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あぶない脳
澤口俊之
目 次
第1章[#「第1章」はゴシック体] 精密にして危うい脳
まずは、ニューロンの話
脳を操る脳
思い込みは脳の癖
なぜブームに巻き込まれるのか
第2章[#「第2章」はゴシック体] 愛と性の脳進化
ケッコンは幸福剤
だから、もてたい!!
匂いとセックスの深い関係
男は男に生まれるのではない
第3章[#「第3章」はゴシック体] 脳教育の必然
「心の無理論」が社会を滅ぼす
「条件付け」教育の危険
知能指数IQはあなどれない
児童虐待は世代を超えて脳を壊す
第4章[#「第4章」はゴシック体] 理不尽な脳
犯罪に向かう脳
ちぐはぐな行為と脳損傷
殺す脳、殺さない脳
第5章[#「第5章」はゴシック体] もっと深まる脳
ヒトはなぜ働くのか
脳が視る「死後の世界」
典型的な脳活動としての葬送
老いて育つ脳
あとがき
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第1章 精密にして危うい脳
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まずは、ニューロンの話[#「まずは、ニューロンの話」はゴシック体]
†武器としての脳科学[#「†武器としての脳科学」はゴシック体]
みんなもっているにもかかわらず、あまり意識していないように見えるのが「脳」だ。脳を知って活用すれば、人生も社会も豊かになることは間違いないのに。実際のところ、脳のしくみを解明する科学、つまり脳科学は、かなり強力な「ツール/武器」になると、つくづく思う。日常や社会に生起する多くの問題を解き、それらを解決するための具体策を提示したりする際に、だ。
これは、私が脳科学を生業としているから言うわけではない(多少は関係するが)。現に、脳科学者以外の著名な学者でも、同じようなことを述べている。たとえば、E・O・ウィルソン。彼は、「社会」や人間行動の謎に生物学的にアプローチする道を切り開いて、大著『社会生物学』を著し、その後も活躍してきた。「業界」では超有名な科学者だが、脳科学がこれほどの隆盛を極める四半世紀以上も前に(一九七五年だ)、こんなことを言っている。
「人間に関わる現在の諸学問は、二一世紀には社会生物学と神経科学(脳科学)の二大科学に統合されるだろう」
自分が打ち出した社会生物学を評価し将来を期待するのは「自画自賛」と言えなくもないが、自分が生業としていない神経科学、つまり脳科学を「二大科学」のひとつに入れたのは、素直な思いだったろうし、まさに卓見でもあった。当時は、「神経科学」という言葉が科学の世界でようやく認知されたばかりの頃で、人間に関わる様々な問題を脳科学で解けるとは(プロパガンダ的な言い方を除けば)専門家だって心底信じていたわけではなかった。
もちろん、中には信じていた研究者(や学生)も、少ないがいた。僭越だが、にきびがまだ残っていた私もその一人で、一九七五年はともあれ(高校生だったし)、その数年後に脳科学を目指し始めた私は、彼の意見を信じてやまなかった。というより、人間の心や行動の問題を納得のゆくかたちで(科学的に)解く学問として、哲学はもちろん、数々の流派が跋扈《ばつこ》していた心理学に失望していたせいもあって、「脳科学しかない」とコケの一念で信じ込んだにすぎないが。
それから四半世紀――。ウィルソンも私のコケの一念も正しかったとしか言いようがない。脳科学は眼を見張る勢いで発展した。その成果を踏まえれば、様々な「人間に関わる問題」に脳科学は実際にアプローチできるし、かつ(必ずとは言えないが)、適切で具体的な解決法も提起できるのだ。
そんな諸問題の中には、犯罪や汚職にはじまって、不倫、非行、家庭内暴力、校内暴力、学級崩壊、児童虐待、痴呆、慢性的うつ症、心の病、自殺、さらには傍若無人な人々や「幸せになれない症候群」等々のネガティブな事柄もたくさん含まれている。
本書では、犯罪を含めたこうしたネガティブな諸問題を、脳科学の観点からお話ししていきたい。もっとも、あまり暗い話だけだと書くほうも気が重いので、少し肩の力を抜き、いわゆる「普通」「正常」とは多少ズレたように見える社会現象や行動なども扱ってみたい。「ちょっとあぶない脳」に関する話、といった趣きである。そもそも脳というのは微妙なバランスの上に成り立っているので、扱い方をまちがうと危ない面も現れてしまうからだ。
とはいえ、物事には裏がある。裏を返せば、うまく扱えば脳はよくはたらいてくれて、人生を成功と幸福に導いてくれるということになる。「ちょっとあぶない脳」を知れば、「マトモな脳」も自ずと浮かび上がってくるし、そうした脳を育む方途もみえてくる。本書は表裏が合わさった貴書(奇書?)というべきで、読者にきっと役立つにちがいない。
†ニューロンは脳の単位[#「†ニューロンは脳の単位」はゴシック体]
そこで、である。これはちょっと気が乗らないが、本書での話を理解していただくための基礎知識を、まずは整理しておくべきだと思う。気が乗らないのは、基礎知識はまさに基礎なので、本当に知りたいこと、話したいことではない、という傾向が否めないせいだ。しかし、(後でも述べるが)脳は記憶に基づいて情報を処理する(たとえば、記憶としての語彙や文法によって話を理解する)。だから、知識(記憶)がいい加減だと誤解してしまうこともある。それに、原理的な知識から体系化された知識でないと、身(脳)につかないし、本当の面白さは伝わりにくい。お楽しみは次項『脳を操る脳』以降に譲り、ここでは、脳の原理を踏まえつつ必要最小限の「基礎知識」をお伝えしたい。教科書的な話になるが、お許しいただきたい。もちろん、実に基礎的なことなので、ある程度知識のある方や「めんどくさい話は後回し」という向きは、この項は飛ばしてくださっても差し支えない。
まずは、ニューロン(神経細胞)の話、だ。脳科学をベースに語る以上、脳の構成要素であるニューロンのことは避けて通れない。
ニューロンとは、言うまでもなく、脳をつくっている細胞の一種だ(大脳だけで二〇〇億個、脳全体では一〇〇〇億個もある)。情報を処理して伝えることが、その大きな役割だ。そのため、情報伝達のための特別な構造、つまり長い突起としての「軸索《じくさく》」をもっている。離れた場所へ情報を伝えるためだ。そして、伝わってきた情報を主に受ける構造(樹状《じゆじよう》突起)をもつ。あとは本体としての細胞体。ニューロン=細胞体+軸索+樹状突起である。
なぜ、離れた場所に情報を伝える必要があるのか? 太古の動物はともあれ、外界の情報を受け取る身体部位(感覚器)と体を動かす部位(胴や手足、あるいは口などの筋肉)が離れているせいだ。感覚器で受け取った情報によって体を動かす(運動をコントロールする)、というのが神経系の本来の(本質的な)役割なのだ。感覚→運動変換のニューロン機構は今の脳科学でも大きな問題であり続けているくらいで、この性質はそれほど根が深い。もちろん、進化の過程で、感覚と運動の間に多くのニューロンが介在するようになり、そうした「介在ニューロン」によって、それこそ判断とか思考とか、意識などが創発されてきた。脳はいわば「介在ニューロンの集合体」で、ここで「心」が形成されるのは当然といえば当然なことなのだ。介在ニューロンも、むろん、多くの場合、短い距離とはいえ、離れた別のニューロンに情報を伝える役割を担っている(ので、軸索も樹状突起ももつ)。
ちなみに、生物の大原理のひとつに「機能と構造の一致」というものがある。ひとことで言えば、進化的に似た機能を追究すると同じような構造になる、ということだ。だから、全く異なった系統でも似たような「ニューロン」を進化させたりしている。たとえば昆虫。彼らの神経系にもニューロンがある。「何を当然なことを」と思わないでほしい。私たちと全く別の系統(節足動物)に属する彼らが(私たちとは進化的には「別物」の)ニューロンをもつのは、大げさに言えば、生物の大原理が「貫徹」されているせいなのだ。
ちなみに、「ニューロン」とは神経(ニューロ)と単位(オン)の合成語である。つまり「神経単位」である(一時期は、日本語ではそのように呼ばれていた)。こんな名前がわざわざ造られたのは、この細胞は(細胞としては独特にも)お互いにくっついていないで離ればなれになっているせいだ。互いに最も近寄っている部位、つまり、軸索の末端が次のニューロンに接する接点(=シナプス)にも、わずかながらも隙間がある(ただし例外もある――生物には例外がつきもので、これまた生物の本質ともなっている)。だからこそ、神経細胞は「ニューロン」なのである。
†ニューロンはイオンを使って電気を出す[#「†ニューロンはイオンを使って電気を出す」はゴシック体]
ニューロンが独特なのは、これだけではない。電気を発生する、ということだ。そして「情報」を伝える。
ニューロンでの電気発生のメカニズムは非常に精巧だが、その特徴を端的に言えば、「イオンを使って電気を発生する」ということだ。ニューロンも細胞なので、細胞膜に囲まれている。ニューロンでは、この膜に「チャネル(channel)」というタンパク質でできたトンネルみたいな穴が所々に開いている。この穴にイオンが出入りすることで電気(正確には電位変化)が発生するのである。
電気を発生するのにイオンを使うのはしんどい(イオンは重たいし大きい)。家電製品やコンピュータのように電子を動かせば、電気発生の速度は圧倒的に速くなる。しかし、細胞が生まれた太古の時代(二〇〜三〇億年前)、細胞はイオンに溢れた液体(つまり海水)に囲まれていたことを思えば、これもまた進化の宿命だといえる。
さて、ニューロンが活動すると、チャネルが開いてナトリウムイオン(プラスに帯電)がニューロン内に入り込む。ニューロンの外側の液体、つまり体液にはナトリウムイオンが多く、内側(細胞内液)には少ないからだ(物質は、濃いところから薄いところへ移動する――例のエントロピーの法則だ)。ただし、すぐにこのチャネルは閉じてしまう。と同時に、ナトリウムイオンを外側に汲み出すポンプがはたらく。こうして、ほんの短時間(一〜二ミリ秒)の間、細胞内はプラスに帯電することになる。これが「活動電位」で、ニューロンの発生する電気の本体だ。活動電位が軸索を伝わることで、情報が伝わるのである。
†ニューロンはエネルギーを使う[#「†ニューロンはエネルギーを使う」はゴシック体]
「ポンプ」を動かすには相応のエネルギーが要る。エネルギーは酸素や糖からつくられる。だから、脳が酸欠になったりすればポンプがうまくはたらかなくなり、活動電位の発生が危うくなる。つまり、新鮮な空気が乏しくなると、脳のはたらきは鈍ってしまう。私たち(の脳)が疲れると、たまに深呼吸したり、あくびをしたりするが、それは、酸素を脳に(無意識のうちにも)補給するためだ。
ひどい酸欠になると、意識を失う。下手をすれば死んでしまう。一酸化炭素中毒がその例だ。一酸化炭素(CO)は、酸素(O2)と分子構造が似ているので、ストーブなどの不完全燃焼で一酸化炭素が発生すると、肺に入ったあとに血中のヘモグロビン(赤血球に含まれる)は、酸素と間違えて一酸化炭素を運んでしまう。運んでも、一酸化炭素ではエネルギーをつくれない。しかも、脳には血液の二〇パーセントが廻っていて、大量のエネルギーを使う。だから、脳が酸欠状態になると、ポンプが作動しなくなって活動電位をつくれなくなり、意識が朦朧としてくる。「一酸化炭素中毒かも……」とかすかに思っても体が動かない(体=筋肉を動かすにも、脳からの司令を伝えるニューロンの活動電位が必要)。あとは推して知るべし、である。
ちなみに、「臨死体験」には、こうしたことがベースとしてある。「臨死体験」については改めて取り上げるつもりだが、瀕死の事故などのせいで脳内の血液量が激減すれば、当然ながら酸欠状態になる。すると、脳の中でもとくに酸欠に弱い部分(たとえば側頭葉)での活動がおかしくなる。それによって、「普通じゃない」状態が引き起こされるのである。
†ニューロンの本質とは?[#「†ニューロンの本質とは?」はゴシック体]
イオンの移動やポンプによってつくられる活動電位は、ニューロンの中(主に軸索)で情報を伝えるためのものだ。では、活動電位が軸索を伝わり、その末端までくるとどうなるか? そのまま伝わるかと思えば、そうではない。そこは「ニューロン」である。隙間がある。そこで使うのが「モノの分泌」という細胞の「お家芸」である。
「モノを分泌する」というのも、細胞の大きな特徴のひとつで、これまた、細胞が生まれた太古から引きずっている。酸素を含めた物質(分子)を取り込んで物質を外に出す(分泌する)ことで、環境と相互作用して命を保っているのが細胞なのだ。ニューロンにしても、その性質を利用して、次のニューロンにシナプスを介して情報を伝えている。もちろん、「機能と構造との一致」がここでも貫かれており、その構造がシナプスというわけだ。
シナプスもニューロンに特別な構造だ。軸索末端と細胞膜の接点(ただし隙間あり)がシナプスである。シナプスでは、物質の分泌とそれを受けるための構造がきちんとある。とくに重要なのは受け取る構造としての「受容体」である。
分泌される物質は「伝達物質」というが、それが受容体とくっつくことで、次のニューロン(受容体をもつ側)に、情報が伝わる。この分泌をコントロールしているのが活動電位で、活動電位が軸索末端に来ると伝達物質が分泌される。
ニューロンとは要するに「電気的にコントロールされた分泌を行なう細胞」で、これこそがニューロンの本質・原理なのである。
†伝達物質と心のはたらき[#「†伝達物質と心のはたらき」はゴシック体]
ここで強調しておきたいのは、分泌するモノ=伝達物質とその受容体に関することだ。実は、異なるニューロン群ごとに、分泌する伝達物質とその受容体は異なっている。そのため、異なる伝達物質・受容体は異なった脳機能=心のはたらきに関係していたりする。この点も「脳の原理のひとつ」と言って差し支えない。
たとえば、「セロトニン」という伝達物質とその受容体は「幸福感」と密接に関係し、セロトニンが増えると幸福感が高まる。近年になって欧米で、シナプスのところでセロトニン量を増やす薬「幸福剤」がもてはやされている。日本でも、例の「バイアグラ」と似た現象が起きていて、密《ひそ》かに流行している。インターネットなどで個人輸入もできるからだ。色々な点で暗い世情なので、流行するのも当然かもしれない。この薬を服用すれば、一日中幸せな気分になれる(ただし、幸福すぎて眠くなるだけの人も多いらしい)。バイアグラと幸福剤があれば、人生ハッピーこの上ない(?)だろう(ちなみに、バイアグラはペニシリンなどの抗生剤に匹敵するほどの画期的な名薬だという説があるが、私は試してないので定かではない。とはいえ、少子化問題を解決する秘策・秘薬かもしれず、政府は無料で配布したらどうだろう?――余談ですみません)。
しかし、こうしたことも、下手をすると「あぶない脳」になりかねない(幸福感も進化的に獲得した脳機能なので、本来果たすべき役割がある。そんな役割とは無関係に薬でこの機能をつくり出すというのは、やはりちょっと危うい)。
ニューロンの性質や原理をごく簡単に踏まえるだけでも、「人間に関わる諸問題」が浮かび上がってくることは多少なりとも納得いただけたと思う。自分自身の諸問題さえ満足に解決できない(たとえば、締切りに遅れる!)私が言うのは口幅ったいが、本書ではそんな話をつらつら開陳してゆきたいと思っている。
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脳を操る脳[#「脳を操る脳」はゴシック体]
†脳にはなぜ統一性があるのか?[#「†脳にはなぜ統一性があるのか?」はゴシック体]
脳は不思議なことだらけだが、そのひとつに「脳はひとつ」というものがある。別に全世界で脳がたったひとつという意味ではなく、脳は一個のシステムを形成している、という意味である。これは思えば不思議なことだ。
脳は様々な機能単位、つまりモジュールの集まりである。それに応じて様々なはたらきをもっている。認知心理学の言葉を借りれば、知能ひとつとっても、言語的知能、空間的知能、論理数学的知能、音楽的知能、身体運動的知能、等々があって(アメリカの著名な認知心理学者ハワード・ガードナーの「多重知能理論」)、それぞれを担う具体的な(ナマモノとしての)モジュールが脳内にある。
知能だけではない。「感情」という、つかみどころのないはたらきを脳はもっているし、その感情にも喜怒哀楽という少なくとも四つのはたらきがあり、やはりそれぞれを担う感情用モジュールがあるらしい。
不思議なのは、そういった多数の機能・モジュールがあっても、脳はひとつのシステムとして統一性を保っていることだ。たくさんのモジュールがてんでんばらばらの振る舞いをして破綻するようなことは、あまりない。もちろん、破綻することもあって、その際には「あぶない脳」という状態になってしまうわけだが、普通は統一されている。不思議である。
個人的にこうした疑問をかなり前から抱いていたが、その疑問がじわじわと解けてきたので、ちょっと嬉しい。まだ完全に解けたわけではないが、「自我=オペレーティングシステム」というコンセプトで理解できる気がするのだ。つまり、雑多なモジュール群の集まりである脳を統一しているのは要するに「自我」であり、そして、その自我の基本的なはたらきとは、コンピュータでいうところのオペレーティングシステムではないか、という考えである。
†自我とワーキングメモリ[#「†自我とワーキングメモリ」はゴシック体]
まず、「自我」の問題をとりあげてみたい。自我は心の中心である。ということは、脳の中心的なはたらきでもあって、これが脳を統合しているはずだからだ。
よく指摘されるように、自我には大きく二つの側面、はたらきがある。ひとつは、自分の行動を意識的に制御することで、自由意志はこのはたらきの代表的なもののひとつである。これを「自己制御」と呼ぶ。もうひとつの側面は自分自身を意識すること、つまり「自己意識」である。
自我をこのように機能的に捉えると、自我は「ワーキングメモリ」という認知機能と密接に関係していることがわかる。ワーキングメモリは認知心理学では一九七〇年代から知られている機能で、「行動や決断に必要な様々な情報(記憶情報を含む)を一時的に保持しつつ操作して、行動や決断を導く認知機能」である。「複数の情報をオンライン(意識の上)に載せつつ組み合わせて適切な答えをだすはたらき」、もっと簡単にいえば「作業をするための記憶」だということになる(だから「作業記憶」というわけだ)。
少し考えただけでも、自我はワーキングメモリの一プロセスであることがわかる。自我の一側面である自己意識とは、「自分自身の過去・現在・将来に関する意識」である。ワーキングメモリの本質的なはたらきは、長期記憶(顕在記憶)や現在の状況・行動を含めた様々な情報を一時的に「オンライン」に載せつつ組み合わせ、将来の行動・計画を導き出す、という点にある。ワーキングメモリはアクティブな意識と、それによる情報の操作がともなっている。
自分に関する過去の情報は、顕在記憶(=陳述的記憶=意識できる記憶)として脳内に蓄えられている。そして、自分自身の現在の状況は、各種感覚器を介して脳内で処理され、感覚・知覚や短期記憶として絶えず生起している。しかし、これだけでは自己意識とはならない。こうした情報をオンラインに載せつつ、操作することによってこそ、自己意識が生まれる。そして、その結果、自分自身に関するデータ(たとえば現在の状態や行動、将来の行動、計画、展望など)が出てくる。こうした一連のはたらきを自己意識として捉えると、ワーキングメモリは自己意識の形成に必須といえる。つまり、ワーキングメモリのはたらきのひとつとして、自己意識があるわけだ。
自我のもうひとつの側面である「自己制御」もまた、ワーキングメモリをベースとしている。自己制御とは、意識的に決断したり、自発的に行動を起こしたり、行動や感情を意識的にコントロールしたりするはたらきのことである。当然のことながら、反射だとか、外部の情報から誘発された行動や情動などは「自己制御」というわけにはいかない。したがって、自己制御にもワーキングメモリが必須であると考えることができる。
ワーキングメモリは情報を一時的に保持したり操作したりするだけではなく、「答え」を出して決断や行動制御を導くはたらきをしている。このはたらきはとくに「実行系」と呼ばれるが、自己制御とはまさにこうした実行系のはたらきではないか。もちろん、実行系が行なうすべてのはたらきがここで問題にしている自己制御だとは言えないが、決断したり、意識的に行動を起こしたり、あるいは、自分自身の行動や感情を制御するにはワーキングメモリ、とくにその実行系が必要となってくることは間違いない。
自我とはワーキングメモリの特殊な一プロセスなのである。ワーキングメモリ=自我ということはできないが、ワーキングメモリの一特殊過程として自我があると考えることは理にかなっている。
†ワーキングメモリと自我を担う前頭連合野[#「†ワーキングメモリと自我を担う前頭連合野」はゴシック体]
自我はワーキングメモリをベースとしており、ワーキングメモリなくしては形成され得ない。では、ワーキングメモリは脳のどこで担われているのだろうか? 明らかに前頭連合野である。
この領域は大脳新皮質の前方にある連合野で、額のすぐ内側に広がっている。そして、他の脳領域にはない特徴をもっている。最も注目すべき点は、多数の入力情報がこの領域に集まっており、かつ、出力情報を送り出す立場にある、ということだ。
他の脳領域では、ほとんどの場合、「好みの情報」を処理する。たとえば、視覚。視覚情報のなかでも形態情報(下側頭連合野)または空間情報(後部頭頂連合野)、といった具合だ。あるいは、出力(運動)情報としては、脳領域によって、手の逐次的な運動情報を好んだり(補足運動野)、あるいは、リーチング(手を何かに伸ばす運動)に関わる情報を好んで扱ったりしている(背側運動前野)。もちろん、記憶情報や感情を好んで処理する脳領域もある(扁桃体《へんとうたい》や海馬、梨状《りじよう》皮質、嗅内《きゆうない》皮質)。
ところが、前頭連合野は、そういった様々な情報処理の終点であり、また、起点でもある。取り立てて好む情報はない。そして、前頭連合野は入力系でも出力系でも階層的に最高次の立場に立っている。記憶系でも感情系に関しても同様で、頂点に位置している。ワーキングメモリは意味のある情報を保持・操作して行動を導くはたらきである。従って、前頭連合野がワーキングメモリ過程において重要なはたらきをしていることはありそうなことである。そして、実際にその通りであることが様々な研究によって示されてきた。今やワーキングメモリのセンターが前頭連合野にあることは疑いない。
従ってまた、自我は前頭連合野にいることも間違いないはずだ。実際、自我のはたらきである自己意識や自己制御のはたらきにともなって前頭連合野が活動することが近年の脳イメージング法で判明している。
ちなみに、脳イメージング法には大きく機能MRI(分子レベルの核磁気共鳴を利用して、主に代謝の程度を測定)とPET(放射性同位元素で識別した水や糖を検出して、血流量や代謝の程度を測定)がある。どちらも、生きている状態で脳の活動をイメージングして調べることができる画期的な方法で、開発者たちがノーベル医学・生理学賞をとったのも納得できる。今や、脳イメージング法、とくに機能MRIによるヒトでの脳研究が花盛りで、ほとんど毎日新しい知見・論文が生まれている(詳細は省くが、機能MRIよりも古く開発されたPETも、その利点が見直されていて、かなりの脳研究で活躍中である)。
脳イメージングによる研究は比較的新しいものだが、前頭連合野のダメージで自我のはたらきが鈍ったり、あるいは人格が崩壊したりすることは古くからわかっている。もちろん、ワーキングメモリも衰退するか、欠損してしまう。
†前頭連合野の動的オペレーティングシステム[#「†前頭連合野の動的オペレーティングシステム」はゴシック体]
自我はワーキングメモリの一特殊過程であり、前頭連合野によって担われている。だとすれば、自我をより深く理解するためには、前頭連合野の「ワーキングメモリ過程」をさらに考察する必要があろう。そうした考察から浮かび上がってくるのが、「自我=オペレーティングシステム」仮説なのである。
前頭連合野が担うワーキングメモリの中心的なプロセスは「体系的な操作」である。何を操作するのか? 言うまでもなく脳内のモジュール群である。つまり、脳内の多様なモジュール群にアクセスして個々の情報や記憶を引き出し、かつ、他のモジュール群の活動をコントロールすること――これが前頭連合野のワーキングメモリ過程の中心にある。この操作は目的志向的であり、状況に適した「答え」を出すべくはたらく。また、脳にはキャパシティ、容量があり、そのリソースは限られている。たとえば記憶容量もその内容にも限りがあり、時々の入力情報も当然ながら限られている。脳の各モジュールは、それぞれ「好みの情報」を扱い、また、限られた情報とエネルギーを巡って競合し合っている。こうした脳内状況で必要になるのが、体系的操作、つまりは「オペレーティングシステム」である。
近年の研究を踏まえると、前頭連合野の担っているワーキングメモリ過程は、@意味のある情報の選択、A選択結果の保持と整理・統合、B目的的情報(「答え」)の生成、C「答え」に基づく制御(行動)情報の出力、という少なくとも四つのプロセスがある。これらの過程はオペレーティングシステムの過程そのものではないか。こうした過程に、「結果のフィードバック」、つまり、「答え」が適切であったかどうかという回帰的な情報入力が加われば、オペレーティングシステムとしての役割はまっとうされる。そして、実際、自分のした行動の結果をコードするニューロンが前頭連合野にたくさんあることを私たちは見つけた。
コンピュータのオペレーティングシステム上では、その「目的・仕事」「結果の評価」を与えるのはユーザーとしての操作者である。前頭連合野のオペレーティングシステムにおける操作者は誰か? もちろん前頭連合野内にいて、そのオペレーティングシステムを操作している。ただし、その操作者自身が前頭連合野のオペレーティングシステムに組み込まれているのだ。
だから、前頭連合野のオペレーティングシステムは、より正確には「自律的オペレーティングシステム」あるいは「動的オペレーティングシステム」と言うべきだろう。「自律的」というのは、他に操作者がいないことを意味する。「動的」とは、「目的・答え」が、その時々の状況に応じて自律的かつ動的に変化するからである。ただし、究極の目的は、進化的な意味をはらみ、至近的な目的は「脳内状況の管理」とそれによる状況(脳内、脳外)へのダイナミックな「適応」である。
そして、「自我」とはこの脳内オペレーティングシステムのことを言うのだ。自我は動的オペレーティングシステムとして前頭連合野にいて脳を操作している、というわけだ。これが「自我=脳内オペレーティングシステム」説である。
†前頭連合野が鍵[#「†前頭連合野が鍵」はゴシック体]
コンピュータでオペレーティングシステムが暴走したり誤作動すればとんでもないことになる。同様にして、脳内オペレーティングシステムがちょっとおかしくなってしまえば、脳は変調をきたすだろう。ほとんど全ての精神疾患や色々な問題行動が前頭連合野と関係することもこの観点からいえば当然のことになる。
また、ちょうどコンピュータの進歩にはオペレーティングシステムの進歩が不可欠であるように、ヒトの脳進化には脳内オペレーティングシステム、すなわち前頭連合野の爆発的な進化が不可欠だったはずだ。私たち人類の秘密も脳内オペレーティングシステムの発達に隠されているのではないだろうか。
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思い込みは脳の癖[#「思い込みは脳の癖」はゴシック体]
†困った思い込み[#「†困った思い込み」はゴシック体]
科学者としてあるまじき態度かもしれぬが、私は思い込みが激しい。そのせいで、何度も辛い思いや苦い思いをしている。
たとえば、である。
高校時代、毎朝の電車通学で時折出会う女子高生がいた。小岩から錦糸町まで(総武線で四駅)の短い間ではあったが、同じ車両に乗り込むこともままあった。その女性は抜群の美人であった。しかも、私の方を気にしているふうで、目が合うこともしばしばだった。
「きっと僕を好きなんだ」
そう思い込んだ。やがて、彼女は同じ高校の一学年上に在籍していることも判明した(校舎の中で出会ったのだ。ああ、びっくりした)。硬派をもって任じていた(平たくいえばモテなかった)私はすっかり有頂天になり、デートの誘いをするタイミングをみはからっていたのだが、ある日のことだ、同じクラブの先輩と仲良く一緒にいてこっちを見て笑い合っていた。
「……」
もちろん、落ち込んだ。なんのことはない。カレシと同じクラブの(ナマイキな)後輩だということで、私の方を見ていたにすぎないのである。
よくある話ではある(念のために言えば、決して創作ではない)。ただ、その前にも後にも似たようなことがたくさんあるのだ。自分は思い込みが激しいと断じざるを得ない。
こうした(実際の行動に移さない)思い込みならまあ、害はさほどない。しかし、他人に迷惑がかかる思い込みも少なくない。
たとえば、である。
「A型は研究者に向かない」という思い込みを私はもっている。心臓疾患やガンにかかりやすい「タイプA」のことではない。血液型のA型である。ある程度のデータ的な裏づけがある「タイプA」に関することならともあれ、血液型(!)である。血液型と研究者とはどういう関係にあるというのか?
いや、あるのである。私の研究者人生を通して、身のまわりにA型の研究者はほとんどおらず、A型の学生のすべては途中で辞めていっているのだ(学生に関しては本当にそうなのだ)。そのため、私のところで学びたいと面談にくる学生に血液型を聞いたりしていた。あまつさえ、「君はA型だからダメなんだ」と口走ったりしたこともあった。彼(女)らにすれば、ビックリすることである。いい迷惑でもある。しかし、私の思い込みは消えない。それどころか、強化されてすらいる。つい最近「ついて行けません」と辞めていった学生もA型だったのである(もちろん、私も反省していたので、その学生の血液型のことなど知らなかったのだが、後で聞くとA型だったのである。これはまあ、単に相性の問題かもしれないが、最近になって血液型が免疫系、さらには性格にも関係するというかなりマトモなデータが出てきているので、もしかしたら「思い込み」ではなく、真実かもしれない――まさか、ね。やっぱり思い込みでしょう)。
かくのごとく、である。例をあげていけばキリがない。本当にイヤになる。
†思い込みは脳の本質?[#「†思い込みは脳の本質?」はゴシック体]
たしかに私の思い込みは激しいが、誰もが多かれ少なかれ思い込みをもっているにちがいない。いや、よく考えると、かなりのことが思い込みで成り立っているような気さえしてくる。
たとえば、である。
本当は橋の下で拾われてきたのに、育ての親を実の親だと思い込んでいないか? 自分の妻の子供をなんの疑いもなく自分の子供だと思い込んでいないか? カレシや夫が心変わりしているのに、未だに自分を好きだと思い込んでいないか? あるいは、勤務する会社が倒産するまで、自分の会社は安泰だと思い込んでいなかったか? 国立大学が独立法人化するまで、国立大学は永遠に存続し続けると思い込んでいなかったか? ソ連が崩壊するまで、社会主義・共産主義こそ理想の社会体制だと思い込んでいなかったか? 一二月二五日にキリストが生まれたと思い込んでいないか? プロ野球の球団数は一二であり続けると思い込んでいなかったか? あるいは、自分がいくら原稿を書かなくても、編集者は自分を見捨てないと思い込んでいなかったか? 自分だけは……、とか、自分の子だけは……、と思い込んでいないか?
