう感じた。だが、それは光であると同時ににおいでもあった。プルシャの放つ異香がその濃度を急激に増していた。それはあたりを包む眩《まぶ》しい光であり、豊潤で混沌《こんとん》とした生命力の熱さでもあるにおいだった。
爆発が起こった。
その爆発もまたプルシャの香りそのものだった。景色が粉々に吹き飛び、ナバルは漆黒の空間に投げ出された。
肉がきしみ、骨がねじれ、四肢が、頭が、内臓が、皮膚が、千切れ、歪み、たわみ、砕け散り、それが再び、気紛《きまぐ》れに融合し、組み立てられ、また引き裂かれた。それは純粋な苦痛だった。千の灼熱《しやくねつ》した針を体内に埋め込まれるような痛みだった。それは快楽でもあった。全身が男根と化し、巨大な女陰の中で果てしなく射精を続けていた。
そしてナバルは知った。
全てを、だ。
何故《なぜ》彼はここに来たのか。何故ソシュールは彼をここに送ったのか。プルシャとは何者なのか。人は何故生き、そして死ぬのか。世界とは何か。時間とは何か。この世のあらゆる疑問の解答をナバルは手にした。それらを理解したというのではない。彼はそれを感じとったのだ。完全なる真理が彼を包み、彼の内に完全なる真理があった。彼の感じとったものは表現し得ぬことであり、それを知覚したということ自体間違っているのかもしれない。だがもしそれを言葉で言い表すのなら、においだった。
神の、においを、嗅《か》いだ。
それが表現し得る言葉の限界だった。
意識が絶える寸前、彼はナバルとしては最後の言葉を呟《つぶや》いた。
「先生の髭《ひげ》に触れたんだ」
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第二章 真那蛮《まなばん》
1
すっかり陽が暮れてしまっていた。
由紀子は革の手袋を脱いで、かじかみ痛みだした指先を擦《こす》り合わせる。
クレーン車にもたれ空を見上げれば、銀砂のように満天の星が輝いていた。都心では決してみることのかなわぬ星空だ。周囲を山に囲まれたこの広場は、採石場か何かだったのだろうか。
こんなところで取材だなんて、まるで麻薬の取り引きか何かみたいじゃないの。
それがおかしな場所なのよ。
笑いながらそう言った久子の顔を思い出して、由紀子は少々腹が立ってきた。
苦労して書き上げたコンタクティーの取材記事を編集室に持っていった時だった。いつものように久子は有無を言わせぬ口調で次の仕事を依頼してきた。それが『グラフィティー・チーム』の取材だった。次の次の号に掲載する分で、すでに取材日時も決定していた。
グラフィティー・チームというのは、文字どおり|落書き《グラフイテイー》を描くチームだ。しかし単なる落書きとは違う。ニューヨークの地下鉄に描かれた落書き、あるいはキース・ヘリングに代表される、街の壁などに描かれるポップ・アートのようなものだ。ただし依頼されて描くわけではない。それどころか、見つかれば警察に捕まるような場所に描くことが、彼らグラフィティー・チームの誇りでもある。
由紀子もまったく知らなかったグラフィティー・チームの一人に取材を依頼すると、指定してきたのがこの場所だったのだと、久子は言った。
犯罪に近いことをしているからということなのだろうが、その自意識過剰気味の態度に由紀子はうんざりした。
時計を見ると午後六時十五分。約束の時間は過ぎている。近くにタクシーを待たせてあるとはいえ、ここからマンションまで一時間以上かかることを考えると、また由紀子は腹が立ってきた。しかしそのおかげで、さっきまで由紀子を襲っていたしつこい睡魔からは逃れることが出来たようだ。
ここ数日、まともに眠れる日はなかった。夢で目覚めるのだ。毎回決まって同じ夢だった。枕元《まくらもと》に死んだ母親が座っている夢だ。ベッドの枕側には、壁しかない。つまりそこに座ることは不可能なのだ。それで由紀子は、これが夢であることを知る。母親は顔を由紀子から背けるようにしているので、その表情を見ることは出来ない。由紀子は話しかけようとするのだが、喋《しやべ》ることが出来ない。身体《からだ》も凍りついたように動かない。だが不思議と恐ろしい感じはない。恐ろしくはないが、胸を締めつけられるような寂寥《せきりよう》感がある。
電灯を消した真っ暗な部屋の中で、それだけ白く浮き出るように光っている母は、ゆっくりと腕を上げ、泣いてでもいるように鼻と口を手で押さえる。そして、はあ、とさも切なそうに溜《た》め息をつくのだ。
それは彼女の母親の癖だった。生前何かと言えば溜め息をついていた。
その溜め息を聞くと、由紀子は必ず目覚めた。
母の最期を看取れなかったことを悔やんで、こんな夢を見るのだろう。そう思い、母にしてやれなかった数々のことを考えていると、涙がこぼれてくることもあった。そして、それからは眠れなくなる。そんな夜が毎晩のように続いた。
「あなた、八辻由紀子さん?」
急に後ろから話しかけられた。
ユキコサン、という発音が、何か日本語に不慣れな外国人のイントネーションのように聞こえた。
いつの間にそこに来たのか、振り返ると十代後半の少年がいた。月明かりの下でも、少年の顔色が悪いのがわかった。山登りにでも行くのかと思えるほど大きなバックパックを背負っている。
「そうよ。あなたがジャムね」
当然|渾名《あだな》だろう。本名は久子から聞いていない。おそらく彼女も知らないのだろう。
「ここは、いいところでしょ。ぼくは好きだな。何もないこんなところが。東京もすべてこんなとこに変えちまえばいいのに」
赤ん坊のように由紀子の眼をじっと見ながら、ジャムは言った。
「ちょっと寒いわね」
「寒いとか暑いとか痛いとかがないと、死んでるのか生きてるのかわからないから」
と言ったままじっと由紀子を見つめている。わからないからどうなの、と由紀子は怒鳴りつけてやりたくなった。仕事でなければ本当に怒鳴っていただろう。
「取材の話は聞いてるわよね」
「チームの話が聞きたいって」
「そんなチームはたくさんあるの?」
「あるよ。でも、どれだけあるかは知らない。一人でチームを名乗ってる奴《やつ》もいるし、暴力使う奴、馬鹿な奴、うるさい奴、とにかく一杯いるよ」
「あなたのチームはどんなチームなの」
「電波系チームって言われてるよ」
電波が流れ込んで私に命令する。
典型的な被害妄想の一つだ。が、電波系とは狂気であることを指すのではない。病的であるなしを問わず、膨れ上がった妄想を持て余している人物のことを言う。
「ぼくも高校ぐらいまでは本物の電波野郎だったけどね。今はハッパもやんないから」
ハッパはマリファナのことだ。
「じゃあ、昔はドラッグを使ってたんだ」
「そう。ぼくも昔は何でも――Eとかマッシュとか、ついでにシャブとか試してみたけど、最近止めたの」
「どうして」
「身体に悪いから」
本気か冗談か区別がつかず、由紀子はじっとジャムの、モデルのような小さな顔を見ていた。
「人間はね、もともとあっちの世界に行けるように出来てるわけでしょ。別に薬を使わなくても。笈野も書いてたけど、変革はここにあるって」
ジャムはこめかみを人差し指でつついた。
「笈野って誰?」
「笈野宿禰」
どこかで聞いた名前だった。
「知らないかな。『レビアタンの顎《あぎと》』って本」
瀬能に貸してもらった本だ。彼らの間でもあの本は流行《はや》っているのだろうか。
「一度読んでみたんだけど、最初の部分が気持ち悪くて、そこから読んでないの」
「気持ち悪かったんだ」
何がおかしいのか、ジャムはくく、と喉で笑った。
「あれの最初のタイトルは『パリのジャックの告白』だから仕方ないかもね」
「パリのジャックって……何だか聞いたことがあるわね」
「由紀子さんならリアルタイムで知ってるんじゃないの? 十何年前かな、パリで連続殺人事件があって、捕まえてみたらそれが日本人だったっていう話」
覚えていた。
十七年前だ。パリで猟奇的な連続殺人があった。身体を切り刻み、心臓をえぐり取るという凄惨《せいさん》な手口から、パリの切り裂きジャック事件と呼ばれていた。その犯人が、捕らえられてみると日本人だったことから、日本でも随分マスコミが騒いだものだった。
「それじゃあ、あれは小説じゃなくてすべて真実なの?」
「そう、何もかも真実。笈野宿禰ってのはペンネームだと思うけど、あのパリのジャックが作者だから、確かに少々グロテスクなところもあるかもね」
そういえばあの頃、日本に送り返されてきた犯人が病院で手記を書いて、かなりセンセーショナルに出版された。そのタイトルが「パリのジャックの告白」だったことも由紀子は思い出した。
「その時の『パリのジャックの告白』を改題して違う出版社から復刻したのが『レビアタンの顎』」
「面白いの?」
「面白い……ていうか、人間はどう変わっていくか、みたいな話ね。ぼくが新しいぼくになるにはどうすればいいのか、とか」
「どうすればいいの?」
「本、持ってるんでしょ?」
「それが借りてた本で、今手元にはないの。本屋でも手に入るかな?」
ジャムはバックパックを降ろすと、中から一冊の本を取り出した。
はい、と由紀子に差し出す。
『レビアタンの顎』だ。由紀子はそれを手にしてぱらぱらとめくった。モノクロの写真に緑のタイトル。奥付もあり、そこには未来開発出版の名があった。ナンバリングはない。
「これは市販されている普及版の方」
ジャムは本を見る由紀子をじっと見つめていた。
「それ、あげるよ」
「いいわよ。欲しかったら自分で買うし」
「必要になるはず。きっと必要になるよ」
ジャムはバックパックを再び背負った。
「ねえ、それよりぼくを取材して、何に載せるの?」
「聞いてなかったの?」
「何も」
久子は掲載誌の名前さえ教えずに取材を申し込んだんだろうか。
「『アンソリット』っていう雑誌なの。でも、きっと君が気に入るような雑誌じゃないと思うな」
「どういう風に気に入らないかが問題だよね」
「それはどういうこと」
「結局モラルってのはあまり役に立たなくなるから」
「どういう意味かしら」
「新しい世界になるってこと。ぼくたちが変えていくから。それは始まっているし、由紀子さんだってその世界に何らかの形で関わっていくことになるよ、きっと」
「どうして」
「ぼくと由紀子さんが出会ったってこと。ええと、シンクロニシティーっていうのかな、それは偶然でなく大きな意味で必然かもしれないからね」
「何のこと?」
「由紀子さんはぼくと同じにおいがする。多分あの人もそれには勘づいている。だからいろいろな人が集まってくるんだ。すべてが定められたままに動いてる。でもレールは一本じゃない。あなたにも行き先は選べるんだ。協力はするよ。きっと同じ敵を相手にするだろうから」
「よくわからないんだけど」
「さっきの本を読んでみればいいよ。読めばすべてがわかるとは言わないけど、わかるところが多くなる。でも深みにはまっちゃ駄目。笈野は肝心のところで嘘《うそ》つきだから。でも嘘は必ず暴かれる。ぼくたちがそうしていくからね」
「ぼくたちっていうのは、あなたたちチームのこと?」
「それも含まれるけど、ようするに新しい人だよ。これからどんどん新しい人が増えていくからね。笈野の思うような未来にはならない。させるつもりはないんだよ、由紀子さん」
ジャムは何故《なぜ》か懐かしいものでも見るような眼で空を見上げた。
「今から変革されていくんだ。すべてがね。こんな時には笈野のような人物が生まれる。新しい人たちの価値観で世の中が動くようになるからね。その隙間《すきま》を狙《ねら》う者が生まれるのは、これもまた必然さ。でも大丈夫。ほら、あそこでレティクルの人たちがぼくらを見守っている」
ジャムの指差す先を、由紀子は見上げた。
そこに棒状をした、オレンジに光る何かがあった。
「あれは……」
由紀子が出した声に驚いたかのように、オレンジの光は蠅のようにジグザグに空を飛び、次の瞬間には消えていた。
「ねっ」
ジャムは由紀子の肩をぽんと叩《たた》いた。普段ならそのようなことをされると無性に腹立たしいのだが、その時は肩を叩かれたことさえ気づいていなかった。
「今の、飛行機とかじゃあなかったよね」
「そうだね」
「流星でもないよね」
「UFOだよ」
こともなげにジャムはそう言った。
「だから言ったでしょ。由紀子さんもすでに物語の中にいるんだ。問題は誰の物語かってことだよね。変わっていくよ、何もかも。……ねえ、聞いてる?」
「えっ? ええ、聞いてるわ」
聞いてなどいなかった。由紀子の両の掌《てのひら》が汗で濡《ぬ》れていた。鳥肌が立って、身体《からだ》が震えている。
怯《おび》えているのだ。
恐ろしくてたまらなかった。一瞬のうちに消えたあのオレンジの光が。
なぜそれほどまでにあの光が恐ろしかったのかが、由紀子にはわからなかった。
無駄話をやめ、由紀子は用意していた質問を手早く済ませた。早々にこの場を立ち去りたかった。タクシーが待っているところまでジャムはついてきた。その間一言も言葉を交さなかったが、由紀子が駅までタクシーで送っていこうかと聞くと、ジャムは首を振ってから言った。
「どうせまた会うよ」
そうかしら、とか何とか曖昧《あいまい》な返事を返すと、由紀子は扉を閉めてタクシーを駅に向かわせた。振り返ればたちまちのうちにジャムの姿は濃い闇《やみ》の中に消えていく。頭上にいる何かが由紀子を追いかけてきているようで恐ろしかった。しかし、駅でタクシーを降り、電車に乗り込んだ時には、多少は由紀子にもおちつきが戻っていた。そうなるととたんに、取材がいい加減に終わってしまったことを後悔し始めた。しかし、だからといってもう一度あの場所でジャムと会う気もなかったのだが。
車内は空《す》いていた。
由紀子は空《あ》いた席に腰を降ろす。知らぬうちに、頭の中でよっこいしょ、と声をかけている。
我ながら歳だな、と自嘲《じちよう》気味に笑うと、前の席の男と眼が合った。男は嫌そうな顔で眼を逸《そ》らせた。笑われたと思ったのだろうか。しかし言い訳するのもおかしく、由紀子は知らぬふりを決め込んだ。
ジャムから聞き出したことを頭の中で整理しているうちに電車は乗り換えの駅に着いた。ホームに降り立ち、路線を変え、再び電車に揺られているうちに、大体の構想がまとまってきた。今度は前よりは苦労せずにすみそうだった。
改札から出て時計を見ると、午後九時。
毅はとっくに眠っているだろう。帰りが遅くなるからと連絡を入れておいた。
郊外の住宅街では八時を過ぎると唐突に夜が訪れる。
街は静まり返っていた。
電車から吐き出された人たちが、それぞれに別の道へと消えていく。駅前の店舗も灰色のシャッターを閉ざし、働いているのは自動販売機だけだ。
駅から離れればさらに人の通りはなくなり、みなが寝静まっているように思える。マンションに点《とも》る明かりも少なく、その明かりがまたもの悲しい。
動いているものといえば、マンションのゴミ置き場で群れて餌《えさ》を漁っている猫ぐらいのものだ。
がさごそというその音を後ろに、由紀子は足を速めた。この辺りで痴漢が出没するという噂《うわさ》があった。噂はあくまで噂として聞いていたが、それでもこの辺りを通る時は足早になる。
後ろから足音が聞こえた。
速まりかけた足を、由紀子は逆に遅めた。
自意識過剰気味に走り出す方が恥ずかしく思えたからだ。
どうせたまたま帰り道が同じなだけだ。それならゆっくり歩いて、自分が後ろに回った方がいい。
足音が少しずつ近づいてきた。
と、それは急に走り出した。
由紀子の真後ろから足音は迫ってくる。
えっ、と振り返りかけたところを、由紀子は背中から突き飛ばされた。
バランスを失い、うつ伏せに倒れる。小学生のように無防備な倒れ方だった。
その上にのしかかってくるものがあった。それは由紀子の肩を掴《つか》むと、まな板の上の魚のようにぐるりとあおむけにした。
相手の顔が眼の前にあった。
男だ。
だが、顔はわからない。頭に黒いビニールテープをぐるぐると巻きつけているからだ。その左側が奇妙に膨らみ、その上に触角のような小さなアンテナが突き出ていた。どうやら左耳に当てた携帯電話を、顔と一緒に巻きつけているようだ。
「捕まえたよ」
テープに押し潰《つぶ》され歪《ゆが》んだ口で、その男は言った。
誰?
そう言おうとした由紀子の喉《のど》を男の両手が押さえた。黒い手袋をした手だった。
言葉が喉で詰まった。
男が喉を押さえる力に容赦はない。由紀子は釣り上げられた魚のように口をぱくぱくさせた。その頬《ほお》を、男は平手で殴る。二度殴った。
恐怖にからだが竦《すく》むというのは本当だ。由紀子は金縛りにでもあったように動けなくなってしまった。
「ああ、見えるよ」
男は言った。由紀子に話しかけているのではない。どこともしれぬ場所にいる誰かに話しかけているのだ。
「君の星にいる人はみんなこんな顔をしているんだろ。その星にぼくも行けたらいいなあ。他に望みはないから、お願いだ、そこにぼくを連れていってよ」
頭の芯《しん》が熱く膨張するような気がした。何故か苦しくはなかった。視野が幕を引くように狭まっていく。
男は由紀子の額に己れの額を付けた。
「君は死んでいくよ。どんな感じだい。星が見えるかい。死者たちの星が。死んだ女たちはみんなその星に行く。残念だけど、君の子供はそこには行けない。だって男の子だからね」
毅のことを知っている!
失いかけた意識の中で、男の言葉が爆発したかのように広がっていった。
「せめてお別れの挨拶《あいさつ》だけでもさせてあげたかったんだけど、時間がなかったんだ」
生き延びなければ。
毅を守らなければ。
その思いが由紀子の意識を、墜《お》ちようとする闇の淵《ふち》から引き上げてきた。
腕が動いた。
由紀子は片手を伸ばして鞄《かばん》を探った。何か武器になるものをと考えたからだが、そんなものが都合よく見つかるはずがない。だがその指先が何かに触れた。取材の時に使っている小型のテープレコーダーだ。由紀子はそれを握った。
腕を振り上げ、迷うことなくそれを男のこめかみにぶつけた。
鈍い音がした。
男が由紀子の喉から手を離す。
その機会を由紀子は逃さなかった。両手で思い切り男の胸をつく。はね上がった男のこめかみに、もう一度テープレコーダーを叩きつけた。砕けたプラスチック片が飛び散った。
ひるんだ男を押しのけ、由紀子は立ち上がった。とっさに取材メモの入った鞄を掴んだのはさすがと言うべきだろう。そのまま由紀子は走りだした。
普段はほとんど気にも留めていなかったが、この近所に交番があるはずだった。
つけてくる足音はすぐに聞こえなくなったが、由紀子は後ろを振り向けなかった。振り向くことで、男がそこに生まれ出てくるような気がした。
すぐに息が上がった。陸上部ではなかったが、高校時代は走るのが得意だった。風を切って走るのが好きだった。陸上部の顧問から勧誘を受けたこともある。だが、それも十数年も前の話だ。心臓が破裂しそうに激しい鼓動を始めた時、交番の赤いランプが見えた。しかしそこに人影はなかった。
中に走り込み、扉を閉める。その時初めて後ろを見た。誰もいなかった。呼吸が荒い。手足が緊張のあまり震えていた。指先が凍えるように冷たい。気を抜けば膝《ひざ》の力が抜けてその場に座り込みそうだった。
交番には誰もいなかった。見回すと机の上に電話があった。電話の下に、誰もいない場合にはここにかけてくださいと電話番号を書いた紙が貼《は》ってあった。
由紀子が受話器に手を伸ばしたとき、奥の扉が開いた。一瞬由紀子は悲鳴を上げそうになった。
現れた警官は不審そうな顔で由紀子を見た。
普段の由紀子では考えられないことだが、その時彼女はその中年の警官にしがみついていった。
「男に襲われました」
震える声でそう言うのがやっとだった。
そこに腰掛けなさい、と警官は冷静な口調でいった。由紀子は裂けたビニールのクッションを敷いたパイプ椅子《いす》に座り、一部始終を説明した。その時、この警官は冷静なのではなく、単に冷淡であることに気がついた。説明しているうちに、興奮している自分が馬鹿馬鹿しくさえ思えてきた。
警官は事務的に書類を作成し、帰ってもいいといった。せめて家まで送ってくれと由紀子が言うと、もう大丈夫だと思うがね、とさも襲われたことが由紀子の妄想であるかのように薄笑いを浮かべた。いつもの由紀子であれば腹を立てて一人で帰ったところだ。しかし結局由紀子は頼み込んでマンションまで送ってもらった。
オートロックを解いてホールに入りエレベーターを待つ。ストッキングが破れている。黒いパンプスの革が、擦りむけたように剥《は》がれていた。ようやく落ち着いてきたのか、改めて警官の態度に腹が立ってきた。
後ろでオートロックが解かれた。小学生ほどの男の子を連れた中年の男がエントランスホールに入ってきた。親子連れだろうか。子供がいることに由紀子は安心した。
男は紺のジャージの上下を着ている。膝が抜けた薄汚いジャージだった。今までマンション内で見たことのない顔だった。
男は無神経な視線で由紀子を上から下まで見つめた。好奇心で一杯の顔をしていた。
何か話しかけてきても無視しようと由紀子は決意した。
エレベーターが開き、由紀子は親子と一緒に乗った。
男は八階のボタンを押した。
扉が閉まると、その子供が父親を見上げて言った。
「このおばちゃん、どうしてわからないの」
男の子は父親の袖《そで》を引っ張ってそう言った。
父親はニヤニヤ笑いながら、人差し指を唇に当てた。
何のことだ、と由紀子は問い質《ただ》したかった。しかし話しかける決心がつかぬままにエレベーターは由紀子の部屋の階に停まった。由紀子が外に出、扉が閉まったとたん、中から親子の笑い声が聞こえてきた。
男に襲われ、どうして笑われなければならないのか。
腹立たしさと惨めさがないまぜになって、涙が出そうになった。しかし、泣くと様々なことに負けてしまいそうで、由紀子は歯をくいしばってそれを堪《こら》えた。
鍵《かぎ》を開けて家に入る。
腕時計を見た。警察で時間をとられ、すでに十時をまわっていた。
廊下を抜け台所に行くと、乾燥機の中に食器が入っていた。毅は、由紀子がつくっておいた夕食を食べ終え、一人で片づけたのだ。
由紀子は子供部屋に足を忍ばせ入っていった。部屋に明かりが点《つ》いていた。眠っているとばかり思った毅は、床に座り込んで明日の準備をしていた。
「お帰りなさい」
由紀子の方を見ようともしない。毅はパジャマ姿でカーペットの上にランドセルやハンカチを並べ、真剣な顔で指差し点検をしていた。
その姿が無性に愛らしく、由紀子は横にひざまずいて毅をきつく抱き締めた。毅は捕らえられた鼠のように由紀子の腕の中でもがいた。
「止めてよ、お母さん。邪魔しちゃ駄目だよ」
唇を尖《とが》らせる毅に笑いながら由紀子は謝った。
何かそれだけで、今まであった嫌なことすべてを忘れてしまえそうな気がした。
大丈夫だ。
私はこの子がいる限り何があっても生きていくことができる。
そう考えると、今まで堪えていた涙が急に出てきた。
「お母さん……どうしたの」
毅は由紀子に近づき、その小さな腕を彼女の肩にまわした。
「ぎゅっ、ってしてもいいよ」
「違うのよ」
そう言ったにもかかわらず、毅は由紀子の身体《からだ》を抱き締めた。その力の意外な強さに由紀子は驚いた。そしてその力に安堵《あんど》した。騎士《ナイト》気取りの七歳の息子に、由紀子は本気で甘えてるのだと思った。
涙を拭《ぬぐ》い、明日の準備がすんだら早く寝るんですよ、と念を押して由紀子は子供部屋を出た。
汚れた服を脱ぎ捨て、シャワーを浴び、パジャマに着替え、髪を乾かし、今日は仕事は止め、と口に出した。
子供部屋をもう一度|覗《のぞ》くと、毅はもう眠っていた。
心配することは何もないんだと、由紀子はベッドにもぐり込んだ。眠れないのではないかと心配したが、緊張がとけたせいか、すぐに眠くなってきた。
眠りに墜《お》ちる寸前だった。
どーんと爆音に似た音が由紀子を目覚めさせた。ところが意識は目覚めているのだが、身体が動かない。目蓋《まぶた》を開くことさえできない。
足音がした。子供が走り回るような細かな軽い足音が、由紀子の周囲を回っている。その足音とは別に、遠くから囁《ささや》き合う声が聞こえた。
――気がついたら
――今はまだ
――本人は知らないんだから
――たまらないなあ
――見えているよ
――星へ
金縛りだ。
由紀子はそう思った。話には聞いていたが、自分で経験したことはなかった。
思っていたほど恐ろしくはなかった。だが、何か見世物にでもなっているようで不快だった。
下腹の辺りに何かが乗ってきた。その重みを感じる。それは何本かの、先の尖った脚を持っているようだ。その脚は脇腹《わきばら》を掴《つか》むように腹から胸へと上がってくる。
突然眼が開いた。
天井が見えた。
瞳《ひとみ》を動かし、胸の上に乗っているものを見ようとした。もう少し頭を上げることができればはっきり見えるのだが、ただ鉄錆《てつさび》色をした金属の部品のようなものが見えただけだった。
遠くに黒く影が見えた。それがまるで巨大な蜘蛛《くも》のように見えた。
機械はいったん胸の上で動きを止めた。
ギチギチと音をたて、由紀子の胸の上で細かく振動している。何かの作業をしているようだ。
冷たい感触が右の二の腕に当たった。金属の棒を当てているような感触だ。
針を突き立てられたような痛みを感じた。一瞬のことだった。何が行われているのだと思いながらも、由紀子は堪えきれぬ眠気に襲われ、いつの間にかぐっすりと寝入っていた。
2
目覚ましのベルに驚いて、由紀子は飛び起きた。肌寒いこの季節に、綿のパジャマが汗を吸って重い。心臓が飛び跳ねでもしているように激しく脈打っていた。
悪い夢を見たのかもしれない。最近毎日のように見ていた母の夢を昨夜は見なかった。代わりにもっとひどい悪夢を見たのかもしれない。そうだ、金縛りにあったのだ。それからいつの間にか寝入っていた。きっとひどい夢を見たのだ。
だが由紀子はその夢の内容を思い出すことはできなかった。
身体を起こし、前髪をかきあげ、時計を見る。デジタルの小さな目覚まし時計だ。
AM06:00の文字が緑に淡く光っている。そのわずかな輝きが不快で、由紀子は眼を逸《そ》らした。あれは悪質な腫瘍《しゆよう》から流れ出る膿《うみ》のような緑だ。そう思うと鳥肌が立った。
嫌な重苦しさを感じながら、由紀子は身体を引き剥がすように起こした。
部屋を見回す。
その簡素な部屋の中で、奇妙に闇《やみ》が目立つ。いつもなら爽快《そうかい》に感じるはずの朝日が、風に曝《さら》された蝋燭《ろうそく》の輝きのように弱々しい。そしてそのぶん力を増した闇が、机の下や箪笥《たんす》の後ろで、じっと身を隠し身構えているかのように思える。部屋を満たす禍々《まがまが》しい何物かに押し潰《つぶ》されそうだ。
昨夜の出来事が原因だ。息子がいることを暴漢が知っていたのはショックだった。あの男は、ただ通りがかったところを偶然襲ったのではない。私を襲ったのだ。そして、失敗した。
あれはもう警察に届け出た。日本の警察は優秀だ。いずれ捕まえてくれるだろう。大丈夫だ。大丈夫なんだ。
自身に何度もそう言い聞かせるのだが、不安感は消えない。いつもの由紀子であれば、戸締まりに気をつけ、夜遅く外を歩くことは出来るだけ避け、といった出来る範囲のことを万全にして、それ以上無駄に不安がることはなかっただろう。
だが今は、ベッドから出るのさえ恐ろしかった。できれば子供のように頭から蒲団《ふとん》をかぶっていたかった。
しかしそうもしてはいられない。今日もまたいつもと変わらぬ一日が始まるのだ。始めなければならないのだ。
勢いをつけてベッドから跳ね起き、不安を吹き飛ばすようにさっさとパジャマを脱ぎ捨てて、トレーナーとジーパンを穿《は》く。クワイ河マーチを口ずさみながら分厚めの靴下を身につけた時には、戦闘の準備が整った兵士になったような勇ましい気分になっていた。その気分を壊さぬように台所に向かう。
湯を沸かし、ベーコンを炒《いた》めているうちに、わけのわからぬ不安はようやく収まった。
毅を起こして朝食を一緒に食べ、学校の近くまで送る。昨夜の爆音のことを聞いたがおぼえていないと言った。
毅と会話を交していると、不安の残滓《ざんし》が残り雪のように溶けていった。毅は由紀子の力の源だった。
このマンションを購入する時、仕事のことではなく毅の学校のことを考えて引っ越してきた。毅のためになることなら、何でもするつもりだった。
高校までエスカレーター式に進学できる有名私立小学校の比較的近くに、このマンションは建っている。
良い大学と良い就職を考えて有名な私立校を選んだのではない。由紀子は毅に勉強を強制するつもりはなかった。やれる以上のことをしようとしても、どこかにその無理の皺寄《しわよ》せは来る。もし本人が望むのなら高校に行く必要もないとさえ考えていた。この学校を選んだのは、穏やかな校風で、おっとりした生徒ばかりだという風評を聞いていたからこそだった。
由紀子が最も心配していたのはいじめだった。今のいじめは昔のそれとは質的に違う。勉強が出来る。正義感が強い。明るい。そう言った美点であっても、人と異なる何かがあることがいじめの対象になると聞いていた。マイナスでもプラスでも、一線に並んだみんなから一歩はみ出ることがいじめの始まりであると。しかし世の中に完全に平均的な子供などいない。どうやってもどこかが突出してしまうものだ。つまり今は誰もがいじめられる可能性を持っているのだ。昔のように、貧しいだとか、暗いだとかのマイナスの要因だけがいじめの対象になるわけではないのだ。そして誰もがいじめられっ子に成り得るように、誰もがいじめる側に回る可能性もあった。
いじめられることも、いじめることも、由紀子には我が子に経験させるのが耐えられなかった。
校風や世評から考えて、いじめの心配がいくらかはなくなるのではないかと判断してその学校に決めた。そのためにマンションも選んだし、今の由紀子からすれば分不相応とも思える月謝を支払ってその小学校に通わせているのだ。
今のところ毅は学校を楽しんでいるようだ。友達も出来たと言っている。このまま上手《うま》くいけばというのが、今のところの由紀子の最大の願いだ。
そのためには馬車馬のように働かなくちゃね。
ニンジンを眼の前にぶら下げられて、鼻息荒くひた走る馬の姿が自分の顔と重なった。それは少しばかり滑稽《こつけい》な姿だった。
学校に毅を送り帰ってくると、由紀子はいつものように郵便受けを開こうとして、その手を止めた。中でモーターが回転しているような音がしている。何かと思いそっと扉を開けた。すると立ち昇る煙のように黒い塊が飛び出してきた。
蠅だ。
何百という蠅が中から飛び出した。ひっ、と息を呑《の》み、一歩|後退《あとずさ》る。その顔をかすめるように蠅の群れは天井へと昇り、ばらばらに飛び去っていった。
わんわんとホールを飛び回る蠅を手で追いながら、由紀子は郵便受けから葉書や封筒をつまみ出した。そのまま捨てようかとも思ったが、もし重要な書類が入っていてはと、中指と親指の先でつまんだまま、エレベーターに飛び乗った。数匹の蠅が、エレベーターの中にも乗り込み、うるさく飛び回っていた。
扉が開くと由紀子は「閉」のボタンを押さえながらエレベーターから飛び出した。扉は閉まり、蠅たちを閉じ込めた。
ほっと息をつき、由紀子はその場で郵便物を点検した。その大半がダイレクト・メールだった。そのまま丸めて、エレベーター脇にあるごみ箱に捨てる。
出版社からの振り込み通知と、差出人の名前のない茶封筒が残った。手書きで住所が書かれてあるが、新手《あらて》のダイレクト・メールかもしれない。
裏表をひっくり返しながら部屋に入り、仕事机の上に置くと、腰を降ろした。
まず差出人の名前のない封筒から開いた。
最初の一枚に、大きく赤のボールペンで『警告あります』[#「『警告あります』」はゴシック体]と書いてあった。
次の紙には虫が産みつけた卵のように、小さな文字でびっしりと文字が書き連ねてあった。
警告あります。[#「警告あります。」はゴシック体]
今のうちに操縦するのやめてください。宇宙の記憶記憶層に(アカシア記録です)大変なことがあります。やめてください。わたくし知りました。このままでは駄目です。だからある韓国電気のサモンコール宇宙で知ったこと書きました。かかせられます。あなたなら知ってくれるはずです。パラダイムを変える妨害あります。心臓が急に病気とかいった毒観念に、襲われます。大変です。やめてください。魂地獄で嘘をつく人達ですから大きな毒です。海外で毒意識を正確にチューニィングさせました。毒宇宙人用に微調整が必要です。毒違和感をやめて覚えてしまいました。問題は北斗七星系のルーツですから。有名なプレアデス情報のフレッシュ地獄見ましたか。毒鬼です。魂感じの種の全体の段階にもやはり色々な段階があるのです。スピリッツ大変です。ささくれて頭くじられます。ですから太古毒地球にならない魂肝心宇宙人ですからゴータマ見てください。やめてください。でないから彼らにコントロールされ本当にけしかけられ魂肝心お金がなかったら「魂肝心お金が欲しい」と思ってかなり高価なプログラムまでけしかけられ買い込みだましました。サモンコール宇宙人が何か霊的な光をどろどろしたからです。疑うのはやがて地獄の警察で地獄の医者がやって来るのですから。それもわたくしやあなたにです。間違っています。政府の国のやることがそれですから。やめるように警告頼まれました。あなたがしてください。あなたの助けられるこれが最後です。様々な神示の宇宙メッセージが伝播して毒となるのをやめさせてください。地獄です。
まったく意味不明だった。あて先は間違いなく由紀子の住所だ。
気味が悪かった。眩暈《めまい》に似た気分の悪さがあった。由紀子はそれをくしゃくしゃに丸めてごみ箱に投げ入れた。
悪魔を封じた壺《つぼ》でも見るかのように由紀子はしばらくごみ箱を睨《にら》みつけていた。
何が起こっているのだろう。
いったい私に何が。
ふと机の上を見る。
まるでここに答えがあるというかのように、机に『レビアタンの顎《あぎと》』が載っていた。ジャムからもらったものだ。
きっと必要になる。ジャムはこの本のことをそう言っていた。
何かの手掛かりになるかもしれない。
そう信じていたわけではないが、今己れに起こっている不可思議な出来事に関して、他に手掛かりなどありそうにもなかった。
ひとつひとつの出来事を検証せず、ひとくくりに『不可思議な出来事』とまとめてしまうのはいつもの由紀子らしくはなかった。そしてそれをらしくないと感じないほど、由紀子は意味もなく追い詰められた気持ちになっていた。
由紀子は『レビアタンの顎』を手にし、かつて読んだところまでページをめくった。それから机の横にあるスタンドの電灯をつけ、改めてその続きを読み始めた。
第一章には初めての殺人から笈野が逮捕されるまでが描かれている。十七年前の猟奇事件の告白が続くわけだ。最初の殺人から次の殺人が行われるまで二年間の空白がある。そのことに関しては何の記述もされていなかった。だがそれ以外は執拗《しつよう》に細部まで描かれていた。凄惨《せいさん》なその内容を、由紀子は飛ばし読みした。八人の女性が惨殺される様をじっくりと観賞する趣味は由紀子にない。一見淡々とした記述だが、由紀子には笈野が、殺人を描写すること自体を楽しんでいるように思えた。
八人目の犠牲者の喉《のど》を切り裂き、えぐり取った心臓を弄《もてあそ》んでいる時、笈野は逮捕された。これは当時のマスコミに大きく報道された。彼は裁判を受ける能力がないと見做《みな》され、裁かれることなく入院。その後日本に強制送還される。そして警察を経由し措置入院が決定、病院に収容されるところで一章が終わった。
第二章は彼が精神病院の中で考えたことを中心に、彼が何故《なぜ》このような猟奇的な連続殺人を犯したか、を彼自身が論じている。
その理由は二つ。
そのことに関して笈野はこう書いている。
超人的な嗅覚《きゆうかく》を得ることで、私は〈血〉の本質を知った。
それは命だ。脈動する生命そのものだ。命がそれそのものとして私の中に入り込んでくる。いや、それはもともと言葉へと還元できるものではない。だからそれをいくら説明したところで理解してはもらえないだろう。だがこれだけは言える。それが私に与えるものは強烈な快楽なのだ。
私には幾つかの悪癖があった。たとえば煙草。煙草を吸う調香師は多い。パイプや葉巻を嗜《たしな》む者さえいる。私はゴロワーズが好きだった。いや、正直に言おう。調香師時代にはコカインやヘロインなどの向精神薬をいろいろと試した。常用していたと言ってもいい。しかし血は、それらのものを必要としなくなるほどの快楽を私にもたらしたのだ。
不遜《ふそん》な言い方をすることを許して欲しい。
生《い》け贄《にえ》の血を好むアステカの神のような神々は、私の同類だったんではないだろうか。太古から存在していた私のような人間が、生け贄の血を求める荒ぶる神の姿として描かれたのではないか。
事実その当時、私は神に等しい力を得たのだと考えていた。人など我々に血の陶酔を与える贄にしか過ぎないのだと。
傲慢《ごうまん》である。傲慢ではあるが、私の拡張された嗅覚は、人を人として感じさせない別の世界へ私を運び込んだのだ。
優れた嗅覚によって、私は世界をにおいの集合体として捉《とら》えていた。しかもその世界は、視覚的、言語的な現実世界に翻訳できるものと、そうでないものとに分かれていた。現実世界に翻訳できないもうひとつの世界が、この世に重なって存在するという事実。嗅覚によってもう一つの世界を提示された私は、その時点でその新しい世界の住人になっていた。そして今まで私のいた世界、現実世界の法律や倫理など意味を成さなくなったのだ。
快楽、そして人の倫理観からの逸脱。このふたつによって彼は八人の女性を殺した。そのことを深く反省しているのだと笈野は文中で頭を下げてみせる。だが由紀子はその文章から罪の意識を感じとれなかった。まるで若き日の蛮勇を語るかのように、そこに一種の誇りすら感じとれた。
第三章からは血なまぐさい話が消える。ここで笈野は進化の話を始めるのだ。
大脳を発達させた哺乳類《ほにゆうるい》の一群の中から人類は生まれた、と彼は語り始める。
大脳を発達させたのは学習機能の強化であろう。学習というのは実に便利な機能だ。学習機能がなければ、新しい環境に対応するためには形態そのものを変化させるしかない。麒麟《きりん》の首は長くなり、象の鼻は伸びていく。
ところが学習機能は、そのままの形状で環境に対応していけるのだ。形態を環境に合わせて特殊化すれば、何らかの原因で環境が変化したときに滅びてしまう可能性が高いだろう。しかし学習機能には汎用性《はんようせい》がある。ある程度の範囲内であれば、同一の形状で異なった環境にも対応していけるのだ。学習機能を強化した生き物が生き残っていくのは当然のことだろう。
ところが学習機能を飛躍的に高めると、今度はその弊害が出るのだと笈野は述べる。
単純な生物はAという刺激からBという反応をするようにセットされている。学習機能とは、Aという刺激からの反応にB、C、Dといくつかの選択肢があり、その中で最も適した行動を試行錯誤しながら見いだし、おぼえていくことを言う。汎用性が増すということは、その選択肢が増え、組み合わせがより複雑になるということだ。人は大脳を発達させ、ついには無限の選択肢を持つようになった。Aという刺激に対応するものが無限にあるということは、世界に対応する何物も持たなくなるのと同じだった。つまり世界と、個が分断されてしまったことになる。
世界とのつながりを失ったものたち、それを笈野は〈織物の形を見失った機織《はたお》り〉と呼ぶ。
だが、大脳を発達させれば、それがそのまま〈織物の形を見失った機織り〉への道を進むことになるわけではない。世界とのつながりを失うには、大脳を発達させたがために失った何かがあったはずだと笈野は考えた。
その欠如こそが嗅覚、正確に言えば、においという情報を処理する脳の仕組み、だ。
人の祖先は大脳を発達させ、そのために嗅覚を欠如させ、〈織物の形を見失った機織り〉となった。彼らは本来なら生き残れるはずがない。世界とのつながりを絶たれた種が続くわけなどないからだ。おそらくそれと同様のことが起こった人類の祖先のほとんどが滅びていったに違いない。滅びなかったのは、世界とつながるための別の手段を手に入れたものだけだ。
人類が嗅覚の欠如と引き換えに手に入れたもの。
それが言語なのだ、と笈野は主張する。
ゴリラやチンパンジーは、潜在的に言語能力を持っている。キーボードを使って会話が出来る猿を例に、笈野はそれを証明する。能力がありながらそれを必要としないのは、彼らには嗅覚が存在するからだ、と。
嗅覚と言語能力を等価におく笈野の考えに異議を唱えるつもりは、由紀子にはない。笈野は科学者ではない。そしてこの本は科学書でも科学論文でもない。この仮説を彼は実証していないが、それなりの整合性があるのだから読み物としては面白い。
だが、人間に不可視の世界が存在するという笈野の話にはうなずけない。
それは言語能力とその使用を可能とした人類が、新たに優れた嗅覚を得ることでようやく知ることができる世界だ。霊界、幽界、天国、地獄、冥府《めいふ》、その他ありとあらゆる名まえで呼ばれる異世界の正体が、このもうひとつの世界である。
こうなるともう由紀子にはついていけない。それは一時ニューサイエンスなどと呼ばれたものと同じ、疑似科学的な神秘主義だ。科学の用語を借りたオカルトにしか過ぎない。話として面白くても、それは決して事実などではない。科学的には実証不能な――そして実証する気もない――〈奇妙な仮説〉でしかないのだから。
笈野はこのもうひとつの世界を、寿来滋《じゆらいしげる》という超常現象研究家の〈第三項、あるいは語り得ぬ世界〉という仮説を用いてさらに詳しく論証する。
話は多少難解になり、記号論だの認識論だのが出てくるにいたって、由紀子は本を伏せた。
これが精神世界本と言われる様々な書物とどう違うのだろうか。瀬能の話ではこの本が熱狂的な支持を受けているという。ジャムもまたこの本の話をしていた。いつか必要になる、とあの少年は由紀子に言った。しかし由紀子の身に今起こっていることに、この本が何かの解決を与えるとも思えなかった。
期待してはいなかったと言っても、多少の失望感があった。時計を見るともう昼を過ぎていた。由紀子は舌打ちし、夕食の献立を考え始めた。
3
夕飯の買い物から帰ってきたら電話が鳴っていた。受話器を取ると、やすりで引っかいているような耳障りな雑音がする。
「もしもし、もしもし」
由紀子が呼びかけると雑音の中から声が聞こえてきた。
『……姉ちゃん? もしもし、由紀子姉ちゃん』
その声が大きくなったり小さくなったりする。
「もしもし、どちら様ですか」
『嫌だなあ、由紀子姉ちゃん。もう忘れたんですか』
「妙ちゃん!」
六人部妙子《むとべたえこ》。『オタクの誕生』で取材した中の一人だ。当時高校生だった彼女は、盗聴オタクだった。取材をきっかけに知り合い、他愛もない相談に何回かのったりしているうちに、何を気に入ったのか、お姉ちゃん、お姉ちゃんと由紀子を慕ってくるようになった。それから今まで、途切れることなくつきあいは続いている。
『ええ? ごめんなさい。混線してるみたいで、……にくいんだけど』
微《かす》かに男たちが怒鳴り合う声が聞こえていた。
「妙ちゃんでしょ。久し振り」
『久し振り、お姉ちゃん。ご無沙汰《ぶさた》してます。今……帰りで……なんだ。それで……』
「もう少し大きな声で言ってくれる」
雑音まじりの妙子の声は遠くなったり近くなったりし、出来損ないのラジオで北京放送でも聞いているかのようだった。
『……聞こえる?……から見に…………彼の……悪いけど…………行ってもいいかな………………近くまで来てるんだ』
どうも近くまで来ているので遊びに行ってもいいかと言っているらしい。
「おいでよ。久し振りに話したいし」
『……かった。それじゃあ……』
受話器を置こうとした時だった。急に大きな声で、警告だぞ! と怒鳴る声がした。すぐに受話器を耳に当て、もしもし、と言ったのだが、すでに電話は切れていた。
あの意味不明な手紙と関係があるのだろうか。そう考えて由紀子はかぶりを振った。
考えすぎだ。
最近気味の悪いことばかり続いているからそんなことを思うのだ。どう考えても今のは電話の混線だ。どこかの誰かが喧嘩《けんか》している声が偶然紛れ込んできただけだ。
言い聞かせながら、由紀子は久々の来客のために部屋を片づけ始めた。片づけ終わると同時にインターホンが鳴った。
妙子だった。
オートロックを解いて、妙子を部屋に招く。
「お姉ちゃん」
玄関を開くなり、妙子は由紀子にしがみついてきた。頭を由紀子の胸に押し当てる。ピンクハウスのフリルだらけのドレスを着た妙子は、まるで母親と再会した少女のようだった。
「元気にしてた?」
「うううう」
妙子は眼をこすって泣く振りをした。
「どうしたの」
「久し振りの再会に、感涙にむせんでいるとこ」
「何を大袈裟《おおげさ》なこと言ってるの」
「大袈裟じゃないもん。一年近く会ってないんだよ。前に会ったのはね、去年。年始の挨拶《あいさつ》に来た時。由紀子姉ちゃんは私が連絡しないと自分からはちっとも連絡してくれないんだから」
妙子は唇を尖《とが》らせる。もともと幼い顔立ちの彼女は、まるで幼女のようだ。十年以上前、妙子が高校生だった頃知り合ったのだが、その時よりも今の方が幼く見えた。
「忙しいのよ」
「またまた、冷たい言い方」
「で、今日は何のご用?」
「忙しいの?」
真面目《まじめ》な顔になって妙子は聞いた。
「忙しいけど、あなたの相手だったらしてあげるわ」
「よかった。あのね、今日は自慢しに来たんだ」
「何を」
「えへへ」
「何を照れてるのよ」
「今度結婚することになりました」
ぺこりと頭を下げた。
「えっ! 本当。それはよかったわね」
「よかったです」
そう言ってから妙子は顔をしかめ、鼻をひくひくさせた。
「どうしたの。何か臭う?」
由紀子もにおいを嗅《か》いでみたが、特別何のにおいもしない。
「くさいってわけでもないけど、何かが臭うの。悪臭じゃないのよ。でも……何だか変なにおいが、あれ、もうしない」
「鼻が慣れたのよ」
「そうね。御免、幻臭かもしんない。そんなことより」
じゃん! と言いながら妙子はバッグから一枚の写真を取り出した。どこかの公園のベンチに妙子は腰掛けていた。その肩を若い男性が抱いている。二人並んでカメラに向かって笑いかけていた。
「この人?」
由紀子が尋ねると、妙子はにこにこしながらうなずいた。
「立ち話をしてるのも何だから、とにかく入りなさいよ」
リビングに案内して妙子を座らせる。
「紅茶とコーヒーとどっちがいい?」
「日本茶がいい」
飲みかけの湯呑《ゆの》みから湯気が上がっているのを見て妙子は言った。それなりに気遣っているのだ。
「早く聞いてよ」
客用の湯呑みに茶を注いでいる前で写真をちらちら揺らしながら妙子は言った。
「何を?」
「どんな人かとか、何をしてる人なのかとか」
「何をしている人ですか」
「プー」
「プーって、プータローのこと?」
「そうそう」
「無職なの」
「今はね。商社に勤めてたんだけど、退職したの」
「結婚を控えて?」
「そう。自分が自信を持って働ける環境になったから私に結婚を申し込んだの」
「無職になって……自信が持てたってこと?」
「彼ね、イラスト描いてるの。きちんと芸術学部卒よ。でも今まではサラリーマンやりながらイラストの仕事もちょこちょこやってたの。で、結婚を機に自由業の道へ――」
「大丈夫?」
「お父さんみたいなこと言ってる」
「そうよ、私だってあなたのお母さんみたいなもんじゃない。それで、そのお父さんは許してくれたの?」
妙子は夢想流の流れをくむ古武術の道場師範の一人娘だ。古武術というのは江戸時代から伝わる一種の格闘技で、柔道などの原型となったものだ。古式ゆかしい家系らしく、由紀子が一度会った彼女の父親は、それこそサムライを彷彿《ほうふつ》させる古風な男だった。イラストレーターになるためにサラリーマンを辞めるような男との結婚を許すとは思えなかった。
「彼ね、私の弟子なの」
「彼もお父さんの道場に通ってたの?」
「嫌だ、言ってなかったっけ」
「何を?」
「お父さんは去年の末に引退して、今は私が道場主なのよ」
妙子は薄い胸を張った。
「……駆引きしたわね」
由紀子は妙子の顔をのぞき込んだ。
「わかった?」
妙子はいたずらを見つかった子供のように笑った。
妙子は高校生の時から道場の中でも一、二を争う実力の持ち主だった。一人娘であることもあって、その頃から父親の跡を継ぐようにうるさく言われていた。
駆引き、と由紀子が言ったのは、妙子が跡を継ぎ婿養子を貰《もら》う、という条件を呑んで、結婚を許してもらったのではないか、ということだ。
「よかったわね」
由紀子が笑うと、妙子は本当に嬉《うれ》しそうに言った。
「ほんと、よかった」
由紀子はしみじみと妙子の顔を見た。
不思議な少女だ。
それが初めて会った時の妙子の印象だった。彼女は底抜けに明るい。なのにその趣味は盗聴だ。犯罪ではないが、常識的に考えれば「悪いこと」だ。ところが妙子には罪の意識など欠片《かけら》もない。ただ楽しいからやっている、それだけだ。
昔彼女から何度も相談を受けた。恋愛、進学、友人関係。そのどれも、由紀子の簡単なアドバイスで立ち直った。一番深刻だったのが母親を亡くした時だった。妙子は母親と友達同士のように仲が良かったからだ。が、その時も「誰にだって寿命は来るのよ」の一言で笑顔が戻った。
彼女はまるで古いハリウッド映画のような楽天主義者だ。物事には必ずハッピーエンドがついてくるとでも思っているかのように見える。
明るく楽天的な性格。幼女のような容姿と態度。古武術道場の師範。盗聴オタク。どれもつながりそうにない断片でつくられたジグソーパズル。それが六人部妙子だった。
「何をじっと見てるの」
「えっ……、いえ、あんまり可愛《かわい》いから」
「やだ、馬鹿な男の口説き文句みたいなこと言って。……それより由紀子姉ちゃん、最近おかしなことない? 誰かとトラブってるとか」
「おかしなこと?」
「なければ別にいいの」
ないわけではない。おかしなことだらけだった。それを妙子が知っているということもまた、おかしなことの一つだ。
「おかしなことなら充分過ぎるくらいあるわよ。でも、どうして……」
「私ね」
妙子はバッグの中からトランシーバーのようなものを取り出した。
「最近は電話の盗聴に凝ってるの」
「まだそんなことをしてるの」
さすがにあきれて由紀子は言った。結婚を間近に控えている娘のすることではない。
「彼氏公認だもん」
「いくら公認してるって言っても……。まあいいわ。それで話の続きは?」
「ああ、それでね。昔説明したから覚えてると思うけど、これが受信機ね。これでいろいろな電波を受信できるの。コードレスホンとか携帯電話の通信だって受信できるのよ。最近は秘話機能とかついてたり、デジタルの携帯が増えてきてMCA方式で邪魔されたりするけど、でも郊外じゃあ結構これで盗聴できるのよ。それで……。そうだな。話すより実際に聞いてみた方が早いわね。一緒に行きましょう」
「どこへ?」
「近所をぶらぶら」
妙子は由紀子の手を引っ張った。
「ちょっと待ってよ」
慌てて部屋の鍵《かぎ》を手にし、コートを引っかけて、妙子に手を引かれたままマンションを出る。
すぐ近くの路肩にスカイブルーの軽自動車が停まっていた。
「はい、乗ってください」
「いつ免許とったの?」
言いながら由紀子は助手席に座った。
「ついこないだ」
運転席に座って律儀にシートベルトを締める妙子を、由紀子は不審げな眼で見た。
「大丈夫よ」
そのまま車は動き出す。安全運転というよりも、ただたんに鈍《のろ》い。歩くよりもいささか速い程度の速度で、マンションの敷地内から車は国道に出ていった。
「どこへ行く気なの」
「だから近所をぶらぶら、ほら、イヤホンを耳に入れて」
「私が?」
「そう、由紀子姉ちゃんが。この辺りは基地局860,0125MHZ周辺が多いから、それで設定してプログラムスキャンするようにしてあるの。すぐに聞こえてくると思うわ。聞こえたら言ってね、そこで停めるから」
「何をする気なの……、あっ、聞こえる」
妙子が路肩に車を寄せて停めた。雑音に混じって、若い男女の話し声が聞こえる。
――あいつさあ、調子乗ってんじゃないの?
