魔法使いのタマゴ
漲月かりの
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)呟《つぶや》いた
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)開口一番|怒鳴《どな》り
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(例)この俺が[#「この俺が」に傍点]
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新人競作 テーマ 魔法使い Part 1
魔法使い入りのタマゴ売ります。
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じいさんが死んだ日、
おれの前に現れたのは、
通信販売の不良品魔法使い――!?
[#ここで字下げ終わり]
魔法使いのタマゴ
[#地から1字上げ]著/|漲月かりの《Karino Minazuki》
[#地から1字上げ]イラスト/櫻ゆり
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じいさんはいつものごとく、なんの断りもなくおれの部屋に入ってきた。
「まだ起きてるのかクラウス! いつまでも起きているんじゃないといつも言っているだろう!」
開口一番|怒鳴《どな》りつけるのもいつものことだ。おれは視線をノートに落としたまま、うんざりと呟《つぶや》いた。話をするのも億劫《おっくう》だ。
「試験勉強をしてるんだ。褒《ほ》められることはあっても、叱《しか》りつけられる覚えはない」
途端《とたん》、おれのめくっていたテキストが宙に浮かぶ。奴が取り上げたのだ。これもいつものことで、今更《いまさら》なにを言う気にもなれずおれは奴を一瞥《いちべつ》する。そんな態度が奴をますますいらだたせたようだ。
「生意気な口ばかりきくようになりおって。おまえの母親も父親もそうだった。おとなしく言うことを聞いておけばいいものを……」
おれの母親はこいつの娘《むすめ》。父親との結婚《けっこん》を反対されて家を飛び出し、貧乏《びんぼう》した結果病気で死んだ。父も同じく。それでおれはこのじいさんに引き取られたというわけだ。
とにかくなにかにつけ理不尽《りふじん》に怒鳴りつける男。死んだ両親のことを未《いま》だに悪《あ》し様《ざま》に言うのも赦《ゆる》せない。こうなったら、いつもの通りバスルームに行くふりをして、一度やりすごすしかない。
「……今度の試験に受かったら、寮《りょう》に入ってこの家は出てくから」
そうしたらお互《たが》い嫌《きら》いな奴の顔を見ないですむ。
「クラウス! おまえ――」
しつこくまだなにか言いかけるじいさんを無視して、おれは部屋を後にした。
☆★☆
その日は、予定よりも少し早めにやって来た。
じいさんは、持病が悪化して突然《とつぜん》天国に召《め》されてしまったのだ。
神父が弔《とむら》いの言葉を唱える間も、参列してくれた同じアパートメントの住人たちが思い出話をする間も、おれは泣かなかった。突然の事で実感が薄《うす》いというのもあったし、正直、なにをどう悲しんでいいのかもわからなかった。十のときに引き取られ、ひたすらいがみ合った四年間だったなあと思うだけだ。
葬儀《そうぎ》を終え、おれはもう突然じいさんがドアを開けることもなくなった自室のベッドに身を投げ出した。
「疲《つか》れた……」
制服の胸の細いリボンタイをゆるめ、思わずそう呟く。寝返《ねがえ》りを打つと、ベッドカバーごと床《ゆか》の上に転げ落ちた。おれはしばらくそのまま天井《てんじょう》を見上げ、そんなだらしのない格好でも咎《とが》める人間がいないことの自由を味わう。