……あげていけばキリがない。私の思い込みの激しさは特殊な例だと思っていたが、実はそうではないのかもしれない。「自分の思い込みは激しい」というのも思い込みの一種なので、やっぱり私は人並み以上に思い込みが激しいと言えるかもしれないが、世は思い込みで成り立っていると言えなくもないのである。
ここで言う思い込みとは、もちろん、真実・事実とは異なる思い、考えである。あるいは、将来に対する一面的で勝手な希望的観測のことである。そんな思いや希望は誰もが普通にもっているはずだ。
では、なぜ私たちは思い込みをもつのだろう? もちろん、それは脳のなせる業だし、さらに言えば脳の本質のひとつだと言ってもよいのである。とくに、事実とは違う思いを抱くのがそうである。
†脳はつじつまを合わせる[#「†脳はつじつまを合わせる」はゴシック体]
脳の大きな原理のひとつに「節約的安定化原理」というものがある。ちょっと難しい言い方なので、簡単に言い換えれば「省エネエアコン原理」と言ってもよい(これではちょっと意味不明だが……)。
なるべく少ない情報でわかりやすくて都合のよい、あるいは、安心できる結論を出す、という性質である。なるべくエネルギーを使わず気持ちよくすごせる環境をつくる、といった意味で「省エネエアコン」になぞらえている。
こんな実験がある。てんかんの治療のために、脳梁《のうりよう》を切断した患者さんでの実験だ。脳梁というのは左右の脳をつないでいる神経線維の太い束で、普通はこの脳梁を通して左右脳で情報がやりとりされている。てんかんの場合、片方の脳で現れた発作が左右脳全体に広がることがあり、命に関わりかねない。脳梁を切断するとそういったことが起こらなくなるので、てんかん発作が軽減できたり治せたりするのだ。それで、そういった手術が三〇〜五〇年前にかなりなされたことがあった。もちろん、今は行なわれていない(てんかん治療のいい薬が開発されたせいもあって)。
脳梁を切断されて左右脳が分離しても目立った副作用はないのだが、左右の脳が別個に独立してはたらくというやっかいなことが起こる。右脳で行なったことが左脳はわからない(あるいはその逆)ということも頻繁に起こる。
そのような分離脳患者さんでの実験だが、実験者が患者さんの右脳だけに何かをさせるとする。視野の左側は右脳に、右側は左脳にそれぞれ情報を送るので、視野のどちらかだけに情報を提示することで、左右脳のどちらか一方だけに情報を与えることができるのである。そこで、たとえば、左視野だけに「目の前のライターを取って下さい」といった文章を提示すると、右脳だけがその情報を受け取ることになり、患者さんの右脳は自分が使える左手でライターを取ることになる(右脳は左手を、左脳は右手を、それぞれ支配している)。その後に、今度は「なぜライターを取ったのですか」と、左脳だけに質問する。左脳にはもちろん本当の理由はわからない。しかし、左脳は適当でつじつまのあう返答をするのだ。「タバコを吸おうと思ったからです」などと。つまり、自分にはわからないことを、断片的な情報(この場合だったら、自分の右手がライターを取ったという情報だけ)をもとに、もっともらしい結論を導くというわけだ。
同様の実験で、今度は右脳だけに女性のヌード写真を見せる(つまり、左視野だけに写真を提示する)。厳粛な実験場面でこんな写真がいきなり出てきたので、患者さんはドギマギして照れ笑いをする。そこで「なぜ笑ったのですか?」と左脳に聞くと、「先生がおかしな態度をしたからだ」などと答えるのだ。この場合も、断片的な情報(自分が笑ったこと)から、適当な理由付けをして、もっともらしい結論を出したわけだ。
こうした実験を繰り返すことで明らかになったのは、脳は断片的な情報から、安心できる、あるいは、もっともらしい結論を出したがるということだ。その結論は、分離脳患者さんの実験の場合では、もちろん事実とは異なっている。にもかかわらず、不安定でワケのわからぬ状態でいるよりも、なにはともあれ自分の納得できる結論を出したいのである。
こういうことをするのは、とくに左脳である。左脳は基本的に言語をつかさどる。言語にはコミュニケーションなどの色々な役割があるが、大きな役割は、雑多な情報からなるべく簡単で安心できる結論を引き出すということにあるらしいのだ。様々な情報は脳の様々な領域、いわばモジュール(機能単位)が処理するので、言語システムとは脳内の多数のモジュールを統合して適当な結論を出す役割をもつ、と言ってもよい。
ある結論を導くのに必要な情報が十分にある場合はよい。しかし、不十分で断片的な情報でも脳(とくに左脳の言語システム)は、つじつまが合った結論を導こうとする。そして、脳内モジュールを統合したつもりになって、安心する。不安とは、そういう結論がなかなか出ない状況で起こる感情である。脳は不安ではなく安定を求める。その方法のひとつが、「ともあれ、つじつまの合った結論を導き出す」ということなのだ。
†省エネエアコン原理の進化的意味[#「†省エネエアコン原理の進化的意味」はゴシック体]
その際には、必ずしも多量の情報を扱うとは限らない。なるべく少数の情報で結論を出そうとすることの方が多い。脳内モジュール群の活動をなるべく早く統合して安定させたいせいである。そもそも「なるべく少ない情報で的確な結論を出す」というのは、進化的に見ても必要なことなのである。
敵に遭遇した場面を考えよう。敵に関する多数の情報をいちいち処理していては、時間がかかりすぎ、襲われて殺されかねない。なるべく少ない情報で「あれは敵である」という結論をすばやく出した方がよい。
同様に、社会関係をうまく行なうにも、あるいは、食べ物をすばやく探すためにも、「なるべく少ない情報で的確な結論を出す」ということは重要である。それで、「節約的安定化原理」が形成されてきたというワケなのである。
もちろん本来は、「的確な結論を出す」ということに意味がある。しかし、すべてのことに的確な結論が出るわけではない。むろん、ある物事に関する情報をすべて集め、分析し、統合して結論を出せば、的確な結論になる確率は高まろう。そういうことも私たちはしているが、すべての物事でそんなことをしていては時間がいくらあっても足りないし、脳の処理能力も追いつかない。進化的にみたら、そのようなことばかりしていては敵に襲われて殺されかねないし、ある果実が食べ物だと結論するのに何十時間もかかっていては飢え死にしてしまうではないか。
かくして、節約的安定化原理、あるいは、省エネエアコン原理は脳の基本的な性質となったのである。
†安定化から固定へ[#「†安定化から固定へ」はゴシック体]
節約的安定化原理がまともにはたらいていれば、問題はない。しかし、情報量が多すぎると、「的確な結論」は必ずしも出ない。本来はあらん限りの情報に基づいて結論を出すべきなのだが、どうしても一部の断片的な情報だけに頼ってしまう。その断片的データが的確な結論を導くのに適していればよいのだが、もともと一面的なものだったら、それもかなわない。こうして、事実とは違う結論に落ち着くことだって頻繁に起こるのである。これが、思い込みの第一段階である。
もちろん、うまくいけばこの結論は修正できる。別の適切な情報によって結論し直せばよいからだ。しかし、やっかいなのは、いったん安定化したらそのまま、ということが節約的安定化原理の性質でもあるということだ。
私たちは不安の中では生きてゆけない。不可解なことだらけでは脳は変調してしまう。実際、いつも不安だったり、いつまでも悩み続けていたら、脳は変調して病気(不安神経症やうつ病)になってしまう(悩みというのは、落ち着ける結論・答えが出ない状態である。脳内モジュール群の活動をうまく統合できない状態でもある。ちなみに、悩みの解決のみならず、うつ病の改善に、悩んでいることを文章化することが有効であることがわかっているが、これは言語システムが脳の安定化に中心的な役割を担っているためである)。
そこで、とりあえず適当な結論・答えで安定化させてしまう。すると、答えはたいてい、長期記憶に移される。あーだこーだと考えることは前頭連合野のワーキングメモリのはたらきで、ワーキングメモリは言語システムを駆使して結論・答えを導こうとする。しかし、いったん結論・答えが導かれれば、その内容は前頭連合野ではなく、海馬を介して側頭葉に長期記憶として固定されてしまう。これが、思い込みの第二段階である。
長期記憶に固定されても、修正の余地はある。その記憶を引き出しつつ、新しい情報によって改定し、違った(より的確な)結論としてもう一度記憶化させればよいからだ。しかし、そもそも脳は節約・省エネを原理とする。一度安定化させた結論・記憶を、好き好んで修正する手間は惜しい。実際、一度長期記憶として定着したものを修正することは、よっぽどのことがない限り脳はしないのである。長期記憶とは、ニューロンの活動ではなく、神経回路のハードウエアの変化として形成される。長期記憶はハードウエアなのである。この点でも、長期記憶は修正しにくい。こうして、思い込みは、強固な思い込みとして形成されるのである。
†かくして思い込みは事実≠ニなる[#「†かくして思い込みは事実≠ニなる」はゴシック体]
こうなると、思い込みはさらに強化される運命にある。脳は記憶をベースにして情報処理するからだ。記憶としての思い込みをベースにして情報処理をすることが頻繁に起こることになる。それによって、思い込みが修正されれば問題ない。しかし、思い込みによる情報処理にはすでにバイアスがある。処理に寄与する記憶情報にしても、思い込み、つまり、事実とは異なった情報である。となると、思い込みは修正されるよりもむしろ強化される可能性が高い。これが思い込みの最終段階、つまり、頑固な思い込みである。
ここまできたら、思い込みは、その人にとっては思い込みではない。事実である。世界である。人生である。その思い込みが、圧倒的な真実・事実の前に崩れ去るまで、思い込みとして人生も世界観も左右される。いや、圧倒的な事実を前にしても、「これは偶然だ」とか「本当は違う」などと、認知的バイアスをかけて、思い込みを守ろうとする。手に入れた安心感や安定を壊されたくないからだ。
社会主義国ソ連が崩壊しても、「本当の社会主義はちがう」とのたまったり、阪神が優勝しても「今年は偶然、来年から最下位の指定席」と断じたり、恋人にデートを拒否されても「今回はたまたま気が向かなかっただけだ、今度こそ!」とストーカーまがいの言動を繰り返したり……。
しかし、思い込みは脳の本質から出てくる以上、避けられない。常に、自分(の脳)と共にある。思い込みに左右される言動はかなりアブナイことではあるが、仕方がないことでもあるのだ。
†科学は思い込みの排除を目指す[#「†科学は思い込みの排除を目指す」はゴシック体]
むろん、「Aさんはきっとボクを好きなんだ」といった可愛げのある(そして実行に移さない)思い込みなら、まあ、実害はない。しかし、思い込みによって重大になりかねないことはいくらだってある。人生や世界を左右する思い込みともなると、可愛げなどと言ってすまされない。
そういうこともあって、そして、人間が思い込みをしやすい生き物であるからこそ、出てきたのが科学である。「科学も思い込みの一種」という意味ではない。思い込みをなるべく排除して的確な結論・答えを出す方法論が科学なのである。私たちがいつでも事実・真実を見出すことができるなら、科学はいらない。
そうではなく、ほとんどの場合には、断片的な情報から不正確な結論を出して思い込んでしまうのが人間だから、そうならないように科学的方法を人類は編み出したのだ。つまり、総合的で適当なデータから論理的に的確な結論を導く方法論である(だから、ある科学論文で、データが偏っていたり、論理的でなかったり、あるいは、結論が不的確だったりすると、その論文はまともな科学ジャーナルには掲載され得ない――たまにそんな論文を書いて、どんなジャーナルにも相手にされなかった経験をもつ私はこのことをイヤというほど知っている。自慢することではないが)。
むろん、科学での結論にだって間違ったこと(つまり思い込み)はあり得るし、実際にある(たとえば、哺乳類の脳では、生後ニューロンは増えない、という定説。これは世紀の変わり目の直前になって、長く続いていた「思い込み」=虚偽の結論であることが判明した)。それでも、科学は思い込みを排除する方向を目指す。大したものではないか。
とはいえ、その科学をやる人間が思い込みから免れているかというと、そんなことは決してない。科学は思い込みを排そうとする営為だが、科学をやる人が思い込みをもたないわけではない。いや、むしろ、自分の思い込みが激しいからこそ(そんな自分にいやになって、真実を探求したくて)科学者になったりする人も多いのではないか。
少なくとも、私はそうである。思い込みの激しさと科学への情熱は比例するのではないか、というのが、私の思い(込み)だ。やっぱり、私はあぶない脳科学者だと断ずるしかない。
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なぜブームに巻き込まれるのか[#「なぜブームに巻き込まれるのか」はゴシック体]
†流行、どこ吹く風[#「†流行、どこ吹く風」はゴシック体]
日頃から研究室にこもっているせいで、世の中の動きがイマイチよくわからない。流行やブームにもほとんど無頓着である。ただ、研究の流行は多少なりとも気になる。科学や研究というと、流行などとは無関係のように思えるかもしれないが、そうではないのだ。人間がやることなので、当然ながら科学的研究にも流行り廃りがある。NatureやScience には流行りの研究が目白押しである。そして、文部科学省もそんな研究が大好きで、サポートに余念がない。
しかし、元来偏屈な私は、自分なりの研究をシコシコしている。もともと、「汝の道を歩め、そして人々の語るにまかせよ」というフィレンツェの人(ダンテだ)の格言を座右の銘のひとつにしているので、流行の研究を横目で見ながら、自分の研究を着実にやっている。
ノーベル化学賞受賞者の野依《のより》良治先生が喝破したように、研究とは「自己の精神の発揚」なのだ(野依先生をもう忘れている人のほうが多いみたいだが、彼の言葉には自然科学者として含蓄に富む名言が多い)。「自分なりの研究」こそが重要であって、流行やブームなど追っていてはいけない。誰か他の人がやりそうな研究などしているのは、まっとうな研究者ではないのだ。
といえば聞こえはよいが、要するにわがままなだけである(『わがままな脳』〈筑摩書房〉という本さえ書いたことがあるほどだ)。あまりに自分流の研究や言動が多いので、世に誤解の種をまくことも少なくない。一見トンデモないもの言いや自説を出すのも得意だ。そのせいもあって、インターネットなど見ると、私への悪口がたくさん流れている。「へん、勝手に批判していればいいってなもんだ。私は自分の道をゆくもんね」と思っているが、それだとなかなかうまくゆかないことも多い。とくに、流行ではない研究をしていると、文部科学省からほとんどサポートされず、金欠になってしまう。これはちょっと辛いが、「自己の精神の発揚」には代えがたい。
†それでもブームに巻き込まれる[#「†それでもブームに巻き込まれる」はゴシック体]
研究に関する流行でもこんな態度なので、世間の流行やブームなどまったく気にならない。そんなことはどーでもよろしい。自分のするべき研究と教育(プラス余裕があれば、TV出演や文章執筆などの社会的還元)をしていればよい。そもそもブームに乗ってあれこれする暇もお金もない(研究者はみな「貧乏暇なし」である)。
とかなんとか言いながら、気がついたら映画館へ出かけて「ハリー・ポッター」や「ラスト・サムライ」を観ている。あるいは、「白い巨塔」(唐沢寿明主演の新しい方)のDVDを買うべく画策している(放映中は完全にハマって毎週見ていた。あまつさえ研究室で「白い巨塔ごっこ」を繰り返して笑いをとっていた)。最新式のデジカメやコンピュータ、TVなどもえらく気になる。これはいったいどうしたことなのか?
いや、これは私に限ったことではあるまい。世の大抵の人は、それぞれ「わが道」を歩んでおられるはずで、流行やブームにいちいち乗っている暇もお金もないのではないか。あえて流行に乗ろうとか、ブームに乗り遅れまいとか思って、流行の映画を観たり、流行りのものを買ったりしているわけではないのではなかろうか。気がついたらブームに巻き込まれている、といった感じではないか。これは脳の仕業にちがいない。実際、ブームと脳はかなり密接な関係があって、脳の本質とアブナさがそこはかとなく浮かび上がってくるのだ。
†されど女性は流行に敏感[#「†されど女性は流行に敏感」はゴシック体]
ただ、失礼かもしれないが、女性の場合は「なんとなく」ではなくて、流行をあえて追っている傾向が強いと思う。とくにファッションや持ち物に関して。というのは、女性の場合、進化の長い歴史の結果、「周りと同じような格好や行動をする」という性質を身に付けてきたようだからだ。
サルたちを見ると(いきなりサルの例で、なお失礼かもしれないが)、メスザルたちは「仲良しグループ」のような集団をつくっている。専門的には「フィーメール・ボンド(female bond)」というが、この集団の中では極端な個体や行動は嫌われがちだ。抜け駆けも許されない。自分だけいいオスにアプローチするなど、もってのほかである(ではあるが、密かにそうしているらしい)。そのため、互いに似たような行動をするようになる。皆で同じような行動をしていれば安全、ということもある。
霊長類でのフィーメール・ボンドには数千万年もの歴史がある。夜行性で単独生活をしていたサルが、昼間の森に進出して社会(群れ)を形成するように進化したのは、およそ四〇〇〇万年前である。この頃からメスザルたちは社会の中でフィーメール・ボンドをつくったようなのだ。人間も霊長類の一種である。豊かな文化をつくったとはいえ、霊長類の本質は隠しようもない。だから、フィーメール・ボンド数千万年の歴史の名残が、人間の女性にも見られる。それで、人間の女性にしても、周りと似たような行動をし、同じようなファッションをし、持ち物も同じようになる、ということのようだ。
こうした傾向はとくに若い女性ほど顕著なはずだ。フィーメール・ボンドはもともと、子育てを互いに助け合うとか、乱暴なオスからの脅威を結束して防ぐ、といった意味合いで形成されてきた。テナガザルなど、ペア型の社会をつくる場合はともあれ、多妻型社会ではオスの脅威がかなりある。ハヌマンラングールのようなハーレム型社会では、いつなんどき子供が殺されるかしれない。オスはメスにとって危険な存在なのだ。それで、メスたちはボンドをつくる。あるいは、子育てを助け合ったりするためにも、ボンドは重要だ。そのため、子供をもてるような若いメスザルたちがフィーメール・ボンドの中核をつくる。
私たち人類は多妻型の性質を色濃く残している。だから、人間の女性でも、とくに若い女性ほどはっきりしたフィーメール・ボンドをつくり、お互いに似たような行動やファッションをするはずだ。「周りと似たような」ということなので、当然ながら流行やブームに敏感になるのである。
†脳のベースは記憶[#「†脳のベースは記憶」はゴシック体]
こうした女性たちはともあれ、あえてブームに乗ろう、と思っていなくても、気がついたらブームに乗っている、ということはままあることだ。どうしてなのか?
ここで思い出すのは「サブリミナル効果」である。この効果の詳細はややこしいが、簡単にいえば、無意識に得た情報によって認識や行動が影響される、という現象である。脳は無意識のうちにも多量の情報を処理している。その情報は「海馬」という脳領域を介して「側頭葉」に蓄えられる。意識的に処理して記憶する情報ももちろん多いが、意識に上らないで記憶として側頭葉に蓄積してしまう情報はもっと多いのである。
記憶はもちろんあなどれない。それどころか、記憶は脳の情報処理のベースなのである。つまり、そもそも脳は「メモリー・ベースド・アーキテクチャー(memory-based architecture)」という性質をもつ。記憶に基づいて情報を処理するという様式が脳の情報処理の特徴なのである。
たとえば、誰かの顔を認識する際でも、認識しようとするたびごとに顔の情報を事細かに処理して認識しているのではない。記憶として蓄えられている情報、いわば「鋳型」に即して処理する。Aさん用、Bさん用……といった鋳型がすでに記憶として脳内にあり、それらをもとに情報を処理するのだ。だから、私たちはAさん、Bさんの顔を瞬時に識別できるのである。
顔だけではない。会話したり考えたりするときでも、あらかじめある(記憶された)言葉・語彙・コンセプト・文法という膨大な記憶情報をもとにしている。本を読んだり書いたりするときでもそうだ。私たちの脳は記憶に頼って情報を処理するのである。そのため、脳はかなりの部分(たとえば側頭葉や海馬、扁桃体など)を記憶用にあてがっている。
記憶をベースにした情報処理をしているからといって、いつも過去のことを処理しているわけではない。すでに蓄えられている記憶をベースに情報処理し、新しい情報や言動が生まれ、その情報・言動がまた記憶化されるというダイナミクスがある。記憶の思いがけない組み合わせによっては、セレンディップなことは起こることもある。セレンディピティ(serendipity)、つまり、思いがけない閃《ひらめ》きや発見、創造性の発揮である。逆にいえば、記憶なくして創造性などありえないのである。通常の認識や理解などだけではなく、クリエイティブなことをするためにも記憶情報は必須なのである。
†捨ててはいけない[#「†捨ててはいけない」はゴシック体]
脳はメモリー・ベースド・アーキテクチャーであるということを忘れると、いろいろと問題が出てくる。たとえば、これは、まあ、どうでもよいことだが、かつて『「捨てる!」技術』という本がベストセラーになった。この本では、本のくせに本を捨てることが奨励されていた。いろいろな情報(資料)に関してもそうだ。せっかく集めた本や資料も、いらなくなったと思ったら即座に捨てろというわけだ。これはとんでもないことである。私たちの脳はメモリー・ベースド・アーキテクチャーである、という本質を無視している。
脳は記憶をベースにしている。だが、脳内の記憶容量には限りがあるし、精度もそれほど高くない。それで、私たちは脳内だけでは足りず、外部にも記憶を蓄えるのである。文化の基本にしても、要するに「外部に蓄えた情報」にある。そうした情報の代表が本であり、資料なのだ。本格的な文化の発祥は外部記憶装置(文字や絵)の発明によるところ大である。本や資料を蓄えることは私たちの脳の本質であり、かつ、文化の基本なのだ。そして、一見いらなくなった本や資料でも、潜在的に将来に活用できるものだって多い(だからこそ、国会図書館があるといってもよい)。もちろん、自分が蓄えた外部情報のすべてをことごとく蓄えることなど普通の人はできない(一般の家では床が抜けたり、居住空間よりも本・資料空間の方が大きくなって本にけつまずく――これはもちろん我が家のことでもある)。適度に捨てる必要はある。
しかし、内部記憶もそうだが、外部記憶も多いほどよいことは確かだ。可能性・ポテンシャルが増えるからだ。知識(内部記憶)が不十分な人がクリエイティブな仕事が何もできないように、外部情報が乏しくては、知的活動は先細りになる。そうした大事な外部記憶を捨てることを奨励するなど、とんでもないことである。『「捨てる!」技術』には有益な提言もあるが、著者の基本的な見識・思想がなってないので読むに値しない(「まっさきに捨てる本の筆頭」という逆説が面白いので、読んでも無意味ではないが)。
この観点からみれば、かつて議論百出した「ゆとり教育」なども、やはりとんでもないことになる。脳に知識(記憶)をどんどん蓄えることは重要であり、とくに子供の頃ほど記憶は豊かに脳内に蓄えることができる。脳が「柔らかい」からだ(つまり、神経回路の可塑性が大きく、かつ、豊かに発達する)。とくに一見つまらないことや単純なことを覚えるのに都合がよい(たとえば九九なんてつまらないものを、大人になってから覚えろと言っても辛いだけだ)。しかも、(先述のように)創造性にしても脳のはたらきであり、記憶をベースにしている。記憶なくして創造性なし、なのである。だから、創造性を伸ばす上でも、適度な詰め込み教育はどんどんすべきなのだ。それと逆行する「ゆとり教育」は将来に必ず禍根を残すことになる。幸い、各方面からの反論によってこの教育方針は鳴りを潜めたからよいが、文部科学省はときにとんでもないことを考えつくので油断ならない(そもそも日本の教育界にはまっとうな「教育理論」が欠如しており、これが「文科省迷走」を含めた教育関係の最大の問題だと教育学のある泰斗がおっしゃっていた。ちなみに、アメリカではガードナーの「多重知能理論」が小中学校の中心的教育理論)。
†無意識的な記憶情報はあぶない[#「†無意識的な記憶情報はあぶない」はゴシック体]
「ブームと脳」と関係ないことを、何をうだうだ言っているのかと思われるかもしれないが、そうではない。これまで述べたことはブームの本質と直結することなのだ。脳はメモリー・ベースド・アーキテクチャーであり、記憶をベースにしてはたらく。その記憶には意識的に蓄えたものも多いが、無意識に蓄えられるものはもっと多い。となると、どういうことになるのか。無意識の記憶によって脳は情報を処理し、そして行動を導くことにもなる。ブームの底にはそんな無意識の処理過程、つまりサブリミナル効果が潜んでいるのではないか。完全な無意識でなくても、「きちんとした思考・判断を経ない記憶情報」に基づく情報処理過程が、である。
私にしてみれば「ハリー・ポッター」や「白い巨塔」などどうでもいい。しかし、いくら研究室に蟄居《ちつきよ》していても、世の様々なメディアを通して、それらに関わる情報がたくさん入ってくる。そうした情報にはこちらにとって意識的なものもあるが、無意識的なものもかなりある。いくら興味がなくても、そこは「ブーム」である。情報量は当然ながら多い。情報が多ければ、それに応じて意識、無意識にかかわらず、脳内に記憶として蓄えられてしまう確率が高まる。そして、きちんとした思考・判断を経ない無意識的な記憶情報として、脳内に固定されてしまう。すると、どうなるか? 私の脳内に無意識のうちにも、「ハリー・ポッター」を観ろ……、「白い巨塔」のDVDは面白そうだぞ……といった密かなささやきが生まれることになる。そして、まさにサブリミナル効果のようなことが起こって、気がついたら「ハリー・ポッター」を観ているということになるのだ。
けだし、無意識的な(きちんとした思考・判断を経ない)記憶情報はかなりあぶない。少ない(繰り返しのない)情報は大したものではないが、繰り返しの多い情報は、私たちを無意識にもある方向に導きかねないのだ。ちなみに、これはCMの常套手段でもある。CMなんて積極的に見るわけがない。仕方なく、ほとんど無意識に見ている。これまたどーでもよいが、個人的に大嫌いなCM(複数)があって、これは意識的に見ないようにしている。具体的にいえば、木村拓哉が出てくるCMだ。あのアホヅラと品性や知性のかけらもないしゃべり方を見ると、不愉快になって、TVに茶碗を投げつけるのを抑えるのに大変苦労する(「キムタク」と聞くだけで虫唾が走る)。まったく、三〇過ぎて中身のないオトコは悲惨だ(「お前なんか四〇半ばのくせに空っぽじゃないか」と言われそうだが……)。
しかし、CMはまさに「ある方向に人々を無意識的に導く手段」としては、脳の本質から見てきわめて適当なのだ。そして気がついたら、CMで連呼されているなんらかの製品や食品を買ってしまっている……。
†ブームの恐ろしさ[#「†ブームの恐ろしさ」はゴシック体]
はっきりした情報はマシなのだ。しかし、スローガン的に繰り返される断片的な情報は、脳内に無意識的な記憶情報としてしっかりと固定されてしまう。無意識的なので、まっとうな判断やきちんとした思考が入りにくい。それで、多くの人が同じような行動をしてしまう。その行動がまた「繰り返される無意識的な記憶情報」を生み出し、ブームが起きるのだ。「ハリー・ポッター」を観に行く程度ならよいが、恐ろしいことだって多い。たとえば、戦中での「鬼畜米英」やナチス、北朝鮮での指導者崇拝、あるいは一時期の小泉人気……。どれもが、脳の性質(メモリー・ベースド・アーキテクチャー)とこうした無意識的な情報処理過程が利用されているように見える。
ちなみに、小泉首相の言葉はほとんどCM的で、無意識的な記憶情報になりやすい。就任当初の威勢のよい言葉「構造改革なくして景気回復なし!」。世事に疎い私だってこの言葉は十分に記憶化している。CM的に連呼され、繰り返された情報だからだ。私は(偏屈なので)「意味不明なことを言っているんじゃないぜ」と批判的に見ていたし、構造改革と景気回復が単純な因果関係にあるわけがないことは素人でもわかる。しかし、こうした言葉を繰り返されると「そうだろうな」と思い、「小泉改革」ならなんでも賛成ということになりかねない。あれよあれよといううちに小泉ブームが起きたので、彼の言葉は既にかなりの人々の脳内に「きちんとした思考や判断を経ない記憶情報」として蓄えられてしまったのではないか。となると、その記憶情報に基づいて脳はいろいろなことを処理するようになっているかもしれない。そして、いわゆる「空気」(故山本七平氏の概念)が人々を包んでくる。だから、小泉首相を批判するようなことを書いたり言ったりすると、その中身も十分に検討せずに反射的に反発したり攻撃したりする人が現れた。そして誰も(怖くて)小泉批判をしなくなった。さすがに小泉ブームは終焉したが、なんと虚しかったことか……(最近は小泉発言の虚妄に気づいた国民が与党批判に傾いているから、そのうち政権交代が起きるかも……ざまーみさらせへのかっぱ、である)。同様のことは小泉ブーム以外にもあり得るのだ。
†スローガンに気をつけろ[#「†スローガンに気をつけろ」はゴシック体]
ブームには確かに他愛のないものが多いが、中にはやっかいなことも山ほどある。小泉ブームは腰砕けに終わったが、為政者がブームになるなんて、思えば恐ろしいことだ。たとえば、北朝鮮での指導者崇拝には、「子供の頃からの(きちんとした思考・判断なしの)記憶の植え付け→その記憶をベースにした無意識的・意識的なとんでもない行動の連鎖」があるようにみえる。あるいは、中国や韓国でも、子供の頃からの「日本人は、戦中、極悪非道なことばかりしまくった」という教科書による記憶(子供なので、やはりきちんとした思考・判断なしの)によって、悪しき情報処理・行動が出てきかねない。日本人嫌悪は、かの国では歴史的なロングタームでの「ブーム」だといえなくもない(終焉してくれることを切に願っている)。
さらに、ナチスによるユダヤ人大量虐殺にも、「無意識的な、きちんとした思考・判断なしの記憶」に基づく情報処理がからんでいたようにみえる。「ユダヤ人が諸悪の根源」など、まっとうに考えたらバカバカしくて聞いていられない偽情報である。しかし、こうしたスローガン的な喧伝が何度も繰り返されるうちに、脳内に無意識的な記憶情報として固定されてしまう。その記憶情報をベースにした言動がさらに繰り返されるうちに、「ブーム」が起きてしまい、ユダヤ人の方々は地獄の苦しみにさらされてしまうことになった……。
ブームにはやっかいなことも多いし、あるいは、大量殺戮のようなもっと恐ろしい事態にもつながりかねないのだ。そんな事態にならないためにも、日ごろからブームに巻き込まれない努力をすべきかもしれない。具体的に言えば、無意識的な記憶情報によって左右されず、自分の行動や記憶をきちんと意識的にモニターし、自分なりに深く思考し判断する訓練である。もちろん、これは脳の本質から見てもかなり難しい。ま、たまにはブームに乗ってもいいかもしれない。「ハリー・ポッター」を観たからといって、多少の時間とお金を費やすだけだし――という投げやりな態度がやっぱり一番あぶないのだ。ブームには心してかかろうではないか。
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第2章 愛と性の脳進化
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ケッコンは幸福剤[#「ケッコンは幸福剤」はゴシック体]
†ヒトは幸福を求める[#「†ヒトは幸福を求める」はゴシック体]
「二一世紀には、人間を扱う現在の諸学問は社会生物学と神経科学の二大科学に統合されるだろう」(ウィルソン)。
脳科学(神経科学)を生業としているせいもあって、私はこの言葉が大好きだ(なので、つい多用してしまう)。この言い方には「人間に関わる諸問題も」という意味が隠されていて、この点でも気に入っている。つまり、「人間に関わる諸問題は社会生物学と神経科学で解決できる」という意味をもつわけで、「わが意を得たり」という気持ちになる。
「人間に関わる諸問題」はそれこそ真砂の数ほどあるけれど、その中でも「幸福」あるいは「幸福感」は屈指だろう。なんやかや言っても、私たち人類はあの手この手で幸福(感)を求めている。たまに(?)手段が目的になったりするものの、ほとんどの営為は幸福(=幸福感を得ること)を目的としている。そんな「究極の問題」としての幸福にしても、社会生物学と神経科学でアプローチできるというのが、ウィルソンの予想には含まれていたはずで、私も(何の疑いもなく)そう思っている。
†幸福の科学?[#「†幸福の科学?」はゴシック体]
もっとも、幸福の問題は、哲学や宗教、あるいは思想などの領域に属するものであって、決して科学の対象にはならないと思われるかもしれない。たしかに(心理学や社会科学はともあれ)生物学のような自然科学には馴染まない気がする。「幸福の科学」などといえば、某宗教団体を思い出してしまい、それだけであぶない気さえする。
だが、幸福は科学としての生物学の対象になる。ちょうど言語や記憶のように、幸福感は私たち人類に広く共有された機能・感覚であり、そのため生物学的な基盤が想定できるからだ。
この際には、ウィルソンの言うように脳科学と社会生物学が主要な分野となる。というと、まあ、幸福感も脳活動の一種だから、脳科学で扱えるのはよいとして、社会生物学が出てくるのはなぜか? という疑問が出てくるかもしれない。
そもそも、ウィルソンが、人間の諸問題に総合的にアプローチする上で「神経科学と社会生物学」という二つの学問分野をあえて挙げたのはなぜか? これも不思議といえば不思議だ。彼は本来、アリの分類を専門とする昆虫学者で、神経科学のことなどほとんど知らない。社会生物学(進化生態学)を初めて体系化したので、社会生物学を重視したい気持ちはわかるとして、神経科学にはなんの義理もない。それなのになぜ?