――そう、そう。
――ヤツジに一発言ってやった方がいいんじゃない?
確かに女が八辻と言うのが聞こえた。
このことか、と妙子を見ると、彼女は神妙な顔で頷《うなず》いた。
「お姉ちゃんの名前、出てきたでしょ」
「でもこれは、偶然じゃないの」
「私も初めはそう思ったんだけど」
イヤホンからはなおも会話が聞こえている。
――やっぱ、子持ちってのは、堅いからね、考え方が。
――無理してこんなとこの小学校に入れちゃってさあ。バカじゃないの?
由紀子の顔色が変わった。
偶然にしては出来すぎている。
「移動するね」
それから妙子は少しずつ車を移動させては、電話の内容を由紀子に聞かせた。
――しっかりさせなきゃ、ユキコを。
――でも、もう遅いなあ。今からじゃあ。
――インテリに見せてるけど、ほんとは馬鹿らしいよ。あの、ヤツジって女。
――馬鹿でなきゃあ、あんなことを書かないわなあ。
――始まってるのに、気がつかないのかなあ、ヤツジ。
――気がつかないふりしてるんですよ。あの女。
イヤホンから次々と由紀子の名前が出てきた。いや、名前ばかりではない。彼女の生活態度から最近あったことまで、どこの誰とも知らない人たちが電話で喋《しやべ》り合っているのだ。
由紀子は耳からイヤホンをもぎ取った。
「もう……結構よ」
心臓が激しく脈打っていた。顔が火照《ほて》る。怒りとも恥ずかしさとも恐ろしさともつかぬ感情にかき乱され、頭の中が空白になったようだった。
「ねっ、どうして由紀子姉ちゃんはこんなに有名になったの」
「そんなこと、私にわかるはずがないじゃない!」
由紀子はつい大声を出していた。
驚いた妙子の顔を見て、由紀子は声を落とした。
「御免。最近ろくなことがないの。それで神経質になってて。でも……これは、一体どういうことなの」
「一週間ぐらい前かな。お姉ちゃんのマンションの近くに来て、何となく電波|覗《のぞ》いてたらお姉ちゃんの名前が出てきたの。さっきも言ったけど、初めは偶然だと思ってたんだけど、あんまり頻繁に出てくるものだから、お姉ちゃんが何か事情を知ってるかと思って。ねえ、何があったの」
「私にもよくわからないのよ」
由紀子はコンタクティーとの取材を終えてから今までに起こったことを簡単に説明した。
「あのね、今盗聴して聞いてた話ね。あれを、誰が喋ってるのか調べる方法もあるのよ」
話し終えると真っ先に妙子はそう言った。
「えっ、本当なの!」
「うん。それにはDTMF音の解読機が必要なの。今それを持ってないから、今度持ってくる。それから、由紀子姉ちゃんの個人的な情報も流れてるみたいなんでしょ?」
「そう思うんだけど……」
「脅かすわけじゃあないけど、盗聴されてるかもしれないわね」
「盗聴?」
「そう」
「私の家が?」
「テレビなんかでやってたから有名になったと思うけど、盗聴ってわりと気軽に出来るのよ。やる気になればね」
「でも、まさか私の家に――」
「だと思うけどね。それも今度調べてみましょう」
「出来るの!」
「それの専門家ですもん」
妙子は腕を組んで胸を張った。エッヘン、という文字が浮かんでいるような態度だった。頼りになる、とはとうてい言い難かったが、今の由紀子にはこれ以上に頼もしい人物はいなかった。
4
男に襲われ金縛りにあったあの日以来、由紀子は母親の夢を見ていなかった。その代わりなのだろうか。目覚める度に由紀子は激しい不安感を感じた。眠ることはできるようになったが、今度は目覚めることが恐ろしくなってきた。何が原因かわからなかった。悪夢を見ているようでもなかった。見たとしても何一つおぼえていなかった。
対象のない不安感は、男に襲われた心の傷かもしれない。後日刑事たちが事情聴取に訪れた。何でも連続絞殺魔であった可能性があるらしかった。再び襲われる可能性をほのめかして刑事たちは帰っていった。
あるいは見知らぬ人々に話題にされているということに怯《おび》えているのかもしれない。盗聴されているかもしれないという思いが不安を感じさせているのかもしれない。不安になる材料などいくらでもあった。しかし、普段の由紀子であれば、出来ることをすべてしてしまえばそれ以上の不安を感じることはなかった。
暴漢に対して、刑事たちは付近のパトロールの強化を約束してくれたし、盗聴にしても妙子によって調べてもらえるようになっている。必要以上に神経質に怯えることは自分らしくない。そうは思っているのだが、不安感は日を追うごとに、どんどんひどくなってきていた。
最近では蛍光灯を点《つ》けて眠るようになっていた。寝る前には窓や扉の鍵《かぎ》を執拗《しつよう》に点検する。寝室のドアが少しでも開いていたり、窓のカーテンに隙間《すきま》があったりしたら慌てて閉める。ベッドの下やクローゼットの中を何回も確認する。不安の対象が何なのかわからないことがさらに不安の材料となった。自分でも神経質になりすぎていると思っていた。それでもどうしようもなく、毅との食事中でもついテーブルの下をのぞき込んだりしていた。
今もそうだ。しかし毅の顔を見ている間はまだましだった。この子を守らなければ、という由紀子の強い意志は、同時に彼女自身の心をも守っているようだった。
朝、毅を小学校に送り届け、友人たちに向かって走っていく後ろ姿を見ているうちに、覆い被《かぶ》さるように再び不安が襲う。ここ数日、毎朝のことだった。
眉間《みけん》の辺りがずきずきと痛む。偏頭痛が癖になっていた。そのうえ風邪を引いたのか、今日は寒気までした。
毅を送った帰りに薬局によって風邪薬を買い、ついでに近所のスーパーマーケットへ、なくなった雑貨を買いに寄った。
中途半端な時間だったからか、スーパーはすいていた。
洗剤やシャンプーをカゴに入れてレジを待っていると、後ろから声をかけられた。
「八辻さん」
振り返ると隣の福田が、ぎこちない笑みを浮かべていた。
「あら、福田さん。こんにちは」
「聞いてます?」
福田は彼女に身体《からだ》をすり寄せてきた。
「何をですか?」
「知らないの?」
福田は顔をしかめた。
「あの、何の話ですか」
「ほら、あなたの順番よ」
いつの間にか列は進み、レジの順番が回ってきていた。清算し、カウンターで袋に買った商品を詰めていると、また福田が近づいてきた。
「さっきの話だけど、続き、お茶でも飲みながらどう?」
さっきの話と言われても、由紀子には何の話なのかちっともわからなかったが、もしかしたら盗聴のことに関係があるかもしれないと考え、由紀子は福田とともに喫茶店に向かった。
商店街の中の喫茶店に二人は入った。古びた安っぽい造りの、今時誰がこんな喫茶店に入るんだろうというような喫茶店だった。それがここにあることすら、由紀子は知らなかった。
客は由紀子たち二人しかいなかった。
ちりちりのパーマを当てた太った中年の女が、やる気がなさそうにテーブルの上にコップを置いた。由紀子はコーヒーを、福田はミルクを頼んだ。
「で、どうなの?」
「あの、一体何の話なんでしょうか。私には――」
「やっぱり知らないんだ」
福田は一人うなずいた。
「何を知らないんでしょうか」
「いいのよ。知らなくていいことは知らなくて。でもね」
福田はテーブルに身を乗り出して由紀子に顔を近づけると、小声で囁《ささや》いた。魚臭いにおいがした。
「私たちはあなたの味方よ」
ミルクとコーヒーが運ばれてきた。
「あなた、もしかして」
中年の女は表情のない小さい目で由紀子を見る。それはまるで顔にぽっかりと空《あ》いた暗い穴のようだ。
「あれを見たんでしょう」
「あれって――」
「空を見たらオレンジの光があった、でしょう?」
由紀子の表情が強《こわ》ばるのを見てから、福田と中年の女は顔を見合わせ、意味有りげにうなずきあった。
「見たのね。そうでしょ。それはプレアデス系のUFOよ。間違いないわ」
「UFO……」
絶句する由紀子に、福田は作り笑いを浮かべて言った。
「彼女は岸里美。この店のご主人なの」
「……ええ。それで、そんなことがどうしてわかるの」
「彼女も仲間よ。心配することは無いわ」
「別に心配はしていないけれど――」
「しまった」
吐き出すように言うと、福田は舌打ちした。
「とうとう来たわね。何とかしなくちゃ」
女主人は腕組みをした。大きな顔に脂が浮いていた。
「どうしたの」
由紀子が尋ねると、福田は眉間に皺《しわ》を寄せて答えた。
「ここから出られなくなったわ。妨害されているの」
「妨害?」
「そう。毒想念に汚染されているのよ。わたしたちの魂毒除去装置ではとうてい追いつかないほどの毒想念よ。自然に人間が発する毒想念の二万四千倍もあるの」
この女たちだ。
由紀子はすぐに異常な手紙のことを思い出した。
「あなたたちね、私の家に変な手紙を出したのは?」
「手紙? どんな手紙」
「警告あります、とかなんとか。あなたが今言った毒想念のことも書いてあったわ」
福田は再び岸と顔を見合わせて、言った。
「それはきっと今から会いに行く人があなたに送ったものよ。おそらく実体じゃないわね。彼の想念が手紙となってあなたに渡ったのよ」
「今から会いに行く人って誰のこと?」
「それは、まだ言えないわ。今言うとまだ目覚めていないあなたにはショックでしょうから」
気が狂っている、とは言わない。だが、彼女たちがおかしな考えにかぶれているのは確かのように思えた。そして知らない振りをしているが、多分手紙はこの二人のうちどちらかが出したものだと。
「用事がないのなら、私帰ります」
「信じてないのね」
「あたりまえでしょ」
そのころには頭痛もさらに激しくなっていたこともあって、由紀子は少し苛立《いらだ》っていた。出来れば部屋に帰って鎮痛剤を飲んで眠りたかった。
「UFOだとか毒想念だとか、そんな話をされて信じる人がいると思ってるの?」
「信じるも信じないも、これは事実なのよ」
「とにかく私は帰ります」
「いいわ。帰りたいのなら帰ってもいい。わたしは守護霊団の到着を待ってからここを出るわ。いくらか時間がかかるでしょうけれども、出られないわけじゃない」
「じゃあ」
由紀子は立ち上がり、踵《きびす》を返した。
「あなた頭が痛いのね」
突然福田は言った。
由紀子は振り返った。
「顔をしかめているのを見たら、誰にだってそれぐらいのこと――」
「毒想念のせいよ。敵の毒想念は普通人の二万四千倍あるっていったでしょ。だからあなたは――」
由紀子は最後まで話を聞かずに喫茶店を出た。
後ろからなおも喋《しやべ》り続ける福田の声が聞こえていた。
「でも、いつかはあなたもここにやって来る。あの人はあなたを特別な存在だと思っているから。でもね、あの人には敵もいる。だからあなたはそうやって攻撃を仕掛けられるの」
由紀子はそれから振り返ることなく、マンションへの道を急いだ。
マンションへ向かう道の途中、歩道は広い国道の下へ潜り込む。等間隔の街灯は薄暗く、中はひんやりとしていた。いつも路面が濡《ぬ》れているのは水はけが悪いからだろう。ゆっくりとしたスロープを降りていった由紀子の鼻先を、有機溶剤のにおいがかすめた。前を見ると壁に向かってうずくまっている影が見えた。
シンナーでも吸っているのなら嫌だな、と思い、由紀子は立ち止まった。
気配を感じたのか、影が立ち上がった。
街灯がその顔を照らす。
由紀子は思わず声を上げた。
影は驚いたように走り去っていった。
今見た顔を由紀子は知っていた。確かに今の人物は、グラフィティー・チームのジャムだ。
どうして彼がこんなところに。
そう思いながら彼のしゃがんでいた辺りに近づいた。壁にペンキで落書きがしてあった。においの正体はペンキだった。
その落書きは、暴走族がよく書くような乱雑なものではない。
四角く赤いペンキで背景が塗られ、複雑な緑色の模様で縁取られていた。大きさは一メートル四方ほど。その中心に描かれているのは、奇妙に頭の大きな人間だった。その顔は埴輪《はにわ》のように穴のような眼と口だけしか描かれていない。その人物像の周りには、びっしりと見慣れぬ文字が書かれてあった。ハングル文字と似ていないこともないが、今まで由紀子が見たどの文字とも異なるものだった。
それは決して上手《うま》いと言えるような絵ではなかった。が、一昔前の言葉で言うならヘタウマとでも言えばいいのか。それなりに完成していると思わせる絵だった。
だが、由紀子には絵の評価など下している余裕はなかった。
絵の下に赤いペンキで文字が書かれていたからだ。それだけは日本語でこう書かれてあった。
警告あります。[#「警告あります。」はゴシック体]
[#改ページ]
[#地付き]1978年 3月 パリ
夢であることに気づいている夢。
笈野が今見ているのがそれだ。
ライプニッツがいた。哲学を始めあらゆる学問に通じ、様々な構想を発案した十七世紀人。その壮大な構想はことごとく挫折《ざせつ》し、ニュートンとの論争は泥沼と化し、痛風で孤独な死を迎えた、あのライプニッツが眼の前にいた。
「ちょうどあなたのことを考えていたところですよ」
笈野は言った。笈野が日本の大学を卒業してからパリへと渡るまでの間に居残っていた研究室の中だ。三流のSF映画に出てくる実験室のように、虫の羽音じみたハム音が聞こえていた。
「あなたの考えておられた普遍記号学と同様のことを、私は今研究しているのですよ」
今……これは十年あまり前の出来事だ。でも、まあいいだろう。ここでは今なのだから。
「私はコンピューターによる機械翻訳を研究しています。コンピューターを使って翻訳を行うには中間言語が必要です。例えば英語から日本語への翻訳を行う時、この二つの媒介となる言語が必要となります。この二つの言語に共通のシステムを持った共通言語。つまりこれこそあなたの考えておられた普遍記号そのものに他ならない」
「普遍言語、アダム語ともいわれる原言語を解き明かすことにより世界を解明する試みはプラトンの昔から存在した。ユダヤ神秘主義のカバラ。ルルスの結合術。私もまた思惟《しい》のアルファベットを体系化し、その記号どうしの数学的計算によって世界を知ろうとした」
ライプニッツは照れたように笑った。
「失敗したがね」
「そう、私たちもまた、あらかじめ挫折するべく運命づけられた〈中間言語〉というものを研究しています。あなたと違って私はソシュールが言語の恣意《しい》性を説いた以降の世界に生まれたのですから」
言語の恣意性とは、世界に初めから区別された概念があり、それに名をつけるのではなく、名をつけたことにより世界が差異化され概念が生まれるという考え方だ。そうなるとリアルなモノが実在し、それに対応して言語が存在するのではないのだということになる。言語が勝手につくられるものなら、あらゆる言語に共通するシステムなど幻想にしか過ぎない。
「ソシュールは普遍言語を全く否定したわけではない」
ライプニッツはニヤリと笑った。
十七世紀の人間が知るはずもないソシュールの話をしていることに、笈野は違和感を感じなかった。それどころか、それから起こるライプニッツの変化にさえ驚かなかった。
ライプニッツは笑っていた。笑いは徐々に大きくなり、やがて哄笑《こうしよう》に変わった。だが声は聞こえない。ただ躰《からだ》を揺すり、腹を押さえ、大口を開いて彼は笑っていた。
その口の中から、毛むくじゃらの掌《てのひら》のようなものが這《は》い出てきた。
蜘蛛《くも》だ。
それは、ぽってりとした八本の脚を持った黒く大きな蜘蛛だった。
「原言語こそソシュールが最終的に求めていたものだった」
蜘蛛を吐き終わったライプニッツが言った。
「しかし、ソシュールは……」
「彼が沈黙の時代に没頭していたアナグラム研究を知っているかね」
「ええ、彼は古代ローマ詩やホメーロス、ヴェーダ詩などから、ある規則にのっとり幾つかの音を取り出すことを繰り返していた。そこに隠された言葉を見いだそうとするために」
「何のために」
そう問いかけたのはライプニッツではない。彼の姿はいつの間にか消えてしまっていた。そう言ったのは黒く巨大な一匹の蜘蛛だった。蜘蛛は硝子玉《ガラスだま》のような眼で笈野を見ていた。
笈野の答えを待たず、蜘蛛は話を続けた。
「彼は制度化された言語〈ラング〉に関しては早くに理解し、体系化してしまっていた。それは彼にとってさして難しい問題ではなかったろう。彼が永きに亘《わた》る沈黙の間に考えていたのは人間の言語能力そのもの――彼の言う〈ランガージュ〉――構造ではなく構造化する力のことだ。言語の深層、チョムスキーの言う深層ではなく、言葉以前の言葉、語り得ぬ夢のような、いや、夢そのものである混沌《こんとん》とした〈非―知〉の言語。それがランガージュだ。彼は語り得ぬものを語るための言語を得ようとしたのだ」
「それは不可能だ」
「そのとおり」
笈野には蜘蛛が微笑《ほほえ》んだように見えた。
「それは不可能だ。知=言語であるなら〈非―知〉を語ることが不可能なことは明らかなことだ。追いかければそれは、逃げ水のように眼の前から消え去る」
「思い出せない夢に似て」
「そう、思い出せない夢に似て」
「これは……夢だ」
「その通り。これは夢だ。彼らの棲《す》む世界は夢と近しい。彼らは〈非―知〉の夢に棲むものたちなのだ。君は勘違いしている。君はもうひとつの世界を垣間見《かいまみ》た。そしてそれを理解した。が、理解することで君は〈非―知〉の存在を消し去ってしまうんだよ。彼らと君は違う。それを知るために来るがいい、我々の住む地へ。私はもう君にこれ以上愚かしいことを続けて欲しくないのだ。君にしたところでそんなことを続けたくないはずだ。だから来るんだ。真実が君を待っている」
唐突に目覚めた。
目蓋《まぶた》を開く前にそのにおいを感じた。濃厚なにおいが部屋の中にこもっていた。それは笈野の知る香料のにおいに酷似していた。若き調香師であった彼が〈エロティックな熱帯〉と名づけた香料、伽羅《きやら》のにおいである。
今の夢が、ただの夢でないことを笈野は知っていた。何度か同じ様な夢を見た。その度に彼の部屋はこのにおいで満たされていた。
彼ら、〈非―知〉の夢に棲むものたち。その彼らが住むところ。
それはインド亜大陸の中にある。
それを知り得たのは笈野の直観だ。いや、夢が笈野にそれを教えたのだ。この香りで。
ベッドサイドには大きな旅行鞄《りよこうかばん》が置かれてある。いつでもそこに行けるのだ。秘書には季節外れのバカンスだとでも言っておけばいい。
笈野は青灰色の旅行鞄を横目で見た。
あの記念すべき覚醒《かくせい》の日から一月経っている。警察の手は笈野にどころかその周囲にさえ及んでいない。マスコミでは通り魔の犯行ではないかと報道されていた。
日毎に欲望は高まっていく。
血を。
血の香りを。
それに身を委《ゆだ》ねるべきかどうか、笈野は迷っていた。
彼らが、私を、待っている。
笈野は口の中でそう繰り返した。
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第三章 佐曽羅《さそら》
1
由紀子は微熱と頭痛に悩まされていた。風邪が悪化しているのだと彼女は思っていた。それは何日も治まらなかった。やがて手足がしびれ、腕や腿《もも》に赤い発疹《はつしん》ができはじめた。由紀子は仕方なく病院へ行った。だが由紀子と同年輩の痩《や》せた町医者は、何も問題はないと言い、それなのに何故《なぜ》か山ほどの薬をくれた。念のために大きな病院で検査も受けたが、数日後に異状なしの通知を受け取っただけだった。
仕事が立て込んできていた。
由紀子はもともと、どんな小さなコラムを受け持っても、資料を集めじっくりと書くタイプだった。ただでさえ時間がかかる。それが体調を崩し、さらに仕事がはかどらなくなってきていた。電話の混線や雑音も相変わらず続いていた。NTTに頼んできてもらったが、どこにも悪いところはなかった。にもかかわらず時には仕事に支障を来たすほど雑音の激しい時もあった。何もかもが由紀子の仕事を妨害するために動いているのではないかと思うことさえあった。
盗聴のことは気になっていたが、妙子と会う約束も果たせぬままになっていた。
今も週刊誌に連載しているコラムの締め切りが近づき、昨夜から眠っていなかった。朝の八時を回ろうとしている。三十路《みそじ》を迎えた頃から、急に徹夜が辛《つら》くなっていた。
そして昨日あったことが、さらに由紀子の気を重たくしていた。
夕食を終えてからのことだ。毅はテレビゲームをしていた。そろそろ風呂《ふろ》に入りなさいと由紀子は言った。毅を早く寝かしつけて、早く仕事に取りかかりたかった。一度は「はい」と返事をしたのだが、毅は夕食の後片付けを終えてもまだゲームを続けていた。
風呂に入れという由紀子の口調がとげとげしくなった。よほど熱中していたのだろう。いつにないことだが、毅はそれでもゲームを止めようとはしなかった。
由紀子は、かっ、と頭に血が上った。私がこれほど疲れているのがわからないのか、と思った。気がついた時には毅の頬《ほお》を平手で叩いていた。それまで、一度として手を上げたことはなかった。毅も驚いたのだろう。何も言わずじっと由紀子を見ていた。その時はまだ由紀子も興奮していた。毅を追い立て、風呂に入れ、そのまま寝かしつけた。
仕事に取りかかってからすぐに悔やみ始めた。忙しいから早く眠れというのは勝手な由紀子の言い分だ。結局毅はいつもより一時間も早くベッドに入った。涙を堪《こら》えていた毅の顔を思い出すと胸が痛んだ。
原稿をようやく書き終えたのは朝の六時。すぐにプリントアウトし、ファックスで出版社に送る。今日は日曜日だ。しかし担当者は日曜でも出勤していますからと電話で伝えてきていた。締め切りを過ぎ、かなり切羽詰まった状態になっていたのだ。
大きく伸びをして、カーテンを開く。朝日が眼の奥に差し込んできて痛かった。
いつもの徹夜明けなら、メモと朝食を残して自分は昼まで眠るのだが、今日は昨夜のこともあってそうすることは気が咎《とが》めた。
シャワーを浴び、頭をはっきりさせてから朝食を作る。支度がすんでから毅を起こした。心なしかいつもより大人しい。昨日のことで傷ついてはいないかと考えると、由紀子の態度もぎこちなくなった。そのぎこちなさを感じるのか、毅はますます無口になる。
味気なく朝食を食べ終わり、由紀子は言った。
「昨日は叩いて御免」
ぺこりと頭を下げる。
「お母さん、忙しくってちょっとカリカリしてたんだ」
待ってましたとばかりに毅は笑みを浮かべた。
「ぼくこそ御免なさい。ゲームばっかりしてたから」
「そう、君の方が悪い」
由紀子が人差し指で毅の額を突くと、毅は声を張り上げた。
「お母さん、ずるい! お母さんがいきなりぶつから悪いんだよ」
「やっぱり。自分が悪いとは思ってないんだ」
笑いながら由紀子が言うと、毅は顔をしかめて「これだから大人ってずるいんだ」と言った。
どうして子供が大人びた仕草をすると可愛《かわい》いんだろう。そう思いながら由紀子は言った。
「公園行こうか」
「えっ」
急な申し出に毅は驚いた。
「もっと小さい頃、お母さん、毅を連れて公園によくいったものよ」
「何となく覚えてるよ」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
由紀子は毅の腕をとった。
「朝御飯の後片付けはいいの?」
「男は細かいことを気にしない」
台所をそのままに、二人は部屋を出た。
公園はマンションのすぐそばにある。
小さな公園だが、管理が行き届いていて、いつ来てもブランコや砂場がよく整備されていた。
マンションや、建て売りの新築に引っ越して来る時期は、どういうわけか一時にかたまるものだ。若い夫婦がみな一様に入居し、妊娠し、子供を産み、そして数年後には、母親に連れられた幼児がこの公園に集まってくる。
今日も公園は親子連れで賑《にぎ》わっていた。
幼稚園に行く前の小さな子供たちが、母親に連れられて遊んでいる。
由紀子はベンチに腰を降ろし、しばらく毅と話をしていた。学校であった様々な出来事を、毅は嬉々《きき》として喋《しやべ》り続けた。長い間毅とこうやって会話をしたことがなかったことを、由紀子は悔やんでいた。
由紀子らのベンチの前に、カバをかたどって作ったコンクリート製のベンチがあった。そこに親子連れが座っていた。母親はまだ二十歳を超えて間もないような若い女だった。三歳になるかならないかという幼い女の子を連れている。
幼女は大きく口を開けていた。母親がその口の中を覗《のぞ》き込み、時折唇をめくり上げたりしている。最初は虫歯を調べているのかとも思ったが、そうでもなさそうだった。
母親は手に持った器具を子供の口の中に突っ込んでいた。それは足の爪《つめ》を切るための、大きな爪切りだった。
その母親は、大きく開いた幼女の口の中に爪切りを入れて、その不揃《ふぞろ》いな歯を切っていた。
ぷつん、ぷつんと、まるで軟骨でも切るかのように歯が切れていく。
「何げなく見てね」
由紀子は呼吸を整えてから毅に言った。その声が震えているのが自分でもわかった。
「あそこにお母さんと子供がいるでしょう。あっ、あんまりじろじろと見ちゃあ駄目よ」
毅はちらりと正面のベンチを見た。
「はい、こっちを向いて。もうあっちは見ないでね」
何事かと不審そうな顔をしながらも毅はうなずいた。
「今あの親子は何してた」
「歯を切ってるみたい。爪を切るみたいに、ぱっちんぱっちんって。お母さん、歯って切れるの」
「……切れないわ。さあ、行きましょう」
由紀子は毅の腕を引いて立ち上がった。
ベンチの親子が、怪訝《けげん》そうな顔で由紀子たちを見ていた。
「お母さん、どうしたの。顔色がヘンだよ」
「何でもないわ」
「でも、震えてるよ。何か怖いことがあったの」
「何もないわ」
「でもお母さん――」
「ちょっと気分が悪いだけ」
「本当?」
由紀子は頷《うなず》いた。冷や汗が脇《わき》から流れるのが不快だった。
「お母さん」
毅は由紀子の前に回って眼を見ながら言った。
「何だかよくわからないけど、大丈夫だよ。ぼくがいるもん。ぼくがお母さんを守って上げるから、だから大丈夫だよ」
その言葉に感激したわけではない。まして安堵《あんど》したわけでもない。なのに由紀子は涙が流れて止まらなかった。
2
生活というものがごっそりと抜け落ちた部屋だ。夕暮れだった。明かりを消し、分厚いカーテンで窓を閉ざしてある。板張りの部屋には何もない。あるのはテレビとビデオだけ。
男はうずくまり、冷たいタオルでこめかみを押さえていた。いつもは束ねてある髪が落武者のようにざんばらに垂れ、男の顔を覆っている。傷を負ってから一週間以上経っている。もう傷跡が残っているだけだ。それなのにこの時間になるとずきずきと痛んだ。
罰なのだ。
シカバネの神様に下された罰なのだ。
失敗したから。星にあの女を送り込むのに失敗したから。
携帯電話が鳴っている。携帯電話が鳴っている。携帯電話が鳴っている。携帯電話が鳴っている。携帯電話が鳴っている。
そのベルの音と、うずくこめかみを流れる血の音とが混ざって不快だ。
そのどれもこれもが罰に違いない。罰に違いない。僕に下された罰に違いない。
電話が鳴っている。電話が鳴っている。電話が鳴っている。電話が鳴っている。電話が鳴っている。
男は天井を見上げ、大きく息を吸ってから携帯電話を掴《つか》む。
「……もしもし」
『私はおまえに教えてやった』
男の声だった。よく響く低い声だ。
「あんた、誰だ?」
『誰? わからないのか。おまえを導いてやっているのに』
「どういう意味だ」
『だから言っているだろ。私がおまえに教えてやったのだ。おまえが何を望んでいるのか。それを手に入れるにはどうすればいいのか』
「なんのことだか――」
『死んだ女たちをつくるのは面白いか』
「…………」
『死んだ女たちは、おまえをあの女のいる星に連れて行ってくれたか』
「どうして、それを……」
『それは私がおまえに教えてやったものだからだ。私にはおまえが何を望んでいたかわかった。だから教えてやった。……聞いてるか?』
男は首を縦に振った。それを見たかのように電話の相手は言葉をつないだ。
『おまえに新しい使命を与えてやる。失敗すればおまえは終わりだ。それがどういう意味かわかるか』
「警察にでも言うのか。そんな脅しに――」
『星に渡れなくなる。だからモニターの中の女に会うことが出来なくなる。たとえ死んで生まれ変わろうと、決して会うことが出来なくなる』
「あの人はシカバネの神様だ。女などではない!」
『神は私だ。おまえは私の言うとおりに動けばいい。逆らうことなど出来ない』
「あんた……わかった! あんたは――」
『聞こえなかったのか。私は神だ。そしておまえは神の猟犬だ。神の忠実なしもべとなれ。そうすれば、あんな手痛い失敗を繰り返すことはなくなる』
「どうしてそんなことを――」
『知っているのか? かね。それは私が神だからだ。おまえたちの新しい神だからだ。忠誠を誓うのなら力をやろう。決して失敗を繰り返さないように』
「……わかった」
『何がわかった』
「忠誠を誓うよ」
『おまえは神の猟犬なのだ』
「僕は神の猟犬だ」
『おまえは私の忠実なしもべだ』
「僕はあなたの忠実なしもべだ」
『……いいだろう。さあ、いつものように支度をしろ』
「支度?」
『いつもおまえがあの女に会う時にする支度だ』
「……わかった」
男は部屋の隅に行き、ゴルティエの鞄《かばん》を取ってきた。中から黒のビニールテープを出してくる。それから携帯電話を耳に当て、頭にビニールテープを巻いていく。ぐるぐると巻きつけたテープが、男の顔を歪《ゆが》める。
「用意は出来た」
『眼を閉じろ』
男は眼を閉じた。テープで止められたまぶたが引きつれ、白目を剥《む》くことになった。
『いくぞ』
ぶん、と身体《からだ》が振り回された。腰を中心に独楽《こま》のように身体が回転している感覚がある。頭に血が上り、胃の中身が逆流しそうになった。回転する速度はどんどん増していく。鬱血《うつけつ》した頭が破裂しそうだった。意識が断続的に途切れた。ストロボ光線を浴びてでもいるようなこま切れの意識に眩暈《めまい》がしそうだった。
少し回転が緩やかになったような気がして、男は薄く眼を開いた。
一面の砂丘が眼下に広がっていた。
男はゆっくりと回転しながら、宙空から砂漠を見降ろしていた。
男は直観した。
ここはシカバネの星だ。僕はとうとうシカバネの星にやってきたんだ。
男の目に涙が溢《あふ》れてきた。
そうか。僕が正しく信仰していたから、シカバネの神様が僕の願いを叶《かな》えてくれたんだ。あんなに近くにシカバネの神様がいたなんて。僕をそっと見守っていてくれたなんて。
歓喜する男に応《こた》えるように、再び男の身体が回転する速度を増した。しかし男はもう不快感は感じていなかった。振り回されるその感覚が悦《よろこ》びにさえ変わった。
そして、急に回転は止んだ。
『もう眼を開けていいぞ』
電話から声が聞こえた。
男は目を開いた。
そこは男が今までいた部屋ではなかった。途中で見たシカバネの星でもなかった。
どこかのマンションの一室だった。
神の力だ。
男は独り得心した。
部屋には小さな飾り棚がいくつもある。その棚すべてに、隙間《すきま》を恐れてでもいるかのように、縫いぐるみや小学生が持つような色とりどりの文房具がぎっしりと並べられていた。
この部屋に住んでいるのは小学生か中学生か、いずれにしても悪趣味に近い少女趣味の持ち主だ。
『女を探せ』
「どこにいる」
『探せと言ってるだろう』
探すほどもなく、女は見つかった。中年と言うにはまだ早いだろう。が、どう見てもあの小物を集めている女には見えなかった。子供でもいるのだろう、と男は思った。
どこかに出かけるところだったのか、女はジーンズにダウンジャケットを羽織っていた。しかしそのまま外出すれば、間違いなく途中で誰かに呼び止められるだろう。
彼女がシーク教徒のように頭に巻きつけているのは、ターバンではなく銀のアルミホイルだった。それだけではない。耳にも鼻にも脱脂綿が押し込んであった。脱脂綿は真っ赤だった。
血だ。
耳と鼻に突っ込まれた脱脂綿は血をたっぷりと吸っていた。
滑稽《こつけい》とも言える異装の女は、男を見て鼻で笑った。
「慌ててそっちから来たのね。私を溶かすつもりなんでしょ。でも駄目よ。私には準備が出来ているんですから」
女はジャケットのポケットからカッターナイフを出した。ギチギチと音をたてて刃を伸ばしていく。
『殺せ』
電話の男が言った。
『その女を殺せ』
先に飛びかかってきたのは女だった。
大きく踏み出し、カッターナイフを大きく振る。
避《よ》けて顔の前に出した掌《てのひら》がざっくりと切れた。
わあ! と男は甲高い悲鳴を上げた。
「どうしたらいい。どうしたらいい」
『うろたえるな!』
女が再びカッターを振った。
男は後ろに跳んだ。
男の胸をかすめてカッターの刃が通り過ぎる。
『手が痛むか?』
「えっ……」
『手が痛むかと聞いてるんだ!』
苛立《いらだ》つ電話の声に、男は手を見た。手袋は斜めにすっぱりと切れていた。が、確かに痛みを感じていない。
男は手袋を外した。
掌に赤い線が走っているだけだった。その赤い線も、見る間に消えていった。
「死ね!」
女がカッターを男の喉《のど》に突き立てた。
ぷつり、と皮膚を断ち、肉を裂く音がした。
だが、痛みはない。
男は笑った。声を上げて笑った。
女の顔が恐怖に歪んだ。
男には馴染《なじ》みの表情だった。
『手を見ろ』
手袋を外した手を、男は見た。
その爪《つめ》が変形していた。
長く半月形に曲がったそれは、一つ一つが小さな鎌のようだった。
女は喉からカッターを抜き取り、一歩後ろにさがった。
『それで女を殺せ』
「殺す? 爪でか」
『どうした。怖いのか』
「でも、これは僕のやり方じゃない。僕は首を――」
『これは仕事だ。おまえは今使命を果たすためにここにきているんだぞ。遊びじゃないんだ。さあ、いう通りにしろ』
「止めなさい!」
女が叫んだ。
「おまえたちが何をしようとしているのかわかってるんだ! 私はわかったんだから。あんたたちがどこでどのようにして増えているか。もうそれを見つけたんだから!」
だから死ぬんだ、と答えたのは電話の男だった。
男は女に飛びかかった。前から抱きつき、その喉に爪を突き立てる。剃刀《かみそり》のように鋭い爪が深く、女の首に刺さった。
『やれ』
男は爪で首を掻《か》いた。
それは肉を裂き、頸動脈《けいどうみやく》を断ち斬《き》った。じゅっ、と射精のような音をたて、大量の血液が間歇《かんけつ》的に噴き出した。
男は女の身体を突き放した。女はソファーに突っ伏して手足を痙攣《けいれん》させていた。
『その女のカッターで喉を何回か浅く切れ。いくつか切り傷をつくっておくんだ。手袋を落としているぞ。忘れず持って帰れ』
男は電話の男に言われるがままに行動した。
『終わったな』
「終わった」
『よくやった。さあ、もう一度眼を閉じるんだ』
男はおとなしく眼を閉じて、あの不快な遠心力を感じ始めていた。
女はその時まだ生きていた。奇跡とも言える生命力だった。
失《う》せようとする意識を懸命に保ちながら、女はソファーの脇《わき》にあるテレビのアンテナ線を掴《つか》み、テレビから引き千切る。そしてそれをゆっくりと手繰り寄せていった。
線を手元まで寄せると、女はその先をしっかりと掴んで言った。
「八辻、警告……」
それと同時刻。
由紀子のマンションの居間で、ぶん、と音をたてて消してあったテレビが明るくなった。画面に映っているのはサンドノイズだ。電気の砂嵐《すなあらし》は微妙に模様を変えながら、そこに女の顔を形作った。女の顔は数回現れては消え、最後に何事か呟《つぶや》くように唇を動かし、そして画面は再び真っ暗になった。
夕食の支度をしていた由紀子も、自室で勉強をしていた毅も、そのことにはまったく気がつかなかった。
3
約束の十時ちょうどに、妙子は由紀子の部屋のドア・チャイムを押した。扉を開けると、悪趣味一歩手前までレースで飾られたワンピースを着た妙子の後ろに、こちらはMA1ジャケットとジーンズにスニーカーという、これ以上シンプルな服装はないと思える格好の青年が立っていた。
「こんにちは!」
満面に笑みを浮かべ、妙子は近所では有名なケーキ屋の紙箱を眼の前に持ち上げた。
「気を遣わなくてもいいのに」
箱を受け取り、由紀子は微笑《ほほえ》みながら青年を見た。
「この人が例の?」
「徳永新一です」
徳永は腰を正確に四十五度曲げてお辞儀した。丁寧な、というよりはどこかふざけて見えるのは、妙子より頭一つ大きな長身のこの青年が、終始顔に笑みを浮かべているからだ。
「ちょっと連れてきてしまいました。一度お姉さんにも鑑定してもらいたくて」
「ぼくは九谷焼の皿じゃないよ」
由紀子は思わず吹き出した。声を上げて笑ったのは久し振りのことだった。
「妙子からあなたの話はいろいろと聞いてるわ。さあ、とにかく中に入って」
「あれから変わったことない?」
席に着くとすぐに妙子は言った。
「山ほどあるわ」
由紀子は妙子と別れて以降起こった出来事を順に説明した。その間徳永は真面目《まじめ》な顔でしきりにうなずきながら、妙子の持ってきたケーキを二つ平らげた。
「だいぶ、まいってるみたいね、お姉ちゃん」
三つ目のケーキに出した徳永の手をぱしりと叩《たた》いて、妙子は言った。
「そうね……。ちょっと疲れがたまってきたかな」
「その程度じゃないでしょ。だって顔色が悪いもん。げっそりって感じよ」
妙子は頬《ほお》に両手を当ててムンクの叫びのような顔をした。
「ねえ、妙子はどう思う? すべてが私の妄想かしら」
「でも、男に襲われたのは間違いないでしょ」
「その男は私しか見ていないのよ。何もかも妄想だとも考えられるでしょ」
「本当にそう思う?」
由紀子は首を横に振った。
「でしょ。その襲ってきた男に見覚えはないの」
「暗かったし、顔をビニールテープでぐるぐる巻きにしていたし、よくはわからないわね。でも、何となく知っている人のような気がしたんだけど」
「あのさあ、こんなこと言っちゃ悪いかもしれないけど、佐久間さんが関わってるってことないかな」
妙子は前夫のことを知っていた。何度か直接会ってもいる。由紀子は彼が何をしたか多くを語りはしなかったが、腕につくった痣《あざ》を見られているし、前歯を二本、差し歯にしている原因も気づいているだろう。
「彼はこんな込み入ったことをするぐらいなら拳《こぶし》一つですませるわね。それに絶対彼じゃないことがわかったの」
三日ほど前のことだ。
夕食の支度をしていると、突然電話がかかってきた。佐久間だった。佐久間は由紀子が電話口に出るなり怒鳴りつけた。
いい加減にしろ!
