講談社電子文庫
玻璃色の迷宮 プラパ・ゼータ4
[#地から2字上げ]流 星香
目 次
登場人物紹介
第一章 条件
第二章 自覚
第三章 |魔《ま》|樹《じゅ》
第四章 雲海
第五章 結実
第六章 失楽園
第七章 |衝突《しょうとつ》
第八章 |氷穴《ひょうけつ》
第九章 |封氷《ふうひょう》
第十章 |氷魔《ひょうま》
第十一章 |迷宮《めいきゅう》
第十二章 |聖《せい》|融《ゆう》
第十三章 |雪辱《せつじょく》
あとがき
登場人物紹介
●ファラ・ハン
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世界を滅亡の危機から救うために具現した、伝説の翼ある|乙女《お と め》。|透《す》きとおるような白い|肌《はだ》と|漆《しっ》|黒《こく》の髪に|彩《いろど》られたその姿形は、誰もが|見《み》|惚《ほ》れるほどの|麗《うるわ》しさである。はかなく優しげなイメージだが、正義感が強く自己犠牲も|厭《いと》わない大胆な性格を合わせ持つ。|邪《じゃ》|悪《あく》な力によって記憶を失いつつも、世界救済の旅に出発。待ち受ける数々の困難に、|果《か》|敢《かん》にも立ち向かう。
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●ディーノ
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|自《みずか》ら弧高の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗る、|華《か》|麗《れい》で|凶悪《きょうあく》な|蛮《ばん》|族《ぞく》。彫像のような素晴らしい|体《たい》|躯《く》を持つ。自己中心的で、自分の欲求――破壊行為と|略奪《りゃくだつ》――のおもむくままに生きる男であるが、聖選によってファラ・ハンを|護《まも》る“勇者ラオウ”に選出され、不本意ながら世界救済の旅へ。自分と同じ黒髪と青い|瞳《ひとみ》を持つ|唯《ゆい》|一《いつ》の女性、ファラ・ハンを必要以上に意識し、その|葛《かっ》|藤《とう》に苦しむ。
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●レイム
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“|魔《ま》|道《どう》|士《し》スティーブ”に選ばれた、優しく|聡《そう》|明《めい》な若者。|竪《たて》|琴《ごと》と剣の技術はプロ級。
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●シルヴィン
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短剣を|巧《たく》みに|操《あやつ》る、|竜使《りゅうつか》い一族の娘。“竜使いドラウド”に選出された男|勝《まさ》り。
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●ルージェス
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カルバイン|公爵《こうしゃく》の娘。もうひとつの伝説にのっとり、ファラ・ハンの心臓を|狙《ねら》う。
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●ケセル・オーク
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ルージェスに力を貸す|謎《なぞ》の老魔道士。聖戦士たちの行く手を、邪悪な力で|阻《はば》む。
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●トーラス・スカーレン
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気品と|威《い》|厳《げん》を備えた麗しの女王。滅びかけた世界の救済を、聖戦士たちに託す。
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●エル・コレンティ
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世界を代表する偉大な老魔道師。あらゆる魔道を|駆《く》|使《し》する、女王の心強き片腕。
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●ウィグ・イー
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公女ルージェスにのみ|懐《なつ》く|獰《どう》|猛《もう》な狩猟犬。公女を護る獣人として改良される。
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●メイビク
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極北の氷壁に眠る、女王直属の将軍・ミザーレイの次女。別名“静かの姫”。
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そこでお姫様は提案をしました。
「わたくしの首飾りをさしあげましょう。夜空に輝く星を集めてつなぎあわせたように、きらびやかに光り輝く大粒のダイヤモンドの首飾り。わたくしの持つ宝石のうちで一番すてきで高価なものを。それならば南の島国とだって交換することができましょう。あなたはそこでなにひとつ不自由しない王様になれるわ」
貧しい|羊飼《ひつじか》いの少年は想像もつかない巨額な富に、目を丸くし声を出すことさえ忘れて、あんぐりと口を開けました。でも、少年の手のひらの上にちょこんとのせられた小さな|蛙《かえる》は、悲し気に目をふせて、静かに首をふります。
「お姫様、たしかにそれはすばらしい宝物かもしれません。しかし、わたしが欲しいのは宝石ではないのです。どんな宝石よりも美しく、心優しいお姫様、わたしはあなたが欲しくてならないのです。どうぞわたしにお姫様の足をとらえたツタの|魔《ま》|法《ほう》を|解《と》かせてください。そうしてわたしを、お姫様の最愛のものとしてうけいれてください」
小さな蛙はどうしても考えを変える気はないようでした。
お姫様はすっかりこまってしまいました。この国でたった一人しかおられない|世《よ》|継《つ》ぎの姫様がどうして蛙などと結婚することができましょう。
蛙は本当にちっぽけで、お姫様の軽い小さな足でも簡単に踏みつぶせそうでした。
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〈イシュテン・グレブル童話集『蛙と姫君』より |抜《ばっ》|粋《すい》〉
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第一章 条件
日暮れはすぐに訪れた。
四人は|飛竜《ひりゅう》に乗り、|街《まち》からはずれた山のなかに向かった。
まるで人目につくのを避けるかのように、レイムはひっそりとした目立たないような場所を選んで飛竜を降下させた。
|魔《ま》|道《どう》の粉を風に乗せて散らせ、その一帯が安全領域になるように|結《けっ》|界《かい》を張る。
雲の向こうでかすかな光を投げかけながら沈んでいく|陽《ひ》の明るさが遠のくにもかかわらず、結界に囲まれた場所は光源を持つようにほの明るく見えた。
「今日はここで|野宿《のじゅく》しましょう。一晩たっぷり休んで、明日の朝、|導球《どうきゅう》を呼んで出発です」
遠くなった街の|灯《ひ》を|名残《な ご り》おしげに振りかえりながら飛竜を下ろし、シルヴィンはすねたように|唇《くちびる》をとがらせる。
「女王様からたっぷり|路《ろ》|銀《ぎん》をいただいてるし、街に宿屋があるのに、野宿するの? ファラ・ハンだっているのよ」
宿屋なら、きちんとした屋根のあるところでやわらかい寝台を使ってぐっすり休める。数が減少しているとはいえ、夜行性の|獣《けもの》が出ないとはかぎらない。見るからにか弱い、典型的な文明圏の生活者であるファラ・ハンが、|野宿《のじゅく》などで『一晩たっぷり』休めるはずがない。
シルヴィンの不平はもっともである。
「|贅《ぜい》|沢《たく》は敵です」
レイムは簡潔に言いきって、|飛竜《ひりゅう》の|鞍《くら》の後ろにくくりつけた荷物のうちから野宿に必要な物の入った袋を黙々と下ろす。
聞く耳はなさそうだった。
シルヴィンは肩をそびやかし、飛竜の背から下りるファラ・ハンを仰ぎ見る。
ファラ・ハンは|爽《さわ》やかに|微《ほほ》|笑《え》んで、シルヴィンを見返した。レイムの決めたことに対し、不服を言う気はまったくないらしい。
最初の一つが手早く片づいたといって、残りの五つの|宝《ほう》|珠《しゅ》も簡単に手に入るとはかぎらない。
|救世主《きゅうせいしゅ》としての役割で一番の大任を|担《にな》っているのは、|華《きゃ》|奢《しゃ》なファラ・ハンだ。
旅が長びけば最初に|音《ね》を上げるのはファラ・ハンだろうと踏んでいるシルヴィンは、当人の気楽な態度に少しばかり先が思いやられるのを感じた。
レイムにはどうしても|街《まち》に行くべきでないと考える理由があるのだが、今はまだそれを公表する気はない。
石を少しばかり積みあげて火を|焚《た》く場所を決めたレイムは、|魔《ま》|道《どう》を用いてそこに火を|点《とも》す。
何を言っても|無《む》|駄《だ》だと観念したシルヴィンは、|飛竜《ひりゅう》を身軽く飛びおり、レイムにならって必要だと思う荷物の入っているであろう袋を下ろす。
|邪《じゃ》|魔《ま》になってぽいとばかりにシルヴィンの腕から捨てられた小さな飛竜は、下り立ったファラ・ハンにまろび寄った。ファラ・ハンは、優しく飛竜を抱きあげる。
火を点し野営の準備を始めたレイムとシルヴィンを見て、ファラ・ハンは自分も何かしなければならないかと、自分の荷物ものせられているだろうディーノの乗る飛竜を振りかえった。
ディーノに飛竜を下りる様子はない。
ファラ・ハンは、ぱちくりと目を開き首をかしげる。
「ディーノ?」
微妙な声の響きに、レイムとシルヴィンが顔をあげた。
注目を集めているディーノは、腕組みなどして|悠《ゆう》|然《ぜん》と|鞍《くら》に腰を落ち着けたまま、下りようとする|気《け》|配《はい》もない。
「どうかしましたか?」
レイムは穏やかに問いかけながら少しディーノに近寄った。
ディーノは|蔑《さげす》むようにレイムを見下ろす。
「俺がいつ貴様たちの仲間になると言った?」
冷たく|辛《しん》|辣《らつ》に言い放った。
|唖《あ》|然《ぜん》としながら、レイムは|望《ぼう》|星《せい》|楼《ろう》を後にしたときのディーノを思い出す。
そうだ。ディーノは自分の名を|汚《けが》さずあの王都を出る、そのためだけにレイムが|魔《ま》|道《どう》で開いた道を通ることを選んだのだ。
本質的に聖戦士たることを|承諾《しょうだく》したわけではない。
行動を共にすると宣言したわけではない。
|茫《ぼう》|然《ぜん》とする三人に、ディーノは挑戦的な視線を投げかける。
ディーノなら。この滅亡しかけている世界であっても、自分の思うままに生きてゆくことができる。たとえ魔物であろうと、ディーノから自由を奪うことなどできない。
聖戦士という|大《たい》|義《ぎ》|名《めい》|分《ぶん》をありがたくいただいたり、それに|拘《こう》|束《そく》されることはない。
この自由で気ままな|蛮《ばん》|人《じん》を|繋《つな》ぎとめる|鎖《くさり》などこの世界のどこにもないのだ。
一つ目の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れることに|加《か》|担《たん》したのも、単なるなりゆきであり、そう望んで行動したわけではない。
むしろレイムやシルヴィンのほうがディーノに助力したような形になっている。
勝ち誇ったように、ディーノはにやりと|片《かた》|頬《ほお》をゆるめた。
「それとも、どうしてもと言うのなら頼まれてやらないこともない」
ディーノを見つめ、レイムは表情を硬くして目を細めた。
ディーノは、ひらりと|飛竜《ひりゅう》から飛びおり、|大《おお》|股《また》でファラ・ハンの前に歩み寄る。
「お前が俺に従うというのならな」
堂々と言いきった。
全身を|眺《なが》め|透《す》かしてのあからさまな物言いに、どきんと胸を高鳴らせ、驚いてファラ・ハンが|瞳《ひとみ》をいっぱいに見開く。
「なっ、なにを言ってるのよっ……!」
|招喚《しょうかん》の聖女に対して、恥ずかしげもない態度に、シルヴィンは怒りで真っ赤になってそれ以上の言葉を失った。神の一人に|相《そう》|違《い》ない者を相手に、よくもそんな口がきけるものだとあきれ果てた。
勇者の持つ伝説の聖なる|銀《ぎん》|斧《ふ》レプラ・ザンを持つ|唯《ゆい》|一《いつ》の存在であるディーノ。無敵の勇者たる彼が、聖戦士としてどれくらい重要な地位を占めているのか十分に知りつくしていながら、この態度に出ている。
弱みにつけこみ、ファラ・ハンに無茶な取り引きを要求している。
|挑《いど》みかけ、ディーノは真正面からファラ・ハンを見つめる。
|憑《つ》かれたようにファラ・ハンはディーノを見返した。
煙る光を帯びたディーノの青い|瞳《ひとみ》。透明に澄んだファラ・ハンの青い瞳。
うつむけたディーノの瞳の奥には、どこか遠くを映す寂しく|哀《かな》しい影が揺れていた。
同じ色のただ一人だけに向けられた、切なさ。
かつて誰にも|垣《かい》|間《ま》見せることのなかったもの。
すうっとディーノの右手があがり、指先がファラ・ハンの|頬《ほお》にのばされる。
熱く脈打つ|血《ち》|潮《しお》のかよった|鋼《はがね》のような手。
その激しいばかりの|温《ぬく》もり。
触れるか触れないかの指先と手のひらから、それを頬に感じ。
ファラ・ハンは|逃《のが》れるようにかすかに顔をそむけて瞳を伏せた。
「その申し出を受けることは、できません……」
わずかにかすれた声で|囁《ささや》いた。
ディーノは差しだした手を静かに下ろす。
「当たり前でしょ!」
勝ち誇ったように大声でシルヴィンが|怒《ど》|鳴《な》った。
その言葉に、びくんとファラ・ハンは肩を震わせた。思わずきゅっと抱きしめられた小さな|飛竜《ひりゅう》が、びっくりしてキュイッと|哭《な》いた。
ファラ・ハンの反応を見てとり、一瞬|眉《まゆ》をひそめたレイムは、|矛《ほこ》|先《さき》が自分に向くよう、急いで言葉を探す。
「ディーノ、君は自分の立場がよくわかっていないみたいだ」
|諭《さと》す形で語りかけた。
思いもかけない口調に、ディーノはむっとしてレイムに首をめぐらせる。
習慣となってきつい眼光を放つ、ディーノの|鋭《するど》い|碧《あお》の|瞳《ひとみ》。|射《い》|殺《ころ》すかの勢いをもつその視線を、レイムの|綺《き》|麗《れい》に澄んだ|翠色《みどりいろ》の瞳が受けとめる。
「君は聖戦士たる勇者として自由を与えられたにすぎない」
事実、獄舎アル・ディ・フラの塔から聖地クラシュケスに|解《と》き放たれた凶悪で凶暴な|賊《ぞく》|徒《と》たちは、ファラ・ハンの背から純白の翼の|滑《すべ》りでたあの聖選の瞬間、聖光の洗礼を受け『眠り』の|魔《ま》|道《どう》を与えられたと同じ状態で深い眠りにおちている。|囚《とら》われの身にあった者で、今もまだ自由に行動することができているのはディーノだけなのだ。
「君は聖魔道士としての僕の敵ではない」
レイムはディーノの恐ろしげな視線から目をそらさず、静かに、ゆっくりと断言した。
ディーノは、すうっと目を細める。
敵対する者を発見した|獣《けもの》の瞳だった。
一度魔道師の手によって|額《ひたい》に|封《ふう》|印《いん》を与えられていたディーノに対し、レイムはその|軌《き》|跡《せき》をなぞって魔道をかけて再び封印を|施《ほどこ》し、行動を封じ生命活動を一時停止させることができる。
聖地に溢れた暴徒同様、眠らせることができる。
ディーノの扱えぬ魔道に精通し自在に|操《あやつ》れるレイムは、たしかにディーノの敵ではない。
レイムの言いきった言葉に|嘘《うそ》はない。
そして武術では。
技術の上の器用さや小回りのきく点においては、幾らかレイムが|勝《まさ》っている部分がある。
しかしディーノの|敏捷《びんしょう》さ、|強靭《きょうじん》な肉体の反応速度は常人の常識や限界を|超《こ》えている。そしてなにより|殺《さつ》|戮《りく》を|微《み》|塵《じん》もためらわぬ非情さと、敵を確実に|仕《し》|留《と》める適確さと|執《しつ》|拗《よう》さをもっている。
まともに対した場合、聖魔道士であり戦士のレイムと生来の勇者であるディーノでは、簡単に優劣は決まらない。
互角である。
|睨《にら》み合って|凝固《ぎょうこ》した二人の若者を忙しく瞳だけで見比べ、声をかけることもままならない|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に、おろおろとシルヴィンがうろたえる。
ディーノが|物《ぶっ》|騒《そう》なのはあまりにあからさまな態度から十二分にわかっていたが、男として一見軟弱そうで優しげなレイムまでが、こんなに危なっかしい一面をもっていようとは思いもよらなかった。
ディーノとレイムはどちらも|退《ひ》かない。どちらからも退けない。
ディーノが。
レイムに向けて、ずいと大きく一歩踏みだした。
びくんと顔をあげたファラ・ハンが、ただならぬそれに色をなし、ディーノの前に立ちはだかる。
「|駄《だ》|目《め》!」
悲痛な|声《こわ》|音《ね》で叫んだ。
ディーノは強い|瞳《ひとみ》をファラ・ハンに向ける。
瞳でファラ・ハンを責めた。
ファラ・ハンは|飛竜《ひりゅう》を抱いたまま、ぎゅっと手を握りしめる。
「取り引きは成立しているはずだ。君にはそれ以上のものを望む余地などない」
レイムはきっぱりと言いきった。
言葉の裏で、いつでも|拘《こう》|束《そく》の|魔《ま》|道《どう》を与えてやると|脅《おど》しかけた。
「できるものならやってみろ」
鼻先でせせら笑い、ディーノが言った。
聖戦士であるディーノを封じてしまうことなど、できようはずがない。
ディーノこそ、自分の存在価値を一番よく知っているのだ。
知っていてなお、|卑《ひ》|劣《れつ》に|挑《いど》みかけている。
それがわかるから、レイムにはその腐った|性根《しょうね》が許せない。
「やめてお願い!」
ファラ・ハンは二人の若者に向かって叫ぶ。
「お願い、ですから……」
|哀《あい》|願《がん》するように、力なくうなだれた。
たとえば。ファラ・ハンが|嘘《うそ》でもディーノの望みを聞き入れていれば、こんな険悪な状況にはならなかった。世界を滅亡から救えたならという条件をつけても、ディーノの申し出を受けたことにはなる。ディーノを聖戦士に引きこむための|方《ほう》|便《べん》であっても、それは駆け引きに違いない。力を得たい男を仲間に取りこむ一つの手段として、それは十分に通用する。
そう誘いかけてきた相手に対して、不当な手段ではない。世間によくあることにすぎない。
ましてや、いい加減で勝手気ままなディーノが、いつまでもそのことに|固《こ》|執《しつ》し覚えているとはかぎらない。
そんな適当なことなのだ。
ファラ・ハンは。
「ディーノ……」
ファラ・ハンは、|可《か》|憐《れん》なだけになお悲痛に見える|面《おも》|持《も》ちで、|不《ふ》|埒《らち》な|蛮《ばん》|人《じん》を振り仰いだ。
「あなたは聖戦士なの……。それに……。わかって……」
耳を甘く|潤《うるお》す金色の|声《こわ》|音《ね》は、消え入りそうに細った。
ディーノはファラ・ハンから目をそらすように、ぷいと横を向く。
「そうか」
言い捨てるようにつぶやいて。
くるりときびすを返すと、|大《おお》|股《また》で|飛竜《ひりゅう》に歩み寄った。
レイムやシルヴィンたちが声をかける暇も与えず、ディーノの乗った飛竜は猛然と天高く舞いあがった。
|轟《ごう》とばかりに吹き荒れた|砂埃《すなぼこり》に、思わずレイムが目を伏せる。
竜使いの娘であり、この状況に|馴《な》れているシルヴィンだけが、|果《か》|敢《かん》に空を見あげた。
「ディーノ!」
|咎《とが》めるように名を呼んだ娘の声を無視し、飛竜は遠くを目指し飛び去る。
あっと言う間にディーノの飛竜は小さくなり、見えなくなった。
うんざりしたように息を吐き、レイムは肩を落とした。
ディーノを野放しにするわけにはいかない。彼は|幽《ゆう》|閉《へい》の身にあった者である。滅亡の危機を迎えた時代、そうするのが|妥《だ》|当《とう》であると判断されて、真っ先に捜され、捕らえられた者。
後を追おうとするレイムを、ファラ・ハンが止めた。
「追う必要はありません。ディーノはきっと、戻ってきてくれます」
はかなく|微《ほほ》|笑《え》む。
ファラ・ハンがいまにも泣きだしそうな気がして、レイムはその場から動けなくなった。
ずかずかと飛竜のそばに戻って|手《た》|綱《づな》をつかんだシルヴィンが、いまいましげに|舌《した》|打《う》ちする。
「戻ってくるもんですか」
にべもなく言いきった。ファラ・ハンは悲しげにシルヴィンを見る。
「信じましょう。わたしたちが、誰よりまず信じ合わなければいけないわ」
理想にこり固まったファラ・ハンの|綺《き》|麗《れい》な物言いに、シルヴィンはぐったりとなる。
「相手見てからものを言ってよ」
|孤《こ》|高《こう》でありながら王を名乗る|不《ふ》|遜《そん》な|輩《やから》。|修《しゅ》|羅《ら》の呼び名をほしいままにした男、ディーノ。
各地を荒らしまわり恐れられたこれまでのことから考えて、信じて|馬《ば》|鹿《か》を見ないはずがない。
力|萎《な》えた体を飛竜の|鞍《くら》の上に引きずりあげようとしているシルヴィンに、ファラ・ハンは怖い顔をする。
「追う必要はありません」
愛らしい声できっぱりとたたみこんだ。
へなへなっと|腰《こし》|砕《くだ》け、シルヴィンは飛竜から|滑《すべ》り落ちた。
ファラ・ハンに自分の主張を曲げる|気《け》|配《はい》はまったくない。
レイムは観念し、わかりましたとばかりに一つうなずいた。|苦《にが》|笑《わら》いににた表情を浮かべて、シルヴィンを見る。
「やめよう、シルヴィン」
「で、でも……!」
|困《こん》|惑《わく》する|面《おも》|持《も》ちで、シルヴィンはレイムを見返した。
ディーノの飛竜は、竜使いの里のものである。あれだけでも取り戻すことに意義はある。聖地で里のものである飛竜を奪われた当事者であるシルヴィンには、その役目に責任がある。
なにもディーノだけが重要な存在なのではない。
「いいから」
わずかに語尾を|鋭《するど》くし、レイムはシルヴィンに同意を求めた。
「はい」
気をのまれ、シルヴィンはおもわず首を縦に振っていた。
しぶしぶシルヴィンは飛竜の|手《た》|綱《づな》を握った手を開く。
二人を見つめ、ファラ・ハンは淡く笑った。
「ありがとう……」
|覚《かく》|悟《ご》を決めたレイムは、開きなおる。
「食事にしませんか? せっかく火も起こしましたし」
女王が用意してくれていた各人の荷物には、食糧も水も入っていた。|贅《ぜい》|沢《たく》さえしなければ、かなり長く食いつなげるものばかりだ。
食事という言葉を耳にし、ぱっとシルヴィンは顔を輝かせる。王都で目を覚ましてから、水一滴口にしていなかったことが思い出された。
シルヴィンはいそいそと下ろした荷物を取りあげて、火のまわりに陣取り、荷物の中身を引っ張りだす。何が入っているのだろうと、物を出して店を広げてみる。
食の細いファラ・ハンなら、自分の荷物をディーノの飛竜の|鞍《くら》に残したままでも、十分に|賄《まかな》いきれるだけのものが詰まっている。
ファラ・ハンが気がねすることはなかったが、そうする必要もなかった。
「ごめんなさい。わたし、さっきの|館《やかた》で十分にいただいてきたんです。向こうで水を呼んで体を洗ってもいいかしら。|埃《ほこり》まみれで気持ち悪くて」
ファラ・ハンは、小さな|飛竜《ひりゅう》を抱いたまま、横手の|窪《くぼ》|地《ち》に足を向ける。
小さくても飛竜がついていれば何も心配はない。
「|魔《ま》|物《もの》|除《よ》けの|結《けっ》|界《かい》がこの付近に張ってあります。そこから外には出ないでくださいね」
「はい。勝手言ってすみません」
ファラ・ハンは案じてくれるレイムに、軽く|会釈《えしゃく》する。
席をはずすファラ・ハンの背中に、シルヴィンが声をかける。
「ねぇ! わたしも水浴びしてもいい?」
「どうぞいらして」
花がほころぶようににっこり笑って、ファラ・ハンは横顔を向けた。
「でも水浴び用に呼んだ魔道の水は飲めませんのよ。お食事でたっぷり|咽《のど》を|潤《うるお》してから、いらしてくださいね」
「わかったわ」
|悦《えつ》に入って、にこにことシルヴィンは|御《ご》|機《き》|嫌《げん》になる。
十分な食事ができて、しかも体を清潔にできるとなれば、|野宿《のじゅく》でも不満はない。
キャンプ用の携帯調理道具を広げ、スープ用の|鍋《なべ》に魔道で飲料水を呼んで湯を沸かしながら、レイムは猫の目のように機嫌の変わるシルヴィンの様子に、くすくす笑った。
なんだか楽しそうに|笑《え》みくずれているレイムを、不思議そうにシルヴィンが|眺《なが》める。
「なに? どうかしたの?」
「いえ。別に」
正直に言えば怒るだろうことを予測して、レイムははぐらかした。
山の|端《は》に残っていた薄明かりが消え、周囲は|夕《ゆう》|闇《やみ》に閉ざされた。
レイムの張った結界の内だけは、なかにいる者の目に薄明るい。
第二章 自覚
|飛竜《ひりゅう》を|駆《か》り、ひとり飛びだした形になったディーノは、少しばかり離れた場所の岩山に下りた。
レイムの|魔《ま》|道《どう》によって近くの地域を封じられているため、三人のいるだろう場所は火を|焚《た》いているにもかかわらず、|夕《ゆう》|闇《やみ》に沈んでしまって見えない。追ってくる者がいたとしても、こう暗くなってしまってはお互いに発見することなどできないだろう。
追うつもりならば、そうするより先にレイムがあの聖魔道力とやらでディーノを足止めしているはずだ。そのほうが能率がいいし、いらない争いもない。簡単だ。
それをしなかったということは、何か別に|思《おも》|惑《わく》があるのか。
飛竜から下りて闇を振りかえり、腰に手を当て|仁《に》|王《おう》|立《だ》ちになったディーノは、目を細め、|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にしたように軽く鼻を鳴らす。
夜目のきく|野獣《やじゅう》のような|瞳《ひとみ》には、自分以外、誰も動くものの姿は映らない。
ディーノはどうとでも勝手にしろと見切りをつけて、振りかえるのをやめた。
丸くうずくまって翼を手入れしている飛竜に、どっかりと背をもたせかけて腰を下ろす。
見あげても、厚い雲に隔てられ空には一条の光もない。
どこまでも果てしない闇夜。
ディーノの髪と同じ色。
ファラ・ハンの髪と同じ色。
(なぜ?)
ディーノはぼんやりと思いおこした。
(俺は何を欲した?)
ファラ・ハンに対して。従えと言葉をつきつけて。
おかしなことを口にしたものだと、ディーノは自分で自分にあきれ返る。
ファラ・ハンは|招喚《しょうかん》の魔道によってこの世界に具現した聖女だ。背に白い翼を持つ神族だ。
ひょっとすると魔道によって|凝《こ》った|塵《ちり》のようなものに|魂《たましい》が宿っただけの、|汚《けが》らわしくおぞましい人形であるのかもしれない。
どう転んでも『ひと』ではない。
自分と同じ人間ではない。|得《え》|体《たい》の知れない化け物にすぎない。
どんなに|麗《うるわ》しい姿形をしていても、厳密な意味で『女』ではないのだ。
女として扱うべき存在ではないものなのだ。
(|戯《たわむ》れか?)
ただ物珍しい慰みものとして|暴《あば》いてみたかっただけなのか。
女として抱いてみて、それがどんな生き物なのか確かめようとしたのだろうか。
悪趣味で|苛虐的《かぎゃくてき》な探求心だったのか。
神を|愚《ぐ》|弄《ろう》し、|汚《けが》したかったのか。
仲間をもたぬことにより『|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》』を名乗る彼が、よりによって神を、しかもほとんどお荷物にしかならないようなものを、配下にしようと思い立ったとでもいうのか。
なぜあんなことを口走ったのか、ディーノにはわからない。
(あれは『女』ではない)
(あれはひとではない)
くり返し、自分自身に言いきかせる。
どうしてそう思いこむよう、努力せねばならないのか。
心に深く染みいったものに、ディーノはまだ気がついていない。
(わかって……)
ファラ・ハンが苦しげにつぶやいた最後の言葉がディーノの耳に残っている。
ディーノは。
ファラ・ハンを|苛《いじ》めるつもりではなかった。
苦しめたり泣かせたり、困らせたりするつもりではなかった。
では、どうするつもりだったのか。
|殺《さつ》|戮《りく》と破壊を常とする、地獄の申し子の異名をもつ彼が。
(……!)
ディーノは強く頭を振った。
自分を見あげていた|潤《うる》んだ青い|瞳《ひとみ》が、頭の中から離れない。
花のように麗しい顔が、しなやかでやわらかい、たおやかな体が、妙に|生《なま》|々《なま》しく|蘇《よみがえ》って、気持ちが落ち着かない。体が熱を帯びたように熱い。呼吸が速くなり、胸が苦しくなる。
十何年来流した覚えもない涙が|滲《にじ》んで、視界が揺れるような|錯《さっ》|覚《かく》がする。
自分自身を持て余し、ディーノは目を閉じた。
しばらくして、泣き疲れた子供のような表情で寝息をたてはじめたディーノの体の上に、|飛竜《ひりゅう》はそっと翼をかぶせた。
身寄りのない|哀《あわ》れな下働きや|魔《ま》|道《どう》|士《し》として、少量の|粗《そ》|末《まつ》な食事しかとったことのないレイムに比べると、シルヴィンは豪快な食欲をもって盛大に飲食に没頭したといえる。
三人分として湯を沸かし用意した食事の大半は、シルヴィンによって平らげられた。
幼いころから|粗食《そしょく》に|馴《な》|染《じ》んできたレイムが、急に|贅《ぜい》|沢《たく》な大食漢に|変《へん》|貌《ぼう》できるはずがない。
分けて決まった分量しかあてがわれることのなかったレイムには、奪い合って食事をするという習慣もなく、望んで自由になるものではなかったので、食べ物に対する|執着心《しゅうちゃくしん》も弱い。
なかばあっけにとられ、一所懸命熱心に食べ物を|咀嚼《そしゃく》するシルヴィンを感心して見つめながら、レイムはコーンスープの入ったカップをゆっくりと持ちあげる。
「何か、ついてる?」
大口を開けてソーセージを|齧《かじ》り、もぐもぐと|真《ま》|面《じ》|目《め》に口を動かしながら、シルヴィンはレイムに尋ねた。
「あ、ぁ、うん、……左の|頬《ほ》っぺたにソーセージの|脂《あぶら》が飛んでる」
「ありがと」
シルヴィンはマッシュポテトでつくったパンケーキをちぎって|頬《ほお》を|拭《ぬぐ》い、脂のついたそれをぽいと口に放りこむ。
見ていて|爽《そう》|快《かい》。
大量に食すシルヴィンを見つめ、それだけで自分までお腹一杯になったレイムは、パンケーキとスープだけでやめた。
食べ物を残すなんて、なんてもったいないことするのと横目で|睨《にら》みながら、シルヴィンが残り物を|一《いっ》|掃《そう》した。
レイムのいれてくれたお茶で、食後の一服をする。
「ずいぶんお腹減ってたんだわ、わたし。全然気がつかなかった」
「そうだね」
お茶のお替わりを注ぎいれてやりながら、レイムは頬をゆるめる。
「でも、それで僕らは普通なんだよ。必要なときには食事も睡眠もとらなくてすむ」
「? どういうこと?」
首をかしげて、シルヴィンはレイムを見る。
『何よそれ』と、いきなり|喧《けん》|嘩《か》口調にならないのは、お腹が満足しているためだ。
レイムは少し複雑な顔で淡く|微《ほほ》|笑《え》む。
「僕らが世界救済を|担《にな》う聖戦士だから。行動に影響が出ないように、調整されているんだ」
は? とばかりに間抜けな表情でシルヴィンは目をぱちくりさせる。
「最低限で|賄《まかな》うことができるってことさ。いざというときにはその行動を省くことができる。気がつかなかった? もうすでに|排《はい》|泄《せつ》が省略されているんだよ」
「で、でも、それって……!」
どうなっちゃうのよ、溜まっていく一方なのかと大げさにびっくりしたシルヴィンに、レイムは笑う。
「大丈夫。機能的におかしくなったわけじゃないよ。聖戦士として存在する、しばらくのあいだだけだ。ほら、昔から言うだろ? 美人は|排《はい》|泄《せつ》しないって。あれと同じ。理想的な姿なんだ」
レイムが|喩《たと》えに出したのは、単なる幻想。|魅《み》|惑《わく》された者の|錯《さっ》|覚《かく》。それでも十分な説得力があることに変わりはない。
「ふーん……」
なんとなく納得したようなしないような感じで、シルヴィンは視線を落とす。
「排泄はしないけど、食べても寝ても構わない。そういうことなんだ。ある程度の意味で、僕らもファラ・ハンと同じ。今だけは神の一族に近しい者だから」
ファラ・ハンの名を耳にし、シルヴィンは納得した。
あの可愛らしい聖女に、排泄という行為はあまりに似合わない。
しかも彼女の一部であるものにすべて神秘の力が宿るのだ。
排泄物までも|魔《ま》|物《もの》に|狙《ねら》われるというのでは、おちおち生活できない。うち捨てたそんなもののすべてにまで気を配っていなくてはならないのなら、たまったものではない。
「あ、でも、水浴びしたものは?」
体を清め汗を洗い流すそれにも、ファラ・ハンの神秘の力は宿るはずだ。
「普通の水なら、魔道で封じる必要がある。ファラ・ハンが魔道で呼んだ水なら、初めから封じられているから、心配はない」
レイムは断言して聞かせた。
|焚《た》き|火《び》のまわりに広げた食器類を、片づけるため集めて重ねる。
「君も水浴びしておいで。後は僕が片づけておくから」
「ありがとう、でも……」
いかに軟弱に見えようとも、男のレイム一人に|炊《すい》|事《じ》の後片づけをおしつけるというのは、さすがに|男勝《おとこまさ》りなシルヴィンも気が引けた。
「洗い物をするだけの水はどこにもないんだよ。清めの魔道を使うんだ。ついでに、僕もね」
魔道で|綺《き》|麗《れい》にする。汚れを取り去る。分解する。だから人手は必要ない。
レイムは少し遠い目をして顔をあげる。
「ファラ・ハンを、頼むよ」
レイムはディーノの申し出を拒否したときのファラ・ハンの様子が気にかかっていた。
ファラ・ハンがディーノの失礼で身の程知らずな条件を|一蹴《いっしゅう》するのに、なんらおかしな点はない。それを|許《きょ》|諾《だく》できなくても不自然ではない。
明らかに動揺したとみえるファラ・ハンにこそ、引っかかりを感じる。
まるで……。
思いをめぐらせ、レイムはそれに苦笑する。
そんなことはない。あるはずがない。必要以上に、レイムはそれを否定した。
否定せずには落ち着かないことを、心の隅にすむ冷静なもう一人のレイムが感じていた。
シルヴィンはレイムの|意《い》|図《と》することはわからなかったが、勧めに従い、おとなしく引きさがるとファラ・ハンの向かった|窪《くぼ》|地《ち》に向かった。
岩場を越えた場所に、かすかに光を放つ清らかな水をたたえた泉があった。
小さなものが遊び飛んでいる。
白い翼を広げた鳥が水面近くを舞っている。
水に触れ、翼の端が舞いあげる|雫《しずく》が、細かくきらきらと輝きしぶく。
うっとりと|惚《ほう》けたように見つめていたシルヴィンに、それが振りかえった。
「いらっしゃい」
甘く響く、澄んだ涼しい金色の|声《こわ》|音《ね》。
聞き覚えのあるそれ。ファラ・ハンの声。
はっとして、シルヴィンは現実に意識を引き戻す。
小さな|飛竜《ひりゅう》を伴ったファラ・ハンが、羽を広げて水遊びをしていた。
濡れた衣装がしなやかな肉体にまといつき、くっきりとその形を見せている。
たっぷりと甘く熟れた果実ににた、豊かな胸のふくらみ。
なだらかな曲線を描き、細くくびれた腰。
すんなりのびた、まろやかな|肢《し》|体《たい》。
|素《す》|肌《はだ》を|晒《さら》していないから、かえって|妖《よう》|艶《えん》なそれ。
おもわず赤面するシルヴィンだったが、それと裏腹に視線は|釘《くぎ》づけになってしまっている。
「あ、あのっ……!」
つっかえながら言おうとすることを読みとって、ファラ・ハンが|微《ほほ》|笑《え》む。
「衣服は脱がなくても大丈夫です。水から上がって完全に|繋《つな》がりがなくなれば『乾く』ことになりますから」
|膝《ひざ》|下《した》を水につけて浮いていたファラ・ハンは、一つ大きく羽ばたいて上昇する。
完全に浮かびあがれば、ぴったりと身に張りついていた布地が、ふわっと軽く広がる。
|魔《ま》|道《どう》で呼んだ|沐《もく》|浴《よく》|用《よう》の水は大半が『繋がっている』のだ。
潜ってあがる、それだけで汗や|埃《ほこり》を取り去る『清め』の効果を得られる。だから飲めない。
|狐《きつね》につままれたような顔で、シルヴィンはファラ・ハンに応じた。
じろじろ|眺《なが》めるなんていやらしいと自己|嫌《けん》|悪《お》しながらも、シルヴィンはファラ・ハンから目が離せなかった。
ほっそりとしているくせに、思いがけないほどに豊満で|綺《き》|麗《れい》な身体に見入ってしまった。
あの美しい肉体が、|憎《にく》らしい|蛮《ばん》|族《ぞく》の|卑《いや》しい手に|汚《けが》されなくてすんで本当によかった。
シルヴィンはきっぱりとディーノを拒絶したファラ・ハンの行為に、|心《しん》|底《そこ》|安《あん》|堵《ど》した。
ファラ・ハンは。
ディーノに|請《こ》われても、応じることができない。
自分自身を知らないから。
伝説の聖女であるという格は認めるものの、ひとではない自分を知っているから。
女であるのか、そうでないのか。
秘所に指を|滑《すべ》らせれば、はっきりとわかるのかもしれない。確認できるのかもしれない。
受け入れられるものなのか、わかるのかもしれない。
でも、それができない。
知ることが恐ろしい。
それを思い悩む自分が、世界の未来を託される存在として失格ではないかと思いつめる。
だからこそこうして翼を広げている。
背に翼を持つ自分を見つめなおしている。
(わかって……)
ディーノに、そうとしか言えなかった。
ただ伝説の聖女、|招喚《しょうかん》の|乙女《お と め》というだけなら、それにそんなにこだわるいわれはない。
必要はない。
女であろうとなかろうと、それを知られようと知られまいと、世界を救うという行為に差しつかえがあるわけではないのだ。
聖戦士としてのファラ・ハンを|脅《おびや》かすものではない。
ファラ・ハンはそのことに気がついていない。
|沐《もく》|浴《よく》を終わらせて身を清めたファラ・ハンとシルヴィンは、|結《けっ》|界《かい》をつくる|焚《た》き|火《び》を守るレイムのところに戻った。
下ろされた荷物から、各人用に眠るためのシートが出されていた。
清めの|魔《ま》|道《どう》を用いてさっぱりしたレイムは、魔道士の衣装をきちんと着なおして、|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》のような|格《かっ》|好《こう》からいつもの魔道士然と、居住まいを正している。
別れ際、泣きそうな顔をしていたファラ・ハンを記憶していたレイムは、気を落ち着けているらしいファラ・ハンに少しほっとする。
表情の変化を見てとって、ファラ・ハンはレイムが自分を案じていてくれたことを知った。
ありがとうと礼をのべるかわりに、にっこりと|微《ほほ》|笑《え》んでみせた。
真正面から微笑みかけられ、レイムはうろたえて横を向く。
明日は早くから行動しましょうと口早に言って、さっさとシートにくるまった。
横になったレイムを|護《まも》るように、彼の|飛竜《ひりゅう》が寄り添う。
ファラ・ハンとシルヴィンはシルヴィンの飛竜のそばで、小さな飛竜はファラ・ハンの腕に抱かれて眠った。
朝起きの|苦《にが》|手《て》なのは低血圧傾向のレイムである。
自分で公言したにもかかわらず、目は開いても頭と身体が起きだすまで時間がかかるのだ。
ぼーっとして失敗続きのレイムを見かねて、ファラ・ハンが魔道で飲み水を呼んだ。
シルヴィンは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔でレイムを|睨《にら》む。
「いやぁね、|街《まち》育ちのひとって」
太陽とともに起き、働くことをしない。夜ばかり元気で不健康な街の人間。
見るからに|綺《き》|麗《れい》で、都会的な容姿をもつレイムは、|田舎《い な か》育ちのシルヴィンにはあまり好ましくない。多大な|偏《へん》|見《けん》もある。
「すみません」
レイムは手頃な岩に腰をおろし、ファラ・ハンにいれてもらったお茶で|咽《のど》を|潤《うるお》しながら、軽く目をしばたたく。
寝乱れた髪がはらりと落ちてカップにかかる気がして、手で|掻《か》きあげる。
金色の細い髪が、掻きあげられてきらきらと光った。
本人がそうと|意《い》|図《と》しなくても、どこから見ても妙に絵になる|綺《き》|麗《れい》な仕草に、シルヴィンはむっと口をとがらせてそっぽを向いた。
同じようなことをやっても、シルヴィンでは絶対に様にならない。
男のくせに、おもわずかばってなんでもやってやりたくなる|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が、気にくわない。
否定できず綺麗で、視線を向けると不覚にも見入ってしまいそうになるので、腹が立つ。
シルヴィンのそばにいて食事を用意している姿を観賞しているのは、ひょっとするとまずい事態を引き起こすかもしれないと読んだレイムは、|飛竜《ひりゅう》を連れて少し場を離れる。
飛竜に食事を与えようとしていたファラ・ハンは、|魔《ま》|道《どう》によって小さく軽く乾燥させていた|餌《えさ》を持ってレイムの後を追う。
小さな飛竜とシルヴィンの飛竜もファラ・ハンにくっついていった。
結局、飛竜連れの大移動になった。
うろうろとほっつきまわるレイムがよくない。
シルヴィンは毒づきながら、火のそばに陣取り、食事を用意する。
スープを煮、パンケーキを焼き、大きいのと小さいのと鳥肉の|塊《かたまり》を串に刺して焼く。
昨日あったはずの調味料が足りないと思い立ったシルヴィンは、袋の中に顔を突っこむようにして探した。おおざっぱなシルヴィンだが、味にはうるさい。