それには実は、きちんとした理由があったのだ。その理由こそが、「幸福の科学」のあり方に関わっていると言ってもよい(「幸福」に限ったことではないが)。そんなことを念頭におきながら幸福感を生物学の観点から考えてみたい。そして、そんなふうに幸福を科学すると、ちょっと「あぶないこと」も多少なりとも浮かび上がってくるのである。
†幸福感の脳内システムと幸福剤[#「†幸福感の脳内システムと幸福剤」はゴシック体]
幸福感が脳科学で扱えることには異論はないだろう。幸福感は感情の一種であり、当然ながら脳の(特殊な)活動だからだ。だが、脳科学だけでは幸福感の問題を生物学的に解いたことにはならないのだ。そのことを納得してもらうためにも、まずは、幸福感を脳科学の観点で見てみよう。
ここで思い出すのは「幸福遺伝子」説である。幸福感をもつ度合いには遺伝的要因が強く働いていることがわかったので、その遺伝を担う遺伝子があるはずだ、という説が数年前に出てきたのだ。
この説は現在ではほぼ確証されている。つまり幸福遺伝子は実在する。詳しいことはまだつめる必要があるものの、「セロトニン」という脳内物質に関係する遺伝子が、幸福遺伝子の少なくとも一部となっている。このことは幸福遺伝子説が出たときから予想されていたことだ。というのは、セロトニンは幸福感や安心感と深く関係しており、この分子が脳内でよくはたらくほど幸福感が強まるからだ。逆にセロトニンがうまくはたらかないと不安感や絶望感が続き、わるくすると自殺にすら至りかねない。
もちろん、セロトニンそのものが(何しろ単なるモノなのだから)幸福感を生むわけではない。特定の脳システムに作用することで幸福感が現れる。その脳システムとは前頭連合野と大脳辺縁系がつくるシステムである。
大脳辺縁系は「感情の座」であり、前頭連合野は大脳辺縁系から情報を受けつつ、その活動をコントロールしている。幸福感を得るために努力することや、状況に応じて適切に幸福感を感じることには、前頭連合野が中心としてはたらいている。この脳領域の障害で幸福感を失ったり、場合によってはどんな状況でも異常に強い幸福感をもち続ける症状(「多幸症」という)が現れるのはそのせいだ。幸福感が欠如してしまう病、うつ病でも前頭連合野の活動が鈍っている。セロトニン量を増やす薬でうつ病が改善することを踏まえると、前頭連合野――大脳辺縁系システムにセロトニンが作用することによって、適度な幸福感が生まれると考えてよい。
いま、「セロトニン量を増やす薬」と言ったが、それが有名な(最初の方でも述べた)「幸福剤(ハッピードラッグ)」である。学術的には「SSRI」という(商品名は、プロザックやルボックス、ソラナックスなど)。ちなみにSSRIは「Selective Serotonin Reuptake Inhibitor(選択的セロトニン再取り込み抑制剤)」の頭文字をとったものだ。
セロトニンを分泌する神経細胞は、シナプスのところでセロトニンを分泌したあと、再利用のため内部に取り込む。SSRIはこの再取り込み(reuptake) を抑えるので、シナプスでのセロトニン量が増え、結果として幸福感が出てきたり強まったりするのだ。欧米ではポピュラーな薬で、日本でも処方されている。インターネットでも売買されているらしいが、医師の処方なしに服用してはいけない。元来はうつ病の治療薬だ。病気でもないのに幸福感を得るために服用するのはちょっとあぶない。
†幸福感の至近要因と究極要因[#「†幸福感の至近要因と究極要因」はゴシック体]
幸福感の問題を脳科学でアプローチすると、ざっとこんな感じになる。いかにも科学的な話で、応用もきく。詳細はともあれ、大筋としてはこれだけで「幸福の科学」として十分な気がするかもしれない。
しかし、断じてそうではない。こうしたアプローチでは大きな問題がすっぽり抜け落ちているからだ。究極要因の問題である。
なるほど、幸福感を抱くメカニズムを脳科学で解き明かすことはできる。しかし、扱っているのはいわゆる「至近要因」であって、究極要因ではない。幸福感を生む至近的な要因、つまり脳内システムや仕組みを問題にしているだけである(そうした問題を解くのも大したことだが、ともあれ)。
なぜ幸福感を抱くのか? という問題には、このような至近要因を答える方法(「セロトニンが前頭連合野―大脳辺縁系に作用して、云々」)以外に、究極の要因、つまり進化要因を答える方法があるし、答えるべきである。もっぱら至近要因を問題にする脳科学では、究極要因はなんら解かれていない。幸福感を抱くことを前提として、その前提自体は不問に付してその脳内メカニズムにアプローチしているにすぎない。そもそも人はなぜ幸福感を抱くのか、抱くようになったのか? という進化的問題は脳科学では解けないのだ。
生物のなんらかの特徴・性質の謎を解くためには、至近要因と究極要因をともに解く必要がある。幸福感の問題にしろ、その仕組みとしての至近要因(メカニズム)に加えて、幸福感をもつ根本的な理由としての究極要因(進化要因)を解いて初めて総合的な理解に至る。そして、幸福感を含め、心・行動に関する問題の場合、至近要因の解明には脳科学(神経科学)の、究極要因には進化生態学(社会生物学)のアプローチがそれぞれ要求されるのである。
これで、ウィルソンが人間をめぐる諸問題の統合的学問として神経科学と社会生物学の二つをあえて強調した理由がおわかりいただけただろう。彼が社会生物学だけではなく、神経科学を(疎いにもかかわらず)挙げたのは、彼なりの問題意識があればこそだった。こうした問題意識――至近要因と究極要因を両方とも(できれば、その中間的要因も)解き明かすことが肝要――をもっている研究者は少ない。両者をごっちゃにしていてワケがわからない似非《えせ》学者すら多いので困りものだ。ウィルソンの見識は見事と言うしかない(この点でも私はウィルソンの台詞が好きなのだ)。
†幸福感は遺伝する[#「†幸福感は遺伝する」はゴシック体]
ではなぜ私たちは幸福感を抱くのだろうか? つまり、幸福感の究極要因は何か?
結論から述べれば、男女の持続的な結びつき=結婚を維持するため(ついでに、きちんと子供を育てるため)、である。なんとなくがっかりするが(?)、かなりはっきりとした証拠があるので仕方がない。
幸福感を抱く程度は遺伝する(ただし、その遺伝の仕方はかなり複雑で、両親ともに幸福感を抱きやすいから、その子も……といった単純なことにはならないが、遺伝することは間違いない)。また、人類は全体的に見て(平均すれば)かなり強い幸福感をもつことがわかっている(信じられないかもしれないが、アンケート調査をすると、だいたいどの国でも八〇パーセント以上の人が「かなり幸福」だと答えるのである)。このことから見ても、幸福感が進化的な要因に裏付けされていることがわかる。つまり、幸福感に関係するゲノムがなんらかの要因で集団に広がり定着してきたせいで、全体的にかなりの幸福感をもつようになってきたわけだ。その要因を探る方法にはいくつかあるが、有用かつ現実的なのは、どんな要因・環境が幸福感の程度と関係するのかを現生人類を対象として統計学的に調べることである。
そうした調査が世界的に行なわれたことが何度かあった。その結果、国家、民族、人種、性別、年齢、あるいは社会的地位や経済状態などの多数の要因・環境は幸福感とは全く無関係であることがわかった。「幸福は金で買えない」とか「ぼろは着てても心は錦」は統計学的にも正しいのだ。
こうしたデータからも「幸福は環境より遺伝」ということが肯けるわけだが、これでは幸福感が進化するわけがない。きちんとした原因があって、「幸福遺伝子」も「幸福感」も人類に定着したはずなので、なんらかの環境要因があってしかるべきなのだ。
で、注意深く見てみると、幸福感と深く関係する要因がひとつだけ見つかった。「既婚か未婚か」である。結婚している人は、そうではない人よりも強い幸福感を抱いていることが判明したのである。
†結婚は幸福剤[#「†結婚は幸福剤」はゴシック体]
この調査結果を素直に解釈すれば、男女間の持続的な結びつきを維持するために、幸福感は進化してきたということになる。結婚しても幸福感を感じないような個人や集団は、淘汰される傾向があった、と言ってもよい。そもそも人類は、数百万年も前から、この結びつきにもとづく「家族(夫婦+子供)」を社会単位として採用してきたし、そのために言語も脳も発達してきたらしいのだ。結婚・家族と幸福感との強い関連はこのことからも(進化生態学的に)理に適ったことなのだ。
かくして、「結婚は幸福剤」。これが「幸福の科学」の結論――至近要因も究極要因も込みにした――になる。陳腐な結論で申し訳ないが、「結婚は人生の墓場」という通説よりは多少はマシではないだろうか。少なくとも幸福の生物学的本質を表すには適切なはずだ。幸福感はセロトニンがそれ用の脳内システムに作用することで生まれ、そして、結婚のために進化してきた、というわけだ。とすると、もし結婚していても幸福感を感じなければ、その脳は脳科学的にも進化生態学的にもちょっとあぶないわけだ。かといって、そんなときに(あるいは、結婚する代わりに)幸福剤を飲むのはもっとあぶないので、断じてそうした裏ワザは使わないように!
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だから、もてたい!![#「だから、もてたい!!」はゴシック体]
†もてたい![#「†もてたい!」はゴシック体]
「結婚は幸福剤」だからというわけではないだろうが、いつの頃からだったか、「もてたい!」と思うようになった。はるか昔のことだと記憶している。もしかしたら小学校にあがる前の頃からだと思う。しかし、そう思わずとも(自慢するわけではないが)幼少の頃にはそこそこにもてていた。保育園に通っていた頃、私を好きだった女の子が数名いた。その一人は江戸川の土手でシロツメクサのネックレスを編んでくれたものだ。花の香りがほのかにする白くてきれいなネックレス……。うーん、古きよき日々だったなぁ。
のっけから私事を述べて申し訳なかったが「もてたい!」という願望はだれでもがもっているはずだ。とくに思春期以降になるとそうで、本当は知性や性格などの中身が重要なのに、外面つまり服装や髪型を異様に気にし始めるのも思春期の頃だ。私にしても、思春期の頃はアイヴィー(IVY)ルックで決めていた。髪形はリーゼント。当時の「ちょっと不良」の定番だ。私はかなりの不良だったので、高校に進学してからはボンタンにチュウラン、リーゼントといういでたちだった(ああ、なんたることか)。
†「もてたい」と思うのは(当然だが)脳のはたらき[#「†「もてたい」と思うのは(当然だが)脳のはたらき」はゴシック体]
幼少期はともあれ、思春期頃になってから「もてたい!」と強く思うのは、これは正常な脳発達の結果である。その頃に性ホルモンが多量に分泌されるようになり、脳にもそのための受容体がつくられ、また、前頭連合野が発達して自我に目覚めるようになるからだ。「前頭連合野の発達」というのは、色々なことの鍵となる現象だが、「もてたい」という気持ちのベースにも前頭連合野のはたらきがある。実際、前頭連合野にダメージを負った患者さんは身なりなどまったく気にしなくなる。もてようなどという気持ちもなくなる。
そもそも前頭連合野は未来を志向する。つまり、未来に向けてああしようこうしようと思い、夢や展望をもったり、計画を立てたりすることに重要だ。
「もてたい」という気持ちには当然ながら未来志向性がある。計画性もある。なんとかしてもてて、ラブラブになりたい、結婚したい、子供をつくりたい、愛人をつくりたい(??)、こんなことやあんなことをしてみたい……と思うからこそ「もてたい」と思うわけで、これは未来志向性があればこそである。しかも、その際には「今はもてていない」という自分の現状に対するモニタリングもベースにあるが、「自分のモニタリング」も前頭連合野のはたらきなのだ。前頭連合野のダメージによって、「もてたい」という気持ちもそのための行為も失われるのは仕方ないのだ。
同じことが老化に伴って起きる。前頭連合野は側頭連合野(記憶や認識を司る)に次いで老化が早い領域で(最も早い、というデータも最近になって出てきている)、身なりを気にしなくなったり「もてなくたっていい」と思い始めたら脳の老化を疑った方がいい。かくいう私も前頭連合野の老化が進んでいて、まだ中年だというのに身なりにも「もてること」にもほとんど関心がなくなってしまった。まあ、身なりを気にしてもいくら女の子を口説いても、一向にもてないので、老化というより「学習」のせいかもしれないが。ともあれ、私にはもてたいという願望はなくなってしまった。私の業界では「自分の研究する脳領域のはたらきこそまっさきに衰える」という定説(?)があるので、これは仕方がないことかもしれない。
しかし、前頭連合野にダメージを負ったりその機能が衰えた人はともあれ、たいていの人は「もてたい」という気持ちをもっているはずだ。そして、例によってこうしたことにしても生物学の言葉でかなり語れるようになってきた。先に述べたことも脳科学的な話なので生物学的な領域だが、もっと多くのことが生物学で解き明かされてきたのだ。従来は「もてる」「もてない」など、文学の世界か、あるいは、多少は心理学の問題だったのだが、今や生物学の問題でもあるのだ。しかも、それなりに研究は進んできていて、「もてる」ことの本質が少しずつだが解き明かされてきた。
†コワモテも均《なら》せば「いい男」[#「†コワモテも均《なら》せば「いい男」」はゴシック体]
まず、誰もが気にするのは「もてる顔」だろう。とくに女性にはその傾向が強いと思う。人類はいわゆるフィーメールチョイス(女性が男性を選ぶ)に加えて、メールチョイス(男性が女性を選ぶ)という性質をもっているので、男性のみならず女性も「もてたい」と思うし、その際には「顔」をどうしても気にしてしまう。
ちなみに、私たちが男女とも「もてたい」と思うのは、こうしたフィーメールチョイス+メールチョイスが人類の本質になっているからだ。他の哺乳類や鳥類ではフィーメールチョイスが多数派なので、この際にはメスは「もてたい」と思わぬはずだ(人類と相同な前頭連合野を欠いている場合、そもそも、そういった意識・未来志向性はないだろうが、ともあれ)。メスはもてようと思わぬ代わりに、オスの方はあの手この手でもてようとする。ライオンのタテガミも、クジャクやゴクラクチョウのゴージャスな羽根も、セイウチの大きな体も、ヘラジカの巨大な角も、マンドリルのカラフルな顔も、結局はオスがもてたいがためのもので、フィーメールチョイスの結果でもある。
ところが、人類ではメールチョイスも機能している。だから女性は容姿を気にする。とくに顔である。もちろん、男性だって気にする。では、もてる顔とはどんなものなのか? この問題には既に生物学的には答えが出ている。一言でいえば「平均顔」である。
こんな(有名な)話がある。凶悪犯罪を起こした男性の顔を合成して「超極悪顔」をつくろうとした研究者がいたのだ。一人一人の顔はまさにコワモテの悪人顔なので、多数の凶悪犯罪人の顔を合成して平均化すれば究極の極悪人顔ができると、まあ、考えたわけだ。ところが、そうして顔を合成して平均化させたところ、できあがったのはなんと「いい男」の顔だったので驚いてしまう(その研究者も大いに驚いたという)。超極悪人顔どころか、そこはかとなく魅力的で格好いい顔になってしまったのだ。
†もてる顔[#「†もてる顔」はゴシック体]
こうした研究をさらに体系化していったのがイギリスの脳科学者ペレットである。彼は美と脳との関係に興味をもち、まずは「美しい顔」「もてる顔」とはどんな顔か明らかにしようとした。そこで、成人女性の顔写真を何枚も集めて合成したりして、多くの人が一致して美しいと思う、つまり「もてる顔」とはどんな顔かを調べたのである。そこでわかったのが「平均顔がもっともよい」ということなのだ。多数の女性の顔を平均した顔である。こうした顔こそが、万人が認める「美しい顔」「もてる顔」なのだ。むろん、このことは女性の顔に限った話ではない。男性の顔でもやはり平均顔がもてる顔になる(ただし、男女ともに平均顔を少し幼くした方がもっとよい、ということがわかってきたが、大筋は変わらないし、話が複雑になるので詳細は省く)。
なぜ平均顔がもてるのだろう? 進化生物学的には「その方が安心できるから」という説がある。進化的に安定した集団の場合、あまり極端な個体は嫌われる傾向がある。自分の遺伝子を残してくれるかどうかわからないからだ。平均的であれば、そういったリスクは少なくなる。もちろん、場合によっては極端な個体ほどよい遺伝子をもっていて、よりよい遺伝子をより多く残せる場合があって、そういう状況では極端な個体が好まれる。しかし、進化的に安定した集団では平均的な個体の方が安心できる。それで、平均顔が好まれる、という説である。
しかし、実は、「平均顔が好まれる」という現象のウラにはもっと本質的なことが隠されているのだ。一言でいえば「調和」である。一人一人の顔はまさに個性的で、目や鼻、口などの大きさや位置関係は様々だが、それらが平均化されることで調和がとれてくる。極悪人の顔の一人一人がとんでもない顔でも、平均化してしまうと調和がとれてしまうわけだ。光の三原色や虹の七色をすべて混ぜると白になるのと似たようなものだ。この調和が「もてる顔」の要件なのだが、その調和の中でももっとも重要なのは実は「対称性」だということがわかってきた。
†シンメトリーほどもてる[#「†シンメトリーほどもてる」はゴシック体]
対称性、つまり左右のバランスがよい、ということだ。普通の人は顔の左右で多少なりともバランスが崩れている。右目の方が大きいとか、左の口元が右に比べて下がっているとか、いろいろである。多くの顔を平均化すると、こうしたアンバランスが相殺されて左右対称になる。すると「もてる顔」になるわけだ。個人個人をとっても、顔の左右のバランスをよくするとよりよい顔になることがわかっている。鏡を顔の中心線において、右顔、あるいは、左顔で左右対象顔をつくって見てほしい。本当の顔よりかなりいい顔になったはずだ。私も試してみたが、もとがダメなので、ちっともいい顔にならなかったが……。
個人差はあるとしても、左右対称性、これこそがもてる顔の要件のひとつなのである。左右のバランスがよいことを「シンメトリー」という。つまりシンメトリーな顔ほどよいわけだ。
さらに言えば、顔だけではなく、シンメトリーな身体をした人ほどもてることがわかっている。たとえば、左右の指の長さがシンメトリーなほど、男も女ももてるのでこれまたビックリしてしまう。指の長さが左右で対称であることなど、「もてる」「もてない」に関係するわけがないではないか、と私も思う。しかし、統計的に事実なので仕方がない。多数の人を対象にして指の長さのシンメトリーの程度と「もてる度」を調べたら、統計的に有意なデータが得られたのだ。男性で具体的にいえば、シンメトリーな人ほど性体験が早く、何人ものガールフレンドがいて、セックスがうまく精力的、女性をイカせるテクニックもよい、ということになる。女性にしても同様で、シンメトリーな身体をもった女性ほどもてるし、しかも子供の数も多いのだ。
シンメトリーなほどもてる、というのは何も私たち人間に限ったことではなく、他の動物でも確認されている。たとえばツバメ。ツバメのオスには左右に開いたV字型の立派な尾羽があるが、単に大きくて立派なだけではダメなのである。左右のバランスが重要で、シンメトリーな尾羽をもったツバメのオスほどもてる(メスを惹き付け交尾できる頻度が高い)というデータがあるのだ。
こうしたデータは大いに気になることで、私も左右の指のシンメトリー性を密かに調べてみたが、結果は推して知るべしで、私がもてないのは、前頭連合野の衰弱のせいだけではないことを確認した。もっとも、そんなことはわざわざ確認するまでもなく、「性体験が早く、何人ものガールフレンドがいて、セックスがうまく精力的、女性をイカせるテクニックもよい」などということからほど遠いのが私なので、ハナっからわかっていたが。
†なぜシンメトリーがよいか?[#「†なぜシンメトリーがよいか?」はゴシック体]
では、なぜシンメトリーなほどよいのだろう? 多くの研究を総合すると、要するに「繁殖力が強いから」ということになる。人間を含めた生き物にとってもっとも重要なのは、自分の遺伝子を次の世代に残すことだ。だから、どんな動物でも繁殖力が強い相手が好まれる。人間の男性でいえば、身体が強健で精力が強く精子も多い、妻や子供を守り育む体力と知力をもっている、といった感じである。女性ではやはり健康で、妊娠しやすく、子供をきちんと愛情をもって育てる、といった女性が「繁殖力が強い女性」になる。こうした繁殖力の強さとシンメトリーが密接に関係していることがわかったのである。シンメトリーな人ほど繁殖力が強い、だからもてる、というわけだ。
そもそもシンメトリーは個体発生と関係する。成長ホルモンや性ホルモンなどが十分に分泌されて良好に育つとシンメトリーになるらしい。シンメトリーな人ほど栄養もホルモンも良好な状態で育ったわけで、そのために繁殖力も強いということになるのだ。
さらに、おそらく脳のレベルでもバランスがよいと思われる。実際、左右脳のはたらきがアンバランスだと、様々な問題が起きる。統合失調症にしても左右脳のバランスが崩れているせいだという説がある。あるいは、子供の頃に虐待されたことによって、左右脳のバランスが崩れ人格障害になってしまうことがある、というデータもある。左右脳のバランスはそのくらい脳の正常な機能や人格に重要なのだ。
左右脳のバランスはとくに表情に表れる。たとえば、笑ったときに左の唇の方がより大きく上がる人が多いが、これは、右脳が情動的な脳で、笑うときにより強く活動して左顔の表情をつくるせいだ。顔や表情のそういった左右差があまりに大きい人は、左右脳がアンバランスである可能性があり、その場合、脳のはたらきになんらかの問題があるかもしれない。脳は内面、つまり性格や知能をつくる。シンメトリーな人は外見だけではなく内面もよく、それでいっそうもてるのかもしれない。
†もてる人はいい匂い[#「†もてる人はいい匂い」はゴシック体]
ここで、ちょっと疑問が出てくる。内面や顔に関しては、シンメトリーと「もてる度」との関係はまあ、肯ける。脳のはたらきがよくて性格や知能がよければもてるだろうし、顔がシンメトリーかどうかは見れば多少はわかるからだ。ただ、重要なのは脳や顔だけではない。むしろ身体のシンメトリーである。手の指のシンメトリーなど普通はチェックしないし、ぱっと見てわかるものでもない。にもかかわらず、もてるわけだ。なぜか?
ここでも脳がからんでくる。脳は相手がシンメトリーかどうかを、無意識のうちに見分けているようなのだ。そこでの鍵は嗅覚である。
私たち人類は「視覚動物」と言われるくらいに、視覚に頼った生活をしている。顔の形が問題になったりするのもそのせいだが、嗅覚もあなどれない。とくに性関係において。「もてる」「もてない」も、要は性関係と言ってよいだろう。次項で詳しく述べるが、嗅覚は性関係に密接に関わっているので、「もてる」「もてない」も嗅覚が深く関与している。
実はシンメトリーな人ほどよい匂いを出していて、それを脳が無意識に嗅ぎ分けているのである。シンメトリーな人がよい匂いを出すのは免疫力が強いせいだと言われている。いやな体臭は細菌の繁殖に起因することが多い(たとえば口臭やわきが)。免疫力が強いと細菌の繁殖が抑えられ、その結果、よい匂いを出すことになる。シンメトリーな人ほど免疫力が強く、だからこそ健康で繁殖力も強くなるわけだ。
†もてる、もてないは原始的な脳機能[#「†もてる、もてないは原始的な脳機能」はゴシック体]
匂いの情報は視覚と違って意識にのぼらないことが多い。私たちはシンメトリーな人を無意識にも匂いによって嗅ぎ分けているわけだ。匂い情報を処理する脳領域(嗅脳)はとても原始的なものだ。脊椎動物の進化の過程で最も早く生まれた感覚のひとつが嗅覚で、魚や爬虫類の脳などでは嗅脳が大部分を占めている。原始的な哺乳類でもそうだ。だから、「もてる」「もてない」というのは、要するにかなり原始的な脳機能によって担われていることになる。
もてない私などにすれば、我ながら納得のゆく結論である。「もてたい」という願望は前頭連合野という最も高度な脳領域が担う一方で、「もてる」「もてない」という現実はしょせん原始的な脳がつくっているにすぎない。最高度・最新と原始が共にからんでいるのは興味深いが、もてることなど大したことではないのである。原始的なのである、高等なことではないのである。もてなくても泰然としていればよろしい。
しかし……。つい「いい匂い」を身につけたくなる。そういえば、「異性にもてる香水」というのが売られている。触手を動かしたくなるが、そんな裏ワザまで使ってももてなかったら……と思うと怖くて使えない。
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匂いとセックスの深い関係[#「匂いとセックスの深い関係」はゴシック体]
†匂いは無意識下で人を操る[#「†匂いは無意識下で人を操る」はゴシック体]
「マドレーヌをかじると思い出が広がる」
有名なプルーストの『失われた時を求めて』の冒頭の一節である。
匂いというのは、私たちの五感の中で、ついないがしろにされがちな感覚だが、日常生活などで大きな役割をもっている。たとえば、プルーストの小説のように、記憶と深い関係をもっていて、香りから記憶が鮮やかに蘇ることがある。ふと漂ってきた香水の香りから昔の女性との関係を思い出したり、あるいは女性の場合では、見知らぬ男性の髪の匂いから、つい過去の男性を思い出してしまいもの思いにふける……、といったことも時々起きたりするだろう。
ただし、前項で軽く触れたように、嗅覚というのはとても原始的な感覚である。実際、大昔の哺乳類では嗅覚がおもな感覚だった。
哺乳類が生まれたのは今からおよそ二億年前だが、しばらくは夜行性だった。つまり、昼間に寝て夜に起き、その辺をうろうろして虫などを食べるといった生活をしていたわけだ。そんな生活では見ること(視覚)よりも、むしろ匂いが重要である。そのため、昔の哺乳類は、嗅覚がとても発達していた。そして、恐竜類が跋扈《ばつこ》する世界のまさに「日陰者」として生きていた。
ところが、隕石が地球に衝突して、事態は一変した。隕石が地球にぶつかったおかげで恐竜類は絶滅してしまい、それまで日陰者だった哺乳類は昼間でも活動するようになった。私たちヒトの祖先のサルたちもそうで、昼間に森林で暮らすようになったわけである。そのおかげで、嗅覚よりも視覚が大切になって、嗅覚はどんどん退化してしまった。
ところが、退化したとはいえ、嗅覚は原始的な感覚として私たちでも重要なはたらきをしている。この感覚情報だけは(原始的なせいで)、大脳に直接に入ってくる。視覚を初めとした他の感覚情報はすべて、視床という領域(大脳の底の方にある)を介して間接的に大脳に入ってくる。意識の形成には実は視床と大脳の間の神経連絡が不可欠なのだが、嗅覚情報の場合、視床の介在なしに直接に大脳に入ってくるわけで、そのせいもあって、意識にのぼらないところで、人間の行動を密かに操っている。とくに、動物的な行動(?)としてのセックスには匂いはとても重要な役割をしているのである。
†匂いは性行動を支配する[#「†匂いは性行動を支配する」はゴシック体]
そもそも多くの動物にとって匂いはセックスと深く結びついていて、まさに中心的な役割を担っている。たとえばイヌ。オスとメスが出会うと、オスはさかんにメスの性器の匂いをかぐ。外見なんてどうでもよくて、セントバーナードのオスがチワワのメスに、匂いのせいで興味をもったりする。これほど体格差があればセックスはできないが、それでも匂いのせいで誘惑されてしまうわけだ。
人間の場合は、視覚がとても発達しているので、まずは外見が重要な要素になっている。魅力的な女性というと、外見が云々されがちである。しかし、見た目だけが重要なのではなく、とくにセックスでは匂いもかなり重要な鍵を握っているのだ。
女性の皆さんはこんな経験がないだろうか? 生理の時は、なぜか誘惑されることがなくセックスに至ることもない。その反面、排卵日頃には誘惑されることが多いし、セックスに及ぶ頻度も高い、といったような経験である。とくに、生理のときに(そうだと言っていないのに)カレシからのセックスの誘いがなかったりする……。
生理のときは女性だってセックスはしたくないので(例外の方もいるが)、その態度がカレシに伝わって、カレシもセックスをしようと思わないのかもしれない。それも多少あろうが、実は匂いのせいなのである。
生理中には女性は独特の匂いを出している。それほど強い匂いではないので、意識にのぼらないことがほとんどだが、その匂いをかいだ男性は性欲をあまり抱かなくなる。そのため、生理中の女性とセックスする気持ちにならない傾向があるのだ。
匂いはこうしたところでも性行動を(無意識のうちにも)操っているわけだ。では、なぜ生理中の女性の匂いによって男性は性欲が減退するのだろう?
†オスは排卵日を嗅ぎ分ける[#「†オスは排卵日を嗅ぎ分ける」はゴシック体]
セックスをしても楽しくないから、そんなことは当たり前、と思われるかもしれない。たしかに生理中ではセックスはあまり(普通は)楽しいものとはいえないし、そもそも女性の方から拒むことも多いだろう。だが、事前に拒まれなくても男性は匂いを無意識にも感じて性欲を減退させてしまう傾向がある。なぜか?
