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だからドロシー帰っておいで
牧野 修
目 次
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第 一 章 ミロクと出会う
第 二 章 馬頭《めず》から逃れる
第 三 章 首吊り男の話
第 四 章 ランパカの村
第 五 章 昆人《こんじん》がやってくる
第 六 章 最後のチカラビト
第 七 章 でき損ないの昆人
第 八 章 聖なる山
第 九 章 オズノ王
第 十 章 カンノンの誕生
第十一章 城塞《じようさい》都市バクトラ
第十二章 家に帰ろう
曖昧《あいまい》なあとがき
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尊厳を持った死を誰もが迎えるとは限らない。死は当人にとっても周囲の者にとっても理不尽なものなのだから。
その男にしたところで、まさかこのようなところで、このような形で死ぬなどとは思ってもみなかっただろう。それどころか、自分が死ぬということすら想像していなかったに違いない。
だが容赦なく幾度も振り降ろされた刃物は彼に四十八箇所の傷をつくり、驚愕《きようがく》と苦痛と恐怖と怒りの中で彼は死んでいった。
人としての尊厳などとは無縁な死だった。
JRの駅ビルが新しくなったのは十年以上前。それと前後して「お洒落《しやれ》な」店舗が駅前に乱立した。十年の間にある店は潰《つぶ》れ、ある店は改装し、それなりの変遷があって、結果そこそこ活気のある駅前の風景ができあがった。しかし見事なほどにそれは「駅前」でしかない。まるで書割のように、駅から見える範囲を越えると十年前の景色に逆戻りする。いや、十年分の埃《ほこり》が降り積もったそれは、引越しの時に捨てられた古ぼけた写真のようだ。寂しいだとか物悲しいなどという感傷を与えない、刺々《とげとげ》しい寂莫《せきばく》感を与えるだけ。
たとえば「美人ママがつくる家庭料理、ヒロミ」と書かれた看板のあるスナック。どう見てもそれは普通の民家にしか見えず、確かに中で食べさせられるのは家庭料理であろうと納得する外見も、さらに十年の歳月が磨きをかけ、廃屋にしか見えない。出窓に置かれたこけしとフラダンスをする人形もすっかり日に焼け、供養しなければ浮かばれないであろう風貌《ふうぼう》を晒《さら》している。その奥には、これまた褐色に変色したレースのカーテンがひかれているのだが、そのわずかな隙間から埃だらけのガラス越しに中を覗《のぞ》くとひたすら暗く、見世物を覗き見たような後ろめたい気分になる。
狭い路地を挟んで反対側にあるのは薬店なのだが、看板には「薬、お菓子、文房具」と書かれている。しかも実質は煙草屋のようなのだ。切符売り場のような下に隙間のあるアクリル板の向こうには、畳敷きの小さな部屋がある。そして壁に造り付けの合板の棚には、色褪《いろあ》せた煙草のカートンが幾つか置かれてあった。
これもまた廃墟《はいきよ》にしか見えない。
その二つの店舗に挟まれた小さな路地は、半分ずつがそれぞれの店舗の私有地だ。それを路地と呼ぶのはスナック側の壁に貼《は》られたベニヤ板に「通り抜けできます」と書かれているからだが、通り抜けようと試みた者が何人いただろうか。それはもう隙間としか呼べないような代物で、身体を斜めにしなければ通れない。しかも互いの家の庇《ひさし》が重なり合い太陽の光を通さない。通り抜けられるはずの路地の果ては、いつも薄闇の中だった。乾いたことのないじめじめした路面には正体のわからぬゴミが散乱し、排泄物《はいせつぶつ》の臭いが濃厚だ。ここを通り抜けるにはかなりの勇気が必要だろう。
路地の手前には青いゴミバケツが転がっていた。裂けたところをガムテープで補修した、それ自体がゴミと大差ないゴミバケツ。それから吐き出されたかのように黒いゴミ袋が飛び出し、裂けたビニールから、さらに生ゴミが溢《あふ》れている。なんと汚らしいマトリョーシュカ。
臭いがする。
大小便の臭いならまだこの辺りでは馴染《なじ》みといえるかもしれないが、それは耐えられる範疇《はんちゆう》を超えた悪臭だった。
排泄物や吐瀉物《としやぶつ》の臭いも混ざってはいる。だがそれ以上に耐えられないのが生臭い血の臭い。
それらが混ざり合った、誰もが忌避するであろう臭いの正体を最初に探り出したのは人ではなく猫だった。
眉間《みけん》に傷のある太ったその猫は、路地から臓物らしきものを引きずり出してきて、倒れたゴミバケツの横で試食を始めた。
冬とはいえ昼過ぎにはそこそこ気温も上がり、臭いはさらに凄《すさ》まじさを増していた。
赤黒い内臓を食べている猫を追い払ったのは正面の家に住む老人だった。一人暮らしの老人は、悪臭に堪《たま》らず外に出て、猫を見つけた。近くによっても逃げようとしないその猫を蹴飛《けと》ばす振りをして追い払い、老人は路地の奥を見た。明らかに悪臭の源はその奥にあった。闇に目を凝らしてしばらく路地を覗き込む。近年ますます視力が落ちた彼には、薄闇の中に何も探し出せなかった。
で、意を決して彼は路地に入った。
鼻と口を肩に掛けていたタオルで押さえ、奥へ奥へと。
サンダルが一歩ごとにずる、ずる、と滑り歩きにくい。素足の指にぬるりとした何かがへばりつく。悪臭は進むほどに増し、中ほどまで歩いた時には引き返そうかと思った。
そして見た。
全身を切り裂かれた男が横たわっているのを。
右目は潰《つぶ》され、残された左目が老人を睨《にら》んでいた。
悲鳴も上げられずに這《は》い、転がって路地から飛び出た老人がショックのあまり二つ目の遺体になりかけたその日の二日前。喜多野伸江はいつものように目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
腕を伸ばしベルを止める。カーテン越しに未《ま》だ蒼暗《あおぐら》い外の光が見えた。
五時三十分。危ないところだと彼女は思った。毎朝そう思う。
夢を見ていた。娘の夢だ。生まれる前に死んでしまった娘は、美しい少女の姿で現れると、にこにこしながら伸江を見ていた。なあに? と伸江が問うと、その手を引いて言った。行こうか、と。
それから長い続きがあるのだが、思い出そうとしても朧《おぼろ》に崩れ、何か切ない気分だけが残る。そんな夢を最近毎日のように見る。
夢の続きを考えるのはやめて、布団からそっと出た。夫の孝は隣の布団で眠っていた。それを起こさないように、そっと、そっと布団から出る。それから薄闇の中で服を着替えた。衣擦れ、というにはあまりに乾いた音だけが聞こえる。ウエストにゴムの入ったスカートに、意味不明の英語らしきロゴの入ったグレーの台湾製トレーナー。下腹が出てきた。まるで妊娠しているように膨《ふく》らんでいく。腿《もも》や脹脛《ふくらはぎ》の血管が赤く青く浮き上がっていた。そこにシミや痣《あざ》が散らばっているのをしばらく見詰め、それから濃い肌色のストッキングに木綿の靴下をのそりと履く。ストッキングは指に脚にざらざらと引っかかった。何かをする度に、年月が彼女に加えた仕打ちを知らず知らず確認していた。
洗面所に向かう。
眠気が身体にへばりつき、水の中を歩いてでもいるかのように感じる。
顔を洗う。見たくもない鏡が真正面にある。乱れた髪。張りのない肌や腫《は》れ上がった瞼《まぶた》。鏡から目を逸《そ》らせ、伸江は思う。私は幸せだ、と。
二十歳で結婚し、今まで苦労らしい苦労をしたことがない。市役所勤めの孝は健康で勤勉だ。息子の孝治は、さして問題もなく高校生になった。お義母《かあ》さんは多少|惚《ぼ》けてはいるが、難しい人ではない。
すべてが順調で幸福だ。
呪句《じゆく》のように幸せの内容を繰り返しながら化粧を始めた。夫に素顔を見せるな。それは伸江の父親の教えだ。家族の中で絶対者であった父親の教えは、彼が死んだ今も、彼女の細胞の一つ一つにまで染みこんでいる。
四年前に孝に注意されてから、化粧はできるだけ自然にと心掛けている。したいままにすれば、どうしても濃くなってしまうのだ。
化粧を終えると、食事の支度だ。子供の頃、食卓が化粧臭いのが厭《いや》だった。勿論《もちろん》一度として厭だなどとは言わなかったが。あの頃の私のように一人息子は感じているのだろうか。それとももう慣れてしまっているのだろうか。
孝と孝治に弁当を作り、それから孝、孝治、義母の小枝子の三人分の朝食をそれぞれに合わせて作る。
ようやく朝食の支度を終え椅子に腰掛けると、伸江は大きく溜息《ためいき》をついた。
どうしてこんなに時間が掛かるんだろう。
自分では一所懸命やっているつもりだ。それが毎日のことだというのに、毎日十年以上も続けているのに、いつまでも慣れない。今はもう七時半。起きてからここまでで既に二時間も掛かっている。いつも父親にぐずぐずするなと怒鳴られていたのを思い出す。小学校の時に彼女についた渾名《あだな》はトロ子だった。鈍《とろ》いからトロ子。
今の私を見たら父は叱るかしら。
伸江は自問し自答する。
そんなことはないわ。こうやって幸せにやっているのを見たら、お父さんも喜んでくれるはずだ。
さて、と立ち上がり、寝室に向かった。襖《ふすま》の前に立ち、笑みを浮かべる。
おまえはどうしてそんなに無愛想なんだ。
これも父親の台詞《せりふ》だ。たいていその後にこう続く。
器量が悪いんだから、せめて笑顔でも見せろ。
小さい時、伸江はよく鏡の前で笑顔の練習をしたものだ。今では人に顔を見せる前に笑顔をつくるのが癖になっている。たとえそれが夫であっても。
襖を開き、電灯を点《つ》け、できる限り元気な声で言った。
「お父さん、朝ですよ」
家族の朝が始まった。孝を着替えさせ、息子の孝治を起こし、義母の様子を窺《うかが》い、皆に朝食を食べさせ、忘れ物のないよう確認し送りだし、後片付けをする朝が。何千回となく繰り返した朝が。
台所を片付け掃除を済ませると、伸江はお茶を淹《い》れて、居間に小枝子と向かい合って腰を降ろした。
「ご苦労さま」
小枝子の笑みに、伸江はほっとする。
「苦労じゃありませんよ」
「いいえ、苦労よ。嫁になることが苦労ですものね」
伸江はこの小さくて上品な義母が好きだった。このように老いることができればといつも思っていた。たとえ少々惚けていようとだ。
「お昼は何にしましょうか。お義母さん、何か食べたい物があります?」
「食べたい物……ほら、いつか小津さんに頂いたおはぎ。あれは美味《おい》しかったわね」
小津という名前に聞き覚えはあった。義母の友人か、遠い親戚《しんせき》か。多分そんなところだろう、と思う。だが、いずれにしろおはぎは昼食にならない。
「じゃあ、おはぎをおやつに買ってきましょうね。でも、お昼はもっとしっかりしたものを食べなくちゃ」
伸江の台詞を聞いているのかいないのか、小枝子は愛らしいといってもいい笑顔を浮かべながら、箪笥《たんす》から紙箱を出してきた。
「ところで、これはどうかしらね」
畳に置いた箱を伸江へと滑らせる。
「何ですの」
「開けてみて」
「私が?」
伸江は自分を指差した。ピンクの紙箱は同色のリボンで綺麗《きれい》に包装されていた。
「そうよ」
「開けますよ」
「どうぞ」
リボンを解き、蓋《ふた》を開ける。白く柔らかい紙に包まれ、赤いエナメルのハイヒールが入っていた。エナメルの独特の光沢は月光のように輝いている。伸江にはまるでそれが高貴な宝玉のように見えた。
「まあ、お義母さん」
自分でも驚くような声を上げた。
「こんなもの、どうなさったんですか」
箱も包み紙も真新しい。靴も新品だ。桃のように傷つきやすいエナメルに傷一つない。
「小津さんに頂いたのよ。あなたにって」
「私にですか」
「そうですよ」
相変わらず義母は幼女のように微笑んでいる。
聞き覚えがあっても、小津が何処の誰なのかわからない。まして何かをその人から貰《もら》うようなことがあるわけがない。
「お義母さん、こんなものを頂くわけにはいきませんわ」
「駄目よ」
小さな子供を叱るように小枝子は言った。
「これは伸江さんにって頂いた物なの。今日はほら、特別な日でしょ。これを履いていくのよ。小津さんなら何とかしてくれるから。いいわね」
「はい」
笑顔で答えた。義母が理解できないことを言うと、伸江は必ず笑みを浮かべるのが習い性となっていた。厭な癖だと伸江は思っていた。義母を馬鹿にすることになるのでは、と伸江は義母に笑みを浮かべるたびに悔やんだ。
「さあ、行ってらっしゃい」
義母は座布団にちんと座りなおし、そう言った。素っ気ないその態度に怒られたのではないかと思い、伸江は再び曖昧《あいまい》な笑みを浮かべて席を立った。手には解いた包み紙と箱を持っている。何か言うべきだ、と思いながらも何も口にできなかった。顔が赤らむ。
暖かいだけが取り柄の分厚いコートをひっかけ、昼食の用意にと商店街に出かけてからもずっとそのことが悔やまれてならなかった。その時口に出なかった言葉が、伸江の頭の中で渦巻いていた。
私はこう言うべきだった。「いいえ、お義母さん。今笑ったのは私の癖なのよ」少しおかしいわね。「ごめんなさい。お義母さんを笑ったんじゃないんですの。これは私の癖で……」もっと感じ良くできないかしらね。私はいつも無愛想だって言われるから、ただでさえ無愛想なんだから、だから、きっと、あの時に笑ったのも厭な笑いに見えたのよ。間違いないわ、きっとそうよ。だから、だから、そう、こう言えば良かった。「勿論、今のはお義母さんを笑ったんじゃないのよ」そうね。自然にそう言えばいいのよ。なにより自然が一番だわ。
頭の中で〈あの時〉の場面が、彼女自身満足できる情景に変わるまで幾度も幾度も繰り返される。買い物をすませた頃、頭の中の伸江は満面に笑みを浮かべたサザエさんになっていた。
伸江はサザエさんに憧《あこが》れていた。慌て者でそそっかしいが、すべての失敗を舌を出して頭を掻《か》くことで許してもらえる性格。愉快な人ですね、と伸江は言われたかった。今まで誰も彼女にそう言う者はいなかったのだが。
後ろからベルの音がしたのをぼんやりと聞いていたら、手にした荷物をかすめて自転車が通った。よろめく伸江に「ぼやっとしてんじゃないよ」と、サドルを尻《しり》に埋めた太った女が怒鳴りつけた。
とっくに通り過ぎた相手にすみませんと頭を下げ、顔を上げた時だった。景色が、ふつ、と遠のいた。それに合わせて引き剥《は》がされるように意識が遠のく。双眼鏡を逆さに覗《のぞ》いているようだ。歩く人が、その喧騒《けんそう》が、古い記録フィルムに定着されたかのように現実感を失っている。
ここは簪《かんざし》町商店街だわ。
今記憶を取り戻したかのように呟《つぶや》いた。奇妙に平坦《へいたん》な景色がそこにある。それは彼女との関係を絶った風景だ。濡《ぬ》れた薄皮が一枚、それにはべっとりとかぶせられている。指先で触れれば風呂垢《ふろあか》のように滑る感触が感じられそうなほど、その薄皮はリアルだ。少なくともその皮の向こうにあるものよりはずっと。
私は関係がない。私とここは関係がない。ここと私は関係がない。
頭の中で繰り返しながら、改めて周りを見回した。簪町商店街はこの辺りで唯一の大きな商店街だった。近所に大資本のショッピングビルができてから、多少は客足が遠のきはしたが、それでも昼時ともなればそこそこの人混みだ。知った顔もある。知らない顔もある。十六年もの間通いつづけた商店街がここにある。だが、それと自分との関係がわからない。ここが何処なのか、知識としては知っている。しかしそれは、パリがフランスの首都だと知っていることと変わりない。知っている。ただそれだけだ。それだけでしかない。
雑踏の音は唐突に甦《よみがえ》った。何があったのか伸江にはわからなかった。何を感じていたのかさえわからない。ただ目の奥に白い膜が張ったような不快な感触だけが残っていた。
疲れているのだ。
大抵の異変を解決する魔法の一言で伸江はそれに解答を出した。
滅多にしないことだが、彼女は喫茶店に入ることにした。何しろ疲れているのだ。少しは休息を摂らねばならない。
花時計という名の喫茶店があった。木製の看板には純喫茶と書かれてあった。
扉を開けると、チロル風のドアベルが、胸を患った男の咳《せき》のような音をたてた。
伸江は入ってすぐのテーブルに腰掛け、彼女が〈ごろごろさん〉と呼ぶ薄汚れたビニール製の買い物カートを椅子の横に置き、ソーダ水を注文した。それこそ山のような荷物を隣の席に置く。安売りのトイレットペーパーとティッシュの箱を括《くく》っていた紐《ひも》を、皮膚でも剥がすようにばりばりと手から離した。赤紫の溝が幾本も掌《てのひら》に走っていた。溜息《ためいき》をつき、それを拭《ぬぐ》い取るようにおしぼりで両手を拭《ふ》く。
運ばれてきたグロテスクなほどに鮮やかな緑のソーダ水を、ストローで二、三度|掻《か》き混ぜた。
足元を何かが撫《な》でたような気がした。
伸江は顔を顰《しか》めた。
ネズミだわ。
そう思った。
ふらふらと脚を揺すると、それは揺れる脚にまとわりつくようだ。
伸江はそっと椅子を引き、下を覗《のぞ》いた。
何もいない。
何かが視界の端を逃げ去ったように見える。
白かった。
伸江は思った。
さらに椅子を後ろに下げる。それから何かを拾う振りをして身体を屈《かが》め、テーブルの下を覗きこんだ。
餅《もち》だわ。
頭の中に浮かんだその考えに、自分で苦笑する。
でも、でもどう見ても餅そっくり。抱えるのに苦労しそうな大きな餅。ぷわぷわしてて。あれれ、動いてる。ぷわぷわが動いてる。あっ、目がある。鼻もある。それがゆっくりと動いてる。福笑いね、まったく。あっ、耳が出てきた。お尻のほうに回っていたのね。今度は目が離れていく。
でも犬だ。
唐突に伸江は思いついた。
これは犬だわ。
驚いてはいなかった。驚くほどのことはないと考えていた。
だって、これは犬なんだもん。目とか鼻が集まってきたわ。
伸江は一人笑った。小さな時から犬が好きだった。だが父親が許さなかったので、犬どころかペットというものを飼ったことがない。一度だけ、子猫を拾ってきたことがあった。即座に父親に見つかり、捨ててこなければならなくなった。鳴き声を背に走りながら、二度と生き物を飼おうとは言うまいと思った。
なんて可愛らしいの。
伸江は手を伸ばした。
ははは、舐《な》めてる舐めてる。そうだ、名前をつけてあげるね。そうだな、琴子……コトはどう。ねっ、良い名でしょ。私の娘の名前。可哀想に生まれる前に召されたの。女の子ってわかっていたからね、だから私は名前をつけたのよ。琴子って。だから君はコト。
脹脛《ふくらはぎ》にすりよせてくる弾力のある暖かみを伸江は感じていた。それは喩《たと》えようもなく優しく愛らしく、伸江は自然と笑みを浮かべた。それからソーダ水を口にし、また下を覗き込むと、もうそこには何もいなかった。
喫茶店を出てからも、伸江はずっとコトのことを考えていた。彼女の頭の中では、その〈犬〉が生まれて初めて買うペットとなっていた。
またあの店に行くと会えるかしら。
知らず微笑を浮かべ、伸江は家に急いだ。家の手前にまで来た時だった。彼女はいつものようにぼんやりと考え事をしながら歩いていた。前から車が近づいているのに気がつかなかった。あっ、と思ったときには車が目の前にいた。
慌てて身体を避けた。
隣家の庭に通じる鉄の扉があった。両手に一杯の荷物を持っている。バランスを崩した伸江はその扉にもたれ掛かった。門は何の抵抗もなく開き、彼女は真後ろに向けて見事に転倒した。
〈ごろごろさん〉が倒れ、中身が庭に散らばった。
伸江は跪《ひざまず》いて散らばった荷物を集めていた。
「何をしとる」
言われて伸江は、ひっ、と小さな悲鳴を上げた。身体がびくりと跳びあがる。
見上げると初老の男が立っていた。隣家の主人だった。
「聞こえんのか。人の家で何をしとる」
「あっ、すみません。……あの……車が来まして……」
「なんでも良いから、早く片付けて帰ってくれんか」
さも厭《いや》そうな顔で男は言った。
男が隣に越してきたのは二年前のことだった。酒屋の元主人ということだった。繁華街の一等地にあった店を売り、ここで隠居生活をおくっているらしい。息子がいるのだが、一度も訪ねて来たことがない、という噂に、誰もが「そうでしょうね」と悪意を持って頷《うなず》くのは、この男の評判が近所でも良くないからだ。吝嗇《りんしよく》で口うるさく、何か事があれば、いや、何もなくても、男は誰彼なく文句をつけた。
伸江の家にも、夜中にうるさいだの、自動車を家の前に停めるなだのと怒鳴り込んできたのは一度や二度ではない。
彼女に聞けば、そうでないと答えたであろうが、この近くに住むものが誰でもそうであるように、伸江もまた男を嫌っていた。それでも伸江は決して他人を嫌いだと言わない。ただ苦手なだけと言うのだ。
この隣人は彼女が最も「苦手な」人間だった。
「何をぼうっとしとる」
呆《あき》れ果てた、という顔で男は言った。だが伸江はその顔を見ていなかった。「すみません」と繰り返しながら、四つん這《ば》いになって懸命にこぼれ落ちた荷物を拾っていたからだ。絹ごし豆腐がへしゃげていた。ほうれん草は泥だらけだ。焦れば焦るほど、転げ出た物は伸江の手を逃れて離れていく。
「あんたら仲が良いなあ」
「はあ?」
伸江は男の顔を見上げた。ニヤニヤ笑いながら、男は意外なほど伸江の傍に立っている。「仲がいいのはかまんがな、ちょっとは慎んでもらえんか。うるさいんだ。夜中にあはんだのうふんだの。筒抜けなんだから、もうちょっとなんとかできるだろう、なっ、奥さん」
伸江は耳まで真っ赤に染めて俯《うつむ》いた。夫とは十年近く関係がない。それはおそらく夫が借りてくるアダルトビデオの音だろう。彼女はそう思ったが、そんなことを説明するつもりなどない。
伸江がこの男を苦手なのは、ただ文句や難癖をつけてくるからではない。人に文句を言われたら、たいていのことであれば彼女は納得してすまないと思ってしまう。しかも本気で。彼女はそんなことで人を嫌いにはならない。
問題は男の言い方にあった。
どこか性的なニュアンスが含まれているのだ。
特に伸江のようなひたすら低姿勢の相手に対して執拗《しつよう》に嫌がらせをするとき、明らかに加虐的な喜びを感じているのが見えた。それが堪《たま》らなく不快だった。それを知っているのか、男は伸江に対して余計に厳しく当たった。延々と続く小言に泣き出したこともあった。そして涙を見せると、男の話はさらに勢いを増すのだ。
その日は奥で男の妻が呼んだために、二十分ほどで男は渋々家に戻っていった。
なんとか家にたどり付いた伸江は、いつもより遅めの昼食を義母と終え、夕食の支度にすぐにかかった。時間がなかった。いつものように伸江には時間がなかった。
必ず六時に帰宅し、服を着替えてからすぐに食事が出てこないと不満を漏らす孝のために、伸江は懸命に夕食の支度を続け、ようやく六時に終えた。
だがその日、孝は六時に帰ってこなかった。
小枝子の食事をすませ、その片付けを終えたのが八時。孝が職場の後輩という、追従笑いが身についた太った男を連れて帰ってきた時には十時を回っていた。
不意の来客ほど彼女を驚かせ、慌てさせるものはない。突然現れた殺人鬼と不意の来客なら、伸江は間違いなく殺人鬼の来訪をこそ望むだろう。殺人鬼にはただ身を任せ殺されれば良いだけのことだ。慌てる必要などなにもない。
それでもなんとかビールを出し、即席のつまみをつくり、それから改めて一人分余計に夕食をつくり、その間に帰ってきた孝治に夕食を出し、次に出すつまみのことを考えていた時だった。ビールがもう一本も残っていないことに気がついたのは。
頭の中が真っ白になった。孝に一ケースは必ず買い置きをしておくように、しつこいほど言われていた。「いつ客が来るかわからんのだ。それぐらいのこともできないのか」その場で叱られているかのように、頭の中で夫の叱責《しつせき》する声が聞こえた。近くに自動販売機があった。だが酒の自動販売機は十一時で終わりだ。既に十一時は過ぎていた。歩いて十分ほどのところにコンビニエンス・ストアがある。そこはビールを置いていたはずだ。伸江は自転車に乗れなかった。歩くしかない。往復二十分。その間に孝がビールを持って来いと言ったら、それ以外の用事を言いつけたら、それでおしまい[#「おしまい」に傍点]だ。
息子の孝治に頼もうかとも思ったが、すぐに孝治の嫌がる顔が目に浮かんだ。説得するのはあまりに億劫《おつくう》で、それ以前に近頃夫に似てきた息子になにやら恐ろしいものを感じるのだった。
台所の隣が応接間だった。扉は閉まっているが、声ははっきりと聞こえる。あまり酒に強くない孝は、いくらか酔っているようだった。
「帰って家内の相手をするのが億劫でしてね」
客の笑いを含んだ声が聞こえた。
「そんなことを考えるから億劫になるんだ」
「そうはいっても、考えないわけにゃいきませんって。うちは喜多野さんとこみたいに亭主関白じゃないっすからね」
「おまえが情けなさ過ぎるんだ。俺んとこはな、そうだな…………七年はしてないな」
「七年ですか」
「そう、七年。七年前にな、まあ、あれだ。義理でしてやろうと思ったわけだ。たまには嫁孝行だよ。で、声を掛けた」
「奥さんにですか」
「うん。そうしたら、疲れているから嫌だとぬかしやがるから、それならいいと。俺も義理でおまえのことを考えてやってやろうとしてるだけだ。今後一切おまえには手を出さん、と、まあ、言ってやったわけだ」
「凄《すご》いなあ。ぼくには、そんなこと口が裂けても言えませんよ」
「感心するのはまだ早いよ。でだな、いったんそう言ったんだから、それからいっぺんもしてないわけだ。やっぱ、俺は男だからね。一度口にしたら必ず実行よ」
「喜多野さんは言ったことは必ず守る人だから」
「まあ、そういうことだな」
伸江はいつもそうであるように忙しかった。その時は特に忙しかった。なにも考える暇がないほど。
二人の男の会話が耳に入って流れていった。その意味を考えてはいなかった。何も考えられなかったが、気分だけは残った。汚物を身体になすりつけられたような気分だった。
伸江は急に空腹を感じた。冷蔵庫を開けて残り物のカボチャの煮付けを食べる。それから牛乳パックを手にした。品がないからと普段は絶対にしないことだが、パックから直接牛乳を飲んだ。
美味《おい》しかった。
感動するほどに美味しかった。
調子が良いんだわ。
伸江は一人|呟《つぶや》いた。その声さえ若やいで感じられる。特別の日。小枝子の言った言葉を思い出した。とくべつのひとくべつのひ、と口の中で呟く。一度口にする毎に力が注入されていくような気がした。空気入れで懸命に「力」を入れている自分の姿が浮かんだ。それが滑稽《こつけい》でくすくす笑う。その笑い声すら少女のようだと思えた。
そうか、特別な日だったのか。そう思うと、今までの厭《いや》な感じが嘘のように消えていった。
「ビールを買ってきましょう」
笑顔でそう言うと、伸江は寝室に行った。出かける準備をするためだ。気分が高揚していた。普段着で買い物に出かける気がしなかった。伸江の小さな衣装|箪笥《だんす》に詰めこんだ服をあれこれ選んでいると、手に引っかかるように一着のワンピースが出てきた。まだ冒険してみようという気があった頃に買った、鮮やかなピンクのワンピースだった。買ったときには既に派手過ぎたと後悔していた服だ。一度も袖《そで》を通していない。そんなものがあることさえ忘れていた。洗濯屋で貰《もら》う針金のハンガーに吊るされたそれを手に取り、眺めた。クレージュのコピーだが、それでも彼女にとってはかなりの出費だった。
伸江はそれを箪笥の端に吊るし、朝、小枝子に貰った靴を、箱を開けて取り出した。
なにかうきうきしている。子供の時に、楽しいことがあると、必ずその後で最悪のことが起こるのだと、その最悪の出来事の細部まで想像した。希望を持つことが不幸に通じるのだと思う、そんな少女だった。今もそれは変わらない。最近|敢《あ》えて最悪の出来事を想像することがなかったのは、心が浮き立つようなことが久しくなかっただけだ。ところが今は手放しで浮かれている。浮かれている自分を疑問に思うことさえない。
伸江は大きく深呼吸してから、ピンクのワンピースに腕を通した。かなり身体の線を顕《あらわ》にする裁断だ。下腹が出ている。それでは、とガードルとサポートストッキングを探し出してきた。余った肉を縄文の皺《しわ》に変え、下着に押しこんだ。変装をしている気分だった。三面鏡の前に腰掛け、美容院に行くのを忘れていたことに気づいた。ありもしない鬘《かつら》を探してから諦《あきら》め、ブラシをいれ始めた。何度も何度も念入りにブラシをいれた。すると不意に「髪を散らすな」と父親に殴られたことを思い出した。あの時も鏡の前で髪を梳《と》かしていた。いつもなら伸江を消沈させる父親の思い出も、今日はかえって胸をドキドキさせた。でも私は髪を梳くの。生前一度たりとも口答えなどしなかった伸江が、知らずそう口に出している。髪を梳くのあなたのことなど知ったことじゃない私は髪を梳くの。床に散った髪なんか後で拾えばいいじゃないだから私は髪を梳くの。ブラシを置くと化粧を始めた。薄く薄くと意識せず、気が済むまで念入りに化粧を続けた。気持ちが良かった。楽しくて仕方なかった。化粧が終わると、伸江は二階に上がった。
「お義母さん、ちょっと出掛けてきます」
「靴は持った?」
「はい」
「気をつけていくのよ。困ったことになったら、小津さんを訪ねるのよ。きっと力になってくださるわ。私にできるのはここまで。さあ、行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
元気良く返事をして、伸江は赤いエナメルのハイヒールを履いて家を出た。
夜の匂いがする街が広がる。その広さを伸江は感じていた。いつもは吐いた己れの息を吸っているような閉塞《へいそく》感しかない。街は書割で、その背後には何も存在しない閉じた小さな世界。そんな世界で伸江は生きてきた。それが今はどこまでも続いている空間を実感できているのだ。
何かと訣別《けつべつ》する時の切なさと怯《おび》えが、唐突に伸江を襲った。
コートも着ずに外へ出たからだ。
一人そう納得して、伸江はコンビニエンス・ストアへと急いだ。風が伸江の髪を乱す。乱れる髪も頬に当たる風も、彼女を映画の中にいるような気分にさせた。心地よい非現実感。まるで小説の中にいるような気分。待ち構えている素敵な物語の数々。子供のように伸江の心は浮き立っていく。
伸江は父親のことを思い出した。それは幼い頃、父と旅行に出た思い出だった。伸江は窓の外を見ていた。緑色のパズルのように田園が広がる。規則正しく電柱が車窓を横切る。その情景を映画でも見ているかのように鮮明に思い出せた。父は彼女の靴を脱がせてくれた。その時、伸江は父の顔を見た。父親は伸江を見つめていた。その顔自体は不思議に曖昧《あいまい》ではっきりとは思い出せないのだが、その時に感じた気分は今ここでそれが起こっているかのように思い出せる。
父は私を愛しているのだ。私の何もかも、私が嫌だと思う私まで含めて何もかも父は愛してくれている。
あまりにも嬉《うれ》しくて伸江はその時泣き出してしまった。そこまでは覚えている。それだけだ。その前もその後も、伸江は何一つ覚えていない。どうして父親と二人で旅行に行ったのかも覚えていない。ただ、その時の気持ちと、窓の外の情景だけが頭の中に残っていた。
厳しい父だった。その厳しさに冷たさを感じていた。父親に嫌われている。伸江はそう思っていた。弟ができてからはよけいだった。伸江は父に甘えたかった。父に愛されたかった。その思いは父親が死ぬまで叶《かな》えられることはなかった。その旅行の記憶を除いて。その記憶があったから伸江は生きてきたような気がする。伸江に味方はいなかった。少なくとも伸江はそう考えていた。だから父親には、せめて父親には愛されていたかった。そのために様々な工夫をした。それはことごとく父親の怒りをかった。例えば、短大の卒業式。伸江は目立ちはしないがいつも優秀な成績だった。そのため卒業生の総代に選ばれた彼女は、喜んでもらえると父親に報告した。それを聞いた父親は激怒した。そんなことをしたら嫁の貰い手がなくなると。結局伸江は、家の都合でと嘘をつき、卒業式を休んだのだった。それでも、と伸江は思うのだ。あの時、二人で乗った列車の中のあの一瞬は、確かに父が私を愛していたのだと。私のすべてを肯定していたのだと。
足音が聞こえた。
伸江の足音とは別の足音だ。
誰かがつけてきている。
とくり、と心臓が脈打った。
掌《てのひら》が冷たく汗ばむ。
この時間、人の通りはほとんどない。商店もほとんどが店を閉じている。街灯と街灯の間隔が広い。その間を埋めるのは闇だ。
伸江は少しずつ脚を速めた。その脚が闇に絡まる。
足音は伸江の脚に合わせて速さを増した。誰かがつけてきているのは間違いない。
その時、伸江がそんなことを決意したのは、やはりその日が特別な日だったからだろうか。
立ち止まり、振り向いた。若い男がいた。薄汚いジーンズの上下を着た男だった。似合わぬ野球帽をかぶっている。男は大股《おおまた》で近づいてきた。そのにやにや笑いが見える位置にまで近づいたとき、伸江は言った。
「後をつけるのは止めてください」
思ったよりも大きな声が出た。
「ばーか」歪《ゆが》んだ口でからかうように男は言った。
「誰がおまえみたいなババア、おっかけなきゃならないんだよ」
「でも……」
言いよどんだときには己れの決意を後悔していた。
逃げるべきだった。今までそうしてきたように目を逸《そ》らせ、足早にそこを遠ざかるべきだった。
男は伸江の態度を見て、嵩《かさ》にかかって言い募る。
「おばはん、欲求不満じゃないのか。教えてやろうか。そういうのを被害妄想ってんだ」
男は伸江の正面に立っていた。
逃げなければ、と思いはしたが脚が動かなかった。
「そんなにして欲しいんなら、股開けよ。俺がやってやるよ。仕方ねえからよ」
下衆《げす》な笑いが人とは思えぬほどに醜く、恐ろしさに声も出なかった。男の手が伸江の肩を掴《つか》む。指が柔らかな肉に食い込んだ。それを払おうとすると、平手がとんだ。右の頬に電気が走ったような気がした。痛みより驚きの方が大きかった。
「やめて」
自分にも聞こえないような小声で伸江は呟《つぶや》いた。
男は伸江の肩を掴んだまま、路地の壁に押さえつけた。スカートの裾《すそ》をぐいと持ち上げる。
映画だ。
映画でしかこんなことは有り得ない。
伸江はそう思った。さらに現実感が急速に遠のいていく。
男が突然伸江から手を離した。
その時伸江は見た。
男の肩に掴まった、白いぶよぶよしたものを。餅《もち》のようなそれは、手とも脚ともつかない何かを振り回し、男の顔を殴っていた。男はそれを引き剥《は》がそうとするのだが、どうやってもそれは男から離れない。
コトだ。
そう呟いた時、ぱっくりとコトの身体が二つに裂けた。それは口だった。針のような歯がびっしりと並んでいた。途轍《とてつ》もなく大きな口が、男の首筋を噛《か》んだ。肩を噛んだ。胸を噛んだ。腕を噛んだ。そこかしこから血が噴き出た。噴き出し流れる血が闇に溶ける。男の罵声《ばせい》、悲鳴、命乞《いのちご》い。
そして、そして……。
走っていた。
コトを抱き、ひたすら走り続けていた。
夢中だった。男が後ろから追いかけているのかどうかもわからなかった。闇が急にのしかかってきた。何処を走っているのかわからなかった。ただ、脚を前後に必死になって動かしているだけだ。
風が吹いた。突風だった。それが脚をすくった。
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第一章 ミロクと出会う
1
あっという間だ。
私は吹き飛ばされていた。
空へ。
下を見た。そこに雲があった。
風が吹いていた。
脚の下の雲が裂けて、更にその下が見えた。夜光虫が輝く海面のように見えるそれが、私の住んでいた街だ。それを遥《はる》か高みから見降ろしている。
なんてきれいなんだろう。
思わずそう口にしていた。
そしたら落ちた。
私は胎児のように丸まってぎゅっと手足を縮めて……。
視野がみるみる狭まっていく。
落下。
暗転。
そして眼を開くと空が見えた。それが空だと、初めは思えなかった。そこにあったのは嘘のように明るい一面の鮮やかな青だけだ。わずかの雲が、白く、くっきりと流れていなければ、青という色彩だけの夢を見ているようだった。
青だ。
惚《ほう》けたようにそれだけを考えながらじっと空を見ていた。暑さが襲ってきたのはその次だった。暑いと思ったとたんに汗が噴き出した。
暑い。
口に出してそう云ってみた。まるで何も考えることができなかった。この空の青さと暑さは、何かを考えるには相応《ふさわ》しいものではなかった。ここには「青だ」と「暑い」の二つを考えるだけで充分と思わせる何かがあった。
胸の上に何かが乗っていた。それで初めて自分が仰向けに横たわっていることに気づいた。胸の上にあるのは白く大きな餅だ。
「コト……」
あちこちに動き回る眼や耳や鼻が一箇所に集まり、心配そうな顔をつくった。
「ここは……」
私は半身を起こした。
臭いがした。食べ物と糞尿《ふんによう》と汗の臭い。生活の臭いだ。次に音が聞こえた。わんわんと響く街の喧騒《けんそう》だ。そしてようやく街が眼に入った。まるで今、目前に現れたかのように。立ち上がった。横を自転車がかすめるように通った。私は雑踏の真っ只中《ただなか》にいた。行き交う人々が私を避けて歩く。人の波は私の前後で渦巻いていた。
まるで河の中州にでもなった気分だった。そうだコトだ。抱きしめた柔らかなそれに、さらに力を込める。風船を抱いたように、コトはひょうたん型に変形した。
汗が更に噴き出た。しかし流れる汗はたちまち乾いていく。きっと顔は真っ白な粉で覆われているに違いない。
すぐそばを河が流れていた。流れに気づかなければ海と間違えるほど大きな河だ。向こう岸が見えない。陽光を受けてきらきらと光の網が輝いているが、水の色は褐色に濁っている。
河沿いでは女たちが洗濯をしていた。女たちはまるでアシカの群れのように河辺を埋めている。様々な原色の膝《ひざ》まである長いシャツに筒状のすとんとしたズボン。脚は裸足《はだし》だ。彼女たちは化粧とは縁のない日焼けした顔でひっきりなしに喋《しやべ》り、時折、底が抜けたかのようにけたたましく笑う。その間も仕事の手は休めない。棒状の石鹸《せつけん》を洗濯物に擦《こす》りつけ、泡立ったそれを褐色の水の中にびしゃびしゃと叩《たた》きつける。飛び散る水《みず》飛沫《しぶき》に燥《はしや》ぐ半裸の、あるいは全裸の子供たちがその周りを走り回っていた。
道路を挟んで河の反対側には、びっしりとモザイクのように様々な店が嵌《は》め込まれている。一面の壁と化した店の、その軒先にも出店が立っている。二重駐車ならぬ二重店舗だ。しかもそれぞれがそれぞれに派手な原色の色使いで勝手な意匠を凝らしているものだから、眩暈《めまい》でも起こしそうだ。
建物だけではない。ここにいる異装の人々の騒々しさは多少派手な建物であってもくすんでしまうほどだ。店先に何やら怪しげな機械類を並べた男が喉《のど》の潰《つぶ》れた声で歌うように口上を述べている。水を入れた瓶《かめ》を背負って歩く男は「退け! 退け!」と声を張り上げる。凄《すさ》まじい煙を上げて肉を焼く男と、たくさん買うから安くしろと交渉する老人。そこに割り込み、立ち込める煙の苦情を言う隣の八百屋。その隙間を縫って子供が肉を盗んで走る。追いかける店主が大道芸人たちに遮られる。後ろから罵声を浴びせる店主。
男や女や子供や年寄りが、皆、喧嘩《けんか》でもしているかのように大声で喋っていた。けたたましく笑っていた。喋りながら、笑いながら、歌いながら、怒りながら、歩き、走り、座り込んでいた。
閉店間際のデパートの食料品売り場だってこれほどじゃない。私はそう思った。
思うことはそれぐらいだ。ぼんやりとしていても、じっとしていることは不可能だった。水に流される木の葉のように、歩くともなく人の群れに流されていく。
不意に腕を掴まれた。
「こんなところで何してる」
男は云った。痩《や》せた小男だ。老人と云ってもいいような年齢だろう。白と灰色の髭《ひげ》が、長く顔の下半分を覆っている。生まれて一度も櫛《くし》を通してないであろう、もじゃもじゃのたてがみじみた長髪は、メリケン粉を浴びたような白と灰色の斑《まだら》だ。髪と髭に囲まれた小さな顔は見事なほどに日焼けし、縦横の皺《しわ》のせいで巨大なチョコレートクッキーのように見えた。
「ぼうっとしてると危ないぞ」
男はぐいぐいと伸江の腕を引く。菓子をねだる子供のようだと感じているのが奇妙だ。何も危険を感じていない。どう考えても不審な人物なのに。
狭い路地まで引っ張ってこられた。一本横に逸《そ》れただけで人通りが絶える。喧噪が遠ざかり、いささか涼しかった。
私は改めて男を見た。男は白いパジャマのような上下を着ており、ステテコとシャツ姿の加藤茶を思い浮かべてしまった。つい声をあげて笑う。とたんに男はむっとした顔になった。
「失礼な奴だ。何がおかしい」
慌てて真面目な顔を作る。
「いえ、あの、私は」
「あんた、誰だ」
ここまで連れて来てから聞くことではないと思った。
「……この土地のものじゃないな」
品評会の牛を見る眼だ。不躾《ぶしつけ》といえばこれ以上に不躾な視線はないだろう。それこそ頭のてっぺんから爪先までしげしげと見つめている。が、不快ではなかった。ものを見る眼のその奥にいやらしさを感じないからだろうか。
男は突然満面に笑みを浮かべた。前歯が数本欠け、黒く抜けている。滑稽《こつけい》というか、愛嬌《あいきよう》がある。
「わしはミロクだ」
男――ミロクは右手を差し出した。つられて出した右手を、ミロクは両手で挟み込んでしっかりと握り、大きく上下に何度も振った。やはりここで自己紹介をすべきなのだろうか。
「あの……私は伸江です」
「よし、伸江。わしに何の相談だ」
「別に、相談と云われても……」
「わしは坊主だ。わかるか。神に最も近い人間だ。僧侶《そうりよ》とも云うぞ。わしは偉大な僧侶だ。何でも聞くがいい」
ミロクは胸を張った。胸を張って私を見上げていた。私にしても背が高いわけではないのだが、私にはミロクの頭頂部を見ることができた。
「あの、お坊さんなんですよね」
「そうだ」
ますます胸を張る。のけぞっているようにも見える。確かに僧侶だと云われてみればそのように見えなくないが、その顔に浮かべた笑顔は何か卑しく、俗な印象は拭《ぬぐ》えない。少なくとも威厳を感じることはできない。すべての僧侶が威厳を感じさせるかどうかはわからないのだが。
「あのう、ここは何処でしょうか」
そうだ。それが一番聞きたいことだ。あれから私は何処に来たのだろうか。
「ここはナガラハーラの町だ」
聞いたこともない町の名だった。黙っていると、ミロクは言葉を続けた。
「わしらの住むこのあたりは風輪の地と云うな。伸江は何処から来た」
「簪《かんざし》町です」
「簪町…………聞いたことがないな。風輪の地の何処だ」
話がまったく通じない。
「ここは……いったい、何処なんですか」
私は同じ質問をした。
「だから云っとるだろ。風輪の地にあるナガラハーラの町だ」
同じ答えが返ってきた。
「日本……ですよね」
「日本? なんじゃ、それは」
「本当に知らないんですか」
ミロクはむっとした顔で云った。
「わしはとても偉い僧侶だ。知らんことはない。ニホン……知っとるよ。金輪の地にあるんだ」
いくら話をしても無駄だと思った。まるで話が通じないのだから。それにしてもいったいここは何処なのだろう。日本語を話しているところをみると日本であることは間違いないようなのだけれど。
「何を考えとる。わしを信じてないな」
唐突に思い出した。
「あの、私、ビールを買いに行かなければならないんです」
「ビール? 何だ、それは」
「ビールというのは……」
説明しかけて気がついた。今は昼だ。時計を見るまでもない。眩《まぶ》し過ぎる太陽は頭の真上にあるのだから。私が家を出た時には夜の十一時をまわっていた。どれだけ気を失っていたかはわからないけれど、いまさらビールを買って帰っても仕方がないだろう。
「もういいです。それより、家に帰らなきゃ。家族が心配しているわ」
「それで、家族はその日本にいるわけだな」
「日本の簪町にね」
「いずれにしろ、長旅になるだろう。まず……」ミロクは再び牛の仲買人の顔で私の服装を見て、云った。「服を着替えることだな。その格好は旅にはむいとらん」
「はあ、そうですか」
「ついてきなさい」
「はあ……」
私の悪い癖だ。強引な人に弱い。私は何もわからぬままにミロクに手を引かれ、また雑踏の中に入っていった。
河沿いに五分も歩くと、ミロクは立ち止まった。
「ここだ」
見たこともない獣を金網のカゴに入れて並べた露店の前に来た。ミロクはカゴとカゴの隙間を抜けて、その後ろにまわった。腕を引かれ、私も後を追う。いいかげんな造りの金網はそこかしこがほころび、突き出た針金が脚を引っかいた。後ろに店が隠れていた。珍しく何の装飾もないそっけない店だった。軒先に置かれた台の上に色とりどりの布が並べられている。それを前に座っているのは、岩のようにごつごつした顔の初老の女だ。何が気に入らないのか、不機嫌そのものに顔をしかめ、片手でしきりに蠅をおっていた。
「よう、婆さん」
ミロクは親しげに手を振った。
「何が婆さんだ、糞爺《くそじじ》いが」
「客だよ。わし、客、連れてきてやったんだよ」
ミロクはそう云うと、女の耳に口を寄せて何事か囁《ささや》いた。ミロクの顔に卑しい笑いが浮かんだ。しかし、女は相変わらずのしかめっ面で、しきりにふんふんと頷《うなず》いていた。
「よし! 決まった」
ミロクがぽんと手を打った。老婆は棚の上の布を幾つか手に取り私に突き出した。
「伸江、奥で着替えろ。なっ」
何度も云うようだが、私は強引な態度に弱い。要領を得ぬまま、老婆に連れられ小屋の奥に入った。簾《すだれ》のようなもので仕切られた小さな部屋があった。老婆は簾を引き上げ、私を中に押し入れた。わけもわからず老婆に手渡された布を広げた。それは河の周りで洗濯していた女たちの着ていた服と同じ物だった。色は赤。眼に染みる鮮やかな赤だ。
着替えるの?
目で問うと、眉間《みけん》に皺を寄せた老婆が頷く。
私はおずおずと服を脱いだ。汗でへばりついたクレージュもどきのワンピースを脱ぐのは一苦労だった。脱皮する蛇のように狭い部屋の中で躰《からだ》をくねらせ、拷問具に似た数々の下着をとる。
ほっと溜息《ためいき》がでた。
それから新しい服を身に着けた。
木綿か何かであろうそれは、風通しが良い上に汗を吸い、肌に心地よかった。
予告なしに簾が持ち上がった。ミロクがにやにや笑いながら覗《のぞ》いていた。
「おお、きれい、きれい」
ミロクはろくに見ようともしないで、脱ぎ捨てた服をかき集めると、老婆に手渡した。
それから靴を手に取った。小枝子に貰《もら》った赤いエナメルのハイヒールだ。
「裸足《はだし》は嫌か」
ミロクが真顔で尋ねた。
「えっ、そりゃあ、裸足は困るわ」
「そうか」
ミロクはさも残念そうにそう云うと、老婆に何やら囁き、サンダルを受け取った。実用本意な革のサンダルだ。
「これを履いて」
私は『試着室』から出てサンダルを履いた。
「その腕にしてるやつ」
ミロクが抜けた歯を見せびらかすように笑いながら云った。
「はあ?」
「それだよ」
「腕時計ですか」
「腕時計っての、それ? さあ、それをとって」
急《せ》かされ、私はそれをミロクに渡した。
「耳にしてるやつもね」
ミロクに云われるがままに銀のイヤリングと金にルビーの入ったネックレスを渡した。
何しろ暑かった。何かを考えられないほどに暑かったのだ。疑問はいくらでもあった。しかし、何故、何故、の疑問は、すべて蕩《とろ》けて毛穴から汗となり流れていった。それでも、ミロクが指輪を渡せと云った時は断った。
「何で駄目だよ」
不服そうに唇を尖《とが》らせるミロクに、私はすまなさそうに答えた。
「結婚指輪なんです」
「結婚指輪?」
「夫から貰ったものだから」
「大事な人か?」
「……ええ」
「ふうん。じゃあ、仕方ないか」
それでも名残惜しそうな顔をしながら、ミロクは私の身につけていたアクセサリーを老婆に渡した。老婆はそれを受け取り、顔を更にしかめて顎《あご》でミロクの手を指した。照れ笑いを浮かべて、ミロクはその中に握っていたイヤリングを渡した。
老婆はズボンのポケットをまさぐり、見たこともない硬貨を取り出してミロクに渡した。ミロクはそれを掌《てのひら》の上に載せ、指で何回も数えた。数え終わると、いかにも悲しげな顔で老婆を見た。老婆もミロクを見据えた。
ミロクは眼を逸《そ》らし、深い溜息《ためいき》をついた。
「あの……」
私が口を挟もうとすると、間髪をいれずにミロクが云った。
「さあ、行くか」
何処へ、と尋ねる間はなかった。
ミロクはどんどん歩き始めている。
しつこいようだが、私は強引な人間に弱いのだった。
2
ミロクに手を引かれながら考えた。ここは何処なんだろう。いつの間に私はここに来たのだろう。どうやって運ばれてきたのだろう。どうやって帰ればいいんだろうか。この老人は何者なんだろう。
疑問もあまりにも多くありすぎると互いに打ち消し合ってしまうのだった。その上暑かったし、考える間も与えないかのように、しきりにミロクは話しかけてくるし、次から次へといろいろなことが起こったし、私はいつも世間に流されるように生きてきたのだし、立ち並ぶ店と、そこに溢《あふ》れ返るような人混みに目を奪われているうちに、何となくいかがわしい食堂に入って、そこで見たこともない料理が次から次に運ばれ、ミロクが楽しそうにそれらを手《て》掴《づか》みで食べ、且つ、酒を飲んでいるのを見ても、それはそれで納得していたのだが、それらをすっかり空にして、「あっ、便所」と一言云い残してミロクが席を立って二十分あまり過ぎた頃には、いくら私でも、これからどうすべきかを改めて考えざるをえなくなっていた。
すでにテーブルの上はきれいに片付けられていた。何も置かれていないテーブルを前に私は考えた。考えて、考えて、考えて、結論の出ぬまま更に二十分ほど経って、そろそろ給仕たちが不審げな顔でじろじろと私を見るようになった時、ようやく私は心を決めて、給仕を睨《にら》み、声を張り上げた。
「もう一杯、お茶を頂けますか」
お茶の注文で稼げる時間は五分が限界だった。もう一度フルコースを頼んでみようかと本気で決意した時、給仕の中でも年嵩《としかさ》の男が伸江に近づいてきた。出来の悪い生徒が教師を避けるように、私は顔を伏せた。
「お客様。申し訳ありませんが、代金の方を先払いでお願いできませんか」
どうしてそんなことを云うの。失礼じゃないの。私が無銭飲食するとでも思っているの? と怒鳴る自分を夢想しながら私は眼の前のコップを眺めていた。
男は返事を待っている。じっと、辛抱強く。ゆっくりと顔を上げ、男の顔を見上げた。男と眼が合った。反射的に微笑んでいた。男も笑みを浮かべた。そして、大声で叫んだ。
「支配人を呼べ!」
すぐに支配人が現れた。その顔を見て初めに思い浮かんだのは山椒《さんしよう》太夫《だゆう》だった。眼も鼻も口も大きな、ごつごつとした顔で支配人は私を睨んだ。
「金を持ってないみたいなんで」
給仕が云った。
とにかく何か云うべきである。
私は決意し、弁明を始めた。
「あの、ミロクというお爺《じい》さんに連れられて来たんです。そしたら、あの人先に帰ってしまって……」
「先に帰ったミロクが金を持っていたと、そういうことなんだな」
支配人が薄ら笑いを浮かべながら云った。
「そう、そうなんです」
必死で微笑んだ。
頬が引き攣《つ》るのが自分でもわかった。
「いろいろと手はある」
支配人が云った。
「そうなんですか」
われながら情けない声が出た。
「ああ、いろいろとな。だが、一番簡単なのはおまえを売り飛ばすことだ」
「私を…………売る」
頭の中がショートしそうだった。実際、眼の奥で火花が散ったのが見えた。いつの間にか給仕たちに囲まれていた。改めて見ると、どの給仕も屈強な躰《からだ》をしている。
困ったことになったら、小津さんを訪ねるのよ。
不意に義母の言葉が浮かんだ。云った時の義母の顔まで鮮やかに頭の中に浮かんだ。
確かに今が困ったことになったらって時だけども、小津さんを訪ねようにも、その前に、ここを無事に出られそうにもない。
「オズ?」
「えっ」
知らず、考えていたことをそのまま口に出していたらしい。
「今、おまえオズと云ったな」
「ええ、あの……」
「オズノ王を知っているのか」
「ええと……ですからそれは私の義理の母の口癖で……」
どよめきが聞こえた。給仕たちが一歩伸江から遠のいた。
「……オズノ王の身内か。ここに何を探りに来たんだ」
「何をって云われても、私はただお義母《かあ》さんに、トラブルに巻き込まれたら小津さんに会えって……」
おお、と声をあげて、男たちは更に後退《あとじさ》った。
「それは何だ」
「何だってって……あの、もしトラブルに」
男たちが再び後ろにさがった。
「それは、何だ」
「トラブルのこと?」
「云うな!」
支配人が叫んだ。
「もめごととか諍《いさか》いとかのことよ」
「もめごとを起こす呪句《じゆく》か……」
突然、支配人は大声を張り上げた。
「この女を捕らえろ!」
しかし、誰も動こうとはしなかった。怯《おび》えたような眼で私を見ているだけだ。
「ええい、ふがいない奴らだ。もういい。俺がやる」
支配人が私の腿《もも》よりも太い腕を伸ばした。一本がバナナほどもある指が私の腕を掴んだ。
その腕に白いものが飛びついた。
コトだ。
コトは身体の半分もある口を開いて男の腕に噛《か》みついた。
痛みに顔をしかめ、男はコトを振り払おうとした。
私から手が離れる。
今だ、今しかない。
私はそう思い、コトを男の腕から引き離すと、食堂の扉目がけて駆け出した。自分で誉めたくなるほど俊敏な行動だった。
周りを囲んでいた給仕たちが道を開けた。何を勘違いしているのかはわからなかったが、私を恐れているのに間違いはない。その間を駆け抜ける。
扉の前に男たちが立っていた。
「捕まえろ!」
後ろから支配人の声が聞こえた。
男たちが反射的に身構えた。
私は声を限りに叫んだ。
「トラブル!」
何年、いや、何十年ぶりかに上げた大声だった。
爽快《そうかい》だった。
扉の前の男たちが左右に避けた。
扉を壊す勢いで外に転がり出る。その勢いのまま走る。走り続ける。すぐに胸が苦しくなった。全力疾走などは中学の体育祭以来のことだ。手や脚の先が冷たい。なのに身体は燃えるように熱い。胸の中で跳ね回るように心臓が脈打っている。それでも走り続けた。何処をどう走っているのか見当もつかなかったが、ひたすら走り続けた。
路地を行き交う人の群れを蹴倒《けたお》し、押し退《の》け、突き払い、大声の罵声《ばせい》を浴びながら、泳ぐように人をかきわけながら走った。
絞った果実を冷やして売っている屋台と眠そうな眼をした太った老人が店番をしている雑誌屋の間の狭い路地を曲がり、けたたましい泣き声を上げて逃げる鶏に驚いて脚を止めた。
砕けるように膝《ひざ》が折れる。
もう走れない。もう絶対に走れない。
ひんやりと湿った路面に両手を突き、四つん這《ば》いになった。全身の血液が頭に集まり、頭が弾《はじ》けそうだった。悪寒がして、身体が震えた。不意に胃の中のものがこみ上げ、したたか吐いた。吐くだけ吐くと咳《せ》き込んだ。涙が滲《にじ》んだ。そうしたら急に悲しくなってきた。悲しくなるとパッキンの壊れた蛇口のように涙がこぼれた。
おっ、おっ、おっ、と嗚咽《おえつ》まじりに泣きじゃくっている。まるで子供だと思ったが、子供の何が悪いと開き直る自分がいる。とにかく私は親とはぐれた子供のようにわんわんと泣いていた。
と、声を掛けるものがあった。
「お嬢ちゃん、大丈夫か」
その声に聞き覚えがあった。
見上げるとミロクがいた。ミロクは私の顔を不思議そうにじっと眺めていた。
それから文楽のガブのように顎《あご》ががくりと落ちて、大口を開いた。私も泣き止み、ミロクを見ていた。
「……あんた、伸江だ」
何故か悲しそうにミロクは云った。
私は怒るべきなのだろうか。そうかもしれない。私はこの男に騙《だま》されたのだ。もう少しで売り飛ばされるところだったのだ。それが具体的にはどんなことなのか想像もつかないのだが。
怒れ。
この男を怒鳴りつけ、警察に引っ張っていけ。
そうすべきだ。私にはそうする権利がある。
などと頭の中だけで勇ましい台詞《せりふ》が空回りしていた。実際の私は、おそらく少々不機嫌な顔をしていたに過ぎないだろう。
ミロクは間の抜けた顔でじっと私を見ている。せめて一言。そう思って口を開くと、嗚咽が洩れた。次の瞬間、私は号泣していた。何故かはわからない。ただただ私はミロクの貧弱な腰にすがりつき、身をよじって泣き崩れていた。
どれくらいそうしていただろうか。
ミロクが私の肩を掴《つか》んで揺すらなければ、一日中泣いていたかもしれない。
「伸江、おまえね、馬頭《めず》のところから逃げてきただろ」
私はしゃくり上げながらも顔を上げた。
「馬頭だよ、馬頭。あの食堂にいただろうが。でかい男だ。すごくでかくて恐ろしい男だ」
「ああ」
涙を拭《ぬぐ》い、私は云った。
「あの山椒太夫」
「山椒太夫?」
「ほら、あのレストランの支配人」
「支配人……。そうそう、その支配人の馬頭。あれから逃げてきただろ」
「ええ、だって私を売るっていうから……」
「どうやって逃げてきた。暴れたか」
「ええ、まあ」
ミロクが溜息《ためいき》をついた。
「あの声が聞こえるか」
云われ耳を澄ますと、喧騒《けんそう》に混じって厭《いや》な音が聞こえた。発情した猫の、あるいは癇癪《かんしやく》を起こした赤ん坊の泣き声のような、神経に障る不快な音だ。
「いいか、つまり、おまえな、追われてるんだ。馬頭に」
「そうです。それで、ここまで逃げて……」
赤ん坊とも猫ともつかない泣き声は更に近づいてきた。すぐにそれは耳を塞《ふさ》がねば耐えられぬほどの音量となった。
突然ミロクは回れ右をして、走り出した。
「えっ、ちょっと……」
後ろで、いたぞ、あれだ、と怒鳴る声がした。振り向いて、私は泣き声の正体を知った。
狭い路地に無理やり躰《からだ》を突っ込んだそれは、全裸の女としか表現しようのないものだった。しかも、その女には頭がなかった。首は途中で断ち切れ、その先が驚かされたイソギンチャクのようにすぼまっている。そのすぼまった部分は濡《ぬ》れて輝き、微妙に広がったり閉じたりしていた。泣き声はその『口』から洩《も》れていた。
首のない女は四つ脚をつき、背に鞍《くら》が載せられてある。その上に男が跨《またが》っていた。土色の、何処の国のものとも知れぬ軍服を来た逞《たくま》しい男だ。構えた銃の先は私のほうを向いていた。
「動くな!」
男は云った。
その声を号令に私は走り出した。銃で狙われていることの意味がその時の私にはわかっていなかったようだ。とにかく恐ろしかった。逃げねばならないと思っていた。
「待って!」
ミロクに叫び、駆ける。
ミロクはスプリンターのように正しい姿勢で少し前を走っていた。姿勢は正しいのだが、脚はあまり速くないようだ。ついさっきまで、これ以上走れないほど疲れていた私が、今追いつきそうになっているのだから。私を追い抜き、コトが走る。どうやって移動しているのか、四肢のないコトは素早く躰を左右に揺すり走っている。
きゅっとミロクが直角に曲がって路地に消えた。私もそこに飛び込んだ。後ろで銃声がした。角を曲がると寸前までそこにいたミロクの姿がない。私は立ち止まった。コトが路地の壁に取り付けられた板切れの前で跳ねている。柔らかな躰の一部を手のように伸ばして板を引っ掻《か》いている。
「そこなのね」
尋ねると、コトはプルプルと躰を震わせた。
ねっとりと黒く汚れた木造のあばら家だ。扉とも思えないその板切れを私はノックした。
「ミロクさん、ここ……」
板が横にずれ、中から飛び出た痩《や》せた腕が、私をぐいと扉の中に引き入れた。
扉がばたりと閉まる。
閉じる寸前にコトが飛び込んできた。
いきなり口を押さえられた。私はくぐもった悲鳴を上げた。
「大きな声だすんじゃないよ」
ミロクの声だった。口を塞がれたまま私は何度も頷《うなず》いた。ミロクの掌《てのひら》は枯草のようなにおいがした。
コトが唸《うな》り声をあげてミロクを威嚇している。
口から手が離れた。
「頼むよ、こいつを黙らしてくれよ」
ミロクが掠《かす》れた声で言う。
闇の中にぼんやりと白く浮かぶコトに、私は唇に人差し指を当てて、しっ、といった。白い塊はプルリと震えてから押し黙った。
声が近づいてきた。黒板を爪で擦《こす》るのに似た、生理的に不快な音だ。神経を逆なでし不安感を煽《あお》るその音を聞きながら、闇に目を凝らした。破れた扉や壁から光が洩れ、目が慣れてきたからだ。薄ぼんやりと室内が見える。用途の知れぬガラクタが埃《ほこり》をかぶって積み上げられていた。納戸か何かのようだ。
徐々に大きくなった声が扉の前に迫った。身を捩《よじ》り泣き叫ぶ幼女の声がすぐそこで聞こえている。私は痛くなるほど両手を握り締め、その拳《こぶし》を唇に押し当てた。そうしていないと何か叫びだしてしまいそうだった。まるでそれは扉の前で足踏みでもしているかのようにそこを動かなかった。長い長い時間、私は石のように身体を強張《こわば》らせていた。しばらくするとそれは動き出し、気味の悪い泣き声も少しずつ小さくなり、やがて消えた。
「行った……」
溜息混じりにミロクが云った。
「あれは……何」
「あんた、余所者《よそもの》だから知らないかもしれんが、唾女《つばめ》だよ。ヒトニウマの仲間だ」
「ツバメ、ヒトニウマ……」
何一つ理解できる単語がない。
「非天《アスラ》の私兵たちが乗る乗物さ。いくら何でも非天は知ってるだろ」
私は首を横に振るしかない。ミロクは呆《あき》れた顔で云った。
「あんた、本当に何にも知らないんだな。馬鹿じゃないのか」
馬鹿と云われて頷くわけにもいかず、私はいつものように黙って俯《うつむ》いた。
「非天は無明《むみよう》から生まれた」
「ムミョウ?」
問い返すと更に馬鹿にした顔で私を見る。申し訳なく頭を下げた。
「無明は力だ。最初に生まれたのは力だ。でな、力はぷわっとそれを使わなきゃ意味がないわな。で、力を使うものを生んだ。それが天だ。天の中でも特別力を譲り受けた者がおった。それが非天だ。非天は最も力のある天だったが、それをぶわっと思いっきり使うことは許されていなかった。世界とはそういうものだ。わしのやり方ですべてをやろうと思っても世界がそれを許さん。ところが非天には特別大きな力があった。だから、許さん世界なら世界を俺に近づけようと、そう思ったわけだわな」
ミロクは私を見た。薄闇の中でもぽかんとしている馬鹿な私の顔は見えただろう。それでも彼は話を続けた。
「非天は世界を創り変えようとしたわけよ。他の天はそれに反対した。天は無明から生まれ、その無明は世界から生まれた。世界を変えることは天をも変えることになるからだ。ところが非天はそれを恐れなかったんだな。何しろ一番特別すごい力を持っていたから。で、非天は彼に従わぬ天をすべて滅ぼした。だからアスラは天に非ず。非天と呼ばれるわけだわな。そうなるともう怖いものはないさね。それでまず手始めに水輪の地を手にいれた。それから風輪の地に手を出した。このナガラハーラの町は最初に非天のものになった町だ」
「ええと……」働かない頭をそれなりに必死に働かせて私は尋ねた。「じゃあ、非天は悪い奴なんですよね」
「そうとも云えんな。この町だって非天が治めるようになって活気が出たからな。まあ、なんだな。誰が治めようと下々の者にはあんまり関係がないわけよ」
「それで……」
尋ねようとして、やめた。ミロクの話していることがわからないわけではない。しかしそれが今の私のいる世界の説明となるのだろうかと、つい思ってしまう。やはりどうしても、お伽話《とぎばなし》じみたミロクの話が現実のものとは思えないのだ。たとえあの首のない生き物を見た後だとしても。
「どうやってあの馬頭から逃げた」
ミロクは話を変えた。
「それが、あの……トラブルって私が云ったらみんな退《ど》いたから」
「トラブル?」
「そう、トラブル。何故かみんなこう云うと怖がって……。私が小津さんのことを云ったからかしら」
「オズ!」
ミロクが頓狂《とんきよう》な声を上げた。
「オズって、それ、あれか。あのオズノ王のことかね」
「ああ、あの馬頭さんも、オズノ王って云ってました……」
「おまえオズノ王を知ってるのか」
「知ってるって云っても、私のお義母《かあ》さんが困った時には小津さんを訪ねなさいって云っていただけで……」
「伸江! おまえオズノ王の親戚《しんせき》かね」
しくじった。
私はそう思った。よくはわからないが、ここで小津の名前を出すとろくなことが起こらないのだ。
ミロクの顔色を窺《うかが》った。ミロクは卑しい笑いを浮かべた。私の服を売り飛ばした時のあの笑いだ。
「伸江、おまえ家に帰りたいんだろ」
「ええ、勿論《もちろん》」
「オズノ王ならおまえを家まで送り返してくれるぞ。そのお義母さんの云うとおりだ。困った時にはオズノ王ほど頼りになるものはない。よし、わかった。わしがオズノ王のところまで連れて行ってやろう」
私はよほど不安そうな顔をしていたのだろう。ミロクは慌ててつけ加えた。
「騙《だま》しゃせんよ。今度は間違いない。だが、その代わり……」
「その代わり……」
「わしもオズノ王に会いたい。つまり、頼み事があるんだ。おまえがオズノ王の親戚なら何とか頼みこんでもらえるだろう」
なっ、とミロクは目で促した。
「でも、私……」
「よし決まった。まずは、とりあえずここから逃げなきゃいかんな」
ミロクは立ち上がった。見れば見るほど頼りにはなりそうにない人物だった。だが、いずれにしろ私にはミロク以外に頼れる人間はいないのだ。
「どうすればいいの」
「わからん。だが思い付くだろう。いずれな」
ミロクはそう云って、欠けた歯を見せて笑った。
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real-2
ライオンさんと近所の人には呼ばれていた。百獣の王を思わせる何か――勇猛であるとか威厳があるとか――を彼が感じさせるからではない。ただ伸ばした髪がもつれ垢《あか》で固まりタテガミのように見えるからだ。本名は彼自身も知らない。知らないことにしている。彼のような境遇にある人間は二種類に分かれる。過去を語りたがる人間とそうでない人間だ。ライオンは後者のほうだった。捨てられた段ボールを集めて売ることが彼の生業であるのだが、商売に熱心とはいえなかった。金が入れば使い、なければ働く。ずっとそうしてきたし、これからもそうするだろう。今まではそう思っていた。
高架下に川が流れている。夏場には異臭がする汚い川だが、魚が棲《す》めぬほどではない。その川原に段ボールと青い防水シートで作られているのが彼の家だ。小屋の横にある大きく枝を張った樹に洗濯物が掛けられている。早朝から川で洗ったワイシャツとコートだ。どちらも洗ったばかりのものとは思えないほど薄汚れていた。
朽ちかけた自転車が泥に半ば埋まっているそばで、彼は佇《たたず》んでいた。元の色が不明な黄土色のシミだらけのトレーナー。小柄で痩《や》せた彼には大きすぎるそれの胸には「黄色い煉瓦《れんが》」と笹の葉を組み合わせたような書体で縦書きされていた。ゴミに等しいそれに比べると、穿《は》いているグレーのズボンは真新しい。昨夜捨ててあるゴミ袋を引き裂いて持ってきたばかりの「新品」だからだ。
ブーツの爪先で川面をかき混ぜている。茶色の長靴のように見えるが、元はウエスタンブーツである。靴底の割れ目からじくじく水が沁《し》みてくるのだが、それはあまり気になっていないようだった。金を打ちつけた爪先を水で洗っているのだ。
赤黒く汚れたそれは、こびりついた血だ。昨夜のことだ。
酒屋の横の空き地で、ライオンはしたたか酔っていた。ビール瓶の底に残ったわずかなビールを集めて飲んでいたら、ビールケースの中に無理やり突っ込んだ焼酎《しようちゆう》の瓶を見つけたのだ。中身が半分以上残っている。ラベルはかなり古びていた。ライオンは酢や小便が入っているのではないかと何度も臭いを嗅《か》いで確かめてからそれを口にした。間違いなく焼酎だった。思わぬ幸運に感謝しながら、彼はその場に座り込み、ちびちびとそれを飲んだ。
駅前に近づくとかなり物騒だった。ライオンのような人物を見ると悪質な悪戯《いたずら》を仕掛けてくる少年たちがいるからだ。彼も意味なく蹴《け》られたことがある。いきなり後ろから蹴り倒され、それからその少年は無言で延々と彼を蹴り続けた。それ以来彼は夜中から早朝にかけて駅前に出るのは止めていた。しかしその日は意外な僥倖《ぎようこう》にすっかりそんなことを忘れていた。ゆっくりと瓶を空にしてから、しばらく眠っていた。寒さに震えながら起きた時は深夜だった。そそくさと立ち上がり、酔いの残っているうちに帰ろうと歩き出した。