由紀子には訳がわからなかった。
佐久間は興奮しており、はじめは何を言っているのかさっぱり理解できなかったが、要点をまとめればだいたいこのようなことを言っているようだった。彼の病院に何度も電話があり、由紀子に関わるなと脅迫した。そしてその前日には、葬儀帰りのような黒服の男が来て、やはり彼女に近づいてもらっては困るというようなことを言って帰ったのだと。
今は幸せに暮らしているのだから、よけいなちょっかいはしないでくれ! と佐久間は一方的に怒鳴りまくって電話を切った。
「それって、どういうこと?」
「わからない。でも演技じゃなかったわ。演技であんなことを出来る人じゃないから。多分本当に彼のところにそんな人が行ったんでしょう」
「暴漢の一件といい、前の夫といい、どうも八辻さんは男運が悪いみたいですね」
にこにこしながら言っているところを見ると、徳永に悪気はないらしい。
妙子が絶妙のタイミングで徳永の後頭部を叩いた。
「どうしてお姉ちゃんにそんな失礼なことを言うの?」
「いやあ、失礼だったかな」
徳永は頭を掻いてコーヒーの残りをごくごくと飲み干した。
「もう一杯入れましょうか」
「いえ、結構」
そう言ったのは妙子だった。
「ねえ、お姉ちゃん。これ以上怖がらせちゃ駄目だと思って言わなかったんだけども」
「これ以上怖がるようなことはないわよ」
由紀子は苦笑した。
「それもそうね。……お姉ちゃんに起こってることって、複数の人間が関わってなきゃできないような気がするの」
「そうかもしれないわね」
「UFOカルトみたいなのがあるって話を聞いたことがあるの」
「UFOカルト?」
「そう。UFOとか宇宙人とかを神様みたいに崇《あが》める新興宗教みたいなものなんだけど、お姉ちゃんが書いたUFOの記事があるじゃない」
「コンタクティーの話?」
「そう、それ。たとえばお姉ちゃんの書いた文章を読んで、腹を立てたUFOカルトの人間がいて、抗議の意味でこんなことをしてるんじゃないのかな。それなら複数の人間が関わってくる意味もあるし、隣の人とか、そのジャムって男の子とか、一見つながりのなさそうな人同士がつながっててもおかしくないじゃない」
「つまり狂信的な一団が私に嫌がらせしてるってこと? そう言えば、そんなホラー映画を観たことがあるわ」
「悪魔の追跡とかローズマリーの赤ちゃんとか……。確かに映画みたいではあるけど、でも現実に起こらない話でもないと思うんだ」
「そうね……」
「最初に取材したコンタクティーの中に、首謀者がいるって考えられないかしら」
妙子に言われて、由紀子はあの席にいた三人を思い浮かべた。
痩《や》せた小島の土気色をした顔。髪を後ろで束ねた進藤の気の弱そうな笑顔。そして高橋の好色そうな顔。
変人であるかもしれないが、そのような悪質なことをするような人物には見えなかった。
「どうかしらね」
由紀子は首を傾げた。
「最終的にはその人たち一人ずつ尋ねて回る必要があるわ」
「あなたは私に嫌がらせをしていませんかって、一人ずつ聞いて回るってこと?」
「……あのね、お姉ちゃん。現にお姉ちゃんは命を狙《ねら》われたのよ。大人しいやり方じゃ、これからどうなるかわからないわ。少しは強引な手段もとらなきゃあ。駄目よ、いつものお姉ちゃんらしくないわ。もっとしっかりしなくちゃ」
「でも、私は警察じゃないわ。出来ることには限界がある。たとえばよ、隣の福田さんを問い詰めたって、勘違いだって言われればどうしようもないもの」
「それでも問い詰めないよりはまし。黙ってちゃ何も始まらないんだから」
「ぼくが力を貸しますよ」
徳永が腕を曲げて力こぶをつくってみせた。
「さて」
妙子は両手をパンと合わせて立ち上がった。
「早速始めましょうか」
妙子は持ってきた革のリュックからトランシーバーのようなものを出してきた。
「それは盗聴器じゃないの?」
「これは盗聴発見器」
「盗聴発見器って、もっと大きくて、昔のテレビのアンテナみたいなのがついてるやつじゃないの?」
「それはテレビの悪影響ね。あのでっかい八木アンテナ振り回すのも、これで探すのもおんなじ。すぐにわかるわよ」
妙子はアンテナを立ててスイッチを入れた。それをもって部屋の中を順に回る。徳永はその後ろからついて回り、時折妙子の肩越しに覗《のぞ》き込むだけで、何をするわけでもなかった。
「ないわね」
部屋を一回りすると、妙子はあっさりとそう言った。
あまりに簡単なので、由紀子は肩透かしを喰《く》らったような気がした。
「本当に?」
「無線式のは間違いなくないわ。有線なら別だけど、でも人の家庭の盗聴に有線のを仕掛ける人はまずいないわね。さあ、これで一つ片づいた。盗聴はされていない。次は電話の謎《なぞ》」
由紀子は妙子に連れられ、彼女の車の助手席に乗り込んだ。軽四輪の後部座席は狭く、長身の徳永は身体《からだ》を蛇腹のように折り畳んでいた。
妙子はすぐに盗聴器を取り出すと、それにテープレコーダーを接続する。
「全部録音しておくの。自分に関係があると思えるものがあったら、私に言ってね」
もしかしたらこの前のことは偶然かもしれない。そういう由紀子の期待はすぐに裏切られた。
近所を少し回るだけで、八辻や由紀子といった名前がすぐに飛び出してきたのだ。見知らぬ誰かが喋《しやべ》っている自分の噂話《うわさばなし》を聞き続けるのは苦痛だったが、それでも由紀子は我慢してイヤホンを耳から離さなかった。
自分の話題が出ると、由紀子は妙子に知らせ、妙子はその時のテープレコーダーのカウントをメモしていった。
近所を一時間ほど走る。テープは裏表一杯になった。
「実はどの相手でも電話番号を知れるわけじゃないんだ」
路肩に車を停め、盗聴器を片づけながら妙子は言った。
「DTMF音の解読機でこのテープから電話番号を調べるの。DTMF音っていうのは、プッシュホンを押す時のあのピポパって音、あれなの。あれを解読機に入力すると、ピポパっていう音が電話番号に変換されるわけ。だからDTMF音が録音されてないと電話番号もわからないの」
「それならいくつかは入ってたみたいだけど」
「なら大丈夫」
妙子は嬉《うれ》しそうに笑った。
「さてと、次はその電波系グラフィティー・チームってのが描いた絵を見せてもらいましょうか」
「張り切ってるわね」
「当たり前よ。初めてお姉ちゃんの役に立つんだもん」
そう言ってぱっと後ろを振り向くと、妙子は掌底《しようてい》――掌《てのひら》の部分――で、居眠りしかけていた徳永の額を突いた。
「わあ、何だ!」
「何だじゃないわよ。しっかりしててよ」
「はい」
徳永は出来の悪い小学生のような返事をした。
「さあ、お姉ちゃん。行きましょう」
「すぐ近所よ。マンションに向かう途中にあるわ」
マンションの近くに車を停めて、三人は歩いて地下道の絵を見に行った。絵は消されることもなく、そのままのところにあった。
「なかなか良《い》い出来ね、お姉ちゃん」
「感心してる場合じゃないわよ」
「確かに。で、そのジャムって男の子には会えるの」
「連絡は編集の人に任せていたから。でも聞いてみたらすぐにわかるはずよ」
「それじゃあ、その子のところに行ってみましょう」
「えっ!」
「だって隣の主婦に聞くより実害が少ないもん。でしょ。隣の主婦と諍《いさか》いを起こすと、後々大変だけど、そいつなら問題なし。そうでしょ、お姉ちゃん」
「そうとも言えないけど……」
「いい? お姉ちゃんは命の危険にさらされているのよ。毅君のことも考えたら、そんなに消極的な態度ではいられないはずよ。ねっ?」
「そうね」
曖昧《あいまい》にうなずきながら、由紀子はどうして自分がこうも消極的なのかと考えていた。
現実は妙子の言うとおりなのだ。自衛しなければ毅が被害を被《こうむ》る可能性だって充分考えられる。いつもの由紀子であれば、そう考えただけでもう動き出しているはずだった。確かに由紀子は対人関係において押しに弱く、強引な人間に引っ張られる気の弱さがある。しかしそれでもやるべき時は我《が》を通す頑固さも合わせ持っていた。
それが今回に限って、不安感が先に立ち、何かといえば後ろへ後ろへと下がってしまう。慕い頼って来ていた妙子に、今は由紀子が頼りきっていた。それが自分でも不思議だった。
妙子に引っ張られ、車に戻ると、由紀子は携帯電話を手渡された。
「はい、どうぞ」
由紀子は久子の直通の電話番号を押した。
すぐに出てきたのは、由紀子も知っている若い編集者だった。久子の下で雑誌『アンソリット』を編集している笠井《かさい》という名の青年だ。
『ああ、八辻さん。いつもお世話になっています』
「久子いるかな」
『それが……』
「いないの?」
『例によって一昨日《おととい》から連絡なしで出社していないんですよ』
「またなの」
久子は以前にも何度か無断で会社を休んだことがあった。原因はその度に様々だった。二日酔いから、ふらっと旅行に出かけたくなったまで、いずれにしろ身勝手な理由で休んでしまうのだ。それでも今の会社を辞めさせられることがないのは、彼女が過去何度も大部数を発行する人気雑誌を生み出しているからだ。
「そう……。それじゃあ仕方ないわね。じゃあ、ええと笠井くん。悪いけど、この前私が取材したジャムっていう少年の連絡先がわかったら教えて欲しいんだけど」
『ジャム? ああ、グラフィティー・チームの。わかりました。少々お待ちください』
しばらく乙女の祈りを聞かされてから、由紀子はジャムの住所と電話番号を聞き出した。
「さあ、行きましょ」
電話を切ると同時に妙子が言った。
「行きましょうって、どこへ」
「嫌だなあ、お姉ちゃん。その子の家に決まってるじゃない」
「でも、それなら電話でも入れてから」
「逃げられても困るじゃない」
「まさか」
「とにかく行きましょうよ。無駄でもいいじゃない」
「ほんとに、こいつ、強引でしょ」
後ろの座席から前に顔を突き出して徳永が言った。その額にぴしゃりと妙子の平手が飛ぶ。
「よけいなこと言わなくてもいいの」
妙子は由紀子が走り書きした住所のメモをちらりと見ると、車を走らせた。
4
安全という言葉からは程遠い妙子の運転で、車はその番地の近くに到着した。狭い路地に木造の長屋がぎっしりと肩を並べ、路上には棚の上に植木が置かれてある。
典型的な下町だった。
教えてもらった番地にあったのは、やはり木造の、古びた旅館のようなアパートだった。
「うへえ! 玄関で靴脱がなきゃならないんだ」
徳永が頓狂《とんきよう》な声を上げた。
壁には黄ばんだ紙に墨で土足厳禁と書かれた貼《は》り紙《がみ》があった。下駄箱がその隣にあり、安物のスリッパがいくつか、無造作に突っ込まれていた。
「ヤだなあ。誰が履いたかわからないスリッパ履くの」
妙子と由紀子は、スリッパ片手に悩んでいる徳永を置いて、さっさと二階への階段を上がっていった。黒々と光る木製の階段は、角がすり減り滑りやすかった。
みしみしと音をたて、二階から三階へ。この三〇一号室にジャムはいるはずだった。
扉の前に三人が立つ。木製の引き戸だ。
徳永は結局|裸足《はだし》で、それでも足の底を廊下にくっつけるのが気持ち悪いのか、爪先立《つまさきだ》ちになっていた。
妙子がノックした。
「ジャムくん、いる?」
叩《たた》く度に建て付けの悪い戸はがしゃがしゃと派手な音をたてた。
「いないのよ。やはり来る前に電話の一本でも入れておけばよかったわね」
「わかんないわよ、お姉ちゃん。中で眠ってるかもしんないよ」
言いながら妙子は何度も何度も扉をノックし続けた。
その返事は後ろからあった。
「あんたたち、坂本さんの友達かい」
話しかけてきたのは白髪の、そのわりには肌が脂ぎった初老の小男だった。
「管理人さんですか」
由紀子がそう言うと、男は下から彼女を睨《にら》み上げた。
「そうだよ。で、あんたたち、坂本さんの友達かなんかかい」
いいえと言いかける由紀子を手で制し、妙子が言った。
「ええ、私の従兄《いとこ》なんですけど、今日は出かけているんですか」
「出かけてる? そんな可愛《かわい》いもんじゃないよ。私に連絡せずにもう一月近くも出かけっぱなしだ」
由紀子たちは互いに顔を見合わせた。
「何かあったのかしら」
妙子はさも心配そうな口調で言った。
管理人はその様子を見て、顔をしかめた。
「困ってるんだよね、坂本さんには。家賃は半年分たまってるしさあ。あんたら何とかしてもらえないか」
「実は私たちも坂本の両親に頼まれて様子を見に来たんです。実家の方にも長い間連絡がなかったようで、それで身軽な私たちが見に来たんですが……あのう、申し訳ありませんけれども、中を見せてもらうわけにはいきませんか」
すらすらとでまかせを言う妙子を、由紀子は感心して眺めていた。
「ああ、いいよ。数日中に戻ってこなかったら、立ち退いてもらおうと考えてたんだ。その時には荷物も整理しなきゃならんしさ。でもね、いくら勝手に出ていったからって、こっちはあんまり勝手に部屋の中にはいるわけにゃあ行かないでしょ。だから、ちょうど良かったよ。中を見たかったんでね。場合によっちゃあ、今日荷物運び出して、あんたたちに持っていってもらってもいいんだけどね。ちょっと待っててくれよ」
管理人は鍵《かぎ》を取りに戻り、すぐにやってきた。鍵束をじゃらじゃらいわせ鍵を開けると、建て付けの悪い扉を開いた。
中を覗《のぞ》き込んだ管理人が大声で怒鳴った。
「なんてこった!」
極彩色の部屋だった。
一間に台所のついたその部屋は、壁から天井、床に敷かれた畳まで、びっしりと原色の絵が描かれていた。間違いなくジャムの描いたものだろう。あの地下道の絵と同じモチーフがいくつか使われている。大きな頭の小人や奇妙な記号などがそれだ。
舌打ちしながら、管理人は部屋の中を見て回る。押し入れの襖《ふすま》には、特に細かく念入りに無数の図形が描かれてあった。
それを開いて中を見る。
まるでヒンドゥーの祭壇のようだった。
中にも絵は隙間《すきま》なく描かれてある。絵だけではない。ポラロイド写真が何枚か貼られてあった。空を映したものだ。そのどれにも、小さな光の点が映っており、赤いペンで丸く囲まれていた。雑誌の切り抜きやそのコピーが、赤い糸で互いに縫いつけられてあった。すべて人の顔で、ボールペンで細かく、レティクルから来た者、スペース・ブラザー、ペンタゴン等々と文字が書き込まれてある。押し入れの中央には手作りの棚があり、蝋《ろう》でつくった頭の大きな人形が置かれてあった。人形の左右には透明なガラス瓶が置かれてある。左の瓶には髪の毛、右の瓶には爪《つめ》が、溢《あふ》れそうなほど詰め込まれてあった。
「ああ、ああ。何だよ、何だよ。なんてことするんだよ」
呟《つぶや》きながら管理人は、部屋の中をさらに子細に点検し始めた。
「八辻さん」
徳永が手招きする。
由紀子が見に行くと、彼は屏風《びようぶ》のように畳んだ一枚の長い厚紙を持ってきた。
「これ見てください」
勧進帳のようにざっとそれを広げる。
そこには跳ねるような特異な文字でこう書かれてあった。
[#ここからゴシック体]
これはおまえの手に渡るだろう。
シカノの命でおまえに伝える。
おまえに警告があるぞ。
霊は冷蔵庫の後ろに隠れてから壁を伝って屋根に出て、隣の屋根に移ってそこの冷蔵庫の後ろに隠れるぞ。鳩に注意しろよ。鳩は屋根に昇った霊を食うぞ。霊を食うから鳩は賢いぞ。賢いからおまえのしていることを知っているぞ。知られて困るのなら鳩を殺せ。でも鳩はどこにでもいるぞ。笑ってるぞ。囁《ささや》いてるぞ。
霊は動く。その場でたまってると腐ってしまうからな。
霊が近づいたらわかるぞ。俺《おれ》はわかるぞ。霊は匂《にお》うからな。わかれば何とかなるぞ。
奴《やつ》らはいろんな手を使うぞ。鳩もそれだ。人殺しもいれば経営者もいる。鳩は電波で動いているから、電波には注意しろよ。毒想念も電波を伝うぞ。いろいろな手を考えると大変だ。
電話はおまえを裏切るぞ。電波は奴らの道具だぞ。おまえの敵だぞ。気をつけろ。気をつけろよ。
[#ここでゴシック体終わり]
「これ、どこにあったの?」
「あの仏壇の中です」
徳永は押し入れを指さした。由紀子はその紙をそっとバッグの中にいれた。
「あんたら」
管理人の眼が据わっていた。三人を順に見回し、一番|年嵩《としかさ》の由紀子ににじりよった。
「家賃滞納の上にこの始末だ。敷金ぐらいじゃあおっつかんよ」
妙子がすぐに間に割って入ってきた。
「あっ、はい。叔母《おば》さんに連絡して、すぐにお金を持ってきてもらうように言います」
「当たり前だろ」
管理人は妙子を睨みつけた。
「あの、それじゃあ、私たちこれで失礼します」
「逃げる気かい」
「いえ、帰ってすぐに叔母さんに連絡を……。それじゃあ」
三人はアパートを走り出た。
5
由紀子はモニター画面をぼんやりと見ながら、電話を待っていた。
マンションに戻りテープを聞こうとすると、妙子のテープレコーダーが故障したのか、まったく動かなくなってしまった。由紀子の新しいテープレコーダーを使うとこれもまた故障している。最近由紀子の周囲では電化製品が頻繁に故障した。炊飯器や洗濯機、テレビにビデオ。修理を何回繰り返しても、ひどい時には持ち帰ったとたんに壊れているのだ。仕方なく、妙子たちはいったん家に戻ってからまた夕方連絡するということで別れた。
食事の後片付けを終えてから、由紀子はずっとテーブルの前で連絡を待っていた。毅はおとなしく勉強しているはずだ。待っている間に締め切りの近い原稿を書き上げようと考えていたのだが、どうしても手につかなかった。
キーボードの横にはジャムの部屋から持ってきた厚紙が広げてある。どう見てもこの内容は由紀子への忠告に見える。由紀子が特に気掛かりだったのは、『シカノの命でおまえに伝える』という部分だ。今年亡くなった由紀子の母の名が鹿乃《しかの》だった。シカノが鹿乃であるのなら、ジャムが、死んだ母親に頼まれて由紀子に警告を送っているように取れる。
有り得ないことだ。
そう否定するのだが、どこかで有り得ることだと考えてもいた。
電話のベルが鳴る。
由紀子は素早く受話器を取った。
川のせせらぎのような雑音が聞こえていた。いつものことだ。今日はまだましな方だった。
「はい、八辻です」
『お姉ちゃん』
「妙子、どうだった?」
『わかったわ。信号音の残っている通話がいくつかあって、その中で一つ、お姉ちゃんのことを喋《しやべ》っている人がいたの。女の人だった。今から電話番号言うから控えてね』
メモ用紙に由紀子は番号を控えていく。途中でペンが止まった。
『わかった?』
「……ええ」
『もう一度言おうか』
「いいえ、充分よ。ありがとう」
妙子はまだ何か言おうとしていたが、由紀子は受話器を乱暴に置いた。
メモに途中まで書いた電話番号をじっと見つめている。由紀子はその番号を知っていた。
しばらくの間、由紀子は唇を噛《か》みしめ、その番号を睨《にら》んでいた。まるでそうすれば数字が逃げていくかのように。
そして再び受話器を取り上げ、その電話番号を押した。メモを見る必要はなかった。由紀子はそれを暗記していたからだ。
二度、呼び出し音が鳴って相手の声が聞こえた。留守番電話だった。
『ただいま小来栖は外出中です。ご用件がございましたら、ピーという信号音が鳴り終わりましてからメッセージを吹き込んでください』
帰ってきたらすぐ連絡をくれと吹き込み、由紀子は電話を切った。
小来栖久子。由紀子の初めての出版を担当した編集者。そしてそれ以来由紀子の唯一のと言ってもいい親友となった人物。それがどうしてあのようなことをしているのか。由紀子には信じられなかった。
間違いではないのか。解読機の故障か何かで間違った番号を読み取ってしまったのでは。そしてその番号が偶然久子の電話番号だったのでは。確率は低いが考えられないわけではない。
由紀子は再び電話をかけた。今度は妙子の家だ。
『あれ、お姉ちゃん。何かあったの』
「さっきの電話番号が入ってる録音部分をもう一度聞かせてくれる」
『ええ、もちろんかまわないけど、どうしたの』
「いいから、そこのところだけ聞かせてちょうだい」
『わかったわ。ちょっと待ってね』
しばらく保留の音楽が流れていた。四フレーズ目を聞き終わったときに妙子が出てきた。
『テープレコーダーからだから、だいぶ聞き取りにくいと思うけど』
「かまわないから聞かせて」
プレイボタンを押す音とともに、雑音が聞こえ、続いて電子音がした。
最初に聞こえてきたのは若い男の声だった。
――警告は?
――したわ。
一度聞いた時にはまったく気がつかなかったが、その声は確かに久子のものだった。
――どうしてユキコさんは気がつかない。
――わからない。理解させることは難しいわ。理解した時には遅いのかもしれない。
――星から確認の連絡があった。まだ間に合うはずだ。
――毒想念が魂くじいてるの。もう始まってるわ。私が捕まってるの。由紀子どうなるか不安だわ。
――強くあれ、だよ。シカノが星から連絡くれた。強くあれだよ。
シカノ。その名を聞いて由紀子は男の声にも聞き覚えがあるのに気づいた。
「悪い、妙子。もう一度初めから聞かせて」
『いいわよ』
テープを巻き戻す音がして、会話が始まった。間違いない。「ユキコさん」という奇妙な発音はジャムのものだ。
それから由紀子には理解出来ない会話が数十秒ほど続き終わった。
『これでいい? お姉ちゃん』
「ええ、ありがとう」
『何かわかったの?』
「また今度説明するわ。御免ね。それじゃあ」
由紀子は電話を切った。
久子とジャムが、由紀子を挟んでどのような関係にあるのか。
混乱する一方だった。久子とジャムが知り合いなのはわかる。しかしどうして由紀子のことをこの二人で話さなければならないのか。しかもそこで使われている言葉と、隣の福田や送られてきた奇妙な手紙の言葉にはいくつもの共通点がある。彼ら、彼女らは一体どのような関係があるのか。それこそ妙子のいっていたようなUFOカルトが存在し、それが由紀子の記事に怒って報復しようとしているのか。それは小説や映画の中でだけしか起こらないような出来事に思えた。簡単に信じられることではない。だが由紀子の周囲で起こっていることもまた、信じられないようなことばかりなのだ。
そして翌朝、さらに信じられないようなことが起こった。
毅を送り出し、家に帰ってすぐだった。扉を開ける前から電話の音が聞こえていた。慌てて部屋に入り受話器を取る。久子の下で働く笠井からだった。
『八辻さん、大変だよ』
笠井は泣きそうな声を出した。
「どうしたの。何があったの」
『小来栖さんが自殺したんですよ』
意味がくみ取れなかった。小来栖、自殺。二つの単語が聞き慣れぬ外国語のように聞こえた。
「何ですって」
受話器を握り、笑みさえ浮かべて由紀子はゆっくりと聞き返した。
『無断欠勤が三日続いたんで、今日ちょっとぼく小来栖さんのマンションによってみたんです。そしたら……』
郵便受けには大量の新聞と郵便物が無理やり突っ込まれていた。
留守だろう、と思いながら笠井はドア・チャイムを押した。
しばらく待ったが、誰も出ない。
帰ろうかと思ったが、その時笠井の鼻先を異臭がかすめた。
腐臭だ。腐った肉のにおい。
嫌な予感がした。
笠井はチャイムを押し、ドアをノックし、しばらくそこでねばっていた。ドアを叩《たた》くごとに、もしや、という思いが膨れ上がっていった。会社に来なくなる数週間前から、久子の様子がおかしかったからだ。顔色が悪く、心ここにあらずという様子だった。そのうち受け答えがおかしくなってきた。会話の途中で意味の通らないようなことを唐突に言い出したりもした。最近小来栖の様子がおかしい、そういう風評が立つようになっていた矢先、姿を消した。だからこそ笠井もマンションまで見に来たのだ。
何度もノックし小来栖の名前を呼んでいると、隣の主婦が出てきた。昨日の夜から腐臭がするのだが、大丈夫だろうか、とその主婦は顔をしかめた。笠井はその主婦と相談して管理人に伝えることにした。管理人はすぐに警察に連絡した。警官がやって来る頃には、すでに野次馬が集まってきていた。そして警官立ち会いのもとで管理人がマスターキーで久子の部屋の扉を開けた。
悪臭と、むっとする熱気が流れ出てきた。
野次馬たちの好奇心をあおり立てるには抜群の演出だった。
警官が先頭に立って、笠井と管理人が続いて中に入った。
久子は居間のソファーに横たわっていた。
その首筋が、哄笑《こうしよう》するようにぱっかりと切り開かれていた。右手にはカッターナイフを、左手にはTVのアンテナ線を握り締めていた。暖房がつけっぱなしで、腐敗が激しかった。
久子の頭にはターバンのようにアルミホイルが巻かれてあった。耳と鼻には血で赤黒く変色した脱脂綿が詰め込まれていた。
『本当に凄《すご》かったんですから』
笠井は興奮した口調でそう言った。
『今、事情聴取が終わったところなんですけど、小来栖さんの家族に連絡しようと思って、ところが会社の者は誰も小来栖さんの家族の連絡先を知らないんですよ。確か両親はもう亡くなられているとか……』
「千葉にレストランを経営している弟さんがいるわ。ちょっと待ってね」
久子は電話番号帳を開いて、久子の弟、満《みつる》の住所と電話番号を伝えた。笠井は丁寧に礼を言って電話を切った。
由紀子も受話器を置いた。それが冷たい汗でぐっしょり濡《ぬ》れていた。
耳鳴りがするほど部屋は静かだった。
嘘《うそ》かもしれない。今のは笠井の冗談かもしれない。あるいは私の妄想か何かだ。
由紀子には久子の死が信じられなかった。死とは縁遠い人物だと思っていた。まして自殺などとは無縁だと思えた。
久子とは十数年間会っていなかったという弟を手伝って、仮通夜、通夜、葬儀、と慌ただしく数日が過ぎる間も、久子が死んだことを実感は出来なかった。そのためか不思議なほど悲しみを感じなかった。棺《ひつぎ》に横たわる久子は死体そのもので、そこに寝かされた死体と、あの辛辣《しんらつ》な台詞《せりふ》を吐きながら誰にも愛された久子が同一であることがどうしても理解出来なかった。
変死として司法解剖が行われたが、首のためらい傷、最近態度がおかしかったという数々の証言、部屋に鍵《かぎ》が掛かっていた、遺書らしきものが残されていた、などから、久子の死は自殺ということで決着がついた。だがそれは警察にとって決着がついたということで、由紀子の心の中では何もかも投げ出されたままだった。
何故《なぜ》彼女は死ななければならなかったのか。笠井が言うように久子の様子は最近おかしかったらしい。ある面図太いとも言える久子が何によってそこまで追い込まれていたのか。そして何故、あのような奇怪な方法で死を選んだのか。警察の話では、脱脂綿は耳と鼻だけではなく、身体《からだ》中の穴すべてに押し込まれていたという。
葬儀を終えてすぐ、葬儀場近くの喫茶店で、由紀子は弟の満と会っていた。
「いろいろとお世話になりました」
短く刈り込んだ頭を満は下げた。
「満さんも大変でしたね」
「小さい時から姉貴には心配のさせられ通しでした。おやじもおふくろも、姉貴には甘かったですからね」
満は何を思い出したのか、眉《まゆ》をしかめて嫌そうな顔を見せた。
「でね、姉貴の遺書の中にあなたのことが書いてありまして……」
何がおかしいのか、満は鼻で笑った。
「そこに、姉貴の家にあるものの処分はすべてあなたに任せる、と言うようなことが書いてあったんですよ」いいながら満は、マンションの鍵をテーブルに置き、二本の指で由紀子の方へついと押しやった。「いやあ、多分そういう意味だと思うんですよ。ほら、警察が言ってたんで知ってると思いますが、どうやら姉は……」
弟は照れたように頭を掻《か》いてから、かなりここにきてたようで、とこめかみを人差し指でつついた。
「遺書も何が何やらよくはわからんのです。まったく恥さらしなことですよ」
由紀子は若いのに苦労が顔に染みついたようなこの男を、黙ってじっと睨《にら》みつけた。
「あなただって遺書を見たらそう思いますよ」
満は薄笑いを浮かべ、言い訳するようにそう言った。
「私は久子が精神を病んでいたからといって恥ずかしいとは思いませんが」
ついつい口調が厳しくなってしまっていた。
満は、まあ、あんたも姉貴と同じ人種だろうから、と口の中でもごもごと早口で呟《つぶや》いてから、そういうことなんでよろしくお願いしますよ、ともう一度頭を下げた。
「何もかも処分を任せられても――」
「好きなようにしてくださって結構ですよ。姉貴の物で手元に残しておきたいようなものはありませんから」
それだけ言うと満は、レシートを手にしてさっさと喫茶店を出て行った。
無性に腹立たしかった。テーブルには久子のマンションの鍵が、収穫されなかった果実のように置かれてあった。由紀子はすっかり冷めてしまったコーヒーを口に含んだ。
煙草が吸いたくてたまらなかった。
6
葬儀の翌日、由紀子は毅を送り出し、夕飯の買い物を先に済ませてから久子のマンションに向かった。
扉を開けて中にはいる。3LDKのマンションが、由紀子には広々として見えた。
由紀子がこの部屋に入るのは初めてだった。一度も久子の部屋を訪れたことがなかったし、その逆もなかった。それだけの距離を保つように由紀子は努めていた。友人と長くつき合うための秘訣《ひけつ》だと由紀子は考えていたが、いまになれば久子とだけはもっと密接なつきあいをしておくべきだったと後悔していた。
久子の部屋に入って真っ先に眼についたものは、部屋のそこかしこにおかれたサンリオのファンシー小物だった。文房具から人形、玩具《おもちや》。甘ったるいパステル調の色がどの部屋も基本だった。四十歳が近い女の趣味としてはいささか悪趣味が過ぎた。それが、久子という女が心の中に飼っていたグロテスクな生き物のようで、由紀子は見てはならぬものを見たような気がした。
雑誌と本は洋間一部屋の中にすべて収められていた。現在進行中の仕事の資料が、ファイルに入れられ仕事机の上に置かれてある。
これらすべてをどのように処分すべきか、由紀子は部屋を順に見回りながら考えた。マンションの家賃はその月の分がすでに振り込まれており、明け渡すまでには一週間以上の余裕があった。その間にすべて片づけなければならない。
とりあえず机の周囲にある進行中らしき書類関係は、すぐにでも笠井に渡すべきだろう。そう考え由紀子はテーブルの周りから整理を始めた。
机の引き出しから、大きな茶色の紙袋が出てきた時、もう毅を迎えに行かねばならない時間が迫っていた。
中には数冊の本と雑誌、そして三冊の大学ノートが入っていた。その本の中に『レビアタンの顎《あぎと》』があった。かなり何度も読み込まれているらしく、頁にはいくつもの折り込みがあった。
それをぱらぱらとめくっていると、間に挟んであった封筒が落ちた。見ると宛名《あてな》は由紀子のマンションになっていた。心臓がどくりと脈打ち、頭にかっと血が上った。
封はされていなかった。切手も貼《は》られていない。出すつもりでそのまま忘れていたのだろうか。
ただの、出されることのなかった手紙だ。
由紀子は呪文《じゆもん》のようにそう唱えながら、中の手紙を取り出した。
そこに書かれている文字は、由紀子のところに送られてきた怪文書と同じ、小さな虫のような字だった。
やめてください。[#「やめてください。」はゴシック体]
そう文章は始まった。それに続く文章を読んだとき、由紀子はぐらりと部屋が歪《ゆが》んだような気がした。それでも眼は粟粒《あわつぶ》のようなその文字から離れなかった。離すことが出来なくなっていた。
[#ここからゴシック体]
なぜ生きる事ができなくなるのか知ってます。知らされました。その記憶にアクセスしやすい宇宙人といやでも縁ができるということです。見てましたから本当です。深いところ肝心超越を毒想念から逃れることです。プレアデス系地獄を見てましたから。頭の中である電気魂が発想を転換しなければ。肉体が完全に向こうの肝心魂の転移です。やめてください。気をつけないとフレッシュ危ないですから危機ですから。宇宙人ペースになる前ですからやめてください。魂頭くじられます。肝心地獄なる前の危機です。だから警告あります。やめてください。最大の魅惑でも疑問です。やめてください。
[#ここでゴシック体終わり]
それ以上読めなかった。激しくこめかみの辺りが痛みだした。手紙や封筒を入れてあった紙袋に入れ、由紀子は部屋をそのままに飛び出した。
駅へと向かう道を歩きながら考える。
あの手紙を出したのも久子なのか。
久子が手紙を書いたのかどうかはわからない。あの字は由紀子の知っている久子の字とは異なっていた。だが誰が書いたにしろ、それはいったん久子の手に渡っていたのだ。
電話を通じて久子とジャムは由紀子のことを話していた。手紙はジャムの書いたものかもしれない。
何が起こっているのか。
ごく普通にあるもの、毎日飽きるほど見ている風景、親しい友人、たんに今見えている、感じているそれら。それらの〈現実〉という表皮がぴりぴりと剥《は》がれ落ちていくような気がした。そのどれもが不安をかき立て、大気さえも得体の知れぬ澱《よど》んだ毒に変じたような気がして、由紀子は呼吸が苦しくなってきた。
――気づいたのかな。
後ろで声がして由紀子は振り向いた。何でもない。そこでは若い男が携帯電話で誰かと喋《しやべ》っているだけだった。
――馬鹿だから気がつかないとは思うけどさ。
男は視線に気づいたのか、後ろを向いてなおも話し続けていた。いったん気になると、携帯電話で話している人間の数が異常に多いような気がしてきた。
本当にさっきの若い男は自分とは関係がないのか。彼もまた電話で由紀子のことを話している一人なのではないのか。
妙子のいうUFOカルトのようなものが由紀子の周囲を取り巻き、魚を絡め捕る網のようにその包囲を狭めてきているような気がした。相互に連絡を取り合う彼らの発する電波が、脳の中にじくじくと染みいって頭痛を引き起こすのではないか、とも思った。
陽炎《かげろう》のように景色がゆらめいた。ひどくなる一方の頭痛が頭を締めつけ、今にも頭蓋《ずがい》が破裂しそうだった。
ぐるうり、と景色が回転する。靴の底はソファーの上を歩くように不安定だ。
それからどのように帰ったか、由紀子は覚えていない。気がつけば夕食の支度を始めていた。
帰る途中で迎えに行ったのか、あるいは一人で帰ってきたのか、毅が後ろでテレビを見ていた。
テレビでは連続絞殺魔のニュースを報じていた。新しい犠牲者が発見されたのだ。
毅はわざとこんな番組を見て、私に意地悪しているのだと由紀子は思った。腹が立った。無神経だと思った。テレビを消そうと思い、由紀子は毅に近づいた。その時、鈍い破裂音がしてブラウン管は真っ暗になった。
「あれ」
毅が驚いて立ち上がった。
お母さん、と振り向きそこに立っている由紀子を見つけた。
「お母さん、テレビが壊れちゃった」
不思議そうな顔で毅はそういった。蛍光灯がチック症のように瞬き始めた。
再び頭痛がして、また記憶が途切れた。
気がつくと由紀子はベッドに横たわっていた。いつも眠っている部屋ではない。白いタイル張りの小さな部屋の中で由紀子は寝かされていた。しかも全裸だった。
すぐそばに、銀灰色の皮膚を持った人間が立っていた。全裸だ。そのどこにも性的な特徴はなかったが、何故か由紀子にはそれが女性、それも長い年月を生きた女性に見えた。
天井が低いのか彼女の身長が高いのか、頭の先が天井に触れていた。
彼女の後ろにも、由紀子を見つめるものがいた。それは人ではなかった。巨大な黒い蜘蛛《くも》だった。真っ黒な脚で壁にしがみつき、表情のないガラスの眼で由紀子を見ている。その一本の脚の先。鉤状《かぎじよう》になった爪《つめ》が掴《つか》んでいるものは、いつか金縛りになったとき、胸の上に載っていた奇妙な機械だった。
それはアコーディオンか、あるいは旧式の英文タイプライターに似ていた。錆色《さびいろ》の金属部分は濡《ぬ》れているのかぬめぬめと光っていた。その機械には昆虫のような六本の脚があった。
身体がだるかった。筋肉が伸び切ったゴムに変わったようだ。指一本動かすのにも気力を振り絞らなければならない。
銀灰色の人はじっと由紀子を見降ろしていた。真っ黒な眼だ。白目がない。
――あなたには毒想念を感知でき、さらには発することが出来る装置が必要でしょう。
その人物がそういったように聞こえた。しかしその人物は口を動かしていなかった。それどころか口らしきものがなかった。何かで覆っているのかそれとも元から口がないのか、由紀子にはその区別がつかなかった。その声は少し由紀子を落ち着かせた。慈しみとでもいうような感情をその〈声〉から感じとったからだ。何か懐かしさを感じさせる〈声〉だった。
――あなたの必要なものを取りつけましょうか。
蜘蛛が彼女を見た。彼女も額をつけるように頭を近づけて蜘蛛を見る。まるで何かを囁《ささや》きあってでもいるようだ。そして機械が蜘蛛から彼女へと渡った。
銀灰色の人は、由紀子の胸の上にその機械を載せた。尖《とが》った脚の先がしっかりと由紀子の脇腹《わきばら》を掴んだ。
痛い!