この問題には、男と女の本質的な関係、大げさにいえば数千万年にも及ぶ長い歴史的関係が横たわっているのである。このことを男性の側から見てみよう。
そもそも生物にとって最も重要な目的は自分の子供を残すことである。つまり、自分の遺伝子をうまく残すことが最重要な目標である。恋愛にしろセックスにしろ、この目的がベースとしてある(人間の場合には、セックスは快楽のため、といった要素も大きいが、実はそれもこの目的から説明できることだ)。
自分の遺伝子をうまく残すには、男性から見れば、なるべくは相手が排卵する頃にセックスをするのがよい。その方が妊娠しやすいからだ。サルなんかでも、地位が高く力の強いサルは、なるべく排卵前後のメスとセックスするように策を練っている。
逆にいえば、相手が妊娠しにくい日にわざわざセックスするのは避けようとする。とくにゼッタイに妊娠しない日にセックスするのはエネルギーの無駄。そうは意識しなくても、何千万年間も続いてきた歴史のなせるわざで、つい避けようとする。その際、外見からではわかりづらいので、匂いが鍵になる。生理前や生理中は妊娠する確率が低い。その際に女性が発する独特の匂いを嗅いで、男性は性欲を落としてしまうというわけだ。
†フェロモン[#「†フェロモン」はゴシック体]
男性が女性の匂いを嗅ぎ分けて、「自分の遺伝子を残す」という策をめぐらす一方で、女性も「いい男」の匂いを嗅ぎ分けて、なるべく優秀な男性の精子を得ようとする策をめぐらしている。その際鍵になるのがフェロモンである。
『ファーブル昆虫記』のエピソードにこんなものがある。メスの蛾をたまたま採集したファーブルがその蛾を虫かごに入れておいた。すると、夜になって、何十何百もの同種のオスの蛾がその虫かごの周りに集まってきた、という話である。この場合、かごのまわりをビニールなどで覆ってはダメだ。視覚でメスを探すのではないからだ。オスの蛾は、眼ではなく、メスの発する匂いを頼りに群がってくるのだ。
この匂いが有名な「フェロモン」である。フェロモンそのものは二〇世紀になってから確認されたが、動物の世界ではメスがオスを誘引する際に多用されている。逆にオスがメスを誘う際にも使われることがある。「ジャコウ」という匂い物質がある。これは、ジャコウジカの下腹部にある「麝香腺《じやこうせん》」という組織を乾燥して得られる香料だ。紫褐色の粉末で芳香がきわめて強く、強心剤、気つけ薬など種々の薬料としても用いられている。「ムスク」として香水にも使われるが、元々はオスがメスを誘引するフェロモンである。
匂いは原始的だが重要な感覚で、動物ではとくに性行動と密接に結びついていると述べたが、フェロモンはその最たるもので、メスがオスを誘引したり、その逆に、オスがメスを魅惑するために動物界では広く用いられている匂い物質である。
†いい男からいいフェロモン[#「†いい男からいいフェロモン」はゴシック体]
では私たち人間の場合はどうだろう? 人間の場合、匂いの感覚はとても退化している。人間はその進化の過程で視覚をとくに豊かに発達させてきた。その代償というべきか、匂いの能力はかなり退化してしまっている。そのためもあって、人間にはフェロモンなどないと長らく信じられてきた。しかし、最近になって、人間でもフェロモンが重要なはたらきをしていることがわかってきたのである。
人間の場合、とくにはっきりしているのは男性のフェロモンである。まだ確定されているわけではないが、「アンドロスタノール」と呼ばれる物質(正確には「アンドロスタノール誘導体」という化合物)が男性フェロモンらしい。余談だが、この物質を利用した「女性誘惑香水」なるものが製品化されている。この香水はかなり効果があるようで、女性をくどく際に利用すると「落とし率」は格段にアップするという。私は試していないので(試す気もないけど)、真偽は定かではないが……(しかし本書には余談が多いなぁ。余談だけ集めて「脳余談噺」てな本でも書こうかなぁ――余《2》談)
「落とし率アップ法」というテーマに代えたい誘惑にかられてきたが(秘策はアンドロスタノール以外にもいろいろあるのだ……)、ともあれ本題に戻ると、男性が出すフェロモンは、アンドロスタノールが主体なものの、様々あるようだ(現時点では、男性の体から分泌される匂い物質を総称して男性フェロモンと呼ぶ)。年齢によっては出さないこともある。これはまあ当然で、小学生の男の子がフェロモンを出していたらちょっと気持ち悪い。
哺乳類では多くの場合フェロモンは汗腺から汗とともに出される。人間でも同様に、脇の下とか陰部でフェロモンは特に多い(汗腺が多くて、汗をたくさんかくところなので)。だが、全ての男性がいい香りのフェロモンをたくさん出しているわけではなく、これまでの多数のデータを総合すると、要するに「いい男」がいい香りのフェロモンを多く出しているようなのだ。
ここでいう「いい男」とは、生物学的なものいいで、優秀な遺伝子をもっている男性のことだ。男性として背格好が適当(たとえば筋肉質で背が高い)。社交的で精力的、女性に優しい。生殖能力も抜群でセックスもうまい。そして、頭がよい。とくに、頭がよくセックスがうまい男性ほどいい香りのフェロモンを多く出しているようだ。
†フェロモンを嗅ぎ分けるタイミング[#「†フェロモンを嗅ぎ分けるタイミング」はゴシック体]
となれば、女性としてはそんな男性をまさに嗅ぎ当てる必要がある。いや、わざわざ断るまでもなく、こういう男性の方が結婚相手やセックスパートナーとしてよいわけだから、女性も本能的に嗅ぎ分けるはずだ。
しかし、必ずしもそうではないので話はやっかいだ。人間の嗅覚は退化して鈍感になっているので、それ相応の工夫というかタイミングが必要なのだ。まず、(唐突だが)ピルの服用はダメである。ピルを服用すると男性のよいフェロモンを嗅ぎ分ける能力が激減する。排卵が抑えられるせいだ。ピルは女性ホルモンを人工的に操作して排卵を抑える薬であるが、排卵そのものがなくなると、嗅ぎ分ける能力は劣ってしまう。
そう、男性のよいフェロモンを嗅ぎ分ける能力が高まるのは、排卵日前後、とくに、その二〜三日前の最も妊娠しやすい時なのである。つまり、子供が最もできそうなときにいい男を嗅ぎ分けてセックスし、いい子種(遺伝子)をもらおうというわけだ。
†乱婚が人間の本質?[#「†乱婚が人間の本質?」はゴシック体]
さて、以上の話を総合するとどうなるのか? 少なくとも匂いという原始的な感覚のレベルでは私たち人類は「乱婚」が本質になっている、ということである。ちょっと唐突な感がしないでもないが、筋は通っている(ハズ)ので、話を続けたい。
かりに一夫一妻がリジッドなものであれば、一度、結婚してしまえば、排卵日を嗅ぎ分けたり、いい男のフェロモンを嗅ぎ分けたりする必要はない。その嗅ぎ分けは結婚するときに重要かもしれないが、相手を選ぶのは排卵日前だけとは限らないし、そこそこに長い時間をかけて選ぶはずだ。
ところが、そうではなく、よいフェロモンを嗅ぎ分けていい男をゲットするタイミングが決まっているということは、夫がいても、それでもいい男の精子を得ようとする女性の進化戦略なのである。実際、こうしたことを研究する学問(人間進化生態学)の世界でも、人間の女性は本来、マルチメーティングする、平たく言えば、浮気をする(そして夫以外のいい男の子供をつくって夫に面倒をみさせる)というのが基本的性質でないか、とも言われてきている(イギリスでは既婚女性の具体的な浮気率まで判明している。その値はある理由で年齢ないし結婚年数に伴って上昇し、五〜一〇パーセントである――ただし、このデータは四〇歳頃までのもので、その後は不明)。そして、もちろん男の方もマルチメーティングが本性である。
というわけで、少なくとも原始的な(意識下のレベルでは)私たち人類は男も女も自由勝手に浮気をするような「乱婚」が本質なのかもしれないのだ。この観点からみると、たとえば「不倫専用出会い系サイト」での書き込みなどは大いに納得がゆくというもので、興味ある方は一度覗いてみてはいかがだろうか(わが国の結婚制度が乱婚制に改変したのかと錯覚するほどの凄まじさである――まあ、九割がたウソかサクラだろうが)。
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男は男に生まれるのではない[#「男は男に生まれるのではない」はゴシック体]
†原型は女[#「†原型は女」はゴシック体]
かのボーヴォワールは「女は女に生まれるのではない。女になるのだ」と言った。
その思想的な主旨をあえて無視していえば(彼女にはわるいが)、これはむしろ男にこそ当てはまる言葉だ。というのは、人間の「原型」は女性で、遺伝的に男となるはずの胎児は、そのままでは男にならないで、発生の過程(母胎内での胎児の頃)での「大きな出来事」によって男になるからだ。「男は男に生まれるのではない、男になる」わけだ。だから場合によっては、男性は「女性化」してしまいかねない。
実際のところ男性が男化するのは大変である(女性が女化するのも多少はそうだが)。人間の原型は女なので、それ相応のことが母胎内での発生の過程で起きなければならない。その「出来事」が、いわゆる「男性ホルモンのシャワー」である。母胎内で、母親から豊富な男性ホルモンが出て男の胎児の脳に作用することでその胎児は男化する。女の胎児はこうした出来事がなくても女性になり得る一方で、男になるにはこのホルモンシャワーが是非とも必要なのだ。このシャワーがないと、厳密には男になれないし、従ってまた、男女間での差、性差も出てこない。
†脳にも性差がある[#「†脳にも性差がある」はゴシック体]
男女間の性差はもちろん性器で顕著だ。体格でも比較的性差がはっきりしているが、脳でもかなりの性差が(主にホルモンシャワーによって)つくられる。とくにはっきりしているのは性行動に関係する脳部位だ。たとえば、能動的な性行動に関わる視床下部の一部は男性の方が女性よりも大きく発達している。
大脳のように、知能や心と深く関係する脳領域でも性差はある。なかでも「脳梁」の性差がはっきりしている。脳梁は左右の大脳をつないでいる神経線維(軸索)の集まりのことだ。この大きさや形が男女で違うのである。大きさについては異論もあるものの、女性のほうが大きいというデータが多い。形に関してはもっとはっきりしていて、脳梁のとくに後ろの方が違っており、女性では男性に比べてより丸みをおびている。
脳梁は左右脳の連絡役なので、このことは左右脳の「使い分け」に性による差があることを意味する。左右の脳には多少なりとも分業がある。たとえば、言語や論理は左脳が得意な一方で、右脳は空間情報やイメージの処理に優れている。こうした左右脳の分業が女性では男性ほどはっきりしておらず、左右どちらの脳でも言語も空間情報もそこそこに処理しているらしいのだ。このことは従来から(脳内ダメージを受けた患者さんでの臨床データなどから)推察されてきたことだが、脳イメージング法による研究でも、女性では左右脳のどちらも言語を扱うこと(そして男性ではやはり左脳が優位であること)が実証された(ただし個人差もかなりある)。
脳に性差があれば、当然ながら知的能力でも男女差が出てくる。たとえば、言葉の流暢性や連想能力(言語的IQ)を調べると、女性の方が男性よりも優れているのが普通だ。テストによっては、女性の方が平均して二倍も優れている。
男性の名誉のために(?)付け加えると、空間的な認知能力や数学に関しては、男性の方が優る傾向がある。このことは数学が得意な男女に限って調べても同様で、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)の学生での有名なデータがある。MITに入学するくらいだから、数学はずば抜けてできる。そんな男女学生で数学テストをしても、やはり平均すると男性の成績がよい。最高点の女性よりも優秀な成績を示す男性もかなり現れる。
ただし、こうした能力での性差はあくまでも平均・統計的なもので、個人差(バリエーション)もかなりある。大多数の男性よりもすぐれた数学的能力を示す女性は実在するし、大半の女性よりも言葉の能力が際立った男性だっている。ただし、統計的には意味があるので、能力での性差が存在することは疑いない(現時点ではなんと五〇以上の能力・性質に関して有意な性差が確認されている)。
†思春期は脳の性差のクリティカル・ポイント[#「†思春期は脳の性差のクリティカル・ポイント」はゴシック体]
こうした性差をつくる上で重要なのは、胎児の頃の母胎内環境だけではない。ホルモンとの関係でいえば、やはり思春期での環境が重要だ。この頃に性ホルモンの分泌が高まり、大脳にも性ホルモン用の受容体が豊富につくられるからだ。そのため、思春期では、とくに性に関してそれ相応の環境や教育が必要とされる。そうしないと「性関係のための脳力」はきちんと発達しない。
性関係をあなどってはいけない(誰もあなどってないか)。この関係を適切に行なうのも重要な脳力であり、進化的な裏付けも厳然としてある(人類の脳進化には「適切な性関係を営む」という要因が大きくはたらいてきた)。性ホルモンの分泌がドラスティックに高まる思春期には、この性的脳力が発達する――というか、適切に発達させる必要がある。学校の勉強もおろそかにできないけれど、「それどころではない」と言いたいほどだ。この頃に適当な環境や教育がないと、その後の性的脳力は十分に発達せず、性行動はギクシャクしたものになりかねない。私見では、ストーカーまがいの性行動が出てくる淵源のひとつはここにある。
とはいえ、思春期以降での性的脳力のベースをつくるという点でも、胎児期での環境の重要性は強調してもしすぎることはない。この頃の環境は、脳の性差はもとより、思春期以降での性的脳力にまさに決定的(critical) な影響を及ぼす。端的に、その環境によって、性的指向が運命づけられる。性的指向のひとつとして、同性愛になる可能性もでてくる。
完璧な同性愛は率直にいって(生物学的に見て)よくない(いわゆる「両刀使い」ならOKだが)。もちろん、ここで同性愛を思想的あるいは社会科学的に云々するつもりはない。性的指向は多様なので、同性愛があってもかまわないと個人的には思っている。そんな私的な思い以前に、同性愛者は多数実在しており、様々な権利を主張しているのが現実だ。ただ、全ての人が同性愛(完璧な)になると人類は滅んでしまう。「生物としてのヒト」という観点から見れば、同性愛は本筋ではない。
†脳の「男化」とホルモンシャワー[#「†脳の「男化」とホルモンシャワー」はゴシック体]
「同性愛は本筋ではない」と述べたが、同性愛者のなかには、自分の生物学的な性と自ら認知している性が異なっている、つまり性同一性障害と言われる人びとがいる。これは、母胎内での特殊な環境によるものと言われている。たとえば「母親が妊娠中に強いストレスにさらされる」という環境である。
先述のように、男の胎児は母胎内で「男性ホルモンのシャワー」を浴びることによって男になる。ところが、母親が強いストレスを受けると、母胎内で男性ホルモンが十分に分泌されないことがある。そのため、男の胎児の脳は(ホルモンシャワーを浴びられないので)男の脳として十分に発達しなくなる。生まれてからの行動も女の子のようで、人形遊びやままごとを好んだりする。自分でも、自分は女だと思っているので、男の子的な遊びには違和感をもつようだ。
逆に、遺伝的に女になるはずの胎児が、やはりストレスなどで、母親の血中に一定以上の男性ホルモンがたまたまあると、生まれてきた子供はオテンバになり、人形遊びなど女の子が好む遊びに興味を見せなくなる。そして、やはり、性同一性障害になりやすくなる。ただし、胎児の「原型」は女性なので、本格的に男性化する女性は比較的少ない――危ういのは男なのだ。
ほとんど全ての脳力にとって幼少期の環境・教育が重要な影響を及ぼすことはよく知られた事実だが、こと性的脳力に関しては胎児のときの環境――母胎内環境――が最重要なのである(次いで思春期)。だから、母親は妊娠中に「適切な環境」(少なくともストレスがあまりかからない環境)で過ごす必要がある。
ただし、ここでやや虚しいことを言うしかないのだが、個々人の努力だけでは「適切な母胎内環境」を維持できないのでまいってしまう。父親を始めとした周りの人たちが努力して、妊婦にストレスを感じさせないようにしたり、極力優しくするということは大きな意味がある。妊婦ほど大切に扱うべき人はちょっと他にいないと思う(そして、多くの人は無意識にもそうしているはずだ)。
だが、そのように扱って妊婦にストレスをかけないようにしても、無駄なことがあるので虚しいのだ。例の「環境ホルモン(外来性内分泌攪乱物質)」である。この問題は既に各方面から言及されているので多言は要しまい。環境ホルモンが胎児に悪影響を及ぼすことで、生殖器のみならず脳の性的特徴も変化してしまう。生物学的性と脳の性が異なってしまう事態が、環境ホルモンのおかげでいとも簡単につくられかねないのだ(ただし、爬虫類や魚類ではともあれ、人間における環境ホルモンの影響に関してはまだ十分にわかっておらず、異論もある)。
†同性愛遺伝子[#「†同性愛遺伝子」はゴシック体]
脳の性差にしろ性的脳力にしろ、それらは遡れば胎児の頃(ついで思春期)での環境に大きく影響されている。このことはかなり正しいとはいえ、話はこれで終わるわけではないのでややこしい。遺伝要因もあるからだ。
生き物の様々な性質(形態や行動など)には、遺伝要因が(その程度は様々だが)関与する。ほとんど全ての脳力に関しても同様に遺伝要因が関与する。この原則は、当然ながら、性差・性的脳力にも当てはまる。
性に遺伝要因が深く関与するのは自明だ。つまり、性染色体(X染色体とY染色体)の組み合せで男女はほぼ決まる(XXは女性、XYは男性)。ホルモンシャワーやそれに影響を及ぼすストレスなどの環境要因が相当な重みをもつとはいえ、遺伝的ベースがなければ性も性差も形成されないことは言うまでもない。
だから、というのは飛躍した言い方かもしれないが、「男として女性を求める」「女として男性を求める」という遺伝的ベース以外に、「同性を求め、愛する」という同性愛の遺伝的ベースもあってしかるべきなのだ。そして、これはその通りらしい。たとえば、同性愛になりがちな家系がある(その全てのメンバーが「完璧な同性愛者」ではないが――その場合、「家系」そのものが失われてしまうので)。あるいは、一卵性双生児(遺伝的に同一)の一方が同性愛者だと、他方も(里子に出されたりして異なった環境に育っても)同性愛になる傾向が強い。
こうしたことから、同性愛にも遺伝的な要因があって、同性愛に関与する遺伝子があることが推察(ある研究データによると断定)されている。「同性愛にする遺伝子」をもっていれば、母親が妊娠中に「適切な環境」に置かれても、胎児は同性愛者として生まれ育ち、思春期以降になって「本格的な同性愛者」になる可能性が高いのだ。
†同性愛者は推定できる[#「†同性愛者は推定できる」はゴシック体]
環境要因によるにしろ、遺伝要因によるにしろ、同性愛には当然ながら脳レベルでのベースがある。本格的な同性愛者の脳は男と女の中間型を示すのである。たとえば脳梁の形態が中間(中性)的だ。だから、脳梁の形を脳イメージング法で調べれば、その人が同性愛者かどうか推定できてしまう――実生活で仮に異性愛者であったとしても、いわば「潜在的な同性愛者」かどうかを。
また、遺伝子レベルでの研究が進めば、ゲノム(一連の遺伝子群)を調べることで、「同性愛遺伝子」をもっているかを、生まれる前から同定できてしまう。もちろん、生まれてからも、いつでも、おそらく簡単な「ゲノム検査」で。
異性愛か同性愛かどうかは、個人レベルでは大した問題ではないし、同性愛をする自由は当然ながらある。他人がとやかく言うことでもない。ただ、「同性愛になる脳」が遺伝や環境要因によってつくられること、あるいは、「潜在的な同性愛者」が推定できることは、脳科学の世界ではほぼ確立した事実なのである。
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第3章 脳教育の必然
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「心の無理論」が社会を滅ぼす[#「「心の無理論」が社会を滅ぼす」はゴシック体]
†人類の心の中心とは何か?[#「†人類の心の中心とは何か?」はゴシック体]
いきなり大きな問題を掲げて申し訳ないが、脳科学においても「人類にとって最も中心的な心のはたらき」はとても気になるところである。人類の心の謎を解くことを密かに人生の目的としている私にしても、もちろんそうだ。
いうまでもなく、心の中心は「自我」である。それは確かとして、ここで問題にしたいのは、自我のはたらきの中でも人類にとって最も中心的なはたらきである。自我の基本的なはたらきは、萌芽的とはいえ他の霊長類(正確には真猿類)ももっている。あまたいる霊長類、あるいは、多様な生き物の中で人間だけがもっていて、かつ、中心的とみなし得る心のはたらきとはなんなのだろう?
言語はそのひとつである。このことは疑いないことで、思考を含めた言語使用は人類の心的活動の中心になっている。しかし、言語使用だけが心の中心ではあるまい。言語以外に、あるいは、言語と結びついた形で「心の中心的なはたらき」があるはずだ。それは何か?
この(かなり大それた)問題に関しても、つい最近思い当たることがあった(この頃、ワリと冴えているのだ)。しかも、その問題は、今の社会に見られる「ちょっとあぶない人々(とくに若者たち)」を理解する上でも鍵となるものなのである。
†心の理論[#「†心の理論」はゴシック体]
結論から述べれば、「心の理論(Theory of Mind)」こそが人間の心の中心的なはたらきだといってよいと思う。少なくともそのひとつである。
心の理論というのは、元来は認知心理学のタームである。例によって、簡単なことをわざと難しく言っている感があって、「心の理解」と言えばすむかもしれない。つまり、他者の心を理解できる(推測できる、感情移入できる)能力が心の理論である。ただし、心理学では、私たちはそれぞれ相手の心に関する理論、いわば、「モデル」をもっていて、そのせいで相手の心が理解できると考えるので、あえて、「心の理論」というわけだ。「心の理解」でもよいが、ここでは心理学に敬意を払って「心の理論」というタームを使うことにしよう(最近では「心の理論」の代わりに「マインド・リーディング(mind reading)」と表記記載する論文も増えているが)。
心の理論は人類にかなり固有のものだ。チンパンジーも多少なりとも心の理論をもっているという意見があるが、少数派である。はっきりとした心の理論をもっているのは、人類だけだと考えてよい。この点では、心の理論は人類に「固有」と、まあ、見なしてよい。
人類に固有であっても、心の中心とはもちろん言えない。だが、心の理論こそが、私たち人類の心の中核であると私は思う。少なくとも、中核の一部をなしていることはまちがいあるまい。
そう考える理由は大きく三つある。まず、心の理論は自我のはたらきに不可欠である、という点があげられる。自我は他者との関係の中で初めて「自我」たりえる。他者の心を理解することは、だから、自我が成立する要である。
第二に、心の理論は前頭連合野のはたらきであることだ。前頭連合野は、ヒトで最も発達した脳領域である(大脳に占める割合――ヒトで三〇パーセント弱――は、ヒトと最も近縁な現生霊長類であるチンパンジーと大差ないという説もあるが、大きさはチンパンジーの六倍もある)。前頭連合野の機能こそが、人間精神の中心を占めていて、自我もここにいる。自我がいるので当然かもしれないが、心の理論は前頭連合野のはたらきの一種である。たとえば、ある場面の写真を被験者に見せて、写真の人の気持ちを推論するテストを行なう。すると、前頭連合野の一部が活動するのだ。
心の理論が自我に不可欠で、また、前頭連合野のはたらきだからといって、「中心的」だと断言できるわけではない。そう見なすためには、やはり人類進化の過程を見る必要があろう。そういった進化的な観点から見たのが、第三の理由である。
†なぜヒトの脳は大きくなったのか[#「†なぜヒトの脳は大きくなったのか」はゴシック体]
ヒトの脳が豊かに発達していることは誰もが認めることだ。とはいえ、初めから大きかったわけではない(当たり前か)。ヒトがチンパンジー類の系統から分かれて独自な道を歩み始めたのは六五〇万年ほど前だが、初期のヒト科霊長類(アウディピテクスやアウストラロピテクス)の脳の大きさは、チンパンジーやゴリラと大差なかった。ヒトの脳が爆発的に拡大し始めたのはおよそ二五〇万年前(ホモ・ハビリスが現れたとき)である。この頃から脳は急速に大きくなり始め、ここ二五〇万年ほどの間に脳は三倍も拡大した。前頭連合野にいたっては六倍も大きくなったのだ。
なぜこれほどまでにヒトの脳は大きくなったのだろう? これには、言語が鍵を握っている。人類の特徴として強調すべきものは先述のように「言語」である。このことはヒトと最も近縁なチンパンジー類と比較すると浮かび上ってくる。彼らとヒトとの間で最もはっきりした違いは明らかに言語能力である。他の脳力は多くの場合、あまり大差ない。記憶やパターン認識などは(言語を使わない場合には)大学院生でも適《かな》わないという実験データもある。脳レベルで見ても、視覚野や運動野などのかなりの脳領域では大きな違いはない。
ところが、言語能力とそれに関連した脳領域(言語性領野)ははっきりと異なっている。チンパンジー類(とくにボノボ)も訓練すれば「言語」を少しは使えるようになるものの、その能力はヒトにははるかに及ばない。言語性領野にしてもチンパンジーは萌芽的にもつにすぎず、ヒトの言語性領野は突出して発達しているし、その数も多い。
こうしてみると、「言語の獲得」が引き金となって、ヒトの脳は爆発的に拡大したと考えるべきだろう。脳が大きくなったから言語を獲得したのではなく、言語の獲得によって脳の拡大への引き金がひかれたのである。「脳の発達→言語獲得」ではなく「言語獲得→脳の発達」という順番だ。チンパンジー類の脳がさほど発達しなかったのは、ヒト並みの言語を獲得しなかったせいにちがいない。
†シンボル操作としての言語[#「†シンボル操作としての言語」はゴシック体]
では、なぜヒトの系統では言語が獲得されたのだろうか? これは進化生態学における大問題でもあるので、ここでは深入りしない。ただ、一言だけ私見を述べておけば、「男女間の絆を維持するため」に、対面性交位(正常位)のような意味合いで獲得されたと私は考えている(「言語=脳活動の正常位」説)。
この説の真偽はともあれ、言語が獲得されることによって革新的なことが起きた。対象のシンボル化である。言語にはコミュニケーションの手段としての側面もあるが、より重要で本質的な機能は、対象をシンボル化して操作すること、つまり思考し理解することである。これこそが言語の本質だ。
シンボル操作としての言語機能は様々な場面ではたらくが、もっとも威力を発揮するのは、男女関係を含めた社会関係である。その際に中心になるのは、相手の心の中(意図や考えなど)だ。相手の心をシンボル化して操作すること(思考・理解)は、社会関係を適切に処理する上で強力無比な手段となることは明らかだ。つまり、心の理論である。しかも、社会関係が脳進化に決定的な役割をもつことは私のものを含めた諸研究でわかっている。こうして、心の理論を(言語の獲得を介して)獲得し、そのせいで、ヒトの脳は爆発的に拡大進化することになった……。
ヒトの人たる所以は言うまでもなく、著しく拡大した脳であり言語使用である。かくして、ヒトの脳の進化的履歴を踏まえれば、言語による心の理論こそが、私たち人類の中核(の一部)であるということになる。
†周りに目が行かない[#「†周りに目が行かない」はゴシック体]
人類の心の中核(の一部)が心の理論にある、ということは納得してもらえたと思う。ただし、私がそう考えるに至ったのは、こうしたかなりロジカルな(?)議論の末ではないので、少し情けない。昨今の若者たちの言動を見ていて、ふと気づいたのだ。
近頃の若者たち……。私がここであえて指摘するまでもなく、ちょっとオカシイというかアブナイ。近頃の若者たちで目立つのは、周りの目を気にしない行動だ。人目を気にしないで路上でキスする、駅で着替える。あるいは電車の中で平然と化粧し、あたりかまわず携帯電話で私生活を暴露する。さらには、授業中に悠々とパンをかじったり、せっせとメールしたりする。研究室の学生たちも、こちらの状況や心境にお構いなく、自分勝手な要求をいきなり突きつける……。
彼らに共通しているのは何か? とつらつら考えて思ったのが、心の理論に関することなのだ。彼らは人間として必要な何かを欠いているように見える。恥とか礼儀とか気遣いとか……。いろいろあげられるが、要は「他者の気持ちがわからない」ということではないか。他者の気持ちがわからないから、周囲の視線を無視して勝手な行ないをする(普通の人では、相手の「視線」によって心を推測する際にも前頭連合野が活動することがわかっている)。コミュニケーションも希薄になって、語彙も貧弱。到底、他人の気持ちを理解しているとは思えない。そこで、「要するに」と思い至ったわけだ。「彼らには心の理論が欠けているのではないか」と。
もちろん、心の理論の欠如、いわば「心の無理論」だけで、彼らの言動を理解したり説明できたりするわけではない。とはいえ、心の無理論が彼らを蝕んでいるのは確かだと思う。どうしてだろう? そこで浮かび上がってくるのは、幼少期の環境である。
†人間性の喪失としての「心の無理論」[#「†人間性の喪失としての「心の無理論」」はゴシック体]
心の理論が人類を特徴づける言語と結びついているとしたら、そして、それが人類の心の中核をなしているとしたら、心の理論は当然ながら言語と似た性質をもつ。
たとえば遺伝性である。誰もが(ごく少数の例外を除いて)言語能力を遺伝的にもっている。どんな言語を使うかは環境に依存するが、言語能力そのものは遺伝的なものだ。同様にして心の理論も遺伝する。このことは、心の理論を遺伝的に欠いている方々がいることからも肯ける。
言語は遺伝的なものだとはいえ、幼少期の環境によっては、言語は十分に発達しない。このことの実例は多くあるのでここでは述べないが、一二歳くらいまでに適切な言語環境にさらされないと、言語をうまく使えなくなってしまう。心の理論に関しても同じことが言える。心の理論は言語と密接に関係し、進化してきたからだ。幼少期にそれなりの環境の中でそれ相応の体験をしないと心の理論は十分に発達しない。そして、心の無理論をかかえたまま成人してしまう。「傍若無人な若者たち」は、その成れの果てではないか?
このことは、実は、大きな意味をもっている。「傍若無人の若者たち」を説明するなんてことは、実はまあ、どうでもよいことだ。強調すべきことは、心の無理論はその本質上、人間性(人間らしい心・人類の心の中心)の喪失だということだ。これは決して看過できるものではない。
相手の心がわからないことは、言語をうまく使えない以上に、深刻な事態になりかねない。これは、ちょっと想像しただけでも恐ろしいことで、たとえば、青少年による凶悪犯罪の根っこには心の無理論があるのではないか? 相手の心がわからない(あるいは勝手な推測をする)から、他者を平気でいじめたり、傷つけたり、あるいは殺したりできる……。相手を追い込む悪質なストーカー行為にしてもそうだ。性関係を含めた社会関係をうまく行なうために心の理論は進化してきたのだ。それが、幼少期の不適切な環境・教育のせいで欠如し、心の無理論を抱えた人々が増えたら……。想像するだにおぞましい。
†心の無理論こそ「バカの壁」[#「†心の無理論こそ「バカの壁」」はゴシック体]
しかし、時代は明らかに心の無理論を助長する方向に向かっている。言語能力の発達や教育に関しては親も教師も気を配るが、心の理論に関しては、これまでほとんど無視してきた。しかも、心の理論は言葉で教えれば発達するものではなく、それ相応の環境と実体験が必要だ。したがって、時間もかかる。その具体的なことはここでは述べないが、現代日本ではそういった環境と経験はほとんど崩れ去っている。
人間性の喪失としての心の無理論は今後、ますますはびこることだろう。人間関係も社会も荒む一方で、私たちはそれこそ「バカの壁」に一人孤独に囲まれたように生きるしかなくなってゆくだろう(養老孟司先生の『バカの壁』が大ベストセラーになったのは、心の無理論の蔓延に多くの人が感づいてきたせいだと私は思っている)。そして、さらには社会の崩壊にまで至りかねない。少子化の進行でおよそ一五〇〇年後に日本の人口がゼロになるそれより前に、「人間らしい人間」は日本からいなくなるかもしれないのである。
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「条件付け」教育の危険[#「「条件付け」教育の危険」はゴシック体]
†教育とは脳教育[#「†教育とは脳教育」はゴシック体]
教育問題が注目されて久しい。政府や国会レベルでの議論も多い。むべなるかな。不登校やいじめに始まり、学級崩壊や非行の多発、凶悪化する少年犯罪とその低年齢化などを見れば、私たち庶民はもちろんのこと、政府だって対策を講じたくなるというものだ。
一介の脳科学者である私にも、言いたいことがそれなりにある。「教育とはすべて脳教育」と言ってもよいくらいなのでなおさらだ。
そもそも、教育といった人間社会の根幹に関わる問題こそ、生物学の観点と方略が必要である。とくに脳科学と進化生物学の観点である。教育問題に関する政府の審議会には脳科学者と進化生物学者をぜひとも入れてほしい。と言っても、馬耳東風というか、笛吹けど踊らず。脳科学者の意見も進化生物学者の見解も、教育関係の方々や組織には一向に届かない(最近になってようやくそういう動きが出てきたが、遅すぎる!)。