そのときふと、ベッドの下になにかが置かれていることに気づいた。そこには、この家に来たときに持ってきた古びたトランクしかなかったはずなのに――真新しい木箱が一つ置かれている。引っ張り出してみると、両手の平でちょうど支えられるほどの箱で、平らな蓋《ふた》には見慣れない絵文字と円の組み合わせの焼き印が施《ほどこ》されている。十字に茶色のリボンのかけられたその箱は、不意にがたりと震《ふる》えた。
「うわ!」
思わず箱を取り落とす。薄い木箱は床に打ちつけられると簡単に砕《くだ》け、そして中に入っていたこぶし大くらいの卵――間違《まちが》いない、それはやわらかいクリーム色の殻《から》を持つ卵だ――もまた砕けた。
はずだった。
「いたたたたた……大変長らくおまたせいたした上になんちゅー取り出し方すんのよ。あんたねえ、取説ちゃんと読んだのよ? 取説ー」
ペチコートでふくらんだスカートの裾《すそ》を払《はら》いながら、そいつは立ち上がる。くるくるのハニーブロンドに、ワンピースと揃《そろ》いのヘッドドレス。青い瞳《ひとみ》の三歳児――にしてはやけに生意気なことを舌っ足らずな口調で。まさしくビスクドールの硝子《ガラス》玉みたいな大きな瞳に促《うなが》され、おれは半ば呆然《ぼうぜん》としたまま足下《あしもと》の紙切れを拾い上げた。四|隅《すみ》に羽の型押しを施したそれには、この度《たび》はお買い上げ有り難うございますとかいうお定まりの挨拶《あいさつ》文のあと、こう記されている。
「外気に触《ふ》れると自然に孵化《ふか》し、初めて目にした方の忠実なるしもべ、そして生涯《しょうがい》の友となることでしょう――商品名|魔法《まほう》使い・ニコ」
☆★☆
「だからこんなもの頼《たの》んでないって言ってるんです」
数分後、おれは受話器に向かって何度もそうくり返していた。受話器の向こうの返事もやはり、何度目かの同じもの。
『ですから、もうクーリングオフ期間も過ぎてますし、どうしてもとおっしゃるのなら発注書の控《ひか》えぐらいはご用意して頂かないと』
そう、電話の相手は取説に記されていた通信|販売《はんばい》会社のサービスセンターだ。
「だからそれがないんです。誤送じゃないんですか?」
食い下がるおれに、電話オペレーターの声が尖《とが》る。
『我が社は全品自社便で責任持ってお届けしております。とにかく特殊《とくしゅ》な商品ですし、開封《かいふう》された以上、よほどのことがない限り返品は受け付けかねます。魔法使いは我が社の取り扱《あつか》い商品の中でも特に人気の、自信ある商品ですのよ。どうぞ大事にしてやってください。あなたの忠実なるしもべ、生涯の友となりますよう――では』
「ちょ、待っ――切れた……」
受話器を叩《たた》きつけ、ふり返ると魔法使いは勝手にベッドの下からトランクを引っ張り出し、ちょこんと腰掛《こしか》けて椅子《いす》代わりにしている。そして大層|可愛《かわい》らしい容姿とは裏腹に、不遜《ふそん》な態度で仰《おお》せられるのだった。
「エサ」
「――誰《だれ》が忠実なるしもべだって?」
「だから取説読まれなさいって。目覚めて初めて目にした人に尽《つ》くすって書いてあるでしょー? 普通《ふつう》魔法使いが届いたらすぐ開けるもんなの。埃《ほこり》っぽくて暗いところにほったらかしにされてその上忠誠を誓《ちか》えなんてあんまりにもムシがよろしいのすぎなーい?」
口調は一丁前だがところどころ言葉の選び方がおかしい。卵から出たばかりの魔法使いってこんなものなのか? それとも落とした衝撃《しょうげき》で不具合が生じたか。
「あんなところに転がってるなんて知らなかったんだからしょうがないだろう」
おれは渋々《しぶしぶ》ながら取説に従って角砂糖を一つニコに与《あた》えた。ニコは両手で持って一口|舐《な》めると「安物」と毒づき、おれの殺気を生意気にも感じ取ったのか、残りを急いでかりかりと齧《かじ》る。せっかくうるさいじじいがいなくなってせいせいしたところだったのに、妙《みょう》なものに転がりこまれてとんだ迷惑《めいわく》だ。再びセンターに電話をすると、流れてくるのは本日の営業は終了致《しゅうりょういた》しましたというアナウンス。ふと窓の外を見れば、いつの間にか日が暮れかけている。それを見たら、急にどっと疲労《ひろう》が押し寄せてきた。