そう声を上げたつもりだったが、口は開かず、舌も動かなかった。
――痛いですか?
その人物が言ったような気がしたので、由紀子は大きく何度もうなずいた。だが銀灰色の人はじっと由紀子を見降ろしているだけだった。
その人物以外にも、由紀子の周囲を何人もの人間が慌ただしく動いているようだった。それらは、最後にはバターになった虎のように、由紀子の周りをぐるぐると回っている。
由紀子に恐れはなかった。しかし不快だった。胸の上を歩く機械はちくちくと肌を刺し、倦怠感《けんたいかん》に息をするのも辛《つら》かった。熱があるようだった。身体《からだ》のすべての感覚が鬱陶《うつとう》しくてたまらなかった。汗をびっしょりとかいている。周りを回っていた何者かが、時折思いついたように、べとべとする布巾《ふきん》のようなもので汗を拭《ぬぐ》った。砂糖水を塗られたように不快さが増すだけだった。
キリキリと音をたてているのは胸の上の機械だ。尖った顎《あご》や牙《きば》のようなものを、由紀子の鎖骨の辺りに突き立てている。鈍痛があった。麻酔をかけて歯を抜いているような感覚だ。
止めて。
そう叫んだつもりだったが、やはり声を出すことは出来なかった。頭の中に白く靄《もや》がかかったように意識が薄れた。それで終わりだった。
次に眼が覚めたときには、由紀子はパジャマに着替えて自分のベッドの上で横になっていた。パジャマは汗を吸って重かった。
時計を見ると朝の五時を回っていた。
胸の上に鈍痛があった。パジャマをめくってみると、鎖骨の下辺りに桃色の傷が横に一直線に走っていた。まるで古い火傷《やけど》の跡のような傷だったが、そんな傷は昨日まで由紀子にはなかった。
頭の中は混乱したままだった。こめかみから眉間《みけん》にかけて、痺《しび》れるような痛みがあった。考えをまとめることが出来ないまま、由紀子はベッドから出た。
何かが床に落ちた。
それは久子の部屋で見つけた、あの紙袋だった。中から『レビアタンの顎《あぎと》』が飛び出していた。両眼を押さえた男の写真が、その掌《てのひら》の向こうから睨《にら》みつけているような気がした。
[#改ページ]
[#地付き]1980年 4月 ニューデリー
男は天井でゆるゆると回る扇風機を眺めていた。頭が痛かった。昨日の夜遅く、カルカッタからここデリーに帰って来た時、近くのチャイ屋でバング・ラッシーを飲んだのだ。ヨーグルトに、すり潰《つぶ》したマリファナを混ぜたこれを飲んでから後のことは覚えていない。
気がついたらホテルのベッドの上だった。
男はベッドから躰《からだ》を起こした。枕代《まくらが》わりにしていたリュックからアスピリンを取りだし、水無しで二錠|呑《の》む。
宇宙で最も邪悪な場所、などと言われるカルカッタに行ったのは、香港で仕入れたIBMのラップトップ・コンピューターを売り捌《さば》くためだ。ラップトップ・コンピューターは今一番の人気商品で、一台売れば二、三年インドに居られるだけの金が手に入る。男は昨日それを三台売ってきた。だからこそ汽車は一等で帰り、雑魚寝《ざこね》ホテルでホモのフランス人に躰を撫《な》でられたり、アラブ人にわけのわからない電気製品を売りつけられることなく、一人でシャワー付きの部屋で眠れたわけだ。
男がインドで暮らすようになって八年になる。日本人観光客のガイドやブラックマーケットの仲介、麻薬の売人まがいのことまでした。どうしてそんなことまでしてここにいるのか。知り合いにそう聞かれることもある。自分自身でそう問いかけることもある。結論が出るわけではない。
九年前までは日本の外国語大学でヒンドゥー語を学ぶ大学院生だった。海外研修と称して何度もインドに出向き、帰ってこなくなった。それだけのことだ。インドが好きか、と聞かれたら首を横に振るだろう。だが嫌いではない。男が嫌ったのは日本だ。あるいは日本に代表される日常というものだ。
三十歳に近づくにつれ、その日常が恋しく思えるようになってきた。不安もある。それは捨てたはずのものだ。それと決別したことに誇りさえ持っていたはずの自分が、失ったものの大きさに慄《おのの》いている。そんな自分に対する嫌悪感は腫瘍《しゆよう》のように、日増しに増殖していった。俺《おれ》は最低の男だ。それが自己|憐憫《れんびん》であることは判っていても、時候の挨拶《あいさつ》を口にするように、そう呟《つぶや》いている。この国は酒よりマリファナや阿片《アヘン》を手に入れやすい国だった。男がドラッグの力を借りるようになったのは二年前のことだ。
ノックの音がした。男はのそりとベッドから腰を上げ、ドアを開いた。
「私はこういう者です」
名刺をいきなり差し出された。名刺にはただ笈野宿禰とだけ書かれてあった。肩書きはない。
「仕事の依頼ですよ」
言いながら笈野は男を押し退けるように中に入り、勝手に椅子《いす》に腰掛けた。傲慢《ごうまん》な態度だった。人の上に立ち、人に命令するのに慣れた者の態度だった。
幾つなのか見当もつかない人物だ。肌のつやは二十代の青年のようだが、他を圧倒する威厳は若者のものとは思えない。
「ガンダルヴァをご存じですね」
笈野は言った。
「チベット国境近くにある小さな町でしょ。確かウッタル・ブラデーシュ州の北部だ」
「そこに案内して欲しい」
「それは無理だ」
男は即座に答えた。
「あそこは今封鎖されていて入れない」
「私なら入ることができる。その資格が私にはある」
笈野は笑顔でそう言った。
それから数日後には、男は金につられて笈野の話にのったことを後悔し始めていた。笈野が帰ってから、彼は古新聞をひっくり返してガンダルヴァのことを調べた。そして彼が知ったのはガンダルヴァに入ることは不可能だということだった。
ガンダルヴァは自治権の獲得をインド政府に訴えていた。
二百以上もの言語と、それに増して存在する民族。ヒンドゥー教やイスラム教、シーク教とこれまた数多くある宗教。もともとインドが一つの国家として存在できていることの方が不思議だ。事実インドが一つの国となったのは十八世紀初め、ムガル朝がインド亜大陸を征服した時以降だ。インドという国家は、イスラム勢力やイギリスの支配に対抗する概念として生まれたといってもいいだろう。だがそれでも、インドを一つの国として成立させるものがあったことは間違いない。それはヒンドゥー的としか言いようのない、インド亜大陸全土を覆う精神性だった。だが英国からの独立以後インドに押し寄せる近代化という姿のない侵略者は、〈ヒンドゥー的なるもの〉を少しずつ浸食し、削り取り、ばらばらに砕いていった。するとそこに残ったのは無数の民族、言語、宗教だけだった。イスラム原理主義にならってインド原理主義と呼ばれる運動がこの国で興ったのも当然といえるだろう。そのため宗教暴動《コミツシヨナル・ライオツト》や過激派のテロ、民族運動家によるコート・アレストや経済封鎖と、インドは幾つもの揉《も》め事をその懐に抱え込んでいた。そのひとつがこのガンダルヴァの独立運動だった。
ガンダルヴァは小さな農村であり、パンジャブ平原のように緑の革命を実現し、豊かな農地を手にいれているわけでもない。それは本当にただの貧しいインドの農村でしかなかったのだ。それが突如、自治権の獲得を訴えたのだ。初めは政府も相手にしていなかった。だが小規模ながらも本格的な軍隊が組織され、線路爆破、道路封鎖と、強行手段で外部からの進入を拒むに及んで、政府も本腰で取りかからざるを得なくなった。今や軍の介入も間近と言われている。そうなればひとたまりもないだろう。その後ならいくらでも彼《か》の地を訪れることができる。しかし一触即発の今、ガンダルヴァに入ることは不可能だ。
だがそれを説明したところで、今更笈野が引き下がるとは思えなかったし、男にしたところで笈野の提示した報酬を見逃すつもりはなかった。だから男は笈野をガンダルヴァまでは案内するつもりだった。それで彼の仕事は終わり。そこまでいけば、笈野も映画の中の特殊工作員でもない限り中に進入することが出来ないことを理解できるだろう。そこで揉めないためにも、せめて半額は前金として貰《もら》っておくべきだ。
そのための説得の言葉を考えながら、男はニューデリーのホテルのロビーにやってきた。アメリカンスタイルの超近代的なこのホテルは二年前に建てられた。オールドデリーと違い、ニューデリーはもともと都市計画に基づいて造られた新しい都市だ。いわゆる『インド的な猥雑《わいざつ》さ』はほとんどない。
笈野が来た。
英国製であろう、見るからに高級そうなスーツを隙《すき》なく着こなしている。男は挨拶もそこそこに前金の話を持ち出した。『金に汚く姑息《こそく》な現地ガイド』という自虐的なイメージを演じる癖が身についてしまっていた。笈野は相手を余計に不安にさせる笑みを浮かべて、前金で全額支払うことをあっさりと約束した。
「何度も言うようですが、ガンダルヴァに入ることはどう考えても不可能ですよ。それでもいいんですね」
商談を終え立ち上がろうとした笈野に男は言った。商売人としてのなけなしの良心からだった。
「私はあそこへ行かなければならないんですよ。彼らに呼ばれたのでね」
「奴《やつ》らに援助でもするつもりですか」
それにしてもそこまで足を運ぶ必要はない。
「あなたは非時香菓《ときじくのかぐのこのみ》をご存じですか」
笈野は唐突にそう言った。
男は素っ気無く首を横に振った。
「永久に香り続ける果実という名を持ったこれは橘《たちばな》のことです。橘は万葉集をはじめ様々な和歌に詠まれています。『さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖《そで》の香ぞする』これは古今和歌集にある歌でね、五月を待って橘の香りを嗅《か》ぐと昔の恋人を思い出すというような内容です。橘を詠《うた》った句のいずれもがその香りで昔の恋人を思い出すという内容です。嗅覚《きゆうかく》は過去を鮮明に思い出させてくれる。それに」
笈野は宙空を見つめながら言った。
「失われた記憶もね」
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第四章 羅《ら》 国《こく》
1
数日かかって久子の部屋の整理を済ませた。最近の仕事関係の書類はすべて笠井に渡した。雑貨類は人目に触れさせるのが久子への冒涜《ぼうとく》のように思え、由紀子はすべてをゴミ袋に詰めて捨てた。書物はまとめて古書店に売却、預金通帳やはんこと一緒にその金も弟の満の家へ送った。
マンションをすべて片づけ終わってから、由紀子は家に持ち帰った紙袋を調べ始めた。それまでにも調べる時間がなかったわけではないのだが、何かそれを調べることが恐ろしく、だらだらと引き延ばしてきたのだった。
中に入っていたものは本が二冊。『レビアタンの顎《あぎと》』と『明日の人類』。『季刊ニュー・オーダー』という雑誌が数カ月分。後はちらしが数枚とコピーされた何かの名簿。そして三冊の大学ノートだった。『明日の人類』も『季刊ニュー・オーダー』も、出版社は未来開発出版というところだった。ちらしもまた未来開発出版が後援する未来開発セミナーのお知らせだった。コピーはそのセミナーの参加者名簿のようだった。
ノートは久子の編集ノートのようなもので、実際にネタになるならないを別にして、彼女が興味を持ったものを調べてメモにしていた。その内容は多岐にわたっているが、一年ほど前からそれが一つのものに絞り込まれている。
最初に久子がそれに気づいたのは、友人や知人たちと、何かつきあい辛《づら》さを感じ始めたからだったようだ。どこが、とははっきり言えないが、彼ら彼女らの人格に変化があったような気がしたらしい。簡単に言えば異様なほど己れに自信を持っている人が増えた。それはある種の優越感で、時には他人を見下したような態度ともなって現れる。久子はそのような人たちを一言「薄気味が悪い」と評していた。
やがて久子は、その優越感の根拠が新興宗教やUFO、超能力やオカルト等に対する知識から来ているらしいことを知る。そしてその人たちの間で話題になっている『レビアタンの顎』に注目し、それについて調べ始めた。
『レビアタンの顎』の出版社は未来開発出版。この出版社が主催し、定期的に未来開発セミナーというものを開いていた。これは基本的には『レビアタンの顎』の教えを広めようという一種の啓蒙運動《けいもううんどう》で、何度か講師に『レビアタンの顎』の著者、つまりは〈パリのジャック〉笈野宿禰を呼んだりしている。
未来開発出版というのは、笈野を中心とした一種の宗教活動を行っている。
久子はそうメモしていた。
久子はさらに未来開発出版の親会社を調べ出してきている。それはアロマ・ラボという香料などの研究開発をしている会社で、これまたさらに大手の化粧品会社の下請けの会社であった。
アロマ・ラボは由紀子のマンションからさして離れていないところにあり、その関係からか、未来開発セミナーもマンションの近くの公民館で開催されていた。
ノートの記述は、この辺りから少しずつ奇怪なものへと変貌《へんぼう》していく。それを客観的に見るのなら、久子が病んでいく過程と考えることが出来るだろう。
会社のデスクの下で動き回っている腎臓《じんぞう》に似た生き物。喫茶店の中で見た、濡《ぬ》れた黒く長い髪をスパゲッティのように食べている女性。不気味ないたずら電話。ベランダで大量に死んでいた蠅。
いくつかの体験は由紀子とも似通っていた。
夜毎に部屋を訪れる怪物。上階から聞こえる怪音。しかも久子が文句を言いにいくと、その部屋の人は引っ越していて、今は誰も住んでいなかった。
それらをあえて妄想とするのなら、それが久子に与えた結果が、ノートに書かれた文字の筆跡だ。文字はどんどん小さくなり、改行や句読点が消え、偏執的に頁を埋め尽くそうとすることだけを目的に書き連ねているような文章になってくる。
それはあの手紙そっくりの文字だった。あの不可解な手紙を書いたのは、間違いなく久子のようだった。
途中から文中に由紀子の名前が頻繁に出てくるようになる。名前が初めて出てくるのは、電車の中で偶然(彼女によれば必然なのだが)出会うことになった少年、ジャムの言葉だ。
「星の人に知らされた。八辻由紀子を守らなければならない」
久子はその言葉を天啓として感じとったようだった。久子はジャムに諭される。誤った道を歩いていると。そして久子は由紀子に対して罪悪感を抱く。つまり久子は由紀子に何か「申し訳なく思う」何事かをしていたというのだ。由紀子にその覚えはない。
その時にはすでに久子はまともな思考が出来なくなっていたようだ。以上の内容に関しても、そう言っているようだ、という程度のものでしかない。久子は由紀子に何をしたのか。何故《なぜ》由紀子を守らなければならないのか。何から守らなければならないのか。それを久子の文章からくみとるのは不可能に近かった。
その間に何度か由紀子は久子と会っていた。その時のことも久子はメモに記していた。
[#ここからゴシック体]
――私は右眼を閉じてからナプキンで唇の左端を拭《ぬぐ》った。つまりこれは毒想念に気をつけなければならないの意味だ。そうするとうなずくのは八辻だ。通信は成功した。
つまり、久子は暗号で由紀子に危機を知らせようとしていたのだ。口外すれば瞬く間に異星人に溶かされてしまうと彼女は恐れていた。由紀子に出した手紙は、なかなか思ったような返事を得られなかった久子が危機を知らせようとした必死の試みだったようだ。
精神的に追い込まれていながら、彼女は会社に通い続けていた。その間に由紀子も何度か会っている。それなのにまったく久子の異常には気づいていなかった。頭の中で妄想を膨れ上がらせながらも、彼女はおくびにもそのことを現そうとはしなかった。平静を装おうと努力していたのだ。そうでなければ異星人に始末されると考えていたから。その努力は、久子が妄想に押し潰《つぶ》されるあの日まで続いた。
――頭に直接ぶつかってくる毒はアルミホイルで防げるのだけれど耳や鼻や肛門《こうもん》や膣《ちつ》から毒想念が流れ込んでくるのを止めるのは難しい。身体《からだ》が溶けそうだ。溶ければ鳩の餌《えさ》となり、奴らの思うがままだ。その前に何もかも機能するのを止めてしまおう。彼女のためにも、そしてみんなのためにも。
[#ここでゴシック体終わり]
これがノートの最後の記述だった。
由紀子はノートを閉じた。
読み始めてすぐに頭痛が始まっていた。それが今では、鉄の輪で頭を締めつけられるような痛みになっていた。粘る汗が全身に滲《にじ》んで不快だった。
私は何故最後の日まで久子のことに気づかなかったのか。
由紀子は奥歯を噛《か》みしめ、ノートをじっと見つめた。
私に異変が起こり始める前に、すでに久子は精神に変調をきたしていたのだ。あの時気づいておれば、私なら久子の死を止めることが出来たのではないか。それが事実なら悔やんでも悔やみきれない。その報いとして今の私の苦しみがあるのではないか。身体の不調、電話の故障、奇怪な悪夢、異様な隣人の態度、UFOや私の妄想の数々。これらがすべて報いであるのなら、仕方のないことかもしれない。
いや、それだけで私は許されるのだろうか。ただそれだけの苦痛で、私の犯した過ちが許されるというのだろうか。苦しみ抜いて死んでいった久子への責任を、それで終えたといえるのだろうか。
由紀子はじっとノートを見つめていた。そこに久子の姿が見えた。アルミ箔を頭に巻き、鼻や耳に綿を詰め、無念の思いで由紀子を睨《にら》みつけている久子の顔が。
由紀子は無意識に自らの腕に爪《つめ》を立てて掴《つか》んでいた。その痛みが由紀子には心地好かった。
そうだ。よりいっそうの苦痛が私には必要だ。より大きな苦痛。久子の死を贖《あがな》うだけの苦痛。それこそが久子の遺志にそった行動ではないのか。
由紀子はふらふらと台所に向かった。流し台の下の扉を開け、出刃包丁を取り出す。
よく切れる包丁だ。切れ味が鈍ると心まで鈍ったような気がして、由紀子はいつも自分で包丁を研いでいた。
いつものように砥石《といし》で包丁を研ぎ始めた。
しゃっ、しゃっ、と聞こえる音が、指先から頭の中に染みいってくるようだった。その音を聞いていると、自らが思いついた結論の正しさが実感できた。唇が緩み、由紀子はついつい笑ってしまっていた。
毅が学校から戻ってきた時も由紀子は笑いながら包丁を研いでいた。
「お母さん、ただいま」
後ろで毅の声がした。
一人だけ残していくのは不憫《ふびん》だから……。
由紀子は振り向いた。
「お帰り」
その手に包丁は握られたままだ。
「ねえ、毅。お母さん面白いことを考えたんだ」
「何?」
毅は期待に眼を輝かせる。母親の考える〈面白い〉ことがつまらなかったことなど今まで一度もなかった。
「あのね……」
由紀子は毅に一歩近づいた。
ドア・チャイムが鳴った。
毅がボタンを押す。
『お姉ちゃん、私』
妙子だった。
「今開けます」
毅は嬉《うれ》しそうに答えた。毅は妙子によく懐いていた。それに彼女が必ずお土産を持ってくることも知っていた。
毅はオートロックを解いた。
一階からここまで来るのにしばらく間がある。それだけあれば仕事は済むだろう。
由紀子は手招きした。
「毅、こっちにおいで」
「うん、ちょっと、待ってね。玄関開けとくから」
「そんなこと後でいいのよ」
由紀子は微笑《ほほえ》みながら毅の後を追った。毅は玄関のチェーンをはずし、鍵《かぎ》を開ける。
「毅」
由紀子は包丁を振りかぶった。
毅は扉の覗《のぞ》き穴から廊下を見ている。
「来た! やっぱりケーキ持ってる」
毅が扉を開くのと、包丁が振り降ろされるのはほぼ同時だった。
毅を挟んで、由紀子の眼の前に妙子が立っていた。その笑顔が凍りつく。
「お姉ちゃん!」
妙子の手が由紀子の手首を掴んだ。と、気がつけば由紀子は廊下に出て二、三歩たたらを踏んでいた。何が起こったのか由紀子には理解出来なかった。その手に、包丁はなかった。
妙子が困った顔で由紀子を見ていた。包丁は妙子の手に移っていた。
「お母さん、どうしたの」
毅が妙子の後ろから顔を出した。毅にも何が起こったのかわからなかったようだ。
妙子はすたすたと由紀子に近づき、抱き締めた。その耳元で小さく囁《ささや》く。
「何があったの」
由紀子は妙子の肩越しに、心配そうな顔の毅を見ていた。軽く抱き締められているだけなのに、身動きが出来なかった。後ろに回した手が、いつの間にか妙子にねじられていた。
「ねえ、由紀子お姉ちゃん。何があったのよ」
妙子はもう一度尋ねた。
「……わからない」
由紀子の身体から力が抜けていった。
2
毅は黙って妙子の持ってきたケーキを食べ終わると、大人しく勉強部屋に入った。何かが起こったことを察してはいるが、まさか母親に殺されかかったとは思っていないだろう。
悪いけど、と断って由紀子は夕食の支度を始めた。一緒に外食するつもりで来たんだけど、という妙子に、何か普通のことをやってないとおかしくなりそうなの、と由紀子は答えた。
「もう大丈夫?」
「大丈夫よ。いきなり包丁を持って暴れ出したりしないから」
自虐的に笑う由紀子が、妙子には痛々しかった。
「一体何があったの」
由紀子は久子の残した茶封筒をもってきて、それを調べ始めた時からのことをひととおり説明した。
「久子の死を止められなかったことに罪悪感を感じていたのは事実。でも、それで自殺しようとは考えていなかったし、まして毅を道連れになんて……」
由紀子は声をひそめた。
「不思議なのは、久子さんに起こったことと、同じようなことが由紀子姉ちゃんにも起こってることね」
「そう、まるで久子から私に伝染したみたいに」
「それのどこまでが幻覚でどこまでが真実なんだろう」
「……妙子はただの幻覚だと思う?」
「私にはわからない。でも……そうね。たとえば久子さんが喫茶店で髪の毛を食べる女を見ているでしょ。それを他の誰もが普通に見ていたのなら、それは幻覚の可能性が高いと思うわ」
「これは……病気なの? 私はおかしくなってしまったの?」
「かもしれないわね。たとえば精神に異常をきたす伝染病だとか」
「そんなものがあるの?」
「たとえばの話よ」
妙子は笑いながら言った。
「笑い事じゃないわ」
「御免、お姉ちゃん。別にお姉ちゃんのことを笑ったわけじゃないんだよ」
妙子はうつむき、しばらくテーブルの上に並べられた久子の残した資料を見ていた。
「あのさ、久子さんは未来開発出版とかアロマ・ラボとかを調べてたわけだよね。で、それは友達の様子がおかしくなったことに気がついたから……。久子さんは人格が変わったとか薄気味悪いとか書いてるけど」
「そうね。もし、久子が病気だったとするのなら、それが最初の兆候ってことになるけど……」
「けど、そうじゃなかったら」
「友人たちというのが未来開発セミナーに参加して洗脳されたとか」
「有り得ない話じゃないでしょ」
「そうね、久子も宗教の啓蒙《けいもう》のようだって書いてるから」
「もしそうなら、久子さんはそいつらに薬か何か使っておかしくされたってことないかなあ」
「……すべてが未来開発出版の仕業ってこと?」
「あるいはアロマ・ラボの。それから、今話してて、おかしなことに気づいたの。久子さんの遺書をお姉ちゃんは見たの」
「いいえ」
結局満は由紀子に遺書を見せなかった。
「それにはこれみたいに」妙子は久子の手紙を持って、眼の前でひらひらさせた。「おかしな文章が書いてあったって、そう思わない?」
「そうね……。弟さんもそんなことを言っていたわ」
「それって遺書かしら」
「どういうこと」
「遺書じゃないかと思えただけで、それは遺書じゃないような気がするのよね」
「何が言いたいの?」
「ほら、ノートの最後の記述を見て」
妙子は久子のノートを開いて由紀子に見せた。
「最後の最後。最後の一行」
その前に何もかも機能するのを止めてしまおう。[#「その前に何もかも機能するのを止めてしまおう。」はゴシック体]
そこにはそう書かれてあった。
「機能を止めてしまおうっていうのを、死ぬってことだとすると、やはり自殺をほのめかした文章ってことになるでしょ。でもね、違うと思うんだなあ。久子さんは何かを調べてた。それは人に害を為《な》す何かの仕組みだった。それのおかげで久子さんは精神を病んでいった。でも久子さんはそれと戦おうとしていた。由紀子姉ちゃんのことまで心配している。そんな人のノートの最後が、今から死のうって言葉で締めくくられるかどうか」
妙子は唇をぎゅっと閉じ、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて言った。
「否、よ。機能を止めてしまおうっていうのは、害を為すシステムを止めてしまおうってこと。つまり何か実力行使に出るつもりだったのよ。そのために準備を調えて――あの綿やアルミホイルがそう――武器としてカッターナイフを持って」
「その時に殺されたってこと?」
妙子は大きく何度も頷《うなず》いた。
「だって久子さんは室内でダウンジャケットを着ていたのよ。しかもエアコンがきいた室内で。今からどこかに行くところだったと考えるのが普通です」
「でも、部屋は鍵《かぎ》がかかっていた。窓だってちゃんと閉まっていたらしいわ。他に入るところなんてなかったし、常識的に考えて――」
「常識的に考えられる事件だと、お姉ちゃん、そう思う?」
由紀子には返事が出来なかった。
「でしょう。久子さんは誰かに殺された。その方法はわからないけど。お姉ちゃん、これをそのままにしておくつもり?」
妙子は由紀子を見つめた。
「……そうね。久子に起こったことは私にも起こり得るんだから。毅のこともあるし。そうだ、私、今度、瀬能さんに会ってみるわ。私の身に起こったことを話して相談してみる」
「瀬能さんって、確か超常現象研究家の」
「そう」
「大丈夫?」
「大丈夫って……」
「その瀬能って人は信用できるの」
「大丈夫よ。怪しげなことをしているけど、まともな人よ。悪の秘密結社に乗り込むわけじゃないんだから」
「私、ついて行こうか」
「一人で行けるわ。何か自分から行動を起こしたいのよ。人任せじゃなくて。でも……もしよかったら、こんな狭い部屋だけど今晩泊まっていってくれないかな」
「怖いんでしょ、お姉さん」
「自分が何をするか、それが怖いの」
「それこそ大丈夫よ。もうさっきみたいなことは起こらないわ、絶対に」
妙子の自信に根拠などないのはわかっていたが、それでも由紀子は彼女の台詞《せりふ》に安心をおぼえた。
3
冷たい夜気に混ざって有機溶剤のにおいがする。
オフィスビルの屋上一面にペンキで描かれているのは細い四肢を持った頭の大きい人物。ツタのように金属パイプが絡まった空飛ぶ乗り物。同心円に配置された見たこともないような記号。
犬の轡《くつわ》のようなミストマスクをはずし、ジャムは息をついた。懐中電灯片手に、ようやく今絵が完成したのだ。
アパートを出てから、ずっと野宿を続けている。登山にも使えそうな大きなリュックに入っているのは家財道具一式、そしてグラフィティーのための道具類。エアロゾル・ペイント罐《かん》にカン・ガン、極太のマーカー各種。
街を取り囲むように十五箇所にペイントした。ジャムはそれによって敵の力を輪の中に封じ込めたつもりだった。
敵。
その存在に気がついたのは数年前のことだ。初めは同志だと思っていた。同じ言葉を使い同じような考えを持っている。だが違った。彼らはただひとりに奉仕するために動いていた。単なる人形だ。そうでなければ己れの変化の意味もわからず自滅していく奴《やつ》らばかり。
敵の傀儡《かいらい》はどんどん増殖している。日毎に敵の力は増していた。それをジャムは感じていた。感じていたが何もすることができなかった。
いったい何をすべきなのか。
それはシカノによって知らされた。
夜中、目覚めたジャムはベッドの横にたっている人物を見た。銀灰色の肌をしたそれが女であること、しかも年老いた女であることをジャムは直観した。
――怯《おび》えるな。
彼女はジャムの頭の中に直接言葉を伝えてきた。彼女の背後には、まるで黒い後光ででもあるかのような巨大な蜘蛛《くも》がいた。
――ユキコを守れ。街を守れ。
寒い夜に風呂《ふろ》に入ったように、彼女の喋《しやべ》る言葉の意味がじわじわと暖かみとなってジャムの体にしみ入ってきた。
電車の中で久子と出会ったのはその直後だった。シカノに導かれて出会ったのだ。久子は敵の存在に怯えていた。ジャムと違って、彼女は直接敵と出会っていた。その影響も大きく受けている。ジャムは敵と戦う方法を教え、そして久子から由紀子を紹介してもらった。
久子の死を知った時、ジャムはすでにアパートを出ていた。出てからずっと、敵の力を封じるため、街に絵を描き続けている。
ジャムは大の字になって横たわった。
ジャケット越しにコンクリートの冷たさが背中に伝わる。
押し潰《つぶ》したような歪《いびつ》な月が浮かんでいる。星の数はわずかだ。
雲が月をゆっくりと黒く染めていく。
雨でも降るのか、と思うとジャムは憂鬱《ゆううつ》な気持ちになった。今ジャムが根城にしている高架下は、雨が降ると水がたまるのだ。
月が再び出てきた。
ジャムはそれを見て、初めはそう思った。
食品会社の広告塔の上に、オレンジの光点があった。それは上昇し、それから不意にジグザグに降下した。
来た!
ジャムは飛びおき、道具類をリュックに詰めると非常階段に急いだ。
眼の前の空間がゆらめいた。
その向こうに見える扉が、水の底から空を見上げるように揺らいでいた。
ジャムは舌打ちし、そのままの勢いで扉に向かって走った。
まるで泥濘《ぬかるみ》の中に飛び込んだような感触だった。大気が水飴《みずあめ》となって、ゆらめく空間がジャムの身体《からだ》を絡め取った。いくらもがいても夢の中の逃走のように身体の自由が利かない。
ジャムを捕らえた大気は、少しずつその形を整えていく。ちろちろと輝きながら、それは泥水のような色に変化していった。
気がつけばジャムは、後ろから羽交い締めにされ、その喉《のど》には細いがしなやかな腕が巻きついていた。
後ろから夢見るような呟《つぶや》き声が聞こえた。
「僕はシカバネの星に行かなければならないんだ。それには君が邪魔だって、神様に教えてもらったんだ。だから……」
首にまわされた腕に、さらに力が込められた。
必死でもがくうちに、ジャムの右腕が自由になった。身体をひねり、後ろの人物の頭を掴《つか》もうとした。
男は顔にビニールテープを幾重にも巻きつけていた。伸ばした手は、そのツルツルとしたテープの感触を感じただけだった。さらに腕を伸ばすと、男の頭の耳の辺りに大きな瘤《こぶ》のようなものがあるのがわかった。ジャムはそれを掴んだ。
膝《ひざ》を曲げ身体を落とす。身体をひねり、相手の頭を掴んだまま斜め前に回転するようにジャムは倒れた。
男を投げ飛ばすことは出来なかったが、バランスを崩した男は背中から床に打ちつけられた。
その上にジャムの身体がのしかかる。
首を絞める腕の力が緩んだ。
ジャムは腕を振りほどき跳ね起きた。
男はそこを打ったのか、左肩を押さえながら立ち上がった。
「逃げられないよ」
緊迫した雰囲気と関係なく、男はのんびりした声で言った。
「だって、僕は神様の使いなんだからね」
「残念だね」
ジャムは手にした懐中電灯を握り直した。
「僕にも星の人がついている。君の神様だって恐れている星の人たちがね」
ジャムは懐中電灯で男の顔を照らした。
眩《まぶ》しさに男は手をかざした。
すかさずジャムは頭から男に突っ込んでいった。
ジャムの頭頂部が男の顎《あご》に音をたててぶつかった。
しかも同時に、片足で男の爪先《つまさき》を踏んでいた。
たまらず男が後ろに倒れる。
ジャムは横たわった男の、携帯電話を張りつけた頭を蹴《け》ろうとした。
だがその動きは男に読まれていた。
男は蹴り上げるジャムの足首を掴んだ。その勢いのまま持ち上げる。
ジャムは受け身も出来ず、後頭部をコンクリートの床に打ちつけた。
思わずジャムは頭を抱えて、胎児のような姿勢になった。
その背中を、男の重たい靴が蹴る。
ジャムが悲鳴を上げた。
「ほらね。逃げられないだろ」
男はジャムの髪の毛を掴み、頭を持ち上げる。
もう片方の手が、頭を鷲掴《わしづか》みにした。手はジャムの頭右半分を覆っていた。それほど大きな手の持ち主ではなかったはずだ、とジャムは思った。
「もう終わりだよ。つまらないね」
男が腕に力を込めた。爪が頭皮に食い込んだ。
人間ばなれした力だった。
頭蓋《ずがい》がみしみしと音をたてた。
「おまえ……」
何かを言いかけたジャムの頭が、叩《たた》き潰《つぶ》したスイカのように割れた。
脳漿《のうしよう》と鮮血と骨片が散った。
ジャムの瞳《ひとみ》は目蓋《まぶた》の裏にはね上がり、両手足が勝手に踊りだした。
男は笑った。腹を抱え、大声で笑った。
笑い終わるとジャムの身体を投げ捨てた。濡《ぬ》れたシャツのようにジャムの身体は地面に崩れた。
男は一礼し、現れた時と同様に大気の中に溶け込んで消えていった。
4
午前二時を回っていた。明日のことを考えればもう眠った方が良いことはわかっていた。だが、由紀子は久子の残した資料を何度も読み返していた。
自分で解決できることは一つずつ解決していこう。由紀子はそう決意していた。
その決意は、未来開発セミナーの参加者名簿の中に福田節子という名前が載っているのを見た時にかたまった。隣の主婦は確かに節子という名前だったはずだ。そしてその下に岸里美の名があった。福田に連れていかれた喫茶店の女主人の名前だ。あの二人はこのセミナーに参加していた。いや、それだけではない。名簿に記された住所は町名までだけだったが、それは由紀子の住むこの街に集中していた。未来開発出版の雑誌『季刊ニュー・オーダー』の読者投稿欄にも福田の名前はあった。そしてセミナーの周囲を探っていた久子が死んだ。そして由紀子の母親のことを知っているような文章を残したジャム。彼も『レビアタンの顎《あぎと》』を読んでいた。すべての鍵《かぎ》は『レビアタンの顎』と、その作者笈野宿禰にある。
由紀子は久子が持っていた『レビアタンの顎』を手にした。
頁をめくってみる。文字を追うのをためらった。恐ろしかったのだ。それを読むことでさらに精神的に追い込まれるのではないかと思っていた。久子の最期を思いだし、毅に己れが何をしたかを考える。
時計を見ると午前二時三十分。
急に胃が痛むほどの空腹感をおぼえた。
本を置いて立ち上がり台所に向かう。
冷凍してあった一杯分のご飯を出して電子レンジで温め、由紀子は残り物と一緒に炒《いた》め出した。手抜きの焼き飯だが、独身時代はいつもお世話になっていたメニューだ。
焼き飯はすぐに出来上がった。
湯気を上げる焼き飯にスプーンを突っ込み、一口|頬張《ほおば》る。ところが口にするとおいしくもなんともない。食欲が急に失《う》せてしまったようだった。
皿に盛った砂を見るように、由紀子はぼんやりと焼き飯を眺めていた。
何が起こっているのだろう。
いつの間にか、焼き飯はすっかり冷めてしまっていた。
キッチンからベッドルームの扉が見える。何とはなしにその扉を見ていた。
少し扉が開いている。
開いた扉やカーテンが、自分でも神経質だなと思うぐらい気になった。
閉めようと立ち上がった。
すると扉はさらに開いた。その縁を何かが掴んでいる。
由紀子は目を細めてそれを凝視した。
指だ。細く長い指が三本、扉の縁を掴んでいる。
由紀子は動くことも出来ず、ただじっとその指を見つめていた。
扉が開いていく。その隙間《すきま》から、ぬっと身体が突き出た。それは腰から上だけ、異様な角度で扉から出てきた。
頭の位置がノブの辺りにある。
毅よりも、それは小さかった。
だがそれは、子供ではなかった。その身体は緑のゴムのような皮膚で包まれている。大きな頭は、何かに打ちつけられたようにへしゃげていた。
吊《つ》り上がった空洞のような眼が由紀子を見た。
V字型の笑っているような唇のない口が開く。
逃げろ。
声は聞こえなかったのに、由紀子にはそう言ったように感じられた。
それはじっと由紀子を見ていた。
どこかで見た顔だ。いや、こんな顔を見るはずがない。顔そのものではなく表情だ。人をじっと見つめながら、その人の後ろに広がる何かを見ているようなその眼に見覚えがある。気の弱さを押し隠した傲慢《ごうまん》さとでもいうようなその雰囲気。
そうだ。ジャムに似ている。
それに気づいた時、扉が大きな音をたてて閉まった。
由紀子はようやく我に返った。
扉は閉まっている。そこには誰もいない。由紀子は扉に近づき、思い切りよく開いた。辺りを見回すが誰もいなかった。暴漢に襲われた翌日に買った木刀を手にし、由紀子は室内を見回った。
何も見つからない。
今見たものは何か、由紀子は合理的な解釈を求めた。だが……。
妄想だ。
最終的な解答はそれだった。それ以外に考えられなかった。しかし心の底で、それが決して妄想でないと確信している自分があった。
逃げろ。
確かにそれは由紀子に向かってそう言った。それは声でなく、そのような意味が、直接頭の中に飛び込んできたのだ。
由紀子はゴミ袋に焼き飯を捨て、寝室に戻った。
そこに置いてある『レビアタンの顎』は、前ほどに恐ろしく感じなかった。今奇妙な体験をしたところだ。普通であれば、それまで以上に恐ろしくなってもおかしくない。しかしさっきまであったその本への怯《おび》えが失せていた。あの唐突な空腹感はその怯えから逃れるために感じたのだ。そう冷静に考えられるほどになっていた。
由紀子は改めて戦う決意をしていた。「逃げろ」という言葉がそれを決意させたのかもしれない。何を相手に戦うのか、それはわかっていない。だが由紀子や毅に害を為《な》す存在がいることは間違いない。それと決着をつけるまで逃げるつもりはなかった。一度逃げ出せば、死ぬまで逃げ続けなければならない。毅のためと、夫の暴力に耐えてきた数年。それは問題に立ち向かうことなく逃げていた数年だ。毅のためなどというのは方便で、実は自身に新しい生活を始める勇気がなかっただけだった。毅が夫の暴力で傷を負った時、そのことを思い知った。逃げ続けることに意味はない。
それなら、戦うべきなのだ。
由紀子は『レビアタンの顎』を手にした。ジャムから借りた本で、すでに第三章の半ばまで読んでいた。
すべての鍵はにおいだ。
続きはその言葉から始まった。
すべての鍵はにおいだ。
ヒトはすべてを言語化する。植物は光合成により二酸化炭素を酸素に換え、環境を変化させていく。そうすることで自らの棲《す》む場を整えていくのだ。そしてヒトは環境を言語化させ、その中で生きていく。宇宙に法則を見いだしたのではなく、宇宙に法則をつくりだしていく。それがヒトだ。
私は新しい嗅覚《きゆうかく》を得た。新しい知覚は新しい脳を生む。私は今言語化された世界の外にいる。
嗅覚は最も言語から離れたところにある知覚だ。だからこそ多くの民族において、ニオイを表現する語彙《ごい》が貧弱なのだ。例えば日本でも、同じ化学的な知覚である味覚と比べてニオイを表現する語彙は極端に少ない。ニオイを表現する言葉を多く持つ民族もあることはあるのだが、少なくとも近代化された国家に、ニオイを表現する豊かな言葉を持ったところは皆無だと言ってもいいだろう。
嗅覚こそが次代の人間を生むのである。
私の嗅覚は人の心をも嗅《か》ぎとる。悩みを持っているのか。悪想念に取り憑《つ》かれてはいないか。真実を探求する心はあるのか。そして何よりも私は、同志の存在をにおいで知ることができた。
同志。それは私と同じく選ばれた人間だ。あの時、あの瞬間、同じ体験をしたものたちのことだ。今まで数人の同志と出会ってきた。だが覚醒《かくせい》したものは少なかった。それどころか、多くはその力を失っていた。
だが失望することはなかった。
彼ら彼女らにしても、私の導きによって新世界の律動を感じとることができたのだ。私にはその力がある。
たとえあなたが私のような嗅覚を持っていなくても大丈夫。問題は私の知った新しいビジョンを理解できるかということだ。難しいことではない。私の話を聞き、考え、そして直観のままに行動すればいい。
それがまさしく次代に生きることを意味するのだ。
ここから彼が特異な嗅覚によって知ることが出来た世界の説明が始まる。この辺りから哲学、心理学、社会学、物理科学の用語が衒学《げんがく》的に鏤《ちりば》められ、さらには毒想念、星の人、魂など、笈野独特の造語や言葉の意味解釈が加えられ、かなり難解なわかりにくい文章になっていく。
そして最終章。笈野は嗅覚で知り得た「もう一つの世界」からの干渉で、近い将来世界的な改革が始まることを説く。
それは旧世界の崩壊であり、その屍《しかばね》の上に新しい秩序が打ち立てられるのだと。
レビアタンの顎《あぎと》とは、もう一つの世界からこの世界へと開かれた扉を意味する。その扉がもうすぐ開かれるのだと笈野は言う。
レビアタン、あるいはリバイアサンとは、聖書やユダヤ神話に登場する、とてつもなく巨大な怪魚のことで、しばしば鯨とも混同される。悪徳の街ソドムは、この怪魚に呑《の》まれて消え去る。
この怪魚が開いた口から、悪魔たちの出てくる図像が、十四世紀頃の木版画に多く見られる。そこではレビアタンの顎は地獄の門の象徴であり、地獄からこの世への扉を示す。
笈野が地獄と、彼の言う〈もう一つの世界〉を対比させるのは、旧世界にとってもう一つの世界の影響が、災厄でしかないからだ。
その時に生き残れるのは新しい人間。もう一つの世界に気づいた者たちだけだと、笈野は最後に熱弁をふるう。
この本の主張は、キリスト教|根本主義者《フアンダメンタリスト》たちが唱える最後の審判の話と同じで、脅し、すかし、信仰心を煽《あお》る方法にしか過ぎない。由紀子にはそうとしか思えなかった。
実質的には笈野が主宰しているという未来開発出版の季刊誌やセミナーは、新興宗教の勧誘でしかない。それが『レビアタンの顎』を読み終わった由紀子の結論だった。
ではこの笈野という男を教祖とした団体が、由紀子の敵なのだろうか。
それにしても、何故《なぜ》、という疑問は消えない。どうして彼らは由紀子を攻撃しなければならないのか。
時計を見る。
午前五時。