地べたに|膝《ひざ》をつき、四つん|這《ば》いにちかい|格《かっ》|好《こう》でごそごそやる。
そのシルヴィンの|尻《しり》を。
男の手が|撫《な》で|触《さわ》った。
反射的に、シルヴィンは悲鳴のような|怒《ど》|号《ごう》のようなものを叫んだ。
色気もそっけもない、ただただけたたましいだけのそれ。
シルヴィンの|雄《お》|叫《たけ》びは、遥か遠くにまで響きわたった。
ぎくんと体を硬くして、|弾《はじ》かれるようにシルヴィンは振りかえる。
「何するのよっ!?」
触ったのが男の手だとわかったのは、その大きさと明らかに女を意図して触れた感じから。
自分が|紛《まぎ》れもなく女であったことを思い知らされるような、触れられ方をしたから。
|怒《ど》|鳴《な》られた相手は。
自分に|叩《たた》きつけられた言葉に、心外だとでも言いたげに目を細めた。
「男が女にすることを尋ねるのか?」
抜け抜けと言い放つ。
|居《い》|丈《たけ》|高《だか》で|傲《ごう》|慢《まん》な態度。何をしても悪びれない|図《ずう》|々《ずう》しい男。身勝手で、いつでも誰より強い。
そして、力強く足を踏みしめて立つ姿は、|彫像《ちょうぞう》のように美しく|雄《お》|々《お》しい。
「うるさいうえに頭も悪い。悪いところだらけならば、救いようがない」
言いながら、わざとらしく小指で耳をほじった。
「ディーノ……?」
シルヴィンは、|唖《あ》|然《ぜん》として目を見開き、ぺたんと腰を落とした。
その様子を見て、ディーノはにやっと笑う。
「そうだな。それがいい|格《かっ》|好《こう》だ。その気と価値のない|牝《めす》はそうするものだ」
言われた言葉を|反《はん》|芻《すう》して、シルヴィンはばっと顔を赤らめた。
「なっ……、なんですってぇっ!?」
金切り声をあげたシルヴィンに、背を向けかけたディーノは|顎《あご》だけめぐらせる。
目だけで、それでは不満があるのかと問いかけた。
お前は俺に何を望んでいるのかと。
シルヴィンは真っ赤になってうつむいた。|挑《いど》みかけるようで顔をあげられなかった。
本気でディーノにちょっかいを出されたなら、腕力では到底かなわない。花も実もある嫁入り前の娘にとっては一大事だ。
それでも勝ち気なシルヴィンは、腰に差した短剣の|柄《つか》を握りしめ、何か反撃できる言葉はないかとさがす。
|野《や》|暮《ぼ》で小便臭い小娘にしかすぎないシルヴィンなど、ディーノにとってつまらない相手だ。もともと女の数のうちに入っていない。
間抜けな格好で|尻《しり》を突きだしていたので、お付き合いに|触《さわ》ってやっただけだ。
ディーノは|香《こう》ばしい匂いで、いい具合になっている串焼きの肉のほうに関心を移していた。
どんな|思《おも》|惑《わく》をもって、いったいどうして戻ってきたのか。
ようやく言葉をさがし当て、声を出そうとしたシルヴィンは、鳥肉に手をのばすディーノに|慌《あわ》てる。
「|駄《だ》|目《め》ぇ! それあたしの!」
この世の一大事みたいな声に、ディーノはびっくりして手を止める。
「これか?」
大きいほうの|肉《にく》|塊《かい》。
シルヴィンは、大きくこくんとうなずいた。
「そうか!」
快活にディーノは笑った。|野《や》|暮《ぼ》で小便臭いだけでなく、色気より食い気だと公言されたようなものだ。
うなずいて笑われてから、シルヴィンは自分がいったいどんなことを認めたのかわかった。
顔から火が出そうなほど恥ずかしくなったが、事実なのだから仕方ない。とにかく、シルヴィンは健康的に、よく食べるのだ。
叫びと笑い声を耳にして、すぐそばまで戻っていたファラ・ハンとレイムが駆けつけた。
再会した|飛竜《ひりゅう》たちが|哭《な》き|交《か》わす。
予想などしたこともない|和《なご》やかな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に、レイムはぱちくりと目を開き、目にしたものが信じられないとばかりに立ちつくした。
まさか本当にディーノがまい戻ってくるなんて、思いもよらなかった。
ファラ・ハンは|安《あん》|堵《ど》して、ふわあっと|微《ほほ》|笑《え》む。
飛びだしてなお、ここに戻ってきてくれたということは、同行の|承諾《しょうだく》を意味している。
ディーノもまた世界を救う聖戦士として存在してくれる。
「たまたま、ここに食い物があったからだ」
ディーノは|嘯《うそぶ》きながら、火のそばに腰をおろした。
何を考えたのか、どう気が変わったのかなど言う気はない。
喜んだ小さな飛竜はファラ・ハンの腕から飛びおり、ディーノに飛びついた。
肉の刺してある串を握る腕を揺すぶって、懸命におねだりする飛竜に、仕方なくディーノは肉を指でちぎってわけてやる。小さな飛竜は歓喜して哭き声をあげ、ぱたぱたと小さな翼を振りながら、指定席とばかりにディーノの|膝《ひざ》に腰かけ、もらった肉を|前《まえ》|肢《あし》で抱えて食べる。
膝の上の飛竜は、添い寝してたっぷりファラ・ハンに甘えていただけあって、血でできた大粒の|葡《ぶ》|萄《どう》ににた飛竜独特の|臭気《しゅうき》のほかに、うっとりとするような、ほの甘い匂いがした。
|嗅覚《きゅうかく》だけでは、まるでファラ・ハンを膝元に置いているような|錯《さっ》|覚《かく》すら起こしそうになる。
一心に肉を|齧《かじ》る小さな飛竜から腹立たしげに目をそらしたディーノは、目をそらしたことによって、その原因となった|佳《か》|人《じん》と目を合わせた。
お互いを|瞳《ひとみ》に映し、ディーノはあからさまに顔をそむける。
ファラ・ハンはディーノの態度に驚いたが、気分を害した彼がそのままでおとなしく戻ってくるはずはないことをわかっていた。
ファラ・ハンに対して、陰湿なわだかまりを抱いているわけではない。
素直ではないディーノの態度に、ファラ・ハンはくすくす笑った。
「どうぞ召し上がってください」
勧められるまでもなく、ディーノはすでに|香《こう》ばしく焼ける肉の串を取っていた。
小さいほうの|肉《にく》|塊《かい》を。
ファラ・ハンは食が細い。朝ほとんど食欲のないレイムは、申し訳程度にスープだけだ。
もともと二人はあまり食べないだろうと、シルヴィンは予測して用意していたが、それより遥かに少量で事たりた。竜使いの里にあれば、シルヴィンもそんなに|大食漢《たいしょくかん》ではないのだが、ここでは比較する対象が極端すぎてやたらと目立つことになる。
大きい肉塊をもらったシルヴィンは、それをファラ・ハンとディーノに切り分けた。結果的に小さいほうを取ったのと変わりなかったが、ディーノの行為がなんとなく嬉しかった。
片づけを終え、旅支度を整えたレイムは、地面に『|扉《とびら》』のための|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を描き終え、|飛竜《ひりゅう》を準備し|促《うなが》すように一同を見る。
逃げるなら今なのだとばかりに、ディーノを見つめる。
「行きます。いいですね」
聖魔道士として、|不《ふ》|遜《そん》なる若者になかば|挑《いど》みかけていた。
ディーノはレイムの目を射るように見返す。
「許可制なのか?」
そうならば拒絶する。
変わらぬふてぶてしい態度を、レイムは負けず受けて立つ。
「強制です」
言いきったレイムの右手のひらの上に、魔道による光が生じた。
二人の受け応えを、自分の飛竜の|手《た》|綱《づな》を整え、シルヴィンははらはらしながら見つめる。
どっちの男もそれぞれに気にくわなかったが、関心がないといえば|嘘《うそ》になる。
ひとたび見せかけの穏やかさの|均《きん》|衡《こう》が|崩《くず》れれば、どちらも聞く耳などないのは明白だ。しかもシルヴィンの能力では、どちらも制することができないので、怖い。
レイムを手伝って魔法陣の出来を確かめていたファラ・ハンが、小さな飛竜を従えて険悪なる二人のあいだ、魔法陣の中心に近い場所にくる。
レイムとディーノの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に気づき、近寄るのをちょっとためらう。
なんの考えもない小さな飛竜だけが、ファラ・ハンを追いぬき、二人の前に駆けこんだ。
お気に入りのディーノに、ばたばたと飛びつく。しがみついた腕によじのぼり、肩に乗る。
|瞳《ひとみ》を閉じたレイムの手の上の光が|凝《こ》り、|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》の魔道球になって浮かんだ。
それは世界を救う聖戦士たちのための『導きの|球《たま》』。
肩に飛竜を乗せたディーノが、くるりときびすを返す。
「行くぞ」
言葉はファラ・ハンに対して。
四人の乗れる飛竜は三頭。ディーノの飛竜が一番大きい。
「はい」
ぶっきらぼうな誘いかけに、ファラ・ハンはにっこりと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
振りかえった小さな飛竜が、ファラ・ハンに喜んでキュイキュイと|哭《な》いた。
|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の中心に立ったレイムは手の上に浮かんだ導きの|球《たま》を、目の高さの空間に浮かべる。
「天空を知ろしめす光の魔法陣 |汝《なんじ》のゆきたる場所に 我らを導け 聖なる正義の|女《め》|神《がみ》の|御《み》|名《な》において |闇《やみ》に一条の光を放て」
第三章 |魔《ま》|樹《じゅ》
|聖《きよ》き光溢れる空間を長々と抜けて出現する場所。
それがすなわち時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の存在する場所。
この世界の神秘と不思議、そして隠された力と|忌《い》まわしさの眠る場所。
魔道の|封《ふう》|印《いん》を|施《ほどこ》された場所。
魔道の封土を見つけだし、破られようとしている封印を保護して、時の宝珠を捜し手に入れるのが、彼ら救世主たる聖戦士の役目。
現れでた光景を目にし、一同は言葉を失った。
付近に|蔓《まん》|延《えん》する|邪《じゃ》|悪《あく》なる|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を感知して落ち着かない飛竜を制し、|手《た》|綱《づな》を握る。
誰の目から見ても、それは明白だった。
「あれよね」
|掠《かす》れた声で、|独《ひと》り|言《ごと》のようにシルヴィンが言った。
|肯《こう》|定《てい》するのさえ|馬《ば》|鹿《か》げている感じがして、つきあいのいいレイムですら返事できなかった。
|飛竜《ひりゅう》に乗った彼らが導きの|魔道球《まどうきゅう》に案内されて訪れたのは、東の辺境の地の一画。
どこの領主のものにも属さない、本当の地の果てと呼べるようなところ。
もとは|滴《したた》る緑に覆われた、うっそうとした深い森であったかと思われる地。
だがそこは、滅亡を迎えようとする世界にあり、力をなくし死んでいく自然に、見る影もなく寂れ果てていた。
樹木も草も地衣類も何もかも、枯れ腐り倒れて、朽ち果ててしまっている。
そこに生きていた動物たちもみな、無残に死に絶え、物言わぬ|骸《むくろ》を|晒《さら》している。
緑の腐海となった荒れ野に、|亡《なき》|骸《がら》が群れている。
そしてそのなかにただ一つ。
天空を支えてそびえ立つとも見える、巨大な一木がある。
灰色によどむ厚い雲で重くのしかかる空を押しあげているかのような、巨大な樹。
えんえんと転がっている動物の|死《し》|骸《がい》は、見覚えのあるものばかりで、それを規準にしておおよその距離感や大きさを|把《は》|握《あく》することができた。
どう軽く見積もっても、この、飛竜を浮かべた空域から樹までは王都の二、三すっぽりと入るだけの、とほうもない大きさがある。
|街《まち》をいくつもへだてた距離をおいてなお、見あげるばかりに大きい。
成獣たる飛竜を十頭つなげたとしても、あの樹の|幹《みき》をとりまくには及ばないだろう。
普通でないもののところに時の|宝《ほう》|珠《しゅ》はある。
どう考えても、あの樹が怪しい。
「魔道の|封《ふう》|印《いん》の上に、木の実が落ちて|芽《め》|吹《ぶ》いたんでしょう……」
破壊された自然の|均《きん》|衡《こう》に逆らって、ただ一つだけ|屹《きつ》|立《りつ》する樹を見つめレイムはつぶやいた。
「時の宝珠を養分として吸いあげたのね」
事態を理解して、うんうんとシルヴィンがうなずく。
目標物は目の前にある。しかも、ひとや魔物の姿はどこにも見えない。
どうせファラ・ハンやレイムの魔道を用いるのだし、樹の中の時の宝珠を手に入れるには特別困難な状態ではない。どうぞとばかりの、おあつらえ向きの|格《かっ》|好《こう》になっている。
楽観視して飛竜を向かわせようとしたシルヴィンの前に、行く手をふさぐ形でディーノが飛竜を進めた。
大きく枝を張った樹を、目を細めてきつい|瞳《ひとみ》でにらむ。
「あの木はなんだ?」
振りかえりもせず、後ろに乗るファラ・ハンに問いかけた。
正体を問われ、ファラ・ハンは青い|宝玉《ほうぎょく》のように|煌《きら》めく|瞳《ひとみ》を樹に向け、神経を|研《と》ぎすます。
「あれは……、|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|印《いん》に根をはり、封印そのものと同化したもの。ふくれあがる|邪《じゃ》|悪《あく》なるものの力に押し広げられ、大きくなったもの……。もうじき、|弾《はじ》けます……!」
最後の言葉にぎょっとし、レイムとシルヴィンはファラ・ハンを見る。
ディーノは目を細めた。
「見えぬのか? 枝が|蠢《うごめ》いているのが」
あざけるように言う。|野獣《やじゅう》のようなディーノの青い瞳には、遥か遠くの樹の枝に起こっている異変までも見ぬくことができていた。
むっと|憤《ふん》|慨《がい》してシルヴィンは目をこらし、ディーノやシルヴィンほど視力に自信のないレイムは魔道を用いて|遠《とお》|見《み》を試みる。
緑なして繁る葉をなくし、枯れ枝ににた枝に。
たわわに実が生じていた。
その中身までも探ることのできたレイムが色をなす。
「魔物!」
「『き』は熟した、か!」
大声でディーノは笑った。
あれが|弾《はじ》ければ、それこそ世界じゅうを|震《しん》|撼《かん》させるだけの大物の|魔《ま》|物《もの》が解き放たれる。
しかも実を落とした枝の開口部を『門』として、別の小魔が|這《は》いだしてくる。
世界は魔物で溢れる。
大口開けて笑っていられるディーノの神経に、シルヴィンは怒りで青くなる。
「冗談じゃないわよっ!」
「当然だ」
何をいまさらと、ディーノは|歯《し》|牙《が》にもかけず受け応える。
泣こうが|喚《わめ》こうが笑おうが、それが影響を及ぼすものではない。
風の|囁《ささや》きにファラ・ハンは耳を|澄《す》ます。
何か大切なことを教えてくれている気がした。
「ホーン・クレインってなんですか?」
聞き覚えのある名称に、レイムはびっくりする。
「踏みこむことを禁じられた楽園の名前です」
すべてを自然のあるがままに。手を入れることを禁じ、そのままにしておこうと約束された、ふんだんなる恵みの土地。世界で一番『金の時代』に近いと思われている場所。
ディーノもシルヴィンも、この世界の一般常識の一つであるそれを、知らないはずがない。
しかし、それというにはあまりにも、この状況は|酷《むご》い。
これはもはや楽園などではない。
「まさか、ここが……?」
|愕《がく》|然《ぜん》として、レイムは|瞳《ひとみ》を見開いた。
痛々しくレイムを見つめ、ファラ・ハンは小さくうなずいた。
たしかにファラ・ハンの言ったことは|嘘《うそ》ではない。
ここには、この地には、一人の魔道士も訪れた|形《けい》|跡《せき》がない。
滅亡する自然を前に、それを保存しようと、『眠り』の魔道をほどこして回った|跡《あと》がない。
だとすれば。『眠り』の魔道は必要ない、という意味に解釈できる。
レイムは、きっと目をあげた。
「何があっても、絶対に|飛竜《ひりゅう》をおりないでください。この地に触れては|駄《だ》|目《め》です」
ファラ・ハンは、わざわざ風が彼女に告げたことを納得する。
|既《すで》に朽ち果て、楽園としての輝きを失った地に対して、おかしなレイムの物言いに、ディーノとシルヴィンは首をめぐらせる。
|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|士《し》たるレイムは、彼の師たる人物が考えたことを伝える。
「『|汚《けが》れていない場所』ならば、完全復興の魔道が可能です」
清らかな大地のみに与えられる、ただ一度きりの大がかりな魔道。
朽ちた動植物のすべてが、かつての姿を取り戻し、生き返ることができる。
そのために無残に放置されているのだ。
ここは『|残された土地《ホーン・クレイン》』。
世界のひとびとの|不可侵条約《ふかしんじょうやく》によって|意《い》|図《と》|的《てき》に残された、世界で最後の楽園。
この世界の貴重な財産として、守りぬかねばならない場所だ。
そしてそれは、魔物の|一《いっ》|匹《ぴき》たりとも存在してはいけない場所だ。
おぞましく|忌《い》まわしい指が|刹《せつ》|那《な》でもかすかに触れれば、ホーン・クレインの価値は失われる。
ホーン・クレインの存在意義を重要視すれば、魔道の粉など用いるわけにはいかない。
魔道の粉なしでは、広範囲における|結《けっ》|界《かい》は張れない。
樹そのものを結界に包みこんで万一の場合に備え、魔物と戦うという形はとれない。
「直接、樹を始末するのか」
レイムの迷いを読むように、こともなげにディーノは言った。
「倒しちゃうの?」
直線思考のシルヴィンは、思いついたことを口にする。
即行動に出ようとするシルヴィンを、ファラ・ハンがなだめる。
「それは|駄《だ》|目《め》よ。樹の切り口が『開かれた門』になって魔物が出てくるわ」
軽く|唇《くちびる》を|噛《か》んだレイムは、どうしてここが魔道の|封《ふう》|土《ど》となりえるのか、思い悩んだ。
封じの魔法陣がなければ、魔道の封土とはなりえない。
しかしこのホーン・クレインと呼ばれる場所には、誰も手を加えていないはずなのだ。
今、こうして放置してあることからみても、それは間違いない。
ではどうやってここを魔道の封土としたのか。
いくら滅亡に向かいつつある世界で、魔道の封土に根づいて、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を持っているといっても、あの樹の成長の仕方は異様である。
大きすぎる。まるで、封印の魔法陣の力が弱まった魔物そのもののようだ。
魔法陣の力が弱まる。何かに|遮《さえぎ》られたかのように。
はっとして、レイムは上を見あげた。
何も魔法陣は地に|記《しる》すだけとは限らない。
空に浮かべることだってある。
この世界に存在する、四つの月のように。
上空の同じ地点にある『静止衛星』と同じ理論で、浮かべて固定させることだって可能だ。
だとすれば、|灰《はい》|色《いろ》に重く垂れこめるあの雲をのけることができれば、|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の効力は増す。
魔物を産み落とそうとしている、|汚《けが》れた樹を封じることができる。
|一触即発《いっしょくそくはつ》の|危《あや》うい事態を、|鎮《しず》めることが可能だ。
「僕は封じの魔法陣の力を元に戻します。ファラ・ハン、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れてください」
レイムは言いながら、|飛竜《ひりゅう》の|手《た》|綱《づな》を|操《あやつ》った。
彼女の身の安全はディーノの|機《き》|知《ち》と腕力に|任《まか》せることができる。小さい飛竜もファラ・ハンにべったりと|懐《なつ》いているし、シルヴィンもいる。不安になる要因はない。
時の宝珠を取り除き、それから引き出されて利用されている神秘の力を失えば、産みだされようとしている魔物も樹から出てこれなくなるはずで、恐れるに足りない。
レイムの|意《い》|図《と》を察したファラ・ハンは、その提案に賛成した。
レイムの乗った飛竜だけが上空に、あとのものは巨大に成長した樹に向かった。
近寄るにつれて、その樹の大きさは実感された。
|竜《たつ》|巻《まき》と同等の迫力がある。
しかもそれは、|幹《みき》の表面に魔物の形を浮かべた、世にも恐ろしい形をした樹だった。
中から樹を|裂《さ》いて|躍《おど》りでようとした魔物が、封じの魔法陣の内に根づいた木の表皮にさえぎられて外に出られず、しかも奥側から押されているため、|木《き》|肌《はだ》がそんな形になっているのだ。
魔法陣に生えた木は、それだけで|聖《せい》|痕《こん》を記されたのと同じような効力を持っている。
実を結ぶという、植物としての木の本来の過程を経なければ、中から|滲《にじ》みでようとする魔物は自由を得られない。
|熟成《じゅくせい》の時期を感じ、樹に押しかけた魔物で樹はぱんぱんに|膨《ふく》れあがっている。
ひしめきあい、内側から押されて、|醜《みにく》くおぞましい魔物の浮き彫りをなしている。
大きく膨らんだ実もまた、気味の悪い魔物の形をしたもので、鈴なりになっていた。
皮の薄くなっているところでは、魔物の目玉がぎょろりと動くのが|透《す》かし見える。
物によってはディーノの飛竜よりも大きい。
ホーン・クレインだ、楽園だと、こだわるつもりはディーノにはない。
ただ、|面《めん》|倒《どう》なことやわずらわしいことは|御《ご》|免《めん》だ。魔物など出現しないにこしたことはない。
数を競って魔物を退治して自慢するような、そんな|酔狂《すいきょう》な趣味はディーノにはない。
退治した魔物の醜さで優劣を競うほど、暇を持て余してもいない。
それで|箔《はく》をつけねばならないような、名乗りばかりを気にする|雑《ざ》|魚《こ》ではない。
「|宝《ほう》|珠《しゅ》のある場所はわかるか?」
魔物の|膿袋《うみぶくろ》と等しい、おぞましい物体と化している樹に|辟《へき》|易《えき》としながら、ディーノはファラ・ハンに尋ねた。
ファラ・ハンは感覚を|研《と》ぎすます。
「樹の、中ほどの高さのところ……、|幹《みき》と枝の|境《さかい》に近いわ……」
樹の中の宝珠とファラ・ハンが内に収めた宝珠が呼応し、どきどきと胸苦しい感じがする。
ファラ・ハンが持った宝珠を体外に置けば、その|動《どう》|悸《き》からは解放されるのだが、樹の中の宝珠に引っ張られて|融《ゆう》|合《ごう》されてしまう危険性がある。
ファラ・ハンの宝珠と樹の宝珠の数が同じであるため、引き合う力が|互《ご》|角《かく》なのだ。
ぶるっと身を震わせて、小さな|飛竜《ひりゅう》はディーノの肩の上からおり、ファラ・ハンの腕に飛びこんだ。大群をなす魔物の毒気にあてられて、震えていた。
日ごと着実に成長を続ける樹に解放の|兆《きざ》しを感じて集まり寄った魔物は、|膨《ぼう》|大《だい》な数である。
目に見えない地の底深くでも、うじゃうじゃとひしめいているはずだ。はんぱではない。
強く吹きすさぶ風のせいか、腹の中で|蠢《うごめ》く魔物のせいか、木は揺れている感じがする。
びくんと、ディーノが身を震わせた。
同時に飛竜も反応していた。
何事かと驚くファラ・ハンごしに、振りかえったディーノがシルヴィンに叫んだ。
「沈めっ!」
|怒《ど》|鳴《な》られ、反射的にシルヴィンがそれに従う。
おぞましいそれを極力見ぬようにと、目線を落とし、いやぁな顔をしながら枝の下をくぐって飛竜を飛ばせていたシルヴィンの上。
くるんと身を丸めていた実の中の魔物が、いきなり体をのばした。
頭をさげたシルヴィンの髪を、かすかに実の皮がかすめた。
|咄《とっ》|嗟《さ》に反撃しようとシルヴィンが短剣の|柄《つか》に手をかける。
「よせ!」
ディーノは|怒《ど》|号《ごう》のように|叱《しか》りつけた。
はっとして、シルヴィンは短剣を引きぬきかけた手を止める。
誘いに乗って刃物を振りかざし、木を切り開いて魔物を解放してやることはない。
どんなにおぞましい形状に変化していようと、この樹は魔物を封じているのだ。
外からかすり傷の一つでもつけようものなら、そこから|魔《ま》|物《もの》が溢れでてくる。
ふんと鼻を鳴らし、前を向こうとしたディーノは。
下からきらりと空を切って飛来したものを見とめた。
明らかにファラ・ハンを|狙《ねら》ったもの。
放たれた一本の矢。
「!」
素早く|飛竜《ひりゅう》を動かしたディーノが、その矢のほうに向きなおる。
押さえつけるようにして、ファラ・ハンの身を沈めさせる。
射るように|睨《にら》みつけ、左手で矢をつかみとめた。
摩擦に焼け、手のひらが浅く|火傷《や け ど》する。
かすかにかすった|矢《や》|羽《ばね》で、ざくりと|頬《ほお》が切り裂けた。
身をひるがえし、矢を避けることは十分にできた。
飛竜に|焔《ほのお》を吐かせ、|塵《ちり》一つ残さず矢を焼きつくすこともできた。
飛竜に矢を|叩《たた》き落とさせることもできた。
背負った長剣を引きぬき、矢を叩き落とすことも簡単にできた。
それだけの余裕はあった。だがそうしなかった。
その矢がこのホーン・クレインで『傷つける』|意《い》|図《と》をもって放たれたものであったからだ。
身をかわして矢を避ければ、それは樹に突き刺さる。
|幹《みき》や枝、実を傷つけ、そこから魔物を溢れださせようとしている。
そして矢を叩き落とせば、それはホーン・クレインを|汚《けが》すことになる。
世界じゅうのひとびとが大切にしてきた場所を、復活不可能にさせる。
ディーノが魔物を恐れたり、ホーン・クレインを敬愛しているわけでは|微《み》|塵《じん》もなかったが。
そんな|奴《やつ》らの|企《たく》らみに、うかうか乗せられるのはまっぴらだった。
相手の武器だろうと、手にすればそれはディーノの|得《え》|物《もの》に間違いない。
何かの役に立てるか、機を|狙《ねら》って返してやろうと、ディーノは矢を腰帯のあいだに|挟《はさ》みこんだ。
|無《む》|駄《だ》にはしない。
にやりと片頬で笑い、左手のひらで頬の血を|拭《ぬぐ》うと、火傷ごとぺろりと|舐《な》める。
血の味が甘く|舌《した》にからむ。この味は嫌いではない。
「その女を渡しなさい!」
地面間近い位置から、威圧的な口調で|甲《かん》|高《だか》い若い女の声が|怒《ど》|鳴《な》った。
矢を放った者に間違いはない。
ディーノには、いかなる者にだろうと命令されるいわれはない。
この世にディーノに命じられる者は存在しない。
|物《ぶっ》|騒《そう》な表情で、すうっと目を細めたディーノは、声の主のほうに視線を落とす。
そこには。
|黒褐色《こっかっしょく》の|鈍《にぶ》く輝く|鎧《よろい》をまとう、陰に沈んだ一軍がいた。
兵士の各人が、何やら見たこともない、奇怪で|歪《いびつ》な虫のようなものに乗って浮かんでいる。
ディーノに声をかけたのは、その軍隊の先頭に立つ女。
身なりだけは立派だが人間離れした、大柄で|醜《みにく》い容姿をした下僕の肩に乗っている。
二人の乗る虫は兵士のそれに比べると遥かに大きく、|醜悪《しゅうあく》だがその分『立派な』虫だ。
白い軍服に桜色のマント。上空を|睨《にら》む|綺《き》|麗《れい》な|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》。金色の髪の|乙女《お と め》。
高慢で|気位《きぐらい》の高そうな美しい姫。
その娘に、ディーノたち三人は見覚えがあった。
第四章 雲海
|飛竜《ひりゅう》を駆り一直線に上昇したレイムは、いっきに雲を突きぬけ、その上に|躍《おど》りでた。
ようやくどうにか飛竜の扱いに|馴《な》れてきたレイムと、乗せている主人の動作に馴れてきた飛竜は、加速急上昇してもバランスを|崩《くず》さないほどに呼吸が合ってきた。
お互いに、なんとか|均《きん》|衡《こう》をもって相手を探ることができるほどの余裕が出てきた。
レイムは飛竜を上空に置き、|印《いん》を結んだ。
|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|印《いん》に用いられている魔法陣は|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》。
はるかなる上空にあるだろうそれの形を探ることは、事実上意味をなさない。
|肝《かん》|心《じん》なのは、その位置にあるこの雲をどけることなのだ。
魔法陣の効力を復活させることなのだ。
無音で|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えたレイムの周囲に、ぽうと赤い光が生じる。
目をあげたレイムの意に従い、光は移動すると天空の魔法陣そのままの位置に、雲の上に陣取った。
明滅して浮かびながら、レイムを導く。
そこから雲を排除すればいい。レイムは|安《あん》|堵《ど》して、肩に入った力を抜く。
術の効力を少しでも上げるため、そこに|飛竜《ひりゅう》を向かわせようとしたレイムは。
|手《た》|綱《づな》を握る手を、ぎくりとこわばらせた。
同様のものを飛竜も感じていたらしく、ぎゅっと体をたわめて身構える。
飛竜の感じたのは、莫大な威圧感のようなもの。
レイムはそれ以上に明確に巨大な波動を感知し、全身に冷水を浴びせかけられたような|錯《さっ》|覚《かく》を生じさせていた。威圧感に胃が握りつぶされ、吐き気と|悪《お》|寒《かん》がした。肺が収縮し呼吸が浅くなった。激しい|動《どう》|悸《き》で、心臓が|喉《のど》|元《もと》までせり上がってきた気がする。ねっとりと|脂《あぶら》じみた気味の悪い汗が全身に|滲《にじ》みでる。
背後にたしかに存在するものに、ゆっくりとレイムは振りかえる。
ゆるやかに波打つ雲の海。
暗くよどんで火花を散らし、|弾《はじ》ける雷雲たち。
その上に。
底知れぬ|闇《やみ》|色《いろ》の|法《ほう》|衣《え》をまとう人影が浮かんでいた。
風に吹かれ|黄《たそ》|昏《がれ》|色《いろ》に輝く法衣に身を包み、レイムを見つめていた。
|目《ま》|深《ぶか》くかぶったフードでその人物の顔は見えない。
|痩《や》せぎすの体にまとわれた法衣は大きくだぶつき、上空を渡る風に激しく揺られている。
かすかに法衣からかいま見える手の先は、彼が|干《ひ》からびた老人であることを示している。
しかもその左手は、ぐうっと曲がった五つの|鋭《するど》い|爪《つめ》|先《さき》をもつ、銀色の鋼鉄の義手である。
|滑《すべ》やかな|鋼《はがね》のそれは、まるで|禍《まが》|々《まが》しいものでもあるかのように、風に吹かれた法衣からきらりと鋭い光を|奔《はし》らせる。
レイムは男の全身からにじむ、浮き足立ち体の|芯《しん》が|戦《おのの》くような|不《ふ》|穏《おん》な|気《け》|配《はい》を感じとっていた。
飛竜をめぐらせ、澄みわたった|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》で、レイムは真正面からその男を見返した。
実力の違いは言葉を交わすまでもなく明らかだった。
その男は|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》エル・コレンティと同じく、レイムなど間近で姿を拝見することさえおこがましい方なのに違いない。
格段に『存在等級』が異なるのだ。
いたたまれぬ感じも、その『迫』に圧倒されているからに間違いない。
顔を伏せ、さっさと|尻尾《し っ ぽ》を巻いてこの場から逃げだせるような|性分《しょうぶん》なら幾分か楽なのだろうが、レイムにはそんなことはできない。
レイムは自分の置かれている立場を失念することはない。
絶対に敗走しない。
死ぬことよりも、|己《おのれ》の不名誉を恥じることを|厭《いと》う。
誇り高い騎士たる|魂《たましい》をもっている。
そして守るべきものをもつときの彼は、誰よりも強くなれる。
年配の術者であり、しかもあんな形をした義手という目立った特徴をもっていたならば、|魔《ま》|道《どう》|士《し》|名《めい》|鑑《かん》に特筆されていても不思議はない。下級の見習い魔道士ならば、先輩たちのことを余さず|網《もう》|羅《ら》しておかないと大変に失礼なことになる。だからそれは基礎講義で魔道の歴史を学ぶとともに、初めに記憶せねばならないとされ、皆必死になって名や特徴などを覚える。
幼いときから数多くの複雑な音曲に親しみ、筆記の機会に恵まれなかったレイムは、他人よりも記憶力には自信があったが、この男に関しては何一つ思い当たることがなかった。
浅ましい|思《し》|慮《りょ》だったが、念のためもしやと疑い見たが、その男の|法《ほう》|衣《え》には魔道宮で与えられる高級魔道士の縫いつけメダルがあった。メダルのある、本物の法衣を身につけているのならば、承認を受けず自己流の修行を積んだという魔道士ではない。
|歳《とし》|経《へ》た|威《い》|厳《げん》のためなのか、レイムのように純粋で透明に輝く魔道波とはどこか違う。
体を何倍も巨大に|膨《ふく》れあがらせて感じさせ、相手を圧倒する、彼の微動だにしない魔道質量は、重々しく、何かしらレイムとは|趣《おもむき》を|違《たが》えている。
どこかが微妙にずれ、わずかに|歪《ゆが》んでいる気がする。
規約に従うならば、魔道士同士はむやみに会話しない。世間話や|無《む》|駄《だ》|口《ぐち》は禁じられている。
俗世間から隔離された修行者である魔道士は、|好《こう》|奇《き》|心《しん》をもって交友してはならない。
用件もなくまみえるものではない。
|飛竜《ひりゅう》を駆って雲間を縫い上空に出たレイムが目当てで、その魔道士はそこにいるのだ。
上級魔道の|熟練者《じゅくれんしゃ》であれば、飛竜の行く先を察して|即《そく》|座《ざ》に追いつくことなど|造《ぞう》|作《さ》もない。
法衣は深緑色で見習い魔道士の|装束《しょうぞく》のままであるが、魔道師エル・コレンティの承認を受けて派遣されているレイムは、『聖魔道士』として一人別格にある。
世界救済の役目を|担《にな》う、世界ただ一人の聖戦士としての立場を踏まえると、格が違うといえむやみに下手に出ることはできない。
レイムから先に声をかけることは、望ましくない。
しばらくの|間《ま》の後、中空に浮かぶ|闇《やみ》|色《いろ》の法衣の魔道士は、すいと礼をした。
レイムの出方をうかがっていたらしい。
相手を認めてなお名乗りをせぬレイムから、彼が身を置く状況を|把《は》|握《あく》したようだ。
見習い|魔《ま》|道《どう》|士《し》の深緑色の|法《ほう》|衣《え》を身につけ|飛竜《ひりゅう》を|操《あやつ》る、金色の髪に|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》の、優しく穏やかな|面《おも》|差《ざ》しの青年魔道士はそう何人もいない。
しかもレイムはかなり|眉目秀麗《びもくしゅうれい》な、人目を|惹《ひ》く魅力と特徴がある。
「我が名はケセル・オーク。上級の魔道を修めし者、|噂《うわさ》に名高き聖魔道士殿とおみうけいたしますが」
|闇《やみ》|色《いろ》の魔道士は低くかすれた声で、静かに問いかけた。
レイムは|肯《こう》|定《てい》してうなずき、闇色の魔道士を見つめた。
闇色の魔道士は、うやうやしくレイムに語りかける。
「魔道師エル・コレンティ様より命じられて、ここに参りました。世界救済のもう一つの神話のためでございます」
もう一つの神話。
先の|街《まち》で目にした文章を思い出し、ぴくんとレイムの|眉《まゆ》が震えた。
中身の入れ変わってしまった聖書の一節。
救いの|女《め》|神《がみ》でなく、最後の|生《い》け|贄《にえ》として存在するファラ・ハン。
「偉大なる魔道師の力をもってしても、どちらの物語が正しいのか、わかりかねるとのことでございます。ただ共通しているのは、どちらも世界を救うということ。我らの目的が世界救済にあるのなら、結果としてそれがなされればどちらの物語が真実であれ問題はないとの結論にあたりました」
滅亡への坂道を転がり落ちる世界を救えるのであれば。
誰が英雄でもかまわない。
「……」
レイムはかすかに表情をくもらせ、眉をひそめる。
たしかに、極論を言ってしまえばそうなのかもしれない。
「予言は二通りございますが、そのどちらもが真実にございます。|魔《ま》|道《どう》|師《し》は、あなた様にどうぞ|戸《と》|惑《まど》われませぬようにと申しておりました」
「いずれにせよ、僕の務めは変わりません」
女性のようにたおやかに映る外見とは|裏《うら》|腹《はら》に、|頑《がん》|固《こ》な口調でレイムはきっぱり言いきった。
ふいとケセル・オークと名乗った|闇《やみ》|色《いろ》の魔道士は口をつぐむ。
レイムには|傍《ぼう》|観《かん》|者《しゃ》を決めこむつもりはない。
「ヒト族が神々に見放された種族であることは、誰もが知っていることです。滅亡する世界に行った|神《しん》|託《たく》の儀式は、そのことごとくが失敗したと聞きおよんでいます」
もう地上には神はいない。神そのものがいてはならない。
だからレイムは、ファラ・ハンがひとの姿で具現したのだと思っている。
ひとでありながら神でもある姿をして現れでたのだと。
|亜《あ》|種《しゅ》として存在することで、ひとと神々の両方に義理を立てたのだと。
神々のなかでひとに近しい容姿をももつ彼女であるからこそ、地上の者たちをかえりみることができ、金銀の時代の後でも、再び地上に降り立つことができるのに違いない。
「世界救済の方法が一つでないことは、僕は決して悪いことだとは思いません」
それだけ世界が救われる可能性が大きくなる。
「でもその方法によって、その後の世界が違ってくるのではありませんか?」
必ずしもまったく同じ結果にたどり着くとはかぎらないのではないか。
そうならば世界救済は、|後《のち》の世界を選択するという重大な|分《ぶん》|岐《き》|点《てん》になっている。
聖戦士となった誰もが軽々しく行動するわけにはいかない。
しかも魔道士は、その術を|駆《く》|使《し》し、世界を裏から支える存在である。世界救済が終了しても、他の者たちと違い、魔道士であるレイムはその役目を|解《と》かれることはない。
自分にかかる責任が多大であるからと、その|渦中《かちゅう》から一歩|退《しりぞ》いて、なりゆきを見守るなどということが世渡りのへたなレイムにできるはずがない。
偉大なる魔道師エル・コレンティの使者であると口にしたケセル・オークを、レイムはひたと見つめた。
異なる物語の導きだす結末を、|如何《い か》にと問うていた。
ケセル・オークはうなずくように顔を伏せる。
「すべては世界の望むままに」
より正しきものへと進むはずであると。
レイムは|闇《やみ》|色《いろ》の|魔《ま》|道《どう》|士《し》に軽く|頭《こうべ》を垂れる。
「御苦労でした。ありがとうございます」
|流《る》|転《てん》する世界救済物語の理由が、なんとなく|把《は》|握《あく》できた。
ケセル・オークは、うやうやしい態度で礼をし、ふっと沈むように雲の|絨毯《じゅうたん》のなかに消えた。
雲海の波間に|埋《まい》|没《ぼつ》した魔道士は。
赤く光る|瞳《ひとみ》で、ぎろりと|鋭《するど》い|一《いち》|瞥《べつ》を頭上に投げる。
肉眼で見ること|能《あた》わぬ若き聖魔道士の青年を、|睨《にら》みつけた。
|痩《や》せて皮ばかりが張りついたような顔の|鼻梁《びりょう》に|皺《しわ》を寄せ、ふんと鳴らす。
「若僧が|洒《しゃ》|落《れ》た口をきくものよ。役に立たぬ駒であったか」
聞く者を不安にさせずにはおかない、地の底深くからぞろりと響きでるような|声《こわ》|音《ね》。
それを耳にしたのがレイムでなくディーノであったのなら、おそらくは。
だがしかし、この男はそんな|不《ふ》|手《て》|際《ぎわ》を行うような者ではない。長きにわたる|周到《しゅうとう》な根回しに抜かりはない。
闇色の魔道士は見抜いていた。
レイムがファラ・ハンに対して、聖戦士としての関心以上のものを抱いていることを。
|担《にな》った務めの大きさに、その感情に気づかぬふりをしていることを。
あまりにも純粋であるがために、レイムは素直にそれを認めることができない。
ルージェスとファラ・ハン。
心優しいレイムならば、どちらを選択するだろうか。
傷つけずにはいられないとするならば。
どちらを傷つけることをよしとするだろうか。
若いがゆえに恐れも失敗も知らず、死ぬことすら自分には関わりないと信じて疑わぬ、|凶悪《きょうあく》で|残《ざん》|忍《にん》な行為を|厭《いと》わぬ小娘を、血の|粛正《しゅくせい》なしに止めることができるか。
この世界にただ一人招かれた、力なき|可《か》|憐《れん》な|乙女《お と め》を守りぬくことができるか。
世界がそれを欲しているからと、自らの手を|汚《けが》し乙女の心臓をえぐりだす|加《か》|担《たん》ができるか。
どちらにせよ、あの優しさがレイムにとって|枷《かせ》になる。
|妨《さまた》げを行うほどの余裕はあるまい。
またそうできるだけの実力は、今のレイムにはない。
「|目《め》|障《ざわ》りとなれば、その時よ」
つぶやくように言い放ち、|闇《やみ》|色《いろ》の|魔《ま》|道《どう》|士《し》は笑いの形に|口《くち》|許《もと》を|歪《ゆが》めた。
|干《ひ》からびた|唇《くちびる》が、にいいっと引かれた。
|卑《ひ》|劣《れつ》な|企《たく》らみを恥じることない|愉《ゆ》|悦《えつ》が|咽《のど》から|零《こぼ》れでた。
雲海の上に残ったレイムは。
両手の指をからめて|印《いん》を結び、上空の魔法陣の影を雲の上に落とすべく|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた。
目に見えぬはるかな高みに浮かぶもの、|古《いにしえ》の魔道によって存在し続けているもの。
レイムの呪文は天を駆けあがり、魔法陣を目指す。
長い呪文を繰りかえすレイムの魔道は、そのまま思念の触手と化して、魔法陣を捜す。
レイムの|脳《のう》|裏《り》に浮かぶ光のイメージが。
何かに触れた。
表情を明るくし、顔をあげたレイムの乗った|飛竜《ひりゅう》が。
突然回頭した。
ぎょんと勢いよく動いた飛竜に、レイムの腰が|鞍《くら》から|滑《すべ》った。
振り落とされそうになったレイムは、|喘《あえ》ぐように腕を泳がせ、指先に触れた|手《た》|綱《づな》を必死で捕まえた。激しく動きやめない飛竜にしがみつき、どうにか体勢を元の位置に戻す。
印を|解《と》いたために、放出する魔道力が半減した。上空の魔法陣は捕らえたが、魔法陣そのものがレイムに応えてくる力を導いてやることができない。