と、正面から人影が近づいてきた。灯《あか》りといえば街灯だけで、その顔は逆光で見えない。だが黒い影が女性であることはわかった。ふらふらとライオンへと向かってくる。
酔っているのだろう。
ライオンはそう思った。自分を避ける人がいても、近づいてくる人などいないと思っていた。まして女だ。露骨に避けていくのがいつものことだった。が、よけようと道の端に寄ったライオンを、追い込むように女も寄ってくる。あっ、と思ったときには女に抱きつかれていた。一瞬身体が動かなくなった。棒のように突っ立って女を見た。ライオンはかなり小柄だ。子供とでも間違えたのかと、ぼんやりと考えていたら女が泣き出した。ライオンは慌てた。真っ先に考えたのが、この女に何かしたのだと勘違いされることだ。警察に連れて行かれれば良いが、それより先に住民に見つかって手酷《てひど》い目に遭わされるのが恐ろしかった。
「いかんぞ」
ざらざらした声でライオンはいった。
「こりゃいかんぞ、なあ」
女に触っていないことを強調するように、彼は両腕を挙げていた。肺から絞り出すような声で女は泣き続けていた。これほど無防備に泣く女は初めて見た。
「なあ、なあ」
彼の声に応《こた》える気はなさそうだ。
決意し、ライオンは女の腰を両手で挟みこむように持った。
「あっち行こう、なっ、あっち」
無様な社交ダンスのように、向かい合って抱き合ったまま、ヨチヨチと路地に逸《そ》れた。
「頼むよ。泣きやんでくれよ」
女がライオンを見た。驚くほどの厚化粧だ。商売女なのだろうか。そういえば歳の割には派手な服を着ている。薄ぼんやりとライオンが観察していると、上ずった声で女がいった。
「ここまで逃げてきたの」
それから、えっ、えっ、としゃくり上げた。
「うるさいぞ!」
どこからか怒鳴り声がした。それからぴしゃりと窓の閉じる音がした。ライオンは周囲を見回したが、どこから怒鳴られたのかはわからなかった。
「わかった」
すがりついてくる女を両手で押し離しながらライオンはいった。
「話を聞くから。なっ、話を聞くから」
すがるように女は彼を見つめている。
「よっしゃ、来い」
ライオンが歩き出した。すかさず女が手を握ってきた。子供のような仕草だった。途中で逃げ出すつもりで、彼は高架下の家へと向かった。しかし女はしっかりと手を繋《つな》ぎ、離そうとはしない。結局そのまま小屋まで連れ帰ることになった。
人一人横になれるだけの空間に、二人は対峙《たいじ》して座った。さて、話を聞こうとライオンがいうと、それだけで安心したのか、女は彼の膝枕《ひざまくら》で眠りに就いてしまった。彼はそっと頭を床に下ろすと、ぼろ布を運び出して自分は外で寝ることにした。道義や倫理の問題ではなく、小屋の中で二人が横になることなど不可能だったからだ。
本格的に厄介事に巻き込まれたのだと気がついたのは翌朝だった。
そろそろ起こして帰ってもらおうと小屋を覗《のぞ》き、そこでようやく女が血塗《ちまみ》れであることに気がついたのだ。
よくよく見ると自分が着ていた服にもそこかしこに血が付いている。もとから垢と脂で真っ黒になったそれに、昨夜は気づかなかったのだろう。明るい今でもそれは目立つほどのものではなかった。それでもライオンはせっせと洗濯し、さっきようやく干し終わったところなのだ。それからブーツの血痕《けつこん》に気がついて、それを川面で流しながら考えていた。
どうするべきなのか。
警察に駆け込むのは論外だ。警察は決してライオンの味方をしてくれない。女がどのようなことに巻き込まれたのかは知らないが、それに関わっていると疑われるのは避けたかった。
とにかく追い出すべきだろう。
そのときに騒がれなければいいのだが。
左右の爪先に、もう血痕は残っていない。いや、残っているかもしれないが、他の汚れと区別がつかない程度には薄れた。
ライオンは最低の結果に終わった試験の用紙を母親に見せるような気分で、小屋の中を覗《のぞ》き込んだ。血みどろの女が気持ちよさそうにぐっすりと眠っていた。厚く塗られた顔にも点々と赤黒い乾いた血がこびりついている。見られたらこれ以上に怪しいものはない。酔っていたとはいえ、良くここまで連れてこようという気になったものだ。誰かに見つかっていれば間違いなく警察に通報されていただろう。誰にも遭わなかったことは幸運としかいいようがない。
この辺りに警察が見回りに来ることは、まずない。住民からの訴えさえなければ。ライオンは今までのところ近隣の住人たちと上手《うま》くやってきた。上手くというのは、決して上手く付き合ってきたという意味ではない。無視され続けているということだ。それはつまり、ライオンが危険な人物でないということを住人たちに納得してもらっているということだ。無視されること。風景の一部となること。それが彼のような人間が暮らしていくための第一条件だった。しかし、その小屋に女がいたら、それだけで充分目立つ。目立つことは、冗談でなく死活問題なのだ。
「あのな」
ライオンは女の肩を揺すった。
「そろそろ起きてもらえるか」
ふう、と息をついて、女が目を開いた。濃い化粧が溶けて流れ、それに血痕が混ざっている。前衛的な劇団の女優のような顔がわずかに笑む。赤ん坊が見せる笑顔のような、意味のない笑みだった。
「起きたらな、そしたら……」
帰れといおうとして躊躇《ちゆうちよ》した。
朝だ。
今頃であれば通勤のために駅に急ぐ人々に出会うのは間違いない。どんな事件に関係しているかわからないが、刑事事件であったりすれば、その足取りをたどることになるだろう。その結果疑われることになっても困る。
それほど順序だてて考えたわけではないが、おおよそそのようなことを考えて口をつぐんだ。
「あのな、何があった」
女は首を傾げた。
「だな、わからんわな。とにかく帰れ。ただしな、その格好のままじゃ、なんだ、ちょっと目立つから、着替えろ」
我ながらいい考えだとライオンは思った。あちこちから集めてきた衣服を詰め込んだ黒いビニール袋を引き出してきた。口をもたもたと開くと、古びた布地の臭いがした。引きずり出し、眺め、それなりに検討してチェックの大きなブラウスと、かなり穿《は》き込んだベージュの作業ズボンを残し、他のぼろをゴミ袋に入れ直した。
「これな、これ着替えろ」
女は頷《うなず》き、その場で服を脱ぎだした。
ちょっと待て、とか、何なんだこいつは、とか、頭のおかしな女、とか、いろいろな台詞《せりふ》が浮かんだが、ライオンが発したのは「おう」と呻《うめ》く声だけだった。
身体に張り付くスーツを苦労して脱ぎ、更に苦労してガードルやストッキングを脱ぎ、パンツ一枚になってから女はライオンの渡した服を手にした。
ライオンは座り込んで、じっとその様子を見ていた。いかにも柔らかそうな二の腕や、真っ白な内腿《うちまた》に青く血管が走るのを見ていると、おかしな気分になった。
おかしな気分。
それはライオンにとって奇妙そのものの感覚だった。下腹の辺りが火で炙《あぶ》られたように甘く溶ける。液状になったそれがゆっくりと体中に流れていく。
焦げるような苛立《いらだ》ちが第一にあった。
何かとても良いことの予感がするのだが、それがどういうものなのか思い出せそうで思い出せない苛立ち。
もぞり、と寝返りでも打つように股間《こかん》で陰茎が動いたとき、ライオンはようやくそれの意味するものがわかってきた。涙を流していることを知って、初めて泣いていることに気がつくようなものだ。悲しみはその後を追いかけてくる。
女だ。
改めてライオンはそう思った。
こいつは女だよ。
またそれが寝返りを打つ。わずかばかり重さを増したような気がするのは気のせいか。まだ己れにこのような「力」が残っているとは思ってもみなかった。不能者であることを忘れるほど長い間、そのような欲望とは無縁だった。だが間違いない。
今わしは欲情している。
「おほっ」
咳《せ》き込むようにライオンは笑った。
女が服を着替え終えた。そのままけろけろけろっぴのレジャーシートを敷いた上に腰を下ろし、膝《ひざ》を抱えて座っている。
「顔とかな、手とかな」
洗えという前に思いついて、プラスチックの洗面器に川の水を汲《く》んできた。
「さあ、洗えば」
いわれるままに女は顔を洗い、手を洗った。ライオンは手を出して、まだこびりついている血痕を拭《ぬぐ》った。耳朶《じだ》のように柔らかな女の手や足を水で流した。何度か川で水を汲み、血を洗い流した。
「さてとな、帰れや」
湿ったタオルで手足を拭ってから、ライオンは言った。女は膝を抱え彼を見上げる。すがりつくような目だ。
「そんな顔するな」
ライオンがいうと途端にぼろぼろと涙がこぼれ出た。ライオンの言葉が針となって女の目を突いたかのようだ。
「あのな、ここにいられると困るんよ。わしがね、わしが困るんよ」
タオルで涙を拭《ふ》こうと近づいたら、首に腕が巻きついてきた。
柔らかい柔らかい氷嚢《ひようのう》のように柔らかい腕と頬と生暖かい息と体温と……。
またもや臆病《おくびよう》なネズミのように股間でそれが動いた。明らかに重みを増している。そのこと自体が気持ちよかった。
「ほっほっ」
ライオンは再び笑った。どうして笑っているのかわからなかった。
「助けて」
女がいった。
女を連れてここで住むわけにはいかないだろうなあ。
ライオンはそう考え始めていた。
テレビを見ている。
眺めているというべきか。
いつの間にか部屋の中が薄暗くなっていた。日がまた暮れていく。
大和田は瞼《まぶた》を指で押さえ、揉《も》んだ。
夕食ができたと何度か妻に呼ばれた。その度に生返事をするのだが、立ち上がりはしない。ずっと呼び声を無視していると、彼の分の食事はゴミ箱に捨てられる。ここ数日夕食を食べていない。大和田は知らなかったが、彼の妻も作った食事をただ眺め、そして捨てていた。
大和田はただじっとテレビを見ている。この時間になると子供番組しかやっていないNHK教育テレビをただ眺めている。まだ小学生であろう少年少女が歌い踊っていた。
あんな頃もあったのだ。
大和田は靄《もや》のかかったような頭でゆるりと回想する。想い出は映像ではなく感触となって蘇《よみがえ》る。たとえようもなく楽しかったあの時。愛らしかった息子。
そんな時もあった。
溜息《ためいき》をつく。
いやに渇いた喉《のど》に無理やり唾《つば》を飲み込む。確かに聡《さとし》はろくでもない人間だったかもしれない。高校を卒業して進学するでもなく職に就くでもなく、ただただ遊び暮らしていた。少なくとも大和田にはそう思えた。その頃はまだ彼にも覇気があった。息子と縁を切るというようなことができたのも、それで息子が立ち直ればと思ってのことだった。しかし彼が決意して決別したような葛藤《かつとう》は聡にはないように思えた。聡はあっさりと家を出た。何を考えているのか大和田にはまったくわからなかった。そのことが恐ろしくもあった。息子がどこでどう暮らしているのかを把握していたのは、彼が家を出てから五年の間だった。六年目に、見失った。見失ったのは行方ではなく、息子に託していたはずの何かだ。
育て方を間違えたのだ、と妻に怒鳴りつけることも、やがてなくなった。様々なことを諦《あきら》めた。そこそこの有名企業で勤めていた大和田は、無事に定年を迎え、それなりに安定した老後というのを始め出していた。考えるべきは息子のことではなく己れのことではないかと思い出していた。そんな大和田の考えが間違いであると告発するように、警察から連絡があった。
いつか警察から連絡があるのではないか。大和田は息子が家を出てからよくそんなことを考えた。息子が何か良からぬことをしでかすのでは。そう考えると胸の奥を冷たい手で握られたかのように不安になった。そして警察から本当に連絡があった。
が、息子は被害者だった。
聡は殺されたのだ。
大和田は遺骸《いがい》の確認へと向かった。
息子の遺骸を見ても悲しみなど感じないのではないか。冷静なままでいられるのではないか。大和田はそればかりを考えていた。あまりにも冷静で、何か警察から疑われたら困る。多少は嘆いて見せるべきであろう。そのようなことまでも。
警官に導かれ、大和田は息子の遺骸を見た。まともに見ることができなかった。それでも変わり果てたその姿が聡であることがわかった。
冷静などではいられなかった。小賢《こざか》しい考えなどすべて吹き飛んだ。嗚咽《おえつ》が漏れたかと思うと、壊れたように泣き出していた。叫んでいた。わけのわからぬまま、警察官に背後から押さえられ連れ出された。それからも司法解剖に反対し、駆けつけた親戚《しんせき》に説得されても最後まで同意しなかった。結局司法解剖は母親の同意によって行われた。仮通夜にも通夜にも大和田は出席しなかった。できなかったのだ。本葬儀に現れた大和田は廃人さながら、兄弟に身体を支えられてようやく立つことのできるような有様だった。頭の中が空白になったようなその数日は、彼にとってまだしも救いのある日々だったかもしれない。
聡は死んだ。
殺された。
そのことの意味がじわじわと大和田を苦しめるようになったのは、葬儀を終えしばらく経ってからのことだった。
すべてに後悔があった。後悔ばかりだった。ああするべきではなかった。こうするべきではなかった。聡を育てるすべての過程に、悔やむべきことが存在した。まだ五歳の頃。引っ込み思案の聡が泣かされて帰ってくると不甲斐《ふがい》ないと叱ったこと。私立の小学校にやるために、嫌がる聡に無理やり平仮名や数字を教え込んだこと。中学にあがった聡が万引きをしたとき、問答無用で叱り飛ばしたこと。変わりつつある息子の態度に気づかず、いや、薄々気づきながら何の手も打たなかったこと。それどころか変わりゆく息子に憎しみさえ感じていたこと。そして何よりも、怒りに任せて息子を家から追い出したこと。
息子を捨てたのだ。
結局私は息子を捨てたのだ。見捨てたのだ。
そして聡は死んだ。
親からも見捨てられて。
私か。
私が殺したのか。
そうなのだ、と囁《ささや》く声が聞こえる。おまえが殺したのだ。わが子を見捨てることでおまえが殺したのだと。
一度自殺を試みた。欄間に梱包《こんぽう》用のビニール紐《ひも》を引っかけ首を吊ったのだ。しかしすぐに妻が買い物から帰ってきて無事だった。救急車を呼ぶ大騒ぎになったその時から、妻はろくに大和田に話し掛けなくなった。
大和田は考えた。考える時間だけはいくらでもあった。定年退職後に計画していた第二の人生。悠々自適とは言わぬまでも、それなりに豊かな実りある老後を送るのだと夢見ていた。気楽な夢は微塵《みじん》と砕けた。その夢の残滓《ざんし》にぺしゃりと座り込んでただ考えるだけの日々が続いた。
台所から皿を洗う音が聞こえてきた。
夕食がすべてゴミ箱に捨てられたのだろう。大和田はぼんやりとブラウン管を見つめ続けている。
電話のベルが鳴って大和田はびくりと身体を起こした。事件後嵐のようなマスコミの取材が始まり、更には悪戯《いたずら》電話まで掛かるようになり、数日は電話線を繋《つな》いでいなかった。それから電話番号を変更し、電話機もナンバー・ディスプレーが使えるものに替え、非表示の電話は受け付けないようにした。
今モニターに表示されている番号は見知らぬものだ。大和田は受話器に手を置いてしばらく迷った。音は鳴り止まない。
受話器を取った。
『大和田さんですね』
男の声だ。低く良く響く声だった。
「そうですが。どちらさまですか」
『失礼いたしました。わたくしは柳瀬真治と申しまして、犯罪被害者自助グループ〈小さな柱〉の事務局員を務めております』
「犯罪被害者……」
『わたくしどもは様々な犯罪の被害者の家族で組織されている自助グループです。犯罪被害者の苦しみにははかりしれぬものがあります。それは一人で背負うにはあまりにも大き過ぎます。我々は同じ被害者や被害者の家族同士で語り合い、助け合っていこうという意図のもとに集まっています。で、息子さんの事件を知りまして、勝手ながら連絡させていただいた次第でして』
「いったい、何が目的ですか」
『あなたを手助けしたい。……わかりますよ。大和田さんがどのように思っておられるか。何か営利目的の詐欺団体ではないかと思っておられるのですね。あるいは宗教団体か何かと。そうではありません。私どもの団体を取材した書籍がございますので後ほど送らせていただきますが、何を見ても信じられないものは信じられない。そうお思いでしょうね。私がそうでしたから。あの頃は世間のすべてが悪意を持っているのだと感じていました』
「あなたも何かの犯罪の被害者なんですか」
『もちろんそうです。弁護士やカウンセラーなどの一部の専門家を除いて、〈小さな柱〉はすべて犯罪被害者かその家族のボランティアによって成り立っています』
「どなたかを亡くされたのですか」
相手の話に乗せられているという気もあったが、聞かずにはいられなかった。
『娘ですよ。四年前になりますが、新聞などにも報道されました』
柳瀬の説明する事件を大和田は覚えていた。連続して幼女が殺された事件だ。その死体の損傷の激しさから、かなりセンセーショナルに報道された。
「犯人は捕まりましたよね」
『ええ、そして心神喪失で不起訴ですよ』
柳瀬は淡々と語る。
大和田はその事件を知ってはいたが、当時それが被害者の家族をどれほど追い詰めるか、などということは考えなかった。まして、それと同じ立場に己れが立つなどとは想像もできなかった。
『あなたの悲しみや怒りを私は知っています。しかしそれは人に話せるようなことではない。特に男親は。ですよね』
そのとおりだ。妻にさえ、自分の抱えている苦しみを説明したことがなかった。
『自助グループというのはですね、お互いにそれがどのような意味を持っているのかを知っている人間の集まりです。そこで話をするだけでいい。それだけのことで、何かが解決するかもしれない』
柳瀬は返事を待たず畳み込むように言った。
『資料を送らせていただきます。それを読んでからお決めください。無理を言うつもりはありません。ですが――私もそうなんですが――話をする、それだけのことでいくらか楽になるものです。そしてそれが何かの解決の礎となる』
「楽に……楽になりたいわけではない」
この苦しみをすべて受け入れるのが正しい親のあり方ではないか。大和田はそうも思っていた。
『怒りですよ』
突然柳瀬がいった。
『怒りを感じるべきだ。そうじゃないですか。家族を殺されたんだ。それに対し怒りを感じるのが当たり前じゃないですか。その怒りも自分への怒りなどではない。犯人への怒りです。あなたの息子さんを殺した犯人への』
低く明瞭《めいりよう》な柳瀬の声は、それだけで妙に説得力を感じるものだった。
『あなたの怒りが自分に跳ね返ってきているのは、まだ犯人が現れていないからです。見えないものに怒りを感じるのは難しい。しかしあなたはそうすべきなんですよ。すべてはそいつの仕業なんだ。あなたにそれを防ぐことはできなかった。できるはずがない。そいつは無目的に人間を襲い殺す獣なんだから。それは不意の災いだ。神でもないあなたにそれを阻止できる力はない』
柳瀬はそこまで言うと、黙り込んだ。その台詞《せりふ》がゆっくりと大和田の中に染みこむまで。
『明日か明後日には資料が届きます。それからご判断ください。それでは失礼いたします』
電話は切れた。
小さな画面に相手の電話番号が表示されている。大和田はそれを置いてあったチラシの隅に書き留めた。
一連の数字が、深い意味のある特別な記号であるかのように、大和田はいつまでもそれを見つめていた。
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第二章 馬頭《めず》から逃れる
1
夜、闇に紛れて町を抜け出すこと自体はそれほど難しいことではなかった。
首のない女――唾女《つばめ》――に乗った兵隊は町のあちこちにいたのだけれども、ミロクの云うとおりに頭から布を被《かぶ》り歩いていると、誰にも呼び止められることがなかった。流行《はや》り病にかかった者は、こうやって布を被せ、ミロクのような格の低い坊主が森に捨てにいくそうである。だから誰も私たちに近づくものはいなかった。本当に呆気《あつけ》なく私たちは町を抜け出たのだ。大変なのはそれからだった。
町を抜けて森に入った。流行り病の者を捨てるという森だが、私は恐ろしくなかった。どうしてだろう。ミロクと二人だったからだろうか。
ミロクを信用するなら、公道は検問所が設けられていて通れないらしい。隣町に行くにはその森を通るしかなかったのだ。
即席の松明《たいまつ》はいくらも歩かぬ内に消えてしまい、月明りだけを頼りに、足元も心許《こころもと》ない闇の中を進んで行く。町中の暑さに比べ、森の中は異様なほどに寒かった。森に入ってすぐに、正体のわからぬ獣がけたたましく吠《ほ》え、ざざっと音たてて何かが下生えの中を走った。その度に悲鳴をあげるのはミロクだ。私がその声に驚かされて悲鳴をあげる。するとまたそれに驚いてミロクが跳び上がる。こうして、一度何かが足元を通るたびに、私たちはきゃあきゃあとうるさく騒ぐのだった。心細くはあったのだが、私はなんとなくその状況を楽しんでいた。決して苦痛ではなかった。
しばらくは濡《ぬ》れた枯草を踏む足音だけが聞こえていた。そこに、しゃーしゃーと、この寒さにも夜の闇にも相応《ふさわ》しくない音が聞こえてきた。
「夜の蝉だわ」
私が呟《つぶや》くと、ミロクが云った。
「ありゃあ、蝉人《せみひと》だ」
「セミ……ヒト……」
「昆人《こんじん》の蝉人だ。水輪が近いからな」
「はあ……」
何一つ理解できる言葉はなかったのだが、それなのに――それだからか――〈セミヒト〉という言葉の響きが何となく恐ろしかった。とはいえ、その鳴き声にはすぐに慣れたのだけれど。
背負っているリュックが重い。重くなってきた。中に入っているのはミロクが用意した旅支度のすべてだ。森に入ってからずっと背負っているから、どんどん重くなってきているような気がする。代わってもらおうかな、と思う。ミロクは何も荷物を持っていないのだから。でも私はミロクに道を案内してもらっている。ミロクに私と一緒に逃げなければならない義理はないのだから、いくら原因が彼とはいえ私も恩義を感じているのだった。それにリュックの中に入っているものの半分は私の荷物だろうし、などと考えている間にも背中でそれが重みを増していく。背に負われて、その重さを増していく妖怪《ようかい》がいたなあ、とおかしなことを考えてしまった。あれはなんという名前だっただろうか。もしかしたらリュックにそれがついているのかもしれない。そう思い始めると後ろが気になって仕方がない。森の闇はそんな奇妙で奇怪な何かを信じさせるには恰好《かつこう》の舞台だった。で、私は振り返る。当然、何もいない。そう、当然だ。そうやっている私はいかにも不安そうに見えたのだろう。ミロクは私が後ろを振り返るたびに、もうすぐだ、もうすぐだ、と云った。私以上に不安そうな顔で。それでも、私は本気では怖がっていないような気がする。好んで入ってきたお化け屋敷のように、不安もまた楽しみとしているような気がする。それはただ単に私の気分が高揚しているからだけかもしれないのだけれど。
目的地は小屋だ。ミロクが森の中に小屋があるから、そこで一晩を過ごそうと云ったのだ。それに私が異議を唱えるはずもない。だから小屋を探しているのだが、最初こそ「間違いない。わしはそこに行ったことがある」と胸を張っていたミロクが、探すうちに「確かあったはずだ」に変わり、「あったという話を人から聞いた」に変わり、今は「そんな噂を耳にしただけなのだ」と言い訳がましく小声で呟き始めていた。そんな時だったので、小屋を見つけた時、私はミロクと手を取り合って小躍りした。
小屋に入り、火をおこし、暖をとって、私は息をついた。リュックから米と水、木製の器を取り出し、粥《かゆ》をつくる。乾し肉を入れて食べると、信じられぬほどおいしかった。おいしい、おいしいと頻《しき》りに云っている私を、ミロクは不思議そうに見ていた。
「おいしいね」
私はニコニコしながら云った。
食べ物がおいしいということは本当に人を幸福にさせる。
「何でこんなものがおいしいんだ」
ミロクは首を傾げる。
食事が済むと、ミロクはすぐに横になり、横になりかけた時からすでにいびきをかいていた。だが、私はとてつもなく疲れているにも拘《かか》わらず、目が冴《さ》えて眠れなかった。
今自分の置かれている状況がただならぬものであることはわかる。ただならぬどころか、異常そのものだ。ミロクの云う神話のような世界の話を信じられれば楽なような気がする。が、私はそれを素直に信じることもできない。だってそれはまるで息子の読むマンガの中の出来事だから。だからといってそれを馬鹿馬鹿しいと笑うこともできない。だって馬鹿馬鹿しいというなら、突然この世界に飛ばされてきたことも、唾女のいるこの世界そのものもとんでもなく馬鹿馬鹿しいのだから。
どうやって家に帰ればいいのだろう。
その方法を考えることが現実的なのだろうとは思うのだが、しかしその方法そのものが現実的な何かであるとも思えないのだ。だってここは日本なのかどうかすら私にはわからないのだから。
考えなければならないことは腐るほどあった。しかもそのほとんどに答えがなさそうだった。考えることそのものが徒労にも思える。
徒労……。
例えば毎日毎日家族のためにその日の夕食を考えることに比べるとどちらが徒労なのだろうか。たとえ徒労であったにしても、今の私はこうやって考えていることすら楽しんでいる。そうだ、まるで翌日の遠足のことを考える子供だ。
解答のないらしい疑問をぐるぐると頭の中で回している間に、いつの間にか私は眠りに就いていた。
2
朝のにおいがした。樹木と土と朝露と風と陽光のにおい。朝だ。これが朝なんだ。泥の中から顔を出して息継ぎするような、あれは朝なんかじゃなかった。これこそが朝だ。映画や小説の中で描かれる爽《さわ》やかな朝、それそのものがこれだ。
爽快《そうかい》だった。
埃《ほこり》のにおいがする毛布をばさばさ広げて、たたむ。その埃すら心地よい。
ミロクはまだぐっすりと寝入っていた。
私は一人で外に出てみた。時計がないから何時なのかはわからないのだけれど、陽はまだ地平線から姿を現して間もないように見える。紫の空に黄金の陽光が雲を照らすのが、木立の隙間から覗《のぞ》いているからだ。今はまだ陽は森を熱し始めたばかり。夜の冷気が消え去り、最も過ごしやすい時なのだろう。
朝の森は、昨夜何故あれほどまでに怯《おび》えたのかわからぬほど、清々《すがすが》しく美しい。それだけでぞくぞくする。少しばかり感動する。
私は大きく伸びをして、深呼吸を繰り返した。躰《からだ》のあちこちが、特に腿《もも》と足首が引きつるように痛んだが、その痛みも気持ち良い。
水の流れる音がした。私はその音へと近づく。
小川があった。小川と呼ぶのさえ大げさなような、水の流れだ。膝《ひざ》をつき、水を両手で受けた。透明なその水は身が切れるほど冷たかった。口を漱《すす》ぎ、顔を洗う。着ているシャツで手と顔を拭《ぬぐ》った。
コトがやってきて、躰の一部を伸ばし、ちょっと水面に触れる。眼と鼻が背中の部分に集まり、私を見た。
「冷たいでしょ」
答えるように躰を震わせ、再び慎重に水に触れると、思い切って顔を(といってもどれが顔なのかよくはわからないのだけれど)水の中に入れた。すぐに竿《さお》を上げるように顔を水から出すと、犬のように頭の方から躰を揺すって水《みず》飛沫《しぶき》を飛ばした。
生きて迎える朝だ。
コトを見ながら唐突にそう思った。
生きているということはこういうことなのだ。ここが何処であろうと、今私は生きている。そして生きているということはそれだけでこれほどまでに素晴らしいことなのだ。それは、もし誰かに云われたとしたら、ああ、そうですかと聞き流す陳腐な話なのだけれど。それを知るということと感じるということは全く別物だ。
「伸江」
呼びかけられ後ろを見るとミロクが立っていた。
「おはよう! ミロクさん」
私が云うと、ミロクはどうしてか後ろに仰《の》け反った。その眼は半眼で、瞼《まぶた》は厚ぼったく腫《は》れている。昨日の疲れがそのまま残っているのだろう。そのまま溶けてしまいそうに眠そうな辛《つら》そうな顔だ。
もしかしたら、今まで私は毎朝あんな顔で朝を迎えていたのかもしれない。
あれじゃあ、駄目だわ。
口に出してそう云うと、なんだかおかしくなって笑ってしまった。昨日までの自分を笑っているのだと思った。
「何が駄目なんだ」
ミロクは不機嫌そうに云った。
「いろいろと、駄目なことがあったんです」
「ほい、これ持って」
「はい!」
小学生のような返事だな。自分でそう思う。とにかくリュックを手にとり、背負った。なんだかその仕草の一つ一つが幼くなってしまったような気がする。ちょっとこれは気味が悪いかも。そう思うのだけれど楽しくて仕方がない。そうなってしまうのだからいいじゃない。そう思う。私をいつも見ていた厄介なもう一つの視線がなくなっている。
「急がなきゃな。あんたがオズノ王の身内なら、馬頭《めず》も真剣になって追うだろうから」
「あの、オズノ王って、何なんですか」
ミロクに続いて歩きながら尋ねた。
「あんた、親戚《しんせき》なのにそんなことも知らないのか」
「……お義母《かあ》さんが知ってるだけで、私は会ったこともないんです」
「無明から非天《アスラ》が生まれた話はしたよな」
「はい」
「非天は逆らう天をすべて消したんだ。力があったからな。ところが、たった一人、消せなかった天がいた。非天より力を持っていたからだがな。それが、オズノ王だ」
「オズノ王の方は非天を消そうとはしなかったんですか」
「そうだな。オズノ王は力があるから、だからどうでもよかったらしいんだがな」
「あっ、それよくわかります」
弱い者はいろいろなことが気になる。気になって仕方がない。
「わしは、よくわからん。まあ、そういうことだ」
濡《ぬ》れた枯葉や枝を踏む音がさくさくと心地よい。太陽は見る間に天へと昇り、気温が上昇していく。木漏れ日に照らされた地面がゆるゆると陽炎《かげろう》を昇らせる。
「気持ちいいですね」
「良くないよ。わし、疲れたよ。伸江、すげぇ元気だな」
「はい。すげぇ元気です」
楽しかった。とても楽しい朝だった。背負ったリュックの重さも苦にならなかった。あの声が、赤ん坊の泣き声にも発情した猫の声にも思えるあの声が聞こえるまでは。
「唾女だ」
ミロクがうんざりした声を洩《も》らした。
「走りましょう」
「わかってるよ」
走り始めれば自分にも昨日の疲れがたっぷりと残っていることがわかった。いくら気分が爽快であろうと、肉体はあの時のまま、三十歳を越え、運動らしい運動をしたことのない鈍《なま》った肉体なのだった。
いたぞ、の声とともに神経に障る泣き声が近づいてくる。
「来たよ。来たよ。来たよ」
ミロクが悲鳴混じりの声をあげた。
見ては駄目だと思いながら後ろを見た。
二頭の唾女がいた。躰を波打たせ、土を蹴《け》り上げ、瞬く間に近づいてくる。跨《またが》る二人の兵士は銃を持ってはいるが構えてはいない。
先頭の唾女に乗った兵士が唾女の肩を平手でぴしゃりと打った。
頭のない首を唾女はもたげた。すぼまった口が酢でも飲んだかのように一瞬縮まったかと思うと、そこから何かを噴き出した。
私の足元にそれがぴしゃりと貼《は》りついた。濃緑色の粘液の塊は厭《いや》に生暖かった。
重かった。子供にしがみつかれたようなものだった。しかもそれはすぐに右脚にもへばりついた。凄《すさ》まじい粘着力だ。脚をとられ、私は無防備に前に倒れこんでしまった。
「ミロクさん!」
叫んでも、ミロクはひたすら走り続けている。コトがその後に続いている。私に気づいていないのだろう。その姿が見えなくなる前に、追いついた二人の兵士に銃を突きつけられた。
すぐそばに二頭の唾女がいた。近くで見ると、それはまったく女の躰そのものだった。違うのは四肢に蹄《ひづめ》がはえていることと、意外なほどに大きいことだった。普通の女の倍近くはあるだろう。
兵士は乱暴に私を立たせた。そして猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませる。生乾きの皮の嫌な臭いが口の中に溢《あふ》れた。もう一人の兵士が大きな麻の袋を出してきた。終始無言だ。私は必死になって暴れたのだけれど、無駄だった。袋の中に詰められる。頭の上で、袋の口がぎゅうと締まった。
3
私が逃げ出した食堂の二階にその部屋はあった。白いタイルで覆われ一見広いバスルームのようだが、そこに浴槽はなかった。
私は袋から出されると両手を縛られ、床に転がされた。天井では大きな扇風機がゆっくりと回っていた。ぐるぐると回転するそれを見ていると、暑さはよけいに増した。
自分でも意外なのは、あまり怯《おび》えていないことだった。
窓が開かれてあり、そこから空が見えた。この世界に来た時と変わらぬ真っ青の空だった。
私の前に籐製《とうせい》の椅子を置いて、その背を跨《また》いで座っているのは軍服姿の馬頭だった。
見るからに恐ろしい巌《いわお》のような顔を歪《ゆが》めて、馬頭は笑っていた。
「オズノ王の眷属《けんぞく》といえどもこうなるとざまあないな」
馬頭は椅子から立ち上がった。ゆっくりと私に近づいてくる。己れの容貌《ようぼう》が相手にどのような効果を与えているのかよく心得ているのだ。横になった私の足元に立つと、馬頭は脚を開き、ズボンの前のボタンを外した。私は躰《からだ》を強張《こわば》らせた。止めてと言おうとしたのだが、あーあーと唸《うな》るだけだ。ついでに猿轡をした口元から涎《よだれ》がこぼれる。
男はズボンに手を入れ、いきなり放尿を始めた。馬頭は薄笑いを浮かべて私を見ている。小便は放物線を描いて、私の足元を固めた唾女の粘液にかかった。
蒸気が上がった。
しゅうしゅうと音をたて、脚に絡みついた粘液がみるみる溶けていく。すべての粘液が溶け去るまで、馬頭は長々と小便をした。
脚は、少なくとも脚だけはそれで自由になった。汚いとは思ったが、いささか、ほっとしたのも事実だ。小便をかけられる方が、犯されるよりはましだった。いずれにしろ最低の選択には違いないのだけれども。
「面白いだろ。こいつは小便じゃないと溶けないんだ」
腐臭にも似た苦い臭いが部屋に充満した。
「臭いは少々|酷《ひど》いがね」
馬頭はそう云って、窓のそばにいく。
「さてと……」
窓枠に腕をかけて馬頭は話を続けた。
「この部屋がこんな風にしてあるのは何の為かわかるか。今みたいに小便流しても、糞《くそ》ひっても、勿論《もちろん》血を流しても、後片付けが簡単なようにできているんだ」
しばらく間をおく。怯えてください、と云っているような間だ。怯えてやるもんか。私は思う。こいつを楽しませるために怯えてなんかやるもんか。そう思いはするのだけれど躰が小刻みに震えているのを止めることはできなかった。
「今から猿轡を外してやる。だが、よけいなことは云うんじゃないぞ。俺が聞いたことだけに答えるんだ。いいな」
私は首を縦に振った。
その様子をしばらく観察してから、ようやく猿轡を外した。
「何で俺の店に来た」
「……あの、ミロクさんに、ミロクさんはここに来て初めて会った人で……」
馬頭は腰の軍刀を抜いた。片刃の薄い剣だ。刀身は触れるだけで切れそうだった。柄の装飾や鍔《つば》の形を除けば日本刀によく似ている。といっても日本刀というものを直接見たことはないのだが。
「おまえは馬鹿か」
「はい?」
「聞いたことだけに答えろと云っただろう。俺はこう云ったんだ。どうして俺の店に来た」
「あなたの店だって知らなかったんです」
「やっぱり臭いな」
云うと、馬頭は部屋の隅に行き、そこでとぐろを巻くゴムホースを手にし、蛇口をひねった。指で潰《つぶ》したホースの先から、勢いよく水が噴き出した。逃げようと躰をくねらしたのだけれど、水流から逃れることはできなかった。たちまち私は水浸しになる。
「気持ちいいだろう。今日は暑いからな」
蛇口を閉めてホースを捨てると、馬頭は抜き身の剣を無造作に持って近づき、顔の横にしゃがんだ。
「オズノ王とおまえはどんな関係なんだ」
云いながら大きな手で顎《あご》を掴《つか》む。
「……関係ありません」
馬頭の太い親指が唇の中にいきなり入ってきた。そのまま頬を掴み、横にぐいと引っ張る。
「嘘はやめようや」
頬を掴んだまま馬頭は私を持ち上げた。唇が裂けるのではないかと思えるほど口は横に開く。私は必死になって上体を持ち上げた。情けない悲鳴が洩れると、同時に唾液《だえき》が顎をつたった。涙が流れた。痛みもあったが、それ以上に今の私が滑稽《こつけい》で、惨めで、悲しかった。
半身が起き上がりかけた時に馬頭は指を離した。私は再び倒れ、側頭部を嫌というほど床に打ちつけた。一瞬気が遠くなりそうになった。
「オズノ王とはどんな関係だ」
そんな態度をとりたいわけではないのだけれど、私は泣きじゃくっていた。まるで子供のように泣きじゃくりながら頭の中で考えていたのは、早く彼の気に入る答えを思いつかねば、ということだった。部屋に転がされていた時の、少しばかりの余裕など微塵《みじん》もなかった。
「……私の……お義母《かあ》さんが、困ったことが……あったら……小津さんを訪ねろと」
「おかあさんってのは誰だ」
「私の……私の、夫の、お母さんです」
「だから、それは誰なんだ」
「…………喜多野小枝子……です」
「北のサエコ……北か。北のサエコ……。なるほど、北の聖《ひじり》か。しかし、北の聖に娘がいたとは聞いていないが」
馬頭がじろりと睨《にら》む。
「それで聖の娘がここに何をしに来たんだ」
「食事を」
無理やり笑顔を浮かべてそう云った。馬頭はそれに合わせるように笑いを浮かべた。恐ろしい笑いだった。笑いながら腰の剣を掲げた。
「喋《しやべ》る気がないならそれでも別に構わないんだが」
馬頭は爪先で脇腹を蹴《け》り上げた。何もかも腹から飛び出してきそうだった。私の躰《からだ》は丸太のようにごろりと転がり、うつ伏せになる。
背後で馬頭が剣を振る音がした。
私は息を止める。
死んだと思った次の瞬間、私の両の手首を縛っていた戒めが解けた。
縄が切れたのだ。
「起きろ」
云われるがままに立ち上がろうとした仰向けになった私に、馬頭はいきなり跨《またが》った。跨り乳房を鷲《わし》掴《づか》みにした。
「ババアにしては使える躰じゃないか」
私は痛みに悲鳴を上げた。
馬頭が乳房から手を離す。それから己れの股間《こかん》をぽんと叩《たた》いて、云った。
「こいつは小便をするためだけにあるんじゃないんだ。わかるな」
馬頭の顔が蕩《とろ》けるようにぐにゃ、と歪んだ。
「いい思いさせてやるよ。それから、ゆっくり片付けてやる。オズノ王が何を企《たくら》んでいるのかだいたい想像はつく。その前にこちらから贈り物をしてやるさ。おまえの四肢を切りとって北の聖に送りつけてやる。だが、その前にやることはやっておかないとな。おまえもこのまま死んだんじゃ、心残りだろ。さあ、してくださいって云ってみろ。それとも、両手両脚切りとってからやってほしいか」
心底|嬉《うれ》しそうな顔だ。醜い醜い顔だ。
剣を私の頬にぺしゃりと当てる。
怖かった。きっと私が三十年以上生きてきて一度も経験したことのない恐怖だ。そしておそらく死ぬまで経験することはないだろうと思っていた恐怖だ。
後頭部がかっと熱くなり、頭が真っ白になった。
どうしてそんなことをしたのかわからない。私は何の構えもなく躰を起こし、それから馬頭の拳《こぶし》ごと剣の柄を左手で掴み、右手で刃の背を掴むと、ぐいと馬頭の方へ押しやった。
馬頭が何か云おうとした。云ったのかもしれない。その言葉は私には聞こえなかった。ただぱくぱくと金魚のように口を開いただけのように見えた。そして、剣の刃が馬頭の喉《のど》に押し当てられていた。
馬頭が剣を押し返す。
一振りの剣を挟んで押し合いになった。
渾身《こんしん》の力で剣を押しながらも私は夢の中にでもいるような感覚だった。こんな男と剣で命のやり取りをするなんて信じられない。
私は片手で剣の背を押し、もう片手で柄を掴んでいる。馬頭は両手で柄を握る。梃子《てこ》の原理だ。支点作用点力点だ。だからこそ押し合いになったのだ。でなければこんな男に敵《かな》うわけがないのだ。などと考えている私はやはり冷静なのだろうか。
それでも少しずつ馬頭に押される。押し返される。そして思いついた。これはいい作戦だわ。
私は大きく息を吸い、口を大きく開き、大声で叫んだ。
「トラブル!」
予想以上の効果があった。
馬頭は剣から手を離し、弾《はじ》かれたように後ろに仰《の》け反った。それに合わせ躰を起こす。立場が逆転した。今度は私が馬頭に跨っている。そのまま持った剣を馬頭の喉に押し当てる。そこで止まることができなかった。体重が刃先にかかる。
鯖《さば》の頭を落とすより容易《たやす》く、ごとりと馬頭の首が落ちた。
破裂した水道管の勢いで血が噴き出す。
今まで躰の中に収まっていたとは思えないほどの血が床に流れた。なんだかきれいだった。絵の具みたいだ。こぼした絵の具の色に見とれていて教師に叱られたことがあったっけ。駄目だ駄目だ。こんなことを考えている場合じゃない。何とかしなければ何とか。
私は立ち上がった。扉はすぐそこだ。外へと自由へと繋《つな》がる扉が。
私はそれを開いた。
給仕が一人立っていた。
「もうお済みですか、馬頭様……」
浮かべた笑顔が凍りつく。
ひどく滑稽なその顔に噴き出しそうになる。でも笑っては失礼だと思い、無理矢理にこやかな顔程度にとどめて私は云った。
「すみません、出口はどちらでしょう」
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real-3
河原まで引きずっていくだけで汗だくになった。ライオンのチョコレート色の肌を縦横に分断する皺《しわ》の迷路は、傷つけたゴムの木肌のように、樹液がわりの汗を流していた。
ため息一つついて、周囲をゆっくりと見回す。誰もいない。誰も見ていない。
大丈夫だよ。
ライオンは自らに言い聞かせた。
足下に転がるのは血塗《ちまみ》れの男。
死んでるよな。
改めてそう思う。
喉が裂けている。
大口を開いて笑っているようなその傷口から、もう血は流れていない。傷はそれ一つに終わらない。身体中に無数の傷が開いていた。そこから流れ出た血はライオンの小屋を赤いぬかるみに変えた。
いつものように夕飯を探しに出掛けた。一緒に連れていくわけにはゆかないので、女に留守番を任せた。任せたということを理解したかどうかはわからなかったが、女はライオンを見上げて微笑んでからはじっと正座して正面を見つめていた。まるで置物のようなその様子から、どこかに行ってしまうことはないだろうと思い、出掛けた。もし女がどこかに出ていったとしたら……。
それはそれでかまわない。いや、それをこそ望んでいたんじゃないのか。
なのにライオンは女にじっとしているように告げた。外に出るなと命じた。
出ていけ出ていけ。
そう思いながら馴染《なじ》みのファーストフード店へと向かった。だが、もし帰って女がいなかったら、と想像すると、それだけで胸が痛んだ。悲しかった。どうしてなのかわからず、ライオンは少なからず混乱した。混乱しながらも、女が今どうしているのか、もうどこかに行ってしまったのではないか、などと考え不安で堪《たま》らなかった。
いつもよりもずいぶんと早い時間にライオンは小屋に戻った。戻ったらいおうと思っていた台詞《せりふ》をいう。
「ただいま」
まずは異臭を嗅《か》いだ。それから薄闇の中にいる女を見た。女は血だまりの中に座り込んでいた。その横には喉を裂かれた死体が転がっていた。
悲鳴を上げることもできなかった。
ライオンはへなへなとその場にしゃがみ込み、それから這《は》うようにして小屋から離れると胃液を吐いた。女に声を掛けに戻るまでに、かなり時間が掛かった。
再び小屋に入る。
死体の様子と、女が手に持ったままのナイフを見れば、何が起こったのか想像はつく。
赤黒い泥をかぶったかのようなその男に、ライオンは見覚えがあった。やはりこの近所を縄張りにしているホームレスだ。ライオンに比べるとかなり若い。あるいは若いように見える。喋《しやべ》ったことは一度もなかった。ライオンが近づくと罵声《ばせい》を浴びせるからだ。鋭い目をした男はいつも暴力的な雰囲気を汗のようにしたたらせていた。事実突然暴れだすことがあり、ライオンは男が近所の交番に連れていかれるのを何度か見たことがあった。小心者のライオンなどは、この男が暴れたとばっちりで河原から追いだされないかと気が気でなかった。まさかその男が被害者になるとは思わなかった。
ビニール紐《ひも》で男にブロックを括《くく》り付ける。二つ括り付けるだけで大汗をかいた。それから河原を転がして川の中に突き落とした。水音をあげることもなく、暗い水の底に男が消えた。
今からすべきことを考えると、うんざりした。警察に知らせる気は初めからない。そんな気があるのなら死体を川に沈めたりはしない。
ライオンが女の肩に手を掛ける。そっとナイフを奪い取ろうとした。狩猟などに使う折り畳み式の大きなナイフだった。その時女がライオンを見た。今そこにいることに気づいたようだった。ライオンの手を振り払い、ナイフの刃先を彼に向ける。
笑いとも悲鳴ともつかぬ情けない声をあげながら、ライオンは尻《しり》で後退《あとじさ》った。殺されると思った。
「違う。違うぞ。そりゃ違う」
瞬時に言い訳が二百ほどの単語となって頭に浮かんだ。しかし、その組合せを考えつく前に、女の顔がぐしゃりと崩れた。乾いた血がぱらぱらと剥《は》がれ落ちた。
「助けて!」
言うと女はライオンにしがみついて号泣し始めた。
胸元に女の頭を抱きかかえ、ライオンはこの不可解な女をどう扱っていいのか途方にくれていた。長い時間そうしていた。そして決意した。
女を小屋の外に連れだし、手や足を洗わせた。血の付いていないであろうものを小屋で探しだすのは、かなり困難な仕事だった。その中から古着を取り出して女に着替えさせた。女は人形のようにされるがままだ。そして黒いリュックに持ち物を詰め込んだ。
逃げるつもりだった。
ここではないどこかに、この女とともに。
素っ気ない部屋だ。
テーブルとパイプ椅子があるだけ。そこそこの広さがあるだけによけいに味気ない。
区民憩いの家と名付けられた建物の三階に、その部屋はあった。犯罪被害者自助グループ〈小さな柱〉の事務所だ。
「慣れましたか」
柳瀬が言った。
大和田が考えていたよりも若い男だった。だが直接年齢を聞かなければ同い年だと思っていたかもしれない。短く刈り上げた髪のほぼ三分の二が白髪だ。
「慣れはしないが」
落ち着きはした。安定とはほど遠いが、それでもここに来る前よりはましだと思っていた。
「ここには慣れたんじゃないですか。今日は大和田さんの発言も多かった」
集会に参加したのは四回目。
同じような境遇の人間がいる。
その事実だけで確かに救いにはなる。ここではみんなが事件当時の心情を正直に語る。語り合う。泣く者がいる。怒る者がいる。叫びだしたり気分が悪くなる者もいる。途中で出ていってしまう者もいた。しかしそうしながら、決してここを離れていく者はいない。
大和田も今日は己れに降りかかったことを正直に口にした。そのことで自分を責めているのだというと、一斉に責める必要はないのだと説得された。
親にできることは限界がある。個人となった子供に対し、親はどこまで責任をとるべきなのか。それからそのような話題に移っていった。皆それぞれに自分を責めた覚えがある親たちばかりだった。
「殺してやりたい」
最後にこう言ったのは小さな書店の店主である女性だった。その目を見れば本気であることがわかった。もしここに、彼女の幼い娘を強姦《ごうかん》したあげく殺した犯人がいたなら、間違いなく殺していたであろう。そう思わせる目だった。切実な殺意などというものが存在するのだ。その事実が大和田を驚かせた。
「何を喋りましたかね」
大和田は尋ねた。
「覚えていないんですか」
「なんだか興奮していたようですね。あまり覚えていない。何があったかを説明したような気がしますが」
冷静なつもりでいたが、決してそうではなかったようだ。途中から箍《たが》が外れたかのように感情が流れだし止まらなくなった。そのあたりから何を話したのかを全く覚えていなかった。
「そうやって話していくうちに、少しずつ日常に戻っていくことができますよ」
柳瀬は言いながら大和田の目をじっと覗《のぞ》き込んだ。その底にある何かを探るように。そして言った。
「それとも日常に戻る気がないとか」
大和田は柳瀬から視線を外し、生温《なまぬる》い缶コーヒーを飲んだ。みんなが帰ってから、ずっとパイプ椅子に座ってコーヒーをちびちびと飲んでいた。
「部室みたいですよね、ここ」
大和田は独り言のように呟《つぶや》く。
「高校の時に書道部にいたんですけどね、その部室がこんな感じでした。いや、もっともっと汚かったんですが、みんなと喋って、その後で缶コーヒーを飲んでると、なんだかそんな気がして」
「書道ですか」
低く響く声で柳瀬が言う。
「いいなあ。字が上手な人が羨《うらや》ましい。私は字が汚くて、それだけでもなんだか馬鹿みたいに見えるでしょ」
声を出して笑った。何か芝居がかったものを感じさせる男だった。
「在籍していただけですよ。部室で煙草を吸えるという噂がありましてね」
「大和田さんはどう思いますか」
「何をですか」
「石川さんの言ったこと」
石川というのが書店の店主の名だ。
「殺してやりたい、ですか」
柳瀬は頷《うなず》く。
「そうですね。その……おかしな感じですよ」
「おかしな感じ、ですか」
「何で今までそのことに気がつかなかったのか、とね。私は自分の非ばかりを考えて、犯人の存在を忘れていたような気がする」
「すると、今は犯人を殺したいと思っているということですか」
柳瀬が言った。低いその声にはおかしな説得力がある。
「そうですね」
返事して、大和田は腹の底に生まれたしこりを感じる。ごつごつとそれは胃の底に沈み、冷たく痛んだ。
「それは当然ですよ」
柳瀬はゆっくりと言い聞かせる。
「親しい人間を殺されて、その犯人に怒りを感じない人間はいない。それは人として当然の感情だと思います。もっとも、自分を責める人も多いようですが――大和田さんもそうでしたよね――そんな必要はない。被害者なんですよ、私たちは。そう思いませんか」
大和田は頷かない。頷けなかった。堅く引きつるようなしこりが、腹の中でその存在を主張する。頷けばそれが破裂してしまうような気がした。ばあんと弾《はじ》け飛び、そして、そして……。
「殺したいという気持ちをごまかす必要はありませんよ。それよりも認めるんだ。自分の中にそれがあることを。だって」
柳瀬は再び大和田の顔を見つめる。
「腹が立つじゃないですか。そいつがのうのうと生き延びて、飯を食って、眠って、笑ってるんだと考えると。そうでしょ」
今度は頷いた。
たちまちしこりが弾けた。
熱い塊が腹の奥底に広がっていく。
大和田にはそれの正体がわかっていた。
怒りだ。
存在しないもののように扱ってきたそれが、熱湯を注いだように熱く身体の中に広がっていく。
「私もそうです。腹が立って仕方がない。石川さんはまだましだ。犯人は捕らえられているし、罪も確定している。死刑ですよ。確かに自分の手で犯人を葬れないが、しかし犯人が普通の人々と同様に普通にまともな暮らしをしているのとはずいぶん違う」
最初の電話がそうであったように、柳瀬の話しぶりはあくまで冷静だ。しかし平静な口調であるが故に、黒々とした感情のうねりをその内に感じさせる。
「人権だの何だのといった話は、食卓でテレビを眺めながらすべき話だ。そうでしょ。悪を為《な》した者には、それなりの罰が必要だ。私は本当にそう思いますよ」
「柳瀬さんのお嬢さんを、その……」
「殺した獣は、もう病院を出て普通に生活していた。そんなことに耐えられるはずはない。普通の親であるのならね。あなただってそうだ。まだ見ぬ犯人の所在がもしつかめたら、その時は」
柳瀬は大和田の目を見る。
その時はどうするのだと問われているのだ、と大和田は思った。
「殺してやりたいね」
声に出せば、怒りの赤い炎が身体の中で激しく燃え上がった。ごおと音を立てるのさえ聞こえた。
「そうでしょ」
柳瀬は歯を見せて笑った。
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第三章 首吊り男の話
1
実はわしは森の賢者なんだ。
到底信じられないミロクのこの台詞《せりふ》だ。しかし私には信じる以外|術《すべ》がない。
唾女《つばめ》は臭いを追って何処までも追跡を続けるとミロクは云う。前の失敗を繰り返さないためにも私たちはできるだけ早く森を抜ける必要があった。
幾つもの小川を越え、獣道から、更に道さえない樹々の間を抜け、ひたすら歩き続けた。森は神殿の柱のように巨大な樹木の迷路だった。森で道に迷うと、直進していたつもりがいつの間にか同じ道をぐるぐると回っていた、ということがよくある、などという逸話を思い出してしまう。不安になり、この道で大丈夫なの、と尋ねたのに答えてミロクが云ったのが冒頭の台詞だ。
だが、ミロクの返事がどうあれ、今の私は、道を先導するものがあるなら、酔った猿の後ろでもついて行っただろう。
どうやって森まで来たのか覚えていない。馬頭《めず》を殺してから、無我夢中で逃げてきたのだ。前と違い、追手はあまりしつこくはついてこなかった。おそらくボスが死んで、残された者にはどうすればいいのか判断できなかったのではないだろうか。それでも、いつ追手が来るかわからない。朝までには森を出ておきたい。
すでに陽が落ちて久しかった。
灯《あか》りといえば、ミロクが山小屋に戻り見つけてきた角灯《ランタン》だけ。木漏れる月光に幹を覆う苔《こけ》が緑に光る。黒々とした枝の間を行き交う黒い夜行性の獣たち。足元を滑るように通り過ぎる大きな蛇。笑い声を合唱するヤモリの群れ。私を怖がらせるものには事欠かない。しかも昼間の温気《うんき》は陽が暮れるとたちまち冷気と入れ替わった。湿った衣服では凍えるほどで、震えが止まらなかった。頭からミロクに貰った重たい毛布を、マントのように被《かぶ》っている。ミロクも同じスタイルだ。奇妙な格好だとは思うのだけれど、それを笑うほどの余裕はない。
顔や服に着いた血は川で洗い落とした。それがまだ生乾きだ。森の冷気が強欲な金貸しのように躰から熱を奪っていく。せめて何か喋《しやべ》っていないと、耐えられそうにもなかった。
「まだですか、ミロクさん」
云った声が震えている。
「もうすぐだって云っただろ、さっき。朝までには森を出るから。必ず森を出るから」
自信たっぷりだが、私と同様震えているのでは、あまり信用できない。それでも私は云う。
「すみません。信用していないわけじゃないんですけど」
「いいか。オズノ王の城を目指すなら日送りをして歩め。これは常識だ」
「日送り……ですか」
「知らんか。知らんだろうなあ。日送りとはな、太陽の沈む方角へ向かって進むことだ。オズノ王は陽の沈むところにありだ」
「でも、今は夜ですし……」
「星を読むんだ」
ミロクは待ってましたとばかりに胸を張ってそう答えた。
「星を読むんですか。すごいですね」
私は本気でそう云った。
「そう、わしはすごい。何しろ森の賢者だからな」
「その森の賢者が何の用事があってオズノ王に会いに行くんですか」
「えっ、それは、ほれ、あのな、それだ。つまりは……長い話になるぞ」
「結構です。よかったら聞かせてください」
どんな話でもいいから、人の声を聞いていたかった。
「うーむ、それはな。つまり……。そう、そうだ。あれは二十年ばかり前の話だが……それでも聞きたいか」
私は頷《うなず》いた。
「仕方ないなあ。それじゃあ、教えてやろう。その時、わしは聖者でも森の賢者でもなかった。小さな農村で働く百姓だった。結婚していてな、息子が一人いた。わしも働き者だったが、息子はわし以上に働き者でな、孝行な息子だったな」
家に残してきた一人息子の孝治を思い出す。そして気づいた。今まで一度も家族のことを思い出さなかったことを。二十年近く続いたあの幸福な家庭を、ここで過ごした二日間はほとんど考えることがなかったのだ。驚きだった。私は家に帰ろう、家に帰ろうといつも考えていたはずだ。でもそれは孝や孝治のいる家ではなかったようだ。私はどこに帰ろうとしていたのだろうか。今考えてみれば、それは具体的なあの「家」ではなかった。それは家を感じさせる何か、抽象的な「家庭」というものに帰ろうとしていたのではないだろうか。
「おい、聞いてるか。失礼な奴だな。人に話してくれと云っておきながら」
「あっ、ごめんなさい。話を続けてください。真剣に聞いていますから」
「ふん、よし、いいだろう。それでな、その孝行な息子はだな、わしの倍は働いた。そのおかげでいくらか余裕ができてな、わしは息子を学校にやった。喜んどったよ。多少暮らしはきつくなったがな、わしはそれでも満足だった。息子はわしに似て頭が良かったからな。何しろ村から学校に行った者は、名主の家族を除いていない。わしは有頂天になっていたが、それを妬《ねた》む者がおったんだな。ある日な、名主の息子が死んだ。近くの林で胸を刺されてな」
「殺されたんですか」
「わからん。しかし、まあ、間違いないだろうな。名主の息子には自殺する理由は何もなかったからな。それで、たまたまその時、学校が休みで息子が帰っておった。そしたら、どうだ。わしの息子が殺したんだという噂がたった。普段からわしらのことを妬んでいた奴らの仕業だったんだろうが、わしの息子と名主の息子が口論していたのを見ただの何だのと言う奴まで出てきてな。わしの息子には恋人がいてな。それに名主の息子がちょっかい出していたらしいんだ。それで、確かに間が悪いことに殺される前に喧嘩《けんか》をしていたのは本当らしい。それでな……それで…………」
ミロクは俯《うつむ》き、黙りこくった。
「それで?」
「それで……。結局、息子は死刑になった。村の掟《おきて》だ。同じ村の人間を殺したものは山犬に喰《くら》わせられる。わしの女房はそれを苦に自殺した。わしも村から追放同然に出された」
「まあ」
声が出たとたんに涙が溢《あふ》れてきた。
「おい、待て」
慌ててミロクが云う。
「伸江、泣くな。泣く女は苦手だ」
「はい」
私は両手で涙を拭《ぬぐ》った。まるで子供だなあと思うが自分ではどうにもならない。
「まあ、それでな。わしは僧侶《そうりよ》になって村々を旅して回っているわけだ」
「それでオズノ王にはどうして……」
「わしは息子の無実を晴らしたいのだ。オズノ王なら真実の犯人を知っているだろうと思ってな」
「わかりました」
私は感動していた。感動のあまりまた泣きそうになって、堪《こら》えた。
「頑張りましょう」
うわずりながらもそう云う。
「頑張ってオズノ王に会いに行きましょう」
私はミロクの前に回り込み、彼の両手をがっしりと掴《つか》んだ。
「前向いて歩け、伸江。危ないぞ」
頭の上に何かが当たった。
思わず悲鳴が上がる。
「云わんこっちゃない」
「何かが頭に……」
頭上を見上げた。
「何かぶら下がってるわ。ミロクさん、角灯《ランタン》を上に向けてみて」
「何だ。木の枝か何かじゃ……ぎゃっ!」
ミロクが押し潰《つぶ》されたような悲鳴を上げて仰《の》け反った。
私は声も出ない。動くこともできない。
コトがそれを見上げて激しく吠《ほ》えていた。
木から人がぶら下がっている。首に紐《ひも》が掛かっていた。つまりあれは。
「……死んでるの?」
ようやくそれだけ云った。
「当たり前だろ! 首に縄締めて木からぶら下がってる人間が健康なわけがないだろ」
「確かに僕は死んでいる」
歌うように首吊り死体は云った。
私とミロクは同じように悲鳴を上げ同じように地面に座り込んだ。
「でも僕は死んでいない。どちらも事実だ」
首吊り死体はぶらぶらと揺れながら私たちを見下ろしていた。哀しそうな顔をしていた。そりゃあそうだ。何しろ死んでいるのだから。
「どういうことなの」
私は尋ねた。
で、立ち上がった。尻《しり》についた泥を叩《はた》く。
最初見たときに驚きはしたが、何故か不思議なほど恐ろしくはない。それは多分、死体が喋《しやべ》っているからだ。
喋る死体。
なんと馬鹿馬鹿しいこと。
それは現実的でないから、現実的でないならそれに即した対応をすればいいのだ。マンガの中にいるのならマンガの法則に従えばいい。つまりはそういうことだ。
「その話をする前に、僕をここから降ろしてもらえないだろうか」
「いいわよ。ミロクさん、手を貸してください」
「おまえ、どうして平気なんだよ」
ミロクは喋る首吊り死体を見る以上に気味悪そうな顔で私を見た。
「どうしてって云われても、だって悪い人には見えないから」
「そういう問題じゃないだろ」
「私が縄を切りますから、ミロクさん、下で受けてください」
「わしが受けるの?」
「他に誰もいませんから」
「どうしても?」
ミロクの問いには答えず、私は男の吊られている木に昇り始めた。瘤《こぶ》やねじ曲がった枝を足掛かりに、上へ上へ。するすると登って行けるのが楽しかった。幼いとき田舎で木登りした記憶が甦《よみがえ》った。あの時にこにこ笑いながら私を見ていたのは母だったのか。いや、あれは男だった。するとあれは父だったのだろうか。
「用意はできたぞ」
下からミロクが声をかけてきた。
「いきますよ」
馬頭から拝借してきた剣を包みから出し、構えると一気に振り降ろした。何の抵抗もなく綱が切れた。
「あっ」
「わっ」
「ぎゃっ」
私たちは同時に声をあげた。あっ、は切り落とした私。わっ、は落ちた首吊り死体。ぎゃっ、は受け損なって死体の下敷きになったミロクの声だ。
ふぁあああ! と奇声をあげ、腕をめちゃくちゃに振り回し、ミロクは死体の下から這《は》い出した。
「向こう行け! 向こう行け!」
泣いていた。
「失礼よ。そんなこと云っちゃあ」
私は木から降りて、ミロクをたしなめた。
「さあ、起きて。大丈夫?」
死体に肩を貸し、そのぐにゃぐにゃした重い躰《からだ》をなんとか起こした。
「ありがとう。ええっと」
「伸江です。喜多野伸江。これがコト。あそこにいるのが」樹の幹にしがみついてしゃがみ込んでいるミロクを指差した。「ミロクさんよ」
「伸江、有難う」
「立てるかしら」
ええ、と頷《うなず》き、死体は不器用な人が操るマリオネットのようにぎくしゃくと立ち上がった。ふらふらと倒れそうになり、私は慌てて肩を貸す。
「何しろ長い間吊るされていた死体なもので」
「悪いけど、私たち先を急ぐんです。だから、歩きながら話を聞いてもいいですか」
「どちらに行くんですか」
「陽の沈む方へ、オズノ王に会いに」
「そりゃあいい。僕も一緒に旅をしてもいいですか」
「勿論《もちろん》よ。ねえ、ミロクさん」
「嫌だあ」
べそをかいていた。べそをかきながら立ち上がり、歩き始めた。
「どうして」
「死んだ奴となんか旅ができるか」
「差別しちゃだめだわ」
「そんな問題じゃないだろ。それに、そいつはすげぇ臭いぞ」
死体に鼻を寄せてくんくんと嗅《か》いでみた。
いわゆる腐臭がする。
「確かに臭うわ。でも私たちにしたって昨日からお風呂《ふろ》に入っていないし、あまり人のことはいえないと思います」
「そいつは腐ってる」
私は腹が立ってきた。
「人のことをそんな風に云ってはいけません!」
私が怒鳴るとミロクが叫ぶ。
「そいつは人じゃない!」
「人です。ただ死んでいるだけです!」
云うだけ云って、私は深呼吸を一つした。ここで争っていても仕方がない。とにかくミロクを説得しなければ。
「ね、一緒に行くって云ってるんだし、少なくともこの森を出るまではご一緒しましょうよ」
「……森を出るまでだぞ」
念を押すミロクを無視して死体に尋ねる。
「それで、あなたの名前は」
「名前、名前……駄目だ。長い間死んでいたから忘れてしまっている」
「クビツリで充分だ」
ミロクは先頭を歩きながら怒鳴った。
それでいいの? と私は死体を見た。
「それでいいですよ。わかりやすくていいから」
「それで、どうしてこんなことに。それも忘れてしまったのかしら」
「いいえ。それは死んでからずっとそのことばかり考えていましたから覚えています。お話ししましょうか。しかし、長い話になりますよ」
「ええ、結構ですよ。今日は長い話を聞く日のようだから」
「それではお話ししましょう」
2
ランパカというのが僕の生まれた村の名であり、僕の部族の名です。ランパカは風輪の地の西の端でヒトニウマを放牧し、獣を狩って暮らしている小さな小さな部族でした。
ヒトニウマというのはその名のとおり人に、それも雄雌問わず女性にそっくりの馬のことです。唾女というのなら見たことがありますか。あれはヒトニウマの変種なんですよ。唾女には首がありませんが、ヒトニウマにはきちんと頭があります。ええ、そうですね。ちょっとネズミにも似ているけれど、やはり普通の女の顔です。
ヒトニウマからは滋養たっぷりの乳が摂れるんです。雄の乳房からも出るので、厳密には母乳じゃないのでしょうけども。とにかくいずれにしてもそれからは高価な乳製品がつくられるんです。我々ランパカの民はそれらヒトニウマの加工品や、狩り取った獣を町で売って生活をしていました。
ランパカの男は十二歳になると山に棲《す》むワライガニを採って来なければならないのです。それが成人式で、これによってようやく大人になったと認められるんです。
その年、僕が十二歳になった年のことです。
僕は痩《や》せて脆弱《ぜいじやく》な子供でした。女みたいだ。子供の時はずっとそう云われてました。病気ばかりしていましたし、臆病《おくびよう》で、いつも何かに怯《おび》え、従順でおとなしいヒトニウマにさえ怯えていました。あのね、僕のような少年は葬人《ほうむりぴと》と呼ばれます。死に親しい者として忌み嫌われる存在、それが僕でした。
風輪の地での放牧生活は決して安楽なものではありません。病気ばかりして狩りもできぬ男は無用なのです。そして無用な人間をおいておけるほど村は富んでいない。もし僕が族長の孫でなければ、母親に溺愛《できあい》されていなければ、十二歳を迎える前に死んでいたでしょうね。さもなければ部族から追放されていた。そうなっていたとしても、すぐに死んでいたでしょうけど。子供が一人で暮らせるような土地ではありませんから。ですが、とにかく僕は死ぬこともなく追放されることもなく十二歳を迎えました。
僕は部族の嫌われものでした。この儀式でワライガニを捕らえられなければ殺されるかもしれない。追放されるかもしれない。それなら望むところだ、と僕は思っていました。僕が最も恐れていたのは死ぬことではなく、村の笑いものになることでしたから。
その時がきました。
僕は、僕たち十二歳を迎えた者たちは、大人たちに追われ山に向かいました。
ワライガニは甲羅の幅が、大人が両手を広げたほどもある大きなカニです。普段は臆病な生き物なのですが、その刺《とげ》だらけの鋏《はさみ》で赤ん坊を食べることもあると聞かされていました。そんな化け物を捕らえられるわけがないと僕は思っていましたし、実際そのとおりになったのです。
僕はケラケラと笑い声をあげながら近づいてくる巨大なカニを見ただけで逃げ帰ってしまいました。逃げ帰った者は僕だけでした。僕は村に帰ると気を失い、七日間高熱を出して意識不明でした。僕の思ったとおりになったのです。ですが、そうなっても殺されることもなく、村を追放されることもありませんでした。笑いものにさえならなかったのです。
目覚めた時、私は村の禁忌となっていました。
ワライガニは見た目は恐ろしいのですが、実のところそれほど凶暴な生き物ではないのです。赤ん坊を食べるのも相手が抵抗できないことを知っているからでした。だからたいていの子供はワライガニを持ち帰ってくるのです。逃げ帰る子供もいることはいるのですが、何も持たずに帰れば大人たちに追われ、何度も山へ行かされます。そして結局はワライガニを採って帰ってくるのです。ところが僕は帰ると同時に気を失ってしまった。そしてそのまま半狂乱になった母に連れられ家に帰ってしまった。
元から僕は葬人と呼ばれ嫌われていた。それがこの儀式を逃してしまい、大人になることができなかったんです。母は、母だけは私を庇《かば》いました。でも、庇うやり方が無茶だった。母は村のみんなに説明しました。「この子は今日から男の子ではありません。女として育てます」ってね。
僕は子供でもなく大人でもなく、男でもなく女でもなくなってしまった。誰でもない僕を村の人は無視しました。そんな人物はいないものとして扱ったんです。こうして僕は生きた禁忌となりました。