いくらなんでももう寝なければならない時間だった。
由紀子は本を閉じた。
5
毅と二人で夕食を始めようとしていた時だった。
テレビがつけっぱなしになっていた。食事しながらテレビを見ることは行儀が悪いと、小学校入学前は禁止していた。が、夕方に始まるアニメを見ていないと、学校での話題に取り残される、という話を由紀子は聞いた。すると今度は、そんなことが原因で毅が仲間外れにされるのでは、と悩み始めた。そして、結局はテレビを見ながらの夕食が日常となってしまっていた。
いつものアニメが終わって、ニュースが始まった。
どこかにやけた顔のアナウンサーが、ビルの屋上で殺されていた少年のことを報じていた。由紀子は毅に豆腐のハンバーグを切りわけながら聞いていた。少年は屋上にいたずら書きをしていた、という話が聞こえ、由紀子はテレビを見た。
被害者の少年の名は坂本|康宏《やすひろ》。
聞いた名前だった。
テレビ画面には、おそらく卒業アルバムに使われていたであろうモノクロの写真が大写しされていた。制服のブレザーを着て、はにかんだような顔で斜め下からカメラの方を見上げている気の弱そうな少年。
雰囲気は随分違うが、見間違うはずもない。
それはジャムだった。
ジャムは夜中にビルの屋上に忍び入り、そこに落書きをしている時に殺されたらしい。最近公共の場所に落書きをする事件が相次いでおり、それと今回の事件とが何らかの形で関係があるのではないかと、アナウンサーはついでのように話し、話題は次に移った。
それに合わせるように電話のベルが鳴った。
動揺した由紀子は大きな音をたて、フォークを皿の上に落とした。
不思議そうな顔で彼女を見る毅に、何でもないの、と笑顔を見せて電話に出た。
雑音がいつもよりひどい。
由紀子は受話器を押さえて、毅にテレビの音量を小さくしてくれと伝えた。
『……姉ちゃん。……こえる?』
妙子だった。
「どうしたの」
『大変なの……が、また聞こえたから……』
「ちょっと待って、雑音が入って聞き取りにくいのよ。もっと大きな声で、ゆっくり喋《しやべ》ってよ」
『……後で……行ってもいい……。緊急の……で』
「今日、今から来るって、そう言ってるの?」
『ええ、だから……』
「今から夕食を食べるところなの。それから後でいいかしら」
『毅君は……なの?』
「毅がどうしたって?」
『……わかった。じゃあ、何時頃そっちに行ったらいい?』
由紀子は適当な時間を告げて電話を切った。食べ終えた食器類を片づけていると、妙子が時間どおりにやってきた。
いつものように毅が玄関で出迎えた。
毅の顔を見ると、妙子は歓声をあげて毅を抱き締めた。
「よかったあ」
妙子の後ろから、どうも、といいながら徳永が顔を出した。
「やだなあ、妙子姉ちゃん。止めてよ」
毅は妙子の腕の中でもがいていた。
「そんなこと言ってたら、これあげないぞ」
妙子は紙袋をぶらぶらさせた。
「わあ! だから僕、妙子姉ちゃんが好きなんだ」
毅は妙子から紙袋を受け取ると、早速中身を覗《のぞ》いた。
「わああ! 昆虫図鑑だ」
「欲しいって言ってたから」
「お金だしたのは僕だから憶《おぼ》えておいてね」
妙子の肩から心霊写真のように顔を突き出して徳永は言った。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんにありがとうは?」
由紀子に言われ、毅はぺこりと頭を下げてありがとう、と言った。
「部屋に行って読んできたら? 今日はお姉さん、お母さんと大事な話があるの」
そう言って妙子は背中をぽんと叩《たた》いて毅を勉強部屋に追いやった。毅はスキップしそうな勢いで廊下を走っていく。
「いつも、御免ね」
「ううん。それよりも――」
「とにかく入って」
玄関先で話が始まりそうになったので、由紀子は妙子をダイニングに案内した。
「一体どうしたのよ」
由紀子はインスタントのコーヒーをいれながら尋ねた。
「聞いて欲しいものがあるの」
妙子がバッグからテープレコーダーを取り出してきた。
「また盗聴テープ?」
「とにかく聞いてよ。あれ以来、私この近くを通ることがあるときは必ず盗聴するようにしてたの。何か変化がないかって」
「相変わらず私の話題で持ち切りだった?」
出来るだけ気にしていない様子をつくり、由紀子は言った。
「そうなの。何回かに一回は由紀子姉ちゃんの話題が出てたわ。それでね、今日もこの近くを、ほら、駅前にケーキ屋があるでしょ」
「ノアル」
「そう、あそこのは生クリームがおいしいのよね。で、その行き帰りもイヤホン突っ込んで聞いてたの。そうしたら」
妙子はテープレコーダーのプレイボタンを押した。
ノイズに混ざって、男同士の会話が聞こえてきた。
――今度はヤツジの番かな。
――そりゃそうだよね。そろそろそう来なくちゃおかしいや。
――やっぱり攫《さら》われるのか。
――間違いないね。
――息子だろ。
――そうそう。
由紀子の顔色が変わった。コーヒーカップを持つ手が止まる。
会話は女の声に変わった。
――私はやっぱり思うんだけど、こうなったら、もう子供しかないでしょ。
――うん、そうだよね。それはわかってるんだ。つまり生《い》け贄《にえ》ってことでしょ。
――ツヨシって言ったっけ。
――ああ、それそれ、その子。
「毅が……」
「そう、毅君の名前が出てくるようになったの」
妙子はテープを止めた。
「それも誘拐だとか生け贄だとか物騒な話ばかり」
「いつ頃からなの」
「それは私にもわからないよ。前に聞いたのが、……ええと、三日ほど前だから。その時には毅君の話なんかちっとも出てなかったの。それで、このテープは今から一時間ほど前に盗聴したやつかな」
「ジャムのこと覚えてる?」
「うん、もちろん。落書きオタクでしょ」
「その子が死んだの。ビルの屋上で……」
妙子は黙っていた。久子とジャムの死。そして毅を生け贄に、という会話が交されていれば連想することは一つだ。
「殺されたんですか」
沈黙に耐えきれず徳永が言うと、由紀子は小さくうなずいた。
「お姉ちゃんは、それもお姉ちゃんに関係があると思ってるの?」
「多分。彼は久子と話をしていた。同じものを敵にしていたと思うの。久子もジャムも、その敵に敗れたんじゃないかなって。その敵が私を脅かしている相手だとすると」
「警察に連絡してみたらどうかな」
「無駄よ」
由紀子は暴漢に襲われ警察に届けた時の態度を思い出していた。
「今何が起こっているのか、妙子ちゃんなら警察に説明できる? 証拠と言えば久子の資料と妙子ちゃんの盗聴テープだけ。どちらも内容は曖昧《あいまい》なものだし、いくら説明したって頭がおかしいと思われるだけよ」
「……かなあ」
「毅のことは私が考える。校門から家の玄関まで、くっついて離れないわ」
「毅君、嫌がらないかな」
「嫌がるでしょうね。だけど説明すればわかってくれるわ」
「でしょうね。あの子は出来のいい子だもんね。……ねえ、お姉ちゃん。差し出がましいようだけど、この街を出ることは考えた?」
「考えたわ」
由紀子は箱からクッキーを出し、小皿に盛った。
徳永がすぐに手を伸ばして、もしゃもしゃと食べ始めた。
「だけど、ようやく毅が学校に慣れてきたところなの。友達が出来て……。転校をきっかけにいじめが始まることはよくあることでしょ。それに、これは大人の都合だけど、この家のローンだって残ってるしね。あなたのように身軽には動けないわ。それに、この街を離れれば何かから逃れられるって保証はないでしょ。それなら、私は逃げることより、戦うことを選ぶ。実は……まだ瀬能さんと話をしていないの。何となく気後れして……。でも調べてみるわ。他にも沢山調べなきゃならないことが一杯あるし」
「さすが由紀子姉ちゃん」
妙子が胸の前で小さな拍手をした。
「私も一緒に戦うわ」
「力強い味方だけど……」
「だけど、何?」
「危険だわ」
「だからじゃない。お姉ちゃんが一番危険なのよ。捨てておけないわよ。言っておきますけどね、私は夢想流|六人部《むとべ》道場の師範よ」
「そりゃあそうだけど」
「そうだな、私、未来開発出版を調べてみる。それからアロマ・ラボ。どうせ私は暇なんだし。後で資料を貸してね。コピーしてすぐ返すから。そうだ、暇と言えば徳永もいるから手伝わせる。ねっ?」
それまで黙って聞いていた徳永が、きょとんとしながらもうなずいた。
「無理強いしちゃ駄目よ」
由紀子は苦笑しながら言った。
「わかってます。徳永くんは、マゾっ気があるのか、私に命令されなきゃ駄目なの。そうでしょ」
「いやあ、マゾってわけでもないけど」
徳永は謙遜《けんそん》でもするかのように、頭を掻《か》きながらそう言った。
「徳永さんも結婚前から大変ね」
「そうなんですよ、八辻さん。ちょっと聞いてくださいよ。今日はね、こいつの誕生日なんですよ」
「こいつって誰よ」
「……妙子さんの誕生日でね。それで僕はプレゼントも買って、デートのコースなんかもばっちり決めてたのに、いきなり一大事だっていって」
「そうだったの。御免なさい」
妙子は徳永の後頭部を平手で叩《たた》いた。ぴしゃりと大きな音がした。
「あんたはほんっと馬鹿なんだから。そんなこと言ったらよけい由紀子姉ちゃんに気を遣わせるでしょ」
「……ああ、そう言えばそうだな。いや、そんなつもりはなかったんですよ。ただこい……妙子さんが勝手だって話をしたかっただけで」
「あんたの人生相談をしてるほど私たちは暇じゃないの」
「さっきは暇だって言ったじゃない」
再び徳永の後頭部に飛んだ張り手が、小気味よい音を上げた。
「暇なのは私とあなた。由紀子姉ちゃんは忙しいの。わかった」
「すみません」
不承不承徳永は頭を下げた。
「妙子ちゃん。いくらなんでもあんまり男の人の頭を叩くのは良くないわよ」
「ほら、見ろ。八辻さんだってああいってるじゃないか」
「うるさい」
妙子は三度目の平手打ちを後頭部に決めた。
「あのね、お姉ちゃん。聞いてくれる。この馬鹿、誕生日に何くれたと思う? コンドームよ。それも一グロス。百四十四個よ」
「だって、いつも財布に入れて持ってるから、補充用にと思って」
徳永が唇を尖《とが》らせた。
「どうして女の私が財布に入れてるか考えて見てよ。あんたが持ってくるの忘れてくるからでしょ」
「あのね、二人ともいい加減にしてくれるかな。すぐそこに毅がいるのよ」
「わあ、御免なさい」
今さらのように妙子の顔が真っ赤になった。
「すっ、すみません」
徳永も深々と頭を下げた。
「まあいいわ。あなたたちの話を聞いてたら、この世には何の障害もなく平和そのものって感じね。おかげで私も必要以上に深刻にならなくて済むわ。それじゃあ、私は早速明日、隣の福田さんに聞いてみるわ。彼女の正体もわかっているんだし、詳しく未来開発セミナーのことを聞いてみる」
「私も徳永も、なんだって協力するから、困ったことがあったらすぐに言ってね。徳永だってこう見えても武術家のはしくれなんですから」
「そのとおり」
徳永はクッキーの粉を撒《ま》き散らしながら胸を叩いた。
「あまり無茶はしないでね」
そう言いながらも、由紀子はまだことを簡単に考えていた。彼女がその時本気で徳永を止めなかったことを悔やむのは、それから一週間後のことだ。
6
部屋に明かりはない。
窓には分厚いカーテンがかけられている。そこから漏れる光が、部屋の中を舞う埃《ほこり》を照らし出す。
マンションの一室だ。造りは由紀子の部屋と変わらない。
居間にはテーブルがひとつ。椅子《いす》が三つ。
ひとつの椅子には顔色の悪い痩《や》せた少女が腰掛けていた。表情がない。ただじっと前を見ている。
正面の椅子には男が座っていた。
男は全裸だ。
まるで磔刑《たつけい》になったキリストのように痩せている。乾いた皮膚が皺《しわ》だらけだ。項垂《うなだ》れ、枯れ枝のような両腕も両脇《りようわき》に垂れている。男が生きているということを示すのは、肋《あばら》が微《かす》かに上下していることだけ。それがなければミイラそのものだ。
女が来た。
その手に持っているのはバケツだ。プラスチックの青いバケツ。中に柄杓《ひしやく》が突っ込んである。
それを乱暴にテーブルの上に置いた。
ぴしゃ、と何かがはねた。
生臭いにおいが部屋の中に充満した。
女は少女とそっくりだ。痩せ、顔色は鉛のようだ。
女は再び台所へと消え、今度は茶碗《ちやわん》を三つ持ってきた。プラスチックのそれを二人の前に置き、最後のひとつを持って残された椅子に座った。
女と少女は茶碗の中からアルミ片を取り出す。男は項垂れたままだ。
アルミ片はそれぞれの人差し指と中指に巻かれた。
それから女はおもむろに柄杓でバケツの中のものを掬《すく》いあげ、それぞれの椀についだ。中身は灰色をした粘液だ。所々に赤く流れる何かがある。
女がアルミを巻いた指でそれを掬い、口に運んだ。それを見てから少女がそれをすすり始めた。
女が男を見る。
男に変化はない。
女が溜《た》め息をついた。
だからあんたって人は……。
椅子から立ち上がり、男の後ろに来る。
椀を男の唇に当てた。
タスケテ。
男が小さな声で呟《つぶや》いた。
それが聞こえたのか聞こえなかったのか、女は二本の指で男に椀の中身を流し込んだ。ほとんどが顎《あご》を伝って男の股間《こかん》にたまった。
電話が鳴った。
女が受話器を睨《にら》む。
それから椀を置き、ゆっくりと電話に向かった。
受話器を取る。
「はい、福田です」
相手が何を言ったのか、女の顔に笑みが浮かんだ。だらしない弛緩《しかん》した笑みだ。
「……ええ……ああ、そうなんですか。わかりました。すぐに連絡をとって…………はい……そうします」
受話器を降ろすと、女はそれに向かって深々と一礼した。
その時、ドアホンが鳴った。
女はそれをまったく無視して、異臭のする椀の中身を口の中へと流し込んだ。
朝食を食べながら、由紀子は学校への送迎と、寄り道の禁止を毅に言い渡した。
母親の横暴に対する毅の抗議を聞き流しながら学校まで送り、買い物を済ませて帰ってくる。家にスーパーのビニール袋を置くと、そのまま外に出て隣のドアホンを押した。いったん休憩すると決心が鈍ると思ったからだ。
びくびくしながら待ったが、留守のようだった。何度ベルを押しても福田は出てこない。
由紀子は部屋に戻り、洗濯を始めた。洗濯物をベランダに干し終わり、昨夜の残りで簡単な昼食を済ませてから時計を見る。午後一時半だ。
由紀子は再び隣をのぞいた。
やはりいない。
部屋に戻り、たまっていた原稿を片づけながら、一時間おきに隣の様子を見に行った。その頃には少し意地になっていた。何度もドアホンを鳴らしたのだが、福田は出てこなかった。
仕方なく、由紀子は夕食の下ごしらえを始めた。なすのグラタンをつくるつもりだった。ところが肝心のチーズを買い忘れていることに途中で気づいた。
慌てて買い物用の自転車に乗って商店街へ。そして、ふと思いついた。
あの喫茶店だ。
福田はあの時連れていかれた喫茶店にいるかもしれない。
場所を覚えていたので、薄汚れたあの喫茶店はすぐに見つかった。
ステンドグラスのシールをはった硝子扉《ガラスとびら》を押して中に入る。扉につけたカウベルが気の抜けた音をたてた。
薄暗い店内のカウンターの向こうで、岸が強《こわ》ばったような笑みを浮かべた。
「ちょうど良かった。あなたの話をしてたところなのよ」
カウンターに座っていた福田が振り返った。福田の隣には、痩せた彼女の娘が座っていた。
「やっぱり、来ると思ったのよ」
福田は娘の頭を撫《な》でながら言った。
「学校は? 今日は休みなの」
福田の隣に腰を降ろし、由紀子はその向こうの少女を見た。
少女はどう見ても小学校の高学年。この時間はまだ学校にいなければならないはずだ。
「いいのよ、学校なんて。あんなところ毒想念のかたまりだから」
福田ははき捨てるように言うと、細長いコップから黴《かび》の生えた汚水のような緑の飲み物をすすった。
「あんたも飲む? プレアデス系の人からもらった植物のジュースなの」
「結構です。コーヒーをください」
別に飲みたくもなかったコーヒーを、由紀子は注文した。
岸は後ろを向いて豆を挽《ひ》きながら言った。
「あなたもようやくわかったんだろうね。もうすぐなんだよ。何もかも変わっちまう。それまでに、選ばれたものたちはすることが一杯あるんだ」
「未来開発セミナーに通っておられましたね、お二人とも」
すぐに由紀子は切り出した。
福田と岸は顔を見合わせた。
「去年の十一月頃の話です」
「ああ、そうだよ」
岸が不貞腐《ふてくさ》れたように言った。
「笈野宿禰さんに会ったんですか」
「会ったよ。だから今こうしてすべてに覚醒《かくせい》しているのさね」
岸はサイフォンをアルコール・ランプにセットした。
「何故《なぜ》あなたたちは私を仲間にしようと思ったんですか」
「何故」
福田はわざとらしくぷっと吹いた。
「嫌だよ、そんなこと。知ってるだろ」
「知らないから聞いてるんです」
岸は肩をすくめた。
「駄目だよ、この人は。私たちみたいに覚醒してないんだ。本当に何も知らないんだ」
「たとえ覚醒してなくても、ともにアトランティスでは同じところで働いていた仲じゃないの。そんなの、どことなくぴんと来るわよ」
「ぴんと来たから、私を仲間にしようと考えたんですか」
「そうよ」
機械的に娘の頭を撫でながら福田が言う。
「なんていうかな、仲間のにおいがするわけよ」
「においが……」
「覚醒するってそう言うことだからね」
「私が仲間だって気がついたのはいつ頃ですか」
「そうね、あれは……」
福田はカウンターの後ろの棚に飾られた木彫りの般若面《はんにやめん》をじっと見た。まるでそこに解答があるかのように。
「あんたがひどい格好で帰ってきたことがあるでしょ」
福田はにやりと笑って由紀子を見た。
由紀子が暴漢に襲われた日、福田はどこかで帰ってくる由紀子を見ていたのだ。
もしかしたら、それ以前からずっと観察していたのかもしれない。
「あれのちょいと前だから、まだ一月だったかね」
それなら久子に『アンソリット』関係の取材を頼まれた頃だ。
「それまではどうってことなかったのよ。でもあの時にはっきりわかったの。そうか、この人も前世では私と同じように苦労したんだなってね」
「においがしたわけですね」
「そうよ。においがしたわね。何かこう重くてね、胸にどんとのっかってくるようなにおい」
「あの時、ここで攻撃をされていると言っていましたよね。あなたたちには敵がいるんですか」
「いるわよ」
岸はコーヒーカップを由紀子の眼の前に乱暴に置いた。
「誰だって聞かれても、覚醒してないあなたには説明しにくいけどね。そうね、一般人の感覚で言えば悪魔よ。我々の神と戦っているんだからね」
「悪魔……ですか。具体的にはどんな相手なんです」
「具体的な悪魔がいるわけないじゃないの」
岸は鼻で笑った。
「でも、毒想念が時々形をつくることはあるわね。たとえば悪魔は銀色の皮をかぶった婆《ばあ》さんとして感じるときがある」
「うん、あるある」
福田が嬉《うれ》しそうにうなずいた。
「そう感じることってあるよね」
いつか夢の中で、由紀子に奇妙な手術をした銀灰色の皮膚の人物を思い出した。
「もう一つ前にここで聞きましたが、今から会いに行く人があると言ってましたけど、あれはもしかして笈野さんのことですか」
「神よ」
福田は演劇の中にしか存在しない乙女のように、夢見る瞳《ひとみ》で天井を見上げた。それが似合うであろう年頃の少女がしたにしても日常では奇異に感じるであろうポーズだ。まして福田がすればグロテスクとしか評しようがなかった。
「笈野さんが神だってことですか」
「あまりあの方のことを馴《な》れ馴《な》れしく呼ばない方がいいわ。今でもあの方とつきあいがある私たちだからこそ、こうして話題に出すことができるのよ。そうでなければ天罰を受けるわ」
福田は誇らしげに言った。
「つきあいがあるって、会ったりしているんですか」
「会ったのはセミナーの時だけ。それ以外では通信が入るのよ」
福田は得意げだった。
「通信?」
「直接頭の中にメッセージが入ってきたり、いろいろな象徴が示されたり、電話の時もあるわ。特殊な電波で、電話にメッセージが送り込まれてくるの。私たちだけにわかる電波でね」
「では、セミナー以降、直接会ったことはないんですね」
福田は岸と顔を見合わせ、合わせ鏡のように二人で肩をすくめた。
「……ないわ」
拗《す》ねたように福田が言った。
「……でも、会おうと思えば会えるのよ。今日がその特別な日なの。あなたはどうせもう私たちの世界に入ってきているんだから、望むのならあの方に会わせてあげてもいいわよ」
「ええ……」
考え込む由紀子を見て、岸は唇を不快に歪《ゆが》めた。
「別にこの女を連れていく必要はないわね」
「でもこの人にしても同じ前世を持った人間なのよ。今ならせっかくのチャンスだし。もう少したって世界が変われば、もう二度とあの方に会える機会はなくなるわ」
「その機会を逃したってみんなこの女自身の責任さ。私たちにこの女をあの方に紹介する義務も義理もないわよ」
笈野に会えるのなら、確かにこれは良い機会だった。多分笈野はマスコミから隠れているのに違いない。ルポライターとして訪れても決して会ってはくれないだろう。
由紀子は時計をちらりと見た。今ならまだ毅を迎えに行くのに充分余裕があった。しかし、今から笈野に会いに行って間に合うかどうかは疑問だ。
「ちょっと、電話してもいいですか」
「かまわないよ。今日は毒想念の攻撃に備えて結界を張っておいたからかけられるはずよ」
カードの使えないピンクの公衆電話がカウンターに置いてあった。
コインを入れ、妙子の自宅へ電話をかける。妙子に毅を迎えに行ってもらえないか頼むつもりだった。それが駄目なら、タイミングが悪かったとあきらめるしかない。
なかなか電話はつながらなかった。諦《あきら》めて切る寸前、はずんだ息の妙子の声が聞こえた。
『はい、六人部です』
「八辻です」
『由紀子姉ちゃん。どうしたの』
不安気な声だった。
「いえ、何があったわけでもないのよ。ちょっと頼み事があって」
『何でも言ってちょうだい。あれ、今日は雑音が入らないね』
「今出先で、外からかけてるの。それで、まだ少し用事が残ってるの。だから、もしよかったらだけど、毅を迎えに行ってもらえないかな。よかったらでいいのよ。駄目なら毅を迎えに行くことを優先するから」
『大丈夫、大丈夫。ちょっと待っててね』
後ろでひそひそと相談する声が聞こえる。
『わかった、何時に迎えに行ったらいいの』
由紀子は詳しい場所と時間を告げ、もし迎えに行ってからまだ由紀子が戻っていない場合の待ち合わせ場所まで決めて電話を切った。
「いいわ、行きましょう」
「連れてってでしょう」
岸は由紀子を睨《にら》んだ。
「連れて行ってもらえますか」
由紀子が言い直すと、二人の中年の女たちは何がおかしいのかけらけらと笑った。
7
スカイブルーの軽四輪のハンドルを握りながら、徳永は一人|呟《つぶや》いていた。
「勝手に自分で約束しておいてこれなんだもんな。僕だって僕の仕事ってのがあるんだからね」
電話があった時、徳永は妙子の家にいた。道場で妙子に容赦のない稽古《けいこ》をつけてもらっていたのだ。電話の途中で、妙子は毅を迎えに行けと命令した。
寸前まで濡《ぬ》れタオルで冷やしていた右腕をさすりながら、徳永は学校へと急ぐ。
校門の前で車を停め、徳永はジッポーのオイルライターを取り出してハイライトに火を点《つ》けた。妙子の前では禁煙を命じられていた。さして待つ間もなく、毅は姿を現した。
「毅君!」
徳永は孤島に難破した人が救助船を見つけたかのように、大きく腕を振り回した。
初め毅は徳永を見て、不審そうな顔をした。それが誰だかわからなかったのだ。
「毅君! こっちだ、こっちだ!」
相変わらずの大声で徳永は呼んでいる。それが恥ずかしく、毅は早くやめさせようと小走りで徳永に近づいてきた。すぐにそれが妙子の恋人であることに気がついた。
「あれ、こんなところで何をしてるんですか」
「君を迎えに来たんだよ」
「お母さんは?」
「急用なんだって。だから僕が代わりに」
「ちぇっ、勝手だなあ。僕には学校の行き帰りに寄り道するなって言っておいて」
「そうなんだよなあ。勝手なんだよ、女ってものは」
徳永は大きく溜《た》め息をつき、助手席の扉を開けた。
「さあ、どうぞ」
毅を乗せて車は走り出した。
スクールゾーン、と交差点ごとに地面に書かれてある細い私道が続いた。
事故のないように、徳永はゆっくりと車を進める。
今年一番の暖かい日だった。
窓を閉めていると暑く感じるほどだ。その陽気に、いつの間にか毅は眼を閉じ、頭を前後にこっくりこっくりと振り始めた。
のどかで静かな情景だ。
だが、徳永は何かに違和感を感じていた。静かすぎるのだ。この辺りは閑静な住宅街だ。しかしだからといってこんなにも静かなのはおかしいのではないか。第一、校門を離れてからは、誰にも出会っていなかった。ちょうど下校時間だ。子供の一人でも歩いていておかしくないはずだった。なのに街全体が無人になったかのように静まり返っている。
徳永は周囲を見回しながら、早くこの辺りから抜け出すことを考えていた。
嫌な予感がしたのだ。
それは的中した。
突然のことだった。
脇道《わきみち》から不意に人が飛び出してきた。
徳永はすぐに急ブレーキを踏んだ。
大したスピードは出していない。決して相手を轢《ひ》くことなどないはずだった。なのに車が停まる寸前、ばん、と大きな音をたて、その人物が倒れた。
「ああ」
溜め息に似た声を出し、徳永は車から飛び降りて前に回った。
男がうつ伏せに倒れていた。
頭の後ろで髪を束ねた男だ。徳永よりは幾分か年上に見えた。
「大丈夫ですか」
徳永は腕を伸ばし、男の肩に手をやった。
男は徳永を見て、微笑を浮かべた。
「ありがとう。……車を停めてくれて」
そう言って、男は徳永の予期せぬ行動に出た。すっと立ち上がると、徳永の後ろに回り込んだのだ。
あっと言う間のことだった。
気がつけば徳永の首に男の右腕が回っていた。もう一方の腕と密着した身体《からだ》で、徳永の両腕がしっかりと押さえられている。
格闘技の心得のある男だ。
徳永はそう思った。
「残念だなあ」
心から、といった調子で男は言った。
「この前の女の人だと思ったんだよ。僕は男にはあまり興味がないんだ。つまり男の死体にはね」
何故《なぜ》かはにかんだような口調で男は言った。
そんな場合ではないと思いながらも、徳永は男の首を絞める技術に感心していた。
後ろから引き上げるように腕は徳永の首を絞めていた。こうすると頸動脈《けいどうみやく》と椎骨動脈《ついこつどうみやく》が同時に押さえられ、瞬く間に脳に血液が送られなくなる。そうすることで窒息死よりも早く、しかも苦痛なく死に至らすことができる。その細やかなテクニックに、徳永は優しささえ感じた。
だが相手を誉めてばかりもいられない。
眼の奥で小さな光の粒が弾《はじ》けた。頭が張り裂けそうに熱く膨張している。
脚が、腕が、身体が、ずっしりと重みを増してきた。そこまでがほんの数秒のことだ。このままでは確実に失神してしまうだろう。
周囲には助けを求める誰もいなかった。毅はぐっすり眠っているのだろう。車から出てくる気配はない。
冬の終わりを知らせるように暖かい陽射《ひざ》しが、死に逝く徳永を照らしていた。
「男はね、死んだってシカバネの星にはいけないんだよ。何だか薄暗くて湿ってて臭いところに埋められるのさ。魂がね。腐っちまうまで。腐った魂ってさ、古い酢のようなにおいがするんだ。嫌だね。男は死にたくないね」
滔々《とうとう》と話し続ける男の隙《すき》を見て、徳永はすっと身体を落とし、ひねった。
右腕が自由になった。
不自然な角度からだったが、徳永には自信があった。
後ろの顔目がけて殴りつけた。徳永の拳《こぶし》は正確に男の鼻柱を捉《とら》えた。
小枝が折れたような感触があった。
呻《うめ》き声をあげて男が徳永を離す。
徳永は振り返り、数歩間合いを取った。
男は鼻と口を押さえている。その指の隙間からぼたぼたと血が流れ落ちていた。
「素人だと思って油断したな」
徳永は身構えた。腰を落とし、前に置いた足の延長線と後ろの足とが垂直に交わる構え〈撞木《しゆもく》の足〉だ。昔の剣術では常識的な構えだが、現代剣道では動きがとりにくいと敬遠される。古武術を現代に伝える六人部夢想流ではこの構えが生きていた。
普段の徳永からは想像もつかない引き締まった顔になる。
「痛いじゃないか」
男は顔を押さえたまま鼻声でそう言った。
充分に間合いは開いていた。
その間合いを一気に男が詰めた。
男の拳がまっすぐ徳永の顔に伸びる。
流派はよくわからないが空手だな。
徳永は顔に向かってくる拳を見ながら分析していた。
だが徳永は間違っていた。男に武道の心得などない。彼が持っているのはジムで鍛えた肉体と、そして神に与えられた力だ。
当たる寸前、男の拳は捌《さば》かれた。その前に徳永がいない。
両足がふわりと浮いたかと思うと、男は路面に背中から叩《たた》きつけられていた。
両腕を徳永に押さえられている。
さっきと立場が逆転していた。
「おまえは一体何者だ」
勝利を確信して徳永は尋ねた。答えなければ多少は荒っぽいこともするつもりだった。
弱々しそうに見える徳永はよく街でからまれることがあった。逃げきれず喧嘩《けんか》になったことも何度かある。だが、相手に怪我《けが》をさせるようなことは決してしない。出来ないのだ。徳永が男に怪我をさせてもかまわないと思うためには、「殺されかけたのだから」という言い訳が必要だった。
男はそんな徳永の決意を知るはずもない。のんびりとした口調で話し出す。
「誰だと思う。実は誰でもないんだ。だって死者には名前がないからね」
徳永は男の腕を絞め上げようと力を込めた。
と、まるで男の身体は水にでもなったかのようにするりと徳永の下から抜け出した。
知らない技だと徳永は思った。知らないのは当然だ。男の四肢は曲がらぬところから曲がり一本の紐《ひも》のようになって徳永から逃れたのだ。人間に出来ることではない。
徳永の手を離れた男は、立ち上がると言った。
「君は強いねえ。ここじゃあ、無理かもしれない」
それから踵《きびす》を返して一目散に走り出した。
「毅君。車の中でしばらく待ってて」
まだ車のなかでぐっすりと眠る毅に言い残して、徳永は後を追う。
どこまで追っても男との距離は縮まらなかった。誰もいない住宅街を、男は同じ調子で疲れた様子もなく走り続ける。
塀で囲まれた瀟洒《しようしや》な家の前で男は立ち止まった。
「待て!」
初めて徳永は声を上げた。
男は塀に両手をかけ、一気にそれを越えた。徳永もそれに続く。
飛び降りる寸前まで、徳永はその家の庭を見ていた。ところが両足がついたそこは、砂地だった。赤茶けた粉のようなさらさらした砂が、海底に足を着けたようにゆっくりと砂塵《さじん》を散らす。
前を見ると、地平線までつながる広大な砂漠だった。
鉛色の空を、モノクロームの雲が生き物のように動いている。
一陣の風が砂を巻き上げた。
砂煙が消えると、数メートル先に立っている男が見えた。
全裸だった。
身体には何一つ身につけていなかった。
唖然《あぜん》として立ちつくす徳永に、男は笑いかけた。鼻から流れる血で、男の口の周りは赤く染まり、まるでサーカスの道化師のように見えた。
「ここはね、シカバネの星なんだ。僕の星だよ。僕はシカバネの神様に愛されているからね。星は僕に味方してくれる。でも、君にはどうだろう」
笑う男の顔が、ゆらりと揺れた。
両手を前に突き出し、地面に這《は》いつくばる。
ごりごりと関節の鳴る音が徳永に聞こえた。
「どうなるト思ウ」
男は飴《あめ》でも含んでいるかのように喋《しやべ》りにくそうだった。
「コレからドウナルと思ウ」
男の身体がぶよぶよと膨らみ始めた。皮膚が鉛色に変色していく。変色した皮膚には、いくつもの瘤《こぶ》が生まれた。瘤はその中に生き物を封じているかのようにもぞもぞと動いていた。
「ダア、ドウオボグ。キミ、ドウナドゥと思ブ」
それはすでに人間ではなかった。
まるで肉腫《にくしゆ》を全身に貼《は》りつけた巨大な猪だ。
鼻面が前に突き出てきた。薄い唇から溢《あふ》れた涎《よだれ》がぼたぼたと垂れる。
「食ベデヤドゥ。ダア、ギビヲ、ダベデ」
あくびでもするように、それは大きく裂けた口を開いた。尖《とが》った牙《きば》が二列に、ずらりと並んでいた。
すでに人の言葉を話せなくなったそれは、舌を口のなかでこねるような嫌らしい音を発しながら、ゆっくりと徳永に近づいてきた。
受話器を耳に当て、由紀子はプッシュホンのボタンを押していた。指先が折れそうなほど力を込めて押す。二度、番号を間違えて舌打ちする。
怒っていた。怒り、苛立《いらだ》っていた。
福田たちに由紀子は電車で連れまわされた。いくつかの駅で乗り換え、駅前の公衆電話で何度も電話をし、あげくの果てに、二時間後でなければ笈野に会うことは出来ないと由紀子に告げた。
場所だけ教えてもらえれば一人で行くと言ったのだが、福田と岸は仲の良い姉妹のように秘密めかして二人でくすくす笑うだけだった。
もういい、とマンションに帰ってみると、扉の前で毅が立っていた。
どうしたのかと聞くと、学校に迎えに来たのは徳永で、彼は眠ってしまった毅をおいてどこかへ行ってしまったのだと言った。しばらく待っていたが帰ってこないので、一人で家まで帰ってきたのだと。
顔がかっと紅潮するほど、由紀子は腹立たしかった。その怒りにまかせて、妙子のところに電話をしているところだった。
妙子が電話に出たとたんに由紀子は怒鳴っていた。
「どうして徳永君なんかに行かせるの!」
『……にって、どうしたの?』
相変わらずひどい雑音だった。
「あんまり無責任じゃない」
由紀子は相手を無視して怒りをぶちまけた。
『……したの、お姉ちゃん。……わからないわよ』
「毅が一人で帰ってきたのよ。あんな男にまかせるから。毅が帰ってきたからいいけれど……、あの人だって毅のことで心配してくれていたんじゃないの?」
『…………』
長く、沈黙が続いた。
「……御免。少し言いすぎたわ。でも、どうしてあなたが迎えに行ってくれなかったの」
『弟子の稽古《けいこ》を……ければ……。でも……ああ見えても徳永は責任感は人一倍…………』
「でも、現に毅は一人で家に帰ってきて、ドアの前で私を待ってたのよ」
『どの辺りで徳永はいなく……。ちょっと、毅君に聞いてみて……』
由紀子は徳永がいなくなった場所を毅から聞いて、妙子に伝えた。
『私、見てくるわ』
そう言うと電話は切れた。
喉《のど》と腹を喰《く》い千切られた徳永の死体が、街外れのどぶ川から発見されたのは、それから六日後のことだった。
8
隣の福田は、由紀子を連れまわした日を境にいなくなってしまった。消えてしまったのだ。引っ越しした様子はなかったが、いつドアホンを押しても留守だった。夜中に訪ねてもみたのだが、やはり無駄だった。一階の郵便受けは、たちまち新聞や郵便物で溢れた。
あの喫茶店にも足を運んでみたが、シャッターが閉められ、しばらく休ませてもらいますと貼り紙がしてあった。
徳永の死は、妙子からの電話で知った。由紀子には彼女を慰める言葉がなかった。すべての責任が自分にあると思っていた。
警察は、腹や喉の傷、そして全身に残された掻《か》き傷《きず》などから、大型の獣に襲われたのであろうという見解を発表していた。それは近隣の家々にパニックを起こし、子供の行き帰りに自警団がつく騒ぎにまで発展したが、危険な大型の獣など発見されなかった。
徳永の死はあまりにも唐突で理不尽なものであり、その通夜は悲痛なものとなった。すすり泣きは絶えることがなく、やり場のない怒りと悲しみに肩を震わせる親族たちの姿が目立った。
その中で、妙子は仮面のような無表情さで、遺体の前に佇《たたず》んでいた。
死者よりも蒼《あお》ざめた妙子に、由紀子は詫《わ》びることすら出来なかった。
葬儀を終えてからの数日間、由紀子は妙子と顔を合わすことが出来なかった。徳永の死の責任はすべて自分にあるのだと考えていた。そしてそれを償う術《すべ》を、彼女は思いつかなかった。
しばらく治まっていた頭痛と微熱が再び始まった。朝の恐怖感が消える様子もない。家と学校の往復の毎日に、さすがに聞き分けのいい毅も、だんだん苛々としてきたようだ。些細《ささい》なことでかんしゃくを起こすようになっていた。
負けだ。
由紀子はそう思っていた。
街を出るつもりだった。街を出て、母のいた実家に帰ろうと考えていた。便利屋的要素の強いフリーライターが東京を離れれば、仕事の量は減るだろう。が、ここで暮らす生活維持費や毅の学費も同時に減ることになる。差し引きすれば、今とそれほど変わらぬ生活が出来るだろう。
明日にでも毅の転校の手続きをとろうと考えていた時だった。
妙子がマンションを訪れた。
扉を開いた由紀子は、妙子をただ見つめ、じっと立ちつくしていた。
最初に口を開いたのは妙子だった。
「おはよう」
笑顔をつくってみせる妙子の頬《ほお》は痩《こ》け、肌に生気のない様子は痛々しかった。
御免なさい、の言葉が出ると同時に由紀子の眼に涙が溢れた。
「お姉ちゃんらしくないよ」
妙子は廊下に立てかけられた、引っ越し会社のマークのついた段ボールを見た。
「あれ、どうするつもりなの」
「実家に、帰ろうと思って」
「逃げるの?」
「そうね……。逃げるの。妙子ちゃんには――」
「お姉ちゃん、謝らないで」
妙子はじっと由紀子の眼を見つめて言った。それは今までの妙子が見せたことのない眼だった。
ハリウッド映画のようなラストシーンは、決して人生に訪れることはない。妙子はそれを知ったのだ。
由紀子は救いのない昏《くら》い決意を秘めた妙子の眼を見てそう思った。
「これね」妙子はバッグからジッポーのライターを出してきた。「徳永の形見なの。あの馬鹿、禁煙を約束してたのに、私に隠れて煙草を吸ってたの。でも、私知ってたんだよ。彼が煙草吸ってること。すぐばれるような隠しかたするの。ほんと、馬鹿なんだから。私がついてないと何も出来なかったの。あの時だって私がついてれば……」
「妙子ちゃん――」
「私はね、悲しんでなんかいない」
妙子は仮面のような笑みを浮かべた。
「悲しんでなんかいられなかったの。今私は、怒っているのよ。何もかも破壊してやりたいほど、ね。お姉ちゃん知ってる? 私のやってる古武術って言うのは、実際の合戦のためにつくられた武術なの。スポーツとはまったく理念が違う。それがどういうことかわかる?」
由紀子は首を横に振った。
「古武術は負ければ死ぬってこと。そして勝つってことは相手を殺すってこと。古武術の修行はね、生死を分ける岐路となるの。この意味がわかる?」
「妙子ちゃん――」
「説教は聞きたくない。私が聞きたいのは、私に協力してくれるか、してくれないかよ」
妙子は再び、ちらりと段ボールを見た。
「無理強いをする気はないわ。お姉ちゃんが決めればいいことよ。それじゃあ、私今から行くところがあるから、返事は後で聞かせてね」
呼び止める間もなく、妙子は出て行った。
鉄の扉がゆっくりと閉まった。
玄関先で佇み、由紀子は閉じた扉をいつまでも眺めていた。
9
曇天で朝が冷え込んだためだろうか。暑いほどに暖房が利いていた。
昼下がりのスーパーマーケットの二階。そこのベンチに妙子が腰を降ろしてから、二十分ほど経つ。
由紀子と別れてすぐ、ここにやって来た。
隣に座った老婆が、ポリエチレンの袋から割れたせんべいを出しては、口に運んでいた。噛《か》まず、口に入れたまま老婆はせんべいを舐《な》めている。
惣菜《そうざい》のてんぷら屋から臭う、油のにおいが濃厚だ。
老婆がせんべいを舐める音がぴちゃぴちゃと単調に繰り返されていた。
母親の買い物が済むまでの間待たされているのか、子供たちが金切り声をあげて走り回っている。
白くただよう温気が見えるほどに、湿気がひどかった。
暑い。
妙子はバッグからハンカチを出し、額の汗を押さえた。それから開いたままのバッグを覗《のぞ》き、中から一枚の紙切れを出してきた。
新聞の拡大コピーだ。
粒子の粗い新聞写真の、それも元は小さなものだったのを数倍に拡大したものだ。それでもそこに写った若い男が、端正な顔つきをしていることはわかる。
それが掲載されていた新聞も、横にコピーされていた。十七年前の日付だ。
写っているのは〈パリのジャック〉笈野宿禰。パリから送還された当時、三十八歳の頃の写真だった。
コピーに、ぽつりと汗が落ちる。
妙子は再び、額から顎《あご》にかけてハンカチで拭《ぬぐ》い、紙をバッグにしまった。
「何をしてるんだ!」
男の怒声がした。
びくりとして声のした方を見る。
中年の男が、幼い男の子の首筋を掴《つか》み持ち上げていた。
「何度言ったらわかるんだ」
男は腕を揺すった。男の子供であろうその少年は、抵抗するでなく風鈴のようにぶらぶら揺れていた。
「六人部……さんですね」
中年の女が、妙子に声を掛けてきた。
妙子が相手の名前を言おうとするのを遮るように、女は妙子の隣に腰を降ろした。
五十近いであろうその女は、真っ黒の髪を長くまっすぐに伸ばしていた。
くすんだ灰色のダウンベストに、中途半端な丈の木綿のスカート。ビニールのパンプスは色もわからぬほど汚れている。
饐《す》えたにおいがした。
「遅れて御免なさい」
聞き取りにくい小さな声で女は言った。
決して妙子の顔を見ようとはしない。
「邪魔されたんです。……その、いろいろとあって、ここに来る間」
女はビニールコーティングされた大きな紙袋を下げていた。その中に手を入れて、ビラを一枚取り出した。
「だいたいこういうことなんです」
簡易印刷されたそのビラは、奇妙な図形と細かな文字でびっしりと埋まっていた。
やや大きな文字で、いくつか見出しが書かれてある。
『毒想念の対策をしてください』
『日本政府の厚生省の高木さんから聞いたから本当です』
読んでも無駄だと思い、妙子は受け取ったビラをそのままバッグに入れた。
「写真は持ってきてもらえましたか」
俯《うつむ》いたままの女を見て、妙子は言った。
「写真……」
女はしばらく己れの膝《ひざ》をじっと見つめていた。
「黙っててくださいね」
誰に言うとなく呟《つぶや》く。
「写真を持ってきてもらえたんですか」