「まあいい。今晩一晩だけは置いてやる。明日またセンターに連絡《れんらく》するからな」
おれはトランクを勝手に開けて寝床《ねどこ》らしきものを作っているニコにそう言い置いて、早々にベッドに入った。
が、いつもならまだ机に向かっている時間ということもあってか、体には鈍《にぶ》くしびれるような疲労を感じるのに、頭は妙に冴《さ》えていてなかなか寝付けない。何度か寝返りを打ったあと、おれは堪えかねて体を起こした。
「おまえ……魔法が使えるんだよな」
おれの言葉に、トランクを閉じかけていたニコは冷たい視線を投げてよこす。
「占《うらな》い師は占うのから占い師。吸血鬼《きゅうけつき》は吸血するのから吸血鬼。キャベツを作られるのはキャベツ農家。さあ、魔法使いは?」
「……わかったよ。愚問《ぐもん》は謝るから得意の魔法で眠れるようにしてくれないか」
おれはため息と共にそう言った。誤送の上に忠実とはほど遠い奴だけど、魔法使いは魔法使いだ。そのくらいのことは要求してもいいと思う。本人だって自信満々だし。ニコはくるくるの巻き毛を揺《ゆ》らして胸を張った。
「おやすいの御用なのよ」
鼻息を荒《あら》くするニコに「鍵《かぎ》。なんでもいいから」と言われるままおれは家の鍵を差し出した。ニコは、古くて大きさの割に重いそれを両手で包み込むようにし、しばらく口の中でぶつぶつとなにかを唱えたあとふっと息を吹《ふ》きかける。
「目を閉じて、クラウス。――理《ことわり》の門を開けよ。これは盟約の鍵!」
おれはベッドに腰掛けて思わず身構えた。胡散臭《うさんくさ》いと思ってはいても、やっぱり魔法使いが魔法を使ってなにかをしてくれるというのに期待しない方が嘘《うそ》だ。これですぐさま倒《たお》れるように眠《ねむ》れるんだろうか。それとも徐々《じょじょ》に? 考えるおれの耳に、やがてその音は届いた。
ぴょーん。ととととと。
「ぴょーん……?」
不穏《ふおん》な気配に、薄目《うすめ》を開ける。途端《とたん》、
「うわ、なんだこれ! ――羊!?」
そう――無数の掌大《てのひらだい》の羊が、洗面所の蛇口《じゃぐち》から流れ出るように現れては、床の上をととととと転げるように駆《か》け回っているのだ。その流れは洪水《こうずい》のようで、凄《すご》いも可愛いも通り越《こ》していっそ圧巻ですらある。内心腰を抜かし気味のおれに、ニコは顎《あご》をしゃくった。腰に手を当てた自慢《じまん》げなポーズだ。はらり、とくるくる巻き毛をかき上げて。
「さ、思う存分数えなさいのよ」
おれは、数日ぶりに自分の血が頭に上る音を聞いた。
「数えるかッ! 今すぐ消せ、なくせ、引っ込めろーッ!」
……ニコが羊の海を泳ぎ切り、蛇口をひねって羊の流出を食い止める頃には、おれは気力を消耗《しょうもう》しきっていた。出すときは呪文《じゅもん》で止めるときは手動なのかとか、つっこんでみたいところは山ほどあったけれど、それも明日にすることにして、おれは再びベッドに潜《もぐ》り込んだ。
「……疲れた。もう寝る」
背を向けて丸くなるおれにニコは言う。
「ほ、ほーら、結果的にはぐっすり眠られるのそうじゃない」
反論するのも億劫だ。おれはニコを睨《にら》みつけ、ただ一言だけを告げる。トランクを指さして。
「――ハウス!」
「なによハウスって!? 犬じゃないんですのよからねーッ!」
「うるさい! おまえなんか犬以下だ!」
「なにおうなのよ!? あんな喰《く》って吠《ほ》えてでかい、住宅事情をまったく考慮《こうりょ》してない愛玩《あいがん》動物と比べないでのよ! あたしなんか一日角砂糖一個のこの燃費の良さ! 吠えない、爪研《つめと》がない、賃貸でも安心!」
是非《ぜひ》とももっと違うところで勝負して欲しい。仮にも魔法使いなんだから。
そう口にするのも億劫になり、おれはブランケットを頭から被《かぶ》った。