やがて祖父である族長が死に、叔父《おじ》が族長になりました。それからすぐに母親が死にました。父は僕の生まれる前に死んでいたので、もう僕に関心を持つものは誰もいなくなってしまったのです。それでも村を追い出されたりはしなかったし、殺されることもなかった。もうとっくに僕は「いないもの」だったからですよ。
僕は死ぬつもりでいました。一人じっと死を迎えようと。だがぐずぐずと死を先延ばしにしているうちに、ツイナ祭を迎えることになったのです。
3
ランパカの民は年に一度、草原の冬、牧草が枯れる頃に祭を行います。それがツイナ祭です。邪気を追い払い厳しい冬を事なく過ごすための大事な祭です。
この祭は女だけで行われるのです。祭が近づくと女たちは集会樹《ツオー・シン》と呼ばれる老いた巨木の虚《うろ》に入ります。虚と云っていますが、中に家が一軒すっぽりと収まるほどの巨大な樹木の虚なんですよ。
祭の二週間前から、初潮を迎える前の少女たちが集められ、山腹に穿《うが》たれた洞窟《どうくつ》〈風の館《やかた》〉に閉じ込められます。そして一つしかない入口は泥とヒトニウマの糞《ふん》で固められ、暗闇の中で彼女たちは二週間、特別な食事を摂りながら、彼女らの護法神チュウキョンによって祭の為の踊りを授けられるのです。
祭の当日、護法神がおりた少女たちは〈土踏まぬ姉妹〉となって〈風の館〉から出てきます。身を清め、この日のためにつくられた衣装を身に着けた〈土踏まぬ姉妹〉たちは、それから集会樹の中に招かれるのです。この時すでに彼女たちは護法神と一体となっています。男たちがツイナ祭を見られるのは、〈風の館〉から集会樹に向かう、着飾った少女たちの行進だけです。それ以外は族長であろうと見ることができません。
生きる禁忌であった僕は、この祭を見てやろうと考えていたのです。だって僕は女でも男でもないのですから。
祭の日、僕は集会樹にこっそりと入って待ちました。聞かされてはいたのですが、それでもその広さに圧倒されました。この樹の中に世界が丸ごと入り込んだのではないかと思えるほどでした。いや、実際そこには世界があったのです。集会樹の中には山がありました。川が流れ、海があります。空には雲と、月と星までありました。それらは樹木の繊維を織ってつくった小さな小さな模型でした。しかしそうわかったところで、そこが驚異の場所であることに変わりはありませんでした。
やがて女たちが中に入ってきました。中央にそびえる山の周りを囲んで腰を下ろします。僕は最初こそ隠れていたのですが、すぐに女たちの輪に加わりました。思ったとおり女たちは何も云いませんでした。僕はここでも「いないもの」だったのです。
しばらく待つと、〈風の館〉から出てきた〈土踏まぬ姉妹〉たちが、腰を落とし地を這《は》うような奇妙な歩き方で集会樹の中に入ってきました。僕にはそれがまるで流れる霧のように見えました。すぐに女たちが唱和を始めました。今まで一度も聞いたことがない経文でした。
あしきもの、かだましきおに、いねや
めでたごと、さち、いでて、まみゆ
経文は何度も何度も繰り返されます。次第に僕にもその意味が聞き取れるようになってきました。
邪《あ》しきモノ 姦《かだま》しき鬼 去《い》ねや
目出た事 幸 出《いで》て 見《まみ》ゆ
いつの間にか僕も女たちに声を合わせていました。
〈土踏まぬ姉妹〉たちはその名のとおり、地に脚つけぬ霧となって漂い、中央の山へと近づいていきます。その艶《あで》やかな衣装が乳白色に煙っていました。
緩やかに、優雅に、山の裳裾《もすそ》に絡み付くように〈土踏まぬ姉妹〉はその周囲を踊り、回るのです。三度、四度と回るうちに、少女らは山を少しずつ登り始めました。唱和の声が速まります。それに連れて踊りも速度をあげていくのです。山を半ば登った頃、四肢がそれぞれ雷のように素早く四方に突き出される仕草が加わりました。それは邪しきモノと戦う護法神の姿なのでしょう。少女たちの顔が武神のものとなります。本当に武神そのものとなっているのです。しょう、しょうと唸《うな》りをあげる手や脚に、打たれ、倒れる鬼神の姿までが見えてきました。獲物を襲う蛇のごとき素早さで繰り出される手刀、足刀に纏《まつ》わる豪奢《ごうしや》な衣装は、月の金、水の銀、血の赤、朝の風の青、と艶やかな極彩色の細工物となって乱れ、もつれ、絡み、水面を漂うかのように布々が流れていきます。夢です。夢そのものの美しさと神々しさ。
そこには邪しきモノを追う荒々しい力と、追われるモノへの憐《あわ》れみが同時にありました。子供であった私にもそれは充分に理解できました。宙に楔《くさび》を打つ拳《こぶし》は至高の智《ち》を、空を切る脚は無上の慈悲を、祓《はら》われる邪しきモノへと与えていたのです。そのことが僕には直感的にわかりました。そして泣きました。追われる鬼は僕です。追う護法神もまた僕なのです。これは僕の物語だ。僕が僕を救う物語だ。そう思い、声を上げて泣きました。
やがて荒ぶる神と化した〈土踏まぬ姉妹〉たちは鬼を払い福を招き、山頂へと登りつめて行きます。
そうして夜明け前に祭は終わりました。
僕は女たちとともに集会樹を出たのです。楽園を追われたような気分でした。僕はずっと号泣し続けていました。でね、よせばいいのに僕はその時に決意してしまったのですよ。舞おうって。舞ってみせようって。次の祭には神となり鬼となり、僕は救われるのだと、本気でその時はそう思っていました。だから僕は生き続けたのです。それからもずっと。もちろん僕は生きた禁忌のままでした。誰も話しかけてくることはない。誰も僕を見ることはない。僕は生きながら死んだものでした。しかしね、何かが変わっていました。僕の中で何かが変わったのです。僕は村の中で唯一の知恵者である老賢者の家を訪ね、そこにある書物を読み漁りました。老賢者は村の掟《おきて》に従い僕を無視していました。ですが、知に重きをおかぬ村人たちの中にあって、彼もまた疎外感を味わっていたのかもしれませんね。僕が疑問に思うことを一人口にすると、それに応じてこれもまた独り言のようにその疑問に答えてくれるようになったんです。僕は長い旅を終えて帰還したような気分でした。老賢者の力を借り、知の水を浴び、啜《すす》り、躰《からだ》を存分に浸すと、その広大な知の海原を泳ぎ始めたのです。
賢者との問答は一年の間続きました。
4
翌年のツイナ祭、僕は〈風の館〉の近くに隠れ、待ちました。子供ではないが大人でもない僕は、少女たちとともに〈風の館〉にこっそりと忍び入ることにも成功しました。やはり誰も僕を止めることはなかったのです。天井は少女たちでさえ腰を屈《かが》めなければならないほどに低く、中はとても狭かったのです。中に入ると少女たちは皆横たわりました。僕も同じく横になります。みんなが横になると地面は見えなくなりました。その中央に鹿梨《ろくなし》という鹿の角にそっくりの果実が山積みになっていました。毒があると、子供の頃から食べるのを禁じられていた果実でした。
やがて入口が塗り込められると、自分の手足が何処に行ったかもわからぬほどの真の闇に包まれました。少女たちは一言も喋《しやべ》ろうとはしません。僕は自分だけがここに閉じ込められたような気がし急に恐ろしくなり、一人震えていました。
ですが、怯えはすぐに失せました。やがて闇に浸され、己れの躰が指先からじわりと闇へと染み入っていくような気がし始めると、恐ろしさは全く感じなくなっていました。それから躰が闇に溶けていきました。皮膚が、肉が、腱《けん》が、血管が、臓腑《ぞうふ》が、躰すべてが闇へと溶け去る時には、音もまた溶け、時さえも闇に溶け込んでいったのです。
僕や少女たちの肉体を吸って、闇が密度を増しました。
衣の擦《こす》れる音が聞こえました。少女たちが動き始めたのです。すぐに何かを咀嚼《そしやく》する音が聞こえ始めました。鹿梨を食べているのです。そうに違いありません。少女たちが十四日分の食料を隠し持って入った様子はありませんでしたし、それ以外に洞窟の中に食べるものはないのですから。
僕も手探りで中央へと進みました。鹿梨を手にします。毒だと聞かされていた果実の重みをずっしりと掌《てのひら》で感じました。死を覚悟し、恐る恐る噛《か》むと、とろりとした果肉が口の中に広がりました。果実というより生のカニに似た味がしました。呑《の》み込もうとする前に、果肉は喉《のど》の奥に飛び込んできました。
僕は躰を強張《こわば》らせ、待ちました。
死を。
でも何も起こらない。苦しくもない。もう少し待てば、更に待てば、僕は死ぬのかもしれない。しかし、僕の躰には何の変化もありません。大丈夫だったのです。もしかしたらもう死んでいて何も気がつかないのかもしれません。ですが、死んでいるにしろ、生きているにしろ、ここで食事を止める理由にはなりません。僕は鹿梨を黙々と食べました。
食べ終われば再びの静寂です。
そうして、どうやら一日目が終わったようでした。
少女たちがどのように時間を知るのか僕にはわかりませんでしたが、規則正しく食事を摂り、規則正しく排泄《はいせつ》しました。洞窟《どうくつ》の周囲にぐるりと溝があり、そこで大小便をするのです。洞窟の中をどうやって風が抜けるのか、臭いが残ることはありませんでした。毎日食べる鹿梨のせいかもしれません。日に日に排泄物の臭いそのものが消えていきました。臭いだけではありません。四度目の食事を終えると大便が、六度目の食事を終えると小便さえも出なくなったのです。不安はありませんでした。躰の調子はすこぶる良かったからです。
眠るとも起きるともつかぬ時を過ごし、七度目の食事の後でした。突然光が見えたのです。大豆ほどの光の粒が、晴れた空に輝く星のように現れました。黄味がかった光の粒はゆっくりと、そして加速度的に速さを増して渦を描きます。やがて光の粒は区別できぬほどに重なり、激しく衝突し、中央に集束すると人形《ひとがた》へと変わりました。そうです。それは正しく護法神の姿だったのです。
護法神は闇の口腔《こうこう》を開いて僕に語りかけてきました。
「さあて、これより我の語るを聞け」
聞け、と云ったきり護法は黙ってしまいました。僕はしばらく待ったのですが、とうとう堪え切れず口を開いてしまいました。
「護法よ。語ると云って何故黙る」
「はて、語ると黙るはどう違う」
「語るは口を開き、黙るは口を閉ざす」
「我、口を開けば沈黙を語り、口を閉ざせば智慧《ちえ》が聞こゆ。これに何の差がある。では、問おう。語ると聞くはどう違う」
「語るのが私であるなら聞くのは護法になる」
「では私は聞かぬか」
「私が聞く時は護法が語る時だ」
「聞くも私、語るも私なら、聞くも語るも同じこと」
夜と昼、土と風、男と女、右手と左手、鳥と獣。護法は次から次へと対になった二つのものが同一であると語りました。森羅万象、この世にあるすべてのものが俎上《そじよう》に載せられたのです。その一つ一つに僕は得心していきました。そしてとうとう、ありとあらゆるモノゴトが一つのものであることを知ったその時です。僕は護法となり護法は僕となりました。
と、突然真昼の陽光が洞窟の中に射してきました。
〈風の館《やかた》〉に籠《こも》り十四日が経ったのだ。
僕はそのことを知りました。
僕は〈土踏まぬ姉妹〉と化した少女たちとともに久方ぶりの陽の光を浴びました。
護法神となった僕は〈土踏まぬ姉妹〉たちとともに集会樹へと向かいました。集会樹からは女たちの唱和が聞こえてきます。
あしきもの、かだましきおに、いねや
めでたごと、さち、いでて、まみゆ
僕は霧と化し、地に脚を触れることなく進むことができました。あの時に見た〈土踏まぬ姉妹〉に、自分がなっているのです。山の周囲に渦巻く邪《あ》しきものたちの姿が見えました。僕は荒ぶる護法神であり、同時に怯《おび》える邪しきものでもありました。この世の主人であり奴隷だったのです。力持つものであり、力を振るわれるものだったのです。支配するものであり支配されるものだったのです。傷つけることで傷つき、傷つけられることで癒《いや》されていきます。
僕は舞いました。舞い、己れである護法神として、己れである鬼神と戦いました。鬼神は打たれ、その痛みを慈悲と感じ祓われます。護法神は鬼神を打ち、その痛みを我がものとして憐《あわ》れむのです。
食も眠りも忘れ、肉の重みは消え去っていました。時も己れの居場所も消え去り、天もなく地もなく、護法神である己れと鬼神である己れとの果てのない戦いだけが世界の中に残りました。それはすべてのケガレが祓われ、完全な癒しが終えるまで続くはずでした。護法神であり鬼神でもある僕はそれを知っていました。
虚《うろ》の中には偽りの空が描かれています。その、ありもしない空から一羽の孔雀《くじやく》が現れました。翼を広げると僕の二倍以上もある大きな大きな孔雀でした。孔雀は縄を咥《くわ》えていました。巨大な孔雀は、これもまた偽りの山の頂上をかすめて飛んできました。まっすぐ僕のいる方へと向かって。咥えた縄の端が踊り続ける僕の首に絡まりました。
周りの者が止める間もありません。いや、もしも止める間があったとしても止めたかどうかは疑問です。とにかく孔雀は僕を吊るし、ありもしない空の彼方《かなた》に飛びさっていったのです。吊るされた時には首の骨が折れていました。その時に僕は死んだのです。そして……気がついた時にはここにいました。それから長い月日が経った……ような気がします。
クビツリの話はようやく終わった。
「長いだけの糞《くそ》みたいな話だ」
ミロクは唇を曲げて云った。
「確かに糞みたいな話かもしれませんね」
骨が折れているせいか、クビツリは歩みにあわせて、頭をカタンカタンと前後左右に振った。
「どうして孔雀が……」
私が尋ねた。
「さあ、僕にはわかりません。護法神が思ったからでしょう。いくら生きた禁忌になったからといって村の掟《おきて》を破るにもほどがあると」
「それで、あなたはオズノ王に会ってどうするつもりなんですか」
「オズノ王に会うつもりではないのです。……確かこの森は風輪の森でしたよね……道行く人がそのようなことを話していたのを聞いたのですが」
クビツリは恥ずかしそうにミロクに尋ねた。ミロクは黙って頷《うなず》いた。
「死んでこの方、この森から外に出たことがないんです」
クビツリは言い訳するようにそう云った。彼に頬があれば赤く染まっていただろう。だが彼の頬は腐って落ち、歯が剥《む》き出しになっている。
私にはクビツリが何を照れているのかよくわかった。彼は自分が誰で、ここが何処かわからないのが恥ずかしいのだ。そう、それはとても恥ずかしいことなのだ。
「ここから日の沈む方に向かえば僕の村、ランパカに着きます。で、ランパカに行ってもう一度ツイナ祭で舞いたいのです。そうすれば僕は死ねるんじゃないかと」
「死んでるじゃないか」
ふくれたようにミロクが云った。
「きちんと死んで死者の国に行きたいのです。こうして死者の国へ行くこともできないのは、きっと踊りを途中で止めたからだと思うのです。最後まで踊りたいという欲望が強すぎて死にきれないんだと。だから、もう一度村に行き、踊りさえすれば……」
「また孔雀にここまで運ばれるのがオチだな」
「それでも、もう一度……」
クビツリの声が小さくなって消えた。
「ミロクさん。どうしてそんな憎まれ口ばかり云うんですか」
私が声を荒らげると、ミロクは拗《す》ねて脚を速めた。
「ごめんなさいね、クビツリさん。悪気はないと思うの。でもあの人は、ミロクさんはあんな人だから」
「あんな人で悪かったな」
ミロクはますます足早に歩いた。
夜が明けようとしていた。
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real-4
水のにおいがする。
湿気《しけ》た埃《ほこり》と黴《かび》の臭い。惨めな場所だ。うち捨てられうらぶれた、みすぼらしい土地。
痩《や》せた背の高い男だった。顔色が悪い。青黒いその顔にあるのは疲労。生気の失《う》せた疲弊の薄皮を頭からすっぽりと被《かぶ》ってでもいるようだ。
割れた窓から夕日が見える。赤いセロファンを通して見るような真っ赤な部屋。ほんの数カ月前までここは病院として機能していた。が、そんなことが信じられないほどの廃墟《はいきよ》と化している。多発する医療ミスで告発されたあげく、経営者でもある病院長の放慢な経営が暴露され、虐待同然の入院患者への処置が派手にマスコミに紹介されたのはそれほど昔のことではない。
男の足下に一枚のパンフレットが落ちていた。白衣の看護婦が車椅子を押して、広々したフロアを散策している。最後のリゾート。老人専門のこの病院につけられたキャッチフレーズだ。テレビでも何度か紹介されたことがあった。泥にまみれ床にへばりついたパンフレットはどこか猥褻《わいせつ》に見えた。
そこはおそらく看護婦の詰め所か何かだったのだろう。スチールのテーブルにはファイル類が散乱していた。壁には赤くスプレーで「FACK YOU」と書かれてある。スペルミスを訂正してやろうかと一瞬考え、男は苦笑いを浮かべた。彼は中学の美術教師だった。若い頃は幾つもの美術賞を受賞し、郷里では神童と呼ばれたこともあった。しかし美大に在学中に恋人が妊娠した。真面目な男だった。結婚し、収入が不安定な職よりも、と教員への道を選んだ。教師になって十年。ベテランと言ってもいいだろう。今までがそうであったように、これからもそうであろう。彼がそう考えるだけのいつもと変わりない毎日が繰り返された。
一年ほど前からだ。きっかけが何であったのか、彼にはわからない。突然生徒たちが彼の言うことを聞かなくなった。今までも素行の悪い生徒が彼に従わなかったことはあった。だがそれは今まであったそんなこととは決定的に異なっていた。どの生徒も、彼の言うことに耳を貸そうとはしなくなった。授業中の雑談はもちろん、生徒の半数が教室を抜け出した。注意しても帰ってくるのは冷笑ばかり。体罰は禁止されていたが、さすがに思いあまって一人の男子生徒の胸倉を掴《つか》んだ。すると数人の男子生徒に囲まれた。男は生徒から手を離した。恐ろしかったのだ。生徒たちの目は人を見る目ではなかった。路傍の看板を眺める目で男を見ていた。もしそれが邪魔なら、躊躇《ためら》うことなくへし折るであろう目だった。その時から完全に授業が成立しなくなった。
教室が荒れている、とあちこちで報道される直前のことだった。一度|怯《おび》えた、そのことが彼を苦しめた。登校しようとすると頭痛や吐き気がするようになった。これじゃあ、登校拒否の生徒と変わらないなあ、などと自嘲《じちよう》する日々が続いた。そしてとうとう、朝起きると身体が動かなくなっていることに気がついた。痺《しび》れたように四肢が脱力している。救急車で病院に運ばれていく、その途中で脱力感は失せた。これで学校に行かなくてすむと考えた途端だった。
休みをとり心療内科に通う日が続いた。貯金は徐々に減っていき、妻はそれまでの翻訳のアルバイトを辞め、懇意にしていた出版社に嘱託社員として勤めることになった。
少しずつ少しずつ、男は追い込まれていった。その奥底に、己れの怯懦《きようだ》への、焼き付くような羞恥《しゆうち》があった。
男として何とかすべきではないか。
毎夜のように悪夢が彼を脅かした。男子生徒たちに犯される夢だった。校舎を逃げ回り、体育館の中でとうとう捕らえられ床に押しつけられ犯される夢。
その日彼はいつものように心療内科へと出掛けていた。その道の途中に、廃屋となったこの病院があった。いつも男はその病院を眺めながら歩いていた。廃墟の持つ死んでなお死にきれぬ惨めさのようなものが、男を魅了していた。僕みたいだ。廃屋を見ながら彼はそう思っていた。
そして今日、死んで腐ったネズミに地を這《は》う虫が惹《ひ》きつけられるように、男はとうとう廃屋の中に入り込んだのだった。
すべてが一つのシナリオに初めから描かれているかのような気がした。部屋の隅にロープが置かれてある。埃にまみれたそれは、白蛇のようにとぐろを巻いていた。待たせたねと声を掛けたい気分だった。
手にすると意外なほどずっしりと重かった。上を見る。天井板が破れて梁《はり》が剥き出しになっていた。鉛色のテーブルを部屋の中央にまで引きずってくる。埃がゆるりと舞い上がった。夕焼けに埃がきらきらと輝き、異なる星の情景のように見える。
ぽん、とテーブルに跳び乗った。
部屋に散った埃に大きなくしゃみをする。二度三度くしゃみをし、鼻水を袖《そで》で拭《ぬぐ》ってから、梁にロープを掛けた。
二重に巻き付け、垂らしたロープで輪を作る。
そこに首をつっこんでみた。
それだけで見える世界が変化したような気がする。不意に死がリアルなものとして感じられた。一度だけ交通事故を見たことがある。まだ大学に通っていた頃だ。大学の近くで民家が取り壊されていた。廃材を積んだトラックが停まっていた。その後ろで子供が遊んでいた。男は道路を挟んで向かい側にあるパン屋で菓子パンを買っていた。レジで精算しながら、ガラス張りのドアの向こうをぼんやりと眺めていた。子供たちが座り込んで遊んでいる。バックします、と録音された女の声が聞こえた。危ない、と思った途端、トラックが後ろに下がった。砂遊びをしている幼女は、大きなタイヤの真後ろにいた。少女が倒れた。子供たちが悲鳴を上げる。まだ運転手は気づかない。男は凍ったようにじっとそれを眺めていた。腰から力が抜けそうだった。トラックがようやく停まる。子供たちが必死になって車体を叩《たた》いていた。悲痛な声を上げながら、何度も何度も叩いていた。運転手が降りてきた。ようやく声が出た。救急車。男はかすれた声で言った。それから叫んだ。早く、電話、救急車。外に飛び出た。若い運転手がその場に座り込んで頭を抱えていた。黒く太いタイヤが幼女の下腹部を挟んでいた。黒い奇怪な生き物が幼女を喰《く》っているようだった。腹から胸にかけて、幼女の腹が見る見る膨れていく。口から血を吐くその顔が見えた。死者の顔だ。死そのものがそこに転がっていた。何よりもそれは醜く恐ろしかった。気がつけばその場で嘔吐《おうと》していた。
あれが死だ。
輪をくぐった景色が赤い。
縄を絞め輪を縮めた。
それから、このままテーブルの上に乗っていてはどうしようもないことに気づいた。足で蹴《け》り倒せるような何かに乗らなければ。
男は苦笑した。
あの本物の死へと至るには、まだ距離があるような気がした。単純にそれは死への怯えかもしれないが、怯える己れは、やはりあのリアルな死とは離れたところにいるのだと思った。
大きく息をつく。
僕の死は逃れはしない。
そのままにしていても、ゆっくり僕に近づいてくるのだから。
縄を外そうと首に手を掛けた。
その時だった。
音がした。
人の声だ。
悲鳴のように聞こえた。
遠くから聞こえるそれが、またガラス越しのあの情景を思い出させた。
あの時の悲鳴は誰の悲鳴だったのだろう。幼女のものか、友達のものか、見ていた誰かの、例えば母親の悲鳴だろうか。
ぼんやりと考えている男の視界に、いきなりそれが現れた。
女だ。中年の女だった。女は部屋に飛び込んでくると、大声を上げた。まるで狂った鳥のような声だった。さっきの悲鳴の正体がこれだった。
女が突進してきた。男が乗っているテーブルに向かって。
がつっ、と女はテーブルにぶつかってきた。
ぐらりと揺れて男は倒れそうになった。
「危ないじゃないか」
どこかのんびりした声で男は言った。
女は両手でテーブルの端を掴《つか》む。
危ないどころではなかった。女は一気にテーブルを押した。大口を開いたその顔が見えた。泣いているようにも笑っているようにも見えるその顔がみるみる近づく。テーブルが端に寄せられていくのだ。男の脚がもつれて倒れた。輪を握りしめた。縄がぴんと張る。死ぬつもりだったことなど忘れていた。縄で身体を支えながら必死でバランスを保とうと脚を動かす。が、とうとう足がテーブルから離れた。首でぶら下がった男の身体が前後に揺れる。脚が、見えない車輪をこぐようにばたつく。
頭の中が熱く白い。不思議とあまり苦しくなかった。死んだ幼女の顔が一瞬脳裏をかすめ、意識が途絶えた。
女の悲鳴がやんだ。
二度三度|痙攣《けいれん》してからだらりと垂れる男の脚。
両腕が力なく両脇に下がる。
縄が梁にこすれてぎしぎしと鳴った。
ズボンの裾《すそ》から小便が流れる。
女は床に座り込んでいた。そこに小便が溜《た》まっていく。女は驟雨《しゆうう》のようにそれを浴びながら男を見上げていた。
これ以上もなく優しく微笑みながら。
電話が鳴っていた。あれ以来電話の音に神経質になった。電話のベルが最も聞きたくない音だった。
それでも電話は鳴っている。鳴り続けている。
大和田は聞こえぬ顔でテレビを見ていた。
台所にも子機がある。それを妻が取るだろう。妻が取るはずだ。取れ。取れ。
思いながら大和田はテレビを眺めている。
電話は鳴りやまない。
「電話だぞ」
言ってみる。それでも鳴りやまなかった。気がついていないはずがない。腹立たしかった。どうして俺が取らなければならないんだ。もう一度言う。怒鳴る。
「電話だ!」
しばらく待った。が、鳴りやまない。
大和田は溜息《ためいき》をついて座椅子から腰を上げ、部屋の隅まで這っていく。
受話器を取った。
『こんにちは』
柳瀬だった。
「ああ」
不機嫌さをごまかすことなく大和田は言った。
『今からちょっと出てこられませんかね』
「今日は集会はないはずでしょ」
『〈小さな柱〉とは別件です』
「別件……何の用事ですか」
『ちょっとお話が。どうですか。今から出てこられますか』
用事があるというわけではない。出ていけないわけなど何もない。
それでも大和田は黙ったままだ。
『すぐ近くまで来ているんですよ』
柳瀬は家から五分ほどのところにある喫茶店の名前を言った。
「わかりました。じゃあ、今から行きます」
電話を切った。奥に向かって出掛けるぞと声を掛け、サンダルをつっかけて喫茶店に向かった。朝と昼に常連で賑《にぎ》わう小さな喫茶店だ。がらんがらんとカウベルを鳴らせて、大和田は中に入った。
四人掛けのテーブルを陣取った柳瀬が手を挙げた。小さく頭を下げ、大和田はその前に腰を下ろす。
「で、どのような用事ですか」
言うと同時に、水を持ったウエイトレスが近づいてくる。それを見ることなく「コーヒー」と吐き捨てるように言った。胸ポケットからハイライトを取り出し火を点《つ》けると、慌ただしく紫煙を吐く。
「警察の対応はどうですか」
柳瀬は大和田のそんな態度などまったく気にもせず、尋ねた。
「対応、どういうことですか」
「犯人の目星はついたんでしょうか」
「わからないね。さっぱりわからない」
鼻や口から煙を細切れに吹き出しながら言った。
「あんたが言ったとおりだよ。警察はこっちの知りたいことは何も教えてくれない。任せておけと言われたよ」
「捜査がどこまで進んでいるのかもわからない」
「ああ、わからない、わからない。なんにもわからない」
ふざけたような口調で大和田は言う。
すぐにコーヒーが運ばれてきた。テーブルに置く前にカップをさらい、音を立てて一口飲んだ。
「実際腹立たしいことばかりだよ」
「腹を立てている方が健康的ですよ。みんなも言っていたでしょ。被害者の遺族は涙を流し悲しんでいなければならない。そんな思い込みが家族を追い詰めていくんですよ。もっと怒りを表すべきだ。見苦しいなどと言う奴がおかしいんだ。まったく世間というものは勝手なものですよ」
大和田は深く頷《うなず》いた。
「警察だってそうですよ。捜査に協力は求めるが、その後はほったらかしだ。あげくに不起訴だと言われたんじゃやってられない」
「でしょうね」
「だから、今の内だと思うんですよ」
「今の内? 何が」
「警察に任せていていいんでしょうか」
「どういうことですか」
灰皿に煙草を押しつけて消した。コーヒーをまた口にする。
「私たちなりにすることはないか、ということです」
「どうもわからんな」
「我々もそれなりに犯人を探すことはできないかということなんですがね」
「そんなことは」思わず冷笑が浮かんだ。「できっこない」
「そうでしょうか。個人にもできることはいろいろとあるものです。それにもし、警察よりも先に犯人の所在をつかめたら」
柳瀬はぐっと顔を大和田に近づけた。
囁《ささや》く。
「犯人に我々の思いを伝えることもできる」
「それは」
柳瀬が人差し指を立てて、しっ、と囁いた。声を落とし、大和田も顔を前につきだして言う。
「私が犯人に」
柳瀬が言葉を継いだ。
「処罰を加えることだってできる。満足できるやり方で」
「本気ですか」
「本気ですよ」
低く響くその声に、嘘はないように聞こえた。
ぎしぎしと聞こえるその音が闇を支配していた。
月明りに見えるそれを、ライオンは初め巨大な蜘蛛《くも》だと思った。どうしてそんなことを思ったのか、それが何か知った今ではわからない。
死体だ。首吊り死体。
蜘蛛のはずがない。
その下に跪《ひざまず》いて何事か呟《つぶや》いている女。
「何があったのよ」
女にそう問いかけるまでにずいぶんと時間がかかった。
女は答えない。
持てるだけの荷物を持って、ライオンたちは河原の小屋を出た。小屋の中の血はできるだけ水で洗い流したが、よく見ればまだまだ血痕《けつこん》は残っているだろうし、生臭さはいつまでも取れなかった。川に流した死体がいつ見つかるかはわからないが、その時ライオンが容疑者として挙げられるのは間違いない。それまでにもできるだけ遠くに逃げよう。小屋を出た当初はそう思い休憩もしないで歩き続けていたが、それも一夜明けるまでのことだ。翌日からはたびたび休憩しながら移動した。急ぐ旅じゃないしな。ライオンはいつしかそう思っていた。目星をつけていた潰《つぶ》れた病院を見つけると、ライオンはそこで女に待つように言った。近くで何か食べ物を手に入れるつもりだった。この辺りは、まだかつてのライオンの生活区域からそれほど離れていない。おおよその土地勘はある。で、捨てられた弁当を拾って戻ってきた。思ったよりも時間が掛かった。帰ったらいなくなっているかもしれない。それぐらいのことを考えはしたが、まさかまた死体を発見しようとは。
「なあ」
と肩に手を掛けると、女が振り返った。
「助けてあげましょう」
何を言っているのかわからなかった。
だからそのまま尋ねた。
「何を言ってるんだよ」
「助けてあげましょう。ねっ」
立ち上がり、女はライオンにしがみついてきた。女の方が背が高い。覆い被《かぶ》さるようにライオンの身体を包み込む。濃く尿の臭いがした。しかしそれよりも、ライオンは暖かく柔らかな女の身体を感じていた。ふほっ、と息が漏れる。じわじわと股間《こかん》で膨張する感触が心地よい。おずおずと腕に力を込めてみる。ライオンは女を抱きしめたつもりだったが、しがみついているようにしか見えないだろう。
「ねえねえ、助けてあげましょう」
「うん、そうだな。うん、そうだ」
適当に相づちを打っている。抱き合い布越しに触れ合う部分がどんどん暖かくなっていく。その温《ぬく》もりがまた心地よい。ライオンの頬の下で潰れた乳房の柔らかさが心地よい。ああ、気持ちいいと思う間に股間の逸物が膨らんでいく。重さを増していく。堅くなっていく。だからどうするというわけではない。ただそのことそのものが気持ちいいのだ。ライオンは犬のように腰を動かし始めた。膨らんだそれをズボン越しに女の脚に押さえ擦《こす》る。
「さあ」
言いながら女はライオンから離れた。
「ああ」
彼は切ない溜息《ためいき》を漏らした。
鼻息が荒い。
「さあ」
女が促す。
「えっ、なにが」
「降ろすの」
女が部屋の隅にあったテーブルを引っ張ろうとした。ライオンもそれに手を貸す。がりがりと音を立て重いテーブルを死んだ男の下にまで運ぶと、女が言った。
「降ろして」
折り畳みのナイフをライオンに渡す。彼は何度もそれを捨てるように言ったのだが、女は決して手放そうとはしなかった。
ライオンはナイフを手にテーブルに上る。
ぴんと張ったロープは、刃先を数回往復しただけでぷつりと切れた。男がテーブルの上に横たわる。
「連れて行きましょう」
ライオンは驚き、女の顔を見る。真顔だ。ふざけているわけではなさそうだった。
「あのな、それは無理だぞ。いくらなんでも、それは無理だ。わかるだろう、なっ」
女は首を傾げた。
「いや、だからな、無理だよ」
ライオンは同じ台詞《せりふ》を繰り返すだけだ。
「どうして? 友達なのに」
「友達とか、そういう問題じゃないんだよ」
「ねっ、一緒に行きましょう」
「だからな、駄目だ」
「駄目」
「絶対に駄目だ」
ライオンは女を睨《にら》み付け、精一杯の厳しい声で言った。
「それならね、こうしましょ」
女はナイフを奪い取ると、それで死体の首を切り取ろうとした。
「何するか」
ライオンが止める。それでも刃は首に大きく食い込んでいた。だらりとだらしなく血が流れた。
「そんなことしてどうなるよ」
「持っていくのよ。頭だけなら大丈夫でしょ?」
「駄目駄目」
ライオンは激しく首を左右に振った。
「駄目?」
「駄目」
めっ、と女を睨む。
「それなら」
再び女がナイフを振るった。
止めるまもなく、鋭い刃が死んだ男の右手首に食い込んだ。
「何するつもりだよ」
ライオンの問いには答えず、女は手首を、とん、と切り落とした。魚の頭を落とすようなものだった。
「これならいいでしょ?」
女は手首を掴《つか》んで言った。
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第四章 ランパカの村
1
朝だ。凍える夜、闇に異形が潜む夜が終わった。ほんの一瞬、陽射しが柔らかく、冷たい風が心地よい時があった。私はそれだけで神に感謝したくなった。樹々の間から射す陽射しにこれほど感激するとは。
昨日の昼から歩き続けている。疲れていないとは云えない。脚も痛む。それでも無事に朝を迎えたことが嬉《うれ》しかった。追っ手をまいたのかどうかはわからないが、少なくとも今のところ、後ろからあの不吉な赤子の泣き声が聞こえてこない。
とはいえ感謝の気持ちもあまり長くは保《も》たなかった。清々《すがすが》しい朝はほんの一刻のことだった。その間、きっと太陽は寝惚《ねほう》けていたのだろう。じきに森は湿気と温度を上昇させ、眩暈《めまい》を起こす蒸し暑さが躰にまとわりつくようになるだろう。
「もうすぐ森を抜ける」
ミロクが自分に云い聞かせるように呟《つぶや》いた。
「もう誰も追ってこないでしょうか」
私の問いに答える者はいない。温気《うんき》が束の間忘れていた疲労感を再び思い出させた。そうなると泡が弾《はじ》けるように眠気までが襲ってくる。
「あの、誰に追われているんですか」
クビツリがふらふら歩きながら尋ねた。膝《ひざ》がぐにゃぐにゃなのは疲労のためではない。樹から降ろされてからずっとこうなのだ。
「このお嬢さんが馬頭《めず》を殺したんだ」
「馬頭……ですか」
「非天《アスラ》の子分だよ。ナガラハーラの町は馬頭のものだった。いくらあんたが長い間死んでたっていっても、非天は知ってるだろが」
クビツリは頷《うなず》いた。
「それじゃあ、非天に追われているんですね」
「今のところは馬頭の手下がわしらを探しているだろうが、いずれ非天の耳にも入るだろうな」
「それは、大変だ」
さほど大変でもなさそうにクビツリは云う。私にもそれがどれだけ大変なことなのかがわかっていないから、心情的にはクビツリと同じだ。
「そんなに大変なことなんでしょうか」
私はミロクに尋ねた。
ミロクが脚を止めた。脚を止めて振り返る。
私を睨み付けた。
何となく目を逸《そ》らす。
「大変なんだよ。すげぇ、大変なんだよ。あんたも馬頭に大変な目に遭っただろ」「殺されそうになりました」
「非天がのりだしたら、死ぬより辛い目に遭うぞ」ミロクはついでのようにクビツリを見た。「おまえも死にたくなかったらここでわしらと別れた方がいいぞ」
「僕は死んでますから」
ふん、と鼻息を荒くして、ミロクは再び歩きだした。
昼までに森を抜けた。
とたんに太陽が私たちを見つけ出す。陽光が機嫌の悪い蚤《のみ》のようにあちこちをとびまわり、肌を射した。
森を背に立ち止まった。
眼の前に広がるのは赤茶けた大地だ。干上がった沼の底のようにひび割れている。貧弱な草が陽光に背を向け、うずくまっていた。あまり楽しそうな情景ではなかった。
「そろそろ休憩だな。じゃなきゃ、馬頭の手下に捕まる前に疲れて干涸《ひから》びて死んじまうぞ」ミロクはクビツリを睨んでつけ加えた。「おまえは死んでるからいいがな」
「ここからランパカまではすぐです。ランパカに行けば休むところも食べ物もあります」
「おまえと一緒に行ったら追い出されるんじゃないのか」
「僕は無視されるだけです。皆さんは僕とは別に村に入ったらいい」
「そうしましょうよ、ミロクさん」
「仕方ないな」
不承不承ミロクは頷いた。それ以外に方法がないのだから仕方がない。もう丸一日、食事も摂らず歩き続けている。限界だった。ミロクにしたところで、この辺りの地理に詳しいわけではない。
「案内しますよ」
クビツリは先頭に立って歩き始めた。クビツリだけは暑さとも疲れとも飢えとも縁がなかった。何しろ死んでいるのだから。
気の重くなる荒れ地が延々と続く。どれだけ蒸し暑かろうと、恐ろしそうな獣がいようと、森の緑が人の心を和ませていたということがわかった。
「伸江はオズノ王の密偵だとでも思われたのか」
ミロクは額を拭《ぬぐ》いながら云った。
「えっ?」
私はミロクの云っていることが一瞬わからなかった。ミロクは馬鹿にしたようにゆっくりと台詞《せりふ》を繰り返す。
「伸江は、オズノ王の、密偵だと」
「ああ、馬頭……がそう思ったか、ということですか」
馬頭と呼び捨てにするのに何となく抵抗があった。呼び捨てにすべき人物だと考えなければ、さん、と付け加えそうだった。
「馬頭は私が北の聖《ひじり》の仲間だと思ったみたいでした」
「仲間なのか」
「いいえ。私の義理のお母さんが喜多野小枝子といって、それを勘違いしたみたいで」
「北の聖ね」
ミロクは顎《あご》の髭《ひげ》をしごきながら考えていた。そうしているといかにも狡猾《こうかつ》そうな顔に見えた。
「いいね、伸江。それ、いいね」
ミロクは私の顔を見上げた。
「ランパカで休憩したら北に行こう。なっ、これ、いいだろ」
「はあ」
私は曖昧《あいまい》に頷いた。ミロクが何を考えているのかがわからなかった。
「うん。いいわ、これ。北の聖に馬頭を殺したって云えば、きっと力、貸してくれるぞ。オズノ王よりもそれは確かだ。それに、もしかしたら、ひょっとして、伸江と何か関係があるかもしれんからな。うん。そうしよう。わし、頭いいだろ」
「ええ」
わけはわからないままだったけれど、私は頷いた。
「あそこです。見えてきました」
黙々と歩き続けていたクビツリが前を指差した。
私には何も見えなかった。手を額にかざしミロクも遠くを見つめているのだが、やはり見えないようだ。
「おまえ、眼も腐ってるんじゃないのか」
「僕たちランパカは長年この荒れ野で暮らしています。眼がよくなければ生きられません」
「おまえみたいな出来損ないでもか」
「そんないい方はよくないわ。この人だって……」
「こいつが自分でそう云ってたじゃないか。駄目な人間だったって。伸江、何でこいつの味方ばかりするんだ」
ミロクが唇を尖《とが》らせた。皺《しわ》だらけの尖った唇はフジツボに似ていた。
「ほら、あそこの茂みなら見えるでしょう」
クビツリの声に、私は指さす方を見た。村は見えなかったが、緑が見えた。少なくともそこには草が生えていた。
「後から来てください」
そう云い残してクビツリは嬉《うれ》しそうに緑のある方角へ駆けて行った。躰《からだ》が左右に大きく揺れ、それに合わせて折れた首が壊れたメトロノームのように振り回された。
「首落とすなよ!」
ミロクが叫んだ。
2
クビツリの姿が消え、少し待ってから私はミロクと一緒に後を追った。草がぽつぽつと見え始めた。それだけのことに私は安堵《あんど》した。緑の量は進むにつれて増え、いつの間にか二人は広大な草原の中を歩いていた。
更に歩き続けると、村らしきものが見えてきた。村ではない。村らしきものだ。
そこにあるのは村の残骸《ざんがい》だった。
建物のほとんどが焼け落ち、残ったものも壁を壊され、屋根を崩され、まともな家は一つとして残っていなかった。激しい陽が倒壊した家々を白く、奇妙な獣の骨のように見せている。
それを見ていると死者の国にでも迷い込んだかのようで、思わず私は「誰かいるの」と叫んでいた。
当然のように返事はない。
誰もいない。人の気配というものがないのだ。
そして啜《すす》り泣く声が聞こえた。
屋根が落ち、半壊した家の中からそれは聞こえた。壊れた扉を引き剥《は》がし、ミロクと伸江は中に入った。
落ちた屋根が遺跡のように部屋の中央にうずたかく積もっていた。その横にクビツリがいた。クビツリはうずくまり、頭を膝《ひざ》の間に突っ込んで身をよじるようにして泣いていた。その足元に乾いた人の腕があった。腕だけが千切れ、ミイラ状になって転がっていた。
「どうした」
いつもどおりの、気遣いとは縁遠い調子でミロクが尋ねた。
クビツリはのろのろと頭を上げ、「村が消えた」と呟《つぶや》くと、再び泣きじゃくり始めた。
「誰もいないの?」
私が尋ねると、クビツリはまた顔を上げた。半ば腐った眼球から涎《よだれ》のように粘液が滴り落ちている。
「いないんですよ、誰も。集会樹《ツオー・シン》も焼き払われていました」
「あれは? あの何とかいう洞窟《どうくつ》は」
クビツリは顔を上げると泣き止み、涙を拭《ぬぐ》って云った。
「風の館《やかた》」
膝の関節をぽきぽき鳴らせて立ち上がる。
「風の館だ」
もう一度繰り返すと、いきなり外に走り出た。私はミロクとしばらく顔を見合わせ、それから後に続いた。
クビツリは疲れを知らない。村を離れひたすら走り続ける。私たちは途中でついていけなくなった。クビツリとの差がどんどん開いていく。
道は徐々に坂になり、やがて大きな山の麓《ふもと》に出た。その頃には私たちは完全に取り残されていた。
「風輪の際まで来た。何処に行くつもりだ、あの阿呆《あほう》が」
岩場に出た。足場は悪くなり、私たちは四つん這《ば》いになって坂を登った。諦《あきら》めかけた頃、唐突に洞窟が見えた。
「あれだ!」
私たちは声を合わせた。
中に入る。入口は腰を屈《かが》めなければならないほど狭かった。
真っ暗だ。
しばらくすると、眼が慣れてきた。入口からの明りでうっすらと見えるようになってくる。クビツリの話どおりに中は広い。
だが人の気配はここにもなかった。私は放課後の体育館を想像した。
クビツリは中央に立ち、天井を見上げている。それから突然、踊るようにくるりと回り二人を見た。
「ここでね」クビツリは話し始めた。怖いほど明るい声だった。「僕は〈土踏まぬ姉妹〉になったんですよ。ここでね。でもね、もう駄目なんです。ここには誰もいない。村がなくなってしまいましたから。二度とツイナ祭が開かれることはないんです。だから、僕はいつまでも、この世が終わるまでずっと死体のままだ。この世が終わってもこのままかもしれない。ね、そうでしょ」
「ねえ」
私はクビツリに近づき、その肩に手を掛けた。
「一緒にオズノ王のところに行きましょう。オズノ王なら何とかしてくれるわ」
間髪をいれずミロクが云った。
「何でこんな奴まで連れて行かなきゃならんのだね」
「だって……可哀想でしょ」
「可哀想じゃないよ」
「でも……」
私は下を向き、自分のサンダルを見た。自分の足の爪先を見た。そこは私の視線の定位置だ。いつもそこを見て黙ってきた。今までずっとだ。
云うべきよ。
私は思う。
彼のためにも私のためにも、云うべきよ。
今まで爪先を眺め続けて後悔してきた千のモノゴトが頭の中に噴き出し、溢《あふ》れた。
そこにもう一つコレクションを加えるべきなのだろうか。
私は唇を硬く閉じ、二、三度深呼吸をした。それから息を一杯に吸った。腹の底に力を入れる。
そして、云った。
「私が連れていくわ! そうよ。私が連れていくの。だいたい私がオズノ王を知っているんじゃない。私が行かなければミロクだって会うことができないのよ。私が連れていくと云ったら連れていくの」そこでもう一度息を吸った。そして、
「わかったわね!」
ミロクを睨《にら》みつけた。
ミロクは口を鯉のように開いて私を見ていた。
「本当に……あの、いいんですか」
クビツリが不安そうに聞いた。
「いいわよ。私が連れていくと云ったら連れていくの。そうでしょ、ミロク」
頷《うなず》きながら、ミロクはいつの間にか呼び捨てにされていることに気がついた。
3
日が暮れる前に、私たちは手分けして何か役にたちそうなものを廃屋の中から集めた。散乱した死体が半ば白骨化していることからも、この村が滅びたのが随分と前だということがわかる。食べ物が残っているとは思いにくかったが、それでも幾つかの食料を見つけ出した時は、本当に嬉《うれ》しかった。
ヒトニウマの干し肉と乳を加工してつくったチーズのようなもの(凄《すさ》まじい悪臭がするがこれは初めからで、腐っているわけではない、と捨てようとするミロクをクビツリはとめた)。やはりヒトニウマの乳でつくった酒。乾燥させて塩に漬けた果実が何種類か。
見つけ出したものを、屋根のある比較的ましな家に運び込んだ。持ってきたものの品評会をしていると、クビツリが興奮してやってきた。
「来てください」
「馬頭の手下か」
ミロクが腰を浮かせた。
「違います。ちょっと見せたいものがあるんです」
「なんだい。驚かすんじゃないよ。ちょっと見せたいもんなんか見たくないから、わし、ここにいるよ」
「行きましょうよ」
私が腕を取ると、文句を云いながらもミロクはしぶしぶ立ち上がった。
クビツリに連れられて私たちは村の外れに来た。そこに池があった。小さな池だ。四人で囲む食卓ほどの大きさしかない。青く濁った水の中に黒い魚の影が見えた。
「あれを見てください」
「あれって?」
クビツリは池の端を指差した。
「死にかけの魚がいるだけだろ。こんなもの見ても面白くないぞ」
クビツリの指差す辺り、二匹の魚が腹を見せて水面近くを泳いでいる。小さな魚だった。背は目立たぬ灰色をしているが腹は真っ赤だ。
二匹の魚は規則的に池の端を泳いでいる。一匹は円を描くように、もう一匹はその円に重なって微妙に躰《からだ》を震わせながら三角を描いている。
飽きることなく二匹は同じ動きを繰り返していた。
「あれはモジウオです」
「モジウオ?」
私はミロクと同時に聞き返した。
「この池は書物のようなものです。ランパカの族長だけが書き込むことのできる書物。村の歴史です」
「あの、それはどういう意味かしら」
「モジウオの泳ぎ方は文字を意味しているのです。あれはこういう意味を持って泳いでいるんです。『訪れるものあれば聞け』」
「何を聞けっていうんだい」
ミロクが云うと、クビツリは水の中に親指と人差し指を入れ、ページを開くように水をつまんだ。すると、端の二匹が水中に沈み、二十匹あまりのモジウオが腹を上に水面に上がってきた。それらは一斉に泳ぎ出した。まるで踊っているようだ。ハリウッド製の古いミュージカルのように泳ぎながら、魚たちの腹の色は赤から橙《だいだい》、黄色から青へと次々に色を変えた。
「きれいね」
私は胸の前で小さく拍手した。
「族長は叔父《おじ》の息子、僕の従弟《いとこ》がやっていたようです。私が知っている従弟は小さな太った子供だったんですが、これを読むと立派に役職を務めていたようで」
「いいから、早く読んでくれよ」
ミロクが焦れて云った。
「中月の十四日目。また奴らが来る……」
4
八年前のことだ。牛頭《ごず》と名乗る非天《アスラ》の眷属《けんぞく》が、数人の御付きとともにランパカを訪れた。牛頭は族長を呼び出し、この村の近くに城塞《じようさい》をつくると告げた。ついては人足の数が足りない。希望するものがあれば申し出てくれ。報酬ははずむ。それが牛頭の話だった。
悪い話ではなかったが、村のものは誰も申し出なかった。彼らは狩猟を旨とする誇り高いランパカの人間だった。狩り以外の手段で金を稼ぐことを堕落と考えている。
族長は丁寧に牛頭の申し出を断った。
牛頭はおとなしくそのまま引き下がった。
しばらくは牛頭が村を訪れることはなかった。
ランパカの遥《はる》か北で城塞がつくられているという噂が族長の耳に入ったのはそれからしばらくしてのことだった。近隣の部族が城塞で働いている、という噂も聞こえてきた。だがその時点では、族長にとってもランパカの民にとっても、それは別世界の話だった。
三カ月後のことだ。
牛頭はまたやって来た。族長に伝えた内容は前と変わらなかったが、その時牛頭は百近い軍勢を引き連れていた。
族長を初め、みんなの気持ちが変わることはなかった。
族長がそのことを告げると、牛頭は楽しそうに笑い、横で草を食べていたヒトニウマの頭を剣で刎《は》ねた。
従わないとこうなる。
牛頭はそれだけ告げて帰っていった。
この時にも、族長や村人たちは事態をあまり深刻には考えていなかった。牛頭がどれだけ恐ろしいか、非天に逆らうことが何を意味するかを知らなかったのだ。いや、全く知らないわけではない。しかしその恐ろしさを実感はできていなかった。甘く見ていたのだ。
その翌日、牛頭は軍を連れてランパカを訪れ、飼われているヒトニウマをすべて持ち去った。
逆らう者は殴られ、蹴《け》られ、不運な者は殺された。ランパカの民の武器は剣と弓矢。銃を持つ牛頭たちの敵ではなかった。
牛頭は一日待とうと云った。明日返事をくれと。
非天の意志に逆らえばヒトニウマを失うだけではすまないことを覚悟しろ。
牛頭はそれだけ云い残すと立ち去った。
『本』はそこで終わっていた。
読み終わったクビツリは手の水を払い、立ち上がった。
「これで終わりですよ」
「ランパカは非天に、非天の牛頭に滅ぼされたのね」
私にはその話が、物語を記した奇妙な生き物たち以上にお伽話《とぎばなし》のように感じた。眼の前に骸《むくろ》が散乱する廃墟《はいきよ》がなければ信じることができなかったかもしれない。小さな村が大国の都合で消えてなくなる、などということは現実にいくらでもある話だ。でも私には、喋《しやべ》る死体よりも書物代わりの魚よりも、そのほうが非現実的に思えた。
「城塞の話は知ってたがね。北の聖が非天と戦って負けたって。それが十年ばかり前の話で、それをきっかけに風輪の北の方にまで勢力を伸ばしているってな」
それだけ云うと、ミロクは意地の悪そうな笑みを浮かべて私を見た。
「おい、伸江。知ってるか。牛頭は馬頭の兄貴なんだぞ」
「それがどうしたの」
「非天に連絡がいってるかどうかは知らないが、牛頭は確実におまえさんを狙っているね」
「北の聖のところへいったん行くべきだと云ってたわね。そうすれば助けてくれるかもしれないって。でもその城塞も北の方にあるんでしょ。大丈夫かしら」
「大丈夫って……何が」
「北の聖よ。非天と戦って負けたのなら、北の聖はどうなってるかわからないわ」
「死んだってわけじゃない。たとえ非天でも聖を殺しゃあしない。オズノ王を敵にまわすことになるからな」
「聖はオズノ王の何なの」
「さあな、友達っていうか、同志っていうか、恋人って云うのもおかしいしなあ」
腕組みをして、ミロクは考えた。しばらくじっと考えていた。実は何も考えていないのではないかと私は思った。
「それで負けた聖はどうなったのよ」
「さあね、よけいなことを考えるのは明日にして、飯食おうや、飯」
よけいなこととは思いかねたが、私にしたところで腹がすいていることに違いはない。
「とりあえず、食事にしましょうか」
云ったとたんに腹が鳴った。
5
薪になる材木を集め、井戸から水を汲《く》み、鍋《なべ》、釜《かま》を持ってきて、食事の支度をする。
ミロクは飢えた犬のように尾を振って待っていた。クビツリは離れたところに腰を下ろし、何事か考え込んでいた。コトが心配そうにそれを見上げている。
「できたわよ」
料理と呼べるようなものではなかったが、見たこともない材料からつくったわりにはおいしそうな夕食ができた。満足だ。
「こっちにいらっしゃいよ」
クビツリを手招きした。僕は食べられないから、と手を振るクビツリの手を引いて座らせた。
「わしの隣に座るの?」
不服そうなミロクを睨《にら》んだ。私はいつも人と眼を合わせて喋ることさえ躊躇《ちゆうちよ》していた。しかし慣れてしまえば人を睨むことなど、どうということもないのだ。意味なくにやにや笑いが浮かんでしまう。
口を尖《とが》らせていたミロクも食事が運ばれてきたらたちまち笑顔になった。
見つけ出した食べ物に何かと文句をつけていたミロクは呆《あき》れるほどの量を食べた。私だって負けてはいない。何を口にしてもおいしいのだ。
胃が悪く小食だったはずなのに。
腹がくちくなってからそう思った。
変わっている。私はどんどん変わっている。
ミロクは酒を飲んでいた。
私も飲んだ。短大の新入生歓迎コンパ以来だった。その時は父親の云いつけどおり『女としての節度ある』飲み方をしていた。ビールをコップに一杯。それが私の考えた節度ある飲み方だった。苦いだけだった。今は女としての節度も何もあったものではない。何しろ正体不明の老人と首吊り死体を相手に、床に直接|胡座《あぐら》をかいて、酒をどんぶりで呷《あお》っているのだ。
私は真実を知った。
節度ない酒ほどおいしいものはない。
酸味のある甘口の酒がいくらでも喉《のど》を通った。
「キミも飲みなさい」
コトに酒を呑《の》ませる。餅《もち》のようなコトの躰《からだ》がみるみる桃色になる。愉快で仕方がない。
「はは、桜餅、桜餅」
ミロクの肩を叩《たた》いて笑った。叩くほどおかしくなる。
「桜餅って何だ」
「桜の餅よ」
ミロクの杯に酒を足した。
「桜を見たことあるのか」
「あるわよ、それぐらい」
「おまえ、金輪の地から来たのかもしれんな。金輪の地には桜があるそうだ。それは、すげえ、きれいだって聞いたことがある」
「桜はきれいよ。でね、桜の下で、こうやって宴会するの」
「オズノ王は金輪に住んでいるのですよね」
クビツリが話に加わってきた。
「キミも飲みなさい」
今度はクビツリに酒を勧めた。
いや、僕は、などという間に酒を満たしたどんぶりを持たせる。観念したのか、勢いよくぐいと飲んだ。頬に開いた穴や、裂けた唇からだらだら酒がこぼれた。それがまたおかしくて仕方ない。
「豪快、豪快」
笑いながら、ミロクの後頭部をぺしゃぺしゃと叩いた。いい音がする。
「こら、伸江。痛いぞ」
「痛くないわよ」
「本人が痛いって云ってるんだ」
「でも、私、痛くないもん」
「あたりまえだろが」
大笑いする。腹を抱えて笑う。もう声も出ず、ひいひいと横になって息も絶え絶えだ。それでもミロクの躰を叩くのは忘れない。
「あの、僕、踊ります」
クビツリが突然宣言した。
まさか死体が酔ったりはしないわよね、とも思ったが、生きた死体が酔うかどうかまではわからない。
あっけにとられて見ていると、クビツリはゴム人形のようによろりと立ち上がり、私は大燥《おおはしや》ぎで拍手した。
立ち上がった時から踊りは始まっていた。芯《しん》が抜けたようにぐにゃりとしていたクビツリの躰が、春に芽吹く草木のようにしゃんと立つ。
踊り始めた。
緩やかな踊りだ。
脚は地を離れることなく、腕はことさらに空を切らず、静かに、優美に、クビツリは踊った。
私は溜息《ためいき》を洩らした。
この世のものでないように美しい。いや、確かにこの世のものではないのだが。
それは腐った死体であるのに拘《かか》わらず、まるで可憐な少女のように見えてくる。
さすがのミロクも悪態つく舌を蕩《とろ》かされたか、夢見るようにクビツリを見ていた。
女でもなく男でもない、子供でもなく大人でもないクビツリが、踊ることで己れに返っているのだ。そう思った途端に涙がぽろぽろこぼれた。
消え入るように踊りが終わると、私はクビツリを讃《たた》えた。どんな言葉も今見た踊りに及びはしなかったが、それでも讃えた。ミロクもよほど感動したのだろう。ただただクビツリを誉める。普段では考えられぬ手放しの誉め方だ。讃え続け、酒をかわし、言葉が絶えるまで喋り、笑った。それは一日の疲れが思い出したように私たちに訪れるときまで続いた。
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real-5
鉢の開いた大きな頭が、どことなく胎児を思わせる。もちろん白髪の胎児はいないし、こんなに巨大な胎児もいない。それでもその初老の男の顔は胎児を想像させた。
「こちらが間宮泰己さんです」
柳瀬がその胎児の顔をした男を紹介した。
「間宮です」
言いながら男は名刺を差し出した。ないのをわかっていながら、大和田は名刺を探す振りをする。
「申し訳ない。名刺を持ってくるのを忘れてしまって。大和田です」
頭を下げ、儀礼的に名刺に目を通した。小さな紙片は肩書きで埋もれていた。
誰からともなく三人はパイプ椅子に腰を下ろす。
「今日は事務員も誰もいないんでね、こんなものしかないんですが」
コンビニの袋から柳瀬が缶入りのウーロン茶を出してきた。〈小さな柱〉の事務所はがらんとしており、いつも以上に侘《わ》びしい。
缶のウーロン茶が置かれると、早速間宮はそれを口にして、嫌らしい音を立てて啜《すす》った。それもまた胎児を連想させる。胎児が茶を啜るところなど大和田も見たことはないのだが。
「話の方はですね、柳瀬さんから聞きました。まったく腹立たしい限りだ。はっきり言いましてね、私は犯罪者というものがこの世からさっぱり消えてしまえばいいと、そればかりを考えて……そうですねえ、五十余年を生きてきた。だからこそ警察官になろうと決意したわけです。いやあ、私が警官を目指した頃は、本当にそのような純粋に犯罪を憎んで警察官を志した人間ばかりでしたよ。そんな時代だった」
また茶を啜る。
柳瀬とそっくりだ、と大和田は思った。年齢も違うし容姿もまったく違うが、二人の印象は兄弟のように似ている。それは多分、その低くよく響く声にあるのだろう。声だけ聞けば同一人物のようにさえ思えた。
「間宮さんは警視庁OBでしてね。現在は警備会社の名誉顧問もされている、一生を犯罪の撲滅に懸けてらっしゃる。素晴らしい方ですよ」
柳瀬に言われて、お恥ずかしい、と間宮は笑った。
「いや、まあ、しかしね、素晴らしいかどうかは別にして、犯罪者を憎むことは恥ではない。罪を憎んで人を憎まずと言うが――確かにそれは立派なことかもしれないが――犯罪を為《な》すのは人ですよ。犯罪者ですよ。犯罪の中には、そりゃあ同情の余地のあるものだってあるでしょう。ないとは言わない。ですがね、だからといって犯罪者が許されるというものでもない。私は思うんですが、犯罪者をそれなりの罪で罰するのも慈悲だと思いますな。人を殺したのならそれなりの処罰を受けるべきだ。違いますか」
間宮は大和田を見つめた。決して本人にはそのつもりはないだろうが、睨《にら》んでいるように見える。己れにわずかでも疚《やま》しいことがあれば、竦《すく》みあがるであろう視線だった。
思わず大和田は真剣な顔で頷《うなず》いた。
「日本の警察は非常に優秀ですよ」
間宮は話を続ける。
「世界に誇ることのできる素晴らしい組織だ。犯罪検挙率も高い。だからといって警察国家のような極端な捜査をするわけではない。あくまで民主的に捜査を行いながらもこの検挙率だ。私は思うんですが、民主国家において、これ以上に優秀な警察組織はあり得ないんじゃないでしょうかね。ですが、ですがですよ。それでも限界がある。それは警察組織の限界と言うよりは民主主義の限界のような気がしますな。その結果、柳瀬さんのような不幸な結果を生むことも間々ある」
間宮は深刻な顔で柳瀬を見た。柳瀬が深く頷く。
「さてと」
茶を啜る。
「大和田さんの話を伺いましょうか」
「私の話、ですか」
急に話を振られて大和田は当惑した。この男に何を話せというのだろうか。
「そうですな」
柳瀬が話を繋《つな》いだ。
「まず我々が何をしようとしているのか、から説明すべきかもしれませんね。しかしその前に、我々があなたを信用して、こうして話をしているのだということを理解してもらわなければなりません。だから大和田さんにも私たちを信用してもらわなければならない」
「信用ならしていますよ。〈小さな柱〉を紹介していただいたことで、私もずいぶん気が楽になった」
「本当ですか」
間宮が見つめる。
「本当ですよ」
慌ててそう言った。
「本当ですとも。感謝しているんだ」
「我々はあなたを信用している」
柳瀬が繰り返した。
「あなたは我々と同じだ。犯罪を、犯罪者を憎んでいる。心底憎んでいる。そうでしょ」
「もちろん」
大和田は即答した。
「我々はちょっとしたネットワークを持っています」
間宮が言った。
「犯罪被害者のためのネットワークです。ただしそれは、あまり表立っては行動していない。そのネットワークに、あなたも参加する意志がありますか」
「ネットワークですか」
「そう。それに参加するにはある種の決意が必要だ。それは犯罪に立ち向かう決意です。犯罪を決して許さない心をお持ちですか」
「もちろんですよ」
心外だ、とでも言うように大和田は言った。
「かつて男たちはそうであった。守るべきもののためには命を捨ててでも戦ったですよ。今はその気概が忘れられている。いや、場合によってはそれを非難されもする。民主主義というのはどうも女々しい文化だなあ。あっ、失敬。これは単なる私感ですがね。とにかく、あなたはそんな気概のある男だと、この柳瀬さんが判断した。今こうしてお会いして、私もそうだと思う。だからこそこうやって単刀直入にお話をしようと思っているわけなんですが」
単刀直入にしては回りくどい言い方だが、大和田はそうは思いはしなかった。彼らに信用されたい、そう思っていた。男同士腹を割って話し合う。久しぶりにそういう場にいるのだと感じていた。
「どうですか、私たちのネットワークに参加されますか」
「はい」
大和田は頷いた。
「これはライオンズ・クラブとは違う。気楽に入会したり脱会したりできるもんじゃありません。それに秘密厳守だ。このネットワークの存在を他で口外されては困る。言っていることはわかりますね」
引き返すことができない道に入り込んだのだ。間宮の説明を聞きながら大和田は思った。
「わかりますよ」
その一言を言うのに、手が汗ばむほどに緊張していた。そうさせる何かを、目の前の二人の男たちは強いていた。
「我々のネットワークは一種の互助会です。ある日突然犯罪の被害者になる。警察はできる限りのことをするだろうが、それにはどうしても限界がある。そのために柳瀬さんのような不幸な結果を招くことがある。そうですね。柳瀬さんの場合を例にしましょう」
汚らしい音を立てて間宮は茶を啜った。
「私から説明しましょうか」
柳瀬が缶を開く。喉《のど》を鳴らして茶を飲んだ。
「娘の莉沙《りさ》が小学校の帰りに行方不明になったのは四年前のことです。遺体はすぐに近所の公園で見つかった。ゴミ箱の中に三つに分けてビニール袋に入れられ、捨ててありました。しかし首だけが見つからなかった。これはそれまでに発見されていた二人の、やはり幼女の遺体と同じだった。猟奇的な連続殺人だったので、マスコミは狂ったように報道を続けていた」
淡々と話していた柳瀬はそこで押し黙った。きり、と歯が鳴る。
目を閉じ、息をつくと、再び話し出した。
「犯人はそれから間もなく逮捕されました。同じ市内に住んでいた若い男です。母親と二人住まいで、二階の男の部屋には腐乱した頭部が棚に三つ、飾られてあったらしいです。逮捕はされましたが、鑑定の結果心神喪失が認定され不起訴になりました。そのまま措置入院ですよ」
「その、不起訴というのは、どういうことなんですか」
大和田が尋ねると、柳瀬は薄笑いを浮かべて答えた。
「文字どおり起訴できないということですよ。刑法三十九条で定められていましてね、心神喪失した者は責任能力がないということになっている。これね、実に差別的だと思えませんか。精神的弱者には裁判を受ける権利がないと言っているわけだ。不起訴となれば冤罪《えんざい》の抗弁すらできない。要するに検察側はいったん起訴したら必ず有罪にしたいわけだ。まあ、それが冤罪を招く要因にもなったりするわけですが、弁護側の精神鑑定で無罪が確定、などという事態は避けたいわけです。だから事前に検察側が起訴前鑑定というのをするわけです。黒星をつけたくないから、負ける喧嘩《けんか》は絶対しない、というところでしょうか。その結果、莉沙を殺した犯人は、犯人でさえなくなった。どうです、大和田さん。このような状況になって、あなた、ハイそうですかと頷けますか」
「無理でしょうな」
「そうでしょ。そのはずです。だから私は、間宮さんの呼び掛けに応えてネットワークに参加した。そして、得るものはあった。……私の娘を惨殺した男がその後どうなったか、大和田さんはご存じですか」
「確か入院したというような報道はされていたようですが、それからは」
「たった三年で退院が決定しました。病気が治ったからだそうです。もちろん私にそのようなことが通知されるわけではない。何もかも私とは関係のないところで話は進んでいった。彼の人権を守るためにね」
柳瀬は吐き捨てるようにそう言った。
「私がそれを知ることができたのは、ネットワークに参加していたからです。明日が退院と、私は間宮さんから告げられました。そして、どうしますか、と尋ねられた。で、これです」
柳瀬は手提げ袋の中から青いファイルを取りだしてきた。どうやらそれには事件に関する新聞の切り抜きなどがファイルされているようだ。その最後のページを開いた。小さな三面記事が切り抜かれてあった。病院を退院したばかりの男が刺殺されたとあり、犯人は覚醒剤《かくせいざい》中毒らしいということが仄《ほの》めかされてあった。
「この殺された男というのは、もしかして」
大和田の問いに、二人の男が頷いた。
「それをまさか、つまり……」
大和田は穏当な言葉を選ぼうと思うあまり絶句した。
間宮が言った。
「我々父親はね、男として家族を守らなければならない。それがつまり秩序というものに通じるわけです。国家というものは本来父親であるべきですよ。ですが、国家にはできないこともある。その時、我々は本当の父親としてすべきことがあるはずだ。我々はその当然のことをしているだけなんだ」
「それじゃあ、あの殺したいと言っていた……石川さんでしたっけ、彼女も」
「彼女はネットワークには所属していません。まあ、女性は同じ家族を守る存在でも、内を整えるのが仕事ですからな。あまり外の敵に備えることはできない。それに我々が彼女の存在を知ったときには、もう犯人は捕らえられて、しかも死刑判決が下っていました。彼女はまだ救われていますよ」
「私の場合」
大和田は音を鳴らして唾《つば》を飲んだ。本当に抜き差しならぬところに追い込まれている思いがあった。
「私の場合はまだ犯人が捕まっていないんですが」
「好都合ですね。判決はあなたが下せばいいんだから」
間宮が微笑んだ。それはやはり胎児の微笑みに似て、どこか反射的な仕草だった。
「どうやって探すんですか。警察だって犯人を追っているだろうに」
「方法はいろいろとあります。しかし何をするにしても、まずあなたの同意が必要だ。大和田さん、あなたに改めてお聞きしたい。まだ見ぬ犯人を殺してやりたいと思いますか」
間宮が、柳瀬が、大和田の顔をじっと見つめていた。顔を伏せ、思案したのはわずかな間だった。
「思います」
大和田は宣誓した。
「手掛かりというものは必ず残っているものです。それはわかるものにはまるで手紙を残されているように明らからしいですよ」
柳瀬が言った。
大和田聡が殺された現場近くだ。
寂れた場所だ。時代の流れからすっかり取り残され、陽の当たる部分はからからに乾き、当たらぬ部分はぐずぐずと腐敗している。そんな街だ。駅前が白々しいほどに賑《にぎ》やかさを演じているだけに、痛々しくさえ思える。長居するだけで気が滅入ってくる場所だった。
大和田はここに来たのは初めてだ。場所そのものは知っていたが、見に行くつもりはなかった。ただおぞましい記憶を甦《よみがえ》らせるだけだと考えたからだ。しかし、こうやってその場所に来てみても、驚くほど何の感慨も浮かばない。
「この奥に聡君の遺体がありました」
狭く暗い路地を指差した。
生ゴミと小便の臭いが混ざって漂う。不快この上ない小さな路地。最も死にたくはないと思わせる場所だろう。
「目撃者がいました」
「いたんですか」
そんなことすら聞かされていなかった。
「スナックのママが――とはいってももう六十は過ぎた婆さんですがね――聞いていたんですよ。病気でしばらく店は閉めていた。その時も床に横になっていたらしいです。外で男の叫び声が聞こえた。このババア、とか何とか」
「このババア……。犯人は老女ですか」
「かもしれません。ですがババアは自分より年上の女性への罵倒《ばとう》と考えるべきでしょうね。ですから二十代後半以上の女性が対象となるでしょう」