それでは虚しいので、ここで脳科学の観点から教育問題を扱ってみたい。もとより、こうした文章で教育問題を詳しく議論するには荷が重いので、とくに「社会性」あるいは「人間性」を育てる上で注意すべき点を挙げることにする。
†社会性・人間性は前頭連合野で[#「†社会性・人間性は前頭連合野で」はゴシック体]
現在の日本でとくに問題になっているのは社会性や人間性の教育だ。数学や理科、国語などの知的能力の低下も嘆かわしいが、中心的な問題は社会性・人間性だろう。適切な社会関係を営む脳力、と言ってもよい。そんな脳力がないから、少年による不適切な社会行動が学校内でも家庭内でも、あるいは地域社会の中でも頻発するのである。いや、少年だけではなく、一部の大人でもそうで、まさに「幼稚」と断じたくなる言動が目立ってきている。
社会関係を営む脳力の中心は「前頭連合野」である。いつでも前頭連合野を持ち出すのは(前頭連合野研究を専門とする私としても)気が引けるが、仕方がない。この領域は人間性や社会性の中心なので、人間の心や行動の諸問題を考える上で、無視できない。私見では、社会的問題行動は、大抵は「前頭連合野問題」なのである。
前頭連合野はそもそも複雑な社会関係をうまく営むために進化してきた。その中心的なはたらきは「自我」であり、自我は前頭連合野にいることは何度も述べた。この領域のはたらきを総称したのがPQ(前頭知能、Prefrontal Quotient)である。前頭連合野(Prefrontal cortex) が担う知能だからそう称されるのだが、このPQを十分に発達させることが、育児や教育の基本であるべきなのである。その基本がおろそかになれば、前頭連合野はうまく発達せず、社会性が未熟になり、幼稚化現象も現れる。たとえば「自己中心的で状況に応じて自分の感情・欲望を適切に抑えられない」とか「他人の心をうまく理解・推察できずに勝手なふるまいをする」、あるいは「無計画で刹那的な生活を送る」といった症状だ。逆に、前頭連合野をきちんと育めば「しっかりとした目的と計画をもち、社会的規範と状況に応じて適切な判断をしつつ言動と感情をコントロールする」という、本来あるべき態度が身に付くはずである。
現在の日本ではそうした「前頭連合野(PQ)教育」がないがしろにされている。それどころか「逆行している」としか言えないような状況である。とくに戦後での教育がまずかったし、今もそれが続行しているのだ。
†飴と鞭の戦後教育[#「†飴と鞭の戦後教育」はゴシック体]
「条件付け(conditioning)」という心理学用語がある。これは簡単なことで、「ある行動を繰り返しさせるには、その行動の直後に報酬(褒美)をあげればよく、逆に、ある行動を止めさせるには、その直後に罰を与えればよい」という原理・手法のことである。
条件付けは私たちの様々な行動で頻繁にはたらいている。たとえば、初めて行ったレストランでおいしい料理が食べられれば、次もそこに行く、という行動が定着する。あるいは、ある異性に会うと気持ちよいので、またその異性に会いたくなって、実際に会う。逆に、恋人から酷い仕打ちを受けたら、二度と会いたくなくなるだろう。
こんな当たり前のことを難しく言うのも気が引けるが、こうしたことが「条件付け」で、その中心は「報酬や罰による行動コントロール」である。
いきなり条件付けの話をしたのにはむろん訳がある。とくに戦後の教育は条件付けの手法を大きく取り入れ、それが今も続いているということをまずは納得してほしいからだ。
条件付けはそもそも「行動主義」という心理学の一流派の主要な原理・方法論だった。行動主義は、主にアメリカで一九三〇年代から五〇年代に隆盛を極めた流派で、「心≠ニいうあやふやなものではなく表に現れて計測可能な行動≠対象にすべき」、そして「どんな行動も条件付けの手法でコントロールできる」という主張・信念をベースとしていた。
行動主義は当初、ネズミとかハトなどを相手にして研究をしていたが、大きな成功を収めたこともあって、人間にも応用された。そして、もちろん、教育にも、だ。アメリカでの教育は少なくとも一時的には「行動主義的教育」になったのだ。
戦後日本の教育は、アメリカ式教育をかなり大きく取り入れたものであることに異論はないだろう。そしてその中心は実は「行動主義」だったし、今もそうだといってよい。
このことは、教育現場や育児の現場での方法を見れば一目瞭然である。何かよいことをすれば誉める(報酬による行動コントロール)。逆に悪いことをすれば叱る(罰による行動コントロール)。行動主義の研究で、報酬(誉めること)の方が、行動コントロールには望ましいことがわかっていたので、「誉める教育・育児」がもてはやされたし、今も基本的にはそうである。
いわば「飴と鞭」の使い分けをしつつも、なるべく「飴」にしているのが、戦後ずっと続いてきた教育・育児の方法だった(多少の紆余曲折はあったが)。
†条件付けは少しあぶない[#「†条件付けは少しあぶない」はゴシック体]
だから何なのか? 条件付けは社会性の教育、具体的に言えば、前頭連合野の発達にとってほとんど意味をなさない、ということをここで言いたいのだ。むしろ「あぶない方法」と言ってもよい。
なぜあぶないのか? 「心」を無視しているせいだ(私の観点では前頭連合野=PQ≠)。
行動主義は今やほとんど過去の心理学流派になっている。その理由は、行動だけを扱って、「心」を無視してしまっていたせいだ。
それだけではない。「心」を問題にしないとうまく説明できない行動や能力が多いことに心理学者たちが気づいたということも大きい。そこで(一九六〇年代頃から)発展してきたのが、心(認知機能)を正面切って扱う心理学、「認知心理学」である(ついで、「認知脳科学」の展開が続く)。アメリカでは教育現場に認知心理学の成果、とくに「多重知能理論」が積極的に取り入れられ、小中学校での指導的な理論になっている。
ところが、日本の教育・育児の現場では、行動主義の残滓《ざんし》がこびりついたままだ。たとえば、いじめやけんかをなくす際にしていることは、要は「罰」によるコントロールである。勉強させるにも、報酬(誉めること)や罰でそうしている。
もちろん、こうした方法はそれなりに有効である。いじめるたびに罰を与えれば、いじめをなくすことはできる。あるいは、仲良くするたびに誉めれば、仲良くさせることもできる。そうして、一見「よい子」やその集団をつくることは可能だ。だが、「心」までよい子なのかどうかは全くわからないのである。
しかも、条件付けは多くの場合、それこそある特定の条件や環境に限って有効だ。だから、条件付けによって学校内でよい子になっても、放課後もそうかどうかは保証できない。そのため、一見「よい子」がいきなりキレて人を殴りつけたり殺したりする。凶悪犯罪を起こした少年に関して「学校ではよい子でした」などの「たわごと」も出てくるわけだ。
†前頭連合野をはたらかせる教育を[#「†前頭連合野をはたらかせる教育を」はゴシック体]
本来の意味での「よい子」(適切な社会性をもった子)に育てたいとすれば、条件付けではダメなのである。その根本的な理由は、条件付けでは前頭連合野を介さなくても行動をコントロールできるせいだ。
しかし、とくに社会関係をうまく営むためには、前頭連合野のはたらきは不可欠である。前頭連合野がなくても、条件付けによって、「適切な社会関係」を営ませることはできる。ただし、それはある条件・環境でのみ有効なだけだ。適切な社会関係を営むには、どんな状況においても、それこそ適切に行動と感情をコントロールすることが必須・前提である。そのためには、前頭連合野のはたらきがどうしても必要になる。
前頭連合野の重要なはたらきのひとつに前項で述べた「心の理論」がある。他人の心を的確に理解・推察する機能である。心の理論が「適切な社会関係」のベースになることに異論はないだろう。他人に対する問題行動(いじめやストーカー、あるいは恐喝など)には、「心の無理論」があるといってもよい。相手の気持ちがわからなければ、自分の欲望に任せてどんなことだってできるではないか。
条件付けでは、心の理論は発達しない。もちろん、「心の理論まがい」(見かけ上の心の理論=jは、条件付けによって、ハトやネズミでももたせることはできる。しかし、ハトやネズミはそもそも心の理論をもっていない。もっているのは、人類だけだ(イルカならもっているかもしれないが)。条件付けによって「心の理論まがい」を私たち人類にもたせようなどというのは不遜な行ないと言うべきだろう。人間なら心の理論は自然に発達するからだ。
†実際の社会関係から学ぶこと[#「†実際の社会関係から学ぶこと」はゴシック体]
そう、心の理論は普通にしていれば自然に発達する。とくに幼少期の頃に、実体験としての人間関係を豊富に体験すれば、である。だれかを実際にいじめたり、けんかしたりすることによって、相手の気持ちがわかるようになる。実際に仲良くすることでもそうだ。
心の理論だけではない。自分の行動や感情を自分でコントロールするという「自己制御」も前頭連合野の重要なはたらきだが、これが条件付けで発達するわけがない。「自分で」コントロールする体験が必要だからだ。誰かによって「報酬」とか「罰」をいちいち与えられていたら、自己制御のはたらきなど伸びるはずがない。
他人からその都度条件付けされることなく、自分で前頭連合野をフルにはたらかせる「実体験としての社会関係」――これこそが、前頭連合野を発達させ、適切な社会関係を営む脳力を伸ばす鍵なのである。そうしたことを積極的に取り入れた教育こそが望ましい。ところが、実体験をきちんと豊富にする前に(そういう行ないをむしろ避けさせる形で)、条件付けで行動を見かけ上コントロールしてしまっているのが現在の方法なのだ。
もちろん、条件付け的手法も多少は必要だ。前頭連合野をはたらかせていながらとはいえ、未熟な子供たちは社会的規範に反した行動をすることもあろう。その場合は、親や教師がきちんと叱る必要がある。あるいは、前頭連合野を一所懸命はたらかせてよい行ないをした場合には、大げさなくらい誉めてあげればよい。条件付け全般が無効・無意味なわけではない。それに頼りすぎて、最も重要なこと――心=前頭連合野を十分にはたらかせること――を無視することがマズイのだ。このことは肝に銘じてほしい。
†小手先教育の見直しを[#「†小手先教育の見直しを」はゴシック体]
ある小説の主人公(模範的な高校生だ)は、父親から「したいようにしなさい。ただしよく考えろよ」とだけ言われて育ったという。これこそが理想の教育である。実体験としての社会関係をしたいように展開させる、ただしよく前頭連合野をはたらかせて……。これを基本にすることが人間教育の要であり、悪しき行動主義的教育の対極にある。
しかしながら、教育(育児でも)における行動主義の手法と考えは、ほとんど「常識」か「公理」のように日本全国に定着してしまっている。今さら「人間はハトでもネズミでもないんだ!」と、声を大にしても虚しいだけだ。悪しき行動主義は、教育や育児の現場に残りつづけている。政府の答申など見ると、より強固にしようとさえしている。通常の教育のみならず少年犯罪などを扱う際にもそうだ。そもそも、罰則を強化すれば少年犯罪が減ると考えて施行した少年法の「改正」など、行動主義的残滓の最たるものである。
虚しいが、何度でも言おう。「前頭連合野(PQ)教育」こそが、社会性・人間性の教育の基本であるべきで、それには条件付けの手法などの小手先に頼っていてはいけないのだ。戦後教育の見直しは、とりあえずこの観点からするべきだし、政府にも是非ともそうしてもらいたいと思う。
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知能指数IQはあなどれない[#「知能指数IQはあなどれない」はゴシック体]
†知能指数IQとは[#「†知能指数IQとは」はゴシック体]
知能指数IQというのは、昔から「毀誉褒貶《きよほうへん》」が激しい。知能を表す客観的指数として今でも多用される反面、IQ偏重の考え方や教育はマズイという意見も根強い。かくいう私にしても最近までは「IQなんてどうでもよい」という意見を、ことあるごとに表明していた。私の観点では、IQよりも前頭連合野の脳力(PQ)の方が重要だと、まあ、思ってきたわけだ。
ところが、最近、IQに関する考えを少し改めることにした。IQが人生に深く関係し、また、前頭連合野とも深い関係があることが判明したせいだ。そう、IQはあなどれないのである。
知能指数IQとはご存知のように、そもそもは「精神年齢」と実際の年齢との関係を表すものである。ある年齢で、その年齢に相応《ふさわ》しい精神年齢を示せば、IQは一〇〇になる。ここでいう精神年齢とは、もちろん、具体的には知能テストの成績である。知能テストの成績が年齢に比べて低ければ一〇〇以下、高ければ一〇〇以上のIQということになる。
たとえば、三歳の子供が六歳の平均的な成績を示せば、IQは二〇〇である。二〇〇なんていう数値はちょっとあり得ないことで、一四〇あれば天才と言われるが、年齢が低いと高いIQはかなりの程度、可能である。ちょっとした差が大きな値になるからだ。三歳児が四歳児と同じような成績を示すだけで(つまり一年の差があるだけで)、IQは一三〇になってしまう。ところが、六歳児が七歳児の成績を示しても(同じ一年の差なのに)IQは一一七である。
こうしたところから見ても、とくに幼少期のIQなんていい加減なものであることは明らかだろう。実際、幼少期に英才教育や訓練によってIQを伸ばすことは比較的簡単だ。IQが一四〇とか一五〇なんていう子供をつくれる。幼児期ほど「ちょっとした差が大きな値になる」という原理が強くはたらくせいだ。
†IQは脳力の一部[#「†IQは脳力の一部」はゴシック体]
だが、訓練で伸びたIQは成長とともに低くなる傾向があって、大人になれば並みのIQに落ち着くことも多い。「神童も大人になればただの人」ということはまま起こることなのだ。
しかも、IQは脳のごく一部の脳力を測っているにすぎない。このことはよく指摘されることだが、事実である。端的に、IQには空間的IQと言語的IQがある。空間的な情報を処理するのは言うまでもなく脳の一部だし、言語を扱うのもそうだ。だから、脳内ダメージなどで空間的IQが極端に低くなっても、言語的IQは変わらない(またはその逆)ということもよく起こることだ。さらに、前頭連合野などのダメージでは、どちらのIQもさほど落ちない(上がるという例もあるほど)。前頭連合野は大脳の三分の一近くも占めている脳領域なので、これらのIQとはほとんど無関係というのは驚きだが、事実である。
ということで、普通のIQは脳の一部の脳力を測っているにすぎないことは間違いない。だからこそ、感情的知能、EQの重要性が指摘されたり、あるいは、前頭連合野の知能、PQこそが人間の中心的知能だという主張がなされたり(私の主張だが)するわけだ。
†一般的IQ[#「†一般的IQ」はゴシック体]
空間的IQや言語的IQなどの個別的IQは、たしかに、知能・脳力の一部を係数化したものにすぎない。これらのIQを伸ばす英才教育もあまり意味がない。そもそも、社会的な成功などにはほとんど無関係で、言語的IQとか空間的IQが高いと社会的に成功するというデータはほとんどないのである。せいぜい、学校での一部の勉強や受験に多少は関係する程度である。
個別的IQの実体はこんなものなので、さほど気にする必要はないし、私も取り立てて云々する気にならなかった。しかし、IQの中には注目すべきものがあるのだ。「一般的IQ」である。
一般的IQは、たんに「g」とか「g因子」と呼ばれることが多い。「g」は「general(一般的)」から来た名称である(大文字の「G」だと、重力定数のGと混乱するので、小文字になったらしい)。ここでは「一般的IQ」とするが、この知能指数はあなどれないのである。なぜか? 社会的成功と深く関係するからだ。
そもそも一般的IQを提唱したのは、有名な知能学者(統計学者でもある)、スペルマン(Spearman) である。彼は、個別的なIQが互いに正の相関を示すことが多いことに注目し、様々なIQを束ねる形で「概括的な、ひとつ高い次元の」IQがあると考えた。これが一般的IQである。「g因子」と呼ばれるのは、個別的なIQ間の相関を説明する一般的な要因(因子)を「因子分析」という統計的手法から導いたせいだ。
彼が考えた「g」は今も論争の的になっているが、一般的IQは確かに存在するらしい。様々なIQを下位要素とする階層的な知能構造の頂点に立つのが、どうやら一般的IQなのだ。
一般的IQを測定するのはかなり難しい。個別的なIQテストから推定できることもあるが、ある程度の工夫が必要だ。とくに、異なった知能をうまく組み合わせて使わないと解けないようにした知能テストをすることによって、推定できることが多い。
とはいえ、もっと単純かつ簡便な方法もある。「決断」の速さを測定する方法である。たとえば、コンピュータモニターに青や赤の刺激を出して、青ならマウスをクリックするが、赤ならしないといったことをさせる。とても単純だが、刺激に伴って決断が必要とされる。この際の決断の速さが一般的IQと多少なりとも相関するのだ。その理由として当初考えられたのは、脳内での情報処理の絶対的な速度が一般的IQと関係するというものだった。刺激が提示されてから決断するまでの時間が速いというのは、脳内での情報処理が速いということだ。だから、神経回路での情報の伝わり方が速いほど、一般的IQも高いのではないかと、まあ、推察された次第である。
†一般的IQは社会的成功と関係する[#「†一般的IQは社会的成功と関係する」はゴシック体]
一般的IQとはざっとこんなものだが、このIQはあなどれないのである。学校での成績とかなり高く相関する(相関係数は〇・七ほど)ということがわかっていて、この点でも多少は意味があるが、学校の成績を予測できても大したことはない。しかし、一般的IQは、そんな瑣末な(?)ことに留まらず、人生に大きく関係するのである。とくに社会的成功の度合いに。これは聞き捨てならないではないか。
アメリカはかなりプラクティカルな社会で、様々な性質を数値化するのが好きだ。IQもそんな数値の一つで、IQに関する話題だけを書き綴った『ベル・カーブ』("The Bell Curve" Herrnstein & Murray, 1996) という本がベストセラーになったこともある。ちなみに、IQは一〇〇を頂点とした「ベル」のような分布を示すので、くだんのタイトルがつけられたのである。
この本でもかなり詳しく述べられているが、それ以外のデータを総合しても一般的IQは少なくともアメリカでは社会的成功と明らかに相関するのだ。これは社会的リスクの多さと一般的IQとの関係を見ればかなり納得がゆくことだ。一般的IQが低いと、明らかに社会的リスクが高くなるのである。
たとえば、失業。数ヶ月以上続く失業の憂き目に合う確率は、一般的IQが一〇〇以下になるとがぜん増える。罪を犯して牢獄に入る頻度も、一〇〇以下の場合には有意に多くなるのだ。一般的IQと相関するネガティブな社会的境遇、社会的リスクの代表的なものを列挙すると以下のようになる。
・仕事が一ヶ月以上続かない。
・年に一ヶ月以上の失業状態。
・五年以内の離婚。
・望まない妊娠をして子供を産む。
・貧困の中での生活。
・入獄の経験あり。
・社会保障なしに自活できない。
・高校中退。
どれも、社会的にはかなりマズイことであるのは間違いないだろう。青少年で問題になるのはたとえば高校中退だが、一般的IQが七五以下だと実に六〇パーセント近くの生徒が中退している。対照的に一一〇以上あれば一パーセント以下、一二五以上ならゼロである。また、望まない妊娠にしても、一〇〇以下だと一〇〜三〇パーセントの女性が経験しているが、一〇〇以上だと数パーセントに留まる。入獄の経験にしても、一〇〇以下だと一〇パーセント近いが、一一〇以上ではやはり数パーセントで、一二五以上ではゼロである。
こうしたデータを総合すると、一一〇以上あれば一流の大学に行く意味があって、また、実際に行けるし、その後もかなり社会的に成功する(つまり、地位、名誉、収入、幸福な家庭などを得る)可能性が高いということになる。一二五以上あれば(人口の五パーセントほど)社会的成功は間違いないとされる。
これはちょっと言い過ぎのような気がするが、アメリカの大学で面白い調査がある。比較的広き門であるアメリカの大学での新入生の一般的IQはかなりバラついている。ところが、きちんと勉強し落第もせずに立派に卒業する(狭き出口を出る)卒業生は一一〇以上がほとんどなのだ。一般的IQは短期間に変化するものではないので、在学中に一般的IQが伸びたのではなく、入学時から一般的IQが高い学生がまともに卒業できる、というわけだ。だから、「一一〇以上あれば一流の大学に行く意味がある」とされるのである(ちなみに、狭き門である日本の大学の場合、東大生のIQの平均はおよそ一二〇だが、この調査では一般的IQだけを調べたのではないので、詳細は不明)。さらに、実際に社会的に成功している人たち(医者や弁護士、成功した起業家、有名企業の重役など)を数百人規模で調べたところ、一人の例外もなく(!)一一〇以上だったという報告もある(あのビル・ゲーツは一四〇以上だったそうだ)。
†一般的IQは前頭連合野のはたらき[#「†一般的IQは前頭連合野のはたらき」はゴシック体]
一般的IQが社会的成功(あるいはその裏腹の社会的リスク)に関係することは確かなようで、それで、このIQはあなどれないのだが、私は個人的にはかなり疑問に思うところがあった。というのは、社会性を担う中心的な脳領域は前頭連合野で、このはたらき=PQこそが社会的成功に関係すると考えていたせいだ。そして、前頭連合野は少なくとも個別的なIQ(空間的IQとか言語的IQ)にはさほど関係しない。それなのに一般的IQが社会的成功に関係するのはなぜなのか?
長年抱いていたこの疑問が、二一世紀初頭に氷解したので、個人的には(新世紀初めという縁起良さもあって)少し嬉しい。一般的IQは前頭連合野のはたらきであることが判明したせいだ。高度な一般的IQを必要とする知能テストをすると、前頭連合野の活動が著しく高まることがわかったのである。
一般的IQは、神経回路の情報伝達速度などではなく、前頭連合野と密接に関係していたわけだ。思えば、「決断」も前頭連合野のはたらきなので、決断が速いというのは、前頭連合野のはたらきがよいことを意味する。だから、決断の速さと一般的IQがかなり相関することは、さほど不思議ではない。
一般的IQはそもそも個別的IQを束ねて操作する、階層的に最高次のIQである。前頭連合野は、こうしたIQの座として相応しい。他の様々な脳領域を統括する最高次の脳領域だからだ。個別的IQは前頭連合野以外の様々な脳領域で担われている。そして、それらのIQを統括する一般的IQは前頭連合野のはたらきなのである。こう考えると、一般的IQが社会的成功と密接に関係する理由も得心がゆくというものだ。
そう、一般的IQは前頭連合野の知能、PQの一部だったのである。PQの程度を数値化するのは難しいが、少なくともその一部は一般的IQとして数値化できるわけだ。このこと自体は、PQの標榜者として少し嬉しい。
†一般的IQを伸ばす教育法[#「†一般的IQを伸ばす教育法」はゴシック体]
ただ、こう考えるとちょっとあぶない事態にもなりかねない。IQは遺伝する。一般的IQもそうだ。六〇パーセントほどは遺伝要因で説明できる。環境によって変わる余地はかなりあるとはいえ、遺伝的に一般的IQの程度が決まっているというのは少し怖い。生まれながらにして「社会的成功度」がある程度決まっていることになる。しかも、それは客観的に、数値として表し得る。それを自分以外の誰かが知っていたら、社会的にマズイことにならないだろうか? いろいろな場面における、一般的IQによる差別にもつながりかねない。
個人的にも少し複雑な気分になる。PQの一部が数値化できることは喜ばしいことだが、PQはかなり質的なレベルで語りたかったのだ。ところが、PQが(その一部の脳力とはいえ)数値化できるとなると、「PQこそ大事」という主張もトーンを落とすべきような気がしてくる。社会的成功の可能性まで数値化できてしまうわけだからだ。ちょっと思い巡らす問題ではある。
とはいえ、一般的IQは数値化して測定でき、かつ、環境によって伸びる余地があるので、具体的な教育カリキュラムと結び付けやすい。しかも、一般的IQがワーキングメモリの能力と深く関係することもわかってきた。どちらも前頭連合野の同じ領域(主に46野)が担っているので、このことは十分に予想できたことだが、ワーキングメモリを鍛える方法によって一般的IQを伸ばす、というさらに具体的な教育法も考え得るのだ。日本に限っても、日本人の一般的IQが総じて高くなれば、高校中退も失業も犯罪も社会保障費も減り、社会性が向上し、世界に冠たる教育立国としてやってゆけるだろう。……そんな夢と具体的な方途をマジメに思案している今日この頃だ。
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児童虐待は世代を超えて脳を壊す[#「児童虐待は世代を超えて脳を壊す」はゴシック体]
†児童虐待の脳科学的問題[#「†児童虐待の脳科学的問題」はゴシック体]
子供の頃の体験や環境というのは非常に重要だとつくづく思う。その体験や環境がとんでもないと、生涯にわたって深刻な影響を及ぼしかねないからだ。
ここで思い起こしているのは児童虐待(child abuse) である。アメリカではかなり前から問題になっていた児童虐待が、日本でも社会問題になっている。親が子供に激しい暴力を加えたり、必要な世話をしないで放置したりして、心身に深刻なダメージを与えた、ときには死に至らしめた……といったショッキングなニュースが増えた。実際東京都では、児童相談所への通報が、この一〇年間で一五・四倍に達しているという。
児童虐待は「とんでもない体験・環境」の典型である。こうしたことが心のレベルのみならず脳のレベルに及ぼす影響を考えると、まことに憂慮に堪えない。しかも、児童虐待は遺伝子による遺伝のように、世代を超えて「遺伝」する可能性も大きいのだ。虐待を受けたその人だけではなく、その次の世代、そのまた次の世代へと……。
児童虐待。これは脳科学の問題のみならずまさに社会的な問題なのである。とはいえ、ここでは社会的問題を云々することは控え、脳科学の観点から児童虐待に関して考えてみたい。
†幼少期の重要性[#「†幼少期の重要性」はゴシック体]
もともと脳の発達には「非常に重要」な期間がある。つまりクリティカルな期間(critical period) で、日本語ではやや不適切にも「臨界期」と呼ぶことが多い。本来は「非常に重要な期間」といった意味だ。この期間での環境や経験は脳のはたらきと構造に大きな影響をもたらす。その影響は一生涯続くことも多いのだ。
そうした最重要期、つまり臨界期は子供の頃に集中している。脳の場所やはたらきにもよるが、生まれてから四歳とか八歳、あるいは思春期に入る一二歳頃までが臨界期であることがほとんどだ。
まあ、こうしたことはもはや常識でもあるのでここでは深入りしない。とはいえ、一例として言語の臨界期の話をしてみたい。
こんな実話がある。南フランスのアヴェロンで見つかった少年の話だ。彼はどうやら子供の頃から原野で一人で暮らしていたらしく、見つかったときは一二歳くらいだった。人と接していなかったせいで、言葉を話せなかった。その後もそうで、手厚い看護と養育の甲斐なく、言葉はずっと話せなかった。
アメリカでも同様の事例があって、有名なのはジーニーである。彼女は生まれてまもなく精神疾患の父親によって小部屋に閉じ込められ、一三歳ころに救出された。彼女もまた、言語を十分に発達させることはできなかった。
このような少年・少女のことを一般に「野生児(Wild child)」といい、言語の臨界期に関する重要な事例になっている。これらの例から見れば、言語の臨界期は一二歳頃までで、その期間に言葉に接することがなかったため、彼らは言語をうまく発達させられなかったのだ。
では、一二歳以前なら野生児でいてもよいのか? よいのである。アメリカでの事例だが、六歳くらいまで廃墟の中で閉じ込められた少女がいた。レイシーと名づけられたその少女は、やはり、他の野生児と同じように、当初はまったく話すことができなかった。ところが、その後の介護と教育によって、彼女は驚異的な速さで言葉を獲得していった。アヴェロンの野生児と見事な対比をなしているではないか。同時に臨界期のまさに重要性を端的に指し示している。
ついでに述べると、ジーニーの場合、熱心な指導の甲斐もあって、多少なりとも言葉を操れるようになった。言語の臨界期を踏まえると脳科学的には不思議なことなのでよく調べてみたら、彼女は一歳までは母親から言葉を「学んで」いたことが判明した。母親は生後から一年間ほどジーニーに盛んに語りかけていたのである(その後に小部屋に隔離された)。脳は誕生直後に既に言葉(とくに母親の言葉)を理解すべく発達していることが近年の研究でわかっている。一年間とはいえ、母親の言葉を聞いたせいで、ジーニーは臨界期を過ぎた後でも多少は言葉を操れるようになったらしいのだ。裏を返せば、臨界期内のたった一年間での経験もかなり重いわけで、やはり臨界期は「最重要期」なのだ。
†幼少期のストレスがあぶない[#「†幼少期のストレスがあぶない」はゴシック体]
ことほどさように、幼少期の環境は重要である。幼少期に虐待を受けてしまえば、生涯にわたって深刻な影響が及ぶことは想像に難くない。
虐待ほどではなくても、幼少期にストレスがかかってしまうと、様々な問題が大人になって出てくる。一例として、「過度の飲酒」との関係がある。酒を飲みすぎるのは、その時点でのストレスなどのせいだと思われがちだ。たしかにそういう側面はあるのだが、アル中になるほどの飲酒には、実は、子供の頃のストレスが淵源になっていることがあることがわかったのである。過度な飲酒は脳を萎縮させる。幼少期でのストレスによって、脳の萎縮さえ伴うような飲酒行動が大人になってから現れかねないわけだ。大人でのストレスは皆が気にしているが、「子供のストレス」というとあまり気にかけないのではないか。しかし、脳の発達に最重要な期間である幼少期でこそストレスを気にすべきなのだ。このデータはそんなことを警告しているわけだ。
そして、児童虐待である。
子供を精神的あるいは肉体的に虐待するというとんでもない行ないは、子供にとっては非常なるストレスである。それでなくても「最重要期」なのだ。児童虐待が子供の脳にどんな悪影響を及ぼすか、推して知るべし、である。
大人でも、「虐待」に匹敵する非常に強いストレスは脳に恐ろしいダメージをもたらす。とても辛い精神的な経験によるショックを「トラウマ=心的外傷」という。大人でも、たとえば、戦場での体験とかレイプなどはトラウマになりやすい。そして、いろいろとよくない症状が現れる。いわゆるPTSD(Post-traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)である。
PTSDになると心のみならず脳自体にダメージが起こりかねない。この点に関しては、アメリカでのベトナム戦争によるPTSDの症例が有名だ。一部の患者さんにおいて海馬が萎縮していたのである。海馬は経験や知識を記憶化させるはたらきをもつ重要な脳部位である。最近では、扁桃体が注目されている。海馬に関するデータよりも、むしろ扁桃体に関するデータの方が信頼できるほどで、PTSDの患者さんの扁桃体には萎縮などのダメージが認められることが多い。この扁桃体も記憶に深く関係していて、海馬と協働して記憶を形成する役割をもつ。いずれにしろ、非常に辛い経験をすることにより、記憶系が損なわれてしまうのだろう。「心的外傷」は心の傷のみならず、具体的な「脳の傷」になりかねないのである。
†虐待が子供の脳を壊す[#「†虐待が子供の脳を壊す」はゴシック体]
子供での虐待は典型的な心的外傷になるし、従ってPTSDになる。しかも、最重要期でのことなので、その程度は大人の比ではない。やはり扁桃体(場合によっては海馬も)が萎縮する。あるいは、左右脳の発育が遅れ、左右脳をつなぐ脳梁が萎縮して小さくなる、さらには脳内ホルモン系が衰退する、といった具体的なダメージにつながるのである。
行動的な症状としては、攻撃性や感情を抑制できない性質が目立つ。記憶や注意力の散漫などの問題が認められたり、いわゆる「人格異常」や「多重人格症」になったりする。これらは、実は、前頭連合野のはたらきの異常である。PTSDでは前頭連合野にはっきりとした萎縮などの構造的な異常は認められないが、活動異常はかなりはっきりしている。つまりは、「PQ」の障害が、児童虐待によって生じてしまうのである。しかも、扁桃体などの脳領域の具体的なダメージを伴って(ちなみに前頭連合野と扁桃体は強い神経連絡で結ばれている)。
かくして、児童虐待は扁桃体や脳梁などでの具体的なダメージと共に、前頭連合野のはたらき、PQを障害させてしまうのだ。破壊させると言ってもよい。これは由々しき問題であることは言うまでもない。PQの障害は往々にして犯罪などの社会的問題行動に結び付くし、また、本人は幸福感や愛情を抱けなくなってしまいかねないからだ。
†なぜ児童虐待が起こるのか[#「†なぜ児童虐待が起こるのか」はゴシック体]
児童虐待は脳科学から見たら(別の観点からもそうだが)、とんでもないことである。しかし、実際に行なわれることがあるし、その頻度は日本でも増えている。では、なぜ児童虐待などするのだろう?