妙子が尋ねるのを待っていたかのように、その女は彼女の身体《からだ》にしがみついてきた。それでも眼は膝を見つめたままだ。
「私に会ったことやここであったことは秘密ですよ」
「わかって――」
妙子が言い終わるのも待たず、女は肺の中に溜《た》まっていた言葉を噴出させるように早口で喋《しやべ》り出した。
「お願いしますよ。でなきゃ、私は襲われるかもしれません。どうして、どこで。いろいろありますよ、そりゃあ。ですが襲われるのは確かなんですから。厚生省と私関わりがありましたから、それもあれです。全部併せて秘密にしていただきたいんです」
「わかりました。わかりましたから、写真を見せてください」
女の放つ異臭に閉口しながら、妙子は言った。
「これです」
女は急に、興味を失った子供のように妙子から離れ、紙袋の中に手を入れた。
取り出してきたのは一枚のスナップ写真だった。
妙子はそれを奪い取るようにして、見た。
どこかの会議室のようだ。中年の女が本を胸の前に持って立っている。どうやら、その女は今妙子と喋っているこの女のようだった。サーモンピンクのスーツを着て、コサージュまでつけ、カメラに向かって微笑《ほほえ》みかけている。
小さな写真だが、女の持っている本が『レビアタンの顎《あぎと》』であることが、表紙からかろうじてわかる。
そして女の隣に、長身の男が立っていた。
妙子の顔色が変わった。
瞬く間に血の気が引き、それからゆっくりと紅潮していった。
「この男が……」
「そう、この方よ。笈野宿禰は」
「間違いありませんね」
「間違いないわ」
妙子はゆっくりと深呼吸して、言った。
「この写真、貸してもらえませんか」
「えっ、まあ、それは別にかまわないけど……」
「必ずお返しします」
「……それなら……」
「それじゃあ、これで失礼します」
立ち上がる妙子に、女はすがりつくように言った。
「絶対に秘密よ」
「ええ、わかっています」
答えながら、後ろも振り向かず妙子はスーパーの駐車場に向かった。
彼女の軽自動車が停めてあった。それに乗り込むとバッグを開けて、スナップ写真と一冊のパンフレットを取り出した。瀬能経済研究所の会社案内用のパンフレットだった。
一頁目を開く。
そこに代表取締役、瀬能邦生の顔写真があった。その横に借りてきたスナップ写真を並べる。
「間違いないわ。……お姉ちゃんに知らせなきゃ」
妙子は写真をバッグに投げ入れ、エンジンをかけた。
[#改ページ]
[#地付き]1980年 4月 ガンダルヴァ
北インドの四月といえばもう夏が始まっている。が、今年は例年より十度あまりも気温が低い。夜になると凍えるほどだ。
だが今は昼。太陽は〈恵みの〉と形容したくなる優しさで輝いていた。延延《えんえん》と続く山道に揺られながら、男は異常気象に感謝していた。眠気を誘う暖かさに風が心地好く、ちょっとしたピクニック気分だった。
デリーから鉄道でデーラードゥーンに着いたのが今朝の九時。そこで用意してあった日本製の四輪駆動車に乗り換え、更に北へ。途中から道は急な坂になる。巡礼たちを乗せたバスがけたたましいホーンを鳴らしながら男たちを追い抜いていった。ここまで来れば中国との国境も間近だ。
「ここでいい」
笈野が言った。
ガンダルヴァへと続く坂道に逸《そ》れる手前で、車は停まった。もう少し先に行けばインド軍の検問所が設けられているはずだ。
「有り難う。君には世話になった」
笈野は男を見て微笑《ほほえ》んだ。
「礼金とは別にお礼をしたいのだが」それから笈野はフランス語で言った。「こんなもので喜んでもらえるだろうか」
男にその言葉の意味が理解出来なかったのはフランス語だったからではない。笈野がそう言った時には、喉《のど》を大きく切り裂かれていたからだ。
笈野は噴き出す血を浴びぬよう、慎重に男の髪を掴《つか》み頭を固定し、存分にむせるような血臭を嗅《か》いだ。
それに満足すると、笈野は車から降りた。降りるとすぐだった。
後ろから呼びかけられた。
「手を頭より上に挙げて」
英語だった。それは威圧的と言うよりも事務的だった。
笈野は見ずともそこに誰がいるのかわかっていた。三人の若い男だ。おそらくはアーリア系の人間で、三人とも銃を持っている。
「それが君たちの出迎えかね、同志諸君」
「残念だが君は彼らの同志ではない。私たちがそうでないようにね」
男の一人がそう言った。
「だがカーリーは君に会おうと言っている。だから我々が迎えに来た」
一人の男が笈野の前に来た。
軍服を着たその若い男は、道を逸れて歩いていく。後ろから銃で促される前に、笈野はその後ろについた。
道とはいえぬ下生えの生い茂った獣道を、四人の男が登る。その間男たちは終始無言だ。一度だけ笈野は話しかけた。
「政府軍によって村は封鎖されているんじゃないのかね」
「我々には彼らがついている。彼らの導きどおりに進めば誰も止めることはできない」
前を歩く男は後ろも見ずにそう答えた。
狭く、急な坂道を二十分も歩くと、急に視界が開け、村が現れた。
「ガンダルヴァに着いた」
先頭を歩いていた男が素っ気なくそう言った。
そこはインドのどこにでも見られる貧しい農村だった。何かの巣のように見える灰色のテントの集落。痩《や》せたこぶ牛。井戸で水を汲《く》むサリー姿の女たち。だが何か違和感のようなものを笈野は感じていた。その正体にはすぐに気づいた。圧倒的に親子連れが多いのだ。それもほとんどが母親と二、三歳の幼児の組み合わせだ。白人、黒人、黄色人種と人種はまちまちだが、彼女らのほとんどがこの国の人間ではないようだ。そこで交わされる言葉のほとんどが英語で、アーリア系の言語もドラヴィダ系の言語もほとんど聞かれることがない。北インドの田舎町にこれだけの観光客が、それも幼児を背負った母親ばかりが集まっているのは明らかに不自然だ。しかも今、この村は軍の監視下にあるのだ。
男たちに導かれ、笈野は村を抜けて階段状の道を少しずつ上っていった。
「あれが国王の家です」
男たちにそう言われなければ、それが国王の家だとは到底思えなかっただろう。鶏が放し飼いになった中庭の向こうにある家は、村長《むらおさ》の家と言われても疑わしい泥壁の粗末な家だった。木製のきしむ扉を開け、笈野は中に入った。男たちは入ってこようとはしなかった。扉の前で待っていた小さな老婆に案内され、笈野は広い土間に通された。そこに恰幅《かつぷく》のいい紳士が立っていた。
「ようこそ、ガンダルヴァに」
男はにこやかに笑った。二年前まではインド映画の男優だった男、ラグ・サトパティ。それがどういうわけか、この小さな村を独立へと導く英雄になった。整った顔をしているが、威厳ある国王というよりは色悪《いろあく》といった感じだ。
「君は……ソシュールのことを知っているね」
国王はいきなり笈野に尋ねた。ずっと今まで話を続けていたかのような口調だ。しかし笈野にしてもそれを不自然とは思っていないようだ。答えはすぐに口をついて出てきた。
「現代の言語学の基礎を築いた人間、という回答ではまずいでしょうか」
「もっと詳しく知っているだろう。君は大学を卒業してから、ある企業のためにコンピューターによる自動翻訳の研究をしていた。そうだね、笈野くん」
笈野は黙って頷《うなず》いた。初対面の人間が己れの過去を知っていることに驚きもない。
「ソシュールは十九歳でパリ言語学院に迎えられた。このスイスの早熟な言語学者は、一八九一年に故郷のスイスに帰りジュネーヴ大学で教鞭《きようべん》をとる。ところが彼は一八九四年以降学術論文を全く発表していない。有名な『一般言語学講義』も、彼の弟子たちがまとめたもので、彼の記したものではない。この沈黙の意味が判るかね」
笈野は黙って首を横に振った。
「今なら私にも、彼の沈黙の意味が理解できる。それは人の手にあまる命題へと挑んだ彼の苦悩の結果だ。この沈黙の時代、ソシュールはエレーヌ・スミスという女霊媒師と交流があった。彼女はソシュールの抱えた大いなる疑問に、解答を与える者が誕生したことを彼に告げた。それは今、この時、インドで生を受けたと。彼女はソシュールにその所在地を示す地図を渡した。彼は自らその地に赴くつもりだったが、幾つもの偶然が重なり、それは果たせなかった。それには彼の健康上の問題もあっただろう。そして彼は、ナバル――ヘブライ語で愚か者という名を持つ彼の生徒に、その子供に会ってきてくれと頼んだ。ナバルはその名のとおり愚かであったが、それ故に盲目的に彼の師を信頼していた。ナバルは意味も判らず、その子供に会うためにインドへと飛んだ。そして……」
「そして」
笈野は先を促した。退屈しているようだった。
「そして、失踪《しつそう》した。彼は二度と帰らなかった。彼がジュネーヴ大学に在籍していた日数はわずかなものだった。そのせいか彼の名は講義の記録に残されていない」
何故《なぜ》かサトパティは悲しそうな顔でしばらくうつむいていた。が、すぐに笑みを浮かべて言った。
「君もまた、かつてのナバルのように子供を捜しにここまでやって来た。何も知らず、何も判らぬまま」
「私は、知っている」
「そうだろうか」
サトパティは笈野を見つめた。
「どうして君はここに来るまでに二年もかかったのか」
笈野がサトパティを睨《にら》み返した。
「二年もかけたのか、と聞くべきかな。私は君にここへ来るよう何度も呼びかけた。君はデリーに宿をとりながら、なかなかここへやって来ようとしなかった。どうしてだね」
「知ってるんだろ」
笈野が吐き捨てるように言う。
「君の口から聞きたいのだ」
「……血さ。血の香りに飢えていた。だから買った。インドはいいところだ。何よりも人の値段が安い」
「貧しい者たちを金で買い、傷つけ、その血をすすった」
「嗅いだだけさ」
面白い冗談でも言ったかのように笈野は笑った。
「何人かは君に切り刻まれて死んだ。そうだね」
笈野は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「そこから君は抜け出ることができなかった。血のにおいの誘惑から」
「我々は神に等しい力を得たのだ!」
笈野はいきなり怒鳴った。
「人など我々に血の陶酔を与える贄《にえ》にしか過ぎん。我々こそ真のアステカの神なのだよ!」
言い放つ笈野を、しばらくサトパティは眺めていた。それから静かに話し始めた。
「確かに血は我々に一刻の快楽を与えてくれる。しかしそれも私たちの得た新しい知の形に比べれば、一服の煙草ほどの価値もない。ここに集まってきた他の者たちはそれを知っている。いや、知る必要もないんだ。彼らにとってはすべてはそうあるがままにそうなっている。血の香りなど彼らは欲してはいない」
「外の連中がおまえの言う彼らか?」
「外の連中というのが、あの二歳児たちを言うのなら、その通りだ。彼らこそ〈非―知〉の夢に棲《す》むものたち」
「我々は新しい人類だ」
そうだろう? と笈野はサトパティを見た。サトパティは何も答えない。笈野が話を続ける。
「我々はヒトより進化した生き物だ。ネアンデルタール人がクロマニョン人に取って代わられたように、我々が次代の地球の覇者となるのは自明だ。それなのに窮状をむかえたのはおまえたちのやり方がまずかったからだ」
「窮状?」
「この村を自治体として独立させることなど不可能だ。それがおまえたちにはわかっていない」
「君は何かを根本的に勘違いしているようだね。確かに我々は自治権を主張した。しかしそれに固執はしていなかった。我々に必要だったのは時間だ。世界中に散らばった〈非―知〉の夢に棲むものを集めるためのね。自治権を得るために政府に働きかける方法は幾つかあった。我々なりにね。だが強硬な手段はとりたくなかった。自治権などは、駄目ならそれでも良かったんだよ。我々はそれほどの楽観主義者ではないんでね。そう多くを政府に期待していたわけではない。だがインド政府は我々の行動を許さなかった。だから線路を破壊し、この村を包囲して封鎖した」
「線路を爆破したのはおまえたちじゃないのか」
初めて笈野は驚いた顔をした。
「おそらく、ここで何が行われているのかを邪推した者がいたのだろう。外国人が大量に押し寄せてきたからね」
サトパティの言葉に、笈野は「なるほど」と笑みを浮かべた。
「いずれにしろ今この時おまえたちが窮状に陥っていることに変わりはないじゃないか」
「ならば、聞こう。君ならどうするつもりだったんだ」
「この小さな村で独立を得、旧人類に怯《おび》えながら暮らすのではなく、優越種である我らが、人類を支配する」
笈野の回答に、サトパティは苦笑を浮かべた。
「君はアメリカン・コミックスを読み過ぎたようだね」
「私はその手の冗談が嫌いだ」
怒りを顕《あらわ》に笈野はサトパティを睨んだ。サトパティの顔に憐《あわ》れみが浮かぶ。それはさらに笈野を激昂《げつこう》させた。
何か言いかけた笈野を制して、サトパティは話を続けた。
「君は言葉から逃れることが出来なかった。私もそうだったが、君ほど愚かではない。確かに彼らはヒトとは別種の生物だ。少なくともネアンデルタール人とクロマニョン人ほどには異なった存在だろう。だがね、彼らがヒトと共存出来ないと考えるのは、君が私と同様にヒトだからだよ。彼らはヒトと共存出来るんだ。なぜなら彼らとヒトとは決して交わることがないからさ」
怒りのあまり、笈野はサトパティの様子がおかしいことに気がついていなかった。
唇の動きと彼の声がずれているのだ。素人のアフレコのように、そのずれはだんだんひどくなっていく。
「世界はヒトによって言語化される。言語化された世界の中で、彼らは唯一の自然であり得る。言語化される以前に戻るという意味ではない。言語化された世界から排除される、あるいは脱却できる存在が彼らなのだ。知るという言葉を超え、なおも知ること。それが彼らを生んだ」
すでにサトパティの唇は、半ば開いたまま動かなくなっていた。それでも声は聞こえていた。そこにいたってようやく笈野はサトパティの様子がおかしいことに気づいた。その時だった。サトパティの躰《からだ》が不意に倒れた。棒が倒れるように無防備な倒れ方だった。倒れてもなお声は聞こえていた。
笈野は倒れた〈国王〉の姿をただ見降ろしているしかなかった。
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第五章 寸門多羅《すもたら》
1
どうしてだろう。
由紀子はそう自問する。
いつもであれば抱えたトラブルをてきぱきと片づける由紀子が、今回に限って行動することを逡巡《しゆんじゆん》し、ただ不安だけをつのらせていた。自分を動かすためには、老いた牛に鞭《むち》を入れるように力を振り絞らなければならなかった。
何が起こっているのかはわからないが、それは由紀子の精神構造に大きな影響を与えている。久子がそうであったように。
超常現象研究家である瀬能に疑問を尋ねにいく。それだけのことを今まで躊躇《ちゆうちよ》していた。それが何故《なぜ》なのかがわからない。まるで試験で悪い点をとったことをなかなか親に話せないように、それを先へと延ばしていた。そう、まるで真実を知ることを恐れているかのように。
妙子の決意を聞き、たとえ逃げるにしても、最後にこれだけはしておこうと由紀子は考えた。
そして、瀬能の事務所に向かった。
相談があるからと、電話で連絡は入れてあった。約束の十五分ほど前に着いてしまった由紀子を、瀬能は嬉《うれ》しそうに迎えた。
顔を合わせてすぐに、笈野宿禰のことを尋ねた。
「この人はいったいどんな人物なんですか」
「『レビアタンの顎《あぎと》』の作者であることはご存じですね。あの本は読まれましたか」
ええ、と由紀子は答えた。
「でも、笈野が日本に帰ってからの行動がわからない。彼は未来開発出版やアロマ・ラボとどのような関係にあるのですか」
瀬能はしばらく考え込んでから言った。
「彼は殺人犯だ。でもあれは彼が突然天啓を受けたために起こった事故のようなものだ。初めから私は彼に同情的でしたよ。でも、どうしてそんなことを八辻さんが。このことをマスコミに発表されると彼は困った立場に追いやられる。それでなくても彼が帰国した当時はマスコミに酷《ひど》い目に遭わされてるんだ。そうっとしておいて上げてはくれませんか」
「今何をして何処《どこ》にいるかをご存じなんですね」
「知らないわけではありませんが」
「いえ、個人的なことで私はこのことを調べに来たんです。決してマスコミに発表しようと思っているわけではありません」
そう前置きしてから、由紀子は最近起こった奇妙な出来事を順を追って説明した。ただし、久子が殺されたのではないか、という妙子の推理は話さなかった。
話を聞き終わった瀬能は神妙な顔で言った。
「電話があった時はデートの誘いかと思ったんですが、違ったんですね」
「それは今抱えているトラブルが解決してからです」
「それじゃあ、私も真剣に考えなくちゃ」
瀬能は笑顔を作り、すぐに表情を引き締めた。
「それで、由紀子さんはそれらの出来事をどう思われているんですか」
「どうって?」
「妄想だと、思われているのですか」
「……わかりません。でも、いくつかのことは事実です。たとえば徳永くんの死とか」
瀬能と笈野が関わりがあるのなら、さらに瀬能が疑わしくなる。そのことを問いたださねば、と思いながら、由紀子は別の質問をしていた。
「瀬能さんは私が病気だと思いますか」
「違いますね」
瀬能はきっぱりとそう言い切った。
「八辻さんの経験されたことはアブダクションと呼ばれる現象と類似しています。アブダクション――誘拐現象ですね。窓の外の発光物体。原因不明の爆発音。部屋の中にいる誰か。消えた記憶。そのどれもがアブダクションで多く報告されている事例です。アメリカでは、全人口の五・五パーセントが何らかの形でアブダクションを経験しているという調査報告があります。まあ、それをそのまま信用できるかどうかは別ですが、それでもかなり多くの人が八辻さんと同じ経験をして苦しんでいるのは事実です」
「あの、つまり瀬能さんは私が宇宙人に誘拐されたのだと……」
「アブダクションには様々な解釈がされています。ある種の精神病であるというものから宇宙人誘拐説までね。そして私が考えているのは現実と重なって存在するもう一つの世界です。……信じていませんね」
「もう一つの世界、ですか」
由紀子は思わず口ごもった。
「八辻さんはトゥルパという言葉をご存じですか」
由紀子は首を横に振った。
「思念形態と訳すんですが、チベットでは思考を集中することで、頭の中に思い描いたものを現実のものに変える力があると言われています。それがトゥルパです。西洋の近代オカルトでも人工精霊といって、念じることで精霊を造り出す力が存在するといわれている。思考が現実を造り出す、という考えはオカルトの世界ではそれほど変わった考えではないんですよ」
「考えたものが造り出されるのだったら、私なら真っ先にエルメスのスーツを思い浮かべますね」
由紀子は皮肉な笑みを浮かべた。
「私なら新しい研究室ですよ。ここは仕事場を無理やり研究室に使っているから手狭で」
瀬能はそう言って笑って見せてから話を続けた。
「確かにそのように都合よくはいかない。私も、考えるだけですべてが現実のものになるとは思えない。ですが……、そうですね、こんな考え方はどう思われます。人が認識していないものは存在しない」
「どういうことですか」
「たとえば、人のいない山奥で木が倒れた。その時音がしたか、しなかったか。どう思われます」
「した、でしょ」
「音は人が聞き取ってこそ音です。だから音はしない。そう考えることもできる。この考えの延長で『月は私が見るまでは存在していない。私が見上げた時に月が生まれる』という考え方があります」
「何だか哲学的ですね」
「もっと現実的な話をすると、電気はそれが発見されるまで人は電気を電気として認識することは不可能だった。ところが、雷という現象は知っていた。雷を超常現象とするのなら、この電気にあたる何かが超常現象には関係していると考えているんです」
「だったら、それはいずれ科学で証明されるということですか」
「さあ、それは私にもわからない。ですが今、科学でも証明されず、人が認識することもできない世界があるという仮説は成り立つ。それでは認識出来るか出来ないかは何で決まると思いますか」
「またそれも非常に哲学的な問題ですね」
「そうですね。同時に科学的でもある。私はそれに対しては一つの仮説を支持しています。認識とは脳の判断です。そして脳のシステムが認識にかかわる時、人の場合それは言語に還元されます。従って、たとえ知覚していても、言語化されないものは認識されない」
「つまり、言葉にできないものは存在しないということですか」
「そうです。しかし人はすべての物事を言語化出来るはずだ。世界を表現するための方法が言語ですからね。今までに出会ったことのないものがあればそれに名づけ――電気がその例ですよね――言語化してしまいます。だから言語化出来ないので『ない』などというものは本来有り得ない。でも実は言語化出来ない世界がこの世には存在する。それは知覚されるが言語化されないので、人は絶対にその世界の存在を知ることができない」
「それは霊の世界とか、そういうことですか。『レビアタンの顎』にそのようなことが書かれてありましたが」
「だいぶ怪しい話になってきたでしょ」
「怪しいとは言いませんけど……」
いつの間にか由紀子は瀬能のペースに呑《の》まれ、笈野との関係を問いただすことなどすっかり忘れていた。
「霊の世界だのあの世だのといった言葉は、あってない『決して認識されない世界』を無理やり表現しようとした時に生まれる言葉です。それは一つの単語だけを生み出すんじゃない。いくつかの単語を生じ、さらには文脈をつくり、物語となっていく。繁殖していくわけです。雷を例に出しましたが、現象としての雷は雷と名づけられることで雷神を生み、その物語を生んでいく。――へそを取られるとかね――。そして私は、言語化出来ない世界を無理やり言語化しようとする時に生まれるそのような言語群を〈呪詛《じゆそ》〉と名づけました」
「呪詛って、呪《のろ》うってことですか」
「呪うというと不可思議な力で誰かに害を為《な》すようなイメージがありますが、呪詛というのは本来、世界に対し力を及ぼす言葉に対して用いる単語です。言霊《ことだま》とでもいうのかな。私のいう呪詛もそれとだいたい同じ意味を持っています。人は呪詛によって見えない世界を無理やり認識し、その認識が本来決して知覚できない世界をこの世に生み出してしまう。つまり呪詛が、ありもしない世界を実体化させてしまうわけです。
さて、言語化不可能な世界をどうして人は〈呪詛〉として無理やり言語化しようとしなければならないか。それは、人が理解不能なものを恐ろしく感じるからです。どうしても認識できないものに、人は恐怖を感じるんですよ。だからそれを無理やり言語化し、理解出来るものの範疇《はんちゆう》に入れようとする。無意識のうちにね。〈呪詛〉化してもそれが恐怖を感じさせるものであることに変わりはない。その恐怖を消し去るために、もともと語り得ないものを語り尽くさねばならない。呪詛の内容は細分化され、それに関しての新しい呪詛を生んでいく。呪詛に偏執することで呪詛は増殖していくわけです。
また、Aという体系の呪詛がBという体系の呪詛と出会ったとします。このどちらかが正しくどちらかが誤りであるなら、Aは自らの正しさを証明するためにBを潰《つぶ》さなければならない。AはBを敵対視するわけです。敵の存在が新たに偏執的な言動を生み出すことは戦時下の敵に対する啓蒙《けいもう》を見てもらえばわかるでしょう。こうして呪詛は人を偏執的な思考にどんどん追いやりながら増殖していく。そして偏執、過剰な差異化、有意味化がさらにパラノイアックな環境を生み、パラノイアックな環境は新たな呪詛を生む。つまりいったん呪詛が生じると、そこに正のフィードバックが生じ、呪詛とそれを含む環境は加速度的に増殖していくわけです。生物でたとえるのなら、栄養に富んだ海に微生物が異常繁殖するように、呪詛が爆発的に繁殖するということです。
今の八辻さんの状態がそれだ。コンタクティーの取材で得た知識が、八辻さんの中で増殖してしまった」
瀬能はじっと由紀子の眼を見た。
「今日はまだ時間がありますか」
「そうは時間がないんです。もうすぐ息子を迎えに行かなければならないんで」
「この間は途中で帰られてしまったから説明できませんでしたが、呪詛が増殖する過程を前に見てもらった言語シミュレーションソフトで見てみませんか。それほど時間は取らせませんから」
由紀子は腕時計を見た。まだ迎えに行くにはしばらく時間があった。
「ええ、それじゃあもう少しだけ」
「よかった。それじゃあこれを見てください」
瀬能はキーボードを操作し、以前見た小さな記号が動き回る画面を映し出した。
「前に説明したように、帽子が言語、それをかぶった顔が、その言語を使用する人間。そして、これが呪詛です」
瀬能は、モニター上に出す記号を選ぶための画面を呼び出した。いくつもの図形が整然とならんでいる。その中の歪《いびつ》な六角形を指さした。
「今モニター全体にあるのはバランスの取れた言語世界です。ここに呪詛を放ちます」
モニター上に小さな六角の帽子をかぶった顔が一塊生まれた。モノクロの画面の中で、呪咀の記号だけは赤く表示されていた。
「おおよそ三秒が一日に換算されるように設定しています」
赤く歪な六角の帽子をかぶった顔は、すぐに増え始めた。呪詛の赤い帽子はその歪さを変化させながらも、その数をどんどんと増していく。最初、小さな赤い点だったそれは、見る間に噴き出る血《ち》飛沫《しぶき》のようにモニター画面を赤く染めていく。
「どこまでも増えていくわけですか」
何か薄気味悪いものを感じて、由紀子は尋ねた。
「いえ、限界があります。ほら」
モニター全体を真っ赤に染めたかと思えた時、今度はあちこちに元のモノクロの記号が生まれ始めた。出来ていく時と同様、あっと言う間に呪詛は消えていく。
「どうして増殖が抑制されるのか、それはわかりません。ですがある程度増えた呪詛は、突然普通の言語に変化していき、呪詛の暴走はそこでストップします。呪詛は呪詛としての力を失い、再び秩序が戻る」
赤い帽子はほとんど消えていた。しかしよく見ると、正六角形の帽子は所々に生きていた。だがそれはもう赤くなく、他の言語と区別は付きにくかった。
「呪詛は、種の激減を招くことがわかっていながらすべてを食べ尽くす狂ったバッタであり、自らを維持する機能を破壊しても増殖を続ける癌細胞《がんさいぼう》である、というところでしょうか」
「これは、現実にはどのようなことを指すんでしょうか。つまりこれは……」
「たとえばUFOという単語は、未確認飛行物体という意味の英文の略称ですが、まさにそれは言語化されないものを言語化しようとした結果生まれた言葉です。ここからアブダクションやコンタクト、黒い服の男、異星人といった様々な言葉が生み出され、文章がつくられ、物語が育ち、そしてそれを語るものたちの環境を変化させていく」
「そんなことが……」
「あります。どういうわけか、UFOの研究をするものが精神的に追い詰められたり、意味不明の嫌がらせを受けたり、また霊現象まで経験したりということがよくあるんですよ。まさに今八辻さんに起こっている現象そのままだ。呪詛は認識できない世界のこの世への影響力を増し、人の認識を変え、環境を変える。その結果として、また認識できない世界の影響力が増していく。……信じられませんか」
由紀子の顔をのぞき込んで瀬能は言った。
「えっ、いえ、信じていないわけではありませんが、認識できない世界がこの世に存在すると言われても……」
「理解しにくいことはわかります。ですが、たとえば笈野は優れた嗅覚《きゆうかく》で、言語化出来ない世界を嗅《か》ぎ出すことが出来た。それゆえに人類の進化の方向性を嗅覚から見いだすんですが……。彼の主張に納得できるかどうかは別にしても、知覚しながら認識できない世界は間違いなく存在すると思います」
卓上にある電話のベルが鳴った。瀬能が受話器を取る。
しばらく応対して、受話器を由紀子に差し出した。
「あなたにお電話ですよ」
由紀子は以前の奇妙な電話を思い出して、言った。
「誰からでしょうか」
名前を告げていなかったら、出ないつもりだった。
「六人部さんという方です。若い女性ですよ」
それなら、と由紀子は受話器を受け取った。
「妙子ちゃん、どうしてここにいるのがわかったの?」
『お姉ちゃん、よく聞いて』
妙子は由紀子の質問を無視した。
『私は未来開発セミナーの参加者名簿を見て、その参加者を一人ずつ調べてみたの。最近の笈野の写真を持っていないかと思って。昔日本に送還されてきた時の写真はあるけど、最近の写真はないの。笈野の顔が知りたかったのよ。それでセミナーの参加者なら持っているんじゃないかと思ってね。それでわかったことだけど、セミナーに参加してる人のうち、五人が離婚、十六人が引っ越ししていたわ。それに三人の自殺者と二人の入院患者。はっきりとは教えてくれなかったけれど、入院先は精神病院のようだった。話をしたくないと家族や本人から言われることがほとんどだったから、自殺者や神経を病んだ人はもっといるかもしれない。未来開発セミナーがろくでもないセミナーだったってことがこれでもわかるでしょ。で、そうやって調べて、ようやく写真を持っている人物を見つけたの。それでわかったわ』
妙子はそこで少し間を置き、ゆっくりと一語一語発音してこういった。
『笈野宿禰と瀬能邦生は同一人物よ』
「まさか……」
由紀子はくるりと瀬能に背を向けた。
『写真を持ってきた女の人に確かめたわ。写真を指さして、間違いなく笈野だって言ったの。笈野宿禰が彼の本名。新聞ではその名前で報道されていたわ。瀬能邦生は笈野宿禰のローマ字の順番を入れ換えてつくった単純なアナグラムじゃないかって、私、最初にそのことを思いついた。で、ローマ字で書いて共通する文字を並べてみたら、まさしく、そのとおりだった』
「ちょっと待って」
由紀子は背後の瀬能を意識しながら、受話器をぎゅっと耳に押しあてた。
『そして今日写真を見て、疑いが正しかったことを知った。彼が〈パリのジャック〉で、『レビアタンの顎《あぎと》』の作者で、自殺者や精神に異常をきたした人物を生み出した未来開発セミナーでの講演者よ。そして今もなお殺人者で、私とお姉ちゃんの共通の敵よ!』
妙子は吐き出すように一気に説明した。
今眼の前にいる男が笈野宿禰。そして彼が久子を殺し、徳永を殺した犯人なのか。
『なんでもいいから理由をつけて、そこを出て。今すぐ』
「……わかったわ。それじゃあ、後で」
由紀子は受話器を瀬能に返した。
「どうしました。顔色が悪いですよ」
「あの、急用が出来たようで、失礼ですけれど――」
「わかったんですね。私が誰だか」
いつもと変わらぬ口調だった。
「どうして……嘘《うそ》をついたんですか」
「私がかつて殺人鬼であった、と知ったら、普通の人は嫌がるんじゃないでしょうか。少なくとも普通の態度で接してはくれない。隠す方が当然だと思いますが。でも、嘘をついたことは謝ります。すみませんでした」
瀬能は頭を下げた。
「あなたが、すべての元凶なの? 人を狂わせ、そして殺した」
由紀子はしっかりと瀬能を見つめて言った。
溜《た》め息をついて、瀬能は組んだ脚の膝《ひざ》の上に置いた掌《てのひら》を見た。
「今由紀子さんがおっしゃったような内容の脅迫状やいたずら電話が今でもありますよ。あいつはおまえが殺したんだろ、とね。ひどい時には死んだペットの犯人にされたこともある。日本に帰ってきてから何度も引っ越しをしました。しかし隠していても必ずばれるもんでしてね、今日のように。どこに行ってもしばらく経てば居づらくなってくる。もちろんそれは私の犯した罪のせいなのですが」
「アロマ・ラボとはどういう関係なの」
「あれは化粧品会社の企画開発をしているところです。私が実質的には経営者ですよ。いくつもヒット商品も出しています。元調香師としては適任だと思いますが」
「それじゃあ、未来開発セミナーでは何をしたの」
由紀子は詰問した。
「『レビアタンの顎』で書いたことを、もっと詳しく説明しただけです。未来はどのようになるかといった――」
瀬能の言葉を由紀子は遮った。
「そのセミナーの参加者が自殺したり頭がおかしくなったりしたのは何故《なぜ》」
「それは……私にはわかりません。そうだったんですか?」
「答えて。すべてあなたが仕組んだことなの? 私が経験したことすべて。そして久子や徳永の死も」
「あなたに起こっていることは、呪詛《じゆそ》が関わる事象です。あなたのその『誰かが私を陥れようとしている』という陰謀説こそ、偏執を助長し呪詛を増殖させる考え方です。そんな考え方をしている以上、あなたには不快な出来事ばかり起こることになる」
「脅迫する気なの」
瀬能はわざとらしく溜め息をついた。
由紀子はバッグを手にした。
「……私はあなたを恐れていた。今までそうは思っていなかったけど、私はあなたを恐れていたのよ。私の何かがそれを警告していた」
「当然ですよ。あなたは同志だ」
「何ですって」
「あなたは私の同志だ。あの時、二十一年前、あなたも私と同じ体験をした。そうでしょ」
二十一年前。
由紀子はその時のことを思い出していた。強烈な夏草と土のにおい。その場で気を失ったあの日。あの日からしばらくは敏感すぎる嗅覚に由紀子はずっと悩まされていた。
「ほら、覚えがあるでしょう。わかるんだ。私には同志のにおいが。だからあなたには仲間になって欲しかった」
「私はあなたを恐れている。今も恐れているわ。だから逃げようとしていたの。でも、もう逃げる気はない。私は戦う、あなたと」
「よけい、恐ろしい目に遭うかもしれませんね」
瀬能は人ごとのように言うと、魅力的とも言える笑顔を見せた。
「失礼しました」
由紀子が強《こわ》ばった顔で一礼すると、瀬能はあなたには失望したよ、と小さく呟《つぶや》いた。
2
研究所を飛び出し、由紀子はエレベーターを待った。瀬能が引き止めに来るかとも思ったが、何事もなくエレベーターの扉が開いた。
中に入ると、静かに扉が閉まる。
由紀子は壁にもたれ、ほっと息をついた。
エレベーターは各階で止まり、そのたびに人が乗ってきた。
三階も降りると、背広を着たサラリーマンや制服姿のOLで一杯になった。
電子音が鳴った。電話の呼び出し音だ。由紀子の前の男が、ゴルティエの鞄《かばん》から携帯電話を出してきた。
「はい、……ああ、そうですか。それは残念ですね」
話し始めた男に、誰かが舌打ちした。由紀子にしても舌打ちしたい気持ちだった。混雑したエレベーターの中で携帯電話を使う無神経さに腹が立った。
長髪を後ろで括《くく》っている。ブランドものらしい背広を着込んだ若い男のようだ。
と、その男が携帯電話を耳に当てたまま後ろを振り返った。
「やっと会えましたよ」
男は言った。
最初由紀子は、男が電話の向こうに喋《しやべ》っているのかと思った。が、その男は由紀子を見て微笑《ほほえ》んだ。
周囲の視線が二人に集中した。
「嫌だなあ。おぼえてないんですか。僕ですよ」
そういわれてようやく気がついた。
コンタクティーの取材で会った進藤だった。
「あっ……どうも」
突然のことで由紀子は間の抜けた返事をした。
「思い出してもらえましたか。二度、僕はあなたに会ってるんですよ。一度はここの瀬能さんの研究所で。もう一度はあなたのマンションのすぐそばで」
何か勘違いしているのではないかと思った。会ったのは一度きり、取材の時だけだ。
「あの、私は……」
誰かと勘違いしているんじゃないですか、と言おうとした。その時、扉の前にいる人たちがざわつき始めた。
――止まらないぞ。
――押してみろよ。
――押してるけど、止まらないんだ。
囁《ささや》く声は次第に大きくなっていく。
「故障だ」
「エレベーターが止まらない」
「非常ボタンを押してみろ」
どの階のボタンも押され、明かりが点《とも》っていた。しかし、その上にデジタルで示される数字はエレベーターがどの階にも停まることなく降下していることを示していた。
「落ちてるんじゃないのか」
誰かが言った。
「馬鹿なことを言うな」
慌てて打ち消す声がする。
「それなら落下感があるし、第一こんなにゆっくりとは下がっていかないだろ」
13、12、11、10とエレベーターはどこにも止まらず下へ下へと降りていく。
「どこに行くと思います、由紀子さん」
進藤はあまり気にしていない様子で話しかけてきた。耳には携帯電話を当てたままだ。答えようもなく由紀子が黙っていると、進藤は鞄の中を探り始めた。中から取り出してきたのは黒いビニールテープだった。鞄を足元に置いて、彼はビニールテープの端を咥《くわ》えた。
エレベーターは停まることなく降り続けている。ビルは地下二階までだった。そこに来れば止まるだろうと、みんなが階数の表示を見守っていた。
ところが、3、2、1、B1、B2まで来た数字は、さらにB3、B4と下がり続ける。
ありもしない地階へと向けて、エレベーターはまっすぐ降りていく。
「もうすぐですよ」
進藤はビニールテープを頭に巻きつけ始めた。耳に当てた電話も一緒に巻きつけていく。その進藤をじっと見つめているのは由紀子だけだった。他の者はみな、ひたすら下がっていく階数の表示を見つめていた。
「あなたが、あの時私を殺そうとした……」
誰に言うともなく由紀子は呟いた。
そして思い出した。進藤からもらった名刺に書かれていた会社の名前を。シンプルなデザインのその名刺にはアロマ・ラボの親会社である化粧品会社企画部の名前があった。
エレベーターが停まった。数字は地下六階を示していた。
「地下六階まであったっけ」
誰かが呟いた。あるはずのないことは、そこにいる誰もが知っていた。
「さて、扉が開きます」
進藤が言うと扉が開いた。
進藤以外、そこにいた誰もが息を呑《の》んだ。
扉の向こうに広がっているのは、赤茶けた色の砂漠だった。
薄曇りの空に太陽の姿はなかった。死んだ大魚のような雲が幾重にも重なって流れていく。
「レジャー施設か何かが出来たのかなあ」
のんびりと呟くスーツ姿の男の首に、後ろから腕が巻きついた。
進藤だった。
その時初めて周囲の人々は進藤が異様ないでたちをしているのに気がついた。
スーツの男の顔はたちまち紅潮する。魚のように口をぱくぱくさせながら、あっと言う間に男は気を失った。ブルーグレーのズボンの股間《こかん》に黒く染みが広がる。悪臭が立ち昇った。
進藤が喉《のど》にかかった腕を離す。男は砂の上にまともに顔から倒れていった。
細かな砂がスローモーションで舞い上がった。
一拍遅れて悲鳴が上がった。
牧羊犬に追われた羊の群れだ。サラリーマンやOLたちが一斉に砂漠へと逃げ出した。砂煙がアメリカ製のアニメーションのように立ち昇っていく。
由紀子はエレベーターの奥、出口から一番遠いところにいた。眼の前の進藤に魅入られたように、由紀子はその場所から動けなかった。
進藤は皆が逃げ去ってから、ゆっくりエレベーターから出た。すたすたと歩いていったかと思うと突然立ち止まり、くるりと後ろを向く。そして遊園地のアトラクションを紹介するような楽しげな声で進藤は言った。
「ようこそ、シカバネの星へ」
背広を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めた。
「残りはお嬢さんだけだよ」
シャツのボタンをはずしていく。
「あの方のところで会ってから、ずっとあなたのことを考えていた。あなたはこの星に相応《ふさわ》しい人だ。一目見てわかったよ。あなたがこの星で暮らしていけるようにしてあげる。あなたは肉にならない。美しいシカバネのミューズになるんだ」
シャツも脱ぎ捨てると、引き締まった進藤の上半身が露《あらわ》になった。
進藤はマジシャンのように両腕を由紀子に突き出した。
その両腕に力がこもった。筋肉が盛り上がり、浮き出る血管が網のように皮膚に走った。
進藤の皮膚が、空と同じ陰鬱《いんうつ》な灰色になっていく。
まるで皮膚の下から金槌《かなづち》で打ち出しているように、瘤《こぶ》がいくつも盛り上がっていく。生まれた瘤は皮下を移動し、数を増し、融合し、分離し、やがて進藤の両腕は葡萄《ぶどう》の房のように変わり果てた。
長く太い指の先には青灰色の鉤爪《かぎづめ》が生えている。
「……怪物」
由紀子は呟《つぶや》いた。
「嫌だなあ、怪物だなんて」
進藤は照れているようだった。
「あなたね」
由紀子は進藤を正面から見据えた。
進藤は首をねじり、空を見上げ、そして吠《ほ》えた。
それは歓喜の咆哮《ほうこう》だった。
「あなたが殺したのね」
「誰を? 沢山いるからわからないよ」
進藤はすまなさそうにいった。
「小来栖久子と徳永新一」
「久子? 女はわからないな。でも、男だったらただ一人。名前までは知らないけど。だけど子供を迎えにきた若い男だった。あなたの息子を迎えに来たんだ。本当は女の人だって聞いてたんだ。神様の御指名だったからね。そう、確かに殺した。でもね、残念だけど男にはこの星に住む権利はないんだ。だから彼はただ死んだだけ。かわいそうだね」
「神様って誰」
「シカバネの神様さ。知らないのも無理はない」
進藤は喉の奥で咳《せ》き込むように笑った。
「僕だってあんな近くに神様がいるなんて知らなかったんだからね」
進藤が首を傾げた。
携帯電話からの話に耳を傾けているようだった。
「ああ、伝えますよ。……あのね、神様が言ってるよ。君には失望したって。よけいな詮索《せんさく》をせずに、大人しく新しい世界に加わればいいのに、だってさ」
瀬能だ。
進藤を操っているのはやはり瀬能だったのだ。
「さあ、始めようよ。儀式さ、簡単な。この星の住人になるための」
進藤は長くグロテスクに変形した腕を開き、出口を塞《ふさ》いだ。
逃げる方法があるはずだ。
立ちふさがる進藤を見ながら、由紀子は考えをめぐらせていた。