「女か……」
「裏口に小窓があるんですよ。便所の窓でね。普段は開かないから、錆《さ》びついていて、その時もかなり苦労して開けたらしいです。で、小さな隙間が開いた。そこから覗《のぞ》いたら、派手なピンクのワンピースを着た女を見たと言うんですね。昼でこれですから、夜になればほとんど見えないでしょう。だから何がそこで行われているかはわからなかった。女がしゃがみ込むようにして、こう」
柳瀬は握り拳《こぶし》を何かに打ち付けるような動作をした。
「何かを叩《たた》きつけるような動きをしていたというんですね。だいたい死亡時刻と時間が合っているから、まあ、間違いなくその時聡君は殺されたのだと考えるべきでしょう。さて、次の場所に移りましょう。ここからそれほど離れてはいない。当時は血痕《けつこん》がはっきりと残っていました。こちらの方です」
ひっそりと静まった街を二人は歩く。昼過ぎだというのに、誰とも出会わなかった。まるで喪に服しているようだと大和田は思う。
やがて小さな商店街に出てきた。商店街と呼ぶのにはあまりにも侘《わ》びしい。さすがに買い物客らしい人がちらほら歩いているのだが、そのどれもが老人だ。急ぐでもなくゆっくりと脚を進める老人たちは、リハビリでもしているようだった。そこに一軒の酒屋があった。入口の周囲が自動販売機で囲まれている、これまた小さな酒屋だ。
「ここまで、血の付いた足跡が残されています。で、ここでも目撃者がいます。酒屋の店主ですよ。ほら、ここです」
酒屋の横に小さな空き地がある。プラスチックのビールケースが積み上げられていた。
「男女の争う声がしたというんですよ。窓を開けたら、二人の人間がもつれ合っているのが見えたので、うるさいと怒鳴りつけて窓を閉めたと、そういうことです」
「二人……男女ですか」
「女がピンクの服を着ていたのと、赤いハイヒールを履いていたのを見ています。よほど派手だったんでしょうな」
「それなら他にも目撃者がいるんじゃないですか」
「それが、よほど運が良かったんでしょうな。他にその女を目撃しているものはいない」
「男は誰なんでしょうか」
「それもわかっていません。まあ、いずれにしろ、もう少し経てば警察が目撃証言を元にピンクのワンピースと赤いハイヒールの女を容疑者として公開するでしょうね。そうすればもっと目撃例が出てくる可能性はあります。いずれにしろ足取りをたどれるのはここまでです。かなり衝動的な犯行に見えるのですが、よほどついていたんでしょうな。凶器もまだ発見されていません」
「警察も公表していない情報をどうして柳瀬さんは」
「これはもう、間宮さんのおかげです。かつてのコネを大いに利用してくださっている。ですが、これでは、警察を出し抜くことは難しそうだ」
「でしょうね」
がっかりしたわけではない。ここまで情報を知ることができるだけで驚きだった。
「犯人を探し出す直前までは、私たちも警察の情報に頼ることになりそうです。知り得た情報は逐一大和田さんに報告させていただきます」
「よろしくお願いします」
大和田は深く頭を下げた。
「そうだ、この先の川で死体が発見されているのをご存じですか」
「いや」
大和田は頭を掻《か》いた。
「最近ではろくに新聞も読んでいないもんで」
「喉《のど》を掻ききられた中年の男が、川原に流れついていたんですよ。胴にコンクリート片が括《くく》り付けてあったらしいです。身元もわかっています。この街を根城にしていたホームレスですよ。有名な男で、この近所で暴れて何度か交番に連れていかれたことがある。で、指紋が残っていまして、すぐに身元が特定されました。ああ、特定されたといっても、どこ出身の何兵衛《なにべえ》というのがわかったわけではないんですよ。交番で名乗っていた名前は田中健二です。それが本名かどうかもわかりません。本籍そのほかはでたらめでした」
「その男も同じ犯人に殺されたのですか」
「わかりません。ですが、凶器が似ています。かなり鋭くよく切れる大きな刃物。出刃包丁か、あるいはサバイバルナイフのようなものですね」
「もしかしたら、それがこの酒屋にいた男じゃないんですか」
「かもしれませんね。警察もその線で捜査をしているようですよ」
「私たちは追いつくんでしょうかね、警察よりも早く犯人に」
「大丈夫ですよ。逮捕の寸前まで我々にはチャンスがあるんだ。それより、大和田さんは心の準備はできているんでしょうね」
「心の準備ですか」
柳瀬は微笑みながら言った。
「前に説明したように、犯人の始末は私たちが何とかします。そんなことで我々が罪に問われるようなことはしない。ですが、その最後の判断を下すのは大和田さん、あなただ。その覚悟はできていますね」
「もちろんですよ」
大和田は柳瀬のように微笑もうとしたが、頬が強張《こわば》ってひきつれただけだった。
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第五章 昆人《こんじん》がやってくる
1
北の聖《ひじり》は大変な霊力を持ち、それを恐れた非天《アスラ》は彼女を(そう、北の聖は女性、老いた尼僧らしいのだ)城塞《じようさい》で囲み幽閉しているのだという。その指揮をしているのが牛頭《ごず》。馬頭《めず》の兄貴分だ。だから初めは北へと向かおうとしていたミロクがそれは止めようと云い出した。
でもその頃には、私はすっかり北の聖に会いたくなっていたのだ。何となく因縁のようなものを感じていた。馬頭は義母の喜多野小枝子を北の聖と勘違いした。私もなんだか、見たことのない聖を、あの優しい義母と同一視してしまう。彼女が囚《とら》われているのなら、何とかしてあげたいと、身の程知らずなことも考えてしまう。
そして再びの荒野。照りつける日光にはもう飽き飽きだったのだけれど、少しでも水分があれば吸い尽くしてやろうと待ちかまえている乾燥した大気にはうんざりだったのだけれど、カピシーの駅を目指して歩いたのだった。つまりミロクは私の意見に押し切られたわけだ。
風は意外なほどに涼しい。
だが、涼しいからと喜んでばかりもいられない。風はすぐに乾いた褐色の土を巻き上げ、視界を赤く染めるからだ。
「おい、クビツリ。ほんとにわしらは町に向かってるんだろな」
ミロクは口を掌《てのひら》で覆って云った。
「心配しないでください。この先にカピシーの町があります。町から鉄道に乗れば、バクトラまで二日ぐらいで着きますよ」
「北の城塞はバクトラの近くなのね」
「多分そうでしょう。北の聖の屋敷に最も近い駅がバクトラですから」
鉄道があるというのが最初は不思議だった。しかし考えてみればナガラハーラには水道もあったし電灯もあった。文明とはかけ離れたところにいるような気がしていたが、鉄道があっても不思議ではないのだ。
「で、そのカピシーまで、後どのくらいなんだよ」
「二時間ぐらいですね」
「二時間もこの風の中を歩くのか!」
「風はすぐに止みますよ」
クビツリの云うとおりだった。
一分と経たぬ間に風はぴたりと止み、旅人のマントを脱がすべく、太陽にバトンタッチされた。たちまち汗が噴き出す。流れる汗が赤土と混ざり、顔は下手な左官屋が塗った壁のようになった。
「暑い!」
ミロクが怒鳴った。
「暑い、暑い、暑い、暑い、暑い、暑い、アツイー!」
「うるさい!」
我慢しきれず私も怒鳴った。
「もう少し静かにできないの」
「でも、暑い」
「暑いからって……みんな我慢してるんだか……」
ミロクの顔を改めて見た。日除《ひよ》けに毛布を頭からかぶっているが、その顔は壊れた壺《つぼ》のようだ。しかも顔の下半分を埋める髭《ひげ》が彫刻のように赤く固まり、まるでつくり損ねた縄文式土器だ。
「何だ、人の顔をじろじろ見て」
私はつい、ぷっと噴き出してしまった。笑うと顔から土の欠片《かけら》がぽろぽろ落ちる。どうやら私の顔もミロクと変わらぬ壊れた壺になっているようだ。その証拠に、笑った私の顔を見てミロクが笑った。
「何よ」
私は頬を膨らせてみせる。泣いたり、笑ったり、膨れたりすることはなんて楽しいんだろう。これは少女の楽しみだ。少女たちが喜び悲しむことは、こんなに喜ばしいことなんだ。私は子供からいきなり主婦になったから、少女の楽しみを何にも知らないから、ここでやっと少女の楽しみを知ることができたんだ。見た目はただの主婦かもしれないけれど、心は少女の楽しみを知ったのよ。ってちょっとヘンかもしれない。でも、でもいいわ。楽しいヘンなら許される。
「何処かで休憩しましょうか。朝から歩きっぱなしだし、皆さんはそろそろ疲れたでしょう」
クビツリは疲れることがない。疲れることがないから他の誰よりもそのことに気をつけているようだった。その心遣いが嬉《うれ》しい。ミロクはすぐに音を上げるが、私は我慢し過ぎる傾向があった。クビツリは私たちをよく見ていて、的確に休憩のタイミングを計っているようだった。
「そうしましょう」と私が云う。すると即座にミロクが云い返した。
「嫌だね」
「どうして。さっきから疲れた疲れたってうるさかったのはミロクじゃない」
「こんなとこで、どうやって休むんだね。魚の干物じゃないんだ。天日に晒《さら》されてちゃ横にもなれないぞ」
「確かこの辺だったんですよ」
クビツリは立ち止まった。
「何がだ」
ミロクの問いには答えず、クビツリは屈《かが》み込み、落としたコンタクトレンズを探しているかのように地面を手でさぐっている。
「あった。やっぱりここだ」
何をしているのか見当もつかず、私は黙ってクビツリを見ていた。
まるでそこに誰かいるかのように、クビツリは地面に向かって声を掛けた。
「帰ったぞ」
「何を馬鹿なことをしてるんだ」
薄笑いを浮かべてそう云ったミロクが、わあ、と声を上げた。
クビツリが呼びかけた辺りから、スローモーションで見る噴水のように土がゆっくりと噴き出してきた。柔らかな粘土を下から突き上げているようだ。
私たちは後退《あとじさ》った。
コトが興奮し、吠《ほ》えながらその周りをぐるぐる駆け回る。
土の噴水は高さを増し、面積を広げ、見る見る大きくなっていった。
「でかいケツから、すげえうんこしてるみたいだな」
ミロクは腕を組み、さも感心したように云った。私はミロクを睨《にら》み付けたが、そんなことに気がつく人間じゃない。
盛り上がった土はドーム状に膨らんでいく。見上げるほどに膨れると、ぽんと音をたて弾《はじ》けるように壁に穴が開いた。
私とコトがタイミングを合わせたように驚いて跳ねた。クビツリがくすくすと笑った。
中は空洞になっているようだ。
「なんじゃこりゃ」
ミロクが頓狂《とんきよう》な声をあげた。
「隷土《れいど》ですよ」
「隷土」
子供のための学習番組に出ている馬鹿な人形のように、私はミロクと声を合わせた。
「我々ランパカの人間は狩りのために長旅をすることがよくあります。狩りの順路はだいたい決まっていますから、その途中に隷土で家をつくっておくのです。隷土は一度つくるとその形を覚えています。壊す時に符丁を決めておきさえすれば、掛け声一つでもとの形に戻るんですよ」
クビツリは得意そうに説明した。
「ここに隷土があったっていうのをよく覚えていたわね」
「ここは父親に連れられて来たことがあるんで覚えていたんですが……皮肉なものですね。話したと思いますが、僕は子供の頃躰が弱くて葬人《ほうむりぴと》とよばれていました。その時には到底一人でこんなところまで来ることができなかった。狩りは過酷ですからね。そんな僕が、死ぬことでこんなに頑丈な肉体を手に入れたんですから」
隷土の家はまるでカマクラのような形をしていた。
三人で手分けし、食事の支度をする。でき上がると隷土の中に入り、車座になって食べた。中は狭い。それでも大気が乾燥しているために、陽射しを避けるだけで外とは比べものにならないくらい過ごしやすい。
食事を終え、陽がもう少し傾くまで休憩しようということになった。
私を挟む形で、三人が川の字に横たわった。本当は一番背の低いのがミロクなのだから、かなり変形した川の字だ。
疲れていたはずなのだがなかなか眠れなかった。こんなところで頭を並べて横になっているのが楽しかったのだ。実は修学旅行を思い出していた。
「ねえ、みんな寝た?」
返事はない。
「あの、カピシーってどんな町なの」
少し間があってクビツリが話し始めた。
「カピシーは駅ができてから栄えた町です。それまではランパカと同じ狩猟を生業とした村でしたから」
「カピシーにも非天は手を伸ばしているかしら」
ごろりと横を向く。ミロクは眠っているようにも見える。
「ねえ、ミロク。どう思う」
ミロクが薄眼を開けて横を見た。眼が合う。
「さあね」
次の言葉を待った。が、ミロクはすぐに眼を閉じた。
「真面目に答えてよ、ミロク」
観念したのか眼を開く。
「カピシーもきっと非天の配下によって治められているだろうさ。風輪の北に城塞《じようさい》を築くなら、物資を運ぶために、途中の駅を息のかかった者に治めさすのは当然のことだからな」
「私のことも連絡がいってるかしら」
「かもな」
「私たち変装した方がいいことないかしらね」
「どうやって」
「カピシーで服を買い替えましょうよ」
考えただけでうきうきしてきた。
「まあ、慎重にするに越したことはないわな。何しろ伸江は馬頭を殺した女なんだから」
「誰だ!」
叫ぶと同時に、クビツリが外に飛び出した。私もそれに続く。
隷土の入口近くで、それは標識のように立っていた。胡麻《ごま》団子に似ていると思った。ただし大きさがまったく違う。それは西瓜《すいか》よりも一回りは大きい。しかも脚が二本ついていた。短距離走者のような逞《たくま》しい脚だ。腿《もも》が私の腰ほどある。
一緒に出てきたコトが、ばらばらの眼や鼻を傾げている。何者かと頭をひねっているのかもしれない。
「ハシリダンゴですよ」
クビツリがこともなげに云った。
「あまりこのあたりでは見かけないんですが」
その時になって、どうも危険ではなさそうだと判断したミロクが「何だ。何だ」と隷土から首を出した。
そのとたん、団子についていた胡麻がいっせいに飛び立った。団子が二倍にも三倍にも膨れ上がったように見えた。
金属的な羽音がする。聞き覚えのある耳障りな音だった。
胡麻ではない。
「あれは……」
私の呟《つぶや》きを受け、クビツリが続けた。
「蚊ですよ」
何万の蚊の群れは柱となって、低く地をかすめるように、やがて高度を増して彼方《かなた》へ飛んでいった。
胡麻のとれた団子はその姿を恥じるように、逞しい脚で地を蹴《け》り、瞬く間に姿を消した。
「ハシリダンゴはね、あれで会話をするんです」
「あれって、蚊で?」
「そう。あれはいつも躰《からだ》に蚊をたからせているんです。それに己れの血を吸わせているんですよ。で、その血が言葉になっているんです」
「血が……言葉に」
とても理解できそうにない話だった。
「ハシリダンゴが話をする時は、ああやって自分にたかっている蚊を飛ばします。その蚊が近くの仲間の躰につき、今吸ったばかりの血を少しだけ皮膚の下に注ぎ込む。それで遠く離れたところで起こったことが理解できるんです」
「つまり、あの、話を伝染させるわけですか」
「伝染……病気がうつることですね。そう云ってもいいかもしれません。ハシリダンゴが見たり聞いたりしたものは、疫病のように正確に遠くへ伝わっていきますから」
「さっぱりわからんが」
ミロクが二人の間に頭を突っ込んできた。「ああやって話をしているんなら、今の奴は誰に何の話を伝えたんだ」
「近くの仲間に敵がいるから気をつけろって云ったんじゃないでしょうか」
「すると、あんな奴がそこらにいるってことか」
ミロクは顔をしかめた。
「そうたくさんはいないはずです。本来はこの辺りよりもっと南に棲《す》んでいる生き物ですからね。たまたま仲間とはぐれただけでしょう」
そうではなかった。
蚊の群れは北へ北へと飛び、彼らがカピシーの町に着く前に、カピシーで待つ次のハシリダンゴへと、私たちの話が伝わっていた。
2
二本の平行な線が延びている。黒々としたその二本の線は、鉛筆を二本持って引いたようで、広い荒れ野の中で、ひどくたよりなく見えた。
線路だ。
休憩を終えて北へひたすら歩き続け、線路を見つけたのは十分ほど前。線路沿いに歩くとカピシーの町はすぐに現れた。
すでに陽はとっぷりと暮れている。
カピシーは旅人が通り過ぎる町のようだ。長旅をするために必要なものが何でも揃っている。私たちは早速服を買い求めた。
クビツリの勧めで、ランパカの民のようなこの地の狩猟民が着る服を買う。アコメと呼ばれるこれは、大量の布を躰にたっぷり巻きつける、サリーに似た衣服だった。
三人それぞれに好みのアコメを買い、身に着けた。私は白。ミロクは赤。クビツリは青。自由、平等、博愛ね、と私は云ったのだが、それは誰にも通じなかった。
布は薄く、軽く、優しい手触りだ。それを幾重にも折り込み、束ね、まとめる。中世ヨーロッパの僧侶《そうりよ》のように、頭巾《ずきん》となる部分を頭から被ればそれで終わりだ。男はその下にタッツケというゆったりしたズボンを、女はクズという細いタイツ様のものを穿《は》く。
「さすがに上手《うま》いものね」
手早く着替えたクビツリに感心した。私はと云えば、ダブルベッド用のシーツと格闘する新米メイドよりも酷《ひど》いありさまだった。ミロクに至っては西洋の幽霊かバスタオルを頭から掛けた子供のボクサーだ。
だが、何処の国にも不器用な者はおり、そのための救済策が用意されているものだ。幾つかのピンと紐《ひも》を使えば、アコメを楽に着ることができるのだった。私とミロクはクビツリに教わり、ようやく服を着替えることができた。
新品の服に身を包み駅に乗り込む。
夜遅いのにも拘《かか》わらず、駅は凄《すさ》まじい人混みだった。私たちと同じ衣装を身にまとった狩猟民の男たち。金属のタンクを背負った水売り。頭の上に果実の入った籠《かご》を載せた女。列車を待つ者に土産物を売り付けようとする、大きな箱を持った売子たち。駅で座り込み弁当を食べている家族。無数の人がそれぞれに大量の荷物を持ち、動き、走り、叫び、座り込み、寝込んでいる。
切符を買いに行っていたミロクが戻ってきた。なんだか酷いしかめっ面をしている。
「切符買ってきた?」
「切符はわしが買った」
「そうよね」
「さっきの服もわしが買った」
私は頷《うなず》く。
「何でわしが三人分の服やら切符やらを買わなきゃならんのよ」
「あたりまえじゃない。ミロクしかお金を持っていないんですから」
「でも」
「でもじゃないわ。考えてもごらんなさいよ。あなたの持ってるお金は私から騙《だま》しとったものじゃないの」
「それは云いっこなしだ」
「何勝手なこと云ってるのよ。ほら、列車が来たわ。乗りましょう」
遠吠《とおぼ》えのように汽笛が鳴った。コトがはしゃいで私の周りをぐるぐると駆け回った。
蒸気機関車だ。
左右に躰を揺らせ懸命に走ってくる鉄の塊。噴き上がる黒煙は生きた彫塑のように立ち昇る。それを見ているだけで心が浮き立った。
旅の始まりだ!
椅子に座って窓の外を見ている。
お気に入りの帽子の、ゴムが顎《あご》にくいこんでいるのを指で弾《はじ》きながら、窓の外を見ている。
誰かが靴を脱がせてくれた。
誰かが。
いつか見た旅の風景が思い浮かぶ。
真黒の汽車が駅に入ってきた。
感傷など吹き飛ぶ凄まじい勢いで、駅で待っていた人が汽車に走りよる。砂糖に群がる蟻でさえもっと礼儀をわきまえているのではないだろうか。私はコトを抱え、クビツリの手を引いて、必死になってミロクについていった。このようなことにミロクは慣れているらしく、人の間を小魚のように抜けていく。
「大丈夫!」
ミロクが叫んだ。
「わしらは一等だ」
ミロクの姿は人混みに呑《の》まれてすぐに見えなくなった。ミロクの消えた辺りに向けて、チータとジェーンを引き連れて濁流を泳ぎきるターザンの気分で私は進んでいく。
一等と書かれた車両をようやく見つけた。
他の車両に比べるといささか空いている。それでも朝のラッシュよりは少しまし、という程度だ。
「ここだ! ここだ!」
ミロクの声がした。見ると、扉を開けてミロクが手を振っている。近づくと、ミロクが扉に手を掛けて仁王立ちになっていた。
「こうでもせんと勝手に入って来て席をとられるんでな」
一等だからといって楽に座れるわけでもないようだった。
「コンパートメントじゃない!」
私は歓声をあげた。
「一度こんなのに乗って旅行をしてみたかったのよ。海外旅行は無理だろうから、せめて新幹線のコンパートメントにでも乗りたかったの。それがこんなところで願いが叶《かな》うなんて」
ミロクたちにはさっぱり理解してもらえないようだけれど、それでも一等をとって喜んでもらえたということぐらいはわかってもらえたようだ。
「よかったな、伸江」嬉《うれ》しそうに云ってから、ミロクは小声でつけ足した。「これが最後の奉仕だからな」
「何か云った?」
「何も……ああ、荷物は上の棚に上げて。ほら、クビツリ。おまえ背が高いんだからそういうことはさっさとする。こら、コト。走り回るんじゃない」
慌ただしく荷物を片付け、皆がほっと一息ついた。
とたんにミロクが鼻をひくひくさせ始めた。
さすがに密室の中ではクビツリの腐臭が鼻についた。
「あの、ちょっと空気を入れ換えて……」
遠慮しながらクビツリに話しかけると、他人への配慮などとは無縁なミロクが大声をあげた。
「頼む。窓を開けてくれ。クビツリが臭くてかなわん」
「ごめんね」
詫《わ》びながらも私は窓を開けた。
「すみません。あの、僕」
「気にすることはないわ。窓を開ければすむことですもの」
ミロクを睨《にら》む。
拗《す》ねた子供の顔でミロクはそっぽを向いた。
3
窓から乾いた風が入ってくる。夜の冷たい風だ。ここでも他の風輪の地と同じく、昼と夜の気温の差が激しい。私たち三人は、二枚しかない毛布をかけ、狭い個室の中で横になっていた。コトが布団の中にもぐり込んでくる。柔らかく暖かいその躰《からだ》を抱き締めた。ごととごとと、と列車は揺れる。その振動が心地よい。
私はこの世界のことを考えていた。ここに来てから様々なことがあった。あり過ぎたぐらいだ。そして気がついたらこの汽車に乗って横になっている。その間、何も考える暇がなかった、と云えば、そういうわけでもない。
私は考えることを放棄していたのかもしれない。考える前に感じることが無数にあり、それに五感を対応させるだけで精一杯だったのかも。
今こうして考えていると、相変わらず『この世界はいったい何なんだ』という大きな疑問は残されている。『何故ここに来たのか』とも思う。だが、それを考える前に、己れがこの世界を楽しんでいることに気づいていた。確かに恐ろしい目にも遭ったけれど、それは死にたいと思う辛さではなく、死にたくないという怯《おび》えだった。そうだ。あの時、この世界に来た時。あれ以前の生活を私は幸せだと思っていたのに。あの時私は『死にたいと思う辛さ』を感じていたのだろうか。今まで三十年以上暮らしていたあの世界。あれは『死にたいと思うほどに辛い世界』だったんだろうか。
そうかもしれない。
おそらく今までなら、そんなことは決して認めなかっただろう。
目醒《めざ》めればあの家かもしれない。そう考えると眠るのが恐ろしいような気もした。いつかは帰らなければならない。家族が心配しているからだ。帰りを待つ家族のことを思うと、多少は罪悪感を感じる。夜遊びの末に初めて外泊する子供の気分。そんなことは一度だってしたことはないのだけれど。
これは私の秘密の旅行だ。家族には許してもらおう。許してくれないかもしれない。誰が。そう、夫の孝が。でも、仕方ないわ。そう、仕方ない。仕方ないのよ。
そう繰り返しているうちに、どんどん眠くなっていく。ずるりと滑り込むように眠りに落ちていく。汽車の揺れは最も心地よく眠りを誘うのだ。
その時だった。
大きな音がした。
獣の吠えるような音だ。そう思いながらも、私は覚醒《かくせい》と眠りの狭間《はざま》にいた。もう少し寝かせて欲しい。もう少しだけ。
それでも何かが吠《ほ》えている。
うっすらと眼を開けた。
窓から入る月明りだけの薄暗い中で、男が暴れていた。吠えているのはコトだ。その男に向かってコトが吠えている。
「誰」
灯《あか》りを点《つ》けた。
男はミロクだった。照れ笑いを浮かべて私を見ている。コトが吠えるのを止めた。
「何をしてるの」
何しろ狭い個室でのことだ。クビツリも目醒めて半身を起こした。
「どうしました」
「ミロクがどうかしたらしいの」
「わしは何もしていない。それを、この馬鹿が」
「馬鹿じゃないわ。コトよ」
「そのコトがだな、わしが寝てたら急に……」
「寝てた、ね」
伸江はミロクを頭から足元まで見た。すっかり旅支度が整っている。
「汽車は走ってるのよ。いったい何処に行こうとしてたの」
「……北の」ミロクは声を落とした。「北の聖のところにいくのは危険だよ。危ない」
「ミロクは納得してたじゃない」
「納得なんかしてないぞ。みんなが勝手に決めたんだ」
「それで走る汽車から逃げ出そうとしたの?」
ミロクは頷《うなず》いた。
「前に一回やったことがあるんだ。汽車から飛び降りてさ」
「無賃乗車したんでしょ」
「まあ、そんなところだ。もういいだろ。勘弁してくれよ」
欠けた歯を見せてミロクは笑った。
「呆《あき》れた。あなた、確か切符を全部持ってたわよね」
懐からミロクは三枚の切符を取り出した。
「あなたがそれを持って逃げたら、私たちが無賃乗車で捕まるところだったのよ」
悪びれる様子もなくミロクは頷いた。
「あなたって人は!」
しっ、とクビツリが人差し指を唇に当て、囁《ささや》いた。
「聞こえる」
真夜中だ。汽車のしゅうしゅうと蒸気を吐く音。ごうごうと鳴る風。機関部のたてる重々しい響き。
その中に紛れ、がしゃんがしゃんと太い鎖を鳴らすような音がする。
「何だあれ」
云ったミロクの口を押さえた。
コトが躰を平たくして攻撃の姿勢をとっている。
音は近づいてくる。
がしゃん、がしゃん、という金属音は、部屋の前で止まった。
私は布で包《くる》んだ剣を取り出した。馬頭の持っていた剣だ。自分でも驚くほどに冷静だった。
ノブがゆっくりと回る。
鍵《かぎ》をかけているから、それだけで開きはしない。それでもそれは扉を開けようとする。
がちゃ、がちゃ、とノブが音をたてた。
それは次第に大胆になり、二、三度扉を引っ張ったかと思うと、ふいにノブを引き抜いた。
ミロクがあっと声を上げた。
扉が大きく開かれる。
扉から中に入りきらず、それは上半身を部屋の中に突き出した。
ロボットだ。私は初めそう思った。ロボットのカマキリだと。
三角の頭に、飛び出したレンズのような眼。アンテナのような短い触角。頭と同じ三角の胸から、腕と脚が生えている。複雑な関節を持った刺《とげ》だらけの脚と、同じく多関節の腕の先は大きく鋭い鎌になっている。部屋に入りきらない胴体はブリキ製の蛇腹のようだ。そして躰全体は、趣味の悪い塗装屋の色見本のようなぴかぴかのエメラルド・グリーン。
「まさか……昆人《こんじん》」
ミロクが唖然《あぜん》とした顔で云った。
「昆人って何」
「説明している間があると思うか」
ミロクの云うことは正しかった。
云ったミロクに鎌が振り降ろされる。逃げ足の素早さだけは人後に落ちないミロクは、危《あやう》いところでそれを避けた。
鎌が毛布をきれいに切り裂く。
私は飛びかかろうと暴れるコトを胸にしっかり抱いている。
もう一方の鎌が振り上げられた。
まさか、と思う素早さでクビツリがそれに飛びついた。
「今だ、伸江。逃げるぞ」
ミロクが荷物を次から次に窓から外に投げ捨てる。それを終えると自分も窓枠に脚をかけた。
「お先に」
一声掛けて、ミロクは窓から消えた。
「待ってよ。クビツリさんが」
「僕は大丈夫。早く、伸江さんも」
クビツリはその奇妙な生き物の両腕を掴《つか》んでいる。その腕が少しずつ押され、クビツリはブリッジに入る体操選手のように背を仰《の》け反らせ始めていた。
「早く、早くしてください。僕も逃げますから」
それを聞き、思い切って窓枠から躰《からだ》を乗り出した。抱えたコトが不安そうに目鼻を集中させて私を見ていた。
外は闇だ。
何も見えない。
せいの、と自分で声を掛けて外に飛び出た。自分が剣を持っているのに気づいたのはその時だ。危ない、と思いはするがどうしようもない。そのまま宙を跳び、跳んだかと思うと、どん、と地面に打ちつけられた。コトだけはしっかりと抱いていた。しかし、剣がない。
ひゃあ、というミロクの悲鳴が聞こえた。見るとミロクの真横に長剣が突き立っていた。
「何すんだよ」
「ごめんなさい」
剣を抜き、今自分の出てきた窓を見つめた。そこから飛び出す影が見える。
間違いない。クビツリだ。
「やった」
私はクビツリが飛び出した辺りをめがけ走り出した。コトが後をつけて駆けてくる。
人のことを心配している場合ではなかった。
クビツリの逃げ出た窓から、悪趣味な緑の塊が飛び出した。それは月明りに照らされ、エメラルド・グリーンの翼を広げた。
「飛んでるわ……」
立ち止まり、それを見た。
後ろから全員の荷物を抱えてよたよたとミロクが近づいてきていた。が、翼を広げ飛んでくるそれを見ると、踵《きびす》を返して逃げ出した。
クビツリが必死になって私に向かって走ってくる。その後ろをスーパーマンよろしく、鎌のついた両腕を突き出して昆人が飛んできた。クビツリは懸命なのだが、ぎくしゃくとしたいつもの走り方では逃げきれそうにもない。
コトが唸《うな》った。
両手で剣の柄をしっかりと握った。
大きく深呼吸する。
「コト、行くわよ」
地を蹴《け》った。
長剣を上段に構え、走る。
これは夢だ。夢に決まっている。そうよ。ここに来た時からすべて夢。死にはしない。夢の中なんだから。私は傷一つ受けない。これは夢なんだから。大丈夫。夢の中では何でもできるのよ。これは夢よ。これは夢。
そう思いはするのだが、剣が重い。
重いのはわかっていたが、柄を両手で持って支えると、切先が持ち上がらないほどだ。
夢ではないぞ、と剣が嘲笑《あざわら》っているようだ。
コトの遠吠《とおぼ》えが聞こえる。
クビツリが走ってきた。その姿がすぐ前に迫っている。
クビツリの真後ろから近づく昆人の鎌が、空中から彼を襲った。刃先がその肩をかすめる。肩にぱっくりと傷口が開いた。
しかし、クビツリは表情一つ変えず、私の足下に頭からスライディングした。
クビツリの姿が消え、空飛ぶ昆人の三角の頭が見えた。
滑り込んだクビツリの頭を越え、私は跳んだ。跳びながら剣を振り降ろした。
それとほぼ同時にコトも跳ねた。
剣は昆人の鎌に軽々と払われる。
その隙にコトが昆人の首筋に噛《か》みついた。しかし金属の肌相手ではコトの牙《きば》も、文字どおり歯が立たない。
昆人は首にコトをぶら下げたまま私の頭上を通り過ぎ、走るクビツリを追う。
私も振り返り、走る。着地の瞬間にはあいつにも隙があるかもしれない。
走る、走る。
ただひたすら走る。
息もせず走る。
昆人の脚が地につく寸前に追いついた。
その気配に気づいたのか、昆人は首だけで振り返る。
ほとんど同時に、私は剣を突き出しながら、飛びかかった。後先のことは考えていなかった。
切先が昆人の右眼を貫いた。どろりとした体液が流れる。
そのまま、ぐいと剣を押した。
泥に棒をつっこむような感触があった。
昆人が腕を、その巨大な躰ごと私の方へ向けた。
びゅんと鎌を振る。
私は柄から手を離した。
ひい、と情けない声を上げてしゃがみ込む。その頭上をかすめて鎌が通り過ぎた。
その直後、昆人の後ろから何かがその背に飛びついた。
クビツリだ。
クビツリは昆人の首に腕を回し、躰に比べて小さなそいつの頭を力一杯ねじった。昆人は鎌を振り回し暴れるが、クビツリは両脚で昆人の胴を挟み、離れようとはしない。
昆人の鎌は、己れの背中に届きはするが、力があまり入らないようだ。それでも鎌は鋭く、クビツリの背はたちまち傷だらけになっていく。
何度も振るうちに、とうとう大振りした鎌がクビツリの首に命中した。
凄《すさ》まじい鎌の切れ味だった。
クビツリの首が引き裂かれる。
頭にかぶせた布ごとクビツリの頭はごろりと切り放され、地に落ちた。
「クビツリ!」
叫んだ。
頭が真っ白になる。
背中にクビツリの胴体、首にコトを果実のようにぶら下げたまま、昆人が近づいてくる。
逃げろ。逃げるべきだ。逃げなきゃ、逃げなきゃ。
唸りをあげて、鎌が……。
私は後ろに尻餅《しりもち》をついた。
びゅううっ、と鎌が再び頭上を薙《なぎ》る。
昆人が近づいてくる。
のしかかるように、ゆっくりと。
楽しんでいるのか。
馬鹿にしているのか。
鎌を私の喉《のど》に当てようとする。
やってやる。
やってやろうじゃないか。
クビツリは私の友達なんだぞ。
触れるだけで切れるに違いない鎌のついたその腕を掴《つか》む。
で、押し上げる。
無駄だとでも云いたげに、楽しむようにゆるゆると刃先が首筋に近づいてきた。
到底それを押さえきれるものではなさそうだ。
これは夢だ。
そう夢だ、夢に違いない。
眼を閉じ呪句《じゆく》のように何度も唱えていると、ふっと昆人の腕の力が抜けた。
えっ、と目を開くとその躰がぐったりともたれかかってきた。
うわあああ、と叫び暴れ、私は昆人の躰の下から這《は》い出た。
眼の前に立っているのはミロクだった。
立ち上がり、見ると昆人の頭は、後ろから岩をぶつけられてへしゃげていた。
「これでさっきのは帳消しな」
抜けた歯を見せ、ミロクは笑った。
「クビツリが」
思い出した。
クビツリだ。
私は走り、クビツリの首が転がっているところに行った。
あった。
クビツリの首。
私はそれを抱き上げた。
「悪いけど、胴体のところに連れて行ってもらえませんか」
その首は照れ笑いを浮かべながら云った。
4
ミロクとクビツリから、昆人《こんじん》の説明を聞く。
昆人――それは水輪に棲《す》む生き物だ。元は人間だという。
人の中には、己れの肉体を激しく嫌悪するものがいる。それは食欲と性欲と排泄《はいせつ》の源だからだ。現世的で、醜く、魂にとっては邪魔者でしかない。そう考える者が激しく肉を憎悪すると、人は昆人になる。
しかし何処でもというわけでもない。それは水輪でのみ、起こる。
昆人になることを水輪の地では『金の器を得る』と云う。しかし昆人になっても、高い見識や美を見つめる心がなければ、風輪の森にいた蝉人《せみひと》のように退化し、人の魂までも失ってしまうのだという。
しかし、とミロクは云う。
「昆人ってのは本来、神聖なものだから、あんな、人を殺そうなんて考えるものはいないはずだぞ。たとえどんなに退化してもな」
線路沿いに私たちは歩いている。
月明りだけが頼りだ。雲が出ると右も左もわからなくなってしまう。
「それじゃあ、あれは何なの」
何故か昆人を弁護するミロクに、私は腹が立つ。
「あれは蟷螂人《とうろうびと》といって、やはり徳の高い昆人なんだがな。でもな、わしの知ってる蟷螂人はあんな鋭い鎌は持ってなかったぞ。こう、刃が尖《とが》ってないんだ。だからいつでも手を合わせて祈りの姿勢になっている」
「こういうことは考えられませんか。今の昆人は非天《アスラ》の配下に入っていると」
服をとめていたピンで伸江に首をつけてもらったクビツリは、前よりも頭が揺れなくなっていた。
「考えられんね。昆人は人より数段優れているんだ。非天に逆らっても、従うなんて……」
「でも、他の天でさえ非天には逆らえなかったんでしょ。いわば聖人である昆人が非天に逆らえるかしら」
「う、うん。そうだな…………」
ミロクは黙ってしまった。
「今のは偶然の事故じゃない。あの蟷螂人は僕らを狙っていた。そうでしょう。それならやはり、昆人は非天の、あるいは牛頭の手下だと考える方が筋がとおっていますよ」
「もしそうだとしたら、どうして私たちがあの列車に乗ってるって知ったのかしら」
「それなんですが。僕はあの時のハシリダンゴが怪しいと思うんですよ」
「わかった!」
私はぽんと手を打った。
「あのハシリダンゴが蚊で牛頭に知らせた。あれはスパイだったのね」
「スパイってものがどんなものかは知りませんが、おそらく牛頭はハシリダンゴを飼い慣らして、自由に使っているんじゃないかと」
「どうせ非天の術だろうさ。もしそうなら、もう汽車は使えんな。バクトラでも誰かが待ち伏せしてるだろうし」
ミロクは溜息《ためいき》をついた。私もつられて溜息をつく。ついでにコトも。
「これでも北の聖に会いに行くのか」
怒ったような眼で、ミロクは私を見た。
その眼を見返して私は云った。
「そうよ。行くわ」
ミロクは呆《あき》れた、という顔を見せ、肩を竦《すく》めた。
「今どの辺りか正確にはわかりませんが、カピシーを出てからそれほど時間は経っていないでしょう。それなら少し回り道になりますが、ガズの村によってみましょう。ガズは小さな村だし、北への道からは少し外れていますから、牛頭も警戒していないかもしれない。このまま歩いてバクトラに行くのなら、装備も食料も足りません。だからガズで買い足して、少し休んでから行きましょう。夜明けにはガズに着きますよ」
「『夜明けにはガズに着きますよ』か」
ミロクはクビツリを真似て云った。
私は精一杯凶悪な顔でミロクを睨《にら》んだ。
「何処でも行くぞ!」
ヤケクソになってミロクは叫んだ。
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real-6
銀行で振り込みをして家に帰ってきた。年金生活の大和田にとっては、ぎりぎり毎月支払える額だ。家計をすべて把握しておいて良かったとつくづく思う。妻に用途を聞かれて、そう簡単には答えられないだろう。
息子を殺害した犯人を殺すための金だ、とは。
相変わらず子供番組が流れている。「おねえさん」と「おにいさん」が元気に歌い踊っていた。
座椅子で伸びをした、その途端に電話が鳴った。思わず、ひぃ、と息を呑《の》む。いつまで経ってもこの音には慣れない。
妻はどうやらまた気づいていないようだ。もしかしたら耳が悪くなったのかもしれない。あるいは惚《ぼ》けたか。
電話まで身体を伸ばし手を伸ばし、ぎりぎりで受話器を手にした。身体を座椅子に戻すだけで、ふむ、と力なく声が漏れた。
『大和田さん』
聞き間違いようのない特徴のある声だ。
「どうしました」
『吉報です』
「見つかりましたか」
つい勢い込んで尋ねる。
『ははは、まだ犯人にまでは至っていませんがね。しかし、だいぶ近づけたようです。まずはですね、あの川に捨てられていた浮浪者。どこで殺されたのかがわかりました。あの上流の河原にね、テントがあるんですよ。テントといっても、防水シートを張っただけの粗末なものでね』
「あの浮浪者の住処《すみか》ですか」
『いや、別の浮浪者です。これまたあのへんでは有名人らしいですよ』
「凶暴な奴ですか」
『いや、こちらはいたって無害でね。にも拘《かか》わらずライオンと呼ばれていたらしいですが』
柳瀬はさも可笑《おか》しそうに笑った。
『近所で残飯をあさったり、段ボールを集めたりで、何も迷惑を掛けたことはないそうです。バブル崩壊のあおりでああなったんじゃないかって、その男が河原に住み始めた頃から知っている人が言っていたなあ。気の毒にってね。つまりまあ、同情されるような人柄だと、そういうことでしょうか』
「それでその男が――」
『ライオンですよ』
「……ライオンが事件にはどう関わってくるんですか」
『それですよ、大和田さん。ライオンはテントからいなくなっていた。テントの中は一応洗ったりしていたらしいですが、それでも血の臭いさえ消えていなかったようです』
「それじゃあ、そのライオンが殺したと」
『んん、それはまだどうかわかってはいません。ですがね、消える数日前、ライオンが女といるのを見たという人がいるんですよ』
感想を聞くだけの間を、柳瀬は開けた。
「それが犯人ですか」
『可能性が高い。女がライオンのテントに現れたのは犯行のあった翌日から。そして第二の殺人があった夜、二人が街を出ていくのを目撃した者がいる。ライオンという男か、あるいは女が犯人か、それはまだわかりませんが、この二人が息子さんの事件に関わっているのは間違いない。間宮さんなんかは二人の共犯説ですね』
「なぜ、息子はそんな二人組に殺されなきゃならんわけですか」
『私に怒られてもねえ』
「あっ、すみません。つい」
『動機はまだ未定です。だが物盗《ものと》りじゃない。物盗りはあんなにめった刺しにしない。死んだ浮浪者は喉《のど》を裂かれていた。ざっくりとね。多分それで死んでいたはずだ。にも拘わらず、それから何度も刺している。傷口はなんと三十九カ所。尋常じゃない。普通考えるなら恨みでしょうね。しかし大和田さんの息子さんと、浮浪者の間につながりはない。やはり私が見込んだとおり、頭のおかしな連中の仕業ですよ』
そうだろうか。
大和田は思う。息子と犯人たちの間に何も関わりがないのだろうか。柳瀬は初めから狂人の仕業だと言っていた。だから声を掛けたのだと。そのような犯人が許せない柳瀬の気持ちは充分に理解できる。しかしその気持ちが、犯人像を歪《ゆが》めているのではないかとも思っていた。しかし、柳瀬の意見だけで犯人を探し出そうとしているのではない。元警官である間宮がついている。いざとなれば彼が軌道修正をしてくれるはずだ。
結局のところ、大和田はこの二人を信用していたのだ。でなければ、ネットワークの参加費用と称する金をすんなり支払ったりはしない。
『ここまではほとんど警察から得た情報です。いずれはテレビなどで報道されることがほとんどですよ。警察も、二人がどこに向かったかはまだわかっていません。聞いてますか、大和田さん』
「ええ、もちろん」
『ですがねえ、もしかしたら私たちが警察を出し抜ける可能性があるんですよ。というのは、我々のネットワークは警察とはいわないが、それなりに全国的な組織です。それは、基本的に心に傷を負った者たちが作る家族のような団体です。お互いに助け合う気持ちは強い。大和田さんも、何かできることがあるなら手を貸してくださるでしょ。もちろん傷ついた被害者の家族が助けを求めている場合に限りますが』
大和田にはその信頼関係がとても好ましいものに思えた。
『そのような心強い仲間からの連絡でね、実はライオンの本名がわかっているんですよ。多田美津夫と言いましてね。彼が働いていた工場の同僚というのが、ネットワークに偶然引っかかってきたんですよ』
「それは……素晴らしい」
『そう、素晴らしい。大和田さん、あなた運がいいんだ。ついてるよ。こういうときは必ず上手《うま》くいく。間違いありませんよ』
柳瀬は自信たっぷりにそう言った。
彼にそう言われると、それはとても信頼できる台詞《せりふ》のように思えた。心強かった。
「感謝していますよ」
大和田はそう言って電話を切った。
埃臭《ほこりくさ》い部屋。
それでも昼の間は窓を開いていた。だが長年の間に溜《た》まった埃は、誰かが動くたびに海底の砂のように、もわり、と舞い上がるのだ。
ベッドがある。
入院施設のあった病院なのだから当たり前だが、埃を払うと意外なほどきれいなベッドがあった。
「めっけもんだよな」
ここに泊まって二日になるのだが、ライオンは毎晩その台詞を言ってから横になるのだった。
病室にベッドは二つ。
もう一つのベッドに横たわる女を盗み見る。
ぐっすりと眠っているように見える。
その柔らかな腕を思い出した。
暖かな湿った身体を思い出した。
真っ白の肌を思い出した。
じわじわと股間《こかん》が重みをます。
最近では毎日のように勃起《ぼつき》しているのだが、未《いま》だにそれが嬉《うれ》しくて仕方ない。にやにやとだらしなく笑ってしまう。
ライオンは上体を起こした。
女の様子を窺《うかが》う。やはり眠っているようだ。そのまま、じっと女を見ていた。ますます重みを増したそれが、パンツの中で寝返りを打つ。
毛布をはね除《の》け、ベッドから降りた。
すり足で、女のいるベッドに向かう。
ほんの二、三メートルの距離だ。
それをゆっくりと横断していく。膝《ひざ》を折り背を曲げた姿勢でゆっくりとゆっくりと。まるで前衛的な舞踏のようだ。
ようやくベッドにまでたどり着いた。
片手でズボンを押し上げているそれを掴《つか》む。
女の顔に近づいた。
寝息が聞こえた。
寝息だと思った。
その目がしっかりと開いた。
おお、と喉に何かを詰めたかのような声をライオンはあげた。慌てて股間から手を離し、仰け反るように後退する。
「違うよ、違うよ」
両手を広げ、壁でも塗っているかのようにぐるぐる回す。
「違うて。ほんとに違うて。わしは何もしてないて」
女が口を開いた。
悲鳴を上げるのだ。
ライオンはそう思った。
だが女は言った。
「来るわ」
「えっ」
拍子抜けした声でライオンが言う。
「奴らが来る」
「奴らって誰よ」
「奴らよ。逃げなきゃ。ここから逃げなきゃ」
女はベッドから抜け出して靴を履いた。ライオンが拾ってきた赤いスニーカーだ。
「早く。急がなきゃ駄目。もう奴らは近くまで来ている」
急《せ》かされると何となくライオンも慌て始めた。
わずかばかりの荷物をまとめ、ここで手に入れた毛布を羽織った。女の背にも毛布を被せる。まだまだ夜は冷えるのだ。
「急いで。急いで」
その言葉に押されるように、ライオンは部屋の扉を開いた。
遠くで声がする。
「ひゃあ、きったねぇよ」
「うんこ、踏んだか」
下卑た笑い声の合唱。
「あひっ」
情けない声をあげたのはライオンだ。
その声の主がおそらく若い連中であることに気づいたのだ。彼を石ころのように蹴《け》り続けた若者の同類である、凶暴な恐ろしい連中。
女の手を引いて、再び部屋に戻った。
扉をそっと閉める。
「逃げるよ」
女の顔を見て、愛想笑いを浮かべながら言った。本当はどうしていいのかわからなくなっていた。
「こっち」
手を引いたのは女の方だ。
ライオンの手首を掴み、窓の方へと近づいていく。
窓を大きく開いた。湿った冷たい風が吹き込んできた。
見下ろせば、枯草で溢《あふ》れたかつての庭が見える。
「ここから、か」
ライオンが尋ねた。
「ここから逃げるのか」
女が頷《うなず》く。
下を覗《のぞ》いた。ここは二階だ。下も舗装された地面ではない。落ちてもよほど運が悪くなくては死ねないだろう。
だが彼には飛び降りる決心が付かない。
悲鳴がした。
少年たちの悲鳴。
そして大声で怒鳴りあっている。
「死んでる!」
「ぐえっ、ひでぇな」
「手首手首!」
「いるぞ。きっとまだここにいるぞ」
「探そうぜ。俺たちで退治してやる」
「そりゃあいいや」
笑い声。
「探し出して、警察に引き渡してやろう」
「その前にやっちまっていいんじゃないの」
またまた笑い声。
「探せ!」
叫んだ。
「変態の殺人鬼野郎を探せ!」
声はどんどん近づいてきている。
「早く」
女はライオンの身体を窓へと押し上げた。
「わあ、止めてくれ」
ライオンが言う、その声が聞こえたのか、あっちだ、と呼び合う声がした。
物のように殴られ蹴られた恐怖が甦《よみがえ》る。
心臓がぐるりとひっくり返った。
心音の高まりそのままに、大慌てで窓枠に手を掛け、脚をその上に乗せた。
上を見る。
輝く弓のような月を。
夜のにおいを嗅《か》いだ。
と、その時、後ろから押された。
あっと言う間もなく、ライオンは窓から落ちた。
枯れた雑草の束の上に落ちる。続けて女が飛び降りてきた。ライオンの横に見事に着地する。
「忍者みたいだ」
感心するライオンを、女は立ち上がらせた。
「大丈夫?」
女が言う。
「大丈夫だとも」
歯の欠けた口を開いて、ライオンは微笑みかけた。
「あそこだ!」
頭上から声がした。
いかにも頭の悪そうな顔の少年たちが下を見、指差し、大騒ぎをしている。
「走れ」
女に言うと同時に、ライオンは走っていた。すぐに女に追い抜かれた。女の背を見ながら必死になって走った。ここ十数年、これほど真剣に走り続けたことはなかった。
夜の闇は二人に味方していた。
少年たちが次々に窓から飛び降りた頃には、二人の姿は闇の中へと消えてしまっていた。
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第六章 最後のチカラビト
1
祭だった。
一晩掛かってたどり着いたガズの村は、カピシーの駅とさして変わらぬほど、多種多様な人間で溢れていた。立ち並ぶ露店をひやかす客の中には、馬頭《めず》のところで見た軍服姿の兵士までもいた。
私たちは、頭からすっぽりかぶった布を更に目深にかぶり直し、顔を隠していた。
「話が違うじゃないか」
ミロクがこぼした。額から流れる汗をしきりに拭《ふ》き取っている。
「僕も知らなかったんです。なにしろ……」
「長い間死んでたからか。聞き飽きたよ」
ガズはすっかり様変わりしてしまった、とクビツリは嘆いた。これは狩猟の民の村ではない、と。かつてガズはクビツリと同様の狩猟民たちの村だったのだ。狩猟民の村がどのようなものか、結局私は見ることができなかったのだけれど、廃墟《はいきよ》となっていた、あの村の残骸《ざんがい》を見ただけでも雰囲気はわかる。質素で静かな村であったに違いない。
ところがこの村は、この世界に来て私が初めて訪れた町ナガラハーラに似ている。声高に喋《しやべ》る雑多な人々。猥雑《わいざつ》な荒々しさ。活気がある、とミロクが評したナガラハーラに。
町に活気があることはいいことだ。私にしてもこの町の活気に高揚する気分があるのは否定できない。でもどうしてか私はこの村の雰囲気が好きにはなれなかった。
この村の持つある種の力が、人の持つ『良い』特性の一つ、つまりは活気と呼ばれるものから生まれたのは間違いないと思う。しかしその活気を生み出している何か、猛々《たけだけ》しい生命力とでも云うしかないそれは、ある種の暴力的な色彩を含んでいた。それは私がナガラハーラを恐ろしいと感じたのと同種の色だ。ナガラハーラでは実際に暴力をふるわれ、恐ろしい目にもあったのだけれど、ここもそれと同じものを秘めている。活気溢れる村のどこかがぷつりと裂ければ、昏《くら》く禍々《まがまが》しいそれが顔を覗かせるに違いない。私にはその怪物の姿が見えるような気がする。
クビツリの嘆きは、しかしそんな私の恐れとはまた別種のものだった。
「ほら、見てごらんなさい」
クビツリが汚らわしいものを見るような顔で、頭上に大きく掲げられた看板を指差した。そこには〈護法神《チユウキヨン》カウマーリーの村にようこそ〉と赤い文字で書かれてあった。
「僕たち狩りを生業とする者はその護法神が何であるかを、決して村の外の人には言いません。それは村の禁忌ですから。それがここじゃあ、呼びものになっている。狩猟の民が夏にする祭をタマの祭といいます。ここで行われているのもタマの祭のはずです。タマの祭も他の祭事と同じくそれぞれの村の護法神を奉ります。そしてその護法神の名は決してあかしてはならない。それがここでは」
己れ自身が禁忌を侵して死ぬにも死ねないクビツリが、禁忌を侵す村の存在に腹を立てていることが、私には何となく滑稽《こつけい》に思えた。だから、つい口に出してしまった。
「でも、余所者《よそもの》に口外していけないのなら、クビツリさんは私たちにどうして村の祭の話をしたの?」
「それは……僕はもう死んでいるし、長い間森の中に吊るされていて、助けてもらったのが嬉《うれ》しかったし、それまでの間、ずっと祭のことばかり考えていたし、久しぶりに人と喋ったし、それに……」
確かにそれが正直なところだろう。もともと彼は村の掟《おきて》から外れたところにいたのだ。久しぶりに人と話し、頭の中にあったことをすべて口にしてしまっただけのことだろう。もしかしたら話してしまったことに対し多少の罪悪感があったかもしれない。もともと掟とは縁なく育ち、村から疎外されていた劣等感もあっただろう。ガズの村の変貌《へんぼう》に対する怒りはクビツリのそんな近親憎悪のようなものなのかもしれない。
伸江にもその気持ちが何となくわかった。わかってそれを責めるのはあまりにも大人げない。ここに来てから子供になったような気分でいたけれど、そのようなことまで子供にならなくてもいい。
私は頭を下げた。
「ごめんなさい。責めるつもりはなかったのよ。ただ、本当にどうしてかって思っただけなの」
「そうですね。僕は確かに村の掟を破った人間だ。でも、掟を破れば報いがある。ぼくのように。だから、決して村をこのようにしてはならないのです……しかし、どうしてこんなことに」
「そりゃあ、おまえ。ここの村の方がおまえの村よりも賢かったってことさ」
ミロクが馬鹿にしたように云うと、クビツリは珍しく言葉を荒らげた。
「何だって」
「つまりな、この村じゃ牛頭《ごず》の云いなりになったってことよ。だから無事だし、活気のある村になった」
「どうしてそんなことがわかるんだ」
怒った口調で云うクビツリに、からかうようにミロクが答えた。
「見ればわかるじゃないか。ただの小さな村が何で繁盛しているか。軍人たちと城塞《じようさい》の工事に関わる人間でいっぱいだ。狩人《かりゆうど》の村がこんな風になる原因を、そう沢山考えつくもんじゃないだろうさ」
繁盛している店の前には、この炎天下にも拘《かか》わらず行列ができていた。それぞれに汗を拭《ぬぐ》い、用意のいいものは水筒から水を飲んでいる。ここぞとばかり水売りが売り声をあげていた。
これは屈服し、何かを売り渡して得た活気。ランパカの民が死守した何かを捨て去って得た活気。その活気に溢《あふ》れた祭が、私には急に空恐ろしいものに見えてきた。裂けた亀裂《きれつ》から吹きつける怪物の息吹を感じる。できればすぐにこの村を立ち去りたかったのだが、私たちは昨夜から眠っていない。この村を素通りして、更に旅を続ける気力は、少なくとも私にはなかった。どこかに宿を取る必要がある。そしてこれからの旅支度を整える必要もある。
私たちは最後の気力を振り絞って、宿屋を探した。
2
三階建ての小さな宿屋。その最上階のまだ上。ペントハウスと呼ぶよりは物置に近い部屋に、三人が並んで横になっていた。
部屋は狭い。しかも窓がない。風輪の地の暑さは、屋上につくられたこの部屋をオーブンのように熱していた。
出口の扉のそばに大きな水瓶が置いてある。暑くなったら、その水瓶から水を汲《く》んで部屋の屋根にかける。すると一瞬、暑さをしのぐことができる。ほんの一瞬のことなのだけれど。
私は眠ろうとしていた。昨夜は徹夜で歩き通しだった。さあ、寝るぞ、と意気込んで横になったのだが……。
「暑い!」
ミロクが叫んで飛び起きた。
「わかってるわよ!」
私も躰《からだ》を起こした。隣ではコトが溶けたアイスクリームのようになって眠っている。
「買い物の前に休憩だと云ったのはミロクでしょ。黙って横になってなさい」
「三人が横になったら一杯の部屋で、昼間のお陽さんが照ってるこの糞暑《くそあつ》い時間に、どうして眠れるよ!」
「ミロクが決めた部屋よ」
「金がないから仕方ないだろが」
「もうお金がないの?」
「まったく、なんにも、すっかり、ない!」
「でも、どうせ私のお金じゃない」
「わしのもあった」
私たちは、しばらく黙って互いの顔を見合っていた。
「本当にないの」
「本当にない。おい、クビツリ。聞いてるか!」
ミロクが大声出しながらクビツリを揺すった。
「ああ、はい。起きました」
クビツリは手の甲で眼をこすった。
「何でおまえは死体なのに眠る。飯も食わなきゃ、糞もしないのに。どうして寝るときだけ人並みに寝られるわけよ」
ミロクはクビツリに掴《つか》みかかりそうな勢いだ。眠いのに眠ることができないと、人は凶暴になる。
「どうしてでしょうね。眠ることと死ぬことが似てるからでしょうか」
「わけのわからんことばかり云いやがってよ。聞いてたか。金がないんだ。金が。おまえを見世物にして稼ごうか」
「いいですよ。それで金になるなら」
「いいって云ったな。今、いいって云ったな。よし、おまえを見世物に売ってやるから、ついてこい」
ミロクはクビツリの腕を取って引っ張った。
「ちょっと待ってよ。何を馬鹿なこと云ってるの」
私はミロクの腕を掴んだ。
「ああ、暑い!」
手を振りほどき、ミロクは外に飛びだすと水瓶《みずがめ》の水を頭から掛けた。絡みあった白髪から水をしたたらせながら、次に柄杓《ひしやく》で水を飲む。喉《のど》を鳴らして飲み終わったら水を屋根に浴びせ始めた。その間、暑い暑いと怒鳴り続けている。見ているだけで暑くなるような気ぜわしさだ。
いたたまれなくなって、クビツリが外に出た。
「あの、陽が暮れるまで、僕、外に出ていましょうか」
すまなさそうにしているクビツリに、私は苛立《いらだ》った。理不尽だとは思うのだけれど、見ていると歯痒《はがゆ》くて仕方ない。眠れることが悪いのではないのだから、云い返せばいいのにと思う。それから、ふと気がつく。私もそう思われていたのだ。云い返せばいいのにと。それをただ黙って私が悪いのだと思い込んでいる人間は、周りから見ると醜く見えるのかもしれない。厭《いや》な厭な人間に思えるのかもしれない。私がそう思い苛立っているように。
私は部屋から出た。
「それがいいみたいね。どうせ眠れそうにないし町を見物していましょうよ。お金のこともいい考えが浮かぶかもしれないから」
やだね、と駄々をこねるとばかり思っていたら、ミロクは素直に外に出る支度を始めた。そうとう、この部屋の暑さが応《こた》えたのだろう。
町に出れば相変わらずの賑《にぎ》わいだった。
すぐにミロクが暑いと騒ぎ出した。
「暑いのに水を飲む金もない。わし、日干しになって死ぬぞ。きっと死ぬぞ。間違いなく死ぬぞ。絶対死ぬぞ」
遠くに呼び込みの声が聞こえた。
「あれは何かしら」
子供の気をそらせるのと同じだ。私は声のする方へと歩いていく。ミロクは、どれどれと後ろからついてきた。
「三番の環《かん》でチカラビトの始まり、始まり」
高い木塀の前に台を置いて、派手な身なりの男が濁声《だみごえ》で客を呼び込んでいた。
「金がいるぞ、伸江。あれを見たければ金がいるんだ」
ミロクが下から私を睨《にら》む。
「恨みがましい眼で見ないでよ。お金は私だけで使ったんじゃないんだから」
「あのう、塀を越えて入ってみましょうか」
クビツリが真面目な顔で云った。
「あのな、クビツリ。頭、腐ってるからっていって、適当なこと云うんじゃないよ……」
そう云いながらも悪だくみの顔でミロクはしばらく考え込み、詐欺師の笑顔を浮かべて手を打った。
「よし。そうしよう」
ミロクに呼び寄せられ、私たち三人は頭を揃えて囁《ささや》き合う。
相談はすぐにまとまった。
私はミロクと一緒に呼び込みのすぐそば、入口の近くまで行って何気なく立ち話を始めた。
クビツリはそれより少し離れたところで、カカシのように立っている。ぼうっとしているようだが、視線は塀にピンで止めたようだ。
ミロクが欠伸《あくび》した。
それが合図だった。
クビツリが駆け出した。
助走をつけ、塀めがけてジャンプする。
塀の上に両手がかかった。脚をばたばたさせ、クビツリは塀をよじ登ろうとする。
呼び込みが台から降りて、クビツリのところに走った。塀の中からも何人か、ばらばらと飛び出してきた。
私とミロクは示し合せたとおり、その隙に塀の中に入口から堂々と入り込んだ。
満員だった。
肩で人をかきわけながら、ミロクは前に前に進む。その後を私はコトを抱いて追った。
いつの間にか一番前までやってきた。
ミロクの強引さは無礼といえばこれほど無礼なことはないのだけれど、後ろからついてきている以上、私にも文句はいえない。
「クビツリさんは大丈夫かしら」
「大丈夫、大丈夫。死人に怖いものなしだ」
ミロクの提案にクビツリはすぐに賛成した。それを見て私も「まあいいか」と思ってしまったのだ。その時はクビツリの態度がじれったく、かえって意地悪な気分になったのだけれども、いまさらになって気が引ける。
「でも、クビツリさんだけ見られないのは可哀想で」
「可哀想なら初めからしなきゃいいじゃないか」
ミロクの云うとおりだ。
とりあえず納得して、私は前を見た。
中央に土が盛られ、円形の舞台のようなものがつくられてある。四方には柱が立ち、縄がそれを囲む。縄には白い布で、御幣のようなものが下げられていた。
左右に房のついた珍妙な帽子を被った男が壇上に上がってきた。中央、二本の短い線が平行に書かれたあたりまでくると、ことさらに厳《いか》めしい顔をし、男は奇妙な節回しでいった。
「東から入りましたは、ナマズのごとく掴《つか》みどころのない男、太刀髪《たちかみ》。西から入りましたは、鋼鉄の躰《からだ》、錦鬼《にしきおに》。さあて、カウマーリー様の御前にて勝ちまするはいずれのチカラビトか。それ、始め」
男に呼ばれて壇上に上がった二人の男、太刀髪と錦鬼は、始め、の言葉を合図に戦い始めた。二人ともナガラハーラでよく見たパジャマのようなズボンを穿《は》いているだけ。逞《たくま》しい上半身を顕《あらわ》にしている。
蹴《け》る、突く、殴る、絞める、技は多彩だ。
『ナマズのごとく掴みどころのない』太刀髪は、のらりくらりと相手の手を逃れる。じれた『鋼鉄の躰』錦鬼は強引な力技で太刀髪を捕らえようとした。だが、結局は太刀髪が隙を見て、錦鬼の後頭部に蹴りを入れ、勝った。大きな歓声が上がる。賭《か》けが行われているらしく、観客の間で金が飛び交った。
倒れた錦鬼は外に運び出され、太刀髪は声援を受けて出て行った。
次から次へと男たちが出てきて、この環と呼ばれる試合場で戦っていく。観客たちの熱狂と歓声は、客たちの間を移動する金額の大小に比例した。
環の上で戦うのは男同士ばかりではない。女と女や女と男といった組合せも行われる。女も男の衣装と同じ半裸で、胸だけを晒《さらし》で捲《ま》き隠していた。男同士の戦いが賭けの対象であるのに対して、女と男、女と女の対戦は滑稽《こつけい》な見世物として扱われていた。女は嬌声《きようせい》をあげて逃げ回り、緩んだ晒から乳房を見せ、そのほとんどが男たちである観客の笑いを誘っていた。私は次第に不愉快になってきた。見世物でしかない女たちの戦いぶりに苛立ち、それ以上に男たちの笑いが不愉快だった。何故か自分が笑いものになっているような気がした。
「そろそろ出ましょうか」
私はミロクの手を引いた。
「もうちょっと見ていこうや」
壇上では男の手から女が逃げ惑っている。ミロクはそれを見て大笑いしていた。
「じゃあ、先に帰っているわ」
私はコトを抱いて立ち上がった。慌ててミロクは私の腕を取る。
「もう一試合だけ。なっ、伸江。これ見たら出るから。お願い」
ミロクはぺこぺこと頭を下げた。腕は握ったまま、離そうとしない。
溜息《ためいき》をついて、私は腰を下ろした。
呼び出しが始まった。
「東から入りましたは、鬼をも喰《く》らう女、大黒《だいこく》。西から入りましたは、石を砕く男、剛菱《ごうびし》」
東側、大黒と呼ばれた若い女は小柄で、ミロクほどの身長しかない。それに対し西の剛菱は見上げるほどの巨漢だ。
あまりの組合せだ。私はうんざりして溜息を洩らす。何故か観客たちもうんざりしたように雑談を始めた。
「さあて、カウマーリー様の御前にて、勝ちまするはいずれのチカラビトか。それ、始めや」
審判の声が終わらぬ内に、剛菱が両手を振り上げ大黒に飛びかかってきた。大黒はそれに対し、軽く脚を突き出しただけのように見えた。ところがその爪先は深く剛菱の鳩尾《みぞおち》に埋まった。
大黒が道でも譲るかのように横によけると、剛菱の巨体が直立したまま前へ倒れた。
あまりにも呆気《あつけ》ない勝負だった。
見物するものから「もういい、帰れ」と怒声が飛ぶ。それが聞こえぬかのように大黒は平然と環《かん》を降りた。
「何だ、ありゃ」
ミロクが不服そうに云った。
女が出てくる試合であれば、見世物として楽しめるように演出されていたし、男同士の試合であっても、それなりに気を保《も》たせる構成がされているようで、どちらも互いに技を掛け合い、それを受け、客を焦《じ》らせて勝負が決まる。
今の一瞬の勝負は、少なくとも見世物にはなっていなかった。
しかし……。
「さあ、帰ろうか、伸江」
つまらなそうにミロクは云う。
しかし私は、ぼおっと大黒の出ていった後を眺めていた。
「どうした、伸江」
不安そうにミロクが尋ねる。
「大黒っていったわよね」
私は尋ねる。
「えっ、今の女か?」
大きく頷《うなず》いた。
「そうだ。大黒だ」
「かっこいい……」
私は阿呆《あほう》のような台詞《せりふ》を呟《つぶや》いた。鳥肌立っていた。あんな風に生きてみたい。本気でそう思っていた。
3
環を出れば既に陽が傾いていた。
祭は更に賑《にぎ》わっている。
街灯が照らす中、香具師《やし》たちは昼間以上に声を張り上げていた。大道芸人たちの多くが炎を使っている。火の輪くぐり、火渡り、火吹き男に、火を食う女。
私たちはクビツリを探していた。この人混みの中からクビツリを探し出すのは一仕事に思えた。胸騒ぎがした。それは、クビツリには悪いが、彼の身を案じてのことではなかった。気が高ぶって仕方ないのは、まださっきのチカラビト、大黒の試合に感動していたからだ。
「聞いたか、伸江」
「えっ、何を」
「ほら、あれだ」
その指差す先には見世物小屋が幾つも立ち並んでいた。その前で、黒々とした立派な髭《ひげ》をはやした呼び込みの男が叫んでいる。
「死んでも死なないこの世の神秘。生きている死体だよー」
私はミロクと顔を見合わせた。
捕まって働かされているんだ。
私はミロクと先を競うようにして、その呼び込みのところに駆け寄った。
呼び込みの男は、髭こそ立派だがいかにも小心者の顔をしていた。
「なんだ、なんだ」
血相変えて迫ってきた私たちに、男は怯《おび》えているようだった。
「クビツリがここにいるんですね」
壇上の男を見上げ、私は云った。
「返せよ、おい。返せよ」
背の低いミロクはぴょんぴょん跳びながらそう云った。あまり迫力はない。
「ど、どちらさまですか」
「クビツリの友達です」
「友達。ああ、クビツリくんの身内の方ですか。それなら良かった。裏口に回ってください。まだクビツリくんは舞台に上がっていないと思いますから」
にこにこと笑っている。逃げたクビツリを拐《かどわ》かしたようには見えない。私たちは頭を下げて、裏口に回った。入ってすぐのところに小さな部屋があった。そこでクビツリはちょこんと地べたに座っていた。
「クビツリ!」
私はミロクと一緒に声を上げていた。
「無事だったのね」
私はクビツリの肩を抱いた。
「すみません」
クビツリも頭を下げる。そして突然背筋を伸ばし、大会の始まりを宣誓する高校生のような口調で言った。
「僕は働きます」
私は驚いてクビツリを見、それからミロクと顔を見合わせた。ミロクも眼を丸くしている。
「働くって、何をするつもりなの」
私が尋ねた。
「いろいろと考えました。僕はミロクの云うようにここで見世物になります」
「何を云ってるんだ。あれはわしが冗談で云ったんだぞ。真に受ける奴があるか」
「冗談じゃありません。生きる死体なら見世物として高く売れるんですよ」
コトが吠《ほ》えた。
「まさか、あなたも見世物になるつもり」
私はふざけて云ったのだけれど、コトは躰《からだ》の一部を伸ばして上下に揺らして見せた。頷いているつもりなのだろうか。
「よし、決まった!」
ミロクがぽんと手を鳴らした。
「働いてもらいましょう」
「何を云ってるのよ」
私はミロクの後頭部を平手で叩《たた》いた。
「おお、伸江。何をする」
「何をするじゃないわよ」
「あのな、伸江。わしら金がないの。わかる。無一文。このままでは旅は続けられないわな」
「金が何よ」
「何よじゃないぞ、馬鹿者!」
唾《つば》を飛ばして怒鳴るミロクに、私は微笑みかけた。
「何だよ。何か考えがあるのか?」
「勿論《もちろん》」
胸を張って答えた。
「とりあえずはこれ」
左手の薬指にした指輪を外した。するりと指から抜けたそれを、ミロクに渡した。
「これを売ってきてもらえないかしら」
「それ、大事な指輪だって云ったじゃないか」
「大事な指輪だったのよ」
「いいのか」
云いながらもミロクは慌てて指輪をしまった。
「いいわ。だから」クビツリの方を見た。「あなたが働く必要はないのよ」
「あのう」すまなさそうな顔でクビツリは云う。「僕は小屋の親方ともう契約してしまっているので、少なくとも一週間は見世物として働かなくてはならないんです。親方に僕から無理やり頼んで、一週間と期限を切って働かせてもらうことにしたんです。ですから、いまさら断れないんです」
「融通の利かない奴らだな。勝手にこの村を出ちまえばいいじゃないか」
「そんなことはできません」
どうする、とミロクは私を見た。
「仕方ないわね。でも、同じところに長くいるとそれだけ牛頭に見つかる――」
ミロクが唇に指を当て、怖い顔をする。私は声を落とした。
「見つかる確率が増えるのよ。だからできるだけ早くこの村を出た方がいいのに変わりはないわ」
「ですから一週間だけ。クビツリの契約が切れるまで」
お願いします、とクビツリは頭を下げた。