☆★☆
翌朝、魔法で食事の準備をすると言い出したニコを全力で押しとどめ、おれはいつもの通りベーコンエッグとパンで簡単に食事を済ませた。(途中テーブルの上の塩を取るように命じたら、コンマ一ミリ単位でしか動く気配がなく、結局自分でとった)
「センターには昼休みに学校から電話するから、おとなしくしてろよ」
制服のリボンタイを結びながらそう言い置いて、家を出る。
「眠い……」
昨夜は一応は眠ったもののあの顛末《てんまつ》だ。葬儀の疲れだってまだ残っている。
「いやまったくなのよ」
思わず漏《も》らしたおれの言葉に呼応する声がして、おれは危《あや》うく教科書を取り落とすところだった。声の主は――ニコだ。今、ドアにはたしかにこの手で鍵をかけたはずなのに。確認《かくにん》すると、確かに鍵はかかったままだ。おれはもう一度鍵を開け、中を指さす。
「――ハウス」
「あんたってほんとむかつかせにおなりなのね。あたし、閉じてるものを開けるのは得意なの。閉じこめたって無駄《むだ》のよ」
ニコは止める間もなくおれの自転車の荷台に飛び乗った。
「そんなことより、はやくするじゃないと遅刻《ちこく》するんじゃないのよ?」
その様子からしてついて来るつもりなんだろう。一分一秒が惜《お》しい朝にこれ以上無駄な舌戦を繰り広げるのはおれだって避《さ》けたい。やむなくおれはサドルにまたがった。
「頼《たの》むから人には見えない魔法とかを使ってくれよ!」
「――もちろんなのよ」
返事が一瞬遅れたのは、自転車が急に走り出したからだと思いたかった。
☆★☆
昼休み、教務室の脇《わき》に置かれた公衆電話を目指すおれの肩《かた》には――ニコ。半日ロッカーに閉じこめられていたんだから出さないとまた羊を、と脅《おど》されて連れてきた。どんな魔法を使っているのか、不思議と重さは感じない。ただ、すれ違《ちが》う奴は心なしか遠巻きにおれを避けていくのだった。
「ニコ……?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。見えてない見えてない」
疑問は残るところだが、元々おれに話しかけてくる奴はあまりいない。ことあるごとに試験を受けて飛び級してるから、ずっと同じクラスで仲良し、なんてものはおれには存在しないのだ。一刻も早くじじいの家を出るために勉強しなくちゃならないんだから、その方が都合も良かった。思えば、ニコ相手にはもう普段《ふだん》の数日分話をしている気がする。
目指す電話にたどりつく。さっさとニコを返品して、明日の試験に専念したかった。だが、受話器を取ろうとしたところで声をかけられる。
「クラウス! 出てきてたんだな。……大変だと思うけど、気を落とすなよ」
視線が肩の辺りを彷徨《さまよ》うのはなぜだ。
声をかけてきたのはビート・シュワルツという高等部の二年生。というかおれが飛び級してるからクラスメイトだ。とってつけたようなお悔《く》やみの言葉に、おれは声がわずかに尖るのを隠《かく》せない。
「……朝からいたけどね」
無能な魔法使いのせいで遅刻ぎりぎりだったけど。ビートは長身でおれを見下ろしながら言う。
「そうか。おれ午前中は図書室で寝てたから」
「……ずいぶん余裕《よゆう》のあることで」
ビートは明日、おれと同じく大学部への編入試験を受けるはずだ。受かれば寮に入れるし、学費は勿論《もちろん》最低限の生活は奨学金《しょうがくきん》ですべてまかなえる。数日したらじじいの弁護士が今後のことをきちんと連絡してくるはずだったが、遺産といえどもあんなやつの世話にはなりたくないというのがおれの本音だ。
だから、この試験は絶対に受かる。なのにビートは寝てただと? ビートは「いや、おまえも余裕があるように見えるな、なんとなく……」とわけのわからないことを言いながら、なぜか不思議そうにおれを眺《なが》め回し、やがて破顔した。
「ま、思ったより元気そうで良かった。放課後の補講は出るんだろ? またな」
