講談社電子文庫
闇色の魔道士 プラパ・ゼータ5
[#地から2字上げ]流 星香
目 次
登場人物紹介
第一章 死線
第二章 回生
第三章 |泥《でい》|都《と》
第四章 不死
第五章 |風《ふう》|姿《し》
第六章 |尊《そん》|厳《げん》
第七章 火災
第八章 |亜《あ》|人《じん》
第九章 再会
第十章 約束
第十一章 真実
あとがき
登場人物紹介
●ファラ・ハン
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世界を滅亡の危機から救うために具現した、伝説の翼ある|乙《おと》|女《め》。|透《す》きとおるような白い|肌《はだ》と|漆《しっ》|黒《こく》の髪に|彩《いろど》られたその姿形は、誰もが|見《み》|惚《ほ》れるほどの|麗《うるわ》しさである。はかなく優しげなイメージだが、正義感が強く自己犠牲も|厭《いと》わない|大《だい》|胆《たん》な性格を合わせ持つ。|邪《じゃ》|悪《あく》な力によって記憶を失いつつも、世界救済の旅に出発。待ち受ける数々の困難に、|果《か》|敢《かん》にも立ち向かう。
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●ディーノ
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|自《みずか》ら弧高の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗る、|華《か》|麗《れい》で|凶悪《きょうあく》な|蛮《ばん》|族《ぞく》。|彫像《ちょうぞう》のような素晴らしい|体《たい》|躯《く》を持つ。自己中心的で、自分の欲求――破壊行為と|略奪《りゃくだつ》――のおもむくままに生きる男であるが、聖選によってファラ・ハンを|護《まも》る“勇者ラオウ”に選出され、不本意ながら世界救済の旅へ。|頑丈《がんじよう》な身体が|取《と》り|柄《え》だったが、ファラ・ハンをかばって毒矢にあたり、生命の危機に|瀕《ひん》する。
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●レイム
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“|魔《ま》|道《どう》|士《し》スティーブ”に選ばれた、優しく|聡《そう》|明《めい》な若者。優秀な剣の使い手でもある。
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●シルヴィン
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“竜使いドラウド”に選出された娘。|頑強《がんきょう》な体躯と自然を見極める能力を持つ。
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●ルージェス
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カルバイン|公爵《こうしゃく》の娘。もうひとつの伝説にのっとり、ファラ・ハンの心臓を|狙《ねら》う。
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●ケセル・オーク
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ルージェスに力を貸す|謎《なぞ》の老魔道士。聖戦士たちの行く手を、邪悪な力で|阻《はば》む。
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●トーラス・スカーレン
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気品と|威《い》|厳《げん》を備えた麗しの女王。滅びかけた世界の救済を、聖戦士たちに託す。
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●エル・コレンティ
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世界を代表する偉大な老魔道師。あらゆる魔道を|駆《く》|使《し》する、女王の心強き片腕。
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●ウィグ・イー
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公女ルージェスにのみ|懐《なつ》く|獰《どう》|猛《もう》な|狩猟犬《しゅりょうけん》。公女を護る獣人として改良される。
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●バリル・キハノ
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闇と|盟《めい》|約《やく》を結ぶ邪悪な黒魔道師。エル・コレンティに対抗できる|唯《ゆい》|一《いつ》の人物。
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戦うための武器をなくしてしまった若者は、森の中、疲れはてて切り株に腰をおろした。
「わたしを|削《けず》って武器にして、願いをかけ、光沼に投げこみなさい」
若者に|囁《ささや》きかけたのは、目の前にあったエリスの樹だった。若者は喜んでその|勧《すす》めにしたがって、その優しい|精《せい》|霊《れい》の宿る|香《こう》|木《ぼく》の枝を少し切り、それで木製の武器を作った。
甘い香りを放つ木の武器は、若者に投じられて光沼に沈んだ。しばらくして、光沼の守護神が水面に姿を現し、両手に同じ形の武器を持って若者に問いかけた。
「お前がわたしの沼に投げ入れたのは、この木の|斧《おの》か? それともこの金の斧か?」
心の正しい若者は正直に木の斧であると答えた。光沼の守護神は、欲に|汚《けが》れていない清らかな若者を大変に気にいった。
「お前はたしかに清き者。戦うのにふさわしい若者。お前にはこの二つの斧のどれもそぐわない。お前は、聖なる力をもつ『銀の斧』を持つことのできる本物の勇者である」
|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》の力をもつ銀の斧は、若者に与えられた。若者はこの世でただ一人、|魔《ま》|物《もの》をもうち負かすことのできる|銀《ぎん》|斧《ふ》をふるう、|勇《ゆう》|敢《かん》で|猛《たけ》き聖戦士として、ひとびとを守りつづけた。
銀斧は若者が死した後もひとの世に|留《とど》まり、使い手を待っているという。
この伝承における斧は古代ゼルジア語において、レ・プ・ラ・ザンと発音し、聖なる・男の・銀の・斧と訳し、現代カルーア表記で「レプラ・ザン」と記すものと同一である。
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〈|賢《けん》|者《じゃ》ジグ・オズカトール|編《へん》|纂《さん》 神話伝説伝承事典 斧の項より |抜《ばっ》|粋《すい》〉
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第一章 死線
風がうなっているのが聞こえる。激しい|吹雪《ふ ぶ き》の音だ。この山をとりまいて、風が吹きおりている。それは針のように|鋭《するど》い冷気をつきたてて引き裂こうとするかのような、凍れる風。
だがここは寒くない。ここには風はない。|結《けっ》|界《かい》で守られ、吹雪を起こす術の核を近くに置くここは、風の中心点。ただひとつ、安定している空間。
高い山の頂上近くぽっかりと口を開けた|洞《どう》|窟《くつ》の中、二頭の|飛竜《ひりゅう》がいる。一組の男女がいる。|漆《しっ》|黒《こく》の髪と宝石のような青い|瞳《ひとみ》をもつ二人が。男のほうは横たわっている。女はその横に座っている。男は聖なる銀の斧を使う者。|華《か》|麗《れい》にして|猛《たけ》き者、|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗る|蛮《ばん》|族《ぞく》の若者。そして女は救世の聖女。背中に白き翼をもつ神の一人。|招喚《しょうかん》により具現した伝説の|乙《おと》|女《め》。
ぐったりと横たわったディーノは、すっかり血の気をなくしていた。全身をめぐる毒のため、ときおりびくんと|痙《けい》|攣《れん》する動きがなかったなら、その姿はもう死体と変わらない。心臓の動きは弱々しくなり、呼吸は浅い。|珠《たま》のような汗を結んだことも|嘘《うそ》であったかのように、発熱する力さえない。手足の末端から、しだいに氷のように冷えてゆく。毒におかされていく苦痛に顔を|歪《ゆが》めることすらできなくなり、表情はかえって|穏《おだ》やかになっている。
ディーノの横にぺたんと座りこんだファラ・ハンは、|膝《ひざ》の上で手を握りしめ、目を開いたまま|彫像《ちょうぞう》のように|凝固《ぎょうこ》していた。目の前の現実を受けいれることを、思考が拒絶していた。
ディーノは死ぬ。毒のため、全身の肉を青黒くぐずぐずに|崩《くず》れさせて死ぬ。一時間とたたないうちに、きたならしい|膿《うみ》と|腐汁《ふじゅう》の|塊《かたまり》に変わる。泥のようにとろけて、消えうせる。
(だめ、座りこんでいる場合じゃないの)
(なにか……、なにかしなければ)
(助ける方法があるはずよ)
(このままだと、本当に死んでしまう)
死んでしまうという言葉に、ファラ・ハンは、びくりと体を震わせる。そして震えたために動いた視界で、はっと我に返った。ぱちぱちと目を|瞬《まばた》く。どのくらいのあいだ、そうしてぼーっとしたまま座りこんでいたのかわからなかった。現実にもどり、にわかに|慌《あわ》てだす。
ファラ・ハンはディーノの手当てをしている途中だった。矢の|貫《つらぬ》いた傷口、大きく肉を|弾《はじ》けさせて変色したそれを、なんとかしようとしていた途中だった。傷を消毒しようと、薬液に|浸《ひた》した綿花を持ってディーノの|素《す》|肌《はだ》に|触《ふ》れたところで、動きを止めてしまった。現実を拒絶してしまったのだ。ぐんにゃりとした綿のような|腹《ふっ》|筋《きん》。触れればへこんだままになってしまう張りのない肌。これは、こんなのはディーノではないと、否定してしまったからだ。|烈《れっ》|火《か》のような男。激しく|雄《お》|々《お》しく、|勇《ゆう》|猛《もう》で|気《け》|高《だか》い、野獣のような男。それがディーノであるべきなのだ。|傲《ごう》|慢《まん》でも乱暴でも、それを欠いてはディーノにはならない。ファラ・ハンの知るディーノではない。こんな格好のディーノを、認めたくはない。
ぼろぼろとこぼれ落ちた涙が、ファラ・ハンの膝を|濡《ぬ》らした。
薬液はまったく役にたっている様子はなかった。逆に綿花のほうが毒にやられ、かちかちになって崩れた。乾燥させた薬草も効果は似たようなものだ。これでは、らちがあかない。
(毒…、毒…、毒…、なんとかしなければ…)
刃物で傷口を開いて毒を出そうにも、ディーノの体はそれに耐えられそうにない。刃物でつけた切り口から肉が|裂《さ》け、大きく弾けてしまうことが予想できる。
ディーノを傷つけず、毒を体の外に出さねばならない……。
ファラ・ハンはディーノの横に両手をついた。ディーノにかぶさるように、身を|屈《かが》める。
直接傷口から毒を吸いだす……!
「ファラ・ハン!」
ディーノの肌に|唇《くちびる》を寄せようとしたファラ・ハンを、激しい声が止めた。ぎくんと背を震わせて動きやめたファラ・ハンは、ゆるりと首だけ振りかえる。肩で大きく息をしながら駆けよってきたレイムは、|叱《しか》るような目で、ファラ・ハンを見つめる。
「ディーノの受けたのは猛毒です! |鍛《きた》えあげた強い肉体をもつ彼でなかったら、ここまでも持ちこたえていないはずです! もう少し考えて行動してください」
ましてや|汚《けが》れない天界の住人であるファラ・ハンならば、毒に対する抵抗力など望むほうが無理だ。このしなやかでか弱い|麗《れい》|人《じん》は、吸いだそうとして|唇《くちびる》を当てただけで、毒を受けることになる。|瞬《またた》く|間《ま》に毒におかされて、死んでしまうことが目に見えている。
「すみません……」
体を起こしたファラ・ハンは、座りこんだまま、顔を伏せて涙をこぼしつづけた。考えなしの自分を恥じていた。いくら|慌《あわ》てたとはいえ、言いすぎたかと、レイムは唇を|噛《か》む。
「薬は? ためされましたか?」
「はい……。でもだめでした。毒の勢いが強すぎて、薬までおかしくなってしまいます……」
レイムがそばにきて、張りつめていた気が|緩《ゆる》んだのか、ファラ・ハンはひくっとしゃくりあげながら、|溢《あふ》れる涙を手で押さえた。泣いている場合でないのはわかる。でもとまらない。
「落ち着いてください。大丈夫です」
ファラ・ハンの前に腰を落としたレイムは包みこむような優しい|声《こわ》|音《ね》で言い、涙を押さえているファラ・ハンの左手をそっと握った。涙に|濡《ぬ》れて冷たくなったファラ・ハンの手に、法具として重い長剣を強く握っていたために熱をもったレイムの手の熱さが伝わる。
確かな感覚。生きている者の|温《ぬく》もりに、はっとして、ファラ・ハンが顔をあげる。
やっとまともに目線をあわせることができて、レイムはにこっと笑う。
「ディーノは聖戦士として選ばれた者です。世界救済なかばにして天に召されることはないはずです。ちがいますか?」
理屈として、非の打ちどころのないレイムの言葉。開いたままの目からぽろりと涙をこぼしながら、ファラ・ハンはうなずく。レイムはファラ・ハンに問いかける。
「|魔《ま》|道《どう》は? ためされましたか?」
「いいえ……」
気が動転してしまって、すっかり失念していた。ファラ・ハンはただの|乙《おと》|女《め》ではない。神秘の力を使うことのできる、伝説の聖女だ。ひとの領域にない魔道だって、使うことができるはずなのだ。ディーノが助かるなら、思いつくかぎりの方法は、すべてためす必要がある。握ったままの手を引いて、ファラ・ハンをあらためてディーノに向かわせて、レイムも座る。ファラ・ハンはそっと|緩《ゆる》められたレイムの手から離れ、両手を組んで簡単な|印《いん》を結び、ひとつ目を閉じると、今度はきっぱりとした表情で顔をあげ腰を浮かせた。もう泣いてはいない。
「|瘉《いや》しの|魔《ま》|道《どう》を、やってみますわ。せめて毒だけでも消せたならいいのですけれど……」
体をむしばむ原因がなくなれば、後はディーノの体力がなんとかできるはずだ。
ファラ・ハンの右手が、ディーノの体の上の空間に魔道の|印《いん》を描くために上げられる。なめらかに動かされる手の動きから、ファラ・ハンの|試《こころ》みている術がどんなものであるかを見ていたレイムは、細い小指の先からしたたり落ちた小さな涙の|珠《たま》に、ぎくりと目を開く。
「だめだ!」
大声を出され、驚いてファラ・ハンが印を描くのをやめて振りかえる。レイムはファラ・ハンよりも激しい驚きの表情を浮かべて、ディーノを見つめていた。
「魔道は、使えません……。ディーノの内にある|銀《ぎん》|斧《ふ》が、拒絶しているんです……」
|茫《ぼう》|然《ぜん》と目を見開くファラ・ハンの下向けた指先、|濡《ぬ》れていた手を伝って小さな涙のしずくがまたひとつ、ディーノの上に落ちる。
「見てください」
|眉《まゆ》をひそめ、むずかしい顔をしたレイムが注目を|促《うなが》した。|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》の視線を追って、腰を落としたファラ・ハンがディーノを見る。
ファラ・ハンの涙。ディーノの胸元に落ちた、衣服に|染《し》みこむはずのしずくは、上衣に|触《ふ》れるかというところで、目に見えない|膜《まく》のようなものにやんわりと受けとめられていた。魔物たちにとっては|至上《しじょう》の|甘《かん》|露《ろ》である、壮絶な|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》の力をもつファラ・ハンの体液に違いないそれは、ディーノが受けとることを拒否するように地面に落とされた。
聖なる銀斧は独自の魔道特性をもっている。それは神のそれぞれが、別個の法則をもつ術を使うことと同じように。ファラ・ハンとレイムの使う魔道も、それぞれに違っている。|子《し》|弟《てい》のような同門の術者でもない限り、魔道を同じくすることはないのだ。魔道を使う者は、互いに|譲《ゆず》りあい、尊重しあってこそ、術を|損《そこ》なうことなく一緒に戦えるのだ。
そうして今のディーノといえば、聖なる銀斧の影響下にある。猛毒を受けて死にかけている主人を瘉そうと、ディーノの内で銀斧が力を発揮しているところなのだ。
地面に吸われた水の|跡《あと》に、事態を理解したファラ・ハンは放心したように肩の力を抜いた。レイムにもファラ・ハンにも、ディーノをどうしてやることもできない。だが生存への望みは、はっきりとした形になっていた。レイムは|安《あん》|堵《ど》の息を吐く。
「信じましょう……、ファラ・ハン。ディーノは、必ず助かります」
「そう、ですね。そう…ですよね……」
またあふれそうになった涙をごまかそうとするかのように、いそがしく|瞬《まばた》きしながら、こくんとファラ・ハンはうなずいた。レイムは静かに腰をあげる。見あげるファラ・ハンに、レイムは優しく|微《ほほ》|笑《え》む。
「シルヴィンを迎えにいってきます。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》と小さな|飛竜《ひりゅう》を使って起こしたこの|吹雪《ふ ぶ き》は、明日の朝には消えるようになっています。朝までには戻ってくるつもりですが、もし僕が戻らず、朝になってもディーノが十分に回復していないようならば、小さな飛竜に命じて、もうしばらく|吹雪《ふ ぶ き》を続けさせてください。そうしてディーノが出発できるようになっても、僕とシルヴィンが戻ってこなかった時には、二人で残りの時の宝珠を探しに出発してください」
「で、でも……!」
びっくりして目を見はるファラ・ハンに、レイムは春の|陽《ひ》だまりのような|笑《え》|顔《がお》を向ける。
「出発してください。追いかけますから。僕はどこにいても、どんなに遠くても、必ず追いつきます。あなたを助けにいきます」
シルヴィンがどうなったのか、それはわからない。迎えにいくと言ったレイムにも、さっぱり|見《けん》|当《とう》がつかない。すぐに戻ってこれるものなのか、そうでないのか。果たしてシルヴィンが生きているのか、そうでないのかさえもわかっていない。悪くすれば、迎えにいったレイムも帰ってこられないようなことになるかもしれない。安全か危険かもわからないいじょう、レイムは最悪の事態を想定して、ファラ・ハンに次の行動を言っておく必要があった。優しいファラ・ハンのことだ。戻ってこないレイムとシルヴィンに気をつかい、宝珠探しに出発できないかもしれないと、レイムは考えたのだ。
誠実なレイムが自分のために考えてくれたことを、無視することはできない。心細い表情を浮かべて、語るレイムを見つめていたファラ・ハンは、ゆっくりとうなずいた。レイムはあえて言わなかったが、レイムとシルヴィンが戻らないままに、ディーノが死んでしまった場合においても、ファラ・ハンは出発しなければいけない。ファラ・ハンはこの世でただ一人、世界を滅亡から救うことのできる聖女なのだ。
レイムは約束を守る。どんなに遅くなっても、生きているなら、必ずファラ・ハンを手助けしに来てくれるはずだ。透明に澄んだ|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》をもつ|魔《ま》|道《どう》|士《し》の青年は、決して|嘘《うそ》を言わない。
レイムは自分の飛竜を連れて出発した。
後にはファラ・ハンと死にかけているディーノ、大きな飛竜と吹雪の術の中心核となっている小さい飛竜が残った。
時間の感覚がなくなっていたが、もうしばらくしたら日が暮れるはずだ。レイムが|結《けっ》|界《かい》を作って|封《ふう》じたために、|洞《どう》|窟《くつ》の中はほの明るいが、まにあわせの結界だけでは夜を過ごすのに十分ではないだろう。冷えこんでくるかもしれない。ファラ・ハンは石を積んで火を|焚《た》く場所を決め、魔道で炎を呼んだ。ほんの少し、洞窟の中が暖かくなりはじめ、ディーノが身じろぎした。乱雑に広げた荷物をのろのろと整理していたファラ・ハンは、かすかに聞こえたうめき声に、はっとして振りかえる。
ディーノのすぐそばで赤々と燃えている火の熱は、ディーノに届いていなかった。ディーノの内なる|銀《ぎん》|斧《ふ》は、体力の|消耗《しょうもう》を少しでも軽減することができればと思って火を|焚《た》いたそれすら、きっぱりと|拒《こば》んでいた。ディーノのために行う|魔《ま》|道《どう》は、すべて拒絶される。よかれと思ってやったことが、かえって|負《ふ》|担《たん》になっていた。
「なにもしてはいけないの……? わたしは、こんなにそばにいるのに、あなたになにもしてあげられないの……?」
火を消し、ファラ・ハンはディーノの横に座った。気持ちだけと、傷の手当てにかぶせた布、体の表面を伝って広がっていく毒をくいとめるために置いた綿花と布を取りかえる。
矢が|貫《つらぬ》いたはずの傷は、なくなっていた。毒が入りこんで変色した|肌《はだ》の感じは、そのままだが、筋肉には張りが戻りつつある。着実に銀斧がディーノを救うため、毒を分解している。
銀斧が毒を分解してしまうまで、ディーノの体力がもてば、助かる。今夜が|峠《とうげ》になる。
ディーノに|触《ふ》れたファラ・ハンは、自分の手がディーノの表面にある見えない|膜《まく》を通り抜けるのを感じた。魔道を使わないファラ・ハン自身が拒絶されてはいないらしい。たしかに、背の白い翼をしまい魔道を使わないときのファラ・ハンは、ただ|可《か》|憐《れん》な|乙《おと》|女《め》でしかない。
ディーノの体は氷のように冷えきっている。触れたところから自分の体温が吸われていくことが、ファラ・ハンにはっきりとわかる。魔道を使わず火を起こせれば、ディーノも|暖《だん》をとれ、その分、体力の|消耗《しょうもう》も少なくてすむのだろうが、燃すものがない。たとえあったとしても、|結《けっ》|界《かい》という『閉じた領域』の中では、生の火を起こすことはできない。
銀斧の主人は人間である。銀斧は主人が死ぬ生き物であることを知っている。神が地上にいた黄金の時代から幾度か|主《あるじ》をかえてきただろう銀斧に、ディーノひとりに|執着《しゅうちゃく》しなければならない理由はない。ディーノの体力がもちそうにないと判断した瞬間に、銀斧はディーノに見切りをつける。死にゆくディーノから離れてしまう。
そんなことは、絶対にさせない。
きゅっと|唇《くちびる》を|噛《か》んだファラ・ハンは、ディーノの衣服に手をかけた。上着を|脱《ぬ》がせ、|鎧《よろい》をはずす。ぐったりとなった重い男の体に|果《か》|敢《かん》に|挑《いど》み、苦労して衣服をはぎ取った。
どうにか下帯ひとつにしたディーノを見て、ファラ・ハンはおもわず真っ赤になって横を向いた。衣服をまとってさえ、彫像のように|優《すぐ》れた容姿を見せるディーノのそれは、非の打ちどころのない、|完《かん》|璧《ぺき》なプロポーションをもっていた。それは神の一人であるファラ・ハンとも|趣《おもむき》を同じくするもの。黄金律とうたわれる、|至上《しじょう》のもの。聖なるもの、|邪《じゃ》|悪《あく》なるもののもっとも好む形。これならば、彼が銀斧の所有者となった理由もうなずける。
若い|裸《ら》|身《しん》を前に、うろたえてしまったファラ・ハンだが、恥じらっている場合ではない。一度深呼吸して気持ちを落ち着け、ファラ・ハンは自分のマントの止め金に手をかけた。
|魔《ま》|道《どう》は拒絶されたが、ファラ・ハン自身が拒絶されたのではない。直接ファラ・ハンの体の|温《ぬく》もりを使ってなら、ディーノを|温《あたた》めることができる。
衣服を|脱《ぬ》いだファラ・ハンは、自分の衣服とディーノの上衣を掛け布として背にかぶり、|負《ふ》|担《たん》をかけないようにディーノの上にそうっと体を置いた。ディーノの体は氷の作り物のように冷えきっている。ディーノを回復に導くための発熱量が足りず、外界からの熱源を欲していたらしい|銀《ぎん》|斧《ふ》は、|肌《はだ》を寄せてきたファラ・ハンを歓迎した。|触《ふ》れた部分から、熱が奪われていくのがはっきりとわかる。急激に熱を奪われて、ファラ・ハンはぞくりと体を震わせた。寒い。だが、ファラ・ハンの体温で銀斧が力を得ていることがはっきりとわかる。ファラ・ハンの熱を利用して、ディーノが助かろうとしている。凍りつきそうなほどだが、|辛《つら》いからとファラ・ハンはやめてしまうわけにいかない。
あえぐようにゆるく首を動かしたディーノに、はっとファラ・ハンは顔をあげた。毒のためにほとんどつぶれていた気管が開き、呼吸が|楽《らく》になったらしかった。表情がかすかにやわらいでいる。
助かる。ディーノは毒を|克《こく》|服《ふく》し、生きのびる。
熱を供給し、ぞくぞくと震えながらもほっと息を吐いたファラ・ハンの頭上が、一瞬かげった。静かに近寄ったディーノの|飛竜《ひりゅう》が、ファラ・ハンを助けるようにそっと翼をかぶせる。掛け布にした衣服よりも、かぶせられた飛竜の翼は|温《あたた》かい。飛竜は|懐《ふところ》に抱くように、ファラ・ハンとディーノを守った。
|魔《ま》|道《どう》は役にたたなくても、祈ることまで許されていないわけではない。
(死なないで)
(死なないで)
(死なないで)
|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えるようにくり返しながら、ファラ・ハンはディーノを抱きしめた。
幾度もファラ・ハンを支えた腕、受けとめた|胸《むな》|板《いた》。がっしりとした質量をもつそれは、まだ生気を|欠《か》いている。あの炎のような熱さを覚えているファラ・ハンには、胸がしめつけられるほどに苦しい。
(わたしの熱のすべてをさしあげますから)
(どうぞ生きのびて……)
ファラ・ハンをかばい、ファラ・ハンの代わりにディーノは矢を受けた。ファラ・ハンの体を|腐《くさ》らせ|崩《くず》れさせるはずだった猛毒のために、死にかけているのだ。
同じ毒を受けたとしても、ディーノのほうが助かる確率は大きかったことは、その|強靭《きょうじん》な体力からはっきりしている。もし誰かがその毒矢を必ず受けなければならないことになっていたというのなら、標的がディーノになったのは、|妥《だ》|当《とう》であったのかもしれない。ディーノが身をもってファラ・ハンをかばうということに、なんら不自然なことはなかったのかもしれない。
だが、それだけで納得できることではない。
ディーノが気を失う前、最後に考えたことがなんであったのか。どうしてそのような行動に出たのか。それはもはや理屈などではない。
そして、同じことをファラ・ハンも感じている。その気持ちにつき動かされているからこそ、|素《す》|肌《はだ》にディーノを抱いている。彼の復活を強く願っている。願わずにはいられない。
目を閉じてディーノの肌にそうっと|頬《ほお》をあてたファラ・ハンは、弱々しい|鼓《こ》|動《どう》の音を聞こうと耳をすます。|銀《ぎん》|斧《ふ》がファラ・ハンを熱源として利用しているために、ディーノとファラ・ハンは|鼓《こ》|動《どう》が同調している。|触《ふ》れあった肌を通じて血が交流しているような、そんな|錯《さっ》|覚《かく》すら起こるほどだ。
(もう少し、そう…、もう少しよ)
増していくディーノの生気がわかり、ファラ・ハンは歓喜して顔をあげた。目を閉じたディーノの顔を初めて見あげた。思いがけず長いまつげと、いつもの|傲《ごう》|慢《まん》な彼からは想像もつかない無防備な、やんちゃな子供めいた寝顔を見た。
氷の人形のようだったディーノが生きた彼そのものになっていくのが、ファラ・ハンにはわかる。触れてかすかに汗ばみはじめる肌に、ファラ・ハンは胸苦しいほどの|動《どう》|悸《き》を感じる。激しくなった動悸で、|頬《ほお》にかあっと血がのぼった。
ファラ・ハンを落ち着かなくさせるのは、ディーノの復活を応援する動悸であるのか。それ以外の理由のある動悸なのか。
ファラ・ハンにはわからない。
|吹雪《ふ ぶ き》を起こした術者であるレイムが、猛吹雪の渦巻く谷底に向かって降下していくのは、たいしたことではなかった。どんなにすさまじい威力をもつ術であっても、自分の行った|魔《ま》|道《どう》の中で身動きできなくなるような魔道士は、この世にいない。
レイムは|印《いん》を結んで導きの魔道球を出現させ、シルヴィンの|行《ゆく》|方《え》を|探《さぐ》らせた。黄金に輝く小さな光球は、すいと吹雪の中をすりぬけてレイムを導く。谷の奥底、はるかな深みに向かって、魔道球は落ちてゆく。それはレイムが予想していたよりも、ずっと深い。
|飛竜《ひりゅう》を降下させながら、レイムは困ったように少し目を細めた。最悪の事態を|覚《かく》|悟《ご》しなければならないかもと、息をのむ。
レイムの起こした吹雪の届かないほどの谷底。何世紀にもわたって凍りついてせりあがってきたのだろう深い|氷河《ひょうが》の表面に、|鮮《あざ》やかな色彩を放つものが落ちていた。
巨大な青黒いものの上に、赤いものがある。乗り手をかばって下敷きになった飛竜の上に、男仕立ての赤い衣服をまとったシルヴィンが倒れていた。
音さえも凍りつきそうな、暗い氷と万年雪の上に、レイムは静かに飛竜を降ろす。
光を得るために導きの魔道球を|灯《ともしび》の魔道球に変え、レイムはシルヴィンに駆けよる。|墜《つい》|落《らく》した飛竜の上からシルヴィンをどけるレイムを、レイムの飛竜が手伝った。たしかに女性としては|骨《ほね》|太《ぶと》で|頑丈《がんじょう》な体をもつシルヴィンは、重量においてややレイムひとりの手にあまる。ぐったりとした人間は、子供でも重たいものだ。ましてや、男女の違いはあっても体格において大差ないレイムとシルヴィンである。疲れはてていたレイムなら、これはなおさらだ。飛竜に助けられてどうにか、レイムはシルヴィンを|抱《かか》えあげることに成功した。シルヴィンの飛竜は、本能だけで乗り手をかばったらしかった。墜落したときに首を強打したらしく、飛竜の頭部は変な形にねじくれている。魔道で作った|結《けっ》|界《かい》に、仮眠用のシートを広げてシルヴィンを横たえたレイムは、魔道でシルヴィンが気絶しているだけであることを確かめ、負傷した飛竜に|瘉《いや》しの魔道を与える。|呪《まじな》い粉を用いて厳格に行われた瘉しの魔道によって、ごりごりと飛竜の首の骨が音をたてて動き、あるべき形に戻っていった。矢に|貫《つらぬ》かれ、落ちたときに折れて大きく破れていたらしい翼も、治りはじめる。後はまかせろと、レイムの飛竜がシルヴィンの飛竜に寄りそった。レイムはシルヴィンのそばに戻る。
「シルヴィン…、シルヴィン……!」
レイムは急激に耳を刺激しない程度の声で呼びかけたが、ぐったりと横たわるシルヴィンはまったく反応しなかった。無防備というには、あまりにも……。
「シルヴィン!」
青くなってレイムは大声で名を呼んだ。シルヴィンは反応しない。生きていることに|間《ま》|違《ちが》いはない。外傷はない。だが。
(まさか……)
|膝《ひざ》をついたレイムは|呪《まじな》い粉を散らし、念を|凝《こ》らしてシルヴィンの胸に右手のひらをかざした。たしかにシルヴィンが生きていることは伝わってくる。問題はそこにあるわけではない。
シルヴィンは気を失ったまま、|墜《お》ちた。|氷河《ひょうが》と万年雪に閉ざされた谷底深くに墜ちた。聖戦士として存在するシルヴィンは、この|酷《こっ》|寒《かん》からも守られるべき存在である。意識がないということは、眠っていることと同じになる。寒さに耐えるために、眠って過ごすことを選んだ生き物と、同じ立場にある。眠りの|魔《ま》|道《どう》を与えられた者と同じように、眠っているのだ。
レイムは|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。多くの魔道士が|施《ほどこ》してまわっている眠りの魔道、王都で承認を受けた同門の魔道士たちの術ならば、レイムは注意深くその奇跡をたどりかえして術をとくことができる。しかし、聖選による『聖戦士の守護の力』にもとづく『眠り』であるのなら、レイムにはとてもとくことはできない。圧力を加えて目覚めさせることはできない。
シルヴィンの時間は止まってしまっている。|下手《へ た》にここから連れ出せば、|呪《じゅ》が|絡《から》むのと似た現象を引き起こしかねない。|干渉《かんしょう》してきたものを|排《はい》|斥《せき》するために、|防《ぼう》|御《ぎょ》の態勢にはいってしまうと、今よりめんどうなことになる。
直接シルヴィンに呼びかけて、危険が去ったことを教え、目覚めを|促《うなが》してやらなければならない。
レイムはシルヴィンの横に腰を落とし、シルヴィンの背に左腕をまわして起こした。ことんと力なく動いたシルヴィンの頭がレイムの胸にぶつかる。
レイムは目を閉じた。シルヴィンの中に残るのは|墜《つい》|落《らく》の恐怖。|飛竜《ひりゅう》にかばわれたことも、どういう形で谷底に落下したのかも、シルヴィンは知らない。
シルヴィンの心を恐怖の中から連れださなければならない。
眠りという完結している術の上に、レイムが目覚めという別の術をかぶせて、シルヴィンへの呼びかけを行う。術の深みが問題になる。守られているシルヴィンの意識に声を届かせることができなければ、レイムの術はシルヴィンの中から出てくることができなくなる。術者の生命まで|触媒《しょくばい》にして行わなければ、この呼びかけは行えない。このままでは、たとえ世界が救われても、時間を止めたままのシルヴィンは永久に目覚めることはできない。呼びかけて、声を届かせることができなければ、レイムの意識はシルヴィンの内に溶けてシルヴィンに|紛《まぎ》れ、|自《じ》|我《が》のひとつのパターンとして飲みこまれて消える。レイムが死ぬ。
考えて、レイムはくすっと笑った。一度シルヴィンのために捨てたはずの命だった。聖地クラシュケスでディーノの飛竜を追って|亀《き》|裂《れつ》に足を踏みこんだシルヴィンを救おうとして、レイムは自分の命とひきかえにしてシルヴィンを生かそうとしたのだ。シルヴィンを生かすために自分の命を|賭《か》けることに、なんの|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》もない。
(シルヴィンは必ず目覚める)
(呼びかけに|応《こた》えてくれる)
信じることがなによりも強い力になることを、レイムは知っている。|魔《ま》|道《どう》を行う者の基本姿勢には、自分と、そして他のものを信じる力が大きな意味をもっている。自信のないこと、疑いのあるところに奇跡はうまれないのだ。
(大丈夫)
レイムはシルヴィンの前髪をあげ、|額《ひたい》をくっつけた。
|銀《ぎん》|斧《ふ》を内に秘めたディーノは、猛毒すら|克《こく》|服《ふく》して、より強くなって復活する。
ファラ・ハンは時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を探す旅に出発する。
レイムとシルヴィンも、彼らに合流しなければならない。
(シルヴィン)
(目を開けて)
(迎えにきたよ)
(一緒にいこう)
くっつけた額を通して思念を伝えるため、レイムははっきりと呼びかける。
シルヴィンを|抱《かか》えて座りこんだレイムに、傷の|完《かん》|治《ち》した|飛竜《ひりゅう》がそろそろと寄りそった。飛竜もまた、シルヴィンを|覚《かく》|醒《せい》させるためにレイムに力を貸そうとしていた。寄りそってくる飛竜に、レイムは顔をあげる。自然の声を感じとることのできるシルヴィンにとって、飛竜の協力は大きな意味をもつ。レイムは淡く|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「ありがとう……、力を貸してもらうよ。僕にあわせておくれね……」
音なき声で|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えたレイムの|唇《くちびる》の動きを読んで、その|韻《いん》にあわせるように二頭の飛竜は|真《しん》|紅《く》の|瞳《ひとみ》を|瞬《まばた》かせ、小さく首を動かして調子をとる。リズムが|合《がっ》|致《ち》したことを感じとり、レイムは右手に|印《いん》を結び、声を出して呪文を唱える。
「黄金の神子 光の天使 虹に|仕《つか》える七の|御《み》|使《つか》い 暗き眠りの|淵《ふち》に舞い降り |闇《やみ》の果てなる心を照らせ」
レイムの呪文によって小さな太陽のような光が生まれた。
光は|瞬《またた》く|間《ま》に大きくふくれあがり、爆発するかのように|弾《はじ》けた。
第二章 回生
夢を見ていた。
いや正しくは、それが現実でないと信じていた。
それはありえないこと。そうなるはずは、けっしてないこと。
その|乙《おと》|女《め》は、たしかに彼を拒絶したのであるから。だから夢にちがいない。
|鼻《び》|孔《こう》を甘くくすぐる体臭を、ディーノは感じる。しっかりと捕らえて|逃《のが》すまいとするような、しなやかな細い腕に抱かれていることを感じる。ディーノは|温《あたた》かい|滑《なめ》らかな|肌《はだ》が、自分の素肌にぴたりと押しあてられていることを感じる。とくとくと脈打つものを感じている。同じ時間の中で二人、うっとりとまどろんでいることを感じている。
思うように体が動かなかった。指ひとつ動かすのにも、やけに時間がかかった。いつものディーノなら、こんなに|緩《かん》|慢《まん》な動きはしない。やはりこれは夢なのだ。
のろのろと腕をあげたディーノは、ためらうように、ファラ・ハンの背にそうっと手を置いた。絹糸のような長い|漆《しっ》|黒《こく》の髪が指に|触《ふ》れた。それをわけて静かに指を|滑《すべ》りこませると、温かな柔らかい|白《はく》|磁《じ》の感触をもつ肌があった。
背に触れた指に驚いたかのように、ファラ・ハンが顔をあげ、ディーノの上にかぶせていた体を少し浮かせた。ディーノはなぜだか、少しせつなくなる。夢が覚めてしまうと思った。澄んだ青い|瞳《ひとみ》でまっすぐにディーノを見つめて、ファラ・ハンは、とても|優《やさ》しく|微《ほほ》|笑《え》んだ。ファラ・ハンは細く長い指をもつ柔らかい手をあげて、ディーノの顔に触れた。顔をなで、薄くにじんだ汗で顔にはりつこうとしていた髪を払った。優しく優しく、これまで何度もそうしてきたかのように、なれた|仕《し》|草《ぐさ》で。これは夢だ。あらためて納得して、ディーノはファラ・ハンを見る。ひどく時間をかけて持ちあげた両腕で、そうっとファラ・ハンを抱きしめた。|雛《ひな》|鳥《どり》のような感触をもつふんわりした体が、腕の中におさまった。ファラ・ハンの骨の細い体は、抱きつぶしてしまいそうに|華《きゃ》|奢《しゃ》で、ちょっと力を加えれば|砕《くだ》けてしまいそうだが、肉感は豊かでしっかりとした張りがある。存在するその質量をはっきりと感じることができる。手にしたとたん、それを感じたとたん、それが消えてしまいそうな気がして心細くなり、ディーノはファラ・ハンを見つめた。見つめかえしてくるファラ・ハンは、|応《こた》えるようにディーノの首に腕をまわしてディーノを抱いた。
|俗《ぞく》|世《せ》の|汚《けが》れた感情をもたないファラ・ハンには、打算はない。|賢《さか》しいかけひきをするような|性根《しょうね》はなく、純粋に本心で行動をする。感情をごまかせるような器用さもない。だから、向けられた表情から伝わるもの、触れた指先から感じとれるものは、常に真実でしかない。二人でこうしていることをディーノが強要したのではない。強制や命令に従うような|乙《おと》|女《め》でもない。それがわかっているから、ディーノは彼女に興味をおぼえたのかもしれない。
この|可《か》|憐《れん》な|招喚《しょうかん》の聖女ファラ・ハンは、|虐《しいた》げられ裏切られ、|報《むく》われたことのなかったディーノにとって、|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》をもたずに接することのできる|唯《ゆい》|一《いつ》の存在であることに|間《ま》|違《ちが》いない。
これまで誰かを抱いたことはあっても、誰かに抱かれたことはなかったと、ディーノはぼんやりと思った。力の前ではただ踏みにじられ、もてあそばれるだけのもろい生き物が、こんなにきっぱりとした、強いものであったことを思い知らされた。
ディーノは生まれて初めて、傷が|瘉《いや》されるのを感じた。|魂《たましい》が救われる瞬間があることを知った。自分の国を探し求めることで、本当に欲していたのがなんであるのかを知った。
満たされた思いでファラ・ハンを見つめ、ディーノは|微《ほほ》|笑《え》んだ。夢だから。ファラ・ハンはディーノに微笑みかえした。
安らいでディーノは目を閉じる。自分だけに向けられた微笑みを強く|瞳《ひとみ》の中にやきつけておきたかった。欲張ってこれ以上のことを望むだけの勇気がなかった。
恐怖以外のことで震えたり、|臆病《おくびょう》になったりすることがあることを、ディーノは知った。体の|芯《しん》が熱をおび、頭の中はぼうっとして、どきどきと胸苦しく、|細《こま》かい震えが止まらないのだ。息苦しいほどだが、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》と|心《ここ》|地《ち》いい。
こんなことが自分に許されるのか。血に|染《そ》まり、あらゆる仕打ちをうけて|汚《けが》れつづけてきた、くず同然の扱いでしかなかった命しかもたない自分が、こんな気持ちになっていいのか。
誰もがあこがれ、恋するだろう聖女、|至上《しじょう》の|美《び》|姫《き》の腕に抱かれていて、いいのか。
ディーノの|戸《と》|惑《まど》いを読んだのか、そうっとファラ・ハンがディーノの首筋に顔を埋めた。顔を埋めた場所の|居《い》|心《ごこ》|地《ち》を甘えて確かめるように、ファラ・ハンは小さく身じろぎする。
これはますます夢らしいと、ディーノは思った。夢であるならと、少し気持ちが|楽《らく》になった。軽く首を曲げてすりよせるように、ディーノはファラ・ハンに顔を近づける。ファラ・ハンの|額《ひたい》にディーノの|頬《ほお》が|触《ふ》れた。
このまま永遠に夢が続くことを、ディーノは願わずにはいられなかった。
誰かに呼ばれた気がして、シルヴィンは目を開けた。腹の上が重くて苦しい。ずいぶん高い場所に銀河のような細い光の帯が見える。自分の周囲は薄暗い。なんの音もしない。寒い。
「う……ん……」
身じろぎして、シルヴィンは自分の上に乗っているものをどけようと、手で押しやった。つい最近|触《さわ》ったことのある布と肉の感触があった。押しやられたものは、ずるりと|滑《すべ》ってシルヴィンの上から落ちた。|圧《あっ》|迫《ぱく》がなくなり、呼吸が|楽《らく》になる。大きく深呼吸したシルヴィンは、ぱちぱちと|瞬《まばた》きする。軽い|脳《のう》|震《しん》|盪《とう》を起こしていたらしい。しばらくそのままの格好でぼーっとしてから、シルヴィンはやっと自分になにが起こったのかを思いだした。
射られたのだ。|雪竜《せつりゅう》のいた山から出たところで。あの|可《か》|愛《わい》げのないルージェスという娘の一軍が放った矢を、飛竜の翼に受けて|墜《つい》|落《らく》したのだ。野獣のような|勘《かん》ですばやく適確に動いたディーノについていけず、うろたえたため、|無《ぶ》|様《ざま》に矢に当たって落とされたのだ。
飛竜は……!