瀬能の話に当てはめれば、ここはもう一つの世界と現実が重なって生まれた世界、呪詛《じゆそ》的空間だろう。今眼の前にあるものはある種の幻であると言ってもいい。視覚や聴覚といった感覚器は、純粋に現実の世界を捉《とら》えているはずだ。だがそれと重なったもう一つの世界をも知覚は捉えている。そしてその知覚を認識しようとする脳が呪詛を生み、現実とは異なったこの空間を造り出しているのだ。
知覚は正しいが認識が誤っている。
それならば認識しなければ、原初的な知覚に身をまかせれば、そこにあるリアルな現実を感じとれるはずだ。
そこまでは由紀子も考えたが、だから何をすればいいかまでは思いついていなかった。
醜悪に肥大した瘤だらけの腕が、由紀子の首に伸びた。
由紀子はその手の下をかいくぐって外に飛び出た。
「鬼ごっこだあ。いいかい。十数えるよ。いち、にい、さん」
はしゃぐ進藤の声を背に、由紀子は走り続けた。
わざとだ。
由紀子は思っていた。進藤はわざと私を逃がした。進藤はいつだって私を捕まえられるのを知っている。だから逃がした。そうやって遊んでいるのだ。
進藤の数を数える声が小さくなっていく。
もう息が切れてきた。
心臓が面白いほど激しく脈打っている。
砂に埋もれる足が重かった。
それでも両腕を振り、両脚を必死になって動かしながら考えた。
逃げる方法があるはずだ。この世界は幻でしかない。本当の世界に重なって見える幻なのだ。そしてその幻をつくっているのは由紀子自身だ。幻に欺かれないようにするためには直感的に行動すればいい。考えず、見ず、聞かず。そうすれば幻は消えるはずだ。
由紀子は正面を見た。そこに変わったものは何もない。ただ砂漠がどこまでも続いているだけだ。
由紀子は自らに言い聞かせた。
あそこには砂漠なんかないし、雲も空も何もない。あそこがこの世界からの出口よ。今走っている私の眼の前。一歩足を進めるこの先に出口がある。私は今もあのビルの中にいる。
しかしいくらそう思い込もうとしても、眼の前にははっきりと砂塵《さじん》を巻き上げる砂漠が見えている。
由紀子は眼を閉じた。
信じるの。ここはビルの中。ビルの中。エレベーターを降りたところ。
「見いつけた!」
真後ろで声がした。
気にすることはない。すべて幻なんだ。何も感じない。何も考えない。
「捕まえた!」
進藤が瘤だらけの長い腕を伸ばした。
「それっ!」
由紀子は声をかけ、大きく前に跳んだ。
その背中を剃刀《かみそり》のような進藤の鉤爪がかすめた。
3
つきあい悪いよな、と言いながら去っていく友人たちを見送って、毅は力なく校門に向かった。
最近マザコンと渾名《あだな》をつけられた。誘いを断る口実が「お母さんに言われたから」ばかりだからだ。
背を丸めとぼとぼと歩く子供ほど脆弱《ぜいじやく》に見えるものはない。今の毅では、落ちてきた木の葉にでも押し潰《つぶ》されそうだった。
「こんにちは、毅君」
正門を出たところで声をかけられた。
痩《や》せた中年の女が、満面に笑みを浮かべて毅を見降ろしていた。
「こんにちは」
毅は礼儀正しくお辞儀した。
「隣の福田よ。知ってるわよね」
毅は首を縦に振った。何度か挨拶《あいさつ》をしたことがあった。毅たちの間では彼女の娘の方が有名だった。マツヤの毒女、それが福田の娘に付けられた渾名だ。マツヤというゲームセンターに彼女はいつも立っていて、同年代の子供を見つけると近寄って「毒で頭溶けるぞ」と呟《つぶや》くのだ。
何人もの子供が目撃しており、学校ではその噂《うわさ》が大きく広がっていた。毅も友達と二人で〈マツヤの毒女〉を見に行ったことがある。その時毅は、痩せた顔色の悪い少女が、何をするともなくマツヤの中をうろついているのを見た。あれが〈マツヤの毒女〉だ、友人に耳打ちされた時少女と眼が合い、毅は友人らと奇声を上げながら走って逃げた。
彼女の噂は学校内ですでに伝説と化していて、嘘《うそ》だ、と答えるとその場で頭が溶けるとか、家に電話がかかってきてお父さんの頭が溶けたとか、様々なバリエーションを持った怪談へと変化していた。
だからマンションで娘連れの福田と出会ったときは、失禁しそうなほど驚いたものだった。
福田は一人ではなかった。隣に、太った女がいた。ちりちりのパーマで、ただでさえ大きな頭が倍ほどにも見えた。
「この人は岸里美さん。おばさんのお友達よ」
「初めまして、毅くん」
岸はにこりともせずに、掠《かす》れた声でそう言った。
「初めまして」
毅が頭を下げると、岸はしゃがみ込んで毅の頭を撫《な》でた。
「賢いのね、毅くんは」
毅には岸が不潔に思えた。どこがどうというのではないのだが、全体に薄汚れた印象があるのだ。頭に載せられた手から何かがうつりそうで、毅は気味が悪かった。
「今日はね、おばさんたち、お母さんの代理でここに来たのよ」
岸の隣に座り込んだ福田が、毅に顔を近づけて言った。
生臭いにおいがした。
「代理?」
「そう。お母さんは急用があってここに来れないんだって。だからお母さんに頼まれてここまで毅くんを迎えに来たのよ」
「またなの」
徳永の時のことを思い出して毅は言った。徳永が死んだことを、由紀子は毅に伝えてはいなかった。
「また?……そうよ。またなの。お母さんは勝手ね」
福田は嬉《うれ》しそうに笑いながら立ち上がった。
「さあ、一緒に行きましょうか」
毅の手を握る。
「どこに行くの」
「毅くんのお家《うち》よ。私たちが送って上げるの。そうしてくれってお母さんに頼まれたのよ。さあ、行きましょ」
それは直感でしかなかったが、この二人と一緒に家に向かうのは嫌だった。だがこの場から逃げ出すのも悪いような気がした。
毅は辺りを見回した。まだ母親は迎えに来ていない。
「あの……」
「なあに」
「僕、教室に習字の道具忘れてきちゃって」
福田と岸が顔を見合わせた。
「あら、おばさんが取ってきて上げようか」
岸がじっと毅を見降ろしながら言う。
「いえ、あの、僕、取ってきます」
毅は福田の手を振り切って、学校へと走っていった。福田たちはその背中で揺れるランドセルをじっと見つめていた。
4
勢いよく由紀子は中年のサラリーマンにぶつかった。
はっと息を呑《の》み辺りを見回すと、そこは瀬能のいるビルの一階だった。憮然《ぶぜん》とした顔の男にとりあえず頭を下げる。
後ろを見るとエレベーターの扉が開いていた。中には誰も乗っていない。
「成功した……」
由紀子は一人呟いた。
自分でやっておきながら、由紀子はその結果が信じられなかった。
由紀子は膝《ひざ》に両手を置き、前屈《まえかが》みになって肩で息をついた。
笑い声が聞こえた。
それが自分の笑い声であることにしばらく気がつかなかった。気がついてからも、由紀子は笑うのを止めようとはしなかった。周囲も気にせず、由紀子は発作のように笑い続けた。
「お姉ちゃん」
声を掛けられ、由紀子は顔を上げた。
そこに妙子が不安そうな顔で立っていた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「成功したのよ」
妙子に抱きついて歓声を上げたい気分だった。
「私、助かったのよ」
由紀子は妙子の両手を包み込むように握った。それから改めて眼の前の妙子の存在に気づいたように、言った。
「妙子ちゃん、どうしてここに」
「すぐそこから電話したの。お姉さんの家に電話したらいなかったから、最初は毅君を迎えにいったのかと思ったけど、少し時間が早かったし、もしかしたらと――」
「いけない」
由紀子は腕時計に眼をやった。
「もうすぐ学校が終わるわ。急がなくちゃ」
由紀子は妙子の手を引いて駐車場に走った。
駐車場に駆け込んだ由紀子は、ロックが開くのももどかしそうに、助手席にもぐり込んだ。
「本当にとばしていいのね」
「後一時間ぐらいしかないわ」
「それじゃあ、とばすわよ」
「ちょっと待って」
由紀子は慌ててシートベルトを締めた。妙子が免許を取って間がないことを思い出したからだ。
「発車!」
掛け声とともに、軽四輪は急加速をした。窓やダッシュボードが振動で悲鳴のような音をたてた。
由紀子は早速、今見聞きしてきたことすべてを妙子に話した。
「結局、瀬能は白状したも同然よ。彼がすべてを引き起こした。妙子ちゃんの言うとおりだった」
「私、お姉ちゃんが出てきたら、瀬能と戦うつもりだった」
「私を残して?」
「だって……」
「宣戦布告しちゃった」
由紀子は前を見つめて言った。
「えっ?」
「おまえと戦うって、瀬能に」
由紀子は妙子を見た。
「妙子ちゃんに協力するわ」
「お姉ちゃん、それは――」
「妙子ちゃん、前!」
赤信号を無視し、横断する親子連れを、タイヤを鳴らしてぎりぎりで妙子は避《よ》けた。
そこから学校までの道程は、由紀子にとって怪物に襲われる以上の恐怖だった。他の車にもぶつからず、誰も殺すことなく車が学校の近くで停止した時、由紀子は思わず神に感謝した。
「あっ、毅くんだ」
「一緒にいるのは福田だわ」
由紀子はびっくり箱から飛び出す道化の勢いで車から降りると、毅の名を叫びながら走り寄っていった。
「お母さん」
心細かったのか、毅もすぐに駆け寄ってきた。
由紀子は毅を抱き締め、何もされなかった、と小声で聞いた。うん、と首を振る毅を、由紀子は頼もしいと思った。
「ほらね、因縁で結ばれてるから、こうして何度も会うでしょ」
福田が言った。
由紀子は立ち上がると、毅を自分の後ろに隠すようにした。
「息子をどうするつもりだったの」
「どうもしないわ。マンションに一緒に帰ろうと思って」
「お母さんに頼まれてきたって……」
毅が由紀子の後ろで言った。
「そんな嘘《うそ》をついて、息子をどうするつもりだったの」
由紀子は福田を睨《にら》みながら、一歩前に出た。胸の奥がかっと熱くなり、顔から血が引いていく。
由紀子は生まれて初めて、他人のことを殺してやりたいと考えた。
「だから、何もするつもりはないわ。我々はあなたたちを助けたいだけよ。妄信的に現世にしがみついて、あげく悪魔に身を売ってしまったあなたたちを」
福田の台詞《せりふ》を、妙子が鼻で笑った。
「誰」
岸が路上の泥酔者でも見るような眼で妙子を見た。
「私の友人で六人部妙子さん」
己れの声が異様なほど落ち着いているのが奇妙だった。
「あなたと同類ね」
岸は妙子を睨みつけた。妙子も負けずに睨み返した。
「瀬能に頼まれて私を連れまわしたのね。毅から引き離すために」
「あの方と呼びなさい」
岸が由紀子の台詞を訂正した。
「あの方の命令ではありません。でもね、私たちにはわかるの。あの方が何を考えておられるか。だから進んで奉仕をするのよ。来たるべき世界のためにね」
「どちらももう救うのは無理よ、福田さん。諦《あきら》めましょう」
「駄目なものは駄目ってことね」
哀れむような眼で二人を見ると、福田は大きく溜《た》め息をついた。
「あなたにはわからないわ。きっと一生わからない。だってあなたたちはすでに毒想念に侵されてしまっているんですものね。でも、もうすぐ後悔するわ」
「さあ、行きましょう」
由紀子は毅の手を引いた。この場に居続けると、発作的に福田たちに襲いかかりそうだった。
「マンションに帰るのかしら」
意地の悪い目で福田は由紀子を見た。
「あのね、例のセミナー。マンションの近くで開かれたから、この近所の人は随分沢山参加したのよ。マンションの住人だっていっぱいいたわ。誘い合わせていったから、ほとんどの家で参加してたんじゃないかしら。誰かさんのように、普段から隣近所とつきあいのない人は知らないだろうけど」
「お姉ちゃん、これ以上こんな人たちと喋《しやべ》っていても仕方ないわ。私たちの敵はただ一人よ」
妙子はさっさと車に戻っていく。由紀子もその後に続いた。
「どこに逃げるつもり」
由紀子たちに後ろからそう呼びかけると、福田と岸は声を揃《そろ》えて笑った。
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[#地付き]1980年 4月 ガンダルヴァ
「君は新しい知覚を手にいれ、それを理解することが出来た。だが、理解することがヒトの限界なのだ。それゆえに君はヒトでしかない」
サトパティの、いや誰のともわからぬ声はなおも喋り続けている。
笈野は辺りを見回した。どこかに隠れている誰かがいるのではないかと。
サトパティの立っていた後ろの土壁。そこにじりじりと黒い影がしみのように広がっていく。
次第に姿を現すそれは蜘蛛《くも》に似ていた。黒く、巨大な蜘蛛に。
蜘蛛の影はやがて黒いレリーフとなり、ふつり、と壁から離れると床に腰を降ろした。
蜘蛛などではなかった。それは壁を背に床にあぐらをかき、一見すると行者《サドウ》のようであった。ただし二対の腕を持ったサドゥだ。その内二本は脇《わき》のあたりからだらしなく垂れ下がっており、残り二本は肩から微妙にずれた位置に生え、膝《ひざ》の上で掌《てのひら》を重ねていた。
肌は浅黒く、腰に布を巻いただけの裸同然の姿で、黒い果実のような豊かな乳房を露《あらわ》にしていた。
長く黒い髪を後ろに束ねたそれの眼や鼻や口は、わずかに渦を巻くように歪《ゆが》んでいた。唇は半ば開かれ、そこから長い舌が、口の中に入り込もうとする異生物のようにだらりと垂れている。その尖《とが》った先から、泡混じりの唾液《だえき》がポタポタと滴っていた。が、それでもそれの喋る言葉は明瞭《めいりよう》に聞こえた。
「できれば彼らの邪魔をしないで欲しい。虫のいい頼みかもしれないがね。君がそうなった責任は我々にあるのだから。しかしできるのなら、彼らをそっとしておいて欲しい」
「おまえは……何者だ」
笈野が掠《かす》れた声で言い、黙り込んだ。
「君は何でも知っているんじゃなかったのかね」
歪んだ口でそれは言った。
「……おまえたちは、人間とは別の生き物なのか」
「私は君と同じ人間だ。少し個性的な容姿をしているがね。だが、子供らは違う。君の言ったとおり人とは異なる種の生き物だ。外見は君と変わりないのだが」
「彼は……」
眼を見開き直立不動の姿勢のままマネキンのように横たわっているサトパティを、笈野は見た。
「彼は役者だ。我々の傀儡《かいらい》にしか過ぎない。君たちの言葉を使えば、私が憑依《ひようい》していたとでも言えばいいのかな。私のこの姿では国王に相応《ふさわ》しいとは思えなかったのでね」
「それではおまえがこの国の王なのだな」
「王などいないのだよ。彼らに支配、被支配という関係は存在しない。存在し得ないんだ。そして私は彼らと人を繋《つな》ぐメッセンジャーにしかすぎない」
「おまえは何者なんだ」
「私こそ君の同志だよ。しかし、誰と言えばいいのだろうね。この頭と二本の腕はナバル・エリエゼルのものだ。黒い肌と胸はソーマと名乗る女のもの。残る二本の腕はタグの首領のもの。あの時、我々は分解され、この地、この時代に飛んだ。そして再びすべてがいり混じった姿で構成された。いささか不便だが、この姿を得たおかげで今私はマハーカーリーと呼ばれている。かつて私の命を奪おうとした彼らによってね。君をここまで連れてきた男たちだ。彼らはタグと呼ばれた男たちだ。半世紀以上も前、マハーカーリーのお告げによってプルシャを殺そうとした。人に災いを為《な》すものとしてね。しかしそれは失敗に終わり、今ではプルシャを守護する立場にある。そこまで見とおしてカーリーは彼らに命じたのかもしれないがね」
「プルシャ……」
「確か君は非時香《ときじくのかぐの》童子《わらし》と呼んでいたんじゃないのかね。永久に香《かぐわ》しい童子。美しい呼び名だね。君は優れた芸術家だと私は思うよ。彼らとともに行動できないことが残念だ。君のような力を持ったものは太古から存在していた。犠牲者の血を求める荒ぶる神の姿としてそれは記されている。確かにアステカの神がそうだ。しかし新しい時代になれば、それは神から怪物へと引きずり降ろされる。血を吸う悪魔にね。今となっては、君の持っている力はたかだか見世物にしか過ぎないんだ。私の場合は外見もそれに相応しいがね」
それは乾いた声で笑った。
「私と奴《やつ》らとはどう違うというのだ」
笈野は顎《あご》で外を指した。
「君は新しい知覚を得たにしか過ぎない。彼らは新しい脳を得たのだ。我々の知り得ない世界に生きるものが彼らなのだよ」
「私も、私もあの世界を知っている。あの世界に生きる者なんだ」
「ならばすぐにここを訪れようとしたはずだ。すべてを理解し、すべてを知っているのなら。しかし君はそうしなかった。君の罪を問うているわけではない。いずれにしろ彼らは善悪とは異なる世界へいくのだから」
「異なる世界に、行く……。ここに永住するのではないのか」
「君の言ったようにそれは不可能だ。だから彼らはプルシャの導きでこの世界から離れる。そしてもう二度と戻ってこない」
「私はどうなる」
笈野はまるで親に捨てられる子供のような顔になった。
「私だってこうしてここを訪れているじゃないか」
「悪かったとは思っている。責任が我々にあることはわかっている。しかし無理なんだ。あれはあの時胎内にいた者にだけ決定的な影響を与えた。外にいる二歳児たちが、君の言う非時香童子となった。すでに成人だった君には、異なった脳を得ることはできなかったんだ」
「何の話だ。あの時とは何のことだ」
カーリーと名乗った異形の者が立ち上がった。ぎくしゃくと笈野へと近づいてくる。一本の腕が笈野に伸びた。反射的に避《よ》けようとすると、腕を掴《つか》まれた。
どん、と頭の中で何かが膨らんでいった。
闇《やみ》とともににおいが訪れた。神秘的なにおいだった。笈野の特殊な嗅覚《きゆうかく》は、それが〈知〉のにおいであることを直観的に理解していた。
そしてそれは始まった。
笈野の頭の中で何かが炸裂《さくれつ》した。そこにびっしりと詰まっていた藁《わら》が一本ずつ抜けていくかのように、思考が鮮明になっていく。世界が徐々に明らかにされていく。
笈野はがくりとひざまずいた。
あの時の情景がありありと浮かんでくる。
あの時。
二十世紀初頭、インドでプルシャが生まれた。プルシャ。|黄金の胎児《ヒラニア・ガルバ》とも呼ばれる語り得ぬ者の王。人類から生まれ人類でなかった初めての種。
プルシャはその力で己れを保護する者たちを造り上げた。それは雛鳥《ひなどり》が親を求めて鳴くと同じ、生まれついて持った力だった。男でも女でも、プルシャの操るにおいによって〈プルシャを保護する母性〉を与えられ、その世話をした。世話をする者たちは〈ソーマ〉と名乗った。〈ソーマ〉たちの手でプルシャは育てられた。あの時まで。
あの時、プルシャは敵に襲われた。その存在を悪しき者と捉《とら》えた者たちによって。そして〈あれ〉が起こった。プルシャはその絶大な力を解放した。その場にいたすべての者――たまたまスイスからやってきていたユダヤ人の青年、ひとりの〈ソーマ〉、タグの首領――は二十世紀後半まで半世紀以上の時を跳んだ。プルシャにとっては時間も空間も同じようなものだった。百キロも一センチも、一秒も百年も。その単位は勿論《もちろん》、時と空間というもの自体がヒトのつくりだしたものでしかない。プルシャはただ敵と離れようとしただけだったのだ。
空間が歪《ゆが》み時間が寸断されやがてそれが再構成するまでを笈野は追体験していた。
それは痛みだった。
そして快楽だった。
渾沌《こんとん》と豊潤の香りがすべてを律していた。これと似た経験を笈野はしていた。あの時、パリの公園で、鳩に餌《えさ》をやりながら。
似てはいるがその力には大きな差があった。あの時は世界が解体するような衝撃だと感じていたが、今体験していることに比べればセーターの上に蝶《ちよう》がとまったほどの刺激でしかなかったことがわかる。
あの時。プルシャが半世紀以上の時を超え再びこの世に現れたあの時。プルシャの力は無制限に世界へと影響を与えた。まだ生まれて間もなかったプルシャは完全に彼の力をコントロールすることが出来なかったのだ。そのために世界中の人々に影響を与えた。だが、それは新しい世代の播種《はしゆ》でもあった。プルシャの力のシャワーを胎内で受けたものは、誰もがプルシャと同じ世界にすむことを予《あらかじ》め定められてしまった。
世界中で生まれるプルシャの子供たち。
「というわけだ」
カーリーの声が聞こえた。
ゆっくりと眼を開く。
眼の前にカーリーが立っていた。
「残念なことだがあの瞬間プルシャの力の影響を受け発狂した者が多数いる。自殺した者もいる。嗅覚に異常が生じた者はその数倍いる。そのひとりが君だ。君はあの時の犠牲者のひとりだ。残酷なようだが仲間ではない。彼らと同じにはなれないんだ」
「どこに行く気だ」
蒼《あお》ざめた顔で笈野は言った。
「おまえたちはどこへ行く気だ」
その声にかつての力はない。
「私は行かない。行くことができないんだ。君のようにね。しかし彼らは行く。あの世界へ。君も知っているあの世界の中へ」
バラバラとヘリコプターのローター音が聞こえた。
「もう時間がない」
「あれは軍用ヘリの音か」
「そう、とうとう軍が動き出したようだ」
「行くのか」
「もう準備は整っている」
「私も」笈野はカーリーの前にひざまずいた。「私も連れていってくれ」
カーリーは哀《かな》しげに首を振った。
長い舌の先から唾液《だえき》の滴が飛んだ。
「なあ、頼む」
見上げた笈野の額に、カーリーが触れた。
遠くでタンタンと銃弾の音がした。
笈野が、カーリーが、そして倒れたままのサトパティの姿が急に厚みを失った。
同時にその色彩が水に流れるように消え去っていった。
三人はモノクロの映画のような何かになった。それはひび割れ明度を増したかと思うと、ひときわ明るく輝く光になって、消えた。
何度か大きな爆音がし、大地が揺れた。まるで神の怒りが雷となって叩《たた》きつけられたようだった。
[#改ページ]
第六章 真那賀《まなか》
1
どこに逃げるつもり。
助手席に座り、由紀子はどこを見るともなくウインドーを流れる景色を眺めていた。その頭の中で、福田の言葉が何度も何度も繰り返し聞こえていた。
福田の言葉は真実だ。三人に逃げる場所などない。マンションに帰っても、たとえ実家に逃げ帰ろうとも同じだ。進藤の、そして瀬能の襲撃からいつまでも逃れられるわけでもない。毅を今までのように守り続けられるかどうかも疑問だ。今日にしても危ういところだったのだから。いずれにしても今まで通りの生活を続けることは、もうできない。
だから、と由紀子は思った。
妙子を見ると、彼女は由紀子の決意を知っているように頷《うなず》いた。
「そうね、お姉ちゃん」
「妙子ちゃんも行く気なんでしょ」
「当たり前よ。刺し違えても徳永の敵《かたき》をとってやる」
車は再び瀬能の事務所に向かっていた。
すでに陽が傾きかけている。ビル群に埋もれ見えない夕日が、街を赤く染める。まるで繁殖した呪詛《じゆそ》が街を埋め尽くしているように。
福田たちに感じた殺意は、今はもうない。興奮した反動で脱力感に襲われ、手足が氷のように冷えていた。
しかし、由紀子の決意は変わらない。瀬能の罪を暴き、そして……。
勢い込んで瀬能の事務所に乗り込んだ三人だったが、事務所に瀬能はいなかった。アロマ・ラボの方に行った、と残っていた若い社員は愛想なく答えた。
三人は住所を頼りにアロマ・ラボへと向かった。
それは本当に由紀子のマンションの眼と鼻の先にあった。白いその三階建ての建物はおしゃれなマンションのようにも見え、研究所という雰囲気はなかった。
それは、塀で囲まれた広い庭の中央に置かれたお菓子の箱のように見えた。
車から降りて、由紀子はふと毅を見た。瀬能のビルには勢いにまかせて三人で入っていったが、やはり毅を連れていくのは危険なのではないかと思ったからだ。
毅はほとんど事情を知らないはずなのに、何かただならぬ母親の決意は感じたのだろう。唇をきっと結んで、言った。
「僕も行くよ。お母さんと一緒に」
由紀子は妙子を見た。どうすればいいのかわからなかった。
「言っときますけど、私は行くわ。毅くんとお留守番は嫌よ」
「僕も留守番は嫌」
逡巡《しゆんじゆん》はわずかだった。由紀子は毅を連れていくことを選んだ。ここに残していけば、どのような決着を迎えたにしろ、由紀子も毅も後悔するに違いないと考えたからだ。
門扉のインターホンで来訪を告げると、自動的に扉が開いた。建物まで続く石畳を越え、スチールの素っ気ない扉の前に立つ。
監視カメラが落ち着きのない兎のように三人の顔を交互に見回した。
門前払いされたら、泥棒のまねごとをしても中に入り込むつもりだった。
しかし、お入りくださいの声とともに、扉はあっさりと開いた。
中に入ると抽象的な彫刻の置かれたホールがあり、そこに警備員が待っていた。
警備員に連れられるまま、三人は長い廊下を歩いた。廊下の片側はガラス張りで、そこから広い実験室が見えた。
白一色の室内は、蒸留器の大きな銀のタンクや、硝子製《ガラスせい》の実験器具が並べられ、その間を白衣の男女が機械のように静かに動き回っている。香料の中には危険なものもあるのだろうか。何人かはガスマスクをつけていた。研究所というよりは清潔な工場を思わせた。
ポップな絵柄の屏風《びようぶ》で仕切られた応接室に二人は案内された。
大きなソファーに腰掛けると、すぐにコーヒーが運ばれてきた。が、瀬能はなかなかやって来ない。
「こちらから押しかけてやりましょうよ。じゃないと、逃げられちゃうわ」
じれた妙子が言う。
「瀬能は逃げないわ。やつは私たちなど相手にしていない。たとえ気にしていたとしても、そういうポーズをつくるためにもここに現れる」
「ポーズ……ですか」
瀬能が入ってきた。
白衣を着た瀬能は、ドラマの中の優秀な外科医のようだった。
「もう言い逃れは出来ないわよ」
妙子が立ち上がりかけた。由紀子はその肩を押さえて言う。
「進藤が言ったわ。あなたの命令で久子やジャムを殺したって」
「呪詛は人をパラノイド性格に変えます。パラノイド性格の人物は、疑い深く、傷つきやすい。そして誇大な自己像を持ち、それを維持するために他者に対して攻撃的になる。だから呪詛の影響を受けた人間は必ず敵と味方をつくります。ないはずの敵をね。そして敵をつくったことで、より偏執的状況にその人間は追い込まれていく。しかし、不思議なものですね。どういうわけか、呪詛の影響を受けた人たちの中には、私の存在に勘づくものがいました。直観的にその存在を知るのでしょうね。知ったものは、やはり二派に分かれる。私の味方となるものと、私と敵対するもの。ジャムも久子さんも、私の存在に勘づき、邪魔しようとした」
「だから、殺したの?」
喉《のど》から絞り出すように由紀子は言った。怒りを抑えようとすると、自然とそうなった。
あまりの怒りのためだろうか、急に頭痛が始まった。こめかみが締めつけられるように痛む。
「直接には殺していませんよ。手を下したのは、あなたたちもご存じのように進藤くんです。彼はすぐに呪詛の影響を受けた。呪詛の影響を受けた人間の行動は、私には手にとるように分かる。たとえその人物が何処《どこ》にいても。そして呪詛の影響を受けた人間を操ることは容易《たやす》いことだ。
私の『レビアタンの顎《あぎと》』は読んでいただきましたよね。あの本に書いたように、私は世界というものを、言語以外の方法で認識できる。そう、においでね。だからこそもう一つの世界の存在を知った。私が今見ている、いや、嗅《か》いでいるこの世界を皆さんにも教えて上げたいですね。
そして、嗅覚《きゆうかく》で知り得た情報を私は言語によって再構成することが出来ます。それがどういうことかわかりますか。私は呪詛を自由に操れるんですよ。私には、それが人にどのような影響を与えるかがわかる。それが空間にどのような影響を与えるかがわかる。私は呪詛によって、もう一つの世界のこの世界への影響をコントロールできる。つまり呪的空間の中では、私は神同然の存在になるんです。だから私は呪的空間を増殖させた」
「いったいどうやって」
そう言った由紀子には、自分の声が自分のものでないように聞こえた。まるでテープレコーダーに録音された自分の声を聞いてでもいるようだ。話す自分と、それを聞いている自分が分離してしまったようだった。
声だけではなかった。自分を見降ろしているもう一人の自分がいるかのように、今眼の前で起こっていることから現実感が失われている。
前で喋《しやべ》り続けている瀬能が、まるで映画の中の人物のように思えていた。
「『レビアタンの顎』は一般書店で売られている以外にも、限定版として出された別の版がある。そう、八辻さんにお貸ししたあの本です。あれのどの部分が書店で売られているものと違うと思いますか」
「表紙よ。表紙のタイトルの色が違った」
由紀子はそう答えた。その声に表情がない。平板な機械的な声だった。その機械的な声を、別の自分が聞いている。
「さすがにノンフィクションライターだ。観察力が優れていますね。市販本はタイトルが緑、限定本は赤でした。たかだかそれを変えるだけで、何故《なぜ》限定本として出されていたのか、その意味をお考えになったことはありますか。限定版の表紙はシルクスクリーンで刷られています。特殊なインクが使われているからです。そのインクはこのアロマ・ラボでつくられたものでした」
何故、この男の長口上を、私は黙って聞いているのだろう。
映画の中の登場人物に問いかけるように、由紀子は自分自身に問いかけた。
それに、あれだけ気がはやっていた妙子が、どうして何も口を挟まないのだろう。
そう考えながら、由紀子はよく動く瀬能の唇を眺めていた。
「タイトルに使われている赤い文字のインク。その中には微小なマイクロカプセルが混入されていたんです。ご存じありませんか、一時期、においのする印刷物がはやったことを。カプセルの中には香料が入っていましてね、それが爪《つめ》などで擦《こす》れると破れてニオイがする。結構長い間ニオイが消えることはない」
空調のせいだろうか。空気が乾いていた。
鼻の奥が乾燥して痛み始めた。その痛みだけはリアルに感じることが出来た。
「さて、タイトル部分にはどのようなニオイが封じ込められていたと思いますか。それは、人間の驚愕物質《きようがくぶつしつ》なんです。たいていの生き物は己れの敵をニオイで判断する。敵のニオイの原型が、生まれた時から遺伝子に組み込まれているんじゃあないでしょうか。そのニオイの原型を嗅げば、不安になり、恐怖を感じるように生き物は出来ている。そのニオイを与える物質が驚愕物質です。私は人間の驚愕物質を合成した。そしてそれをマイクロカプセルに封じて、あの本のタイトルに刷り込んだ」
由紀子は、初めて家で『レビアタンの顎』を開いた時、原因不明の不安感に襲われたことを思い出した。そして、由紀子を襲った怪奇な現象はすべて、その日を境に起こるようになったのだ。
由紀子は人ごとのようにその時のことを思い出している。歴史書で過去の人物の話を聞いているようだ。一つ知識が増えた、という以上の感慨がない。
「人の驚愕物質といっても、その効果はわずかなものでした。特に嗅覚の衰えた人間にとってはね。ですが『レビアタンの顎』には呪詛《じゆそ》が、呪的な言語がふんだんに使われてあった。呪詛と驚愕物質、この二つが人間に与える影響は、私自身驚いたほどでした。
私はたった千冊の本を限定本として配っただけだったんです。ちょっと実験的な試みとしてね。それなのにその効果は加速度的に波及していった。この街いっぱいに呪詛が広がるのに、たいして時間はかからなかった。呪詛は呪詛的空間を生み、呪詛的空間は呪詛を育てる。あのね、良い事を教えて上げましょうか。このアロマ・ラボは都内でつくられている幾つかの新しい施設にスペース・パフューマーとして参加しているんです。聞き慣れない言葉でしょうね。空間において香りの演出をする仕事、とでも言えばいいのでしょうか。パフューム・マシンという機械と空調システムを使うことで、建物全体の香りを演出するわけです。さて、そこに驚愕物質を流し込んだらどうなるでしょうか。わずかな期間で、東京という都市全体が呪的空間に変じるでしょうね。それだけではない。我々の仕事は好評でね。日本中から、いや海外からも問い合わせが来ている。やがて世界中が呪的空間となることでしょう。あなたたちが逃げなかったのは賢明だ。あなたたちがどこに逃げようと、私の嗅覚はあなたたちを追い続けていた。私の力は神同然です。もう遅いんですよ。レビアタンの顎はすでに開き始めている」
瀬能は自分の力を拡張するために、恐怖を餌《えさ》として、植木でも育てるようにして呪詛的世界を育ててきたのだ。
由紀子はそのことを恐ろしいとも腹立たしいとも感じていなかった。熱弁を振るう瀬能をぼんやりと眺めているだけだ。
目に映るものすべてが平板に見えていた。それはまるで一枚の写真のようだった。細部に眼をやれば、微細な部分まで視覚に飛び込んでくる。コーヒーカップの上に浮かぶミルクの皮膜。喋る瀬能の唇の皺《しわ》。屏風《びようぶ》につけられた指紋の形状まで。だがそれは精密に描かれてはいるが、少しもリアルでなかった。見えるものから現実感がごっそりと抜け落ちていた。自分が何処にいて何をしているのか、理解はしているがそれだけだ。誰かの履歴書に目を通しているのと変わりない。
ただ気になるのは、乾燥した空気が与える不快感だけだ。
瀬能の話は続いた。
「私のような人間は、つまり特殊な嗅覚《きゆうかく》でもう一つの世界の存在を知った人間は、昔からいたようですね。それはその優れた能力のために、神と崇《あが》められていたに違いない」
ああ、これは罠《わな》だったんだ。待たされている間に、瀬能は何かを仕掛けていたんだ。多分、彼の得意な、何かのニオイをばらまいたんだ。私たちの精神に影響を与えるガスのようなものを。それが私から現実感を奪っているんだ。
どこかから、そんな自身の独白が聞こえていた。まるで居眠りしかけながら聞いているラジオのようだ。
このままでは駄目だという思いはあった。だが、その思いも、何が駄目なのか、どう駄目なのか、どうすればいいのか、矢継ぎ早に浮かぶ幼児のような質問に押し潰《つぶ》されて消えていく。
混乱する自分と、それを傍観するだけの自分が完全に分離していた。
眼の前から色彩が失《う》せていく。洗い流すように景色から色がなくなっていく。由紀子が今見ているのは、一枚のモノクロ写真だった。
そのモノクロの風景の中で、瀬能が笑っている。
「日本でも神聖な山は天香山《アマノカグヤマ》と呼ばれていた。あれは嗅《か》ぐ山のことかもしれないですね。ニオイが神秘的な世界への懸け橋となることを、古代人たちは知っていたんじゃないでしょうか。ご存じですか。渾沌《こんとん》と暴力の荒ぶる神であると同時に英雄神でもあるスサノオノミコト。彼はイザナギの鼻から生まれたんですよ。もしかしたら彼は私の祖先だったかもしれない。古代、神と呼ばれていたのは、私のような人間だったんじゃないのかな。でもね、かつて神と崇められた人間がいたとしても、彼らは私のようにニオイをコントロールして呪的空間を広げる力までは持っていなかった。私こそ真の神なんですよ」
瀬能の声は遠くから聞こえていた。その意味まではくみ取れない。
喉《のど》が渇いていた。唾液《だえき》が一滴も出てこない。やすりのようになった舌が、上顎《うわあご》を擦り続けている。その音なのか、粗い目の乾いた布で、木の板をこするような音が、執拗《しつよう》に頭の中で聞こえていた。
見もしないのに、足の裏の皮膚がひび割れているのがわかる。掌《てのひら》がひび割れているのがわかる。乾燥しきってささくれ立った皮膚の隙間《すきま》から、じくじくと黄色みがかった粘液が滲《し》み出ているのがわかる。尻《しり》の椅子《いす》に付いた部分がひび割れている。その細かな皮膚のひび割れには、ぎっしりと砂粒が詰まっている。
まるでその画像を鼻先に突きつけられたように、その様子が由紀子には見えた。
瀬能が立ち上がった。
「長々と私の話を聞いていただいてありがとう。そろそろ退屈されているかもしれませんね。そう思ってちょっとしたショウを用意してあったんですよ」
モノクロームの景色にひび割れが入った。瀬能の顔や机や壁や屏風や、そして大気や音までが、何もかもが乾ききって、細かなひび割れができた。それら小片が、はぜたようにめくれあがる。
その向こうの闇《やみ》がのぞいた。
唐突に景色が破れた。
景色を破って、ぬっと頭が突き出てきた。
ビニールテープで頭に携帯電話を巻きつけた男、進藤だった。
頭から肩、胸から腰、と身体《からだ》をくねらせながら、進藤は景色の穴から這《は》い出てきた。
「お久し振り」
テープで引きつった唇を、進藤は歪《ゆが》めた。微笑《ほほえ》んでいるらしい。
瀬能の姿はいつの間にか消えていた。
由紀子の顔に、進藤はぐっと顔を近づけた。鼻の先が触れた。
「さて、ようやくこれであなたもシカバネの星にいけるわけですよ。本当によかった。ハッピーエンドですよね」
危機が迫っていることはわかった。だがその危機感もまたリアルではない。
乾いた大気に、喉がひりひりした。その不快感だけが唯一リアルだった。
由紀子は膝《ひざ》に手を載せていた。その乾ききった手に、指が触れた。
しっとりと汗をかいた指先。それは由紀子の手をまさぐっていた。握ろうとしているのだ。
柔らかく小さなその指、掌。
ごろごろと喉が鳴った。
何かを由紀子は言おうとしていた。それは大事なことだった。何よりも大事なことだった。
由紀子の手が動いた。動かすことが出来た。相手の水分を吸収したかのように、由紀子の手だけが回復していた。由紀子は伸びてきたその手を握った。その小さな手が握り返してきた。
身体の中に急速に水分が流れ込んできたようだった。水を吸い上げるごぼごぼという音が、由紀子には聞こえた。
緊張し、締めつけられていた喉が開いた。
声が出る。
「毅!」
叫ぶと同時に由紀子の呪縛《じゆばく》が解けた。
身体が動く。眼の前に進藤がいた。その身体を突きとばす。
進藤はテーブルの上に膝をついて由紀子の顔を見ていた。その時胸をつかれバランスを失った彼は、テーブルごと後ろに倒れた。
「毅」
毅は隣で眠っているようだった。眠りながら由紀子の手をまさぐっていたのだろうか。
由紀子は眠る毅を背負い、妙子の肩を掴《つか》んだ。
妙子の眼は虚《うつ》ろで、開かれてはいるが何も見ていなかった。
その肩を激しく揺する。
倒れたテーブルの向こうで、進藤が身体を起こした。
「妙子ちゃん、しっかりして!」
「お姉ちゃん……」
何が起こっているのか、それどころか、ここがどこなのかも理解出来ていないようだった。その脇《わき》に肩を入れて妙子を立たせる。
「しっかりしなさい!」
興味深げに三人を見つめる進藤から目を離さず、由紀子は妙子の耳もとで怒鳴った。
「逃げるのよ。罠だったの」
「罠……」
朦朧《もうろう》としたままの妙子を連れ、由紀子は進藤から後退《あとずさ》った。
「また鬼ごっこかい。楽しいな。でもね、今度は前みたいに逃げられないんだって。神様がそう教えてくれたんだ。わかったかなあ? 前みたいに逃げられないんだよ」
進藤は一歩、由紀子たちに近づいた。
妙子はぐったりとして動かない。毅を背負い、さらに妙子を抱えて逃げることは、由紀子には不可能だった。
「妙子、見なさい! あの男が徳永君を殺したのよ!」
由紀子は平手で思い切りよく妙子の頬《ほお》を叩《たた》いた。
「徳永を……」
その言葉が、何よりも妙子を覚醒《かくせい》させたようだ。
妙子は由紀子の腕を払った。しっかりと自分の両脚で立つ。
「おまえが徳永を」
妙子が進藤を見据えた。その手がバッグの中に伸びる。
突然腕を振りかぶり、妙子は何かを投げた。
至近距離から、それは進藤の顔にまともに刺さった。
「うわあ」
妙に間延びした声を進藤は上げた。
「ひどいことするなあ」
進藤の右眼にそれは突き立っていた。
古武術などで使われる手裏剣だ。
手裏剣といっても、時代劇で忍者が使う星形の物とは違う。あれは車剣《しやけん》といって手裏剣の中でも特殊な物だ。先が鋭く尖《とが》った八角錐《はつかくすい》の〈刃〉の部分と、猪の毛を巻いて漆で固めた〈柄〉の部分で出来たそれは、鉄製の釘《くぎ》か楔《くさび》のように見える。
進藤は無造作に手裏剣を引き抜いていく。
低く呻《うめ》きながら眼球をこねるようにゆっくりと引き抜く様は、それを楽しんでいるかのように見えた。
神経組織ごと、手裏剣の突き立った眼球をえぐり出し、進藤は床に投げ捨てた。
進藤は笑っていた。
「何をしても無駄だよ。僕には神様がついているんだから」
半分赤く染まった顔の、肉片が垂れ下がる眼窩《がんか》を、進藤は妙子の方に突き出した。
眼窩の奥に、白く輝く物が見えた。それは少しずつ前に迫《せ》り出してきた。
妙子が小さく悲鳴を上げた。
信じられないことだが、それは新しい眼球だった。黒い瞳《ひとみ》を持った眼球が、目蓋《まぶた》を押し上げ、窪《くぼ》んだ眼窩は瞬く間に元どおりに戻った。
進藤は再生した血だらけの右眼でウインクをした。
「ほらね」
言うと同時に、進藤は妙子に掴みかかっていった。
「妙子ちゃん、逃げるのよ」
妙子の腕を引き、由紀子は応接室から逃げ出した。
廊下に出ても、異常な非現実感は消えなかった。由紀子はまるで夢の中にいるようだった。
後ろから進藤の声がした。
「大丈夫。まだ捕まえないよ。数を数えていないからね。いいかい。今日は特別サービスだ。百数える間に逃げればいい。僕たちには時間がたっぷりあるからね。さあ、数えるよ。ひとーつ」
由紀子たちは研究室の横の廊下を走った。二階への階段を昇る。
「妙子ちゃんすごいもの持ってるのね」
「すごいものって?」
「投げナイフみたいなもの」
「あれは手裏剣。道場からもしものことを考えて持ってきたの。他にも武器はあったけど、まさか日本刀を持ってくるわけにもいかないし。でも……」
日本刀を持ってくるべきだったと後悔していた。
二階に昇ると、そこにも長い廊下が伸びていた。よく磨かれたリノリウムの床は白く光り、まるで出来たばかりのようだった。
給湯室があった。レンジがあり、ここで料理をするものもいるのか、鍋《なべ》やまな板が置いてあった。
由紀子はそこで立ち止まった。包丁でもあれば武器になると考えたからだ。
だがレンジの下の棚や、吊戸棚《つりとだな》をいくら探しても包丁は見つからなかった。
ガスの元コックを見た時、由紀子には思いついたことがあった。後ろを振り返る。