と残し、去って行く。おれは昼休みの残り時間を気にしながらセンターにダイヤルした。電話がつながるまでの間、二コが訊《たず》ねてくる。
「あんたにも友達っているなのね。やな奴でも、神様は平等であららせられるのなのね」
おれは電話を指先でこつこつと小突《こづ》きながら応じる。
「だれが友達だって?」
「違うの? 世間|一般《いっぱん》ではああいうの友達っていうと思われるのだけど」
「さすが昨日今日卵から出てきただけあって、世間一般のなんたるかがわかってないな」
「そう? だってあたしのこと見えてるのに声――あ」
そのときちょうど電話がつながって、おれはニコの言葉を聞き逃《のが》した。そんなことよりまず返品だと、昨日と同じ問答の末、おれはついに声を荒《あら》げて昨夜の出来事を説明するに至った。
「――だからいうことはきかないわ、ろくな魔法は使えないわ嘘はつくわで」
するとそれまで立て板に水で取引の規定を繰り返すだけだった女性職員が、はじめて黙《だま》った。沈黙《ちんもく》の向こうに、なにか思案しているような気配がある。
『それは……もしかすると不良品なのかもしれません』
それからは、低頭平身ひたすら謝りっぱなしだ。通販会社なんて信用が第一で、悪評が伝わっても困るのだろう。それにしても、魔法使いの不良品とは――おれはふと思い立って訊ねてみた。
「あの、不良返品した場合どうなるんですか? つまりその、モノは」
『それはもう、万が一にも再び流出してお客様のご迷惑にならないよう、すぐに――廃棄《はいき》処分いたしております』
☆★☆
補講の後、さらに教師を捕《つか》まえて質問をしていたので、おれが家にたどり着いたときには辺りはすっかり暗くなっていた。灯《あか》りはついておらず、微《かす》かな月明かりだけが部屋を青白く照している。
ニコは先に帰ったはず――見回すと、足下をととと、となにかが駆けていった。羊だ。
羊は細く開いたトランクの中から、無理矢理体を引っ張り出しているのだ。
「……漏れてるぞ、羊が」
そう声をかけてみるが、ニコの返事はない。
「なんでまた羊なんか――」
足下にじゃれついてくる羊を払いながらおれは机にたどり着き、再びテキストを開いた。
翌朝――ニコは眠そうに角砂糖を齧りながら言った。
「昨夜また羊を大量に出す夢見ちゃって――あんたの帰りが遅《おそ》くて変な時間から寝ちゃったのだからよ」
「おれのせいか? 少し外に出てたぞ」
そう言うおれの声は少しかすれた。喉《のど》が痛い。昨夜はあの後もずっとテキストに向かっていたのだ。睡眠《すいみん》は足りないかも知れないが、詰《つ》め込めるだけのものは詰め込んだという満足感がある。
ニコが言った。
「……クラウス、顔色がお悪いみたいのよ」
「そうか? ――先に言っておくけど今日はついてくるなよ。大事な試験なんだから」
「わかってるわなのよ」
返品の件は帰ってから考えることにして、おれは急いで家を出た。
試験は日曜で生徒のいない高等部の校舎で行われた。同じ教室にはビートがいて、試験官にわからないように手を振《ふ》って見せる。相変わらず、余裕たっぷりの嫌《いや》な奴だ。
試験は順調に進んで行き、あとは午後の二時間を残すだけになった。
休み時間、おれが必死でテキストを睨みつけていると、ビートの奴がすりよって来る。
「なあ、クラウス」
「――悪いけど、おれはお前と違って余裕がない」
ぴしゃりとはねつけると、ビートは少し面食らったような顔をし、それから眉根《まゆね》を寄せておれの顔をのぞき込んだ。至近|距離《きょり》に近づいた青い瞳に思わず身構えると――今まで、両親以外にそんなふうにされたことはなかった――次の瞬間、お互いの額がごつんとぶつかった。
「――てッ」
「やっぱり。熱があるぞおまえ。どうも顔色がおかしいと思ってたんだ。帰った方がいい」
帰った方がいい――その言葉の意味を掴《つか》むのに少しかかる。冗談《じょうだん》じゃない。あと二時間だ。結果を出す自信はある。なのに今更帰れだって?