ぎょっと目を開き、シルヴィンはとび起きた。墜落のときの|衝撃《しょうげき》か、骨や筋肉がぎしぎしめりめりと音をたててきしんだ。|鈍《にぶ》い痛みに全身を|貫《つらぬ》かれ、体を起こしたシルヴィンは顔をしかめて声をあげる。
真横で寝そべっていたらしい飛竜が、薄暗がりの中、ぬっと首をあげた。ばさりと大きく翼を広げたのは、うまく|手《た》|綱《づな》を|操《あやつ》ってやることもできないままに一緒に|墜《お》ちた、シルヴィンの飛竜だ。元気そうな姿にほっと息を吐いたシルヴィンに、もう一頭の飛竜が首をあげた。目の|錯《さっ》|覚《かく》かとシルヴィンは薄暗がりの中、目をこする。|見《み》|間《ま》|違《ちが》いではなく、もう一頭いた。飛竜はシルヴィンに近より、翼を風よけのようにあげる。飛竜が|懐《ふところ》に抱いてくれるようなほのかな|温《ぬく》もりが、冷えきったシルヴィンの|頬《ほお》に当たった。
「お前……」
飛竜に手を伸ばそうとしたシルヴィンは、さっき自分が押しのけたものを見てさらに驚く。暗がりで淡く輝いて見える金の色。黒っぽく見える衣装をまとう者が、ぐったりとうつ伏している。
「ちょっと|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》いっ! あんたまで墜ちたのっ!?」
心配するというより|怒《ど》|鳴《な》りつけるように叫んで、シルヴィンはぐいとレイムの体に手をかけた。まだちょっと頭にくらくらするものが残っているシルヴィンは、|法《ほう》|衣《え》をつかんだ手を一度|滑《すべ》らせ、やや乱暴な感じのする手つきで、レイムをひっくり返す。
気をきかせた賢い飛竜が、|墜《つい》|落《らく》して|叩《たた》きつけられたときに飛び散った荷の中から、ランプに使う|獣脂《じゅうし》の|塊《かたまり》を見つけて、それに炎を吐きかけた。聖獣の猛火を受けた獣脂が、ぼっと勢いよく燃えあがり、周囲を明るく照らした。突然の明かりに、いそがしく|瞬《まばた》きして目を順応させ、あらためてシルヴィンは目を開ける。血の気を失った、死人のように青白い顔をしたレイムが見えた。疲れてやつれはて、苦しそうに|眉《まゆ》をよせている。髪をざんばらに乱してぐたりと横たわっている彼の姿は、あの腹立たしいほどに|綺《き》|麗《れい》に見えた彼らしくない。
「……!」
へたっと腰がくだけたように、シルヴィンはかすかに浮かせていた腰を落とした。|触《さわ》って確かめるのが怖くなっていた。動けなかった。
「ケシャァァッ!」
|飛竜《ひりゅう》がシルヴィンを急がせるように鳴いた。びくんと背を震わせたシルヴィンは、反射的に飛竜のほうに顔を向ける。
翼を射抜かれて落ちたはずの飛竜には、傷ひとつなかった。くるんと目を大きくして、シルヴィンはゆっくりと|瞬《まばた》きする。
飛竜の|怪《け》|我《が》が『|治《なお》って』いる。そんなに簡単に|治《ち》|瘉《ゆ》できる傷ではなかったはずだ。こんな|魔《ま》|法《ほう》のようなことはありえないと現実で否定し、シルヴィンははっとする。
魔法は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》のことは、起こせる。起こすことができる者がいる。だとすれば。レイムはシルヴィンたちが|墜《お》ちてから、それを助けにやってきたことになる。レイムが飛竜の怪我を治したのにちがいない。
「ちょっとぉ! しっかりしてよぉっ!」
半泣きのような声を出しながら、シルヴィンはレイムの肩をつかんで弱く揺すった。
|呪《まじな》い粉の臭いはするが、|結《けっ》|界《かい》はない。レイムの魔道力は消失している。だから暗く、寒いのだ。シルヴィンは知らないが、あの|灯《ともしび》の魔道球の影も形もない。
(助けにやってきて、死ぬなんてこと……)
あまりにもばかばかしく、そんなのは絶対にありえないと否定したかったシルヴィンだが。レイムという、この誠実すぎる|不《ぶ》|器《き》|用《よう》な魔道士を知っていれば、言葉をのみこんでしまう。彼ならば……。
|膝《ひざ》の前にレイムの頭を置き、正座して彼をのぞきこんでいたシルヴィンは、|腿《もも》の上で強く|拳《こぶし》を握りしめた。ぱたっと音をたてて涙が、レイムの顔の上に落ちた。
レイムのまつげが、かすかに震えた。
息を止めて見つめたシルヴィンの姿が、薄く開かれた|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》に映される。
薄い水色の瞳と視線をあわせて、ふわりと、力なくレイムが|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「よかった……、起きてくれたんだ……」
なんだかお|伽話《とぎばなし》のように、そのまま|塵《ちり》になって消えていきそうなほどに、はかない微笑みだった。|囁《ささや》かれた声には、胸が苦しくなるほど、優しい響きがあった。いかにも彼らしい、|温《ぬく》もりを感じさせる声だった。
「なによ……! そんな格好で寝っころがって……! 死んじゃったかと思ったじゃないのよ……!」
すねたように口をとがらせてシルヴィンはレイムに言う。レイムは力が入らない様子ながらも、笑ってみせる。
「心配させて、ごめん……」
「心配なんてしてないわよ……!」
「泣かないで、僕はなんともないから……」
「泣いてんじゃないわよ……!」
|目《め》|尻《じり》をつりあげて、|不《ふ》|覚《かく》にもぼろっと涙をこぼしたシルヴィンは、乱暴に目をこすって涙をぬぐいすて、むっと口をとがらせる。
「あんたのことなんか、わたしが心配するはずないでしょっ……! いい? わたし、あんたみたいな男見てると、情けなくって、腹がたってくるのよ……!」
だから涙が出たのだと言いわけし、くすんと鼻をならして息をのみ、シルヴィンは続ける。レイムは淡く|微《ほほ》|笑《え》みながら、シルヴィンを見あげている。安心して気が|緩《ゆる》んだことがはっきりわかるシルヴィンは、にわかに元気になってレイムにまくしたてる。
「あたし、怒ってるのよ……! どうしてあんたって、こんな危なっかしいの!? もっと自分のこと、考えなさいよ! わたしなんて、少しくらいほっぽってても大丈夫なんだから……! あんた、|真《ま》|面《じ》|目《め》なのはわかるけど、いっつも足手まといで、|迷《めい》|惑《わく》で、かえって世話がやけて……! 体力もないくせに、無茶ばっかりして……! 自覚してよっ!」
「すみません……」
微笑んだまま、レイムは力の入らない声で静かにわびる。シルヴィンを見あげる|翠《みどり》の|眼《まな》|差《ざ》しは包みこむように|温《あたた》かく、どこまでも優しい。消えいりそうに小さく、ささやくようなレイムの声を、ごく最近とても近くで聞いた気がして、シルヴィンは|眉《まゆ》をひそめる。
「……わたしを、呼んだ?」
目覚めるまで、呼びつづけてくれたのか。|混《こん》|沌《とん》とした暗い眠りの|淵《ふち》に沈んでいたことを、心のどこかがおぼえている。生きた人間があるべき領域に精神がなかった、酔いに似た不快感がシルヴィンの中にこびりついている。健康で健全な肉体と精神をもつシルヴィンだからこそ、わかること。
「うん……」
にこっと|微《ほほ》|笑《え》んで、かすかにレイムがうなずく。
自分が半分死にかけていたことがわかって、シルヴィンはぞっとした。自然に|魅《み》せられ、|遭《そう》|難《なん》して眠ったままに発見され、そのまま死んでしまった者のことを、シルヴィンは知っている。|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》の力で心を内に沈められてしまった者。|都《みやこ》の|魔《ま》|道《どう》|士《し》を頼んで、心を呼び戻し、目覚めさせる方法があったことをシルヴィンは知っている。並の魔道士には、この呼び戻しの術は行えない。里をあげて|丁《てい》|寧《ねい》に、高位の魔道士を迎えたことがあるのをシルヴィンは覚えている。いくら素質と実力を認められても、しょせんは見習いにすぎない経験しかないレイムがそれを行ったならば、かなりの危険があったはずだ。
「ばかね……、死ぬ気なの……?」
ぐっと胸がつまり、シルヴィンの声がうわずった。ぽろっとこぼれた涙が、レイムの|頬《ほお》に落ちる。
「信じてたから……」
まっすぐな言葉でレイムは答えた。それはシルヴィンという、たくましい少女に対して。この世でただひとり、聖なる|竜使《りゅうつか》いに選ばれた戦士に対して。世界救済なかばにして、戦線を離脱してしまうことがあるはずがない。
レイムを支えているのは揺るぎない強さ。形や目に見える力ではない、底知れない強さ。疑うこと、恐れることをしない、きっぱりとした強さ。戦うことの基本を内なるその強さにおいているレイムには、容姿は関係ないのだ。盛り上がった筋肉質な身体も、|勇《ゆう》|猛《もう》な戦士らしい|風《ふう》|貌《ぼう》も、高位の魔道士たる威圧感のある|雰《ふん》|囲《い》|気《き》も、必要はない。
「ばかね……」
「|応《こた》えて、くれたでしょう……? たしかに、少し無理をしたみたいだ……」
「……疲れた?」
「夜明けまで休みたいな。ごめんね……。夜明けまでに戻るとファラ・ハンに約束したから、それまで……。僕が遅れて……、もしも、戻らなかったら……、ファラ・ハンには一人でも行くように、僕は言ってきた……」
目を閉じながらつぶやくレイムの言葉に、シルヴィンはぎょっとする。
「一人でって、なに!? ファラ・ハンは一人でどこかにいるっていうの!? ディーノは!?」
「ディーノは、毒矢を受けて…、死にかけている……。|銀《ぎん》|斧《ふ》が聖なる力で、ディーノを助けようとしてる……。でも、もしもディーノが……」
皆まで聞くことなく、シルヴィンは事情を理解した。ディーノが死に、レイムがシルヴィンを呼びもどせずに死に、シルヴィンが眠りつづけたままになったとき、ファラ・ハンは一人で世界救済の旅を続けなければならないところだったのだ。
「ファラ・ハンはどのあたりにいるの? 戻りましょう、わたしが|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》いを一緒に|飛竜《ひりゅう》に乗せて、そこに連れてくわ!」
そこでレイムが休めば、皆が再び一か所に集まることになる。目を閉じたレイムは、勢いこむシルヴィンに小さく首を振る。
「追っ手からファラ・ハンたちを守るために、|吹雪《ふ ぶ き》を起こしてきたんだ……。誰もあの激しい吹雪を抜けることはできない……」
レイムには、今ここで小さな|結《けっ》|界《かい》を維持するだけの力もない。シルヴィンが目覚めるのがもう少し遅ければ、レイムの術に力を貸し、気を失っていた飛竜も目を開けなかったはずだ。敷き布の上にあるシルヴィンは、腹の上にうつ伏して倒れたレイムのおかげで谷底の冷気から守られ、わずかばかりだが熱をもらい|温《あたた》められていたが、背面をさらしているレイムはただ冷えていく一方だ。シルヴィンを助けることができても、悪くすればレイムは|凍《こご》え死んでしまっていた。
シルヴィンは|唇《くちびる》を|噛《か》む。レイムが今よりもう少しましな状態にならなければ、どうにもならない。ひとつ息を吐いたシルヴィンは、にっと笑ってレイムの|額《ひたい》にかかる乱れた髪を乱暴な手つきで払った。
「夜明け前にはたたき起こすわよ」
「うん……」
ほっと|頬《ほお》を|緩《ゆる》め、レイムは力を抜いて目を閉じた。眠るレイムに気をつかい、静かにシルヴィンが立ちあがったのがわかった。
長く同じ格好でいたために腕がしびれてきたので、身じろぎしようとして、はっとファラ・ハンは目を開けた。いつのまにか眠ってしまったらしい。ファラ・ハンは復活しようとするディーノに力を貸すために、体をかぶせて|肌《はだ》を|触《ふ》れあわせ、熱を与えていたのだ。眠ってしまう前と同じにディーノを抱きしめていたことにかわりはなかったが、ファラ・ハンもディーノに抱きしめられていた。知らないあいだに背にまわされた腕の重みに、ファラ・ハンはぱちぱちと|瞬《まばた》きする。熱い。今ファラ・ハンが抱いているのは、あのすべやかな|鋼《はがね》のような熱をもったディーノだ。毒を|克《こく》|服《ふく》し、復活した彼だ。規則正しく、大きく脈打つディーノの|鼓《こ》|動《どう》が、ファラ・ハンを揺すっている。
額にディーノの|吐《と》|息《いき》を感じ、見あげたファラ・ハンは、どきりと胸を鳴らせる。ファラ・ハンが抱いているのは、いつもの、あのディーノに|間《ま》|違《ちが》いない。
起きているときは|傲《ごう》|慢《まん》で|高《たか》|飛《び》|車《しゃ》な彼だが、|端《たん》|正《せい》な寝顔は安らいでいて優しい。
(|怪《け》|我《が》は……?)
気を失う前、そう尋ねた彼がいる。毒でひどく苦しみながらも、ファラ・ハンのことを案じた彼が。そのしばらく後に、このディーノの|瞳《ひとみ》が開かれたのを見たことがある気がして、ファラ・ハンはディーノを見つめた。救われたいと願う、傷ついた|獣《けもの》のような、寂しい|哀《かな》しい青い色の瞳だったような気がする。そんなディーノを慰めるように、ファラ・ハンは顔に浮いた汗をぬぐい、|頬《ほお》をなでた。かすかに腕を震わせ、おそるおそる抱きしめて見つめてきたディーノを、ファラ・ハンは毒矢を受けた者への|看《かん》|護《ご》以外の|想《おも》いで抱いた……!?
にわかに|慌《あわ》てて、ファラ・ハンはディーノにかぶせていた体をあげた。眠ってしまっていたわけで、ファラ・ハンには夢と現実があいまいになっている。抱きあう形で眠っていた、今の状態は真実なのだろうが、どこまでが本当にあったことなのか、わからない。
ほとんど力の入っていなかったディーノの腕は、するりとファラ・ハンの背から|滑《すべ》り落ちる。ディーノがかすかに|眉《まゆ》を寄せ、小さく首を動かし、身じろぎした。目が覚めるかもしれないと、ファラ・ハンは急いでディーノの上からどいた。ディーノの上衣を残し、肩に自分の衣服をひっかけた格好で、くるりとディーノに背を向ける。立ち上がったファラ・ハンのために、かぶせていた翼を一度どけた|飛竜《ひりゅう》は、ファラ・ハンがしりぞいた後、再び翼をかぶせる。
「む……」
うめいてディーノが薄く目を開けた。ぼんやりとしたまま、ゆっくりと|瞬《まばた》きしたディーノは、|魔《ま》|道《どう》によって薄明るい|洞《どう》|窟《くつ》の|天井《てんじょう》を見あげる。
ここがどこなのかを認識し、自分になにが起こったのかを突然に思いだしたディーノは、|弾《はじ》かれるように|跳《と》び起きた。急激な動きに血流がついていかず、頭がくらくらした。せっかく上半身を起こしたのに横倒しになりかけ、ディーノは腕を突いて体を支え、もう一方の手を|額《ひたい》に当てる。こめかみを押さえて顔をしかめたディーノは、勢いよく起きたためにかぶせられていた上衣から体をはだけさせ、むき出しになってしまった自分の姿にぎょっとした。
「気分はいかがですか?」
背を向けたままファラ・ハンがたずねた。気が動転してしまい、衣服をまとうための動きがとれず、背面に衣服をかぶせただけのファラ・ハンは、もちろん振りかえることなどできない。少しうわずった声のファラ・ハンの言葉は、ディーノの耳に事務的に響いた。
なにも耳にはいらない様子で、ディーノはきつく|唇《くちびる》を|噛《か》んで、自分の上にかけられていた衣服をにらんでいた。自分で|脱《ぬ》いだ記憶はない。毒にやられ、そんな余裕はなかった。|無《ぶ》|様《ざま》な格好をさらしたうえに、他人に手をかけられ、衣服をはぎとられてしまった。洞窟に向かった飛竜に助けられ、ファラ・ハンに支えられてここに降り立ったことは覚えている。あの|生《なま》|意《い》|気《き》な魔道士がこの洞窟に一緒にいたことも覚えている。自分が毒で死にかけていたことは、ディーノも認める。あの猛毒は知っている。それを受けた者がどんな死に様をさらすのかも。死なないはずはない。死なないほうが変だ。それがこんな姿で、無傷ということになれば、|魔《ま》|道《どう》のような|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なしには考えられない。ディーノの意思にかかわりなく、あの魔道士が衣服をはぎとり、|瘉《いや》しの魔道を行ったのに決まっている。死にかけのディーノならば|人《じん》|畜《ちく》|無《む》|害《がい》であると判断し、枕元にファラ・ハンを残したのにちがいない。そうと頼まれれば、ファラ・ハンが|看《かん》|護《ご》を引き受けないはずがない。目覚めたときにひとりとり残された形になっていたディーノが、まさかファラ・ハンの行為を予想できるはずがない。ファラ・ハン|自《みずか》らがディーノの衣服をはぎ、|肌《はだ》をあわせて|温《あたた》めようなんて|大《だい》|胆《たん》なことをやってのけたなど、考えられるはずがない。
返事をしないディーノに、ファラ・ハンは|眉《まゆ》をひそめた。耳をすましても、布のたてる小さな音すらしない。後ろをうかがうように、|瞳《ひとみ》をめぐらせ、ファラ・ハンは少し|顎《あご》をひく。
「ディーノ……?」
「見るな!」
振りかえろうとしたわけではなかったが、大声で|怒《ど》|鳴《な》られ、ファラ・ハンはびくんと背を震わせた。ディーノの声には、|紛《まぎ》れもなく激しい怒りがある。声も出せず、ファラ・ハンはその場に立ちすくむ。
顔をあげる気にもならず、地に突いた手でがりりと土を|掻《か》いたディーノは、ファラ・ハンの甘い体臭を鼻に感じ、さらにかっとなる。まさかそれが自分の肌に直接ついた残り香だとは思わない。無防備に倒れ、こんなみっともないところをファラ・ハンに見物されていたのだと思うと、体じゅうの血が逆流するのを感じた。ありえない夢など見て、浮かれていた自分のばからしさに、ぎりっと音をたてて歯を|噛《か》んだ。ファラ・ハンがそばについていたからこそ、そんなばかげた夢など見たにちがいない。ディーノの夢に、枕元にいただろうファラ・ハンの存在が影響を与えたのに|間《ま》|違《ちが》いないが、それでファラ・ハンを責めることはできない。夢を見たのはあくまでもディーノであり、ファラ・ハンにはなんのかかわりもないのだ。ファラ・ハンにやつあたりをするほど、ディーノは落ちぶれるつもりはない。だが……。
「俺から離れろ……!」
怒りに震え、自分を恥じたディーノは、低い声でつぶやいた。まるで|呪《のろ》うかのような|声《こわ》|音《ね》である。ファラ・ハンはかきあわせた衣服を握りしめ、おびえるように肩をすくめた。ディーノの|機《き》|嫌《げん》を|損《そこ》ねた原因が、自分がここにいることにあると感じた。
「すみません……!」
泣きたい気分になって息をのんだファラ・ハンの声は、そうしたために、硬く冷たく響いてディーノの耳に届いた。ぺたぺたと軽い足音をさせて、そのまま|洞《どう》|窟《くつ》の入り口のほうに歩いていくファラ・ハンに、ディーノは目をあげることもしなかった。|裸足《は だ し》で土を踏む、不自然なその足音にさえ気がつかなかった。
ディーノは、復活し、あのいつものディーノに戻っている。|傲《ごう》|慢《まん》で|猛《たけ》|々《だけ》しい、炎のような激しさをもつ男に。一度拒絶したような者をディーノが求めるようなことはないのだと、ファラ・ハンは思った。ディーノに対し、ひどく失礼なことをしたのだと、あの短い言葉から読み取った。寝顔を見ることさえ、自尊心の高いディーノは許しはしないのだ。レイムが去った後にファラ・ハンのやったことを、おそらくディーノは知らないだろう。それこそ、けたはずれた怒りをかうだろうが、そうでなくても|憤《ふん》|慨《がい》されて当然のことをファラ・ハンはやっている。ですぎたまねをしたのだ。気分を害させた張本人がそばにいることなんて、ディーノに許されるはずはない。|嫌《いや》がられて、あたりまえなのだ。
|暗《くら》|闇《やみ》だが、|吹雪《ふ ぶ き》でほのかに白く濁る外に目をやり、衣服を身につけ、翼を出して、ファラ・ハンは|膝《ひざ》を抱えて座りこんだ。胸の中がどろどろして、気持ち悪かった。
いつものディーノに戻り、これでよかったはずなのに、なぜだかファラ・ハンのどこかであのままのディーノを望んでいる部分がある。彼が死ぬことを願っていたのではないが、なにかが残念でならないのだ。生死の|境《さかい》をさまようディーノの苦しみを考え、ファラ・ハンは|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》な自分の気持ちに恥じる。本当に生きかえるのだろうかと、胸が張り裂けそうに不安だったが、それでもディーノを|温《あたた》めていた瞬間が、ただ|辛《つら》いだけではなかったことをファラ・ハンは感じている。近い位置で見た寝顔も、汗をぬぐうため何度もその顔に|触《ふ》れたことも、|素《す》|肌《はだ》に抱いていたことも。あのときのディーノはファラ・ハンひとりのものであり、ファラ・ハンに確かな居場所を与えてくれる存在だった。ファラ・ハンだけをひたむきに見つめたあの青い|瞳《ひとみ》をしたディーノが、ファラ・ハンを抱きしめてくれたのであれば……。
ぼんやりと思いをはせ、ファラ・ハンはびくんとして顔をあげる。そんなことを考えてはいけない。考える資格などない。どうも自覚がたりない。乱暴に首を振ったファラ・ハンは、翼を大きく広げる。ばさりと音をたてた風切り羽に抵抗があった。ファラ・ハンはなにかを|弾《はじ》いたらしい感覚に驚いて、振りかえる。背後に、左腕を肩の高さまであげて|防《ぼう》|御《ぎょ》の姿勢をとり、|迷《めい》|惑《わく》そうに顔をしかめたディーノがいた。どきりとファラ・ハンの心臓が鳴り、|頬《ほお》に血がのぼった。
「ご、ごめんなさい……!」
翼を大きく広げて道をふさいでいたファラ・ハンは、あわてて横に|退《しりぞ》く。きちんと衣服を身につけ、いつものように|隙《すき》のない格好をしたディーノは、|洞《どう》|窟《くつ》を奥から見てきたような様子で、さらに先、入り口のあたりを見まわす。
「|魔《ま》|道《どう》|士《し》はどこだ?」
|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な声でディーノはファラ・ハンに尋ねた。
「レイムは……、矢に射られて落ちていったシルヴィンを迎えにいきました。夜明けまでには戻ってくるそうですけれど……」
「この吹雪はなんだ?」
|導球《どうきゅう》でこの地にやってきたときとそっくり同じ状況を目にして、ディーノはうんざりする。たしか、この|吹雪《ふ ぶ き》を起こしていた|魔《ま》|物《もの》・|雪竜《せつりゅう》は|封《ふう》じたはずではなかったのか。
「これはレイムが追っ手を寄せつけないように、小さな飛竜と時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を使って起こしたものです。夜明けに、消えます」
「ふん」
目を細め、腕組みしたディーノは、雪で白く濁る|闇《やみ》を|見《み》|透《す》かす。
「もうまもなく夜が明けるぞ。あの遅刻好きの魔道士は帰ってこないではないか」
|臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれて今度こそ逃げたのではないかと、ディーノはレイムをばかにする。|悲《ひ》|壮《そう》な決意をして出かけたレイムを知っているファラ・ハンは、目を伏せる。
「夜明けまでに戻らなかったら……、追いかけるから、先に出発してくれと言われました……」
ぎろりと目玉だけを動かし、ディーノはファラ・ハンを見る。ファラ・ハンは|唇《くちびる》を|噛《か》む。
「……もしもの場合は、わたしひとりでも、行くようにって……」
おもわず、ディーノはファラ・ハンに向き直っていた。シルヴィンを迎えにいくため出ていったレイムの姿を思いだし、力弱くディーノに|微《ほほ》|笑《え》んで、ファラ・ハンは言う。
「夜明けまでに二人が戻らなかったら、先に出発ですね」
ファラ・ハンは青い|宝玉《ほうぎょく》のような|瞳《ひとみ》で、まっすぐにディーノを見つめる。ひたむきな視線に、どきりと胸を鳴らしたディーノだが、むっとして横を向く。吐き捨てるように言った。
「俺は……、ごめんだ……! 行きたければ、お前が一人で行けばいい……!」
ディーノはいらいらとして腹だたしく、|哀《かな》しく、胸の中がどろどろするのを感じ、強く両の|拳《こぶし》を握った。しょせんディーノが必要とされるのは、彼らがディーノの力を利用したいからであり、助命したり|看《かん》|護《ご》したりするのも、結局は自分たちのためなのだと痛感していた。
冷たく突き放され、ファラ・ハンの目がじわあっと涙でうるんだ。
黙ったままのファラ・ハンにちらりと目をやったディーノは、一瞬なぜかひるんだが、うろたえまいと息を止めて腹に力を入れ、ファラ・ハンをにらむ。むざむざ泣き落としに引っかかるわけにはいかない。
どうしてディーノの一言でこうも胸がつまり、涙が出るのかわからず、ファラ・ハンは瞳をいっぱいの涙でうるませながらも、ディーノに微笑んでみせる。
「無理にとは、言えませんでしたわね……。すみません、勝手に決めつけてしまって」
少し震えをおびてはいたが、ファラ・ハンは|凜《りん》とした口調で言いきった。ばかなほどにもいさぎよいこの|乙《おと》|女《め》の態度に、ディーノは毒気を抜かれる。涙がこぼれそうになり、それを見られないように、ファラ・ハンはぷいとディーノに背を向け、|洞《どう》|窟《くつ》の入り口のほうに足を運ぶ。簡単に見切りをつけられたようなディーノは、かえって驚いた。
「おい……!」
声をかけたが、ファラ・ハンは振りかえる|素《そ》|振《ぶ》りもなかった。泣きべそをかきかけているファラ・ハンが、足を止めたり振りかえったりするはずはない。ディーノにはファラ・ハンが夜明けとともに、このままひとりで出発してしまいそうな勢いに見えた。
「おいっ……!」
|大《おお》|股《また》で後を追ったディーノは、後ろからファラ・ハンの腕をつかんで、ぐいと無理に自分のほうに向き直らせる。振りかえらされた|弾《はず》みで、ぼろっと涙の|珠《たま》を散らせたファラ・ハンが、|唇《くちびる》をひき結び、ディーノをにらむ。負けん気が強く、意地っぱりで強がっていることがわかるファラ・ハンの表情に、ばからしくなって、ディーノの肩から力が抜けた。
「ひとりではろくな力もないくせに、意地だけで世界を救うつもりか?」
「力をもっていても使わない方より、ずっと建設的です」
「身のほど知らずの|自《じ》|殺《さつ》|行《こう》|為《い》では話にならない」
「それがどうしたのですか!」
ファラ・ハンがどうなろうと、同行しないディーノには関係ないのに、|文《もん》|句《く》を言われる|筋《すじ》|合《あ》いではないとかっとしたファラ・ハンは、腕をつかんだディーノの手を振りはらおうとした。反撃にでられるとは思っていなかったディーノは、動きにあわせて|握力《あくりょく》をかげんする準備ができていなかった。ディーノが握りつぶさない程度で|緩《ゆる》めていた手から、腕を無理にもぎはなしたファラ・ハンは、勢いあまってバランスを|崩《くず》す。反射的におもわず翼を広げたファラ・ハンの羽の先で|頬《ほお》を打たれかけ、驚いたディーノが足場を変えた。そのディーノの足が、ファラ・ハンの衣装の|裾《すそ》を踏みつけた。がくんとつんのめったファラ・ハンが、ディーノに向かって転ぶ。大きく広がった翼を顔面で受けとめ、まともに視界をふさがれたうえに、ファラ・ハンにぶつかられたディーノは、ファラ・ハンに押し倒されるようにして|尻《しり》もちをついた。肩からディーノにぶつかってもろともに倒れこみ、翼がディーノに当たっていることを感じたファラ・ハンは、|慌《あわ》てて翼をしまう。ディーノを下敷きにしてしまったおかげでファラ・ハンは無事だが、ディーノにとってはいい|迷《めい》|惑《わく》にちがいない。
「ご、ごめんなさいっ……!」
ばたばたと腕を動かし、ディーノの胸の上につっぷしていたファラ・ハンは、自分の体を持ちあげてどかせようと必死になる。慌ててしまって、手を突く先は、ディーノの衣服の上ばかりだ。どうにかディーノの|顎《あご》と腰の横あたりに地面を探りあてて両手を突いたファラ・ハンだが、ファラ・ハンがそれを支えにして体をどけるより早く、ファラ・ハンを下から押しあげるようにして、ディーノが上半身を持ちあげた。ディーノの肩のあたりに左腕を残したまま、ファラ・ハンはディーノの胸にすがるような形で、一緒に体を起こす。これいじょう変な形に転がらないように、ファラ・ハンの背中をディーノの片手が支えていた。
弾みでとんでもないことになったと、すっかり恥じいりながら、そーっとうかがい見るようにファラ・ハンが顔をあげる。ファラ・ハンの|額《ひたい》にディーノの顎が|触《ふ》れた。視線を落としたディーノと、ファラ・ハンの目があった。これは……。
夢だと思っていたことと今の状態がまったく感覚を同じくすることに、ディーノはいぶかしむように目を細めた。|温《ぬく》もりも|鼓《こ》|動《どう》も、体の香りも重みもなにもかもが……。
ディーノの様子からなにを考えているのかを読みとり、真っ赤になったファラ・ハンは顔をそむけ、なにか言われる前にと、|慌《あわ》ててディーノから離れる。衣服をまとったうえに簡素な|鎧《よろい》まで身につけ、感触が違うディーノから、逆にさっきの感触を|生《なま》|々《なま》しく思いだしてしまったファラ・ハンは、いよいよ赤くなって動けなくなった。横を向き、|頬《ほお》を手でかくすように包んで座りこむファラ・ハンを、なにか考えるように目を細めてディーノが見る。
二人で黙りこくったまま、少し時間が過ぎた。どちらからなにを言える感じでもなく、出方をうかがうように、そのままの姿勢で|凝固《ぎょうこ》している。
「キュァアアオォ……!」
入り口付近でか細い鳴き声がした。はっとディーノがそちらに視線を移し、注目から解放されたファラ・ハンは、ほっと肩にはいっていた力を抜いて立ちあがる。
「夜明けのようですね……」
小さな|飛竜《ひりゅう》が時を知らせたのだ。|吹雪《ふ ぶ き》を起こす術を継続させるのなら、小さな飛竜に指示を与えなければならない頃合いである。立ちあがったファラ・ハンは、ディーノに振りかえる。
「吹雪を止めれば、すぐに追っ手がかかるでしょう。もう少し休息が必要なら、必要なだけの時間をもてるようにはからいますが、どうされますか?」
「その必要はない」
あっさりと言いきって、ディーノも腰をあげる。体力はすっかり回復している。毒で死にかけていたのが|嘘《うそ》のように、絶好調に体が軽い。ファラ・ハンは術の核になっている小さい飛竜を解放してやるため、|洞《どう》|窟《くつ》の入り口に向かう。洞窟の入り口、外に張りだした|岩《いわ》|棚《だな》に、|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》に光り輝きながら浮かんでいる小さな飛竜がいた。その小さな飛竜の下に、ディーノの長剣が法具としてまっすぐ突き立てられている。ファラ・ハンは術を終わらせるべく、その長剣を地面から引き抜こうと、|柄《つか》に手をかける。刃の部分だけで、子供の|背《せ》|丈《たけ》ほどもある長剣は、深く地面に突き刺されていてもなお、ファラ・ハンの胸の高さほどもある。剣の柄を両手でつかみ、ぐーっと強く引くファラ・ハンだが、ただでさえ重たいそれは、びくとも動かない。自分の剣を取り戻すべく、ディーノが柄のてっぺんを片手でつまむようにして持つ。軽く動かされたディーノの手首に、くいと簡単に動いた剣に、反射的に振りかえってファラ・ハンがディーノを見る。ディーノはふてぶてしくにやりと笑い、目を細めると、ファラ・ハンに意地悪く言った。
「お願いします、一緒に行ってくださいと言ってみろ」
|挑《いど》むようなディーノを、ファラ・ハンはにらみつけ、つんと|顎《あご》をあげる。
「おことわりします」
にべもなく言いきって、ファラ・ハンはふたたび剣を引き抜きにかかる。|柄《つか》の先端に手を置くディーノは、柄の先を握ったり、握った手を広げて柄の先に手のひらを当ててみたりする。ディーノが手の形を変えるたびに、ファラ・ハンが動かそうとしている剣は、動いたり動かなくなったりする。何度もそれを繰りかえし、おもしろがるかのようなディーノを、ファラ・ハンはきっとにらむ。
「|邪《じゃ》|魔《ま》なさらないで!」
「|勘《かん》|違《ちが》いするな」
くすくすと笑いながら、ディーノが手を放した。ファラ・ハンがどんなに力をこめたところで、剣はびくともしなくなった。剣を動かせたのは、ディーノひとりの力だ。爆笑したディーノを、振りかえったファラ・ハンがにらみつける。ディーノはファラ・ハンを見かえす。ファラ・ハンの細腕で、簡単に引き抜けるものではないことがはっきりしていた。むっとしてファラ・ハンはそっぽを向き、剣を握る。目的こそちがうが、さっきと同じ言葉を、ゆっくりとディーノは言う。
「お願いしますは?」
「言いません」
「勝手に使った俺の剣だ」
「わかってます」
時間をかけ、汗まみれになりながら、ファラ・ハンは剣を左右に動かして、少しずつ地面の穴を広げ、剣を抜くことに成功した。ほっと気の|緩《ゆる》んだファラ・ハンの手に握られた長剣が、重みでぐらりと前に傾いた。びっくりしてくるんと目を見開いたファラ・ハンは、そのまま剣に引っぱられる。
「こら!」
ファラ・ハンの背後からぬっと手を出したディーノが、|柄《つか》の先を握った。|危《あや》ういところで、ファラ・ハンはディーノに支えられた長剣の柄にすがり、傾いた姿勢を正す。驚いてどきどきと|早《はや》|鐘《がね》を打つ胸を押さえるファラ・ハンを、勝ちほこったような目でディーノが見おろす。きまり悪そうに軽く|唇《くちびる》を|噛《か》んだファラ・ハンは、長剣の柄から手を放す。
「助かりましたわ、ありがとう」
ファラ・ハンの礼は、剣とともに転びかけたのを止めてもらったことに対してなのか、無断で法具として長剣を借りたことに対してなのか。どちらともとれるその言葉に笑いを噛み殺しながら、ディーノは長剣を|鞘《さや》に収めようと柄を握る。汗ではない、ぬるりとした生暖かいものを柄と一緒に握った感触にディーノは驚く。慣れた素早い動作で剣を背負った鞘に収めたディーノは、すぐさま柄を握った手のひらを見た。血の|跡《あと》がついている。
「おいっ!」
|怒《ど》|鳴《な》るように声をかけたディーノは、ほっと|額《ひたい》の汗をぬぐっているファラ・ハンの手をつかんだ。びっくりするファラ・ハンの両手のひらを上向けて見る。柄に巻いた固い革にこすられて、薄い皮膚が裂けて血がにじんでいた。初めて気づいたそれを見て、ファラ・ハンも驚く。強く柄を握っていたために手がしびれてしまって、感覚が|鈍《にぶ》くなっていたのだ。
「つまらぬことで|怪《け》|我《が》をするな!」
すなおに頼めば苦労することもなく、こんなことにならないでもすんだものにと、ディーノはファラ・ハンを|叱《しか》った。
「平気です」
ディーノの|剣《けん》|幕《まく》に、目をぱちぱちと|瞬《まばた》いたファラ・ハンは、そっとディーノの手から自分の手をあげ、両手の指を組み、簡単な|瘉《いや》しの|印《いん》を結んで|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》える。下向けた手のひらが、一瞬ほのかに光った。印をほどき、上向けた白いふっくらとした手のひらには、もう傷はない。ファラ・ハンはにっこりと|微《ほほ》|笑《え》む。
「ね?」
「……」
ふっと鼻から息を抜き、ディーノはかすかに口もとを|歪《ゆが》めて横向いた。強がりも、適当なところで格好がつくのだから、|始《し》|末《まつ》が悪い。
光り輝く小さな|飛竜《ひりゅう》が、うっとりと目を開いた。くるんと丸めていた体を、ゆっくり伸ばす。
いよいよ術がとける……。吹きおりた最後の風が通り過ぎたとき、|嘘《うそ》のように|吹雪《ふ ぶ き》がやむはずだ。黒の兵士団を率いてやってくるルージェスたちが、この|洞《どう》|窟《くつ》に入ったファラ・ハンたちを追ってやってくる。
洞窟の奥から荷物の袋をくわえた大きな飛竜がのっそりと出てきた。なにも命じられなくても、出発を感じている。
小さな飛竜のまとった光が、ぐるりと小さな飛竜をとりまく風と化し、吹雪に変化した。最後の吹雪となった光から解放され、小さな飛竜は翼を開いた。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》をくわえた口を両前足で押さえ、ぱたぱたと翼を動かして、腕を広げて待っているファラ・ハンに飛びつく。
「キャウ!」
ほめて、とばかりに小さな飛竜が|哭《な》いた。大きく開けた口から、ぷかりと時の宝珠が浮かび出る。小さな飛竜を抱き慣れて、片腕でうまく抱けるようになったファラ・ハンは、右手をあげて時の宝珠を受けとった。時の宝珠はファラ・ハンの手のひらにくっつき、小さな|拳《こぶし》の中に握られて消える。ファラ・ハンの内に、時の宝珠がおさめられた。甘えて小さな飛竜はファラ・ハンの胸に顔をすりつける。くすぐったくてくすくす笑いながら、ファラ・ハンは飛竜の首をなでてやる。白い手に|愛《あい》|撫《ぶ》され、小さな飛竜はきゅんと鼻を鳴らして気持ちよさそうに目を閉じた。
|岩《いわ》|棚《だな》の先に進んだディーノのマントが、山を取りまいてから吹きおりる最後の吹雪のあおりを受けてばさりと大きく広がった。大きな飛竜がディーノの背後にひかえる。胸を張り、腕組みをして立つディーノの後ろ姿を見つめ、ファラ・ハンは静かに目をそらした。頼みこんでまで同行を|促《うなが》すことは、ファラ・ハンにはできない。ディーノにはディーノの意思がある。危険を予想するというのなら、強制するべきではないのだ。そうわりきっていても、心のどこかでディーノを誘いたいという、乱暴な希望がないわけではない。強がって、それを口にだすことを我慢していることは、否定できないのだが、気持ちのままに行動にでることはファラ・ハンにはできない。ファラ・ハンが誘いかけ、頼んだせいで、ディーノが後悔するようなことになると思うと、たまらなく|辛《つら》い。
|紐《ひも》を食いちぎっておろした荷物の袋を、飛竜はディーノの足元に置いた。ディーノは飛竜の意を察し、新しい紐を袋から出して|鞍《くら》の後ろに再び荷物を積みなおす。
吹雪が山の下に降りていく頃合いと読んだディーノは、飛竜の鞍の上に腰を落ち着けた。ディーノは無表情で、小さな飛竜を抱いたままのファラ・ハンに振りかえる。軽く|唇《くちびる》を|噛《か》んだファラ・ハンは、ディーノからそっと視線をそらす。
|手《た》|綱《づな》をつかんだディーノが、ゆっくりと前を向く。
「ファラ・ハン! ディーノ!」
響きわたった元気な声に、ファラ・ハンははっとして顔をあげた。ディーノはゆるりと視線をめぐらせる。
吹きおりた|吹雪《ふ ぶ き》の中から、雪を舞いあげて二頭の飛竜が現れた。|呪《まじな》い粉による|結《けっ》|界《かい》に守られて、虹色に輝く光の|膜《まく》のようなものに包まれた飛竜。シルヴィンとレイムをそれぞれの背に乗せたもの。
「遅くなってごめんなさい! まにあったわね!」
ぱあっとまわりまで明るくなるほどに、はつらつとした|笑《え》|顔《がお》でシルヴィンが飛竜を駆る。吹雪の上に出て、結界に守られる必要のなくなったシルヴィンの飛竜は、乗り手の力量そのままに、速度をあげていた。レイムの寝起きが悪いことを失念していたシルヴィンは、重労働をしいられてようやくここまで戻ってきた。余裕をもって合流するつもりだったシルヴィンには、計算外の失態である。途中からあきらめ混じりでレイムをせかしていたわけだが、なんとか格好がついてほっとしている。
シルヴィンの後ろから、ほたほたと飛竜を飛ばせ、レイムがやってくる。レイムは飛竜の|鞍《くら》に|悠《ゆう》|然《ぜん》と腰をおろすディーノの姿を見て、ふわりと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「大丈夫ですか?」
優しそうな|面《おも》|持《も》ちで微笑むレイムを、ディーノが青い炎のような|瞳《ひとみ》でにらみつける。レイムにディーノが言いたいことは山ほどあるが、口をきくことさえ腹だたしい。
「お前に関係ない」
ディーノはレイムの問いに、|辛《しん》|辣《らつ》な口調で答えた。激しくにらみつけるディーノに面食らい、レイムはぱちぱちと目を|瞬《まばた》いた。口をつぐんだファラ・ハンが、顔を横向ける。ディーノは野獣じみた視線で、レイムを射る。
「二度とよけいなまねはするな! 死のうがどうしようが、俺の勝手だ!」
「|怪《け》|我《が》|人《にん》を見れば、ふつう助けるのではないですか?」
「後ろから|斬《き》られたいのだな?」
|酷《こく》|薄《はく》ににやりと|頬《ほお》を|緩《ゆる》めるディーノを見て、レイムは自分がディーノに対してやってはいけないことをしたのであると、ようやく理解した。どんなときにも、他人に気を許すという習慣はディーノにはない。身動きならないときの彼は、そばにいることはおろか、その姿を見られることさえ嫌うのだ。|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》と自尊心のかたまりであるディーノには、おっとりしたレイムの常識は通用しない。幼稚なまでにそのことを恥としてこだわるディーノに、レイムはくすっと笑う。
「かまいませんよ」
ふわあっとした光のように微笑んだ。お|人《ひと》|好《よ》しそのもののレイムの笑顔に、ディーノの頭にかっと血がのぼる。
「今の言葉、忘れるな!」
|烈《れっ》|火《か》のごとく怒るディーノに、涼しい顔でレイムはうなずいた。
|飛竜《ひりゅう》をシルヴィンに近づけたレイムの左手の上に、ぽわりと|導球《どうきゅう》が生じた。右手だけで|手《た》|綱《づな》をつかんだレイムは、導球を自分の飛竜の前に浮かべる。左手だけの簡略化した|印《いん》を結び、レイムは念を|凝《こ》らす。
「天空を知ろしめす光の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》 |汝《なんじ》の行きたる場所に……」
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を探す移動のための|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えはじめたレイムの声。
「今度は寒くないところがいいわね」
シルヴィンがレイムに聞こえるように言う。