「じゃあ、一週間だけよ。約束。それじゃあ、私たちは旅館に戻ってるわ。もう、眠くて駄目」
ほっとしたのか、大|欠伸《あくび》が出た。
「でも、クビツリさんは大丈夫なの」
「ええ、僕はちょっとは寝ましたから」
「わかった。じゃあ」
と、出ていこうとすると、コトが私の腕からすり抜けてクビツリの足下に絡みついた。
「コトも本気なの?」
長く伸ばしたその先を、うんうんと縦に振る。めっ、と叱って引っ張るのだが、どうしてもクビツリから離れない。
「仕方ないわね。クビツリさん、コトをよろしく頼みます」
私たちは手を振り、部屋を出た。
しばらくすると呼び込みの声が変わっていた。
「死んでも死なないこの世の神秘。生きている死体と生きている餅《もち》だよー」
4
旅館への帰り道だった。祭はまだまだ佳境だ。ミロクは金儲《かねもう》けとなると急にしゃきっとするらしく、眠気も見せずに、今から指輪の売り先を見つけてくると云った。明日でいいじゃないかと私は云ったのだが、明日の朝までに旅館に金を納めておかねばならないからと、そそくさと人混みの中に消えていった。
結局私は一人で旅館への道を歩くこととなった。疲労も限界で、私は朦朧《もうろう》として人の波に歩調を合わせていた。夜の祭が夢のようだった。夢の中を歩くつもりで、ふと気がつけばあの大黒を見た環の前に来ていた。
呼び込みをしていた男が、退屈そうに煙草を吸っていた。しきりに房のついた帽子で顔を扇《あお》いでいる。
夢見心地のそのままに、私は男に近づき尋ねていた。
「大黒さんは何処にいます」
いつもの私なら考えられない大胆さだった。
不審な顔で男は聞き返した。
「おまえ、誰だ」
「私は伸江といいます。大黒さんに会いたいのですが」
「よう、どうした」
いきなり両肩を掴《つか》まれた。そのまま卓上のカレンダーを裏返すように持ち上げられ、後ろを向かされた。
昼間大黒と戦った巨漢、剛菱だった。
「大黒に会いたいのか」
剛菱はいいながら目深にかぶった私の頭巾《ずきん》をはね上げた。
「なんでぇ、けっこうなババアじゃないか」
腹が立った。むかっとした。
見上げれば首が痛くなるほどの巨躯《きよく》だ。それが顔をしかめて吐き捨てるように云った。
「ばかだねえ、剛菱。それぐらいのが丁度いい味してんじゃないか」
呼び込みが濁声《だみごえ》で云った。
「なるほど。確かにそうだ。好きそうな顔してるぜ」
私は巨漢の顔を睨《にら》み、唸《うな》った。そう、まるで犬のように唸り声をあげたのだ。
剛菱は楽しそうに笑った。笑いながら私の腰を抱き締めようとした。殴ってやる。拳《こぶし》を固めたその時だった。
剛菱の腕を誰かの手が掴んだ。
小さな手だった。
剛菱の顔が歪《ゆが》んだ。
「何するんだ」
振り返った剛菱の視線は、彼の腕を掴んだ人物の頭を通り過ぎていた。剛菱は視線を下げた。
大黒が見上げていた。
私は思わず、きゃっ、と声を挙げていた。まるで映画だ。私は思った。
「弱い奴としか遊べないんだな」
大黒がいった。初めて聞いた大黒の声は低く、力強かった。さして力を入れているようでもないのに、剛菱は悲鳴を上げそうになっていた。
私は静かに拍手した。
酒を買いに行った帰りなのか、大黒は片手に酒瓶を持っていた。
「願い事を一つだけ叶《かな》えてやるよ」
虫を見る眼で剛菱を見ながら、大黒は云った。
「えっ」
間の抜けた声で剛菱は聞き返した。
「聞こえないのか。願い事を云えばいいんだよ」
「俺は」しばらく考えてから剛菱は答えた。「金が欲しい」
「叶えてやるよ」大黒の拳が剛菱の腹に吸い込まれる。
「夢で見な」
その台詞《せりふ》は多分聞こえなかっただろう。驚愕《きようがく》の表情をへばりつけて、剛菱は膝《ひざ》から崩れた。
私を捕らえる腕はもうないのに、少しもそこを動けなかった。みっともないほど鳥肌が立ち、ぞくぞくと寒気がした。
「馬鹿をそそのかすんじゃないよ」
云われた呼び込みは鶏のように頭を下げた。
「ありがとうございます」
礼を云う私を見ようともせず、大黒は歩き出した。夢の続きだ。これは夢の続きなのだ。
「会いたかったんです」
そう云っているのは私だった。言葉が勝手に口をついて出てきた。
「あなたに。あの……あの、話を聞かせてください。どうしてそんなに強いんですか。あそこで、環の中であなたは戦っていました。あなただけ戦っていました。どうしてですか。どうしてあなたは」
大股《おおまた》で大黒は歩き出した。そう急いでいるようにも見えないのだが、私は小走りになる。
「ちょっと待ってください」
大黒が立ち止まり、ついてくる野良犬でも追い払うように、手を振った。それからくるりと前を向き、再び歩き始める。私は必死になって後を追った。何のためにそんなことをしているのか、自分でもわからなかった。いつの間にか村の外れまで来ていた。その奥は竹林だ。そこに広がる闇の中へ大黒は入っていく。
「待ってください。お願いします」
叫びながら私は後を追う。
闇は濃い。
月の光に淡く白く、立ち並ぶ竹が痩《や》せた亡霊のように浮かぶだけ。それでも私は恐ろしくはなかった。
手探りで竹と竹の間を抜けていく。何度も竹にぶつかり、つまずきそうになった。
いつの間にか私は泣いていた。
泣きながら叫んでいた。
「行かないで。お願いだから」
「しつこい奴だな」
月明りに顔が見えた。大黒だ。そのことに気づくと、私は顔が赤らんだ。
「あ………すみません。混乱してしまって。あの……今日、あなたを見て、あなたの試合を見て、それで、すごく強かったでしょ。それで私、あの、感激して、震えるくらい感激して、鳥肌立っちゃって、それで、あなたに……私、あなたのファンになって」
「ファン?」
「つまり、あなたに、私、憧《あこが》れました。それで」
「それで?」
そう。それでどうしたんだ、私は。
「……そう。それで、お願いがあります」
「なんだよ」
「あなたのようになりたいんです。あなたのように強く」
勝手に喋《しやべ》っていた。何を云ってるんだろう、と思いながらも喋り続けていた。
「そうです。強くなりたい。あなたみたいに強くなりたいんです。お願いします。どうすればあなたみたいに強くなれるのか教えてください」
「どうして強くなりたい」
「………弱いのが嫌だからです。だから」
大黒は私の二の腕を掴み、失笑した。
痛いほど頭に血が昇っていた。顔は熟したリンゴみたいになっているだろう。そう思うとますます顔が火照《ほて》った。
「で、何を教えてほしいって」
「戦う方法です」
大黒はしばらく黙っていた。伸江は次の言葉を待った。
「死なないことだ」
大黒はそう云うと、酒瓶の蓋《ふた》を開けて直接ぐびりと飲んだ。
「だが、死ぬことは恐れるな。そして」
大黒はじっと私の顔を見た。
美しいと私は思った。
黒い髪も大きな眼も分厚い唇も、頬の大きな傷跡までが美しかった。
大黒は云った。
「殺すことも恐れるな。できるか」
「はい、できます」
直立して私は返事をした。
次の瞬間、大黒は踵《きびす》を返し、気がつけばもう闇の中に消えていた。
私は夢見心地のまま帰路に就いた。
途中、わんと飛び立った蚊柱が私の前を横切った。それは確か、重要な意味を持っていたのではないかと、頭の隅で思いながら、ふらふらと私は旅館への道程を歩いていった。
5
もう少し、もう少しだけ寝かせて欲しい、と思いながら、照りつける陽光に叩《たた》き起こされた。
床と接していたところが汗で濡《ぬ》れている。日向水《ひなたみず》の上で眠った不快さに、私は外に出た。
白く輝く陽光がたちまち汗を乾かす。
続いてミロクが、クビツリと先を競うように外に出た。
「堪《たま》らんよ。もうすこし寝たいよ」
ミロクが服の裾《すそ》で顔を拭《ぬぐ》いながら云った。
「僕はもう少し眠れますよ」
云ってから辺りを見回し、クビツリは眼を伏せた。
「あれ、いたんだ」
私は二人を見て云った。
あれからどうしてここまで来たのか何も覚えていない。気がつけば朝だった。
「いたんだ、じゃないよ!」
ミロクが血相を変えて怒鳴った。
「いい加減にしろよ。わしら、どれだけ心配したか。わしとクビツリが帰ってもまだ帰っていないし、帰ってきたかと思うとにやにや笑って何も答えず寝ちまって、何処に行ったかとかだな、何があったんだとか思うだろうが。牛頭にさらわれたとかも考えたんだぞ。クビツリも心配して、やつれちゃって。なあ、クビツリ」
「はい」
頷《うなず》くクビツリは何しろ死体だから、やつれたのかどうかがよくわからなかったが、私は頭を下げ、事情を説明した。
とはいえ、どうして大黒についていったのかは自分でもわかっていないのだ。二人とも納得はしていないようだった。
「とにかく、勝手な行動はとらないように」
修学旅行の引率のような台詞《せりふ》で締め括《くく》るミロクに、私は笑顔で返事した。
次ににやにやするのはミロクの番だった。
「でな、でな、伸江。わしのことも聞いてくれ」
「聞きましょう」
「実は伸江の指輪だが」
「どうだった」
「それがな」
ミロクは意味ありげに笑った。
「これがすごい金になったんだ。どうもあの指輪は金輪にしかない貴重な金属でつくられているらしい」
それに一番驚いたのは私だ。指輪は金とプラチナでできたもので、それほど高価なものではなかった。
「やっぱり伸江のいうニポンとかカンザスとかいう街は金輪の街じゃないのか」
「日本の簪《かんざし》町よ。そんなことどうでもいいから指輪はいくらで売れたの」
「これを見せたら宝石商の奴驚いた顔したんでな。結構高価な品だなとふんだわけよ。敵も商売人だからな、すぐに、どうってことないって顔をしたがもう遅いよな。奴がその時云った値段はわしの思っていた値段より随分と高かった。だが、わしは鼻で笑ってやったさ。それで、吹っ掛けたんだ。そしたら馬鹿が、駄目だって云うんだな。で、わしが、それならいい。違う店に行く。とこう云ったらすぐに腕を引っ張ってこうさ」
ミロクは自分の腕で腰の辺りを掴《つか》んで、誰かに引っ張られて前に進めない人を滑稽《こつけい》に演じた。
「それでとうとうそいつがわしの云い値をそのまま受けた」
「いくらだったの」という伸江の問いに、ミロクは聞いたこともない単位の金額を言った。伸江には理解できなかったが、クビツリの驚き様を見てその大きさを知った。
「それなら、もっといい旅館に泊まれるわね」
「泊まる必要もないさ。いますぐ旅を続けられるぞ」
「それは……」
クビツリがすまなさそうな顔をする。
「ほんとにもう、おまえってやつは」
項垂《うなだ》れるクビツリを、ミロクはここぞとばかりに睨み付けた。
「一週間はここにいる約束でしょ」
私もミロクを睨《にら》み付ける。
「さあ、それならとにかく手分けして買い物に行きましょう。旅支度をしなければならないんですから」
「……あの、僕は仕事がありますから」
「わかってます」
私はクビツリの肩をぽんと叩いて、ますます小さくなるクビツリを職場に送りだした。
それから、これから必要になるものを書き出して二分し(これだけのことで小一時間掛かったのは、買い物リストにいちいち文句をつけるミロクのせいだ)、それぞれに買い出しに出た。
今日の食べ物をも含めて大量の買い物を抱えて、幽霊屋敷じみた旅館に帰ってきたらもう陽が暮れかけていた(告白します。また環によってチカラビトの戦いを見てしまいました)。
そうしたら待ちかまえていたミロクが「遅いじゃないか」と真っ赤な顔で云った。
「まあ、ミロク。酒を飲んでるんでしょ。私が苦労して働いている間に」
「働いているう?」
ミロクはじろりと私を睨む。
「またチカラビトの試合を見てただろ」
しまった。見られていたらしい。
「まあ、お互い様ね」
「何がお互い様だよ。わしが偶然伸江を見つけなかったら、わしだけが怒られているところだよ」
「と、とにかく、夕食にしましょうか。もうすぐクビツリさんも帰ってくるでしょうし」
適当にごまかしながら夕食の支度をしていたらクビツリが帰ってきた。見世物小屋の愉快な仲間たち、特に気の良い座長の話を聞きながら、それぞれに持ち物を分配する。それから宿を払って、新しい、ちょっとはましな旅館へと引っ越した。一日目がそうやって過ぎ、二日三日と恙《つつが》なく終え、あっという間に一週間が経過してしまった。
私は毎日環に通い詰め、ミロクはやたらと買い物をしていた。もう既に旅行に持っていくことが不可能なほどのよけいなものを買い込んでいた。小言の一つも云いたいところだけれど、自分も毎日遊んでいるわけであまり強くは云えない。その夜、大黒の活躍を見てから帰ると、ミロクは躰《からだ》が埋まるソファーに腰を下ろし、高そうな酒を飲んでいた。ちなみにソファーは宿の備品ではなく、彼が買ったものだ。
「よう、伸江」
例によって熟したトマトのような顔でミロクは云った。
「明日の朝には村を出るのよ。こんな荷物、どうするつもりよ」
「まあいいじゃないの。金はいくらでもあるって。ほら、これ」
華奢《きやしや》なガラスの小瓶をミロクは取り出した。
「何よそれ」
「香水だよ。香水。伸江にあげようと思って」
「いらないわよ、そんなの」
「そんなこと云うなよ、伸江。クビツリにも買ってやったんだ」
「クビツリに」
伸江にはクビツリと香水が結び付かなかった。
「そうよ。香水だよ。だってさ、あいつ酷《ひど》い臭いがするだろ。それでね。わし、頭いいだろ」
「よくないわよ」
「そうかい」
一向に応《こた》えている様子はなかった。
「でも、クビツリは喜んでたよ」
熟柿《じゆくし》のような顔でミロクは笑った。
香水を振りかけ仕事に出かけるクビツリを、伸江は頭の中に思い描いた。
「でもな、これは喜ぶよ。まあ、座って座って」
ミロクはその隣に私を座らせた。早速|椀《わん》についだ酒を渡される。
「まあ、飲んで飲んで」
ミロクの酒盛りに、私も毎日つきあっているのだった。ぎゅうぎゅうと締めていたところが、この世界に来てからどんどん緩み、今ではどうやら全開だった。多少の罪悪感はあるかもしれないが、しかしそれよりなにより、愉《たの》しくて仕方なかった。嬉《うれ》しくて仕方なかった。ゆるゆるの気分でいるということは、本当に楽なのだ。このままどろどろと蕩《とろ》けて消えたとしても後悔しないかもしれない。いや、きっと後悔どころかそれを望んでいる。なんのかんのとミロクに文句をつけながらも椀の酒を飲み干していく。
「ほらほら、これ見てよ」
ミロクがそう云ったときには、私はかなり酩酊《めいてい》していた。
彼が差し出したのは、一振りの剣だ。
「あっ、あっ」
「おまえの持ってた剣だよ」
私が持っていたのは抜き身の剣だった。ところがその剣には木製の立派な鞘《さや》がついている。
「抜いてみろ」
云われるままに剣を抜く。見事に磨き抜かれていた。
「乱暴な使い方をしていたからな。刃が欠けてボロボロだったぞ」
「ありがとう! 嬉しい!」
私はミロクに抱きついた。
あまりにも嬉しくて、涙が出そうになった。と思ったときにはわんわん泣きだしていた。
「おい、伸江。頼むよ。泣かないでくれよ。頼む、伸江。落ち着いてくれ。なっ、頼むから、な」
ミロクは後退《あとじさ》っていく。
「嬉しいよう。ミロク、すごく嬉しいよう」
「あのな、わかった。わかったから、な。とにかく落ち着け」
私はミロクから離れてその場に座り込んだ。
「ほら、これ飲んで」
差し出された酒を、水のようにぐいと呷《あお》る。きつい酒が喉《のど》を焼く。炎はすぐさま頭のてっぺんにまで噴き上がる。
「本当、ありがとう。ミロクには感謝してるわ」
本心からそう思っていた。
酒の力だけではない。緩んだ私の何かから、いろんなものが吹きこぼれてきているのだと思う。押さえつけていた様々なものが。例えば喜び。愉しいときには喜べば良いのだ。そう、全身で喜べばいいのだ。
私はまたミロクに抱きついた。
ミロクは犬のように私から逃れようとする。その頬に何度もべたべたとキスをした。いや、さすがに酔っていないとは云えないのだが。
でも、でもしかし、これで良いのだ。
人とはこうあるべきなのだ。
私に押され、ミロクが後退る、それに合わせて私が前進する。また後退る。前に出る。壁まで追い詰められると、ミロクがくるりと躰をかわす。離れるものかと私もくるりとターンする。
二人でそうしてソシアルダンスを踊っているときだった。
騒動はどういうわけか、かたまってやってくる癖《へき》があるらしい。
轟音《ごうおん》とともに扉が叩《たた》き割られた。
戦斧《せんぷ》を持った兵士を先頭に、三、四人の軍服の男たちが入り込んできた。
それを見た途端、私は先頭の男の前に立ちふさがり、いきなり膝《ひざ》で股間《こかん》を蹴《け》り上げてやった。
ぎゃっ、と跳び上がる男が着地をする寸前、その脚を払った。
見事なくらいに男が倒れる。
「ざまあみろ、馬鹿」
死ぬのを恐れるな。
大黒の言葉が頭の中で響き渡る。
そうだ。
私には何も恐れるものはない。
ミロクが私の腕を掴《つか》んだ。もう片方の手で荷物を手にしている。そのまま、私を部屋の奥へと引きずる。
兵士たちは銃を持っていたが、使う気はないらしい。使うなら使ってみろ。私はそれを手で払い落とせそうな気がしていた。
兵士たちは短剣を抜いて近づいてきた。
「来てみろ! キンタマ踏み潰《つぶ》してやる!」
口から面白いほど罵倒《ばとう》の言葉が溢《あふ》れてくる。
「伸江、品がないぞ」
「品がない? 糞爺《くそじじい》がなにぬかすか!」
「逃げても無駄だ!」
兵士の一人が叫んだ。
「大人しくしていれば怪我をしないですむ」
どうやら、生きたまま捕らえるように命じられてきたようだ。
「馬鹿野郎! 怪我をするのは手前《てめえ》らだよ」
私は吠《ほ》えた。吠え、そして剣を包んだ布を解いた。それを腰紐《こしひも》に差し、それからおもむろに剣を抜いた。
私には大黒がついている。
根拠なくそう思っていた。
兵士たちが一歩後退る。
私は不敵に《のつもりで》笑った。
「伸江! 逃げるぞ」
部屋の奥にまで来ていたミロクは、窓を大きく開いた。
「ほら、出るんだ」
剣を構える私を、ミロクは窓から押し出そうとする。部屋は二階。落ちたとしても死ぬことはないだろう。
「剣をしまうんだよ、伸江」
「敵を殺すか、私が死ぬかよ」
「何馬鹿なこと云ってんだ」
ミロクが私の躰を窓へと押す。その時だった。一人の兵士が間合いを縮め、短剣を突き出した。
刃はミロクの腹をかすめた。
滲《にじ》む血が見えた。
あっ、と声を上げた私を、今がチャンスと思ったのかミロクは外に押し出した。
悲鳴も上げず、私は地面に尻《しり》から落ちた。痛みは感じなかった。ただ尻餅《しりもち》をついたことが面白く、大笑いしていた。続いてミロクが落ちてきた。それもまたおかしくて仕方ない。
「立つんだ、伸江」
「ミロク、大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ」
泣き出しそうな顔だ。
続けて窓から兵士たちが次々に降ってくる。
私たちは走った。
後ろから怒声が聞こえる。
私はまだおかしくて大笑いを続けている。笑いが止まらない。それでも走る。祭で賑《にぎ》わう街路を、人を突き倒し、荷を崩し、自転車にぶつかり、荷車を引き回し、ひたすら走る。走り続ける。
気分が悪くなってきた。
「吐きそう」
私は云った。
「ちょって待て。もう少し先に……あった!」
それは兵士たちの集まる酒場だった。その前に一頭の唾女《つばめ》が繋《つな》いであった。
「わしらは運がいい」
ミロクは私を先に乗せ、続いて自分が跨《またが》った。手綱を取るのはミロクだ。
「伸江、綱を切ってくれ」
剣で唾女を杭《くい》に繋いである縄を切る。
「行くぞ!」
ミロクは唾女の腹を踵《かかと》で蹴った。
唾女はのそのそと動き始めた。
堪《こら》えきれず、私は地面に向かって吐いた。
「糞《くそ》! 急がんか」
駄々をこねる幼児のように、ミロクは脚をばたばたさせて唾女の腹を蹴った。
そのどれが上手《うま》くいったのか、唾女は急に速度を増して走り出した。
目指すはクビツリのいる見世物小屋だ。
たどり着く頃には、唾女はかなりの速度で走っていた。私は必死になってミロクの腰にしがみついた。
見世物小屋が見えてきた。
クビツリが座長に向かって頭を下げているのが見えた。今日が最後だから、挨拶《あいさつ》でもしているのだろう。
「クウウビイイツウウリイイイイイイ!」
私は叫んだ。
唾女は全速力でクビツリめがけて走っていく。
「迎えが来たようです。座長、短い間でしたけど……」
挨拶途中のクビツリを、ミロクがひょいと唾女に乗せた。火事場の馬鹿力というやつだろう。コトがぴょんと私の胸に飛びついてくる。
「さようなら」
ミロクの腰にしがみつき、クビツリは別れの挨拶をした。
唾女の速度が落ちた。
いくら唾女とはいえ、三人乗せていては思うように走ることはできないのだろう。
薄気味の悪い唾女の鳴き声に後ろを振り向く。追う兵士の数が数倍に膨《ふく》れ上がっていた。ガズの村にいたすべての兵士が私たちを追いかけてきたかのようだ。
「ミロクさん、代わってください」
クビツリが云った。
「何を」
「僕が手綱を持ちます」
「生意気なことを云いやがって」
「代わって!」
私の一言で決まった。
クビツリは器用にミロクの躰をまたいで先頭に出た。手綱を手にする。
銃声がした。
とうとう撃ってきたのだ。
後ろを見ると、六、七頭の唾女が追ってくる。その後ろから戦斧《せんぷ》だの短剣だの長剣だのを持った兵士が国際マラソンのスタート地点のように一斉に走ってきていた。
「しっかり掴まっていてください!」
クビツリが、ハイ! と声を掛けて手綱を振るうと、不機嫌な驢馬並《ろばな》みの速さだった唾女が急加速した。
慌ててミロクの細い腰をぎゅうと抱きしめる。
ミロクが咳《せ》き込んだ。
「殺す気か、伸江」
「そのつもりよ」
競い合うように後ろから唾女の合唱が聞こえ、二度目の銃声が鳴った。
弾丸は私のすぐ側をかすめた。
「わあっ! 死ぬ!」
叫ぶ私に、すかさずミロクが呟《つぶや》いた。
「死ね」
「何ですって」
クビツリが突然路地を曲がった。私はミロクと一緒に振り落とされそうになった。
「何するんだ、クビツリ」
怒鳴るミロクに答えるより早く、再び路地を折れた。
ミロクは必死になってクビツリの腰に掴《つか》まった。私は前よりも力を込めてミロクにしがみつく。
「曲がる時は曲がると云えよ」
「曲がります」
「おわああ」
速い速い。
クビツリは己れの手足よりも器用に唾女を操る。ほとんど速度を落とすことなく角を曲がり、荷台やもの売りが道を塞いでも、易々と飛び越えていく。
右へ左へと揺さぶられながら、私はすっかり感心していた。葬人《ほうむりぴと》であったクビツリでさえヒトニウマの仲間をこんなに器用に操るのだ。滅びたランパカの村の男たちがどれだけ優秀な狩人《かりゆうど》であったかがわかるというものだ。
右に曲がり左に折れ、階段を駆け上がり、立ち並ぶ店の屋根から屋根へと駆け、私が恐る恐る後ろを見た時は、追いかけてくるのはたった二頭の唾女だけだった。
すでに村の外れまで来ている。ここまで来ると街灯が姿を消す。月と星の明るさだけが頼りだ。だが、クビツリが唾女を操る綱捌《つなさば》きに危《あやう》さはない。
眼の前に広がるのは竹林だ。
妖《あやか》しじみた太い竹の白く並ぶ中に、私たちの乗る唾女は飛び込んだ。
「頭を伏せて!」
クビツリが怒鳴った。
ざあ、と笹が鳴る。
頭上を流れる笹の葉が、刃《やいば》のように私たちの顔を襲った。
それは追う兵士たちにしても同じことだろう。
兵士たちとの距離が少しずつ開いていく。
焦《じ》れた兵士が銃を撃ったが、竹に跳ね見当違いの方向に飛んだ。
「ざまあみろ」
離れていく兵士に向かってミロクが云った。
「駄目だ」
呟くクビツリに聞き返す前に、乗った唾女が前脚を折った。
私たちは大砲から撃ち出されるサーカス芸人のように前に投げ出された。
「何だ、何だ」
ミロクが腰をさすりながら起き上がった。
「無理をしましたから。あの唾女には悪いことをしました」
私を助け起こしながらクビツリが云う。
「大丈夫ですか」
「ええ。そうみたいね」
「来た」
ミロクが絶望的な声をあげた。
「走るんです」
クビツリに云われるまでもなく走り出していた。
唾女の泣き声は瞬く間に近づいてきた。
あっ、と私は声を上げた。
何につまずいたわけでもない。走り続け、まともに走れなくなった脚が絡まったのだ。
見事なぐらいまっすぐ前に転倒する。
そのまま地面に突っ伏した。
唾女の声が真後ろで止まった。
立ち上がりざまに私は剣を抜いた。
唾女に跨《またが》る兵士が銃を向ける。
何も恐れていなかった。
まっすぐ剣を差し出す。
恐ろしいほどの切れ味だ。
銃を持った兵士の腕が、私の前にごろりと転がった。
悲鳴を上げ、兵士は唾女から転げ落ちた。
殺すのを恐れるな。
大黒の声が聞こえる。
私は躊躇《ちゆうちよ》なく切っ先を兵士の喉《のど》に突き立てた。
銃声がまた聞こえた。
撃たれたのはクビツリだ。
その瞬間にミロクが馬上の兵士に飛び掛かった。
二人もつれて地面に転がる。
私は走った。
剣を構えてひた走った。
立ち上がろうとする兵士に飛びついていったのはコトだ。
そして次の瞬間、私の素晴らしい剣は、兵士の腹に深々と刺さっていた。
血を払い剣を鞘《さや》に収めると、私は走った。
竹林の中を、どこまでも走っていけるような気がしていた。
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real-7
多田美津夫は関西の農家の四男だった。貧しくはなかったが、富んでもいない、いたって平凡な家庭だった。妹が一人いた。彼女は家族中に愛されていた。家は長男が継ぐことになっていた。それは小さな時から決まっていた。父とそっくりの兄だった。そして次男三男は、その小さな父親の支配下にあった。美津夫はいつもみそっかすだった。いつも子供として扱われいつまでも子供として扱われた。にも拘わらず、子供として甘やかされるのは妹だった。不当である。幼いなりに美津夫はそう思っていた。だからこそ、彼は中学を卒業したらすぐに街に働きに出た。両親共に大賛成だった。体よく家を追い出されたのだ。美津夫はずっとそう思っている。
街に出て、小さな町工場に勤めた。家ではみそっかすであり、いくつになっても役立たずと思われていた彼は、技術者としては優秀だった。自分でも知らなかったことだが、機械いじりが得意だったのだ。追い回しだの小僧だのと呼ばれる修業時代から既に、同期の仲間たちはもちろん、先輩の職人にも一目置かれる存在となっていた。そうなるとよけいに何もかもが愉《たの》しくなる。愉しければそれだけ仕事の覚えも早い。
刃物《バイト》の火造りはすぐに覚えた。コークスを積み、ふいごで火をおこす。それだけの作業が、美津夫の心を浮き立たせた。更にバイトの焼き入れ。潰《つぶ》したトマトのような赤からオレンジへ、そしてどんどん黄みを帯びていく鉄の美しさ。油缶に浸《つ》ける焼き入れの瞬間の緊張。立ち昇る蒸気のにおい。そのすべてが美津夫をときめかせた。
技術を学ぶ、そのすべてが発見の連続だったのだ。
すぐに彼は一人前の職人となった。
そう、当時の旋盤工は職人だった。職人としての誇りを持ち、腕一本で工場を渡り歩く、ヘパイストスの遠き末裔《まつえい》たち。
美津夫は優秀な職人として結婚し、娘が生まれた。目の中に入れろと言われれば本当に入れかねないほどの溺愛《できあい》ぶりだった。おそらくこの頃が、彼の生涯で最も幸せな時期だっただろう。
やがて工場の合理化が作業機械を進歩させ、生産の分業化細分化を推し進めていく。NC旋盤の出現は職人の勘をプログラムに変えてしまった。超硬バイトが導入されることでバイトの火造りもバイトの焼き入れもなくなった。ふいごが工場から消えた。刃物を扱うが故に野鍛冶《のかじ》の伝統を継承していた職人たちはもう必要なくなった。工程表によって指示されるとおり動かねばならない職場は、言われるがままに動く労働力を欲しがりはしたが、職人技など歯牙《しが》にもかけぬようになった。新しい機械は新人の方が覚えるのが早い。かつては新人に一から仕事を教えていた熟練工が、入ったばかりの作業員に教えを乞《こ》わねばならなくなった。
美津夫は温厚で愚直な男だった。
工場長《おやじ》の言葉を疑うということがなかった。「堪《こら》えてくれ、俺も辛《つら》い」の一言によって低賃金で働かされ、あげくに不当解雇される。それを繰り返した。美津夫は単なる労働力であることに甘んじた。それ以外に生きる術《すべ》はなかった。腕一本で渡り歩ける時代はとうに終わっていたのだ。美津夫は果てしなく疲弊していった。酒に溺《おぼ》れることだけはなかったが、荒れて手を出すようになった彼に愛想を尽かし、妻は子供を連れて出ていった。あれだけ可愛がった娘さえ、彼を蔑《さげす》む目で見た。あげく、しがみつくように何を言われても辞めなかった最後の職場を追われる日が来た。同時に美津夫は社会からも追われることとなった。
日雇いの口を探したが、既に老齢であった美津夫にはなかなか働き口はない。進んできつい仕事を引き受け、腰を痛めた。ぼろぼろになって河原の小屋に行き着いたのは、それから一年後のことだった。
彼が最後に勤めた工場は、大手の下請けのまた下請けのと、果てしなく続く連鎖の最後に位置する金属加工の工場だった。その社長と商工会議所で知り合った別の町工場の社長が、ネットワークの一員だった。柳瀬はその工場へ出向き、美津夫の同僚に話を聞いた。こうして多田美津夫の情報は大和田の手に渡ったのだ。警察よりも早く。
本職の探偵もいるというネットワークの力は、大和田には驚くべきものだった。多田の素性がわかると同時にたちまち実家まで探し出し、彼に関する情報が集められた。
「ただの勘ですがね」
柳瀬は例によって誰もいない〈小さな柱〉の事務所で大和田に調査結果を報告していた。
「彼が直接の犯人とは思えないんですよ」
「しかし、よく犯罪者の人となりを聞いて回ると、そんな人とは思えなかったという評が返ってくるじゃないですか」
「確かにそうです。犯罪者らしい犯罪者ばかりだとは限らない。特に連続殺人の犯人などというものが、らしい人間であるとは限らない。ですがね」
いつもと同じ銘柄の缶入りウーロン茶を啜《すす》って柳瀬は言った。
「ぴんとこないんだ。間宮さんも同じことを言っていました。彼の言うことなら信用できるんじゃないですか」
「まあ、そうですが……」
「多田は本物の小心者ですよ。そんな人間は、追い詰められ激情に駆られて犯罪を犯すことがある。しかしね、同じ手口で脈絡なく連続殺人をしたりはしない。そうでしょ。そう思いませんか」
大和田は顔をしかめながら頷《うなず》いた。
「まだ納得できませんか。まあ、下手に予断をもつのもよくない。ですがね、我々の場合、ある程度は勘に従って行動した方がいい。さすがに警察ほどの捜査能力は我々にはない。だから対象は絞り込み、それに向かって進むべきです。それ以外に警察を出し抜く方法はない。日本の警察を馬鹿にしてはいけない。でしょ。だから我々は、失敗する可能性があったとしても勘に頼るしかない。とはいえ、とりあえずは、一緒にいた中年の女の身元をはっきりとさせることが大事でしょうな」
「何か手掛かりはあるんでしょうか」
「今のところは皆無ですよ。ですが、二人の足取りは何となく掴《つか》めている。これは間宮さんの入れ知恵なんですが、おそらく多田は一番恵まれていた時期に住んでいた土地に帰るのではないかということなんですよ」
「ほう、それはどこですか」
柳瀬はいつも持っているファイルから地図を取り出し大きく広げた。
「ここがあの河原の小屋です。ここで第二の殺人が行われた。で、彼が最初に勤めた工場、それがこの辺りです。例のバブルでここら辺はきれいに更地になってしまったんですがね。それで、あの河原と、この土地との丁度真ん中、ここなんですが」
深爪気味の太い人差し指で、地図をこんこんと叩《たた》いた。
「ここにね、病院があるんです」
「病院……二人は傷でも負ってるんですか」
「つぶれた病院です。治療はできない。ですが――」
「隠れることはできる」
「そのとおり。こういう廃屋には、ありがちなことなんですが、幽霊が出るといった噂がある。でね、そういった場所を心霊スポットなどと言って紹介していたりするんですよ」
「何ですか、それは」
「私も知らなかったんですが、インターネットでですね、そういうことを紹介しているホームページがあるそうなんです」
大和田の表情を見て、柳瀬は笑った。
「いや、私もインターネットだのと言われてもよくわからないんだ。単に人から聞いた話ですよ」
「それで」
「それで、そういった心霊スポットを見学に行く馬鹿者がいるそうなんです」
「何のために」
「肝試しのようなものでしょうかね」
「馬鹿げている」
「ええ、そのとおり。ですが、その馬鹿たちのおかげで、この病院で二人が隠れていたことがわかった。近隣では悪名高い暴走族グループがありましてね。その仲間が、この病院を訪れた。そうしてまたもや死体を発見したんですよ」
「また殺したんですか」
「んん、そうとも言えないようなんですよ。そこにあった死体は死後数日経っていて、直接の死因は窒息です。首を吊った後があった。死んだのは中学の美術教諭で、最近ノイローゼ気味だった。家族にも死にたいなどと訴えていましてね、ここから近くにある精神科に通っていたんです」
「それでは自殺」
「とも言えない。というのは、男の右手首が鋭利な刃物で切り落とされていたんです。その手首は発見されていない。そして、ここからが重要なんですが、暴走族の奴らはですな、死体を見てまだ近くに殺した犯人が隠れていると考えた。で、廃屋の中を探して、で、見つけたんですよ」
「多田と女」
「そうです。もちろん多田であるとは特定できていませんがね」
「ということは、逃げられた」
「そうです。追われて二階の窓から飛び降りて逃げ出した。年寄りの浮浪者と中年女性の二人組だったそうです」
「警察はどう見ているんですか」
「一応関連づけて捜査しているようです」
「それじゃあ、警察に先を越される可能性があるわけですね」
「そうとも言えない。私たちは奴らがこれからどこに向かうか知っているわけですから」
柳瀬は再び、地図をこつこつと叩いた。
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第七章 でき損ないの昆人
1
老いた肌のように枯れてひび割れた大地が広がる。
日光は何の容赦もなく照りつけ、地面は巨大な目玉焼がつくれるほどに熱せられていた。
もう十日あまり、人を拒絶するようなこの荒野にいる。好きでいるわけではない。ただひたすらバクトラへとまっすぐ進んでいるのだ。徒歩ではない。二頭の唾女《つばめ》に乗っている。私はクビツリの引く唾女に、ミロクはコトと一緒にもう一頭に。揺れる陽炎《かげろう》の中を延々と歩いている。
私たちの着替えたアコメという服は、まさにこの荒野で生きる者たちの服だった。太陽の光は遮るが、汗を逃がし風を通す。しかしそれでも、日中の暑さは耐え切れるものではなかった。
「いい加減にしろよ、糞太陽《くそたいよう》」
暑さに悪態つくミロクの声も弱々しい。
私たちは疲れていたのだ。食料も水も底を尽きかけていた。
「ミロクがガブガブ水を飲むからよ」
それでも云ってみる。
「わしのせいにするのか」
恨みがましく見る眼にも力がない。
弱っているのは私たちだけではなかった。私たちが乗る唾女も疲れ果てていた。
クビツリの知る限りの牧草地には寄ってきた。だがそれにも限界がある。今朝、最後の牧草地を出てから、二頭の唾女は何も口にしていないのだ。すでにクビツリの知る辺りからは遠く離れている。相変わらず続くのは果てることのない荒野。
「クビツリ、ほら、あの、何とか云う奴は出ないのか」
本来なら怒鳴りたいところだろうが、さすがのミロクも掠《かす》れた声を絞り出すのがやっとだ。
「隷土《れいど》ですか」
「そうそう、そいつ」
「この辺りは僕もまったく知らない土地ですから」
「道はあってるのかしら」
「間違いありません。このまま北に進めば、聖《ひじり》の住む山に出るはずです」
「あれは何?」
眼を細めて遠くを見る。
地平線の近くで、何か銀色に輝くものがあった。
「何が」
ミロクも眼を細めたが何も見えないようだ。
「あれよ、あれ」
指差した。
「何だ、何だ」
ミロクにも見えたようだ。
「ありゃ何じゃ」
「昆人《こんじん》です」
死刑宣告のようにクビツリが云った。
クビツリの脚がとまる。当然、引いている唾女もとまる。
「に、逃げよう」
と云いはしたが、ミロクは荷物同然の格好で唾女にへばりついたままだ。唾女はそのまま歩き続けている。
「逃げたいよう」
どうやら、手綱を引く力もないらしい。
クビツリが走りより、ミロクの乗る唾女をとめた。
「どちらが死体かわかりませんね」
唾女の背で伸びるミロクにクビツリが笑いかけた。
「うるさい」
「昆人はこちらに気がついているのかしら」
クビツリはじっと彼方《かなた》の光る点を見つめた。彼の驚異的な視力はそれが細部まで見えているのだろうか。
「気づいてはいないようですね。荷物を、大きな荷物を引きずっています。何だか様子が変ですよ」
「なあ、気づいてないなら逃げようや」
「あっ、動かなくなった」
「気づいたの?」
「いえ……ふらふらしてます。病気みたいですよ」
クビツリは二頭の唾女の手綱を持って歩き始めた。
「おい、おい。何処行くんだよ」
「見に行きましょう」
「馬鹿野郎。何を考えてんだよ」
「昆人の一匹ぐらい、僕だけでも相手できますよ」
「嘘云うなよ。首切られたくせに」
「でも、死にませんでした」
「あたりまえだろが。最初から死んでるんだから」
「昆人が悪い奴だとは限らないでしょう。だって、昆人って元々徳が高いっていうか、高貴な生き物なわけでしょう」
「まあ、確かにそのはずなんだけどね」
私たちは喋《しやべ》りながらも昆人との距離をどんどん縮めていく。
今は私にもそれの姿がはっきりと見えた。
「あれは……昆人か?」
ミロクが云った。
それは頭をかかえ、じっと蹲《うずくま》っていた。
「あんな昆人は見たことないぞ」
クビツリは昆人のほんの手前で唾女をとめた。昆人――らしきものは、震えていた。
私は唾女から降り、腰に差した剣の柄に手をやる。
「あなたは昆人なの」
私は精一杯優しい声で尋ねた。
それは顔を上げ、私を見た。
「頼みます。お願いちます」
酷《ひど》く震えている。が、表情は読み取れない。獣の頭蓋骨《ずがいこつ》から喜怒哀楽を知ることのできる人なら別だろうが。
おそらく元は白だったのだろう。汚れて灰色の顔は、角のない山羊《やぎ》の骨そっくりだった。しかもただの骨ではない。アメリカンフットボールのヘルメットのようなものをかぶっている。山羊の頭蓋骨用のヘルメットがあるのならこれしかない、という形をしている。躰《からだ》は確かに昆人らしく金属の鎧《よろい》に包まれていた。だが、破れたアコメを肩から羽織っているので躰全部が見えているわけではない。脂肪のついただらしない腕と、芋虫のように太った五本の指は人のものだ。その指に縄をしっかりと握っていた。縄の先は大きな箱に繋《つな》がれている。
脇腹から左右六本のパイプが後ろ向きに突き出ていた。アコメを持ち上げ、背中から生えているのは羽だ。蜻蛉《とんぼ》に似た透明な羽が十数本、何の規則性もなく生えている。その下から覗《のぞ》いているのは太い尾だった。脊髄《せきずい》のような節のある尾は、先だけが象の鼻に似て柔らかそうだった。ヘルメットも鎧もパイプも、ブリキのような鈍い銀。全体を見ると、小学生の悪夢に出てくる脈絡のない怪物といったところか。躰にバランスというものが欠けていた。
「おまえ、本当に昆人か」
ミロクが唾女から降りてきて聞いた。どう考えても危害を加えそうには見えなかったからだろう。
「俺、昆人。違う。昆人、違う。でも昆人」
「はっきりしろよ」
弱い者には徹底して強く出るのがミロクだ。脅されて、それはいきなりパイプから蒸気を噴き出した。
悲鳴をあげ、ミロクは尻餅《しりもち》をついた。
私はそれのそばに跪《ひざまず》いた。
「あなたの名前は」
「俺か」
「そう、あなた」
怯《おび》えた子供に云うように、優しく優しく私は云った。
「俺は地蔵《じぞう》」
「地蔵はここで何をしてるの」
「逃げてきた。牛頭《ごず》から」
私はクビツリと顔を見合わせた。
「どうして逃げてきたの」
「俺、地蔵。村にいた。兵隊、来て、連れてかれた。俺、城《ちろ》の中。俺、酷い目にあった。俺、こんな躰になった。俺の躰。俺の躰。あいつら、何ちた」
「ちろって、城塞《じようさい》のこと?」
「そう、城塞」
「見ろよ。食いもんだ。水もある」
ミロクが勝手に地蔵の持っていた箱を開けていた。
「人のものを勝手に開けるもんじゃないわ!」
かっとなって怒鳴りつける。驚いたのは地蔵の方だった。首をすくめ、そして私を必死に説得する。
「いいよ。いい。だから、助《たつ》けて。俺、地蔵。元の躰にちてよ」
「ほら、いいって云ってるじゃないかよ」
ミロクは探し出した水筒から直接水を飲み始めた。私がそれをひったくる。
「何するんだ」
「飲むのは後よ。先に逃げなきゃ。牛頭の追っ手がこの地蔵を捕まえに来るわ」
「でも、もう唾女はこれ以上走れないですよ」
クビツリの云うとおり、二頭の唾女は四肢を折り、ぐったりと腹を地面につけていた。
「俺、歩ける。荷物、箱に積め」
「えっ、だってあなた、動けなくなってたんじゃないの」
「動けない、違う。俺、あんたたち見た。追ってきた、思った。駄目だ、思った。だから隠れた」
「あれで隠れたつもりか」
呆《あき》れ果てた顔でミロクは地蔵を見た。
「さあ、積め。俺、行く」
地蔵が歩き始めた。
「本当に大丈夫なのね」
私が念を押すと、地蔵は自信たっぷりに頷《うなず》いて見せた。
「じゃあ、行きますかね」
ミロクがさっさと荷を箱の中に移し始める。さっきまで疲れ切っていたのに、一杯の水で生き返ったようだった。
私も箱に荷を入れた。それでもできるかぎりの荷物は背に負った。
その間にクビツリは二頭の唾女の鞍《くら》を外していた。
「こうやったところで、長くは生きられないでしょうけれど」
誰に言い訳するともなく、クビツリは云った。
2
地蔵は問われるままに身の上話をした。
彼はこの近くの村に住む農民だった。この荒れ地の何処に作物のとれるところがあるのか、とミロクが聞くと、聖の山の近くには緑があり、土地も肥えているのだと云う。
地蔵たちは聖の加護の下、そこで豆や若干の野菜を育てていた。
六年前、その村に牛頭の軍勢が来て、村人をすべて城塞に連れて行った。城塞に入ると、彼は他の者たちと分けられた。彼の連れて行かれたのは奇妙な機械の並ぶ実験室だった。そこに集められているのは体力のある若い男ばかりだった。
地蔵は得体の知れない注射をされ、目醒《めざ》めたらこの躰《からだ》になっていた。何が起こったのか地蔵にはわからなかった。外見ばかりではなく、頭の中にも変化があった。地蔵は満足に喋ることもできなくなっていた。
地蔵を見た実験室の技師は「失敗だ」とこともなげに云った。兵士に連れられ、彼は牢《ろう》に入れられた。俺たちはどうなるのかと地蔵は聞いた。兵士は捨てられるのだと答えた。何処に、と尋ねると、溶鉱炉だと云った。失敗作の昆人はその金属をとるために溶鉱炉に入れられるのだと。
翌日、地蔵ら失敗作は鉄の檻《おり》に入れられ、溶鉱炉に運ばれた。その途中に地蔵は檻を破って逃げ出した。
「どうやって檻を破った」
ミロクが意地の悪い眼で見ながら云った。
「こうやって」
地蔵は檻の柵《さく》を両手で広げる真似をした。
「嘘だろ」
「本当。俺、力強い」
確かに並みの力の持ち主ではなさそうだった。彼の引きずる箱には車輪も何もない。中には数日分の食料と私たちの荷物が入っている。それを地蔵はさして苦もなく引いているのだ。
「この箱は?」
私が尋ねると、地蔵は云い淀《よど》んだ。
「……盗んだ。俺、途中で食べる、思た。そちたら、この躰、食べ物いらない」
「当たり前だろが。飯食う昆人なんていないぞ」
「知《ち》らなかった」
ミロクに怒鳴られ、地蔵は悲しそうに云った。
ミロクを睨《にら》んでから私は尋ねた。
「それで、何処から盗んできたの」
「逃げる時。町から」
「町って城塞は城なんでしょ」
「城は城。周りは町」
城塞は城を中心とした城塞都市とでもいうようなものらしい。
「町の名は?」
「バクトラ」
私たちは互いに顔を見合わせた。
バクトラが城塞都市。
ということは、あのまま汽車に乗っていたら、そのまま何も知らず城塞都市に入ってしまうところだったのだ。そうなれば、間違いなくそのまま捕らえられていただろう。
結果的に私たちは非常に運が良い。
「よかったなあ、伸江」
今更のようにミロクが胸を撫《な》で下ろした。
陽は傾きかけている。
沈む太陽は茜《あかね》の輝きに、最後の力を振り絞って精一杯の熱を込めていた。
「追っ手はこないようですね」
クビツリは後ろを見ながら云った。
「もう大丈夫よ、地蔵」
私は地蔵の堅い頭を撫でた。
「よかった」
ほっとしたのか、地蔵は胸のパイプから蒸気を洩《も》らした。
「それで、捨てられそうになった他の人はどうしたの」
「他の人。みんな失敗《ちつぱい》。俺より失敗。脚《あち》、ない。頭、二つ。もう死《ち》んでるのも。誰もできない。逃げる、できない」
それら〈失敗作〉が溶鉱炉に投げ入れられるのを見たような気さえした。それは胸を悪くするのに充分な情景だ。
「このあたりで休みましょうか。そろそろ陽が暮れるでしょうし」
クビツリが云うと、待ってましたとばかりにミロクは箱に飛びついた。
「少しは待てないの」
餌《えさ》を取る猿そっくりだ。
ミロクは私を睨みながら、箱から出した水を飲む。ひたすら飲む。
「さっき見たんですけれど、箱の中に天幕があるんです。あれを使いましょう」
「手伝うわ」
そうは云ったが、私にできることは何もなかった。天幕はクビツリの手で瞬く間にできていく。杭《くい》を硬い岩盤に打ち込むのが大変だったが、それも地蔵の協力であっさりと解決した。
天幕を張る間何もしていなかったミロクは、設置が終わると真っ先に中に飛び込んだ。
「快適、快適」
にこにこしながらそう云うと、一番疲れていたはずのミロクが、料理の支度を始めていた。
「あんたって人には本当に呆れるわね」
幾分、感嘆さえして私は呟《つぶや》いた。我が儘《まま》もここまで感情に忠実だといっそ心地よい、かもしれない。
料理、というほどのものではなかったが、それでも飢えた腹には美味《おい》しかった。本当にそうだろうか。つまり飢えているから美味しいのだろうか。私はこの世界に来てから不味《まず》い食べ物を食べたことがない。それはこの世界に来てからいつも飢えているからか。そうかもしれない。そうだったような気もする。しかし、それだけではない。そう、それだけではない。
地蔵が私をじっと見ていた。
表情はわからないが、どう考えても羨《うらや》ましそうにしているように見える。
「食べてみる?」
干《ほ》し肉を摘《つま》んだ。地蔵が小さく頷く。私は彼の顔を覆う、柵になった金属の隙間からそれを差し入れた。地蔵は長い銀の舌を伸ばし、それを口の中に絡め取った。
しばらく顎《あご》を上下させてから、地蔵は肉片を吐き出した。
「あっ、勿体《もつたい》ない」
反射的に手を伸ばし、吐き出した肉を摘んでから、ミロクは悲しそうな顔をしてそれを捨てた。
「駄目なの?」
表情の変わらぬ地蔵の顔を覗《のぞ》き込む。
「不味い」
それこそ吐き捨てるように地蔵は答えた。
満腹になった頃には陽が暮れていた。
たちまちのうちに気温は下がっていく。私はミロクと一緒に毛布をかぶって天幕に入った。
「クビツリも地蔵もおいでよ」
「僕は見張りをしていますよ」
クビツリが云った。
「俺も」
地蔵が云う。
「昆人は眠らなくても平気だもんな」
「またミロクは意地の悪いことを云う」
「だって本当だもんな」
ミロクは口を尖《とが》らせた。
「本当か。俺、眠り、駄目か」
「駄目だぞ。昆人は欲望を消すことから始まるからな。食べることも寝ることも、女も駄目だ」
楽しそうにミロクはいった。
「ミロクさんは昆人のことに詳しいですね」
クビツリに云われ、ミロクは急にしどろもどろになった。
「いやあ、そうか? そうでもないぞ。いや、そうじゃないぞ。聞いた話だ。聞いた話。よけいなこと喋《しやべ》ってないで、見張りしろよ」
「後で交代しましょう。しばらくしたら起こしてね」
「わしは交代せんからね」
云ったミロクの頭をぴしゃりと叩《たた》く。
「痛いなあ。乱暴者」
髭《ひげ》だらけの年寄りが皺《しわ》だらけの唇を尖らせた。何だか可愛くて、それが可笑《おか》しい。それに乱暴者って何だ。生まれて初めて云われた。乱暴者。凄《すご》くいい。いい響きだ。
「何が可笑しい、伸江」
「なんでもないわ。早く寝なさい。おやすみ、クビツリさん、地蔵君」
「おやすみ、伸江さん」
「おやすみ、ノーブ」
眼をつむると同時に落下するように眠りに就いていた。夢さえ見なかった。
起きたときに真上にクビツリの腐った顔があり、思わず悲鳴を上げそうになって口を押さえた。
「すぐに発ちます」
クビツリが気づいていないようなのでほっとした。
「すぐに発つって、どうしたの」
「あれを」
クビツリが持った角灯《ランタン》を天幕の外に突き出した。
何かが地面に転がっている。その横に地蔵が立っていた。地蔵はそれを脚で踏みつけていた。
「あれは?」
「ハシリダンゴです。本体は殺しましたが、蚊は飛び立ちました。きっと何処かに連絡がいっているはずです。さあ、起きて」
最後はミロクに呼びかけた。
わあ、と叫んでミロクは飛び起きた。
「やめてくれえ……あれ、まだ夜中じゃないかよ。後少しだけ寝かせてくれよ」
「敵に見つかったのよ。出なくちゃ」
「嘘だろ」
「嘘じゃないわよ。さあ、早く」
半ば寝惚《ねぼ》けたままのミロクを天幕から追い出し、私はクビツリと共に荷物を仕舞い込み、箱の中に入れた。
「でも、この暗闇の中をどうやって進むんだよ」
ミロクが不服そうに云った。無理もない。珍しく月が雲に隠れている。星明りだけでは覚束ない。
「角灯だって油がないんだろが」
「俺、俺」
闇の中から地蔵の声が聞こえた。
「何か云ったか」
ミロクが怒鳴ったが、地蔵は怖がってはいないようで、そのまま言葉を続けた。
「俺、見ろ。光る」
ぼんやりと緑の光が見えた。どうもそれは地蔵の尾のようだ。
「なっ、光る。もっと光る」
云うとおり、光は増し、角灯程度の明るさになった。
「俺、行くぞ」
さっさと歩き始める地蔵に、私たちは慌ててついて行った。
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real-8
金貸してぇ、金貸してぇ、と人を見れば声を掛け身体をべたべたと触っていたサキさんは、何故かトイレのロッカーの中で死んでいた。ベッドをまともに動くことができないミイラのようなオトワさんはある朝ベッドから落ちて死んでいた。看護婦や看護士が近づくと、二の腕ほどもあるペニスをだらりと出して見せていたシンドウさんは消しゴムを喉《のど》に詰めて死んだ。先月死んだのはその三人だ。ここには死が溢《あふ》れている。にもかかわらず、あらゆるものがひっきりなしに跳ね回っているかのように騒々しい。死から想像される静謐《せいひつ》さなど欠片《かけら》もない。猥雑《わいざつ》で混沌《こんとん》としたここが、病院であるという事実は、働いているものでさえ時折忘れることの一つだ。
腰と背が曲がり、まるで「?」のような姿勢で〈ブリキ人形〉は立っていた。一階の廊下の端だ。床を見、前を見、また床を見る。これを十四回繰り返してからおもむろに右脚から前に出る。そしてゼンマイ仕掛けの人形のようにちょこちょこと歩き始めた。
看護婦の一人がそれを見てブリキ人形と名付けたのはそれなりに言い得て妙かもしれない。それはすぐに人形と略され、結局ニンちゃんだのニっちゃんだのという訳のわからない渾名《あだな》で呼ばれることになった。そう呼ばれることを本人がどう思っているかはわからないが、それが自分の呼び名であることは認識できているようだった。おそらく今となっては、本名で呼ばれてもわからないのではないだろうか。
慌ただしく通り過ぎる看護士に肩を弾《はじ》かれ、太った看護婦に前を塞《ふさ》がれ、点滴を持って前衛舞踏のような速度でゆっくりと前進するサタケさんにぶつかりながら、〈ブリキ人形〉は小股《こまた》で慌ただしくちょこちょこと脚を進めていく。誰かにぶつかったり、道を塞がれるたびに、その方向が変わる。まるでピンボールだ。
夕食の時間だった。醤油《しようゆ》と油のにおいが、消毒薬と糞尿《ふんによう》の臭いと入り交じり、喩《たと》えようのない悪臭が廊下を満たす。慣れぬものなら気分が悪くなりそうな臭いだ。事実新米の看護婦など、夕食の支度をそのままにトイレに駆け込んだりする。
廊下に溢れているのは悪臭だけではない。アルミのトレイを積んだワゴンを押しているのは若い看護人だ。中年の看護婦がそれに付き添っている。本来は看護人一人でする仕事なのだが、彼女はこの新しい看護人の世話役と自認しており、つきまとって離れない。そこに腹をすかし、なおかつ歩くこともできる者がトレイを受け取りに部屋から出てくる。それに追い打ちを掛けるように喧嘩《けんか》が始まった。パジャマ姿の二人の老人が組み合っている。おかずを一品盗んだ盗まないということから始まった。看護婦もとめればいいのに、皆にトレイを配りながらちらちらと見るだけだ。楽しんでいるようにも見える。二人の喧嘩は、喧嘩というものの常識からは少しはずれていた。まず、抱き合って二人はうんうん唸《うな》っていた。そのうち、一人がゆっくりと離れる。名残惜しいように、そのパジャマの裾《すそ》をもう一人が掴《つか》んでいる。掴んでいる方は干した魚のような顔をした痩《や》せた老人だ。彼は「このうんこったれが」を何度も何度も繰り返していた。離れようとして、拳骨《げんこつ》を振り上げた老人は、何かの魔力で縮められたかのような小さな男だ。小声で「んだよ。ばあか、ちがうっていってんだ。違うもんは違うだろがな。話してもわからんときはわからん」などと途切れなく呟《つぶや》いていた。
小男の拳骨が魚顔の肩に落ちた。
魚顔がひい、と悲鳴を上げる。
肩の位置がずれていた。
今の一撃で肩の骨が外れたようだ。
こうなるとさすがの看護婦も手を出さないわけにはいかない。二人をとりあえず引き離し、看護人にヤマギシさんを呼んでくるように言いつけた。ヤマギシさんは医者ではない。単なる看護人なのだが、昔柔道をしていて、脱臼《だつきゆう》程度なら彼に頼むことが多い。医者の数は少なくいつも不機嫌だ。つまらぬことで呼ぶなと言われるのが必至なら、気の良いヤマギシ看護人を呼んだ方がいい。
新人看護人が慌てて廊下を走ろうとした。
そこに〈ブリキ人形〉がいた。彼は、歩くのに時間が掛かるのを見越し、夕食が運ばれてくる前に廊下に出てきていたのだった。目的地までは後わずかだ。
で、正面から彼に迫った看護人は、その身体をちょっと押した。退《ど》いてくれ、程度の意味だ。本人は手加減したつもりだろうが、〈ブリキ人形〉にとってはそうでなかったようだ。くるりと九十度身体が回転する。背中が極端に曲がっているので、身体の一番前に頭頂部がくる。その頭頂部が、そこの扉を開いた。
〈ブリキ人形〉はそのままドアの開いた部屋へと入っていった。そこは二人部屋だが、どちらも一日の大半を寝たままで過ごしている。腐敗臭がするのは、二人とも褥瘡《とこずれ》がかなり進行しているからだ。
〈ブリキ人形〉は部屋の端まで行き、そこでぶつかる直前に立ち止まった。くるりと器用に振り返る。それから左右を十二回ずつ見ると、今度も右脚から前に出た。小刻みに脚を進める。扉を出たところで、またもや左右を十二回ずつ見る。その間にまた後ろから押された。一歩踏み出してしまい、また数を最初から数えなおす。
廊下の隅で、ヤマギシさんに肩を入れてもらった魚顔が痛いよう痛いようとエンドレスで繰り返していた。
その横を通って〈ブリキ人形〉は歩き出す。最初向かっていた方向と反対に向かっていることには気づいていない。どんどん夕食の入ったワゴンから離れていく。
途中でそのことに気がついた。顎と額を交互に押さえ、方向を変えるための予備動作を始める。目の前にエレベーターが迫っていた。タイミングよく扉が開いた。中から看護婦が出てくる。〈ブリキ人形〉は立ち止まることができず彼女と入れ違いに中へ入った。背後で扉が閉じる。ようやくその時、彼は立ち止まり百八十度方向転換する。目の前の扉は閉じたままだ。彼はそれを見つめ、しばらく考えていた。このエレベーターは一階待機型だ。扉が閉まり数分後に、自動的に一階へと降りるようになっている。がくん、と箱が揺れ、エレベーターは一階へと向かった。
実はこのエレベーターに乗る前の廊下に扉がある。それは〈ブリキ人形〉たちのいた病棟から、勝手に患者が外に出ていかないための扉だ。いつもなら錠も掛かっている。鍵《かぎ》もいらない形式だけの錠だが、それでも少しの足止めにはなるからだ。
その扉が開いたままだった。新米看護人が閉め忘れたのだ。
いくつかの偶然が重なって、〈ブリキ人形〉は坂を転げ落ちるボールのように一階のロビーにまでたどり着いていた。既に最初の目的は失いかけていた。
空腹ではあったが〈ブリキ人形〉は歩き続けていた。やはり何度か、電気仕掛けの玩具《おもちや》のように、何かにぶつかっては方向を変えながら、ずっと歩き続けている。ブラウン運動さながらの動きにもかかわらず、彼はやがてロビーからも出てしまった。
病院の中庭だ。ここでもボールのように弾かれ止められ押されて歩き続ける。やがて裏門から出ていくまで誰にも止められなかったのは運が良いのか悪いのか。
病院が彼の不在に気がついたのは、翌朝のことであった。
かつてはスナックであったようだ。狭い狭い部屋の中にカウンターが一つあるだけ。処女雪のように何もかもを埃《ほこり》が覆っている。
埃はしかし、それほど苦でもない。
ライオンがずっと顔をしかめているのは、腐った手首の臭いに辟易《へきえき》しているからだ。
「な、そいつはどこかに置いていこうな、なっ。それがいいてそうしような、な」
「駄目よ」
何度も何度もライオンは説得を試みたが、答えは同じだ。
駄目。
「でもなあ、それを持っていくのは――」
「連れて行くのは、です」
「……む、ま、連れて行くのはだね、それはちょっと無理だ。酷《ひど》く臭うだろ。それだけで大変だ。あのな、わしらは人目をひいちゃあ駄目なんだ。それはわかってるのか」
女はこくりと頷《うなず》く。
「ならば、な。臭いからって誰かにとっつかまって、その臭いは何の臭いだっ、とか聞かれたらどうすんの、あんた」
「でも、だからといって友人を置いていく気はありません」
「友人ってな……あんたな、それは本気か」
またもや幼女のように頷く。
ライオンは溜息《ためいき》をついた。
何をするにしろ、あまりな悪臭は人目を惹《ひ》く。それに臭いと公共の交通機関を使うことが不可能になる。金さえあれば電車に乗ることができる。風体が多少汚らしいからといって呼び止められることはない。しかしあまり悪臭が強いと、改札で止められることがままある。差別だの何だのとごねても駄目だ。それにそんなことをしたら、すぐに警察を呼ばれる。
ライオンは何度目かの溜息をついた。いざとなれば石鹸《せつけん》を手に入れて身体を洗ってでも電車に乗ろうと思っていたのだ。それも死臭がしていてはまず不可能だ。
「まあな、急ぐこともないだろうが……」
己れに言い聞かせるようにライオンは呟いた。
ノックの音がした。
表口はシャッターが閉まっていて、鍵がなければ入れない。カウンターの奥の小さな扉が開いていた、ライオンたちもそこから入ってきたのだ。
その扉をこつこつと叩《たた》く者がいる。
女を連れて部屋の隅に逃れる。逃れるといっても狭い部屋だ。隠れて隠れきれるものではない。それでも隅の隅に座り込んで、ライオンは女の肩をしっかりと抱いた。
ノックは規則正しく聞こえる。
時計の針が刻むように正確だ。
そして終わりがなかった。普通であればこれだけノックを続けたら、諦《あきら》めるか、あるいは蹴破《けやぶ》ってでも入ってくるだろう。しかし外にいる誰かは、ずっとノックを続けるばかりだ。
「ちょっと見てくるわ」
さすがに根負けしてライオンはカウンターをくぐった。
そこから裏口の扉を開く。鍵を掛けているわけではないから、ノブを掴《つか》んで回せばすぐ開く。
そこから覗《のぞ》いたのは皺《しわ》だらけの顔だ。頭には一本の毛も生えていない。
ひっ、と息を呑《の》んでライオンは後退《あとじさ》った。
その老人はちょこちょこと小刻みに脚を動かしながら部屋に入ってきた。紺のジャージ上下を着ている。かなりの年代物で、膝《ひざ》は抜け、生地はどこもかしこも伸びまくっている。足には花柄の、それだけ妙に真新しいスリッパだ。
腰をほぼ九十度に曲げ、老人は広くもない部屋の中を横切ろうとした。ライオンは慌てて壁に避けた。
女が立ち上がった。それほど背が高い方でもないのだが、それでも小男のライオンや、腰を曲げた老人と比べると極端に身長差がある。まるで白雪姫と小人たちだ。
「あなたは誰」
首を傾げ、どこか芝居がかった仕草で女は尋ねた。老人は壁の端まで行き着くと、しばらくそこで小さな足踏みをしていた。それから右の耳たぶを二回引っ張り、穴に指をつっこんできっちり四回ねじる。次は左の耳だ。機械的に右左と同じ動作を七回繰り返して、ようやく振り向いた。
「何?」
老人は言う。
辛抱強くそれまで待っていた女がまた聞く。
「あなたは誰」
「俺、俺、俺」
自分を指差した。
「そうよ」
「俺、ブリキ、人形、だね」
「ブリキ人形?」
「ブリキ人形、だね」
「ようこそ、私たちの旅へ」
女は生き別れの息子と出会ったかのように、〈ブリキ人形〉をしっかり抱きしめた。
ライオンが心底疲れ果てたような息をついた。
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第八章 聖なる山
1
ミルクを流したような、という喩《たと》えは嘘じゃなかった。
霧だ。
お話の中でしか聞いたことのないような濃霧だ。
自分の手さえ見えない。
前にクビツリ、後ろにミロクがいるはずだ。しっかりと手を繋《つな》いでいるのだから間違いない。間違いないはずなのだけれど、その手は確かにクビツリとミロクの手なのだろうか。何だかおかしい。これは人間の手だろうか。もしかしたら怪物の手かもしれない。
黙って歩いていると妄想が広がり、つい「いる?」と声を掛けてしまう。
濡《ぬ》れた服がずしりと重かった。
微細な霧の粒子は、邪《よこし》まな病原菌のように皮膚を通し躰の中に侵入してくる。
冷気が誰かの冷え切った掌《てのひら》となって伸江の背を撫《な》でた。冷えたスープの中に頭まで浸されているようなものだ。
いつ果てるともなく続く風輪の荒野を抜けると、緑の平原が続いていた。赤茶けてひび割れた皮膚病の土地に、乾いた褐色の風が吹く荒野の果てに出会った平原は、まるで天国のようだった。しかし天国もそれほど長くは続かなかった。壁に塞《ふさ》がれたのだ。大岩の隙間を、切り出した石で埋めた壁。見上げれば猿の類《たぐい》であろうとも登るのが困難なほどにそびえ立ち、左右はどちらを向いても壁が視界を閉ざしていた。いや、閉ざしていたのだろう。
壁はあちこちが微塵《みじん》に砕かれ、今は前衛彫刻のようなその名残があるだけだ。
私たちは頽《くずお》れた壁を越え、聖なる山に入った。頂上へと至る道は、山間《やまあい》につくられた新興住宅の宅地予定地のように、階段状に切り開かれていた。一段が大人の背丈ほどもある。それ以外の場所には大小様々の巨石が転がっている。何かの遺跡のようだった。いくつもの建造物が建てられていたのだろうか。壁と同様、それらはことごとく破壊されている。岩に絡まる寄生植物のように壁の一部が残っているだけだ。
私たちは段の上に手を掛け、登ったものは手を差し伸べ、一段ずつ山を登っていった。階段に終わりはなかった。終わりがないように思えた。疲れていた。疲労しきっていた。こんな時だけそんなことを云うのは卑怯《ひきよう》かもしれないけど、三十過ぎた女の躰には酷な運動だ。駄目だ、駄目だ、と頭の中で繰り返しながらも、しかし脚と腕は動かし続けた。
そして死体を見つけた。
乾燥してミイラ化していた。乾いて固まった雑巾《ぞうきん》に似た顔が苦悶《くもん》に歪《ゆが》んでいる。傷らしい傷はない。鉛色の肌は、その色にも拘《かか》わらず妙に生々しく、まるで今も生きているかのように見えた。
手に銃のようなものを握っていた。
引金を引くとパチパチと火花を散らす玩具《おもちや》の鉄砲のようだった。
何があったのかはわからないが、注意するに越したことはない。私たちは慎重に脚を進めた。巨大な石段はきりがなかった。
そしてまた死体と出会った。その手には玩具のような銃が握られていた。さっき出会った死体と同じだ。何かを遮るように宙に伸びた腕の角度から、恐怖に大きく開かれたままの口まで、何もかも寸分変わらぬ姿勢で死体はそこにあった。同じ場所に戻ってきたのだ。ずっと上へ上へと登っているにも拘わらず。
気の滅入る霧が降りてきたのは、それからすぐのことだった。
しばらくは爪先で道を探りながら歩いていた。しかしこれでは、元の死体のある場所に来てもわかりそうにない。そう判断して、私たちはその場に腰を下ろし、霧が晴れるまで動かないことにした。
私は霧を見つめている。眼を開いているということがそういうことなのだ。乳白色の霧をじっと見ていると、眼を閉じ、己れの頭の中を覗いているかのように錯覚してしまう。あらためて眼を開こうとするのだが、見開かれた眼をさらに開くことは当然できない。
「ミロク、いる?」
隣にいるはずのミロクどころか、自分がいることさえ疑問に思えてきた。
「いるぞ。すげえ霧だな」
待ってましたとばかりにミロクの声がする。不安なのは私だけではないのだ。少しだけほっとする。それを見計らったかのようにミロクが奇声をあげて立ち上がった。
「わああああ」
「何よ! 何よ!」
私は叫んだ。半分悲鳴になっている。
「それ、俺。俺、今俺ミロクさんの手、握った」
地蔵《じぞう》の声だ。
「脅かすなよ。死ぬかと思ったぞ」
「俺、さみしかった」
「気持ち悪いんだよ」
怒った口調で云いはしたが、一人ここに取り残されたような気持ちになっていたのはミロクも同じのようだ。どこか、ほっとした気配を感じる。
「このまま霧が晴れるまでじっとしているしかしょうがないですね」
森の中で一人死んでいたクビツリは孤独にも強いのかもしれない。一人冷静な口調だ。
「今のはクビツリさんね」
わかってはいたのだが、確かめずにはおれなかった。
「そうです。早く霧が晴れればいいのですが」
それは皆の願いでもあったのだが、願いはそう簡単には叶《かな》えられなかった。
冷たい霧の粒子は視界を遮り、熱を奪い、音さえも奪っていく。気力は萎《な》え、よくないことばかりが頭に浮かぶ。
よくないことを考えることにかけて、私は自信がある。だから私はそうならないようにできるだけ楽しいことを考えようとした。
愉《たの》しいこと楽しいこと。
そう云えばこの世界に来てからは、そう悪いことばかり考えていたわけでもないのだ。辛《つら》いこともいろいろあったが、どちらかと云えば楽しいことの方が多かった。今までならば楽しければ楽しいほど頭の中には〈悪い予感〉が浮かんでいたのだが、そういうこともない。
何故だろう。
どうしてそうなんだろう。
きっとそれは、仲間がいるからだ。私の仲間。ミロク、クビツリ、地蔵、コト。
私は彼らの顔を一人一人できる限り鮮明に思い浮かべた。
くたびれた獅子《しし》のような白髪と髭《ひげ》のミロク。木に吊るされていたクビツリ。金属製の躰《からだ》を持った地蔵。それに〈餅《もち》のような犬〉のコト。
あれ。あれれ。
何かこのメンバーに引っかかる。
この仲間って……どこかでこんな組合せを見たことがある。どこかで確かに……。
朧《おぼろ》なそれを必死になって思い出そうとする。まるで霧が頭の中に入り込んだようだ。もやもやとしたそれは形を成そうとしては四散する。眼を閉じ懸命に考えていると頭が痛くなってきた。
そうだ。
本だ。
本に関係がある。小さな時に読んだ本だ。タイトルが幾重にもずれた像となって頭に浮かぶ。
唐突にそれが一つの像に結ばれた。
「オズだわ!」
私は思わず叫んだ。
隣でミロクが可哀想なほど驚いて跳び上がった。
「何だ、何だ。伸江、どうした」
声がうわずっている。
「ごめんなさい、ミロク。何でもないの」
そう、間違いない。『オズの魔法使い』だ。
ミロクはライオン。クビツリはカカシ。地蔵はブリキのきこり。コトは犬のトトだ。
それじゃあ、私はドロシーなの?