生物学の観点から言えば、自分の遺伝子が確実に伝わっている子供を虐待することはあり得ないことだ。生物の基本的かつ究極的な目的は自分の遺伝子を次世代につなげること、哺乳類の場合では「子供が生殖年齢に達するまで育てること」である。そうして育てた子供がまともでなければ、自分の遺伝子は次の世代につながらない。だから、「大事に育てる」という要素が入ってくる。
ちなみに、我々日本人の大部分はモンゴロイドだが、この人類集団の場合、「大事に育てる」という進化戦略をかなり推し進めたようなのだ。日本では虐待が比較的少なかった一因はここにあるかもしれない。
ところが、児童虐待をする親が確かにいる。なぜか? もちろんいろいろな原因はあるが、脳のレベルで見ると、答えはかなりはっきりしている。子供に対する愛情をつくる脳内ホルモンが足りないということだ。とくにセロトニンがあやしい。
この物質は、もともと母性愛とか愛情に深く関係する物質だ。サルでの実験で、セロトニンが足りない母親は子供を邪険にする(場合によっては虐待する)ことがわかっている。人間でもこうしたことが起こっているにちがいない。
セロトニンが不足する理由は大きく二つある。ひとつはストレスである。今の日本では育児にストレスがかかりすぎる。核家族の上父親は不在がちで、地域社会での援助も手薄。育児が密室化しやすい。また育児をめぐる情報も錯綜している。とくに母親に大きなストレスがかかるのはやむを得ないことだ。
ストレスは大きな要因だが、もっと根源的なものとして、当の母親や父親の幼児期での環境がある。そう、親たちの幼児期での環境によって、セロトニン系、ひいては前頭連合野のはたらき(PQ)がまともに発達しなかったのである。
†児童虐待は世代を超える[#「†児童虐待は世代を超える」はゴシック体]
繰り返しになるが、最近、PQが未熟な人たちが増えている。電車内で平然と化粧するような恥知らずな若者に始まって、ストーカーや身勝手な不倫、さらには公務員や政治家による汚職や犯罪、大企業の不祥事とその隠蔽……。「幼稚」と断ずるしかない人々が目立ってきているのだ。いわば「PQ未熟症候群」である。
そして、児童虐待をする親のPQも、要は未熟なのだ。PQはそもそも状況に応じて適切な行動をするための知能で、自分の感情をうまくコントロールすることや、未来志向的に現在をまともに生きることなどの「大人としての態度」を形成する役割を演じている。そして、PQはセロトニンを始めとした、性格や感情・意欲に関係した脳内ホルモンに支えられている。PQがうまくはたらけば、子供に愛情をもって接し、未来志向的にきちんと育てるはずなのである。虐待などゼッタイにありえない。逆にいえば、PQが未熟だと、子育てはうまくできず、虐待にまで至りかねないのである。
児童虐待は前頭連合野のPQが未熟のせいなのだ。もちろん、PQを支えるセロトニンなどの脳内ホルモンも不足している。児童虐待は最近増えている「PQ未熟症候群」の一側面なのである。
なぜそんなことになったのか? 前頭連合野が具体的なダメージを受けていることもまれにはあるかもしれない。だが、一般的には幼少期の環境のせいだ。PQの臨界期に不適切な環境・教育の下に育ったおかげで、PQをうまく発達させられなかったというわけだ。
では、どんな環境で育ったのか? いろいろ考えられるが、そのひとつとして「児童虐待を受けるような環境」が浮かび上がってくる。虐待を受けた子供のPQはうまく発達しないからだ。
となると、児童虐待は遺伝子による遺伝のように遺伝する。子供の頃に児童虐待を受けた場合、大人になってもPQは未熟だ。未熟なPQをもって子育てをすると、児童虐待をしがちだ。そうされた子供のPQは未熟になってしまい、その子が大人になってから、再度、児童虐待をするようになる……。
遺伝子によらない遺伝なので、「遺伝」とは言えないが、本質的には遺伝みたいなものだ。文化の継承よりももっと生物学的なもので(脳内システムの変化という生物学的なベースがあるので)、「準遺伝」と言うべきかもしれない。児童虐待は(PQの未熟化をベースにして)準遺伝するのだ。
そんなことはあるまい、という声が聞こえてきそうだが、これはほぼ事実だといってもよい。欧米での研究で、児童虐待を受けた人は児童虐待をする確率がきわめて高いことがわかっているからだ。
かくして、児童虐待は準遺伝し世代を超えて脳を壊すのである。壊れた脳は、児童虐待にとどまらず、様々な社会的問題行動を起こしやすい。起こさなくてもPQ未熟症候群の人々が増えたら日本の将来は限りなく暗い。
PQ未熟症候群は準遺伝し広まっている、というのが児童虐待の考察を通して浮かび上がってくる現代日本の一側面でもあるのだ。
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第4章 理不尽な脳
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犯罪に向かう脳[#「犯罪に向かう脳」はゴシック体]
†進化的には性善説=m#「†進化的には性善説=vはゴシック体]
「近頃なんて犯罪が多いんだ!」という嘆きをよく耳にする(私だって憤慨している)。新聞やTVでは殺人などの凶悪犯罪はもとより、詐欺やストーカーなども含め、いろいろな犯罪のニュースが毎日のように流されている。
ところが、私たちヒトは本来(生物学的に見て)殺人などの凶悪犯罪を起こさないはずなのである。進化的な履歴を見ると、「共生」を人類の基本戦略として発達させてきたからだ。
つまり、メスの繁殖戦略やオスの「互恵的利他主義(互いに助け合うことによって、自分の遺伝子を残す確率を高める戦略)」をベースにして、「共生戦略」を進化させてきたのが人類なのである。こうした戦略を基にした社会では、ヒト社会に限らず、「仲間殺し」に代表される凶悪犯罪は稀になる。男が女性を殺すことなど、もってのほかだ。ヒトでは凶悪犯罪など進化的にはあってはならないのだ。
そして、当然のことながら、このような戦略をまっとうするための具体的な脳領域――前頭連合野――をもつ。この領域は(何度も述べてきたが)、ヒトで最もよく発達している。理性や社会性、あるいは将来の展望に立って行動をうまくコントロールすること。さらには、自他の心を理解し、適切なコミュニケーションを営み、自分の幸福のみならず他人の幸福をも祈り手助けすること。そういった脳力、すなわちPQをヒトは進化の長い歴史のなかで最大限に発達させてきたのだ。いわば「罪を犯さない脳」を私たちは遺伝的・進化的な「本性」としてもっているわけだ(この点では性善説≠ノ分がある)。
だから、「進化的に普通の脳」をもっていたら、犯罪に手を染めることなど、ほとんどあり得ないはずだ。法律などことさら意識しないでも、自然と「己の欲する処に従いて、矩《のり》を踰《こ》えず」(論語為政)の境地に(孔子には失礼だが、七〇歳にならなくても)至ってしかるべきなのである。ところが少なくとも一部の人ではそうはなっていないし、凶悪犯罪も多発している。
なぜか? この問題には、いくつかの観点からアプローチできるが、そのひとつは「幼児脳教育」。つまり、幼児の頃の教育や環境のせいで「犯罪に向かう脳」が形成されてしまう、という観点である。
†脳機能には「臨界期」がある[#「†脳機能には「臨界期」がある」はゴシック体]
もちろん、全ての犯罪が幼児脳教育の観点から理解できるわけではない。しかし、本来「罪を犯さない脳」をもっているのにもかかわらず、犯罪に向かう理由を原理的に考える際に、「幼児脳教育」はひとつの有力な観点になることは間違いない。
このことは言語機能を例にとると納得してもらえると思う。
音声言語を操ることは、人類の大きな特徴であり、それ用に特殊化した脳領野、言語野を大脳新皮質内にもつ。言語は遺伝的なもので、誰でも普通に育てば言語を操ることができる。ところが、幼少期の環境によっては、言語をうまく操れなくなってしまう。言語の獲得に「臨界期」があるせいだ。
臨界期は、前項でも強調したように、脳機能(心)の発達や教育にとって大きな意味をもつ。繰り返しになるが、ほとんど全ての脳機能には、その獲得・発達にとって重要な期間が幼少期にあり、その期間での環境は生涯にわたって脳機能に影響を及ぼしてしまう。この重要な(critical) 期間が、臨界期(critical period) である。言語機能にも臨界期があって、それは生後一二歳くらいまでだ。この期間に「普通の環境」に育てば、言語を獲得し発達させるし、そうでない場合には致命的な影響が及んでしまう。
ここでいう「普通の環境」とは、もちろん、進化的なパースペクティブで見た「普通」である。言語の場合、普通の環境とは「豊かな言語にさらされる」という環境だ。これは音声言語が進化的に誕生した頃から「普通」であり続けた(音声言語誕生の年代には諸説あるが、二五〇万年ほど前という説を私は援用している――ただし、数万年前という説もある)。ところが、何らかの原因で、言語の臨界期に「普通の環境」に育たないと――つまり言語に無縁かそれに近い環境で育つと――言語能力は生涯にわたって未熟なままになってしまう。その実例は前項で取り上げた通りである。
†「本能」としての「社会的理性」[#「†「本能」としての「社会的理性」」はゴシック体]
言語と同様なことが、「罪を犯さない脳機能」に関しても言える。
この機能の中核を占めるはたらきは「社会的理性(social reasoning)」である。社会の中でうまく生きるために自分の感情を適切にコントロールするはたらきのことだ。理性とは、機能的に捉えれば「状況に応じて自分の感情や衝動、欲望を適切にコントロールするはたらき」である。そして社会関係に応じて発揮されるのが社会的理性である。
社会的理性のはたらきは、明らかに前頭連合野が担っている(つまりPQの主要構成要素のひとつ)。そして、ちょうど言語野と同じように、理性に密接に関係する領野――いわば「理性野」――が前頭連合野内にある。実際、前頭連合野のダメージや機能不全で社会関係をうまく営むことができなくなり、理性も失うか減退してしまう。
社会的理性は私たち人類に固有なものではない。少なくともヒトと相同な前頭連合野をもつ動物――真猿類――は、この機能のベースを共有している。真猿類はおよそ四〇〇〇万年前に現れた「サルらしいサル」の総称で、ヒトも(もちろん)真猿類の一種だ。その真猿類の全ては社会をつくり、社会的場面に応じて自分の感情や欲望をコントロールしている。したがって、私たち人類の社会的理性は、進化的に見てかなり古い起源(真猿類の出現時=およそ四〇〇〇万年前)をもっており、「本能(進化的基盤と遺伝性の強い能力)」として受け継いでいるのだ。
社会的理性は言語と同じように「本能」なのである。しかも、その歴史は音声言語の歴史(古くても二五〇万年)よりもはるかに長い。ヒトはこの機能を担う前頭連合野を爆発的に発達させ、社会的理性を活用した「共生戦略」を育んできたわけだ。
かくして、私たち人類は社会的理性を豊かに、そして強固に(長い進化の歴史に支えられて)もっているのである。仲間殺しなどの凶悪犯罪を極力避け、共生戦略を維持するための重要な機能のひとつとして。
†複雑で豊かな社会環境が必要[#「†複雑で豊かな社会環境が必要」はゴシック体]
だから、言語がそうであるように、「普通の環境」に育てば、社会的理性は発達し、凶悪犯罪などおこさないはずだ。ただし、あくまでも、普通の環境で育てば、である。
社会的理性にとっての「普通の環境」とは、社会をつくる真猿類が誕生した四〇〇〇万年ほど前から持続してきたものだ。言語の発達にとっての「普通の環境」は、「豊かな言語にさらされる」という環境である。同様にして、「豊かな社会関係にさらされる」という環境が、社会的理性における「普通の環境」である。
真猿類たちのコドモは生まれてから、母親や他の子ザルたち、そしてオトナとの複雑な社会関係に組み込まれる。この「普通の環境」によって、社会的理性が獲得され、発達するのだ。もちろん、言語と同様に、大切なのは幼少期で、コドモの頃にこうした環境にさらされねばならない。
幼少期に複雑な社会関係が、社会性の発達にいかに重要であるかについては、サルでの多くのデータで証明されている。たとえば、子ザルを生まれた直後に母親から隔離して一、二年ほど人工保育をし、その後、群れに戻す。すると、大抵の場合、そのサルは社会関係をうまく営めなくなる。むやみに攻撃的だったり、孤立したり、いじめられたりするのだ。もちろん、適切なコミュニケーションや性行動もとれない。こうした「社会不適応」は生涯にわたって続き、長じては群れから追い出されたりしてしまう。
母親から隔離されて孤独に過ごす環境は、サルにとって明らかに「普通の環境」ではない。幼少期での「普通ではない環境」のおかげで、性関係を含めた社会関係をうまく営むための脳力が死ぬまで未熟のままであり続けてしまったわけだ。しかも、この影響は脳内物質のレベルにまで及んでしまう。彼らが年老いて死んだ後に脳を調べると、そのような脳力に深く関わる脳内物質系(セロトニン系やドーパミン系)が著しく衰退していたことがわかったのだ。
社会的理性も脳活動なので、言語と同じように臨界期がある。つまり、社会的理性の基本が急速に形成され、その後長期にわたって影響を及ぼし続ける時期だ。サルでは今述べた実験などからほぼ明らかになっていて、生後二歳くらいまでである。この期間に隔離して飼育してしまうと、社会性はほとんど失われる。ところが、その後であれば、たとえ二年間隔離飼育した後に群れに戻してもほとんど問題ない(群れに戻した当初は多少ギクシャクした社会行動をするが、十分に回復する)。
ヒトでの社会的理性の臨界期はよくわかっていない。ただ、サルの二歳はヒトの八歳ほどに対応することからみて、生後八歳くらいまでだと推定できる。最近の脳イメージング研究でも、前頭連合野の発達のピークが三〜六歳にあることがわかったので、八歳くらいまで、というのは妥当だろう。現に、先述したアヴェロンの野生児は、それより多少長い一二歳頃まで人の手で育てられなかったせいで、言語のみならず、社会性も理性も未熟なままだったのである。
では人の手で育てられさえすれば「普通の環境」になるかといえば、もちろんそんなことはない。他のサル(真猿類)と同様、「豊かな社会関係にさらされる」という環境が重要である。ただし、私たち人類にとっての「普通の環境」は、他の真猿類とは多少異なっている。
†犯罪的な脳はつくられる[#「†犯罪的な脳はつくられる」はゴシック体]
ヒトでは社会関係を営むための言語を獲得・進化させてきた。また、霊長類では稀であるが、「持続的な家族」をユニットとした複雑な社会をつくっている。そして、なによりも共生戦略を豊かに発達させてきた。そのため、ヒトでの「普通の環境」は、それなりの特徴をもっている。
この辺のことを詳述するのは大変だが、ひとことで言えば「親からの愛情と指導を受けつつ、大人や子供どうしで多様な社会関係を繰り広げる環境」が、人類にとっての「普通の環境」である。その対極にあるのが「普通ではない環境」で、「親からの愛情と指導も受けず、孤独にすごす環境」ということになる。この中の一要素(たとえば親からの指導の欠如)があれば、普通ではないことになる。念のために言えば、「教育」も環境のひとつで、「普通ではない教育」が当然ながら想定できる。
幼少期(臨界期)に「普通ではない環境・教育」の下で育ったらどうなるか、ほとんど自明である。社会的理性が未熟のままあり続け、感情や欲望を適切にコントロールできない状態が続くことになる。もちろん、適切なコミュニケーションや性行動も欠いたままだ。こうした状態が容易に犯罪と結びついてしまうことは理の当然というべきだろう。実際のところ、不適切なコミュニケーション・性行動と結びついた犯罪や問題行動は頻発している。深刻かつ悪質なセクハラなどはその最たるものだ(私見では、「偽りの記憶」があるように「偽りのセクハラ」もあるのでは、と考えているので、こんな表現をしたが、もちろんセクハラを正当化するつもりは毛頭ない)。
かくして、幼少期での「普通ではない環境・教育」が「犯罪に向かう脳」をつくり出してしまうわけだ。幼児脳教育・環境が鍵なのだ。
もとより、先に断ったように、すべての犯罪が幼児脳教育・環境に起因するものではない。しかし、本来(生物学的に)凶悪犯罪を起こさない脳が根本的に変容する本質的な淵源のひとつが幼少期(臨界期)での「普通ではない環境・教育」にあることはまず間違いない。そして、そういった「非普通さ」が現代日本の社会での「普通」になってきていることも。犯罪が蔓延するのもけだし当然だと言うしかない。
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ちぐはぐな行為と脳損傷[#「ちぐはぐな行為と脳損傷」はゴシック体]
†シャカイ・シッコウ?[#「†シャカイ・シッコウ?」はゴシック体]
数年前のことになるが、「シャカイ・シッコウ」という言葉を(脳外科学系の某シンポジウムで)初めて耳にしたとき、なんのことか全くわからなかった。どうやら、社会関係が(脳損傷のせいなどで)うまくできなくなる障害のようだが、シッコウとはなんだろう? と、薄暗い会場の一隅で天井をながめながらつらつら思っていたが、まもなく「全て」を理解した。
シャカイ・シッコウ、すなわち「社会失行」である。英語ではソシアル・アプラキシア(social apraxia)。そしてこの学術用語には、多くの意味が込められている。その意味の全てを私は突然のように理解したのだ(という気持ちになった)。少なくとも、脳科学の現状の一端をこの用語はシンボリックに示しているし、犯罪などの社会的問題行動を理解する上で重要なタームであることは間違いない。
†わかっちゃいるけど、やれない[#「†わかっちゃいるけど、やれない」はゴシック体]
「失行(apraxia)」とはそもそも、何かの要求に対して、その要求そのものは理解できるが、要求に応じた行動ができない症状のことを言う。「理解力や認識力ではなく、行為の喪失」といった意味で、「失行」なのだ。
たとえば、「手を上げてください」と言われたとき、その要求の内容はわかっても、どうしても手を上げることができない(こうした症状を、学術用語では「観念運動失行」という)。あるいは、衣服を着ることを要求されても、服を着ることができない(「着衣失行」)。
その他に様々な失行があるが、ようは、「わかっちゃいるけど、やれない」といった症状だ。普通は、脳のダメージ(脳梗塞や脳腫瘍、損傷など)が原因となって起こる。とくに前頭葉や頭頂葉でのダメージとの関係が深い。そして、「脳の異なった部位は異なったはたらきを(モジュール的に)担っている」という脳の原理から見て当然ながら、どういう失行が起きるかは、ダメージを受けた脳部位によって異なる。たとえば、観念運動失行は、前頭葉の後部との関係が深いし、着衣失行は、頭頂葉のダメージで起きることが多い。逆に言えば、ある脳部位は、ある特別な「行為」(知覚や認識、注意などではなく)を担っているわけだ。
このことは、サルでの実験でもわかっていて、そうした実験には私たちの研究室によるものもある。目の前の三つのレバーのうち、どれかに向かって手を伸ばす(リーチングする)ことをサルに要求するとしよう。どのレバーにリーチングするかは、試行ごとに視覚刺激で教えてやる。そんな行動課題を行なっている間に、運動前野(前頭葉の一部)のごく狭い領域でのニューロン群のはたらきを、薬物などで阻害すると、サルは特定の方向(レバー)へのリーチングができなくなる。どの方向へリーチングすればよいのかはわかっているのに、である。しかも、その部位のニューロン活動を薬などで高めると、今度は、要求されもしないのに、その方向へ向かってリーチングするのだ。「ある方向へリーチングする」という行為は、特定の脳部位にいわば「行為品目・記憶」として蓄えられているらしいのだ。だから、ある行為品目に対応する脳部位が障害されれば、その行為品目(たとえば、着衣)は失われてしまうことになる。
†社会失行とは?[#「†社会失行とは?」はゴシック体]
そして、「社会失行」である。
性関係を含めた社会関係が脳の活動であること、そして、その主要な「責任領域」が前頭連合野内にあることは、本書でも何度か指摘してきた。だから、とくに前頭連合野の障害によって、社会関係がおかしくなること――場合によっては犯罪にまで及ぶこと――は、脳科学から見て、いわば当然のことで、その実例も多数ある。
そうした話をするとき、私は「社会的理性」というタームを使ってきた。「状況に応じて自分の行動や感情をうまくコントロールして、適切な社会関係を営む機能」としての社会的理性である。そして、このはたらきがなんらかの原因(幼児脳教育の失敗とか、脳神経発達障害とか脳内損傷など)で障害されると、下手をすれば犯罪にまで至ってしまうと、まあ、考えてきたわけだ。
ただ、「社会的理性」と一口にいっても、大きくふたつの側面がある。認知的側面としての「社会認識」(社会関係や社会的規範の理解・認識)と、それに基づく実行的側面としての「社会的コントロール」(感情を含めた社会的関係・行為の適切なコントロール)である。この「コントロール」には、ある行為を「行なう」ことも含まれるし、ある行為や感情などを積極的に「抑える」ことも、もちろん入っている。
こう考えてきた私にとって、「社会失行」という言葉は、理解しやすいことだし、自分の考えにも合っている。「社会的理性」と言うと、何か単一の、渾然一体的な機能と思われがちだが、今述べたように認知的な側面と実行的な側面を含む。だから、「社会失行」が現実にあるとすれば、それは、社会的理性のこうした二面性によって説明できる、というか、そうした考えと合っているわけだ。しかし、本当に「社会失行」はあるのだろうか?
†コントロールができない[#「†コントロールができない」はゴシック体]
失行とは、(くどいが)「わかっていても、できない」という症状だ。社会失行とは、だから、「わかっていても、社会関係がうまくできない症状」ということになる。社会失行という言葉が使われ始めたのは一九九六年以来で、シュワルツ(Schwartz) という医者が、てんかんとの関係で提唱したものだ。彼は、てんかんの患者さん、そしてさらには、他の脳損傷患者さんの一部が、「わかっていても、社会的関係・行為がうまくできない症状」を示すことに気づき、この概念を提唱したのだ。
そして、この概念は、どうやら正しいらしい。つまり、観念運動失行や着衣失行と同じように、社会的行為のみがうまく行なえない症状が現実にある。ただし、「失行」といっても、この場合、何かを行なうことだけを失うのではなく、抑制も含めた「コントロール」を失うといった方がよい。
もちろん、失行というほどだから、ある状況で要求される社会的関係・行為は理解できる。しかし、そうした行為はできないで、別の(ときに逆行した)行為をしてしまったりするのだ。たとえば、葬式や授業中には静粛にすべきなのに(そうとわかっていても)騒いでしまうとか、あるいは、女の子のお尻を触ってはいけないのに(そうとわかっていても)満員電車内で痴漢をしてしまうとか……。
ちょっと卑近な例だったが、ともあれ、「社会失行」という概念が、提唱されてからそれほど時間がたっていないのにもかかわらず、脳科学者や脳外科医たちがかなり広く使い始めたことは確かだ。それは、この概念・タームが適切であり、そう呼んだ方がよい症例がかなりあることを示してもいるわけだ。
†社会認識と社会的コントロールは別々の脳部位で[#「†社会認識と社会的コントロールは別々の脳部位で」はゴシック体]
社会関係は(人類の脳進化からみても)とても重要であるにもかかわらず、脳科学ではなんとなく無視されてきたきらいがある。「社会関係に深く関わる脳部位がある」という主張は、私を含めた何人かの研究者がしてきたが、実は少数派だったのだ。ましてや、「私(自我)は前頭連合野にいる!」なんていう主張をしているのは、世界広しといえども、私(プラス四、五人)くらいである。
そういった中で、「社会失行」という、それらしい(専門用語的で、難しげな)言葉が提唱され、しかもかなり広まってきたことには、個人的には感無量だ。もちろん、それだけではない。「社会的行為を担う特別な脳部位・システムがある」ということをこのタームは指し示しており、この点でも傾聴すべき概念である。
実際、社会的理性の二大要素である社会認識と社会的コントロールは、互いに密接に関係するとはいえ、ある程度独立した機能である。そして、別々の脳部位によって担われていると考えてよい。その具体的な場所は、現時点ではよくわかっていないものの、これまでのデータを総合すると、前頭連合野内での別々の領域がそれぞれの主なセンターとなっているらしい。
つまり、社会認識用システムと社会的コントロール用システムは、それぞれ、社会的理性用システムの入力系と出力系に対応しつつ、脳内(とくに前頭連合野内)で別々に動作している。社会的コントロール用システムには、遺伝や学習、経験などを通して形成された多数の「社会行為品目」が含まれているはずだ。そして、この社会的コントロールを担う脳領域・システムのなんらかの障害で、「わかっちゃいるけど、やめられない(やれない)」という症状がいろいろな社会的場面において出てくるのである。
†「わかっていること」と「行なうこと」は別物[#「†「わかっていること」と「行なうこと」は別物」はゴシック体]
こうしたことは、犯罪を含めた社会的問題行動を考える上で、かなり深い意味をもつ。
ある人が殺人を犯したとしよう。その場合、殺すことはよくないと思いながらも殺してしまったのか、それとも、殺してもかまわないと思いながら殺したのかが、問題になる。というのは、もし「殺すことはよくないことを知りながら殺した」とすれば、それは(定義上)社会失行の一種で、いわば「病気」(脳内損傷や脳神経発達障害などによる)の可能性が高いということになる。となると、社会的に(裁判でも)それなりに考慮しなくてはならないではないか。しかも、「殺すのはよくない」と知りながら殺してしまう人が多いのが現状で、「殺してもかまわない」と思って殺す方が少ないのでなおさらだ。
ちなみに、「殺してもかまわないと思うこと」は以前から(むろん、その思いの動機にもよるが)「脳機能障害による病」だと考えられていて、「社会失認(社会関係や社会的規範の認識が欠損する)」の一種とされていた(この点からも「わかっていること=社会認識」と「行なうこと=社会的コントロール」は別個の脳内システムであることがうかがえる)。ほとんど動機らしい動機がなくて「殺してもかまわないと思いながら殺した」というのも脳科学から見れば一種の病気だが、今や「殺すことはよくないことを知りながら殺した」というのも脳の病ではないかと思われ始めたというわけだ。
なんでも脳のせいにするのは行き過ぎだと脳科学者の端くれとして注意しておきたい。だが、人の行動も感情も脳が操っていることは明らかである。ここで思い出すのは、「犯罪者の脳」である。凶悪犯罪者の脳は、まっとうな人に比べて、いくつかの特徴があることがわかってきている。一〇年以上前から知られていたのは、脳の活動性の違いである。犯罪者では、前頭連合野や辺縁系(情動を担う脳システム)の活動性が異常なのだ。そして、近年になって(脳構造のイメージング技術が進歩したせいもあって)、犯罪者の脳の多くには損傷などのダメージがあることもわかってきている。たとえば、女子高生を数週間も監禁・陵辱したあげく殺害してコンクリート詰めにした少年たちの脳には、かなり大きな損傷があったとされる。また「反社会性人格障害」では、前頭連合野の皮質が薄いことがわかっている。こうした例では、裁判所は、あるいは、世論は、どう対応すればよいのだろう? 「病気」なのだから、許すべきなのだろうか?
殺人まで極端ではないにしても、青少年で頻繁に見られる「いじめ」を考えてみても、「いじめはいけないと知りながらも、いじめてしまう」のか「いじめをしてもよいと思って、いじめている」のか、問題になろう。もし、前者であれば、「いじめはよくない」といった先生や親からの説得・言い聞かせなど、ほとんど無意味である。『金八先生』(個人的には嫌いな番組だが、ともあれ)では、「生徒が納得するように誠実かつ熱心に話せば、非行などなくなる」みたいな発想があるが、いじめや非行が酷いこと、いけないことだと本人がいくら心底(脳底?)わかっていたとしても、それでもいじめや非行に走ってしまうことは十分にあり得ることなのだ。
「わかっていること」と「行なうこと(あるいは、行なわないこと)」の間にはかなり深い溝がある――このことは、いろいろな社会的問題行動を理解する上で重要だし、裁判や教育の現場でも十分に考慮すべきことだろう。
†問題行動再考[#「†問題行動再考」はゴシック体]
「シャカイ・シッコウ」という言葉を耳にしたときに思ったことはざっとこんな内容だった。「失行」が日常的で個人的な行為にとどまらず、社会的関係・行為にも適用され得るとすれば、そして、それには何らかの脳障害が伴っていることが多いとすれば、犯罪に代表される数々の社会的問題行動への対応に関して私たちは再考を迫られるのではないだろうか。そして、また、そういったことを理解し対処する上で、脳科学の果たす役割はきわめて大きいはずだ。そんなことも、当シンポジウム会場でつらつら思っていたものだ(そのおかげで、肝心のシンポジウムの内容はすっかり忘れてしまった。なんたることか)。
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殺す脳、殺さない脳[#「殺す脳、殺さない脳」はゴシック体]
†ヒトは「殺し合わない」動物[#「†ヒトは「殺し合わない」動物」はゴシック体]
ヒトはそれなりの特徴をいくつかもっている。直立二足歩行をするとか、家族をつくるとか、あるいは(これが最も目立った特徴だが)体重に比べて脳が異様に大きい、といった点だ。
その他にもいろいろあるが、意外と知られていない特徴として、「あまり殺し合わない」という性質がある。
こう言うと読者は反発されるかもしれない。戦争や地域紛争、あるいは多発する凶悪犯罪での悲惨な殺しの歴史や現状を見れば、人間ほどむやみに殺し合う動物は珍しい、と思っても仕方がないところがある。動物行動学の泰斗ローレンツの「動物は仲間どうしではめったに殺し合わない。人間は異常だ」という説も常識化している。しかし、常識というのはいつでも疑うべきで、本当にそうか? と冷静に振り返ってもらいたい。
†「仲間殺し」が当り前の動物もいる[#「†「仲間殺し」が当り前の動物もいる」はゴシック体]
サカナやサンショウウオの幼生を飼育した方ならご存知だろうが、彼らは餌をかなり与えても、やたらと共食いする。繁殖戦略として、多く死ぬことを見越して多く産む戦略――多産多死戦略(専門的にはr戦略≠ニいう)――をとっているせいだ。こうした戦略をとっている生き物では、数億個の卵を産むもの(マンボウ)さえおり、共食いなど日常茶飯事である。場合によっては、親が自分の子を平気で食べてしまうほどで、恐れ入る。
もちろん、r戦略を採用していても、本来は共食い・仲間殺しなどしない方がよいに決まっている。しかし、「ほとんどは死んでもよい」という戦略なので、(進化的に)歯止めをかけていない。餌があまりないときに、「兄弟・姉妹なのだから……」と遠慮していては全滅しかねないではないか。歯止めをルーズにしておいた方が、生き残る確率は高まる。それで、共食いが(環境によっては)頻発するわけだ。
対照的に、少産少死戦略(K戦略)を採用している動物では、やたらと共食いなどしない。K戦略は「少なく産んで大事に育てる」という戦略なので、コドモやオトナどうし、あるいは、オトナとコドモの間でめったやたらと殺し合ってはどうしようもない。「仲間殺しをあまりしない」という(進化的な)歯止めがあるのだ。
哺乳類は一般にK戦略者で、霊長類、とくにヒトが属する真猿類でその傾向が強い。真猿類の場合、一度に数頭(多くのサルでは通常一頭、一部では三頭程度)しかコドモを産まないし、コドモが成熟するまでの期間も長い。それまでは親が大事に育てる。このような典型的なK戦略者では、やたらと殺し合わないのが普通だ。
†真猿類の「子殺し」[#「†真猿類の「子殺し」」はゴシック体]
確かにそうなのだが、実状はやや違う。真猿類の一部では、「殺し」がかなり普通になされているのだ。
真猿類では多妻型の社会をつくる種が多い。一頭のオスが複数のメスと交尾する社会で、ハーレム型がその典型だ。多妻制社会では、オトナメスに比べてオトナオスが少ない(だから多妻になるわけだ)。つまり、社会的な性比(社会を構成するメンバーでのオス対メスの比)は一対一ではなく、一対多(多いと六以上)になる。生物学的な性比(つまり生まれてくるコドモの性比)はおおむね一対一だから、多妻型社会ではオスが群れから追い出されるか、死亡する率が高い、ということになる。
実際のところ、オスは追い出されて死んでしまうか、あるいは、追い出された後に力を蓄えて群れに入り込み、そこにいるオスを追い出す(普通は殺す)ということをする。後者がいわゆる「乗っ取り」である。
乗っ取りで有名なのはインドに棲むサル、ハヌマンラングールである。彼らは典型的な多妻型社会(ハーレム)をつくる。つまり、一頭のオスが多数のメスを囲っている。だから、ある群れで生まれたオスは少なくとも一度は群れから出る。そして、そういう「離れオス」は成長し力を蓄えた後に、適当なハーレムをねらい、そこの「ボス」に戦いを挑み、うまくすれば殺すか追い出す(追い出されたオスは、普通、死んでしまう)。しかも、乗っ取りに成功したオスは、直ちに、群れにいるコドモを全て殺してしまうのである。これが有名な「子殺し」である。
子殺しはもちろん「異常」な行動ではない。このサルに特有なものでもない(ゲラダヒヒなど、他のいくつかの真猿類で見つかっている)。端的に言えば、乗っ取りも子殺しも自分の遺伝子を効率よく残す「繁殖戦略」の一種なのだ。
生き物は自分の遺伝子を残すことを最重要な「目的」としている。ハヌマンラングールなど、一夫多妻型の社会をつくるサルでは、群れを乗っ取ることによって、自分の遺伝子をより多く残すための条件――より多くのメスと交尾する――が整う。また、乗っ取り先の群れのコドモたちには自分の遺伝子が入っていない。しかも、乳児を抱えたメスは発情しないので、乗っ取ったオスは交尾できない。そのため、コドモを殺すわけだ(コドモをなくしたメスはやがて発情する)。
霊長類に限らず、多妻型の社会をつくる哺乳類では、このような「仲間殺し」をする素地を進化的に(「遺伝プラン」のような形で)もっているのである。もちろん、多妻型の社会をつくる哺乳類の全ての種で同様な行動・戦略が観察されているわけではない。それでも、ヒトが属する真猿類では、珍しいことではない。
†多妻型、でも殺さない[#「†多妻型、でも殺さない」はゴシック体]
ヒトの社会の基本型は実は多妻型である。人口ではなく、社会ごとに数えると、八〇パーセントの社会は多妻型かそれを容認する社会である。一部の社会では典型的なハーレムさえつくる。進化的にみても、ヒト科霊長類が出現した六五〇万年ほど前から多妻型だったらしい(少なくとも約四〇〇万年前に出現したアウストラロピテクス類ではかなりはっきりとした多妻型だったようだ)。いや、それ以前からで、系統的にみれば四〇〇〇万年間という長い真猿類の歴史を引きずっているといっても構わない。ただし、現生ヒトの場合、いくつかの証拠から見て、多妻型と一妻型の中間型あるいは混在型と言うべきかもしれないが、多妻型の傾向が強いのは確かである。
したがって、ヒトでも相当な殺しをしてしかるべき、ということになる。ヒトと最も近縁の動物であるチンパンジーでも(六五〇万年ほど前にヒト科霊長類の系統から分岐)、子殺しが観察されている。
ところがヒトの場合、実状は(明々白々にも)異なっていて、この性質はなぜかかなり希薄になっている。実際のところ、もしかりに、ヒトがハヌマンラングールやゲラダヒヒと同程度に子殺しを含めた「仲間殺し」をやっていたとしたら、人口一億人程度の社会(たとえば日本)では、年間数千万人の死者(とくに子供と大人の男性)が出るのは必至である。ところがそうではないことは言うまでもない。ヒトは、多妻型のくせに「あまり殺し合わない」という大きな特徴を(ローレンツの格言とは異なり)もっているのだ。
†ヒトが採用した「共生戦略」[#「†ヒトが採用した「共生戦略」」はゴシック体]
なぜ、ヒトは多妻型真猿類のくせにあまり殺し合わないのか?
この問題にはかなり込み入った議論が必要になってくるので、ひとつだけ重要な点を述べるに留めよう。子殺しはオスにとってはともあれ、メスにとっては(自分の遺伝子を残すという目的に関して)何の意味もない――それどころか、不利益きわまりない(コストがかかりすぎる)――ということだ。せっかく産み育てているコドモ(自分の遺伝子が確実に伝わっている)がいきなり殺されるのだから、メスにしてはたまったものではない。メスの側に立てば、乗っ取りも子殺しもない方がよいにきまっているのだ。
オスどうしにしても実はそうで、群れを乗っ取り、乗っ取られるなんてことを繰り返さなくても自分の遺伝子をある程度残せればそれに越したことはない。そういう中でも「より多く遺伝子を残したい」というオスが現れること、そして、そのために「乗っ取り・子殺し」が出てくる可能性はいつだってある。ところが、その行動が社会的に大変リスキーで非効率的なものであれば、そういう行動傾向と結びついた遺伝要因は衰退してゆく。
つまり、メスのいわば「カウンター戦略」として、乗っ取りや子殺しをなくそうとする戦略・行動傾向を獲得・進化させ、一方、オスどうしでも、いわゆる「互恵的利他主義」のような行動戦略(互いに助け合うことによって、結局は自分の遺伝子を残す確率を高める戦略)を採用するようになったと考えられるのだ。
真猿類の中でも、こうした戦略――いわば「共生戦略」――をそこそこに進化させたものもいる(たとえば、かつては「ピグミーチンパンジー」とも呼ばれたボノボ)。そうした戦略を採用した真猿類では、少なくとも子殺しは稀だ。オスどうしもあまり殺し合わない。もちろん、多妻型を捨てて一妻型社会(テナガザルのようなペア型が典型)にしてしまえば、子殺しは皆無になる。オスどうしでも普通は殺し合わない(縄張り争いはするが)。
私たちヒトは、あくまでも多妻型を基本とするものの、このような「共生戦略」を豊かに発達させてきたと考えてよい。つまり、乗っ取りも子殺しも極力抑え、なるべく共存し助け合いながら、自分の遺伝子をうまく残してゆく、という戦略である。こうした「共生戦略」を生き方・行動のベースにしているからこそ、群れの乗っ取りも子殺しも(多妻型の真猿類にしては)稀であり、殺しそのものの頻度も少ないのである。
†ヒトは「殺さない脳」をもつ[#「†ヒトは「殺さない脳」をもつ」はゴシック体]
ヒトの行動・社会の生物学的ベースは「共生」にあるわけだ。そのため、やたらと殺し合わないのみならず、「殺すこと」が社会的に大変リスキーになっている。とくに子殺し・親殺しはそうで、尊属殺人がおおむねどの社会でも極刑になるのは、私たちの進化的履歴のせいと言えなくもない。
殺すことも殺さないことも、もちろん、脳の活動と結びついている。そのため、「あまり殺し合わないで、自分の遺伝子を残す」という共生戦略をまっとうするための具体的な脳領域をきちんともっている。大脳新皮質、とくにその前頭連合野である。前頭連合野の機能(PQ)の中では、「理性」が重要な構成要素となっている。不適切な行動・衝動を積極的に抑え、適切な行動や人間関係を保つ、というはたらき(=理性)は前頭連合野の中心的な機能のひとつなのである。自分の感情を制御して、殺しなどせず、「共生」を志すためには理性は必須であることは言うまでもない。
かくして、私たち人類は「あまり殺し合わない」という性質を、具体的な脳領域(前頭連合野)を発達させる形で、進化させてきたのである。私たちは「殺さない脳」をもっているわけだ。
とはいえ、そういう人類でも、とくに近年になって、戦争や地域紛争などで大規模な殺人が行なわれてきたことは確かだ。なぜか?