「そうだな」
シルヴィンに|応《こた》え、意地悪な|眼《まな》|差《ざ》しで、ちらりとディーノは、小さな飛竜を抱いたまま|岩《いわ》|棚《だな》の上に立っているファラ・ハンを見る。出発するのなら、はぐれてしまわないように、誰かの飛竜に一緒に乗せてもらう必要がある。
一人で行けなどとファラ・ハンを冷たくあしらっておきながら、ディーノはちゃっかりと出発の態勢に入っている。ぐずぐずしているのは、ファラ・ハンだけだ。
むっとしたファラ・ハンは、翼を出して地を蹴った。シルヴィンの飛竜に乗せてもらう。
「……我らを導け……」
大きくはばたいたファラ・ハンが、ディーノの飛竜をかすめて飛んだ。すぐ横を行ったファラ・ハンの足首を、ひょいとディーノがつかんだ。
「……聖なる正義の|女《め》|神《がみ》の|御《み》|名《な》において……」
勢いよく引っぱりおろされ、どすんとファラ・ハンはディーノの|鞍《くら》の前に落っこちる。鞍に腰を落ち着けたファラ・ハンを支えるように、ディーノはファラ・ハンの肩を抱いて手綱を握る。ファラ・ハンは小さな飛竜を抱いていた手を放し、ディーノを押しのけるように胸に腕を突く。手を放された小さな飛竜がファラ・ハンの衣装に、未練がましくぷらんとぶらさがる。
「いや! 放して!」
ファラ・ハンは、このひねくれ者の飛竜に乗せてもらうつもりはなかった。命令口調の言葉を吐いたファラ・ハンに、ディーノは口元を|歪《ゆが》める。
「お願いしますと言ってみろ」
「い・や・で・す! 降ります!」
ディーノは目を細め、横座りになっているファラ・ハンの前で手綱を握った手を放す。
ファラ・ハンが腰を浮かせた。
「……|闇《やみ》に一条の光の矢を放て!」
まぶしい光が|炸《さく》|裂《れつ》した。
光の圧力で、衣服の|裾《すそ》や髪がぶわりと押しあげられた。
不安定な格好をしていたファラ・ハンは、ぐらりと姿勢を|崩《くず》して|飛竜《ひりゅう》の|鞍《くら》にへたりこみ、おもわずディーノにすがりつく。
「降りるのではなかったのか?」
涼しい顔で問うディーノを、目をうるませたファラ・ハンがにらんだ。
三頭の飛竜に乗る者たちは、いきおいよく底を落とした光の抜け穴に吸いこまれた。
第三章 泥都
出た先は|闇《やみ》だった。
落下する真下にあるのは闇の色。暗くよどんだ、泥の色。
一番に現れた巨大な飛竜に乗るディーノは、ぎりっと|唇《くちびる》を|噛《か》んで飛竜に急制動をかけた。明けやらぬ夜の底に沈む一面の広大な泥は、落下する飛竜の速度から考えると、激突した場合、岩のように固いのにちがいない。深みの|見《けん》|当《とう》もつかないそれに、自分から飛びこんでいくことはない。|大《だい》|胆《たん》に飛竜を|操《あやつ》るディーノに、ぎゅっと目を閉じたファラ・ハンがしがみつく。次いで出たシルヴィンも、少し遅れてディーノと同じように飛竜を止めた。レイムの飛竜は、他の飛竜の動きを見、レイムが指示を与えるより早く態勢を変える。落下をまぬがれた飛竜の翼にあおられて、低く沈んでいた|霧《きり》がかき乱され、ぶわりとうごめく。
ぐんと高度を落として、寸前で泥への飛びこみをやめたシルヴィンの飛竜の尾が、わずかに泥の上面をかすった。元気よく|跳《は》ねあがった上澄みが、シルヴィンの頭の上に降った。
「やだーっ!」
|濡《ぬ》れた小犬のようにぷるぷると首を振りながら、シルヴィンが悲鳴をあげる。どこにどういう形で出たのか、まだよくわかっていなかったレイムは、ぱちぱちと|瞬《まばた》きし、悲鳴を耳にしてちらっとシルヴィンに振りかえったディーノは、大口を開けて笑った。
「なによ!」
髪の上に乗った水滴を払い落としながら、怖い顔をしてシルヴィンはディーノをにらむ。ディーノは涼しい顔をする。
「寒くはないようだぞ」
「よかったわね!」
ぷっと|頬《ほお》をふくらませ、シルヴィンはそっぽを向いた。
レイムは首をめぐらせて|導球《どうきゅう》の|行《ゆく》|方《え》を探す。|闇《やみ》の中、きらきらと輝く導球は簡単にレイムに発見され、泥の上を遊ぶように飛んだ後、とぷんと泥の中に沈んだ。
泥の中に、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》があるらしい。
同じように導球を目で追っていたファラ・ハンと、どうしたものかと振りかえったレイムの目があった。
飛竜に乗る四人は、レイムやファラ・ハンの作った|結《けっ》|界《かい》で守られているため、闇の中でもほの明るく、お互いをはっきりと認めあうことができる。本来ならば、ここは鼻をつままれてもわからないような闇だ。導球という光源を泥の中に沈め、なくしてしまった今、まわりがどうなっているのかなんて、さっぱりわからない。むやみに|魔《ま》|道《どう》を使うのも、魔物を呼び寄せるようなので、あまりやりたくない。
「|街《まち》があるわよ!」
導球の行方を追い、夜目のきくシルヴィンが飛竜の上で腰を浮かせて、|彼方《か な た》を指さす。その方向に目をやったディーノも、|間《ま》|違《ちが》えることなくシルヴィンの示したほうに飛竜を向け変えた。闇の向こうに高い屋根をもつ塔や|館《やかた》が、ぽつぽつと見えている。野生動物ほども優れた視力をもつ二人にかなわないレイムとファラ・ハンは、目をぱちくりと瞬く。
「街ですか……」
レイムが|眉《まゆ》をひそめる。すりかわってしまった聖書を信じる者たちにとってのファラ・ハンは、世界を滅亡に導く魔物の手先でしかない。引き裂かれ、救世の聖女に心臓を捧げられるべき、|生《い》け|贄《にえ》である。
「ようするに、正体がばれなきゃいいんでしょ? ファラ・ハンを守るのは、最初っから、わたしたちの役目じゃない。大丈夫よ。時の宝珠があるなら、なにかこのあたりにも影響が出てるはずよ。|封《ふう》|印《いん》とかいうのも壊れてるかもしれないし。調べなくっちゃ」
|気《き》|楽《らく》に言って、シルヴィンは飛竜を街のほうに向けた。飛竜の扱いに慣れ、視力に優れたシルヴィンなら、この場合単独で行動したほうが楽だし、能率がいい。|細《こま》かいことに気をつかわないディーノも、さっさと飛竜を向け変える。いくら結界に守られていて、闇の中でもお互いを見ることができるとはいえ、ある一定の距離から離れてしまえば見失い、|闇《やみ》の中に孤立してしまう。気はすすまなかったが、レイムも仕方なくディーノたちの後を追った。
とぷん。
盛りあがった泥が、去っていく飛竜に手をさし伸べるように伸びあがって、落ちた。
とぷん。
とぷん。
小さく、いくつも盛りあがっては落ちる。泥の中にたまったガスが表に出ようとしているのではない。その泥は見つからぬよう、|名《な》|残《ごり》|惜《お》しそうに飛竜を追って、|跳《は》ねあがっている。
(男だ……)
(男が二人と……)
(女が二人だ……)
(ひと……)
(ひとの形……)
(次はわたしの……)
(俺の番……)
(欲しい……)
(欲しい…)
とぷん。
とぷん……。
泥のたてる小さな音に|紛《まぎ》れて、泥の底でかすかにかすかに、ひとの声がする。
シルヴィンが指さした先に横たわっていたのは、壁だった。壁と壁にはさまれた川のような場所に、飛竜は出現していたらしい。両側の壁は、同じ大きさに切りだした四角い石を規則正しく積み上げた壁だ。闇にだいぶ目がなじんできたファラ・ハンやレイムにも、どうにかそれらの形が判別できるようになってきている。壁の上面は平たく、上から矢を射かけるための穴がうがたれているようすもない。城壁らしい感じではない。
「水門……?」
いぶかしむように目を細め、レイムは壁を見つめる。ざっと|周《まわ》りを見まわしたディーノは、こともなげにつぶやく。
「トーラス・スカーレン直属の七色の兵士団、青の軍団長ボルドスキー|子爵《ししゃく》の治める|水《すい》|郷《ごう》都市パウレチア。世界で旧ディグ方式の水門をそっくり残す場所は、ここ以外にはない」
積み上げた石の継ぎ目に、|微《び》|細《さい》な|彫刻《ちょうこく》を|施《ほどこ》したタイルをはめこむ建築様式は、旧ディグ方式と呼ばれ、千七百年前に流行したものだ。その土地の気候と積み上げた石とタイルの相性がよほどよくなければ耐用年数はあまり長くないため、現存している物はほとんどない。都市をとりまくほどの巨大な水門と、この建築様式から考えるに、ディーノの言っていることに|嘘《うそ》はない。|略奪《りゃくだつ》と|殺《さつ》|戮《りく》を主とする|素性《すじょう》の知れないただの|盗《とう》|賊《ぞく》のくせに、こういう面があるからこそ、ディーノは王を名乗るのにふさわしいだけの格を感じさせる。こんなこともわからぬのかと、|蔑《さげす》むようにつんと|顎《あご》をあげて見下されても、誰も反論のしようもない。
ディーノのそれはかちんとくる態度だが、いちいち相手にすれば疲れるので、レイムはうやうやしい|仕《し》|草《ぐさ》で軽く頭を下げておく。説明を聞いたシルヴィンは、ディーノに振りかえるよりも、もの珍しいものの観賞のほうに関心をうつしている。
「|封《ふう》|印《いん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》は…、都市の中にあるのではないのかしら?」
ファラ・ハンはレイムを見つめる。都市に近いこんな場所、泥の中に|導球《どうきゅう》が沈んでしまったのは、どういうことなのだろうか。尋ねられ、レイムは少し考えて口を開く。
「魔物の一番出現しやすそうな場所に、封印の魔法陣は描かれます。導球の示した泥は……、すなわち、水でしょう。どこか、この泥のつながった水底に、封印の魔法陣が描かれているのかもしれません。水の流れ、泥の|行《ゆく》|方《え》を追うならば、|街《まち》の中ということでしょうか」
「パウレチアは水の都。地下に水路をめぐらす|麗《うるわ》しの都。夏は一日|陽《ひ》が暮れず、冬は|闇《やみ》に閉ざされる。清き水流れる、|水《すい》|郷《ごう》の都」
歌うように言ったディーノを、びっくりした顔でファラ・ハンが見あげた。力こそが正義であると疑わない武人であるディーノの口から、このような|叙情的《じょじょうてき》な|文《もん》|句《く》が出てくるなど、ファラ・ハンは予想もしていなかった。意外だという顔でファラ・ハンに見あげられたディーノは|照《て》れるでもなく、涼しい顔でその視線を受けとめた。あまりに自然に振るまわれて、逆にファラ・ハンのほうが失礼な視線を送ったことに恥じて、赤面し細い肩を小さくすくめた。|香《こう》を楽しんだり芸術を見定める目をもっていたりするディーノは、無一文からはじまった孤児でも、ただの略奪者ではない。たしかに趣味とするもの、選びぬくものは、超一流である。ディーノが口にしたのは、この都の|噂話《うわさばなし》として必ず使われる言葉だ。レイムやシルヴィンにはいつだったか、どこかで聞いた覚えのあるものだ。シルヴィンとレイムは、あらためて聞いて、あぁそうだったかと思いだす。
「水郷都市と言われるからには、ふんだんに水のあった場所でしたのね。この泥は、水が少なくなってしまったから、なのかしら?」
世界滅亡が噂されている今、飲み水にも困っている地方が増えている。
「考えられないことではない……」
問いかけて、まっすぐに見つめてくるファラ・ハンの青い|瞳《ひとみ》の色から目をそらし、ディーノは|飛竜《ひりゅう》の高度を上げた。聖戦士らを乗せた三頭の飛竜は水門を越え、都市を見おろす。
パウレチアは、広大な湖に|隣《りん》|接《せつ》している都だ。季節によって水量を変える湖の水面は、ときに都市をのみこむほどの高さになる。ひとびとの生活を支える水、場合によっては大いなる驚異になるそれを調節するため、パウレチアは二重の外壁に水門を持っている。外側の壁に囲まれた水路は、外敵を防ぐ堀のような役目をあわせもったものだ。この二重の壁のおかげで、パウレチアは簡単に落ちない都市として重要な|拠《きょ》|点《てん》になっている。水路を引き、下水道を完備したパウレチアは、王都に負けないくらい清潔で美しい都だ。清らかな水を大量に使う美しい染め物や、宝石のカッティング、|彫金《ちょうきん》などの技術が優れていることでも、よく知られている。ここの名産である|水《みず》|菓《が》|子《し》も、有名なもののひとつだ。
都市にある|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|印《いん》の上には、寺院や礼拝堂などの建築物があり、魔道士や|僧《そう》|侶《りょ》らによって、それとなく常に守られているのが普通だ。
「|街《まち》の中を探すのなら、夜明け前なんて都合いいじゃない」
ひとがいないほうが、ファラ・ハンが危険にさらされる確率が低くなる。|気《き》|楽《らく》に言ったシルヴィンが、飛竜を街の中に入れた。
「気をつけて、シルヴィン。どこにどんな形で魔物がいるのかわからないから」
心配そうな声をかけるレイムに、シルヴィンは、にっと笑って振りかえる。
「大丈夫! わたしの目を信じてよ!」
自然にもっとも近い位置で世界を見ることのできるシルヴィンは、たくみに|紛《まぎ》れこんだ魔物を見わけることのできる『目』をもっている。大船に乗ったつもりでまかせてちょうだいと、自信たっぷりのシルヴィンに|気《け》|圧《お》されて、レイムは少し気弱な|笑《え》みを浮かべかえした。
街の中のいたるところに、水にひそむ魔物から身を守るための魔道印を|記《しる》したプレートや柱があった。これだけ念入りに印が記されていれば、水べりからはいあがり、|闇《やみ》にまぎれて忍び寄ってくる魔物なんているはずがない。街自体の構築が古いので、より|迷《めい》|信《しん》に近い時代にあったのだろう。旧ディグ方式で水門につけられていたタイルの図柄も、当時の流行だったのかもしれないが、神話に題材をもつ続き物語になっていた。タイルの配置それ自体が、魔法陣としての役目を果たしていると|素人《しろうと》|目《め》でもわかる場所がたくさんある。魔道士であるレイムからすれば、それこそ見渡すかぎりの魔法陣都市と言える。
街の中を|網《もう》|羅《ら》し、|相《そう》|互《ご》に作用しあい、どこかで印が破壊されたりしてとぎれればわかるようになった魔物よけの刻印に、飛竜を降りたレイムが|触《ふ》れる。|網《あみ》|目《め》のように|細《こま》かく配された印の情報が、刻印の上にかざしたレイムの手に伝わった。街のどこにも不都合はなさそうだ。魔物が街に入りこんだ様子はない。
魔物が現れ出ようとする場所に、魔道の封印はあるはずなのだ。
魔物がまったくいないことは、むしろ不自然なのだが……。
「降りてさがしますわ」
夜目のあまりきかないファラ・ハンは、ディーノの飛竜に同乗したままでいることを非能率的であると判断した。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》がたしかにこの近くにあるだろうことは、内に収めた三つの宝珠に|呼《こ》|応《おう》する、どきどきと胸苦しくなる感じでわかるが、なんだか|焦点《しょうてん》がぼやけた感じがしてはっきりしない。近いようでいて、遠いような、変な感じがする。|封《ふう》|印《いん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》が置かれているだろう地面に足を下ろしたほうが、まだ|探《たん》|索《さく》が容易なはずだ。
小さな飛竜を抱き、翼を広げようとするファラ・ハンを、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔でディーノがとめる。
「翼をしまえ」
いくら人影が見えないとはいえ、無防備なファラ・ハンの態度は、ディーノにとっておもしろくはない。ぶっきらぼうに|叱《しか》られたファラ・ハンは、ちょっとびっくりして、目を|瞬《まばた》き、おとなしくディーノの言葉にしたがった。
ディーノとともに飛竜を降下させ、レイムがなんだか|居《い》|心《ごこ》|地《ち》悪そうに首をめぐらす。いぶかしむように目を細めてまわりを見まわすのだが、|街《まち》の中には猫の子一匹いない。夜の|闇《やみ》の中にはただ、ひっそりと石造りの街が眠り、水路にはとろんとした泥が横たわっているだけだ。それなのに。なぜだかレイムは、うぶ毛をちりちりと刺激するような、まとわりつく視線めいたものを気にしないではいられないのだが……。
「どうかなさいました?」
ディーノに助けられ一緒に飛竜を降りたファラ・ハンが、首をかしげてレイムを見あげる。声をかけられてはっと目線を下げたレイムは、少し不安そうな顔をしたファラ・ハンに気づいて、あわてて淡く|微《ほほ》|笑《え》み、首を振る。
「なんでもありません」
「そう……、ですか?」
レイムと同じように、なんだか落ち着けないものを感じていたファラ・ハンは、気をつかわれるより、むしろこの気持ち悪いものを認めてもらえたほうがよかった。言うに言えず、ぐずぐずとしている二人を、ディーノがばかにしたように見る。
「なんだ? 暗がりが怖いのか?」
心を悩ませている要因は、そんなに単純なことではない。言われてレイムは|溜《た》め|息《いき》をつき、ファラ・ハンは小さな飛竜をぎゅっと抱きしめて、怖いなら怖いと言ってみろといわんばかりのディーノをにらんだ。ぜったいに|弱《よわ》|音《ね》など吐くものかという目で見つめてくるファラ・ハンの元気そうなようすに、ディーノは目を細めてにやりと|唇《くちびる》を|歪《ゆが》める。
「好きにしろ」
「言われるまでもありません」
軽い|喧《けん》|嘩《か》|口調《くちょう》で言葉をかわすディーノとファラ・ハンに、レイムがびっくりする。こんな会話をする二人ではなかったはずだ。
「なにか……、あったんですか?」
問いかけられて、ファラ・ハンがびくんと背を震わせた。ディーノが追いつめられた|獣《けもの》のような|瞳《ひとみ》をレイムに向ける。
「なにもない……!」
ぎりっと|唇《くちびる》を引き結び、ディーノが言いきる。毒に|冒《おか》され、一晩生死の|境《さかい》をさまよったディーノが、なにかできようはずもない。|無《ぶ》|様《ざま》な姿をさらしていたことをあらためて思いだしたディーノが|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になっても、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》ではない。そして甘ったるい幻想にひたり、ありえない幸福に酔っていた自分を、ディーノはひどく|軽《けい》|蔑《べつ》している。
「こんな……、ひとでもない化け物相手に、なにがあるというのだ!?」
吐き捨てられたディーノの言葉に、ファラ・ハンの動きが、|凍《い》てついた。その言葉の乱暴さに、レイムがぎょっと目を見開く。
化け物。
ひとでもない、というのなら、それは正しい。ファラ・ハンは|招喚《しょうかん》の儀式でこの世に具現した聖女だ。現実の、血肉をもってひきつがれ、生まれた生命ではない。だが……。
「口を|慎《つつし》んでください」
レイムは静かな口調でディーノに意見した。|綺《き》|麗《れい》に澄んだ|翠《みどり》の瞳は、自分が傷ついたような|哀《かな》しみの色を浮かべていた。本当のことを言ってなにが悪いかと、ディーノがレイムをにらむ。
「俺に命じるつもりか?」
「『お願い』です」
|飛竜《ひりゅう》を降りて目の高さを同じくして、心底|辛《つら》そうな表情で、レイムは激しい炎を宿す青い瞳を見つめた。その誠実さがさらにおもしろくなく、ディーノはむっとして横を向いた。
「時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を、探しましょう?」
はかない声で、無理に明るく誘いかけ、ファラ・ハンがくるんと背を向けた。
「キャウ?」
抱かれ|心《ごこ》|地《ち》のいい胸にきゅっと抱きしめられた小さな飛竜は、ファラ・ハンの動揺を感じて目をぱちくりし、首をかしげる。それでも小さな飛竜が得していることにちがいはない。これはなかなかにいいことかもしれないと、小さな飛竜はファラ・ハンの|素《す》|肌《はだ》に顔をすり寄せ、べったりとファラ・ハンに甘える。
背を向けたファラ・ハンに、あっと首をめぐらせたレイムだが、小さな飛竜を連れていればまったく一人歩きとは言えないことに|安《あん》|堵《ど》し、肩にはいった力を抜く。氷の山で|果《か》|敢《かん》に戦い進んだファラ・ハンと小さな飛竜のことは、まだ記憶に新しい。|魔《ま》|物《もの》ならば恐れるに足らず、ひとならば小さな飛竜に警戒し、すぐに取り囲まれることはないはずだ。声を上げれば聞こえるだろうし、小さな飛竜が炎を吐けば、これだけの|闇《やみ》だ、すぐにわかる。
「僕に対してなら、なにを言われてもかまいません。でも故意にファラ・ハンを傷つけるような発言は、ひかえていただけませんか?」
「りっぱな心がけだな」
腕組みをし、ふんとディーノは鼻を鳴らす。ファラ・ハンのために自分を犠牲にしようとするレイムの態度に、むかむかと気分が悪くなった。ディーノは意地悪く目を細める。
「それともあの女の|色《いろ》|香《か》に迷ったのか?」
「なっ……!」
レイムは言葉をつまらせ、大きく目を見開いた。ぱあっと顔が赤くなる。
「そういう問題じゃありません! ろ、論点をすり替えないでください!」
耳たぶまで赤くして、レイムは大声を出した。あまりに素直な反応に、ディーノのほうが驚いた。ばか正直なレイムは、|嘘《うそ》とは縁遠い。とっさに、ファラ・ハンに心を奪われたのではないと、否定するような言葉を出すことはできなかった。
見た目の|繊《せん》|細《さい》さから、あなどられがちなレイムだが、けっして|軽《かろ》んじることのできない男であることを、ディーノは見抜いている。|魔《ま》|道《どう》なしで考えても、おっとりとした性格である動きの中にかくされた|俊敏《しゅんびん》さ、|強靭《きょうじん》さを感じている。|鎧《よろい》をまとい、優しげな顔をかくして戦場に|挑《いど》むのであれば、誰もが恐怖せずにはいられない武人の一人として警戒せねばならないだろうことがわかる。ある一点で吹っ切れてしまえば、レイムほど恐ろしく|豹変《ひょうへん》する者はいない。しかもその外見の|麗《うるわ》しさは、あの天界の|美《び》|姫《き》とならぶのに問題はない。金色の髪をした青銅の|鎧《よろい》の騎士と、たおやかで|可《か》|憐《れん》な|乙《おと》|女《め》の二人は、気品に満ちた|華《か》|麗《れい》なコンビネーションとして、お|伽話《とぎばなし》の絵本や女性好みのロマンスの恋人たちのようにぴったりとするはずだ。
「まともなものの見方のできぬような者と話をする気はない」
|嘲《あざけ》るように言い、ディーノはつんと|顎《あご》をあげる。なにか、ひじょうにおもしろくない。
ディーノはこんな男だったろうか、こんなふうに|絡《から》む話し方をする男だったろうかと、ふと頭の冷えたレイムは疑問を感じた。|威《い》|風《ふう》|堂《どう》|々《どう》とし、ささいなことならば|歯《し》|牙《が》にもかけない、|横《おう》|柄《へい》な男であったはずだ。
そうして、なぜディーノがそんなふうになってしまったかと考えたとき、思いあたることにレイムは|愕《がく》|然《ぜん》となった。
「ディーノ……、君はひょっとして、本気でファラ・ハンのことを……」
「ふざけるなっ!」
皆まで言わせず、激怒したディーノが抜きはなった長剣をレイムに向かって振りおろした。ふだんののんびりした彼からは想像もできない反射神経を見せたレイムは、軽く一歩|退《しりぞ》いて、|闇《やみ》の中で|空《くう》を|薙《な》ぎ、銀色にひらめいた|刃《やいば》を避けた。火花を散らし、がきりと勢いよく食いこんだ長剣で、|石畳《いしだたみ》が大きく|砕《くだ》ける。
ばかなことをと、笑いとばせなかったディーノに、レイムは確信をもつ。
ディーノは青く燃える炎の|瞳《ひとみ》で、レイムをにらんだ。
「その首を|刎《は》ねられたくなければ、二度と言うな!」
|類《たぐい》まれなる剣客であるレイムほどの反射神経でなければ、今の一撃で肩口から真っ二つに|斬《き》り殺されていただろうに。ディーノはそう|怒《ど》|鳴《な》って石畳から剣を引きぬいた。
ディーノ。|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗り、ただ一人で生きぬいてきた男。ひとの|醜《みにく》い部分にだけ|触《ふ》れ、|虐《しいた》げられてきた彼にとってのファラ・ハンは、そうだ、なにものにもかなわぬほどに、ディーノが欲していたすべてのものを持っている乙女であったはずだ。その美しさ、|可《か》|憐《れん》さを抜きにしても、すさんで渇ききったディーノの心を|温《あたた》かく|潤《うるお》すのに、これほどふさわしい存在はない。ディーノがファラ・ハンに|惹《ひ》かれても、まったく|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》はない。だが。ディーノはそれを否定する。ひとならざるものである『|招喚《しょうかん》の乙女』という彼女に対しては、その感情を認めるわけにはいかないのだ。化け物とファラ・ハンを|愚《ぐ》|弄《ろう》するディーノの言葉は、そのままにディーノ自身に対するものだ。ファラ・ハンに惹かれようとする自分を、激しく恥じて|叱《しっ》|咤《た》しているのだ。ファラ・ハンが傷つくよりなお深く、ディーノが傷ついている。傷つけずにはいられない、どうしようもないものの内であがいている。
花や小鳥を愛することとファラ・ハンを気にかける気持ちは同じかもしれない。しかし、花や小鳥ではないファラ・ハンを、ディーノが『ひととして』本気で愛するとなれば、話はちがう。|自《みずか》らを|卑《いや》しめる行為にほかならないと、ディーノが|歯《は》|噛《が》みをしても、仕方ないのかもしれない。まったくに孤立している彼だからこそ、禁じないではいられない……。
「ディーノ……」
レイムは|哀《かな》しい|瞳《ひとみ》でディーノを見つめた。|哀《あわ》れみの視線を受けていることがわかり、さらにディーノはかっとなる。
「そんな目で俺を見るな!」
さらに剣をあげるディーノの攻撃を、レイムは踊るほどにも|鮮《あざ》やかにひらりと受け流す。
「僕が認めたならば、君も認めますか? ファラ・ハンのことを、あ……」
「やかましいっ!!」
ぶん! と|唸《うな》りをあげた剣が、レイムの耳の横をかすめた。危ういところで身をかわしたレイムの|法《ほう》|衣《え》の|袖《そで》|口《ぐち》が、小さく切り裂けた。
よほどに訓練を積み、しっかりとした場数を踏んでいるのか、ディーノの剣はあと少しというところでレイムに届かない。正式な競技場でのレイムのことを知らないディーノは、|業《ごう》を煮やしてぎりりと|眉《まゆ》を|吊《つ》りあげる。|刃《やいば》を合わせて戦う気がレイムにないからこそ、ディーノが圧倒しているにすぎない。このレイムに|魔《ま》|道《どう》という力が加われば、ディーノにはとことん|手《て》|強《ごわ》い相手になることは明らかだ。
|騎《き》|士《し》|道《どう》精神という言葉は、ディーノにはない。勝てば正義という、絶対の法則しかもたぬディーノに、|穏《おん》|健《けん》な常識はない。
ディーノはためらうことなく、レイムから魔道の力を奪う道を選んだ。レイムが腰につった|呪《まじな》い粉の袋をだめにすれば、彼が|駆《く》|使《し》できる術は格段に少なくなる。
突然に|間《ま》|合《あ》いをつめたディーノに、レイムは|慌《あわ》てて後にさがった。そしてレイムの後ろといえば。泥をたたえた水路だった。
水路の|縁《ふち》に足をかけ、かかとで|空《くう》を踏んだレイムの背筋に、ぞっと|悪《お》|寒《かん》がはしった。
それは襲いくるディーノの剣のためではない。
剣で|斬《き》るか、泥に追い落とすか。にやりと|片《かた》|頬《ほお》で笑ったディーノの前で。
無意識にレイムは高位の魔道士のみが使える、|難《なん》|易《い》|度《ど》の高い|飛翔《ひしょう》の|印《いん》を結んでいた。
|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》、ディーノの剣の切っ先をかわし、水路の上に浮かんだレイムめがけて、勢いよく泥が|跳《は》ねあがった。
横から一直線に飛来したレイムの|飛竜《ひりゅう》が、|強《ごう》|引《いん》にレイムを背に乗せてその場を飛びすぎる。
どぷんと重たい音をたてて、跳ねあがった泥が落ちた。
あきらかにレイムを|狙《ねら》ったと見える泥の動きに、レイムに対する毒気を抜かれたディーノは、ぎょっとする。
「魔物か!?」
「ちがいます!」
|困《こん》|惑《わく》した顔で、レイムは首を振る。
|魔《ま》|物《もの》ではない。魔物ではないが……。
「どこですか!? ファラ・ハン!!」
飛竜に乗ったレイムが、悲痛な声で叫んだ。
いっきにディーノの頭から血が引いた。
そんなに時間がたったわけではない。ファラ・ハンの足で、たいして遠くに行けるはずはない。
それなのに。
小さな飛竜を抱いた|乙《おと》|女《め》の姿は、どこにも見えなかった。
一足先に飛竜を飛ばせ、大きく|街《まち》を飛びめぐったシルヴィンは、公園を見つけ、軽く肩をそびやかして飛竜から降りた。飛竜はふたたび空に上がる。
収穫はない。レイムに教えられたような|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》もなければ、破壊された寺院らしき|残《ざん》|骸《がい》もない。大きなことを言ってきた手前、なにも発見できませんでしたと戻るのも、いやだ。どうしたものかと|溜《た》め|息《いき》をついたシルヴィンは、公園の階段に腰を下ろす。公園の中心にある噴水らしいものも、今はただ泥をためたオブジェのひとつだ。
魔物らしい影はなにも見えない。シルヴィンは両手をあげて大きくのびをする。
こつこつと、|石畳《いしだたみ》を踏む軽い足音が近づいてくるのが聞こえた。
第四章 不死
足音を耳にしたシルヴィンは、ゆっくりとその方向に顔を向けた。ゆっくりと足を運ぶその歩調は、シルヴィンに|警《けい》|戒《かい》|心《しん》を起こさせるようなものではなかった。
その足音の|主《ぬし》は、公園の階段のあたりにある見慣れない影に気づき、驚いたように足を止めた。|闇《やみ》に|紛《まぎ》れてしまうかと見える黒い衣服をまとったその者は、ベールで顔を隠した若い女性のようである。左手に大きめのバスケットをひとつ、下げている。
「あぁ、旅の方でしたのね……」
シルヴィンの姿をはっきりと認めて、女性は安心したように息を吐いた。女性にしては大柄であり、民族特有のきつい|面《おも》|差《ざ》しをしているシルヴィンは、どこの|街《まち》に行ってもよそ者であることがわかる。小麦色に健康的に日焼けした|肌《はだ》の色や、薄い髪や|瞳《ひとみ》の色、闇の中であり、そんな色彩抜きでも、シルヴィンはめだつ|竜使《りゅうつか》いの一族の娘だとわかる。
夜明け前の暗闇の中、女性がただ一人でなにをしているのだろうといぶかしみ、シルヴィンは自分もまた、そういう疑問をもたれても当然だということに気がつき、おかしくなった。
「どうしましたの? こんな時間に」
静かにしとやかな口調で問いかけられて、シルヴィンは|頬《ほお》を|緩《ゆる》める。
「わたしもそう聞きかえしてもいい?」
言いかえされて、女性はふと口をつぐんだ。小鳥が|喉《のど》を鳴らすように、口元に手をやり、小さく笑う。
「そうですわね。ずいぶん失礼でしたわ……。わたくしはね、妹の姿を探しておりますの」
「妹さん?」
女性の身なりは、どうも|喪《も》|服《ふく》に見えた。顔を隠したそのベールも、喪服であれば不自然ではない。
この女性の妹であれば、シルヴィンほどの年頃だろうか。彼女だけでも夜歩きをしているのは異様なのに、もう一人いるというのだろうか。少なくとも、上空から見てきたかぎりにおいては、心当たりはない。
「わたし、ついさっきまで、ずいぶん街の中を見てきたけど、誰も見かけなかったわ。お役にたてなくて残念だけど」
かるく|唇《くちびる》を|噛《か》んで、シルヴィンは答えた。
「ありがとう」
女性は控えた声で、|嬉《うれ》しそうに|囁《ささや》いた。そしてシルヴィンに向かって|屈《かが》む。
「見つけましたわ」
「え?」
目をぱちくりと開いたシルヴィンの腕を。
黒い絹の手袋をしたしなやかな手が握った。
つかまれて、ぐいと引き寄せられた腕は、ぎょっとしたシルヴィンの力にかかわらず、びくとも動かなかった。体格差や身長から考えても、|華《きゃ》|奢《しゃ》な男性よりは|頑丈《がんじょう》なシルヴィンのほうが、この細身の女より力が|勝《まさ》っているはずだ。それなのに、力勝負で、シルヴィンが負けている。あまりに強い力で締めつけられて、シルヴィンの手は|痺《しび》れ、指の先が|凍《こご》えた。
逃がさぬようにシルヴィンの腕をつかみ、ゆっくりと腰を落とした女性は、|石畳《いしだたみ》の上にバスケットを置き、|蓋《ふた》をあけた。|籐《とう》で編んだ目の|粗《あら》いバスケットの中には、泥が入っている。とろりと淀んだ泥が、編み目からこぼれるのでもなく、たっぷりと入っている。
とぷんと音をたてて、バスケットの中、生き物のように小さく泥が|跳《は》ねた。
シルヴィンの|肌《はだ》がぞわっと鳥肌たった。つかまれた腕から、体じゅうの力が抜き取られるような感じがして、動けない……!
「すこし待っててね、今すぐにお姉さまがあなたに新しい姿をあげるから」
|喪《も》|服《ふく》の女は泥に向かって囁きながら、ずいとシルヴィンの首筋に顔を寄せる。
ベールの下で、くわっと開かれた口に、長く伸びた|牙《きば》があった。
「ひっ……!」
息をのんだシルヴィンの真後ろから。
|轟《ごう》! と音をたてて、巨大な影が飛来した。
バスケットの中に入っていた泥が、シルヴィンに向かってぐちゅりと|鎌《かま》|首《くび》をもたげた、その時だった。
突然に襲いきた暴風に、乱暴にシルヴィンたちの体が吹き飛ばされた。飛来した影に激突されて、シルヴィンの腕をつかんでいた女が|弾《はじ》かれた。泥を入れていたバスケットが風にあおられて転がった。鉄の|枷《かせ》のような手から解放されたシルヴィンは、石畳の上を転がり、受け身をとって顔を上げる。
「ケシャアァッ!」
|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》シルヴィンを救った|飛竜《ひりゅう》が、|威《い》|嚇《かく》するように|哭《な》いた。哭き声に元気づき、シルヴィンが跳ね起きた。つかまれていた腕はまだ痺れたようになって、感覚と動きが|鈍《にぶ》い。
転がったバスケットから泥が石畳の上に流れでて、生き物のようにびくびくと|蠢《うごめ》いた。
飛竜に突き飛ばされ、石畳にカエルのように|無《ぶ》|様《ざま》に転がされた女が、上半身をもちあげて振りかえる。あおられて吹き飛んだベールの下の顔、黒く|干《ひ》からびて|皺《しわ》になった、ミイラのように汚らしく変わりはてた顔が、ぎりりと飛竜をにらんだ。シルヴィンをつかんでいた腕を、飛竜が翼で|狙《ねら》い打ったのだろう、女の右腕と脇腹が大きく裂けて、衣服と皮膚がべろりとたれさがっている。
「おのれ……! よくも大切な皮に傷をつけ、て、クレタ、ナ……!」
ごぼごぼと泡立つ声で女は低く|唸《うな》った。腕の傷口を押さえた指の|透《す》き|間《ま》から、ぼたぼたと泥が落ちた。見る間に腕の中身が、ひとの皮の中につまっていた泥が、こぼれ落ちてくる。女の中身が、ぶちまけられる……!
びらりと|喪《も》|服《ふく》を着た女の皮が|石畳《いしだたみ》の上に落ちた。
「オマエノ、皮ヲ……!」
「今度コソ、ワタシガ……!」
女の顔を浮かべた二つの泥の|塊《かたまり》が、石畳の上をずるりと|滑《すべ》り、シルヴィンのほうに近づいた。
青くなったシルヴィンは、そこから動けなかった。|迫《せま》りくる|醜悪《しゅうあく》な泥は、ひとである。化け物じみてはいるが、|魔《ま》|物《もの》には見えない……!
「ケシャアアアッッ!!」
|哭《な》いた飛竜が、|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎を吐いた。
おぞましい女の悲鳴をあげて、泥が燃えあがった。内臓を焼く臭いが、黒煙とともに広がった。
燃え|焦《こ》げるものをしっかりと目におさめ、ぺたんとシルヴィンは石畳に座りこむ。
「なに…? 今の…? いったい、なんなのぉっ!?」
がくがくと震えながら、絶叫した。
「シルヴィン!!」
澄んだ声に空高くから名を呼ばれ、シルヴィンは振りかえった。
一頭の飛竜が上空にくる。
「魔法使いっ!」
|眉《まゆ》を|怒《いか》らせ、泣きべそをかいた顔で、シルヴィンは|怒《ど》|鳴《な》りながらすっくと立ちあがった。シルヴィンの元気そうな様子に、レイムはひとまずほっとする。
「飛竜に乗って! 早く! 泥の届かない高さまで飛ぶんだ!」
「言われなくっても、そうするわよぉっ!!」
誰がこんなところに長居したいものか。シルヴィンは涙でうるんだ目をぎっと|吊《つ》りあげ、すばやく飛竜の上に乗る。ほとんど一呼吸で、シルヴィンの飛竜はレイムの飛竜と同じ高さにまで上がった。
「魔法使い! あんたあの気持ち悪い泥、なんとかしなさいよ!」
ぐすんと鼻をこすりながら、シルヴィンがレイムをにらむ。魔道なら、直接に手を汚さないわけだし、そういう者がいるのなら、シルヴィンがわざわざなにかしてやることはない。
レイムは|飛竜《ひりゅう》をやってきたほうに向け変えながら、シルヴィンに振りかえった。
「シルヴィン、君にはあれが|魔《ま》|物《もの》に見えたのかい?」
一番重要であることを、レイムは適確に問いかけた。シルヴィンは口をとがらす。
「……見えなかったわ」
「そうだろう?」
レイムは飛竜を飛ばして引きかえした。シルヴィンは|慌《あわ》ててレイムの後を追いかける。
「僕も最初、魔物かと思った。だけど、魔物に対する|呪《じゅ》|文《もん》がきかないんだ。光の|加《か》|護《ご》も、この泥は受けることができる。……形を変えてしまってはいるけれど、この泥は人間にちがいない。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の力が|歪《ゆが》んで、こんな形になって現れたのだと思う。|封《ふう》|印《いん》の魔法陣を探して、|溢《あふ》れでようとする魔物との関連を見ないかぎり、はっきりしたことは言えないけれど……」
「だったら、どうなるの? 今までみたいなわけにはいかないんでしょう!?」
「うん……、すごく難しくなる……」
レイムは|唇《くちびる》を軽く|噛《か》み、|眉《み》|間《けん》に浅く|皺《しわ》を寄せる。
「まず、ディーノが|銀《ぎん》|斧《ふ》をまったく使えない……! 泥の中に魔物がまじっていたとしても、|斧《おの》で、泥は|斬《き》れない……!」
ファラ・ハンは地下にいた。
小さな飛竜が、地下通路に下りる入り口を発見したからだ。幼い生き物は、とかく狭いところや暗いところにもぐりこみたがる。ファラ・ハンが誰より早く地下通路を見つけることができたのも、この小さな飛竜のおかげだ。
光ゴケが塗りこめられ、淡い黄色に輝く地下通路は、明けやらぬ|闇《やみ》に沈む|街《まち》の中より、ずいぶんと明るく、良好な視界を確保することができる。
地下通路は、川のようにどこまでも続く水路をもつ、円筒状の巨大な|空《くう》|洞《どう》になっていた。水門によって調整され、街に流された水が、さらに量を|細《こま》かく調節されてこの地下水路に流されるのだ。さすが、水の都というだけのことはある。ここを作っている石にも、いたるところにびっしりと、魔物よけの印が刻まれている。
水路はここでも、泥でいっぱいに淀んでいた。
下水が流れていてもおかしくない場所であるのに、泥の中にはゴミひとつ見つけることができなかった。生活臭が感じられず、かえってファラ・ハンは不安なものを感じないではいられない。
「この静かな街に、いったいなにが起こっているというのかしら、ねぇ?」
小さな飛竜を抱きしめ、ファラ・ハンは首をかしげる。抱かれた小さな飛竜が、ファラ・ハンを励ますように、ぴろりと|舌《した》を出して|熟《う》れた|白《はく》|桃《とう》にも似た|頬《ほお》をなめた。
にこっと|微《ほほ》|笑《え》んで、ファラ・ハンは小さな|飛竜《ひりゅう》と目をあわせる。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》が呼びあう、どきどきする感じがするから、この地下に下りてきたことは|間《ま》|違《ちが》ってはいない。
どきどきと、胸苦しい……。
(化け物)
ぐさりと突き刺さった言葉が、まだファラ・ハンから抜けきってはいない。その言葉そのものが、ファラ・ハンにとって|辛《つら》かったのではない。それを口にしたのが、ディーノであったからこそ、辛かったのだ。
(どうして……?)
自分でもわかりきっているはずのことが、なぜこんなに|哀《かな》しく思えるのだろう。
ディーノ。
名を思い浮かべるだけで、びくんと体が震えた。目にじわっと涙がこみあげる。
(ちがう、そんなのじゃない! そうじゃない。わたしは、誰かを好きだった……)
炎のように身を|焦《こ》がす|想《おも》いの中で、苦しく|喘《あえ》いでいたはずだ。本当の彼女が、愛していた若者が、いるのだ。思いだせないだけで、忘れて……、忘れさせられて? しまっただけで、たしかにそのひとは存在している。それなのに……!
(!!)
自分で自分がわからなくなり、ファラ・ハンは泣きたくなった。
(わたしは|軽《けい》|薄《はく》じゃない)
たとえそのひとと遠く離れてしまったから、記憶を閉ざされてしまったからといって、他の男性に心を移すような、そんな女性ではない。そう思う。そうでありたい。
しかしどう否定しても、現実としてファラ・ハンはディーノに|惹《ひ》かれている。心に想っていたひとのことを、その狂おしいほどの想いをたしかに覚えていながら、なお、あの炎のような男に、ディーノに惹かれている。それだけは、認めねばならない。
それとも……。
この見知らぬ世界にただ一人で具現し、そのうえ世界を救わねばならないという使命の重さ、心細さから、誰かを求めているだけなのだろうか。自分を守り、戦ってくれるのにふさわしい、|勇《ゆう》|猛《もう》な若者として利用したいがために、近づきたがっているのだろうか。
もといた世界ではけっしてかなわぬ想い、果たせないそれを、満たすことのできる存在として、誰か適当な者を求めているだけなのだろうか。
考えて、ファラ・ハンは自分の浅ましさ、|醜《みにく》さにぞっと体を震わせた。
(ごめんなさい…!!)