「妙子ちゃん。コンドームを持ってる?」
由紀子は唐突に妙子に尋ねた。
突然の求婚以上に妙子は驚いた。
「えっ、コンドーム……。お姉ちゃん、大丈夫?」
「あなたよりはね。ほら、徳永くんが言ってたのを思い出したの、いつでも妙子が持ってるって」
「さあ、どうだったかなあ」
「探して」
「えっ?」
「今すぐ」
由紀子の真剣な口調に、妙子はバッグのなかをかき混ぜ始めた。
「あっ、あった、あった。馬鹿みたい。持ってても仕方ないのにこんなもの」
バッグから出してきたピルケースを開くと、六個入りのシートがあった。
「ありがとう!」
言って由紀子はそれを受け取ると、そのうち三つを千切って妙子に渡す。
「コンドームを袋から出して、それから長く伸ばして」
「お姉ちゃん……」
「いいから、早く言うとおりにして。傷つけないように注意してよ」
2
給湯室からさほど離れていないロッカールームに、由紀子たち三人はいた。
相変わらず眠っている毅を由紀子は抱きかかえて、梱包用《こんぽうよう》の紐《ひも》で自らの身体《からだ》とくくりつけてある。
両手が使えないからだ。
由紀子も妙子も、窓枠の上に尻《しり》を載せ、半分外に身体を出していた。
部屋の中には六つの大きな風船が転がっていた。小さなこの部屋の床は、その六つの風船で埋められていた。
普通の風船ではない。その先が乳頭のように飛び出ている。それは膨らましたコンドームだった。
「本当にいいのね」
由紀子は手にしたジッポーのライターを妙子に見せた。徳永の遺品だった。
「もちろん……。ああ、ちょっと待って。やっぱり私がするわ」
妙子は由紀子からライターを受け取り、唇をつけた。
「徳永、失敗したら承知しないからね」
ライターに向かって小さく呟《つぶや》く。
扉が開いた。
「きたわよ」
妙子はジッポーのライターに火を点《つ》けた。
「ワオ! これは何の遊びなのかな」
中の様子を見た進藤は、嬉《うれ》しそうに言った。
「それ」
小さく掛け声をかけ、妙子はライターに火を点けて風船へと投げた。
ライターは、コンドームの風船の上で一回跳ねてから床に落ちた。
「何をしてるんだい」
芝居がかった仕草で、進藤は首を傾げた。
どんな強風でも火がつくことを売り物にするそのオイルライターの炎は、床に落ちても消えてはいなかった。
「お二人さんはそこから飛び降りるつもりかい。危ないよ。怪我《けが》をするよ」
窓から由紀子は下を見降ろした。下には植え込みがある。二階からなら、頭から落ちない限り死ぬことはないはずだ。
炎がコンドームを炙《あぶ》っていた。
薄いゴムがたまらず弾《はじ》けた。
「あれ?」
進藤はその時ニオイを感じた。
都市ガスのニオイだった。
「跳んで!」
由紀子の号令で、二人は一斉に植え込みに飛び降りた。
轟音《ごうおん》が鳴り、地響きがした。
爆風と炎が、飛び降りる二人を捕らえようとするかのように外に噴き出す。
由紀子は給湯室で、コンドームの中に都市ガスを詰め込んだ。ゴムが熱で割れ、ガスが空気と混ざると、それはとてつもない勢いでライターの火に引火し、爆発したのだ。
足から着地し、由紀子は二転、三転してうつぶせになった。その背中に爆風で飛ばされた破片がぱらぱらと降ってきた。
無事だった。成功したのだ。
ほっとした由紀子が最初に見たのは、胸に抱えた毅のつむじだった。慌ててその顔を覗《のぞ》き見る。毅はぐっすりと眠っているようだった。規則的な寝息が聞こえる。神の啓示を聞くより、それは由紀子にとってありがたかった。
毅を抱えて立ち上がる。全身が痛むが、どれも軽い打ち身か引っかき傷らしい。たいしたことはなさそうだった。
立ち上がった由紀子は、身体の痛みなど吹き飛んでしまうようなものをそこに見た。
由紀子の両足は畳の上に載せられていた。
板張りの天井は暗く、その隅に闇《やみ》を湛《たた》えていた。
右に床の間があり、左に襖《ふすま》がある。
典型的な古い日本家屋だった。
妙子が立ち上がった。
足をくじいてでもいるのか、片足に力が入らないようだった。
「大丈夫? 妙子ちゃん」
「ええ、ちょっと足首をひねったみたいだけど……。どういうこと、これは」
「多分、幻覚ね。でもそれを現実に変えているのは私たち。瀬能の言う呪的空間の中に捕らえられているようね」
「あっ、お姉ちゃんは大丈夫?」
「もちろん」
「毅くんも」
「ええ、眠ってるわ」
「大物になるね」
妙子は笑った。
妙子の笑顔を、由紀子は久し振りに見たような気がした。
「何だか、ひどく古い家ね」
妙子は周りを見回した。
畳は薄く埃《ほこり》をかぶっている。しばらく放置してあった家特有のにおいがした。
由紀子はどことなく懐かしい思いがした。それは幼い頃見た夢のような感触だった。
「ところで、あいつは、どうなったのかな」
「いくらなんでも、あの爆発に巻き込まれたら、無事じゃいないでしょう」
由紀子がいうと同時に、天井近くから声がした。
「残念でした」
襖の上に横に三本の棒が通っているだけの簡素な欄間があった。その欄間の隙間《すきま》から真っ黒の顔が突き出ていた。棒の間隔は五センチもない。それに挟まれ首はへしゃげていた。
進藤だった。焼け焦げたその顔が進藤のものだとわかったのは、溶けた携帯電話の破片が耳にへばり付いていたからだ。
巻きつけたビニールと焦げた皮膚の区別はつかなかった。
進藤は蛇のように体をくねらせ、狭い隙間から這《は》い出てくる。歯磨粉のチューブから押し出されるように、進藤はぽとりと畳の上に落ちた。
進藤はほとんど全裸だった。半ば炭となった服の欠片《かけら》が、だらしなく身体のそこかしこから垂れ下がっている。あるいはそれは布ではなく、彼の皮膚なのかもしれない。
肌は赤黒くただれ、ひび割れ、地割れからのぞく溶岩のように、赤い筋肉が見えていた。
「なかなか死ねないんだ。だって僕はもともとシカバネなんだからね」
ふうと、進藤は溜《た》め息のように息を吐いた。
むく、と肩に瘤《こぶ》が膨れ上がる。そして腕に、胸に、頬《ほお》に、脚に、と瘤はいくつも生まれ、集まり、進藤の身体を膨れ上がらせていく。
由紀子は懸命に悲鳴を押し殺していた。
恐ろしかったのだ。
変形する進藤の姿がではない。彼が死なないことがだった。いや、死なないどころか、一向にダメージを受けている様子もない。それが由紀子には恐ろしかった。
「お姉ちゃん」
場にそぐわない妙子ののんびりとした声だった。
「何?」
「お姉ちゃんは言ったわよね。妄想を私たちが現実に変えてるって」
「ええ……」
由紀子には妙子が何を言いたいのかわからなかった。
進藤は肩が凝ってでもいるように、首をぐるぐる回していた。その度に鼻を中心として顔が前に伸びていく。
「それなら別に妄想を操るのは瀬能や進藤だけの特権じゃないわよね」
「かも、しれないけど……」
「私もやってみるわ」
生徒会に立候補でもするように、妙子はあっさりとそう言った。
「でも……」
「お姉ちゃん、どうして瀬能が久子さんやジャムを殺さなければならなかったと思う? この二人の、何を瀬能は恐れたんだろう。二人に出来ることなんてしれてるはずよ。瀬能の企《たくら》みをマスコミに洩《も》らしたところで、頭がおかしいと思われるだけだろうし、久子さんが殴り込みをかけたとしても、カッターナイフ一本で瀬能に対して何が出来ると思う? ジャムに至っては街中に落書きしてただけよ。それの何を恐れたか……。私は思うの。瀬能が恐れていたのは久子さんやジャムの妄想よ。二人の妄想が彼を脅かした。呪的空間《じゆてきくうかん》の中では妄想が武器となるのよ。だから私にもそれができないわけがない」
変形した脚では直立していられなかったのか、進藤は両手を畳についた。
それはもうすでに人間の姿をしていなかった。
「瀬能が言っていた。恐怖、それに偏執的な憎悪。呪詛《じゆそ》はそれらで増えるのよ。思い出すのよ。徳永の死を。あの無残な死を」
妙子はすでに眼を閉じ、瞑想《めいそう》に入っていた。ゆっくりと呼吸を始める。
鼻孔が開き、呼吸が荒くなった。すぐに呼吸が不規則になってきた。
妙子は胸をかきむしった。レースの衿飾《えりかざ》りが、たちまちのうちに布切れに変わっていく。
身体が弓のように反って、妙子はのたうち始めた。まるで毒殺される鼠のようだ。
「徳永!」
妙子は叫んだ。その両眼が大きく開いている。見開いた眼の中で瞳《ひとみ》がぐるぐると泳いでいた。くいしばった唇から、切なげな呻《うめ》き声が漏れる。
「妙子!」
声を掛け、由紀子は暴れる妙子の身体を押さえようとしたが無駄だった。今の妙子を押さえつけるには、男でも数人必要だろう。
びりびりとワンピースが破れていく。
妙子が引き裂いているからだけではない。盛り上がった肉体が、内側から服を押し破っているのだ。
妙子の身体は変形しつつあった。
瞑想は妙子が古武術のカリキュラムに取り入れていた。だから精神を一つのことに集中することにかけては、彼女は人並み以上の力を持っていた。しかも、瀬能に応接室で嗅《か》がされたガスの効果が、まだ残っていた。使われた向精神薬が、妄想に拍車をかけたのだろう。それとも、ただたんに運が味方しただけかもしれない。
いずれにしろ妙子は妄想にその身体を侵されつつあった。その結果が彼女の望むものであるかどうかにかかわらず。
その結果を見るまでに、進藤は変身を終えていた。
それは毛のない巨大な奇型の猪だった。首や腕、胸、そして腹から脚にかけて、全身がテニスボールほどの瘤で覆われている。
背中から首にかけて膨れ上がった筋肉は、山脈のようだった。
荒く息をつきながら、それは赤くただれた眼で由紀子を見た。
由紀子は毅を畳に横たえ、それから離れるように進藤から逃れた。ある種の鳥のように、毅から敵を遠ざけるためだった。
進藤はのたうつ妙子をちらりと見て、それから由紀子に近づいてきた。
まだここまで間がある。
そう考えていた距離を一気に進藤は跳んだ。
両手を前に突き出し、進藤は由紀子にのしかかった。
由紀子の両肩は進藤の鉤爪《かぎづめ》のある両手にしっかりと押さえられている。突き出た腹の下で、由紀子は身動きがとれなくなっていた。
由紀子に覆い被《かぶ》さっているものは、死そのものだった。
大きく開かれた口から、ナイフのような牙《きば》が飛び出していた。口腔《こうこう》の中で唾液《だえき》に濡《ぬ》れた紫の舌がのたうっている。舌の上には小さな肉芽がびっしりと並んでいた。
開いた口腔から、白濁した涎《よだれ》がだらだらと由紀子の顔の上に垂れた。
由紀子は必死になって考えていた。どうやって助かるかではない。どうやって毅を助けるかだ。
だがその解答が出る前に、進藤の顔がくちづけでもするかのように近づいてきた。熱い息が由紀子の首筋にかかった。
その時だった。
大地が震えるほどの咆哮《ほうこう》が聞こえた。それは物理的な力を感じさせるほどの威厳に満ちた叫びだった。
進藤が顔を上げ、後ろを振り向く。
地響きがした。それが近づく足音だった。
進藤は猫のように由紀子の身体《からだ》から跳ねのき、それに向かって身構えた。
それは青銅色の肌を持った巨人だった。
高い天井に、頭がついている。全身は鈍く輝く金属で覆われているようだった。
広い肩と厚い胸から、由紀子の腰ほどもある腕にかけて、盛り上がった筋肉が畦《うね》をつくっている。鎧《よろい》のような腹。逞《たくま》しい脚。その巨人はギリシャ彫刻のように黄金の比率を保っていた。ただ一つ違ったのは、分厚い筋肉の束でつくられた胸の上に、豊かな乳房がついていることだ。
金属でつくられた両性具有の巨人は、進藤を見降ろして、言った。
「さあ、来なさい」
妙子……。
由紀子は呟《つぶや》いた。
その青銅の巨人は、妙子の顔と妙子の声を持っていた。
瘤だらけの猪が吠《ほ》えた。
青銅の巨人はまっすぐそれを見降ろしている。
猪が走った。
二つの異形の者は、真正面からぶつかりあった。
土嚢《どのう》を叩《たた》きつけたような音がして、進藤の身体が跳ばされた。
背中で襖《ふすま》を吹き飛ばし、隣の部屋に転がる。そこへ再び巨人が襲いかかった。
巨人が殴り、蹴《け》り、締め、押さえ込もうとすると、進藤は噛《か》み、裂き、柔軟な身体を利用してするりと逃げ出した。
由紀子は毅を横に抱き寄せ、ただ傍観することしかできなかった。
まるで黄昏《たそがれ》を迎えた北欧の神々が戦っているかのように神話的な情景だった。
巨人が、倒れた進藤の上に馬乗りになった。その手が進藤の上顎《うわあご》と下顎にかかる。進藤の口が大きく開かれた。
進藤は鎌のような鉤爪を、巨人の腹に叩きつけた。何度も何度も、執拗《しつよう》に叩きつける。さすがに金属の皮膚がへこみ、穴が開き、裂け始める。
裂け目からしゅうしゅうと音をたてて激しく蒸気が噴き出した。
巨人が再び吠えた。
その身体が倍に膨れたように見えた。その力はすべて両腕に注がれている。
進藤の口を裂こうとしているのだ。
鋭い牙で傷ついたのか、巨人の指からも白く蒸気が噴き出していた。
進藤が悲鳴を上げた。
唇の端が裂けた。
一瞬だった。生木を裂くような音がして、一気に進藤の顎が裂けた。真っ赤な血が四方にばらまかれた。
下顎がもぎ取られ、引き剥《は》がされた喉《のど》の筋肉の断面から、気管がのぞいている。
巨人が進藤から手を離した。
陽に曝《さら》されたミミズのように進藤はのたうった。のたうちながら、その身体が縮んでいく。
あっと言う間だった。
血溜《ちだ》まりの出来た畳の上にあるのは、蒸し焼きにされた猿の死体のようだった。もうそれが進藤であることなど、誰にもわからないだろう。
それをじっと見降ろしていた巨人の身体から、さらに激しく蒸気が噴き出し始めた。それは傷口からだけではない。膝《ひざ》や肘《ひじ》や、口や耳や眼や、首や胸や背中から噴き出す白煙が、巨人の姿を隠した。
蒸気が消えた時、床に横たわっているのは妙子の姿だった。
「妙子!」
由紀子は駆け寄り、その身体を抱き上げた。抱き上げた手にべったりと血がついた。
その脇腹《わきばら》から、今もなおだらだらと血が流れ続けていた。それを押さえる血塗《ちまみ》れの右手の中指が裂け、骨が露出していた。
「妙子……」
「……ちょっと、格好よかったでしょ……」
「何言ってるのよ」
由紀子はスカートの裾《すそ》を千切り、それで妙子の腹を巻いた。だが血はそう容易《たやす》く止まりそうには思えなかった。
「……今度は瀬能ね」
妙子の腹から流れる血がどす黒く血溜まりをつくっていく。
妙子を動かすのは無謀に思えた。
「妙子ちゃん、ここで待っててね」
頷《うなず》く妙子の身体を横たえると、由紀子は眠り続ける毅を背負って縛り直した。
3
畳敷きの部屋をすでに十は過ぎていた。部屋は無限に続いているように思えた。
奥に進めば進むほど部屋の荒廃ぶりは凄《すさ》まじくなっていった。
たわみ、歪《ゆが》んだ畳は反り、縁を浮かべ、その隙間《すきま》に皺《しわ》だらけの肉の塊のような生まれたての子鼠がはさまって死んでいた。
天井は馬の腹のように膨らみ、そこから小さな生き物がぽとりと落ちると、部屋の隅へごそごそと逃げていく。
途中から襖は左右の二つに分かれ、さらに進むと三方を襖に囲まれた部屋に出た。
まったくの迷路だった。
何度か由紀子は、砂漠から脱出した時のように、何もないのだと信じて跳んでみた。が、無駄だった。進藤が言っていたように、瀬能が何か細工をしたのだ。
三度試みて、由紀子は馬鹿馬鹿しくなってやめた。ここを抜け出て、現実の世界に戻ったところで、再び瀬能と対決しに戻ってくるのなら同じことだ。
陰鬱《いんうつ》な畳敷きの部屋を、由紀子は進み続けた。
さらに足を進めると、様々なものとも出会うようになってきた。
部屋の隅でうずくまるサラリーマン風の男たちがいた。話しかけても答えず、眼を逸《そ》らすだけだ。皆別々の方を向いて、携帯電話を耳に当て小声で喋《しやべ》っていた。
襖の前に女が立っていた。背の高い、長い髪の女だった。身体を斜めにして、由紀子から顔を背けるように首をねじっている。近づくと何事か意味のわからぬ言葉を呟いていた。
薄暗い畳の部屋をいくつも越えているうち、由紀子は方向感覚をすっかり失っていた。
この迷宮は誰の妄想なのだろうか。
襖を開き、歩き、襖を開き、歩く。
ただそれだけの作業を繰り返しながら由紀子は考えていた。
私自身、瀬能の策略で偏執的状況の中、偏執的性格を育ててきた。妙子が妄想の肉体を手に入れたように、これは誰かの造り出した妄想の空間ではなく、私がもたらした妄想なのではないか。
ますます暗く、パースペクティブさえ狂い始め、部屋はエッシャーが描く絵画のように騙《だま》し絵《え》じみてきた。
遠くから声が聞こえていた。
聞き覚えのある声だった。
聞こえる方へと由紀子は進んだ。進むごとに、それははっきりと聞こえるようになってきた。
「……こちゃん……ゆき…………ゆきこちゃん」
その声は由紀子を呼んでいた。その声を彼女は知っていた。
襖を開けた。
その部屋の中央に、銀灰色の皮膚を持った人間が正座していた。かつて夢の中に現れ、由紀子に手術を施した人物だ。夢の中ではもっと大きいと感じていたが、そこで背を丸めじっとしているのを見ると、彼女は悲しいほど小さかった。
彼女が顔を上げ、言った。
「由紀子ちゃん」
銀のガスマスクをかぶっているようなその顔に、懐かしそうな表情が浮かんだ。
由紀子はようやくその人物が誰なのかがわかった。由紀子が彼女に対して幾年も齢《よわい》を重ねている女性だと感じた直感は正しかった。
彼女は老いた女性だった。
「……お母さん」
由紀子は言った。
夢の中でまったくの別人であってもそれが知り合いの誰かであることが理解出来るように、由紀子はその時はっきりとそれが去年亡くなった母親であることを知った。
由紀子は彼女の隣に座り、肩を抱いた。その小さな弱々しい感触は、まさしく母親のものだった。
「お母さん……何とか言ってよ」
銀灰色の皮膚を持った彼女は、唇のない口で微笑《ほほえ》むと、一つの襖を指さした。
「あの向こうなの?」
彼女はうなずいた。
「あの向こうに、瀬能がいるのね」
再びうなずくと、彼女の身体はフライパンの上のバターのように、瞬く間に畳の中に溶け込んでしまった。
彼女が幽霊なのか由紀子の造り出した妄想なのか、それは由紀子にもわからなかったが、しかしそこに手を触れることが出来る実体としてあったことはまちがいなかった。
母は由紀子を救おうとしてくれていたのだ。夢の中で警告し、力を与え、ジャムに危機を伝えさせ、そして今、ここに瀬能の居場所を知らせるために現れて。
それがたとえ由紀子の造り出した妄想であったとしても、彼女は許されたと感じた。
由紀子が勝手に生きていく分、ただ苦労し続けた母親への罪悪感が癒《いや》された。
由紀子は立ち上がった。涙が流れているのに気づいたのはその時だった。
流れる涙を拭《ぬぐ》い、由紀子は母親が指さした襖《ふすま》を開いた。
濃い腐臭がした。
そこには闇《やみ》が広がっていた。
由紀子は闇の中に一歩進んだ。
恐れる気持ちはなかった。
脚がずぶりと沈み込んだ。床にはドブ泥が溜《た》まっていた。一歩踏み込むごとに汚泥が嫌らしい音をたてた。粘る泥に、由紀子は靴を脱ぎ、裸足《はだし》になった。
しばらく進むと、闇の奥に炎が二つ、昇っているのが見えた。
その炎を両脇に、玉座がしつらえてあった。漆黒のその玉座には、隙間を恐れてでもいるように無数の記号が刻まれていた。
それはジャムが落書きにたびたび使っていた記号だった。
玉座には男が座っていた。
「とうとうここまでやって来ましたね、八辻さん」
瀬能だった。
ダークグレーの品のいいスリーピースを着こなした、いつもの瀬能がそこにいた。
「驚いた。大した頑張りようだ。最後に手渡した『レビアタンの顎《あぎと》』が、君のような強い女性を造り上げるとは思ってもみませんでしたよ」
「相変わらず、お喋りね」
「お喋りついでにもう一つ。君は沢山の犠牲をつくってきた。君が生き延びるためにね。君の友人であった小来栖くん。まだ十代だった坂本くん。それから、結婚を控えた若い男がいた。みんな君を助けるために命を落としていった。そして……今、この時、また新しい犠牲が出ようとしている。君が捨て置いたままの人が、今息を引き取ろうとしている。そう、六人部くんだったかな」
しばらく絶えていた頭痛が始まった。こめかみを殴りつけられているような頭痛だった。頭から頬にかけて、麻酔でもかけられたように痺《しび》れている。
「違う!」
由紀子は叫んだ。
瀬能が嘲笑《あざわら》う。
「ここは私の世界だ。ここで起こることはすべて、手にとるようにわかる。彼女は後数分|保《も》てばいいところだね。そしてここで君が命を落とせば、君が背負っているその毅くんの命もない。まったく君は勝手な女だね」
由紀子にはすべてが自分の責任だという思いがあった。その罪悪感が、身体の奥底で頭をもたげる。
「だから私が死ななければいい」
由紀子は低く呟《つぶや》いた。
「何か言ったかね」
「おまえを殺してやると言ったのよ」
「責任放棄だ」
瀬能はあきれたように肩をすくめた。
「みんなが君のために死んだんだ。その責任をすべて私に押しつけるつもりかい」
「嘘《うそ》だ」
その声は弱々しかった。
私が悪い。私が悪い。私が悪い。私が悪い。私が悪い。
呟きながら黒々と広がる入道雲のように、罪の意識が由紀子の中で膨れ上がっていく。
毛穴がタールで塗りつぶされたような閉塞感《へいそくかん》があった。
息苦しく、心臓の音がドラムのように頭の中で鳴り響いた。
「君が殺したも同然だ」
ワタシガ悪イ。スベテ、ワタシガ悪イ。
ワタシノヨウナ人間ハ、死ンデシマエバイインダ。
死ンデシマエ。死ンデシマエ。死ンデシマエ。死ンデシマエ。死ンデシマエ。死ンデシマエ。
誰のものとも知らぬ声が、由紀子の頭の中を走り回っている。
「君こそが真の殺戮者《さつりくしや》さ。周りに不幸を振り撒《ま》いて、自分だけがよければいい勝手な女だ」
由紀子の身体から力が抜けていく。
泥の中にひざまずいた。
死ななきゃ。
私は死ななきゃならないんだ。
手が何かを泥の中から掴《つか》み出した。
ナイフだった。肉の厚い、鉈《なた》のように大きなナイフ。
由紀子はその刃先を喉《のど》に当てた。
ひんやりとした金属の感触が気持ちよかった。
「さあ、君がそうすべきと判断したことをするんだ。それだけが君に出来る償いだ」
ナイフを持つ手に力がこもった。
と、死ななきゃ、死ななきゃ、とループになって繰り返し聞こえていた自らの声に、別の声が割り込んできた。
ユキコさん。
そのおかしなイントネーションに覚えがあった。
ジャム?
ユキコさん、ボクハ、憎ンデイル。僕ハ、アノ男ヲ、憎ンデイル。
私モ……。
別の声が聞こえた。
私モ、アノ男ヲ、憎ンデイル。殺シテヨ。殺シテヤッテヨ。
それは久子の声だった。
大丈夫、心配スルコトハ何モナイノ。
母親の声だった。
その言葉が身体《からだ》の中に流れ込む。膨れ上がって爆発しそうだった罪の意識が、溶け、流され、消えていく。
そしてその後に残されたのは、怒りだった。
親友を殺された怒り。意志を弄《もてあそ》ばれた怒り。何もなく、そして何もかもがあったはずの日常を奪われた怒り。
今由紀子を満たしているのは純粋な怒りだった。
由紀子は叫んだ。
「おまえは嘘つきだ! 最悪のペテン師だ!」
瀬能は意外な顔をした。
それが嘘つきと呼ばれたためか、由紀子の反撃に対してなのか、彼女には区別はつかなかった。
由紀子はなおも叫んだ。
「おまえは卑怯者《ひきようもの》の変質者だ! 自分の手では靴紐《くつひも》も結べない甘えた子供だ!」
「私は神だ」
重々しく瀬能が言うと、風が吹き始めた。
由紀子は立ち上がった。その正面から風が吹きつけた。
強風だった。由紀子を押し返すように、嵐《あらし》のような風が彼女を襲った。汚泥が大量の飛沫《しぶき》となって視界を閉ざした。
だが、由紀子は前に身体を倒し、風に逆らって足を進めた。
「違う! おまえが神であるはずはないわ。鬱屈《うつくつ》した妄想で頭を膨らませた誇大妄想の愚か者よ!」
一歩一歩、泥濘《ぬかるみ》に脚をとられながら、由紀子は瀬能へと近づいていく。
「私は神だ。この世界は私がつくった。私に出来ないことは何もない」
風が熱を孕《はら》んだ。
凄《すさ》まじい熱風だった。
肌がチリチリと焦げる。ブラウスが焦げ臭くにおい始めた。
「おまえには何も出来ない。ただ薄暗く湿った場所でじっと待っているだけよ。いつかおまえの世の中が来る日をね。――でも、そんな日は来ない! おまえは他の誰かが造り出す妄想に怯《おび》え、ただそこで待っているだけ」
「私は神だ!」
瀬能が怒鳴ると、由紀子の長い髪が突然燃え上がった。たんぱく質の焦げる嫌なニオイが鼻をついた。頭に数千の針を突き立てられたような痛みがあった。
悲鳴をあげ、由紀子は背負った毅を下に降ろした。
「私にひざまずけ! そして従うのだ!」
叫ぶ瀬能の肩に、後ろから手がかかった。
ふっくらとした女の手だ。
もう片方の肩にも手があった。
ペンキで汚れた細い指の持ち主だ。
「…………」
絶句する瀬能の腕が、二人の人間に掴まれていた。
玉座の脇《わき》に立つ二人。
一人はジャム。一人は久子だ。
アルミホイルを頭に巻いた久子は、首に開いた傷口を見せびらかすように、頭を不自然なほどに傾けていた。
ジャムの頭は半分欠けていた。こびりついた脳漿《のうしよう》と血で、パンクロッカーのように髪が逆立って固まっている。
その眼に瞳《ひとみ》はない。白い眼球がじっと瀬能を見ていた。
ジャムと久子が、それぞれに瀬能の腕を引っ張った。
「止めろ!」
瀬能が悲鳴まじりの声を上げた。
その首に蛇のように二本の腕が巻きついた。
その黒い腕の持ち主は、さらに二本の腕を持っていた。
黒く巨大な蜘蛛《くも》に似た何かが瀬能の背後にいた。
「そんな……、信じられん。私は……」
「思い出してくれたかね」
長々と伸びた舌が、瀬能の眼の前に垂れ下がった。
「何故《なぜ》、私の邪魔を……」
腕はまるで恋人を抱き締めるように強く瀬能を抱く。瀬能の背中で鞠《まり》のような乳房が潰《つぶ》れた。
「カーリー!」
瀬能は狂った獣のように絶叫した。
ごお、と地鳴りがするのを聞いたような気がしていた。
あの日、ガンダルヴァの最後を見たあの時の情景が瀬能の頭の中に鮮明に蘇《よみがえ》る。
カーリーに額を触られ、気がつけば村を遥《はる》か離れた林の中で立っていた。足元で倒れているのはサトパティだ。カーリーの姿はない。
突然大地が激しく左右に揺さぶられた。立っていられる状態ではなかった。笈野――瀬能は腹這《はらば》いになった。サトパティの身体が人形のように上下した。
瀬能は地面にしがみつき、一瞬前までいた村、ガンダルヴァのあった方を見た。
村の南東で、地面がふいに隆起した。それは水面に浮上する鯨を思わせた。水飛沫をあげるように土砂が飛び散った。
低空を飛んでいたヘリが姿勢を崩し、慌ただしく上昇した。
次にガンダルヴァの中央に幾つも太い亀裂《きれつ》が走ったかと思うと、轟音《ごうおん》とともに地面が盛り上がり始めた。
砂塵《さじん》が何もかも隠してしまう。
舞い上がる土煙が少しずつおさまると、地中から現れた何かの姿が顕《あらわ》になってきた。
それは恐ろしく巨大な、ガンダルヴァとほぼ同じ大きさの極彩色の鳥だった。巨鳥の背には飾り物のように、大勢のプルシャの子らが集った村の断片が載っていた。
「ガルダ!」
瀬能が叫んだ。ガルダとは、ヒンドゥーの最高神の一人ヴィシュヌが乗る半人半鳥の聖獣の名だ。
その馬鹿馬鹿しいほどの巨体を持った鳥が翼を開いた。突風が起こり、瀬能の身体はボールのように地面を転がった。
巨鳥は更に二度、三度と羽ばたいた。すると、その一つの村を丸々覆うだけの巨体が宙に浮かんだ。ダブルベッドほどもある羽毛が無数に舞う。
不思議にそれは牧歌的ともいえる情景だった。必死になって吹き飛ばされまいと樹にしがみつく瀬能にとってはそれどころではなかったのだが。
極彩色の途方もない大きさの鳥は宙へと舞い、空を覆い、更に高く、更に高く、太陽に引かれるかのように天上へと昇っていった。
風が収まり、瀬能は立ち上がった。既に巨鳥の姿は天空に消えていた。
空を見上げる瀬能の顔は醜く歪《ゆが》んでいた。
憎悪が滴るかのようなその顔は、もともと整っているが故に人とは思えぬ醜悪なものと成り果てていた。
瀬能は唸《うな》った。血を吐くように呪詛《じゆそ》の言葉を吐き続けた。
「行くがいい。どこにでも消えるがいい。私は王となる。私はこの世の王となる。おまえたちが残していったこの腐った世界の王となる。王となって支配してやる!」
「そんなことはできない」
瀬能の背後でカーリーは言った。
「私がそうはさせない」
「何故だ。何故私の邪魔をする」
「邪魔ではない。償いだよ」
由紀子が顔を上げた。もう髪は燃えていない。熱風も消えていた。
黒い異形の神がいた。
それは瀬能の頭を両腕で抱えていた。
瀬能が叫んでいた。まるで駄々をこねる子供のようだった。
「やめろ! お願いだやめてくれ!」
悲痛な叫びが、やがて哀願に代わっていく。瀬能は泣いていた。鼻をすすり、泣いていた。泣きながら呟《つぶや》いていた。
「エロティックな熱帯だ。俺はそれにそう名付けた。二十四歳だった。伽羅《きやら》だ。そう、伽羅のニオイだ」
由紀子もそのにおいを嗅《か》いでいた。高貴な、しかし熱いエロスを感じさせるその香りは、やがて大気から滴るほどに濃厚になっていった。
まるで喋《しやべ》ることで何かを止められるかのように瀬能は喋り続けていた。
「俺《おれ》はメッキ職人の息子だ。俺は調香師だ。天才と呼ばれた。天才だ。俺の鼻は世界を嗅ぎとる。俺は調香師だ。だから判る。これは伽羅のニオイだ。俺はこれにエロティックな熱帯と名付けた。ニオイは近代を否定する。やめろ。やめるんだ。親父《おやじ》は俺を役立たずと呼んだ。やめてくれ。殴るのはやめてくれ。お願いします、お父ちゃん。この臭いは金属イオンだ。ニッケルの臭い。親父の臭い。次亜リン酸塩の臭いもする。来るな。こっちに来ないでくれよ、お父ちゃん。いいか、俺は世界の支配者となる。ニオイによる革命だ。神に似ている。それ以上こっちに来ないで。お願い! やめて!」
黒い異形の神は、瀬能の首を引き抜こうとしているようだった。
二人の死者が暴れる瀬能の両肩を押さえている。
「おまえの罪に」
久子が言った。
「罰がくだされた」
ジャムが言った。
瀬能の首が、ばりばりと音をたてて裂けていく。まるで紙でつくられているかのように裂け目が広がっていく。
裂けた瀬能の身体から、オレンジの光が飛び散った。
それにつれて瀬能の身体もまた白く輝く粒子となって闇の中へ散る。
終わりだ
終わりだ
終わりだ
何人もの死者たちの声が、合唱となって聞こえた。
爆発が起こった。
宇宙の始まりを思わせる、何もかも覆い尽くす清浄な輝きが世界を包んだ。
由紀子の意識も、その光の中に溶け込んで消えた。
目覚めれば、アロマ・ラボの応接室だった。
由紀子の隣に毅はいた。
その眼がうっすらと開いた。
その向こうに妙子がいた。
ソファーにもたれ、気持ちの良さそうな寝息をたてていた。
そして机を挟んで正面に、瀬能がいた。
その眼が恐怖に見開かれていた。
少なくとも瀬能が快適な状態でないのを確認してから、由紀子は再び深い眠りに落ちていった。
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エピローグ
「こうやってみると、随分広く見えるわね」
段ボールに食器を詰め込みながら由紀子は言った。
「お姉ちゃんの部屋なんか、前から広く使ってたじゃない。きちんと整理してたから。私の部屋なんか、引っ越しのこと考えたら頭が痛いよ」
以前ほどではないけれど、妙子に笑顔が戻った。由紀子にはそのことが一番|嬉《うれ》しかった。
「それにしても、お姉ちゃんの髪、ひどくなっちゃったね。古いモップみたい」
「うるさい」
由紀子は妙子の額を指でつついた。
あの後病院で目覚めたとき、髪は燃えていなかったことを知った。ところがあの日以来、ひどい癖毛になってしまった。
「何回|梳《す》いてもこうなんだから仕方ないじゃない」
「今度良い美容院紹介したげる。ストレートパーマがウリの店」
「よろしくお願いします」
由紀子は頭を下げた。
あの日、由紀子も毅も妙子も、そして瀬能も、倒れているところをアロマ・ラボの社員に発見され、すぐに救急病院に運び込まれた。
由紀子たち三人はその夜には目覚め、検査の結果どこにも異状は発見されなかった。変化と言えば由紀子の髪と、妙子は、あの時千切れかけていた指と裂かれた脇腹《わきばら》が、赤く痣《あざ》になって残っていただけだった。しかし、瀬能は運び込まれた時には息絶えていた。心不全と診断された。
由紀子たちは警察からの申し訳程度の事情聴取を受けた。
そして瀬能は働きすぎの過労死という判断がくだされた。それが自らを神と呼んだ男の最期だった。
「でもさあ、警察も人を見る眼がないというか、私たちが、眼の前で人の死ぬのを見て失神するようなタイプに見えたのかなあ」
「妙子ちゃんは別として私はね」
「……何だかあの日から、由紀子姉ちゃん、性格悪くなったんじゃない」
「元からよ。ほら喋ってないで手伝いなさい」
部屋の中の荷物の大半は、もう片づいていた。引っ越しは明日だ。
由紀子は実家に帰ることを決意していた。
「また遠くなっちゃうね」
妙子が甘えるように言った。
「妙子ちゃんも近所に引っ越したらどう」
「田舎は嫌いです」
「でも、瀬能がいなくなったからといって、呪詛《じゆそ》が消えたわけではないのよ。つまり何もかも終わりというわけじゃないの。隣の福田の家族だって行方不明のままだし、あの喫茶店は相変わらず休業中の貼《は》り紙が貼ってあるし。呪詛の影響を受けた人はまだ沢山いるでしょうしね」
「私は大丈夫よ。……そうだ。お姉ちゃん、死んだお母さんや久子さんとか、それにジャムとかの幽霊に助けてもらったって言ってたでしょ」
由紀子は感慨深げに頷《うなず》いた。
「それってさ、お姉ちゃんの幻覚なのかな」
「さあ、どうかな。そう考えるのが正しいかもしれない。でも私は思うんだ。瀬能の言ってた認識できないもう一つの世界って、死者たちの世界のことなんじゃないかなって」
「天国とか地獄ってこと?」
「そんなはっきりしたものじゃないけど、死んだものたちはその世界へ行って、私たちが決して理解出来ない秩序の中で暮らしてるんじゃないかって……。何となく魂の世界ってそんなもんじゃないのかなって、そう思っただけなんだけど」
「それなら、そこに徳永もいるわけだ。きっとあいつそこでもドジふんでるよ」
「お互い、いろいろ大変だったわね」
「でも、やっぱりハッピーエンドだったでしょ。毅くんも元気だったし」
「そうね。私にはそれが一番の救いだわ。さてと、お茶にしましょうか」
「やった!」
「なんにもやってないじゃない」
「そんな言い方ないじゃない」
唇を尖《とが》らせる妙子を見ながら、由紀子は勉強部屋の毅を呼んだ。
「毅、おやつよ」
毅は大きな声で「はい」と返事して、立ち上がった。
妙子の携帯電話を耳に当てている。どこかにつながっているでもないのに、しきりにうなずきながら話していた。
「ええ、僕ならそうします。……そうですね。ああ、あの女、ですか。……いいですよ」
携帯電話を耳から離すと、毅はもう一度、今度は小声ではい、と返事した。
開いた窓から外を見ながら。
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文庫版あとがき
においに興味を持ったのは「におい」を表現する語彙《ごい》が非常に貧弱なことに気がついたからだ。においを形容する言葉は悪臭を意味する「臭い」と芳香を意味する「芳しい」。それ以外のにおいの種類を形容するとなると「香ばしい」と「焦げ臭い」の二つぐらい。後は何々のように、と比喩《ひゆ》を使うしかない。お疑いなら、他に形容する言葉があるかどうか、ちょっと考えてみて欲しい。
視覚的表現なら山のようにある。第一、色の分類だけで何百とあるではないか。味覚はそれに比べるとずいぶん少ないが、それでも「甘い」「辛い」「塩辛い」「すっぱい」「苦い」と異なる味に対応する形容がそれぞれ存在する。勿論《もちろん》それに「旨《うま》い」と「不味《まず》い」という、価値判断を意味する形容も存在する。聴覚はどうか。これもまた直接形容する語句は少ないが、この物理的な刺激に対する知覚には「高い――低い」「大きい――小さい」という座標軸が存在する。においにはそんなものさえ存在しない。これまた信用できないのなら考えて欲しい。においの「量」と「調子(香調《こうちよう》というのだが)」をどのように表現したら良いか。
では人間の嗅覚《きゆうかく》は鈍いのであろうか。鈍いから分類も表現も出来ないのであろうか。これが違うのである。
たとえばスカトールと呼ばれる糞便臭《ふんべんしゆう》のもととなる物質がある。これを東京ドームの中に0・5ミリグラムばら撒《ま》けば、ドームの観客席に座った者が皆顔をしかめるはずだ。なんと人の嗅覚細胞は、ニオイ分子が40個あれば、それでにおいを感じることが出来るのだ。訓練すれば土中のトリュフのにおいを嗅《か》ぎ取るなどという、豚以上の嗅覚を示すことも出来るらしい。
にもかかわらず、それを表現する語彙は貧弱なのである。そのため調香師のような香りの専門家は、改めてそのにおいに名前をつけている。香調を示す言葉はノート。柑橘《かんきつ》系のさわやかな香りを、専門家はシトラス・ノートと呼ぶ。コショウなどの香りはスパイシー・ノート、白檀《びやくだん》の香りはウッディー・ノートと、あらゆる香りに名前がつけられ、分類されているのだ。これはつまり、表現する語彙がないにもかかわらず、これだけ細かく香りを嗅ぎ分ける能力を人が持っていることを意味する。
それなのに、どうしてにおいの表現は貧弱なのだろう。それは嗅覚が、最も言葉にすることから離れたところにある知覚だからなのではないか。私はそう思った。
嗅覚細胞は神経繊維によって脳と結ばれている。長く延びた神経繊維は頭蓋骨《ずがいこつ》を通り、嗅球《きゆうきゆう》という大脳辺縁系の一部に直接つながっているのだ。この嗅球から、知覚された情報は扁桃核《へんとうかく》へと送られる。これらの部位は動物脳とも呼ばれ、情動などの生理的な反応を司《つかさど》るとされている。思考、言語を司る大脳皮質とは異なる脳の部位なのである。
などという事実は後で知ったのだが、やはり嗅覚は言語との関係の薄い知覚なんだな、と思った。
興味が出て嗅覚やにおいに関する資料を集めていて『においの歴史』(アラン・コルバン著)と出会った。歴史を解体するアナール派の手腕で、においの意味が変貌《へんぼう》していく過程を解き明かして行く。近代が悪臭を発見するまでのにおいの歴史はむちゃくちゃに面白い。すぐに小説が書きたくなってすぐに小説を書いた。百枚ほどの中篇だ。百枚に収まるはずのない内容を無理やり突っ込んだ。当然のことながら勢いだけはあるけれど小説としてはかなり問題があった。だから発表されることなく置いておかれた。
それが『アロマパラノイド』の原型だ。デビューして間がない、ずいぶん昔の話だ。
それからしばらくして、ホラー長篇を書く機会があった。あちこちでホラー好きであることを公言していたからかもしれない。で、久しぶりのオリジナル長篇を発表することが出来た。それがきっかけだったのか、それともちょうどホラーがブームになりつつあったからか、私にホラー小説を書かないかという話が幾つかきた。
その中の一つに、調香師の出てくる物語を考えた。その時点では言語と超常現象というネタを考えていた。嗅覚は味付け程度のものだった。
残念ながら(結果的には良かったのかもしれないけれど)その長篇が発表されるはずだったホラー・シリーズが途中で消えてしまった。いったんは宙吊りになってしまった原稿だが、事情をある編集者に話したら、有り難いことにそれを出しましょうと言って下さった。で、私はその原稿にいろいろと加筆修正をしていった。その過程で、以前没にした中篇のことを思い出した。その二つが合わさり私の頭の中でぐしゃぐしゃになって再構成された。
このような紆余《うよ》曲折を経て出来あがったのがこの小説だ。二つの小説が一つにまとまったからだろうか。ホラー的な展開とSF的仕掛けが一つになって、とても奇妙な小説になった。舞台はパリからインド、スイス、日本と様々に移り変わる。言語と嗅覚と認識論とオカルトと超常現象と狂気と悪意が、闇鍋《やみなべ》のようにごっちゃになっている。それが旨いかどうかは私の味付け次第なのだが、実は私はこの小説がすごく好きだったりもする。
だからこうやって文庫化され、再びいろいろな人に読んでもらえるのはとても嬉《うれ》しいのだ。ゲラの校正をしながら、オレたちもいろいろあったよね、などと作品相手に感慨に耽《ふけ》ったりもしていた。ちょっと恥ずかしい。というか馬鹿である。まあ、馬鹿になるぐらい思い入れのある小説なのだと思って許して欲しい。
これを読んで下さった方が、私と同様、あるいはそれ以上にこの小説を気に入って下さることを祈っている。
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〈参考文献〉
『ソシュールの思想』丸山圭三郎著 岩波書店
『秘術としてのAI思考』西垣通著 筑摩書房
『においの歴史』アラン・コルバン著 山田登世子・鹿島茂訳
『匂いの本』ルース・ウィンター著 真野啓二訳
『香りの世界をさぐる』中村祥二著 朝日選書
『敵の顔――憎悪と戦争の心理学――』サム・キーン著 佐藤卓己・佐藤八寿子訳
※特にソシュールと言語に関しては丸山圭三郎氏の諸著作を主に参考とさせて戴きました。ただしその解釈は誤読に近いもので、記述の誤りはすべて著者の責任です。
この作品は一九九九年六月、アスキーより刊行されたものを改題・文庫化したものです。
角川ホラー文庫『アロマパラノイド 偏執の芳香』平成13年3月10日初版発行