これではせっかく届いた魔道力が|無《む》|駄《だ》になる。
飛竜をなだめようとレイムは手綱を|制《せい》|御《ぎょ》しようとするが、飛竜は狂ったように暴れまわる。
いったい何が起こったのか、落ちまいと飛竜の背にへばりつきながら|困《こん》|惑《わく》するレイムの耳に。
飛竜の|鋭《するど》い悲鳴が聞こえた。
ただならぬそれ。
ぎくりと|瞳《ひとみ》を開いたレイムは、|己《おのれ》の身を置く周囲の状況に視線を投げた。
そこは渦巻き乱れて吹きあがる乳白色の海。
天から降り注ぐ光を|跳《は》ねかえし、どこまでも続き輝きうねる白の|海《うな》|原《ばら》に。
暗闇と|臓《ぞう》|腑《ふ》の色をしたものが現れでていた。
レイムと彼の飛竜を取りかこみ、大小無数に。
大気と地上の|澱《おり》が|凝《こ》ったものかと思われる、不定形のもの。ぐねぐねと形を変えてにじり寄るそれら。
触手のように伸びあがり、襲いくるものを|回《かい》|避《ひ》して、飛竜は懸命に身をよじっているのだ。
真下に禁断の地ホーン・クレインを置いていることから、飛竜は|焔《ほのお》を吐くことができない。従ってこの|魔《ま》|物《もの》を|退《しりぞ》ける手段をもたない。逃げの一手しかないのだ。
ここの位置でレイムが上空に働きかけるのに最適であることを本能的に知っている飛竜は、魔物の|追《つい》|撃《げき》を|逃《のが》れ、大きく動き変えることができない。高度を変えると、途中までやりかけたレイムの術に|支障《ししょう》をきたすことも理解している。
魔物は明らかに、レイムを|妨《ぼう》|害《がい》せんとして、攻撃を仕掛けてきている。
ただ動きを封じて足止めし、時間を取らせるだけの、|陰《いん》|湿《しつ》なものたちだ。
魔物たちの目的から察するに、あの樹木から魔物が|解《と》き放たれようとしているのに、もうそんなに時間は残されていない。
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れても、そうでなくても、いくらディーノやシルヴィンや飛竜がいても、間近で|怒《ど》|濤《とう》のように溢れきた魔物を前に、ファラ・ハンが無事ですむはずがない。
魔物にとって最上級の|御《ご》|馳《ち》|走《そう》にあたるその肉体、細胞の一片にいたるまで、魔物たちは争いあい奪い狂うことだろう。引き裂かれ食らわれたファラ・ハンの血肉により強大化した魔物を相手には、いかな|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》ディーノであろうと|分《ぶ》が悪いはずである。たとえ伝説の聖なる|銀《ぎん》|斧《ふ》レプラ・ザンをもってしても、無傷で生き残れるなどとは考えられない。
目を細め、レイムは軽く|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
高等魔道術を|駆《く》|使《し》するには、実力はあってもまだ経験が足りない。術に対する集中力、それの持続性に関する情報量が|蓄《ちく》|積《せき》されてはいない。
すなわちケセル・オークのように飛竜に頼らず飛行位置を保つことは可能であるが、それをやりながら上空の魔法陣に働きかけることができるかどうか、自信がない。
魔法で自分たちの周囲に強固な|結《けっ》|界《かい》を張りめぐらせ、そのうえで術の続行を|試《こころ》みるという方法も考えられなくはなかったが、その結界がレイムの術をも|遮《さえぎ》ってしまわないともかぎらない。
そうならば。残された手段は、これらの魔物を|駆《く》|除《じょ》してしまうことしかない。
意を決し、レイムはきつく表情を引きしめた。
第五章 結実
相手を認め、ディーノは|蔑《さげす》むように目を細め、鼻を鳴らした。
|自《みずか》らを|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》と豪語し、その雄姿で世界じゅうのひとびとを|震《しん》|撼《かん》させた、悪名高き|蛮《ばん》|人《じん》ディーノのことを知らぬ者は、生まれ落ちたばかりの赤子だけだ。破壊者であり|殺《さつ》|戮《りく》|者《しゃ》、その恐ろしい男に対し、命令を投げつけられる者などいない。
もしもいるとするならば、よほどの命知らずか|馬《ば》|鹿《か》だけだ。
多勢に無勢であっても、ディーノが|怖《お》じ|気《け》づくことはない。いかなるものもディーノの行く手を|妨《さまた》げることはできない。ディーノを|阻《そ》|止《し》できるものはない。
たとえ|選《え》りすぐりの|精《せい》|鋭《えい》で軍隊を組織しようと、ディーノ一人の存在の重さにはかなわない。
命の輝きのもてる比重で、ディーノの前から|排《はい》|斥《せき》されずにはいない。|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に振る舞いながら、なお時代そのものに愛されているかのディーノには、困難も不可能もありえない。
そのディーノの目から見て、
眼下で見あげてくるくそ|生《なま》|意《い》|気《き》な小娘など、言葉を耳に入れてやることすら値しないほどに、魅力のない|愚《ぐ》|者《しゃ》に見えた。
どのように異様な軍勢を指揮していようとも、|畏《い》|怖《ふ》するに及ばない。
シルヴィンは|狐《きつね》につままれたような顔をして、娘を見つめた。
つい昨日、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れた場所の近くの森で、ゲルゼルという虫に追われていた娘だ。世界じゅうのあらゆるところ、ひとの生活圏ならどこであれ、身近に存在する虫の特性さえ知らず、それから|逃《のが》れようと懸命になっていた常識知らずの娘に間違いない。
世間知らずなのは、あれでわかっていたが。まさかこのディーノにまで、このような口をきくとは。|愚《おろ》かをとおりこし『狂気』である。とても正気の|沙《さ》|汰《た》ではない。
娘の発した命令の意味よりも、その行為にシルヴィンは大きな|衝撃《しょうげき》を感じていた。
あきれ返って、|溜《た》め|息《いき》がもれた。
そしてファラ・ハンは。
「お|怪《け》|我《が》はなかったのですね? よかった」
見覚えのある娘に対し、案じていた先日のことが|杞《き》|憂《ゆう》に終わって|安《あん》|堵《ど》し、ほっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
まぶしいほどに美しい、一片の|邪《じゃ》|気《き》も|嫌《いや》|味《み》もないそれ。
それがかえって、娘の自尊心にさわった。あられもない|醜態《しゅうたい》を|晒《さら》したことを記憶されていたことに、かあっと血がのぼった。娘の顔が|羞恥心《しゅうちしん》で見る見るうちに朱に染まる。
悪気がないだけに、よけいに始末の悪いファラ・ハンの純粋さ。
|無《む》|垢《く》なることが、いつも正義となりうるとはかぎらない。
ファラ・ハンと娘、その両者の|滑《こっ》|稽《けい》さに、ディーノは快活な笑い声をあげた。わけを理解していないくせに、ディーノの腕にくっついた小さな|飛竜《ひりゅう》も翼をぱたぱたしてはしゃぐ。
ファラ・ハンの言葉に|過《か》|敏《びん》に反応したルージェスに、シルヴィンもくすっと|頬《ほお》をゆるめる。
ほがらかに笑うディーノとシルヴィンを、ファラ・ハンがきょとんと首をかしげて見比べた。
|恥辱《ちじょく》で顔面を真っ赤にした娘は、|憤《いきどお》ったあまりにおもわず|潤《うる》んだ|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》で、上目遣いにファラ・ハンを|睨《にら》みつけ、|拳《こぶし》を握りしめる。
「もう一度だけ、言ってやろう……」
|呪《じゅ》|詛《そ》でもするかの毒々しい口調で、娘は上空の三人に語りかけた。
「その女を渡しなさい。わたしは東の|公爵《こうしゃく》の姫、ルージェス・イース・カルバイン。高貴なる血を受け継ぎ、世界を救う伝説の聖女……! その女と時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を手に入れることが、わたしに課せられた使命」
口に出してそれらを言い放つことにより、徐々に彼女の内にいつもの鼻っ柱の強い気性が戻っていった。東の|公爵《こうしゃく》・カルバインの名を知らぬ者はこの広い世界といえどいない。王都に|君《くん》|臨《りん》する女王トーラス・スカーレンでさえ、カルバイン公爵領の経済力には|一《いち》|目《もく》おいている。
権力を絶対と信じて疑わぬルージェスにとって、彼女の|担《にな》った役割も、血筋といい|家《いえ》|柄《がら》といい、何一つとして不足はなかった。
「すみやかにわたしの言葉に従うがよい!」
高らかに言い放った。
まるでそれが|至上《しじょう》の天子の言でもあるかのように。
親の権力を|笠《かさ》に着、幼いころからやりたい放題に甘やかされてきたルージェスには、はなはだしい自己中心主義と|倒《とう》|錯《さく》がある。いつもの自分の調子に気持ちをもち直したルージェスは、課せられた使命を|遂《すい》|行《こう》しようとする自分に酔っていた。
ルージェスが何を言ったか。ファラ・ハンはその言葉の意味と、自分を取り巻く状況を|把《は》|握《あく》しきれず、ぱちぱちと目をしばたたく。
それは彼ら聖戦士として王都を出発した三人には、聞くに新しい事柄だった。
エル・コレンティ|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》からは、そんなことは一言も聞いてはいない。
シルヴィンやディーノの知る、翼ある|乙女《お と め》に関する世界救済伝承にもない。
それなのに。ここにまたもう一人、救世主たる聖女が存在する。名乗りをあげている。
この態度の大きい、常識なしで世間知らずの|可愛《か わ い》げのない娘が、世界を救う伝説の聖女。
ファラ・ハンと時の宝珠を用いて時空を安定させ、世界を|復《ふっ》|興《こう》させるのだと公言している。
ファラ・ハンはいかにも伝説の聖女らしい、しとやかで優しい乙女で、あまりにか弱いその容姿は|麗《うるわ》しく頼りなくはかなげであったけれど、彼女はたしかに世界を|委《ゆだ》ねてもいいと思えるほどに、強い意思と魅力をもっていた。自然界そのものを友とする純粋な|可《か》|憐《れん》さは、大地とともに生きてきたシルヴィンには|懐《なつ》かしく、多いに支持すべきものがある。たとえファラ・ハンの背に白き翼がなくても、シルヴィンは世界を救おうと|尽力《じんりょく》する彼女に協力を惜しまなかったはずだ。
この乙女こそ、自分の命を|賭《か》け身を|犠《ぎ》|牲《せい》にしても『守りたいと思える』者なのだ。
しかし、今、眼下で自らを救世主と名乗るこの少女は。
あまりにも|居《い》|丈《たけ》|高《だか》で、感じがよくない。
女性の身でありながら|飛竜《ひりゅう》を|操《あやつ》れるシルヴィンに、|一《いち》|目《もく》置くどころか眼中にない様子だ。
いったい何様だか知らないが、特殊階級に属する竜使いの一族であるシルヴィンが、もののかずにも入らない、虫けら同等の扱いをされていいはずがない。
むぅと顔をしかめて、シルヴィンはいやな顔をした。
「何よ、それ?」
白けて聞きかえす。ルージェスの言葉はあまりに|馬《ば》|鹿《か》げていて、怒る気さえ失せていた。
たしか世界滅亡の|噂《うわさ》が|巷《ちまた》にまことしやかに流れはじめたとき、そんなことを言う者がいた。
|賑《にぎ》わいだ|街《まち》やその近隣の人里から遠く|隔《へだ》たった、|険《けわ》しい山間にある竜使いの里にも、そういう噂が流れてきた。
何か|常軌《じょうき》を|逸《いっ》した、思いこみの激しい自称救世主とか戦士が、|決《けっ》|起《き》したと。
彼らが|狡《こう》|猾《かつ》な|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》であったのか、それとも正気を失っていたのかは定かではない。しかしそれでも|藁《わら》をもすがりたいひとびとに支持され、彼らは|華《はな》やかな声援を浴び、多くの好意と贈り物を|携《たずさ》えて旅立っていった。むろんその後の彼らの消息を知る者は|皆《かい》|無《む》である。
ふてぶてしい|笑《え》みを|唇《くちびる》に浮かべて目を細めたディーノが、ルージェスを見下ろす。
「聞こえぬな」
大きく胸を張り、|傲《ごう》|慢《まん》なる態度で言ってのけた。
そのような言葉を聞く耳などもっていないと言いきった。
ディーノに命じられる者はこの世にいない。
そしてそのような言葉を吐いたものがこの世に生き残っていることも。
挑発的な態度に、ルージェスはぎりっと唇を|噛《か》んだ。
「渡す気はないと言うのだな? それならばかまわぬ、力ずくで奪うまでのこと……!」
ルージェスにはファラ・ハンの命など関わりがない。殺そうがどうしようが、ただその心臓が手に入れられればかまわないのだ。時の|宝《ほう》|珠《しゅ》は|魔《ま》|道《どう》|士《し》ケセル・オークが集めることになっている。どのような手段にはしろうが、問題はない。
|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》の奥に浮かんだ|物《ぶっ》|騒《そう》な|思《おも》|惑《わく》。
それは同じことを考えうる思考をもつ、青い色をした険のある瞳によって見抜かれた。
皆殺しにしてでも欲するものを手に入れる、その|残虐《ざんぎゃく》で|奔《ほん》|放《ぽう》なる行動は、意味こそ違え力に頼る者として、両者に共通の行為であったに違いない。
「ほぉ……」
|酷《こく》|薄《はく》に|頬《ほお》をゆるめ、ディーノが淡く|微《ほほ》|笑《え》んだ。
二人の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》から思惑を察し、シルヴィンが緊張する。
ルージェスが、ひたとディーノを|睨《にら》んだ。
その血の奥底に流れ引き継いだ|魂《たましい》の|冷《れい》|酷《こく》さを|彷《ほう》|彿《ふつ》とさせる、|焔《ほのお》のような|瞳《ひとみ》だった。
ちらりとルージェスをかいま見たシルヴィンの背筋に、冷たいものが|這《は》う。
ルージェスの瞳には、自然も何もかも破壊し尽くそうがまったく意に介さない、非情のものがあった。どのような手段も|厭《いと》わない、|卑《ひ》|劣《れつ》で|凄《せい》|惨《さん》なもの。
魂の|尊《そん》|厳《げん》も生命の存在価値も、ルージェスには見えない。感じられない。
本質をシルヴィンとたがえた、|醜《みにく》く|酷《むご》たらしいもの。
この、|男勝《おとこまさ》りで乱暴な娘だからこそ、|畏《い》|怖《ふ》するべき事柄。
だが|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗るディーノは、そんなものに|煩《わずら》わされるはずがない。
恐れることすら知らぬ頭の弱い気の毒な小娘の態度に、興味すら覚える。薄っぺらなくせに|仰々《ぎょうぎょう》しい自尊心を粉々に打ちくだき、身も心も引き裂いてやりたい危険な|誘《ゆう》|惑《わく》を感じる。
「できるものなら……」
言いかけたディーノに、ファラ・ハンはくるんと|綺《き》|麗《れい》な瞳を見開く。
「ちょっと待って!」
|飛竜《ひりゅう》を押しのけて、ファラ・ハンはディーノの背後からその|逞《たくま》しい腕を抱えるように取って前に身を乗りだす。豊かな質量をもつ胸の|膨《ふく》らみが、抱えたディーノの二の腕で|潰《つぶ》れた。
しっかり腕をとらえた、やわらかく確かなものの圧迫に、ぎくりとディーノの体がこわばる。
驚いて身動きかなわないまま瞳を向けたディーノと眼下のルージェスに、素早く視線をめぐらせたファラ・ハンは、|困《こん》|惑《わく》するように|麗《うるわ》しい瞳をかげらせる。
「わたしに用があり、おそばまでと望まれるのなら伺いますわ。世界を救おうという方が増えるのは、喜ばしいことなのではないのですか?」
事態がまるっきりわかっていない。
|拍子抜《ひょうしぬ》けし、シルヴィンが目をしばたたく。
「それは正規の聖戦士の話でしょう? 聖選を受けた者だけよ」
その他の者は、いても足手まといになる。だから世界じゅうから集まった|選《え》りすぐりの有能者の多い王都にあってさえ、彼ら四人以外の者の同行は遠慮されたのだ。
ましてや。こんないけ好かない、|小《こ》|憎《にく》らしい娘が聖戦士であるはずがない。
「気持ちは大切にしなければならないわ」
形のいい|眉《まゆ》をひそめ、ファラ・ハンは少し引く。
シルヴィンの言わんとしていることが、正しいことであるかもしれないと感じた。
気味の悪い|魔《ま》|物《もの》と戦ったり、怖い思いをしたり危険に向かうのは、できれば少ないほうがいいだろうから。
それが彼女がこの世界に招かれた理由であったのだから、ファラ・ハンとしては自分一人で世界救済をしなければならないとしても、|承諾《しょうだく》していたことだろうと思う。
しかしまあ。それはそれ。これはこれ。
「あの、大変申し訳ないのですけれど」
ファラ・ハンは穏やかに|微《ほほ》|笑《え》んでルージェスに話しかけた。
「わたしに御用というのは、ちゃんとうけたまわりますわ。でもすみません、今、少し取りこんでおりますの。こちらの用向きが終わりますまでお待ち願えませんか?」
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を捜しだし、この地に溢れでようとしている|魔《ま》|物《もの》たちを|阻《そ》|止《し》することが先決。
この雲の上では、魔道士レイムが単身魔法陣の復活にあたっているのだ。
レイムの努力を無にしてはいけない。
「お前……」
物言いにあきれ返り、ディーノがファラ・ハンを見つめた。
「この女をなんだと思っているのだ? これが目に入らぬのか?」
ファラ・ハンのすぐそば、ディーノが腰に差した矢、つい先ほど射かけられたそれを指差す。
ルージェスのそれは、頼み事や協力を申し出る者の態度ではない。
その矢は『ファラ・ハン目がけて』放たれたのだ。
|平《へい》|穏《おん》そのものに、|的《まと》をはずした言葉をかけられたルージェスは。
ぎっと|目《め》|尻《じり》をつりあげ、きつく|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。白くなるほどに固く握った|拳《こぶし》が、細かく|震《ふる》えわなないていた。
「ふざけるなっ!」
金切り声にびっくりして、ファラ・ハンはディーノの腕をきゅっと抱きしめる。
ルージェスは|焔《ほのお》のような|瞳《ひとみ》でファラ・ハンを|睨《にら》みつけ、すっと右手をあげる。
「矢をつがえ!」
自動人形のように、黒い|甲冑《かっちゅう》をまとった兵士たちが、いっせいに弓矢を構えた。
場所柄を考えぬ行動に、シルヴィンが色をなす。
「ちょっと、あんた! ここをどこだと思ってるのよ!」
悲鳴のようなシルヴィンの声に、ルージェスはにやりと唇を|歪《ゆが》める。
「ホーン・クレインであろう。よく知っている。すみやかにその女を引き渡すというのなら、考えてやらぬでもない」
世界最後の楽園ホーン・クレインと、翼ある|乙女《お と め》ファラ・ハン。
それらを|天《てん》|秤《びん》にかけ、どちらかを選択しろと迫っている。
あまりにふざけた|脅迫《きょうはく》に、ひくっとシルヴィンの|頬《ほお》が引きつった。
ルージェスには自分こそが世界を救う者であるのだというはなはだしい思いあがりがある。だからファラ・ハンよりも、世界の宝であるホーン・クレインにおのずから軍配があがる。
世界が滅してしまえば、ホーン・クレインも何もない。いつか|冒《おか》されるかもしれない楽園よりも、|招喚《しょうかん》で得た救世の聖女のほうに価値があることを、ルージェスは知らない。
ぶしつけ極まりないルージェスに、さすがのファラ・ハンも|眉《まゆ》をひそめる。
「おやめなさい! どうしてそんなに事を荒立てたいのですか?」
「|肝《かん》|心《じん》なことを忘れてはなんにもならぬ」
ディーノは、きゅっと|手《た》|綱《づな》をさばいた。
時間がない……!
いったい何をやっているのか、|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》をなんとかするといって出たレイムの魔道の|気《け》|配《はい》も、彼の戻ってくる|兆《きざ》しもない。
ひょっとすると、なんとかうまいことこじつけて逃げたのかもしれない。
他人を信頼し、物事を|委《ゆだ》ねるという|奇《き》|特《とく》な習慣はディーノにはない。
野性の本能に深く根ざしたディーノの警戒警報が、少しずつ音を高くして鳴り響きはじめる。
機が熟せばその瞬間にここは|怒《ど》|濤《とう》のごとく|雪崩《な だ れ》でた大勢の魔物に|蹂躙《じゅうりん》される。
眼下にいる頭の悪い娘の一団など、はなからいい|餌《え》|食《じき》であることは目に見えている。
誰より|巧《たく》みに|飛竜《ひりゅう》を駆り、素早く高く飛び|逃《のが》れることのできる優れた竜使いであるシルヴィンであろうと、襲いくる魔物に|執《しつ》|拗《よう》に追いすがられ逃げおおせられないことは|必《ひっ》|至《し》である。
いかに無敵のディーノといえど、無傷でいられるとは思えない。
肉の一欠けであろうと、こんなところで魔物に食らわれてやるつもりなど|毛《もう》|頭《とう》ない。
下等でおぞましい|下《げ》|衆《す》な|輩《やから》など、同じ場に存在することすらディーノには許しがたい。
「|宝《ほう》|珠《しゅ》は!?」
|叱《しか》りつけるようにファラ・ハンに|怒《ど》|鳴《な》った。
「はい!」
声荒く|促《うなが》され、ファラ・ハンは本来の目的に立ち戻る。
|透《す》きとおる青い|宝玉《ほうぎょく》ににた|瞳《ひとみ》を閉じ、神秘なる感覚を|研《と》ぎすます。
ディーノが|急《せ》かさせた理由が、実感となってひしひしと感じられる。
息を殺し|密《ひそ》やかに機を待って|蠢《うごめ》いている|膨《ぼう》|大《だい》な魔物の放つ気が濃くなり、空気中でざわめく静電気のようにちりちりと|産《うぶ》|毛《げ》を刺激していた。
ぴくんと背筋を|震《しん》|撼《かん》させ、シルヴィンが姿勢を正す。
「ただの|脅《おど》かしだと思うのか!?」
相手にされず|業《ごう》を煮やしたルージェスが、上げた右手で作った|拳《こぶし》を|震《ふる》わせた。
「矢を……!」
ルージェスが言いかけたその時。
大きく地面が波打った!
地の底深くから攻め寄せてくるものに突かれたように。
激しく大きくうねり狂った。
いまにも大地を割るかという、壮大な地響きで耳が張り裂けそうだ。
「ちいっ!」
敏感に|元凶《げんきょう》を感知し|脅《おび》え|戦《おのの》く|飛竜《ひりゅう》の|手《た》|綱《づな》を|操《あやつ》り、ディーノは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に鼻に|皺《しわ》を寄せて|舌《した》を鳴らした。
「アギャ!」
ディーノの腕にさらにしっかりとしがみつき、小さな飛竜が|哭《な》く。
突然のそれに驚いて腕に抱きついたまま、|鞍《くら》から|滑《すべ》り落ちそうになったファラ・ハンに気づき、ディーノは素早く自分の前に引きあげる。
脈動する地面に浮きあがり、かしいだ樹の枝。|魔《ま》|物《もの》を詰めた実に横殴りにされかけて、シルヴィンが巧みに飛竜を飛び動かす。樹皮にかすかでも硬い飛竜の翼や身体が触れれば、そこがすなわち傷となる、魔物を解き放つ出口となるため、絶対に樹に|触《さわ》るわけにはいかない。
ぐるりと引きまわされてディーノの胸の前に身を置いたファラ・ハンは、彼がこの場から遠ざかろうと飛竜を向け変えかけていることを知った。
「だめっ! 樹に近づけて!」
「死にたいのか!」
「誰がいつ死に急ぎたいと言いました!?」
青い|瞳《ひとみ》同士が|睨《にら》み合う。
|悠長《ゆうちょう》に口論している場合ではない。
ファラ・ハンは自分がディーノの腕を抱きかかえたままでいることによって、懸命に飛竜を操ろうとしている彼の動きを封じていたことに気がつき、|慌《あわ》てて腕を放す。
ディーノの胸にすがりつくのは|癪《しゃく》にさわったので、鞍のはしを握ろうとしたが、忙しく動かされる飛竜の上でのそれは、ファラ・ハンには不可能だった。
いかにもたおやかで、吹く風にもさらわれそうな|佳《か》|人《じん》は、見かけほど内面がやわではない。|媚《こ》びることもしなければ、絶対に自分から|音《ね》をあげようとしない。
目の前で落っこちかける強情なファラ・ハンに舌を巻き、片手で素早く手綱を握り変えたディーノは、ほっそりしたファラ・ハンの片腕をつかんで自分の首に回させた。
|有《う》|無《む》を言わせぬほどに力強く、それでいて壊れ物を扱うかのような、やんわりとした男の仕草に、びっくりしてファラ・ハンは彼を見つめた。この情況下で、|脆《もろ》い女の腕を握り|潰《つぶ》すまいと|細《こま》かく配慮した行為が信じられなかった。
身体を預けて見あげられ、ぷいとディーノが目を|逸《そ》らす。
従者である|黒褐色《こっかっしょく》の髪をした男の肩に乗ったまま、右腕をあげたルージェスは。
他人に身を預け、誰よりも不安定な|格《かっ》|好《こう》をしていた。
彼女の一軍である黒の兵士団は、地面に近い位置に浮かべた虫を突如激しく揺さぶった|衝撃《しょうげき》に、皆姿勢を|崩《くず》した。定められた高さを命令規準に、平坦な大地と平行に浮かぶことを教えこまれていた虫は、忠実にその振動を乗り手に伝えた。兵士たちは振り落ちかけ、せっかくつがえていた弓矢どころでなくなり、おもわず虫につかまりすがる。
黒褐色の髪をしたルージェスの従者も、とっさに兵士たちと同じ行動をとっていた。
軽く|屈《かが》んで虫の角を握ろうとした従者の、肩の上にのせてあったルージェスの|尻《しり》が|滑《すべ》った。
真後ろに向かい、|仰《あお》|向《む》けにふわりと、ルージェスは投げだされた。
|甲《かん》|高《だか》い悲鳴が地鳴りに重なる。
耳のいいシルヴィンと、重みを失ったルージェスの従者が素早く声の方向に首をめぐらせた。
悲鳴の尾を引きながら。
白い衣装を身につけた女が淡い桜色のマントを大きく広げ。
|墜《お》ちた。
かの約束の土地、ホーン・クレインに身を置いた。
シルヴィンが悲鳴をあげた。
それはこの大地の声だった。
ルージェスの従者が|唸《うな》った。
それは主人を気遣う呼びかけだった。
間近く向かい合って言い争っていたディーノとファラ・ハンの二人には、それらの声は大地の|鳴《めい》|動《どう》と混ざり合って届かず、お互いの言葉以外を聞き分けることができなかった。
「早く、あそこまで|飛竜《ひりゅう》を戻して!」
片腕でディーノに身を寄せながら、ファラ・ハンが|怒《ど》|鳴《な》る。
「冗談ではない! むざむざ|魔《ま》|物《もの》の|餌《え》|食《じき》になってたまるか!」
なぜだか、一人で行けという言葉がディーノにも思いつくことができなかった。
背に翼を持つ彼女であれば、望む場所に飛ぶことなどたやすい。飛竜を用いるより思いのままに、簡単なはずだ。失念しているのは、むろんディーノだけではない。
「まだ間に合います! 時の|宝《ほう》|珠《しゅ》は、いまこそ手に入れなくてはならないのよ!」
あれさえ樹から奪えば、魔物の出現は一瞬にして|阻《そ》|止《し》できる。
揺れ動くこの大地も、|嘘《うそ》のように静まりかえるはずだ。
それぞれに違う|思《おも》|惑《わく》を抱いている者同士が主張を続けていて、折り合うはずもない。
言い争う二人を興味深げに、ディーノの腕にしがみついたままの小さな飛竜がかわるがわる見比べる。忙しく翼を広げたり|鼻《び》|孔《こう》をふくらませたり、彼は彼なりに興奮している。
「間に合わん! |諦《あきら》めろ!」
魔物の手の届かない場所にまで逃げおおせたいのなら、ここらが潮時だ。
機を判断するのがうまいディーノとしては、一刻を争う展開になっている。
「やってみなければわかりません!」
「俺は犬死にする気はない!」
|怒《ど》|号《ごう》のように、ディーノが|吠《ほ》えた。
「お願いっ!!」
実力行使に出たファラ・ハンが、ぐいとディーノの握る|手《た》|綱《づな》を力|任《まか》せに引っ張った。
「こ、こらっ!」
落下しかけて驚き、|鋭《するど》い|哭《な》き声をあげる飛竜の体勢を、ディーノが|慌《あわ》ててたてなおす。
あられもない|醜態《しゅうたい》を|晒《さら》してひっくり返ったルージェスは。
自分が落ちながら悲鳴をあげていたことにさえ気づいていなかった。
展開した風景に|茫《ぼう》|然《ぜん》としながら、|瞳《ひとみ》をしばたたく。
全身に走った|鈍《にぶ》い痛みが、一瞬遅れて、彼女の身に振りかかった事実を認識させる。
なかば腐り|崩《くず》れていた大地は、その草も土も、柔らかくルージェスの体を受けとめていた。
ほとんどまっさかさまに落ちたルージェスだったが、その姿勢ほどの|衝撃《しょうげき》は|微《み》|塵《じん》もない。
事態を自覚したルージェスは、かあぁっと顔面を朱に染めて、素早く居住まいを正した。
立ちあがったルージェスの踏みしめた|脆《もろ》い足元が、ぐずぐずと音を立てて沈む。
虫を回頭させた従者が、人並みはずれて長い腕をのばし、ルージェスを抱きあげた。
救いあげられながらルージェスが見たのは、|蔑《さげす》むような視線を投げかけてくる|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》の髪の娘。|挑《いど》みかけたルージェスのことなど関係ないとばかりに、|仲《なか》|睦《むつ》まじく寄り添っているらしい、|秀麗《しゅうれい》なる容姿をもつ一組の男女。
少なくとも、下から見あげているルージェスにとっては、一つ飛竜の上にあり、抱き合うかのようなディーノとファラ・ハンは、そう見えた。ルージェスには思いもよらない彼らのやりとりなど、大地の|鳴《めい》|動《どう》にかき消されて聞こえない。
なぜ。
幼いころから万人の注目を集め、こまやかに気をかけられ続けてきたルージェスには、自分を公然と無視できる者たちの存在が信じられなかった。
かつて投げかけられた、|蔑《さげす》みに満ちたディーノの視線。
|哀《あわ》れむように安ずる、ファラ・ハンの視線。
青い|瞳《ひとみ》。
どこまで|愚《ぐ》|弄《ろう》すれば気がすむのか!
「……!」
怒り狂ったルージェスは、救いあげられながら|飛竜《ひりゅう》の上の二人を|睨《にら》みつけた。
素早く腰に差していた短剣を|鞘《さや》から引き抜いていた。
ルージェスの手を放れ、空を切り裂いた銀の|軌《き》|跡《せき》。
それはまっすぐにファラ・ハンを|狙《ねら》った。
「ディーノっ!!」
血を|凍《こお》らせてシルヴィンが叫ぶ。
ただならぬ叫びを耳にしたディーノの鼻の真ん前を、銀の光がかすめ飛ぶ。
へたくそな投げナイフは、|的《まと》をはずれて飛び過ぎた。
だがしかし、それの行く先、ディーノとファラ・ハンの向こうには。
樹がある。
外に出たいと|魔《ま》|物《もの》たちがひしめき合っている、|封《ふう》|印《いん》の魔樹が。
軌跡を追ったシルヴィンの視線、ディーノの視線。目の前を横切った一瞬の光に驚いたファラ・ハンの視線。
見つめられた凶器は。重なり合って揺れ動く枝のあいだを縫い、奇跡的にすり抜けた。
緊張してこわばっていたシルヴィンの肩から、かくんと力が抜ける。
同じ飛竜の上にいる者たちの身体に、|戦《せん》|慄《りつ》がはしった。
「気を抜くなっ!!」
シルヴィンに振りかえったディーノが激しい声で|怒《ど》|鳴《な》った。
ぷち。
かすかに。
異質の音が響いた。
その樹の実りは『|禍《わざわい》』である。
第六章 失楽園
|乏《とぼ》しい|陽《ひ》がさらにかげったかと思われた。
だがしかし、そういう事態を引き起こそうにも、分厚い雲間に切れ目はない。
唐突に夜が訪れたわけではない。熟し|弾《はじ》けた実から|迸《ほとばし》った|瘴気《しょうき》が、周囲に溢れでたのだ。
長きにわたる|拘《こう》|束《そく》から|解《と》かれた|魔《ま》|物《もの》たちが、歓喜して溢れだす。
我先にと|醜《みにく》く争い、同じ魔物同士でありながら食らいあう。
耳を|塞《ふさ》ぎたくなるおぞましい|哭《な》き声と叫び、鼻をねじ曲げるかの悪臭とも|蠱惑臭《こわくしゅう》ともいえないものが、弾けた実から吐きだされた魔物とともに、|怒《ど》|濤《とう》のごとく渦巻き|零《こぼ》れる。
迫りくるものたちから|逃《のが》れようと、シルヴィンは|飛竜《ひりゅう》の|手《た》|綱《づな》をさばいて身をひるがえす。
腰に差した短剣を抜き放ち、|柄《つか》に刻んだ|聖《せい》|印《いん》を握って迫りくる魔物から身を守り、斬り捨てる。飛竜がともにいることで、大勢の魔物とまみえることになろうとも、不思議と不安はなかった。勇ましい娘は、|果《か》|敢《かん》に魔物を|屠《ほふ》っていく。
|舌《した》|打《う》ちし、ここまでかと飛竜を駆ろうとしたディーノの前で、ファラ・ハンが声をあげる。
「あった!」
樹という一つの|結《けっ》|界《かい》が破れ、いっきに|探《たん》|索《さく》が容易になったのだ。
素早く首をめぐらせたファラ・ハンは、神秘を|駆《く》|使《し》する|瞳《ひとみ》に|宝《ほう》|珠《しゅ》の影を捕らえる。
「もう遅い」
にべもなく言いきり、ディーノは樹から飛竜を遠ざける。
大きく翼を打ち振った飛竜が、枝を避け、ぐんと高度をあげた。
「いやぁ!」
悲鳴のような声をあげ、ファラ・ハンがディーノにかけていた腕を放した。
ディーノの腕のあいだをすり抜けて、飛竜の背から落ちながら、翼を広げるつもりだ。
「|馬《ば》|鹿《か》っ!」
|叱《しか》りつけ手綱を放して、ディーノは|慌《あわ》ててファラ・ハンの腰を抱え止める。
「魔物に食らわれるつもりかっ!?」
指摘され、ファラ・ハンはずきんと胸を痛める。
そうだ。彼女の髪一本でも食らわれれば、魔物は数百倍の力をもって強大化する。そうなればますます、ここに集った者たちの身が危険にさらされる。万が一助かるかもしれないというはかない希望は、|微《み》|塵《じん》に打ちくだかれる。
「ご、ごめんなさい……!」
素早く|印《いん》を結んだファラ・ハンの周囲に、彼女を中心とした小規模の|結《けっ》|界《かい》が張られた。
|小魔《しょうま》や|瘴気《しょうき》を|阻《そ》|止《し》できるだけの、力弱い結界だが、ないよりはましだ。翼を広げて彼女自身の能力を無理なくすべて解放すれば、それはもっと強固な結界になるのだが、その分大物の魔物に発見されやすくなる。力弱い結界を得たとしても、剣一つ持って戦えないファラ・ハンからすれば、ようやく人並みになったということにすぎない。
ファラ・ハンはディーノを見あげた。
「すぐそこにあるの! 下から上がってくる魔物たちに突きあげられて、そこにあるの! この|宝《ほう》|珠《しゅ》は少し|癖《くせ》があるものだから、使える魔物がいないのよ! 早く取らないと落ちてしまうわ! |闇《やみ》の|狭《はざ》|間《ま》に落ちて、またどこか遠い闇の果てに転がっていってしまうわ! 闇の中からもう二度と浮かびあがってこないかもしれないの! お願い、行かせてっ!!」
「死ぬ気かっ!」
「死なないわ! あなたは一人で残るつもりなの!?」
何一つとして根拠などなかったが。ファラ・ハンはそう|怒《ど》|鳴《な》りかえしていた。
言い放たれて。ディーノは驚いたように目を見開いていた。
言われた言葉に思考がついていかなかった。
口にした本人も、いったい自分が何を言ったのか、わけがわからず|茫《ぼう》|然《ぜん》とする。
|憑《つ》かれたように、ディーノはふらりと|飛竜《ひりゅう》のファラ・ハンの示す方角に首を向け変えた。
|封《ふう》|印《いん》の樹にはほとんどの|魔《ま》|物《もの》たちの力はおよばない。なんらかの方法で間接的にできた|裂《さ》け目しか、|奴《やつ》|等《ら》の抜け道とはならない。実のつけ根にできた小さな裂け目をくぐって、小さな魔物がほろほろと、樹の外ににじみ出る。小魔は軽いので、地にはまだ魔物は下りていない。
まだ間に合うかもしれない。今ならまだ魔道で|塞《ふさ》げる規模の裂け目だ。ホーン・クレインも、まだ守れる。レイムさえ戻ってきてくれれば、どうとでもなる。
「シルヴィン、お願い! 大地につかないよう、落ちていく魔物をあなたの剣で……、その聖なる|御《ご》|符《ふ》で浄化して!」
|鞍《くら》の上に引きあげられ、再びディーノの首に腕を回しながら、ファラ・ハンが叫んだ。
シルヴィンは肩をそびやかす。
「そんな必要ないわよ! そこの|馬鹿女《ばかおんな》のせいで、もうホーン・クレインなんて名前の楽園は、永遠に失われてしまったわ!」
背面から落ち、光の|瀧《たき》ににた金髪さえ泥だらけになったルージェス。
ルージェスがこの土地に|墜《お》ちた。
|愕《がく》|然《ぜん》として見下ろしたファラ・ハンとディーノ、そしてシルヴィンに向けて、いっせいに矢が放たれた。
飛竜を回避させながら、ぎりっと目をつりあげて、シルヴィンが短剣で襲いくる矢を|叩《たた》き落とす。
|恨《うら》み重なるディーノとファラ・ハンには、シルヴィンのそれなどとてもおよびもつかないほどの矢が射かけられた。まともに当たっていれば一瞬の後に矢で|針鼠《はりねずみ》ができあがるだろう。
さしものディーノも、あまりの数に素手で叩き落とすどころの騒ぎではない。すんでのところを飛竜でかわして、優雅とも見えるふうに空を舞い遊ぶ。
流れ矢は|鋭《するど》く|幹《みき》を傷つけ、枝葉をちぎった。
そこから、その新たなる開口部の大きさに見合った魔物が現れでた。
あまりにも近く樹を前に置いているので、飛竜の吐く|焔《ほのお》による魔物の浄化はできない。
ディーノもシルヴィンも、飛竜最強の武力である焔は、使うことができない。
「いい|格《かっ》|好《こう》ではないか!」
高らかに、|咽《のど》をあげてルージェスが笑う。
笑いながら、彼女を肩に乗せた従者に幅広の刀を投げさせた。
大きく|反《そ》り返った刃をもつ片刃の刀は、ディーノたちの飛竜の少しばかり下の位置めがけて飛んだ。|研《と》ぎすまされた刃は、ずぷりと音を立てて深々と幹に食いこむ。
できあがった傷口に|魔《ま》|物《もの》が押し寄せ、刀は内側から押されて抜け落ちた。
「愚か者!」
ディーノがルージェスを|罵《ののし》る。魔物が現れれば、ルージェスもただではすまないはずだ。
|罵《ば》|倒《とう》されたルージェスは、それでも笑いやまなかった。
勝ち誇ったような|笑《え》みを浮かべて、上目遣いにディーノを見あげる。
「誰に向かって言ったのだ? わたしには優秀な魔道士がついている。このような下級の魔物など、物の数ではないわ!」
余裕に満ちて公言するルージェスに、ディーノは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に目を細めた。
なるほど、たしかにルージェスたちには小魔はまろび寄る|兆《きざ》しもない。小魔に関しては、ルージェスの兵士たちもまったく相手にする様子はない。身の程知らずの、少しばかり型の大きい魔物だけ、矢で射落とすくらいのものだ。
だがそれが魔道による|結《けっ》|界《かい》であるのかないのかまでは、ディーノの知るところではない。
「無礼で|下《げ》|劣《れつ》な聖戦士など、|朽《く》ちてしまえ!」
|憎《にく》まれ口を|叩《たた》いてルージェスは|咽《のど》を鳴らす。
笑うルージェスを無視し、ディーノにつかまっていないほうの片手で、ファラ・ハンは|宝《ほう》|珠《しゅ》を導き寄せる|印《いん》を結んで|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》える。
眼前から襲いくる魔物を叩き落とすため、背中の長剣を引きぬこうとしたディーノの右手に、霧ににた小魔がべたりとはりつく。はりついて皮膚を溶かし、肉を食らうものだ。|這《は》い食らわれかけて、ディーノの|肌《はだ》がぞわっと|粟《あわ》|立《だ》つ。
ぎっとディーノが小魔を|睨《にら》んだ。
いかなるものであろうとも、ディーノは我が身を|汚《けが》すものなど許さない。ましてやそれが魔物であるなら……!
小魔に|覆《おお》われた右手の内が|鋭《するど》い|閃《せん》|光《こう》を発した。
身の毛もよだつ悲鳴をあげて、魔物は一瞬にして|溶《と》けて消えた。
ディーノの手には、夢のように聖なる|銀《ぎん》|斧《ふ》レプサ・ザンが出現し、握られている。
「小魔はそうかもしれないけど、魔物はなめてかかるとろくな目にあわないわよ!」
小規模の魔道で防ぎきるのは小魔だけ。大がかりな魔道ならば、小魔を寄せつけないどころか、消滅させられるものであることを聞きしっているシルヴィンは、|悠長《ゆうちょう》に構えているルージェスに叫んだ。
魔道の|施《ほどこ》してある矢で射落とせる程度の魔物だけなら、たいした問題でもないのだが。
「負け犬はなんとでもほざくがよい!」
ルージェスに聞く耳などなかった。
つまらないことを言ってやったものだと、シルヴィンはほぞを|噛《か》む。
こんな|馬鹿女《ばかおんな》、死のうがどうしようが、どうなってもいいという気になった。
|厄《やっ》|介《かい》な者、|面《めん》|倒《どう》な者に|愛《あい》|想《そ》よくつきあい、|事《こと》|細《こま》やかに配慮してやれるような、たくましい神経の持ち合わせは、シルヴィンにはない。
ファラ・ハンの|呪《じゅ》|文《もん》に応えて、樹の|幹《みき》の一部にぽわっとほのかな光が生じた。
ファラ・ハンの内なる|宝《ほう》|珠《しゅ》と引きあい、ファラ・ハンの胸元が光り輝く。
目標物を視認できるようになり、ディーノが|飛竜《ひりゅう》の速度をあげた。振り落ちまいと、小さな飛竜はぎゅっと目を閉じて、さらにしっかりとディーノにしがみつく。
飛竜の上で、ファラ・ハンは宝珠に向けて手をのばす。
もうすぐ、宝珠のある場所に近づく。
白い指先が輝く幹に触れる、そうすれば、宝珠はファラ・ハンの手にわたる。
のばされた指先が宝珠の放つ光を浴びた。
その時。
ルージェスが投げさせた刀の作った|裂《さ》け目から、ぬっと巨大な指が突きでた。
|鋭《するど》くとがった|鈎《かぎ》|爪《づめ》をもつ|前《ぜん》|肢《し》。
|闇《やみ》|色《いろ》に輝く|鱗《うろこ》。
ぞっと背を|震《ふる》わせて反射的に振りかえり、見覚えのある形に、あっとシルヴィンが息をのむ。
突きでた前肢は、裂け目に爪をかけた。
樹が引き裂ける!
裂け目から幹の繊維に沿って、樹が縦に二つに引き裂かれた!