「できるかそんなこと!」
「ばか、おまえ自分でわかってないのか? ほんとに凄い熱――」
ビートの言葉を振り切るように立ち上がった瞬間、くらりときた。奇妙《きみょう》な浮遊《ふゆう》感。教室の風景が、ねじ曲がって見え――
「クラウス!」
どうしてか、ニコの声を聞いた気がした。
……仲良くできると思ってたんだ。大好きな母さんのお父さんなんだから。
なのにどうして母さんを悪く言うの。父さんを悪く言うの。
二人のこと話すとき、どうしてそんな酷《ひど》く怖《こわ》い顔するの――
目覚めて見たのは、見慣れた天井。頭を巡《めぐ》らせてみるまでもなく、気配でもう日が暮れていることがわかった。――試験は終わったんだろう。
手を伸ばし、壁《かべ》を殴《なぐ》る。その音でニコとビートがベッドの上のおれをのぞき込んだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》? クラウス」
「……おまえが運び出したのか」
おれはニコに訊ねた。ついてくるなと言ったのに、ついてきていたのか。応じたのはビートだ。
「いや、魔法で運ぼうとしたんだけどうまく行かなくて――おれが担いできた」
「おまえニコが見え――いや、そんなことより……ばかだな」
おれは言い捨てた。ビートも試験を放り出してきたというのか。ビートなら最後まで受ければ合格間違いなしだったろうに――まったくもってばかな話だ。
「ばかはあんたのよクラウス!」
声を上げたのはニコだった。
「お医者さまがクラウスは凄く疲れがたまってしまったんだって言ってたなのよ。試験試験って、目の色変えて自分の熱にも気づかないで、友達が運んでくれたのにお礼も言わないで!」
「ニコ、俺は別にいいから」
「あんたは黙ってる! どうせ返品されるんだもの、言いたい放題言ってやるなのよ。こいつってばいっつもこーんな眉間《みけん》にしわ寄せて机と睨めっこで、このニコ様がベッドの下に置かれてたって全然気づかなかったなのよ! 送り主が、どんな気持ちで卵を置いたのか知りもしないで――」
「え? おまえ――」
おれが眉根を寄せたそのとき、電話のベルが鳴った。起きあがろうとする俺をビートは手で制し、受話器を取る。
「通販の会社からだけど、出るか?」
コードをぎりぎりまで引っ張って差し出された受話器を耳に当てると、すっかり聞き慣れてしまったオペレーターの声が飛び込んでくる。
『お客様のクラウス・エヴァバッハ様でいらっしゃいますか? 何度か返品のお問い合わせを頂いた』
「はい」
今更なんだろう――訝《いぶか》しむおれに、彼女は言った。
『不良品の発生ということで、改めましてこちらでご発注の際の注文書の控えをお探し致しましたところ、出てきましたので――』
「誰からなんですか?」
思わず先を促すおれに、彼女は告げる。なぜか少し、楽しそうに。
『多分、ご家族が内緒《ないしょ》で贈《おく》り物になさったんですね。ご住所はご一緒で、送り主様のお名前はハインツ様――』
☆★☆
そのあとなにを喋《しゃべ》って電話を切ったのか、おれは覚えていなかった。
ハインツ。
それは――じいさんの名前だ。
じいさんが贈り物? おれに? どうして? おれは文字通り頭を抱えた。おれにとっては熱も吹っ飛ぶくらいの衝撃《しょうげき》だ。
ニコが言う。
「……あたし、卵の中でお聞きになったの」
それは、じいさんが死ぬ前。最後の喧嘩の晩だ。ひとり部屋に残ったじいさんは小さく呟いたのだという。
「クラウス、おまえが――心配なんだ、って」
じいさんがそんなことを――おれには想像がつかない。
「だって、いつも一方的で、おれに言うことをきけって。母さんも父さんも言うことをきいておけば死ななくてもすんだのにって――そうやって、悪く言ってばっかりだったんだ」
「それは――まあ親はそう言うよ、クラウス」
ざっとニコから事情は聞いたんだけど、とビートは続けた。
「それはおまえの両親のことを悪く言ってたんじゃなくて……自分を責めてるみたいに俺には聞こえるけどな。言うことをきいてればっていうのは、なんとかして言うことをきかせられれば、あるいは許してやってれば、早くして死ぬことはなかったんじゃないかっていう……後悔《こうかい》じゃないのか」
そんなことがあるだろうか?