ついつい、くすくすと笑ってしまう。きっとミロクは薄気味悪がっているだろう。
そんなことはどうでもいい。そうだ、きっとそうだ。だって私たちが会いに行こうとしているのはオズノ王。オズの魔法使いなんだもん。間違いない。私は『オズの魔法使い』の世界にいるのよ。
でも……それって、どういうことなの。
駄目だ。何にも考えつかない。第一そんなことに理屈があるんだろうか。まあいい。それはつまり私が『オズの魔法使い』の世界にいるということなのだ。他にどんな意味があるのだ。
あっ、そんなことより重要なことがある。
ドロシーはどうやって元の世界に帰ったのだろう。ここが『オズの魔法使い』の世界なら、そのとおりにすれば帰れるかもしれない。
思い出すのよ。
私は再び堅く眼を閉じ意識を集中する。
幼い頃読んだ本のページを、一枚ずつ捲《めく》るように思い出していく。
靴よ!
叫びそうになったが、今度は堪《こら》えた。
靴の踵《かかと》を合わせればいいのよ。
靴?
そうだわ。お義母《かあ》さんにもらった靴。あの赤いエナメルの靴がそれなのよ。あの靴は何処にやったのかしら。確かあの日、あれを履いて出たのだから……。
「ミロク!」
「わあ、はい。何だ、伸江」
「何処にやったのよ」
手探りでミロクの襟《えり》を掴《つか》み、持ち上げた。
「あたたた。止めろ、伸江。痛いぞ」
「何処にやったって聞いてるのよ」
「何がだ」
「靴よ、靴」
「靴?」
ミロクは間の抜けた声をあげた。
「私の赤いエナメルの靴よ」
「赤い靴……ああ、あれなら売っただろ」
「売った!」
血の気が引いた。
そうだ。この世界に来た時に売ってしまったのだ。
何てこと! 何て失敗!
「取り返してきてよ」
額がつくほどに顔を近づけて恫喝《どうかつ》した。
「無茶いうな、伸江。あれはナガラハーラの町で売ったんだ。いまさらどうやって取り返せる」
「どうやってもよ」
「……どうしてあの靴が急に入り用になったんだ」
「あの靴が必要なの。あれがないと家に帰れないのよ。ああ、どうしてあの時気がつかなかったのかしら。すぐにでも家に帰れたのに」
「何だかよくわからんが、あれを買い戻すのは難しいぞ。ナガラハーラの町にわしらは帰るわけにいかんしな。よく考えてみろよ。あの町であんたが何をしたか。ナガラハーラに戻るなんて死にに行くようなもんだぞ。それにあの婆、あんなものはとっくに売り払っているだろうからさ。何処に売ったかも、何処にあるかもわからん……。おい、泣くなよ。頼むよ。泣かんでくれよ」
私はしくしくと泣いている。
でも、でも、でも……。
今は動揺しているのだけれど、でも、でも、でも。
私は本当に帰りたいと思っているのだろうか。
コトが吠《ほ》えた。
何かに向かって必死で吠えている。
「どうしたの、コト」
唸《うな》り声をあげるコトの背に手を乗せて撫《な》でる。それでもコトは唸るのをやめない。緊張に皮膚が張り詰めているのがわかる。
「何かいるんだ」
ぼそりとミロクが呟《つぶや》いた。
〈何か〉と〈いる〉の組合せが途轍《とてつ》もなく恐ろしいモノを想像させた。
みんなも同じだ。それぞれの緊張が伝わってくる。
「わっ! いるぞ」
叫んだのは地蔵だった。
「何か、通った。俺の上、何か通った」
私は思わず立ち上がった。きっとみんな一斉に立ち上がったに違いない。
「こっちだ」今度はミロクだ。「ここにいるぞ」
「それ、俺だ」
「また、おまえか」
「ここにいるわ。それ! 捕まえたわよ!」
「馬鹿、それはわしだ」
「どうして私が馬鹿なのよ」
「そんなことを云ってる……」
そのままミロクは黙り込んだ。
どうしたのよ、と尋ねるとミロクはそれをきっかけに大声で叫んだ。
「わあああわしの脚の上にいるぞおお!」
「じっとしていてください」
クビツリはあくまで冷静だ。
「痛い! それは俺」
さして冷静でもなかった。
「ごめんなさい」
あやまった。
その時だ。古い拡声器から洩《も》れるような雑音だらけの歪《ひず》んだ声が聞こえた。
「逃げられんぞ」
声がした。
私たちの誰でもない声。
沈黙を確認したように、再び声がする。
「俺の網に掛かったんだ。二度と外には出れんぞ」
「誰よ!」
私は叫んだ。黙っているのが恐ろしかったのだ。
返事はない。
馴染《なじ》みの沈黙が辺りを支配した。
何も起こらない。耐え切れずミロクが云った。
「わし、触ったぞ」その声が震えている。「あれは冷たかった」
「俺と同じ。あれは俺と同じ」
勢い込んで、それでも何者かに聞かれぬよう小声で地蔵が云った。
「昆人《こんじん》だってことか」
ミロクに聞かれた。返事はない。でもきっと首を縦に振ったのだ。見えないけれど。
で、地蔵は云った。
「そう、昆人」
「俺の網だと云ってましたね。どういう意味でしょう」
クビツリが疑問を口にするとミロクが諭すように答えた。
「俺の網なんだろうさ」
「ミロクさん」
「はいはい」
沈黙。
そうだ。
きっとそうに違いない。
「ちょっと、みんな。こっち、こっち」
私は云った。
「こっちってどっちだ」
霧で何処から声が聞こえるのかわからないのだ。
「こっちよ。耳貸して」
滅法に手を伸ばしたにも拘《かか》わらず、私は見事にミロクの耳を掴んだ。
「あいてててて」
ミロクの頭が近づく。
それから私たちはコトも交えて、耳と口を重ねて密談を交わした。
私の考えはこうだ。
この罠《わな》が完璧《かんぺき》なものであれば、私たちが捕らえられたことでもう終わりだ。わざわざ危険を冒して我々の前に出てくることもない。それをわざわざ罠を張った張本人がやって来たのは、この罠だけでは完全ではないからだ。あんな挑発じみたことをするのは私たちの恐怖心を煽《あお》るために違いないだろう。何のために恐怖心を煽るか。隙をつくるためだ。つまり奴は、きっととどめを刺しにもう一度来るということだ。
だから私たちは待てばいい。じっとして、ただ奴が来るのを待てばいい。待って、今度奴が来た時、その時に何としてでも捕らえる。だから、確実に奴が捕まえられるところに来るまで、決して動かず待つ。
これが私の作戦だった。
私たち四人とコトは待ち続けた。
そして、果たしてその時がやってきたのだった。
私は横にいるコトの背中に手を置いていた。そのコトがぶるぶると震え始めた。
来たわ。
生唾《なまつば》を呑《の》み込んでしまった。その音が高速道路から落ちたタンクローリーの爆破音に聞こえた。
コトが動かないことを祈った。コトの震えが掌《てのひら》に伝わってくる。
霧で何も見えないけれど、何かはすぐそばにいるのだ。
鋭い爪のようなものが手を掻《か》いた。それは冷たい金属製の何かだ。
爪にそれの体重が乗った。二本目が、そして三本目の爪が手の甲に乗った。
ひんやりとしたそれの感触が手に重なる。
もっと近づけ。
頭の中で呟いた。
これを逃すとチャンスは二度とないかもしれない。慎重に、焦らず、ゆっくり……。
爪が手から腕へ這《は》う。
今だ!
腕を伸ばし、私はそれを掴《つか》んだ。確かに掴んだ。それは金属の棒のようなものだった。刺《とげ》や疣《いぼ》がその棒にはびっしりと生えている。それがちくちく刺さってこすれて痛かったが、そんなことで離しはしない。
そして叫んだ。
「捕まえたわ!」
それは懸命に逃れようと足掻《あが》く。指や掌が痛む。血が流れているような気もする。それでもしっかりと掴んだ〈それ〉の一部を持ち上げ、手繰り寄せ、もう一方の手で押さえる。
そうしているうちに六本の手が探り探り〈それ〉に伸びてきた。コトまでが大きな口でそれを咥《くわ》えているようだ。
きい、きいと〈それ〉は金属的な泣き声をあげた。
「ここから私たちを出しなさい!」
私は云った。我ながら毅然《きぜん》とした声だった。
「嫌なこった」
「殺すぞ」
すかさずミロクが云った。どうやら何かを持って立ち上がったようだ。私には何をしているのかわからないが、〈それ〉には霧の中でもミロクが見えているようだった。
「やめろ!」〈それ〉は叫んだ。「俺を殺したら誰もここから出られんぞ」
「出られなくても殺す」
ミロクの本気の声だ。〈それ〉にもそれは通じたようだ。
「うわあ、止めろ。わかった、わかった。出してやろう。だから……俺を自由にしてくれ。嘘じゃない! 自由にしてくれないと案内ができないだろ。出口は一カ所。そこしかないんだ。押さえられていては案内ができない」
「じゃあ、潰《つぶ》す」
どうもミロクは岩を持ち上げているようだ。
「止めろ、早まるな」
「この霧も君が操って出してきたのか」
クビツリが尋ねると〈それ〉は黙ってしまった。
「答えなきゃ潰す」
「待て! そう。そのとおり。俺が霧を出した」
「それじゃあ、まず霧を消してもらおうか」
クビツリがそう云ったとたんに、嘘のように霧が消えていった。
「蜘蛛人《くもひと》だ」
岩を持って仁王立ちしていたミロクが呟《つぶや》いた。
〈それ〉は金属でできた蜘蛛だった。胴体だけで肥満した猫ほどの大きさがある。
「やはり昆人なのね」
蜘蛛人はそこだけ人間そっくりの飛び出た二つの目玉で私を睨《にら》んだ。
「さあ、わしらを外に出すんだ」
持ち上げた石は今にも手を離れ、蜘蛛人の上に落下しそうだった。
「とにかくそれを降ろしてくれ」
本人も疲れていたのだろう。あっさりと石を降ろした。
「さあ、手を離してくれ。案内するから」
「地蔵さん。こいつを掴んで持ち上げてくれる?」
地蔵は頷《うなず》き、両手で蜘蛛人の腹を両脇から掴んだ。
「さあ、案内して。話せるんだから口で説明してくれればいいでしょ」
蜘蛛人は面倒そうな声で云った。
「登るんだ。とにかく登れ」
両手が塞《ふさ》がれた地蔵の尻《しり》を押し上げ、上から引き上げ、階段を一段ずつ登って行くのはかなり困難な作業だった。だが、一段ずつ上へと登っていることは間違いない。
「くそっ! 重てえなあ。でかいケツしやがってよ」
ミロクが悪態をつき、ようよう地蔵を持ち上げたところで、蜘蛛人が云った。
「もう大丈夫だ。今俺の網の外に出た」
「本当か」
ミロクが疑わしそうな眼で蜘蛛人を見た。
「あれを見てみろ」
蜘蛛人は前の二本の脚を突き出した。
そこに寺院があった。それははっきりと寺院とわかる程度にしか破壊されていなかった。
「あれはまだおまえらが見たことのない建物だろ。あれが網の外に出た証拠だ」
確かにまともに残っている建物を見るのは初めてだった。
「さあ、この馬鹿力に俺を降ろすように云ってくれ」
いいのか、と地蔵が私に眼で問う。私は頷いた。
地蔵はゆっくりと蜘蛛人を地面に降ろした。その脚が地に着くか着かないかという時だ。
蜘蛛人は刺だらけの複雑な大顎《おおあご》を開いた。
地蔵が慌てて手を離す。
蜘蛛人が頭をひねった。
その顎から粘液が滴った。
地面に垂れると、じゅうと蒸気が昇った。
突然、風が吹いた。
突風だった。
小さな蜘蛛人の躰《からだ》が吹き飛ばされて転んでいく。
砂埃《すなけむり》を巻き上げた風は一羽の鳥を連れてきた。飛ぶことが信じられないほどの巨大な鳥だった。
クビツリが悲鳴をあげ、崩れるように座り込んだ。
極彩色の翼を広げてそれは私たちの前に舞い降りた。
錦鯉《にしきごい》ほどの羽毛が舞う。
赤い鱗《うろこ》の生えた太い脚が、その鋭い鉤爪《かぎづめ》が、蜘蛛人を捕らえた。蜘蛛人は八本の脚をばらばらに動かして暴れ、キイキイと泣き叫んだ。が、爪はその躰にしっかりと食い込んで離れない。
鳥は蜘蛛人を掴むと、反転して宙空に飛び上がった。
その姿が消え、見えなくなってもクビツリはしゃがみこみ、頭を抱えて震えていた。
「どうしたのよ」
クビツリの背中を撫《な》でる。
「……鳥はもう行きましたか」
弱々しい声でクビツリは尋ねた。
「臆病《おくびよう》な奴だな。鳥だよ、鳥。あんなもんでびくびくすんじゃないぞ」
偉そうに云うミロクを睨んだ。
「行ったわよ」そう云ってからようやく気がついた。「孔雀《くじやく》だと思ったのね。違うわ。きれいな鳥だけど、孔雀ではなかったわ」
「わかってました。わかってたんですが」
クビツリはそれでも顔を上げようとはしなかった。
2
蜘蛛人の網を越えても、続くのは頂上への階段だ。
段の端に手を掛け、壁を蹴《け》りながら上の段に躰を上げる。そんな単調な繰り返しが延々と続く。
後ろを振り返った。
遥《はる》か下方に雲がある。いつの間にか雲を越えていたのだ。
脚の下に雲がある。
初めての経験だった。天地が入れ替わったような奇妙な感じがした。
上に登るにつれて、階段の幅が狭くなってきた。初めのうちは狭くなってきたかなと感じるほどのものだったが、どんどん幅は狭まり、やがて二人並んで立てなくなった頃には、それはもう階段と呼べるものではなくなっていた。
しかもその先は崖《がけ》だ。
無数の神々の姿が彫られている垂直に切り立った崖だ。足掛かりもろくにない。
自身の躰が重い上に、ほぼ四人分の荷物を背負っていては、さすがの地蔵もこれ以上登れそうにはなかった。
四人が分担し、最小の荷物だけ振り分け背負うと、地蔵を残し再び崖を昇り始めた。
指を少しの出っ張りに引っかける。脚を乗せる岩を慎重に探し爪先を乗せ、躰を持ち上げる。持ち上がった躰を今度は反対の手で岩を掴《つか》み支える。ぐいと躰を持ち上げると片方の脚が支えを失う。バランスを取りながら、新しい足場を爪先で探す。それを何度も何度も繰り返す。
その間、一瞬も気が抜けない。
たちまち指先から血が滲《にじ》む。
壁は垂直どころか、上に登るにつれて反ってきていた。
下を見ては駄目だということは知っている。知っているからこそつい眼が下にいく。
神経がまいってしまい、気力も底をつこうとしていた。
どうでもいい。何度もそう思った。どうでもいいからここで手を離そう。そう考えただけで後ろから何かに吸い込まれるように躰が傾いていく。
そして、もう一度岩を掴み直すのだ。
上に登るために。
しかし、それも限界に近づいていた。
膝《ひざ》は崖に擦《こす》れ血を流し、たるんだ腿《もも》の肉が痙攣《けいれん》を起こし始めていた。
先頭を歩いていたクビツリの声がした。
「頂上だ」
見上げると眼の前に崖の端があった。それに指を掛け、躰をぐいと持ち上げる。上半身が頂上に乗った。そのまま這《は》って前に進む。
伸江はうつ伏せになったまましばらくじっとしていた。平坦《へいたん》な地面というものをこれほど有難く感じたことはなかった。
もう駄目だと何度も思ったが、駄目ということはないのだ。根性と気力で何でも乗り越えることができるんだ。思ってから、今時楽天家の体育教師でも云いそうにない台詞《せりふ》だと笑った。笑う余裕ができたことに感謝した。
「伸江さん」
クビツリが肩を叩《たた》いた。
「見てごらんなさい、空を」
膝を立て、よっこいしょと声を掛けて立ち上がった。
上を見る。
天を覆っているのは雲ではない。
水だ。
頭上に広がるのは空ではなく、広大な湖だ。空一面に満々と水が満たされている。
手を伸ばせば届きそうなところに水面があった。
冷たく青い透き通った水の奥、揺らめく水面の下に、巨大な蓮《はす》の花が咲いていた。
重なり合う裸の少女たちに似た桃色の花弁の中心に女がいた。女は四肢を大の字に広げて横たわっている。若くはない。銀の髪が水に流れ水草のように揺れていた。だが時間は彼女の美しさを損なうことができなかったようだ。
その女性は私を見て微笑んだ。もう一輪の蓮の花が開いたかのようだった。
「あれは」
絶句した。
それに続けてクビツリが云った。
「北の聖《ひじり》です」
聖の周りに鏡が五枚置かれてあった。頭、両の手、そして両脚。それぞれの位置に鏡は置かれてある。
鏡に磔《はりつけ》になっている。
伸江はそう思ってすぐに訂正した。その五枚の鏡はそれぞれに頭と四肢を映していた。そう、映し出しているだけだった。
鏡に虚像を映すべくあるはずの本体は何処にもない。実像は薄物をまとうトルソーとなった胴体だけ。
鏡の中の聖が唇を開いた。
「伸江さん、ようやく来てくれたのね」
「お義母《かあ》さん」
思わず云っていた。義母の小枝子に似ているわけではない。小枝子も美しく上品な女性ではあったが、あれほどに神々しいとは云えない。聖の美しさは人間のものではないのだから。しかし、聖の醸し出す雰囲気は小枝子そのものだった。どこが、というわけではない。
その顔を見ているとるると涙が溢《あふ》れた。溢れてこぼれ止まらなくなった。空を見上げているので、溜《た》まった涙が視界を滲《にじ》ませ、何も見えない。
何故泣いているのか自分でも理解できなかった。
「あらあら、何も悲しむことはないのよ。あなたにはお仲間がいるんですものね」
「私たち」涙を拭《ぬぐ》った。鼻の奥に塩辛い涙が残っていた。
「オズノ王のところに行こうと……」
「わかっているわ」聖は私を制した。「それがわかっていたから、私も非天《アスラ》と戦おうと決意したんですから。随分昔の話よ。それでもこうなってしまってはね」
聖は悲しそうに笑った。
「でも、私が思ったとおり、バラハツダの年にあなたは私の所に来た」
「バラハツダ……失礼ですが聖、今年はシツラバナの年。バラハツダの年は来年です」
恐縮しながら云うクビツリに、聖は微笑んだ。涙が出そうなほど優しい笑みだった。
「あなたたちは蜘蛛人の時網《ときあみ》の中にいたのですよ。時網の中では時間が速く、それはもう素早く過ぎて行きますからね」
「それでは僕たちは……」
「一年近く、時網の中にいたのよ。上手《うま》くあなたたちがあれを巣の外に追い出してくれたおかげで、カルラに退治させることができました。……あなたは」
聖はクビツリを見た。
「〈|清らかな幻の肉体《ダクペエ・ギユ・ル》〉ね。もうすぐあなたは死の死を経験するわ。それまでは伸江さんを手伝ってあげてね」
聖は地蔵を見た。
「あなたは昆人ね。きっと素晴らしい昆人になるわ」
「すばらし、すばらし」
地蔵は嬉《うれ》しそうに何度も呟《つぶや》いた。
「あの、聖さま」
いつの間にかここまで上がってきていたミロクが、肩で息をつきながら話に割り込んできた。
「わしらはオズノ王のところに行くつもりだったんですがね、これが」肘《ひじ》で私をつついた。「ナガラハーラの町でよけいなことをして、少し厄介なことに巻き込まれましてね」
上から見えぬようにミロクの脚を蹴《け》る。
「いてっ。まあ、それで何とか無事にオズノ王のところに行く手立てはないかと」
「残念ですが、私は非天の呪縛《じゆばく》によってこのような躰《からだ》になってしまいました。これではあなたたちを金輪に送ることもできません……。あなたは影ですね」
「何ですと」
「あなたは伸江の影。あなたがいるおかげで伸江は随分と楽になりました。心から礼を云います」
ミロクは嬉しそうな顔で頭を掻《か》いた。しかし聖が何を云っているのか理解したわけではなさそうだ。
「それは、何処で拾ったのかしら」
「えっ」
ミロクは懐を押さえた。
「何を持ってるのよ」
ミロクの耳を掴んで引っ張った。
「いてて。何するんだよ。あの死体が持ってた銃だよ。何かの役に立つかと思って持ってきただけじゃないか」
再び私はミロクの脚を蹴った。
「それは憤怒砲《ふんぬほう》といいます。怒りを力に変える銃ですよ。これからあなたたちの役に立つかもしれませんね」
ほらみろ、とミロクは私を見た。それを無視して聖に尋ねた。
「私は、私はどうすればいいのですか」
聖を見ていると、ついお義母さんと付け加えそうになってしまう。
「あなたは非天を救い、世界を救うわ」
「非天を……救うのですか」
「そうですよ。私もお手伝いしたいのですが、この躰では……」
「私が何とかします」
きっぱりと云った私の袖《そで》を、ミロクが小魚のように引っ張った。
「どうすればいいでしょうか」
「そう云ってくれると思っていました。私を救うのは、あなたにとっては簡単なこと。でも、その前に、あなたは金輪にいかねばなりません」
「金輪?」
伸江は聞き返した。
「そこでオズノ王が待っています。さあ、太陽の沈む方を向いて」
「太陽の沈む方ってどっちだ」
ミロクが辺りをきょろきょろと見回した。
「茜《あかね》に染まる、あれがそうです」
水を湛《たた》える天と、その下を流れる雲が赤く染まっている。その中央に、滲み、膨れ上がった太陽が浮かんでいた。美しくはあるが、恐ろしいような景色だった。
私たちは聖に背を向けた。眩《まぶ》しい太陽に眼を伏せる。
風が、突風が後ろから吹いた。
それだけだった。それだけだったが、眼をつむっていても何かが変わったのを私は知っている。おそらくみんなも。
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real-9
「調べてみてわかったんですが、廃屋というか、空き家はどこにでもあるもんですな」
広げた地図を新聞のように眺めながら、柳瀬は大和田に言った。国道沿いのファミリーレストランで、二人は向かい合ってコーヒーを飲んでいた。
「ほら、これですわ」
地図を半分に畳み、テーブルに置く。
「まずこれ」
指差したところには赤く印がついている。
「それからこれ。これもそう。ここにもある。ここもここも」
赤い点は道に沿っていくつも並んでいた。
「これが、どうやら最近誰かが入り込んでいたんじゃないか、あるいは本当に入り込んでいたとわかっている空き家です」
「ずいぶんな数ですな」
大和田は少し顔を地図から遠ざけて見る。
「この中の何処かで奴らは発見されてはおらんのですか」
「それらしき人間が見つかってもいます。しかしその情報が正しいかどうかは不明だ。それでも一応それらしい目撃情報のあったところにはこうして二重丸をつけています」
「それだけでもたくさんありますなあ」
「この数ならそうたいしたことはありませんよ。でね、私は間宮さんと一緒にこれを見て考えたわけですよ。その、二人が近づきそうな場所。寄りつきそうな空き家をね。で、いくつか候補をあげています。それが星印の場所です」
「ここは」大和田はその一つを指差した。
「すぐそばですね」
「ええ、ここの丁度裏側になる。元は喫茶店だったようですが、立地が悪すぎる。駅から遠いし、裏道だ。それで何をやってもつぶれるらしいですよ」
「根拠は」
「はあ?」
「あなたたちが、二人が寄るであろうと推測したその根拠ですよ」
「今までに彼らが寄ったと思えるところにいくつかの共通点がある」
「ほう、それは」
「まず広い道路からあまり離れていないということ。国道から離れて山道に踏み込んだりはしない」
「それは空き家がないからでしょう」
「空き家に固執する必要もないでしょう。それに、もう少し人を避けてもおかしくないのに、大通りからそれほど外れようとしない。人目のある空き家を選んでいるようにさえ見えるんですな。それから歩道のある交差点から近い場所が多い。これも理由がわからない。しかし間宮さんが面白いことを言っていましたよ。視覚障害者用の誘導ブロックをご存じですか」
「何ですか、それは」
「歩道や駅でよく見る、でこぼこのある黄色いタイルですよ」
「ああ、あれですか」
「あれの設置箇所は各自治体に任されていて、定まった規定はないのですが、横断歩道、特に曲がり角や施設への誘導部ですね、それから歩道橋やバス停に至る道。そんなところに設置されています」
「ほう、それで」
大和田には柳瀬がどこに話を持っていこうとしているのかがわからなかった。
「誘導ブロックのある道。それが奴らの出入りしたであろう空き家の近くにある。しかもね、ブロックが途切れたり分岐したりした場所の近くに。なんだかそこで迷って一休みしたみたいにね。で、間宮さんが言ったのはね、誘導ブロックに導かれて歩いているみたいだ、ということなんですよ。おもしろいでしょ」
大和田は椅子の背にもたれ、言った。
「あまり確かな根拠とも思えませんが」
「かもしれませんね。ですが、確かな根拠があれば警察も動く。私たちは仮定に仮定を重ねるしか方法がないんですよ。しかしね、それにしても間宮さんをはじめ警察関係者や本職の探偵もが参加して決定していることなんです。誘導ブロックのことにしても、奴らの足跡を歩いて追ったからこそ思いつくことです。それなりの努力なしに思いつきで言っているわけじゃない。大和田さん、まずは我々を信用してくださらないと」
ことさらに優しい口調で柳瀬は言った。愚図る子供に言い聞かせるように。
「そうですな」
大和田は冷えたコーヒーを一気に飲み干す。
「さて、それじゃあ、まずはそのつぶれた喫茶店に行ってみますか」
「そうですよ、大和田さん。まず動いてみないと始まらないですからな。我々も誘導ブロックに従って奴らを追ってみようじゃありませんか」
立ち上がり、レジに向かいながら大和田は言った。
「それで、今日これから私たちが奴らと出会ったら、その時は――」
「連絡します。そのための人員へね。もちろんあなたの意見を尊重しますし、もしご希望なら、最後の処置まであなたにご覧いただくことになりますよ」
柳瀬は伝票をレジに差し出しながら、そう言った。気怠《けだる》いほどに長閑《のどか》な、昼下がりの郊外のファミリーレストラン。その場にいながら、まったく異なった世界に私たちはいるのだと大和田は実感した。
角地に立てられた二階建ての小さな木造家屋だ。埃《ほこり》だらけのガラス窓にはすべて裏から新聞紙が貼《は》られている。その日付を見れば五年前のものだ。かつてのこの家の住人がそれを貼った。母親と娘の二人暮らしだった。父親は放蕩《ほうとう》のあげく、子供がまだ幼稚園に通っている頃に家を出た。借金だけが残され、母親はホステスをしながら一人娘を育てた。水商売の子供だから、片親だから、などと言わせないためにと、母親は娘を厳しく育てた。男関係で噂されることも嫌った。その潔癖さやさっぱりした気性のために、客に兄貴などとふざけて呼ばれたりもした。気っ風の良さが評判で、どこの店に勤めても、彼女でなければ、という常連客がついた。初めて自分の店を持ったのは、働きだして十五年目だった。バブルで世間が浮かれていたにも拘《かか》わらず、男からの援助を受けなかった。トランクに札束を詰めてプレゼントに、などと言ってくる客がいた時代である。しかし彼女は堅実な経営を続け、知り合いが皆そうしていたように、株や土地に手を出すこともなかった。店は少しずつランクアップしていき、最盛期には二十人以上のホステスを雇い入れたクラブを経営していた。しかし、何もかも自身の力でやらなければ気の済まない彼女は、結局後継者を育てることが出来なかった。娘に店を譲ることなど考えもつかなかった。苦労して大学に行かせた娘に仕事を手伝わせるぐらいなら店をたたむ、と普段から言っていた。
不景気が続いた。常連客は代替わりすることなく、誰もが彼女と一緒に歳をとっていった。店はフィルムを逆回しするように規模を縮小していった。やがて常連客の訃報《ふほう》が訪れる客よりも多くなった頃には、この街の小さな飲み屋に落ち着いていた。娘は私立高校の教師をしており、金銭的には、彼女が働く必要はなくなっていた。それでも動けなくなるまでは店を切り盛りするつもりだった。望みは娘の結婚だけだった。しかし幼い頃から母親にべったりとくっついてきた娘は、結婚するつもりなど毛頭ないようだった。いや、幼い時から父親への、そして男たちへの憎悪を乳のように与えられ育った娘が、結婚などを考えるはずもなかったのだ。
身体が動かなくなる前に、惚《ぼ》けが始まった。アルツハイマーと診断された。娘は教職を辞め、看病に専念することにした。学校では生徒にも同僚にも馴染《なじ》めなかった娘にとっては、渡りに船だったのかもしれない。母親と二人きりの生活が、彼女にとっては理想だった。世間は悪意に満ちた男たちの住む場所だった。収入がなくなるということの意味を、それほど深くは考えてはいなかった。彼女自身はそれを親孝行だと考え、母親もまたそう思っただろう。結局彼女は、娘を手放したくないばかりに、己れから離れては生きていけない人間に育ててしまったのだ。姉妹のように仲がよい、と呼ばれることが二人の誇りだった。
母親の病が進行していくに従って、娘の挙動がおかしくなってきた。
近所でも彼女の奇矯《ききよう》ぶりを噂するようになった頃だ。すべての窓ガラスに新聞紙が貼られた。やがて娘はほとんど家から出なくなった。ひっそりと静まりかえる家は、既に廃屋と化しているかのようだった。
この二人に関する忌まわしい噂が町内を一巡りした。
そして半年前のことだ。臭いに気がついた隣人が警察に通報し、二人の死体が発見された。娘は喉《のど》を切っての自殺だった。そして寝たきりになっていた母親は取り残され、餓死していた。
近所の人間なら誰もが知っているこの話には、聞くもおぞましい様々なエピソードが付け加えられた。幾度か不動産屋の間で転売を重ねたが、ここに住もうという人間は現れなかった。
ネットで幽霊屋敷として紹介されたのがとどめだった。いったん更地にでもしない限り、売却は難しくなった。少なくとも後数年は。
しかし彼らはそんな長期にわたって住み着くつもりはない。当座の雨露をしのげればいいのだ。
窓は新聞紙で塞《ふさ》がれ、電気は通っていないのだから、昼とはいえ室内は薄暗い。埃《ほこり》と黴《かび》の臭いには既に馴染んでいた。更に腐敗臭にも。しかし、寒さには慣れない。
ライオンは毛布を身体に巻き付けて震えていた。
「あんたら、寒くないの」
不思議そうにライオンが尋ねた。
女は〈ブリキ人形〉と一緒に何事か話している。楽しそうだ。ライオンの質問にも答えない。気がついてもいないようだ。ちょっと意地になって大声で言った。
「寒くないのかい、あんたら」
頭をくっつけるようにして話していた二人が、一斉にライオンの方を見た。んっ、と言い淀《よど》んでひるむ。
「あのね」
言いながら女は膝《ひざ》でにじり寄った。
毛布を抱えてライオンは尻《しり》で後退《あとじさ》る。膝でにじり寄る。尻で後退る。狭い部屋の中の追いかけっこは、ライオンが壁に追い詰められてすぐに終わった。
「あのね」
女は言い直した。
顔をライオンに近づけた。久しぶりに女と近づいたことが、ライオンにはちょっと嬉《うれ》しかった。顔がだらしなく緩む。
「とうとうわかったの」
「何が」
「私はドロシーなの」
「ドロシー……がいじんさん?」
「違う!」
わかっているのかいないのか、〈ブリキ人形〉が怒鳴った。ライオンの身体が釣り上げた魚のようにぴょんと跳び上がる。
「お、おどかすなよ」
「違うのよ」
女は更に顔を近づけた。鼻がつきそうな距離だった。生暖かく湿った彼女の息に、ゆっくりとペニスが熱を持つ。
「私はドロシー。そうなったからそうなったの」
うん、そうかそうか、と訳もわからずライオンは頷《うなず》いた。頷きながら女の身体に手を回した。背中から尻にかけて指を這《は》わせる。それだけで股間《こかん》が硬く強張《こわば》るのを感じた。寒さが失《う》せ、毛布の中で汗ばみ始める。
「来たよう。とうとう来たよう」
〈ブリキ人形〉が情けない声をあげた。
女がすくっと立ち上がった。ああ、ああ、とこれまた情けない声をあげたのはライオンだ。
「大丈夫」
見上げるライオンの頭を撫《な》でながら、女が言った。
「私はドロシー。この家は私に力を与えてくれている。だから大丈夫」
がしゃがしゃと音がする。玄関の戸が揺らされている。声はしない。
玄関の扉が開いた。
鍵《かぎ》は掛かっているのだが、引き戸をがたがた揺すると開くのだ。
足音が聞こえた。遠慮のない足音にライオンが震える。
玄関から三人のいる部屋までわずかだ。
いたぞ。言いながら初老の男が二人、部屋までやってきた。二人は顔をしかめ、鼻を押さえた。腐敗臭が耐えられなかったようだ。
女は仁王立ちして二人を睨《にら》んだ。
多少は若い方の男が、震えるライオンを見て言った。
「あんた、多田美津夫だね」
返事を待たず携帯電話を取り出した。親指で小さなボタンを操作し、話を始める。
「ああ、大当たりだよ。一番マークをつけた空き家だ。旧古城宅さ。今すぐ来てくれ」
携帯をポケットに入れた。
「さて、多田美津夫だよね」
ライオンはしばらく考え、そして頷いた。
「答えては駄目ですよ」
言って女は前に出る。気圧《けお》され男二人が後退る。その時ぱたぱたと音を立てて〈ブリキ人形〉が走り出た。二人の男はそんな人間がいることにすら気づいていなかった。頭頂部から突進してきた小さな老人を、二人は咄嗟《とつさ》にさっと左右に分かれて避けた。
「行くわよ」
女に言われ、今度はライオンが飛び出した。それに続いて女が出ていこうとする。
「待てよ」
年嵩《としかさ》の男、大和田が女の腕を掴《つか》んだ。
「離して」
凜《りん》として女が言う。
大和田の心臓がとくりと波打った。何に驚いたのか自分でもわからない。気づいたら腕を離していた。
女はまっすぐ大和田を見つめている。
その姿がぶれた。まるで何人、何十人の女がその姿に重なっているかのようだ。そして囁《ささや》く声がした。これもまた何十人もの女たちの囁き声。何を言っているのかはわからない。しかしそれが怨嗟《えんさ》の呟《つぶや》きであることには間違いない。低く啜《すす》り泣き高く絶叫し、恨み辛《つら》みは鬱々《うつうつ》と大和田の耳に流れ込んでいく。
目が霞《かす》む。闇が増した。
「いずれ帰るからそれまでの間」
あの女の声がした。
その姿が見えない。
「待っていなさい」
叩《たた》きつけるようなその声にはっと気がつけば女たちの姿は消えていた。熱病に罹《かか》ってでもいるように身体が震え、とまらない。
横で柳瀬は跪《ひざまず》き、内臓を潰《つぶ》されてでもいるような音を立てて嘔吐《おうと》していた。
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第九章 オズノ王
1
空気が違った。
暑く、埃っぽかったあの空気ではない。人糞《じんぷん》や食べ物や人いきれの混ざった猥雑《わいざつ》な臭いもない。
涼しく澄んだ大気。
秋だ。
秋のにおいがする。
空を見上げた。今までは壊れたレンズで見ていたのではないかと思うほど鮮明だ。たなびく鱗雲《うろこぐも》の輪郭が空の青にくっきりと浮かぶ。眼を下にやれば一面に広がるのは田園だ。稲穂は重く頭《こうべ》を垂れている。私たちの立つ田舎道を取り囲む黄金の海。生まれた時から都会で過ごしたのに、どういうわけか懐かしい。
遠くに山が見える。山は赤だ。鮮やかに紅葉した樹々が山を静かな炎で包んでいる。裾野《すその》の金とそびえる赤。
「きれい」
地蔵《じぞう》が呟《つぶや》いた。
「そう、きれいね」
そうだ。地蔵の云うとおりだ。これを〈きれい〉と云うのだ。〈きれい〉とはこういうことなんだ。自然だからとか雄大だからとか、そんな理由が浮かぶ前にぽっかりと〈きれい〉がそれに重なる。だからそれはきれいなんだ。モノを見るとはそういうことなのかもしれない。考えるということさえそうなのかもしれない。〈そういうこと〉の中身が具体的にわかったわけではないのだけれど。
ぼんやりと阿呆《あほう》のように景色に見とれていたら、正面から一人の男が近づいてきた。麦藁《むぎわら》帽子をかぶり、手拭《てぬぐい》を首から垂らしている。ナガラハーラでよく見たパジャマのような服を着て、藁草履を履いている。男の顔は赤黒く、日焼けしているのだか汚れているのだか区別がつかない。
男は細い木の棒を持っていた。木の枝のようだ。それを引きずって地面に線を引いたり、地面を先でつついたりしている。何かのために持っているというのでもなさそうだ。子供が拾った枝を振り回しながら歩いているのに似ていた。
「よお」
男は嬉《うれ》しそうに私たちに手を振った。
「良かったなあ。もうすぐ秋収めだろ。それが見てみろ。ほら」田圃《たんぼ》を棒で差した。「今年はえらい豊作だ。で、あんたらは」
「私たちはオズノ王に会いに来たのです。オズノ王に会うにはどう行けばいいのかご存じですか」
「ああ、そうかね」男は牛のように小さく黒眼がちの眼をしょぼつかせた。それが感心している表情だということを知るのには、次の台詞《せりふ》を待たなければならなかった。「それはまあ、立派なことだ。偉いねえ。オズノ王の社《やしろ》か。社はこの道を……」
男は急に疑わしい表情になった。「オズノ王の居場所を聞いてどうするね。まさか、例のアスダとかアシタとかいう奴の手下じゃないだろうな」
「非天《アスラ》だろ」
ミロクが云うと、男は棒を振り上げた。
「やっぱりそうか!」
「違います。僕たちは非天とは何の関係もありません」
クビツリが慌てて顔の前で手を横に振る。
「ならいいんだ」
男はにっこりと笑って、棒を降ろした。こんなにあっさりと信じていいのだろうかと、ひとごとながら心配になる素直さだ。
「なにね、オズノ王さまがこの金輪を治めてらっしゃるのにだよ、アスダとかアシタとかいう奴がこの地に手を伸ばすつもりでいるそうじゃないか。水輪じゃあ大騒ぎだって聞いたもんでな。てっきり、あなたらがそのアスダの手下かと思って、すまんことをしたな」
「それはいいのですが、オズノ王のところに行くのには……」
クビツリが口を挟んだ。
「ああ、それを云いかけて忘れておったな。オズノ王の社はこの道を……いかん! わしは産婆を呼びにいく途中だったんだ。それがこの枝を拾って、田圃を見たら今年の収穫のことを考えて、嬉しくなって、あんたらに会って、それで長話をしているが…………確か何か大事な用事で急いでいたはずなんだが……」
「産婆だろ」
ミロクが云うと男は跳び上がって棒を投げ捨てた。
「よく云ってくれた。こんなことをしている場合じゃなかったんだ」
男は狐に見つかった野兎もこれほど急ぎはしないだろうという勢いで走りだした。後ろに本当に砂煙をあげながら畦道《あぜみち》を走っていく男を見て、私は思わず声を上げた。
「どうした伸江」
ミロクが聞く。私の「あっ」には慣れっこになっている、とでも云いたげだ。
「あれよ。今、あの人が走ってった後を尾《つ》ければオズノ王に会えるわ」
「何でそんなことがわかる」
不審な顔のミロクに私は答える。自信たっぷりに。
「オズノ王に会えるのよ。間違いないわ」
確信があった。その畦道には黄色いタイルが敷き詰められていたからだ。タイルを敷いた畦道という奇妙なものに、どうして今まで気づかなかったかはわからないのだが。
「さあ、行くわよ」
私はミロクと地蔵の腕をとって歩き出した。後ろから、コトを抱いたクビツリがついてくる。
ああ、我慢ができない。
どうしても躰《からだ》が動く。
堪《こら》えきれず、私はその一歩を踏み出した。
スキップだ。
すぐにミロクと地蔵の歩調が合わなくなる。えいっ、と二人の手を振りほどいた。
黄色いタイルの畦道は、小高い丘に続いている。その向こうへと、私はスキップし続けた。
2
「赤とんぼだ」
私は赤い腹を見せて空に群れるそれを指差した。
「何も知らないようだから云わせてもらうがね。ありゃ、蜻蛉人《あきずひと》の群れだ。蜻蛉人は昆人《こんじん》の中でも高い徳をもっているんだぞ。形こそ小さいがね、蝉人《せみひと》とは大違いだ」
ミロクはそっくり返って云った。偉ぶっているというより、腰を伸ばしたお年寄りにしか見えない。
高く、低く、蜻蛉人は飛んでいた。
「俺の羽」
地蔵はでたらめに生えた透明の羽を羽ばたかせた。
「蜻蛉人に似てる」
「大馬鹿野郎!」ミロクは一喝した。「おまえみたいなでき損ないと蜻蛉人を一緒にするんじゃない」
「ごめん」
私は項垂《うなだ》れる地蔵の肩を抱いた。
「多分ね、地蔵さんは蜻蛉人になろうとしていたのよ。地蔵さんは昆人にされる前は徳の高い人だったのかもしれないわ」
「そんなことはない」
ミロクがきっぱりと云った。
睨《にら》む私をミロクは無視した。
蜻蛉人の群れはしばらく頭上を飛んでいたが、赤い鳥居が現れると、役目が終わったように去っていった。
それは四本の柱でつくられた簡素な鳥居だった。
何となく前で立ち止まり、両手を合わせて拝む。地蔵とクビツリがすぐに真似をした。ミロクはそれを見ても関心のないような顔をしていたのだけれど、私たちが歩き出すと、すぐに後ろで手を合わせていた。
鳥居をくぐると緩やかな坂に出た。長くだらだらと続く坂を登り切る。
私は息を呑《の》んだ。
そこから少し急な下り坂になっている。そしてその下は一面の赤だ。赤い海が風に波打っている。花だった。赤い花だった。仰《の》け反る六つの花弁も赤。そこから水が噴き出るように長く伸びた雌蘂《めしべ》と雄蘂も赤。
彼岸花《ひがんばな》の群生だ。
彼岸花、曼珠沙華《まんじゆしやげ》、剃刀花《かみそりばな》、死人花《しびとばな》、灯籠花《とうろうばな》。いろいろな名前を持つこの美しい花は、毒を持っているのだ。その事実を知ったとき、そうだろうなあ、と納得したのを覚えている。毒のように美しい。毒々しいのではなく、彼岸花はそう思わせる花だ。
「きれいだなあ」
心から感嘆したようにクビツリが呟いた。
「ほっほー!」
言葉にならない言葉をあげて坂を駆け降りたのは地蔵だった。
「何だ、あいつ」
「きれいだからよ」
どうしてわからないの、と云い残して私も坂を走り降りる。見なくてもクビツリとミロクがついてきているのがわかる。
普通であれば彼岸花の茎は長さが三十センチあまり。それがここでは二メートル近くもある。ばさばさとその中に入ると頭まで埋もれてしまった。
赤一色の世界を茎をかきわけながら歩く。風が吹くと花は波打ち、ちょこっとだけ見えている地蔵の頭のてっぺんがブイのように浮き沈みする。
金輪にはきれいなものが沢山ある。たくさんきれいがある。それだけの言葉を頭の中で繰り返していた。楽しかった。楽しみすぎていたのかもしれない。己れまで赤く染まるような彼岸花の中を歩いているうちに、私はすっかり道に迷っていた。
地蔵! ミロク! と声を掛けながら進んでいると、とん、と誰かに背中を突かれたような気がして前にのめった。
唐突に彼岸花の群生を抜けていた。
後ろを振り返る。そこに彼岸花は一本もなかった。白い砂利道があるだけだ。その真ん中に立っていた。地蔵もいない。ミロクもクビツリもいない。左にはブロック塀。右には民家が並んでいる。瓦屋根《かわらやね》の大きな木造の家が多い。誰もいない。無人の街だ。幼い頃、正月の街はこうだった。誰もが家の中で祝い事をしている。おめでとうございますの声が聞こえなくても、中の家族の、それこそ〈団欒《だんらん》〉としか云いようのない何かが、淡い光を放っているのが見える。だから無人の街でも少しも寂しさは感じない。そんな正月の街に似ていた。そう、寂しくない。みんなを見失ったのに、あまり不安には感じない。
私はしばらく、そこに佇《たたず》んでいた。
雨が降ってきた。霧のような細かい雨だ。
雨に追われ私は歩き始めた。
見覚えのある景色だった。幼い頃に見た正月の街ではない。それでもいつか何処かで見た懐かしい景色。
男が立っていた。
黒い背広の上下を来た髭《ひげ》の濃い中年の男だ。その男が誰なのか私は知っている。母親の弟。私の叔父《おじ》だ。叔父は私を見つけると、こっち、こっち、と手招きした。
「まあ、伸江ちゃん。よく来てくれたねえ。ありがとう。さあ、中に入って。雨に濡《ぬ》れたでしょう」
「叔父さん」
叔父は私の背中を押して、開いた柵《さく》から中庭へと導く。中庭には無花果《いちじく》の木が一本あった。小さな頃、よくその実をもいで食べたのを思い出した。
ここは母の実家だ。
縁側に白黒の幕が張ってある。
「叔父さん、誰か亡くなったの」
「何をいっとるの。伸江ちゃんは昔からぼうっとしとったでねえ」
笑いながら叔父は勝手口から家に入った。
「伸江ちゃん」
同じ年の同じ日に生まれた従姉《いとこ》が入れ替わりに出てきた。
「久しぶりだねえ。結婚したそうじゃないの。幸せにやっとる」
ええ、とか、まあ、とか口の中でぶつぶつ呟《つぶや》いていると、従姉は白い菊の花を差し出した。
「これ、なんて花か知っとる?」
「菊でしょ」
「これはね、アキクサノハナって云うの。お祖父《じい》ちゃんが好きだったでしょう。祭壇に一杯飾っとったで貰《もら》ってきたの」
従姉は秘密めかして笑った。
雨で髪がしっとり濡れてきた。こめかみを水滴が伝う。従姉は私を土間に追いやった。敷居をくぐり、土間でサンダルを脱ぐ。そこに黒い革靴が沢山並んでいた。私の服はここでは場違いだ。しかも化粧すらしていない。喪服を貸してもらわなくちゃ。そんなことを考えながら土間から上がると、大勢の人がいた。知っている顔もあれば即座には思い出せない顔もある。ほとんどが母方の親戚《しんせき》だった。
「伸江ちゃん」
叔母《おば》だ。母の一番下の妹。叔母は私の腕を握り、泣いた。ひとしきり泣いてから、叔母は白いハンカチで眼を拭《ぬぐ》い顔をあげる。
「ありがとう。よく来てくれたねえ。あんまり急だったもんで、なんの用意もしとらんかったの。昨日の夜ね。病院から連絡があってね。明久さんという方をご存じですかって聞くから、祖父ですって答えたのよ。そうしたらすぐに来てくださいって云うでしょう。あたし、びっくりして、飛んでったんだわ。そうしたら……。心筋|梗塞《こうそく》でね。お姉さん。伸江ちゃんが来ましたよ」
最後の台詞《せりふ》は奥から現れた喪服の女に呼びかけていた。
「伸江」
母だった。喪服の母は、私とそう変わらぬ歳だった。
そうだ。従姉を見たときに何故気がつかなかったのだろう。従姉は、私と同い歳のはずの従姉は、フリルの白い襟《えり》がついた可愛い服を着た小学生だった。従姉は私が小学生、それも三、四年生の時に見たままの姿だった。それから二十年あまり経っている。この祖母の住んでいる家に私が遊びにきていたのはそれぐらいまでなのだ。従姉どころか、母方の親戚の誰に会うのも二十年ぶりなのだ。
母は憔悴《しようすい》した顔で云った。
「勝手な人だったけどね。こんなことになるとね。さあ、顔を見てやって」
母に手を引かれ、奥に入る。
長く暗い廊下を歩いた。今でもたびたび夢で見る廊下だ。夢の中の廊下と、それは同じだった。奇妙なほど長く、暗い。廊下の先は闇に消えていた。板張りの廊下は脚を進める度にみしみしと音をたてた。母の〈みしみし〉と私の〈みしみし〉は微妙に音が違い、足音同士で囁《ささや》き合っているように聞こえた。
右手に中庭があるはずだが、雨戸が閉まっていて外を見ることはできない。長い長い廊下を渡ると、障子が閉まっていた。確か廊下の突き当たりは仏間だったはずだ。
母が障子を開けた。
眩暈《めまい》がした。額に手をやり、眼を閉じた。眼を閉じているのに周囲がぐにゃりと曲がっていく感じがわかる。前に向かって吸い込まれていく。
躰《からだ》が大きく揺れた。倒れると思った。その時倒れたのかもしれない。眩暈はすぐに収まった。気がつくと椅子に腰を下ろしていた。それでも躰は揺れていた。音がする。ゴトゴトと列車の走る音。
椅子に座って、窓から外の景色を見ていた。延々と田園が続く。電柱は次から次に現れて、後ろへと流れていく。それを飽きることなく眺めている。そうだ。ずっと前から私は飽きることなく外の景色を眺めている。被っているのはお気に入りの黄色い帽子だ。
顎《あご》に食い込むゴムを指で弾《はじ》きながら外を見ていた。窓枠に置かれているのはビニールのコップに入ったお茶と、ミカンの皮。ビロードの椅子のにおいがする。実際にそれが椅子のにおいかどうかは知らない。体臭や弁当のにおいの混ざったそれを、私は蒼《あお》いビロードのにおいだと思っていた。
進行方向に向かい二人並んで座る席に正座して、外の景色を眺めている。誰かが私の靴を脱がした。
そうだ、これはあの時の私だ。私が生涯で最も幸福だった時の。
「父さん」
後ろを振り返った。
父ではなかった。そこに座っていたのは長身の老人だった。上品なスーツを着こなし、馬の頭の柄がついたステッキを持っている。
その老人を知っていた。
祖父だ。祖父の明久だ。
そしてすべてを思い出し、私は泣いた。子供のように嗚咽《おえつ》していた。祖父が血管の浮いた皺《しわ》だらけの手で頭を撫《な》でてくれた。
「可哀想に」
父親が旅行に連れていってくれたのだと思っていた。それは確かな記憶として頭の中にしまわれていた。その記憶が、その記憶だけが、父に愛されているのだと感じた思い出だった。
だが、それは間違った記憶だったのだ。
父親に愛されてはいないと思うことは、幼い私には耐えられなかった。だから創り上げたのだ。もう一つの記憶を。父親に愛されていたときの情景を。祖父の姿を父親と入れ替えて覚えていた。そしてその記憶を守るために祖父、明久の思い出をすべて消し去ったのだ。そうか、そうか。そうだったのか。
「お祖父ちゃんだったの」
祖父は何も云わず、黙って私の頭を撫でる。
お祖父ちゃんは私を愛していてくれた。私の何もかも含めて愛していてくれた。私の嫌いなところでさえ。私が私だということだけで愛していてくれた。それが私の祖父だ。
そして父は、私を嫌っていた。
3
祖父、明久は親戚の中でも変わり者で通っていた。
満州の大学を出た明久は、帰国後貿易の仕事で大儲《おおもう》けした。その金を注ぎ込んで果樹園を始めた。一時は見渡すかぎりの山々が明久のものだった。それを戦争で失ってから明久は仕事を転々とした。サーカスの裏方、香具師《やし》、養蜂家《ようほうか》、祖母と出会った時は小さな航空会社のパイロットをしていた。満州でセスナ機の操縦を学んでいたらしい。
明久には放浪癖があった。彼の選ぶ仕事のほとんどが旅を必要とする仕事だった。唯一違うのは果樹園の経営ぐらいだった。その果樹園を失うことになった原因の一つは、彼が経営を人に任せきっていたことにある。人に任せ、彼は頻繁に姿を消したからだ。
結婚したからといって、明久の放浪癖が直ることはなかった。五人の子供をもうけてからも、明久はたびたび家を出た。子供たちが大きくなると、明久は安心したのか今まで以上に家を出る回数が増えた。家にいることの方が珍しかった。明久は行き先も告げずに旅に出た。孫ができる歳になってもそれは続いた。明久は定職を持たず、家から金を持ち出して旅に出た。家庭や家族に意味を見いだせない男だったのだろう。今の私にはその気持ちがよくわかる。
祖父は私を可愛がった。私が遊びに行くと、その時だけは必ず家に戻っていた。その時しか家にいなかった。
明久は若い頃から仏教に興味を持っていた。その興味の範疇《はんちゆう》は広く、仏教と名がつけば何でも良いのではないかと思わせるところがあった。密教であれ顕教であれすべてが明久の興味の対象となった。それが放浪の元凶であったのか、放浪癖があるがために仏教を必要としたのか、それを祖父から聞いたことはない。でも祖父に連れられて遊びにいった時、よく仏教の話をきかされた。インド仏教やチベット仏教にも詳しかった明久の話は、宗教の話というよりお伽話《とぎばなし》のようで、私から話をしてくれとせがむこともあった。いつの間にか私も影響を受けていたのかもしれない。私は小学生の頃、般若心経《はんにやしんぎよう》をそらんずることができた。
そしてあの列車の旅の後、明久は私を家まで送り、そのまま姿を消した。二年経ち、三年経っても明久は帰ってこなかった。七年目に、祖母――明久の妻はとうとう離婚を決意した。彼女にしてもいろいろと考えることはあったのだろうか。姓を旧姓に戻してしまった。どうして長年親しんできた姓を変えるのかと訝《いぶか》る親戚もいたが、生涯、その理由を語ることはなかったらしい。
「寿夫《としお》に会いたくはないかね」
祖父は私の頭を撫でながら云った。
「会いたくはないわ」
寿夫、それが私の父親の名だ。
明久は死んだ父親に会えと云っているのだった。
「あの男にはあの男の考えがあったのだろう。そうは思わないか」
「思えないわ。お父さんはお祖父《じい》ちゃんのことを嫌っていたのよ。だからお祖父ちゃんのお葬式の時も……」
話しているとどんどん思い出していく。父の寿夫は、私と祖父が会うのを嫌がっていた。
寿夫は祖父を嫌っていたのだ。定職を持たず、ぶらぶらしていた祖父を軽蔑《けいべつ》していた。その明久の影響で私がおかしな子になったと思っていた。父が私を疎《うと》んじた原因の一つが祖父だったのだ。
私が祖父の葬儀に参列できなかったのは、父が行くなと云ったからだ。思い出した。思い出せば出すほど腹立たしい。悔しい。悲しい。
「寿夫に会いたくはないかね」
祖父がもう一度云った。その眼が笑っていた。
私は首を横に振った。
「私から頼んでも駄目かね。寿夫に会ってやってくれんか。そうすれば、おまえも帰れるかもしれん」
「帰れるって」
「家にさ。家に帰るんだよ。伸江」
「お祖父ちゃんが、もしかしたら、オズノ王なの」
「さてね」
どちらの手に菓子を隠しているか問われたようにそう云い、祖父は笑った。
祖母が旧姓を名乗っていたため、私は祖父の姓をまったく忘れていた。祖父の姓は小津。小津明久が祖父の名だった。義母の小枝子は明久の遠い親戚《しんせき》にあたる。祖父の持ち込んだ縁談で小枝子は結婚したのだ。祖父がオズノ王かどうかは別にして、小枝子のいう〈小津さん〉が明久であることに間違いはないだろう。
「これを伸江にあげようか」
桐の箱を出してきた。その蓋《ふた》を開く。中には真綿で包まれたたった一本の香が入っていた。
「これは、月という名の香なんだよ。これを使いなさい」
そっと蓋を閉め、箱を差し出す。私はそれを両手で受け取った。
駅に近づいたらしい。列車が速度を緩め始めた。
「この土地ではね、行きたいところに向かって道は開けるんだ。伸江が私に会いたいと思ってくれたから私のところに来た。次は寿夫に会ってやってくれ」
列車が停まった。躰《からだ》が大きく揺れ、そして、そして私は黄色いタイルを敷き詰めた広い道に立っていた。後ろには彼岸花が赤く繁る。
今、彼岸花の群生を抜けたのだ。
隣にミロクがいた。地蔵もいた。クビツリもコトもいた。
クビツリは惚《ほう》けたように空を見ていた。ミロクはすすり泣いている。地蔵は羽をばたばたさせ、長い尾を地に打ちつけて叫んでいた。
「俺だった。俺、俺だった」
コトはきょとんとした顔で皆を見ていた。
クビツリもミロクも地蔵も、みんな何かを見たのだ。誰かと会ったのだ。だが何があったのか聞く気にはなれなかった。私にしても誰かに話したくなる話ではない。また話したところで他の三人に理解されることはないだろう。それはミロクたちにしても同じことなのではないだろうか。
「オズノ王に会った?」
これだけは聞いておこうと思った。
「会ったような、会わなかったような」
泣きはらした顔を伏せてミロクは云った。それは老いて、心も躰も草臥《くたび》れた男の顔だった。旅を続けるごとに子供のようになっていたミロクだが、その時はミロクの本当の歳を見たような気がした。
4
天空に開いた大穴だ。そこから眠る黄金が見えている。
月だ。
落ちてきそうなほどに大きい。なんだか見ているだけでうきうきする。
その役目を終えた太陽は山陰に隠れ、黄色いタイルを照らすのは大きな月。黄金の盆は目映いほどに輝いていた。
両脇から頭上にのしかかるように樹々は繁る。私たちは山道をのろのろと歩いていた。
「この道でいいのか、伸江」
「わからない。でも行きたいところに道は開けるのだからこれでいいのよ」
「そんな話どこで聞いた」
「多分、オズノ王に」
「多分ねえ」
ミロクもそれほどしつこくは尋ねたりしない。
「見て、見て、見て」
云いながら、地蔵が脇のパイプから蒸気をしゅうしゅう噴き上げた。
地蔵の指差す先に影があった。人が立っているように見える。
「人間か?」
ミロクの脚が止まる。止まったミロクを残し、私はクビツリと地蔵を引き連れ歩いていく。振り向けば師の影を踏まぬ程度に間を置いて、ミロクが後ろからついてくる。
女だ。
そこに立っているのは女だった。たっぷりと布を躰に巻きつけた彼女の服は、私の着るアコメに似ていた。だが、それよりも遥《はる》かに軽く薄そうな生地だ。
女は両手で何かを持っていた。大人の頭ほどの大きさの何かだ。それが本当に大人の頭でないことを確認するまで、私たちは慎重に進んだ。
石だった。石を盆に載せて持っている。磨かれた石は月に輝いていた。
私たちはそのまま女を無視して、横を通り過ぎようとした。
「すみません」
女に呼び止められる。
「少し手伝っていただけませんか」
女は頭から頭巾《ずきん》をかぶっていた。顔は影になり、整った唇だけしか見えなかった。
「何をすればいいのですか」
尋ねると、笑みの形に歪《ゆが》む唇が見えた。
「背がとどかないのですよ。脚台になってくれませんか」
私とミロクとクビツリは、互いに顔を見合わせ、それから同時に地蔵を見た。
「俺?」
地蔵は丸まった指で自身を差した。私たちは大きく頷《うなず》いた。
地蔵は文句も云わず、黙って四肢を地につけた。女はさして躊躇《ちゆうちよ》する様子もなく、地蔵の背に脚を乗せた。女は裸足《はだし》だった。小さな指の爪が赤く塗られていた。
石を載せた盆を女は頭上に掲げた。月を背に、石はその中身を透かせて見せた。石の中には兎がいた。レントゲンで撮影された胎児のように、兎は長い耳をねかせ、四肢を丸めて石の中で眠っていた。
「どうするのですか」
尋ねると、月に乗せるのよ、と答えて女は背伸びした。
月に金の波紋が広がった。盆の石はそっと月の中に収まった。兎を封じた石は波に揺らめきながらその姿を変え、いつしか、あの、兎が餅《もち》をつく影に変わっていた。
女は地蔵から降りると「あなたたちは何処に行くの」と尋ねた。何処にといわれても答えようがなく、それは他の二人にしても同様のようで、仕方なく黙っていたら、雲母のようにキラキラ輝く笑みを浮かべて、「それでこの道を行くのね」と、山まで続く黄色いタイルの道を見た。これを真っ直ぐ行くと何処に行くのですかと聞くと、女はナラカと答え、あなたたちは違う名で呼んでいますわねとつけ加えた。それは何処のことかと、私がなおも尋ねようとすると女はそれを遮り、「天の御加護がありますように。それでは、さようなら」と道の向こうに、私たちの来た方向へと歩いて行った。いったい今のは誰だったのだろうとか、月に何をしていたのだろうとか、考えてもわかりそうにない疑問は沢山あったのだけれど、とにかく私は驚き、呆《あき》れ、呆気《あつけ》にとられてただ女を見送っていただけで、誰かが行こうかと云って、誰かが行こうと答えて、まともに考えもせぬうちに夜の山道を月に照らされ、歩き、歩き続け、何しろ迷うはずのない一本道だったので、気が緩んだのか、歩くのに疲れたのか、月に酔ったのか、樹々に囲まれた山道でいつの間にやら四人揃って樹の根っこに背をもたれ気を失っていたのだった。
私は最初に眼が覚めた。
寒かった。
空を見る。
雪だ。
そう思ってミロクと地蔵の肩を揺すった。
雪を見せたかった。
例によってミロクは起こされたことにケチをつけた。
たかが雪じゃないか。
すると地蔵が云った。
雪、違う。
雪ではなかった。きらり、きらりと輝きながら降りてくるものは雪ではなかった。
蛍?