激しい音とともに、ファラ・ハンの指先に届いていた光がすうっと遠のく。
シルヴィンが自分の乗る飛竜とともに、悲鳴をあげた。
ディーノの腕にしがみついていた小さな飛竜が、激しく|脅《おび》え、爪をたてて|哭《な》き叫ぶ。
「なんだ!?」
割れて倒れいく幹に留まる宝珠を飛竜に追わせながら、ディーノが振りかえる。
そこには。
|漆《しっ》|黒《こく》に|潤《うるお》う山にもにた巨大な飛竜がいた。
暗黒竜。
世界最強の魔物と呼ばれる、絶対のもの。
|聖獣《せいじゅう》の異名をもつ自然の飛竜とは、まったく存在を裏返したもの。
この世の終わりを象徴するにふさわしい強大魔。
|魂《たましい》を|違《たが》えながらも同種に違いない飛竜たちにとり、それは本能の教える|仇敵《きゅうてき》にまちがいない。立ち向かおうにも規模が違いすぎ、|魔《ま》を浄化せしめる絶対の|焔《ほのお》も、|竜種族《りゅうしゅぞく》同士には通じない。
|魂《たましい》の奥までも|震《ふる》え|戦《おのの》かせずにはおかない|禍《まが》|々《まが》しい|哭《な》き声が、|怒《ど》|号《ごう》のように響いた。
ひとといわず、大地といわず、魔物といわず、その場にあったすべてのものが|暗黒竜《あんこくりゅう》の|咽《のど》を震わせた激しい音の圧力を受けて震えた。
波打つように大地を揺るがして、地の|闇《やみ》の底で暴れていたのはこの魔物であったのだ。
暗黒竜が引き裂いた樹の中から魔物たちが|躍《おど》りでる。
恐怖で暴れ狂う飛竜を、振り落とされかけて正気に戻ったシルヴィンが懸命になだめる。
何が背後で起こっているのか、見ていないからこそ敏感に感じとり、震える指をのばして、ファラ・ハンが|宝《ほう》|珠《しゅ》に追いすがる。
なだれでた|膨《ぼう》|大《だい》な数の魔物を|睨《にら》み、ディーノが|銀《ぎん》|斧《ふ》をきつく握りしめる。
黒い兵士が、乗っている虫ごと魔物に食われはじめた。
ルージェスたちの手に余る魔物が|解《と》き放たれたのである。
時間の問題だったのだが、事態が信じられずルージェスは|唖《あ》|然《ぜん》と大きな|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》を見開く。
ルージェスめがけて襲いかかる魔物を、彼女を乗せた従者が聖刻を|施《ほどこ》した剣で斬り捨てた。
これはいったいいかなることであるのか。
「ケセル・オーク!」
ルージェスは、彼女がよりどころにできるだろう魔道士の名を叫んで首をめぐらせた。
いらえはない。
のばしたファラ・ハンの手に。
すっと影が落ちた。
反射的に恐怖し、素早くファラ・ハンは手を引いた。
身を硬くしたファラ・ハンの前にいたのは。
皮を|被《かぶ》らぬひと形を模した、奇怪で|醜悪《しゅうあく》なる魔物だった。
むき出しの眼球をもつ顔。ファラ・ハンの眼前に浮かびでた魔物の|頬《ほお》の|腱《けん》が引かれ、それが|笑《え》みをかたどる。
|鋭《するど》い悲鳴をあげながら身をのけぞらせたファラ・ハンが、ディーノの胸に飛びこんだ。
ファラ・ハンの体を受けとめ、強くしっかりとかき抱いたディーノは。
銀斧を握りかざしたまま|凝固《ぎょうこ》していた。
暗黒竜が間近くある聖なる銀斧をみとめ、ディーノを|睨《にら》んでいた。
|睨《にら》みかえすディーノは、彼が優れた武人であるがゆえに巨大なる暗黒竜に圧倒的な力の差をはっきりと感じとり、身動きできなかった。
暴れる飛竜の|手《た》|綱《づな》を握ることに夢中になっているシルヴィンの手から、短剣が|滑《すべ》った。武器であり、|魔《ま》|除《よ》けの効力をもつ|護《ご》|符《ふ》である短剣が、シルヴィンの手を放れた。
近くにいた魔物たちが、いっせいにシルヴィンのほうを向いた。
正常な判断を|促《うなが》せない飛竜に、退魔の|焔《ほのお》を吐かせることはできない……!
誰もが恐怖を感じた。
おもわず目を閉じた幾人かの|瞼《まぶた》を、降り注いだ光が照らす。
あまねく天を埋めていた雲が頭上で丸く切れていた。
切れた雲間から降り注いだ光を浴びて、暗黒竜が激しい|哭《な》き声をあげて|身《み》|悶《もだ》えた。
天空からまっすぐに降り注ぐ|陽《ひ》の光。
急激に取り戻された|封《ふう》|印《いん》の力で、光は激しく|奔流《ほんりゅう》のようにめぐっている。
|眩《まぶ》しく身を捕らえたそれに、瞬間、動きを|凍《い》てつかせ、暗黒竜が空を|掻《か》きむしりながら|咽《のど》を|晒《さら》して苦しげに哭きあえぐ。
それはまさしく、聖光の柱であったに違いない。
空に浮かべられた魔法陣、ここを魔道の|封《ふう》|土《ど》とするための、清き光。
樹を割っただけで、そこから踏みだしていなかった暗黒竜は、封陣の中に存在していた。封陣にあり、封じられるべき魔物であった。
どんなに身を|揉《も》み、|口《く》|惜《や》しがろうとも、もう暗黒竜はそこから出ることはできない。
|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》の光を放ちながら、何か|細《こま》やかな物が上空より|霞《かすみ》のように降りしだく。
すがしい香りをまく、光の粉。
魔道士の用いる|呪《まじな》い粉。
|斧《おの》を振りかぶり頭上を見あげたまま、ディーノは|目《ま》の当たりにした奇跡に、|茫《ぼう》|然《ぜん》と大きく青い目を見開いた。
|解《と》き放たれ歓喜していた魔物たちは聖なる力をもつ呪い粉の洗礼を受け、きしんだ|甲《かん》|高《だか》い悲鳴をあげて次々と|崩《くず》れ落ちた。彼らににじり寄っていた魔物たちは、あっけなく|霧消《むしょう》する。
ディーノの腕の陰に隠れていた小さな飛竜が、待ってましたとばかりに歓声をあげた。
観念し、かたく目を閉じていたシルヴィンが、一変した|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に恐る恐る目を開けた。
ぱちぱちと|瞬《まばた》きし、ディーノに強くすがりついていたファラ・ハンがそうっと顔をあげる。
ふいっと風が動き、一頭の飛竜がはるかなる上空から雲間を抜けて舞いおりた。
飛竜を駆るのは、深緑色の|法《ほう》|衣《え》を着た金色の髪の青年。
「すみません、手間取ってしまって……」
軽く息を切らしたレイムは、はかなく|微《ほほ》|笑《え》みながら、汗で|額《ひたい》にべったりと張りついた前髪を|掻《か》きあげた。
「遅いじゃないのっ!」
泣きべそをかきかけた表情で、シルヴィンが吐き捨てるように抗議する。
乱暴で、ひとの苦労を全然わかってやらない者の口調だったが、レイムは自分をひたと見すえる|潤《うる》んだ水色の|瞳《ひとみ》に向かい、軽く頭をさげた。
待ち望んでいてくれたからこそ、|吐《と》|露《ろ》された言葉だということが、レイムにはわかった。
レイムはファラ・ハンに視線を移す。
「時の|宝《ほう》|珠《しゅ》は?」
優しく問われ、ファラ・ハンは|人《ひと》|心地《ご こ ち》を取り戻す。身動きできないほど、しっかりと抱き守っていてくれたディーノを、そうっと見あげる。
はっと我に返り、ディーノはファラ・ハンを抱きすくめていた左腕を|解《と》いた。荷物のようにその腕にびたりとくっついていた小さな飛竜が、|安《あん》|堵《ど》してキュイキュイ|哭《な》く。
保護下を出たファラ・ハンは、飛竜からおり、翼を出して広げた。
伝説の聖女の姿で、にこりとレイムに微笑みかける。
「えぇ、見つけました」
樹皮の裏に|滑《すべ》りこんで止まっていた、それ。
白い指先で探ったファラ・ハンに見つけられた時の宝珠。まぶしく光り輝く小さな|珠《たま》であるそれは、するりと樹を抜けて表に出た。
ファラ・ハンの手のひらに、受け止められた。
順調に行われたそれにほっと息を吐き、レイムは|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|土《ど》に向き直る。
光の柱の中、|悔《くや》しげな叫びをあげ続けている|暗黒竜《あんこくりゅう》と|対《たい》|峙《じ》する。
この封印を元の状態に戻すことが、聖魔道士としてのレイムの責務。
ルージェスのことを知らぬ彼にとってのホーン・クレインは、まだ復興可能の楽園なのだ。
レイムが上空からまいた|呪《まじな》い粉のおかげで、魔物のことごとくは|一《いっ》|掃《そう》された。
樹を封じられているので、新たな魔物が出現する恐れもない。
光の柱と向かい合い、目を閉じたレイムは、|印《いん》を結んで|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》える。
背を向けたレイム。
「危ない!」
レイムに向かってシルヴィンが叫んだ。
|己《おのれ》に与えられた警告に、びくんとレイムは目を開ける。
|印《いん》を|解《と》いて素早く|飛竜《ひりゅう》の|手《た》|綱《づな》を取ってめぐらせ、振りかえったレイムの見たのは、一本の矢がシルヴィンの飛竜によって焼き尽くされる瞬間だった。
ぼろりと炭化したそれが、勢いを奪われて地に落ちる。
約束の地、ホーン・クレインに。
「シルヴィン!」
ぎょっとして、レイムは目を|剥《む》く。|慌《あわ》てて印を結んだレイムの|魔《ま》|道《どう》により、その|残《ざん》|骸《がい》は清らかな光の粉に変わって消えた。
「まだいたのか!」
吐き捨てるようにディーノが言った。
言うが早いか、下に向かってディーノの飛竜が|焔《ほのお》を吐く。
焔の襲うものに、ファラ・ハンが悲鳴をあげた。
激しい勢いで吐きだされるそれは、すべてを焼き滅ぼさずにはいない圧倒的な焔。聖地クラシュケスを|地《じ》|獄《ごく》|絵《え》|図《ず》に変えたそれ。
「やめてくださいっ!」
色をなしてレイムが悲鳴のように叫んだ。
体当たりするように勢いよく接近したレイムの飛竜を軽くかわし、|怫《ふつ》|然《ぜん》とした表情を浮かべて、飛竜を向かい合わせたディーノがレイムに視線を移す。
焔を吐きかけられたのは、レイムに矢を放ったルージェスだ。なんとか残った黒の兵士 たちを集め、彼らを射抜こうと|狙《ねら》ったのだ。
当たらぬように矢を焼いたのはシルヴィン。
元から絶ってやろうと、簡潔に|物《ぶっ》|騒《そう》なことを考えたのはディーノ。
やり過ぎの感はあったが、焔から逃げ|惑《まど》うルージェスたちを見て、シルヴィンはいい気味だと思った。
聖魔道士の出現に気を取られていた連中の|隙《すき》をついて、彼に傷を負わせ、ファラ・ハンを奪い去ろうとしたルージェスの|目《もく》|論《ろ》|見《み》はあっけなく失敗した。
聖魔道士を負傷させれば、せっかくできた聖なる光の柱も効力を弱める。暗黒竜は|封《ふう》|印《いん》を破って出現するに違いない。暗黒竜に真っ先にやられるのは、間近にいる彼らだ。|矛《ほこ》|先《さき》がルージェスに向くまでは、少しでも間がある。
その混乱のなか、ファラ・ハン一人ならば、矢で翼を傷つけるなどして、どうとでも|拉《ら》|致《ち》できると踏んだのだ。
ディーノたちを|囮《おとり》に使ってわずかでも時間稼ぎをし、ルージェスたちはファラ・ハンを奪って、うまうまと逃げ延びるつもりだった。
計画が失敗したルージェスの一行は、レイムがディーノにかまけているあいだに、退散する。
「ここをどこだと思ってるんですか!? 場所をわきまえてください!」
非難はディーノとシルヴィン、両者に対して。
その言葉にディーノは爆笑し、シルヴィンとファラ・ハンは困ったように|眉《まゆ》をひそめた。
ファラ・ハンが翼を振り、レイムのそばに舞い寄る。
「ホーン・クレインは、失われてしまいました……」
|哀《かな》しい声の告げた事柄に、レイムは|愕《がく》|然《ぜん》とする。
シルヴィンがひょいと肩をそびやかした。
「本当よ。あの|馬鹿女《ばかおんな》が落っこちたの」
シルヴィンが|顎《あご》でしゃくって|促《うなが》した先。
レイムが首をめぐらせて初めて発見したのは、地平の|彼方《か な た》に向けて小さくなってゆく数人の人影だった。何かに乗っているのか、|滑《すべ》るように去っていく黒っぽい連中のなかに、ただ一人、金色の頭が揺れている。
「ま、まさか……」
泣き笑いのような|曖《あい》|昧《まい》な表情で、レイムはつぶやいた。
「疑ったって本当。落ちて転んで泥んこになったのを、わたし見たもの」
確かめなければ気がすまないのかとばかりに、シルヴィンはちらりと横目でレイムを見る。
引き結んだ|唇《くちびる》よりも強く、失意を|噛《か》みしめるレイムは、彼らの態度からその真実をひしひしと感じとり、ゆるく首を振った。
第七章 |衝突《しょうとつ》
|暗黒竜《あんこくりゅう》の|封《ふう》|印《いん》は案じていたよりも容易に行われた。
|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を|遮《さえぎ》っていた雲を取り除き、完全に復活した魔道の封土の影響は大きく、まだまだ頼りなげなレイムの魔道力を十分に助け補った。魔道の封印を|施《ほどこ》された封土のなか、やってきた|暗《くら》|闇《やみ》の底に、暗黒竜は|怒《ど》|号《ごう》ににた|哭《な》き声を発しながら戻っていった。
地中の養分と一緒に吸いあげた時の|宝《ほう》|珠《しゅ》をなくして本来の姿となり、|干《ひ》からびた一木の|残《ざん》|骸《がい》を魔道でレイムが取り除く。実を結んでいた魔物も、先の|呪《まじな》い粉に浄化され、影も形もない。もともと魔物に生命力を食らわれながら存在していた樹は、かさかさのみすぼらしい|哀《あわ》れな|木《き》|屑《くず》となって、|飛《ひ》|散《さん》した。
存在価値をなくしたかつての楽園に、レイムは|自《みずか》らおり立ち、上空の魔法陣と呼応するべき地表に魔法陣を描く。地表にそれを置くことで、封印をより強固なものとする。
この地に住まう者はいない。この地を訪れる者はいない。この地を守る魔道士もいない。魔物などの力によって破壊されかけた魔法陣に気がつく者は誰もいない。
一度開きかけた封印は、重ねてほどこされた術が完全に安定するまでのしばらくのあいだ、何かの反動で開くかもしれない、非常に|脆《もろ》い状態にある。しかも術者を|違《たが》えて重ねられる術は、なかなか思いどおりに安定しないものだ。
だから、ここが一番|狙《ねら》われやすい、危ない魔道封土であるのだ。長居できないレイムは、責任をもって対処しておく必要がある。何も言わなかったが、見るからに疲労の色濃いレイムを助け、ファラ・ハンが魔法陣を描くことを手伝った。
二つめの時の宝珠は手に入った。
魔道の封印に存在し、魔物を吐きだそうとしていた樹も、正しくあるべき形に戻った。
一刻も早くと次なる地に向かおうとしたレイムだったが、その青ざめた顔を見てファラ・ハンが引き止めた。
誰の目にも、すぐに次の土地に彼が進むことは、やめたほうがいいと思われた。
いったいどうしてそんなに|消耗《しょうもう》するようなことがあったのかと、問いかけるというより|侮《ぶ》|蔑《べつ》の目で見るディーノの視線を、|綺《き》|麗《れい》な|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》で|跳《は》ねかえし、死んでも|音《ね》を上げそうにないレイムにシルヴィンはあきれ返る。
たとえ足手まといになろうと|馬《ば》|鹿《か》にされようと、休まねばならないときには、きちんと申しでて休息を取ることができるだけの勇気と自己判断は必要である。意地をはって、かえって後々|迷《めい》|惑《わく》をかけるようなことになられてはたまったものではない。体力と持続力、回復力がすべての基本となる、何をするにも体が資本の|竜使《りゅうつか》いの一族に育った娘は、自己犠牲というロマンチシズムには縁遠い。
どうあっても引きそうにないレイムを見かねて、ファラ・ハンが休息を願いでた。
ファラ・ハン自身が疲れたのであると。
気をきかせてくれたファラ・ハンに賛同し、思いをめぐらせたシルヴィンも空腹を訴える。緊張して疲れたから、甘いものを口にしたいものだと文句を言った。嫁入り前の娘としてははしたなく、いささか不本意であったが、それしか思いつかなかったのだから仕方ない。加えてレイムなど、シルヴィンには恥じらうべき男のうちに数えられていない。一族や兄弟の|仇《かたき》であり、|憎《にく》んでも余りあるディーノなど、論外である。
ファラ・ハンが疲労のため力を思いどおりに振るえないのであれば、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を捜しだすことなどできない。そして世界じゅうの皆が|窮《きゅう》している時代、どんな大金を積まれようと、|得《え》|体《たい》の知れない旅人に食物や飲料をわけてくれるはずはない。
旅の進行役であり、|魔《ま》|道《どう》|士《し》として自在に火を起こしたり飲み水を呼ぶことのできるレイムとしては、|不承不承《ふしょうぶしょう》、二人の言葉を受け入れざるをえなかった。
ディーノの手前の|体《てい》|裁《さい》だけは整ったことになる。
ぐずぐずに腐った草と土のホーン・クレインではあまりに足場がよくなかったため、一行は少し離れた場所にある岩山に移った。
飛竜たちが落ち着けるだけの広い場所をみつけ、そこでひと休みする。
魔道でレイムが火を|点《とも》し、ファラ・ハンが飲み水を呼ぶ。シルヴィンが何か適当なものはないかと荷物を物色し、自分から働く気のまったくないディーノは|悠《ゆう》|然《ぜん》と彼らを見つめる。
緊張が去ると、岩山のあいだを音を立てて吹き抜ける|凍《こご》えた風で、不意にシルヴィンは|肌《はだ》|寒《ざむ》さを感じた。飛竜たちが身を寄せ合い、けなげにも風よけになっていてくれたことに気づいて、シルヴィンはレイムに抗議する。
何もしないくせに、ちゃっかり火のそばの一番いい場所に腰を下ろしたディーノを横目で|睨《にら》みながら、少しでも|居《い》|心地《ご こ ち》よくなるようレイムは|結《けっ》|界《かい》を張る。
彼らのいるそこだけ、岩間を抜けた凍える|息吹《い ぶ き》も、うら寂しい|風《かざ》|笛《ぶえ》の|音《ね》もやんだ。
ややあって、濃厚な|芳《ほう》|香《こう》を放つ|温《あたた》かい茶色の飲み物と、歯ざわりのいいビスケットが火を囲んだ各人の手にわたる。
大酒を飲むと|噂《うわさ》で聞きしっていたシルヴィンは、ちらりとディーノをうかがいみたが、彼は別段なんの不満そうな点もなかった。|流《る》|浪《ろう》の|孤《こ》|児《じ》であったディーノには、いっさいの好き嫌いはない。
|眩暈《め ま い》がしそうなほど|疲《ひ》|労《ろう》|困《こん》|憊《ぱい》していたレイムは、腰を下ろして甘い液体を|咽《のど》の奥に流しこみ、ようやく|人《ひと》|心地《ご こ ち》になる。はた目で見ても、彼がくつろぐのがはっきりとわかった。
ほうと息をつくレイムを見て、シルヴィンが首をかしげる。
「何かあったの?」
遠慮なくずけずけと尋ねた。
べつに深い|洞《どう》|察《さつ》があったわけでもないその問いに、びくんとレイムの肩が|震《ふる》えた。
レイムは明らかに無理をしているという顔で|笑《え》みを浮かべ、逆にシルヴィンに問いかける。
「さっきの、あのひとたちはなんなんだい?」
一人だけ金色の髪をした者のいた、黒っぽい団体。敵意に満ちていたと思われる彼ら。
|居《い》|丈《たけ》|高《だか》で|可愛《か わ い》げのない娘を思い出し、シルヴィンが|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔をする。
「ほら、この前のとこでゲルゼルに追っかけられてた女の子のこと話したでしょ」
「あぁ……」
二人で|焚《た》き|火《び》を囲んで食事をしながら、シルヴィンが|喋《しゃべ》っていたことを、レイムは思い出す。
金色の髪に薄紅色のマント。
小さくなりゆく後ろ姿をちらりと見ただけだが、たしかに昨日聞いた話の少女に|間《ま》|違《ちが》いない。
「自分こそが救世の聖戦士だから、ファラ・ハンを引き渡せだって。ふざけてるわよね。|魔《ま》|物《もの》の実がいまにも|弾《はじ》けようとしている樹とか、ホーン・クレインとかを|盾《たて》にとって|脅迫《きょうはく》するのよ。|馬《ば》|鹿《か》みたい」
思い起こして再度腹が立ったか、ばくんとシルヴィンはビスケットを丸ごと口に放りこむ。
|片《かた》|頬《ほお》をゆるめて、ディーノが笑った。
「それで自分が|墜《お》ちていれば世話はない」
|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》というもの。
「そうよねー」
大口を開けて、きゃらきゃらとシルヴィンは笑った。目撃したルージェス落下の瞬間を、こーなの、こーよとばかりに、大げさな仕草で再現してみせる。
何事が起こるのかと、興味深げにディーノの腕から小さな|飛竜《ひりゅう》が身を乗りだす。
目を|剥《む》いて起きあがったルージェスを|真《ま》|似《ね》たシルヴィンの|滑《こっ》|稽《けい》な仕草に、ディーノが爆笑し、ファラ・ハンさえもくすくす笑った。わかっているのかいないのか、よく知らないが、小さな飛竜は名演技を|披《ひ》|露《ろう》するシルヴィンに、やんやの|喝《かっ》|采《さい》をおくる。
得意げな顔をして一緒になって笑ったシルヴィンは、ディーノまで笑わせてしまったことに、ぎくんとした。ディーノはシルヴィンにとって|同《どう》|胞《ほう》たちの|仇《かたき》。|機《き》|嫌《げん》をとるような行為をしていいはずがない。気をもち直して、シルヴィンはこほんと一つ|咳《せき》|払《ばら》いをしてとりすます。
さぞかしいい様だったろうに見られなくて残念だったと、その情景を想像し、盛大に笑っていたディーノは、目ざとくレイムの様子に気を止める。つきあいで|頬《ほお》をゆるめながらも、|翠色《みどりいろ》の目の奥は笑ってなどいなかった。恐怖ににた色さえ|透《す》かし見える。ディーノは不機嫌に目を細めた。急に態度を変えた主人を見あげ、小さな|飛竜《ひりゅう》は首をかしげる。
「お前、何を隠している?」
|辛《しん》|辣《らつ》な口調で問いかけた。
洗いざらい吐かねば座ったまま、この場で首さえはねかねない。|物《ぶっ》|騒《そう》な声だった。
不意打ちのように投げつけられたそれに、レイムはぎくんと身を堅くする。
現実にファラ・ハンが|狙《ねら》われた以上、もはや口をつぐんでいるべきではないと思われた。
観念したレイムは、自分が知り得た事柄のすべてを話すべく口を開いた。
知らないあいだに、|巷《ちまた》に|流《る》|布《ふ》していたもう一つの世界救済伝説を。
神話をすり替えられているひとびとにとってのファラ・ハンは、|魔《ま》|物《もの》の先導者であり、救世の聖女が|屠《ほふ》る|生《い》け|贄《にえ》である。世界を滅亡から救う金色の髪の姫は、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》と翼持つ女の心臓を用いる運命なのであると。
ファラ・ハンは魔物だけでなく、もう一つの神話を信じるひとびとにも狙われているのだ。
とつとつと語られた言葉に、ようやく事態を納得し、三人は息を吐いた。
「ケセル・オークって名前、あの女が叫んだわよ」
耳ざといシルヴィンは、|暗黒竜《あんこくりゅう》が出現し大物の魔物に襲われたときのルージェスが叫んだ名前を記憶していた。
ルージェス一行についている魔道士が、あのケセル・オークだったとしたなら、レイムにはかなり|手《て》|強《ごわ》い相手であるはずだ。対決したならと考えて、ぞくりとレイムは身を|震《ふる》わせる。
心細げな視線を向けたファラ・ハンに気づいて、レイムはなんとか淡く|微《ほほ》|笑《え》む。
ファラ・ハンを不安がらせてはいけない。ただ一人見知らぬ世界に|招喚《しょうかん》されたか弱い|麗《れい》|人《じん》に|憂《うれ》いを与えることは、彼女を守らねばならない彼らが何よりもしてはいけないことだ。
自覚と記憶をもたず、その使命と激しい優しさで役目を|担《にな》い進むファラ・ハンにとって、絶対の信頼をおける味方が彼らなのだから。
「大丈夫です。あのひとは魔道師様からお言葉をいただいたらしい正規の魔道士ですから、そんな乱暴な方法はとらないはずです。その姫は大きな責任に気が|急《せ》いてらしたのでしょう」
ファラ・ハンに言いながら、レイムはその言葉を自分自身にも聞かせていた。
そうだ。|老《ろう》|魔《ま》|道《どう》|師《し》が関与しているなら、不安がる必要はない。
|招喚《しょうかん》を許可し世界の救済を願った女王も、誰かが犠牲になることを望んではいなかった。
「言われた言葉を|鵜《う》|呑《の》みにするのか。つくづくおめでたいな」
ディーノはふんと鼻を鳴らした。
|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》の|塊《かたまり》であるディーノにとってもっとも信じられるのは、魔物に|冒《おか》されていない純粋な死人と本能に頼る野生の|獣《けもの》だけだ。
この男は何か言うと必ずそれをまぜっ返す。ファラ・ハンのために気をつかっているのに。疲れて気がとげとげしくなっていたレイムは、|溜《た》め|息《いき》をつく。
「ならばあなたは勝手にするといい」
|淡《たん》|々《たん》とした口調で突き放した。
与えられた言葉に、ディーノはむっとする。
「俺がいつ誰に従うと言った?」
|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》を名乗るディーノにとって、その物言いは、はなはだ心外である。
あぁ、失言だったかと、レイムはうんざりしてうなずいた。
「そうですね」
|肯《こう》|定《てい》してやる以外にない。
いちいち|機《き》|嫌《げん》をとってやらねばならないのでは、レイムの気苦労は増加する一方だ。
おまけに|見境《みさかい》なく暴力に訴えたがる、直情思考でわがままな、誰も|御《ぎょ》しきらない力|任《まか》せの男であるのだから、|始《し》|末《まつ》はいっそう悪い。
他人の心を敏感に察知するディーノは、自分がどう思われているのかをすぐに読みとる。
レイムの言葉に、ディーノがすうっと目を細めた。
何か|嫌《いや》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を感じとったファラ・ハンは、ディーノににっこりと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「もう少しビスケットいかが?」
まろくて優しい甘い声。
涼やかに愛らしく響いたそれに、びくんと首をめぐらせたディーノは、自分に向けられたあまりに|華《はな》やかな笑顔に気をそがれる。
|清《すが》しく|薫《かお》りたち、周囲がふわあっと明るくなるかの|錯《さっ》|覚《かく》を起こさせるそれ。
「キャワ!」
ディーノより先に|飛竜《ひりゅう》が喜んで、ファラ・ハンが差しだしたビスケットのトレイに小さな手を伸ばした。
気をつかっていたのがわかるファラ・ハンの態度。
「あぁ……」
決まり悪そうに顔をそむけ、ディーノはビスケットを数枚つかみとった。
菓子を口にすることにたいした興味はなかったが、それを受けとらないとかえって|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がぎくしゃくするので仕方ない。
ファラ・ハンが口をはさみ、少し雰囲気が変わったことを機に、レイムは話題を変える。
「口はばったいことを言うようで、なんですけども……」
レイムはディーノとシルヴィンに、ちらりと視線を投げかける。
「あんまり乱暴なことはなさらないでくださいね。ただでさえ、ファラ・ハンが敵視されがちなんです。人殺しや破壊行為は|自重《じちょう》してほしいです」
たとえば。
むやみに|飛竜《ひりゅう》に|焔《ほのお》を吐かせるようなこと。
ディーノのそれもシルヴィンのそれも、ひとも|魔《ま》|物《もの》も|見境《みさかい》ない。いわば大量|虐殺《ぎゃくさつ》である。
先のモルミエナ領主の|館《やかた》の一件にしても、つい今し方のルージェス軍にしても。レイムが割って入らなければ、彼らは聖戦士というより単なるひと殺しという、好ましくない呼ばれ方をされて否定できなくなる。
「ふん」
目を細め、ディーノが鼻を鳴らした。
「どれが魔物であるのかわかってからでは遅いのだ。誰が魔物などに殺されてやるものか」
魔物の嫌う魔道を用いるという手段をもたぬ武人には、力こそが身を守る|術《すべ》である。
ディーノの意見にちょっとうなずき、シルヴィンはすねたように上目遣いでレイムを見る。
「自分たちが死んじゃ…、意味ないでしょ」
だから仕方ないわよ。
「それでも……!」
あんまり派手なのは、はっきりいって困る。いらぬいさかいの種や|遺《い》|恨《こん》を残したくはない。
「後からのこのこやってくるくせに、口だけは達者だな」
言いかけた声をさえぎって黙らせ、つんと|顎《あご》をあげ、ディーノがレイムを見くだした。
レイムだって、遊んでいたわけじゃない。
「なんだって……?」
かちんときた言葉に、レイムはかすかに声を低くした。
レイムを待ちわびていた一人であり、わたしだってそれなりに理由があったのよと主張したいシルヴィンは、おもわずディーノの指摘を|肯《こう》|定《てい》して黙ってしまう。
「あ、あのっ!」
険悪になった空気に、ファラ・ハンが声をあげた。
大声をあげて突然割りこんだファラ・ハンに驚いて、三人ははっと注目する。
ビスケットを大事にしゃぶっていた小さな|飛竜《ひりゅう》が首をかしげてファラ・ハンを振り仰ぐ。
いっせいに見つめられて、ファラ・ハンは真っ赤になって、目線を落とした。
「あの、つまり、わたし、思うんですけど……、むやみに|魔《ま》|物《もの》を殺してしまうことも、どうかしらって……」
「|奴《やつ》らを生かしておいて食らわれたいのか?」
にべもなくディーノが問いかける。
ファラ・ハンは黒い上等の絹糸よりも美しい|頭《かぶり》を振る。
「いいえ、そうではなくって、魔物も……、この世界のものとは違いますけど『生きて』いるのでしょう? ですから何も殺さなくても、浄化してあげるとか封じるとか、いろいろ方法があるわけだし、そのほうが望ましいのではないかしらって、思ったんですけど……」
魔道による浄化は|即《すなわ》ち『死』ではない。封じることも彼らを本来の世界に戻すということ。
救いを求めるように、ファラ・ハンはレイムを流し見た。
レイムにとってもファラ・ハンのそれは理想的で何より望ましい。
清らかな青の|瞳《ひとみ》を、|微《ほほ》|笑《え》んでレイムは優しくねぎらった。
「|綺《き》|麗《れい》|事《ごと》や理想では現実を生きられぬ」
そんな者が真っ先に死ぬのだと、なかば怒りをこめた目でディーノがファラ・ハンを|睨《にら》んだ。
「でも、そういう気持ちをなくしてはいけないわ!」
|果《か》|敢《かん》にファラ・ハンは言いかえした。
「そうして思いどおりに運ぶことなど、ほんの一握りにすぎぬ」
ディーノは譲らない。
幼いころから|虐《しいた》げられ、ひと形をした|屑《くず》同然の生命としか扱われなかったディーノにとって、ファラ・ハンの言う|綺《き》|麗《れい》な理屈は受け入れられるはずがない。
「それとも」
意地悪く目を細めて、ディーノはファラ・ハンを見る。
「お前は、死ぬことなど恐れないとでも言うつもりか?」
売り言葉に買い言葉で言いかえそうとしたファラ・ハンは、ぎくりとして口をつぐむ。
死ぬことを恐れないとは、言えない。言ってはいけない。|招喚《しょうかん》の|乙女《お と め》として、ファラ・ハンは死ぬわけにはいかないからだ。世界を救うためには、どうあっても彼女こそが生きぬかねばならない。ファラ・ハンと呼ばれる翼ある乙女には、誰も代わりがいないのだ。
「少しは|賢《さか》しい部分もあったか」
口を閉ざしてうなだれたファラ・ハンへ、ディーノは勝ち誇ったように笑った。
しゅんとしょげたファラ・ハンを気の毒そうにシルヴィンが見る。
「言いすぎよぉ……」
小さな声で抗議した。いじめなくてもいいのに。
神の一人であるファラ・ハンには、俗世に|汚《けが》れた感情が|乏《とぼ》しい分、どこか|的《まと》はずれなところがあってしかるべきなのだ。
ルージェスの感情を|逆《さか》|撫《な》でしたあれにしても、そう。こればっかりは仕方がない。
|矛《ほこ》|先《さき》をファラ・ハンに譲ってしまった形になったレイムは、|溜《た》め|息《いき》をついた。
「すみません。僕がでしゃばりすぎたみたいです……。僕ももっと努力しますから、他の方ももっと注意深く行動しましょう。こういうことで……、わかっていただけませんか?」
それぞれの考え方に違いはある。見過ごしたままいくわけにはいかない。許容するにしろなんにしろ、一度は本心でぶちまけてしまわなければならないことだったのだ。
他の二人を気にしながらシルヴィンはうなずき、ディーノはそっぽを向いた。ファラ・ハンはかすかに首を縦に振った。
少しだけ横にならせてくださいと言ったレイムは、そのまま深く眠りこんでしまった。
なんだか様子がおかしいことに気づいたシルヴィンがレイムに近寄り、彼の|額《ひたい》が火のように熱くほてっていることを大慌てでファラ・ハンに伝えた。
今の世の中、即効性の新鮮な薬草などどこにも残っていない。何か|質《たち》の悪いものに|感《かん》|染《せん》しての発熱であるかもしれない。感染するものなら皆が注意すべきだが、原因を探る手段がない。
おろおろするシルヴィンをなだめ、ファラ・ハンは|魔《ま》|道《どう》でレイムの|容《よう》|体《だい》を探ってみた。
外的要因はない。すっかり周囲のなりゆきを話し、緊張がゆるんだのだ。
発熱し死んだようにぐったりと寝入るレイムに、ファラ・ハンが|癒《いや》しの魔道を与える。
「|馬《ば》|鹿《か》ね。こんなになるまで一人で無理する必要ないじゃないの!」
かえって手間がかかる、世話をかける男だと、シルヴィンはぷんぷん怒りながらも、こまめに動き、自分のスカーフを冷たい水で濡らしてレイムの|額《ひたい》を冷やしてやる。
|繊《せん》|細《さい》な神経をもつ魔道士に、ディーノは|一《いち》|瞥《べつ》を投げただけで何も言わなかった。
病人の枕元を、|大《おお》|股《また》で|砂埃《すなぼこり》を蹴立て|騒《そう》|々《ぞう》しく|闊《かっ》|歩《ぽ》する娘や、それに苦笑する|乙女《お と め》に、振りかえることもしなかった。
レイムはただ一人で気負い、ファラ・ハンを守ろうとしていた。
自分一人の胸に、聞き知った事実を収めようとしていた。
いまいましげにディーノはひとつ|舌《した》を鳴らす。
何がどうなのか、はっきり言うことはできなかったが。
おもしろくなかった。
夜半から熱を下げ、回復傾向にあったレイムは、翌日|爽《そう》|快《かい》に目覚めた。気持ちよく起きてから、皆を放っておいて一人で先に寝こんでしまった事実に気がつき、恥じ入って|謝《しゃ》|罪《ざい》する。
普段は朝起きの遅いレイムが誰より早く目覚め、小さな|飛竜《ひりゅう》が甘えてくるのにつきあって遅くまで遊んでいたためにファラ・ハンが最後まで眠っていた。もともとレイムに休息を願い出ていたファラ・ハンの手前もあり、彼に多くの非難がなされることはなかった。
あまりに|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》なレイムの動作に、わざわざ自分のスカーフまで提供して|看病《かんびょう》してやったシルヴィンも、何も言う気はおこらなかった。見るからに世渡りのへたそうなレイムは、行動的で要領のいいシルヴィンからみれば、かなりもどかしく思えて腹が立ち、いらいらする反面、気の毒にさえ感じる。
同情心をひくといえばレイムは気分を害するだろうが、なにか放っておけない、ついかまってしまいたくなるような|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をもっていることは|否《いな》めない。
心身ともにリフレッシュして、新たなる地を目指し、レイムは|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》える。
第八章 |氷穴《ひょうけつ》
横殴りに風が来た。
|弾《はじ》かれるように流された場所へも、|叩《たた》きつけてくる風があった。
突き上げてくる風、ねじ伏せてくる風が、いっぺんにあった。
下に引かれる力と押しやられる力の激しさで、上下感覚が|麻《ま》|痺《ひ》した。
左右は|鋭《するど》く切り立った|崖《がけ》。
|凍《い》てついた谷川に沿って吹き降りてくる風は、|頑強《がんきょう》なる|岩《いわ》|肌《はだ》に|衝突《しょうとつ》し、|跳《は》ね乱れる。
|導球《どうきゅう》に誘われた聖戦士たちは、真っ白に|凍《こご》える空気の荒れ狂う真っ只中に|躍《おど》りでていた。
渦巻きながら垂直に迫りくるのは、布の織り目から針のように肌を刺し貫く冷気。
風にまぎれ、雪というより氷粒と呼んだほうがふさわしいものが、ばちばち打ちすえてくる。
寒気に|温《ぬく》もりをはぎ取られ、なぶられた肌がざっと|粟《あわ》|立《だ》った。鳥肌立って引きしまった肉のために、ひと回りも全身が縮んだような|錯《さっ》|覚《かく》が起こる。
激しい風に|翻《ほん》|弄《ろう》される|飛竜《ひりゅう》の体勢を建てなおそうとするのだが、穏やかに目を開けて情況を判断できるような状態ではない。ひ弱な|睫《まつげ》などでは|到《とう》|底《てい》さえぎりきれないものに、おもわず腕をあげて|歪《ゆが》んだ顔をやわらげる。
両脇は氷を|被《かぶ》ったつるつるの強固な岩壁である。
そして眼下にある谷川は、|剣《けん》|山《ざん》のようにざぎざぎにささくれた鋭い氷の大地と化していた。
どうも激しく流れ下っていただろう水しぶきの形から判断すると、どこかかなり高い山岳地帯の一か所のようである。氷となってそのままに時を止めた|波頭《なみがしら》や、もとは細かいしぶきだったものや跳ねあがったものが、きんと凍てついてそそり立っている。ごつごつとした巨大な岩場らしい暗い|芯《しん》をもつ氷が、それら氷の波間からぼこぼこと顔を|覗《のぞ》かせている。
風にあおられて左右を囲む岩壁に激突すれば、骨など一撃で粉々に|砕《くだ》ける。寒さで固まってしまった筋肉が、|咄《とっ》|嗟《さ》に柔軟な反応をとって重傷を避けるよう、身をかわせるわけがない。
|墜《つい》|落《らく》すれば氷に突き刺される。運よくそれをまぬがれたとしても、急な|勾《こう》|配《ばい》をもつ川のこと、|滑《すべ》り落ちたが最後、|下《お》ろし|金《がね》のような氷面に衣服も肉も切り裂かれ、骨まで余さずすりおろされるのは必至だ。
降り落ちた雪が氷の|川《かわ》|面《も》でかちかちに硬く凍りつき、さらに風にあおられて舞いあがる。寄り添いあい、一度はくっついてシャーベット状になった雪は氷の|礫《つぶて》となって空に運ばれた。
|凍《こお》れる悪意に満ちた冷たい風が、侵入者たちをあざ笑いもてあそぶ。
とりあえず、彼らに完全に|把《は》|握《あく》できたのは、自分たちが北方のとんでもない場所に現れでたのであるということだ。まず|飛竜《ひりゅう》を|御《ぎょ》さないかぎりは、発言も何もない。
谷間を抜けるように上空を目指して真上に向かえば、たしかに谷川という|脅威《きょうい》は去る。
だが上空ほど強風が吹きすさぶ。強固なる氷に守られた岩壁に|叩《たた》きつけられる危険性が増す。襲いくる風のため、ただでさえ飛竜の扱いが困難であるのに、さらに風の強い場所になどいけるはずがない。
安全策をとってこの場所を|逃《のが》れるには、|川《かわ》|面《も》に近くなるよう低く飛び、谷川沿いの道順をとるのが一般的だ。
しかしそれも谷川に墜落するという場合の危険が増す。飛竜を|操《あやつ》りそこねると、針山のように|鋭《するど》くとがった氷の先端で、自分たちを引っかける。|自《みずか》ら|墓《ぼ》|穴《けつ》を掘る。
川下りをしてこの場を離れていいものかという、素朴な疑問も残る。
しかしそれも、飛竜を安定させないままでは、お話にならない。
飛竜を扱う技術と体力、|手《た》|綱《づな》にかける握力の上で、一番不利なのが|魔《ま》|道《どう》|士《し》であるレイムだ。天性の素質を備えた|華《か》|麗《れい》なる剣客も、|怒《ど》|濤《とう》のようなただの力勝負には劣勢を極める。必死の健闘もむなしく、またそばで比較となる対象が恐ろしく抜きんでた者であるため、彼一人、その姿はいちじるしく見苦しいものと目に映る。
|己《おのれ》の身ひとつであり、誰より経験が豊富で飛竜を扱いなれたシルヴィンが、苦しいながらも|瞳《ひとみ》をめぐらせ、風にはためく深緑色の|法《ほう》|衣《え》をまとった人物を捜す。
彼が心配というよりも、竜使いの一族の娘であるという彼女の自尊心のなせる行動だった。
竜使いがそばにいながら|遭《そう》|難《なん》|者《しゃ》を出したとあっては、里の者に顔向けできない。
しかも彼女は世界を滅亡から救う聖戦士の一人、代表的な竜使いとして、一行に参加しているのだ。両肩に|担《にな》った里と自分の名誉は、何がなんでも守り抜かねばならない。
民族的な特徴を色濃く有し、どこにいても一族として疑いのない容姿をもつシルヴィン。
彼女は生き恥を|晒《さら》す|覚《かく》|悟《ご》で里に戻ったり故郷を捨てることよりも、|潔《いさぎよ》く死を選ぶだろう。
シルヴィンが彼を即座に発見したのは、求めた深緑色ではない、光のため。