「勝手な憶測《おくそく》でものを言うなよ。おまえら二人とも死んだ人間を美化してるんだ。実際一緒に暮らしてた訳でもないくせに」
おれの一言に、ニコは困ったような顔をする。ふくらんだスカートを小さな手でぎゅっと握りしめて。
「それは、そう、かもしれない……なのけど」
でも。小さな唇《くちびる》が動く。
「でもあたし、ハインツは優《やさ》しいと思うのよ。あたしが卵からお出になったら、ぴったりの椅子を作ってくれるって、その日が楽しみだって言ってた」
たしかにじじいは腕のいい家具職人ではあった。そう言えば、今はニコの寝床になっているおれのトランクも、手先の器用な彼が昔作ってくれたものだと聞いている。――母さんから。
じいさんに反発して家を飛び出した母さんの持ち物はこのトランクひとつきりで、おれが物心ついてからでも住まいは何度か転々としたけれど、ずっと手放すことはなかった。父さんも母さんも、じいさんの話はしないようにしてるということが俺にもわかるくらいだったのに、母さんはときどき黙って丹念《たんねん》にトランクの手入れをしていたのだ――
「……本当はニコをきっかけにして、もっと話したいことがあったんじゃないか? おじいさんは」
ビートが言う。そう、なんだろうか。あの理不尽で横暴で頑固なじじいが?
「心残りだったと思うわ。でも、孫がこんな心の底から薄情《はくじょう》な奴だって知らないでいって良かったのかもだわ」
言って、ニコは床に座り込んだ。
「あたしだって一緒になんかいらっしゃれないわ。さ、どっからでも梱包《こんぽう》してさしあげてなの。あたしは不良品なんだから、すぐに代わりが届くなのでしょ」
「梱包って――」
俺は戸惑い、そしてニコがきつく唇を噛《か》みしめていることに気づいた。硝子玉のような瞳が潤《うる》んでいる。――今にも涙《なみだ》がこぼれ落ちそうなほど。
「……泣いてるのか?」
「ば……ッ! 違うわよ。なにしろあたしは不良品ですのよからね。漏れてらっしゃるのよ! なんかが!」
「いや、なんかってなんだよ……」
おれは半ば呆れてそう呟き、そしてふと思い出した。漏れているといえば、昨夜、羊が漏れていた。どこから? ニコの寝床から。どうしてだ?
『不良品は、廃棄処分』
「ニコ、おまえ――」
返品されるのが怖《こわ》くて、眠れなかったのか? それで羊を数えてたのか?
それでも俺の体調を気遣《きづか》って、くっついてきてたのか。
――たしかにおれは、自分のことしか考えてなかったのかも知れない。
一度でもテキストから顔を上げていれば、じいさんの、別の顔だって見ていたのかも……知れない。
そんなことを考えてしまうのは、熱の所為《せい》でもあったかもしれない。
だけどおれはこのとき、じいさんがおれに遺《のこ》してくれた不良品の魔法使いと、それをおれに遺そうとしたじいさんを――愛しいと思ってしまったのだ。
「ニコ……」
おれは、微《かす》かに肩を震わせて堪えている魔法使いになにか言ってやらなければと考えあぐね、だけど今更気の利《き》いた言葉なんて見つけられず、思わずこう言っていたのだった。
「ハウス」
「――あんたってほんとやな奴のね!」
ニコはいつもの調子を取り戻し、おれは何年かぶりに心底笑う。
熱が下がったら、じいさんの話をもう少し聞かせてもらおうと思いながら。
[#地付き]END
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底本
The Sneaker 12月号増刊
The Beans [ザ・ビーンズ] VOL.1 2002.12
発 行 二〇〇二年一二月一日 発行
発行者 井上伸一郎
発行所 株式会社角川書店
[#地付き]校正M 2007.11.05