そんな気持ちで対するなんて、あまりにも失礼だ。ディーノにどんなに|詫《わ》びたところで、たりない。ファラ・ハンは、つくづく自分に|嫌《いや》|気《け》がさす。そして自分がディーノになにをしたのか、思いだして肩を落とした。こんな気持ちを抱くだけでも十分な|罪《つみ》だというのに、ファラ・ハンはディーノの自尊心を傷つけ、彼を|汚《けが》している。いくら助けたかったとはいえ、そう望まれもせぬのに、|卑《いや》しめるような行為をしてしまった。ディーノはそのことについて記憶していないが、だからといって許されるものではない。いたたまれずに、いっそのこと消えてしまいたいくらいだったが、世界救済のなかばである。自分が抜けるわけにもいかず、またディーノを一行から失うわけにもいかない。
ディーノを必要としてはいけない。少なくとも、ファラ・ハンだけは。かかわらないほうがいい。気持ちを向けなければ、きっと、気にかけないでいられる。ふらついている、この気持ちを忘れることができる。忘れなければ、ならない……。使命を果たせば帰らなければならない、|束《つか》の|間《ま》の存在でしかない自分が、ディーノの心に介入することはできないのだ。心の迷い、心の弱さに、ディーノをまきこむことはできない。そんな恥ずべき行いをするような者が、もとの世界にいる、本当に恋い|慕《した》う者に理解されるわけはないのだ。
とぷん。
「キャウ?」
「え?」
水音を聞いて、なにが起こっているのかと、ぐいとファラ・ハンの背後を|覗《のぞ》きこんだ小さな|飛竜《ひりゅう》の動きに驚いて、ファラ・ハンは足を止めた。考えにふけりながら、ぼーっと歩いていたので、ファラ・ハンは水音に気がついていなかった。
小さな飛竜の動きに|促《うなが》され、振りかえったファラ・ハンが見たのは。
大勢のひとの顔を浮かべた泥を、いっぱいにたたえる水路だった。
顔を向けたファラ・ハンに、どぷどぷと泥の顔たちがざわめく。
(あぁ、なんて美しい……)
(欲しい)
(欲しい)
(あの姿)
(あの顔)
(あの皮さえあれば……)
(あの美しさを手にいれることができる……!)
(皮を……)
(皮を……!)
(皮を……!!)
|羨《せん》|望《ぼう》と欲望。|歓《かん》|喜《き》した泥の女たちが、狂ったように波打った。
ざっとファラ・ハンの|肌《はだ》が|粟《あわ》だった。
水路をどっぷりと満たすほどの大きな|魔《ま》|物《もの》であるならば、たとえ背に翼を出していなくても、彼女がファラ・ハンであることがわかるはずだ。その血肉、髪の一筋にいたるまで、|至上《しじょう》の|甘《かん》|露《ろ》である天界の住人のことを知らぬ魔物はいない。魔物としての力を|膨《ぼう》|大《だい》なまでに|増《ぞう》|幅《ふく》させる力をもつ肉体を、食らわずにはいられないはずだ。
だとすれば。
これは、この泥の形をしたものは、魔物ではない。
ひとの顔をして、ひとの言葉を使うとなれば、それはひとであるのに|間《ま》|違《ちが》いない。
この水路、この|街《まち》にある、泥をたたえた水路には、姿を変じた|哀《あわ》れなひとびとが横たわっているのだ……!
血の気がひいた頭で、ファラ・ハンはどれくらい自分が歩いてきたのかを考えた。そんなに地下水路を深く下ってきたわけではない。まだ十分に引きかえせる。引きかえして三人と合流し、この哀れなひとたちのことを報告して、次なる行動を考えなければならない。
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を集め、使える|呪《じゅ》|文《もん》が確実に増えているファラ・ハンだったが、それは主に魔物と戦うためのものだ。ひとに対して、そんな乱暴な力を使うわけにはいかない。世界を救う役目を|担《にな》ったファラ・ハンが、たとえどんな形に変わり果てようと、世界に生きるひとびとを傷つけることなど、できるはずがない。自分を守るために|結《けっ》|界《かい》を作ったとしても、結界に守られるべき存在であるひとは、それに侵入することができるはずだ。たとえ魔道を使っても、ファラ・ハンに、ひとをはねのけるだけの力はない。
地下通路は十分な広さ、高さがあり、翼を出していっきに飛べない高さではない。しかし、翼を広げれば、彼女が|招喚《しょうかん》の|乙《おと》|女《め》、彼女は彼らにとってもうひとつの伝説における背に翼をもつ|生《い》け|贄《にえ》の乙女にすぎなくなる。ファラ・ハンはけっしてひとではない。どんなに美しかろうと、このひとびとが、ひとではないものの皮を欲しがるはずはない。正体がばれたが最後、ファラ・ハンはずたずたに引き裂かれる。引き裂かれ、その心臓をえぐりだされてルージェスに献上される。
ぞくりと震えたファラ・ハンに。
勢いよく|跳《は》ねた泥が襲いかかった。
女の顔をもつ泥に飛びかかられ、ファラ・ハンは悲鳴をあげてその場から|弾《はじ》かれるように後ろに下がった。壁に背中が当たるぎりぎりのところに行ったファラ・ハンの前を、|口《く》|惜《や》しげな|形相《ぎょうそう》を浮かべ、がちりと歯を鳴らした泥の顔がかすめた。どうやら距離が足りなかったらしい。飛びかかるにも、水路に本体のいくらかを残しておかなければならないようだ。
これならば。通路ぎりぎりを走ったならば、ここから|逃《のが》れることができる。
角になったところは、少しばかり通路が深くなっているから、そこでいくらか休みがとれる。泥たちを|牽《けん》|制《せい》しながら地上まで駆け抜けるのも、不可能ではないと考えられる。
意を決したファラ・ハンは、かろやかに身を|翻《ひるがえ》し、しっかりと小さな|飛竜《ひりゅう》を抱えて走った。大きく広がった長衣やマントの|裾《すそ》を、襲いかかった泥が引き裂いた。
隅に追いこまれるようにして、角に駆けこんだファラ・ハンは、ぴたりと壁に背を預け、呼吸を整える。どぷどぷと、大きく波打ち乱れて、|業《ごう》を煮やした泥たちが怒り狂っていた。
荒い息を吐いたファラ・ハンの頭上に、影が落ちた。
はっと上を向いたファラ・ハンが見たのは。
腕を上に伸ばしたほどの真上にあった排水口から、でろりと下がりきた泥の顔である。目をくわっと開き、口元を壮絶な笑いの形に|歪《ゆが》めた、おぞましいものが、ファラ・ハンめがけて落ちていた。
悲鳴をあげてファラ・ハンがその場にしゃがみこんだ。
「キャオ!」
ファラ・ハンの腕から勢いよく飛びだした小さな飛竜が、襲いかかる泥めがけて猛火を吐いた。小さな口から渦巻き、ほとばしった|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎が、じゃっと一瞬にして泥を|焦《こ》がした。肉の焦げる強烈な臭気が、地下水路いっぱいに広がった。ざわめいていた泥たちが、ぴたりと動きを止める。小さな飛竜は炎を吐きながら、排水口まで飛びあがった。|灼熱《しゃくねつ》の炎に焼かれ、排水口の周囲の石がでろりと溶けた。表面に塗られていた光ゴケがちりちりと焼け、|炭《たん》|化《か》して真っ黒にかわる。小さな|飛竜《ひりゅう》は用心深く、よく石を溶かして、その排水口を|塞《ふさ》いだ。溶けた熱い石は、ファラ・ハンの上にまで垂れ落ちるかと見えたが、空気にさらされ、すぐに冷えて|鈍《にぶ》い灰色に固まった。
音をたててファラ・ハンににじり寄っていた水路の泥たちは、思いもかけない炎を前に、うかがうように、ひそとなりをしずめた。見るからにか弱く、簡単に皮をはぎとれそうな|乙《おと》|女《め》だが、連れている|幼獣《ようじゅう》はけっして|侮《あなど》ることはできない。
|豪《ごう》|雨《う》などに備えて、水門で処理できない|街《まち》の中の水の量を調節するため、地下通路のあちこちに作られていた排水口だが、この近くにはもうないようだ。よく周りの様子を確認した小さな飛竜は、自慢たっぷりにピスピス鼻から息を出しながら、ファラ・ハンの前に降りた。ファラ・ハンは、|辛《つら》そうな、|哀《かな》しい顔をしながら、小さな飛竜を抱きしめる。
「だめ…、だめなの……! 傷つけてはだめなの……! お願い……」
|憂《うれ》えた|麗《れい》|人《じん》に、わけがわからず、小さな飛竜はくりっと首をかしげる。
(近寄れない……)
(でも……)
(でも……)
(わたしがだめでも……)
(手に入れることはできる……)
(与えることならできる……)
(皮を……)
(皮を……!)
形状定まらぬほどに姿を変じていても、それはまだひとであるのか。ひととしての情念をいだいているというのか。わが子、娘を思いやる心をもっているというのか……。
ファラ・ハンめがけて、捨て身で泥が襲いかかった。
あっとひるんだファラ・ハンの腕を抜け出た小さな飛竜は、その泥めがけて炎を吐く。
|断《だん》|末《まつ》|魔《ま》の絶叫と、すさまじい臭気が|弾《はじ》けた。焼けただれ、|崩《くず》れてゆく泥にかばわれて、さらにその泥の後ろから泥が|跳《は》ねあがる。前で焼けていく泥を足場にしているのか、それは十分にファラ・ハンに届く長さをもっている……!
泥のつぶやきから、その|目《もく》|論《ろ》|見《み》を読んだファラ・ハンは、|慌《あわ》てて立ち上がるとごつごつした石壁に|跳《と》びつき、手をかけていた。光ゴケを|爪《つめ》で引き|剥《は》がす勢いで、石壁をよじ上る。ちょうどうまい具合に、さっき小さな飛竜が排水口を溶かした部分が、ちょっとした出っ張りをもつ|棚《たな》のようになっていた。コーナーになった壁に手を突いて体を支えたファラ・ハンは、出っ張りの上に腰を置いた。
ぎりぎりのところで、伸び上がった泥はファラ・ハンに届かず、どぷりと音をたてて水路に落ちる。
「カァオゥウ!」
小さな|飛竜《ひりゅう》が泥を|威《い》|嚇《かく》する。
「乱暴しないでね」
お願いされ、ちょっと|嫌《いや》な顔をして、小さな飛竜がファラ・ハンに振りかえる。小さな飛竜だって、好きで火を吐いているわけではない。
壁に上ってひとまずの安全を得たファラ・ハンだが、身動きができない状態に追いこまれていた。これではどこにも進めない。
ファラ・ハンが地下通路に下りたことは、誰も知らない。地下通路があることすら、皆は知らない。|成獣《せいじゅう》の飛竜に乗り、ゆうゆうと空を行くことができる彼らが、徒歩でしか見つけられない隠し|扉《とびら》のような地下通路の入り口を発見できるかどうか、わからない。
(どうしよう……)
(どうすればいいの?)
途方にくれ、ファラ・ハンは表情をくもらせて息を吐いた。
「キャ!!」
緊張した小さな飛竜の|哭《な》き声に、ファラ・ハンははっと目を開く。
泥が。
化け物じみた恐ろしい、大勢のひとの顔を浮き上がらせた泥、小山のように盛りあがった泥が。
さらに大きく盛りあがって……。
「いやあぁぁっ!!」
ファラ・ハンが絶叫した。
盛りあがった泥は、小さな飛竜よりもずっと大きかった。上からどぱりとかぶってこられれば、いくら炎を吐いたとしても、小さな飛竜なんて泥の中に埋まる。もともと小さな飛竜を|阻《そ》|止《し》しようという、|自《じ》|己《こ》|犠《ぎ》|牲《せい》のうえになされている行動だけに、それを防ぐ方法はない。
自分を襲う状況を知った小さな飛竜は泥を振りあおいだまま、その迫力に圧倒され、炎を吐くことができなかった。
|鈍《にぶ》く重い音を|轟《とどろ》かせて、襲いかかった泥が落ちた。
|崩《くず》れ落ちた石|天井《てんじょう》につぶされて落ちた。
激しく渦まく|紅《ぐ》|蓮《れん》の炎が、泥の盛りあがった地下通路を焼いた。
「ケシャァァァアッ!!」
巨大な飛竜の|哭《な》き声で、地下通路を作っている石壁がびりびりと震えた。
頭をかかえて溶けた石壁に張りついていたファラ・ハンが、顔をあげる。
がらがらと|崩《くず》れ落ちた|天井《てんじょう》の大きな穴から。
一頭の巨大な飛竜が降りてきた。
「キャウイッ!!」
小さな飛竜が歓声をあげて、|悠《ゆう》|然《ぜん》と降りてくる巨大な飛竜の首に飛びついた。
ひとの焼け|焦《こ》げる壮絶な臭いのする|黒《こく》|煙《えん》が、飛竜の翼にあおられてもうもうと舞う。
ゆったりと飛竜を降下させながら、|豪《ごう》|奢《しゃ》な|鞍《くら》に腰をおちつけた若者が、たっぷりとした動作で周りを見まわす。
「ディー、ノ……」
細い、消えいりそうな声で、ファラ・ハンはその若者の名を呼んだ。
飛竜の翼の|唸《うな》りの|陰《かげ》に小さく響いた|可《か》|憐《れん》な|声《こわ》|音《ね》に、ディーノはゆるりと首をめぐらせた。
石壁に穴をあけて溶岩を張りつけたような|窪《くぼ》みに、|華《きゃ》|奢《しゃ》な人影がある。
長衣やマントの|裾《すそ》をずたずたにし、|悲《ひ》|壮《そう》な表情の消えやらぬ一人の|乙《おと》|女《め》がいた。上等の絹糸よりも美しい長い黒髪も、高価な布地をたっぷりと使った|贅《ぜい》|沢《たく》な衣服も、ぐちゃぐちゃに乱れている。
まさに|危《き》|機《き》|一《いっ》|髪《ぱつ》の瞬間、奇跡のように|間《ま》のいい出現をしてのけたディーノは、目を細めてファラ・ハンを見、にやりと|頬《ほお》を|緩《ゆる》める。
(ディーノ……?)
(ディーノ)
(ディーノ!)
|修《しゅ》|羅《ら》の申し子、|地《じ》|獄《ごく》の|悪《あっ》|鬼《き》の|異名《いみょう》をもつ、黒い髪、青い|瞳《ひとみ》の|雄《お》|々《お》しい若者のことは、どこにいっても知らぬ者はいない。非のうちどころのない、このすばらしく目立つ|華《か》|麗《れい》な|雄《ゆう》|姿《し》をもった男など、世界じゅうをくまなく探したとしても、この男のほかにはいない。
飛竜の翼が巻き起こした風にあおられて、ファラ・ハンのいた場所からおしのけられた泥たちは、どぷどぷとざわめきながら、水路を少し|退《しりぞ》いて、巨大な飛竜の吐き出す猛火を避けるように、息を殺す。
「ひとを……、傷つけては、いけないわ……」
震える声で、ファラ・ハンは|囁《ささや》いた。
「あぁ」
言うべきことを言うだけの元気は残っていたかと、うなずきながらディーノは笑った。
「やつらは死なぬ。どんなに焼けただれようが、泥が『死ぬ』ことはないからな。傷ついても、それはほんのいっときのことだ」
ディーノは地下通路の上に飛竜を降ろし、ファラ・ハンに手を差しのべる。
まだ|細《こま》かく震え続けている白い手を、おずおずとファラ・ハンが差しだす。
差しのべられたディーノの手が放つ|血《ち》|潮《しお》の熱さを、その手の上に乗った空気から感じてびくりとし、ファラ・ハンは差しだした手を止めた。
|触《ふ》れる寸前で止められ、そのままいつまでたっても動きそうにないファラ・ハンの手を、ディーノはぐいと握って引っぱった。安定を欠く場所に危ういバランスを保って乗っていたファラ・ハンは、引っぱられて簡単に落っこちた。
引きまわされる格好になったファラ・ハンは、ディーノの|膝《ひざ》の上に落ち、ディーノのもう一方の腕にがちりと背中を受けとめられた。しゃらりと舞った長い髪が、優雅に流れて落ちる。ディーノの体臭がファラ・ハンの|鼻《び》|孔《こう》を圧倒し、ディーノの肉体が放つ熱がファラ・ハンを包む。
「らしくないぞ。なにも言わずにこんな場所にいるとはな。ばかな|魔《ま》|道《どう》|士《し》は、|見《けん》|当《とう》ちがいの方向に飛んでいったぞ」
言いながら、ディーノはファラ・ハンを握った手を放して|手《た》|綱《づな》に握りかえる。地上に戻るべく、飛竜の手綱を引いた。
動かされた腕に、ファラ・ハンはディーノの胸元に、とんと引き寄せられた。
「こわ、かった……」
ぐっと|咽《のど》をつまらせながら、ファラ・ハンは|呟《つぶや》いた。鼻の奥がきゅんと痛くなり、|目頭《めがしら》が突然に熱くなった。
「死んでしまうんじゃないかって……」
「あたりまえだ」
そっけない返事が、耳を押し当てたディーノの体に響くのを、ファラ・ハンは感じた。
ディーノの胸に身を預けたファラ・ハンの目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。顔を伏せ、泣き顔を見られないように|懸《けん》|命《めい》に息を止めて手で押さえても、どうしたことなのか、涙が止まらない。ディーノの熱に、ファラ・ハン自体が溶けていくような、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な感じがする。
ばさりと翼を広げる飛竜に行く先の合図を与えたディーノは、その後を飛竜にまかせた。手綱を持っていても|悠《ゆう》|然《ぜん》と|鞍《くら》に腰を置く感じだ。興奮がおさまらないのか、あまりしっかり乗っていないファラ・ハンが|滑《すべ》り落ちないように、腰を抱く。細く優雅にくびれた腰は、ふわりと柔らかく、なだらかで、その曲線を手に感じたとたん、急にディーノはどぎまぎとした。抱いた、肉の柔らかな生き物の感触が、ディーノを落ち着かなくさせる。必死で隠そうとしていたが、それでもどうにもならず|華《きゃ》|奢《しゃ》な体を震わせている|嗚《お》|咽《えつ》に気がついて、一瞬ディーノの息が止まった。
意地を張り、弱みを見せまいと|懸《けん》|命《めい》になっていたファラ・ハンから、強がりが失せていた。こんなふうにファラ・ハンが泣くとは思っていなかったディーノは、どうしていいのかわからなくなって|困《こん》|惑《わく》する。べつに、どうしなければならないということはないのだが、なにかしなければならないかと、気持ちがあせっていた。
ちょっと|顎《あご》をあげて顔を向こうむけながら、ディーノはファラ・ハンの頭に軽く手を置き、そっと髪をなでた。ディーノの手の動きに、びくんとかすかに震えたファラ・ハンの目に、一度おさまるかと思えた涙がまたあふれた。
「泣くな」
|叱《しか》るように、それでいてけっして怒ってはいない声で、ディーノは|呟《つぶや》いた。
どうして涙が止まらないのか、とまどいながら、隠れるようにディーノの胸に顔を当てたまま、ファラ・ハンは小さくこくんとうなずいた。
髪をなでおろしたディーノの指は、髪の|裾《すそ》のあたりで乱れて|絡《から》んだところに引っかかった。むりに指を進めることができなくなり、ディーノは指さきで髪を軽くいじり、それを指に巻いた。いじられた髪は動かされたことによってもつれがとれたのか、するりとほどけて、柔らかくディーノの指を|滑《すべ》り、離れた。
第五章 風姿
泥に襲われ、それがなんであるのかを知ったレイムとディーノは、|驚愕《きょうがく》した。
ファラ・ハンの名を呼んだレイムは、青くなって|飛竜《ひりゅう》を駆り、どこへともなくすっとんでいった。小さな飛竜を抱いて歩いていったファラ・ハンを探すつもりだったのだろうが、要領の悪いレイムが|街《まち》の中を|闇《やみ》|雲《くも》に飛んだところで、見つかるものでもない。|慌《あわ》てたため、冷静な判断力を欠いていたことに気がついたときは、手遅れだった。|石畳《いしだたみ》の上にわずかにかぶった土についた足跡をたどろうにも、飛竜をつかって風を巻き起こし、飛んだ後である。どこまで飛んでも、そんなに先まで行っているはずはないファラ・ハンが見つからず、しまったことをしたと、|唇《くちびる》を|噛《か》んだときにはもう遅かった。途方に暮れたレイムが飛竜の高度を上げたとき、街の一画で炎が|弾《はじ》けたのが見えた。
シルヴィンの飛竜の吐いた炎である。|火急《かきゅう》のことが起こっていることを感じ、レイムはシルヴィンのところに急行した。
一方、レイムに剣を振りあげたために、そのなりゆきで泥の正体を知ることになったディーノは、|己《おのれ》をとりまく|水《すい》|郷《ごう》のすべてがおぞましいものであることに|辟《へき》|易《えき》とし、飛竜に乗ってゆっくりと上にあがった。
ファラ・ハンを探そうといきまいて飛んでいったレイムが、ただ一人で飛竜に乗って、向こうがわで光った火の光のほうに行ったのを見る。
ファラ・ハンは見つからなかったのか。見つければ、レイムがあのか弱い|乙《おと》|女《め》を置きざりにしたまま、どこかに行くなどということはあるまい。
もしも乙女が『ファラ・ハン』、ルージェスに心臓を|献上《けんじょう》されるべき者であることが知られれば、泥のひとびとのあいだで一騒動起きているはずである。『ファラ・ハン』であることを知られなくても、その|見目麗《みめうるわ》しい姿は誰もが欲しがるはずだ。ファラ・ハンが泥に襲われたら、小さな飛竜がだまっているはずはない。どういう目的であれファラ・ハンが|狙《ねら》われたなら、おとなしくすむはずがない。
それらしい感じがないところをみると、まだ無事でいるのか。
通りを飛ぶディーノの飛竜がぴくりと耳を震わせた。
ディーノの耳には、かわった物音は捕らえられていない。野獣のように|鋭《えい》|敏《びん》なディーノの聴覚が、|不《ふ》|穏《おん》な物音を聞き|逃《のが》すはずがない。あやしい物音は、していない。
それなのに、ディーノの飛竜はある方向に迷わず首をめぐらせた。飛竜の感覚に信頼をおくディーノは、ためらうことなくその方向に飛竜を向かわせてやった。
飛竜が行きついた先は、なんの|変《へん》|哲《てつ》もない広い通りのど真ん中。しかも飛竜は目を細め、じっと|石畳《いしだたみ》を見つめている。
なにかディーノには聞こえない音を聞きつけたらしい飛竜の耳が、びくんと動く。
ディーノはにやりと|唇《くちびる》を|緩《ゆる》めた。
「行け!」
命じられる言葉を待ち構えていた飛竜は、石畳めがけて|猛《もう》|然《ぜん》と炎を吐いた。
炎になぶられて、通りがごぽりと底を落とした。
そうして、ディーノは|窮地《きゅうち》に追いこまれていたファラ・ハンを発見することができたのだ。
|強《ごう》|引《いん》に石畳を|崩《くず》して小さな飛竜の|哭《な》き声を聞きつけ、救出に来た巨大な飛竜。|大《だい》|胆《たん》なその行動は、運悪くすれば、ファラ・ハンや小さな飛竜を|瓦《が》|礫《れき》で押しつぶして殺しかねないものだった。ファラ・ハンと小さな飛竜が、崩れ落ちた石をひとかけらも受けなかったのは、たまたま運がよかったのにすぎない。
|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》でディーノに救い出され、飛竜に乗せられて地下通路から脱出したファラ・ハンだが、安心して気が緩んだのか、涙がこぼれたが最後とまらなくなっていた。ディーノに泣き顔を見せるわけにいかず、ファラ・ハンは息をとめたりして|懸《けん》|命《めい》になるが、どうにも自由にならない。なぜこんなに泣かなければならないのかわからなくって『泣きたく』なってしまう。そしてディーノは、むっとした顔で横を向いたまま、ファラ・ハンを見ない。見ることができない。なんだかわからないが動揺していた。おたおたしている姿を必死でおしかくそうとしているから、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な感じの表情になり、怒っているようになる。
|嗚《お》|咽《えつ》を|噛《か》みころしているファラ・ハンと、押し黙ったディーノを、大きな飛竜の首にしがみつき、ぶら下がったままの小さな飛竜が首をかしげて見る。小さな飛竜はこうして自分の手でしがみついているより、ディーノかファラ・ハンの腕に行きたいのだが、なにか二人の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がおかしくて、近づくことができないのだ。ディーノとファラ・ハンは体を寄せあっていながら、心で顔をそむけている。離れようとしていてなお、|触《ふ》れあわずにはいられない。|惹《ひ》きよせられずにはいられない。
手持ちぶさたで、んむんむと閉じたままの口を動かしていた小さな飛竜が、横手からやってきた二頭の飛竜の姿を発見して|歓《かん》|声《せい》をあげた。
小さな飛竜の声にぎくりと首をめぐらせたディーノは、なにか自分が見られてはいけないことをしているという|錯《さっ》|覚《かく》を起こした。|慌《あわ》てかけ、その原因が自分にないことに気づく。
「|魔《ま》|道《どう》|士《し》と竜娘が来たぞ」
「はい……」
ぶっきらぼうなディーノの声に、ファラ・ハンは顔を伏せたままうなずいた。
少し離れた場所に領主の|館《やかた》のものらしい塔があるのが見えた。塔の|屋上《おくじょう》はルーフテラスであるらしく、ベンチやテーブルのようなものがあるらしいのがわかる。地上に降りれば泥に変化したひとびとがいる。ディーノたちには飛竜がいるのだし、見晴らしのいい上にいることは|好《こう》|都《つ》|合《ごう》だ。
ファラ・ハンを連れたディーノの飛竜は、レイムとシルヴィンにもすぐに発見された。
ぐしぐしと泣きべそをかいた目をこすっているシルヴィンには、一つ飛竜に乗るディーノとファラ・ハンは見慣れた姿で、そんなに特別目をひくものではないが、探そうとして見つけられなかった|苦《にが》い思いをもつレイムは、ファラ・ハンの姿にほっと息を吐いた。
ディーノの飛竜は、追いつきかけたレイムとシルヴィンの手前でひょいと向きを変えた。
|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》なディーノは、振りかえることもしない。もうしわけ程度に、彼の飛竜がわずかに首をレイムたちのほうに向けた。
小さな飛竜は、急に向きを変えた飛竜に振り落とされかけ、不平の声をあげながら、慌ててぶら下がった姿勢から、上によじのぼる体勢に変えた。
本来の速度で飛べば、大きさにみあっただけディーノの飛竜が速い。レイムの飛竜は乗り手が不慣れなため、そんなに速度はあがらない。シルヴィンの飛竜は|牝《めす》であり、いくら乗り手が熟練していようと、巨大な|雄《おす》にはかなわない。逃げるように遠くなるディーノの後を追って、レイムとシルヴィンは飛竜を飛ばした。
塔の上は、展望ができるような低い壁に囲まれたテラスだった。この地方の産物である強固な乳白色の石を|微《び》|細《さい》に|削《けず》って|細《さい》|工《く》した|椅《い》|子《す》と台が置かれ、領主の|館《やかた》と呼ぶにふさわしい豪華さと美しさをもっている。枯れた花の|残《ざん》|骸《がい》を残す花台が、滅亡世界を|象徴《しょうちょう》している。
飛竜を塔の上に降ろしたディーノは、落ち着くのを待つように、すこしの|間《ま》をおいた後、先に飛竜からファラ・ハンを降ろした。視線をさけてディーノから顔をそむけていたファラ・ハンは、固い声で簡単に礼を言い、ディーノと飛竜に背を向けた。ぐいと上向けたファラ・ハンの顔は、なんとなく疲れたような感じは残っていたが、ぐずぐずと泣いていたことだけはわからせない顔になっていた。
やや遅れて、レイムとシルヴィンが塔に飛竜を降ろした。
「大丈夫でしたか? ファラ・ハン」
レイムは言いながらファラ・ハンに駆け寄った。ファラ・ハンは淡く|微《ほほ》|笑《え》んで振りかえる。
「なんとか、大丈夫でしたわ。危ないところをディーノに助けていただきました」
しっかりとした声でそう答えたファラ・ハンだが、その格好をよく見たレイムは、大きく目を見開く。
「|怪《け》|我《が》をされているのではありませんか!?」
問いかけたレイムの視線を追い、足元に目をやったファラ・ハンは、さぁっと血の気が引くのを感じた。マントと長衣は|裾《すそ》がずたずたに裂け、サンダルも|紐《ひも》が切れかけ、ふくらはぎや|脛《すね》、足首などに|壮《そう》|絶《ぜつ》な|痣《あざ》ができている。泥の|飛沫《し ぶ き》にさんざんに打ち身をもらっていたらしい。いまさらのように、じんじんする痛みにおそわれて、立っているのが|辛《つら》くなった。気力からくじけてよろけそうになるファラ・ハンを、手を出したレイムが支える。
「|瘉《いや》しの|魔《ま》|道《どう》を与えてもよろしいですか?」
「お願いします……」
青くなったファラ・ハンを、レイムがひょいと抱えあげて台の上に乗せた。細身のうえに|着《き》|痩《や》せして見える|優男《やさおとこ》のレイムだが、力はそこそこにある。自分と|背《せ》|丈《たけ》のほとんどかわらないシルヴィンほどの体格の娘なら、多少ふらつくこともあるだろうが、|華《きゃ》|奢《しゃ》で小柄なファラ・ハンならなんの問題もない。まさかレイムにいきなり抱きあげられることになるとは予想もしていなかったファラ・ハンは、早急な展開に驚いた。|茫《ぼう》|然《ぜん》として目を|瞬《まばた》いていたところで、腰を落としたレイムに足を|凝視《ぎょうし》されて思わず声をあげた。
「あっ、あのっ……!」
「はい?」
|印《いん》を結びながら、きょとんとレイムが顔をあげる。その表情を見て、ファラ・ハンは自分がおかしな行動をとっていることが、わかった。ファラ・ハンはレイムに瘉しの魔道を頼んでいる。レイムがファラ・ハンの足元に腰を落とし、打ち身をもつ素足を見つめながら印を結ぶのは当然の行為なのだ。王都の礼拝堂で|白《しろ》|魔《ま》|道《どう》|士《し》マリエがやってくれたことと、レイムのそれは、同じことだ。
「なんでもありません……、すみません……」
ファラ・ハンは真っ赤になって、顔をレイムから少しそむけてうつむいて、目を閉じた。きっぱりと後ろを向いているディーノの背中が、目を閉じる寸前のファラ・ハンの視界にはいった。傷が|瘉《いや》されていきながら、ひどく後ろめたい気がして、心が痛んだ。
|呪《まじな》い粉を散らせて仕上げをしたレイムの術で、ファラ・ハンの傷と裂けていた衣服の|類《たぐい》がきれいに修復された。
「どうしたの?」
シルヴィンが目を|瞬《まばた》きながらファラ・ハンを見、いったいなにがあったのかとディーノにたずねる。|飛竜《ひりゅう》から降りるのを待ちかまえていたように飛びついてきた小さな飛竜を乱暴に扱いながら、ディーノは興味なさそうに目を細める。
「地下通路で泥の化け物たちに囲まれて襲われていた」
「なんですってぇっ!」
自分が襲われたことを思いだし、シルヴィンはぎょっとする。大声を出したシルヴィンにびっくりして、瘉しの魔道の終わったレイムとファラ・ハンが振りかえった。
「あの|干《ひ》|物《もの》みたいなお化けに襲われたのっ!?」
「干物……?」
レイムがくりかえし、ファラ・ハンと一緒にぱちぱちと目を瞬く。
「なんだ、それは?」
泥の|塊《かたまり》しか目にしていなかったディーノも、シルヴィンの言葉の意味をとらえそこねる。|的《まと》をはずした反応に、シルヴィンは気勢をそがれる。
「だって、わたしも襲われたんだもの……。皮をよこせって……。妹のためにって、|喪《も》|服《ふく》を着た、ミイラみたいな女だったわ。危ないところで飛竜が来て、その女の皮を傷つけたら、その女も泥になって、傷口から流れ出してしまったのよ」
「君を襲ったあれは、もともとひとの姿をしていた、泥、だったんですか?」
「はじめ会った時、こんな時間におかしいなって思ったけど、べつに変な様子ではなかったのよ。喪服を着てベールをかぶっていたけど、ごく普通の人間に見えたわ。公園で座っていたわたしに気がついて、びっくりしてたもの。妹を探してるって言ってた。バスケットに、妹っていう泥を入れて……、妹のために手ごろな皮を探してたのよ。襲われて、はじめて、それが化け物だってわかったわ」
「皮……」
ぽつりと|呟《つぶや》いて、ファラ・ハンは右手のひとさし指の背を|唇《くちびる》に当てて、少し考える。
「ひとの皮を手に入れて、その姿を手に入れる……。そのために、欲しがっていましたわ」
「でもあれ、『ひと』よ。化け物になってるけど」
「それは、僕の魔道においても実証ずみです」
「化け物は化け物だ」
にべもなくディーノに言いきられてしまって、三人は口を閉ざす。レイムは話題をきりかえる。
「シルヴィン、|封《ふう》|印《いん》の魔法陣は?」
「だめ。見つからなかったわ。この|街《まち》、礼拝堂も教会もないわよ」
「地下、かしら……」
ぽつんとファラ・ハンがつぶやいた。はっとレイムが顔をあげる。
「地下通路ですか?」
「えぇ。わたしの入ったのは水路のための地下通路でしたけれど、どこか、この|街《まち》の方にしかわからないような形で入り口があって、それで地下街のようなところに行けるのかもしれません」
「地下にはあの泥がたまっているぞ」
|冷《れい》|淡《たん》な声でディーノに指摘され、ファラ・ハンは口をつぐむ。彼らをおしのけて地下を進むだけの度胸はファラ・ハンにはなかった。恐ろしいというよりも、傷つけることができないというのが、一番の問題なのだ。この世に生きる命のため、ひとびとの願いをかなえるために、ファラ・ハンはいる。その存在理由と、彼女の優しさにおいて、身動きができない。
「|導球《どうきゅう》は、泥を示していました」
固い声でレイムは告げた。
「時の|宝《ほう》|珠《しゅ》をひとが得て『|歪《ゆが》んだ』か。いい|様《ざま》だ!」
|咽《のど》をそらし、ディーノは笑った。レイムは|眉《まゆ》をひそめる。
「|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》ですよ」
「それがこの街のやつらの|本性《ほんしょう》だということではないか! 他人を|犠《ぎ》|牲《せい》にしてでも生きのびたい、そんなことを望んだから、こんな形になって現れたのではないのか? あさましいものどもよ」
「どうすればいいのかしら……」
ファラ・ハンは、途方に暮れて目を伏せた。
|唐《とう》|突《とつ》に思いだし、シルヴィンがぐるぐると周りを見まわす。
「ねぇ、ここって、まだ|陽《ひ》が上らないの?」
問われて、はっとディーノとレイムも周りを見まわした。
ここは前にいた氷の山よりも南であり、あれよりも日の出がずっと早い所に位置している。到着した時点で、すでに陽が高くなっていてしかるべきだったのだ。こんなに長く|漆《しっ》|黒《こく》の夜が続いていていいはずがない。
「どういうことだ」
首をめぐらせたディーノは、花台の隅で割れたらしいクリスタルの|小《こ》|瓶《びん》の|残《ざん》|骸《がい》を見つけ、それの近くに歩みより、しゃがみこんだ。むっとするほどに濃く、花の香りがする。高貴の婦人が好んでつける有名な|香《こう》|水《すい》の匂いだ。
「ここには、風がない……!」
空気が動いてはいない。
そして、夜明けも訪れない。
「時の|宝《ほう》|珠《しゅ》と、|封《ふう》|印《いん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の影響下です……。ここは『閉ざされて』います。この|闇《やみ》は、ひょっとすると、闇の柱、そのものの暗さなのではないですか……?」
「なによ、それぇ!?」
意味がわからず、シルヴィンが悲鳴をあげた。ファラ・ハンがシルヴィンを見る。
「ここにはあまりにも魔法陣が多くて……、|呪《じゅ》が、|絡《から》んでしまったのですわ……。いくら姿を変じてしまったとはいえ、ひとを相手に乱暴なことをしたくはありませんわ。説得して、時の宝珠を|譲《ゆず》っていただいて、呪が絡んで魔物が出てこれないとはいえ、変形した闇の柱に満たされたこの場をおさめ、魔道の封土として、ここをきちんと封じてしまいたいのですけれど……」
「|都《つ》|合《ごう》よすぎない? それって」
「でもそれができなければ、次に進めませんわ。時の宝珠は世界を滅亡から救うためにどうしても必要なんです。呪が絡んでいるために、たまたま危うい|平《へい》|衡《こう》を保っているこの場所も、きちんと封印してしまわねばなりません」
「無理よぉ!」
「あきらめれば『負け』です」
きっぱりと言い、ファラ・ハンは台から降りるため腰を浮かせた。レイムが手を貸し、ファラ・ハンを優雅に助ける。
時の宝珠を得たひとびとと話をしようと、|飛竜《ひりゅう》で塔から降りようと考えたファラ・ハンの思いを読むように。
塔の下に目をやったディーノが、|酷《こく》|薄《はく》に|頬《ほお》を|緩《ゆる》めた。
「降りてゆく必要はない」
簡潔なその物言いに、はっとしたファラ・ハンは塔の|縁《ふち》まで走った。
塔の下には。
ぞわぞわとうごめく泥を盛りあげた水路と、通りをうめつくすほどの人影があった。
ひとの顔を浮かべた、生きた|醜悪《しゅうあく》なレリーフのような泥。そしてその横の通りに、恐れげもなく集まったひとびと。ひとびとは誰も、帽子やベール、ストールなどで顔をかくし、手袋をし、みにくく|干《ひ》からびゆく皮を|覆《おお》っている。下から波のように押し寄せる音は、低い|泡《あわ》|立《だ》つような声と、どぷどぷと揺れる泥の音。
圧倒され、ファラ・ハンはごくりと|唾《つば》を飲んだ。
げんなりして顔を|歪《ゆが》め、シルヴィンは横を向く。
「説得なんて|無《む》|茶《ちゃ》よぉ。火が嫌いみたいだから、|飛竜《ひりゅう》の炎で|脅《おど》かして、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れちゃえば早いじゃない」
「それはできません」
うわずった声で、ファラ・ハンはシルヴィンの提案を|一蹴《いっしゅう》した。
(ディーノだ)
(ディーノだ)
(ディーノが来た)
(この|街《まち》に)
(この街にひどいことをした、あいつが)
(あいつが)
(また来た)
(わたしの父はあいつに殺された)
(俺の家に火をかけた)
(血がにじむような苦労をして|貯《たくわ》えたものを)
(あいつは|滅《め》|茶《ちゃ》|苦《く》|茶《ちゃ》にした)
(奪い去っていった)
(ディーノだ)
(ディーノだ)
(殺せ)
(殺せ……)
(殺せ……!)
(皮を|剥《は》いでぶちまけろ……!)
(こなごなに引き裂け……!)
(もう好きにはさせておかない……!)
(我々には力がある……!)
(あんな|蛮《ばん》|族《ぞく》よりも強い力……!)
(力をもっている……!)
(|復讐《ふくしゅう》だ……!)
(|報《ほう》|復《ふく》だ……!)
(|恨《うら》みをはらせ……!)
(|逃《のが》すな……!)
(生きて帰すな……!)