激しく渦巻くかすかな|陰《いん》|影《えい》をもつ白一色のなか、ちかりと目の端に輝くものを捕らえたディーノがそちらに顔を向ける。
|凍《こご》える小さな|飛竜《ひりゅう》と抱き合いながら、ディーノの背にしがみついていたファラ・ハンが、氷の|息吹《い ぶ き》で|潤《うる》んだ青い|瞳《ひとみ》で、|煌《きら》めく七色の光球を見つめた。
三人の目を捕らえたのは。
一頭の飛竜の前に浮かぶ|導球《どうきゅう》である。
レイムが彼ら聖戦士を時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の場所にまで導くために作りだした、|瑠《る》|璃《り》|色《いろ》の|魔《ま》|道《どう》の|球《たま》。
顔をあげるどころか、まともに目を開くだけの余裕もないレイムの飛竜、ほとんど|霧《きり》|揉《も》みに近い形でなんとか浮いている飛竜の前に、導球が浮いている。
導球は三人が注目したのを認め、すいと流星のように|墜《お》ちた。
金色に輝く|軌《き》|跡《せき》を引いて、行くべき場所を示して墜ちた。
吹きつけてくる雪氷のためか、なかば|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な感じに目を細めたディーノは、ためらうことなく飛竜を導球の示した方に向けた。いつまでもこんなくそ寒い吹きさらしのなかにいるつもりなど|毛《もう》|頭《とう》なかったし、ここより|酷《ひど》い場所があるとは思えなかった。
そこがいかなる場所であろうと、ここに留まっているよりはましに違いない。
動く方向が示された以上、凍え死にたくなければ、この場に長くいるべきではない。
即座に回頭したディーノに続き、シルヴィンも飛竜の向きを変えた。頼りない乗り手とともに懸命に体勢を直そうとしていたレイムの飛竜に、少し|盾《たて》になってやる形で助け、レイムを伴って、四方から荒れ狂う氷雪の|瀧《たき》の中に消えていくディーノの後を追う。
力添えされて、どうにかレイムの飛竜が安定を回復した。
|凍《こお》れる|息吹《い ぶ き》にはばまれて、|佳《か》|人《じん》を伴い先行する大きな飛竜を見失うまいと、シルヴィンはやや遠視傾向の薄い水色の瞳を険しくした。
初めはそれは染みか影のように見えた。
強風で|縦横無尽《じゅうおうむじん》に荒れ狂う氷雪の|紗《しゃ》|幕《まく》の向こうに、おぼろにかすむもの。
それがなんであるのか、はっきりと見定められるようになったとき。
反射的にディーノの飛竜は大きく翼を広げていた。
風に|逆《さか》らうように、少しでもその場に安定して留まれるよう祈るかのように。
それは風の終着点のひとつ。
激しく乱れるものたちを捕らえて逃がさぬもの。
翼を広げ、一瞬ふうっと勢いを殺した飛竜のおかげでディーノはそれをはっきりと見定めた。
行く手を|塞《ふさ》いで立ちはだかる、白銀に|凍《こお》れる壁ににたそれは、巨大な岩山。
浮かんだディーノの|飛竜《ひりゅう》より少し下の位置に、ぽかりとひとつ穴が開いている。
風を吸いこむ穴をもっている。
|風《かざ》|花《ばな》と|吹雪《ふ ぶ き》の向こうで輝き飛んでいた|導球《どうきゅう》は、たしかにこの方向に向かった。
吹きすさぶ風をものともせず、重さをもたぬ光そのものの優雅な動きでまっすぐに|墜《お》ちた導球が、進路を|歪《ゆが》められて吸われたとは思えない。
向きが|間《ま》|違《ちが》っておらず、先行した導球が影も形も見えないというのなら、それは何かに輝きを|遮《さえぎ》られたからに違いない。
遮る要素として考えられるのも、その|風《ふう》|穴《けつ》でしかない。
次はいったい何をさせられるのかと、ディーノは少し|嫌《いや》な顔をする。世界救済の夢物語など知らぬと見捨ててやろうにも、周囲は|酷《こっ》|寒《かん》の荒野である。どこを飛ぶにしても危険極まりない。
示された場所が一番ましで、|居《い》|心地《ご こ ち》よさそうに見えるというのも|癪《しゃく》の種だ。
後を追っていたシルヴィンたちの飛竜が、止まり切れずディーノの飛竜にぶつかった。
危うい|均《きん》|衡《こう》をもってなんとかその場に留まっていただけの飛竜は、後ろから迫りきた彼らの鼻先が不意をつくように軽く触れただけで簡単にバランスを|崩《くず》した。
三頭の飛竜はもつれあい先を争うようにして、勢いよく暗い風穴に吸いこまれた。
岩穴の中は意外にも、巨大な空洞になっていた。
|成獣《せいじゅう》の飛竜が五、六頭一度に吸いこまれてもなんともないだろう、広い空洞が|穿《うが》たれている。
しかも|真《ま》っ|暗《くら》|闇《やみ》の空洞は、|奈《な》|落《らく》のようにさらに深く、口を開けてずっと先に続いている。
その奥底目がけて、氷雪の暴風が刃物のような勢いで吸いこまれる。
風と一緒に吸いこまれた彼らは闇の底に深く深く墜ちながら、風にめちゃくちゃに|翻《ほん》|弄《ろう》された。
不快感を感じるまでもなく、|揉《も》みくちゃにされ、彼らの意識のことごとくは消し飛んでいた。
体力がものをいった。
きりきりと全身に痛みを感じて目を開けたのは、二人ほぼ同時だった。
飛竜の背から投げ出されたとき、習慣的に身を丸めていたらしい形で、うつ伏せに倒れていたシルヴィンは、|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せ、腕を突いて身を起こす。
|仰《あお》|向《む》けに横たわっていたディーノは、ゆるく頭を振りながら、|左肘《ひだりひじ》を突いて体をもちあげる。
激しく揺すぶられ、頭はがんがんと痛み、受け身を取ろうとしたためか体のあちこちの筋肉が|酷《こく》|使《し》されてこわばり、音をたててきしみそうなほどいうことをきかない。
王都の礼拝堂ほどの規模をもつ明るい空間、雪の吹き溜まりになった場所に転がり落ちた形になっていた。底のほうは重みで|潰《つぶ》れ、硬い氷のようになっていたが、彼らが身を横たえたそこは、まだ真新しい軽い雪片が吹きこまれてくるところであったようだ。柔らかい|雪《ゆき》|布《ぶ》|団《とん》にやんわりと受け止められた形になっていて、骨が折れ砕けたような壊滅的な損傷箇所はない。
わずかに早く情況を認識したシルヴィンは、我を取り戻してはっと首をめぐらせる。
どこか見えぬほど高い位置から、光が入ってくるらしい。入った光が氷に覆われた壁や|霜《しも》、氷柱に反射し屈折を繰りかえしているためか、幻想的な柔らかい光が淡く周囲を照らしている。
常にない|醜態《しゅうたい》を演じていることを感じながらゆるゆると体を起こすディーノは、|朦《もう》|朧《ろう》とする意識を、むりやり現実に引き戻そうと懸命になる。右腕が緊張したまま、動かない。
首をめぐらせたシルヴィンは、雪に埋もれた翼を引きずりだしている|飛竜《ひりゅう》の姿を見つけた。
数は四頭。大きいのも小さいのも、すべて雪の中でもぞもぞと動いている。少しばかりシルヴィンより目覚めが早かったとみえて、仲間を助けてやっているものもいる。
飛竜は大丈夫。ほうと一安心したシルヴィンの視界の端で、何かがむくりと起きあがった。
そちらに素早く目をやったシルヴィンが見たのは、黒い髪。
その黒い髪の主は、様子が変。
がばっと|跳《は》ね起きたシルヴィンは、|弾《はじ》けるようにそっちに駆けだした。
「ちょっと! 大丈夫なのっ!?」
悲鳴か|怒《ど》|声《せい》めいた激しい声で叫びながら、雪を蹴立てて駆け寄った。
正気定まらないディーノは、不意に耳を打った大声にびっくりして顔を向ける。
怒りとも悲しみともどちらともとれるような必死の表情でまっすぐに駆けてくる娘がいた。
周囲の白に鮮やかに映える赤い服。浅黒い|肌《はだ》。|亜《あ》|麻《ま》|色《いろ》の髪。水色の|瞳《ひとみ》。少年のようにきっぱりとした、強い意思をもつ顔をした娘。
竜使いの里に育った少女。シルヴィン。選ばれし聖戦士、竜使いドラウド。
青い瞳をぱちぱちとゆっくり|瞬《まばた》きながら、|唖《あ》|然《ぜん》としてディーノはまろび寄ってくるシルヴィンを見つめた。耳に届いた言葉はディーノにとってあまりにも新鮮だった。そんな表情を正面きって向ける者を、彼はこれまでただの一人も間近く見たことがなかった。
ふわりと積んだ雪を蹴散らし蹴散らし、踏みこむたびにずぽりと埋まる足を乱暴に引き抜きながら近寄ったシルヴィンは、腰を下ろしたディーノの横にどっかと座りこんだ。
大声で名を呼ぶ。
「ファラ・ハン!」
シルヴィンの口を突いて出た名前。
自分の胸元に投げかけられたシルヴィンの目線を追ったディーノは、そこでやっと事態を認識する。右腕がこわばって動かせなかった理由を知る。
ディーノは腕の中にファラ・ハンを抱いていた。
|己《おのれ》の体をもってかばうように、しっかりと強く抱き守っていた。
どこまでが意思だったのか、|釈然《しゃくぜん》としない。はかない力で懸命にしがみついてきた腕を感じていたことは覚えている。悲鳴を聞いたことは覚えている。状況がひどくなったときに、ファラ・ハンが一行のなかで、一番先に死ぬだろう者であることを、理解していた。
理由が認識できたことで、ようやく硬直状態にあったディーノの右腕に自由が戻った。
ディーノの記憶する自由意思にないことであったため、知覚されていなかったのだ。正常に血がめぐりだし、霧が晴れるように少しずつ、ディーノの頭の中が明確になってくる。
全身が不自然に痛むわけがわかった。普段なら信じられない場所に幾つも打ち身を負っているためだ。己の身ひとつを守るだけなら、こんな|無《ぶ》|様《ざま》な|格《かっ》|好《こう》になるはずがない。
そしてシルヴィンが自分を|気《き》|遣《づか》うはずなどないのだと、ディーノは思う。
生まれてこの方、一度も、ディーノは他人に案じてもらったことなどない。
損得を考えず、命を守りたいなどの浅ましさなしで、優しい言葉など送られたことがない。
送られるわけがない。
他と違う黒い髪青い|瞳《ひとみ》をもつ|異《い》|端《たん》|者《しゃ》を、本心から受け入れてくれる者などいない。
ディーノは静かに、向かい合う形で胸に抱きしめていたファラ・ハンの肩を持って|仰《あお》|向《む》け、|膝《ひざ》の上に乗せて抱く形に変える。
なされるがままに、|癖《くせ》のない長い黒髪がディーノの腕の上をさらりと|滑《すべ》り落ちる。
力なく目を閉じるファラ・ハンを見つめ、シルヴィンが悲痛な顔をする。
「ちょっと! 生きてるんでしょうねっ!?」
|挑《いど》むようにディーノを正面から見据えた。
問われて、ディーノは|困《こん》|惑《わく》する。
ぐったりと横たわるファラ・ハンの顔には、まったく血の気がなかった。
寒気と雪に冷やされて、体温の|有《う》|無《む》などわからない。
まだどこか頭の回転に|鈍《にぶ》りを残しているディーノの様子にいらいらとしたシルヴィンは、きっと目をつり上げてディーノを|睨《にら》む。
そしてためらうことなく手を伸ばしたシルヴィンは、乱暴かとも思える手つきでファラ・ハンの胸元をまさぐった。たっぷりと熟した果実のような左胸のふくらみはすぐに探しだされ、その|乳《ち》|房《ぶさ》に手を置いたままシルヴィンはそれの真下にあたる場所に耳を当てた。女性の場合、心臓の音を確かめるには、その位置が一番いいのだ。
同じ女性であるのだから、もちろんシルヴィンが|臆《おく》したり恥じらったりするいわれはない。
目の前でなされた大胆な行動に、ディーノはぎょっと目を見開く。
その行為を行っているのが自分でないにもかかわらず、どきりと胸が高鳴った。
ゆったりと|被《おお》っていた衣服の上に手を置かれたがために、妙に|生《なま》|々《なま》しく、くっきりとファラ・ハンの胸の|双丘《そうきゅう》の|隆起《りゅうき》がうかがいみえる。
わざわざ|介《かい》|抱《ほう》してやっているのだから、シルヴィンのそれに立ち会うのが道理であるのか、目の毒と視線をはずすのが身のためなのか。
緊張して口の中を|干《ひ》|上《あ》がらせながら、どちらの態度にも踏み切れず、ディーノは目を|瞬《まばた》く。
しばらく耳を預けて、シルヴィンはほうと|安《あん》|堵《ど》の息を吐き、表情をゆるめてしりぞいた。
呼吸は浅くなっているが、心臓はきちんと動いている。心配はない。
シルヴィンと同じ意味か違う意味か、ディーノも息を吐いて気を落ち着ける。
ぺたんと腰を落としたシルヴィンは、ファラ・ハンを見つめ、ややあって不安になる。
いっこうにファラ・ハンの意識の戻る|気《け》|配《はい》はない。
「ファラ・ハン……?」
呼びかけて、シルヴィンはファラ・ハンの|頬《ほお》に手をのばす。
軽く頬を|叩《たた》こうとして。
できなかった。
ごつごつに荒れた、|手《て》|肌《はだ》というより手の|皮《ひ》|革《かく》と呼んだほうがふさわしい手のひらで、|絹《けん》|布《ぷ》にも等しい|滑《なめ》らかな白い頬を打つことは、とてもできなかった。
手荒れなどを気にするにはほど遠い、|粗《そ》|野《や》な|田舎娘《いなかむすめ》であるシルヴィンには、女王たちのように|透《す》きとおるほど薄く織られた絹の靴下を履く習慣などない。あちこち角質化した手指では、そのような|繊《せん》|細《さい》なものを取り扱うことすらできようはずもない。
シルヴィンが、細い金色の|産《うぶ》|毛《げ》に柔らかく包まれた、高貴な|珠《たま》にもにた|綺《き》|麗《れい》な花の|顔《かんばせ》に触れるには、それ相当の|覚《かく》|悟《ご》と勇気が必要である。
せわしく瞬きし、|唾《つば》をのみこんで気持ちを落ち着け、軽くなら、少しなら、と幾度かおずおずと|震《ふる》える手をのばしてはためらい、ついにシルヴィンは断念した。
シルヴィンの手は使えない。その他の『物』を用いてなど、論外だ。
どうしたものかと途方に暮れたシルヴィンは、すがるような目でディーノを見た。
「ねぇ」
どうにかしてと、言葉少なに言った。
役を振られ、ディーノは|眉《まゆ》をしかめて思案して、ファラ・ハンを揺すぶろうと構える。
「乱暴はやめて!」
口をとがらせて、シルヴィンが抗議する。
むっと眉を寄せたディーノは、ちょっと考え、別の方法に変更する。
|無《む》|雑《ぞう》|作《さ》に雪をつかんで口に入れ、ファラ・ハンをぐいと抱き寄せる。
|唇《くちびる》を合わせて水を流しこむ。
「|駄《だ》|目《め》えっ!!」
|甲《かん》|高《だか》い悲鳴まがいの声をあげて立ちあがったシルヴィンは、今まさにファラ・ハンに|被《かぶ》せようとしたディーノの顔に背後から両手をかけた。子供が考えなしでなんでもかんでも引きはがすように自分の体重をかけ、目を閉じて力|任《まか》せに引き戻す。
豪快に顔をつかまれ、ディーノは首がもげるかと思えるほど|強《ごう》|引《いん》に引き戻された。
実際ディーノほど首のまわりの筋肉を|鍛《きた》えていない者であったなら、首の骨がどうにかなっても不思議ではない。筋の一、二本違えてすめば幸運であったと思わねばなるまい。後先考えず|肉《にく》|弾《だん》|戦《せん》で行動するシルヴィンに体を張って対抗するには、かなりの|頑強《がんきょう》さを必要とする。
ディーノはいまいましいとばかりに、目鼻を|厭《いと》わず指をかけられ、顔を|歪《ゆが》めるほどに無遠慮なシルヴィンの手を勢いよく振り払う。
「気づかせたいのだろうが!」
|爪《つめ》|痕《あと》のついた鼻をこすりながら、ディーノは|恨《うら》めしげにシルヴィンを上目遣いに|睨《にら》む。指を突っこまれかけ|慌《あわ》てて閉じた右目は、乱暴に強く|瞼《まぶた》を押さえられたため涙で|滲《にじ》んでいる。
「そんなことしてほしいんじゃないわよ!」
振り払われ、突き飛ばされたような形になったシルヴィンは、|尻《しり》|餅《もち》をついてひっくり返って上半身を起こしながら、真っ赤に|頬《ほお》を染めてディーノに異議を申し立てる。
勝手な物言いにディーノは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になる。
「なんだ、その口のききかたは?」
いったいどうしてディーノが『わざわざ』こんなふうに|試《し》|行《こう》|錯《さく》|誤《ご》してやっているのか、シルヴィンはまったくわかっていない。
「なによ」
いつ誰がお願いしますと言ったのかとシルヴィンは|果《か》|敢《かん》に睨みかえした。
二人の声に目標を発見し、吹き溜まった雪の中からどうにか脱出した小さな|飛竜《ひりゅう》が、おぼつかない足取りで雪を|掻《か》きわけ|漕《こ》ぎ進み、氷がこびりついた翼を広げて飛ぶ。
自由を回復した|成獣《せいじゅう》の飛竜たちは、翼を整えいつお呼びがかかってもいいよう、準備する。
色気のかけらもないくそ|生《なま》|意《い》|気《き》な小娘に、ディーノは|眉《まゆ》をつり上げた。
「お前……!」
「怖くなんかないわよっ!」
みなまで言わせず、シルヴィンは|脅迫《きょうはく》に満ちた低いディーノの声を大声でかき消した。
「あたっ、あたしだってっ! 聖戦士なんですからねっ!!」
緊張させて|頬《ほお》を引きつらせながら、シルヴィンは|怒《ど》|鳴《な》る。
聖地での一件に立ち会った当事者でもあり、ディーノの恐ろしさは、いかに世間知らずのシルヴィンでも|嫌《いや》というほど知ってる。自分のような者が到底正面きってかなうはずのない男であることも。|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》という呼び名が真実ふさわしい者であることも。
勝ち気な性格もあり、だから余計に|虚《きょ》|勢《せい》を張らないではいられない。
しかもディーノの腕の中には、あの|麗《うるわ》しい救世の聖女が横たわっているのである。
頼りにできる者がいない以上、誰より自分がしっかりしていなければならないと、けなげにも気負うシルヴィンである。
シルヴィンの大声で、洞の中の空気がびりびりと|震《ふる》えた。岩の上に不安定な形で乗っていた|雪《せつ》|塊《かい》が、ぼとりと落っこちる。小さな氷柱が折れ落ちて|砕《くだ》けた。
さっき目を開けた時、ディーノの頭上にあたる位置にも無数の氷柱がぶら下がっていた。
「|脅《おど》かそうったってっ! 冗談じゃあないわっ!」
座りなおし、|膝《ひざ》の上でぎゅうっと手を握りしめ大口を開いてシルヴィンはわめく。
「場所を考えろ! 大声を出すな!」
腹の底に響く|声《こわ》|音《ね》でディーノが|一《いっ》|喝《かつ》する。
びくんと肩をすくめたシルヴィンは、がたがたと|戦《おのの》きながらもディーノを|睨《にら》んだ。
「大声はどっちよ!!」
ばき。
頭上で音がした。
思い当たるものに、ディーノはぎくんと背を正し、素早く首をめぐらす。
最悪の情況を想像したディーノの予想ははずれていたが。
「キョワァァ!」
風を切り、ずさっと音をたてて翼の横を落ちた太い氷柱に、小さな|飛竜《ひりゅう》が|度《ど》|肝《ぎも》を抜かれて|恐慌《きょうこう》を起こした。
向かった行き先そのままに、飛来する|弾《だん》|丸《がん》のように|墜《お》ちる。
ディーノめがけて。
|哭《な》き声を聞きつけ、まっすぐ自分に向かって墜ちてくる小さい飛竜を認めたディーノは目を|剥《む》いたが、身をかわそうにも楽に動ける状態ではなく、その十分な|暇《ひま》もなかった。
体をひねり腰を浮かせて逃げかけたディーノに、小さな飛竜は激突する。
逃げ遅れたシルヴィンが、飛竜に突き倒されたディーノの下敷きになった。
ディーノの上に乗っているファラ・ハンの|目《め》|方《かた》はたいしたことはないが、巨大な長剣を背負い、簡素とはいえ、|鎧《よろい》をまとったディーノは、一人でもかなり重い。
苦しげに|咽《のど》を鳴らしたシルヴィンが、|爪《つめ》を立ててディーノを押しあげる。
肉の部分を|狙《ねら》ったかのようなシルヴィンの爪に顔をしかめ、ディーノは腕を突こうと手を置く。下敷きにした者の衣服の手応えがあった。
「どこ|触《さわ》ってるのよっ!」
金切り声でシルヴィンが叫ぶ。
ただならぬ声の勢いにびっくりし、素早く上半身をひねって体をシルヴィンの上から|滑《すべ》り落としたディーノは、身を起こし首をめぐらす。
シルヴィンは怒りに満ちた表情で|跳《は》ね起き、両腕をあげて胸をかばった。
シルヴィンの様子から意味することを読みとり、ディーノは|怪《け》|訝《げん》な顔をする。
「胸か?」
尋ねた。手のひらに残った感触は、どう思い起こしても筋肉だった。
「悪かったわねっ!」
真っ赤になったまま、捨て|台詞《ぜ り ふ》のようにシルヴィンは言って、ぷいと横を向いた。
たしかに、さっき触れたファラ・ハンのそれとはまったく|触《さわ》り|心地《ご こ ち》が違うことは自分でも認める。
「キャァワ!」
頭からディーノに激突しふらふらとなった小さな|飛竜《ひりゅう》は、おぼつかない足取りでファラ・ハンに近づき、小さな|前《まえ》|肢《あし》でファラ・ハンの肩を揺する。
うんと|唸《うな》って薄く目を開け、寝返りを打つように身じろぎしたファラ・ハンは、自分の動きどおりに体が背中から支えられていることに気がつく。
はっとして目を見開く。
手のひらひとつと離れていない位置にディーノの顔があった。
身じろぎしたために、より間近くなっていた。
見つめているのは煙る光を帯びた|精《せい》|悍《かん》な青い|瞳《ひとみ》。
「きゃあ!」
|頬《ほお》を朱に染めて声をあげ、ファラ・ハンは慌てふためいて、ばたばたとディーノの腕の中から抜けでた。
過敏な反応に|茫《ぼう》|然《ぜん》として、シルヴィンとディーノがファラ・ハンを見る。
ここで初めて視界にシルヴィンや小さな飛竜を入れたファラ・ハンは、彼らの様子から自分の反応があまりに唐突で過激なものであったことを知って恥じいる。
「あの……、ごめんなさい……、ありがとう……」
金色の鈴を転がすような|可《か》|憐《れん》な|声《こわ》|音《ね》で、消えいりそうに小さく言った。
ますます真っ赤になりながら、ファラ・ハンはうつむいた。
小さな飛竜は甘えるようにファラ・ハンの|膝《ひざ》にすがる。
あんな反応をされるなどとは思いもかけず、少しばかり|面《おも》|白《しろ》くない表情でディーノはわざとらしく髪を|掻《か》きあげ、そっぽを向く。
シルヴィンは安心し、頬をゆるめた。
「よかった。みんな無事ね」
気楽に言い放った言葉に、ファラ・ハンは瞳をめぐらせる。
「レイムはどこ?」
耳を打った名前に。
は、とばかりにシルヴィンは目を|瞬《まばた》いた。
彼らからやや離れた奥のほう。
三頭の|飛竜《ひりゅう》たちに近い場所。
さらなる|奈《な》|落《らく》に|繋《つな》がる斜面の縁に、見覚えのある小袋が落ちていた。
雪の上に|魔《ま》|道《どう》|士《し》だけがもつ虹色の|呪《まじな》い粉が|零《こぼ》れでていた。
第九章 |封氷《ふうひょう》
「どうぞお救いくださいませ」
涼やかに響く高い声が|希《ねが》った。
「金色に輝く|聖《きよ》き魔道士様」
|跳《は》ね飛んだフードから溢れて乱れ零れた髪を|掻《か》きあげ視界を確保し、レイムは自分に言葉をかけた者の姿を見つめる。
レイムのすぐ前に腰を落としていたのは、|透《す》きとおるように細い、|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の長い髪の|乙女《お と め》。
しっとりと輝く長い|睫《まつげ》にかこまれた、星空にもにた深い|紫色《むらさきいろ》の|瞳《ひとみ》が、まっすぐにレイムの|翠色《みどりいろ》の瞳を見あげている。
向けられた、寂しく|哀《かな》しい色をした紫色の瞳に、レイムの胸はきゅんと苦しく鳴る。
吹きこんだ雪、|汚《けが》れなく柔らかな純白の|絨毯《じゅうたん》をまくりあげ、割り、周囲に幾つも乱立する、清浄なクリスタルとも見えるものは氷。冷たく|凍《こご》えた氷の壁。氷の柱。
|吐《と》|息《いき》さえ|凍《こお》るかと|錯《さっ》|覚《かく》するような、|凍《い》てついた空間。
|酷《こっ》|寒《かん》の地にひざまずく一人の|麗《うるわ》しき|乙女《お と め》。|佳《か》|人《じん》を悩ませる切なさが、レイムの心にも染みこむ。
レイムはかすかに|眉《まゆ》をひそめて首をかしげ、乙女をうかがい見る。
「いったいどうしたと言うのですか? そんな|格《かっ》|好《こう》でいると|凍《こご》えてしまいます。どうぞ腰をあげてください」
レイムは優しくうながし、とまどうようにためらう乙女に穏やかな|笑《え》みを投げかけて、正騎士の礼をし、|慇《いん》|懃《ぎん》にそっと手を差しだした。高貴なる姫にだけおくられる、最高の儀礼。
乙女は薄く|微《ほほ》|笑《え》み、青白くさえ見える|華《きゃ》|奢《しゃ》な手をレイムの手に重ねた。
レイムに伝わったのは、羽のように触れるか触れないかの、わずかな|手《て》|応《ごた》え。
静かに引いたレイムの腕に、重さなどない軽い身のこなしで音もなく乙女は腰をあげた。|冠《かんむり》のように頭にのせた、細くからむ植物の|蔓《つる》をモチーフとした黄金の|飾環《しょっかん》が、ちょうどレイムの目の高さにきた。肩と背を覆っていた長い髪が、さらりと|滑《すべ》って落ち、乙女の|出《い》で|立《た》ちを|露《あらわ》にする。乙女の身を包んでいるのは、ゆったりとふくらんだ|袖《そで》をもつ、豊かにふわりと|裾《すそ》を広げた優美な長衣。複雑な織り柄をもち|縁《ふち》を|金《きん》|糸《し》で飾られた|黄昏《たそがれ》|色《いろ》の長衣は、乙女の髪に|映《は》えてさらに青く見える。そのようなものに間近く接して過ごしてきた生い立ちから、専門家はだしの|目《め》|利《き》きとなっているレイムには、それがかなりの|位《くらい》をもつ王侯貴族の|淑女《しゅくじょ》でなければ着ることのかなわない、上等の衣装であることが一目でわかった。
乙女は姫という呼び名にふさわしい|崇《すう》|高《こう》さと|気《け》|高《だか》さ、|優《ゆう》|雅《が》さをもっている。
しかしはかなく|哀《かな》しく淡い。こうしてたしかに手を取り、目の前にいるというのに消え失せてしまいそうに頼りない。なぜだかいたたまれない不安なものに襲われレイムは|瞳《ひとみ》をかげらせる。
「僕にできうることならば力を尽くしましょう。なんなりと致します。お話を聞かせていただけますか?」
立ちあがった乙女は、レイムから手を放し、誠実な|声《こわ》|音《ね》の申し出にほのかに微笑んだ。
「悲しみを止めてください。これ以上、被害が広がらないように」
清らかに輝き響く細い声は、せつせつと語りかける。
|真《しん》|摯《し》な|紫《むらさき》の瞳を、レイムはまっすぐに見つめかえす。
誠実に耳を傾けるレイムを|促《うなが》すよう、乙女はゆるりと首をめぐらせる。
「この地では時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を得た|雪竜《せつりゅう》が暴れております。山も都も雪竜のため、雪と氷に埋もれ、生きとし生けるものたちは閉ざされて凍え、深い眠りの|淵《ふち》に沈んでいるのです。金色の|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|士《し》|様《さま》、どうぞ翼ある聖女に時の宝珠をお渡しになって。雪竜を封じてくださいませ」
「雪竜……」
小さな頃、|側《そば》|仕《づか》えをしていた姫君と一緒に|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》のお|伽話《とぎばなし》で聞いた魔物に、レイムは夢見るように|想《おも》いをはせた。
ふわりと長衣の|裾《すそ》をひるがえした|乙女《お と め》が、レイムを誘うように腕をあげる。
白い指先が乱立する氷の柱や壁を指し示す。
そこには。
|凍《こお》りつき、氷の中に封じられたものたちの姿があった。
時を|凍《い》てつかせ、奪われたひとびと。動物たち。
ぎょっと目をむいたレイムに、乙女は力ない|笑《え》みを向ける。
「金色に輝き映える聖なる方。ずっとお待ちしておりました」
乙女の動きは風に舞うように、あまりにも軽い。軽すぎる。まるでそこに実体がないようにさえ感じられる。
「わたくしは……」
乙女の|唇《くちびる》から|零《こぼ》れた言葉はレイムが受けとる前に、ついと吹きすぎた風にさらわれた。
届かなかった声に目を|瞬《まばた》くレイムの様子から、乙女は寂しそうに|微《ほほ》|笑《え》む。
寂しそうに微笑んだだけで、もう一度それを繰りかえす素振りはなかった。
届かなくても、どうでもよいことだったのだろうか。
いや違う。
届けることが許されていなかった言葉ではなかったのか。
風が故意に吹き飛ばした声だったのではないだろうか。
世界を救う聖戦士に願うことを言い終えた乙女は、寂しく目で別れを告げ背を向ける。
ふわりとした足取りで遠くなる乙女を追ってレイムは足を踏みだす。
今ここで捕まえておかなければ二度と会えないような、そんな気がした。
会えない。
会えない?
びくんとレイムの心が|震《ふる》えた。
体の|芯《しん》を強打され、粉々に打ち|砕《くだ》かれたような、猛烈な|喪《そう》|失《しつ》|感《かん》で|戦《せん》|慄《りつ》がはしった。
「|駄《だ》|目《め》だ! 行かないで!」
悲鳴のような声で叫んで、レイムは手をのばした。
身を切るほどに冷たい風が、レイムと乙女のあいだをさえぎるように吹きすぎる。激しい風にあおられて、真っ白な|風《かざ》|花《ばな》が舞い荒れる。
レイムの悲痛な|声《こわ》|音《ね》に、乙女が少し振りかえった。
|哀《かな》しい哀しい|紫色《むらさきいろ》の|瞳《ひとみ》だった。
引きかえすことも留まることも許されていない乙女は、風に連れ去られ、遠くなる。
視界を奪い、|吹雪《ふ ぶ き》のように|風《かざ》|花《ばな》が舞う。
「待って!」
風花に隔てられ、影すら頼りなくかすむ乙女を追って、レイムは駆ける。
名前すら知らない乙女。
初めて会ったひと。
でも……!
レイムの心に溢れるのは、涙が|零《こぼ》れそうなほどに切なく、いとおしいもの。
理由も根拠もいらない。
それが本物の気持ちであればいいのだ。
それはたった一人の女性のためにある、レイムが初めて心に浮かべる真実。
|凍《こご》える|息吹《い ぶ き》で白く荒れる風の中、乙女を追ってレイムは駆けた。
一度かすんだ影が。
ふと明確な|輪《りん》|郭《かく》を結んだ。
夢中でレイムは手をのばす。
指先が|滑《なめ》らかなものに触れた。
ほのかな優しい|温《ぬく》もりをもつ、やわらかなもの。
頭の|芯《しん》がくらくらとするような甘く|芳《かんば》しい体臭が風に漂い、レイムの|鼻《び》|孔《こう》をくすぐった。
捕まえた!?
レイムはそっと壊れ物を扱うように、しかし力強くそれを引き寄せようとした。
逃がさぬように、両腕でしっかりと胸に抱こうとした。
優美な曲線を描く|華《きゃ》|奢《しゃ》な肉体を捕らえ、抱きすくめる。
|応《こた》えるように細い腕がレイムの背に回され。
レイムの足が空を踏んだ。
「危ない!」
間近く発せられた警告が、|鋭《するど》く耳を打った。
足を踏みはずすのが先だったか。
警告が先だったか。
定かではない。
足場を失ったレイムの体が、抱きしめた乙女に支えられ落下をまぬがれる。
「何やってるのよっ!?」
ヒステリーを起こしたような激しい女の声に、びくんとレイムは背を|震《ふる》わせた。
横手から走って近づきながら自分に向かい投げつけられた言葉。
聞き覚えのある声。|竜使《りゅうつか》いの娘の声。
いったい自分を取り巻いて何が起こっているというのか。
|愕《がく》|然《ぜん》として目を見開いたレイムは。
自分が顔を埋めていた白い衣服を見た。
|漆《しっ》|黒《こく》の色をした絹糸の髪を見た。
乙女の背で大きく広げられ、懸命に羽ばたいている純白の翼を見た。
ぐいと横から強く|襟《えり》|首《くび》がつかまれ、レイムは後ろに引き戻された。
レイムが足を踏みはずした、クレバスになったところから、引きあげられた。
もつれこむようにして、ファラ・ハンがレイムを抱きかかえたまま押し倒すよう倒れこむ。
|尻《しり》|餅《もち》をついたレイムの襟首から手を放し、シルヴィンが怖い目で|睨《にら》んだ。
「|馬《ば》|鹿《か》じゃないの? ふらふらクレバスに向かって走っていく人間がどこにいるのよ!」
レイムは|虚《うつ》ろな表情で、ゆっくりと目を|瞬《まばた》いた。毒づくシルヴィンを見、腕に抱いた乙女を見る。
「ファラ・ハン……?」
いぶかしみ確かめるように呼びかけられ、ファラ・ハンは小さくこくんと首を縦に振る。
抱かれて体を重ねたファラ・ハンの青い|瞳《ひとみ》がレイムを映していた。
「あの……」
恥ずかしそうに、ファラ・ハンはレイムを見あげる。
ぴたりと胸に抱かれた形になっているファラ・ハンは、彼女だけの意思で体を引き離すことができなかった。男性としては|繊《せん》|細《さい》な、細く長い指をもつレイムの手は、しなやかな|枷《かせ》のようにファラ・ハンの身を|絡《から》めとっている。普段のおっとりとした穏やかな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を|醸《かも》しだすレイムからはとても想像ができない。強い力が加えられている。
幼い頃から|竪《たて》|琴《ごと》を|弾《ひ》き、きつく張られた細い金属の弦を切るほどに|駆《く》|使《し》していたレイムの手指は、外観よりも遥かに|強靭《きょうじん》な力をもっている。ファラ・ハンには、体のどの位置にレイムのどの指が当てられているのか、衣服の上からでもはっきりとわかるほどだ。
男としては|華《きゃ》|奢《しゃ》で細身で、肉が薄いかという印象のあるレイムの体型は、思いがけないほどにがっしりとした|手《て》|応《ごた》えと質量をもっていた。優しげな|細面《ほそおもて》の顔部の影響もあり、|着《き》|痩《や》せして見えるタイプなのだろう。|鍛《きた》えるなどという言葉とは|疎《そ》|遠《えん》かと疑わしかった筋肉も、計算されたそれかと見えるほどきっちりと配置されている。いっさいの|無《む》|駄《だ》や|虚飾《きょしょく》を廃した体型だ。いざというときにはバネのように|俊敏《しゅんびん》で、しかも強靭であるのに違いない。
ファラ・ハンは、平熱のあまり高くないレイムの体を自分の体熱が|温《あたた》めていることを感じていた。接したところから、体温が混ざり合っていく。まるでとくとくと脈打つものが、お互いの体の表面で通じ合い、交流しているかのようだ。
自分を見失ってしまいそうな危険を感じさせるディーノほど、生気溢れる圧倒的な力を発散する熱さをもつ体ではない。むせかえるほどに強い男の体臭で、|有《う》|無《む》を言わせず、自分の女性を自覚させ、男の存在を突きつけてくるわけではない。
だがたしかにレイムは男性として揺るぎなくそこに存在する。格を有して、ある。
女性である自分と違うものを感じさせ、|憧《あこが》れと|羨《せん》|望《ぼう》を引き出させる。女性であることに酔わせる独特の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》をもっている。認識して溺れるものを確実に受け止められる、本物の男性たる強さをもっている。女性に対し|丁重《ていちょう》で|優《ゆう》|雅《が》に|洗《せん》|練《れん》された扱いを、十分に心得ている。
そのレイムの行為に礼式と本気があるとするならば。
相手を|違《たが》えてしまったとは言え、今のそれはたしかに本気のもたらしたものだった。
ファラ・ハンであれ誰であれ、そんなレイムの|真《しん》|摯《し》な力に|抗《あらが》えようはずがない。
|魅《み》|惑《わく》されることなくいられるはずがない。
奥深く透明な|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》にただ一人見つめられ、あの|澄《す》んだ|声《こわ》|音《ね》にかすかな|吐《と》|息《いき》を交えて耳元で|囁《ささや》きかけられたなら、頭の|芯《しん》がくらくらとなるに違いない。
視線を|逸《そ》らし、|頬《ほお》を|薔《ば》|薇《ら》|色《いろ》に染めているファラ・ハンを見返して。
唐突に、自分がどういう状況を演出しているのかがレイムに認識された。
抱き乗せているレイムの体に、うっとりとするほどに優しいファラ・ハンの重みが預けられていた。腕の中にすっぽりと収まっているのは|雛《ひな》|鳥《どり》のようにやわらかな肉体。ファラ・ハンが|膝《ひざ》をついてかすかに、なよやかに曲線を描き細くくびれた腰から先を持ちあげているため、くるりとした愛らしい|尻《しり》の形が翼の向こうに|透《す》かし見える。衣服に包まれた|華《きゃ》|奢《しゃ》な外観からは想像できない、しっかりとした質量をもつ胸の|双丘《そうきゅう》が、レイムの腹部のあたりをぐっと押しながら少しばかり|潰《つぶ》れている。そうと|意《い》|図《と》しなくても、少し視線を下向けたなら、衣服の胸元の開きから|白《はく》|磁《じ》のような|素《す》|肌《はだ》が|覗《のぞ》き見えてしまう。
どきんと胸が鳴り、|咽《のど》が一瞬にしてからからに|干《ひ》あがった。
かああっとレイムの頭に血がのぼった。
「す、すみませんっ……!!」
レイムは|弾《はじ》かれるように腕を放す。
はにかんでうつむき、するりと優雅な身のこなしでファラ・ハンがレイムの上からのいた。
これみよがしに、ふんとシルヴィンが鼻を鳴らす。
雪を払って立ちあがったレイムは、顔から火の出る思いで、とてもまともに目をあげられなかった。
|飛竜《ひりゅう》を伴った三人は、はぐれたレイムを捜し|氷穴《ひょうけつ》の奥深くまで足を踏み入れた。
そしてクレバスに足を踏みこもうとしたレイムの姿を見つけたのだ。
氷柱と|脆《もろ》い氷壁のなか、大きさを考慮するとまわりに|凄《すさ》まじい風圧を与えて飛空するだろう飛竜はふさわしくない。判断したファラ・ハン|自《みずか》らが、翼をもってレイムを救おうと|試《こころ》みたのだ。
先回りして押し戻そうとしたファラ・ハンの|思《おも》|惑《わく》より少しばかり先んじて、レイムが足を踏み出した。思いのほかファラ・ハンがレイムをしっかりと受け止めることができたのは、レイムが自分からファラ・ハンを捕まえたからだ。
いくら男性としては華奢に見える細身の体型をしているとはいえ、ファラ・ハンの細腕だけの力でレイムをつかんで引きあげるなどという行為は、不可能である。もっともそれであっても、シルヴィンの力添えがなければ二人で落ちていたことは|間《ま》|違《ちが》いない。
肩を落とし、|落《らく》|胆《たん》の色濃い表情をしているレイムを見、ファラ・ハンは首をかしげる。
「どうかしました?」
ふわりと心を包む優しい響きの問いかけに、レイムは力なく|微《ほほ》|笑《え》んで首を振る。
なんでもない。
そうだ。
あれはきっと氷の精霊のもたらす、つかの間の|幻《まぼろし》にすぎない。
寂しい心が見せた夢のひとつ。決して願ってはいけないことを|想《おも》う、心の弱さだ。
ひとを犠牲にし生きながらえた、|汚《けが》れた命をもつレイムが、誰かを愛し、愛されたいなどと、許されるはずがない。
|澄《す》んだ|瞳《ひとみ》をかげらせるレイムを、ファラ・ハンは気遣わしげに見つめた。
すっととおった高い|鼻梁《びりょう》をもつレイムの横顔は、ひどく|繊《せん》|細《さい》ではかないものに感じられた。
レイムの内に|潤《うるお》った透明で涼しいものは、あまりに清浄すぎて彼の現実味を|希《き》|薄《はく》にさせる。目を離すと不意に空気の中にほどけ、光に混じって消え失せてしまいそうな|錯《さっ》|覚《かく》が起こる。身体のもつ質量が、どこかにまぎれてしまう。
レイムの漂わせる『|綺《き》|麗《れい》』さは、夢と通じた感覚。|温《あたた》かな|吐《と》|息《いき》はからむのに、手をのばしても届かない、うたかたのような遥かな距離。
静かに|佇《たたず》むレイムを見て、シルヴィンがむっと|眉《まゆ》を上げた。
ファラ・ハンが感じたのと同じものを、シルヴィンも感じていた。
だがシルヴィンにはそれを|肯《こう》|定《てい》することはできない。今という現実の時間のなかに確実に存在し、すこぶる健全に生きているシルヴィンが、彼のような者を|許《きょ》|容《よう》できるはずがない。
「ぼやぼやしてるんじゃないわよ! 時間ないのよ!」
怒るように|諭《さと》して、シルヴィンはレイムに|呪《まじな》い粉の袋を投げつけ渡しながら、目当てとする方向に足を運ぶ。すれちがいついでに、どんと乱暴にレイムの背中を押して追いたてた。
たたらを踏んで転倒をまぬがれたレイムは、内にこもっていた気持ちを外に向ける。
暴力的なまでに元気そのものの娘は、あっけにとられて見つめているファラ・ハンの腕をとる。シルヴィンはファラ・ハンを連行するかの勢いで、ずかずかと雪を踏みしだき、|凍《こお》りついたものを|粉《ふん》|砕《さい》しながら、クレバスを|迂《う》|回《かい》して向こう岸にまわろうと進んでいった。
声を出す暇もなく|強《ごう》|引《いん》に引っ張られてゆくファラ・ハンが、首だけレイムに振りかえる。
ディーノを乗せた一頭の|飛竜《ひりゅう》が、クレバスの向こう側に浮かんでいた。別行動をとって待っていたらしい二頭の飛竜たちが、シルヴィンの目指すクレバスの端にいるのが小さく見える。
改めて周囲を見まわしたレイムは、氷の壁の中にも柱の中にも、閉じこめられていたはずのものの姿が何も見当たらないことに気がついた。
あれも|幻《まぼろし》だったのか。
|希《ねが》われたそのことも|虚《きょ》|構《こう》にすぎなかったのか。
暴れているという雪竜のことは……?