この問題も脳科学を含めた生物学の観点からある程度は議論できるが、ここではあえて避けたい。私たちの行動の全てを生物学的観点から議論する必要はないし、生物学的ベースよりもむしろ「文化」や「イデオロギー」に基づく行動も多いからだ。本来「殺さない脳」をもっていたとしても、抗しがたいイデオロギー(宗教を含む)や経済などの事情だってある。ほとんどの戦争・地域紛争はそういったものであり、本項で述べた殺人とは本質的に異なったレベルにあることは断っておきたい。
冒頭に挙げたローレンツの言葉は、もちろん、こうした戦争や地域紛争での大規模な殺し合いを批判するためのものだった。そのとき、彼は他の動物(オオカミなど)の例を出さずに「人間は本来、殺し合わない」ということを起点として批判すべきだったと思う。「動物よりもヒドい」と言いたかったのだろうが、「ヒト以外の動物は、ヒトより劣っている。その動物さえ殺し合わないのだから……」というニュアンスがあって、進化生物学的にもおかしな話だ(「優・劣」「高等・下等」というのは、生物学では「死語」である)。ローレンツの言葉は二重の意味で間違っていたのだ。
「人間は、本来、殺さない脳をもつ」――この観点こそが、殺しを含めた凶悪犯罪、あるいは戦争などを(生物学や脳科学の観点から)理解したり批判したりする際での大前提とすべきなのである。
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第5章 もっと深まる脳
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ヒトはなぜ働くのか[#「ヒトはなぜ働くのか」はゴシック体]
†「働く」ことと人生の意味[#「†「働く」ことと人生の意味」はゴシック体]
これはよく思うことだが、一見当然のようでよく考えると不思議なことは多い。たとえば「仕事」である。仕事の一貫としてこうした文章を書こうと思い、ふと疑問にとらわれたのだ。なぜ自分は、そして人々は働くのか、と。
「ヒトはなぜ働くのか?」
この問いを生物学の観点から解けば、答えは非常に簡単だ。「遺伝子を残すため」である。
私たち人類を含めて生物の究極的な目的は自分の遺伝子を残すことである。生物のもろもろの機能や構造は、結局はこの目的を中心としているので、なんらかの機能や構造をめぐる「なぜ?」という疑問は「遺伝子の存続」に行き着いてしまう。
とはいえ、ものごとには成り立ちというものがある。生物に関してもそうで、いきなり鳥に羽が生えたり、イルカにヒレができたりするわけではない。羽もヒレも結局は遺伝子を残すためにあるとしても、それらにはそれ相応の成り行き、生い立ちというものがある。
「働く」という行動にしてもそうである。働くことが結局は遺伝子を残すためのものとはいえ、それ相応の成り立ちがある。そして、そのことをつらつら考えると、私たちの人生の意味までわかってくるのだ。これはやや大げさだが、少なくともロジカルに考えると、人生の意味がわかった気になることは確かだ。
†幼少期の延長[#「†幼少期の延長」はゴシック体]
働くという行動の成り立ちには様々な要因が複合しているが、中心的なものは「幼少期の延長」である。
私たちヒトが属する霊長類を見ても、積極的に働くことをしているのはヒトだけである。ヒトと最も近縁な霊長類であるチンパンジーを見ても、ほとんど働いていない。せいぜい、木の実を石で割ったり、葉っぱでシロアリを釣ったりしているだけだ。これらは自分の食物を手に入れるための行為で、労働とはほど遠い。決して「働く」という行動とは言えまい。
しかし、私たちヒトは働いている。その一次的な目的は、自分と家族の糧を得るためである。とくに、家族の糧を得るため、というのが強い動機になっている。
逆に言えば、家族の形成が労働の進化的起源と密接に関わり合っていたといえる。そのベースには幼少期の延長があるのだ。
私たちヒトの大きな特徴は、幼少期が延長したということだ。例の「ネオテニー」である。「幼形成熟」とも呼ばれるネオテニーは、幼い特徴を残したまま成熟することを言う。様々な動物で幼形成熟が知られているが、厳しい環境に適応するときにネオテニー化することが多い。
ヒトでもそうで、ヒトはおよそ六五〇万年前にサバンナに進出したが、この厳しい環境に適応するために、ネオテニー化したらしい。つまり、幼少期が延長し、かつ、大人になっても幼少期の特徴を残すことになった。実際、ヒトと最も近縁な霊長類であるチンパンジーと比べて、ヒトの少年期は二倍も長い。また、ヒトの大人の特徴(頭が体に比して大きい、顔が平べったい、体毛が薄い、等々)はチンパンジーの子供そっくりである。
もちろん、意味なくネオテニー化したのではない。ネオテニー化を脳レベルで見ると、脳がいつまでも柔らかくて学習能力が高くなる、という特徴が伴う。あるいは、好奇心がいつまでも旺盛という特徴も出てくる。これらの特徴は、変動し厳しい環境に適応するのに非常に都合がよい。
†家族の形成と労働の発生[#「†家族の形成と労働の発生」はゴシック体]
ネオテニー現象が哺乳類で起きると、家族や、それに準じる社会構造ができやすい。ネオテニー化するということは、幼少期が延長した、ということである。つまり、放っておいたらすぐに死んでしまうような子供を何年間も育てる必要がある。そのためには、オスとメス、つまり夫妻が結束して子育てする必要が生じる。ヒト進化の過程でこうしてできたのが「家族」である。サバンナという厳しい環境に適応する上でも家族の形成は重要だった。実際、ヒトと同じように厳しいサバンナに適応したサル、ヒヒはしっかりとした社会単位としてのハーレム型ユニットをつくっている。
家族が形成されてから「働く」という行動が出現したのはほとんど必然であった。子供を抱えたメスの糧を得るために、オスが働く必要が出てきたのである。狩猟がその典型であるが、それに類することがオスの仕事となったのである。
ここで、ゴリラが働かないのはなぜか? という疑問が出てくるかもしれない。ゴリラは確かに立派な家族(ハーレム)をつくる。進化的にもヒトと近い。しかし彼らは働いていない。なぜか? その答えは簡単である。ゴリラは菜食主義者で、葉を主食としているせいだ。そのような採食戦略をとっている場合には、働く必要はほとんどない。
ところが、ヒトは肉食性の強い雑食性である。その場合には、狩猟などをして働かなければ家族のための糧を得ることはできない。実際、ヒトは長らく狩猟採集を基本的な採食戦略としてきたのである。
かくして、ヒトはネオテニー化とそれに伴う家族形成によって、「働く」という行動を進化させてきたのだ。そしてそれは、自分の子供を確実に育てる、つまり、自分の遺伝子をうまく残す、という生物にとっての究極的目的に沿ったものだったのだ。
†社会のための仕事[#「†社会のための仕事」はゴシック体]
とはいえ、ヒトの「働く」という行動はこうした説明では十分ではないことは確かだ。家族の糧を得るためだけに働くわけではないからだ。端的に、自分の遺伝子を残すためだけに働くとしたら、子供が成人した後は働かなくてもいいはずだ。しかし、実際はそうではない。なぜか? ここでもネオテニーが鍵となる。
ネオテニーによって、私たちは大人になっても子供っぽさを残すようになった。脳のレベルで見れば、学習能力が高く、また、好奇心旺盛で、さらに独創性に富むという性質が大人になっても維持され、しかも、それは中高年になってもさほど衰えないのだ。
だとすれば、私たちは「家族の糧を得るため」という目的以外に働くベースを進化的にもっていることになる。つまり、好奇心や探究心、学習意欲を満足させるための「労働」である。
ヒトの進化の特徴(ネオテニー化)から見れば、こうした労働こそがヒト的な労働と言えなくもない。少なくとも、好奇心や探究心、学習意欲を満足させない仕事よりも、それらを満足させる仕事の方が(その差し当たっての目的が自分や家族の糧を得るためであっても)ヒト的だと言える。そして、そういった仕事は、中年期を過ぎてからの方がむしろ、より純粋な形になる。
ただ、そういった仕事にしろ、実は「遺伝子を残すため」という目的に沿ったものであることは強調すべきだろう。なるほど、自分の遺伝子が伝わっている子供を育て終わった後の労働は「自分の遺伝子」を残すためのものではない。子供を育て終わったら、本来は死んでもよい(あえて言えば、意味無くリソースを浪費しないために死ぬべき=jのだが、私たちは仕事をする。なぜか? ネオテニー化によって獲得した脳力(好奇心や探究心、学習意欲など)を使って、社会に貢献するため、である。
ヒトは明らかに社会的な動物である。家族を単位とした社会を形成するという性質を数百万年近くもち続けている。そして、自分や家族のためだけではなく、とくに中年以降は社会のために貢献するという性質を進化的に獲得・発達させてきたらしいのだ。もちろん、ここでいう「社会のため」とは、「社会を構成するメンバーの遺伝子を残すため」であり、こうした社会的貢献のための仕事にしろ、究極的には「遺伝子を残すため」であることは言うまでもない。
そう、ヒトは進化的にいって、家族のためと社会のために働くのである。ネオテニー化によって獲得した脳力である好奇心や探究心、学習意欲などを使って、遺伝子を残すために。
†社会のために働くのが日本人の宿命[#「†社会のために働くのが日本人の宿命」はゴシック体]
この観点からさらにいえば、こうした性質をより推し進めたのが私たち日本人だと見てよい。
ネオテニー化によって人類は進化してきたが、それは一時的なものではなく、最近になっても(もちろん地質学的なタイムスケールで)ネオテニー化は進んだ。私たち現生人類(Homo sapiens sapiens) は、たとえばネアンデルタール(Homo sapiens neanderthalenis) より明らかにネオテニーが進んでいる(ネアンデルタールは三〇〜三万年ほど前に生存した人類で、現生ヒトと同種で亜種関係にある――別種とする異見もある)。同じ現生人類の系統でもネオテニーは進んできたようで、その最たるものが、私たち日本人の多くが属するモンゴロイドの進化に伴うネオテニー化である。
現生人類は二〇万年ほど前にアフリカで誕生した。その後、およそ一〇万年前に、アフリカから北上した一群がいたが、それがコーカソイドである。北方の弱い日光の下でビタミンDを合成するために、紫外線を吸収しやすくするべく肌を白くさせて。
その集団から約五万年前にモンゴロイドが分岐したが、この人類集団の一部はさらに寒冷地という厳しい環境に向かった。今度は雪の照り返しによる紫外線を防ぐために肌の色素を少し増やし、黄色い肌になって。
こうした北方系モンゴロイドは寒冷地という厳しい環境に進んだせいで、ネオテニー化をより進めることになった。実際、肌や体型は他の人類集団に比べて子供っぽいし、幼少期もさらに延長した。脳が最も大きいのも北方系モンゴロイドである。
私たち日本人の多くはこうした北方系モンゴロイドとしての特徴をもっている(インド洋沿いに移動してきた南方系モンゴロイドの遺伝子も多少は混じっているが、南方系モンゴロイドでもある理由でネオテニー化が多少なりとも進んだらしい)。働くという行動にしてもそうで、とくに好奇心・独創性や旺盛な学習意欲をもって仕事をする、という性質が強いはずである。
ヒトは中年までは家族のために、そして中高年になっては社会のために働く。私たち日本人では、この性質がとくに強いと見なしてよい。だからこそ、とくに中高年では好奇心や独創性、旺盛な学習意欲をもって社会のために働くのが、私たち日本人の本質であるはずなのだ。
欧米では、なるべく早くリタイアして、自分のためにのんびり生きるのが理想的なライフスタイルだといわれる。こうしたライフスタイルは日本人向きではない。日本人は、中年まではもちろんのこと、中高年になっても社会のために(社会的な遺伝子を残すために)働くことが本質であり、それはネオテニー化が最も進んだモンゴロイドの一員としての「宿命」でもあるのだ。
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脳が視る「死後の世界」[#「脳が視る「死後の世界」」はゴシック体]
†脳科学的には「ありえない」[#「†脳科学的には「ありえない」」はゴシック体]
脳科学者を生業としているせいもあって、臨死体験とか死後の世界、あるいは輪廻転生(前世・来世)、さらには前世療法などに人並み以上に関心がある。実際、この手の本や雑誌などが(自宅には)山積みになっている。
関心があるのには、大きくふたつの理由がある。ひとつには、もちろん、脳科学の立場ではこうした話を絶対に受け入れることができないし、そして、仮に事実だとすれば、脳科学のまさに根底が覆るからだ。脳科学の観点から言えば(後でも問題にしたいが)心や意識は脳の(特殊な)活動なので、脳から離れた霊・魂などありえない。もし、あったとしたら、脳科学の基本的な立場とそれにもとづく膨大な実証データは雲散霧消してしまう可能性がある。だから、こうした話がどの程度信頼がおけるものなのか大いに興味があって、まともな本ならば、夜を徹して読みふけることだってある。
二番目の理由は――今の話とはやや矛盾するようだが――科学者の端くれとして、こうした(二元論的な)問題を無視したり毛嫌いしたりすることはできないし、したくない、という点にある。これは別段声を大きくして言うことでもないが、未知なものがいつだって膨大にあること、そして、科学はいつでも未熟であることを、科学者だからこそ実感として感じざるをえないのだ。端的に、一〇〇年前の「非常識で荒唐無稽な説・構想」の少なくとも一部は、現在の科学での「常識的で理に適う説・事実」となっている。相対性理論や量子力学がよい例だが、脳科学を含めた生物学でも同様なことがある――進化論などは典型である。だから、現代脳科学の立場から見ればいかに「非常識で荒唐無稽な話」に思えるからといって、ことさら無視する必要はない。それどころか、こうした話は、今述べたように脳科学の根幹に関わることなのだから、襟を正して向かい合うべきだし、そうしたいと常日頃から思っている。
とはいえ、臨死体験とか死後の世界、輪廻転生(前世・来世)など、心(あるいは霊や魂)と脳は別物といった「二元論的な考え」は、少なくとも現時点では、とても科学的な検討に耐えられるものではないし、脳科学の基本的立場を脅かすものでもない。ここではこのような点から話を起こしつつ、こうした「二元論的な考え」の時代的な意味を(脳の観点から)考えてみたい。
†そこは別世界[#「†そこは別世界」はゴシック体]
臨死体験・死後の世界、輪廻転生(前世・来世)などの本や記事はまさに玉石混交で、中にはまともなものもあるが、大抵は「科学的」だとは言い難く、うんざりしてしまうことが多い。
ここで「科学的」というのは(あまり厳密に使っているのではなく)、「事実・データの信頼性」と「論理の一貫性」という程度の意味で言っている。「科学的」であるためには、再現性や反証可能性も含んでいなければならないが、こうした問題の性質上、これら二つが欠けていても仕方がない側面はある。しかし、「事実・データの信頼性」と「論理の一貫性」だけはしっかりしてもらいたい。
「論理の一貫性」は当然のことなので置いておくが、「事実・データの信頼性」は学術的な話では基本となることであり、ことさら重要だ。こうした事実・データ――少なくとも話の根幹に関わるもの――は、きちんとした原著論文(査読制度がしっかりしている国際学術雑誌に掲載された論文)に基づくべきだ。某の体験談とかタブロイド紙に載った記事などは、にわかには信頼できないし、話のベースに置くべきではない。とくに欧米のタブロイド紙の記事などは、思わず絶句するものが多いので注意を要する。
やや余談だが、私がかつてアメリカで生活し始めたとき、「SUN」などのタブロイド紙とまともな新聞・週刊誌との区別がつかなかったので、タブロイド紙を読んでは一々驚愕していた。たとえば、アマゾンの奥地でブロントザウルス(!)などの恐竜の一群が生息しているのを発見したという記事が一面に載っていたときがあって、私は思わず興奮した。そこには、発見者の写真と談話すらあったのだ。その発見者は実在する大学に所属とされる教授(!)で、実名(?)も掲載されていた。私は(科学者などと偉そうに言うわりには)簡単に騙されてしまって、数日間この大ニュースの詳細がTVや(普通のまともな)新聞に出てくるのを心待ちにしたものだった。
一事が万事で、タブロイド紙は一種独特な「別世界」をつくっているのだ。その別世界では、恐竜どころか宇宙人も頻繁に登場する。エルビス・プレスリー(!)は今も生きているし、天使や霊も豊富に存在する。生まれ変わりも日常的に起きているのである。こうした別世界に、そうと知りながら浸ることが実は面白さであり、カタルシスでもあることを数週間してようやく悟った――ただし、記事の全てが嘘・偽造というわけではなく、数パーセントほど(場合によっては数十パーセントほど)は事実も混ぜるのでタチが悪いが。
†脳科学の範疇[#「†脳科学の範疇」はゴシック体]
タブロイド紙の話をしたのは他でもない、「×××紙によると……」という言い方が霊や臨死体験、あるいは輪廻転生などを巡ってもよくなされるからだ(いかがわしい本のみならず、有名な雑誌でもかなり見られる)。その「×××紙」の実体がよくわかっていないと、つい信用してしまいがちだ。日本では、欧米のものに匹敵する(典型的な)タブロイド紙がなく免疫ができていないのでなおさらだ。
もちろん、中にはまともな本や記事もある(たとえば、臨死体験関係の本では、立花隆氏の『臨死体験』など)。学者が書いた本もあるし、その場合、信用性は自らある程度は高まる。ただし、学者の書いた本だからといって、信用できるかといえば、そんなこともない。脳科学者が書いた脳科学関係の本にしても、とんでもないものが実は(かなり)あるのだ。科学者が書いた一般向けの科学書でもそうだ(思わず天を仰ぐような本が実際にたくさんある)。科学的な話でもそうなのだから、臨死体験とか死後の世界、あるいは輪廻転生(前世・来世)のような、未だしっかりと科学的に捉えられていない問題をめぐる本や雑誌記事に関しては――著者が学者だとしても――ア・プリオリに信じるわけにはいかない。
こうした事情などから総合的に判断すると、死後の世界とか輪廻転生(前世・来世)に代表される「二元論的な話」は、現時点では(ほとんどの場合、信用がおけないデータに基づいた)空想である。そもそも、脳から独立した霊・魂などありえないし、臨死体験なども脳の異常な活動として説明可能である。少なくとも、現時点ではそう結論するしかない。ただし、この点は(あっさり無視したり黙殺したりせずに)きちんと説明すべきだと思う。死後の世界とか輪廻転生(前世・来世)などの問題は脳科学にもろ[#「もろ」に傍点]に関係することだ。にもかかわらず、脳科学者はあまりに意見を表明しなさすぎるように見えるからだ。そこで、こうした問題を、次にごく簡単に考えてみたい。
†それは特殊な脳活動[#「†それは特殊な脳活動」はゴシック体]
「心は脳の活動である」というのは、脳科学の基本・大前提だが、注意したいのは、ここで言う「脳活動」とは、あくまでも「特殊な脳活動」である、ということだ。
脳の活動には様々なものがある。たとえば「反射」の一部も脳の活動だが、反射を普通は「心」とは言わない。あるいは、深い眠り(ノンレム睡眠)のときにも脳の一部は活動しているが、この際には、当然ながら意識も心もない。したがって、「心は脳の活動である」という命題の逆――「脳の活動は心である」――は決して成り立たない。このことは当然のこととはいえ、注意すべきだ。脳の活動の全てが心と結びついているはずはない。しかし、心・意識が脳の活動の一部――特殊な活動――であることは、間違いない。
このことの科学的な証拠はそれこそ真砂の数ほどある。代表的なのは、損傷や脳梗塞などで脳の一部にダメージを負った患者さんの臨床データである。こうした場合、ある特別な心のはたらきや意識が失われる。たとえば、左脳半球にある感覚性言語野(ウェルニケ野)にダメージを負うと、話し言葉が理解できなくなるし(書き言葉は理解できる)、頭頂連合野にあるMT野という領野にダメージを受けると、「運動視」だけがおかされる。運動視というのは、目で見たモノの動きに関する知覚・意識のことで、動いている車などを「動いている」と知覚し、意識するはたらきのことだ。MT野にダメージを負うと、この運動視が失われてしまうのである。色や形はきちんと知覚できるし、意識もできるが、「動き」だけがまったくわからなくなるのだ。世界は、いわば「静止画」の世界になってしまい、静止画が飛び飛びに現れるように見えるのだ。
こうした症例は前世紀から知られているが(とくに言語野のデータ)、近年では脳活動を頭の外側から画像化して見る方法が発達したので、こうした手法(PETや機能MRI)を使ったデータも豊富に出てきている。たとえば、言葉を理解したり記憶したりしているときには、やはり言語野がはたらくし、動いている画像をみるとMT野が強く活動する。思考すると前頭連合野の一部(とくに外側部)が活発にはたらく。心が痛むとやはり前頭連合野の一部(内側部にある前帯状回皮質)が活動する(ちなみに、ほぼ同じ領域が身体の痛みにも関与する)。
†心と脳の因果関係[#「†心と脳の因果関係」はゴシック体]
このようなデータは、ある特別な心・意識には、ある特別な脳活動が「対応」することをはっきりと指し示している。あくまでも「対応関係」であることは注意すべきだが、「因果関係」に関してもきちんとしたデータがいくつもある。たとえば、自由意志と脳活動との関係に関するデータ。一九八〇年代初期に行なわれたレビット(Lebitt) たちの研究が代表的だが、その実験では「手を動かそう」という自由意志と脳活動との時間関係が調べられた。もし脳とは独立した「何か」(魂・霊?)が、脳の活動を引き起こすとすれば、「手を動かそう」という意志は、脳活動に先立つはずである。
しかし、事実は逆で、「手を動かそう」という意志は、手の動きに関する脳活動が現れてから、しかも、あるレベル以上に大きくなった後に[#「後に」に傍点]現れることがわかったのだ。「後に」であって「前に」ではないのだ。つまり、運動のための自由意志は原因ではなく、脳活動の結果として(脳活動を後追いする形で)現れるのである。脳活動が自由意志の原因であって、その逆ではないわけだ。
本質的に同様のデータは意識と脳活動との関係でも得られている。たとえば、脳の一部を電気刺激などで活動させるとその部位に対応した特別な意識が出てくることは、ペンフィールドの古典的な実験などで一九五〇年代からわかっていた。この場合、刺激が弱くて脳活動が小さいと意識は出てこない。前記のレビットたち(彼らはこうした問題に深く関心があるらしい)は、ペンフィールドの実験をより精密にして、刺激の強さと意識の出現との関係を注意深く解析した。その結果、意識が出てくるためには、ある程度以上大きな脳活動が必要で、あるレベル以上に活動して初めて(ニューロン数にして五万個程度の活動で)、意識が出てくることを明らかにした。
要するに、自由意志にしても意識にしても脳の(特別な)活動であり、しかも、ある程度以上に脳活動が大きくなければ、どちらも出てこないのである。自由意志も意識もその原因はある程度大きな(特殊な)脳活動であって、脳とは独立した魂や霊の自由意志や意識が原因となって脳活動が出てくるわけではないのだ。
†臨死体験と脳活動[#「†臨死体験と脳活動」はゴシック体]
こうしてみると、脳活動から独立した魂・霊が存在するはずはない。しかし、その存在を示唆する現象があることも確かだ。代表的なのは、臨死体験だろう。
この体験は一般的によく知られていることなので、ここでは詳述しないが、要するに「死」に臨んで生還した人の一部でみられる「体験」のことで、おおむね次のような特徴をもつ。
[#ここから1字下げ]
・自分の体から抜け出した感覚をもつ。ときに、横たわっている自分を見下ろす。
・自分の過去の経験が走馬灯のように意識に浮かぶ。
・暗いトンネルのような空間を飛翔する。
・まばゆい光をみる。
・光に満ちた世界で、自分の両親、友人、親類などと出会う。
・こうした体験は、とても気持ちがよく、安らぎに満ちている。
[#ここで字下げ終わり]
これがいわば「原型」だが、バリエーションもかなりあって、育った文化の影響も受ける。たとえば、欧米では、光に包まれた「キリスト」や「神」を見たという体験がたくさん報告されているが、日本では「三途の川」が出てきたりする。ギャラップ世論研究所の調査によれば、臨死体験は瀕死状態から回復した人の三五〜四〇パーセントで見られ、人口全体では五パーセントほどになるというから、決して稀な体験ではない。
こうしてみると、いかにも「死後の世界」――したがってまた、脳活動から独立した霊・魂――がありそうだが、この体験は実は「異常な脳活動の結果」として説明できるのである。
そもそも、臨死体験での「死」には、脳死が伴っていない。普通は、心臓の停止や意識の喪失がしばらく続いた後に回復してから、「記憶」(記憶も脳の活動!)に頼って語る体験だ。脳死の場合、意識は回復しないので、脳死からの臨死体験はありえない。つまり、臨死体験とは、脳死ではない瀕死状態(心臓死や意識の喪失)から生還した人の一部に見られる体験のことだ。このことは十分に注意すべきことで、この点からも臨死体験が脳活動と深く関係することがうかがえる。
そして、実際、その通りなのである。まず、脳の病でも同じような体験が起こるというデータがある。自分の体から自分が抜け出して、自分を見るという幻覚は、じつは「自己像幻視(autoscopia)」という病で、脳の損傷などが原因で起きる。たとえば、ある男性の症例では、真夜中にパジャマを着てベッドに入ろうとする自分自身の姿を見たり、食事をするときに椅子の後ろに立っている自分をまるで鏡に映っているように明瞭に感じたという。こうした症状は、脳――とくに頭頂葉や後頭葉――に炎症や腫瘍、内出血があったりすると現れることがある。また、自己像幻視はてんかんでも起きる。とくに幻覚を伴うてんかんで現れることが比較的多く、そのようなてんかんの症例の七パーセントほどで自己像幻視が見られたという報告もある。
てんかんによる体験と臨死体験はこの他にも多くの共通点がある。なかでも、側頭葉でのてんかんによる体験と似ている。自分の過去の経験が走馬灯のように次々に意識に上ることや、友人や知人が幻覚されることなどは、側頭葉てんかんで実際に起きるのである。
臨死体験はさまざまな瀕死状態で起きるが、共通しているのは大きなストレスがかかっているということだ。ストレスに対抗する際には、脳内でいくつかの物質が分泌される。いろいろあるが、とくに重要なのはエンドルフィンとドーパミンである。エンドルフィンは「脳内麻薬物質」とも言われる物質で、この物質が脳内で分泌されると、とても気持ちがよく幸福な気分になる。ドーパミンも麻薬に関係深い脳内物質で、脳内での分泌量が高まると大きな快感を覚える。臨死の際のストレスでこうした物質が脳内で増えれば、「臨死体験はとても気持ちがよく、安らぎに満ちている」という点は説明できる。
臨死体験には心臓の停止や大出血が伴うことが多いが、こうした状態では、脳は酸欠状態になり、ニューロンは異常な活動――バーストと呼ばれる異常発火――を示し、てんかんのような現象が起きる。この異常が側頭葉で起きれば、まさに側頭葉てんかんで体験されるものと同じような幻覚が出てくることになる。第一次視覚野などの低次な視覚野で異常発火が起きれば、まぶしい光を幻視することになるだろう。自己像幻視を始めとした臨死体験での一連の幻覚は、こうした異常発火によっておおむね説明できる。
こうした体験を、意識が回復した後に(記憶という脳活動に頼って)他人に伝えたり、自分で整理するときには、言葉を使って再構成する。この際には育った文化の影響が当然ながら入り込むだろう。幻覚自体もその人の生まれ育った環境の影響を受ける。「キリスト」とか「三途の川」はそうやって再構成した幻覚だといってよい――もし「死後の世界」が実在していたとしたら、それが国や文化圏によって異なるというのも奇妙なことではないか。
†科学的議論の無意味[#「†科学的議論の無意味」はゴシック体]
臨死体験の内容の全てが「脳の異常な活動」で説明できるわけではないが(たとえば、自分の身体から実際に[#「実際に」に傍点]抜け出して、自分や外界を見下ろさねばわからぬことを見た、といったような体験談)、その内容そのものが――あくまでも「体験談」という制約があって――信頼性に欠ける。現時点では、「脳の異常な活動による体験」として捉えたほうが、理に適うと思う。
脳活動から独立した霊・魂を示唆するのは臨死体験だけではない。輪廻転生――したがってまた、前世や来世――の話も確かに興味深い。しかし、こうした話も、たとえば「多重人格(解離性同一性障害)」のような「脳内現象」「脳の病の結果」として説明できるはずだ。
ただ、「脳科学で説明できる」という話はこの辺で留めておきたい。本質的な問題は、別なところにあるような気がするからだ。
実際のところ、臨死体験とか死後の世界、あるいは輪廻転生などが脳科学の言葉でいかに説明可能かを説いても、少なくとも一部の人にとっては全く無意味なはずだ。こうした二元論的な考えは、ほとんど宗教や信念の領域に属することで、いくら「科学的な議論」をしても、時間の無駄になってしまう。
このことは本当にそうで、私にしてもこんな経験がある。認知脳科学の講義を始める時には「心は脳の活動です。これは脳科学のいわばセントラル・ドグマ(中心教義)です。私の講義はこのことを前提として始めます」と表明するのだが、すると、文科系の学生相手だとだいたい三〇パーセントくらいの学生から反発を受ける。彼(女)らは「心と脳とは別モノで、互いに独立している」と考えているのだ。脳科学の成果がこれほど世間に知られてきているのに、である(さすがに、医学などの理科系の学生ではほとんどいないが、それでも数パーセントはいる)。
そこで、まさに本稿で述べたようなこと――心が脳の特殊な活動であることの証拠や、「臨死体験」や「幽体離脱」などが脳の異常な活動で説明できることなど――を、講義の最初にこんこんと説明するのだが、ほとんど無駄なのである。
現代でも「二元論」はしっかりと存続しているわけだ。臨死体験とか死後の世界、輪廻転生(前世・来世)などの「二元論的な考え」は決して、ごく一部の特殊な人々の専売特許ではないのだ。
二元論! 心・意識と脳・身体は相互に独立しているなどという二元論は、前世紀までの遺物でしかないと、つい最近まで私は思っていた。デカルトの時代ではあるまいし……。しかし、そうではないのだ。哲学者や思想家の中にも、ひそかに(?)「デカルトの復権」を考えておられる方もいるほどだ。しかも、こうした二元論的な考えは「存続」どころか、その勢力は拡大しているように見える。
†肥大して遠ざかる脳内世界[#「†肥大して遠ざかる脳内世界」はゴシック体]
なぜだろうか? 逆説的だが、「脳の時代」のせいではないかと私は考えている。
人類の脳は進化的に見ても、あるいは、個体発生の過程から見ても、現実や自然――世界――から離れる方向へ発達してゆく。脳は、世界をいったん分解した後に再構成して、自分のなかに「世界」をつくり上げる臓器である。脳のつくる「世界」は、脳が発達するほど、実際の世界からは遠ざかってゆく。そして、脳が個人化すればするほど、脳のつくる「世界」は、他者の「世界」ともかけ離れてゆく。そして、少なくとも現代日本では、脳を酷使すること――「世界」をともあれ忙しくつくり続けること――が強いられている。情報は膨大すぎて、個人ごとにごく一部の情報しか処理・記憶できない。また、私たちは他者と深いレベルで共有された言葉・コミュニケーションを失い、ますます個人化している。こうなれば、脳のつくる「世界」、つまり個人的な「世界」は、実際の世界からも他者の「世界」からも二重に遠ざかってゆかざるをえない。現代は極めて「個的な脳の時代」なのである。
こうして、脳が再構成する「世界」――つまり、特殊な脳活動としての「心(魂)」――は、他者からも世界からも遠ざかりつつ、自律的に肥大してゆかざるをえない。このような状況になれば、二元論的な考えが支配的になっても無理からぬことだろう(極端な「頭でっかち」になり、「世界」=心・魂はそれ自体として存在し拡大するかのような錯覚に陥るわけだ)。
しかも、世界や他者から離れすぎた脳には強いストレスがかかり、心は不安感などで乱れ、荒んでゆく(心は脳の活動なので、ストレスが脳にかかれば、当然ながら心に変調をきたす)。そして「癒し」を求めたりする。また、個化が進みすぎた脳は、バランスをとるために(あるいはストレスから逃れるために)他者と共有できる「世界」を求めてゆくはずだ。現代日本における新興宗教の流行はそのせいだろう。また、「死」は誰もが共有する「世界」であり(死を巡る話もすべて、脳がつくる「世界」である)、同時に、きわめて個人的なものなので、臨死体験や輪廻転生に興味を示すようになる。
新興宗教や輪廻転生に代表される二元論的な考えの流行の底には、このような「個的な脳の時代」の潮流があるのではないだろうか。だからこそ、二元論とは矛盾するようなことも、脳を巡って同時に進行しているのである。実際のところ、たとえば、脳の活動を変化させる薬物を服用するようなことは、二元論的な考えとは矛盾するはずではないか。にもかかわらず、そうした薬――たとえば「幸福剤」や「癒し剤」、「ボケ防止剤」――を服用して、脳活動を変えたり調節したりすることを日常的に行なう時代に既になってきているのである。
二元論的な考えに浸りながら、脳を自ら操作して「幸福」や「癒し」を求める時代――現代はそのような「個的な脳の時代」だと言えるのではないだろうか。
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典型的な脳活動としての葬送[#「典型的な脳活動としての葬送」はゴシック体]
†脳科学者も霊を弔う[#「†脳科学者も霊を弔う」はゴシック体]
そこそこに齢を重ねているせいもあって、葬式に出席したことが何回かある。小学生の頃にもあったし、大学生の時には、ある事情で「親族の代表」として通夜の席で挨拶したこともあった。さらには、大学院生の頃、恩師の御家族が亡くなった際に、葬送の手伝いをしたこともある。ついでながら、その恩師は著名な脳科学者だったし、自分も脳科学を学んでいたので、「脳科学者でも喪主になって、霊を弔うものなのか……」とやや感慨深いものがあったものだ。
とくにこの大学院生の時の体験で感じ、今でもそう思っているのだが、葬式を科学の言葉で云々することは、あまり意味がないと思う。とくに、脳科学の言葉で語るには意味がない。それどころか、かえって死者を冒涜することにもなりかねない。
そのためもあると思うが、現役の脳科学者が、脳科学者として、葬送のことを語ったりしているのを、少なくとも私は聞いたことがない。しかし、だからこそ、脳科学者として葬送やそれに密接に関係した「霊」とか「死後の世界」あるいは「輪廻転生」をどう考えるかを述べるのは、「希少価値」としての意味があるかもしれない。もちろん、脳科学者一般としてではなく、一脳科学者として私なりの考えを述べるしかないが、結論から述べれば、葬送にこそ、人類の進化が生んだ「典型的な脳活動」が具現していると言ってよい。
†脳科学のセントラルドグマと葬送[#「†脳科学のセントラルドグマと葬送」はゴシック体]
心も意識も、あるいは自我や人格も、脳の活動である。脳から離れた「意識それ自体」や「霊」などは存在しない――前項でも述べたように、これが脳科学のいわば「セントラルドグマ」である。「ドグマ」といっても、決して、推測・夢想ではなく、事実だと言って差し支えない。実際、この考えを支える証拠は豊富にあるし、専門家でも追いつけないほど続々と出てくる反面、その反証は皆無に等しい。私は脳科学者なので、葬送についても、まずはこのセントラルドグマをベースにして語るしかない。