(この|街《まち》から出すな……!)
|修《しゅ》|羅《ら》の申し子。|地《じ》|獄《ごく》の|悪《あっ》|鬼《き》。|孤《こ》|高《こう》の修羅王。様々な呼ばれ方をし、世界じゅうを|震《しん》|撼《かん》させ、名を|轟《とどろ》かせたディーノの|悪行《あくぎょう》は、ここでも例外ではなかった。一睡の悪夢にも似たその|猛襲《もうしゅう》は、大勢のひとびとの血と涙の上に存在している。
びちびちと|跳《は》ねる|囁《ささや》き声が、泥のうねりに乗って上へと押し上げられた。
|迫《せま》り来る殺意にあてられて、|縁《ふち》近くに立っていたレイムがおもわず一歩後ろに下がる。
「いやね、行いの悪いひとって」
ぞくりと震えた肩を抱きながら、シルヴィンが小声で毒づく。
|蒼《そう》|白《はく》になって立ちつくしたファラ・ハンをちらりと横目で見、ずいとディーノは前に進み出た。
長靴のかかとをがきりと石壁の上に乗せ、|悠《ゆう》|然《ぜん》と腕組みをして塔の上に立つ。
目を細め、つんと|顎《あご》をあげて、ディーノは|遥《はる》か下を|蔑《さげす》むように見おろした。
ぐおおと|呻《うめ》くように、泥がざわめいた。
「化け物がたいしたことを言うではないか!」
|哄笑《こうしょう》するかの大声で、ディーノは言った。
「ようやく自分たちの|性根《しょうね》が腐っていたことを|証《あか》す気になったものと見える!」
「黙れ!」
『貴様ニ|罵《ば》|倒《とう》サレルイワレナドナイ!』
「|醜《みにく》い、下等な、化け物|風《ふ》|情《ぜい》が! ひとの姿を捨てて報復できることが、そんなに嬉しいのか!」
たたみこむように、ディーノはあざ笑う。
「誰も、ひとの姿を捨てたわけではない!」
「ひとの姿でいたいのだ!」
『皮ヲヨコセェ!』
『金髪ノ男の皮!』
『女ノ皮!』
つぎつぎと投げつけられる言葉を耳にし、勝ち誇ったようにディーノは目を細めた。
「それが貴様ら化け物となりはてたものゆえよ! どこの世界に、ひとの姿を欲しがるひとがいるものか! ひとを殺し、物を奪うことより、なお|質《たち》が悪いわ!」
手厳しく指摘され、どぷどぷと泥がゆらめき、通りに立つひと形のものは顔を伏せた。
「貴様らはもはや、身も心も化け物よ! ひとの世界に属せず、かといって|魔《ま》|物《もの》でもない! ひとから|忌《い》み嫌われながら、滅亡していく世界で魔物の|餌《え》|食《じき》になるがいい!」
「ディーノ!」
あんまりな言い方に、ファラ・ハンが声をあげた。
「心の弱さを責めないで! あやまちは誰にでもあるものです」
ファラ・ハンは静かに歩を運び、ディーノの近くに立った。
ディーノと同じ黒の髪、青い|瞳《ひとみ》をもつ|麗《れい》|人《じん》の姿に、ざわりと泥たちがどよめいた。
『同ジ種族ダ』
「同族がいたのか……!」
(攻めてくる)
(攻めてくる)
(滅ぼしにやってくる)
恐れおののきながら小さくかわされる声に、ディーノはふんと鼻を鳴らした。
孤高であっても恐れられていたディーノに、種族を同じくする仲間がいたとすれば、それは世界じゅうのひとびとにとって|脅威《きょうい》にちがいない。この世界で、孤児として育ってきたディーノに対し、心優しく振るまってきた者など、誰一人としていない。パンのかけら、水の一滴すら与えることを|拒《こば》み、|足《あし》|蹴《げ》にし、あげくの果ては自分たちの生活を守るために人柱にまでしようとした。|狡《こう》|猾《かつ》に生きぬくことをおぼえたディーノが、誰もに|牙《きば》を|剥《む》き、奪うことしか知らぬ若者に成長したところで、非難されねばならない|筋《すじ》|合《あ》いではない。
だが、ファラ・ハンは『ひと』ではない。ディーノの同族ではない。
進み出たファラ・ハンは。
|自《みずか》らの背に存在する純白の翼を大きく広げた。
光の粉をまいたほどにもすがしく、|佳《か》|人《じん》の姿が|闇《やみ》に浮かびあがる。
「ファラ・ハン……!」
『ファラ・ハン……!』
伝説の|乙《おと》|女《め》に|間《ま》|違《ちが》いないその美女の名を、|驚愕《きょうがく》しながら呼ぶ声がさざ波のように響いた。
ファラ・ハンは|肯《こう》|定《てい》するように、静かに一度目を伏せる。
にわかに広がった|脅《おび》えの色は、彼らにとってのファラ・ハンが魔物の先導者であることを|示《し》|唆《さ》している。ディーノが魔物に|魂《たましい》を売り渡し、ひとびとを滅ぼしにやってきたかのように。
きゅっと手を握りしめ、ファラ・ハンはひとびとを見おろす。
「わたしは、滅亡の危機にあるこの世界を救うため、聖地クラシュケスで|招喚《しょうかん》され、この世界に具現した者です。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れ、魔物が世界に溢れでるのを防ぐための旅をしています」
透明に澄んだ声。金色の鈴を|転《ころ》がすかの、|麗《うるわ》しく、耳に優しい声で、ファラ・ハンは語りかけた。甘く響き、|鼓《こ》|膜《まく》にうっとりとしみいる、|心《ここ》|地《ち》|好《よ》く、どこか|懐《なつ》かしい声だ。
はっと胸をつかれたように、|脅《おび》えて顔を伏せていたひとびとはファラ・ハンを見あげた。
「どうぞわたしに、この|街《まち》に落ちた時の宝珠を……」
まろやかな声で、ファラ・ハンは静かに願った。
魔物の先導者というにはあまりに清らかなファラ・ハンの様子に動揺し、泥たちが揺れる。
レイムが前に進みでた。
「滅亡に向かう世界は、自然の|摂《せつ》|理《り》をねじ曲げ、あらゆるものを狂わせています。我々が信じる聖書もまた、悲しいことに、その影響を防ぎきれるものではありませんでした。世界救済の神話は|歪《ゆが》み、世界を滅亡へと|促《うなが》す物語にすりかわっているのです。ここにいるファラ・ハンは、明日を信じる心、けっしてくじけない強い心が呼びだした|招喚《しょうかん》の聖女です。この世界をもとに戻すことのできる、|唯《ゆい》|一《いつ》の存在です。時の宝珠は我々人間が持ってふさわしいものではありません。どうぞファラ・ハンに、時の宝珠を|譲《ゆず》ってください。そして僕は、不安定になっている|封《ふう》|印《いん》の魔法陣を修復し、あなたがたの街を正しく守れるよう、新しい魔法陣をしきましょう」
透明に澄んだ、歌人として|卓《たく》|越《えつ》したレイムの声。星を浮かべたきららかな|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》。いつわりのない、聖魔道士の若者。
なにが正しくてなにが|間《ま》|違《ちが》っているのか、|困《こん》|惑《わく》して泥たちは揺れる。
『伝説ノ、聖女……』
『知ッテイル。白イ翼ノ、|乙《おと》|女《め》。鉄ノ時代ニナッテナオ、ヒトビトノコトヲ気ニカケテイテクレル、タダ一人ノ|女《め》|神《がみ》……』
「違う、世界を救うのは金色の髪の姫だ。|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》をもつ運命の公女こそが世界を救うのだ」
「ファラ・ハンは魔物だ」
『心臓ヲエグレ』
「ファラ・ハンの心臓を運命の公女に捧げろ!」
「ファラ・ハンに時の宝珠を!」
「世界を救え!」
『世界ヲ救エ!』
「生きのびろ!」
「じゃまする|奴《やつ》は引き裂け!」
『殺セ!』
「殺せ!!」
『皮ヲ奪エ!』
「ちょっと待ちなさいよっ!」
|怒《ど》|鳴《な》った若い女の声に、びりりと空気が震えた。
「あんたたち、いったいなんなのよ! 自分をいったいなんだと思ってるわけ!?」
たくましい|眉《まゆ》を|吊《つ》りあげ、水色の瞳がぎろりと塔の下をにらみつけた。
「泥の|塊《かたまり》よ! ひとの皮を欲しがる化け物よ! そこのとこ、わかってるんでしょうね!? どうなのよ!」
「シルヴィン、言葉がすぎますわ」
たしなめるファラ・ハンを、シルヴィンはにらみかえす。
「はっきり言ってやらなきゃわからないじゃないの! 自覚ないのよ! どう|転《ころ》んだって、こんな連中、化け物じゃない! ディーノの言うとおり、身も心も化け物だわ! 魔物に食い殺されていい気味よ!」
「おやめなさい!」
|柳眉《りゅうび》を|険《けわ》しくし、ファラ・ハンがシルヴィンを制止した。はっとシルヴィンは息をのむ。ファラ・ハンは|哀《かな》しい瞳で、シルヴィンを見た。
「心が離れてしまっては、世界は救えません……。お願いです。もっと広く、心を開いてあげてください。この世界に生まれ、明日に向かって生きようとするものたちに未来を与えるために、わたしたちは動いているのです。救われるべきは、この方たちも同じです。死んでもいい命なんて、存在しないのですよ」
「そ、れは、そうかもしれないけど……」
シルヴィンは口ごもり、すねたように肩をすくめる。
そうだ。傷つける、殺すべき存在でないからこそ、ファラ・ハンは|醜《みにく》く変化をとげたものたちに対しても『お願い』する形で時の宝珠を渡してもらいたがっている。
存在を、尊重している。
「形だけを『ひと』であると信じている|愚《おろ》か者などに、|情《なさ》けをかけてやる必要はない」
厳しくディーノは言い切った。
ファラ・ハンは口を閉じる。
そして、泥たちもまた、|一《いち》|様《よう》におし黙った。
ひとの皮を手に入れ、それを|被《かぶ》ろうと、彼らがひとに戻れるわけではない。
かりそめの姿を手に入れるだけだ。
皮を奪われた|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》を増やし、自らの不幸を伝染させて、新たなる泥人間をつくりだすだけだ。
迷いこむ旅人を待ち続け、閉ざされた空間で、死なない泥としての生命は、永遠に|無明《むみょう》の|闇《やみ》を|徘《はい》|徊《かい》する。
それはけっして、ひととしての生き方では、ない。
第六章 尊厳
『殺シテ……!』
泥の中から浮かびあがった女の顔が叫んだ。
若い、シルヴィンと同じくらいの年頃の娘の顔だ。化け物じみた泥の|塊《かたまり》ではなく、|綺《き》|麗《れい》なひとの顔をした、|哀《かな》しい泥だ。
『ワタシタチハ、自分デ死ヲ選ベマセン……。死ヌコトニモ見放サレテシマッタノデス……! オ願イ……アナタガタガ天ノ御使イデアロウト、|魔《ま》|物《もの》デアロウトカマワナイ……! コンナ姿デ生キ続ケネバナラナイクライナラ、ワタシハ、ヒトトシテノ心ヲモッタママ、死ネルホウガイイ……!』
娘の顔をした泥は、はらはらと涙をこぼした。誰より自分の容姿が気になる年頃の娘にとっては、今のこの有り様は目を|覆《おお》いたくなるほどに恥ずべきものであったにちがいない。
『殺シテ…、殺シテ……、殺シテェッ……!』
絶叫に、おもわずファラ・ハンがぎゅっと目を閉じた。レイムが|拳《こぶし》を握りしめる。シルヴィンが一歩|退《しりぞ》いた。ディーノは薄く目を細めた。
ファラ・ハンにはわかる。泥と身を変じたひとびとが、どのような行動におよぼうと、心の底ではその|醜《みにく》い姿をこの世ならざるものとして感じ、恥じていたことを。そうでなければ、泥として水路に隠れるように横たわっているはずがない。|魔《ま》|物《もの》のみを寄せつけないはずの、水べりに置かれた|結《けっ》|界《かい》を越えないはずがない。
うるんだ目を開いたファラ・ハンは、泥を見渡す。
「ボルドスキー|子爵様《ししゃくさま》、どちらにおられますか?」
この|街《まち》を治める領主の名を呼びかけた。
どぷどぷと揺れる泥が、お互いを探りあう。
『領主様ハ、オリマセン……』
泥の中から老人の顔が浮かびあがり、ファラ・ハンに告げた。
『領主様ハ、嵐ノ夜、コノ街ガ水ニノマレタ時、水門ヲ守ルタメ、一番危険ナ場所ニ|自《みずか》ラ立タレテオリマシタ。オリカラ吹イタ強風ト、水門ヲ越エタ高波ニサラワレ、生死サダカデナク、今ニイタッテオリマス……』
「貴様は、それを高見の見物というわけか、バジルコス老将軍」
|蔑《さげす》むように、ディーノが指摘した。
名を呼ばれた泥の老人は、驚いたようにはっと目を開き、はらはらと涙を流した。
『コノヨウナ姿ニ成リ果テテナオ、ワタクシヲ知ッテイテクダサイマスカ……!』
「俺は貴様の計略にはめられて水攻めにあったことを|生涯《しょうがい》忘れぬ」
ディーノは、意地悪い目で老人を見、あまり嬉しくない返答をする。
それでも老人は|感《かん》|涙《るい》にむせびながら、泥の中に没した。
泥に変じてしまったひとびとは、一人であって集団だ。お互いに混ざりあってしまえば、誰か一人をどうこうすることなどできない。領主が不在となれば、いったい誰に彼らの意見をまとめてもらえばいいというのだろう。
仲間をおしのけ、泥の中から若い男の顔が浮かびあがった。
『ドウカ、ワタシカラモオ願イデゴザイマス……! コノヨウナ姿ニナル前ニ、マモナク出産ヲヒカエテオリマシタ、ワタシノ妻ハ、コノ状態ノママ、子ヲ産ミ落トシマシタ……! 子ハ男女ノ区別スラ定カデナイ泥ノ化ケ物デ、妻ハ、ショックノアマリ、気ガフレテシマイマシタ……! ワタシタチノホカニモ、コノヨウナ|哀《あわ》レナ者タチガ、コノ泥ノ奥底ニ、隠レルヨウニシテ、大勢沈ンデオリマス……!』
死ぬことはないというのに、産まれてくる者はいる。|芽《め》|生《ば》えた生命は、滅することなく、存在し続けている。ひととしての社会的秩序をもたぬ赤ん坊は、ただの化け物と成り果て、|正気《しょうき》を失ってしまった者もまた、救われぬまま、乱れている。
このような状態が永遠に続くというのであれば、皆、狂う。ひととしての記憶すら失った、力もない、おぞましいだけの化け物にすぎなくなる。
ひとが、ひととして存在するには。
ひととしての形態を失った者たちが、ひとであろうとするには。
ひとであるには。
死を選ぶことが、救いになるというのなら、それはあまりにも|哀《かな》しすぎる。
目を伏せたファラ・ハンは、肩を落とした。
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》は欲しい。それとひきかえに、願いをきけというのなら、それを|叶《かな》えてやりたいと思う。だが、それが命を奪うことであるとは。
「ねぇ、|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》い……、本当にどうにもならないの? このひとたち、もとに戻らないの? あんた、この世界でたった一人の、えらぁい救世の|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|士《し》なんでしょ?」
つんつんと|法《ほう》|衣《え》の|袖《そで》を引くシルヴィンに、レイムは哀しく目を伏せる。『えらぁい』かどうかは別として、いくらレイムが優秀な素質をもつ、選ばれし聖魔道士であるとしても、複雑に|絡《から》んでしまった|呪《じゅ》では、その魔道法則を探ることができない。こうまで固く形を結んでしまった魔道を、もとの状態にまで解きほぐすことは、世界じゅうにいるすべての魔道士の一生を|費《つい》やしたとしても可能かどうか、わからない。
『光ヲ恐レ……』
「われわれは|闇《やみ》を望んだ……」
泥と変じた身が|干《ひ》からびることを恐れ、暗がりを、闇の柱で|街《まち》を満たすことを欲し、暗く冷たい地下へと|潜《ひそ》むことを選んだ。ひとの皮を得た者たちは、乾くことなく、ひとの姿で|徘《はい》|徊《かい》することができたため、それを欲した。ひとの姿を欲しがることで、ひととしての存在を捨てた。
「街をのみこみ、命を奪う水が怖かった……」
『生キタカッタ』
『生キタカッタ』
「街を守りたかった……」
でも、こんな命を望んでいたわけではない……!
こんな形を望んでいたわけではない……!
「殺して……!」
『殺シテ……!』
(殺して……!)
津波のように押しよせた声に、ファラ・ハンが|腰《こし》|砕《くだ》けになって座りこんだ。
ディーノが|苦《にが》|々《にが》しく顔をそむける。|愚《おろ》か者たちの茶番を見せられるのはまっぴらだった。
ぎゅっとシルヴィンに|法《ほう》|衣《え》の|袖《そで》をつかまれたレイムが、ファラ・ハンの横に立ち、淡く|微《ほほ》|笑《え》んでファラ・ハンを見つめた。近づいた|気《け》|配《はい》に顔をあげたファラ・ハンは、レイムに願う。
「この|街《まち》に光を……」
|闇《やみ》の柱の暗がりに満ちたこの街に光を与え、ひとびとに安らぎを。
|絡《から》んだ|呪《じゅ》を消し去るほどにも|清浄《せいじょう》で、力強い光を導いて欲しいと。
「わかりました」
レイムはうなずいてファラ・ハンに答えた。
泣きべそをかくような、|半《はん》|信《しん》|半《はん》|疑《ぎ》の顔で見つめてくるシルヴィンに微笑みかけ、そっと、握りしめられている袖を返してもらう。
レイムは魔道士。誰よりも優しく、誰よりも強い、聖魔道士。|魂《たましい》の安息を約束するのも、聖魔道士としての彼の役目。
レイムは静かに頭上を見あげた。ぱさりと軽い音をたてて、法衣のフードがはずれ、光の滝のように輝くだろう金色の長い髪がこぼれた。
|印《いん》を結んだ右手をゆっくりと上げ、レイムは暗い空の一点を指さす。
そして、聖魔道士である自分だけに使うことを許された言葉を|呪《じゅ》|文《もん》とした。
『光よ』
それは超古代語。ファラ・ハンたち神々の国で使う言葉。古代ゼルジア語よりなお古い、金の時代のはじまった頃からの言葉。
最初の神が世界を創造したときの、第一声として使われた言葉。
レイムの発した言葉、音の響きに、びくりとしてファラ・ハンが顔をあげた。ほんの一瞬、忘れていたなにかを思いだしたような、そんな気がした。
レイムの声を耳にしたディーノもまた、ぎくんと、レイムに振りかえっていた。はじめて聞いたはずの言葉であり、それに胸をつかれるはずはない。それなのに……。理由はどうしても、思いだすことができなかった。
空気が動くのをシルヴィンは感じた。くんと動かした鼻に、湿った泥の匂いが届く。濃い水の匂いは、涙の匂いと同じだった。
天空の一点に星が現れたように、ぽつりと白いものが生まれた。
その一点から糸ほども細いものが垂れ、まっすぐにレイムの髪の上に落ちた。
金色の髪に落ちたものは、きらりと|跳《は》ね、光の粉となって|弾《はじ》けた。弾けたものはさらに、ファラ・ハンの純白の翼に落ちて散る。
まばゆく輝く光をまき散らす。
はぁっと泥のひとびとが目を見開く、その前で。
大きく天の一点が開いた。
|闇《やみ》を割り、その上に重くのしかかっていた灰色の厚い雲をおしのけて、光が。
本物の|陽《ひ》の光が、降り注いだ。
「お、おぉう……」
『アァ……』
光を受けた泥から、もうもうと|水蒸気《すいじょうき》が立った。
原始の時代、太古の昔そのままの、変わらない陽の光。
それだけは、金の時代と同じもの。
光に照らされて泥が溶ける。光にほどけて、消えてゆく。
涙にむせびながらひとびとは、泥は、真夏の氷のように|崩《くず》れた。
シルヴィンの目に、天へと|誘《いざな》われてゆくひとびとの、|至《し》|福《ふく》に満ちた|幻《げん》|影《えい》が見えた。
湿っていた|石畳《いしだたみ》が水分を失って|緩《ゆる》み、あちこちで道路がぼこぼこと|陥《かん》|没《ぼつ》した。建物の壁が崩れ、|街《まち》が|崩《ほう》|壊《かい》してゆく。
公園の|鐘《かね》つき塔が静かに、少しずつ傾きはじめ、青銅の鐘が揺れた。
カーン…。
揺らめく水蒸気に満ちた空気の中、|細《こま》かな水の粒子に反射して光が虹色に輝く。
|感《かん》|慨《がい》|深《ぶか》げに目を細めたレイムは、水の底で夢を見ている、そんな気がした。
静かなる|葬《そう》|送《そう》の時。
終わりを迎えながら、安らいで至福に輝くものたちの心を、レイムは感じる。
「|野《の》|辺《べ》わたる 風に 花をあたえ たむけの 歌を |我《われ》は歌う
過ぎ越し 日々に 思いはせて 優し 君の 影を抱く……」
よく響く声。のびやかに|透《す》きとおったレイムの声が、街の者すべてのために葬送歌を歌う。
建物の|透《す》き|間《ま》を通った風が、細く高く、|風《かざ》|笛《ぶえ》を鳴らしてレイムの声にそっと寄りそう。
|葬《そう》|送《そう》|歌《か》に自然の|楽《がく》による|伴《ばん》|奏《そう》をくわえる。
歌に|促《うなが》され、しぜんとシルヴィンは葬送の|印《いん》をきり、指を組んでいた。
カーン…。
カーン……。
|鎮《ちん》|魂《こん》の|鐘《かね》が十、響いた。
|緩《ゆる》やかに傾きながら鐘を打ち終えた鐘つき台は、横倒しになり、鐘とともに割れ|砕《くだ》けた。
ちょうどそこでレイムの歌も終わった。この歌は|棺《ひつぎ》を家から送り出し、墓場につくまで歌い続けられるものであるため、続けられないわけではなかったが、その必要がないことがレイムにはわかった。|幻《まぼろし》を見送ったシルヴィンも、このときに組んだ指をほどいている。
ひざまずいたファラ・ハンは、天に召されていく|魂《たましい》の安らかならんことに祈りを捧げた。
風に柔らかく髪をそよがせるディーノは、片足を一段高い位置に乗せたまま、目を細め、|精《せい》|巧《こう》な|彫像《ちょうぞう》のように|佇《たたず》んでいる。
「|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》い! あれっ!」
歌い終わり、放心したかのように立ちつくしたレイムの腕をシルヴィンが引っぱった。
びっくり目で振りかえるレイムに、シルヴィンははるか下、|街《まち》の一か所をさし示す。
「|封《ふう》|印《いん》の魔法陣でしょ!」
|崩《くず》れ落ちた公園の下。地下通路が広場を作っていたらしいそこには、|祭事場《さいじじょう》のようなものがある。ひとびとが礼拝に使ったり、儀式を行っていたらしい場所だ。その下、使われなくなって久しいとみえる、地下のもう一階層、古びた最下層の魔法陣は、たしかに封印の魔法陣。そここそが、魔道の封土たる場所。
「ありがとう、シルヴィン!」
レイムは|飛竜《ひりゅう》のもとに走ると、その背に素早く乗った。
「行きます!」
ファラ・ハンに叫び、レイムは塔の上から飛びたった。
レイムが呼んだ光の圧力で空気が動き、風がうまれた。光が侵入していながらも、ここは|闇《やみ》の柱の|帳《とばり》の中だ。本当に解放されているわけではない。
行動を起こしたレイムに、ファラ・ハンも顔をあげ、静かに祈りを終える。
ひとが持っていたはずの時の|宝《ほう》|珠《しゅ》が、むきだしになってあるはずだ。
「キョワァ!」
ディーノの腕にひっついた小さな飛竜のあげた|歓《かん》|声《せい》に、ファラ・ハンは首をめぐらせる。
泥のなくなった水路の底に、まろやかな光を放つものが落ちていた。
ふわりと大きく翼を広げたファラ・ハンは、天から降り注ぐ光を全身に浴びながら、優雅に塔から身を|躍《おど》らせた。
|華《か》|麗《れい》なファラ・ハンの姿に感激し、小さな飛竜がディーノの腕から離れ、ファラ・ハンを追いかけて飛ぶ。
ファラ・ハンの小造りな手でも握りしめることのできる、小さな時の宝珠。不安定なまま、ひとの世界にあってはならないもの。命そのものを|歪《ゆが》めてしまうもの。
(生きたかった)
(守りたかった)
時の宝珠にこびりついていた|思《し》|念《ねん》が、ファラ・ハンの手に、ほのかな熱となって伝わった。
ファラ・ハンは、ぎゅっと時の宝珠を握りしめ、胸の前に引き寄せて目を閉じた。
「キャウ?」
じっと|佇《たたず》むファラ・ハンを、ぱたぱたと顔の前に飛んだ小さな飛竜がのぞきこむ。
ファラ・ハンは雨に打たれた花のように、力なく立ちつくしていた。
小さな飛竜はファラ・ハンの足元に降り、下からファラ・ハンを見あげる。
「キャァワァ……」
気づかっている小さな飛竜のことを感じていながら、|哀《かな》しみを吸いこんだファラ・ハンは血が凍りついたような寒さを感じ、全身を|細《こま》かく震わせたまま、身動きできなかった。
光を吸いこむ影として存在している|封《ふう》|印《いん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》のそばに飛竜を降ろしたレイムは、静かにそのそばにひざまずき、魔道の粉を散らす。この封印はまだ本当の意味で開かれているわけではない。時の宝珠を得たひとびとの強い思いに引かれ、一番呼びやすい|暗《くら》|闇《やみ》として、闇の柱をにじみださせただけだ。そうでなければ、いくら|幾《いく》|重《え》にも描かれて強固になっているとはいえ、|屹《きつ》|立《りつ》して天を射、魔物を溢れださせることなく、ひとつの|街《まち》に夜だけを与えているはずはない。
魔法陣に描かれた文字から|呪《じゅ》|文《もん》|法《ほう》|則《そく》を判別したレイムは、それを仕掛けた術者の方法をなぞって、ふたたび強固な封印を魔法陣に|施《ほどこ》す。
音を発して一瞬光を|弾《はじ》いた魔法陣は、その上で渦を描きながら闇を吸収しはじめた。
|轟《ごう》|々《ごう》と|唸《うな》りをあげて集まった闇は、巨大な|竜《たつ》|巻《まき》のようにうねりながら、魔法陣を襲うかのように、その内におさまった。
天を割って差しこんだ光も、役目を終えて雲を割る力を弱め、届かなくなった。
|闇《やみ》をなくした|曇《どん》|天《てん》の下。
|崩《ほう》|壊《かい》した|街《まち》がある。
死に絶えた街がある。
住むべきひとびと、そこで生活し、暮らすべきひとびとなくして『家』は存在しない。『家』はただ、あるだけ、待つためだけに作られたものではない。
だからここはもう、街ではない。
|崩《くず》れ落ちた石、割れ|砕《くだ》けたその|細《こま》かいものが、風に乗って白く飛ぶ。ざぁっと音をたてる、砂粒の波になる。
|成獣《せいじゅう》の飛竜は背に、それぞれの主人を乗せた。
ファラ・ハンを探したレイムは、うなだれたままのファラ・ハンに、静かに歩みよる。
「行けますか?」
包みこむほどに優しい声で、尋ねた。ファラ・ハンは、かすかに|顎《あご》を引く。
「大丈夫です……。急ぎましょう。世界に|哀《かな》しみを増やすわけにはいきません……」
決意と意欲に満ちた言葉を耳にし、飛竜を二人のそばに近づけたシルヴィンはにこっと笑う。
「いっきに行っちゃいましょ! ぐずぐずしててもいいことないわ。あと二つ集めればいいんでしょ? 軽い軽い!」
世界救済なんて簡単なものよとばかりに、シルヴィンはウインクする。
本当に大変なのは、世界救済の重荷を背負うこれからのファラ・ハンなのだが、|気《き》|楽《らく》なこの娘には、宝珠の数と同じく、もう半分以上なしとげられたような、そんな気がしている。
お元気娘に刺激されて、おもわずファラ・ハンも|微《ほほ》|笑《え》まずにはいられない。
救われた気がして、レイムはほっと気持ちがくつろぐのを感じた。
「|導球《どうきゅう》を呼びます。飛竜に乗ってください」
「はい」
指示され、ファラ・ハンは小さな飛竜を抱きあげる。
レイムはファラ・ハンをエスコートして自分の後ろに乗せ、やや慣れた|仕《し》|草《ぐさ》で飛竜を駆ると上にあがった。ある程度上がったところで、ファラ・ハンは翼を広げ、レイムの後ろから降り、別の飛竜に向かった。導球を呼ぶなら、術のさまたげにならないようにファラ・ハンがレイムの飛竜を降りるのは|妥《だ》|当《とう》である。導球によって導かれ出た先がどんな場所であるかわからない。飛竜の扱いは、この中でレイムがいちばん|下手《へ た》だ。出現した場所によっては、レイム一人でも、満足に身を守りきれないような状況であるかもしれない。レイムはこれまでのことから、ファラ・ハンがディーノの飛竜に同乗するだろうと思って疑わなかった。
小さな飛竜を抱いたファラ・ハンは、翼を広げ二頭の飛竜を見あげる。
移動するならば飛竜に乗らねばならない。そのための飛竜であり、ファラ・ハンを守ってしかるべき聖戦士たちである。
彼らに対し、ファラ・ハンが|臆《おく》したり、遠慮せねばならない理由はない。
そして、か弱い聖女が選択するにもっともふさわしい飛竜は、乗り手もふくめて、ただ一頭しかいない。
が。
ファラ・ハンはシルヴィンの飛竜に同乗した。
きょとんとした顔で、シルヴィンはファラ・ハンを見た。お願いできませんかと問いかけるファラ・ハンの青い目を見て、ぱちぱちと|瞬《まばた》きしながらも、シルヴィンにはそれを断る理由がないので、うなずいて|承諾《しょうだく》の意をあらわす。
すぐ近くに飛竜を浮かべたままのディーノは、塔から飛びたってから、一度もファラ・ハンのほうを見なかった。わざと目をそらしていた。
そしてファラ・ハンも。一度も、ディーノを見ていなかった。
ファラ・ハンは。
ディーノを見ることはできない。そのようなことは許されていないことを、知っている。
これ以上、ディーノを|汚《けが》すことなどできないと、自分を恥じていた。
聖戦士としてではない部分で、ディーノにかかわることができないため、故意に彼に近づくことができないのだ。
ディーノを尊重するがゆえに。
「……」
レイムはディーノを見た。
ディーノは青く燃える炎のような|瞳《ひとみ》で、ぎろりとレイムをにらみつけた。
ディーノが激しく怒っていることを感じ、レイムは黙って目をそらした。
レイムだけではなく、ファラ・ハンにまでも|刃《やいば》を向けるだろうディーノの行動が予測でき、レイムにはなにも言えなかった。
ひと殺しは、ディーノにとって|禁《きん》|戒《かい》ではない。禁戒ではないが、今、この場で行われるだろうその行為は、あまりにも|哀《かな》しい。
孤独という|鎧《よろい》をまとい、|猜《さい》|疑《ぎ》という|盾《たて》を持つディーノ。
彼はおそらく、自分の心まで滅ぼそうとする。|自《みずか》らの強さの前に、自滅する。
それがわかっていながら、レイムにはなにもできない。
(この世界救済が、自然秩序だけでなく、ひとの心をも救えるものとなりますように)
レイムには、そう祈らずにはいられなかった。
この世界、今まで|平《へい》|穏《おん》に過ぎてきた時間の|汚《けが》れそのものを、ディーノは押しつけられてきたのかもしれないと、レイムには思えた。
世界じゅうで、一番救われなければならなかったのは、この一人の若者であったのかもしれない。
|貧《ひん》|困《こん》や悪意、それら|人《じん》|為《い》|的《てき》なもののすべてを一身に受け、そしてそれを|雄《お》|々《お》しく|跳《は》ねのけながら、ディーノは生きてきた。生き残った。
|正真正銘《しょうしんしょうめい》の、|選《え》りすぐられた者。
自然なるもの、生を|授《さず》かりしものを『聖』であるとするならば、たしかに、ディーノほど、|銀《ぎん》|斧《ふ》の所有者たるにふさわしい男はいない。
世界救済とはもしかすると……。
「|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》い!」
|怒《ど》|鳴《な》られて、レイムははっと顔をあげる。
きつい光を放つ水色の|瞳《ひとみ》が、レイムをにらんでいた。
「なに、ぼーっとしてるのよ? なにかあったの?」
「いえ……、べつに……」
考えていたことが、怒鳴られたことによって、すぽっとレイムの頭の中から消え失せていた。
思いだすほど重要なことかと問いつめられれば自信がないので、レイムはそれいじょうの記憶の|探《たん》|索《さく》をあきらめる。
三頭の|飛竜《ひりゅう》は|崩《ほう》|壊《かい》していく建物の|埃《ほこり》をさけるため、|街《まち》を見おろすほどの高みに浮かべられている。
以前訪れたことのあるディーノ以外には、そのまぶしいほどに有名な繁栄の姿も、|闇《やみ》に沈んでいた影の形でしか見ることができなかった街、パウレチア。
|華《はな》やかな|噂《うわさ》に語られた|水《すい》|郷《ごう》都市は、今、見る影もなく崩壊している。
住んだひとびとのすべてを|亡《な》くし、永遠に、滅びた。
(忘れない)
(ここには街があった)
(ここに生きたひとがいた)
(|哀《かな》しみを知る水があった)
(いつか)
(僕はこの街のことを歌う)
(僕の音で)
(僕の知る物語を)
レイムは|印《いん》を結ぶ。
「天空を知ろしめす光の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》 |汝《なんじ》の行きたる場所に 我らを導け 聖なる正義の|女《め》|神《がみ》の|御《み》|名《な》において |闇《やみ》に一条の光の矢を放て」
すべてが|崩《くず》れ落ち|瓦《が》|礫《れき》の山と化した|街《まち》を、外と|隔《へだ》て、変わらず囲いつづけていた巨大な壁、偉大なる文化遺産である水門は。
今、|緩《ゆる》やかに傾き、|倒《とう》|壊《かい》した。
|愛《いと》し子に手を差しのべるように、街に静かに水が流れこむ。
ひとつの街が、終わった。
飛竜に乗った四人の姿は、|導球《どうきゅう》にいざなわれ、別の場所へと移動した。
第七章 火災
きな臭い大気に刺激され、鼻と目が痛くなった。
ちろりと輝き見える炎が、もうもうと渦巻き乱れる|黒《こく》|煙《えん》の|透《す》き|間《ま》から見える。
出現した瞬間に煙にいぶされ、四人は激しく|咳《せ》きこんだ。
風にのり、悲鳴が聞こえる。
いったい下でなにが起こっているのかと、ディーノは煙を吸いこまぬよう息をとめて目を細める。
|飛竜《ひりゅう》のすぐ下、眼下にあるのは街だ。燃えさかる炎に焼かれ、逃げ|惑《まど》う大勢のひとびとがいる街だ。
「魔法使いっ!」
悲鳴のような声で叫んだシルヴィンの声より早く、レイムは街への降下をはじめている。
魔道によって炎を消す。ただ一人であっても、街全部が焼け落ちることを防ぐことができるだけの魔道力を、レイムはもっている。
そしてシルヴィンも、めざとく|街《まち》を見まわし、逃げるひとびとを|促《うなが》している衛兵たちの存在を確認する。飛竜に乗り、視界が広いとはいえ、シルヴィンがでしゃばる必要はなさそうだ。シルヴィンは自分が見つけださねばならない、|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|土《ど》たる場所を渦巻く炎の中、なんとか発見しようと目を|凝《こ》らす。
建物をなぶり、高くあがる炎を避けて降下させた飛竜の上、煙を直接吸いこまないように顔の下半分を手で押さえながら小さな飛竜を抱いていたファラ・ハンは、一瞬、|瞳《ひとみ》の端をかすめたものに、はっと振りかえる。
せまい路地の|陰《かげ》、|格《こう》|子《し》のはまった地下室の窓の中に、幼い少女がいた。両側の建物には、すでに火の手がまわっている。出られないのだろうか。いたずらでもして、おしおきのため、ちょっと閉じこめられていたというのだろうか。火事の騒ぎは、あの地下室にまで届いているはずだ。このままだと、あの少女は地下室に残されたまま、焼け死ぬ。我さきにと逃げ|惑《まど》うひとびとが、|轟《ごう》|々《ごう》と燃える炎と悲鳴の中、置きざりになった少女のことになど気がつくはずがない。たとえ肉親であっても、一度逃げるひとびとの波にのまれてしまったら、引きかえすことなどできない。戻りたくても、押し流され、ただ進むしかない。
「お願い! シルヴィン、降ろしてっ!」
真後ろからの金切り声に、シルヴィンはびっくりして振りかえる。
「女の子を助けたいの! 地下室にいて出られないみたい! お願い、ここで降ろして!」
今すぐにも|鞍《くら》から腰を|滑《すべ》らせて飛竜から飛び降りそうな勢いのファラ・ハンに、シルヴィンは、にっと笑い、飛竜を少し戻す。
「ちっこいのと離れちゃだめよ! 翼出すときには、よく周りを見て! 気をつけてね!」
「えぇ! ありがとう」
速度を落とし、地表すれすれまで降下した飛竜の上から、身軽くファラ・ハンは飛び降りた。駆けだしたファラ・ハンの様子に、お荷物になると感じた小さな飛竜は、抱かれていた腕から出て、自分の翼を広げて飛んで、ファラ・ハンと並ぶ。
通りを一方向に向かって逃げていくひとびとを避け、炎を|噴《ふ》きだして燃える建物ぎりぎりのところを選んで、ファラ・ハンは走った。
火を扱う|獣《けもの》であるため、赤ん坊でも小さな飛竜は火に対して耐性がある。まだ固い|成獣《せいじゅう》の|鱗《うろこ》に生えかわってはいないといっても、火山地帯に生息し、時と場合によっては|溶《よう》|岩《がん》のある火口近くにまで、巣を作って子育てをする|種《しゅ》の獣だ。ちょっと障害物が多くて|邪《じゃ》|魔《ま》だと思うくらいで、小さな飛竜にはこんな火事なんて、なんでもない。
長い髪をなびかせ、|裾《すそ》の広い衣装をまとうファラ・ハンは、絶好の火の|餌《え》|食《じき》となる。ちょっとでも火にこすられれば、そこから簡単に燃えあがる。ファラ・ハンは火をさけるため、個人|結《けっ》|界《かい》の|防《ぼう》|御《ぎょ》|印《いん》を結び、焼け落ちる街の中を|果《か》|敢《かん》に進んだ。
しっかりと記憶していたため、路地はすぐに見つかった。|黒《こく》|煙《えん》は両脇の建物の窓、|鎧戸《よろいど》の|透《す》き|間《ま》から、もくもくと溢れていたが、幸いにも、まだここにまで火はまわっていない。火が来ていない今ならまだ、なんとかあの少女でもこの路地を走ることができるはずだ。地下室の中でしゃがんでしまったのか、少女の姿は見えない。中は暗くて、|覗《のぞ》いてもさっぱりわからない。だがか細い泣き声だけは、聞こえてくる。泣くだけの元気が残されているのならと、ファラ・ハンは|安《あん》|堵《ど》する。
「泣かないで、大丈夫よ! すぐに出してあげるわ」
泣いている少女に聞こえるよう、大声で叫びながら、ファラ・ハンは地下室をもつ建物の壁に駆け寄った。|金《かな》|枠《わく》をはめこまれた|頑丈《がんじょう》な石の壁は、とてもファラ・ハンの手におえそうなものではない。体重をかけてどうにかしようにも、鋼鉄の|格《こう》|子《し》は押しても引いてもびくとも動かない。
苦労しているらしいファラ・ハンを見かねて、役に立とうと、小さな|飛竜《ひりゅう》が格子に向かってぱかっと口を開けた。
火を吐き出そうとしている小さな飛竜の様子に気がつき、びっくりしたファラ・ハンは、|慌《あわ》てて小さな飛竜の翼の端をつかんで引き戻す。
「アギャ!」
真上を向いた小さな飛竜の口から、ぱうっと|拳大《こぶしだい》の炎が|弾《はじ》けた。
こんなところで火を吐きかけられては、たまったものではない。中の様子が見えないのだ。女の子に向かって火を吐かれたなら、助かるものも助からなくなってしまう。
「心配しないで、なんとかできるわ」
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を得て、ファラ・ハンは|爆《ばく》|砕《さい》の|攻《こう》|撃《げき》|呪《じゅ》|文《もん》が使えるようになっていた。ファラ・ハンの細腕で、格子を壁からむしり取ることはできないが、これを|粉《こな》|々《ごな》に吹き飛ばすことはできる。
小さな飛竜を抱いて向かいあったファラ・ハンは、人指し指をたてて、正面から見つめる。
「ひとつだけお願いよ。壁を吹き飛ばすから、この透き間から向こう側にまわって、女の子を守ってあげて」
「キャウ!」
翼をぱふっと動かした小さな飛竜は、お願いされて|上機嫌《じょうきげん》で返事した。
小さな飛竜が格子のあいだを行って地下室にはいり、十分な|間《ま》をとってから、ファラ・ハンは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸した。爆砕の呪文を使うのははじめてであり、使ってみないことには|細《こま》かい具合はわからない。ファラ・ハンとしても、今のこの状況に適したように、規模の大小をなんとか|把《は》|握《あく》しているのにすぎない。個人|防《ぼう》|御《ぎょ》の|結《けっ》|界《かい》を自分以外に配することができるほど、気持ちの余裕がない。
「キャァゥッ!」
いつでもこいと、向こう側から小さな|飛竜《ひりゅう》が鳴いた。
「いくわ!」
あとのフォローは、小さな飛竜にまかせた。いったん腹をくくったファラ・ハンは、|麗《うるわ》しい青い|瞳《ひとみ》をきっと見開く。
左手のひらを壁に向け、その手首を右手でつかむ。|威力《いりょく》はあるが、上級の|呪《じゅ》|文《もん》ではない。反動を吸収するため、|膝《ひざ》を|緩《ゆる》めてしっかりと足場をとった。
「シェラ・ス・イス・ナウア!」
古代語の音を忠実になぞれば、それは確固たる呪文と化す。|爆《ばく》|烈《れつ》せよの命令は、そのままにファラ・ハンの左手のひらから力となってほとばしり、目標物に襲いかかった。
|轟《ごう》|音《おん》を発して、壁は|粉《こな》|々《ごな》に|砕《くだ》け散った。自分と少女のほうに飛ぶ破片を|退《しりぞ》けるため、小さな飛竜はその瞬間、強く翼を動かした。ファラ・ハンの|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》の力を得ている小さな飛竜の力は、その外見よりはるかに強大になっている。小さな翼の起こした暴風にあおられて、爆風はすべてファラ・ハンのほうに|跳《は》ねかえった。|防《ぼう》|御《ぎょ》|結《けっ》|界《かい》に身を置くファラ・ハンは、この程度で傷つけられることは絶対にないが、軽く腕をあげて、|御《ぎょ》しきれない圧力から顔をかばう。
壁の一部が|綺《き》|麗《れい》に吹き飛んだ地下室の奥で、少女は泣いていた。
ファラ・ハンのいるすこし横の位置に|扉《とびら》があったらしく、地下室を利用するための階段がついている。ぱたぱたとはばたく小さな飛竜とともに、静かに階段を下りたファラ・ハンは、女の子の前にしゃがみこむ。ファラ・ハンがひざまずいて、立っている女の子とようやく目の高さが同じくらいになる。二歳か三歳くらいか。|麗《うるわ》しいファラ・ハンの姿は、|闇《やみ》の中でもぼうっと輝いて見えるような|錯《さっ》|覚《かく》を起こさせる。逆に闇に慣れていないファラ・ハンの目からは、ぼんやりと女の子らしい|輪《りん》|郭《かく》が見えるだけだ。
「もう大丈夫よ。出られるわ。さぁ、お顔をあげて。ここは危ないわ。早く逃げなくては」
泣き濡れた目をこすりながら、女の子はファラ・ハンに|促《うなが》され、腰をあげる。
「お母さんは?」
尋ねられて、ファラ・ハンは困る。そして淡く|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「一緒に探してあげる。だから、ね?」
「うん……」
|蜂《はち》|蜜《みつ》|色《いろ》の頭をあげた女の子は、涙をぬぐって、小さな両手をファラ・ハンに向かって差しだした。
ファラ・ハンは女の子をしっかりと抱きあげる。細腕に荷は重いが、こんな小さな子供が|恐慌《きょうこう》を起こした人波の中、無事に足を運べるとは思えない。いくらも行かないうちに突き倒され、|転《ころ》んではぐれてしまうのは目に見えている。せっかく助けだしたというのに、むざむざ危険なめにあわせるわけにはいかない。
この少女の肉親たち、母親も、炎から逃げているはずだ。ひとびとの動きを見ていたファラ・ハンは、彼らがある方向に向かって逃げていることを知っていた。避難場所が特定されているとすれば、はぐれた者たちを探しあてることもできるはずだ。とにかく、彼らの向かう場所に行ってみなければならない。この子の家の近所に住んでいたひとにあうことができれば、それでファラ・ハンはひとまず後をまかせることもできる。面識のないファラ・ハンが一緒にいるより、見知った者がいるほうが、この子も安心するのにちがいない。
ファラ・ハンは女の子を抱き、炎のまわりはじめた建物から出ると、路地へと駆けだした。遅れじと、小さな|飛竜《ひりゅう》もファラ・ハンを追って飛ぶ。
ファラ・ハンを降ろし、飛竜を軽くしたシルヴィンは、|街《まち》の全容を一度、上空から見てみようと思いたった。急上昇も急降下も、シルヴィンひとりであるならば、飛竜に|負《ふ》|担《たん》をかけることなく、|楽《らく》に行える。少々の危険はつきものだが、ちょこちょこ|手《た》|綱《づな》を|操《あやつ》られて飛ぶよりも、飛竜もよく動けるはずだ。体勢が守りにはいらないほうが機動性もよく、結果もいいことが多い。|頑丈《がんじょう》がとりえのシルヴィンには、どちらかというと|佳《か》|人《じん》とのおつきあいよりも、マイペースの単独行動のほうが向いている。組むとしても、同じくらいの反応速度をもつ者でなければ、肩が|凝《こ》って仕方ない。
|黒《こく》|煙《えん》たなびく中、まっすぐ上めがけて飛竜を上昇させたシルヴィンは、気流を読み、自分たちが煙にいぶされないところに飛竜を浮かべた。
|街《まち》は、高く強固な壁に囲われた、さびれた山の上にある|要《よう》|塞《さい》にも似た造りをしていた。炎はすでに街の全域におよんでいる。|棟《むね》つづきの|家《か》|屋《おく》から|類焼《るいしょう》し、つぎつぎと焼け落ちている。ひとびとは、街を囲む高い壁に向かって逃げている。
|頑強《がんきょう》な壁。攻め入られることを恐れ、なにものをもよせつけないことを目的にし、造られたもの。高く高く、|頑丈《がんじょう》で……。
「逃げられない……!?」
ようやくの思いで火を|逃《のが》れ、壁に|辿《たど》りついたひとびとは、壁にすがってなすすべもなく、|嘆《なげ》き叫んでいる。
(熱い!)
(熱い!)
(助けて!)
(ここから出して!)
(熱い!)
(熱い!)
どんなに手を伸ばし、伸びあがろうと、壁を越えることはできない。誰かひとりでも逃れることができればと、壁のあちこちで肩車をしたり、体重の軽い者を押し上げたりしているが、壁は大人四人の身長をたしあわせたよりも高い。ぶ厚い板を|幾《いく》|重《え》にも張り、その中に灰土を流しこんで固めて造った丈夫な壁は、丸太で突き|崩《くず》すこともできない。数十人もの人間が体当たりをしても、びくとも揺るがない。
シルヴィンは顔をしかめ、|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
飛竜を使ってひとを運び、救出することはできる。だが、救い出さねばならないのは、|街《まち》ひとつの人間たち。十人二十人ならいざしらず、千を|超《こ》える人数となれば、とても手に負えるものではない。パニックを起こすのは目に見えている。
壁を飛竜の力でなんとかできるか? 板なら飛竜の吐く火炎で焼くことができる。だが、灰土は焼けない。壁に穴を開けることはできない……!