釈然としない気持ちを引きずりながら、レイムはシルヴィンたちの後を追う。
腕組みをしたディーノは、クレバスの向こうにそびえる巨大な氷壁の前にいた。
例の王者そのものの|威《い》|風《ふう》|堂《どう》|々《どう》とした|格《かっ》|好《こう》で、目を細め、しみじみとそれを見あげている。
左肩の上に抜け目なくちょこんと乗った小さな|飛竜《ひりゅう》が、ディーノの観賞しているものにくりくりと赤い|瞳《ひとみ》を動かし、同じく珍しげに|眺《なが》めている。
岩壁の割れ目からのぞく氷壁。
岩壁に|穿《うが》たれた窓にはめこまれた、精巧に造られた巨大な一枚の|硝子《ガ ラ ス》|板《いた》にも見えるそれ。
|酷《こっ》|寒《かん》に閉ざされた水の|塊《かたまり》。|玻《は》|璃《り》|色《いろ》のオブジェ。
|佳《か》|人《じん》を伴い飛竜に乗ってディーノに追いついたシルヴィンが、息をのんで飛竜を|操《あやつ》る|手《た》|綱《づな》をゆるめた。
シルヴィンの背に寄り添い、腰に腕をまわして|鞍《くら》に腰を置いていたファラ・ハンは、多くの星を浮かべた|麗《うるわ》しい青い|宝玉《ほうぎょく》のようなきららかな瞳を大きく見開いた。
ぎくりと身をこわばらせ、レイムがぎくしゃくと飛竜を駆る動きを止める。
どれほどの奥行きがあるのか計り知れない、氷の塊の中に。
長い|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の髪をした|黄《たそ》|昏《がれ》|色《いろ》の長衣をまとう姫君の姿があった。
しんと瞳を閉じ、動き止めた胸の前で指を組み合わせている|華《か》|麗《れい》なる|乙女《お と め》。
その姿は、運命の|女《め》|神《がみ》モリスに祈りを捧げたまま、中空に浮かんでいるかのごとく。
氷の中に閉じこめられている。
冷たく|凍《い》てついた肉体は、それでも少しも硬そうには見えない。
花びらのように厚みを感じさせない薄いクリスタルの向こうで、まるで今にも祈りを終えて目を開くかとも思われるほどに。
その乙女は、つい先ほどレイムが目にし、声を聞いた乙女に間違いはない。風にさらわれたはかない|幻《まぼろし》の姫君だ。レイムが夢中で追い求めた存在だ。
間近く目にしたものが信じられず、立ちすくんだレイムは、青ざめながら必死で気を取りなおし、足を踏みだす。思いもかけないほど強く襲いきた|衝撃《しょうげき》に打ちのめされ、全身から血がひいていた。軽い|脳《のう》|貧《ひん》|血《けつ》を起こし、押し寄せてくる|眩暈《め ま い》と吐き気を懸命にこらえる。
ひと足でも早く|歩《ほ》を運び、ディーノに、ファラ・ハンたちに追いつこうとする。
氷壁の奥には、乙女のほかにもたくさんの生命たちが閉じこめられていた。
ひとも動物もなんの分け隔てもなく、時を奪われ閉ざされている。
凍てついて、そこにいる。
恐怖も|諦《あきら》めも|哀《かな》しみも、みな一様に押し黙り、ひそやかに|佇《たたず》んでいる。
ただひしひしと冷気から染みだし、溢れて、思いのたけを告げている。
さきほど乙女に|促《うなが》され、レイムが目にしたものと同じものが、場所を|違《たが》えてそこにある。
「|綺《き》|麗《れい》……」
目を奪われ、ごくりと|咽《のど》を鳴らしたシルヴィンが、|溜《た》め|息《いき》混じりにつぶやく。
魅せられたようにファラ・ハンも|瞳《ひとみ》をめぐらせる。
よろよろと|飛竜《ひりゅう》を寄せ、氷壁に近づいたレイムは、静かに|震《ふる》えわななく右手をのばした。
その指先を視界の端に捕らえ、ディーノが瞳を|険《けわ》しくする。
「触れるな!」
警告というより、強い口調で命じた。
太く響くディーノの声に、手を伸ばしたレイムの体が|凝固《ぎょうこ》する。
ディーノは青ざめたままのレイムを横目で|一《いち》|瞥《べつ》し、簡潔に告げる。
「この氷は生きている」
第十章 |氷魔《ひょうま》
ひとところに留まり飛ぶ飛竜の背にうちまたがり、ひたと氷壁に向かい合っていたディーノは、静かにゆっくりと、その中に閉じこめられたものが位置を変えていることを見極めていた。
|野獣《やじゅう》そのもののディーノの防衛本能に訴えかける、寒気ではないものがぞくりと|肌《はだ》を|粟《あわ》|立《だ》たせる独特の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は、間違いなく魔物のもたらすそれである。
これだけ大がかりなものを相手にするには、いかに|聖獣《せいじゅう》・飛竜でも|分《ぶ》が悪い。へたに|焔《ほのお》を吐きかけて刺激し、触発してしまったらただではすまない。行く手を|阻《はば》み、|目《め》|障《ざわ》りとも見えるそれを|粉《ふん》|砕《さい》しようなどと、ディーノが|無《む》|謀《ぼう》で荒っぽいことを|試《こころ》みる気にならなくて当然だ。
ディーノは自分が勝つための争いにしか興味はない。
「生きているって、食べられちゃったの? このひとたち」
釈然としない顔で、シルヴィンが尋ねた。
「あるいはそうかもしれぬな」
目を細め、ディーノはなかば|肯《こう》|定《てい》する。
「|奴《やつ》らは殺されているわけではない。だが生かされているわけでもない。現実の時間を止められて、夢を|貪《むさぼ》られているようにみえる」
|得《え》|体《たい》の知れない物言いに首をかしげ、シルヴィンはディーノを見る。
「夢?」
そろそろ観賞に飽きてきたディーノは、冷めた仕草で髪を|掻《か》きあげ、|煩《わずら》わしそうにひとつ、目を閉じる。
「雪山で|遭《そう》|難《なん》した者の死に際と変わらぬ。夢の尽きた時がすなわち死の瞬間だ。眠り続けているということは、生命の輝きをなす力を失っていないわけだ。眠らせておけば、飼ったままで永久にその力を閉じこめておくことができる」
食して自分そのものに取りこみ、同化させて消費するよりも、ある意味、得点は高い。
死に際に思いめぐらせること、|嘆《なげ》くこと、それらすべての声が、|魔《ま》|物《もの》にそれぞれの素晴らしい味覚を与えることとなるだろう。
「魔物の本体はここにない。だがいたずらに刺激を与えるなど|愚《おろ》かしいことだ」
|蔑《さげす》むようなディーノの視線が、いまだ手を伸ばしたままのレイムを射た。
レイムは、きっと|唇《くちびる》を|噛《か》んで顔をそむけ、手をどける。
氷の中で永久なる祈りを捧げる|乙女《お と め》を見あげたファラ・ハンが、|哀《かな》しい目をする。
「この方は他の方と違うのですね。|覚《かく》|悟《ご》されて|自《みずか》ら封じこめられたかのように見えますわ」
|可《か》|憐《れん》な声にうながされて視線を追ったディーノは、軽く鼻を鳴らす。
「望まれ望んで|生《い》け|贄《にえ》になったのだろう。これはそんな女だ」
簡潔に言いきったそれに、ぎょっとレイムは目をむいてディーノを見る。
ディーノはたしかにその乙女を知っていた。
頭に|飾環《しょっかん》をのせた、立派な身なりの|麗《うるわ》しい乙女。
いかにも貴族階級の身分にある子女であるその上品な仕草。品の良さ。
「これ、誰? お姫様?」
単なる|好《こう》|奇《き》|心《しん》で、シルヴィンは尋ねる。
物知らずな小娘の問いに、ややディーノはうんざりしたが、同じく期待に満ちた|眼《まな》|差《ざ》しを向けてくるファラ・ハンを目にし、少しばかりの優越感に浸る。
今回は|生《なま》|意《い》|気《き》な魔道士のレイムまでが、|言《こと》|葉《ば》|尻《じり》を取ることなくディーノに頼り尋ねる表情を浮かべていたので、そんなに気分は悪くない。
ディーノはレイムに蔑むような目線を投げたが、レイムは甘んじてそれを受け入れた。
「この女は、トーラス・スカーレン直属の十の軍団のひとつ、黒の兵士の部隊長であり、|険《けわ》しい西の山岳地帯の一画に領地を持つ、ミザーレイ将軍の二番目の娘メイビク。『|琥《こ》|珀《はく》の姫』『静かの姫』の呼び名をもって知られている」
|琥《こ》|珀《はく》の姫の呼び名はわかる。|透《す》きとおる琥珀ほどに美しい髪は、そう呼ばれて不思議はない。
美しく高貴なる姫。|魔《ま》|物《もの》に身を捧げ、|囚《とら》われてなお、祈り続けている姫。
「なんて|勇《ゆう》|敢《かん》な方なのでしょう」
|溜《た》め|息《いき》をつき、涙ぐむかという|声《こわ》|音《ね》でしみじみとファラ・ハンがつぶやく。
言葉を耳にして、ディーノが吹きだした。声高らかに笑う。
死人を|愚《ぐ》|弄《ろう》するのも同じその態度に、レイムが目をむいて色をなした。
何をとレイムが口を開くより早く、ディーノが言葉を継ぐ。
「|体《てい》のいい理由をつけて、|厄《やっ》|介《かい》|払《ばら》いされたのに違いあるまい! 伝統などとは縁遠いただの成り上がりの将軍の娘、死にぞこないの姫など、どこの貴族が|娶《めと》るものか!」
「死にぞこないの姫!?」
|愕《がく》|然《ぜん》として目を見開き、|鸚《おう》|鵡《む》|返《がえ》しにレイムが大声で尋ねる。
|哄笑《こうしょう》しながらディーノは応じた。
「|貞淑《ていしゅく》と生命を|天《てん》|秤《びん》にかけて|舌《した》を|噛《か》んだのだ! 死に切れずおめおめと生き恥を|晒《さら》している不名誉な娘よ! 頭の足りぬミザーレイも願ってもない機会と喜んだに違いない!」
わけ知り顔なディーノの様子に、シルヴィンが|眉《まゆ》をひそめる。
「ちょっと待ちなさいよ、いったい、誰がお姫様を追いこんだの!?」
決めつけにちかい問いに、答えるかわりにディーノは、ふんと鼻を鳴らした。
「二年ほど前のことだ」
簡潔に言いきった。
音をたててレイムの頭から血がひいた。
二年前。
暴風にもにた勢いで血の|粛正《しゅくせい》をほどこし、ミザーレイ将軍の|館《やかた》を襲いきた盗賊。
ディーノを|頭《かしら》とする、|残虐極《ざんぎゃくきわ》まりない一軍。
たまたま将軍の|留《る》|守《す》、わずかな時間を奇襲したそれに、館はめちゃめちゃに荒らされた。
メイビク姫は一刀のもとに大勢の護衛を切り刻んだ|悪《あっ》|鬼《き》・ディーノに奪われ、館の東に位置する塔に連れ去られた。
嫁入り前の娘といえば、貴族間の|繋《つな》がりを深め友好を結ぶ重要な|持《も》ち|駒《ごま》のひとつとなりうる。
|蛮《ばん》|族《ぞく》の若者にいいように|蹂躪《じゅうりん》された娘など、家名にとって恥以外の何にもならない。
事実上そのようになって、家にいることを歓迎されるはずもない。
メイビクはそれをよく心得ていた。だから|舌《した》を|噛《か》んで自害する道を選んだ。
衣服に手をかけられる前に|果《か》|敢《かん》に舌を噛んだ|乙女《お と め》を、ディーノは見物した。
わずかに恐れを抱き、|惑《まど》いを内にもっていたメイビクは、半分以上も舌を噛み切りながらも、運悪く即座に死にきれなかった。死にきれないまま、急激に増していく恐怖に|戦《おのの》き|嘆《なげ》き、口から血を吹きださせながら、のた打ちまわった。石の塔の|床《ゆか》が、|生温《なまあたた》かいぬめりを放つ|真《しん》|紅《く》の液体で、どろりと汚れた。
ややあって|館《やかた》に帰ってきたミザーレイ将軍に盗賊たちは発見され、怒りの|鬼《き》|神《じん》と化した将軍にディーノを除く全員が無残に斬り捨てられた。
将軍に付き従い戻りきた|魔《ま》|道《どう》|士《し》が、館の中でただ一人発見できなかったメイビクの|行《ゆく》|方《え》を追って塔に現れた。
|自《みずか》らの血にまみれたメイビクは、自分を捜して現れた魔道士の姿を目に捕らえて失神した。
メイビクの命を救うため、白き|癒《いや》しの魔道にかかりきりになった魔道士の横を堂々とすりぬけて、ディーノはそこから|逃《のが》れた。
舌を失ったメイビクは、そうして『静かの姫』と呼ばれるようになった。
身を|汚《けが》されてはいないが、語る|術《すべ》を失った。
純潔を重んじたがために、傷を負った|淑女《しゅくじょ》となった。
メイビクは自家と他家を|繋《つな》ぐ、ミザーレイ将軍の娘としての存在価値を失った。
そして|生《い》け|贄《にえ》の処女たるにふさわしい乙女となった。
「なんてことを……!」
|憤《いきどお》りに青くなりながらレイムが|掠《かす》れ声でつぶやいた。
「俺が悪いわけではない」
抜け抜けと恥ずかしげもなくディーノはうそぶく。
予想したとおりのそれに力|萎《な》え、はぁとシルヴィンは息を吐いた。
あれこれと文句をつけたところで、ディーノには言うだけ|無《む》|駄《だ》であり、|黙《もく》|殺《さつ》してやるほうが自分にとってもまわりにとっても身のためである。
心の奥まで突き刺さる青い輝きが、|咎《とが》めるようにディーノを射る。
ぎくりと見返したディーノに、ファラ・ハンは顔を伏せて横を向いた。
ほんの少し|飛竜《ひりゅう》を寄せ、手をのばせば肩をつかめるほどの距離にファラ・ハンはいる。
動かずたしかにそこにいるのに、ふと距離が遠くなったような|錯《さっ》|覚《かく》を起こし、にわかにディーノはうろたえた。
「俺が……、悪いわけではない」
常になく、言い訳がましく繰りかえした。
「決まっていたのだ。生まれたときから。生誕の贈り物に魔道士の行う未来見の儀式で、予言されている。『金色の公子』と出会う前にあの女の身を|汚《けが》せる者は誰もいない。あの女は純潔を守ることと引き換えに言葉を失うことになっていたのだ。予言を信じるならば、もともとどこに|嫁《とつ》げる娘でもない。『金色の公子』と出会いその身にかかる定めを|解《と》かれるまで、この女は決して幸せにはなれない」
雄弁にディーノはまくしたてる。
ディーノから目をそらしたまま、ファラ・ハンは静かにかすかにうなずくような動作をし、そして|乙女《お と め》を見あげる。
ディーノの言うことが真実であるのなら。
襲いきた男がディーノでなくても、メイビクは同じ運命を|辿《たど》ることとなる。
また事実、そのような予言を背負っている娘が、政略結婚という役目を|担《にな》えるはずもない。
結婚したとしても事実をつくる前に口がきけなくなり、いつ現れるかわからない『金色の公子』などという若者を待ち続けなければならない女など、欲しがる物好きはいない。
予言で縛られるのは、過程ではなく結果そのものなのである。
|哀《かな》しい宿命を負った、|可《か》|憐《れん》なる乙女。
|辛《つら》く厳しい環境に身を置きながら、|気《け》|高《だか》く華麗に時を止めた姫君。
「金色の公子……」
哀しく|眉《まゆ》をひそめ、レイムはつぶやいた。
乙女は、|幻《まぼろし》となって現れたメイビクは、レイムのことを金色の|魔《ま》|道《どう》|士《し》と呼んだ。
たしかにレイムは見事な金色の髪をもっている。
誰の目にも明らかなそれは、|跳《は》ね飛んだフードから|零《こぼ》れ、今もそのままだ。
レイムは魔道士である。
いかに『金色』の呼び名を得ることができても、公子ではない。
血が運命づける階級を、後から手に入れることは誰にもできない。
予言の関与する規定の厳格さに、魔道士であるレイムは|嫌《いや》というほど精通している。
たとえ魔物を倒しても、本当の意味において、このままではメイビクは救えない。
(僕の力があなたになんの手助けもできなくても)
(世界にはきっと、あなたを救える方がおられるはずです)
(僕は……)
レイムはきつく|唇《くちびる》を|噛《か》みしめた。
(あなたの幸せを願います……)
腕をのばし、|自《みずか》らの胸に抱きたいと願った乙女。
周囲のことなど失念し、命すら危険に|晒《さら》しながら追い求めたひと。
おそらくは金色の公子のためだけに存在し、彼との運命を定められた女性。
決して一介の|魔《ま》|道《どう》|士《し》である自分などに振り向くことなどない|乙女《お と め》。
もしも今ここで魔物を倒さなければ、ずっとここに封じられたままであるのだろう乙女。
氷に封じられ、ここにいるかぎり、いつでもレイムは彼女の姿を見ることができる。
できるが……。
常に他人のことを優先してしまう性格の、誠実で実直なレイムには、とてもそのようなことはできない。|愚《ぐ》|劣《れつ》な考えを抱くことすら恥だと感じ、|自《みずか》らを責めさいなんでしまう。
体から|魂《たましい》を抜き取られたように力が入らなかった。
目を閉じて、すべてがもともと存在しなかったことだと思えれば、現実から|逃《とう》|避《ひ》できれば、どんなに楽だったかしれない。
だがレイムはこの乙女に|惹《ひ》かれている。
その|想《おも》いが真実であるだけに、失うわけにはいかない。
あの神秘な|紫色《むらさきいろ》の|瞳《ひとみ》が金色の公子を映し、幸せと向かい合い見開かれる瞬間まで、レイムは彼女を守る者の一人であるべきなのだ。
かつて|仕《つか》えた姫に何が起こったのか、レイムはいまひとつ釈然としないものが残っている。
でも今度は、今度こそは、誰にも|邪《じゃ》|魔《ま》をさせない。
メイビク姫が恋しい若者に|娶《めと》られるまで、見届けたい。
きちんと、見送ってさしあげたい。
切ない。
|哀《かな》しい。
寂しい。
でも。
それでも。
構わない。
意を固めたレイムは、|己《おのれ》の心の片隅にわだかまり、迷える弱さを振り払った。
「僕はさっきこの姫と会いました。|雪竜《せつりゅう》という魔物を退治し、これ以上の被害を広げないでくれと願われました」
|毅《き》|然《ぜん》とした声で、レイムは告げた。
いつものレイムの声。まっすぐに気持ちよくとおった、彼そのものを|象徴《しょうちょう》するかのような音。
くるんとファラ・ハンが首をめぐらせる。
そしてさきほどのレイムの行動を理解した。
己の肉体から抜けだすことのできた精神体は、わずかなあいだしかひとに接することはできない。抜けでたまま長くいると、そのまま戻れなくなってしまう。肉体が死んだと同じことになってしまう。精神体は、自分がそうであると状態を告げてはいけない。正体を明かしてもまた、肉体に戻れなくなるからだ。
レイムはメイビクを生きたひととして見ていたに違いない。
氷に封じられたメイビクの位置から見ると、さっきレイムが足を踏みはずした場所が最短距離となる。メイビクの心は、ぎりぎりまでレイムと語り、|慌《あわ》てて肉体に戻ったのだ。クレバス目がけて一直線に去りいく彼女を見て、レイムが驚かないはずがない。
「それで懸命に後を追っていらしたのですね。でも|駄《だ》|目《め》ですのよ。もう少し、自分のことも考えてくださいね」
人助けをするには、レイムはあまり向いていない。あまりに|己《おのれ》の身をかえりみなさ過ぎる。
|飛翔《ひしょう》の|魔《ま》|道《どう》を行おうにも、|呪《まじな》い粉の小袋は落としていて、シルヴィンに拾われている。
「すみません……」
恥じ入ってレイムは|頬《ほお》を赤らめ、うつむいた。
シルヴィンが難しい顔をする。
「|雪竜《せつりゅう》ねぇ……」
お|伽話《とぎばなし》に聞いたそれを、思い出す。
「どのような|魔《ま》|物《もの》ですの?」
背後からファラ・ハンがシルヴィンに問いかける。
シルヴィンは少し後ろを振りかえるよう体をひねり、ファラ・ハンに顔を向ける。
「私の里でそう呼んでいたのは精霊みたいな、目に見えないもののことだったわ。谷のあいだを抜けて吹き下りてくる、すごく冷たい風。遠くに降った雪もさらって連れてくる、強くって冷たい風のことをそう呼んだわ」
|風《かざ》|花《ばな》を伴って吹き下りてくる風。突風のように、あるとき固まって吹き下りてくるそれは、真っ白に|凍《こご》えた巨大な寒気の|塊《かたまり》に見える。
その形を模して、|雪竜《せつりゅう》という呼び名をもつ。
「雪竜は思いもかけないところに大きな吹き溜まりを作るわ。小さな子供や、ときには大人だって、その吹き溜まりに埋もれて見つからなくなって|亡《な》くなった。雪竜が『ひとを食らう』とかいうのは、そんな感じのたとえ話なのだけれど」
形持つ魔物とはなりえないか。
ディーノもレイムも異論を|唱《とな》えないところを見ると、それは世界じゅうの者がそうと知る、共通のものであったらしい。
「それでも」
思案するシルヴィンに、こわい顔でレイムが言う。
「それが時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を持っているらしいんです。ただの魔を帯びた寒気の塊でも、宝珠があれば実体化することなど容易なはずです」
理屈は成り立つ。
「実体を得た雪竜は冬の魔物と化してこの地を襲ったのでしょう」
すべてを寒気に封じこめ、生ある者たちの日常を奪い、その|息吹《い ぶ き》を食らったのだ。
暴れまわる雪竜に途方に暮れた領主、ミザーレイ将軍が娘を|生《い》け|贄《にえ》に捧げ、魔物を|鎮《しず》めようとしたが、それはただの|徒《と》|労《ろう》に終わった。多くの者たちが氷に閉ざされ時を奪われて、|自《みずか》らの内なる|幽《ゆう》|冥《めい》|界《かい》をさまよっている。
「そうと決まれば」
思い立ったら即実行型のシルヴィンは、素早く飛竜の|手《た》|綱《づな》をさばく。
向け変えた飛竜の背で、とってかえそうとしたシルヴィンは|怪《け》|訝《げん》な顔をして|眉《まゆ》をひそめた。
本来なら行動を起こせば矢のようにすっ飛んでいくだろう過激な娘が、つと動きをひそめたことに不審を抱いてディーノが首をめぐらせる。
レイムが飛竜の向きを変える。
レイムを捜してこの奥まで踏みこんできたディーノやシルヴィンたちは、|洞《どう》|窟《くつ》|探《たん》|検《けん》の経験にのっとって要所要所を|目印《めじるし》として記憶することを|怠《おこた》らなかった。
色をつけたり|紐《ひも》を結びつけたりということは、すぐに凍りついたり雪がかぶってしまう可能性のあるここでは得策ではない。だから、大まかでも確実にそれとわかるものを記憶に留めておくことが、よりふさわしい。
だが。
振りかえった先に、口を開けていたはずのクレバスはなかった。
|天井《てんじょう》から幾本も垂れさがっていた氷柱も、|凍《い》てついた氷の柱も、すべて見覚えのないものに変わっている。
「なぜ……?」
|茫《ぼう》|然《ぜん》としてシルヴィンがつぶやく。
ディーノの肩の上に乗っていた小さな|飛竜《ひりゅう》が、ひとつ大きなくしゃみをした。
ぶるっと身を震わせた飛竜は、|慌《あわ》てたようにディーノの首にしがみつく。
くっつかれたディーノは、わっと悲鳴をあげてそれをむしり取った。
くるんと身を丸めたまま投げ捨てられた小さな飛竜を、驚いたシルヴィンが手をのばして捕まえる。
飛竜を自分の|鞍《くら》の前に乗せようとしたシルヴィンは、目をぱちくりさせて腕を止める。
飛竜の体の表面が白く|濁《にご》り、|霜《しも》が浮いていた。翼のあたりでは凍りついているところまである。
たしかに、こんな冷えきったものに突然首にしがみつかれてはたまったものではない。
赤ん坊だとはいえ、飛竜が凍るなどという話、シルヴィンはこれまで耳にしたことがない。
「どうしたのですか?」
穏やかに問いかけたファラ・ハンに、シルヴィンは|襟《えり》|首《くび》を捕まえたままの小さな飛竜を持ったまま、振りかえった。
間近く目にしたものにファラ・ハンはくるんと愛らしい目を見開く。
「ひとところに長居は無用のようですね」
雪竜の収集物は見せてもらった。
自分たちを取り巻く状況を理解し、ファラ・ハンは|可《か》|憐《れん》な表情を引きしめた。
左手で|印《いん》を結んだファラ・ハンは、もう一方の腕に飛竜を受け取って抱く。
|魔《ま》|道《どう》を受け、凍りかけていた小さな飛竜の体がぽわりと輝いた。
身に染みとおる|温《あたた》かさに、飛竜はほうと安心し歓声をあげて、ファラ・ハンの胸に抱きついた。
「俺たちだけが『特別』だからか?」
|聖《きよ》き光の祝福を受け選ばれた者であるからなのか。
いまだ聖選を信じきれていないディーノは、いぶかしむようにレイムに問う。
レイムは目だけでうなずいた。
「急ぎましょう」
うながされ、ディーノが|飛竜《ひりゅう》を駆った。
|目印《めじるし》こそ失ったが、距離感や方向感覚まで失ってはいない。
順序だてて雪竜の本体を捜すのなら、もう一度最初に吸いこまれたところに戻り、そこから|獲《え》|物《もの》を取りこもうとする、雪竜の常の形を利用し奥まで踏みこむのが得策だ。ディーノたちの飛竜は普通のそれより遥かに優れたものであったため、彼らをどうにか助けようと懸命にましなところに向かったのだから、そこからはずいぶんはずれている。それにもし途中で違う|魔《ま》|物《もの》に襲われたりほかの理由で危なくなっても、外に通じるあたりまで近づいていたならば、氷壁を|叩《たた》き壊し、岩塊を吹き飛ばして脱出できる。
いかなる場所であろうとも|自《みずか》らの力で生きぬいた、野性児たるディーノの勘に狂いはない。
遅れじと、レイムとシルヴィンがディーノの飛竜の後を追った。
動きだした彼らに合わせるかのように、にわかに周囲を舞っていた風が渦を巻き、ゆるりと流れはじめた。
飛竜は|己《おのれ》を取りこもうとまといつく|風《かざ》|花《ばな》を押しのけるように、翼を振って進んだ。
あいだに割りこみ各人を切り離すかの勢いで、白く|凍《こご》えた風が舞う。
なんの前触れもなく、突然に目の前に氷の壁や柱が|屹《きつ》|立《りつ》している。幾度も幾度も行く手を|塞《ふさ》ぎ、出没する。冷たく|密《ひそ》やかに|佇《たたず》んで待ち構え、気づき慌てる彼らをあざ笑う透明な輝き。
遥かな向こうを|透《す》かし見せる、果てしない|玻《は》|璃《り》の色。
どこから入りこんでいるのか定かでない淡く柔らかな光が、反射し屈折され、乱れ交わる。
|偽鏡《にせかがみ》となりいくつもの虚像が、思いもかけないところに結ばれる。そこにあるはずのない姿が鮮明に描かれる。ある者は静止し、またある者は今どこかで動いているそれを伝えている。
内に眠れる生命を閉じこめた、|哀《かな》しい氷が立ちはだかる。
先陣をきり、何もかもを|粉《ふん》|砕《さい》して進むかと思われた乱暴者は、案外|穏《おん》|便《びん》な行動を選んで、障害物のことごとくを|迂《う》|回《かい》した。
いまいましげに|舌《した》を鳴らし、|眉《まゆ》を|怒《いか》らせながら、巧みに|手《た》|綱《づな》がさばかれる。
風花に巻かれ、周囲の広さが釈然としなくなっていた。
白く|濁《にご》り乱れる視界では、高さや狭さがまったく|把《は》|握《あく》できない。
出没する氷柱や氷壁、|氷塊《ひょうかい》がその都度、彼らの居場所の感じを知らしめているにすぎない。
ファラ・ハンを伴ったシルヴィンに追い立てられるようにして、レイムは懸命にディーノの後を追う。
ディーノは自分の手足そのもの、体の一部ででもあるように|飛竜《ひりゅう》とぴったり呼吸を合わせて巧みに進む。舞うほども、あまりにも鮮やかに、方向を選び変えながら飛ぶ。
かすみ|凍《こご》える風の向こうにある飛竜の尾の先を追いかけることだけで必死で、レイムにはまわりのことなどほとんど見る余裕などない。
ぶわりと強い横風が吹いた。
|狙《ねら》われたように、ファラ・ハンの腕に抱かれていた飛竜の翼が風にあおられ広がった。
情けない悲鳴をあげて、風を受けた飛竜がファラ・ハンの腕からするりと抜け落ちる。
あっと目を見開くファラ・ハンの前で、飛竜が軽々と突風にさらわれる。
小さな飛竜は、|凍《い》てついていた体をまだ丸めていたままだった。翼を広げれば端から|凍《こお》りついてしまうかもしれないという|危《き》|惧《ぐ》があって、恐ろしくて飛べずにいた。
ここで皆とはぐれてしまえば、凍れる風に取り巻かれ、氷詰めのオブジェのひとつとなってしまうことは|必《ひっ》|至《し》だ。
「シルヴィン! 少し待って!」
言うが早いかファラ・ハンは|鞍《くら》から腰を|滑《すべ》らせた。
鞍にかかる重みが突然に消失したことを体で感じ、シルヴィンは驚いて振りかえる。
「ファラ・ハンっ!」
|怒《ど》|号《ごう》のような悲鳴をあげて、シルヴィンが名を呼んだ。
純白の翼を広げたファラ・ハンが、風のなか、遠くなろうとする小さな飛竜に腕をのばす。
風にさらわれ、かすかに耳に聞こえたシルヴィンの声に、ぴくんとレイムが緊張した。
|手《た》|綱《づな》を握り道を探りながら進んでいたディーノの目の前で、風が|唸《うな》る。
悪意に満ちたそれは、|吹雪《ふ ぶ き》を混じえ視界を奪い去るもの。
行く手を|塞《ふさ》ぐように白いものが広がった。
|舌《した》|打《う》ちし、ディーノは飛竜の向きを変えようとして、ぎくりと腕を止めた。
白いものは雪の色ではなかった。
乱暴に吹きすさばれ、もてあそばれる衣服の色。
大きく広げられた翼の色。
そして激しくそよぐ長い黒髪。
二つの青い|宝玉《ほうぎょく》の色をした|瞳《ひとみ》。
懸命に腕をさしのべてくる|可《か》|憐《れん》な|乙女《お と め》の姿。
ディーノに向かって。
どくんとひとつ、胸が大きく鼓動した。
「!!」
ディーノはおもわずその場で|飛竜《ひりゅう》に急制動をかけていた。
突然に近くなったディーノの飛竜。
追突しかけ、レイムは慌ててディーノの横をすりぬける。
シルヴィンは飛竜を駆る手をゆるめ、ファラ・ハンに振りかえる。
各人のあいだを風が割った。
白く|凍《こご》えて渦巻いて、取りかこんだ。
一列に並び飛んでいた|繋《つな》がりを絶ちきった。
第十一章 |迷宮《めいきゅう》
ファラ・ハンの手が小さな飛竜の|後《うし》ろ|肢《あし》をつかんだ。
|己《おのれ》を捕らえた白い手を感じ、飛竜は自分から相手にすがりつこうと体を曲げて前肢をのばす。
|細《こま》かな氷を含んだ風が、ばちばちと乱暴にファラ・ハンを打ちすえた。
翼も衣服も髪も、いいように風に|翻《ほん》|弄《ろう》されて、体が引き裂けそうになる。
|鋭《するど》くとがった微細な氷片に襲われて、目を開けることも容易ではない。
飛竜の背の上では、前にいたシルヴィンが風よけになっていてくれていたことを、ファラ・ハンは改めて知る。風をきって|果《か》|敢《かん》に前進する飛竜では、いまのファラ・ハンが感じているよりも大きな負担がシルヴィンにかかっていたのに違いない。
翼を使わなければ落ちてしまうし、広げていたのでは強風をまともに食らい、あまりにも|辛《つら》い。落ちないようにするだけで精いっぱいで、どこに向かうも何もない。
たまりかねたファラ・ハンは個人防御の|結《けっ》|界《かい》を作る|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた。
ファラ・ハンを取り巻く空間が|結《けっ》|界《かい》に守られ、そこだけふいと風が|凪《な》いだ。
ようやく|人《ひと》|心地《ご こ ち》つき、ファラ・ハンはほうと息を吐く。
自力でファラ・ハンの腕によじ上った|飛竜《ひりゅう》は、いくつもの氷片にかすめられ、浅く切り裂かれて血をにじませる白い腕の傷に、キュイと悲しげに鼻を鳴らす。
自分のために傷を負ったファラ・ハンにごめんなさいと|詫《わ》びるよう、そろそろと傷を|舐《な》めた。
|温《あたた》かく柔らかいもののくすぐる感触に、ファラ・ハンはびっくりして飛竜を見る。
視線を受けた飛竜は、申し訳なさそうに小さく小さく身を縮める。
「平気よ、このくらい」
捕まえていた|後《うし》ろ|肢《あし》から手を放し、ファラ・ハンは優しく言って、飛竜の頭を|撫《な》でた。
何もかもが|凍《い》てつかずにはいられないこんな場所にあっても、ファラ・ハンの|微《ほほ》|笑《え》みは温かく空気の色を変えるかの|錯《さっ》|覚《かく》を起こさせる。
生命が芽吹き、|弾《はじ》けようとする春の色。まばゆい|陽《ひ》をいっぱいに受け、|瑞《みず》|々《みず》しく|爽《さわ》やかに咲きこぼれたばかりの、|可《か》|憐《れん》なる花の|薫《かお》りが満ちるよう。
この小さな飛竜が卵から|孵《か》えったときには、もうすでに世界は崩壊の|兆《きざ》しに襲われていた。
小さな飛竜は卵の中でうらうらと眠りながら、|朽《く》ちていく花々の匂いを|嗅《か》いでいた。
|崩《くず》れ失われてゆくものたちの最後の姿さえ目にすることもできず、寂しく日を重ねていた。
見ることができなかった飛竜が覚えているのは、それらが伝えていた感覚だけである。
小さな飛竜にとっては、その|趣《おもむき》をもつファラ・ハンは|焦《こ》がれた自然そのものに感じられた。
だからファラ・ハンがとても大切に思えた。
おもわず嬉しくなって、飛竜はファラ・ハンの胸に飛びこんだ。
甘えて甘えて身をすり寄せてくる飛竜を、小さな子供をあやすように、微笑んでファラ・ハンが抱きしめる。
赤ん坊の飛竜の|鱗《うろこ》は、まだそんなに硬くない。全体的につるんとしていて、弾力がある。
これからどんどん大きくなっていくだろう生命のひとつ。
世界じゅうで懸命に生きている命のひとつ。
ファラ・ハンの腕に|委《ゆだ》ねられたそれ。
絶対的な信頼を置き、安心してすがってくるもの。
飛竜は|牝《めす》と子だけでひとつの群れをつくる。飛竜の|雄《おす》は群れない。
大きくなった子は、牝ならそこに残り、雄は巣離れして群れを出ていく。
|飛竜《ひりゅう》の|牝《めす》たちにとって、子は共通の宝である。自分で産んだ卵はもちろん自分で|温《あたた》めて|孵《かえ》すが、卵を産んだことのない若い牝は、自分も卵を温めたいと、親が|餌《えさ》をとるため座をはずすときを、わくわくと待ち構えていたりする。
このまま世界の崩壊が進行すれば、|成獣《せいじゅう》でないものにとって状況は|過《か》|酷《こく》を極める。彼らこそが、ばたばたと死んでいくのだ。
普通は牝が子を伴って群れを離れるなどということはない。群れる動物が、群れを離れて出るのには相当の|覚《かく》|悟《ご》があったに違いない。しかも、産まれて間もない子を伴うとなれば。
世界救済を願うファラ・ハンたち聖戦士同様、集まりきた彼ら飛竜もまた『特別』の存在であるのに違いあるまい。
ほんの少しのあいだだけ飛竜を抱きしめたファラ・ハンは、素早く身を|翻《ひるがえ》した。
シルヴィンのところに戻らねばならない。
視界は|凍《こご》える風に|遮《さえぎ》られて無に等しいが、|結《けっ》|界《かい》に守られているかぎり、雪や氷片に襲われて行く手を|阻《はば》まれることはない。
ファラ・ハンは片手で|印《いん》を結び、指を鳴らして『目』の|魔《ま》|道《どう》を行う。
視界から|邪《じゃ》|魔《ま》をするものを|拭《ぬぐ》い捨てたファラ・ハンは、しかし、飛竜の速度を落とし、振りかえったはずのシルヴィンを見つけることはできなかった。
レイムもディーノも見えなかった。彼らの乗った飛竜の影も形も。
いや。
ファラ・ハンは、氷の壁や柱に取りかこまれて孤立している自分を、初めて発見した。
かっちりと囲まれているのではない。
ところどころに大きな飛竜でさえ、楽に抜けでることのできる|透《す》き間が開いている。まったく閉ざされているわけではない。だから進めるのだ。少しずつでも、目指す方向に|繋《つな》がる道があるに違いない。向こうに見えるあれは、今にも|崩《くず》れそうに|脆《もろ》い氷のように見える。
しかしそれは決して望ましいことではない。
ファラ・ハンは表情を|険《けわ》しくし、きっと優美な|眉《まゆ》をつりあげた。
「よくわかったわ、これがお前の手なのね!」
雪に|凍《こご》え迷える旅人たちを|惑《まど》わせ、いつのまにか取りこんでしまう。
この山自体が雪竜なのだ。
風を引きこみ風を吐きだし、|凍《こお》れる|魔《ま》|物《もの》。
|間《ま》|違《ちが》いなく時の|宝《ほう》|珠《しゅ》はここにある。
深呼吸したファラ・ハンの胸元が光り、全身に輝きが満ちた。
ファラ・ハンの中に眠る二つの時の宝珠が仲間を呼ぶ。
引き合うそれに導かれ、ファラ・ハンは大きく翼を打ち振った。
荷物になるだろうことを察した|飛竜《ひりゅう》はファラ・ハンの腕から出て、|結《けっ》|界《かい》の中をはずれぬよう注意しながら、横につき従った。
純白の翼を力強く動かし|華《か》|麗《れい》に飛ぶ|乙女《お と め》に風が|奔《はし》った。
凶悪に|凍《こお》る風。白銀に輝く先端を|狼《おおかみ》の上半身の形に変えたそれ。
結界めがけ強行に迫りくる|小魔《しょうま》。
「キャウア!」
小さな首をめぐらせた飛竜がファラ・ハンをかばい守るよう、素早く|盾《たて》になる。
経験もなく、|格《かっ》|好《こう》ばかりだったが精いっぱいの虚勢を張り、|成獣《せいじゅう》の|真《ま》|似《ね》をして聖なる火炎を吐いた。
大きなアクションをしてみても、勢いよくただの普通の|炎《ほのお》を吐きだすだけの能力しかない。
|牙《きば》もろくに生えそろわない口からほとばしったそれは、だが|轟《ごう》|音《おん》を発しながら渦巻く|焔《ほのお》の|瀧《たき》となり小魔に襲いかかった。おぞましい悲鳴をあげ、一瞬にして小魔が溶けて消失する。
|突《とつ》|如《じょ》|弾《はじ》けた火炎の光に、びっくりしてファラ・ハンが振りかえる。
振りかえったものの、そこには何が起こったのか知らしめるものは何も残っていなかった。
とうの飛竜はといえば、自分のしでかしたことが信じられない、きょとんとした顔をしていた。真ん丸な目を|瞬《まばた》きし、くるりと|尻尾《し っ ぽ》を丸めてぱたぱたと翼を振って浮かんでいる。
この小さな|飛竜《ひりゅう》は、さっきファラ・ハンの|肌《はだ》ににじんだ血を|舐《な》めている。
ファラ・ハンのもつ神秘なる力を得ているのだ。
彼女を食らおうと襲いくる|魔《ま》|物《もの》のように、強大になりたいなどの願望が明確でなかったため、力は秘められたまま具現化しなかったに過ぎない。
ぴろりと|舌《した》を出し、口のまわりを|舐《な》めた飛竜は、そこにかすかに残るファラ・ハンの血の甘い感覚に、|己《おのれ》の身に起こったそれを理解した。歓喜した飛竜は、|咽《のど》をそらして|哭《な》く。
これで彼も足手まといにはならない。
小魔・|風《ふう》|狼《ろう》が今度はファラ・ハンの行く手真正面から襲いかかった。
はっと目の端にそれを捕らえたファラ・ハンが首を戻し、素早く飛竜は彼女の前に出る。
今度は自信をもって|焔《ほのお》を吐いた。
焔の光に照らされ消滅する風狼があげた声に、ファラ・ハンは先ほど何が起こったのかを知った。
風狼はファラ・ハンたちを時の|宝《ほう》|珠《しゅ》に近づけまいと次々に集まりきた。
意欲満々で待ち構え、むんと口を引き結んだ飛竜の鼻の穴から火炎混じりの鼻息が漏れる。
くすっと|微《ほほ》|笑《え》んだファラ・ハンは、目を閉じて|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えながら両手で|拳《こぶし》をつくり、それがぴったりと横に並ぶようそれぞれの親指と人指し指同士をくっつけた。
宝珠を二つ集めたことにより、ファラ・ハン自身がもつ呪文が確実に増えている。
唱えられた呪文に、|繋《つな》がった手のあいだからぱあっと黄色い光が|弾《はじ》け、白い右手の拳を包みこむ。
その形のまま、すうっと横に引き離される拳のあいだに光がのびる。
静かに引かれたそれは、拳という|鞘《さや》から引きだされた光の|細剣《レ ピ ア》だった。
白き魔道の生みだした光のレピアは、その|華《きゃ》|奢《しゃ》な見かけにとらわれる物ではない。
大きさや|位《くらい》によって違いはあるが、小魔に対しては触れるだけでも絶大な浄化能力をもつ。
輝く光のレピアを握ったファラ・ハンは、勇ましく表情を引きしめ、普通の長剣を扱うようにそれを構えた。
ファラ・ハンも戦う。
戦って進む。
なんとかディーノの飛竜との|衝突《しょうとつ》をまぬがれたレイムは、野性児たる若者の常にない反応に驚いて振りかえった。後ろに続くレイムの力量を考慮すれば、とてもあんな急制動をかけられるはずがない。急制動をかけながら、あの|鋭《するど》く光る青い|瞳《ひとみ》をめぐらせて後者をかえりみないはずがない。もしも|無《ぶ》|様《ざま》にレイムがディーノと|衝突《しょうとつ》しても、あれでは文句の言いようもない。
この状況から判断するに、非は一方的にディーノのほうにある。たとえどんなにまともにぶつけられても、力量と余裕からディーノが悪いに決まっている。それすらもままならず、現実に飛竜を止めてしまったディーノ。突然に飛竜を止めたのには何かただならぬ理由があったに違いない。でなければディーノほどの男が、あんな|醜態《しゅうたい》を|晒《さら》すはずがない。
「ディーノ! いったい……」
振りかえりながらどうしたのかと問いかけたレイムは、なんの前触れもなく激しく唐突に襲いきた|吹雪《ふ ぶ き》に顔面をなぶられ、声を最後まで言葉にすることができなかった。
|細《こま》かな|鋭《するど》い氷片を含むそれに、たまらず腕をあげて目をかばう。
まるで集団の昆虫の大軍か何かのように、|怒《ど》|濤《とう》のごとく襲いきた突風は、すぐにやんだ。
あおられ吹き飛ばされかけながら、飛竜はなんとかその場に留まった。
息をすることすらできなかったレイムは、通り過ぎた風に、ほうと安心して腕をおろす。
「大丈夫かい!? ディーノ……」
呼びかけながら顔をあげたレイムは、ぎょっと目を見開いた。
白く|凍《こご》える風に|阻《はば》まれて何も見えない。すっかり取りかこまれてしまっている。
後に続いていたシルヴィンの飛竜も、ディーノの飛竜も何も目で確かめることができない。
目をこらし|眺《なが》めまわそうにも、うかうかしているととがった氷片に目をやられてしまう。
|眉《まゆ》をひそめたレイムは、腰につるした袋のひとつに指を入れた。指に|呪《まじな》い粉を固めたチョークをこすりつけ、それで空に個人防御の|結《けっ》|界《かい》の|魔《ま》|道《どう》をほどこすのだ。
完成した結界の内におさまり、荒々しく取り巻いていた風が|弾《はじ》かれて遠ざかった。
粉のついた指で|印《いん》を結んで視力を増強させたレイムは、改めて周囲を見まわす。
しかしそこには、誰もいない。あるのはただ、どこまでも透明な氷たちだけである。
レイムは自分が孤立したことを知った。
そしてほかの者たちも、それぞれにはぐれてしまったのではないかと予測した。
シルヴィンはファラ・ハンを呼んだように思う。あの娘がファラ・ハンを見捨てるはずがない。飛竜の翼の音とともに聞こえた声は、まるで後ろを向いていたかのように遠かった。
シルヴィンがよそ見をしていたならば、彼女の駆る飛竜はディーノの飛竜に突っこんでいったはずだ。あの|賑《にぎ》やかな娘が叫びのひとつもあげないはずはない。
しかしそれらしいものが聞こえてこなかったとするならば、そのような事態が起こらなかったということになる。
氷の柱や壁に隔てられてしまったが、彼らとの距離はまだそんなに開いてはいないはずだ。
レイムはそろそろと|飛竜《ひりゅう》を戻した。立ちふさがる|氷壁《ひょうへき》を見あげる。
明らかに悪意をもってレイムを|阻《はば》んでいる。
だが少し飛竜を下に飛ばせ右にずれるとするならば、楽に通りぬけられそうな場所がある。
透明な氷の壁の向こうに、目線を変えるちょっとした方向の違いだけで、少しばかりの距離を隔てただろうディーノの横顔がかいま見える。
この向こうにディーノがいる。
なんともいえない|哀《かな》しい表情を浮かべた、傷ついた|獣《けもの》のようなディーノだった。
やや離れた氷の向こうには、飛竜の背に乗るシルヴィンとファラ・ハンの姿も見える。
どちらもそんなに離れてはいない。|他《た》|愛《あい》ない氷の向こう側。
おもわず飛竜を動かそうとする手を、きつく握りしめ、レイムは止めた。
これはただの氷ではない。光源がどことも定かでないのに、こんなにはっきりと向こうを|透《す》かし見せるなどという不思議を簡単に認めてはいけない。
|蠢《うごめ》きひとを|欺《あざむ》く|魔《ま》の氷に|騙《だま》されてはならない。
今現実に孤立してしまったのなら、なんとしてでも一人でこの場を乗りきらねばならない。
誰もが一人の戦士たる以上、甘えや頼り合いはふさわしくない。
たとえはぐれても、同じ目的をもつ彼らが完全にはぐれてしまうはずはない。
視界の端で、青い色が動いた。意思に関わりなくレイムの胸がぎゅっと締めつけられる。
|弾《はじ》かれるように首をめぐらせたレイムが見たのは、透明な薄い氷の壁を隔てた向こうの光景。
|砕《くだ》けて落ちていくいくつもの巨大な|氷塊《ひょうかい》の下にあり、打ち|崩《くず》されようとしている氷。
ひとを閉じこめた氷。メイビク姫を閉じこめた、それ。
レイムの呼吸が止まった。|翠色《みどりいろ》の|瞳《ひとみ》をもつ目が張り裂けようとするほど大きく見開かれた。
見つめ続けるなか、氷塊は|無《む》|慈《じ》|悲《ひ》に姫の氷に降り注ぐ。端からどんどんと確実に|砕《くだ》いていく。
眠れるメイビクの髪が、氷からはみでて舞う。
(やめて!!)