そうならいいのにと差し出した掌《てのひら》に、ふわりと載った。
羽毛より軽いそれは、小ネズミほどの大きさの人だった。芥子粒《けしつぶ》のような布の履き物に包まれた脚が二つ、掌にちょこんと載っている。煙るようにたなびく紗《しや》の衣は、末摘花《すえつむはな》の紅、禁色《きんじき》と呼ばれた黄丹《おうに》、桃の花の退紅《あらぞめ》、浅緑《うすみどり》から浅葱《あさぎ》と砂糖菓子に似て甘く愛らしい。どれもにほへると讃えられた万葉の色だ。
五色の衣は蝶《ちよう》のようにそれぞれ輝く五色の鱗粉《りんぷん》を撒《ま》く。
雛祭《ひなまつり》のようだな。菱餅《ひしもち》やぼんぼりや、それにお内裏さまとお雛さまの赤、黄緑、桃色。
次から次へ、無数の輝く人が、蝶の笑みを浮かべ雪のように降ってきた。ミロクも地蔵も、それぞれに空から降ってきたそれに惚《みと》れていた。
掌の上の、昔絵本で見た天女にも似たそれは笑みの形に唇を開いた。描かれたような赤い唇の隙間から、複雑に枝分れし、文字のように見える舌が長く伸びる。その伸びた舌の先を伸江の肌に刺した。舌が赤く染まるのを見ると血を啜《すす》っているのか。私は昔|流行《はや》ったト音記号の形のストローを思い出した。
やがてそれは舌を口腔《こうくう》に収めると、鐘の音に似た楽器のような声でいった。
「ノブエ、ノブエ」
「私を知ってるの?」
問うと笑みで答え、それは再び舌を見せてから云った。
「シリー」
「それがあなたの名前なの?」
「ちょうだい」
「えっ」
「ちょうだい」
「何を」
「オズノ王、くれたでしょ」
「オズノ王……これかしら」
懐から桐の箱を出した。すると、小さな天女は箱を持った手に飛び移った。
「開けて」
乞《こ》われるままに蓋を開ける。
「つけて」
「香に火を点《つ》けろってこと?」
それは頷き、香を持った。箱を地面に降ろし、燐寸《マツチ》を擦《す》って火を点けた。黄色い炎を香の先につける。
淡く煙があがる。とたんに小さな天女は風にさらわれ、光の鱗粉放ちながら私の掌から逃れると、キヤキヤと笑い、地に落ち消えた。
香だけが地に立ち、煙をあげている。
月という名の香は馥郁《ふくいく》たる芳香を四方に散らし始めた。
「いい匂いだな」
天女たちを追うのに飽きたのか、鼻をひくひくさせてミロクがそばに寄ってきた。
「気持ちいい」
地蔵は香に鼻を近づけた。
その姿が香から昇る煙のようにゆらりと消えた。
「地蔵!」
叫ぶミロクが、後ろで見ていたクビツリが、陽炎《かげろう》のような影となって姿を消した。
空から舞い降りる天女たちがさざめく幼児のようにひそやかに笑った。
そして私も消えていく。
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real-10
ガラス窓から差し込む陽光は暖かく、昼寝するのに相応《ふさわ》しい午後だ。
大和田は座椅子に腰掛け背を丸め、じっとテレビを眺めていた。
どうしてだ。
大和田は思う。
私は何に怯《おび》えている。
生温い日差しに身体を暖めながらどうして怯える。何が怖い。
女がいた。
酷《ひど》い臭いがしていた。単なる糞尿《ふんによう》の臭いではない。あれは肉が腐った臭いだ。
男は自ら多田美津夫であることを認めた。
少なくともあいつらが、浮浪者殺しの犯人であることは間違いない。であるなら、息子を殺した犯人である可能性も高い。高いどころじゃない。間違いなく奴らだ。
大和田は断定する。
あの場で腕を捻《ひね》り上げ、叩《たた》きのめしてでも犯行を認めさせるつもりだった。それだけの決意はしていた。にも拘《かか》わらず、どうして怯えた。私だけではなく、柳瀬まで。今までにもこういったことを経験していると吹聴していたあの男までが。
大和田はあそこで経験した奇妙な現象を、すべて怯えの見せた幻覚だと思っていた。怯懦《きようだ》こそがあれを見せたのだと。
あれ。
渦巻く怨嗟《えんさ》のプールに突き落とされたかのようなあの瞬間。煮えた毒液を耳から注がれるような、忌まわしいあの囁《ささや》き声。影のような女たちの姿から、感じ取る恨みの視線。
その時のことを思い出しただけでまた震えが止まらなくなる。頭痛がして胸まで悪くなってくる。
何故私は怯えている。
もしかしたら……制裁を下すことに対して怯えているのか。つまり私は人殺しに怯えているのか。
違う。
大和田は即座に否定した。
そんなことに怯えていない。
私の怒りは、あの時のままここにある。
大和田は胸を押さえ、シャツを掴《つか》んだ。
報復は当然だ。当然の私の権利だ。
息子を惨殺したあの女に、それなりの処罰を加える。父として男として、それは当然の行為じゃないか。
想えば怒りが燃え上がる。胸の奥をちりちりと焦がす。そのことに何の変わりはない。
なのに何故怯える。
冷えた茶を飲み干した。
「お茶」
奥へと言う。返事はない。そういえば最近無視されることが多い。などと考えた途端に頭に血が上った。顔がさっと冷たくなる。頭の中が白くなる。
「茶だ!」
怒鳴り、発作的に湯飲みを背後に投げ捨てた。陶器市で買ってきた安物の湯飲みが襖《ふすま》に穴を開け畳にぽたりと落ちる。
慌てて駆けつけてきた妻が詫《わ》びながらそそくさと片付けていくのを背中で感じる内に後悔していた。
怯えているのか。
私はやはり怯え、苛立《いらだ》っているのか。
我々の調べたことを警察に伝えれば。後はすべてを警察に任せたら。
いや駄目だ。
大和田は頭《かぶり》を振る。
あの女は狂っていた。あの目。あれはまともな人間の目じゃない。たとえ捕まっても、鑑定の結果不起訴にでもなってみろ。悔やんでも悔やみきれない。
だが……不起訴になってから始末をつけてもいいのではないか。柳瀬がそうしたように。
そう思い、それもまた怯えがさせているのだと否定する。
何のためにその日を延ばす。
延ばす必要などないじゃないか。
私が決着をつけるのだ。
あの女に。
気がつけばいつの間にか盆に載せた茶が置かれてあった。
電話が鳴った。
今度は妻に声をかけることもなく、受話器を取った。
「はい、大和田です」
『柳瀬です』
あの日から初めての連絡だ。
「どうなりましたか」
『残念ですが、あそこからの足取りを掴めてはいません。しかし心配はいりませんよ。我々はまたすぐに奴らを見つけることができます。それよりも新展開ですよ』
「ほお」
柳瀬の低く響く声を聞いていると次第に心が落ち着いてきた。
「それは何でしょう。期待してもいいんでしょうね」
『大いに期待してください。実はですね、もしかしたら、あの女の身元を掴めるかもしれない』
「凄《すご》いじゃないですか」
『ええ、詳細はもう少し事実関係を掴んだら連絡します。とにかく、諦《あきら》めず待っていてください。そう長くはお待たせしないと思いますよ』
「諦めたりはしませんよ」
自分の逡巡《しゆんじゆん》を見透かされたようで、大和田は慌ててそう答えた。
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第十章 カンノンの誕生
1
目醒《めざ》めれば私たちは風輪の荒野に再び立っていた。
「また、戻ってきましたね」
クビツリが呟《つぶや》いた。
「ここはどの辺りだ」
ミロクが周りを見回す。
地蔵《じぞう》はうずくまったままだ。どうやらまだ目醒めていないようだった。
「聖《ひじり》の山から、そうは離れていませんよ。バクトラの近くでしょう」
何の目印もない荒れ野を見て、クビツリはきっぱりと云った。
「それで、これからどうするつもりだ。まさか、北の聖を救うためにバクトラに行くなんていい出すんじゃないだろうな」
「そのとおりよ」
伸江はミロクを睨《にら》んだ。
「馬鹿じゃないのか。バクトラになんか行ったら死ぬぞ。間違いなく死ぬぞ」
「そんなことわからないじゃない」
「わかる。はっきりとわかる」
云い合う二人を無視して、クビツリは先程から遠くを見つめていた。
「あれは……」クビツリが云った。「あれはヒトニウマだ!」
叫ぶと同時に、クビツリが走り出した。
「何だ、あいつ」
「ちょっと待ってよ。クビツリさん」
呼びかける声も聞こえないようだ。仕方なく地蔵を起こして、ミロクらと後を追う。
奇妙な生き物の群れがあった。
クビツリはそこで嬉《うれ》しそうにその背を撫《な》でていた。
その豹変《ひようへん》ぶりに苦笑した。
それがヒトニウマなのだろう。話に聞いたとおり、人の女にそっくりだった。大きさも大柄ではあるが異常というほどではない。指も鋭い爪が長く伸びてはいるが、蹄《ひづめ》などではなく五本の指に分かれている。唾女《つばめ》と違って頭もある。髪の毛が背中までつながりたてがみになっていることを除けば顔も人と変わりない。アラブ系のオリエンタルな顔で、どのヒトニウマも整った顔立ちをしていた。
人そっくりのそれが、腕をくの字に曲げ、頭を地につけるようにして草を食べている。
それは異様な光景だった。それが家畜だなんて信じられない。
ヒトニウマが歩く時や走る時には手も地面につける。しかしそれ以外は直立した猿のような格好で立っている。
座るときには胡座《あぐら》をかく。そうすると股間《こかん》に小さなペニスをつけているものがいることがわかる。
雌雄問わず女の形をしているようだ。
「どう見ても、女の人よね」
「ああ、そうさ。だから犯《や》っちまう奴がいるんだな」ミロクはそれから慌てて伸江の方を見てつけ加えた。「でもわしは違うぞ。僧侶《そうりよ》だからな」
「やるって、それは、つまり」
「これだよ」
左手の甲に右の掌《てのひら》を重ね、音をたてて何度も打ちつけた。
私が返事をしないと、ミロクは付け加えた。
「わからんかな。おまんこだよ」
聞かない振りをした。
「それでな、こいつを犯ってできた子供が唾女なんだな」
ミロクは得意げに云った。
あっ、と口を開いて言葉が出なかった。
「本当ですよ」クビツリは心底腹立たしげに云った。
「我々ランパカの民はヒトニウマを犯した者を死刑にします。造物主に対する冒涜《ぼうとく》ですからね」
「冒涜だか何だか知らないけどね。ほら非天《アスラ》の兵隊は唾女に乗ってるだろ。戦いには都合がいいから。だから唾女を産ませるために、兵隊に命じて犯らせるらしいぞ」
「そんな、酷《ひど》い」
胸が悪くなってきた。
「酷い? 酷いか? 酷いかなあ。まあ、確かに酷いかもしれんけどな」
「何してる」
急に話しかけられ、私はミロクと一緒に仲良く跳び上がった。
いつの間にか間近に男が立っていた。
「脅かすな」
ミロクが怒ったように云ったのは驚いたことを照れているのだろう。
男は薄汚れたシャツと、ステテコに似ただぶだぶのズボンという格好だ。脚には私と同じ革のサンダルを履いていた。
がっしりとした顎《あご》。薄い唇。日焼けした肌。その顔は精悍《せいかん》と云えるものだったのだろう。その眼が潰《つぶ》され、鼻が削られてさえいなければ。
大きな穴が二つ、小さな穴が二つ、見つめるように私の方を向いている。
「わしらは旅の途中だ。この辺りに宿があれば泊めてもらおうと思ってな」
頼み事をするにはあまりにも横柄なミロクの態度だ。
「宿はないか」
「ない」
男はあっさりとそう答えた。
「宿屋でなくてもいいの。食事ができて、一晩寝かせてもらえれば」
「早く消えろ。死にたくなかったらな」
わけを聞こうと私が口を開いた時だった。
「隠れろ」
男が小声で云って、私の頭を押さえつけた。みんなも慌てて伏せる。
男が指笛を吹いた。するとたちまちヒトニウマが男の周りに集まってきた。
祈るイスラム教徒のように地に頭をつけた私たちは、ヒトニウマの群れの中に隠れてしまった。
眼の前の草を見ながら音を聞いた。ヒステリックな赤ん坊の泣き声。間違いない。唾女だ。
ヒトニウマの脚の間から、唾女の蹄が見えた。
「何をしている」
男にそう問いかけたのは、唾女に乗った誰かだろう。その足が見えない。ということは兵士なのだろう。これ以上ないほどに尊大な態度だった。
「見てのとおりです。こいつらに餌《えさ》をやってるんで」
「いつまでやっている。そろそろ家に帰るんだ。門が閉まるぞ」
「はい」
男が答えると兵士は帰っていったようだ。唾女の蹄が消えてしばらく経ってから男は云った。
「もう出てきてもいいぞ」
私たちはぞろぞろとヒトニウマの脚の間から這《は》い出してきた。
「あの、あなたはバクトラの人ですか」
役に立たないのはわかっていたが、私は精一杯笑みをつくって尋ねた。男は無愛想に頷《うなず》いただけだった。それにめげず、私は頼んでみた。
「それなら、今のようにヒトニウマに隠してバクトラの町まで連れて行ってもらえませんか」
男が眉《まゆ》を顰《しか》める。
「あんたら、なにもんだ」
「私たちは、その、旅の商人で」
ミロクが慌てて云った。
「そっちにいるのは昆人《こんじん》だろう。そっちのは病気か。躰《からだ》が腐ってるみたいだな」
どうしてわかるのか、男は二人を指差して云った。私は黙って俯《うつむ》いた。
「知ってるだろうが、バクトラは牛頭《ごず》」そこまで云うと男は声を急にひそめた。「牛頭の野郎の町だ。あんたらみたいなのが入ったらすぐに見つかって収容所送りだ」
「収容所送りでもいいですから……」
「収容所送りでもいいだと。知らないからそんなことがいえるんだ。収容所ってのはな……まあ、いい。帰れ」
男は蠅でも払うように手を振った。
「でも」
「帰れ」
そう云うと男はヒトニウマに口笛で呼びかけた。
何か云おうとする私をミロクが止めた。
「止めとけよ」
「どうしてよ。あの人と一緒ならバクトラに入れるかも」
「わしらを見てみろよ。これが目立たずに何処かに侵入できるかどうか考えりゃわかるだろが」
ミロクの台詞《せりふ》に頷かざるを得なかった。私とミロクだけならまだどうにかなるかもしれないが、クビツリや地蔵を連れて目立たず行動するのは不可能に思えた。
そうしている間に、ヒトニウマの群れの姿は地平線の彼方に消えて行った。
「さあ、行きましょうか」
私たちは再び荒野を歩き始めた。
2
月だ。
ひんやりと輝く満月は殊のほか大きく明るい。
降る月光に顔を晒《さら》すと、蒼白《あおじろ》い力が肌と肉と血と骨を満たしていく。
私は子供のように夜空を見上げていた。
幼女の頭を撫《な》でながら。
あれから三日、私たちは荒野をさまよった。
そしてこの幼い少女と出会った。
天を仰いでミイラになった死体そっくりの、ねじれた樹の陰で幼女は横たわっていた。衰弱しきったかに見えた彼女は、水と食べ物を分け与えるとすぐに体力を取り戻した。
丁寧に礼を述べると、彼女は自らを漆神《しちがみ》と名乗った。
クビツリとミロクはそれを聞いて大いに驚いた。彼らによれば、漆神とはウルシビトたちの神聖な巫女《みこ》なのだそうだ。
ウルシビトは北の聖の眷属《けんぞく》で、風輪の地の守り神でもあったらしい。聖が非天に負け、ウルシビトも聖地を追われることになった。その、追われたウルシビトが突然牛頭の軍勢に襲われた。目的はこの小さな娘、漆神を攫《さら》うためだ。ウルシビトたちは命を懸けて漆神を無事脱出させた。しかし幼女一人で旅するには、この荒野はあまりにも過酷だ。やがて力つき、木陰で横になっていた。
漆神様が生まれたという噂を聞いて、牛頭はすぐに軍勢を寄越したのだという。それだけの力が、この無心に月を見上げる幼女にはあるのだという。
この世の終わりに救い主が現れることになっている。カンノンという名のその救い主は、この漆神様の手によって生まれるのだそうだ。
もうすぐ非天は滅ぼされる。ミロクたちはそう云ってはしゃいだ。
私はそれほど簡単にはその話を信じられなかったのだけれど、彼らのはしゃぎぶりはすぐに私に感染した。
漆神様を連れてウルシビトの村に行こう。ミロクのその提案にすぐに私たちは賛成した。
それから更に三日、私たちはひたすら歩き続け村に着いた。
そして見た。
初め私は、廃墟《はいきよ》となったランパカを思い出した。だがあれは廃墟になって何年も経っていた。ここは違う。すべてが行われて間がなかった。
村を包むのは死者を荼毘《だび》に付した臭いだ。赤い大地がより赤く染まっている。建物は、と云っても粗末な天幕にしか過ぎないのだが、すべてが死んだ鳥のように地に伏していた。
ウルシビトは十人と残されていなかった。彼らもアコメを身にまとっている。それは裂け、千切れ、ぼろ同然の代物だった。
まともに歩ける者の数は少ない。
誰もが尻《しり》を地につけ、天を仰いでいた。漆神が攫われてからずっとそのままの姿勢でいたかのようだった。
一人の老人が歩み寄ってきた。杖《つえ》をついている。
頭巾《ずきん》を脱いだその顔に毛は一本もない。つるりとした頭には血の滲《にじ》む包帯が巻かれてあった。
老人は薄い唇を開いた。
「訪れる者よ。もう、何もない。わしらには何もない。それでも欲しいのならわしの命をやろう。それだけだ。訪れる者よ。他には何もないのだ」
そして私たちは、後ろに隠れていた幼女を、彼らの前に差し出したのだった。
老人は驚愕《きようがく》の表情で幼女を見た。
漆神は貝殻のような唇を開く。
「産土《うぶすな》、帰ったぞ」
老人、産土は脚を引きずり漆神のそばに行った。杖を投げ出し、漆神の足下に跪《ひざまず》く。
「漆神様」
嗚咽《おえつ》とともに産土は言った。
村人たちが集まってきた。動けない者は誰かの肩を借り、背負われ、這ってでも漆神のそばへと近づく。皆口々に漆神さまと呟《つぶや》いていた。その声は少しずつ大きくなる。大きくなるにつれて歓喜の色を帯びてきた。
連呼されるそれは、じきに喜びの歌へと変わった。
こうして私たちは、ウルシビトの村に世話になることになったのだ。
ウルシビトは不思議な住民ばかりのこの世界の中でもとびきり不可思議な人々だった。
彼らはウルシをとって生活している。あの漆と名も使い方も同じだが、製法はまったく異なる。
彼らの皮膚を薄く裂くと流れるのは血ではなく乳のような白いさらさらした体液だ。その体液は、乾くといくらか褐色がかった透明の膜を張る。それは彼らの躰《からだ》の中に流れる赤い血とはまったく別の体液なのだ。
彼らが祭で使う呪具《じゆぐ》すべてにウルシが塗られている。鉱物を砕き、樹木を潰《つぶ》し、花や根を絞って造られた極彩色の絵の具を塗った呪具はそれだけでも華美で豪奢《ごうしや》なものだが、ウルシはその上に重ねて塗られる。ひと刷毛《はけ》ごとに色は神聖な深みを帯び、美しい工芸品は神の為の聖なる呪具に転じる。
野営地を定めて彼らが初めにしたのは、その周囲を聖なる図象で囲むことだった。それを描くのは彼らの肌を傷つけることで得られる椀《わん》一杯のウルシだ。
この世に残された最後のウルシビトは八人。彼らは聖別したこの土地で祭の準備に忙しい。そんなことをしている場合ではないだろうと思うのだが、彼らにしてみれば己れの命より、帰ってきた漆神を祝う方が大切なのだ。それがなければたとえ漆神が生きていても意味がないのだ。彼らには守るべき神の規律がある。
私が守るべきものは何だろうか。
月を見上げて私は考える。
この地に来てから多くのものを捨て去ってきたような気がする。その中には今まで後生大事に抱えてきたものもあったはずだ。それを失いたくがないために苦労してきたはずだった。それだけ大事なものを、ここに来てから沢山捨て去ったような気がする。今まで鱗《うろこ》のように貼《は》り付いていたそれらを、私は瘡蓋《かさぶた》のように剥《は》がしてきた。血が滲み、痛みもあるのだが、そうやって重い重い鱗を剥がしていくごとに躰は軽くなっていく。
捨てた下着だ。
それまで愛着があって捨てられなかった下着がほころびて、とうとう穿《は》けなくなる。それまで散々繕って穿いてきた。もう限界だ。そう思い新しい下着を買うことを決意する。その途端、古い下着がゴミのように見える。何故こんなものを平気で穿いていたんだろうと。下着自体は何も変わっていないはずなのに。
おそらく、下着は捨てようと決意した時に死んだんだ。それに対する愛情で今までその下着は生きてきたのだろうか。それを――古い下着を支えてきたものは何だろう。愛情。勿体《もつたい》ないという計算。それとも、もし新しく気に入る下着が見つからなかったら、という不安。
解答は出ない。
とにかく今までの私は死んだ。今まで引きずってきた思いはすべて死んだ。穴が開いて穿けなくなった昔の私がゴミになったのだ。
そして今、私は何を守るべきなのだろう。
「漆神様、そろそろ用意ができました」
族長である産土が立っていた。
「はい」
頷《うなず》く仕草はまさに幼女のものだ。
「それでは、後ほど」
深く礼をして、二人は立ち去っていった。
私はしばらく夜気にさらされながら月を見上げていた。
3
四方に松明《たいまつ》が燃えている。
祭が始まったのだ。
大きな太鼓が等間隔で何度も、何度も、腹に響く音をたてていた。それに合わせていくつもの小太鼓が細かくリズムを刻む。
木の根で造られた複雑な形状の笛が鳴り始めた。高く、低く、繊細で物悲しい音が流れる。
笛の音に合わせ、澄んだ旋律が重なる。木琴に似たその楽器の音色は風を思い出させた。
吹く風が通り過ぎていく様が浮かぶ。
冷たいその感触を感じる。
彼らは見事な奏者たちだった。
みんなは円陣を描いて座っていた。私たちもそこに参加させてもらっている。その中央に胡座《あぐら》をかいているのは漆神だ。眼を閉じ、すでに深く瞑想《めいそう》に入っているようだった。
風の音は、そよ風から乾いた昼の突風に変わった。舞い上がる砂埃《すなぼこり》のにおいがした。
ミロクが頭巾を深く降ろした。
私も一瞬眼を閉じる。
みんなが実際に突風にあおられたように感じているのだ。
単調な太鼓の音に、腹の底の辺りから何処か知らぬ世界に引きずり降ろされるような感じがした。
それは決して不快ではなかった。
入眠時や失神する時に似たそれは、心地よくさえあった。
中央の漆神が唸《うな》り始めた。
到底子供の声とは思えない、低く重い声だ。
唸ると同時に躰が前後に揺れた。まるで居眠りする老人のようだったそれは、しだいに激しくなり、最後には巨大な手に掴《つか》まれ揺すぶられているかのようになった。首はもげそうに前後に振られ、黒い髪が炎のように揺れた。
それが突然、ぴたりと止まった。
漆神の唇が開いた。
「幾年《いくとせ》、幾世、待ち待ちて、風の風、この地に孕《はら》みて生まれいずる」
漆神は誰かにつままれたかのように、つい、と立ち上がった。
両手がゆっくりと持ち上がる。
夢遊病の典型を演じるように、漆神はそのまま歩き始めた。
太鼓がいっそう激しく打ち鳴らされた。
空中ブランコが一番危険な技をする直前みたいだ。
漆神はその姿勢のまま上げた手を周囲に向け、円を描いて歩き出した。
その脚が私の前で止まった。
きっ、と漆神が私を見る。
白目を剥《む》いていた。
漆神は両手を私へと向けたまま膝《ひざ》をつき、頭を地につけた。
まるで私に跪《ひざまず》いているかのような格好だ。
伸ばした腕が私の膝の辺りにあった。
そのまま二度、漆神は私を拝んだ。
いったい何が始まったのか私にはわかっていなかった。だからおそらく、漆神は順にこうやってみんなを拝んで回るのだと思っていた。
漆神が顔を上げる。そして私の右手を持った。
周りを見回した。ウルシビトたちは族長をはじめ、今から起こることを固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた様子だ。
私は初めて踊りに誘われた壁の花のようだ。漆神に手を持たれて緊張している。
片手で私の右手を握ったまま、もう一方の手を漆神は持ち上げた。拳《こぶし》が握られ、中指だけが立っている。
どう考えてもアメリカ映画などで見るあのサインと同じで、思わず笑いそうになった。が、決して笑えるような雰囲気ではない。
そしてもっと笑えないことが始まった。
漆神は立てた中指で己れの額を傷つけ始めたのだ。
その爪が額に食いこんでいる。
そのまま、指を横に引いた。
額に横一文字の掻《か》き傷ができた。そこから流れるのは乳白色のウルシだ。
流れるウルシを中指で拭《ぬぐ》いとると、漆神は私の右手の甲に、奇妙な文字のようなものを書き始めた。
血液の連想から、ウルシは温かいであろうと思っていた。だがそれは湿布薬でも当てたかのようにひんやりと冷たかった。
書き上がった文字は私にはまったく理解不能のものだ。ウルシはたちまちの内に乾き、墨色に濃く、刺青《いれずみ》のようになった。
漆神は文字を書き上げた手をとると、高く差し上げて、云った。
「セガキが始まる。今こそ生まれしはカンノン。カンノンが動く。カンノンが動く。カンノンはバクトラに行く。カンノンは歌い、扉は開かれる。バクトラは開かれる。セガキが始まる。セガキが始まる。風輪から彼奴《きやつ》らは去る。去る。去る。カンノンに従え。カンノンこそ我らを導く救い主ぞ。カンノンに従え。カンノンこそこの地の創造主ぞ。カンノンに従え。カンノンに従え。カンノンに従え」
カンノンに従え、と云いながら漆神は私を立ち上がらせた。
私が立つと、漆神は手を引いてみんなの中央に連れていく。照れながら、私は中央へと進んだ。思わぬスピーチを頼まれた友人代表のような気分だった。
「カンノンに従え。セガキへ、セガキへ、セガキへ」
歌うように言葉を続ける漆神の様子がおかしい。
私の手を握る漆神の手から見る見る力が抜けていくのだ。あれ、と思って漆神を見ると、その姿が煙のように薄れていた。
どうしたの、と思わず声を掛けるその眼の前で、漆神の姿がたちまちの内に消えていく。やがて後ろの景色が透けて見え始めたかと思うと、ぐにゃりと躰《からだ》の形が崩れて、何もなくなってしまった。
私の掌《てのひら》には漆神の手の感触が残っていた。残っているのはそれだけだった。
いっそう大きく笛が鳴って、唐突に音楽が終わった。
急に訪れた沈黙に、しばらくの間私は耳鳴りを聞いていた。
そのため次に起こった歓声もまた耳鳴りかと思っていた。
八人のウルシビトは互いに抱き合い、涙を流して感激の声をあげていた。
私はただ途方にくれるだけだった。
見ると、ミロクもクビツリも地蔵も、唖然《あぜん》とした顔で伸江を見ている。ミロクなど口をOの字に開いた驚愕《きようがく》そのものの表情で凍りついていた。コトまでが前方に突き出した〈顔〉らしきものに眼球を集めて私を凝視していた。
「あのぅ」
私の声はあまりにも弱々しく、歓喜の声に掻き消された。
仕方なく私は族長の前にまでいって尋ねた。
「あの、何があったんですか」
族長は涙さえこぼしながら云った。
「今、カンノンが生まれたんだ」
「えっ、何処に」
「ここに」
族長は私を指差した。
4
何が何でもバクトラに向かわなければならないようになってしまった。今さら引き返すことはできない。
何しろ私は救世主カンノンなのだから。
いや、私にはもちろんその実感などないし、何かの間違いだと思っていた。しかし間違いですよ、などと云い出せる雰囲気など爪の先ほどもない。
「しかし、お前がカンノンだとは、さすがのわしも知らなかったぞ」
ミロクがさも感心したように云った。
「私だって知らなかったわよ」
「本当におまえがカンノンなのか」
「だから、そんなこと私がわかるわけがないじゃないの。消えた漆神にでも聞いてよ」
本心だった。
その日から私たちは城塞《じようさい》都市バクトラ侵入のための作戦を練った。いや、練ろうとしたと云った方が正しいだろう。ろくな考えは浮かばなかったからだ。
ウルシビトは多少バクトラの情報を持っていた。
バクトラの城塞は一月も前に完成していた。何日間にもわたって行われた完成の式典は大仰なものだったそうだ。何百という部族の族長が牛頭に挨拶《あいさつ》に訪れ、その貢ぎ物だけで蔵が五つ塞がったという。
バクトラ中の人間が一生食えるほどの食料と海を満たすほどの酒が用意された。山をなす香料が焚《た》き込まれ、その香りは風輪中、何処ででも嗅《か》げたという。
門戸が開かれ大勢の人が出入りする式典の最中は、牛頭の命を狙う者にとってもチャンスだった。少なくともチャンスだと考える者は大勢いただろう。牛頭を倒そうと考える者たちは集結し、あるいは単独で城塞にもぐり込み、そして殺された。
河のように流れる赤い血もまた祭の余興となった。
周辺の村や街からバクトラに連れてこられた人々は収容所に入れられていた。彼らは虜囚《りよしゆう》同然の扱いを受けているそうだ。牛頭は風輪の人々を人間だとは考えていない。逆らう者、命令を聞かぬ者は躊躇《ちゆうちよ》なく殺された。死にたくなければ云われるがまま、牛頭の、そして非天のために働かなければならなかった。
だがどのように忠誠を誓おうと、牛頭は信用しなかったのだ。
腕を使う技術者は脚を切られた。脚を必要とする仕事をしているものは腕を落とされた。腕も脚も必要とするなら耳を潰《つぶ》し舌を抜いた。バクトラの中で非天のために働く。それだけのために彼らは生かされていた。
彼らの多くは城塞建設のために働かされていた。それが終わり、牛頭が多くの人を無用と判断した時に、今まで以上の人々が虐殺された。生き残った者は死者を羨《うらや》むこととなった。彼らは無理矢理昆人にされたり、ヒトニウマと交り、唾女をつくるために生かされたり、死以上の責苦を味わっていた。
バクトラ内には武装した兵士はもちろん、何百という昆人もいるという。
どう考えても、バクトラに入ることさえも不可能に思えた。
だが、悪い話ばかりでもない。
族長の云うところによれば、風輪の狩猟の民であるなら、私の右手に記された文字を見れば、誰もが従うのだそうだ。本当だろうか。もし本当であるのなら、城塞にいる兵士の数は三千人あまり。囚《とら》われている風輪の民の人数はおよそ一万。上手《うま》く利用すれば〈革命〉も夢ではない。でもそれにしたところで、この印の力がどれだけ有効かによるだろう。止めてくれと頼んでも一日一度は私を拝むウルシビトの民のようであるなら、私のために命も投げ出すだろう。事実族長は私が命じるなら、今ここで喉《のど》を掻《か》き切るのもいとわないと公言している。もちろんそんなことをさせるつもりはないが。
で、みんながみんなここまで私に従ってくれるかというと、それは疑問だ。
それでも溺《おぼ》れるものに投げられた一本の藁《わら》ぐらいには役に立つかもしれない。
だからといって、どうすれば良いのかはわからないのだけれど、どう何をしても敵に知られずに進入するのが不可能ならば、バクトラを見学するつもりで行けばいいのではないだろうか。とにかくこういう時は変な小細工をしないで真正面からぶつかる方がいいのだ。そうだそうだ、と私は私に頷《うなず》いたのだった。
そして思いついた。
これしかない。
楽隊をつくろう。
とにかく、楽隊をつくろう。何故だか知らないが私は歌わなければならないようなのだ。族長によれば風輪の地はカンノンが歌うことで解放されるらしい。
だから楽隊をつくろう。
これが私の考えた唯一の作戦だった。
何を歌うかが問題だ。
学芸会で何か一人でしなさいと云われた子供のようなもので、長々と考えたあげくようやく私は歌うべき歌を思いついた。
斯《か》くして楽隊造りが始まったのである。
ウルシビトは優秀な演奏家であり、編曲者でもあった。漆神が消え、カンノンが生まれたあの祭で使った楽器が持ち寄られた。私の思いついた曲は決して彼らの楽器に応じたものではなかったが、私が曲を教えると、ほんの数分で伴奏ができ上がっていた。
演奏に合わせて私は歌った。嫌だ、嫌だと逃げ回るミロクにも歌わせた。当然クビツリと地蔵もである。コトも曲に合わせて躰を揺すり、音階に合わせるように鳴いた。
私は学芸会気分のままだった。燥《はしや》いでいるな、と自身思う。
内なる声が陰鬱《いんうつ》とした声で告げる。
いい気になって燥いでいるが、それがどれだけの人に迷惑を掛けるかわかっているのか。いや、迷惑どころの話ではない。人の命が懸かっているのだ。ミロクも地蔵もクビツリも、そしてウルシビトたちも、みんなおまえとともに何の策もなくバクトラに向かおうとしているのだぞ。それだけの人間の生死が懸かっているということだ。わかっているのか。しかもそれだけですまない。バクトラに囚われた何万という人々の命をも懸けることになるのだ。
それでもいいのか。
本当にいいのか。
いつものことだ。何か私が浮かれそうになればその声は最悪の未来を告げる。
いつもであれば、これほどの大事でなくたって燥ぐのを止めて黙っただろう。じっと俯《うつむ》き誰にも見つからないように隠れていただろう。
だが私は、生まれて初めて私を責める声に答えた。
いままで何か間違いが起これば、すべて自分のせいだと思ってきたわ。人を責めることができなかったの。いい人だからじゃない。誰かを責めることで自分が責められるのが厭だったの。誰かを責めることはそれに対して自分が責任を持つことでしょ。私はそれが厭だった。それなら初めから私が悪いと云う方がましだった。誰も傷つけずに生きてきた人がいるかしら。そんなことは誰にもできない。なのに私はそうしようとしてきた。それでも誰かを傷つけてしまう。私は人を傷つけたことを知っていたわ。だからそれは私の痛みになった。一言も口に出したことのない悪態で自分を責めるの。云わなかった言葉に苛《さいな》まれるの。ずっとそうしてきたのよ。三十六年間ずっとよ。だから、もうやめにするの。誰もできないことを私はできると思っていた。でもそれはもうやめ。そんなことできるはずがないんですものね。だからこそ私はやるの。責任を持って。いいえ、責任を持つことさえ止めましょう。誰が引き受けるかは知らないけれど、どうせ誰かが引き受けなければならなかったことなのだから。責任とるとは云わないけれど、苦情は引き受けましょう。末代までこの風輪の人々に悪口を云われることは覚悟しましょう。
「カンノン様」
呼びかけられていることに気づいていなかった。カンノン様と云われても、まだまだそれが私のこととは思えないのだ。
「何ですか」
小太鼓を手にした老人が立っていた。ウルシビトの生き残りの一人だ。
「一曲目が終わるところですが、こんな感じにしてもよろしいでしょうか」
とん、と太鼓を打つと、後ろで控えていたウルシビトが一斉に演奏を始める。
今までより軽やかな曲調に変わっていた。
「最高よ」
私は心から満足していた。
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real-11
凍える夜だった。
少女は裸でベランダに立たされていた。下着一枚|穿《は》いていない。痩《や》せた小さな少女だ。幼女と言ってもいいだろう。小学校に入学してまだ間がなかった。
泣いても無駄だということはわかっていた。だから泣かなかった。泣き声を上げないことで更に父親の怒りを買うことがわかっていても、だ。
生まれつき脆弱《ぜいじやく》だった。だからだ、と父親は言う。ただでさえ手の掛かる子なのだと。あまり笑うことがなかった。だからだ、と父親は言う。可愛げのない子だと。
酒を飲む口実が無数にあるように、暴力を振るう理由など幾らでもあった。
喋《しやべ》れば殴られ、口を開かなければ蹴《け》られた。傷は絶えず、骨折も二度した。病院も保健所も幼稚園も、大人たちは何もしてくれなかった。同情されていると感じるよりも、奇異な目で見られているのだと思った。彼女は聡明《そうめい》な子供だったのだが、それはまた大人びて見えるということだ。表情の薄い彼女は、大人たちに可愛がられる子供ではなかった。それに中途半端な同情は、多く父親の怒りを煽《あお》ることになった。
彼女が最も好かれたいと思っていたのは父親であり、次が母親だった。
しかし父親が酔って帰ってくると、母親はこそこそと夕食の支度をしに台所へと消えた。父親は「ダンシチュウボウニハイラズ」と呪文《じゆもん》のように唱え、台所は母の聖域だったからだ。彼女がそのようなとき何の役にも立たないことは知っていたが、それでも少女は悲しかった。少女の悲しみは、両親の愛情を得られないこと、それだけだった。他には何一つ期待してなかった。
母親とは違い、彼女には何の聖域も用意されていなかった。逃げ隠れするような場所は皆無だった。
その日もすぐに父親に捕まった。彼は襟を掴《つか》み猫のように娘を持ち上げた。そして逃げるからだと拳《こぶし》で顔を殴った。わかっていても酔った父親の形相が恐ろしくて脚が勝手に逃げ出すのだ。逃げなくても撲《ぶ》たれるのだし、そこまではどこか他人事《ひとごと》のように痛みを感じていた。いつものことだったのだ。
その日何故か、珍しく母親が口を出した。
もういい加減にしてください。
警察に連絡しますよ。
それが引金になった。
父親はいっそう暴れ出した。
襖《ふすま》を破り、箪笥《たんす》を引き倒し、そして少女を裸にした。さすがに止めに入った母親は、髪を掴まれ顔面を壁に打ち付けられた。
そして、少女はベランダに出されたのだ。
カーテンを閉められ、部屋の中は見えない。
しかし物を壊し、壁や床を蹴《け》り殴る音は聞こえる。そして母親の悲鳴や泣き声も。
少女は身体を抱きかかえ、震えながら待っていた。
すべてが終わるのを。
いつか父親が眠りに就く時を。
部屋の中がしんと静まりかえった。
それでも窓は開かれることがなかった。
少し眠くなってきた。
寒さもあまり感じない。
何かとてもよいことが起こるような気がした。それは単に眠りに落ちることの気持ちよさだけのことかもしれないのだが。
窓が開いた。
少女は眠りに半分浸りながらも目を開いた。
「かあさん……」
間違っていた。
そこに立っていたのは父親だった。
表情の失《う》せた白い顔が少女を見つめていた。
街灯の灯《あか》りに、身体中に散らばった斑点《はんてん》が見えた。
血だ。
黒々としたそれは、血だ。
父親は右手に包丁を握っていた。
血塗《ちまみ》れのそれから、ぽたりと滴が落ちた。
少女は立ち上がった。
「本当におまえらは……だから肝心の……ろしてやるよ、そんなに俺が……」
何事か父親は呟《つぶや》いていた。
呟きながら少女に近づいてきた。
少女は後退《あとじさ》った。狭いベランダでは逃げる場所などない。
追い詰められ、少女は柵《さく》を乗り越え隣のベランダへと逃れた。
遮蔽板《しやへいばん》から父親が覗《のぞ》いている。
「こっちへ来い」
手招きした。
恐ろしかった。
その言葉に従ってしまいそうな自分が怖かった。
父親が、柵に脚をかけた。
こっちに来る。
そう思ったときには、少女はベランダの柵によじ登り、その上に立っていた。正面に街灯がある。
すぐそこ、手を伸ばせば触れる距離に思えた。
父親が甘えたような声で名を呼ぶ。
それをきっかけに、少女は柵を蹴った。
マンションの三階に、少女の白い身体が跳ぶ。
手はしっかりと街灯を掴んだ。
しかし彼女の体重を支えきることはできなかった。
一瞬の間をおいて、少女は真下に向かって落ちていった。
マンションの前には貧弱な植込みがあった。
鈍い音と共にそこに落下した。
右足首が激しく痛んだが、少女は花壇から降りて立ち上がった。足は一度折ったことがある。その時ほどの痛みはない。
捻挫《ねんざ》だ。
そう判断し、少女は片足を引きずりながら逃げた。
「帰っておいでよ」
父親が上から呼んでいた。
「それじゃあ、こっちから迎えにいこうか」
笑いを含んだ甘えた声だ。
少女は走ろうとして、派手に転倒した。
げらげらと笑う父の声がした。
立ち上がると、片足で跳ねた。ぴょんぴょんとしばらくは跳ねていた。が、それが続くわけもない。すぐに脚を引きずりながら歩きだした。
全裸だ。靴も履いていない。
痛みより、寒くて堪《たま》らなかった。歩き続けていないと倒れそうで、倒れれば二度と起き上がれないような気がした。それが恐ろしかった。だからひたすら脚を前に前に進めたのだった。
正面から近づいてくる一団に気づいたとき、少女は何故かほっとした。助けてくれるのだと、理由もなくそう思いこんだ。大人たちは誰も助けてくれないのだと諦《あきら》めていたのに、その人たちが救ってくれるのだと直観した。それは、風呂《ふろ》に入れば身体が暖まる、と同程度の確信だった。
先頭に女がいた。
少女の母親よりはずっと歳をとっていた。しかし、大人ではない、と少女は思った。それは少女の知っている〈大人〉という何かとは異なった存在だった。
女の後ろには二人の年寄りがいた。
一人は伸び放題の髭《ひげ》と髪で顔が縁取られ、まるで黒い太陽の絵だ。もう一人はあまりに腰が曲がっているので、顔がまともに見えなかった。光る禿頭《とくとう》がほぼ正面を向いている。
少女は女に駆け寄った。
「助けて」
弱々しく、しかし懸命に言った彼女を、女はしゃがみ込みきつく抱きしめた。
「大丈夫よ」
その声と身体の温《ぬく》もりに、涙が出そうになった。
たてがみのような髪をした男が、抱えた袋からトレーナーを出してきた。大人用のそれは、少女の足まで届いた。次にサンダルを出してきた。これも大人用で、男はぼろ布でそれを少女の足に巻き付けた。
「パンツは後な」
男はそう言って笑った。
何でも出てくる男の袋を見て、魔法のようだと少女は思った。
「心配したぞ」
そう言いながら駆け寄ってきた男がいた。女の背後に少女が子犬のように隠れる。
父親が追ってきたのだ。
女はすくっと立ち上がり、男の前に立ち塞《ふさ》がった。
男はあからさまに不審そうな顔で女を見た。
「娘を返してもらおうか」
「嫌がっているわ」
欠片《かけら》も戸惑っている様子がない。まるで少女を救うためにここで待っていたかのようだ。
「叱ったら逃げ出したんだ」
「裸で?」
「風呂から逃げ出した。母さんが風呂に入れていたんだ。それで俺が追ってきた。さあ、こっちに来るんだ。風邪を引くぞ」
手を伸ばした。
少女は女の腰にしがみついて離れない。男がその腕を掴《つか》んだ。
その腕を叩《たた》かれたのだと思った。
舌打ちして女を睨《にら》む。
相手は一向に怯《ひる》む様子がない。
腕の痛みが尋常でないことに気づいて、男は腕を見た。
大きく袖《そで》が裂けた、そこから流れ出ているのは血だ。
おわっ、と声をあげ手を押さえる。
その時には片刃のナイフが喉《のど》に突き刺さっていた。
左右から二人の老人に脚を掴まれている。
女は平然とその柄を握っていた。
助けを求めようとしたが声が出ない。
女に掴みかかろうとしたら、刃をぐいとねじられる。
噴水のように血が噴き出た。
両手を前に出し、女にすがるようにもたれかかった。老人たちが手を離すと、そのままずるずると地面に崩れる。
女は何もなかったように振り返り、少女に尋ねた。
「他に怖いものはある?」
少女は首を横に振った。
「それじゃあ、お家に帰るの。そこでじっと待っていればいいわ。これからあなたは幸せになる。そうでしょ」
女が微笑んだ。
少女が笑みを返した。
頭を撫《な》でると、少女は踵《きびす》を返してもときた道を歩いていった。
「信用できる情報かどうか、ですな」
大和田は冷えたポテトをつまみながら言った。
駅前のハンバーガー屋だ。
「ちょっとした噂です。ありがちなことでね。普段から何かで心証を悪くしていると悪い噂が流れる」
柳瀬も不味《まず》そうにポテトをつまむ。
「確認はしたんですか」
「最終的な確認はまだです。それは私たちが今からするとして、一応風評通り、その家の奥さんは外に姿を見せていない。まあ、当人は実家に帰ったと言っているらしいんですがね」
「じゃあ、そろそろ行きますか」
大和田はトレイを持って立ち上がった。柳瀬と打ち合わせをするようになって、このチェーン店での「作法」を知った。それまではこんな店に入ったこともなかった。
ゴミ箱に何もかも捨てて、トレイを置いた。
二人そろって表に出ると突風が吹いた。
思わず大和田は外套《がいとう》の襟を合わせた。
「ここからすぐですよ」
柳瀬が言う。
「そこの、ええと――」
「喜多野家ですよ。喜多野孝がそこの主人ですな。奥さんに母親と息子の四人家族です」
「その奥さんが」
「喜多野伸江、ですね。三十六歳。年齢も印象も似通っているらしいです。例の浮浪者と一緒にいた女と」
「我々なら見ればわかるわけだ。しかし、家に上げてもらえるでしょうかね」
「まず玄関を開けてもらえるかどうか、ですな。多少は強引にする必要もあるだろうし、嘘も方便となるかもしれませんが」
「覚悟はしていますよ」
寂れた簪《かんざし》町商店街を抜ければ、喜多野孝の家までそれほど距離はない。
「さてと、ここなんですが」
門扉から玄関まで、左右にわずかばかりの庭があるのだが、それが荒れ放題になっていた。
「何となく、本命っぽいですな」
大和田は門扉の内側に手をやり、掛け金を外した。
「お邪魔します」
呟《つぶや》き、玄関へと向かった。
柳瀬がインターホンのボタンを押した。
誰も出ない。
「いるんでしょうね」
大和田の顔が曇った。
「確認しています。今日は休日だ」
なおもしつこく押し続けた。
「誰」
不機嫌そうな声がした。
「警察です」
いきなりの嘘に、大和田は苦笑いした。
返事がない。
「警察ですが」
「大きな声を出さないでくれ」
押し殺したような声だ。
それからしばらく待つと、扉が開いた。
その隙間に柳瀬が身体をねじ込み、大和田が続く。
「前にもう話した。あれ以上知っていることはない」
これ以上中には決して入れるつもりはないと、全身で言っていた。
資料によれば柳瀬より若いはずだが、それにしては酷《ひど》く老けていた。顔色も悪く、悪い病気でも患っているかのようだ。シャツもズボンも皺《しわ》とシミでいっぱいだ。饐《す》えた臭いさえする。
「この方は」大和田を手で指す。
「大和田さんです。あの事件で亡くなられた大和田聡さんの親御さんです」
「それが、なにか」
「奥さんは、奥さんの伸江さんはどちらの方に」
柳瀬は中を覗《のぞ》き込んだ。
そんなことで見えるはずがないことは、考えなくてもわかる。それでも孝は身体で柳瀬の視線を遮ろうとした。
「前にも説明しましたがね、実家に帰っている。嘘だと思うのなら実家に電話しろ、と、これも前に言ったはずだが」
孝が疑問を口にするまえに、柳瀬は言った。
「申し訳ない。実は我々は警察のものではありません」
孝の顔が歪《ゆが》む。
「なんだ。何が目的だ」
「こちらが大和田さんだというのは本当です」
「息子のことで、いろいろと聞いて回っていたんです。それでここの奥さんの話を聞いた」
「そんな噂が流れているのか。家の伸江が人殺しだとでも」
声がはねあがった。
「いえ、そんな噂は流れていませんよ。ただ最近留守にされているということを聞いただけです。それで聞いてみると、だいたいあの事件の日からいなくなっている。それでちょっと話をお聞きしようと思いまして」
「何も話すことはない」
柳瀬の肩を突いた。
「さあ、もう帰ってくれ」
「写真を見せてもらえますか」
大和田が言った。
「奥さんの写真を見せていただきたい。それだけで結構です」
「写真を見たら帰るか」
「ええ、帰ります」
大和田はきっぱりとそう言った。
舌打ちし、孝は奥へと消えた。二階でみしみしと音がする。
「また漏らした!」
孝の怒鳴り声が聞こえた。
「いい加減にしろ。おむつはどこにやった」
平手打ちの音がはっきりと聞こえた。
それからすぐに、孝は玄関までやってきた。
「ほら」
一枚の写真を差し出す。
「ちょっと前の写真だが、そんなものしかない」
孝が畳に寝転がっている。
撮るなとでも言うように掌《てのひら》を顔の前に掲げている。
その後ろに中年の女性がいた。
衣服を畳んでいるようだ。
「これは……」
大和田が言った。
後ろから柳瀬が覗き込んだ。
「……違いますね」
横顔しか写っていなかったが、それでもあの時見た女とはまったく別人だった。
「やっぱり、違いますよね」
「何が違う。見たら出ていくんじゃなかったのか」
「この女性が伸江さんですよね」
柳瀬が念を押した。
「ああ、間違いない。嘘をついても仕方ないだろう。さあ」大和田の手から写真をひったくった。
「帰ってくれ」
結局無駄足に終わったのだ。項垂《うなだ》れ、二人は言葉なく帰っていった。
聡を殺し、さらには河原の小屋で田中健二と名乗る浮浪者を殺し逃げている男女の行方を警察が突き止めたのは、それから三日後だった。
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第十一章 城塞《じようさい》都市バクトラ
1
どれだけ雄大な景色であろうと見飽きるということはあるのだ。もしかしたら景色を美しいと感動できるのは観光客だけかもしれない。何しろそこに住む者にとってはそれは単なる日常なのだから。
そう考えると私はすでに風輪の地の住人であると云えるのかもしれない。
赤茶けた砂を巻き上げるひび割れた大地にはもううんざりだった。
私が先頭を歩く。それにクビツリ、ミロク、地蔵《じぞう》の三人が従っている。まるで『西遊記』だ。地蔵の牽《ひ》く車には楽器が積んである。その後ろを歩いているのがウルシビトたちだ。
真昼だった。
陽は頭上から容赦なく照りつけている。
私たちは螺旋《らせん》を描きながら移動し続けていた。これが作戦と云えば云えないこともない。円は緩やかにカーブを描いて中心に向かっていく。中心にあるのは城塞都市バクトラ。バクトラまで後わずかだった。ここまで十日以上かけてきた。慎重に見つからぬように。
牛頭《ごず》たちがウルシビトを探しているのは間違いない。この世界を救う漆神《しちがみ》を攫《さら》うためだ。おそらく多くの兵士を捜索に回していることだろう。バクトラに近づけば近づくほど見つかる危険は増すだろう。視界を遮るもののない荒野だ。身を隠す場所もない。牛頭の兵士に会えば、それで終わりだ。逃げることは不可能だろう。兵士だけではない。どこでハシリダンゴが監視しているかもわからない。幾ら警戒してもしすぎるということはないだろう。
バクトラに入るろくな策はない。だからといってバクトラに入る前に捕らえられるのは避けたかった。
「〈ホトの道〉を抜けましょう」
そう云ったのはウルシビトの長だった。
「ホトの道?」
私は聞き返した。
「そうです。バクトラの城塞《じようさい》の近くにまで通じる地下の道です。わしらウルシビト以外にこの道を知るものは少ない」
「そんな便利なものがあるなら早く云えよ」
寝冷えでもしたのか、鼻をすすりながらミロクが云った。
「便利とも云えんのです。〈ホトの道〉もまた危険な道ですから」
「危険というと?」
ミロクが嫌そうな顔で尋ねた。
「蜂童《はちわらし》の巣が途中にあるのでな」
「ハチワラシ……聞いたことがありますよ。確か毒の牙《きば》を持った赤ん坊のような生き物だとか」
風輪の辺境にも詳しいクビツリが云った。
「そのとおり。恐ろしい化け物です。ですが、わしらの〈歌〉でその動きを止めることができるはず。いかがいたしましょうか、カンノン様」
私はしばらく腕組みして考え込んだ。決断を下すなどということから最も離れたところにいると思っていた。それが「カンノン」という名を授かった途端、みんなが私に指示を求める。私はそれに応《こた》えた。誰かがそれに責任を持たねばならないのだ。そして誰も正しい解答など知らない。それなら私が責任を持てばいい。そう思い決断マシンと化していると、今回のような生死を懸けた問いにも、決断できるようになった。それがいいのか悪いのかわからないのだが。
「〈ホトの道〉を行きましょう」
私は云った。
いつものように、私のその一言でみんなの行動は決定した。ウルシビトの長の案内で、我々は〈ホトの道〉へと脚を進めたのだ。
それから二、三十分も歩いただろうか。紺碧《こんぺき》の空に突き立つ岩の塔が見えた。まるで巨人が大地に突き立てた槍《やり》の穂先のようだ。そこに竜の口腔《こうこう》のような洞窟《どうくつ》が穿《うが》たれていた。
「これがそうです」
緊張した面持ちでウルシビトが云った。〈ホトの道〉の入口は、滲《にじ》む血の赤に薄ぼんやりと輝いていた。
「さあ、行くわよ」
洞窟の中を覗《のぞ》く。さすがに薄気味悪い。
「俺、怖い」
震える地蔵の肩をミロクは叩《たた》いた。
「まあ、頑張って伸江を助けてやってくれ」
「なに云ってるのミロク」
「いやあ、わしは病気だからな。ここらで遠慮させてもらおうかと思ってな」
嘘ではないようだ。風邪をひいてしまったらしく、顔が紅潮し眼が潤んでいる。
「風邪ぐらい何よ」
「頼むよ、伸江。わし、さっきから頭が痛いんだ」
ミロクはしきりに咳《せき》をした。
「わざとらしいんだから」
「わざとじゃないって」
「私だって怖いのよ。さあ、地蔵。行きましょう」
私は地蔵の背中を押して洞窟に入っていった。思った通り後ろからミロクがついてきた。
桃色に濡《ぬ》れた洞窟の壁は内臓のようだった。洞窟は広く長く、怪物の大きな口に呑《の》み込まれたような気がした。異様に暑い。外の暑さと違って、滴るような湿気が含まれている。
温気《うんき》とともに異臭がした。汗や精液や糞尿《ふんによう》や、とにかくそんなものが入り混じったような悪臭だ。
堪《たま》らず口を掌《てのひら》で覆った。
「嫌なところだなあ」
ミロクがこぼした。
「我慢しなさいよ」
口と鼻を押さえているから、叱るにも迫力がない。それに温気と臭気に一番まいってるのは、どうやら私だ。己れの決断を後悔しながらも、私は歩いた。〈ホトの道〉は延々と続く。明りを採るところはどこにもないはずなのに、中は淡く紅色に輝いていた。どうも、岩壁そのものが燐光《りんこう》を発しているようだった。
「そろそろです、カンノンさま。蜂童の巣が近づきました。みんな、音をたてないようにしてください。蜂童は音に敏感ですからな。一度動きだした蜂童は、わしらにも止めることはできません。さあ、みんな、唱和を始めるぞ」
長は大気を震わせ歌い始めた。
オーム・アマラニ・ジワン・ティエ・ソーハー
ウルシビトたちは長にあわせて唱和を始める。声は決して大きくはなかったが、低く、大地がびりびりと震えるかのようだった。
唱えるウルシビトたちを先頭に、私たち四人が続く。
ウルシビトの唱和する声が洞窟の中に朗々と響く。不思議なことにあの異臭が消え去り、爽《さわ》やかな風さえ吹いているように感じた。実際に風が吹いているわけではない。ウルシビトたちの唱える聖句を風として感じているようなのだ。
壁の色が赤から桃色に、そして白へと変わっていく。相変わらず淡く輝いているが、壁は今までのぬめる内臓のようなものではなく、ロウのように透き通っている。しかもそこには六角の穴が、ベンゼンの構造式のように規則正しく並んでいた。
穴の直径は六十センチほどだ。そこから白い玉のようなものが出てきた。それは何かの頭だった。ぶよぶよした白蝋色《はくろうしよく》の頭頂部だ。私はびくびくしながらそれを見ていたが、頭はそれ以上巣穴から出て来ようとはしなかった。
オーム・アマラニ・ジワン・ティエ・ソーハー
オーム・アマラニ・ジワン・ティエ・ソーハー
洞窟の中にウルシビトたちの唱和が響く。
私たちは足音を忍ばせながら、そろそろと進んで行った。
誰も人のことを気遣っている余裕はなかったろう。ウルシビトたちは唱和に専念していたのだし、私たちも緊張しきって、そっとそっと歩いていたのだから。
だから私がミロクを見たときには、もう顔を真っ赤にして、口を必死になって押さえていた。
あっ、と思ったときにはミロクの我慢は限界にきていたのであろう。
ぶしゅうー、と奇妙な、しかしはっきりとした音をたててミロクがくしゃみをした。
息を呑《の》み、私は周囲の穴に眼をやった。
這《は》い出る虫に似ていた。
それがどの穴からも出てきた。
細く長い蒼白《そうはく》の指だった。
それが六角の穴の縁を掴《つか》んでいる。
そして一斉に、それは躰《からだ》をぐいと前にせり出してきた。上体が巣から出る。赤ん坊そっくりだった。ぽってりと太った生白い躰をくねらせ、それは六角の穴から這い出ようとしていた。
唱和がやんだ。
「走って!」長が叫んだ。
「出口は近くだ。死ぬ気で走りなさい!」
私たちはどっと走り出した。コトが一声|吠《ほ》えた。私はそれを鷲《わし》掴《づか》みにし、上着の下に入れる。
ウルシビトは老人が多い上に、牛頭《ごず》の兵士たちに襲われた傷が癒《い》えていないものもたくさんいる。しかも、みんな大きな楽器を持っていた。
「ミロク! クビツリ! 楽器を」
叫びながら、奪うようにウルシビトの楽器を受け取る。
「地蔵!」
あまり素早くは動けない地蔵の尻《しり》を叩く。
彼は後ろに大きな箱を引きずっていた。
みんな必死になって広い洞窟《どうくつ》を走り抜ける。
蜂童はバターのような柔らかい肌を震わせて、それだけは不釣り合いに細長い四肢を使って壁を這い降りてきた。
すべての穴からだ。
何百という数だった。
それを見ただけで私はパニックになった。持てるだけの楽器を抱えて走る。とにかく走る。
左右の壁から這い出た蜂童たちは、その躰からは信じられないような速度で走ってきた。長い五本の指を地に立て、蜘蛛《くも》のようにかさかさと走る。
一匹が足下に迫ってくる。
赤ん坊そっくりの顔がそこにあった。
脚が空回りしているような気がする。
急げ急げと自らに命じて、そして見る必要もないのにそれを見てしまった。
蜂童の口が大きく開かれている。口は誇張ではなく耳まで裂けていた。その中に刺《とげ》のように鋭く細い歯がびっしり生えている。
思わず悲鳴が洩れた。
ともすれば脚から力が抜けそうになる。
コトが唸《うな》りながら懐から這い出ようとする。それを押さえつけて必死になって走った。
私の横に大きな何かが迫り、どきりとした。
地蔵だった。
「俺、平気だ」
任せろ、という意味だったのだろう。地蔵は迫る蜂童を踏み潰《つぶ》し、蹴《け》り、掴み、投げ捨てる。蜂童は地蔵に噛《か》みつくのだが、その鎧《よろい》には歯が立たないらしい。
無数の蜂童が橙《だいだい》に光る床を這ってくる。
ミロクは私の前を走っていた。逃げ脚の速さは健在だった。這い寄る蜂童を飛び越え、走る。置いて行かれないように私も走る。
出口は目前だった。
ふと見れば、地蔵の躰には蜂童が鈴なりになっていた。それをものともせず私の周りに集まる蜂童を払い除《の》ける。
その地蔵が首を仰《の》け反らせて呻《うめ》いた。
私は立ち止まった。
地蔵の手に蜂童が食いついていた。そこだけは鎧で覆われていなかった。太く短い指がたちまち紫に膨れ上がる。
地蔵はその蜂童をもぎ取ろうとした。細かな刺状《とげじよう》の牙《きば》が深く肉に食い込む。それでも容赦なく地蔵は胴体を引っ張った。するとあっさりと首が千切れた。頭について脊髄《せきずい》から食道、胃腸がずるずるとつながって出てくる。
地蔵は空になった胴体を投げ捨てた。ミルク色の体液が飛び散った。
首からだらりと垂れ下がった背骨に、紫色の臓器が膨れたり萎《しぼ》んだりしているのが見えた。それが毒の袋だった。躰を失ってもなお毒を送り続けているのだ。
私はその場で嘔吐《おうと》しそうになった。
「いけ、伸江。早く」
地蔵が手を振る。
「早く! 出口を抜ければ、もう追ってきませんぞ!」
ウルシビトの長が絶叫していた。
私は前進した。
その時にはまだ地蔵は大丈夫そうだった。
今までと変わらず、躰にたかる蜂童どもを掴んでは投げ捨てていた。
私は出口を走り抜けた。出口の境に黄色い線が引かれてある。何故か蜂童たちはそれを越えて来ようとはしなかった。その周囲に集まり、口惜しげに歯噛みしている。
地蔵の悲痛な叫び声が聞こえた。振り向くと地蔵が倒れていた。背中の羽を激しく震わせている。
「地蔵!」
駆け寄ろうとした私は、後ろから誰かに押さえられた。
後わずかで出口にたどり着く。すぐそこに地蔵はいた。蜂童が山のように地蔵の躰にたかっている。尾だけが左右にのたうっているのが見えた。
「地蔵! 地蔵!」
私は叫び続けていた。
後ろから何人もの人間が私を押さえつけている。
「無理だよ。もう無理だ」
ミロクが云った。
「無理じゃない!」
その時私は本気でミロクを憎んでいた。
蜂童の山が、少しずつ伸江たちに向かって動いていた。
あれだけの蜂童に食いつかれながら、地蔵はそこから這い出ようとしているのだ。
「こっちよ、地蔵!」
それが聞こえたのか、蜂童の山は少し速度をあげて私の方へ、出口へと近づく。驚くべきことに、地蔵はそれでも荷物を入れた箱を引きずっていた。
「荷物は捨てて、地蔵」
私が何度叫んでも、聞こえないのか荷物を離そうとはしない。
黄色い線はすぐ近くだ。
そこに地蔵の手が出た。
蜂童の首が、首だけが手首に食いついている。紫に腫《は》れ上がった皮膚がはじけて、黄色い脂肪がのぞいていた。
私はその手を握った。ミロクとクビツリも手を貸してくれた。三人で地蔵の腕を引く。泥から蓮根《れんこん》を引き出すように、地蔵の躰《からだ》が蜂童の山から抜け出た。
地蔵は口から白い泡を噴き出していた。全身が細かく痙攣《けいれん》している。羽は床にべったりと広げられたまま動かなかった。
「地蔵、助かったのよ。もう、大丈夫よ」
私はミロクを見た。
「ねえ、大丈夫よね。地蔵は不死身だから。そうでしょ。ねえ、地蔵」
私は地蔵を抱き起こした。躰が蜂童の体液で濡《ぬ》れていた。
私は地蔵の肩を揺すった。
何度も何度も揺すった。
「地蔵。蜻蛉人《あきずひと》になるんでしょ。ねっ、大丈夫よね。一番元気だから。大丈夫よね」
自分でも何を云っているのかわからない。
痙攣が止まっていた。
肩を揺する度に、生まれたばかりの子供のように頭がぐらぐらと揺れた。
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real-12
〈ブリキ人形〉を背負って女は夜の街を走っていた。息は上がって、心臓は空回りしている。小柄だとはいえ大人一人を担いで走るのは、男でも辛《つら》い。
「無理だよ。そりゃ、無理だ」
並んで走りながらライオンがいう。
女に導かれるまま三人で夜の道を歩いていた。警官が二人、角から不意に現れた。
運が悪い。
ライオンはそう思った。が、どう考えても目立つ三人組だ。それまでパトロール警官と出会わなかったことの方が幸運というものだ。
女はライオンが驚くほど堂々と嘘をついた。しかしどのように説明しようと、この三人が並んで夜中に歩いている合理的な説明をつけるのは難しい。
それでも女のあまりに毅然《きぜん》とした態度に、質問をしていた警官も一度は納得しかけていた。
だがもう一人の警官が、女の着ているトレーナーの袖《そで》に赤黒いシミがあるのを見つけた。
「それ」と袖を指差し「血だよね」と確認をとろうとしたときだった。
ライオンが思い切り警官に体当たりをした。同時に女がもう一人に肩から突っ込む。
攻撃してくるとは思っていなかったのだろう。
警官は二人並んで見事な尻餅《しりもち》をついた。
女は〈ブリキ人形〉の手を引いて走り出した。ライオンが慌ててそれに続く。
警官は立ち上がり、止まれと呼び掛けた。呼び掛けながら走り出した。
すぐに追いつけるだろうと思っていただろう。相手は老人二人と中年女性だ。
ところが追いつけない。
脚が重く、思ったように動かないのだ。
脚に何人もの人間がしがみついているかのようだ。しがみつくそれを、ずるずると引きずりながら走っている。
まるで悪夢だ。
凍えるほど寒い夜だったが、額から汗が流れてきた。
その間にゆっくりと、女たちは警官を引き離していった。途中で女は〈ブリキ人形〉を背負った。彼も必死なのだろうが、ネズミほどの歩幅でちょこちょこと走っていては、いくら急いでも先に進まない。見かねて女が背負ったのだ。ライオンが羨《うらや》ましそうな顔で見ていたのだが、そんなことに女が気づくこともない。ただ懸命に走り続ける。
運は決して悪くなかった。
彼女たちがそうやって逃げる間、誰に出会うこともなかった。今までがそうであったように。彼女たちは、移動しているのを目撃されたことがほとんどなかったのだ。幸運の女神がついているのではないかと、ライオンは本気で思い始めていた。だから女が立ち止まりこう言ったのには驚いた。
「駄目かもしれないわね」
「そうか。そうなのか」
急に不安になってライオンは言った。
女はよっこいしょ、と〈ブリキ人形〉を降ろした。