だとすれば。
(|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》い!)
この事態をなんとかできるのは、あの|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》の力でしかない。
レイムを探しに引きかえそうとしたシルヴィンは、首をめぐらせたとき、壁に|設《もう》けられた、ただひとつの門を見つけた。
鋼鉄の|枠《わく》をもっているが、造りは木だ。ここには灰土は使われていない。木だけなら、飛竜の火炎で焼くことができるか。
勢いこんで、飛竜を向けかえたシルヴィンに。
「|無《む》|駄《だ》だ。あきらめろ」
|醒《さ》めた声が投げつけられた。
ぎょっと目を開き、シルヴィンは振りかえる。
声の主はシルヴィンよりもやや高い空の上に|飛竜《ひりゅう》を浮かべ、|悠《ゆう》|然《ぜん》と見物を決めこんでいた。
「ディーノ!」
|怒《ど》|鳴《な》るように名を呼ぶシルヴィンに、無関心な表情でディーノは目を細めた。
かあっとシルヴィンの頭に血が上る。
「そりゃあ、あんたにはなんにも関係ないでしょうよ!」
ディーノは、|自《みずか》らの手で燃えさかる火に油を注いで、ひとを焼き殺そうと、平然とそれを見ていられるような、そんな|下《げ》|劣《れつ》で|卑《いや》しい男だ。|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》などと|豪《ごう》|語《ご》していい気になっているひと殺しだ。
ディーノは、ふんと鼻を鳴らし、|退《たい》|屈《くつ》そうに軽く髪をかきあげる。
「『マ・フィルニーの火』は消せぬ」
上空を|緩《ゆる》く渡る風に、ふわりとディーノの髪がそよいだ。
悪びれることもなく、涼しく風を受けているひとりの武人たる|華《か》|麗《れい》な若者の姿は、|陰《いん》|気《き》くさい|曇《どん》|天《てん》を背景においてなお、見る者の目を魅了する。
「そ、んなこと……」
目を奪われ、気勢をそがれたシルヴィンは、目に焼きついたその勇姿を追い払うように、乱暴に頭を振る。
「決めつけないでよっ!!」
怒鳴ってシルヴィンは、いっきに飛竜を下降させた。
去っていくシルヴィンを、ディーノは少しだけ目で追う。
「どんなに|尽力《じんりょく》したところで……」
ふっと笑った。
「過去は変わらぬ」
|街《まち》じゅうに広がった火災の様子を見てとったレイムは、飛竜から足場のいい|石畳《いしだたみ》の上に降りることを選んだ。飛竜の上は風向きしだいで、いくら場所を選んだつもりでも煙にいぶされることになる。集中力がなによりも大切なレイムには、その|妨《さまた》げになるものは極力避けたいところだ。炎を|噴《ふ》く|家《か》|屋《おく》が|間《ま》|近《ぢか》でも、はじめからそれがあったとして考慮していたなら、まだ計算と予測ができ、問題にはならない。
個人|防《ぼう》|御《ぎょ》の|結《けっ》|界《かい》で身を包んだレイムの降り立ったのは、街のほぼ中心点。渦巻く火炎が出口をなくして乱れているところ。
ここにはもう誰もいる|気《け》|配《はい》はない。命ある者はとっくに逃げた。炎や煙にまかれた者は、もの言わぬ死体と化し、その|残《ざん》|骸《がい》すら炎を|噴《ふ》きあげる|瓦《が》|礫《れき》の中、見わけることができない。
ここならば大がかりの|魔《ま》|道《どう》を用いて、一瞬で炎を消しさることができる。区画を限定し、空気を巻いて真空を起こす。生物のいるところでは行えない、完全消火を可能とする魔道を使うことができる。
目を閉じて呼吸を整えたレイムは、指を組み、|印《いん》を結ぶ。
リズムを読み、きっと|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》をあげたレイムは、高らかに|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた。
「ディナ・ザート!!」
|轟《ごう》! 大気が|唸《うな》りをあげ、一瞬、|竜蛇《りゅうじゃ》の形をとった。すばやくぐるりととぐろを巻いた竜蛇は、天をめがけて駆け上がる。ちぎりとった炎の色、|紅《ぐ》|蓮《れん》の体をもつものが、矢のように天へと走る。
|街《まち》の中心地たる一区画。領主の|館《やかた》と教会、公園、そしてたくさんの|家《か》|屋《おく》をふくめた空間すべてが、炎をさらわれ、焼け|焦《こ》げた残骸として黒く影のように沈んだ。
天をめざした炎を見送り、術を|駆《く》|使《し》したレイムがほっと息を吐き、印をほどこうと視線を戻した場所には。
炎があった。
さきほどとまったく変わらない有り様で。
ぎょっとして、レイムは大きく目を見開く。
「そん、な……」
たしかに、術は成功した。炎は天に上り、そこで拡散したはずなのだ。その|手《て》|応《ごた》えを、レイムははっきりと感じている。
炎が消えないはずはない。消えない炎など存在しない。
そう考えて。
さあっとレイムの背筋が冷えた。
存在しない炎は、消えない……!
「これ、は……!」
燃え盛る炎の中、レイムは個人|防《ぼう》|御《ぎょ》の|結《けっ》|界《かい》を|解《と》いた。焼けた|石畳《いしだたみ》を踏むサンダルの底が|焦《こ》げ、|法《ほう》|衣《え》の|裾《すそ》が焼け、髪に火の粉がかかる。焼け落ちた建物から|弾《はじ》けた木材の破片で打たれ、レイムは顔をしかめて手をかばった。
左手の甲、焼けた木材のあたった場所は真新しい|火傷《や け ど》をおっている。
ずきずきと痛む手を握りしめ、目を閉じたレイムは基本の呪文を頭の中で繰りかえし、右手の指で|呪《まじな》い粉をひとつまみ目の前で弾いてから、目を開いた。
さびれた台地の情景が、ほんの一コマ、|錯《さっ》|覚《かく》かと思えるほどの瞬間でレイムの目に映った。あとは変わらず、火炎渦巻く街にただ、レイムは立ちつくしているだけだ。
炎の熱気にあぶられ、体じゅうにじっとりと汗が浮いていた。|呪《まじな》い粉の残る指で左手の|火傷《や け ど》に|触《ふ》れる。きっぱりとした痛みがあった。
小さく声をあげたレイムは、|瘉《いや》しの|印《いん》を描き、|防《ぼう》|御《ぎょ》|結《けっ》|界《かい》の|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた。
炎は。
存在しない。
いや、もうこの場には存在しないはずのもの。
過ぎた時間が映す|幻《まぼろし》の情景でしかない。
だが、現実として痛みは感じる。炎の発する熱を感じることができる。炎に焼かれる。
(取りこまれていたのか……)
軽く|唇《くちびる》を|噛《か》み、レイムはかすかに|眉《まゆ》を寄せた。
焼け落ちた都市の|幻《げん》|影《えい》。幻の炎。
だがそれは、現実においてひとの命を奪うことを可能とする。
門を炎で焼き破るには、内側から炎を吐きかけるしかない。
|飛竜《ひりゅう》を勢いよく降下させたシルヴィンは、門から壁にむらがるひとびとに向かって大声で叫ぶ。
「どいてーっ!」
|怒《ど》|鳴《な》りつけるほどの声だが、必死の|形相《ぎょうそう》で壁や門にすがるひとびとは誰もシルヴィンに振りかえることはなかった。
ちっと|舌《した》を鳴らしたシルヴィンは、門に向かっていくその姿勢のまま、強行策に出る。
降下した飛竜の翼が巻き起こす風で、門の周りからまずひとをどけ、そうしてからもう一度飛竜を降下させ、門を焼き破る。
翼で風を|唸《うな》らせて頭上すれすれに降下した飛竜のために、嵐のように砂が舞いあがった。
だが。
誰も、そのためにびくとも動かない。髪の一本も、シルヴィンの起こした風のために動く|気《け》|配《はい》がない。
「なっ、なにっ……!?」
目を見開いたシルヴィンは、ゆっくり驚いている状況に自分がないことに、はっとする。
目前に門がある。激突を避けるため、飛竜を上昇させねばならない。
ぎりぎりで、壁と平行になる形に、まっすぐ天をめざして飛竜を向けかえたシルヴィンに。
壁の方向から炎が襲いかかった!
『熱イイイィッ!!』
巨大な顔を形づくった炎が|吠《ほ》えた。
ぎょっと身を引いたシルヴィンは。
おもわず|手《た》|綱《づな》を取り落としていた。
|飛竜《ひりゅう》はこの時、地面に対して|垂直《すいちょく》になっていた。
|鞍《くら》からふわりとシルヴィンの体が浮いた。
「きゃああああっ!」
落ちる。
壁にむらがるひとの頭上に。
乗り手の重みを失なったため|突《とつ》|如《じょ》として速度を増した飛竜は、即座に適切な判断をした。
|果《か》|敢《かん》に体をひねって方向変換をし、地表すれすれで、シルヴィンを鞍に受けとめる。
すくいあげられるようにして、背中からやんわりと鞍の上に落ちたシルヴィンは、すぐ自分がどうなったのかを判別した。救われたことがわかった。すぐれた反射神経で体勢を直したシルヴィンは、一瞬で鞍の上に腰を下ろし、手綱を探してひっつかむ。
地面すれすれを|滑《かっ》|空《くう》する飛竜は、逃げ|惑《まど》うひとびとを真正面にしながら進んでいた。
シルヴィンに向かって、狂おしい表情を浮かべて走ってくるひとびとがいる。
それは。
シルヴィンと飛竜を突き抜けて、通り過ぎていった。
足音を響かせ、荒い息を吐きかけながら、シルヴィンたちをするりと通り抜けた。
「|幽《ゆう》|霊《れい》……?」
でも現実に、シルヴィンは炎の熱さを感じている。目が開けていられないほどの刺激をもたらす|黒《こく》|煙《えん》を、呼吸器と目に感じている。
飛竜を上昇させたシルヴィンは、油断してまともに黒煙の中に突っこんでしまった。激しくむせ、涙でうるんだ目を半分開く。
炎をあげながら焼け落ちているはずの建物が、|瞬《まばた》きしたとき、ふいとなくなった。
えっと目を開き、まだ刺激のおさまりきらぬ目を忙しく瞬きしながら、シルヴィンは首をねじまげて振りかえる。
瞬きの合間に、ほんの何回か、別の光景が見えた。
それはなにもかもをなくした、わずかな|瓦《が》|礫《れき》をころがすだけの台地。すっかり風化して、そこでひとが暮らしていたことがあったことさえ、わからなくなったところ。
「これは……、起こってしまったことなの!?」
すでに時を|隔《へだ》ててしまった|幻《まぼろし》であるのか。
でもそれは、そこに立つ者にとって、あまりに|生《なま》|々《なま》しい現実の痛みをともなうものだ。
(熱イイイィッ!!)
耳にしたあの叫びは。壁からシルヴィンに向かってきた、巨大な炎の顔は。
ぞくんと体を震わせたシルヴィンは、はるか遠くに浮かぶディーノの飛竜の影を目にした。
(『マ・フィルニーの火』は消せぬ)
(マ・フィルニーの火?)
どこかで耳にしたことのあるそれに、ようやくシルヴィンは思いをはせる。
遠い昔に聞いた、お|伽話《とぎばなし》? 祖父から寝物語に聞いたもの。
マ・フィルニーは山の中にある|街《まち》だった。
夜にはひとを食らう物の|怪《け》が山を|徘《はい》|徊《かい》するため、それを恐れたひとびとは、街を強固な壁で囲った。
ひとから生命の|源《みなもと》を得ていた物の怪は、ひとを襲うことができなくなって、次々とその街の周りを離れていった。
あるときこの街に、道に迷った一人の|老《ろう》|婆《ば》が|辿《たど》りついた。
老婆は何日も森を迷い、たいへんに疲れ果てたのちに、夕暮れになってこの街についた。
門番は開門を願う老婆の言葉を耳にしたが、そこから動こうとはしなかった。
『お前が物の怪でないと、どうして言えようか。|陰《かげ》に|紛《まぎ》れ、物の怪が忍び寄ることのできる時間である。門を開けてやらないわけではないが、明日の朝まで待つことだ』
だが老婆には、冷えこむ夜を過ごせるだけの力は残っていなかった。
朝になって、門にもたれるようにして死んでいる老婆が発見された。
街のひとびとは、気の毒なことをしたものだと、この老婆を街でていねいに|葬《ほうむ》った。
この街のそばからなかなかに離れなかった物の怪のなかに、ひとの血を|啜《すす》るものがいた。
この老婆も、最後の夜、この物の怪に会っていた。
『こんな古びた女の血でいいのなら、|温《あたた》かいうちに啜っておくれ。どうせわたしは朝まではもたない。死んでゆく命が、生きようとする命に与えるものがあるなら、それが物の怪だったってかまいやしないよ』
物の怪は血と一緒に、この老婆の無念の|想《おも》いをも啜った。
そして三年の後に、この街のひとびとすべてを滅ぼすことを、老婆に約束した。
この物の怪は血を啜った人間の姿をそっくりにまねる力をもっていた。
老婆の姿で森にひそんで待ちうけ、若い男を襲って姿をまねた物の怪は、その妻と|契《ちぎ》り、ひとの血を啜る子供を産み落とさせた。
街の中に、物の怪を置いた。それは半分はひとであるため、|司《し》|祭《さい》の洗礼を受けることができた。ひとであるから、|魔《ま》|道《どう》|士《し》の|占《うらな》い|板《ばん》にも、物の怪として見破られることはなかった。
門を通って街に入る物の怪はおらず、街から出ていく物の怪も、相変わらずいない。
子供はなにも知らぬまま、すくすくと大きくなった。歩けるようになり自由に|扉《とびら》を開けられるだけの知恵を身につけたその子供は、寝かしつけられたあと、夜遊びを|叱《しか》る家人に気づかれぬよう、家をそっと抜け出しては夜ごと人の血を|啜《すす》って歩いた。
血を啜りとられて変死する者が、|街《まち》のあちこちで現れるようになった。
子供のことを気づかって、夜中にこっそりと部屋を|覗《のぞ》いた母親に、血を啜って帰ってきた子供は見つかった。
子供はすぐさま地下室に閉じこめられ、両親は相談をもちかけに領主の|館《やかた》に|赴《おもむ》き、|魔《ま》|道《どう》|士《し》と|司《し》|祭《さい》が呼び集められた。
その日こそ。物の|怪《け》が|老《ろう》|婆《ば》に約束した三年目だった。
気の毒なことをしたと、|亡《な》くなった老婆の遺品を大切に預かっていた門番の男の家から、突然に炎が|噴《ふ》き上げた。
|凍《こご》えた老婆の|魂《たましい》を|温《あたた》めてあまりある炎だった。
炎は|瞬《またた》く|間《ま》に街のすべてに広がった。ひとびとは逃げ|惑《まど》い、炎に焼きつくされてゆく街から|逃《のが》れようと、門に向かった。
門番の男はこのとき、すでに炎に焼かれて死んでいた。門の|鍵《かぎ》のありかを知る者は、誰もいなかった。
ひとびとがめざしたのは、押しても|叩《たた》いても、どんな|哀《あい》|願《がん》をもってしても開かれなかった門。老婆が背をもたせかけて死んでいた門。
鍵がないことに|焦《じ》れたひとびとは、それによじ登ろうとしたが、物の怪を|阻《はば》むために造られた門はあまりにも高かった。大勢の衛兵が丸太を持ってこれを打ち壊そうと|試《こころ》みたが、|頑強《がんきょう》な門はびくともしなかった。
ひとびとは自分たちを守るはずの壁に阻まれて、誰ひとり助かることなく焼け死んだ。
それはトーラス・スカーレン女王のずっと前。
カルース・ラシェーラ王の時代の話。
今から二百年も前の物語。
マ・フィルニーの火の話。
思いだし。
シルヴィンは色をなした。
ファラ・ハンはたしか。
地下室に残されていた子供を助けに行ったのだ……!
第八章 亜人
「ファラ・ハン!!」
|怒《ど》|鳴《な》るように名を呼んで、シルヴィンは|飛竜《ひりゅう》を向け変えた。はっきりどの建物と見ていたわけではないが、だいたいの方向は覚えている。
これは過去の情景、過去に生きていたひとびと。現実に危害をおよぼすこの炎は、この土地にこびりついた恐怖だ。この土地に落ちた時の|宝《ほう》|珠《しゅ》が、|残留思念《ざんりゅうしねん》に力を与えているのにちがいない。
すんでしまったことに|干渉《かんしょう》できないとすれば、ファラ・ハンのその行為は|無《む》|駄《だ》|足《あし》になるはずだ。助けだすことができない少女にかまけているあいだに、|闇《やみ》にひそんでいた|魔《ま》|物《もの》に襲われる危険がでてくる。
勢いこんだシルヴィンは。
目の端にきらりと輝くものをとらえ、その場で飛竜に急制動をかけた。
風の凍る音を響かせたものが、飛竜の鼻先をかすめた。
矢。
シルヴィンを射抜こうとして、|狙《ねら》いさだめて放たれた矢だ。周到な悪意を|象徴《しょうちょう》するものとして、野獣の視力をもつシルヴィンの目は、その先に塗られていたらしい毒の、ぬらりとした光を|見《み》|逃《のが》さなかった。
こんなことをするのは……。
「ルージェス!?」
ぎりっと目を|吊《つ》りあげたシルヴィンは、油断なく身構えながら飛竜を向け変えた。
「お前などに呼び捨てにされるおぼえはない!」
きんきんした女の声が、案外近い、高い位置から聞こえた。
金色の髪の|小《こ》|生《なま》|意《い》|気《き》な娘は、炎を|噴《ふ》きあげる時計塔の|傾《けい》|斜《しゃ》の|緩《ゆる》い屋根の上に、気味の悪い飛び虫を浮かべ、従者をしたがえて立っている。|獣《けもの》じみた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をもつルージェスの従者は、シルヴィンとその飛竜を上目づかいでにらみ、ひと形をした|獰《どう》|猛《もう》な|狩猟犬《しゅりょうけん》のように|咽《のど》の奥を鳴らして|唸《うな》っている。
魔道士による個人|防《ぼう》|御《ぎょ》の|結《けっ》|界《かい》で炎から身を守っているらしく、ルージェスたちはすべて、よく見ると全身が淡い金色の光に包まれている。
黒い|甲冑《かっちゅう》に身を包んだ、陰気くさい軍勢は炎|渦《うず》|巻《ま》く地上に|徘《はい》|徊《かい》し、地面をなめるようにして、なにかを探している。
|封《ふう》|印《いん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》。そしてファラ・ハンと時の|宝《ほう》|珠《しゅ》か。
この|高《こう》|慢《まん》な娘の、いらいらした|雰《ふん》|囲《い》|気《き》からみると、そのどれも発見されてはいないらしい。
ケセル・オークという名の魔道士の姿はどこにも見えない。炎よけの|結《けっ》|界《かい》の魔道をルージェスたちに与え、別行動をとっているのか。
つんとすました、お|綺《き》|麗《れい》な都会の娘に、シルヴィンは意地悪く目を細めた。
「残念だったわね。わたしはなんども同じ手でやられるような、のろまじゃないわよ。自慢の毒だったみたいだけど、たいしたことないじゃない。ディーノなんて、ぴんぴんしてるわ」
|悔《くや》しさいっぱいの顔で|唇《くちびる》を|噛《か》みしめたルージェスは、|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》を|険《けわ》しくする。
「|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》には毒も通じぬと見えるな!」
「ふふん! どうだか!!」
シルヴィンは鼻で笑った。
ルージェスの|頬《ほお》にかあっと朱がさした。反応が|顕《けん》|著《ちょ》であるだけ、ばかにしがいがある。
「わたし、忙しいのよ。あんたなんかの相手してる『ひま』ないの」
「なんだとっ!?」
いきりたつルージェスを無視し、シルヴィンが涼しい顔でいっきに飛竜を上昇させようと、|手《た》|綱《づな》をさばこうとしたとき。
「がぁ!」
ぐうっと身をたわめていたルージェスの従者が|跳《と》んだ。
シルヴィンの乗る飛竜めがけて、一直線に。
とてもひとのもてる|跳躍力《ちょうやくりょく》ではなかった。
ぎょっと目を開き、素早く手綱を動かしたシルヴィンの飛竜の翼の端に、跳びかかった男が、がきりと食らいついた。
がくんと飛竜がバランスを|崩《くず》す。|錐《きり》もみするように、飛竜はぐるんと回転した。
落ちれば火で丸|焦《こ》げになる。ちっと|舌《した》を鳴らしたシルヴィンは、なんとか大きく|旋《せん》|回《かい》する形に、飛竜を|操《あやつ》る。
「いいぞ! ウィグ・イー! やってしまえ!!」
|咽《のど》をそらし、高らかにルージェスが笑った。
|墜《つい》|落《らく》|防《ぼう》|止《し》の|補《ほ》|助《じょ》|紐《ひも》を足に|絡《から》めて|鐙《あぶみ》にしっかりと足をかけたシルヴィンは、すばやく手綱をはずした。短剣は届かない。|革《かわ》紐で翼に食らいついた|邪《じゃ》|魔《ま》|者《もの》を|叩《たた》き落とすしかない。
翼にふかぶかと|牙《きば》をたてられ、飛竜が|鋭《するど》い鳴き声をあげた。
ウィグ・イーと呼ばれたこの男、ただの人間ではない。魔物ではないが、けっしてひとではない。なにか、異様な生物の発する『臭い』をシルヴィンは感じる。獣相の濃いこの顔は、どこか見慣れた動物を|彷《ほう》|彿《ふつ》とさせるものがある。
ウィグ・イーは、がりがりと|爪《つめ》をたてるだけで、『手』を使うことをしない。食いついたところをはじめのポイントとして、飛竜によじのぼってくる|気《け》|配《はい》はない。
|片《かた》|翼《よく》にこんな重りをぶらさげ、|牙《きば》をたてて揺すられていたのでは、飛竜の翼が折れてしまう。なにがなんでも、飛竜から離さなくてはならない。
|渾《こん》|心《しん》の力をこめてシルヴィンが革紐で打ちすえても、使命に忠実なのか、がまん強いのか、ウィグ・イーは翼にかじりついたまま、しりぞく気配はない。強い|顎《あご》の力で、くわえられた翼の骨が、いまにもばきりと音をたてそうだ。苦しげに飛竜が首を動かす。
「ちいっ!」
いまいましげに|舌《した》を鳴らしたシルヴィンは、捨て身の策にふみきった。
このまま落ちてやる!
大きく|旋《せん》|回《かい》させて勢いを殺し、シルヴィンは飛竜を|垂直《すいちょく》にしたまま地面にこすりつけた。
火の海の中、炎になぶられ、飛竜は焼けた|瓦《が》|礫《れき》めがける。微妙のタイミングで飛竜をかすかに上下させるシルヴィンのため、真下になった部分でこすられているのは、もちろんウィグ・イーだけだ。火に強い飛竜は、こんな火事ていどの炎なんて、なんでもない。髪の一本も焼かないように、シルヴィンはぴったりと飛竜の背に張りついている。
「ぎゃうん!」
熱く燃える|瓦《が》|礫《れき》の山に|突出《とっしゅつ》した柱のようなものに激突したウィグ・イーは、悲鳴をあげて|飛竜《ひりゅう》の翼から|牙《きば》を抜いた。炎は|防《ぼう》|御《ぎょ》|結《けっ》|界《かい》で防げても、強い|衝撃《しょうげき》までは防御できないだろうと、シルヴィンが予測したとおりだ。
やっと重りを捨てられたシルヴィンは、飛竜の体勢をすばやくたてなおす。
焼けた瓦礫の上を悲鳴をあげながら転がったウィグ・イーは、それでも、飛び去ろうとするシルヴィンを|見《み》|逃《のが》さなかった。
「があっ!」
|吠《ほ》えながら|跳《と》びかかったウィグ・イーよりはやく、シルヴィンの|革《かわ》|紐《ひも》がうなった。
|壮《そう》|絶《ぜつ》な音を響かせた革紐に打たれ、ウィグ・イーが|弾《はじ》きとばされる。
振りかえったシルヴィンと、|跳《は》ね起きたウィグ・イーの目があった。両手を突き、|前《ぜん》|傾《けい》|姿《し》|勢《せい》で立つウィグ・イーの姿は、四本足で歩く|獣《けもの》のように、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な安定と運動性がある。
底に黄色く煙った炎が浮かぶ、狂気の|闇《やみ》の色をした|漆《しっ》|黒《こく》の|瞳《ひとみ》。みずみずしく|潤《うる》んではいるが、どこか|危《あや》うく|歪《ゆが》み、そして|御《ぎょ》することができないもの。
(殺さなければいけない)
獣を狩る|狩猟《しゅりょう》民族のひとりの感性をもって、シルヴィンはそう感じた。ひとに対する感情ではなかった。
ルージェスに命じられた兵士が、矢を射かける。即座に反応した飛竜が、ウィグ・イーとにらみあうシルヴィンの命令を待つことなく、それらを猛炎を吐いて焼き落とした。
「援護をお願いよ」
シルヴィンは足に|絡《から》めた紐を振り落とし|鐙《あぶみ》から足を引き抜くと、飛竜から飛びおりた。
襲いかかるだろう矢を飛竜にまかせ、ウィグ・イーと正面きって対決することを選んだ。
|轟《ごう》|々《ごう》と燃え盛る火炎の中。
渦巻く熱気にシルヴィンの|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》の髪がおどる。健康的な浅黒い|肌《はだ》の色、強い光を放つ薄い水色の瞳はそこだけ、|透《す》きとおる|清浄《せいじょう》さで輝いている。身につけた|真《しん》|紅《く》の衣服は、シルヴィンを|灼熱《しゃくねつ》の|塊《かたまり》、その|象徴《しょうちょう》として見せる。
聖戦士としての加護を受けているシルヴィンの全身は、淡く輝く保護|膜《まく》で|覆《おお》われている。完全に燃えないというわけではないが、あるていど状況が|緩《かん》|和《わ》されているようだ。いくら底がぶ厚く作られているとはいえ、ブーツの底から伝わってくる火の熱さが、これぐらいであるはずはないことが、炎の中に立つシルヴィンにはわかる。
油断なくウィグ・イーから目を離さず、シルヴィンは短剣を抜く。
逃げるべきではないと、シルヴィンは思った。ウィグ・イーはいったん敵とみなし、襲うと決めたならば絶対にあきらめない。正面きって向かえるときに、確実にしとめておかなければならない。
竜使いの一族は、古くは戦闘民族だ。飛竜を使えるものは、すなわち戦士として体術の訓練も受ける習慣がある。メビエンオルド戦乱期の後、勝者となったクフェシル王の|末《まつ》|裔《えい》である現女王トーラス・スカーレンが治める現在は、戦人としての竜使いの役や|雇《こ》|用《よう》はなくなったが、依頼されれば荷運びや遠い場所への使いなどをやっている。もっとも速い移動方法のひとつとして知られる飛竜を|用《もち》いることのできる彼らは、ひとりで貴重なものを輸送することも多い。野生動物のいる場所での|野《や》|営《えい》や、|盗《とう》|賊《ぞく》の|奇襲《きしゅう》も、自分だけでなんとかしなければならない。
女性でありながら男性なみに飛竜を扱うことのできるシルヴィンも、例外ではない。
危険を乗りきるための訓練や実戦を、十分にこなしている。
勝つ自信は、ある。
「があ!」
|咆《ほう》|哮《こう》しながらウィグ・イーがシルヴィンに|跳《と》びかかった。
|犬《けん》|歯《し》の長く伸びた口を開いたウィグ・イーは、|鉤《かぎ》|形《がた》に指を曲げて襲いかかる。
まっすぐに|喉《のど》|笛《ぶえ》めがけて跳びかかったウィグ・イーの、|唾《だ》|液《えき》の糸をひく黄色い|乱《らん》|杭《ぐい》|歯《ば》、吐き出される熱く|生《なま》|臭《ぐさ》い|吐《と》|息《いき》が、強烈な刺激となってシルヴィンの鼻を刺激した。
ぐっと顔をしかめたシルヴィンは、息をとめて吐き気をこらえ、|革《かわ》|紐《ひも》で地面を打った。
びしりと強く|叩《たた》かれたのは、火災で|砕《くだ》け落ちた、焼けた石片。|鋭《するど》くとがった石片は、勢いよく|弾《はじ》かれたつぶてとなってウィグ・イーを襲った。
反射的にひるんだウィグ・イーを、シルヴィンの革紐が打つ。
「ぎゃいん!」
むきだしになった首を|痛《つう》|烈《れつ》に打ちすえられ、ウィグ・イーはそのまま横に弾きとばされた。ウィグ・イーは|瓦《が》|礫《れき》の上をごろごろと|転《ころ》がり、|恨《うら》みのこもった|眼《まな》|差《ざ》しでシルヴィンをにらみながら、四つん|這《ば》いで身を起こす。
短く握りかえた革紐をひゅんひゅんとうならせ、間合いを見て|牽《けん》|制《せい》しながら、シルヴィンはウィグ・イーを見つめる。
|獣《けもの》の調教は慣れている。どうしてもひとと折り合わず、それでいてひとの世界に|干渉《かんしょう》せずには生きられないような、ひとを捕食する獣に対して、このような荒っぽい調教法を行うことがある。場合によっては、殺す。
手加減したつもりは、シルヴィンにはまったくなかった。今の一撃で首が折れていてもおかしくなかった。ダメージはたいしたことはない。見かけで判断するより|強靭《きょうじん》だ。飛竜が直接に戦ったとしても、ひょっとするとウィグ・イーが勝つかもしれない。
「おまえ……、本物の化け物ね……」
|嫌《けん》|悪《お》と|憐《れん》|愍《びん》のこもった目で、シルヴィンはウィグ・イーをにらんだ。
|憎《ぞう》|悪《お》と殺意のこもった目で、ウィグ・イーはシルヴィンをにらみかえした。
ウィグ・イーは力で自分を|馴《な》らそうとする者を知っている。そのような者に|牙《きば》をたて、引き裂くことを知っている。
ただひとりの人間のためにウィグ・イーはあり、その血に絶対の服従の|枷《かせ》を負っている。死と、果てることのない|闇《やみ》の力に属するもの以外、ウィグ・イーを恐怖させるものはない。
「引き裂け!」
|甲《かん》|高《だか》い声が命じた。
ウィグ・イーがシルヴィンに襲いかかった。
たとえ半身をちぎられても、ウィグ・イーはやめない。命じられたとおりシルヴィンを引き裂くまで、その命を奪い、ほとばしる|血《ち》|潮《しお》をあびるまで、あきらめない。
ねじくれた、生命。
襲いかかるウィグ・イーに、シルヴィンは|渾《こん》|心《しん》の力をこめて|革《かわ》|紐《ひも》を振るった。
|痛《つう》|烈《れつ》な音をたて、革紐に打たれた衣服が裂けた。|獣《けもの》と違い、|甲冑《かっちゅう》をまとっているために、直接その皮膚を割るところまではいかない。衣類に保護されているところは、|壮《そう》|絶《ぜつ》な|痣《あざ》をつくることが、せいぜいだ。
絶命させるには、ひとおもいに|咽《のど》を短剣でかき切らねばならない。
|熾《し》|烈《れつ》にうなる革紐に|阻《はば》まれ、さんざんに打たれ、|翻《ほん》|弄《ろう》されるウィグ・イーはシルヴィンに近よれない。
冷ややかな目で|眺《なが》めおろしながら、ルージェスは鼻を鳴らす。
「しょせん、知恵のない獣か。あんな女にてこずるようでは、話にならぬ」
黒い髪の男、失礼極まりない|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》の姿を思いだしたルージェスは、むっと|唇《くちびる》を|歪《ゆが》める。もともとウィグ・イーはディーノと戦うためのもの。ディーノを|平《へい》|伏《ふく》させ、ルージェスに服従させるための力。
ひゅっと空を切った革紐がウィグ・イーの左手に巻きついた。全身をバネにしたシルヴィンは、絶妙の|間《ま》を読んでそれを大きく振り上げた。シルヴィンの倍の重みはあろうかというウィグ・イーの体が、革紐に引っ張られ、ぐいと浮いた。
頭からウィグ・イーは|石畳《いしだたみ》の上に|叩《たた》きつけられた。
脳天を強打し、びくんとウィグ・イーが体を硬直させる。
一瞬動きを止めたウィグ・イーに、短剣を振りかざしたシルヴィンが|跳《と》びかかった。
「ファラ・ハン!!」
澄んだ若い男の声が、悲鳴のように名を呼んだ。
びくんとシルヴィンが背筋を緊張させる。
|弾《はじ》かれるようにルージェスが振りかえった。
声がしたのは、どこか。そして、どっちに向かって叫んだのか。
|咽《のど》に短剣の切っ先をあてられたウィグ・イーは。
|脳《のう》|震《しん》|盪《とう》から|覚《さ》め、自分に馬乗りになって首をめぐらせているシルヴィンの様子に、ぎりっと歯を|噛《か》み鳴らした。
手を突いた下、びくっと動いたウィグ・イーの筋肉に、シルヴィンがはっとする。
「がう!」
|牙《きば》をむいて|跳《は》ね起きたウィグ・イーのそれより早く、シルヴィンはその場から|跳《と》びすさっていた。一挙動で跳びかかるウィグ・イーから身をかわし、シルヴィンは低く|滑《かっ》|空《くう》してきた|飛竜《ひりゅう》の上に飛び乗った。
こんなやつの相手をしている場合ではない。
「向かえいっ!」
ルージェスは黒の兵士団に命じ、素早く飛び虫を動かした。
光の矢のように飛ぶ飛竜のほうが、飛び虫より速い。
シルヴィンに逃げられ、ルージェスからは置いてきぼりをくったウィグ・イーは、きゅんと鼻を鳴らし、空を見あげながら四つん|這《ば》いで走った。
女の子を抱いて駆けるファラ・ハンは、ただ人波にそって同じ速さで進むのに夢中で、隣を行く者たちに実体がないことに気づいていなかった。
炎は熱く、がらがらと音をたてて、焼けた建物は|崩《くず》れ落ちる。|慌《あわ》ただしい足音をたてるひとびと、運びだされた荷物を満載した荷車のわだちの音。泣き叫ぶ子供の声、悲鳴に似た女の声、|怒《ど》|鳴《な》るような男の声。様々な|阿鼻叫喚《あびきょうかん》が|鼓《こ》|膜《まく》を刺激してなだれこみ、頭の中がわんわんと|唸《うな》っている。冷静にものを考えられるような状況ではない。
避難するひとびとの中、|懸《けん》|命《めい》に走りながら、ファラ・ハンはぎゅっと女の子を抱きしめた。
同じ形で抱きつづけ、重みに|痺《しび》れて腕の感覚は|鈍《にぶ》くなっている。ちょっとでも気を抜いて力を|緩《ゆる》めれば、女の子を落としてしまう。そんなことは絶対にできない。
|爪《つめ》をたてて自分の衣服を握りしめながら、ファラ・ハンはしっかりと女の子を抱いた。
息をきらせ、汗ばむファラ・ハンの体。花の|薫《かお》りにも似た甘い体臭が、ファラ・ハンに抱かれた女の子の鼻をくすぐった。
逃げ|惑《まど》うひとびとの叫びを耳にして|脅《おび》えていた女の子は、かぐわしく匂いたつ|至上《しじょう》の|甘《かん》|露《ろ》たる血肉に抱かれ、うっとりと薄く目を開いた。
縦に長く伸びた赤い|瞳《どう》|孔《こう》だけの、|闇《やみ》|色《いろ》の目。
けっしてひとではないものの目。
幸せそうにふわっと|微《ほほ》|笑《え》んだ女の子の口に。
|鋭《するど》くとがった牙があった。
|牙《きば》の前には、あまりに柔らかいファラ・ハンの|咽《のど》があった。
「ギャウ!」
小さな飛竜が|仰天《ぎょうてん》してあげた声に、びっくりしてファラ・ハンが振り向く。
ファラ・ハンの目の前で。
小さな飛竜が、ぱかっと口を開いた。
女の子を|狙《ねら》って吐きかけられた炎に、ファラ・ハンが悲鳴をあげ、体をひねった。
猛火は寸前のところでかわされ、くるりと身を|翻《ひるが》えしたファラ・ハンは、人波をはずれた位置まで、道の端による。足をもつらせるようにしたファラ・ハンは、祈りの塔に向かう|袋小路《ふくろこうじ》の|径《こみち》にはいりこむ。逃げ道がないことが知れているので、いくら火がまわっていないといっても、ここに向かってくる者はいない。
シルヴィンの飛竜に同乗し、上空からこのあたりまで見ていたので、この道に|人《ひと》|気《け》がない理由はファラ・ハンにわかっている。
ぶつからぬよう、夢中で足を運んだつもりのファラ・ハンは、周りを見る余裕がなかったため、自分を『突き抜けてゆく』ひとびとのことまでわからなかった。こんな状況下で、足のひとつも踏まれないとするならば、それはかえって不自然であることに気づかなかった。
とりあえずひとごみを脱し、すこし気が|楽《らく》になったファラ・ハンの胸の横に飛んだ小さな飛竜が、女の子めがけて炎を吐く。
なにがなんでも、|魔《ま》|物《もの》はファラ・ハンから引き離さなければならない!
「きゃあ!」
悲鳴をあげてのけぞったファラ・ハンは、径のはしっこにしゃがみこんだ。
また失敗したかと、むっとする小さな飛竜を、青い|瞳《ひとみ》でにらみつける。
「なにをするの!」
|膝《ひざ》の上に女の子を置き、ファラ・ハンはより強く、女の子を胸に抱きしめた。小さな飛竜の炎に驚き、|脅《おび》えた女の子は、ファラ・ハンの衣服をぎゅっとつかみ、すがりつく。
どこといって不自然なところはない、小さな女の子の動作だ。
「キャァウ……」
真剣に怒られ、小さな飛竜は|困《こん》|惑《わく》した。悪いことをしたつもりはなかった。小さな飛竜のやっていることは、ファラ・ハンを守る、ファラ・ハンのためになされたことだったはずなのだ。
なにか様子のおかしい小さな飛竜に、|眉《まゆ》をひそめたファラ・ハンが手を伸ばす。
きゅんと鼻を鳴らして、小さな飛竜はファラ・ハンの手に|頬《ほお》をすり寄せた。
|錯《さっ》|覚《かく》だったのかなと、自信がなくなってきて、小さな飛竜は考える。
おとなしくなった小さな飛竜に、ファラ・ハンにしがみついていた女の子はそろそろと顔を上げた。小さく開かれた口には、牙はない。
きゅっと首をかしげて小さな飛竜を見た女の子の目は。
だが、やっぱりあの|闇《やみ》|色《いろ》の目だった。
「ウ!」
むっとした小さな飛竜は、すばやく女の子の前まで飛ぶと、ばちばちと翼で女の子を|叩《たた》く。
小さな飛竜の攻撃を|逃《のが》れるため、女の子は|転《ころ》がり落ちるようにファラ・ハンの腕を抜け、|膝《ひざ》|上《うえ》から下りた。
ファラ・ハンから女の子を引き離した小さな飛竜は、なおもばちばちと翼で叩きながら、逃げる女の子を追いまわす。
「だめ! |意《い》|地《じ》|悪《わる》しないで!」
ひょいと小さな飛竜の|襟《えり》|首《くび》をつまんだファラ・ハンは、じたばたする小さな飛竜を抱きあげる。
「どうしたの? だめでしょう! 小さな子に乱暴しちゃいけません」
正面から見つめながら、ファラ・ハンは小さな飛竜に言い聞かす。
「キャウ」
ファラ・ハンにお説教されながらも、小さな飛竜は嬉しそうにくりっと目を開いた。ぴろんと出された|舌《した》が、ファラ・ハンの|頬《ほお》をなめる。
「きゃ!」
頬をなめられたファラ・ハンが、驚いて|顎《あご》をひく。少し距離をあけたファラ・ハンの胸に、小さな飛竜は抱きつく。きゅんきゅんと鼻を鳴らして胸に頭をすりよせる小さな飛竜に、ファラ・ハンは優しく|微《ほほ》|笑《え》む。
小さな飛竜が女の子に対して、やきもちをやいていたような、そんな感じにとれた。
「もう…、仕方のない子ねぇ……」
苦笑しながら、ファラ・ハンは小さな飛竜をなでた。
「貴様っ……!」
背後から響いた|怒《ど》|号《ごう》に、びくんと身をすくませてファラ・ハンは振りかえった。
炎から逃げるひとびとを|誘《ゆう》|導《どう》していた、衛兵のひとりがそこにいた。ファラ・ハンたちの耳に届いたものは、避難するのに手間どっている女子供に向かってかけられるべき声の調子ではない。ただならぬ|声《こわ》|音《ね》に、小さな飛竜がファラ・ハンにしがみつき、ファラ・ハンもぎゅっと小さな飛竜を抱きしめる。
すらりと剣を引き抜いた衛兵は、魔物に対する|印《いん》をきり、|径《こみち》に足を踏みいれた。
向かってこられ、ファラ・ハンはじりっと後ずさりした。
レイムに教えてもらったところによると、ファラ・ハンはもうひとつの神話を信じる者にとっては|魔《ま》|物《もの》の先導者であり、|生《い》け|贄《にえ》として捧げられ、心臓をえぐられるべきものなのだ。
(殺される……!?)
|兜《かぶと》のあいだからのぞく衛兵の目。白目に血の網を浮かべたそれを見、狂おしいばかりの表情にたじろいで、ファラ・ハンは血が凍る思いがした。
翼を広げれば、ファラ・ハンの存在がより明らかになる。この近くにいない者にまで、姿をさらすことになる。それよりは。炎に対する|防《ぼう》|御《ぎょ》|印《いん》の力を強くして、燃え盛る炎の中に逃げこんで、ひとまずこの場をかわしたほうがいいか……。
必死で思いをめぐらせたファラ・ハンの向こうで。
衛兵の声にびっくりして立ちすくんでいた女の子が、だっと駆けだした。
祈りの塔の、|袋小路《ふくろこうじ》の奥へと。
ぎりっと|歯《は》|噛《が》みをした衛兵が、|弾《はじ》かれるように駆けだした。
印を強くし、|径《こみち》から足をどけたファラ・ハンの真ん前を、衛兵が駆け抜けた。
ファラ・ハンには|一《いち》|瞥《べつ》もなかった。
荒々しい足音を響かせ、|石畳《いしだたみ》を蹴たててゆく衛兵を、ファラ・ハンは|茫《ぼう》|然《ぜん》として見送った。
剣はファラ・ハンに対して抜かれたものではなかったのか。
衛兵が見ていたのは、はじめからあの女の子だったのか。
(なに?)
(どうなってるの?)
(女の子を、殺すの!?)