叫びだしそうになったレイムは、ぎりっと歯を食いしばり耐えた。
そんなことはあるはずがない。
あの姫は、メイビクは金色の公子を待つ姫。あの細いたおやかな両肩に重い宿命を負う姫。
だからあのようにして死んでしまうはずがない。
(|騙《だま》されない)
(騙されない)
(騙されない)
レイムは心の中で|呪《じゅ》|文《もん》のように繰りかえした。
|氷塊《ひょうかい》に押しつぶされメイビクの頭が割れた。|脳漿《のうしょう》と眼球がどろりとはみだした。
骨が折れ|砕《くだ》けて青い衣服を切り裂いて飛び出、|迸《ほとばし》った朱の色で周辺が|斑《まだら》に染まった。
ぶちまかれた肉片が氷塊とともに転がり落ちる。はみ出した内臓が|擦《す》りつぶされる。
|醜《みにく》い肉塊の集まりにすぎないものと化してゆく。
半分だけ|奇《き》|跡《せき》|的《てき》に残ったメイビクの顔が、ぐらりとかしいでレイムのほうを向く。
神秘な|紫《むらさき》の|瞳《ひとみ》がレイムをまっすぐに射る。
目の前に繰り広げられるそれは、たしかに|生《なま》|々《なま》しく、ついすぐそこで行われているそれのように見えた。
だが違う。
違う。
あれは。
あれはレイムの心の弱みだ。
|魔《ま》|物《もの》が好んでつけいるレイムの弱みだ。
|錯《さっ》|覚《かく》に過ぎない。
|歯《は》|噛《が》みしながら、レイムは必死に自分の理性に呼びかける。
あの姫はたしかにこの世に一人、ただ一度の存在であるのかもしれない。
しかしメイビクを本当に救いだすことができるのは、救われた世界でのことだ。
世界救済なかばである今、どんなことをしてもメイビクが救われることはないのだ。
救世の聖戦士であるレイムは、世界すべての希望を|担《にな》う一人である。
決して一人の意思で先走ったり行動したりしてはならない。
一見物静かで、|脆《もろ》くあるともとられるレイムの優しさは、彼のもつ誠実さそのものである。
実直で|真《ま》|面《じ》|目《め》な分だけ|融《ゆう》|通《づう》がきかず、誰よりも|頑《かたく》ななのだ。
決して|己《おのれ》の情に|溺《おぼ》れ、周囲の状況を失念して流されることを|潔《いさぎよ》しとはしない。
しかしこれがもしレイムでなかったのなら。
|愛《いと》しい者の無残な姿を目にしようとした者は、我が身の危険もかえりみず、そこに足を向けるに違いない。|嫌《いや》でもそうせずにはいられないものを、この氷は映すのだ。
むかむかむかとレイムの内に怒りがこみあげた。手段の|汚《きたな》さに心の奥底から|憤《ふん》|慨《がい》した。
念をこらしたレイムは、聖女の波動を追うために|魔《ま》|道《どう》|印《いん》をきる。
同じような目にあっていたとしても、ファラ・ハンならばそれを乗りこえられる強さをもっているはずだと信じて|微《み》|塵《じん》も疑わなかった。
ファラ・ハンは時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を捜している。
彼女を守り助けるため、一刻も早くレイムはそばに行かなければならない。
そのレイムの考えを読むように。
|氷壁《ひょうへき》がいくつかごてごてと移動をした。
レイムの進行を|邪《じゃ》|魔《ま》する|意《い》|図《と》が明らかだった。
どこからともなく、白銀の|狼《おおかみ》の形をした風が激しく空を切りながら集まりきた。
怒りの表情で、ぎっと|瞳《ひとみ》を|険《けわ》しくしたレイムが立ちはだかる氷を|睨《にら》む。
普段が穏やかで優しいだけに、ぞっと背筋の寒くなる迫力があった。
襲いくる|魔《ま》|物《もの》たち、行く手を|阻《はば》む氷壁に向けて。
清らかに澄みわたるレイムの声が|爆《ばく》|砕《さい》の|呪《じゅ》|文《もん》を叫んだ。
ファラ・ハンに振りかえったシルヴィンは、襲いきた|突《とっ》|風《ぷう》に、おもわず反射的に固く目を閉じた。
|凄《すさ》まじい勢いで通り過ぎた風は、冷たく|凍《こご》えた氷の粒をたくさん含み、かなり痛かった。
さらに何事か叫ぼうとしていたシルヴィンも、これにはさすがに口をつぐむしかない。
はやる気持ちをなんとかこらえてやり過ごし、シルヴィンは顔をあげる。
白く渦巻く風の向こうにはしかし、ファラ・ハンのものらしい影も形も見えなかった。
もしかしたら風にやられたのか。
心に浮かぶ暗い|危《き》|惧《ぐ》を、シルヴィンは強く頭を振って自分の中から追い払う。
もしそうならば、シルヴィンの耳に彼女の|咽《のど》から|滑《すべ》りでた悲鳴が届かぬはずがない。
いかにか弱い姿形をしていても、ファラ・ハンは魔道を扱える。
自分の身を守るだけの防御呪文のひとつくらい、楽に|唱《とな》えられるはずだ。
まさかいつまでもシルヴィンたちが付きっきりで守らねばならないわけではあるまい。
世界を救う伝説の聖女たる者が、そんなに簡単にやられてしまうはずがない。
だがどこに行ったのか。
白く|凍《こお》る風の渦巻くなか、シルヴィンはファラ・ハンの向かったらしいほうに、そろそろと注意深く|飛竜《ひりゅう》を向ける。
あまり進まないうちに。
命令もしないのに、ついと飛竜が止まった。
あっと気づいて足を止めるかににた勢いに、シルヴィンは目をこらす。
眼前に分厚い氷の壁が立ちはだかっていた。ついさっきまではそこになかったはずのものだ。
首をひねり、飛竜を向け変えようとシルヴィンは横手に目をやる。そこにも壁ができていた。
ぎょっとして反対側を見る。そちらにも壁があった。
恐る恐る振りかえったところにも、壁があった。上にも、下にも、氷の壁があった。
ぐるりと囲まれていた。
「冗談じゃないわ!」
かっと|瞳《ひとみ》を|怒《いか》らせたシルヴィンは、引きちぎるようにして飾りのように|手《た》|綱《づな》の|口《くち》|輪《わ》ちかくにつけられていた|革《かわ》|紐《ひも》をはずした。
薄く硬く丈夫になめされたそれは、長く平たい|飛竜《ひりゅう》の調教用の革紐である。
|御《お》|護《まも》りか|魔《ま》|除《よ》けの意味もこめてシルヴィンが親から常に|携《けい》|行《こう》を義務づけられていたこの革紐は、表面にびっしりと|聖《せい》|符《ふ》|呪《じゅ》を彫りこみ、白魔道による清めをほどこしてある。
素材の特性と有効範囲の関係上、その目的で使うにおいてはいろいろと制約はあるものの、それが空を切る|唸《うな》り音は魔を払う力を有している。
小魔ごときならこの革紐のひと打ちで|造《ぞう》|作《さ》もなく滅せられる。
自分の手足の延長のように飛竜を扱えるシルヴィンが、ここにこうして孤立した状態にあるのなら、まわりのことに気を遣うということをしなくてもよいわけだ。
あまりにも|綺《き》|麗《れい》に向こう側を透かし見せる氷。薄く|脆《もろ》くありそうな氷。
まやかしに用はないとばかりに、シルヴィンは目の前に立ちはだかった|氷壁《ひょうへき》めがけて飛竜に|焔《ほのお》を吐かせた。|唸《うな》りをあげた革紐に浄化され、吹きすさんでいた白い風がぶっつりと絶ち切られる。猛火の|痛《つう》|烈《れつ》な|一《いっ》|掃《そう》を食らった氷壁が|湯《ゆ》|気《げ》をあげて溶けくずれる。穴を|穿《うが》たれ脆くなった部分から重みで|亀《き》|裂《れつ》を走らせ、巨大な氷壁はがらがらと割れ|砕《くだ》けた。
目を怒らせたシルヴィンが、ふんと鼻息を荒くして口をとがらす。
この調子ならば魔物を相手にして十分に戦えそうだ。
さあ|隙《すき》があればどこからでもかかってくればいいと、シルヴィンは勇ましく薄い水色の瞳でぐるりと周囲を|睨《にら》みつける。あたりに舞う風はシルヴィンの様子をうかがい、遠くを取り巻くようにややしりぞき、凶悪にとがった冷気を|叩《たた》きつけてくるわけではない。
ひととおり|崩《くず》れ落ちた氷壁の向こうに、シルヴィンは飛竜を進ませた。
氷の|瓦《が》|礫《れき》を通りぬけた先もまた氷の壁。ところどころで誘うように透き間を開けたそれ。
ぴくっと顔を引きつらせ、シルヴィンは口を一文字に結んで目を閉じた。
このままでは魔物の|罠《わな》にからめとられてしまう。
誰かが。
名を呼んだ気がした。
もう聞くはずもない声に、びくんとシルヴィンは目を開ける。
氷の壁の向こう側。ずっと遠い場所に透かし見える氷の中に。
ひとつの首があった。
|懐《なつ》かしいひとの顔。失われてしまった者の顔。
聖地クラシュケスで、悪漢ディーノにはねられた兄の首。
突き飛ばされて落ちるシルヴィンの目の前を飛んだ首。
(|魔《ま》|物《もの》に食べられたの?)
|茫《ぼう》|然《ぜん》としてシルヴィンは氷詰めになってそこにあるものを|凝視《ぎょうし》する。
シルヴィンの横手、いくつかの|氷壁《ひょうへき》を隔てた向こうにあっただろうものが、すいと動いた。
ちらりと目の端をかすめた黒い色に、はっとしてシルヴィンは首をめぐらす。
シルヴィンの見たのは後ろ姿。巨大な|飛竜《ひりゅう》を|操《あやつ》りながら飛ぶ黒髪の若者の背中。
その背中には。
兄の首をはねたあの長剣が背負われていた。
あの際の無念、|焔《ほのお》の中でなす|術《すべ》もなく機を待つことを|強《し》いられたあいだ。
シルヴィンから仲間とそれまでの生活を奪い去ってしまった、|憎《にく》んでも余りある|仇敵《きゅうてき》。
世界のためにとか協力だとかいう、お|綺《き》|麗《れい》で献身的なものはあの|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》にはない。
あるのはただの欲望だけ。自分の利益と快楽を追い求める浅ましさだけ。
そのディーノが。
シルヴィンに無防備に背を向けている。
ここで見つめていることに|微《み》|塵《じん》も気がついている様子はない。
ディーノの向こうに、うろうろと誰かを捜すように首をめぐらせているファラ・ハンがいた。
|悠《ゆう》|然《ぜん》とディーノは、その心細そうなファラ・ハンに近づいていく。
|雰《ふん》|囲《い》|気《き》と|傲《ごう》|慢《まん》さから察してはいるものの、ファラ・ハンはディーノがこれまでにしてきた|悪行三昧《あくぎょうざんまい》を知らない。知らないからこそ、あんなに|無《む》|垢《く》な|笑《え》|顔《がお》を惜しげもなく向けられる。
地獄の申し子の|異名《いみょう》をもつような凶暴凶悪な男が、そんな|佳《か》|人《じん》の|無《む》|邪《じゃ》|気《き》さをくんでやれるはずがない。
伝説の聖女であろうと、ただの女として|陵辱《りょうじょく》しおとしめて踏みにじることを恥としない。
ディーノは何者にも|阻《はば》まれることなく、氷壁のあいだをすりぬけながら、ただ一人でファラ・ハンに近づいていく。
(ディーノ……)
(ディーノ)
(ディーノ!)
|呪《じゅ》|文《もん》のように名を繰りかえし。
シルヴィンはそれぞれに|手《た》|綱《づな》と|革《かわ》|紐《ひも》を持つ手をぎゅっと握りしめた。
心底怒りに達したという鬼のような激しい顔で、目を見開いた。
「よくも死人を|汚《けが》したわねっ!」
|怒《ど》|号《ごう》した。
兄は、シルヴィンの兄はいつも自分の身など構うことなく正しいことを選ぶひとだった。
聖戦士として選ばれた彼らが|仲《なか》|違《たが》いすることを望むはずがない。
首をはねられ、その|遺《い》|骸《がい》すら燃え盛る|焔《ほのお》の中、ひとかけらも残さず燃え尽きていった兄。
無残なる死者の|骸《むくろ》を|晒《さら》し、その姿を|偽《いつわ》りで飾らせた魔物。傷つく心に忍びこむ魔物。
「絶対に許さない!!」
ひと声吠えたシルヴィンの手が|手《た》|綱《づな》を引き、|飛竜《ひりゅう》が|紅《ぐ》|蓮《れん》の焔を吐いた。
|轟《ごう》と音を立てて吐き出された焔が、氷壁を|穿《うが》つ。
生き物が|逃《のが》れるように氷がひく。
焔から氷をかばい守るのか、どこからともなく白銀色の|鋭《するど》い風が集まりくる。
自在に|空《くう》をつかみ軽やかに駆ける風、白銀の|狼《おおかみ》の上半身を持つ、|凍《こお》った風の魔物。
|風《ふう》|狼《ろう》が|鋭《するど》い|牙《きば》と|爪《つめ》をむき出しにしてシルヴィンに襲いかかる。
「おどき! |邪《じゃ》|魔《ま》よっ!」
聖なる|符《ふ》|呪《じゅ》をほどこした|革《かわ》|紐《ひも》が|唸《うな》った。
竜使いの里において、兄よりも優れた若者などシルヴィンは見たことがなかった。
またシルヴィンに|勝《まさ》る実力をもつ、年頃の若者もいなかった。
夢を追うことなく、すでに自分が兄離れしていることを、シルヴィンはまだ知らない。
ディーノをその場に|釘《くぎ》づけにしたファラ・ハンの姿は、すぐにかき消えた。
ふいと消失してから、ディーノは何が起こったのかわからず、ぱちぱち|瞬《まばた》きする。
ファラ・ハンはたしかシルヴィンの飛竜に乗っている。最後尾にいるはずだ。いきなり先頭にいるディーノの前になど現れるはずがない。
しかも。
そうだ、彼女がディーノにだけ、助けを求め救われたいと手をのばしてくるはずがない。
|哀《あい》|願《がん》するような|眼《まな》|差《ざ》しを向けてすがってくるはずがない。
どんなにか弱く非力でも、ファラ・ハンは魔道という強大な不思議を|操《あやつ》れるのだ。
自分でなんの努力もせず、すべて|人《ひと》|任《まか》せにしてしまうような|乙女《お と め》ではない。
気を取りなおし目をあげたディーノは、|己《おのれ》の前にそびえたつ氷の壁を発見する。
この氷が幻影を映し、ディーノを|惑《まど》わせたのだ。
真後ろについていたレイムの飛竜が、突然止まったディーノの飛竜との追突を避けて、なんとか横をすりぬけていったことを、風圧を受けた肩が覚えていた。
だが、その後ろにいたシルヴィンは?
ファラ・ハンを乗せたシルヴィンの|飛竜《ひりゅう》はどうしたのか。
首をめぐらせたディーノが見たのは、|己《おのれ》をぐるりと取りかこむ、|凍《こご》えた透明な壁だけである。
取りこまれた。
しかもそれはまったくに囲んでしまったのではなく、いくつも楽に抜けられそうな箇所をもつ、一見|脆《もろ》く薄そうなものだ。
ディーノはシルヴィンやレイムのように|魔《ま》|物《もの》を寄せつけない|御《ご》|符《ふ》など持っていない。防御|結《けっ》|界《かい》の|呪《じゅ》|文《もん》も知らない。身の安全を計るなら、この|得《え》|体《たい》の知れない|脆弱《ぜいじゃく》そうな氷に触れるより、これを避けるほうが得策ではある。
雪を混じえ白く|濁《にご》る風がディーノの様子を探るように、そろそろと近寄りめぐり飛ぶ。
一度高く脈打った心臓は、そうであったからこそ余計に静かに鼓動を続けるかのようだ。
|哀《かな》しい冷気にむしばまれて、胸の奥が凍えていた。
|幻《まぼろし》。幻。決して現実にならぬもの。百も承知しているもの。期待することすら、満たされるということを知らぬディーノには思いもかけない。
(何を願っているというのか)
ディーノは己の内に問いかける。
だがそれを認めることを知らぬディーノには、それがなんたるかを理解できるはずがない。
自分の気持ちを言葉にできるはずがない。
透明な氷の壁の向こうでちらちらと|蠢《うごめ》き見える幻影は、黒い髪の|乙女《お と め》の姿を映す。
すぐそばにはいないのに、まるで少し近寄れば触れられるほどに近いところにいるように。
なぜそれを見なければならないのか。どうしてその乙女でなければならないのか。
|咽《のど》の奥を押し開き、せりあがってくるこの|辛《つら》く苦しいものはなんなのか。
いたたまれぬ気持ちにならないではいられないのか。
ディーノは固く目を閉じて強く首を振った。
地獄の申し子。|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》。|華《か》|麗《れい》にして|残虐《ざんぎゃく》なる者。数々の悪しき|異名《いみょう》をもつ彼にあるまじき|醜態《しゅうたい》である。とんだふぬけになりさがったものだ。
きつくディーノは|唇《くちびる》を|噛《か》む。
追われる者としての彼、奪い破壊し戦い進むしかない彼にとって、このような醜態は望ましくない。正体が知られようものなら即座に首の狩られる男が、こんなふわふわした頼りない状態で他を圧し、ただ一人|血《けつ》|路《ろ》を切り開いて生き残れようはずがない。
原因は。
あの伝説の聖女だ。
あの|乙女《お と め》と出会ったときから彼の中で何かが狂いはじめた。
狂いはじめた。
こんな形のディーノは望ましくない。
望ましくないなら。
その原因となったものを取り除けばいい。
ディーノの手が、背負った長剣の|柄《つか》を握った。
乙女はすぐそこにいる。
長剣のひと振りですむ。
ぐうっと身をそらしたディーノの腕が。
|飛竜《ひりゅう》の|手《た》|綱《づな》を引いた。
主人の動きを待ち受けていた飛竜は、勢いよく|紅《ぐ》|蓮《れん》の|焔《ほのお》を吐きだした。
|聖獣《せいじゅう》の吐く火炎になぶられ、|氷壁《ひょうへき》が|湯《ゆ》|気《げ》に変わって消え失せる。
振りおろされた手には、|眩《まぶ》しい銀色に輝く|聖《せい》|斧《ふ》があった。
ディーノは|険《けわ》しく光る青い|瞳《ひとみ》をかっと見開く。
「思いあがるな! |惑《まど》わされるものか!」
思考のわずかな|透《す》き間にもぐりこみ、それをねじ曲げてしまうもの。
いつのまにか心の方向性を変えてしまうもの。
「俺は何からも逃げぬ!」
常に力強く|自《みずか》らを押しとおす。
それが|孤《こ》|高《こう》の|修《しゅ》|羅《ら》|王《おう》と呼ばれるに|値《あたい》する彼。
王者としての格をそこなわず存在しようとする男。
|華《か》|麗《れい》にして|猛《たけ》き者。
ディーノは氷の|迷宮《めいきゅう》を|粉《ふん》|砕《さい》するため、|銀《ぎん》|斧《ふ》を振りおろした。
聖なる|護《ご》|符《ふ》を持たぬ彼が手にできる神聖なる物は、その不思議の銀斧しかない。
|魔《ま》|物《もの》に対して絶対的な力を有する銀斧。
空を切り振りおろされた銀斧から光の粉が散り、発火した。
舞い落ちる小さな火花は、周囲に吹き荒れる|凍《こご》えた風を焼く。
反撃を開始したディーノに、白銀の|狼《おおかみ》の形をした風が襲いかかった。
次々と集まり襲いくる|風《ふう》|狼《ろう》。
それらが|意《い》|図《と》|的《てき》に背を向けるほうに、ディーノは目ざとく視線を走らせる。
そして|片《かた》|頬《ほお》でにやりと笑った。
「そうかよくわかった」
それこそが魔物の核となるもののあるところ。
|雪竜《せつりゅう》に力を与える時の|宝《ほう》|珠《しゅ》があるところ。
風狼をなぎ払い、迷宮をつくる|氷壁《ひょうへき》を|紅《ぐ》|蓮《れん》の|焔《ほのお》で|粛正《しゅくせい》しながら、ディーノは突き進んだ。
|己《おのれ》の弱みを突きつけられたディーノには、それを野放しにしておくことなどできない。
いかに|焦《こ》がれようと、それは己の内なる|幻《まぼろし》によってさらに美化されていくにすぎない。
現実はもっと|過《か》|酷《こく》にして残酷なものである。どのようなものも|朽《く》ちぬはずはない。
本質を見極めしれば、|惑《まど》いや熱などひと息にさめる。
自分以外を失うことを恐れるなど、ディーノはこれまでに一度もない。
四人がそれぞれに目指している場所はひとつ。
立ちはだかり取り巻き続く氷壁は、あちらこちらで四人の姿を映した。
|果《か》|敢《かん》に氷壁を越え進む今の姿、決してここではありえない幻影、つい先ほどの残像。
プリズムのように七色の光を|弾《はじ》く|玻《は》|璃《り》の迷宮に、いくつもの姿が入り乱れる。
氷の中に|覗《のぞ》き見えるものには|虚《きょ》|像《ぞう》もあれば実像もあった。氷に取りこまれた|哀《あわ》れな者たちの姿は、そのどちらもである。
ファラ・ハンとレイムは|魔《ま》|道《どう》でそれらを見極め、実体は傷つけぬよう|弾《はじ》いた。魔物に解放されないかぎり、彼らが|呪《じゅ》を|絡《から》める危険なく魔道でそれらを救いだすことはできないのだ。
力にものをいわせて突き進むディーノとシルヴィンは、そういうものが立ちはだかっても|容《よう》|赦《しゃ》しなかった。|躊躇《ちゅうちょ》していても何も始まらない。事態は決して好転しないのだ。彼らに当たったのが身の不運だと思って|諦《あきら》めてもらうしかない。どのみち魔物に取りこまれた者を完全に元に戻そうとするのはかなり困難であり、魔道を扱えないディーノやシルヴィンがどうこうしてやれるものでもない。魔物に|囚《とら》われた時点で死んだものと簡潔に割り切った。
ときおりくっきりと見える四人の姿は、ぎくっとするものがあった。
氷が映す|幻《まぼろし》にすぎないそれはあまりに|生《なま》|々《なま》しく、今にも|隔《へだ》てた薄い氷を引き裂きこちらに襲いかかってくるかのようだ。
すんでのところで危うく魔物をかわす瞬間などを目の前にしては、おもわず加勢してやりたくなる。|無《む》|駄《だ》だとわかっていても声をかけ、注意をうながしてやりたい|衝動《しょうどう》に駆られる。そしてその一瞬に生まれる|隙《すき》につけいろうと待ち構えている魔物を|排《はい》|斥《せき》することで必死である。
ディーノが前にした氷にファラ・ハンの後ろ姿が映っていた。
襲いくる|風《ふう》|狼《ろう》を光のレピアで払いのけて消滅させ、長い髪を泳がせ懸命に羽ばたき進む。
小さな|飛竜《ひりゅう》がその図体にまったくそぐわない|轟《ごう》|火《か》を吐いて魔物と|氷壁《ひょうへき》を焼き尽くす。
そこはディーノが突き進んでいかねばならない先、真正面。
立ちはだかる氷壁を|焔《ほのお》で破ろうと飛竜の|手《た》|綱《づな》にかけた手に力を入れかけたディーノに。
氷の奥のファラ・ハンが振りかえった。
ファラ・ハンの目線がちらりとあげられる。
くわっと口を開けた小さな飛竜がファラ・ハンの背後にまわり、ディーノの正面にきた。
ディーノの飛竜が焔を吐いた。
溶け落ちた氷の壁の向こうに。
本物のファラ・ハンがいた。
薄い一枚の氷壁を隔てて、いた。
第十二章 |聖《せい》|融《ゆう》
静かに|飛竜《ひりゅう》を進めたディーノに|艶《あで》やかにファラ・ハンが|微《ほほ》|笑《え》んだ。
頭上を襲った|風《ふう》|狼《ろう》は、ディーノの飛竜の|焔《ほのお》に焼かれ霧となって消えた。
氷を隔てた先、それが実物のファラ・ハンであると信じたといえば|嘘《うそ》になる。
数多くこれまで目にした|幻《まぼろし》と、なんら|趣《おもむき》を変えるものではなかった。
なかったが……。
|狐《きつね》につままれたような顔をしているディーノに、少しおどけたように肩をすくめて見せ、ファラ・ハンは笑う。
「わたしにも確信はなかったんですのよ。ただそんな気がしたの」
そこに本物のディーノがいるような。
ディーノたちのために|氷壁《ひょうへき》を|穿《うが》ってやった小さな飛竜が自慢げににいっと笑い、胸を張る。
ちびのくせに少しばかり役に立っているので、すっかり一人前になったつもりでいる。
ふわりと大きく翼を動かしたファラ・ハンがディーノに近寄った。
視線をめぐらせてもどこにも飛竜を駆る娘がいないのに、ディーノは首をかしげる。
「あのじゃじゃ馬はどうした?」
あっさりした言い方に、くすっとファラ・ハンは笑う。
「はぐれてしまったの。でも大丈夫ですわ。きっと無事です」
あの元気の|塊《かたまり》のような娘が、そう簡単に|魔《ま》|物《もの》にやられてしまうはずがない。
かすかに汗で|頬《ほお》を輝かせるファラ・ハンに手をのばし、ディーノは下りてくるよううながす。
飛び続けでいたファラ・ハンは申し出に従い、すとんとディーノの後ろに腰をおろした。
大きな飛竜につけられている|鞍《くら》はやはり大きくゆとりがあり、決してなりの小さくはないディーノが腰を落ち着けているとしても、ファラ・ハンは余裕をもって座ることができる。
値踏みをするようで|嫌《いや》だが、こちらのほうが楽で乗り|心地《ご こ ち》はいい。
ほっと表情を|寛《くつろ》げて、ファラ・ハンは息を吐く。
つい今まで一人前を気取っていた小さな飛竜も、ファラ・ハンが翼を休めたことを見てとるや、キュンと鼻を鳴らして甘え、ディーノの前の鞍の上に下りた。
さもいいことをしてきたと手柄を報告するように、ディーノを前にし、キュパキュパと|哭《な》きながら小さな手をひらめかし注目を誘う。
無視すると|煩《うるさ》いのでわかったわかったとうなずいて、乱暴に頭を|撫《な》でてやりながら、ディーノは背を向けたままファラ・ハンに問う。
「お前は氷の|幻《まぼろし》に何を見た?」
ファラ・ハンは|穏《おだ》やかに|微《ほほ》|笑《え》む。
「いろいろなものを」
そっと優しく心に染みこむ、|可《か》|憐《れん》な細い声。
彼女がそこにいるだけで清らかに空気が輝くような|錯《さっ》|覚《かく》が起きる。どんなに|克《こく》|明《めい》に、想像の|粋《すい》をこらして、美しくうっとりとするほどに思い描いても、決して実物にはかなわない。
しっとりと|潤《うる》み、|芳《かんば》しく|爽《さわ》やかに|薫《かお》り立つ、この清浄で匂やかな|眩《まぶ》しさのすべてをそっくり記憶することなどできない。
絶対のもの。
祝福された美の化身。
その存在は、物心ついたときにはすでに|流《る》|浪《ろう》の|孤《こ》|児《じ》であり、|疎《うと》ましがられ誰からも受け入れられることのなかったディーノにとって、遥かに遠い。
そこに|乙女《お と め》がいることを背中に感じ、空気に混じり輝くばかりの|華《はな》やかさとは裏腹にディーノの気持ちは沈む。
「ねぇ、どうかしました?」
小首をかしげファラ・ハンはディーノの背に手をのばした。
気遣わしげにそっと、白く|華《きゃ》|奢《しゃ》な指が触れる。
かすかに触れたそれにびくんと反応して、素早い動きでディーノがそのほうに振りかえる。
傷つき|脅《おび》えた|獣《けもの》のような|哀《かな》しい青い|瞳《ひとみ》。
|傲《ごう》|慢《まん》で|不《ふ》|遜《そん》なこの若者の常に、につかわしくないその瞳。
不遠慮に触れた自分へ向けられたそれに、ファラ・ハンの胸がぎゅっと締めつけられそうに痛む。
さらにその若者の|頬《ほお》に手を伸ばそうとしている自分を知る。
まるで|慈《いつく》しむようにのばそうとしていた指。
そらすことなくまっすぐに向けられてくる|怜《れい》|悧《り》な瞳。
その瞳を見つめながら触れるということの意味の大きさに、ファラ・ハンは気がつく。
ひとではない自分などが、その領域に踏みこめる存在ではないのだという現実に身をすくませる。
「あ、あの……」
うろたえて目を伏せた。体の|芯《しん》が熱を帯び、かあっと頬に血が集まる。
こんな自分が情けなく恥ずかしく、この場から消えてしまいたいくらいだった。
|萎縮《いしゅく》してしまい、翼はがちがちになって震えているのを感じる。
「ごめんなさい……!」
|囁《ささや》くように言って横を向き、熱くなる|頬《ほお》を見られぬよう左手を当てて包みこんだ。
ファラ・ハンの様子を見、ディーノは初めて自分がどんな顔をしていたのか知る。
怒るように表情を変え、ぷいと前を向いた。
胸が悪くなるほど、自分自身がよくわからず、腹立たしかった。
ディーノの顔を見、小さな|飛竜《ひりゅう》はきゅるっと首をかしげる。
音をたててディーノは|手《た》|綱《づな》を握りなおす。
「時の|宝《ほう》|珠《しゅ》は!?」
自分でも驚くほど|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な|声《こわ》|音《ね》だった。
問われて、はっとファラ・ハンは姿勢を正す。
「はい、あの……」
思わずうわずった声に、気を取りなおそうとファラ・ハンはひとつ息をのむ。
「もう少し先です」
背中を仰ぐファラ・ハンに、ディーノは振りかえることなく質問を続ける。
「どっちだ?」
ディーノは冷めた声で言葉少なに|淡《たん》|々《たん》と問いかける。
機嫌をとってもらいたいわけでもないのに、それがひどく寂しい気がすることに、ファラ・ハンは自分の浅ましさを感じて|嫌《いや》|気《け》がさす。
「あなたが目指していたほうへ」
正確にディーノはファラ・ハンの後を追っていた。ディーノ自身にも、どう向かえばそれにたどり着くのかがわかっているはずである。形式的な確認にすぎない。
ファラ・ハンのもつ個人防御の|結《けっ》|界《かい》は、彼らを飛竜ごとすっぽりと包みこみ、さっきよりもディーノはずいぶん楽になっていることを感じていた。
二人が合流したことにより、襲いくる|風《ふう》|狼《ろう》の数は増しているが、ファラ・ハンの結界と光のレピア、そしてそれらに呼応するディーノの|聖《せい》|斧《ふ》レプラ・ザンからにじむ力を前にはとても歯が立たない。結界に触れるや否や、|苦《く》|悶《もん》の|唸《うな》りをあげ消滅するだけだ。やや大きい形をしたものがわずかに結界を突破しようかとするが、銀斧のひと振りであえなく散る。
勢いよく進みはじめた飛竜に、小さい飛竜はおたおたと居場所をディーノの左腕へと変えた。
飛竜は火炎で|氷壁《ひょうへき》を|粉《ふん》|砕《さい》し突き進む。
周囲の氷壁には、場所によって|幾《いく》|重《え》にもなりながら|幻《まぼろし》が|蠢《うごめ》いている。
別行動をとっている自分の姿など目にしてしまうと、どきりとすることもある。
横手の氷が不意に陰った。
はっと|瞳《ひとみ》をめぐらせた二人が見たのは、わずかに緑にちかい青黒色の|鱗《うろこ》をしたものである。
大写しに見えるシルヴィンの|飛竜《ひりゅう》だ。
その後ろのほうにある角度の小さな氷の一片には、小さく小さく|魔《ま》|物《もの》と戦うレイムの姿もある。その反対の壁にあたる氷には、先を急ぐレイムの後ろ姿が見えている。
映しだされるものに関連性はない。
ないが……。
「止まって!」
悲鳴のようにファラ・ハンが叫ぶ。
その制止が耳に届く一瞬前に、ディーノの飛竜の|手《た》|綱《づな》は止まれの|命《めい》を伝えていた。
ついと止まった飛竜。
斜め後方の|氷壁《ひょうへき》が、放たれた火炎の色で真っ赤に染まった。
照り返しで色を確認した瞬間。
真横にあった氷壁が|轟《ごう》|音《おん》を立てて爆裂する。
|焔《ほのお》を|迸《ほとばし》らせ、溶け|砕《くだ》ける。
渦巻いて広がり襲いかかる|紅《ぐ》|蓮《れん》の焔。
おもわず顔をかばおうと腕をあげたディーノたちの上に。
|虹《にじ》|色《いろ》の粉が降り注いだ。
澄んだ透明な|声《こわ》|音《ね》が|謡《うた》う。
「選ばれし清きものたちに聖なる|御《ご》|加《か》|護《ご》を!」
ディーノたちの飛竜をあいだに|挟《はさ》み、氷壁を|砕《くだ》きシルヴィンとレイムが合流した。
レイムはディーノたちに向かって飛竜の火炎を浴びせかけようとしているシルヴィンの|気《け》|配《はい》を感じ、慌てて魔道の粉を用いて|結《けっ》|界《かい》を強化させたのだ。
|拳《こぶし》ひとつほどの薄さしかない二枚の氷の壁を隔て、シルヴィンとレイムは|対《たい》|峙《じ》していたのだ。
穏やかに最小限に焔の威力を押さえたレイムに対し、シルヴィンは壁の向こうがそんなことになっていようとは、思いもかけていなかった。
立ちふさがる|邪《じゃ》|魔《ま》|者《もの》など|一《いっ》|掃《そう》してしまえとばかりに、過激に突っこんでいくだけだ。
三人の姿を目にし、中途半端に腕をあげたまま、シルヴィンはきょとんと目を丸くする。
レイムはにっこりと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「間にあったね」
涼しい声が同士討ちにならなかったことを喜ぶ。
勘よく停止したディーノの飛竜であったが、いくらファラ・ハンの結界があるといえ、それだけで完全に無傷で済んだかどうかというと、疑問が残る。
レイムはそのフォローを|怠《おこた》らなかったのである。
ぱちぱちと|瞬《まばた》きしてよく状況を|眺《なが》め|透《す》かし、シルヴィンはようやくそれを納得する。
そしてにやっと|豪《ごう》|快《かい》に照れ笑いし、大きく|革《かわ》|紐《ひも》を振りかぶっていた手をおろした。
健康的な量感に恵まれた|逞《たくま》しく|賑《にぎ》やかな娘は、相変わらず絶好調だ。
ファラ・ハンはシルヴィンに|微《ほほ》|笑《え》みかける。
「時の|宝《ほう》|珠《しゅ》はこのすぐ先です。行きましょう」
三頭の|飛竜《ひりゅう》は猛然と|焔《ほのお》を吐き、氷に閉ざされた周囲をまばゆい|紅《ぐ》|蓮《れん》の色に染めあげた。
レイムの散らした|呪《まじな》い粉が、焔に混じり|虹《にじ》|色《いろ》の輝きを放つ。|聖《せい》|魔《ま》|道《どう》|士《し》の術を受けた魔物が、すさまじい悲鳴をあげて浄化され消滅する。
ぽわりとファラ・ハンの胸元が光を抱いて輝いた。
|鞍《くら》の上、ファラ・ハンは翼を広げながら、すっくと立ちあがる。
|奇襲《きしゅう》の|隙《すき》をうかがっていた小型で|狡《こう》|猾《かつ》な|質《たち》の悪い|風《ふう》|狼《ろう》を光のレピアで払いのけながら、ファラ・ハンは飛竜の背から軽やかに飛び立つ。
群れを組んだ風狼が|華《か》|麗《れい》に舞うファラ・ハンに向け、ぎりっと顔をめぐらせる。
強固なる個人防御で守られているとはいえ、この聖女は魔物たちにとっては|至上《しじょう》の|甘《かん》|露《ろ》をもつ血肉そのものである。運良く血のひと|雫《しずく》、髪のひと筋も口にすることができれば、数十倍の力を得ることができる。たとえ身が|結《けっ》|界《かい》で|微《み》|塵《じん》に|砕《くだ》けようと、その一瞬前にファラ・ハンを食らうことができたなら、そんなことなど問題にならぬ。
|餓《が》|狼《ろう》そのままに襲いかかる風狼に、やれ一大事と|泡《あわ》を食った小さな飛竜は、ディーノの腕を離れ、一直線に|果《か》|敢《かん》にファラ・ハンの横へと向かう。
|自《みずか》ら進んで|餌《えさ》になりにいくようなファラ・ハンに、いったいなんのつもりかとシルヴィンは目を丸くする。
「無茶するな!」
ほっそりとしたしなやかな後ろ姿に、|叱《しか》りつけるようにディーノが|怒《ど》|鳴《な》った。
正面に|迷宮《めいきゅう》の中心を示すよう、|天井《てんじょう》から垂れさがり地にまで|滴《したた》り落ちた巨大な氷柱がある。
溶けくずれていく氷たちのなかで、これだけが飛竜の吐く猛火にももちこたえている。
白く|凍《こご》えるそれは、表面を直接に焔になぶられても揺るがない。
「えぇ、お願い! ここが彼らの最後の|砦《とりで》です!」
風狼を払いのけ、光のレピアを油断なく身構えながらファラ・ハンは叫んだ。
「|任《まか》せてください!」
飛竜の上に立ち、念を集中させていたレイムは、|呪《まじな》い粉のチョークで|聖《せい》|印《いん》を描いていた左手のひらを向け、その手首を支えて声高く|爆《ばく》|砕《さい》の|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた。
太陽の|奔流《ほんりゅう》かと|見《み》|間《ま》|違《ちが》う|閃《せん》|光《こう》がレイムの手のひらから|弾《はじ》け出た。
かっと周囲が光にのまれ、一瞬色をなくす。
大声で返事したレイムにシルヴィンはおもわず顔を向けていたが、その強烈な光は決して|瞳《ひとみ》を射抜くものではなかった。
まぎれもない聖光。|汚《けが》れを払う絶対のもの。
聖光に照らされた|風《ふう》|狼《ろう》は瞬時にして|霧消《むしょう》した。
腸を揺するほどの|轟《ごう》|音《おん》が響き、固く凍れる氷柱が爆裂した。
氷の|迷宮《めいきゅう》全体が|鳴《めい》|動《どう》し、破壊されて|脆《もろ》くなっていたところからがらがらと音をたてて|崩《くず》れる。
たまたま陰にいたため聖光の洗礼をまぬがれた風狼たちは、後はないと|震《しん》|撼《かん》し、捨て身になって|徒《と》|党《とう》を組み恐ろしい勢いで彼らに襲いかかった。
ファラ・ハンのレピアの光が増す。
ディーノの|銀《ぎん》|斧《ふ》レプラ・ザンが|唸《うな》りをあげて|薙《な》ぐ。
シルヴィンの|革《かわ》|紐《ひも》が大きく振りまわされる。
放出した巨大な|魔道力《まどうりょく》に|珠《たま》のような汗を吹きださせ、がくりと|鞍《くら》の上に座りこんだレイムだが、息を整えている暇はない。レイムは顔をあげて爆裂の|印《いん》を組み、気合いを|奔《はし》らせる。
鳴りやまぬ地響きに、頭上に垂れさがっていた氷柱が、何本もぽっきりと根本近くから折れて落ちた。|意《い》|図《と》せぬそれに味方を得た思いで、風狼たちは歓喜し、勢いを増す。
|野《や》|次《じ》を飛ばし乱暴に悪態をつきながら、シルヴィンはそれをかわす。普通集中すると無口になるものだが、それはこのやかましい娘においては論外である。
シルヴィンがもうちょっとどうにかならなかったのかと不平を言おうとした言葉よりも、レイムの声のほうが早い。
「気をつけて! 『来ます』!」
何が。
問う間も、その必要もなかった。
空気の温度がいっきに下がった。
大気に混ざる水蒸気が一瞬にして|凍《こお》りついたのが、目でわかった。
革紐を握った手で、シルヴィンが申し訳程度に|口《くち》|許《もと》を押さえてくしゃみする。
|砕《くだ》け落ち、巨大な穴の|穿《うが》たれた壁の先。
内に薄く張った膜が破れたように、どろりと悪臭を放つ|腐汁《ふじゅう》か|膿《うみ》ににた|灰白色《かいはくしょく》の濃厚な|粘《ねん》|液《えき》|質《しつ》の液体が溢れでた。
穴の|縁《ふち》に、のそりと|鈎《かぎ》|爪《づめ》のついた巨大な|爬虫類《はちゅうるい》のもののような|前《まえ》|肢《あし》が現れでる。
それは銀灰色にも輝きみえる|霜《しも》の色。固い氷と霜の|鱗《うろこ》。
頭部から背にかけて、|蠢《うごめ》く|風《かざ》|花《ばな》の|背《せ》|鰭《びれ》のごときものを持つ、巨大な|竜蛇《りゅうじゃ》。
細長く体をくねらせ、頭部を打ち振りながら、それが穴からぐいと身を乗りだす。
氷柱の中でひっそりと眠っていたらしいそれは、小山ほども大きい。
くわっと|闇《やみ》|色《いろ》の|瞳《ひとみ》を開いた|魔《ま》|物《もの》。
これが雪竜。
握った左の前肢の内が、ほのかに光を帯びている。
爪のあいだからかすかにまばゆい光が漏れている。
あそこに時の|宝《ほう》|珠《しゅ》がある。
雪竜が|砦《とりで》としていた氷柱から半身を引きだしたことにより、氷の|迷宮《めいきゅう》はその力を失った。
|姑《こ》|息《そく》に動き続けて彼らを|欺《あざむ》き|邪《じゃ》|魔《ま》をし、音なき声で冷気とともに心に染みこみ、巧みな幻影を映しだしていた氷たちは、ひそと静まり、ただの|凍《い》てつく|塊《かたまり》になりすます。
雪竜の|牙《きば》のあいだから漏れでる|凍《こご》えた呼気が、こって|風《ふう》|狼《ろう》の群れとなる。
力の|源《みなもと》を間近に置き、|俄《が》|然《ぜん》風狼が勢いづく。
ずるりと雪竜の身が引きだされるにつれ、冷気が強くなる。
大気も氷もなにもかもが、音をたてながらさらに白く|濁《にご》る。
|凍《こお》りつく!