この観点から言えば、葬送など、何の意味もない。脳が死滅すれば意識も自我も人格も消滅する。脳は死んでいるが、他の中枢神経である脳幹や脊髄が生きているため肉体的には死んでいない状態(いわゆる植物人間――嫌な言葉だが)でも、そうだ。したがって、死後には意識それ自体は存在しないし、霊も実在しない。死後の世界も輪廻転生もありえない。したがって、「霊を弔う」ことなどは、幻想の世界での「戯れ」である。無意味・幻なので、葬送をどのようにしようが、葬式をあげようがあげまいが、どうでもよい。好きなようにすればよいことだ。
こうした物言いは、死者を冒涜するようなことだし、あるいは、遺族の方々の気持ちを逆なでするようなことなので、やはり言いたくなかったのだが、差し当たってはこう言うしかない。だからこそ、脳科学者は葬送のことを語らないし、語りたがらないわけだ。私自身がだれかを葬送することになったときにも、こんなことを語るつもりはない(私自身が死んだ時は、葬送など決してしないようにと今から家内に言ってあるが……)。
ただ、「どうでもよいこと」だからこそ、むしろ、大切に、あるいは、慎重に扱うべきことは多い。どうでもよいのだから、強固な態度をとったり、信念を振りかざしたり、あるいは、敢えて思いやりのないようなことをする必要はない。葬送はその典型例で、遺族の気持ちや死者の生前の考えを大切にして、慎重にことを進めるべきものだろう。
むしろ、霊が実在したり、輪廻転生が現実のものであったりした場合こそ、様々な問題が出てくる可能性がある。この場合は「どうでもよいこと」にはならないので、遺族の気持ちや死者の生前の希望に反しても、敢えてすべきこと、あるいは、すべからざることだってあるかもしれない。たとえば、初七日や四十九日はきちんとすべきだとか、海に遺骨を撒くのはまずいとか、火葬は実は非常に問題があるとか、宗派のことが大問題になるとか……。
葬送はどうでもよいことだからこそ、好きなようにすればよいし、その時にはなるべくは、遺族の気持ちや死者の生前の思いを大切にすべきだと思う――あまりに当然のことだが。
これで、葬送自体に関して私が言いたいことは、ほとんど尽きてしまった。常識的な意見でしかないが、「好きなようにすればよい」としか言いようがない。
ただし、人類はなぜ葬送をするのか? その起源はなんなのか? という問題となると、話は別である。人類の様々な社会・民族の全てが何らかの形で葬送を行なっている、というのは、思えば非常に不思議なことだ。また、同じ霊長類でもサルやチンパンジーは葬送を行なわない、ということも。
†葬送と言語[#「†葬送と言語」はゴシック体]
葬送は、多くの点で、言語と似通っている。言語はどんな民族でも使っているが、民族ごとに微妙にあるいは大きく異なっている。また、言語は人類に特有なもので、ヒトと最も近縁な現生動物であるチンパンジーでも言語を操っていない。ただし、訓練すれば、萌芽的な言語活動をチンパンジーは行なうことができる。
葬送はまさに、こうした言語の特徴を共有している。実際、今の文章の「言語」の箇所を「葬送」にそっくりそのまま置き換えることができる。
ここで、チンパンジーは訓練すれば葬送するのか? という疑問が出てくるかもしれないが、野生のチンパンジーが葬送らしきことをしたという観察例がある。死んだ子供を、「死んだ」という認識のもとに母親が丁重に扱っていた、という観察である。非常に萌芽的ながらも、チンパンジーは「葬送らしきこと」をしうる脳力をもっているかもしれない。ちなみに、こうした例はニホンザルやアカゲザルのようなサルでは観察されていない。ニホンザルなどで、死んだ子供をミイラになるまで抱いていたという観察があるが、これはニホンザルには「死」の概念が欠如していることを物語るだけで、「葬送」とはほど遠い。
言語と葬送との密接な関係は、その起源にも見られる。葬送がはっきりと確認されている最古の例は、十数万年前〜数万年前のホモ・サピエンスである。この時代にはホモ・サピエンスとしてネアンデルタール人(Homo sapiens neanderthalenis) と現生人類の祖先(Homo sapiens sapiens) が存在したが、ともに、死者を埋葬した遺跡を残している。そして、どちらも言語を操っていたし、はっきりとした(現在のような)言語の起源はこの頃である(ただし、ネアンデルタール人の言語能力はホモ・サピエンス・サピエンスよりも明らかに劣っていた)。
こうしてみると、言語と葬送はその起源でも、ベースとなる脳力の点でもパラレルであるといってよい。葬送の秘密のひとつはここにあるのだ。
†二足歩行というイベント[#「†二足歩行というイベント」はゴシック体]
葬送が言語とパラレルだとしたら、言語のことを考えることで、葬送の意味や進化のことが語れるかもしれない。
言語は多くの点で、ヒトを人間たらしめているはたらきである。このことはことさら強調すべきことではないかもしれない。しかし、脳や脳進化との関係で見ても、言語の重要性は際立っているのである。
ヒトが進化の過程で脳を発達させた原因として、「二足歩行」がよく取り上げられる。ヒトの直系の子孫として初期――六〇〇万年ほど前――に現れたヒト科霊長類はアウディピテクス、ついでアウストラロピテクス類だが、彼らは二足歩行をしていた(補足だが、六〇〇〜七〇〇万年前のサヘラントロプスやオルロリンに関してはヒト科に属するかどうか異論がある)。ところが、その脳の大きさは現生のチンパンジーと大差がなかった。チンパンジーとヒトの分岐年代もこの頃であり、当時のヒトは「二足歩行するチンパンジー」のような動物だったと言ってよい。
これには、よく言われるように、七〇〇万年ほど前にアフリカ大陸の大地溝帯の東側で起きた乾燥化とそれに伴うサバンナの出現が関係している。チンパンジーの祖先は森林に残ったのだが、ヒトの祖先はサバンナへ進出したわけだ。このことには(私自身、本書を含めいろいろなところで強調してきたことだが)、私たち人類の特徴のひとつが端的に現れている。未知なものへの好奇心・探究心である。わざわざ危険にあふれたサバンナへ移動することなどは保守的な性格ではできるわけがない。好奇心と探究心――人類は初めからこうした特徴をもっていたのである。ちなみに、新奇なものを求める性格や外向性といった性格は六〇パーセント程度、遺伝することがわかっており(責任遺伝子は、ドーパミン受容体をコードする遺伝子らしい)、遺伝的に好奇心・探究心が旺盛だった「チンパンジー」の一群がサバンナへと一歩を踏み出したことはありそうなことである。
こうしてサバンナへ進出し、二足歩行を獲得した初期人類は、その後、自由になった両手で道具を作成するようになった。そして、これが原因で脳は爆発的に拡大することになった、というのが人類学や霊長類学のいわば「定説」である。
しかし、これだけではヒトの脳の爆発的な進化の謎を解いたことにならない。道具を使うのは決してヒトだけではない。チンパンジーが道具を使うのは周知の事実であり、道具をつくるための道具さえ使う。道具を使ったからといって、決して、脳が爆発的に拡大するわけではないのだ。
しかも、二足歩行の獲得から脳が爆発的に拡大し始める時点までには、実は、三五〇万年ものタイムラグが存在する(脳の爆発的拡大はおよそ二五〇万年ほど前から始まった)。さらに、二足歩行をしていながら、脳をほとんど発達させないで絶滅したアウストラロピテクス類もいたのである。アウストラロピテクス類は道具を使っていたらしいにもかかわらず、だ。このことから見ても、二足歩行→道具使用→脳の発達という図式は、一面的なものだと言うしかない。
†言語と脳進化[#「†言語と脳進化」はゴシック体]
そこで浮かび上がってくるのが「言語」である。ヒトとチンパンジーの脳力の差は、実は、それほど大きなものではない。前にも述べたが、記憶やパターン認識などは、大学院生でも適わないという実験データも実際にある。しかし、言語が介入すると、どんなに優れたチンパンジーでも、大学院生には当然のことながら、幼稚園児にさえ適わない。言語こそが、ヒトとチンパンジーをはっきりと分ける脳活動であり、そして、当然のことながら脳の構造にもこのことは明瞭に現れている。言語野や言語に関連する脳領野の存在である。
ヒトとチンパンジーの脳には実は共通点も多い。視覚野などの感覚野や運動野などの大きさは、ヒトとチンパンジーでほとんど違いがない。最も異なるのは言語野の有無と前頭連合野の大きさである。チンパンジーははっきりとした言語野をもたないし(ただし、萌芽的にはもつ)、チンパンジーの脳と比べてヒトの脳で最も発達しているのは前頭連合野である。ヒトとは脳のレベルで見れば「前頭連合野が極端に発達したチンパンジー」なのである。そして、言語野のひとつ(ブローカ野)が前頭連合野に存在することは一九世紀からわかっていたことだし、また、近年の研究で言語に関連する領野が前頭連合野に集中していることが明らかになってきた。
したがって、本書で強調してきたように、ヒトの進化過程での脳の爆発的拡大の原因は、実は、「言語の獲得」だとするしかないのだ。決して、「脳の発達→言語の獲得」という過程ではない。「言語の獲得→脳の発達」、という過程こそが真実に近かったはずだ。このイベントが起きたのはおそらく二五〇万年程前の東アフリカだった。もちろん、この頃に獲得された言語は萌芽的なものだったにちがいない。しかし、萌芽的ながらも言語の獲得によって、言語野も言語関連領野が集中している前頭連合野も顕著に発達し始めることになり、やがては現代の言語体系とそれを支える脳にまで進化することになった……。
†「死後」を想う未来志向性[#「†「死後」を想う未来志向性」はゴシック体]
葬送の話から外れたように思われるかもしれないが、決してそうではない。言語の機能や前頭連合野のはたらきを考えれば、葬送の出現や進化は「必然」であったと言えるからだ。
言語の機能として、よく、「コミュニケーションの手段」が強調されるが、これは言語機能の一側面でしかない。むしろ、より本質的なものは「他者の操作」であり、操作に不可欠な「再現」(対象を表現し直すこと)とそれによる「シミュレーション」である。
言語進化の駆動力は明らかに複雑な社会関係であり、「他者(別個体の脳)の操作=脳間操作」が言語の中心的役割であったし、今もそうだ。操作に密接に結びついた再現とシミュレーションにしても、当初は他者の脳(行動や心)や社会関係、あるいは自分自身が主だったはずだが、やがては世界の様々な事物や事象に及ぶことになった。他者を含めた世界と自分自身を符号化あるいは概念化して再現すること。そして、再現によって、世界とその中での自分の行動をシミュレートして、決断したり計画を立てたりすること。言語のもっとも重要なはたらきは、こうした再現とシミュレーションにある。その一側面が「思考」である。
そして、ヒトでとくに発達した前頭連合野の重要なはたらきも、実は再現とシミュレーションにある。言語関連領野がこの脳領域に集中していることから見ても当然のことだが、思考の際に前頭連合野が顕著に活動することはよくわかっている事実であるし、将来への計画を立てるのも前頭連合野のなせるワザである。将来をあれこれシミュレートし、未来志向的に生きるのが人間の特徴のひとつである(チンパンジーはせいぜい数時間先までしか意識できないといわれる)。そして、前頭連合野こそがこのはたらきの中心を担っている。実際、前頭連合野が外傷や腫瘍などでダメージをうけると、将来のことを意識しない、その日暮らし的な生活になってしまうことが多い。自分がどう生きるべきか、どうやって生きていこうか、というシミュレーションをほとんど行なわなくなったりする。未来志向性が失われるのである。
そして葬送、である。葬送は本質的に未来志向性に根差している。そして、シミュレーションに。死後という未来への志向性や死後のことのシミュレーションがなければ葬送は成り立たない。死への恐怖にしても、やはり、未来志向性とシミュレーションがあればこそ出てくる感情だ。
人生を未来志向的に生きてゆく、その行き着く先は死である。死に関するシミュレートほど、死の恐怖を感じさせるものはない。ただし、この恐怖を克服するための簡便かつ有効な術があって、それは「死後の生」を想定することだ。しかも、ヒトの本質として未来志向性がある限り、「死後の行く末としての未来」をも想定し、シミュレートすることをどうしてもしてしまう。さらに、人類の(その誕生の初期にまで溯れる)大きな特徴としての、未知なるものへの好奇心・探究心の旺盛さ、という駆動力が死を巡るシミュレーションに強くはたらくことは致し方がない(死はまさに未知、どころか、決して生前には知ることができない事柄なのだから)。
死後の生に関するシミュレーションは完全に空想にならざるをえないのだが、ヒトのもつ未来志向性とシミュレーションの脳力は自分の人生・寿命を越えて、さらにその先にまで至ってしまうのである。だからこそ、「死後生のシミュレーション」に基づく葬送が営まれることになるし、霊や輪廻転生などの空想も出てくることになるわけだ。そして、こうしたことは、ヒトの脳進化の過程と結果を踏まえれば、どうしても避けられない、いわば「必然」として出てきてしまう脳活動でもあるのだ。
†葬送は脳進化の必然[#「†葬送は脳進化の必然」はゴシック体]
言語の獲得に起源を発した、前頭連合野を中心にした脳の爆発的な拡大――死への恐怖も、死後の世界や霊の想定も、輪廻転生の空想も、そして葬送も、結局はこうした脳進化の必然なのである。必然だからこそ、人類の全ての民族・社会で葬送が行なわれるし、あるいは、霊や死後の世界への想念も、少なくとも現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)が出現して以来、どの時代でもいろいろな社会で広くもたれたはずだ。私としては、そういった想念も葬送も二五〇万年ほど前に起きただろう「言語」の獲得を起源として、萌芽的ながらも出てきた可能性があると主張したいほどだ。
要するに、葬送にしろ、死後の世界や霊、輪廻転生の空想にしろ、ヒトの脳進化に連綿たる時の蓄積によって生まれた根強い生物学的・遺伝的ベースと特殊な脳領域に支えられているのである――その現れは社会によって様々であるとしても。これは、ちょうど言語が生物学的・遺伝的なベースと言語野に支えられつつ、様々な現れをもつこととパラレルである。
さらに言うなら、かのチョムスキーが主張したように、人類全体に共有されている「普遍言語構造」が様々な言語の深層構造としてあるとしたら、そして、その深層構造が実は、人類に共有された脳の特別な構造(言語野群)と結びついているとしたら、葬送、死後の世界、霊、輪廻転生といった営為・想念もまた、脳の特別な構造(前頭連合野)に結びついた深層構造をもつことが予想できる。
そして、これはおそらくその通りなのである。現生人類の様々な言語は実は、単一の言語から分岐したものである。現生人類は二〇万年ほど前にアフリカに住んでいた単一の集団を起源としており、その後、世界の様々な地域へと移動・拡散していった。これに伴って、言語も様々に分岐したが、その根は同根なのである。同様に、現在の人類のもつ葬送、死後の世界、霊、輪廻転生といった営為・想念も、単一の起源・根をもちつつ、その現れ(表現形態)が多少なりとも変化してきたにすぎまい。だから、たとえば、生と死の壮大な物語としての神話が、様々な民族を通して驚くほどの共通性をもつという事実は、決して故なきことではないのである。
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老いて育つ脳[#「老いて育つ脳」はゴシック体]
†疑問が解ける瞬間[#「†疑問が解ける瞬間」はゴシック体]
世には不思議なことが多い。すぐに(調べれば)わかるものもあるが、誰も解いてくれない場合は自分で研究するしかない。ところが研究が追いつかない疑問だってたくさんある。そんな疑問をもち続けるのはちょっと気持ち悪いので、ますます研究に励むことになる。すると、研究すればするほど新たな「?」が生まれてくるので、ほとんど泥沼状態である。
とはいえ、時には研究しないでもそうした疑問がふと解けることがある。ちょうど霧が晴れるように、あるいは、アルキメデスやケクレの逸話のように(それほど大それたものではないが)。そうした時はほっとすると同時にかなり嬉しいものだ。
そんなことが最近にもあった。「結晶性知能」に関する疑問である。この知能に関してずっと疑問に思っていたことが、とある(場末の)レストランで食事をしていたときに、ほとんど何の脈絡もなく「そうか!」と合点がいったのである。
†老いるほど伸びる知能[#「†老いるほど伸びる知能」はゴシック体]
心理学の分野では従来から高齢になるほど発達する知能があることが知られている。豊富な経験や知識にもとづいた判断力とか思考力、あるいは統率力といった高度な知能である。これを専門的には「結晶性知能(crystallized intelligence)」という。このタームには「知識・経験が結晶化する」といったニュアンスがあって、要は、豊富な知識・経験(つまり記憶)を結集して適切な「答え」を導く知能である。
知能指数IQを含めて、ほとんどの知的能力は二〇歳前後をピークにして年齢とともに衰える。単純な計算力とか暗記力などはその最たるもので、二〇歳頃がピークである。こうした知能(心理学では「流動性知能」という)は一度ピークに達したあと、年齢とともに右肩下がりで衰えてゆく。
結晶性知能はちがう。高齢になっても発達する。いや、個人差はあるものの、「高齢になるほど」といってもよく、齢を重ねるほど(右肩上がりで)伸びてゆくのだ。このことは様々な心理研究でわかってきたことだ。
この知能の性質から明らかなように、結晶性知能は政治家や企業のトップなどに必須なものである。実際、高齢でも活躍している政治家や経営者は多い。政治家の世界では「六〇歳など赤ん坊」と言われているらしいが、結晶性知能の発達の仕方からみれば、肯けないわけではない。
†ニューロンの数より神経回路の発達[#「†ニューロンの数より神経回路の発達」はゴシック体]
高齢になるほど発達する知能があることは確かだとして、では、なぜそういった知能があるのだろう? というのが、その知能の存在を知って以来長らく抱いていた疑問だった。心理学では(よくありがちなことだが)「なぜ?」という疑問は不問に付している。そうした知能の存在と性質を示すだけで、「なぜ?」「いかに?」という問題は、結局は生物学(脳科学や進化生態学)で解くしかないのだ。いろいろなことが不思議で仕方がない私が心理学よりもむしろ生物学にのめり込んだ理由のひとつもそこにある(どうでもよいが)。
結晶性知能は高齢になるほど伸びる――なぜ? この疑問は二通りの観点・方法で解くべきである。例の至近要因と究極要因である。このうち私が長らく疑問に思っていたのは、究極要因の方で、至近要因、すなわち「メカニズム」に関しては、推測とはいえ納得のゆく説明をすぐに思いついた。
脳のニューロン(神経細胞)は年齢とともに減少する。だから、高齢になるほど伸びる知能があるというのは確かに不思議なことだ。しかし、「脳力」はニューロンの数だけで決まるのではない。個々のニューロンやそれらがつくる神経回路の発達の程度が重要である。数が少なくても豊かな神経回路はつくれる。数だけが問題だとすれば、赤ん坊が最も高い脳力をもつことになってしまう(新生児の脳には成人の六倍ものニューロンがある)。高齢になるほど神経回路が豊かになることによって、優れた脳力をもちうるし、それは十分にありうることなのだ。
実際、大脳皮質が高齢でも(全ての人ではないが)大きくなることが最近になってわかってきた。前頭連合野に関してもそうで、年齢と共に前頭連合野が大きくなることがあるのだ。これはニューロンの増加のせいではなく、神経回路の複雑化の結果だと推定されている。さらに、成人になっても、ワーキングメモリ課題を毎日すると数ヶ月で前頭連合野の一部が拡大することもわかった。
†海馬では増える[#「†海馬では増える」はゴシック体]
それだけではない。成人でもニューロンは増えるのである。脳全体としては減ることは間違いないが、少なくとも一部の脳領域では大人になってもニューロンが増えることが二〇世紀末になって実証された。「哺乳類の脳ではニューロンは生後には増えない」というのがそれまでの定説だったので、これは驚くべきことだった。しかも、ニューロンの増加が実証された脳部位は海馬なのである(嗅脳などの原始的な脳の一部でも増えるらしいが)。
海馬は知識や経験を記憶化する役割を担っている。一方の前頭連合野は記憶化された内容としての長期記憶を活用する脳領域である(この活用にはワーキングメモリが主要な役割を担う)。どちらの脳領域も結晶性知能にはなくてはならないものではないか。
というわけで、特殊な知能としての結晶性知能が高齢になっても伸びることは、脳内メカニズム(至近要因)としては、そこそこに納得がゆく。齢を重ねるうちに増える知識と経験(記憶)を海馬を介してきちんと脳内に蓄積し、そして、前頭連合野によってそれらを活用する努力を怠らなければ、結晶性知能用の神経回路は高齢になっても豊かに発達しうるからだ。
ちなみに、そうした脳力を伸ばす上で重要なことは、高齢になっても勉学や趣味に励むとか、社会関係(性関係を含む)を豊かにし続けるといった、「さもありなん」といった努力・営為だけではない。こうしたことが必要なことは言を俟《ま》たないが、実は、もっと簡単な方法がある。「エアロビクス」、つまり、有酸素運動である。ウォーキングなどに代表される「適度な有酸素運動」が老いた脳の認知能力(とくに前頭連合野の脳力!)を高めることが実証され、例のNature 誌に掲載された。Natureなので眉にツバする必要があるかもしれないが、従来から推測されていたことなので、信じてよいと思う。
†結晶性知能の進化要因は?[#「†結晶性知能の進化要因は?」はゴシック体]
というわけで、結晶性知能の至近要因=脳内メカニズムに関しては、疑問はすぐに(ある程度だが)解けた。私が不思議でならなかったのは、では、なぜそうした知能をヒトはもっているのか? ということだ。つまり、究極要因(進化要因)の問題である。
ヒトを含めて、生物の基本的な目的は適応度を高めることである。「次世代において生殖年齢に達する子供の数(=適応度)」を増やすこと、そうして、自分の遺伝子を残し増やすことが生物の基本的な目的だ。
私たちヒトだってこの目的に則して進化してきた。だから、自分の子供が生殖年齢に達するまではともあれ、その後は体力にしろ脳力にしろ、衰えてしかるべきだ。具体的には四〇歳くらいからは衰えて一向に構わない。私見では、「死」もこの文脈の中にある。そこそこの年齢になったら死んだ方が、結局は自分の遺伝子を残す確率が高まるからだ(いつまでも生きていたら資源を無用に使ったりして、子供たちに迷惑がかかりかねないではないか)。
こうした観点からみれば、高齢になるほど伸びる知能があることは到底納得ゆかない。少なくとも私には不思議で仕方がなかった。もちろん、この知能が遺伝もせず、進化的な意味などもたないとしたら、不思議に思う必要などないのだが、いろいろな知能が遺伝することはわかっているし、進化的に意味のない知能をわざわざもつとは思えない。
長らく抱いていたこの疑問が、先日、ふと解けた気になったのである。くだんのレストランの席で、ある年配の方がこんなことを言った。
「年をとると地域社会とか国、さらには人類のことを思うようになるんですよ」
その時(別に結晶性知能のことを考えていたわけではないのだが)、「そうか! 結晶性知能は、やはり進化的な意味をもって発達してきたものなんだ……」と、突然のように合点がいったのだ(その席での会話も上の空で)。
結晶性知能は、そもそも、暗記や計算などの単純な作業のためのものではない。その本質上、家族や地域社会、企業、国などの組織の維持や発展にとってなくてはならぬ高度な知能である。もし結晶性知能を伸ばせる親がいれば、その子供たち(さらにその子供たち=孫)にとって、かなり大きな意味・利益がある。あるいは、古来一〇〇人ほどの集団で社会をつくっていた人類の各集団にとって、豊かな結晶性知能をもった「長老」の存在は意味がある。ある社会集団に優れた結晶性知能をもった「長老」がいて、豊かな知識・経験を踏まえてその集団のことを考え、意味のあることをしてくれれば、その集団のメンバーには少なからぬ利益があるではないか……。
こう考えると、結晶性知能がある進化的理由は多少なりとも解ける。のみならず、「年をとると地域社会とか国、さらには人類のことを思うようになるんですよ」という言葉、さらには高齢になっても生きる「目的」も。
†結晶性知能が教える「生きる目的」[#「†結晶性知能が教える「生きる目的」」はゴシック体]
各生物はそれぞれ固有の生活史(life history) をもつ。サルならサルの、そして、ヒトにはヒトの生活史があり、それは遺伝的なものだ。幼児期や思春期の長さ、子供を産むタイミング、そして寿命等々。環境要因が多少なりとも関与することは自明だが、生活史はかなり遺伝的なもので、進化の過程でつくられてきた。
知能・脳力に関しても生活史に応じて発達・衰退する。幼少期に伸びる(伸ばすべき)知能もあれば、思春期に伸びる脳力もある。さらに言えば、その時々に「生きる目的」がある。たとえば思春期には性関係に関する脳力を伸ばし、来るべき生殖行動と子育てに備えるという目的をもつのだ。もちろん、基本的かつ究極的な目的は「自分の遺伝子を残す」ということだが、生活史のその時々において、そのいわば「サブ目的」のようなものが自ずとある。
結晶性知能に関して私が不思議で仕方がなかったのは(くどいが)、自分の遺伝子を残すという目的をほぼ達成した後にも伸び続けることだ。自分の子供が生殖年齢に達してしまえば(人間だったら四〇歳頃をすぎれば)、生き続ける意味・目的はほとんどないし、ましてやその後にも発達し続ける知能など無用ではないか、というのが私のまあ、単純な「思い込み」だったわけだ。五木寛之氏が「人生に目的などない」と(氏自身が高齢になってから)喝破した際にも、氏のロジックとは別の観点からとはいえ、「その通り!」と肯いたものだった。
しかし、私たちが結晶性知能を実際にもち、しかも、その脳レベルでのベース・メカニズムもあるとしたら、そして、私の「そうか!」という先述の考えが正しければ、私たち人類が高齢になるほどするべきことは(進化的に見て)明らかだし、高齢での目的もはっきりしている。結晶性知能をできる限り伸ばして「社会」に貢献すること――それが四〇歳(具体的な年齢はともあれ)以降になってするべきことであり、その時期で生きる「目的」なのだ。
「老いる脳」というのは、なんとなく「あぶない脳」のように思われがちだ。しかし、老いてゆく脳の中にこそ、人類の長い歴史、そして、その歴史によって生み出された「生きる目的」が隠されているのである。
二〇年以上も前に、私はある青春小説の中でこんな一節に出会った。「とりあえず五〇歳までは力を蓄えて、その後、みんなを幸福にすべくガンバるんだ」。一九五〇年生まれの青年が一八歳の時に言ったこの台詞にしろ、私は(二〇年以上も)不思議で仕方がなかった。五一歳で二一世紀になるからという理由以外に、何がこの青年を突き動かしているのか? この疑問に関しても、私はくだんのレストランで「そうか!」と合点がいき、かなり嬉しかったものだった。
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あとがき
私が脳科学を志した頃(二〇年以上も前だ)、脳研究がこれほど人生に密着しうるとは思わなかった。まあ、せいぜい「心の問題を自然科学の方法論・レベルで解けるはず」という密かな確信があったにすぎない。
ところが……。本書で展開したとおり、脳科学は人生の多くの側面に深く関わってくる。自分自身やその未来に思いを馳せることも脳のなせる業なので、これは当然かもしれない。しかし、人生の問題はこれまで哲学の専売特許であったではないか。まさか脳科学という自然科学によって、人のあらゆる営みをここまで説明できるとは正直言って思ってはいなかった。しかも、人生の「意味」にすらアプローチできるのだからスゴイ。
「人生の意味に迫れる」というのは、個人的にかなり感慨深い。
ほとんど絶滅危惧思想のひとつとして「ニヒリズム」がある。私は二〇歳の頃この思想にハマってしまい、「人生には意味も価値もない」と結論付けたことがあった。この結論はその後、ずっと私の基底にあり続けてきたし、実は今もそうだ。
「人生には意味も価値もない」というのは表面的には絶望的な考えである。「自分は日本人の若者として生きる希望を一切もっていない」(若い頃の大江健三郎の小説には優れたものが多いが、そういった小説の一節)という言葉が、当時の私の胸(脳)に深くしみ込んだものだ。
この思想は確かに一見絶望的だが、ウラを返せば「だから、自分で意味や価値をつくればいいじゃん」といった楽観的な考えにもなる。もともと人生に意味も価値もないとすれば(そして、それはその通りであるにちがいないので)、それなら自前の意味と価値を見つけ、つくり出していけばいい。
私が脳科学を志したベースにも、こういった思いがあった。科学は本来意味や価値とは無縁かもしれない。だが、実はそうではないことが(ある師の教えのおかげで)わかったせいだ。科学とは実は意味や価値をつくり出す営為なのだ。端的に言って、新しい発見は人類にとって大きな意味や価値になりうる。
私にしても、「ドーパミンD1受容体は前頭連合野の正常な機能に必須」という発見をしたが、それ自体は一般の多くの人には「だから何?」という類のものかもしれない。しかし、この科学的発見は、見方を変えると色々な意味や価値を帯びる。たとえば、統合失調症(精神分裂病)は前頭連合野の機能障害かつドーパミンの機能不全を伴っている。だから、ドーパミンD1受容体のはたらきをよくすることで、統合失調症は改善しうる。これは、統合失調症に悩む患者さんやご家族にとって大きな意味と価値をもつであろう。あるいは、特に病のある人でなくとも、この受容体のはたらきをよくすることで前頭連合野の機能が向上し、人生が好転する可能性だって大きい(本書でたびたび言及したように、前頭連合野は人生をつくる≠フで)。
人生それ自体には何の意味も価値もない。これは思えば当然である。「生きること・命=価値・意味」なんて、ニヒリズムをもち出すまでもなく寝言である。
しかし、だからこそ、私たちは意味や価値をつくろうとする。人間の基本的な営為とは、意味や価値をつくり出すことなのだ。科学的営為に限らず、皆さんがなされている仕事とは本来そういうものである。そんな当然のことに気づかずに、特別な思想だと思い込んでいた青年期の私は(若かりし頃の大江健三郎も)、やはり若気の至りというか「あぶない脳」を抱えていたと断じるしかない。
この観点から見れば、これまた絶滅危惧思想の一種、マルクス主義の根本的な思想、「人間は労働する動物である」というのも多少は正しい(遊ぶことも人間の本質のひとつであるという、人間の多面性を無視したのは大きな誤算だったが)。
さらに、他の動物はともあれ、人間の脳の大きな本質のひとつは「意味や価値をつくり出すこと」にあると言ってもよい。
とはいえ、これだけ社会が多様化してきて「意味」や「価値」があふれてくると、あぶない意味や価値もまた増えてしまう(たとえば、脳科学的にはあぶない死後の世界≠ニ結びついた価値観やグッズ類)。自然科学はそれを修正する営為だと個人的には思っているが、ときには修正どころか助長することすらある。たとえば、「人間は本来多妻制か乱婚制で、脳もそのように進化してきた」なんてことを言えば、「不倫」を正当化(意味付け・価値付け)しかねない。ちょっと悩ましい。
人間の脳の本質が「意味や価値をつくり出すこと」にあるとしても、あまり野放図につくり出すのはマイナスではないか、という気もする。自分では意味や価値があると思っても、ほとんどの人がそうは思わないものを敢えて産み出して世に問うなんてことは、やっぱり避けるべきだろう。私自身は科学論文では常にそのことを意識しているが(ゴミのような論文はゼッタイに出さないのが我が研究室の方針)、こうした本ではプラスαの意味や価値が喜ばれたりするので、これまたちょっと悩ましい。
まあ、資本主義における価値は基本的には市場が決めることである。売れなければそれでOK。個人的には一向に構わないのだが、出版に関わった方々を思うと「売れて欲しい」と少しは思う。ただ、「売れること=高い価値」ではないと担当編集者(磯さん)は思ってくれているはずなので、よしとしよう。
そこで思うのだが、「高い価値」とはなんだろう? ちょっとムツカシイ問題だが、情報や知識の価値についてなら、簡単に解ける。「高度な結晶性知能に基づく情報・知識」である。結晶性知能とはあまり関係ないもの、たとえば音楽などは、若者でも価値の高いものをつくれる。しかし、若造に真似できないのが高度な結晶性知能であり、それが産み出す高度な情報・知識なのだ(高い結晶性知能が必須である政治家や企業のトップ、あるいは教授などに若造が少ないのはそのせいだ)。そして、この知能を駆使することこそが(本書で述べたように)人生後半の意味なのである。
本書はワカゾーではなく、おおむね三〇歳以上の大人の方々を意識して書いた文章から抜粋し、大幅に加筆・修正、編集したものだ。だから、中高年の読者は本書にきっと意味と価値を見出してくれると思う。そして、結晶性知能を支える知識を新たに脳(の側頭葉)に蓄えてくれるはずだ。
「能力ある人間は、その能力を正しく行使する責務がある」――『白い巨塔』での財前五郎の遺書の言葉だ。この能力を「結晶性知能」と言い換えれば、それはそのまま人生後半の「生きる意味」を端的に表している。もっとも、志半ばで「無念だ……」と死ぬのも潔い生き様ではないか、と個人的には思っているが……。
それはともあれ、人生後半の意味が自然科学的にわかった以上、みなさん、頑張ろうではないか。結晶性知能をきちんと育まなければ、後半の人生はまさにゴミと化してしまう。粗大ゴミ化することなく、死ぬ間際まで高度な価値や意味をつくり出すこと――そういったことに本書が少しは役立てば幸いである。
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しかし……。私たちに「生きる意味」があるとはいえ、それなりの覚悟は必要だという思いを込めて、ローマ帝国最期の貴族の遺書の一節を記しておきたい(彼はローマ帝国崩壊とともに手首を開いて自ら命を絶った)。
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お前たちの神だけが平和に死ぬことを教えていると主張しては間違いだ。そうではない。我々の世界はお前たちよりも前に、最後の盃を飲み乾すと、去って休む時が来ることを知っていたし、しかも落ち着いてそうする心得がある(シェンキェヴィッチ『クオ・ヴァディス』より)。
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二〇〇四年八月 ありえない猛暑も過ぎ去って秋の気配が漂い始めた札幌にて
[#地付き]澤口俊之
澤口俊之(さわぐち・としゆき)
一九五九年東京都生まれ。北海道大学理学部卒。京都大学大学院理学研究科修了。米国エール大学医学部神経生物学科ポスドク、京大霊長類研究所助手、北大文学部助教授を経て、現在、北大医学研究科高次脳機能学分野教授。専門は認知神経科学、霊長類学。思考や自我のベースであるワーキングメモリに照準し、前頭連合野を中心とした研究を展開している。著書に『知性の脳構造と進化』『脳と心の進化論』『「私」は脳のどこにいるのか』『わがままな脳』『幼児教育と脳』『平然と車内で化粧する脳』(南伸坊氏との共著)、『モテたい脳、モテない脳』(阿川佐和子氏との共著)など多数。
本作品は、二〇〇四年一〇月、ちくま新書の一冊として刊行された。