わけがわからず、ただ混乱するしかないファラ・ハンだったが、大人が、良識あるはずの衛兵が、まさか無力な女の子を|斬《き》り殺していいはずがない。
衛兵は本気だ。
このままだと……。
「!」
色をなし、小さな飛竜を腕から離したファラ・ハンは衛兵を追った。
日々暮らすひとびとの、ちょっとした祈りを行うための場所として作られた祈りの塔は、前面に小さな広場を配し、大がかりな建物ではない。
祈りの塔のすぐ手前で足を止めた女の子は、天に向かって矢を放つ神話の|狩人《かりゆうど》を|象《かたど》った銅像の台座の上によじ上ろうとしていた。隠れるといっても、たいしたものはなく、上に向かって逃げることしか思いつかなかったのだろう。
銅像に女の子を上らせ、追いつめた衛兵は、緊張に手を震わせ、肩で荒い息をしながら、一歩一歩女の子のほうに近づいてゆく。
|慌《あわ》てて足を|滑《すべ》らせた女の子が、ずるりと銅像の台座の上を滑った。
にやりと|頬《ほお》を|緩《ゆる》めた衛兵は、大きく剣を振りかぶった。
自分の上に落ちた影に、首をねじまげて女の子が振りかえる。
恐怖に、女の子の茶色の|瞳《ひとみ》がいっぱいに見開かれた。
「やめてぇぇっ!!」
悲鳴をあげ、ファラ・ハンは衛兵と女の子のあいだに駆けこんだ。
抱きかかえて逃げるように、女の子に腕を伸ばした。
そのファラ・ハンの背中めがけて。
衛兵が振りかぶった剣が振り下ろされた。
「キャオア!」
ぎょっと目を開いた小さな飛竜が、ファラ・ハンを追った。
ひとを傷つけるなと、ファラ・ハンに言われていた。だから炎は吐けなかった。
この時、小さな飛竜のできたことは、ファラ・ハンに勢いよく突っこみ、ファラ・ハンを突き飛ばすことぐらいだった。
小さな飛竜の突進で、どんと押されたファラ・ハンは、女の子を銅像の台座のところからさらい、女の子に|被《かぶ》さるように、銅像の横手に倒れこんだ。
肩口から分断されかけたファラ・ハンは、小さな飛竜に突き倒されたおかげで|刃《やいば》との距離をかろうじて広げることができた。
かわしそびれた切っ先が。
ファラ・ハンの背中に食いこんだ。
ざりゅっと肉のあいだを刃が|滑《すべ》る感覚に、ファラ・ハンは大きく目を見開いた。
息がつまった。
火のような痛みが背中から全身に走った。
ファラ・ハンを突き倒した小さな飛竜は、ファラ・ハンの背を切り裂いた刃から逃げきれず、それをもろに受けた。
だが子供とはいえ、|鱗《うろこ》に|覆《おお》われた飛竜である。分断されることはない。
こっぴどく体を打ちすえられた小さな飛竜は、悲鳴をあげ、振り下ろされた剣の勢いそのままに|石畳《いしだたみ》に|叩《たた》きつけられた。
第九章 再会
眼下に広がる|街《まち》。全身の|産《うぶ》|毛《げ》をちりちりと刺激する独特の感覚は、|魔《ま》|道《どう》か魔物か、およそ通常の存在にないもの特有のそれである。|導球《どうきゅう》に導かれ、街の上空に現れでたものの、それが|尋常《じんじょう》でないものであることに気づいたディーノは、街への降下をやめた。
火炎と|阿鼻叫喚《あびきょうかん》渦巻く、|地《じ》|獄《ごく》|絵《え》|図《ず》にもひとしいその街。
ディーノには逃げ|惑《まど》うひとびとを助けてやる義理もなければ、積極的に魔法陣や時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を探そうという気もない。
|退《しりぞ》いて、ひとり高みの見物を決めこんだからこそ、ディーノはその街のことを知ることができた。
高い強固な壁に囲まれた街は台地の上にある。特徴ある形をした山々がぐるりと連なり、地形はひどく覚えやすいものだ。
見覚えがある気がして、ディーノは目を細め、|眉《まゆ》をひそめる。
ここにはたしか……。
|廃《はい》|虚《きょ》があった。
二百年前に滅びた、古い|街《まち》。マ・フィルニーという名の街。
伝説となるほどの街、猛火で滅びたはずの街が、今、目の前で燃えている。
このようなことは、ありえない。
だから、ここに時の宝珠や|封《ふう》|印《いん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》があるというのか。
冷ややかに街を見おろしたディーノは、この過去の情景の再現が、いったいなにを意味しているのだろうかと考えた。こうしてひとを|惑《まど》わせて、なにをさせようというのだろう。
ばかな|田舎娘《いなかむすめ》は、せっかくこれが『マ・フィルニーの火』であると教えてやったのに、勝手に決めつけるななどとわめいて降下していった。
|愚《ぐ》|鈍《どん》な魔道士も、消火の絶対魔道をもってしても消えぬ炎を相手にして、ようやくこれが『消えない火』であることを知るだろう。
この世界に生きる者の誰もが小耳にはさんだことのある有名な伝説を知らぬのは、|招喚《しょうかん》の聖女だけだ。実際に熱さを感じるこの火、|愚《おろ》かしいまねをして街の中に長居するならば、確実に火に焼かれて死ぬ。ただやみくもに正義感に走るものたちは、あのか弱い聖女を守りきることができるというのか。
ちくりと胸の奥に走った痛みに、ディーノはおもわず目を伏せた。体の|芯《しん》がなにかに揺すられているかのように、落ち着かなくなる。
きつく|唇《くちびる》を|噛《か》んだディーノは、心の迷いを振り捨てるように頭をあげた。
ディーノの髪の|裾《すそ》に、色を同じくした長いものが|繋《つな》がってでもいるというのか。ありもしないものに引かれる感覚が、重い。
目をあげたディーノの視界。
遠くの岩山の上に。
|闇《やみ》がこごっていた。
むっと目を細めたディーノは、それを見つめる。
闇の|塊《かたまり》かと見えたものは、風を受けて柔らかくはためくものの色。
底知れぬ闇色の|法《ほう》|衣《え》。
闇色の法衣をまとう、魔道士。
ディーノの命を受け、|飛竜《ひりゅう》はその魔道士のいる岩山へと向かった。
|雄《お》|々《お》しく風を切って進みくる巨大な飛竜を目にした、闇色の法衣の魔道士は。
ゆるりと腰をあげると、左腕を胸の前にあげ、向かいくる武人に対してうやうやしく|頭《こうべ》をたれた。
|鋭《するど》く長い|鉤《かぎ》|爪《づめ》をもつ鋼鉄の義手が、とぼしい|陽《ひ》の光を受け、ぬらりと輝く。
「これはようこそ。ご|機《き》|嫌《げん》うるわしゅう、我が王よ」
|干《ひ》からびた声が歌うように言った。
目を細めたディーノは、にやりと薄く|頬《ほお》を|緩《ゆる》める。
「ぬけぬけと言うものよ」
この魔道士が放てと命じた矢に脇腹を射抜かれ、ディーノは昨夜一晩生死の|境《さかい》をさまよったのだ。ご|機《き》|嫌《げん》もなにも、あったものではない。
|闇《やみ》|色《いろ》の|法《ほう》|衣《え》のフードの下で|陰《いん》|鬱《うつ》に光る赤い|瞳《ひとみ》が、声を殺して笑うか、揺れる。
「あの程度で|朽《く》ち果てるような御方ではありますまい」
「まったくだ!」
快活にディーノは笑った。
|青《あお》|臭《くさ》い小娘の放った毒矢でのたれ死ぬようでは、ディーノに王を名乗る資格などない。
ひとしきり笑ったディーノは、まっすぐに魔道士を見た。
「さすがの貴様も、自分の生きていた時間の中には介入できないと見えるな。過去に対する二重存在は、荷が重いか?」
「それほどの価値もないこと。年寄りをわずらわせるものではありますまい」
「ふん」
なにを|可《か》|愛《わい》らしいことを言うのかと、ディーノは鼻先でせせら笑った。
二百年前、この男は生きていた。生きて、この|幻《げん》|影《えい》の時間が映す時代にいた。
時間の同時存在は、かなり高度の魔道に属する。年寄りを気取っても、このくらいの魔道でどうこうなるような、そんな人物ではない。
「そろそろ本当のことを教えてもらおうか」
青く煙る光をおびた瞳は、ぶっそうな|思《おも》|惑《わく》をもって輝く。
「バリル・キハノ」
はっきりとした発音で、ディーノはルージェスたちにつき従う魔道士の名を、呼んだ。
バリル・キハノ。
二百年前魔道師エル・コレンティの手によって、聖地クラシュケスにあった|永久監獄《えいきゅうかんごく》アル・ディ・フラの塔の地下に、下半身を|封《ふう》じられて|幽《ゆう》|閉《へい》された、黒魔道師。闇と|盟《めい》|約《やく》を結んだ、|邪《よこしま》なる魔道師。
「貴様の目的はなんだ? 世界救済を|阻《そ》|止《し》して、貴様はなにを行おうとしているのだ?」
|聖女招喚《せいじょしょうかん》を|邪《じゃ》|魔《ま》しようとした真の目的は。世界じゅうのひとびとの記憶すらすりかえ、ルージェスをもって運命の公女とし、もうひとつの世界救済神話を仕立てた理由は。
そしてなぜ、ディーノがキハノの『王』となりうるのか。
黒魔道師はにやりと口元を緩める。
「我が力をもって、世界を『造る』。そのために、この世界に存続してもらっては困るのだ」
その世界の王。
「どこにも同族のおらぬそなたのこと。この世界に未練はあるまい?」
ディーノは目を細め、無言で魔道師を見つめる。
|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》。|地《じ》|獄《ごく》の申し子の|異名《いみょう》をもつ彼が、自分を受けいれることのない世界に対して|執着《しゅうちゃく》をもつはずがない。|虐《しいた》げられ、|卑《いや》しまれた|恨《うら》みはあっても、恩を感じたことなどない。ディーノが、黒魔道師のこれを|阻《そ》|止《し》しようなどと考えるはずがない。
「招喚の聖女は時の宝珠を集め、もとの形に時空を安定させようとしておる。新世界の構築など、すべて集結した時の宝珠の力をもってすればたやすいこと。これこそ、|我《われ》のおさめし黒魔道最高の秘術のひとつ。|闇《やみ》と|盟《めい》|約《やく》を結んだとして知られる|我《わ》が、あのエル・コレンティをはるかにしのぐ術を使うことのできる、またとない機会。魔道|究極《きゅうきょく》の|奥《おう》|義《ぎ》を|極《きわ》めるのが、我が目的。なんなりと、好きなことを言うがよい。叶えようぞ。叶わぬことは、なにひとつないのだ」
「考えておくことにする」
冷めた表情で、ディーノは|甘《かん》|美《び》な誘いを|一蹴《いっしゅう》した。
ひとのもつ|陰《いん》|鬱《うつ》な部分にのみ接して生きてきたディーノにとって、闇は友である。光の下で『普通に』生活することを約束され、保護されてきた者に対してのディーノの存在、それ自体が影なのだ。したがって、キハノの存在自体も、ディーノにとっては正義になりうる。
だが、だからといって|嬉《き》|々《き》としてその言葉にのれるほど、ディーノは単純ではない。常に他者に|牙《きば》をむかずにはいられない。牙をもって自分を守る、|哀《かな》しい|性《さが》をもっている。
くっくっと|咽《のど》を鳴らし、黒魔道師は笑った。
「欲のないことよ……!」
言葉にならぬ。言いつくせぬ。それこそが一番の欲。
「恐ろしい男であるな、まことに。それでこそ、我が王の名にふさわしいというもの」
ディーノは黒魔道師から、ついと顔をそむける。
「好きにしろ」
たいした関心もない|声《こわ》|音《ね》でつきはなした。
黒魔道師は愉快そうに咽の奥で笑った。
ディーノは黒魔道師を前にして、体の中でうずくほどの熱さを感じさせるものに、不快に|唾《つば》を飲み下す。それはいつでも手に形をなして握られるもの。聖という力。破壊するもの。
「俺に|銀《ぎん》|斧《ふ》を与えたのも貴様のしわざか?」
聖戦士などという茶番を演じさせたのであるか。
黒魔道師は|得《え》|体《たい》のしれない|笑《え》みを浮かべ、にいっと|唇《くちびる》の端を引く。
「さぁ。どうであるか」
「……」
ディーノはひとつ目を閉じて、たっぷりとした|仕《し》|草《ぐさ》で前髪をかきあげた。
岩山に立つ黒魔道師。
それを観賞し、ふっとディーノは笑った。
その黒魔道師には、あるべきものがなかったのだ。
「あの空気すらよどんだ|獄《ごく》|舎《しゃ》の中に、二百年ものあいだ|封《ふう》じられていたくせに、やけに外のことに|詳《くわ》しかったわけだな」
横目でちろりとディーノは黒魔道師を見る。
「キハノ。貴様、影をどこにやった?」
炎の正体を見定めたレイムは、ファラ・ハンを探しに引き返した。
ファラ・ハンはシルヴィンの|飛竜《ひりゅう》からすぐに降りている。降りて女の子を助けに行った。
最後に飛竜の上にいたのを見たところから、距離としてそんなに離れた場所に行ったわけではない。
悲鳴をあげて逃げ|惑《まど》うひとびとの中。小さな飛竜を連れたファラ・ハンは、女の子を腕に抱き、ひとごみに押し流されるように駆けてゆく。
石ころの中からただひとつ、宝石を探すのに似て。
|漆《しっ》|黒《こく》の髪を長くそよがせ|懸《けん》|命《めい》に走るファラ・ハンの姿は、|遠《とお》|見《み》の魔道をこころみたレイムに簡単に発見された。
レイムが見たのは、そのファラ・ハンの腕の中。
うっとりと女の子が目を開いた、その瞬間である。
|闇《やみ》|色《いろ》の目に|縦《たて》|長《なが》の|真《しん》|紅《く》の|瞳《どう》|孔《こう》をもつ目。
魔物の目をした子供を抱いたファラ・ハンがいる……!
「ファラ・ハン!!」
レイムはまだ遠く離れたファラ・ハンに、絶叫した。
シルヴィンたちが耳にしたのは、このレイムの声である。
上空を行くレイムの飛竜は、|黒《こく》|煙《えん》と炎の柱のあいだ、すぐに発見された。
レイムを追えばファラ・ハンの|行《ゆく》|方《え》が知れる。
あの声の様子は、ただごとではなかった。
ファラ・ハンを自由にそこにいさせるだけで、『なにもしなくても』ファラ・ハンを危険にさらすことができるのだ。
聖魔道士など、ファラ・ハンに近づけてはならない。
「|射《い》よ!」
にっと|微《ほほ》|笑《え》んだルージェスが、黒の兵士団に命じた。
飛び虫の上、器用にバランスをとった兵士は、ルージェスの声にしたがって矢をつがえ、上空をゆく魔道士に向けた。
「よけてえぇっ!!」
シルヴィンはレイムに向かって叫んだ。
飛竜を|旋《せん》|回《かい》させたシルヴィンは、|革《かわ》|紐《ひも》を振りあげ、黒の兵士団に向かった。
|怒《ど》|号《ごう》に似た声にびっくりしてレイムが振りかえるのと、声に反応した飛竜が矢から身をかわすのが同時だった。
音をたてて顔の前をかすめたものに、レイムはぱちぱちと|瞬《まばた》きする。
ぬらりと光った毒の色が、なまなましく目に焼きついていた。一瞬にして血が引いた。
誰が、そしてなにが自分に起ころうとしていたのか、いっきに理解した。
シルヴィンの振るった革紐に打たれた黒の兵士が、虫から落ち、|石畳《いしだたみ》に|叩《たた》きつけられた。
黒の兵士の鎧に結ばれていた紐。ぷつんと音をたて、血の色に染められた|呪《まじな》い紐が切れた。それは、|木偶《で く》|使《づか》いの魔道に用いる紐。
紐による|呪力《じゅりょく》をなくし、いまだ炎をあげている|瓦《が》|礫《れき》の山の上に落ちた兵士の|甲冑《かっちゅう》が、ばらばらに|砕《くだ》けとんだ。
はずれた甲冑の中から、とうていそれがひとであったとは思えない内容物が、でろりとはみでる。それはまるで死体から、使える臓器だけを寄せ集めて人型に『いれた』だけのものであったかのように。
ひとの姿をして、しかもひとでないもの。けっして正しい生命の法則にないもの。
ぞっとシルヴィンの背筋に|悪《お》|寒《かん》が走った。それと同じくして、|激《げき》|烈《れつ》な怒りが爆発した。
シルヴィンは水色の|瞳《ひとみ》をぎりっと|険《けわ》しくし、金色の髪の娘をにらむ。
「このゲテモノ女っ!!」
これまで聞いたこともない|罵《ば》|倒《とう》を浴びせられたルージェスが、ぎょっと目をむいた。
振りかえったレイムの目に、飛竜を飛ばせるシルヴィンめがけ、真横から|跳《と》んだ黒い大きな影が見えた。
ひとのような形。|四《し》|肢《し》で地をつかむようにして、炎をあげる建物によじ上り、勢いよく跳んだもの。
「シルヴィン、右っ!」
レイムの|警《けい》|告《こく》に、|弾《はじ》かれるようにシルヴィンが反応した。
炎をあげて燃え落ちる建物の壁によじ上ったウィグ・イーが、旋回してくるシルヴィンの飛竜を待ちうけ、それに跳びかかった。
飛竜の上へと襲いかかられたシルヴィンは、|舌《した》を鳴らし、|鞍《くら》の上から跳びのいた。
突然にウィグ・イーに乗りかかられた飛竜が、がくんと高度を落とした。
「があ!」
飛竜の背を踏みつけ、跳んだウィグ・イーが|爪《つめ》をあげてシルヴィンに跳びかかる。
目的はシルヴィン。
こんなでかいのに上で暴れられたのでは、飛竜の背骨が折れてしまう。
背を乱暴に踏みしだかれ、翼を動かすことすら自由にならず、体勢をたてなおすどころではない飛竜は、のたうつように|墜《つい》|落《らく》する。
シルヴィンは手早く|革《かわ》|紐《ひも》を左手首に巻きつけ、飛竜から飛び下りた。
ウィグ・イーがシルヴィンの後を追った。
|瓦《が》|礫《れき》の中に頭から突っこみかけた飛竜は、その一瞬前、重みをなくし、翼を大きく振り動かした。体勢をたてなおすため、急上昇する。
うまく着地したシルヴィンだが、駆けだそうとして瓦礫に足をとられ、ずるりとのめって手を突いた。足場が悪い。こんなところでウィグ・イーの相手をするわけにはいかない。
ウィグ・イーなんかの相手をしている場合ではないのだ……!
シルヴィンを救うため、レイムが飛竜を向ける。
焼けた石のかけらを片手いっぱいつかんだシルヴィンは、ウィグ・イーに振りかえる。
大柄な体格のわりにシルヴィンよりも|俊敏《しゅんびん》でバランスのいいウィグ・イーが、両腕を振りあげ、|牙《きば》をむいてシルヴィンに襲いかかる。
その顔面めがけ、シルヴィンは|狙《ねら》いさだめて石のかけらを|叩《たた》きつけた。
大きく見開いていた目に石つぶてをくらったウィグ・イーが、|吠《ほ》えるような悲鳴をあげて顔面を押さえ、瓦礫の上をのたうちまわる。
「シルヴィン!」
翼を細くたたませ、矢のように飛竜を低く速く|滑《かっ》|空《くう》させたレイムが、シルヴィンに手を伸ばす。
ぱっと顔を輝かせたシルヴィンは、レイムの手をつかんだ。
火事場のばか力だったか、ぐいとレイムはシルヴィンを自分の前に引っぱりあげた。
うまくいったと、飛竜が首をあげ、翼を広げて高く飛ぶ。
その飛竜の後ろ足に。
ウィグ・イーが|跳《と》びかかった。
がくんと飛竜が高度を落とす。
つかむことの|下手《へ た》なウィグ・イーは、|掻《か》くように両手の|爪《つめ》をかけて飛竜の体をよじ上る。
長く伸びたウィグ・イーの爪に、深緑色の|法《ほう》|衣《え》の|裾《すそ》が引っかかった。
左足のほうにいきなり重みをかけられたレイムが、ずるんと勢いよく|鞍《くら》から|滑《すべ》った。
声をあげたレイムは、|手《た》|綱《づな》を落とした。鞍の端をつかんでしがみついていたシルヴィンが、驚いて首をねじ曲げる。
「|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》いっ!!」
法衣にウィグ・イーをぶらさげたレイムは、石のように落下した。
ウィグ・イーを下敷きにして|瓦《が》|礫《れき》の上に落ち、|跳《は》ねたウィグ・イーから転げ落ちる。
かろうじて瓦礫の少ない|石畳《いしだたみ》に転落したレイムは、打ちつけた頭を振って体を起こす。
目の前に星が散っていた。頭が|朦《もう》|朧《ろう》としている。
|膝《ひざ》を突いた姿勢のレイムは、ダメージが大きく、とてもすぐに立ち上がるまでいかない。
「やれ、ウィグ・イー!」
勝ち誇ったようにルージェスが叫んだ。体勢をたてなおさない今なら、|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|士《し》もただの人間だ。|印《いん》を結べず、術も使えぬ魔道士など、恐れるに足りない。|華《きゃ》|奢《しゃ》な聖魔道士の青年は、|猛《たけ》|々《だけ》しさだけがとりえの獣人の敵ではない。
「がう!」
ルージェスに声をかけられたウィグ・イーは、|嬉《き》|々《き》としてレイムに襲いかかった。
自分の上に降りかかった影に、はっと顔をあげたレイムに、|爪《つめ》を振りあげ、|牙《きば》をむいたウィグ・イーの姿が見えた。
ひと形をした|獣《けもの》。|凶暴《きょうぼう》で|残《ざん》|忍《にん》なひとの獣性をむきだしにし、理性もなにもかなぐり捨てた、まがまがしいものを|象徴《しょうちょう》する存在。
この場にふさわしい印は。|攻《こう》|撃《げき》|呪《じゅ》|文《もん》は。
ここでこの獣人に引き裂かれるわけにはいかない!
きっと|麗《うるわ》しい|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》を|険《けわ》しくしたレイムの眼前で。
レイムを見。その匂いを感じ。
びくんとウィグ・イーが反応した。
襲いかかったウィグ・イーは、|寸《すん》|手《で》のところでレイムの上を|跳《と》びこえた。
きょとんとレイムは目を見開く。
ウィグ・イーの動きを忠実に目で追ったルージェスは、無傷の背をさらすレイムの姿に目を見はる。
こんなことはありえない……!
「どうした!? ウィグ・イー!!」
なにか、ルージェスの予想もしないことが起こっている。
色をなしたルージェスは、黒の兵士団に待ての合図を与え、虫の上から飛びおりた。
ルージェスの意にしたがい、ウィグ・イーに引き裂かれた聖魔道士の体を、矢で針ネズミのようにしようと待ち構えていた兵士たちは、すっと動きをひかえた。
命じられるままの、ただの魔道人形でしかない兵士たちには、意思も判断力もない。|黙《もく》したまま、じいっと、なりゆきを見守っている。
胸騒ぎをおぼえ、ルージェスはウィグ・イーに向かった。
ウィグ・イーは忠実な|狩猟犬《しゅりょうけん》。ルージェスの命令に絶対服従で、そのいいつけを厳守する。獣人としての魔道を与えたケセル・オークに対して、ウィグ・イーが恐怖に似た感覚をおぼえるのはなんとなく理解できるとしても、見習い|魔《ま》|道《どう》|士《し》の|法《ほう》|衣《え》をまとう、この細身の若者に対してウィグ・イーがそんな感情を抱くなど、考えられない。
いったいなにが起こったのか、なぜ|印《いん》も呪文も必要なくなったのか。わけがわからず、レイムはウィグ・イーを見つめる。ウィグ・イーは、きゅーんと小さく鼻を鳴らし、レイムを見て顔色をうかがうように首をすくめた。
じゃりっと|瓦《が》|礫《れき》を踏みしだいた間近い足音に、はっとレイムは振りかえった。
すばやくめぐらせたレイムの首の動きについてゆけず、法衣のフードがはずれ、金色の長い髪がこぼれた。
近い位置でレイムとルージェスの目があった。
|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》と金色の髪。
受け継いだ色をそっくり同じにした者が、そこにいた。
そしてルージェスは。
彼とそっくりの、もうふたつの顔を知っていた。
「兄上……!?」
悲鳴のように叫んだ声の響き。
その響きを、たしかにレイムは『知って』いた。
カルバイン|公爵《こうしゃく》、ベルク、ネレスに続く三人目の公子が、そこにいた。
血を|繋《つな》げた者であるならば、ウィグ・イーがルージェスの命令を実行できなかった理由もわかる。ウィグ・イーはレイムの血の匂いを知っている。引き裂いてはならない者のひとりとして、覚えこまされている。
肉親に対して|牙《きば》をむかぬものとして、ウィグ・イーは|館《やかた》で飼われることを許された|獣《けもの》。ルージェスのものであり、なおかつその血そのものを守る、そのためだけにいる生き物。
レイムはこの娘を、内なる深い場所で、知っていた。
(妹……)
そうだ。
産まれたばかりのこの娘と、レイムはあっている。同じ屋根の下で暮らした時代が、たしかにあった……!
|膝《ひざ》を突いたまま、ルージェスを見あげていたレイムの体が。
レイムの意思にかかわりなく動いた。
|驚愕《きょうがく》の表情をしたまま、やにわに立ち上がったレイムは。
両手でルージェスの首をつかんでいた。
|仰天《ぎょうてん》するレイムを無視し、レイムの手はルージェスの首をぎりぎりと|絞《し》めあげる。
「レイム、兄、様……!」
苦しげに顔を|歪《ゆが》めたルージェスが、あえぐように口を動かした。
目をいっぱいに開いたレイムは、自由にならぬ自分の手を見つめる。
これは、こんなことが、前にもあった。
そうしてレイムの握った短剣に胸を刺し|貫《つらぬ》き、死んだ姫君がいた……!
「やめろおぉっ!!」
レイムが絶叫した。
レイムの背中に、べたりと張りついていた影が、笑うように揺れた。
(なぜ|拒《こば》まれますか?)
(これはあなた様の望んでいたことではありませぬか)
(たとえ血をわけた妹君でも)
(あなたの目的にとってこの娘は障害となりましょう)
(ならばいっそ)
(くびり殺してしまえばよい)
以前聞いたと同じ声。
影の使者がつぶやきかける。
あえぐように口を動かしていたルージェスの|膝《ひざ》から、がくりと力が抜けた。
ひとひとりの重みをつかみとめたまま、細身のレイムの姿勢はびくとも揺るがない。
レイムは狂おしいばかりに首を振った。
「ちがう! 僕はこんなことをしたいわけじゃないっ!」
(それならば)
(あの天界の聖女)
(あれに死んでもらわねばなりませぬか)
(命)
(命)
(命が必要)
(誰かが死なねば)
(誰かが|骸《むくろ》を捧げねば)
(世界は救えませぬ)
くっくっくっと、影は笑う。
|干《ひ》からびた、かさかさの笑い。
きっと|瞳《ひとみ》を|険《けわ》しくしたレイムは、叫んだ。
「僕が救いたいのは、そんな世界じゃないっ!!」
ばしっと音をたて、レイムの体が輝いた。
あたかもレイム自体が|雷《かみなり》の|塊《かたまり》にでもなったように。
背中に張りついていた影が、|閃《ひらめ》いた光に|弾《はじ》かれ、消えた。
両手の先だけでルージェスを支えきれず、がくりとレイムは|膝《ひざ》を突く。
だが。
ルージェスの首にかけた手だけは、どうあっても動かなかった。
|脂汗《あぶらあせ》を|額《ひたい》に浮かべ、|腰《こし》|砕《くだ》けになったルージェスからレイムは両手を引きはがそうとするが、がちがちになった手は、自分のものではないように感覚がない。
ぐっと|咽《のど》を鳴らせたルージェスの|唇《くちびる》が|紫色《むらさきいろ》になり、ぐったりとした体が小刻みに震えた。
「くそおっ!!」
このままではルージェスは死ぬ。
じれたレイムは、忙しく周りを見まわす。
さっきシルヴィンの|革《かわ》|紐《ひも》で打たれ、地に落ちてばらばらになって死んだ黒の兵士の剣が一本、すぐ近くの|瓦《が》|礫《れき》の中に深々と突き立っているのが見えた。
あれで。
手首ごと切り落とす……!
体から分断された手首なら、たとえ自分の体であっても|魔道力《まどうりょく》で|粉《ふん》|砕《さい》することができる!
立ちあがったレイムは、ルージェスをひきずって弾かれるように走った。
レイムの|飛竜《ひりゅう》の上に残ったシルヴィンは、素早く|鞍《くら》によじ上り、|手《た》|綱《づな》を握った。
飛竜を|旋《せん》|回《かい》させ近寄ろうとしたところ、レイムを襲いかけてやめたウィグ・イーを見た。
悲鳴のように叫んだルージェスの声を聞いていた。
(兄妹!?)
そして、その妹に対し、レイムのとった行動は、シルヴィンの|度《ど》|肝《ぎも》を抜くものだった。
まさかあのレイムが、ひとの首に手をかけ、|絞《し》め殺そうとするなんて……!
|驚愕《きょうがく》し、なにがなんだかわからなくなったシルヴィンだが。
レイムの叫びで|我《われ》に返った。
レイムの体になにか、|得《え》|体《たい》のしれないことが起こっている。
そしてレイムは……。
「だめえっ!!」
レイムの|意《い》|図《と》を読んだシルヴィンは、レイムの背後から飛竜で襲いかかった。
ルージェスをひきずったレイムが、剣に向かって手首を当てた、その瞬間。
レイムの頭上ぎりぎりをかすめ飛んだ飛竜に乗ったシルヴィンが、剣の|柄《つか》をつかんでいた。
第十章 約束
びくんと|黒《くろ》|魔《ま》|道《どう》|師《し》が体を震わせた。
かすかに姿勢を|崩《くず》した黒魔道師の下の地面に、じわりと影が浮き上がった。
様子をかえた黒魔道師に、ディーノがちらりと視線を投げる。
浅く息を乱した黒魔道師は、たまらぬ|愉《ゆ》|悦《えつ》を|噛《か》みしめ、ゆっくりと|唇《くちびる》の端をあげ、笑いの形に顔を|歪《ゆが》めた。
「|若《わか》|僧《ぞう》が、やってくれるわ……!」
実体をもたぬ影の魔道士としての彼を、こうも|鮮《あざや》かに|跳《は》ねのけるとは。
ぐっぐっぐっと|咽《のど》を鳴らし、黒魔道師は笑った。内にこみあげてくる熱をおびたものを、|逃《のが》すまいとする笑いだった。
ひとしきり笑いおえた黒魔道師は、たっぷりとした|仕《し》|草《ぐさ》で腕をあげ、ディーノに向かって深々と礼をした。
「|火急《かきゅう》の用ができたよう。これにて失礼いたします。おもしろいものが見られるでありましょう。我が王には、ごゆるりと参られるがよろしいかと。ではまたのちほど」
風にはためく|闇《やみ》|色《いろ》の|法《ほう》|衣《え》。
|頭《こうべ》を垂れた黒魔道師の顔は、フードと影に|紛《まぎ》れて闇色に隠れる。
闇色の法衣は岩山の上に乗った闇の|塊《かたまり》と化し、|陽《ひ》にさらされて|融《と》け|崩《くず》れる氷をまねて、ゆるゆると沈みこんだ。
風渡る岩山、黒魔道師が|行《ゆく》|方《え》をくらました岩山のそばに|飛竜《ひりゅう》を浮かべたディーノは。
不意に胸騒ぎを感じた。
どろどろとした|嫌《いや》なものが、体の|芯《しん》を流れ落ちる感覚に襲われ、にわかにうろたえて|手《た》|綱《づな》をさばいた。
主人の内を騒がすものに敏感に反応した飛竜は、うかがい見るように静かに首をあげた。
黒魔道師は、ディーノに見物を|促《うなが》して、ゆっくり来るように言った。
興味はないが、行ってやってもかまわない。
自分の気持ちにうそぶきながら、ディーノは飛竜を|街《まち》へと向けた。
燃えあがるマ・フィルニーめざして飛ぶ飛竜は、命じられることなく速度を速めた。
どきどきと|不《ふ》|穏《おん》に|鼓《こ》|動《どう》を大きくする胸が感じている痛みに、ディーノは目を細めた。
これまでに感じたことのない、|膨《ぼう》|大《だい》な|喪《そう》|失《しつ》|感《かん》への恐怖が、ディーノを|強襲《きょうしゅう》していた。
剣の|柄《つか》を握ったシルヴィンは。
飛竜の勢いをかり、地面に突きたったそれをいっきに引き抜こうと、力をこめた。
固い|石畳《いしだたみ》を割った剣は、深く地にささっていて重い。
刃に当たったレイムの手首から血がしぶいた。
|間《ま》|近《ぢか》い位置で|弾《はじ》けた|紅《くれない》の色に、シルヴィンはぎりっと歯を鳴らした。
飛竜の|手《た》|綱《づな》をつかんだシルヴィンの腕がめいっぱいに引っぱられ、剣を握った腕の引っぱる力とともに肩に激痛がはしった。
だがここで手を放すわけにはいかない……!
くいしばった歯のあいだから口の中に|金《かな》|臭《くさ》い味が広がった。
ぎしりと骨が悲鳴をあげたとき。
剣が動いた。
剣の柄を握りしめたシルヴィンは、ほっと|安《あん》|堵《ど》の息を吐き、手綱をつかむ手を脱力した。
それはほんの一瞬のこと。
ルージェスの首をつかんだレイムが剣に向かって手首をぶつけ。
それよりわずかに早く剣の柄をつかんだシルヴィンが、その剣を引き抜いた。
地表すれすれに低く飛んだ飛竜が巻き起こした風にあおられ、吹き飛ばされるように、シルヴィンとレイムとルージェスは|一塊《ひとかたまり》になって転がった。
石畳で全身をしたたかに打ちつけながらも、きっと顔をあげたシルヴィンは、素早く起きあがるとレイムとルージェスにかけよった。
「たのむ、僕の手を……!」
剣を握ったままのシルヴィンに、ルージェスのために起きあがれないまま、|悲《ひ》|壮《そう》な決意を浮かべる顔をしたレイムが叫んだ。
「無茶なことしないでよっ!!」
|吠《ほ》えかかったシルヴィンは、|爪《つめ》が他の指を傷つけるほどに強く握ったため、がちがちにこわばっていた右手から剣をもぎとると、ルージェスの首にかけたレイムの手の指を一本ずつ乱暴に引きはがした。
気管を強く|圧《あっ》|迫《ぱく》した指、細く長く整えられた、男としては|綺《き》|麗《れい》で|華《きゃ》|奢《しゃ》なレイムの手から解放され、ずるんとルージェスが|崩《くず》れた。
背を丸めて石畳の上に転がったルージェスは、|咽《のど》をひゅうひゅういわせ激しく|咳《せ》きこむ。
許されたわけでなく、ルージェスとレイムにむやみに近寄ることのできないウィグ・イーは、やや離れたところの|瓦《が》|礫《れき》の上に座りこみ、不安そうに主人たちを見つめている。
荒い息を吐き、ぺったりと腰を落としたシルヴィンは、涙で|潤《うる》んだ目でレイムを正面からにらみつけた。興奮したためか、怒っているのか、泣きたかったのか、それは定かでない。
「どうしてあんたって、そうやって自分を|粗《そ》|末《まつ》にするの! 体ってのはね、誰でもひとつしかもってないのよ! 一生使っていくのよ! 代わりはないのよ! わかってる!?」
大声で|怒《ど》|鳴《な》るシルヴィンの声で|鼓《こ》|膜《まく》をちゅんちゅんと震わせながら、倒れたままのレイムはゆっくりと手の指を動かす。まだ少し感覚は|鈍《にぶ》いが、だんだんと自分のものであることが実感できるようになってくる。
ほっと|頬《ほお》を|緩《ゆる》めたレイムは、浅く切り裂いた両手首の傷を押さえながら体を起こす。
「ありがとうシルヴィン……。助けてくれて……」
ふわりと空気の色がかわるほどに優しい|笑《え》|顔《がお》で述べられた礼は、シルヴィンがルージェスの命を救ってくれたことに対して。
レイムの言葉を耳にしたシルヴィンは、|的《まと》をはずした言葉の意味をとらえて|仰天《ぎょうてん》する。
「あんた、わたしの言ったこと聞いてたのっ!?」
|怒《ど》|髪《はつ》|天《てん》をついたシルヴィンは、ばん! と両手で石畳を|叩《たた》いた。
「え?」
きょとんとレイムが目を見開く。
シルヴィンを見つめているのは、あまりにも透明な光をたたえる、星を浮かべたほどにも美しい|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》。どこまでも純粋で|無《む》|垢《く》……。
まともに相手をしてしまったシルヴィンは、毒気を抜かれ、石畳を|叩《たた》いた姿勢のまま、へにゃっと前のめりにつぶれた。
「?」
わけがわからずぱちぱちと|瞬《まばた》きしたレイムだが、ゆっくりしている場合ではない。
レイムはぜいぜい息をしているルージェスの肩にそっと手をかけ、その顔を|覗《のぞ》きこむ。
半失神状態にあったルージェスは、肩に置かれたレイムの手を感じ、ぴくりと反応した。
レイムは|脂汗《あぶらあせ》を浮かべた|額《ひたい》に張りついたルージェスの髪を、壊れ物を扱う手つきではらい、自分と同じ|手《て》|触《ざわ》りをもつ髪をなでる。
いくら|詫《わ》びても、詫びきれない。それがあまりに重すぎて、レイムには謝罪の言葉を口にすることができない。
薄く目を開いたルージェスは、|間《ま》|近《ぢか》い位置に肉親の顔を見た。
内面の清らかさをたたえた、優しい翠の瞳が、ルージェスを見つめていた。
びくんとルージェスは体を震わせ、大きく目を開けた。
それはルージェスがはじめて目にする表情。
いつわりや|汚《けが》れ、|邪《じゃ》|気《き》のまったくない、|慈《じ》|愛《あい》に輝くもの。
「大丈夫かい?」
澄んでよく通る|耳《みみ》|触《ざわ》りのいい声で、レイムは静かに問いかけた。
体の奥深いところに染みこみ、胸につかえた|哀《かな》しい|塊《かたまり》さえもとかす、|温《あたた》かさをおびた声。
反射的に、こくんとルージェスは首を|縦《たて》に振っていた。
ルージェスを案じ、悲痛なまでに緊張していたレイムの表情が、ほっとなごむ。
「よかった……」
細いレイムの指先が、そうっとルージェスの|頬《ほお》に落ちかかる髪を払った。
ルージェスは目を閉じ、レイムの指を感じた。目を閉じていたほうが、より|触覚《しょっかく》が|鋭《えい》|敏《びん》になり、どきどきとするほど|生《なま》|々《なま》しく、それを感じることができた。
レイムはルージェスの|咽《のど》に残った、ぞっとする|痣《あざ》を痛々しく見つめて目を伏せ、息を吐くと、|毅《き》|然《ぜん》とした顔で目をあげた。
「ごめんね、ルージェス。行くよ」
レイムは言って立ちあがる。
ぐったりと脱力していたシルヴィンが、急に立ちあがったレイムにびっくりして顔をあげる。
二頭の|飛竜《ひりゅう》が三人のそばに、天から|悠《ゆう》|然《ぜん》と降りたつ。
足早に飛竜に近寄ったレイムは、|鞍《くら》の上に腰を落ち着けるやいなや、その|手《た》|綱《づな》をさばく。
「ちょ……! ちょっと、待ってよぉ!」
シルヴィンは、ぷっと頬をふくらませ、|慌《あわ》てて飛竜に飛び乗ると、レイムの後を追っかけた。
女の子を追ったファラ・ハンが足を向けたのは、祈りの塔に向かう|袋小路《ふくろこうじ》だった。
小さな飛竜が女の子に向かって炎を吐くか吐かないかまでしか目撃していなかったレイムに、それがわかるはずはない。
忙しく首をめぐらせ、ひとごみの中にファラ・ハンの姿を発見できなかったレイムは、即座にこの祈りの塔に向かう|径《こみち》を選んだ。
建物に入らなければならない理由はない。
逃げこむならばと考えて、それにもっとも適した場所がそこだったのだ。
手首に巻きつけておいた|手《た》|綱《づな》をはずしてもとのようにつけ、ぴったりと追いついたシルヴィンは、レイムの飛竜に続いて径の上を飛んだ。
レイムとシルヴィンが目撃したのは。
|刃《やいば》を受けて背を切り裂かれたファラ・ハンの。
その瞬間である。
「ギャウン!」
振り下ろされた剣の勢いそのままに、|石畳《いしだたみ》に|叩《たた》きつけられた小さな飛竜は、|跳《は》ねとんで転がり、気絶した。
女の子をさらい、押し倒して体を|被《かぶ》せようとした形で背を|斬《き》られたファラ・ハンは。
かっと青い|瞳《ひとみ》を見開く。
髪のひと筋、血のひと|滴《しずく》たりと、不用意に落としてはならないのだ。
その存在を何十、何百倍にも増強させる、絶大なる力の|源《みなもと》たるものを、この地を|徘《はい》|徊《かい》する|魔《ま》|物《もの》どもにくれてやるわけにはいかない……!
魔道によって『|封《ふう》じる』必要がある……!