「お願い! あの手を開かせて!」
襲いかかる|風《ふう》|狼《ろう》を光のレピアで払いのけながら、ファラ・ハンが叫ぶ。
|華《か》|麗《れい》にして|勇《ゆう》|敢《かん》なる|乙女《お と め》を懸命に|援《えん》|護《ご》し、小さな|飛竜《ひりゅう》が猛火を吐く。
「あんなもの、どうやって倒すのよぉ!?」
悲鳴というより怒りとばすようにシルヴィンが声を荒らげる。
自分たちとあの雪竜では、あまりに大きさが違いすぎる。
ちらりとレイムに視線を走らせてみたが、不思議を|操《あやつ》る青年は肩で荒く息をし、先ほどの一撃ですっかり|消耗《しょうもう》している様子だ。
レイムは|朦《もう》|朧《ろう》としそうになる頭を乱暴に振り、上気した顔をファラ・ハンに向ける。
|珠《たま》を結んだ汗と乱れた金の髪がきらりと舞った。
「封じればいいんです」
簡潔に言いきったそれに、ディーノがぎょっとする。
正気を疑う目で、消耗し悩ましげにさえ見える青年を見る。
|導球《どうきゅう》に導かれ訪れたここは、|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|土《ど》。
|封《ふう》|印《いん》の魔法陣さえあれば、どんな魔物をも封じる。
封じてみせるだけの|覚《かく》|悟《ご》がレイムにはある。
「お前……」
気は確かかと問いかけたディーノの言葉を聞くまでもなくレイムが|遮《さえぎ》る。
「何か捜してください!」
あまりな物言いに、シルヴィンが目を丸くする。
「な、何かって……、そんな……」
レイムには言葉数を|紡《つむ》ぐ余力はない。
「頼む……!!」
ふうっとかすんだ意識で、バランスを|崩《くず》し、レイムの腰が|鞍《くら》からがくんと落ちる。
ひっと息をのんだシルヴィンの視線を受けるように、レイムの乗った飛竜がくいと首を振り動かす。心配ないとばかり、体を傾けすくいあげて、背に置く主人を乗せなおした。
迫りくる|風《ふう》|狼《ろう》を火炎で|一《いっ》|掃《そう》する。
受けとめられた感覚で、レイムが薄く目を開ける。淡く|微《ほほ》|笑《え》む。
「お願い……! わたしも長くはもちません……!」
飛竜たちの前に浮かび、光のレピアで応戦しながらファラ・ハンが振りかえる。
雪竜の体から放たれる強烈な冷気から皆を守るため、ファラ・ハンは大きく防御|結《けっ》|界《かい》を張っている。光のレピアが風狼を倒す瞬間に|光《こう》|芒《ぼう》が|弾《はじ》けるたびに、|結《けっ》|界《かい》が|煌《きら》めき映る。
改めてファラ・ハンを見やり、自分をも包んでいる結界に、|乙女《お と め》が何を言っているのかが理解された。それをされていてもなお、体の|芯《しん》にまで触手をのばしてくる冷気に、ディーノたちは|身《み》|震《ぶる》いせずにはいられない。目の届かぬような|飛竜《ひりゅう》の翼の端、|鞍《くら》の隅などの陰が白く|濁《にご》り、その濃くなったところに氷のかけらがへばりつき始めている。
弱まり破られた|魔《ま》|道《どう》の|封《ふう》|印《いん》の力を元に戻せば、たとえあの強大な雪竜であっても封じることができる。
だが、雪竜から時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を奪えば、雪竜を実体化させている力は簡単に失われる。冷気の|塊《かたまり》に魔が入りこみ時の宝珠から絶大な力を得ているだけの雪竜は、その瞬間消失する。
しかし雪竜の存在が消えても、それが与えた|災《さい》|厄《やく》が|解《と》けるわけではない。
封じた魔物は存在するが、消えた魔物は存在しない。
時の宝珠を一緒に封印せず、先に雪竜を雪竜のまま、封じなければならない。
とまどうディーノとシルヴィンの様子を見て、彼らが事情を察していないことにレイムは気づく。聖女であるファラ・ハンなら、おのずとわかることでも、彼らにはわかるはずがない。魔道士としての訓練を受けたレイムには|厳《げん》|格《かく》な常識となっていることも、普通の者たちにとっては必ずしも一般教養ということにはならない。身が|辛《つら》いからと、|横着《おうちゃく》に無視しようとしていた自分の配慮のなさに、レイムは深く反省する。
消え入りそうな声で、レイムはディーノたちに魔道における絶対法則を説明した。
「無茶言わないでよっ!」
風狼を|革《かわ》|紐《ひも》で|叩《たた》き落としながら、青くなってシルヴィンが叫んだ。
「不可能ですか……?」
力なく|微《ほほ》|笑《え》みながらレイムはディーノに問う。
|挑《いど》みかける言葉で王者を気取るディーノの自尊心を刺激した。
数かぎりなく襲いくる魔物を|煩《わずら》わしそうに|銀《ぎん》|斧《ふ》で叩き割り、レイムに目を細めたディーノは、ふんと鼻を鳴らす。
「誰に向かってものを言うのだ」
|憎《にく》|々《にく》しげなことを恥ずかしげもなく吐き捨てた。
予想された反応に、レイムは淡い光を放つかと感じられるほど、ふわっと優しく笑った。
銀斧を強く握りしめ、ディーノはぐいと飛竜を上昇させる。
ファラ・ハンは頭上に落ちた影を振り仰ぐ。
「俺の結界を解け!」
|居《い》|丈《たけ》|高《だか》に命じたディーノの手にある|銀《ぎん》|斧《ふ》が、高まる力を|誇《こ》|示《じ》するように輝きを増す。
にこっと|微《ほほ》|笑《え》んだファラ・ハンは、かかる負担を軽減しようと配慮したディーノの意思に従った。
|雪竜《せつりゅう》を食いとめるよう、飛竜を大きく|迂《う》|回《かい》させて駆り、ディーノはいまにも全身を現そうとしている雪竜に向かった。銀斧の輝きを目に捕らえ、雪竜がぎりりと首をめぐらせる。
「んもう! 何よっ! 見つけりゃあいいんでしょっ!」
なかばやけを起こし、シルヴィンが叫んだ。
|封《ふう》|印《いん》の|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》を発見せぬかぎり、事態は一歩も進まない。
ぐるんと見まわしたシルヴィンに、|風《ふう》|狼《ろう》がつきまとう。
|煩《わずら》わしげに|革《かわ》|紐《ひも》を|唸《うな》らせるシルヴィンは、その風狼たちがある一方向に意識的に集まっていることにすぐに気がついた。
|狡《こう》|猾《かつ》な魔物とはいえ、数ばかりに頼る小魔は|畜生《ちくしょう》以下である。
にっと|頬《ほお》をゆるめたシルヴィンは、水色の|瞳《ひとみ》を細め、そちらを|凝視《ぎょうし》する。
氷に埋もれる白のなかに一か所だけ。
暗い輝きを放つ部分があった。
磨かれた暗い色の大理石。
表面に|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》を彫りこんだように見えるそれ。
「見つけたっ!」
歓喜の声にレイムは素早く首をめぐらす。
駆るというより、飛竜に守られながら連れられたレイムはシルヴィンに近づく。
得意げに娘がうながしたほうに動かした瞳に、たしかに封印の魔法陣が映った。
「|援《えん》|護《ご》を、頼むよ……」
力なく微笑み、レイムはシルヴィンに願う。
女の子に男を守らせるんじゃないわよと、おもわずシルヴィンはレイムをひと|睨《にら》みしたが、余計なことを言うのは断念した。
指を|絡《から》めて|印《いん》を結び、目を閉じて意識を集中したレイム。
自らの命を削ることすら惜しまない。
|華《きゃ》|奢《しゃ》ではあるが力弱いわけではない。|逞《たくま》しくはないが|雄《お》|々《お》しくないわけではない。
|綺《き》|麗《れい》できらびやかで、しかも頼もしい者。
金色の……。
かくんと動いた飛竜に、はっとシルヴィンは我を取り戻す。
間近く迫りきた風狼の大軍に、飛竜が命じられることなく|焔《ほのお》を吐いた。
レイムに|惹《ひ》かれていた自分に、シルヴィンはぶんぶんと乱暴に頭を振り、気を取りなおした。
まるで迷いを振りきるように激しく、|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》の復活|阻《そ》|止《し》を|狙《ねら》う魔物たちを追いはらった。
|紡《つむ》ぎだされた復活の|呪《じゅ》|文《もん》に呼応し、|封《ふう》|印《いん》の|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》からゆらりと青い光が立ちあがった。
ファラ・ハンは見つけだされた魔法陣に向かって、そろそろと位置を変える。
ディーノはなんとかして|雪竜《せつりゅう》の|左肢《ひだりあし》を|銀《ぎん》|斧《ふ》の有効範囲内にあげさせようとするのだが、雪竜は思いのほか動きが重く、なかなか誘われてこない。
レイムの|唱《とな》える|呪《じゅ》|文《もん》によって現れた光が、徐々に高くのびあがり始める。
光の状態に合わせ、レイムは|印《いん》を組み替え、呪文を一段階上級に変える。
青い光はゆっくりと、だが確実にふくらみ、次第にその力を大きくする。
圧縮された爆発的な力を抱く、目もくらまんばかりのそれに成長する。
集中して間断なく呪文を唱え続けているレイムに、それを中断することはできない。
微妙なレイムの変化に気づいたシルヴィンが、飛びかかってくる|風《ふう》|狼《ろう》を|撃《げき》|退《たい》しながら振りかえる。
魔道に関して何も専門的な基礎知識をもっていなかったが。
その瞬間が|迫《せま》りつつあることがわかった。
レイムは一瞬で勝負に出る。
浄化することなく、雪竜を雪竜のまま魔法陣に封印できるだけの魔道力を発揮するのに、レイムのもつそれはほとんど|無《む》|謀《ぼう》な|賭《かけ》に等しいのに違いない。
ただ一人の魔道士の力で、我がもの顔に地域を|蹂躪《じゅうりん》し尽くした巨大な魔物を封印するなど、たとえ王都の大魔道師エル・コレンティであっても|奇《き》|跡《せき》と絶賛されるに違いない。
力を秘めているとはいえ経験値の低いレイムが理論だけで|挑《いど》むなど、とうてい信じられない。
このままでは。
「ファラ・ハン! ディーノっ!」
(助けて!!)
悲鳴に近い声でシルヴィンは叫んだ。
その時すでに。
ファラ・ハンが動いていた。
ディーノが飛竜を回頭させていた。
レイムが目を開く。
「|尊《とうと》き白銀の天子 おそばに|仕《つか》えし十二の|蓮《れん》|精《せい》 捧ぐは百の聖なる調べ |至上《しじょう》の|波《は》|紋《もん》を投げかけて |闇《やみ》に生まれし影の徒に 清らな|枷《かせ》を|賜《たまわ》らん」
涼しい声で|唱《とな》えられた|呪《じゅ》|文《もん》に、|魔《ま》|法《ほう》|陣《じん》で高められていた聖なる力が解放された。
爆裂するように突然に青い光が|弾《はじ》けた。
魔物だけを|封《ふう》|印《いん》する魔法陣。
|風《ふう》|狼《ろう》が霧となって|解《と》け、魔法陣に吸われた。
あれほど巨大に見えた|雪竜《せつりゅう》も、渦を巻いた光にずるりと引き寄せられる。
引き寄せられながら端から少しずつ解け、霧になり、小さくなってゆく。
小さくなり、より速く引き寄せられてゆく。
見守るあいだに、一瞬のうちに。
「ディーノ!」
機を|逃《のが》すまいと叫んだレイムの声と同時に。
勢いよくレプラ・ザンが投げおろされていた。
未練がましく|喘《あえ》ぐ雪竜がその全身を魔法陣にのまれようとする、寸前。
切り落とされてゆく雪竜の|左肢《ひだりあし》の|爪《つめ》をレピアでこじ開け、ファラ・ハンが|零《こぼ》れ落ちた時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を受け取った。
前肢を分断されながらあげた雪竜の|哭《な》き声は、閉じた魔法陣から最後に聞こえた声だった。
雪竜は封印された。
|凍《こお》っていたものが冷気の支えを失った。
|瀧《たき》のように水が落ちた。
第十三章 |雪辱《せつじょく》
|雪竜《せつりゅう》が封じられたことにより、それが影響を与えていた力もまた無にかえった。
彼らがいたのは、巨大な山ひとつをそっくりと|穿《うが》ったもののなか。
山の形をした|岩《がん》|盤《ばん》一枚で囲まれた|空《くう》|洞《どう》である。
氷の|融《と》けた大量の水で、地底湖か何かのように見える。
暗い水の底で落ちた|銀《ぎん》|斧《ふ》がきらりと光り消えた。不思議の|斧《おの》は|自《みずか》らディーノの内に戻った。
|魔《ま》|物《もの》の支配下にあるうちは、あれほど明るく見えたところだったが、実際の光源は|導球《どうきゅう》によって入ったあの穴ひとつしかない。
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の光を魔物が|増《ぞう》|幅《ふく》させ、氷に伝えていたのだ。
光のレピアを収めたファラ・ハンは輝く時の宝珠を持ち、うながされるままにディーノの飛竜の後ろに乗った。
真の|闇《やみ》にも等しいなかで、周囲を明るく照らすほど光を放っている宝珠を、いきなり自分の内に収めてしまうことがためらわれた。
キャッとファラ・ハンに飛びついた小さな飛竜は、ファラ・ハンの手にある時の宝珠を珍しそうに顔をくっつけて|眺《なが》めまわす。
小さな飛竜が向かい側から顔を寄せると陰になるので、ファラ・ハンは飛竜を|膝《ひざ》の上に抱えて座らせ、その小さな|前《まえ》|肢《あし》に宝珠を握らせて、放さないように白い手で支える。
レイムは|呪《まじな》い粉を振りまき、|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》える。
湖のように張っていた水が消失し、氷の中に捕らえられていた者たちの姿があらわになる。
|昏《こん》|倒《とう》したままだが、外傷らしきものは誰ももっていなかった。しばらくのあいだ、少しばかりぼけた感覚が残るかもしれないが、おそらくたいした影響は残るまい。削られていた生気が復活するまで体がだるいくらいのものだ。レイムたちの足取りを追って、すぐに王都からの魔道士たちがやってきて彼らに力を貸してくれることだろう。
魔法陣をきちんとし、ひと通りの役目を終えたレイムは息を吐く。
「あらぁ!?」
シルヴィンが間の抜けた声をあげた。
ぎくんとしてレイムは背筋を正す。
首をめぐらせたレイムに、シルヴィンは一点を指差して注目をうながした。
「あれ、どうして?」
ひとつだけ残った氷の|塊《かたまり》。
中にひとの姿を閉じこめたそれ。
時の|宝《ほう》|珠《しゅ》が奪われた|魔《ま》|物《もの》。魔法陣の内にあるものは、魔物として|封《ふう》|印《いん》されている。
だが、まだ魔法陣の内に取りこまれる前に、魔物が時の宝珠をなくしていたとすれば。
ただ一部分、わずかに残っていたとするならば。
解放されない氷があっても不自然ではない。
ただひとつ残った氷を見つめたレイムは、その中に閉じこめられたままの者の姿を見て、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
それは。
青い衣服をまとう|琥《こ》|珀《はく》の髪の高貴なる姫君。
メイビク。
「どうあっても、ですか……」
|哀《かな》しく目を伏せ、ファラ・ハンがつぶやく。
生まれながらに与えられた宿命は、決してメイビクを解放しはしない。
「仕方ない」
にべもなくディーノは吐き捨てる。
レイムは強く|唇《くちびる》を|噛《か》んで耐える。このようなことが起こっても不自然ではない。むしろメイビクならば、いつか解き放たれることの決まっている彼女であるならば、こうなっても望みがあるのだ。他の者なら、絶望でしかない。
声もなく沈みこむレイムを見、シルヴィンはもどかしげに手を動かして|手《た》|綱《づな》をさばいてみたりする。
「あの…、ねぇ。よくやったわよ、魔法使いは。こういうときもちょっとはあるわよ」
失敗なんて、誰にでも……。
思いもかけないことを言われて、きょとんとしてレイムは顔をあげる。
シルヴィンは、|顎《あご》をあげてそっぽを向いた。
「次に|頑《がん》|張《ば》れば、いいじゃない!」
とんだ|見《けん》|当《とう》|違《ちが》いであったが。励ましていた。
真っ赤になって横を向くシルヴィンに、レイムは笑う。
「すみません」
礼を述べた。
白けてディーノはとっととこの岩山から退去しはじめる。
遠くなる時の|宝《ほう》|珠《しゅ》の光に、慌ててシルヴィンはディーノの後を追った。
少し|名残《な ご り》|惜《お》しそうに振りかえり、レイムもまた、この場を後にした。
「どこか休めるところ、ありそう?」
岩山から抜け、シルヴィンはディーノの背中に尋ねる。
さすがこれだけ|飛竜《ひりゅう》に乗りっぱなしだとお|尻《しり》が痛い。使う部分と使わない部分が極端に分かれ、がちがちにこわばっている筋肉をほぐしたくもある。
少しばかり遅れて岩山を抜けたレイムは。
目の下できらりと光った物に何気なく視線を流した。
|険《けわ》しい|山《やま》|肌《はだ》を|這《は》うようにつけられた道。
そこにいたのは。
奇怪な虫に乗る者たち。
金色の髪をもつ白服の娘。
|黒褐色《こっかっしょく》の髪をした大柄な男。
並び控える黒の軍服。
|闇《やみ》|色《いろ》の|法《ほう》|衣《え》の|魔《ま》|道《どう》|士《し》ケセル・オーク。
光を放ったものは矢。
谷の上を行くディーノたちを|狙《ねら》ったもの。
「ディーノぉっ!!」
響きわたった声。
ただならぬそれにディーノがぎくりと首をめぐらせる。
風の|凍《こお》る音を響かせて、つがえられていた数十もの矢が放たれた。
レイムの警告に|獣《けもの》のように反応したディーノは、間近い山肌から自分たちを狙い射る者たちの姿を見た。
全員がいっせいに矢をつがえて放った。
だとすれば、この一撃をかわせば次までわずかな間ができる。
|咄《とっ》|嗟《さ》に左腕で後ろのファラ・ハンをしっかりと抱き寄せ抱えたディーノは、|飛竜《ひりゅう》を乱暴に動かし、シルヴィンの乗る飛竜にぶつけた。
レイムの声とディーノの仕打ちにびっくりしたシルヴィンが、反射的に飛竜を立てなおす。
「|馬《ば》|鹿《か》っ!!」
|怒《ど》|鳴《な》り声と矢を同時にシルヴィンは認識した。
最初から飛竜を射落とそうとした矢は、いくら強固な|鱗《うろこ》を持つ|選《え》り抜きの飛竜といえどそう簡単に|弾《はじ》き飛ばせるものではない。
シルヴィンの飛竜は、それにもろに弱い腹部の側面を|晒《さら》していた。
この|格《かっ》|好《こう》では乗り手のシルヴィンもろとも射抜かれるのは|必《ひっ》|至《し》である。
あそこで体勢を立てなおさなければ、矢の|弾《だん》|道《どう》からそれていたというのに……!
「ちいっ!」
ぎりっと|眉《まゆ》を|険《けわ》しくしたディーノが|舌《した》を鳴らした。
|鮮《あざ》やかに|手《た》|綱《づな》を握られた飛竜が、シルヴィンの|盾《たて》になるよう戻り、がくんと高度を落とす。
まともに矢に身を晒すことになったディーノは、手綱を放した。
小さな飛竜を抱きかかえるファラ・ハンを左手で支え、右手で武器を構える。
長剣をとろうと思うやいなや、手の内に|銀《ぎん》|斧《ふ》が現れでていた。
飛竜は手綱などなくてもディーノの意を理解できる。
|己《おのれ》の身を守ることが乗り手を守ることと同一となる|術《すべ》を知っている。
|鋭《するど》く風を切って飛来する矢。
ディーノの飛竜は強固なる翼と|焔《ほのお》をもって、|果《か》|敢《かん》にそれらを弾き飛ばした。
手の届く場所まで迫った矢を銀斧でディーノが|叩《たた》き落とす。
シルヴィンはなりゆきにうろたえてしまい、すっかり気が動転している。
|奇《き》|跡《せき》のようにディーノたちのあいだを|鮮《あざ》やかにすり抜けた一本の矢。
それがシルヴィンの飛竜の翼を射抜いた。
ぐらりかしいで。
「シルヴィンっ!!」
目の端に捕らえたそれに悲鳴をあげたファラ・ハンに、ディーノがはっと身を固くする。
シルヴィンの|咽《のど》を悲鳴が切り裂く。
|墜《お》ちる!
飛竜が|凄《すさ》まじい|哭《な》き声をあげる。
放たれたすべての矢が尽きようかという、そのわずかに前だった。
最後の一本をディーノの飛竜は焔で焼く。
シルヴィンの飛竜は失速し、|錐《きり》|揉《も》みしながら墜ちてゆく。
気が動転していなければ、シルヴィンにあれを|御《ぎょ》せないわけがない。
射られたとしても、それが|致命傷《ちめいしょう》になることはまずあるまい。
少し手助けしてやれば、|墜《つい》|落《らく》はまぬがれるはずである。
落ちる|飛竜《ひりゅう》の後を追おうと、ディーノは|銀《ぎん》|斧《ふ》をくわえ、右手で|手《た》|綱《づな》を握る。
身を|翻《ひるがえ》したとき。
はっとディーノが首をめぐらせた。
わずかに遅れ、飛竜が反応する。
もう一本。
矢があった。
弦を|弾《はじ》かせたばかりの弓を持っているのは、金色の髪の公女。
|闇《やみ》|色《いろ》の|法《ほう》|衣《え》の|魔《ま》|道《どう》|士《し》に支持されて、間をはずして射かけたのだ。
ファラ・ハンを|狙《ねら》って。
そして上を向いたため、わずかに輝き見えたその魔道士の目の色。赤い輝き。
それをディーノは知っていた。
「!!」
体を|捻《ひね》ったディーノの|脇《わき》|腹《ばら》を。
熱いものが|貫《つらぬ》いた。
貫かれた途端に。
ぞくりと背筋に|悪《お》|寒《かん》が|奔《はし》った。
矢に毒が塗ってある……!
即効性の猛毒に、|眩暈《め ま い》がして全身が冷たくなり、力が抜けた。
突然様子を変えたディーノに、ファラ・ハンはぎょっと目を見開いた。
ぐらりと揺らぐディーノの背から腕をまわし、必死に両手をのばして手綱をつかむ。
一変したそれに、ファラ・ハンに加勢するよう、|膝《ひざ》に抱えられていた小さな飛竜もそこから飛びだす。口の中に|宝《ほう》|珠《しゅ》をしまい、小さな|四《し》|肢《し》でディーノの衣服をつかんで支えた。
飛竜を駆ってレイムがファラ・ハンたちに近寄る。
ディーノが射抜かれたことに慌て、シルヴィンに向かうのをやめてこちらに来たのだ。
|墜《お》ちたシルヴィンはもう|的《まと》にはならないが、上空にうろうろしているファラ・ハンたちは、絶好の的になる。
うつ伏したディーノを支えることに懸命のファラ・ハンより飛竜のほうが、接近するレイムを感じている。
「こっちだ! おいで!」
レイムは大声で飛竜に誘いかけた。
飛竜はファラ・ハンたちを振り落とさないよう、注意しながらレイムの後に従う。
やや離れた山の|頂《いただき》近くに|岩《いわ》|棚《だな》があり、奥行きをもつとみられる|洞《どう》|窟《くつ》が|穿《うが》たれているのが見える。
「レイム! シルヴィンは!?」
悲鳴のようにファラ・ハンは問いかけた。
レイムはきゅっと|唇《くちびる》を|噛《か》む。
「信じましょう! あの娘は|竜使《りゅうつか》いです! 竜ごと|墜《お》ちて死ぬなんて絶対にありません!」
自分にも言い聞かせるように。
言いきった。
|辛《つら》いが今のこの状態では、ファラ・ハンはどうすることもできない。
信じて願って、耐えるしかない。
なんとか|岩《いわ》|棚《だな》にたどり着き、レイムは素早くそこを検分する。予想した奥行きに問題はない。
入り口こそ縦に狭いが、なかは彼らすべての飛竜くらい楽に入れられる。
油断なく|呪《まじな》い粉を散らせてそこを|魔《ま》|物《もの》の侵入できない|結《けっ》|界《かい》とし、レイムは先にファラ・ハンたちの飛竜をうながして下り立たせた。
小さい飛竜は、ディーノの衣服をつかんだ|四《し》|肢《し》をぐーっと踏ん張って、ディーノをつりあげようとするのだが、それはあまりに重い。|襟《えり》|首《くび》をレイムの飛竜がくわえ、助けて下ろす。
もう少し支えてやりたくても、穴の入り口は高さがない。|成獣《せいじゅう》では首だけでも入ることはできない。
小さな飛竜に形ばかり助けられ、ファラ・ハンが横からディーノの体を支えて|歩《ほ》を進める。
地を踏んだディーノは、薄く目を開け、ぎりっと|歯《は》|噛《が》みする。
震える手を伸ばし、脇腹に突き刺さったままだった矢をつかむ。
片手で握ったそれは、簡単に引きぬけるものではない。
|業《ごう》を煮やしたディーノは|脂汗《あぶらあせ》を浮かべながら矢をつかみ、折った。
折って、両側から引きぬく。
傷口から勢いよく血がしぶいた。ぼたぼたと音をたて、ディーノの足元を|真《しん》|紅《く》にぬらす。
からりと音をたてて二つになった矢が転がった。
矢を捨てたディーノは、がくりと首を落とす。|珠《たま》を結んだ脂汗がぱらぱらと降り落ちた。
|蒼《そう》|白《はく》になりよろめき倒れようとするディーノを、ファラ・ハンが悲鳴のような声で呼ぶ。
間近く聞いた声に、かすかにディーノは顔を向ける。
「|怪《け》|我《が》は……?」
太く体に響く声。力なく震える声。
声を耳にし、見開いたままのファラ・ハンの目からぼろぼろと涙がこぼれた。
ディーノから視線をはずさず、ゆるく首を振る。
仕草を見、ディーノは表情をやわらげた。
「そうか……」
力尽きたように、ディーノの|膝《ひざ》から力が抜ける。全身が細かく|震《ふる》え、毒による|痙《けい》|攣《れん》が起こりはじめていた。ひくっと音をたてて気管が|癒着《ゆちゃく》しかける。肺がべこりと収縮した。うつむき開いたディーノの口から|舌《した》が|零《こぼ》れでる。
「いやあぁあっ!」
ファラ・ハンが悲鳴をあげた。
|飛竜《ひりゅう》たちに道を開けてもらい、駆け寄ったレイムが、ファラ・ハンもろとも勢いよく前にのめるディーノを、なんとか受け止めて膝をそっと突く形に支える。
|洞《どう》|窟《くつ》の口から横に広がった|亀《き》|裂《れつ》の奥を|覗《のぞ》きこんだレイムの飛竜は、平たく身を沈めなければ通り抜けられないが、狭いのはそこだけで、そこからすぐファラ・ハンに近づけることを発見する。注意すれば、大きいディーノの飛竜もそこからなかに入れる。飛竜たちはディーノを運びこむファラ・ハンを手助けするため、そろそろと注意しながら亀裂をくぐった。
毒に|冒《おか》されるディーノに厳しい顔をしたレイムは、飛竜に積んだ荷物の中に毒消しの薬草があったことを思い出し振りかえる。
その視界に、移動を始めた黒い軍隊の影が見えた。
彼らが駆る虫は、わずかではあるが高度をとって飛ぶことができる。
思ったよりずっと早く追いつかれる。時間の問題だ。
|眉《まゆ》をひそめたレイムは。
ディーノの衣服をつかみ懸命に持ちあげようとしている小さな飛竜の口のあいだから、光が|漏《も》れていることに気がついた。
「お前!」
レイムは目を|剥《む》き、小さな飛竜の|後《うし》ろ|肢《あし》をつかむ。
びっくりした小さな飛竜がレイムのほうを見る。
少しばかり|透《す》き間を大きくした飛竜の|口《くち》|許《もと》から、たしかに時の|宝《ほう》|珠《しゅ》らしきものがうかがい見えた。
レイムは小さな飛竜をつかんで引きはがす。
「力を貸して! |吹雪《ふ ぶ き》を作るんだ! さっきのあの|魔《ま》|物《もの》みたいな! 時間を稼いで欲しい!」
きゅるりと目を丸くし首を|捻《ひね》った飛竜に構わず右腕に抱え、レイムはディーノの背中から法具とするため長剣を引きぬいた。
左手の甲を上向きに、剣の刃が水平に体の外になるよう構え、右手でひとつ|印《いん》を切る。
刃を少し下向けて|呪《じゅ》|文《もん》を|唱《とな》えた。
大がかりな魔道を行うには、それ相応の力をもつ核が必要になる。
どんな|魔《ま》|道《どう》|士《し》だろうと、時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を|操《あやつ》ることはレイムたち『ひと』の領域ではない。
だが|飛竜《ひりゅう》なら。
時の宝珠を持っている|聖獣《せいじゅう》なら、人語を解し、協力してもらうことができる。
宝珠の力を引き出し、魔物と同等のことをしてのけるのも、不可能ではない。
ディーノに薬を与え、|癒《いや》しの魔道を与えるあいだ。
谷底に|墜《お》ちたシルヴィンを迎えにいくまでのあいだ。
それだけ、あの連中を食いとめられればいい。
レイムに抱えられた小さな飛竜が目を閉じ、くるりと|尻尾《し っ ぽ》を巻いて丸まった。
レイムの腕を離れ、支えもなくぽわりと浮かんだ飛竜の全身が金色に輝く。
法具とした長剣の刃から風が生まれた。風は|凍《こご》え、雪を混じえて渦巻きはじめた。
突然にして吹きすさんだ|猛《もう》|吹雪《ふ ぶ き》が、|轟《ごう》|音《おん》をあげて山を囲んだ。
飛竜たちに助けられ、ファラ・ハンはどうにかディーノを運びこみ、横にさせることに成功した。
勘のいいディーノの飛竜が、|結《ゆ》わえ|紐《ひも》を食いちぎって荷物をファラ・ハンの前に下ろした。
傷の治療に必要な道具類を、|震《ふる》える手でファラ・ハンは取りだす。
ディーノの衣服を押さえていた飾りつきの腰帯をはずし、上衣を|捲《まく》りあげて傷を|診《み》る。
乱暴に引きぬいた矢で、傷口の肉が|弾《はじ》け、ささくれ出ていた。毒を受けたあたりから、気味の悪い|紫色《むらさきいろ》に変わりはじめている。気味の悪い色は見る間にじわりと広がる。
ぐったりと|弛《し》|緩《かん》し、なんの反応もしないディーノの体からは急速に体温が失われていく。
先ほど|額《ひたい》に|滲《にじ》みでた汗を手で|拭《ぬぐ》ってやりながら、ぺたんと腰を落としたファラ・ハンは泣きながら震えていた。がくがくと体がわななくのを、止めることはできなかった。
ただ自分がしっかりし、泣きくずれている場合でないことを認識することだけで、なんとか気力を保つ。
ディーノの|脇《わき》|腹《ばら》を|貫《つらぬ》いた傷からは、|膿《うみ》混じりの出血が続き、止まる|気《け》|配《はい》もない。
むせかえる血の臭いで、|咽《のど》の奥がぐうっと音を立てる。
|吐《と》|瀉《しゃ》するより気を失いそうだった。ファラ・ハン自身も、頭から血がひいている。
谷を真っ白に変え、激しい吹雪が吹きおりる。
風の臭いに、くんと鼻を鳴らしたケセル・オークは、にいっと笑った。
よりにもよって時の|宝《ほう》|珠《しゅ》を用い、レイムが|魔《ま》|道《どう》を行ったことが|愉《ゆ》|快《かい》でならないという|笑《え》みだった。
先頭に立ち、虫を駆る手をゆるめたケセル・オークに、同じ虫の上にルージェスを乗せる|獣人《じゅうにん》ウィグ・イーが追突を避けて止まる。
ルージェスが|眉《まゆ》をひそめた。
「どうした? ケセル・オーク」
|居《い》|丈《たけ》|高《だか》な|切《き》り|口上《こうじょう》で問いかける。
ケセル・オークは|咽《のど》を鳴らし、不愉快に響く声で笑った。
「ここらでひとつ休息をとられるがよいでしょう。急ぐ必要はありません。あれが効力を発しているようです」
それはディーノを射抜いた矢。ルージェスの放った毒矢。
許しもなく止まった魔道士に|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になりかけていたルージェスの顔が、ぱっと輝いた。
|甲《かん》|高《だか》い声でルージェスが高らかに笑う。
あの毒に|冒《おか》された者がどういう末路を|辿《たど》るか、量と純度を変え、何度も領民で|試《ため》したルージェスはよく知っていた。|無《ぶ》|様《ざま》な姿を目にできないのは残念だが、まあいい。|骸《むくろ》は急がない。
激しい|吹雪《ふ ぶ き》に|被《おお》われゆく谷間に、女の笑い声が響く。
[#地から2字上げ]『プラパ・ゼータ5』に続く
あとがき
両手を使うのでカニと呼ばれます。
文字を書くのは右手です。食事の時にお|箸《はし》やスプーンを持つのは左手です。リボンを結ぶのは右手。ハサミやナイフを使うのは左手。
基本的には、どちらでも使えるんだけれど、使う度合いによって、差があるみたいです。学習や訓練を|意《い》|図《と》してやるものは、右手のほうがだんぜん得意です。生活に密接した動作は、左手を使っていることが多いです。
めんどうになっちゃうと、両手でいっぺんに片づけようとするから、カニなんて言われちゃうんだわ。だめなのよ、わたしったら。せっかちね。
せめて、両手でお箸を持つのはやめたいものです。一人っ子だったもんで、大勢の食事のおかず争奪戦って燃えちゃって、すぐに羽目をはずしていけないわ。
すみません、|嬉《うれ》しがりなんです。
両手を使えるって、便利なようだけど、案外そうじゃないの。
わたしの場合、脳ミソ、頭の基本が左手のほうにあるのか、左|利《き》きのパターンをとることが多いんですよ。
一番自分がバカだなーと思うのが「右手左手」。「どっちが右?」なんて聞かれても、すぐにわからないのね。「|鉛《えん》|筆《ぴつ》持つほう!」えーと、こっち! 「お箸持つほう!」えーと、えーと、こっち! ばんざいっ! 「どーして、あんたはそーなるの?」だあってさぁ!
しかたないじゃん。いちいち違うほうっていうのは、ちょっと珍しいのかな。
頭の中で右と左っていう概念がごっちゃになっちゃって、よく整理できてないんですよ。漢字の筆記で、右左|間《ま》|違《ちが》えて反対に書くなんていうのは、ぼーっとしてると必ずやるわね。こーいうの、注意してないとぜんぜん弱いの。
だから。わたしがナビゲーションをすると、車は暴走します。とーぜんよねぇ。そこを右! とか言っておいて、わたしはきっちり左の道に行きたがっていたりするんだから。
今度こそは間違わないぞとがんばると、アクションが大きくなる。動かした手を見て、あらためて右左考えるのね。はっきり言って、ナビシートのわたしはやかましいです。
他人をまきこむのは、やめたいものです。
わたしってば、そんなひとです。
引っ越しましたH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
やぁっと事務所としてのスペースが持てたっ! これでよーやく、書く態勢が整ったぞ!
お蔵入り状態でセッティングしたままだったコンピュータも、デスクに設置できるのよ。ワープロ専用機って、書くだけにはなかなか有能なんだけど、プリント・アウトに手間がかかるのよ。ワープロで十時間かかってたプリント作業が、コンピュータにデータを移して、コンピュータのプリンターを使うと、三時間ですむのH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] らっきいっ!
外字データが移植できないとかの不便はあるけども、コンピュータってやっぱり有能ね。ミュージックソフトとか増やして、今までソフトケースに入ってたMIDI対応のキーボードも出して接続してH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] コンピュータ・グラフィックスの充実もしてH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] え? 遊んでるんじゃないのよ。イメージ・ソングの歌詞書いて、知りあいのひとに頼んで曲をつけてもらったお話があるの! いただいた曲を正確に聞くには、コンピュータ使ってMIDIで音だしたほうがいいじゃないですか。いろいろアレンジもできるし。|嬉《うれ》しがって歌詞まで書いて、楽譜歌詞つきで出た白泉社の本、一度見てやってねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"] 新シリーズなのH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
しかしまぁ、なんって本の多かったことか。荷物まとめるのに、多いわ、くそ重たいわ、もぅ大変。雑誌ぐらい捨てろよ、このマンガ本そろそろ処分してもいいじゃない、中を見ると読みふけってしまうし、問題ばっかり。基本的に本って好きで。買いこんじゃうと、愛着もあるし、ためこんでいく一方なのね。自分で気にいって買った物を捨てられないっていうのは、わたしの性格なのかな。洋服とかほかの物もあるわあるわ。ダンボール箱七つにぎっしり詰めてしまった靴や帽子、カバンなんてどーするのよ、本当に。
ダンボール箱、開ける、詰める、テープ貼る。ダンボール箱開ける詰めるテープ貼る、開ける詰めるテープ貼る……。夕方ごろから夜中二時までかかる単調な肉体労働がひと月ちかく。睡眠不足で頭ぽーっとなったまま、日付変更線を越えて当日に突入です。
全部まとめて詰めたはずなのに、まだ出てきた。ベルトやネックレスなんかの小物類は、それだけで入れてしまうと、わけがわからなくなる。んで、つける。トレーナーにGパンの軽装でやりはじめたはずなのに、時間がたつにしたがって、|格《かっ》|好《こう》がちゃらちゃらしていく……。なぁんで、こーなるのよっ! と怒るだけの元気も寝不足に負けて残ってません。わはは……|虚《うつ》ろに笑って。情けないものです。
計画的に物買って、処分する習慣をつけましょうね。これは特別なとき用とか言って、けちってためてると、とんでもない目にあいます。
普段から適当に、使うものだけを持っていれば十分かもしれないわ。これ使う前にくたばったらどうしようなんて考えた物、わたし山ほどあったのよ。ちくしょー、これじゃあ死んでも死にきれねーって、これも本当に情けない。
ひとつ賢くなりましたH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
行動開始の第四巻、発行でありますH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
今回は運命の公女ルージェスと|魔《ま》|道《どう》|士《し》ケセル・オークたちが、ファラ・ハンたち一行にからんでまいります。
第二第三の|宝《ほう》|珠《しゅ》がファラ・ハンの手にはいり、世界救済が進められていく一方で、もうひとつの伝説の救世主たちも動き始めます。ルージェスたちの目的は、ファラ・ハンにあり、その命もどうでもかまわないという乱暴な手段を用いて、ルージェスはファラ・ハンを|拉《ら》|致《ち》しようと|狙《ねら》っています。
|気位《きぐらい》の高いルージェスが殺したいほど|憎《にく》んでさえいるのが、清らかで|可《か》|憐《れん》なファラ・ハンと|勇《ゆう》|猛《もう》で|無《ぶ》|礼《れい》な|野《や》|蛮《ばん》|人《じん》ディーノ。そこまでの必要がなくても、ルージェスは彼らを傷つけたくてたまりません。ルージェスが聖戦士たちを狙って上空に向けた矢。ついに射落とされてしまうのが、シルヴィンとディーノです。
ちょびっとレイムの片恋のお話をいれました。この物語にこの恋心が影響するわけではないですけど、ミルフェ姫に関して持っているレイムのコンプレックスを、少し書いておきたかったわけで。なんだかんだ言いながら、彼の姿勢が一番後ろむきでした。レイムには、もっともっと強くなっていって欲しいんです。そのためのステップのひとつと思ってください。レイムはファラ・ハンのことも気になっているわけですけど、これって別に|浮《うわ》|気《き》っぽいとかじゃないんですよ。美人は誰でも気になるもので。シルヴィンだってファラ・ハンのことが気になりますもの。ファラ・ハンが、そーいうひとなんです。えぇ。
悪役からなぁんか|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の変わってきたのがディーノ。おめぇ、ちっとぁ認めろよと、腹がたつほど|頑《がん》|固《こ》に悪ぶってます。
とことん|可愛《か わ い》くないのがルージェス。性格悪い女だよなー、本当に。でもこの女もわりといいキャラクター・ポジションにある、重要キャラの一人だし。この憎らしい性格設定したの、わたしだから文句言いようがないわね。この子はこれでいいのよ!
開き直っちゃったわ。
さて、次の五巻目では、また二つ、時の宝珠を手に入れます。シルヴィンは|飛竜《ひりゅう》といっしょに谷底だし、ディーノは毒矢で死にかけてるしで、冒頭からむちゃくちゃですけど。
キャラクターが本心をぶつけて会話していく予定です。
最後になってしまいましたけれども。
この作品を出版してくださいました、講談社様。
担当の小林様。三分の二終わりです! もうちょっとのおつきあい。|辛《しん》|抱《ぼう》でございます。
偉大なる|印《いん》|刷《さつ》|屋《や》さんと、|校《こう》|閲《えつ》の皆様。お世話かけてます。すみません。
今回も素敵なイラストを描いてくださった|片山愁《かたやましゅう》大先生H[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
そして読んでくださった方々に。
心から。
ありがとうございます。
素敵な作品たくさん書けるよう|頑《がん》|張《ば》るから、見ててねH[#「H」はハートマーク Unicode="#2661"]
一九九二年四月三日 運びこんだダンボール箱の山の中にいる引っ越し当日の
[#地から2字上げ]|流《ながれ》 |星《せい》|香《か》
[#ここで字下げ終わり]
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九二年六月刊)を底本といたしました。
|玻《は》|璃《り》|色《いろ》の|迷宮《めいきゅう》 プラパ・ゼータ4
講談社電子文庫版PC
|流《ながれ》 |星《せい》|香《か》 著
(C) Seika Nagare 1992
二〇〇二年八月九日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001