「あなたはどうしますか」
女が尋ねると〈ブリキ人形〉は鼻先を柔らかな女の腹にすりつけてから言った。
「お願いでございます」
そして顎《あご》を上げ、彼女に喉《のど》をさらした。
女は優しく微笑みナイフを取り出した。
ライオンは目を閉じた。拳《こぶし》を固く握り、うろ覚えの般若心経《はんにやしんぎよう》を唱える。
女は〈ブリキ人形〉の首に刃を当てた。
そして力を込める。その小さな老人から何もかもを断ち切るように。
*
「伸江、寝かせてやれよ」
ミロクが云う。
「嫌よ。地蔵《じぞう》は寝なかったじゃない。地蔵は寝ないのよ」
私は地蔵の躰を抱きしめた。
金属の躰はぞっとするほど冷たくなっていた。
「あれは……」
ミロクが惚《ほう》けたような声をあげた。
「伸江、あれ」
私の肩を叩《たた》く。
「うるさい!」
叫ぶ私の顔を両手で挟み、ミロクは強引にそれを見せた。
何処からか極彩色に輝く光が降ってきた。それは金輪で見た天女たちだった。天女たちは舞い降りると、地蔵を囲んで円を描いた。
歌声が聞こえた。
おのりぁあれ、地蔵さま。
歌いながら天女たちは地蔵の周りをくるくると回りだした。繰り返し繰り返し、歌いながら私と地蔵の周りを回る。
地蔵の頭から、金属の玉が弾《はじ》けるように飛び出した。それはしばらく様子を見るように地蔵の上を旋回し、それから蜂童《はちわらし》の巣の方へ飛びさっていった。
天女の歌が代わった。
物おしえにござったか地蔵さま
遊びにござったか地蔵さま
からん、と音をたてて脚を覆っていた鎧《よろい》が取れた。鎧の下には何もなかった。空洞だった。それから次々に、地蔵の躰を包む金属の皮膚が剥《は》がれ落ちていく。落ちた鎧は私の手の中で灰になった。羽が抜け落ち、それもまた灰と化す。
胴を包んでいた鎧の中には、輝く銀の棒のようなものが入っていた。それは引き絞った弓のように湾曲していた。棒の根元が少し膨らんでおり、溶けたガラスの塊に似た何かが濡《ぬ》れたように光っていた。
最後に頭にかぶっていたヘルメットが真ん中から左右に割れた。同時に中の頭蓋骨《ずがいこつ》もまっぷたつに割れる。
現れたのは複雑に光を反射させる水晶玉だった。その下には金属の顎。
銀の棒は長い眠りから醒《さ》め、伸びでもするかのように真っ直ぐになる。ガラスの塊はきらきらと輝きながら、刃に似た形に変形していった。
私はミロクに眼で問いかけた。
「蜻蛉人《あきずひと》だよ。これが蜻蛉人だ」
ミロクは答えた。
地蔵である蜻蛉人は、ゆっくりとガラスの羽を広げた。初めは怯《おび》えるようにわずかに、そしてやがて大胆に羽を羽ばたかせる。
やれうれしや。
蜻蛉人はしっかりとした声でそう云った。
救われた、救われた。やれうれしや。
やれうれしや、と繰返しながら蜻蛉人は宙に飛んだ。洞窟《どうくつ》の天井近くを二、三回旋回すると、蜻蛉人は出口に向かって飛び去っていった。
「どうなったの」
私は涙を拭《ぬぐ》って云った。
「よくはわからんが……どうも地蔵は救われたようだな」
「これでよかったのかしら」そう問う私の耳に地蔵の声が聞こえた。
「ありがと」
私にははっきりとそう聞こえた。
「さあ、行きましょう」
私は立ち上がった。
自分のしたことには自信を持とう。
悔やむのは、そう悔やむなら帰ってからだ。
私たちは再び歩き始めた。
洞窟を抜けて二十分あまり、とうとうバクトラの周りを囲む高い城壁が見えてきた。
バクトラの城壁はここが世界の果てであることを示すかのように視界を遮っていた。見上げるとのしかかってきそうな圧迫感を与えるのは、この壁がわずかに外に向けて湾曲しているからだ。壁を成す岩は一つがダブルベッドほどの大きさがある。
壁の上には見張台が置かれ、常時監視のために銃を持った兵士が巡回している。
城塞《じようさい》に入口は二つ。一つは鉄道の入る西門。もう一つは東側の大門である。
門は西門も大門も、いったん閉ざされた門からは風さえも出入りできないという。
正午を過ぎ、太陽が傾きかける今頃、最も暑いこの時間が最も通行の多い時間なのだそうだ。
門に立ち、往来する人々を検問する兵士の数は二十余名。出入りの商人たちに、いたって評判が悪いのは、戯れに女を裸に剥《む》いたり、意味もなく暴力をふるったりするからだという。そして、何より法外な通行料をせしめるらしいのだ。それが牛頭《ごず》の定めたものなら諦《あきら》めもつくのだが、通行料はたんに衛兵の小遣いになるだけだ。それでも逆らえば通行料代わりに命を奪われかねない。だからといって唯々諾々とそれに応じるのもしゃくに障ると、様々な手段を講ずる商人もいないではないらしい。
「ストップ!」
私は振り返って大声を上げた。何を言ったかを理解できた者はいないだろうが、両手を挙げた意味はわかったようだった。
みんながその場で止まった。
「さて、そろそろ用意しましょうか」
ウルシビトたちがそれぞれに楽器を手にし始めた。どれも演奏しながら歩けるように工夫が凝らしてある。
「なあ、伸江。こんなので本当に大丈夫なのか」
ミロクは顔をしかめた。
「さあ」そう答える私を見て、ミロクは聞かなければよかったという顔をする。
私は笑顔でミロクの肩を叩いた。
「でも私たちには北の聖《ひじり》がついてるわ」
「それにカンノンさまもいますからね」
クビツリがつけ加えた。
「そうよ、私はカンノンなんだから、大船に乗ったつもりでいなさい」
少しばかり本気だった。
皆それぞれに楽器を手にしていた。
正面にある大門は大きく開かれている。ヒトニウマに牽《ひ》かれた車や唾女に乗った兵士たち。大勢の人々がそこから出入りしていた。
ここからは見えないが、鉄道もこのバクトラの中に入り込んでいるはずだ。
出入りは自由に見える。
しかし間違いなくこれは城塞《じようさい》都市バクトラだった。誰でも入れるかもしれないが、非天《アスラ》に忠誠を誓った者しか出ることはできないのだ。
「行くわよ」私は後ろに控えた即席の楽団に声を掛けた。
「一、二、三、はい」
大太鼓が鳴った。
続けて小太鼓、笛が入る。木琴のような楽器が主旋律を繰り返した。
私たちは旅の楽隊となって門へと歩き出した。
*
のど飴《あめ》を口に放り込む。
大和田は車の暖房が苦手だった。
「ちょっと窓を開けてもいいか」
「どうぞ」
柳瀬の返事を待たず、助手席の窓を開いた。肌を切る冷たい風が吹き込んだ。震えがきて、今度は慌てて窓を閉める。
そんな大和田を見て、柳瀬は言った。
「暖房を止めておきますか」
「頼むよ。空気が乾燥するだろ。そうするとすぐに喉《のど》をやられるんだ。歳をとると人間ろくなことはない」
「確かにそうですな。しかし若いだけで、あんな風になっちゃねえ」
言われて大和田は後部座席を見た。
拘束服を着せられた男がそこに横たわっていた。ベルトだらけの大きなてるてるぼうず[#「てるてるぼうず」に傍点]だ。
「どこであんなものを」
てるてるぼうず[#「てるてるぼうず」に傍点]は小声で念仏でも唱えるようにずっと呟《つぶや》き続けている。
――の頭の中に入れやがったのは角が丸くなっててよそりゃあやつらがやったんだよざけんなよ殺してやるよやつらぶっころしてみんなぶっころしてやるうううきもちがわるいだから虫をいれるなっていっただろうがげろげろむしむし虫虫むしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむしむし……。
「ネットワークがね、普段から用意しているわけですよ。この時のためにね」
早朝、大和田は柳瀬に呼び出された。
女たちの居場所を掴《つか》んだということだった。その確認もとってある。いよいよ報復の時だと。
家まで迎えにきた車に同乗し二人が向かったのは、ライオンと呼ばれるホームレスの昔の職場のすぐそばだ。柳瀬や間宮の勘が的中したのだ。
現地では間宮も待機しているという。
「それで、女の正体は」
「それがどうにもわからない。まあ、それは警察に任せましょう」
「あの女が犯人であることは間違いないんでしょうな」
「間違いありません。息子さんの私物から、指紋が採取されているんですよ。それと、あのつぶれた病院から見つけだした指紋とが合致してます」
「それは警察が」
「ええ、警察の情報はほぼリアルタイムで我々の手に渡っていますからね。ほら、あそこです」
ゴーストタウンのような街だった。
広く埃《ほこり》っぽい県道の両脇には、フェンスで囲まれた更地が並んでいる。その合間にぽつぽつと、途方に暮れた顔で民家が残されていた。
「ここはまだ警察はつきとめていない」
路肩に車が一台停まっていた。柳瀬はその後ろにつけて停めた。
柳瀬と大和田は車から降りた。
もう一台の車から男が降りてきた。胎児を連想させるつるりとした大きな頭。間宮だ。
「お待たせしました」
柳瀬が手を挙げた。
「いいえ、また久しぶりに働かせてもらってます」
間宮は楽しそうだった。
「やはり男は仕事に生きる動物ですな。こうやって現役の頃のように働いている時が、一番身体がしゃっきりとする。この家に入口は玄関が一つ。窓も道路側にしかない。昔は工場が密集していましたからね。道路側しか明りが採れなかったんでしょうな」
「いますか」
大和田が尋ねると、間宮は深く頷《うなず》いた。
「奴らはここから二十キロほど離れたところで警官に職務質問されて逃げている。それが今日の午前一時。逃げた先で、奴らはまた人を殺しています。奴らは正真正銘の外道だ。獣の所行だよ。我々は必ずこの近くに逃げ込むだろうと考えて張り込んでいました。ここに奴らが到着したのは午前六時半。おそらく今頃奴らはぐっすりと寝込んでいるはずだ。さあ、大和田さん、どうされますか。一緒に行かれますか」
「ええ」
間髪いれず大和田は返事した。
「よし決まった。じゃあ、これを」
革の手袋を渡される。そういえば柳瀬と間宮はどちらも手袋をしたままだ。
「それから、これはもしものために持っていってください」
鞘《さや》に収まったナイフだった。
大振りの、いかにも凶悪そうな顔のナイフだ。
手渡されたそれはずっしりと重かった。
「まず使うことはないと思いますが、使うときは決して躊躇《ためら》わないでください。後のことは我々が処理しますから」
柳瀬はいつもの自信たっぷりの口調でそう言った。
「ちょっと、手を貸してもらえますか。こいつを引きずりだすんで」
柳瀬が後ろの扉を開いた。
「おい、起きろ」
中のてるてるぼうず[#「てるてるぼうず」に傍点]を、大和田と柳瀬の二人で引き出す。
柳瀬は手際よく拘束衣のベルトを外していった。それを剥《は》ぎ取ると、すかさず間宮が後ろから腕を押さえる。流石に手慣れたものだ。
若い男だった。べっとりと湿ったような長髪が頭に貼《は》り付いている。茶色い毛の根本から黒々と髪が伸びてきていた。肌は水分を失い、白く皮膚が剥がれて粉を吹いている。ひび割れた唇にも色はない。唇の端が切れ、そこから血と涎《よだれ》と意味不明の呟きがこぼれ落ちていた。
当て所なく揺れ動く瞳《ひとみ》が時折憎悪に焦点を結ぶ。
何処であろうと絶対に出会いたくないたぐいの若者だ。
「行くぞ」
三人はその男を引き連れて頽《くずお》れた民家へと入っていった。
扉を開くと、狭い玄関に埃を被《かぶ》った靴やサンダルと一緒に三輪車が放置されていた。
間宮が腕を押さえている男の耳元で囁《ささや》いた。
「おまえは屑《くず》だ。人間の屑だ。おまえを屑にまで追い込んだのは何者かわかるか。〈奴ら〉だよ。おまえの頭の中に機械を埋め込んだり、虫をスパイに使ったりする〈奴ら〉だ。ここは〈奴ら〉の秘密基地だ。ここに〈奴ら〉の親玉がいる。いいか、殺すんだ。皆殺しだ。わかるな、皆殺しだ」
腕を離し、男に大きなハンティングナイフを手渡した。
「さあ、始まりますよ」
胎児の顔でにこやかに笑いながら間宮は言った。
獣のような奇声を発し、男は部屋へと飛び込んでいった。
*
私たちは城の中にいた。牛頭の城だ。門をくぐったところであっさりと衛兵たちに取り押さえられたのだ。そして牛頭の城へと連れてこられた。
門も柱も扉も穹窿《ドーム》も何もかも、巨人のために設《しつら》えたように桁外《けたはず》れの大きさだった。荘厳というよりは暴力的なものを感じる。牛頭が支配したどの街でも感じた気配だ。
鈍重にさえ思える広く曲がりくねった廊下と階段を抜け、円柱が連なり、高い天井から洩《も》れる光が複雑にあやなすその廊下に出てきた時には、腹が立っていた。何に腹を立てているのか一言でいうならこうだ。
何、偉そうにしてるのよ。
「あの扉の向こうで牛頭様がお待ちだ」
ここまで私たちを案内してきた衛兵が、尊大な口調で云った。
廊下の遥《はる》か彼方《かなた》、病弱なものならたどり着く前に息絶えそうなところに扉があった。これだけの距離を離れてなお、その扉が恐ろしく巨大であることがわかった。
廊下の両脇には衛兵たちが等間隔に直立不動で立ち並んでいる。その真ん中を男に従い、足首まで埋まる絨毯《じゆうたん》を踏みながら進む。後ろから脇から、歩み寄った十人の衛兵が並んで歩く。
扉の前で男は立ち止まった。
「入る前にその剣は預かっておこう」
伸江は腰に差していた剣を抜き、男に手渡した。
「女を連れて参りました」
男が声を掛けると、重い扉が音もなく滑らかに開いた。
広い部屋だった。だが伸江の想像していた西洋のお城の謁見の間のようなものではなかった。それは高級ではあるが質素で機能的な部屋だった。奥に机があった。その机に座っているのは痩《や》せた美しい青年だった。
「牛頭様だ」
男が云った。これも意外だった。あの馬頭《めず》の兄だと聞いていたので、粗野な獣のような男だと思っていたのだ。
男は薄く笑っていた。
「さあ」
男に促され、みんなは中に入った。
牛頭の横には二体の昆人《こんじん》がいた。汽車で私たちを襲った蟷螂人《とうろうびと》だ。
衛兵が私から奪い取った剣を、牛頭の机の上に置いた。
「ミロク! 銃よ」
私は隣のミロクに小声で囁いた。
「はあ?」
「馬鹿みたいな顔してないで、ほら、あの憤怒砲《ふんぬほう》よ」
「ああ」
大きく頷いてミロクは懐から銃を取り出した。
「覚悟するのね」
「何を覚悟すればいいのだね」
牛頭は平然としている。
「ミロク、撃って」
おっしゃ、と返事し、ミロクは牛頭に照準をあわせて引金を引いた。
が、何も起こらない。
「伸江」
「聖がいってたでしょ。怒りを込めるのよ」
「怒り……なるほど、怒りねえ」
いたぶるように蟷螂人はゆっくりと近づくと、その鎌を大きく振りかぶった。
「糞喰《くそく》らえ!」
ミロクが叫び、引金を引いた。
銃口から彗星《すいせい》のように尾を引いて光の塊が飛びだした。
牛頭はそれを素手で受けた。
オレンジの火花が飛び散った。
閉じた掌《てのひら》から、しゅうしゅうと蒸気が噴き出す。
「なるほど。これを覚悟すればよかったわけだ」
牛頭は嘲笑《あざわら》った。
「死んじまえ!」
再び引金を引いた。
くぐもった音を立てて飛んだ光は、今度は牛頭の振った腕に弾《はじ》かれ床に落ちて消えた。
「この野郎!」
叫び、撃つと、クスッと情けない音をたてて光の弾は飛び出した。光は牛頭に届かず、床に落ちて消える。ミロクは慌ててもう一度引金を引いて、叫んだ。
「こらっ!」
はあ〜と溜息《ためいき》に似た音とともに光の雫《しずく》が銃口から一滴垂れ、絨毯に染みて消えた。
「駄目だ、伸江。わしあんまり根に持たない方だから。長い間怒れないぞ」
「貸しなさい!」
私はミロクから銃をふんだくった。
銃を構える。怒りを感じようとする。怒るべき対象を思い浮かべる。ところが地蔵のことを思うとやるせなく、悲惨なウルシビトたちを思い浮かべても哀れなだけで、一向に怒りに転じない。この期《ご》に及んで、いや、こんな場合だからこそ怒るのを恥ずかしいと感じている自分を見いだしただけだった。
「ほら、駄目だ」
嬉《うれ》しそうにいうミロクに銃口を向けた。
「ミロクになら怒れるわよ」
「馬鹿なこといってる場合じゃないだろ」
「馬鹿っていったわね」
「余興はもうおしまいかね」
牛頭が云った。
牛頭は腹話術師のようにあまり唇を開かずに喋《しやべ》る。神経質そうな、しかし誰が見ても美しいと思うであろう整った顔が崩れるのを恐れているのだろうか。
牛頭は私から銃をもぎ取った。
「物騒な玩具《おもちや》ですね」
牛頭は剣の横に憤怒砲を置いた。
「旅芸人の芸にしては危険すぎる」
机に腰を乗せた。
「いつぞやは弟がお世話になったそうで、いつか礼をいわねばと探していたんですよ」
唇の端を吊り上げて笑った。
やはりすべて知られていたのだ。
「あなたの方から来ていただけたので手間が省けました。何のために来たのかはだいたい想像がつきますよ」
牛頭はショウルームのコンパニオンガールのように机の後ろの壁を指した。
そこに大きな鏡があった。その鏡は忠実にモノを映し出す鏡ではないようだった。鏡に映されたこの部屋の中央には、女性の胴体が、胴体だけが浮かんでいた。振り向いても何もない。胴体は鏡の中にだけあった。間違いない。これが封印されている北の聖の胴体だ。
「残念ですがこれをあなたにあげるわけにいかない。さてと、私もあなたを心待ちにしていたのですが、もう一人あなたに紹介したい人がいるんですよ。やはりあなたに礼がいいたいそうです」
鏡の横に小さな隠し扉があった。それが開き、男が出てきた。大きな男だ。背を屈《かが》め、肩をすぼめ、それでもその扉から抜け出すのは難しそうだった。
ようやく出てきた男が立ち上がった。
「よお、久しぶりだな。ババア」
馬頭だった。見間違えるはずもない。首を落としたはずの馬頭だった。
私は唖然《あぜん》として声もない。この世界に来て、何があっても驚かないだけの心構えができていたが、自分の手で首を切り落とした男が眼の前でにやにや笑っていては驚かざるをえない。
「見ろよ」
馬頭は軍服の襟《えり》をめくって首を見せた。そこには赤黒く縫合した跡があった。
「痛かったよ。すごーくな」
鬼の顔で笑った。
「すみません、弟は礼儀知らずなもので。今日はせっかく遠来からのお客様をお迎えするのですから、夕食にご招待しようと思いましてね。この街にいるものなら知っているでしょうが、私は美食家なんですよ。いろいろなものを食べました。好みのものを探すのに苦労しましたよ。でもそれが見つかった時の嬉しさといったら」
心底嬉しそうなその顔は、欲情に歪《ゆが》んだ馬頭の顔とそっくりだった。もとが美しいだけに耐えられぬほど醜かった。
「やっとこの地で最も美味《おい》しいものを見つけたんですよ。何だと思います」
私を見ている。じっと、笑いの浮かんだ眼で私を見ている。
「女ですよ。女の肉です。そうだなあ、頬の肉が私は一番好みですよ。そんな顔をしないでほしいなあ。確かに凡人にはあの至高の味覚を理解することはできないかもしれませんが。私のような舌の持ち主でないとね。ほら」
牛頭は大きく口を開いた。上顎《うわあご》にも下顎にも、舌にまでびっしりと細かな歯が生えていた。どの歯も赤ん坊の歯のように細かく揃っていて、真珠のような白い歯だった。
私は悲鳴を上げていた。
「女の肉と云ってもいろいろと種類がありましてね。私の好みは勇ましい中年女性の肉だ。だからあなたを夕食にご招待しようと思いましてね。客としてではありませんが。夕食の余興にあなたたちの曲を聞かせてもらおうとも思ったのですがね、残念ながらその時には君は皿の上に載っているというわけですよ」
「兄貴よ。食べる前に、俺にも礼をさせてくれるんだろ」馬頭が云った。
「よお、ババアよ。楽しませてくれよな」
馬頭は私に近づき腰を抱いた。躰《からだ》は強張《こわば》り、逃げようにも逃げられない。
馬頭の眼がテーブルの剣を見た。
「これは、これは。俺から盗んだ剣に鞘《さや》までつくってくれたのかい」
私から離れ、鞘を抜き取った。
「小汚い鞘だな」
しばらく鞘を舐《な》めるように見ていた馬頭は、突然その両端を手で持って、膝《ひざ》に思いきり当てた。
「止めて!」
私が叫んだ時には鞘はまっぷたつに折れていた。割れた鞘を投げ捨てると馬頭は笑った。
「ミロクが私にくれたのよ。ミロクが私のために」
涙が流れた。悲しいのではない。
悔しさと、そして怒りが涙を流させていた。
馬頭はそれを見てさらに笑った。
「泣いてやがるぜ、このアマ」
腹を抱えて笑う馬頭。呆《あき》れた顔でそれを見る牛頭。その中央に机があった。
私は走った。
牛頭が素早く机の上の剣を奪った。ほぼ同時に私は憤怒砲を掴《つか》んでいた。
「弾のない銃で何をしようというのですか」
牛頭は勘違いしていた。
私は引金を引いた。
轟音《ごうおん》とともに太陽のように輝く光の束が銃口から飛び出した。とっさに避けた牛頭にはさすがといわなければならないだろうが、彼にしても後ろの鏡を退ける時間はなかった。
鏡は銀の飛沫《しぶき》を散らして微塵《みじん》に砕け飛んだ。
己れの怒りが引き起こした結果に、私は呆然《ぼうぜん》とした。
*
大和田は金縛りにでもあったかのように動けなかった。
信じられなかった。
目の前で倒れているのはあの女ではなく拘束衣を着ていた男だ。
男はナイフを振り回しながら部屋へと突入していった。
そこに女が立っていた。
予《あらかじ》め男たちが来るのを予測しているようだった。
唸《うな》り涎《よだれ》を垂らし、悪霊と見間違わんばかりの男を前に、女は微動だにしなかった。その腰を掴んで、老人が後ろに隠れていた。
「報復だよ」
柳瀬が言った。
「外道にはそれなりの罰を与えねば」
間宮が言う。
大和田は怯《おび》えていた。
決定的な違和感を感じていた。
確かにこの状態で大和田たちが負けるわけがない。相手は中年の女一人と、腰抜けの老人だ。
そう思いながらも、腹の底の怯懦《きようだ》は失《う》せない。
「やれよ、屑《くず》」
柳瀬が言う。
「それが〈奴ら〉だ」
が、男は前に出なかった。
そこに壁でもあるかのように前に進もうとはしない。
女が蠅でも追い払うかのように手を振った。
あっけなく男が倒れた。
魔法でも見ているようだった。
倒れた男は首を押さえ痙攣《けいれん》している。
指の隙間からだらだらと流れているのは血だ。
「大和田さん!」
名を呼ばれているのにようやく気がついた。
はい、と小学生のように返事をした。
「我々でやるんです。今こそ息子さんの復讐《ふくしゆう》を」
はい、とまた元気よく返事する。
しかし身体は動かなかった。
*
城の中庭にいた。
ミロクもクビツリも、みんな揃っている。
「どうなってるのよ」
私は呟《つぶや》いた。
「聖さまのお導きだ」
族長が微笑んだ。
「カンノンさま、さあ、セガキを始めましょう」
族長は太鼓を手にした。
「どうすればいいの」
「練習したではないですか。カンノンさまの教えてくださったあの曲です」
「あっ、はい。あれね。わかりました。始めましょう」
ウルシビトたちが演奏を始めた。
充分に練習したあの曲だ。
私がいつも憧《あこが》れていた、あのひとときの始まりの曲。
いよいよだ。
心臓がどきどきした。小学校の学芸会で笹の葉の精というのを演じたことを思い出した。その時の台詞《せりふ》はたったひとつ。
『心配ないわ』
そう、心配することは何もない。きっと上手《うま》くいくに決まってる。
私は脚でリズムをとって歌い出しを待った。
さあ、いくわよ。
私は歌い始めた。
おさかな、くわえたドラ猫
追っかけて
裸足《はだし》で、かけてく
陽気なサザエさん
荒涼とした大地に、エスニックなサザエさんの主題歌が鳴り響いた。
「どうした、クビツリ。馬鹿みたいな顔して」
ミロクが云った。私はその時歌うのに必死で気づいてもいなかったが、クビツリの様子がおかしかったのだ。
「僕は知っていますよ」
クビツリは云った。
「何を」
「僕はこの曲を知っています」
「このわけのわからん曲をか」
「ミロクさん」
クビツリがミロクの手を握り締めた。
「やだよ、気味悪いぞ」
「いろいろ、ありがとうございました」
「何をいっとるんだ」
ミロクは不思議そうな顔でクビツリを見ていた。
私たちはいつの間にか兵士に囲まれていた。兵士たちは銃口を上げ、次に起こる何かのために備えていた。その兵士たちが、釣人を避ける船虫のように左右に分かれた。
牛頭馬頭がそこにいた。
二頭の蟷螂人を従えて。
牛頭が顎《あご》で命じた。
蟷螂人が歩み寄る。
私は身構え、しかし歌うのはやめなかった。
と、私の前にすっと現れる者がいた。
クビツリだ。
*
柳瀬と間宮はナイフを持って身構えた。大和田も促されるままにナイフを取り出す。
この期に及んで、女には少しも動じたところがなかった。
「腐れ外道が!」
怒鳴りつけたのは間宮だ。
ナイフを持ってじりじりと女に近づいていく。
その時だ。
女が甲高い声で歌い出した。
大和田にはそれが凶兆を告げる悪魔の声のように思えた。
今にも泣き出しそうな声で大和田は言った。
「やめろ。歌うのを止めろ!」
女は楽しそうに歌いながら、左手でポケットを探った。
そこから出てきたのは、彼女らの行く先々で悪臭を振りまいていた元凶、首吊りで死んだ男の手首だった。それは既に半ばミイラ化していた。
女はそれを間宮たちに振りかざした。
まるで吸血鬼に十字架を差し出すように。
*
クビツリは曲に合わせ、地を這《は》うように、流れるように前に進んでいく。
蟷螂人が鎌を振るった。よけたふうにも見えなかったが、鎌はクビツリの横をかすめただけだった。もう一頭の蟷螂人もクビツリを襲う。四本の鎌がクビツリを切り刻もうと振り回され、すべてが無駄に終わった。風に流される羽毛を掴《つか》もうとしても、髪一筋の差で掴めない。クビツリの動きは、その風に流れる羽毛に似ていた。
私は歌い続けながら、クビツリの踊りを克明に見つめていた。
そうだ。
クビツリは踊っているのだ。舞っているのだ。酔って踊ったあの夜のように。一瞬にして少女に変じたあの時のように。
少女のように見えたクビツリが、さらに武神に変じた。
稲妻のように手足を繰り出す。それが蟷螂人たちを的確に打つ。瞬時に蟷螂人の鎌が飛び、二頭の蟷螂人が倒れた。
護法神が憑依《ひようい》したのだ。
クビツリは舞っていた。
あの時、集会樹《ツオー・シン》で踊ったあの踊りを舞っていた。
「ええい。誰か、あの男を止めんか!」
牛頭の声に、思いついたように銃が撃たれた。無数の弾丸がクビツリの躰《からだ》を穿《うが》ち、削りとっていった。だが、もとよりクビツリは死なない。
私は歌い続けていた。その歌詞が知らぬ間に少しずつ変わってきていた。いつの間にか私は知るはずのない歌を歌っていたのだ。
「セガキが始まった」
族長が呟いた。
ゆらりと陽炎にも似て景色が歪《ゆが》み始めていた。
私の歌は単調な同じ歌詞の繰り返しとなっていた。
それはこのような六つの音から成り立っている。
オン・マ・ニ・ペエ・メエ・フーム
いつしか景色が消え去っていた。私は闇の中で、一人歌い続けていた。
ああ、ようやくここに来たんだ。
何故か私はそう思っていた。それはすべてが始まった時に予《あらかじ》め定められていたことのように思えた。
上も下も右も左も、何もわからぬ闇の中に、針で刺したような光が見えた。
私は光を目指して歩いていた。その先に何があるのか、私は知っていた。
光は、障子から洩《も》れる灯りだった。
私は障子を開いた。
座敷だった。道場かなにかのような、広く何もない座敷だ。
その奥に背を向けて座る男がいた。私は迷わず近づき、声を掛けた。
「お父さん」
「どうしてこんなところまで来た。あの年寄りの差し金か」
背を向けたまま父、寿夫は云った。
「お祖父《じい》ちゃんのことを悪く云うのはやめて」
「やめてだと……。おまえ、いつから父親にそんな生意気な口をきくようになった」
私は黙った。黙って俯《うつむ》いた。そして決意した。
私は顔を上げ、云った。
「父さんはどうして私を嫌っていたの」
今度黙るのは父親の番だった。
沈黙はそれほど長くは続かなかった。
「……嫌っていたわけじゃない。あれは躾《しつけ》というものだ。おまえも子供を育てたからわかるだろう」
「お父さんのは躾じゃない」
「おまえはいつもそうやってわしに逆らってばかりいた」苦々しく寿夫は言った。「わしの方こそおまえに聞きたいよ。なんでおまえはわしに逆らう」
「逆らってなんていないわ。いつも父さんの気に入られようと――」
父は鼻で笑った。
「気に入られたいならやりようがあるだろう。聞いていないんだか、おまえはわしのいうことをわかろうとせん。そのくせわしが叱ると怯《おび》えた顔で、まるでわしがおまえを苛《いじ》めでもしているような顔で見る。そう云ってほしかったのなら云ってやるぞ。今ならはっきり云ってやる。わしはおまえが嫌いだ。おまえの拗《す》ねた態度が嫌いだ。おまえの泣き顔が嫌だ。おまえが怯えているのを見るのが嫌いだ。おまえがいじけた顔で食事もせずに部屋に入ったままでいるのが嫌いだ。わしはおまえが嫌いだ。これでいいのか。これですっきりしただろ」
「……あなたは、死んでるわ。死んでいるのよ。そうでしょ。あなたは死んでいるわ。死んだあなたに何ができるのよ」
父は黙って背を向けている。
「こっちを向いてよ、父さん」
父はゆっくりと振り返った。
老いていた。
こんなに年寄りだなんて思っても見なかった。私が二十の時、父親は死んだ。
そうだ。それまで私は父の顔をまともに見られなかった。私の見ていたのは父の顔色だけだった。父は老いていたのだ。いつになっても、私が子供のときの大きな恐ろしい父親のイメージのままだったけれど、私が大きくなるように父親は老いていたのだ。その老いに、二十歳過ぎても私は気がつかなかった。
「そんなにわしが嫌いか」
父が云った。卑屈な顔だった。人をどうして愛したらいいのか知らず、愛されることも知らなかった者の顔だ。
父は戸惑っていたのだ。子供という他人を前にして。
「いいえ。好きよ」
私は答えた。
父親が座敷ごと、するすると遠ざかっていく。
無限に広がる座敷は、やがて父親を乗せて闇の中に消えていった。
「好きにしろ」
父親が消える寸前、小さくそう呟《つぶや》いたように聞こえた。
「そうね、好きにさせてもらうわ」
私がそう云うと、闇は瞬時に消え去った。
その時私は、非天の力が何もかも消え去ったことを直観していた。
バクトラの街が再び現れた。私は今も歌い続けていた。六つの単語を、繰り返し歌い続けていた。
それにウルシビトたちの唱和が重なる。
オン・マ・ニ・ペエ・メエ・フーム
オン・マ・ニ・ペエ・メエ・フーム
クビツリが舞っている。その度に兵士たちが地に伏していった。
景色が白く滲《にじ》んでいた。
牛頭の兵士たちは眼を擦《こす》りだしたが、それは眼がおかしくなったせいでない。大気そのものが白く輝き始めているのだ。
兵士たちの銃が、とろり、と溶けだしたかと思うと、空へと糸を引いて流れた。
慌てて投げ出した銃がゆるゆると溶けながら宙に舞い、空へ、彼方《かなた》へと消えていく。
馬頭が女のような悲鳴をあげた。
その服が、手が、褐色の滴《しずく》となって空にこぼれていた。
「おのれ!」
馬頭の剣を奪い、牛頭は前に出た。
それにクビツリが絡み付く。
解こうと剣を振る、その腕にクビツリの腕が絡んだ。
馬頭は既に滴となって天に失《う》せている。
「あれを!」
叫ぶ兵士の指差す先、遠くに見える城の尖塔《せんとう》が、蛇が脱皮するようにずるりと崩れ、それもまた天に昇る。
一人の兵士が絶叫しながら空に消える。それに続いて兵士たちは次から次へと天に向かって飛ばされていった。
見れば、バクトラ全土から、軍服の男たちが逆さに雨が降るかのように空へと舞い上がっていく。それだけではない。牛頭が七年の歳月をかけて造り上げたバクトラの建造物が、すべて茶色の滴となって空に上がっていく。
その中に昆人たちの銀の躰《からだ》が太陽に輝き、真昼の花火のように上昇していくのが見えた。
陽炎《かげろう》のごとく揺らめき輝く大気の中、バクトラの街が天に召されていく。
「いやだ!」
絡み付くクビツリの躰を振りほどこうとしながら牛頭は叫んだ。
クビツリはいつしか腐った死体ではなくなっていた。それは少女とも少年ともつかぬ童子と変じ、暴れる牛頭の周りで遊んでいるかのように舞っている。
牛頭の脚が地から離れた。
絡み付くクビツリの腕が牛頭の襟《えり》を掴《つか》み持ち上げると、二人はゆっくりと宙に浮かぶ。
いったん躰が浮き始めると、それは急に速度を増して上昇していった。
クビツリは微笑んでいた。
その桃色の唇が開いた。
さよなら。
そう云ったように見えた。
微笑むその姿が牛頭とともに消えてからも私は見ていた。眩《まぶ》しさを堪《こら》え、見ていた。
そして手を振った。
「さよなら」
歌い終わり、云った。
バクトラの街が消えていた。
*
大和田は胃の中のものをすべて吐き出していた。その吐瀉物《としやぶつ》に腕をすべらせながら、前に這《は》う。
腰が抜けるなどということを初めて経験した。
腰から下にまったく力が入らない。
へたくそな平泳ぎでもするように畳を掻《か》く。
背後から女の歌声が聞こえていた。
みんなが笑ってる 小犬も笑ってる
ルルルルルル 今日もいい天気
腐った手首を見せられたときだ。
突然間宮が悲鳴を上げた。
見ると顔から激しく汗を滴らせている。汗はすぐにその色を赤く変えた。
それは汗などではなかった。
皮膚が蕩《とろ》けているのだ。
歯が剥《む》き出しになった口を開き、長々と悲鳴を上げながら、間宮は顔を掻きむしった。
瞼《まぶた》が失せ、露出した眼球がだらりと垂れる。
ひっ、と悲鳴にもならない声をあげ、大和田はへなへなとその場に座り込んだ。
女は腐った手を、今度は柳瀬の方へと突きつける。
マヨネーズを最後まで搾りきったような音と共に、間宮のズボンの裾《すそ》から血と肌色の粘土を混ぜたようなものが噴き出した。それに続いてだらだらと流れ出てくるのは、明らかに内臓だ。
間宮が泥玉を壁にぶつけるような音を立てて倒れた。溶けた頭が熟れた果実のように割れる。
続けて柳瀬の身体が倒れた。
完全に下半身は溶けてしまい、彼は血膿《ちうみ》の中を上半身だけで逃れようとあがいていた。
そして大和田は、彼らに背を向け逃げようとした。
脚はまともに動かない。
這って這って、指を床に突き立て爪を剥《は》がし、必死になって玄関へ、そして玄関から外へと這い出た。
日中である。
冬とはいえ照りつける太陽は暖かい。
部屋の中との落差に大和田は泣き出しそうになった。
逃げなければ。
そう自らに言い聞かせる。
それが功を奏したのか、何とか立ち上がることに成功した。それでも気を抜けば、すぐにへなへなとその場に座り込んでしまいそうだ。
何とか車にまでたどり着いた。
十年以上前、一度人身事故を起こしてから恐ろしくなって車に乗っていなかった。なければないで生活には困らない、とうそぶいていたが、今そんなことを言っている余裕はない。
ドアを開け、柳瀬の車に乗り込んだ。
鍵《かぎ》はつけたままだ。
一仕事終えたらすぐに逃げ出すための用意だった。まさかこのような結果になるとは思わなかった。
キイを回し、アクセルを踏む。
十数年ぶりだが、一発でエンジンは掛かった。
前には間宮の車があった。
いったんバックし、追われるウサギよりも素早く走り出た。
全身の震えはいつまでも止まらなかった。
[#改ページ]
第十二章 家に帰ろう
青の空に、輪郭がくっきりと浮き出た雲が流れている。手を伸ばせば掴めそうだ。その感触まで掌《てのひら》に感じていた。この世界に来た時に見た空とまったく同じだった。
柔らかなバクトラの草原に寝そべって、私とミロクは空を眺めていた。
涙を流し感謝するウルシビトたちと別れてから、私たちはずっと空を見ていた。
こうしていると風輪の地に何も変わりはない。空の青さも、風の心地よさも、照りつける陽射しも。
ミロクが大きなくしゃみをした。
「さすがに疲れたな」
「風邪を治す暇もなかったわね」
「残ったのは二人だけだ」
「クビツリはどうなったのかしらね」
「あっちに行っちまったんだ」
ミロクは空を指差した。
「きちんと、召されていったのよね」
「笑ってたからな」
ミロクは少しだけ悲しそうな顔をして、それから大声を張り上げた。
「これからどうするんだ!」
「びっくりするじゃない」
「地蔵《じぞう》は蜻蛉人《あきずひと》になった。クビツリはきちんと死ぬことができた。それで、わしらはどうなるんだ」
「オズノ王にもう一度会わなきゃならないのかしら」
「そうね」
私の問いに答えて、微笑が見えるような優しい声がした。
風が吹いた。水を含んだ涼しい風だった。ひんやりと心地良い風が吹く、そこに北の聖《ひじり》がいた。聖は、夏に吹く風や、明けに輝く雲や、小川に浮かぶ木の葉のようにそこにいた。だから私たちは、その突然の来訪を驚かなかった。たとえ、彼女の躰《からだ》が宙空に浮かんでいても。
北の聖は頭をいくらか前に倒し、私たちの方を見て宙に佇《たたず》んでいた。
風でその衣がたなびいている。
「北の聖」
ミロクはそう言って飛び起きた。私も慌てて立ち上がる。
「あなたたちにはお世話になりました。心から感謝しています。ようやく世界の平安が戻ったのです。さあ、オズノ王の迎えがきましたよ。あなたたちの最後の願いがこれで叶《かな》えられるでしょう」
クラクションの音がして、黒塗りの大きな自動車が滑るように伸江たちの横に停まった。
前の扉が開き、制服姿の運転手が降りてきた。
これに乗るのですか、と尋ねようとした時には、すでに聖の姿は消えていた。
「オズノ王があなたをお待ちです」
運転手は後ろの扉を開いて私たちを招いた。
「これはなんだ」
「ロールスロイスとかいう車じゃなかったっけ。これに乗ればいいの?」
「呼んでくれてるんだから行ってみようや。これだけのことをしたんだ。褒美に何か貰わんと割りが合わんからな」
「それじゃあ、行きましょうか」
ミロクに手を出した。その手が燃えるように熱い。
「熱があるじゃない」
「さっきから寒いんだ」
ミロクの躰が震えていることに気づいた。
彼を抱えて、車に乗り込む。その躰も茹《ゆ》だっているように熱を持っていた。
後部座席は宴会ができるほど広かった。扉を閉めると車は静かに走り始めた。
ふと横を見ると羽を広げた虫が一匹、車と並んで飛んでいた。
「赤とんぼだ」
それを眼で追いながら呟《つぶや》いた。
「だから言っただろ。それは蜻蛉人だ」
「そうか……」
蜻蛉人は車の横を戯れるように飛ぶ。
「そうよ。ねえ、ミロク。見てよ。地蔵だわ。あれは地蔵なのよ」
蜻蛉人に向かって手を振った。それに答えるように蜻蛉人はついと方向を変えて、車から離れていった。離れていく蜻蛉人に、私はいつまでも手を振っていた。
「間違いないわ。あれは地蔵だわ」
「なあ、伸江。やっぱり、わしはオズノ王に会うのは嫌だなあ」
堅く眼を閉じてミロクが云った。
「またそんなこと云うんだから」
「何だか叱られるような気がしてな」
「駄目よ。いまさら何を云ってるのよ。ここまで来たんだから会いにいきましょうよ」
「わしはイヤだな」
ミロクは思い出したように咳《せ》き込んだ。
「ほら、熱だってあるし」
その皺《しわ》だらけの顔が熱のために真っ赤になっていた。猿そっくりだった。
「それなら風邪をオズノ王に治してもらえばいいじゃない」
「オズノ王は医者じゃないぞ」
「医者じゃなくたってそれぐらいのことはできるわよ。何しろオズノ王なんだから」
「でもなあ、伸江。わしはもう駄目だ」
「何がよ」
「風邪で熱がある。わしはこのまま死ぬ。死ぬ前に一つお願いがあるんだ。実はな」
言いかけたミロクの頭が、横にがくりと倒れた。
「ミロク! ミロク、嘘でしょ。ねえ、ミロク。ミロク。何とかいってよ。ミロク」
伸江が躰を抱えて揺すると、ミロクは薄眼を開けて伸江を見て、笑った。
「また! いい加減にしてよ」
伸江はミロクをシートに乱暴に叩《たた》きつけた。
「無茶するなよ」
「何が無茶ですか。何度嘘をついたら気がすむの」
「そう怒るな。わしが死んだら伸江はどうするかと思ってな」
「ミロク、冗談にしていいことと悪いことがあるのよ」
「伸江。なあ、伸江」
ミロクを無視して私は窓の外を見た。車はいつの間にか山道を走っていた。両脇に並ぶのは杉ではなく桜の樹だ。
桜は満開だった。桃色の小さな花弁が雪のように風に飛ばされていた。
刺すような陽射しが、柔らかくなっている。暑い、というより暖かい。
「伸江。なあ、伸江。喉《のど》が渇いた。なあ、喉が渇いたよ。なあ、伸江ってば」
「うるさいわね」
ミロクを睨《にら》んだ。何度こうやってミロクを睨んだことか。その時のことを考えているとまた腹が立ってきた。
「荷物も何もかも置いてきたのよ。こんなところでどうやって水を捜せばいいのよ」
「あそこ」
シートに深く腰を下ろしたまま、ミロクは外を指差した。そこには自動販売機があった。そこに自動販売機があることも、ミロクが自動販売機を知っていることも不思議には思わなかった。
「どうしてこういうことだけはよく気がつくんだろうな。運転手さん。すみませんがそこで停めてもらえませんか」
出るときと同様、車は静かに停まり、私は外に出た。
「悪いね」
笑いながらそう云うミロクの顔にぶつけるように扉を閉めると、自動販売機に駆け寄った。前に立ってから思いついた。
小銭がない。
戻って運転手に借りようかと思って、ふと見るとお釣りのところに硬貨があった。百二十円ちょうどある。周りを見回してお金を手にし、何気なく投入口に入れた。
〈あったか〜い〉の表示のあるウーロン茶を買う。外は暖かかった。しまったと思いはしたが、何となく意地悪な気持ちになってそのままウーロン茶を持って戻った。
「買ってきたわよ」
扉を開けた。
「温かいけど、それしかなかったの」
そう言ってミロクに缶を差し出した。
「はい、これ」
ミロクは私の方を見ようとはしない。
「なんだ、眠ってるの。人にものを頼んどいて自分は……」
何か様子がおかしかった。私はミロクの肩を抱いて揺すった。頭が力なく項垂《うなだ》れた。
「また、本当に怒るよ」
ミロクの顔を見た。赤らんでいた顔が蒼醒《あおざ》めていた。頬に手をやると冷たくなっている。
私は反射的にミロクに微笑みかけていた。微笑み、その頭を起こした。
「嘘でしょ。ねっ。怒らないから。ねっ、嘘でしょ。わあ、びっくりした。驚いたわよ、ミロク。ねえ、ミロク。ミロクったら」
ミロクが目醒めることはなかった。
*
捨てられた、などとは思っていない。
ライオンは陸橋の下のわずかな隙間に新聞紙と毛布で身を包んで横になっている。ここに置いていってくれと頼んだのはライオンだった。これ以上冷たい夜道を歩くのは辛《つら》かった。女は微笑み、彼の頼みを聞いてくれた。ありったけの荷物をすべてここに置いて行ってくれたのだ。私にはもう何も必要ないからと言って。
激しく咳き込む。
胸が痛んだ。あまり咳が酷《ひど》かったので、肋骨《ろつこつ》が折れたのかもしれない。肋骨はそんなことで折れる脆《もろ》い骨だ。
そんなもので人体ができている。それもまた一つの不思議だな、とライオンはゆっくり息を吐いた。
もう充分楽しませてもらった。
古びたビール以上に気の抜けた人生。
ライオンが己れの生きてきた道程に抱く感想だ。
その最後に、多少なりとも炭酸の粒を噴き上げさせてもらった。少しは舌にぴりっときた。
少しは?
大いに派手に泡が出たじゃないか。
蓋《ふた》を開けたまま捨て置いたビールにしては充分だ。
見たことのないものを無数に見てきた。一生分楽しませてもらった。女というものはいいものだという気分も味わわせてもらった。一人の人間の人生としては立派なものだ、とライオンは思っている。
女には感謝していた。
今まで出会った誰よりも感謝しているかもしれない。あれだけ楽しい想い出のつまっている町工場にしても、先輩に対してこれほどまで感謝していない。職人としての腕は俺が鍛え俺が磨いた、と思っている。工場長《おやじ》には裏切られたし、あれほど愛していた妻にも娘にも見捨てられた。愚痴をこぼす気はないし、恨みには思っていない。ライオンはそういう男だった。だからその誰に感謝するよりも、あの女に感謝しているからといって、それを裏切りだと言ってほしくない。それがライオンの最期の願いだ。
そうなのだ。
最期の願いになるのだろうな。
しみじみとライオンはそう思った。
寒気と共に躰《からだ》がぎゅうと縮まる。
躰の節々が音の出るほど痛んでいた。
インフルエンザだ。おそらく肺炎も併発している。
立派な人生だったんじゃないか。
掠《かす》れ、途絶えそうになる意識の中でライオンはそう思う。
人生の最後の最後で、ライオンという名に相応《ふさわ》しい、勇壮で雄々しい人生の断片を得たのだと。
熱と痛みに蕩《とろ》けていく意識の最後にライオンは思い出す。
ドロシー。
あの女はドロシーだと言った。
感謝しているよ、ドロシー。
既にそれを口に出して言うだけの力も気力もなかった。
そして底知れぬ闇の底へとライオンは堕《お》ちていった。
*
車は庭先に停まった。
私はミロクを抱えて降りた。扉を閉めると車は走り去っていった。
縁側で祖父が待っていた。ミロクの腕を肩に回し躰を支え、私は祖父の前に行った。ミロクの躰は哀しいほど軽かった。紙でできているようだった。
「終わったね」
祖父が微笑みかけた。その前にそっとミロクを横たえる。
「お祖父《じい》ちゃんがオズノ王なら願い事を叶《かな》えてもらえるわね」
私は祖父の足下に跪《ひざまず》いた。
「お願い、ミロクを生き返らせて。他に何もいらない。家に帰らなくてもいい。だからお願い。ミロクを生き返らせてちょうだい」
祖父は微笑みながら手招きした。私が立ち上がろうとすると、横からコトが飛び出して祖父の膝《ひざ》に乗った。祖父はコトを抱き、私の隣に座った。私は黙って祖父を見ていた。
祖父はコトをミロクの胸の上に置いた。コトは安心したようにだらしなくミロクの上に広がった。その白く柔らかい躰を祖父は撫《な》で始めた。猫の背中でも撫でるように。
祖父が撫でるごとに、コトの躰は平たく広がっていった。ミロクを包み込むほどに薄く、広く伸びるまで、さして時間は掛からなかった。今やコトの躰は餃子《ギヨーザ》の皮のようになっている。それでも祖父は撫で続けた。コトに包まれ、稚拙な石膏像《せつこうぞう》のようになったミロクは、ひと撫でごとにその躰を縮めていく。もともと小柄なミロクは小さな猫ほどになり、兎ほどになり、ネズミほどになり、最後には白いピンポン玉のようになってしまった。
祖父はそれを手に取り、私の方を向いた。ぽかんとしていると、腹にその小さな白い玉をあてた。祖父はまた何度かさするように擦《こす》りつける。暖かいものが腹の中に広がり、ずっしりとした重みを下腹に感じた。その重みをいとおしく思った。理由なんかわからない。ただひたすらいとおしい。
祖父が手を離すと玉は消えてた。手品師のように、彼は両手を広げて見せた。
「どうなったの」
「いつも一緒だ。ミロクも、コトも、クビツリも、地蔵も。いつも伸江と一緒にいるんだよ。みんなと帰るかい、あの世界へ」
はい、と私は頷いた。
「どうなるかわかっているね。伸江は変わった。変わってしまった伸江があの世界に戻れば、世界そのものも変わっていく。それが何を意味するかわかっているね」
すべてをわかっているわけではない。それどころか何もわかっていないのかもしれない。だが私が私とともにこの世界を変えてしまったように、あの世界も変わっていくのだろうと想像はできる。それが良いことか悪いことかはわからないのだけれど。
私は再び頷いた。
「さあ、これを」
祖父は風呂敷包《ふろしきづつ》みを私に渡した。受け取り解くと、服が出てきた。懐かしい服。クレージュをコピーしたピンクのワンピース。この世界に来た時に着ていた服だ。
「奥で着替えておいで」
風呂敷を持って私は縁側から家に上がった。廊下を越え、仏間に入って着替えた。ワンピースだけではなく、下着類もすべて揃っていた。ワンピースは少し汚れていたし、ストッキングは破れていた。着替えて中庭に出ると、赤いエナメルのハイヒールがあった。
「いろいろと大変だったね。ご苦労さま」
祖父は微笑んだ。
私は靴を履いた。赤いエナメルのハイヒールを。
「さようなら、伸江」
祖父はゆっくりと手を振った。
「ありがとう、お祖父ちゃん」
私は靴の踵《かかと》を二度、打ちつけた。
*
大和田は車から這《は》い降りた。
家に着いた安堵《あんど》感が、またもや彼の力を根こそぎ奪っていったようだ。
しばらく玄関の前で転がっていた。
深呼吸をする。
深く深く息を吸い、吐く。
少しずつ、力が甦《よみがえ》ってきた。
本当に少しずつ。
彼がようやく立ち上がった時には、日が傾こうとしていた。
髪を撫でつけた。
最後に呼吸を整える。
ドアホンを鳴らした。
誰も出てこない。
妻がいないはずがない。丁度夕飯時なのだから。
そう思うと腹立たしかった。
最近耳の調子が悪いようだったことなど忘れて、怒っていた。
ポケットを探る。
キイホルダーはどこかに落としたようだ。
大和田は郵便受けの中を手で探った。もしものためにテープで貼《は》り付けておいた鍵《かぎ》があった。
取り出し、扉を開く。
「帰ったぞ」
苛立《いらだ》った口調でそう言った。
それに応《こた》える声もない。
「人が呼んだら、返事ぐらいしろ」
台所で何かを油で揚げる音が聞こえた。
「婆さんになったら礼節を失うというものでもないだろうに」
愚痴をこぼしながら居間に入る。箪笥《たんす》をかき回して下着を出した。
「後は片付けておけよ」
血と汗と吐瀉物《としやぶつ》でごわごわする服をすべて脱ぎ捨てた。新しい下着を着ると、それだけで力が湧いてきたような気がする。
「こりゃどうも、ひとつがんと言っておかんといかんな」
一人|呟《つぶや》きながら台所に向かった。
妻は歌を歌っていた。
「気楽に歌なんか……」
言いかけてそれがさっき聞いたばかりの歌であることに気づいた。理不尽にも腹立たしさは頂点に達した。
「その歌を止めろ!」
怒鳴りながら台所に入った。
妻はそこにいた。
こちらを向き、大きな中華|鍋《なべ》を手にして、歌を歌っていた。
「歌を止めろと言ってるだろう!」
「帰ってきたわ」
妻は笑っていた。
それはとても不自然なことだった。怒鳴る大和田の前で妻が笑っていたことなど今まで一度もないからだ。
彼女はとても楽しそうに笑っていた。
「だから帰ったと言っているだろう。だいたいおまえは――」
「帰ってきたのはドロシーよ」
妻は笑いながら中華鍋を大和田へと傾け、叩《たた》きつけた。煮えたぎった油は、大和田の身体をこんがりと焼き上げた。
妻は再び歌いながら、夕食の支度に戻っていった。
*
この夜、日本中のそこかしこで、女たちはドロシーの帰還を祝い、歌を歌い、嬉々《きき》として男たちを始末していった。
*
夜だ。
煤《すす》けたアーチに〈カンザシプラザ〉と書かれてある。
簪町商店街だ。
商店街のアーケードの上に月が昇っていた。人は誰もいない。店はすべてシャッターを降ろしていた。そこを歩く者がいる。それはピンクのワンピースを着て真っ赤なハイヒールを履いていた。
商店街から伸江の家までは十分ほどの距離だ。その侘《わ》びしい道を、それは歩いていた。歌を歌いながら。
隣家から男が出てきた。伸江の隣に住む、彼女の苦手な男だった。煙草でも買いにいくつもりなのか、ジャージの上下を着ている。
男はそれを見るとニヤリと笑って言った。
「こんな時間まで遊びまわって、いい御身分だねえ」
それは歌うのを止め、男を見た。
「なんだ。文句でもあるのか」
「願い事を一つだけ叶《かな》えてやるよ」
それは男の禿《は》げた頭を見下ろして言った。
「なんだと」
男は面食らった顔でそれを見上げた。
「聞こえないのか。願い事を言えばいいんだよ」
男はしばらく考えた。それから好色な笑いを浮かべて言った。
「そうか、おまえ、わしと」
「叶えてやるよ」
最後まで言わさず、それは男の胸ぐらを掴《つか》んだ。ジャージの襟が長く伸びた。男はどうしていいのかわからなかったようだ。意味なく笑った。
それは持ち上げた襟を、男の喉《のど》に押し当てるように突き放した。
男は出てきた扉を開いて、後ろに尻餅《しりもち》をついた。
「夢で見な」
言うとそれは男の胸を蹴《け》った。
あっさりと折れた男の肋骨《ろつこつ》は、ヤニで黒くなった彼の肺に突き刺さった。
血反吐《ちへど》を吐き、身動きできない男を置いて、それはさっさと伸江の家へと向かっていった。
助けてくれ。
囁《ささや》くような声で男が言うと、玄関が開いて小さな中年の女が出てきた。
良かった、頼む、と男はその女に手を伸ばした。女は歌を歌っていた。歌う女を見たことなど、結婚してから一度もなかった。しかしそんなことを気にしていられるような状態ではなかった。
頼む、と再び男は手を伸ばした。
「ドロシーがね」
女が言った。
「帰ってきたの」
女は手にした包丁に体重をかけて男の胸にのしかかった。
やがて静かになった男を残し、女は歌いながら家へと戻っていった。
*
コップになみなみと注いだ日本酒を、一気に呷《あお》った。今は止めるものが誰もいない。毎夜毎夜の深酒に一番うんざりしているのは孝自身だった。
くそ!
それは飲むときの口癖になっていた。
くそ!
何度も何度もそう言い捨てる。
そしてコップに酒を注ぐ。
あの日の夜からずっとだ。
あの日、職場の後輩が飲みに来ていた夜。伸江は孝に何も言わずに家を出ていった。人一倍風評を気にする孝は、妻が戻ってこないとは一言も言わず、適当な時間に後輩を追い払った。伸江が泥だらけになって帰ってきたのは、夜中の二時を過ぎてからだった。泥だらけで帰ってきた伸江に、彼は散々文句を言った。言いたいことを言い終わってから、ようやく伸江の様子がおかしいことに気がついた。尋ねても返事をしない。それどころか反応がまったくない。その目は虚《うつ》ろで、惚《ほう》けたようにじっと座っているだけだ。
そんな状態の人間を相手に、気づくことなく一時間以上にわたって説教をした孝の無神経さには誰もが驚くだろう。しかし孝はそんなことよりも、無駄な時間を過ごさせた伸江に対して怒りを覚えた。そのため、彼女のその状態が何を意味するのか。どうするべきかを考え始めたのはそれから更に数時間後だった。いや、多少早くそれに気がついたとしても、彼の下した結論は変わらなかっただろう。
伸江の心が病んでいることに間違いはなかった。それをわかっていながら、孝は彼女を精神科に連れて行こうとはしなかった。
彼は精神科というところに大いに偏見を持っていたし、世間も同様の意見を持っているのだと確信していた。それが差別であることに気づくだけの問題意識は持ち合わせていなかったのだ。
そして彼の常識から考えるなら、精神科に自分の女房を連れて行って『恥をかく』ぐらいなら、ここで世話をした方がずっとまし、という結論に落ち着くのだった。
孝は伸江を母親である小枝子に預けた。自分で世話をするつもりなどなかった。惚《ぼ》けかけているとはいえ、義理の娘の世話ぐらいは焼けるだろう。そう思ってのことだ。
外で仕事をする以外に、男が家庭で果たす役割などないと考えていたし、それを誇りに思ってきた。今更その考えを変えるつもりもなかった。彼は『自分の意志を貫く男』なのだから。
伸江がおかしくなって帰ってきた夜に、近所で殺人事件があった。孝はそれに伸江が何らかの形で関係したであろうと疑っていた。一度問いただしてはみたが、反応は何もなく諦《あきら》めていた。犯人であるとは思っていなかった。人を殺すことのできるような人間ではない。孝はそう思っていた。だから刑事が訪ねてきたときも、よけいなトラブルを避けようと、実家に帰っていると言った。嘘をついたのだが、さして罪悪感はなかった。所詮《しよせん》それを目撃したか何かで巻き込まれただけだ。それ以上のよけいな関わりを持ちたくないし持つ必要もない。彼はそう思っていた。
そして彼は怒っていた。
そのようなトラブルを家庭に持ち込んだ妻に。家事をしないくせに、家に居座っている妻に。厄介事そのものと化してしまった妻に。
家事をさせようとしたら、息子の孝治はあっさりと家を出ていった。親を敬うことをしない息子にも腹が立ったが、そんな息子に育てた伸江に一番腹が立った。
日毎に荒れていく家の中の様子を見るにつけ、苛々《いらいら》した。母親と伸江のために、コンビニで毎日弁当を買って帰る、そのこと自体にも腹が立っていた。大小便を垂れ流すようになった二人のために、成人用のおむつを薬局で買うときは、顔から火を噴くほど恥ずかしかった。そして、そのような恥ずかしい思いをさせる伸江へと憎悪は向かう。
仕事から帰り、酒を呷ると寝る毎日が続いた。
そして寝る前には伸江に悪態をつき、殴った。病院へ運び込まねばならないほどのことはしない。それぐらいの『良識』はある、と彼は思っていた。
今夜も飲めば飲むほど伸江への怒りが増した。
ドアホンが鳴った。
最近は集金以外にほとんど来客などない。
殺された男の父親だと名乗った男のことを思い出す。伸江の実家に直接行ったのかもしれない。実家には言い含めてある。もしかしたら殺人事件の犯人かもしれないのだから、と脅し、問い合わせる電話があれば今出掛けていると答えるように教えてあった。もし訪ねてきても、今は留守だと言え。それで駄目なら、俺が何とかする。そう言ってあった。とはいえ、その時にどうするかまでは考えていなかったのだが。
ドアホンがしつこく鳴っている。
孝は立ち上がり、インターホンの受話器を取った。
「はい」
その声を聞いただけで、気の弱い来訪者なら帰ってしまうであろう不機嫌な声を出した。
「ただいま」
インターホンから聞こえてきたのはその一言だけだった。
えっ、と聞き返したが、もう相手はそこにいないようだった。
壊さんばかりの勢いで孝は受話器を置いた。
いたずらだ。そうに決まっている。
ことさらに足音を立てながら卓袱台《ちやぶだい》の前に戻り、コップに酒を注ぐ。
玄関で音がした。
まだ誰かが騒いでいるのか、と孝は立ち上がった。
歌が聞こえてきた。
気取った甲高い声で調子が外れている。
「誰だ!」
孝は声を上げた。
女が立っていた。
見たこともない女だった。
女は歌っている。
明るい笑顔に 幸せがついてくる
楽しい仲間と 陽気なサザエさん
「何を言っとるんだ。警察を呼ぶぞ」
言いながら女に近づいた。
つまみ出すつもりだった。
いきなり真正面から殴られた。
拳《こぶし》が鼻の骨をあっさりと砕いた。
瓶の底が抜けたように鼻血が流れ出る。
驚愕《きようがく》のあまり動けない。
その両耳を掴《つか》まれた。
無造作に頭を膝《ひざ》に叩《たた》きつけられる。
みんなが笑ってる
何度も何度も。顔面が膝に叩きつけられる。
夕やけも笑ってる
顔面が血に染まった孝を、女は床に投げ捨てた。
横たわる孝の上に馬乗りになる。
両手を首にかけた。
ルルルルルル
明日もいい天気
女が手を離した。
首がぼっこりと窪《くぼ》んでいる。
孝は既に息絶えていた。
女は家の中を熟知しているようで、二階へとさっさと上がっていく。
襖《ふすま》を開くと、糞尿《ふんによう》の臭いが濃厚にした。
そこに小枝子と伸江がいた。
敷きっぱなしの布団に、二人そろって正座している。
二人とも垢染《あかじ》みた浴衣《ゆかた》を着せられていた。この季節にはあまりにも肌寒いであろうそれ一枚だ。部屋には暖房もなかった。
腰から下が異様に膨らんでいるのはおむつを穿《は》かされているからだ。
小枝子が言った。
「お帰りなさい」
伸江が言う。
「お疲れさまでした」
女は伸江のそばに行くと畳に腰を下ろした。
「世界は救われます」
「知ってますよ」
にこにこしながら伸江が答える。
「ミロクとクビツリとコトを」
女は言いながら、伸江の腹を撫《な》でた。
大きく腹が出っ張っているのは、栄養不良のためか、あるいは妊娠しているのか。
「ここに」
ゆっくりと円を描いて、腹を撫でる。そこで眠るのはやがて生まれいずる妄想の胎児にして女王。ドロシーという名の抑圧された者どもの救い主。
伸江は夢見るように女を眺めていた。それは伸江の生み出した妄想の楽園がこの世に映した影だ。
そして女はその役目を終え、夢のようにその姿を消した。
「おめでとう」
小枝子が小さく拍手した。
「ありがとう」
丸い腹を撫でながら、新しい世界の母となる伸江は幸せそうに微笑んだ。
[#改ページ]
曖昧《あいまい》なあとがき
生きる上で何が一番つらいかと考えてみる。
今の日本ではあまり現実感がないかもしれないけれど、貧困や、飢えなどというものはやはりつらい。病気もいやだ。死に至らないまでも、伏せたまま起き上がれぬような病ならなおさらだ。肉親や愛する人の唐突な死もつらい。いっそ死んだ方がましだと思わせるようなつらい体験はそれこそ世間に無数に存在するだろう。
しかしある種劇的でもあるそれらの「つらい体験」を経験していない人間だって無数にいる。どちらかといえばそちらの方が多いかもしれない。しかし劇的な「つらい体験」はなくても、普通に生きていればいくらでもつらい時がある。が、あるにはあるのだろうけれども、ほどほどにつらいわけだから、死んだ方がましだとはなかなか思えなかったりする。死んだ方がましだと思った人間でさえ、実際に皆が皆自死を選ぶわけではないのだ。まして「そこそこ普通につらい」程度の体験ではなかなか人は死のうとは思わない。いや、まったく思わないわけではないだろうけれど、死んだ方がましかもしれないけれどそうでないかもしれない、などとどこか中途半端に考えてしまうわけである。
普通であるということはこの中途半端さに耐えることなのだ、などと偉そうに語られれば納得したりもするのだが、納得の仕方もやはり中途半端だったりする。
我々は日々ゆるゆると「つらいこと」を重ねていく。それは耐えられぬものではないし、もちろん「死んだ方がまし」というものでもない。だからつらいという想いは解決もされずあやふやに心の中に降り積もっていく。うっすらと埃《ほこり》のように、そしてやがて澱《おり》のように積み上げられたそれは、台所の油汚れのようにねっとりと絡みつき不快にさせる。
が、いくら堆積《たいせき》されても、それは不快ではあるが、やはり死を決意するようなものではない。というわけで「死ぬ気になれば何だってできる」だとか「死ぬよりはましだ」などというように、死と比較させることでそのつらさを帳消しにしようとする。あるいは帳消しにしろと強制される。しかも、それを誰に強制されているのかも曖昧だったりする。
曖昧な不快感は痛みを伴わない瘤《こぶ》のようだ。気になりはするが、それ以上でもそれ以下でもない。ただそこにあり、漠然と不安で漠然と不快だ。
十代の頃はその曖昧さこそが死に値するつらい経験であったりする。しかしそれを越えてしまえば、越えて大人になってしまえば、その緩い苦痛は生きることと同義になってしまい、当たり前に普通に淡々と不快なまま毎日を過ごす。それはもう改めて不快とは感じられないほどに普通の日常なのだ。そうなればいっそそれに気づかない方が楽というものだ。というような歳の取り方をしてしまうことは多い。やはりそれはちょっと見苦しかったり醜かったりすんだよね。あくまでちょっとだけだけど。
そんな人が、ふと「つらい自分」を思い出し、ふと「つらい理由」を考えたりすると、それはそれはつらい気分になったりする。逃避したくなったりする。
ファンタジーという小説はそんな人の逃避の手助けをしたりする。私も逃避のための(別に癒《いや》しだと考えていただいてもいいのだが)小説を書こうと思い立ってこの物語を書いたのだった。曖昧でぼんやりとした日常を過ごしていれば、虚構の中だけでもエッジの明確な世界を体験したいと私などは思ってしまうのだが。
で、逃避のついでに、この糞忌々《くそいまいま》しい世界を壊してしまえなどと物騒な妄想を抱いたりもする私だから、この物語はあるいはホラーなのかもしれない。
というわけで、この物語を愉《たの》しいと感じるか恐ろしいと感じるかで、あなたのつらさの度合いが測れるような気もしないではない。
と、私も最後まで曖昧なままでこの文章を終わってもいいような悪いような……。
角川ホラー文庫『だからドロシー帰っておいで』平成14年1月10日初版発行