倒れ伏しながら。
ファラ・ハンは|印《いん》を結んだ。
自分の果たさねばならないことを、|懸《けん》|命《めい》にしてのけた。
切られて散った数本の髪と、飛び散った血の滴が、封じられ、光を発して消滅した。
血を|噴《ふ》く背中の傷口に、封じの魔道によって薄皮が張った。
ファラ・ハンと小さな飛竜によって、衛兵の振るった刃から|逃《のが》れることのできた女の子は。
|茫《ぼう》|然《ぜん》とこの光景を見つめた。
女の子は、魔物は、|街《まち》を守る衛兵によって斬り捨てられてしかるべき存在だった。
|刃《やいば》を受けるはずのものだった。
ぐらりとかしいだファラ・ハンの背後。
ふいと、剣を振りきった衛兵の姿が消えた。
|街《まち》を|焦《こ》がしていた炎が、スイッチが切り替えられたように、|唐《とう》|突《とつ》に消滅した。
逃げ|惑《まど》っていたひとびとの姿も、消えた。
残ったのは、炎に焼かれて半壊したまま時を止めた街と、女の子、そして『今』の時間に存在する者たちだけである。
「ファラ・ハン……」
背を|斬《き》られ、ばたりと倒れた|招喚《しょうかん》の聖女の名を、呼吸をとめたレイムが小さく呼んだ。
目を開いたまま|凝固《ぎょうこ》していたシルヴィンは、耳に届いた名をゆっくりと理解する。理解して、ひどくゆっくりと肩をあげた。
「ファラ・ハーン!!」
絶叫したシルヴィンの声。
気を失いかけたファラ・ハンは、名を呼ばれて意識を引き戻され、はっと目を開く。
激痛が背中からはしって、息がつまった。
目の前に女の子がいた。
無傷のようだった。
|薄《うす》|絹《ぎぬ》の花びらをもつ花のように、ファラ・ハンは|微《ほほ》|笑《え》んだ。
激痛をこらえた白い|額《ひたい》に、汗がにじんだ。
「大丈夫よ……、守ってあげる……」
腕を突き、そろそろと体をもちあげたファラ・ハンは、|石畳《いしだたみ》の上に横座りになった。
「ファラ・ハン!」
レイムが飛竜から飛び降り、駆け寄った。
女の子を抱きよせたファラ・ハンは、レイムに顔を向け、痛みをこらえたけなげな笑顔で問いかける。
「この子に剣を向けた兵士はどうしましたの? あなたが追い払ってくださったの?」
レイムは|哀《かな》しいような、厳しいような顔をして、首を振った。
女の子を抱きしめたファラ・ハンは、軽く首をかしげる。
泣き顔をこらえたシルヴィンが口を開いた。
「消えちゃったわ。|幻《まぼろし》なの。この街も火事もひとも、全部。今わたしたちがいるのは、ずうっと昔の夢の中なのよ。本当のここは、|廃《はい》|虚《きょ》よ。焼けた街のあった、それだけの場所。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を追って、過ぎた時間の中にまよいこんじゃったの」
「幻……?」
ファラ・ハンは、くりかえす。
しかし、レイムは首を振った。
「現実です……。そうですね、ファラ・ハン。あなたが今感じておられる痛みは、本物のはずです。さっきの兵士が振るった剣は、現実に『力』をもっていた。でなければ、小さな|飛竜《ひりゅう》が、あんなふうになるわけがない。あなたが、その子を抱いていられるはずがない……!」
シルヴィンの乗る飛竜、母飛竜が、|石畳《いしだたみ》の上で気絶している小さな飛竜に顔をすりよせ、剣でしたたかに打たれた体をなめ、優しく|介《かい》|抱《ほう》してやっている。ややあって目を開けた小さな飛竜は、親を前にしてきゅうに甘ったれた気持ちになったのか、気弱に鼻を鳴らす。
シルヴィンもレイムも、この|街《まち》で勢いをもつものに、|干渉《かんしょう》することはできなかった。
ひとも炎も、自由に動かせるものはなかった。
記憶という『感覚の|塊《かたまり》』は、実体をもっていない。
「時の宝珠の力で、ここは時間そのものが|歪《ゆが》んでいたようですね」
レイムは、女の子に、優しく|微《ほほ》|笑《え》みかける。
「時の宝珠を持っているのは、君だね」
確信をもつ問いに、女の子は小さくうなずいた。
シルヴィンが、ぎょっとする。
「あれ、|魔《ま》|物《もの》よっ!?」
|気《け》|色《しき》ばるシルヴィンに、レイムは目でうなずく。
「僕も、見た。時の宝珠を持って存在しているから、あの子に関係するものだけ、実体をもったんだと思う」
さっきの衛兵は、ファラ・ハンに救われ、地下室から逃げ出した魔物であるこの子供を殺そうとして、|刃《やいば》を振りあげたのだ。
ファラ・ハンや小さな飛竜がダメージを負ったのは、あくまで事故である。
ファラ・ハンは|哀《かな》しみに満ちた表情で、|眉《まゆ》をひそめる。
「これは、もうすんでしまったことですの? |廃《はい》|虚《きょ》ですの?」
ずっと現実だと信じ、|肌《はだ》でそう感じてきたファラ・ハンには、いきなりそう言われてもすぐに|承諾《しょうだく》しにくいものがある。
それに、それならば……。
過ぎた時間の中、この小さな女の子が抱き続けていた思い、けっして|報《むく》われることのないそれに、ファラ・ハンの胸がつまった。
ファラ・ハンは、ぎゅっと女の子を抱きしめた。
「ごめんなさい……! わたしには、お母さんを見つけてあげることができないの……! いっしょに探そうって言ったのに……、ごめんなさい……!」
シルヴィンはこの子供を魔物だと言った。レイムも、目撃という言葉でそれを|肯《こう》|定《てい》した。
だが、母を恋うものが魔物であるはずがない。魔物に血という|繋《つな》がりや、誰かを|慕《した》う心はない。
マ・フィルニーの|街《まち》を火災に導いた、魔物の血を持つ子供は。
|呪《じゅ》|詛《そ》に|縛《しば》られた|魂《たましい》として、それと知らずに生まれ落ちた。
悪いことをしている、ひととしてあるまじき行為を自分が行っていることを、わかってはいなかった。
血を|啜《すす》ることは、この子供にとって、走ったり笑ったりすることとまったく同じだけの価値しかもっていなかった。
どうして母に|嘆《なげ》かれなければならなかったのか。
どうして地下室に閉じこめられねばならなかったのか。
どうして誰も助けに来てくれなかったのか。
なにもわかっていなかった。
燃え落ちた街の中、地下室に閉じこめられたまま、死んだ後も。
ただ。
救われたいと、願っていた。
出口のない地下室の|闇《やみ》の中、寂しく震えていた心は。
今、ファラ・ハンの腕の中にあった。
欲しかったのは、こうしてくれる者の心。
抱かれる|温《ぬく》もり。
時のやり直しを|試《こころ》みた孤独な魂は、今。
守ってくれる者のいる、|至《し》|福《ふく》の中にあった。
「欲しいもの、あげる」
にこっと|微《ほほ》|笑《え》んだ女の子は、ファラ・ハンの耳元で|囁《ささや》いた。
「あるところ、知ってる。ずうっと見てた」
持っているはずの時の|宝《ほう》|珠《しゅ》のことを言っているのではない女の子の言葉に、ファラ・ハンはきょとんとする。
ファラ・ハンの腕に抱かれた女の子は、静かに上を見あげた。
そうして茶色の|瞳《ひとみ》で、じいっと灰色によどむ雲を見つめ。
にこっと微笑んだ。
なにがあるのかと、ファラ・ハンが上空に顔を向ける。
|微《ほほ》|笑《え》んだ女の子は、きっぱりと叫んだ。
「来て! 返して!」
幼い声はそのまま、強力な|呪《じゅ》|文《もん》としての力をもった。
時の宝珠を有するこの小さな|半《はん》|魔《ま》は、このとき、世界最高の力をもつ魔道師よりも、絶大な力をふるうことができた。それを使うものが幼い心であるがゆえに。純粋であるがゆえに。
王都の魔道師よりも。そして、すぐ近くに存在する、もうひとりの魔道師よりも。
動きに|促《うなが》され、レイムとシルヴィンも空を見あげた。
わけのわからないまま、空を振りあおいだ三人の上で。
にわかに雲が渦巻きはじめた。
高速で渦巻いた雲の中心が割れた。
それはファラ・ハンの真上。
そこから。
|竜《りゅう》の形をした|雷《かみなり》が落ちた!
大地を揺るがす|轟《ごう》|音《おん》とともに、真っ白に光った。
|雷《らい》|蛇《じゃ》の直撃を受けたファラ・ハンは、すさまじい|衝撃《しょうげき》に、びくんと背筋を正した。
思考もなにもかも、|弾《はじ》けとんだ。そんな余裕はなかった。
光に染められ、|陰《いん》|影《えい》を失ったファラ・ハンの背から、大きく翼が広がり出た。
目をいっぱいに見開いたファラ・ハンは、本来の、自然なる姿に戻らされていた。
それでなければならない状態だった。
その、必要があった。
それはただ一度だけのものだった。
|鼓《こ》|膜《まく》に与えた刺激も消えぬほどのあいだに、渦巻いた雲は|嘘《うそ》のように静まり、もとの状態にもどった。
雷蛇に打たれ、その衝撃で棒を飲んだようにがちがちになっていたファラ・ハンの体から、ふうっと力が抜けた。
放心状態にある顔を前に向けたファラ・ハンに、女の子はにこっと笑う。
「ありがとう」
|囁《ささや》いて幸せそうに笑いながら。
|魔《ま》|物《もの》の目をし、|牙《きば》をもつものへと変じ、涙をこぼした。
半魔としての|魂《たましい》を救われ、この世界に、過ぎた時間に、|留《とど》まる理由をなくした。
時を止めていた|街《まち》が、本来の姿に戻った。
うら寂しく風の吹きぬける、風化した|廃《はい》|虚《きょ》の上に、ファラ・ハンたちはいた。
淡く光り輝いた女の子は、その|輪《りん》|郭《かく》をぼやかした。光の|塊《かたまり》となって、ほどけた。
抱きしめたファラ・ハンの腕の中に、涙の色をした軽い小さな|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》が残り。
それも吹きすぎた風にさらわれて散った。
ファラ・ハンの胸の前には、|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》に輝く時の宝珠が浮かんでいた。
五つめの時の宝珠がそろった。
そしてファラ・ハンは。
|招喚《しょうかん》による具現のときに、奪い去られていたものを取り戻していた。
それは記憶。
彼女を必要とするこの世界に関すること、彼女自身に関すること。
失っていたがために心を悩ませていたこと。
ファラ・ハンはいっきに、この世界が滅亡に向かわねばならない理由を理解した。
ファラ・ハンが具現せねばならなかった理由を知った。
彼女のそばにいなければならない聖戦士は、今ひとり足りなかった。
ファラ・ハンは腰を浮かせ、素早く首をめぐらせた。
びくんと|飛竜《ひりゅう》たちが首をあげた。
ぞくりとレイムとシルヴィンの体に|悪《お》|寒《かん》が走った。
それは魔道を知る者だからこそ、自然を感じる心をもつ者だからこそ、|畏《い》|怖《ふ》せずにはいられないもの。
(つまらぬ半魔が、よけいな|真《ま》|似《ね》をしてくれたものよ)
声が聞こえた気がした。
白い翼を広げるファラ・ハンの真後ろに、突然に影がわきあがった。
えっと目を見張ったレイムたちの前で。
ファラ・ハンの腹から、ずぽりと鋼鉄の手が突き出した。
「!!」
息をつまらせたファラ・ハンは、目を大きく開き、その姿勢のまま|凝固《ぎょうこ》した。
白い衣服を通り抜けた手は、ファラ・ハンの肉を割ったわけではない。衣装を裂いて出たわけではない。
|魔《ま》|道《どう》の力によって、ぐちゅりとファラ・ハンの体を突き抜けたものだ。
|鋭《するど》く|尖《とが》った先をもつ鋼鉄の義手は、ファラ・ハンの前に浮かんだ時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の下で|緩《ゆる》やかに広げられ、それをつかみあげた。
ファラ・ハンの後ろでこごった影は、そのまま実体のある|法《ほう》|衣《え》となる。
「残るはひとつ……」
ぞろりと響く不快な|声《こわ》|音《ね》はそう告げ、|闇《やみ》|色《いろ》の法衣からあがった顔が、にいっと笑った。
赤く輝く|瞳《ひとみ》が、やや離れた場所に座りこんだルージェスを見た。
「公女様、予言のとおりでございます。世界を救う運命の公女たるあなた様のために必要なものは、もうこれでそろったのも同じ。あとひとつの時の宝珠は、集められた宝珠の力で、ここに引き寄せることができましょう。さぁ、わたくしのそばにおいでなさいませ」
うやうやしく、闇色の魔道士はルージェスを誘った。
第十一章 真実
まっさきに反応したのはウィグ・イーだった。
それはかねてから命じられていたこと。主人のために、なすべきこと。それをするために、ルージェスはこの旅に出発したのだから。
ウィグ・イーは|嬉《き》|々《き》としてルージェスに近寄ると、まだぐったりと力のはいらない様子のルージェスを心配そうに|眺《なが》め、命令を待って|蛙《かえる》のような格好で座りこむ。
|窒《ちっ》|息《そく》の|衝撃《しょうげき》が抜けきれず青ざめたまま、ゆるりと|魔《ま》|道《どう》|士《し》に首をめぐらせたルージェスは、高慢さのかけらを張りつかせた、|歳《とし》|相《そう》|応《おう》の幼さがのぞく疲れた顔をほっとくつろがせた。
これで終わる。世界救済という使命は果たされる。
生まれ育ちという恵まれた境遇のうえに甘やかされ続けて生きてきたルージェスにとって、運命の公女として気負いながら過ごしてきたこの数日は、かなり|過《か》|酷《こく》なものだった。従者といえば、犬からつくった獣人と魔道士と、意のままになるが命じなければ動かない、魔道によって作りだされた人形兵士団だけ。高貴の|麗《れい》|人《じん》たるルージェスに対する|細《こま》かい配慮や、ぬけめのない手回しなど、はなから期待するほうが無理だ。なにかひとつ行うにも、不満と|我《が》|慢《まん》の連続であったルージェスには、|館《やかた》を出てから神経が休まるひまなどなかった。
これでやっと肩の荷がおろせると|安《あん》|堵《ど》したルージェスから、ふっと力が抜けるのも|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なことではない。ルージェスに目で合図されたウィグ・イーは、ぼてぼてと近寄り、肩の上にルージェスを座らせる。
ルージェスたちが動くことを確認した魔道士は、ルージェスにうやうやしい|仕《し》|草《ぐさ》で礼をし、場所を移すため、後ろに下がる。
あまりの展開を前に、シルヴィンとレイムは|茫《ぼう》|然《ぜん》と立ちつくした。
自分の目で見ていながら、それが悪い|冗談《じょうだん》のように思えてならなかった。
いくら魔道でも、腹から腕が生えて出るなんて、とてもシルヴィンには信じられない。
世界を滅亡から救うためだとはいえ、あの|可《か》|憐《れん》で見るからにか弱い|招喚《しょうかん》の|乙《おと》|女《め》に対し、そんなむごい、乱暴な魔道を|用《もち》いる者がいるなど、レイムには理解できない。
腹を魔道士の腕に|貫《つらぬ》かれたままのファラ・ハンは。
動きを|封《ふう》じられていただけだった。
息をすることもできず、指一本自由に動かせない状態のまま、思考だけが|冴《さ》えていた。
腹を貫いた強い魔道力をもつ腕のため、|絞《しぼ》りとられるように体じゅうの力が奪われている。抵抗したくても、ファラ・ハンにはこの腕から|逃《のが》れることはできない。
このままではいけない。
このままでは、ファラ・ハンはもうひとつの世界救済物語のとおり引き裂かれてしまう。
そしてファラ・ハンは、世界が滅亡に向かわねばならない理由を知っている。
ファラ・ハンが、救世の聖女としてこの世界に具現した自分が命を失うことになれば、この世界は滅亡するしかないということを知っている。
自分の身ひとつ自由にならない彼女に、世界救済の希望はない。
救わねばならない心を、救うことができない……!
腹を|貫《つらぬ》いた腕に人形のように支えられて後ろに下がったファラ・ハンの長い髪が、しなやかに|空《くう》を泳いだ。
大きく見開かれたままのファラ・ハンの目から。
涙がこぼれた。
びくんとレイムの体が震えた。
|魂《たましい》を強打されるのにも似た|衝撃《しょうげき》で|戦《せん》|慄《りつ》がはしった。
理性のタガがふっとんだ。
「やめろおぉっ!!」
絶叫したレイムの腕から|爆《ばく》|裂《れつ》の|攻《こう》|撃《げき》|魔《ま》|道《どう》が放たれた。
|莫《ばく》|大《だい》な破壊力、|壮《そう》|絶《ぜつ》な力を発揮する最大の高等魔道。
ひとに向けたもの。
|穏《おだ》やかで優しい、ふだんのレイムには絶対に考えられない行動だった。
攻撃魔道の|気《け》|配《はい》を感じ、ファラ・ハンを抱えた魔道士が、振りかえった。
レイムから爆発するほどにも激しく|弾《はじ》けた魔道力の光で、一瞬周りが真っ白に染まる。
レイムの攻撃魔道で引き裂かれた大気が、火花を散らし、|轟《ごう》|音《おん》を発して渦巻いた。
高い位置であり、安定を欠く場所にいたルージェスが吹き飛ばされかけ、バランスを|崩《くず》し、|慌《あわ》てたウィグ・イーが|尻《しり》|餅《もち》をついた。
風に混じる|砂《さ》|塵《じん》と小石をよけるため、反射的に腕をあげたシルヴィンは、あおられてよろめきながら低く腰を落とす。
ただ一人のために。
その女性を守りたいがために。
それはあまりにも|利《り》|己《こ》|的《てき》で、自己中心的な感情。
周囲のことにまで気を配ることが、できないもの。
このときのファラ・ハンは|招喚《しょうかん》の聖女ではなかった。
世界を救済するために必要なものではなかった。
|摘《つ》み取られ、踏みにじられようとしている、一輪の花に似たひと。
|温《あたた》かく|懐《なつ》かしく、生命という輝きに誰より近しいそのひとは、この世のすべてと存在を|繋《つな》げていた。
そんなひとが。
世界を救うために、犠牲になっていいはずはない。
いかなる理由があろうとも、あんなにむごい仕打ちを受けていいはずはない……!
レイムの放った|攻《こう》|撃《げき》|魔《ま》|道《どう》は、ファラ・ハンの腹部を|貫《つらぬ》いた鋼鉄の義手を直撃した。
色濃く魔道の力さえ感じさせる|強靭《きょうじん》な鋼鉄の義手は。
文字どおり|爆《ばく》|砕《さい》した!
|轟《ごう》|音《おん》を発して|弾《はじ》けたものは、|粉《こな》|微《み》|塵《じん》に飛び散り、銀色に輝く|霧《きり》と化した。
義手を|狙《ねら》い撃たれ、襲いきた魔道の勢いを殺しきれず、魔道士はゆらりと一歩|退《しりぞ》く。
ファラ・ハンを守りたいがためになされた攻撃で、ファラ・ハンが傷つくことはない。
貫かれていたものを失ったファラ・ハンの体が、五つの時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を内におさめ、その場にぐらりと|崩《くず》れ落ちた。
義手をなくした手を押さえ、魔道士がレイムをぞろりと赤い|瞳《ひとみ》でにらんだ。|激《げき》|烈《れつ》な|衝撃《しょうげき》を受けた左腕は|痺《しび》れ、冷たく|凍《こご》えていた。この魔道士ほどの力をもつものでなければ、体ごと|粉《ふん》|砕《さい》されていても|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》はない、|壮《そう》|絶《ぜつ》な威力をもった一撃だった。
荒い息を|噛《か》み殺しながら、魔道士を|翠《みどり》に燃え上がる炎のような瞳で見すえたレイムは。
目にした魔道士の左手に、ふっと|眉《まゆ》をひそめた。
左手は鋼鉄の義手だった。
手首から先があってはならない、左手だった。
それが失われたものであると聞いていたルージェスも、いぶかしむように目を細める。
なでさすり、あげられたその左手の甲には。
|逆《さか》さまに描かれた黒い|五《ご》|芒《ぼう》|星《せい》と、それを囲む|紅《くれない》の輪がくっきりと浮き出ていた。
それは。
この世界でただ一人の魔道師しかもたぬもの。
暗黒にすまう|邪《じゃ》|神《しん》と|闇《やみ》とに|盟《めい》|約《やく》を結んだ|証《あかし》。
伝説の|黒《くろ》|魔《ま》|道《どう》|師《し》。
彼が……!
「バリル・キハノ……!」
|驚愕《きょうがく》に足をわななかせながら、レイムは悲鳴に似た声を|絞《しぼ》りだした。
ケセル・オークなどと名乗り、雲海の上で初めてまみえたときに感じた、あの圧倒されるほどの魔道質量のちがい、体の|芯《しん》を|戦《おのの》かせるものの|正体《しょうたい》を知った。
相手がこの黒魔道師であるならば、あれはなんの|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》もない。レイムなど、その存在の重みに対抗することはできない。
左手をゆっくりと下ろしたキハノは、血の色をした|瞳《ひとみ》でレイムを見返しながら、にいっと|唇《くちびる》の端をあげた。なんの魔道を使ったわけでもないが、大気がくもり、ねっとりと重みを増す、そんな|錯《さっ》|覚《かく》が起こった。体から放たれる黒き魔道の|迫力《はくりょく》に圧倒され、動きが|緩《かん》|慢《まん》になり、毒された体が力を失っていく感じがする。
腰を落としたままのシルヴィンは、|膝《ひざ》|下《した》ががくがく震えるのを感じた。縫い止められたように足は動かず、|萎縮《いしゅく》してしまった体は姿勢を|崩《くず》すことすらできない。
伝説の黒魔道師といっても、それは魔道士のうちでのことで、あまり一般的に知られていることではない。ルージェスは展開がよくわからず、ただ自分が連れていた魔道士がただものではない、なにか|得《え》|体《たい》のしれない恐ろしい人物であったことだけを知った。ルージェスは、|茫《ぼう》|然《ぜん》として目を見張りながら、レイムとキハノを見比べる。
主人をおいて逃げ出すことなどできず、その場から動くことのできない獣人、ルージェスたちに近寄ったその魔道士の真の正体をはじめから感じていたウィグ・イーだけが、かわらぬ|脅《おび》えた目でキハノをうかがう。
「青二才に呼び捨てられる覚えはないわ」
ぞろりと響く不快な|声《こわ》|音《ね》で、キハノは答えた。
|本性《ほんしょう》をさらしたキハノの口調には、今までのようにへりくだった部分はない。気が遠くなるほどにはるかな深みを感じさせるものは、|闇《やみ》の|深《しん》|淵《えん》に|錨《いかり》をおろす者のゆるぎなさだ。
その声の響きを、レイムはつい最近、耳にしたと覚えている。手を|操《あやつ》り、ルージェスの首にかけさせた者。そしてそれは以前にも、恩ある姫へレイムに短剣を握らせた……。
「まさか……」
声をつまらせるレイムに、キハノは目を細める。
「|賢《さか》しさは命とりよ。もう少し|馬《ば》|鹿《か》ならば、長生きもできたものを」
|咽《のど》を鳴らし、キハノは笑った。
正体がばれたならば、|猿《さる》|芝《しば》|居《い》を続けてやるいわれはない。
キハノは|奇術師《きじゅつし》を思わせる|滑《なめ》らかな動きで手を招いた。
ぐったりとくずおれていたファラ・ハンの体が、見えない腕に、すいと抱えあげられた。
キハノは後ろに|退《しりぞ》く。|空《くう》を|滑《すべ》るファラ・ハンがそれに続く。
「|魔《ま》|法《ほう》|使《つか》いっ! 魔法陣!!」
金切り声でシルヴィンが叫んだ。
はっとレイムが|促《うなが》された先に目を|凝《こ》らす。
ファラ・ハンを連れたキハノが踏もうとしている場所。
|幻《げん》|覚《かく》の|街《まち》、過去の情景で祈りの塔のあった場所。
そこに、|封《ふう》|印《いん》の魔法陣があった。
|崩《くず》れかけている魔道の封土たる場所を修復するためには、その魔法陣を踏まないで術をかけなおす。
キハノの目的は、むろん封印を|施《ほどこ》すことではない。
ファラ・ハンを使って……。
「!!」
色をなしたレイムは印を組んで神経を|研《と》ぎ|澄《す》まし、台地に残る魔道特性を読みこんだ。
封印の強化を|狙《ねら》う|応急呪文《おうきゅうじゅもん》でも、封印の力を増強させることができる。その上に立つ魔道師を|排《はい》|斥《せき》することができる。
「はるかなる時をしめした|水晶《すいしょう》の時計……」
「手遅れよ!」
レイムの呪文にキハノの|哄笑《こうしょう》が重なった。
天を指したキハノの左手に。
|雷《かみなり》が落ちた!
世界じゅうが引き裂かれるかと思われるほどの|凄《すさ》まじい音が鳴り響いた。
爆弾が落ちたも等しいその|衝撃《しょうげき》で、魔法陣の周りの空気が|轟《ごう》と押しのけられた。
術を途中で|弾《はじ》きのけられたレイムは、バランスを崩して転んだ。
たまらずシルヴィンは重心を落としてしゃがみ込む。
ウィグ・イーは|覆《おお》いかぶさるように、ルージェスをかばった。
あからさまな悪意をもってなされたそれに誰もが呼吸もできず、目を閉じる。
もうもうと|砂《さ》|塵《じん》をあげる中、シルヴィンは|果《か》|敢《かん》に目を開いた。
高く盛り上がり、|祭《さい》|壇《だん》となった封印の魔法陣があった。
ファラ・ハンが自力で身を起こしたらしく、震える白い翼の端が上がったのが見えた。
「!!」
|弾《はじ》かれるように起き上がったシルヴィンは、レイムの|法《ほう》|衣《え》の|襟《えり》をひっつかむ。男ひとりをひきずる勢いで、|飛竜《ひりゅう》に向かって走った。足をもつれさせながらも、なんとかレイムが立ち上がって動く。
「急いで!」
悲鳴のようにシルヴィンは叫んだ。
|逃《のが》れねばならない。
血がにじむほど強く|唇《くちびる》を|噛《か》みしめたファラ・ハンは、よろめきながら立ちあがる。
「美しき|生《い》け|贄《にえ》よ。ようこそ我が前へ」
にいっと笑ったキハノの声がファラ・ハンの真後ろから響いた。
血を凍らせ、振りかえることもできないファラ・ハンは、それでも夢中で翼に力を入れた。
激痛が走った。
息をつまらせ、がくりと|膝《ひざ》を突いたファラ・ハンは、翼の付け根あたりを剣によって|斬《き》られていたことを思いだした。急ぎの|魔《ま》|道《どう》で傷の表面をふさいだだけだ。血を|噴《ふ》きだすことはないが、|瘉《いや》されているわけではない。
苦痛に顔を|歪《ゆが》めたファラ・ハンの目の端、空の一画に、ちらり動くものがあった。
それは巨大な|飛竜《ひりゅう》の影。
こちらにまっすぐ向かって来るもの。
はっと顔をあげたファラ・ハンが、おもわず体を乗りだす。
そのファラ・ハンを引き戻すように、キハノが左の翼をつかんだ。
翼をつかみ。
引き裂いた……!
「ディーノ!!」
絶叫したファラ・ハンの背中。
鮮血と|細《こま》かい羽毛をまき散らし。
|左《さ》|翼《よく》がもぎ取られた。
「いやあぁっ!」
飛竜を駆ろうと、|手《た》|綱《づな》を握ったシルヴィンが悲鳴をあげた。
|愕《がく》|然《ぜん》とレイムが目を見はった。
片翼を失ったファラ・ハンは、それによって一瞬キハノの手を逃れることになった。
前のめりにぐらりと体を傾けたファラ・ハンは、進みくるものに向かって、一歩進んだ。
もぎ取った翼を|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の上に捨てたキハノは、さらにもう一方の翼に手を伸ばす。
矢のように|滑《かっ》|空《くう》してきた飛竜が、命じられぬままに猛火を吐いた。
炎に体の真横をかすめられ、その勢いにあおられ、ファラ・ハンはぐるりと舞った。
真正面から襲いかかった炎を、キハノは|印《いん》を結んで|防《ぼう》|御《ぎょ》した。
|翻《ほん》|弄《ろう》されるままになったファラ・ハンは、魔法陣の外に倒れ出た。
キハノの術のため、高く盛り上がっていたそこから。
|真《ま》っ|逆《さか》|様《さま》に。
落ちる……!
鮮血の尾を引き、石のように落下するファラ・ハンを。
飛竜に乗ったディーノが受けとめた。
やんわりとすくいあげられる形に、しっかりと抱きとめられた。
背に腕を回され、ディーノの胸にもたれたファラ・ハンが、顔をあげる。
「ディーノ……」
気を失うこともできない激痛をこらえ、ふわっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。ぎゅっとディーノの衣服をつかみ、強くしがみついた。
そのファラ・ハンの行為が|意《い》|図《と》することに、ディーノは激しく驚いた。
そして、落ち着かなく心騒がせたものがなんであったのかを、ようやく認めることができた。
ファラ・ハンを受けるため地表ぎりぎりまで降下した飛竜が、魔法陣から|逃《のが》れるように上昇する。
ファラ・ハンは血に|濡《ぬ》れた羽を一枚引き抜き、ディーノに渡す。
「魔法陣を、|封《ふう》じて……」
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》は手に入れた。
魔道の封土を、きちんと封じてしまわねばならない。
そうしなければ、ここを後にすることはできないのだ。
ファラ・ハンをディーノにさらわれた形になったキハノは、ふんと鼻を鳴らす。
絶大な力を秘めたファラ・ハンの血肉の一部、|片《かた》|翼《よく》はキハノの足元に転がっている。これだけでも、術を成功させるのになんら不都合はない。
そして片翼を失ったファラ・ハンも、どのみちあの|怪《け》|我《が》では長くもつはずはない。キハノが行おうとしている術が成功すれば、それに使われた翼の本体であるファラ・ハンは、その瞬間に腐り|崩《くず》れて|朽《く》ち果てる。
血に染まった羽を受け取ったディーノだが。
ディーノには魔法陣を|封《ふう》じる力はない。その方法を知らない。
身をさいなむ激痛に、悲鳴をかみ殺したファラ・ハンは、血を吐くように|呟《つぶや》く。
「残してきたわたしの翼を……、使わせないで……!」
あれが使われるようなことになれば、|危《あや》ういままになんとか保たれてきた世界の|均《きん》|衡《こう》はいっきに|崩《ほう》|壊《かい》する。世界は滅亡するしかないのだ。
ファラ・ハンの声を耳にし、ぎりっとディーノは歯を鳴らした。
伝説となるほどの黒魔道師キハノをしのぐほどの力が、レイムにあるとは思えない。
強い魔道を行うには、神聖なる法具が不可欠だ。
黒魔道が|太《た》|刀《ち》|打《う》ちできぬほど、|清浄《せいじょう》なる力をもつ法具。
羽を持つディーノの右手の内に、力が形をなした。
「使え!!」
|怒《ど》|鳴《な》ったディーノはレイムに、|刃《やいば》に血のりのついた羽の貼りついた|銀《ぎん》|斧《ふ》を投げた。
|空《くう》を切って飛来した銀斧は、光の矢となりながら形状を変える。
銀の|柄《つか》、|透《す》きとおる|水晶《すいしょう》の刃をもつ長剣が、飛竜の|手《た》|綱《づな》をつかんだまま、地面に立ちつくしていたレイムの足元に突き立った。
水晶の刃の中心に一筋の赤い線がある。
聖なる銀斧とファラ・ハンの血を持つ、最高の法具。
時を支配する天界の水晶の時計の針を|象《かたど》ったもの。
これならば魔法陣そのものの時間を戻すことができる。
術をなぞることなく、魔法陣を復活させられる。
「シルヴィン! 上がって! すぐに移動をはじめるから!!」
剣を地面から引き抜き、飛竜に飛び乗ったレイムが叫んだ。
魔法陣を復活させられたら、すぐにファラ・ハンの傷をどうにかしなければならない。
キハノをまいて、この場から去る必要がある。
レイムの飛竜が|砂埃《すなぼこり》を巻きあげて飛び立った。
放心状態にあったシルヴィンに、小さな飛竜が飛びついた。キャウキャウと声をあげ、必死の様子の小さな飛竜を目にして、シルヴィンはにわかに|慌《あわ》てだす。
魔法陣の中心に翼を置き、|印《いん》を結んで|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えたキハノのまわりに、|漆《しっ》|黒《こく》がわきたち、|緩《ゆる》やかに波打った。
飛竜で上昇したレイムが法剣をかまえる。
「時を支配する水晶の時計よ! 時を呼び戻せ!!」
切っ先で|印《いん》を描いて投じられた剣が、風の凍る音を響かせ、|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の中央に突き刺さった。
水晶の|刃《やいば》に|貫《つらぬ》かれた翼は、ファラ・ハンの血にひかれ、法剣に融合する。
魔法陣から|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》の光がふくれあがり、|弾《はじ》けた。
圧倒的な聖魔道力に、キハノは術を破られ、魔法陣の上から弾き飛ばされた。
魔道師の称号をもつキハノでなければ、とてもこれに耐えられなかった。
個人|防《ぼう》|御《ぎょ》の|結《けっ》|界《かい》を張って空中に浮かんだキハノは、かすかに|朦《もう》|朧《ろう》とした頭を振り、目を開ける。
ものの見事に魔法陣が|封《ふう》|印《いん》を|施《ほどこ》されていた。
聖女の力をもって封印されたものは、もはやキハノの手に負えるものではない。
空中に|呪《まじな》い粉を散らして印を描いたレイムが、空間を開く。
空がそこだけ切り取られ、移動のための『門』が開いた。
ファラ・ハンを連れたディーノの飛竜がそれをくぐる。
小さな飛竜を抱いたシルヴィンの飛竜がそれに続く。
レイムは飛竜を降下させていた。
「ルージェス!」
レイムはルージェスに手を伸ばした。
|闇《やみ》と|盟《めい》|約《やく》を結んだ黒魔道|師《し》とともに行動していて、いいはずがないのだ。
自分を心から案じる叫びに、反射的にルージェスは立ちあがり、手を差しだしていた。
レイムとルージェスの手が|触《ふ》れる……。
「があっ!」
|吠《ほ》えたウィグ・イーが、真横からルージェスをさらった。
ルージェスの上を飛びすぎながら振りかえり、|茫《ぼう》|然《ぜん》と目を開いたレイムがウィグ・イーを見る。
身動きままならず、ルージェスは泣きそうな顔でレイムを見た。
ウィグ・イーは|牙《きば》をむき、レイムをにらんだ。
主人であるルージェスを自分から奪おうとした者に対して、激しい敵対心を抱いていた。
ルージェスへの|執着《しゅうちゃく》は獣人となったウィグ・イーの中でねじくれ、どす黒い|思《おも》|惑《わく》を含んだ方向に進みはじめていた。
ぞくりと身を震わせたレイムだが、もう一度ルージェスに手を差しだしてやることはできなかった。
キハノの放った攻撃魔道がレイムの飛竜を襲った。
|危《あや》ういところでかわしたレイムは、キハノがレイムの開いた門を攻撃しようとしているのを見て、|慌《あわ》てて門に飛びこんだ。どこに向けて門を開いたのか、自分でもよくわかっていなかったのだ。ここでファラ・ハンたちとはぐれるわけにはいかない。
まだ時の|宝《ほう》|珠《しゅ》は六つそろっていない。ルージェスの命がいま早急に危険にさらされているわけではない。
門に飛びこみながら、ぎゅっとレイムは|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
門が開かれていた先は、どこまでも広がる平原だった。
ただ、滅亡世界にあり、草は枯れ果て、うら寂しいばかりの広がりだ。
レイムが出てくるのと同時に、|維《い》|持《じ》させるのにぎりぎりであった門が閉じた。
ディーノは飛竜を地上に降ろす。
乗り手の意思を|敏《びん》|感《かん》に察知する飛竜は、音もたてないほど柔らかく、土を踏んだ。
飛竜を落ち着かせたディーノは、胸にぐったりともたれた|乙《おと》|女《め》を見る。
少し動かしたディーノの腕に、ファラ・ハンのマントの中にたまっていた血がざあっと音をたてて落ちた。
飛竜の背中と|鞍《くら》が、ずっぷりと|真《しん》|紅《く》に|濡《ぬ》れた。
ぎょっと目をむいたディーノはファラ・ハンを|覗《のぞ》きこんだ。
「ファラ・ハン!」
叫んだ呼びかけに、ファラ・ハンの頭が動いた。
そしてそのまま。
がくりと落ちた。
「おいっ!」
怒るように声を荒げ、ディーノはファラ・ハンを抱えなおした。
右手で白くなるほどに強く、ディーノの衣服を握りしめていたファラ・ハンは、目を閉じ、ぐったりと力なくディーノの腕に抱かれている。
その右手も。
ぱたりと落ちた。
ぎゅっと小さな飛竜を抱くシルヴィンは、飛竜を降りることも考えられず、ただそれを見つめている。
「ファラ・ハン!」
悲鳴のように叫んだレイムが飛竜から降り、駆け寄った。
なにかかすかでも反応はないかと、ディーノは食いいるようにファラ・ハンを見つめる。
「俺に……」
あえぐ形に|唇《くちびる》を動かし、ディーノは言葉を探す。それはたしかにディーノの内にあった。
「俺に残れというのかぁっ!!」
|絶叫《ぜっきょう》に答えるべき|可《か》|憐《れん》な声は、聞こえない。
[#地から2字上げ]『プラパ・ゼータ6』に続く
あとがき
|油《ゆ》|断《だん》するとすぐにデブってブタになります。
もともと太りやすい体質なんですよね。そのくせにぴったりした、きっちきちのジーンズやウエスト・シェイプの服とかが好きなものだから、それが着たい。そーいうものしか、持ってない。おいしい食べ物も好きH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] |煙草《た ば こ》も吸わない健康人だし、甘いものも食べるし、お酒だって飲めますH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] |甘《あま》|党《とう》であって|辛《から》|党《とう》なのね。必死こいて体動かすのは、根性ないし、こらえ性のない性格だから、どっちかっつーと大っ嫌い。
それでも、ある一定サイズでありたい。なにがなんでも、そーありたい。デブるのは|嫌《いや》。
もうこいつは戦い以外のなにものでもない。
一生涯わたしについてまわるだろう「ねっばー・えんでぃんぐ・すとーりー〜」なのよ。
うげげ
ぬわんてこったいっ!
太って|痩《や》せて、けっこう繰り返しでありますね。痩せてるときにだけ着られる服なんて、年の半分はクローゼットの中で安らかに眠っております。ほとんど出てこない物もあるわ。
「うお、ちくしょー! 腹の肉が出っぱってファスナーがVになったまま動かねぇっ!」
よくあることでございます。
きちきちジーンズ、ぴったりスリムの二十六インチは、本当に|薄情《はくじょう》だもの。
わたしの場合、目安にするのはジーンズで、インチ表示なのね。体重はどーでもいいの。目盛にぐじゃぐじゃとらわれても、体がそうであって欲しい格好になるわけでもないから。ヘルス・メーターとにらめっこしてると、水飲むのもやめたくなるでしょ? メジャーあてると、どーしても「ぎぅ!」って締めこんじゃうでしょ? ほーら、ひとって弱いから。
数字じゃなくて、好きな服着られたらいいのH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] そーゆーことにしてるのよ。
洋服の号数表示やSML表示は、時代とともに変わります。おまけに、かならずしも表示サイズの数字どおりのセンチメートルではないのよ。わりと余裕もって作られてるのよ。六十三のスカートが着れるからって、ウエストが六十三センチではないのよ。あー怖いっ!
その点、ジーンズのインチ表示は、小刻みだし、まぁまぁ信用できるかなと。これもメーカーによって、まちまちだけどね。
どっこい! オイラは負けねーぞっ!
わたしってば、そんなひとです。
ダイエットもなにもしてない、ごく普通の日。
夢を見ました。
腹いっぱい、飯食ってた夢です。
おいしーH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] おいしーH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] もー食べらんないっ! お腹いっぱいだーいっH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
夢であります。
満腹で、食べるという行為が|嫌《いや》になったとき目が覚めました。いつもと同じ時間です。
(これから二十分で準備して出かけるのかぁ……)
朝食を食べねばならない。朝御飯を抜くと死んでしまう。お腹がすくととっても|哀《かな》しい。
でも。
(また食うのかよー)
うんざり。そーっすよねー。満腹になった夢見てたんですから。
朝から顔に|縦《たて》|線《せん》。どよーんとしながら、この日はパン食。牛乳二百五十ccと、調理パン。
気がついたときには、パン二個ぺろっと平らげてました。あははH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 入るもんだねっH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
それにしても……。
あーゆーのは、お話の中の作り事の寝言とか夢とかだと思ってたのに。
どんな幸せな顔して寝てたのかしら。自分でも本当に、|退《たい》|屈《くつ》しない人間だと思ったわね。
急展開の第五巻、発行でありますH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
今回は、いよいよ相手を意識しはじめたファラ・ハンとディーノが、お互いに自分の持つ|理《り》|屈《くつ》にこだわるために、ぐちゃぐちゃとややこしくなっています。
第四、第五の|宝《ほう》|珠《しゅ》をめぐり、|暗《あん》|躍《やく》していた|闇《やみ》|色《いろ》の|法《ほう》|衣《え》をまとう|魔《ま》|道《どう》|士《し》ケセル・オークが、ディーノの前でその|正体《しょうたい》をあかします。シルヴィンの目を通して、ルージェスに従う黒の兵士団と獣人ウィグ・イーの本性があばかれます。そしてレイムとルージェスのつながりも、二人の対面ということによってはっきりします。
滅亡に向かう世界。|歪《ゆが》んでゆく世界。|翻《ほん》|弄《ろう》されてゆくしかないひとびと。さまよえる心の|行《ゆく》|方《え》。|哀《かな》しみ。
聖女を|招喚《しょうかん》してのこの世界救済劇を通じて、本当に救われなければならないものは、なんであるのか。どうして未来へと向かう時の|軌《き》|道《どう》を|歪《ゆが》めることができたのか。
一番の基本となるもの。最後の|謎《なぞ》となるものの影が、ほのかに浮かび出ています。
半魔によって、招喚の具現のときに奪われていた記憶を取り戻したファラ・ハン。
ケセル・オークの手によって|片《かた》|翼《よく》をもぎ取られた彼女は、死にかけています。
はたしてこの先、世界救済の旅を続けることができるのか。
そして世界は。
最初の予告どおり、六巻完結ですH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] おーしっ!
さて、次の六巻目では、聖戦士たちは最後の時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れます。
そうして舞台は、再び王都に戻ります。
王都の居残りキャラ復活の、オールスター・キャスト的展開であります。
はいH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
やー、とうとう終わりだなー。去年じゅうに書き終わるはずだったのに、ずるずるひきずっちゃったわ。予定なんてこんなものよね。
キャラクターの人気集計、まだ間に合うかもよH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 間に合わなくても、参加することに意義がある!(どこがだ!)今年は全然|筆不精《ふでぶしょう》なので、お返事用の宣伝絵葉書を送るのが遅れておりますが、届いた分は全部目を通してますからねっH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
新刊のたびに何度も送っていただいた方、御苦労様でした。わけて考えるのめんどっちいので、どのお手紙も一票分になってます。うーん、かたよるかなー。ま、いっかー。それだけ、ごひいきにあずかってるわけですものねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] あははH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] (いーかげんな集計……)
どの子も|可《か》|愛《わい》いんですけどね。えぇ。
エンディング・テーマはこいつと決めたCD聞きながら、どーっぷりと|浸《ひた》ってたせいで、もうすっかり物語が終わったような|錯《さっ》|覚《かく》を起こしてます。
だぁって、映像とテロップが映画館にいるみたいに頭の中に浮かんでくるんですものH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
本当に画面で絵が動いて、音が流れたりしたらいーのになー。
誰の歌? なんて曲を選んだのか?
うっふH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
次巻で教えるけども、時間に余裕のある方は、ちょこっと考えてみてねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] あてっこしましょ。おすすめ曲なんてのも、教えてちょーだいH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
あー、エンディング・コンテおこす時間が欲しいっ!
オリジナルの歌詞書いて、曲発注したいっ!
(遊んでないで、とっとと話を書けと怒られるなー。一日三時間作家は|辛《つら》いぜ、へへっ!)
最後になってしまいましたけれども。
この作品を出版してくださいました、講談社様。
担当の小林様。やった! もう一息っ!
偉大なる印刷屋さんと、|校《こう》|閲《えつ》の皆様。あぁ、足向けて眠れないわっ! |面《めん》|倒《どう》かけてます。
今回も素敵なイラストを描いてくださった|片山愁《かたやましゅう》大先生H[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
そして読んでくださった方々に。
心から。
ありがとうございます。
素敵な作品たくさん書けるように|頑《がん》|張《ば》るから、見ててねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
一九九二年七月六日 デブり防止のためデニムのタイト・ミニを買った
[#地から2字上げ]|流《ながれ》 |星《せい》|香《か》
[#ここで字下げ終わり]
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九二年九月刊)を底本といたしました。
|闇《やみ》|色《いろ》の|魔《ま》|道《どう》|士《し》 プラパ・ゼータ5
講談社電子文庫版PC
|流《ながれ》 |星《せい》|香《か》 著
(C) Seika Nagare 1992
二〇〇二年一二月一三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001